小学生に逆行した桐山くん (藍猫)
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振り駒

こちらではじめましての方は、どうぞよろしくお願い致します。


 

  桐山零(きりやまれい)

 職業プロ棋士。

 享年 35歳。

 人生のほとんどを、将棋に捧げてきたと言っていいだろう。

 

 20代中頃からタイトル戦の常連となり、様々なタイトルの挑戦権獲得最年少記録を塗り替えた。

 

 初めて獲得したタイトルは玉将で、当時10期連続で防衛していた宗谷玉将からの奪取だった。

 そのとき22歳。

 玉将戦の挑戦権獲得とタイトル獲得、その両方の最年少記録を塗り替えることとなる。

 

 その同じ年に、長年付き合っていたひなちゃんこと川本ひなたさんと、ついに結婚することになる。これは僕の人生において、もっとも輝かしい出来事だったと言っていいだろう。

 その後、二人の可愛い娘も授かることになる。二人とも将棋にはさほど興味を示さなかったけれど、そんなことは気にもならなかった。

 僕の大切な宝物。

 僕の全てを捧げても惜しくはなかった。

 彼女たちのために強くなろうと思ったし、家族が僕の事を強くしてくれた。

 

 初めて名人のタイトルを獲得したのは24歳の時。

 宗谷名人が持っていた最年少記録、21歳での獲得には3年届かなかったが、当時のA級順位戦はそれはもう、苛烈なもので、挑戦権を獲得することにまず必死だった。

 名人戦初挑戦にして、そのまま名人奪取となったのはかなりの話題をよんだものだ。

 自分としては、もう一度あの順位戦を勝ち抜くのも一苦労だと、相当な決意を持って臨んだ大舞台。第七局までフルセットでもつれ込んで、粘りに粘って勝ち取ったタイトルだった。

 

 僕がまだ20代の中頃までは、宗谷冬司その人が数多くのタイトルを独占していたし、せっかく奪取したタイトルをその翌年手放すということも、珍しくなかった。

 シーソーゲームのように取って取られて。

 その頃が一番、桐山零の棋士人生にとって激動の時期であり、同時に将棋を指すのが楽しくて仕方なかった時期だったと思う。

 

 ただ、僕が30代を目前にした頃、神の子と謳われたその人も、やはり年には勝てなかった。

 棋士としての衰えは早ければ40歳頃から始まると言われている。彼は一向にその気配を見せなかったものの、やはり50歳前になってくると、その冴えわたった一手に陰りが見え始め、そして何より体力的に、長時間の対局ではどうしても、失着が目立ち始めた。

 

 そこからの、世代交代はあっという間だったと世間では言われている。

 

 20代後半から次々とタイトルを手に入れ、平成20年代の後半に新設されたタイトルも併せて、八大タイトル全ての獲得を経験した。

 そして30歳の時、前代未聞の八大タイトルの同時保持、いわゆる八冠をなしとげて、宗谷冬司七冠以来の将棋ブームをもたらした。

 22歳の時に玉将のタイトルを手にしてから、ただの一度も無冠になることは無く、かつての宗谷名人のように棋士界の頂点に君臨することになる。

 

 35歳の時には、名人、棋神、棋竜、棋匠、玉将、聖竜という6つのタイトルの永世資格を持ち、残る獅子王と叡王の永世獲得も目前に迫っていた。

 

 その矢先の事故だった。

 

 タイトル戦に向かう途中のタクシーにトラックが突っ込んできた。即死だったと思う。

 運の無いことだった。桐山家はトラックに呪われているのかもしれない。

 まだ、沢山やり残した事があった、もっと将棋を指していたかった……けれど、こうなってしまってはどうしようもない。

 

 同じ車に最愛の家族が乗っていなかった事だけは救いだ。

 可愛い娘二人の成長が見られないことは、激しい心残りだったが、ひなたはきっと二人を立派に育て上げるだろう。

 そのために残せるものは残してきたつもりだし、それを手助けしてくれる人たちも彼女の周りには大勢居る。

 

 短命だったけれど、順風満帆な人生だった。

 

 でも、ほんの一瞬、ほんの少しだけ、死の間際に考えた。

 

 あぁ……もっともっと、強い人たちと指したかったと、宗谷さんと指したかったなぁと。

 

 僕がまだ駆け出しだった頃、A級に在位していた島田さんを始めとした棋士たち、そしてやはり宗谷冬司その人は僕にとって別格だった。

 宗谷名人が七冠を達成し、将棋界の神とも悪魔とも、称されていたその頃。

 自分はまだ棋士になる志半ば、彼らは雲の上の人々だった。

 その後、タイトル戦に挑戦しはじめた時期もそれはもう鬼のように強かったけれど、それも数年のこと。

 いわゆる全盛期の彼ともっともっと全力で対局したかった。

 成長して経験を積みそれなりに自信を持ち始めた僕と、まだ前線で戦っていた宗谷名人との全力対決は、本当に数えるほどしかなかった。

 

 なぜ、かの人と同じ時代に生まれることが出来なかったのだろう。

 10年いやせめて5年早く生まれていれば、もっともっと長い間、全力で戦い合うことが出来た。

 せめて、自分がもっと早く……そう5年くらいでいい、それくらい早くタイトル戦へ挑めるくらいに、強くなれていれば……。

 焦燥とともに、そんな渇望を抱いて。

 僕の記憶はそこで、途切れていた。

 

 

 

 でも……でもね、神様。

 僕は、満足していたんです。

 そりゃあ、人間ですから、多少の後悔と心残りはありましたとも。

 でも別に、こんなことを望んだわけではなかったんです。

 

 

 

 桐山零。

 職業プロ棋士で享年35歳だったはずの男。

 

 現在9歳、小学三年生。

 気が付けば、忘れもしなかったあの悲惨な事故の後。

 葬儀が終わり、喧々囂々と親戚たちが遺産争いをしている部屋の片隅で、小さく縮こまっておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 これは、いったいどういうことですか!?

 

 

 

 

 

 

 


 

 状況を整理しよう。

 僕は確かに死んだはずだ。

 ということは、これは死後の世界なのだろうか?

 いや、それにしては感覚がやけにリアルだし、この場面も覚えがありすぎる。

 過去に戻ったのかもしれない……。考えたくもないけれど、冷静に考えるとそれが一番無難だ。

 なにやら前回の人生で読んだ小説の中にそんな話があったような気もする。

 とりあえずは、此処が夢の世界でも、死後の世界でもないとして、今後のために動かなければならないだろう。

 

 叔母さんが我が物顔で、今後のことを仕切っていて、親戚たちはそれに不満を示しながらも誰も大きな声では反対をしていなかった。

 僕の事を施設に預けるとはっきりと言う叔母の陰口をささやいている人たちの言葉から、どうやら今回僕はショックで倒れて、葬式には参加していなかったらしい。

 ということは、幸田のお義父さんにも会わなかったことになる。

 記憶が正しければ、たしかこの場にお義父さんが居てくれて、僕の事を預かると叔母と一戦交えてくれた。

 その時、残された遺産のことについても、父の友人だったという弁護士と共に、かなり力になってくれて、叔母に全てを奪われるのも防いでくれたのだ。

 

 その人が今、この場にいない。

 僕は、自分の今後を勝ち取るために、自分で立ち向かわなければならない。

 

 とりあえず、決めた。

 

 今回は幸田家にはお世話にならない。

 あの当時はそれに縋るしかなかったけれど、僕はもう良い大人だ。……見た目はただの小学生だが。

 少し寂しいし、心細いけれど、自立して社会に出た経験もある。

 あの家にお邪魔して、香子姉さんや歩に辛い想いをさせたくないし、僕と実子との扱い方にお義母さんを困らせることもないだろう。

 香子姉さんや歩がプロ棋士になれたとは残念ながら思わないけれど、僕という異分子があの家に混じらなければ、もう少し穏やかで優しい道の引き際が出来たのではないだろうか。

 

 何も、将棋で人生が決まるわけではないのだ。

 ただ、僕とお義父さんにとってそれしかなかっただけで。

 

 まだ幼い大事な時期にあんな終わり方をして後を引かないわけがない。

 あれが無ければ、二人は別の自分の道を見つけられたかもしれない。

 どうなるかは定かではないけれど、今回はあの一家を壊すきっかけには成りたくなかった。

 お義父さんとは、また将棋盤を挟んで会えるはずだ。

 

 今度もプロ棋士になろう。

 というか、棋士として生きる人生以外考えられないし、手っ取り早く、自立して生計を立てるためにはそれがベストだ。

 

 このまま施設に入れられるとしても、東京の施設がいいなぁ。

 そう、できれば将棋会館が近い所がいい。

 長野には辛くて居られないとか、理由を並べて説得しよう。

 叔母は僕のことは邪魔なはずだし、このあたりで預けようものなら、近所の目も多少は気になるだろうから反対はしないはずだ。

 

 

 

 そして、僕はふと思い至った。

 今は小学三年生。

 最短で奨励会に入って、三段リーグまで駆け上がれば、普通なら考えられないけれど、小学生のうちにプロ棋士になることが出来る。

 そうしたら、宗谷さんたちは何歳だろう、と。

 確か僕と17歳差……12歳でプロに成れたとしたら、宗谷さんたちは29歳。島田さんはA級に上がる頃のはずだし、宗谷さんは七冠達成後それほど経っていない。

 

 

 

 

 

 そう、まさに全盛期だ。

 

 

 

 

 

 心が震えた。どれほどの名局を、残すことが出来るだろう。

 結局僕は、どこまで行っても棋士なのだ。

 どれほど苦しくても、どれほど厳しくとも、あの一瞬の勝利を目指して、突き進むその過程に魅せられてしまっている。

 

 当時の僕の経験不足だって、今の僕の記憶には15歳でプロになってからの20年分の棋士としての記憶があるのだ。

 宗谷さんや島田さんたちとそう変わらない対局経験を持っていることになる。

 あぁ……堪らないくらいに心が惹かれる。

 

 やってやろうじゃないか。

 どうせ、失うものなど何もない、(ゼロ)に戻ってしまったのだから。

 思うままに突き進んでみようとそう想った。

 

 

 

 

 


 

 何とか弁護士の人を味方につけて、叔母と一戦交えた。

 このままだと、施設に支払うお金だ何だといって、僕に残されたはずの遺産がほとんど持っていかれるところだったからだ。

 いくらなんでも、それは困る。

 この先大会に出場するにしても奨励会に入るにしても、それなりに資金が必要になる。

 父や母、妹の持ち物を好き勝手にされるのも気分が良いものではない。

 今の僕でも守れそうな範囲でいい。少しは持っていきたい。

 

 それまでは、内気で大人に意見するなど考えられなかった僕が、話し合いに口を出しただけでも随分驚かれた。

 弁護士の人は想像よりも僕がしっかりしていた事と形見分けの内情、親戚たちとのしがらみなどを理解していることに気づくと、とても丁寧に対応してくれた。

 あまり記憶になかったけれど、父と相当懇意にしていた方らしい。一人残された息子が、粗雑に扱われているのが見るに堪えなかったようだ。

 

 結局、未成年だからと僕の遺産管理の権利を奪い取りたかった叔母の思惑は見事に外れ、僕はその弁護士の人に便宜上の未成年後見人となってもらった。

 これから先、高校を出るまでは充分生活していけるだけのお金は残してもらえていた。

 書類上の細々とした手続きと、その遺産を僕の意思で使えるように管理してくれるそうだ。

 ただ、やはり小学生が一人暮らしをするのは、無理があったので東京で僕の希望に沿った施設も探してくれるらしい。

 その時の書類を書いてくれるのもその人になった。

 叔母はこれにはかなりご立腹のようだったが、なし崩しでお金を使いこまれそうな身内より、よっぽど信頼ができた。

 

 心残りだったのは、家を手放さなければならなかった事だろうか。

 長野の実家には、沢山の想い出が溢れていた。

 もう遠い記憶だけれど、一つ一つの部屋をみて、家具に触れて、その空気を感じることで、懐かしい思い出がよみがえる。

 荷物を整理するときには、うっかり涙がこぼれてしまったほどに。

 それでも、棋士として生きると決めた以上、ここには留まってはいられないし、人の住まない家はすぐに傷んでしまう。

 しぶしぶではあったが、叔母さんたちに管理を譲渡する形になった。

 あの人たちのことだから、すぐに人に貸すか、悪ければ潰して土地を売り払われるだろう。

 どうか、せめて良い人が借りてくれないかなと、それだけを願うばかりだ。

 

 もっていく荷物も多くを持ち出せるわけでもなく、父の将棋の駒と、母のお気に入りだった扇子、妹とおそろいのキーホルダー、それからアルバムからいくつかの写真を抜き出した。

 将棋盤も持っていければと思ったけれど、脚付きの将棋盤はかさばるし重すぎて現実的ではない。

 前の人生では、服や勉強道具など必要最低限の荷物をもって、幸田家にいったが、写真の一つでも持ってくれば……と後悔したものだ。

 あの時は、思い出の品や、まして写真なんて、辛くなるだけだからと、とても持ち出せなかった。

 けれど、置いておいても叔母たちにすべて処分されてしまう。今回は少しばかり持っていきたい。

 

 

 

 葬儀の後からあわただしく、弁護士の菅原さんに連れられて、長野の地を離れた。

 

 

 菅原さんが探してきてくれた施設はこぢんまりとしたものの、それなりに長く続いている場所だった。

 園長先生と、入れ替わりで勤務してくる職員の方が数人。

 施設には小学生から中学生くらいまでの子供が30人ほどいた。

 当然ながら、お風呂も、食事も、何から何まで共同だし、寝るときは2、3人程度の部屋で分かれて眠るようだった。

 1人になる時間と空間が、全くなさそうなことに、覚悟はしていたものの少し気落ちする。

 でも、将棋会館から電車で一駅、歩いて30分ほどしか離れていなかったのが大きい。

 奨励会に入ったら、会館に入り浸って勉強しようと心に決めて、暫しの間我慢することにした。

 

 菅原さんは手続きが終わって施設の前で別れるとき、自身の連絡先を登録した新しい携帯電話を与えてくれた。何か困ったことがあったら、すぐに連絡してくれていいとのこと。

 友人の子供だった、ただそれだけの僕に、ここまでしてくれたことが本当にありがたかった。

 

 集団生活は苦手だけれど、施設での生活に少しずつ馴染んでいった。

 多感な年ごろの幼い子供たちに手を焼く職員の方々を、大変だなぁと尊敬しつつ手伝えることは、何でも進んで手伝った。

 僕自身のことを手のかからない優等生として認めてもらい、ある程度は自由にさせて良いと評価を頂くための打算もあった。

 

 子供たちは皆、大なり、小なり重い過去を持っていた。その分、支え合っているというか、傷をなめ合うというか、あからさまに僕のことを、疎外したり攻撃したりとする子はいなかった。

 少しでも新入りを受け入れて、仲良くしようとする意志が見られて、随分助かったものだ。

 少し主張が激しかったり、声が大きかったり、言うことを聞かなかったり、と問題児と言われるような子も何人かいたが、精神年齢が30歳を超えている身としてはかわいいもので、あしらったり流したり、落ち着かせたりするのも、そう苦労はしなかった。

 施設内での僕の評価が、落ち着いていてなんでもそつなくこなせる優等生として固まるのに時間はさほどかからなかったと思う。

 

 当然、学校も東京に来るにあたって転校した。

 同い年の青木くんという男の子が施設にいて、同じ地区内にある小学校へ一緒に通うことになった。

 僕と同じく、大人しめの静かな子で、同じ空間にいても、なんとなく息がしやすかった。

 突然やってきた転校生の僕はやっぱり奇異の目で見られたし、親なしで施設の子という噂があっという間に広まると、扱いに困ったように距離を置かれることは多かった。

 幸いにも、青木くんも同じクラスだったので、長い休み時間や、昼食の時は、特に話すわけでもないけれど、彼と一緒にいた。

 

 物静かで読書が好きな青木くんと、詰め将棋の本ばかり眺めている僕。

 不思議なものでしゃべっているわけでもないけれど、二人で一緒にいるだけで、独り教室の片隅で息を潜めていた前回の小学校生活よりも幾分楽な気がした。

 そして、それは彼も同じなようで、授業で分からないところがあったら、おずおずと尋ねてくれるようになった。

 勉強は前から得意だったし、今更2回目の小学生の授業で分からない事もない。

 ひなちゃんやももちゃんの勉強をみていた事もあったから、人に教えるのも苦手ではなかった。

 頼ってきてくれたことで少し心を開いてくれたみたいで嬉しかった。

 それがきっかけで、少し懐かれたのか、彼は施設内でもよく僕と行動を共にするようになる。

 

 一番困った事は、落ち着いて将棋の勉強をする場所が確保出来ないことだった。

 携帯用の折りたためる将棋盤と無くしてもよい駒を買って、施設の一角で棋譜を並べたりしたが、施設はどこかいつも騒がしいし、傍で遊んでいる他の子供たちに、悪気なく邪魔され、中断を余儀なくされることも珍しくなかった。

 形見として持ち出してきた、父の駒は無くなってしまっては困るから、使わずに大切にしまってある。

 いつか独り暮らしをすることが出来たら、使いたいと考えていた。

 

 そのため、落ち着いて指せる場所を求めて、休日はよく近隣の図書館へ遊びにいった。

 フリースペースの机のうえで、将棋の本を広げてそれを見るふりをしながら、机の上に置いた盤で駒を動かした。

 本の内容には興味がない、既に知っているようなことばかりだ。ただ、はた目からみれば将棋に興味がある少年が、本を広げながら実践的に駒を触っているように見えただろう。

 時々、青木くんも一緒に来て、僕の傍でただ黙々と自分の読みたい本を積み上げて、読み漁っていた。

 一人で行動するよりも、二人で動いている方が、施設の人も安心するようで、僕らが休日に図書館へ行くときは快く送り出してくれた。

 

 

 

 施設での暮らしに慣れた頃、そろそろ、奨励会を受けるために実績を作らなければと、僕は動き出す。

 プロ棋士に師事し、その師匠からの推薦があれば、大会への出場経験がなくても受験する事は可能だが、今の僕にはそれを望むことは難しい。

 大きい小学生大会で優勝するかそれに匹敵する成績がいる。

 

 僕は図書館のパソコンで、来年度の春に行われる小学生名人の大会について検索した。

 地区予選の開始は、今年度の冬ごろ、つまりはそろそろのはずだ。

 幸いにも、会場は東京地区だと大体将棋会館で開催される。

 将棋連盟のホームページから目当てのページを見つけだし、申請用紙をダウンロードして記入した。

 保護者の欄の時、少し迷ったものの参加費や移動も全て自分でこなせる自信があったので、勝手に施設の住所と名前を借りて記入を済ませてしまった。

 人生2回目の僕は、小学生では考えられないくらい字が達筆だ。まるっきり保護者が代筆したようにしか見えないだろう。

 

 

 

 そして、小学4年生の4月に、東西からの地区予選を突破した4人で行われた決勝大会を勝ち抜き、危なげなく優勝した。

 

「桐山君! 小学生名人おめでとう。今の気持ちを教えてくれるかな?」

 

「初めての大会で、緊張もありました。でも、一局、一局大切に指してきたので、それが結果につながったのかなと思います」

 

 記者の質問に無難に返しながら、僕は心の中で対戦相手の子供たちに謝っていた。

 

 大人げなく勝ってしまった。

 卑怯だという気がしないわけでもないけれど、棋士の推薦なしで奨励会の入会試験を受験するには、その年度の小学生名人を決める大会でベスト4に入ることが一番てっとりばやかったのだ。背に腹は代えられない。

 それでも無暗に圧勝するのではなく対戦相手の子の得意な戦法にのり、彼らがうち進めるのに合わせながら、それなりの棋譜になるように少し導きながら指した。

 相手も僕も楽しんで指すことが出来たし、良い棋譜になったと思う。

 

「今誰に一番気持ちを伝えたい? やっぱり家族とかかな?」

 

 質問した記者の横にいた、別の記者がギョッとした。まわりの空気がすこし固まったのがよくわかった。

 

「え? 誰にですか? そう……ですね、遠くから応援してくれてるだろう家族に……ですかね」

 

 事情を知らなかった記者の質問に、とりあえずこの場を白けさせないように、無難に答えた。

 そして、その記者が続けて質問しようとするのをそっと他の関係者が遮るのを眺める。

 

 僕からしてみれば、家族を失ったのは遠い記憶だ。30年近くも前のことになるし、 自分の中で整理をつけていたため、それほど問題ではなかった。

 

 だが、周囲の認識は違うのだろう。

 大会予選から参加していた小学生の男の子。

 東京ではそれなりに将棋イベントや小さな大会などが催されるので、勝ちあがってくる子は予想されていたにも関わらず、それを見事に打ち破ったダークホースだとか、期待の新星だとか、囁かれているのは知っている。

 

 おまけに、普通の小学生なら親が引率して連れてくるし、勝ち進めば家族と喜びを分かち合って次の対局に進むものだが、僕は予選の時も本戦のときも、いつも一人で来て帰っていた。

 

 大会の雰囲気に落ち着かなくなったり、戸惑ったりする様子も見せず、粛々と対局に臨み、勝っても大きく喜びを見せるわけでもなく淡々と盤上を片付けて帰って行くと、大会職員の間では密かに有名になっている……らしい。

 

 大会の申請書類を見れば、将棋会館近くの養護施設が住所に書かれているのは分かるだろうし、目を引くというか、気にかかる子どもであるのは間違いない。

 

「桐山君は今後、奨励会に入会したいとか、プロになりたい等の希望はありますか?」

 

「勿論です。今年の8月の試験を受験しようと思っています」

 

 奨励会の入会試験は年に一回。8月に行われる。

 東京に来たのは秋が深まった頃で小3では受験できなかったのだ。

 これを逃すなんて考えられなかった。

 

「小学4年生の受験だと、入会後なかなか大変かもしれませんよ?」

 

「僕には……将棋しかありませんから、覚悟の上です」

 

 奨励会は入会したら、昇級・昇段だけしていけるわけではない。成績が振るわず、降級・降段点を2回取ってしまうと、一つ級位・段位が下がってしまう。

 あまり力が付く前の幼いときから入会すると、入会後の6級で足止めを食らい、はたまた降級点がつくと目も当てられない状態になってしまう。

 そのため、ある程度の経験と力を付けた小学生の高学年か中学1年生くらいの入会が多くなってくる。

 

 もっとも、僕はそんな心配はする必要はなかったし、寧ろいかにして、三段リーグまで最短で駆けあがるか。

 今からそれしか考えていなかった。

 

 

 

 そして、その日大きなトロフィーと賞状を手に施設に帰宅し、職員の方々を驚かせることになる。

 そのまま、園長先生と面談をして頭を下げて、自分の想いを切々と訴えることで、8月の奨励会を受験する時に、保護者として名前を書いてもらうことを約束してもらった。

 

 なお無断で書類をかいて、大会に出場したことは、少し叱られてしまった。

 実績がなければ大会出場も止められるだろうし、奨励会の受験も止められるだろうと思っての行動だったが、一言相談してほしかったといわれて、ほんの少しバツが悪かった。

 

 奨励会の入会試験までの数か月、小さな将棋大会やイベントに参加しつつ、日々を過ごした。

 将棋会館に入り浸りたくても、奨励会員でもないうちからの利用は難しく、イベントにかこつけて棋譜をコピーしに行ったり、以前の記憶で一方的に知り合いのつもりでいる棋士や事務の人を見かけると嬉しくなった。

 

 

 

 

 

 

 熱心にイベントに通ってきて、出る大会すべてで優勝をかっさらっていく、ひまわり養護施設の桐山くんの名前は、奨励会入会前から密かに将棋会館で囁かれることになる。

 

 

 

 

 

 

 




次回 奨励会編 始動。はやく、プロ棋士の皆さんに出会わせたい。
面白ければ、ぜひ評価お願いします!


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奨励会編
第一手 懐かしの奨励会


 小学4年生の8月中旬。

 ついに将棋会館で奨励会の入会試験が行われる日がやってきた。

 

 順当に受けるなら6級だが、師匠の推薦があり、自信があるのならもっと上の級位、1級を受けることもシステム的には可能だ。

 だけど、今の僕にはまだ師匠がいないため、6級の受験しか認められない。

 師事をする棋士の方を探して、そのうえ上級位の受験の推薦を頂けるほど認めてもらうのは絶対的に時間が掛かる。

 順当に6級を受けてさっさと昇級した方が速いという結論に至った。

 今の環境だと将棋教室に通えないし、伝手もないのに師匠を探すのは、ただの小学生には難しい話だった。

 

 級位受験の内容は一次試験として、まず受験者同士で1日3局を2日間、つまり計六局の対局が行われ、二次試験は、筆記試験と現奨励会員との対局3局、面接試験が行われる。

 

 さて、本当なら一次試験からの受験が普通だが、僕は今年度の小学生名人戦で優勝しているので、有り難いことに免除されている。

 二次試験も前回のうっすらとした記憶しかないが、特に苦戦した印象もない。

 一般的に格上となる奨励会員との対局は別に勝ち越さなくても、1勝して他の内容もよければそれで合格となる。

 最終合否は、一次・二次試験の総合評価で行われるからだ。

 

 それでも駒落ちで対戦となる奨励会員相手に勝負を落とすことは、ただの小学生ではなく、なぜか人生をやり直している僕にはあり得ない。

 3局とも全勝しておいたので、合格は問題ないだろう。

 

 ちなみに受験料3万円、受かった上で入会費10万が必要になる。

 今更ながらにかなりの出費だ。

 幸田のお義父さんも内弟子に迎えたとはいえ、何も言わずによく払ってくれたと思う。

 今回は未来の自分への投資として、父の遺産を使うほかない。

 更に入会後は毎月一万を超える奨励会費を払わなければならない。基本的に一括払いなので毎年12万程度会費として納めることになる。

 

 施設の人にはあまりお金に関しては、はっきりとは伝えていない。

 こんな大金目を丸くして驚くのが関の山。

 僕としては、奨励会を抜けてプロになる事は、既に確定した未来だからこの出費は必要経費として何の問題もない。

 でも、一般的に考えれば、師匠もいない、たいした将棋歴も無いただの小学生。おまけに孤児ともなれば、慎重になって、と止めたくなるような額であるのは予想が出来る。

 

 奨励会に向かう時の服装はスーツか、学生なら学生服になる。

 基本的に僕が通っている小学校は私服登校だが、一応式典用に制服があるので助かった。

 他の子は着る機会が少ないため新品同様で卒業になるが、これから奨励会の度に着ていたら、流石に草臥れてくるかもしれない。

 

 

 

 


 

 合否の結果はすぐにやってきた。

 受かった子は9月の奨励会から参加になるからだ。

 郵便で施設に届いたその合格通知を、職員の方をはじめ皆が喜んでくれた。

 僕が、他の子が夢中になるテレビやゲームに何の興味も示さず、本当に将棋ばかりやっているような子だったからだと思う。

 桐山君が好きなことを思いっ切りできる場所に行くんだね、と無邪気に喜んでくれる子供たちが可愛かった。

 一緒に遊ぶことが無く大体が一人でいて、勉強の時だけ口を出すうるさい奴だと思われていただろうに、それでもこんなに喜んでくれるとは……この子たちは本当に優しい子だなぁと勝手に誇らしくも思った。

 

 奨励会は月に2回。多くが学生であるので土日祝日で行われる。

 級位までは1日三局の対局を同じ級位か、1級位差程度の相手と対戦する。

 ちなみに段位からは1日二局だ。相手も自分もかなり高レベルになってくるので、時間をかけて指せるようにということなのだろう。

 

 この1日三局という対局数だが、圧倒的にまだ集中力、体力ともに拙い年少者に不利だ。

 三局目になるとどうしても疲れが出てくるし、その状態で自分とほぼ同じか、少し棋力が上の相手と指すことになると白星を挙げるのは難しくなる。

 僕としても大会の時に日に何局も指してはいたが、奨励会レベルの相手と三局……今のこの幼い身体ではどうかなと、体力配分も考える必要も懸念していた。

 

 けれど、蓋を開けてみればその懸念は杞憂だった。

 特に、集中力に関してはなんの問題もなかった。やはりフィジカルよりもメンタルの影響が大きいからだろう。

 タイトル戦で1日十何時間、棋界トップの実力者と対戦してきた記憶がある身としては、この程度で切れる集中力では無かったようだ。

 

 もう一つの問題の体力面だが、対局をしている間は気にもならなかったが終わった後はその分ドッと疲れが押し寄せて来た。

 運動は苦手だけれど、体力もつけるように今から意識していかないとなぁと、奨励会が終わり親や友人たちと帰路につく会員を横目に見ながら、ため息をつく。

 

 自動販売機の前の椅子で、目をつぶりながら少しだけ休憩をすることにした。

 施設の夕飯時までにはまだ余裕がある。

 せっかく会館に来たのだから、最近の対局の棋譜をコピーして帰りたかった。

 

「おーい、大丈夫か? まだ帰らなくて」

 

 声を掛けられて、びっくりして目を開けた。

 そこにいたのは前回の人生でも大変お世話になった島田さんだった。

 

 そう今日、奨励会にきて一番驚いたのが、幹事をしているのが島田さんだったことだ。

 現在27歳B級1組の島田七段。

 奨励会の年齢制限が26歳なのでそれより少し上の年齢で、人当たりも良い。

 以前の記憶でも将棋の普及に熱心だった。

 奨励会員の世話役といえる幹事をしていても何ら不思議ではない。

 

 幹事の人の仕事は大変である。

 毎月2回ある奨励会での対局のマッチングを考えているのは彼らだし、勝敗の結果の管理をしたり、対局中に見回りをしたりもする。

 会員の年齢層は、下が小学生から上は社会人と幅広いので、上手に全員とやりとりしていくのは骨が折れることだろう。

 前の時の僕の奨励会入会は小5の時だったので、ひょっとしたら1年早く入会していれば、もっとはやく知り合えていたのかもしれない。

 

「大丈夫です。ちょっと休憩してから帰ろうと思いまして……。

 今日は一日ありがとうございました。桐山零といいます。これからよろしくお願いします」

 

 自分は一方的に良く知っているけれど、島田さんにとったら新しく入会したばかりの少年の一人にすぎない。ちゃんと名乗っておくべきだろう。

 

「知ってるよ。君の事はちょっと前から耳にしてたから。

 今日はお疲れ様。初日から全勝とは幸先が良かったなぁ」

 

「ありがとうございます。この調子で頑張ります」

 

 対局を褒めてくれたあと、島田さんはわしわしと僕の頭を撫でた。

 すこし冷たい大きな手だ。懐かしさも感じつつも、前よりもっとずっと大きく思えて、あぁやっぱり小学生に戻ってしまったんだなぁと実感した。

 

「家は遠いの?」

 

「歩いて30分くらいです」

 

「徒歩できてるのか!? いやまぁ……30分なら歩けないこともないか」

 

「バスとか電車とか使ったらもっと速いんですけど、僕は歩いて来る方が楽しくて」

 

「そっか……。まぁ暗くなる前に帰れよ。この辺は人通りがある方だけど、夜となるとまた別だからな」

 

 その後島田さんは、目の前の自販機でココアを買うと僕に渡してくれた。

 すみませんと恐縮して断ろうとすると、安いけれど入会祝いだ貰っておけと言われて有り難く頂いた。

 

「そんな大層なもんじゃないのに……」

 

「……嬉しくて、施設の人以外で島田七段が初めてです。入会をお祝いしてくれたの」

 

 大事に大事にちまちま飲んでいる僕を穏やかに見つめていた島田さんは、僕の返答に目を丸くした。

 固まってしまった彼を不思議そうに眺めていると、そうか……と小さく呟いてもう一度おめでとうと、頭を撫でてくれた。

 

 そして、奨励会のことでも将棋のことでも困ったことがあったら、相談してくれていいからなと念を押された。

 前の時もそうだったけれど、世話好きで優しい人なのはこの頃から変わらないのだなぁと、嬉しく思いながら、その去っていく後ろ姿を見送った。

 

 

 

 毎回奨励会では対局前に、幹事の人がいくつかのお知らせとともに、昇級・昇段した人の名前を読み上げる。

 昇級には6連勝か9勝3敗・11勝4敗・13勝5敗……とはやい話、その級で7割以上の勝率を収める必要があった。

 

 9月の初回で3連勝、2回目も当然連勝を重ねて6連勝をした僕は、10月初頭に5級に昇級した。

 1ヵ月での昇級である。

 新入りがどんな奴だろうかと様子見していた奨励会員たちが、島田さんに読み上げられた僕の名前に少しざわついたのが分かった。

 それでもまだ、低級位であるのでそんなこともあるだろうとすぐにその場は静まった。

 

 だが僕としては、このまま負けるつもりはない。

 1敗でもしてしまうとグッと昇級へかかる時間が長くなる。

 なんせ奨励会は月2回。毎月6局しか出来ないのだから。

 

 そういうわけで、10月に行われた対局でも全て勝って、11月頭に4級に昇級した。

 今度は、もうはっきりとその場の空気が変わったのがわかった。

 入会以来の12連勝である。

 いくらなんでも、運が良いとか調子が上がっているでは済まされない。

 とんでもない奴が入ってきた、と特に上の級位に居る人たちに緊張が走った事が感じられた。

 

 

 

 そのせいかどうかは、分からないけれど僕は前回の時よりも、周りから遠巻きに見られている。

 会員は全員しのぎを削るライバル同士なので、学校のように皆で仲良くしようとする雰囲気では無い。少し、ピリッとしたドライな関係が多くなる。

 それをふまえたとしても、どうにも避けられているし、会話と言えば挨拶程度だ。

 特別声を掛けてくれるような人は幹事の島田さん以外はいない。

 

 でも、僕は会館に通うのが楽しかったし、日々の奨励会も懐かしくて毎回待ち遠しいほどだった。

 小学生に戻ってから1年と少し、やっと安定して将棋をさせるのだ。これで楽しくないわけがない。

 

 相手の棋力はまだ少し物足りないけれど、今まで大会で当たってきた子たちとは違う。流石に奨励会員だなと感心するような一手も多かった。

 

 ふと、前の時でも奨励会に来るのは嫌いじゃなかったなぁと懐かしく思う。

 以前の僕は、学校にいても幸田の家にいても、どこか周りを気にしていて息がつまった。

 

 どうにもならない事だと分かっているのに、自分が変わればなんとかなるんじゃないかと、頑張ってみたけど、やっぱり難しくて、ままならない現状に、叫び出したいような、消えてしまいたいような葛藤を抱いた。

 それを少しでも掻き消したくて、将棋にひたすら打ち込むしかなかった。

 

 奨励会に来れば、頭の中は将棋の事だけ考えていれば良かった。

 何もしなくても、盤の前には誰かが座ってくれて僕と真剣に勝負をしてくれる。

 その間は、普段の悩みや葛藤を忘れ、ただひたすら勝利への一瞬に没頭できるのだ。

 その時間だけは、自分自身のことだけを考えて居られた。そのことがより一層僕を将棋へとのめり込ませたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 順調に奨励会を昇級していた僕は島田さんに一つ頼みごとをした。

 

「え? 記録係をやりたい? うーん……桐山にはまだ早いんじゃないかな……」

 

 記録係。リアルタイムで対局の内容を記録して棋譜を残すための係である。

 昔は主に奨励会員が行っていたが、今は学生が多くなり平日の記録係の確保が難しく、四段などプロになりたての棋士も駆り出されるようになっている。

 

「まぁおまえさんが書く棋譜は、小学生にしてはびっくりするくらい綺麗だが……奨励会と違って対局時間は長いし、昼休憩以外まず席を動けないんだぞ。大丈夫か?」

 

 心配するのも当然である。

 記録係の仕事は長丁場……持ち時間6時間などの長い対局になれば、夜終電がなくなってそのまま会館に泊まっていく人が出るくらいだ。

 おまけに、対局者はトイレだったり頭を切り替えるためだったり、自分のタイミングで席を立つことが可能だが、記録係は基本的にずっとその場にいなければならない。そうしないと、対局が進められないためだ。

 少なくとも小4の集中力や忍耐力だと懸念されることもあるだろう。

 

「大丈夫です。じっとしておくのは得意だし、対局を見るのも好きですから。それに僕は遠くから来てる人と違って、家も近いですし」

 

 奨励会員は、かつての島田さんのように県外から通ってきている人も珍しくない。そんな人たちが記録係のためにわざわざ東京まで出てくるのは、一苦労である。

 その点、僕はいま奨励会員のなかで、一番会館に近いところに住んでいるんじゃないだろうか。

 

「分かった。最初は持ち時間の短い対局とかでやってみるか。年の割に落ち着いてるし、仕事もすぐ覚えるだろ。ただまぁ……無理はしなさんな」

 

 島田さんの仲介により記録係の仕事に勤しむことになる。

 

 奨励会が行われない休日は、ほぼ会館にきて仕事を受けた。

 生でプロ棋士の対局をみるのは、久々で楽しかったし対局の空気感が懐かしくて、愛おしいほどだった。

 はやくあそこで自分が指したいと思いながら、棋譜をつける。

 その棋譜をみながらこの対局はこの後どう進んでいくのか、あそこで自分ならこう指すかな……そうしたらどんな展開になっただろうと、ひたすら何十通りの展開を考え続けた。長いはずの対局時間などあっという間だった。

 

 対局する棋士は、明らかに小さい小学生が記録係をしている事に、最初は不安そうだった。

 ポカをやらかしはしないかと、結構な序盤で棋譜を……と棋譜を見せてと要求する人も多かった。

 それでも、丁寧に記入された何の問題もない棋譜を目にすると、一瞬驚いた後にすぐ満足そうに返してきて、その後は対局の続きに集中してくれるようになる。

 

 お昼休憩の時などは、君何年生? よかったらお昼一緒にいく? と声を掛けてそのまま奢ってくれる親切な人もいた。

 以前の僕は内気でおとなしかったから、こういう時に気後れしがちだったけれど、流石に数十年メディアにもでて取材もうけて、鍛えられた社交力は健在だった。

 そのせいか以前よりも、構われることが増えた気がする。

 

 ちなみに記録係は手当てとして、一日に1万ほどの支給がある。

 現在収入がない僕にとったらこれはとても大きい。

 休日の全てを潰して月に何十回と記録係をしている僕に、事務員の方が大丈夫なのかと聞いてくることもあったが、これで来年度の奨励会費がたまりましたよ、報告すると何とも言えない表情で、ただ僕の頭を撫でてその場にあった大量のお菓子をくれた。

 

 それからは、僕がやりたくて仕方なくて記録係をしていることが広まったのだろう。

 心配する声は減り、逆にいつもご苦労様とお菓子や飲み物をくれる人が増えた。

 

 ちなみにこのお菓子、施設の子供たちに大好評である。

 職員の人たちは桐山くんにくれたんだから、食べていいんだよ、と言ってくれたが、自分だけで消費しきれないくらいの量だったし、精神的にはいい大人なのでそれほどお菓子に拘りはなかった。

 むしろ小さい子たちが、喜んで食べているのを見ていると、娘たちを想いだして癒やされるのだ。

 

 

 

 1ヵ月も経った頃には、僕の事は棋士たちの間で、奨励会の桐山くんというより、小さい記録係の桐山くんとして知られるようになった。

 

 

 

 

 


 

 

 12月。

 連勝記録を伸ばし続けている僕は、3級に昇級した。

 

 奨励会では同じ級位同士で常に指せるわけではない。

 様々な相手の対戦経験を積むため、級位差が1つ2つはある相手と対局することもある。

 

 1級差だと平手と香落ちを交互に指し、2級の差があると常に香落ちでの対局となる。

 この、駒落ちで指すというのはすこしばかり癖があって、相手も自分も少し考えなければならない。

 

 香落ちは角側の香を落とすと決まっていて、居飛車系統の将棋は指し難くなる。

 矢倉も香がないと弱く責められやすい。

 駒を落としている上手はある程度、振り飛車を採用することになる。それまであまり、振り飛車を指していなかった子には厳しい戦いとなるだろう。

 自分が上手の対局も下手の対局も経験しはじめる、3級より上位になるとこの駒落ちに慣れずに一度伸び悩む子も多い。

 

 まぁ……僕にとっては、一度通った道であるし、プロとして指導するときに駒落ちは随分指してきた。

 当然なんの障害にもならなかった。

 

 

 

 その日の対局が終わって帰ろうとしたとき、僕は島田さんに呼び止められた。

 

「桐山、そろそろ入会して数ヶ月経ったんだが……師匠のあては出来たのか?」

 

「師匠……ですか?」

 

「あぁ、おまえさん入会したときは師匠推薦無しで、入ってきただろ。それでも、入会後1年以内に誰かにつくことになってるんだが……」

 

 しまった。

 入会の時に確かにそう言われたし、僕も誰か良さそうな人を探さなければと思っていた。

 今の生活が思った以上に安定していて順調だったので、すっかり忘れてしまっていた。

 

 将棋界では古くからこの師弟の関係が大切にされていて、奨励会に入会後、誰にも師事することなくプロになることはありえない。

 師匠推薦なしで入会した子も、入会後一年以内に師匠を決め、連盟に提出する規定がある。

 

「えぇっと……ちょっとまだ探せてないんですけど、でも来年の8月までにはちゃんと見つけますから」

 

「そうか……たしか将棋教室とかも通ってないんだっけ? それだと中々難しいだろうからなぁ……。俺の方でもちょっと探しといてやるよ」

 

「あの……島田七段は、弟子をとるつもりは無いんでしょうか?」

 

 駄目元だろうと、一度聞いてみたかった。

 島田さんとは、気心が知れているし前回同様うまくやれていると思う。

 そして、その棋力も棋士としての心構えも尊敬できる人だ。

 

「俺!? いやぁ、そう言って貰えるのは嬉しいけど……まだちょっと早いだろ。

 A級に上がれてないし、タイトル戦もいいとこまでいってるけど、挑戦権までは取れてない。俺自身が未熟だよ。落ち着いたら研究会くらいは、開けたらとは思ってるけど」

 

 やっぱりまだ早いと断られてしまったか。

 一般的に棋士が弟子を取り出すのは、早くても自分の身の周りが、落ち着きだした40歳を過ぎたころだ。

 A級在位で棋界のトップで戦っている人達などは、自分の対局や研究に集中したくて弟子を取らずにいる人も何人もいる。

 島田さんはまだ30歳前、もうすぐA級にあがれそうな大事な時期だ。自分の事に集中したいだろう。

 

「そうですよね。今は幹事もされてますし、お忙しいですよね。すいません、変なこと聞いて」

 

「いや、こっちこそごめんな。あ! 代わりと言っちゃあ何だけど、大内先生に紹介してやろうか? 俺の師匠だよ」

 

 大内先生とは以前にも少し面識があった。既に引退された方だったが、大きな会場で行われたイベントなどで時々お見かけした。

 僕は島田さんと二海堂と懇意にしていたし、顔合わせと軽く話したことくらいはある。

 性格は大らかで、気さく、懐が大きい人だなという印象だった。

 けれど、この時期となると……。

 

「大内先生は素晴らしい方だとはお聞きしてますが……確か最近新しくお弟子さんを取られたばかりですよね?」

 

「お! よく知ってるなぁ。1年ちょっとくらい前に、桐山より2歳年上の子が弟子になったよ。面白い奴だぞ。いつか奨励会でも当たると思う」

 

 あぁ……やっぱりそうだ。丁度二海堂を弟子に取る頃だろうと思っていた。

 彼と兄弟弟子になるのも面白そうだけれど、どちらかというとライバルでいたい気がする。

 それに、大内先生はご高齢だ。二人も新しい弟子の面倒をみるのは、大変だろう。僕の場合は、一般的な子を弟子にとるのとはまた違った面倒をかけるだろうし。

 

「有り難いお話ですが……、遠慮させてもらいます。新しいお弟子さんのこともありますし、僕まで弟子になったら大変でしょう。大丈夫です! 師匠のことは会長にも頼んでありますから」

 

 確か入会する時に会長と話した際、最悪見つからなければ、師匠になってくれるという軽い口約束をかわしていた。

 あの時は1年以内に段位まで上がれそうだったらなぁと冗談交じりに笑い飛ばされたが、このペースなら一年どころか、今年度の小4のうちに初段に上がるはずだ。

 そういう約束だったと詰めよれば、たとえそれが口約束でも駄目という人ではない。

 豪快で強引、言わなくていいことまでばっさり言っちゃうような人だけれど、なんだかんだ会長職を長く牽引してきた方だ。人間性は信頼できる。

 それに、お子さんはもう手が離れて久しかったし、弟子も会長職についた頃から取っていないはずだ。

 

 

 

 

 

 冬休みに入り、時間に余裕ができた僕は、記録係の仕事を一層いれてもらった。

 毎日会館にいたと言っていいし、それが出来てとても満足だった。

 

 事務の人に桐山君は、将棋会館に住んでるみたいだねと言われて、僕も本当にそれが出来るならそうしたいです。と本気で答えたら、また黙ってお茶とお菓子をふるまわれて頭を撫でられた。

 

 冬休みなので、小学生らしく宿題が出ることもあったけど、晩御飯のときに帰宅してから寝るまでの時間で充分片づけてしまえた。

 自然とその時間が、青木くんをはじめとした小学生たちの勉強タイムになってしまったのは良かったのか悪かったのか。

 別に答えを教えているわけでは無いが、すぐにヒントを聞ける桐山君が居るときは捗るといわれると、付き合わないわけにはいかないだろう。

 

 けれど、連日出かけていく僕に、子供たちは少し不満げだったので、クリスマスの日に大量のチキンとお菓子とケーキを買って帰ったら、それはもう凄い大歓迎をうけた。

 子供はこれくらい無邪気で良いと思う。

 

 去年も居たのでだいたい施設で、どのくらいの規模のイベントと料理をしてくれるかは予想がついたし、それが一般家庭よりもずっとずっと質素なものでも、仕方ないとは分かっていた。

 もともと経営だってカツカツなのだ。なにかイベントを考えてくれるだけで有り難い事だろう。

 

 だから、せめて今年くらい少し豪華でも良いんじゃないかなぁと。

 僕には結構な実入りがあったし、それなりに居心地よく過ごせているこの環境に感謝しての事だった。

 それに、お菓子はその日会館で仕事をして帰るときに、出会う人出会う人に渡されて集まったものだったので、僕の懐は痛んでいない。

 毎年、年末は人を集めるのが一苦労らしい、対局さえも少な目になるくらいだ。

 こんな日まで有り難うね、と随分ねぎらわれた。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 年が明けて、寒さが身に染みる頃、相変わらず愛用の黒いダッフルコートに顔を埋もれさせながら奨励会へ通い続けた。

 以前から寒そうだから、マフラーの一つでもすればどうかと島田さんに苦言を呈されていたのだが、買いに行くのも面倒でそのままにしていた。

 

 その年最初の奨励会の帰りに、僕は彼から昇級祝いだと言われて、マフラーを貰う。

 最初は遠慮して断ったのだが、島田さんはそんな高いもんじゃないし、ちゃんと使えよ、と僕の首にそれを巻いてくれた。相変わらず、よく気が付く方だ。

 

 僕はその日から、ちゃんと毎回、島田さんに貰ったマフラーも付けて将棋会館へ通うようになった。

 それをみた、事務の人からは、桐山君はあんまり大人を頼らないけれど、島田七段に言われたことはよく聞くねと笑われてしまった。

 

 前の記憶があるせいだろうか……精神的には大人のつもりなので、人に頼らず何でも一人でしてしまいがちだ。

 島田さんには前からお世話になりっぱなしだったので、今更というか抵抗が無いのかもしれない……。

 

 

 

 成績は順調で1月最初の奨励会で2級へ昇級していた。

 これによって、2級昇級者の最年少記録を更新したことになるらしい。

 会館で事務の人が自分の事のように嬉しそうに教えてくれた。

 

 僕としては、若干居たたまれない気持ちだった。

 精神的な将棋経験年数でいえば奨励会員の誰よりも多いのだ。こんな奴が記録を更新して申し訳ないと思いつつ、この先も記録更新はついてまわってくるだろう……。

 

 僕は開き直って気にしないことに決めた。考えても仕方ないのだ。よく分からないけれど、精神年齢は40歳間近なんです、とか言っても信じてもらえるわけがない。

 その分別の場所で将棋に貢献することで許してほしい。

 

 

 

 記録係の仕事にもすっかり慣れて楽しんで取り組んでいたのだが、次に記録を付ける対局の対局者の名前をみて、どうしようかと少し考えてしまった。

 そこには幸田柾近八段としっかりと書かれていた。

 

 そう、幸か不幸か僕はまだこの会館で幸田さんとは出会っていない。

 会えばすぐあの人は僕に気が付くだろう。

 親友の忘れ形見だと。

 

 でも、いつかはその機会はくるわけで、そう避けてもいられない。

 

 いつものように対局者が来る前に、その場を整える手伝いをして、記録係の席に着く。

 後から入室してきた幸田さんは、僕の姿を見て一瞬動きを止めた。

 けれど、対局前だったからだろう。その場で声を掛けて来るようなことはしなかったが、流石にお昼の打ちかけの時にはそうはいかなかった。

 

「零くんだよな? 桐山の息子の。覚えてるかい? 何度か君の家で指した事もあるんだが……」

 

「はい。覚えています。父はよく幸田先生の話をされてましたから。あの日、式に参列して下さってありがとうございました。父も喜んでいたと思います。すいません、僕は式に出られなかったので、お礼も言えずに……」

 

「いやいや、とんでもない。私も、残念で仕方なかった……。未だに信じられないよ」

 

 幸田さんの声は、本当に悔しそうで哀しい色を帯びていた。

 つられて、僕にとっての古い記憶と感情が呼び覚まされてしまいそうで、ギュッと胸が苦しくなる。

 良い大人が歪む表情を見せるわけにもいかない。僕は慌てて顔を伏せた。

 

「どうして、東京に? 今はこっちにいる親戚の家に?」

 

 この質問は当然だろう、普通なら長野にいるはずなのだから。

 

「いえ、今は会館の近くの施設でお世話になっています。急にこども一人を引き取るのはどの人も難しかったみたいです」

 

 あまり気は進まなかったものの、答えないわけにもいかず正直に施設暮らしであることを打ち明けた。

 

「何だって!? お葬式の際に、君の叔母さんと少し話したが……零くんにとって良いようにするから口出し無用と言われたんだが……。君はその……、本当にそれで良かったのか?」

 

「はい。僕の意思でもありましたし、施設の希望も聞いてくれましたので、大丈夫です」

 

 もっとも、そのように計らってくれたのは、叔母ではなく弁護士の菅原さんだったけど。

 幸田さんはそれでも、僕の親戚たちに思うところがあったようだったが、今更言ってもしかたないだろうと、言葉を飲み込んだようだった。

 

「記録係をしているということは、奨励会に入ったんだね。君の将棋は前からどこか、普通の子とは違っていたし……。今はだれに師事をしてるんだ?」

 

「いえ、まだ、決まっていなくて……」

 

「誰にも師事しないでここまで来たのか!? 凄いな……」

 

 いえ、人生2回目なので別に凄くはないんです……とも言えず、曖昧な笑みを浮かべることしか出来ない。

 そして、幸田さんは少し考え込んだようだったけれど、すぐにこう切り出した。

 

「零くん。きみさえ良ければだけど……私の内弟子にならないか? 桐山の息子をこのままにしておくのは、忍びない」

 

 きた。そう持ち掛けられるような気はしていた。

 前の時でさえ、数回会っただけの子供を葬式場でみて、引き取ることを決意するような人なのだから。

 

 だから、今日会うことになると分かった日に、覚悟は決めていた。

 

「有り難いお話ですが……遠慮させて下さい」

 

 はっきり断る覚悟を。

 

「……少し、性急すぎたかな。だが、もう少し考えてみてはくれないか。君にとって、今の環境が将棋に集中できるとは思えない」

 

 幸田さんは僕の返事に、困ったように眉を下げてそう言った。

 

「幸田八段には……奨励会に所属している娘さんがいらっしゃるでしょう。息子さんも入会を考えていると耳にしました」

 

「あぁ、確かにそうだが……」

 

 僕のこの言葉が、どうつながるのか幸田さんはすこし不可解そうな顔をして相槌を打った。

 

「僕は施設でたくさんの仲間に出会いました。みんな優しくて良い子です。でも……やっぱり、どこか寂しがっています」

 

 あまりこの手の話題は出したくなかったけれど、納得してもらうためには仕方ないだろう。

 

 僕と仲の良い青木くんは、小学校に上がる前の頃、迎えにくるからここで待っていてと母親に言われて、公園に置いていかれた。

 青木くんはずっとずっと、母親が迎えにくるのを待っていたけれど、彼女が再び迎えにくることはなかったそうだ。

 その後警察に保護されて、色々調査もしてもらったらしいが、戸籍登録さえも曖昧で、結局母親の行方は分からず、施設に預けられることになったらしい。

 父親の記憶は全くないし、母親の顔は忘れないようにと頑張っていたそうだが、今はうろ覚えだと言っていた。

 ただ、あの日繋いで歩いた、母の手の感触は今でも忘れられないらしい。

 

 他の子たちだってそうだ、皆様々な事情がある。

 必死に前を向こうとしながら、記憶に残る両親の影を振り払うことはできない。前の僕がそうだったように。

 

「笑顔の裏で誰もが、親の庇護を、家族の愛を求めています。

 だから、せっかくそれを手にしてる幸田八段のお子さんから、少しでも取ったりしたくないんです」

 

「では……君は? 君がそれを求めてはいけないのか? 私がそれを与えることは出来ない?」

 

 哀しげな顔でそう言われて、僕は当時のことを思い出した。

 守ってくれる親を、無償で愛を注いでくれる家族を、心休まる家を失ったあの時の僕は、僅かながら幸田家にそれを求めてしまった。

 

 でも、それはやっぱり良くなかったと思う。

 

 幸田のお義父さんもお義母さんも良い人だった。突然引き受けることになった、他所の子にも不器用ながらも愛情を注いで、優しくしてくれた。

 本来、受け取るべきだった感情の幾何であったとしても、急に現れた他人にとられた子供たちは、動揺しただろう。哀しかっただろう。割り切れるはずがないのだ。

 どうして? と思わずにはいられなかっただろうと、今なら分かる。

 

「……子どもは親にとって自分が一番であってほしいと思います。それが自然で、そうあるべきです。幸田さんのお気持ちは嬉しいですが、その気持ちも2人のお子さんに注いであげて下さい。僕が受け取ることは出来ません」

 

 生意気言ってすみませんと深く頭を下げて断った。

 幸田さんは、僕の固い意志を感じ取ったのだろう。

 それ以上は、内弟子の件を持ち出そうとはしなかった。

 

 ただ、何か力になれることがあったら、遠慮なく言ってほしいと、連絡先を交換した。

 師匠の事も、幸田さんの方で僕に良さそうな方がいれば繋ぎを付けてくれるそうだ。

 

 前と違って、弟子にはならなかったけれど、結局気に掛けてくれることに変わりはないようで、頭が下がる思いだった。

 

 

 

 

 

 それからしばらくして、島田さんにも声を掛けられた。

 幸田さんから僕の話を聞かせてほしいと持ちかけられた時、内弟子の事を耳にしたようだ。

 

「良い話だっただろうに。そんなに早く断らなくても良かったんじゃないか?」

 

「いいんです。どれだけ考えても答えは変わりませんから」

 

 僕のきっぱりとした物言いに、島田さんは微妙な顔をした。

 

「桐山はさぁ……。頑張ってるし、周りの事もよく考えてる良い子だよ。だからこそ、もっと自分の事だけ考えても良いんだぞ」

 

「大丈夫です! もう慣れてますから」

 

 島田さんは僕の様子を見て、そうか……と一つ溜め息をつくと僕の頭を撫で回した。最近こうされることが多い気がするが、気のせいだろうか……。

 そして、幸田さんも協力してくれると言っていたから、周りにとっても桐山にとっても良い師匠を見つけような、と言ってくれた。

 俺も協力するからと、なぜか以前よりも決意を込めた口調だった。

 

 

 

 

 

 そして、2月。

 僕はついに1級に昇級する。

 依然として、入会以来30連勝の負けなしだった。

 前代未聞の、スピード昇級である。

 これから春にかけては昇段を争うことになり、その先にまっているのは三段リーグだ。

 再び近づいてきたプロへの入り口に、僕の心は期待で弾んでいた。

 

 

 

 

 

 




次の話は島田さん視点


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第二手 気になる奨励会員

今回は島田さん視点です。


 俺が桐山を初めて認識したのは、あいつの奨励会初日だった。

 以前から、凄い子が出て来たと会館で名前が挙がっていた少年。

 第一印象は静かでおとなしそう、そして本当に小4かと思うくらい小さな子供だった。

 会長や事務の方からも一言声が掛かっていたので、彼の境遇については知っている。

 やはり施設だと満足のいくだけの食事が足りなかったり、多少のストレスがあったりするのだろうか、どこか発育不良も感じさせるほどだった。

 

 噂通り一人で来ていて、事務処理も全て自分でこなしていた。

 奨励会初日ともなれば、当時中学生だった俺でさえも山形から、親が付いてきてくれたのだが。職員の人も忙しいのだろうか。

 周りは自分よりも年上、体格も大きい男たちばかりだ。それでも、彼に萎縮した様子はみられなかった。

 

 そして、対局の内容も初日から3局すべて勝って、全勝。

 初参加の奨励会に対する緊張を微塵も感じさせなかった。

 見回りをしながら、何度か彼の盤を覗いてみたが子供同士にしては珍しいくらい美しい棋譜が出来上がっていた。

 相手の子も初参戦の子に負けて悔しいだろうに、良い将棋を指せたと思ったのだろう。負けましたと伝えながらもどこか、納得した雰囲気が感じられた。

 

 

 

 全ての対局が終わって片づけをした後、俺が奨励会員から少し遅れて部屋をあとにすると、人気の少ない自動販売の前の椅子に、桐山が座っていた。

 帰らないのか? と声をかけると、流石に少し疲れた様子で少し時間をつぶしているのだと、困ったように笑った。

 世間話をした後に、ココアを買って渡してやると、とても恐縮していたが大事そうにちまちまと飲むその様子に、年相応の幼さが垣間見えてなぜだかほっとした。

 

 しかし、その後、施設以外の人で祝ってもらえたのは初めてだと言われて、この子の環境を想うと堪らない気持ちになった。うっかりその場で抱きしめてやりたくなったほどだ。

 流石に、頭を撫でるにとどめたけれど。

 

 俺はじっさま達をはじめ、村中の人々に応援されていたし、親も協力的だった。

 奨励会に受かった時は、これが開の棋士人生への一歩だ! とそれはもう賑やかに祝われたものだ。

 当時はもう大内先生の門下に入っていたし、先生をはじめとした先輩棋士たちにもこれから頑張れよ、と激励されたのを覚えている。

 

 それが、ただのココア一本。社交辞令のひとつとして、告げたおめでとうの一言をこんなに喜ばれたら、俺はどうすればいい!?

 

 そして、困ったことがあったら相談してくれと、その場で連絡先を交換して、彼の電話帳に登録された人数の少なさにまたダメージを受けるのだ。

 その数僅か一桁。

 後見人だという弁護士と、彼がいる養護施設とその職員、そして将棋会館の事務の番号しか入っていなかった。

 桐山家関係の連絡先は一切入っていないことに、彼が辿ってきた道の険しさを垣間見た。

 

 この子の周りの細く希薄な人間関係と、そんな中でたった一人この世界で立ち向かっていかなければならない境遇に、せめて気に掛けてやりたいとそう想った。

 

 

 

 

 

 桐山からの最初の相談は記録係をやりたいというものだった。

 棋譜がインターネットなどを通じて、楽に手に入るようになった現代、記録係はあまり人気のある仕事ではない。奨励会員だけでは足りず、若手プロ棋士が駆り出されるほどだ。

 

 手伝ってくれるのは、有り難いけれど長丁場で小学生に任せるのは懸念もあった。

 けれど本人が強く望んでいたし、子供らしくないくらいの落ち着きと集中力を持った子だ。

 一度事務とも話して、やらせてみようと思った。

 

 桐山の記録係は、当初多くの棋士に戸惑われたが、すぐに歓迎されるようになった。

 棋譜は大人顔負けにきれいだったし、取り組む姿勢も近年まれにみる真面目さだった。

 

 最近では、志願ではなく義務で駆り出されることも多くなった記録係は、その質の低下が問題視されているのだ。

 棋譜をつけているはずなのに、居眠りをしていた……などという事例も少なくない。

 

 だが、桐山のそんな失敗は一度も聞かなかった。昼休憩後の丁度眠くなる時間でも、いつもきちんと正座で真っ直ぐ背筋も伸ばして、淡々と記録をとり続けているらしい。

 一度、俺の対局を担当することがあったので、チラッと様子を気にしてみたが、まさにその通りだった。

 人形かとおもうほど動きが無い。

 かと思ってふと眼鏡の奥のその目を注視すると、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように盤上に釘づけなのだ。

 あんなに楽しそうに記録係をする子は見たことが無かった。

 

 棋士たちもそれだけ、熱心に打ち込んでくれると悪い気はしない。おまけに幼い小学生で、彼の境遇を耳にすれば、構ってやりたいと思う人も少なくなかった。

 

 桐山は仕事に来るときは、休憩時間内に施設に戻って昼食を食べて帰ってくることが時間的に厳しいと、大体がコンビニのおにぎりや惣菜パンを買ってきていた。それも、あまりお腹が空かないからと、一個の事が多い。

 それを見ていた、一人の棋士がそんなんじゃ大きくなれない。ただでさえ小さいんだからと昼食を奢ったのをきっかけに、対局していた棋士が彼にお昼を奢りだした。

 桐山はとても恐縮して、断ろうとするのだが、最後は有り難く頂いていた。俺としても遠慮せずに、是非そうしてほしいと思う。

 小さい口で一生懸命頬張りながら、美味しい。といって笑ってくれると自身の子供が小さかった頃を想いだして和んだと何故か奢った棋士が満足そうだった。

 

 

 

 桐山は奨励会が無い休日はほぼ記録係をしに来ていたといっても過言ではない。

 普通の小学生ならほかにもっと、テレビをみたかったり、ゲームをしたかったり、外で遊びたいものなのではないだろうか……。

 事務の人が自分の子供は日曜日は絶対に特撮ヒーローものを見るために、テレビにかじりついているけれど、桐山君は見ないの? と尋ねると、

 あまりテレビに興味はないからチャンネルの選択権は他の子に譲っていると答えられたそうだ。

 

 また、ある日仕事を入れ過ぎではと、それとなく水を向けた事務員が、涙目になって俺に訴えてきた。

 曰く、「もー!! あの子どんだけ良い子なんですかっ。ただでさえ、手続きも何から全部自分でして、しっかりしてるって感心してたのに。来年の奨励会費もたまったとか喜んでるんですよ。こっちとしては、たまんないですよ……」

 とのことらしい。

 

 俺も記録係のことで、帰宅が遅くなったりすることもあるだろうと施設の人へ一応確認の連絡をとったことがあったが、驚くことに本当に何一つ、将棋について知らなかったのだ。

 気になったりしないんですか? と尋ねたら、桐山君はしっかり自分で管理できているので……、と返事をされて唖然としてしまった。

 30人もの子供の面倒をみているということは、そんなものなのかもしれない。手のかからない子ほど、自主性に任せている。悪く言えば、ほぼ放っておかれているわけだ。

 

 それを聞いた事務の方々はより一層庇護欲が駆り立てられたようで、桐山の事をよく構うようになった。

 お菓子をあげるととても喜ぶんですよ、と子供らしい一面を耳にして、その話を桐山に振ると、施設の仲間も喜んでいますと斜め上の返事が返ってきた。

 

 どうやら、貰ったお菓子はだいたいがそのまま持ち帰って、誰かにあげているらしい。

 自分だけだと気後れするやら、食べ切るには多い量だったやら、理由を並べていたが、如何ともしがたい……。

 結局、本人の口にも確実に入るようにある程度まとめた数を、一度に渡すことが無難と落ち着いた。

 

 

 

 

 

 そんなこんなで、3ヵ月もたった頃、彼の棋力の底知れなさを感じ始める。

 最初は安定感のある手堅い戦法が得意なのだろうとみていたが、それだけでないことはすぐにわかった。

 

 3ヵ月終わって全18局。そのすべての対局で勝利を収め、3級までストレートで昇級していた。

 3級になると上位者や下位者両方との対局が入ることもあり、駒落ちの相手と対局することも、自身が駒落ちで相手と指すことも増える。

 多くの子がそこで一旦足踏みをするのだが、桐山は未だ一敗もしなかった。

 

 そして、毎回その内容を見ていると実感するのだ。

 彼がまだ本気を出していないことに。

 普通将棋は先手有利と言われている。それは先手が戦法を決めることが多いからだ。

 居飛車、振り飛車、穴熊……各棋士にはそれぞれ得意な戦法がある。

 奨励会にはいってきた若い子たちでもそろそろ得意戦法、苦手な戦法などが出てくる。

 

 桐山は自分が先手でも自らが戦法を誘導することはなかった。いつも相手に合わせて相手の選択に乗っていくのだ。

 けれど、泥仕合のような棋譜は全くといって見られない。

 なにか不自然な力に導かれたかのように、あいつが残した棋譜はすっきりとして綺麗なものだった。

 

 桐山の昇級は他の奨励会員からすると脅威でしかなかった。

 特に上級位のものからすれば明日は我が身である。

 何とか彼の昇級を止めたかったのだろう。

 級位が上の棋力に自信がある奴が、次の奨励会で桐山と当たりたいと言ってくることが増えた。

 彼の連勝記録にストップを掛けたかったようだ。

 常識的に考えて、平手や下位の者と駒落ちで対戦するよりも、上位との対局の方が勝ちにくくなる。

 

 対局を組むのは幹事の仕事だ。

 俺は、偏りがないように級位差や成績にもよく気を付けて組むようにしていたが、そういう風に、意欲的に誰かと対局したいと言ってくる子も珍しくはなかった。

 だいたいが、いつかは当たるのだからそれを楽しみにしておけと、流して終わる。

 それでも、奨励会員にとって桐山がどれほど意識されているかが、よくわかった。

 

 俺は、桐山はこのまま負けることなく昇段までいくような気がしていた。

 少なくとも今の級位者に彼を止められそうな棋力を持つ者はいない。

 まさに、別格だった。

 師匠もおらず、まともに勉強もできないであろう環境でよくもここまで育ったものだ。

 才能だけでは、片づけられない何かを感じた。

 

 

 

 だが、そんなことは気にもならないくらいに心が躍った。

 こいつはすぐに上がってくる。

 そうすれば、盤を挟んで俺とも指すことになる。

 

 背後から、迫ってくる得体のしれない気配に恐ろしさを感じながらも、どこか楽しみにしている自分が可笑しかった。

 

 

 

 

 寒さも深まった頃。桐山は相変わらず黒のダッフルコートに埋もれるようにして、会館に通ってきていた。

 この寒いときにも徒歩30分歩いてきていることには変わりないらしい。

 せめてマフラーでも付けろっと声を掛けると、少し考えた後、今度買いにいきますとの返事だった。

 

 あれは、その気が無いとみていいだろう。

 また昇級祝いにかこつけて、その辺の安いマフラーを買い与えることに決めた。あまり高いと絶対に受け取らないと思ったので、その辺のさじ加減が大事だ。

 

 

 

 桐山が入会してから数ヶ月が経っていたし、そろそろ師匠にあてはついたのかと、水を向けると、あいつはなんと、不思議そうな顔をしたのだ。

 入会後一年以内に決めて、申請を出すように言われなかったか? と更に尋ねると、思い当たったのだろう、珍しく慌てていた。

 普通なら入会時に決まっていなかったとしても、これだけ長く誰にも師事しないことは珍しい。

 

 なんなら仲介もするぞ、と声を掛けた後に、桐山が困ったように少し考え込んで、島田七段では駄目でしょうかと言われたのには、驚かされた。

 

 残念ながらB1にいるとはいえまだ三十路前の若輩者だ。

 いつかは研究会でも開きたいとは考えているが、まだ弟子をとるような器でもなければ、歳も若すぎると俺自身が思っていた。

 

 断られた桐山は、幹事もやられていてお忙しいでしょうと、もともと駄目元だったのだろうあっさりと納得した。

 

 俺は代わりに、自分の師匠の大内先生を紹介しようかと持ち掛けた。

 ただ、桐山より少し歳が上の二海堂を門下に迎えたばかりの頃だったし、先生もそのとき最後の弟子だといっていたので難しいだろうなとは思った。

 その俺の雰囲気で察したのだろう。桐山は一応、入会したときに会長にも頼んでありますので、大丈夫です。お気遣い有り難うございますと辞退した。

 

 引き際を弁えているというか、本当に10歳の子供らしくない子だった。

 

 それとなく桐山に聞いたところ、将棋を教える師匠というより、将棋界で生きていくための儀礼的な保護者や後ろ盾を探している感じだった。

 それゆえにもう前線を退いた年配の棋士の方に頼めればと考えているそうだ。

 他に目を掛けている若手がいたり、自分の子供が若い棋士の方は避けたいと遠まわしに告げられた。

 俺はその条件に、少し首を傾げたが、この子ほどの才能があって自分の将棋が完成している子であれば、却ってあれこれ手を出されるより、将棋に関しては放任の方が良いのかもしれないと思った。

 

 

 

 

 

 それから、しばらく経って、幸田さんに呼び止められて桐山の奨励会での様子について聞かれた。

 不思議に思って訳を尋ねると、記録係をしていた桐山をみて、かつて同じ門下でプロ棋士を目指した親友の子供だとすぐに気が付いたらしい。

 

 桐山と話して、親戚で誰も引き取り手がおらず現在東京の施設で暮らしていて、師匠も決まっていないと知ったそうだ。

 記録係をしていることから、奨励会に在籍していることはわかったので、自分の内弟子として家に迎えたいと持ち掛けたそうだ。

 だが、その場で断られてしまったと酷く落ち込んでいた。

 

 桐山は、幸田さんの娘さんが奨励会に在籍中で、弟くんも次の奨励会試験で入会しそうだということを知っていた。

 施設でどんなに渇望しても貰えない親の愛情と庇護を求めている子供たちを見て、せっかくそれを手にしている幸田さんの子供たちから、僅かでも奪うようなことをしたくないと言われたらしい。

 

 俺はその時になってなぜ桐山が、成長期の子供や弟子をもつ棋士を師匠候補としたくないのか、その真意が理解できた。

 既に居る子供や弟子に与えられるべき感情が、自分に割かれる事を忌避しているのだ。

 ましてや桐山は施設に居る。

 それなりに経済的な余力があるプロ棋士ならば、幸田さんのように内弟子にして家に迎えようとしてくれる人がほとんどだろう。自分が育てる弟子を、少しでも勉強がしやすい環境に置きたいと考えると、当然の行動だ。

 

 桐山は施設での暮らしをそれほど苦に思ってはいないようだったが、記録係をやりたがり、ほぼ毎日のように将棋会館にあらわれて将棋の勉強をしている様子を見るに、とても将棋に打ち込みやすい環境と言えない事は、一目瞭然である。

 内弟子はプロを目指す彼にとっては、願ってもない環境のはすだ。

 

 それをあっさりと断ってしまう程に、彼にとって家族とそれに近い親密な関係が、侵してはならない、尊いものなのだろうと伺えた。

 

 僅か10歳の少年がそこまで、思い至るのに一体どれほど葛藤があったのだろうか。

 おそらく桐山は失ったからこそ、誰よりもその大切さを理解している。

 二度と自分がそれを手にすることがないことも分かっていて、そのうえで納得しているのだ。

 彼の心中を想うと、俺も幸田さんも憐憫を抱かずにはいられなかった。

 

 俺は幸田さんに桐山の成績を伝えて、このままのペースで行くと来年度には段に上がり、ひょっとするとそのまま、三段リーグまで到達するだろうと告げた。

 入会からの昇級の速さにとても驚いていたが、それなら尚更師匠が必要だろうと、自分の弟子にすることは諦めたが、少しでも伝手をたよって探してみると決意を新たにしたようだった。

 

 

 

 

 

 その後の奨励会で俺は桐山を呼び止めて、幸田さんの話を本当にそれでよかったのかと問いかけた。

 良い話だったろうに、少し考えてみても良かったのではないかと。

 彼の決意は固いようですぐに首を振った。

 

 俺が、もっと自分の事だけ考えて、大人に迷惑をかけてもいいんだぞと言うと、

 桐山はキョトンとした顔で俺を見つめかえして、もう慣れてしまったので平気です、と笑って答えるのだ。

 

 その様子に大きなため息をついて、桐山の頭を思いっきり撫で回した。

 こいつにはもう言っても難しそうだ。こっちから、構いにいくしかない。

 

 そう再認識させられた、冬のある日の出来事だった。

 

 

 

 

 



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第三手 得難い好敵手

 

 2月に1級に昇級した僕は、これから初段を目指し、その先にある三段リーグまで到達しなければならない。

 昇段の規定は昇級の規定よりも厳しくなる。

 連勝であれば8連勝。または7割以上の成績を長い目でみて出す必要が出てくる。具体的に言うと12勝4敗・14勝5敗・16勝6敗・18勝7敗といった具合だ。

 当然だが負けてしまうと、それだけ昇段までに時間がかかってしまう。

 三段リーグは半年ごとの区切りでの開催になる。僕はこのまま勝ち続ければ、一番早くて小5の秋からのリーグに参加できる計算だ。

 もし、仮に負けが続いて、昇段がのび小5の9月までに三段昇段を決めることが出来なければ、半年また待つ必要がある。

 それは絶対に嫌だった。

 今までも、手を抜いたわけじゃないが、より一層気合いが入る。

 

 

 

 その月、最初の奨励会の帰り道。

 僕は会館近くの公園で、懐かしい顔を見かけた。

 声を掛けるかどうかは、随分と迷った。

 けれど、ブランコに座ってゆらゆらと足を揺らしながら、所在なさげなその姿に、見て見ぬ振りは出来なかった。

 

「帰らなくて、良いんですか?」

 

 僕の言葉に反応して彼女は顔を上げた。

 

「……驚いた。あなた自分から話しかけたりもするのね。私の事が分かるの?」

 

「はい。今1級の幸田香子さんですよね。良くして頂いてる方の娘さんですし、僕も今日から1級ですから」

 

 彼女が前回の知り合いだからというだけでなく、流石に自分がこれから当たるかもしれない人の名前は覚えている。

 

「ふーん……将棋以外には全く興味がないのかと思ってたけど。

 帰らないのかって? 嫌なのよ。今日の対局2敗もしちゃった……せっかく最近は勝ち越せてたのに、また昇段が先送り」

 

「でも、暗くなって来ますし、お家の人も心配しますよ」

 

 この言葉に、キュッと彼女の目が細くなる。

 

「あなたには家がないものね。羨ましい?」

 

 キツイ切り返しだった。

 普通の小学生なら何も言えなくなるのではないだろうか。

 でも、僕には彼女の少し毒を含んだはっきりとした言いようが、懐かしい気がした。

 

「……はい。とっても羨ましいです」

 

「そんな顔しないでよ。別に虐めたいわけじゃないの」

 

 素直に答えた僕の返事に、虚を突かれたような顔をして彼女は少しバツが悪そうだった。

 そう、激しい一面を持っているけど、根はとても繊細で優しい人なのだ。

 

「あんたはそう言うけどね、親がいたって、家があったって、父さんが私の事を見てないことが分かるの。期待に応えられない私は、あの人の視界にさえ入れない」

 

 そう言って目を伏せた彼女は、とても寂しそうだった。

 

 幸田さんは自分には特に厳しい方だったけれど、周りにもどこかシビアなところがある人だ。

 殊に将棋に関しては、妥協するような人ではなかった。

 子供に強要することはなかったけれど、それほどストイックに将棋に打ち込む父の背中を見ていたら、どこかプレッシャーも感じてしまうだろう。

 でも、娘が大事じゃないわけがない、可愛くないわけがないのだ。

 僕だってそうだったから良く分かる。

 幸田さんも不器用な人だし、口数もそれほど多い方ではない。なんとなく二人の間で早くも、すれ違いが起きているような気がした。

 

「綺麗だし、自分に自信もあってカッコイイし、貴女の事を羨ましいと思ってる人はいっぱい居ますよ。他の人が持ってないものを沢山持っていると思います」

 

「そんなこと分かってるわよ。でも、私は今一番あなたほどの棋力が欲しいわ」

 

「僕には、逆に将棋しかありませんから……」

 

「人間ってどうして、こう無いものねだりなのかしらね」

 

 僕の返事に彼女は、大きく溜め息をついた。

 

「幸田さんは……」

 

「やめて、その呼ばれ方は嫌」

 

 強い口調で遮られてしまった。……難しいお年頃だ。

 

「……香子さんは、女流棋士になるつもりは無いんですか? 奨励会で1級になれるほどの実力なら充分望めるでしょうし……かなり強いと思うのですが」

 

 将棋界には研修会という機関がある。

 主として女性たちがそこで将棋の勉強をして、女流棋士になるのだ。

 女流棋士もまれに、僕たちプロ棋士のタイトル戦に参戦してくることもあるが、基本は女流棋士同士で女流のタイトルを争うことになる。

 奨励会で1級にいる彼女には、充分に研修会で勝ち上がって女流棋士になるだけの棋力があるはずだ。

 

「それで? あなたがこれからなるプロ棋士たちに、影で馬鹿にされろって?」

 

 男は奨励会を勝ち抜いて三段リーグを抜けて棋士になるしかない。それは、研修会で女流棋士になるよりもはるかに厳しい規定だ。

 それゆえにその狭き門を突破してきた矜持を持っている人が多い。

 どうしても女流という枠のなかだけで勝ち抜いてきて、女流棋士同士で対局し合う彼女たちの事を、下に見る棋士がいるのは事実だ。

 実際、女流のタイトルを持っている女流棋士のトップと、奨励会の二段、三段程度が対局すると、奨励会員が勝ってしまうという事例が普通にあったりする。不思議なもので棋力の差になぜか男女差がみられるのだ。

 そのことに関して、科学的になにか解明されているわけでもないし、単に男性の方が圧倒的に将棋人口が多いからかもしれない。

 

「そんな事ないですよ! 女性への将棋の普及に女流棋士さんは絶対に必要です」

 

 そもそも、女流棋士制度が出来たのはその目的が大きい。

 同性が頑張っていれば、女性だって将棋に興味を持つ機会が増えるだろうし、美しい着物をきて真剣に盤へ向かうその姿に、幼い少女が憧れを持ったりするだろう。

 将棋界が男社会なのは事実だけれど、それだけに甘んじていられる時代ではもう無い。

 実際、将棋人口は日々縮小していっているのだから。

 

「今のあなたはそうでも、心の中で下にみてるプロ棋士は多いわ。でもそれも分かるのよ、歴代で誰一人として奨励会の三段リーグを抜けて棋士になった女性はいない。

 だからこそ、私はそれを実現したかった……」

 

 そうじゃなきゃ意味が無いのよ。と、彼女はつまらなさそうに土を蹴った。

 

 その姿に、彼女は将棋に拘りがあるのではなくて、将棋を通じて父親に自分のことをもっと見て欲しいと思っている、一人の女の子なんだと分かった。

 

「お父さん、あなたの事をとても気にしてたわ。弟子にしようとしてたんですって? 結局私にも、歩にもそんなに期待してないのよ。実子がだめなら他所の子かしら」

 

「それは、違いますよ。幸田八段は優しいから……親友の子どもだった僕を放っておけなかったんです」

 

 香子はこの言葉に少しも納得していないようだった。

 

「あなた、すぐに断ったそうね……どうして? 将棋をやるには最高の環境が手に入るのよ」

 

「……将棋だけじゃなくて、他にも大切にしなきゃいけないことがあるって思ったからです」

 

「アハハッ、自分には将棋しかないって言ったその口でそれを言うんだ?」

 

「すいません……」

 

 彼女は大きくひと漕ぎしてから、ブランコから飛び降りた。

 そして、傍にいた僕のコートの胸元を掴んで引き寄せる。

 

「……ほんと、生意気ね」

 

 身長は4つ上の彼女の方がずっと高かった。グッと引き上げられた首元が少し苦しい。

 きつく吊り上がったまなじりが、前の人生で僕に負けて手が出たときの彼女の瞳と重なった。

 

「奨励会であんたと指す日。楽しみにしとく」

 

 小さく囁くほどの声だったけれど、とても鋭く耳にささった。

 そう言い捨てると、パッと手を離して、ツカツカと公園から去っていく。

 このまま、まっすぐ家に帰ってくれるといいのだが……。

 

 やっぱりどうにも上手く、話せなかったことが少し残念だった。

 

 

 


 

 その次の奨励会で、僕の対局相手の3人目が香子さんだった。

 この前があっての今日だったので、流石に少し気まずい。

 

 お互いに駒を盤上に交互にならべながら、対局の準備をしていた時だった。

 彼女が囁くようにポツリと俺に告げる。

 

「ねぇ……この対局に負けたら、私奨励会を辞めるわ」

 

 静かだけれど、毒をはらんだ声だった。

 これには、流石に駒を置く手を一瞬止めてしまったけれど、何の反応も返さずに粛々と対局の準備を進める。

 本気か、はったりか、定かではないけれど、一種の盤外戦術だろう。

 以前も彼女には、次に僕が対局する予定の棋士の事情を聞かされて、随分心を揺さぶられたものだ。

 

 

 

 静かに始まった対局だったが、内容はかなり激しいものとなった。

 香子さんと対局するのは、小学生に戻ってからは初めてのことだったが、その棋風は以前と変わりなかった。

 彼女はその気性も相まって、待ったりじっくりと囲ったりする戦法はあまり好きではなく、相手の陣に踏み込んで、駒を荒らしていく乱戦が得意だった。なんというか攻撃的な棋風なのだ。

 僕は、当然彼女の戦法に乗った。

 

 奨励会での僕の対局は、相手の戦法にのって指し進めたいであろう対局の内容をなぞりつつも、最終的には主導権を頂いて、勝つというパターンが多い。

 このくらいの子たちが、この型がくればどういう風に駒を持っていくかはある程度経験で解るし、上手く指し合って気持ちよく終わらせたかった。だから、棋譜も綺麗に整ったままの事が多い。

 

 でも、今回はすこし違う。

 彼女が自陣に踏み込んでくるのに合わせて、僕も果敢に攻め込んで見せた。防御なしの殴り合いだ。

 盤上はびっくりするくらい荒れたし、終盤になるとこれはいったいどう落ち着くのかと思われただろう。

 けれど僕は詰みまで読み切っていたので最後はそれなりにまとめられたと思う。

 

 お互い攻撃に走ったために、手数はおどろくほど短かった。

 一瞬僕は前の時のように、張り手がとんでくるかと身構えもしたけれど、そんなこともなく、終局を悟った彼女は静かに負けました。と告げた。

 その姿はとても新鮮で、僕は有り難うございましたと、返すことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

「ねぇ、……ちょっと! 待ちなさいよ!」

 

 会館から出てしばらく歩いたところで、追いかけてきた彼女にそう呼び止められた。

 

「あの……」

 

「負けたわ!! 完敗よ。あんた強すぎ」

 

「えっ!?」

 

 驚いた。彼女が僕にこうもはっきりと負けたという日が来るなんて。

 

「お父さんと指した時みたいに、勝てる気がしなかったわ。……でもね、癪なんだけどここ最近で一番良い将棋が指せたって思う。久しぶりだったの。将棋を面白いなって思ったのも」

 

「そうですか……僕としては、そう言ってもらえると嬉しいです」

 

「でも、やっぱり決めたわ。奨励会は辞める」

 

 その言葉に、僕が困ったような顔をしたのをみて、彼女は続ける。

 

「あんたに負けたからじゃないわよ。そりゃあ、対局前にちょっとは動揺すれば良いと思ってそう言ったけど。

 単純に敵わないなって、思い知らされた。あなた自分には将棋しかないって言ってたわよね……」

 

「……はい」

 

「やっぱり、それくらいじゃないと駄目ね。この先には行けないわ」

 

 まるで憑き物が落ちたような表情で、彼女はあっさりとそう言った。

 けして、短い道ではなかったはずだ。

 男がひしめく奨励会に所属し数年。1級まで登りつめるのに彼女だって相当の努力と時間を捧げただろう。

 そのうえで、こうもあっさりと認めてしまえたことが不思議だった。

 それほどまでに、何かをかえる対局だっただろうか……。

 

「それにね。この前、女流棋士の道を示された時、一瞬でも迷わなかった自分にも驚いた。結局私は、何が何でも棋士になりたいわけじゃないのよ。だって本当に将棋が好きで、それがしたい子だったらその道を選ぶはずだわ。

 私はただ……将棋を通して、お父さんに近づきたかっただけ……」

 

 その気持ちも分かる気がする。将棋の世界で生きている父さんのことを理解するには、やはり一番この世界に飛び込んでみるのが近道だったのだろう。

 でも、それ以外の道でもこの二人は分かり合えるとおもうのだ。

 なんせ、父と娘なのだから。

 

 僕は、結局彼女の言葉に何も返せず、二人の間に不思議な沈黙が流れた。

 彼女はその沈黙の後に、唐突に尋ねてくる。

 

「ねぇ……本当に私の事、綺麗だと思う?」

 

「えっ!? あ、はい、嘘は言いませんよ」

 

「それでいて、自信があってカッコイイ?」

 

「えぇ、僕よりずっと」

 

「そう……。いいわ、まだ何も決まってないけど、将棋以外の道で、もっともっと輝いてお父さんに認めさせてみせる」

 

 そう宣言した彼女は、やっぱり綺麗で美しいと思うのだ。

 

 これでもう、奨励会で会うのは最後ねと、まぁ応援しておいてあげるから頑張ったら、と背中を強く叩かれた。

 有り難うございます。と返してその場を離れる。

 

 

 

「ねぇ、零!」

 

 と、後ろから以前のように名前を呼ばれ、驚いて振りかえった。

 

「私に勝ったんだから、この先も負けんじゃないわよ!!」

 

 ふん、と仁王立ちで腕を組んでそう言い切る姿に、懐かしい義姉の姿をみた。

 

「はいっ!」

 

 彼女の前で発した声で一番、力強く返事が出来たと思う。

 たった一言だったけど、その答えに、彼女は満足気に頷いていた。

 

 以前の時のように、父に引導を渡されて将棋から離れたのではなく、自らこの道に別れを告げるのだ。

 幸田さんとこの後どういう話をするのか分からないけれど上手くいってほしい。

 

 この先の、彼女の進む先に幸があらんことを。

 そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 


 

 3月最初の奨励会。

 2月で1級に入って6連勝をしている僕は、この奨励会で続けて2勝すれば昇段となる。

 

 この日僕の昇段を左右する二人目の対局者は、二海堂晴信だった。

 

 

 

 二海堂とは以前、良いライバル関係を築けていたと思う。

 暑苦しくて真っ直ぐでちょっと口うるさい奴だったけど、彼と指す将棋は本当に楽しかった。

 病と闘いながらの彼の人生は短かった。その分将棋に命を燃やしていたように思える。

 

 二海堂と戦った唯一のタイトル戦の事を思いだす。

 僕が初めて勝ち取ったタイトルの玉将戦の防衛2年目。挑戦者になったのは彼だった。

 近年稀にみる若者同士、しかも幼い頃からのライバル同士の対局とあって世間の注目も随分浴びた。

 

 結果は4勝3敗で僕の防衛だった。

 今でも全ての対局をはっきりと思い出すことが出来る。僕はまたこの玉将戦か、はたまた別のタイトル戦で彼とやりあえる日が来るだろうと楽しみにしていたものだ。

 

 けれど、それが二海堂にとっての最初で最後のタイトル戦だった。

 

 一度はA級にまで昇級し彼がずっと憧れていた名人戦の挑戦権の獲得だって射程の範囲に収めた。

 けれど20代の後半に差し掛かり体調が悪化する。入退院を繰り返し、不戦敗も多くなり、特に持ち時間の長い対局での成績が振るわなくなった。

 それでも彼は諦めなかった。

 一度病院を勝手に抜け出して、対局に来たことがあったほどだ。

 B1に降級したこともあったが、彼は戦ってまたA級復帰を決めていた。

 でも、28歳のその年、ついに一度休んで体調を整えることに専念すると言っていた。

 

 僕は仕方ないとは思ったけれど、やりきれなくて複雑で堪らなかった。

 絶対に戻って来いよと声を掛けた僕に、二海堂は当たり前だろと笑って、桐山おまえは、頂点まで登りつめて俺を待ってろ、必ずそこに行ってやるから、と力強く宣言した。

 

 その翌年、29歳の若さでその人生に幕を閉じる。

 死の間際に、棋譜を諳んじて、彼の最後の言葉は2七銀だったという。

 彼の生前の希望だったらしく、葬式は身内だけでこぢんまりと行われ、僕らがその死を知ったのは、全てが片付いた後だった。

 

 そのことが僕に与えた精神的な衝撃は相当なものだったが、その反面翌年から成績は右肩上がりになった。

 頂点で待っている。

 そう彼と約束した。

 30歳のときに八冠を成し遂げたことに、二海堂の事が大きく影響していたことは間違いない。

 

 8つ目のタイトル戦の後に、僕は初めて彼の墓参りに行った。

 それまではとても無理だった。

 墓前で約束を果たしたぞ、と告げた後に、彼ともう盤を挟んで会うことが出来ないことを実感して、静かに涙がこぼれたことを覚えている。

 

 

 

 

 

 席について対局の準備をしようとしていた時、彼から声がかかった。

 

「ついにこの日がきたか! 桐山零。俺はお前と対局できる日を心待ちにしていたのだっ」

 

 その声と言葉が二海堂らしくて、僕は嬉しくなった。

 あぁ……また、会えたんだな。また、こうして将棋を指せるんだなと。

 

「僕も……楽しみでした。よろしくお願いします」

 

 その言葉に彼が嬉しそうに笑ったのが分かった。

 

 1級同士の対局になるので、当然平手打ち。正真正銘真剣勝負ができる。

 今日は僕が先手だった。

 二海堂の棋風は知っている。

 この時から彼は居飛車党だったはずだ。だったらそれを誘わないわけにはいかない。

 

 彼は少し虚を突かれたような顔をしたけれど、すぐ乗って来てくれた。

 やっぱりそうじゃないと面白くない。

 

 戦法は相居飛車の相掛りとなった。

 お互いに角道を開けないまま、飛車先の歩を伸ばしていき、まず先手が歩を交換する。

 つまり、お互いにその気が無ければ取られる戦法じゃない。

 

 中盤お互いに駒を組み合うような形になった。

 僕は中盤少し考えて、すぐに桂馬を取りに行かないで玉の懐を広げるために、9六歩とする。戦う前の下準備だ。

 

 二海堂は後半に差し掛かるころに、7六桂を打った。歩を打って攻めるのでは遅いのでスピードアップの手筋で良くみられる手だ。しかし、この場面では、歩を打って攻めたほうが堅実だったと思う。

 形勢はそこから僕のペースに傾きだした。

 

 

 決め手は167手目で僕がさした1一角成だった。

 同飛車は香車から歩で叩いて桂馬でつかまるし。同玉にしても、1三香に角の間駒。

 金銀なら取ってそれをとって、馬で捕まえに行ける。歩なら2三桂から4三馬。

 金でも2三桂から1二香成など、銀でも1二香成から2二馬、4四角から詰みに持っていける。

 

 それでも、二海堂はなんとか生きる道がないかと諦めずに指し続けた。彼のこういうところは本当に凄いと思う。

 

 結局177手目に彼は、振り絞るような声で負けましたと告げた。

 奨励会での対局で、此処まで長く指した対局はなかった。

 小学生に戻ってから、初めて少しだけ本気になって、自分の勝ちだけを取りに行った将棋になった。

 

 

 

 席を立つとき、僕は迷ったけれど彼に一言告げる。

 

「……先に行って待っています。君とは棋士になってから、また指したいです」

 

 たぶん奨励会に入って初めて、感想戦以外で対局者に声を掛けたと思う。

 二海堂は悔しそうに俯いていた顔をパッとあげて僕をみた。

 

「俺と? 俺とまた指したい?」

 

「はい。だから、すぐに上がって来てくださいよ」

 

 その言葉に、彼の表情はパッと明るくなった。

 

「勿論だ! すぐに追いついてみせるからなっ」

 

 二海堂の棋力は高い。昇段しても充分やって行けるだけの力はもう持っている。

 ただ、体調のこともあって奨励会を欠席してしまうことが他の子よりも多い。

 奨励会は家の都合や、学校の都合で休む子もいるので、不戦勝にはならなくて、欠席したときも連勝はとぎれないが、一回休んでしまうと、その分3局か2局か出遅れてしまうのは避けられない。

 彼が昇段に少し時間が掛かっているのはその為だろう。

 いや、入会後1年で1級まできているのは充分凄いことなのだが。

 だから、大丈夫だ。前回同様すぐプロになるだろう。

 

 

 

 そうして退出しようとした、僕の背中に今度は彼から声が掛かる。

 

「なぁ……桐山、俺はお前のライバルになれるか?」

 

 あぁ……やっぱり二海堂は変わらない。いつだって真っ直ぐだ。

 

「そうだと、良いなぁって思ってます」

 

 僕はまた、二海堂がそう言ってくれるのが嬉しくて仕方なかった。

 振り返って頷いてみせた僕に、彼がみせたはじけるような笑顔が眩しかった。

 

 この対局に勝ち、入会以来38連勝。

 ただの一度も負けることなく初段になるという伝説を棋界に刻むことになる。

 

 

 

 

 


 

 

 

 3月2回目の奨励会。

 今回から僕は段位者なので、この奨励会からは一日二局の対局になる。

 8連勝して、2段になるためには最短でも2ヵ月かかるのだ、負けるわけにはいかない。

 

 その日の奨励会の帰りに、たまたま会長をみかけたので声を掛けることにした。

 そう、困ったことに僕の師匠は未だに決まっていないのだ。

 

「神宮寺会長、お時間少し大丈夫ですか?」

 

「ん? おぉ!! 誰かと思えば期待の新人を通り越して、人間じゃないモノノケの類じゃないかとささやかれ始めた桐山きゅんじゃないか」

 

「……僕、そんなこと言われてるんですか!?」

 

 そんな風に言われていたとは、初耳だ。

 

「まぁな、そんな小さいなりで鬼みたいに強いんだから仕方ねぇだろ。

 気にすんな、このままお前さんが勝ち進んで小学生プロにでもなってくれりゃあ話題性抜群。将棋界としてはありがてぇ話だよ」

 

「僕は本気でそれを目指してますので。あの……それで一つお願いがあるんですけど……」

 

 会長は僕の宣言を、口笛を吹いてはやし立てた。面白がりつつも期待をしてくれているらしい。

 

「いいねいいね、未来ある若者の頼みだったら叶えてあげるかもよ」

 

「僕まだ、師匠が決まっていなくて。会長はたしか入会する時に、一年以内に初段まであがれたら、考えてやっても良いとおっしゃってましたよね?今月頭に昇段しました。師匠の話を受けて頂けないでしょうか?」

 

 この言葉に、会長は相当驚いたようだった。

 

「え? もう初段まできちゃったの? 桐山おまえ、入会してからまだ半年くらいだろ……。

 負けなしって比喩じゃなくてホントだったんだな……」

 

 多忙だから、流石に一奨励会員の詳細な成績までは、把握していなかったんだろう。まだ三段リーグに到達しているわけでもないので、それも当然だ。

 会長は頭をかきながら、すこし考え込んでいるようだった。

 

「あ……えっと、お忙しくて難しいなら、大丈夫です」

 

「あー違う、違う。確かお前の師匠の件は幸田からもちょっと話があったなぁと思い出してな」

 

「幸田八段からのお声かけは、有り難かったですがお断りしたんです……」

 

「知ってるよ、あいつちょっと落ち込んでた。で、自分の代わりにおまえさんに合いそうな師匠探してるんだよ。確か……結構いい話まとまりそうだった」

 

「え!? 僕何も聞いてませんが……」

 

「そのうち、話がいくだろ。まぁ……その話も嫌だったら、俺が弟子にとってやるよ。会長職もあるから、あんまり構ってやれないが、将棋に関して教えることはほぼなさそうだしなぁ……。優秀な弟子がいるっていうのは、師匠にとっても有益だし」

 

 会長はそう言って、僕のあたまを撫で回して、笑いながら去っていた。

 頭がふらふらするほどの勢いだ。

 

 幸田さんが紹介してくれそうだという方も気になるけれど、それが駄目なら会長もなってくれると言ってくれた。

 ひとまず、師匠の件は安心だろう。

 

 

 

 春休みに入り、相変わらず記録係の仕事を沢山入れてもらった。

 将棋づくしで、充実した休みだったと思う。

 

 4月に入り、僕は小学5年生になった。

 学校はクラス替えもあったりしたけど、青木くんとはまた同じクラスでほっとした。

 奨励会での連勝も伸ばし続けている。

 

 そして、4月下旬の奨励会が終わった時に、島田さんから会長室に寄ってくれないかと声が掛かった。

 おそらく師匠の件だろう。

 

 何故かは分からないけれど、なんとなく僕は思った。

 今日、師匠を決めるだろうと。

 

 

 

 



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第四手 新たな風

今回は神宮寺会長視点


 

 最初に桐山を見た時、あぁこいつは宗谷と同じかもなと思った。

 対局している姿や棋譜を見たからではない。

 ただ、まとっている雰囲気とその目が、なんとなくあいつを思い出させた。

 

 桐山の複雑な家庭環境は、手続きの時にすぐに知れた。

 奨励会の試験の当日に受験料を手渡ししてきたのもあいつだし、入会金の引き落としをする口座の名義も本人の名前だった。

 当初事務員は、小学生に金銭のことまで任せることを懸念していたが、桐山は本当にしっかりしていたらしい。

 その辺は宗谷とは違うなと思った。

 

 桐山とは正式な入会が決まった後、少し話す機会があった。

 今は師匠がいなくても、1年以内には誰かに決めろよとあいつに伝えると、少し考えた後に、会長は弟子をとっていないのですか? と聞いてきた。

 

 普通、出会ったばかりの将棋連盟の会長に師匠を頼む奴がいるか?

 俺は、こいつはなかなかの大物だなっと面白くなって、1年以内に初段になるくらい有望株ならな。と返事をした。

 桐山はそれに、驚いたり怯んだりもせず、ただ頷いて、その時まだ決まってなければ、またお願いしに来ます。と言ったのだ。

 俺は当然無理だと思って言ったし、こんな回答をもらったら普通は、遠まわしに断られたと思うんじゃないだろうか。

 ますます、こいつはひょっとしたら、不思議ちゃん2号が誕生するかもしれないと、俺は少し楽しみになった。

 

 

 

 一応事務員にも、幹事の島田にも桐山のことは気に掛けてやるように伝えた。

 島田は人当たりもいいし、面倒見も良いから、まかせたら上手くやるだろう。

 会長職が忙しいのもあって、その後の桐山の詳しい様子までは分からなかったのだが、事務員と世間話をしていると、度々話題に上ってきて、大体のことは知っていたと思う。

 

 曰く、入会以来負けなし。

 曰く、記録係の仕事は完璧。

 曰く、もはや将棋会館に住んでる。

 曰く、友人想いのとても良い子。

 曰く、奨励会員から、人間じゃないモノノケの類と恐れられている。

 

 など、本当に話題に事欠かない奴だった。

 

 俺としては、元気に奨励会に通い、問題なく過ごしているならそれでいい。

 桐山が小さい記録係として棋士たちの間で可愛がられていると聞いても、良かったなと思ったくらいだ。

 

 そんなわけで、良い子の桐山くんとして事務員から聞いていたあいつの異質ともいえる才能に、本当の意味で気づき始めたのは、対局後に朔ちゃんが会長室に駆け込んできた時だった。

 

 

「ちょっと徳ちゃん、誰だいあの子? どいつの秘蔵っ子だ?」

 

「あぁ? 誰のことだよ」

 

「桐山っていう小さい子だよ。まだ小学生だっけか?」

 

「あぁ、桐山ね。今日は朔ちゃんの対局の記録係だったのか」

 

 待ち時間の長い対局だったはずだが……。以前事務員が、桐山がもっと長時間の対局の仕事も受けたがっていると心配そうにしていたが、任せてもらえるようになったのだろう。

 

「小4だよ。今年奨励会に入った。師匠はまだ決まってねぇよ」

 

「へぇ……いまどき、誰にも師事せずに入会するのも珍しいな。親が強いのか?」

 

「どうだったかな……昔、親父さんが奨励会員だったとは少し聞いたが……。あいつは今、会館近くの施設にいるんだよ。事故で自分以外の家族、全員ふっとんじまったんだと」

 

 俺の言葉に朔ちゃんが目を見開く。

 

「そいつはまた……難儀なことだな……」

 

「小学生で記録係してるのはそういうわけ。会館に居た方が勉強になるし、金も稼げるってんで、本人が望んでる。今日も問題なくこなしてたんだろ?」

 

「あぁ、仕事は問題なかったよ。いまどき珍しいくらいに熱心に対局見る子だとは思った。いやぁ……それにしても、全くそんな気配がしなかったんだがな」

 

 俺が怪訝な顔をしたのをみて、朔ちゃんがそのまま続けた。

 

「ほら、やっぱりあるだろう。そういう子は何処か独特の雰囲気を持ってることが多い。

 元気そうにふるまっても影があったり、寂しそうだったり。はたまた、明らかに卑屈ぽくなってることもある。

 あのおちびさんにはそれが全く無かった。むしろ、育ちの良さを感じたし、てっきり良いとこの子だと思ったけどな……」

 

 確かに、そうだと思った。

 俺は最初から事情を知っていたが、もし何も知らずにあいつを見たら、そんな大層な事情を持っている子とは思わなかっただろう。

 

「親父さんは、腕の良い医者だったらしいし、東京に来るまでは大事に育ててもらったんじゃねぇかな」

 

「だとしたら尚更、落差というか……現状の厳しさを嘆きそうなもんだけどね……」

 

 そう。桐山はびっくりするくらい自然体だ。

 無理をしているとか、頑張ってるとかそういう素振りをみせない。

 当たり前のような顔をして、現状を受け入れ、今の自分に出来る事をしている。

 まだ、たった10年ほどしか生きていない子供がだ。

 だからこそ、事務員や島田をはじめとした、周りが気に掛けているんだろう。

 あの小さな背中に、色んなことが積み重なりすぎて、潰れてしまわないように。

 

 

 

「それはそうと、あの子相当成績良いんじゃないか?」

 

「あーっと、どうだったかな。ちょっとみてみるか」

 

 プロ棋士だけでなく、奨励会員の成績もホームページから誰でも見ることが出来る。

 

「おー桐山は9月に6級で……と、げっ、あいつ○印ばっかじゃん。すごいな……もう2級だわ」

 

「ん!? 入会したのは9月だろ?」

 

「そうだよ。いやー何となく宗谷に似てると思ったが、それ以上かもな」

 

「道理で……それくらい棋力がある子なら当然か」

 

 ポツリと呟いた朔ちゃんの言葉に食いつく。

 

「何々? 今日なんかあったの?」

 

「いやな。もう遅くなってたし、暗くなりそうだったから、終局後の感想戦は待たずに帰っていいぞって声をかけたんだが、あの子は聞いてたいからって残ったのさ。家も近いからって」

 

 記録係の仕事は終局までの記譜をつけることだ。

 若い記録係や、家が遠い記録係を遅くまで拘束する事を最近では避けるようになってきており、感想戦のときには帰宅を促すような声を掛けることも多い。

 ただ、桐山がそう声をかけられて、帰ったことは一度もないそうだ。

 感想戦もとても勉強になるからと必ず残っていると、事務員から聞いた。

 

「で、あんまり熱心に聞いてたんで、ちょっと試しに話を振ったんだよ。君ならここでどうするって」

 

「朔ちゃんも人がわりぃねぇ~。で、どうだったの?」

 

「これがさぁ、絶妙な手だったんだよ。負けた相手が驚いて、黙り込んでた。そこに打ってたら、ひっくり返せたかもしれないって思ったんだろうな。俺は、分かってて言わなかったんだが、こんな小さい子に分かるとはなぁと」

 

 感想戦といっても、全ての手の内を明かす事は無い。

 また、その相手と対戦するかもしれないし、今思いついたその手が別の対局でカギになるかもしれないからだ。

 

 桐山は朔ちゃんが気づいていて、敗者の棋士が気づいていなかった、起死回生の一手を示したということだ。

 たかが一介の奨励会員が……だ。

 

「こりゃあ……ひょっとすると、ひょっとするかもな」

 

「いやだねぇ……こわい、こわい」

 

 俺の言葉に、朔ちゃんが肩をすくめてみせた。

 

 大きすぎる才能は、良くも悪くも刺激を与えることになる。

 会長の俺としては、それで将棋界が盛り上がってくれれば願ってもないことだ。

 

 

 

 

 

 それから、しばらくして俺は幸田に声を掛けられた。

 もしかすると、桐山から正式に師匠になってくれという願い出があるかもしれないが、その返事は少し待ってもらえないか、という事だった。

 

 詳しい事をきくと、どうやら幸田の弟弟子で、当時奨励会突破を共に目指した親友が、桐山の父親らしい。

 

 それを聞いて俺はようやく、その男の顔を思いだした。

 当時それなりに、話題になったのだ。

 医学部に通いながら、棋士を目指していた男。

 結局実家から呼び出され、棋士になる道を諦めざるをえなくなったが、棋力は良い線をいっていたし、惜しいなぁと思ったことを覚えている。

 自分の本当にやりたい道を選べないということは、難儀なことだ。

 

 そうか……あいつの子どもなのか。

 

 息子が棋士になると言ったら、喜んだだろうし、応援してやっただろうにと思うと残念だった。

 医者になり、家を継ぎ、親となり、名医として名が広がりだした頃だったろうに。

 若い命が散ることは、どうにもやりきれない。

 

 

 

 幸田は、桐山を内弟子として引き取ろうとしたが、断られたと気落ちしていた。

 桐山が断った理由をきくと、それがまたなんともキツイ。

 苦労している立場の子どもから、そんなふうに諭されたら、大人として立つ瀬がないったら。

 ただ、俺としては、桐山が言うことも一理あるなと思った。

 

 幸田は娘にも、息子にも将棋をやらせている。

 本人の意思には間違いないだろうが、幼い頃からプロ棋士の父親に教えてもらい、強くなって、最初のうちに勝ちまくれば、そりゃあ面白くもなるだろう。

 自分にも才能があるんじゃないか、父と同じプロになりたいと、考え始めてもおかしくはない。

 ただ、その最初のアドバンテージに胡坐をかかずに、その上に研鑽を積めるかが、大事な資質だ。

 

 そして、それはとても難しい。

 スタート時に頭ひとつ抜けていたのならば、なおのこと。

 娘の方はなんとか奨励会で頑張ってはいるが、弟は今年の入会を見送っている。

 幸田と同じようにプロになれるかと聞かれると……俺は難しいのではと思う。

 

 一方で、桐山は才能の塊で、おまけに将棋にすべてをかけてる。明けても暮れても、将棋のことしか考えていない。

 

 父親がそんな奴を弟子にとって、家に住まわせたら、どう思うだろうか。

 はっきり言って、上手くいく気がしない。

 幸田は高潔な男で、妬みや嫉妬を感じる前に、まず自分自身を見直して、さらなる研鑽を積む男だ。

 けれど、子どもたちも同じようにはいかないだろう。世の中そんな人間の方がすくないのだから。

 

 桐山はなんとなく、それを察していたのだと思う。

 だからといって、すぐに断れたのも凄いことだ。

 あいつにとっては、願ってもみない環境だったはずだ。

 つくづく本当に小4かと思う。

 

 幸田は断られたけれど、桐山のことを放っておけるわけもなく……あいつの周りの環境を整える手伝いをしたいようだった。

 そして、どうしても一度、桐山に会わせたい奴がいるようで、俺が話をきいてもなるほどな……と思った。

 隠居しているあいつを引っ張り出すのは骨が折れるだろうが、もし乗り気になってくれれば桐山にとっても悪い話じゃない。

 

 

 

 

 

 3月に入り、今年度の対局もあと僅かになった頃。

 桐山が、入会後はじめて俺に声を掛けて来た。

 

 ついに初段になったらしい。

 まさか本当に負けなしでここまでくるとは……。

 

 負けないということが、将棋の世界でどれほど難しいことか。

 自分の失着を極めて少なく抑え、常に最善手を指すくらいの勢いでなければ無理だ。

 これだけ勝ち続けるなら、他の奨励会員とは相当な棋力の差があると思っていいだろう。

 

 桐山は、俺に入会当時の約束を持ち出して、師匠になってほしいと言ってきた。

 

 幸田の話を思いだして、返事は保留にしておいたが、もし桐山がその話も断るなら、俺が弟子にとっても良いと思っている。

 

 あいつが本当にそれを望むのなら、俺にとっても悪い話ではないのだから。

 これだけの才能が育っていくのを傍でみていくのは……どれほど面白いだろうか。

 ただ、生憎俺は、それほど人に教えたり慈しみ育てていったり、といったことは得意なたちではない。

 あっちで、話がまとまるならそれに越したことはないだろう。

 

 

 

 

 

 なんにしても、これから数年は、飽きることが無い激動の時代がくるだろう。

 そう予見して、俺は高みの見物をすることにした。

 

 

 




会長は動かしやすいです。
灼熱の時代まだ読めていないのでとても気になる……。
大人買いしたい。

次回は師匠が決まります。


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第五手 師匠と兄弟子

 

 4月、2回目の奨励会の帰りに島田さんに声を掛けられた。

 

「桐山ちょっと会長室に寄ってくれないか?」

 

「会長室にですか?」

 

「幸田さんが待ってる、師匠の件だよ」

 

「あぁ……会長から少し聞いてました、どなたか紹介してくれると」

 

「俺も桐山にとって悪い話じゃないと思った。それでも、話を聞いて合わないと思ったら断れば良いよ、相性って大事だしな」

 

 島田さんはそう言って、一緒に会長室まで付いてきてくれるようだ。

 相変わらず、この人は優しい。

 

「あ、そうだ。二海堂が随分喜んでたよ。桐山に負けてられないって以前にも増して気合が入ってる。ありがとうな」

 

「とんでもないです! 僕がお礼を言いたいくらいで……」

 

「そういえば、珍しく対局後に声かけたんだって? あいつ相当嬉しかったみたいで、何回も聞かされたよ」

 

「僕も、嬉しかったんです。こんな事を言ったら、他の奨励会員に失礼かもしれませんが、初めてでした。同年代の人との対局であんなに心が躍ったのは」

 

「そうか……お前がそう思ってくれたって聞いたら、あいつも嬉しいだろうな……。良いよなぁライバルって、俺もあいつに、そう思って貰えてたら良いんだが」

 

 島田さんはそう呟いて、少し遠い目をした。

 たぶん宗谷さんのことを想い浮かべたのだろう。

 まだ、A級に上がれそうであがれない自分と、片や数年前に七冠を成し遂げた同い年の男。複雑な想いもあるだろう。

 

 僕はそれに何も言えなかったけれど、心の中で呟いた。

 大丈夫ですよ、島田さんは数年後には彼とタイトル戦を争っています。宗谷さんも島田さんのこと待ってくれてますよ、と。

 

 

 

 会長室の前まで来て、ドアをノックして中に入る。

 

「失礼します。桐山です。会長がお呼びだと聞いたのですが……」

 

「おぉ!! 来たか、桐山!! まぁ、座れや。ちょっとだけ長い話になる」

 

 会長は近くの応接セットのところに、僕を導いた。

 そこに居たのは幸田さんと、初老の男性だ。

 僕は……この人の事を知っている。

 

 失礼しますと声をかけて、二人が座っている対面に腰を降ろす。

 隣に会長が座ってくれる。島田さんは少し離れたところの壁にもたれながら、様子を見ていてくれるようだ。

 

「幸田八段、ご無沙汰してます」

 

 ぺこりと頭を下げて、挨拶した僕に幸田さんは、優し気に目を細めた。

 

「元気そうで良かった。香子から少し話も聞いたんだがそれは今度でいいだろう。今日はまず、この方を紹介しようと思ってな。藤澤九段、私と君のお父さんの師匠だった方だよ」

 

 あぁ、そうだ。前の人生でも大きな催し物の時に、幸田のお義父さんに連れられて、ご挨拶に伺ったことがあった。

 既に引退なさっていたから、僕との関わりはその時少し話したくらいだった。厳格な雰囲気をお持ちの方だけど、笑顔はびっくりするほど優しかったことを覚えている。

 

「存じています。藤澤邦晴九段。会長と名人位を何度も争われた方だ。お会いできて嬉しいです」

 

「君はお若いから、私のことなど知らないものだと思っていたが……そうかい。嬉しいねぇ」

 

 僕の返事に、藤澤さんは少し驚いたあとに、ゆっくりと手を出してくれた。

 その手をしっかりと握り返しながら、続ける。

 

「お二人の対局の棋譜はとても勉強になりますから、何度も並べさせて頂いてます」

 

「噂には聞いていたが、本当に勉強熱心な子のようだ。そして、恐ろしく卒が無い。これは、柾近の手に余るのも分かるなぁ」

 

 僕の言葉に、藤澤さんは堪え切れなくなったように小さく笑い、幸田さんの方をみて頷いた。

 

「私はもう将棋を離れて久しいし、弟子をとる気は無かったんだが、柾近がどうしても一度会ってほしいと聞かなくてな。それに、自分が内弟子にと言った話は袖にされたという」

 

 僕はその言葉に少し、居心地が悪くなって俯いた。

 

「何、君が気に病むことはない。話を聞いてみれば、なかなか道理が通ったことだ。いささか、小学生にしては出来過ぎだとも思ったがね……でも、会ってみて分かった、桐山にそっくりだ。あいつの子なら聡明で優しいのも頷ける」

 

 藤澤さんの声色はとても優しくて耳に染みた。僕を通して、父の事を懐かしく思い出している。

 あぁ……止めてほしい。

 そんな風に言われると、嬉しくて切なくて、堪らなくなる。

 

「あいつのことは、残念でならん。私には娘だけで、息子はおらんかったから、弟子たちは皆、自分の息子のように可愛かった。先に逝くとは……親不孝なことだ」

 

 葬式に出たかったけれど足が悪いことと外せない用事があったため、長野まで行けずに済まなかったと、代わりを幸田さんに頼んだが、いつか自分も線香をあげに行かせてほしいと、そう言われて僕はただただ、頷くことしか出来なかった。

 

 気を抜くと、何かが零れ落ちてしまいそうだった。

 

 僕にとっては、何年も前の事のはずなのに、この人にとってはついこの間のことで、まだ父の影が色濃く残っている。

 それに、引きずられてしまいそうだった。

 

 一度、大きく息を吐いて、気持ちを整える。

 震えそうになる声を必死に抑えた。

 

「もし、貴方と話せる機会ができたなら、一つだけお聞きしたいことがありました」

 

「おや? 何かな?」

 

 続きを促された僕は、椅子の傍に置いてあったリュックをとってもらう。そして、その底の方から、大事にしてある駒箱を取り出した。

 不思議そうに見ている大人たちの視線を手元に受けながら、机の上に置いた。

 

「これは、父の遺品として、実家から持ち出したものです。蓋の裏に、〝贈 桐山一揮〟とあります。後から気が付いたのですが、おそらく父の退会駒だったのだと思います」

 

 奨励会を退会することになった会員には、その名前が入った駒が贈られる。プロになることを諦め、将棋から離れることになるその人に、あえて名前入りの駒を贈るというなんとも言えない風習だ。

 以前の僕は全く気が付かなかったが、今回持ち出して来て、蓋の裏の名前を見たとき一発で気が付いた。

 父は一体どんな気持ちで、この駒を使って将棋を指し続けて、息子の僕に将棋を教えたんだろうか……。

 

「無くしたら困るので、滅多に箱から駒を出さないのですが、お葬式の後一度出したことがあったんです。その時に、駒が入っている方の箱の底に文字が書いてあるのに気付きました」

 

 僕は慎重に駒箱から青い駒袋を取り出して、箱を空にしてみせる。

 箱の底に、「青は藍より出でて藍より青し」と書かれていた。

 

「父の文字ではありません。そして、親友だった幸田八段の文字でもありません」

 

 一体誰が書いたのか、気になっていた。

 そして、以前目にした古い棋譜でこの筆跡に似た文字を見つけた。その時の記録係は……

 

「藤澤九段が、父のために書いてくれたものではないですか?」

 

 

 僕の言葉に、藤澤九段は静かに目を閉じた。

 

「あぁ……そうだよ。懐かしいなぁ。あいつまだこの駒を後生大事に持ってたのか……。長野に戻りたくないと、まだ自分はやれるのにと悔しがって泣いた桐山に、せめてお前は私の誇りだと、そう伝えてやりたかったんだよ」

 

 父は東京の医学部に通いながら、奨励会に通い続けていた。大学を出るまでに、プロ棋士になれたのなら、棋士の道を認めてやっても良いとお祖父さんに言われていたらしい。

 

 でも、それはとても難しい。医学生は多忙だ。特に実習が始まったときなど、とてもではないが、将棋に時間は割けない。そんな状態では、三段リーグを勝ち抜くことは至難の業だ。

 

「跡継ぎである責任と、自分の夢と。あいつは板挟みになって苦しんでいた。私にはそれをどうすることも出来なかった。自分の道は、自らで定めなければならない」

 

 結局父さんは、実習が多忙を極める大学5年生の時に奨励会を退会したそうだ。その時23歳。

 奨励会の年齢制限にはまだあと3年あったのだ。

 

 しかし、一度到達した三段リーグから、学業の多忙により降段して二段に戻った時に、二足の草鞋を履くことは出来ないと、決断を迫られた。

 

 父は結局、実家を継ぐことを選んだ。

 

「桐山が知ったらどんなに喜ぶだろう。息子が、もうすぐ自分が退会したときと同じ二段になると知ったら」

 

 僕は、堪えきれなくなった。

 以前の僕は、奨励会時代の父のことなど全くと言っていいほど知らなかった。

 いや、知ろうとしなかった。だって、辛すぎるから。

 幸田のお義父さんもそれを分かっていたのだろう。僕が内弟子になってから、話題にすることはほとんどなかった。

 

 あぁでも、もっと聞いておけば良かった。

 父さんが何を思って将棋をして、プロを目指して、そして、その夢を諦めたのか。

 僕は、父さんが焦がれてやまなかったその世界に居たのに。

 

 後悔と。

 切なさと。

 懐かしさと。

 やるせなさと。

 そして、ほんの少しの愛おしさと。

 

 いろんな感情に引きずられて、こぼれた涙を止めることが出来なかった。

 

 ぐちゃぐちゃになって暴れまわる感情を抑えられない。

 良い大人が情けないと思いながら、声を押し殺した。

 

 藤澤さんは静かに、立ち上がって僕の隣にくると、しゃがみ込んで目線を合わせてくれた。

 

「その桐山の息子をな。このまま放っておくのは藤澤門下一同としては、忍びない。なぁ、零くん。私の弟子にならないか?あいつが此処で見て諦めた夢を、今度は君が叶えてやってほしい。私がそれを手伝っては駄目かい?」

 

 ずるいと思った。

 そんな風に言われたら断れないじゃないか。

 

 それに、興味もあった。

 父さんはこの人に何を見たんだろう。棋士としてどんなことを教わってきたのだろうと。

 今はもう知る由もない父の心の内を、この人を通して知りたいと思った。

 

 気が付けば、何度も頷いていた。

 嗚咽を抑えるのが精一杯でまともに声も出せない僕の頭を、大きな手がゆっくりと撫でる。

 節くれだった、将棋の駒を握って生きて来た男の人の手のひらだった。

 

 

 

 

 

 結局その後、僕が落ち着くまでしばらくかかってしまったのは、本当に申し訳なかった。

 幸田さんは、困ったようにおろおろしていたけれど、会長は泣き止んだ僕を、お前も人の子だったかぁとからかって、島田さんに諌められていた。

 藤澤さんは子供が我慢する事なんてないと言ってくれたけれど、中身が30代の僕にとったら大失態である。

 おそらく、小学生に戻ってから人前で泣いたのは始めてだ。

 

 それから、その場で僕と藤澤九段の師弟の手続きを行って、その場にいた会長に承認も貰った。

 これで万事つつがなく、ぼくはプロになることが出来る。あとは三段リーグを突破して四段になるだけだ。

 幸田さんは、零くんが末の弟弟子になったなぁと本当に嬉しそうだったし、島田さんも良い話がまとまって良かったとほっとしているようだった。

 

 藤澤さんは、僕を内弟子として家に置いてくれると言ってくれた。

 僕としては、このまま施設にいても良いのだけど、周りの大人たちからは猛反対をうけたので、この話を受けることにした。

 藤澤さんの家は東京の郊外にあるが、電車を使えば将棋会館まではそう遠くない。

 いまは、娘さんが自立して近所にある別宅で生活しているそうで、家には奥さんと藤澤さんだけらしい。

 寂しいじじぃとばばぁの二人暮らしのところに、こんな可愛い子が来てくれたら、嬉しいと言われたら、僕としても強くは断れなかった。

 

 ただ、時期が微妙だったことと、僕が里子に出ることで少なからず施設とそこにいる子供たちに与える影響を考えて、正式な引っ越しは夏休みまで待ってもらうことになった。

 

 藤澤さんはそれまでに、家に遊びにおいでと言ってくれた。

 零くんの部屋も一緒に整えないとなぁと楽しそうだった。

 幸田さんまで、その時は私が車を出しますよ、と嬉しそうだ。

 僕としても、大人になってそれなりに対応力が付いたとはいえ、もとから環境の変化にそれほど強いタイプではなかったので、徐々にならしていくのはとても助かる。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 それから、僕の将棋の安定感は増し、5月末に二段に昇段し、そのままの勢いで7月まで勝ち続け、夏休みに入る前に、三段リーグ入りを決めた。

 入会以来、54連勝。

 一度も黒星がつくことは無かった。

 これにより、10月から行われる三段リーグで上位2位以内の成績を収め四段に昇段すれば、僕は小学6年生でプロ棋士になる。

 なんて、現実味に欠ける話だろうか。普通ならあり得ない事なのは分かっていた。

 でも、僕の本番はそこからなのだ。やっとここまで戻ってこれたという気持ちが強かった。

 

 

 

 その日、将棋会館からほど近い公園で、香子さんに会った。

 

「久しぶり。元気そうね、相変わらず」

 

「香子さんも、元気そうで良かったです」

 

「今日も勝ったんでしょ? あーあ。まさかホントに負けなしで三段リーグまでいくとはね。でもま、おめでとう」

 

 彼女の声は呆れているようだったけれど、優しかった。

 

「有り難うございます」

 

「ほら、これあげる。お祝いに」

 

 そう言って、彼女は一冊の雑誌を僕の方に投げた。

 有名なファッション雑誌だ。生憎僕には縁がないものだが……。

 

「25ページ目。モデルになったの。ただの読者モデルじゃないわよ? 一応ちゃんとオーディション受けて採用されたんだからね」

 

 ま、将棋馬鹿のあんたには分からないだろうけど。そう言って肩をすくめた彼女に、僕はありったけの、賛辞を告げた。

 良く分からないのは確かだけれど、なにか凄い事なのはわかる。

 

「この世界も楽じゃないって分かってるけど、それなりに上手くやるわ。私その辺は上手かったみたいだし」

 

「凄く、カッコイイですよ。この写真。うん。すごく良いです」

 

 何それ。馬鹿みたい。と単純な褒め言葉しか言えない僕を彼女は笑ったけど、その空気は以前よりずっとやわらかいのだ。

 

「ねぇ、ついでに、ちょっとあんたにお願いがあってきたんだけど」

 

「何ですか?」

 

 彼女は自身のカバンから一つの駒箱を取り出した。

 

「これね、私の退会駒。やっと届いたのよ。受け取った瞬間捨ててやろうかとも思ったけど。出来なかった。だってこれは、間違いなく私と父さんを繋いでいてくれたわ。それがどんなに細い線だったとしてもね」

 

 彼女の指先が、愛おしそうに駒箱を撫でた。

 この人も、間違いなく将棋に魅せられ、そして将棋を愛した人だったのだ。

 

「父さんから聞いたんだけど、貴方自分のお父さんの退会駒持ってるんだって? その箱底に、メッセージが書いてあったって聞いたわ」

 

「えぇ、父さんの師匠が、退会する弟子へはなむけの言葉をつづったそうです」

 

 彼女は、おもむろに駒箱から、赤い駒袋をとりだし箱を空にすると、それを僕の方へと突き出した。

 

「だったら、私は貴方に書いてほしい。私が将棋を辞めるのは、貴方に会って、貴方と対局したからよ」

 

「えぇ!? 僕にですか?」

 

「そう、私と将棋をきっぱり、決別させて」

 

 うろたえる僕をものともせずに、彼女は用意周到に筆ペンまで持ち出して、僕の手に押し付けた。

 

「ほら、早くしてよ。別に言葉はなんだっていいんだから。字だって綺麗じゃなくていいから」

 

 困った。

 はっきり言って、僕にこういうときの言葉選びのセンスはないと言って良い。

 でも、彼女はなんでも良いから書けと言っているし……その圧に負けて、筆をとった。

 書き終わって、そっと返した箱を受け取って、眺めた彼女は笑った。

 

「あんた字もすっごい綺麗なのね。……遠雷ね。ねぇ、女の子に雷って言葉を贈るなんてどういう感性なのよ?」

 

「わぁぁぁ、ごめんなさい! でも、他に思いつかなくて、僕の貴女の第一印象これだったんですよ」

 

「私が?」

 

「はい。儚くて、心惹かれる、淡い光です。あとから嵐を呼んだとしても、なぜか妙に惹きつけられる」

 

「ふーん。そうか、私は雷か」

 

 結局納得したのかどうかは、分からなかったけれど彼女はそのまま駒袋の中から、ふと香車を一枚とりだす。

 

「なんだかなぁ……父さんは私の考えを尊重するって言ってくれたし、私が雑誌デビューしたときも、それは驚いてたけど、色々聞いてきたわ。自分が知らない世界の事を知ろうとしてくれて嬉しかった。

 でも、娘と息子の名前に駒の漢字を使うような人よ。本当はプロになって欲しかったんだろうなぁって」

 

 そう、呟いた彼女にさっきまでの勢いはなくて、どこかとても寂しそうだった。

 こういう姿をみると何故だか、放ってはおけないのだ。

 以前の人生でも、結局何度も部屋に上げてしまったように。

 

「名前に将棋の駒の漢字を使ったのは、幸田さんにとってそれだけ将棋が全てで大切だったからかもしれません」

 

「だから、最初からそう言って……」

 

「だからこそ、ですよ。自分が知り尽くして、愛おしいと想うその字を、子どもにあげたかったんじゃないでしょうか?」

 

 子どもの名前を考えるのって、本当に難しい。だって、親があげる最初の贈り物だとか言われているのだ。

 でも、僕たちはそんなに器用じゃない。何万字とある漢字の中で、いったい自分の子にどれを上げたら良いのだろう。と途方に暮れた。

 僕だって、ひなちゃんが止めてくれなかったら、娘たちに将棋の漢字の入った名前をあげそうになっていた。結局彼女と一緒に、納得いくまで話し合って良い名前をあげれたと思うけれど。

 幸田さんだって、悩んだはずだ。

 そして、自分が何十年も親しんできた、その漢字を子どもへ贈ったのではないだろうか。

 

「香って良い字じゃないですか。香車だって良い駒です。まっすぐ、まっすぐ前だけをみて進む。おまけに、成ったら最強ですよ」

 

 僕の言葉に、彼女はあっけにとられていたけれど、結局最後は将棋じゃないの、と声をあげて笑った。

 

「分かった。あなたも、父さんも将棋馬鹿で、そんなに深くは考えてないのね。自分が愛した漢字だから……か。そうかぁ、棋士ってそういう生き物なのかもね」

 

 上手く伝わったかどうか、分からないけれど、彼女なりに納得したようで、僕は少しほっとした。

 笑われたのは釈然としないけれど。

 

「ほら、これあんたに預けとく」

 

 香子さんは、最後に持っていた香車の駒を僕の手に押し付けた。

 

「え? でも駒が一つ足りなくなったら、将棋が指せませんよ?」

 

「いいのよ。それで。後はまぁ、お守りっていうか? いっそ呪いみたいな?」

 

「呪い!?」

 

「そう、負けたらだめよ。三段リーグだって一敗もしないで。そしたら、その駒好きにしていいわ」

 

 そう言って、駒箱をさっさとカバンにしまうと、僕にもう一度、負けるなと念押しをして、彼女は嵐のように去って行った。

 

 残された僕は、ただしばらく立ち尽くして。

 彼女に渡された駒を握っていた。

 

 とりあえず……なくすわけにもいかないし、何か小さな巾着にでも入れて、保管しておこう。

 

 ひとつだけ、ポツンと残された駒が可哀想な気がした。

 勝ち続けたら、好きにして良いということは、彼女に返しに行ってもいいのだろうか?

 無敗でプロになったら、この駒はあの駒箱の中へ帰ることができるかもしれない。

 なんとなく、そうしてあげたいと思った。

 

 

 

 


 

 

 

 7月末。

 僕は藤澤さんの家に呼ばれた。

 三段リーグ入りを祝ってくれるらしい。

 最初は、断ったのだけれど、門下の人とも顔合わせをしようと言われた。

 末の弟弟子のことを皆に知ってもらいたいと。

 

 藤澤さんの家は平屋の古民家のような様式だった。

 立派な庭と、縁側もあって過ごしやすそうだ。

 古き良き日本家屋という感じがした。

 

 シロとクロという2匹の猫も飼っていた。シロは真っ白じゃなくて足先だけ少し茶色がかかった大きめで大人の雄猫。クロは真っ黒の金目の綺麗な小柄な雄猫だった。

 僕は動物は好きだ。

 以前は、幸田家には犬が、川本家には猫がいた。どの子も良く懐いてくれていたから、僕も随分可愛がっていた。

 この子たちとも仲良くできたらいいなぁと思う。

 

 藤澤門下の方々は皆、幸田さんの年齢の前後の方が多くて、落ち着いた大人という印象だった。

 一番下でも30歳を少し超えるくらいの方だ。

 どの人も、僕という弟子が増えることを驚いてはいたけれど、藤澤さんたっての望みと知ると、快く受け入れてくれた。

 

 なんとか上手くやっていけそうだな、とそう思った。

 

 

 

 

 そう、僕はすっかり忘れていたのだ。

 あの人が幸田さんの弟弟子だったということを。

 

 

 

 

「すいません、遅れました」

 

 深い身体に響く声だった。反射的に僕は顔あげて彼を見た。

 

「おぉ!来たか正宗。今日の対局も勝ったのか」

 

「えぇ、問題なく。それで、幸田さんにせっつかれて、わざわざとることにした弟子はどいつです?」

 

「あぁこの子だよ。おいで、零くん。大丈夫、ちょっと顔は厳ついが別にとってくわれやしないよ」

 

 藤澤さんに促されて、彼の前にたった。

 鋭い眼光が、懐かしい。普通の小学生なら何も言えなくなるのじゃないのか?

 ビビッていると思われるのも癪だったので、僕は真っ直ぐ彼の目を見て、挨拶をした。

 

「桐山零です。よろしくお願いします」

 

「ふーん。後藤正宗だ。おまえ、小さいな、歳いくつだ?」

 

 軽く鼻をならしたあとに彼は、僕を頭の上からつま先まで眺めた後にそう言った。

 

「10歳になりました。背はこれから伸びるからいいんです」

 

 周りから、小さくおぉっ!と声が上がる。

 おそらく初見で後藤さんに言い返せる小学生などそうそうみないからだろう。

 残念ながら、僕は慣れている。

 これよりもっと、強く激しい眼光……対局中の彼と対峙するのはこんなものではすまないのだから。

 

「正宗。零くんはこの歳で、もう三段リーグに到達するくらい有望だよ。あんまり威嚇するんじゃない」

 

「そんなつもりはないですけどね、相手がいつも勝手にビビってるだけで。

 それにしても、三段リーグですか……このチビがね……」

「あぁ、そうだ! 良かったらちょっと一局指したらどうだい? 零くんもA級棋士と指せるのは、勉強になるだろう。正宗は今、門下の中じゃ一番の棋力を持っとるだろうしな」

 

「はい! 是非お願いしたいです」

 

 藤澤さんの申し出は有り難かった。

 なかなか、上の方と指す機会は奨励会員のぼくにはない。

 僕は、一も二もなく頷いた。

 

「まぁ……俺は別に良いですけどね。

 で、角落ち? 飛車落ち?それとも2枚落とそうか?」

 

 最初、何を言われたのか理解が出来なかった。

 この人、全然本気にしてない。

 カッと頭が熱くなったのが分かった。

 

「……平手でお願いします」

 

「へぇ……後悔するなよ。俺は手加減が下手なんだ。先手はゆずってやるよ、おちびさん」

 

 ……後悔するのは、そっちだよ。

 本気じゃないなら、本気にしてみせる。

 

 宜しくお願いします、と頭をさげて対局が始まった。

 

 相変わらずの居飛車党、固くて重たい。

 でも、何度もこれを崩してきた。

 この人の重厚な棋風に、吹き飛ばされないだけの、棋力と経験はある。

 

 あとは、少し時間が経って遠くなったその記憶を、きちんと呼びさますことだ。

 僕もA級棋士とやり合えるほどの、感覚はまだ戻っていない。

 

 けれど、それはまともに対局した場合だ。

 今の後藤さんは、完全に僕を下にみている。

 小学生に牙をむかれることなどありえないと。

 

 それは、決定的な勝機だった。

 

 穴熊でがっちりと固めようとした彼に、僕は急戦を仕掛けた。

 組みあがる前に牙城を崩す。

 速さと思い切り、そして、戦線を見極める大局観が必要だけれど、僕は間違えることはなかった。

 

 対局は長くはかからなかった。

 途中、明らかに後藤さんの雰囲気が変わったし、そこからの対応は流石にA級棋士だ。

 危うくひっくり返されるかと思われる場面もあった。

 でも、これで完全に詰み。僕の勝ちだ。

 

「……なるほどな、負けました。確かに、小5で三段リーグに入るわけだ。これじゃあ、奨励会員で相手になる奴はそういねぇな」

 

 淡々とした静かな声だった。けれど、まぎれもなく僕の事を認めてくれた。

 

「しっかし、可愛げのかけらもねぇ将棋だな、おい」

 

「社会で生きていくのには可愛げもいるでしょうけど……将棋にまで持ち込んだら、上にいけませんので」

 

 彼の言葉に、僕は無愛想にそう返事をした。

 

 とたん、周りで見ていた門下の人たちがドッと笑って、そりゃそうだ。と僕の頭を撫でてくれた。

 皆、口々に良い将棋だったと、感想を述べてくれて、検討も一緒にした。

 後藤さんは、最初から本気でやってやりゃよかったのに、と他の人に声を掛けられて、うるせぇな俺の勝手だろと、と肩をすくめていた。

 

 分かっている。公式戦ではこうはいかない。

 これが本当の対局であれば、彼は絶対に手を抜いたりしなかった。

 たとえ相手が誰であれ、全力でたたきつぶしに来ただろう。

 

 でも、久々にこれほど頭を擦り切れるほど使って将棋を指した。

 不思議なくらい、からだの隅々まで冴えわたっている気がする。

 

「零くん、楽しそうに指してたねぇ」

 

「え? そうでしたか?」

 

 藤澤さんがしみじみとした声でそう告げてきて、僕は怪訝な表情で問い返した。

 

「あぁ、私が見た中で一番いきいきとした表情で指しておった。やはり、強い子は強い相手を求めておるんだな。正宗、おまえの時間が合えばまた、指してあげなさい」

 

「そりゃあ、隠居じじぃと指すよりは、俺と指したほうが楽しいだろうよ。……ま。俺も暇じゃないから、気が向いたらな。お前もさっさとプロになれよ、ちびすけ」

 

「なりますよ! あと、その呼び方止めてください」

 

「おまえがプロになったら考えてやるよ」

 

 そう言って、後藤さんは乱暴に僕の頭をかきまわした。

 止めてくれ、ただでさえ小さいのに、もっと縮んでしまう。

 

 この人が兄弟子なんて、どうなることかと思ったけれど、ひょっとしたら前よりは仲良くやれそうかもしれない。

 かき乱された髪を直しながら、そう思った。

 

 

 


 

 

 

 そして、8月の頭に僕は、施設から引っ越すことになった。

 前もって、職員の人には伝えておいたし、子どもたちにも言ってあったので、それほど動揺はなかったものの、いざその当日になると何処かバタついて、落ち着きが無かった。

 

 いよいよお別れだというとき、玄関まで見送りに来ていた子供たちの中から、青木君が飛び出してきた。

 

 ギュッと僕の服の裾をつかんで、何かを言おうとするけれど、口をハクハクと動かすだけで、何も言わない。

 言いたいことはたくさんあるはずなのに、それが上手く言葉に出来ない気持ちは良く分かった。

 

「ありがとう。僕は君と居る時が一番、居心地が良かったよ」

 

 握りしめている彼の手を上から包み込んでそう告げた。

 

「……桐山くん、本当に行っちゃうんだね。残念だなぁ。僕、君が来てから本当に楽しかったから……」

 

 僕の言葉に、やっと彼が声を返す。そして、我慢しきれなくなったようにポロポロと泣き出した。

 

「……ごめん、ごめんね。良いことなのにね、笑顔でさよならしたいなって思ってたんだけど……」

 

「学校でまた会えるよ。クラスは一緒なんだから。それに、此処にも遊びにくる」

 

「絶対? ぜったい来てくれる?」

 

 縋るように僕を見つめる彼の目に、母親に置いて行かれた寂しさが伺えた。彼にとって、守られなかった約束がどれほど多かったことだろう。

 

「うん。絶対だよ。約束する」

 

 だから、今度は破られない約束をしよう。このことが、君の心を少しでも癒してくれますように。

 

「わかった。約束だね」

 

 泣き笑いを浮かべながら、手を離してくれた彼は、僕に一番のお気に入りの本をくれた。

 かわりに、僕の詰め将棋の本が欲しいという。

 一番簡単な詰め将棋の本を渡した。将棋は分からないだろうにと聞くと、桐山君があんまり熱心にしてるから、横でみて少しは覚えちゃったよ、とやっと笑ってくれた。

 

 

 

 幸田さんが車を出してくれていたから、僕はそれに乗って、藤澤さんの家までいくことになっている。

 最後にもう一度、施設の人たちと、苦楽をともにした仲間たちへ大きくお辞儀をして、車に乗り込んだ。

 

 小さくなっていく、その建物をじっと窓から見ていた時、ポロッと一滴だけ涙がこぼれた。

 不便も沢山あったけれど、あそこは確かに僕の家だったのだ。

 僕を受け入れてくれた場所だった。

 

 もう一度、心の中でありがとうと呟いた。

 そして、心に誓った。

 プロになったら絶対、ここにも恩返しをしようと。

 

 

 

 

 

 

 

 




 オリキャラ
 藤澤邦晴(ふじさわくにはる)
 幸田さんと後藤さん、そして桐山父のお師匠様。
 会長が現役時代にトップ棋士だった方の一人。名人位の経験もある。将棋界の重鎮。
 幸田さんから話をきいて、自分は将棋から離れてしばらくたっているし、弟子をとる気はないと断ったけれど、桐山父の息子だし、棋譜をみせてもらったらびっくりするくらい上手だしで、興味を持つ。
 結局、桐山君を一目みて気に入り、会長室で話してるときにはもう弟子に取る気だった。

 (当時はオリキャラが師匠で良いのか!?と随分悩みましたが、今となっては良かったかなと。キャラの誰かにしてしまうとその人との対局が、師弟の関係がはさまり特別になりすぎるので。その意味ではもし藤澤さんにしないなら、もう引退している会長にしていたと思います)

 退会駒の設定は、映画3月のライオンで幸田さんから桐山君へクリスマスに送られた駒は、桐山父の退会駒だったのではという設定に感銘を受けてお借りしています。
 実際にこの映画で使われた駒箱の蓋の裏には、桐山一揮と名前が入っていたそうですよ。
 この名前は、実際にチカ先生に聞いて書かれた名前だそうです。
 箱の底方に、師匠からのメッセージというのは私のオリジナル設定ですが……そういう粋なことする人がいてもいいかなと思いまして。

次はまさかの青木くん視点です。


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第六手 僕のヒーロー

pixivとの差異について、質問が来ていたので、活動報告に詳しく書いてます。
気になる人は見て下さい。
サクッと答えだけ言うなら展開、文章共に全く変わりません。そのまんまです!


 

 その子は、身なりの良い賢そうな男の人に連れられて、僕たちのところにやってきた。

 職員の人たちとの会話も問題なく終わったようで、1時間もしないで、男の人は帰って行こうとした。

 だいたいの子は、この時に泣いたり、怒ったりするんだけど、その子は深々と男の人に頭を下げてお礼を言っていた。

 置いていくはずの大人の方が、何かあったら連絡するようにと声をかけるのなんて、初めてみた。

 

 その子、桐山零くんは入ってきた時から、印象に残る子だった。

 

 僕たちは、あまり新しい子がくるのは、歓迎すべきことではないと思っている。

 此処にくるということは、それだけ何かに傷つき、何かを背負ってきているということだ。

 多くの子は、様々な傷を身体や心に抱えていて、職員の人たちはそちらに掛かりきりになるし、酷い子だと僕たちにまであたってくる。

 だから皆、新入りの事は最初そっとうかがってかかる。

 でも、寂しがったり、怖がったり、心細そうだったりしているようなら、誰かが声を掛けることも多い。

 そして、いつの間にか馴染んでいるのだ。

 僕らは皆、親や家族に捨てられたか、置いて行かれた、同じような境遇の仲間だから。

 

 

 

 身構えていた僕たちだったけど、桐山くんはびっくりするくらい普通だった。

 

 ごはんを食べない、夜に泣く、玄関や部屋の隅から動かない。初日は皆だいたいこんな感じなのに、彼は夕食の時に皆の前で挨拶するのも大人の人みたいに落ち着いてたし、その後ごはんも普通に食べて、片づけまで職員の人に声を掛けて、手伝っていた。

 なんか、凄い子が入ってきたかも? といつもとは少し違う意味で動揺した。

 

 同い年の男の子というわけで、僕と桐山くんは寝るときに同じ部屋になった。

 僕はあまり誰かと一緒にいるのが好きじゃなくて、しかも運が良いことに前の年に年上の人が此処を出て行ったあと、独りで使っていたからちょっと嫌だなって思った。

 桐山君は、二段ベッドの上と下、どちらを使っているのかと僕に聞いて、上だと答えたら、じゃあ下を使わせてもらうね、とあっさり答えた。

 ベッドの上と下の争いは、意外と僕らの間ではメジャーな喧嘩の理由の一つになったりするんだけど、拍子抜けするくらい簡単に終わってしまった。

 その後も、お風呂の時間や消灯の時間をきくだけで、必要以上に僕の領域に踏み込んでは来なかった。

 それはとても有り難いことで、この子となら上手くやれるかな、と思えた。

 

 

 

 

 

 小学校も同じクラスだった。

 季節外れの転校生で、彼はとても注目を集めていた。

 桐山君はそれを気にもしていなくて、色んな子からの質問にも丁寧に答えていた。

 勉強も凄く出来た。

 学校によって進度も違うだろうからと、先生が最初何度も彼に、此処は大丈夫? この問題はとける? とついてこれているのか、確認をしたけど、彼は全く問題なく全てに答えていた。

 

 昼休みの時に男の子たちが、外でドッヂボールをしようと誘っていたけど、自分はあまりそういうのが得意じゃないからと、彼はあっさりと断っていた。でも、声を掛けてくれてありがとうと、笑顔でお礼を言っていて、断られたほうもなら仕方ないなーと残念そうながらも、納得していた。

 そして、何かの本を出して読書をし始めようとする。ふと、僕と視線があって、青木君も本が好きなんだねと笑いかけてくれた。

 僕はとても嬉しかった。

 男が部屋でじっと本を読むなんて、軟弱だと馬鹿にしてくる子もいるのだ。特に外で遊ぶのが大好きな子とかは……。

 だから、いつも図書館の隅のほうでそっと本を読んでいることが多かった。

 けど、その日から僕ら二人は、教室の一角で、二人で本を読むようになった。

 一人から、二人になる。それがどんなに心強かっただろう。

 僕は、少しだけ学校が楽しくなった。

 

 

 

 

 

 僕と一緒に居ることが多かった事と、桐山君が全く隠そうとしなかったから、彼が施設にいることは転校後すぐに知れ渡った。

 これはとても、悔しいことなんだけど、親がいないことを可哀想だといいながら、あからさまに下に見てくる人がいる。

 一年生の頃から、そういう視線と言葉を受けて来た僕は、それを身に沁みて実感していた。

 桐山君は、勉強がとても良く出来たし、いつも落ち着いた雰囲気で、クラスで既に一目を置かれつつあった。

 それが、面白くなかった男の子の一人が、親無しは大変だなー優等生でないといけないからっと大きな声で冷やかしたのだ。

 僕にもこういうことは覚えがあったから、あー嫌だなって思った。そして、こんな時になにか言い返せる性格でもなかったから、いつも黙って耐えていた。

 

 でも、桐山くんは違ったのだ。

 

「だから? 親が居ても良い子でいるのは、当然じゃないの?」

 

 怒ってるようじゃなくて、まるで当たり前のような顔をして、こいつ何言ってんの? くらいの雰囲気で問い返したのだ。

 僕みたいな反応を期待していた男の子は、虚をつかれたような顔をしてグッと黙り込んだ。

 

 桐山くんは、それ以上は何も言わずに、全く気にしてない様子で席に着いた。

 どう考えても、彼の方が正しくて、大人だった。

 僕は、それがとてもカッコイイと思った。

 

 

 

 

 

 数日後、僕は勇気を出して、彼に勉強を教えてくれないか? と声をかけてみた。

 僕は国語や理科は得意だけれど、一度算数が難しくなりだしてから、少しついていけなくなっていた。

 彼は少し驚いたようだったけれど、すぐに嬉しそうに笑って、とても丁寧に教えてくれた。

 僕が分からなくなっていた少し前まで遡って、解説してくれて、今の問題が自力でとけるように導いてくれた。

 分かるようになれば、少し算数が楽しくなった。新しく習った難しいことも、桐山くんに聞けばまた、かみ砕いて教えてくれた。

 彼は僕らの視点にたって、教えるのが上手だった。

 僕は勉強が少し面白くなって、それが少し自信になっていた。

 そのことが、俯き加減だったぼくに前を向かせてくれるようになった。

 

 

 

 でも、やっぱりそれが面白くない子もいるのだ。

 特に僕の今までのカーストは、常にクラスの最下層だったからなおのこと。

 

 陰口はなかった。僕に言えるようなことは大体桐山くんにもあてはまるし、僕らは二人でいることが多かったから。

 

 ただ、消しゴムだったり、鉛筆だったり、小さなものが良く無くなるようになった。

 教科書が無くなったりはしなかった。無かったら、ちょっと困るくらいのものが無くなって、教室の本棚の裏だとか、ロッカーの上だとか、変な場所に置いてあるのだ。

 もちろん、僕が置き忘れたわけじゃない。

 

 桐山くんはすぐに気が付いたみたいだった。

 でも、僕があまり大事にしたくないと思ってるのを分かってくれてるみたいで、何も言わずに、消しゴムが無いときは貸してくれて、僕の持ち物を見つけると届けてくれるようになった。

 

 

 

 ある日の事だった。

 昼休みが終わるころに席に帰ると、机の上に置いてあったはずの筆箱が無かった。

 あーついにやられた、と思った。

 さすがに、これには困ってしまって、僕はおろおろと戸惑った。

 

 教室の後ろの方で、三人の男の子たちがニヤニヤと笑いながら、僕の様子を見ていた。

 あいつらだっていうのは分かってる。

 面白半分でやっているのも。

 でも、僕にとっては嫌なことで、止めてほしいことだ。

 どうしよう……。返してと言えばいいだろう。

 そのくらい、分かってる。

 でも、それが出来るなら、僕はこんな目には合っていない。

 

 

 

 ふと、隣に立った桐山くんが大きな声で溜息をついて、少し大げさに教室を見まわしてこういった。

 

「困ったな……。この教室には、自分の物と人の物の区別がつかない、お猿さんがいるみたいだ」

 

 肩をすくめながら、心底呆れたという風な彼の発言に、近くにいた女の子たちのグループがドッと笑った。

 やだー、そんな人いるの? っと口々に囃し立てる。

 

 僕は気づいた。この子たちは、前に桐山くんに勉強を教えてもらった子たちだ。

 彼の発言に追従してくれたのは、桐山くんが勝ち取ってきた人徳によるものだ。

 

「ねぇ……そんな幼稚なことする人はいないよねぇ?」

 

 桐山くんは、ホントだよねっと彼女たちに頷いて見せた後、まっすぐに、あの男の子たちを見つめて言った。

 

 彼らの顔は真っ赤になっていて、その中から怒ったように一人の子が僕に向かって筆箱を放り投げてきた。

 

「うるさいな。落ちてたから、拾ってやったんだよ。誰のかわからなくて……」

 

 言い逃れのように呟く彼に、桐山くんが追いうちをかける。

 

「へぇ……。名前が書いてあるのにね。それとも、君この漢字が読めなかった?」

 

 鼻で笑われて、男の子は言い返そうとしたけど、それも出来ずにまだゴニョゴニョと何か悪態をついていた。

 

 その様子に、桐山君は困ったような顔したあとに、こう続ける。

 

「あのさ、まだ間に合うよ。

 自分がされて嫌な事は、他の人にもしないようにしましょう。って今時、幼稚園児でも分かってる。君たちが本当に、小学三年生だって言うんなら、こんな時になんていうのが正解か、分かるだろ?」

 

 静かで、でも良く通る声だった。

 余計にそれが、桐山くんの存在感を際立たせていた。

 怒鳴るよりも、時に効果的な声があることを、僕はこの時はじめて知った。

 教室中が静まり返って、だれも身動きをしなかった。

 

「……悪かったよ。ごめん」

 

 その空気に耐えられなくなって、筆箱を投げた子が謝ったのをきっかけに、残りの二人も、ごめん、冗談がすぎたっと後に続いた。

 彼らは桐山くんに気圧されたのもあったと思うけど、ちゃんとバツが悪そうで、本当に少し悪戯くらいのつもりだったのだろう。

 

 その言葉に、桐山くんはかるく頷いたあとに、僕の方をみて耳元で小さく囁いた。

 

「青木くん、何か言ってやりな。こういう時はね、それが一番効くから」

 

 彼の言葉が、僕の背中を押した。

 

「こういうことは、もう止めてほしい。物が無くなるのは困るから。

 僕には構わないで、君たちは、君たちで遊んでたらいいだろ」

 

 自分でもびっくりするくらい、はっきりした声で言えた。

 彼らは、それに肩を落として、もう一度ごめんなっと頷いてくれた。

 僕は、拍子抜けした。なんだ、こんなに簡単なことだったのか。

 

 桐山くんはそのあと一回、大きく手を叩いて、はい。じゃあこれはこれで終わり! っと言った。

 教室のはりつめた空気がそれでふっとゆるんで、もとの日常に戻る。

 この間、僅かに5分ほどだ。

 先生が教室に入って来て、授業がはじまるからと着席したとき、僕は内心、興奮していた。

 彼は、すごい。本当に凄い!

 この日から、桐山くんは僕のヒーローになった。

 

 

 

 帰り道で、彼は僕に謝った。

 結局大事になってごめんと。

 どうせなら、もっとはやくに上手くやるべきだったって。

 

 僕はそんなことないとすぐに言い返した。だって、放っておいてほしいという空気をだしていたのは、僕だ。

 何度も、何度も、お礼を言った。

 彼は、それなら良かったと少しほっとしたように微笑んだ。

 

 それから、僕に対する嫌がらせは無くなったし、クラスの雰囲気も落ち着いた。

 もともと、目立ったいじめとかは無いクラスだったけれど、小さな嫌がらせさえもなくなったのだ。

 桐山くんは最初が肝心だとは思ったけど、このくらいの年の子はまだ素直だなぁと小さく呟いた。

 僕には、意味がよくわからなかったけれど、彼はいったいどんな経験してきたんだろうと、少し不思議に思った。

 

 

 

 

 

 桐山くんが来てから、なんだか施設の居心地と雰囲気も良くなってきている気がした。

 小さないさかいとかは彼がうまくいなすのだ。

 職員の人が気づかなかった、体調の悪そうな子に気づいたり、落ち込んでいる子には声を掛けたりもしていた。

 

 勉強も僕が教えてもらっているのをみて、俺も、私もっと彼に声を掛ける子が増えた。

 桐山くんは、何をきかれてもすぐ答えていたし、苦手な教科なんて無いみたいだった。

 驚いたのは、ちょっと素行が悪い六年生が、あーわかんねーやってらんねーと愚痴をこぼしていた算数の問題にヒントをあげて、答えまで導いたことだ。

 その人は単純にスゲーと喜んで、問題がとけるのが面白かったんだろう。前よりも宿題をするのを嫌がらなくなったし、桐山くんに一目を置くようになった。職員の人の言うことよりも彼の言う事の方に耳を貸すこともあったくらいだ。

 

 桐山くんが入った後にも、新しい子が何人か来たけど、その子たちが馴染むようにも上手く立ち回っていた。

 荒れている子には、そっと手助けしてあげて、意固地になっている子には、まぁとりあえず何かたべなよって自分のおやつを分けてあげていたのも見た。

 僕らのような経験をした子には、大人を強く警戒している子もいる。

 特にそう、ネグレクトや暴行をうけて保護されて此処に来たような子だ。

 そういう子には、職員の人があれこれ言うより、子ども同士の方が上手くいくことも多い。

 桐山くんがきてからは、もっぱら彼がその役目をしてくれていたし、職員の人も相当助かっているようだった。

 新入りの子がある程度落ち着いてきたようだったら、元からいた仲間の中で、その子にあいそうだったり仲良くしてくれそうだったりするグループを見つけて、上手くその子を入れてあげていたりもしていた。

 

 僕はどうして、そういうことまで分かるのか不思議で仕方なくて、彼に一度聞いたことがあった。

 桐山くんはひとの顔を伺って過ごしてきた時間が長かったからなぁ……と言ったあとに、まぁ経験則上かなって苦笑いで答えた。

 

 

 


 

 

 

 そうして、日々を過ごしてしばらくたった頃。

 桐山くんがあることに熱中していることに気づいた。

 将棋だ。

 彼が読んでいるのはいつも将棋関連の本だったし、時間があれば盤をひろげて駒を並べて何かをしていた。

 ただ、施設に居るときに彼が、放っておかれる時間は短い。

 年下の子たちには特にしたわれていたし、構ってほしがる子も多かったのだ。

 そして、そういう時に近寄ってきた小さい子を、決して無下にするようなことはなく、いつもそちらを優先していた。

 

 やがて、休日はどこかに出かけるようになった。

 図書館に行っているらしい。

 職員の人は桐山くんを信頼していたので、好きにさせていた。

 歩いて20分くらいの近い場所にあったのも大きいと思う。

 

 小さく僕がいいなぁとこぼしたら、桐山くんは僕の事も誘ってくれた。

 てっきり一人になりたくて行っているのだとばかり思っていたから、一度は遠慮したのだけど、青木くんとは教室でも、静かに本を読み合ってる、場所が変わるだけだよって言われた。

 本を読むのは大好きだったから、彼の言葉に甘えてついていくようになった。

 図書館には学校に無い本も沢山あって、何より静かで僕からしたら天国みたいな場所だった。

 桐山くんは二人だと、職員さんが安心するみたいだと言って、僕に付いてきてくれて助かると言ってくれた。

 少しでも彼の助けになれたのなら嬉しいし、僕も本が読めるしで良いことだらけだった。

 

 

 

 桐山くんがきて、最初の冬が深まった頃だっただろうか。

 休日に図書館に向かうはずの彼が、僕にごめん、ちょっと共犯になってくれないかな? と頼んできた。

 将棋の大会に出るから、午前中は別の場所に行きたいらしい。

 帰りは合流するから、ずっと一緒に此処で本を読んでいたことにしてくれないか、と。

 僕は嬉しかった。

 彼と秘密を共有できることも、彼に頼られたことも。

 僕を信頼してくれているのが分かったから。

 

 何度も何度も頷いて、大会頑張ってと彼を送り出した。

 桐山くんは勝ったよっと笑って夕方には図書館に現れて一緒に施設に帰った。

 そんなことが何回かあって、春になったころ、彼は大きなトロフィーをもって帰ってきた。

 僕はびっくりしてしまった。

 そんなに大きな大会だと思ってなかったのだ。なんと彼は小学生名人になったという。名人という肩書きが将棋界では特別なのは、少し調べたから知っていた。

 桐山くんは、想像以上に将棋も強かったらしい。

 そして、これは流石に隠しておくのも限界かなっと笑う彼に同意をせざるを得なかった。

 だってあんなに大きいもの、隠せるわけがない。

 

 施設の人も当然とても驚いていて、桐山くんと園長先生は何か園長室で話し込んでいた。

 僕は心配だった。

 彼が怒られてしまう、もう将棋ができなくなったらどうしようと、そわそわした。

 桐山くんにとって、将棋が特別なのは傍で見て来た僕にはよく分かっていたから。

 

 しばらくして、部屋から出て来た桐山くんはいつも通りの様子で、僕が廊下でまっていたのをみて、駆けよって来てくれた。

 勝手をしたことはちょっと叱られちゃったけど、大丈夫だった、これからはちゃんと報告してから大会に行ってくるよ、と言われて、僕は一安心した。

 

 

 

 そして、小学4年生の夏に、彼は奨励会というところに通い始めた。

 今までとは何か違うの? と皆からの質問に、将棋のプロを目指す人たちが集まってくるんだよって説明してくれた。

 将棋のプロって何? と聞いたら、少し悩んだ後に、分かりやすくいうなら、将棋を指してお給料貰える人かな、と教えてくれた。ほんとはもっと色々仕事もあるし、なかなか奥が深いらしい。

 

 それは、とてもすごいことだって思った。だって、大人にならないとお金はなかなか稼げない。

 桐山くんがプロ棋士だよってみせてくれた人たちは皆大人だった。

 彼がどんどん遠い世界へと足を踏み入れ、自分で未来を切り開いていっているのを実感した。

 

 

 

 休日には記録係という仕事をしだしたこともあって、桐山くんと過ごす機会は減って、すこしだけ僕は寂しかった。

 でも、学校では一緒だから、他の子たちよりは彼と一緒に居られたと思う。

 

 ある日の学校からの帰り道。僕はなんとなく、桐山くんを誘ってすこし、遠回りをしてとある公園まで彼を連れて行った。

 そこで、僕が施設にいるようになった経緯を話した。

 暗黙の了解というか、ルールが僕らの間にはあって、前の家族や家の事を話すのは、本当に稀だ。

 でも、僕は彼に聞いてほしかったのだと思う。

 彼は静かに話を聞いてくれた。

 そして、彼の話もしてくれた。

 

 尊敬する父のことを、優しかった母のことを、可愛い妹のことを。

 

 僕は思わずいいなぁって呟いてしまったんだ。

 あたたかな家庭の記憶、両親と妹との思い出を持っているのが羨ましかった。

 だってそんな家族が、僕のあこがれだったから。

 

 後から、なんてことを言ってしまったんだろうと凄く後悔するのに。

 純粋に羨ましいと口からこぼれた言葉だったんだけど、それがどんなに残酷だったか、その時分かっていなかった。

 

 桐山くんは僕の言葉に少し、困ったような顔をして、ありがとうと言った後、でももう会えないからなぁと小さくつぶやいた。

 

 僕はその言葉に、冷水を浴びせられたみたいに、サッと頭が冷えた。

 

 僕にはまだ可能性がある。

 顔も覚えていない母親だけど、どこかで生きていてひょっとしたら、また会えるかもしれない。

 あの掌の感触をいつかまた感じることが出来るかもしれない。

 

 でも、彼にそれはありえない。

 だって、みんな死んでしまった。

 たった一人、彼だけを残して。

 こんなに羨ましいと思えるような優しい場所を、突然奪われて、そして、もう二度とそれは彼の手に戻らないのだ。

 

 そのことに思い至って、あわをくって謝る僕を、彼は落ち着いてとなだめてくれた。

 

 嬉しかったと。

 自慢の家族の事を褒めてもらえて嬉しかったと、柔らかく目を細めた。

 そして、彼の家族の事を知っていてくれて、覚えて居てくれる人が増えたのは喜ばしいことだと。

 

 桐山くんが本心からそう言っているのは分かった。

 

 僕は耐えられなくなって、どうして、そんなに強くなれるの? 君はいつもいつも優しくて、すごく大人だって尋ねた。

 

 彼はすこしだけ、考え込んだあとに、僕だけに教える秘密だと前置きして、実は人生2回目なんだよって笑ってみせた。

 

 僕はそのときはぐらかされたのかと一瞬思ったけれど、桐山くんならありえるかもしれないと、なんだかあっさり納得してしまった。

 

 信じてもらえるとは思ってなかった桐山くんは少し驚いた顔をしたけど、うん。だから、僕の事はそんなに心配しないで、もっと頼ってくれて大丈夫、と力強く頷いた。

 

 本当かどうかなんて、どうでも良いこと。彼がそういうならそうなのだ。

 だから、僕はこの秘密をだれにも言わないと心に誓った。

 

 

 

 

 

 それからの桐山くんは本当に凄かった。

 記録係の仕事を頑張っているらしくって、事務の人に貰ったと大量のお菓子を度々持ち帰るようになった。

 クリスマスの時など、わざわざ自分でケーキまで追加で買ってきてくれた。

 滅多に食べれないご馳走に僕らはとても喜んだし、そんな僕らをみている彼の表情は本当に優しくて、なんだかお兄ちゃんみたいだなって、同い年なのに思った。

 

 小さい子たちは無邪気に試合には勝ったのかと度々聞くけど、桐山くんが負けたと返事をしたことは一度もなかった。

 本当に彼はプロになるだろうなっと思った。

 そして、その時がきたら、此処から出て行ってしまうのだろうかと思い至って、僕はその日が来るのは、なるべく遠い日がいいな、なんて考えてしまった。

 彼が居る日々はそれほど充実していて、穏やかな日々だったのだ。

 

 

 


 

 

 

 小学5年生になって、僕はまた桐山くんと同じクラスになれたことを喜んでいた。

 けど、その喜びは長くは続かなかった。

 

 梅雨が明けた頃、就寝前の桐山くんに話があると声を掛けられた。

 明日園長先生にも話すけど、青木くんに一番最初に言いたかったって。

 将棋のお師匠様が決まったらしい、そしてその人は桐山君を内弟子…つまり引き取ってくれると言ってくれたらしい。

 

 あぁ……ついにこの日が来てしまったのかと思った。

 

 僕の中には、行かないでほしいとか、寂しいとか、まだ一緒にいたいとか、そんな気持ちがいっぱいいっぱいあったけど、でも全部グッと飲み込んだ。

 

 だって、彼にとってはとっても喜ばしいことだ。

 此処にいるよりずっと将棋に集中できる。

 彼が大好きで、全てを注いでいる将棋に思う存分打ち込める環境が手に入る。

 

 だから、へたくそだったと思うけど、精一杯笑って、良かったね。おめでとう。って答えたんだ。

 

 桐山くんの師匠という人が優しい人であってほしいと思った。

 あの公園で、もう家族には会えないからと困ったように笑っていた彼を、守ってくれる大人だったら良いのになってそう願った。

 

 

 

 桐山くんが引っ越すのは、夏休みになってからになった。

 施設の人たちは喜ばしいことだけど、桐山くんがいないと色々大変だと苦笑していて、小さい子たちは、行っちゃやだーと彼に突撃して、困らせたりしていた。

 でも時間があったのは良かったかもしれない。

 なんとなく年長にあたる中学生たちとか、それから僕のような小学生高学年の子たちの間で、しっかりしないとなっていう自覚が出て来た。

 桐山くんは確かに凄かったけど、僕らだって何かできるはずなんだから。

 

 

 

 ずっとこなければ良いと思っていたその日は、あっという間に来てしまった。

 前日は小さなお別れの会をしたりした。

 出し物とか結構みんなで頑張って考えたから、桐山くんが喜んでくれたみたいで嬉しかった。

 寄せ書きとかも作ってみた。言いだしっぺは僕だ。生まれて初めて、皆に呼びかけて何かをしてみた。

 寄せ書きの内容がびっくりするくらい将棋頑張ってみたいな内容ばっかりだったのが、なんだか彼に贈る色紙らしくて、笑ってしまった。

 

 

 

 絶対泣かないって決めてた。桐山くんが困るのは嫌だから。

 でも、彼がお世話になりました。と頭を下げて、玄関を出ようとした時、あぁもう行ってきますじゃないんだなって。

 もうただいまって、此処に帰ってくることはないんだって、そう想ったら身体が勝手に動いていた。

 

 ギュッと彼の服の裾を掴んで、何か言いたいのに、でも何を言ったらいいのかも分からなくて、固まった僕の耳に彼の言葉が響いた。

 

「ありがとう。僕は君と居る時が一番、居心地が良かったよ」

 

 そんなの、ずるいよ。

 僕だって、そうだ。

 僕の方こそ君と居られた日々がどんなに楽しかったか。

 

「……桐山くん、本当に行っちゃうんだね……残念だなぁ。僕、君が来てから本当に楽しかったから……」

 

 だれかと一緒にいた方が楽だって、生まれて初めての経験だった。

 なんの見返りも求めずに僕の事を助けてくれた人も君が初めて。

 無条件で頼ってもいいのかなって思えた相手も君が初めてだった。

 

「……ごめん、ごめんね。良いことなのにね、笑顔でさよならしたいなって思ってたんだけど……」

 

 最後まで弱虫で情けないな。って思ったけど結局涙は止められなかった。

 

「学校でまた会えるよ。クラスは一緒なんだから。それに、此処にも遊びにくる」

 

「絶対? ぜったい来てくれる?」

 

 里子に出た子は桐山くんのほかにもいたけど、また遊びにくるって言って、きてくれた子なんてほとんどいない。

 そして、その子たちだって、数回きたら、その頻度は減ってやがて来なくなる。

 

「うん。絶対だよ。約束する」

 

 でも、桐山くんは力強く頷いてくれた。

 彼が来てくれるっていうなら、来てくれる。

 

「わかった。約束だね」

 

 だって、出会ってから一度も嘘は言わなかった。

 いつも正直で、優しかった僕のヒーロー。

 

 いい加減この手を離さないといけない。

 いつまでも、君に縋って守ってもらうばかりじゃ駄目だもんね。

 

「桐山くんは、ずっと僕の憧れだった。どうしたら君みたいになれるの?」

 

 ついでだからと、日ごろからの疑問を投げつける。

 桐山くんはえっ? と戸惑った後に、少し考え込んでいるようだった。

 

「……そんな大層な人間じゃないんだけど……。うーん……何か、何か一つでいいから人より自慢できる物を持ったらいいと思う。

 それは、自信になるし、自分を強くしてくれるし、助けてくれるはずだから」

 

 そっか……君にとってはそれが将棋だったんだね。

 

「……これ、餞別にあげる。僕が一番好きな本」

 

「え? いいの? だって青木くん自分の本ってそんなに数ないよね?」

 

 僕はほんとに数えられないくらい多くの本を読んできたけど、僕の私物の本というと数冊しかない。お小遣いなんてそうそう貰えないからだ。

 

「うん。でも、桐山くんに持っていてほしい。代わりになんでも良いから、一冊本をくれないかな?」

 

 桐山君は将棋の本しかないよって言いながら、詰将棋の本をくれた。

 彼は知らなかったみたいだけど、僕は将棋がちょっとだけ分かるようになっていた。

 だって、この先も桐山くんを応援するのに、全くわからないなんてつまらないじゃないか。

 もう少し、勉強して、自分でもすこし指せるくらいになりたいなって思っていた。

 

 

 

 最後にもう一度頭を深く下げて、車に乗り込んだ彼の事を車が見えなくなっても、しばらく見送っていた。

 

 そして、僕もなにか見つけたいなって思った。

 彼のように人生を掛けても良いとおもえるなにかを。

 そうしたら、なんだか色々厳しくてつらい世の中だけど、桐山くんみたいに強く生きていける気がした。

 

 

 

 

 




 オリキャラの青木くん視点でした。
 桐山くんはそんなに、凄いことしたとか全然思ってないんですけど、周りからしたら、結構な影響を与えてたよって感じです。自分が過ごしやすいようにと立ち回っていただけのなで、別に感謝してほしいとか思ってません。施設の子たちも健やかに育ってほしいと思っています。

 青木くんは大人になったら、人気の小説家になります。
 その過程にはまた色々あるんでしょうけど、桐山くんが頑張ってるのをみて、自分もがんばらないとって諦めずに夢に挑み続けます。
 桐山くんとの交流はちゃんと今後も約束通りずっと続いて行く模様。

 (この子メインの視点を書くという事にだいぶ迷いましたが、青木くんに関しては必要だったかなと今は思います。特に桐山くん施設に入れちゃってたし……その辺りをあまり薄っぺらくしたく無かったので)


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第七手 小さい記録係

 

 藤澤さんの家で暮らしはじめて数日がたった。

 僕は思ったよりもはやく、ここでの暮らしに順応し始めていた。

 寧ろ、小学生に戻ってからこんなに将棋に集中し、穏やかに過ごせた時があっただろうかと思うくらいだ。

 

 藤澤さんの奥さんの和子さんはもの静かな方だった。無理に踏み込んでこようとはしない距離感が心地よく、それでいて、とても気のまわる方でもあったので、僕が過ごしやすいように色々と配慮をしてくれた。

 料理もとてもお上手だった。僕が手伝ったときも、つたないこの手をうまく使ってくれたおかげで、邪魔してるんじゃなくて、ちゃんと手伝いができたと思えたので、嬉しく思えた。

 洗濯物を一緒に畳んだり、奥さんの手が届きにくい高いところの掃除を手伝ったりと、くるくると動き回っていたら、零くんは本当に働き者ねと微笑まれた。

 最初は僕が無理をしてるんじゃないかと随分と遠慮されたりもしたんだけど、動いてる方が性に合っているというか、落ち着くんだということを理解してもらって、それからは色々手伝わせてもらっている。

 藤澤さんは、私より零くんの方が和子と仲が良い気がすると、まだ数日しかたっていないのになぁと複雑そうな顔をしていた。

 

 猫たちもだいぶ早くに慣れてくれた。シロはとてもマイペースな子らしく、あまり人にべったりすることはないそうなのだが、何故かぼくのことを気に入ってくれた。

 ご飯のときや、駒をならべているときなど、静かに足元によってきて、僕が膝に乗せるのを待っているのだ。成猫の雄だけあって、小学生にはいささか重たいのだけど、その待ってる姿がいじらしくて、すぐ膝にのせてあげる。一度乗せるとなかなか降りてくれないところも可愛かった。

 藤澤さんは信じられないって顔をしてたけど。気難しいところもあるので、普段はめったに抱っこをさせてくれる子ではないらしい。

 僕があまりに将棋に集中しすぎて、和子さんや藤澤さんによばれていることに気付かなかった時など、ザラザラの舌で手や顔を舐めてきて教えてくれる、とても賢い猫だ。

 クロはちょっと臆病で用心深い子だと聞いていた。迷いネコだったそうで半年ほど前にこの家に居ついたそうだ。そのときの名残か、ガリガリというほどではないが細身で小さい子だった。

 初日は警戒されて僕には寄り付きもしなかったけれど、ある時朝目が覚めると、僕の布団の足元で小さく丸くなっていた。そのあとも、ぼくが寝てたり将棋に集中してたり、意識がどこかに向いているときに限って、気づけばそばに寄り添っていたりする。

 もう少し時間をかけたら、シロのように甘えてきてくれないかなって思った。

 

 たまにやってきて、僕のことをからかい一局さしていく後藤さんは、クロと僕を似ているといった。特にクロは後藤さんに全然なれてなくて、彼の姿をみたら小さな身体の毛を精一杯、逆立てて威嚇してみせるんだけど、その姿が僕にそっくりだそうだ。……なんだか、納得がいかない。

 

 なにより僕を喜ばせたのは、藤澤さんが保有している資料の多さだ。

 さすがに会長が現役時代に、彼としのぎを削り、名人位についた棋士のお宅だけあって大量の棋譜が保管されていた。

 今年度の後期の三段リーグが開始するのは10月からなので、僕にはそれまで棋戦がない。

 準備できる時間がたくさんある……と考えることもできるけれど、対局がないのは、やっぱりつまらないなって思った。

 でも、せっかくなのでその分の時間を使って、僕はたくさんの棋譜を並べ続けた。

 不思議なことに、戻る前に記憶していた棋譜と、同じ棋譜は相当古いものだけで、僕が生まれたあとに指された棋譜は見覚えのあるタイトル戦とおなじ対局者同士だったとしても、内容が変わっている。

 将棋というものは、それだけ繊細だ。ちょっとしたことで、無限の可能性と道筋をしめす。対局内容が変わっていることは、僕にとってはありがたいことだった。だってそれだけ、新しい名局がたくさん見られるということなのだから。

 

 師匠の藤澤さんは引退して日が経っているとはいえ、相当な指し手である。お忙しくない日は、かならず一局、相手をしていただけるのも、ありがたいことだった。

 感想戦や、検討が想像以上に盛り上がってしまって、すっかり深夜まで話し込み、和子さんに注意されたりもした。

 成長期のぼくは日付が変わる前には寝なければならないと言われている。健全な身体の育成のためには必要なことだと思う。

 和子さんは、零くんと指しているとあなた10年くらい若返ったみたいに活き活きしてるわ。と藤澤さんに呆れたようにつぶやいていた。

 

 学校もないので、記録係の仕事もたくさん入れてもらっている。

 長い対局も持たせてもらえるようになったけど、基本的に待ち時間が短いものが主だ。

 だいたいどの対局日でも藤澤門下の誰かが対局予定が入っていることがおおく、駅まで一緒にいったり、車の人はそのまま送ってくれたりもする。

 まだ、対局が長引きそうだったりして、ちょっと待っててといわれると、その時間を施設に遊びにいって待たせてもらったりもした。

 その時は、事務の人が有り難いことにまたお菓子をくれたりして、お土産をもっていけることも多い。何もない日は自分でなにか買っていくけど。

 本当に来てくれたーと、ちょっと早過ぎだと笑いつつも、僕が遊びに行くと皆歓迎してくれた。

 ちびっこたちと遊んだり、夏休みの宿題をするのを手伝ったり、青木くんとはたくさん本の話をしたりした。

 青木くんは僕が藤澤さんの家で、どう過ごしているのかとても気になっているようだった。

 奥さんも優しいし、師匠はたくさん将棋で構ってくれるし、猫たちも可愛いし、門下の方々も親切だと伝えると、本当によかったと嬉しそうだった。

 僕が新しい場所でうまくなじめているか、心配してくれていたようだ。やっぱりとても優しい子だと思う。

 

 

 

 そういうわけで、夏休みは記録係の仕事に勤しみつつ、ほかの日はほぼ藤澤さん宅にもうけられた、僕の自室で棋譜に溺れるという、素晴らしすぎる毎日を送っていた。

 

 

 

 そして、とある平日のこと。

 朝食の準備を手伝っていたとき、僕の携帯が鳴った。これはとても珍しいことである。この携帯の番号は10人足らずの人しか知らないし、その人たちも僕にとくだん連絡をしてくることもないのだから。

 いったい誰だろうと、電話をとると相手は神宮寺会長だった。

 緊急事態だという。

 なんと今日行われる棋匠戦の挑戦者決定トーナメントの4回戦の記録係をするはずだった大学生の奨励会員から、高熱をだしたとの連絡があったそうだ。

 どうやら、いま巷で大学生に流行中の麻疹の気配がするそうで……これから慌てて病院で検査をするそうだ。

 どっちにしろ、今日の仕事は出来ない。ということは誰かに代打を頼まないといけない。けれど、あいにく近くに住んでいる奨励会員は僕以外、都合がつかず全滅だったそうだ。夏休みだし、いろいろ予定があるのは当然のことだろう。

 連日で申し訳ないと言われたが、僕は特に予定もなかったので、喜んで引き受けた。

 

 対局開始まで、あまり猶予はなかった。

 僕は大急ぎで身支度を調えて、師匠に外出の旨を告げて、会館へ急いだ。

 

 ついてから知ったのだが、今回の対局はネットで動画中継される予定の対局だったらしい。

 それは余計に、記録係が来られなくなって、慌てたことだろう。

 僕はまだあまり目立ちたくなかったのと、小学生に記録係をさせているということが、労働の基準の法律的に好意的にみられるばかりではないと予想できていたので、すこしでも露出がある対局を担当したことがなかった。

 けれど、この場合は仕方ないだろう。

 自分に与えられた仕事をいつものようにこなすだけだ。

 

 

 

 

 

 

<以下にこにこ動画のコメントを想像してお読みください>


 

 [おーし。藤本九段の対局はじまりますぜー]

 

 [今回調子よさそうだし、嬉しい]

 

 [この人の対局はみてて面白いからな]

 

 [しゃべりすぎ]

 

 [いつも相手の対局者困ってるw若い子とくになw]

 

 [バカ、あれが面白いんだろ]

 

 [マシンガントーク、からのイリュージョンw]

 

 [イリュージョンというなの失着]

 

 [今回は失着でたら困るよ]

 

 [せっかくだから、決勝まで上がっていてほしい]

 

 [お、会場準備はじまったな]

 

 [ん? なんか小さい子いる]

 

 [なんかちょこまか動いてるんですけどwww]

 

 [誰や、お子さん連れ込んだん]

 

 [偉いなー。お手伝いしてる]

 

 [ちょっとちょっと記録係の席座布団二枚重ねてますがなw]

 

 [座布団かさましw]

 

 [ふかふかにする気遣いw?]

 

 [あれ?]

 

 [おい、嘘だろ]

 

 [まじ?]

 

 [座っちゃったよ]

 

 [え? この子記録係?]

 

 [ほんとに? いたずらじゃなくて?]

 

 [確かにこの子なら、2枚くらいないと机高くて書きにくそう……]

 

 [いやいやいや]

 

 [問題そこじゃない]

 

 [どう考えても小学生]

 

 [本気で?]

 

 [記録係そこまで足りてなかったの……]

 

 [えー対局者入場になっちゃった]

 

 [藤本九段どう動く]

 

 [あの人なら絶対ほっとかない]

 

 [たのむぜ、俺たちの疑問を……]

 

 [ファァァァァァwwwww]

 

 [wwwww]

 

 [まじかwwwwww]

 

 [これは笑うwww]

 

 [着席前に頭撫でやがったw]

 

 [えw何wこれ、雷堂先生の知り合いw?]

 

 [どう考えてもそうだろwww]

 

 [照れてる。小さい記録係かわいい]

 

 [ちょっと髪直してるのかわいい]

 

 [顔見てもほんと幼いな]

 

 [やべ、和んだ]

 

 [うーん、人手不足で身内の駆り出し?]

 

 [いや、藤本九段のお子さんは娘のはず]

 

 [弟子もとってないはずだし……]

 

 [ま、考えてもしゃーない]

 

 [対局始まるでー]

 

 [さて、今回はどういう戦法か]

 

       ・

       ・

       ・

       ・

       ・

 

 

 [うちかけですなー]

 

 [ご飯ターイム]

 

 [俺らも飯くわねーと]

 

 [いやーいいね、序盤から終始九段のペース]

 

 [ついでに絶好調のトーク]

 

 [午後もこの調子でお願いしたい]

 

 [ん?]

 

 [お? まさか]

 

 [小さい記録係ごはん誘われてるwww]

 

 [え? これ日常なの?]

 

 [対戦相手の田村七段も誘おうとしてたぽいね]

 

 [藤本九段の先手必勝www]

 

 [お? ついてくの?]

 

 [大丈夫? そのオジサンちょっと刺激強いよー]

 

 [いたいけな小学生に彼の相手がつとまるのか……]

 

 [僕は心配です]

 

 [ちょっと困ってるぽかったけど、でも嬉しそうだったぞ]

 

 [うーん、ますます気になる]

 

 [ありゃwwww]

 

 [藤本九段声でかいwww]

 

 [桐山はしっかり食わんといかんってw]

 

 [まる聞こえですwwwww]

 

 [速報 小さい記録係の名前は桐山くん]

 

 [まー奨励会員なら、おそかれはやかれ名前割れただろうし……]

 

 [桐山くんね。どっかできいたような……]

 

 [しっかし、小学生が書く棋譜が気になる]

 

 [仕事してるなら読めるんだろ]

 

 [手馴れてた。少なくとも今日が初めてではないと予想]

 

 [対局中、びっくりするくらい動かなかったな]

 

 [ずっと固まってた]

 

 [再び動き出すまで、人形みたいだった]

 

 [姿勢良すぎ]

 

 [美しい記録体勢]

 

     ・

     ・

     ・

     ・

     ・

 

 [おーお帰りのようで]

 

 [戻ってきたー]

 

 [何食べたのかな?]

 

 [桐山君なんか若干疲れてる気がww]

 

 [藤本のおっさん元気だなー]

 

 [吸われたんじゃね、気力]

 

 [ん?]

 

 [なんだ何だ?]

 

 [藤本九段開始そうそう、棋譜を要求]

 

 [お? まじで?]

 

 [めっちゃ画面に度アップで見せてくれたw]

 

 [さすがっす!]

 

 [俺たちが求めていることをよくわかってらっしゃるw]

 

 [うお……すげ……]

 

 [マジか]

 

 [え? これホントに小学生の書いた棋譜?]

 

 [字、綺麗すぎでしょ……]

 

 [完全に負けた俺氏]

 

 [げんじつを受け入れられない]

 

 [大人かおまけ]

 

 [読みやすさを追求したみたいな丁寧な棋譜]

 

 [字って性格あらわれるよね]

 

 [あ、返した]

 

 [雷堂せんせーありがとでした]

 

 [また、頭なでてるw]

 

 [撫でてるっていうか、かき回してるなw]

 

 [午後もたのむぞーだって]

 

 [仲良いのかな]

 

 [わー桐山君はいって!!!]

 

 [声、かわいい]

 

 [ボーイソプラノ]

 

 [声変わりしてない]

 

 [ぐわーおじさんのハートに突き刺さった]

 

 [くっそ和む]

 

     ・

     ・

     ・

     ・

     ・

 

 [桐山ってどっかで聞いたと思ったら、去年の小学生名人だった]

 

 [おい、対局中だぞ~]

 

 [ま、長考中だし]

 

 [へぇ、てことは去年、奨励会はいったのかな]

 

 [やばい、今何級なのかなって思ってホームページの成績みてきた、やばい]

 

 [いまどき、個人情報だだもれ]

 

 [まープロになるなら仕方なし。成績とかは特に]

 

 [やばいよ。級どころじゃない]

 

 [はい?]

 

 [うそだろ、そんな一年ちょっとで]

 

 [このこ、じゅうがつからさんだんりーぐ]

 

 [ぎょえぇぇぇぇぇ]

 

 [絶対うそだ]

 

 [桐山って子が2人いる説]

 

 [いや、名前他になかった……]

 

 [実は小さくみえるけど、もう中学生だった説]

 

 [去年、小学生名人取ったとき10歳って記事に書いてた]

 

 [じゃあ今小5じゃん!]

 

 [小5にしても小柄だな]

 

 [男の子はこの年けっこう、個人差あるでしょ]

 

 [見てきた。連勝記録半端ない]

 

 [ずっと真っ白い○ばっかり]

 

 [へー、一度も汚れてないのね]

 

 [その表現なんかやだな]

 

 [つまり彼は天使だったと]

 

 [かわいい]

 

 [ここやばい視聴者いる]

 

 [まぁノータッチをちゃんと守れるんならいいんじゃね]

 

 [ショタコンが湧くの不可避]

 

 [ぐう有能なのだから記録係も一生懸命なのか]

 

 [逆じゃね。記録係ちゃんとしてるから、成績よし]

 

 [どっちも正しいだろ]

 

 [お、藤本九段さした]

 

 [5七金ですか]

 

 [渋いっすなー]

 

     ・

     ・

     ・

     ・

     ・

 

 [98手目で投了]

 

 [おつかれしたー]

 

 [888888888888]

 

 [8888888]

 

 [ 888888888888888888]

 

 [田村七段も健闘してたよな]

 

 [88888888888]

 

 [8888888888888888888888]

 

 [さすがに雷堂先生だった]

 

 [今日は、絶好調でした]

 

 [この後の感想戦も期待できるな]

 

 [これは長くなるのか?]

 

 [お、桐山君もきくぽい]

 

 [まじめー]

 

 [かわいいなー]

 

 [話ききながら、頭がちょっと動いてる]

 

 [うんうん。って感じ]

 

 [わかってるのかな、カワイイ]

 

 [暗くなるのにだいじょうぶなのか]

 

 [お迎えあるんじゃないの]

 

 [小5なら親くるんじゃね]

 

 [桐山君保護者いないらしい]

 

 [は?]

 

 [ちょっとあんまりデリケートな話題は……]

 

 [師匠の家に内弟子入ってるって]

 

 [だからって、親いないってのは早計だろ]

 

 [去年の記事であったかも]

 

 [えーなんかめっちゃ大変じゃん]

 

 [応援してあげたい]

 

 [まー俺たちは将棋みてるだけだし、そのへんの事情はそっとしておくべき]

 

 [ん? 感想戦おわりかな]

 

 [席たとうとしてるね]

 

 [お二方おつかれさまでしたー]

 

 [いやーいいもん見せてもらった]

 

 [お?]

 

 [どうした、どうした?]

 

 [ちょ、藤本九段、いきなりむちゃぶり]

 

 [桐山君こまってる]

 

 [奨励会員にここで意見求めるとは……]

 

 [お、指した]

 

 [どうなの? どうなの?]

 

 [うまく盤がみえない]

 

 [先生方のあたまがじゃま]

 

 [え、なんかめっちゃびっくりしてね]

 

 [田村七段ちょう食いついてる]

 

 [これは……めっちゃ難解だけど]

 

 [ひょっとしたら、ワンちゃんあった……のか?]

 

 [うっお藤本九段が駒片づけちゃった]

 

 [あらまーこれはひょっとしたら、ひょっとしたのか]

 

 [田村七段まだ固まってるぞ]

 

 [頭のなか今フル回転だな]

 

 [藤本九段退出]

 

 [そして、盤のそばから動けない桐山君]

 

 [帰っていいと思うぞー]

 

 [律儀だ]

 

 [田村七段が帰るのまってるのか?]

 

 [お? なんか誰か呼んだ?]

 

 [お迎え?]

 

 [あ、顔あげて退室した]

 

 [田村先生にちゃんと一声かけてくのえらい]

 

 [先生聞こえてなかったぽいけどな]

 

 [ちゃんと一礼して出てくのえらい]

 

 [ちょww雷堂せんせー声やっぱでかい]

 

 [今日の送迎は後藤かーってwwwww]

 

 [え?]

 

 [後藤って、まさか後藤九段?]

 

 [そんな、ばかな]

 

 [あの子供うけしなさそうな、顔で]

 

 [いや、でも言われてみればさっきよんでた声……]

 

 [どういう関係?]

 

 [同門とかかな……]

 

 [あーね]

 

 [いや、でも後藤九段が桐山くんと話して、連れ帰ってるのを想像すると……]

 

 [やめろ、それ以上言ってはいけない]

 

 [犯罪的ですね]

 

 [だーーーーーーーwww]

 

 [くっそwwwww]

 

 [うわー超きになる]

 

 [みたい]

 

    ・

    ・

    ・

    ・

    ・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 記録係の仕事は問題なくこなせたと思う。

 藤本九段の対局だったのは、ちょっと誤算だった……。

 すでに何度か担当しているけど、最初の時にやたらと絡まれて、そのあとご飯のときに僕の境遇とかしゃべらされて、それからなにかと構ってくるのだ。

 まぁありがたい話なんだけど……。

 

 そして、今日の帰宅のつきそいは後藤さんらしい。

 いろんな門下の人が送ってくれたことがあったけど、彼は今日がはじめてだ。

 こんな面倒なことするような人に見えないけど。

 今までもっぱら多かったのは幸田さんで、彼の対局がある日に僕が記録係に入っていないか、事務にきいているらしい。

 僕は一人でも問題なく帰れるので、そこまでして頂かなくても大丈夫だと、それとなく伝えたんだけど……

 20時や21時を過ぎたときの子供の一人歩きは推奨できないらしい。

 

 今日自分が付けたばかりの棋譜のコピーを見ながら、後藤さんのすこし後ろをついて歩いて帰っていた。

 今日は電車をつかって帰るのだ。

 最寄り駅まであるかなければならない。

 

 と、僕の手から棋譜が取られる。

 

「ぼーっと歩いてんなよ、ちびすけ。転ぶぞ」

 

 後藤さんは呆れたような顔をしていた。

 いつのまにか、結構距離がはなれていた僕のことを待ってくれていたらしい。

 会館で、帰るぞって声をかけてから無言だったくせに。意外とこちらを気にしてくれていたようだ。

 

「すいません、ちゃんと前見て歩きますから。返してください」

 

「どうだかな……これ、今日の藤本のおっさんの対局か」

 

 手元の棋譜に視線を落とした後藤さんの問いかけに、僕はうなずいた。

 

「ふーん。あのおっさん今日は絶好調だったみたいだな」

 

「はい。終始藤本九段ペースでした。でも田村七段もかなりくらいついていらっしゃいましたよ」

 

「まーな。あいつももうちょっと、やりようがあったか……感想戦のあと、藤本のおっさんに絡まれて、おまえなに言ったんだ?」

 

 あれは、正直失敗したと思う。

 僕はどうしても、問いかけられるとその時思いついた手を言わずにはいられない。

 でも、てっきりもう終わっていたと思っていた中継がまだ切られていなかったらしいし、田村七段にとったらいい気はしなかっただろう。

 

「藤本九段に、午後の長考で指した5七金の受け手、他に何か思いつかんかと聞かれたんです。あの一手で形勢はほぼ藤本九段有利に固まりましたから」

 

「時間かけて指しただけの価値はあった一手だな。で、おまえの返事は?」

 

「田村七段は3二金とうけました、僕は3三銀の方が有力かと」

 

「あ? それだと1手損して……いや……」

 

 眉をしかめた後藤が、そのまま少し考え込む。

 

「△3三銀 ▲6七金 △8五桂……ときて、△6六歩までつなげれば……。

 へぇ……面白いな」

 

 僕は午後の対局をみながらずっと考えていた一手だけれど、すぐにそこにおもい至るのは流石としかいいようがない。

 

「相変わらず、くそ生意気な手だが、わるくねぇ」

 

「それは……どうも」

 

 この人は素直にほめることはないのだろうか……。

 

「おい、続きどうなるか指してみるか?」

 

「え?」

 

「目隠し将棋くらいできるだろ。俺とおまえがこの続き指したらどうなるか、ちょっと興味がある」

 

「わ、やります! やります!」

 

 そんな面白そうなこと、乗らずにいられようか。

 結局僕らはそのまま、頭のなかの将棋盤をなぞりながら、藤澤さんの家まで帰った。

 後藤さんはそこで、帰る予定だったはずなのに、何故かヒートアップしてしまって、上がり込み、今度はほんとに駒と盤をつかって、続きに付き合ってくれた。

 そうこうしてるうちに日付の変更が迫るくらいまで、夢中になってしまったようで、部屋を見に来た師匠に止められて、お開き。

 あーもったいない。もっといろいろ出来たし、別の一手も思いついたのに。

 これが大人だったなら、夜明けまで指し続けたのかな、と思って惜しかった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 9月、新学期が始まった。

 といっても、別段学校生活に大きな変わりはない。

 青木くんと学校で会えるのは嬉しかった。彼の成績はどんどん伸びていて、僕が教えなくても、自分で勉強の要領をつかんだようだった。もともと、賢い子だったのだと思う。

 

 いよいよ、三段リーグが目前に迫ってきて、僕はすこし記録係の仕事を減らしたらと心配もされたけれど、特別何かを変えたりはしなかった。

 それは、自信でもあったし、その先を見据えてのことだ。

 半年後にはプロになる。僕の中では確定事項。

 だったら、なおさらプロ棋士たちの対局は見ておきたいし、今の流行、定跡、最新手……興味は尽きることがなかった。

 

 

 

 

 

 そういえば、8月・9月といえば台風のシーズンである。

 東京が直撃をうけることは少ないけれど、年数回は豪雨に見舞われることもある。

 そして、その日がたまたま僕が記録係をしていた土曜日の夜のことで、この日小学生に戻ってから、初めて会館に泊まるという経験をした。

 

「ごめんね。桐山君。こんな日は早く帰してあげるべきだった……」

 

 事務の人がほんとに申し訳なさそうな顔をしている。

 

「気にしないでください。こんなに早く荒れるとは思ってませんでしたし。師匠にはちゃんと連絡しましたから」

 

 師匠の藤澤さんはとても心配してくれて、迎えをよこそうとしてくれたけど、この雨のなか車で移動するのも危ないだろう。

 会館では最後まで残っていた事務の人や、他の長引いた対局の対局者や記録係も足止めをくらって、今日はここで一夜をあかすようだ。

 他の大人もいるから、大丈夫だと納得してもらった。

 

「とりあえず、何か食べようか……。事務所にあるカップラーメンとかしかないけど……」

 

「わー僕あんまり食べる機会がないので、新鮮です。ありがとうございます」

 

 高校生の時、一人暮らしを始めて、川本家にお世話になりだす前は、それこそ毎日のように食べていたけれど、施設では給食のようなそれなりの食事が量が少なめでも出たし、藤澤さんの奥さんが、そんなジャンクフードを出すなんてことはありえないので、随分とご無沙汰である。

 

「そう? まぁ子供はけっこう好きかもなぁ。ラーメンでいい? そばとかうどんもあるよ」

 

「あ、うどんが食べたいです」

 

「一つでいいの?たくさんあるし、遠慮しないでね」

 

「そんなには食べられないので、大丈夫です」

 

 ここの事務の人たちは、お菓子の時もそうだけど、僕にやたらと食べ物を勧めてくる。そんなに貧相にみえるのだろうか……。

 将棋以外の前の時の記憶があいまいなことも多くて、小5のときどれくらいだったか、うろ覚えだ。

 でも、ちゃんと高校生の時には人並みに成長していたし大丈夫だと思う……たぶん。

 

「ちーす。俺も何かもらっていいですか?」

 

「お! スミスくん、お疲れ様。どうぞ、どうぞ、何でも持って行って」

 

 僕は懐かしいその声に、顔をあげた。

 これまでも、何度か遠目にみることはあったけど、顔を合わせるのは今回が初めてだ。

 

「いやー、まいっちゃいますよ。代打で久しぶりに記録係してみたら、この嵐ですからね」

 

「君はプロ入り後も、調子よさそうだったからね。かりだしちゃって、ごめんね」

 

「それは、まぁお互い様なんで。ん? 君は、たしか……」

 

「あ、スミス君初めてだった? 桐山くんだよ、記録係としては一年ちかく連日はいってくれてるベテランさん」

 

「こんばんは、桐山零といいます」

 

 事務の人の仲介をうけて、僕は彼に挨拶をした。

 

「あー噂はしってますよ。そうかー君があのスーパー小学生ね。

 三角龍雪だ。よろしく」

 

 スミスさんはそう言って、僕に手を差し出してくれた。

 僕はその手を握り締めて、嬉しくなった。

 前のときもそうだった。挨拶のあとに手を差し伸べてくれたのは彼の方。

 気さくで人当たりがよい先輩棋士。

 現在は20歳、たしかC1に上がって活躍されているはずだ。

 相変わらず元気そうでよかった。

 

「スミスくんよかったら、桐山くんと一緒にいてあげて。今日は彼も泊まりになっちゃったんだけど、同門の人誰もいないみたいだから」

 

 今日残ってる人の中に藤澤門下の人はいない。事務員の方は雑務でそれなりにお忙しいだろうし、僕のことを気にしてのことだろう。

 

「いいっすよー、俺も若いやつ他にいなくて、暇してましたし。ま、君が嫌じゃなかったらだけど」

 

 スミスさんは、快諾してくれて、僕にそう声をかけた。

 

「とんでもないです! 嬉しいです」

 

 人見知りな性格は残っている僕だけど、彼と話せるのは嬉しい。純粋に笑顔がこぼれる。

 

「おー素直だなぁ。かわいいやつめ。とりあえずは飯だな。お湯かりよう」

 

 そう言って、手招きをしてくれるスミスさんの後について回った。

 お湯を借りて、麺を戻して、一緒に晩御飯を食べた。

 その時は、他の棋士さんたちも集まってきて、わいわいみんなで食べるのがすこし楽しかった。

 小さい記録係も、災難だったなーって、たまたま自分がもってたお弁当のおかずを分けてくれる人とか、今日は冷えるかもなーってカイロを分けてくれる人とか、たくさん構っていただいて、申し訳ないくらいだった。

 

 ご飯を食べた後に、他にすることもないので将棋盤を使いながら、駒を動かして、残った棋士たちが集まって研究会もどきみたいなこともした。

 でも、そろそろ僕は寝ないと、藤澤さんに怒られるということで、スミスさんに連れられて、控え室から、別室に移動することになった。

 こういうときに、やっぱりこの小学生という身体はネックである。僕も朝まで将棋をしたい……。

 

 将棋会館には宿泊施設も一応あるけれど、それは有料で本当にホテルのようなものだ。

 一般的に帰れなくなった記録係が始発電車を待つときなどは、対局室の畳のうえに座布団を引いて、ちょっとした毛布を借りてきて、雑魚寝をして朝を待つことが多い。

 

 毛布はそんなに数があるわけでもないんだけど、あの人たちはそもそも寝る人が少ないだろうし、遠慮なく使えと言われて、ありがたく貸してもらった。

 座布団はあまるほどあるので、多めに敷く。

 桐山は小さいから、一つの幅で体の横幅余裕だなってスミスさんに笑われてしまった。

 3つくらい縦に並べて、少し足があまるくらいである。

 

 準備ができて、そろそろ眠ろうかというとき……。

 

 

 

 

 ダァァァァァァァァァァァンと地面が割れるような大きな音がして、電気が消えた。

 

 

 

 

 近くで雷が落ちたのだろう。

 電気はすぐに復旧した。

 パッと明るくなった部屋で、スミスさんがビビッたと小さくつぶやく。

 

 

 

 

 僕は、その言葉が全く聞こえないくらい、驚いて固まってしまっていた。

 心臓がバクバク鳴り響いて、そのおとばかりが煩くて、周りの音が遠ざかる。

 手足の血の気が引いて、すこし震えてしまうような感覚。

 

「……い、……おいっ、桐山!」

 

 強く肩を揺さぶられて、はっと息をつく。

 しゃがみこんで、心配そうに視線を合わせてくれたスミスさんと目があった。

 

「大丈夫か?雷は苦手?」

 

 そんなことは、なかったはずだ。

 もどってからも、遠くで鳴り響いた音を施設で聞いたことは何度もあった。

 

「……わ、わかりません。でも、音に、びっくり、しました」

 

 自分の声じゃないみたいにかすれてしまった。

 

「そうか……大きな音が苦手なのかもな……」

 

 スミスさんの言葉に、あぁ……そうかも、しれないと思った。

 そういえば、たまに遠くで聞こえた、車のクラクションの音とかも、なんだかとても嫌だった気がする。

 

「すいません、そうかもしれないです」

 

 以前はこんなことはなかったはずだ。

 ……死んだときの事故の時の記憶は曖昧なのだけど、やっぱりなにかしみついているのだろうか……。

 

「すいません、もう大丈夫ですから」

 

「んー、でもなー。すっかり手冷えちまってる。お兄さんがしばらく握っててやるよ」

 

「うぇ!? いや、ほんと大丈夫ですから!!!」

 

「いーから、いーから。ほら、もう寝ちまおうぜ。寝て起きたら、嵐もどっかいってるよ」

 

 そういって、スミスさんは笑って、結局僕が寝入るまでそばにいてくれた。

 なんだか、すごく照れくさくってこそばゆい感じがしたんだけど、断りきれなかったのはなぜだろう。

 いつもなら、ぜったい辞退したはずなのに。僕にもよくわからなかった。

 

 夜が明けると、嵐はさっていて、小雨がふっているけれど、すっかり静かな日常が戻ってきていた。

 駅まで一緒に、ついてきてくれたのもスミスさんだ。

 今回は、本当にお世話になりっぱなしで申し訳ない。

 なんだか、とっても子ども扱いされている気がするが……、昨日の今日ならそれも仕方がないかなって思った。

 

 

 

 

 10月、ついに三段リーグが始まる。

 奨励会は東と西で二段までは分かれているが、三段リーグはその東西の奨励会で三段まで昇段してきたものと、まれだが、三段編入試験に合格してきたものとで構成されている。

 開催期間は4月から9月と10月から3月を1期として数え、年2回。

 各々が、18戦ずつ戦い、1回の三段リーグにおける上位2人は四段に昇段し、順位戦C級2組に入る。

 この四段からが、プロ棋士だ。

 つまり年に4人しか、プロ棋士は誕生していない。とても、とても、狭き門。

 

 約30人を超える三段に在位している奨励会員たちが、そのたった2つの枠を争う三段リーグは、鬼のすみかとも言われるほど厳しいものだ。

 過去の四段昇段への成績をみてみると、13勝5敗や12勝6敗くらいの成績が多くなる。実力がほぼ拮抗しているため、頭一つ抜け出た成績者はほぼあらわれない。

 上位陣はどうしても昇段ラインである12勝6敗または13勝5敗という成績に集約されることが多く、同じ成績を取る人が数人でてくることもある。

 それでも、枠は二つだ。

 同じ勝率の時にどのように、昇段者を決めているかは、順位がカギを握っている。

 順位はひとつ前の期に開催された、三段リーグの成績によってつけられている。つまり、惜しくもあと一勝ほどの差で、昇段を逃した人は、来期開催のリーグでは一位や二位の成績を与えられ、ほかの奨励会員よりも昇段へ一歩リードした状態から始めることができる。

 もし仮に、12勝6敗者が5名いた場合などは、プレーオフなどの制度はなく、順位が上の者が昇段する。

 前期でどれだけ頑張れていたかが、今期の命運を分けることがあるのだ。

 三段リーグの在位者は常に気が抜けない戦いを強いられる。

 

 そのほかにも、いくつもの切迫した状況が彼らの首を絞める。

 リーグ戦での勝率が2割5分以下、すなわち18戦で4勝以下であると降段点がつき、次期も続けて降段点を取ると二段へ降段する。

 僕の父さんがそうだったように……。

 二段に降段した奨励会員で、再び三段リーグへ戻ってきて、プロになった人は現行の制度ではただ一人もいない。

 

 そして、年齢制限。

 現行の制度では、満26歳までに三段リーグを抜けて四段にならなければならない。

 20歳をこえ、中ごろに差し掛かってきた奨励会員はどうしても、この年齢制限を意識してしまう。

 そのことが生み出す焦燥は、かれらの平常心を奪い、さらなる成績の停滞を引き起こすこともある。

 

 プロになるということは、そういった人たちの想いを背負ってのことだということを忘れてはいけない。

 

 僕は今期からリーグ入りするので、順位はほぼ最下位からだ。同時期に二段から昇段した人の中では、これまでの成績がよいので、その人達よりは上になるけれど。

 でも、要は勝てばいい。

 だれよりも勝率が高ければ、順位は関係ない。

 もっといえば全勝してしまえば、文句なしで昇段だ。

 今まで、誰一人として、そんな記録を残した人はいないけれど、一刻も早くプロになりたい僕としては、躊躇している暇はない。

 

 

 

 

 

 そして、半年後の3月、僕は全勝で三段リーグの突破を決めた。

 史上初の小学生プロ棋士の誕生である。

 このことは、僕の特殊な境遇と奨励会無敗という成績と相まって、ずいぶんとメディアを騒がせることになる。

 

 

 




奨励会無敗とか、だいぶぶっ飛んでるけど、今思うと現実もだいぶぶっ飛んでる(某F先生とか)から別にいいかって思いますね。

次の話はスミスさん視点


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第八手 噂の新人

 

 桐山零という凄い新人がいることは前から耳が痛くなるくらい聞いていた。

 俺はプロになってから間もないし、奨励会に知り合いも多い。

 友人といえる間柄の奴がまだ奨励会に残っているのもあって、そいつらとの飲み会の時などに、散々愚痴を聞かされた。

 

 突然ふってわいたように現れた新星。

 負けた奴は口々にこう言った。

 全く勝てる気がしないと。

 自らの得意戦法で挑み、とてもよい感じに指せていたはずなのに、いつの間にかあざやかにひっくり返されている。

 そして、桐山自身の得意不得意が全く見えてこない。

 あいつが、一度、たった一度だけ奨励会の対局ですこし本気を出したと思われる対局の棋譜を見せてもらったが、戦慄するくらい高度な内容だった。

 対局相手の二海堂もすごいが、明らかに主導権は桐山にあった。

 これで、小4だって? 本当にそんなことがあるのだろうかと疑ったほどだ。

 

 プロ棋士たちの間でもすこし話題になっていた。とても小さいけど優秀な記録係。

 

 彼の複雑な境遇は、その人たちがする噂話で勝手に耳に入ってきた。

 奨励会員たちは、完全に桐山にびびっていて、もっというなら畏怖してる奴すらいたので、勝率やその強さ以外で得られた情報はあまりなく、彼の人となりや性格はプロ棋士たちから、聞いたようなものだ。

 

 棋士たちの間では、いち奨励会員の対局成績を詳しく知っているひとはまだ少なく、また実際に自らが対局したわけでもないためか、彼に脅威を感じている人は少なかった。

 何人かは、あいつはすぐに上がってくると気を引き締めている人もいたが……。

 そもそも、奨励会員のうちからそんな話が上がるだけで凄いことだ。

 

 そういうわけで、親がいないながらに、記録係の仕事でお金を稼ぎながら、将棋に打ち込みにくい逆境をはねのけて、プロになろうとしている少年を純粋に可愛がっている人が多いようだった。

 

 対局者の昼食は、会館で出前をとるか、外食に自分でいくかだけれど、最近は出前の数も充実しているので外に食べに出ない人も多い。

 それなのに、桐山が記録係のときは、彼に奢って一緒にたべるために外食をする棋士も多くいると聞いたときは笑ってしまった。

 とても一生懸命に仕事に取り組んでいるし、ごはんを頬張ってもぐもぐと食べている姿は可愛いと、自分の子供の姿をそこに重ねている年配の人ほど、彼を構いたがった。

 少し幸が薄そうで庇護欲をさそう彼の細身で儚げな容姿が、それに拍車をかけていたせいかもしれない。

 

 俺は、彼にとても興味があった。

 鬼のように強い、人間じゃない、と奨励会員から怖れられている少年と、プロ棋士たちからかわいいと可愛がられている少年と、どちらも彼の事を指しているからこそ、実際に自分の目で彼のことを見て、確かめたい気持ちがあった。

 

 だから嵐の日に、久しぶりにした記録係の仕事で運悪く会館に足止めをされたとき、桐山と知り合えたのは少しラッキーなことだった。

 

 パッとみた印象はおとなしそうな良い子。

 俺の後ろをちょこちょことついて歩いて来るのは、なんだか庇護欲を誘われてむずむずした。

 これは、構いたくなる気持ちが分かってしまう。

 

 案の定、会館に残っていた他のプロ棋士たちもあれこれ、声を掛けていた。

 でも、そのやりとりを横で見ていて納得した。

 この年齢の男の子に多い、落ち着きのなさや、小生意気な感じが全くない。

 遠慮がちで大人の顔をよく見ている。それでいて、空気も読めて、それが貰うべき時なら、本当に嬉しそうに貰った好意にお礼をいうのだ。

 普段、静かでスッとした表情の子が、その時だけ花が咲いたような笑顔をくれる。

 これはもう一度みたいと思ってしまうのも無理はない。

 

 その後、将棋盤を使って、先日のタイトル戦の対局について話しているのに、俺たちも加わった。

 桐山は話を振られると、ちゃんと意見を言う。発言は少なかったが、その一手だけでも、彼のよみの深さがうかがえた。

 目先の有利や、駒の動きには惑わされない、たいした大局観を持っているものだ。

 正直、おれもかなり考えないと分からないような手もあったりして、若干凹んだ。

 桐山は本当に楽しそうにしていて、夜もふけて就寝を促されると少し不服そうだった。

 ようやくみれた子供らしいと思える一面だった。

 

 小学生高学年といっても、急に慣れないところで寝るとなったらそわそわしたり、落ち着かなかったりしそうなもんだが、桐山はいたって普通だった。

 

 だからこそ、雷が落ちたときの桐山の様子に、どんなに驚いたか。

 

 青い顔を通り越して、いっそ白いほどの顔色で、表情がストンと抜けて固まっていた。

 あわてて、何度か声をかけてみたが、聞こえていない。

 完全に意識がどこかへ飛んでいた。

 その瞬間、彼は一体何を思い出し、何をみていたのだろうか。

 何にしても、こちらに戻ってきてくれないとマズイ。

 肩を掴んで揺さぶってやれば、ぱちりと目を見開いて俺の事を見た。

 そして、一呼吸したとき、ようやく桐山の顔にすこしだけ血の気が戻った。

 

 雷が苦手なのかと問いかけると、そういうわけでもないらしい。

 本人もとても混乱しているようだったので、俺はあまり深刻にとらえ過ぎないように、大きな音が苦手なのかもなと、適当に返してみた。

 すると、桐山は少し思いあたるふしがあったようで、小さくそうかもしれないと呟いた。

 車のクラクションとかも苦手らしい。

 俺は、ふと彼の家族の死因を思い出した。

 

 桐山はまだ、震えていたのに、平気そうな顔をして大丈夫だと告げてくる。

 大丈夫なわけねぇだろうが。

 俺はとりあえず、あいつの話は聞かずに、手を握ってやった。

 冷たく冷え切った、小さな手だった。

 桐山は、最初は少し抵抗してみせたけど、俺が引かないとわかるとされるがままだった。

 でも、次第に震えは止まったし、すこしだけ温もりが戻ってきたのをみるとやはり間違っていなかったと思う。

 

 そう、まだ大人に縋って良い年なのだ。

 それなのに、この子は取り繕うのが上手すぎる。

 

 その後も、本当に大丈夫だろうかと、注意ぶかく見守っていたけど、桐山はわりとすぐに眠りにおちた。

 ギュッと毛布に丸まって眠る姿はあどけない。

 起こさないようにそっと、頭を撫でてみたら、小さく父さん…と寝言がこぼれ落ちた。

 

 

 

 あー堪らないなっと思った。

 

 

 

 この子のこういう姿を知っている人は、一体どれくらいいるのだろうか。

 落ちついてる。良い子。しっかりしている。大人っぽい。そういう評価が先行しているけど、まだ11歳で数年前に家族を失った傷が癒えているわけではないのだ。

 そのことをたぶん本当に分かっている人はとても少ない。

 なんとなく、俺はそれを知っていてあげたいとおもった。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことがあったけれど、桐山の対局には何の影響も及ぼしていないようだった。

 三段リーグ開始から数ヶ月経ったけれど、彼はまだ負けなしだった。

 

 同い年の松本一砂がちょうど奨励会の三段リーグにいて、今期こそは抜けて見せると意気込んでいたため、彼から詳細な情報を得ることが出来た。

 

「聞いてくれよスミス―、桐山くんまぁた勝ってたよぉ。もう誰も勝てねぇよあんなん」

 

「情けねぇこえ出すなよいっちゃん。自分は当たらねぇんだからラッキーだって、対戦表出たとき喜んでたくせに」

 

 三段リーグの人数は30人程度だが、その全員とあたるわけではない。たまたま今回いっちゃんは桐山と当たることはない。

 三段リーグではこの対戦相手も結構な鍵を握ってくる。

 実際桐山が10月から参戦することになって、当たらなければよいのにと思った奨励会員は多いはずだ。

 

「でもさーたった、2つしか枠ないのに、1枠もう決まったようなもんじゃん。きついよー」

 

「相変わらず、負けそうな気配はなし……か」

 

「もう。全然。全く。最近は気合いの入れ方が違うって思い始めた。

 今までだって、別に手を抜いてたりはしてないと思うけど……なんていうかちゃんと俺たち一人一人にたいして準備してる気がする」

 

 今日の一局など、最新の流行手を指してきた相手に対しても、鮮やかな切り返しを見せて絶好調だったようだ。

 そいつの得意な戦法の振り飛車を使ったものだったので、使ってくるかもしれないと桐山も警戒していたのだろう。

 

「しゃーねーな。もう一つの枠とりに行くのは自分だって思っとくしかない」

 

「そうは言うけどさー」

 

「せっかく、前回それなりの順位で終わったんだ。今期チャンスじゃんか。一勝の差が昇段を分けるのは、よく分かってるだろ。他より、一敗するリスクを避けれたんだ。好機だと思えって」

 

「そうか……そうだよな……」

 

「そうそう。気持ちじゃ負けてたらだめだ。

 はやく上がって来いよ、ずっとこっちで待ってるんだからさ」

 

 プロでおまえと指したいと、はっぱをかけた俺の言葉に、いっちゃんは少しやる気を取り戻したようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、3月。

 蓋を開けてみれば、桐山は全勝でプロ入りを決めた。

 もう一つの枠は、13勝5敗でいっちゃんが勝ち取った。

 

 その下には12勝6敗の者が4名いた。4名ともいっちゃんとは違い桐山と当たることになり、一敗している。そのうち2名はいっちゃんよりも順位が上だった。

 もし、その一敗がなくて13勝5敗にその2人が上がって来ていれば、プロになっていたのは、そのどちらかだ。

 

 しかし、たらればの話をしても仕方がない。

 運や、タイミングもプロの世界で勝ち抜くためには必要なものなのだから。

 

 

 

 俺は、明日は我が身だ……と身を引き締めた。

 ついに桐山が棋士になる。俺にも盤を挟んで会いに来る。

 いくらあいつが才気あふれる有望株といえど、こっちにだって、数年先にプロになって闘ってきたプライドがあるのだ。

 先輩として、そう簡単に負けるわけにはいかない。

 

 

 

 




 スミスさん視点でした。
 彼は奨励会の内情にも詳しかったので、少し奨励会員目線の桐山君の話も入れられて良かったかもしれません。
 


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第九手 小さい記録係とお昼ご飯

奨励会編をまとめる際におまけとして書いた話です。


「桐山、今日は俺と飯いくか?」

 

 何度目かの記録係をしていた時、島田さんにそう声をかけられた。

 

「僕は嬉しいですが、貴重なお昼休憩ですよ?」

 

 あまり長くない休憩時間、出前を取る人も多い。外に食べに行く人はだいたい気分を切り替えたい時が多く、そんな時に僕が居ては邪魔ではないだろうか。

 

「いいんだよ、連れが居た方が、気がまぎれる。一人で食ってるとあれこれ考えて行き詰まっちまうからな」

 

 島田さんはそう言うと僕を連れ出した。

 僕がタイトルホルダーになる頃には規定が変わり、対局中の外出は禁止になっていたけれど、今はまだ、お昼に外食することは構わない。

 でも、島田さんはそうなるまえから出前派だったと思うので、今日は気を遣ってくれたのかもしれない。

 対局自体も予選だし、内容も圧倒的に島田さんのペースだったから余裕もあるのだろう。

 

 島田さんは、何がいい? と僕の希望を聞いてくれた。

 彼はお昼に、胃に優しい麺類を頼むことが多かったので、蕎麦が良いですと応えておいた。

 会館の近くには出前をしてくれている蕎麦屋がある。

 

「記録係の仕事はもう慣れたか? ここのところずっとだろう。あんまり根詰めてしなくていいんだぞ」

 

 島田さんはうどんを、僕は中華そばを頼んでのお昼、彼がそう尋ねてきた。

 

「休みの日、会館に来ている方が楽しいんです。僕の趣味ですよ」

 

 入れるようになってから、土日はほぼ記録係をさせてもらっている。正直に言わせてもらうと施設にいると、色々とごたごたがあって落ち着かないのだ。

 ゆっくり将棋について考えるなら、会館に来た方がいいし、記録係の仕事は楽しいと思える。

 そもそも僕は前だって、家にいるより将棋を指しにきていることの方が多かった。

 

「それなら、良いんだけど。学校の方は? 宿題とかもあるんだろ? 俺はもう小学生の時に自分が何してたかなんて、ほとんど覚えてないけどさ」

 

「宿題は、学校でほとんど終わらせてしまうので。持ち帰っても平日、晩御飯の後に皆でやってるんです。教え合えて楽しいですよ」

 

 もっとも、僕が持ち帰りになることはほとんどないし、いつも教える側だけれど。

 青木くんに教えていたら、いつの間にか皆に聞かれるようになってしまった。

 勉強を面倒に思ってしまうと後々大変だから、皆には少しでも苦手意識を持ってほしくないし、教える分には問題ない。

 

「しっかりしてるなぁ、ホントに。一応施設の人にも説明に行ったんだけどさ、桐山の事、とても信頼してたよ。いつも助かってるって言ってた」

 

 島田さんは、僕が記録係をできるように保護者、つまりは園長先生の方にも説明をしに来てくれた。

 その時、僕の話になったのだろう。

 

「お世話になってますし、自由にさせてもらっていますので。それに、家の事を手伝うようなものですよ。ほら、農家の子とか、お店の子もよく、お家の事を手伝うでしょう」

 

「あぁ……なるほど、そういう感覚か。それなら俺もちょっと分かるよ。田舎でさ、農家ばっかりだったから、よく手伝ってたなぁ」

 

 島田さんはそれから、少しだけ山形のご実家の話をしてくれた。

 奨励会に通ってくる時、高速バスの代金を稼ぐため、島田さんも沢山、村のお手伝いをしたらしい。

 たいした事は出来なかったけれど、皆応援してくれたと彼は笑っていた。

 

「今になって、恩返しをしたいと思って色々やってるんだけどさ。皆そんなこと考えなくていいって言ってくれるんだよなぁ。開の夢は、村の皆の夢だって。俺はほんとその辺、恵まれてたよ」

 

「僕も、お世話になってる人が沢山いるので、いつか恩返ししたいって思ってます。まずは、プロにならないといけませんけどね。今のままでは、何もできないので」

 

「急がなくていいよ。桐山はたぶん大丈夫だからさ。むしろ、本当にこの道でよかったのか一度よく考える時間もいると思うぞ」

 

 島田さんはどこか心配そうだった。彼も、悩みに悩んでプロになり、そして今も色々葛藤があるのだろう。

 でもきっと、考えない棋士なんていない。

 それでも、皆プロになった。

 

「奨励会が楽しいんです。記録係も面白くて。だから、このままの気持ちで進んでいけるなら、もうそれでいいんじゃないかと思っています」

 

 今更、変えられない。

 僕はもう、何年もずっと将棋ありきで生きてきたから。

 他の生き方を知らない。

 そして、それを不幸だとも思わなかった。

 

「……そうか。じゃあま、午後も頑張っていこう。俺もかっちりいい締め方をしたいところだ」

 

「はい! 勉強させてもらいますね」

 

 その日、島田さんは綺麗に勝ち切った。

 夕方になる前に終わった対局に、感想戦もきちんと参加する。あまり遅くなるとここで帰されてしまうので、良かった。

 

 帰りは島田さんが方向も一緒だからと、施設の傍まで一緒に帰ってくれた。

 道すがらも、今日の対局の話をしてしまうのは、本当に棋士の性というか、笑ってしまうくらい将棋しかないのだと思う。

 

 

 

 

 


 

「零くん。良かったらお昼、一緒に食べるかい?」

 

 幸田さんの記録係をした日、僕は彼にお昼に誘われた。

 師匠が決まり、藤澤門下になってから、日常生活でも随分とお世話になっている。

 もう何度か、藤澤家に顔を出していて、僕の部屋もだいぶととのった。

 夏休みになれば、何の問題もなく引っ越すことが出来るだろう。

 

 幸田さんが連れてきてくれたのは、近所のお寿司屋さんだった。

 並みでも1000円以上はするし、ランチにしては高めではないだろうか。

 ただ、気合を入れるために出前を取る人もいるので、棋士にとっては馴染みが深い。

 

「魚は大丈夫? 生は苦手だったりしないかい?」

 

「大丈夫です。むしろ好きな方です」

 

 当然ながら、お昼代を受け取ってもらえるわけもなく、有難くご馳走になった。

 

「記録係の仕事はもう慣れたかい? 私の対局ももう何度目かだね」

 

「だいぶ慣れました。順位戦とかもつかせてもらえるようになりましたし」

 

「藤澤師匠の所はどう? 部屋に必要なものはもうないかい?」

 

「えぇ、充分すぎると思います。園長先生が、引っ越す前に何度か泊りに行くように言われて、今度の週末泊まる予定です」

 

 練習というか、本格的に移る前の準備だそうだ。今までも里子に出す子はそうしてきた場合が多いらしい。

 

「そうか、その日はきっと和子さんが張り切るな。藤澤さん以上に君がくるのを楽しみにしているから」

 

 藤澤さんの奥さんの和子さんは、僕が来ることをとても喜んでくれている。

 孫がはやくに出来たみたいだと歓迎された。

 

「それから、香子の事をありがとう。あの子は今、何か新しい事をはじめたようで、前よりずっと明るくなったよ。私とも少しは話してくれるようになった。もっとも君の話題が多いんだが」

 

「え? 僕の話をしているんですか? 香子さん嫌がりませんか?」

 

「いや、寧ろ聞きたがっていたよ。そうだ、今後うちにも食事をしにおいで」

 

 香子姉さんが、幸田さんと穏やかに僕の話をする図が全く思い浮かばなかったのだが、ここまで誘われたら行かざるを得ない。

 歩が嫌がらなければいいのだけれど。

 いや、まだ面識がないんだから、それは無いか。

 日取りはまた調節する事となったが、近いうちに幸田家でもご飯を食べることになりそうだ。

 

 

 

 


 

「よし、桐山、俺と飯いくぞ」

 

 急に駆り出された記録係の仕事は、藤本さんの対局の日だった。

 慌てて出てきたため、何の準備もしていないし、誘っていただけるのはありがたい。

 

「おや、残念だ。では、今日は藤本くんに譲るよ」

 

 自分も声をかけてくれようとしていた田村さんがおどけたようにそう笑っていた。

 

「すいませんね、田村さん。俺は滅多にこっちには来ませんので」

 

 高段位者で過去にタイトルを獲得したこともある藤本さんは、基本上位者となることが多く、あまり関東での対局は組まれない。

 今日はその珍しい日だったのだろう。

 

 北参道駅に近い場所に、中華料理がメインのお店がある。

 今日はそのお店で食べるようだった。

 

「ここの天津飯や炒飯は意外といける、あとカレー。子どもはカレー好きだろう」

 

「そうですね。カレーは定番メニューです」

 

 ただ、施設でカレー率がとても高いので、今日は五目中華丼にしておいた。

 藤本さんは、担々麵だ。辛くないのだろうか。刺激物は控える人が多いのだけれど、この方はあまり気にしないのかもしれない。

 

「いっぱい食えよ。餃子も頼むか?」

 

「いえ、僕はそれほど食べれないので」

 

 この丼ものでさえ、全部食べ切れるか怪しいのだ。

 

「遠慮するなよ。子どもは愛想ふりまいて、甘えとけばそれでいいんだ」

 

 藤本さんはあっさりとそう言い切った。

 

「皆さん、とても優しくして下さいます。僕はただ、お礼を言う事しかできません」

 

 本当に将棋会館の人たちも、棋士の皆さんも優しい。

 前は中学生で、今は小学生で、内弟子だったか施設だったかで、色々違いはあるけれど、たぶん僕が受け取れるかどうかそれだけの話だった。

 嫉妬や、ほんの少しの出来心で、酔わされて道において行かれた時もあったけど、たぶん、あれは僕の方も多少の問題があったと思う。

 意地を張らなければよかったのだ。

 その時からだってよくしてくれていた先輩はいたし、幸田のお義父さんの名前を出せば、引いてくれただろう。

 ただ、ぼくは意固地に一人で立っているしかないとそう思い込んでいたから。

 

「礼を言えるだけたいしたもんだ。おまえさん素直だからな。大人は可愛がりたくなる。俺には娘が二人いる、下の子も桐山のすこし上くらいか。最近ちょっとお父さんとは、もうお風呂入らないとか悲しいこと言ってきたが。もうそんな年頃になったんだなぁと感慨深い」

 

 そういえば藤本さんには、娘さんが二人で、息子さんはいなかったかな。奥様がしっかりした方だったし、娘さんもしっかり育っているのだろう。

 この方将棋は強いけれど、こと女性に関してと、私生活に関しては……。うん。

 でも、家族を大切に思っているのは間違いないのだろう。

 

「地元は九州でしたっけ。一度行ってみたいですね」

 

「こいこい! 鹿児島は良いところだぞ。 そういうおまえさんは、東京の出身ってわけじゃないだろ」

 

「僕は、長野です。……いつか、一度行かないとって思っています」

 

 今は、まだその決断は出来ないけれど。

 

「東京での暮らしは慣れたのか? 地元との違いに戸惑ったりもするだろう。俺も上京したりした時期もあったが、なんだかんだこっちに帰ってきたしな」

 

「いえ、今の生活にもだいぶ慣れました。師匠もよくしてくれていますし」

 

「あーーーそう言えば、今は、藤澤のおっさんの家に住んでるんだっけか。おっかねぇだろ、あの人」

 

「……? そうですか? 僕は怒られたことがまだないので、そこはちょっと分からないです」

 

「え。そうなの。あの人も丸くなったのか……?」

 

 僕と藤本さんの間で師匠の認識に大きな隔たりがあるようだったけれど、そこは深くは聞かなかった。

 師匠と藤本さんなら公式の対局で何度か対戦しているだろうし、印象も違うのだろう。

 

 そのあとも藤本さんはとりとめもなく、しゃべり続け、僕はそれに答え続けた。

 この人と話すのは慣れてしまえばある意味では楽だとおもう。

 此方がボールを投げる必要はなくて、ずっと延々と受け続ければいいから。ただ、対局中はできたら話しかけないで欲しいとは思う。

 

 

 

 


 

「桐山~。良かったらどうよ、一緒に昼飯」

 

「あ、是非! よろしくお願いいたします」

 

 とある台風の日に知り合ってから、スミスさんは会館で僕をみかけると積極的に声をかけてくれるようになった。

 おそらく、あの時の印象がどこか不安を与えてしまっているのだと思う。元々、面倒見が良いというか、後輩に優しい人だったから猶更に。

 

「どこが良いかね。あそこの定食屋にするか、洋食も和食もあるしな」

 

 千駄ヶ谷駅からおよそ5分ほどの場所にあるそのお店は、会館からも近い。

 

「俺は、何にしようかね~。生姜炒め定食にしよう。桐山何が良いの?」

 

「えっと、オムライスにします」

 

「いいよな、おすすめだわ。デミグラスソースも濃すぎないでちょうどいいしボリュームあるし」

 

「え、スミスさん良いですよ。自分で払います」

 

「いいのいいの。誘ったの俺だからね」

 

「……ありがとうございます。ごちそうさまです」

 

 こういう時に、謝るよりも、お礼を言って受け取る方が喜ばれる事を、僕はもう知っていた。

 

 昼時はそれなりに混んでいるのだけれど、てきぱきと働く店員さんが注文をスムーズにさばいていた。

 

「いや~まいったわ、今日の対局。まだ予選なのに、あんまいい内容にできてないし。最近の勝率は落ちてきてるし。肉でも食わないとやってらんない」

 

「内容……悪いんですかね。スミスさん、最近すこし棋風かわりましたか?」

 

「あ、やっぱり分かる? 色々思う所もあって模索中、それで余計勝てないのかもな」

 

 彼の棋風が以前のものにより近くなってきていると感じていた。

 軽やかで鮮やかな棋風。それは、ずっとスミスさんに合っていたし、彼はそれで上まで上がってきた。

 

「変化があるのは良いことだと思います。僕も色々試すのは好きです」

 

「桐山は、そういえば相手の戦法に乗るのが好きだったよな。あんまりこだわる戦術もないみたいだし、オールラウンダー?」

 

「あまり、何派とかは考えたことはないですね。どれも面白いと思います」

 

「……迷った時とかどうしてるの? これだけ勉強してるんだから、何手か思い浮かぶだろう」

 

「時と場合によりますが……、一番試したことない方に、いきなり行ってしまうかもしれません」

 

「え。意外だな、安定感あるから手堅いのかと思ってた」

 

「今は、まだ不測の事態がおこる対局が無いので。でも、僕はけっこう意地っ張りで、頑固で、無計画らしいですよ」

 

 昔、二海堂にそう言われたなぁと思って告げる。

 スミスさんは、あんまりそんな風に見えないと言ってくれたけど、それはたぶん今が余裕があるからだ。

 いつかまた、先のみえない真っ暗闇を、手探りですすむようなそんな対局をする日がくる。

 それを楽しみにしているなんて、前の自分がみたらなんて言うだろうか。

 

「意地っ張りで頑固か……。将棋指しってそういうもんだよな。俺も、もう少しみっともなくしがみつく事も必要かなぁ」

 

「一つとして、同じ指し方は無いと思うし、だからこそ良いんだと思います。らしくないとかあんまり考えなくても良いんじゃないかと。たまたま今日はそういう日だったんです」

 

「そういう日か……。いいね、あっさりしてて。後に引くこともなさそうだ」

 

「落ち込むときはめちゃくちゃ落ち込みますけどね。布団から出てきたく無くなります」

 

「まじ? 桐山でもそんな落ち込むんだ。おまえさんそんな酷く敗けたことなんてないだろう」

 

「ありますよ。将棋やってて負けたことないわけがない。ぼっこぼこにされて、泣いて帰ったこともあります」

 

 もっともそれは、今世ではないけれど。

 いったい何度この将棋会館から逃げるように走って帰っただろうか。

 僕は落ち込み方がとても下手で、そのたびにふらふら、ぐらぐらと迷ってしまって。

 やっと落ち着ける場所を見つけるまで、随分と不安定に進んだものだ。

 

「まぁそうか。勝負事で負けたことない奴なんていないもんな。さぁて、俺ももうちょっと頑張ってみるか」

 

 その日の午後、スミスさんは相手に随分と食い下がり、終盤相手側が指した失着を見逃さず、その日の勝利を掴んだ。

 感想戦の後、今日は泣いて帰らないで良さそうだと笑った彼に、僕はただ、その勝利を祝った。

 

 

 

 


 

「桐山くん、良かったら今日はおじさんと食べるかい?」

 

「え。良いんですか?」

 

「もちろん、いやぁ良かった。俺は初めましてだからな、断られるかと思って」

 

 僕が今日、記録についたのは、田中さんの対局だった。

 今日の対局者は両者ともに、今はまだ知り合いになっていなかったので、流石にコンビニご飯のつもりで来ていたのだけれど。

 

 今日行ったのは、メニューが豊富な定食屋、出前もしているのでここの料理を食べている棋士はとても多い。

 

「おでんの定食にでもしようかな。出前じゃちょっと頼みにくいし。桐山くんは?」

 

「僕は、味噌煮込みうどんにします」

 

「おぉ、なかなか渋い味を選ぶね。うちの息子たちなんかは、肉がいいっていつも言うんだ」

 

「息子さんがいらっしゃるんですね」

 

「うん、二人いるよ。下の子は君と同じ年だ。だからさぁ、驚いちゃって。じっと座ってるのは意外と難しいだろう。今日の対局は順位戦だ。午後も長いけど、だいじょうぶかい?」

 

「はい、あまり遅くなるなら車を使うように師匠にも言われています」

 

 師匠は必ず僕の帰りを待ってくれている。それは対局の日も、ただの記録係の日も変わらなかった。

 

「藤澤九段のお家に住んでいるんだったね。あの方の手は広いし優しい。君は安心していいと思うよ」

 

「はい。有難いことです。将棋も指してくれるし、棋譜も沢山あって、楽しい。猫も飼われているんですよ。やっと仲良くなれました」

 

「そうかい、それは良かった。幸田さんともよく会うのかい?」

 

「えぇ、同じ門下ですし、元々父の友人だったそうで、僕の事をとても気にかけてくれています」

 

「そうだ、幸田さんと桐山さんは仲が良かったからなぁ。……君にこの話をしていいのか、分からなかったんだが。君のお父さんとは奨励会で一時期一緒でね。こんな風にお昼を食べたこともあったよ」

 

 田中さんは静かに目を伏せながらそう言った。

 そりゃあ気もつかうだろう。まだあの事故があってから2年も経っていない。

 僕としては、父の話がきけるのはとても嬉しい。

 

「そうなんですか! お父さんは何を食べていました? うどん結構好きだったんですが、若い時からそうだったのかな」

 

「そうだな、桐山さんは胃にくる重いものとかはあんまり得意じゃなくてね。うどんとか蕎麦とかが多かったよ。幸田さんといつも楽しそうに将棋の話をしていた」

 

「……幸田さんは、長野に遊びにきてくれるくらい、父と仲が良かったですから」

 

 その繋がりがなければ、僕は前世で棋士になることはなく、そして今も東京にいることはなかっただろう。

 ふと、もし棋士になっていなければどうしていただろうかと思う。あまり考えたこともなかった。

 社会性はあまりなかったから、普通に進学し会社にはいれば苦労しただろうなと思う。

 それに、大学にいくまで叔母は面倒はみてくれなかっただろう。

 結果論として、棋士になれたことはやはり良かったのではないかと思う。

 

「お父さんの将棋はファンが多かったよ。棋士に慕われるそんな人だった。僕ももちろん好きだった。だから、奨励会を辞められたときは随分と残念に思ってね。幸田さんなんかもうずっと勿体ないって言ってたよ」

 

 僕は、あまり父の将棋を覚えていない。幸田さんに言えば前回だって棋譜をきっとみせてくれただろう。

 けれど、それをしなかったのは僕だ。出来なかったが正しいかな。

 そこにどんな気配を見つけても、おそらく平静ではいられなかっただろうから。

 

「棋譜を……」

 

「ん?」

 

「良ければ、棋譜を見せて頂けますか? いつでも構いませんので」

 

 でも今は、見たいと思う。

 父の将棋の世界を、少しでも理解が出来たらと思う。

 

「もちろん良いよ。こんど会館に持ってきて、事務の人に預けておくよ。もしまだなら、幸田さんにも聞いてみると良い。彼と桐山さんは研究仲間だったからね」

 

「はい。実はまだ、言い出せてなくて。でも、これがきっかけで話してみようと思います」

 

 父と幸田さんは本当に仲が良かったから、思い出の品を見せてほしいと言ってしまっていいものか、少しだけ悩んでしまった。

 あとはやっぱり、見たいようで、見たくないという自分の中の弱さだ。

 

「君と将棋の話をする幸田さんは、楽しそうだよ。たぶん君が思っているよりずっとね。聞いてみると良い。喜んで色々話してくれるさ」

 

 田中さんはそう言って、僕の背中に小さく触れる。暖かく優しい手だった。

 

 沢山、たくさん聞きたいことや、知りたいことがある。

 前は、聞けなくて、知りたくなかった事。

 でも、やっぱりそれは駄目だと思う。想いや記憶は繋いでいかなければ、薄れて消えてしまうものだから。

 

 

 

 

 


 

「桐山くん、今日のお昼は、爺さんと一緒に食べようや」

 

 柳原さんの、何度目かの記録係の時にそう声をかけられた。

 

「ありがとうございます、ご一緒させてもらいますね」

 

「もう、朝からそのつもりでさ。丁度徳ちゃんも今日は会館で手が空いてるっていうから、頼んどいたのよ」

 

 柳原さんは大変機嫌がよさそうで、外に食べに行くのかと思うと向かっているのは会長室だった。

 

「俺は出前とった時に、よく徳ちゃんとこっちで食べるのさ。広々食えるしな」

 

 会長と柳原さんはずっとともに戦ってきた同志だ。気兼ねなく食べれるならその方が良いのだろう。トップ棋士が控室で食べていると、新人も緊張するし。

 慣れればどうってことは無いのだけれど。

 

「徳ちゃん~もう届いてるか?」

 

 ドアを開けながら、柳原さんは会長にそう尋ねた。

 

「お、朔ちゃん、待ちくたびれたぜ。いい匂いがしてるしよぉ。ちょうどさっき来たからまだあったけぇよ」

 

「よしよし、リーグの初戦だし気合い入れないとな」

 

 桐山もこっちきて座れっと会長に呼ばれる。

 部屋に入った時の香りからまさかとは思っていたが、これは。

 

「鰻じゃないですか、出前とったんですね」

 

「今日はそんな気分だったんだ。ほれ、お前さんもコレ」

 

「松だぞ、沢山食えよ」

 

「え⁉ うわ、すいません、ありがとうございます」

 

 松ってたしか、この店のうな重のメニューの中で一番高くなかったっけ?

 

「そういえば、……鰻はじめて食べるかも」

 

 以前は、もう何度も食べてきたし、何なら松永さんにおごることにまでなったけど、今世では初の鰻だ。

 

「えぇ、そうなの。まぁそうか、子どもはあんまり食べないか」

 

「桐山は、魚きらいか? 焼き魚苦手な子も多いよな」

 

「僕は好きですよ。施設でも嫌いな子はいますが、味というより食べにくいから苦手なんでしょうね」

 

 頂きますと、一声かけて、蓋をあける。

 食欲をそそる実に良い香りだ。

 あまり、がっつりした出前を頼む機会は少なかったけれど、僕も時々は注文していた。

 どこか懐かしい気がする。

 

「どうだい、鰻好きそうかい?」

 

「はい! とっても美味しいです」

 

「そりゃあ良かった。なんでか棋士には鰻が好きな奴が多いよなぁ」

 

「まぁ焼肉は出前だとちょっと味気ないし、スタミナついて精がつく食べ物っていえばなんとなくコレだよな」

 

 雑談をしながらもくもくと食べ進める。

 二人と同じ量だけあって、かなり多い。正直食べきれる気がしなかった。

 

「桐山は腹いっぱいか」

 

「食細くないか? 小学生ってもっと食べなかったっけ」

 

 あっさり全部食べ切っているお二人に、元気で働き続けている理由が垣間見えた気がする。

 

「まぁ、無理に全部食べるなよ。午後眠くなるぞ」

 

「そりゃ困る。俺の記録ちゃんととってもらわないと」

 

「はい、この辺にしておきます。あの、器は返さないといけないと思うので、ラップとかってあります……?」

 

「ん? あーどっかにはあるかもな。おーい、どっかにラップなかったけ?」

 

 会長の問いかけに、ありますよと事務の方が出してきたラップに、残ったご飯と鰻を包む。

 見た目がちょっと悪いが、四角い感じのおにぎりにした。

 

「お。うまいもんだな上に、鰻のせたのか」

 

「はい、あまったご飯よくおにぎりにするので」

 

 施設では余ることは滅多にないので、よくおにぎりを作っていたのは川本家での記憶だけれど。

 紙皿もくれたので、会長室の机の上に対局が終わるまでおかせてもらうことにした。

 夕方にはまたお腹もすいてくるだろう。

 

「ここの鰻の味は覚えておいて損はないぜ。どうせ長い付き合いになる」

 

「そうですね。今度は自分で注文できるようになりたいです。柳原さん、ごちそうさまでした」

 

 言うね~とちゃかす会長を横目に、柳原さんに改めてお礼を言う。

 

「いやいや、良い話相手だったよ。徳ちゃんとだけだといい加減飽きてきてね」

 

「酷いな、朔ちゃん。入り浸ってるのはそっちだろう」

 

「それにね、桐山くん。君を誘うと良いジンクスがあるんだよ?」

 

「え、何ですかそれ」

 

「一緒に昼食を食べた棋士の勝率が高いの知らないかい? すでにちょっと噂になってるよ」

 

 全くの初耳である。そりゃあ、僕と食べたことで集中が切れなければいいとは思っていたけれど。

 そういえば、確かに感想戦でお昼一緒に食べた人が勝ってる事の方が多かった気がする……。

 でも、それは、僕が以前の知り合いに懐いているし、以前からの知り合いといえばそりゃあ強い人が多いからっていうのもあると思うのだけれど。

 

「小さい記録係が幸運を運んでくるってね。お前さん、記録係の時の昼飯は、たぶん困らないぜ。もう買ってくるのやめたら?」

 

 会長にそんな風に言われてしまって、曖昧に笑うしかなかった。

 そういえば、ここ最近、誘われることが多く、前もってコンビニで買ってくるのはやめてしまった。

 昼休みに買いに行っても間に合うからというのもあったけれど。

 

 

 

 それから僕は、おおよそ一年、三段リーグを突破し、小学6年生でプロ入りを果たすまで、記録係の仕事を受け続けた。

 多くの人の対局をみて刺激をうけ、そしてまた多くの人と食事を供にした。

 “小さい記録係とお昼を食べると、その対局は勝てる”そのジンクスが、どれほど効果があったかは、分からないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




奨励会編をまとめる際におまけとして書いた話です。時系列のところに挿入。
お店は参考にしてるお店があります。将棋飯に興味がある方は調べてみて下さい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


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掲示板回【きっと未来の】小さい記録係の桐山零くん応援スレ【名人】

1 名前:名無し名人

たったか?

 

2 名前:名無し名人

仕事はやいw

 

3 名前:名無し名人

ぜったい出来ると思ってたわ

 

4 名前:名無し名人

有能な1

 

5 名前:名無し名人

いやーもう、ニコ生でみた時点でこれはと思ったね。

 

6 名前:名無し名人

小さい記録係の桐山くんな

 

7 名前:名無し名人

めっちゃ可愛いかった

 

8 名前:名無し名人

応援したい

 

9 名前:名無し名人

なでまわしたい

 

10 名前:名無し名人

>>9

おい、おさわり禁止だぞ!

 

11 名前:名無し名人

簡単なプロフィール

桐山零くん 11歳 10月から三段リーグ入り

奨励会入会は昨年の9月。入会後黒星がついたことはない。

 

12 名前:名無し名人

>>11サンクス。

しっかしまぁ……なんというか凄いな。

 

13 名前:名無し名人

宗谷名人でもここまでの成績だったか?

 

14 名前:名無し名人

いや、一年で三段リーグ入りをきめてるのは最速。

 

15 名前:名無し名人

ついでに調べたけど、2級より上の最年少昇級記録を更新し続けてる。

 

16 名前:名無し名人

俺、凄いことに気づいた。

 

17 名前:名無し名人

負けなしならそりゃそうなるよな。

 

18 名前:名無し名人

>>16 なんだなんだ?

 

19 名前:名無し名人

このまま三段リーグ1期抜けか、2期かかったとしても、小学生のプロ棋士誕生するくね?

 

20 名前:名無し名人

……

 

21 名前:名無し名人

…………

 

22 名前:名無し名人

………………

 

23 名前:名無し名人

い、いや俺も気づいてたし

 

24 名前:名無し名人

うすうす、分かってはいた。ただ言葉にするにはパワーワードすぎて……

 

25 名前:名無し名人

もし実現したら最年少がどうとか、どころじゃないな

 

26 名前:名無し名人

将棋史に新たな一ページが刻まれる。

 

27 名前:名無し名人

すっげぇ見てみたい。

 

28 名前:名無し名人

義務教育何年も残ってるから、大変そうだけどな。

 

29 名前:名無し名人

誰一人として、無理だろうとか言わないのが凄い。

 

30 名前:名無し名人

>>28かえって小学校のときは楽じゃね?あの子勉強できそう。

問題は、体力とかの方なんじゃ……

 

31 名前:名無し名人

順位戦とか持ち時間が長いからなぁ。

 

32 名前:名無し名人

>>29ここまで無敗の成績をみると実現は不可能ではないだろ。

チャンスは一回じゃないし

 

33 名前:名無し名人

もし、本当に小学生プロ棋士誕生したら、すごい話題性呼びそう。

 

34 名前:名無し名人

将棋人口年々減ってるからなぁ……再び火付け役になってほしい。

 

35 名前:名無し名人

宗谷名人の七冠の時は凄かったからな。

 

36 名前:名無し名人

また将棋フィーバーおきないかな。

 

37 名前:名無し名人

桐山くん師匠は誰なん?

 

38 名前:名無し名人

藤澤邦晴名誉九段、現在は内弟子となり師匠宅で生活中

 

39 名前:名無し名人

藤澤九段とはまた、えらい大御所だな。

 

40 名前:名無し名人

神宮寺会長世代か……

 

41 名前:名無し名人

じゃあ、兄弟子に後藤九段がいるな

 

42 名前:名無し名人

記録係のあとのお迎え……本当に後藤九段だったんだろうか……

 

43 名前:名無し名人

……想像つかないけど、弟弟子の面倒みてるんだな。

 

44 名前:名無し名人

オレ的には兄弟弟子対決みてみたいなぁ……

 

45 名前:名無し名人

>>44気が早いぞ

 

46 名前:名無し名人

どの棋士と戦ったとしても年齢差あるよね。

 

47 名前:名無し名人

今はまだ奨励会だから勝ててるだけじゃね?

プロ相手に通用するかは別問題。

 

48 名前:名無し名人

これだけの成績だから、期待はできるだろ

 

49 名前:名無し名人

三段リーグの成績がどうなるかで分かる。

 

50 名前:名無し名人

10月から気にしてよう。

 

 

 

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158 名前:名無し名人

なぁ……ちょっといいか?

 

159 名前:名無し名人

なんだよせっかく桐山くんがつかってるリュックが特定できそうだったのに

 

160 名前:名無し名人

どうでもいい話だったら許さん

 

161 名前:名無し名人

たってから数時間なのにスレ伸びすぎな

 

162 名前:名無し名人

……そうか残念だな。

俺は会館近くのコンビニでバイトしててな

いかつい顔の棋士と小学生くらいの男の子が目隠し将棋しながら帰ってるの見かけたから報告しようと思ったんだが……

 

163 名前:名無し名人

>>162

すいませんでした、どうぞお話下さい

 

164 名前:名無し名人

何それkwsk!

 

165 名前:名無し名人

絶対あの二人じゃん

 

166 名前:名無し名人

目撃者いたとかすごい

 

167 名前:名無し名人

でも……やっぱり個人のプライバシーに関わるし

 

168 名前:名無し名人

>>167

そこをなんとかお願いします!

 

169 名前:名無し名人

>>167

大丈夫です、ここだけの話にしますから!!

 

170 名前:名無し名人

まぁ……そこまで言うなら。

 

171 名前:名無し名人

>>170

ありがとうございますぅぅぅぅぅ

 

172 名前:名無しコンビニ定員

俺はたまたまゴミ出しに外にでたんだけど、対面道路の信号待ちでがたいの良い男が後ろを振り返って止まってたのね。

一体何をみてるのかと気になったわけ。

するとその男の後ろから、ゆっくりゆっくり何か紙を熱心に見ながら小さい男の子が歩いてきた。

 

173 名前:名無し名人

桐山くんじゃん!

 

174 名前:名無し名人

絶対棋譜みながら歩いてたな

 

175 名前:名無しのコンビニ定員

>>174

御名答!遠目だったけどあの感じは棋譜で間違いないと思う。

呆れたようにその様子をみてた後藤さんが、追いついてきた桐山くんの手から棋譜を取り上げてた。

たぶん、危ないだろうとかそんなようなこと言っていた気がする。

良く聞こえなかったけど。

 

176 名前:名無し名人

後藤九段……ちゃんと面倒見てるやん

 

177 名前:名無し名人

あの眼光で咎められたら、まともな小学生なら泣きそうだけど……

 

178 名前:名無しのコンビニ定員

ところがどっこい。

桐山くん言い返して、棋譜返して~みたいに手のばしてたよw

 

179 名前:名無し名人

桐山くん強いw

 

180 名前:名無し名人

後藤九段が届かないようにわざと高い位置にあげているのが見えるようだ。

 

181 名前:名無しのコンビニ定員

>>180

まさにそれ!ちょっと背伸びしても届いてなくて、可愛かった

 

182 名前:名無し名人

ぐう裏山

 

183 名前:名無し名人

みたい。絶対可愛い

 

184 名前:名無しのコンビニ定員

それで、すこし会話してたんだけど、流石にそれは聞こえなくて。

そしたら、いきなり目隠し将棋しながら歩き出したの。

後藤さんはいつもの仏頂面なんだけど、桐山くんがほんと楽しそうでね。みてて微笑ましかった。

 

185 名前:名無し名人

うわーうわーうわー

 

186 名前:名無し名人

俺ちょっと後藤九段の印象かわっちゃったわ

 

187 名前:名無し名人

俺も。こんなんちょっと子どもに素直に優しく出来ないパパじゃん。

 

188 名前:名無し名人

>>187 ちょwやめてくれよw

 

189 名前:名無し名人

>>187 パパとか駄目w響きがw

 

190 名前:名無し名人

門下の人々に可愛がられてるみたいで安心だわ。

 

191 名前:名無し名人

ほんとそれ。

 

192 名前:名無し名人

想像でしかないけど、おそらく苦労してる子だろうから、せめて今は幸せであってほしい

 

193 名前:名無し名人

師匠との相性もいいみたいだから、まぁ大丈夫だろ

 

 

 

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【三段リーグ】小さい記録係の桐山零くん応援スレPart5【連勝中】

 

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623 名前:名無し名人

ヤベェぞこれで桐山くん何勝目だ?

 

624 名前:名無し名人

三段リーグ10勝目

 

625 名前:名無し名人

奨励会入会以来64連勝中

 

626 名前:名無し名人

やばいwまともな数字じゃないw

 

627 名前:名無し名人

やっぱりこの子は特別だわ

 

628 名前:名無し名人

棋譜みてても、別格。

 

629 名前:名無し名人

心構えと準備がちがう。相当相手を研究してきてる。

 

630 名前:名無し名人

なんか流行手とか相手が指してきても卒がないんだよな。

全部想定内ってかんじ。

 

631 名前:名無し名人

三段リーグは全18戦だから……ほぼ折り返しにきたわけだが……

 

632 名前:名無し名人

全勝いけんじゃね?

この先の桐山くんの対戦相手にそれを阻めそうな目ぼしいやついるか?

 

633 名前:名無し名人

……なんとも言えない。

 

634 名前:名無し名人

三段リーグ特有のプレッシャーとかも、桐山くんは感じてなさそうだもんな

 

635 名前:名無し名人

ないだろうな……年齢制限には10年以上もあるし……

 

636 名前:名無し名人

小学生でプロになりたいという想いが本人あるにしても、小6の前期でもチャンスあるしな

 

637 名前:名無し名人

そもそも、記録係の仕事やめてないし

 

638 名前:名無し名人

あれは、本人も勉強になるからやりたいって言ってるらしいぞ

 

639 名前:名無し名人

あー前どっかの対局中継のときに言ってたな

 

640 名前:名無し名人

この先プロになってこの人たちと戦うわけだからって奴か。

 

641 名前:名無し名人

ほらーこの時点からもう他と別格。

勉強しようって意欲からして違う。

 

642 名前:名無し名人

まーな。こんだけ才能あるのに、すっごい努力家でもあるよな……

 

643 名前:名無し名人

こりゃ、プロ棋士もうかうかしてられないぞ

 

644 名前:名無し名人

ほんとそれ。

桐山くんなら若手は相手にならんかもしれん。

 

645 名前:名無し名人

A級とどれだけ、戦えるのか今から楽しみ

 

646 名前:名無し名人

ここまできたらまず間違いなく今期で突破できるだろうからな。

 

647 名前:名無し名人

歴代の四段昇段の成績みてきたけど、13勝5敗や12勝6敗が多いからな。桐山くんあとちょっとだから、絶対これくらいは取れる

 

648 名前:名無し名人

むしろ全勝で華々しいデビューをかざってほしいね

 

649 名前:名無し名人

それは無い……

と言えない所がすごい……。

 

650 名前:名無し名人

彼ならやってくれるでしょう

 

 

 

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   ・

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   ・

 

 

 

864 名前:名無し名人

ちょwおいw今日の新人戦決勝の中継見てたやついるか?

 

865 名前:名無し名人

みてたw

 

866 名前:名無し名人

リアタイでみれた幸せ

 

867 名前:名無し名人

桐山くんちょっとおろおろしてて可愛かったなぁ

 

868 名前:名無し名人

あれはw三角五段ぜったいちょっと面白がってたよねw

 

869 名前:名無し名人

え?え?何?

 

870 名前:名無し名人

何があったの?

 

871 名前:名無し名人

三角五段が、おやつに出されたカボチャタルトをさ。

自分はいらないからって、記録係の桐山くんにあげたんよ。

 

872 名前:名無し名人

桐山くん、先輩から貰ったし……でもいまは仕事中だし……みたいにめっちゃ迷ってたw

 

873 名前:名無し名人

なんで、スミスさんはカボチャタルト桐山くんにあげたんよw

 

874 名前:名無し名人

困ってたやん。え?これ食べるべきなのって?困ってたやん。

 

 

……可愛い。

 

875 名前:名無し名人

普段めっちゃ集中して、棋譜つけてるのに、ちょっとちらちらタルト気にしてたよね今日。

 

876 名前:名無し名人

わかる!いつもは微動だにしないのに、若干視線が動いてた。

 

877 名前:名無し名人

せっかく貰ったしなぁ。どうしよっかなぁ。って感じかな。

 

878 名前:名無し名人

スミスさんと桐山くんは仲良いらしいからな。

 

879 名前:名無し名人

あぁ、三角五段面倒み良さそうだよね。

 

880 名前:名無し名人

あれ、結局たべたん?

 

881 名前:名無し名人

いや、流石に記録係のお仕事中に食べる子ではない。

 

882 名前:名無し名人

ただ、ずっと気にしてたし、中継カメラはわざわざカボチャタルトをアップにするしで、俺たちももう大爆笑。

 

883 名前:名無し名人

コメント欄に定期的に、カボチャタルトの文字が躍ったな。

 

884 名前:名無し名人

おわった後、感想戦の前に一瞬席外してたときに食べてたぽいよ。

 

885 名前:名無し名人

大急ぎで食べて帰ってきたぽい。

 

886 名前:名無し名人

そんで、ちゃんと感想戦も見る良い子の桐山くん。

 

887 名前:名無し名人

全部終わった後にさカメラ切られる寸前で、廊下のほうから、桐山あれ美味かったか?って聞くスミスさんの声と、美味しかったですけどいつ食べたらいいのか困りましたっていう桐山くんの声が聞こえた。

 

888 名前:名無し名人

桐山くんぜったい(´・ω・`)って感じだよな。

 

889 名前:名無し名人

>>888

顔文字、可愛いww

 

890 名前:名無し名人

先輩から可愛がられてるよなぁ。

 

891 名前:名無し名人

桐山くん、事務員さんからも可愛がられてて、お菓子はよく貰ってるらしいよ。

 

892 名前:名無し名人

あの子は構いたくなるよなぁ……

 

893 名前:名無し名人

記録係の時もよくお昼誘われてるもんね

 

 

 

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【奨励会】小学生プロ棋士桐山零くん応援スレPart13【無敗】

 

1 名前:名無し名人

あぁぁぁぁぁぁぁ

ついにこの日がきたぁぁぁぁぁ

 

2 名前:名無し名人

新スレタイトル変わってるw有能w

 

3 名前:名無し名人

前スレまだ埋まってなかったけどいいのか?

 

4 名前:名無し名人

>>3

いいんだ、おめでとうコメントですぐ落ちる。

 

5 名前:名無し名人

いやーほんとに凄い

小学生プロ棋士だって!!!

 

6 名前:名無し名人

パワーワードすぎる。

 

7 名前:名無し名人

結局無敗だったな……

 

8 名前:名無し名人

何連勝?

 

9 名前:名無し名人

入会以来72連勝……

 

10 名前:名無し名人

ファwwwww

 

11 名前:名無し名人

72!

 

12 名前:名無し名人

すごい数字

 

13 名前:名無し名人

やはり人の子ではない……

 

14 名前:名無し名人

人間業じゃない

 

15 名前:名無し名人

良いんだよ、桐山くんは神様の子なんだ。

 

16 名前:名無し名人

無敗の天使だからな。

 

17 名前:名無し名人

>>16 でたw桐山くんを天使とあがめて愛でているガチ勢

 

18 名前:名無し名人

こんな才能あって、なんでもできたらちょっと生意気になりそうなもんだけど、それが無いんだよなぁ

 

19 名前:名無し名人

本当に良い子

 

20 名前:名無し名人

おそらく、今後インタビューやらなんやらで露出増えて、その人柄も広く知れ渡るでしょう

 

21 名前:名無し名人

ファンが増えちゃうなぁ

 

22 名前:名無し名人

喜ばしいことだ。

 

23 名前:名無し名人

同期誰だっけ?

 

24 名前:名無し名人

松本一砂四段

 

25 名前:名無し名人

松本さんかぁ……人柄的には良さそう。

変に桐山くんを意識とかしないだろうし

 

26 名前:名無し名人

松本四段もずっと、惜しい所で昇段逃してたから俺は嬉しい

 

27 名前:名無し名人

松本さん桐山くんと当たってないんだよなぁ

3位以下からひとつ勝率とびぬけれたのそれが大きい。

 

28 名前:名無し名人

>>27 そうだとしても、マッチの運も大事だし、そこまで持っていけたのは松本四段の実力だろ

 

29 名前:名無し名人

二人にはこれから頑張ってほしいなぁ

 

30 名前:名無し名人

松本四段大きいから、並んで写真とられると桐山四段の小ささが際立ってとても良い

 

31 名前:名無し名人

>>30 おいw桐山くん身長のこと気にしてるんだから!

 

32 名前:名無し名人

あれなー兄弟子の後藤九段がちびすけって呼んでるのきいたとき、笑っちゃったよ。

 

33 名前:名無し名人

二人は同門で親しいからなぁ。気安いんだろ。

 

34 名前:名無し名人

結構嫌がってたけど、桐山くん。

 

35 名前:名無し名人

あれプロになって桐山くんが後藤さんに勝ったら、止めてもらえるらしいよw

 

36 名前:名無し名人

マジで!?

 

37 名前:名無し名人

なにそれ、楽しいw

 

38 名前:名無し名人

これは二人が公式戦であたるの期待してないと

 

 

 

 

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131 名前:名無し名人

記者会みんな見た?

 

132 名前:名無し名人

みた……何あの子良い子すぎるでしょ

 

133 名前:名無し名人

なんであんないい子が、あんなに苦労してるんだ……

 

134 名前:名無し名人

答えにくいだろう質問にも丁寧に答えてたね

 

135 名前:名無し名人

長野のご実家のこととか、両親のこととか喋ってるとき辛そうだった

 

136 名前:名無し名人

それ、もうそういう事質問しなくていいから!って言いたくなったな。

 

137 名前:名無し名人

「父も、母も、妹も、皆……僕のことを空から見ててくれると思います。だから……皆に恥ずかしくない将棋を指したいです」

 

138 名前:名無し名人

あぁぁぁぁぁぁ

 

139 名前:名無し名人

やーめーてー

 

140 名前:名無し名人

泣いちゃうだろぉぉぉぉぉぉ

 

141 名前:名無し名人

今回の会見で一番の涙腺刺激コメントだったな

 

142 名前:名無し名人

単身東京の施設に預けられるとか、どう考えても厄介払い……

 

143 名前:名無し名人

ほんと酷いよなぁ

 

144 名前:名無し名人

弁護士の人が良くしてくれたって言ってたね

 

145 名前:名無し名人

そこは親族が頑張れよな

 

146 名前:名無し名人

東京にくることは桐山くんが希望してたかららしいけど……それにしたって……ね

 

147 名前:名無し名人

施設での生活は楽しかったみたいで良かった。

 

148 名前:名無し名人

今も頻繁に遊びにいってるとかほほえましいよな。

 

149 名前:名無し名人

棋士になるとか、……マイナーだろうし、止められてもおかしくないのにちゃんと桐山くんの意思を尊重してくれた職員の方々素晴らしい

 

150 名前:名無し名人

「寂しかった僕に寄り添ってくれた大切な僕の家族です。いつか皆に恩返ししたいと思ってます」

 

151 名前:名無し名人

あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

 

152 名前:名無し名人

眩しいよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ

 

153 名前:名無し名人

その言葉のとき、めっちゃ笑顔だったね……

 

154 名前:名無し名人

と お と い

 

155 名前:名無し名人

心が洗われる

 

156 名前:名無し名人

お師匠の藤澤さんともとっても良い関係築けてるぽかったね。

 

157 名前:名無し名人

ねー師匠尊敬してる! すき!ってオーラでてたわ。

 

158 名前:名無し名人

棋譜がいっぱいあるんですよって言うとき、ホント幸せそうで

 

159 名前:名無し名人

やっぱり将棋に集中できる環境にいられるのは大きいよな

 

160 名前:名無し名人

学業との両立も大変だろうけど問題なさそうだ

 

161 名前:名無し名人

成績良いぽいから、大丈夫だろ。

 

 

 

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某掲示板風?
pixivでも一時期この形式?系統?が一部で流行ってたんですよね。
3月のライオンでは見たことなかったから、折角だしと思って挑戦した気がします。
私も所謂そのニワカにあたるので本家を知ってる方には違和感あるかもしれませんが、まぁ雰囲気を楽しんで頂ければ。
あちらではこの掲示板回は、番外編として別枠でまとめていたのですが、此方は時系列で挟む事にします。

かぼちゃタルトの話は、当時なんかネタ無いかな〜って言ってたら読者の人から、こういう事があったと提供頂いたネタです。
つまり現実であった事らしいです笑


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第十手 炎の三番勝負

 

 3月にプロ入りが決まった後、僕の未成年後見人は藤澤さんに移された。

 菅原さんには一応連絡は取っていたんだけど、あの方も多忙なので、そのままになっていたのだ。

 別に何が変わるってわけでもないんだけど、師匠というものはもう弟子の親のようなものだそうで、それに同じ家に住んでる人がなっている方が便利なことも多い。

 菅原さんは時間を作り、藤澤さんの家まで来てくれた。

 会うのは施設で別れたとき以来だ。

 彼は、僕の姿をみると大きくなったなぁと嬉しそうだった。

 そして、気が付いたら将棋をしていて、いつのまにか奨励会に入っていて、あっという間にプロになってしまったと苦笑していた。

 菅原さんがくれた携帯はとても助かっていたし、彼にも節目節目で連絡をして、その度に丁寧な返信がきていたけれど、実際会うとやはり違うものなのだろうか。

 あと、同席していた幸田さんと菅原さんが仲が良かった事にも驚いた。どうやら父は幸田さん経由で菅原さんと知り合っていたらしい。

 幸田が同じ門下なら安心だとか、お前が零くんをこっちに連れて来てくれたんだなとか、お互い肩を叩きあっているのをみると、本当に気心が知れているようだ。

 

 

 

 その他にも、記者会見があったり、インタビューがあったり、それなりに春休みは忙しかったと思う。

 なんだか、テレビにも結構取り上げられてしまって恥ずかしかった。

 施設にも顔を出したけど、みんなが大騒ぎだったのだ。やはりメディアの影響力は大きい。

 

 それ以外はいつも通り、棋譜を並べたり藤澤さんと対局したりして、毎日を過ごしていた。

 会長からちょっと仕事を頼みたいから、話をききに来てくれと言われたのは、3月末の事だ。

 

 

 

 僕は家を出るのが遅くなってしまって、すこし急いで将棋会館の階段を駆け上がるはめになった。

 だから少し前方不注意だったのだろう。

 角を丁度曲がるときに、何か大きなものにぶつかって後ろにのけぞってしまう。

 

 やばっ落ちる。って思ったのも一瞬。

 

 すぐに腕を掴まれて、引き戻された。

 

「おっと……すまん。前をよく見ていなかった」

 

「わぁ! すいません、隈倉九段! 僕も良く確認してなくて……」

 

「ん、子ども……? ひょっとして会長室に用事か? ということは……君が桐山くんか」

 

「はい。桐山零といいます。この度、四段になりました」

 

「そうか……君か。対局するのを楽しみにしてる」

 

 隈倉さんは僕の事を改めて、眺めた後にそう頷いて、階段を下りて行った。

 対局?

 彼とあたるのは、随分と先のことになりそうだけれど……。その疑問は会長室で解けることになる。

 

 

 

「炎の三番勝負……ですか?」

 

「おう! 奨励会無敗、初の小学生プロ棋士! 今、お前さんの注目度は上がりっぱなし! 実際どこまで指せるのか興味を持ってる人も多い。って、わけでA級棋士とあの宗谷と対局するイベントをやってみようってわけだな」

 

 どうせ4、5月はお前さんの出られる対局なくて暇だしな。丁度、良いだろと続ける会長に僕は唖然とした。

 

「……宗谷ってまさか宗谷冬司名人ですか!?」

 

「他に誰がいるんだよ。あんなやつ二人もいたら、俺は嫌だぜ」

 

「プロになったばかりの僕なんかが、対局して良いんですか!? ていうか、その話本当に宗谷さんが受けたんですか? ……無理矢理だったんじゃ」

 

「最初は、ふーんって感じだったけど、島田に面白い棋譜があるぞーってお前の二海堂との対局みせられて、結構乗り気になってたぞ」

 

「島田さんに……あれ? まさかA級棋士二人って……」

 

「おう。島田と隈倉にした。島田はおまえさんと顔見知りだし、初戦にあてれば少しは、緊張せずに指せるかと思って」

 

 宗谷さんに、島田さんに、隈倉さんだって!?

 めちゃくちゃ、豪華な布陣だよ……こんな企画をうけてくれるなんて申し訳ない……。

 

「まぁあれだ、がっつりテレビ中継されるし、解説も入る。けど持ち時間は2時間で切れたら1分将棋な。こういう非公式の対局は総じて短めなんだよ。あとはまぁ……お前さんが望むなら相手の棋士は一枚落ちでも……」

 

「いえ。平手でお願いします。必ず、それでもみれる対局にしてみせます」

 

 会長の言葉にすぐ返答した。

 駒落ちだって? せっかくの機会なのにとんでもない!

 非公式戦とはいえこれを逃したら、この人たちと戦えるのなんて半年は先になる。とくに宗谷さんなんて、マッチングに縁がなければ、1年以上は無理だ。

 

「おぉ~いいね、いいね。桐山くんやる気じゃん! その調子で頼むよ〜」

 

「……ご期待に添えるように頑張ります。あの……収録は土日でしょうか?」

 

「そうそう。毎週日曜な。あいつらの予定はこっちで何とかするから、おまえさんはとりあえず予定空けて準備しといて」

 

「分かりました。服装……制服でいいんですよね? それとも子供用ですけど、スーツみたいなの着た方がいいですか?」

 

「制服でいいよ。その方が受けが良いだろ。

 あ、一応学校側に許可もらえよ。言いにくいなら俺から頼んでやってもいいぞ」

 

「いえ、大丈夫です。この地区にある小学校だけあって、校長はかなりの将棋好きだったので……むしろ喜ぶかと」

 

 プロ入りが決まった小5の3月。

 学校には桐山零くんプロ棋士おめでとうなんて垂れ幕は下がるし、春休み前の集会で激励されるしで、居たたまれなかった。

 あの人だったら、録画した僕の対局を授業で流そうなんて言いかねない……是非ご自分だけで楽しんで頂けるようにお願いしておかなければ……。

 

「にしても、おまえさんの制服だいぶ着崩れた感あるからな……この際新しいの藤澤に買ってもらえば? この先一年まだかなり対局で着るんだし」

 

「そうですね……普段着るのとは別に、こういう時用にきれいに置いておくの新しく買います」

 

 私服登校が普段だから、普通の子なら式典でしか着ない制服だけど、僕は、奨励会や記録係の時に常にこの格好をしていたので、だいぶよれた感じがある。

 この際新調しておくのも必要な初期投資だろう。

 

「あのおまえのこと可愛がってる爺さんなら、何着でも買ってくれるだろうに……」

 

「ただでさえ、生活費を受け取って貰えてないんです。この辺は自分でします」

 

 食費や光熱費……そのた諸々の費用……人が一人家に増えるということは、それだけ負担が増える。

 僕は幾らかお金をいれようとしたけど、当然ながら断られた。お父さんのお金は君のために大切にしなさい。と言われたらもう何も言えない。

 プロ入りしたし、これからはもっと安定してお金が入るようになるけど……この先も多分受け取ってはもらえない。自分で出せるところはちゃんとしたいものだ。

 

「生活費っておまえ……内弟子ってそういうもんだからな? 師匠にとったら子供みたいなもんなんだぞ」

 

 会長は絶句していたけれど、僕としては、彼らにあまり負担はかけたくない。これでも、精神的には大人なのだから余計に申し訳なく思ってしまう。

 

「もう、プロになりましたし、たいていの事は自分でしますよ。えっと、話はこれでもう終わりでしょうか?」

 

「あぁ、俺からの話は終わり。あとはちょっとこの後、インタビュー受けてくれや。此処に記者来てくれるから」

 

「いきなりですか!?」

 

「宣伝。宣伝。せっかく番組やるんだからさぁ~ちゃんとその前から広めておかないと」

 

「はぁ……まぁそうでしょうけど……」

 

 それから数十分もしないうちに、記者の方がやってきた。

 最初の質問はもはやテンプレである。

 いつから将棋を?

 師匠もなしで大変じゃなかった?

 施設での生活と両立はどうだった?

 記録係の仕事も頑張ってたみたいだね?

 師匠の藤澤さんとは上手くいってる?

 とかそんな感じだ。

 

 質問内容には慣れていたし、インタビュー自体も以前の経験でそれなりにこなせるので、スムーズに進んでいた。

 ただ、長野の親戚のこととか、親の事故のこととかは、はっきりとは答えずに苦笑いで、濁して終わることが多い。

 あからさまに駄目というわけでも無いが、あまり触れられたくないなぁという雰囲気をだすと、結構な人がちゃんと引いてくれるのだ。

 その辺の距離感をちゃんと察してくれる記者の方は、信用が出来ると思う。

 

 続けての質問は、今回の企画についての意気込みとかだった。

 対局相手の3人の棋士についてどう思う?

 あこがれの棋士たちと対局できてどう?

 正直、勝つ見込みは?

 とか、そのあたり。

 

 島田さんはかなり奨励会でお世話になっているからその辺も推しておいた。宗谷さんは言わずもがな、将棋界の顔である。隈倉さんもタイトル戦の常連。普通に考えたら、プロになったばかりの奴が対局してもらえる相手ではない。

 本当にありがたいし、楽しみにしていると伝えたおいた。

 勝敗については、頑張ります、とだけ答えておく。

 勿論僕は全力で勝ちに行くつもりだけど、久しぶりな高レベルな対局になる。相当な準備を重ねたとしても……果たして結果がどうなるかは未知数だ。

 

 

 

 

 

 記者の方の質問が終わって、席を立とうとしたとき会長が呟く。

 

「意外だったなー。前から思ってたけど、桐山ってこういうのもっと苦手なのかと思ってたわ」

 

「好きではないですよ。でも、プロになったら必要なことだと理解していますから。少しでも将棋界にメリットがあるなら、ちゃんと仕事は受けます」

 

「あんまり気負いすぎるなよ。本当に嫌なら言えばいい」

 

 会長は肩をすくめながらそういった。僕の意思を尊重してくれるのだろう。

 この時期に僕をつかってガンガン広報すれば、それなりの効果が見込まれるだろうに……なんだかんだで、この人も優しいのだ。

 

「僕は……将棋のおかげで今があります。将棋を通じて知り合った方々のおかげで生きてます」

 

 前はそれほど将棋が好きなわけではなかった。生きる手段というか他に選択肢がなかったから。

 でも、将棋を通じてたくさんの人々と繋がれたし、棋士になっていなければ、川本家の人たちと出会うこともなかったかもしれない。

 打ち込むうちに、いつのまにか将棋は生きがいになった。

 戻った時に再びプロになることになんの躊躇もなかったほどに。

 将棋を指すということは、僕の人生そのものなのだ。

 

「将棋界が盛り上がっていくことに貢献できるのが嬉しいんです。最近、観る人って増えてきてるみたいですし。ルールを良く知らなくても、自分じゃさせなくても将棋を好きだよって言ってくれる人が、増えるきっかけになれたらなって思います」

 

 ネットの生中継などの公開方法が功を奏した形だろう。将棋を観て楽しむというファンが一定層すでに存在している。

 

「観る将ね……、指す側の俺からしたら、見てるだけで楽しいのか? て感じだけどなぁ」

 

「今は、中継の解説も充実していますし、ソフトの普及もあって、その一手が良かったのかどうか、一般の方にもわかりやすくなってます」

 

 分かりやすい名解説をする棋士の方々も増えたし、ソフト片手にその手を解析すれば、一応悪手か良手かの見当はつく。まぁ……将棋は複雑だし、その後の展開によって、いかようにも変わってくるので、それが合っているばかりではないのだけれど。

 

「それに……スポーツだってそうでしょう。野球やサッカーを見るのが好きな人が全員そのルールや技術に詳しいわけじゃない。皆がそのスポーツをしてるわけじゃない。

 自分じゃできない、技術や攻防を誰かがやっているのをみて感動するんだと思います」

 

 僕は野球は全くできない。ルールだってたぶん基本的なところしかしらない。

 でも、プロ野球選手になった高橋君の試合をひなちゃんと観戦するのはとても面白かった。たぶんそういうものなのだ。

 

「将棋にだって、もっとそういうファンがついてくれたら嬉しいです。生意気だけど、僕がその対象の一人になれるなら光栄だと思ってます」

 

 タイトル戦やイベントに、棋士に会ってみたいだったり、歴史的瞬間に立ち会いたいだったり、そういう気持ちで全然かまわないから、来てくれる人が増えたら将棋界は盛り上がる。

 

「最初は観る将だった人たちの中で、数人でも自分が指したい、やってみたいって思った人がいたら最高ですけどね」

 

 そして、その中で一握りでも良い。力をつけて、プロまで上がって来てくれて、心躍るような対局ができたなら、僕としては、それ以上の幸せはないかもしれない。

 以前は早くに死んだから、若手はまだまだ育っている途中だったけれど、初めての対局をした子に、貴方のタイトル戦をみてプロになりたいと思いました……なんていわれたときの、言いようのない喜びは今も胸に焼き付いている。

 

 

 

 ピッと何かのボタンが押される音がした。

 

 ハッとしてそちらをみると、まだ室内に残っていた記者さんが申し訳なさそうにボイスレコーダーを手にしていた。

 

「いやーすいません。あまりに素敵な話をされていたので……つい職業柄……。あの、今のやりとりも記事に入れてしまっても良いでしょうか?」

 

「えっ!? あー……いや、ちょっと、生意気すぎませんかね……」

 

「いいよーいいよー。どんどんやっちゃって下さい。会長権限で許可します」

 

 僕はうろたえて難色を示してみたが、会長は面白そうに手を振って、そうこたえてしまった。

 その記者さんは嬉しそうに、絶対に良い記事にしますっと言って去っていく。

 ……あまり話を盛りすぎない、普通の記事に是非して頂きたいものだ。

 

 

 

 最初の対局である島田さんとの第一局は4月の第2週の日曜日に決まった。

 僕はその日までに、彼の棋譜……特に近年のものを集めて、並べまくった。

 将棋にも流行があるし、同じ人でも時期によって、得意としている戦法や使いたがる技術が変わってくる。

 注目したのは彼の昨年のB1順位戦だ。A級にあがるために、相当気合いをいれて一局一局指しているのが分かる。

 

 夢中になりすぎて、なんど食事の時間をすっぽかしそうになったことか。

 最近ではシロだけでなくて、クロも僕の事をよびに来てくれることもある。

 あの子はシロと違ってまだ加減が下手だから、足の指を齧られたりすると普通に痛い。

 まぁ……おかげで奥さんに迷惑を掛けずに済むので、有り難いんだけど。

 

 

 

 


 

 あっという間にその日はやって来て、新調した制服に袖を通し、収録の現場に向かう。

 少しだけ緊張していたけど、ほどよい高揚だったと思う。

 早めに収録現場に入って、スタッフさんや、この対局のためにわざわざ記録係などをしてくれる将棋関連のひとたちに挨拶して回った。

 皆頑張ってねとか、応援してますとか声を返してくれる。

 期待に応えられるような将棋にしたいと思った。

 

 後からやってきた島田さんは、僕をみつけると声を掛けてくれた。

 

「桐山、お疲れ。今日はよろしくな」

 

「お疲れさまです。今日はよろしくお願いします。それから、A級昇級おめでとうございます」

 

 僕の言葉に島田さんは、ちょっと目を見開いた後に、優しく笑った。

 

「ありがとう。そっちも、プロ入りおめでとう。絶対なるだろうなとは思ってたけど、まさか一年半で奨励会を抜けるとはなぁ」

 

「はやく。出来るだけはやく皆さんと指したかったから……。だから、今日とても楽しみにしてきたんです」

 

「そっか。緊張してんのかと思ったけど、そうでもないみたいだし。いい対局にしような」

 

 対局前にまたインタビューもあったけれど、僕は集中し始めていて、なんて答えたかはもうあいまいだ。

 たぶん当たり障りのないこと答えて終わったと思う。

 

 

 

 対局は僕が先手。

 そして、戦局は将棋の純文学と謳われる居飛車の看板戦法、「相矢倉」になった。

 

 そう。僕が以前島田さんと最初にした対局の時も相矢倉だった。

 でも、今回は違う。

 僕には島田さんしか見えていないし、他の対局のことなんて微塵も頭の中にはなかった。

 

 序盤はおなじみの定跡手順を踏襲し、後手玉が、先手玉に続き、「矢倉囲い」の中へと入城を果たし、「相矢倉」が完成する。

 

 僕が現代の矢倉の主戦ともいわれる4六銀3七桂型に構えると、島田さんは、先手である僕の「穴熊」をけん制する9五歩型で対抗。

 

 戦況は拮抗して、局面は煮詰まりつつあった。

 けれど、焦ってはいけない。

 慎重になりすぎてもいけない。

 ぐっとこらえつつ、好機を待ち続ける。

 

 そして、60手目に島田さんが香車を一段繰り上げたのをみて、仕掛けた。

 激戦地から、遠く離れた過疎地帯に後手の香車を釣り上げてから、あいたスペースに持ち駒だった、銀を投入。

 

 先に指しておいた2五の桂馬も利いているし、その先で1三の地点を見据えて6八の角という手もある。

 かなり好戦的な一手だ。

 島田さんは、堅実な道をとった。玉を3一の地点へと引き下げた。

 

 

 その一手を待っていたのだ。

 

 

 玉の下がりをみて、僕は1三の銀を金との交換で捌き、島田さんの矢倉を力強く崩しにかかった。

 

 矢倉の屋根をなしていた歩をバリバリとはがす。

 その後も、手が途切れることなく攻め続けた。

 

 島田さんはこのままだとジリ貧になるとおもったのだろう。9筋に桂馬を投入し、攻め合う姿勢を示してきた。

 このあたりの柔軟さは流石としか言いようがない。

 

 僕はこれに対し持ち駒を補充して、反撃を受け流し続けた。

 

 

 

 全、115手目。

 洗練された定跡とその一歩先をいった手がかみ合った、美しい純文学が、島田さんの投了で幕を閉じる。

 

 すがすがしいほどの、高揚と達成感だった。

 とても美しい棋譜になったと思う。

 戻って来てから数年。

 こんなに充実した対局はなかった。

 

 

 

「島田八段どうでしたか? 桐山くんとの対局は」

 

「彼の読みの深さは分かっていました。小学生と思ってはいけないことも、奨励会時代を傍でみてきた私は、痛いほど理解していたつもりでした。

 けれど、見事にその想像の上をいかれましたね」

 

 島田さんは苦笑しながら、記者からの質問に答えた。

 

「桐山四段はどうでしたか? 初めてのA級棋士との対局でしたが」

 

「島田八段と相矢倉で対局できたことがまず光栄でした。

 これほどの掛け合いはなかなか出来ることではないですから」

 

 相矢倉はお互いが、そうしようとしなければ成立しない形だ。島田さんがまず応えてくれたのが嬉しかった。

 

「途中拮抗していた戦況で先に仕掛けたのは、桐山四段でしたね? いけると思ったきっかけなどはありましたか?」

 

「……切っ掛けという程でもないですが、島田八段は去年のB1順位戦の第4局で同じように相矢倉を指されています。その時の戦況を少しだけ参考にさせて頂きました」

 

 その対局のとき、島田さんは他の陣での戦局よりも、まずは自陣の矢倉の囲いを優先させていた。

 今回も僕が、荒らしに一手でれば、玉をさげてくれるという読みがあった。

 

「と、いうことですが、島田八段いかかがでしょうか?」

 

「……いやぁ驚きましたね。確かに僕は去年の順位戦で相矢倉を指してますよ。言われてみれば、中盤のやりとりだけはその対局と似ています。それにしても、桐山四段は随分と研究されていたようだ」

 

「桐山四段は、やはり最初の対局というだけあって準備をされたのですか?」

 

「手ぶらでA級の方とあたって、どうにか出来るとは思っていませんでしたから。4月に入ってからは、ずっとこの対局のこと考えていました。僕には、少し情報が多くて時間があった。たぶん、それだけのことです」

 

 たかが奨励会員の僕の棋譜は当然すくないし、こういってはなんだけど本気で指したものは、本当に僅かしかない。

 情報量の差だ。

 

 その後は感想戦になった。

 島田さんの一手一手の深みはやはりすごい。

 これが1分将棋でなければ、後半ひっくり返されていただろう場面が、後から考えれば沢山あった。

 僕が見えていなかった、ともすれば死活にまでなりそうな手もあったのだ。

 辛勝だったと思っている。

 

 あぁ……また、公式戦で当たる時が楽しみで仕方がない。

 

 対局のあと、会場を後にするとき島田さんに声をかけられた。

 ついに研究会を開くらしい。

 同期と同門の若手に声をかけているけど、桐山が嫌でなければ一緒にどうかと言われて、すぐに快諾した。

 藤澤門下ではあるけれど、師匠は別に流派とか、門下のくくりに拘りをもつ人ではない。むしろ学びたいなら何でもしろ、というスタンスなので、僕が外の研究会にいくことも歓迎してくれるだろう。

 また島田研で集まれることは楽しみだった。

 

 

 


 

 次の隈倉九段との対局は、4月の下旬の日曜日だった。

 島田さんとの対局からちょうど2週間あけてのことだ。

 

 対局前に撮影をすることもあるんだけど、僕と隈倉さんの体格差といったら……。

 ただでさえ、細身で小さいといわれている僕だけど、これではよりそれが目立ってしまう。

 まぁ……言っても、仕方のない事なんだけど。

 

「あの時以来だな。今日は俺も楽しみにしていた。前回の島田との対局は見事だったよ」

 

「こんなに早く対局できるとは、あの時は思ってもみなかったです。今日はよろしくお願いします」

 

「ほら。これをやろう」

 

 ポンッと差し出された袋に思わず手を出す。

 

「えっと……?これは……?」

 

「菓子だ。桐山は菓子が好きだと事務員からきいたんだが違ったか?」

 

 それは……合っているような……確かに僕は事務の人からのお菓子を喜んでもらっていた。目的は施設の子たちへの差し入れだけど。

 

「あ、ありがとうございます。頂きます」

 

 でも、有り難く頂いておく、べつに甘いものは嫌いじゃない。

 

「ああ。子供はちゃんと食べた方がいい。特に将棋は驚くほどエネルギーを使うからな。対局中も気を付けろ。菓子も飲み物も、自分で持ち込んでいいんだからな。どうすれば、最高のパフォーマンスができるのか、自分にあったスタイルを見つけていけばいい」

 

 僕自身は、あまり食べ物をもちこむタイプではなかったけれど、対局中に食べるのは結構大事だったりする。

 タイトル戦ですら、食事だけでなく、おやつの休憩があるくらいだ。

 考えるということは、それだけ脳にエネルギーを使う。

 それを補給しようとすることは、普通の事だ。

 

 僕は、それすらあまりしないタイプだから……なんとなく、そんなんじゃ大きくなれないぞ、と言われてる気がした。

 

 

 

 

 

 対局がはじまる。

 今回も僕が先手。

 まずは両者角道を開けて、僕は居飛車を明示した。

 隈倉さんは、それに対して美濃囲いを完成させていく。

 

 そのまま僕たちは、中盤までお互いに駒組みを続けた。

 

 そして、僕が飛車を自陣最下段へと引き下げた次の瞬間、 隈倉さんは僕の角頭目掛けて歩を突き出し、仕掛けを開始した。

 

 これはかなりまずかった。

 戦況が一気に僕に不利な方へと傾く。

 

 ここで、たった2時間しかない持ち時間を使って、僕は長考に入った。

 経験上、この流れを止めないとマズイと僕の直感が言っていたから。

 この先の何十手を見据えて、思考の海をおよぐ。

 頭が擦り切れるような感覚が、懐かしかった。

 

 いくつかの手数の中で一番可能性がありそうなものを選び出す。

 そして、すこし前に出ていた自身の角を引いてみせた。

 

 後ろ向きにも思える手だ。

 たぶん僕が引いたと思ったのではないだろうか。

 

 隈倉さんはすぐに、飛車を先にすすめてきた。

 

 そう。そうしてきてほしかった!

 僕は自らの飛車先を2筋の歩を突き合わせ、すかさず反撃に転じる。

 

 大駒を押さえ込んでから桂交換し、多彩な差し回しで、主導権を握りかえした。

 

 急転。

 流れは僕の方へ傾き、その勢いで隈倉さんの玉を打ち取りにかかった。

 

 105手目にして終局。

 かろうじて逃げ切ることができた。

 

「桐山四段は長考してからその後は、畳みかけるような早指しでしたね。その後の展開はある程度予想通りだったのでしょうか?」

 

「はい。あの時、角を引いてうまく飛車を誘えれば、流れを引き込める自信はありました。

 でも、隈倉九段に読まれてしまえば、完全にあのまま負けていたとおもいます。中盤はかなり苦しい展開でしたから」

 

 正直中盤の形勢不利は僕の失着からだと言っていい。そこまで悪い手でもなかったのだが、A級相手には甘い手だったのは確かだ。

 

「隈倉九段はそのあたりいかがでしょうか? やはりあの長考後の一手が決め手でしたか?」

 

「それで、間違いないでしょう。長考後の手にしては、普通だなと思ったのですが……私が、甘かったですね。その後の展開は見事の一言です。終盤は難しい展開も多かったはずですが、桐山四段は、全く間違えなかった」

 

「敗因はなんだと思われますか?」

 

「侮っているつもりはなかったのですが……私の慢心でしょう。あの一手がA級の順位戦で指されたものなら、ぜったいに安易に飛車をすすめたりはしなかった。それをしてしまったのは、彼がそこまで読んでいると思わなかったからです」

 

 隈倉さんは重く、静かにそう告げた。

 

「公式戦での対戦を楽しみにしている。次はきちんと君の将棋を研究してから挑ませてもらおう」

 

 たぶんこれほど、嬉しい言葉は無いだろう。

 A級棋士にはっきりと、研究させてもらうと言われたのだ。

 

「……はい。はやくそれが実現できるように頑張ります」

 

 僕は静かに頭を下げた。

 他に言葉が見つからなかった。

 

 

 

 

 

 世間で、テレビ中継されていたこの対局は、二局とも僕が勝利したことでより一層の注目を集め始めた。

 対局内容も申し分ないと将棋ファンの間でも人気らしい。

 会長からもこの調子で頼むよ、と背中を大きく叩かれた。

 

 

 

 

 

 


 

 そして、5月頭。

 僕はついに宗谷さんと対局する。

 

 

 この人の傍は、相変わらず湖の底のように静かだ。

 今日は耳が聞こえている日かどうかは、分からなかったけれど前回の経験があるから、何か不都合がありそうならフォローに動くつもりはあった。

 タイトル戦も常連となり、彼となんども対局するうちに、その辺のさじ加減も上手くなってしまって、前の時は会長に随分と有り難がられた。

 

 でも、インタビューは何の問題もなく終わったし、どうやら今日は調子が良い日だろうと、会ってみればなんとなく雰囲気で分かった。

 

 対局は静かに始まる。

 今日は宗谷さんもスーツ姿だったけれど、やっぱり白い大きな鳥に似ているなって思った。

 呑まれてしまうほどの威圧感。

 それすらも懐かしいと思う。

 

 再びこの人と対局できることが泣きたくなるくらい嬉しかった。

 

 自然に指し合って、お互い相手を探るようにそっと対局が進んでいく。

 そして、僕はある流れまで来た時に気づいた。

 

 

 

 

 

 これは、前回の記念対局と全く同じ流れだ。

 

 

 

 

 

 その瞬間、駒を持つ手が震えてしまった。

 まさか、本当に?

 この対局さえもやり直させてくれるのか?

 将棋の神様はそこまでしてくれるというのか。

 

 僕が今まで見てきた対局で、以前の記憶とまったく一緒になった棋譜は無い。

 どれも途中で指し道が違ったり、勝敗すら変わってしまっていることもある。

 

 そんななかで、63手まで同じということがあるなんて、奇跡としか思えなかった。

 

 落ち着け。

 冷静に指すんだ。

 ずっと心残りだったじゃないか。

 あの時の対局で、最善手を指し続けることが出来たなら、その先に広がっていた世界はいったいどんなものだったのだろうと。

 それくらい、僕にとって宗谷さんと創り上げたあの記念対局での棋譜は特別なものだった。

 

 そうして、やってきたその瞬間に、ぼくは敗着だった7四歩ではなくて、6六銀を指した。

 

 さぁ。この先は未知の世界だ。

 その中で1番心が惹かれる、そんな終局へと駒を進めて行く。

 

 研究も経験も、重ねた時間の差も、圧倒的に及ばなかったあの時とは違う。

 僕には、僕が重ねて来た時間があって、築きあげてきた将棋がある。

 

 水が流れ隅々までいきわたって行く感覚。

 真っ白な空間で、ただずっと二人で指し合っているそんな感覚。

 

 そして、この対局は僕にとって特別だ。

 何十通りだって、かんがえたもしもの世界。

 間違うわけがなかった。

 

「負けました」

 

 しんと静まった室内に、ぽつりと静かな声が響いて、僕ははっとした。

 

「あ……ありがとう、ございました」

 

 慌てて頭をさげて、そしてあぁ……もったいないと思った。

 終わってしまった。

 とても、楽しい時間だったのに。

 

 場は不思議な雰囲気に包まれて、記者の人は少し質問しにくそうだった。

 

「えーとても、混戦になっていたようで、戦況を把握するのが難しかったのですが、宗谷名人ペースだったのでしょうか?」

 

「序盤は、ほぼ拮抗していました。ですがどちらかと言えば、私のペースだったと言っていいでしょう。しかし、中盤以降。間違いなく戦況を握っていたのは桐山四段です」

 

 記者は、はっきりと明言した宗谷さんの言葉に驚いたようだった。

 慌てて僕に、水をむける

 

「と、いうことですが、桐山四段いかがですか? なにかキーポイントなどあれば」

 

「序盤は定跡通りの美しい流れだったと思います。変化があったのは宗谷名人が指された2八銀です。そこから、新しい展開が広がって行ったと思います」

 

「名人はいかがですか? やはりその一手が鍵を握っていたのでしょうか」

 

「すこし、流れを変えてみたいなと思って指した一手でした。桐山四段は綺麗に受けて応えてくれました。その後の、難しい局面の立ち回りも見事でしたね。……惜しいな。遊び手が過ぎました。こうなると分かっていたなら、2八銀は指さなかった」

 

 記者の人も驚いていたけれど、僕も相当びっくりした。聞いたことがないような声だった。

 本当に、この対局を惜しんでくれている。

 

「しかし、本当に美しい棋譜です。これがもし公式戦なら表彰の対象になった程でしょう」

 

 

 

 

 

 

 感想戦は異様なほどの盛り上がりを見せた。

 僕が示した手に宗谷さんが食いついて、そこからどんどん波及していったり、かと思えば別の場所が気になって、いきなり話がとんでみたり。

 不思議なことに、彼が考えている事とか、やりたいことが良く分かるのだ。

 波長が似ていると前から言われていたけれど、以前にも増している気がする。

 

 楽しくて仕方なくて熱中していたのだけれど、会場の借りている時間があると、ついに会長が待ったを掛けに来てしまった。

 

「もー!! お前ら何なの!? 楽しそうなのは、俺も嬉しいけど、そろそろ終わりなさいっ!」

 

「え!? あ、すいません。そんなに時間経ってたんだ……」

 

「そーだよ。もう10時まわってんの。周りみてよ。ほとんど全部かたづいてるでしょ? あと、桐山、お前明日学校だろうがよ。藤澤から俺の方にまで催促の電話きたぞ。零と連絡がつかない。対局はもう終わってるんじゃないのかって」

 

「わー!!ほんとだ。通知が……。心配かけちゃったな……申し訳ない……」

 

 慌ててカバンを探って、携帯を見てみると、確かに藤澤さんから着信が入っている。まさか、こんなに時間がたっているとは思いもしなかったのだ。

 

「宗谷もよ。ちゃんと気を付けてやってくれよ、お前良い大人なんだから。小学生をこんな時間まで引き止めるんじゃありません」

 

「小学生……」

 

 宗谷さんは、会長の言葉に改めて僕の事を、上から下まで、まじまじと見つめた。

 

「ほんとだ。君、随分ちいさいね」

 

「小さいね……じゃねぇよ!! 俺ちゃんと話したよね? 小学生プロだって」

 

 会長のつっこみに、彼はゆっくりと首を傾げると淡々と答えた。

 

「あぁ……確かに。そんな気がします。でも、棋譜しか目に入ってなかったからなぁ……」

 

 この人。やっぱり天然なところは変わっていないようだ。

 今、カメラが回っていなくて本当に良かった。

 

「そうか、学校があるのか。大変だ。でも、残念だな……このまま場所を移して、朝まで検討したかった」

 

 その言葉は、ぼくにとっても魅力的すぎて、是非お願いします! と応えてしまいそうだったけれど、会長から馬鹿言ってんじゃねぇと突っ込みが入って、当然流れた。

 

 あぁぁもったいない。宗谷さんと朝まで指せたのに……。

 本当にこういう時は、この小さい身体が疎ましいのだ。

 

 会長がついでに藤澤さんの家まで送って行ってくれるというので、ご厚意に甘えることにした。

 会場を出たところで別れる際に、宗谷さんからもう一度声が掛かる。

 

「次は、檜舞台の上で。君が勝ちあがってくるのを待ってるよ」

 

「はい。必ず! そう長くはお待たせしません」

 

 僕の返事に、彼は穏やかに微笑んだ。

 

 

 

 

 炎の3番勝負は、結果的に僕の3勝で幕を下ろす。

 このことで、世間からは実力がともなった小学生プロとして、より一層の注目を浴びた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 はい。というわけで、桐山くんの炎の3番勝負は全勝でした。
 この企画は某棋士さんがプロになるときにもしてましたね。
 このお話を初出したのは2017年の時。その炎の七番勝負の印象がまだ色濃く残っていたので、使わせて頂いた覚えがあります。

 正直、宗谷戦はかなり桐山くんに有利でしたので当然の結果です。
 まともに指せばこうはいきません。でもあの記念対局のネタは絶対どこかでやりたかったので、此処で使わせてもらいました。
 隈倉戦も勝敗はわりとすぐに決めてました。問題は島田戦です。正直負けることも考えたんです。島田さんならちゃんと桐山くん研究してきてくれそうだなって。だけど、まだその時じゃないかなと思いました。
 彼にもし黒星をつけるなら、ちゃんとした公式戦の大きな試合が良いなってちょっと考えてます。
 
 次は宗谷さんの視点


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第十一手 君と僕は似ている

 

 僕はたぶん将棋が無ければ、今日まで生きていなかった。

 将棋との出会いが、僕の人生に色を与え、活力を与え、ただそこに「在る」のではなく、「生きる」と言うその意味を教えた。

 

 もうほとんど覚えていないし、顔も声も忘れてしまったが、僕にも両親と呼ばれる人たちがいた。

 彼らは、世間では俗にいうエリートで、どちらもある分野で一流のとても有能な人たちだったらしい。

 

 ただ、仕事は一流でも家庭には、とんと向かなかった。

 

 本当になぜ結婚し、子どもをもうけたのか謎である。

 後からいわれたが、周囲が独り身でいることにうるさく、それを黙らせるための半ばビジネスのような結婚で、子どもが出来てしまったのは事故のようなものらしい。

 

 本当に煩わしそうに、別にほしくなかったのに……と呟いた女の言葉を覚えている。

 

 彼らが家にいたのを観るのは週に数回、僕の養育のほとんどはベビーシッターや家政婦そのた雇ったひとたちに任されていた。

 それが普通のことだと思っていたし、親というものは、そういう生きるための最低限の援助をしてくれる存在だと認識していた。

 家族とか、愛情とか、そんなものは存在しなかった。

 

 家庭教師も付けてくれた。英才教育極まれり。

 幼児に与えるような教育量ではなかっただろうに、僕はそれを当然のようにこなしていたし、疑問にも思わなかった。

 ただ、人とはほとんど関わらず、仕事で自分の世話をしてくれている人達しかいなかったせいか、どうにも会話は苦手だし、情緒というものを育てていくその時期に、あまりよろしくは無かったのだろう。

 今も、人の気持ちをくんだり、自分の感情を発露するのは苦手なままだ。

 

 薄氷の上に成り立っていた、そのハリボテの家庭が壊れるのは簡単だった。

 もともと、仕事の関係で、僅かな時間さえも家庭にとられるのも嫌がっていた2人のサイクルが決定的に合わなくなった。

 離婚の合意まではすぐに至った。

 

 けれど、子どもをどちらが引き取るのかという話になった時、盛大に揉めた。

 どちらも養育費は幾らでも払うと良い、そのかわりそっちが引き取れと譲らなかったのだ。

 両者弁護士まで駆り出して、大事になった。

 

 その様子を僕はずっと、扉の影からみていた。

 そんなに、もてあますくらいなら、最初から作るなよって今でも思う。

 

 結局旗色がわるくなったのは、女性の方だった。やはり父子家庭よりも母子家庭の相対数は多いし、この国の制度や習慣的にそうなるのはまぁ仕方ない面もある。

 彼女は考えに、考え、既に絶縁に等しかった自分の母親の存在を思い出した。

 

 引き取ることになった僕をつれて、京都へ行き、その母親、つまりは僕の祖母にあたるその人の家に、大量のお金がはいった通帳とともに置いていった。

 

 別に、そのことに対してなんの気持ちも沸かなかった。

 ただ、あぁ次に僕の世話をしてくれるのは、このおばあさんになるのだなってそれだけだった。

 

 夢をひたすら追い続け、家にもかえらず、もうとっくに自分の事を忘れたであろう、娘が突然おいていった孫。

 祖母からしたら、いい迷惑だっただろう。

 

 けれど、その人は、あの娘はほんとしようのない……と頭を抱えたあと、おいで一緒にご飯を食べようと、僕に声を掛けてくれた。

 

 そこからの生活は不思議だった。

 祖母はぼくにも料理や掃除を手伝えと言った。

 必要があるのかと聞くと、あきれた後に、一般的にこういうことはなんでも経験しておくべきだといわれ、一から全て教えてくれた。

 失敗しても怒らなかった。何が悪かったのかを教えてくれた。上手く出来たら褒めてくれた。

 

 一緒にご飯を作って、一緒にたべて、片づけて、なんだか前よりずっと美味しく感じたし、胸が暖かくてすこしこそばゆかった。

 そういう感情を「嬉しい」ということを、祖母から教えてもらった。

 

 他にも、何度やっても上手くいかなくてイライラする感じが「怒り」、せっかく育てていた花が上手くいかず枯れてしまったときの気持ちが「哀しい」、沢山たくさん教えてもらった。

 

 そして、祖母家にあった、将棋盤と駒をつかって、初めて将棋を指したときの、わくわくとしたその気持ち。

 それが「楽しい」という感情だと僕は初めて知ったのだ。

 

 良く分からないけれど、これだという気持ちがあった。

 

 僕は駒を握り、盤上に美しい軌跡を残すことに、一瞬で魅せられてしまったのだ。

 

 ルールはあっという間に覚えてしまった。

 早くに亡くなったという祖父が残していた、将棋本を貰って読み漁った。

 祖母はすぐに相手にならなくなった。

 

 近所のお爺さんたちを紹介してもらって、指しまくった。

 半年もすれば、そのあたりで一番強いのは僕になってしまった。

 

 その人たちから紹介してもらった将棋大会にでて、その場で歳の近い、同じように将棋に魅せられてた子たちに出会い、僕はこの世界にのめり込む。

 

 特に、土橋くんとの対局は最高だった。

 はじめて将棋に出会った時のような新鮮さと衝撃があったし、何より同い年の子とこのレベルで指せるということに心が躍った。

 その後も、なぜか大会にでると決勝は僕と彼。

 でも、彼と指すのは楽しいから、それで満足だったし、そのあと感想戦をするのも楽しみだった。

 

 将棋を通してだと、僕はとてもすらすら話せたし、相手の考えていることや、感じていることがよく分かるのだ。

 

 将棋を通さないと、全てが遠くてめまぐるしくて、良く分からなかった。

 

 僕にとっての将棋は他者との交流手段であり、他人と繋がれる唯一の方法だった。

 

 だから、プロになるということに、何の疑問も抱かなかった。

 将棋以外でしたいものなどなかったし、他に生きていける世界はなかった。

 

 

 

 プロの世界というものはもっと、楽しいものではないかと思っていたけれど、そうでもなかった。

 将棋にすべてを掛けていて、本気で望んでいる人ばかりではなかった。

 対局してみてとても落胆して、こんな風にしか指せないのに、将棋をしている意味があるのか? と問いかけたくなる時もあった。

 いや……ひょっとしたら口にだしていたかもしれない。

 

 美しい棋譜、記憶に残る名局、新しい一手、そういうものを渇望し続けていたし、自分がそれを生み出す存在になりたかった。

 

 順位戦やトーナメントを勝ち上がりその先で待っていたのは、まさに求めていた世界。

 

 A級棋士、タイトルホルダー、彼らとの対局は僕の将棋に衝撃をあたえ、そしてまた進化させてくれた。

 とくに21歳の時の名人戦、神宮寺名人との対局はいまでも忘れることが出来ない。

 惜しむらくはその後、僕が名人を奪取してから、会長の強さにかげりがみえはじめ、再戦をのぞめなかったことだろう。

 

 その後数年のタイトル戦は面白く、年上の将棋界の牽引者たちと繰り広げる激戦は、僕を魅了した。

 四六時中将棋の事を考え、棋譜を並べ、研究し、新手を考え続ける日々。

 他者とは違うスピードで自分が駆け上がって行っていることは何となく知っていたけど、あまり気にしていなかった。

 

 でも25歳の時、七冠を達成してこの世界の頂点に立った時。

 愕然とした。

 僕の前にたち、将棋界を作っていた人たちは、皆引退したり、クラスを落とし始めていた。

 僕を除く若手はまだまだ育っている途中で、しばらくは宗谷名人の時代が続くだろうとどこのメディアも書きたてた。

 

 僕の……時代?

 そんなものは、求めていない。

 僕は、同じくらいのレベルで将棋をさし、美しい棋譜を残したり、意表を突かれる一手を示されたい。

 相手を知って、同じ空間と瞬間を共有し、一つの世界を創りだす。

 それが醍醐味なのに、そうしたいと思える相手を僕はほとんど失った。

 

 その上、良く分からない雑務が増えた。

 

 神宮寺名人はいつの間にか会長になっていた。

 僕が動きやすいように色々、気を使ってくれるけれど、それでもやっぱり将棋界の顔といわれる名人位に在位するということは、仕事は避けては通れない。

 スポンサーのご機嫌をとらないといけない時もある。

 世間の注目を集めるための企画に出ることもある。

 その合間に、免状も書かないといけない。

 

 以前は全ての時間を研究にあてられていたのに、それが少しづつ削られていく。

 

 絶対知らない人なのに、知り合いだと言ってくる人が増えたり、自分の娘や親戚を嫁にどうだと薦めてくる人もいた。

 色んな雑事と、その他の雑念が煩わしくてしかたなかった。

 

 だからまぁそれがストレスになっていたと言えばそうなのかもしれない。

 

 

 

 

 ある日突然、僕の耳は外界の音を拾うことを拒んだ。

 

 

 

 

 最初は今日はやけに静かだなって思っていた。

 でも、その日免状のために会長室にいって、声を掛けられてやっと気づいた。

 何度も何度も、会長が何か言っているのに、まったく聞こえなかった。

 口元の動きでだいたい、何を伝えたいのかは分かったけれど。

 

 とりあえず、大事にはしたくなかった。

 病院にも一応いって検査をしたけど、結局原因はわからずじまい。

 一応治療だなんだと投薬を試してみたり、色々したけど、通う事すら面倒だし、全く効果が見られなかったので止めてしまった。

 会長は散々、心配してくれて、医者を探してくれたり、僕のために動いてくれたりしたので、悪いなとは思った。

 

 でも、静かで実害がほとんどなかったから、別にいいやって思ってしまったのだ。

 

 将棋を指すとき、秒読みが聞こえないのだけは困るけど、それも自分の体内時計を鍛えれば問題なかったし、そもそも秒読みまで行くこと自体が少なかった。

 それに、駒音だけはやたらと拾えたり、タイトル戦のまさに指しているその時は都合よく将棋関連の音は良く聞こえたりした。

 

 将棋以外いらない。

 結局はそういう事なんだろう。

 

 それから、しばらくして、土橋くんがタイトル戦に現れるようになったり、島田がちょくちょくトーナメントを勝ち上がってきたり、僕の周りは少しだけにぎやかになってきた。

 

 気合いがはいる対局がまた少し増えてきて、やっぱり将棋は楽しくて、耳の調子はいまいちだったけど、僕自身はあまり気にしてはいなかった。

 

 

 

 

 

 ある日会長が次にプロになる子と対局するテレビ企画の仕事を持ってきた。

 正直、あまり興味はなかったし、やる気もなかった。

 でも、やたら会長が推してくるから、まぁ受けても良いかなって思った。

 

 気のない僕の様子が分かったのだろう。

 同じくメンバーに選ばれていた島田が、一枚の棋譜を見せてくれた。

 

 おそろしく整った。

 終局までの筋書きがみえるような棋譜だった。

 高度な指し回しもみえるから、両者の力がある程度あるのは分かる、そのうえで片方が明らかに戦局をリードしている。

 

 これが、奨励会員同士が指した棋譜だって?

 

 僕は土橋くんと初めて対局したときの高揚感を思い出した。

 ひょっとしたら、新しい波がくるのか?

 その波は、僕を脅かしてくれる存在になりえるのだろうか。

 

 桐山零というその次にプロになる子の棋譜を島田経由で少し流してもらって、対局の日までに眺めた。

 その他の棋譜は残念ながら、相手との棋力に差がありすぎる。あまり参考にはならなかった。

 けれどそれが、彼のより一層の強さの証明のように思えた。

 

 第一局の島田戦、第二局の隈倉戦をみて、その気持ちはさらに高まった。

 新人とは思えない。

 隈倉さんは少し油断したようだけれど、それでも中盤それほど悪手だったわけではない。でも、それを見逃さない洞察力。

 島田との対局は見事としか言いようがない。

 島田は彼のことをよく見て来たようだったから、それなりに準備をしていたが、それ以上に彼は島田のことを研究しているのが良く分かった。

 

 

 

 

 

 そして、迎えた対局の日。

 幸い耳も調子が良かった。

 

 彼との対局は、とても心地よかった。

 ちゃんと僕の問いかけにたいして、響くような最善手が返ってくる。

 

 あまりに楽しくて、すこし変化をつけてみようと指した2八銀。

 さっと受けられて、そこから一気に流れを持っていかれた。

 

 その後、思いつくままに、あの手この手で揺さぶってみたけれど、全く動じない。

 静かにそこに流れていた川に、僕は流されるだけだった。

 

 惜しいことをしてしまった。

 もっとやりようもあったが、あの2八銀……あれは彼に対しては指すべきではなかっただろう。

 

 その後の感想戦も良かった。

 何故か僕が言わなくても、どこの手の話をしているのかついてきているし、突然別の一手の流れが気になって、話を飛ばしてもそれすらも共有してくる。

 彼が何が言いたいのか、言葉にされなくても指し手をみればわかった。

 これほどスムーズで、深く没頭できた感想戦は久しぶりだった。

 止めにきた会長が怨めしいくらいだ。

 

 その時、会長に言われて初めて、彼の姿をまじまじと眺めた。

 

 小さい。

 とても細くて小柄だ。

 そう言えば、駒を指す手も小さかった。

 

 将棋しか見えていていなかったが、その時初めて桐山零という個人を認識した。

 

 まだ小学生だという。

 あと4年も義務教育がある。

 難儀なことだ。僕は早くそれを終わらせて将棋だけをしていたかったので、あのジレンマを思い出した。

 

 なんとなく、この子は僕と同じ人種のような気がする。

 将棋をとおして、他者を見ている。

 将棋にかけている想いと熱量と時間が、桁外れな気がした。

 

 

 

 


 

 

 それから、しばらくして会長室で雑務をこなしているときに、島田と話す機会があった。

 

「お疲れさん。今日は調子いい日か?」

 

 コーヒー片手にそう問いかけられて、頷く。

 

「お疲れ様。イベントの打ち合わせの時以来かな。桐山くんとの対局とても興味深かった」

 

「あーよせよせ。まったく、ずっとあいつを見てきたのに立つ瀬がない。わりと本気で勝ちにいったんだけどな」

 

「彼の方も君に勝ちたかったんだろうね。相当研究して、準備してきてるのが分かった」

 

 島田の方はプロになってから数年分の膨大な記録が残っているのに対し、桐山くんの方は、情報になりえるような棋譜が本当に少なかった。

 

「そういう心構えが子どもぽくないんだよなーあいつは。普通まいあがってそれどころじゃない。A級棋士と名人とテレビ中継対局なんてな」

 

 そういえば、僕はあまり子どもが得意ではないのだけれど、彼に対しては全くそんな風に思わなかった。

 

 あぁ……だから、会長に小学生といわれたときに違和感があったんだ。

 あの子の将棋に子どもらしさは微塵もなかった。

 将棋を通して見ている僕としては彼は子どもではなく、こちら側の同じ次元にたっている一人の棋士だった。

 

「なんだ? 桐山の話をしてるのか。あいつとは、またちゃんと指したいものだなぁ……タイトル戦の挑戦者争いなんかしたら、最高に面白そうだ」

 

 隈倉さんが、会長になにか提出する書類をもって現れた。

 

「隈倉さんも気がはやいですね……言っておきますけど、あの子これから一年目なんですからね」

 

 島田はあまり、プレッシャーをかけすぎないようにと言っていたけれど、僕からしたらそれは杞憂だと思う。

 

「来るよ、彼は。一年目だとか、子どもだとか、そんなことは関係ないんだ。

 待っていると言った僕に、長くは待たせないって答えたんだから」

 

 当然のようにすっぱりとそう言い切ると、二人は驚いたように目を丸くしてこちらを凝視した。

 

「何? なんかおかしいこと言った?」

 

「いや……お前がそこまで言うのも珍しいなって」

 

 困惑したような様子の島田にこう続ける。

 

「僕とあたる機会は、挑戦者にでもなるか、トーナメントの決勝とか、本当にそれくらいだ。どこかで来てくれないと困る。

 僕はそれほど気が長くないんだから。……個人的にも指したいけど、それほど親しくもないし……」

 

「そういや……、島田は研究会に誘ったんだって?」

 

 隈倉さんの言葉に、僕は驚愕して島田を凝視する。

 

「なにそれ……ずるい」

 

「いや、ずるいってなんだよ! もともと桐山とは奨励会の時からの付き合いだし、師匠の打診を断ったこともあったから、良かったらと思って。門下は違うからちょっとは無理にとは言わなかったんだけど……」

 

「門下……。そういえば、彼、誰に師事してるの?」

 

 下手な師匠についているのは、マズイとおもった。あれだけの完成された才能だ。弄りまわされたくない。

 

「藤澤さんのところだよ」

 

「藤澤さんのところの誰?」

 

 答えた島田にさらに問いかけると、隈倉さんが答えた。

 

「いや、本人がとってる。最後の弟子だってよ」

 

 少なからず驚いた。藤澤さんは僕が名人位の奪取をする前に、現役だった会長と肩を並べるほどの棋力を持っていた、尊敬できる棋士だ。

 ただ、もうお年だし、弟子はとらないものと思っていたのだけれど……。

 

「藤澤さん自身が動くなんてめずらしいね……島田か、会長が繋いであげたの?」

 

「いや、幸田さんが動いてくれた。なんでも桐山の父さんと親友だったらしい。今は藤澤さんの家で内弟子になって、生活も安定してるみたいで良かったよ」

 

「内弟子? 今時珍しいな」

 

 数十年前ならいざしらず、今は師匠の家に入ってまで修行をつむような子供は少ない。

 

「あー……宗谷はその辺も知らないのか。東京の将棋会館に出入りしてるやつの間じゃ有名な話なんだけどな……」

 

 島田は、すこし困ったような表情でそう告げた。

 

「これでも、読んだらどうだ。結構詳細に答えてる。本人はあまり自分の境遇を隠す気はないんだろう」

 

 隈倉さんは、会長の机のあたりにあった、少し前に発売された雑誌の見本を僕に差し出す。

 

「おまえ、何気ない顔して地雷踏み抜くからな……その辺一応デリケートな話題なんだから、桐山と話す時は気を付けてくれよ」

 

 おもむろに雑誌を開いて読み始めた僕に、島田がそう声を掛けた。

 

 失礼な。その辺の事は弁えてる。

 僕が地雷を踏みぬくときは、自分がそうしたい時にわざとそうしているのだ。もっとも周囲は天然ゆえの無意識だとおもっているみたいだけど。

 

 彼の人生も若くして波乱万丈だな……。良くこれで小学生でここまでのぼって来れたものだ。

 

 でも、これで一つ分かった。

 将棋しかないのだ。

 将棋に掛けるしかなかった。

 

 僕と彼との共通点。

 そして、強くなるためになにより必要な資質。

 

 

 

「よー! お疲れ、何だ何だでかい奴らがたむろして。

 ん? おい宗谷、免状全然すすんでないじゃない。頼むよー今日の分が終わるまでは帰らせないからね」

 

 免状が進んでないのは、別に僕のせいじゃない。二人が面白い話題を振ってきたせいだ。

 

「何?お前が雑誌読んでるなんて珍しい……って桐山の記事か。いやー良かったよかった。天下の名人様まで興味をもつとは、桐山きゅん流石だねぇ」

 

「記事読みましたけど、桐山本当にしっかりしてますね……。俺も、もっと広報も頑張らないとなって思いましたよ」

 

 島田の言葉に、会長が勢いよく頷く。

 

「俺もビックリ。性格的にこういうの嫌がりそうかと思ってたんだけど、必要ならやります。仕事だって分かってますからってさ。いやーほんとこどもらしくない」

 

「あいつは、学校だってあるんですからね。ほどほどにしてやって下さいよ」

 

「わかってるよ。その分もっと宗谷名人さんが積極的に動いてくれたら、こっちもたすかるんですけどね」

 

 島田の苦言のせいで、会長がこっちまで話題を振ってきた。

 

 僕だって、やりたくもない仕事それなりにこなしてるつもりなんだけど……。

 でも、そうか彼はあの面倒な学校まで毎日あるし、大変かもしれない。

 

「そうですね。もう少しだけなら、受けても良いですよ。そのかわりちゃんと厳選してくださいよ。妙なのだったらしばらくは、受けませんからね」

 

 僕の返事に会長が口をぽかんと開けて固まった。

 

 なんだ、人がせっかくやる気になっているのに。

 僕の表情はほとんど変わらないらしいけれど、この人はきちんとそれを読み取る。

 目を細めて不機嫌になったのを感じ取ったのだろう、あわてて答えた。

 

「驚いた……。お前最近はこの手の話題になっても聞こえてない振りでガン無視じゃん。仕事です、ってはっきり突き付けたら流石にこなしてくれるけど」

 

「話題性抜群で、人気だってすぐ出る。引っ張りだこになるのは、可哀想だ。僕らは将棋を静かに指しているのが、一番幸せだから。

 彼が早く上ってきてくれないと僕も困るし……。まぁ少しくらいなら風よけになってあげても良いかなと」

 

「うおー桐山くん様々だわ。よーし言質とったからな。お前指名の仕事だって山ほどあるんだから」

 

 会長は相当テンションが上がったようだ。

 がさがさと会長席の書類を早速漁り始めている。

 

「そういえば、お前最近体調どうなんだ?」

 

 隈倉さんが自身の耳のあたりをかるく指さしながら聞いてきた。

 

 耳……最後に聞こえなかったのはいつだろう。

 

「あぁ……なんか最近は調子が良い。前あった酷い耳鳴りもしないし、頭が痛いこともないし」

 

「え? 何? お前そんな症状まででたの? もう頼むよ。マジでやばかったら病院ちゃんと行けっていつもいってるのに……」

 

 会長のお小言がまた始まりそうだったので、軽くはいはいと頷いておく。

 これが医者にかかって治るような類でないのは自分が一番分かっていた。

 

 あぁ……そうだ。

 色々煩わしくなったり、無音の世界でふと音が恋しくなった時、思いだしていた。

 

 彼といた静かな白い世界で、淡々と響き続けた美しい駒音を。

 

 そうすると、なんだか落ち着いてきて、気が付いたら周りの音を拾うようになった。

 

 やっぱりいいな。彼との対局は。

 

 僕がまた、あの駒音を忘れてしまう前に、もう一度目の前に座ってほしいと、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 




宗谷さんの過去に関しては完全に捏造。
だけど原作のどこか浮世離れした雰囲気がついつい深読みさせてきますよね。
いつか原作でも描かれる事があるのでしょうか。

次は掲示板回


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掲示板回【炎の】小学生プロ棋士桐山零くん応援スレPart14【三番勝負】

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351 名前:名無し名人

まってました!

 

352 名前:名無し名人

炎の三番勝負!

 

353 名前:名無し名人

会長いい企画考えてくれたよなぁ

 

354 名前:名無し名人

A級棋士対期待の新人!

 

355 名前:名無し名人

素晴らしい

 

356 名前:名無し名人

桐山四段の真の実力が分かるぞ

 

357 名前:名無し名人

最初の相手は島田八段か……

 

358 名前:名無し名人

桐山くん島田八段にそうとうお世話になってるみたいね

 

359 名前:名無し名人

あぁ!あのインタビュー記事か

 

360 名前:名無し名人

あれ良かったよなぁ

 

361 名前:名無し名人

桐山くんの心構えがすでに一流すぎて……

 

362 名前:名無し名人

もう一人前の棋士だよ彼は

ただの子どもと思ったら失礼

 

363 名前:名無し名人

「将棋のおかげで今があります。将棋を通じて知り合った方々のおかげで生きてます」

のあたり凄くなかった?

読んでて鳥肌った。

 

364 名前:名無し名人

だからこそ、得意じゃなくても、苦手でも、将棋界のために出来ることはしたいってな。

 

365 名前:名無し名人

自分じゃさせなくても将棋を好きだと言ってくれる人が、増えるきっかけになれたら光栄って言うあたりもいい。

 

366 名前:名無し名人

なんつーかそのへんの大人より、よっぽど考え方大人だわ

 

367 名前:名無し名人

先見の明がある

 

368 名前:名無し名人

対戦する3人について聞かれたときは、自分の事話すよりよっぽど饒舌だったな

 

369 名前:名無し名人

憧れの棋士について語るって感じ

 

370 名前:名無し名人

島田さんには奨励会でほんとにお世話になったからって何度もお礼言ってたと書かれてた

 

371 名前:名無し名人

島田八段もいよいよ今年からA級だしな

 

372 名前:名無し名人

島田八段ファンの俺としては、これを機会にもっとあの人も脚光を浴びてほしい

会長はナイスな人選をしてくれた

 

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411 名前:名無し名人

……素晴らしい純文学だった

 

412 名前:名無し名人

ここ最近でも随一の綺麗な相矢倉だったと思う

 

413 名前:名無し名人

桐山四段の銀打ちからの猛攻はすごかったな

 

414 名前:名無し名人

それまでの、じっくりとした局面を一気に変えてしまったね

 

415 名前:名無し名人

島田八段が王を引いたの悪くないとおもったんだが……

 

416 名前:名無し名人

感想戦をみるに桐山くんはそれを待ってたぽいね

 

417 名前:名無し名人

相当な読みの深さ

 

418 名前:名無し名人

終盤にも強いことがこれで証明された

 

419 名前:名無し名人

島田八段の自分も研究してたけどその上をいかれたなっていう一言重いな

 

420 名前:名無し名人

桐山くんのデータは少ないけど、それにしたって島田八段の情報は多すぎてこまるだろうに

 

421 名前:名無し名人

桐山四段どれだけ、準備したんだろうか……

 

422 名前:名無し名人

感想戦凄く楽しそうだった

 

423 名前:名無し名人

お互いがお互いのこと本当に認めてる感じだったね

 

424 名前:名無し名人

終わったばっかりなのに、またこの二人の対局見たいと思う自分がいる

 

 

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567 名前:名無し名人

さて、今日で2戦目だな

 

568 名前:名無し名人

隈倉九段との対局

 

569 名前:名無し名人

対局前のインタビューのときとか記念撮影で並び合うと……

 

570 名前:名無し名人

桐山くんが五割増し小さく見える

 

571 名前:名無し名人

隈倉九段桐山くんのこと片手でもてそう

 

572 名前:名無し名人

ありえるw

 

573 名前:名無し名人

余裕だわ

 

574 名前:名無し名人

対局前にお菓子貰ったんだって

 

575 名前:名無し名人

和むなぁ

 

576 名前:名無し名人

桐山くんが絡むと誰でも何故か和むし、親しみを覚える

 

577 名前:名無し名人

あの後藤九段でさえも……だからな

 

578 名前:名無し名人

桐山くんちょっとは大きくなったけどまだ小さいからなぁ

 

579 名前:名無し名人

みんなもっと食べろとかたくさん寝ろってよく声かけるらしい

 

580 名前:名無し名人

平均よりだいぶ小さいよな……これから大きくなるのかな?

 

581 名前:名無し名人

小学生男子は結構個人差でるから、そっと見守ってあげよう

 

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593 名前:名無し名人

おいおいおい。

 

594 名前:名無し名人

勝っちゃったよっ!

 

595 名前:名無し名人

桐山くん不利だったよね?明らかに中盤は隈倉先生ペースだったのに!

 

596 名前:名無し名人

まじか……これで2勝じゃん。

 

597 名前:名無し名人

勝ち越しきまったな。

 

598 名前:名無し名人

知ってた。俺はしってたよ。桐山くんはこれくらいしてくれるって。

 

599 名前:名無し名人

長考からの指し回しは見事の一言。

 

600 名前:名無し名人

おれ、あれ悪手だと思ったのに、相手を誘ってたんだな……

 

601 名前:名無し名人

小学生が考える手には思えないよな

 

602 名前:名無し名人

感想戦で解説されてやっと分かった。

 

603 名前:名無し名人

隈倉先生も考えつかない手ではなかっただろうに……

 

604 名前:名無し名人

本人も言ってたじゃん、自分の慢心が敗因だって

 

605 名前:名無し名人

それをあの人に言わせるだけ桐山くん凄かったってことだよね!?

 

606 名前:名無し名人

だな。公式戦を楽しみにしてるまで言われたんだ。認められたようなもん

 

607 名前:名無し名人

持ち時間の少ない対局で、よくあの一手にかけようと思えたよな……

 

608 名前:名無し名人

その辺の大局観とか、思いきりの良さ、頭一つ抜けてると思うわ

 

609 名前:名無し名人

これは来週の宗谷戦が楽しみすぎる

 

610 名前:名無し名人

将棋界の頂点に君臨する宗谷名人と……

 

611 名前:名無し名人

期待の新星の対局!!

 

612 名前:名無し名人

もう今から楽しみすぎて寝れん

 

613 名前:名無し名人

>>612

寝ろよw

 

 

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741 名前:名無し名人

……いったい何だったんだあの対局

 

742 名前:名無し名人

宗谷名人相手に、あれほど対局を支配できることなんてあるのか……?

 

743 名前:名無し名人

6六銀からの流れが、綺麗すぎて逆に怖い

 

744 名前:名無し名人

ここまで、完成されると……凄いよりも畏怖がまさるな……

 

745 名前:名無し名人

序盤からは美しい定跡って感じだったけど

 

746 名前:名無し名人

中盤以降の複雑な流れのなかで、最後あんなに綺麗にまとまるなんて

 

747 名前:名無し名人

あの名人に、2八銀は君に指すべきじゃなかったと言わせたんだよ桐山くん!

 

748 名前:名無し名人

名人が自分の指した一手を後悔するなんて激レアだよ

 

749 名前:名無し名人

やっぱりあの子普通じゃない

 

750 名前:名無し名人

あの二人……似てるな……

 

751 名前:名無し名人

感想戦やばくなかった?

 

752 名前:名無し名人

終始無言w

 

753 名前:名無し名人

なんで、あれで意思疎通できるのw

 

754 名前:名無し名人

俺わかった。

あの二人は人間じゃない。

将棋星人なの。

 

755 名前:名無し名人

将棋星人w

 

756 名前:名無し名人

だから、二人の間では言葉はいらない。

将棋があればそれで済むのだ。

 

757 名前:名無し名人

やばいwww

 

758 名前:名無し名人

なんか納得してしまったw

 

759 名前:名無し名人

俺、宗谷名人があんなに楽しそうに感想戦してるの初めてみたかも……

 

760 名前:名無し名人

それな、普段はもっと淡々としてる

 

761 名前:名無し名人

何か今日はわくわくしてたね

 

762 名前:名無し名人

やはり、同じ人種にあえたからでは……

 

763 名前:名無し名人

>>762

そのネタひっぱるの止めろw

 

764 名前:名無し名人

いや……でもほんとに二人だけの世界があると言ってもいいほどだったぞ

 

765 名前:名無し名人

何も言わなくても、どこの事をいってるのかお互いが理解してた

 

766 名前:名無し名人

駒音だけが響いていた

 

767 名前:名無し名人

たださして

 

768 名前:名無し名人

頷き合って

 

769 名前:名無し名人

そんでいきなり、別の個所にとぶ

 

770 名前:名無し名人

みてるこっちはさっぱりだったなw

 

771 名前:名無し名人

いや、あれはもう二人を観察して楽しんでた

 

772 名前:名無し名人

また見たいと思うw

 

773 名前:名無し名人

解説はどっかで見ればいいんだよw

 

774 名前:名無し名人

二人が楽しそうだからそれでいい!

 

775 名前:名無し名人

いやーしかし、これで桐山くん三戦全勝だったな

 

776 名前:名無し名人

実力はもう一級品だと証明された

 

777 名前:名無し名人

運がいいだけとか同年代のレベルが低いとかこれでもう言わせない

 

778 名前:名無し名人

あの子が凄かった。ただそれだけ

 

779 名前:名無し名人

数百年にひとりの逸材だわ

 

780 名前:名無し名人

宗谷名人が七冠を達成したときは、この人が引退するまで一人勝ちしそうだと思ってたけど

 

781 名前:名無し名人

この子の登場で、分からなくなったな

 

782 名前:名無し名人

最初の数年は予選から上がらないとだから、大変かもしれんけどすぐにタイトル戦に名前が出るようになると思う

 

783 名前:名無し名人

桐山くんならそれくらいしてくれるよ

 

784 名前:名無し名人

中学生でタイトルとってほしいなぁ

 

785 名前:名無し名人

中学生タイトルホルダー……またパワーワードだなw

 

786 名前:名無し名人

にしてもしばらくは、宗谷名人との対局はないだろうな……

 

787 名前:名無し名人

あのひと、今6つもタイトル持ってるから。

 

788 名前:名無し名人

桐山くんが挑戦者になるのを期待するしかない!

 

789 名前:名無し名人

彼ならきっとやってくれる

 

 

 

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掲示板再び。
タイトルは適当に時系列経って、版も進んでるよってイメージ。
外野というか周りがどう見てるか想像して書くのって楽しいですね。
ガヤみたいな感じ?

しかし…当時は3勝はやり過ぎでは?とか言われた事もあったが、今は高校生タイトルホルダーがリアルにいるおかげで、誰もそうは言うまい。
むしろこれくらいしててよかった。創作だもの。

次は弁護士の菅原さん視点、オリキャラですね。


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第十二手 親友の忘れ形見

 良い奴ほど、先に逝ってしまう。

 どうして、世の中ってそうなんだろうな。

 一揮の訃報を聞いた時、そう思った。

 

 あいつと知り合ったのは、大学生の時だ。同じ大学の法学部と医学部だった。

 大学のサークルで将棋を一緒にやっていたのがきっかけ。

 もっとも、あいつは奨励会員だったし、アマでやっていた俺とは腕が違ったけど、俺も将棋は好きだったから、話もあって、長い付き合いになった。

 

 学生の頃から、苦労している奴だった。長野の病院の跡取り息子。それだけ聞いたら、恵まれてるように思えるけど、一揮には別の夢があったんだから。

 

 あいつは、本気でプロになりたかったんだ。そして、それだけの力もあったらしい。同じくその時奨励会で、同門だった幸田も言っていた。

 ただ、あいつを取りまく周囲の環境がそれを許さなかった。

 

 あいつの妹はちょっと、変な奴で、まぁいわば、劣等感と嫉妬をこじらせちまって、道を踏み外しかけてる。旦那に医者を捕まえることに必死らしい。

 そんな奴が婿をとって、病院を継ぐのは心配だろう。

 親父さんも一揮には、とても期待をかけていた。

 

 優しいやつだったから、自分の希望よりも、家族のことを、地元の事を優先するのは当然だった。

 

 あいつが長野に帰ってからも、連絡は取り合っていたし、学会で東京に出てくる事があれば、一緒に飲んだりした。

 無事プロになった幸田との交流も続いていたそうだ。

 

 酒の席だっただろうか。万が一自分に何かあったとき、家族のことが心配だからと、遺産の手続き管理などを念のため、俺に任せたいと言ってきた。

 妹のことがあるしな、と思い俺もそれには賛成で、その辺の手続きを簡単ながらにしていたのは、まさに不幸中の幸いだっただろう。

 

 事故死だった、一揮には息子が一人残されていた。

 葬儀場で姿がみえず、心配していたら、案の定親戚たちの間でたらい回しにされていた。

 あいつには色々世話になったから、せめてこの子の希望を叶えてあげるくらいは、俺がするべき事だろう。

 

 口を挟もうと思ったその時、それまで人形みたいに動かなかったその子の瞳に光が宿って、あの妹相手に、果敢に意見を主張し始めた。

 

 気弱そうな子だと思っていた。

 でも、ちゃんと一揮の息子だった。

 小学生とは思えないほど、はっきりと筋が通った主張をしていて、妹に一発くらわしているものだから、笑ってしまいそうなほどだった。

 この子の方が、よっぽどしっかりしている。

 

 

 それから、俺はちゃんと零くんの援護射撃をして、彼が長野を離れる手伝いをした。

 慣れた地元の方が良いのではないかと、何度もきいたのだけれど、零くんの意思は固かった。

 分からない事も無い。

 ここには、想い出がありすぎる。

 どこに行っても、両親のことを、妹のことを思い出してしまうだろう。

 住んでいた家のことだけ、どうにもしてやれなかった事が悔やまれた。

 小学生に管理を任せるのは難しい。ましてや、本人は東京だ。

 あの妹に権利を渡すことは、なるべく避けたかったので、一揮の父に任せたかったのだが、あのお祖父さんは、もう抜け殻のようになってしまっていて、全く頼りにならなかった。

 零くんが大人になって、買い戻したくなったとき、力になってやれると良いのだが。

 

 東京の施設に零くんを置いてくるとき、彼は本当に普通だったから、俺はかえってまだ現実が受け入れられていないのでは、と心配だった。

 彼のたっての希望だったから、後見人になったわけで、一応携帯くらいは渡して連絡は取れるようにしておいたら、それを凄く感謝される始末。

 

 この子なら、このまま独りでに育っていきそうな勢いだった。

 俺も仕事があったから、そう頻繁に連絡は取れなかったが、零くんからは月に一度は、こんなことがあったと連絡のメールが来ていた。

 同室の子とは仲良くしているようだったし、施設の人に聞いても、皆の中心として、慕われていると聞かされていた。

 

 このまま、受験の時とか、節目のときにまた相談にのるくらいかな、と暢気に構えていたけれど、その予想は裏切られる。

 

 忘れもしない春の日のことだった。

 

 親友の忘れ形見は、小学生名人になったと連絡をしてきた。

 将棋は指せるらしいと聞いていたし、一揮の駒を形見に持ち出すほどだから、好きなんだろうと思っていたが、まさかだ。

 

 施設の人は、お金が掛かるらしいが、このまま大会に出させてあげていいのか? と俺に一応確認してきたが、俺からしたらどんどん出たら良いと思った。

 

 俺も将棋を囓った身だ。零くんの才能が人並みのものでは無いことは分かった。奨励会に入り、一揮の夢だったプロにいくことも夢じゃない。

 これから先、親に頼れず自分で生きていかなければならない彼に、一芸あるなら、それはとても強みになる。

 将棋に打ち込むことで、悲しみや寂しさが薄れているといいな、とも思った。

 そして、零くんは奨励会員となり、俺の心配をよそに、勝ち続け、異例の成績を残す。

 記録係の仕事に熱心だったことも、施設の人から聞いていた。

 彼は俺を煩わせないようにと、あまり連絡を取らなかったが、俺は暇があれば将棋連盟のホームページで零くんの成績を確認していた。

 面白いぐらい白星が重なった。

 そして、只の一度も黒星がつくことはなかった。

 そのまま、彼はプロになってしまったのだから。

 

 小学生プロ棋士だとさ。

 

 一揮、おまえ、とんでもない子を残していったんだな。

 そうして俺が手をかす事も無く、彼はプロになり、幸田とも知り合い、師匠兼、保護者を見つけた。

 

 藤澤氏は素晴らしい方だ。将棋の腕も申し分ないし、人柄も問題ない。

 零くんがより将棋に打ち込むために、彼の人の家に行くことは、俺も大賛成だった。

 

 ついでに、彼のことを見守る大人も随分増えていた。

 藤澤氏や、幸田、同門の棋士の方々に、会館の方々。

 これも良い傾向だろう。

 子どもはそうやって、慈しみ育てていかなければ。

 

 東京に来てからは、ほとんど何もしてあげられなかったと思うのだが、零くんは、俺に恩義を感じているようだった。

 いつか恩返しをします、と言われて、そんなこと気にしなくていいのにと思った。

 

 未来のタイトルホルダーと知り合いなのは、一人の将棋ファンとしては光栄なことなんだよと茶化すと、あの子は少しだけ考えた後、数年後にはそれを本当にしますから、と笑ったのだ。

 

 俺は、それをとても楽しみにしている。

 

 

 

 

 




 弁護士の菅原さん
 大切な親友が突如亡くなったと思ったら、桐山家のごたごたに巻き込まれてしまった人。
 叔母さんの露骨な立ち回りにも腹がたったし、それを止められるはずの祖父が茫然自失で全く関与してこなかったので、見かねて桐山くんの援護をしてくれた。
 実際、桐山父から親戚間での折り合いの悪さは耳にしていたので、生前から何かあった時は代理人を頼まれていた。
 幸い本拠地が東京にあるので、何かあったら連絡するようにと、携帯を買い与え、連絡先を交換した。
 その後も様々な手続きで桐山くんの手助けをする。


次回から小学生プロ棋士編です。
(……サクッとプロにするつもりが、ここまで長くなったなぁと。もう少し削れたのではと思わなくもない。)


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第十三手 とある奨励会員の発露

名もなき奨励会員の独白です。


 何処にでもいる、人よりも少し将棋が得意で、将棋が好きな男の話だ。

 

 俺は、小学生の頃に奨励会に入会し、そこそこの成績を収め、特に大きく躓くこともなく、高校二年生になる時に三段リーグに到達した。

 だが、そこからが長かった。

 1期は無理でも、高校生のうちには抜けてプロになれたらいいなと漠然と思っていた。

 それがいけなかったのかもしれない。

 結局4期経って、高校三年生が終わっても、三段リーグを抜けられずにいた。

 

 親に頭を下げて、大学には進学せずそのまま奨励会にいさせてもらった。

 今更、将棋以外に何が出来るというのだろう。

 同級生が大学を選び、受験勉強に励んでいたその時間の全てを将棋に捧げてしまったのだから。

 アルバイトをして奨励会の会費くらいは稼げるように頑張った。

 働くということは自分の想像よりもずっと大変で、将棋の研究がおろそかになることもあった。

 けれど、余計にプロへの想いは募った。

 将棋以上に熱を費やせるものは無かったし、他の職についたとしても、大した貢献は出来ないだろうという予感があったから。

 

 そうした焦りは、じりじりと俺の首を絞めていた。

 決して、勝率が悪かったわけではない。三段リーグに入ってからの勝率は5割前後をキープしていた。

 そして、3位になり惜しくも昇段は出来なかった者に与えられる次点の成績こそ残せていないものの、それに迫る成績だったこともあった。もちろん、降級点がついた事も無い。

 それが余計に俺に諦めさせてくれなかった。

 後もう少し、もう一歩で届きそうで。退会する気にはとてもじゃないがなれなかった。

 

 その後の一年、5期、6期でも俺は三段リーグを抜けることは出来なかった。

 来年は二十歳になる。流石にこのままというのは座りが悪く、俺でもなんとか入学できる文系の私大を受験し、入学した。

 奨励会を辞めなくてもいい。けれどせめて、大卒にはなれるように入学して卒業しろという親心だった。

 学費は親が出してくれた。

 自分で稼ぐといったものの、私大の学費はそれなりに高く、そのために将棋の時間が減るのはいかがなものかと諭された。

 幸い適当な奨学金を借りることは出来たため、それで半分ほどはまかなえそうではあった。

 ただ、一つ約束をした。

 留年することになればその時は奨励会も退会するようにと。

 ここまでしてもらっているのだから、頷くしかなかった。

 

 理系と違い実験や実習などの拘束時間は少なく、その代わりレポートが多かったがなんとか友人をつくり、上手くやりくりしていった。

 大学2年生までは、単位を賢く取ればそれほど苦労はせず進級できた。

 どの教授が厳しく、どの教授は試験が緩いか、そのリサーチは欠かさなかった。

 データや傾向をとるのは得意だったので、学生生活はそれなりに負担にならなかったと思う。

 返ってどこかに所属しているという事が、フリーターでふらふらしていた時よりも、地に足のついた感じがした。

 なにより、駄目だったときの保険があるという事が、少しだけ俺の精神を安定させた。

 

 次こそは、なんとか大学生のうちには……。

 そう思う俺の前に、あいつは現われた。

 

 

 


 

 

 

 大学三年の秋、俺にとって12期目の三段リーグが始まった時だった。

 凄い小学生がいると噂が流れてきた。

 入会以来一度も負けていないらしい。

 級位の時はそんなこともあるだろうと、それほど気にもとめなかった。

 級位差があるものとの駒落ちでの対局が増えれば、そのうちその連勝も止まるだろうと。

 年が明け、今期の成績は悪くなくひょっとしたら、昇段もありえる位置にいた。

 その時俺たち奨励会員の中の話題は、もっぱらその桐山という負けなしの小学生の話だった。

 2月についにあいつは30連勝のまま1級へと昇級していた。

 聞けばまだ、小4らしい。

 そしてそのまま勝ち続けて、3月には初段になっていたのだ。

 末恐ろしいなんて言葉じゃ足りなかった。

 

 奨励会には年齢制限がある。満21歳の誕生日までに初段、満26歳の誕生日を迎える三段リーグ終了までに四段に昇段できなかった者は退会という規則だ。

 逆に言えば、21歳までは初段になるのを待ってくれるという事にもとれる。

 実際20歳までかかった人もおり、それでもそのあと急速にのびて一気に三段リーグを駆け抜けていった人もいる。

 それが、まだ10歳の小学生が初段になるのだ。しかも一度も負けることなく。

 異常事態だった。脅威でしかなかった。

 

 仲間内では、段位ではそうはいかないさ、と自分を誤魔化している奴もいたが、そんなレベルの話じゃないのは、ちょっと考えれば分かる。

 なにより棋譜をみて何も思わなかったのだろうか。桐山は、ほぼ指導対局しか指していない。

 そうでなければ、あんなに整った棋譜になるとは思えなかった。

 何より、奨励会という限定された舞台で、多少なりとも緊張するこの場で、勝ち続けるというその精神力がそもそもおかしかった。

 相当な余力を残しているという事だ。

 そして、それが段位者との対局でも揺るがないことくらいは理解できた。

 

 俺は大学4年生になった。

 結局前期の三段リーグは3位で終わった。一期前の成績が響き昇段は逃したのだ。

 今期こそはと思うし、もう一回次点を獲るのでもいい。

 新四段にはなれないが、2回次点をとった者には、フリークラスの四段に昇段する権利を得ることが出来る。

 

 フリークラスは、名人への挑戦権を争うA級からC級2組までの順位戦に参加しない棋士が所属するクラス。

 宣言によって転出した棋士や順位戦・C級2組からフリークラスに降級した棋士も所属をする。

 フリークラス棋士は、フリークラスへの編入後10年以内、または満60歳の誕生日を迎えた年度が終了するまでに、新四段などが所属するC級2組へ昇級できなければ、引退とされてしまう。

 それでも、10年に猶予が得られるのだ。

 もちろん、2位以上で新四段になれれば一番いい。けれど、無理ならそのチャンスを手にしたい。

 

 意気込む俺のすぐ後ろに、天才児の足音が迫ってきていた。

 予想通り桐山は一敗もせず、初段と二段を駆け抜けて、秋からの三段リーグ入りを決めた。

 対して、俺の成績は前期から考えると目も当てられないものとなった。

 5割は保てているものの今期は順位を酷く落とすだろう。

 これは来期にも響いてしまう、ましてや秋からは桐山が参戦する。

 

 昇段の一枠はもう決まったようなものだと、まともな判断が出来る奴らは分かっていた。

 ただでさえ、少ない二枠のうちのたった一つを争わなくてはいけなくなる。その事に随分と気が重くなった。

 

 そして9月から始まった三段リーグ。

 俺にとってはもう14期目だ。そして、桐山にとってはおそらく最初で最後の1期。

 

 当たるな、あたってくれるなと願った思いは通じなかった。

 17戦目、大事な最終局のあたりで、俺は桐山と対局する予定になっていた。

 自分の運の悪さを恨むしかない、三分の一は桐山と対戦せずに済むというのに、俺はそれを掴むことは出来なかった。

 

 成績は13期の時よりは悪くなく進んだ。

 もしかしたらがあるかもしれないくらいの成績だった。

 16勝0敗という全勝で、残り2局を残して既にプロ入りを決めた桐山がいなければ。

 現在の俺の成績は10勝6敗。

 今期の三段リーグの枠は桐山の除くとあと一枠。

 それを現在11勝の数人が、残りの2局で争っている。俺はたとえ、後の2局勝ったとしても難しいだろう。

 何より、次の対局で桐山に勝てる見込みなど、さらさら無かった。

 

 対局室に、あいつは誰よりもはやく入っていた。師匠の家に移ったと、風の噂できいたけれど、それでも会館から遠くはない所に住んでいるらしかった。

 

 目の前に座って、対局の開始を待つ。

 桐山は一度俺に軽く一礼したものの、後は静かに盤上を見ていた。

 その何も映していないような澄んだ目が、気に障った。

 此方の事など眼中にないのだろう。

 

「君って、今何歳だっけ」

 

 小さく、ほんとに小さい声でそう聞いた。

 応えないならそれでも良かった。むしろ応えてくれるなとさえ思った。

 

「今、10歳です」

 

「そう、俺はもう23歳だ。今年で大学を卒業する」

 

 桐山は、少し怪訝な表情でこちらをみた。

 

「7年だ。7年も三段リーグにいる。それなのに、期限は後2年だ。ほんとどうしてこうなったんだろうなぁ」

 

 気まずそうに目を伏せて、桐山は返事をしなかった。

 全勝でプロ入りを決めているこいつからしたら、消化試合でしかない。それも含めて、癪にさわった、大人げない男の盤外戦術。

 

 それでこいつが揺らぐわけはないと分かっていたけれど。

 

 対局が始まった。

 桐山の棋譜なら全部覚えるくらい並べた。

 そして、思い知らされた、こいつに苦手な戦法なんて存在しない。

 いつだって、相手に合わせている。それを可能にするだけの、ポテンシャルがある。

 

 気が付けば、あっという間に戦局は畳まれていた。

 もう見事としか言いようがない。

 いたずらに粘って、盤上を荒らす気にすらならなかった。

 これを相手にできるのは、プロの、それも上の方の人たちだけだろう。

 

 ふと、宗谷名人が奨励会を抜けるときも、こんな感じだったのだろうかと思った。

 俺が入会したときはもうあの人はプロ棋士になっていたから。

 当時、いつもより多くの人間が奨励会を退会したらしい。

 でも、それも納得がいく。こんなものを見せつけられて、それでもと思える根性があるやつはなかなかいないだろう。

 

 桐山は感想戦にとても丁寧に応じてくれた。

 納得がいく対局だった。万に一つも、今の俺では勝てなかった。本当に強い、そして上手く、綺麗な対局だった。

 

「悪かった」

 

 検討した駒が並ぶ盤上を見つめつつ、顔をあげることが出来ないまま、俺はただ謝った。

 

「え? 何がですか?」

 

「対局前に、集中を乱すようなことを言ってしまった。それぞれに事情があるのは当たり前なのにな」

 

 お前には、この先も長い時間があるだろう、俺にはもうあと数年なんだ、という意味が滲み出た言葉だった。プロ入りが決まっているお前の一勝を譲ってくれてもいいだろうともとれる。

 とても、気分の良いものでは無かっただろう。

 

「……僕、忘れません。一生覚えています」

 

 その言葉に、俺はふと顔をあげて、桐山を見た。

 

「貴方の貴重な半年を踏み越して、プロになったことを。絶対に忘れません。あんな奴に敗けたのかって、貴方が思われる事が無いように、これからも精進します」

 

「……ありがとう、頑張ってな」

 

「はい、こちらこそありがとうございました」

 

 緑の瞳がまっすぐに俺を見ていた。

 このまま、まっすぐに勝ち進み、プロになっても上りつめるのだろう。

 桐山と対局できて、良かったのかもしれない。

 それくらいばっさりとあいつと俺の違いを突き付けられた対局だった。

 

 

 

 結局桐山は全勝でプロになった。

 もう一人は、13勝5敗で松本が昇段した。あいつも20歳になる頃だったし、丁度いい時期だっただろう。

 同じようにすんなり昇段できなかった者としては、同期が凄すぎるが、是非頑張って欲しいと思う。

 

 

 


 

 

 

 ……もう、辞めるべきだろうか。

 仮にプロになったとして、俺が華々しい成績を残すことは難しいだろう。

 多くのタイトルホルダーは20歳になる前にはプロ入りを決めていた。

 まして、俺が勝ち抜き、プロになったとしても、桐山がいる。そして、宗谷名人もまだまだ現役だ。

 ギリギリでプロになったところで、対局料だけでは生活が苦しい棋士になる気がしていた。

 それならば、すっぱり諦めて、次の何かを探すべきではないだろうか。

 その〝何か〟が分からないまま、かといってこのまま続ける決意も出来ず、俺はただずるずると留まっていた。

 

 大学はなんとか卒業できたものの、当然就活なんてしていなかった俺は、また4月からはフリーターである。

 両親は俺の大学卒業をただ祝ってくれた。

 奨励会については、聞かれなかった。

 留年せずに4年で卒業出来た俺に、まだやる気があるなら、プロ棋士を目指すことを止めないつもりらしい。

 我が親ながら、気が長い方だと思う。

 

 どっちつかずで、迷っていた俺に決断させたのは、やっぱり桐山だった。

 あいつの昇段会見なんて、観る気はさらさら無かったのだが、やはりどこか気になってしまって、なんとなくチャンネルを合わせる。

 

 うっすらと知っていたが、彼はなかなか厳しい環境で育っていた。

 記録係の仕事をする回数は一年余りの期間を考えれば、とても多かったし、おそらく会館にいる方が桐山には楽しかったのだろう。

 そして、それは紛れもなく強さの源だ。普通の小学生が費やせる全ての自由を桐山は将棋につぎ込んだ。

 変な話だが、勝ってくれてよかったと、今なら思える。

 プロになれるような素質を感じられなければ、内弟子という選択肢も無かっただろうし、なんなら施設の人にはやめに諦めるように諭されただろう。

 

 それに比べれば、俺なんかは親の庇護下でぬくぬくと将棋のことだけ考えていれば良かっただけ、恵まれていた。

 小学生の時に、自分で身を立てるにはどうすればいいかなんて考えもしなかった。

 ぼーっと眺めていた俺に、ふとあいつの声が届く。

 

「三段リーグで沢山の人を見てきました。皆さん僕以上に将棋が好きで長く将棋を指して来られた方々です。敗けてくれるなと言って下さった人がいっぱいいました。だから僕は、勝ちたい。いずれはタイトルが欲しい」

 

 これからの意気込みを聞かれた桐山は、そうはっきりと答えた。

 

「自分が敗けたのは一介の棋士ではないと、タイトルホルダーのあの男に敗けたのだと、いつか誰かに言ってもらえるように。これは、僕が自分で選んだ道ですが、誰かの夢でもあったのだと。それを忘れずに、歩んでいきたいと思います」

 

 気が付けば、涙が出ていた。

 俺のやるせなさや悔しさが決して無くなるわけではないけれど、それでもどこか救われた気がしたのだ。

 そして、それ以上に、まだ、……まだ諦めたくないと切実にそう思った。

 

 大学を卒業したから、何だというのだ。

 今年24歳になるからなんだというのか。

 俺にはまだ、あと丸2年ある。

 

 この先、また桐山と本気で対局するにはプロにならなければ。

 俺はまた、あの擦り切れるくらいの対局をしたい。

 盤上で、命のやり取りを、想いのやり取りをしたい。

 勝てなくても構わない、上に行けなくてもいい、ただあの日のような対局をまた指したい。

 このまま適当な会社に入ったとしても、絶対に後で後悔するとそう思った。

 もしたとえ、なれなかったとしてもギリギリまで粘った結果なら諦めがつく。

 

 

 

 心に火がついた想いだった。

 改めて両親に頭を下げて、俺はほとんど稼ぎにも出ず、年齢制限までただひたすら四段昇段を目指す決意をした。

 

 

 

 

 

 これは、何処にでもいる、人よりも少し将棋が得意で、将棋が好きで、そして諦めの悪い男の話だ。

 

 

 

 

 

 




奨励会編をまとめる際に書き下ろしたもの。時系列に挿入しました。

桐山くんと対局してプロ入りを諦めた人は書いたので、あえて逆にしてみました。
彼がプロになれたのかどうかは、いずれ書くかもしれないし、このまま皆さんのご想像に任せるかもしれません。


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小学生プロ棋士編
第十四手 小学生プロ棋士


ここからプロ棋士編になります。

対局の管理に関してですが、聖竜=棋聖、玉将=王将、棋匠=棋王、棋竜=王座、棋神=王位、獅子王=竜王との仮定でスケジュール管理してきますので、よろしくお願いします。
あくまで私の創作の中での話です。
竜王=獅子王なのは作中の描写から間違いないのですが、後のタイトル戦はちょっと微妙なところもあるのです。たぶんそっくりそのままじゃないというか。
公式は明言してませんから、こちらでとりあえず仮定で。



 6月頭。

 僕のプロ初めての公式戦は順位戦の一局目になった。

 四段の棋士は最初C級2組に入る。

 

 C級2組では、一年かけて10局対局しその中の上位3名だけが、昇級する。

 当然、今期からの参戦である僕の順位は低く、昇級のためには全勝に近い成績が必要だ。

 

 ちなみにB級2組まで、全勝者は昇級確定である。

 まず、ありえない話だけれど全勝が4人いれば4人昇級だ。だいたい全勝者一人と残りの枠が好成績順位上位者にとどまるので、枠を超えての昇級はまずないと言っていい。

 

 どんなに急いでも、A級に上がるまではC級1組、B級2組、B級1組と一年ずつ昇級する必要があるので、5年はかかってしまう。

 そのうえで10人いるA級棋士たちの総当たり戦を制し、挑戦者の資格を手に入れ、最も持ち時間が長い二日制の七番勝負で、名人に4勝して初めてそのタイトルを手に入れることが出来る。

 

 つまり、将棋人生を掛けての長きにわたる予選と、その時期のトップ棋士の集まりであるA級を勝ち抜き、挑戦権を手に入れ、その時代を象徴するともいわれる名人に勝たなければ、その栄誉を手にすることは出来ない。

 タイトル戦のなかでも最も古い歴史をもつタイトルでもあり、棋士たちはこぞってこのタイトルを生涯で一度は手にしたいと考える。

 数あるタイトルのなかでも名人は別格なのだ。

 

 当然僕も名人戦を目指す。前回の宗谷名人と持ち時間9時間の二日制対局七番勝負はもう忘れられない記憶だ。魂に刻み込まれていると言っていい。

 

 だからこそ、この順位戦、負けるわけにはいかない。たとえ他の棋戦と被ったとしても、優先して10戦全勝で確実に昇級しなければならない。

 他のタイトル戦はまた来年チャンスはくるけれど、順位戦だけはだめだ。

 ただでさえ、5年もかかるのに一年も名人戦が遠ざかる。

 

 あと、順位戦の特徴と言っていいのが、持ち時間の長さだ。

 予選といってもいいのに、6時間もある。

 その長さは、他の棋戦の本戦・予選の持ち時間の中で最も長く、しかも1日制のタイトル戦の持ち時間より長い。

 

 余談だが、対局開始はタイトル戦が午前9時であるのに対し、通常の予選や本戦対局と同じく午前10時開始であり、さらに昼食夕食の休憩まで挟む。

 そのため、対局が深夜に及ぶことや、日が変わっての終局も珍しくない。

 

 藤澤さんには遅くなったら絶対に、タクシーを使うようにと言い含められたので……もしそうなったらちゃんと使うつもりだ。

 

 

 

 

 

 

 今日の対局相手は松本一砂さん。ひょんな事から今回、僕と同期で昇段することになった方だ。

 三段リーグでは残念ながら当たることができなかったので、プロになってから対局出来ればと考えていたが、まさかこんなに早くその機会がくるなんて思ってもみなかった。

 

「お久しぶりです。松本四段。昇段の会見の時以来ですね」

 

 僕からかけた声に、彼は肩をビクッと震わせたあと、驚いたようにこちらを見た。

 

「お、おう。久しぶり。今日はよろしくな。……ま、負けないからな! 気持ちだけは……」

 

 あれ? なんかめちゃくちゃ緊張されてる……?

 それもそうか、プロ初対局だもんな、下手に声を掛けない方が良かったかも……。

 一抹の不安を抱きつつも対局は開始した。

 順位戦のリーグ表における全ての対戦組み合わせと先手・後手は、抽選によって作成されるので、振り駒は無しだ。

 

 今日は僕が先手だ。

 

 暫くは様子見をしつつ、戦況をつくっていく。

 

 そして、35手目僕の7五歩。

 戦型は「角換わり」の出だしから

 後手の松本さんが角交換を拒否する形になった。

 

 ふむ、そうくるか。

 僕はまず4筋で歩を突き合わせ急戦調に仕掛けた。

 これに対して、松本さんもすぐさま7筋から反発して、闘志も満々に、いざ開戦。

 

 攻撃的な彼らしいと思う。

 笑ってはいけないのに、前と全く変わっていないその棋風に少し笑みがこぼれてしまった。

 

 でも、勇み足は禁物。

 

 角を捌いて飛車先から猛攻に出た松本さんの攻撃を丁寧に受け、局面を鎮める。

 そのあと、ズバッと踏み込むと、形勢はあっという間に僕の方へ傾いて、全85手で勝負あり。

 

 持ち時間を互いにほとんど使わなかったせいもあって、夕食をまたずしての終局である。

 

 感想戦も彼の勢いはすっかりなくなってしまって、早々とたたんでしまった。

 

 

 

 対局室を出て、しばらくしたあとに、追いかけて来た松本さんに呼び止められた。

 

「ごめんな! まともな感想戦も出来なくて。オレ、お前の同期としてはたぶん見劣りすると思うけど……それでも、これから強くなるから。ちゃんと覚えてくれよ、俺の名前。今日の対局スパっと負けちまったけど、楽しかった」

 

 肩で息をしながらの相変わらずの勢いに僕は少し引いてしまったけれど、とても嬉しかった。

 あぁ……暑苦しいところは相変わらずだけど、とても真っ直ぐだ。

 こんな奴が同期だとやりにくいだろうに、こうやって声を掛けてくれるなんて。

 

「ちゃんと覚えてますよ。松本一砂四段。これから長く対局していくことになる同期なんですから」

 

 すこし、照れ臭かったけどちゃんと答える。言葉にするって大事な事だ。以前の僕はそれがほんとに駄目だったから、余計に今回はきちんとしたいと思う。

 

「おぉ! そうか、良かった。うん。ちゃんと桐山がタイトルとったら俺が挑戦者としてとりに行くから、よろしくな」

 

「なんで僕がタイトルとってるのが前提なんですか、まだまだですよ」

 

 落ち込んでいた雰囲気から一転、元気よくそう言った彼に、おもわず笑ってしまった。

 

「へーーそうやってると、ちゃんと年相応なんだな」

 

「え? 何ですか?」

 

「桐山、奨励会だとほんとお人形さんみたいだったからさ。笑ったの今はじめてみた」

 

 そっちの方がいいぞ。と言われて僕は戸惑ってしまった。

 

 そんなに、固かったかな……うーん、そのつもりは無かったけど、確かにあの場所にいる時は将棋のことしか考えてなくて、あまり感情を表にだしていなかったような。

 

「おーい、いっちゃん何してんの? って桐山と一緒か。え? まさかもう終わっちゃった感じ?」

 

「あー! スミス、お前、初戦は緊張するから応援がてら観に行くわとか言ってたくせに!今頃かよ。もう終わったよ。負けだ、俺の!」

 

 僕はびっくりしてしまった。目の前に対局者がいるのに、はっきりこう言えるのってほんと凄い。

 

「あーごめんごめん、ちょっと所用があってね。そうかーいっちゃん負けちまったか。棋譜みせてよ、桐山との対局なら面白そう」

 

「あれ? スミスは桐山と知り合い?」

 

 僕の方にも、一勝まずはお疲れさまと声を掛けてくれたスミスさんの様子に、松本さんが尋ねた。

 

「おうよー記録係のときにちょっとな」

 

「その節はお世話になりました」

 

 あの時の失態は、ほんとうに忘れ去りたいくらいの記憶だが、ちゃんとお礼を言っておく。

 

「良いって、いいって。あんまり気にすんな。それから、将棋会館の事でも、対局の制度のことでも、その他の仕事でも、分からなかったり困ったりしたら相談してくれて良いからな」

 

 棋力はともかく、こういう事では先輩面させて、と笑って告げる彼にこれまた頭が下がる思いだった。

 前回の時から本当に良い先輩だ。

 

「おし! スミス、観戦にこれなかったお詫びとして、俺に必勝の手が無かったのか、一緒に検討しよう」

 

「えーこの内容でか、うーん角さばいちゃったのは不味かったんじゃない?」

 

 賑やかな二人のやりとりを眺めていると、後ろから声がかかった。

 

 

 

「おい、ちびすけ。終わったんなら帰るぞ」

 

 深く、響く声。

 仲良くしゃべっていた二人が、ピタリと黙って固まってしまった。

 

「あれ? 後藤さん、なんでいるんですか? 今日対局ないですよね?」

 

 振り返って答えた僕の返答に、彼は眉を寄せる。

 

「……爺さんに頼まれたんだよ、今日は門下のやつの対局はねぇ。おまえのお迎えに行きたがる幸田さんは地方で仕事。初戦だし、俺に行って来いってさ。たく面倒な……」

 

 本気で嫌そうな声だったけど、それなりに付き合いがある今の僕なら解る。これは照れ隠しも入っているのだ。

 実際来てくれている以上、彼はこの役目を嫌がったわけではない。

 ほんとうに嫌なら梃子でも動かぬ人なのだから。

 

「それは、すいませんでした。今日は電車ですか? 車ですか?」

 

「車。いくぞ、爺さんぜったい気合い入って良い飯とってる」

 

「わーー! それは急がないと! 松本さん、スミスさんお先に失礼しますね」

 

 師匠だったら何時までも待ってるとか言って、絶対用意してる。

 急いで帰らないと、と思って先輩棋士たちに声をかける。

 

「お……おう、おつかれさま」

 

「気を付けてな……桐山」

 

 信じられないといった顔をして、固まっている彼らの様子に首を傾げなから、僕は早くも背を向けて歩き始めている後藤さんの後について行こうとした。

 

 と、彼が突然立ち止まって、こちらを向く。

 

「松本」

 

「は、はい!」

 

「中盤まで悪くなかった。こいつ相手によく指せてたと思う。後半粗さが目立った。ただその棋風つらぬくなら、もっと戦略も磨いていけ」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

「難儀な奴が同期で、やり難いとおもうが、腐らずにな。お前の棋風面白いと思うぜ」

 

 突然、横に来ていた僕の頭に手を置いて、ぐしゃぐしゃに撫でまわしながら、松本さんに声をかけていた。

 そして、そのまま背を向けて再び歩き出す。

 後藤さんのこういうところって、ずるいよなって最近思う。

 でも、僕の頭をぐしゃぐしゃにする必要は無いと思う。まったく。

 

 感激して固まっている松本さんと、唖然として固まっているスミスさんにもう一度、ぺこりとお辞儀をして、僕も帰路についた。

 

 車まで急ぐ彼に、追いついて僕も声をかける。

 

「今日、寄っていきますよね? お時間あるなら夕食の後、指しませんか?」

 

「あーー? たっく仕方ねぇな。ぼこぼこにしてやるから、泣くなよ。ちびすけ」

 

「もー! プロになったら止めてくれるって言ったじゃないですか、僕の名前は桐山です!」

 

「おまえが、公式戦で俺に勝てたらな」

 

「延びてる!」

 

 憤慨する僕を、後藤さんは鼻で笑った。

 もう、対局してくれるのは嬉しいし、さっきはちょっとカッコイイ大人だと思ったけど、やっぱ駄目だ。

 この人意地が悪い。

 

 帰宅後、案の定師匠はご馳走を用意してくれていたし、僕の1勝を奥さんと一緒に、とても喜んでくれた。

 そして、その後の対局だけど、1局目辛くも、負けた僕が再戦を申し込んで、次の対局は勝った。

 一勝一敗。痛み分け。この人との対局はやっぱり面白いなって思う。公式戦で当たるのが楽しみだ。

 

 

 

 

 


 

 6月下旬。

 聖竜戦のトーナメントの一次予選が始まった。

 C級1組以下の棋士と、女流棋士2人によるトーナメント形式で行われ、8人が二次予選に進むことが出来る。

 とりあえず僕は、二次予選出場のためにこの8人にはいらなければならない。

 今は、対局も少なくてきちんと準備ができるので、危なげなく1勝を重ねた。

 

 

 

 7月に入り朝日杯の一次予選もはじまった。

 このトーナメントは、タイトル戦ではないけれど、全棋士が参加する。つまり予選を突破し、12月から1月頃にある本戦に出場できて、そのマッチングによっては、宗谷さんと早々にあたるかもしれない。

 是非とも本戦入りを目指したい棋戦だ。

 

 一次予選にはアマチュアの選手10人ほどと女流棋士の方も参戦する。

 持ち時間は40分ととても短く、そのため一日に2局することも多い。

 

 その日あった対局はもちろん2勝した。

 

 同じ月にあった、順位戦の2戦目も、聖竜戦一次予選の対局も勝ち、7月末までに行われた全7局全勝。

 プロ入り後の連勝記録をひそかに重ねはじめた。

 

 

 

 

 8月。世の中は夏休みである。

 それでも変わらず将棋を指すだけの毎日の僕だったけれど、幸田さんの家に呼ばれて、ご飯をごちそうになったことがあった。

 香子さんもその場には、同席していて、幸田のお義母さんのご飯をとてもおいしそうに食べていた。

 

 食事の後に少し時間があったので、僕は彼女に話しかけた。

 

「あの、香子さん、お預かりしていたこの駒、お返しします」

 

 三段リーグ入りが決まった時、彼女に渡されていた一枚の香車の駒だ。

 今日までちゃんと無くさずに持っていた。

 

「なんだ。まだ持ってたんだ。律儀ね。ふーん。もういらないってこと?」

 

 彼女は返された駒をみてとても不服そうだった。

 

「違います。他の駒たちと一緒に居るべきだと思いました。歩だって駒箱の中で待ってますよ。この香車だけひとりは駄目です」

 

「相変わらず、優しいのね。そうかーじゃあここに返してあげないとね」

 

 彼女はカバンから出してきた、赤い見覚えのある駒袋から駒箱を取り出し、蓋を開けて僕の方へ付き出した。

 僕は静かにその箱のなかへ、駒をかえした。

 

「その駒箱。いつももって歩いてるんですか?」

 

「仕事のときはねー、お守りよ」

 

 ちょっと意外だったけれど、将棋が彼女にとって悪い印象で残っていないのが、少し救いだった。

 

「そうだーあんた生意気にテレビ出てたね。見たわよちゃんと三局とも。正直ちょっと面白かった。小さい貴方が、大人と渡り合って、勝っちゃってるんだから」

 

「あ、そうだ! それなら、島田八段との対局もみられたんですよね?」

 

「え? うん。一応ね、いちおう」

 

「香車すごかったでしょ! 中盤! あれが決め手だったんですよ」

 

 うん。やっぱりカッコイイ駒です。と僕が一人納得していると、彼女はお腹を抱えて笑い出した。

 

「あーもう、なによ、ほんと最高だわ。生意気だけど、そういうところ貴方らしいわよね。ね、一局指して。この駒使って、盤は父さんの借りましょ」

 

 彼女がまた指そうと言ってくれたのが、嬉しくて僕はすぐにうなずいた。

 幸田さんは将棋から離れていた娘がそう言ったのが、やはり嬉しかったのだろう。快く貸してくれた。

 

「はんでちょーだい。駒落ちね」

 

「いいですよ? 何枚ですか?」

 

「うーんとりあえず、二枚落ちから」

 

 とりあえず、と言われた意味が分からなかったけれど、それで対局した。

 そして、相変わらず手加減が下手な僕はすぐに勝ってしまって、彼女は、それじゃ次は四枚落ちで、と言ったのだ。

 まさか、自分が勝つまでやるのかと思ったその対局は、六枚落ちをしようとしたところで、幸田さんから待ったがかかった。

 どうやら、僕を藤澤さんの家に送る時間が来たようだ。

 

 彼女は少し残念そうな顔をしたけど、次は六枚落ちからね、と僕にいった。

 次があることに少し驚いたけれど、将棋を指してくれるのはやっぱり嬉しいから、僕はまた遊びに来ますと言ってしまった。

 

 

 

 帰りの車で幸田さんに、娘が何度もすまなかったなと言われた後に、でも君はすごく大人びていると思ったけれど、案外頑固なところもあるのだと分かって良かったよと笑われてしまった。

 

 そして、香子の事をありがとうとお礼を言われてしまった。

 

 君との対局でなにか吹っ切れたみたいで、今のあの娘の方が、楽しそうで良いと幸田さんが嬉しそうに言う。

 僕としては、何もできていなかったと思うけれど、少しでも力になれていたのかと、安心した。

 

 

 

 

 

 

 さて、8月の対局は、棋竜戦と、棋神戦の予選もはじまるので、対局数が一気に増えて来た。

 

 まず棋竜戦。一次予選と二次予選があることと、そのシード選出基準などが聖竜戦と少し似ている。

 ただこちらの方が予選もすこしだけ持ち時間が長めで2次予選に進める人数が6名とすくない。

 

 面白いのが、棋神戦だろう。このタイトル戦は、タイトルホルダーやA級棋士に対する上位棋士のシードがほぼない。前年シード4名の棋士以外の全ての棋士が、2回戦までに登場するのだ。

 予選の段階から番狂わせがおこることもある。

 予選通過枠は8名。

 予選に参加するすべての棋士を8つのグループに分けて、トーナメントを行う。それぞれ勝ち抜いた8名が本戦に出場となる。

 

 

 

 そして、僕が振り分けられた予選トーナメントのメンバーの中に土橋さんがいた。

 どうやらA級棋士との初めての公式戦は彼との対局になりそうだ。

 流石に予選一回戦から彼と当たることはなかったので、とりあえずは一勝した。

 

 

 

 

 

 9月、学校は新学期もはじまるけれど、僕は棋戦も増えて、少し休むことが多くなった。

 周りの子たちはテレビの影響もあってか、桐山は凄い試合に行ってるらしいから、仕方ないといった感じで応援してくれてる。

 驚いたのが、青木くんが相当僕の対局日程とか、内容とかを把握してることだ。

 施設の皆にも解説とかしてるらしい。

 僕は、桐山君がプロになるまえからのファンなんだからね! と言われて、素直に嬉しかった。

 

 

 

 聖竜戦と朝日杯の一次予選は無事突破して、棋竜戦の一次予選も順調。毎月ある順位戦も勝っていた。

 

 9月末までに行われた全15局を全勝し、プロ入り後の連勝記録は15連勝。

 

 そして、16戦目になるこの日、ついに最初の山場となるであろう、棋神戦予選三回戦で僕は、土橋八段と対局する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 予選のトーナメントが発表されてから、この日まで相当な時間を割いてこの対局に備えて来た。

 相手は研究熱心で面白いことが好きな土橋さんだ。まず間違いなく僕のことも出来る限り、調べてきているだろう。

 

 正直いって、これまでの公式戦ではそれほど、手の内を見せたつもりは無い。

 参考になるのは三局。あのテレビの企画で指した三局くらいだ。

 まだ、僕に勝機はある。

 

 

 

 対局前、僕は下座にいつも少し早目について心を落ち着かせる。

 この時間はわりと好きだ。

 

 あとからやってきた土橋さんが席について、対局をはじめようとしたとき、そっと僕に声を掛けた。

 

「宗谷くんから聞いてる。君との対局とても楽しみにしてきた。今日はよろしくね」

 

 ちょっとびっくりしたけど、やっぱりうれしい。僕だってほぼ半年ぶりくらいのA級棋士との対局なのだ。

 

 振り駒の結果、僕が先手だった。……なんだか大事な対局で先手を取れることが多い気がする。

 

 

 

 初手は角道を開く7六歩から、それに対して土橋さんも2手目に同じく3四歩と角道を開き、対局はスタートした。

 

 3手目に7筋の歩を突き越してみせる。この手にたいして、土橋さんは1筋の歩を突き、1四歩。

 僕の作戦を尋ねてきた。

 

 すこし悩んだけれど、一筋の端歩は受けずに7八飛を指し、「三間飛車」に構える。

 

 ここで、土橋さんは20分ほど考慮をとる。序盤から何か仕掛けてくる気だろうか。

 そして、おもむろに角頭の歩を突く、趣向の一手で2四歩と指した。

 

 なんだこの手?

 前例がない。序盤からこれほど、面白い手を打ってくるなんて、流石に土橋さんだ。

 これは今日は、ぜったい混戦になると気合いを引き締めた。

 

 あまり早計に指さない方が良いなと、僕も少し時間をつかって、 5八金左とした。

 

 その次の瞬間、土橋さんは8八角成とし、いきなり角交換!

 ぼくは慌てて、銀で角を払い同銀とする。

 

 角交換成立後すこし、形勢は不利になった。

 自陣の強化のために、二段目に駒を幅広く並べた僕に対し、土橋さんは2筋の歩を突いてから飛車に手をかけ「四間飛車」を展開しはじめた。

 

 あまり焦らずに、ぼくは通常の左側ではなく、自陣右側に「矢倉」の完成を目指すことにして、土橋さんの攻撃をいなしつつ、マイペースに、玉の入城を完了させた。

 

 でも、流石のA級棋士。ただでは囲いを完成させてはくれない。

 完成前に、3筋の歩を突き合わせ、仕掛けを開始し、僕の玉頭目掛けて襲いかかってきた。

 

 その仕掛けをなんとかいなしつつ、矢倉が囲いを完成させたあと、ぼくは飛車を8筋へと振り直した。

 

 それでも、居玉の土橋さんは強気に攻勢を強めてくる。頭上を連続で叩かれた直後に銀交換が成立。戦況は少しずつ荒れてきた。

 

 

 

 独創的な構想を描く相手に対し、あまり動じずに、あくまで自陣を固めつつひたすら好機を待った。

 

 そして、その時がやってきた。

 

 居玉のままだった土橋さんの玉目掛けて、直接襲い掛かり、形勢を一気にこちらに引き込む。

 そのまま攻撃の手を緩めることはなかった。

 いや、此処で緩めたら終わりである。

 絶対にこれで決めなければならない。

 

 そして、133手目までもつれこんで、対局は土橋さんの言葉で幕を閉じた。

 

 僕は、それでやっと一息つけた。

 久々に終盤も気が抜けなくて、ずっと緊張していた。

 ちょっとでも読み筋を間違えては危なかった。

 

「いやーすっごく面白かった。2四歩で意表をつけたと思ったのに、全然動じない。すっごい心臓。あんまり若手ぽくないね」

 

「えっと……それって褒めてるんでしょうか?」

 

「もちろん。通常との逆の矢倉に持ち込んだのも興味深かったなぁ…あれは何処かで指したことある?それともこの対局ではじめて?」

 

「公式戦ではもちろん初めてです」

 

「そっかそっか、いいね。この対局だけで面白い展開が10はあった!」

 

 対局後すぐそう声を掛けられての怒涛の質問に、目をまるくしてしまった。

 

「感想戦もいっぱいしたいけど、まずはちょっとお腹空いたね。外に食べに行こう。もう20時前だけど、この辺は結構開いてるから」

 

 20時と言われて驚く、僕の対局が此処まで長引いたのも今日がはじめてのことだ。

 

 負けた先輩棋士が奢ってあげるから、と言われて、恐縮してしまう。でも、土橋さんと対局の話はしたいから、ご厚意に甘えることにする。

 

「金曜日だし、少しくらい遅くなっても大丈夫なのかな? それとも門限あるの?」

 

 もし、大丈夫ならご飯のあと感想戦をしたいと言われて、僕は当然頷いた。

 連絡さえとっていれば、藤澤さんは許してくれる。

 そりゃあ、日付を超えるのは流石にまだ、駄目だけど……それでも数時間は土橋さんと感想戦ができる。

 

 結局僕らは、夕食中も今日の対局について、しゃべり続けたし、そのあと会館に帰った後も、途中からの派生手を考えて、指し続けた。

 土橋さんはまさにびっくり箱だった。

 え? それ悪手じゃ? みたいに一見僕がすぐ切り捨ててしまいそうな一手でもちゃんとみるのだ。そして、案外その先に道があったりもする。

 やっぱり将棋とは奥が深い。

 

 結局その日も相当盛り上がったのだけれど、会長がまた止めに来た。

 もう23時過ぎたから、いくらなんでも桐山は帰れと。

 土橋さんに対して、藤澤に連絡させるだけ宗谷よりはましだが、集中したらまったく他の事は眼中にないんだから、やっぱり同類だと呆れていた。

 

 土橋さんもそのまま帰宅することにしたらしく、会長に僕をタクシーで送っていけと厳命されていた。

 彼も、引き止めてしまったのは自分だし、すっかり時間を忘れてしまっていたのも悪いから、藤澤さんに話してあげると言ってくれて快く送ってくれた。

 集中して時間を忘れた責任は僕にもあるので、本当に申し訳ない……。

 

 家で待っていた藤澤さんは、こうなると思ったと呆れながら、笑っていた。

 僕には、お疲れ様の言葉と、お風呂にはいってすぐに寝なさいと言い、土橋さんには送ってくれたお礼と、また是非対局の話をしてやってほしいと言っていた。

 

 彼は、本当にそのつもりのようで、僕と連絡先を交換していった。

 時間がありそうな時に、また声をかけるからよろしくと言われた。

 意外とフットワークが軽いようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 プロ入り後半年、僕は連勝記録を16勝に伸ばし、順調に棋戦を勝ち進んでいた。

 

 

 

 

 

 

 




さぁ桐山くんの連勝記録はどこまでいくのでしょうね。
丁度、投稿をはじめて1週間となりました。
この先もよろしくお願いします。

次は、土橋さんの視点です。


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第十五手 神の子ども達

「生まれた世代が違えば、彼は一番になれただろうに……」

 

 面と向かって言われたことはないけれど、僕の事をそう評価している人は一定数存在する。

 

 僕からしてみれば、寧ろ神様に感謝したいくらいなんだけどな。

 宗谷冬司という才能のかたまりと同じ歳で生まれさせてくれたことに。

 僕は彼とともに成長し、研鑽し、彼がもっとも輝く時代を最大限共にすることが出来る。

 そのことがどれほど幸運で素晴らしいことか、おそらく一番分かっているのは僕自身だ。

 だから、他の人にどう思われていてもかまわない。

 

 僕はこの環境に身を置けたことを運命だとすら思う。

 君は生涯をかけて思う存分将棋を指しなさいと、神様から言われた気がした。

 

 

 

 

 

 幼い頃に将棋に出会って、その奥深さに魅せられた。

 携帯ゲームもしたことはあったけど、ストーリーを終わらせたり、既存の要素をすべてコンプリートしてしまえばそれ以上はのぞめない。

 でも将棋は違った。

 どれほど、時間をかけても新しい発見があった。

 考えて、考えて、扉をやっと開いたと思ったらまた目の前に新しい扉が現れる。

 僕はそれを開けることにすっかりはまってしまって、気が付けば数十年……。

 今もまだ、終わりは見えない。

 そのことが面白くてしかたないのだ。

 

 両親は将棋にばかりこだわる僕の事を最初呆れていたけれど、それでも応援してくれた。

 今も一番の理解者であるし、僕のファンであってくれていると思う。

 最高のライバルと、最高の両親と、僕はこれ以上ないくらいの環境で将棋を指してくることが出来た。

 

 宗谷君とは育った環境だけみると対極に位置しているだろう。

 深く聞いたわけではないけれど、人の口には戸が立てられないわけで、彼がどういう経緯で、祖母と二人で暮らしているのかは知っている。

 そのためかは分からないけれど、出会ったころから、何処か浮き世離れした雰囲気と、独特のマイペースさを持つ子だった。

 その上で他の追随を許さない圧倒的才能が、更に彼の周りから人々を一歩引かせているように感じた。

 

 だけど、いつの時だったかな。

 たぶん何かの大会の感想戦だった。

 対局中に気になっていた一手が同じだったのだろう。二人して全く同じタイミングで、同じ駒を触ろうとして、顔を見合わせ、笑ってしまったことがあった。

 

 その時、僕と彼は同じ視点を観ることが出来ると初めて分かったのだ。

 敵わない強者じゃない、どこか違う生き物のように思えていた宗谷冬司が、一人の子供として目の前で笑いを堪えようとしていた。

 

 宗谷くんだって、沢山研究し、考え、努力してその対局に臨んでいる。

 彼だって分かりづらいけれど、笑うし、楽しそうだし、そして時には負けて、悔しがるのだ。

 

 先をいかれても良い。最初は成績が負けていても良い。

 いつか彼のライバルとして肩を並べ、将棋の研究が出来れば、それはとても楽しそうだと思った。

 

 だから、僕は焦らなかった。

 確実に、一歩ずつ、彼より3年遅かったけれどプロになって、着実に力を付けて、自分の将棋を確立していった。

 研究の成果が上手くかみ合わず、予選の突破を苦しんだ時もあった。

 そんなこともあるだろうよと、それほど落ち込みはしなかった。

 

 先輩棋士たちのデータも良く集まって、研究成果は年々たまってきて、ぼちぼちとトーナメントの本戦に出れるようになって、ついにタイトル戦にも挑戦した。

 

 初めて宗谷くんに挑んだのは聖竜戦だったと思う。

 その前夜祭の挨拶の後、彼に小さく待っていた。と言われたときの喜びは、もう言葉であらわすことは出来ないほどだった。

 

 その頃くらいから、僕たちは少しずつ個人的にも指すようになって、ちょっとお酒を飲み交わしたりして、まぁ少しだけ友達ぽいなと思ったこともある。

 

 だから、彼の耳のことを聞いたときは本当に驚いた。

 医者を薦めたりもしたけど、僕が知った時には本人が既に諦めてしまっていたのだ。

 

 大事な対局の駒音は不思議と響くから、それでよいのだと。

 

 僕との対局の日は調子が良い日が多いから、丁度良いと言われたとき、何と言ってよいのか本当に分からなくなってしまった。

 

 君はそれで良いの? 将棋以外はこの世界には魅力がないかい?

 僕は仕事で全国をまわったり、各地で色んなお土産を買ったり、一番は将棋だけどそれ以外にも面白いことがあるって知っていたから、よけい歯がゆかった。

 

 ただ、僕との感想戦が捗らない日があるのは残念だなと言われて、まだ間に合うんじゃないかと思った。

 惜しむ気持ちが少しでも残っているうちは可能性があると思った。

 なにかきっかけがあれば、復調することもあるいはあるのではないかと。

 そのきっかけが間に合うことを祈るばかりだった。

 

 

 そして、今年そのきっかけは訪れた。

 

 

 

 6月ごろに行われた名人戦。藤本さんと宗谷くんの対局は、宗谷くんの4勝。ストレート勝ちだった。

 藤本さんには悪いけれど、もうキレッキレッの圧勝だったと言っていい。

 宗谷くんの棋風にすら変化があった。

 若返ったというのは失礼だけれど、新鮮というか……そう、とても能動的な将棋だった。彼の方から珍しく仕掛けた場面もあったのだ。

 近年は受け手側というか、相手の戦法に乗っていくことが圧倒的に多かったので、これにはとても驚いた。

 

 何か心境の変化があったのだろうかと、僕は大変興味がでた。

 そして、知りたいと思ったことを我慢できるたちではない。

 

 偶然にも彼と東京の将棋のイベントで一緒になった日の夜、軽く指し合いながら話を振ってみた。

 

「宗谷くん、最近絶好調だよね」

 

「そうかな……」

 

 将棋盤に、まだ気を取られているのだろう、ぼんやりとした返事だった。

 でも、こういう様子には慣れているので、気にしない。

 

「うん。この前の名人戦の防衛なんてその最たる例だ。藤本さんの気合いも凄かったのに全く寄せ付けてなかった」

 

「藤本さんが挑戦者だったのは久々だったからなぁ……。4局とも全く違う内容になって面白かったよ」

 

 その時の将棋を思い出しているのだろう。意識が会話へ少し向いてきているのが分かった。

 

 全4局まったく違う内容になった名人戦だが、2局目に宗谷くんが先に穴熊を組みだしたのはかなり話題を呼んだ。

 

「最近は相手の戦術にのる指し回しが多かったけど、今回珍しくしかけにいってたよね?」

 

「うーん、この前とっても楽しい将棋が指せて、その時に思ったんだよね。この子が上がってきた時に、もっと面白く指すにはこのままじゃダメかなって」

 

 驚いて駒を持とうとした手を止めてしまった。彼にそこまで刺激を与える人物が現れたというのか。

 

「え? もしかして、この前の企画対局?」

 

「そう。桐山くん。今年からプロ入りしてる。……あ、あとまだ小学生だって」

 

 忘れていたら、また会長に怒られると呟く宗谷君に、僕はさらに驚いて、しばらくポカンと口をあけて固まってしまった。

 

 あの宗谷冬司が!

 人の名前と顔を覚えず、僕との会話のなかでは、ほら……あのすっごい居飛車党のこの前棋神戦のトーナメント決勝で大逆転した……みたいな将棋の内容でしか、ほぼ他人を認識していない宗谷くんが!

 新人の子の名前を覚えている。あまつさえその子の個人情報さえも!

 

「うわー僕ちょうど棋神戦の決勝リーグにかかりっきりで、ちゃんと観れてなかったからな……確か3局あったよね?」

 

 これは是が非でも、棋譜とその新人の桐山くんの情報を集めなければ。

 

「うん。島田と隈倉さんとも指してる。たぶん土橋くんも棋譜をみたら気に入るよ」

 

「島田さんたちとも指してるんだ。それはぜひとも僕も指したいな……」

 

 4月からプロ入りなら、参加棋戦はいつからで僕がその中でシード権を得てないタイトル戦は……とすぐ頭が回転する。

 

「土橋くんと桐山くんの対局みるのも楽しみ。運が良ければあたるよ。僕は……今年度中は無理だろうから、せめて来年度中にはあたりたい……」

 

 宗谷くんは現在、六冠である。棋匠以外の全てのタイトルをもっている。

 MHK杯や朝日杯、棋匠戦以外で彼と対局するには、挑戦者になる必要がある。

 桐山君の場合、MHK杯はすでに予選が終わっているので、来年度からの参加になるし……朝日杯くらいだろう。

 その点、僕のほうは、対戦の組みかたによっては予選で当たる可能性があるタイトル戦がいくつかある。

 

 

 

 そうなれば、良いなと思っていた願いが通じたのか、9月。僕は桐山くんとはじめて公式戦で戦うA級棋士になった。

 

 棋神戦のトーナメントが出た時点で、僕は出来る限り桐山君の情報をあつめた。

 彼が僕にあたるまでに負ける可能性など考えもしなかった。

 

 プロになってからの対局数はまだ少なく。奨励会まで遡ってみたけど、ピンッとくる棋譜はあまりなかった。

 言っては悪いが相手との棋力差がうかがえる内容だった。

 とりあえずは、例の企画対局と、いくつか気になった棋譜をさらってみて気が付く。

 彼はオールラウンダーだ。

 これだけの対戦数をみても、得意な戦法や苦手な戦法が全く見えてこなかった。

 そうして、さらに面白くなって研究を進めていて既視感を覚えた。

 この柔軟な攻守の切り替え方や、どこか常人には理解しがたい独特な読み回し……。

 

 そうだ、宗谷くんの棋風と似ている。

 

 そのことに気づいたとき、将棋の神様は最高だ! と本気で思った。

 

 僕の将棋人生で宗谷冬司ほどの才能に出会うことはないだろうと考えていた。

 彼は100年に一人の逸材といっても良いのだから。

 

 100年に一人の人物が、おなじ時代に二人いる。

 そして、一人は僕と同い年で、もう一人は間もなく全盛期を迎える僕たちへと挑戦してくる世代なのだ。

 これでわくわくしないなんて、どうかしてる!

 

 

 


 

 桐山くんとの対局の日、ぼくは色々な手を考えていたけど、結局まずありえないような一手をさしてみて、彼の反応をみたかった。

 定跡通りや型どおり、そんな綺麗な棋譜を残すことが多い彼はまだ混戦の対局がすくない。

 それが苦手ではないことは分かっているけれど、その対戦記録が欲しかった。

 

 

 流石に僕の指した2四歩に対して、すぐには反応しなかった。

 長考途中の彼の様子でじっくりと、この先を吟味しているのが分かる。

 不思議なもので、この若さでオーラというか雰囲気を持っている子だ。こういうところも、宗谷くんと似ている。

 

 彼の指し手は5八金。うん。悪くないね。でも予想の一つではあった。

 そこから僕が角交換にもちこんだのは意外だったのだろう、少し動揺がみられたようだったけれど、直ぐに対応してきた。

 

 戦況は僕が有利な感じで進み始めたけど、彼は落ち着いていた。

 通常あまり組まない方で矢倉を組立はじめる。僕が見た彼の棋譜でこんな戦法をとったことはない。

 実践ですぐに思いついたことに踏み切れる度胸と、それができるポテンシャルを持っている子だった。

 

 いろいろちょっかいを掛けて、揺さぶってみたけど、彼の矢倉は揺るがず、そして逆に手を出し過ぎた隙を一瞬でつかれて、そのまま追い込まれ、僕が投了。

 

 本当に面白い対局だった。

 終わってみて分かったのは、彼の棋風は確かに宗谷くんに似ているけれど、決して模倣のようなものではなかった。

 もうすでに自分の中で確固たる芯を持っていて、自信があって、そのうえでの柔軟な差し回しなのだ。

 桐山零の将棋をすでに持っている。

 

 感想戦も楽しかった。

 打てば響くようにいろんな手を返してくれる。

 食事中なのに盛り上がってしまった。

 おまけにその後、かなり遅くまで引き止めてしまう始末。

 

 会長にも呆れられたが、これが僕の両親にばれたら、お小言をくらうのは間違いない。

 小学生をそんな時間まで引き止めるなんて、と。

 

 夜も遅いし、桐山くんが叱られたら申し訳ないから送って行くついでに、彼の師匠の藤澤九段にも一言謝っておいた。

 藤澤九段は電話があった時点で予想は出来ていたからと、苦笑していた。

 桐山くんを叱ることもなく、お疲れ様と声をかけて、少しでも早く寝るようにと家の中へと迎え入れた。

 

 桐山くんの経歴はある程度知っていたから……というか雑誌やテレビが散々教えてくれていたし、彼の周りの環境が気になっていたけど、今は大丈夫だろうと感じた。

 

 幼い頃に逆境に陥って、将棋に出会って、のめり込む。この辺も宗谷くんと似ている。

 桐山くんもいろんなものを失って、今があるのだろうか。

 

 似た者同士の二人が出会って、宗谷くんの方には確実によい影響が出ていた。

 このまま刺激し合って、さらに将棋界を面白くしてくれたら嬉しい。

 

 ついでに僕も仲良くなって、もっと沢山対局したり、一緒に研究が出来たらと思ったから、連絡先も交換した。

 食事の時の話の流れで島田さんの研究会に入ってるそうだったし、知り合うのが遅れたぶんは、ちゃんと動かないとね。

 

 後日、宗谷くんと出会ったときに、交換していた連絡先を随分羨ましがられることなど、僕は知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次は香子さんの視点です。


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第十六手 得体の知れない生物

 その生意気な子どもの第一印象はコレだ。

 私たち奨励会員に、残酷な現実を突きつけてくる、得体の知れない生物。

 奨励会での対局は熾烈だ。

 三段リーグは鬼のすみかなんて言われるけど、その鬼のすみかにさえたどり着けず、地獄で燃え尽きて灰になる人なんて、掃いて捨てるほどいる。

 

 誰だって、灰になりたい訳ない。

 あがいて、もがいて、死に物狂いで、地獄の扉のその先の、栄光のプロの舞台にたどり着きたい。

 

 でも、その舞台にまで生き残っていけるのは、本当に一握りの人だけ。

 そして、そこで生き続けて、その頂に立てるのは極々一部。

 分かってる。

 私たちだって、物わかりの悪い子どもではない。

 ちゃんと知っている。

 でも、諦めたくないから奨励会にいる。

 自分がその、たった一握りの人間になれるのではないかと。

 万に一つの可能性に縋ってでも、叶えられたらと思うから奨励会にいる。

 

 でも、時々いるの。

 何でも無い顔をして、まるでここは通過点に過ぎないと、あっというまに、駆け抜けて行ってしまう子が。

 

 桐山零は、まさにそれだった。

 

 まだ小4の子ども。小さくて、頼りなさそうな子だった。

 それなのに、しっかりと前を向いて、私たちの前で挨拶をして、そして初日は、三タテ。

 浮き世離れしたような雰囲気で、誰とも話さず、付き添いの大人もいない。

 誰もが、この子は一体何なの?って思った。

 

 そして、成績が積み重なるごとに、その得体の知れなさに拍車がかかった。

 

 負け無し。

 誰も勝てなかった。

 勝てそうな人すらいなかった。

 対局を見ていたら分かる。

 何あれ。まるで指導対局よ。

 

 神様はなんて残酷なんだろう。

 あれだけの才能。見せつけられたら、こっちは堪らない。

 馬鹿にだって分かる。

 あの子は、プロになる子で、ゆくゆくはタイトルを手にする。

 そんな子どもだって。

 

 私だって、それなりに自信があって奨励会に入った。

 父はプロ棋士。

 子どものころから、将棋の駒が遊び道具で、気づいたらルールは覚えていた。

 始めた頃は同年代で、私が勝てない子なんていなかったんだから。

 

 でもね。夢はいつか覚めてしまう。

 父の英才教育という名の魔法の恩恵は切れてしまった。

 奨励会には、私以上の子は掃いて捨てるほどいた。

 あぁ……別に私は特別では無かったんだなって、そんな現実に気づいた。

 

 そんな、矢先に突然ふってわいた、こいつ。

 

 ほんと何なのよって思った。

 あれは、同じ人間じゃないなんて、皆と囁いてしまうほど。

 

 桐山零の家庭環境とか、特殊な事情とかもすぐに知れ渡った。

 勿論大変な生活だと思ったし、そんな状況でよく将棋の勉強が出来るなと思った。

 記録係の仕事だって誰よりも熱心だった。

 

 裏では、必死すぎるなんて馬鹿にしてる奨励会員もいたし、記録係をして可愛がってもらっている様子をみて、贔屓だなんて妬む器の小さい奴もいた。

 あれじゃ、駄目だ。

 

 たぶん、あそこまで必死になって、全てを捧げてるから、彼が出来上がったのだろう。

 

 でも、やっぱり腹が立つでしょ。

 私が何年もかけて、こつこつ、一歩ずつ登ってきた一級に、あっという間に上がってきてさ。

 おまけに、何よ。

 父さんの知り合いの子ども?

 内弟子にむかえるつもりだった?

 もう、ふざけないでよって感じ。

 だから、公園で声をかけられたとき、ついあたってしまった。

 

 羨ましかった。

 何年も将棋をしてきても、私には父さんの心の内なんて分からないのに、あの子には分かってるみたいだった。

 妬ましかった。

 お父さんがあの子を一瞬だって、うちにむかえ入れようとしていた事が。

 

 そんな、ドロドロとした醜い私の感情を全部ぶつけたって、あの桐山零は、淡々と正論を返してくるだけだった。

 なんだか、本当に頭にきちゃって、胸ぐらを掴んじゃったのは悪かったけど、私にだって色々思うところがあったわけ。

 

 奨励会での対局の時。

 あの子に、負けたら、奨励会を辞めようと何故かふとそう思った。

 少しは動揺すれば良いと、対局前に囁いてみたけど、ほんとに本心だった。

 

 でも、対局中はそんなこと忘れてしまった。

 なんだか、とても楽しかった。

 久しぶりに、あぁ私将棋を指してるって。

 なんだか、よく分からないぐちゃぐちゃの盤面の上で、何が何でも勝利がほしくてもがいてる訳じゃ無い。

 苛烈で、攻撃的な、それでいて、美しい道筋がみえるそんな棋譜をつくれた。

 

 自分の力ではないのは、はっきり分かっていた。

 でも、これは私とあの子で作った棋譜だ。

 あの子一人だったら、生まれなかった。

 

 そう思ったら、なんだかもう良いような気がした。

 満足してしまった。

 ここで、終わるのも悪くないなって。

 きっと、この奨励会という魔窟を離れることができたら、私はまた昔のように純粋に将棋を楽しめる日も来るってそう思えた。

 

 だって、今日は楽しかったから。

 こんなに、夢中にただただ、指す事も出来るのだと、私はようやく思い出せた。

 父さんは、急に私が奨励会を辞めると言うと、とても驚いていた。

 香子は、まだ認めないだろうなと思っていたって。

 

 その一言で、分かった。

 父さんは、知っていたのだ。

 私が決して万に一つも奨励会を抜けることが無いことを。

 そして、それを薄々感じ取りながらも、ずるずると認めることが出来なかった事を。

 

 でも、自分で決めなければ後悔が残るから、言えなかったらしい。

 父の親友は純粋な自らの意思で、それを決めることが出来なかったそうだ。

 

 だから、子ども達には、自分の意思でちゃんと選ばせたいと思っていたと。

 本当にギリギリ。

 もう本当に、駄目だと思っても、まだ決め切れていなかったら、自分から引導を渡すつもりだったらしい。

 

 でも、それって何か最後通告みたい。

 そう言われる前に自分で、あそこを離れられたのは良かった。

 

 歩は少しショックを受けていた。でも、自分はまだ奨励会すら経験していないから、挑戦はしたいそうだ。

 やめとけば良いのにという気持ちと、貴方も思い知れば良いと思う気持ちと半々くらいだった。

 もし、残酷な現実を見ても。

 それでも、まだ歯を食いしばって、歩が上を目指せるなら、それはひょっとしたらホンモノかもしれない。

 まぁ、それは、無いだろうけどね。

 

 零ほどじゃないけど、私もそこそこ将棋中心の生活だったから、奨励会をやめたあとは、時間を持て余した。

 

 次になにか出来ないかなぁと思いながら、美容院で読んでいたファッション雑誌に、モデルのオーディションの募集があった。

 こういうのって、もっと綺麗で可愛くて愛嬌がある子が受けたら良いと思っていたけど、私も案外いけたりしないだろうか。

 

 半分は、冗談だった。

 でも、半分は期待もあった。

 綺麗で、自分に自信があって、格好いい。

 そんな事を言ってくれた奴がいたせいだ。

 だから、妙な気持ちを持ってしまった。

 

 気の迷いもありつつ、受けたオーディションがまさかの合格で、そこから少しずつ、モデルの仕事をうけはじめた。

 この世界もなかなかに厳しい。

 華やかにみえて、当然裏では色々ある。

 

 でも、私はそれなりに地獄は見てきたし、精神面でへこたれるほど柔じゃなかった。

 無駄に鍛えられて度胸もあった。

 生意気だと陰口も言われたけれど、案外この業界、これくらいの方が生きやすいのかもしれない。

 

 新人にしては、仕事の内容も良い感じで、やり甲斐まで感じはじめて、ちょっと面白いなって思った。

 

 退会駒が届いたのは丁度そんな時。

 

 すぐゴミ箱に捨てようとして、出来なかった。

 楽しさ、喜び、嬉しさ、苛立ち、怒り、嫉妬、悔しさ、私の数年間の気持ちが全部この箱の中で煮詰まっている。そんな気がした。

 どうしようかと、箱をいじっていたら、ふと父さんの話を思い出した。

 

 そうだ。私も言葉をもらおう。

 私に引導を渡してくれた、あの生意気な子どもに。

 言葉は別になんだって良かった。

 

 零は目を白黒させながら、戸惑ったようにでも、しっかりと書いてくれた。

 

「遠雷」

 

 へー。雷か。

 悪くないかもって思った。

 理由を聞いたら、尚更だった。

 

 センス無いって言ったくせに、ほんと生意気。

 字だってめちゃくちゃ綺麗だった。

 

 この言葉のようになれたら良いな。

 人を惹きつけるそんな魅力のある女性に。

 

 絶対に直接は言ってやらないけど、私はその箱をお守りにした。

 必ず仕事鞄の中に入れて、私の一つの指針となった。

 

 ちょっとだけ、意趣返しと願掛けを込めて、香車の駒は零に預けた。

 あの子が、駒をどうしたって構わなかった。

 ただなんとなく、無敗でプロになったら、駒を返しに来る気はしていた。

 そうしたら、私はこの駒でなら、また将棋を指しても良いかなと思った。

 その最初の相手は、零がいいなと思った。

 良い勝負くらいになれるように、駒落ちで指そう。

 前までは年下相手に駒落ちなんて、死んでも嫌だったのになんでだろう。

 今は、その時が来たらいいなと思っている自分がいた。

 

 数ヶ月後。

 得体の知れない生物だったその子は、無敗で桐山零というプロ棋士になって、今も時々兄弟子である父のところに遊びに来る。

 そして、私はたまに時間が合えば、彼と将棋を指した。

 

 遠雷という文字が書かれたこの駒箱の駒で、それを書いたこの子と対局をする度に、私は何度だってあの日の新鮮な気持ちに戻ることが出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 




香子さんに贈った言葉、「遠雷」は原作の中のサブタイトルで使われていた言葉です。ほんとうにぴったりの言葉だと思う。
彼女との話はこれでひと段落です。


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第十七手 重なる連勝記録

 10月に入って新しく始まる予選はないけれど、聖竜戦と朝日杯は二次予選が始まっている。

 これに勝ち本戦出場となれば、来年度一次予選は免除される。

 シードと呼ばれるものだ。

 上位の棋士ほど対局は忙しくなるから、このシード枠を上手く確保しておかないと、あとあと大変なことになる。

 特に僕はこれから対局数は増えるだろうし……。

 

 

 

 

 

 一度、島田さんの研究会へも顔を出した。

 僕の予定が合わず、島田さんも昇級していろいろ忙しかったので、話が出てから初回が行われるまで、すこし期間が空いてしまったのだ。

 

「こんにちは。お邪魔します」

 

「おう、桐山お疲れ様。よくわかったなぁ。最初は迎えに行った方が良いかと思ってたんだけど……この辺分かりにくいだろ?」

 

 千駄木の趣のある街並みが続く地区。その坂の途中にある見晴らしの良い場所にこの家はある。

 島田研究会はやはり島田さんの家で開催されるらしい。

 家の場所は以前と変わっていなかったから、僕としては随分なれた道だ。

 

「大丈夫です。学校からくるのにそれほど不便じゃなかったですよ」

 

「あーなるほど。直接きたんだな」

 

 と、島田さんは僕の姿をみると少し噴き出す。

 

「どうかしましたか?」

 

「いや、ランドセル背負ってるの久々にみたと思って。記録係をするときもそのまま背負ってきてたよな。

 あーそうしてると、ほんと小学生なんだなってよくわかるよ」

 

「確かに対局ある日は学校を休みますし……会館に背負って行くことは減りましたね」

 

「大人にばっかり囲まれてるとこしかみてないから、ずっと小さい気がしてたんだけど、奨励会に入った頃よりはちょっとは成長したなー」

 

 島田さんは僕の頭に手をおいて、優しくなでた。

 なんだかとても、むずがゆい感じがする。

 

「親戚の人の台詞みたいですよ」

 

 僕が笑ってそう答えると、一瞬目を丸くしたあとに、桐山の健やかな成長を見守ってるからなと、言われた。

 

「あんまり大人数集まれないから、とりあえず一人声をかけといた。桐山、初対面だよな? 重田盛夫くん俺の同期だよ」

 

 いつもの部屋に通されて、重田さんを紹介された。

 最初に会ったときとまったく同じだ、ちょっと睨んだような顔で凝視されて、ぺこりと無言でお辞儀をされた。少し懐かしい。

 

「はじめまして、桐山零です。よろしくお願いします」

 

 僕も名乗って、深々と一礼した。重田さんの反応は薄い。

 

「えーと、まぁこんな感じであんまりしゃべらないんだけど、将棋に関してはよく話すし、悪い奴じゃないから。ほら、重田くんも、年下の子なんだから、仲良くしてよ! 先輩なんだからね、君!」

 

 彼の無口な性格も知ってるし、打ち解けてきてぼそりと吐き出される毒にも慣れている。

 また一からになるけど、はやくそういう関係に戻れたらいいなって思った。

 

「あの……二海堂は呼ばないんですか?」

 

「お! 桐山はあいつがいた方が嬉しい? 年も近いもんな……最初は俺も慣れてからって思ってたけど、あいつも様子みて声かけようかと思ってる」

 

 桐山がいるって知ったら絶対断らないと思うけど、と島田さんに言われて、少しほっとした。

 小さい研究会はプロ同士でやることが多い。若手の研究会や同門で行われる研究会なら、奨励会員が混ざってくることもないわけではない。

 正直言って、4人じゃないのは落ち着かなかった。

 

「僕は……彼が良いなら来てくれたらって思います。えっとこの前初段になってましたよね?」

 

「そーなんだよ! ぼちぼち二段も見えてる。上手くいけば、来年度の4月からの三段リーグに入れるって本人もやる気だった。桐山が知ってるとはなぁ……」

 

 しみじみとつぶやく、島田さんに、迷ったけれど小さな声で答えた。

 

「……待ってるって約束しましたから」

 

 そう。彼がプロになるのも、またタイトルを僕から奪いにくるのも、ずっとずっと待っている。

 

「伝えとくよ。たぶん何よりの応援になると思う」

 

 島田さんは力強く頷いた。

 

 

 

「さて、とりあえず一局指すか。3人とも一巡しよう。初回だから早めで持ち時間は30分くらいでいいな」

 

 島田さんとの対局も重田さんとの対局も楽しかった。

 二人の対局をみるのも久々だ。

 

 あと、なんだか上手く言えないんだけれど……こう、この部屋でまた集まって研究会をしている事が、たぶん僕は嬉しかった。

 そして、はやく、4人になったらいいなと思う。

 

「重田さんは、振り飛車を良く指されるんですね」

 

 相変わらず、今日対戦した僕との対局も島田さんとの対局もそうだった。

 

「何? 文句あんの? 桐山は居飛車も指してたな……おまえ、生意気にオールラウンダーなわけだ」

 

「生意気かどうかはともかく。その方が色々できて僕は好きなんです。でも……このゴキゲン中飛車良いですね。やっぱり急戦に強い。危ない所でした」

 

「後手で時間もそんななかったしな。手始めには良いだろ。お前の穴熊堅くて崩せなかったけど」

 

 フンと鼻で笑われた。

 あーこの感じ、ここに二海堂もいたら何時ものやつがはじまったのになとちょっと思った。

 

「よしよし。仲良くしてね。俺と桐山の対局も検討するかー、終盤あそこまで、詰め寄られるとは思わなかったし」

 

 島田さんとの対局は僕の負けだった。後手だったのと、珍しく彼からの猛攻を受けた。

 すこし慎重に応じすぎて、ギリギリまで僕の形勢は不利……後半なんとか盛り返したけど、すこし及ばずって感じだ。

 

 どういう意図で、何故そこに指したのか。僕は言葉にするのが大分苦手だったんだけど、解説の仕事も本当に沢山こなしたし、この研究会でも相当お世話になったから、今はそんなことはない。

 

 検討はスムーズに進んだ。

 帰り際に島田さんに声をかけられる、来月も予定あわせてやろうなと、かなり有意義な時間になった。

 

「意外だったよ。桐山たぶん宗谷みたいなタイプだとおもってたんだよな。あいつとの感想戦チラッとテレビに出てたし。でも、今日はやりやすかった」

 

 宗谷さんとの感想戦は不思議だ。

 たぶん僕らふたりは頭で考えたり、先を読んだりするよりも、感覚でなにか分かっているところがある。

 先に違和感があるのだ。そこから立ち止まって考える。

 そして、彼との感想戦では、その感覚が不思議と共有されたりする。

 

 でも、それがちょっと特殊なのはちゃんと分かってるから、言語化することも重要だ。

 

「僕も今日はとても勉強になりました。また、来月に」

 

 以前あった繋がりが、どんどんまた繋がる事が出来て、僕にとって幸せだった日常が少しずつ戻ってきている。

 プロになってから充実しているし、毎日が楽しかった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 11月 聖竜戦2次予選決勝。

 これに勝てば本戦出場という大事な一局。僕の対局相手は藤本さんだった。

 

 藤本さんと言えば、関西に所属している棋士である。

 こういう場合下座に座る方の棋士が一般的に移動することになる。

 

 大阪へは新幹線を使っていくことにした。学割もあるし、飛行機より荷物検査とかが無い分この距離の移動なら、此方の方が良い。

 小学生には少し遠めの移動になるから、師匠は最初ついてこようとしてたけど、遠慮しておいた。

 これから何度もこっちに来ることはあるのだ。その度についてきてもらうわけにもいかないし。

 

 でも、やっぱり心配だったのだろう。同じ日たまたま幸田さんの対局が関西であった。

 前の日、僕の学校が終わるのを待ってくれて、同じ新幹線で大阪までいき、ホテルも一緒に泊まった。

 前泊したほうが楽だし、こういう時は大人が一緒の方が、宿が取りやすい。

 

「それじゃ、お互い良い対局にしてこよう。帰りも出来たら、ついていたいが……私の対局が長引きそうなら先に帰りなさい。明日、学校だろう」

 

「はい。ありがとうございました。おかげで次からは大丈夫そうです!」

 

「君は本当にしっかりしてるから、一人でも大丈夫だろうけど、それでも心配してしまうんだよ。たぶん同じ日に門下の対局があったら、誰かしらついてきてくれるさ」

 

「いえ、本当に助かってます。……小学生が平日の昼間からうろうろしてると……ちょっと目立ちますから」

 

 子供の身だと、不便なことは何かと多い。

 

 

 

 さて、今日の藤本さんはどんな感じだろう。

 たぶん、相変わらずだと思うんだけど……。

 

 いつものようにお茶とレモン水を横に準備して、対局の開始を待つ。

 

「よう、小学生プロ。ちゃんと来れたんだな」

 

 5分前にやってきた藤本さんは、ドカッと座ると早速ぼくにそう声をかけた。

 

「幸田八段が連れてきてくれました。今日はよろしくお願いします」

 

「幸田? あーあいつも対局だったのか。ふーん可愛がられてるんだな、同門から」

 

「はい。有り難いことに」

 

「いいんだよー子どもの特権だろ。先輩に甘えとけ」

 

 うんうん。と頷いたあとに彼は続ける。

 

「で、桐山おまえ、まだたしか負けなしだよな?」

 

「え? あぁ……そうですね。公式戦ではまだです」

 

 今日でそろそろ20局目? くらいだっただろうか、とにかくまだ負けてはいない。

 

「かー! なっさけねーな。どいつもこいつも。今日は俺が引導渡してやるからな」

 

 たく、下にいつもより記者は来てるわ、全くこんな小学生相手に……。と、藤本さんのガンガンなトークは通常運転。

 

 でも、そろそろ対局開始の時間である。

 記録係の声がかかって、駒を並べだしたときも、まだしゃべっていた。

 

 今時は静かに指す人が多いので、とても珍しいことだけど、藤本さんとの対局は何度もしてきたから、耐性はある。

 適当に返事をしつつ、半分は上の空で、僕は自分の将棋へとのめり込んでいった。

 

 今日僕は後手だった。

 戦局は序盤、横歩取りとなる。

 

「小学校とかさーもう俺にとったら、遠い記憶すぎるんだけどどうなの?あの、給食の時間とか、掃除の時間とかさ、面倒じゃない?」

 

「そうですねー。とにかく全部団体行動だから、ちょっと大変ですねー」

 

「でもあれだろ? もう今年入って何回かは休んでるんだろ。その辺大丈夫? クラスで浮いてないの?」

 

「施設で仲良かった子が同じクラスにいてくれて、その子がその日あったこととか、出された宿題とか連絡くれるから助かってます」

 

 ずっと何かしら、話しかけてきながら、藤本さんは軽快に打ち込んでくる。

 このままじゃジリ貧である。

 うーん。

 ちょっと一発なにかやって、静かにしたい。

 

 僕は少しだけ、迷ったのだけれど、24手目で浮いた飛車に飛車をぶつけるというあまりない一手を指した。

 

「は? なんだこりゃ?」

 

 藤本さんは長考に入る。

 うん。是非そうして欲しい。このまま安易に指されても面白くない。

 そこは流石にA級棋士だ。慎重になるところはちゃんと見定める。

 

 そして、藤本さんの手から、飛車の交換が成立した。

 

 ここはぼくの読み通り、むしろそうなってくれないと困る。

 僕は再び2筋に飛車と打ち込むとそこを拠点に、先手陣に切り込み、攻める。

 

 そのまま藤本さんは受け切れずに84手で投了した。

 

「かーーーーー生意気。ほんとなんだよ、もう。次はねぇからな」

 

「ありがとうございました」

 

 さて、少しはやめに終わったし、感想戦が終わったらそれなりの時間には東京につくことが出来るだろう。

 ……と、思ったのだけれど……。

 

「よーし。桐山、時間あるし、オジサンが良い所に連れて行ってやろう。お前もプロになったんだしなー飲めなくても、変な事覚える前に色々知っとくべきだ」

 

 ん? なんだって? なんだか、とても嫌な予感がする……。

 

「え……。大丈夫です……。僕、明日学校あるので、帰りたいです」

 

「遠慮するなって、大丈夫! ちゃんと良い時間には返してやるよ。藤澤のおっさん怒らすと怖いからな」

 

 藤本さんは、会長や藤澤さんが全盛期の頃をみてるから、色々知ってるんだろうけど……怒らすと怖いなら、そんなことをしないでくれると助かるのだが……。

 

「ちょっと待った、藤本九段! 何いってるんですか、絶対だめです!」

 

「そうですよ。こんな純粋な子をどこに連れて行く気ですか?」

 

 そこで、片づけに入った事務の人たちが止めに入ってくれた。

 本当に有り難い。

 

「俺の行きつけの店、変なとこじゃねーって」

 

「どうせキャバクラでしょ! 子どもをだしに使わない。桐山くんが今有名だからってそんな……」

 

「キャバクラ……?」

 

 あーそういう事かと思いながら、小さく僕が呟くと、そばにいた事務の人たちがギョッとした。

 

「わー!! 桐山くんが変なことば覚えちゃった。忘れて! すぐに! まだ知らなくて良いから」

 

「どうしてくれるんですか! 藤本九段!」

 

「いや、俺のせいじゃないだろ? 今言ったのお前じゃんか!」

 

「あーあ。関東の奴らに怒られますよ……“桐山くんを見守る会”の奴らになんていわれるか……」

 

 え、ちょっとまって! 何その会? 誰がはいってるの? いつから出来たの?

 

 阿鼻叫喚になった部屋のふすまがスパンっと開いた。

 スッと入ってきた、その人の姿にシンッとその場が静まり返る。

 

「対局……終わったんですよね? 彼、借りても良いですか?」

 

「宗谷名人……、え、どうして?」

 

 今日は対局は無かったはずと動揺する事務の人の横を素通りして、かれは僕の前にたった。

 

「こんにちは。あの時以来かな? 今日の対局も面白かったよ」

 

 びっくりして固まる僕に彼は穏やかに声を掛けた。

 

「宗谷名人が見てたなんて……恐縮です……」

 

「なんだ、宗谷観に来てたのか。珍しいな。俺の対局気になったの?」

 

 藤本さんの言葉に、彼は僅かにうなずいた。

 

「はい。藤本さん相手に桐山くんがどう戦うのかとても興味がありました。

 ね、あの飛車、すっごい良かった。検討したい。駄目かな?」

 

「大丈夫です! 時間あります! 作ります!」

 

 学校に間に合う時間に起きれるように、帰れば良いのだ。まだ全然時間はあった。

 もっといえば、幸田さんの対局が終わるまで居てもよいのだから。

 

「おい、桐山おまえ……「宗谷名人どうぞ、場所提供しますよ。そのかわり、良い時間になったら声かけさせてもらいますからね。会長からも言い含められてますので」

 

 なにか言おうとした藤本さんの言葉を事務の人がすかさず遮った。

 彼らとしても、会館で将棋を指してくれていた方が、絶対に良い。

 

 僕は藤本さんにすいませんと一応謝っておいた。

 大人になったらいつか付き合った方がよいのかもしれないけど、まだいいよね?

 

 宗谷さんとの検討は相変わらず楽しくて、時間を忘れてしまう。

 結局それから3時間後、対局が終わった幸田さんがその場に現れて、お開きとなった。

 

 時間的には充分だ。10時には藤澤さんの家に帰れるもの。

 と、思ったんだけど、幸田さんには注意された。自分がいるからいいけど、日が暮れてからの移動は危ないのだから、重々気を付けなさいと。

 

 帰り際、宗谷さんから連絡先を教えてほしいと言われた。

 僕は、彼が携帯を持っていることにまず驚いたけど、当たり前か。仕事の連絡とかもあるだろうから……。

 

 交換した番号をみて、彼がなんだか満足そうに見えたのは目の錯覚だろうか?

 

 帰り際、新幹線の中で届いたメールに、朝日杯、勝ち上がってくるのを待ってると書かれていた。

 

 今月末で朝日杯の2次予選が終わる。突破すれば、本戦入りだ。

 勝った本戦のどこかで宗谷さんと対局できる。

 

 

 

 

 

 


 

 11月からは密かに新人戦トーナメントも開始していた。

 様々な対局の合間をぬって、一年かけてゆっくりと行われる。

 参加資格に年齢とか、段位とかも関係してくるトーナメントだ。

 年齢制限は10年くらい余裕なんだけど、段位のほうはどうなるか微妙だ……。

 正直に言わせてもらえば、今回のみの可能性は充分にありえる。まぁできたらとれたらいいなーくらいの気持ちでいきたい。

 僕としては、そのタイトルよりも、優勝者はだいたいその時の名人と記念対局ができるので、その方が目的だったりする。

 

 

 

 僕の朝日杯二次予選の突破を決める一戦の相手はスミスさんだった。

 

 勝ちたい。

 あのメールのせいかもしれなかったけど、僕は本戦に出たいと強く思った。

 

 相当数スミスさんの棋譜を集めて、出来るだけ時間を作ってさらっていく。

 

 夏休みにパソコンと棋譜を管理するためのソフトを買った。

 対局料は既に結構入っていたし、藤澤さんの家にいるとめったに使うこともないから、お金はたまっていく一方だった。

 いつまでも御厄介になるのもなんだから、一人暮らし用にためだしてもいるんだけど。

 周りの人に止められる気がするので、だいぶ先の話になりそうだ。

 

 最新の棋譜や、歴代の気になった棋譜などを時間があるときに、データに起こしている。

 戦法や対局者の名前など色々タグ付けして管理しておくと、本当に便利なのだ。

 

 こういう事をしてる棋士はまだ、ここ最近では少な目みたいだけど、若い人は少しずつ取り入れ始めている。

 実際僕がタイトルを取り出した10年後くらいは、研究手さえソフトを使って考える人がいたほどだ。

 

 僕はそこまで、ではないけれど、データ管理くらいはしていた。

 あー居飛車の棋譜ばっかり見たいなとか、誰々さんは角換わりを最近指してたっけ? とかその辺がぱぱっと導きだせるのは意外と助かる。

 

 こまめなデータ整理と収集が必要になるけれど、僕はこの辺は結構まめなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 対局当日、スミスさんはいつもと変わらず声をかけてくれた。

 でも、すこしだけピリッとした感じもある。

 

 今日の対局は僕が先手。

 

 序盤は横歩どりを目指す形から、静かにはじまる。

 そこから、右の銀を立てて自陣に「美濃囲い」を築く体勢に入っていく。

 

 と、此処で、スミスさんは僕の角の強襲にかかる。素早く模様を動かしはじめた彼に対して、僕は壁銀を解消する手段をえらんだ。

 

 スミスさんが飛車を伸ばそうとしている意図がみえたので、4筋に角を打ち込み牽制する。

 この手に対してスミスさんは、格言どおりに「角には角」を合わせてというわけで、角交換を成立させてきた。

 盤上から角が消えることになる。

 

 しかし、彼が自陣に低く構えていた歩のうち6筋が浮いた状態になった。

 まだ小さな傷である。

 でも僕は腹を決めた。

 ここでいく。

 

 浮いていた歩をターゲットに左右の桂馬を跳躍させる。

 ついでに、行き場をなくした飛車を僕の飛車と角で挟み込み、捌いていく。

 

 これに対してのスミスさんの思いきりもよかった。

 飛車を潔く手放し、飛車交換を成立させる。

 

 細かい攻めだけれど、確実に攻めている僕に対して彼も流石だ。

 軽くて。はやい。思いきりもある。

 

 でも、ごめんなさい。

 今回は僕が貰います。

 

 3筋の歩で彼の陣をえぐり、寄せに入った。

 柔軟に受け手にも出られたが、間違えることなく猛攻を続けた僕に、115手目でスミスさんが投了した。

 

 

 

 感想戦を少しした後に、スミスさんが小さく呟いた。

 

「この戦法さ。一年くらい前に使ったんだけど……もしかして知ってた?」

 

「え? あ、はい。棋竜戦2次予選の対局ですよね? 入江五段との」

 

 少し似た流れの対局だったが、その時勝ったのはスミスさんだった。

 とても興味深い対局だったし、今回研究させてもらった時に目にとまって、僕も色々考えたものだ。

 

 スミスさんがまた使ってきてくれたのは、僕にとっては幸運だった。

 研究成果がハマるのはやっぱり少し嬉しい。

 

「はぁーそうかー。一瞬どうしようかとは迷ったんだよね。でも、あの時はいい感じに指せたから、その記憶があって。うーん、しっかり対策されちゃってたか」

 

 まいった、まいったと笑った彼は、俺の代わりに本戦がんばれよと言ってくれた。

 

 僕はしっかりと頷いた。朝日杯本戦は、12月末ごろからだ。

 二次予選の勝ち抜き者の8名と本戦シード者の8名、計16名のトーナメント戦。

 

 まだ、予選通過者が全員決定したわけではないので、トーナメント表は出ていないが、一回戦から宗谷さんに当たることも充分ありえる。

 

 12月を目前にして、僕の連勝記録は24勝までのび。

 巷では、いつまで続くのか、誰が止めるのかと話題らしいが、僕はただただ、目の前の一戦に集中していた。

 

 

 

 

 




島研のメンバー本当に好きなので、はやく4人になって欲しい。

次は藤本さん視点。
この方はなかなか癖が強くて…書きやすいのか書きにくいのか自分でも分かりません。


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第十八手 不思議ちゃんが二人

 桐山のガキを最初にみたのは、あいつが俺の対局の記録係についた時だった。

 あいつはいまも小さいが、その時はほんとーに小さくて、頼りなさげで、俺は当然仕事ができるか心配だった。

 最近記録係の仕事を適当にする学生は多く、しかしだからと言ってそいつらがやってくれなくなるのも困るしで、結構俺たちも苦労していたのだ。このくらいの警戒は許してほしい。

 

 俺はすぐにあいつに、ちゃんと仕事はわかってるのか、長い時間じっと棋譜をつけていられるのかと尋ねた。

 あのおちびさん、そういう質問になれていたのだろう。

 もう何度かこなしたことがあると返答した上で、それでも仕事ぶりが気に障ったり、至らないところがあったら、直すから教えてほしいと言った。

 

 気弱そうな見た目だったのだけれど、ちゃんと俺の目を真っ直ぐにみて、はっきりと答えた声は明瞭で、あぁ…こいつは大丈夫だなと直感した。

 

 予想に違わず、桐山の仕事は良かった。

 ピクリとも動かず対局の邪魔にならない。静かにただそこにあり、場の空気に馴染んでいた。

 棋譜も丁寧で読みやすい。こうただ、字が綺麗なわけではないのだ。読みやすい棋譜というものを追求したらこうなったのだろうと思えるようなものだった。まぁ、面白みのなさや味気なさはあったが、こういう棋譜はある意味では理想だろう。

 

 あとは、そう。あの目がよかった。

 桐山は一心に盤上を見つめていた。ただの記録者ではなく、あいつ自身も勝負師としてだ。

 小学生のくせにたいしたもんだと、感心した。

 

 飯の時間になったとき、あいつに何を食べるのかと聞くと、コンビニの小さい袋を取り出し始めたので、おごってやることにした。なんだって、あんな小さいおにぎり一個で腹がもつものか。

 今日は俺も出前の気分ではなかったので、ちょうどいい。ついでに、なんだかこいつには興味があった。

 

 今年から奨励会に在籍しているというこいつは、何やら色々と大変らしい。

 昭和の時代でもあるまいし、親が死んで、子どもだけ取り残されるということは、どれほどのもんだろうか……。

 俺の勢いにちょっと押され気味ではあったものの、受け答えはしっかりしてるし、素直だし、なにより飯を食ってる姿には、癒やされた。

 将棋界は偏屈な奴や、かわいげの欠片もないやつも多い。

 そのせいか、桐山の毒されていない、擦れてない感じがとても良かった。

 

 おまけに軽く今の展開についてどう思うかと聞けば、一昨年の藤本九段のA級順位戦第2局と似てますね、ときたもんだ。

 相当勉強している。

 

 いいな。こいつ。

 逆境にあってもへこたれず、前をみて、そしてなにより将棋馬鹿な匂いがする。

 俺はひそかに、応援してやろうと思った。

 

 

 

 奨励会も順調そのもので、むしろ負けなしと聞いた時はやっぱりなと思ったし、ほかの棋士たちよりも少し先に、その存在を認知していたのは優越感を持った。

 桐山は人当たりは良いけれど、やはりもとは少し内気な性格なようで、ほぼ初対面のやつと、知り合いのやつの両方から飯にさそわれたら、当然知り合いの方についてくる。

 

 つまりは俺だ。

 記録係の仕事についたときは、必ずといっていいほど飯に連れ出した。

 最初あったころから、どうにも身体の大きさが成長しているように思えない。

 ガリガリ感は抜けないし、こいつはもっと食べないとだめだろう。

 

 その日は、たまたま中継が入る対局で、欠員がでた記録係の代わりに桐山が急遽駆り出された。

 外聞というのもあるらしく、あまり事務や上はまだ桐山のことを大っぴらにしたくないようだったが、今回は仕方ないのだろう。

 

 俺は、もう一度出てしまったのなら、同じだろうし、こいつがちゃんと仕事はしてるぞーというのを、視聴者に見せてやった。

 後から聞けば評判は上々だったようだし、桐山の事を気になってる奴は多かったようで、俺のファインプレーである。

 事務員にはやりすぎと怒られたが、気にしていない。

 

 遅かれ早かれ、あいつは注目される立場にたたされる。これは間違いないことだ。

 気分よく指し、快勝を決めた俺の対局の死活を見出した時にそう痛感した。

 

 宗谷の時と同じだ。

 こいつはすぐに俺たちに追いついてきて、そして目の前に座るだろう。

 

 

 桐山はいろんな棋士に可愛がられてて良いよなとか、あいつの強さに関係ないようなやっかみもちらほらと聞こえることもあったが、俺からしてみれば、なんてちいせぇ奴らかと思う。

 あんなんじゃだめだ。

 

 桐山は熱心でひたむきで、将棋にかける想いがケタ違いだ。

 けれど、どことなく寂しげで、その将棋を指している時とは真逆の少し心許ない雰囲気が、なんとなく庇護欲を誘う。

 あいつが可愛がられるのは理由があるし、それはあいつが受け取っても良いものだ。

 

 藤澤のおっさんに引き取られてからは、あいつの周りはだいぶ安定した。

 遠慮がちなところは変わってないけれど、それを押してもあいつを構う大人が増えた。

 特に藤澤門下の奴らはやべぇ……。

 全員、自分の息子か孫かのように可愛がっていたと思う。

 

 予想外だったのは、後藤の奴だ。

 あいつは素直じゃないし、絶対に認めんだろうが、桐山のことは気にかけてやっているみたいだった。

 子どもは嫌いだったろうに、珍しいと探りを入れてみたところ、なんとあいつの指す将棋はおもしれぇとのことだった。

 同門ということは、こいつは今のA級の中では一番桐山の指す将棋を知っているのだろうな。

 なんかずるいな……、俺も早く指したいものだ。

 

 

 

 プロ入りを決め、初の小学生プロ棋士となった桐山は随分とメディアに騒がれた。

 会長は、できるだけ仕事は選別していたし、あいつの周りが少しでも煩わしくないように気を使っているようだったが、それでも相当な取材やテレビの撮影があったようで、あれでよく舞い上がったり、萎縮したり、日常に影響が出ないものだと思った。

 あいつは、自然体でその辺りの対応も満点といっていいらしい。

 会長があれほど褒めるのは珍しいし、宗谷と比べまくって、あいつが当時桐山くらい動いてくれたら、どれほど楽だったか! と嘆いていた。

 

 面白そうなテレビの企画を後から知って、おれも出たかった! と会長室へ文句を言いに行ったこともある。

 なんだって、あの三人だったんだ? A級もっと呼んでもいいだろう。

 その時は、そろいも揃ってプロ棋士が三タテくらうなんて情けないと思ったが、後から棋譜をみて戦慄したのは秘密だ。

 

 特に宗谷との対局は……うーむ俺も並べて研究したいと思わざるをえなかった。

 

 

 

 

 

 身にまとっている雰囲気や、将棋への想いが他とは一線を画していると思っていた桐山は、俺の予想どおり頭角をあらわし、プロ入り後まだ一度も負けていない。

 

 テレビはそれを随分持ち上げて、世間も注目していた。

 日に日になんでもない対局でも、取材にくる記者が増えてきているらしい。

 桐山自身はそれを気にしていないようだが、この前のC2の順位戦など、対局相手がその雰囲気にのまれてしまって、まともな将棋になっていなかった。

 まったく情けない話である。

 

 ついに土橋ともあたって、連勝も途切れるかと思われたが、あいつはなんとかわしてみせた。

 突拍子もない手に冷静に対処していたし、なんとも生意気なことだ。

 次にあいつの連勝記録のカギを握るのは、俺との対局だろうと言われていた。

 

 どんな理由にせよ、注目されることは有り難いことで、期待の小学生棋士を阻む壁になれたとしたら、話題性抜群、俺の株があがる。

 対局自体も楽しみだったが、俺のメンツという男として譲れない一線のためにも大事な一局となった。

 

 俺は対局中に話すのが好きだ。

 最近のやつらはタイトル戦でもないのに静かに指しすぎじゃないだろうか。

 もっとも、集中力や思考力にそれが強く影響するなら、自分がベストの状態で挑むためにそうするのは悪いことではないと思うが……なんというか味気ない。

 

 特段気を使ってやることもないだろうと、桐山にもいつものように話しかけた。

 あいつは、気のない返事をしつつも、ちゃんと会話を成り立たせてくれたし、意外に付き合ってくれる方だった。

 宗谷なんぞ、ガン無視なので、それにくらべたら立派なもんだ。

 

 ただ、指し手はやはり生意気だった。

 なんだ!? あの手!?

 しかも、それに対する俺の一手も悪くはなかったと思うが、鋭くきりこまれそのまま攻められた。

 ……なんとも遠慮がない。

 

「よーし。桐山、時間あるし、オジサンが良い所に連れて行ってやろう。お前もプロになったんだしなー。飲めなくても、変な事覚える前に色々知っとくべきだ」

 

 負けてはしまったが、俺は気分が良かったので、あいつをよいところへ連れて行ってやることにした。

 大人の世界の一端を垣間見ておくのも、大事だろう。

 社会勉強だ。

 

「え……大丈夫です……。僕、明日学校あるので、帰りたいです」

 

 桐山は珍しく露骨に嫌そうにした。

 なんだその顔、失礼な奴だな。若手の奴らなんかおごりだったら喜び勇んでくるんだが。

 まだ、おこちゃまには未知の世界か。

 

「遠慮するなって、大丈夫! ちゃんと良い時間には返してやるよ。藤澤のおっさん怒らすと怖いからな」

 

 藤澤のおっさんは、今でこそ引退し、年齢も重ね、丸くなったような気がするが……タイトルを保持していた時、その厳格さは有名だった。

 声を荒らげて怒るような方ではないが、こう……静かな冷気が恐ろしかった。

 会長のアホがやりすぎてばか騒ぎになった時、それを諫めた姿は今でも覚えている。

 

「ちょっと待った、藤本九段! 何いってるんですか、絶対だめです!」

 

「そうですよ。こんな純粋な子をどこに連れて行く気ですか?」

 

 俺の言葉に、片づけに入っていた事務員が割って入る。

 なんだ? 失敬だな。

 

「俺の行きつけの店、変なとこじゃねーって」

 

「どうせキャバクラでしょ! 子どもをだしに使わない。桐山くんが今有名だからってそんな……」

 

 ……そんなつもりはない、ただ若いお嬢さん方はテレビが大好きで、小学生プロ棋士の桐山くんは確かにそこでも知られている。

 話題に出せば、めっちゃ盛り上がるから、本人を連れて行って、テキトーにジュースやフルーツを与えて横に座らせておけば、もっとつれるとか思ってはいない。断じて。

 

「キャバクラ……?」

 

 キョトンとした顔で桐山が繰り返す。

 ……小学生の口から出ると、なかなかに破壊力があるなこの言葉。

 

「わー!! 桐山くんが変な言葉覚えちゃった。忘れて! すぐに! まだ知らなくて良いから」

 

「どうしてくれるんですか! 藤本九段!」

 

「いや、俺のせいじゃないだろ? 今言ったのお前じゃんか!」

 

 おい。決定的な言葉を出したのは俺じゃねーぞ。

 やめてくれ、藤澤のおっさんに知られたら面倒だ。

 あの人は桐山のことを孫のように可愛がっているのだ。

 

「あーあ。関東の奴らに怒られますよ……“桐山くんを見守る会”の奴らになんていわれるか……」

 

 明らかに物騒で面倒な気配がする会について、問いただそうとしたら、部屋のふすまがスパンっと開いた。

 

 入ってきたのは、宗谷だ。

 珍しいこともある。対局やインタビューなどその他の仕事がないときは、ここにあらわれることはない奴なのに。

 俺の対局に興味があったのかと尋ねれば、

 

「藤本さん相手に桐山くんがどう戦うのかとても興味がありました。

 ね、あの飛車、凄く良かった。検討したい。駄目かな?」

 

 この返答。相変わらずのマイペースぶりだ。

 

「大丈夫です! 時間あります! 作ります!」

 

「おい、桐山おまえ……「宗谷名人どうぞ、場所提供しますよ。そのかわり、良い時間になったら声かけさせてもらいますからね。会長からも言い含められてますから」

 

 桐山は俺の時と違って、飛びつくように快諾した。

 おまけに事務の奴らまで手を貸しやがる。

 

 俺の言葉に一応悪いとおもったのだろう、先にお声かけしてもらってたけどごめんなさい。とぺこりと頭を下げる姿がかわいかったので許してやった。

 後ろで見てた宗谷の視線から、絶対に譲らないであろうことは分かったし。

 

 この不思議ちゃんコンビ、仲良くしてんだな……。

 

 

 

 そのまま帰るのは癪だったし、暇そうな事務員と若手を連れて、行きつけのキャバクラに乗り込んだ。

 最近知り合ったかわいいお気に入りの女の子がいる店だ。

 

 今日おれ負けちゃったんだよーといえば慰めてくれたし、相手があの桐山だと知るとすごーい、あのちっちゃい子ほんとに強いんだねーと大盛り上がりだった。

 おのれ桐山! 今度があったら叩きのめして、俺の株をあげるのに貢献してもらうからな!

 

 酒も入っていい気分になっていた事務員に“桐山くんを見守る会”について、探りをいれてみる。

 

「あー、別に正式な名簿があったり、会としての形があるわけじゃないんですよー。でも、関東の事務の奴らが集まって自然と出来てたみたいで」

 

「ようは情報共有ですかね。最初はいかにして桐山くんにおかしを食べさせるのかが議題だったみたいです」

 

「なんだ? 普通にやりゃーいいじゃねーか」

 

 菓子なんて渡せば食うだろ。

 

「それが、そう上手くいかなかったんですよ。桐山君施設に持って帰ってあっさり他の子にあげちゃってたみたいで」

 

「僕らとしてはそれでもいいんですけど、食べてエネルギーにしてほしいのは桐山君ですからね。結局一定数量をわたすと彼の口にも入るって分かってまとめてあげるのが流行ったらしいです」

 

 あの小さい不思議ちゃんは……自分で食べればいいものを、人が良いというか……酔狂なやつだ。

 そんなんだから、いつまでたってもでかくならん。

 

「そのあとは、記録係をしだして、棋士の方々もちょっと参加してて、藤澤門下に入ったあたりから、活動が活発化してるらしいです」

 

「あいつは知らねーんだろ」

 

「もちろんですよ。陰からそっと彼を見守って、少しでも健やかな成長を、というのが目的です」

 

 期待の新人だし、将棋界の子どもとして、大切にしていきたいという会長の方針とのことだ。

 つまりだ。あいつには親はいないけれど、おっそろしい保護者がたくさんいるらしい。

 

 

 

 いい感じに飲んでかえって寝た俺だったが、翌日藤澤のおっさんから電話が入って焦った。

 君が行くのは好きにしたら良いが、零に変なことは教えないように、とのことだ。

 

 事務が幸田にちくり、そこから話が流れたらしい。

 あれは本気だった。

 ガチのトーンだった。

 俺は桐山を連れ出すのは、やめておこうと思う。

 触らぬ神になんとやらだ。

 

 

 

 

 でも、面白いから構うのはやめられないのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 




藤本さん良いキャラですよね。
原作での登場回、どれも印象強い笑

次は桐山くん初解説回を掲示板目線で。


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掲示板回【ついに本日】小学生プロ棋士桐山零くん応援スレPart18【初解説】

一部勘違いさせたようですが、今回の掲示板回は本編の対局の別視点ではなく、桐山くんの初解説回を掲示板視点で書いています。
なのでこの回の普通の文章の回はありませんので。


  

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   ・

   ・

 

109 名無し名人

予定が決まってから今日を楽しみにしてきた。

 

110 名無し名人

昨日寝れてない

 

111 名無し名人

桐山四段が初めて、今日解説のお仕事をっ!

 

112 名無し名人

リアタイで見るために、今日は仕事やすんだ

 

113 名無し名人

昼間仕事がない俺は勝ち組

 

114 名無し名人

>>112

そんなことしてたら、タイトル戦始まったらどうすんだw

 

115 名無し名人

なんでだろう、俺独身なのに子供もつ親の気持ち分かった気がする……

 

116 名無し名人

>>114

そんときはそんとき考えるんだ!

 

117 名無し名人

というか、スレ消費早すぎwまだ始まってもないのに、100越えてるやん

 

118 名無し名人

みんなもうちょっと落ちつけよ

 

119 名無し名人

そろそろ時間だが……

 

120 名無し名人

お!つながった。

 

121 名無し名人

きたか

 

122 名無し名人

あれ?

聞き手の天笠女流初段だけ……?

 

123 名無し名人

桐山くんどした?

 

124 名無しの実況

天笠「皆さんこんにちは。本日は獅子王戦決勝トーナメント2回戦、島田八段対後藤九段の対局が行われます」

 

125 名無し名人

対局者も豪華だよな~

 

126 名無しの実況

天笠「なお、解説が予定されていた桐山四段ですが、此方の手違いがありまして、本日午前学校行事が入ってしまっていたようです。

出席しても定刻には間に合うとのことだったのですが、少しだけ遅れてしまっているようですね……。

既にこちらに向かっているとの連絡も入っていますので、対局開始までには来られるそうです。それまで本日の対局者の紹介と……」

 

127 名無し名人

桐山くん学校だったのか!

 

128 名無し名人

仕事いれるなら、何もない日にしてやれよ。

 

129 名無し名人

手違いってことは、どっちかが急に入ったんじゃね?

 

130 名無し名人

こっちに向かってるっていうならすぐだろ。桐山くんの学校と将棋会館ほぼ同じ地区だろ?

 

131 名無し名人

だから、本人も間に合うって思ったんだろうな

 

132 名無し名人

代役立てても良かっただろうに……

 

133 名無し名人

いやー桐山四段の初解説って結構前から周知してたし、いきなり変えるのも……な。

 

134 名無し名人

人気だけに難しいところではある。

 

135 名無し名人

お!

 

136 名無し名人

あ、きた

 

137 名無し名人

桐山くんお疲れ!

 

138 名無し名人

ちょwww

 

139 名無し名人

あw

 

140 名無し名人

これはw

 

141 名無しの実況

桐山「はっ……はぁっ、す……すいません!遅くなってしまってっ」

 

天笠「大丈夫ですよ。まだ対局始まってませんからね。……ふふっ、桐山四段。まずは、ゆっくり、お荷物降ろしてきてください」

 

桐山「っはぁ……え?荷物……あぁ!すぐおいてきます!」

 

142 名無し名人

ランドセルw

 

143 名無し名人

ランドセル背負ったまんまスタジオ入りしちゃったw

 

144 名無し名人

やばい、めっちゃ可愛いw

 

145 名無し名人

誰かw止めてやれよw

 

146 名無し名人

それだけ、急いで駆け込んだのかもしれない

 

147 名無し名人

息切らしながらのきょとん顔ぐう可愛いぃぃぃぃぃ天使ぃぃぃぃ

 

148 名無し名人

天笠さん、笑いを堪えられず

 

149 名無し名人

>>147

でた……あんたほんと毎回いるな……

 

150 名無し名人

あのまま本人が気がつくまで続行させてほしかった

 

151 名無し名人

>>150

それは可哀想だろw

 

152 名無し名人

桐山くんは黒のランドセルなのか~

今時の子には珍しいな

 

153 名無し名人

これは、後世にのこるぞ。

のちの名人は最初の解説の時にランドセルを背負って駆け込んだってな。

 

154 名無し名人

>>153

ランドセル事件w

 

155 名無し名人

>>153

止めてあげてw

 

156 名無し名人

一生懸命走ってきたのかなぁ……

 

157 名無し名人

桐山くんの黒いランドセルだがチラッと見えた横のマークから天使の羽シリーズで有名なセイ○ンの奴だな。

色は黒っていっても色々あるからなぁ

 

158 名無し名人

天使!?

天使の羽っていった!?

 

159 名無し名人

>>158

おまえはちょっと黙ってろ。

 

160 名無し名人

特定早すぎ。

 

161 名無し名人

長野から持ってきた奴なのかな

 

162 名無し名人

大分使い込んでる感じあったけど、綺麗だったな。

俺六年生のときなんてもっとクタクタのよれよれだった気がする。

 

163 名無し名人

>>161

切なくなっちゃっうだろ!そういうの言わなくていいから!

 

 

 

お父さんとかにかって貰ったやつなんかな……泣ける。゚(゚´Д`゚)゚。

 

164 名無し名人

おまえら、そろそろランドセルから離れろ。

桐山四段とっくに戻って来て、ちゃんとお仕事してるんだから

 

165 名無し名人

おっと、悪いわるい。

 

166 名無し名人

あまりに尊い姿だったので。

 

   ・

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   ・

 

178 名無しの実況

天笠「この戦型は、矢倉模様ですかね」

 

桐山「そうですね。三手目が2六歩なら「角換わり」の可能性もありましたが、6八銀でしたので、矢倉ですね」

 

179 名無し名人

受け答えしっかりしてるな

 

180 名無し名人

この辺はまだ定跡通り行くだけだし、誰でもできる

 

181 名無し名人

問題は中盤以降の解説

 

182 名無し名人

桐山四段って天才型だとおもうから、解説も上手いかどうかはなぁ……

 

183 名無し名人

それが今日わかるんだろ

 

184 名無し名人

別に下手でもそれは、それで楽しめそうだからいいけどな

 

185 名無し名人

天笠さんベテランだしのびのびやってほしい

 

   ・

   ・

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   ・

 

205 名無しの実況

桐山「これは、急戦になりますね」

 

天笠「この手でもうわかりますか?」

 

桐山「16手目後藤九段は、7四歩としました。これに、対して島田八段は6七金右、

18手目でさらに右の銀を自陣三段目にあげて5三銀右ですからね。持久戦は無いでしょう」

 

206 名無し名人

お、はやくも定跡からは外れ始めた?

 

207 名無し名人

後藤九段が持久戦でいかないの珍しくない?

 

208 名無し名人

そーでもない。あの人が固くて重い棋風だけど別に急戦苦手ってわけでもないし

 

209 名無し名人

ちょwまたw事件がw

 

210 名無し名人

でも、これは仕方ないじゃんw

 

211 名無しの実況

桐山「もし仮に、持久戦に戻すつもりなら先ほどの18手目で5二金と指す……あ……」

 

天笠「あ、此処ですね。おきますよ」

 

212 名無し名人

桐山四段、身長が足りてないw

 

213 名無し名人

やっぱなぁww

だって、桐山くんの頭、五段目に届いてないもんw

 

214 名無し名人

手伸ばしても、三筋も微妙なところだな……。さっきの5三銀も背伸びしてたし。

 

215 名無し名人

めっちゃイキイキしゃべってたのに、5二金の置こうとして届かんかった

「あ……」がかわいすぎる。

 

216 名無し名人

だれかーー!!

踏み台もってきてあげてーー!!

 

217 名無し名人

>>216

踏み台ww

 

218 名無し名人

天笠さんが代わりにおいてあげてるね

 

219 名無しの実況

桐山「す、すいません」

 

天笠「いえいえ、続けてください」

 

桐山「ありがとうございます。……大盤ってこんなに高かったんですね」

 

220 名無し名人

せ、切ないw

 

221 名無し名人

ただでさえ、身長気にしてるのにw

 

222 名無し名人

やばい、今回序盤から色々あって、めっちゃ面白い

 

223 名無し名人

顔がしょんぼりしてる。

 

224 名無し名人

天笠さんのフォローナイスだわ

 

225 名無し名人

もう駒は動かしてあげて……

 

226 名無し名人

ちょっと背伸びしながら置いてるのも可愛かったけど、あんまり動くと疲れそうだしな

 

227 名無し名人

常に見上げてるのも疲れるとおもうぞ

 

228 名無し名人

次から桐山四段が解説する時は、少し板の高さをさげるか、台を用意すべきだな

 

229 名無し名人

こんなところにも小学生プロ棋士の余波が……

 

230 名無し名人

>>229

本人は不本意だろうけどなw

 

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   ・

   ・

 

367 名無し名人

長考に入ったなぁ……

 

368 名無し名人

あんまりない展開になってきたからなお互い慎重にもなる

 

369 名無し名人

ここは、解説者たちのトークの見せ所だぜ

 

370 名無し名人

天笠さん!桐山くんにいっぱい質問してくれ

 

371 名無しの実況

天笠「桐山四段は両対局者とも親しい間柄と聞きましたが、最初に出会ったのはいつごろだったんですか?」

 

桐山「島田八段とは奨励会に入会した日ですね。島田八段が幹事をなさっていた時に、入会したので。後藤九段は藤澤門下との集まりの時に顔を合わせました」

 

372 名無しの実況

天笠「それでは、島田八段は初めて知り合ったプロ棋士ということになりますね」

 

桐山「そうなります。奨励会時代は随分とお世話になりました。あぁ……初めてというなら、後藤九段は初めて指したプロ棋士の方になりますね」

 

373 名無し名人

え!マジで、なんて羨ましい。

 

374 名無し名人

後藤九段が最初とか、ぼこぼこにされて心折れそうだけど

 

375 名無し名人

>>373

どっちが?

 

376 名無し名人

>>375

どっちもに決まってんだろ!

 

377 名無し名人

>>374

分かるわぁ。あの人、絶対手加減とかしなさそう。

 

378 名無し名人

勝敗が気になる……どっちが勝ったんだろ

 

379 名無しの実況

天笠「それは顔合わせの席でという事ですか?ちなみに初対局はどちらが勝たれたんです?」

 

桐山「一応僕が勝ちました。でも、後藤九段は本気じゃなかったので……、対局前なんか駒落ちを提案されたんですよ!もう、今でも憤慨したの覚えてます」

 

天笠「それでも……結局は平手で指されたんでしょ?棋譜が気になりますね」

 

桐山「対局はやはり公式戦ですよ。後藤九段と当たれる日を楽しみにしてます」

 

天笠さんいい仕事してくれるわ

 

380 名無し名人

そうかー桐山くんが勝ったのか。

 

381 名無し名人

桐山四段も結構負けず嫌いだな。奨励会員とプロなら駒落ちで指しても別におかしくないだろ。

 

382 名無し名人

どうせさすなら、平手が良かったんだろ

 

383 名無し名人

炎の三番勝負も、平手でって本人の希望だったらしいからな

 

384 名無し名人

え?そうだったんだ。

 

385 名無し名人

>>384

まじまじ、会長がどっかで言ってたよ。

平手でも、必ずみれる対局にしてみせます!桐山くんが言ったらしい

 

386 名無し名人

かーー!!カッコいいね、おい。

 

387 名無しの実況

天笠「桐山四段は島田八段が開かれている若手の研究会にも参加されてますよね?」

 

桐山「はい。島田八段からお声かけがあったので……、もともと僕が最初に弟子入りを頼んだのは、島田八段だったんですよ」

 

388 名無し名人

何だって!?

 

389 名無し名人

えっ、えっ?桐山四段から頼んだってこと?

 

390 名無しの実況

天笠「えぇ!?そうだったんですか?」

 

桐山「僕は師匠を持たずに、入会したので一年以内に探さないといけなかったんですけど……当てもなかったものですから……、幹事だった島田八段に駄目元でお願いしました」

 

天笠さんマジ俺らの代弁者

 

391 名無し名人

普通の小学生に伝手なんかないわなぁ

 

392 名無し名人

むしろ何でそれで、その年に入会して、今プロになってるのか……ホントなぞ

 

393 名無し名人

>>392

桐山くんだから。

 

394 名無し名人

>>393

おいw身も蓋もないぞw

 

395 名無し名人

>>394

でもそれで納得してしまう自分がいる

 

396 名無しの実況

天笠「ではその申し出を、島田八段は断られたと」

 

桐山「自分はまだA級にもあがれてないからと、言われましたね。その代わりに大内先生を紹介しようとして下さったり、藤澤師匠との顔合わせにも尽力してくれました。今思えば、手が掛ったでしょうに、よく相手をして下さったと思います」

 

397 名無し名人

でるわ、でるわ、島田八段や後藤九段とのエピソード……

 

398 名無し名人

島田八段嬉しかったとおもうけどなぁ……弟子入りしたいってことはそれだけその人のこと尊敬してるってことだろ

 

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   ・

   ・

   ・

 

423 名無しの実況

天笠「後藤九段の長考後の38手目は、3三銀でしたね。これはどう見ますか?」

 

桐山「似てますね……」

 

天笠「といいますと?」

 

桐山「あ、すいません。此処までの流れ何年か前に後藤九段が棋匠戦挑戦者決定トーナメントの決勝で宗谷名人と戦ったときの流れと似ています」

 

424 名無し名人

えーまじかー

 

425 名無し名人

そんなぱぱっと出てくるの……

 

426 名無し名人

俺ちょっと、棋譜探してくる

 

427 名無し名人

ちょっと前って、まだ奨励会員ですらなかったじゃん桐山くん

 

428 名無しの実況

天笠「えっ?そうなんですか?ちなみにその時も3三銀を指されてました?」

 

桐山「全く一緒ではないですが、展開は似てます。後藤九段は後手番で同じく3三銀を指しました……でも、その対局は宗谷名人に完敗してるんです」

 

429 名無し名人

駄目やん!

 

430 名無し名人

まぁまて、その時敗けた手をなんの策略もなくさすか?普通。

 

431 名無し実況

天笠「その時の敗戦からなにか得るものがあったと考えるべきでしょうか?」

 

桐山「……その可能性は高いです。島田八段も当然気づいているでしょうから、また難しくなってきますね」

 

432 名無し名人

ほんとに似てた……そんで3三銀も指してるし、確かに名人に負けてる

 

433 名無し名人

うっわーやっぱり桐山四段流石だわ

 

434 名無し名人

相当勉強してるんだな……。

 

435 名無し名人

いったいどれだけの棋譜を覚えてるんだろう……

 

436 名無し名人

ほのぼのエピソードを語ったり、可愛い失敗をしたかと思えば、解説は高度かよ

この子いろいろ美味しいすぎる

 

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659 名無しの実況

天笠「終盤、相当細かい攻めになってきましたね……」

 

桐山「そうですね。もうここまで来ると過去の棋譜とか関係ない領域です」

 

天笠「形勢はどちらが有利ですか?」

 

桐山「……難しいところですね。駒得なのは終始島田八段です。……なんですが……僕は今のところ後藤九段だと思います」

 

660 名無し名人

え?まじで。俺島田八段だと思ってた

 

661 名無し名人

こういうところで濁さないの珍しいな。

 

662 名無し名人

終盤なんてどっちに傾くか微妙だからどっちつかずにする人多いのに。

 

663 名無し名人

えぇ……後藤九段さっきから駒損続きだけど……。

 

664 名無し名人

桐山四段にはなんか見えてるのかな

 

665 名無しの実況

天笠「具体的にはどのあたりが気になりますか?」

 

桐山「……島田八段の2五歩が、気持ち良くない気が……」

 

天笠「え?2五歩ですか?」

 

桐山「と、すいません。はい、そうです。カウンターを狙っての一手だとは思うんです。難解なところですが、後藤九段は構わず踏み込んでますね」

 

666 名無し名人

俺は別に悪い手じゃないと思うけど……

 

667 名無し名人

寧ろこれをさばかずに、攻めを緩めない後藤九段が急ぎすぎな気も……?

 

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691 名無しの実況

天笠「いよいよ、大詰めになってきましたね。開いたスペースに島田八段が113手目、6五桂と桂馬を投入して、後藤九段がすかさず、6九角ですね」

 

桐山「あ……、決まりましたね」

 

天笠「え?詰みですか?」

 

桐山「えぇ……だいたい13手詰です。後藤九段はよせに入ると思います」

 

692 名無し名人

はっや!桐山四段がはやすぎて俺にはさっぱり

 

693 名無し名人

えー?まじでホントに詰んでる?

 

694 名無し名人

後藤九段がさしてから……ほとんどタイムラグなかったけど。

 

695 名無し名人

……詰んでる。ちょっと進んで分かった。

 

696 名無し名人

あ、俺も分かった。

でもこれを、あの時点で一瞬で……?

 

697 名無し名人

……俺まだわかんない。

 

698 名無し名人

あ、島田八段お茶飲んだ

 

699 名無し名人

まじかー俺は、島田さん優勢だと思ってたんだけどなぁ

 

700 名無し名人

お、投了か。

 

701 名無しの実況

天笠「122手目、後藤九段の4六飛で、島田八段が投了し、本局は後藤九段の勝利となりました」

 

桐山「両先生方お疲れ様でした」

 

天笠「桐山四段の読み通りでしたね。流石です」

 

桐山「ここから詰ませるには、何通りかありますが、最短でいくと……」

 

702 名無し名人

いやー桐山四段の解説想像以上だったわ。

 

703 名無し名人

だな。正直炎の三番勝負の時の宗谷名人との感想戦を見てると……もっとこう……

 

704 名無し名人

感覚的な感じになると思ってたんだけどな

 

705 名無し名人

本人としては感覚が先なことも多いんだろうけど。

 

706 名無し名人

中盤それらしき言葉いくつか出てたもんな。模様が良いとか、気持ち良くないとか、頭で考えるより先に感じるところがあるんだろう。

 

707 名無し名人

ちゃんとそれを文章にもしてくれてるから、その変換にワンテンポかかるみたいだけど。

 

708 名無し名人

それでも、かなり分かりやすい方に入ると思う。

 

709 名無し名人

桐山くん早指しにも相当強そう

 

710 名無し名人

この歳でこれだけ落ち着いて出来る時点で凄い。

 

711 名無し名人

……いろいろハプニングもあったけどな

 

712 名無し名人

>>711

そこはwそっとしておいてあげてw

 

713 名無し名人

身長に関してはしかたないだろw

 

714 名無し名人

ランドセルだってわざとじゃないw

 

715 名無し名人

>>714

>>713

お前ら忘れる気ないだろ

 

716 名無し名人

またみたいな……解説。

 

717 名無し名人

学校あるから中々難しいだろうけどな。

 

718 名無し名人

対局もなるべく土日にしてるみたいだし。

 

719 名無し名人

……あと何年学生やるんだろ。

 

720 名無し名人

とりあえず中学三年間は確定

 

721 名無し名人

長いなー!

 

722 名無し名人

仕方ないだろ、誰より桐山四段が一番そう思ってるよw

 

 

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初解説の回でした。本編で書くより掲示板形式の方が面白いかなと。
小学生ですから色々ありましたが、本人は慣れていますので、解説自体は卒がないです。

次の回では、ついにあの方と再会できます。


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第十九手 再会はアスファルトの上

 

 充実していた毎日で、周りの人たちは優しくて、本当に有り難いくらいの環境で将棋を指させてもらっていて、僕は幸せだった。

 

 まぁ……だから、ほんの少しだけ気も緩んでいたんだと思う。

 災難というものは、いつ何時、降りかかるものなのか、それは誰にも分からないし、世の中に理不尽な出来事というものはいくらでもあるのだから。

 

 

 

 僕はその日、対局はなかったけれど会館でちょっとした取材を受けていた。

 主として、朝日杯への意気込みとかそんな内容だ。

 ついでに棋譜のコピーをして、軽くその日あった人たちの対局を見てから帰った。

 まだ時間も19時を少し過ぎたくらいだったから、駅まで歩くことにした。藤澤門下の人たちの対局はなかったから、一人だったけれど、まぁ別に大丈夫だろうと思って。

 

 寒さも深まって、日が落ちるのもはやくなっていた。

 世の中は、良い人ばかりではないということを僕はすっかり失念していた。

 

 前から注意されていた僕の悪い癖。

 棋譜のながら読みをして、駅へ歩いていた時だった。

 

 

 

 

 

 突然ドンッと後ろからぶつかられて、そしてバチッという音とともに体に衝撃がはしった。

 

 

 

 

 

 なんだかわからないうちに意識はブラックアウト。

 失う瞬間に覚えているのは、アスファルトにぶつかった感触と、倒れて開けた薄目がとらえた、黒く汚れた大人のスニーカーだった。

 

 

 

 

 

 

「……ねぇ……い……ぶ?」

 

 遠くで声が聞こえる。

 柔らかく優しい声色。懐かしいなとぼーっとする頭で思った。

 

「ねぇ! あなた大丈夫?」

 

 今度ははっきり聞こえて、ぼくはハッと覚醒した。

 

 目に入ったのは、すっごい美人な女子高生。

 セーラー服だ。かわいい。

 

 見間違えるわけがなかった。

 彼女は川本あかりさんだ。

 そうか、まだあかりさん高校生なんだな……。

 ま、まぶしくて、直視できないレベルだこれ。

 まさか、またアスファルトに寝っ転がった状態で初対面になるとは思わなかった……。

 

 ぼーっとしていた僕だったけど、慌てて身体を起こして返事をした。

 

「あ……はい、大丈夫です。……っ、いた!」

 

 起き上がる瞬間についた右手が痛かった。

 どうもひねったかもしれない。

 

「無理に起きない方がいいかも……頭も打ってるみたいよ……? 血は、とまってるけど、シャツがすごいことになってる」

 

 そういわれて、僕は首をおって自分の服を見てみた。

 肩口にかけて何やらぽたぽたと赤黒い点々が……鼻血をだしたときよりは明らかに多い。

 まいった、これ洗濯でおちるのだろうか……、そんなことをぼーと思っていると額に柔らかい何かが押し当てられた。

 

「汚れますよ……」

 

 あかりさんが、ハンカチを使って拭ってくれようとしてることに気づいてそういった。

 

「いいの。気にしないで、あーパックリね……。だいぶ打ったみたい……あとから腫れてくると思うわ」

 

 痛ましそうな表情をしてこちらの様子をうかがう彼女の姿をまじまじと見返した。

 

「あの、私あっちから歩いてきて、このリュックが歩道のわきの茂みに引っかかってて、それで、おかしいなってみたらこっちに君が倒れてたの……これ君のリュック?」

 

 あかりさんは困惑したような様子でリュックを見せてきた。

 間違いなく僕のものだ。

 口が開いているそれをみて、僕はようやく状況が整理できてきた。

 

「はい。僕のです。拾ってくれてありがとうございました。たぶん財布とられてるな……」

 

 悪質なひったくりだ。

 あの感じはたぶんスタンガンかなにか……傷害罪もつくぞこれ。

 こんな子供を狙うなんて普通ありえないから、おそらく僕だとわかってやられた。

 プロ棋士の稼ぎはなかなか多い。

 

 まだ、早い時間だったし、相当急いでいて、足がつくのを恐れたのだろう。

 取られたのは財布だけだ。

 中に入っていたのは、2万少々。今日は本屋によるつもりだから多めに持っていた。

 それから、口座のカードはすぐに連絡しておいた方が賢明だな。

 携帯が無事なのは不幸中の幸い。

 

 あ!それから……僕の一番大事なもの!!

 

「よかった。……駒箱無事だ……たいした衝撃もなかったみたい。あ……でもこっちはだめだな……」

 

 今日も持ち歩いていた、父の駒は無事だった。

 ただ、妹とおそろいのキーホルダー。

 落とさないように内側にあるファスナーのところにつけて、持ち歩いていたんだけど、当たり所がわるかったのか、チェーンとトップが離れてしまっていた。

 さいわいちぎれたトップはカバンの底にあって、無くしてないだけ良かったかもしれない。

 でも、やっぱり少し悲しいし、やりきれない。

 

「キーホルダーちぎれちゃったの? 大切なものだったんだね」

 

 手にしたそれを、無言で見つめている僕にあかりさんが、そっと声をかけてきた。

 

「……はい。妹とおそろいのキーホルダーだったんです」

 

 もう一つの片割れは、あのとき妹と一緒に灰になり空にのぼったのだけれど。

 

「見せて……うん! これくらいだったら、お姉さん直せるよ。ちょっと部品かわっちゃうかもだけど……それは大丈夫?」

 

 気落ちしていた僕を見ていられなかったのだろう。

 あかりさんがそう提案してくれた。

 

「ほんとですか!? ぜひお願いします」

 

 差し出したキーホルダーをあかりさんが受け取って、任せといて! と力強く答えてくれた。

 それから、僕に立てそう? と聞いた後、一緒に交番に行こうといってくれた。

 

 僕の様子から、だいたい何があって、こんな状況だったのか察してくれたようだ。

 

 

 

 

 

 ついた先の交番で、担当についてくれた若い警察官は、色々親切にしてくれた。

 手際よくケガの手当てを先にしてくれて、被害届の書き方を丁寧に教えてくれた。

 

「このあたりで用事があったの? おうちの人は一緒じゃなかったのかな?」

 

「将棋会館からの帰りだったんです……。よく行ってるので一人でした」

 

「はぁ将棋……。将棋!? 名前が……桐山……っ!!」

 

 僕の言葉に、突然驚いたように立ちあがり、被害届に書いた名前を確認すると、急いで部屋を出て、誰かを呼びにいく声が聞こえた。

 先輩! 先輩と響き渡った声の後、連れてこられたのはベテランそうな年配の警察官。

 やってきたその人はひとめ僕をみると食い気味に尋ねてきた。

 

「き、桐山四段……ですよね? プロ棋士の」

 

「あ……はい。一応。そうです……」

 

 そこからのてんやわんや具合はすごかった。

 若い警官にもだいぶ丁寧に接してもらっていたけど、もうそんなの目じゃなかった。

 

 とくに手は大丈夫なのか? 頭をうった!? 救急車をよんだほうがいいんじゃないか。とだいぶ怪我については心配された。

 いくらとられたの? ほんとに財布以外は無事? ちょっとでも犯人で覚えてることはある? 等、だいぶ親身になって聞いてくれた。

 

 なんでもこのお方。

 かなりの将棋好きで、若い頃にこの交番に配属になった時、会館の人たちとも随分親しくなったらしい。

 そのあと、何度か職場の移動はあったが、定年間際またここに戻ってきたそうだ。

 とくに会長とも仲良くしてるらしく……僕の活躍を本当に楽しみにしてくれているらしいのだ。

 自分の管轄区域でこんなことになって……とだいぶ落ち込んでいた。

 

 そばでついていてくれたあかりさんは、一応テレビで僕のことは知っていたようで、あのスーパー小学生! と今になって気づき、何故かそわそわしている。

 

 僕が一番しぶったのは、自宅への連絡……未成年者だから仕方ないけれど、藤澤さんの耳にいれるのは気が重かった。

 

 連絡を受けて、もう文字通り飛んでくる勢いで、迎えに来てくれた。

 幸田さんがちょうど遊びにきていたようで、車をだしてくれてそれにのって、藤澤さんもきてくれた。

 僕の姿をみるなり、財布だけで済んでよかったと安心して、それから顔やら手やらのけがをみて、憤慨していた。

 

 もう絶対、一人だったらタクシーを使うようにと言われた。会館と懇意にしてるタクシー会社も多いから、そこだったら安心だし……。

 

 あかりさんにはすごく丁寧にお礼をいったあと、ついでに自宅まで送った。20時をすぎて、だいぶ遅くなってしまっていたから。

 はじめて会ったあかりさんのお母さんや、お爺さんは何事かと驚いていたけれど、事情を知ると、僕に災難だったなーと声をかけてくれた。

 あとお爺さんの藤澤さんへの興奮具合はすごかった。

 ちょうど世代だし、現役を知ってるファンからするとたまらないだろう。

 藤澤さんはにこやかに対応していたし、今度和菓子屋にも寄りますよと声をかけていた。

 

 あかりさんは別れるときに、キーホルダー直しておくから、いつでも遊びにおいでね、と声をかけられた。

 

 前回の時もおもったけれど、彼女には本当にお世話になりっぱなし。

 かっこ悪いところもみられちゃったなーと思った。

 

 

 

 そのあと、藤澤さんの知り合いがしているという病院にもよってもらって、一応検査もした、無意識でもちゃんと手はついていたが、頭をうったのは確かだし……。

 

 幸い異常はなし。もし、気分が悪くなったり、患部が痛む以上の頭痛がするような異変がみられたら、すぐに病院へ来るように言われた。

 

 額の傷は、縫うほどでもなくすこーし大き目のガーゼでふさいでおいた。幸い前髪でだいぶ隠れる。

 右手もたいしたことない。

 二、三日もすれば違和感はなくなるだろう……。

 

 ただ、明日ある対局は左手で指した方がいいかもしれないな、と思った。

 

 幸田さんは明日、僕と同じで対局があるらしく、送っていくし、帰りも一緒に帰ろうと約束した。

 本当は、休んだ方が……とも思ったようだったけれど、僕がそれを受け入れるわけないし、せめて傍で見ておくつもりなのだろう。

 

 

 

 


 

 12月に入って、獅子王戦のランキングが始まる。

 獅子王戦は現在あるタイトル戦の中でも、いちばん賞金金額が高く、予選もかなり長い。

 獅子王ランキング戦といい、1組から6組までに分かれたトーナメント戦で始まり、1組の上位5名、2組の上位2名、3組から6組までの優勝者各1名の合計11名が本戦に出場する。

 

 最初は皆6組からである。

 昇級や降級の規定が細かく決まっており、1組から3組までは定員16名、4組と5組は32名、6組はその他全員で、6組以外は人数の制限もある。

 当然1組のほうが、本戦に出られる人数も多いし、予選トーナメントの段階から対局料も高い。

 毎年みんな、自分が昇級するように、または降級しないように必死だ。

 

 獅子王は名人と並び、将棋界の代表として、アマチュア段位の免状への署名等、対局以外の多くの業務を課せられる。

 この二つのタイトルは他のタイトルより少し特別で、名人をその時代の象徴とするなら、その年の最強棋士は獅子王という人もいるくらいだ。

 つまり将棋界の偉大な二大柱である。

 

 今は、宗谷さんが名人で獅子王でもある。

 もうどれほどこの人が強いのか、よくわかるだろう。

 

 ちなみに6組の予選突破枠は優勝の一枠で、その優勝者の昇級は決定する。

 本戦は面白そうだし、とりあえず予選トーナメントの突破は目指したい。

 

 今日の対局はその獅子王戦6組のトーナメントの初戦なのだ。

 相手はアマ枠の方だったし、あまり気負わずに対局にのぞんだ。

 もちろん彼の棋譜を探し出して、ある程度の検討はしたけれども。

 

 さて、問題は対局よりも、どこか騒ついているこの会館の空気である。

 まず最初に僕に会った馴染みの事務員の人など、僕の顔をみるなり、声をあげて驚いて、大丈夫? 対局に影響はない? と本当に心配された。

 その騒ぎで人はやってくるし……。記者の人で嗅ぎ付けそうな人がいたけれど、僕が焦ったそぶりをみせると、その人がさっと匿って対局室へと促してくれた。

 あまり大事にしたくはないのだ。

 表向きには転んだくらいのことにしておきたい。

 

 対局はやはり左手で指した。

 少し、違和感はあるけれど、さして影響はない。

 

 問題は昼休憩である。

 外にでるのも億劫だったから、出前を頼んでいつもの部屋でほかの棋士の方々と食べていたのだけれど、たまたま隣にすわった一砂さんが心配する声が大きくてちょっと困った。

 左手を使って食べてたら、目ざとくスミスさんが気づいて、右手も怪我したの? って聞かれるし……。

 転んだ……といったのだけれど、そういうことにするのは知ってるといいつつ、夜は気を付けろだとか、メンタル的には大丈夫なのか? とか随分心配された。

 スミスさんの前では以前、やらかしてるから余計気にかけられている気がする……。

 

 土橋さんには良かったらとシップを渡されたし、隅倉さんには茶菓子と一緒に、妙なやからがいたら威嚇しとくからと言われた。

 

 要は、何故か、ほとんどの棋士が知っていたのだ。

 みなさん情報早すぎませんか……。

 

 おまけに対局が終われば、会長に呼び出された。

 

「よう、桐山お疲れさま。今日は勝てたのか?」

 

「はい。大丈夫でした。あ、柳原棋匠もこんばんは」

 

 うなずいて見せたあとに、部屋にいた柳原さんにも気づいてあいさつする。

 

「こんばんはー。よかったね。徳ちゃんこんなことで連勝がとぎれたら、外野が絶対うるさいって心配してたから」

 

「まー桐山に大事なかったのが、一番だけどな……。そうか、勝てたのか。

 で、ぶっちゃけ、どうなんだ? 大人が怖いとかない? 暗いところも平気か?」

 

 会長はいつものおちゃらけた雰囲気はなりを潜めて、本当に真剣に、慎重に僕のことをうかがっていた。

 

「あ、はいその辺は全然。犯人がどんなだったかまったくわかりませんし、かえってそれが良かったのかも……」

 

「良くはねーけどな。そうか、とりあえず日常に問題はないんだな?」

 

「はい。傷も数日で全快すると思います。大丈夫です」

 

 力強く答えて見せると、会長はようやくあー良かったと息をはいた。

 

「あの交番のおやじとは飲み仲間なんだけどさ。昨日連絡きて驚いた。ワシのひざ元で将棋界の宝が穢されたーってもう大騒ぎ。こっちは何事かと慌てて藤澤に連絡とったわ」

 

 なるほど、あの交番のおまわりさんと会長が懇意ということを失念していた。

 その辺から話が繋がったのか。

 会館近くであった事件だから、将棋会館への警戒を呼びかけるのも間違いではないけれど、できたら僕の名前は出さないでほしかった……。

 まぁ……さすがに会長には藤澤さんから話がいっただろうから時間の問題だけど。

 

「僕ももっと気を付けるべきでした。奨励会のころからこの辺はうろうろしていたので、なんとなく大丈夫だと先入観があって……」

 

 実際、良い大人になって、狙われる弱者からは遠い存在になっていたから、その辺の危機感は薄かった。自分が小学生だという自覚が無い。

 

「桐山は、わりと有名になってるからな。プロ棋士でそれなりに稼いでるのはわかってる人にはわかるし。くそ野郎ってのはどこにでもいる。おまえだって分かってやったんだ。

 普通、小学生の財布なんか狙わねー」

 

「まぁそうでしょうね……。誘拐とかならともかく」

 

「……おまえね、ほんと気を付けてよ! これだけで不幸中の幸いだけど、ほんと変なやつ多いんだから。あのまま連れ去られてたり、なんかあったかもしれないんだから!」

 

 会長に叱られてそうか……とも思った。

 たまたまあかりさんが割とすぐ声をかけてくれたけど、僕に気づいたのが良い人とは限らない。

 僕を昏倒させたやつも、人が通らなければひょっとしたら……。

 わざわざ、スタンガンなんか使う過激派だし、何かあったとも限らない。

 

 ……ぞっとした。

 いま、僕は非力で弱い小学生なのだ。

 本気で気を付けようと思う。

 対局に差し障りがあるようなことがあってからでは遅い。

 

 今度は、神妙にうなずいて見せた僕に、会長はよしよしと頭をなでてきた。

 

「お前は悪くねぇんだけど、世の中にそういう屑がいる限り、自衛するしかないんだ。

 とりあえず、今後しばらくは駅まで誰かが一緒じゃないなら、だめだから。このこと知ってる奴は多いし、藤澤門下じゃなくてもいーから声かけろ」

 

「おじーさんでも良いからね。大人といるってのが大事だ。

 まぁ後藤とか、隅倉とかがたいの良い奴だったら最高なんだろうけどさ」

 

 柳原さんも優しくそう声をかけてくれた。

 おまえさんがタイトルとりに来てくれたら、話題性抜群で大歓迎なんだから、頑張ってねとも言われた。

 

 

 

 

 幸田さんに連れられて、家に帰ると最近では珍しいことに後藤さんが来ていた。

 僕の額を見ると顔をしかめる。

 そのあと、アホっと小さくつぶやかれた。

 ちびすけなんだから、その辺自覚しろよっとくぎを刺されて、何も言い返せなかった。

 

 ちょっとむくれつつも、うなずいてみせると、満足そうだった。

 

 気晴らしに、一局指してほしいと頼むと、あきれた後に左手で指せよ。と言われた。

 自分も左で指すからイーブンだとも。

 ちょっと不思議な感じだったけれど、久々の対局は楽しかった。

 

 その日の極めつけは、宗谷さんからのメールだ。

 土橋くんから聞いたけど、大丈夫? と。

 些細なことでも、高度なやりとりの最中には気になって集中できないこともあるから、手は本当に気を付けてね。とのことだ。

 あと、東京は物騒みたいだから、こわくなったらこっち(関西)においでね。とも。

 ……驚いた。宗谷さんも冗談言うんだなー。

 

 

 

 

 

 今日、朝日杯の本戦のトーナメント表が公開された。

 僕と宗谷さんは勝ち進めば、準決勝であたる。

 それまでに2回。勝たなければならない。

 準決勝と決勝は毎年2月に公開対局として、東京のホテルで行われる。

 宗谷さんと公式戦で対局できる今年度最初で、最後のチャンスになる。

 勝ちすすみたい。勝って彼の前に座りたい。公式戦の試合は特別だから。本当にそう思った。

 

 

 

 

 

 


 

 12月の島田研究会があったのは、そのすぐ後のことだった。

 

 島田さんの家にお邪魔してそうそうに、怪我のことを聞かれた。

 もう右手は問題なかったし、額の傷もほぼふさがって前髪をあげないとわからない程だ。

 

 島田さんにも、それから驚いたけど重田さんにも、とても心配されて、研究会の仲間だから、頼ってくれていいからな、と言い含められた。

 有り難いことである。

 

 その日の研究会が終わったころに僕は島田さんに聞きたいことがあった。二海堂のことだ。

 彼は10月に快勝し、二段への昇段を決めた。

 でもそのあと、11月にあった奨励会を2回続けて、休んでいた。

 

「あー二海堂か。ちょっと休んでるけど、大丈夫だ。また復帰したら、元気に指すだろうよ」

 

 島田さんは少し困った顔でそう答えた。

 やはり体調を崩しているらしい。彼が幼い頃から持病と付き合い、過酷な生活を強いられていたのは知っている。

 

「お見舞いとか……いったら迷惑ですか?」

 

「え? 桐山がか……。うーむ。どうだろうな……」

 

 悩んでるその様子をみて、僕は一歩踏み出すことにした。

 

「お願いします。たぶん大体の事情は分かってますから、それでも行きたいんです。僕にとって、彼はライバルだから」

 

 島田さんは僕の目をしばらく見た後に、ため息をついて。それから、今度の土曜日に病院へ一緒に行こうと言ってくれた。

 

 やっぱり入院していた。あまりよい状態ではないのだろう。

 

 

 

 

 

 約束のその日に、病室に現れた僕をみて二海堂は本当に驚いていた。

 興奮しすぎるのはよくないから、すかさず島田さんが止めていたけど。

 

「な、なんで桐山がここに……」

 

「島田研究会のメンバーだから。メンバー候補の様子を見に来た」

 

「そ、そうか。俺は大丈夫だからな! すぐ元気になって、三段リーグにも上がって、おまえにだって、追いついてみせる」

 

 空元気もあっただろうけど、しっかりと僕の目をみて二海堂は宣言した。

 この意思の強さにはいつも驚かされる。

 

「知ってるよ。でも、身体も大事にな。目の前の数局だって、大切だし、無駄にしたくないのもわかるけど……何十年後でも、ちゃんと二海堂と指していたいから」

 

 後半、少しだけ目を伏せて告げた言葉に、二海堂が息をのんだのが分かった。

 

 

 僕はあとから聞いて知ったのだけど、彼はこのころから相当焦って、無理をしていた時期もあったそうだ。

 自身の限られた時間を将棋にすべて当てたかったのだろう。

 体調をおして、対局を優先したことも何度もあったそうだ。

 彼の人生だし、その気持ちもわかるのだけれど、僕としてはもっと長く指しあっていたかったから……。

 せめて少しでも、彼が体を酷使する歯止めになりますように。

 

「俺はもっと登りつめて、タイトルも持って最高の状態で、君が前に座るのを待ってる。この先何十局だって、対局したい。だから……あんまり焦って自分をいじめるなよ」

 

「なんで……なんでそこまで……? だって、俺、桐山と対局しても負けただけだし。今の俺じゃ、お前とは肩を並べられない」

 

 ベッドの上でギュっとこぶしを握り締め、悔しそうな彼に、なんとか気持ちを伝えたくて、精一杯言葉をつくした。

 

「俺が誰と指したくて、誰をライバルだと思うのか、それを決めるのは君じゃないよ。同年代でライバルだと思えたのは、君だった。棋力とかそういう問題じゃない。将棋に関する熱意と向き合い方が同じだと思った」

 

 子ども将棋大会。あの暑いデパートの屋上で出会った時に受けた衝撃と喜びは忘れてはいない。

 俺も初めてだったけど、おまえにとってもそうだったんだろ?

 自分以外で、将棋しかなかった奴に初めて出会ったんだ。

 俺たちにはこれしかなくて、だからこそ真剣で、夢中で、ただひたすらに上を目指していた。

 でも、この道は険しく孤独だ。

 同年代で、それほどすべてを捧げている子はいなかった。

 だからさ、嬉しかったんだよ。

 おまえだけじゃない、俺だって嬉しかった。

 前回ライバルたれと言ってきたのは、二海堂からだったけど、今回は俺から言うよ。

 

「将棋は一人じゃ指せないから、俺の前に座ってくれる一人に二海堂がいてほしい」

 

 前は口がさけても、こんなこと言えなかった。

 でも、二海堂には必要だったんじゃないかと後から後悔したんだ。

 あいつは、いつも俺に、まっすぐに言葉をくれたのに、俺がかえせたのはその半分にも満たないんだから。

 僕の言葉に、彼はその大きな目からぽろぽろと涙をこぼすと、そのままパッと笑った。

 

「そこまで言われたら仕方ないな。ちゃんと前に座ってみせるから、首を洗って待ってろよ!」

 

 彼らしい良い笑顔だった。

 その顔がみられたから僕は少し安心した。

 

 

 

 帰り道、島田さんは僕に二海堂との出会いについて話してくれた。

 知っているけど、改めてきくとやはり壮絶だ。

 でも、だからこそ彼の将棋があると言える。

 

 そして、そのあと小さくありがとうな、と言われた。

 

「坊のやつ、最近思い詰めてたし、張り詰めてたから。今日、いい表情になった。だから、兄弟子としてお礼をいいたい」

 

「僕も、無理言ってすみませんでした……」

 

「いいよ。なんか二人には必要なことだった気がするから。

 あーあ。ちょっとおじさんには眩しかったわ、でも羨ましくもある」

 

 島田さんの表情は柔らかくて、優しかった。

 

「桐山ってさ、奨励会の時の無口っぷりをみてたら将棋以外で饒舌になることがなさそうだったから、ちょっとびっくりした」

 

「いつでも伝えられそうな言葉でも、案外それが難しいって気づいたんです。ちょっと遅かったですけどね」

 

 35年生きて、一回戻ってやっとなんだから。

 

 苦笑して答えた僕に、島田さんは、気づいて行動できてるだけ、立派だよと、優しく肩をたたいてくれた。

 

 知っているから。

 当たり前にあった日常が、今目の前にいる人が、唐突に失われることがあるということを。

 以前の僕はそれが怖くておそろしくて、ちゃんと向き合うまでに随分と時間がかかったけれど、もう迷いはしない。

 この人生では後悔しないように生きるってそう、決めたから。

 

 

 

 

 

 

 




気にしていた方もいましたが、ここからちゃんと川本家とかかわります。
出さないわけが無い〜。原作の桐山くん支え続けた方々ですよ。
相変わらずあかりさんとの出会いは、道路上で拾われる所から笑

桐山くんの一人称は原作でも時々揺れてますが二海堂くん相手だと結構その頻度高めのイメージ。同年代の子相手だと、感情が揺れやすいのかな。



次は、あかりさん視点です。


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第二十手 応援してあげたい子

 

 私は、私の家族のことが大好き。

 優しいお母さんに、穏やかなおばあちゃん、厳しいふりして孫に甘いおじいちゃんに、最近すこし背伸びをしだした可愛い妹、いつも笑っているお父さん。

 

 

 

 皆、みーんな、大好きなはずだったんだけどなぁ……。

 

 お父さんの様子がおかしくなり出したのは、ある日突然塾の先生を止めた時だったと思う。

 その少し前から家では愚痴をこぼすことも多くなり、私やまだ小さかったひなに構うことはめっきり減った。

 寧ろ疲れてるんだから、そっとしておいてくれよ、と突き放されることが多くなった。

 

 塾の先生じゃなくて家庭教師を始めようとしたけど……それも上手くいかず……他の仕事を探してる風だけど、どうにも本気に見えなかった。

 

 そして、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがしていた三日月堂を手伝いはじめたんだけど……それも長くは続かない。

 完璧にお祖父ちゃんと合わなかった。

 私は、お祖父ちゃんが言ってること間違ってないと思うし、最初は失敗することの方が多いから、叱られるのも当然で、だからもうちょっとだけ頑張ってくれたら良いのにな……って少しだけ思った。

 

 それから、しばらくは家に閉じこもっていた。

 私が学校に行くときも帰る時も家にいて、ずっとテレビを眺めていた。

 

 お母さんは、今お父さんは次に頑張れることを探してるんだよ。だから少しだけお休みの期間なの、と困ったように笑っていた。

 そして、パートと、三日月堂の手伝いと、家計をひとりで支え続けていた。

 

 この春から高校生になった私は、外で働くお母さんのかわりに、家の出来ることは何でもやった。

 料理は同い年の子よりも上手な自信がある。

 小学校に上がったばかりのひなは、洗濯物を取り込んだりたたんだり、簡単なことを早くも手伝ってくれるようになった。

 可愛くて、やさしい、自慢の妹だ。

 

 この頃、父は家にいることの方が少ない。

 仕事をさがしている、と言っているけど……本当かどうかは、怪しいと思う。

 でもお母さんはその言葉を信じて送り出していたから、何も言えなかった。

 どれだけ、自分が大変だろうとも、どれだけお父さんがふらふらしてても、お母さんだけは信じ続けていた。

 時々やってくる、お母さんのお姉さん、私からしたら伯母さんにあたる人は、あの人はどこか変だと、お母さんに忠告していたけれど、お母さんが、それに耳を貸すことはなかった。

 

 父が不在のことが多い川本家だったけれど、かえってその方がうまく回っていた。

 お祖父ちゃんが不機嫌になることもないし、お祖母ちゃんやお母さんが困ることもない。ひなはすっかり父親の存在を敬遠していた。私と違って、優しかったころの父の思い出がほとんどないのだから、仕方ないことだと思う。

 

 

 


 

 高校二年生のある冬の日の事だった。

 私はその日、学校の帰りに三日月堂にきた大口の注文の詳細を聞きにいつもとは違う道を帰った。

 お祖父ちゃんと懇意にしている方で、私も良く知っている人だったから、ほとんど身内からの依頼に近い。

 注文の確認もスムーズに終わった。

 親しい人の依頼だからといって、お祖父ちゃんが手を抜くことは絶対にない。むしろより一層の注意と手間をかける。

 わたしだって、この仕事をちゃんとこなさないと、という使命感があった。

 

 

 

 いつもと違う帰り道、暗くなってきていて、少しだけ注意しながら家路を急いでいた時だった。

 道の横の植木に、不自然にリュックが掛かっていた。まるで、投げ捨てられたように。

 

 いったい誰のリュックだろう? 忘れ物にしては、様子がおかしかった。

 不思議におもって、周囲を見回した私の目に、この先の歩道でうずくまる小さな影が見えた。

 

 慌ててリュックをもって、駈け寄る。

 血が出ているのをみて、手が震えてしまった。

 

 意識が無い? 大丈夫だろうか? 救急車を呼んだ方がいい?

 こわごわと声を掛けてみると、少しだけ身動きをして反応がみられた。

 すこしだけ、安心して、今度はもう少し大きな声で声を掛けた。

 

 パッと起き上がったその小さな男の子は、すこしボーっとしているみたいだった。

 意識がはっきりしていないのだろうか?

 幼い顔立ちに、妹のひなを思い出した。

 この子は小学校高学年くらいだろうけど、男の子だからまだ成長期がきてないのかとても小柄だった。

 

 起き上がったときについた手が痛むみたいで、なんだかとても心配になった。

 目立つのは額の傷だけど、他は大丈夫なんだろうか……。

 

 固まった血と泥によごれた顔を見ていられなくて、手持ちのハンカチでぬぐうと、それが汚れるからと遠慮がちに言われた。

 そんなこと気にしなくていいのに……。

 

 状況を確認したくて、差し出したリュックはやっぱりこの子のものだった。

 冷静に中身の確認をして、財布がとられていることに驚きもしていないその様子に、こっちがビックリしてしまった。

 

 私が小学生のとき……こんなに落ち着いていたかしら……? と疑問に思っていたら、その子は慌ててリュックをあさって青い袋を取り出した。

 大事なものの一つは無事だったらしい。

 けれど、キーホルダーが壊れてしまったととても落ち込んでいた。

 

 妹さんと同じキーホルダーをそんなに大事にしてるなんて、凄いなぁと思った。

 このくらいの子だったら、そういうのを嫌がりそうな時期なのに。

 仲の良い兄妹なのだろうと思って、すこしお節介をしてしまった。

 トップが外れたくらいなら、私にも直せるから。

 そう告げたときの笑顔が、とてもかわいくて、思わず抱きしめてしまいそうになった。

 

 

 

 

 

 それからその子に付き添って、交番まで行った。

 ついた先の交番の警察官さんはとても親切だった。

 でも、驚いたのはその途中で年配の警察官に代わった時。

 

 この男の子は将棋のプロらしい。

 大人の世界で戦っていて、自分でもう稼いでいる一人前。

 

 そこまで聞いてわたしはようやく、最近テレビのニュースや情報番組でとりあげられている凄い小学生のことに思い至った。

 

 飛ばされた眼鏡や怪我にばかり気を取られていたけれど、この子のことをテレビで見たことがある!

 お祖父ちゃんが大興奮でテレビにかじりついていた、将棋界のとても強い人との対局にだって勝っていた子だ。

 

 道理で落ち着いていて、大人びているわけだ、と納得できた。

 この子はもう大人の世界で闘っているのだから。

 

 

 

 保護者への連絡の時が一番動揺して、ともすれば嫌がっているようにみえた。

 でも、こうなっては仕方ないだろう。

 迎えに来たのはご両親じゃなくて、桐山くんの面倒をみているお師匠様だった。

 

 とっても彼を大事にしているのだろう。

 怪我に憤慨していて、でも大きな怪我がないことにとても安堵していた。

 車の運転をしてきた幸田さんという方もとても、怒っているようだった。

 私にはとても、丁寧に接してくれた紳士な方だったけど、実行犯がもしここにいたなら、一発殴ってそうだなーと思った。

 

 

 

 遅くなったからと私も車で家まで送ってくれた。

 夜道は危ないからだそうだ。

 こんなことがあった後だしお言葉に甘えておく。

 

 私の帰りがおそいと心配していたお祖父ちゃんは、玄関に迎えにでるなり、固まって動かなくなった。

 

「ふ、藤澤九段! いったいどうして……」

 

「うちの弟子が、お宅のお嬢さんにとても親切にして頂いたのです。本当にありがとうございました。見つけて頂いたのが、こんな優しい方だったのは不幸中の幸いでした」

 

「本当に助かりました。僕に付き合わせて、遅くなってしまって……ごめんなさい」

 

 藤澤さんの言葉につづいて、桐山くんがぺこりとお祖父ちゃんに謝った。

 そんなこと気にしなくて良いのに、ほんとうにしっかりしてる子だ。

 おじいちゃんはそこで、やっと桐山くんにも気づいて、小学生プロ棋士! 感嘆の声を上げた。

 興奮して、血圧が上がりすぎないと良いんだけど……。

 あまりに騒がしいから、奥からお祖母ちゃんもお母さんも心配して出て来ちゃった。

 

 軽く事情を説明すると、こんな子どもになんてことを!とお祖父ちゃんも相当頭にきているようだった。

 

 それから、少し話した後、良かったら上がっていきますか? というお祖父ちゃんの申し出を、もう夜も遅いですからと藤澤さんは辞退して、桐山くんを連れて帰って行った。

 

 別れ際に私は、キーホルダーは直しておくから、いつでも三日月堂に取りに来てねと声をかけた。

 桐山君はどうかよろしくお願いしますと何度も私に頭を下げた。

 

「あかり……そのキーホルダー桐山四段のなのか?」

 

 私と桐山くんのやりとりをみていたお祖父ちゃんが後からそっと声を掛けて来た。

 

「うん。そうだよ。妹さんとおそろいのキーホルダーだったんだって、壊れちゃったってとっても落ち込んでたから……、なんとかできたらなって思って。妹さんと仲良いんだろうね」

 

 私の言葉にお祖父ちゃんは少しだけ迷ったようだけれど、そっとつづけた。

 

「あーーあのな、桐山四段のご家族はみんな交通事故で亡くなっちまったそうで……おそらくそれは、妹さんの形見なんだろうよ……」

 

「え!?……そうだったんだ。

 どうしよう……私、変な事言ってなかったかな……」

 

 お祖父ちゃんの言葉に驚いて、同時に彼になんて声を掛けたか振り返ってみる……。たぶん、余計なことは言ってなかったとは思うんだけど……。

 おそろいのキーホルダーだった、と過去形で言っていたことに気づくべきだった。

 

「あの子は、インタビューでもその辺はっきり答えておるし、もう何年もたっておるから、自分の中での折り合いはある程度ついとるんだろう……。さっきもあかりに嬉しそうにお礼を言っておったし、直してくれることを純粋に喜んどるよ。そこは大丈夫だろう」

 

 お祖父ちゃんはそう言った後、何処かに雑誌があったかなと桐山君の記事を探してきてくれた。

 こんなことなら、もっと前にちゃんと読んでおいたら良かったな……と今更ながらに後悔する。

 でも、まさか道端で倒れている小学生を助けたら、それが史上初の小学生プロ棋士でした、なんて事が起きるとは思わないだろう。

 

 

 

 記事を読み進めて、目に入った一文。

 

 小学三年生の時に、事故で家族を失って、東京の施設に預けられた。

 

 もうそれだけで、充分に強烈だった。

 

 3年生? たった9歳? 今のひなたの年齢とそう変わらないくらい。

 どんなに寂しくて、哀しくて、心細かっただろう……。

 私はお父さんがちょっと変わってるけど、お母さんもお祖母ちゃんもお祖父ちゃんも、妹もいるし、そして伯母さんだって良くしてくれている。

 

 その大切な人全員をいきなり失うことを想像して、とても怖くなった。

 ううん。想像すら出来なかった。こんな事、考えてみたこともなかった。

 

 もってきた形見の品は、お父さんの将棋の駒と、お母さんの扇子と、妹さんとおそろいのキーホルダー。

 

 あぁ……これがそうなんだな。

 財布がとられたことよりも、怪我をしたことよりも、このキーホルダーが壊れたことにとても傷ついていた桐山くんの様子を思い出した。

 私はやっとその心中を察することが出来た。

 

 大切に決まってる! 一生だって大事にしていきたい物だ。

 

 絶対にきれいに直そうと思った。

 なるべく既存の部品でもとのチェーンに似てるものをさがして、つないであげたい。

 手持ちの道具で直すのは辞めた。明日にでも手芸屋さんに行こう。

 

 記事の続きを読むと、今は先ほど迎えに来た藤澤さんの元で、暮らしているらしい。

 たった数時間、彼らの様子をみていただけだけど、桐山くんにちょっとだけ遠慮がみられるくらいで、関係性は良好そうだった。

 兄弟子の幸田さんからも可愛がられているようで、大人二人からは、ただただ彼を慈しみ、大切に見守りたいという暖かな感情がうかがえたから。

 

 

 

 数日後桐山くんは三日月堂に高そうなお菓子をもって、訪れた。

 この間のお礼だという。

 お祖父ちゃんはそんな風に気を使わんでいいと、かわりに三日月焼きを大量にあげていた。

 桐山君はそれをとても嬉しそうに受け取っていて、大事に食べますと喜んでいた。

 

 いつ彼が来ても良いようにと、お店においておいたキーホルダーを渡す。

 よーくみないと分からないほど、かわりなく直せたと思うけれど……。

 

 受け取った桐山くんはパッと花が開くように笑ってくれた。

 とっても大切そうに両手でうけとると、すごい! 前と全く一緒ですねと、何度もお礼を言ってくれた。

 胸がキュッとなるくらいに、かわいい笑顔だった。

 

 可愛いなぁ。

 弟がいたらこんな感じなのだろうか?

 テレビの中で対局している様子は、年下と思えないくらいの雰囲気を持った子だったけれど、今私の目の前にいるのは、まだ12歳の小学生の男の子だった。

 

 是非また遊びにおいでねと約束して、連絡先も交換した。

 

 遠慮がちな桐山くんが本当にきてくれるかは賭けだったのだけれど、彼は少しずつお店に顔を見せるようになる。

 

 想像できないような遠い世界で頑張るあの子を少しでも応援できたらなぁと思い始めるのに、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 




あかりさんまだ高校生で、お母さんもご存命です。そしてあの男もまだ出て行っていません……。
逆行した桐山くんがどう関わって、それにより何が変わるか……。



次は年末年始のお話。
青木くんも久々に登場。


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第二十一手 藤澤家の年末年始

 

 12月もあっという間に過ぎていき、学校は冬休みになった。

 棋戦は極めて順調に勝ち進んでいる。

 

 長期休暇はほぼ初日で宿題を終わらせて、将棋三昧の日々にはいるのが今の僕のパターン。

 

 以前の僕の年越しは川本家にお世話になりはじめるまでは、本当に将棋しかしてなかったし、一人でいるのと変わりないような状況だったんだけど、今年は色々と予定があった。

 

 

 

 クリスマスの日。

 僕はたまたま対局もなかったから、去年のように色々買い込んで、昼間は施設に遊びにいくことにした。

 

 

 

 ついでに三日月堂にもよって、最近隈倉さんから聞いたおすすめの洋菓子のセットをお歳暮として渡す。

 お店を手伝っていたあかりさんやひなちゃんにとても喜ばれた。

 お返しに、三日月堂のお歳暮セットを貰っちゃったけど。

 この後施設の皆にも、すっごく美味しいんだよ、と渡しておくというと、二人とも是非ごひいきに! と笑っていた。

 

 

 

 事前に青木くんから話を通していたので、職員の方もふくめ歓迎してくれた。

 ネットの中継で桐山君がうつってた! とか、ずっと勝ってるってニュースで言ってた! すごい! と無邪気に喜びかけよってくる、小さい子たちが可愛い。

 

 ついでに例のごとく、冬休みの宿題の勉強会もする。

 青木君も教える側になってて、彼の成長はほんとにすごいなぁと思った。

 

 

 

 夜はご馳走をつくるからと言われていて、早めに藤澤さんの家に帰った。

 ちょっとした飾り付けまで出していて、奥さんの和子さんはなんだかそわそわと嬉しそうだった。

 娘さんが小さい時を思い出して、楽しいそうだ。

 ほとんど、完成していたけど、僕もエプロンを付けて料理を手伝う。

 この小さな体にもなれて、手際の良さが以前と同じように戻ってきたから、ちゃんと戦力になるはずだ。

 

 

 

 クリスマスパーティという程でもないけれど、ご馳走があって、奥さんも藤澤さんも僕が喜んでいるのをほほえましそうにみてるものだから、なんだかくすぐったかった。

 僕のためだけに、誰かがこういう事をしてくれた経験がほとんどないものだから、不思議な感じがした。

 

 自分の家での食事があるからか、サッと寄って行った幸田さんはクリスマスプレゼントだといって、高そうな時計をくれた。

 プロ棋士に時間の管理はとても大切だ。

 でも……これ、絶対に小学生にあげるようなものじゃない気がする……。

 

 ついでにあらわれた菅原さんは、まえのはそろそろ充電が厳しいだろうと、なんと新しい携帯をくれた。

 

 零くんはしっかりしてるから、ネットも使えて棋戦中継が見られるのにしておいたからと言われて、頭が下がる思いだった。

 流石に今回は携帯料金だけは払うといったのだけど、それもうまくはぐらかされてしまった。

 自分で新しいの作れるのなら、つくって自分で払いたいけど……未成年には難しい。

 藤澤さんも貰っておきなさい。と言ってるので、協力はしてくれないだろう……。

 

 

 

 極めつけはその日の最後にやってきた。

 藤澤さんは、長い桐箱をもってきたのだ。

 

 あけてごらんといわれて、そっと箱の蓋をあける。

 深藍の美しい生地が目に入った。

 一目でわかった。これは正絹だ。ウールや木綿じゃない。

 染め色を最大限に生かした無地の生地。控えめな光沢がなんともいえない雰囲気を醸し出している。

 中途半端な大きさの僕に丁度良いサイズがあるわけもなく、間違いなくオーダーメイド。

 他に、袴、羽織、長襦袢、帯、足袋……、小物も合わせてまるっと一式揃っていた。

 

 僕もそんなに詳しい方ではないけれど、良いものであることは確信できた。

 いったいいくらかけたのか……相当な額になったはずだ。

 

「すいません。こんな良いもの……勿体ないくらいです……」

 

 口に出して、あ、違うなって思った。

 此処で言うべきなのは、こんな事じゃない。

 

「あの、ありがとうございます。とっても嬉しいです。大切にします。この着物に見合う舞台で指せるように、頑張ります」

 

 拙い言葉しかでないけれど、精一杯のお礼だった。

 藤澤さんはゆっくりと頷いて、僕の頭をなでてくれた。

 

「そう遠くない日に必要になるだろうと思ってね。それに、別にタイトル戦で着なくても良いんだよ。君がイベントに呼ばれることは多いだろう。長期の休みなら特にね。爺さん、ばあさんなんぞは、若い子が着物で来てくれたらそりゃあ喜ぶ」

 

 僕が高校生だった時は、制服での参加ばかりだったけど、確かにもう少しそういうところでファンサービスをしても良かったのかもしれない。

 もっとも、着物を買うような伝手も甲斐性もなかったし、着て行こうとする意思は全くといっていいほどなかったから、難しかっただろうけど。

 結局前の時は、タイトル戦までギリギリに延ばしたなぁとすこしだけ懐かしく思った。

 

「それに、着物は着慣れておいた方がいい。正月にでも一度着てみなさい。所作だったり、小さな動作一つが勝手が違って戸惑うだろうから。

 年明けには身内ばかりが集まる会がある。そこならいくら失敗しても、だれも笑わんよ」

 

「お弟子さんたちが集まりにくるんですか?」

 

 幸田さんの内弟子だった時、なんとなく行ったような覚えがあるような気もする。

 でも、独り立ちしてからは、あまりそういう誘いにも行かなかったのだけれど。今思えば、失礼なことだったと思う。

 

「そうだよ。来れる奴はみんな顔を見せてくれる。私からしたら、遠くにいる弟子にも会えるから、嬉しい日だ」

 

 穏やかに目を細めた藤澤さんは、その日をとても楽しみにしているようだった。

 

「小学生の君にいう事ではないのかもしれないがね、君は間違いなく将棋界を背負っていくことになるから、伝えておきたい。

 タイトルをもって、将棋界の顔になるということは名誉なことだけど、それなりに雑事と面倒もふりかかってくる」

 

 僕は以前初タイトルをとった時の、棋戦以外の様々な仕事を思い出した。最初は慣れずにいろいろと粗相もした。

 会長にも、研究会の島田さんにも随分と迷惑をかけてしまった。

 

「どこかの社長や、重鎮、大御所、まぁ偉い人や年配の方を相手にすることも多くなるだろう。そういう人の中には、礼儀や格式をとても大切になさる方もいる。

 零くんに悪気はなくても、些細なことが気に障ることもあるかもしれない」

 

 藤澤さんの言葉は重みがあった。

 前夜祭だったり、イベントだったり、多くの人に会ってきたから僕も覚えがある。

 応援してくれている人の気持ちには応えたいし、なるべく円滑に関係性が築けたら嬉しいし、そういう努力も怠ってはいけないだろう。

 

「私が将棋で君に教えられることは、はっきり言ってない。けれど、そういう立ち回りだったり作法だったら、長く生きてる分詳しいつもりだ。君が将棋をしやすいように、この世界で真っ直ぐ進んでいけるように、応援させておくれ」

 

「……はい。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

 

 なんとなく、会長と宗谷さんの関係を思い出した。

 後ろ盾があるということは、それだけで随分と心強いものだ。

 

 

 

 

 

 今年ももう終わる。

 とりあえず、僕の棋戦の状況は、順位戦が10局中7局まで終わり、全勝中。この分なら年明けによほど崩れなければ、来年度C級1組へと昇級出来るだろう。

 6月一番に始まった聖竜戦が2次予選の最中で、あとすこしで突破できそう。

 夏休みごろから参戦中の棋神戦は予選突破をきめ、棋竜戦も一次予選を突破し、年明けからは2次予選に進む。

 

 結局プロ入り後9ヵ月あまり、一度も公式戦で負けることなく、連勝記録は33連勝まで伸びていた。

 宗谷さんの最高連勝記録の38勝まで、あと5勝だと、年末にわざわざ特番があったほどだ。

 記録に興味はないけれど、1月もできたら勝っていきたい。

 この冬最大の山場は、朝日杯の本戦になるだろう。

 おそらく年明け早々にベスト16とベスト8の対局がある。

 その2局を勝てば、勝ち上がってきた宗谷さんと対戦できるはずだ。

 他の棋戦も本戦入りや2次予選まで進めば、一筋縄ではいかない対局相手が多くなる。

 来年は、より一層楽しい棋士生活になりそうだ。

 

 

 


 

 年末はゆっくりとしたものだったけれど、年明けの藤澤さんのお宅はとても賑やかになった。

 元旦は流石に各々家族との時間を楽しんだのだろうけど、2日にはお弟子さんたちが集まって来て、軽い宴会のような感じになった。

 

 クリスマスの時にいわれた通り、僕は新しい着物を身に付けて、訪れた兄弟子たちの間をちょこちょこと動き回った。

 主には奥さんの和子さんの手伝いである。

 藤澤さんはそんなことしなくても良いと言ったけど、流石にこれは大変だろうし、一般的にこういう時は一番下が一番よく動くものだ。

 お節のお重がいくつかあったのだけど、あっという間になくなった。

 お酒もでてるから、ビール、日本酒、焼酎……まぁとにかく空になった瓶を回収したり、他の兄弟子がもちこんだものを藤澤さんに渡して開けてもらったりした。

 こういう席のお酒ってなんでこんなに早くなくなってしまうんだろうか……。

 

 将棋の門下らしく一応将棋盤もいくつか出てるし、指し合っている人もいるけれど、手元にはお酒がある。完全にゆるーい対局だ。

 動き回る僕を捕まえて、皆さん色々声を掛けてくれた。

 

 着物がとても似合っていると言ってくれた人。

 去年は凄い活躍だったなと褒めてくれた人。

 身長が伸びたと頭を撫でてくれた人。

 今年も良く勝てよ、と激励してくれた人。

 

 みなさんとても優しかった。

 あと、いらないと辞退したんだけど、全員がお年玉をくれたもんだから、かなりの額になってしまった……。

 一回の対局料をゆうに超える。へたをすれば対局の少ない月の給料に近い額だった。

 大事に置いておこうと思う。

 

「よう、ちびすけ。馬子にも衣裳だなー。ちっとは大人に見える」

 

「……後藤さん、こんにちは。あけましておめでとうございます」

 

「おう。今年は俺と一回ぐらい公式戦であたりそうだな」

 

 昨年は結局後藤さんと公式戦であたることはなかったのだ、とっても残念なことに。

 

「はやく、あたりたいです」

 

「お? 零くんはやる気だね。正宗とは家でだいぶ指してるだろうに」

 

 僕の言葉をきいた、藤澤さんが面白そうにそう言った。

 

「公式戦はやっぱり別ですから……それに! 僕が勝ったらちゃんと名前で呼んでくださいよ」

 

 後藤さんの僕に対する呼び方は相変わらず酷い。犬や猫を呼ぶように呼ばないでほしい。

 

「あー? あぁ、言ったなそんなこと。勝てたらな。考えてやる」

 

 詰め寄った僕を後藤さんは鼻で笑ったあと、ほらよ、とポチ袋を投げて来た。

 反射的に受け取ってしまって、返すにかえせない。

 それに、俺のだけ受け取らねーとか生意気って言われそう。

 

「やぁ零くん。見違えたよ。良い着物を貰ったんだね」

 

 幸田さんが掛けてくれた言葉の内容は後藤さんと変わらないのに、受ける印象は段違いだった。

 

「ありがとうございます。師匠が良い色を選んでくれました」

 

「うんうん。紺は若い子に良く似合ってるよ。零くんは動きも丁寧だね。とても慣れてるように見える」

 

 褒められて、少し照れてしまった。

 着物の所作とかも前回だいぶ気にして、身に付けたものだ。身体で覚えたことは忘れにくい。ちゃんとできているなら良かった。

 

「師匠が色々教えてくれるので、幸田さんも気になる所があったら教えてください」

 

「全く問題なさそうだがなぁ。この調子だったら、祈願祭や指し初めにも着物で出たらどうだろう?」

 

「それはいいな。ほとんどスーツ姿の棋士ばかりだから、零くんが着物だと取材に来た記者も喜ぶだろう」

 

 幸田さんの言葉に、藤澤さんが頷いた。

 

「え……? でも、着物の方すくないなら目立ちませんか? それに祈願祭は外なので、だいぶ汚してしまう可能性が……」

 

 あんまり、目立ちたくない僕としては避けたいところだ。

 

「どうせ、目立つのは制服でも目立つだろ。こんなチビが混ざるんだから」

 

 お酒を片手に、つまみをつついていた後藤さんが、ボソッとつぶやく。

 聞こえてますよ。しっかりと。あなたはどうしてそういう言い方しかできないかな……。

 

「着物は使って何ぼだよ。あげた方としてもその方がうれしい。一度着たらクリーニングに出すんだし、大丈夫さ」

 

「電車に乗りにくいだろう。当日は私が車を出してあげるから」

 

 藤澤さんと幸田さんにもそう言われて、結局お正月の伝統行事の参加は、着物でと決まってしまった。

 ごくまれに、着物をきてくる棋士の方がいらっしゃるけど、絶対目立つんだけどなぁ……。

 でも藤澤さんも幸田さんも嬉しそうだから、断れなかった。

 

 

 

 

 

 三が日が明けると、将棋界に一年の始まりを告げる恒例行事がある。

 棋士にお馴染みの千駄ヶ谷の鳩森八幡神社で行われる「将棋堂祈願祭」と、そのあとに将棋会館の特別対局室で行われる「指し初め式」だ。

 

 将棋堂祈願祭は、鳩森八幡神社関係者と将棋関係者が集まって、将棋界の発展、棋力向上をお祈りする大切な行事。

 

 

 

 師匠は引退してるのと、足があまりよくないから、欠席するとのことで、当日僕の着物をきちんと着つけて送り出してくれた。

 

 幸田さんに連れられて、神社にあらわれた僕を会長がみつけると、でかした! と大きな声でいうものだから、新年のあいさつをしそびれてしまう……。

 

「いやー、さっすが藤澤だわ。良い着物もらったじゃん桐山くん! その上、正月から着てくるなんて、最高」

 

 幸田さんの背中もバシバシと叩いてナイスアシストと大喜びだった。

 そして、取材にきていた記者に声をかける。

 

「おーい。良いネタあげるよ。ほら、桐山四段の初着物だ。正月そうそう縁起がいいぞこりゃあ」

 

「ちょ……会長! そんなわざわざ呼ばなくても……」

 

「なーに言ってんの、ただでさえ毎年同じで大してみるところもないのに、こんな新しいネタださないでどーすんのよ! ほら、おじさんとツーショットね」

 

 ちゃっかり自分も写った会長と、あとから俺も、俺もとやってきた柳原さんと結局何枚か、写真を撮ることになった。

 

 ついでに、初めての祈願祭ということで、コメントまで求められる。

 とりあえず、初心を思い出して、差し障りなく答えておいた。

 

 始まる前からちょっと疲れてしまった僕は、隙をみて若手棋士の方々の集まる場所へと避難した。

 

「お! 桐山くん大人気だったな。よく似合ってるよその着物」

 

「スミスさん、一砂さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 

「おー! よろしくな! 今年も桐山とあたるの楽しみにしてるからな」

 

 馴染みの顔を見つけてかけよった僕に、二人は気さくに声を掛けてくれた。

 

 島田さんや重田さんも見かけて、新年のあいさつをした。

 二人とも、着物を褒めてくれて、島田さんは寒くないかーと持っていたカイロをこっそり分けてくれた。

 羽織を着ていても、少しだけ着物は寒いから助かった。

 

 

 

 馴染みの顔を見かけては、挨拶をしているうちに、祈願祭がはじまる時刻となる。

 

 鳩森八幡神社の神主さんにより、神道の祭事に先立って行う清めの儀礼である、修祓や、祭神に祭祀の意義や目的を奏上する、祝詞奏上などが執り行われる。

 

 だいたいにおいて、会長やタイトルホルダーやA級棋士が前の方でちゃんとやってくれるので、僕は後ろの方に並んでそれを見ていたらいい。

 もう何回も参加してる記憶があるから、流れも良く分かっていた。

 

 

 

 最後に神酒拝戴を行う。

 神酒を手に全員で乾杯をするけど、僕は飲むふりだけで、あとからこっそりスミスさんに飲んでもらった。

 興味あれば少しくらい飲めば良いのにと笑われたけど、もとからお酒はそれほど強くなかったから、止めておいたほうが無難だろう。

 

 ちなみに、将棋堂の扉が開き、室内にある大駒を直接見ることができるのはこの将棋堂祈願祭の時だけで、この光景がみられるのは、とても貴重なことだ。

 

 

 

 


 

 祈願祭の後は、将棋会館へ移動して、指し初め式となる。

 関東と関西ですこし、やり方に違いがあるが、関東だと出席者全員が1人1手ずつ、リレー形式で指し継いでいく。

 指す順番、組み合わせ、上座下座すら特に決まりはなく、盤の近くにいる人から順繰りに座っていき、一手を指す。

 出席者の顔触れは棋士、棋戦担当記者、観戦記者、棋士の知人など、主に将棋連盟の関係者や、鳩森神社の神主、子ども将棋教室の会員が参加することもあって、一般の方も参加できる。

 

 決まった順番がないため、面白い組み合わせが見られることも。

 タイトル保持者とその棋戦の担当記者、ベテラン棋士と小学生、女流棋士と神主など、普段は絶対にない対局光景になる。若手の棋士の場合、年配のアマの方へ敬意を表して上座を譲ったりもする。

 

 出席者の中で、慣れてない方もいるので、緊張で駒の動かし方を間違ったり、考えすぎて固まってしまったりする方も居るけど、そういう時こそ、その場にいる棋士たちの腕のみせどころだ。

 そっとアドバイスをしたり、気楽に楽しみましょうと声を掛けたりする。

 

 指し初め式は、厳かな儀式というよりも、仲間内の懇親会なような穏やかな雰囲気で行われていくものなのだ。

 

 

 

 会館に移動して、参加する方々の顔ぶれの中に、馴染みの顔をみつけて驚いた。

 よかったら来てねと言ったけどまさか、本当にきてくれるなんて!

 

「青木くん、いらっしゃい! 参加しにきてくれたんだね」

 

 かけ寄って声を掛けた僕に、知らない人ばかりで所在無げだった彼が顔をあげた。

 

「桐山くん。よかったぁ、ほんとに来てよかったのかと……。子どもは将棋教室とかの子ばかりみたいだったし……」

 

「そんなに堅い行事じゃないし、青木くんは僕の関係者枠ってことで、大丈夫。他に、僕の関係で来る人なんていないし」

 

 ちょっとクリスマスの時にポロッと言っただけだったから、来てくれるのだったら事務の人にでも頼んでおくのだった。

 ひとりで待つのは不安だっただろうに。

 

 それから、僕は会長に断って、ずっと青木くんの傍に居た。

 僕のお正月のはなしや、さっきの祈願祭では何をしたとか、反対に施設のお正月はどうだったかとか、話すことも、聞くこともいっぱいあった。

 

 

 

 指し初め式が始まる。

 順番が決まってないとはいっても、最初はやっぱり会長やタイトルホルダーが順々に指していくので、僕の順番はもう少し後。

 

 将棋スクールの小学生とかが、しっかりとした一手を指していくのは、ほほえましい。

 前のときも、僕はこの行事がきらいじゃなかったなぁと思った。

 

 藤澤門下の棋士の方が指した後、僕の名前が呼ばれた。

 まだ、はやいと思うんだけど……まぁ呼ばれたのならしかたない。他の若手の方もどうぞって感じだし。

 

 対面にすわる関係者はやっぱり青木くんがいいなぁと彼の姿を探した。

 部屋の後ろの方にいた彼を、僕の視線に気づいた馴染みの事務員さんが、そっと背中をおして、前へと連れてきてくれた。

 

 自分の顔を指さして、僕でいいの? といった表情の彼に、うんうんと何度も頷く。

 おそるおそる座った青木くんに、僕が笑ってみせると、彼はようやく肩の力を抜いてみせた。

 

 ちょっと込み入った盤面だったけど、彼はうんと頷くと、何かを思いついたように、しっかりとした手で駒を打った。

 ……いい手だ。

 施設をでるときに、ちょっとだけ将棋を勉強し始めてるといってたけど、本当だったんだなーと感心する。

 

 僕も応手を指して、顔をあげると、彼と目が合って、二人して笑ってしまった。

 パシャリとシャッターの音がする。

 取材に来てた記者さんには、僕が営業スマイルじゃなくて、ほんとに笑ってる珍しい写真を提供することになった。

 でも、お正月くらい良いよね。

 

 二人で次の方に交代するために、席を立つと、小さく拍手がおこった。

 青木君と二人して、照れてしまって、ペコペコと小さく頭を下げた。

 

 参加者全員が指すと切りの良い所で、盤面は指しかけのままにするのが、伝統である。

 これで、お正月の伝統行事はおわりだ。

 

 

 

 

 終了後、すこし興奮したような青木君と話す時間もとれた。

 

「緊張したけど、楽しかった。桐山君は普段、あんなところで指してるんだね」

 

「そうだよ。関西の方にいくこともあるけど、だいたいはここだね。

 青木君の一手すっごくよかったよ。プロでも使うくらいのだった」

 

「あーあれね。桐山くんがくれた。詰め将棋の本の36問目の流れに似てたかなって思ったんだ」

 

 それで、その通りに指してみようと思ったという彼に、僕はびっくりして、目を丸くしてしまった。

 確かにそうだ。あれは数手詰めの初心者用だから、わりと似た盤面が出ることはあるし、青木君の手番のときは間違いなく重なっていた。

 もっとも途中が似てるだけでは、その後の流れで詰まないようにいくらでも持っていけるから、すぐに別の形になってしまうんだけど。

 

「すごい。もしかして? 覚えてるの? 」

 

「あの本は特別で……何回も読んでるから……。それにね、桐山くんの対局の棋譜は全部みてるんだ。分からないことも多いけど、ネットで解説も結構あがってるし、最近ちょっとだけ分かってきて、観ていてもっと楽しい」

 

 照れくさそうに目を伏せた彼の言葉が、とても嬉しかった。

 青木くんが将棋に興味を持ったのは僕の影響だけど、それがきっかけで楽しいと思って貰えてるなんて!

 

「そっか……そうなんだ。よかったらまた本をあげるよ。僕は全部内容覚えちゃってるし」

 

「あ! じゃあまた交換しよう。僕のおすすめの物語の本と」

 

 青木くんは将棋も好きになってくれたけど、やっぱり一番は小説を読むことのようだ。でも、僕も他の趣味も共有できるのは嬉しい。

 以前彼から貰った本は、SF要素が入った少年たちの冒険譚だった。ほんとに面白くて、一気に読んでしまったほど。

 僕も読書は好きな方だし、彼のおすすめは期待できる。

 

 次に施設に遊びに行ったときに、交換する約束をした。

 その時、彼に返す本に感想を書いた紙でもそっと挟んでおこう。楽しい時間をありがとうと。

 自分の好きなものを肯定してもらえるのって、こんなに嬉しいことなんだなと思った。

 

 

 

 無事に新年の行事も終わって、1月。

 今月からは棋匠戦の予選と玉将戦の一次予選が始まって、ついに七大タイトルすべての棋戦へと参加していくことになる。

 全棋戦勝ち残ってしまっている僕は、今月の対局数は10局に迫りそうでかなり多忙だ……。

 どの対局にも本気で挑みたいけど、落としてはいけない順位戦と朝日杯の本戦だけは、しっかりと焦点を絞っていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十二手 最後の弟子

 

 柾近に弟子をとってくれないかと話を持ち掛けられたとき、私は当然断った。

 もうだいぶ年をとったし、将棋の棋力も衰えている。

 今更若い子を弟子にとったとして、プロになるまで面倒を見てあげられるか自信もなかった。

 

 ただ、真面目で堅物、普段無理を言ってきたりしないあいつが、やたらと食い下がって話だけでもと聞かないので、とりあえずその子の話を聞くことにした。

 

 桐山という名前を聞いたとき、すぐに桐山一揮のことを思いだした。

 プロになれなかった弟子のなかでも一番惜しいとおもい、もっと何かしてやれたのではと思った奴だ。

 医者になって、家を継ぎ、子どもも生まれたと耳にして、これで良かったのかもしれないと思っていた矢先の悲劇。

 息子のように可愛い弟子の一人を失ったことは、私の中でまだ大きな傷を残している。

 

 その一揮の息子が、東京の施設にいて、奨励会に入りプロを目指しているという。

 なんと数奇なことだろう。

 柾近が内弟子にしようともちかけた話は、すぐに断られたと聞いて、おまえはもっと自分の子どもの事も考えてやれと諭しておいた。

 かりにその話がすすんでも、あまりうまくいったとは思えなかった。

 

 一方でその息子の方への興味はさらに駆り立てられる。

 棋譜をみせられたことで、その気持ちは大きくなるばかりだ。

 これほどの才能。

 放っておいても、勝手にプロになるだろうが、それでもやはり環境によってその速さは左右されるだろう。

 

 一度会ってみても良いかもしれない。

 私がそう呟くと、柾近はすぐに嬉しそうに頷いて、段取りをし始めた。

 

 

 

 

 

「失礼します。桐山です。会長がお呼びだと聞いたのですが……」

 

「おぉ!! 来たか、桐山!! まぁ、座れや。ちょっとだけ長い話になる」

 

 会長室に入ってきたその子の姿を見たとき、あぁ間違いなく一揮の息子だと思った。

 

「存じています。藤澤邦晴九段。会長と名人位を何度も争われた方だ。お会いできて嬉しいです」

 

「君はお若いから、私のことなど知らないものだと思っていたが……そうかい。嬉しいねぇ」

 

 柾近が紹介した私のことも知っていてくれたのは、思いがけず嬉しかった。

 私が差し出した手を握り返してくる手は小さい。

 

「お二人の対局の棋譜はとても勉強になりますから、何度も並べさせて頂いてます」

 

「噂には聞いていたが、本当に勉強熱心な子のようだ。

 そして、恐ろしくそつがない。これは、柾近の手にあまるのも分かるなぁ」

 

 この子はただの小学生ではない、心構えはすでにプロの域に達しているのだろう。

 何十年も前の記譜までさらうなど、なかなかこの歳で出来ることではない。

 

「私は、もう将棋を離れて久しいし、弟子をとる気は無かったんだが、柾近がどうしても一度会ってほしいと聞かなくてな。それに、自分が内弟子にと言った話は袖にされたという」

 

 私の言葉に、零くんは少しバツが悪そうだった。

 優しい子だ。柾近の想いも分かった上でそうせざるを得なかっただろうに、それを心苦しく思っている。

 

「何、君が気に病むことはない。話を聞いてみれば、なかなか道理が通ったことだ。いささか、小学生にしては出来過ぎだとも思ったがね……でも、今会ってみて分かった。

 桐山にそっくりだなぁ……。あいつの子なら聡明で優しいのも頷ける」

 

 一揮の名前を出すつもりはなかったが、言葉がこぼれてしまった。

 

「あいつのことは、残念でならん。私には娘だけで、息子はおらんかったから、弟子たちは皆、自分の息子のように可愛かった。先に逝くとは……親不孝なことだ」

 

 葬儀に出られずすまなかったという私に、ただただ頷くその子は、必死に何かを押しとどめていた。

 あぁ……そうか、君はそうやって堪えてくるしかなかったのかと、その様子からこの子の数年が透けて見えて切なくなる。

 

「もし、貴方と話せる機会ができたなら、一つだけお聞きしたいことがありました」

 

「おや? 何かな?」

 

 続きを促すと零くんはおもむろに一つの駒箱を取り出した。

 私はそれに覚えがあった。

 間違いなく、一揮の退会駒だ。

 

 あいつまだ、これを持っていたのか。

 これで、息子に将棋を教えたなんて、なんて奴だろう。

 でも、あいつらしいと面白くも思った。

 

 零くんは父親の話を聞きたがった。

 将棋道を志し、それでも道半ばであきらめなければならなかった彼の話を。

 私は自分の覚えている限りの話をした。

 

「一揮が知ったらどんなに喜ぶだろう。息子が、もうすぐ自分が退会したときと同じ二段になると知ったら」

 

 締めくくった私の言葉に、堪え切れなかったのだろう。彼の瞳からポロポロと静かに涙がこぼれた。

 胸が締め付けられた。

 声を上げることもなく小学生がこれほど静かに泣けるのかと。

 

「その桐山の息子をな。このまま放っておくのは藤澤門下一同としては、忍びない。

 なぁ、零くん。私の弟子にならないか? あいつが此処で見て諦めた夢を、今度は君が叶えてやってほしい。私がそれを手伝っては駄目かい?」

 

 私はそっと彼のまえにしゃがんで目線を合わせて問いかける。

 

 声を押し殺すため、ギュッと口をむすんだまま、零くんは何度も頷いた。

 右手でそっと彼の頭をなでる。

 すこしだけ抱き寄せると、小さな手がキュッと私の服を掴んだ。

 

 どんな言葉よりも雄弁に、その手が私の事を受け入れてくれた気がした。

 

 

 

 

 

 零くんとの生活は予想よりはるかに円滑な滑り出しをみせた。

 だいたいの理由が彼が良い子すぎるからだ。

 妻の和子の手伝いもよくするし、注意しないといけないようなことも全くない。

 おまけに家にいた猫どもまであっさりと懐柔されていた。

 シロもクロも私にはそっけないのに、不思議なものだ。

 気難しく、マイペースなシロがあれほど零くんの傍にいたがってべったり甘えているのには目を疑った。

 動物は傷ついた心には敏感だというし、彼らが寄り添うことで少しでも零くんの癒やしになるなら良いことだろう。

 

 あえていうなら、どうも気を遣いすぎな面がみられるのでそこだけは、追い追い慣れていってくれたらと思う。

 

 

 

 門下との顔合わせも終わって、皆彼をあたたかく迎えてくれた。

 柾近が零くんを気に掛けるのは予想できていたが、驚いたのは正宗がうちに顔を出すようになったことだ。

 よっぽど零くんの将棋が気にいったのだろう。

 ここ数年、ほぼ絶対参加だというような集まりにしか顔をださず、家によりつきもしなかったが、1ヵ月に一度はなんらかのたいしたことない理由をつけて、やってくる。

 あいつが来ると零くんが指してもらえないかなと、少しそわそわするのを、満更でもないと思っているのは、私の目には明らかだった。

 

 これは良い傾向だろう。

 正宗は誤解されやすいが、根の底のそこの方では、優しい奴なのだ。

 まぁもっとも滅多に外には出さないが……。

 零くんと一緒にいると少し丸くなって、あいつのそういう面も目にとまりやすくなればと思う。

 

 停滞し、ただ時が流れているだけになっていた私の家に、新しい風が吹いて、日々が目まぐるしく過ぎていく。

 零くんの成長は目覚ましく、あっという間にプロになった。

 小学生プロというその話題性から、うちにも随分取材がきたが、なるべくあの子を煩わせないようには気を配った。

 神宮寺のやつにも、過度の取材は受けないようにと釘をさしておく。

 あいつは、そんくらい分かっとる! と電話を叩ききったが……。

 

 惜しむらくは、零くんが制服を新調して自分で買ってしまうのを阻止できなかったことだ。

 それくらいいくらでも出してあげるし、子どもの成長を感じる親としてはわりと嬉しいことの一つなのだが……。

 後手に回ってしまったのだから仕方がない。今度があれば絶対に先手をうとうと心に決めた。

 

 あの子の対応は、あらゆることに卒が無かった。

 自分が答えにくい質問や実家関係の答えたくない質問への対応も上手かった。

 頭がよく回る子なのだろう。それにしても、出来過ぎのような気もしたが。

 

 学校と棋戦との両立は大変だろうに、夜中まで対局が掛かろうが、関西の将棋会館から帰ってきたばかりだろうが、棋戦が無い日は必ず登校していた。

 たいしたものだと思う。

 将棋の研究へののめり込みようもすごく、プロ入り後半年たっても一度も負けていない。

 A級棋士に勝っているところをみても、実力はもう若手の域をとうに超えていた。

 

 私は彼の成長を見守るのが楽しみで、それが将棋のことだろうが日常にかかわることだろうがなんでも良かった。

 ただ、健やかであってくれればそれで充分だった。

 

 

 

 だから、警察から電話を貰った時の背筋が凍るような感覚は、子どもをもつ親なら誰しも分かるだろう。

 なぜ、どうして、あの子が……と、動揺しながらも、とりあえずの無事を確認し慌てて迎えにいく準備をした。

 

 偶然だが、柾近が居てくれて良かった。

 車を出してくれるというし、私以上に憤って動揺している彼をみると、少しだけ冷静にもなれた。

 

 交番についたとき、零くんのすこし気まずそうな顔をみて少しほっとしたと同時に、額の傷をみてカッと身体が熱くなった。

 

 たまらず抱きしめた彼の身体は小さい。

 そう、こんなにも小さいのだ。

 どれほど、しっかりしていようと、どれほど大人びていようと、この子はまだ子どもだ。

 何故こんなひどいことが出来るのだろう。

 もっと守ってやることは出来なかったのだろうかと、自問自答を繰り返した。

 

 頭を撫でられるときでさえ、そわそわと落ち着きがなく、自分がこれを受け取ってよいのだろうか? とでもいうような雰囲気を纏う彼は、抱きしめた腕のなかでびっくりして固まっていた。

 こんな怪我をして……でも、これだけで済んでよかったと呟く私に、彼はご心配をおかけしてすいません、と言った。

 そう思うなら、頼むからタクシーを使ってくれと言うと、迷ったあとに頷く。

 この子は一度した約束は守る子だ。倹約的な性格だが、これで少しは安心だろう。

 

 零くんを助けてくれたお嬢さんを送っていくついでに、見つけたときの状況を聞いておく。

 つくづく、運が良かったとしか思えない。

 見つけてくれたのが彼女のような、無垢で純粋な子で良かった。

 

 そして珍しく、零くんが懐いていたのには少し驚いた。

 この子の中にはなかなか、踏み越えさせてくれない一線がある。

 私だって、その内側にいられているか、微妙なところだ。

 けれど、間違いなく彼女は零くんの中で、線の中に入れて良い人と認識されていた。そうでなければ、妹さんのキーホルダーを任せることはない。

 

 出会いはなんとも言えないものになってしまったが、これは喜ばしいことだろう。

 零くんはどうも対人関係を希薄にしがちだ。少しでも、深く繋がっていける人が増えることは彼の支えになるはずだ。

 

 おくり先で出迎えた、家族の方々も善良そうな方々だった。

 私と同年代そうなおじいさんが、随分と熱心な将棋ファンだったようなので、ファンサービスもしておく。

 心証がよくなったら、零くんも遊びに来やすいだろう。

 

 病院での検査も問題なさそうだったから、帰宅後なるべくはやく眠るように零くんを促した。

 寝つきがわるくないか、不安そうにしていないかと一応見守ったのが、意気揚々と彼の布団に潜り込んでいったシロと、あとからそっと足元の方で寝始めたクロと共に、スヤスヤと眠っていた。

 前から思っていたけれど、結構肝が据わった子だ。

 

 とりあえず良かったと思い、私も休もうと思ったときに家の電話がけたたましく鳴った。

 何事かとおもうと、神宮寺からの連絡だった。

 

「ちょ、おい  藤澤っ! 桐山大丈夫だったのか? ひったくりにあったうえ、スタンガンで昏倒させられて、額から結構な出血したって警察から連絡あったんだけど!?」

 

 あぁ……そういえば、あの交番の年輩警察官は私とも知り合いだったし、神宮寺とは飲み仲間だったなぁと思った。

 一応連絡はしようと思っていたが、これほど早く情報がまわるとは。

 

「零くん自身はほぼ普段通りだったよ。今ももう寝たところだ。医者にも連れて行ったけれど、とりあえず傷も数日で治る程度らしい」

 

「そうか……。とりあえず安心したわ。あのおっさんやたら悲壮感たっぷりに言ってくるから何事かと……」

 

「ただなぁ……利き手の手首も痛めたようなんだが、明日の棋戦は出るといっとる」

 

「あぁ! 明日棋戦あるのか。獅子王の予選だな……相手はアマだし問題はなさそうだが、まぁ左を使うにしても違和感はあるな……」

 

 些細なことでも気になれば思考力へ影響する。それは、繊細な対局や、高度のやりとりであればあるほど、顕著になる。

 万全な状況でのぞませてあげたかったと思わずにはいられない。

 

「あの子なら、問題なく勝つとは思うがな」

 

「こういっちゃあ悪いが、マスコミもだいぶ注目してる……ここで連勝がとぎれると理由が話題に挙がらざるを得なくなってマズイ。まぁそうなったら、全力で阻止はするけどなぁ……桐山には是非いつもの調子でいってもらいたい」

 

 大事にしたくないという零くん自身の希望もある。今回の事件は公にはならない。

 そのかわり、彼が重ね続けている栄光に陰りがみえるのは、よろしくないのは間違いない。

 そして、おそらく零くん自身がそのことを誰よりも理解している。あの子は、本当に聡い子だから。

 

 なら、私に出来ることは一つだ。

 

「今日の明日だから、会館でも一応気に掛けてやってくれ。明日は柾近が送って行くとは言っとるがやはり心配だ。怪我のこともあまり詮索されないようにしてあげてくれ」

 

 少しでも彼が指しやすいように、支援するしかない。

 

「あぁそれはもちろん。額の怪我は隠しようないだろうし、会館近くの事件だったから棋士にはそれとなく言っとく。外部には口外しないようにってな」

 

 神宮寺の会長としての発言力や影響力は大きい。それなりに上手くやってくれるだろう。

 

 

 

 零くんは次の日も快勝し、普段通りの日々を過ごしていた。

 変わったことは、帰宅するときに門下以外の棋士に連れられて帰って来ることもあった。

 車に乗せてもらったり、駅まででいいといったのに結局ついてきてくれたり、有り難いけど迷惑じゃないかなと、心配そうだった。

 私からもお礼をいっておくから、気にせず甘えておきなさいと言っておいた。

 

 あとから柾近からも聞いたが、どうも零くんの成長を見守るような小さな会があるらしい。なんだそれは ?とも思ったが、将棋界の子どもを温かく見守ろうといった趣旨のようなので、まぁいいかと放置することにした。

 

 

 

 あの子がうちに来てからのクリスマス。和子は気合いをいれて色々と準備していた。

 子どもが小さかった時をおもいだすのだろう。

 私も、これから必要になるだろうと着物を贈ることにした。弟子たちにはこれまでも、何度も贈ってきたが、こんな小さな着物をつくったのは初めてだなぁと少し新鮮な気持ちだった。

 そして、あぁ一揮には結局贈ってやれなかったと思い至って、零くんの着物姿をあいつもみたかっただろうにと胸が痛んだ。

 せめて、少しでも良いものを、そして零くんに似合うものを贈ろうと気合いを入れる。

 

 

 

 着物を零くんはとても喜んでくれた。

 正月に身に付けた姿を見たときは、そこに一揮の面影もかさねて、少しだけ涙ぐみそうになった。

 着付けは流石に、私がしたけれど、彼はすぐにでも覚えてしまいそうだと思う。

 そして、一応ひととおり所作や簡単な注意事項を教えたものの、それが必要じゃなかったかと思う程、着こなしていた。

 

 不思議に思って、長野で着たことがあったのかと尋ねたが、彼は初めてだという。

 うーむ。初めてでここまで出来るだろうか。

 疑問に思った私の雰囲気を察したのか、零くんは祖父が結構な着物の愛好家で、その様子をみていたからかもしれないと慌てて、言葉を重ねた。

 身近にお手本がいたのなら、多少は違うかと納得して、他の兄弟子たちにも見せておいでと促す。

 

 あの子は本当に出来た子で、和子の手伝いに走り回りながら、ちゃんと全員へ新年のあいさつをしていた。

 私の弟子といっても、もうほとんど全員がおっさんなのもあって、あいつらも零くんのことは息子のように思っているのだろう。

 大量のお年玉をもらって、戸惑っている零くんの姿をほほえましく思いながら、その光景を眺めていた。

 

 柾近が良い案をだしてくれたから、零くんのお正月の伝統は着物でということになった。

 神宮寺の奴は絶対に喜ぶだろう。

 

 後からその時の様子を柾近に聞いたが、とっても良い写真をみせてもらった。

 

「写真をとっていたカメラマンに頼んで焼き増ししてもらったんです」

 

「おぉ! これは……なんとも癒やされる。零くんが公の場で、これほど自然体なのは珍しいな」

 

 将棋盤を挟んで、無邪気に微笑む少年二人。

 やわらかく差し込んだ日差しと、彼らの打ち解けた雰囲気が、穏やかな日常を切り取っていて、何とも言えず良い雰囲気だった。

 

「対面に居る子は、施設の時からの友人だそうで、彼が遊びに来てくれて零くんはとても嬉しそうでした」

 

「そうかそうか。それは喜ばしいことだ」

 

 柾近の言葉に何度も頷きながら、本当に良かったとおもう。

 同年代の気心しれた友人がいると分かり、正直すこしだけほっとした。

 写真のなかの零くんは、対面に座った彼と何ら変わりない、小学6年生だった。

 

 

 

 可愛い、かわいい私の最後の弟子。

 彼の成長をこれからも見守っていきたい。

 

 

 

 




 藤澤邦晴 67歳
 会長や柳原さんより少し年上なので、10話の時点でこれくらいの年齢です。
 桐山くんのお父さん一揮さんについては色々と、後悔や負い目がある。彼のかわりといってはなんだけれど、桐山くんの成長を見守っていきたいと思っている。
 一応自分のお孫さんもいるんだけど、それとは別に桐山君のことも可愛くてしかたない。
 彼がのびのびと過ごすために、支援は惜しまない。
 もっと甘えてくれていいのにが最近の飲み会の時の愚痴の定番になりつつある。




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第二十三手 朝日杯将棋オープン戦

 年明けにいくつかの棋戦をこなした後、一月中旬。

 今日は朝日杯の本戦の日だ。

 朝日杯は基本的に一日で2局終わらせてしまう。

 つまり、今日ベスト16とベスト8の試合が終わってしまうので、あとは準決勝と決勝を残すのみ。

 

 一回戦の僕の相手は辻井九段。

 ダジャレをこよなく愛する、不思議なキャラクターを持つ方だけれど、相当な実力者だ。気分とその日の調子によって棋力にむらっけがあるのも悩ましいところだが……。

 

「おー、桐山おはよう」

 

「島田さん! おはようございます」

 

 同じく本戦進出を決めていた島田さんも来ていた。

 

「今日は2戦やる珍しい日だからなぁ。おまえさんはまだ慣れてないだろうけど、とりあえずは1回戦勝つことだけ考えてやったらいいよ」

 

 プロ棋士相手に2連戦……相当消耗する戦いになるだろうとは予想できた。

 

「はい。今日の初戦は辻井九段なので……、余力は残しておけないと思います」

 

「辻井さんなのか!? それはちょっとマズイかもな……」

 

 僕の言葉に島田さんの表情が曇った。

 

「どうかしたんですか?」

 

「いや、さっき会ったんだけど雰囲気がな……。おそらく今日は良い辻井さんの日だ」

 

「良い……辻井さん……」

 

「あぁ。辻井さんは普段あんなんでも強いけど、時々別人かとおもうくらいの集中力で、鬼のように強い日がある」

 

 僕にも覚えがある。凄い日だと宗谷さんに快勝するくらいの日もあるのだ。

 今日が良い辻井さんの日だとしたら……

 

「すっごい運が良いですね。こんな機会滅多にないですよ!」

 

 前回の将棋人生で、僕が良い日の辻井さんに当たれたのは片手で足りる。

 その日だけに限定すれば、宗谷さんとの対局数よりもすくない。

 ある意味とても貴重なのだ。そんな日に自分が対局できるとは。

 

 俄然テンションが上がった僕をみて、島田さんはポカンとした後に噴出した。

 

「そうかー、桐山はそうだよな。良い対局にしてくるといい」

 

 肩を軽く叩いて、そう言ってくれた島田さんに僕は何度も頷いた。

 

 

 

 

 

 はやめに席について待っていた僕の前に辻井さんが座る。

 

「今日はよろしくお願いします」

 

「あぁ……よろしく」

 

 軽く挨拶をした僕に、必要最低限の言葉を返した彼は、間違いなく良い日の辻井さんだ。

 茶化さない、ダジャレを言わない、言葉数がすくない。

 滅多にないんだけど、5割増しかっこよく見えて、なにか滲み出るオーラすら感じるのがその日の彼だ。

 

 さて、気を引き締めなければならない。

 朝日杯の持ち時間はたったの40分で、持ち時間を使い切った後は1手1分未満で指すことになる。

 僕は早指しが苦手な方ではないけれど、うかうかしていたら、一瞬でふっとばされて終わってしまう。

 

 先手は僕で、辻井さんが後手。

 

 後手の辻井さんは、4手目に4四歩と角道を止める。

 やはり、得意の四間飛車に持ち込む気だろう。

 

 それに対しては、僕は一般的な対抗形といわれている居飛車に構えることにした。

 持ち時間は短い。

 定跡を踏まえつつ行くのが良いだろう。

 

 辻井さんは、すぐに美濃囲いが見える形へと移行しつつあって、ぼくは慌てて、玉を囲われないように、3筋の歩をぶつける。

 

 通常の居飛車急戦は左の銀が5七に上がる場合が多いけれど、今回は左の銀は動かさなかった。

 飛車と桂馬を活用し、うまく牽制しながら主導権を握ってみせる!

 

 71手目に2一龍。

 

 良い具合にはまった。

 辻井さんの一手一手も鋭いけれど、自陣にいる龍が気になっているのは間違いない。

 

 一瞬のスキをつかれて、僕の角が押さえ込まれて、龍がとられそうになる。

 

 でもただでは取らせない。

 飛車交換が条件で角も担保にとれるように状況を追い込めた。

 

 その後、お互いの龍を清算し、辻井さんはすぐに2九地点に飛車を投入する。

 鋭い攻め手だ、成って再び龍が現れる形になる。

 けど、まだ大丈夫予想の範囲内。

 彼の持ち駒で有力なものはもうないし、あとはこれを上手くさばきつつ、詰ましにいくだけだ。

 

 そして、97手目。僕の5三角のあと、辻井さんは投了した。

 

「ありがとうございました」

 

「お疲れ、良い対局だった。でもま、今日は君の日だったということだろう」

 

 感想戦もそこそこに、静かに頷いた辻井さんは、次も是非頑張ってくれと激励してくれた。

 まだモードは切れてないんだな、とそのカッコイイ後ろ姿をみて思った。

 

 

 

 

 

 

 


 

 ……流石に疲れた! 2時間ちょっとしか経っていないのに、6時間対局したのと変わらないくらいの疲労感だ。

 お昼を挟んで、午後からは2回戦の対局が始まる。それまでに少しでも、持ち直さないと。

 

「勝ったみたいだなー桐山」

 

 対局室を出てすぐのところで、柳原さんに肩を組まれた。

 

「あ、はい。一応」

 

「じゃ、次俺とだからよろしく」

 

 柳原さんが勝たれたのか……これはまた、骨が折れそうだ。

 

「おまえさん、気づいてないのかもしれないけど、さっき辻井に勝ったので38勝目だからな? 分かってる?」

 

「あ、そうだったんですね」

 

「あーもう! 宗谷の最高記録に並んだんだからな! 次勝てば歴代一位なんだから、もっとこう……さぁ……なんかないの」

 

 そう言えば、そうだったなぁとのんきに思っていたら、柳原さんに呆れられてしまった。

 

「連勝はいつかは止まってしまうものですし……僕としては、次勝ったら宗谷名人とあたれるから、勝ちたいけど柳原棋匠とだと厳しいなぁくらいの感想です」

 

「はぁ……本人はのんきなもんだなぁ。おまえさんのそういうところ、宗谷に似てるわ。今日こんなに記者が来てるなんて普通ありえないからね。皆朝日杯の本戦なんて二の次! お前さんの連勝記録がどうなるか、それを期待してきてるんだから」

 

 柳原さんに言われて周囲を見渡してやっと気づいた。確かに見慣れないテレビ局まで来ているし、いつもより記者の数も多い……ような気もする。

 

「ま、目立たせてくれてありがとうよ。おかげで俺も良い目をみれる。未来ある若者が超えていくべき壁になれるのは、光栄なことだからな」

 

 柳原さんは僕の頭をかきまわすとしっかり飯食って、コンディション整えろよーと言って去っていった。

 

 

 

 

 

 2回戦目の先手は柳原さん、後手が僕となった。

 

 柳原さんは3手目を6八銀とし「矢倉」を明示。僕はこれに乗っていくかどうか、少し迷った。

 けれど、せっかくの機会だ。先の事よりは今はこの将棋を思いっ切り楽しみたい。

 先手の駒組みに追随し、「相矢倉」となることを選択した。

 

 先に僕が「矢倉囲い」の中に玉を入城させ、そのあとすぐに柳原さんも入城を完了させ、「相矢倉」が完成する。

 

 最初に仕掛けてきたのは柳原さん。6筋の歩を突き出し僕の角頭を叩く。

 

 とりあえず角を5筋に下げたけど、その後も柳原さんは、銀を繰り上げて圧力をかけてから、右の桂馬も跳ねて力を溜める。

 ここまで、果敢に来るのは珍しいな……後手に回ってしまった。

 

 僕も、6五桂とうった桂馬を基点とした次に、飛車先を決めたけれど、柳原さんは5四歩と角頭に歩をうって、着実に仕掛けてくる。

 

 同銀として応じたものの、柳原さんはその後も盤の中央付近でこまをさばいて、軽快な指し回し。

 

 この人本当に60歳超えてるの? ちょっと元気良すぎだよね。と思いながら、焦らずに丁寧に対応し続けた。

 

 ここまでじっと我慢して、先手の攻めを丁寧に受け止め続けたけれど、そろそろ動かなければジリ貧である。

 僕の反撃は、「矢倉」の急所へ手筋となる銀の打ち込み。

 

 けれど、柳原さんはこれに構わず、金で角を取り囲みさらなる攻勢に出ようとした。

 

 させない。

 このまま押し切られるわけにはいかない!

 

 直後の攻防で、僕は飛車先8筋へ桂馬を打ち込む。

 大丈夫、読み切ってる。

 これで勝負を決めて見せる。

 

 さすがの柳原さんもこれは受けにまわるしか無くなった。

 ここでなにか、予想外のことをされると僕も困っただろうけど。

 

 その後の展開は僕の描いたとおりになった。

 間違わず、逃さず、確実に先手玉を仕留め上げる。

 

 そして、110手目で終局。

 柳原さんが、笑顔でまいった! と告げたのが印象的だった。

 

 

 

 対局室に記者がなだれ込んできたけど、僕は連戦ですこし疲れてしまってだいぶボーっとしてしまった。

 

 ほとんどの質問は柳原さんが答えてくれてるけど、やっぱり僕にも質問がないわけがない。

 

「桐山四段、39連勝目おめでとうございます。一日で2局という過密日程でしたが、やはりこの偉業は意識されてましたか?」

 

「えーと……実はあまり……柳原棋匠に教えて頂いて、今日初めて知ったくらいで……。僕としては貴重なA級棋士と対局できる機会のほうに、気持ちが向いていました」

 

「今、改めてどうでしょうか? 歴代一位ですよ。次は40連勝という大台も見えています」

 

「大変光栄なことだと思いますし、自分でもこんなことになってるのは正直驚きです。

 あまり記録は意識していないのですが……皆さんが喜んでくれたり、将棋に注目してくれるのは本当に嬉しいので、頑張りたいと思います」

 

「プロ入り後10カ月あまり負けなしですが、その秘訣がもしありましたら」

 

「そうですね……最初の数ヶ月は対局も少なかったので、一局一局にとても集中できていました。掛けれる時間が他の棋士の方よりも多かったぶん有利だったと思います。本当に難しくなったのはこの数ヶ月のことなんです。時間のやりくりが大変になってきました」

 

「今までA級棋士と4人ほど対局してきたわけですが、将棋界のトップクラスとの対局を体感してみて、どう思いましたか?」

 

「本当に接戦でした。毎回ギリギリでとどまっている感じです。大変勉強になっています。一局が終わるたびに新しい何かを掴めてる気がしています。今日の分の検討は後日になると思いますが、しっかりやっていきたいです」

 

 流石に今日はへとへとだから、帰ったらすぐ寝る気がする。

 というか、無事に帰れるのか若干怪しいくらいだ。

 

「さーさ、もういいかな? 桐山四段もお疲れみたいだから今日はこの辺で。この子は明日も学校あるからね」

 

 切り上げさせてくれたのは、柳原さんで僕は少し助かった。

 流石に年の功というかこの辺のやりようは敵わないなと思う。

 

「桐山、今日のお迎えは?」

 

 対局室を出たところで、そう問いかけられたけど、僕も把握できてなくて首を傾げてしまった。

 

「おー桐山今帰りか。俺がおくっていきますよ、柳原さん」

 

 ちょうど自分の対局が終わった島田さんが、そう声をかけてくれたのは助かった。

 

「んじゃ、島田頼んだ。俺はこのあと徳ちゃんと飲むからさ」

 

 ひらひらと手を振って去っていく、後ろ姿に今日はありがとうございましたと声を掛けると、せっかくだからこのままどんどん、連勝伸ばしていってくれよーと笑って返された。

 

「お疲れさん。いやー2局はやっぱこたえるなぁ……。桐山も流石にぐったりって感じだな」

 

 島田さんの言葉に、うんうんと頷くので精一杯だった。

 エネルギー切れ寸前だ。

 子どもの身体ってこういうところがある。

 ハイになっているときは何でもできるし、いくらでも行けそうな気がするのに、プツンと電池がきれるのだ。

 

 タクシーを捕まえないとなーという、彼に電車で大丈夫ですよ。ともごもごと伝えたのだけれど、俺も疲れてるから良いんだよと笑われてしまった。

 

 すぐに捕まった、タクシーに乗ったとたんに、僕は、コテンと寝てしまったようで、気が付いたら自分の部屋の布団の上で朝を迎えていた。

 慌てて起きて、お風呂に入って学校へいく準備をする。

 

 朝食の席で藤澤さんに聞くと、おくってきてくれた島田さんが起こすのは可哀想だと、部屋まで運んでくれたそうだ……。

 

 それを聞いてなんて、迷惑を! と頭を抱えてしまった。

 起こしてくれていいですからと、何度も言ったけれど、藤澤さんは笑っていただけなので、おそらく次も危ない……。

 寝落ちしないだけの、体力が必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 将棋の方は順調だったけれど、学校の方ですこーしだけ困ったことがあった。

 僕の欠席数は対局数に応じて当然多くなってくるのだけれど、担任の先生があまりその辺を理解してくれてなかったのだ。

 冬頃から突然に欠席が増えてきたことで心配になったのだろう。

 授業が終わったあとに個別に呼び出されてしまった。

 

「桐山くんがとっても将棋を頑張ってるのは知ってるんだけど、一応勉強が本分なわけだし……」

 

 よくある感じに切り出された話題に、とりあえず答える。

 

「テストは問題ないですよね? 宿題もちゃんと全部提出してますし」

 

「うん、そうね。成績はとっても良いわ。そうなんだけどね。学校ってそれだけをする場所でもないから……卒業式の練習だってはじまるしね。ちょっと最近の欠席数の多さは気になっちゃって……」

 

 僕の担任は、若い女性の先生だ。

 クラスにもよく目を凝らしているし、一生懸命すぎるほどだとは思っていたけど、なるほど。僕が将棋にかまけすぎて、学校をおろそかにしてると思ったのだろう。

 

 実際そうできるならそうしたいし、義務教育だから極論行かなくても卒業できるのだが……、青木くんたちに良くない影響があっても困るから、かなり頑張って来ていた方なんだけどなぁ。

 

「えーと、先生もお忙しいから僕の棋戦の事とかはあまりご承知でないとは思いますが、欠席した日は全て対局の日です。仕事で将棋会館にいってます」

 

「仕事ってそんな……あなたまだ小学生よ。学校に来ることが仕事じゃない?」

 

「一般的にはそうでしょうけど、プロ棋士になった以上は仕事です。忌引以外の不戦敗はまずありえません。ただの試合ではないんです。将棋連盟に棋士として名前を連ねた時点で、給料として対局に対価が払われている時点で、僕にとって対局は何よりも優先しなければならない義務なんです」

 

 一言、一言、噛みしめるように告げた僕の言葉に、先生は目を丸くしていた。

 やはり、根本的な認識の違いがあったと思っていいだろう。

 校長がこの辺はかなり詳しいし、融通していてくれたから、彼女への説明はそう言えば全くしていなかった。それは僕も悪い。

 

「そう……だったの。ごめんなさい。私は将棋には疎いから……桐山君がとても頑張ってるのは知ってたんだけど……」

 

「えーと、もしよければ校長先生がとても詳しいので聞いて頂けたらと思います。卒業まであと少しですが、僕にも変だなと思ったらまた声を掛けてくれて良いですから」

 

 あの校長先生なら、嬉々として語りだすだろうし、任せておいて大丈夫だろう。

 そうね、ちゃんと聞いてみるわ、と頷いた先生にほっとした。

 

「あと、もし正確な対局の日程表がいるならコピーして渡します。なにか正式な証明が必要なら、将棋連盟の会長に一筆もらいますし」

 

 学生プロ棋士なんて、滅多にいないから、手を焼くのは当然だろう。

 こちらとしても妙な軋轢は生みたくない。

 卒業まで穏便に過ごせたらそれで良いのだ。

 

 

 

 後日廊下で校長に会ったときに、呼び止められた。

 うまく伝わってなかったようで悪かったと、あと数ヶ月来られる範囲で登校してくれていいから、棋戦と自分の身体も大事になと言われた。

 

 担任の先生もあの後、僕にごめんねと声をかけてくれた。先生の方があまり良く知らないとクラスの子に伝わり、青木君をはじめとするやけに将棋に詳しくなってしまった一部の生徒から、大ブーイングを受けて、昼休みに突発的な将棋の常識講座が開かれていたのには、思わず笑ってしまった。

 ……熱心に僕がいかに凄いのかについても語られていたのは聞かなかったことにしよう。

 

 

 

 校長先生から少し提案があったのもその頃だ。

 急だけれど、私立中学を受験してはどうかという話だった。

 

「私立ですか? 僕はそれほど勉学熱心に取り組む予定はないのですが……」

 

「これだけの好成績の子に言われたら、立つ瀬がないがね。いやなに、この前のようなこともあったし、スポーツ推薦やら芸能推薦やら、その手のことに慣れている私立の方が、君の対局の時休みがとりやすいのではないかと」

 

 なるほど、考えてもみなかったけれど、確かにそうかもしれない。

 スポーツ推薦で入った子は、全国への遠征や凄い子だったら海外に行く子もいるし、特殊だけど芸能枠で入った子もこれまた、まとまって休むことも多いだろう。

 そういう子たちを受け入れなれているところなら、僕のことも説明したらあっさり通る気がした。

 

 もともと、前回の記憶で高校の時以外、学校によい印象が全くない僕だったけれど、環境を選ぶ努力もしていなかった。

 まぁ……選びようもなかった現実もあるけど。

 でも、今回は好きに出来るはずだ。藤澤さんは止めないだろうし。

 

 受験は手間でしかないが、このあと3年先を少しでも良い環境で過ごせるように一考してみる価値はあるかもしれない。

 

「私立の中学受験って願書の受付いつまでですか?」

 

「だいたい、一月いっぱいだね……。もし、望むならすぐにでも候補を絞った方が良い。

 書類に関しては、私も急ぎ、準備をするし」

 

「分かりました。1週間でどうするかは決めて来ます。こんな土壇場ですいません」

 

「私も、もっとはやく思い至ったらよかったね。この小学校から中学受験する子なんてめったにいないし、あまり縁のない話だったものだから」

 

 こうも親身になってくれる校長先生には本当に頭が下がる。卒業の前に一回対局くらいは受けて恩返ししないとな。

 

 帰宅後にパソコンで大急ぎで調べた。都内だけあって、学校の数もとっても多い。

 別に大学進学に強い所じゃなくていいし、考えるのは学校が遠すぎなくて、学費もそこそこかもしくは、特待生が取れそうな所。

 

 調べていて、ふと馴染みの名前が目にとまった。

 私立駒橋中学校。

 あれ?と思いよくよく検索してみると、私立駒橋高校の附属中学だ。

 そういえば、高校にしか興味がなかったけれど、私立によくある中高一貫校だったな。

 あまり縁はなかったが、スポーツ科もある。

 進学校だったから、勉強は相当ハイレベルだろうけど、高校を出ている身としては今更中学校の勉強で手を焼くことはないだろう。

 

 うん。いいな。

 こういう中高一貫校は経営方針や教育方針はまるっと一緒なことが多い。

 あの高校の空気は本当に良かったし、僕のことも随分と応援してくれたから、中学校も大丈夫な気がする。

 

 ここだけ、受けてみよう。

 駄目だったら、普通に公立に通えばいい。

 

 藤澤さんは急な話で驚いたようだったけど、零くんが決めたならと、書類を書くのも手伝ってくれたし、昼間色々と時間がとれない僕の代わりに、受験費用の振り込みとかも全部すませてくれた。

 事前に渡そうとした、お金はやっぱり受け取ってはくれなかった……。

 

 校長先生も全力で応援してくれたし、欠席数が多いのは一筆書いておいてあげようといってくれた。

 桐山くんの成績や素行で引っかかるとしたらそこくらいだろうからと。

 ついでに将棋会館の事務で、今年度対局した日のスケジュールを出してもらって、資料として付けておく。

 たまたまその時傍にいた会長まで面白がって、間違いなく桐山四段はこの日は対局でしたと一筆くれた。

 担任の先生が書く欄も多いのだけれど、この前の事を気に病んでいるのか、とても丁寧に書いて下さって有り難かった。

 

 受験のことを青木君に伝えると、彼はだいぶ残念そうだった。

 

「そうかー中学も一緒だと思ってたんだけどなぁ。でも、桐山くんの将棋の事を考えたらしかたないね。来年はもっと忙しいだろうし」

 

「そうだね。来年は一つくらい挑戦権をかけるくらいの戦いをしたいと思ってるから」

 

「うん! 棋戦の様子をみてたり中継をみてたら、あんまり離れてる気もしないと思う」

 

「ありがとう。施設にも暇をみて遊びに行くからね」

 

「みんな待ってるよ! 桐山くんが引っ越してから来た子もいるけど、僕らが大騒ぎしてるから、みーんな君の事知ってる。桐山くんは僕たちの希望なんだよ。

 でも! 僕も頑張るからね、最近やりたいこと見つけたんだ」

 

 無邪気に笑う彼は、前よりもっと明るくなったし、自信もついたようだった。

 ほんの少し、急に進学先が別れてしまいそうなことを悪いなとも思ったのだけど、この分なら大丈夫そうだ。

 もう、立派に前を見て、一生懸命歩み始めてる。

 ほんとに眩しくてしかたない。

 

 

 

 

 

 2月頭にあわただしく受けた試験は、とりあえずは問題なかった。

 算数で何問か、これは小学生の知識でとけるのかと思われる問題が出たけれど、その先の知識を使って解いた。

 別の解き方がある気がしたけど、僕はこっちしか分からないので仕方ない。

 

 面接も問題なかった。

 というか面接官にいた教頭先生の一人がまた熱心な将棋ファンだったのだ。

 高校の時の校長や教頭といい……この私立は将棋が好きな人多いなぁとしみじみ思った。

 両脇にいた教師の人たちからは一般的な質問だったけど、その教頭先生からは明らかに私的な興味からの質問が多くて、ちょっと困った。

 

 結果が分かるのはまだ先だけど、これなら期待しても良いような気がする。

 

 

 

 

 

 

 


 

 2月の第二土曜日。

 ついに僕が待ちに待った日がやってきた。

 朝日杯将棋オープン戦の準決勝・決勝は毎年この日に、東京都千代田区の有楽町朝日ホールでの公開対局となる。

 生中継されるし、対局場と別のフロアで解説会の公開収録も行われるそれなりの規模のものだ。

 

「おー桐山よく来たなぁ。お前のおかげで大盛況だよ。例年の3倍の記者の数だ」

 

「おはようございます。ほんとに凄い人ですね。流石にちょっと緊張してきたかも」

 

「え? お前さんそんなデリケートな性質だったか?」

 

「指し始めたらそんなことはないんですけどね。対局前とかは、こう雰囲気が違うと少しはそわそわします」

 

「ま、対局に影響しないならたいしたもんだわ。あいつもやる気みたいだし、期待してるぞ」

 

 会長が顎でしめした先をみると、宗谷さんが到着したようだった。

 まっすぐこちらに歩いてくる。

 

「桐山くん、今日はよろしくね」

 

 良かった。今日も耳は調子が良さそうだ。

 

「はい! 楽しみにしてきました。全力でお願いします」

 

「僕も……正直公式戦であたるのは一年はかかるとおもってたから。……予想以上だった」

 

 この朝日杯での対局を逃してしまったら、そうなっていただろう。宗谷さんに挑むには挑戦者になるくらいしかタイミングがない。

 

 僕の目の前に座って、駒を並べはじめた宗谷さんをみていて思った。

 なぁ二海堂、やっぱりこの世界ってすごいよな。

 ラスボスがこんな風に目の前に座ることがあるんだから。

 

 先手は宗谷さん、後手が僕だ。

 

 宗谷さんの初手は角道を開ける7六歩、僕も対して、2手目に同じく角道を開ける3四歩と返して対局はスタートした。

 

 戦局としては、たぶん横歩どりになるなと思った。

 

 予想通り最初は定跡にそって対局は進んだ。「横歩取り」の特徴の一つでもある双方の角が直接向かい合ったまま駒組みは進行していく。

 

 僕は30手目で7六飛とし、飛車を突進させ先手陣に圧力をかけた。

 

 この手に対して、宗谷さんは7七角。飛車先を角で受け、このタイミングで角交換を要求する。

 僕は迷ったけれど、あまり時間も使えないから、32手目に7七同角成。角交換に応じた形になった。

 

 角交換成立後に、僕は飛車を3筋に振ると、左の桂馬を跳ねて先手の浮き飛車を追う形をとる。

 

 ここまではほぼ狙い通りの指し回しで主導権を握れたはずだ。

 

 だが、宗谷さんの応手も強気だった。

 2四飛と指して、飛車を下げるのではなく、前に出してきたのだ。

 

 この場面一般的に、先手は2八の地点に飛車を引き下げ我慢の展開が普通なのだけど……。

 僕に呼応してくれたのか、はたまた試されているのか、なんとも悩ましい手だ。

 

 中盤の戦局はどちらに傾くか微妙なところで、僕たちはお互いぎりぎりところで指し合っていた。

 

 あぁぁもう! もっと持ち時間があったら、色々考えて丁寧にさせるんだけどと惜しくも思いながら、軽快なテンポで指し続ける。

 早指しの応酬だ。

 

 終盤への気配がし始めたころ、お互いに呼応するように、玉の囲いへと入っていった。

 

 玉を囲ったとはいえ、僕は端歩を突いていない「片美濃囲い」になってしまって少し頼りないあまり無理はできない戦況だ。

 

 宗谷さんはそこを突こうと、7五角と自陣の角を僕の陣へと突きつけてきた。

 大駒の侵入を許すわけにはいかない。

 ここは4二金でじっと受けるしかないだろう。

 

 

 

 指した瞬間にピリッとはしった指先の感覚に覚えがあった。

 

 

 

 その瞬間に気づく。

 違う。

 ここは手堅くいってはいけなかった。

 

 宗谷さんは、すかさず3六歩と僕の3筋の銀を歩でたたいて追撃をしてくる。

 あぁぁこれは不味い。

 とってもまずい! 戦況は一気にあちらに傾いてしまった。

 

 あわてて、4六銀とまえに出すものの、宗谷さんは持ち駒の飛車を4筋に投入して、4四飛。

 あっというまに、激しい攻め合いとなってきた。

 

 劣勢の中、先に持ち時間を使い切ったのは僕のほうで、それでも必死に宗谷さんの玉へと食らい付き、先に詰めろを掛けた。

 

 けれど、すでに読み切っていたのだろう、宗谷さんは次の瞬間、飛車を走らせて、僕の玉を仕留めに来た。

 

 

 

 

 

 全129手。

 僕はプロになってから初めて、負けましたと相手に頭を下げた。

 

 

 

 

 

 とても集中していたのだろう、おわった瞬間周囲の音が一気に入って来て、びっくりしてしまった。

 

「楽しかったよ。でも、今度はもっと持ち時間が長い対局でもやってみたいと考えてしまうな」

 

 しみじみとつぶやく、宗谷さんの言葉が嬉しかった。

 

「僕も……そう思います。終わったばっかりなのに、またすぐ次はって。

 あぁ……でも悔しいです。終盤に差し掛かった頃失着したのは僕です」

 

 指先を触りながら、つぶやいた。

 それほど悪くない手ではあったが、普通過ぎた。宗谷名人に指して良い手ではない。

 僕の失着。公式戦でこれほどはっきりと感覚があったのは今日が初めてだ。

 久しぶりで驚いたほどに。

 

「分かるよ。そういうものだから。君はやっぱり僕と似てるね」

 

 頭で考えるよりも感覚が先にくるこの不思議な感じを、分かってくれる人は少ない。

 でも、やっぱり宗谷さんは同じなんだなって少し懐かしかった。

 

 感想戦もはずんだけれど、記者の方々はそわそわしてるし、宗谷さんは決勝戦もあるからと早々切り上げなければならなかった。

 すれ違いざまに、彼は小さく、

 

「タイトル戦の上座で、君が奪いにくるのを待ってるよ」

 

 僕にだけ聞こえるようにそうつぶやいた。

 

「必ず、その場に行ってみせます」

 

 彼だけ、聞こえるように僕もそう答えた。僕たち二人だけの約束だった。

 

 その後、休憩をはさんで行われた決勝も見ごたえがあった。

 宗谷さんと隈倉さんの対戦カード。

 やっぱり優勝をもっていったのは宗谷さんだった。何十回と見返したい対局だったのは間違いない。

 

 楽しかったし、内容は悪くない対局だったと思う。

 分かってるんだけど……でもやっぱり負けるのは悔しい!

 

 久々すぎて、忘れてしまっていた。

 この内臓が引っくり返るような悔しさを。

 

 当たり前だ。

 だって、僕たちは勝つために対局をしてるんだから。

 次は絶対に負けない。

 宗谷さんにだって勝ってみせる!

 

 

 

 朝日杯将棋オープン戦、今年の僕の成績はベスト4。

 そして、プロ入り後の連勝記録は43勝で止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ ニコ動コメ風

 

 

 

 [ついにこの日がやってきました]

 

 [待ってた]

 

 [タイムシフト予約余裕]

 

 [この日のためにプレミアム会員になってしまった]

 

 [桐山くんの朝日杯!!]

 

 [この一日で宗谷さんに追いつき、そして追い越せる可能性がある]

 

 [連勝記録に関してはな]

 

 [それにしたって、ドラマティックすぎる]

 

 [もう桐山四段が勝ち数を重ねて行くたびにこっちは大騒ぎだわ]

 

 [しかし今日の相手は二人ともA級]

 

 [いや彼ならやってくれる]

 

 [そう、上手くはいかないんじゃない?]

 

 [最高の相手じゃん!]

 

 [これで勝ったら、対戦のマッチが良かったとか文句はつけられん]

 

 [お! 桐山くん席に着いた]

 

 [落ち着いてるなぁ]

 

 [この子が緊張してそうなのみたことない]

 

 [こんなに周りカメラとか記者がいるのにね]

 

 [すごい集中力]

 

 [あれ? 今日の辻井九段]

 

 [ん? なんか雰囲気が……]

 

 [今日のダジャレはどうかな?]

 

 [さぁ桐山くんのペースを乱すのだ!]

 

 [ん? これひょっとして……]

 

 [違う! 今日は良い辻井さんの日だ!!]

 

 [マジかよ!]

 

 [来ちゃったよっ]

 

 [よりにもよって今日かよ……]

 

 [ウッヒョォォォ! テンションあがる]

 

 [これは……桐山くん厳しいぞ……]

 

 [ちょいまち、どういうこと?]

 

 [なんだ、なんだ。辻井さんがどうかした?]

 

 [あぁ知らない奴もいるのか……]

 

 [まぁ桐山四段目当ての視聴者も多いからな]

 

 [辻井九段には波がある]

 

 [本人に自覚はあるのかしらんがな]

 

 [時々、鬼のように強い]

 

 [ダジャレも言わない]

 

 [しゃべらない]

 

 [無駄に目立とうともしない]

 

 [なんかオーラが出てる]

 

 [そんな辻井さんがあらわれたら、それは……]

 

 [良い辻井さんの日なのだ!]

 

 [へーそんなことあるんだ]

 

 [普段も強くない?]

 

 [面白いし、好き]

 

 [そりゃ、普段も当然A級だし強いさ]

 

 [ただ良い日の辻井九段は、宗谷名人に快勝することすらある]

 

 [伝説の棋譜が生まれる日も多い]

 

 [桐山四段、こりゃあっさりふっとばされるかもな……]

 

 [ん? でもなんかめっちゃ嬉しそうだぞ]

 

 [うん。辻井九段が前に座ってから目の色変わった]

 

 [いつも楽しそうだけど、今日は一層目に輝きが……]

 

 [ひょっとして? 喜んでる?]

 

 [つっよw流石小学生プロ]

 

 [いや、辻井さんの事知らないだけじゃね?]

 

 [桐山くんに限ってそれはない]

 

 [彼、かなり対局相手を研究するからね]

 

 [間違いなく、知ってる]

 

 [面白くなってまいりました!]

 

       ・

       ・

       ・

 

 [桐山君が先手か……]

 

 [朝日杯はサクサク進むから、見てるとあっという間]

 

 [長時間対局みなれてると余計な]

 

 [持ち時間少ないから、そうせざるを得ない]

 

 [やっぱ辻井さんお得意の四間飛車]

 

 [桐山くんは居飛車か]

 

 [妥当だな]

 

 [最初はお手本みたいな展開]

 

 [お、辻井九段はやいなもう囲いか]

 

 [やっぱキレが違う今日は]

 

 [いやー負けてないよ桐山くん]

 

 [すかさず、歩で牽制]

 

 [桐山四段、居飛車なのに、左の銀動かさないの?]

 

 [ちょっと珍しいな]

 

 [これでいけると踏んだんだろ]

 

 [この辺が柔軟というか]

 

 [時短も含めてだろな]

 

 [自分に自信があるんだよ、強さの証]

 

 [辻井九段が抜けた穴を攻めたくても、飛車と桂馬の動きが良い]

 

 [桐山くん、相手の次の動きをしっかり読んでる]

 

       ・

       ・

       ・

 

 [今のところ辻井さんが優勢?]

 

 [いやーこれはどっちにもとれる]

 

 [俺は辻井さんだとおもうけど]

 

 [だなー上手くしのいでるだけっていうか、桐山四段はもう中盤なのに決め手にかける]

 

 [うっわ!]

 

 [これは強烈]

 

 [いつから狙ってたんだ?]

 

 [71手目2一龍……]

 

 [辻井さんは気づいてなかったのか]

 

 [いや、気づいてたけど後手に回った感じだな]

 

 [これは、形勢桐山くんに傾いたな]

 

 [今日の辻井九段はまだやれる]

 

 [お! 龍とるか!]

 

 [いや、でも結局飛車交換だ]

 

 [桐山君側に痛手はほとんどない]

 

 [むしろ、角もとられた辻井九段のほうがやや不利か]

 

 [持ち駒多いとなぁやれることの幅がちがうから……]

 

 [上手く使えたらな]

 

 [桐山君は上手くつかえるから]

 

 [辻井九段すぐ龍使ってきたなー]

 

 [桐山くん見事な受け手]

 

 [ゆらがねー]

 

 [自陣を攻められてもこの落ち着き]

 

 [ほんとに小学生なの?]

 

 [大物だわ]

 

 [見劣りしないもんな]

 

 [良い日の辻井さん相手に気圧されてる感じもない]

 

       ・

       ・

       ・

 

 [あぁ……この感じは詰ましに来てる]

 

 [もう、読み切ってんのかよ]

 

 [おれ、さっぱり分からん]

 

 [俺も、ただ桐山四段の指し方的にもう本人はよめてる]

 

      ・

      ・

      ・

 

 [97手目で辻井九段の投了―]

 

 [888888888888888888]

 

 [888888888888]

 

 [お疲れ様でしたー]

 

 [888888888888888888888888888888888888]

 

 [いやー途中までは辻井さんの優勢だと思ったんだけどなぁ]

 

 [888888888888888888888888]

 

 [88888888888888888]

 

 [初めての本戦、テレビもきてる、観戦者も多い、それでも揺らがず……か]

 

 [桐山くんの安定感は本物だわ]

 

 [これで38連勝目]

 

 [宗谷名人の記録と肩をならべた]

 

 [まだ一年目の新人がこの偉業]

 

 [満を持して二人目の神の子降臨だな]

 

 [あー前から言われてたやつね]

 

 [これで、誰もケチはつけれない]

 

 [感想戦が……いつもの辻井さんじゃないみたいにすっごいマジメ]

 

 [……それを言うな]

 

 [えーいつもの辻井九段の感想戦も楽しいじゃん!]

 

 [楽しいけど、こうはいかないw]

 

 [桐山くんも真剣にこたえてるね]

 

 [まわりにいる記者の様子は目にも入ってない]

 

 [インタビューあるのかな?]

 

 [いや、勝者は次の対局があるから2回戦目が終わるまで遠慮するように通達があったはず]

 

 [あー大事。何よりも次へ備えてほしい]

 

 [そういうとこ管理しっかりしてるよな]

 

 [神宮寺会長はそのへん信頼できる]

 

 [桐山くんちょっと疲れてる?]

 

 [そりゃぁそうだ。短いとはいえ一戦終えたんだから]

 

 [大丈夫かな……]

 

 [次は柳原棋匠とか……]

 

 [こりゃまた削られそうだな……]

 

 [いやーでもみたいよ!ここまで来たら!]

 

 [新しい記録を将棋界に刻んでほしい]

 

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

 

 [はい、時間ですよー皆さん]

 

 [朝から引き続きの人、お疲れ]

 

 [誰よりも桐山くんと柳原棋匠がおつかれだよ]

 

 [柳原先生は元気ぽいよ?]

 

 [割とこういうの好きだからな]

 

 [自分が記録を作るのよりも、それを阻むのとかな]

 

 [年寄りの楽しみって前なんかのインタビューで言っていた]

 

 [桐山くんもちょっとは持ち直してる]

 

 [お昼ちゃんと食べたのか]

 

 [それ、この子おやつとかもほとんど食べないよね]

 

 [レモン水とお茶]

 

 [いや、それが最近なんか和菓子持ってきてることある]

 

 [うそ!? どんな奴?]

 

 [なんとか焼って書いてた]

 

 [おい、ちゃんと観とけよ三日月焼だ]

 

 [でた、ガチ勢]

 

 [絶対いるよな、桐山くんのもってるリュックとか服の特定とかさ]

 

 [三日月焼? ご当地のお菓子なのかな]

 

 [三月町にある三日月堂という和菓子店のものらしい]

 

 [へーオレ、都内いるし今度探してみよう]

 

 [今日は持ってきてないんだぁ]

 

 [桐山君のおやつ持参はとてもレアだ]

 

 [俺たちの調査では、いままで5回三日月焼をもちこんでいる]

 

 [しかもそれが始まったのは、年末のころからなので、常連になったのはそのころぽい]

 

 [こわいわw俺たちってだれやw]

 

 [居るんだよー桐山くんの事を保護者目線でみまもる良く分からんガチ勢が……]

 

 [ファンの中で一定数な]

 

 [……見守るだけにしろよ]

 

 [その辺はそこらの、一般人や記者よりもずっと弁えとるわい]

 

 [はいはい。対局はじまりますよー]

 

 [お! 桐山くん後手じゃん]

 

 [まじか、また厳しくなったな……]

 

 [柳原棋匠矢倉だね]

 

 [桐山くんのる?]

 

 [のったー!! さっすが桐山四段]

 

 [将棋の純文学、相矢倉きました]

 

 [ほんとこういう時、裏切らないよなぁこの子]

 

        ・

        ・

        ・

 

 [柳原棋匠がんがん攻めるな]

 

 [いつもは受け手が多いのに珍しい]

 

 [のらりくらりと交わすのが得意な人だよな]

 

 [桐山くんちょっと対処おくれた?]

 

 [いや、まだ桐山四段の終盤の力があれば全然巻き返せるレベル]

 

 [にしても、上手く受けるな]

 

 [柳原さんそうとうエグいところついてるのに]

 

        ・

        ・

        ・

 

 [お! 桐山くん銀打ちきた]

 

 [待ってたねーこれは、よく我慢してた]

 

 [え? 柳原棋匠かまわずいっちゃう感じ?]

 

 [すっげぇ……でも、流石にこれは]

 

 [桐山くんの次の桂馬も効いたな、守りに入らざるを得ない]

 

 [ここで、攻め切れる何かがあったらちがったんだろうけど]

 

 [こう、時間が短いとな]

 

 [お互い持ち時間使い果たしてるもんな]

 

 [桐山くん、サクサクさしてる]

 

 [きまったな]

 

 [まじで? まだ手ありそうだけど……]

 

 [この感じは、読み切ってるときの雰囲気]

 

 [うん。俺もそう思う]

 

 [マジかーということは……]

 

 [歴史的瞬間くるぞ]

 

 [お前らちゃんといろよ]

 

 [トイレとかいくなよ。いやむしろ今行っとけ]

 

 [やべぇオレ、そわそわしてきた]

 

 ・

 ・

 ・

 

 [110手、柳原棋匠の投了―]

 

 [すっげぇぇぇ]

 

 [888888888888888888888888888888888888]

 

 [88888888888888888888]

 

 [マジでやりやがった]

 

 [88888888888888888888888888888888]

 

 [8888888888888888888]

 

 [88888888888888888888888888888888888888888]

 

 [お疲れ様、桐山四段]

 

 [88888888888888888888888]

 

 [柳原棋匠、良い笑顔だったな]

 

 [888888888888]

 

 [8888888888888888888888888888888888]

 

 [やべぇなんか泣けてきた]

 

 [8888888888888888]

 

 [39連勝だよ……]

 

 [人間業じゃない]

 

 [まさに将棋の神様の子供]

 

 [桐山くんつかれてるな]

 

 [うん。珍しくぐったりしてる]

 

 [いつも感想戦は楽しそうなのに]

 

 [2戦はやっぱりきついんだって]

 

 [もう夜も遅いし……]

 

 [柳原先生が元気なのがすごいわ]

 

 [なれじゃない?体力の配分とかも分かってるだろうし]

 

 [自分の限界よく知ってそう]

 

 [桐山四段はそのへんはまだ難しいだろうな]

 

 [子供って体力無尽蔵そうにみえて、プッツンって寝たりするよな]

 

 [あー分かる。たぶん集中してるときとかは、わかんないんだろうな]

 

 [インタビューでも来るよね]

 

 [うっわ……長そう]

 

 [え?桐山くん連勝記録気づいてなかったの?]

 

 [まじかよ、めっちゃ意識しそうなもんだけど]

 

 [てか、柳原棋匠に教えてもらったってそれw]

 

 [柳原先生、プレッシャーかけにいっただけじゃんw]

 

 [全く動じてなかったけど]

 

 [そうかーつぎ40勝目になるのか]

 

 [もうここまできたら是非いってもらいたいね]

 

 [ここで逃したら、そうそう見れないだろうからなぁ40連勝目]

 

 [桐山くんの自分の将棋を通して多くの人が将棋に興味をもってくれてるのが嬉しいって言う言葉好き]

 

 [ここにもいるぞー。君の対局をみるために将棋のルールを覚えた]

 

 [俺も]

 

 [私も]

 

 [次の対局もみるからな!]

 

 [お! 柳原先生が締めたな]

 

 [もう、良い時間だろ?]

 

 [うん。桐山くん眠そう]

 

 [そっか。明日も……学校なんだね……]

 

 [大変だー]

 

 [こんな日の次の日、俺なら休む]

 

 [しっかり寝るんだぞー]

 

 [お疲れ様]

 

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 [うわー今日ついに神の子対決じゃん]

 

 [朝日杯準決勝]

 

 [公開対局でしょ? 観に行きたかったなぁ]

 

 [例年よりひと凄そう]

 

 [中継してくれるのはホント嬉しい]

 

 [桐山くんちょっとそわそわしてる?]

 

 [名人と指すんだから流石に緊張するか]

 

 [おもったより早かったなぁまだ当たってないA級いるなかで、宗谷名人とか]

 

 [チャンスすくないのに、ものにしたね]

 

 [気のせいか? 宗谷名人楽しそうなきがする?]

 

 [そうか? いつもと同じじゃね?]

 

 [相変わらず無表情だな]

 

 [いや、絶対これは楽しみにしてた]

 

 [ずっと見て来た俺らには分かる]

 

 [明らかに違う]

 

 [桐山くん今日も後手か……]

 

 [頑張ってくれ]

 

 [横歩取りか……]

 

 [桐山四段の方がさきに動いたな]

 

 [飛車うごかしてきたねー]

 

 [宗谷名人角交換を要求っと]

 

 [応じたな桐山くん]

 

 [からの桂馬、ほんと見事な指しまわし]

 

 ・

 ・

 ・

 

 [主導権は桐山四段側……?]

 

 [うっわ、名人強気だ。ここで飛車を下げないとは……]

 

 [これ、悪手じゃない?]

 

 [いや、普通は下げるけど……宗谷名人ならこれでも充分だろ]

 

 [むしろ好戦的な良い手かもしれん]

 

 [自滅しなければな……]

 

 [あの人に限ってそれはないから]

 

 [高度なやなりとりなのに、テンポいいな二人とも]

 

 [持ち時間じっくりの戦いもみたかったなぁ]

 

 [桐山四段がまったく見劣りしないどころか、対等に指し合ってるだけで賞賛にあたいする]

 

 [宗谷名人と早指しなんて、普通の若手じゃなむり]

 

 ・

 ・

 ・

 

 [終盤の気配……]

 

 [囲い始めたな]

 

 [桐山くん側はちょっと薄いな]

 

 [んー仕方ないけどこれは弱いか]

 

 [名人すかさず7五角]

 

 [桐山君は4二金]

 

 [手堅いなーしっかり指してる]

 

 [うっそ、3六歩。これは痛い]

 

 [うわー名人強烈な一手]

 

 [これは、厳しい]

 

 [全然みえてなかった]

 

 [桐山四段4六銀か……こうするしかないけど完全に後手にまわったな]

 

 [ここで名人飛車投入っすか]

 

 [うわー猛攻に入った]

 

 [しのぎきれるのか?]

 

 [いや、これは流石に無理だろ]

 

 [良くさばいてるよ。普通なら投げる]

 

 [まだ、分からんぞ]

 

 [詰めろは先に桐山くんがかけたな]

 

 [あ!だめだ]

 

 [あーそうか、そっちがあるのね]

 

 [流石名人としか言いようがない]

 

 [残念だけど……]

 

 [そうだなー大健闘だった]

 

 ・

 ・

 ・

 

 [129手目 桐山四段の投了―]

 

 [初めての負けました、だ]

 

 [888888888888888888888888888888888]

 

 [888888888888888]

 

 [うわー初めて聞いた]

 

 [こう、なんか胸にくるな]

 

 [88888888888888888888]

 

 [88888888888888888888888888888888888888888888888]

 

 [両先生方おつかれさま]

 

 [8888888888888888888888888888]

 

 [桐山くんすごかったよ!]

 

 [888888888888888888888888888888888]

 

 [やっぱり初黒星をつけたのは宗谷名人になったな]

 

 [A級の誰かではあってほしいと思ってた]

 

 [大健闘だよ]

 

 [43勝だよ?]

 

 [すげーよ充分]

 

 [いつかは負けるもんな]

 

 [相手が宗谷名人だったていうのがもう一年目の人には凄すぎ]

 

 [桐山四段が小学生なのも、まだプロ一年目なのも、忘れそうになる]

 

 [だよなー将棋をみるに全く、こう危うさとか不安定さがない]

 

 [感想戦軽くやるぽい?]

 

 [この後、大盤解説場にも顔出すだろうから、軽くだな]

 

 [あーきたきた]

 

 [桐山くんすっげー勢いで駒並べてる]

 

 [お、とまった]

 

 [そこ? そこが問題だったの?]

 

 [4二金? でも、それしかないんじゃ……]

 

 [お! 5六角!]

 

 [確かに! これは良い!]

 

 [おぉっと、名人もちょっと考えてるな]

 

 [せめてあとひと呼吸でも、桐山四段に考える時間があれば変わったのかね]

 

 [しゃーねーだろ。これはそう言う対局だったんだから]

 

 [宗谷名人は? 5二歩?]

 

 [だったら、おれはこっちに指すけどってことか?]

 

 [お! 桐山くんすかさず応手]

 

 [この二人の感想戦ってほんと言葉ないよな……]

 

 [あぁそれな]

 

 [前チラッっとみたテレビの対局の時もそうだった]

 

 [なんでこんな無言で、意思疎通できんの]

 

 [あぁ? どっか動いたぞ盤面]

 

 [こんどはそこが気になるの?]

 

 [しゃべってーーーw]

 

 [俺らには分からんぞw]

 

 [駄目だ。完全に二人で楽しんでる]

 

 [大盤解説を期待しよう]

 

 [なんなの? テレパシーでもし合ってんの?]

 

 [やっぱりこの二人、人間じゃないんだって]

 

 [なんだよw将棋星人ってか?]

 

 [それだ! だから二人には分かるんだよ]

 

 [やばいw納得しそうw]

 

 [楽しそうに指しちゃってまぁ]

 

 [盤面わけわからんけど、二人をみてるのが楽しい]

 

 [お! ちょっと宗谷名人笑ってない?]

 

 [口角あがってるこれは!]

 

 [レアだ。激レア]

 

 [そんなに楽しいのか……]

 

 [次二人が当たれるのはいつかなー]

 

 [桐山四段が頑張ったらすぐ]

 

 [一応どのタイトル戦も今のとこ予選残ってるからな、おそろしいことに]

 

 [中1でタイトル挑戦者って充分にありえる]

 

 [え?じゃあ来年度このふたりのタイトル戦みられるかもしれんの?]

 

 [桐山くんがA級に阻まれなければ]

 

 [やれるだろ、彼なら]

 

 [棋匠は本戦を勝ち上がれば、宗谷名人と当たることもありえるしな]

 

 [柳原棋匠が頑張ってくれてるから、あれだけはタイトルもってないからなー]

 

 [というか、名人戦がそのとき忙しいからだろ]

 

 [6つもって維持してるだけでも偉業]

 

 [来年度もこのカードには期待したい]

 

 [お! 移動する?]

 

 [ていうか、また会長きたなw]

 

 [このまましゃべらず、指し合われてても、放送事故なみの案件だからなw]

 

 [大盤解説前でしっかりやれってことか]

 

 [カメラ切り替えてくれる?]

 

 [どうだろ、あっちのチャンネルにのりかえた方がいいのか?]

 

 [お! 良かったちゃんと見せてくれた]

 

 [よしよし]

 

 [誰もいない盤面うつされてもこまるからな]

 

 [盤の前に立つと桐山くん小さい]

 

 [ん? あれ、あの台はひょっとしてww]

 

 [ちいさな踏み台が置いてあるw]

 

 [絶対桐山四段用じゃんかww]

 

 [あーーまえ、なんかの解説に呼ばれてた時、上に届かなかったことあったからな]

 

 [オレ、それ知ってる! ランドセル事件のときのでしょ?]

 

 [あwwあったあった]

 

 [なにそれ、気になるw]

 

 [桐山四段、ランドセルで検索してみろ]

 

 [面白かったから、誰か絶対あげてる]

 

 [お、はじまった]

 

 [この名乗って、ちょこんってお辞儀するのほんと可愛い]

 

 [いつ台にあがるのか]

 

 [必要になるまでかたくなに使わなさそうw]

 

 [負けちゃいましただって……]

 

 [おぉ……めっちゃ悔しいんだ]

 

 [あんまり勝ち負けに拘りないのかとおもってけど]

 

 [やっぱそんなわけないんだな]

 

 [自分の敗着からだったから余計にって、なんかそんなミスあった?]

 

 [お! 駒動かしてくれる]

 

 [あwのぼった]

 

 [照れてるw]

 

 [可愛い]

 

 [横にいる解説の横溝さんが落ちないようにちょっと気にしてるの分かる]

 

 [それなww]

 

 [面倒見がよいから]

 

 [あーやっぱり4二金が駄目だったのか]

 

 [悪手ってほどでもないけどな]

 

 [解説されるとなるほどって感じ]

 

 [宗谷名人、5六角と指されてたら負けてたのは自分かもだってさ]

 

 [それくらい、ギリギリの戦いだったんだな]

 

 [名人側の上の方には届かないから、名人が駒うけとって動かしてあげてるの良い]

 

 [宗谷名人が大盤解説で淡々としてないの初めて見た]

 

 [桐山四段のこと気にいってるよね絶対]

 

 [宗谷名人もやっぱし、強いひと好きだからな]

 

 [嬉しいだろうな。こんな若手が出てきて]

 

 [おーもう終わりか]

 

 [もう片一方の対局もあるし仕方ないね]

 

 [名人はこれから午後、決勝だし]

 

 [この勢いでたぶんとるだろ今年も]

 

 [これで何連覇目?]

 

 [朝日杯ならそろそろ5連覇]

 

 [うわー来年は桐山くんに阻止してほしいな]

 

 [是非それを期待してる]

 

      ・

      ・

      ・

 

 

 




桐山くんの連勝記録は43連勝で途切れました。
宗谷さんの記録は超えた感じ。

この話の初出は2017年の12月。
某先生の朝日杯初優勝フィーバーが2018年の2月……。
まさか初出場で全棋士参加棋戦を最年少優勝すると思わないじゃないですか!?!?
あの後に書いてたら桐山くんの優勝もあり得たけど……そんな事考えもしなかったし、流石に負けさせとくかって思ったらその2ヶ月後に、現実に負けた次第です。

そういえば、おまけに出てきた「将棋星人」という言葉ですが、有名なコピペ発祥?とも言われていたり、もし将棋星人が攻めてきたら……。いや某先生が将棋星人なのでは?……みたいなやつ。
元はリアルで使われていた将棋ネタを、某ラノベも使った感じですね。あの本は色々メタい、将棋ネタ使ってるので。
なので私もどちらかといえば現実の方を意識して入れた感じ。

次は掲示板。密着系テレビ番組を皆んなで観てる回です。





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第二十四手 観戦記者であれ、と決めた日

2巻用の書下ろし
朝日杯後のとある観戦記者の話


 

 この道を選び、働きはじめて幾年か経った。

 俺はまだまだ記者としても駆け出しで、手探りで仕事をしていた。

 そんな俺が、桐山零に出会ったのは、彼が小学生名人となった日だ。

 

 おそらく、あの日の失態を、俺は生涯忘れることはないだろう。

 

 大学を卒業して、新聞社に就職を決めたのは数年前。

 誰かに何かを発信する仕事に就きたかった事と、それなりに文章を書くことが好きだったからだ。

 報道の道を選ばなかったのは、人前で話すことは苦手だったし、場合によっては記者ではなく映像系の裏方に回るなど、仕事に幅があったため。

 その点新聞社であれば、希望は通らなくても、何かしら文字に携われるのではという思惑もあった。

 活字離れが叫ばれるこのご時世だが、いまだに新聞は一定数の需要があるし、その長きにわたる歴史と築き上げた伝手なんかで、政界や一部の業界とは持ちつもたれつだった。

 最近ではネットのニュースに力を入れている会社も多く、いつか消えると言われつつも、この先もなんらかの形で残っていくだろうと考えたし、そうなれるように尽力したいと思っていた。

 

 しかしまぁ、入社してみれば理想と現実のはざまで葛藤することは多々あったし、ネタは脚で稼ぐなんていう風習はまだ残っており、理不尽な命令もあったりした。

 それなりに、社会の洗礼を受けて、それでもやっぱり自分の記事が形になった時は嬉しかったから、俺はたぶんまだ向いている方なのだろうと思い、この仕事を続けていた。

 最初に配属された部門が文化部だった事も俺には合っていたのかもしれない。

 

 担当は数多あるが、俺が将棋担当も兼任するようになったのは、大学時代に将棋部で多少なりとも心得があったからだ。

 観戦記者という仕事は、将棋の対局の観戦記を書かなければならない。

 内容はもちろんだが、将棋をあまり知らない人も読めるように書く必要があり、それには多少の知識も必要だった。

 得意戦型や棋風、最近の調子などの対局者紹介はもちろん、両者の対戦成績、関係性といった勝負の背景なども短く、分かりやすくまとめなければならない。

 担当する観戦記者ごとに着眼点が異なるため、誰の観戦記かということは割と記憶に残る。

 

 将棋ファンに良い観戦記だと思ってもらえるようなものを書けと、先輩には教わった。

 栄転されて、担当を離れることになったベテランの先輩は、顔も広く、後を引き継ぐ俺に沢山の人を紹介してくれた。

 観戦記者は対局の開始に立ち合い、終局まで検討に参加し、感想戦を見届ける。

 棋士や将棋関係者とは良好な関係を築く必要があるのは、当然だった。

 

 宗谷名人の台頭と七冠が起こした将棋ブームは、今は緩やかに低迷していて、将棋業界は次の盛り上がりを待ち望んでいた。

 俺は将棋担当はしているものの、当然それだけが仕事というわけではなく、他にも担当や受け持つ記事はあったし、こう言ってはなんだが盛り下がっている将棋関連よりも、他の話題の方に心を惹かれていたのは事実だ。

 

 記者として、情報収集をおろそかにしてはいけないと分かっていたはずだったのに、俺が彼にしてしまったことは、完全に此方の落ち度と言っていい。

 

 将棋の大会は何もプロ棋士の棋戦だけではない。

 アマや学生の大会ももちろん多く開催されている。

 その中の一つ、小学生名人を決める大会があった。

 将棋関連の大きな行事、ましてや自分の新聞社がスポンサーとして一部出資しており、当然取材にも出向く。

 この中から未来の名人が出る可能性は大いにある。子どもの大会だからと言って甘くみるなよ、と先輩からは重ね重ね聞かされていた。

 

 今年度の大会は大いに荒れたらしいと聞いたのは、会場に着いてから。

 なんでも勝ち上がってきている子の中に、とても強い子がいるらしい。

 そして、その場にいたどの記者もその子を他の大会で見たことが無かったというのだ。

 突然降ってわいた新星、大いに興味をそそられた。まして、その子が優勝したものだから、これは大きい話題になると勇み足になった。

 

 優勝者へのインタビュー。いつもの恒例行事。

 子どもが相手なので、あまり奇をてらわず応えやすい基本的なインタビューにしようと思った。

 そう、前情報をろくに調べもせず、挑んでしまったのだ。

 

「今、誰に一番気持ちを伝えたい? やっぱり家族とかかな?」

 

 普通のよくある質問だった。喜びを誰に伝えたいのか。前の一文だけなら、まだセーフだっただろう。

 けれど、後半の一言が余計だった。

 隣にいた同業者のギョッとした視線に不思議に思った。

 

「え? 誰にですか? そう……ですね、遠くから応援してくれてるだろう家族に……ですかね」

 

 なぜか固まった空気の中で、少し困ったように桐山くんが答えた。

 その様子に、ほっとした様子だったのは隣の記者で、どうも様子がおかしいと思いながらも続けようとした俺の言葉を遮り、次の質問をしたのもその人だった。

 後ろにいた記者からちょっと、と声が掛かり、首を振られて俺はようやく何かをしでかしたことに気が付いた。

 これは大人しくした方がいいかと、続きのインタビューをすることは諦めた。

 貴重な機会だし、この機にいいネタを獲る事も、無論大切だが、ことこの業界に関しては、他者を出し抜くというよりは、お互いに協力すべき場合の事が多い。

 特に、俺に落ち度があるなら、将棋関係者からの心証が悪くなってしまう。リスクを冒したくはなかった。状況が把握できていないなら、大人しくすべきだろうと考えた。

 後から思っても、この時の俺の判断は間違っていなかった。誰かを押しのけてまで、がつがついくタイプでなかったことに、自分で胸をなでおろしたものだ。

 

 桐山零というその男の子の境遇について聞いたのは、インタビュー後すぐの事だった。

 家族を事故で失ってからまだ一年も経っていない事、その後故郷を離れて、東京の施設にいること、大会には予選も含め、いつも一人で参加しに来ていた事。

 

 懇々と説明されて、俺は頭を抱えてしまった。

 優勝者のプロフィールすら知らずに、インタビューしていたことは誰の目にも明らかだっただろう。

 そして、何より多感な時期のまだ幼い子に、亡くなった家族について問うような質問をしてしまった事を酷く後悔した。

 確かにお涙頂戴ということで、その手の感動をあおる質問をする場合もあるが、それはいきなりしていいものではないし、配慮に欠ける。それくらいのプライドは俺にもあった。

 わざわざドラマを求めているわけではないし、それは自然と生まれるから価値があるのだ。

 

 それはもう落ち込み、同じ社から出てきている同僚には、忙しいかもしれないが、もっとこっちの仕事にも身を入れろと叱られた。

 その通りなので、反論もできず、関係者に一通りの挨拶をした後、肩を落として会場を後にしようとした。

 

 偶然、入り口で桐山くんをみかけた俺が、声をかけてしまったのは、反射と言ってもよかった。

 呼びかけて立ち止まってくれた彼に、答えにくい質問をしてすまなかったと頭を下げる。彼はきょとんとした顔で首を傾げた。

 

「よくある質問でしたので、返って無いほうが遠慮されてるみたいに感じたと思います。僕は、家族の事が大好きですので、むしろちゃんと記事に書いてほしいです」

 

 なんとも思っていないような顔でそう応えられて、俺の方が面を食らってしまった。

 

「スポンサーの新聞社の記者の方ですよね?」

 

「あ、あぁ。……あ! そうだ、もしよければこれ」

 

 子どもだからと、名刺も渡さないのは失礼だろうと俺が、取引先に渡すように深々とそれを差し出すと、彼は慣れたように受け取った。

 

「あぁやっぱり。これから長い付き合いになるかもしれませんし、あまり気にしないでください。将棋について分かりやすく書いてくださるのを楽しみにしています」

 

 子どもながらに、新聞社やスポンサーについて理解してる様子に、俺は調子を崩されっぱなしだった。

 

「長い付き合いになる……?」

 

「僕はプロになります。だから貴方が観戦記者を続けるなら、たぶんお会いすることも多いかと思いまして」

 

 それでは、と一礼して帰路につく彼の後ろ姿を、俺はただポカンと見送ったのだ。

 

 嫌がられるかと思えばフォローされて、これからもよろしくと言われてしまった。

 やっと10歳になったばかりの少年に。

 プロになると当たり前のように言われてしまった。

 彼はまだ奨励会にも入っていないのに。

 

 

 

 それなのに、この手の震えはなんだ。

 

 

 

 おそらく、この会場の記者の誰よりも先に俺は気づいた。

 皮肉なことに、そのきっかけは俺の失態だったわけだが。

 

 あの子だ。

 あの子が次の風を連れてくる。

 宗谷冬司以来の、いやひょっとしたそれ以上の盛り上がりを、将棋界に起こすだろう。

 

 追いかけなければ、これから先の逐一の彼の現状を。

 突き動かされるように、走り出した俺は、まずこの小学生名人戦の彼の全棋譜を手に入れるべく、関係者への働きかけを急いだ。

 

 

 

 

 

 


 

 桐山零、10歳。

 将棋会館近くの児童施設に住み、今だ師事しているプロ棋士はいない。

 父親が奨励会員だったらしく、将棋は彼から教わったのだろうか。

 

 俺は、彼が奨励会に入るまでの全ての大会に赴いた。

 声をかけるときもあったが、遠慮するときもあった。

 そのうち彼が気づいた時は、俺に話しかけてくれるようになったので、目が合った場合は此方から行くようになった。

 

 不思議なもので、才能がある子を見守ることがこれほど爽快なものだとは思ってもみなかった。

 元々将棋が好きだったこともあり、俺はプロの棋戦はもちろんだが、一般棋戦へも熱心に取材をするようになった。

 

 先輩から引き継いだ人脈だけでなく、そのうちに俺自身が築いた関係も沢山増えた。

 そうするとより一層、観戦記には熱が入り、そして良いものが書けるようになっていった。

 一定の評価が付くようになり、それは俺の自信にもなった。

 

 そんな風に、俺が走りまわっているうちに、桐山くんは奨励会に入会していた。

 やはり彼は強かった。

 面白いくらいに勝ち続け、そして三段リーグに上りつめる。

 俺が仕事としてタイトル戦を一つ追っている間に、瞬く間に変わっていく彼の現状に、目を見張ったものだ。

 

 師匠がついた時のこともよく覚えている。

 藤澤九段なら安心だと、一人で立とうとする少年をさり気無く支えてくれるだろうと思った。

 

 三段リーグ無敗、入会以来54連勝。

 異例の記録で彼はプロになった。

 あの日、俺にプロになると言い切った日から、僅か2年しか経っていない。

 

 昇段会見には、通常の5倍もの記者が訪れていた。

 初の小学生プロ棋士の誕生である。

 そりゃあ、世の中は沸いた。

 よそから来ている記者たちは、遠慮も何もなく、彼に全てを尋ねた。

 家族の事、施設の事、学校生活、師匠との関係。

 将棋の事はもちろんだが、それ以外のことでも、彼は話題性に富んでいた。

 正直、その質問いるか? 今聞くことか? と思うような質問もあったが、桐山くんは全てに丁寧に対応していた。横に藤澤師匠がいるとはいえ、とても落ち着いていた。たいしたものだと思う。

 

「いずれはタイトルが欲しい」とはっきりと語る彼の目には確かな決意があった。

 それは、少年がただ夢を語っているだけには、思えないほど重いもの。

 目を輝かせて希望に満ち溢れている、そんな感じではない。

 

 自分が立つ場所は、誰かの夢で、目標であった場所であると、理解していた。

 勝利したものの責任を、彼はその若さで感じているのだ。

 託されたものを、誰かの想いを背負う覚悟があると、そう言ったのだ。

 

 この会場のなかには、その様子を不遜だと、大口を叩いたと、そんなふうに軽く思う奴もいるだろう。

 そんなレベルでしか、彼を量れない奴に、彼の事を書いてほしくないと心底そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 現、将棋連盟の会長は、かなりのやり手である。世間に将棋ブームの兆しがみえるや否や、瞬く間に桐山くんを使った企画を打ち出した。

 炎の三番勝負は高視聴率をとったし、新しい若手が将棋界を多いに盛り上げるだろうとこれからに期待したファンは多かった。

 

 そして、実際、桐山零はその期待に大いに応えた。

 並みの若手では彼の相手は難しいだろうと予想はしていたものの、プロ入り後敗ける気配が全くなかった。

 彼に黒星がつくのはいつになるのか。本当に話題に事欠かない子だ。

 気が付けば、その連勝記録は歴代の最高記録へと並ぼうとしていた。

 日に日に、彼の対局を追う記者の数は増えていき、小学生プロ棋士の話題に沸いていた世間に、改めて将棋というものが何なのかを知ってもらう良い機会になっていった。

 

 

 そして、朝日杯の本戦に彼が勝ち残ってきたことに、俺は心躍らせていた。

 自社がスポンサーの棋戦である。

 まだプロ一年目の四段が、本戦入りするだけでも珍しいのに、彼はそこに最多連勝記録の更新という、これまた将棋史に残る話題を引っ提げてきた。

 本戦一試合目で、これまで宗谷名人が有していた記録に並び、そして勝ち進めば更新もあり得る。

 世間の注目度はすさまじく、会社としてもその話題性から随分と気合いを入れた。

 特集記事ももちろん書いた。

 俺はそれを任されたことが誇らしかったし、安堵もしていた。

 ここ数年、将棋担当として奮闘してきた。

 そして、記者の中では誰よりも、桐山零の対局を観てきた自負があった。その事が正当に評価されたことが嬉しかった。

 

 彼は、世間の期待に見事に応えてみせた。

 宗谷名人の最多記録に並ぶだけでなく、それを見事更新してみせたのだ。

 朝日杯ベスト4まで残っただけでも、充分すぎる結果である。

 その上、なんともドラマチックなことに、準決勝の相手は、その宗谷名人となる。

 この二人の対局はもっと先になると思っていただけに、この好カードに沸いたファンは多いだろう。

 

 全129手のその対局は、桐山零の敗北で幕を閉じる。

 俺が彼を追い始めてから、初めての敗北だった。

 

 

 この……、この気持ちを、なんと表したらいいだろう。

 

 

 彼を知ってからもうすぐ、3年になる。

 この日俺は初めて、盤面を挟んだ相手に対し、敗けましたと頭を下げる彼を見たのだ。

 プロ入り後、公式試合で43連勝。

 常人には果たせない記録だったことは間違いない。

 いつかは敗ける、分かってはいた、けれどなぜかずっと勝ってしまうようなそんな気持ちもあったのだ。

 

 そして、それを阻んだのが宗谷名人だったことに、これまた興奮せざるを得なかった。

 誰に聞いても、今の将棋界で一番強いと称される人物。

 

 めっちゃくちゃ面白くないか⁉ 今の将棋界!!

 それはもう声を大にして、方々に伝えてまわりたい程だった。

 同時に、惜しいなとも思った、朝日杯は早指しと言っていい棋戦ルールだ。

 この二人なら、もっとじっくり指し合えば、より面白い内容の将棋になったはずだ。

 

 観戦記者は感想戦とその後のインタビューで、対局を終えた棋士たちの生の声を聞き取ることを、特に重視している。

 当然距離は近かったし、桐山くんと宗谷名人の静かなやり取りも聞き取ることが出来た。

 

「タイトル戦の上座で君を待つ」と伝えた、現将棋界最強の男に、

「必ずその場に行ってみせます」と答えた期待の若手。

 

 

 

 

 そのやり取りを傍で聞いた時、俺はおそらく決めたのだ。

 

 これからやってくる将棋史の激動の日々を、将棋に選ばれた二人の天才たちの様子を、多くの人に伝えること。

 使命と言うほどの事でもないが、俺の記者としての役割はこれだと思った。

 

 記者としての人生をかけて、観戦記者としてのプライドを持って、俺は今日も対局を見届けるために、走り続ける。

 

 

 

 

 




桐山零に会い、ただがむしゃらに仕事をしていた男が、
記者として将棋と心中してもいいって意気込みになったのが、
初めて桐山零が敗けたのを観た時、っていうのが書きたかった。


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掲示板回【桐山君が】熱血大陸!小学生プロ棋士の日常に完全密着!【テレビに出るってよ】

1 名無しの将棋指し

このスレは、現在世間で話題沸騰中の小学生プロ棋士桐山零くんが、某有名密着系番組の取材を受ける事を記念して、番組の実況と感想を述べるためのスレです!

 

あんな良い子にいるわけないけど、アンチは回れ右!

というか、この放映をみて絶対に桐山くんのファンが増えてしまうっ!

みんなで仲良く彼の日常を見守りましょう。

 

桐山君公式プロフィール→

Http//****/1234/.net/+++++

データサイト→

Http//$$$$/qwert/yuiop/5879

桐山君応援スレ

【きっと未来の】桐山零くん応援スレ【名人】

 

2 名無しの将棋指し

よっしゃぁぁぁぁぁ!ついにこの日がきたぁぁぁぁぁ!

 

3 名無しの将棋指し

有能。絶対これは別スレたてるべきだと思ってた。

 

4 名無しの将棋指し

やってくれるぜT○S!まさかこんなにも、素早く桐山くんの密着をしてくれるとはな!

 

5 名無しの将棋指し

>>4

いや、寧ろ今だからこそだろ。桐山くん連勝記録目前だぞ。

 

6 名無しの将棋指し

おい。誰か……頼むから、実況してくれ。まだ会社だ。会社にいるんだ…………。

 

7 名無しの将棋指し

>>5

まさか宗谷名人の記録にここまで迫ってくるなんてな。もうこのまま、是非に記録更新してほしい。

 

8 名無しの将棋指し

>>6

社畜乙

 

9 名無しの将棋指し

>>6

全く世知辛い世の中だぜ……今日という日に生視聴出来ないなんて同情しかない

 

10 名無しの将棋指し

仕方ないなーかわいそうな6に変わって、俺が実況してやろう

タイプ遅いけど許してな。

 

11 名無しの将棋指し

>>6

大丈夫。オレも仲間だぜ。一緒に苦い珈琲飲みながら頑張ろうぜ。

 

12 名無しの将棋指し

>>10

>>11

ありがとう。

ゆっくりでもいいんだ。ただ、皆と感動を共有したい……。それだけを糧に俺は生きる……。

 

13 名無しの将棋指し

あーわかる。生の臨場感ってあるよな。たとえそれがテレビ番組であったとしても。

 

   ・

   ・

   ・

   ・

   ・

 

57 名無しの将棋指し

おい。そろそろだぞ。

 

58 名無しの将棋指し

あぁぁぁついに、桐山君がテレビに出てしまうのか。

 

59 名無しの実況

 

ナレーション

「小学生プロ棋士桐山零。たとえ、幼く見えようとも、彼が他の追随を許さない勝負師であることを知っている人は多いだろう。今回我々は、彼の底知れない強さの根源に迫るため、知られざる私生活とその素顔を取材した」

 

(東京の将棋会館が映し出され、男の子がその建物から姿を現す)

 

桐山「お疲れ様です。すいませんお待たせしてしまったのではないですか?」

 

ナレーション「対局後の疲れもみせず、彼は我々に笑いかける。どうやら今日の対局も滞りなく終わったようだ」

 

60 名無しの将棋指し

桐山くん黒のダッフルコート着てる。リュックサックもいつものだね。

 

61 名無しの将棋指し

これ、マフラー島田八段に貰ったやつじゃね?

 

62 名無しの将棋指し

会館から出てきた瞬間、カメラのほうみて駆け寄ってくるの。……はぁぁぁ可愛い。

 

63 名無しの実況

 

桐山「え?今日の対局ですか? えぇまぁ。なんとか勝てました。感想戦もとっても楽しかったです。ちょっと白熱しちゃったので、予定より遅くなってしまって……」

 

ナレーション「プロ入り後、ただの一度も黒星をもらっていない彼は、今日も一勝を重ねたらしい。これで、30勝目。宗谷名人が持つ歴代最高の連勝記録38勝にもいよいよ迫ってきている」

 

64 名無しの将棋指し

うっひょー!!30勝目の時にはもうはりついてたのか。年明けくらいだな。

 

65 名無しの将棋指し

そんな忙しい時期によく密着許可出したよな。

 

66 名無しの将棋指し

会長としても、難しい判断だっただろう。でも桐山くんなら全然気にしなさそうだし。

 

67 名無しの将棋指し

今日の感想戦楽しかったのね。遅れたのバツが悪そうにしてるのが、年相応で和む。

 

68 名無しの実況

 

ナレーション「将棋会館から、電車とバスを乗り継ぎ、彼は師匠の家へと帰宅する。その道のりも、すっかり慣れたものだ。今日は取材班が同行するからと彼一人だが、いつもは同門の棋士や方向が同じ棋士と帰宅することも珍しくないらしい」

 

桐山「ありがたいことに、車で送ってくれる人もいます。藤澤門下の人だったらだいたい、師匠の家まで付き合ってくれるんです。もうすぐ、中学生ですし大丈夫だって言ってるんですけど、夜遅くの一人歩きは厳禁だそうで」

 

69 名無しの将棋指し

よかった。その辺やっぱ皆気にしてくれてるんだな。

 

70 名無しの将棋指し

なんか、皆に見守られてる感じあっていいなぁ。

 

71 名無しの将棋指し

この時期なんて日が落ちるの早いんだから、注意しとくべき。

 

72 名無しの将棋指し

桐山君はしっかり警護されてますよーって、知られるのは良いことだよな。

 

73 名無しの実況

 

テロップ「――特に一緒になる棋士をあげるとするなら?」

 

桐山「うーん。同門の後藤九段に幸田八段、研究会でお世話になってる島田八段に重田六段とか……あ! 若手の三角五段や松本四段もよく一緒に帰ってます。柳原棋匠や会長もご飯に連れて行ってくれるついでに送ってくれたりしますよ」

 

ナレーション「若き才能を気にかける棋士は多い。桐山四段の交友関係は想像以上に幅広いようだ」

 

74 名無しの将棋指し

若手から、大御所までコンプリートって感じだよな。

 

75 名無しの将棋指し

俺は未だに、後藤九段が桐山君にかまってる姿が想像出来ん。

 

76 名無しの将棋指し

同期の松本四段とかとも仲良いみたいで、良きかな。良きかな。

 

77 名無しの将棋指し

>>75

前、応援スレで目撃情報あったぞ。あの方意外に面倒見良いぽい。

 

78 名無しの将棋指し

島田八段との研究会どんなことしてんのかな気になるよなー

 

   ・

   ・

   ・

   ・

   ・

 

134 名無しの実況

 

桐山「ただいま戻りました」

 

(趣のある平屋のドアを桐山くんがくぐると、足下に白い物体が飛びついてくる)

 

桐山「わ!シロ、ただいま」

 

猫「にゃーん!!」

 

桐山「はいはい。にゃーんね。今日はお客さんがお家に上がるけどお行儀良くしてね」

 

135 名無しの将棋指し

ちょっとまて。

 

136 名無しの将棋指し

にゃーん!!

 

137 名無しの将棋指し

まさかの桐山君のにゃーん!!

 

138 名無しの将棋指し

あそこだけ、あそこだけ音声取り出して、エンドレスリピートしてぇ

 

139 名無しの将棋指し

師匠宅にはお猫様がいるんだな

 

140 名無しの将棋指し

桐山君にはめっちゃ懐いてるね。でも、取材班睨まれてないw?

 

141 名無しの将棋指し

桐山君との対応の温度差笑う。

 

142 名無しの将棋指し

師匠のお家、さすがに広いな。すげぇ日本家屋。

 

143 名無しの将棋指し

チラッと見えたけど、お庭もとっても綺麗だったね。

 

144 名無しの実況

 

藤澤「零くん、おかえり。和子がご飯用意してるよ」

 

桐山「ありがとうございます。さすがにお腹すきました」

 

ナレーション「師匠の藤澤は引退したものの名人に在位したこともある実力者だ。桐山の対局がある日は、たとえどれほど遅くなろうとも、彼が帰ってくるまで待っている。その日の対局の感想などは、桐山から話を振らなければ滅多にしないそうだ」

 

145 名無しの将棋指し

お師匠さま俺初めて見た。貫禄すげぇ

 

146 名無しの将棋指し

神宮寺会長世代のファンとしては、めっちゃ有名な方なんだぞ。

 

147 名無しの将棋指し

将棋界の歴史に名を刻んだお一人だ。

 

148 名無しの将棋指し

晩ご飯、期待を裏切らない和食だな。めっちゃうまそう。

 

149 名無しの将棋指し

桐山君しっかり食べるんだぞーって。お?

 

150 名無しの将棋指し

 

「おい爺さんこの棋譜って……、ちびすけ帰ってたのか」

 

桐山「後藤さんこんばんは」

 

151 名無しの将棋指し

きったぁぁぁぁぁぁぁ

 

152 名無しの将棋指し

まさかの後藤九段!

 

153 名無しの将棋指し

ひゃー!!よく藤澤家に来てるってほんとだったんだ

 

154 名無しの実況

 

後藤「あー? おい、ひょっとしてそのカメラ」

 

桐山「あ、はい。熱血大陸さんのです」

 

後藤「ち、よりによって、今日か。俺は帰る」

 

155 名無しの将棋指し

めっちゃ目つき悪くなってるんですけどっ

 

156 名無しの将棋指し

舌打ちしたwしかも爺さん黙ってやがったなって聞こえたw

 

157 名無しの将棋指し

後藤さん仮にも師匠様にも口悪いなwおいw

 

158 名無しの実況

 

桐山「えっ、帰っちゃうんですか?今日は指しません?」

 

後藤「おまえは対局だったんだろ。もう今日はさっさと寝ろ。いつまでたってもチビのままだぞ」

 

桐山「よ、余計なお世話です!」

 

ナレーション「師匠に見守られ、兄弟子に構われて、将棋界期待の新星も、家では肩の力を抜いて自然体だ」

 

159 名無しの将棋指し

まじで、仲良しだな。桐山君の帰っちゃうんですか?のトーンが残念そう。

 

160 名無しの将棋指し

後藤さんのしかめっ面が、若干後ろ髪を引かれてるように見えないこともないw

 

161 名無しの将棋指し

わかる。桐山君のこと心配しつつ、からかってる感じがするw

 

   ・

   ・

   ・

   ・

   ・

 

212 名無しの実況

 

ナレーション「プロの将棋指しといえど、彼はまだ小学6年生。対局の翌日であっても、学校が在れば登校する」

 

(すこし眠たそうにしながら、ランドセルを背負って道をゆく桐山君の映像が流れる)

 

213 名無しの将棋指し

昨日対局だったのに……と思うと、桐山くんほんと大変だな

 

214 名無しの将棋指し

このランドセルと桐山君の組み合わせをみると、微笑ましくなる奴はこのスレに多いはず。

 

215 名無しの将棋指し

そいえば、これ前解説の時に背負ってきてたな。

 

216 名無しの将棋指し

いや、これが小学生としての普通の姿だよ。

 

217 名無しの将棋指し

俺だったらサボりたくなるけど、ちゃんと授業受けてて偉い。

 

218 名無し実況

 

テロップ「――欠席した日の授業内容とかはどのように?」

 

桐山「ノートを貸してくれる友人がいるので、その子に聞いてますよ。宿題のこととかもかなり丁寧に教えてくるのでとても助かってます」

 

(少し離れた席にいた男の子に桐山君が手を振る。照れくさそうにその子は小さくお辞儀をした)

 

219 名無しの将棋指し

あーー!!俺あの子知ってる!

 

220 名無しの将棋指し

俺も見たことある。

 

221 名無しの将棋指し

この子あれじゃん、指し初め式で桐山君と指してる写真が記事に載った子。

 

222 名無しの将棋指し

施設から一緒のお友達だ。

 

223 名無しの将棋指し

かなりレアな桐山四段の笑顔を引き出してくれたと、方々から、まぁ主に俺たちだけども、感謝の念が送られた少年か。

 

224 名無しの将棋指し

あの笑顔と着物姿はマジプレミアもんだった。

 

225 名無しの実況

 

テロップ「――桐山君はクラスではどんな存在?」

 

クラスメイトA「努力家。授業がどんなに進んでても、せんせーの質問に答えられなかったことねぇし。聞いたらなんでも答えてくれるよ」

 

クラスメイトB「なんていうか……お兄ちゃんみたいです。困ってる人見つけるのも、さりげなく助けてるのも、いつも桐山君で。みんな頼りにしてるって言うか」

 

クラスメイトC「かっけぇ奴。あいつみてるとなんかスカッとするよな」

 

クラスメイトD「最近は将棋の方が忙しいみたいだから、登校してくれるとなんだかちょっと嬉しいんです」

 

ナレーション「クラスメイトは桐山の事を応援している。彼のいるクラスは、他のクラスよりも団結力が高いと評判だそうだ。桐山をとりまく環境は特殊だが、それがうまく相乗効果を産んでいるのかもしれない」

 

226 名無しの将棋指し

男の子のかっけぇ奴。の一言に桐山くんへの憧れのようなものを感じる。

 

227 名無しの将棋指し

正直クラスで浮いたりしないのかなっておじさん心配だったけど、全然そんな感じじゃないね。

 

228 名無しの将棋指し

朝教室に入った時とか、めっちゃ声かけられてる。人気者じゃん。

 

229 名無しの将棋指し

このクラスの子達、テレビ来てるにしては落ち着いてるよな。

 

230 名無しの将棋指し

分かる。なんだろ、これも桐山くん効果なのか……。

 

231 名無しの将棋指し

桐山四段大人っぽいからなー良い具合にそれが影響してる可能性も?

 

232 名無しの実況

 

テロップ「――学生としての桐山の様子は?」

 

担任「優等生の一言に尽きますね。もちろん、対局があるので欠席は多くなってしまいますが、それ以外非の打ち所がないです。クラスメイトからの人望も厚いですし」

 

テロップ「――欠席により、勉強の方に遅れがでるようなことは?」

 

担任「登校した日に進んだところの範囲を質問にくるくらいマジメですし、成績はトップクラスですよ。他の子に教えるのが上手なくらいです」

 

ナレーション「将棋ばかり。とそう言われないようにと、勉学にも全力で打ち込んでいる。両立は難しいだろうという外部の心配を余所に、桐山はそれを常に体現し続けていた」

 

233 名無しの将棋指し

担任も絶賛。てか、やっぱ桐山君成績良いのね。

 

234 名無しの将棋指し

あんだけ、将棋出来たら記憶力良いだろうしな。

 

235 名無しの将棋指し

クラスメイトに教えてる姿が容易に想像できる。

 

236 名無しの将棋指し

得意教科は算数、苦手教科は体育。

新たなプロフィール追加だな。

 

237 名無しの将棋指し

体育ってマジかwww

 

238 名無しの将棋指し

それw教科なのか?

 

239 名無しの将棋指し

でも、運動はちょっと苦手そうだな。

 

240 名無しの将棋指し

棋士は体力勝負なところもあるからそこだけ、ちょっと頑張ってほしいけど。

 

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   ・

 

467 名無しの実況

 

ナレーション「ある日の休日、桐山は自分の憩いの場所に案内してくれた」

 

(隣町にあるとある店の前で桐山が立ち止まる。趣のある店構えと一枚の暖簾が一際目を引いた)

 

桐山「僕、ここの三日月焼きというお菓子が大好きなんです」

 

468 名無しの将棋指し

おぉ!三日月堂じゃん!

 

469 名無しの将棋指し

おやつを食べることが珍しい桐山君が、棋戦に何度か持参して話題になったよな

 

470 名無しの将棋指し

>>469

主に俺らのなかでな。

 

471 名無しの将棋指し

桐山くんが食べてるのと同じお菓子を食べてみたいってねw

 

472 名無しの将棋指し

特定班も市販のお菓子じゃないってのはわかっても、なかなかお店まではたどりつけなかった。

 

473 名無しの将棋指し

いやーきっと近場の馴染みのお店なんだろうって予想はついても、見つけるまでなかなかに骨が折れた。

 

474 名無しの実況

 

店員のお姉さん「あら、桐山君いらっしゃい。今日はお客さんいっぱいね」

 

桐山「あ! あかりさんこんにちは。お手伝いの日だったんですね」

 

475 名無しの将棋指し

え、ちょ、ま。

 

476 名無しの将棋指し

うぉぉぉぉぉぉぉ!めっちゃんこ美人!!

 

477 名無しの将棋指し

なんてことだ。これほどの看板娘がいるなら俺、だってお店に突撃したのに。

 

478 名無しの将棋指し

そして、その美人と仲良く話す桐山四段。

 

479 名無しの実況

 

美人な店員のお姉さん「今日もいつもの数買っていく?」

 

桐山「あ、それとは別に、後日これくらい用意できますか?」

 

美人な店員のお姉さん「わかった。お爺ちゃんに伝えておくね。いつものところにもっていくの?」

 

桐山「はい。久しぶりに遊びに行く予定です」

 

480 名無しの将棋指し

>>479

おい実況wなんか形容詞増えたぞw

 

481 名無しの将棋指し

「美人な」が増えてるw

 

482 名無しの将棋指し

受け応えにこなれた感があるな。相当な常連さん。

 

483 名無しの将棋指し

まわりのおばあさんたちにも、声かけられてるね

 

484 名無しの将棋指し

そして、大口注文もしてるみたい。さすがプロ棋士

 

485 名無しの将棋指し

 

美人な店員のお姉さん「はい。お待たせしました。とりあえず、今日はこれで大丈夫かな?」

 

桐山「ありがとうございます。あ、また包装が少し変わってますね。冬らしくてでもちょっと優しい感じがします」

 

美人な店員のお姉さん「ほんと!? それ、私とお母さんが考えたの。えへへ、桐山君に褒められたなら、お爺ちゃんにも自慢できちゃうなぁ」

 

486 名無しの将棋指し

うわー。桐山四段マメだな。俺だったら絶対気づかないんだけど。

 

487 名無しの将棋指し

お、おれがイメージしていた桐山くんじゃない。こんなコミュ力高いなんて……

 

488 名無しの将棋指し

このお姉さん相手に気後れせずに話せてる時点で俺らとは違う。

 

489 名無しの実況

 

ナレーション「我々は、奥で作業していた店主にも話を聞くことができた」

 

テロップ「——桐山四段との付き合いは長いのですか?」

 

壮年の店主「いや、最近のことだよ。まぁちょっとしたきっかけで、うちの孫と知り合って、それからよく遊びにくるようになった。俺も将棋はすきだからな。直ぐにあの桐山四段だってわかった。うちの菓子を気に入ってくれてるのは有り難い話だな」

 

 

490 名無しの将棋指し

お孫さんってあの美人な店員さんかな。

 

491 名無しの将棋指し

店主のお爺さん怖そうだけど、なんというか人情にあふれた人なオーラがひしひしと。

 

492 名無しの将棋指し

桐山くんとどんなきっかけで出会ったのかとてもきになる。

 

493 名無しの将棋指し

>>491

わかる!! しかめっ面してても、めっちゃかわいがってたりするタイプだと思う。

 

494 名無しの実況

 

桐山「三日月堂のみなさんには本当にお世話になってるんです。時々ご飯もご一緒したりして……。なんだか、ついつい足を運んでしまうんですよね」

 

ナレーション「プロ棋士としての桐山の生活は多忙を極める。そんななかで、ふとした時に立ち寄れる、下町の人々との交流は彼の支えになっているようだ」

 

495 名無しの将棋指し

このテレビ出演でこのお店もちょっと有名になっちゃうんじゃ。

 

496 名無しの将棋指し

実際、おれここの菓子買ったことあるけど、めっちゃうまいよ。

 

497 名無しの将棋指し

桐山くんが行きにくくならないといいけど……

 

498 名無しの将棋指し

>>496

まじで?俺も一回買いに行ってみようかな~

 

499 名無しの将棋指し

>>497

それな。みなさん節度をもって訪問しましょう。

 

500 名無しの将棋指し

いやー。でもやっぱいい宣伝になるよ思うよ。

桐山四段御用達のお店ってことで。

 

   ・

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   ・

 

619 名無しの実況

 

テロップ「——今日は一体どこへ?」

 

桐山「今日は僕のもう一つの家を紹介できたらな、と思いまして」

 

ナレーション「桐山がそういって我々を連れて行ったのは、将棋会館と同じく近くにある養護施設だった。そう。ここは、長野から出てきた桐山が、師匠の藤澤に引き取られるまでその日々を過ごした場所だ」

 

620 名無しの将棋指し

うっわ、まじかここ出しちゃう感じ??

 

621 名無しの将棋指し

デリケートな話になるし、意外だったかも。

 

622 名無しの将棋指し

でも、桐山くんの表情は楽しそうよ。

 

623 名無しの将棋指し

前からインタビューでも、施設の人達にも感謝してるし、子どもたちのことも兄弟みたいに大切って言ってたもんな。

 

624 名無しの実況

 

桐山「こんにちは!お久しぶりです」

 

職員「あら、零くん。おかえりなさい。みんなすっごく楽しみに中で待ってるわよ」

 

桐山「あ……、ただいま……です。お土産も持ってきますから」

 

ナレーション「照れくさそうに一瞬固まった桐山は、それでもただいまそう言えることが嬉しそうだった。部屋の奥へ進むとすぐに、周りを子供たちに囲まれる」

 

625 名無しの将棋指し

うぉぉぉ。時がたってもおかえりと迎え入れてくれる場所いいね。

 

626 名無しの将棋指し

やばい。桐山四段が零とか、零兄とかそう呼ばれてるのめっちゃいいんですけど。

 

627 名無しの将棋指し

年下の子達の憧れの満ちたキラキラした瞳よ

 

628 名無しの将棋指し

きっと自慢のお兄ちゃんなんだろうなぁ。

 

629 名無しの実況

 

(施設の一室で、机の上にお土産を広げる桐山。その周りに大勢の子どもたちが集まってくる)

 

桐山「はい、これお土産ね。みんなで仲良く分けましょう。余ったお菓子はどうしよっか?」

 

子供A「はーい!じゃんけんがいいと思います!」

 

子供B「この前、テストが終わった中1の人にあげるのがいいと思う!お疲れ様ーって」

 

桐山「じゃ、みんなで話し合ってみようかな」

 

ナレーション「久しぶりの訪問であることをまるで感じさせず、桐山は彼らの間に入り、その間を取り持つ。それは、彼がここで過ごしてきた時間の長さと、そして彼らとの間にある絆を感じさせるのに充分すぎるものだった」

 

630 名無しの将棋指し

自然と桐山四段の周りに集まってる。

 

631 名無しの将棋指し

みんな笑顔だね。

 

632 名無しの将棋指し

もちろん喧嘩することもあるんだろうけど、なんかいいなぁ。こう。全体の雰囲気が柔らかいよ。

 

633 名無しの将棋指し

お兄ちゃんしてる桐山くんっていうのも新鮮。

 

634 名無しの実況

 

ナレーション「当時、桐山四段と同室だった少年の話を聞くことができた」

 

少年A「桐山くんは、僕の……いや、僕たちの希望みたいなものなんです。僕らは、みんな不安だったから。今が良くても、この先どうしたらいいのか。どうにもならないんじゃないかって」

 

ナレーション「ここに来るまでにも様々な経験をしてきた子供たちが、現状と将来に漠然とした不安を抱くのは、当然のことなのかもしれない」

 

635 名無しの将棋指し

そりゃあ、そうだよな。俺らがぬくぬくと親の庇護下で遊び惚けているこの時期に、それが与えられてないんだから。

 

636 名無しの将棋指し

この子、桐山くんによくノート貸してる子だよね?

 

637 名無しの将棋指し

>>636

そうだな。まさか同室だったとは。

 

638 名無しの将棋指し

雰囲気的に、桐山君とちょっと似てるね。落ち着いてる。

 

639 名無しの将棋指し

ともに過ごした時間の長さがそうさせたのかもしれないな。

 

640 名無しの実況

 

少年A「でも、桐山くんは違いました。全部自分で決めて、将棋に打ち込んで気が付いたら大人に勝っちゃってて。環境のこととかなんにも言い訳にしなかった。そして、僕たちにも大丈夫だよってそう笑ってくれたんです」

 

ナレーション「桐山の活躍を、ネットやテレビで追いかけるうちに、少しずつ全員の中で連帯感が生まれたそうだ。たった一人だったとしても、自分の足で立って、歩く彼の背中に救われていった」

 

641 名無しの将棋指し

桐山四段かっこよすぎだろ。

 

642 名無しの将棋指し

彼が特殊だっとしても、同年代の子がこれだけ活躍して、テレビにも出てたら希望にもなるわな。

 

643 名無しの将棋指し

まして、自分と同じ環境で育ってるんだからさ。

 

644 名無しの将棋指し

なんか僻んだり、嫉妬したりとかそんな気持ちにもなっちゃいそうなのに、全然そんな様子ないね。

 

645 名無しの将棋指し

桐山くんの人柄と人徳もあるような気がする。

 

646 名無しの実況

 

ナレーション「彼は、桐山からもらった言葉で忘れられない言葉があるそうだ」

 

少年A「どうしたら、君みたいになれるのってそう聞いた僕に言ってくれたんです。

“何か一つでいいから人より自慢できる物を持つといいって。それは、自信になって、自分を強くしてくれて、助けてくれるはずだから”、と」

 

ナレーション「それは、桐山にとってはまさに将棋のことだったのだろう」

 

少年A「だから、僕も探そうと思ったんです。誰かに自慢できること」

 

ナレーション「少年の目は強い光と希望に満ちているようにみえた」

 

647 名無しの将棋指し

熱い展開。

 

648 名無しの将棋指し

この子には大成してほしいと思う。というか普通にできそう。

 

649 名無しの将棋指し

数年後には見違えているパターン。

 

650 名無しの将棋指し

桐山くんがこの子に大きな影響を与えたけど、桐山くんもきっといい影響受けてると思うの。

二人の友情。なんだかとっても眩しいなぁ。

 

651 名無しの実況

 

ナレーション「この施設の園長は、当時の桐山の様子をふりかえってこう言った」

 

園長「入園当初からしっかりした子でした。えぇ、それはもう気が良く回る子で。……その分、私たちは彼のことをちゃんと見れていたかどうかは……。彼は、そんなことはないっていうと思いますけど、少し申し訳なく思っています」

 

ナレーション「桐山はいつの間にか、大会で勝ち、奨励会に入り、プロになっていた。職員をはじめ、園長はそれを止めずに見守り続けていた。将棋会館の事務や世話役だったプロ棋士からの情報共有には随分と助けられていたらしい」

 

652 名無しの将棋指し

容易に想像できるな。サクサク自分で決めて、自分の道を進む桐山四段の姿。

 

653 名無しの将棋指し

将棋の世界のことなんて、その道の人じゃないと分からないだろうからなぁ。それを思うと、連盟側とちゃんと意思疎通してただけ、施設の人偉いよ。

 

654 名無しの将棋指し

一説によると、ここでも奨励会の世話役だった島田八段がだいぶ手を貸していたらしい。

 

655 名無しの将棋指し

記録係の仕事もしてたの見てた俺からすると当時をここで暮らしながら、会館に通いつづけた桐山くんの健気さになんかグっとくるわ……。

 

656 名無しの将棋指し

>>654

ま? どおりで桐山四段なついてるよなぁ。

 

657 名無しの将棋指し

まじまじ。藤澤師匠がついたのって、奨励会入ってからだいぶ経ってからだったらしいから。

 

658 名無しの実況

 

園長「彼はここを卒業してから得た収入を随分と寄付してくれています。お礼だなんて言ってくれていますが、我々としては大した力になれなかったと思うのですがね……」

 

ナレーション「経営難に陥る施設も多い中で、桐山の活躍や言葉をきっかけに支援者が増えたこと、そして彼自身からの寄付は、この場の存続に大きな力となっているらしい」

 

659 名無しの将棋指し

でたー!! また、株爆上げのエピソード。

 

660 名無しの将棋指し

自分が稼いだせっかくの金を、寄付に回すなんて出来すぎ。

 

661 名無しの将棋指し

君がそこまでしなくてもいいんだよーー!! って言いたくなるな。

 

662 名無しの将棋指し

番組の最後に寄付先とか表示してくれんかね。俺払うよ。

 

663 名無しの将棋指し

桐山四段なら納得済みのことなんだろうなぁ

 

664 名無しの将棋指し

>>662

それ、まじで考えてほしい。桐山くんという才能を将棋に向き合わせてくれたお礼がしたい。

 

665 名無しの将棋指し

>>664

長野の実家にかんしては沈黙してるからよくわからんけど、少なくともこれまでの様子から、東京に出た方がましだったからこうなってるのは間違いないわけで。この施設には感謝だよな。

 

666 名無しの実況

 

ナレーション「施設からの帰宅途中、桐山に尋ねた。ここに住んでいたのはたった数年だ。それほどまでに想いを残すほどの時間だったのだろうか?」

 

桐山「……そうですね。客観的にみれば、短い期間だったと思います。でも、純粋に僕を応援してくれて、そして訪ねたら、おかえりと迎えてくれる場所。それがどれほどかけがえのないものか、僕はよく分かっています。師匠の家ともう一つ、そんな場所があるのが、今はただ嬉しいんです」

 

ナレーション「桐山はそう言って、我々の前で初めて見せる表情で笑った。慈しむような優しい表情だった。

そこに彼の強さの一端を見たような気がした」

 

667 名無しの将棋指し

泣ける。こんな顔できたんだ。

 

668 名無しの将棋指し

背負ってるものというか、心の持ちようもこの年齢のことは思えないほど成熟してる。

 

669 名無しの将棋指し

はじめてみた。勝負師としてじゃない。ありのままの彼の表情。

 

670 名無しの将棋指し

>>668

でも、この表情みるとまだ小学生なんだよな……って、俺はそう思うけど。

 

672 名無しの将棋指し

将棋をしてる桐山君しか知らなかったら絶対に見ることができなかった。このシーンをとらえただけで、取材班いい仕事したよ。

 

   ・

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   ・

 

745 名無しの実況

 

ナレーション「一月下旬。桐山は連勝記録を伸ばし続け、宗谷名人の最高記録まであと2勝となっていた。

 

テロップ「——連勝を意識してしまうことはない?」

 

桐山「僕自身はあまりないです。いつも目の前の対局の内容と反省そればかり気にしてますから。たぶんこの先もそこは変わらないと思います」

 

746 名無しの将棋指し

ひとつ、ひとつの対局をこなすうちに気が付いたら……って前、インタビューで言ってたもんな。

 

747 名無しの将棋指し

やっぱ見てる世界がちょっと違うよなぁ。

 

748 名無しの実況

 

テロップ「——そこまで、打ち込めるのは、やはり将棋が好きだから?」

 

桐山「好き……うーん。もちろん好きだとは思うんですけど……それだけじゃなくて。僕にとっては将棋が全てでした。将棋のおかげで今があります。将棋を通して知り合ってきた人々に救われてきました。身を立てられているのも、将棋のおかげです。なんというか……生きる意味そのものなのかもしれませんね」

 

ナレーション「桐山は、たとえ生まれ変わったとしても、人生をやり直すことになったとしても、自分は将棋を選ぶ気がすると。そう笑った。

彼は将棋の神に愛されているとも、神の子だとも称されることがある。桐山の言葉からは、将棋と彼の人智を超えた結びつきのようなものを感じさせられた」

 

749 名無しの将棋指し

神の子な。宗谷名人の代名詞だったけど、ここに来て桐山くんもそれに比肩すると言われはじめてる。

 

750 名無しの将棋指し

その評判に、まったく見劣りしない成績が拍車をかける。

 

751 名無しの実況

 

(おなじみのテーマ曲が流れ、朝日杯本戦一回戦対辻井戦と、二回戦対柳原戦の映像のカットがうつる。)

 

ナレーション「月末。桐山は朝日杯の本戦で、辻井九段と柳原棋匠に勝利し、将棋界の歴史に新たな1ページを刻んだ。しかし、これは彼がこれから歩む道のはじまりにすぎないのかもしれない」

 

752 名無しの将棋指し

おぉ!! 先日の朝日杯のカット!

 

753 名無しの将棋指し

この対局おもしろかったよな。ネット中継白熱してた。

 

754 名無しの将棋指し

A級棋士との二連戦と、歴代記録更新が重なった話題性抜群の大一番だった。

 

755 名無しの将棋指し

そして、我々の期待の上をいってくれた桐山四段。

 

756 名無しの将棋指し

ちょうど、歴代連勝記録の更新というビックニュースとともに放映できて、T○Sさんも満足でしょう。

 

757 名無しの将棋指し

次はまさかの宗谷戦になるし、桐山くんへの期待がたかまる。

 

758 名無しの将棋指し

プロ入り前のテレビ企画で指してから、こんなに早くその機会が回ってくるなんて誰も思わなかっただろに。

 

759 名無しの将棋指し

いっそのことそれまで、取材できたらよかったのになぁ。

 

760 名無しの将棋指し

テレビの放映枠とかあるし、仕方ないのかも。

 

761 名無しの将棋指し

むしろ、ここまでやってくれると上が予想していなかった可能性。

 

762 名無しの将棋指し

>>761

俺たちだって、いやいや。まさか。それは無理でしょ。って思いながらそれをサラッと超えられてきて、戸惑ってる。

 

763 名無しの将棋指し

この先、何回もこういう番組から取材くるんだろうなぁ。

 

764 名無しの将棋指し

プロ棋士の顔。弟子としての顔。お兄ちゃんとしての顔……いろんな桐山くんが見れて俺は満足だ。

 

765 名無しの将棋指し

>>763

記念すべき第一回を目撃できた。ことが嬉しい。挑戦者になったり、タイトルホルダーになったり、その時もまた期待したいものです。

 

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密着系テレビ番組でした。時期としては小6の冬ごろにかけて密着してた形になります。
三日月堂はこのあと売れに売れて忙しい期間が来て、そのときにきっと一過性じゃない顧客がついて、経営にいい風が吹きます。
施設の方にも、桐山君だけじゃなくて援助の手がのびることでしょう。
そして、桐山君はそれをちゃんと予想しつつ、許可をとってこの二か所に訪問しました。策士です(笑)


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第二十五手 盤に縋って前を向け

 平穏な日常。

 変わり映えのない毎日。

 それがどれだけ尊い日々だったか、唐突に思い知る。そんな日が来ることがある。

 

 

 

 

 

 

 対局を終えて、家に帰った時居間から聞こえた怒鳴り声に、一瞬身体が固まってしまった。

 この声……後藤さん?

 どうしたんだろう……藤澤さん相手にこんなに声を荒らげるなんて珍しい……。

 

 気になってしまって部屋にも上がれず、廊下で立ち尽くしてしまった。

 聞こえ漏れてくる声に、奥さんとか病院とか医者がどうとかいう単語が目立つ。

 そして、後藤さんの荒れ具合から察してしまった。

 

 そうか、この頃なのか……彼の奥さんが倒れるのは……。

 聞いた感じだと、まだ入院とかそういう段階じゃないみたいだ。

 でも、命にかかわる病気が分かって動揺してる。

 前の時期、香子姉さんが、後藤さんについて回るようになったのは、彼女の高校卒業間近の頃だったから……それまでの数年間、彼は悩み続けたんだろう。

 そして、その後も奥さんが亡くなるまで、何年も何年も、ずっとずっと奥さんに時間を捧げる。

 香子姉さんとの関係は、当時の僕には理解できなかったし、潔癖の気があった中学生には難しすぎた。

 

 でも大人になってみて分かった。

 無理もなかったと思う。

 二人ともただ、寂しかったのだ。

 どうしようもないほど、空いた胸の穴をどうにかして埋めたかっただけ。

 特に、いつかくるその日をくるな、くるなと思いながら日々を過ごしていたであろう後藤さんには、必要だったのかもしれない。

 お子さんがいたら違ったんだろうけど、どういうわけか二人の間には子供がいなかったみたいだし。

 

 そんなことをぼーっと考えていると、足音も荒く廊下にでてきた後藤さんと鉢合わせしてしまった。

 

「……ちっ、どけよ。ガキ」

 

 身が縮こまりそうになるほどの声だ。

 これは相当きてるな……。でも、僕は引かなかった。

 

「落ち着いてください。酷い顔ですよ、そんな状態で運転する気ですか?」

 

 自分で事故るか、誰かを巻き込んでしまいそうなほど危うい雰囲気だった。

 今、彼を帰してはいけない気がする。

 

「いーからどけっ、俺は今、気が立ってる。おまえの相手は出来ん」

 

 ビクッと肩が震える。これほど荒れた彼を見たことがなかった。

 

「奥さん……倒れたんですか……」

 

 僕の言葉に、彼が眉を寄せた。凄いな、もう最大限に寄っていたと思うのに、まだ寄るんだ。

 

「盗み聞きか? いい趣味だな」

 

 鼻で笑われたけど、気にしない。

 

「そんなに、悪いんですか?」

 

「おまえには、関係ない」

 

 ますます、彼が苛立ってきてるのが分かった。

 

「病院……まだ、一軒だけでしょ。違う医者にも見てもらった方がいいと思うんですけど」

 

「知ったような口をきいてんじゃねぇよ」

 

 あぁ……だめだ。全く届いてない。

 彼の頭の中は怒りと悲しみでもういっぱいなのだろう。

 

 つられてはいけない。

 僕までヒートアップしたら収拾がつかなくなると分かっているのに、上手く気持ちが抑えられない。

 

「……なんで分かんないかなぁ。最初がどれだけ肝心だと思ってるんですか」

 

 僕のいた未来ではそれが本当に顕著だ。早い段階での治療選択が、その後数年の闘病生活を、ひいては治癒の有無を決める。

 この時代だってそのはずだ。

 医者だって間違えることがある。なんのためのセカンドオピニオンだと思ってるんだよ。

 医者からの一方的な治療じゃなくて、患者と医者とで治療を選ぶためだろう。

 そりゃあ、ショックだよ。直視なんてしたくもないのも分かる。何度も何度も、キツイ現実を突きつけれられるだけかもしれない。

 でも、新しい可能性が見つかるかもしれないのに……。

 それをしないで、諦めるなんて馬鹿だ。

 

 そして、何より僕が腹が立つことが一つ。

 

「だいたい、何であんた、今ここにいるんだよ! 奥さんは家で一人? 傍に居てあげろよっ」

 

 彼は痛いところを突かれたような表情をした。

 

「うっせーな、分かってるよ。動揺してる俺が傍に居たら、余計不安にさせるだろうが!」

 

「あんたが、情けない所みせたくないだけだろっ。彼女を不安にさせるかもしれない? それでもいいだろ! 誰よりも、傍に居てほしいはずなんだからっ」

 

 分かる。わかるんだよ。

 動揺を悟られてはいけない。自分だけは揺らがずどっしり構えていないと、一番不安なのは奥さんのはずだから。

 でも、だからって逃げてきたら駄目だろ。

 悟られてもいい、それでもいいんだ。動揺して当たり前なんだから。

 そのうえで、一緒にいてあげないと、一人で待ってるその人がどれだけ心細いか……。

 

「絶望して、足止めんな。みっともなく何でも縋ってあがいてよ! あんたが信じなくて、誰が信じんだよ」

 

「何を信じろってんだよっ、あぁ? 神様でも信じろってか!?」

 

 怒鳴り返した彼に、僕も負けじと声を荒らげる。

 

「奥さんと自分とに決まってんだろっ」

 

 こんなに叫んだのいつぶりだ? 彼が虚を突かれたように固まった。

 

「神様なんて、信じたって縋ったって何もしてくれない。残酷な運命を突きつけてくるだけだ……」

 

 理不尽なことを、残酷なことを、さもそれが仕方ないことのように、まるで決まっていたことのように、淡々と突きつけてくる。

 だってそうだろ? じゃないと、何で俺の家族は死ななきゃならなかったんだよ。

 

「病院行って、沢山話聞いて、選択肢はいっぱいあるはずだ。奥さんとよく話して、どうするか決めるべきだろ。可能性がゼロじゃないのに、全部終わったみたいな顔しないで」

 

 今日、明日どうこうなるわけじゃない。

 今できる最善手を選び続けたら、数年後画期的な治療法が見つかるかもしれない。後藤さん、あんたの人脈と財力があったら、それを選ぶことも絶対に可能だ。

 治る見込みは今はないのかもしれない。

 でもだからって、諦めてほしくなんかなかった。行き着いた先を僕は知ってしまっているけど、その未来だって変えられる可能性もゼロじゃない。

 

 だって、僕の未来は変わって行ってるんだから。

 

 先の見えない日々を、闘うのは哀しいかもしれない、苦しいかもしれない。

 でも……その時間が与えられていることが、……どうしようもなく羨ましかった。

 

「俺には……縋れる可能性すらなかったのに……」

 

 全部、あっという間だったんだぞ。

 家に帰ったら、ある日突然全部奪われて、全部無くなってた。

 こんな理不尽なこと他にないだろ。

 

 だから、あんたには無駄にしてほしくない。

 その時間がどれくらい貴重なものか、あんた以上に分かってるっ。

 

「……っ、おい……」

 

 後藤さんのギョッとしたような表情に、自分の失態に気づいた。

 

 

 

 抑えきれなかった、感情が頬を伝って零れ落ちていた。

 

 

 

 ……っ、駄目だ!

 此処で、泣くなんて卑怯すぎるっ。

 

 此方に手をのばそうとしてきた彼の手を振り払って、慌てて自室へ駆け込んだ。

 

 後ろ手に扉を閉めて、ずるずるとドアに背を付けて座り込む。

 

「癇癪起こした、子どもかよ……ばかか、俺は……」

 

 傷ついてる人に、更に塩塗り込んでどうするんだよ。

 説得して、冷静になってもらいたかったのに、このざまだ。

 ほとんど感情のままに吐き出してしまった言葉を思い出して、へこんだ。

 はぁ……と大きく溜め息をついて、頭を抱える。

 

 

 

 どのくらい時間がたっただろうか、数分だったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。

 

 にゃーんと、小さな声がして顔を上げた。

 いつの間にか、部屋にいたシロが僕の足へ頭を押し付ける。

 ザリザリの舌で、僕の手の甲をなめるその子を、座り込んでいた膝の上に抱き上げた。

 

 ぐっと小さな身体をのばして、僕の顔をなめる。涙の痕をぬぐわれているみたいだ。くすぐったくて、一生懸命なその姿が可愛くて、ささくれ立っていた心が和んだ。

 

 慰めてくれてる。

 彼らは、優しくて賢い。僕たちの心の機微に驚くほどに敏感だ。

 ごめんね。ありがとう、もう大丈夫だよ。

 何ども声をかけながら、彼の頭を撫で続けた。

 

 やりきれない感情と、ぶつけようのない口惜しさと、自分の無力さをなんとか消化しようとしていた。

 

 

 

 

 

 数時間たって、晩御飯のために下に降りたとき、藤澤さんからあの後の後藤さんの様子を聞くことができた。

 かき乱すだけ、かき乱して現場を放棄してしまった僕としては、その後フォローをしてくれたであろう藤澤さんに頭が下がる。

 

「あいつも、少し頭が冷えたようだった。もう一度居間に戻って来てな。わしに知り合いの医者を紹介しろと言ってきたよ」

 

「そう、ですか……。良かった……」

 

 あの人の神経を逆なでして終わっただけだったら、どうしようかと思っていた。

 

「あいかわらず、苛立っていたし、どこかにカチコミにでも行きそうな顔だったがね」

 

 その言葉に思わず、噴出してしまう。

 

「確かに、凄い顔でしたからね……」

 

「わしは、あれに引かなかった零くんに驚いたよ」

 

 よく言ってやったと僕の頭を撫でて、君は間違ってはなかったよと言ってくれた。

 そして、僕の背に手を回しておもむろに引き寄せる。

 

「大丈夫さ……、君がこんなに一生懸命想ってるんだ。正宗も奥方も諦めてない。きっと大丈夫さ……」

 

 見透かされた気がした。

 自分の事を重ねてしまったのも、これから失ってしまうかもしれない後藤さんの事を思って、怖くてしかたなかった事も。

 

 なまじ、その後の彼を知っているぶん、思い出して辛かった。

 奥さんを失った後の数年間の荒れようはすさまじかった。将棋が無ければ、たぶんどうにかなっていたのではないだろうか。

 

 変えられない未来なのかもしれない。

 それでも、信じてみたかった。

 もしくは、この数年が変わることで少しでもその時を穏やかに迎えてほしかった。

 哀しみが変わるわけがない事をしっていても、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことがあったけど、僕の日常は進み続けるし、棋戦も勿論当たり前にやってくる。

 後藤さんはあの日から、一度も藤澤家には顔を出していなかった。

 僕もなんとなく、気まずいのでその方が助かる。

 

 けれど、なんとも間の悪いことに……棋神戦の決勝リーグで後藤さんと同じ組に割り当てられた上、その対局が今月なのだ。

 

 8月からの予選トーナメントを突破して、本戦入りを決めた棋神戦は、前期七番勝負の敗者および前期の各リーグでの成績上位者のシード枠4名と、今期の予選突破者8名の合計12名が、紅白2つのリーグに6名ずつ振り分けられ、総当たり戦を行う。

 2つのリーグの優勝者が、挑戦者決定戦に進み、その対局の勝者が棋神への挑戦権を得る。

 

 リーグ戦ということは、勝率が一番良ければいい。

 各リーグで全戦は5戦。5勝すれば文句なしの優勝で挑戦者決定戦に進めるけど、強者ぞろいの中でなかなかそれは、難しいので、4勝1敗での優勝もあり得るし、勝率が並んだ場合プレーオフもある。

 実力が拮抗してるので、プレーオフになだれ込むことも珍しくはない。

 

 とりあえず大事な一戦目になる。初回から黒星スタートは苦しすぎるから、なんとか勝ちを掴みたいところだ。

 色々あったけど、全部今はわすれて、目の前の対局だけに集中しよう。

 

 後藤さんとの公式戦初対局になる。

 ひょんなことから弟弟子になってしまったから、非公式な対局数はプロ棋士の中では一番多い。

 もちろん全部が全部、本気で指し合ってるわけじゃないけど、僕たちはお互いに負けず嫌いだから、手を抜いてるわけでもない。

 棋譜は全て置いてある。全部さらった。

 彼の直近の公式戦でA級とあたったものや、本戦や挑決の対決のものなど、目ぼしいものを時間が許す限り研究した。

 久々に寝食を忘れて咎められるくらいには、のめり込んだ。

 

 勝ちたかった。

 

 彼との初の公式戦だとか、リーグ戦初戦だからとかそんなことよりもなによりも、勝者の言葉じゃないと重みが減る。

 

 だから、何としても勝ちたかった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 その日は、雨だった。一面厚い雲に覆われて、昼間から薄暗い。

 じっとりとした空気は重く、2月の寒さが余計に身に染みた。

 

 いつも通り、先に対局室に入って下座につく。

 時間ぎりぎりに来た後藤さんは何も言わなかった。

 

 時間になりましたのではじめて下さいの合図で対局は始まる。

 今日は僕が先手だ。

 

 後藤さんは予想通り、「穴熊」への準備をはじめていた。

 何パターンか考えていたけど、5手目に飛車をふったあと、迷うことなく僕も「穴熊」を組む。

 

 重厚が売りの彼の棋風。真正面からぶつかってみせる。

 棋神リーグの持ち時間は4時間、長くはないけれどそこそこの時間が与えられている。

 じっくり指し合うことが可能だ。

 

 後藤さんは角まで取り込んで、がっしりとした「居飛車穴熊」を組んでいた。相変わらずの手堅さだ。

 

 この対局は僕の「振り飛車穴熊」vs後藤さんの「居飛車穴熊」の相穴熊勝負となった。

 

 盤面の右側に両者の穴熊がかっちりと組み合う。後藤さんの穴熊はもう見るからに強硬。

 この牙城を崩せなければ、僕の勝ち目はない。

 

 先手らしく、果敢に攻めていく。

 51手目、5八飛車、飛車を中央に移動させた僕の揺さぶりに、後藤さんは揺らがず、焦らず、淡々と対応をする。

 いくら強硬とはいえただジッと構えている訳ではないのが、彼だ。

 

 62手目、7七飛成。後藤さんが切り込んできた。

 角と飛車の交換になる。

 

 さらに畳み掛けてきて、交換した角を6九に打ち込み、飛車・銀交換へ。

 

 焦ってはいない。僕は飛車を切った。

 大丈夫。局面的には不利にみえるけど、まだ手はある。

 

 じっと、潜んで、息を堪えて。

 長考の後に、71手目、8三角と指した。

 

 後藤さんも警戒しているんだろう。その後、時間を使って応手を考えていた。

 大丈夫、まだ気づかれてない。

 成らした角を、79手目に5五馬へ移動する。

 

 そして、81手目。決めにかかった。2二馬、これ以上ないほど鋭い切り込み。

 

 中盤以降、ほぼ読み通りにさせた。

 これだけ、上手くさせたことは彼との対局でも珍しい。

 

 97手目。僕の5四龍の後、後藤さんは静かに投了した。

 

 

 

 感想戦は、拍子抜けするくらい何時もの感じだった。

 

 8三角が痛かったと、予想していなかった手だけに、意図が読み取れなかったらしい。

 完全に裏をかけたということなので、嬉しくてにやついていたのがバレたのだろう。

 生意気な奴めと毒づかれた。

 

 対局後に送っていくと言われて、素直にうなずいた。

 ここで断ったら、こっちだけ気にしてるみたいで癪だし。

 

 先を歩く彼の背中を追っていると、ぽつりと言葉を掛けられた。

 

「……悪かったな」

 

「え?」

 

「じじぃにあの後、なじられた。子どもに当たるなってな。大人げなかったわ」

 

 溜め息をつく彼は、珍しいくらいにバツが悪そうで、そしてとても疲れているように見えた。

 

「……良いですよ。僕も不躾でしたし、あんなに怒鳴ることもなかった……お互い様です」

 

 僕の返事に、おまえのそういうとこが気に入らんと後藤さんはめちゃくちゃに僕の髪をかき回した。

 

 なんだよ、何がいけなかったんだ?

 

「美砂子とも話した。あいつは、普段おとなしいのになぁ。こういう時は強かったわ、俺よりずっと心決まっていた」

 

 彼女の事を話す、後藤さんの目が、声が、見たことも、聞いたこともないくらい優しくて、僕はグッと口を噛みしめた。

 

「なんつー顔してんだよ」

 

 いつもの彼の憎まれ口なのに、そんな優しい声で言わないでほしい。

 

「……っ、元から、こういう、顔です」

 

 湿った声にならないように、何とか返した言葉。

 抑えたいと思っている僕の意思を汲んで、彼は気づかないふりをしてくれた。

 

「たっく、おまえも大概だけど、じじいも幸田さんもお節介だし、全くたいしたもんだよこの門下は」

 

 棋士に医者の知り合いは多い。

 自分の伝手だけじゃなくて、色々頼ってみることにしたようだ。

 あぁ……良かったなと思った。

 一人で抱え込むには辛すぎるから。

 

 

 

「将棋指すか、零」

 

 

 

 暫く無言で歩いていて、唐突に聞こえたその言葉が、信じられなくてぼくはポカンと口を開けてしまった。

 立ち止まった僕に気づいて、前を歩いていた彼が呆れたように振り返る。

 

「なんだよ、勝ったら名前で呼べってあんなにしつこかったろうが」

 

「いや、確かに名前でって言いましたけど……そっちですか」

 

「そっちも何も、門下の奴らはみんなこう呼んでるだろ。何だ? 俺に呼ばれるのは不満ってか?」

 

「いや、そういうわけじゃ……ないんですけど……。なんか慣れなくて」

 

 僕が戸惑っているのが、分かって彼はますます面白そうにした。

 しまった! これは、嫌がらせを兼ねて嬉々として呼ばれるパターンだ。

 

「俺は、約束を破りたくないので、これからは零って呼ぶわ」

 

 神妙な顔してるけど、口元わらってますからね!

 

「良いですよ! どうせすぐなれますから。指しましょう。今日の感想戦も含めて、めっちゃめっちゃにしますからね」

 

 売り言葉に買い言葉で、返事をした僕は、はっとして止まった。

 

「えっと、でも帰らなくて大丈夫ですか?」

 

「あぁ。今日はお義母さんが来てくれてるし、俺がいない方がいいときもある」

 

 母と娘で話したいこともあるだろうとのことだ。

 

「それにな、指してる間だけは無心でいられる」

 

 小さく呟かれた彼の本心に痛いほど覚えがあった。

 

「それ、ちょっとだけ分かります。将棋を指してる間は、そのことだけを考えていられる」

 

 以前の僕がそうだった。幸田家に居場所を見つけられなかった僕は、将棋を指している時間だけが、全てを忘れられて、それだけで良くて、その時間が救いだった。

 

 後藤さんは、唐突に僕の頭をかき回したけど、それ以上は何も言わなかった。

 

 僕らは、プロ棋士だ。

 指して、指して、指して、盤に縋ってその先に進めるなら、それの何が悪いのだろうか。

 彼がもとめるなら、その時は何があっても相手をしようとそう決めた。

 この先の、苦しい数年間を応援したいと思ったのは僕なのだから。

 

 

 

 

 


 

 2月中旬に合格発表もあり、僕の進学先は無事に私立駒橋中学校に決まった。

 藤澤さんの家からは将棋会館を挟んで真逆になるので、ちょっと遠いが仕方ない。

 

 何故だかしらないけれど、普通科のなかでも進学クラスに配属されるところだったのを慌てて連絡して、辞退させてもらった。

 どう考えても、余計な労力を使うのは目に見えていたから。普通の勉強だけでも手間だ。

 制服だとか、教科書だとか、諸々の準備を自分ですませるつもりだったのに、ある日対局から帰ったら、ぜーんぶ揃っていた。

 藤澤さんに、詰め寄ったけど親の仕事だと言われたら、もう有り難く受け取るしかない。

 後手に回ってしまった……どうも、小学校の制服を勝手に新調したときから、こういう事に対しての僕への信頼は地に落ちているらしい。

 記憶を合わせた年齢でも敵わない藤澤さん相手に、出しぬけるわけないし、もう甘えておくしかないだろう。

 

 あわただしい私生活だったが、対局は宗谷さんに負けた影響もなく順調だった。

 これで調子を崩すのではと、一部で言われていたらしいが大きなお世話である。

 戻った後の僕には、確かに初めての黒星だったが、前の記憶では散々負けているのだ。

 今更立ち直り方や、立て直し方に迷うようなことは少ない。それほど酷い対局だったわけでもないのだから。

 

 順位戦は9戦目まで終わって全勝。

 3月の最終戦を残して、昇級が決まった。4月から僕はC級1組になる。

 それに伴い昇段するので、四段でいるのは3月末日までだ。

 そのせいか、やたらとサインを頼まれて困っている。

 学校でも、クラスメイトや何故かその保護者分、そして校長。イベントに顔を出せば、しばらくは離してもらえない。

 そんなに欲しいものなのだろうか……。四段ってプロでは一番下なのに……。大事なファンサービスなので、ちゃんと対応するけど。

 

 青木君から言わせると、たった一年しかなかった四段期間は貴重だし、小学生プロ棋士の時間も終わるから尚更だと言われた。

 そういえば、その一文を入れてほしいと言われることも多い。

 そういうもんなのか、思った僕に、彼がうんうんと頷いたのが印象的だった。

 

 2月末といえば、MHK杯の予選が一気に行われる時期でもある。

 タイトル戦ではないものの本戦はテレビで放送されるとあって、注目度と知名度が高い棋戦だ。

 

 本戦シード以外の棋士は東西の将棋会館でトーナメント方式の予選を行い、通過した18名が本戦に出場できる。

 予選は持ち時間各20分・切れると一手30秒の早指し戦を1日3局で、一気に予選を終わらせてしまう、タイトな日程である。

 

 本戦には、宗谷さんたちA級棋士はシードで出てくるし、テレビ放映の時間枠内に対局が終わってほしいため、持ち時間は各10分で、それを使い切ると1手30秒未満となる。他に見ない早指しの将棋となる。

 

 ある意味とても面白いのだ。

 僕は持ち時間が長い対局のほうが好みではあるけど、早指しは得意だし、MHK杯の空気は嫌いじゃない。

 あまり、理解されない例の感覚のおかげで、考えるよりも先にスッと手が浮かぶことがあったりして、20代の頃、優勝を宗谷さんと取り合っていたなぁと懐かしく思った。

 

 東京の将棋会館で行われた予選を三戦きっちり勝って突破を決めた。

 これで、視聴率が上がると会長は大喜びだったし、翌日学校で会った青木くんも、来年テレビで桐山くんが観れると、喜んでくれた。

 施設の皆で応援してるからと言われて、これは下手な対局は出来ないなぁと気を引き締める。

 折角彼らが、憧れていてくれてるのだから、カッコ悪いところを見せたくないと思うのは別に悪いことじゃないよね?

 

 来月はいよいよ年度末。

 長かった冬がさり、別れと出会いの季節が訪れようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




この話は、書きながら、泣いちゃうというなかなか貴重な経験をさせてもらった回です。
後藤さんと兄弟弟子にしたなら、避けては通れないしな……と。
個人的にはタイトルも珍しく気に入っています。

次は後藤さん視点。
当時は需要あるのか?とかも思いましたが、意外と後藤さん人気で驚いた気がします。


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第二十六手 その先を知る子ども

 

 元来俺は、子どもが好きではない。

 此方が何もしてなくても、ビビってるのは一発で分かるし、騒がしいし、落ち着きもない。

 関わると余計に疲れるし、他人を慈しむような繊細なたちでもない。

 だから新たに、末の弟弟子が出来ると聞いてもたいした感慨はなかった。

 

 藤澤師匠には、世話になっているし、あの人がいなくてもプロにはなっただろうが、あの人が師匠だったから俺は、平均よりはやくプロ入りを果たし、その後も順当に棋力を伸ばし、ここ数年はA級というトップクラスで対局が出来ていると思っている。

 

 もう随分と歳を取り引退した師に、穏やかな日常を過ごして欲しいと弟子としては思っていた。

 そんな時、今更新しく弟子をとるなんて、わざわざ面倒なことを……と考えるのも当然だろう。

 しかも内弟子に迎えるという。

 数年前に家族を亡くした施設育ちの子ども……手がかかりそうな気配がした。

 幸田さんの親友の子ということで、うっすらと父親のことは思いだせたが、その人が弟子として東京にいた間と、俺が弟子入りした期間はあまりかぶっておらず、印象は薄かった。

 

 それでも師がそれを望むのであれば、俺に止める権利はないし、幸田さんも自分が持ち込んだ話なら、手を貸すだろうから、俺の出番はないだろうと……そう思っていた。

 

 

 

 そいつの門下への顔合わせが行われた時、俺もしぶしぶ師匠の家へ出向いた。

 最近足が遠のいていたし、たまには顔をださないとまずいだろう。

 

「すいません、少し遅れました」

 

 俺の声に、反応して部屋の中央にいた子どもがパッと顔を上げた。

 

「おぉ! 来たか正宗。今日の対局も勝ったのか」

 

「えぇ、問題なく。それで、幸田さんにせっつかれて、わざわざとることにした弟子はどいつです?」

 

「あぁこの子だよ。おいで、零くん。大丈夫、ちょっと顔は厳ついが別にとってくわれやしないよ」

 

 藤澤さんが促して、俺の前に小さな子どもを連れてきた。

 

「桐山零です。よろしくお願いします」

 

 澄んだ翡翠色の瞳がまっすぐに俺を見ていた。

 子どもと目があったのは、久々な気がした。

 

「ふーん。後藤正宗だ。おまえ、小さいな、歳いくつだ?」

 

 幸田さんから一応話は聞いていたような気もするが、まったく興味がなかったので、覚えていなかった。

 

「10歳になりました。背はこれから伸びるからいいんです」

 

 へぇ……、まともに返事が返ってきたのは意外だった。これくらいの年齢の子どもと会話が成り立ったことは少ない。気が弱そうな見た目の割に、しっかりとした物言いだった。

 周囲が、予想外の反応にざわついているのも分かる。

 

「正宗。零くんはこの歳で、もう三段リーグに到達するくらい有望だよ。あんまり威嚇するんじゃない」

 

「そんなつもりはないですけどね、相手がいつも勝手にビビってるだけで。それにしても、三段リーグですか……このチビがね……」

 

 10歳で三段リーグね。にわかには、信じられない。

 

「あぁ、そうだ! 良かったらちょっと一局指したらどうだい? 零くんもA級棋士と指せるのは、勉強になるだろう。正宗は今、門下の中じゃ一番の棋力を持っとるだろうしな」

 

「はい! 是非お願いしたいです」

 

 また、面倒なことを……と、俺が断ろうとする前に、勢いよくそいつが頷いた。

 こうなってしまっては、いささか断りづらい。場をしらけさせるのも、本意ではないし。

 

「まぁ……俺は別に良いですけどね。で、角落ち? 飛車落ち? それとも2枚落とそうか?」

 

 俺が半分本気で、告げたそのことばに、キュッと子どもの目が吊り上がった。

 

「……平手でお願いします」

 

「へぇ……後悔するなよ。俺は手加減が下手なんだ。先手はゆずってやるよ、おちびさん」

 

 指し出すと一気に雰囲気が変わった。

 こういう奴は、だいたいにおいて強い。

 これは……ひょっとしたら、それなりに楽しめるかもしれないと、そう思った。

 

 そして、そんなふうに考えているうちに、あっという間に持っていかれた。

 本腰を入れようとしたときには、既にあいつのペースで、そこから巻き返させてくれるほど、この子どもの終盤が弱くもなかった。

 

「……なるほどな、負けました。確かに、小5で三段リーグに入るわけだ。

 これじゃあ、奨励会員で相手になる奴はそういねぇな」

 

 本心から出た言葉だった。

 久々に才能の塊に出くわした気がして、俺はふと四段になったばかりの宗谷と初めて対局した時のことを思いだした。

 

「しっかし、可愛げのかけらもねぇ将棋だな、おい」

 

「社会で生きていくのには可愛げもいるでしょうけど……将棋にまで持ち込んだら、上にいけませんので」

 

 ツンとした顔で言い返す姿は、年相応だった。

 その返答が面白かったのだろう。対局を観戦していた奴らがドッと笑って、子どもへ声をかけていた。

 

 最初から本気でやってやりゃよかったのに、と俺にも声を掛けられたが適当に流しておいた。

 

 本気だったさ。

 途中からは、公式戦と変わらない気分でいつの間にか指していた。そうさせたのは、あのチビだ。

 

「零くん、楽しそうに指してたねぇ」

 

「え? そうでしたか?」

 

「あぁ、私が見たなかで一番いきいきとした表情で指しておった。やはり、強い子は強い相手を求めておるんだな。正宗、おまえの時間があえばまた、指してあげなさい」

 

 藤澤さんは穏やかな表情で、子どもの事をみていた。

 あんたそんな顔するようになったのか……。すっかり好々爺だ。

 

「そりゃあ、隠居じじぃと指すよりは、俺と指したほうが楽しいだろうよ。……ま、俺も暇じゃないから、気が向いたらな。お前もさっさとプロになれよ、ちびすけ」

 

「なりますよ! あと、その呼び方止めてください」

 

「おまえがプロになったら考えてやるよ」

 

 俺にとってなんの得にもならない対局であれば、師匠の言葉だろうが絶対に受けはしなかっただろう。でも、このチビとの対局はなかなかに面白かった。

 こいつは絶対にプロになるし、そうなれば公式戦でもあたるわけで、今から指し合っておくのも悪くない。それに、柔軟に見せて意外と強気で大胆なこの棋風に興味もそそられた。

 藤澤さんや幸田さんをはじめとした他の門下の前では、ただの大人しい良い子でいるチビが、俺には食って掛かってくるのも、まぁ面白かったのだ。

 

 それから、俺は足が遠のいていたはずの師匠の家に顔を出すようになった。

 自分から主張をしてくることはないが、師匠と俺が話しているのをそっと伺って、今日は指してくれるのだろうかと、少しそわそわしている姿をみると、らしくもなく絆されてしまった。

 

 俺に対しても委縮せずに自然体。

 桐山零は、そういう不思議な子供だった。

 

 

 

 

 

 気が付けば、あっという間にプロになり、会長の良く分からん企画で、島田や隈倉、そして宗谷とまで対局していた。

 なんとまぁ贅沢な経験だろう。

 プロ入り前にそれだけの人物と対局できるのは、更にあいつの感覚を研ぎ澄ませているようだった。

 

 小学生プロ棋士。

 俺の弟弟子の話題性と実力は相当なもののようで、あいつは全く負けなかった。

 そのことがより一層の注目を集める要因となった。

 

 とはいえ、対局でいくら勝とうが、稼ごうが、あいつはまだ12歳の子どもで、幼く頼りない。

 過保護に拍車がかかっている藤澤さんは、対局後の帰宅をとても心配していた。

 幸田さんは、積極的にあいつの送り迎えをしたし、門下の奴らも気にしているような風潮だった。

 俺もあまり気のりはしなかったが、頼まれれば自分の対局があった日くらいは送ってやった。

 

 口が悪い自覚もあるし、優しくしてやってるつもりもないが、不思議なものであのチビは、周りからすれば俺に懐いているように見えるらしい。

 

 あいつは将棋馬鹿で、どこかずれてるところもあるから、単に強い対局相手を気にいっているだけだろうと俺は思う。

 おそらく、俺があまり子どもから好かれない数々の要因を、気にしてないのではないか。宗谷がそうだったし、なんとなくそんな気がした。

 

 

 

 

 

 順調に対局をこなし、プロとしても落ち着いていた時期に、事件に巻き込まれたのはあいつの油断と周囲の慣れもあったからだろう。

 

 藤澤師匠から連絡があって、地方の仕事の帰りに何故か師匠の家に寄ってしまった。

 

 対局を終えて、幸田さんに連れられてかえってきたあいつは、少しだけ大きくなった気もしたが、それでもちびのままだった。

 額の傷と、右手の包帯が目につく。本人はケロっとしたものだが、これは相当会館でも話題になったことだろう。

 

 ガキなんだから、気を付けろという悪態に、拗ねたように頷いたそいつは、珍しく一局指してほしいと言ってきた。

 大体は、藤澤さんが促すか、俺から水を向けなければ滅多に言ってくることはない。

 視線をずらした先で藤澤さんが頷いていたので、俺は受けてやることにした。

 

 お互い利き手ではない、左手で指し合ったその日の対局はいつもと違う雰囲気だった。

 

 感想戦の途中でうつらうつらとしはじめた、ちびにやっぱり疲れてたんじゃねーかと少し呆れた。

 暫く無言で眺めていると、盤に頭がついてしまいそうなほどだった。

 

 眠いなら、布団にいけと声をかけると、もごもごと対局の礼のようなことを言って、立ち上がり部屋を出ようとしていた。しかし、どうにも、ふらふらと足元が覚束ない。

 結局俺は、襟首を掴んであいつを引き止めて、そのまま抱き上げて運んでやった。

 適当に布団に押し込むと、すぐにどこからともなく猫が2匹やってきて、あいつの布団に潜り込む。

 白猫の方は、すこしだけ隙間から俺の方を伺って、眠りを妨げるなら容赦しないとでも言うような雰囲気だ。

 はいはい。邪魔はしませんよ。と適当に声を掛けて部屋を出る。

 

 あの猫たちはどうにも俺には懐かないが、ちびにはよく懐いていた。白猫の方は、あいつのことを守ってやらなければならない存在のように考えているようで、黒猫は自分と同類のように思っているようだった。

 

 柄にもないことをした気がしたが、師匠は足が悪い。これくらいしてやるのは、兄弟子の仕事の範疇だろう。

 知られると面倒な気がしたので、藤澤さんには、あいつが自分の足で布団に行って寝たと報告しておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 対局をこなし、妻のいる家に帰る毎日。

 最近は師匠の家に行ったり、あのちびの事を構ったりすることもあったが、そんな変わり映えのしない日々がこれから先も続いていくのだろうと、そう疑いもなく信じていた。

 

 

 

 美砂子から、病院でした検査の結果が癌だったと報告されたのはその頃だ。

 

 

 

 足元が、ガラガラと崩れ落ちたような気がした。

 何故、どうして、冗談だろ、間違いであってほしいと、そんなことばかり頭をよぎった。

 

 現実は非情だった。

 乳癌で、すでにリンパ節への転移があるらしい。若い年代で発症してしまった癌の進行は、はやい。

 検査で見つかった時にはもう疑いようがないレベルだった。

 

 あいつは何度も、何度も謝った。

 俺に謝る必要などないのに。

 

 ただでさえ、結婚後子どもが出来にくい身体であると分かり、結局子宝に恵まれなかったことで、彼女は俺にうしろめたさを感じている。そのうえ今回のことで酷く動揺しているのが分かった。

 

 気に病むな、大丈夫だ、きっと治る。俺は出来ること全てするから、とそう声をかけた後、会館に残してきた仕事があると家を飛び出した。

 

 耐えきれなかった。

 恐怖、絶望、怒り、悲しみ、焦り、混ざり合った感情が膨れあがって、爆発しそうだった。

 彼女の前だけでは、それは避けたいという一心だった。

 

 適当に入ったネットカフェのパソコンで調べまくった。

 治療法、都内の有名な病院、医師、妻の進行度がどれほど不味いのか、治る見込みはあるのか。

 そして生存率はどれくらいなのか。

 結局、最後の単語を入力することが出来なかった。具体的な数字を目にして正気でいられる自信がなかった。

 

 抜け殻のようにふらふらと店を出て、気が付けば藤澤さんの家の前で立ち尽くしていた。

 

 迎え入れてくれた師匠は、俺の顔を見るなり、すぐに居間へと引き入れ、何があった?大丈夫か?と尋ねて来た。

 そんなにひどい顔らしい。

 

 

 

 その時の俺は、自分が何を話したのかほとんど覚えていない。

 理不尽な事態に対する怒りをぶつけ、どうしようもない現実を嘆き、美砂子の気持ちを思うと、心が痛んで仕方なかった。

 

 師匠は、ただただ俺の話を受け止め、聞いてくれていた。

 

 ひとしきり吐き出して、廊下に出た俺は、そこで突っ立っていた桐山の姿を見たとき、冷静ではいられなかった。

 

「……、どけよ。ガキ」

 

 ぞんざいに吐き捨てる。

 視界から消えてほしかった。

 まともに相手が出来る気がしなかったし、そんな状態の自分から離れてほしかった。

 

「落ち着いてください。酷い顔ですよ、そんな状態で運転する気ですか?」

 

「いーからどけっ、俺は今、気が立ってる。おまえの相手は出来ん」

 

 あいつの肩が震えた。気圧されているのは間違いないのに、それでも俺に向かってこようとするのが理解できなかった。

 

「奥さん……倒れたんですか……」

 

「盗み聞きか? いい趣味だな」

 

 あいつの問いかけが一気に俺の神経を逆なでした。

 

「そんなに、悪いんですか?」

 

「おまえには、関係ないだろっ」

 

 踏み込まれたくない領域にずけずけと入ってくる。

 

「病院……まだ、一軒だけでしょ。違う医者にも見てもらった方がいいと思うんですけど」

 

「知ったような口きいてんじゃねぇよ」

 

 もう何でもいいから、そこをどいて通してくれとそれしか頭になかった。これ以上この場にとどまると、なんとかとどめている全てが剥がれ落ちてしまう気がした。

 

「……なんで分かんないかなぁ。最初がどれだけ肝心だと思ってるんですかっ!」

 

 怒鳴る俺にたいして、淡々と答えていたあいつが、声を荒らげて怒鳴った。

 出会ってから、一年と少し経つが、聞いたことが無いほど大きな声だった。

 

 そこからは、お互い怒鳴り合い。

 後から思えば、いい大人が小学生相手になにやってるんだと、自分で呆れた。

 

 病院に行けと言う。

 もっと多くの医者の意見を聞けと。

 情けなかろうが、不安だろうが、妻の傍に居ろと言う。

 自分と美砂子を信じて、足掻けとそうあいつは叫んだ。

 

 目を背けたかった全てを、突きつけてくるあいつの言葉に耳が痛かった。

 

 そして、どんな言葉よりも俺の心に突き刺さったのは……

 

 

 

「俺には……縋れる可能性すらなかったのに……」

 

 

 

 思わず零れ落ちたような小さな言葉だった。

 行くあてを無くした迷子のように頼りないその声が、あいつの本心を映し出していた。

 

 そして、スーッと静かにその瞳から零れ落ちた、しずくを見たとき。

 血の気が下がり、一気に頭が冷えた。

 

「……っ、おい……」

 

 自分でも驚くほどに動揺した声に、あいつは自分の状態に気づいたようだった。

 本意ではなかったのだろう。

 しまったと顔に出ていた。

 あっという間に、引き止めようと伸ばした俺の手を振り払って、自分の部屋へと駆け込んでいった。

 

 振り払われた手が少し痛んだが、それ以上の衝撃があった。

 

 泣いていたのだ。

 あの桐山零が。

 

 大人しく、冷静で、感情の揺れをほとんど見せない、あの子どもが、声を荒らげて怒鳴って、そして涙を流した。

 

 

 

「正宗、いくらなんでも、子どもにあたったら駄目だろう」

 

 茫然と指先を見ていた俺に、藤澤さんがそう声をかけた。

 

「……そうですね、どうかしてました」

 

「少しは頭が冷えたか?」

 

「えぇ……まぁ、……あいつも泣いたりするんですね」

 

 俺の言葉に藤澤さんは肩を落とした。

 

「わしが見たのも一度きりだから、今回の事で2度目だな。あの子は隠すのがとても上手だ。本当はもっと不安定であっても何らおかしくない年頃なのにな」

 

 弟子入りの時、父親である桐山さんの話を藤澤さんがした時以来、一度も涙は見せていなかったという。その後も、何度かせがまれて、桐山さんの話を藤澤さんがしたこともあったそうだが、瞳を揺らしそうになっても、絶対に師匠の前で泣くことはなかったらしい。

 

 そういう子どもなのだ。

 分かっていたつもりだった。

 

「そんなあの子が、お前の事でこれほど心を揺らしたんだ。分かるか? 正宗」

 

「えぇ……それはもう、嫌というほどに」

 

 自分のためには泣けなくても、他人のためには泣くような子どもだ。

 繊細で優しい、甘ちゃん。

 そして、当時のあいつにとって何よりも大切だったであろう全てを奪われ、失った、寂しい子ども。

 

 知っていたつもりだった。

 だが、所詮は他人事だったのだ。零れ落ちたあの一滴をみて、それをようやく痛感した。

 

 あいつの目に俺はどれほど、贅沢にみえただろうか。

 失うかもしれない掛け替えのない唯一を前に、絶望していた自分が情けなかった。

 まだ、美砂子は俺の隣に居てくれるのに、それすら見えなくなるところだった。

 

 縋れる可能性すらなかった。というあの小さな叫びが、頭の中でこだましていた。

 

 失うかもしれないと思うだけで、これほど痛く、恐ろしく、身動きが取れなくなる。

 

 既にその先で、ポツンと取り残されたあいつの気持ちが、推し量れるわけがない。

 この痛みは、体験してみなければ、理解できるわけがない。その喪失感も絶望も本当の意味で分かるなんて不可能だ。

 心に深く爪痕を残していくこの傷は、自分で乗り越えていくしかない。

 

 使えるものは何だって使って、足掻いてみようと思った。

 そうしなければならない。俺と美砂子にはその時間がある。

 

「藤澤さん、厚かましいですが、知り合いの医者紹介してください。俺より伝手も多いでしょう」

 

 ぼそっと尋ねた俺に、師匠は優し気に目を細めた。

 

「もちろんだとも、いくらでも協力する。話も聞く。いつでも、此処に来なさい。お前の行く道は険しいものになるだろうからな」

 

 有り難い言葉だった。やはりこの人にはかなわない。

 

「それから……、あいつのフォローお願いします」

 

 抉らなくてよい傷を抉ってしまったのは俺だが、今はまともにあいつと話せる気がしなかった。

 

「あの子はね。次にここに降りて来た時には、何でもないような顔して普通に過ごそうとする。それが出来てしまう子なんだ」

 

 藤澤さんは俺の言葉に、困ったように肩を落としてそう告げた。

 

「悪いとおもったのなら、正宗。また将棋を指してあげなさい。それが一番喜ぶことだ」

 

 美砂子と話して、落ち着いたらまたその機会も来るだろうとおもった。

 改まった話なんて、今更できないが、将棋を指せばそれが代わりになるような気がした。

 

 

 


 

 

 その後せわしなく、動き回っているうちに、公式戦で先にその機会がきてしまった。

 いつもより少しギリギリの時間に対局室へ足を踏み入れたとき、自分の前の席に既に座って待つ、あいつの姿があった。

 

 公式戦初対局。

 情けない内容にはしたくなかった。

 

 俺の戦法は得意の「穴熊」。

 重厚が売りだとか言われている俺の棋風に、あいつは真っ向からぶつかってきた。

 俺の「居飛車穴熊」にたいして、あいつは「振り飛車穴熊」を選択した。素直に面白いなと思った。

 

 

 

 その時の俺の頭の中には、こいつとの将棋の内容しかなかった。

 美砂子のこと、今後のこと、ここ最近の俺の全てだったことを、全く考えもしなかった。

 

 しっかりと固めた俺の布陣にあいつは果敢に攻めてくる。

 決して捨て身なわけではない。自分の玉の守りは維持したまま、絶妙なタイミングで踏み込んでくる。

 こういうところが生意気なのだ。

 

 あいつが長考の末に指した8三角の一手が対局の行方を決めた。

 勝負手なのは理解できたが、その後の俺の応手は見劣りするものだっただろう。

 

 この対局に相当な気合いを入れ、準備をしてきていたのが分かった。

 俺とはかけた気持ちの大きさと、時間が違ったのだろう。対局がはじまる前から、俺は出遅れていたわけだ。

 

 送っていくと声をかけた俺の後ろを、軽い小さな足音がずっとついてくる。

 

「……悪かったな」

 

 何の含みもなさそうなその様子に、毒気を抜かれて自然とそう呟いていた。

 

「え?」

 

「じじぃにあの後、なじられた。子どもに当たるなってな。大人げなかったわ」

 

 あの俺の精神状態で、まともに相手ができたとは思えないが、それでも泣かしたことには罪悪感があった。

 

「……良いですよ。僕も不躾でしたし、あんなに怒鳴ることもなかった……お互い様です」

 

 こういうところが、子どもらしくない。

 他人の事情に心をくだいたせいで、自分も傷つけられただろうに、こうもあっさりと引けるのだ。

 

「美砂子とも話した。あいつは、普段おとなしいのになぁ。こういう時は強い。俺よりずっと心が決まっていた」

 

 家に帰った俺が、もう何軒か病院をまわろうと告げたとき、美砂子は静かにうなずいた。

 俺がいない間にネットでも随分と情報を調べたらしい。

 最近は闘病記を乗せているブログも多い。そんなものを一人で見ていたあいつの心境を思うとたまらなくなった。

 目をそらすことなく真っ直ぐに、自分の今後を見据えているあいつが眩しくて、どうしようもなく愛おしかった。

 

 

 

 俺の言葉を聞いていたそいつが黙り込んだから、ふとその顔を見るとなんとまぁ情けない顔をしていた。

 

「なんつー顔してんだよ」

 

 もうひと押し、何かがあれば泣くんじゃないかというような表情だった。

 

「……っ、元から、こういう、顔です」

 

 グッと唇をかみしめて、必死で堪えようとしているのが分かった。

 自分のためには泣かないくせに、こいつはホントにお人よしだ。

 

「たっく、おまえも大概だけど、じじいも幸田さんもお節介だし、全くたいしたもんだよこの門下は」

 

 師匠から話を聞いたであろう幸田さんも、俺の様子を伺いながら、力になりたいと言ってきてくれた。桐山を泣かせたことまで、耳に入っていてそれには少しお小言を貰ったが。

 

 

 

「将棋指すか、零」

 

 

 

 ふと問いかけた俺の言葉に、キョトンとしたあいつの顔は傑作だった。

 

「なんだよ、勝ったら名前で呼べってあんなにしつこかったろうが」

 

「いや、確かに名前でって言いましたけど……そっちですか」

 

「そっちも何も、門下の奴らはみんなこう呼んでるだろ。何だ? 俺に呼ばれるのは不満ってか?」

 

 どいつもこいつも、零、零と煩いから、すっかり苗字よりも名前の印象が強かった。

 

「いや、そういうわけじゃ……ないんですけど……。なんか慣れなくて」

 

 照れている。

 これまでも、散々いろんなことで揶揄してきたが、全く動じていなかったこいつが、目に見えて動揺していた。

 

「俺は、約束を破りたくないので、これからは零って呼ぶわ」

 

 これはしばらく面白そうだ。無駄に名前を呼んでやろう。

 

「良いですよ! どうせすぐなれますから。指しましょう。今日の感想戦も含めて、めっちゃめっちゃにしますからね」

 

 以前の日常のように、俺に噛みついてきた零は、すぐにハッとしたようにこちらを伺ってくる。

 

「でも帰らなくて大丈夫ですか?」

 

 こういう、気をまわしすぎるところがなぁ……。

 

「あぁ。今日はお義母さんが来てくれてるし、俺がいない方がいいときもある」

 

 美砂子も俺の前では、気をはっていたいという意地もあるだろうし、母親の前でなら素直に泣けるのではないだろうか。

 

「それにな、指してる間だけは無心でいられる」

 

 今日は彼女の傍には俺の代わりに居てくれる人がいる。

 それなら、その時間を悶々と答えのない問題について、頭を悩ましているよりも、さっきのような対局をしていたかった。

 

「それ、ちょっとだけ分かります。将棋を指してる間は、そのことだけを考えていられる」

 

 少しだけ、寂しそうな様子でそう答えた零の頭をかき回した。

 

 そうか、お前もそうやって、前に進んできたのか。

 家族を失い、単身東京の施設に預けられた期間をおもうと、流石に少しだけ胸にくるものがあった。

 

 盤に縋って必死で生きて、努力して、いま俺たちと同じプロになっている。どれほどの想いを将棋にかけてきたのだろうか。

 

 そして、おそらく俺もそうしていく他ないのだろう。

 俺たちは、プロ棋士はそういう生き方しか出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




この話を書くときに、映画後編の後藤さん病室のシーンとか改めて見直したんですけど……号泣して堪らなかったです。伊藤英明さんの演技が素晴らしすぎる。
映画に編集というか内容に関しては、いろいろとえ?って思う所もあるのですが、俳優さんたちの演技はどの方も最高に素晴らしいです。

そういえば、後藤さんと香子さんの関係性ですが、原作のようになる予定は無いので。
まず香子さん側が桐山くんの事であれてるわけでも無いですし、家を頻繁に空けたりもしません。他に夢中になる事も出来ましたしね。
後藤さんも幸田さんの家に行く暇があるなら、今は師匠の家の方に興味が移ってます。
奥さんの事で色々あったとしても、将棋を指す事の方でそれを発散しようとします。相手はその辺にいるA級だったり師匠だったり桐山くんだったり。内容が酷い対局になることもあるけど、別にいいんです。気持ちの整理をつけるための物ですから。
それを分かって、相手をしてくれる人が周りに沢山いることを彼は知りました。



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第二十七手 川が見える部屋

 3月上旬。

 小学3年生の頃に転校し、通い続けた学び舎を旅立つ。

 

 前回とは違う小学校だったし、何より青木くんという友人がいた日々は楽しい学校生活だったと言える。

 6年生の時の修学旅行は対局が重なっていたため不参加だったが、5年生の時の林間学校は大変だったけれど良い思い出だ。

 枕投げに誘われるなんて、前回から考えたらありえない。先生の見回りがきた! と言われて、サッと布団にもぐって寝たふりをした時、目が合った青木くんとお互い笑いをこらえたことは、たぶんずっと忘れないだろう。

 

 対局が過密スケジュールになって、休みがちになった秋ごろからは、随分青木くんに助けられた。どういう宿題がでたとか、明日の授業はこれがいるよとか、僕の対局スケジュールもよく把握してくれていて、その日あったことから、次の時のことまで、様々な情報をくれた。

 

 将棋に詳しい彼が分かりやすく僕の仕事のことを、周りに話してくれていたようで、クラスメイト皆が、なんとなく応援ムードだったのも過ごしやすかった理由の一つだ。

 テレビの撮影が入ったこともあったし、番組の特集がいつの間にか組まれていたりと、目に入りやすい形で、メディアで伝えられていたことも大きかったかもしれない。

 

 

 

 卒業式が終わって、教室で担任から一人ひとり改めて卒業証書を貰う時、みんなどんなことでもいいから夢について語るように言われた。

 一番手は青木くん。

 こういう事は苦手な子だけど、大丈夫だろうか……。

 

 少し戸惑ったようなそぶりを見せた彼は、僕と目を会うと、しゃんと背筋を伸ばして、大きくはないけれど教室の隅までとどく声で宣言した。

 

 小説家になりますと。

 

 なりたい。じゃなく、ハッキリとなりますと宣言したことにとても驚いた。

 教室隅で、小さくなって本を読んでいた男の子は、もういなかった。

 ……そうか、君も、君の道を見つけたんだね。

 

 それからあと、皆の夢は様々だった。

 プロ野球選手、歌手、パティシエ……小学生らしい夢から、公務員なんて手堅く言う子もいて、今時だなぁと思った。

 

 僕の出席番号もそれなりはやいから、順番はあっと言う間に来た。

 

 夢か……。

 職にはついてしまっているしなぁ、と思いながら前にでて、卒業証書を受け取る。

 振り返って教室の後ろに並ぶ保護者たちの中に、藤澤さんを見つけた。

 わざわざ、来てくれている。良い所を見せたいな、とちょっと思った。

 

 棋士にはなってしまっているから……だったら今後の展望だろう。

 

「僕は……名人になります。いつか必ず、そのタイトルを取ります」

 

 他にもタイトルはいっぱいあるけど、やっぱり名人位は特別だ。

 僕の宣言に教室は盛り上がった。

 青木くんは、嬉しそうに拍手してくれたし、藤澤さんは優し気に目を細めた。師匠が元気なうちに、挑戦権をとりたいなぁと思った。前夜祭でスピーチしてくれたらなって思うのは、少し贅沢かな?

 それが実現できるように頑張ろうと思った。

 

 帰りは久々に青木くんと帰った。師匠には事前に断りを入れている。晩御飯はご馳走だから帰っておいでねと、とだけ言われた。

 

 もうこの道を通ることはないんだろうなぁと二人して少し、しんみりしながら施設へと向かう。

 園長先生や、馴染みの職員の方々にもちゃんと卒業の報告をしたかったのだ。2年ほどとはいえ、此処は僕を受け入れてくれた大切な場所だったから。

 

 今日を境に、青木くんと会える機会は少なくなるけど、連絡は頻繁に取り合おうと約束した。

 青木くんは、桐山くんの対局の中継をみるから寂しくないよ、と笑っていた。

 以前、この玄関で別れたときに泣いていた彼の様子とつい比べてしまって、大きくなったなぁと感慨深い。子どもの成長ってすごいと思う。

 

 

 

 

 

 一応、小学校最後の春休みに入ったけれど、僕は相変わらず対局に勤しむ毎日だ。

 

 将棋界では年度末に毎年度功績を残した棋士に日本将棋連盟から与えられる賞である将棋大賞を決める選考会が行われる。

 最優秀棋士賞、優秀棋士賞、敢闘賞の3つの賞は有名だし、重複の受賞が認められていない。

 

 このほかにも、新人賞、東京将棋記者会賞、升田幸三賞、名局賞……などのいくつかの賞がある。

 これらは、棋士の成績や活躍を総合的に判断して3月31日頃の選考会で決められて、受賞式は4月上旬になる。

 

 そして、記録部門の4つの賞である、最多対局賞、最多勝利賞、勝率一位賞、連勝賞は成績の数字で決定される。

 

 タイトル戦の本戦に常連になる棋士ほど、予選が免除され対局数はすくなくなるし、予選から勝ち上がらなければいけない若手は、本戦進出を決めきれなかったりして対局数が抑えられるのが通常である。

 薄々気が付いてはいたが、一次予選から勝ちぬいて本戦入りを果たし、いまだに負けていない僕の対局数は異常なほど多くなっていた。

 

 その上、対局数は多いけれど、上半期は若手との対局ばかりで、本戦入りをしだした冬からようやく、危ない対局が増えだしたので、勝率も下がらなかった。

 

 結果、最多対局賞、最多勝利賞、勝率一位賞、連勝賞の受賞が確定してしまったらしい。まだ数局残っているが、全て負けたとしても揺らがないそうだ。

 

 前回の記憶から考えてもあり得ない記録だ。

 このことを会長に聞かされて、4月の授賞式は、おまえが出ないと始まらないから絶対出ろと念押しされたとき、僕は初めてちょっとやりすぎたなと実感した。……だからといって、わざと負けるなんてあり得ないのだけれど。

 

 

 

 

 

 春休みのうちに私立駒橋中学校へも行く機会があった。

 簡易的な健康診断や、新学期に向けての説明会が行われると聞いたからだ。

 その時また軽くテストも行われた。

 クラス分けとか、今後の教育カリキュラムへの参考にするらしい。こういう勉強熱心なところは、私立っぽいなぁと思う。

 

 僕は4月からの大まかな対局スケジュールについて話しておきたかったのと、対局で休む時の申請の仕方などを聞きたくて、帰宅前に職員室を訪れた。

 

 すぐにあの面接の時の教頭先生が気づいてくれて、対応をしてくれた。

 ついでに、担任も少しフライングになるけど、紹介しておこうと、引き合わせてくれた。

 欠席のことなんかは、その人と詳しく話しておくといいとのことだ。

 

 

 

 引き合わされたその人にあまりに覚えがありすぎて、僕は驚愕してしまった。

 

「林田先生……どうして……」

 

「あれ? 何で俺の名前知ってんの?」

 

「えっ!? えぇぇと……。あ! 学校を見学に来た時にお見かけして……でも、その……高等部側の教員じゃなかったんですか?」

 

 駒橋高校一年で担任をしてくれた、林田高志先生に間違いなかった。

 驚いてうっかり名前を呼んでしまったから、慌てて適当に取り繕う。

 

「この春に担任をしてた高3を卒業させてなぁ……中学の方で急遽、産休の欠員がでたから、その補充で一時的に移動したんだ」

 

 高校教師は中学の教員免許も持っている人は多いし、私立ならではの事だろう。

 でもまさか、また担任になってもらえるとは思ってもみなかった。

 

「俺の将棋好きは有名だったし、桐山くんが入学してくるのは面接で分かってたからなぁ。教頭の采配だろう。棋界のことを良く知ってる奴が持った方が、君も相談しやすいだろうってな」

 

「そうだったんですね……、有り難いです。一年目よりは忙しくなることは確定していますから」

 

 教頭先生……協力するから是非うちにおいでと言ってくれたが、本当にここまでしてくれるとは……。

 

「ここは校長も将棋が好きなんだよ。高校の教員にも将棋好きが多くてなぁ。たぶん落ち着いたらめちゃくちゃ声かけられると思うよ」

 

 林田先生は苦笑しながらそう言った。前の時のようにアウトレイジの将棋教室みたいなことにならないと良いけど……。

 

「あ、そうだ。俺、朝日杯の対宗谷戦な、会場のホテルにいって見てたんだよ、凄かったなぁ」

 

「え!? そうなんですか……そんなわざわざ……」

 

「都内に住んでるのに行かないなんて将棋ファンならあり得ない! あそこで名人相手に、一歩も引かずに指し合っていた子が教え子になるなんてな……感慨深いよ。本戦入りしてるタイトル戦もあるもんな。聖竜戦なんて新学期そうそう大事な時期だろう」

 

 流石によく分かってくれている。そして僕の対局状況もすっかり把握されているようだ。

 これは想像以上に、楽かもしれないと思った。

 林田先生には高校の時、本当にお世話になったから。

 

「桐山くんは成績も問題なさそうだし、休む事はあんまり気にしなくていいよ。テストと対局が被りそうだったら……というか間違いなく何処かは被るだろうから、その時はまた考えよう。担当の教科の教員にはちゃんと話をつけるから」

 

「本当に助かります。勉強するのは嫌いじゃないんですけど、やっぱり対局が僕にとっては優先なので……進学クラスの件も辞退させてもらいましたし」

 

「あぁ……あれな、君の入試の成績があまりによすぎてなぁ……事情を知らなかった教員が進学クラスに入れたいって言い出してな」

 

 なるほど、それで合格通知がそうなってたのか……。

 

「ま、無理強いはできないから、君が辞退した時にすっぱりその話は流れたから心配するな」

 

 良かった、高校の進学すら今からどうするか微妙なところだし。そんなクラスに配属されたら正直困る。

 

 そのあと、今後の真面目な話と、雑談も半分交えながら林田先生とはしばらく話をした。

 流石にもう帰る時間になって、4月から宜しくお願いしますと、立ち去ろうとしたときに、少し迷ったような彼からサインが欲しいと言われて笑ってしまったけど。

 四段でいられるのは、ちょうどこの3月まで。是非欲しかったんだと、満足そうに色紙を眺められるとこちらとしても、少し照れくさいけど嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

                                     

 

 懐かしい人に出会って、新生活へのスタートも順調に迎えられそうだった矢先……僕にまた大きな転機が訪れる。

 

 

 

「え……? 救急車で運ばれたんですか!? どうして……」

 

 対局が終わって、送ってくれるという幸田さんに落ち着いて聞いてほしいと前置きされ伝えられたのは、藤澤さんが救急車で運ばれて入院することになったという事だった。

 

「階段から落ちたらしくてね……もともと悪かった膝を完全に壊してしまったらしい……。大丈夫、命に別状はないよ。意識もはっきりしていて、電話で私にちゃんと零くんを迎えにいけと言ってくるくらいには元気だったよ」

 

 落ち着いて、と僕の肩に手をのせて引き寄せると、そのまま背中を優しく叩いてくれた。

 驚いた衝撃で、詰めていた息をはっと吐き出す。

 

 外から帰ったら家族が……と、いうのは僕の中ではあまり良い記憶では無い。

 一瞬で悪い方に考えてしまっていた。

 

 幸田さんは伝え方が悪かった。驚かせてしまったなぁとすっかり血の気が引いた僕を落ち着かせてくれた。

 そして、零くんが大丈夫ならこのまま病院にお見舞いに行こうと。

 僕は何度も頷いた。

 何よりも、自分の目で確認したかった。

 

 

 

 病室について、ベッドの上で上体を起こしてこちらに手を挙げた藤澤さんに駈け寄った。

 震えていた僕の手を握って、驚かせてすまんな、といつもの柔らかい声で言われて、やっと安心できた。

 安堵で力が抜けてしまって、その場でへたり込んでしまったのは、情けなかったけど……。

 後ろでみていた幸田さんが慌てて、椅子を探して持ってきてくれた。

 

 藤澤さんは今までも膝を痛めていて、手術しようか微妙なところだったらしい。

 それを、本人の希望から薬でだましだまし、なんとかやっていたそうだ。

 今回足を踏み外したときの衝撃で、左の膝関節は骨折。どうせ手術をするならと、人工関節をいれる方向で、話を進めていると言われた。

 そうなると、術後の回復を待ってのリハビリ、再び歩けるようになって退院するまでを考えると、半年近くは覚悟しなければならない。

 また右足の方も膝は今回折れなかったものの、悪いことには変わりないのでどうするかという問題も浮上してくる。

 

 長い入院生活になることが予想された。奥さんの和子さんは運転が出来ず、車もお持ちでないので、近くに住んでいる娘さん夫婦の力を借りることが多くなるだろう。

 おまけに娘さんは、第2子の妊娠中、和子さんの力を借りるべく、いっそのことしばらくあちらの家で一緒に住まないかと話している場面にも出くわした。

 和子さんは僕の名前をだして、零くんが一緒にいけないなら無理だと伝えていた。

 娘さんは少し悩んでいるようだった。上の子はまだ4歳らしいし、旦那さんの意見もあるだろうからすぐに返答出来ないのは当然だろう。

 

 

 

 娘さんご夫婦の家に御厄介になる選択肢は、僕の中では存在しなかった。

 デリケートな時期の娘さんの負担にはなりたくなかったし、彼女たちに僕は扱いにくい存在であることは間違いない。

 そして、和子さんは娘さんの家に行った方がいいような気がした。

 実際娘さんの妊娠がわかって、本格的につわりなどが始まるころは少し家を空けることが多くなるかもと前もって言われていたのだ。その時は、藤澤さんとお留守番をしていますよ、と話した覚えがある。まさかこんなことになるとは思わなかったけれど。

 和子さんが躊躇しているのは、僕が一人になるからだ。だったらその要因を丸ごと無くせばいい。

 

 動くときが来たかなと思った。

 このまま、藤澤さんの家で、師匠と奥さんと猫たちと過ごせるなら、一般的に一人暮らしが許されるであろう年齢まで、そうするつもりだった。

 でも状況は変わってしまった。だったら、自分の周りの環境は自分で整えないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                    

 

 師匠と奥さんに今後の事で相談したいことがあると切り出した。たまたま来ていた幸田さんと、後藤さんも同席していたけれど、もし僕の要望が通れば二人にはすこし手伝ってもらうことになると思うので、丁度いいと思った。

 

「一人暮らしをしたいです。学校と会館から近いマンションで。もう目星はついていて……あとは、保証人がいれば契約できます」

 

 その場の空気が固まった。

 

「何っているんだい。零くん、君はこんどやっと13歳になるんだよ。一人暮らしなんて……」

 

 真っ先に止めたのは幸田さんだった。うん、それが普通の反応だとは思う。でも僕は引きたくなかった。

 

「学校の附属寮に入ることも考えました。……けれど、一人部屋ではないみたいですし、流石に対局前は一人になりたいですから」

 

「私と一緒に娘のところに行くのは……やっぱり嫌?」

 

 和子さんの寂しそうな声が、響く。これは結構こたえた。

 

「娘さんはこれから大事な時期でしょう……一番流産もしやすい時期になります。僕のような部外者が行くことは負担にしかなりません」

 

 それに……棋士の娘の家とはいえ、今は将棋と全く無縁のその家庭で、まともに研究やら対局の備えができる気はしなかった。それなら以前の幸田家にお世話になっていた時のほうがまだましだろう……。

 

「それなら、これまで通り和子と零くんで、家に居たらいいだろう。和子は頻繁にあいつのところに行けばいい、零くんはしっかりしてるからその間くらいは問題がないだろうし」

 

 確かにそれなら僕も賛成だ。

 家の手伝いなら僕にも出来るしなんなら数日家を空けられても留守番くらいできる。藤澤さんが退院できるまで、あの家でいられたらとも一応考えた。

 けれど……

 

「それは、和子さんのご負担が大きいでしょう。長期になるわけですから、藤澤さんの病院に通ってくるのに、娘さんの協力はあったほうがいいのでは?」

 

 病院と娘さんのお家と自宅と……ずっと行き来するのは負担だろう。藤澤家はあまり交通の便が良い場所ではない。ご高齢の和子さんが一人で頻繁に移動するのは骨が折れると思う。だからこそ、娘さんが手伝いたいと申し出ているわけだし。

 

「それに、2回目とはいえ、娘さんもやはりお母さんの和子さんがお側にいた方が心強いのではないかと思います。上のお子さんもまだ小さい。お一人で面倒をみるのは妊婦さんには大変でしょう。ならいっそ、一緒に居るべきだと思います」

 

 そもそも、そうして欲しいと思わなければ、娘さんは和子さんに家に来たらいいとは言わないはずだ。近くに頼りになる母親がいて、その手を借りたいと思うのは当然だと思う。

 記憶の中でひなたが妊娠した時の事が思い出された。あかりさんは随分助けにきてくれたし、もう家族ぐるみみんなで彼女を支えた。命を育み、産むということはそれだけ尊く、大変なことだ。

 

「それなら、うちに来たらいい、もう香子も大きいし、歩もわかってくれるだろう」

 

 幸田さんがそう提案してくれたけれど、それはやはり遠慮したい。子どもたちの事も気になるけど、それよりも僕はもうプロ棋士だから。

 

「本戦へ出場が決まった棋戦も多くなりました。幸田さんと当たる日もあると思います。そんな日はやはり気まずいですし……」

 

 プロ棋士同士が同じ家に住んでる事例なんてめったにないだろう。師弟なら無くはないだろうけれど、普通は避ける。

 幸田さんはそんな日があったら、自分がホテルか何かとるからと言ってくれたけど、家主を追い出すのはいかがなものか……。

 

「あーもう、まどろっこしい。もう建前は色々並べただろ。お前のホントのところちゃんと言えよ、零」

 

 痺れを切らした後藤さんがそう言ってこっちをみた。

 建前……ちゃんとした理由だったと思うんだけど……。

 でも、そうだな賢そうな理由をいくら並べるよりも、もっと感情にうったえる理由も必要だろうか……。

 

 

 

「僕の……僕だけの城が欲しいんです。生意気だけど、これでも棋士だから」

 

 

 

「いーんじゃねぇの。認めてやっても」

 

「正宗!」

 

 幸田さんが咎めるように後藤さんの名前を呼んだけれど、彼は少し手を挙げてそれを制して続けた。

 

「何もすっぱり家を出て、完全に独り立ちしろってわけじゃない、週の何日かは藤澤さんの家や、娘さんの家にでも飯を食いに顔を出すことにしたらどうだ?」

 

 数時間でも顔をみたら、安心するだろうし、それくらいなら負担になるなんてこいつも言わないだろ、と後藤さんが続けた。

 

「こいつが子どもなのには変わりないが、いっぱしに稼いでるのは確かだ。棋士として戦っていくのに、どうするのが一番過ごしやすいか、考えた結果でしょう。尊重してやってもいいと俺は思いますよ」

 

 やってみてあまりにも自活が出来ていなかったら、幸田さんの家に連れて行ったらいいんじゃないかと、執り成してくれた。彼からの援護射撃があったのは本当に意外だったが、とても有り難い。

 

「そうだな……何より、零くんの意思を一番に尊重してあげるべきか……。柾近、正宗。すまんがわしの代わりに、物件探しや引っ越しを手伝ってあげてほしい」

 

 しばらく静観していた藤澤さんがそう言ってくれた。

 あぁ……良かった。

 高校生ならともかく中学生では流石に厳しいかとも思っていたから。

 藤澤家の居心地は決して悪いものではなかったけれど、僕のなかにはあの川沿いのマンションの部屋に帰りたいという気持ちも少なからずあったのだ。

 

 幸田さんはまだしぶしぶと言った感じで、隙あらば自宅に僕を迎え入れようという雰囲気だ。これはちゃんと家事もしないと不味いな……と気を引き締めた。

 

 動きが取りづらい藤澤さんのかわりに、保証人は幸田さんがなってくれた。何かあったら真っ先に連絡が行くと言う事なので、万が一でもそんなことが起こらないようにしないと……。

 

 いくつかの約束事もした。

 毎日どんなに短くてもいい、朝起きたときの挨拶や家に帰ったという報告でもいいから、連絡をすること。

 毎週何日かは、誰かと食事をすること。

 和子さんのところに食べに行ってもいいし、門下の誰かと食べてもいい。

 僕の部屋には幸田さんを中心に門下の人が時々、抜き打ちで様子を見にいくとのことだった。

 

 

 

 

 

 物件は六月町の川沿いにあるあのマンション。

 幸運なことに、まったく同じ階の同じ部屋が空いていたのは少し、嬉しかった。

 

 幸田さんは引っ越しにも随分と手を貸してくれた。

 必要最低限の家電や家具だけの予定だったが、ベッドをはじめ勉強用のちゃんと座れる椅子と丁度いい高さの机、棋譜や本を整理するための棚、たんす、それから以前一番困ったカーテン!

 やっぱり必要なものは、一度引っ越しを経験したり、一人暮らしをしたことがある方が、ちゃんと分かると思う。

 大きい窓だから、あけると気持ち良いだろうと、遮光カーテンだけでなくて内側のレース状のものまで買ってくれた。

 

 そう……買ってくれたのだ……進学祝いだとかなんとか言って、お金は出させてくれなかった。

 門下全員からだと思ってくれたらいいと言われたから、出資者は一人ではないみたいだけど……。

 

 それから、シロとクロだけど……藤澤家が無人になる期間が長くなってしまうので、試しに僕のマンションに連れて来た。

 猫は人より家につくといわれるくらい、住む場所と自身の縄張りを大事にする生き物だから、あまりに落ち着かなければ、藤澤家にかえして、エサやりや世話は僕か和子さんが様子を見にいって、行えば良いだろうという話になっていた。

 

 クロは落ち着かないようで、ケージの中でじっとしているけれど、シロは部屋中を歩き回って、色々と確認をしているみたいだった。

 君たちと一緒だと心強いよ、狭いけど許してくれるかな、と声を掛けた僕に、二匹がにゃーんとタイミングよく鳴いたのには笑ってしまった。

 この2匹とも仲良くやれそうだ。

 

 色々とバタバタしてしまった年度末だったけれど、4月の年度始まりまでになんとか落ち着けた。

 

 僕の対局状況は、獅子王戦のランキング戦6組はベスト8まで勝ち上がって、本戦出場の権利がある1位までは後3勝。

 棋神戦は決勝リーグの真っ最中。

 棋竜戦は2次予選の突破を決めて、本戦入りを果たした。

 棋匠戦と玉将戦も順調に予選を勝ち上がっている。

 順位戦以外で、最初に予選が始まった聖竜戦は決勝トーナメントでベスト4まできていた。あと2勝してトーナメントの勝者となれば、宗谷聖竜への挑戦権を獲得することができる。

 新人戦トーナメントも順調に勝ち進んでおり、貴重な記念対局の権利のためにも頑張りたい。

 

 そして、僕が一番落としたくなかった順位戦はC級2組を10戦全勝で昇級を決めた。

 4月から僕は五段となり、C級1組で戦うことになる。

 

 

 

 

 一通りの片づけが終わって、窓を開けてベランダに出たとき、懐かしくて少しだけ、ほんの少しだけ泣きそうな気持ちになった。

 

 この場所から見える水面と、音と、景色を見て生活をして、戦い続けた。

 この部屋は僕にとっての原点だ。

 

 以前の僕が東京に来てようやくたどり着いた、少しだけ息のしやすい場所。

 

 川本家というもっともっと暖かい場所を知った後も、やっぱり自分だけのこの部屋は特別だった。

 

 

 

 川辺のこの部屋と、新しい学校と……再出発をするつもりで頑張ろうと決意を新たにした。

 

 

 

 




桐山くん、家を出る。
オリキャラを師匠にした理由の一つに、早めに一人暮らしをさせてあげたいという気持ちもありました。
もし既存キャラが師匠だったら、なかなか理由づけが難しそうだと思いまして。

六月町のあの家は彼にとっての原点だと思います。
川本家とは別、大切な場所では無いでしょうか。

次はシロの視点です。
そうです。まさかの猫の視点です。


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第二十八手 吾輩はシロである

 

 我が輩は猫である。名前はシロ。どこで生まれたのか、分からない……。

 なんてね。これ、有名な小説家が書いた本なんだって?

 僕は賢いから、こんなことも知ってるんだよ。

 

 僕のご主人様はね。とっても優しい奥様。

 世間一般では、旦那の方が家主というらしいけれど、あの男は全然家にいなかったし、帰ってくる時間も遅いし、家に居たって、あの棋譜という紙切れに夢中で全然相手をしてくれないんだ。

 だから、僕にとってのご主人様は、和子の方。

 野良で家無しだった僕に居場所をくれた、優しい女性だ。

 ご飯もくれるし、自由にさせてくれる。干渉をし過ぎず、僕の意思を尊重してくれる良い女だよ。

 ほんと邦晴には勿体ない。

 あいつは、今でこそ落ち着いて、弟子という子どもたちも沢山いて、なんか出来る男みたいにみせているけれど、僕が幼い頃なんて、どうしようもない奴だった。人間の年齢ならいい大人だったはずなのに。

 将棋という、盤の上の駒遊びに夢中だ。

 和子はそれが、仕事だというが、それにしたって、本当にそれしかしない!

 あいつ和子がいなかったら、生きていけないんじゃないのか?

 まだ、僕の方が自立出来てるぞ。

 僕は、ご飯をもらえなくても、その辺で雀もカエルも捕れる。家がなくたって、雨風しのげる場所はいっぱい知ってるんだから。

 でも、この家の方が温かいし、落ち着くし、ご飯も美味しいからね。

 居心地が良いからここに居てあげてる。

 和子は、子どもが独り立ちしてから、寂しかったみたいで、僕がいると喜んだ。邦晴のやつは将棋ばかりでほとんど家にいないから。

 

 

 

 しばらくして、家の庭に小さい黒いのが迷い込んできた。

 母猫は死んだらしい。

 弱々しく、ガリガリで哀れなやつだった。

 僕の縄張りに、別の猫がいるのは気にくわなかったけど、まだ乳離れもしてないチビをいじめるような事はしない。

 案の定優しい和子は、その黒いのを助けてやった。

 黒いのは、和子を母親代わりにまぁなんとか大きくなって、クロという名前を貰ってこの家に居着いた。

 

 怖がりな性格であまり外にはいかない。いつも家の中をチョロチョロしている。人間に虐められたらしくて、人間も嫌い。

 和子だけ特別だった。邦晴はまぁ同居人だからね。怖くはないらしいが、好きでもないらしい。

 僕のことは兄ちゃんと慕って後ろをついてくる。仕方ないから面倒をみてやるし、余所の猫が庭に来たら追い払ってやった。

 まぁ、うちの家を守るついでに、こいつの事も守ってやろう。

 そんなこんなで、この家で暮らし始めて、季節も何度もまわった後。

 

 うちに人間のチビっこい奴がやってきた。

 

 最初に家に来たとき、和子に夏になったらうちに住む子だから、仲良くねと言われた。

 子どもは嫌いだ。

 近所のチビどもの騒がしさといったらない。分別というものが無いのだから。

 まぁでも和子が言うなら仕方ないかなと思った。

 

 でも、その子どもは、その辺のチビたちとは違った。

 よろしくと、僕の頭をそっと撫でた後は、無理に構ってはこなかった。

 うるさくもない。落ち着いていた。

 

 なんとなく変だなぁと思って、よくよく見ていると、このチビなんとちぐはぐだった。

 魂と身体が微妙に合っていない気がする。

 僕は賢い猫だから、その辺もちゃんと分かるのだ。

 人間は分からないらしいけど。

 こいつほんとに人間か? とだいぶ警戒したけど、中身がちょっと大人なだけで普通の人のようだった

 まぁこういうこともあるのだろう。微妙な違和感はあるけれど、波長は同一だし、無理に入ってる感じではない。

 大人と言っても、僕の精神年齢よりは下のような気がした。

 僕は人間で言ったら和子たちと同じくらいには、もうなってる筈だから。……たぶんね。

 

 零というチビっこは、暑くなる季節に、正式にうちにこしてきた。

 最初はちょっと慣れなかったけど、良い奴だったし、なんだかとても苦労しているらしい。

 ちぐはぐだから故の孤独もあるようだった。

 親もいないらしい。

 かといって、和子たちを親の代わりにしようともしていなかった。

 和子たちは、実の子どものように可愛がっていたけどな。

 

 クロは、零と波長があったのだろう。やたらと懐いていた。同じだからだと言っていた。

 分からんでもない。

 なんだか、苦労しているようだったし、零と仲良くしてると和子が喜んだから、僕も零のことは気にかけてやった。

 

 零が家にきてから、弟子たちもよく顔を出すようになった。

 幸田はまだいい。

 うるさくないし、威張らないし。

 後藤はあまり好きじゃない。

 なんか、雰囲気が威圧的だ。クロが怖がるし。

 この二人は、特に零と仲が良いらしくて、頻度が増えた。

 

 零も、邦晴と一緒で将棋が好きらしい。

 晴れた日も日向に当たりにもいかず、部屋の中で棋譜という紙切れをみている。

 楽しそうだから、良いけど。

 和子がご飯だと呼ぶのにも気づかないから、仕方ないから教えてやった。

 邦晴とふたりして、遅くまで将棋もするし、ほんと人間って仕方ないな。

 僕がしっかりしてあげないと。

 

 零がうちに来てから、季節が一回くらいまわった。

 

 その間、和子も邦晴も楽しそうだった。

 零は優しかったし、僕たちの事も好きらしいから、僕たちも零が好きになった。

 愛情にはちゃんと愛を返すのだ。

 

 外で怪我をさせられて、帰ってくることもあった。

 仕事の将棋で負けて、悔しそうな日もあった。

 後藤の奴に泣かされた日もあった。

 

 いつだって、側に居て、夜は一緒に寝てあげた。

 

 だから、邦晴がドジって足をやってしまって、この家を少し空けることになった時、僕は零について行ってあげることにした。

 本当はここが好きだし、縄張りが他の猫にとられるのは嫌だったけど、和子が零のことを心配してたから。

 クロは僕が一緒だったら、新しいとこでも我慢できるそうだ。こいつは零の事大好きだしな。

 

 新しい部屋は、川の側にあった。

 零が、窓辺に立って、川見ながら何か呟いたとき、なんとなくここがこの子の家だなってそう思った。

 藤澤の家も悪くなかったけど、この子にとってはこっちがしっくりくるのだろう。

 

 それから、ここは僕の新しい縄張りになるんだから、この家に入ってくるやつはちゃんと監視しないといけない。

 変な奴がやってきたら、僕が追っ払ってやらないと。

 零は、邦晴よりは家のこともちゃんと出来るみたいだけど、将棋に一生懸命になると他の事は頭から抜けるから、僕がしっかりしないとね。

 

 

 

 ほんと、人間って手がかかる。

 

 

 

 

 

 

 

 




シロは年齢を重ねたうえで賢い猫です。
そして和子さんが大好きなので、夫の藤澤さんやその弟子たちにアタリが少し強い笑
後藤さんの事は嫌いではなく、好きじゃないのです。
何故なら、そうしないようにも出来る筈なのにクロを怖がらすから。
懐に入れた守るべきものはちゃんと守るボス猫気質な猫さんです。


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第二十九手 だから、貴方は大丈夫

 将棋指しの妻って大変でしょう、そう声をかけてくる人もいる。

 時と場合によるけれど、大体は余計なお世話よって言い返したい事がほとんどね。

 私はあの人が、プロの将棋指しだったから結婚したわけじゃない。

 あの人を、その生き様込みで、丸ごと全部愛しているから、一緒になったの。

 

 思えば知り合ったきっかけだって、師匠の藤澤さんの紹介だった。

 不器用な人、そう思った第一印象は変わることは無く、けれど知れば知るほどその不器用さすら愛おしかった。

 なんとなく、会ったときから一緒になる気がしていたなんて言ったら笑うかしら。

 でも、それくらい波長というか、気が合ったの。

 

 一つ残念なことがあるとするなら、子どもが望めなかったこと。

 これは私もあの人も悪いわけじゃなかった。

 授かりものって本当にそうね。

 一度流れてしまってから、その後、私の身体に命が宿ることは無かった。

 私は子どもが好きだったから、それはもう落ち込んだのだけど、お前が居ればそれでいいって貴方が言うから、だから諦めもついたのよ。

 

 悲しみも乗り越えて、二人きりのこの先の生活も見通せて、あの人は将棋に、私は仕事に生きながら、そんな風に暮らしていけたら漠然とそう思っていた。

 

 宗谷名人が台頭してきてから、良く悪くも揺れた将棋界。

 勝てなくなった夫に、心無い言葉をかける人もいて、私は、あなた達に何が分かるのよって、夫に代わって言い返してやりたかった。

 でも、あの人はそんなことは望んで無いって知っていたから。

 語るなら、盤の上で。一貫してそう言う人だった。

 

 一度降級したこともあったけれど、再びA級にあがり、タイトル戦に顔を出すようになったあの人は少し忙しそうだけれど、やりがいがありそうだった。

 たまに、愚痴もいうけれど、宗谷名人の事は認めていることが言葉の端々から分かったし、他にも何人か、対戦するのが楽しい棋士が居るみたいだった。

 

 師匠の藤澤さんが引退されてから、少し遠のいていた足が再びそこに向く様になったのはそんな頃。

 なんでも、弟弟子が出来たらしい。

 それには将棋界にそれほど詳しくない私も驚いた。

 藤澤さんのお年を考えて、新たな弟子をとるのは大きな決断だったのではないかと。

 なんだかんだ上手くやっていると話に聞いていたけれど、新年会にも顔を出せなかった私は、結局その弟弟子さんに会う機会を逃していた。

 

 その子、……プロ棋士をそんな風に呼んでは失礼だろうけど、どうしても正宗さんの言い方と年齢からそう表現してしまう。

 桐山くんという、その男の子と指すようになって、あの人の雰囲気は少し変わった。

 相変わらず、硬く鋭い感じは残すものの、どこか柔軟な面が表に出るようになったと思う。

 目をかけている……というより、純粋に年下の弟子を可愛がっているようにしか、私には見えなかった。

 そして、それは私にとっては嬉しいことだった。

 性格的に合わないのだろうとは思っていたけど、子どもと触れ合うことを私に遠慮していたわけじゃなかったと分かったから。

 

 車をだしてあげることもあったし、送った先で、ご飯をご一緒してくることもあった。

 私も自分の仕事もあったから、外で食べてきてくれる機会が少し増えたのは、寂しい気もするけど助かる面もあった。

 たまの被った休みで最近の動向を聞いた時、その小さな弟弟子くんの話題があがることが増えた。

 もちろん、私が聞きたがるのもそうなんだけど、子どもの成長や変化は目覚ましく、話題に事欠かないからというのもある。

 

 弟弟子になって季節一つすら回らないうちに、その子は正宗さんと同じプロになった。

 ニュースやテレビでよく見るようになって、まだ直接はあった事が無いのに、随分と知っている子のように思えてくるから不思議。

 テレビでは、真面目で愛嬌のあるかわいらしい男の子といった印象。

 

 でも、私は知ってる。

 初めて対局した兄弟子に、可愛げのかけらもないと言われたことを。

 それに対して、将棋には可愛げはいらないと返事をしたことも。

 お茶の間の皆さんは、今はあの子の経歴と、鮮烈な小学生プロという肩書きにしか目がいっていないだろうけれど、いずれ気づくのだろう。ただの可愛い男の子では無いことに。

 

 強かに、しなやかに、あの子はきっと上にいく棋士になるのだろうと、そう思った。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 私の仕事も軌道に乗り、夫もなんだか最近楽しそうで、こんな日々が続けばいいと思っていた矢先。

 どうにも身体の調子が良くなくて、のばしにのばした病院を訪れることになったのはその年の冬だ。

 いやに、冷え込んだ日だったことを今でも覚えている。

 

 一通りの検査を終えて、診察に入ってすぐ、先生はこう言った。

 

「旦那さんもお呼びになりますか? どれくらいの事を聞いておきたいですか?」

 

 その言葉に、私は、続けばいいと思っていた日常が壊れてしまった事を悟った。

 

「結果、良くなかったのですね」

 

「残念ながら、そうです。こちらとしてはご家族とご一緒にお話をしたいのですが」

 

「先に聞いておきたいです。自分のことは自分で決めます。私たち夫婦はお互いに、それを尊重してきました」

 

 私の言葉に、先生は一つ頷いた。

 

「乳がんです。細胞診をしなくても間違いないでしょう。大変言いづらいですが、すでに転移もありそうです。治療は出来るだけはやくはじめましょう」

 

「……そう、ですか。そうなんですね」

 

 告げられた言葉は、するすると耳を流れて、全く頭に残らなかった。

 自分が場違いな場所にいるような気がして、どこか遠い世界の話のようで。

 ただ、ただ漠然と、あぁ悪いんだなって事だけが、先生の言葉の感触から、ひしひしと伝わってきた。

 

 検診を受けていたのに、といった私に、先生はどれくらい前ですか?と尋ねた。

 婦人科の検診に最後にいったのは4年前だった。

 それ以降は、会社で毎年受けさせられる簡単なものしか受けていない。

 若い人は進行がはやいことも多い、2年以上もあけばそれは、致命的な時間になることもあると、そう答えにくそうに続けられた。

 でも、それを知っていたとしても、私は検診を受けに来ただろうか、きっと大丈夫だと思って忙しさにかまけて後回しにしただろう。

 結局そう思い至って、自分の事なのに、なんだか少し笑えてしまった。

 

 

 簡単な現状の説明と、いくつかの治療方針を示された。

 後日また、夫と来ます。それだけ言って病院を後にした。

 その場で決めることなど不可能だった。

 

 

 帰ってきたあの人に、結果を伝えると、そうかとだけ呟いて、押し黙ってしまった。

 そして、出来る治療はいくらかかってもしようとだけ言うと、彼は仕事を残してきたと家を後にしてしまった。

 動揺が目に見えて伺えて、なんだか却って私は冷静になってしまった。

 あの人は、意外と繊細な人だから。

 自分の気持ちに整理をつけて、ちゃんと私の前では動揺しないでいられる心の整理ができるまで、戻ってはこないだろう。

 行ったのは師匠藤澤さんの所かしら、今日は帰ってこないかもしれないと、そう覚悟をしていた。

 

 結果をもとに、色々と調べた。

 なるほど、生存率はそれほど悪くないらしい。

 でも、その分、再発も多い。そして、転移をしているとやはり色々難しくなってしまう。

 手術と化学療法、放射線治療、多岐にわたる治療のそれぞれのメリット、デメリットを調べた。

 覚悟を、決めなければならない。

 大丈夫、二人に一人は癌になる時代だって言うじゃない、何もわたしばかりじゃないわ、そんな風に思いながら、必死で可能性に縋ろうとした。

 

 あぁ、でも、すこし怖いし、寂しい。

 調べればしらべるほどに、命の期限を突き付けられた気がした。

 

 明日にならないと帰ってこないと思っていた正宗さんは、日付が変わる前に、まるで走り込むように帰宅した。

 そして、私の顔をみるなり謝るのだ。

 一人にしてすまなかったと。

 思わず、どうしたの?って聞いてしまった。

 こんな風に自分の弱さをさらけ出してまで、言葉をかけてくれるとは思ってなかった。

 一緒になって絶望して泣くんじゃなくて、絶対の自信をもって、こっちだって手を引いてくれる人だったから。

 

 聞けば、弟弟子くんに、奥さんを一人にするなって怒られたらしい。

 仏頂面でそういう彼に、私はおもわず噴き出してしまった。

 言うその子も凄いけれど、それで落ち込んで、ちゃんと帰って来て謝ってくれるこの人も凄い。

 まだ、諦めたくない、一緒に頑張ってほしいと言われて、私は笑顔で頷くことができた。

 頑張れじゃなくて、頑張ろうと言ってくれるこの人のことが、本当に好きだとそう思った。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 何軒か病院を回ってから、治療の方針は決めた。

 とても、残念なことに、もう原発部位以外への転移も確認されてしまったので、手術はせず、化学療法を選ぶことになった。

 転移した臓器に、まだ目に見えた症状が出ていないため、取ったところで負担ばかりで意味がそれほどないかららしい。

 早期発見が出来ていれば、原発部位の片胸だけとって、それでこの先何十年、生きていけたのにって、今になって知れば知るほど、後悔が募った。

 

 それでも、はるか昔は手術ができなければただ、”その日”を待つだけだっただろう。

 そう考えると今は薬一つとっても、多くの種類があるだけ救いなのかもしれない。

 

 乳がんにも種類があるなんて、たぶん罹らなかったら一生知らなかった。トリプルネガティブという私のタイプを聞いた時に、もうなんだか名称だけで悪そうに思えてしまった。実際、予想は外れていなかった。

 数あるタイプの中でも、悪い方を引いてしまった。ひとしきり落ち込んだあとに、此処までくると、もうどれでも同じだと思う事にした。

 

 使う薬にもタイプがあるらしく、その薬が私の癌に効果があるかを判断するために、数か月ごとに検査を繰り返した。

 正宗さんは結果を聞く日は絶対についてきてくれた。

 抗がん剤の副作用はそれなりに強く、別の意味でも、身体と心が削れていった。

 それでも、辛抱強く続けていった。

 

 2回目に変えた薬が思ったよりも当たったのは、幸運だったのだろう。

 その後しばらくは、一時退院できるほどに回復した。

 ただ家ですごす穏やかな日々が、これほど大切に思える日がくるとは。

 あまり長い時間ではなかったけれど、かけがえのない時だった。

 

 効果があったとしても、私の中の病魔が消えるわけではなく、肺に転移していた腫瘍が再び増大しはじめ、また長い入院をすることになった。

 呼吸がだいぶ苦しくなり、一時期は話すことも辛い時期もあった。

 投薬のおかげで、その少しだけ症状が落ち着いていたとき、正宗さんが何かしたいことはあるかと私に尋ねた。

 

 私は、ふと弟弟子くんとお話がしてみたいと願った。

 何度か機会はあったのだけれど、逃している間にわたしの病院生活は長くなり、そして、夫は、彼を病院に連れてくるのはあまり、気が進まないようだった。繊細な奴だからと度々言っていた。

 

 でも、どうしてもお話してみたかった。

 このまま進行すれば、ゆくゆくは気管切開になるだろう。自分の声で、言葉で、話せるうちに彼に伝えたい事があった。

 

 結局折れたのは正宗さんの方だった。

 昨年、自身初のタイトルを獲得した弟弟子くんは、今年も破竹の勢いで活躍していた。

 対局スケジュールの合間をぬって、正宗さんはその子と会う機会をくれた。

 

 

 

 

「はじめまして、桐山零です。後藤さんにはお世話になっているのに、ずっと挨拶できなくてすいませんでした」

 

 開口一番、そう丁寧にあいさつをしてくれたその子は、中学3年生になるという。

 想像していたよりも背も随分と高く、落ち着いていて、大人っぽい子だった。

 きっと、正宗さんのなかの彼は出会ったときの印象が強いから、その話を聞いていた分、私の想像も引っ張られていたのだろう。

 

「初めまして、ずっと会いたかったのに、正宗さんちっとも紹介してくれなくて」

 

「タイミングが無かったんだよ」

 

「ねぇ、ちょっと飲み物でも売店で買ってきて」

 

「あぁ? たく、おい。なんでも良いよな?」

 

「え、僕ですか? はい、出来たらお茶とか普通のが良いです」

 

 少し圧の強い正宗さんの言葉にも、桐山くんは普通に返事をしていて、なんだか微笑ましいと思った。

 

 

 

「桐山くん、良かったらこっちにきて座って」

 

 所在なさげに立っていた子を、近くの椅子に呼び寄せた。

 

「ずっとお話してみたかったの。ごめんなさいね、こんな格好で」

 

「いえ、それは気にしないでください。……あの、どうして、僕だったんでしょうか? 後藤さん抜きで話したい事もあったんですよね?」

 

 正宗さんに席を外させたことも、ちゃんと分かってる。

 本当に賢い子だ。

 点滴をして、いろんな管につながれて、やせ細った女。

 こんな状態の人をもし初めてみたのなら、子どもは怖気づいてもおかしくないのだけれど、とても落ち着いている。

 

「ありがとうを、言いたくて」

 

「ありがとう? 僕にですか?」

 

 きょとんとした顔は年相応。あぁほんとうにまだ中学生なのね。

 

「えぇ、貴方もそうだけど、藤澤門下の人にもね。私は、将棋に関してはほとんど分かってないから、正宗さんの将棋の世界での事は支えてあげられない」

 

 もちろん対局に関係ない所では、精一杯支えてきたつもりだ。

 でも……。

 

「こんなことになって、ついに彼の私生活ですら支えてあげられなくなった」

 

「そんな! そんなことは……」

 

「うん、それでも良いって、もちろん言ってくれたわ。でもね、やっぱり色々としんどいと思うの。そんな時に、ふらっと姿をくらませて、そしてまた元の厳めしいけど優しい彼に戻って帰ってくる」

 

 治療がしんどかったり、私に余裕がない時、あの人も疲れてしまうこともあるだろう。

 そんな時に、切り替えるきっかけがあるのが気になった。

 

「どこに行ってるの?って聞いたら将棋を指してるって言うんだもの。笑っちゃった。ほんとに、そればっかり。てっきり兄弟子の幸田さんとか、師匠の藤澤さんが多いのかと思うじゃない、それで前に藤澤さんにきいたら、一番指してるのは桐山くんだって教えてもらったの」

 

 おまけに、ご飯まで一緒に食べることもあるときいて、本当に驚いたのだ。

 一部のプロ棋士くらいしか知らないが、桐山くんは一人暮らしをしている。

 中学生ですら自炊が出来ていることに、少し落ち込み、最近正宗さんも、こっそりはじめた事も私は知っている。

 

「コワイおじさんの相手だもの、ましてや苛立ってることもあったでしょう。それでも、断った事はないって聞いて、私、本当に嬉しかった」

 

 傷つけられるかもしれない相手と話すことは、誰だって恐い。それでも良いと思ってくれる人がいったい、どれくらいいるだろう。そう何人もいるわけがない。

 

「他人に弱みをみせることなんて、絶対にない人だったから。他にもちゃんとそういう場所が出来たんだって、安心したの」

 

 素の自分を出せる場所なんて貴重だ。そして出せる相手も。

 そんな相手をちゃんと見つけられていることに酷く安心した。

 

 黙って、聞いていた桐山くんは、何度か口を開いては閉じてを繰り返したあと、静かに言葉を紡いだ。

 

「僕は、たしかに後藤さんと将棋は指せます。ひょっとしたら、小さな支えにはなれているのかもしれません。でも、代わりになんて絶対になれません。僕は、貴女の代わりにはなりえない」

 

 どこか苦しそうに、一語、一語、噛みしめながら続けるのだ。

 

「僕と指す、何千という対局よりも、貴女がそばで笑ってくれてる、その事が、後藤さんにとったら全てでしょう」

 

「それは……、すごい殺し文句ね」

 

 驚いてしまった。本当に、なんて言葉をくれるのだろう。

 

「頑張って、なんて言えません。でも、何があっても、どんな状態でも、ただ、生きて傍にいて欲しい。それが、愛してるってことなんだと、なんとなく僕も分かります。後藤さんは、貴女の事を……」

 

「いいの、ありがとう。それ以上は言わないで」

 

 思わず、言葉を遮ってしまった。

 泣いてしまいそうだったから。

 絶対にこの子の前で泣くまいと、そう決めてあったのに。

 

「……。正宗さんは、私と貴方を会わせる気はなかったわ。なんでか、それが今、分かった気がする。貴方は優しすぎる」

 

 たかが兄弟子の初めて会う妻、それだけの女にどうしてこうも寄り添えるのだろうか。

 

 正宗さん、貴方は、私と、それからこの子の両方が心配だったのね。

 

 じんわりと、滅びゆく私の気配を、おそらくこの子は感じている。

 どうしようもない段階の悪あがきを知っている。

 そして、その先の果てで、残される人の想いすらも。

 そんな子が、今の私と話すことが、どれほど“あてられる”のか、あの人はちゃんと分かっていた。

 

「ねぇ、こんなことを貴方に頼むのは酷だと思う。でもお願いします。正宗さんに、あの人に将棋を絶対に辞めさせないで」

 

「後藤さんは、辞めないと思います。何があっても」

 

 彼は、私の懇願にどこか困惑したようにそう返事をした。

 

「そうね、たぶんそうだと思うけど、万が一があるといけないから。時間が掛かっても絶対に、将棋を指させてほしい。そうしたら、きっとあの人は生きていけるわ」

 

 私がいない世界でも。

 

 言葉にしなかった、続きを正確に読み取ったのだろう。

 俯いた桐山くんは、ギュッと口を結んで、息をつめた。

 そんな風に泣くまいとしているこの子に、私は残酷なお願いをした。

 喪った先の世界で、将棋を指すことで生きているこの子に、同じ道を辿る兄弟子の手を引いてほしいと願ったのだ。

 

「ずるいおばさんでしょう。ごめんなさいね、本当に」

 

 私の言葉に、桐山くんは、ただ大きく首を振った。

 そして、そのあと大きく息を吐いて、何度か深呼吸して、やっとその顔をあげた。

 翠の瞳のふちは赤くなっていて、薄く張った水の膜はいまにも決壊しそうなのに、この子は絶対に泣かなかった。

 私が泣いていないのに、自分は泣けないと思っているのだろう。

 

「やくそく、します。その時の最初の一局は、責任をもって僕が指します。絶対に、駒を取ってもらいます」

 

 あぁ、神様がこの子を、あの人の弟弟子にしてくれて良かった。

 本当に心からそう思った。

 

 大丈夫ですも、そんな事言わないで下さいも、そんな言葉じゃ駄目だったの。

 “いつか”は、絶対やってくる。

 私はあの人より長くは生きられない。それが数ヶ月先か、数年先かの違いだけ。

 

 だから、保証が欲しかった。

 私がいなくなった後の、最初の一局。

 おそらく、一番、指させるのが大変なその一局を、必ずこの子が指すと言ってくれた。

 

 大丈夫、あの人はもうこれで大丈夫だ。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

「あいつに、何言ったんだ?」

 

 あの後、すぐに帰ってきた正宗さんは、あの子を送って帰ってきた後にそう言った。

 

「秘密よ、一つだけ、未来の約束をしたの」

 

 たった数十分の会話で、私はどれほど救われただろう。

 

「……、あんまり重いこと話すなよ。送っていくとき、絶対振り返るなって言われた。ありゃ、後ろの席でぼろぼろ泣いてたぞ」

 

 ドカッと、桐山くんがさっきまで座っていた椅子に腰かけながら、大きくため息をついた。

 

「繊細なやつなんだ。他人の事情に心を砕きすぎる。大事な棋戦も近いつーのに」

 

「でも、とても強い子だと思うわ。貴方よりよっぽど心配いらないと思う」

 

「……俺に、そんな風に言えるのはおまえだけだわ」

 

「褒め言葉と受けとっておくわ。こんな軽口もしばらくしたら、言えなくなっちゃうかもしれないから」

 

 押し黙ったこの人に、ちょっと意地悪しすぎたなって思った。

 私は、まだ大丈夫な感覚があるけれど、それは私にしかわからないし、保証なんてどこにも無い。

 

「ねぇ、落ち着いてまた一時退院が出来たら、遊園地に行きましょう」

 

「はぁ? なんでまたそんなところ。行きたいなんて言った事、若い時だってなかっただろう」

 

「いいじゃないの別に。二人で行くのが恥ずかしいなら、桐山くんも誘いましょうよ」

 

「いや……あいつも、そういう所を喜ぶタイプじゃねぇけど、まぁたぶんあいつの友人も一緒にって言えば……」

 

 突拍子もない無茶な願いも真剣に検討してくれるの、そういう所よ、ほんと。

 

 

 

 

 

 貴方の中に、私を沢山、残していきたいの。

 絶対貴方が行かないような場所だって、万が一があるでしょう?

 だから、いろんなところに行って、いろんな事をして、そのすべてに私の想い出を刻みたい。

 

 ずるい女でしょう。

 貴方に憂いなく、今後も生きて欲しいと願いながら、貴方にだけは私を忘れて欲しくないと思うのよ。

 

 でもきっと、貴方はそのすべてを大切に抱えながら、その先を歩んで行ってくれるでしょう。

 私が愛した男は、そんな良い男なんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 後藤美砂子
 どれくらい、先かは私にもわかりませんが、桐山くんが高校卒業するくらいまでは、"大丈夫"だといいなぁと思っています。
 原作での情報は少ないですが、あの後藤さんの奥さんをできてた人なので、きっと彼に言い返せるような女性だろうと想像して書きました。

思えば、私が桐山くんに最初に惹かれたのが、彼が向こう側をしっている子だったからでした。だからこそ、美砂子さんは桐山くんに頼んだのだと思います。




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中学生プロ棋士編
第三十手 新しい部屋と新生活


  4月。新しい年度のはじまり。

 僕の入学式には、藤澤さんの奥さんの和子さんと、何故か幸田さんも来てくれた。

 

 私立駒橋中学校の制服は、詰め襟タイプの黒い服……まぁ俗に学ランって言われるタイプだと思う。

 僕としては遠慮したかったのに、どこからか聞きつけたテレビ局が学校に許可をとって取材に来ていた。

 学校側も私立だし宣伝になるから、こういう事には協力的みたいだ。

 正門前での撮影と軽いインタビュー。

 

 どうして、この学校を選んだのか?

 新しい学び舎の第一印象は?

 多忙になり始めている対局との両立は大丈夫そう?

 部活動とかはどうするつもり?

 気が早いけど、高校受験は考えてる?

 

 と、まぁ予想の範囲内の質問だった。

 学校を選んだ理由としては、まず会館とそれなりに近かったこととか、教育方針に惹かれたとか当たり障りなく。高校の事は濁しておいた。僕自身3年後どうしたいかなんてまだ分からないし。

 

 ついでに記念撮影をしたいといってくる記者がいたから、和子さんと幸田さんも巻き込んで写真をとってもらった。

 後から藤澤さんが見たら喜ぶと思うから。

 

 入学式はさすがに体育館の後ろから、そっと撮影するくらいにとどめてくれた。他の子の迷惑になったら困るから、そうしてくれると僕としても助かる。

 

 担任は本当に林田先生で、一安心だった。

 生徒の人数は20人を少し超えるくらい。少人数のクラス編成も売りにしている学校だった。

 教師の目がよく届くようにと言う事なのだろう。

 

 ただ、やっぱり正門前でのやりとりやテレビ局が来ている事が影響してか、

 桐山零だ……

 プロ棋士? なんだよね

 おれ、この前特集記事読んだ。

 なんか新記録を打ち立てたんでしょ?

 同じクラスとかちょっと嬉しい。

 

 ……周りが少し騒がしく落ち着きがない。

 良い意味で噂をしてくれているのは分かる。この辺も前の時とは大違いだなぁと思った。

 

 前中学生だったときは、将棋とかよく分からないものに打ち込んでいる根暗という扱いで、クラスでも空気扱いだったような記憶しかない。

 まぁ……僕もそれでいいと殻に閉じこもっていたから、仕方ないのだけど。

 

 ただ、前回同様に、遠巻きに見られているのは変わりなさそうだ。

 友人がつくれるか……少し心配になってきた。

 中学は一応給食だから、一人飯になることはないけど、林田先生に余計な心配はさせたくない。

 

 新学期、新しいクラスともなれば、とりあえず自己紹介とかがあるのは定番で、ボーッとしているうちに僕の番がきていた。

 

 林田先生が、おーい中学生プロ、出番だぞ!と僕の名前を呼ぶ。

 ……余計目立つから止めてほしかったんだけど、その瞬間クラスの皆がドッと笑ってすこし空気が柔らかくなった。

 どうせ、バレているのだし、この方が話しやすかったかもしれない。

 

「桐山零と言います。千駄谷小学校の出身です。趣味は将棋で、一応職業が棋士です」

 

 一応ってなんだよって先生のつっこみが入ったけど、スルーする。

 

「対局の都合上、お休みすることが多くなると思いますが、仲良くして頂けると嬉しいです。よろしくお願いします」

 

 一礼して席に帰る時、クラスの皆の顔を初めてまともに見た気がした。

 皆、好意的な視線をくれていたし、少なくとも最初の印象は悪くなかったみたいだ。

 

 とりあえず、ほっとして残りの子たちの紹介はちゃんと聞こうと耳を澄ます。

 そして、何人か後に前に立った人をみて、驚愕して息をのんだ。

 

「野口英作と申します。こんな苗字と身なりですのでよく歴史上の人物との関係を疑われますが、全くの無関係です。理科……特に化学の分野に興味があります。皆さんどうぞ良しなに」

 

 見間違えるわけが無かった。野口先輩だ……そうか、駒橋高校に進学しているなら、附属中にいてもおかしくない。

 それに、僕が編入するのが一年遅れていた前回と違って、ホントなら同い年。

 同級生になったんだ……なんだか、不思議な感じだ。

 

 不思議な貫録と雰囲気に、みんな彼に興味津々だった。すごく印象にのこるキャラクターを持っているし、人から好かれる不思議な人だ。

 

 また、仲良くなれたらいいなぁ……密かにそう思った。

 

 

 

 帰りは幸田さんの車にのって、藤澤さんのお見舞いにいった。制服姿をちゃんと見せたかったから、膝の手術が終わったばかりでまだベッドから降りられない状況だったけれど、お元気そうだった。

 良く似合っている、とあの大きな手で頭を撫でられるとやっぱり安心する。

 

 その後は、僕の家の様子をチェックする目的もあってか、和子さんも幸田さんも家に遊びに来た。

 いつ、だれが来るかわからないから家は綺麗にしている。

 冷蔵庫のなかも自炊するからちゃんと物が沢山入ってる。零くんはやっぱりしっかりしてるわねぇと褒めてもらえた。

 いくつか作り置きで、おかずを作ってくれたのも助かった。自分でも出来るけどやっぱり誰かに作ってもらえるのは嬉しい。

 シロもクロも大好きな和子さんが来てくれて少し嬉しそうだった。

 

 

 

 年度初めの島田研究会では、嬉しい報告も聞くことが出来た。

 

「あ、二海堂……。今日から参加するのか?」

 

 何時ものように通された居間で、重田さんともう一人座っていた姿に思わず声をあげてしまった。

 

「久しぶりだな桐山! なんと俺はこの4月から三段リーグ入りしたのだ!」

 

「あぁ……ちゃんと成績みてたよ。2月からの連勝凄かったな。この調子で一期抜け期待してる」

 

「任せておけ! お前と公式戦で当たらねばならないからな」

 

 昨年の冬に一度体調を崩して入院していた二海堂は、二段でほぼ全勝しなければ、今年の前期の三段リーグには間に合わないところだった。

 そのチャンスを逃さなかったのは凄いと思う。

 

「兄者に誘っていただいたから、この研究会には出来るだけ顔を出すぞ!」

 

「声がいちいちうるせぇよ……」

 

「む! それは申し訳ない」

 

 重田さんの毒舌はいつも通りだけど、二海堂がそれにまだ慣れていない様子なのが新鮮だった。

 

「桐山は新生活どうなんだ? 聞いたぞ、一人暮らし始めたんだろ」

 

「中学生で一人暮らしとか……なまいきだよな」

 

「重田くん!」

 

 島田さんの咎めるような声に、良いんですよと答えながら僕も近況を報告する。

 

「今はもう落ち着きました。猫たちもいますから寂しくないですよ」

 

「そうか……慣れない事も多くて、大変だろうけど、まぁなんか困ったら相談してくれていいからな。藤澤門下の人たちに良くしてもらってるみたいだけど」

 

 島田さんは安堵したように表情でそう続けた。

 何もかもちゃんとしようと頑張りすぎるなよっと言われて、やはり彼には何でもお見通しなような気がする。

 

「あと、なんか欲しいものとかないか? 五段の昇段祝いと引っ越し祝いを兼ねてなんか買ってやるよ」

 

「えっ、……そんな申し訳ないですよ」

 

「良いから、こういう時はもらっとくもんなの」

 

 島田さんは僕の頭にぽんっと手をおくて、言い聞かせるようにそう言った。

 すぐには思いつかないと返したら、今度遊びに行ったときに足りなさそうなものでも贈ると言われてしまった。

 

 

 

 研究会が終わって解散になる時に、二海堂がそっと声をかけてきた

 

「その……な、たまにでいいからお前の家、将棋指しに行ってもいいか?」

 

 ちょっと伺うように尋ねられて、少し驚いた。僕が断っても勝手にくるような奴だったのに。

 

「いいよ、VSしよう。はやくこっちに来てほしいからなぁ。応援する。僕も君とは指したいし」

 

 僕の返事に、パッと笑顔になって御礼に色々持っていくからと意気込む彼を止める方が大変だった。

 限度を知らない勢いで、何かを持って来られるとあの部屋に入りきらない気がする……と前回の記憶も少し思い出した。

 

 

 

 

 

 


 

 4月中旬、将棋大賞の授賞式が、将棋会館で行われた。

 事前に会長にいわれていた通り、僕もちゃんと出席した。土曜日にしてくれたのも有り難かった。

 記録部門の4つの賞である、最多対局賞、最多勝利賞、勝率一位賞、連勝賞の受賞は確定していたけれど、それに加えて選考の結果、新人賞と敢闘賞も頂くことになった。

 重ね重ね、ありがたいことである。

 普段は記者が来るくらいのこの授賞式にもカメラが入っていて、会長は嬉しそうだった。

 取材が入れば、それは連盟に資金が入ることにもつながるし、宣伝にもなるし、将棋界は盛り上がる。

 

「桐山五段おめでとうございます。プロデビューの年でしたが華々しい活躍でしたね」

 

「有り難うございます。自分でも驚いています。支えてくれて、応援してくれてる方々のおかげですね」

 

「連勝記録に加えて、勝率も歴代最高の記録となりました。このことについてどう思われますか?」

 

 そう、連勝記録のみならず勝率も歴代記録を更新してしまったらしいのだ。なんというか……少し心苦しい気持ちもある。

 だからといって、対局で手を抜くのもあり得ないし……準備を怠るようなことをしたくもなかったから仕方がない。

 

「一年目でしたから……対局のマッチングの良さもあったかと思います。今年に入って、成績が落ちることがないように、より一層努力したいと思います」

 

「今年度の目標がありましたら、お願いします」

 

「本戦を勝ち抜いて……できたらタイトルの挑戦権をひとつでもいいから取りたいです」

 

「私たちも中学生の挑戦者が誕生することを楽しみにしています」

 

「ご期待に添えるように、頑張ります」

 

 

 

 

 

 いくつかインタビューに答えて、会場を後にしようと思った僕に声がかかる。

 

「桐山くん、受賞おめでとう」

 

「宗谷名人! ありがとうございます。名人も最優秀棋士賞の受賞おめでとうございます」

 

 ここ何年かは、宗谷さんが独占しているその賞は、今年も彼の手に渡った。

 

「いつもは記録部門でもいくつか貰うんだけど、今年は君に全部とられちゃったからね」

 

「えぇ!? えぇ……とそれは、すいませんでした」

 

「謝らないで、僕は嬉しいんだ。それに、変わり映えしない面子ばかりが取ってもしかたない。停滞は面白くないからね」

 

 謝った僕に彼は、くすくすと小さく笑ってそう答えた。

 

「中学生になったんだってね。でもまだ小さいなぁ……」

 

 僕の頭に手を置いて、ゆっくりと撫でる。

 慈しむようなその動きが、少し照れくさい。

 

「これでもちゃんと身長、伸びてますよ。そのうち宗谷名人にだって追いつきます」

 

「どうかな? まだ時間がかかりそうだ。将棋はすぐに追いついてきそうだけどね」

 

 そんなふうに返されるとは思わなくて、僕はおもわず彼の事をマジマジと見返した。

 

「本戦、まだどれも敗れてないだろ。楽しみにしてるよ」

 

「はい! きっと、挑戦者として貴方の前に座って見せます!」

 

 貴方とまたタイトル戦を競いたくて……少しでも多く対局したくて……僕はここまで戻ってきたのだから。

 

「そういえば……桐山くん、今一人暮らししてるんだって?」

 

「え? 何で知ってるんですか?」

 

「君の事は結構話題にあがるんだよ。僕たちの間でね」

 

 僕たち……がいったいどこまでの範囲なのかは分からないが、宗谷さんの耳にまで入ってるなんて……。

 もっとも、僕が師匠の家を出て一人暮らしをしていることは、しばらくはメディアに抜かれないようにしようという話になっている。

 この年齢の子が一人暮らしっていうのはやっぱり印象が悪いし、このまえのひったくりみたいなことが無いとも限らない。

 重々防犯にも注意しろと再三釘を刺された。

 だから、棋士たちの間だけで、話題になっているのだろう。

 

「新居には慣れた? ちゃんと研究できる体制は整えられてる?」

 

 藤澤さんのお宅はそういう意味では、とても良い環境だっただろうからね、と続けられた。

 確かに、師匠の家にあった棋譜の量は素晴らしかった。

 でも僕は、あの家の鍵を預からせてもらっているし、必要なら好きなだけ持って行っても良いとも言われた。

 

「引っ越しはバタバタしましたが、今は落ち着いてます。棋譜も紙で持っているものは少ないんですが、今はデータで管理してますよ」

 

 昨年長期休暇や、棋譜をさらうときに、なるべくデータ化してPCに入れたおいたおかげもあって、僕が持っている棋譜の量も相当増えているのだ。

 

「データ……ということはパソコンで?」

 

「はい。僕はこれから先も移動することが多いでしょうし、部屋は広くないのでそんなに沢山は置いておけないので」

 

 頷いた僕に宗谷さんは少し考え込んでいるようだった。

 

「君の世代はそういう事にも熱心だね……」

 

 その後に、ちょっと見てみたいなぁと小さく呟かれた声を僕はちゃんと拾っていた。

 

「あの……良かったら家に来ますか?」

 

 いきなりは失礼かもしれないけど、僕は気が付いたらそう声をかけてしまっていた。

 

「え、いいの? そんな急に……」

 

「同門の方がくることも多くて、お客様が来られる心積もりは何時もしてるんです。用事がないなら、どうぞ」

 

「うん。今日はもう大丈夫。嬉しいなぁ……君とは研究会もしてみたかったんだ」

 

 宗谷さんは本当に嬉しそうだったから、僕も言ってみて良かったと思えた。

 

 会館から電車で移動して、川沿いを歩いてマンションへ向かう。

 

 会話は少なかったけど、居心地の悪い沈黙ではなかった。

 彼の傍は、相変わらず静かで心地よい、不思議な感じだった。

 

 

 

 

 

 

 

「どうぞ、狭いですけど……」

 

「おじゃまします。……っと!びっくりした」

 

「あぁっ、シロ駄目だよ! 僕のお客様だよ。行儀よくしてね」

 

 何時も僕が帰ってきたら、出迎えてくれるシロが後ろから入ってきた宗谷さんを思いっきり威嚇したのだ。

 毛を逆立てて唸り声を上げる姿は勇ましい。

 

「ごめんなさい。警戒心が強い子で……。あの? 今更ですが、猫は大丈夫ですか?」

 

「うん。むしろ、好きだよ。家でも祖母が飼ってるから」

 

 この子には、嫌われちゃったかな……とつぶやく宗谷さんの周りをシロはくるくる回って様子を窺っている。

 賢い子だから、もう威嚇はしてないけど尻尾は相変わらず臨戦態勢で、しっかりと警戒していた。

 

「初対面の人には、誰にでもこうなんです。どうも僕の代わりに警戒してくれてるつもりみたいで……」

 

 ひとしきり宗谷さんの匂いを嗅いで、一応納得したように離れるシロにただいまと声をかける。

 僕の足元によってきて何度も何度も身体を擦りつけて鳴き声をあげるのは、おかえりっと言ってくれてるみたいだ。

 

「頼もしいね。藤澤さんのお家の猫?」

 

「はい。良く懐いてくれていたので、今はお預かりしてるんです。もう一匹いるんですが、かなり怖がりだから出てこないかな……」

 

 クロはお客さんがいるときは、ほぼ姿を現さない。ベッドの下や、布団の中、猫用クッションの中でじっと寝ているのだ。

 

 適当な座布団を出して、宗谷さんに勧めておいた。

 あと、軽くお茶の準備をする。

 

「紅茶でいいですか?」

 

「ありがとう。なんでも大丈夫だよ」

 

 一応確認をとって、ぼくは棚から以前から馴染みの紅茶を取り出した。

 前の時、宗谷さんとも何回か研究会をさせてもらったことがある。その時彼が市販の中ではこれが一番好きだと言っていた商品。

 なんとなく覚えていて、特に拘りがない僕は、それから紅茶を買うときは同じものを買ってしまっていた。

 

 お茶請けに、あかりさんたちから引っ越し祝いに貰っていた三日月焼きを添えておこう。

 名人が気にいってくれたら僕も嬉しいし、お店の宣伝にもなるかなって思った。

 

 席に戻った時、彼が取り出してみている棋譜が目に入った。

 こんな僅かな時間でも、それを見てしまうのは、職業病なのかもしれない。

 

「それ、先月の玉将戦の第4局ですね。土橋九段との……」

 

 声を掛けた僕に、彼はパッと顔を上げた。

 

「流石……一目でわかるんだ」

 

「リアルタイムで見てましたから……あ!そうだ。紙の棋譜も持ってるんですが、それ打ち込み終わってるんです。見ますか?」

 

 最近の目ぼしい対局で、何度も研究したいような棋譜は紙でも置いてあるけど、まずデータでも保存してある。

 対局が無い日にこつこつしていくのが大切だ。

 

「あぁ……意外と見やすいんだね」

 

「こういうソフトも日々進化してますからね。タグ付けとか出来るんで、色々な用途別に分けれたりもするんですよ」

 

 二人してパソコンを覗き込んで、色々な操作をした。

 戦法ごとにソートしてみたり、年代で検索を掛けてみたり、棋士の名前で一覧をだしてみたりと、宗谷さんも途中から慣れたみたいで、とても興味深そうだった。

 宗谷さんの棋譜が今一番多く入っているのに気付かれて、僕はちょっと恥ずかしかったんだけど、なんだか彼が嬉しそうだったから、まぁ別にいいかと開き直ってしまった。

 

 そうこうしているうちに、やはり棋譜の内容にも目がとまるわけで、少し意見を交わしているとあっという間に時間がたってしまっていた。

 

 僕はシロに軽く足を齧られてようやくそれに気づいたのだ。

 

「イタッ! あぁ! ごめんねそろそろご飯の時間だったかな?」

 

 不満そうに、にゃーんと鳴いたシロを見た後、時計をみてびっくりした。

 

「えぇ!? もう9時まわってる!! 宗谷さん、お時間大丈夫なんですか?」

 

「ん? 明日は特に予定なかったから大丈夫だよ。それより随分長居しちゃったな……ごめん」

 

「僕は全然良いんですよ。明日日曜日ですし。あの、良かったらご飯食べていきますか?すっかり遅くなっちゃいましたが……」

 

 簡単なものしか作れないけど……と続けた僕に、宗谷さんは頷いた。

 僕が自炊しているのにも相当驚いていたけれど。

 

 手早く作れるものにする。豚肉を電子レンジで解凍してしまって、タレはあったはずだから生姜焼きにした。野菜は適当に冷蔵庫にあったものをみじん切りしてサラダにする。

 ご飯は冷凍もしてあるけど、せっかくお客さんが来てるんだしとはや炊きモードでさっと炊いてしまった。

 ちょっとだけ待つ時間があったから味噌汁も作った。乾燥わかめと麩だけが入った簡単なものだ。いつも一人だったらインスタントとかですませてしまうが、今日は二人分だし。

 

 ご飯をすっかり待たせてしまった猫たちにも、今日は特別に高い缶詰をあけた。

 クロはこういう時には、呼ばなくても出てきてご飯をたべる。餌を入れる音を良く知っている。

 

「はい、どうぞ。即席なので味はあまり期待しないでくださいね」

 

「……すごい。僕なんかよりもずっと上手だ」

 

 何時もはしまってある折り畳み式の机をだして、遅い晩御飯を並べた僕に宗谷さんは、感心したようにしばらく料理を見つめていた。

 

「たいしたもんじゃないですよ……」

 

「充分だよ。これだけ手早く作れるのは成人男性でも珍しい。少なくとも僕は絶対無理」

 

 はっきりとそう言い切るその様子に少し笑ってしまいながら、二人でご飯を食べた。

 外食を一緒にすることはあったけれど、僕が作ったことはなかったなぁと思い起こす。

 美味しいよ、と言って貰えて、一安心した。名人に変なものは食べさせられない。

 

 食後に紅茶を入れ直して、先ほど食べ損ねていた、三日月焼きも食べてもらった。

 

「お世話になってる和菓子屋さんのなんだ。うん。とっても美味しいよ。口当たりがやさしいね。祖母に買って帰ろうかな……」

 

「良かったです! 僕も大好きなんですよ。お店の場所、教えておきますね」

 

 気に入って貰えてよかった。自分の好きなものを肯定されると、とても嬉しい。いそいそとメモに住所を書いている僕を見ながら、宗谷さんが続けた。

 

「それから、この紅茶もありがとう。実はこれ、一番好きなやつ」

 

 柔らかく微笑みながらそう言われて、あぁ……その辺の好みは変わらないんだな、と懐かしいような、少し切ないような、不思議な感じがした。

 

 

 

 結局ご飯の後も、うっかり宗谷さんが持ち込んでいた玉将戦の検討をしだしてしまって、それからはあっという間だった。

 

 その対局は粘りに粘った土橋さんから宗谷さんが序盤のリードを守り切って、ギリギリ勝った対局だった。

 中盤のどこが鍵だったとか、終盤戦ひょっとしたらひっくり返せた手があったかもしれないとか、考え始めると切が無かったのだ。

 視点を変えたいということで、僕が宗谷さん側、宗谷さんが土橋さん側で途中から指し直したりしていたら…………

 

 気が付いたら窓の外が明るくなっていた。

 

 おまけに僕の携帯がけたたましくなる。

 

「桐山っ! おまえ宗谷どっかでみなかった? 会館出たあとホテルに行かなかったみたいなんだよ」

 

 電話は神宮寺会長からだった。宗谷さんは公にはしていないけれど、耳の調子が悪いときもあるから、会長は随分気にしているし、ホテルはだいたい馴染みのところをとる。

 失念していた。

 昨日彼が泊まる宿が無いわけが無かった。キャンセルでもなんでもいいから、一報入れるように気を回せなかったのは、僕も浮かれていたのだろう。

 

「……ごめんなさい、会長。宗谷さんいま、僕のうちに居ます……」

 

「あぁ! やっぱりな! 会館でおまえとしゃべってるの見た奴がいたから、もしかしてとは思ったんだよ」

 

「すいません。急に連絡が取れなかったらびっくりしますよね……」

 

「いーよいーよ、ホントはそっちの大人が自分でちゃんとしないといけない事だから。あいつ携帯にかけても出ないし……全く。ちょっと代わってくれる?」

 

 会長に言われて僕は、携帯を宗谷さんへと手渡した。

 

「もしもし……おはようございます。……え? 携帯ですか? あぁ充電切れてました。はい。……えぇ、気を付けます。

 ……仕事? 今日なにかありましたっけ? あぁそうだったような。分かってますよ、ちゃんと行きます。では」

 

 最初こそちゃんと頷いて会長の話を聞いていたようだけれど、途中から明らかにめんどくさそうになって、あっさりと通話を切ってしまった。

 どうも、宗谷さんの携帯の充電は切れてしまっていたらしい。

 

「ごめんね、桐山くん。君が謝ることなんてなかったのに」

 

 携帯を差し出しながら、彼が眉を下げたのがわかった。

 

「最初に誘ったのは僕ですから……、えっと、今日お仕事あったんですか?」

 

「午後から、取材が入ってたみたい。そういえば、そんな話だった気がする。悪いけど、シャワーだけ借りてもいいかな?」

 

「どうぞ。流しの前のドアを入ってすぐです」

 

 なんというか……相変わらずその辺の管理は、ぼんやりとしている方だな。会長が連絡をとりたかったのは、取材のことを忘れているかもしれないと危惧したからかもしれない。

 

 シャワーを浴びている間に、トーストでも焼いておこうと僕も立ち上がった。

 座り続けてすっかり足が固まってしまっている。

 

 ベットの上で寝ていたシロが、起きだしてきて、僕にむかって咎めるように鳴いた。

 ちゃんと夜寝なかったでしょ。と言われているようだった。

 今日だけは見逃してよと、僕は頭を撫でた。

 

 軽い朝食をたべて、宗谷さんを送り出した。

 すっかり長居をしたと呟いた後に、今度は僕が何か奢るからと言って、部屋を後にした。

 

 

 

 この体で初めて徹夜をしてしまった僕は、全部落ち着いたらどうにも眠くなってしまって……気が付いたら布団の上で猫たち2匹とお昼寝をしていた。

 

 でも、明日のことを気にせずに思う存分宗谷さんと指しあえたのは、本当に貴重なことだから、たぶん今度があっても僕はまた、同じことをするだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




師匠をオリキャラにしたのは、今の桐山くんを一人暮らしさせたら、きっと色んな人が来て面白いだろうなぁという算段もあったのです。
既存キャラ使ってるとその人の家をでないといけない流れが作り辛くて。
1人目を宗谷さんにするという予定は特にはなかったですが、なんか流れで。
元成人済みのイクメンだった桐山くんは人並みに料理はできます。奥さんのひなちゃんと一緒に料理をするのきっと好きだったのではと思うのです。

次は林田先生視点です


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第三十一手 人生のたのしみ

 誰にだって趣味ってあるだろ?

 それがあるから、仕事を頑張れる。日々の活力になる。毎日が少しだけ楽しくなる。

 小説を読む人、ドラマを見る人、音楽を聴く人、タレントを応援する人、スポーツに打ち込む人、旅行に行く人、趣味は色々だ。

 

 俺にとっては将棋がそうだった。

 

 はまったのは少し遅く、高校生くらいの時だった。

 自分で指してみても楽しかったし、ちょっとアマの大会に出たこともあったけど、まぁほぼ最初の方で敗退した。

 それでも辞められない不思議な魅力があって、特に将棋を観ることは時間を重ねれば重ねるほど好きになった。

 丁度将棋界が、中継や解説を熱心にし始めた時期と重なっていたからかもしれない。

 

 プロ棋士たちは個性的で魅力あふれる方が多かった。

 圧倒的な記録と、人間離れした実力で期待の新星だった宗谷冬司が七冠を懸けて戦い始めた時期が、俺が大学卒業してすぐの事だったのも大きい。

 激動する将棋界の様子をこの目で見ることができた。

 

 けれど、俺がもっとも応援していて、ずっとファンでいるのは、圧倒的な実力をもつ宗谷名人ではなく、当時はまだB級で、トーナメントの本戦にやっと名前を連ねはじめた若手棋士の島田さんだった。

 

 宗谷世代といわれ、彼の成績の前では誰だって霞んでしまう。

 それでも、胃痛もちで同じ歳、故郷を大切に想いながらゆっくりとではあるが、確実に頂きを目指して進んでいくその姿は、俺のヒーローだった。

 

 圧倒的な存在は、かえって人に畏怖を覚えさせることもある。

 島田さんの等身大の魅力が俺を惹きつけたのだと思う。

 

 彼がB級1組に上がった、23歳の時。

 俺は大学を卒業して、教員採用試験に落ち、非常勤として拾ってくれた駒橋高校でなんとか働き始めた。

 高校教師の採用枠というのは、俺が考えているよりも随分と狭く、それは東京という学校が多い県であっても変わらなかった。

 

 でも、腐らずまた来年頑張ろうと思えた。

 新しいクラスで、確実に力を付けて行く彼をみていると勇気を貰った。

 

 翌年、働きぶりが評価されて、非常勤枠から常勤にならないかと言われたのは、本当に運が良かったと思う。

 

 

 

 どの職でも言えることだろうが、新人というものは大変だ。

 新しいことばかり、上手くいかない事ばかりで、失敗が続いて心が折れそうになることもある。

 けれど、望んだ道だ。

 グッと歯を食いしばって、努力をした。

 

 どれほど忙しい日々でも、彼の成績は時々チェックして、まだ少なかったけれど中継されることがあったら、見逃さずにパソコンにかじりついた。

 敗戦が続けば自分の事のように悔しく、すばらしい内容で快勝すれば翌日は良い気分で仕事に向かえた。

 

 数年もすれば俺も仕事になれてきて、クラスの担任を任されるようなり、より一層仕事にやり甲斐を感じていた。

 少し余裕が出来て、詰め将棋の作成に手を出して、雑誌に投稿し始めたりもした。

 

 島田さんがA級への昇級を決めたのはその頃だ。

 ついにこの時が来たと随分テンションが上がったものだ。

 

 そして、同じ年。

 将棋界に激震が走った。

 

 

 

 小学生プロ棋士誕生。

 

 

 

 その話題はすぐにニュースで取り上げられ、俺は最初、信じられなかった。

 どういう経歴をたどればそれほどの若さでプロになれるのか、考えもつかなかった。

 

 桐山零くんというその子供の情報を手に入れるのは簡単だった。

 メディアがここぞとばかりに競い合って、報道したからだ。

 

 父親は昔奨励会に所属していたが、プロにはならず医師になったこと。

 長野で家族と暮らしていたこと。

 突然の事故で家族を失い、たった一人取り残されたこと。

 親戚は誰も手を差し伸べてはくれなかったこと。

 施設で暮らしながら、大会で好成績をおさめ奨励会に入会したこと。

 記録係の仕事でお金を稼ぎながら通い続け、歴代最速でプロ入りを決めたこと。

 現在は父親の師匠でもあったあの藤澤名誉九段に師事し、内弟子として生活していること。

 

 ……いったいどこの小説かドラマの主人公だ? と思いたくなるほど波乱万丈な人生。

 

 その成績も内容もまるで現実離れしていた。

 ほとんどの昇級・昇段の最年少記録を更新し、三段リーグの到達年齢も当然最年少。

 おまけにリーグ無敗の18勝という好成績で四段昇段を決めただけでなく、なんと奨励会で行ったすべての棋戦で無敗だった。

 ついでにいうなら、彼は公式戦で負けたことはただの一度もないらしい。

 

 こんなの人間が残せる成績じゃないだろ、と畏怖さえした。

 一体どんな子どもなのだろうかと思った。

 

 

 

 

 けれど、動画サイトにあがっていた彼の記者会見の映像をみて、俺の彼に対する印象はガラッと変わった。

 

 たしかに、子どもらしくはなかった。

 受け答えは落ち着いていて、言い回しや敬語も完璧。

 

 でも、家族や親戚の話題で瞳を揺らし寂しそうにしていたその表情が、施設の人たちの話題になってこぼれた笑顔が、師匠のことを語る時の嬉しそうな顔が、どこからどう見ても、その辺に居る子となんら変わりなかった。

 すこし大人びているだけ……おそらくそれも環境上そうならざるを得なかっただけで、俺たちと同じじゃないかと思った。

 

 応援したいな……と思った。

 この才能がどこまで伸びていくのかも興味があった、それと同時に放っておけない魅力を持つ子どもだった。

 

 

 

 将棋連盟の方もこの新星をきっかけに将棋界を盛り上げるつもりなのだろう。

 異例のテレビ番組が企画された。

 

 俺としては、桐山四段の相手の一人にA級入りを決めた島田八段が選ばれているのが本当にうれしくて、録画は保存版として絶対にDVDに落とそうと決意した。

 

 こういっては何だが、人格者であるものの、キャラクターとしてのインパクトが大人しい島田八段が選ばれた理由はなんだったのだろうと考えていたが、対局前のインタビューで分かった。

 

 奨励会時代、幹事としてお世話になった棋士。

 師弟とはちがうけれど、桐山四段を見守って来ている。話題も多いのだろう。

 対局前のトークが弾んでいた。

 

「僕が最初に記録係の仕事をしたいと持ち出したときに、つなぎを付けて下さったのは島田八段なんですよ。入会以来本当にお世話になりっぱなしで」

 

「そうだったんですか……島田八段は、最初どう思われたのですか? 記録係をする年齢としては、異例だったのでは?」

 

 その節はありがとうございますと、頭を下げた桐山四段にインタビューアーは優しく相槌をうった。

 

「桐山四段がとてもしっかりしている子なのは、分かっていましたからね。熱意に負けまして。その後の仕事振りは素晴らしかったです。棋士たちの間でも良い意味で話題になったほどです」

 

「“小さい記録係”として、一部の将棋ファンの間でも有名だったそうですね。桐山四段が中継でうつっている動画今、人気らしいですよ」

 

「えっ……その頃の動画も出回ってるんですか……なんだか恥ずかしいなぁ」

 

 照れたように笑う桐山四段をみながら、絶対にあとでその動画を検索しようと心に誓う。

 

「島田八段は桐山四段とのエピソードで想い出に残っていることはありますか?」

 

「そうですね……。成績なんかは皆さんもうご承知でしょうし……。入会当時からよく気がまわる優しい子でしたね。自分が貰ったお菓子を施設の子にあげるために食べずに持って帰ってたり。でも、自分の事にはあまり頓着していないみたいで、寒い中薄着でずっと会館に通ってきていたのには、気をもんだ覚えがあります」

 

 島田八段の言葉をうけて、桐山四段がぱっと何かを思い出したように手を打った。

 

「あ! 島田八段から昇段祝いにと貰ったマフラー今年の冬も使いました」

 

「えぇ!? あれまだ持ってたの……そんな良いもんじゃないのに……」

 

「島田八段はどうして、マフラーを贈ろうと思ったのですか?」

 

「桐山四段は冬の寒い日でも、ずっと歩いて将棋会館にきてましたからね……。見ていられなくてつい……」

 

 和やかな雰囲気で対談は進んだ。

 桐山四段も、島田八段を尊敬しているというか……まぁなんというかとても懐いているのが良く分かった。

 島田八段の柔らかい人柄がとても良く出ているし、これをきっかけにファンが増えないかなぁと思った。

 

 対談の様子とは、一転。

 対局の内容は大変厳しく、苛烈なものだった。

 

 驚いたのは、桐山四段の雰囲気というか、オーラというか、対局前とは全く違った。

 それはみて思ったのは、あぁこの子はもうちゃんと棋士なのだということ。

 

 内容もそれは立派なものだった。

 

 堅実に見えた島田八段の一手に、ほんの少しだけ垣間見えた隙をつき、一気に攻撃をしかけたのは、舌を巻いた。

 俺では到底思いつかないし、あそこで攻めたところで次にはつなげないだろう。

 それが出来ると踏んだ、彼の読みの深さは驚愕の一言につきる。

 

 嵐が来る。

 将棋界は変わる。変わらざるを得ない。

 この少年にはそれだけの力がある。

 行く末を見届けたいとこの日そう思った。

 

 

 

 予想に違わず、桐山四段の活躍は素晴らしかった。

 いや、予想以上だったと言っていい。

 

 炎の三番勝負の全勝から一気に話題をよび、プロ入り後まだ一度も負けていない。

 彼の連勝が増えていくたびに、それまでは将棋の話題などよっぽどじゃなければ出さなかった番組まで、取り上げはじめた。

 

 小6の秋ごろ、朝日杯という全棋士参加のトーナメントで本戦入りをきめ、予選を突破しそうなタイトル戦が増え、A級棋士との対局にも勝った。桐山零という名前を聞いたことが無い人は、よっぽどテレビや雑誌などに興味が無い人くらいになった。

 

 俺は島田さんの成績を追うのと同じくらい、彼の対局も夢中になって追った。

 宗谷名人がもつ歴代最多の連勝記録が見えつつあった。これで興奮しないなんて、将棋ファンじゃない!

 

 冬頃に一度、密着系のドキュメント番組に出演したのをきっかけに、彼の知名度はうなぎ上りだった。

 普段の大人しい様子と、対局中とのギャップ。

 小学生としての顔とプロ棋士としての顔。

 とにかく話題に事欠かない子だった。

 逆境の中で培われたであろう人柄もあって。あれでは好印象を抱かない人の方が少ないだろう。

 

 宗谷名人との連勝記録に並ぶ対局と、新記録が打ち立てられるかもしれない対局が同じ日に行われる朝日杯だったことは、なんともドラマチックだった。

 しかも相手は両方ともA級棋士。

 中継もされるとあって、ネットではもうお祭り騒ぎだった。

 

 柳原棋匠が投了と告げたとき、俺と同じように部屋で1人ガッツポーズとともに奇声をあげた将棋ファンはきっと多かったことだろう。

 歴史的瞬間に俺たちは立ち合ったのだ。

 

 次の対局が宗谷名人とのベスト4で都内のホテルで公開対局が行われると知った時、俺は何が何でも、見に行こうと思った。

 

 将棋イベントに行くのは初めてではなかったけれど、予想をはるかに上回る記者と観戦目的の客の数にまず驚いた。

 

 そして、対局の開始を待つ桐山四段を生で見たとき、戦慄した。

 

 澄んだ水のような雰囲気を纏って、静かにそこに在った。

 対局相手の宗谷名人のもつ研ぎ澄まされた雰囲気と相まって、そこだけ別世界かと思う程だった。

 圧倒され、惹き込まれ、夢中になっているうちにあっという間に終わっていた。

 

 そして、負けるとやはり悔しいのだと瞳を揺らして答えた桐山四段を見たとき、俺はやっと現実に戻ってきたような気がした。

 あぁ……そうか、そうだよな。

 誰だって勝つためにやってるんだ、悔しくないわけない。

 

 そして、大盤解説で桐山四段が前にたったとき、俺はその小柄な体格をみて、あぁ本当に小学生なんだな……と感慨深かった。

 踏み台にあがるのを少し躊躇している姿や、宗谷名人が駒を置くのを手伝っている姿をみると、会場中が穏やかな雰囲気に包まれた。

 

 人智を超えたような対局を期待する一方で、彼のそういう人間味がある様子を見られると安心した。

 両方の側面をもつその姿は会場にいた多くの人を惹きつけたことだろう。

 

 

 

 

 

 


 

 無事に担任をしていた高3のクラスを卒業させた俺に、突然の辞令が下ったのは2月の末。

 4月から附属中学の方で担任をもってほしいとのことだった。

 持ちあがりで担任をすることが多い私立だったから、次は高1だろうと思っていたので、流石に驚いた。

 

 理由は、産休に入る教員の代わりが見つからなかったことが一番大きかったが、次の入学生に気に掛けてあげてほしい子がいるとのことだった。

 あまり、特別扱いをするのはどうか……とも思ったが、その生徒の名前を聞いたとき、信じられなくて校長に聞き返してしまった。

 

 桐山四段が……いや、4月からはほぼ五段になることは確定か……とにかく、小学生プロから中学生プロになると相変わらず話題の渦中のその人が、駒橋中学校に入学してくるという。

 

 あの忙しい中で、私立受験をしていたのも驚きだし、それなりの偏差値が要るうちに受かってきているのも驚きだし、俺が担任になるのはもう衝撃の一言だった。

 

 駒橋高の校長や教頭、また中学の教頭にも将棋好きが何故か多い。

 将棋の話題で上司と盛り上がれるから俺もそれは助かっていた。

 ほんとは私も中学へ行きたいと嘆いている高校の校長を横目に、俺はなるべく彼のサポートが出来るように頑張ろうと気合いを入れた。

 

 新入生説明会の後に、桐山四段がわざわざやってきたのには驚いた。

 宜しくお願いしますと頭を下げるその姿は、卒が無いというか優等生そのものだった。

 天才というものは、どこか浮き世離れした雰囲気があるだろうと予想していた分、俺は拍子抜けだった。

 

 林田先生と呼びかけてくる声が何処か柔らかく、意外と人懐っこい性格なのだろうかとも思った。

 

 意外と会話が弾んで、欠席するときの書類の書き方とか、テストや行事が重なったらどうするか等も具体的に話せたのは上々。

 もっとも成績に関しては、事前に見させてもらったけれど全く問題なさそうだった。

 進学クラスに所属がきまった生徒たちの物と比べても遜色ないどころか上位に食い込む。

 辞退されたことに、進学担当者の教員が随分惜しそうだった。

 

 理数系に属する科目の成績が特にとびぬけているのをみて、ご両親がご存命だったなら医者になって後を継ぐという将来もあったのかもしれないと思い至って、勝手に切なくなってしまった。

 

 俺が帰り際の彼に、俺は一瞬迷ったけれど、我慢できずに切り出した。

 

「あのさ……、良かったらでいいんだけど、サイン貰えるかな?」

 

「え!?……えぇ、まぁたいした手間でも無いですし、基本的に断ることないので大丈夫ですよ。何に書いたらいいですか?」

 

 桐山四段は少し驚いた後に、慣れたように鞄から筆ペンを取り出していた。

 書く物によってはマッキーも持っているらしい。手慣れている。流石にプロとして注目をあびて、一年経っているから当たり前か。

 

 俺は、いそいそと机の引き出しから色紙を取り出した。

 担任になると決まった時から、チャンスがあったら絶対頼もうとおもって常に入れておくことにしたのだ。

 

「これにお願いします。名前もできたら……」

 

「はい。大丈夫ですよ。たぶん四段って書いた方がいいんですよね?」

 

「是非!いやーやっぱりよく分かってんなぁ。ひょっとして、ここ最近相当頼まれた?」

 

「えぇ……と、まぁそれなりには。今度の順位戦が終われば昇段しますから、タイミング良かったですね」

 

 感心して呟いた俺に、桐山四段は曖昧に笑った。

 たった一年間だけだった四段のサイン。欲しいと思う奴はいっぱいいる。

 あまり、迷惑を掛けたくないとおもうけれど、ファンとしては本当に嬉しい。

 

 そして、そんな俺たちの様子を伺っていた影が数人……。

 

「……んん、おほん。桐山くん、良かったら私の色紙にもお願いできないだろうか」

 

「私にも是非! この扇子にお願いしたい」

 

「教頭! 扇子なんてずるいですよ」

 

「何を言う!私は、準備が良いだけだ!」

 

 中等部の教頭はわかる。なんで高等部の校長と教頭までいるんだ!? いったいどこから聞きつけてやってきたのやら……。

 

 桐山四段は、苦笑しながらも全員に丁寧に対応していた。

 はじめのうちは、教頭たちの勢いに、若干引き気味だったけど。

 入学後どころか……入学前からこうなっちゃったか……と少し申し訳なく思う。

 でも、すまん! その人たちは上司だからあまり強くは言えないんだ! それに俺もサイン貰っちゃったし。

 

 事前に色々話せたし、新学期早々は特別なことはないだろうと思っていた俺のところに、連絡が入ったのは3月末のこと。

 藤澤先生の急病により、急に引っ越す事になって、4月から一人暮らしをする。学校に提出した書類の住所欄や連絡先を変えたいと、電話があった時は、思わず数秒固まってしまった。

 

 中学生で一人暮らしかよ!?新学期が始まる前から予想外すぎるだろ!?

 どれだけ準備しても何かがおこりそうなこの先を思って、前途多難だな……とひとり小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 




林田先生視点でした。
先生が桐山くんが意外と人懐っこいと思ったのは相手が先生だったからです。桐山くんは林田先生の事を良く知っているので最初から、心開いてる感じ。


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第三十二手 嵐の前の……

「こんにちは! お邪魔します」

 

「れいちゃん、こんにちは~」

 

 快活な声が部屋に響く。今日は嬉しいお客さんが部屋にやってきた。

 

「いらっしゃい。迷わなかったですか?」

 

 僕の声もいつもより弾んだ気がする。

 二人が来るからと、朝から念入りに掃除もして、片付けもした。

 

「大丈夫よ。このあたりは、知らない場所でもないしね」

 

 二人にと新しく買ったスリッパを勧めていると、にゃ~ん、と鳴きながら我が家の門番が、とことことやってくる。

 まずい! あかりさんたちからは川本家にいるにゃー達の匂いがするし、とても嫌がるかもしれない、と焦ったのもつかの間。

 

 珍しいことに、シロは彼女たちを威嚇することはなかった。

 初めてくるお客さんへの恒例の、何度もその人の周りをくるくる回る動作はしたものの、その後すぐすり寄って甘えている。

 

「あ、シロ。駄目だよ。服に毛が付いちゃうだろ」

 

「わ~可愛い。れいちゃんのお家のにゃーだ! 懐っこい子だね」

 

「……藤澤師匠のお家の猫を預かってるんです。すぐ慣れたみたいで良かった」

 

 ひなちゃんはすぐに喜んで、首の回りや頭を撫でてあげていた。

 懐っこい……? 絶対にありえない評価だけど……まぁ、二人の事をシロも気にいってくれたのなら一安心だ。

 ……この子の中の、判断基準がどうなっているのか気になる所だけど。

 

「とっても、綺麗に片づけてるのね。男子学生の一人暮らしとは思えないわ」

 

「今日は何時もよりは気合いをいれて、片づけましたけど」

 

「それでも、学校もいって、昨日だって対局あったんでしょ? 家の事ちゃんとするだけでも大変なのに……」

 

「きちんと生活してないと、此処の更新を認めてもらえないかもしれないんですよ。抜き打ちで門下の人が来ることもありますから。慣れたらそれほど大変でもないです」

 

 感心してくれるあかりさんに、苦笑しながらそう答えた。

 

 冷蔵庫の中の物は、以前よりも常に充実している。自炊もちゃんとしているし、食生活の乱れはないと思う。

 和子さんは藤澤さんのお見舞いにいく合間をぬって、週に一回は見に来るし、その時に食材を買い足してくれたり、作り置きをしてくれたりもする。

 その時に、あまり使っていなかったりすると一発でばれてしまうから、自然と消費する気になった。心配はかけたくない。

 

「そっか、でも今日は私たちが入学祝いに腕を振るうから、桐山くんはゆっくりしててくれていいんだからね! 台所借りていい?」

 

「いえ、僕も手伝います! 作ったことない料理だったら勉強になるし」

 

 ひな、手伝ってっと、声を掛けるあかりさんについて行きながら、僕はそう答えた。

 

 そもそも二人が家に来たのは、突然の僕の一人暮らしを心配したのと、あとは入学祝いをしたいと言ってくれたからだ。

 

 

 

 

 発端は数日前、三日月堂に顔を出した時に、晩御飯に誘われたことに始まる。

 年度末にバタバタした僕が訪れたのは一カ月ぶりくらいだったし、久しぶりに御厄介になることにした。

 誰かが食事を作ってくれて、誰かと囲む食卓というのは、とても暖かいものだ。

 一人飯が続くと、少し恋しくなってしまう。

 

 そしてその席で、相米二さんに師匠の家の晩御飯は良かったのかと問われて、うっかり今は一人暮らしですと答えてしまったのだ。

 当然、優しい川本家の人々は驚愕した。

 ひなちゃんたちのお祖母ちゃんやお母さん、そしてあかりさんとひなちゃんも、それはそれは心配してくれた。

 割となんとかなってるとか、自炊もしてると言ってもどうにもその表情は晴れなかったので、良かったら遊びに来てくださいね。と持ち掛けたのは僕の方。

 そして、あかりさんがそれじゃあ、今度入学のお祝いも兼ねて、ご飯を作りに行くわ! と声をあげて、ひなちゃんもそれに賛同。

 とんとん拍子で今日の訪問が決まっていた。

 

 僕としては、二人がまたこの部屋に来てくれたのは、不思議な感じがして、それ以上にとても嬉しかった。

 変えてしまいたいこと、忘れてしまいたいことが多かった以前の記憶の中で、川本家の人々との関わりは、失いたくなかった数少ないものの一つ。

 まっさらに戻ってしまった関係をまた繋げて、こうして一緒に笑いながら、料理が出来ていることを実感するとギュッと胸の奥が暖かくなった。

 気を抜くと嬉しくてちょっと泣きたくなるほどだ。

 

 あかりさんは、作り置きができるからとカレーを作ってくれた。僕のリクエストでもある。

 カレーって市販のルーを使っていても、各家庭ですこし味が違ってくる。中に入っている具の違いとか、ちょっとした味付けの癖とか。

 川本家のカレーの味が僕はとても好きだった。僕にとっての幸せの味。

 あと、それだけじゃちょっと味気ないからとから揚げも揚げてくれた。これはひなちゃんの好物でもあるし、僕もずいぶん食べたなぁと懐かしい。

 

 普段は料理なんてめんどくさくて、義務でしているようなものなのに、二人と一緒だとあっという間だった。

 なんで楽しい時間ってこんなにすぐ過ぎてしまうのだろうか。

 

 

「さ、完成ね。桐山くんとっても手際が良いから驚いたわ。ひなよりずっと包丁使うの上手ね~。ちゃんと日頃からお料理してるのが良く分かったわ」

 

「もう! お姉ちゃん! 私だってすぐ上手くなるもん」

 

「慣れないところはピーラー使ったりもしますけどね。ひなちゃんもすぐ上達するよ。ちゃんとその年でお手伝いしてるのって凄いと思う」

 

 ひなちゃんは、ちょっとふくれた様子だったのから一転、パッと照れたように笑った。

 実際、小学校中学年で進んで台所仕事を手伝っているのは凄いことだと思う。

 しっかり手伝っているあかりさんの背中をみて育ったからだろう。

 

 3人分の料理を並べると机の上は一杯になった。

 この机だとこれが限界だな……もう少し大きい机でかつ収納しやすいものを、買っておくべきかもしれない。

 前の時は、この机すらなかったけれど、今回は人が来ることが予想以上に多いし、僕もそれが嫌じゃないから。

 

「あ、見てみて! 桐山くん、もう一匹のにゃーが出て来た」

 

「え?クロが人がいるときに、出てくるなんて……」

 

 未だかつてなかったことだ。

 座布団の上に座ったひなちゃんにそろそろと寄っていったクロは、撫でようと伸ばされた手を享受して、なんとその膝の上に乗った。

 

「うちのにゃー達と違って、ご飯に手を出してこないなんて、賢いわね」

 

 感心したようなあかりさんの声を聞きながら、僕は生返事をする。

 それぐらい驚いたのだ。

 クロがこれだけ気を許すのは珍しい。

 和子さんに一番懐いていたけれど、僕にも少しは懐いてくれて、たまにだったら抱っこもさせてくれる。

 ……ちなみに、僕が家にいた一年ちょっと、藤澤師匠の膝に乗っているのは見たことがなかった。

 この子はどうも自分の好みもあるようだから、ひなちゃんの事を気にいったのだろう。

 

 食事中も会話は弾んで楽しかった。

 あかりさんの高校生活や、ひなちゃんの小学校での出来事を聞くのは新鮮で、ついつい僕の方から質問もしてしまった。

 前だったら出会う以前の事だ。少しでも二人のことを知ることが出来て嬉しい。

 二人からは、棋士って何をするの? と仕事の事を尋ねられた。

 対局一つとっても、タイトル戦だったり、イベントの一環だったりで扱いは当然違うし、解説の仕事や、地方で行われるイベントにも参加すると伝えると、すごいすごいとはしゃいでくれた。

 

 

 

「れいちゃんは……さ。凄いね」

 

 食後のお茶を飲んでいた時にひなちゃんがポツリと呟いた。

 

「お家の事も全部して、学校にも通って、お仕事もして……この部屋も、生活費も、全部自分で払ってるんでしょ?」

 

「……うん。僕は一応学生だけど、半分は社会人みたいなもんだからね。将棋のおかげで、お給料も貰ってるから」

 

「社会人……大人ってこと?」

 

 ひなちゃんは僕の言葉に少し考え込むような素振りを見せた後に、尋ねてきた。

 

「うーん、ちょっとその辺はまだ曖昧だね。僕、パッと見は子どもだし……まだ成人はしてないし。ただ、自分で身を立ててちゃんと自立はしたいってずっと思ってたから」

 

「私と……4つしか変わらないのに……」

 

 僕の答えに、ひなちゃんは何故かとても、落ち込んでしまって、肩を落とした。

 

「突然どうしたの? ひな?」

 

 何かまずいことを言ってしまったかと、おろおろする僕に代わってあかりさんがひなちゃんに問いかける。

 

「……お父さんのこと考えてた。……やっぱりちょっとおかしいよ。れいちゃんの方がずっと大人みたいだ」

 

「……ひな、お父さんのことは……後でまたお話ししましょう」

 

 あかりさんは、困ったような表情でそう答えた。

 けれど、ひなちゃんはその言葉がどこか琴線にふれてしまったようで、ちょっと怒ったようにこう続ける。

 

「だってお家だったら、話題にも出来ないじゃん!」

 

 あかりさんが怯んだように言葉に詰まったのが、分かった。

 

「お母さんは哀しい顔するし、お祖父ちゃんの機嫌は悪くなるし……。私たちには心配しないでって言うけど、夜真剣な顔でこっそり話してたり、通帳みてたりするの、私だって知ってるんだからね」

 

「だからって、桐山くんの前で話す話題でもないでしょう!」

 

「えぇ……と、二人とも落ち着いて下さい! 僕は全然良いんですけど……まずは一回、深呼吸しましょう」

 

 なんだか、ヒートアップしてしまった二人に慌てて声をかける。

 二人ははっとしたように僕の方を見た後に、次の言葉は飲み込んで大きく一つ深呼吸をしてくれた。

 そして、少しだけ気まずそうな表情をする。

 

「もし……お二人が嫌じゃないなら……話していきませんか? 聞くぐらいしかできませんけど……」

 

 踏み込み難い話題ではあったけど、以前のあの男の所業は知っている。もし、また二人が困っているなら、力になりたかった。

 

「桐山くんは、もう何度か家に来てるけど……私たちのお父さん見たことある?」

 

 あかりさんは少し迷ったような素振りを見せたあとに、真剣な表情でそう切り出した。

 

「いえ……一度も、あまり聞いてはいけないことかと思いまして」

 

「離婚したとか、死別したとかそういうんじゃないの。私たちのお父さんはちゃんと居るんだけど。……その、ちょっと前に急に仕事を辞めてから……あまり家に居つかなくなってしまって……」

 

「そうだったんですか……えっと僕があかりさんに会ったのは半年前くらいですが……それより少し前に?」

 

「今から2年前くらいかな。それからは非常勤とかアルバイトとか色々してたときもあったの。でも……続かなくて。去年の夏頃に、お祖父ちゃんの三日月堂を手伝ってすぐやめて、それで大喧嘩してから、家をあけることが多くなったの……」

 

 相米二さんは厳しい方だ。生半可な気持ちで仕事をされるのは許せなかったのだろう。

 

「お母さんはなんておっしゃってるんですか?」

 

「お母さんはね! ずっとお父さんのこと信じてるの。今はちょっとお休みしてるのよってそればっかり」

 

 大変な思いをしているのは……お母さんなのに……。と、母親の苦労を想い、ひなちゃんは心を痛めていた。

 

「私たちもね。変だなって思ってるの。でも言えなくて。言ってしまったら本当に、お父さんが、私の知ってるお父さんじゃなくなる気がして……」

 

 俯いたあかりさんが、力なくつぶやいだ。

 優しい彼女たちは、信じてしまう。

 いつかはきっと、もう少ししたらきっと。

 そうやって今ずっと苦しんでいるのだ。

 

「ちょっとって言い続けて、もうどれくらいたった? 家にいない間どこでなにしてるの? って最近ずっと思っちゃって。

 れいちゃんなんか、その間にプロになって、働いて、一人暮らしまでしてるのに。って……上手く言えないけど……すっごい変な気持ちになった」

 

 ギュッと眉を寄せて、そう言うひなちゃんの手は震えていた。

 自分の父親に、不信感を持つって、相当キツイのではないだろうか……。

 

「家にいないお父さんより、今はちゃんとお母さんを支えてあげたいと思ってるの。お母さんはまだ、お父さんの事信じてるし、愛してるから」

 

 目を伏せながら、あかりさんははっきりとそう言った。

 まだ、高校生なのに……強く、強くあろうとしているその姿は、眩しくて、そして少しだけ寂しい。

 

「あかりさんと、ひなちゃんがいるから、お母さんは頑張れてるんだと思いますよ。二人はちゃんと支えになれてます」

 

 月並みな言葉しか言えないけれど、ちゃんと伝えておきたかった。自分は無力なのかもしれないってそう思うのは、辛すぎるから。

 

「そう……かな。そう、だったらいいなぁ」

 

「大丈夫です。僕がみた川本家の皆さんは、支え合って、励まし合って、毎日笑顔でご飯を食べてる。そんな素敵な皆さんでしたよ。正直すっごく憧れました」

 

 小さく呟いたあかりさんに力強く、頷く。

 何時だって川本家の居間は、明るかった。

 またそこにお邪魔できるのが、どんなに嬉しかったか。

 陽だまりのようなその場所が、僕には尊かった。

 

「そっか……。れいちゃん! いつでもご飯食べにきていいんだからね。私ももっと、色々作れるようになるし」

 

「うん。桐山くんが来てくれると、皆はりきるから、お土産とかなくても全然来てくれていいんだからね。誰かと一緒に食べるご飯って美味しいでしょ?」

 

「ありがとうございます。

 ……じゃあ、お二人も。もし本当にお父さんの事で何か困ったり、悩んだり、お家じゃ話しにくいこととかあったら、うちに来てくださいね。

 たいしたことは、出来ないけど……一緒に考えます。力になりたいんです」

 

 ほんとは……もしかしたらとも思ったのだ。

 ひょっとしたら、まっとうな父親をしてくれているのではないかと。

 でも、それはやっぱり望めそうになかった。

 だったらいずれ……その日が来てしまう。その時に力になれないなんて、真っ平だ!

 

「……うん。うん! ありがとうね。今日も話聞いてもらえて、なんかちょっとスッキリした」

 

「ありがとう桐山くん。ほんと、年下に思えないなぁ……私ももっとしっかりしないとね」

 

 何度もなんども頷いてくれたひなちゃんと、すこしだけ肩の力を抜いてくれたあかりさんをみて、僕は一息ついた。

 よかった。これで、何かあった時に、知らずに終わるという事態は避けられそうだ。

 

 食べ終わった食器を片付けて。

 日が暮れる前に二人を送り出した。

 送っていくと言ったのだけれど、明日学校早いんでしょ? 二人で帰るから大丈夫だと、断られてしまった。

 

 二人が帰ってしまって、静かになった部屋でふと考えた。

 ひょっとしたら、そろそろなのかもしれない。

 あの父親が出ていくと言い出すのは。

 ……モモちゃんの妊娠もまだ確認されていないみたいだったから、まだ時間があるのかと思っていたけど。

 

 なるべく、優しいこの姉妹が傷つくことがないように……でも禍根は残したくない。

 また数年後、あの時のようにやって来られたら困るんだ。

 お母さんや、お婆さんが亡くなるきっかけにこの騒動が関係ないわけないし……。

 どこまで、関わらせてもらえるか分からないけれど、準備はしておこう。

 

 僕は密かに、菅原さんに連絡をとった。

 素行調査に定評のある事務所か探偵か、その手の専門職の人を紹介してほしいと。

 いい気はしないけれど、情報と証拠は多いにこしたことはない。

 もう既に別の彼女さんを作っている可能性は大いにある。

 

 僕の最優先はあかりさんとひなちゃんの気持ちだ。

 亡くなるその間際まで、ずっとあの男の事がすきだったというお母さんの気持ちには寄り添えないかもしれないけれど……。

 少しでも、穏便に、傷つかないように……そのために出来ることは何でもするつもりだった。

 

 

 

 遠い、遠い記憶の中で、僕の心を救ってくれた彼女に忠誠を誓った。

 それは、たとえ死んで戻ったくらいで、消える気持ちじゃない。

 

 

 

 

 

 

 


 

 少しだけ、不穏な気配がし始めた日常だが、棋戦は待ってはくれない。

 僕にとって今年度最初の山場といえる。

 聖竜戦決勝トーナメント準決勝が迫っていた。

 これに勝てば決勝……そしてもし、トーナメントで優勝すれば、僕は聖竜戦の挑戦者の資格を得る。

 現在の聖竜をもっているのは宗谷さんだ。

 聖竜は持ち時間4時間の五番勝負……最低でも三戦は対局できるし、フルセットにもつれこめば五戦、もしそれが実現したらどんなに楽しいだろうか……。

 

 でも、そう易々とはいかない。

 今回の対局相手は島田八段だ。

 研究会では何度も顔を合わせているけれど、公式戦では初対局になる。

 島田さんだって、昨年A級にあがって勢いがついている今、挑戦権をとりたいと思っているはずだ。

 

 僕は島田さんの棋譜をさらうと同時に、ここ最近の研究会での対局や研究手についても、なんども反復して思い出した。

 手の内をさらしきるわけがないけれど、それでも少しでも情報がある方がいい。

 今、島田さんのなかでの流行や、決め手はなんなのか、ひょっとしたらこういう戦法でくるのじゃないかと、何度も何度も考えた。

 

 時間を忘れて、シロに足やら腕やら齧られた回数はもう両手を超える。

 あの子のおかげで、とりあえず食事だけはちゃんととることが出来る。

 

 そしてあっという間にやってきた対局の日。

 少し早めに会館に入ったつもりだったけど、ロビーで島田さんの姿を見かけた。

 お互い、対局相手が来ているのは分かったけれど、一礼するにとどめ声はかけなかった。

 

 大事な一戦だ。

 言葉を交わすのは対局の後でいい。

 

 対局室には先に入って下座につく。

 じっと目をつぶって、開始の時間を待った。

 ほどなくして、僕の目の前に座った島田さんは、良く知っているけれど全く違う人だ。

 

 纏っている空気が違った。

 当たり前だ、挑戦権がその先に見えている大切な対局。

 これに気合いが入らない棋士はいない。

 雰囲気にあてられて、武者震いしそうだった。

 

 振り駒の結果。

 先手は僕に決まった。

 

 先手をとった時の初手は決めていた。

 まずは角道をあける、7六歩。

 

 これに対して、島田さんの応手は、同じく角道を開ける3四歩。

 もし、この2手目が8四歩なら「矢倉」か「角換わり」になるのが濃厚だったのだが……この選択で、後手からの「振り飛車」か、「横歩取り」になるだろう。

 

 そして、4手目に島田さんが、飛車先の歩を突き返し、8四歩としたことで、この対局は、「横歩取り」から展開していくことが決まった。

 

 主戦に据えられることも多く、日々、実戦と研究が繰り返される「横歩取り」は常に最新形の理解と応用が求められる。

 少しでも後れを取れば急転して、あっさり負けていたなんて事すらある、危険が潜む激しい戦型。

 敢えて後手番で「横歩取り」へと先導したのには……なにか相当の準備があると見た方がいい。

 

 といっても戦型が固まるまでは、定跡通りお互い指しあい、陣形を固めていく。

 動きがあるなら中盤以降だろうと思っていた僕は、26手目の島田さんの7二金に唸ることになった。

 

 島田さんは、右の金を玉の下に構えてよくある「5二玉型中原囲い」にするのではない、銀の外側に開くことで、「中住まい」調に構えたのだ。

 

 前例がない。

 

 26手目にして……互いの読みあいと、見解、感覚、全てがぶつかり合う、力比べになった。

 

 いいな、とっても面白い。

 自然と頬が上がりそうになるのをなんとか堪える。

 全力でやりあおうと誘われたわけだ、乗らないわけがない!

 

 僕は、33手目で3三角で、角交換を行った。自ら動いて主導権を奪いたい。

 島田さんの応手は、同桂で僕の角を払った、それを見て、僕は争点となりそうな7筋方面の守りをあつくするため、8八銀とする。

 

 中盤は僕が積極的に、敵陣を攻めたてて、揺さぶりをかける展開になった。

 けれど、島田さんは終始自然な対応をし続ける。

 

 別れ道になったのは68手目。

 島田さんは僕の陣形の8筋に、陣形を乱すため歩を叩きいれる。

 この手をそのままにしてしまうと後が苦しくなるので、僕は、同金と応じてこの歩を払った。

 

 主張が通った形になった島田さんは、続けて7筋に垂らしておいた歩を成り込む。

 僕は、ここでも同金と応じざるを得なかった。

 

 でもこのまま、応じているわけにもいかない。

 79手目5四歩、攻勢に転じる一手をさして、島田さんの玉に一気に襲いかかった。

 

 85手目に8一飛、捕獲していた飛車を後手陣の8筋最下段に打ち込んで、相手の玉の可動域を厳しく制限した。

 

 追い詰めたと、そう思った。

 でも次の一手。

 86手目8八角。僕の陣へ、角の一手を打ち込んだ。

 

 あぁ! そうか。さっき陣を崩そうとしていたのは、このためか!

 終盤に入っての流れを一気にもっていく強烈な一手だった。

 

 手持ちの駒を切らした。時間もない。

 そして、それを補えるほどの余裕を僕に与えてはくれなかった。

 

 94手目、8二歩と指されたとき、一気に寄せにはいったことがわかった。

 相手は、盤石の体勢だ。

 

 僕は大きく息をついて、お茶を一口飲むと、その続きを指した。

 勝負を投げてはいけない。

 たとえ最終的に読み切ったとしても、棋譜に軌跡をのこすため、その瞬間まで、淡々と指していくのも、棋士の矜持だ。

 

 

 

 そして、島田さんの106手目5七馬で、僕は、負けましたと頭をさげた。

 

 

 

 僕の言葉に、島田さんは大きく息をつくと、あー疲れた。と一気に体勢を崩した。

 はりつめた空気がふっと弛んだ。

 

 感想戦は一転して穏やかなものだった。途中で研究会をしている気分になるほど。

 改めて、考えると86手目の8八角にだって、手がないわけではなかったのだ。ただ、この状態になってしまった時点でもう駄目なので、そこに至るまで当然手を打っておくべきだった。

 完全に終盤は島田さんの手の上だったなと悔しく思う。

 

 感想戦が落ち着いたのを見計らって、記者の人達もやってきた。

 準決勝とはいえ、注目カードだったらしく、人数が多い。

 

「まずは、島田八段おめでとうございます。対局全体をみて如何でしたか? 桐山五段とは公式戦、初対局となりましたが」

 

「えぇ……もう。本当に疲れました。一瞬でも気を抜けば持っていかれてましたね。

 実際、終盤もどうなるか微妙なところでした」

 

「桐山五段はどうでしたか? 持ち時間全てを使いきっての長期戦でしたが」

 

「力戦模様になってしまって……難しい将棋だったと思います。序盤はおそらく先手ペースだったと思うので……中盤ですね。ミスがあったとするなら」

 

「具体的にはどのあたりだと分析されますか?」

 

「そうですね……また帰って、見直しますが……75手目付近の歩の打ち込みに対して、払うしか無かったのは痛かったですね。あそこから崩されていったと今なら思います」

 

「島田八段はいかがでしょうか? 終盤に取り返せるのは計算のうちでしたか?」

 

「いやー正直、我慢して、我慢してやっとか。という感じの将棋でした。上手く86手目につなげられたから良いものの、危ない橋でしたね。後ろ手からの横歩取りで、あまり無い形にもっていって、揺さぶったつもりだったんですが……桐山五段の柔軟性は本当に凄い」

 

「次の対局で勝てば、聖竜戦で初の挑戦権の獲得となりますが」

 

「まずは、今日の対局を見直して。それからですね。得られたものは大きかったです」

 

 島田さんのその言葉で、その場はお開きとなった。

 

 おそらく僕の方には、中学上がってすぐの挑戦権獲得も期待がかかっていただろうが、今回は見送りだ。

 前の時も、初の挑戦権をとるときは、もうそろそろ、次こそ! と囁かれつつも、時間をかけてしまった。

 

 それだけ難しい。

 一年でそのタイトルを獲得できるのもたった一人だけれど、挑戦権を獲得するのだって保持者を除いた全棋士の中から一人なのだから。

 

 マンションについて、出迎えてくれたシロの頭を撫でたあと、上着すら脱がずにベッドへと倒れ込んだ。

 あーあ。負けちゃったよ。

 頭のなかでは、ずっとぐるぐると今日の対局の盤面が回っている。

 身体はすごく疲れているのに、頭だけ冴えわたったこの独特の感じ。

 力戦の後ではよくあることだった。

 

 耳元でクロがちいさく鳴いたのが分かった。

 あぁ……そうかご飯をあげないと。そう思うのに、身体は動かなくて、僕はそのまま寝入ってしまった。

 

 夜中に起きて、慌ててあげる羽目になる。

 二匹とも、仕方ないご主人様だなと言う感じで、一声鳴いただけで許してくれた。

 

 変な時間だったけど、そのままお風呂に入って、ご飯を食べて、明日の準備をすることにする。

 一眠りしたから、頭の中は切り替わっていた。

 内容は悪くなかった。

 目一杯、反省して、悔しがって、それでまた次につなげてみせる。

 

 

 

 

 

 

 



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第三十三手 こころのありよう

 

 なんで、こんなことになってるんだろう。

 

「えぇぇか、坊主、東京のもんはなぁ、福島の人間を頑固だなんだと言いやがるが、なんも分かっとらん」

 

「……松永七段、そのお話今日もう三度目です」

 

「あぁ……? そうだったか? まぁええから聞け。福島魂っていうのは……」

 

「七段、今度こそ最後まで話してくださいよ。お孫さんの話とか、昨日の野球の話とかに飛ばないで下さいよ。あと、そろそろ飲み過ぎでは……」

 

「これは、俺の酒だ!」

 

「僕は飲めませんし、取りはしませんよ。これはもう空なんですっ!」

 

 空の瓶を下げようとした僕の手を払って、威嚇する松永さんに溜め息をつきながら答えた。

 

 本当になんでこんなことになっているのか……。

 いや、答えは分かっている。

 うまく断れず捕まってしまった僕も悪い。

 

 

 

 

 今日は今年度に入ってから最初の順位戦だった。

 C級1組で僕は今年度も全10戦を戦う。

 来年度B級2組へ昇級する枠は2枠。10戦全勝に限り文句なしで昇級、あとは成績による順位で決まる。

 C級は人数が多いし、昇級したばかりの者は与えられる最初の順位が低いため、9勝1敗などの成績で並ぶと不利だ。

 一期抜けを狙うなら、一敗が命取りになる。

 

 というわけで、気合いをいれて臨んだ一局目の相手が松永正一七段だった。

 還暦が迫る大先輩の棋士。

 

 ……前回の記憶でも、色々あって大変記憶にのこっている方だった。

 今回もどうなることかと思っていたら、それはもうある意味では興味深い対局だったと言える。

 

 82手目で松永七段の投了だった。

 ハッキリいって完勝だったと思う。

 松永七段の棋風は自由すぎるというか……もっというと、行き当たりばったり過ぎて、意図を想像することすら難しい。

 ある程度相手の思考をなぞれる身としては、これも稀で珍しいこと。

 順位戦は持ち時間が長い対局で当然それをギリギリまで使って指しあうのが普通だが、僕は結局合計で1時間も使用してない。

 おかげで本来なら、日が暮れてから終わることが多い順位戦なのに、今はまだしっかり日が差し込んでいるほどだ。

 

 松永さんが乗り気じゃないのでほとんど、形だけのものになってしまったけれど感想戦も終わらせて、今日は少し早く帰って料理の作り置きでもしようと席を立とうとしたときだった。

 

「飯……」

 

「はい?」

 

 ボソッとつぶやかれた言葉をまさかと思って聞き流そうとした。

 

「飯、いくぞ! こんな日は飲まんとやってられん」

 

「えっ……。それって僕もですか……?」

 

「こんな時間に捕まるのお前しかおらん!」

 

 そりゃあそうでしょうとも……。

 でもそれは僕のせいじゃないんだけどなぁ……。

 

 結局流されるままに食事に行き、何故かまたうなぎをたかられた。

 もうこの際だからと、僕も良いやつ注文して食べるくらいには、開き直る。

 ウナギは高いだけあって、流石に美味しかった。

 

 お酒をたのんで、いい気分になってる松永さんの相手を一応する。

 もっとも酔っ払いがしゃべることなんて半分も信用ならないことは分かっているし、あっちこっちに飛ぶ話は支離滅裂で、でもそれが少し面白かった。

 今はお酒は飲めないけど、前はそれなりに嗜んで、前夜祭やら就任式やら、イベントごとで色々な人の相手もしてきた。

 あの時とちがって、酔っ払いへの耐性は少しはある。

 

「よーし坊主、次はわしが奢ってやる。そばだ。そば食べに行くぞ」

 

「有り難うございます。値段全然違いますけどね……」

 

「今日はおまえさんが勝ったんだから、これくらいはいいだろ」

 

 まだうっすらと明るい日暮れ道を、千鳥足で歩いていく松永七段の背中をみながら、仕方ないなぁと少しだけ笑いそうになった。

 よく食べるなぁと思う。それに良くしゃべる。力の抜き方も良く知っている。

 この年まで、ご健勝で現役としてやれている秘訣かもしれない。

 

 それと少しだけ嬉しかった。

 僕にご飯をご馳走してくれる棋士の方は、沢山いるけれど、おごれなんて言って来たのはこの人が初だ。

 対等……とまで思ってくれてるかは分からないけど、一端の棋士として見てくれてる……なんて考えすぎかな。

 

 

 

 入った蕎麦屋は松永さんの常連の店みたいだった。

 注文は僕にしかとらなくて、松永さんはいつものですね、と声を掛けられていた。

 

 前のお店で飲んだお酒が少し抜けてきた様子の松永さんは、蕎麦をすすりながらポツリと言った。

 

「おまえさん、年はいくつだっけ?」

 

「13歳ですけど……」

 

「わしの孫とそんな変わらんなぁ」

 

「え、お孫さんまだ……赤ちゃんですよね?」

 

「赤子と変わらんよ。まっさらで、純粋で、何にでもなれる。おまけに、史上初の小学生プロ。去年のほぼ無敗といっていい成績。世間の話題を一身に集める才能の塊。わしとは違いすぎて、もはや嫉妬する気持ちもわかんわ」

 

 ふんっと鼻を鳴らしながらこちらを見た後、松永さんはお茶を一口飲んで、

 

「ただなぁ……お前さん、ちょっと生き急いどるような気もする」

 

 しみじみとそう呟いた。

 

「僕が……ですか?」

 

 思わず聞き返した言葉に、うん。と何でもないように頷かれた。

 

「わしだったら息すらもしにくいだろう。期待、羨望、注目されるってことはそういう事だ。才能だとも言われてるが、それだけじゃないのは指しゃ分かる」

 

 これでも一応、何十年と将棋を指してきたからな。と言われた。

 

「おまえさんはちょっと出来過ぎだ。インタビューも模範解答。今じゃ家の事もぜーんぶやっとるって話だ。わしなんかここ何十年、家事には関わったこともない!」

 

 そこは、関わろうよと思ったけれど、口には出さなかった。

 

「将棋以外の事で、夢中になること、考えることはちゃんとあるか?」

 

「……あ、ありますよ」

 

 でも、とっさに僕は出てこなかった。

 現にここ数日はこの対局の事ばかり考えていたから。

 

「み、三日前にキャットフードが無くなりそうで、次はどのメーカーのにしようか小一時間考えてました」

 

 将棋以外で悩んだことと言われて、とっさにそのことを思いだしたけど、これはないと言った瞬間自分でも思った。

 

「やっと出て来た答えがそれかい、くっ、ぶっはは……」

 

 松永さんは僕の言葉に爆笑して、挙げ句の果てにはむせるほどの勢いだった。

 

「はぁ……それもまぁいいがなぁ……。そういう家事や生活の一環みたいなんじゃなくて、ほれ今時の子だったらゲームとかテレビとかなんか他に夢中になっとるもんとか、後は友人の事とか、好きな人の事とか普通はもっとあるだろう」

 

 呆れたようにそういう松永さんに、ゲームやテレビに興味は全くないし……と言葉に詰まる。

 結局僕は、将棋しかない。

 あ、でも一つだけ思い出した……。

 

「先月、進学祝いにってお世話になってる方が家に遊びに来てくれて、一緒に料理を作って、色々話したんですが……その時一日は、将棋の事ほとんど考えなかった気がします」

 

 あの日は朝からずっと、二人が来ることだけを考えていた。

 料理を作る時も、話すときも、将棋の話題になったことはあったけど、目的は二人にそれを話して聞かせることだったから。

 

「ほぉ……ちゃんと友達おったんだな」

 

 その呟きに、心の中で余計なお世話ですよ、と悪態をつく。

 ひなちゃんやあかりさんは友達というにはちょっと違う気もするけど、だからと言って他に表せる言葉が無い。

 

「そういうのをもっと大事にした方が良い。将棋なんてこの先何十年もどうせするんだ。おまえさんなら、そのうちタイトルだってとるだろ。

 けどな、貴重だぞ。学生でいられる期間は」

 

「貴重……」

 

「そうさ、何十年という人生の中でたった数年だ。学生だから許されること、出来ること、限られた時間だからこそ価値があること、先が短い年寄りには羨ましい限りだ。

 ま、とにかくそんなに急ぎなさんな。わしからしてみりゃぁお前さんらは将棋に取りつかれとるように見える。……そこまでせんと、いかんのかね」

 

 それから、わしが学生のときはなぁという、ホントかどうか怪しいような松永さんの想い出にただ相槌を打ち続けた。

 

 ちゃんとお店をでるときには、蕎麦を奢ってくれた。

 

 帰り際に、なぜか無性に悔しそうに、色紙をつき出されて娘さん宛のサインを要求された。

 ぎりぎりまで言い出さないけれど、貰って帰らないという選択肢がないところが松永さんらしい。

 帰路につきながら、最後の言葉がずっと頭の中で反響していた。

 松永さんが複数形にして、僕と誰を指しているのかは分からなかった。

 A級棋士たち? 宗谷名人? あるいは前線で戦っている全ての棋士を指したのかもしれない。

 

 でも、それくらいしないと届かないのだ。

 全てを捧げて、人生をかけて、それでもまだ足りなかったような気がする。

 タイトルを獲得することか、残される棋譜か、あるいはその歴史、将棋を指すという行為そのものに魅せられてしまった。

その時点で、僕はもうこの道を進むしかない。

 

 

 


 

 5月末。

 僕のMHK杯の放映がそろそろらしい。

 

 本戦は棋士49名と女流棋士1名の計50名が出場するこのトーナメントは、テレビスタジオで収録され、その模様が毎年4月から毎週1局ずつ放送される。

 2月の予選を勝ち抜いていたので、僕も本戦出場者の一人である。

 

 当然撮影した時に、対局の結果は分かっているけれど、放映されるまでその内容に関しては、他所に漏らしてはいけない。テレビで流れる前に勝敗が分かっているなんて、つまらないだろう。

 放映時間内に収めるために、対局は早指しといわれるタイプになる。

 持ち時間は各10分で、それを使い切ると1手30秒未満となる。ただし、秒読みに入ってから1分単位で合計10回の考慮時間をそれぞれ使用できる。これはこのトーナメント独特のものだ。

 いつ使うのか、たった数分のその選択がとても重要になる。

 

 スタジオという独特の雰囲気と、その短い時間ということで、最初はあがったり緊張したりもするらしいけど、何十回と指してきた記憶があったので、雰囲気にのまれることは無かったと思う。

 

 とは言っても、自分の指してる姿を見るのは少し気恥ずかしいし……、対局の内容は棋譜をみれば振り返れるから放送を見る気はなかった。

 川本家の方々は録画するとか言ってたし、林田先生も絶対見るって言っていたけど、僕は絶対に見ない!

 


 

 [桐山くんのMHK杯初戦だな]

 

 [絶対この回視聴率いいだろ]

 

 [やった! 解説は横溝先生じゃん。俺この人の解説大好き]

 

 [解説はいい人引っ張って来ないと]

 

 [此処勝負どころだから、将棋界の広報的にも]

 

 [相手は……安井六段か中堅ってところかなぁ]

 

 [あんまりタイトル戦の本戦とかじゃ、聞かない名前だな]

 

 [若手の頃はそれなりに出てたけど、今はちょっと停滞気味だね]

 

 [俺としては桐山くんの早指しに注目したい]

 

 [朝日杯よりも持ち時間すくないけど、あの時の宗谷戦をみるに苦手ではないな]

 

 [若手は大体得意でしょ早指し]

 

 [天才肌ほど得意でもある]

 

 [直感とかなんか思考以外で分かることあるらしいからなぁ]

 

 [凡人には分からない感覚]

 

 [お! 桐山くんたち映った]

 

 [駒を並べる映像に合わせて対局者の紹介があるんだよな~]

 

 [これが好き]

 

 [てか、桐山五段のプロフィール豪華すぎ]

 

 [奨励会入会した年とプロデビューの年が近すぎて間違いかと思う]

 

 [連勝記録もなー去年そうとう話題になったし外せない]

 

 [デビューの年で朝日杯べスト4だったしな]

 

 [将棋大賞の記録部門四冠……とか何事]

 

 [そんで一期抜けで今五段と]

 

 [そうかー桐山くんはMHK杯四段ででることはなかったんだな……]

 

 [2月の予選のときはまだ四段だったけど、映像ないしな]

 

 [初参戦ながら、大注目の棋士ですねっていう解説横溝先生の締めくくりよ]

 

 [注目どころか俺かしたら、大本命ですが]

 

 [……この後に紹介される安井六段が可哀想です]

 

 [それを、言うたらあかん]

 

 [今日の桐山くんは中学校の制服だね]

 

 [俺、初見だわ中学の制服]

 

 [学ラン似合ってる]

 

 [こうやって見ると大きくなったなぁと思う]

 

 [袖すこし長めだね、全体的に大き目?]

 

 [ちょっと大き目買うとか庶民的]

 

 [記録係してるころから見てるとなぁ感慨深い]

 

 [立派になって……]

 

 [桐山五段の保護者多すぎw]

 

 [解説者の紹介のあとは、対局者の意気込みなわけだが]

 

 [桐山五段ほんとに初参戦? ってレベル]

 

 [インタビュー完璧すぎる]

 

 [流れるようにしゃべる]

 

 [噛んだりとかしても、可愛いのに……]

 

 [目が泳いだり、ちょっと視線をずらす棋士も多い中ちゃんとカメラ目線]

 

 [皆さんも見ていて楽しい対局にできたらと思います+笑顔]

 

 [もうこれだけで、充分です]

 

 [癒やされる]

 

 [あぁぁ浄化される]

 

 [日曜日の朝からええもん見たわ]

 

 [これは……またファンが増えるな]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

 [最初は角換わりだな]

 

 [MHK杯はサクサク進む]

 

 [桐山五段、手綺麗だなぁ]

 

 [ちょっとまだ小さいけど指長いよね]

 

 [駒音もいい]

 

 [カメラの性能がやっぱりいいから、アップ綺麗だし]

 

 [真剣な横顔]

 

 [将棋指してると雰囲気ちがうんだよなぁ]

 

 [うん……なんかやっぱりちょっと神聖なかんじする]

 

 [オーラが出てるよ]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

 [もう、中盤だけど桐山くん全く時間使わないね]

 

 [考慮時間必要ないってか]

 

 [指し筋に迷いが無い]

 

 [全部30秒未満で指してるから減らん]

 

 [安井六段これは厳しいな]

 

 [うーむここまで正直いいとこない]

 

 [終始桐山くんペース]

 

 [なんかもう指してる姿からして余裕が感じられる]

 

 [わかる……凛としてる感じ好き]

 

 [背筋伸びてるよなぁ]

 

 [宗谷戦の時はもうちょっと前のめりになったり、腕を組んだりとかあったんだけどな]

 

 [もともと綺麗な姿勢で指す子ではある]

 

 [あっちゃ……これは……ちょっと]

 

 [んー安井六段これは無いんじゃ?]

 

 [ちょwこれw桐山五段むせてない?]

 

 [むせてるw]

 

 [ひっしで堪えてるけど、変なとこ入ったぽい]

 

 [ちょうどお茶のもうとしたとこだったのか]

 

 [あーあー]

 

 [ハンカチ取り出して拭いてるところに、育ちの良さがみえるな]

 

 [悲報:桐山五段、相手の失着にむせてこれまで使ってこなかった考慮時間のうちの1分を使用……]

 

 [ひーこれはw笑っちゃだめなんだろうけど笑える]

 

 [横溝さんの解説もやばい、ある意味で衝撃的な手だってw]

 

 [けっか桐山くんに考慮時間を使わせたのは評価できる]

 

 [むしろそこだけしかない]

 

 [いったいどれくらい「無い手」だったのかは、この反応で一目瞭然に……]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

 [87手目で安井六段の投了―]

 

  [888888888888]

 

 [888888]

 

 [桐山五段2回戦進出おめでとう]

 

 [88888888]

 

 [安井六段もお疲れ様です]

 

 [やりにくい相手だったとおもう]

 

 [流石だわ。完勝だねこれは]

 

 [あの一手からはもうあっという間だったな]

 

 [結局使った考慮時間は1分だけ?]

 

 [88888888]

 

 [うん。あの一分だけw]

 

 [横溝さんの解説の合いの手もあって面白かったな]

 

 [実質使ってないようなもん]

 

 [さてさて、感想戦ですよ]

 

 [お? 感想戦するの?]

 

 [そりゃ時間余ってるし]

 

 [この感想戦のときに解説者も一緒になってしてくれるのすき]

 

 [ちょ、横溝さんw]

 

 [桐山くんに制服に零れなかったって聞くの止めてw]

 

 [ちゃんと声ひろってるぞw]

 

 [大丈夫ですってちょっと俯き加減で答えるの可愛い]

 

 [あ、桐山くんやっとちょっと笑った]

 

 [おーほんとだ、横溝先生とは仲良いのかな?]

 

 [若手だからなーお互い]

 

 [桐山五段今時珍しいくらいはっきりしゃべるなぁ声が良く聞こえる]

 

 [対して安井六段はぼそぼそだから聞き取りづらい……]

 

 [こういう棋士の方が多いけどなぁ]

 

 [桐山五段の声まだちょっと高いな]

 

 [声変わりはまだってことか]

 

 [そろそろじゃね]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・


 

 欠席届を提出するために寄った放課後の職員室で、僕は林田先生にひとしきりからかわれた。

 MHK杯杯将棋の内容はとても良かったらしいけれど、お茶にむせたのは相当話題を呼んでいたらしい。

 ……そんなに面白いものでもなかったと思うんだけど。

 将棋自体には興味はないけれど、僕自身だったりその記録に付加価値を見出してる人向けの番組などで、いわゆるネタになるとして取り上げられたそうだ。

 ネットの中継ではもう何度も映っていたけど、中学校の制服姿で将棋を指しているところが、公共のテレビに流れたのはこれが初のことで、その点でも話題を呼んでいるらしい。

 クラスのみんなにも、見たよと声を掛けられたし、将棋は分からないけど桐山くんがとても強いのは解説があったから良く分かったなんて言われて、気恥ずかしさを感じた。

 横溝さんは相当しゃべりが上手だ。会長の采配は大当たりと言っていいだろう。

 

 青木くんからも久々にメールがあったほどだ。施設でもリアルタイムで観たらしい。

 日曜日の朝は戦隊もののアニメとかに枠をとられるだろうに……わざわざ僕の対局をみなくても……と思ったのだけれど、満場一致だったそうだ。

 皆元気だろうか、また遊びに行きたいなぁとそう思った。

 

 林田先生は、用がすんだから帰宅しようとした僕を呼び止めて、一つ確認をした。

 

「部活……ですか?」

 

「うん。一応うちの学校、中等部は何部かに所属するのが決まりなんだ。……まぁ、特例が無いわけでもないし、桐山には無理にとは言わん」

 

 忙しいのは俺も良く分かってるからと、そう続けられた先生の言葉に僕はすぐには返答できなかった。

 何処にも入部せずに終わらせた方が楽だ。

 放課後の時間だって研究にあてたい。

 そのはずなのに、なぜか勿体無い気がして、断ろうとした口をつぐんでしまった。

 これも、今しか出来ない事の一つなのではないかと思ったら、将棋があるからと考えもせずに切り捨てるのは違う気がした。

 

「……文化部で、人も少なくて、毎日活動があるわけじゃなくて、僕がたまに顔を出すのを許してくれるような、そんな部活ってありますか?」

 

 そんな都合の良い部活、あるわけないよなと思いながらも、思わず聞いてしまった。

 林田先生は少しだけ意外そうな顔をしたあと、真剣に考え込む。

 

「文化部ね……。あぁ! 一つあったぞ。今年入学した一年生で新設された部だ。認可がおりるギリギリの人数で、一年ばっかりだから桐山が休んでもそんな問題もないだろ」

 

 一度見学してみるか? と問われて気が付けば頷いていた。

 

「今日はたしか活動日だったとおもうから、これから行くか」

 

「あの、なんていう部活何ですか?」

 

「ん? 放課後理科クラブ。ちなみに顧問はオレな」

 

 丁度、中学に移動して部活もっていないところ狙われて断れなかったという先生の背中を追いかけながら、僕はその聞き覚えのある部活名に驚いていた。

 

「あの、もしかして……部長って」

 

「桐山も知ってんじゃね? うちのクラスの野口だよ」

 

「あ、はい。野口せ……野口くんには、休んだ時のノートを見せて貰ったりしてとてもお世話になってます。色々と助けてくれる、よく気が付く方ですよね」

 

 危ない。うっかり野口先輩って言いそうになった。

 授業が始まってから、最初の対局で授業を欠席した日の翌日、野口先輩はノートのコピーがいるかと聞いてくれた。ついでにどの教科がどれほど進んだのかも丁寧に教えてくれた。

 席が近かったわけでもない。

 入学式以降特別に声をかけていたわけでもない。

 ただ、頑張っているクラスメイトを応援するのは当然と言った風だった。

 変わらない彼の人柄が、懐かしく嬉しかったのを覚えている。

 

「なーあいつ、桐山とも別の意味で中一にみえないわ」

 

 でも、だからこそお前とは合いそうな気がすると先生は小さくつぶやいた。

 この人はいつも、僕のこともそうだけれど、生徒の事をよく見ていてくれている。

 

「おーい、野口ー、入部希望の見学者つれて来たぞ」

 

 ドアをあけた先生の言葉に中に居た数人が一斉にこちらを見た。

 

「これはこれは、桐山くんようこそいらっしゃいました」

 

 振り返った野口先輩は、穏やかに笑った。

 ビーカーを片手に白衣を着ている見覚えがありすぎるその姿と、深く柔らかいその声は、高校生のとき初めて放科部を訪れたときの彼と重なった。

 

 放課後理科クラブの方針はまだ固まっていないようだったけれど、危ない薬品とかは使わせてもらえないので、簡単なもので日常生活に役立つ身近な科学をって感じだった。

 まんま、前回の記憶と重なる。

 そのうちまた学校で自給自足は可能か……みたいな論文を書きだすんだろうか。

 皆さんとても楽しそうだった。

 近くの椅子で実験の様子を眺めていた僕は小さく呟く。

 

「なんか、いいなぁ……」

 

 無意識に零れたその言葉を、しっかりと拾っていた野口先輩がどうされましたか? と僕の傍にやってきた。

「皆さんとっても楽しそうに部活をされてて、こういうのがまさに青春って感じなのかなって思いまして」

 何気ない風を装って言ってみたけれど、隠しきれない羨望が滲んだ。

 

「でしたら、桐山くんも青春の一ページに、今この瞬間を加えたことになりますな」

 

「え? 僕もですか?」

 

「無論ですとも! 今はまだ見学者という事ですが、それでも今日一日は我ら放科部の一員ですよ。もし、本当に所属してくれるのであれば、これからもっと信頼を結んで、我々とともに青春を謳歌してくれればと思いますがな」

 

 あぁ……そうか。こういう人だ。

 大きな懐で、自然とほしい言葉をくれる。ふとしたときに頼ってしまいたくなるような。こういう方だった。

 

「しかし、少々意外ではありました。……桐山くんは多忙な身の上。部活動はしないという選択肢を選ばれるのではないかと」

 

 本当はそのつもりだった。

 前回だってそうした。中学の頃は考えもしなかった部活に入ろうだなんて。

 奨励会を抜けたい。

 早くプロにならなければいけない。

 それしか頭になかった僕は、放課後のわずかな時間を将棋以外に割く余裕はとてもなかったから。

 

「ある人に言われたんです。急ぎすぎだ、学生の特権をもっと享受しろって。その言葉を聞いても、結局僕には将棋が一番で、それを譲りたくなくて……。でも少しだけ勿体無い気もして」

 

 選択肢は無いはずなのに、松永さんの言葉は思った以上に僕の中に残っていた。

 二回目だ。折角二度目のチャンスを与えられて、沢山の後悔に全力でぶつかって少しは、自分を好きになれてきた。

 将棋以外のことだって、前出来なかったことをしてもいんじゃないかって。

 そんな風にぐるぐると考えてしまった。そして気が付けばここに来てしまっていた。

 

「それで良いのではないですか? 桐山くんの心の在り方は貴方自身が定めるもの。

 私にはその悩みも、充分に今しか出来ない学生の特権に見えます」

 

 心底不思議そうに野口先輩はそう言った。

 驚いてしまった僕は、パッと顔をあげて、隣に立つ彼を見上げる。

 

「一般的に、将来やこの先の展望に悩みだす年齢でしょうが、貴方の場合はそれが早かった。素晴らしいことではないですか、一生かけても見つからない人もいる。私だってまだ見つけていません」

 

 何においても譲れない、生涯をかけたいと思えるような道を既に定めている、それが一番なのは当然だと、そう言われた。

 

「でも、失礼じゃないですか? 皆さんは真剣にこの部活に取り組んでる。僕とは熱意が違ってくる」

 

「誰が何に、どれだけ気持ちを割くのか。それこそ人の自由でありましょう。将棋から離れた僅かな時間でもいいではないですか。私は、桐山くんが興味を持ってくれたのがまず嬉しい。もし楽しいと思えてくれたら、我々はもっと嬉しい。貴方の人生の部活という時間を共有できることは、光栄なことです」

 

 それを是とするか否かは、貴方自身の心が決めることですがね。と彼は眼鏡の奥のその瞳を緩めた。

 

 心の内に染み入るような言葉だった。

 なんて、贅沢なんだろう。

 将棋が一番で当然だと許されたうえで、もっと気楽に考えて良いのだと、そう背中を押された。

 難しく考えすぎていたのかもしれない。

 何もかも、全部手に入るわけではない。

 でも、少しくらい欲張ってもいいのだ。

 選択肢を狭めていたのは、僕自身だった。

 

「入部届出しても良いですか?」

 

「勿論ですとも! ともに青春を謳歌しましょうぞ」

 

 野口先輩は、力強く頷いて、両手を広げて歓迎してくれた。

 

「有り難うございます。野口先輩!」

 

 感激した気持ちそのままに、お礼を言い、しまったと思ったときには時既に遅し。

 しっかりと先輩と呼びかけてしまっていた。

 

「桐山くん、私は――」

 

 嬉しそうに、少し困惑したように何かを言おうとした野口先輩の言葉を、周りにいた人達が遮る。

 

「やっぱり! そう言いたくなるよね」

 

「僕なんて野口先生って声かけちゃたよ……」

 

「このオーラ、年長者の貫録を感じずにはいられません」

 

 他の一年生が次々にそう同意をしてくれて、僕は思わず一緒になって笑ってしまった。

 そして、野口先輩のあだ名は本当に“野口先輩”になってしまった。

 これで、呼び間違える心配もない。

 ノートのお礼を言うたびに、野口くんと呼びかけるのにずっと違和感があったから。

 

 桐山くんが入部するなら、折角だから将棋にも触れてみたい、もっというなら自分たちもやってみたいという声があがって、あれよあれよという間に、僕の入部に伴って放課後理科クラブは、放課後将棋科学部、略して将科部に改名されていた。

 

 やっぱり、この人たちと過ごせる時間はいいなぁ。

 皆と部活が出来る時間は、きっと掛け替えのない価値を持つ。

 たとえ、それが将棋にかけた時間の何十分の一だったとしても、この時は確かに僕の人生に刻まれるのだ。

 

 

 

 

 

 




松永さんは、原作2巻のセリフが重すぎて、気に入っているキャラのお一人です。
ただ、あの人なら中学生にだろうが、鰻はおごらせそうだなって思いました笑
野口先輩は、先輩じゃないけど、先輩って呼びたいし、あだ名が先輩で定着します。
彼も年齢不詳の人格者ですよね。


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第三十四手 僅か二ヵ月

 

 6月上旬、僕に再びチャンスがやってきた。

 棋神戦の挑戦者決定リーグでの勝率が良かったため、挑戦者決定戦へと進むこととなったのだ。

 挑戦者決定戦は一回勝負。紅白2つのリーグの優勝者が対局し、勝者は棋神への挑戦権を得る。

 

 2月に始まった挑戦者決定リーグの初戦の相手は後藤さんだったなと思いおこす。初戦を良い内容で勝てたから勢いがついた。

 僕が振り当てられた白組には後藤さんのほかに、土橋さんもいて、その対局だけは落としてしまったけれど、4勝1敗で留まれたのは充分な成績だろう。あとの5人が食い合ってくれたおかげで、次席が3勝2敗となったのだ。

 

 対戦相手となる紅組の方の優勝者はプレーオフになったらしく、まだ決まっていない。

 そろそろその対局が行われるはずだから、連絡が来るだろう。

 

 対局がなく、朝から学校で授業を受けて将科部の活動にも参加できた日、ひなちゃんからメールがきた。

 ご近所さんから貰った食材の一斉消費を行うのでよかったら、一緒にご飯を食べませんか? というお誘いだ。

 対戦相手が決まれば、対策と研究に明け暮れて、しばらくは会いに行けないだろうから、僕はそのお言葉に甘えさせてもらった。

 

 川本家の人々はお祖父さんの相米二さん以外は将棋にそれほど詳しくはない。

 けれど相米二さんがかなり、色々話しているようで、皆が僕に近々大事な対局があることを知っていた。

 

 ひなちゃんたちのお母さんの美香子さんは、試合に勝つってことでベタだったかしら……と言いながらトンカツを作ってくれたし、あかりさんも手伝って沢山の料理が食卓にならんだ。

 相米二さんが対局は体力勝負だからと、あれもこれもと沢山食べ物を薦めてきて、あまりに熱心なものだから、お祖母さんの彩さんに呆れられている。

 

 ひなちゃんはそんなみんなの様子をニコニコ見ながら、猫たちの相手をして、僕に部活の事を聞きたがった。

 一年生だけで作った部活なんだよって言ったらとっても驚いていた。

 でも、実際に野口先輩を会わせたらまた、先生と間違えたりするんだろうか。それはそれで、面白そうだし、いつかまた会ってほしいなぁと思った。

 

 賑やかで、暖かくて、楽しくて。

 僕が知ってる川本家の食卓となんら変わりなかった。けど今この場には、前の僕は会えなかった二人がいる。

 知らないはずの光景なのに、あまりに自然で、ここからこの人達が居なくなってしまうのが信じられなかった。

 いつまでも、この光景を見ていたいと、そう思った。

 

 

 

 穏やかな団欒は、突然開いた玄関の扉の音で終わりをつげた。

 

「ただいま。いやー疲れたなぁ。母さん、僕のごはんはあるかい?」

 

 その人は急に現れた。

 いや、なにも可笑しい話ではない。

 普通は帰ってくるのが当たり前なのだ。

 ただ、それがあまりにも久しぶりの事であることは、居間に走った緊張と、ひなちゃんたちの表情で分かった。

 

「お帰りなさい。もう皆食べちゃったわ。家で食べるなら連絡くらい、くれても良かったのに」

 

 美香子さんが、一番に声を返した。そう言いながら、いそいそとありあわせで料理を作り始めようとしていた。

 戸惑いつつも、その表情には喜びが浮かんでいて、ほんとうにこの男のことを愛してしまっているのだなぁと、僕はその様子をみて実感した。

 

「ん? 誰だい、君。ひなたのお友達?」

 

 席に着いた誠二郎さんは、僕の存在に気づいたようで不思議そうに尋ねてきた。

 

「初めまして、桐山零といいます。あかりさんとひなたさんには、仲良くして頂いてます」

 

「これは丁寧に。川本誠二郎です。しかし……何処かで聞いた名前だな」

 

 入り婿だったというこの人の現在の苗字は川本だ。

 川本誠二郎……ひなちゃんたちと同じ苗字を名乗るその姿に、ほんとうにまだ父親なんだと、嫌な汗が背中をつたった。

 

「坊主、飯食い終わったなら、暗くなる前に帰った方がいいんじゃないか?」

 

 考え込む誠二郎さんをよそに、相米二さんがそう僕に促した。

 この時間に帰宅を促されるのは、初めての事だ。でも、それが何故か分かった。

 なるべく彼と僕を関わらせないようにと、そういう心遣いだ。

 

「あぁ、思い出した!! プロ棋士の桐山四段だ!」

 

 腰を上げた僕の動作を遮るように、彼が手をうってこちらをみた。

 

「誠二郎、いきなり失礼だろう。それに、もう桐山五段だ」

 

「あぁそうでしたね。最年少昇段とニュースになっていた。へぇ……まさか、うちにこんな有名人が来ているなんてなぁ」

 

 なめるように僕を見るその視線には、純粋な好奇心以外に打算なようなものが感じられた。

 知っている。

 こんな視線は嫌と言う程経験してきた。

 

「まぁそんなに急いで帰らなくてもいいだろ。折角だから僕とも話をしてほしいな」

 

 表面的には人好きのする笑みを浮かべる彼に、僕は頷いた。

 見極めたかった。

 この男がもう手遅れの本当にどうしようもない奴なのかどうかを。

 その為に、多少の時間を割くのはしかたない。

 

 意外なほど、会話は軽快に進んだ。

 この辺の口の上手さは流石だと言うべきだろうか。

 テレビや雑誌の事を引き合いだして、あれはホント? これは? っと、さりげなく僕の情報を集めていた。

 おそらく一番気になっているだろう、対局料とか収入のことも。いまは本気になって調べたら公開してる対局も多いからある程度のことはばれてしまう。

 天涯孤独な子供、親が残した遺産もある。

 

 そして、あかりさんが怪我した僕を助けてから、よく三日月堂やこの家に来ていることも伝わってしまった。

 この人は思ったはずだ。この子どもは、自分の娘に少なからず好感をもっていて、そのために何度もここを訪れていると。

 

 実際のところは前の人生でお世話になった分の恩返しがしたいっていう絶対に分かりようがない理由だけど。

 

 使えると思ったはずだ。

 上手く利用できると。

 別にそれはいい。

 僕に興味をもって何か仕掛けてくるなら、その方がやりやすいから。

 

 

 

 表面上は和やかに終わった会話のあと、彼は僕を送っていくと家をでた。

 軽快なトークはその道筋でもやむことはなかったけれど、人気のない道にきたときに、それはきた。

 

「なぁ……それで、ほんとの所どっちが本命なの?やっぱりあかり? それともこれからにかけて、ひなた?」

 

「は?」

 

 ビックリするくらい色のない声がでた。

 

「だからさ……どっちか、好きなんじゃないの? じゃなきゃ、こんな下町の和菓子屋を御用達になんかしないでしょ。まぁ僕としては二人のどちらでも応援するけどね」

 

 二人とも気立てが良い子に育つよ、美香子の子どもだから。

 そう笑う男の言葉を、脳内で処理をするのを拒否していた。

 

 妻の実家のお店をこんな風にいうか普通。

 その上、僕が二人を何だって?

 そんな言葉で片付けていい感情じゃない。

 そんな単純で無邪気な感情じゃない。

 何よりも、そんな風に言われてしまったら、今のこの関係すら酷く俗物的なものに思えてしまった。

 繊細で、神聖な場所を土足で踏み荒らされるような感覚だ。

 

「奥さんのご実家のことそんな風に言うのはいかかでしょう。三日月堂の和菓子は、あそこでしか生み出せない価値があると僕は思います」

 

「へぇ……そこまで、かってくれてるのか。これは失礼しました。

 ……じゃあさ、店がやばくなったら多少は期待していいの? 御用達のお店だもんね」

 

 来た。どんなアプローチだろうと、絶対に金の無心はあると思っていた。

 けれど、随分早いな……。それだけ甘く見られてるってことか。

 

「最近は、売上伸びてるでしょう。経営が黒字なのは確認してます。お金が必要なのはお店じゃないですよね?」

 

 気分はよくなかったけど、この男の素行調査を依頼した時についでにお店の方もほんとうに軽くだけど調べて貰った。

 ここ最近は大口の仕事が増えているし、新しいお客さんも増えているらしい。

 ……プロになってからずっと、ちょっとした対局のおやつに三日月焼きを持ち込んでみたり、テレビや取材がある度にそれとなく推してきた効果が、多少はあるかもしれない。

 もちろん、お店の和菓子が美味しいのと、相米二さんと彩さんの対応が素晴らしいのが大きな要因だ。

 

「まいったな、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど、そんな風に真面目に返さないでくれ」

 

 誠二郎さんは肩をすくめてそう言った。

 

「あまり、甘くみないで下さい。あなたが何を考えているのか、大体のことは予想がつく。娘さんに熱をあげる、世間知らずの子ども。良い金づるになりそうだと思いました?」

 

 僕の言葉に彼は、サッと顔の色をかえた。

 取り繕って、何を言ってるのかサッパリだ、とそう笑ってみせたけど、一瞬のその表情で知れてしまう。

 

「甘い汁をすすろうと寄ってくる大人はたくさんいた。独りになって東京に来てから、そんな手を振り払って、真に僕のことを想って延ばされた手だけに、なんとか縋ってここまできた。

 そうやって、生きて、いま自分の足でたっている。貴方の手で踊らされるほど、僕は安くない」

 

 彼は僕のことばに肩をおとして、自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

 

「まいったな……嫌われたもんだ。ま、別にいいけどね。ひなたやあかりとはこれからも仲良くしてやってよ」

 

 そう。自分がどれほど嫌われようと、僕にとって二人が特別であり続ける限り、関係が切れることはない。

 この男は、それが分かっている。

 ……そして、本当にどうしようもなくなったら、僕が手を出すであろうことも。

 

 じゃ、この辺でもういいだろ。と来た道を帰り始めようとする。

 旗色が悪くなったら退散しようとするところも相変わらずだな……。

 僕は、我慢できなくなって、彼の背中に問いかけた。

 

「あえて聞かせてもらいますけど……どうして定職につかないんですか? 家にも帰らず……僕には、考えられない」

 

 どんなに自分がどん底でも見捨てないで愛してくれる奥さんと、あんなに可愛い娘がいて、こうなってしまう理由が本当に分からなかった。

 あんなに素晴らしい場所を蔑ろにできる気持ちが理解できない。

 

「……責任とか、義務とか色々、面倒なことが多すぎてさ。もっと楽に生きたいんだ。誰だって、自分が一番かわいいだろ」

 

 君だって、いずれ分かるよ。と、振り返って笑っていた彼の言葉が耳から離れなかった。

 そう、笑っていたのだ。

 一体それの何が悪いのだとでも言うように。

 

 

 

 気が付いたら全力で走っていた。

 立ち止まってしまったら、男の背中をひっつかんで全力で殴りに行ってしまう気がして。

 あいつの気持ちが分かる日なんて一生来ない。

 あれは、僕には理解できないモノだ。

 今日それがはっきりした。

 そして……、美香子さんには悪いけど、あの人が家庭を顧み、改心する日はこないことも。

 

 走り続けて、自分の家のドアを突き破ってしまいそうなほどの勢いで開いた。

 転がり込むように中に入って、玄関でようやく息をつく。

 頭の中も、心の中も、見事にぐちゃぐちゃだ。

 

「他人を自分のペースに巻き込んで……引きずり落とす……あんたその才能だけは最強だよ……」

 

 呟いたぼくの言葉に、にゃーんとシロが答えた。

 顔をあげると、いつまでも玄関で座り込んで動かない、飼い主の様子を見に来たのだろう。

 なにしてるの? といった雰囲気で僕の横にちょこんと座っていた。

 その姿になんだか、泣きそうになってしまって、膝に抱えあげて、そっと抱きしめる。

 シロは少し窮屈そうに身じろぎをしたけど、仕方ないなぁといった雰囲気で、僕の自由にさせてくれた。

 小さな、小さなそのぬくもりに、冷え切っていた心が少しだけあたたかくなった。

 

 ぐるぐると、色んなことを考えて、頭の中はフル稼働。

 寝てるんだか起きてるんだか分からないような夜を過ごした次の日の朝のことだ。

 ポストを開けると、対局の通知が来ていた。

 棋神戦の挑戦権をかけて戦う相手は、隈倉さんに決まったようだ。

 通知を開ける自分の手が、酷く遠いような気がした。

 

 

 

 あかりさんやひなちゃんの気持ち。

 美香子さんの想い。

 あの男の動向。

 これから起こってしまうであろう、川本家の亀裂。

 僕に何が出来て、何が出来ないのか。

 どこまで手をだしていいのか、いけないのか。

 

 目の前の対局のこと。

 大事な一戦だ。

 今年、宗谷さんのまえに座りたいならそう何度もチャンスがあるとは限らない。

 相手は隈倉さん、公式戦は初対局。

 当然気合いも入れてくるだろう。炎の三番勝負の後にかけてくれた言葉を僕は忘れてはいない。

 

 色々考えすぎて、頭が爆発しそうで、擦り切れそう。

 でもそのぶん、限界まで容量を使っている感覚。

 僕はあんまり器用な性質じゃない。

 目の前の対局も、川本家の事も、全部ひっくるめて考えることしかできない。

 

 

 

 とても良いとは言えない、精神状態のまま、気が付けば対局の日を迎えていた。

 

 

 

 

 


 

 桂の間、将棋会館にある一室で、今まさに行われている対局の検討に用いられることが多い部屋だ。

 対局中の棋士の弟子だったり、ライバルだったり、近々対局する相手のようすをみるために様々な棋士が訪れる。

 

 期待の新人桐山零が初の挑戦権を獲得するかもしれない。

 そうでなくても、A級棋士の隈倉さん相手にどんな対局をするか興味がない棋士はいない。

 いつもより多くの人であふれていた。

 それぞれが、馴染みの棋士と将棋盤を囲み、対局室を映し出しているテレビを見ている。

 

 僕は、人が多い所が苦手だ。

 そもそも耳が聞こえづらい日もあるから、あまり親しくない人との会話だって避けたい。

 だから、タイトルを獲得するようになってからあまりこの部屋を訪れなくなった。

 タイトル戦以外の対局となると高位の僕にあわせて対戦相手が関西にやってくることがほとんどだから、東京には免状を書いたり、対局以外の仕事で訪れることが多い。

 けれど、この日ばかりは……他になんの仕事もなかったけれど、この部屋を訪れた。

 

 あの子が上がってくるかもしれない。

 たった数か月前に、きっと僕の前に座ってみせると、そう言っていたあの子が、本当にもうあと一歩と言うところまできている。

 対局を見てみたいと思った。

 

 僕が顔を出すと、その場にいた記者や棋士がざわついていたけど、特には気にしない。

 廊下であった会長は信じられないと言った風に目を見開いていたし、島田にいたってはポカンとした顔で僕をみて固まっていた。失礼な人達だ。そこまで驚かなくてもいいだろう。

 土橋君だけは、僕に気づいて、一瞬ビックリしたような顔をした後、宗谷くんも来たんだねと、自分が駒を並べていた将棋盤の傍に呼んでくれた。

 

 A級棋士が集まっている。

 少し離れたところに後藤さんや辻井さんもいた。関東所属のA級棋士がほぼ勢ぞろいだ。

 柳原さんはきっと会長室に居るんだろう。

 

 対局が中盤に差し掛かったころ。何時もならもっと、今の手はありかなしか、どちらが優勢か、と一手一手に声が上がって、ざわついているはずなのに、対局室は不自然な静寂に包まれていた。

 

 それも分かる。

 一体、誰がこんな展開を予想しただろうか。

 僕だって、想像もしなかった。

 どちらが勝ってもおかしくない。一瞬だって、目を離せないようなそんな対局になるだろうとそう思っていた。

 

「信じられねぇ……」

 

 若手の誰かの小さな呟きが、部屋に響いた。

 思わずこぼれてしまったようなささやきだった。

 けれど、この場にいる。全ての棋士の気持ちを表していた。

 

「隈倉さんを相手にこんな一方的な展開になるなんて……ね」

 

 僕がこぼしたことばに、誰かがグッと喉をならして唾をのみ込んだ音が響く。

 そこに居るだれもが、食い入るように盤面を映し出すテレビに注目していた。

 

 

 

 そう。

 対局は中盤に差し掛かる頃、桐山くんが仕掛けて以降、ただの一度もその主導権を渡すことなく、一方的に盤上を支配する展開になっていた。

 

 

 

 挑戦権が掛かった大一番。

 先手を取ったのは桐山くんだった。

 その初手は、7六歩。

 2手目に隈倉さんは8四歩で「居飛車」を明示する。そして、戦型の選択戦を先手へとゆだねた。

 3手目は「角換わり」を指向する2六歩で、隈倉さんにも異存はなかったのだろう。

 定跡手順の進行となり、10手目に、後手の隈倉さんの方から手損のない角交換へとつながっていった。

 角交換成立後、双方の右の銀が中央5筋へと繰り出し、自軍の歩に腰掛ながら天王山5五の位を挟んで睨みあう陣形の「角換わり相腰掛け銀」となった。

「角換わり」の現代の主流であり、現在進行形で最先端を行く形だ。これは面白い対局になると誰もが思っただろう。

 

 そこからの展開は、お互い慎重に慎重に、指し合っていく。

 当然だ、大事な一局。僅かなミスが命とりになる。

 持ち時間を使いながら、一手一手が重かった。

 

 ひときわ長考になったのは、桐山くんの41手目だった。

 隈倉さんが先手玉に続いて、玉の入城を完成させた局面のあと、持ち時間を1時間つかっての長考に入った。

 そして、指されたのは6八金右。

 その時点では、それほどの時間をかけて指す手かどうかと疑問視する声が上がった。

 僕もその時点では、意図に気づけなかった。

 

 分かったのは、43手目。

 隈倉さんは、用心深く桐山くんの出方を窺い、「穴熊」を示唆する1二香とした。

 それに対する43手目で、桐山くんは、玉頭の圧力を強める2五歩とした、僕はこの時ようやく彼の意図が分かった。

 周りの誰もまだ、気づいてはいなかったけど。

 

 待ちの姿勢を貫いた隈倉さんは、その圧力に対応すべく動きはじめる。

 44手目に6五歩としたのだ。これ対して桐山くんは同歩とする。

 そして、46手目、隈倉さんが7三桂と指したその瞬間、すかさず6四角と、桂馬を跳躍させできてしまった、狭い隙に角を投入させたのだ。

 

 47手目の6四角。

 対局室の誰もが唸った。

 局面をひっくり返す痛烈な一手だった。

 あの長考からここまで、よんでいたのかと、驚愕した声が響く。

 

 僕は確信していた。

 間違いなくよんでいた。

 この手を指すためのあの6八金だった。

 

 そこからはもう、終始桐山くんの独壇場だった。

 隈倉さんの切り返しも、反撃も、全て予想の範囲内と言えるような鮮やかな対応でいなして見せた。

 たった一手で出来た差が、どんどん広がっていった。

 

 そして、83手目、3三角成。

 これ以上ないほど、鋭い踏み込みだった。

 

 これを見て、隈倉さんは大きくひとつ息をついたあと、負けましたと頭を下げた。

 41手目以降、隈倉さんが攻めに転じることはただの一度もなかった。

 

 桐山くんは瞬き2つ分固まったあと、ハッとしたように慌てて有り難うございましたと頭を下げた。

 その様子で、此方に戻ってきたのが、僕には分かった。それだけ彼は、盤上の世界だけにのめり込んでいたのだ。

 

 

 

「……勝っちまった……。最年少挑戦者の誕生だ」

 

 誰かがこぼしたその一声を皮切りに、一気に場が騒然とした。

 

「中学生の挑戦者だって、信じらんねぇ」

 

「プロ入り後一年二ヵ月……最速だよ。こんなん誰も、破れない」

 

「ちょっと待て、桐山これで六段に昇段なんじゃ……」

 

「うっわ、まじかよ、このまえ五段になったばかりだろ」

 

「たった2ヵ月だったな……」

 

 僕の耳には、もうその会話は入ってこなかった。

 最年少挑戦者とか、六段昇段の最年少記録の更新とか……周りはなんだか、ざわついてるけどそんなこと、どうでもいい。

 

 彼が、僕の前に座る。

 棋神戦は、持ち時間8時間2日制の7番勝負。これ以上ないほどの最高の環境で、じっくりと時間をかけて彼と指し合う。

 たとえストレートで僕が防衛したとしても、4局は指せる。

 もし、彼が今日のような集中力を見せてくれたのなら、防衛だって充分に危うい。

 

 あぁ……どうしよう。今から楽しみで仕方がない。

 第1局は7月上旬になるだろう。それまでに、どんな対策を練ろうか、僕の頭はもうそのことでいっぱいだった。

 

 

 

 

 


 

「――負けました」

 

 そう下げられた頭をみて、ようやく現実に戻ってきたような気がした。

 慌てて自分もそれに応える。

 

 驚くほど、研ぎ澄まされて、あっという間の対局だった。

 まともに指せるか昨日まではあんなに不安だったのに。

 勝負事の世界で、メンタルが及ぼす影響は大きい。

 特に僕は結構、その影響を受けるタイプだ。前の人生では、その辺を自覚するのに随分かかってしまった。

 今は、自覚してる分だけはマシだ。だからってどうすることも出来ないけど、それを踏まえて心積もりができる。

 

 でも、今日対局が始まるまさにその瞬間、なんとなく勝てるような気がした。

 根拠はなかった、でもその瞬間に、将棋以外の思考は全部シャットアウトできた。

 ここ数年で、一番集中して指せた対局だったことは間違いない。

 

「桐山五段、棋神戦の挑戦権の獲得おめでとうございます」

 

 考え込んでいたら、いつの間にか周りに記者が集まってきていた。

 そうか、インタビューあるよな。対局前もあったような気がするのに、何を答えたか全く覚えていなかった。

 

「ありがとうございます。……なんだか、まだ現実味がないですね……」

 

「今日は、一段と集中されていたような気がしますが、やはり相当な気合いを入れて臨んだ対局だったのでしょうか?」

 

「直前まで、色んなことが頭の中にあって……全く集中できていなかったんですけど……。不思議と初手を指した時から、対局にのめり込めた気がします」

 

「中盤以降、終始桐山五段の優勢だと言われ、勝利を収めました。完勝といってもいい内容だったのでは?」

 

「将棋の内容は、今はまだ客観的にみれていませんので、また振り返ろうと思います。ただ、自分の思うように指せたとは感じています」

 

「初めてのタイトル挑戦となります。意気込みを聞かせてください」

 

「宗谷棋神は、誰もがみとめる棋界トップの実力者です。二日制の七番勝負……僕がどれだけ食らいつけるかわかりませんが、挑戦権を得た以上、見劣りするような内容にならないよう頑張ります」

 

 インタビューに答えてるうちに、ようやく少しだけ、実感がわいてきた。

 その後も、入れ替わりたちかわりやってくる人たちの質問に答え続けた。

 

 

 

 

「桐山くん、おめでとう」

 

 ようやく、一段落がつき対局室を出たところで、声がかかる。

 まさかと思いながら、聞き間違えようのないその声に、ハッとして顔をあげた。

 

「宗谷さん……、見てくれてたんですか?」

 

「うん。君は、約束どおり僕の前に座ってくれる。

 不思議だ。こんな気持ち久しぶり。たぶんこれが高揚してるってことなんだろうな」

 

 初戦から全力で行く。ストレートで終わらせないでね。楽しい時間は長い方がいい。

 

 そう、耳元でそっとささやかれた。

 小さな声だったけど、まぎれもなく興奮と歓喜が混じった声だった。

 

 シャンと自分の背中がのびる。

 そっと僕の肩に手を置いた後、立ち去っていく宗谷さんの後ろ姿をみながら、気が付けば手が震えていた。

 気圧されたわけじゃない、僕だって嬉しいんだから。

 

 ここ数日、沈みがちだった気持ちが、あっという間に浮上してくるのが分かった。

 時間はない。

 一分一秒だって惜しい。

 今できる自分の最善で準備をしなければならない。

 

 宗谷さんと最高の環境で対局ができる。

 再びその日がくることを、待ち望んでいた。

 少しでも早くその日を迎えるために、今までがむしゃらに走ってきたのだから。

 

 

 




棋神戦挑戦権の獲得にともない、六段に昇段。
五段だった期間は僅か2ヵ月ということに。しかし、リアルの方がすごくて、何故かあまりすごく感じない気も……。

誠二郎さんとのコンタクトが桐山くんの、心理状態にもたらした影響は少なくありません。
様々な葛藤にフル回転する頭を、上手く将棋モードに切り替えれたことが勝因です。原作11巻の脳内フィーバー状態をイメージしながら書きました。
これが、上手くいかない日もきっとあるんでしょう。
自身の感情を完璧にコントロールするなんて、不可能です。それが出来たら最強なのだろうけど……。
一番良いのは、大事な対局前に、そんな風に心を揺らしてしまう出来事が起こらないようにすることですが、人生なんていつ何が起こるかなんて決めれませんから。
その点において宗谷さんは、凄く有利な気がします。まず、将棋以外で心揺らすことなさそう。


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第三十五手 脇道を征く

 

「――負けました」

 

 この言葉を、こんなにもはやく、この子に告げることになるとは、思いもしなかった。それも、タイトルの挑戦がかかった対局で。

 

 終盤、良い所などなかった。どうにもならないと分かってからは、ただ淡々とそこに向けて指し続けた。桐山は、最後の最後まで、気を緩めず慎重に正確に指し続け、決して手は抜かなかった。

 

 インタビューでは、当たり障りのない事しか答えられなかった。負けた直後は、中々にくる。ただでさえそうなのに、今回は久々の宗谷への挑戦権を逃し、その上、自分よりも随分と年下の若手に、完敗したのだから。

 

 ふと、宗谷と初めて対局して、負けた時の事を思い出した。

 やはりこの二人は似ている。こちらの将棋をこうも鮮やかに躱して、何食わぬ顔で叩き潰していく。

 桂の間のざわめきが、此処まで聞こえてきていた。中学生のタイトル挑戦者が現われたわけだから、仕方の無いことだろう。最年少記録、プロ入り後の最短記録、様々な輝かしい記録を引っ提げて、桐山は宗谷に挑む。

 

 炎の三番勝負の少し後に、会長室で宗谷と話した日の事が、嫌でも思い出された。なんの疑いもなく、桐山が自分の前に座りにくると、あいつは確信していた。

 初めて対局した時から、なるほど小学生でプロになるのも分かる。こいつは、たぶん一足飛びに強くなると思わせてくる子だった。

 

 ただ、俺たちの認識よりも、ずっと正確にそれを感じていたのは宗谷だったのではないだろうか。

 宗谷は、プロになってから、誰にも止められることなく、その頂きに立った。当時名人だった、神宮寺会長からその座を奪取してから、他のタイトルを総取りするまでに、そう時間はかからなかった。

 同じプロ棋士だ。皆、膨大な時間を将棋に捧げて、人生をかけてきた。

 けれど、どうしたって差は生まれる。才能、センス、環境、努力、運。様々な要素が関わってくる。

 宗谷はよく、将棋の神様に愛されていると、そう称されてきた。それほどの特別な強さだったし、正直に言って別格なのだ。その、宗谷が不思議なほどに興味を持っていた新人。

 

 同じなのだと、あいつだけは真っ先に気付いていたのだと、今なら思う。

 

 桐山の経歴は特殊だ。

 将棋をするのに、それほど金はいらないが、プロになるとなったら別の話になる。

 奨励会に入り勝ち進み、三段リーグを抜け、プロになる。奨励会費だけみても、一般家庭ではなかなかに痛い出費だ。本人も学生時代の時間のほとんどを捧げることになる。プロになるためには、周囲の理解や、支えは、当然必要になってくるはずだった。

 それを、保護者が不在に等しい子どもが、あっさりとこなしてみせた。

 あいつは自分がプロになることを疑ってもなかったよ、と当時をみていた島田が言っていたのを聞いた事がある。将棋しか、縋れるものがなかったのだろうと揶揄した者もいた。

 だからといって、此処まで突き抜ける事が出来るかは別問題だろう。桐山にはその適性があって、環境がそれに拍車をかけた。いや、他に許さなかったといっていい。

 

 そして、それは、宗谷と同じだった。

 

 あいつは、よく自分で将棋以外は、他に出来ることが無いと言う。だから、将棋しかしてこなかったし、それ以外は興味がないとも。

 本当に、世の中とは面白く出来ている。頂点にたったあいつが、これから先も一人であったなら、モチベーションを保つのは難しかっただろう。だから、現われたのだ。同じように将棋に魅入られ、将棋を指せと、そういう使命を持った存在が。

 

 

 

 会館内の奥まった所にある椅子で、そんなことをつらつらと考えていると、底抜けに明るい声がかかった。  

 

「よう、隈倉、流石にお疲れだな」

 

「会長……。そう思うなら、そっとしておくべきでは?」

 

 こういう時でも、声をかけてしまえる人柄は美徳だとは思うが、今は正直遠慮したいところだった。

 

「そう言うなって。なんつーかさ、俺も懐かしくなっちまって」

 

「懐かしい?」

 

「そ、お前さ、桐山と一緒に、宗谷の事も思い出してただろ?」

 

 図星だったので、思わず黙ってしまった。

 

「あっという間に、上がって来た自分の半分も生きてない若造に、俺の名人位はもぎとられた。ありゃあ、傍から観てたぶんには、痛快だっただろうね。でも、俺からしたら、今でも夢にみる衝撃だった」

 

 だから、何となく俺に声をかけたくなったらしい。

 

「誰だって、敗けるのは悔しい、特に台頭してきた若手に敗けるとな、あぁ遂に来たかって思うのよ。宗谷の時も、驚いたが、長生きはするもんだな、まさかまた一人こんな奴が現われるとは」

 

中学生のタイトル挑戦者が現れた。将棋界としては話題としては充分で、会長はもっと単純に喜んでいるのかと思った。けれど、今はどちらかというと、感慨深く、しみじみとこの結果を噛みしめているようだった。

 

「会長だって、充分にそうでしょう。名人位何期お持ちだったと?」

 

「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか。そんでももうとっくに、在位期間は宗谷に抜かれてるし。あいつが頭一つ飛びぬけてるのは、誰もが認めるところだろう」

 

 それは、そうだろう。宗谷は特別だ。とりわけ、将棋に熱をいれるほど、タイトルが欲しくなるほど、あいつは遠くて、けれどその背を掴みたい。

 

「そんな奴にさ、同じ道を征く奴が現われたんだ。そりゃあ、皆ざわつくよな。今までも、桐山は散々やべぇ記録を打ち立てて来た。でも、実際対局した奴じゃないと何処か侮ってるところがあった。宗谷よりはまだってな」

 

「分かってはいたんですよ、でも何処か認めたくないと思っていた棋士は多いと思います。でも、それも今日までだ。タイトル戦をするんですよ、宗谷冬司と、まだ棋士になって一年と少しの少年がね」

 

 何十年。桐山が生まれて、今日にいたるまでのその時間よりも長く、将棋に捧げてきた。

 こつこつと積み上げてきた何かが、鮮烈な強さによって今、揺らいでしまっている。これは敗けた直後だからだと、分かってはいる。けれど、また一から積みなおそうと思うには、少しだけ時間を要するだろう。

 

「将棋界の長い歴史でみりゃあ、宗谷は王道を征く覇者だ。そんで、たぶん桐山もそうだろ。あいつら二人で、将棋史に残るような華々しい記録をきっと幾らでも残す」

 

 会長は、珍しく神妙な顔でそうはっきり言い切った。

 

「でもな、だからって全員がその道を征く必要はねぇだろ。良いんだよ、後ろでも、下でも、脇でも、歩いてりゃあ、いつかは交わるし、自分が辿り着きたい所には着く。そんなもんなんだよ」

 

 文字通り、その一生を将棋に捧げたこの人の言葉だからこそ、重みがあった。

 

「隈倉よ、宗谷を……王者を組み伏す瞬間は最高だぜ」

 

 会長は至極楽しそうにそう笑う。

 

「長い将棋人生、そう何度もは無いかもしれねぇ。でも、進み続ければ何時かはそんな日がくる。お前ほどの奴なら絶対にな」

 

「今の、俺にそれを言うんですか?」

 

 今まさに、桐山に阻まれ、その機会を失ったばかりの俺に。

 

「今だからこそ、だ。忘れられなくなる。その一瞬の為に、将棋を指していたんじゃないかってくらいにな。認めているからこそ、知っているからこそ、あいつに勝ったその瞬間に、全てが報われた気がするんだ。人生に数度のその対局が、俺たちに将棋を指させてるんだろうな」

 

それは、少しだけ分かる。渾身の対局をした時のあの高揚、見事に作戦が決まった時の万能感、かけた時間が長いほどに、返ってきたときの喜びがある。

 ましてそれが、最高の相手とのタイトル戦だった時、どれほどの気持ちになるだろうか。

 

「名局ってのは、それぞれ進んできた道に極まれに転がってる。それが将棋を面白くしてるし、発展させていくんだよ。だから、宗谷だけでも駄目だし、桐山だけでも駄目なわけだ。今、プロ棋士って数百人だろ」

 

「えぇ、現役だけならそうなりますね」

 

「選ばれた数百人だけが、その瞬間のために、頭悩ませて、何年もひたすら将棋をやってんだ、全く天国か地獄かってんだ。でも、俺たちは、大なり小なり、人生を変える一局に出会って、そんでまた辞められなくなる。棋士ってもんは、ホントに難儀なもんだよな」

 

 自分の事ながら、その通りだと思った。そして、また、自分の事は置いておいて、名局が生まれる気配に、横を向いてはいられない。

 

「桐山は宗谷とどんな対局をするでしょうか」

 

「それに関しては、ほんと未知数だな。二日制の七番勝負……タイトル戦でもしんどい方だ。宗谷の方は心配してないが、桐山は初参戦のうえ、まだ中坊だし……、色々考えないといけないところはある」

 

 タイトル戦は長期戦だ、場所もいつもの将棋会館とは異なってくる。未成年のうえ義務教育中の桐山に、様々な制約があるのは、予想がつく。

 

「ま、法的なことは色々誤魔化してだな。芸事の世界と一緒で、将棋も、ことに歴史が古い分、融通は利く。桐山の保護者……の藤澤はムリでも、保護者代わりはいっぱいいるし。あいつは将棋の事だけ、考えてたら良い、後は俺の仕事だ」

 

 会長としては、桐山がプロになってから、盛り上がっている将棋界の行く末のためにも、考えていることは多いようだった。

 

「着物も持ってないだろうし、揮毫の事もあるしな。前夜祭とかも色々面倒は多いだろ。必要なことだけどよ。賢いやつだから、ちゃんとしようとしすぎないかも心配なんだよなぁ。実はあいつ、人見知りだろうから」

 

 テレビの企画の時もそうだが、充分すぎるほど落ち着いて、受け答えをしていた姿を知っている。会見でもそうだったが、桐山零に求められていることを、分かっている節もあった。

 

「宗谷はそのあたり、上手く力抜けてますからね。慣れもあるでしょうが」

 

「あいつなりに重責や負担もあるのは知ってるんだが。将棋一番であとは、まぁぼちぼちにっていうのが、出来る奴だから。でも流石に、今回は色々と桐山フォローしてくれそうな気はしてる」

 

「そういえば宗谷は、デビュー前からかなり桐山を気にかけてましたね」

 

 それは、珍しい事ではあった、基本あいつは将棋の内容しか見ない。

 

「あれは、俺も驚かされた。少しは興味持つかもしれんとは思ったが。年下が、挑戦者として上がってくるのは、宗谷にとっても初の経験だ。普通色々、考えるんだが……あいつ、ただ面白がってるだろ。やっぱ、ちょっと変わってるわ」

 

 自分も年とったと思ったり、若い才能の台頭に焦燥があったりするものなのだが、おそらく宗谷にそれは全く無い。

 

「お互いに良い刺激を貰って、バチバチにやりあって、盛り上げてくれりゃあこっちは、大歓迎だがな」

 

 俺たちにとっては、毎年ある一つの棋戦……けれど、世間の注目度と、異例の年齢の挑戦者の事を考えると、いつものようにとはいかないのかもしれない。色々と、考えを巡らす、会長を横目に、手伝える事があれば、協力はするつもりだった。

 

 

 

「そういえば、会長は、辿り着いたんですか?」

 

 名人位もとり幾つもの名局を残し引退した大先輩に、気が付けばふと、そう問いかけていた。

 

「あぁ? 俺? 馬鹿言っちゃいけねぇ、まだまだ道半ばだよ。だからこそ、会長なんて面倒なことやってんだ」

 

 そう、大声で笑ってみせた。この人は確かに今も、将棋界を牽引している。形を変えて、今なお将棋を愛し、その道を進んでいるのだ。

 

 

 

 今はただ、棋神戦で、桐山が宗谷とどんな対局を繰り広げるのかを、見届けようと思った。

 そうしているうちに、その熱にあてられて、無性に指したくなって、脇道だろうとなんだろうと、また進む気になっているのだろう。

 

 

 

 

 

 




中学生プロ棋士編をまとめた際の書き下ろし。時系列のところに挿入。

羽生先生が、29年在籍されたA級から降級されることが決定しました。
そして、10代で五冠を達成された方が現れました。
五冠は、最近では羽生先生以来のこととなります。

若手の台頭を嬉しく思う気持ちもありつつ、遂にか……という思いもありつつ。
なんとなく書いてみたくなったお話。



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掲示板回 【将棋大賞】中学生プロ棋士桐山零くん応援スレPart46【記録部門総取り】

189 名無し名人

将棋大賞の受賞者、マンネリ感じてたけど、今年は随分と去年と変わったなぁ

 

190 名無し名人

すべては、我らが桐山君の活躍の結果。

 

191 名無し名人

いやーやってくれるとは思っていましたが、記録部門総なめでしたな。

 

192 名無し名人

記録部門ってあれだろ。最多対局賞、最多勝利賞、勝率一位賞、連勝賞の4つ。

 

193 名無し名人

連勝記録の歴代記録を更新してたから、ありえると思ってたけど、まさかだったなぁ。

 

194 名無し名人

連勝記録だけじゃないよ。

 

195 名無し名人

なんと勝率も歴代記録更新しました!

 

196 名無し名人

>>195

まじかよww

 

197 名無し名人

>>195

まぁ納得の結果ではある。だって、宗谷名人以外に負けてなくね?

 

198 名無し名人

そうなんだよな。まぁ最初の一年でそれほどA級棋士に当たってなかったってのも理由のひとつだけどさ。

 

199 名無し名人

あぁ本人が言ってたマッチングに恵まれたってそれか。

 

200 名無し名人

それでも、本戦リーグ入りしたタイトル戦もあるし、すでにA級棋士にまで勝ってる。

 

201 名無し名人

対局数もやばかったよな。よくあの小さな身体でこなせたものだ。

 

202 名無し名人

新人賞と敢闘賞も獲得だったね。

 

203 名無し名人

新人賞は確実だろ。むしろ桐山くん以外にだれが貰うよ。

 

204 名無し名人

桐山くんが、新人なのを忘れそうになる。

それを思い出させてくれた。

 

205 名無し名人

>>204

ちょw まぁたしかに新人ぽさ、若さ以外に感じない……。

 

206 名無し名人

結局C2も一期抜けだろ? ホンモノの天才だわ。

 

207 名無し名人

それに伴い、桐山君は五段に昇段!!

 

208 名無し名人

めでてーなー

 

209 名無し名人

>>207

段位はなんか今更感ある。四段なのが違和感だったもん。

 

210 名無し名人

このままあっさり、昇段していくだろうな。

 

211 名無し名人

そういえばついに中学生にもなったんだっけ?

 

212 名無し名人

あぁなんかwebの記事にものってたな。中学校の制服姿。

 

213 名無し名人

しかも地元の中学とかじゃない。なかなか学力がいる私立。

 

214 名無し名人

>>212

ちょ! おれそれ知らない! どこでみれる?

 

215 名無し名人

公立校より融通が利くところがあるしな。スポーツ特待とかも作ってるなら尚更。

 

216 名無し名人

>>214

ほれ。【URL】

 

217 名無し名人

あれだけの対局をこなしながら、お受験もしていたという衝撃。

 

218 名無し名人

その忙しさを微塵もみせない。

 

219 名無し名人

頭は良いとは思ってたけど、それにしたって凄すぎ。

 

220 名無し名人

写真見れたあざます!

一緒に写ってるのは師匠さん?

 

221 名無し名人

>>220

ちがう。師匠の奥さんと、兄弟子の幸田八段。

 

222 名無し名人

師匠の藤澤名誉九段は、現在体調を崩されているらしい。

 

223 名無し名人

でも! 奥さんと兄弟子が来てくれるなんて嬉しいやろうな。

 

224 名無し名人

門下全体で可愛がられている桐山くん

 

225 名無し名人

俺も感慨深い。こうしてみると初めて記録係をしているのを見たときからすると、大きくなってる。

 

226 名無し名人

あのときは5年生の夏休みだったから、もう一年半もたったのかぁ。

 

227 名無し名人

あっという間だったな。中学校の制服を着ているのが眩しい。

 

228 名無し名人

でたw古参勢の謎の保護者感。

 

229 名無し名人

新生活大丈夫かな~環境が変わると色々大変じゃん

 

230 名無し名人

中学、私立にしたってことはあの仲の良い男の子とも別れたんじゃない?

 

231 名無し名人

>>230

桐山くんなら大丈夫だろ。

 

232 名無し名人

新環境でも普通になじみそう。あんだけクラスでも、施設でも慕われてたし。

 

233 名無し名人

小学校より勉強も大変になるけど、ちゃんと両立するだろうな。

 

234 名無し名人

そういえば、小学生プロ棋士から中学生プロ棋士なったんだが。

 

235 名無し名人

史上初の小学生プロ棋士であり、5人目の中学生プロ棋士にもなったわけだ。

 

236 名無し名人

>>235

そう考えると、今回の将棋大賞の写真も貴重だな。

4人目だった宗谷名人と、新たに5人目になった桐山五段が並んで写ってる最初の写真だ。

 

237 名無し名人

宗谷名人からうん十年。あの方以上の才能の持ち主は、今世紀はもう現れないと思ってたんだけどなぁ。

 

238 名無し名人

桐山くんはそれに匹敵するだろ。

 

239 名無し名人

今年度もどんどん、最年少記録塗りかえていくはず!

 

240 名無し名人

どこまでいけるか楽しみでしかたない。

 

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【今期も】中学生プロ棋士桐山零くん応援スレPart48【絶好調】

 

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743 名無し名人

C1での初対局だったけど、桐山くん圧勝だったな。

 

744 名無し名人

松永七段心臓止まってない? 大丈夫?

 

745 名無し名人

順位戦にしては珍しい、お早い終局でした。

 

746 名無し名人

何歳差だよ。ってくらいの歳の差対決だったな。

 

747 名無し名人

桐山くんに老体をいたわる優しさはなかった。

 

748 名無し名人

勝負事は本気でやってなんぼ。寧ろ敬意を払っているといえるだろう。

 

749 名無し名人

これで、走り出しも順調だし、C1も全勝してB2に上がって欲しいね。

 

750 名無し名人

俺は、桐山五段が足踏みすることなく、A級まで駆け上がることを期待している。

 

751 名無し名人

>>750

気が早すぎw何年の計画だよ

 

752 名無し名人

あながち無いとは、言えん……実際問題桐山くん、A級棋士以外に負けてないもん。

 

753 名無し名人

もしそうなったら、それも史上初?

 

754 名無し名人

>>753

いや、C1からA級までのストレートは、これまでに数人いる。

 

755 名無し名人

ただまぁ、A級に上がった最年少記録にはなるな。確実に。

 

756 名無し名人

桐山くんがなすことは中3あがるくらいまでは、ほぼ最年少記録が付属する。

 

757 名無し名人

>>756

それな。しかもこの先破られることがあるのか疑うレベル。

 

758 名無し名人

なぁ。ちょっとお話中ごめん。

 

759 名無し名人

>>758

なんだ?

 

760 名無し名人

俺、将棋会館がある地区の蕎麦屋の下っ端店員なのさ。

 

761 名無し名人

ほう。これはもしかして!?

 

762 蕎麦屋の定員

今、休憩入ったんだけど、さっき店に松永七段と桐山五段が来た。

 

763 名無し名人

やっぱり!!

 

764 名無し名人

目撃情報きた。

 

765 名無し名人

まじで? あんな対局の後に一緒にメシ食ってたの?

 

766 蕎麦屋の定員

店長いわく、松永七段はここの常連さん。桐山五段に蕎麦おごってあげてた。

 

767 名無し名人

おぉ……。さすがに年長者。おごってあげたのか。

 

768 蕎麦屋の定員

>>767

それがさ……ここに来る前にウナギの店にも行ってたみたいで……そっちは桐山五段がおごったぽい……。

 

769 名無し名人

まじかよww 松永さんさすがっす

 

770 名無し名人

中学生にたかるなよww

 

771 名無し名人

いや、でも桐山五段……松永七段より稼いでるかも……

 

772 名無し名人

だからって……なぁ……。

 

773 蕎麦屋の定員

でも、桐山五段は嫌そうじゃなかったよ。松永七段酔ってたから、ちょっとそれには手をやいてたけど。

 

774 名無し名人

飲まんとやってられん!って感じだったのでしょうな

 

775 蕎麦屋の定員

うん。でも、食後のお茶持って行ったときに、チラッと聞こえたけどなんかいい話してた。

 

776 名無し名人

松永七段がするいい話……とな!?

 

777 名無し名人

失言で有名な松永七段……想像がつかんぞ。

 

778 蕎麦屋の定員

なんかね。おまえは絶対この先タイトル取るだろうから、何十年のいう人生の間でたった数年の学生でいられる期間も大事にしろよって感じだった。

 

779 名無し名人

普通に良い話だった件について。

 

780 名無し名人

うわー人生の先輩からの助言だね。

 

781 名無し名人

たしかに、桐山五段は将棋一色だろうからなぁ。

 

782 名無し名人

本人もそれを望んでのことだろうけどね。

 

783 名無し名人

学生時代って特別だよね。あとあと、めっちゃ思い出すもん。

 

784 名無し名人

社会人になってからはあっという間に時が過ぎてしまう。あの密度の濃い時間はもう訪れない。

 

785 蕎麦屋の定員

じゃあ、俺は休憩おわるから、ROMに戻るわ。

 

786 名無し名人

高校に進学するのかどうかは、分からないけどさ。中学時代は学生ぽいこともしてほしいかも。

 

787 名無し名人

>>785

ありがとう!蕎麦屋の店員

 

788 名無し名人

>>785

あざした!

 

789 名無し名人

部活とかどうするんだろうな。

 

790 名無し名人

部活……俺も青春の全てを捧げた。

 

791 名無し名人

さすがに、無理じゃね? 毎日するような部活は入れないだろ。

 

792 名無し名人

土日は対局に当てるだろうしな。

 

793 名無し名人

平日なるべく避けるように組んだら、そうなるよな。

 

794 名無し名人

桐山くんの人生だしさ。彼には自由に選んで欲しい。

 

795 名無し名人

そうだな。選択肢がなくなるようなことが無かったらそれでいい。

後は彼次第だ。

 

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【最年少挑戦者】中学生プロ棋士桐山零くん応援スレPart50【誕生なるか!?】

 

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453 名無し名人

やべぇ~今日の中継見てる奴いる?

 

454 名無し名人

勿論見てる。桐山五段絶好じゃね?

 

455 名無し名人

これ、隈倉さん押されてるよね。

 

456 名無し名人

まさかのまさか勝っちゃったりしたら、棋神戦の挑戦者、桐山くんになるよね!?

 

457 名無し名人

いや、これは勝つだろ。隙が全くない。

 

458 名無し名人

47手目の6四角が凄すぎたよ~あんな綺麗に局面ひっくり返すなんてさ。

 

459 名無し名人

しかもその布石。長考後に指した41手目だったんだろ。どんだけ読めてるんだって話。

 

460 名無し名人

うわー歴史的瞬間立ち会っちゃうぞ。

 

461 名無し名人

ちょっと前に、島田八段に負けたのが、悔しかったんだろうなぁ。あの時も挑戦権獲得は目前だった。

 

462 名無し名人

この短い期間で二回もチャンスが来るとは……。それだけもう、地のレベルの高さがうかがえる。

 

463 名無し名人

隈倉さんも手堅く行ってるが、どうかな……

 

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511 名無し名人

うっひゃぁぁぁ! 隈倉九段投了!

 

512 名無し名人

桐山くんが勝った!

 

513 名無し名人

これで棋神戦の挑戦者桐山くんだよね?ね?

 

514 名無し名人

あぁ。最年少挑戦者誕生だな。

 

515 名無し名人

しかもこれ、あれじゃん?

桐山君昇段しちゃわない?

 

516 名無し名人

……マジだ!これで、六段になっちまう

 

517 名無し名人

うわ……五段になったの4月じゃん。それからまだ二ヶ月しかたってないんだよ?

 

518 名無し名人

プロ入り後、一年二ヶ月で六段。このスピード記録を破れる存在が今後現れるかどうか……。

 

519 名無し名人

我々の想像のはるか上をいってくれる子だったけど、今回もまたやってくれたな。

 

520 名無し名人

グッズ生産追いつかないなw

 

521 名無し名人

四段だった期間より五段だった期間の方が短くてレアかったw

 

522 名無し名人

桐山六段になるのか。

 

523 名無し名人

桐山五段だったときのサイン貰ってた勝ち組とかいんの?

 

524 名無し名人

>>523

どうだろ。中学あがったばかっで忙しいのかイベントの参加が少なかったしな。

 

525 名無し名人

棋戦も多忙だったからな。

 

526 名無し名人

棋神戦の挑戦者ということはまたVS宗谷戦みれるんだよな。

朝日杯から桐山くんのファンになったからとっても楽しみ。

 

527 名無し名人

みれるどころか、七番勝負だから、桐山六段がストレート負けしたとしても、四局はやる。

 

528 名無し名人

やばい。今から楽しみでしかたない。

 

529 名無し名人

桐山くんにとっても初のタイトル挑戦となるわけで。

 

530 名無し名人

二日制だけど大丈夫かな? 封じ手とか。

 

531 名無し名人

着物姿もいっぱい見れるぞ!前夜祭とかに登場するのも楽しみ。

 

532 名無し名人

>>530

そればかりは、経験もあるだろうかな。まぁ次第に慣れるだろ。

 

533 名無し名人

色々、戸惑うだろうが、その辺は師匠はじめ藤澤門下の方々がなんとかするはず。

 

534 名無し名人

桐山くん保護者多いから大丈夫さ。

 

535 名無し名人

ちょうど夏休みもくるしさ。学校のタイミングとしては割とよかったんじゃないかな。

 

536 名無し名人

俺、日程が発表されたら早めに有給取る。

 

537 名無し名人

俺もできたら生でみたい……前夜祭で一般参加がある時狙おう。

 

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第三十六手 棋神戦

 初の挑戦権を獲得した後、僕の周りは、予想をはるかに上回るお祝いムードで、正直少したじたじだった。

 

 初登校の時には、教室に足を踏み入れた瞬間拍手で迎えられるし、校長や教頭に廊下で呼び止められ激励されるし、放課後で将科部では軽くお祝いのパーティが開かれた。

 

 久々に、青木君から呼び出されて施設に顔を出してみれば、此処でもまた小さな祝勝会が開かれる。

 特にもう青木くんの喜びようが、僕もびっくりするくらいで、その笑顔を見ているとようやく、挑戦権を取ったんだと実感がわいてきたほどだった。

 

 川本家に顔を出せば、お祖父さんにこの前は誠二郎さんが悪かったなと頭を下げられて、あれで調子を崩しでもしたら申し訳が立たなかったから勝ってくれて本当に良かったと両手を握られてとても喜ばれた。

 あかりさんやひなちゃんも新聞でもテレビでも零ちゃんのことばっかりだったよってニコニコと報告してくれて、ひなちゃんにいたっては、最近スクラップブック作り始めたんだと、集めた雑誌の記事や新聞を見せてくれた。

 過剰とも言えるほど、僕の事を褒め称える記事が多くて正直居たたまれないが、彼女がとても楽しそうだから、それでもいいかなと思ってしまう。

 

 

 

 そうこうしている間に、一ヶ月なんてあっという間に過ぎてしまった。

 

 棋神戦、七番勝負の第一局は7月の一周目に三重県にある旅館で行われる運びとなった。

 

 タイトル戦は将棋界の一大イベントと言っていい。

 番勝負は全て、将棋会館ではなく、全国のホテル・旅館で行なわれ、その際にほぼ毎回行われている恒例のイベントとして、前夜祭まである。

 

 タイトルホルダーと挑戦者はもちろん、地元の関係者や来賓、報道関係者、施設側の関係者、ゲストの棋士も出演するし、一般に公開する場合は、全国から集まった将棋ファンが参加することもある。

 概ね、タイトル戦の後半になるほど、関係者のみになることが通例だが、それでも場合によっては数百人が関わる大きな催しだ。

 

 お偉い方の挨拶から始まり、鏡開きや乾杯もあるし、当然両対局者の挨拶もある。一般参加の方がいる場合は、プレゼントがあたる抽選会の余興があることも。

 タイトルホルダーとその挑戦者は、主役であると同時に、来て頂いた方々に対してもそれ相応の敬意を払って対応するのが当然である。

 慣れていたとしてもかなりの体力と気力を消耗することになる。

 

 立会人は驚いたことに、柳原棋匠だった。

 概ね八段から九段のある程度の年齢を重ねたベテラン棋士が行う事が多いが、タイトル戦に出ているような第一線で活躍している棋士がすることはまずないのだけれど……。

 どうも本人が希望したらしい。

 副立会人は幸田八段。

 これは、どう考えても僕のためだろう。

 慣れないことがおおい初のタイトル戦の第一局目、副立会人は立会人の補佐が主だ。滅多なことがなければ仕事にかかりきりなんてことにはならない。

 幸田さんは会長から、僕の面倒をみるようにとはっきり伝えられたそうだ。

 

 


 

 前夜祭の前に行われる大切な行程の一つに検分がある。

 両対局者の立ち合いのもと、対局に使う盤と駒に触れて確認し、照明や空調の具合、襖など対局する部屋の環境全てに目を配る。

 ようは対局者が、将棋に集中できる環境かどうかの確認である。何か要望があれば、よっぽど無理難題でなければ、対局者の希望が通る事が多い。

 空間が広い方がいいから襖を外してほしいだったり、鹿威しの音が気になるから対局中は止めてくれだったり、過去に様々な要望があったようだ。

 2日制のタイトル戦では、封じ手を記入する場所の確認なども行われる。

 

 この時に使用される将棋盤や駒は大体において、現地で購入されたり、所有されているものを借用して使われる。

 当然、タイトル戦が終わればホテルに寄贈されたり、持ち主に返却される。

 そのため、このタイトル戦でつかいましたよ、という記念もかねて、将棋の盤の裏や、駒箱に両対局が「揮毫」を行う事が多く、大体がこの検分の時ついでに行われるのだ。

 

 事前に会長から言われていたし、前回の経験から絶対に書くことは分かっていたので、筆で書く練習をしておいた。

 会長は別に下手でもそれはそれで、味があっていいなんて言ってきたけど、せっかくの記念品だ。ちゃんとしておきたい。

 

 宗谷さんが慣れた手つきで揮毫した後に、僕も筆をとる。

 書く言葉は決めていた。以前から何度も書いてきた言葉。

 一筆一筆大切に、想いをこめて。

 自分自身に言い聞かせるように。

 

「䨩瓏」

 

 “れいろう”と読む。漢字は当て字。

 元は八面玲瓏という言葉から拝借した。「どの方面も美しくすき通っているさま。心に何のわだかまりもないさま」という意味らしい。

 

 当てた漢字の「䨩」は「すぐれている・たましい・ 不思議な力・神秘の力」という意味を持ち、

「瓏」は「玉などが透き通るように美しいさま。触れ合って美しく鳴るさま」という意味を持つ。

 僕としては、不思議な力が研ぎ澄まされますように……魂をこめて、美しい棋譜を残せますように……というような気持ちでこの漢字を当てた。

 

 これが意外と前回のときは好評だった。

 言葉の響きと僕の名前の零と兼ね合いも良かったのだと思う。

 持っている揮毫はいくつかあったけど、すっかり代名詞と定着していた。

 今更変える気にもならなかったので、今回もこれが浸透してほしいなぁと思う。

 

 前夜祭の前、対局者入場の前に宗谷さんから声を掛けられた。

 

「慣れない事も多いと思う、困ったら頼ってくれていい。僕じゃなくても、会長とか幸田八段とか」

 

「ありがとうございます。とても、心強いです」

 

「僕はこの手のことは苦手でね……、前夜祭のとき耳の方は絶不調なことが多いんだけど、今日は君が居るからかな。調子がいいんだ」

 

 先輩に良い恰好させてくれ。と僕の頭にポンッと手を置いて、彼は先に会場に入った。

 僕も慌てて後を追う。

 宗谷さんの背中は、大きくて、彼の周りだけなんだか明るくて、やっぱりこの人は特別だと思った。

 

 

 

 両対局者の入場後は、主催者挨拶、将棋連盟代表として会長の挨拶、開催地の代表者の挨拶と続いていく。だいたい形式にはまった挨拶が多いけれど、こういう行事はきちんとこなすことに意義があるし、伝統を重んじ将棋という文化を大切にする意味もこめて、必要な事だ。

 その後は、タイトル戦を行う棋士の紹介。

 宗谷さんはもはやお馴染みの華々しい戦績だけど、僕のほうも随分と盛った紹介をされて恐縮してしまう。

 両対局者への花束贈呈後は、いよいよ僕らの挨拶である。

 

 久々だ。歴史あるタイトルの挑戦権を得たものとして、無様な姿はさらせない。

 大きく一息ついて、僕はステージに上がった。

 

「三重の皆様、こんにちは。このたび、有難くも棋神への挑戦権を頂きました桐山零といいます。……このような場に立たせていただいて、正直、少し緊張しています。同時に、これからついにタイトル戦に臨むのだと実感して、身が引き締まる想いです」

 

 会場にいるすべての人が僕の事をみていた。

 多くの人に見られていることへの緊張と高揚。懐かしい感覚だ。

 

「プロになりたいと決意してから、ただひたすらにこの道を突き進んできました。本当に多くの人に支えられて、今この場所に立つことが出来ています。支えてくれた全ての人に、感謝の気持ちで一杯です」

 

 施設の人に、藤澤門下の人に、将棋に関わる全ての人に、学校の関係者の人に、川本家の人に、……数えきれないほど沢山の人に応援してもらってきた。

 

「最年少の挑戦者、響きはいいですが、裏を返せば経験に乏しい若輩者です。対して、宗谷棋神は、誰もが疑わない将棋界のトップの実力者。

 やはり力不足だったかと、そう言われる事がないように、歴代の棋神戦に恥じない棋譜を残せるように。

 その一心で、このタイトル戦に挑んで行きたいと思っています」

 

 前の人生の初挑戦は、22歳の時、それから考えたら随分とはやくこの場所に戻ってくることができた。

 貴重なタイトル戦だ。挑戦権をつかむだけでも難しい。宗谷さんとの対局だってそうそう得られる機会ではない。

 

 一礼して下がる僕に、会場の方々はあたたかい拍手をくれる。

 期待、声援、激励……。様々な想いが込められていた。

 

 その想いに応えたい。

 今の僕の全てを出し切りたいと思った。

 

 僕の次は宗谷さんの挨拶だけど、開口一番驚かされる。

 

「棋神のタイトルを懸けての対局は、もうこれで何度目かになります。皆様の中には、また私が防衛したと、変わり映えのない風景に、変革を求める方も居たのではないでしょうか」

 

 宗谷さんの挨拶と言えば、大体が定型文。お手本のように型にはまった挨拶が多いのに、今日は序盤から随分と毛色が違った。

 

「今回の挑戦者である桐山くんは、小学生プロから始まり、歴代の連勝記録を塗り替え、数々の最年少記録を更新し続けている、将棋界の変革者です。このたびも、棋神戦の挑戦者の最年少記録を塗り替えました。私としても、非常に興味をそそられている相手です。

 若さ、経験不足……それを補って余りある才能を秘めている存在だと確信しています」

 

 ちらりとこちらを振り返った宗谷さんと目が合って、僕は背筋がピンッと伸びる。

 普段は静かなその瞳の奥に、まぎれもない闘志が感じられた。

 

「ただ、私にも矜持があります。長きにわたってこのタイトルを守り続けてきたタイトルホルダーとしての、矜持が。そう簡単にこの座を明け渡すつもりは、毛頭ありません。皆様には是非、激闘を期待して頂ければと思います」

 

 お辞儀をした彼に、会場はにわかにざわめき出す。

 これほど好戦的というか、意欲をあらわにするのは本当に珍しいことだった。

 

 両対局者の挨拶のあとは、すこしだけフリータイムだ。

 この間に、僕たちはインタビューに答えたり、挨拶にまわったりする。

 立食形式で食事の提供もあるが、まず僕らが食べることはない。

 

 隣にはずっと幸田さんが居てくれたおかげもあって、随分と行動しやすかった。

 宗谷さんがいつにもまして、周りに丁寧に対応しているのであちらに人が流れたからでもある。

 あれだけ、機嫌がいい名人は珍しいと小さく、幸田さんが呟いた。

 耳の調子が良いからというのもあるだろうけど、たぶん僕の事を気に掛けてくれたのだろうとも思う。

 

 会長の計らいもあって、閉会後僕はすぐに部屋に帰された。

 すぐに寝て明日へ備えろ。とのことだ。

 頭が冴えてしまって眠れるかは怪しかったけど、とりあえず布団に入る努力だけはした。

 


 

 翌朝、まだ空が暗い頃に目が覚める。

 これ以上は無駄だろうと、僕はいくつか持ってきていた棋譜を手に取りながら最後の確認をした。

 運ばれてきた朝食をかきこめるだけ、かきこんで、しっかりと栄養を取っておく。

 対局は体力勝負でもある。頭を使うということは想像以上にエネルギーを消費するから。

 

 良い時間になった時に、幸田さんが部屋を訪れた。

 何も言わずに、淡々と僕の着付けを手伝ってくれる。

 自分ひとりでも、着れるようになっていたけど、人の手を借りた方が時間がたっても着くずれが少なく、きちんと着れるのだ。

 

 初戦は、師匠から送ってもらった深藍の着物一式がお披露目になる。

 二戦目以降は、同じものを着るのは外聞が良くないからと、幸田さんと門下の方々、そして師匠からもまた新しい着物が贈られている。

 僕は大きくなって、着られなくなってしまうからそんなに数はいらないと言ったのだけど、大事なのは今だからと言われて、断り切れなかった。

 幸田さんなんて、桐山の代わりに贈らせてくれなんて、言い出す始末。そんなの断れるわけないじゃないか。

 

 着付けが終わった後、幸田さんは僕の背中をポンと押した。

 それが、何よりも雄弁な激励だった。

 何があっても見ているからと、背中に残った僅かなぬくもりにそう感じた。

 

 扇子を片手に、下座につく。

 僕が扇子を持つことは少ないけれど、今日は特別だ。

 長野からもってきたお母さんの形見の一つ。

 この扇子は、タイトル戦の時だけ手にすることに決めていた。

 

 すこし遅れて宗谷さんが上座につく。

 ふわりと広がった着物の袖と真っ白なその色をみて、あぁ……やっぱり大きな白い鳥みたいだとそう思った。

 

 振りごまの結果先手は僕。

 初手7六歩に対して、宗谷さんも2手目に同じく角道を開ける3四歩とし、その後、飛車先を決め合い、宗谷さんが誘導する形で「横歩取り」を目指す出だしとなった。

 

 予想の範囲ではある。

 そのまま定跡手順の進行をお互いゆっくりと指し合う。

 七番勝負の第一局目だ。

 慎重になるのは当然のこと。

 

 歩得を重ねながらゆさぶりをかける宗谷さんに対して、僕が抑え込みを図る構図がはっきりとしてきた一日目は、宗谷さんが次の手を封じて、終了となった。

 

 封じ手は二日制のタイトル戦で用いられる。

 この時点で宗谷さんが次の手を指して、明日へ備えることになると僕が一日中次の手について考えることが出来てしまい、持ち時間の制度は崩れるし、圧倒的に僕が有利になってしまう。

 そこで、封じ手を行うわけだ。

 規定時間になると、手番の棋士は次の一手を決め、相手の棋士に知られないよう紙に記入し、封筒に入れて封をする。

 これを翌朝の再開後に開き、記入しておいた手を指して続行する。

 この方式により、中断中は双方とも相手の次の手がわからない状態で局面を考えなくてはならない。

 

 今日は宗谷さんの手番の時に時間が来てしまったので、宗谷さんが封じ手を行った。

 

 この封じ手好き嫌いは別れることが多い。

 あまり自分がしたく無い人もいれば、なるべく自分が決めておきたい人もいる。

 若手で慣れないうちは、あまり率先してやりたくないという人もいた。

 僕はどちらでもない。

 封じ手をしても、しなくても、僕自身の勝率にあまり関係しなかったのは前回の記憶でも立証されているし、意識しすぎる方が却って良くないから。

 

 一日目が終わって、一応床に就くけれど、頭のなかではずっと今日の盤面が浮かんでいる。

 明日はきっと激しく動いてくるだろう。

 此処まで予想外の動きは出ていない。

 だからこそ、いつ仕掛けてくるのか、そこが鍵になる。

 うつらうつらとする意識の中で僕はずっと、駒を動かし続けた。

 

 

 

 順調に見えた一日目。

 けれど二日目、僕は思い知ることになる。

 記憶の中のタイトル戦と、ある一点において違いすぎた現状を。

 

 

 


 

 封じ手の開封後、指された一手は検討していた手の一つだった。

 僕は大きく一息つく。

 ここで、全く予想していなかった手を指されると、出鼻をくじかれる形になって、酷く時間を使ってしまうから。

 

「横歩取り」は開戦するやいなや、あっという間に終盤戦に突入する激しい戦型といわれているけれど、今回は50手を超えてもまだ、本格的に駒がぶつからない、難解で複雑な展開となってきた。

 

 

 

 そして、昼休憩の後にそれはきた。

 

 

 

 どうにも頭がぼーっとする。

 対局中にもかかわらず、瞼が落ちそうになる。

 集中力が散漫になっているのが分かった。

 こんなことは、初めてだった。

 たとえどんなに、疲れていても、どれほど睡眠が足りていなくとも、大事な一戦の途中に、盤上から思考が離れるなんて。

 

 深くふかく、思考の底に沈んで、次の手を考えようとするたびに、僅かな頭痛が邪魔をした。

 どうにか食らいついて、数手先をよんで次の手を指し続けていたけれど、日が落ちはじめたその時に、僕はついにやってしまった。

 

「……あっ」

 

 指したあと一呼吸おいて、気づいた。

 どこからどうみても、この手はない。

 誰がみても言うだろう、これは悪手だと。

 

 盤上が混み合ってきた終盤戦での致命的なミスだった。

 どちらに転ぶか分からなかった対局はそこから、一気に宗谷さんの方へと傾く。

 

 昼前までは拮抗しどちらが勝ってもおかしくないと言われていた盤面は、僕が投了した122手目では、まぎれもなく大差になってしまっていた。

 

「負けました……」

 

 下げた頭をあげられないほどの疲労感だった。

 二日制の番付勝負ってこんなに消耗するものだっただろうか。

 記憶との落差が激しすぎて動揺した。

 僕が初めてタイトルに挑戦したのは22歳の時……、その時は体力的には全盛期、僕のようにたいして鍛えていない男でも、それでも成人男性なみの体力はあったのだと今更実感する。

 対して今は13歳。どれだけ精神が成熟していようとも、身体はそれに追いついていなかった。

 

 対局後にはインタビューがあるのが通例だ。

 たとえ、どんな心境だろうともそれには答えるのがプロの仕事。

 

「まずは宗谷棋神、一勝目おめでとうございます。本局を振りかえってみて如何ですか?」

 

「序盤は定跡通りの探り合いと言った感じでしたね。

 私から動いてみようと少し、揺さぶりもかけたのですが、ちょっと押さえ込まれている形になってしまったと思います」

 

「封じ手は最初からされようと考えていましたか?」

 

「いえ、あまり意識はしてなかったです。たまたま私の手番だっただけで。封じ手自体は悪くない手だったと終わったいまでは思いますね」

 

「終盤はいかがでしたでしょうか?」

 

「じっくりと受け手に回っていた桐山六段は流石でしたよ。昼過ぎまでは私の方が、悪かったと思います。ただ、98手目ですね……桐山六段も気づいていたようですが、そこから一気にこちらに流れが来ました」

 

「桐山六段、長時間にわたる対局お疲れさまでした。初のタイトル戦でしたが、後半はやはり緊張も出てしまいましたか?」

 

「……不甲斐ない、将棋を指してしまいました。緊張はしていなかったと思います。一日目は自分の思う将棋が指せたと思うので。ただ、最後まで集中を持たせることが出来ませんでした」

 

「やはり敗因は98手目だったのでしょうか?」

 

「はい。宗谷棋神のおっしゃる通り98手目の8四歩……ほんとうに何であんな手を指してしまったのか……私の未熟、その一言に尽きます。」

 

 負けたことよりも。

 途中まで素晴らしかったあの棋譜を、自分で壊してしまったその事実が受け入れ難いほどに悔しかった。

 

 最悪の出だしとなった初戦だが、気持ちを切り替えて次に……とはなかなかいかなかった。

 そう。この先のあと6局とも二日制だ。僕はその事実に頭を抱えた。

 まともに行けば、今日のような事態は避けられないかもしれない。あんな状態で、ミスなく指しきれるのは、不可能に近い。

 

 第二局目までに何か手を考えなければならない。

 

 

 

 


 

 

 棋神戦第二局 中継

 

 

[棋神戦第二局開始―]

 

[一局目みれなかったから、今日は有給取った]

 

[桐山六段今日着物違うね]

 

[今日は深緑か]

 

[相変わらずいい趣味してるし、良い着物だ]

 

[質感からして違う]

 

[深藍の着物はお師匠様から贈られたらしいけど、今日のは誰からなんだろ]

 

[桐山くん保護者多いから、誰でもくれそう]

 

[俺も貢ぎたい]

 

[貢ぐ言うなw]

 

[宗谷棋神は相変わらず白いな]

 

[この人毎回狙ってんじゃないかってくらい着物威圧感あるよな]

 

[オーラましまし]

 

[桐山くんのまれないか心配だったわ]

 

[そんな心配はいらなかったけどなぁ]

 

[第一局予想外といえば予想外だったな]

 

[昼まで素晴らしかっただけに……な]

 

[本人が一番悔しいだろ]

 

[俺らから見ても、消耗は激しかった]

 

[あの後大盤解説までちゃんとやってるのが凄いわ]

 

[意地だろ、プロとしての]

 

[なんていう正直拍子抜けではあった]

 

[時期がはやかったと思わざるを得ない]

 

[まだ一局目なのに、さっそく掌返す奴出て来た]

 

[なまじな、一日目よかっただけに、目立ったんだわ]

 

[悪手なんて誰でも指すだろ]

 

[いやーあれは俺でも指さないぞ]

 

[でたw何様だよw]

 

[そもそも宗谷棋神相手に一勝あるかもって思わせただけでも大健闘なのに]

 

[もとめられる水準が高くなってる]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

[ちょっとまって、序盤からみない形なんだけど]

 

[研究手?]

 

[解説も珍しいって言ってる]

 

[桐山六段が中飛車、宗谷棋神が向かい飛車で相振り飛車だとおもったんだけど]

 

[15手目……手損覚悟で桐山六段が居飛車にしたな]

 

[損してまで対向型に構えたかったのか]

 

[うーん先手だからこういう事もまぁ可能だと思うけど]

 

[タイトル戦なのに思いきりいいな]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

[うっわー今の角交換はすごい!]

 

[小考だったな、決断までに数分]

 

[宗谷棋神相手にキレッキレッだな]

 

[とった角をすかさず投入。桐山くんは宗谷さんの飛車を狙ってるのか]

 

[うまいな。相手の囲いを上手く崩そうとしてる]

 

[もう序盤の手損なんて全く関係ない]

 

[宗谷棋神も動き出したな猛攻]

 

[いや、でも主導権は桐山六段がまだ持ってる]

 

[かーうまくいなすな]

 

[あくまで狙いは飛車ぽいね]

 

[うん。さばいて相手にしてない]

 

[宗谷棋神……長考かな?]

 

[そりゃそうだろ。うかつにここは攻めれないわ]

 

[妙手冴えわたってるな桐山六段]

 

[一局目に続いて先手握れてるからね]

 

[今日はこれで封じ手になりそう?]

 

[まだ桐山六段自分で封じ手してないよね]

 

[初めてのタイトル戦のときは極力したくない人多いらしい]

 

[この子はあんまり気にしなさそうだけど]

 

[それよりも、今日はしっかり寝てほしい]

 

[熟睡は無理でも……]

 

[せめて少しでも回復できますように]

 

[あーこれが1日制だったらなぁ]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

[棋神の封じ手は5七桂成]

 

[予想どおり?]

 

[俺にはわからん]

 

[桐山六段に動揺はみられない]

 

[すぐ応手指した]

 

[解説的にもこれはまぁ順当な手らしい]

 

[飛車のまもり固めてる形だね]

 

[うーんこれで大分深いところに入っちゃったよ]

 

[手が出しにくくなった]

 

[でも逆に宗谷棋神はこの飛車を身軽に使えなくなった]

 

[あーそういう見方も出来るな]

 

[うっわ逆からの桂馬]

 

[六段、端から攻める気か……これはあり?]

 

[ない……いや、ありだな]

 

[ありあり!全然あり!]

 

[棋神の玉、9筋まで引きずりだしたじゃん]

 

[いやでも、駒得は宗谷棋神側だ]

 

[銀打ちで王手かけてくるな]

 

[うわー強烈]

 

[ここで引いたら自分が食われるから仕掛けるしかない]

 

[こんな好戦的な宗谷さん中々みれないぞ]

 

[しっかし桐山六段冷静だな]

 

[見事に全部受けてる]

 

[こりゃあ途切れたときにどう出るか]

 

[防戦一方じゃ勝てないもんな]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

[きった!やっぱり桂馬!]

 

[後手玉の頭への鋭い打ち込み]

 

[決めに来たか桐山六段]

 

[逆にこれをしのぎきれば、ジリ貧で宗谷棋神に分がある]

 

[いや、俺は信じてるぞ桐山六段]

 

[細かすぎて……俺にはさっぱり]

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 

 

[111手目桐山六段の4八香で宗谷棋神投了―]

 

[88888888888]

 

[すっげぇオレ大興奮だった]

 

[有給取った甲斐あったわ]

 

[88888888888888888888888888888888888]

 

[888888888]

 

[今何時?]

 

[8888888888888888888]

 

[12時過ぎ]

 

[888888888888888]

 

[8888888888888888888888888]

 

[昼休憩前に終わらせやがったw]

 

[午前中からめっちゃ飛ばしてた感はあったな]

 

[88888888888888888888]

 

[その甲斐あってか、切れ味は鈍らず]

 

[これは見ごたえあったな]

 

[要所、要所で桐山六段の判断が光ってた]

 

[うーん、でも相当疲れてるねやっぱり]

 

[これでもギリギリってとこ?]

 

[インタビューにはちゃんと答えてるけど]

 

[急戦なら充分に戦えることを見せたわけだが]

 

[第一局と第二局で違いすぎた]

 

[長期戦へのリスクを浮き彫りにした形になったな]

 

[そりゃそーだよ13歳だよ]

 

[俺中学生の時なんて夜は9時間くらい寝てた]

 

[まーな。前夜祭から考えたらかなり長丁場だし]

 

[次も急戦で行けばいいんじゃないの?]

 

[先手とれないと難しいし、相手が乗らなけらばそれまで]

 

[オレが宗谷棋神なら乗らないけど、この人そんな小さいことで戦法は変えないからな]

 

[圧倒的に長時間に持ち込んだほうが有利でも、面白そうだったら絶対急戦に乗ってくれる]

 

[ようはその時の流れ次第]

 

[面白くなってきたな]

 

[ただ、桐山六段が不利なことには変わりない]

 

[どこまでそこを対応して食らいつくのか楽しみではある]

 

 

      ・

      ・

      ・

      ・

      ・

 


 

 気が付けば8月も終盤。

 世は夏休みらしいけれど、棋神戦にかかりきりの僕にとっては縁のない話だ。

 有難い話ではある。学校の事を一切気にしなくていい夏休みに、初のタイトル戦がかぶっていたのは僥倖だろう。

 

 集中力切らした悪手で沈んだ第一局目。

 急戦をしかけて、押し切った第二局目。

 第三局目はまた長期戦となり、終局間際に一局目ほどではないけれど些細なミスを重ねて、敗戦。

 第四局目は、再び戦局の形を握れたので急戦に持ち込んだものの、勇み過ぎて宗谷さんにひっくり返された。

 

 これで1勝3敗……僕はあっという間に、カド番に立たされていた。

 急戦ならあるいはとも思ったが、宗谷さん相手にそう易々と勝たして貰えるわけが無かった。

 

 次の対局どうしようか……。

 自分の戦略はもう何十通りと考えた。

 思いつく限りの宗谷さんの戦法を研究した。

 将棋に向かう気持ちだって充分に整えられている。

 

 なのに……それなのに、身体がついてこない。

 

 こんなことなら、島田さんに付き合ってもらって二日制の対局の練習でもしておくべきだったか……?

 いや、それもほぼ無意味だろう。

 前夜祭からの一連のながれ、一日目の封じ手の後の冴えた頭で寝たのか起きてるのか分からないような睡眠をとった後で迎える二日目……あれはタイトル戦として体験して初めて成り立つ。

 それに、一カ月やそこらで体力が増えるわけでもない。

 

 次も急戦をしかけるか?

 いや、戦法を意図的に左右することは難しい。

 それに、宗谷さんとはちゃんと棋譜を作りたい。

 第一局が終わって、僕の体力の無さと二日目に集中力が途切れていることは周知の事実となった。

 第二局目の急戦の棋譜が素晴らしかった分、より長期戦の一局目が際立ってしまった形だ。

 それでも、宗谷さんは決して、僕に合わせてムリ急戦に持ち込んだり、かといってわざと長期戦にするようなこともなかった。

 これまでの全四局とも、僕が戦局を決めれるときは乗ってくれたし、宗谷さんが決めるときはおそらくより面白そうな方を選んでいる。

 

 遠慮が無い、配慮がないなんて声もあったけど、それがどれほど嬉しかったか!

 彼は認めてくれているのだ。

 ちゃんと一人の棋士として、君なら大丈夫だろうと。

 だからこそ戦況において甘さは微塵もなかった。

 

 対局時間を短くしたいという意思が根底にあって、良い対局になるわけがない。

 僕も、最初からそんな気持ちは捨てておくべきだ。

 四戦終わって、ほんの少しだけ自分の限界を見極めてこられた気がする。すこしだけ身体も慣れて来た気がする。

 あとは、どれだけ盤面に食らいつけるかだ。終わった後、倒れたってかまわない。

 彼の期待に応えたかった。

 

 マンションの一室で、ひたすら前回の対局までを振り返りながらそんなことを考え続けていた、僕の耳にインターフォンの音が響く。

 

 ……誰だろう?滅多にここに来る人なんていないのに。

 新聞かなにかの売り込みかな……と居留守を使おうとしたのもつかの間。

 

「こ、こんにちはー?零ちゃんいるかな?」

 

 少しだけ戸惑ったように、ドアの向こうから聞こえた声に慌てて応えた。

 この声!間違えるわけが無かった。

 

「い、今開けます!」

 

 周りにあった棋譜を慌てて整えて、ベッドで上でぐちゃぐちゃになっていた布団を直す。

 中にいたクロが驚いたようにみゃっ!?と声を上げた。……ごめんよ、落ち着きがない飼い主で。

 台所もきれいとは言えなかったけれど、あまり待たせるわけにもいかないだろうと、急いで玄関のドアを開けた。

 

「ひなちゃん、こんにちは」

 

 僕の予想を裏切らず、扉の前でまっていたのはひなちゃんだった。

 

「急にごめんなさい……、零ちゃんが大事な対局の最中だっていうのはお祖父ちゃんから聞いてたんだけど……これだけ、渡したら帰るから!」

 

 少しだけ迷ったような表情で佇んでいた彼女は、僕の顔をみると慌てて風呂敷包みを差し出した。一体何が入っているんだろう。

 

「せっかくだから、少しだけ上がっていって。今、結構散らかってるんだけど……」

 

「え?いいよ!ほんとに、忙しいでしょ?」

 

「全然、ちょっと煮詰まってて、休憩しようと思ってたとこだから」

 

 なんとか空間をあけて、机の前に座った彼女の前にお茶を出して、風呂敷を開けさせてもらった。

 出て来たのは以前の記憶で何度かみた、お重箱。

 あけるとそこには、沢山のお稲荷さんが敷き詰められていた。あぁ……懐かしいな。川本家の料理の中でも、大好きなものの一つだ。

 でも、こんなに沢山いったいどうしたんだろう。

 

 僕の疑問を、察したのだろう……。彼女は少しだけ、照れくさそうに視線を伏せながら、ぽつりと話始めた。

 

「お祖父ちゃんがね。次が踏ん張りどころだって……話してたの聞いちゃって。美味しいもの食べて、ちょっとでも元気で対局してくれたらいいなぁって、気が付いたら作ろうと思ってた」

 

 マジマジと見つめる僕の視線に気づいたのだろう。彼女は、ちゃんとお祖母ちゃんと一緒に作ったから、味は保証するよ!っと慌てて付け足した。

 上気して赤くなった頬が愛おしかった。

 

「……どうしよう。すっごく嬉しい。もったいなくて食べれないかも」

 

 こんなにも、僕に心を砕いてくれていることに、堪らない気持ちになる。

 

「えぇ!?ちゃんと食べてね!というか……零ちゃん、きちんとご飯たべてるの?」

 

 彼女の言葉にハッとする、そう言えば今日は朝に食パン一枚食べてから……その後の記憶がない……僕は慌てて、お昼すっかり遅くなっちゃったから、これから食べるよっと言葉を濁した。

 ひなちゃんはちょっと疑わしそうな顔をしたけど、今ここでちゃんと食べてくれるなら許す!って笑ってくれた。

 

 甘辛くて、味がよく沁みた、馴染み深い味だった。中に詰まっているごはんの種類が色々でこの辺も変わってないんだなぁって嬉しくなる。

 にこにことこちらを見ている彼女の表情をみて、久しぶりに食事を楽しんだ気がした。

 お腹を満たすだけじゃなくて、心まで満たされた気がする。

 

「零ちゃん、あんまり無理しちゃだめだよ。食べれるときにいっぱい食べて、寝たい時には寝てね!楽しむためには身体が資本って、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも良く言ってたから」

 

「……寝たい時には……寝るか」

 

 彼女の言葉に、少しだけ思うところがあった僕は、次の第五局で試してみようと決意する。

 

 棋神戦にかかりきりになっていた僕は、同時期行われていた他のタイトル戦のトーナメントをことごとく落としている。

 棋竜戦トーナメントはベスト4で後藤さんに、獅子王戦は決勝トーナメントの2回戦で辻井さんに、棋匠戦は本戦の一回戦で隈倉さんに、そして、プロ入り後に初参戦の七大タイトル戦で唯一、玉将戦だけは本戦に到達できずに、2次予選の途中で敗退となった。

 

 タイトルに挑戦するということはそういうことだ。

 他に目を向けていられる余裕はない。

 あまり取りたい手段ではなかったのだけれど……なりふり構っていられる状況でないことは自分が一番よく分かっていた。

 

 

 

 

 

 


 

 棋神戦第5局。

 二日目、今日もし桐山が負ければ、宗谷の防衛となる。

 

 棋界史上初となる中学生のタイトル挑戦は随分と話題をよんでいる。

 会長の俺としても、近年まれにみるスポンサーの数と注目で、正直有難い話だった。

 

 ただ、やはり少し早かったかとは思う。

 棋力は申し分ない、立ち居振る舞いもそこらの大人にまけてない。充分に挑戦者の役目を桐山は果たしていた。

 足りないのは……体力。幼い身体が長期戦についていけていないのは、誰の目にも明らかだった。

 初戦、中盤までは桐山ペースといって良かった。

 昼休憩後、何度かあいつの身体が揺らいだ。どうにも集中できていないようなのは、その様子から察せられた。

 悪手を指した時の動揺はすさまじかった。

 本人も指した直後になんでこんなところに……と自分でも信じられなかったのだろう。

 

 桐山が目に見えた失着をしたことは、これまで一度もなかった。

 後から考えればとか終わってみたらあそこが失着だったかなと話に上がることはあってもだ。

 プロ入り後、初めて誰の目にも明らかなミスをおかした。

 充分凄いことだとは思う。あいつの将棋はそれだけ丁寧で綿密なものだった。

 

 対局後気丈にふるまっていたし、その後の大盤解説までこなしていたけれど、憔悴具合は明らかで、部屋に帰った途端、すぐに寝入ったと幸田から聞いた。

 其れも仕方ないと思う。

 前夜祭から考えればまる三日。緊張状態にあるうえに、常に頭は動き続けるのだ。

 大の大人だって、そうとう疲弊するし、ミスもする。

 あいつはまだ、13だ。宗谷とまともな将棋にしてるだけでも充分に賞賛に値する。

 特に第二局は素晴らしかった。

 もう数年すれば、七番勝負のタイトル戦でもなんの心配もなく戦え抜けるようになるだろう。

 

 ただ、今回は……。

 第5局目も急戦はもうない。

 昼休憩前までの流れでそれは否定された。

 となると夕方……下手をすれば夜まで対局は続くだろう。

 今の局面は桐山有利の声が多いが……、このまま勝ち切れる可能性は低い。

 

 おまえは良くやったよ。

 なんてあいつは絶対に認めたくない言葉だろうな……と俺は自分の髪をかき回した。

 

「会長!」

 

「お?どーしたスミス。あーそろそろ、午後開始の時間か」

 

 第5局目の副立会人をしている三角が、俺の元に駈け寄ってきた。

 

「いや、もう始まってるんですけど……桐山がその……戻ってきてなくて」

 

「はぁ!?そりゃまたなんで?」

 

「分かんねーすよ!宗谷棋神がまだ指されてないけど、指したら桐山の持ち時間が減っちまう」

 

「昼休憩のあいつの控室、見に行くぞ。中でぶっ倒れてんじゃねーか」

 

「ちょ、縁起でもないこと言わないで下さいよ。ただでさえ最近、線が細くなったような気がしてるのに」

 

 棋神戦の昼休憩は12:30-13:30の一時間。

 両対局が顔を合わせないように各々に個室の控室が用意されており、昼食もそこでとる。

 トイレに行っていたら遅れたとか、すこし外の空気を吸いに出て遅れたとかも、これまでになかったわけでは無いが、桐山の性格上それは考えにくし……。

 

 扉に手を掛けようとした瞬間。目の前でパッとそれが開いて、人が飛び出してくる。

 

「わっ!ごめんなさい会長」

 

 勢い余って、俺とぶつかりそうになったのは桐山だった。

 その様子に俺は少し安堵した。

 

「なんだ。元気じゃん。急げよ桐山、もう始まってんぞ」

 

「すいません!手間取ってしまって……すぐ行きます」

 

 一体何に手間取ったのか聞こうかとおもったけれど、パタパタとせわしなく駆けていく桐山を止めるわけにもいかず、そのまま見送る。

 

「……桐山、後ろ髪跳ねてましたよ。朝はそんなこと無かったと思うんですけど」

 

 スミスの呟きに俺はひょっとして、と部屋の中を覗き込んだ。

 不自然にならんだ座布団と、その傍らにある薄い布。

 

「ひょっとしてあいつ、寝てたのか……?」

 

 昼休憩をどう使おうか個人の勝手だが、随分と思い切ったものだな。

 さてはて、これが一体対局にどう左右するのか。

 

 

 

 一日目に先手の宗谷から始まった第5局は、序盤の駆け引きのあと、手損のない「角換わり」から派生していった。

 角交換成立後も神経質な駒組みは続き、桐山が「腰掛銀」を下げたあと意表の「右玉」を採用したのが昨晩のハイライトと言っていいだろう。

 宗谷が「矢倉囲い」を完成させたのをみて、桐山が4筋から突っかけた局面で封じ手となった。

 

 二日目の午前中50手に差しかかるころ、宗谷は小考ののち4五歩と打ち込み、攻勢に転じようとした。

 けれど、桐山は追われた銀を5筋に引き冷静な対応をみせる。

 結局開戦……とまではいかずお互い粘り強く指しあう結果となり、勝負の行方は午後にかかっていた。

 

 混戦になることは必至だ。

 それゆえに桐山の集中力は気がかりではあった。

 

 午後の対局開始の一手で桐山は手持ちの角を先手陣に投入5九角とし、攻撃の形を整えはじめる。

 この手に対して、宗谷が2筋に迫り出したままの角を一旦引き戻し4六角とする。

 それをみて、60手目、桐山は2八歩成と2筋の歩突き出して、開戦の意思を告げた。

 

 序盤の重い展開から一転。

 流れるような指し回しだ。

 受けに忙しくなった宗谷が、ひとまず桂馬を引いて69手目に5八金としたのをみて、

 軽快に桂馬を使って、相手の陣を荒し、それと同時に形勢をしっかりとつかんだ。

 

 じりじりと詰め寄り、途中で角・桂と金・銀の二枚換えを実現し、駒得になったあたりからは、息をのむほどの猛攻だった。

 細かい局面であったものの、一歩も引かずに果敢に攻め込む。

 

 そしてついに桐山の114手目6一玉で、宗谷が投了を告げた。

 

 終局は18時をまわる長い対局だった。

 これで2勝。多くの予想を翻して桐山が取った貴重な一勝だった。

 

「こりゃあ……後2局、分からなくなったな」

 

 ひとりでにそう呟き、おれは自然とにやける口元を隠した。

 これだから、将棋ってのは面白いんだ。

 

 

 


 

 

 

「負けました」

 

 そう頭を下げる宗谷さんの姿に僕は、ようやく終局していたことに気づいた。

 

「あ、ありがとうございました」

 

 慌ててこちらも頭を下げる。

 久々だ。

 此処まで長く掛った対局で、一度も思考が現実に戻らなかった。

 ずっとこの盤上の世界にもぐり込むことが出来た。

 終わった瞬間に押し寄せる疲労は半端なものではなかったけれど。

 

「桐山六段……インタビュー大丈夫ですか?」

 

 脇息にもたれかかって、顔を伏せていた僕に窺うような声がかかる。

 

 あぁ……そうだ。

 対局後のインタビューとそれが終わったら、感想戦をして、大盤解説の会場に移動だ……。

 考えすぎると気が遠くなりそうだったので、とりあえず目の前の仕事からこなさなければと、頭を切り替える。

 

「えぇ……すいません。大丈夫です」

 

「2勝目おめでとうございます。長期戦でしたが、見事な対局でしたね。本局を振りかえって如何ですか?」

 

「一日目は待ちが濃厚な展開になってしまって、僕も攻めあぐねました。

 二日目のそうですね……桂馬を使ったあたりからですね、流れを引きこめたと思うのは」

 

「終盤の指し回しお見事でした。本日の昼休憩後すこし遅れての対局室入りとなりましたが、理由を伺っても?」

 

「あ、あぁ……それは、ですね。昼食は軽く済ませて後の時間、すこしその……仮眠をとりまして……。間に合う時間には起きたのですが、着物を着るのに手間取ってしまいました」

 

 昼休憩の時には、食事で汚さないようにだったり、すこしでもくつろぐために与えられた控室で着物を脱ぐ人も珍しくない。

 二日目の午後、どうにも睡魔に襲われるし、集中が途切れるだろうと分かっていた僕は、昼寝を決行することにした。

 控室にあらかじめ薄いブランケットと、ゆったりとした服を置かせてもらっていたのだ。

 ちゃんと目覚ましはかけていたんだけど……30分といえど寝起きは寝起き、予想より着付けに手間取ってしまった。

 

「あぁ……それで、髪がはねてるのか」

 

 クスクスと笑いながら告げられた宗谷さんの言葉に、僕はギョッとして頭を押さえる

 

「えっ?跳ねてますか?」

 

「うん。左後ろの方」

 

 記者の方や部屋にいた関係者全員が、笑いをかみ殺せていない。

 自分の顔が赤くなるのがわかった。

 

「つ、次は気をつけますから……本当すいません」

 

「君なりにどうすれば、将棋に打ち込めるのか、真剣に考えた結果だろう。休憩時間をどう使うなんて自由なんだから。ただ、遅れないようにだけは気を付けて、自分の持ち時間が減るのは困るだろう。

 今日の将棋の内容は最高だった。何度だってまた並べると思う」

 

「良かったです……第2局以外、良い所がない状態でしたので……」

 

 宗谷さんの言葉に、安堵する。ようやく夜までかかった長期戦で僕は、自分も及第点を出せる将棋が指すことが出来た。

 

 

 

 大盤解説の会場に向かう前に、髪を直したかったのに、会長がその方が面白いからそのままで行けと聞かなくて結局その通りにした。

 解説の前にまたひとしきり笑われたけど、場が盛り上がったから良しとすべきだろう。

 

 

 

 これで2勝3敗……。

 次を取ることができたら、振りだしに戻すことが出来る。

 一局目が終わった時点では、ここまで持って来れるイメージは出来なかったけど、今は一応おぼろげながら自分が勝てるビジョンを描くことが出来る。

 これだけでも、進歩だろう。

 あとは、それに現実がついてくるかこないか、それだけだ。

 

 

 

 

 


 

「すげぇ……桐山、食らいついてる」

 

「一日目、終わった時点ではすっかり宗谷棋神ペースだったけど……」

 

「これでまた分からなくなった。終盤どちらが踏み切れるかな」

 

 棋神戦第6局、棋士たちが集まる控室には常よりも多くの人で溢れかえり、そしてあちらこちらから、対局に対する声が上がり続けていた。

 

 俺もその一人、研究会の後輩の大一番だ。観戦にくるのが道理だろう。

 

「島田さんはどっち持ちですか?やっぱり可愛い後輩の桐山?」

 

 傍にいた松本が、盤上をうつす画面を食い入るように見つめながら、そう問いかけていた。

 

「別にどっちってわけじゃないけど、ただこの一手で桐山側に形勢は傾いたかなって」

 

「ほんとすげーっすよ。俺だったら昨日の時点で諦めちまうのに。こんな手がまだあったなんて」

 

 松本の言葉に同意せざるを得ない。

 宗谷は間違えることが少ない。常に粛々と淡々と最善手を突きつけてくる。

 だからこそ、自分のミスは致命的で、そして一度戦況があちらに傾くと、起死回生の一手に頭が回らなくなる。

 あぁ……やってしまったと。そう諦めてしまう奴が多い。

 

 この棋神戦の反響は凄かった。

 第一局が終わった時点では、やっぱりまだ早かったんだと落胆するものもいた。

 第二局が終わった時点で、棋力は充分だが、それだけに、体力がと惜しまれた。

 そして、先日の第5局、多くの人の予想を上回り、桐山は宗谷と見事に長時間指しあってみせた。

 

 本人は前半戦を不甲斐ないと評価しているようだが、それでも充分すぎる内容だった。

 それはタイトル初参戦の中学生にしてはという、前置きがついていたことはいなめない。

 

 けれど、あの第5局あれをみて、そんな声はピタリと止んだ。

 一人の棋士として、桐山は十二分に宗谷と相対する資格を持った存在だと、体現して見せた。

 これで、力不足だったとか若すぎたなんて言う奴がいたらそいつがアホだ。

 

 この第6局もひたすらに食らいついている。

 

 後手の桐山が誘導した「角交換振り飛車」の形から始まったこの第6局は、玉頭戦の構えをみせる彼に対して、序盤に宗谷が1四歩と1筋の端から仕掛けを開始し、動きのある将棋となった。

 

 すかさず桐山の方も桂馬を跳ねて応戦へと動き始める。

 激しい攻め合いになったものの、65手目に宗谷が3五桂と起点に据えた角の真下に、手持ちの桂馬を投入すると、一気に先手有利へと傾き、その模様は攻撃的な迫力を増した。

 

 この難しい局面で桐山は長考。

 そのまま自らが封じ手をして一日目は終了。

 

 序盤から能動的に仕掛けていった宗谷棋神優勢というのが、周りの見解だった。

 

 

 二日目。

 桐山の封じ手は5二金だった。

 おそらく多くのものが意表を突かれる形になった。

 宗谷が予想していたかどうかは分からないが、その後彼も長考しているため、あまり有力手とはしていなかった可能性が高い。

 

 これを宗谷は、受けることなく67手目に9四歩を厳しく端歩を突き出した。

 初日の流れをひきつつ、攻撃手を緩めるつもりはないとの意思表示だったのだろう。

 ただ、この後の桐山の一手が効いた。

 8三銀と、激しく威嚇したのだ。宗谷としても僅かにあった自陣の傷を守りにまわらざるを得なくなる痛烈な一手だった。

 

 昼休憩の後も、二人の攻め合いは続いた。

 踏み込み過ぎれば、自陣が崩れ。かといって守りすぎればジリ貧で負ける。

 どちらも決め手にまでたどり着かない。

 

 終盤戦、100手を越えた時点でさえ、どちらが勝つのか分からない。

 息をのむほどの接戦だった。

 

 

 

 

 


 

「負けました」

 

 沢山のフラッシュがたかれる。

 この瞬間を切り取るために、随分と多くの報道陣があつまったものだ。

 勝者を撮影するためにと自分の肩の上にのるカメラが重たかった。

 あー懐かしい。

 嫌というほど敗戦を自覚させるこの重みが。

 30歳を超えたころから防衛が当たり前だったから、久しく感じていなかった感覚だった。

 

 棋神戦第6局。

 137手目宗谷さんの7三金にて、僕は投了を余儀なくされた。

 二日目は20時がせまる長期戦だった。

 ただ今回の対局、お互いに目立ったミスはなかった。

 

「まずは、宗谷棋神、防衛おめでとうございます。本局を振りかえっていかがでしたか?」

 

「大変興味深い対局でした。130手をこえるまで自分の勝利は確信できませんでしたね。

 今日の対局はどちらに転んでも可笑しくはなかった」

 

 大きく息をついてからそう答えた宗谷さんにも珍しく疲労の色が濃く見えた。

 

「シリーズ全体を振り返っては、如何でしょう。桐山六段とは初めてのタイトル戦だったわけですが」

 

「彼の若さと勢いに、私も良い刺激を貰いました。お気づきの方も多いと思いますが、一つとして、同じ戦法が取られた対局はなかった。お互いが試行錯誤しながら様々な手を試せた、そしてまたそれが良い棋譜を残せたと思います」

 

「この防衛により、棋神戦は5期連続の獲得になります。これについてはどう思われますか?」

 

「あまり記録は意識していませんので……光栄なことだとは思います」

 

「桐山六段、お疲れ様でした。惜しくも敗れた形にはなりましたが、本局について思うところはありますか?」

 

「……そうですね、シリーズ全体を通して一日目主導権を握れることが多かったのですが、今回は序盤あまりうまく動けなかったかと思います」

 

「二日目の午前中の切り返しは見事だと、控室からは声が上がっていました」

 

「自分でもどこかで巻き返さないと、と思っていたので、そこは上手くはまりましたね。ただ終盤一歩及ばなかったと思います」

 

「初のタイトル戦でした。全体を通しての感想などありましたらお願いします」

 

「前半戦は不甲斐ない対局も多かったので……そこは反省して次に生かしたいと思っています。ただ、宗谷棋神と6局対局することが出来た経験は、良い糧になりました」

 

 それから、感想戦を終わらせて大盤解説の会場に移動するとき、僕に小さく宗谷さんが声を掛けて来た。

 

「顔色がよくない。……大丈夫?」

 

「え、そうですか?平気です。ちゃんと最後までやらせて下さい」

 

 たしかに頭はフワフワするし、なんだか地に足がついてない感じだったけど、もう少しだから頑張りたいと思った。

 

「……分かった。無理しないで。なるべく僕がしゃべるから」

 

 宗谷さんは少しだけ困ったような表情をしたあと、かるく僕の頭を撫でてそう言った。

 大盤解説の会場で、自分たちの対局を振り返るのも6局目ともなれば、この体でもだいぶ慣れたものだった。

 ただ、長期戦が終わった後に会場のライトを浴びるのは、残りの体力をガリガリと削られていたような気がしたし、多く人の様々な意図を含んだその視線が、遠慮なしに僕に突き刺さった。

 

 宗谷さんは珍しく、自ら話題をリードしながら丁寧に対局について解説し、たまに僕の方にも話題を振った。

 僕はそれに、反射的に言葉を返すだけでよくて、だいぶ楽だったとおもう。

 ただ、終わってみればその時何をしゃべっていたのか曖昧なほどだった。

 

 

 宗谷さんに声をかけてもらって、会場から帰してもらったあと、ふらふらと自分の部屋へと歩き始める。

 

 あぁ……。終わってしまった。

 結局2勝4敗。そのうち満足できた対局は、後半の第5局と第6局だけだ。

 最後まで指すためにどうすべきか……手探りで臨んだタイトル戦になってしまった。

 けど、次はきっと大丈夫。

 二日制の七番勝負でこれだったんだから、一日制はなんとかなるだろうし、もし仮にまた二日制の挑戦権をとったとしても、今回の経験を生かすことができる。

 あと数年もすれば、体力だって気力だって記憶の自分に少しは追いついてきてくれるだろう。

 

 部屋のドアを開けるとき、こんなにも重かっただろうかと難儀した。

 なんとか身体をすべり込ませた。

 酷使した頭がガンガンする。

 なんだか、この感覚は少しだけ覚えがある。

 嫌な汗もでてきて、慌てて着物を脱いだ。残った力を振り絞って、壁にかけたハンガーにつるしておく。

 ホントは綺麗に畳んで、呉服屋さんに送るようにしておくべきなんだけど、……もう明日でもいいよね。

 着替える気力もなくて、長襦袢のままで布団の上に倒れ込んだ。

 せめて潜り込むべきなのはわかるのに、それすら億劫で力が出ない。

 全身全霊の満身創痍。今の僕に出来る全てをぶつけた証だ。

 

 沈み込んだ意識の中で、ドアがたたかれる音がしたような気がしたけど、僕はそのまま泥のように眠り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 


 

 大盤解説の後、棋神戦も滞りなく終わりをつげたが、会場はどこか熱気が収まらずにいた。

 それだけ、見るものの心を揺さぶる対局だった。

 

 2勝4敗。内容はこの勝敗だけでは図れない。

 近年、宗谷にここまで食らいついた若手がいただろうか。A級棋士相手にもストレートで防衛することが多かった彼から2勝もぎ取っただけでも凄い。

 それに、今日の対局はどちらに転んでも可笑しくはなかった。

 第5局にしても第6局にしても、名譜として表彰される可能性をもった対局だったと言える。

 

 俺も頑張らないとな、と気合を入れたところで声が掛った。

 

「島田ちょっといい?」

 

「お、宗谷おつかれ。防衛おめでとう。……なんだ?お前まだインタビューとかで忙しんじゃ」

 

 桐山を先に離脱させた分、防衛したこの棋神様は色んな人に声をかけられていた。

 

「僕もそろそろバックレたいとは思ってるんだけどね。桐山くんなんだけど……どうも、体調良くなさそうだったから、ちょっと気に掛けてあげてほしくて」

 

 島田は研究会の先輩だろ、とそういう彼に俺は目を丸くした。

 宗谷冬司が他人に気を配ることは少ない。良くも悪くもマイペースで、空気が読めないのか読む気がないのかと、会長が頭を抱えるようなそんな男だ。

 

「桐山が?そういえば……あんまり顔色良くなかったな。解説の時も口数少なめだったし」

 

 疲れているだろうからとそう思っていたけれど、最近の桐山は顔色が良かったためしがないので、見落としてしまった。

 

「僕は一番近くで見続けてきたから、なんとなく分かる。毎回凄く疲弊してたけど、今日の終局後は何時にもまして良くなかった」

 

「分かった。ちょっと後で部屋に寄ってみるわ」

 

 頼んだよ、とそう声をかけられて宗谷と別れた。

 

 

 

「あれ?後藤さんじゃないですか。どうしたんです。こんなところで」

 

 桐山の部屋に向おうとしたエレベータホールで、見知った後ろ姿を目にする。

 

「……島田か。あいつのとこへ行くのか?」

 

「あいつって桐山ですか?えぇ、宗谷にも頼まれたのでちょっと様子見に」

 

「じゃ、俺はいいや。頼んだぞ」

 

 俺の返事を聞くやいなや、踵を返して立ち去ろうとする後藤さんを慌てて呼び止める。

 

「ちょっと、ちょっと、どうせここまで来たんだし、顔見て行ってあげたらいいじゃないですか。あんた同門でしょ」

 

 俺の言葉に、しぶしぶと言った体で彼もエレベーターに乗り込んだ。

 幸田さんは今日対局があって此処に来れなかった。おそらく後藤さんは、自分の代わりに、よく見ておいてほしいと頼まれているのだろう。何気にこの男は律儀なのだ。

 

 

 

「桐山ーいないのか?」

 

 部屋のインターフォンを鳴らして、ノックをしてみるも、中からは物音ひとつしなかった。

 

「そんなわけねぇだろ、会場からは出たんだから」

 

「んースペアの鍵使わせてもらうか、相当疲れてたっぽいし、寝てたならそれでいいけど」

 

 一応フロントで借りてきていた、スぺアキーを使わせてもらう。

 未成年が一人というわけで、将棋関係者であることと、身分証明書をみせることで借りることは出来た。

 

「うわ、真っ暗だ。ちょっとだけ明り付けさせてもらって、と」

 

 部屋の中は静まり返っていて、少しだけ物も散乱していた。

 なにより着物がかろうじてかけてはあるものの、らしくないくらい乱雑な置き方だった。

 

「あのガキ、力尽きやがったな」

 

「まぁまぁ、掛けてあるだけましですよ」

 

 後藤さんは悪態をつきながらも、着物を降ろして丁寧に畳み始めた。こういうところ、ほんと素直じゃないというか……。

 

 部屋の主は……っと見まわしたところで、布団の上に小さな塊を見つけた。

 掛け布団の上にそのまま丸まってしまっている。

 潜り込む力もなかったのだろうか。夏場とはいえあまりいい状態ではないだろう。

 

「桐山ーせっかくだし、着替えてから寝たら?」

 

 声をかけてみるものの、身じろぎすらしなかった。

 これは無理だな。

 とりあえず、長襦袢のままなのはいただけないし、着替えさせてやるか。

 

「後藤さん、桐山の荷物に適当な部屋着っぽいのないですか?」

 

「あー?たく、面倒だな。……ほら、よっ」

 

 鞄をあさる音がして、ばさばさといくつかの布が投げられた。

 

「あぁ!投げないで下さいよ。起きちゃうでしょうが」

 

「死んだみてーに寝てるし大丈夫だろ」

 

 小さな声で抗議した俺に、彼はフンッと鼻で笑ってそう返した。

 

 まったく起きる気配のない彼を着替えさせながら、俺はふと違和感を感じて眉をひそめる。

 

 熱い。

 子どもの体温といってもこんなに熱いのはおかしい。

 

「……後藤さん、フロントに行って体温計借りてきてもらえませんか?」

 

「あぁ?」

 

「桐山、いくらなんでも熱すぎる。たぶん熱でてますよ、これ」

 

 首元や額に手をあてて確信する。

 

「かーー。遠足ではしゃぎすぎた子どもかよ」

 

 彼は呆れたようにそう一言呟いた後に続けた。

 

「分かった。ついでに、会長にも一声かけといてやる。場合によっちゃ明日のチェックアウト遅らせるか、いっそ泊まることになるだろうからな」

 

「お願いします。俺は、こいつについててやりたいんで。夜中に熱が上がったら可哀想だし」

 

 悪態をついたものの、後藤さんの動きは早かった。

 体温計だけじゃなくて、近くのコンビニでスポドリだとか冷えピタだとかまで買ってきてくれる手厚い対応。

 この人もなんだかんだ、心配しているのだろう。

 

 着替えさせる時に気づいたけど、おそらく体重も落ちている。

 第一局から数えて2ヵ月近くの長丁場。様々なものを削って、こいつは戦いぬいた。

 

 

 お前は凄かったよ、桐山。

 だから、今はしっかり休め。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十七手 川辺での約束

 

 棋神戦が終わったその日、僕は熱を出したらしい。

 うつらうつらとする意識の中で、誰かが額に冷えピタをはってくれたり、水を飲ませてくれたり、頭を撫でてくれたのが分かった。

 明け方うっすらと意識が覚醒して、その誰かが島田さんだと分かって、慌てて飛び起きた。

 馬鹿! 寝てろと、すぐに布団に押し込まれたけれど。

 迷惑をかけてと謝る僕に、彼はあっさりと気にするなと言ってくれた。

 

 なにか軽く食べられそうかと、言われたけれど、どうにも食欲はわかなかった。

 でも、薬を飲むにしてもお腹に何か入れた方がいいのはたしかで、差し出されたゼリーだけは何とか口にした。

 

 この物資を全部後藤さんが買って来たんだと聞かされたときには、驚いたけれど。

 後藤さんはタイトル戦が決まってから、少し僕とは距離を置いている雰囲気だった。あの人なりのエールだと思う。たぶん僕に余計なことで煩わせたくなかったのだ。

 これを買ってきてくれたあと、夜のうちに対局の関係で東京へとたったらしい。僕にかまったせいで遅くなっていなかったかだけが、心配だ。

 

 結局僕は次の日もホテルで休養させてもらった。

 当然学校も休んだ。

 第5局までは夏休み中だったからなんとかなったけど、第6局は9月の一日と二日目で、新学期が始まっていた。

 小学生に戻って以降、対局以外で学校を休んだのは初めての事だ。

 意識してなかったわけではないが、前回にくらべたら随分真面目に通っていると思う。それだけ学校も楽しめているということかもしれない。

 欠席の連絡が……と言ったら、島田さんが代わりにしてくれた。

 こういう時は、学校にかけるのが通例だが、僕は棋戦関係の欠席が多いし、林田先生の携帯に掛けることが多い。何も知らない先生が対応するより話がはやいし助かっている。

 ただ、突然、憧れの棋士からの電話を受け取った林田先生の心臓が心配である。

 

 午前中のことは朦朧としててあまり覚えてないけど、藤澤門下の人達が入れ替わりたちかわり、部屋に来てくれていたそうだ。

 敗者ははやめに現地から立ち去るのが通例なのに、余計な手間まで掛けさせて、もうほんとすいません……。

 あまりに人が来るものだから、その対応にいちいち席をたつのが面倒になったのか、はたまた、ノックの音で僕が微妙に覚醒しそうになるのに気付いたのかは分からないが、島田さんは、ドアのチェーンを挟んで半開きにして、その扉に「病人が寝ています。静かにはいって、静かに出てください」と張り紙をしたらしい。

 僕の寝ている姿であろうとも、顔をみれば満足して帰っていくそうだ。

 心配をかけているということなのだろうか? 見守る会の奴らがどうとか言われたけど、良く分からなかった。

 

 夕方頃には、だいぶ熱も下がり、ホテルの人が用意してくれたお粥を食べることが出来た。

 一流なだけあって、もとからこういうサービスもあるらしい。

 もう大丈夫だから帰れると、そう告げたのだけれど食事中に顔を見に来た会長までが、一泊していけと厳命してきた。

 宗谷さんの五期連続の獲得を祝って、記者会見などをここで行った関係でまだ連盟の関係者も多く残っているから気にするなと言われた。

 

 薬の効果もあってか、はたまた足りていなかった睡眠を貪ろうとしているのか、僕はそのあとも眠り続けた。

 夢のなかで、昨日の対局の盤が浮かんだ時には、自分の将棋脳っぷりに笑ってしまった。

 だから、晩御飯時に、うっすらと覚醒した目線の先で、宗谷さんがすぐそばの椅子に座っていても、夢の続きだと思ってしまった。

 

「あ、起きたんだ? お水飲む?」

 

 手元の紙からふと顔あげて、目線があった彼にそう問いかけられてようやくそれが現実だと気づいた。

 

「え? ……えっ? なんで、宗谷さんが……」

 

 うろたえて体をおこす、僕をそっと支えてくれて、手元にストローを挿したペットボトル渡してきた。

 

「たまたま様子を見に来たら、島田が買い出しにでるから、その間傍に居てくれって。看病なんかは期待できないけど、見とくだけなら問題ないだろって」

 

 ちょっと失礼だよね、僕だって人並みの知識はあるよ、と呟く彼に僕はなんと返していいか分からなかった。

 流石島田さん……同い年だから遠慮が無い……。名人にこんな事中々頼めませんよ。

 

「んー。まだちょっと高い?」

 

 額にあてられた、彼の手はひんやりと心地よかった。

 

「もうだいぶ下がりましたよ」

 

「無理しないでね。経験者から言わせてもらうけど、将棋にばっかりかまけすぎるのも問題らしい。僕自身はもう結構手遅れだとおもうけど」

 

 君は心配する人も多いし、何よりまだ幼いからと。そう告げる彼の瞳は優しくて、少し驚いてしまった。

 宗谷さんに自覚があったことが意外だった。

 

 ふと彼の手元をみるとそこにあるのは、一枚の棋譜。

 

「それ! 昨日の第六局の棋譜ですか?」

 

「うん。ずっと見てるんだ。どれだけ考えても、次から次に別の手が浮かぶ。本当にいい将棋だった。僕が勝てたのは運の味方もあったね」

 

 この人は、なんて表情で棋譜を眺めるんだろう。けど、好奇心が隠し切れていないその瞳が、なによりも彼の気持ちを表していた。

 

 失礼かもしれないけど、新しいおもちゃを貰った子供でさえ、ここまで純粋な喜びを見せるだろうか。

 表情の動きは普段の彼とそれほど変わらない。けど、好奇心が隠し切れていないその瞳が、なによりも彼の気持ちを表していた。良く知っている人がみたらその機嫌のよさに驚くだろう。

 

「嬉しいです。……他の誰にそう言って貰うよりも、一番うれしい」

 

 序盤の事をかんがえると、あまりいいタイトル戦だったとは言えないと思っていた。

 でも、今の宗谷さんの表情をみて、それは違うってちゃんと分かった。

 対局相手に認められること、それがどれほど嬉しいことか。

 他の人に何を言われても、この言葉だけで僕はたぶん振り返らずに進むことが出来る。

 

「昨日の対局の駒音が、僕の耳から消える前に、またちゃんと前に座りに来て」

 

「え……でも、他のタイトルは……」

 

「新人戦の記念対局でもいい。MHKだってまだ勝ち残ってる。待ってるから」

 

 棋神戦の途中で、他のタイトルのリーグは敗戦を重ねていたけれど、宗谷さんは僕が何に負けて何に勝ち残っているのか把握しているようだった。

 ゆるく頭を撫でられたあと、僕は彼とそう約束した。

 

 宗谷さんが持っていた棋譜を眺めながら、自然と検討のようなことをしてしまって、島田さんが帰ってきたとたん、叱られてしまった。

 ヒートしてる頭に負荷をかけてどうするとのことだ。

 島田さんが宗谷さんに小言を言っても、彼の方はうん。と頷きながらも、まったく堪えたようすが無くて、なんだか二人の気安さがうかがえて可笑しかった。

 

 

 

 島田さんと宗谷さんは、仕事の関係上、今日ホテルをたつらしい。

 島田さんは本当なら泊まる予定はなかっただろうに、申し訳ないことをしてしまった。

 今度研究会がある時にも、またお礼をしたいと思う。

 宗谷さんにいたっては、棋竜のタイトル戦がすでに始まっている。棋神戦が第六局までもつれなければ、重なることはなかったのだろうけど。

 複数のタイトルを保持し、そして、それを維持していくことは並大抵のことではない。

 

 一人でもまったく問題は無かったのだけど、入れ替わりに幸田さんがこちらまで来てくれた。

 体調を崩したと後藤さんから聞いて、居ても立ってもいられなかったそうだ。

 僕が移動するのに公共交通機関を使うより楽だろうと、わざわざ車で来てくださった。

 

 

 

 翌日、東京にもどってから、一応病院も受診した。

 喉にも鼻にも炎症はみられず、発熱以外の目立った症状も無かったために、予想通り疲労からくるもので間違いないだろうと言われた。

 

 ただ、その後の医師の一言は余計だった。

 子どものうちは診察の前に、身長と体重を測ることは通例だけど、僕はすこし痩せ過ぎだと注意されたのだ。

 ……まぁ、体重は記憶していた4月の身体測定の時よりも、3キロは落ちていて、流石にマズイと自覚はある。

 しっかり食べるようにと、釘を刺された。

 

 病み上がりだったことと、近く棋戦がないということで僕は3日ほど幸田家にお世話になる。

 一人にさせられないと言われれば断れなかったのだ。

 もっと嫌がるかとおもった香子さんは、そう……と一つ頷いただけで何も言わず、もし時間が合えば駒落ちでまた指してってそれだけ頼まれた。随分と時間がたっていたけれど、まだその約束が生きていたことに少しだけ驚いた。

 

 丁度週末だったので、土日御厄介になったあと日曜日の夜には久々に家に帰った。

 タイトル戦中は、和子さんに面倒を見に来てもらっていた猫たちは、やっと帰ってきたのかとしばらく、僕の傍を離れなかった。

 聞き分けの良い子たちだけど、少しは寂しかったのだと思う。

 時間もあるし、思う存分遊んで、撫でて、そして一緒に寝た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 久々に、袖を通した制服は、少しだけ余裕が増えた感じがして、やっぱり痩せたのかと、この時ようやく身に染みた。

 幸田さんや藤澤門下の人達の、家庭訪問もタイトル戦中は遠のいていたけれど、僕の体重の事が広まったらたぶん、しばらくは頻繁に食事に連れ出されるだろうし……折角だから、ちゃんと食べようと思った。

 

 9月の2週目になってようやく登校した学校は、7月の時と何も変わってなくて、なんだかほっとした。

 提出が遅くなった夏休みの課題と、欠席の届けを出しに少し朝の早めに伺った職員室では、

 出会う先生方、一人一人にお疲れ様、と声をかけられる。

 提出が遅れた件に関して謝っても、寧ろあのスケジュール中に、ちゃんと仕上げて出してくるのが凄いよと言われて咎められはしなかった。

 

 林田先生には、島田さんの事で心臓にわるいから、急には勘弁してくれと注意された。でも、話せたこと自体は嬉しいらしい。難しいファン心理だ。

 タイトル戦の内容にも熱く感想を語られた。これだけ熱心に見てくれる人が身近にいるのも、嬉しいことだし励みになる。

 テレビのニュースで取り上げていたからか、僕のタイトル戦の行方はクラスメイト全員が知っていたが、ほとんどの子がそのあと体調を崩して学校を休んでいた事の方を心配してくれた。

 優しい出来た子たちである。

 

 

 

 学校から帰ろうとする道すがら、少し先の道路わきに黒いベンツが止まった。

 一瞬何事かと身構えたけど、心当たりは一つしかなかった。

 

「桐山―!! 見たぞ、宗谷棋神との熱き戦い。俺はもう、猛烈に感動した」

 

 予想通り降りてきたのは、二海堂だった。タイトル戦の間は島田研究会もすこし不参加気味だったから、会ったのは久々になる。

 

「こんにちは。二海堂。対局を見ててくれたのは嬉しいけど、ここに来たのはたまたま? それとも僕に何か用事があって?」

 

「あぁ、お前に少し相談があってだな。自宅の方へ伺おうかと思っていたのだ」

 

 昔から、予想外の行動力は変わっていない。

 

「いいよ。今日は別に用事もないし。ただ、こういう時は先に携帯に一報いれてくれ」

 

「むっ、すまん。別に今日でなくても良かったのだが、近くを通ったついでに時間が合えばと思ってな」

 

 花岡さんが是非にというから、近くまで車で乗せてもらった。

 相変わらずいい車である。

 

「どうぞ、散らかってるけどそこは目をつぶってくれ」

 

「お邪魔します。……っと、おおぉう! 桐山の家の猫か?」

 

 ピューッと弾丸のように部屋の奥から飛び出してきた、うちの番猫のシロは二海堂をみるなり身体を大きく膨らませて、唸り声をあげた。

 

「シロ、落ち着いて。おかしいな、なんでこんなに威嚇するんだろう……」

 

 いつもなら、一度かるく唸った後は、例のくるくる回る審議に入るんだけど、その様子もない。

 

「俺の家には、エリザベスがいるからな……犬の匂いが気になるのかもしれん」

 

「ありえる。シロは藤澤さんの家の近くのダックスと凄く仲が悪かったんだ……。まぁ犬と猫ならよくある話だけど……。

 シロ、此処にはいるのは二海堂。前少し話しただろ。僕のライバルだよ」

 

 僕の言葉にひとまず唸るのは辞めたものの、どうにも警戒の色はとれない。

 

「ふむ。シロ殿。突然お邪魔してすまなかったな。今度ここに来る時は新品の装いで、なるべく匂いが無いようにしよう。今日だけは勘弁してくれないだろうか」

 

 二海堂は一つ頷いたあとに、しゃがんでなるべくシロに視線を合わせてそう言った。

 しばらく一人と一匹は見つめ合っていたけど、シロの方が警戒をといて、いつものようにクルクルと彼の周りを2回ほど回った後、にゃんと一声鳴いて部屋の奥へと引っ込んだ。

 

「上がっていいって。二海堂はたぶん気に入られたよ」

 

「そうなのか? 初対面で随分驚かせたと思うのだが……」

 

「先導するときは入って良いってことなんだ、つまりは迎え入れてくれたってこと」

 

 後藤さんとか、宗谷さんとか何故かあんまり懐いて無い人達だと、ずっと尻尾を膨らませてるし、しばらくは後をついてまわる。本猫としては、監視のつもりなのかもしれない。

 あんな風に鳴いたりしないし、部屋に招き入れることは絶対にない。

 

 部屋を様子みた二海堂は意外と物があることに驚いていた。

 桐山の部屋なら机すらなくて、将棋盤がポツンとあるイメージだったと言うのだ。

 僕は心外だと言い返しながら、内心ではあたっていると頷く。

 幸田さんが、引っ越しの時買い物に付き合ってくれてなかったら、前回同様、味気ない部屋になっていたと思う。

 

「それで、僕に用事ってなんだったの?」

 

 お茶を入れて一息ついた後に切り出した。

 研究会で会うようになり、話すことも増えて、二海堂の方からも以前のような遠慮のない絡みが多くなってきていた。

 

「そのな……宗谷名人と桐山の対局をみて、だいぶ触発された。忙しいのは分かってるんだが……良かったらVSに付き合ってくれないか? 三段リーグも大詰めなんだ」

 

 二海堂は最初の三段リーグの真っ最中。自分のタイトル戦が忙しくて、詳しくはみれてなかったが、成績は悪くなかった。

 いくつか落としていたものの、最終日の残り2戦勝てれば十分に昇段可能性があったはずだ。

 逆を言えば、一つでも落とすと昇段はないと思ったほうがいい。最初のときは順位が低いから勝率で勝らなければ厳しい。並んだ場合圧倒的に不利になる。

 

「いいよ。今月はそれほど忙しくないし、対局は来週末までないから、好きな時に来てくれて」

 

「ほ、ほんとか!? ほんとにいいのか?」

 

 二海堂は信じられない、といった表情でなんども問い返してきた。

 

「なんだよ……そんなに意外だった?」

 

「桐山はあまり、こういう事は好きそうじゃなかったから。奨励会の時も他者との会話はすくなかったし。正直、受けてもらえないかと……」

 

「タイトル戦中ならともかく、終わった今は一番余裕あるし、断らないよ。それに、はやくこっちで指してほしいし」

 

 三段への昇段前、体調を崩していた彼を見舞ったときの言葉に嘘はない。

 焦って体調を崩すのは困るし、身体は大事にしてほしいけど、それと同時にチャンスがあるなら物にしてほしいと思ってしまう。

 三段リーグは嵌まると長いときがある。狭き門だけに実力は充分でも抜けられない事がある。

 そうなってほしくはなかった。

 

「次の相手だれだっけ? 奨励会員のデータは少ないんだけど、得意戦法とか分かれば似たようなの引っ張ってこれるかもしれない」

 

 パソコンを起動させながら言った僕に、二海堂は少し悩んだあと首を振った。

 

「いや……対局相手の研究は自分でももう嫌というほどしてるから、出来たら桐山とたくさん指したい。それがなにより刺激になるし、新しい発想が生まれる気がする」

「分かった。今日も今から時間ある?2局くらいは出来るだろ」

 

「いいのか! オレは勿論大丈夫だ」

 

「明日は学校だし、あんまり遅くまでは付き合えないけどな……。けど、僕はそんな大したものでもないと思うけど」

 

 宗谷さんやA級棋士ならともかく、僕と指すだけにそこまで価値があるとは思えなかった。

 けど、その言葉に二海堂はそんなことない、と強く言い返してきた。

 

「本当に感動したんだ。俺よりもいくつも年下の桐山が、あの宗谷名人相手に一歩も引かずに、タイトル戦を戦いぬいてた。……序盤体力的に不利だって言われても、諦めなかった。自分なりに考えて、くらいつく道を見つけて、やり方なんていくらでもあるって、俺の希望になったんだ」

 

 噛みしめるような、一言だった。

 そうか、二海堂は常に身体的にはリスクを抱えて対局に挑む。

 体調が良いときは問題ないけれど、他のひとよりも万全の日はすくないだろう。

 

 僕の場合は少し体力をつけて、成長すれば問題なくなるけど、彼の場合は一生それが付いて回る。

 それでも、少しでも、何か彼の琴線に触れたなら、それでもっと将棋へ打ち込めるのなら、嬉しいことだと思う。

 

 その日は結局そのあと三局ぶっ続けで対局した後に、シロのストップがはいってお開きとなった。

 この子は本当に凄い……。タイトル戦後は、いっそう厳しくなった気がする。

 

 後日、二海堂は何回かうちにやって来た。三段リーグの最終日までそれほど対局が出来たわけではなかったけど、いい結果に繋がってほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 棋神戦後の初めての対局があったのは、9月中旬のことだった。

 新人戦トーナメントの一局だ。

 棋神戦の挑戦権を得たときに六段に昇段したことで、次からは制限にかかり出場資格はない。よって最初で最後のチャンスとなる。

 新人王のタイトル自体にそれほど、固執はしていないけど、記念対局はタイトル保持者との対局となる。今のタイトルはほぼ宗谷さんが持っているので、非公式ながら、ちゃんとした場で対局できる貴重な機会だ。

 

 

 

 久々の将棋会館での対局は、スムーズに進んで、一勝を重ねた。

 本当は少しだけ、緊張もしていた。

 タイトル戦後はともすれば、気負いすぎたり時間の使い方を間違ったり、とその影響が強すぎて、調子を崩したりすることもある。

 杞憂に終わって良かった。

 

 

 

 帰路についていた僕の携帯が着信を告げる。

 こんな時間に誰だろうと手に取ってみると、あかりさんからだった。

 

「はい。桐山です」

 

「あっ!良かった零くんっ!? 急にごめんなさいね」

 

 常からは考えられないくらい焦った声だ。なんとなく嫌な予感がした。

 

「どうしたんですか?」

 

「あの……あのね。ひなをみなかった? 実はさっき家を飛び出していってしまって……探してるんだけど見つからないの。もう、日も落ちてきてるのに……。もしかしたら零くんのところに行ってないかと思って」

 

「ひなちゃんがですか!? すいません、今対局が終わったところで……急いで一度、家に帰ってみます」

 

 ただ、喧嘩をして出て行ったとか、そんな事態ではない事は彼女の様子から充分に察せられた。

 ひなちゃんは優しい子だから、あかりさんやお母さんに心配をかけるような行動をそうそうとったりしない。

 ……考えられる可能性としては一つだった。

 

「……お父さんと何かあったんですね?」

 

 電話の先で、あかりさんが小さく息をのんだ。それがもう答えだった。

 

「私もちょっとまだ、信じられなくて……」

 

「いえ、大丈夫です。今はひなちゃんを見つけることを優先しましょう。事情は後からお二人が良ければ聞かせて下さい」

 

 なるべく、いつもと同じ声でそう告げるように努力をした。

 僕まで動揺してはいけない。頭が熱くなりすぎたら、冷静に行動が出来なくなってしまう。

 

「ごめんなさい……。桐山くんだって、疲れてるのに……」

 

「連絡をくれたことが嬉しかったです。あかりさんはあまり動かないで、これからどんどん夜が更けて来ます。その前に、絶対に見つけて連絡しますから」

 

 今の僕は、まだたかが中学生だ。だから頼ってくれるのかずっと自信が無かった。

 でも今日この携帯は鳴ったから。

 それだけで、もう理由はいらなかった。

 

 

 

 急いで家に帰ろうと思ったのだけど、なんとなく僕の足は別の場所にむかった。

 家には来ていない気がした。

 彼女が私的な理由でこんな夜更けに押しかけてくる可能性は低い。

 むしろ一人だけで、膝を抱えて、ぐっといろんな感情を飲み込もうとしている気がした。

 

 だとしたら……

 6月町と3月町を結んだ中央大橋をひた走る。

 渡り切ったら、隅田川沿いにずっと、川辺に人影を探した。

 きっといる気がした。

 彼女は独りで泣くとき、いつも川の傍に居たから。

 

 

 

「ひなちゃん! ……良かったっ」

 

 

 

 どんなに遠くからでもちゃんと分かった。僕が彼女を見逃すはずないから。

 僕の声に驚いたように顔を上げた彼女が振り返る。

 涙のあとに心が痛んだ。

 

「れいちゃん……なんで……?」

 

「……はぁっ。あかりさんから、連絡があって……心配してたよ、ひなちゃんのこと」

 

 柄にもなく全力で走ったから、息が切れた。大事なところで格好つかないな、と思う。

 

「そっかぁ。お姉ちゃんに悪いことしちゃった」

 

 所在無げに伏せられた彼女の瞳からまた一滴涙が零れ落ちた。

 

「見つけたってことだけ言ってもいい? ……落ち着くまではここに居よう」

 

 ゆるく彼女が頷いたのを確かめてから、僕はあかりさんにひなちゃんを見つけたことと、落ち着くまで傍にいることをメールした。

 電話をかけたら、ひなちゃんにも代わることになるかもしれない。なんとなく、今の彼女に、それは酷な気がした。

 

「ねぇ……どうして、来てくれたの?」

 

「約束したから。何かあったら頼ってほしいって」

 

「零ちゃんはすごいね。ほんとに来てくれるなんて、見つけてくれるなんて思わなかった」

 

 お父さん、追いかけてきてくれるかなってちょっとは思ったんだけど。と、小さく呟かれたその言葉に彼女がどれだけ傷ついたことだろうと思った。

 

 寂しそうなその背中に寄り添いたかった。

 抱きしめたかった。

 ただ、それをする権利がまだ僕にはないような気がして、動けない自分が歯がゆくてしかたなかった。

 グッと手を握りしめる。

 どういう言葉をかけたらいいのか、ぐるぐると考えることしかできない。

 

「お姉ちゃんから、もう話聞いちゃった?」

 

 彼女の言葉に静かに首を振った。

 

「ひなちゃんに会ってから、決めようと思ってた。話したくないなら、無理に聞く気はないよ」

 

「そっか……。私は……聞いてほしいかな。もう何が正しいのか、何が悪いのか全部分からなくなっちゃった」

 

 思いだしたら、また泣きそうになったのだろうか。

 彼女の眼のふちにはまた、涙がせり上がって来ていた。それを手荒に拭うと、

 

「新しい彼女と一緒に住みたいから、うちを出ていきたいんだって。

 一緒にいるだけで幸せをくれる素敵な人なんだって。

 もう、ひなたちのお父さんはやりたくないんだって!」

 

 川に向かって叫ぶように彼女は早口でそう言い切った。胸にくすぶる言いようのない理不尽さを必死で消化しようとしていた。

 

「お母さんの顔見てられなかった。あんなにお父さんのこと、信じてたのに……」

 

 唖然として固まるお母さんの美香子さんの前で、まるでそれの何が悪いのかというような表情で、新しい彼女のことを語り続けていたらしい。

 愛して信じていた人から、それを告げられることほど、残酷なことがあるだろうか。

 

「ひなたちのことなんて、もう頭にないみたいだった。もう、俺の事なんて好きじゃないだろって。ずっと笑いかけてなんてくれなかったなんて。……そんなこと無いのに、嫌いだったらとっくの昔に、諦めてたよ」

 

 ずっとずっと、信じて待ち続けていたのだ。

 ひなちゃんも、あかりさんも、川本家の人々は全員。いつかまた、誠二郎さんが仕事を見つけて、立ち直って、また家族全員で毎日ご飯を食べられる日がきっと来ると。

 

「私、気が付いたらお父さんに怒鳴ってた。家に居なかったのはお父さんじゃないって。ずっと、信じて持ってたのにって。そうしたらね……お父さんなんて言ったと思う?」

 

 川辺の柵に捕まった彼女の手が、力を入れすぎて真っ白になっていた。

 背を向けられて、表情は全く見えなかったけど、それだけどんな気持ちなのか良く分かった。

 

「重いんだって。ずっと自分が責められてるみたいで、息苦しいって。あの人は俺に、そんな風にあれこれ望まないって言われちゃった……。

 零ちゃん……私たち、間違ってたのかな? そんなに、お父さんには苦しかったのかな?」

 

 そして、もうその先の言葉は聞きたくなくて、思わず家を飛び出してきてしまったそうだ。

 

 

 

 小さくなっていくか細い声と、揺れる肩と、彼女がどんどん萎れて小さくなってしまいそうで。

 

 僕は、堪らなくなった。

 

「間違ってなんかない。娘が父親を信じて待ってた! なんにも悪くなんてない。父親であることを放棄したのは、あの人の責任だよ」

 

 気が付いたら、さっきの躊躇なんてどこかに行ってしまって、そっと彼女を抱きしめていた。

 自責の念に押しつぶされてしまわないように、行き場のない感情に呑まれてしまわないように、その一心だった。

 

 背中からだったから、ひなちゃんの顔は見えなかったけど、一瞬びっくりしたように肩が揺れたあと、前に回した僕の手に小さな手が重なった。

 それだけで十分だった。

 川に向かって、緊張が解けたように、声をあげてなく彼女が落ち着くまで、時折彼女の頭を撫でながら、何度も大丈夫だよと傍に居るからと、そうぽつりぽつりと声をかけた。

 

 

 

 

 

「……ご、ごめんね。でも、大きな声で泣いたらすっきりした」

 

 少しだけ、落ちついた彼女と川辺にそって置いてあったベンチに座って一息つく。

 

「お父さんのこと……これからどうなるんだろう」

 

 決定権は、両親にある。

 結局いつだって、子どもはそれに振り回されるしかない。

 

「ひなちゃんは……どうしたい? それを伝えるのも大事だよ」

 

 前の人生で僕に、その機会はほとんど与えられなかった。長野を出るときもそれからも、ずっと大人に流されて、その中でなんとか生きる道を探し続けた。

 

 だからこそ、今はかなり自由にさせてもらったと思う。でも、やっぱり子供であることに変わりはないから、いつも大人に訴えかけた。

 菅原さんに、園長先生に、会長に、藤澤さんに、自分がどうしたいのかを、必死に伝えた。僕が一歩踏み出せば耳を傾けてくれる大人もいることを、知っていたから。

 

「零ちゃんはいつだって、私の気持ち聞いてくれるね。そうだな……もう、お父さんとやり直すってあんまり想像がつかない。あれだけはっきり拒絶されたんだもん。……お母さんと、お姉ちゃんと、お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんがいたら私はそれで大丈夫」

 

「そっか、じゃああかりさんとお母さんともよく話し合ってみて。二人とも、きっとひなちゃんの声を聞いてくれるとおもうから」

 

 美香子さんは深く傷ついているだろうけれど、娘の声が届かないほど盲目になっていない事を今は祈るしかない。

 

 

 

 夜も更けて来たのもあって、そろそろ帰ろうかと持ち掛けたんだけど、それにひなちゃんは難色をしめした。

 

「嫌だな……うちには帰りたくないよ。だってまだお父さん居るんでしょ?」

 

「え……どうだろう。おそらくは……」

 

「零ちゃんの家に行ったらダメ? いきなりは迷惑かな?」

 

「えぇ!?いや、迷惑ではないけど……でも狭いし……」

 

 遊びにくるのは全然かまわないんだけど、泊まるってなると流石に不味い気がする。

 小学生と中学生だから。うん……別に友達感覚で良いと思うんだけど……。

 いやでも、僕の精神年齢的には非常にマズイような……。

 

 ぐるぐると迷っていたところに、あかりさんから連絡がきた。

 伯母さんである美咲さんのお家に今日は泊まらせてもらうらしい。

 彼女も、いまは父親と距離をあけたいのだと思う。

 

「ひなちゃん、あかりさん伯母さんのお家に泊まるんだって、そっちなら大丈夫?」

 

「美咲伯母さん! うん。伯母さん、最近家にもあんまり顔出してなかったから会いたい」

 

 どうやら、誠二郎さんのことで妹の美香子さんとすこし、揉めてから足が遠のいていたそうだ。

 以前から誠二郎さんの行動には目を光らせていたようだったから、妹さんになんとかあの男の事を諦めるようにと説得しようとしていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

「ひなちゃん。最後に一つ約束してくれる?」

 

 あかりさんを待つ間、僕は彼女に尋ねた。

 

「なあに?」

 

「独りで泣かないで。どうしようもないことが出来たら、僕のところにきてほしい」

 

 ひなちゃんは目を丸くして固まっていたけれど、そのあとボンッと赤くなった後に、そっと小指を差し出してきた。

 

「じゃあ、指切り。零ちゃんも辛いことがあったら、うちにご飯食べに来てね。ひなも頑張って、いっぱい料理作るから」

 

 指を差し出しながら、彼女は今日初めて笑ってくれた。

 あぁ……やっぱり笑顔が似合うなって、そう思った。

 

 前の時も何度かこうやって彼女と約束を交わした。

 指切りをした彼女の手は記憶よりもずっと小さくて、でもその暖かさは変わらなかった。

 また、ひなちゃんと交わせた繋がりはずっとずっと尊く思えた。

 

 

 

 合流したあかりさんに、何度も何度もお礼を言われた。

 ふたりのことを伯母さんの家まで送っていく。

 大丈夫だと言われたけれど、ここまで来たら最後まで、と押し切らせてもらった。

 

「助かったわ。桐山くんが、あの子たちの傍にいてくれて」

 

 美咲さんの家について、二人が家に入ったのを確認したあとに、そう声をかけられた。

 大分疲れているようだった。

 この人は以前から誠二郎さんの異常さを、妹さんに伝えていたらしいし、今回の事もいずれおきてしまうだろうと予想がついていたのだろう。

 記憶にある2回目の騒動のときも、間に入ってくれて頼りになった。

 

「ひなちゃんからはおおよその事情を聞きました。……中々、円満にとは難しいと思いますが、第三者が入ることも検討してくれないでしょうか?」

 

「第三者……?」

 

「有り体にいえば、弁護士とかです。客観的に、立場ある大人から事実関係を確認されれば、だいぶ冷静に話が運べるのでは」

 

「そこまで大事にしなくても……。それに、弁護士なんてお金がかかるわ。伝手もないし」

 

「最初が肝心です。……といっても、ひなちゃんの様子からして、すでに拗れてしまったみたいですが。弁護士の方は、頷いて頂ければ僕からご紹介できます。お金のことは相談するくらいなら、かかりません。それくらいのお願いは聞いて頂けると思います」

 

 後半は少しだけ、嘘だ。もし必要なら、支払いは僕がしてもいい。けど、たぶん一局指したり、一筆書いたりするだけでも充分だと以前言われた。

 プロ棋士の桐山零の価値はそれなりに高い。滅多に使わないけれど、今回ぐらいこの立場を利用させてもらおう。

 

 美咲さんは、ぽかんとした表情で僕の顔を凝視していた。

 

「あの……どうでしょうか?」

 

 あまりに微動だにしないので、流石に出しゃばりすぎたかと焦ってしまう。

 

「……凄い子だと思ってたけど、ここまでとは思わなくて。そっか、そうよね。貴方はタイトル戦もこなしたプロ棋士だものね。父さんが熱心に応援してるのも分かるわ」

 

 感心したように、頭の上から足の先までまじまじと眺められて、僕はすこしだけ後ずさった。こう……改めて、見られるとどうにも恥ずかしさがまさる。

 

「あの男のことで進展を望むにはそれもいいかもしれないわ……このままじゃ平行線……いいえ、下手をしたらこっちが泣きをみるだけよ」

 

 美咲さんはそう言って、何度か自分に言い聞かせるように頷いた。

 そして、その後に決して無理はしないようにと念押しをされてから、とりあえず知り合いの方に声をかけてみてほしいと言われた。

 僕は任せて下さいと、大きく頷いてその場を後にした。

 

 調査の依頼は前から動いていた。

 いざとなったら任せてくれと、言質も頂いている。菅原さんに連絡をしよう。

 

 

 

 ひなちゃんが泣かないといけないなら、せめて、この一回だけで済むように。

 二度とあの男のせいで悩む日が来ることが無いように。

 正念場だと気合いを入れた。

 

 

 

 

 

 

 



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第三十八手 皆でご飯を

「何この人の多さ……。ひょっとして、俺はめられたの?」

 

 居間に入った瞬間に誠二郎さんは眉をひそめた。

 今後の大事な話をしたいと彼を呼び出したこの部屋には、川本家の皆さん全員と僕と菅原さんがいた。

 

 菅原さんに連絡を取ったのは数日前、その手の調査に強い方にたのんでいてくれたようで誠二郎さんの、身辺調査はすでに完璧といっていいほど情報が揃っていた。

 ご家族に話すのは僕からするよって、簡単に請け負ってくれたし、本当に有り難い。

 中学生の僕がいきなりこんな話をしたって、どうにも説得力が欠けてしまうから。

 調査をしてくれた人にもお礼を……と言おうとしたら、相当な将棋のファンの方らしく、将棋盤へのサインとそのときついでに一局指すだけで、充分すぎるとのこと。

 桐山くんのファンで、棋神戦も観に行ったような奴だから、会ってくれるだけであいつからしたらお金以上の価値がある、なんて言われてしまった。僕としても、それくらいなら、全然問題なかった。

 

「おかしいよね。家族で話をしようって時に部外者がいる。なんだよその男は」

 

「私が頼んだの。弁護士の方よ。専門家にきていただいた方が、話が進むと思って」

 

 美咲さんがきっぱりとした口調でそう言った。

 きっちりとスーツを着込んだ菅原さんの姿に、誠二郎さんは顔色を曇らせた。

 

「弁護士って……そんな大げさな。だいたいお金がかかるんじゃないのか?」

 

「ご心配なく。桐山くんの紹介ですし、今日はあくまで相談ということなので、料金は発生しませんので」

 

 誠二郎さんの懸念に、菅原さんがにこやかに答えた。

 

「ふーん。流石にプロ棋士様ってところか……」

 

 居間に入ってきた時とは打って変わって、そわそわと落ち着きがない。

 弁護士というその菅原さんの肩書きが彼に動揺を与えているのは、一目瞭然だった。

 

「では、私の方から、事実確認の方をいくつかさせて頂きます」

 

 菅原さんは、机の上に次々と資料を並べはじめた。

 

「じ、事実確認ってなんだよ。俺はちゃんと話してるぞ!」

 

「事前に奥様のほうから、お話をお聞きしましたが……随分と曖昧というか、お話していないことがあるようでした。

 此方の方で調査して分かっている事実との、照らし合わせも必要かと」

 

 毅然とした態度でそう言った菅原さんに、その場の空気が変わった。

 

 

 

 誠二郎さんが今の彼女と付き合い始めたのは春ごろであること。

 最初は妻子がいることを隠して、付き合い始め“深い仲”になり、女性の方が完全に“本気”になってしまった後に、自分の素性を明かしたこと。

 川本家に帰っていない間は、ほぼその相手の家に転がりこんでおり、既に半同棲状態であること。

 女性のほうは、自分を選んでくれるはずだと、そう信じ切ってしまっていること。

 彼女側のご家族はこの事実をまったく知らないということを。

 

 そして、彼女への贈り物や、デート費用の工面のためにいくつかの借金をしていること。

 借金の金額はそこまで高くはなかったけれど……一般の会社員の給料何か月分かはあった。返還が滞るようなことになれば、それも増えていってしまうだろう。

 

「事実無根だ! 言いがかりだろう。だいたい俺とあの子のことなんて、本人たち以外分からないだろう!」

 

 ガラっと雰囲気を変えて、誠二郎さんが大きく机をたたいた。

 

「お相手の方の友人など、身辺から情報を集めて行ったのでそれなりに信憑性はあるかと。写真の日付のこともありますしね。それに、この借金のことは、言い逃れはできませんよ」

 

「それは……、俺が無職だったときに家にいれる金がなかったから、とりあえずは工面しないと、と思って……」

 

「この一年以内に、旦那さんからこれだけの額が生活費として渡されましたか?」

 

 しどろもどろに、言い訳する彼の言葉を受けて、菅原さんはすかさず美香子さんの方に尋ねた。

 彼女の顔は可哀想なくらい真っ青になっていた。

 こちらの声が聞こえているのか怪しいくらいだったけれど、ゆっくりと首を振った。

 

「奥さんは受け取っていないようです。一体どこでお金をお使いになられたのか」

 

 菅原さんは、あくまで淡々と事実を確認してそれを提示し続けた。

 決して、声を荒らげることもなく、感情的にならず、その姿はまさしくその道のプロだった。

 

 誠二郎さんお得意の、自分の都合のいいように、話が通りやすいように、そう持っていくことなど到底不可能だった。

 良く分からないルールで場を縛って、何となく聞いてはいけないような雰囲気を作って、自分の汚いところには踏み込ませない。

 身内だから、優しい人達だからこそ、躊躇してしまうその場所に、次々と切り口が加えられていった。

 

 

 

「俺の人生だ! 俺がどうしようとそれは自由なはずだろ」

 

 もうどうにもならなくなったのだろう。

 取り繕うことをやめて、そう叫んだ男に僕の頭はカッとなった。

 

「貴方のご家族ですよ。貴方が望んで手に入れた、優しくて尊い場所のはずだ。それを……あんたはどうでもいいって言うのか?」

 

 世の中にはいろいろな人がいることは知ってた。それぞれ事情を抱えている人もいるだろう。

 でも、だからってこれはあんまりだ。

 奥さんの美香子さんが何をした? 娘のあかりさんやひなちゃんが何をした?

 何もしてない。

 ただずっと、この男を信じて待ち続けただけだ。

 美香子さんにいたっては、頼りにならない夫の代わりに家計を支え続け、家事をして育児をして……、ただ愛したその人の事を信じていただけなのに。

 

「もう……さ、面倒なんだよね。夫の責務? 父親の義務? 重すぎるだろ。割に合わないんだよ」

 

 頭をかきむしりながら、呻くように告げるその言葉は、おそらく本心だ。

 この人に同情する余地なんてなかった。

 

「だったらあんたなんかに、この家にいる資格はないっ!」

 

 気が付いたらそう叫んでいた僕の声は、

 

「もう、止めてください」

 

 居間に響き渡った、女性の悲痛な声にかき消された。

 

「そんな人でも、私が愛した人なんです。もう、これ以上は……」

 

 美香子さんは泣き崩れていた。

 

「あ……」

 

 何との言えない静寂が部屋に満ちた。

 美咲さんがちょっと、と美香子さんの肩をゆすっている。

 

 失敗したとそう思った。

 

「すいません、出過ぎた真似をしました……」

 

 それ以上その場にいても、誠二郎さんと言い争ってしまうだけで逆効果な気がした。

 気が付けば、後の事は、ご家族で……と、僕は頭をさげるとまるで逃げるように、川本家を飛び出していた。

 

 後ろから、零ちゃんと僕を呼びかける声がしたけれど、もし彼女たちにまで拒絶の言葉を告げられたら耐えられない気がして、振り返ることは出来なかった。

 

 

 

 ……踏み込み過ぎただろうか。

 僕は前から、こうと考えたら一直線なところがあった。

 

 美香子さんの気持ちを考えるなら、あそこまでする必要はなかったのかもしれない。

 もしくは、先に美咲さんや相米二さんと話しておいて、それとなく伝えたほうがダメージが少なかっただろうか。

 けど、あの男は口がうまいし、絶対に言い逃れができない状態をつくって突きつけた方が……。

 

 ぐるぐると後悔が頭の中をよぎっていた。

 

 飛び出したその足を止めることなく歩き続けた。

 

 

 

「桐山くん、大丈夫かい?」

 

 僕の後を追いかけてきた菅原さんに、そう声をかけられてハッとする。

 

「すいません、菅原さん。僕の方からお願いしたのに……」

 

「あぁ、大丈夫あれくらい慣れてるよ。クライアントが、感情的になってしまうことはよくある。特に受け入れがたい事実だとね。すこし時間がたてば冷静になれることもあるし、後は、あのご家族で決めることだ」

 

 お祖父さんやお姉さんの方は、落ち着いておられたからそんなに心配しなくて大丈夫だと思うと、彼は僕の肩を叩いた。

 流石に慣れているというか、相手の反応をしっかりと確認しながら情報を出していたのだなと、実感する。

 

「本当に助かりました。僕一人ではとても……」

 

「君から頼って来てくれて、嬉しかったよ。以前は碌に力になれなかったからね」

 

「そんな事ないです! 菅原さんがいたから、僕は東京にまで来れました。その後だって、ずっと気にかけて下さったじゃないですか」

 

 長野で、遺産管理や僕の処遇でもめたとき、この人がいてくれなかったらどうなっていただろうかとゾッとする。

 

 

 

 離婚の手続きをとるなんて話になったら、また連絡してくれ、と菅原さんは言ってくれた。

 もう充分ですよ、と断ろうとしたのだけれど、一度受けた仕事は最後まで見届けたいと押し切られてしまった。

 

 ……川本家からの連絡はまた来るだろうか。

 とりあえず少し時間をおこう。美香子さんは無理でも美咲さん達の方からは連絡があるかもしれないし……。

 

 

 

 

 

 家に帰って、余計なことは考えないように無心で、棋譜をさらっていた。

 明日は順位戦の日だ。

 タイトル戦が行われていた最中にも一局あったけれど、なんとか勝利をもぎ取っていたので、今のところは全勝できている。

 連続での昇級を狙うなら、10戦全勝を目指したい。

 だから、明日の対局も落としたくはないのだけれど……。

 どうにもこうにも、集中しきれていない気がした。良くない傾向だ。

 僕は以前から、精神面に影響されることがままあった。

 良い方にあらわれるか、悪い方にあらわれるか、それは自分でも制御できることではない。

 

 

 

 

 

 

 


 

 昼休憩をしながら、出前をとった棋士たちが控え室でそれぞれ腹を満たしていた時、俺は、後輩の桐山の事が気にかかっていた。

 

 味噌煮込みうどんを黙々と食べているその様子は、どうにもいつもと違って元気がない気がする。

 

「桐山、ひょっとして体調悪い? いつにもましてペース遅いけど」

 

 隣に座って一声かけてみる。タイトル戦後に体調を崩していた姿は記憶に新しい。

 

「あ、スミスさんお疲れ様です。体調は別に大丈夫です」

 

 キョトンとした顔で、こちらをみる桐山は、確かに顔色は悪くないみたいだった。

 

「えー、なんかいつもはシャキーンって良い姿勢で淡々と食べ進めて午後に備えてるじゃん。なんとなく集中してるなって感じで声かけ難いときもあるんだけど、今日はなんか……」

 

 おなじくついてきた、いっちゃんが納得いかないように、そう声をかける。

 確かに、今日の桐山は精彩を欠いているような気がした、自分の対局があるから詳しくこいつの朝の対局内容は知らないけれど、チラッと見えた盤面は珍しく劣勢だったように思える。

 

 いっちゃんの声が大きかったのもあって、同じく出前をとって食べていた棋士たちが少しこちらをみた。

 

「なんだ、桐山、腹でもいたいの? せっかく体重もどってきたんだから気を付けろよ」

 

 丁度休憩に入ってきた、島田さんも気づいて寄って来て声をかけはじめる。

 こいつの事は、みんな本当に心配してるんだ。

 将棋は鬼みたいに強いけど、まだ子どもだし、今一人暮らししていることもあって、気に掛けている棋士は多い。

 この才能あふれる棋士が、このまま真っ直ぐにすくすくと成長していってほしいと思っているのだ。

 だからこそ。先日のタイトル戦後に幸田さんから、桐山の体重がめちゃくちゃ減ってた事が、見守る会の情報で出回ってから、食事に関しては特に口出しする自称保護者が増えた。

 出会いがしらにお菓子やらなにやら、あげる人がやたらいるのもそのせいだ。

 

 

「いえ、ホントに体調は大丈夫なんです。ただ……ちょっと自分の不甲斐なさに落ち込む出来事があったと言うか……」

 

「え? 桐山レベルで?」

 

 思わず素の声が出てしまった。

 

「え? 何ですか、僕レベルって」

 

「いやーだってさ。小学生でプロになって、中学生になってタイトル戦も挑戦してって絶好調じゃん」

 

 お前で不甲斐ないって言われたら、俺たち立つ瀬ないぞっといっちゃんも、少し拗ねたようにそう告げる。

 

「いえ、将棋の事じゃなくて……その、すこし人との距離感のとりかたとか、踏み込んでいいかどうかの見極め方って、とても難しいなぁと思いまして」

 

「何? 友達と喧嘩でもしちゃったの?」

 

「友達……とも少し違うんですけど、僕が勇み足で傷つけてしまったので……」

 

 しゅんと落ち込んだような表情は年相応だった。

 将棋じゃ本当に中学生なのか疑いたくなる桐山も、こんな風に悩むのかとなんだか少し、微笑ましくなる。

 

「相手の事を想ってのことだったんじゃないのか? おまえが、何の理由もなくそんなことをするとも思えない」

 

 島田さんも同じ気持ちだったのだろう。穏やかな優しい声で桐山にそう声をかけた。

 

「そのつもりでした。でもこれが正しい選択だったのか、自信がなくなってしまって……」

 

「それも含めて、もう一度話してみればいい。大丈夫だよ、相手もきっとそう思ってる」

 

「そうだったらいいんですけど。もし、もし拒絶されたらと思うと……。相手が特別だとそれだけ、難しいですね……」

 

「え? まじで? そういう話?」

 

 思わず声をあげてしまって、島田さんと桐山がこちらを向く。

 

 これは、ひょっとしてそういう事なのか? 特別ってそういう意味? 男同士だと、友達とのことでこんなに、落ち込んだりしないよな。

 

 いっちゃんと思わず視線を交わしてしまった。

 将棋以外に、興味なんかないんじゃないかと思っていた桐山にひょっとして、これは春の訪れなのかと、若干そわそわしてしまう。

 此処は、人生の先輩として背中を押してやるべきだろうと、咳払いを一つしたあとにこう続けた。

 

「桐山! 相手が大切なら、それだけ妥協するな。諦めないでちゃんと話してこい」

 

「そうそう。それでどんな結果になっても、そうやって悩んでるよりはずっといいから!」

 

 俺たちの言葉に俯き気味だった、あいつの背中がシャンと伸びた。

 

「そう、ですよね……僕もこのままは嫌です!」

 

「だろ? その気持ちがあるなら大丈夫さ」

 

 目の力が戻ってきたようなあいつに俺たちは力強く頷いた。

 願わくば、その誰かと上手くいってほしいものだけど。

 

 

 

 

 

 俺といっちゃんはその日の対局が終わったあと、会館の傍で二人の女の子が、困ったように佇んでいるのを見かけた。

 俺たちが出て来たのをみて、声をかけようかどうしようかと迷っている風だったので、こちらから声をかけてみる。

 

「お嬢さんたち、会館に用事?」

 

「あの……桐山六段ってまだ対局中ですか?」

 

 少しだけ悩んだ後に、高校生くらいの女の子の方に尋ねられた。

 そんじょそこらじゃ、お目にかかれないくらい綺麗な子で、何気なく声をかけたけど妙に緊張してしまう。

 

「あ。えっと桐山? 桐山は……もう対局は終わってたと思うよ。な?」

 

「感想戦やってたと思う。……俺! 一声かけに行ってくるよ」

 

 同意を求めたいっちゃんは、俺の言葉に頷くと一目散に会館の方へ走っていった。

 止める間もなかった。

 あれは、美人を前にしてかなり舞い上がってたな……。

 

「す、すいません。お手数おかけして、ではもう少し待たせて頂きます」

 

「いいよ、俺達もう帰るだけだったから、たいした手間じゃない。桐山六段とは知り合いなの?」

 

 ただのファンってわけないよなって思った。

 二人の表情は硬くて、とても不安そうだったから。

 

「昨日、彼のことをとても傷つけてしまったから……謝りたくて」

 

 その言葉を聞いただけで、お? と思った。

 なるほど。俺達が余計な気を回さなくても、大丈夫だったということだ。

 桐山の奴め、羨ましい。

 

 

 

 いっちゃんはすぐに戻ってきた、桐山ももうすぐ出てくると思うよと彼女に声をかけていた。

 

 そのあと、桐山とどういう話をするのか、それはもう、ものすっごく気になったけれど、その場にとどまるのは不自然すぎるので、俺たちは彼女たちに手をふって、会館を後にする。

 

 

 

「なぁ……スミス」

 

「なんだ、いっちゃん」

 

 すこし、離れたところでいっちゃんがポツリと呟く。

 

「すっげぇ美人だったな」

 

「そうだな、高校生のくらいの子すっげぇ美人だったし、小さい子も可愛かった」

 

「桐山の特別な人ってどっちなのかな……」

 

「さぁな。どっちにしろ、あんな女の子たち二人とお知り合いってだけで、もう激しく負けた気分だ」

 

「……飲みにでも行こうぜ」

 

 俺達は、寂しく肩を叩きあった。

 

 

 

 

 


 

 一砂さんから会館の前で、女の子が二人待ってるぞっと声をかけられて、僕は慌てて感想戦を終わらせて階段を駆け下りた。

 

 そこに居たのは、予想を裏切らずあかりさんとひなちゃんの二人。

 

 とりあえず昨日のことを謝ろうと僕が口を開こうとした瞬間。

 ごめんなさいっと二人そろって頭を下げられて、面を食らってしまう。

 

「なんで、あそこで零ちゃんがすいませんって、帰らなきゃいけなかったの? 謝る必要なんて全くなかったよ!」

 

 ひなちゃんは少し涙声で、でも力強くそう言い切ってくれた。

 

「そりゃ、ショックだったよ。お父さんのこと最悪だって思ったし、これ以上ないくらい酷いと思った。でも私はそれを知れて良かったと思う」

 

「あのまま、何も知らないままだったら……少しは父に、心を残してしまっていたかもしれない。でも、もう私たちの事なんて、とっくの昔にどうでも良くなってたんだなって分かったから」

 

 お父さんにとって、どうなっても構わない「何か」になってしまったんだって。

 あかりさんは静かに目を伏せた。

 

「母の事はごめんなさい。あの後すっごく後悔してた、桐山くんを責めたかったわけじゃなかったのよ。ただ、それ以上もう聞きたくない一心だったみたいで」

 

 あの後、家族で話し合ったらしい。

 勿論、誠二郎さんにもしっかりと話を聞いて。

 そうして、美香子さんはこの男の心がもう自分の元にないことを、他の誰かの物になっている事を、受け入れざるを得なかった。

 これ以上一緒に居ても苦しいだけだと、別れましょうと静かに告げたそうだ。

 あかりさんたちにも、それでいいかとちゃんと聞いてくれたそうだ。

 そして、二人もそれに同意した。

 

 

 

「あの、またお家にいってもいいですか? ここまで来たら、最後までお手伝いしたいです」

 

 声を出すとき、少しだけ震えてしまった。

 でも、どんなに怖くてもぼくは彼女たちを関わることを諦めたくなかった。

 

「もちろん! 寧ろ、私たちの方が零くんの方に、愛想つかされちゃったかと思っちゃった……」

 

「そんな! そんなこと絶対ありえません!」

 

「良かったぁ。メールにも返信なかったから、零ちゃん怒ってたらどうしようって」

 

「え……?」

 

 ひなちゃんが心底ほっとしたように、そう告げたので僕は慌てて携帯の確認をした。

 色々ありすぎて、充電するのを忘れていた。

 画面は真っ暗で沈黙をしている。

 

「す、すいません、昨日からちょっと充電切れてたみたいで……」

 

「なんだ、そうだったの。零くんいつもは、返信はやいから、ちょっと心配になっちゃって」

 

「お祖父ちゃんが今日の対局らしくない……なんて中継見ながら言ってるし、昨日の事気にしてたらどうしようって、迷惑かもとは思ったけどとりあえず謝りたくて」

 

 二人で思わず、会館の傍まで来てしまったのはいいものの。どうしたらいいのかもわからず、出て来た棋士に声をかけられたらしい。スミスさん達にはまたお礼を言わなくては。

 

「大丈夫だった? 対局の方は?」

 

「はい。無事に勝てました。すいません、あかりさんたちだって大変なのに、ご心配までお掛けして……」

 

 昼休みの時、島田さんやスミスさんと話せたことが良かったんだろう。

 午前中は些細なミスを重ねてしまって劣勢だったけれど、午後は粘りに粘った。終盤、相手のミスもあって、なんとか辛勝、といったところだ。

 

「あぁ! ホントに良かった。これで負けたら絶対昨日の出来事のせいよ! うちの事で、こんなに迷惑をかけてどうしようかと」

 

「とんでもないです! 私情を挟んで、対局に影響がでるなんて未熟な証拠で……」

 

 なんて、会館の前でお互いぺこぺこ、謝り合っていたら、対局が終わって出て来たらしい島田さん達に笑われてしまった。

 もう遅くなるから、そんなところで話していないで帰りなさいと、促される。

 耳元で小さく、仲直りできたみたいでよかったな、と言われた。

 

 

 

 

 

 後日、川本家で離婚の手続きが行われた。

 協議離婚ということで、それほど難しい手続きではない。

 借金、不倫、相手側に非があるのは明白で、慰謝料と養育費の請求も行った。

 そこまでしなくても良いだろうと向こうは騒いだけれど、これからの事を考えたらやはり貰っておくべきだろう。

 

 誠二郎さんの支払い能力に、全く信頼ができなかったので、菅原さんは向こうの親御さんにも連絡してくれたらしい。

 これは、前の人生で誠二郎さんが一番嫌がっていた事だ。けれど、向こうの両親にとってもあかりさんたちは孫のはずなので、何も可笑しい話ではない。

 あちら側のご両親はそれなりに、常識のある方々のようで、息子の不祥事を恥じて代わりに、だいぶ立て替えてくれたようだった。

 

 

 

 印象に残ったのは美香子さんの雰囲気が変わったことだ。

 

「貴方が去るというのなら、私は娘たちと生きていきます。もう二度と私たちの前には現れないで下さい」

 

 ときっぱりと、誠二郎さんを切り捨てていた。

 吹っ切れた女性というのは……なんというか強いなぁと思う。

 お前はそれでいいかもしれないが、娘たちは? と諦め悪くそう告げるその人に、

 

「お父さんは、他所の家のお父さんになることを選んだんでしょ? そこでちゃんと責任もって生きて」

 

「もう、一緒に暮らしたいとは思わない。会いたいとも思いません。どうぞ、何処かでお幸せに」

 

 ひなちゃんと、あかりさんはそれぞれ拒絶の意思を示した。当然だと思う。先に手を離したのは誠二郎さんの方だ。

 彼も、それ以上何も言わなかった。

 いや、言えなかったのだろうと思う。

 あとは、淡々と手続きは滞りなく終わった。

 

 

 

 

 

 そして、川本誠二郎はこの家から居なくなり、甘麻井戸誠二郎という赤の他人になった。

 

 

 

 

 

 お暇しようとする僕を止めたのは、美香子さんだった。

 こんな日だからこそ、皆でご飯を食べたいと、桐山くんが嫌じゃなければ一緒にどうかと、そう持ち掛けられた。

 

 あの時と同じ餃子だった。

 ひなちゃんと一緒に、葱とキャベツをいっぱい刻んで、あかりさんと生姜をすって、お肉と混ぜてボウルで練った。

 いつものちゃぶ台を囲んで、みんなで一心に餃子を包んだ。

 

 

 

「ごめんなさいね、桐山くん」

 

 ポツリと美香子さんがそう言った。

 

「どうかしてたわ。いつまでも、優しかったあの人の面影を追い続けていた。夢から覚めた気分」

 

 恋をして、結婚をして、子どもを産んで、僕には知り得なかった、美香子さんとあの人の物語があったのだろう。

 そして、その想い出はほんとうに素敵なものだったと思う。

 

「私には、こんなに可愛い娘たちがいるもの。それだけで生きていけるわ。想い出だけは綺麗なまま抱えて、あの人の事はもう忘れるの」

 

 そう言ってほほ笑む彼女は、強く優しい母親の顔だった。

 

 みんなでいっぱい焼いて、お腹いっぱい食べた。

 この場に美香子さんと彩さんがまだいることに、僕は少しだけホッとしていた。

 僕の大事な、大事な人達が住むこの小さな街で、どうかこの時間が長く続きますようにと、そう心の中で願った。

 

 

 

 

 

 

 

 




川本家の秋の捨男事変は終了しました。菅原さんとても有能。
全部終わった後に、みんなでご飯食べてほしかったのでそこが書けて良かったです。
あと、桐山くんはなんかスミスさん達にまさかの恋バナ系のいざこざ!?て勘違いされちゃったけど、本人は全くそれに気づいてません(笑)

ももちゃんはもう、このときには美香子さんのお腹にいます。その辺のことはまた追々。


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第三十九手 羽を休める場所

 

 ことの始まりは、棋神戦が終わり、僕を連れて帰った幸田さんが、念のためにと病院を受診させた事だった。

熱は、もう平熱レベルまで下がっていて僕自身としては、疲れたんでしょうと言われて終わりだと思っていたが、予想外の指摘を医者からもらってしまった。

 

「熱はもう下がりかけていますし、その他に風邪のような症状もみられないので、やはり疲れていたのでしょうね。タイトル戦は先日終わったのですよね?」

 

「はい、無事に終わりました」

 

 幸田さんのお知り合いの方だから、将棋に関しての話もはやい。

 

「でしたら、しばらくは身体の休息を優先して欲しいと、医者としては思います。それから、桐山さん、自分の体重どれくらいだったか覚えていますか?」

 

「体重ですか? 4月の測定では42kgだったと思います」

 

「あぁ、やっぱり。先ほど測った値が40を切ってしまっていたので、少し痩せすぎですね」

 

体重なんてそう頻繁に測らないので、予想外だった。成長期に減ること自体が珍しいのに、僕の体重はこの数か月で3kg落ちていたらしい。

 

「スポーツを熱心にはじめた子どもにも稀にみられますが……。君の場合は、身体の活動量で減ったというよりは、あんまり食べなかったのでは? 緊張してる場面も多かっただろうし、あとは集中しすぎて食べるの忘れたとか、無かったですか?」

 

身に覚えがありすぎた。特に棋神戦は都合の良いことに夏休みと被っていた。それはつまり、学校に行っていたら、食べる給食も当然お休みだった。四六時中、将棋に集中できるあまり、食事を抜いた回数は両手の数でも足りない。シロに怒られたり、猫たちのご飯のタイミングでふと、思い出して食べたりすることもざらにあった。

 そして、4月に一人暮らしをしてから、それなりに気を付けていた献立も流石に、適当になっていたと言わざるを得ない。とりあえず、ご飯だけは炊いていたけど、おかずまで作ってる暇があれば、研究をしたかった。

 

「人生においても、大事な時期で、とても忙しかっただろうとは思います。でも、身体においても成長するために、大切な時期ですからね」

 

先生は、僕に理解を示してくれた上で、そう諭した。全く持ってその通りでしかない。宗谷さんとの数か月にわたるタイトル戦は、かけがえのない経験だったが、それ故に削ってしまったものもあった。家に帰ったらまずは、掃除して、冷蔵庫の中を見直そうと思う。

 

 神妙に頷いて、心を入れ替えたつもりだったのだが、付き添ってくれていたのが、幸田さんだったことを僕はすっかり忘れてしまっていた。

 隣で診察結果を聞いていた幸田さんは、このまま僕が家に帰るのを良しとはしなかった。病院で測った体温が、まだ37度台だったこともあり、きちんと下がるまでは、うちに来なさいと言われて、断る事は出来なかった。

 

 

 

 マンションには一時的に寄り、荷物を置いたり、着替えを取ったりした。猫たちの様子をみるのも忘れない。和子さんが随分と気にしてくれてるおかげで、餌の心配はしていないけれど、この子たちとの時間も随分取れていないなと、少し反省した。

 

「今帰った。連絡した通り、零をしばらく家に泊める」

 

「おかえりなさい、用意はしてましたよ。迎えに行くと行った時から、こうなるような気がしてたわ」

 

幸田さんの奥さんは柔らかく笑って、出迎えてくれた。香子さんたちは、まだ学校から帰ってきていないと聞いて、僕はまた少しだけ、現実の時間に戻ったような気がした。  

 今日は平日の昼間で、もう新学期は始まっていて、学生は学校に行っている時間だ。当たり前の事なのに、何故か少し遠い話のような気がした。

長距離の移動だったし、疲れただろうから、眠たくなくても横になっているようにと言われて、気が付けば夜まで寝てしまっていた。いつもだったら、声をかけてくる香子さんも、今日は何故かとても静かだった。

 

 

 

 翌朝の土曜日、熱もしっかり下がると、流石にじっとしているのは時間をもてあます。なんとなく、リビングを覗くと、幸田さんの奥さんが昼食の用意をしているのが見えた。

 

「あの、すいません。良かったら一緒にしても良いですか?」

 

「あら、良いのよ。せっかく体調も良くなったのにゆっくりしていて」

 

「今、料理練習中で、他の方の作り方に興味があるんです。僕は、同じものばかり作ってしまって」

 

 本当は、懐かしくなってしまったのだ。何度、此処に立って料理をしている後ろ姿を観てきただろう。その時は、手伝わないとっていう使命感しかなかったけど、今は単に、また幸田のお義母さんの料理ってどんな感じだったかが興味があった。

 

「そう? 何処の家も似たようなものだと思うけど……。でもそうね、今は一人暮らししてるんだっけ。じゃあ時短でつくれるの、もう何品か作りましょう」

 

 簡単だからすぐに覚えられるわ、と優しくそう言ってくれた。教えてもらった料理は以前にも何度か食べたものだった。こんな風に作ってくれていたのかと、感慨深い。

 率先して手伝おうとする僕と、そのせいで更にやる気をなくす子どもたちとの間で、困ったように淡々と家事をこなしていた印象が強かったけれど。今の幸田家はどこか、まったりとした雰囲気で、幸田さんの奥さんが自分のらしさを出せているような感じがした。

 

「おはよう。なに作ってるの?」

 

「おはよう、香子。もうお昼よ。今日のお昼はちょぴり豪華になりそう。品目増やそうと思って」

 

「へぇ、そうなんだ? あれ、あんたも作ってるの?」

 

 お母さんに声をかけただけのつもりだったのだろう、一緒にいる僕を見て、香子さんは目を丸くした。

 

「もう少し料理もできないと駄目だなぁと思いまして、見学させてもらおうかなと」

 

「……そう言えば、一人暮らししてるんだっけ。料理もちゃんとしてるんだ」

 

「そういう約束だったので。もっとも最近はだいぶサボってしまっていたので、少し反省中です」

 

 香子さんは、しばらく僕に話しかけながら、料理をしている様子をじっとみているようだった。手元をみられるのは緊張する。この身体で料理するのにも慣れたものだが、僕はもともとそれほど上手いわけではない。幸田さんの奥さんの簡単な指示に従いながら、食材を切ったり、下ごしらえを手伝っていく。

 

「……私も何かしたい」

 

 見ていただけだった香子さんが、小さくつぶやいた。

 

「あら、珍しい。どういう風の吹き回しかしら」

 

「別にいいじゃない、やってみたくなったの」

 

 来年、高校生になるのに、包丁も碌に握ったことがないと、香子さんは小さくぼやいた。お菓子づくりはしたことがあるらしい。今になって知った新しい一面だった、でも、たぶんこれは、前の香子さんには無かった事だ。

 将棋を辞めて、彼女は少し身軽になった。そして、それは良い変化だと思う。

 

 三人で少し窮屈になりながら、台所で作業するのは新鮮で楽しかった。香子さんは、飲み込みがはやい。基本的に、この人は器用なのだ。多少ぎこちないながらにも、丁寧にこなそうとする様子に、幸田さんの奥さんも、何時まで続くかしらと言いながら、嬉しそうだった。

 作った昼食を皆で、囲んで食べた。歩とも話したのだけれど、少し口数が少なく、そんな彼を見て、香子さんは緊張しているのだと、軽く言ってのけた。奨励会員からしたら、あんたは気遅れする存在なのよ、なんてあっさり言われて面をくらってしまう。

 お腹が満たされた昼下がり、僕たちは三人で将棋を指した。最初は香子さんが、体調が良いなら、また駒落ちで指したいと、言い出したからだ、それをみて、歩が自分も……と参加してきた。もっとも、歩は奨励会員としてのプライドがあるといって、互戦だったけれど。

 不思議な気持ちだった。こんなふうに、穏やかに幸田家の居間で将棋を指せる日がくるなんて。歩は真剣だったけど、香子さんはどこかじゃれるように、楽しんで指しているのが良く分かった。

 

「タイトル戦、観てたのよ。一応ね」

 

 対局中、ぽつりと香子さんが呟いた。

 

「ありがとうございます。でも、今回は獲れませんでした」

 

「知ってるわ。宗谷名人に良い様に振り回されてた。あんた体力なさすぎでしょ。まぁ、風が吹いたら飛びそうな見た目してるけど」

 

 もっと威圧感も出さないと、しっかり食べなさいよね、と続けた彼女は、後半の対局は悪くなかったと、棋戦の感想もちゃんとくれた。 

 

「でもね、駄目よ、敗けたら。あんたは私に勝って、それで私は将棋を辞めたんだから」

 

「うっ。……はい。すいません」

 

 ツンとした表情でそう続けられた、思わず謝ってしまった。

 

「そうよ、また次、頑張んなさいよ。これから先何度だってあるわ、次は宗谷名人にだって敗けちゃだめなんだから」

 

 次の手を指しながら、彼女はいたずらっぽく笑ってそう言った。くよくよ、するな、次に行けと、その溌溂さに背中を押された気分だった。

 

 

 

 結局、幸田家には次の日もお世話になって、日曜日の夜に僕の部屋に帰った。

もう少し、引き留めたそうだった幸田さんには、連絡を絶やさないようにと念をおされた。奥さんは、僕に何枚か簡単なレシピをくれた。歩は少し、複雑そうに、何度も僕と指した対局を見ていたけど、最後に一言、自分は自分で頑張るから、とだけ宣言された。

 見送りに出てくるわけもなく、チラッと自分の部屋から顔を出した香子さんは、じゃあねと気軽に手を振ってくれた。幸田さんは、少し呆れていたけど、僕にはその軽さが心地良いと思えたし、またすぐくるんでしょうと、言外に言われた気がした。

 

 

 

 

 


 

 棋戦は無いが、事務的な手続きはたまるし、僕は初のタイトル挑戦の後、インタビューやらその他の仕事をほとんどこなせなかったので、まとまった時間が獲れる時に、将棋会館に寄った。

 

「よく来たなぁ、桐山、菓子いるか? 沢山食えよ、もういっそ全部持って帰れ」

 

 訪れた会長室では、開口一番、そう出迎えられた。

 

「ありがとうございます。幾つか、頂いて帰りますね」

 

そう多く人に会った訳ではないが、事務の人を始め今日は食べ物の貰いものがとても、多かった。

 

「幸田が嘆いてたよ。体重減っちまったんだって? じーさんなら良くあるが、成長期の若者がそれじゃ、心配もするわ」

 

「えっ。この話広まってるんですか? 」

 

「それもあるが、実際お前さん、身体の厚みが……だいぶ薄いぞ。それじゃあ、皆がなんかやりたくもなるわ」

 

 なんだか、記録係をしていた時の事を思い出した。プロ入りしてからは、ほぼ無くなっていたのだけれど、あの時も随分と沢山の人に、お菓子を貰って、ご飯も食べさせてもらった気がする。

 

「今日は晩飯は? 誰かと食う約束してんの?」

 

「いえ、今日は家に帰って作るつもりだったので」

 

「じゃあ、俺と肉食い行こうぜ。肉は良いぞ、スタミナがつく」

 

 決定な、とあっさり言った会長は、少し仕事が残っていると席を外した。

 

 僕は、事務の人といくつかのやり取りをしたあと、雑誌の取材を受けた。速さが売りの即日の記事のコメント取りは終わっていたので、後日発行されるコラムのものらしい。記者の方は丁寧だったし、僕も時間を置いた分、客観的に対局について語れたと思う。

 仕事を片付けて、会館を後にする頃には、いつの間にか柳原さんも合流していた。よくある事なのだが、本当に仲が良いお二人だと思う。

 

 

 

 連れて行って下さった焼肉屋は、下町の雰囲気を残した、個人経営のお店だった。お座敷の方は、仕切りもしっかりしていて、落ち着いて食べることが出来る雰囲気で、会長の馴染みのお店なのだろう。

幾つか、会長が注文した後に、好きなもん、好きなだけ頼めとメニューを渡された。お二人はお酒も飲まれるから、食べる量はそれほど多くない。僕がほとんど追加を頼まないので、柳原さんは小さく笑った。

 

「それだけで、いいのかい?せっかく徳ちゃんが奢ってくれるんだから、もっとバンバン頼んでいいんだよ」

 

「俺が奢るのは、桐山のぶんだけだぞ」

 

「食べ切って、足りなかったらお願いしますね。どれくらいの量が来るか、分からないですし」

 

「そういう所がなぁ。子どもは目についたもん好きなもん一杯注文しがちなんだが」

 

 俺らが子どもの頃は、店の肉食いつくしてやるって気分だった。当然ムリなんだけど、と会長は機嫌よくそう言った。飲み物が来て、こっちは好きにやるから気にせず食えよ、と言われた。

 

「無事にタイトル戦終わって会長としては、一安心。普段の三倍くらい盛況だったし、おまえさんも立派だったぞ。スポンサーの中には、中学生ってことで、心配してくれた人も居たが、前夜祭での立ち振る舞いをみて、実際に話した後は、皆ほめちぎってた」

 

「それは、良かったです。流石に緊張もしましたから。間が多少あったとはいえ、移動も多かったですし。でも、色んな県に行けたのは楽しかったですよ」

 

 タイトル戦は、様々な県に赴く、良い気晴らしになったと思う。

 

「タイトル戦の醍醐味の一つだ。その土地、人の良さに触れる。ま、俺としては各地の上手い酒飲めて万々歳!」

 

 会長は少し茶化してそう笑ったけれど、毎回タイトル戦の度に奔走してくれているのを知っている。宗谷さんの事も気にかけているし、今回は僕の事まであったのだ。地域の方、スポンサーをはじめ、関わってくれた多くの人のおかげで、タイトル戦は続いてきた。今後の継続のために、この人はいつも、笑いながら、方々で働きかけてくれている。

 

「どうだったよ? 初のタイトル戦は?」

 

「……準備不足だったかな、とは思います。良くやったと好意的に言ってくれた人も居ましたが、前半戦、僕は不本意でした。あの場に立たせて頂く権利を勝ち取ったのは僕です。それなら、何をおいても全局、指し切らなければならなかった」

 

 子どもだから、まだ若いから、それが許されて良い場面では無かった。大勢を押しのけて、その上で棋神に挑む事になったのだから。

 

「ま、そんなに気負うなよ、おまえさんの失着は珍しかったから目立ったが、普通にある事だ。前半の対局を惜しむ声はあれど、責めてるやつなんていない。その辺は置いといて、宗谷とタイトル戦終えて、今の心境は?」 

 

 会長と、それから柳原さんも、興味深そうに、僕の言葉を待っていた。今の素直な気持ちで良いのだろうか。だったら、それは決まっている。

 

「また、指したいです。第六局は渾身の対局でした。あんな対局を最高の舞台で、また宗谷さんと対局出来たらと思います」

 

 何度だって、盤の前で会いたくなる。どれほど身を削ろうと、そこに辿りつくまでに、幾千の時間を捧げても、あの人とまた、タイトル戦をしたい。

 

「言うねー! 俺は、安心したよ。そうか、やっぱりおまえさんは、そっちなんだな」

 

 僕の返答に、会長はバシバシと肩を叩いて、声を上げて笑った。そして、柳原さんと、いいねぇ若さだねぇ、眩しくて、こわいくらいだと、ささやき合い、お互いのお酒をつぎ合うのだ。

 

「いやね、タイトル戦やり終えて、敗けた後って色々、考えるわけだ。何十時間も何局にも渡り、同じ相手と戦って、自分の中の最大限をぶつけて、その上で、叩き潰される」

 

 勝負ってのは、はっきりしてるぶん残酷だと柳原さんはしみじみと呟く。

 

「特に宗谷との対局の後は、なんつーか、余計にへこむ。そこから、もう一度自分を、作り直そうと思うのには、時間がかかるもんなんだが、お前さんもう、しっかり次を見てんだよなぁ」

 

 確かに、以前は酷い敗け方をした後は、なかなかに調子を崩したこともあった。そうして、何度もくり返し、立ち上がってきたからこそ、今の僕があるのだと思う。それに、

 

「第六局の後に、宗谷さんが部屋にきてくれて、次の対局の話をしたんです。何の棋戦でも良い、また待ってるって」

 

 あんな風に言われて、くすぶってる場合じゃないと思えた。

 

「えぇ、あいつそんな事言いに行ったの? 前日にタイトル戦で叩き潰して、満身創痍で、寝込んでる相手に? 」

 

 会長の言いぐさに思わず噴き出してしまった。お見舞いに来てくれての事で、僕は嬉しかったけど、見ようによれば、止めを刺したようにもとれるかもしれない。

 

「いや、桐山は喜んでるみたいだし、別に良いけどよ。……でも、そうか。宗谷がわざわざね。良かったわ、ホントに」

 

 会長は一段声を落として、静かにそう言った。

 

「俺が引退する時、棋力は落ちてたし、年の影響もあったから、納得はしてたけどな。あいつ、たぶん少し失望してたよ。自分がじゃれ合える相手がまた一人少なくなることに」

 

宗谷さんと会長は、タイトル戦を含めて、幾つもの名局を残している。僕は、現役の会長と指す機会は無かったけれど、宗谷さんはきっと、とても楽しんでいたのではないだろうか。

 

「徳ちゃんの引退は俺も少し早かったと思うけどねぇ。俺だって、動揺した。まぁ、他にやりたい事あったから仕方ないけどさ」

 

 同期だった柳原さんがそう言うのも分かる。対局をしていたい相手が、現役を引退するのは、衝撃だっただろう。

 

「七冠獲ってしばらく経った頃、あいつも、流石に自分のモチベーションを保つのに苦労してるみてぇだったし、他にも色々あってな。俺は心配してたんだ」

 

 会長の言う、色々の中に、彼の耳の事や、将棋以外の不安定さが頭をよぎった。文字通り全てのタイトルを獲得して、名実ともに将棋界の頂点に立った時、彼の中に喜びはあったのだろうか。一抹の寂しさも、あったのでは無いかと思う。

 

「今となっては、あいつが全力でぶつかっても、折れずに向かってくる奴も何人か沢山出てきて、やっぱ将棋はこうじゃないとって思ってた。そこにさらに、桐山、お前だ」

 

「誰にも破られないだろうと思っていた、宗谷の記録をね、次々破っていくおまえさんを見たとき、おじさん達は、なんとなく次の風がきたと思った」

 

 柳原さんは、奨励会の記録を徳ちゃんと眺めた日が懐かしいよ、とそう言った。

 

「宗谷の時でさえ、現実離れした記録だと思ったんだが、おまえも大概だったぜ。おまけに、面白そうだと思って、対局させてみたら、あの宗谷が一回で新人の名前を覚えたんだ。あれには笑っちまった」

 

 炎の三番勝負の企画を考えたとき、会長は宗谷さんが受けるとは三割も期待してなかったらしい。もともと、テレビの企画などは彼がもっとも避けたがる仕事だったから。ところが、島田さんが棋譜をみせると、宗谷さんは予想外に快諾したらしいのだ。そして、あの時の対局は彼の記憶に残ってくれたらしい。

 

「新四段になるときに、騒がれる奴もいるにはいる。でも、その評判のまま活躍が続くのは、なかなか難しい。正直俺は、宗谷の時の記憶が強烈で、それ以上の奴が現われるって事がどこか、信じられなかった。でも、あいつだけは最初から、桐山の事を分かってた」 

 

 いつになく、真剣な表情で会長は続けた。

 

「将棋界としてとか、そんなのは今はどうでも良い。俺はお前に期待してる。宗谷と指してやってくれ。年の差とか、経験の差なんて関係ねぇんだ。誰と指したいかを望むのか、それに、たぶん宗谷はお前を選んだ。一生かけて、あいつと将棋を作っていく人間として」

 

 同期は特別だったり、相性があったり、誰しも思い入れがある相手はいるものだ。

宗谷さんには、土橋さんもいる。僕がそこに収まるとは、到底思え無かったが、会長は掛け値なしの本気でそう言ってくれていた。

 

「……今回、敗けた僕にその言葉は、過ぎるような気がします」

 

 でも、ずっと宗谷さんを見守ってきて、多くの棋士たちを見てきた神宮寺会長が此処まで言ってくれたのだ。

 

「宗谷さんが望まなくても、誰にも期待されてなくても、僕は何度でも、再びあの場所を目指します。最高の相手と、最高の将棋が指せる場所を。今回のタイトル戦はそれぐらい鮮烈でした」

 

 もう僕の意志の大きな一部は、たぶん将棋に捧げられている。

 以前の人生で、何度にも渡ったタイトル戦が、あの対局の熱が、忘れられなくなったその日からずっと。

 宗谷さんは最高の相手だ、もし、彼が僕に同じように望んでくれているなら、それに相応しくありたいと思う程に。

 

「そうか、いや、ありがとうな。ずっと面倒みてきた至上の才能が、更にもうひとつ上に行けるかも知れねぇ。それを可能にする相手が現われて、俺も嬉しいんだよ」

 会長は大きく一息ついてそう笑った。

 

「俺としては、楽しみ半分、恐さ半分だわ。棋匠のタイトルを、獲りに来てくれるのはどちらかねぇ」

 

 柳原さんがしみじみと呟く。

 

「いやいや、朔ちゃん、桐山が挑戦者になるくらいまで、頑張ってくれないと。俺たちの希望なんだから」

 

「はい! 柳原さんとも、是非タイトル戦してみたいです」

 

 会長に便乗して、続けた僕の言葉に、柳原さんは目を丸くした。

 

「こりゃあ、参った! この老体になかなか無体な事を言う。しかし、そう望まれるという事は、俺もまだまだやれるって事か」

 

 宗谷さんはもちろんだけど、沢山指したい人が居る。そのために、今も将棋を選んだ。彼らとの対局、一つ一つが今までの僕を作り、これからの僕を作っていくのだと思う。

 

 

 

 

 

 


 

 やる気は、充分すぎるほどに出てきたものの、僕はしばらく棋戦もないため、中学生らしく学業に勤しむ事になった。

 タイトル戦の対局にあわせて、思考が将棋に寄り気味だった僕の身体は、何日か授業を受けるうちに、やっと日常の方へと戻ってきた気がした。朝一から、フルで授業を受けるのが不思議な気持ちになるなんて、一般的とは言えないだろう。

 

部活にも顔を出すことができた。野口先輩たちは、夏休み一度も参加できなかった僕を、あたたかく迎えてくれた。

 将科部の面々には、本当に頭が上がらない。棋神戦は、ほぼ夏休みと被っていたとはいえ、その前後は授業があった。彼らは、野口先輩を中心に、ノートのコピーだったり、小さな連絡事をだったり、こまめに教えてくれた。

 

これが本当に助かるのだ。以前、ぼっちだった時など、休んだ日の事を職員室に逐一、聞きに行かなければならなかった。高校の時は林田先生のおかげで、随分と過ごしやすかったが、奨励会に通っていた中学の時の事は、あまり思いだしたくもない。

 

「野口先輩、随分と久しぶりの参加になってしまって、すいません」

 

「いやいや、事前に聞いていましたし、桐山くんの活躍は、我々も知っていますよ」

 

 野口先輩の他にも、中継をみていたよ、とかテレビに出ていたね、と部員たちは声をかけてくれた。

 

「ひとまずは、お疲れ様でした。で、良いのですかな? 将棋の棋戦は随分と多いようでしたが」

 

「はい、敗けてしまったので、また挑戦権を取るところからですね。同時並行していた棋戦も、ほとんど敗退しているので」

 

 それを聞いて、野口先輩はすこし難しい顔をした。

 

「タイトル戦……桐山くんのお仕事の様子は私も見ていました。勝負事の世界は厳しいですね。勝者は一人だ。貴方の頑張りを知っているだけに、残酷さにおもわず、ため息が出ました」

 

「良い知らせをご報告したかったです。応援して頂いてたのに、すいません」

 

「何を謝る事があるのです、同輩であることが誇らしいほどでした。聞けば、宗谷棋神とは、将棋界でも随分とお強い方だ。不思議な気持ちでしたよ、真っ向から挑む貴方の姿を観るのは。将棋とは、面白いですね。随分と大人と、私たちの同級生が同じ土俵で戦えるのです」

 

「僕の対局で、将棋に興味を持って下さったなら、嬉しいです」

 

 野口先輩の言葉に、思わず嬉しくなる。林田先生が、顧問をしている事と、部員からの声もあって、将科部では、夏休み、実験もしつつ、将棋の基礎についても触れていたらしい。

 

「私は元々、祖父にすこし習っていましたから。それゆえに二回も勝利してみせたこと、素晴らしいと思います」

 

「ストレート敗けもあり得たので、そこは良かったです。でも、また一からですから。次の棋戦にむけても準備をしないと……」

 

 深く考え込もうとした僕を見て、野口先輩はハッとして、手を打った。 

 

「ふむ。このまま将棋の話をしても良いのですか、一つだけ良いですかな?」

 

「はい? 何でしょうか?」

 

「貴方は、プロ棋士の桐山零であると同時に、私立駒橋中学校の桐山零でもあり、放課後将棋科学部の桐山零でもあるのです」

 

 その言葉に、首を傾げる僕に、野口先輩はすこしゆっくりと、言い聞かせるように続ける。

 

「我々も、ついつい貴方のプロ棋士の側面に目がいってしまう。その目覚ましい活躍のおかげでもありますが。学校に通い、成績も維持し、その上で働いて、至上初の記録を打ち出す」

 

 なかなか出来ることではありませんと、言った後に。

 

「ですが、厳しい世界で戦う貴方が、将科部の桐山零でありたい時にこそ、この場所は力を発揮できるという事を忘れていました」

 

 重い棋戦が続き、次の棋戦への想いも高まり、僕はずっと将棋について考えていた。それは決して、悪いことではないのだろうけど、たまには肩の力を抜いて良いのでは?と

彼は言いたいようだった。

 

「鳥もずっとは飛べないのです。桐山くんもたまには羽を休める時が必要です」

 

あれほど、一生懸命やったのですから。野口先輩は、そう眼鏡の奥でにっこりとほほ笑んだ。

 

「どうですか? 将棋も良いですが、今日は実験に参加してみませんか?」

 

 行き詰まっている事を、何となく察してくれたのかもしれない。気分転換してみては? と言われたのが分かった。

 

「もちろんです! 夏休みはどんな実験をしたんですか?」

 

「素晴らしい成果が……! と、言いたい所ですが、ローマは一日にして成らず。いずれは、学校での自給自足が可能かという論文を書くために、こつこつと実験を積み重ねねばなりませんな」

 

 頭を抱えながらも、野口先輩は楽しそうだった。

 部員の皆に、夏休みに行った実験の概要や、結果をまとめたノートを見せてもらう。よく教科書でみるような基礎的なものと、一風変わったもの、様々な実験を行っていた。その記録の端々にメモがあり、活動の様子が目に見えて伺えて面白かった。

 

 秋には小さな文化展もあるらしく、そこを目指して今は、結果をまとめているところらしい。その頃に僕の棋戦がどうなっているかは分からない、でも出来る範囲で協力させてほしいと言うと、もちろんと力強く頷かれた。

 フラスコを傾けながら、予想外に生まれた配色に、皆で笑って。あぁ、こんな時間が楽しいと、思えることが幸せだった。

 

 棋士としての僕にしか、価値が無いとは言わないけれど、今の僕には、学生で居られる場所がある。将科部の部員はもちろんだけれど、クラスの子たちは、僕を同級生として扱ってくれている。

 以前は、あんなに居心地が悪くて、苦手だった学校を悪くないって思えるのだ。

 

 

 


 

 対局が無い休日に、久々にひまわり園に顔を出した。青木くんとは、メールのやり取りはしていたが、流石にタイトル戦中には訪れる余裕が無かった。今日はお土産も沢山買っている。

 園長先生は、いつもおかえりなさいと出迎えてくれる。たった二年ほどしか居なかったけれど、ただいまと言える場所に違いなかった。

 大きな仕事をこなしたようで、誇らしいと言ってくれた後に、毎月の支援は、何時でも辞めてくれていいのよ、と少し困った顔で、気遣ってくれた。まとまったお金が入るたびに、幾らか寄付をさせて貰っていた。いつも、長いお礼の手紙が来るし、そこに自分の為に使って欲しいとも書いてあった。でも、多分これは、一生辞めることはないと思う。

 此処は、やり直した僕の最初に出来た居場所だ。そして、此処には当時の僕以上に、誰かの手が必要な子どもたちがいる。それを忘れる事は無い。

 

 また、何人か新しい顔が増えていた。逆にこの数か月で、引き取られた子はいないらしい。中々に、難しい世の中だと思う。

 でも、新しい子たちも、随分と馴染んでいる様子で、園全体の雰囲気も明るくなっているような気がした。僕の顔をみて、走り寄ってきてくれたのは、馴染みのちびっこたち。

 元気だった?

 最近忙しかったんでしょ?

 でもパソコンで観てたからかな? 久しぶりの気がしないかも。

と、声をかけてくれた。

 青木くんに聞いたところ、棋神戦の中継をパソコンで観れるようにしてくれたらしい。テレビでは中継しないから、ニュースの結果しか分からないからと少し不満そうだった。

 皆の近況を聞きたいというと、学校での出来事、最近出来るようになった事、今悩んでいる事を、一人一人が沢山、教えてくれた。たとえ時間が開いたとしても、過ごしてきた密度は変わることが無く。

兄弟……とは、少しちがうけれど、僕たちは不思議な絆で結ばれた仲間なのだと思う。

 

 

 

 お土産を渡して、皆と話した後に、青木くんが二人きりで話したいとこっそり、耳元でささやいた。僕は、すぐに頷いて、少しだけ散歩をしてくると二人で、園を出た。向かう先は、自然とあの公園だと分かっていた。

 

「あれ? 青木くん、背が伸びたね」

 

 公園について、青木くんと隣り合わせになると、ふと気付いた。彼は少しだけ、僕よりも背が高くなっていた。

 

「あ! 本当だね。桐山くん追い抜いた。皆、成長期だし、今だけかもしれないけど」

 

 最近、園のご飯がすこしグレードアップしたらしい。僕としても嬉しい知らせである。

 

「桐山くんの影響で、支援者増えてるって、園長先生が言ってたよ。君は園を離れた後も、ずっと僕らを助けてくれてるね」

 

 こっそり聞いちゃったと笑う彼は、随分と大人びた表情をするようになった。

 

「皆の応援も、僕を助けてくれてるよ。本当は、勝ってタイトルを獲るところを見せたかったけどね。がっかりして無かった?」

 

「うーん、少なくとも僕らはそんな事なかったよ。だって、最高にカッコよかった。色々言われてたのも、もちろん知ってる。でも君、ただの一度も諦めてなかったし、勝ちを捨てなかった」

 

 戦ってる姿を、ずっと見てきた僕たちは、結果云々より、それに感動したよと、力強く頷く。

 

「でも、桐山くんどんどん有名になって注目されてるからさ。結果だけみて、がっかりする人もきっといるんだろうね」

 

「それも、含めてプロの仕事だからね」

 

 応援してる人に勝ってほしいのは当然だろう。結果がつきまとう以上そこは避けられない

 

「でも、勝敗は君だけのものだ。戦ってるのは君なんだから。ごめんね、僕らは勝手に君に夢を見て、君が活躍するのを喜んでる。この期待が君の重荷になってて欲しくない」

 

 桐山くん、優しいから、背負わなくて良いものまで背負っちゃいそうで、と彼は少し俯いた。

 

「自由に将棋を指しててほしい。せっかく君が大きく羽ばたいてるのに、心無い声が、それを阻んで欲しくない」

 

 青木くんがそんな風に、思ってくれているのに驚いた。テレビで取り上げられるたびに、一部しか切り取られない、僕の姿に、どこか思う所があったらしい。

 

「ありがとう。人気商売な所もあるから、色んな声があるのは、仕方ないんだ。大丈夫だよ、僕は自分が持てるモノだけ、大事に抱えて生きていくから」

 

 どんなに耳をふさいでも、聞こえてくる声はある。それに振り回される時もあった。でも、僕は知ってる。全部が重たいわけじゃない。

 

「君たちの声援は、追い風だったよ、そんな声があるから、何があっても、また飛べる時があるんだ」

 

 僕のこたえに、青木くんは、少し目を見開いて、照れたように笑った。

 

「僕たちは、声は負担じゃない?」

 

「もちろん。僕が勝っても敗けても、全部、観ててくれるんだよね?」

 

「うん。そんな君の生き方に、憧れたから」

 

 あぁ、本当になんて優しい声だろう。揺らぎそうになるときに、折れそうになるときに、きっと何度だって、背を押してくれるだろう。

 

「桐山くんに、一つだけ聞いて欲しいことがあったんだ。忙しそうだったから、いつでも良かったんだけど」

 

「どうしたの?」

 

「僕ね、母の手のぬくもりは忘れないけど、もう、待つのは辞めたよ」

 

 もし、目の前に現われたら、その時は色々考えるんだろうけど、と彼は言った。

 

「信じたかったけど、誰かに縋ってるだけだと、足元が覚束なくなる。あのままじゃ、駄目だってずっと分かってた」 

 

 いつの日だったか、この公園で、ひっそりと君は僕に教えてくれたね。何度か手を握りながら、顔も覚えてないのに、その感触だけずっと忘れられないと。

 あの時、所在無さげだった少年は、もう何処にもいなかった。

 

「僕にも夢ができたからさ、それに向かって、まっすぐ突き進んでいく。何度でも諦めないで、戦ってる君をみて勇気をもらったから」

 

 これは、君への一方的な約束、そう続けた彼の瞳は、まっすぐに僕を見ていた。

 

 よく、泣いている子だった。誰かの後ろで、僕と会ってからは僕の後ろで、涙をこらえていた優しい子だった。

 僕が君にしてあげられたことなんて、本当に何もない。全部君が、君の優しさが受け取ってくれただけ。それが君をこんなにも強くした。

 

「青木くんが高く飛べるように、僕もずっと応援してるよ」

 

 

 ひまわり園からの帰り道、僕の携帯がメールの着信を告げる。川本家からのご飯のお誘いだった。このまま、マンションに帰るつもりだったから、すぐにむかう返事をした。

棋神戦後、一度あかりさんに会った時、桐山くんをふくふくにしないとって、呟かれた後、随分と頻度が増えた気がする。

 お祖父さんは、よく来たといつものように、出迎えてくれた。棋神戦の感想を何度でも教えてくれる。お祖母さんは、そんな様子をあらあらと、笑いながら見ていた。タイトル戦の最中に何度も、差し入れに来てくれたひなちゃんは、最近できるようになった料理について、教えてくれる。

 美香子さんが、作ってくれた晩御飯を皆で囲みながら、ここ数日、訪れた場所を想い返した。 

 

随分と沢山の居場所が出来たと思う。

 幸田さんの家で、あんな風に穏やかに昼食を囲む日がくるとは思ってもいなかった。おまけに、ふと顔を出しても、たぶん許されてしまうような関係を築けるなんて。

 同業者で、ライバルで、将棋の事を語りだしたらたぶん終わらない、棋士の人たちと沢山、ご飯に行くようになった。

 学校で、野口先輩たちと実験をした時間はたぶん青春の一ページというやつだ。将棋の関係ないことで、笑い合える友人ができた。

 ひまわり園の仲間たちには、カッコいいところ見せたいなってやっぱり思う。彼らの期待に恥じないようにしたいって、思うのは重荷なんかじゃ絶対にない。あれほどの、純粋な信頼を僕は知らない。

 

 

 

 

 羽ばたくために、羽を休める場所は、もう充分すぎるほどだった。

 この先の僕を観ていて欲しい人たちが沢山いて、僕は今日も将棋を指していく。

 

 

 

 

 

 

 




中学生プロ棋士編をまとめた際の書き下ろし。
幸田家を書くことが出来きよかったと思います。


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第四十手 将棋に魅せられた日

 桐山六段が盛岡にやってくるとそう耳にした時の私の喜びようは凄かった。

 高校の時に部活で県大会に進んだときのように、志望する大学へ合格が決まった時のように、ベクトルは違うけれど、人生の大一番に匹敵するものだっただろう。

 

 

 

 私は、まぁどこにでもいるような女子大生である。美人でもなければ、頭が良いわけでもなく、特筆するほどの特徴はない。同窓会に参加すれば、あぁ……こんな子もいたような、とクラスメイトからおぼろげに思い出される位のものだろう。

 

 父親がサラリーマンの一般家庭で育った。

 今時の学歴社会、大学ぐらいは出ておこうかと、受験勉強も周りに流されるままにそれなりに打ち込んで、地方の国立大学に合格する程度には頑張った。

 コレと言って、学びたいものがあったわけでもなく、専攻は経済学。このまま4年経ってどこかの企業に就職できれば、万々歳である。

 

 憧れだった一人暮らしは、いざやってみるとそこそこ大変だった。

 自分の好きな時間に好きなことをしていられるし、誰に気兼ねなく生活できることは気楽だったけど、炊事、洗濯、掃除、買い出し、ゴミ出し、……生活していくための雑事というものは、想像以上に手間だったのだ。かといって、さぼっても誰もやってはくれない。

 数ヶ月もすれば、それにもなれてきて大学生活なんてこんなものかとそう思った。

 

 高校生の時は、大学生になればもっと劇的になにか変わるような気がしていた。

 けど、そんな簡単な話でもなかったらしい。講義を受けて、サークルに参加して、バイトをして家に帰る。毎日その単調な繰り返しだった。

 

 特に熱心になっている趣味もなかった。

 友人たちのように俳優やアイドルを追いかけることもなければ、アニメや漫画もそれほど詳しいわけでもない、スポーツをしているわけでもなく、サークルもとりあえず付き合いで入ったようなものだった。

 人生最後のモラトリアム。折角の大学生活。本当にこんなものでいいのかと、いつも心の中で誰かにささやかれていた。

 けれど、何を好きになるってそんなに簡単なことじゃないし、作ろうと思ってつくれるものでもない。

 もともと感情の起伏も少ない性格だし、こんなものなのだろうと半分諦めていた。

 

 

 

 逆にはまるときは、一瞬なのだと。そこに理由を見いだすのは無意味なことだと、私は身をもって体験することになる。

 

 

 

 今となっては、何でそのときテレビをつけていたのかも、どうしてその子がそんなに気になったのかも分からない。

 今から一年ほど前のある休日のことだった。朝食を食べるときにつけたテレビでその男の子の特集をしていた。

 その番組をみたことで、私のつまらなかった毎日が変わる。

 

 

 

 名前は桐山零くん。歴代最年少で将棋のプロになり、連勝記録を重ね続けているスーパー小学生。

 最初に思ったのは、え?将棋ってこんなちっちゃい子もするの?っという疑問と、プロって何?ってそんな初歩的なこと。

 私は気がつけば、食事をするのも忘れて番組に見入っていた。

 痛快だったのだ。

 あどけない大人しそうなその子が、私よりも遙かに年上だろうおじさんたちをバッタバッタと倒している。

 小さな手で駒を持ち、私からすればなんでもないようなところに置いていくのに、その一手は解説の人を唸らせる。

 前評判の通りに連勝記録を重ね続けて、歴代の記録に早くも迫ろうとしているなんて、煽られれば、興味を惹かれたのも仕方ないことだったのかもしれない。

 

 

 特集は私のようなド素人向けだったのだろう。

 彼の小学生でプロになるという経歴がどれほど、希有のことなのか、勝ち続けるということが将棋界でどれほど難しいことなのか、わかりやすく教えてくれた。

 天才ってこういう子のことを言うのだろうか、と単純に感心したものだ。

 

 そして、もう少し彼のことを知りたいなって思ったら、そこからはもうドツボだった。

 

 愛されて育ったような雰囲気の子だった。

 きっとおうちの人も熱心に応援してくれて、将棋に打ち込ませてくれてるんだろうなって、何の疑問もなく思い込んでいたから、彼の経歴は衝撃だった。

 

 彼に注目しているメディアは多かったようで、少し調べたらすぐにそれは知れた。

 事故で家族を失って、天涯孤独に。

 親戚は誰も彼を引き取らず、故郷を離れて東京の施設で過ごす。

 寂しさを紛らわすために、父親から教えてもらった将棋に打ち込むうちに、その道を志すように……って、どんだけ波瀾万丈の人生!

 

 え?これって何かのフィクション?もしかして映画とかドラマとかの登場人物の紹介だったのかな、と疑ってしまうレベルだった。

 

 その日私は、彼について片っ端から調べはじめていた。

 インターネットというものは、なんと便利なものだろうか。レポートを書く以外のことで、ここまで活用したことは今までなかったけど。

 

 そして、調べれば調べるほど、興味を引かれた。

 奨励会というプロになりたい人が入る機関での、非凡な記録の数々。

 プロ入り前の番組企画で、将棋界のトップ棋士たちと戦った様子。なんと!名人とまで戦っていたらしいのだ!将棋のことはよくわからなかったけれど、これは凄いことなのだろう。

 上がってる動画も多かった。

 彼は将棋を指してなくて、何か紙に記録をつけているような動画もあった。よくよく調べると、記録係という仕事を奨励会時代にしていたときのものらしい。

 こんな何時間も、座ってじっと記録をつけるなんて暇で退屈そうなのに、時々映る彼の目は楽しそうだった。こんな無邪気な顔もするんだって、なんだか微笑ましいほどに。

 インタビューの記事や、会見の動画もたくさん、たくさん出てきた。彼の人柄を知れば知るほど、惹きつけられる自分がいた。

 

 彼は、現状を悲観することもなくいつも穏やかに笑っていた。

 才能を鼻にかけることなく、とても謙虚だった。

 でも、将棋にかけるプライドと熱意は、その小さな身体に見合わず、大きなものだった。

 大人びて成熟しているように見える一面と、どこか子供らしく未成熟な一面と、そのアンバランスな魅力に目が離せなくなった。

 

 

 

 そう、私はその日、落ちてしまったのだ。

 桐山零というそのプロ棋士の行く末を見守りたいと思ってしまった。

 なんの趣味も持たなかったはずの私は、その日から彼の動向を追い続けることになる。

 

 

 

 

 


 

 彼のことを桐山くんと心の中で呼び始めてから、随分たった。

 桐山くんは本当にすごかった。この一年あまり話題に事欠くことがない。

 歴代連勝記録の更新、朝日杯での躍進、昨年度の将棋大賞部門の総なめ。

 そして今年の夏にはなんとタイトル戦の挑戦者にまでなった。

 夏休みだったこともあって、私はネットの中継にかじりついて、宗谷棋神とのすべての対局を固唾をのんで見守った。

 将棋のド素人だったはずの私が、桐山くんの対局をみるうちに駒の動かし方を覚え、数々の名解説を聞くうちに、ある程度の戦況を見極めれるくらいになった。自分では全く指せないけれど、今流行の観る将って私みたいな人がなるのかも。

 第六局はほんとに素晴らしかった。

 あれだけ9月だったから、大学の講義をすっぽかしてしまったけれど、一日くらい問題ない。

 むしろ、あの一戦を生でみないなんて、そんな選択肢は私の中に存在しなかった。

 

 世間での桐山くんの注目度もすごくて、一年見守り続けた私はすこしだけ嬉しかった。友達のうちの何人かも、いま将棋すごいねなんてランチタイムに言い出すし、ほんの少し彼女たちよりも早く、彼のことを知っていたのが誇らしかった。

 

 桐山くんが新人王をとった時は順当だと思ったし、これでまた宗谷名人との対局が観られるなんて、と単純に喜びを感じていた。

 対局が休日だったらいいなーなんてのんきに思っていた私は、記念対局の日程が出たとき、大学だったのも忘れて思わず、ちいさく悲鳴を上げてしまう羽目になる。

 

 記念対局の場所が岩手だったのだ。今、私が生活している県。

 ここに、桐山くんがやってくる。宗谷名人もやってくる。

 とっても、とっても、近い場所であの二人が対局する。

 どうしようもないほど、胸が高まった。

 

 おまけに会長の気合いの入れ方がすごかった。タイトル戦ばりの扱いである。

 前夜祭まである徹底ぶりで、一般公開と大盤解説までするらしいのだ。

 強かだとは思ったけれど、拝みたくなるくらいナイスな判断だった。

 記念対局の宣伝をするためにわざわざ、CMまで作っていた。テレビで流すのではなく、中継をするネットサイト、つまりwebで流すように作られていたけど、かなり力が入っていたと思う。

 

 

 

 中学の制服を着た桐山君が正門前で振りかえっているカットから始まり、学校で授業を受けているカット、放課後に理科室のようなところで友人たちと活動しているカット、など日常の様子をこれでもかと見せてくれた。

 

 そして、一転。

 

 無音になり、将棋盤がアップで映し出される。駒がバラバラ中央に落とされ、そしてそれを小さなきれいな指が並べていくのだ。

 美しい深藍の着物の袖口から、徐々にカメラのアングルが煽られて、桐山くんの顔が映し出される。

 黒縁眼鏡の奥の翡翠色の瞳は、こちらの背筋が震えるほどまっすぐに盤上を見据えていた。

 徐々に引いていくカメラが対面にいる宗谷名人を捉え、相対する二人の姿は完成された一つの絵画のようですらあった。

 

 最年少棋士が再び、将棋界の頂点と相まみえると最後に入るテロップが見るものの感情を煽ってくる。

 

 私も何度くりかえしみたかわからないほどだった。

 ネットでも随分話題を呼んでいて、動画サイトに転載されるし、SNSで回ってくるほどだった。

 岩手の地方局がこの話題性に目をつけて、将棋連盟と話をつけたのだろう。この地域帯だけテレビで何回か流れたりもした。

 私は、当然CM目当てで録画したし、将棋の事など何も知らない大学の友人まで気がつけば桐山君を知っていてくれた。

 宣伝効果は充分すぎるほどだったのではないだろうか。

 

 

 

 桐山くんの対局を生で観ることができるこの機会を逃すわけがなく。

 前夜祭のチケットから、当日の大盤解説の会場のチケット、おまけに会場となった旅館の一室まで気がつけば押さえてしまっていた。

 もちろん良い旅館だったので、一番安い部屋でもそれなりのお値段だけれど、バイトでためたお金を惜しみなく注いだ。

 

 前夜祭にいくのも、対局を観にいくのも初めてな私は、当日になるまでネットでいろいろ調べまくった。

 手抜かりがあってはいけないし、運営の方々や対局者に失礼があってもいけない。

 それはもう気合いを入れて準備をして、指折り数えてその日を待った。

 

 前夜祭は想像以上に楽しかった。

 一人で乗り込むから少しだけ、心細い気持ちもあったのだけど、そんな気持ちはすぐに吹き飛んでしまう。

 だって、桐山くんが同じ空間にいるんだよ!?宗谷名人と同じ空気が吸えるんだよ!?

 両対局者だけじゃなくて、後藤九段とか島田八段もいらっしゃって私のテンションは上がりっぱなしだった。

 個人的に来ている人もいるから、誰が来ているかは当日にならないと分からないけど、最高の布陣だった。……まぁ誰がいらっしゃっても、私は喜んだかもしれないけど。

 

 立食形式で食事の提供もあったけれど、ご飯なんて目にも入らない。

 この機会を逃してなるものかと、人と波が引いた瞬間やいけそうだと思ったときにフロアにいる棋士の方に握手をしてもらった。

 

 島田さんは気さくだった。握手した後に、写真も良いですかって、聞いたらかわいいお嬢さんとなら喜んでだって!お世辞でも嬉しいし、彼の穏やかな大人の雰囲気に、すっかりやられてしまった。

 ほかにも、松本四段や三角六段といった、知っている棋士の方に声をかけてみる。

 松本四段は、俺のこと知ってるの?と、こっちが驚くくらいの大興奮で三角六段に落ち着けよっと声をかけられていた。

 知っていますとも。桐山くんと同期の貴方を知らないわけがない!おまけに、若い者同士で仲もよいみたいだったから、尚更である。

 

 後藤九段に声をかけるのは少しだけ、勇気が入った。体格ががっしりしていて、顔は評判通り……というか間近でみると、ほんと厳つい。

 でも、桐山くんの応援ちゃんねるとかで、彼と桐山くんのほのぼのエピソードを読んでいたおかげか、それほど怖くはなかった。

 応援してますと私がかけた声に眉を少しだけ動かしたあとに、どうも、と一言うなずいて手を握り返してくれた。

 大きくて、しっかりとした、大人の男の人の手。戦う人の手だった。

 格好いいなぁと素直にそう思った。

 

 ……この手が桐山くんの頭をよく撫でてるんだよな……って想像したら、そのギャップにちょっとだけそわそわしてしまったけど。

 

 

 

 記念対局の前夜祭だからか、珍しいことらしいけどプレゼントの企画もあった。

 入場するときに渡された番号で当選者が呼ばれるらしい。

 この手のことで運がよかったためしがなかった私は、こんな企画まであるんだ、とどこか他人事だった。

 だから、自分の番号が呼ばれたときは何かの間違いだと思ったし、近くにいたお婆さんにコレ、私ですかっ!?と興奮して聞いてしまったほどだ。

 品の良さそうなその方は、あらあらという風に笑って、そうよ貴女の番号よ、と私の背中を押してくれた。

 

 何があたったのかも分からないままに、会場のステージへと慌ててむかった。

 少なからず注目されるわけだから、気合いを入れてお洒落してきて本当によかった。

 

 ステージに上がったとき、桐山くんは珍しいものを見たように目を丸くした。

 若い女性というものがそもそも少ないからかもしれない。

 司会の横溝さんが、当選したプレゼントを紹介してくれる。

 桐山くんの揮毫入りの扇子らしい。

 なんと素晴らしい一品だろうか。

 家宝にする。財布よりも携帯よりも最優先で、絶対に家まで持ち帰らねばと心に決めた。

 しかも、渡してくれるのは桐山くんだ。憧れの人があまりの近くにいるもんだから、すっかり舞い上がってしまった。

 

 おまけに彼は、

 

「お姉さんに、貰ってもらえて嬉しい。今日は来てくれてありがとうございます」

 

 と私にだけ聞こえる声量で、小さく囁いて、ふわっと笑ったのだ。

 

 ……っ、あぁぁぁぁぁぁぁ。

 天使か!天使なのか君は!

 そんな風に笑わないでたまらなくなるからっ!

 社交辞令だって分かってる。

 当たったひと皆に同じように声をかけているのかもしれない。

 でも、それでも、明日世界が終わっても後悔が無いくらいに、嬉しかった。

 

 心の中は、それはもう嵐のような荒れっぷりだったけれど、グッとすべてを飲み込んで、桐山くんの手から扇子を受け取って、自分史上最高の笑顔で、明日の対局を楽しみにしています、と笑いかけた。

 

 そして、握手しようと差し出してくれた彼の手をそっと握る。

 柔らかい子供らしい掌、けれど指先は少しだけ硬かった。今日会場でたくさん触った他の棋士の方と一緒だった。

 目の前でふわふわと笑うこの子が、紛れもなくプロ棋士である証だった。

 

 

 

 夢心地で部屋に帰って、飽きもせずずっと扇子を眺め続けて、明日の対局を楽しみに眠りについた。

 

 

 

 対局当日、大盤解説の会場の大きなスクリーンで、対局場が映されていた。

 趣のある旅館の和室、開け放たれた障子からわずかに差し込む陽の光。

 静かに歩いてきた桐山くんが一礼して、入室する。

 昨日見たのと同じ深藍の着物だった。でも雰囲気が全然違った。

 続いて入室してきた宗谷さんが対面に座ると、そこだけ別世界のようにすら思えた。

 

 対局の様子に、会場全体が引き込まれていくのに、そう時間はかからなかった。

 

 これは、大げさに言うわけではない。

 人智を超えた人ならざる存在が、二人。この空間に降りたち、彼らの世界を作り上げていた。

 それくらい神聖で尊いものにみえた。

 これが勝負という枠を超えた対局だったからこそかもしれない。

 両対局者は、今日、勝ち負けでなく、まるでお互いに語り合うように、心穏やかに自らの将棋を表し、相手の将棋の受け入れ、そしてただそこに在る全てを許容していた。

 

 終盤解説者ですら、静かに固唾をのんで、この世界の終わりを見守った。

 だれもそのことを職務怠慢だとは思わなかった。会場にいる全ての人がこの対局に魅せられていた。

 奇跡のようなその時間を共有できることに誰もが高揚していた。

 

 

 

 終局後、だれかがぽつりと呟いた。

 神の子二人が生み出した、盤上の芸術作品だと。

 

 

 

 私は今日というこの日に、この場に居合わせた感動をおそらく一生忘れないだろう。

 

 




観る将になった女子大生。モブの視点を書くのは楽しい。


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第四十一手 盤上の芸術

 無事に、記念対局を終えて、駅のホームにたって僕は大きく一息をついた。

 

 今回は、前回にもまして会長の気合いの入れようが凄かったなぁと思う。

 タイトル戦と同じく、旅館を借りた上に、おまけに解説つきで中継まで……。人が入るのか元が取れるのか、心配だったけれど全くの杞憂だったらしい。

 

 

 

 9月の下旬、新人戦トーナメントを勝ち抜いて、順当に新人王のタイトルをとり、記念対局に臨む権利を得た。

 会長は終局間際のまだ余韻覚めやらぬ僕のことを、会長室へと引きずり込むと、桐山はきっとやってくれると思ってたよっと肩を叩き、仕事の話をしようっとそれはもう良い笑顔でそう言った。

 

 記念対局としては異例になるが、地方のホテルをとって、前夜祭もして大々的に将棋をアピールするつもりらしい。

 スポンサーは大丈夫なのかと聞いてみても、早くも大きなところがいくつか獲得できそうだから問題ないと笑いが止まらないようだった。

 一つ大きなwebサイトを運営している会社がスポンサーについた後、僕にちょっとした宣伝の映像を撮らせてくれという話まで、出たほどだった。

 気乗りはしなかったけれど、言われるままに学校や会館で撮影を行い、編集したあとの映像は、なんというか、ほんとうに自分かと思うくらいには、見違えるような動画になっていたと思う。

 普通なら、スーツであることが多い記念対局で、わざわざ着物を着たことも、客受けを狙っての事だった。

 

 対局は一応、僕の勝利で終わったけれど、なるべくしてそうなったような気がした。

 あの対局に勝敗を持ち込むのは、違う気がする。

 僕たちは二人で、より美しく、自然な終着点へとただ、流れるままに指していった、それだけだ。

 

 不思議な感覚だった。こんな風に指す形があるのかと、新しい扉が開いたような気がした。

 頭のなかで次から次に、手がつながっていく。

 銀色にひかるまぶしい水が、隅々まで流れ込んでいくように。

 宗谷さんも同じだったのだろう。

 指している間、ふたりでずっと真っ白い場所にいた。

 心地よくて、あたたかくて、明るくて、なにも怖くない場所だった。

 

 夢中だったと思う。だけど必死さとは無縁だった。

 公式戦ではない、かといって研究会のような私的な対局でもない。記念対局という特殊な状況が生み出した、独特の感覚だった。

 

 対局がはじまる直前、宗谷さんが目の前に座ったその瞬間に想ったのだ。

 あぁ……今日は、美しい対局にしたいな、と。

 せっかく頂いた、貴重な機会だから。記憶に残るような、誰かの心にのこるようなそんな対局したいと。

 そう考えて、一礼したあと目が合った宗谷さんは、うっすらと微笑んでくれた。

 言葉を交わしたわけではなかったのに、それだけで伝わったのが分かった。

 

 思考のトレス……そんなレベルの話じゃなかった。

 感覚を共有してるような気持ちがした。

 彼が次に何を指そうとしてるのか、どういう展開に広げていきたいのか、自分のことのように分かった。

 そして、僕がやりたいことも、理解してくれているのを感じた。

 お互いの思惑はぶつかることなく、むしろきれいに噛み合って、混ざりあって、二人が行きたいその先を、残したい軌跡を、美しく盤上に刻んだ。

 間違いなく、渾身の一局だった。

 

 負けました、と彼がその世界に幕引きをした時。

 どうして、終わってしまったのだろうと。ずっとずっと、このまま指し続けていたかったと、礼を返すのがひどく遅れてしまったほどだった。

 

 

 

 そのあと、すぐ行った感想戦も言葉はなかった。

 でも、こんな手もあった、こんな終着の仕方もあったと、次から次に考えが浮かんで、それは彼も同じみたいだった。これ以上ないくらい、美しい棋譜になるように指したつもりだったけど、やっぱり将棋って面白いなって、終わった後に二人で笑ってしまった。

 

 大盤解説の会場に移って、観に来てくださった方々にお礼を言ったとき、やっと二人がしゃべってくれたと、司会の横溝さんに茶化されてしまって、会場中から笑われたのも、良い思い出だろう。

 

 

 

 帰りの新幹線のなかで、僕はずっと心ここにあらず状態で、対局のことを振り返り続けた。

 なんだか、まだうまく切り替えられていないような、現実にかえってこれていないようなそんな感じがして、ぼんやりと窓から外の景色をみていた。

 

 だから仙台駅で電車が止まったことも、台風のせいで運行を見合わせたことにも、サラリーマンの方々がどやどやと動き出すその瞬間まで気づくことはなかった。

 

 え?昨日はあんなに天気が良かったのに?

 そういえば、外がだんだん暗くなっていってた気がするけど……台風なんて来てたっけ?

 ……この流れなんか既視感があるな。

 と、内心混乱しつつも動き出す。ここに座っていてもしかたない事くらいは分かっていたから。

 

 そして、もしかしてと想って、ふと車内を見渡した。

 宗谷さんはあのときと同じように、新幹線がとまった事に気づくことなく、静かに眠っていた。

 

「宗谷さん、あの新幹線止まっちゃって……宗谷さん?」

 

 声をかけた瞬間、違和感のようなものを感じた。

 そして、そっと揺り起こしてみると、彼はビクッと目を開けて、キョロキョロと周りを見回した。

 その時、あっと気がついたのだ。

 たぶん、今日は聞こえない日なんじゃないかと。

 

「台風のせいで電車動かなくなったみたいですよ。降りて、ホテルとか探さないと」

 

 なるべく大きく口もとを動かして、彼のめをまっすぐに見ながらそう伝えた。

 彼は、ある程度読唇法を身につけていたはずだし、周りの状況から加味して僕の伝えたいことを察してくれるだろう。

 

 もし、難しそうなら、携帯に打ち込んだり、紙に書いてもいいんだけど、ここでいきなり僕がそれをしてしまうのは不自然だ。

 だって、まだ僕は彼が不調を抱えていることを知らないはずなのだから。

 

「ごめん。気圧のせいかな、どうにも音が聞きとりにくいみたい」

 

 すこしだけ眉をしかめて、こめかみのあたりを押さえた宗谷さんは、何でもない事のようにそう告げる。

 あ、こんなあっさりカミングアウトするんだ……ってちょっと面を食らってしまった。

 そういえば、以前の時も会長は、宗谷さんには隠す気があまりないと言ってたっけ。

 

「あぁ……そうか。君と一緒のときは、いつも調子がよかったからなぁ。心配しないで、よくあることなんだ」

 

 固まっている僕をみて、驚いたのだと思ったのだろう。またすぐ聞こえるようになるからと、安心させるように彼は言った。

 

「えっと、携帯とかに打った方が良いです?今どれくらい聞こえてます?」

 

 鞄から取り出した、携帯を手に掲げながら、そう尋ねた。

 

「うーん、そこまでは……大丈夫。途切れ途切れに聞こえるし、桐山くんが言いたいことってなんだか、よく分かるから」

 

 本当に調子が悪いときは、筆談することもあるらしいけど、それはとても希なことで、イベントとか大事な打ち合わせの時とかに仕方なくするくらいらしい。

 日常会話の時は、大体は勘と雰囲気で乗り切れると言い切られて、宗谷さんらしいなっとちょっと思った。

 

「聞き取りにくい状態でしゃべるのはだいぶ慣れたけど、妙に声が小さかったり、逆に大きかったら教えて。今日は自分の声もだいぶ遠いよ」

 

 そう、付け加えながら、すこしだけ疲れた様子だった。

 聞こえないという状態が僕には分からないけれど、自分の声が聞き取れないということは、発声に影響を及ぼすことも多いらしい。

 宗谷さんが普段から、公の場ではあまり話さないでいるのは、不調の時に口数が減っても、もとからそういう性格だと思ってもらえていれば、浮く事が少ないから。

 実際彼は、気心知れた間柄の人たちとなら、それなりにしゃべるし、研究会の時も熱が入れば、口数は増える。

 僕がそれをしったのは、随分と後になってからだったけど。

 

「チケットの払い戻しとか、ホテルのとるのとか、僕が代わりに話しますよ。任せてください」

 

 だから、あまり無理をしなくていいと、伝わってほしくて僕は自分の胸を叩いて彼を見上げた。

 宗谷さんは、まじまじと僕のことを見ていたけど、その後ふっと笑うとポンポンと頭を優しく撫でてくれた。

 お任せしますとそう言われた気がした。

 

 

 

 新幹線を降りて、まずはチケットの払い戻しを……っと思ったけど、案の定みどりの窓口は人で溢れていた。

 やっぱりすこし出遅れたかと、思っていると、宗谷さんがそっと僕の手を引いて歩き出した。

 精算窓口の方に移動しているようだ。そっちはまだ人が少なくて、それほど待たずに払い戻しが出来そうだった。

 そういえば前の時は、視線ひとつで宗谷さんに促されてたなと思い出して、少し可笑しくなる。

 駅員さんは中学生の僕相手にとても丁寧に対応してくれた。乗車の券の手続きもその場でしたんだけど、ちょうど空いているし、お兄さんと連番にしておいてあげるからね、と笑顔で言われてしまった。

 訂正するのも、面倒だから、ありがとうございます。と笑っておいたのだけど、窓口を離れるときに、小さく宗谷さんが、お兄さんか……っとどこか嬉しそうにそうこぼしたもんだから、少しだけ照れくさかった。

 

 ホテルをとって、傘を買って、僕たちは雨の中を歩いた。

 傘は見事に売り切れてしまっていて、なんとか一本だけ確保した。

 宗谷さんは右手に傘をもって、左手で後ろから僕の肩を支えてくれた。この時ばかりは小柄な僕の身体が役に立った。

 安いビニール傘の下に大人一人と子供一人、すっぽりちょうど収まったのだから。

 途中で見かけたコンビニで適当に食料を買い込んだ。

 支払いは別にするつもりだったのに、いつの間にか同じかごに全部入れられていて、会計は宗谷さんが済ませていた。

 ありがとうございます。とお礼をいうと、僕もお礼だから気にしないでと、返された。

 見知らぬ人とはなしたり、電話をするのは特に労力を使うらしく、それを代わりにしてくれたのは、本当にたすかるのだと。

 

 

 

 歩き出すと、歩き出す。

 立ち止まると、立ち止まる。

 あのときは僕の後を静かについて来ていた神様が、今はすぐ後ろにいた。

 一心同体。まるで一つの生き物になったように、嵐の中を歩き続けた。

 

 不思議な高揚感だった。これは、台風のせいだけじゃない。

 たぶん、僕は嬉しかったのだと思う。

 あのときは、随分と遠い存在だった。経験も研究も年の差という時間の分だけ、僕と彼との間に隔たりをつくり、追いつくことなど想像も出来なかった。

 それなのに、普通に話して、すこし笑い合って、買い物をして、今同じ傘の下、この雨の中を歩いている。

 特別な人であることに変わりはなかった。でも、もう神聖視することはなかった。

 僕と、彼は、等しく棋士であり、それ以上でも以下でもなかった。

 

 

 

 

 ホテルに着いたとき、少しだけ困ったことがあった。

 電話をして予約を確かに取ったのだけれど、どうもこの嵐のせいで向こうも忙しかったらしく、ブッキングによってシングルが2つはとれなかったようだ。

 

「此方の不手際で本当に申し訳ありません」

 

「この嵐ですし、予約の電話いっぱい来てたでしょうからね……。でも、どうしようかな」

 

「もしよろしければ、ツインの方はまだ空きがありまして、其方はいかがでしょうか?」

 

 連れだってきた子供と大人だ。親戚か何かだと思われたのだろう。むしろ部屋を別にとることの方が珍しい。

 何度も何度も頭を下げるフロントの方に、そう提案された僕はふと後ろの宗谷さんを見上げた。

 

 フロントの人が提示した料金と、プランが目に入ったのだろう。宗谷さんは、なんの躊躇もなく頷いた。

 

「では、それでお願いします。鍵を貰っても良いですか?」

 

 

 

 

 部屋に入って一息つく。雨風が凌げるとこにくると、少しだけほっとした。

 

「本当に良かったんですか?同じ部屋で?」

 

 耳の調子が良くないなら、一人で静かにいたかったのではと、ついつい気になってしまった。

 

「ん?別に問題ないよ。これから対局って訳でもないし。この雨の中、またホテルを探す方が大変だろう」

 

 宗谷さんは、きょとんとしたような顔をして、なんの問題もないとそういった。

 対局の有無しか気にしていないのが、彼らしい。

 

 交代でシャワーを浴びて、雨で冷えた身体を温めた。

 適当に食事をしたら、すぐに手持ち無沙汰になる。

 プロ棋士二人、暇になったらすることなんて、一つだろう。

 

「感想戦の続きをしない?駒音を辿りたいんだ。それで、調子がよくなる気がするから」

 

「……はい。喜んで」

 

 持ちかけたのは宗谷さんだった。でも、たぶんもう少しいたら僕から言い出していたと思う。

 外はひどい嵐で、風が窓を揺らすし、叩きつける雨音だってうるさかった。でも、そんなものはすぐ気にならなくなってしまうのだ。

 相手が一手を示したら、すぐに頭の中に駒音が響いて、それからはあっという間。

 棋士という生き物は、実に難儀なものだと思う。

 

 

 

 僕たちを現実に引き戻したのは、僕の携帯の着信音だった。

 なんとなく、相手の予想がついて慌ててでてみると、聞こえてきたのは予想に違わず会長の声。

 

「桐山、おまえ今どこにいんの? 新幹線止まったって聞いたんだけど」

 

「台風の影響で、仙台駅で止まってしまいました。今は近くのホテルにいますよ」

 

「そうか、良かった。おまえさんしっかりしてるけど、この雨の中だと心配でな。それで宗谷のことなんだけど……」

 

「あぁ!宗谷さんも一緒です。同じホテルに今日は泊まります」

 

 会長は電話の先で、大きくため息をついた。

 

「あーやっぱな。そんな気がしてたんだよ、全く! あいつに電話かけてもやっぱり出ないし、おまえに連絡とって正解だったわ」

 

 呆れが半分と、それ以上の安堵が感じられる声色だった。

 二言三言、話した後、明日は気をつけて帰れよって言われた。

 そして、面白い対局だったと、昨日の一戦に触れた。

 

「なんつーか。恐ろしいほど綺麗にまとまった一局だった。観戦記者も解説を観に来てた観客も、将棋が分かるやつほど感激してたよ」

 

 おまえさんたちのおかげで大盛況だった、今後もよろしく頼むよと通話はその一言で締めくくられた。

 

「会長から……?僕のこと何か言ってた?」

 

「宗谷さんと連絡がつかないから心配してましたよ」

 

「そう。携帯切れてたのかな……まぁ今日は鳴っても僕自身が気づけないから仕方ないよ」

 

 桐山君が一緒で助かったと、マイペースに告げる彼に、会長の苦労がうかがえた。

 

「それから、対局のことも。大盛況で良かったって」

 

「昨日の対局は……不思議だったなぁ。目が合った瞬間、君が何がしたいのか分かった。乗った僕も僕だけどね」

 

 思い出して可笑しくなったのか、すこし笑みを浮かべる宗谷さんの雰囲気がずっとずっと柔らかくて、なんだかとても……そう、とても楽しそうだった。

 

「僕にはさ。将棋しかなかったんだ。その点では君と僕はよく似てると思う」

 

 彼の言葉に僕は静かにうなずいた。

 宗谷さんの生い立ちのことは、僕も多少しっている。全く同じではないけれど、将棋にかけた時間と想いの深さは、その執着ともいえる熱意は、僕らの共通点だろう。

 

「棋譜を作り上げていく過程も、その先にある結果も、繰り返される研究と打開策も、ただそれが当たり前の事になってた。

 好きとか、楽しいとか……そういう気持ちが自分の中にあるのかよく分からなかった。」

 

 宗谷さんの口から、将棋に対して、こんな感情的な言葉を聞けることに僕は少なからず動揺していた。

 この人にとったらそんな次元とっくに通り越していたのかと思っていたから。

 ……でも、おそらくそれは違う。

 

「昨日の対局は新鮮だった。こんな形もあるんだって。改めて思い知ったよ。将棋を指すのはこんなにも楽しいって。僕はたぶん将棋が好きだ。だって、こんなに心を揺さぶれること他にないんだから」

 

 一言一言かみしめるように、まるで自分自身に確かめるように、彼は言った。

 一局、一局に想いを抱いて、感情を揺さぶられて、宗谷さんだって僕たちと同じなんだ。

 

「嬉しいです。……同じように貴方が感じていてくれたことが。昨日の対局に、僕との対局にそう感じてくれたことが、嬉しい」

 

 他でもない自分が、自分が宗谷さんにこの言葉を言わせたことが、震えが来るほど嬉しかった。

 

 その後もずっと、誰にも邪魔されず僕ら二人は将棋を楽しんだ。

 そのまま朝が来てたときには、ちょっとやってしまったなって思ったけど、ここにはシロもいなければ、止める大人が誰もいなかったから。

 宗谷さんと僕だけの秘密である。

 

 

 

 嵐は一晩で去り、空はカラッと晴れ渡っていた。

 

 

 

 

 ホテルの一室で宗谷さんと、二人。

 楽しく将棋に明け暮れた僕はまだ知らない。

 

 記念対局を書いた記事が大好評で拡散されていること。

「神の子二人の芸術作品」なんて謳われて、「言葉なき感想戦」と合わせて、ますます、将棋界への注目度をあげることになったことを。

 この時代に、この二人がそろったことは奇跡だなんて、賞賛されていたことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




六段昇段に伴い、たった一度しかチャンスがなかった新人王のタイトル無事に獲得。
本人はその後の記念対局しか目に入ってなかったけど。
当人たちの預かりしらぬところで、この二人はやっぱり特別だと、周囲は大いに盛り上がりを見せ始め、ますます将棋ブームに火がついて、会長は相当喜んでます。

余談ですが、原作の記念対局の後の会長のセリフがすごく好きなんですよね。「普通に意思疎通取れてて笑えた」ってやつ。
当時この巻を読んだのをきっかけに、全巻手元に紙で集めようと決めました。それくらい全体含めて好きな巻です。


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掲示板回 【新人王】中学生プロ棋士桐山零くん応援スレPart69【おめでとう】

   

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285 名無し名人

はい! 桐山君の新人王確定~

 

286 名無し名人

ま、順当でしょ

 

287 名無し名人

寧ろこれからだよ大事なのは。

 

288 名無し名人

記念対局ですよね!わかります。

 

289 名無し名人

そうだよ~宗谷名人とまた対局ができるんだよ。

 

290 名無し名人

うわ~オレまだ棋神戦の熱さめてないから、嬉しい。

 

291 名無し名人

こんなに早く機会が巡ってくるとは。

 

292 名無し名人

いや、でもほんと最初で最後のチャンスをものにしてくれたのは嬉しいね。

 

293 名無し名人

中学一年生にして、新人戦の挑戦権を失う。

優秀すぎるのも考え物ですな。

 

294 名無し名人

もう六段だからな。仕方なし。

 

295 名無し名人

見た目はどの棋士よりも新人ぽいけどな。

 

296 名無し名人

それな。

 

297 名無し名人

でも、ほんと良かった。宗谷名人とのタイトル戦のあと、桐山くんめっちゃ痩せてたから、おじさん心配で。

 

298 名無し名人

タイトル戦は体力消耗するからな。実際直後は体調崩してたみたいだし。

 

299 名無し名人

なんか、秋から制服きて対局してたけど、ワイシャツの袖口からのぞく腕がこんなに細かったか……?ってさ。

 

300 名無し名人

タイトル戦中の着物だとわかんなかったけど、制服だと夏前と比べられるから確実に痩せてたのがわかったよな。

 

301 名無し名人

そんなに削られるほどの戦いをしたということ。

 

302 名無し名人

まだ中学生なのに、すごいよなぁ。ほんと

 

303 名無し名人

タイトル戦後、また負けなしだろ?いくら相手にA級とかがいなかったとはいえ、好調をキープできるのは、凄いと思う。

 

304 名無し名人

宗谷名人と戦ったあとは、なんか調子崩す人多いからな。

 

305 名無し名人

自分の殻を破りたくなるんだろ。その前には模索が必要だから、調子崩すのもわかる。

 

306 名無し名人

桐山六段にはそれがなかったって事?

 

307 名無し名人

いやー気合いは、入ってるしまたスキルアップしてると思うぞ。

 

308 名無し名人

ただ、模索してたとしても、そこらの棋士には負けない程度の土台が、彼にはもうあるってこと。

 

309 名無し名人

……ほんとに中学生なのか、疑うわ。

 

310 名無し名人

タイトル戦中の立ち回りも、こなれてたよなぁ

 

311 名無し名人

前夜祭もしっかりしてた。スポンサーへの気遣いや対応も一人前。

 

312 名無し名人

宗谷名人もちょっとはフォローしてたよね。

 

313 名無し名人

確かにw、オレあんな愛想良い名人初めて見たわ。

 

314 名無し名人

この記念対局は、会長がまた気合い入れてくれそうだから、期待しておく。

 

315 名無し名人

あの人なら絶対やってくれる。こんなチャンス逃すわけない。

 

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634 名無し名人

やべぇ、会長の本気、想像以上だった。

 

635 名無し名人

例のCM見た?

 

636 名無し名人

みたみた。あれはやばい。相当広報にも金かけてる。

 

637 名無し名人

しかも、ホテルかりて前夜祭と大盤解説もあるってよ。

 

638 名無し名人

気合いの入れよう凄すぎ。

 

639 名無し名人

場所は岩手だっけ? 東北民だし、オレ行こうかな~

 

640 名無し名人

>>639

行く気があるなら、チケット早めに抑えないとやばいぞ。

 

641 名無し名人

あのタイトル戦の熱冷めやらぬ中での、あのCMだからなぁ。

話題性抜群。

 

642 名無し名人

CMってどこで見れる?

 

643 名無し名人

>>642

新人王戦の公式サイトのリンクから見て。

 

644 名無し名人

中学生の桐山くんをここぞと見せてからのギャップがやばいから。

 

645 名無し名人

>>643

了解ありがと。

 

646 名無し名人

あれ、本当に桐山君が行ってる学校?

 

647 名無し名人

そうみたい。撮影協力の所に書いてあった。

 

648 名無し名人

よく、おーけーでたな。

 

649 名無し名人

私立だし、その辺は貪欲じゃない?

宣伝になるし。

 

650 名無し名人

校長先生とか、教頭先生、かなり将棋の愛好家らしいよ。

 

651 名無し名人

>>650

ま? それは桐山くん過ごしやすいだろうな。

 

652 名無し名人

担任も理解ある人つけてくれてるみたい。

なんかのインタビューでとても助かってるって言ってた。

 

653 名無し名人

化学室みたいなので、友達と実験してたの。アレ部活かな?

 

654 名無し名人

将科部っていうのにはいってるらしいよ~

 

655 名無し名人

チラッとみえた野口英世みたいな人がすごい気になってる。

あれは学生なの?

 

656 名無し名人

激しく同意したい。

 

657 名無し名人

>>655

桐山くんと同い年の部長さんですw

 

658 名無し名人

部長なのは納得だけど、マジで同い年?

 

659 名無し名人

桐山君の年代どうなってるねん

 

660 名無し名人

まぁ、学校でも楽しそうで良かった。

 

661 名無し名人

学校パートからの、将棋パートへの切り替えよかったよね。

 

662 名無し名人

駒をならべていく、桐山君の指先が綺麗でよい。

 

663 名無し名人

いい手してるよな、桐山六段。

 

664 名無し名人

着物あれ、棋神戦でも着てた奴だよね。

 

665 名無し名人

からのあの目ですよ!目のアップ!!

 

666 名無し名人

前半のふわっとした雰囲気はなりを潜めて、あの勝負師の眼光だもんな。

 

667 名無し名人

で、引きで宗谷名人が対面に座っているというね。

 

668 名無し名人

名人のラスボス感よ。

 

669 名無し名人

あれは金かけてる。もっといろんなところで流すべき。

 

670 名無し名人

東北のローカルだとテレビでも流れ始めたよ。

 

671 名無し名人

あーやっぱりな。その辺は流すだろうね。

 

672 名無し名人

人いっぱい集まるだろうな。

 

673 名無し名人

前夜祭……オレ、行きたいけど、入れなかったらどーしよ。

 

674 名無し名人

将棋の記念対局。タイトル戦でもないのにこんな心配をする時代がくるなんて。

 

675 名無し名人

世は将棋ブームの到来ですよ!!

 

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409 名無し名人

今日の前夜祭、気合い入ってたなぁ

 

410 名無し名人

仕事でいけなかったオレ。悲しみ。

 

411 名無し名人

現地行ってた奴、なんか面白いこととかなかったん?

 

412 名無し名人

進行はとってもスムーズだったよ。

 

413 名無し名人

桐山六段も宗谷名人も終始たのしそうだった。

 

414 名無し名人

宗谷名人とホテルの人がうっかりぶつかりそうになって、名人の服にワインがかかるとこだったけど、桐山くんが名人を引っ張って神回避してた。

 

415 名無し名人

あーそれがあったな。

 

416 名無し名人

なにそれ!見たかった。

 

417 名無し名人

いやーあのタイミングまるで予見していたかのような、見事な対応だった。

 

418 名無し名人

名人の服にワインとかやばそう。絶対高いやん。

 

419 名無し名人

ねーぶつかりそうになったスタッフさん、真っ青だったよ。

 

420 名無し名人

桐山くんは大丈夫だったん?

 

421 名無し名人

もち!宗谷さんをよけさせたから、つまずいてそのまま転びそうだったスタッフのお姉さんを支えるほどの余裕だった

 

422 名無し名人

さすがにワインは絨毯にぶちまけられてたけどね。

 

423 名無し名人

めっちゃ、カッコイイですやん。

 

424 名無し名人

やだ、そんな中学生惚れるしかない。

 

425 名無し名人

すかさず、手は大丈夫?と、桐山君に聞く名人。

 

426 名無し名人

心配するところがさすがですな。駒を持つ大事な手ですからね。

 

427 名無し名人

誰も被害なくてよかった。

 

428 名無し名人

あとはそうだなぁ。今回は抽選会があった。

 

429 名無し名人

あぁ。たまにあるよね。タイトル戦でも。

 

430 名無し名人

記念対局はお祭りみたいなとこあるし、そりゃあっても不思議ではない。

 

431 名無し名人

誰かなにかあったったー?

 

432 名無し名人

桐山君のサイン入りランドセルほしい。

 

433 名無し名人

>>432

それはさすがにない。

 

434 名無し名人

ランドセルはないけど……サイン入りの色紙とか、扇子とか、グッズは結構あった。

 

435 名無し名人

そういえば、扇子当ててたの、若いおにゃの子だったよ。

 

436 名無し名人

なんと!それはどれくらい若い?

 

437 名無し名人

大学生くらいだと思う。

 

438 名無し名人

相当感動してたから、おそらく桐山君のファン。

 

439 名無し名人

ほんとにそんな子いたのかよ?

おまえらの幻覚じゃね?

 

440 名無し名人

あの……。

 

441 名無し名人

いや、まじだって! 将棋人気ちゃんと出てるの!

 

442 名無し名人

ん?どうした440

 

443 名無し名人

すいません。普段ROMなんですけど。それたぶん……私です。

 

444 名無し名人

ま?

 

445 名無し名人

お?本人降臨?

 

446 名無し名人

まじか! ナイス!

 

447 名無し名人

証拠くれ。しょうこ!

 

448 名無し名人

そうだな。なにか写真でもあげてほしい。

 

449 名無し名人

扇子を今日貰った扇子の写真をあげてくれ!

 

450 名無し名人

これでいいでしょうか?

【桐山六段のサインと揮毫が入った扇子で顔をかくし、もう片方の手でIDを書いたメモを持った女の子の写真】

ちょっとしたら消します。

 

451 名無し名人

まじか!本人まで写してくれるとは!

 

452 名無し名人

うわーほんとに、前夜祭に行ってたんだね。

 

453 名無し名人

しかも、これ旅館じゃない?

 

454 名無し名人

まさかの泊まり!ということは明日の対局も観るんだね。

 

455 名無し名人

はい。将棋は指せないんですけど、桐山くんの対局を観たくて。

 

456 名無し名人

いいねいいね。観る将人口増えてるね!

おじさんは嬉しい。

 

457 名無し名人

明日は、きっと世紀の名局になると思うから!

 

458 名無し名人

観に来たことは後悔しない!

 

459 名無し名人

私もそう思います。

明日のために今日は早く寝ますね。

 

460 名無し名人

そうだよ。俺たちもこんなところで騒いでる場合ではない。

 

461 名無し名人

明日のリアタイ視聴のために。

 

462 名無し名人

中継にも期待だなぁ。

 

463 名無し名人

皆早く寝よう。そうしよう。

 

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512 名無し名人

……対局終わりましたが、皆さん。どう思いましたか?

 

513 名無し名人

いや……なんというか。言葉もでません。

 

514 名無し名人

あの対局を表現する言葉を、僕は持ち合わせていません。

 

515 名無し名人

わたくしは終局間際おもわず涙がこぼれました。はい。

 

516 名無し名人

スレも、浄化されるほどの衝撃だった。

 

517 名無し名人

いや、ほんと中継でもやばかったから、現地組もっとやばいんじゃ……

 

518 名無し名人

ほんそれ。

 

519 名無し名人

……大盤解説の会場にいたオレ氏。

あれほど静かな会場ははじめてでした。

 

520 名無し名人

なんていうか、みんな魅入っちゃってね。

 

521 名無し名人

解説者も最後の方はもう、淡々と駒置いてたよ。

 

522 名無し名人

あれは空気を読んでだよな。

 

523 名無し名人

うん。終わってしまう。終局がくる。という余韻を全員でかみしめてた。

 

524 名無し名人

なんか、この世のものとは思えなかったよなぁ。あの二人のいる部屋が。

 

525 名無し名人

感想戦も凄かった。あの二人また会話なかったね。

 

526 名無し名人

ふたりでするする置いちゃってさ。

 

527 名無し名人

そんでうなずき合って、笑って、次いっちゃう。

 

528 名無し名人

二人以外は置いてけぼりだよ。

 

529 名無し名人

楽しそうだったから、オレは別にいい。

 

530 名無し名人

大盤解説に来た時の横溝さんの言葉には笑った。

 

531 名無し名人

あー二人がやっとしゃべってくれたって奴な。

 

532 名無し名人

解説中のふたりはちゃんと人間ぽかった。

 

533 名無し名人

解説わかりやすかったしな。

 

534 名無し名人

桐山六段の今日は美しい一局にしたかったんです。っていうコメント好き。

 

535 名無し名人

>>532

じゃあ、対局中の二人は何なんだよw

 

536 名無し名人

宗谷名人の席についてから、彼のやりたいことがなんとなく分かりましたっていうコメント好き。

 

537 名無し名人

>>535

……なんだろ将棋星人?

 

538 名無し名人

>>537

わかる。もう、二人とも人間じゃないんじゃね?

 

539 名無し名人

人外説が濃厚になりました。

 

540 名無し名人

神様……とまではいかなくてもさ、将棋星人なんだって。まじで。

 

541 名無し名人

まぁ人の技とは思えぬほどの美しい対局だった。

 

542 名無し名人

あれ、同レベルの棋力となおかつ、おなじ思考回路と、それを共有する感覚がないとむりだよね?

 

543 名無し名人

あのお二人だったからこそ、出来た対局。

 

544 名無し名人

この対局は後世にのこるな。

 

545 名無し名人

記念対局だったからこそ、って言ってたし。

 

546 名無し名人

勝敗にかかってくるものが何もないからな。非公式戦っても大きい。

 

547 名無し名人

だからこそ、純粋に美しさだけを求めることが出来た。

 

548 名無し名人

この二人が今後指していくとどんな、対局が生まれていくのか楽しみで仕方ない。

 

549 名無し名人

やっぱりさ。特別だと思わざるを得ない。

神様に愛されてるんだよ。

 

550 名無し名人

将棋の神様に……な。

 

551 名無し名人

そうか。

神の子、ついに二人そろっちゃったか~

 

552 名無し名人

将棋は一人では指せない。

でも、二人なら指せる。

 

553 名無し名人

今後のふたりが本当に楽しみになってきた。

 

554 名無し名人

タイトル戦だよ。また二人のタイトル戦がみたい!

 

555 名無し名人

この先何度だって、機会はあるだろうけど、できるだけ早くお願いしたいね~。

 

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第四十二手 それぞれの決意

「では、桐山の新人王獲得と、二海堂の四段昇段を祝して……乾杯!」

 

「乾杯!」

 

 島田さんの声に合わせて、僕たちはグラスを合わせた。今日は島田研の日だった。嬉しいことが重なったから、せっかくだからお祝いをしようと、言ってくれたのは島田さんだ。勿論いつものように将棋も指したけれど、すこし早めに切り上げて、色々な出前をとってちょっとした食事会である。

 

「兄者! 有り難うございます。昇段できたのも、皆さんのご協力あってのこと! この研究会でのことがどれほど助けになったか」

 

 二海堂は嬉しくて仕方ない様子だった。いつも以上にテンションが高いし、喜びをかみしめているのがよく分かる。

 

「まさか、一期抜けするとはな……。正直もっと三段リーグの魔物に捕まっちまうと思ったんだが」

 

 重田さんの悪態はいつものことだけれど、残念ながら口元が緩んでいるのを隠しきれていない。彼だって、同じ研究会の後輩を分かりにくいながらも、可愛がっているのだから。

 

「9月の二局は渾身の内容だったな。一局目いつもより相当長引いていたから、二局目は厳しいかと思ってたんだが、いらない心配だったか」

 

「桐山と連続三局とかVSしまくってましたから! 連続の対局でも苦にならなかったです。

 こいつ、ほんとに凄いんですよ。一局一局まるで別人みたいに指してくるから、いつも夢中でした」

 

 島田さんに興奮したように報告している二海堂の言葉に僕は少し、照れくさくなった。三段リーグの終盤を控えて、より実践的な対局を求めて彼は僕のところにやってきた。棋神戦を終えて、時間もあったし二海堂と指せることは僕にもメリットを感じられたから、VSをするのは楽しかった。様々な戦局を想定したいという彼の要望に応えて、あえて極端な指し回しをしたのも確かだ。普段の僕よりは対局に、はっきりとした意図が見えたと思う。

 

「贅沢な話だよな。他の奨励会員からしたら桐山零は自分たちの世代の憧れだぜ。そいつに、つきっきりで対局してもらうなんて」

 

 重田さんが、からかい半分でそんなことまで言い出す始末。

 

「もう、重田さん勘弁してください。そんな大層なもんじゃないですから。

 二海堂と指すのは楽しかったです。こいつの将棋はすごく熱がこもるから、それに引きずられて、いつもより好戦的になってたかも……。僕にとっても、新しい発見があったし、有意義な時間でした」

 

「対局に夢中になりすぎて、シロ殿には随分怒られてしまったな」

 

「あー桐山家にいる番猫さんか……。あの猫さんはおっかないからな」

 

「島田はまだいいよ。なんか気に入られてる。ちっこい黒い方にも会ったんだろ? 俺はそれなりに、猫好きなんだけどなぁ……」

 

 重田さんも島田さんも一応うちに来たことはあったから、シロとは対面済みだ。そうでなくても、家にきた棋士たちが、桐山家には優秀な警備員がいると広めるから、シロのことはそれなりに知られている。

 

「ほんとは、とっても優しい子なんですよ。もう少ししたら、皆さんにも慣れてくれるんじゃないかな……たぶん……きっと」

 

「いや、あれくらいで丁度良いよ。桐山のぶんも色々と警戒してくれてる」

 

 おまえさん、しっかりしてるけど、たまに抜けてるからと島田さんに笑われてしまった。

 

「しかし……、ようやく桐山と公式戦で相見えることが出来るかと思えば……」

 

「こいつ、ほとんどのタイトル戦で本戦シードだからな。去年頑張りすぎ」

 

 二海堂の悔しそうな声に、重田さんが相づちを打つ。

 

 棋神戦はタイトル挑戦者になったから来期は本戦のシード。聖竜戦ももう少しで挑戦者というところまでいったので、本戦の3回戦シードからだし、棋竜戦も本戦のベスト4まで残っていたので予選は免除されている。予選からでるのは、棋神戦にかかりきりで、本戦一回戦で敗退した棋匠と、予選を突破出来なかった玉将戦くらいのものだ。予選は細かくトーナメントを分けるから同じブロックに二海堂がいるのでもないと当たるのは難しいだろう。

 

「プロになったばかりの若手同士で当たると言えば、順位戦とか獅子王戦の予選……それからまっさきに新人戦があげられるけど、桐山の場合な」

 

 獅子王戦は、去年6組で優勝して本戦に進んだため、今年の予選は5組に上がっていて、二海堂とは組が違う。

 順位戦に二海堂が参戦してくるのは来年度の四月からになる。その時このままいけば僕はB2だろう、足踏みをするつもりもなければ降級するつもりもないので、順位戦で戦えるとすれば、お互いがA級になってからなんて、ことも充分にありえてしまう。それは、それで楽しそうだけど。

 

「生意気にもプロ二年目にして六段で、すでに新人戦の参加資格はないってな。まだ13歳なのによ」

 

「しっかり一度のチャンスをものにしたしなぁ。宗谷との記念対局、あれ凄い話題呼んでるぞ?」

 

「会長があれだけ力を入れてましたから……。島田さんは、会場にも来てくださってましたね。有り難うございます」

 

 タイトル戦でもないのに、実費で足を運んでくれている棋士の方も結構いた。ステージの上から意外に思っていたものだ。

 

「桐山と宗谷の棋神戦の記憶が、色濃く残っていたからな。興味があったのは、何も世間様だけじゃないさ。そんで、それは無駄じゃなかった」

 

 あの異様なほどの空気は、会場にいてこそわかることだったと、島田さんは静かに続けた。

 

「おまえと宗谷が一手一手、名譜を作り上げるのを、端で観て検討し合ったのは、良い刺激になったよ。きっと誰もが思った。こんな将棋を指せたらと。それくらい記憶に残る一局だった」

 

 島田さんの表情はいつも通り、穏やかで優しかった。けど、その奥の瞳が力強く熱を帯びていて、僕の気持ちまで高揚させた。

 

「分かったぞ、桐山!」

 

 いったいどこでスイッチが入ったのか……二海堂はいきなりそんなことを叫んだ。

 

「えっ、何が?」

 

 困惑する僕を余所に彼は興奮したように続けた。

 

「俺は絶対近いうちに新人王をとる。おまえみたいに一期で獲得するくらいのつもりでな!だからおまえはその時、タイトルホルダーになってろ。記念対局、俺たちでやるぞ!」

 

「そんな……無茶な……。そりゃ、実現出来たら、面白そうだと思うけど」

 

「あはは、もしそうなったら会長はまた大忙しだな。将棋界に新しい風が吹きまくりって盛り上がりそうだ」

 

「あながち、絶対無理って思えないんだよな……。むしろ、桐山がタイトル取るより、二海堂が新人王取る方が難しいかもな」

 

 島田さんは、なんだか楽しそうに話にのるし、重田さんはケケケッと人が悪い笑みを浮かべた。

 

「なんですと! 俺は本気です。有言実行やってみせますよ。だから、桐山約束な」

 

「……うん。分かった。約束する」

 

「おぉ……こりゃ、坊は本気で頑張った方が良いな。桐山は、約束したことは守るから。宗谷がそう自慢してた」

 

「え? 宗谷さんがですか?」

 

 あの宗谷さんが?と思わず疑問に思って、聞き返してしまった。

 

「桐山は覚えてない? テレビ局で初めて会った後、待ってるって約束したら、ほんとに朝日杯勝ち上がってくるし、朝日杯の後に次はタイトル戦でって言ったら半年待たずにやってくるし、記念対局もちゃっかり勝ちとるし……って、あいつなんか嬉しそうだったよ」

 

 僕は自然と口元が緩みそうになるのを必死でこらえた。

 そうなんだ。

 そうだったんだ。

 彼もちゃんと覚えていてくれていたんだ。僕は宗谷さんにそう言われたのが嬉しくて、勝手に心に決めてそれを支えにしている部分があったけれど、それが一方的なものじゃなかったんだと実感できた。

 

「かー嬉しそうな顔しちゃってまぁ。次はそう、易々と挑戦権は取らせないからな。俺だって、あいつの前に座ってみせる」

 

 島田さんの言葉に、重田さんや二海堂まで、今に見てろよ、とのってきてしまって、結局その後、またなし崩し的に皆で将棋を指していた。

 明けても暮れても、コレばかり。

 プロ棋士とは難儀な生き物だ。

 でも、僕はこれが良いなって思えた。この人たちと将棋を指しているのがたまらなく好きだと、そう思った。

 

 

 

 

 


 

 少し肌寒くなって、すっかり秋めいたある日のこと。

 学校帰りに三日月堂に寄ってみた。季節の変わり目には、練切のラインナップが変わるし、新しい商品があったりする。三日月焼きは定期的に買っているし、すっかり常連さんだ。

 お祖父さんとか、川本家の皆さんだけじゃなくて、手伝いに入って働いている方々とも顔見知りだ。はじめのうちは、近所に住む男の子といった感じでただ可愛がってもらっていたんだけど、プロになってテレビや新聞に載り、ちょっと大口の注文なんかも頼みだしたら、お得意様として認識されていた。記念対局のポスターをなぜだか、あかりさんたちが気に入ってしまってお店に貼りたいと言い出したときも、皆が乗り気だったそうだ。

 

 美香子さんは、お店で以前にも増して精力的に働いているようだった。表情も明るくなったと思う。

 肩の荷が下りたのかも知れない。

 

 いつものように三日月焼きを買って、少しお茶を飲みながら世間話をして、立ち去ろうとした僕を彼女が引きとめた。

 僕に話したいことがあるらしい。

 時間は大丈夫?と尋ねられて、これといった用事もなかったので、すぐに頷いてみせた。

 彼女は、奥にいた相米二さんに声をかけたあと、近くの喫茶までいこうと提案する。立ち話で済ませられるような話ではないこと、この場で話せることではないことが察せられた。

 

 近所の喫茶店の少し奥まった席。この時間帯、人はとても少ないし、席と席がかなり余裕をもって配置されているお店なので、それほど声は漏れない。店内に流れたどこかレトロで懐かしい曲が心を落ち着かせてくれた。

 

 美香子さんに何にする?と尋ねられて、とりあえず無難に珈琲を頼んだ。彼女も同じものを注文して、ここのマスターのブレンド、結構いけるのよ、と微笑んだ。

 

 手元にきた珈琲を一口飲んで、ひと呼吸おいたあと、少しだけ迷った様子で話し始める。

 

「こんなことを、貴方に相談するのも変な話なんだけど、桐山君は、私の目を覚まさせてくれたというか……あの人の事で言いにくいことでもすっぱり伝えてくれたから、話を聞いて欲しくて」

 

 何か良くないことがあったのだろうか? 誠二郎さんは、奥さんをはじめ娘さんたちにばっさりやられてから、姿は見せてないようだったけど……。

 

「あのね。あかりとひなたに、妹か弟が出来ることになりそうなの」

 

「それは……えっと、おめでとうございます? で良いんですよね? え?でも、そっか、父親は……」

 

 まったく斜め上から、新しい問題が降ってきて、僕は面食らった。混乱する頭のなかで、かつての記憶を呼び覚ます、高校生のときに会った僕と、ももちゃんの年齢を考えたら、あの子が生まれるのはこのくらいのはずだ。

 

「父親は、あの人。それは間違いない、今三ヶ月ちょっとだから」

 

 つわりによる体調不良なんかもあったそうだが、色々忙しかったことと、それほど症状がなかったために夏バテと勘違いしていたらしい。この年齢になってという先入観もあったそうだ。作る気がなかったと言うことは、それなりに対策をしていたはずで、おそらくそれをおろそかにしたのはあの男の方。なんというか……とことん適当な奴だと思うほかない。

 美香子さんの体調が一向に安定しないことと、お母さんである彩さんがまさかと思いつつ検査を勧めたらそのまさかだったという訳だ。

 

「それで、その……。悩んでいるというのは? 産むかどうかと言うことですか?」

 

「そう。君はほんとにはっきりしてるね……。家族の皆、それに触れるのは怖がってた」

 

「すいません……。僕はあくまで部外者というか、第三者として考えるところがありますから……」

 

「ううん。良いの。だからこそ、貴方に話しにきたから」

 

 強い目だった。まっすぐと僕を見つめて、彼女は今後のことを真剣に見定めようとしていた。自分と家族と、それからお腹の子、皆にとってなにが最善なのか考えようとしていた。たとえ、辛い選択をとることになったとしても、今の彼女ならそれを受け入れてしまいそうな、そんな雰囲気すら漂わせて。

 

「現実的な話、まだ可能な期間ではあるんですよね?」

 

 中絶というものが男の僕にはよく分かっていないことも多い。ただなんとなく、早いほうが母体への負担は少ない気がした。

 

「一般的に、中絶は妊娠二ヶ月目くらいまでが母体の負担はすくないと言われてるけど、一応21週目くらいまでは可能なの。私はもう、子どもを産もうと思うことはないから、多少の負担は覚悟してる。出産するリスクよりは、低いとはっきり言われたわ」

 

「産むとなった方がリスクが高いのですか?」

 

「ただでさえ初動が遅れて慌てて検診を受けたけど、どうにも高血圧気味で……数値は良くなかったみたい。お医者さんは、父親のことも知ってるから、家族と話し合ってよく考えた方が良いって」

 

 あかりさんの年齢から考えて、美香子さんの場合高齢出産になるのは間違いない。その場合母子ともにリスクが伴う。流産や早産の可能性が、通例より高くなるし、妊娠高血圧症候群に早期にかかりやすくもなる。

 妊娠はただでさえ、デリケートで大変なことだ。結婚して、妻を持って、娘たちが生まれる姿を見てきたからそれは実感している。

 

「あかりさんたちはなんて言ってるんですか?」

 

「最初はお母さんにしか言ってなかったの。でも、家族でちゃんと決めないと、と思って話したわ。ひなたはお姉ちゃんになれるのって大喜びだった。お父さんも、口ではああ言うけど、孫が大好きだから。……あかりはそんなに単純には喜べなかったみたい。家族が増えることは喜んでたけど、あの子は色々気が回るから、私が悩んでるのに気づいてると思う」

 

 川本家の皆の反応は概ね予想の範囲内だった。僕としても、ももちゃんに会いたいと思う。三姉妹が笑っているところをまたみたいと思ってしまう。でも、それはひょっとしたら、今目の前にいるこの人の命を危険にさらしてしまう事でもある。

 詳しくは知らないから分からないけど、出産の際になにかあって、それをきっかけにそのまま……なんてことがあったかもしれない。安易に彼女にその選択をさせて良いのか、これは、とてもとても重要な事だと思う。

 

「一度、最悪の想像をしてみましょう」

 

 切り出した僕の言葉に、美香子さんは少しだけ顔をこわばらせた。

 

「もしも、今度の出産で万が一の事があったら、残されるのはあかりさんとひなちゃんの二人です。お祖父さんたちや、それから美咲さんも色々と手助けはしてくれると思いますが、ひなちゃんはまだ小学生。あかりさんも今度やっと高校を卒業します。そして、おそらくお母さんの抜けた穴を埋めようと一番、頑張るのはあかりさんでしょう」

 

 目を閉じたら、はっきりと思い出せる。

 青春の全てを捧げて、まだ同年代の子たちが親の庇護下で遊んでいられるその時期に、彼女は妹たちのために、お店の手伝いに、家事に奔走していた。

 ももちゃんにとったらまんま、母親代わりだっただろう。それを彼女が苦に思っていたとは思わない。家族への愛を沢山、たくさんもった方だったから。

 

「それでも、それでも産みたいと思うかどうかです」

 

 僕の言葉を静かに、じっと聞いていた美香子さんは、ゆっくりと目を開けてそしてうなずいた。

 

「そうよね。私の年齢、身体のこと、今後のこと、冷静に考えたら、おろした方が良いって思う。

 でも、気持ちはそうじゃなかった。こんなに言われても、変わらないんだもの。私の心は決まってたんだと思う」

 

 ご両親にも、娘たちにも、危険が伴うことはちゃんと説明した上で、それでも産ませてほしいと頼みたいと彼女は柔らかく笑った。きっと川本家の方々は、彼女の背中を押すだろう。全力でサポートをしていくだろうと、そう思った。

 

「なにより私がこの子に会いたい。あの人は去って行った。でもこの子はここに、来てくれたの。どこか傷ついてしまった私たちに、寂しさが漂ってる我が家に、この子は春を連れてきてくれるんじゃないかなって」

 

 僕はその言葉に、大きく息をはいた。

 あんな事を言ったけど、ももちゃんを産まないという選択肢が選ばれなかったことに、ただただ安堵していた。服の裾をギュッと握られて、れいちゃんと舌足らずに呼びかけてくる声が、どこからか聞こえたような気がした。

 

「もし、よかったらですが、いくつか病院も紹介できると思います。なじみの街のお医者さんも良いですが、美香子さんのケースに合わせて、病院を探すのも手かと」

 

「そうね……万全を期さないとだめよね。ひなたの時からだってもうすぐ10年になっちゃうし」

 

 そう考えると、あの人からお金を貰っておいて、良かったと今思うの、と美香子さんは苦笑する。先立つものも必要になってくるのは確かだろう。

 彼女は、当初のふわふわとした印象を残しながらも、どこか強かになったような気がした。そして、それはたぶん、良い変化なのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 棋戦は去年ほど多くなくて、少しだけ落ち着きをみせていた。そもそも、昨年は予選に予選が重なって、そのほとんどで勝ち進んでいたために、飽和状態といって良かったから。

 もうすぐ12月になって獅子王戦の予選トーナメントが始まり、そうするうちに年が明けてしまえば棋匠と玉将の予選が始まってしまう。そうなるとまた少し忙しくなる。

 

 学校の帰り道、商店街で買い物でもして帰ろうと思った僕は、そこで同じく夕飯の材料を買うために立ち寄ったあかりさんと、遭遇した。

 特売の卵が安かったからなんて、中学生と高校生の会話にしては、ちょっと珍しいのかもしれない。

 お互い自分たちの買い物袋と、制服のままでそれを持っている現状になんだか笑ってしまった。

 

 あかりさんは、良かったら少し話さない? と僕を川本家に誘った。傷むものや冷凍物は帰るまで冷蔵庫に入れておけばいいからと。お母さんのことで、話したいことがあるのかもしれないと僕は、彼女の提案にありがたく乗らせてもらった。

 

 ひなちゃんは、まだ帰っていなかった。今日は委員会で遅くなる日らしい。ニャー達はお腹をすかせて弾丸のように飛びついてきた。この家にいるこの子達はいつもなにかをほしがっている気がする。あまり身体に匂いがつくと、シロが拗ねるんだけどな、と思いつつ、いつもこの勢いは引き剥がせない。

 手慣れた様子であかりさんが、カリカリをあげると真っ先にこっちに興味はなくして、飛びついていた。なんというか、本能のままに生きてるなぁと思う。眺めていてとても楽しい猫たちだ。

 

 お茶を入れて、少し話したあと、あかりさんはそっとお母さんの事をありがとうっと言ってきた。

 

「産みたいから、協力して欲しいって言われたの。新しい家族が出来るかもって嬉しそうに、でもちょっと困ったように戸惑いながら報告してきたお母さんが、はっきりそう言ってくれて。頼ってくれて、本当に良かったって」

 

 おろすと言われることも覚悟していたらしい。その時は、美香子さんの意見を尊重して、おそらく戸惑って悲しむひなちゃんのフォローをしたいと思っていたと。でも、やっぱりそれは悲しいから、出来るなら産んで欲しかったのだと。

 

「自分の意思できっぱり願いを告げるお母さん、初めてだったかもしれない。いつも、家族のことばっかりだったから」

 

 支えたい、助けたいと思い続けたあかりさんは、その事に安心したそうだ。

 

「桐山君と話したって聞いて、やっぱりなって思った自分がいたの。可笑しいよね、私たち家族皆本当にお世話になってる」

 

「僕も、いつも助けてもらってますから。誰かと一緒に食べるご飯って、美味しいなって。いらっしゃいとか、頑張ってねとか、何でもないことみたいだけど、かけてくれた声一つ一つが、僕の背中を押してくれてるんです」

 

 純粋なエールをくれる場所、負けたら肩を叩いてくれる場所、勝ったら一緒に喜んでくれる場所。打算もなにもなく、ただ、ただ、暖かくて優しいこの場所が、大好きだった。

 

 あかりさんは、そんな僕のことをじっと見つめた後、そっと僕の頭を撫でた。突然のことで驚いたけれど、その手は優しくて、心地よくて、あらがい難くてしばらくじっと、されるがままになっていた。

 僕の様子に彼女は、ふふっと笑うとご飯準備するね。食べて行くよね? と、そう尋ねてきた。断る理由はどこにもなくて、僕は気がつくと頷いて、彼女の手伝いをすべく台所に向かっていた。

 

 あかりさんの手際はもう、この頃からとても良くて、普段からどれだけ料理をしているのか一目瞭然だった。

 簡単な下ごしらえを手伝いつつ、たわいない話をしていた。その時、なんでそんな流れになったか定かではなかったけれど、もうすぐ冬になったら受験だから、クラスの子は大変そうというそんな話だった。

 

「あかりさんは、進学しないんですか?」

 

 あまり深くは考えず、ふと疑問に思った程度だったのだけど、あかりさんはピタリと手を止めてしまった。

 あ、これかっと一瞬で分かった。

 お母さんの事を話したあとも、どこか気が晴れない様子だった彼女は今、このことで悩んでいるのかと。

 

「うーん。私はどうしようかとっても悩んでる。でも、やっぱり就職しようかなって。お母さんもこの先一年くらいは、赤ちゃんについてなきゃいけなくなるから、あんまり手伝えなくなるでしょ? そしたら、三日月堂も大変だし……」

 

 お店にたっているあかりさんは生き生きしてるし、以前の様子からもあの仕事にやり甲斐を感じているようだった。

 

「将来的には、お店を継いでいきたいと思ってるんですよね?」

 

「それは勿論! だって、お爺ちゃんが守ってきた大切な場所よ。 この街の一部ですらあると思う。それを無くしたくない」

 

「和菓子職人になるのは、学校を絶対出ないといけないんですか? こう、なにか免許がいるとか?」

 

「調理師免許とかは必須じゃないの。でも、最近だともってると良さそうな国家資格とかもあるのよ。製菓衛生師とかね。お店に一人でも、そういう人がいたら良いかなってちょっと思ったりもして」

 

 随分調べている。やっぱり本当は専門学校か、短大かは分からないけれど、目星をつけていた学校があったんじゃないだろうか? でも、彼女は考えてしまう人だから、そこにかかるお金と、そして拘束される時間が、今の家の現状から、好ましくないと思ってしまったのかもしれない。

 

「後から余裕出来たときに通うこともできるとは思います。今は社会人枠とか夜間枠とか在りますし」

 

「そうだよね……。うん、別に今じゃなくても」

 

「でも、今高校卒業してすぐに働くのも、そんなに急がなくても良いんじゃないかと思いますよ」

 

 え?、と困惑したような様子の彼女に続ける。

 

「お母さんに話してみました? お祖父さんたちには? たぶん、あかりさんが行きたいっていったら全力で応援してくれます。あかりさんが、お母さんに頼って貰えて嬉しかったみたいに、きっとお母さん達も話して欲しいと思ってるんじゃないでしょうか」

 

 もう秋だ。進路指導は大事な時期になる。この時期に、家で大きな事件が立て続けに起こったのだから、相談しにくくもなっただろう。それでも、やっぱり話してみるべきだと思う。

 

「同年代の子達と学校で学ぶの、良い刺激になると思います。現場に入る前に、理論的に料理について学んでみるのも面白いと思います。学ぶのはいつでも出来ます。でも今しか手に入らない環境は確かにあるんです」

 

 貴重だぞ、学生でいる期間は、と酔いどれまじりに僕に諭した、松永さんの言葉がよみがえった。そこまでせんといかんのかね……と言われたその言葉が、今彼女に重なる。

 あかりさんの十代はいまこの一時だけなのだ。彼女はもっと自由にしても良いと思う。

 

「それに、学校に行くことと、働くことって意外と両立出来たりもしますし」

 

 肩をすくめて見せた僕に、彼女は吹き出して笑った。

 

「そうだね……そっか。桐山くんはもうずっとそうやって来てるんだもんね」

 

「僕の場合は義務教育中で目をつぶってもらってるところも結構ありますけど……。

 世の中には、学費全部自分で稼ぎながら、大学に通ってる人もいるみたいですし、今は奨学金とかの制度もあるって聞いてます」

 

 けど、実際それほどお金の心配はしていなかった。専門学校や短大であればそれなりに抑えられるし、あの男からのお金はこういう所に使うためにあるんじゃないだろうか。つくづく、絶対に受け取っておいた方がいいと譲らなかった、菅原さんに拍手を贈りたくなる。

 

「あかりさんは、もっと自由にして良いと思うし、自分のことだけ考えても全然大丈夫ですよ」

 

 長女所以の性なのか、元々の気質がそうさせるのかは分からないけれど、彼女は少し責任感が強過ぎるし、優しすぎる。

 

 あかりさんは、少し考えた後、もう一度先生と話してしっかり固めてから、その上でお母さん達にも話したいとそう言った。

 もしかして、大学生をしてるあかりさんを見れるのかもとすこし想像してみて、それも悪くないなぁと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 




島研が好きすぎて、なんでこの4人こんなに良いのだろうか。
桐山くんはすっかり川本家の一員です。

そういえば、このシリーズですが、ちょうど3月のライオンのアニメ第二シリーズが放送された時に、週一くらいで更新していたのです。
でも、この投稿の後、私は半年ほど、次の話を投稿出来ませんでした。
主として私生活の事情のせいですが。
当時はここでエタったなぁと思われていたのかなぁ笑


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第四十三手 また春が来て

 

 寒さが深まってきた年の暮れ。

 獅子王戦の予選トーナメントが始まった。僕は今年、5組の予選に参加する。6組の時と同様に、相変わらず本戦に出場できるのは予選トーナメントで一位になった者だけだ。

 本戦トーナメントに出場できればA級棋士たちとの対戦の機会が増えるし、当然挑戦権だって見えてくる。

 今は順位戦やMHK杯の他に勝ち進んでいる棋戦もないから、充分に対局への準備が出来た。

 

 C級1組の順位戦も、はや8戦が終わり、全勝できていた。

 年が明けて残り2戦も順当に勝つことができればB級2組へと昇級できるはずだ。

 そういえば、もう遠い記憶だけれど、前の人生ではC2で一度足踏みしたな……と懐かしく思った。

 あの時は、プロになってそこで緊張が緩んで、目的を見失ってしまっていた。何のために指しているのか分からなくなって、指し筋に迷いしかなかった。当時の僕には、それでも必要な時間だったと思う。

 

 でも、今は大丈夫。沢山、たくさん指したい人たちがいるから。

 勝ち上がっていって、特別な舞台で、指すことに魅せられてしまったから。

 

 

 

 順当に日々の棋戦をこなして、学校へ行って、時々川本家に顔を出した。

 あかりさんは、とりあえず受験することを決めたらしい。

 相米二さんと彩さんがなによりもそれを推していたし、もちろんお母さんの美香子さんも応援していた。

 なにかと物入りになるだろうと、三日月堂への大口注文も時々仲介したりもした。僕のお気に入りの店だと言うことは、ファンの間ではすっかり有名らしかった。

 相米二さんが将棋の関係者が訪れること多くて、箔がついたと喜んでいるとひなちゃんがこっそり教えてくれた。

 

 美香子さんのお腹にいる赤ちゃんの経過も順調らしい。

 高齢出産に強い、都内の病院ってどこがあるだろうって、色々調べていたら、意外なことに藤澤さんよりも、後藤さんの方から助言があった。奥さんが何度かお世話になったことがあるらしく、信頼できるお医者さんに伝手もあった。

 おまえはほんと世話焼きだな……と面倒くさそうにしながらも、顔つなぎは丁寧にしてくれた。なんだかんだ後藤さんも面倒見が良いと思う。

 

 

 

 冬休み前、最後の部活の日には将科部のちょっとしたパーティをした。この秋は少し余裕があったから、野口先輩たちの実験に参加する機会も何度かあって、今の彼らの活動が以前の高校生の時の活動につながって行くのかと感慨深かったものだ。

 将棋のルールについても部員全員が覚え始めていた。

 桐山君のMHK杯を見るのが楽しみだなんて言われたら、勝ち進まない訳にはいかないだろう。

 クリスマスには、ケーキを持って施設の皆に顔をみせたりと、それなりに学生っぽいことも出来た年の瀬だった。

 

 

 

 ただ年末年始は、自宅で将棋三昧の予定だ。藤澤師匠は未だ入院中のままだから、昨年のような門下の集まりもない。

 この川辺のマンションで幾度となく一人で、年を越してきた。その日々を想うと少し懐かしくて、寂しいとはあまり感じなかった。

 

 今年の寒さは例年よりも厳しく、すこし体調を崩しがちだったのもあり、猫たちを構いながら、あかりさんや明子さんがお裾分けしてくれたお惣菜を食べて、のんびり過ごそうと算段していた。

 

 

 だから僕は、まさかあんなに珍客が訪れるだなんて想像にもしていなかった。

 

 

 

 

 

 


 

 プロ棋士ともなれば、それなりに付き合いもあるし、年末は挨拶にいかなければならないこともある。

 諸処の面倒事を一通り片付けて、妻の見舞いも終えた俺が、ふとそこに足を運ぼうと思ったのは、まぁただの気まぐれだった。

 

 

 藤澤門下の末の弟子のことをなんとなく気にかけてしまうのは、別に師匠に言われたからだけではない。

 年に似合わず、身の回りの事はしっかりやっていると思うし、俺が気を回さなくてもあいつの自称保護者は、大勢いる。

 それを分かった上で、たまに様子を見に行ってしまうのは、あいつの指す将棋を俺も気に入っているからなのだろう。

 

 これまでも何度か、ふらりとあいつの家に寄ることがあった。

 酒と、一応家主への手土産を持って、連絡も無く訪ねてみると、一報くらい下さいよと、最初は小言を言うくせに、将棋盤を挟むともうそんなことは二の次なのだ。

 

 あいつと指すのは、面白かった。

 ごちゃごちゃしている頭の中を一瞬で将棋一色に塗り替えてくれる。

 見舞いの帰りにふらりと寄りたくなるのは、あの時間の後は不思議と頭がスッキリして、心が落ち着くからなのかもしれない。

 

 

 

 川沿いを歩いて、あいつのマンションにたどり着くと、エレベーターの前によく知った後ろ姿が見えた。

 

「……なんで、てめぇがここにいる」

 

「あれ? 後藤さんじゃないですか。 桐山に会いに来たんですか?」

 

 両手に紙袋を持った島田は、のんびりとした口調でそう尋ねてきた。

 

「今年最後の対局の日に、桐山ちょっと風邪っぽかったんで、山形に帰る前に会っておこうと思いまして」

 

 年末に貰い物も多かったから、お裾分けもかねて、と袋をみせてくる。

 

「……そうか。これ、あいつに渡しといてくれ」

 

 俺は、興がそがれて、自分の荷物を押しつけてその場を後にしようとした。

 

「えー自分で渡して下さいよ。ここまで来たなら会っていったらいいじゃないですか。ほら、エレベーターも来ましたよ」

 

 ドアの開ボタンを押して、俺を促すそいつにどこか既視感を覚えながら、

まぁ……師匠にも頼まれてるしな……と渋々後に続いた。

 

「はい。どうぞ」

 

 インターホンを鳴らした後に、俺たちを迎え入れたのは、予想だにしない人物だった。

 

「宗谷!? おまえ東京に来てたのか」

 

「うん。ちょっと仕事があって。…… 寒いしさっさと入って」

 

 勝手知ったる様子で、そう促すあいつに続けば、部屋にいたのは桐山だけではなかった。

 

「土橋に隈倉まで……」

 

「よう。後藤、奇遇だな」

 

「島田と後藤さんも来たんだー、僕らもさっき来たとこ」

 

 部屋の大部分を占めている大きい炬燵に入って、暢気に返事をしたのは、土橋健司と隈倉健吾の二人だ。

 

「なんだ? 今日は何かの集まりか?」

 

「ううん。別に約束してたわけじゃない。宗谷くんが東京に出てくるのは知ってたから、ご飯でもどうかなって連絡したんだ。そうしたら、先約があるって言うからさ」

 

「たまたま、その場に居合わせた俺も興味があってついて来たわけだ」

 

 疑問に思った俺に、二人はそう答えた。

 

 聞けば、宗谷が東京に出てきた時、ついでに桐山の家にくることは、珍しい事ではないそうだ。

 特にあの棋神戦以降、その頻度は増しているらしい。

 

 それには、少なからず驚いた。

 宗谷冬司と言う男は、自ら動くということを滅多にしない。

 それこそ将棋を指す時以外は、省エネモードで頭の半分も動いていないのでは、と疑うレベルだ。

 

「島田さん、後藤さんこんばんは。宗谷さんもすいません、代わりに出てもらって……」

 

「気にしないで。台所で忙しそうだったし」

 

 キッチンの方でなにやら、忙しなく動いていた桐山が俺たちに声をかけた。

 答える宗谷の声は気安く、慣れたものだった。

 料理をしている桐山の手元をみる表情は、興味深そうで、こいつら本当に打ち解けているんだな、と少し意外だった。

 

 

 

「急に来て悪かったな。風邪はもう治ったのか?」

 

 島田はコレお裾分けな、と桐山に紙袋を手渡しながらそう尋ねた。

 

「はい。最後の対局の日の後ちゃんと病院行って、熱も昨日下がったんで、もう治りかけです」

 

 聞き捨てならない、その返事におれは思わず口を挟む。

 

「おまえ……熱があったなら連絡しろよ。師匠とも約束してるだろ」

 

「あっ……。でも、ほんとにちょっとでしたし、寝てたらすぐ下がったんで……」

 

 バツが悪そうにしている桐山と、説教している俺の様子を見て、隈倉は面白そうに笑った。

 

「後藤もすっかり保護者だな」

 

「……うるせぇ。一応同門だから仕方なくだ」

 

「後藤さんも島田さんも、よかったら食べて行ってください。隈倉さんたちがお鍋の材料沢山買ってきてくれたんで」

 

 もうすぐ出来ますから、と言われ、隈倉や土橋にも促され、結局俺と島田も腰を落ち着けることになった。

 

「お! おちびさん、元気だったか」

 

 炬燵に足を入れた島田の膝の上に、ぴょんと黒猫が飛び乗る。あいつは、それに嬉しそうに声をかけた。

 

「もう一匹いたんだね。シロくんにはさっき散々、つきまとわれたんだけど」

 

「桐山の家には番猫がいるって噂は確かだったな」

 

 初めてこの家に足を踏み入れた、土橋と隈倉はシロの奴に散々警戒されたらしい。

 今もキャットタワーの上から、こちらを悠然と見下ろしていた。

 

「黒い子……出てきたの初めて見た」

 

「クロは怖がりなので、お客さんが来てるときは滅多に出てこなくて……でも、島田さんには懐いてますね」

 

 宗谷の言葉に、桐山はそう答えて、机の上に箸や小皿を準備し始めた。

 

「おぉ? そろそろ完成か? 俺が運ぼう。結構な量になっただろうからな」

 

 隈倉がキッチンの方から鍋を運んできた。よくまぁこれだけ買ってきたなと思う。桐山の家に大きい土鍋があったのも意外だった。いつの間にか、知らない物が多く増えていた。

 具材はまだあるから、どんどん食べて欲しいと言う。

 

「お酒もどうぞ。隈倉さんたち買ってきてましたよね?」

 

 未成年がいるのにと遠慮しようとする島田を押し切って、桐山が勧めた。

 酒も煙草も、もうすっかり気にならないと言う。

 これだけ、棋士たちの間でもまれていれば、それも致し方ないのかもしれない。

 

 桐山はくるくるとよく気を回した。

 皿が不足すれば新しいものを出してきて、出汁が足らなくなれば補充した。

 宗谷のやつなんか、面倒みられっぱなしで、これじゃあどちらが大人か分かったもんじゃないと、隈倉に笑われていた。

 藤澤さんのところでも、こいつはよく動いていたなぁと思う。

 

 

 

 

 

 腹がふくれた後に、プロ棋士がこれだけ集まって時間もあるとなれば、指さないわけもなく。

 気づけば酒を片手に、将棋盤を囲っていた。

 

 ついこの間、宗谷が終えた獅子王戦の棋譜を並べ、検討する。

 4勝1敗と隈倉相手に、危なげなく防衛し宗谷はこのところ絶好調だった。

 

 それでも、5局目はかなりの接戦で、俺たちの間では話題になっている。

 隈倉に勝機はなかったのか、逆に何が敗因だったのかと、自然と議論になるのも当然で、そして、桐山は、そんなとき中々に鋭い指摘をするのだ。

 

 大人の中に割って入り、トップ棋士たちに物怖じもせず意見してくるのは、こいつも一端の棋士だからか。

 

 相変わらず生意気だが、こういう所を多分、俺も気に入っている。

 

 

 

 

 

 


 

「あれ? 桐山くん寝ちゃった?」

 

 ずっと長考しているのかと思った桐山くんは、気がつくと炬燵布団の隅にまるまって、小さく寝息を立てていた。

 

「珍しいな。一緒に指しながら、オールすることもあるのに」

 

「そこは止めてやれよ。 桐山まだ成長期なんだぞ」

 

 不思議そうな宗谷くんに、島田さんが呆れたように答えた。

 

「まだちょっと風邪っぽいって、ご飯のあと薬も飲んでたからじゃない? アレって眠くなるし」

 

 そうでなくても、急な来訪者を迎え入れて、色々と気を回して動いていたのだから、疲れたのだろう。

 宗谷くんが東京に仕事に来た時には結構な頻度で、ここを訪れていると聞いたときには驚いた。けれど、桐山くんは突然来た僕たちにも、戸惑った様子を見せなかった。

 普通若手の棋士は、宗谷くんをみたらガチガチに緊張するのだが、桐山くんの慣れた様子に、二人の仲の良さがうかがえた。

 

「何にせよ。このままで寝るのはよくない」

 

 隈倉さんは桐山くんを軽々と抱えると、ベッドへと運んであげていた。

 

「こうして見ると、ちゃんと子どもなんだな」

 

 毛布を掛けてやりながら、そう面白そうに呟く。

 さっきまで、僕たちと果敢に議論していた時と違って、寝顔はとてもあどけなかった。

 

「桐山くん今いくつだっけ?」

 

「13歳だ。来年中2になる」

 

 ふとこぼした僕の言葉に、後藤さんが小さく答える。

 

「まだ中坊なのか……俺にとったら何十年前の記憶かね」

 

「奨励会の頃から見てた俺からしたら、大きくなったなぁって思います。記録係を始めた頃なんて、身体も本当に小さかったですから」

 

 隈倉さんの言葉に、島田さんが懐かしそうに目を細める。

 

「島田は良いよなぁ。その頃の流れで、一緒に研究会やってるんだろ」

 

 誰が持ち込んだのか分からない饅頭をつまみに、酒を飲みつつ隈倉さんがそう続けた。

 

「まぁ、このメンバーで一番桐山と定期的に指してるのは俺でしょうね。毎回はっとするような手を指してくるから、うかうかしてられません」

 

 困ったように笑いながらも、その口調はどこか嬉しそうだ。

 

「まぁ俺も会長のテレビ企画のおかげで比較的はやく、桐山とは指せたけどな」

 

「でも、プロ入り後の公式戦で一番最初に桐山くんと指したのは僕だよ」

 

 機嫌よく島田さんに告げる隈倉さんに、僕も便乗すると、

 

「それを言うなら、このメンツで最初にあいつと対局したのは多分俺だし、奨励会の頃から数えたら対局してる数一番多いんじゃねぇの」

 

 まさかの後藤さんまで乗ってきた。

 お酒が入っているからかな。いつもより口が軽い。

 

「まぁ、プロ棋士の中で、一番桐山くんに勝ち越してるのは、僕だけどね」

 

 将棋盤に集中して、こっちの話なんて聞いてなさそうだった、宗谷くんがとどめにそうかましてきて、さすがの僕たちも驚いた。

 

「おまえはあの七番勝負で、対局数を稼いだからな」

 

「早くA級にもあがってくればいいのにね。総当たり戦きっと楽しいよ」

 

 きっとあの子はこのままB級にあがって、すぐにA級まで上がってくる。

 この歳でタイトル戦を経験しているのだ、実力はもう充分ある。

 

「桐山くんとのタイトル戦は良かったよ。特に後半戦。……はやく、またあんな対局ができたらいいな」

 

 小さく呟いた宗谷くんの言葉には渇望の色が滲んでいた。

 こんなに人間っぽい感情を出すことなんてなかったのに。これはひょっとしたら良い変化なのかもしれない。

 

「あのタイトル戦から、宗谷の棋風ちょっと変わったよな?」

 

「そうだね。受け身が多かったのに、ちょっと好戦的になったし、目新しい手が増えた」

 

「そう? あんまり、意識してなかったけど。でも、刺激を受けたのは確かだから。色々やってみたくなったのかも」

 

 自分のことなのに、相変わらずまるで他人事のようだった。

 

「刺激ね……棋匠戦にやたらと気合いが入ったのもそのせいか?」

 

 宗谷くんの言葉を受けて、後藤さんが尋ねた。

 

 現在六冠である宗谷くんが唯一挑戦者になる棋匠戦。

 年が明けてすぐやってくるその棋匠戦の挑戦権へ、宗谷くんはトーナメントを勝ち上がっている。挑戦権獲得は、ほぼ目前まで来ていた。

 

「うーん、挑戦者側も久々に体験したくなったからかな」

 

 防衛する側と挑む側。宗谷くんは最近めっきり挑む方には回っていなかった。

 桐山くんとの対局でそちらへの興味もわいたのだろうか。

 

 

 

「後は……なんとなく欲しくなったんだ。七つ目のタイトルも。

 そうしたら、あの子がどのタイトル戦で挑戦権を取ったとしても、目の前にいるのは僕でしょ」

 

 

 

 何の気負いもなく続けられた言葉に、僕らは今度こそ絶句した。

 

 もし仮に、七つのタイトルを同時保持することになれば、二度目の七冠として将棋界の歴史に刻まれる偉業となるだろう。

 それをまぁなんと、気軽にいってのけるのだろうか。

 宗谷くんは、史上初だとか、記録だとかに意義を見い出す性格ではない。

 だから、ただ純粋に欲しくなったのだろう。そして、本気で取りに行っている。

 

 ゾクッと背筋が寒くなった。

 その強さと、その自信への畏怖と、彼が本気になりまた一つ高みへと登ろうとすることへの歓喜だった。

 あぁ……きっと来年はより一層、名局が生まれることだろう。僕はそれが嬉しくて仕方なかった。

 

 

 

「かー!! 俺らは眼中にないってか!! おまえ、今に見てろよ」

 

 シンッと静まりかえった部屋に隈倉さんの声が響く。

 

「くっそ、余裕こいてるうちに、ぜってぇ引きずり降ろしてやる」

 

 後藤さんも心底嫌そうに眉をひそめた後に、そう続けた。

 

「別に、隈さんでもいいよ。後藤さんとも土橋くんともタイトル戦をやるのは楽しいし。島田もはやく上がってきてね」

 

 二人の勢いをものともせずに、宗谷くんはあくまでマイペースだ。

 その言葉に嘘はないだろう。僕らとタイトル戦をするのも楽しい。

 でも、今一番興味があるのが、桐山くんなんだろう。

 

「宗谷くん、今いろいろと楽しいんじゃない?」

 

 なんだか嬉しくなって、そう尋ねた僕に彼は一瞬きょとんとした顔をすると、

 

「……うん。 そうかも。 これはたぶん楽しいって感情だと思う」

 

 漫然とそう頷いた。

 

 将棋はもちろんだけど、彼はここ最近、生き生きしてるような気がした。

 そして、その勢いと調子の良さはしばらく止まることがないように思えた。

 

 

 

 

 


 

 食べて、指して、飲んで、指して、しゃべって、指して……僕のお正月はそれで終わった。

 島田さんは山形への帰省があったし、後藤さんも一晩いてすぐに帰った。土橋さんもご両親のことがあるから大晦日の前には、自分の家へ帰って行った。

 けれど、宗谷さんは、お祖母さんはお友達と旅行にいっていると言って、そのまま僕の家で年を越したし、隈倉さんも特に用事はないからと、それに付き合っていた。

 

 お酒が入っているときもあったから、普段の研究の時と違って、どこかのんびりと時間が流れた。

 A級棋士の人たちと検討しながら、年が暮れていくなんて、どれほど贅沢なことだっただろう。

 

 

 

 年が明けてからの将棋界は宗谷さんと柳原さんの棋匠戦の話で持ちきりだった。

 同時並行しているタイトル戦があるにも関わらず、破竹の勢いで勝ち上がり挑戦権を獲得した宗谷さん。

 もし棋匠のタイトルも獲得することになれば、彼は再び、七冠になる。

 偉業再び達成か! と世間からの注目も高かったらしい。

 

 僕も二局目には、大盤解説に呼ばれて、間近でその対局をみていた。

 手堅く丁寧に指している柳原棋匠と、序盤から果敢に攻めていく宗谷さん。

 新手も飛び出して、後から宗谷さんの棋風の若々しさは大きな話題を呼んだ。

 

 現状に甘んじない。進化し続ける天才。一人次元の違うレベルに到達した。

 なんて、あおり文句が新聞を賑わせ、宗谷さんは結局三連勝をし、ストレート勝ちでタイトルを奪取することになった。

 

 

 

 

 何度も何度もその棋譜を見直して、検討していると、僕の気持ちも上がってきた。

 

 指したい。

 宗谷さんと公式戦で。

 9月のタイトル戦の時とはまた違う、彼に会ってみたい。

 

 そんな気持ちを抱えて、夢中で目の前の対局をこなし続けた。

 

 そして、その機会は訪れる。

 

 MHK杯決勝。

 本戦出場者のなかで勝ち上がってきた僕は、その大舞台で宗谷さんに挑むこととなる

 

 

 

 

 七冠で世間を賑わせたすぐ後、おまけに棋神戦での対局の記憶も新しかったようで、この対局の注目度は非常に高かった。

 

 MHK杯のほとんどの棋戦は録画での収録で、そのあと順次放映されるのが通例だが、今回の決勝戦は生中継されることが決定した。

 

 持ち時間が短いとはいえ、対局時間は前後しやすい。放映の枠を取るのも大変だろうに、会長はまた張り切っているようだった。

 テレビで予告のCMまで流れていて、学校でも、随分と話題になった。

 林田先生は勿論、教頭や校長もそわそわしていたし、クラスメイトにまで日曜日絶対見るから、と声援を送られた。

 青木くんからは、施設の子達が宗谷さんはラスボス並みの強さと認識しているらしく、零兄ちゃんがラスボスに挑むんだ! ととても興奮していたと報告された。

 

 

 

 棋神戦の敗退からおよそ半年。

 僕はどれだけ、成長できたのだろう。

 少しは宗谷さんに近づけたのだろうか。

 

 

 

 対局の日はあっという間にやってきた。

 

 先手が僕で、後手が宗谷さん。

 持ち時間10分、使い切ると30秒の早指しによる対局が始まった。

 

 僕が選んだ戦法は「棒銀」で宗谷さんは、少し意外そうな表情を浮かべたけれど、すぐに対応してきた。

 棒銀は、銀を捨てて香車と飛車で端を突破するという戦型が多くなる。

 この対局もその例にもれず、僕は銀を捨て、宗谷さんの香車と交換し、右端を突破しようと試みた。

 けれど、中盤の宗谷さんの手が冴え渡り、思うように動けない。

 どこに逃げても飛車が取られてしまう。

 考えた末、飛車は逃げずにここは2四歩として宗谷さんの飛車を取り、その歩で銀と金の2枚替えを狙おうと試みた。

 

 状況は良くなかった。

 僕はなんとか、宗谷さんの銀と金を剥がしたものの、宗谷さんの香車で飛車と桂馬が剥がされてしまった。

 そして、58手目、1八飛打。

 取られた飛車を絶妙な位置に打ち込まれた。

 

 まずい……2九歩成と指されたら、ほぼ必勝状態じゃないだろうか。

 それに、僕の攻めゴマは盤上の香車1つだけ。持ち駒は、角金銀と豊富だけれど、盤上では攻めゴマとして働いている駒が少なすぎる……。

 せめて持ち駒に飛車があったら、1二の地点に飛車を打ち込んで一気に寄せに持っていく事も可能かも知れないが……。

 

 駄目だ!

 考えろ!

 長考用の持ち時間の10分はあと少ししか残っていなかった。

 その数分がまるで、数時間に感じるほど、思考の海に深く潜り込む。

 全部読み切っているような暇はない。

 経験と、流れと、感覚と……全ての研ぎ澄まして、その一手を探した。

 

 

 

 

 

 そうして思考の果てに僕は、見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

    ・

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    ・

 

[うーん、桐山六段これはちょっと厳しいか……]

 

[完全に宗谷名人ペースだな。]

 

[名人が2九歩でもうきまりだろ]

 

[いやーやっぱ最近の宗谷名人なんか違う。]

 

[今までも、別格だったけどさ。なんかさらにやばくなってね?]

 

[あーまた宗谷さんの優勝か……これで何勝目よ]

 

[ここ最近ずっとこの人が取ってるからなぁ。桐山くんに期待してたんだけど]

 

[名人は早指し比較的得意だし、あの人の読みの速さについていける棋士もういないんじゃないの?]

 

[桐山六段、長考時間使い切る気かな~]

 

[どれだけ考えてもここからはひっくり返せないだろ]

 

[あ、打った]

 

[んん? 5二銀?]

 

[え、これは悪手じゃね? 金か飛車かただであげるようなもんじゃん]

 

[さすがに無理だったか……]

 

[え? でも解説の土橋九段、めっちゃ絶賛してるよ?]

 

[ちょっと待てよ]

 

[これ、同金や同飛車しちゃだめだよ! その後詰むのは、名人の方だ]

 

[まじで?]

 

[これ取ったらだめなんか]

 

[あ、俺もわかった。確かに駄目だ]

 

[じゃあ、放置してそのまま攻めるのは? このままでも名人優勢だろ]

 

[んー、そうでもない]

 

[これもしかして、もしかするかも]

 

[攻めるなら2九歩成から王手かけてくことになるけど……桐山くんの持ち駒多いから、逆に宗谷さんの玉が詰みかねん]

 

[あ、宗谷名人、4二玉だって]

 

[うーん、弱いな……]

 

[うっわ、桐山六段、6一銀不成で金補充!!]

 

[名人、これは痛いな]

 

[一気に形勢かわっちまったな……]

 

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    ・

    ・

    ・

 

[67手目 3二金打 にて宗谷名人の投了!!]

 

[すげぇ……61手目の5二銀から、わずかに6手]

 

[鳥肌がとまらん]

 

[あの一手が全部ひっくり返しちまった]

 

[確かに、あそこに指されたらそこしかないって分かる。けどあの数分でそこにたどり着けるか?]

 

[常人には無理]

 

[魔法みたいな一手だったな]

 

[うわー七大タイトルじゃないけど、桐山六段、全棋士参加の棋戦ではやくも優勝か]

 

[これは熱い。二度目の七冠でまだまだ宗谷一強の時代が続くかと思われた矢先に]

 

[最年少棋士が破って優勝ってか!]

 

[これでまた昇段だな]

 

[じゃあ桐山七段?]

 

[まだプロになって二年しかたってないのにww]

 

[六段だった期間も半年くらいしかなかったな……]

 

[七冠のラスボスから、なんでもいいからタイトル取って欲しいなぁ]

 

[もしそれが実現したら中学生のタイトルホルダーになるわけですが]

 

[ここまで来たら、全然ありえる]

 

[むしろいま一番確率高いの桐山君じゃね?]

 

    ・

    ・

    ・

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 3月末。

 MHK杯で優勝し七段になった僕は、最後の順位戦の日を迎えていた。

 今年度最後の棋戦。

 この対局に勝てば全勝でB2への昇級も決まる。

 宗谷さんの連覇を阻止し、優勝したことで、周囲はまた少し賑やかになっていたが、会長達がうまく采配してくれるおかげで、それほど困ってはいなかった。

 

 

 

 その日の対局相手は、なぜだかとても緊張している様子で、序盤からあまり手に切れがなかった。

 打ち掛けの前には、ほぼ勝負は決したようなもので、夕方には終局になりそうなくらいだった。

 

 

 

 予想に違わず、その日の対局は勝利で終えた。

 会館を出たあと、携帯電話に入っていた一通のメールを見た瞬間、僕は走り出していた。

 

 一秒でも早くそこに行きたかったから。一秒でもはやく会いたかったから。

 

 道端でタクシーを拾って、病院の名前を告げて、あとはそわそわと落ち着きがなかった。

 せわしなく何度も、何度も、携帯電話の画面をみていた。

 運転手さんも僕の様子をみて、何かを察したのだろう。お客さん、なるべく裏道使って急ぎますから、と静かにそう言ってくれた。

 

 タクシーが病院に着いた後、お釣りはいりませんから、と運転手さんに代金を押しつけて、車を飛び出した。

 病院の中は走っちゃ駄目だって、精一杯抑えて、告げられた病室へ向かう。

 でも、傍目からみたら、ほとんど駆けているのと変わりなかった事だろう。

 

 ようやく病室の前に辿りついて、呼吸を整える。

 ドアをノックしようと、持ち上げた手は震えていた。

 

「はい、どうぞ」

 

 返された声は、想像よりずっとしっかりしていた。

 失礼しますと声をかけて、そっと病室に入った僕が目にしたのは、疲れた表情ながらも意識もしっかりして、どこか嬉しそうな美香子さんの姿だった。

 

「あの、僕、あかりさんのメールに今さっき気づいて……それで……」

 

 頭の中がこんがらがって、うまく言葉にならなかった。

 

「うん。ありがとう。急いできてくれたのね。無事に生まれたの。私も、この子も元気いっぱいよ」

 

 全身の力が抜けるかと思った。それくらいの安堵感だった。

 

「びっくりさせてごめんね。桐山君が、対局中だと思ったから、お産が始まった時は連絡しなかったの。でも、生まれたのは、はやく知らせたくて……」

 

 病院を探してくれたり、先生を紹介してくれたり、本当にお世話になったから、と続けられて僕は慌てて首を振った。

 

「そんな! 僕に出来たことなんて、それくらいで。後は、皆さんが協力して頑張ったからで……。あの、顔をみせてもらっても良いですか?」

 

「もちろんよ! 抱いてあげて」

 

 美香子さんはそう言うと、そっと赤ちゃんを僕に手渡した。

 自分の子どもの世話をしていたから、抱っこするのなんて慣れているはずなのに、なんだかとても緊張した。

 ふにゃふにゃで小さくて、柔らかくて、これほどまでに尊い存在はないように思えた。

 

「……名前は? 名前はもう決められたんですか?」

 

 美香子さんは、そっと頷いた。

 

「もも。この子の名前はもも。

 女の子だったらこの名前にしようって、ずっと前から決めていたの」

 

 色々辛いことがあった、我が家に春をつげに来てくれる子。美香子さんは静かにそう呟いた。

 

「……っ、とっても! とっても良い名前だと思いますっ」

 

 いろんな気持ちがこみ上げてきて、それ以外言葉にならなかった。

 小さなこの命が、いまここに在ることが奇跡だと思った。

 

「ももちゃん。これから、よろしくね」

 

 抱き上げた僕の手の指をももちゃんが、小さく握り返した。

 また、君と会えて嬉しい。

 これから成長していく君をそばで見ていられるなんて。

 

 相米二さんはさっきから感動して泣き通しで、彩さんはあかりたちの時と同じね、とその様子にすこし困ったように笑っていた。

 ひなちゃんは、ももちゃんのことをのぞき込んでは、終始にこにこしていた。

 無事に専門学校への進学を決めたあかりさんは、ももちゃんを抱く美香子さんにずっと寄り添っていた。

 

 

 

 うららかな春の日の夕方。

 幸せがそのまま形になったような光景だった。

 

 大丈夫だ。川本家は、これからもきっと大丈夫。

 何の根拠もないけれど、その日、僕はそう確信した。

 

 

 

 




桐山くんはB2への昇級も決め、プロ二年目の年も様々な最年少記録を塗り替え続けました。
三年目は再びのタイトル戦への挑戦に期待がかかっています。
お正月のひょんな集まりの後、桐山君の部屋には度々、A級棋士が訪れます。
川本家の末娘、ももちゃんも無事に誕生。ももちゃんの名前の由来は知らないけど、なんとなく桃の花からだったら良いなぁって。ちょうど季節が3ー4月にかけてです。

長期で投稿をお休みした後、なんとか戻ってきた時に書いたものですが、タイトルは気に入ってます。
なんとなく、いろいろ複雑におもいつつ、葛藤しつつ、でも開き直って好きに書いた記憶がありますね。


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タイトル挑戦編
第四十四手 新緑がのびて


 

 4月。新しい年度が始まって、僕は中学二年生になった。

 クラス替えが行われたが、担任は林田先生のままだったし、クラスメイトも野口先輩をはじめとした将科部の面々が多く、新しいクラスになんの不安もなかった。

 MHK杯での僕の優勝は、メディアで大きく取り上げられていたため、年度初めの登校日は、色々な人から盛大に祝われた。

 友人たちはもちろんだったけど、校長先生や教頭先生の興奮具合は頭一つとびぬけていた。

 校舎に横断幕が、かかりそうな勢いで、そこまではしなくていいですと、必死に止めたものだ。

 

 今年の将棋大賞も発表された。

 最優秀棋士賞はもちろん宗谷さん。二度目の七冠を成し遂げたのだから当然だろう。

 好調だったのもあり、記録部門でも勝率一位と、最多勝利を受賞していた。

 意外だったのが、優秀棋士賞を受賞したのが僕だったこと。

 3月にMHK杯で優勝したのが、大きかったと思う。棋神戦の影響で一度途切れていたものの、後期の棋戦はほぼ落とさず、今年も記録部門で連勝賞をとっていた事も、要因かもしれない。

 

 前人未到の強さを見せ続ける、将棋界の顔である宗谷さんと、期待の新人である僕のツーショットは新聞に掲載され、昨年同様、世間の受けは良いらしく、会長はもちろん広報担当の人達は上機嫌だった。

 

 宗谷さんは相変わらず絶好調の状態を維持している。

 棋匠を奪取し、七冠になった後すぐ、玉将戦の七番勝負が土橋さんとあったが、ストレートで防衛していた。

 間で僕とのMHK杯を挟んだし、多忙なスケジュールだっただろうに、その疲れは少しも見られなかった。

 そうこうしているうちに、4月はもう名人戦がはじまる。昨年度のA級順位戦を勝ち抜いた隅倉さんとの七番勝負だ。

 

 今年度の将棋界は、宗谷名人がいつまで七冠を維持できるのか、いったい誰が、彼の人からタイトルを奪取できるのか、注目が集まることになるだろう。

 

 僕も新年度、好調な滑り出しをして、どのタイトル戦でもいいから挑戦権の獲得を目指したいと思っている。

 そんな中、最近、僕を悩ましていることが一つ。

 

 どうにも夕方対局が終わったあとくらいから、夜寝ているときなど、関節が痛むのだ。

 その日によって、痛みが出る場所は違う。痛みの程度も違う。酷いときはねられないくらい痛いし、ある日は全く痛まない事もある。

 痛むのは足が多かったけれど、時々肘のあたりが痛いこともあって、痛むところに法則性もあまり見つけられなかった。

 夜、研究をしている時に痛みだすと、集中できなくて煩わしかったものの、眠れないときは市販の痛み止めを飲めばしのげたし、対局がある日中に痛むことが少なかったため、病院にいくこともなく、結局そのままにしていた。

 

 けど、4月末になると、痛む頻度は増えて、遂には対局中にまで影響を及ぼすことになった。

 

 決定的だったのは、5月頭にあった聖竜戦挑戦者決定トーナメントの準決勝の日。

 2月末ごろから始まっていたこのトーナメントに僕は、本戦から出場していた。昨年島田さんに敗れたものの、ベスト4まで進みシード権を獲得していたからだ。

 今年も同じく準決勝まで、勝ち進むことが出来て、その対局相手は後藤さんだった。

 

 おかしいなと感じ始めたのは、昼休憩の後すぐのこと。

 駒を持ち、指すという小さな動きをするごとに、正座をしている足にピリリと痛みが走った。

 夜中に一番、痛む頻度が多い膝だった。

 

 対局は中盤で、集中力も増していて、それほど気にならなかったものの、時間がたつごとにその痛みの存在感も増してくる。

 ついには、変な汗まで出始める始末で、僕は自分の手番で一度席を外して、対局室の外に出た。

 膝を伸ばしてみても、痛みは取れない。寧ろ固まっていた状態からいきなり動かしたから、かえって良くなかった気もする。

 鞄に潜ませていた痛み止めを飲んで、気を紛らわせた。

 効いてくるのには時間がかかる。それにこれから夜になるにつれて、痛みの程度は増すだろう。

 

 よりにもよって、なんで今日なのだろうと考えながら、持ち時間が減る一方なので席に戻った。

 

 あまり気は進まなかったけれど、このまま正座をするよりは……と失礼しますと一声かけて、ゆるくあぐらで座らせて貰った。

 後藤さんは、一瞬だけチラッと視線をあげて僕の方を見たけれど、何も言っては来なかった。

 普段はあまり使うこともない、脇息も利用しながら行った終盤は、また対局に集中出来たと思う。

 

 

 

 けれど、ねじりにねじ切れて、この対局は後藤さんの勝利で終わった。

 

 

 

 感想戦もそこそこに切り上げると、後藤さんは、すくっと立ち上がって、一言。

 

「送っていってやる。ついでに、病院に寄るぞ。この時間ならまだどっか開いてるだろ」

 

 体調が悪いのはお見通しのようだった。

 

「え……。大丈夫ですよ! 必要ならちゃんと自分で行きます」

 

「俺に勝ってたら、信じてやっても良かったが。負けたんだから、大人しく言うこと聞け」

 

 にべもなく、そう告げられて、手を引かれるままに車に連行される。

 対局室を出るときに、歩けないなら運ぶぞ? と言われたが、それだけは断固拒否した。

 

 車の中で、いつ頃からどういう症状で、今どう痛いのか、根掘り葉掘り聞き出された。

 結局、後藤さんの知り合いの先生で、整形外科の外来をしている個人病院に寄ることになった。

 相変わらず、棋士の顔は広い。

 

 外来時間終了ぎりぎりだったにもかかわらず、あっさり受付を済ませて、診察になった。

 レントゲンをとって、触診と問診を済ませた後、先生が一言。

 

「おそらく、俗にいう成長痛です」

 

「……成長痛」

 

 想定外の単語が出てきて、ぽかんと聞き返してしまった。

 

「えぇ。桐山君、急速に身長が伸びてますし、痛みの箇所がコロコロ変わること、夕方から夜にかけて痛むことが多いようですし、まず間違いないでしょう」

 

 数ヶ月前より、身長は5cm伸びていた。よく周りにいる大人が大きいから、あまり実感はなかったけれど、どうやら僕は成長期に入ったらしい。

 

「もともと、激しい運動をする子とかに、痛みが顕著にでることが多いけど、君はすこし膝に負荷がかかることが多そうだしね」

 

「えっと……じゃあ、しばらくはこの痛みが続くってことでしょうか?」

 

「まぁそうなるね。身体にとっては大事な時期だし、うまく付き合っていくしかない」

 

 いくつか、痛みの軽減に効くストレッチを教えてもらい、症状にあった痛み止めを処方してもらった。

 常用は好ましくないらしく、今日のようにどうしても痛むと困る日にだけ、飲むようにといわれた。

 対局の日は、仕方ないかもしれないが、普段家で研究する時は正座はやめておくとか、負担も減らすようにアドバイスをくれた。

 

 

 

 

 

「後藤さん、今日はありがとうございました」

 

 病院を後にして、僕のマンションの近くまで送って貰ったあと、後藤さんにお礼を告げた。

 迷惑をかける前に、さっさと病院に行っておくべきだったと思う。

 

「……そういえば、少しは視線が近くなった」

 

 僕のことをしばし、無言で眺めた後、後藤さんはおもむろにぐしゃぐしゃと僕の頭をかき混ぜた。

 

「うわっ、もう。何なんですか!」

 

「こういうのは、幸田さんの担当だと思ったんだがな。ま、まだまだチビには変わりねぇ。しっかり育てよ」

 

 薬がなくなったら、また連れて行くから言うようにと、僕に約束させて彼は帰っていった。

 

 その日の夜は、昼間痛んだ代わりなのか、原因が分かって少し落ち着いたからか、足はあまり痛まなかった。

 成長痛とか、何十年も前のこと過ぎて、以前の自分にあったのか、覚えがない。

 こんなに酷くはなかった気がするけれど、以前とは環境も生活スタイルも違い過ぎるし、多少の変化は仕方ないのかも知れない。

 面倒だけれど、時間が解決してくれる。先生の言っていた通り、うまく付き合って行くしかないだろう。

 

 

 

 

 


 5月に入りその月、初めての研究会の日。

 島田さんは、先日の聖竜戦の決勝で後藤さんと対局をして、宗谷聖竜への挑戦権を獲得することになった。

 研究会では、僕の敵討ちになったと二海堂が大はしゃぎで、タイトルに挑戦する兄弟子へ羨望のまなざしを向けていた。

 

 宗谷さんと言えば、名人戦で隈倉さん相手に連勝を重ねている。このままだと、またストレート防衛になりそうだった。

 島田さんは好調な宗谷さん相手にどう、戦おうかと今から色々考えているようで、研究会とは別に個人的に指さないかとも誘われている。

 オールラウンダーはそういないから、僕と指すのは感覚をならすのに、都合が良いのだろう。

 

「桐山は、聖竜もだが、棋神のリーグも惜しかったなぁ」

 

「プレーオフだったんだろ?」

 

 島田さんと、重田さんに尋ねられて頷く。

 

「えぇ、辻井さんにあと一歩のところで持って行かれてしまいました」

 

 昨年僕が挑戦権を得て、宗谷さんと対局した棋神戦。ことしは、紅リーグのシード参加から始まったが、成績が辻井さんと4勝1敗で並んだのだ。そして行われたプレーオフで惜敗。

 その日の辻井さんの四間飛車は見事だったとしか言い様がない。

 

「白リーグの優勝は後藤さんでしたね。どちらが今年の棋神の挑戦者になるのかなぁ」

 

「後藤さんも、最近は気合いが入ってるからな。俺も聖竜の挑戦権ギリギリだったよ」

 

「あの対局は凄かったですよ! 特に終盤にかけての島田さんの粘り」

 

「兄者の気迫が伝わってきました!」

 

 結局その日の研究会は、その棋譜の研究がメインになった。僕が後藤さんの視点で指していて、終局間際これは、という一手があったので、ひょっとしたらひっくり返されていたかもなんて、4人で盛り上がった。

 

「あ、桐山はしばらくここでも正座禁止な」

 

「えぇっ……、ひょっとして広まってるんですか?」

 

「んー、まぁ。後藤さんとの対局は観てた奴も多かったし。その後も時々、足崩してることあっただろ?桐山は、奨励会の頃から一度もそんなことなかったからなぁ。多少は、目につくだろ」

 

 その後島田さんは、小さく見守る会の情報網がどうのと言っていたけど、よく聞こえなかった。

 

「うむ。俺も見ていたが、あの日の桐山の様子は気になった。終盤は見事だったが、中盤いささか精彩を欠いていたからな」

 

「二海堂あの日、メールくれたよな。心配かけて悪かった」

 

「大事ないなら良いのだ! 対局に集中できない煩わしさは、俺もよく分かっている。あの日以降は、問題なさそうでなによりだな」

 

 日中に痛みが出そうな日は、少ないが、外せない対局の日はあらかじめ薬を飲むようにしている。

 あの類の薬の欠点として、どうしても眠気をさそい思考が鈍くなりがちだけれど、それは対局への集中力でまぁなんとかなった。

 

「研究会の日まで、無理しなくて良い。おまえさんだったら、普段からしてないと公式戦で持たないとかも無いだろし」

 

「身が引き締まるというか、しっくりくるのはやっぱり正座なんですけどね……。しばらくは仕方ないかぁ」

 

「桐山が成長期な……初めてここで会ったときは、ランドセル背負ったチビが来たと思ったんだが、子どもの成長ってはやいのな」

 

「重田くん。その言葉、完全に親戚のおじさんだよ」

 

「そのうち重田さんの身長も追い越しますよ」

 

「あぁ? それはまだ無いだろ」

 

「いやーわかんないよ。俺たちおじさんはもう伸び止まってるけど、桐山はこれからどんどん伸びるんだから」

 

 帰り際、島田さんや重田さんを見上げてみて、少しだけ以前の記憶に近い視点になってきたことを実感した。

 そんなに身長が欲しいわけではないけれど、前と同じくらいには伸びて欲しいと思う。

 そろそろ、大盤解説の時に、台がいることもなくなるだろう。

 

 

 

 

 


 

 6月上旬になると、今年の順位戦が始まった。

 B級2組での最初の対局相手は、すこしだけやりにくい相手。

 色々といわくがある滑川七段だ。

 この方とは、以前も何度も対局したけれど、どの棋譜もそれはもうなんとも言えない展開だった。なぜか、僕相手の時は異常な粘りをみせるから、正直苦手な相手である。

 今世ではどうなることか……。

 

 家を出るときは、晴天だったけれど、将棋会館に近づくごとに雲行きが怪しくなり、到着する頃にはすこし小雨が降り始めた。

 僕は比較的余裕を持って、対局室に入る事が多いけれど、その日はもう先に滑川さんが席に着いていた。

 

「公式戦で当たるのは、初めてですね。この日が来るのをとても楽しみにしていました」

 

 お決まりの黒いスーツに身をやつしていた彼はそう声をかけてきた。

 

「今日はよろしくお願いします」

 

「あぁ……対局が始まる前に言っておきますが、足、気にしなくて結構ですので。私は君のあるがままの対局がみたい」

 

「……お気遣い、ありがとうございます」

 

 人間観察が好きな彼だから、知っているのか、あるいはそれほど僕の話は広まっているのか。どちらにしても長い一日になりそうだなと思った。

 

 

 先手が僕で、後手が滑川さん。

 対局は振り飛車で始まった。前の時の筋違い角のような、奇をてらった戦法も警戒していたけれど、滑川さんが一番多く使う戦法で来たようだ。

 相変わらず読めない人だと思う。

 

 彼の6手目は5二飛。飛車に手をかけ中央5筋へと振る「ゴキゲン中飛車」の構えだ。

 受けの印象が強い中飛車の中でも、後手番からの攻めの戦法として使われる。

 

 それに対して、僕は3七銀。

 ゴキゲン中飛車の対策としては有名な手だ。序盤は、不気味なくらい定石通りの展開となった。

 

 中盤は持久戦の意向が示され始め、お互い堅く穴熊を組む形に。

 僕は、堅陣にうまく大駒も連動して指すことが出来て、まずまずの陣形になったと思う。

 それでも、じわじわ、じわじわと、僕の穴熊の隙をつこうと、攻め手をみせてくる滑川さん。

 

 時々、席をたったとき、なぜか部屋の入り口からじっと此方をみていたり、対局中も視線を感じたり、やりにくくて仕方なかった。

 

 そして、終盤、やはりただよって来た千日手の気配。

 

 冗談じゃない! ここから指し直しなんて事になれば、終局は夜中になってもおかしくない。

 絶対にそれは避けたかったぼくは、もう攻めに攻める猛攻。

 彼の意図をはねのけて、なんとか辛勝をつかんだ。

 

「負けました」

 

「……ありがとうございました」

 

 はぁと大きく息をついて、僕も頭を下げた。

 

「……残念だなぁ。もっと面白くなりそうだったのに。続けるには私の力がすこし及ばなかった。感想戦に入っても大丈夫ですか?」

 

「はい。お願いします」

 

 比較的長い対局となったので、一応、彼は気にしてくれていたようだ。千日手にしようとしてたのに……と思いつつも、感想戦をうける。

 感想戦中も視線をはっきりと感じながら、駒を動かした。

 

「あぁ……君との対局は期待以上でした。宗谷名人と君の対局を観てからずっと気になっていたんですよ。実際に指すのは、観た以上の素晴らしさだった」

 

 次に、指せるときまで腕を磨いておきますと、彼は言った。

 

「その時は、またよろしくお願いします」

 

 当分はないといいなぁと思いながら、僕はそう返事をした。

 

 

 

 

 

「桐山~おつかれ!」

 

「あ、スミスさん。お疲れ様でした」

 

 僕と同じくB2のスミスさんは、対局室で別のB2の棋士と対局だった。

 

「いやぁ、めちゃくちゃ面白い対局だったわ。滑川さん絶対おまえのこと気に入ったぞ」

 

「そうなんでしょうか……。そういえばスミスさんの対局は少し前に終わってませんでした?」

 

「滑川さんと桐山の対局に興味があったし、ちょっと話もあったから待ってたんだよ」

 

「……? 僕になにか用事でしたか?」

 

「ま、それは後で。良かったらメシ行かね? B2初戦、お互い白星発進ってことでおごるよ」

 

 断る理由もなかったので、夕飯は一緒に食べることになった。

 栄養をつけろ、肉を食えと、連れられて行ったのは個室もある小綺麗な焼き肉店だった。

 

 お腹も少し満たしたところでスミスさんが切り出す。

 

「桐山はさ、参加してる研究会島田さんのとこくらいだろ。他には興味ない感じ?」

 

「そうですね……個人的に指してる方はいますが、研究会みたいなのは島田さんのとこだけです」

 

 お正月以来、あのとき集まった面々がときおり、僕の家に指しにくる。宗谷さんも忙しいだろうに、次の日対局はないけど、東京で仕事があるとやってきた。宿代わりとして使われているような気がする。

 

「だったらさ。桐山が主催する気ない? 研究会」

 

「……。 えぇ!? 僕がですか!?」

 

「そんな驚くことでもないだろ。 若手同士で集まってる奴らもいるんだ」

 

「いや、だからって僕が開くことも……」

 

「何言ってんの。タイトル挑戦経験も、一般棋戦の優勝経験もある七段なんだぞ。充分だろ」

 

 研究会。以前も個人で研究することが多かったし、あまり参加した事は無かった。僕が開くとなると、どうしても違和感が先に立つ。

 

「別に大人数でしろってわけじゃない。こぢんまりとしたのでいいんだ。ぶっちゃけ、俺といっちゃんと横溝あたりとどう? ってお誘いなわけ」

 

 悩んでいる僕に、スミスさんはそう声をかけた。

 

「あぁ……なんだ。それなら、大丈夫ですよ」

 

 知り合いばかりだし、気心知れた人たちと指すのは悪くない。

 

「一番棋戦、忙しいし、学校もあるだろうからさ。桐山の都合良いときに、集まって指せたら面白いだろうなぁと思って」

 

 場所は、誰かの家で良いし、負担になるならその時々で回すのもありだろうとの事だった。

 

「あ! じゃあ、予定合わせてもらってますし、僕の家使って貰っていいです。将棋盤結構ありますし」

 

 一つは、宗谷さんが置いていったものだけど、好きに使って良いと言われている。

 

「まじで、いいの? 研究資料とかだって置いてるだろ」

 

「別に好きに観て貰っていいですよ。そんなたいした物じゃないですし」

 

 新手の研究やほんとに重要なものは、パソコンにほとんど入っているし、見られて困るようなものは無かった。

 

「まぁ猫がいるので、それだけは少しやりにくいかも知れませんが、将棋の邪魔をしてくる子達じゃないので」

 

「あの有名な猫たちか。 大丈夫、猫アレルギーの奴とかいないし、賢い子達なんだろ」

 

「あ、若手の研究会ってことなら、二海堂をよんでも良いですか?」

 

「全然OK。島田さんの門下、期待の若手だろ。俺たちも気になってたし」

 

 月一か、出来たら二回くらい集まれたらいいなぁとこれからの事を話して、そこはお開きとなった。

 空いている平日の夕方からでも良さそうだとの事。

 土日は、僕が対局が入っていることがほとんどで、なかなか難しかったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 スミスから、桐山の承諾をもらえたと連絡があったのは先日のこと。

 それからトントン拍子に話は進んで、桐山の家で初めて研究会が行われることになった。

 

 そもそもの発端は、スミスと一砂と飲んでいるときだったと思う。

 俺も七段で、司会には自信もあるし、イベントに呼ばれることも増えて若手の中では期待されている方だとは思うけど、正直桐山の活躍には霞む。

 

「ついにさ~桐山優勝しちまったよ」

 

「七段か~。あっさり追いつかれちまったな。……いや、むしろタイトル挑戦経験があるのは桐山だから実質追い抜かれてる?」

 

「俺なんか、同期なのにまだ四段のままだよ」

 

「普通だろ……プロになってからまだ2年だぞ」

 

 落ち込んだように机に懐く一砂に、スミスはそう声をかけた。

 

「棋神戦以降、調子も落とさず好調だよな」

 

「俺もうあんまり指す機会無いかも。桐山、ほとんどの棋戦本戦からじゃん」

 

「俺は順位戦でまだ可能性あるんだけどな」

 

 一砂はC2だし獅子王戦の組も違うから、なかなか厳しいだろう。

 

「対局したいよな。公式戦でなくていいからさ」

 

「A級棋士に頼むのは絶対無理でも、桐山とはせっかく繋がりあるしなぁ。あいつの実力はA級並だし。」

 

「一度声かけてみるか……? あいつは学校もあるし、忙しいって断られたらそれまでだけどさ」

 

 駄目元のつもりだったけれど、桐山はあっさり承諾してくれたらしい。

 おまけに、場所まで提供してくれるそうだ。確かに、学校後にするのなら、帰宅後家でそのままやれる方が楽なのかしれないが、有り難いと思う。

 

 桐山が気後れするから、若手の研究会なんて名目だけれど、実績的にも、俺たちがもらえる利益の多さ的にも、実質桐山主催と言って良い。

 

 

 

「お待ちしてました。どうぞ入ってください」

 

「おぉ~、お邪魔します。あ、二海堂はもう来てたんだ」

 

「お初にお目にかかります! 松本殿とは、以前順位戦でお会いしましたな」

 

 スミスの言葉に、少年が元気よく応えた。

 彼が二海堂晴信。桐山の次の六人目の中学生プロ棋士。三段リーグを一期で抜けたことは、俺たちの中でも話題になった。

 本人の意向により、高校には進学せず、将棋に集中することを選んだらしい。プロ入り後の成績も悪くないし、期待の若手の一人として数えられている。

 

「二海堂、元気だったか? 順位戦、俺とはあたらないみたいだったし、ここで指せるの嬉しいよ」

 

「俺も、呼んでもらえて光栄でした!」

 

 厳しい事で有名な桐山の白猫は、最初部屋にあがった俺たちにつきまとっていたが、ひとしきりすると満足したのか、キャットタワーの上にあがって、こっちを見ていた。

 若干、声の大きい一砂のことは、苦手のようだった。

 

「そんじゃま、2局ぐらいは指せるか? 持ち時間10分でさくさく指してこうぜ」

 

 あみだで対局相手を決めて、余った一人は記録にまわる。次の対局ではそいつに指名権を与えて、指すことにした。

 

「うわ、桐山この将棋盤めっちゃ高そう……どうしたの、コレ」

 

「あぁ~それは、借り物というか。とある方が置いていったというか……」

 

「普通に、タイトル戦とかで使われそうなくらいの品なんだけど……」

 

「でも、使って良いって言われてるので、気にしないで下さい」

 

 良い物で指すと、気分が上がりますよなんて、サラッという桐山。これだけの品を置いていく人物って一体誰だよ、という言葉は飲み込んだ。

 セレブな二海堂かと思ったけれど、彼も違うらしい。

 

 

 

 一局目が終わって、そろそろ二局目をしようかと言うとき、桐山の電話がなった。

 

「……、はい。もしもし? え? 今からですか。……えっ~と、僕は大丈夫なんですけど、今ちょっと若手棋士の方が来られてて。あ、はい。この前言ってた研究会みたいな」

 

 電話の相手は棋士のようだった。桐山は改まった様子の中に気安さもみせていて、藤澤門下の先輩かな? と思った。

 

「えっとちょっと聞いてみますね。……すいません、一人これから来られるみたいんなんですが、大丈夫です?」

 

「良いよ別に。俺たちも知ってる人?」

 

「知り合いかどうかはともかく、間違いなく知ってます。たぶん泊まっていくつもりなんじゃないかな」

 

 

 

 電話が入ってから、数十分後その人は現れた。

 

「こんばんは。突然、お邪魔してごめん」

 

 宗谷名人その人は、差し入れだと晩ご飯を差し出しながらそう言った。

 俺たちは、まさかの人物の登場に何も言えなくなってしまった。

 

「あ、将棋盤使ってくれてるんだ。良かった」

 

 ……なるほど、この盤の持ち主は貴方でしたか。

 

「宗谷さんも指します? 6人になるなら丁度良いかも」

 

「良いの? じゃあ、混ぜてもらおうかな」

 

 良いもなにも、むしろこっちが良いんですか? そんなあっさり、七冠の将棋界のラスボスと指せちゃうんですか??

 

「じゃあ、あみだ作り直さないと」

 

「へぇ~そうやって対局相手を決めるのも面白いね」

 

 名人もあみだで良いんだ。絶対桐山と指すと思ったのに。

 

「桐山と指さなくて良いんですか?」

 

「うん。桐山くんとは、わりと指してるし、せっかくの機会だから」

 

 唖然と呟いた一砂の言葉に、名人はあっさり頷いた。

 

 桐山の気安さと、突然やってくる名人の身軽さに、薄々察してはいたものの、この二人そんなに個人的に指してるのか……。

 

 あみだの結果、恐れ多くも名人との対局の権利を俺が勝ち取ってしまって、戦々恐々としながら、対局に臨んだ。

 せっかくの機会、あっさり負けてなるものかと、必死に食らいついて、負けたけれど得るものは多い対局だったと思う。

 

 感想戦にも普通に混ざってくるし、なんだかもうこの人って、本当に宗谷名人? そっくりさんじゃないの? なんて混乱してしまった。

 

 

 

 その後、俺たちはおいとましたけれど、帰宅途中にスミスがぽつり。

 

「桐山、個人的に指してる人はいるって言ってたけど、まさかの相手だった……」

 

「名人、ほんとに泊まっていくんだな」

 

「あした、会館で取材の仕事があるんだってな。朝学校行く前に起こすようにって、会長から桐山の携帯に電話あるのっておかしくない?」

 

「会長も知ってるくらい、当たり前の流れなんだな……」

 

「でも、めちゃくちゃ勉強になった。つーか横溝羨ましい! なに、名人と対局してんの!?」

 

「俺の運が勝った結果だろ! こっちは相当緊張したわ」

 

「俺も指したかったな~」

 

「桐山の家で指してたら、今後もこういう機会あるのかな」

 

「今日もアポ無しって感じだったしな。けど、そうそうは無いだろ」

 

 なんて笑い合った帰り道。

 俺たちは知らない。

 

 宗谷名人だけでなく、隈倉さんや土橋さん、果ては後藤さんまで。並みいるA級棋士たちが、時々この部屋を訪れていることを。

 そして、その突然の訪問が、これから先幾度となくこの若手研究会と重なることがあることを。

 普段の研究会もそれはもうためになるけれど、たまに訪れるゲストが豪華すぎるし、心臓に悪い。そんな研究会になっていくことを。俺たちは予想だにしていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




若手同士での研究会、同年代は良い刺激を受けて、レベルアップしていくことでしょう。時々、大物の突発的な参加があるのはもう、仕方ありません。
桐山くん自身は、A級棋士たちがくるのに慣れきってしまっているけど、スミスさんたちは、毎回心の中でかなり緊張してます。


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第四十五手 Pandora

 6月下旬。

 棋匠戦は無事に、予選を勝ち上がり本戦トーナメントへと進めた。本戦は11月までかけてゆっくりと対局が勧められていく。

 昨年は初戦が、棋神戦のタイトル戦と近く、そちらに集中したため勝ち上がることなく敗退した。

 今年は、もう少し頑張りたいところだ。

 

 足の痛みは相変わらず続いているものの、うまく付き合えていると思う。

 藤澤さんにも、少しみない間に大きくなったなぁと言われた。

 今度、新しい服を買いにいかないとな、と満足気に続けられた。

 自分で購入すると告げたのだけれど、おそらくはそれは通らないだろう。

 

 その月の順位戦の帰りに、会長に少し話があるからと声をかけられた。

 

「仕事の話ですか?」

 

「おう。ネットで将棋中継やってくれてる所からの依頼でな。もう少し小さめなイベントだったんだが、最近将棋がきてるって言うんで相手方が乗り気になった。テレビも入る大口のイベントになる」

 

「なるほど。僕で良ければお受けしますよ」

 

「いやー助かるわ。内容的にも桐山が適任かと思ってな。後は、少しテレビ映えする有望株に声かけるつもりだ」

 

「内容? 普通のイベントとは違うのですか?」

 

「おまえさんコンピュータ将棋って分かる? 最近すごいんだろ? そのソフトの精度がかなり向上したらしくてな、プロ棋士とやらせたいらしい」

 

 その話を聞いたとき、あぁもうそんな時期なのかと、感慨深かった。

 僕がタイトルを複数持ち出す頃には、プロ棋士どころか一般人だってしってるくらいメジャーになっていた。

 

「知ってます。開発ソースとか公開されてますし、僕も研究に少し使ってますから」

 

「はーそうなのか。 若いもんはやっぱり順応がはやいな」

 

「結構便利ですよ。新手の考察とか、自分の指し筋の傾向観察とか」

 

 使いすぎはよくないと思うけれど、感覚的に自分が受け付けない、または思いつきもしない手まで人工知能は選択肢に入れてくる。視野が広がる面では面白いと思った。

 

「ほんと助かったわ。大口依頼だとやっぱ、相手は宗谷だしてほしそうにするんだけどよ。今は桐山が出るってなったら、あっさり引き下がるというか、寧ろ喜ばれるもんな」

 

「宗谷さん、今は忙しそうですからね……」

 

「あぁ……今年度のあいつはなんか違うわ。結局隈倉相手に名人戦ストレート防衛、いまやってる島田との聖竜戦もすでに王手がかかってる」

 

 いったい、誰があいつを七冠の座から降ろすのかね。

 

 会長は小さく呟いたけれど、その言葉は重かった。

 

「ま、というわけで、さすがに宗谷に頼むのは酷だからな。おまえさんも学校あって大変だろうが、一つ頼むわ」

 

「分かりました。頑張ります」

 

「それと、期待してるからな。獅子王戦今年も本戦のこっただろ?そのまま挑戦権とっちまえよ」

 

 会長にそう肩を叩かれた。

 昨年は棋匠戦同様、本戦の途中で敗退している。

 けれど、今年度は他にめぼしい棋戦の重なりがない。獅子王戦は挑戦権の獲得に三番勝負が必要になるけれど、なんとかトーナメント勝ち上がって、そこに到達したい。

 

 数日後、イベントの詳細の通知がきた。

 今回の目玉は、Pandoraという将棋ソフトらしい。ディープラーニングを含めた機械学習で将棋を指すソフト。

 初めは、8枚落ちという大きなハンデを付けても、アマレベルで勝ててしまう程度のプログラム。

 それを、プログラム以外に、人工知能自身が学習した部分を加えていくことで、将棋ソフトは劇的に進化を遂げたらしい。

 

 8000億局面……人であれば、途方もないほどの学習を機械は可能にする。

 その結果、将棋のプログラムが強くなった。

 単純に記憶力や計算力があるから、人間を追い越しているという話ではないらしい。

 人工知能が圧倒的な経験値を獲得し、そのことが人に対してアドバンテージとなり始めた。

 

 そして、僕自身も当時注目していた、面白い変化がおきた。

 強くなるだけでなく、湯水のごとく新戦法が生まれた。

 

 100年、150年前によく指された形で、今はもう古いとされた手に、また光があたることがある。

 人ならば、感覚的に排除する選択肢を含むことで、自分が絶対に思いつかない一手を示す。

 発想の幅が劇的に広がった。

 

 そして、有り難いことにそのソフトは公開されており、その気さえあればすぐに利用する事が出来る。

 

 これで、興味を持たない訳がない。

 もともと、個人での研究を好んだ僕にとってコンピュータ将棋を使った研究はなじむのがはやかった。

 そうして、過去へと戻りソフトの精度は前ほどのレベルに到達していないが、多少の利用はしている。

 

 今度のイベントは、そのPandoraの最新版とプロ棋士との対局だ。パソコンだって、スパコンを持ち出してくるだろう。

 家のデスクトップで使っている時とは比べものにならない、相手となる。

 

 すこし、楽しみだなと思った。

 

 

 

 

 

 


 

 イベントは7月に入ってから行われた。

 僕以外の呼ばれた棋士は、辻井九段と櫻井七段だった。……なるほど、会長が言っていた通り、テレビ映えしそうなお二人だ。

 

「や。桐山くん久しぶり、棋神戦のプレーオフ以来かな?」

 

「あのときは有り難うございました」

 

「せっかくあと一歩で挑戦権だったんだけど、後藤九段にとられちゃったよ。君に勝つのも骨が折れるのに、挑戦権をとるのも楽じゃないね~」

 

 棋神戦の今年の挑戦権は、辻井さんを制し、後藤さんが獲得した。藤澤さんは、2年連続門下が挑戦権をとったと喜んでいた。

 

 去年僕が行った七番勝負を今年は、後藤さんが行う。羨ましいような、面白くないような、複雑な気持ちだった。

 どっちを応援するとかは無いが、二人の対局の内容には興味があった。

 

「櫻井さんとはイベントで何度かお会いしましたね。今日もよろしくお願いします」

 

「うん。よろしく。俺もよく呼ばれるほうだけど、君も今年度はいってから凄いね。学校は大丈夫?」

 

「大丈夫です。学校側ともよく相談しながらやってます。昨年かなり抑えてもらったのと、僕自身の慣れもあるので」

 

 中間テストの時期は終わっていた。いくつか当日に試験を受けられない科目もあったけれど、そこはレポートで対応してもらったり、後日テストを受けたりした。

 範囲の確認やノートの確認に、野口先輩をはじめ、将科部のメンバーが随分とサポートしてくれて助かったものだ。

 

 今年はシードの棋戦も多く、予選を免除されている分余裕もあった。昨年できなかった分は働きたいと思っていたので、丁度良い。

 

「そうか。君は忙しそうだけど、興味があったら、今度一緒に山とかどうだい?」

 

 楽しいよと、爽やかに誘ってくるのは、相変わらず。

 松本さんはまだ、雪山に彼と一緒にいっていないので、前のように信者にはなっていないけれど、そのうちまた同じ道をたどるのだろうか。

 

「僕は体力もそんなにありませんし、今は足のこともあるので、遠慮しておきます」

 

「残念だなぁ。成長期が落ち着いた頃にまた誘うよ」

 

 一度断られてもめげない。本当に山が好きなのだろうなぁと思う。

 

 

 

 

 

「お三方、お待たせしました。そろそろステージの方へお願いします」

 

 担当の方に声をかけられて、イベントの開始に備える。

 今回は、Pandora VS プロ棋士の3戦の公開対局だった。

 持ち時間は一時間。早指しの対局になる。少しだけ、AIの方に有利にはたらくかも知れない。

 一人が対局している間、残りの二人が大盤解説を行う形になる。

 

 順番はくじできまった。櫻井さん、辻井さん、最後が僕になる。

 

「おぉ、桐山七段がトリですね。一番不利かもしれません」

 

 開発者の一人がそうコメントした。

 

「AIが経験をするからですか?」

 

「えぇ、そうですね。たった二局といえど、プロ棋士相手に同じ形式の対局を重ねる。Pandoraはそれをしっかりと学習に使うでしょう」

 

 それは、楽しみかもしれない。せっかく対局するなら強くなっている相手が良い。

 

「では、櫻井七段からお願いします」

 

 対局は予想以上にソフトの強さが光った。

 櫻井七段が長考につかった時間で先を読んでいるようで、Pandora側はほぼノータイムで次の手を指す。

 そうして、それに引きずられて櫻井七段の指すペースも速くなった。

 浅くなる思考はミスを生みやすい。

 対して、Pandoraの方はミスをしない。寄せにはいってからの確実性は圧倒的にあちらが上だった。

 

 辻井さんとの対局は……なんというか、凄い局面になった。

 お互いにトリッキーな手というか、ほとんど見ない手を連発したため、それはもう凄い模様になって、混戦を極めた。

 解説するのは面白かったし、後で検討するのにも興味深い一局ではあったと思う。

 ただ、自分も指したいか……と問われると難しい所だった。

 あまりに斬新的というか、革新的すぎて、美しいとはいえない局面だったから。

 

 2局終わったところで、Pandoraの2勝。

 

 この結果には会場に来ていた人は、驚いていたけれど、僕としては来るべき時という感じだ。

 想像よりも、ソフトの発達が早い気がしたが、それでもいずれ、コンピュータ将棋が人を上回る日は来る。

 

「では、最後に桐山七段お願いします」

 

 どんな将棋になるだろうか。

 AIと本気で指した機会は少ない。一定の時期を超えてから、コンピュータ対人間の対局は行われ無くなったから。

 

 

 

 

 


 

 電脳世界の海を泳ぐ。

 Pandoraは確実に、淡々と一手、一手を刻んできた。無機質で、酷く冷たい感覚だった。

 

 あぁ……そうだ。

 この感じ。駒音も響かない、相手の意思が見えてこない。

 指しても、指しても、全部通り抜けていくような気がした。

 冷たくて、真っ暗だ。

 あまり、楽しい対局とはいえないこの感じ。

 これが、AIと対局する感覚だ。

 

 と、ここでPandoraが指した一手に違和感を覚えた。

 なんとなく、そこは気持ちが悪い。

 少し時間を使って、何手か読んで、相手が指したいであろう道筋とそれに対しての大きな穴を見つけた。

 

 誘うように一手をかえす。

 ノータイムで出されたPandoraの手は予想通りだった。

 

 やっぱり、指してみて分かった。

 AIが確率的に前より良い手を指したとして、それは絶対的に正しいものじゃない。

 局面の評価は不変的ではないのだから。

 今現在、評価が高いその一手は、十手先で覆る。

 

 ノータイムに、ノータイムで返す。

 対人対局では、ほぼありえない応酬に周囲が少しざわついた。

 そして、先に手を止めたのはPandoraだった。

 いつの間にか、自分の方が悪くなっていることに気がついたようだった。そこから改善する手もいくつかあるが、劇的な一手はない。

 数手、色々試しつつも、指しあぐねているようだった。

 

 大局観という面において、まだこの人工知能の経験値は、それを補えるほど蓄積されていない。

 

 潔く投了が告げられた。勝てないと判断したとき、それを告げるのもはやい。

 ためらいや、悔しさを持ち合わせていないのだから、それも当然か。

 

 ほんの少しだけ、残念だと思った。粘った先の数手先に、起死回生の一手があるかもしれないのに。その可能性をあっさりと手放す。

 もちろんどうしたって勝てないという局面もある、けれどもう少し粘れるかなという形の時もある。一律な数字で判断するPandoraには、その辺りの機微を感じとることも難しいようだった。

 

 ふと、宗谷さんとの記念対局を思い出した。

 あの日の対局中、まるで伝える必要が無いほど、僕らの思考は交わっていた。不思議なほどの高揚感と、心地よさ。

 刻まれる一手一手が、大切だった。

 今日の対局とは、真逆に位置するような感覚だったと、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

       ・

       ・

       ・

       ・

       ・

 

 

 [桐山くんつえぇ……]

 

 [辻井九段も面白いっていうか、めちゃくちゃな対局で興味深かったけど]

 

 [最後一番難易度上がるんじゃないの?一番この子が良い勝負してる気が]

 

 [そうはいっても、櫻井七段も悪くなかった]

 

 [早指しだから棋士の方が不利]

 

 [ここまで来たのか……感慨深いね]

 

 [数年前は、コンピュータが人に勝つ未来はまだ何十年も先だと思ってた]

 

 [やっぱ経験積ませたら強いな]

 

 [俺らが、生きてる時間より長く圧縮した時間で解析するんだろ]

 

 [なーそんなん、強くてあたりまえ]

 

 [正直いって評価点は桐山くんのが悪いぞ]

 

 [ここから、ここから]

 

 [お?ノータイムうち?]

 

 [早いw 凄いな]

 

 [ちょ、ちょ。お互いサクサク指しすぎw]

 

 [なかなか見ないぞ、このペース]

 

 [え、大丈夫なの。早指しはPandoraのが有利じゃ]

 

 [あ、ひっくり返った]

 

 [うぉぉぉぉマジか]

 

 [すっげぇ鮮やか]

 

 [とまったのはPandora側か]

 

 [我らが桐山くんが制すか]

 

 [全員負けは、釈然としないので期待したい]

 

       ・

       ・

       ・

       ・

       ・

 

 [Pandoraの投了]

 

 [88888888888888888888888]

 

 [888888]

 

 [桐山七段おつかれさま]

 

 [さすがだった]

 

 [88888888888888]

 

 [ソフト側が投了するのってどのタイミングだっけ]

 

 [88888888888]

 

 [勝率が何割かきったらだったかと]

 

 [いずれにせよ、相当追い込まないといけない]

 

 [いやー良かった。まだ人類捨てたもんじゃない]

 

 [桐山くんを人類としてカウントしていいのかw?]

 

 [まさかの別枠w]

 

 [彼と宗谷氏には将棋星人疑惑が依然つきまとっている]

 

       ・

       ・

       ・

       ・

       ・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「桐山七段見事な勝利でした。お疲れ様です」

 

「一矢報いる事が出来て、ほっとしています」

 

 いつもより疲労は大きかった。

 感覚が全く違うためか、あるいは返されるものが何もなかったからだろうか。僕にとって将棋は対話だ。届かない想いを与え続けることは、少しストレスだった。

 

「中盤の早指しの応酬は見事でした。あそこは完全に読んでいたのでしょうか?」

 

「そうだったらいいなと思って指した手でした。思った通りに来てくれたので良かったですが」

 

 もしかすると、僕のその読み自体を把握されて、対応される可能性もあった。これから先その確率の方が高くなるだろう。

 今はまだ発展途上という感じだけれど、たしかな躍進を感じた。

 

「これだけの棋力を示したPandoraですが、いかがですか? この先、プロ棋士という存在がAIにとって変わられる日はくると思われます?」

 

 なかなかに難しい質問だった。人工知能の台頭してくれば当然うまれる疑問だろう。

 ましてや、二人。プロがすでに敗れたという事実もある。

 でも、僕は今日対局して確信した。

 

「それは……無いと僕は思います」

 

「どうしてでしょうか?」

 

「……プログラムとの対戦はどうしても、そこに意図は生まれないからです。機械的に、淡々と、その時考えられる最善手をPandoraは示しました。けれど、僕の心に、応えてはくれません」

 

 美しい棋譜を産むには、数十手先までのビジョンの共有が必要だ。たとえ僕がどんなに先を描いても、AIはそれを汲んではくれない。

 

「将棋の文化的な側面というか、脈々と棋士たちが受け継いできた、美しい魅せる将棋というものは、対人同士でなければ決して生まれないでしょう」

 

 人工知能は、新手を生み出すかも知れない、圧倒的な強さを手にいれるかもしれない。

 でも、美しいという人間の感性を、棋譜の形を理解する域に到達することは難しい。

 

「……そうですね。その通りだと思います。私自身も、昨年の桐山七段と宗谷名人の記念対局の棋譜は忘れられません」

 

「ありがとうございます。そんな風に、対局の内容そのものに魅せられる人が居る限り、プロ棋士という職がなくなることはないと僕は思います」

 

 イベントは大盛況でおわった。形をかえての定例開催も検討されるそうだ。

 開発者の方々ともお話できたが、いずれは僕にも勝つソフトを作ってみせると宣言された。

 おそらくそう遠くない未来にその日はくるのかもしれない。

 

 それでも、勝ち負けがかかった大一番、タイトル戦へかける想い。

 その人の経歴や背景が透けて、ドラマが生まれることもある。

 それを踏まえて観る将棋はまたひと味違う。僕たちは人生をかけて将棋を指しているのだから。

 結果だけじゃなくて、その全てで魅せられる人が居る限り、僕は将棋を指していたい。

 

 

 

 初夏は過ぎ去り、熱い夏がやってこようとしていた。

 今のところ本戦トーナメントに進み、勝ちあがっている棋戦は、棋竜、棋匠、獅子王の3つ。

 宗谷さんは7月末の今となっても、いまだ失冠どころか一敗もしていない。

 

 記念対局の棋譜を想起すると同時に、絶好調の彼と今度は泥沼になるくらい削りあう、熱くて、長いそんな対局を指したいと思った。

 それを可能とするのは、やはりタイトル戦になる。

 

 欲しいと思った。

 何でもいいから、挑戦権が欲しい。

 

 そうして、彼の対面に座ってみせる。絶対的な頂点に君臨する彼と、七冠を維持し続ける彼と対局がしたかった。

 

 

 

 

 

 




AIについては現実でも色々言われますが、プロ棋士という職は無くならないと思います。
そう思わせてくれるようになりました。


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第四十六手 鳥じゃなくても構わない

 僕の父はプロ棋士で、姉は元奨励会員、そして僕はいま奨励会に在籍している。幼い頃から、将棋の駒は遊び道具で、棋譜は絵本の代わりだった。

 父さんは、それを僕たちに強要したわけではないけれど、将棋をしている時が、一番楽しそうで、だから僕らも楽しくて、必然的にそうなっていったのは、仕方なかったのかもしれない。

 我が家は将棋中心に回っていて、それが揺らぐ事などないだろうと思っていた。

 

 だから、驚いたのだ。一足先に奨励会に入り、段位だって見えてきていた姉が、ある日将棋は辞めると言ったから。

 

 父はきっと、止めるだろうと思った。姉さんは僕よりずっと強かったから。

 でも、一つ頷いて、考えなおせなど一言も言わなかった。

 

 逃げるの? と言った僕に、姉さんは真顔でこう告げた。

 今日、僕と同い年の男の子に負けたと。その子は入会以来負けなしで、きっと僕が奨励会試験を受ける頃には、三段リーグにだって到達しているだろうと。

 

 その時の衝撃を表せる言葉を僕は知らない。僕が負け越している姉に、同い年で勝った子がいる。そして、そいつは俺が同じ土俵に上がる前に、さっさと先に行こうとしている。

 同い年の子たちの間では、それなりに強い自負があったが、今ならとんだ井の中の蛙だったと分かる。

 

 姉さんは一言、そういう奴がいる世界だって、分かっていても僕が奨励会に行くのなら止めはしないと言った。

 僕は、挑戦もせず諦めはしたくなかった。

 まだ短い、人生だけどそれまでのほとんどをつぎ込んだ将棋を、可能性すらためさずに手放すという選択肢は無かった。

 

 そして、僕が入会試験への準備をしている間に、姉さんはいつの間にか、次の道を見つけ、そいつは本当に三段リーグへと足を踏み入れていた。

 その頃には、僕はそういうやつも居るんだと、理解し始めていた。

 所詮、そいつは宗谷名人と同じだ。極稀に現れ、変革をおこし、歴史に名を刻む。そんな奴と自分を比べていても仕方ない。

 案の定、そいつは小学生プロ棋士という、わけのわからない肩書きを背負い、あっさりプロ棋士になっていた。

 

 僕はというと、まぁ最初は順調に昇級し、そしてほぼ姉さんの予想通り3級辺りから、すこし負ける対局も出だした。よくあるパターンだ。駒落ちで下と対局することも、逆に相手が落として上と対局することもある。この辺りで足踏みをするのは珍しいことではない。

 珍しいことではないが、そこをあっさり抜けないと言うことは、所詮そこまでの棋力ということである。

 それでも、僕は辞めたいとは思わなかった。

 姉さんは自分の道をずんずんと進んでいき、逆に父さんとの会話も増えた。

 そして、父さんは末の弟弟子だと、そいつ、桐山零をとても可愛がり、うちに連れてくるようになった。

 親友の息子だったらしい、桐山四段の経歴は、テレビで取り上げられているから、将棋に少しでも興味があれば皆知っている。

 父さんが気に掛けるのも、まぁ分からないでもないと思った。少し、面白くは無かったけど。

 

 最初の挨拶のときに、桐山四段と呼ぶと、落ち着かないから家では名前で呼んで欲しいと言われた。

 じゃあ、零さん? と悩みながら聞くと、呼び捨てが落ち着くと。同い年なんだから、と言われた。でも、向こうはプロで、僕は奨励会員だ。

 迷ったが、本人の希望を優先した。

 少しだけ、変な感じがしたけど、零と呼ぶと彼は何故か、懐かしそうな顔をした。

 

 姉さんとの折り合いを心配していたが、予想外に仲は良さそうだった。

 ご飯の後に何やら、やりとりしたあと、急に駒落ちで対局するし。

 あの日以来、一度も駒を握らなかった姉さんが、再び対局することも驚きだったし、プライドが高かったあの人が、あっさり駒を落としていく姿は衝撃だった。その日は、ただその事実に驚いているうちに零は帰路についていた。

 後からきいた僕に姉さんは、面倒そうに教えてくれた。

 人生を変えるほどの対局があると、プロになるほど将棋にかけている人は皆言うけど、姉さんもあの日出会ったそうだ。

 だから、零は姉さんにとって、特別らしい。

 その駒落ちでの対局から、姉さんは再び気まぐれに将棋を指すようになった。

 その様子は、今まで将棋を指していたときより楽しそうで、自由そうだった。

 もう、背負っているものが何もないから、気楽なんだそうだ。

 そんな将棋があることを、僕はずっと忘れていた。

 

「ねぇ……。今日は僕とも指してくれない?」

 

 何度かうちに顔をだしていた零が、姉さんと恒例の駒落ち対局をしているのをみて、そう声をかけてみた。

 

「え? 歩くんと?」

 

「何でそんな驚くの? 僕はだめ? 姉さんだけじゃなくて、父さんとだってたまに指してるだろ?」

 

「ううん! ダメじゃ無い。指したいよ」

 

 想像より、驚くものだから、僕が眉をひそめると零はそう慌てて答えた。

 

「単純にビックリして。今までその気がなさそうだったから」

 

「そりゃ、ちょっとは遠慮するよ、桐山六段。本当ならただの奨励会員が相手をしてもらう機会なんてそう無いんだよ」

 

 すこし、やっかみを込めて、段位呼びでそう答えた。あんたに憧れて、あんたと指したい奨励会員、どれくらい居ると思ってるんだか。

 

「ただ今回は、2,3日うちにいるんでしょ? それに姉さんが散々指してるのみてると、僕も少しは指してみたい」

 

 棋神戦が終わり、体調を少し崩したらしい零は、数日うちに泊まることになっていた。

 本音を言うなら、少しだけ複雑な思いもあった。だって同い年なのに、零はもう宗谷名人相手にタイトル戦を立派に終えた。

 次元が違うと分かっていても嫉妬もする。

 でも、対局してみたいのも本当だ。僕だって勝負師の端くれなのだから。

 それに、姉さんがあんな遠慮無く、がんがんお願いしているのをみると、遠慮して頼まない自分が馬鹿みたいだと思った。

 

 対局は見事に僕が負けた。それも、美しい棋譜を残して。

 明らかに導かれていた。指導対局……というほどあからさまではないが、実力差は明確。でも、不思議と反発はなかった。

 むしろこんなに自分が指せた事が意外だった。

 

 分かった。これは、確かに癖になる。

 また、指したくなる。負けるのが嫌いだったはずの姉さんが何度も指したくなるのも理解出来た。

 それから、零がうちに顔を出したら、姉さんと僕と指すようになった。

 その後も零は、相変わらずの破竹の勢いでトーナメントを勝ち上がり、ついにはMHK杯という全棋士参加棋戦で、宗谷名人を破る。

 その時はもう、なんていうか逆に面白いくらいだった。

 同年代が、神の子と言われ、今後しばらく将棋界の一強時代を築こうとしていた、あの名人に勝ってしまったのだから。

 

 既に、僕はどうしてもプロになりたいという気概が自分の中には無いことを、理解していた。

 その上で、まだ次を決めることも出来ず、奨励会にとどまっていた。

 14歳。姉さんが、奨励会を辞めた歳だ。そして、僕の級位は1級。当時の姉さんの級位に追いついていた。

 

 転機が訪れたのは、あの夏の日。

 零と将棋AIであるPandoraの対局をみた時だ。

 将棋が分からない、少なくとも僕よりも指せないエンジニアが作ったAIが、僕が勝てないプロ棋士二人に勝って、そして零も随分苦戦させられていた。

 

 どうしようもないくらい、ワクワクした。可能性の塊だ。

 将棋AIに興味が湧いただけじゃない、AIという存在そのものに強く惹かれた。

 もともと、パソコン関係の事は好きだったし、なにより徒人ではたどり着けない領域をいともたやすく飛び越えて、未知の発見に繋げるきっかけを作り出すその存在が面白かった。

 やってみたい、作ってみたかった。

 もともと、理系体質で工学系には強かった。

 僕はその日、書店に立ち寄り、気がつけば夕飯の時間はとうに過ぎてしまうほど、内容にのめり込んだ。

 

 鳥じゃなくても構わないのだ。

 むしろ羽をもち常人じゃたどり着けない場所へとあっさり飛び立つ事が出来る者など、その業界でたった一握り。

 ただ、羽をもたない徒人でも、成し遂げられることがある。

 羽を持たずとも、人が空を飛べる術を得たように。

 

 うっすらと、やりたいことが見つかった。ただ、このことはしばらく誰にも秘密だ。高校は出来たら、工学系、システム系に強い高校を狙いたい。

 色々しらべて、本当にそっちに進みたくなったら、進学の時には相談してみよう。

 そして、姉さんと違って僕はまだ、奨励会を辞めるつもりはない。

 学生の間、せめて中学の間は、所属させてもらおうと思っている。

 

 この先、役に立つ気がするのだ。勝負の勘、度胸、駆け引き、ただの将棋だけではない何かが、ここで得られる。

 白か黒か。プロになれるか、なれないか。確かにその二つは大きいけれど、別にそれだけじゃ無くてもいいだろ?

 

 俺は、プロにはなれない。でも、この時間を無駄にもしない。

 見てろよ。

 父さんにも、姉さんにも、零にだって出来ない何かで、いつか絶対あっと言わせてやるんだからな。 

 

 

 

 

 

 

 




タイトルの鳥の表現、14巻の天然の羽か人力の羽かっていうところからきてます。

歩の情報は原作では少なすぎて、ほとんどオリキャラのようなものですが、こう思えるようになったら良いなぁと書きました。


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第四十七手 夏祭り

「こんばんは。 お久しぶりです」

 

 玄関から聞こえたその声に、ひなたはパッとかけだして、来客者を出迎えにいった。

 世が夏休みに入ってから間もない。

 最近忙しくしているようで、顔をだす機会が減っていた坊主が久々にうちにやってきた。

 

「零ちゃん! いらっしゃい。待ってたよ~」

 

 玄関から聞こえる孫の声は、喜びに溢れていた。

 そりゃあ、そうだろう。

 うちの女共は皆、若き桐山先生に夢中なのだから。

 

「あら、桐山くん随分背が伸びたねぇ。私はすっかり追い越されてるわぁ」

 

「ほんとだわ。私も、あっという間に追い越されそう」

 

 彩とあかりは、そう言って坊主の身長をみていた。

 なるほど。確かに、でかくなった。

 

 初めて藤澤氏につれられて、あかりと玄関に立っていた時の少年は、もう過去の者となった。

 

 あのときは状況も悪かっただろうが、青白い顔で所在なさ気に立ちすくんでいた様子を今でもよく覚えている。

 テレビで何度もみていた対局中の姿はどこにもなかった。

 かぼそく、幼く、庇護すべき少年に過ぎなかった。

 

 トップ棋士と渡り合い、小学生プロ棋士として輝かしい成績を残していたテレビの中の少年が、まだ12歳の男の子なのだと、対面してみてようやく理解できた。

 

 藤澤氏に思いがけず出会う機会があったのは、一人の将棋ファンとしては僥倖だった。

 彼の人は、少年を大切に慈しんでいる様子だったが、坊主の方はどこか遠慮の方が先にきているのが、たった数分のやりとりからうかがえた。

 孤児となり、単身東京に預けられ、今は庇護下にあるとは言え、師匠と弟子だ。家族という雰囲気よりも、坊主の方はその意識が強いのだろう。

 

 不思議な縁だったが、その後孫達と坊主の交流は続いた。

 あかりに助けられたからか、キーホルダーの件が良かったのかは分からないが、明らかに心を許していた。

 我が孫ながらなかなかやるな、と思いつつ、彼の心の休まる場所の一つになるのならそれは嬉しかった。

 

 何度も店に顔を出してくれたし、ワシとしても期待がかかる将棋界の新星の御用達というのは、満更でもなかったというのも本音だ。

 

 年度が替わり、中学に上がって、あの子が一人暮らしをしてからは、尚更のこと。

 

 藤澤氏の奥方は、入院しているあの御仁に代わって、時々でいいからと零くんのことを気にかけてほしいと、わざわざ店にまで挨拶に来られたほどだ。

 何というか、数奇な運命を辿る子だ。人の何倍も苦労して生きてきたのだろう。

 

 戦後の若き日の自分を思い出して、放っておけないと思えた。

 幸いな事に、あかりとひなたとの交流は続いているようで、店だけでなくうちに食事しに来ることも増えた。

 ばあさんも娘も、人に食べさせる事に喜びを感じる質で、うちには男の子がいないこともあり、あれこれ世話を焼いていた。

 

 あの当時は、誠二郎の件で不穏な空気が漂うことが多かったが、居間に新しい風がふいたようで、皆が明るくなり笑いが増えたのは、この子が来るようになってからだ。

 

 

 

「いらっしゃい。桐山君。今日はいっぱい食べていってね」

 

 居間に入ってきた、坊主に美香子が声をかけた。腕には末の孫のももが抱かれている。

 

「こんばんは。ありがとうございます。わぁ、ももちゃんまた少し大きくなりましたね」

 

「この頃は、ほんとすぐ大きくなるから。もう寝返りも出来るのよ」

 

「ハイハイしはじめるのも、もうすぐかも知れないですね」

 

 美香子から渡されたももを、坊主は手慣れた様子で抱きかかえた。本当に中学生男児らしくない。

 そこらの父親より、よほど赤子の相手が上手く見える。

 

「だぁ~~!!」

 

「はい。ももちゃん久しぶりだね」

 

 キャッキャッと嬉しそうに顔にのばされた手を優しく握ってそう答えた。

 

「ももは、桐山くんのことが分かるみたいね。この頃にはもう、母親が誰かとか、近しい人が誰かとか認識できるようになるらしいのよ」

 

「嬉しいです。たまにしか来ないのになぁ」

 

「私が抱いた時より、嬉しそうだよ。ももにとったら零ちゃんはお兄ちゃんみたいなものだから」

 

 笑っている美香子と、孫達をみていると、これほど穏やかな日々が再び訪れたことを幸せに思った。

 誠二郎の一件は家族に深い傷を残したが、新しくやってきた命とともに、皆で強く前を向いて歩き出せた。

 それが出来たのも、坊主のおかげだろう。この子には随分と世話になった。

 

「そうだ!零ちゃんも今は夏休みだよね?8月の末の夏祭りに、うちも屋台を出すんだ。時間があったら遊びにきてね」

 

 屋台のメニュー、私とお姉ちゃんも一緒に考えてるんだ、とひなたが告げる。

 

 今年は美香子がももの面倒を見る方に時間をとられるだろうからと、あかりやひなたに手伝いを頼むことが増え、それが嬉しいようだった。

 進んで家のことを手伝ってくれているのは、此方としても助かる。

 

「夏祭り……そうか。三日月堂はずっと出店してるんでしたね。去年も行ったらよかったなぁ」

 

 とても残念そうに応えた坊主の目には、何故か懐かしむような色が浮かぶ。

 

 あぁ、この表情だ。

 この子は時々、年に似合わぬ顔をする。

 どこか遠くを見ているような、戻らない何かを慈しむような、そんな表情を。

 

「無理はするなよ。おめぇさん、獅子王挑戦者決定三番勝負、丁度その頃始まるんじゃねぇのか」

 

 MHK杯の決勝で宗谷名人を破り優勝してから、桐山七段の活躍は目覚ましい。

 タイトル挑戦権獲得に手が届きそうな所まで何度もいっている。

 そして、今度の獅子王戦。

 土橋九段との三番勝負を制することができれば、挑戦権を得るのはこの子だ。

 大事な時期であることは疑いようもない。

 

「いえ、それは大丈夫です。その辺りはちゃんとしますので。……あの、ご迷惑じゃなかったらお手伝いとかさせて頂けないですか?

 少し興味があって……」

 

「えぇ!? ほんとに? 忙しくないの?大丈夫?」

 

 意外な申し出に、ひなたが驚いたように声をあげた。

 此方としては男手があるのは、とても助かるが……。なかなか多忙だろうに大丈夫なのだろうか。

 

「うん。人目につくのはまずいから、裏方のほうが助かるけど」

 

「零くんがいいなら、私達は大歓迎。お願いしちゃおうかな」

 

「もし都合がつきそうなら、部活の友人も誘ってみます。皆いい人達ですし、戦力になってくれるかと」

 

「助かるわ~アルバイト代ははずむからね!」

 

 天下の中学生プロ棋士にこんなことをお願いするとは……と、帰り際に、忙しくなったらお客として来るだけでも充分だからなと声をかけた。

 それなのに、坊主の方がよほど楽しみにしているような雰囲気で、これはほんとに手伝いにくるだろうなぁと、笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うだるような暑さが続くなか、世の学生たちは夏休みを謳歌している。

 とはいっても教師という職業は生徒達がいなくてもそれなりに雑務があるもので、夏休みも学校に在中してるのが通常だ。

 これが熱心な部活の顧問であれば、より多忙を極めるだろう。

 駒橋中学と高校は、私立であり、部活にもそれなりに力をいれているため、運動部の全国常連の部活など、それこそ夏は戦いだ。

 

 まぁ、俺が顧問をしている将科部は新設だし、大会に出るわけでもないので、気楽なものだが。

 活動も野口を中心にやりたいことが色々あるようで、任せていれば勝手に何か実験をしていて、手がかからない。

 

 たまに、桐山が顔を出して、将棋をやっているときもあって、それは俺としても楽しい。

 プロ棋士にただで指南を受けれるなんて、なんと贅沢な事だろうか。

 桐山のファンからしたら、垂涎ものだろう。

 

 そういえば、今日は活動日だったなと思い出す。

 野口達の実験を見るのも飽きないし、手が空けば顔を出すのも悪くないだろう。

 

「おーすっ、やってるか?」

 

 化学室の扉を空けて中をのぞくと、そこには桐山の姿もあった。

 授業があるときは土日に対局があることが多く、研究時間の確保のために放課後部活に顔をだすことは少なかったが、長期休暇中は、来る頻度が上がったと思う。

 

「おぉ、今日は桐山もいるのか。将棋の日か?」

 

「先ほどまでは、実験をしていたのですが、結果がでるまで少し時間が必要なので、待ち時間の有効活用ですな」

 

「結果がたのしみです!」

 

 野口の言葉に、桐山がわくわくしたようにそう添えた。

 もともと理系体質だからだろうか。こういうことも好きらしい。

 部活に所属する気があるのは意外だったが、こうして楽しそうにしている姿を見るのは、教師としても嬉しいものだ。

 

「で、将棋を指してるのは良いんだが……なんで校長達までいるんですかね? しかも高等部の先生方まで……」

 

 目立たないように端の方の実験台をつかっているが、とても目立つ。

 そこだけおっさんたちの将棋サロン感が半端ないぞ、おい。

 

「いやー中等部の校長が今日は桐山先生が指されるようだと連絡をくれてね。これは是非我々もご指導願いたいと!」

 

 高等部の稲葉校長が嬉しそうにそういった。そういえば、この方職団戦にもかなり力をいれてたはずだ。

 

「てか、此処こんなに将棋盤あった!?」

 

「校長先生たちの私物です……」

 

 折りたたみ式とはいえ、明らかに増えているその数に尋ねると、桐山はすこし呆れたようにそう言った。

 なるほど。持ち込むほど指してほしかったのか……。

 

「いやー桐山先生さすがですな。これだけの数の多面指しをこなすとは」

 

「イベントで慣れてますので。山形の時とかすごかったです」

 

 あぁ島田八段の故郷のイベントか。

 人間将棋やら百面指しとか、かなり将棋に力入れてるんだっけ。俺も何回か見に行ったことあるなぁ。

 

「我々の棋力もこれであがり、ゆくゆくはBクラス進出も夢ではないのでは!?」

 

 玄田教頭もこられてたのか……。

 

「林田くんが抜けた穴が大きいが、もう中高にこだわらず駒橋学園グループとして出場してしまえば問題ない。むろん引率は桐山先生で」

 

「あの、僕たぶん職業団体対抗将棋大会の日は、スタッフとして仕事をしているかと……」

 

「なおのこと都合が良いではないですか! 会場の中でも見守って頂ける!」

 

 桐山は、はぁと苦笑気味だったが、おそらく校長達は本気だろう。

 ……すまん。平教師の俺に止める手立てはない。ついでに俺も、ついてきてくれると助かると思っていたり。

 

「いやー岩黒生活指導も来れたら良かったのに。出張ですからな」

 

「次があったら誘いましょう」

 

「林田くん、顧問なら是非連絡を頼むよ」

 

「あ、はい」

 

 この人達これから、入り浸る気満々だな……。

 桐山は実験もしたいだろうし、顔を出す日ちゃんと聞いておかないと。

 

「桐山先生、ぜひ2年後はこのまま高等部に進学を! 学費やら試験やらいりませんので」

 

「いや! それは駄目でしょう! そうですね……。まだ進学については、決めてませんが、もし高校に通うなら、このまま駒橋高校に行くとは思います」

 

 興奮気味にそんな事をいう校長に、桐山はその時はちゃんと試験を受けますよ、と困ったように笑っていた。

 

 同じ学園中学からの進学は外部入学よりもかなり楽だ。桐山の成績なら、推薦で早くに決めることも可能だろう。

 たしかに高校に通う気なら、受験の負担がすくないうちはありだろうな。

 野口たちとも、クラスのやつらとも仲が良いし。このまま持ち上がりの方が気も楽だろう。

 

 

 

「本日もお疲れ様でした。皆、気をつけて帰るのですぞ」

 

 校長達は将棋の時間がおわるとそれぞれ、仕事にもどっていた。

 実験の結果はそこそこのものだったらしく、次につながる点も多かったらしい。

 野口の声に、将科部の面々がうなずきながら、おつかれーと続いた。

 

「あ!あの、皆さん良かったら夏休み下旬の日曜日空いていたりしませんか?知り合いのお店が、お祭りで出店を出すんですが、僕裏方としてアルバイトをするので、一緒にできたらなぁと」

 

 帰り支度をしているときに、桐山が思い出したようにそういった。

 出店の裏方……。忙しいだろうに、そんな事にまで手を出しているのか……。

 そういえば、桐山の行きつけの和菓子屋があったなぁ。おそらくそこの手伝いだろう。

 

「なんと!出店の裏方! 非常に興味があります。……しかし、うちの中学はアルバイトが原則禁止では……」

 

「あっ!そうでしたっけ!?」

 

 桐山と野口がそろって俺の顔をみた。

 

「んー?まぁ、お手伝いをして、お小遣い少し貰う体裁にしておけば問題ないだろ。うちは少しそのへん緩いし」

 

 イベント事の単発だし、お友達のお家の手伝いということなら別に。

 年末年始に神社の手伝いをする子もいれば、郵便局の年賀状の仕分けをする子もいたはずだ。

 それくらいは許される。

 

「良かったぁ。野口先輩は大丈夫そうです?」

 

「えぇ、是非いかせて頂きたい」

 

 他にも何人か暇だからと、参加の声をあげていた。

 こいつら本当に仲が良いな。

 

「桐山、場所どこでやるんだ? 俺も暇だったら顔をだすよ」

 

 部員がこれだけいくなら、挨拶のひとつもしておくべきだろう。

 

「三月町です! 三日月堂というお店のすぐ前でやります!」

 

 あまりに楽しそうに、そう報告するものだから、俺は思わずあいつの頭を何度か撫でてしまっていた。

 

 

 

 中学生プロ棋士、すでにタイトルへの挑戦も経験し、春にはあの宗谷名人を破ってMHK杯をとった。

 本当は、俺なんかがこうやって頭を撫でれるような人ではないのだ。

 ただ、縁があり、俺の務め先の学生となり、教え子となった。それだけのこと。

 

 今期も何度も、挑戦権の獲得争いに絡み、獅子王戦にいたっては三番勝負のところまで、上り詰めている。

 土橋九段を下すことができれば、今期の獅子王の挑戦権を手にするのは桐山だ。

 

 そんな、今をときめく期待のプロ棋士が、友達と部活を楽しんで祭りに参加する約束をこれほど嬉しそうに、告げるのだ。

 

 なんというか、青春だなぁと、おっさんには少し眩しかったりする。

 

 中学生の夏休みは3回限り、去年は棋神戦にかかりきりだったもんなぁ。

 一人の教師としては、学生らしいことを楽しめている教え子のことが微笑ましい、そんな夏の日の午後だった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 蒸し暑いある日の夕方。

 8月の研究会の時に、桐山が夏休みに知り合いの屋台を手伝うと話していた事を思い出した。

 ちょうど仕事でそっちの方へと出ていたし、ちょくちょく差し入れにもらう和菓子のお店だという興味もあり、ふらりと立ち寄ることにする。

 

 小規模なお祭りながら賑わいをみせ、狭い道は多くの楽しそうな人々で溢れていた。

 なんとなく、故郷の街の風景が思い出され、心が安らぐ。

 

 すこし、歩いたところで、三日月堂という看板を見つけて足を止めた。

 

「いらっしゃいませ! お一ついかがですか?」

 

「あ、……では、おすすめを何か一つ頂けますか?」

 

 ぱぁっとはじけるような笑顔とともに、そう声をかけられて、思わずそんな風に返してしまった。

 

「はい!では、定番の白玉シロップなんてどうですか?……あれ?ひょっとして……以前会館の前でお会いしました?」

 

 器を丁寧に差し出してくれた彼女は、俺の顔をまじまじとみて、そう呟いた。

 

 会館……将棋会館か。

 そう言われてようやく気づいた。制服じゃないから分からなかったが、この子は以前桐山に会いに会館の前まで妹とやってきていた子だ。

 

「し、島田八段!」

 

「あ、どうも。嬉しいなぁ。名乗る前から分かってもらえるなんて」

 

 奥の方から顔をだした壮年の男性が驚いたように固まった。

 

「わ、分かりますとも! わしは、将棋が一等好きで……」

 

「島田八段……島田さん!ですね。桐山くんからよくお話を伺ってます」

 

 島田さんと柔らかく彼女に呼ばれた名前が、心地よく耳に残った。

 

「零くん、棋士の方がいらしてるよ~」

 

「あ、大丈夫ですよ。お忙しいでしょう」

 

「いえいえ、せっかくですから座って召し上がって行ってください」

 

 気がつけば、手際よく店の中の席まで案内されていた。

 口にしたシロップの味は美味しく、仕事で疲れていた胃の痛みが和らいだ気がする。

 なんというか、こういう味をやさしい味というのだろうか。

 

「島田さん、来てくれたんですね。ありがとうございます」

 

「たまたま、仕事がこっちであったし、桐山がバイトって言うのも気になってな。ちゃんとやれてるのか?」

 

「部活の仲間も数人きてくれて、一緒に裏方手伝ってます。大変だけど、楽しいです」

 

 前髪が汗で額に張り付いていて、動き回っていることがうかがえた。

 けれどその顔は清々しく、本当に楽しんでいるのだろうと思う。

 

「そうか、よかったな。」

 

「はい! あ、そうだ丁度顧問の先生も顔をだしてくれてたんです。去年から続いて僕の担任をしてくれてる方です」

 

 そう言って、桐山は奥に人を呼びに行った。部活のメンバー数人が手伝いにきているからと、わざわざ様子を見に来てくれるとは、面倒見の良い方だなと思う。

 

「わぁ、え、えっと。ほんとに島田八段だ……。あの、オレ大ファンでして……」

 

「林田先生です。詰将棋で将棋世界に載るくらいのコアな将棋ファンでもあります」

 

「渋いところきますね! お会いできて光栄です」

 

「そんな!こちらこそ! あの、握手して頂いても良いですか?」

 

 自分を応援してくれる人に会えるのは嬉しいことだ。まして、まだタイトル獲得の経験もない俺のことを、覚えてくれているのだから。

 

 

 

 

「すいませんなぁ。お客さんとして来て下さったのに、手伝って頂いて」

 

 店のご主人が本当に申し訳なさそうに呟く。

 

「急な雨でしたし、どうぞお気になさらず。カレーまでありがとうございます。賄いだったのでしょう?」

 

 あの後、少し先生や桐山と話していた所に、急な雨が降り出した。

 慌てて軒下に商品を入れているようだったので、手伝うのは当然の流れだろう。

 

「いやー、娘と孫が沢山つくっておりましたから、こんなものでも良ければ、お礼ですよ」

 

「とても美味しいですよ。独り身だと、カレーなんて手作りしませんからね」

 

「分かります。どうしても余ってしまって」

 

 俺の言葉に、対面に座っていた先生がそう笑った。独身男性の食卓事情など、似たり寄ったりだろう。

 

「今日は、お二人に会えて本当に良かったと思っとります。色々と苦労してきた子ですが、学校でも、会館でもこんなに良い方々に見守られているなら、過ごしやすい事でしょう」

 

 相米二さんは、しみじみと噛みしめるようにそう呟いた。

 

「いやー、私は何もしてませんよ。手続きに関しては、桐山はとてもしっかりしてますから。クラスの奴らにも上手に馴染んでますし」

 

「そんな事はないでしょう。丁度一年前になりますか? 棋神戦のときは、学校と対局の調節にとても力を貸してくれたと、桐山言ってましたよ」

 

 おもえば、第六局の直後、体調を崩した桐山の代わりに欠席の連絡をした時、電話にでたのはこの先生だったのだろう。

 

「あー!! あの時はご連絡ありがとうございました。いやーオレ個人としてもあの対局は非常に興味深くて、もうずっと張り付いて応援してたんですよ。さすがに次の日は厳しいだろうとは思ってたので」

 

 将棋のファンだと言っていた先生は、それから少し興奮気味に棋神戦の話をした。教え子がタイトル戦に挑むのだから、応援に熱が入るのも当然だろう。

 

「桐山は、生真面目なところがありますから、対局翌日も欠かさず学校に来ています。本当に感心してます。ただ、タイトル戦の後ぐらいはね、休んでも良いと思うんですよ。文字通り、身を削って戦っていたんですから」

 

 この人は将棋のことをちゃんと知ってくれてる人だと、その言葉の端々から感じた。

 座って指してるだけだ、なんて言う人もいるけれど、知力と精神と体力と、タイトル戦ともなれば消耗は激しい。

 

 学生という身には、なかなかに大変だろうが、理解者が学校側にいてくれるのは桐山にとって幸せなことだろう。

 

「あの後は、久々にうちに顔を出したとき、もともと細かったのにもっと痩せちまってて。うちのもんが嘆いてました」

 

「あー、体力勝負な所がありますからね。棋神戦の後は、桐山のこと食事に連れ出す棋士が増えました」

 

 見守る会の人員の活動は未だに細々と続いている。

 大方の中学生よりも不規則な生活になる桐山にも、無事に成長期がやってきて、ここのところぐんぐん伸びている様子に、喜びと少しの寂しさを感じているおっさん共は意外と多い。

 

「昨年はまだ、学校と増え続ける棋戦とのやりくりに苦労している印象でしたが、今年は落ち着いてますね。私生活もふくめ安定しているというか、余裕がある気がします」

 

 あたらしく若手同士の研究会も始めたらしいし、色々研究することも大切なことだろう。

 

「桐山は部活はしないだろうと思ってたんですが、野口たちとも仲が良いですし、夏休みの実験の日も結構顔を出しているみたいです。無理をしてる感じもないですし、学校も楽しんでくれているなら、嬉しいですね」

 

 学友と友人の屋台を手伝うなんて、青春だと思う。ちゃんと今を楽しんでいて、それはとても良い傾向だ。

 

「うちがゴタゴタしていた時、本当に親身になってくれた優しい子です。あの子にはワシももちろん、娘や孫たちも助けられています。今、こうやって屋台をだして、笑えている……。どれだけ幸せなことか」

 

 だから、あの子にも、どうか健やかに日々を過ごしてほしいのです。

 相米二さんは静かにそう呟いた。

 

 その様子に、俺はとても安心した。

 藤澤氏の家を出て、一人で暮らしている桐山は、自分の大切な場所をちゃんと作っていた。

 心を休ませることが出来る場所だ。

 

「あいつの事を、ただ普通に見ていてやって下さい。それが、どれだけの支えになるか。俺にはよくわかります」

 

 長い棋士人生。

 平坦な道ばかりではない。上手くいかない日もある。

 負けが続き、調子を崩す時だってあるだろう。

 そんなときに、帰れる場所があるのは幸せな事だ。

 すこしだけ、息がしやすくなる場所。

 気負い無く素のままでいられる場所。

 温かいご飯と、この家族の笑顔は、桐山にとってのそれなのだと思う。

 

 ふと、故郷の山形の事が思い出されて、無性にかえりたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「えへへ、楽しかったね。零ちゃん」

 

 僕の隣で、カレーを食べていたひなちゃんが、小さく呟いて笑った。

 

 昼過ぎからずっとてんてこ舞いの忙しさだっただろうに、その表情は満足げで、部屋を見渡して皆を見る瞳は、優しく柔らかく細められていた。

 

「……うん。そうだね。とっても楽しかった」

 

 夏祭りの話を聞いてから、また手伝えたらいいなぁとすぐ思った。

 将科部の活動の時に、野口先輩達をさそってみたら、優しい彼らは頷いてくれて、一緒に手伝う事が出来たのも嬉しかった。

 

 皆で、わいわいとお皿を洗うのは懐かしく、島田さんと林田先生と相米二さんが将棋の話で打ち解けているのも、嬉しかった。

 あかりさんとひなちゃんの売り子を頑張る姿を見ていると、色々な事が思いだされてたまらなかった。

 

 

 

 そして、今日は、彩さんも美香子さんも一緒だ。

 かつての僕が、一度見てみたかったなぁと思い続けた川本家の姿がそこにあった。

 

 

 

 まるで、絵日記に残しておきたいような、夏休みの夜。

 いつも、いつも、何度だって、想ってきた。

 初めて三日月堂の夏祭りを手伝った時から、ずっと。

 

 幸せというのは、きっと今この瞬間の事をいうのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




昨日のお昼はお休みいただいてすいませんでした。
もう9月ですね。物語もそろそろ締めへと近づいています。

原作の12巻の夏祭りの話とっても、好きなので一度は夏祭りネタやりたかったんです。
次はひなちゃん視点。


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第四十八手 魔法の手

 

 魔法使いっているのかな?

 分かってる。おとぎ話の中だけの登場人物。

 でも素敵だよね。困っているお姫様を王子様の舞踏会にいけるように、魔法をかけてあげる人。

 勿論、悪い魔法使いだっていたけど、私は物語の登場人物の背中を押す、優しい魔法使いが好きだった。

 

 そんな魔法使いみたいな人だと思ったの。

 何度だって、出会った日からずっと私を、私の家族を助けてくれた魔法使い。

 最初のきっかけは、お姉ちゃんが零ちゃんを助けたことだったらしい。

 ある日、手伝いで出かけてからの帰りが遅くて心配していたら、零ちゃんと零ちゃんの師匠と一緒に帰ってきた。お爺ちゃんは大興奮で、私はその時、零ちゃんと話すことは出来なかったから、その日の印象は薄い。

 

 だから、私の中で最初の零ちゃんの印象は、テレビの中の凄い子だった。

 しゃんとした綺麗な姿勢で、バッサバッサと大人を倒していく様子がよく取り上げられていたし、将棋が大好きなお爺ちゃんが、熱心に応援していたから。

 零ちゃんは、お爺ちゃんのお菓子を気に入ってくれたらしくて、よくお店に顔を出すようになった。

 将棋の中継で、三日月焼きが写った事も何度かあって、そのおかげで注文も増えたらしい。

 将棋のファンの中には、私にはよく分からないけど、大御所と言える人も多く、そして、そんな人の目に留まると大口注文も入った。

 いつだったか、零ちゃんが人気の密着ドキュメンタリーに出た日から数日は、注文が殺到して一時、受け入れを止めた事があったくらい。

 お爺ちゃんは、礼のつもりなら気にしなくて良いんだぞ。って言ったけど、零ちゃんは本当にうちのお菓子が好きらしかった。いっぱい注文が入っても、僕の分も少し残しておいて下さいね、なんて冗談めかして笑うくらい。

 

 勝利がずっと続く訳では無く、ついにそれが途切れてしまったり、いつの間にか一人暮らしをしていたり、タイトル戦という大事な棋戦のためにガリガリに痩せてたり、大変な事もいっぱいあったと思う。

 けど、いつもまっすぐに前を向いて、一歩一歩、進んでいた。

 歩みを止めること無く、自分の力で進む道を切り開いていた。

 

 憧れたんだ。格好いいなぁって。

 そして、そんな姿を見る度に、お父さんへの言い様のない焦燥感が募った。

 去年の秋にそれは爆発して、父は家を去ることを選んだ。

 今でも時々思ってしまう。

 もっと早くにぶつかるべきだったのかもしれない。もっと早くにお父さんの心の移ろいに気付けたんじゃないかと。

 でも、選んだ道は間違いじゃ無かったと思う。

 私達は、このまま私たちで協力して生きていく。

 ちゃんとした手続きをとるということは、今後のために重要な事らしく、そして時には厳しい判断も必要なのだと、零ちゃんの紹介してくれた弁護士さんが言っていた。

 だからこそ、それまではほとんど会っていなかったお父さんの両親、私達のもう一人のお爺ちゃんとお婆ちゃんにも連絡をして手続きをした。

 お父さんは、もともと勘当のような扱いだったらしく、連絡をとられることに猛反対していたけれど。

 

 そして、それは確かに後々、私たちを助けてくれた。

 お母さんの出産の時、お姉ちゃんの進学の時、お爺ちゃん達がそう話していたことを知っている。

 

 叔母さんから聞いたけど、菅原さんというその方は、中々手広くお仕事をされている、所謂売れっ子だったらしい。本当なら、お礼の一つもするべき所に、あの方はそれを請求せず、そして受け取ってもくれなかった。

 お金以外の何かで、零ちゃんがお礼をしたそうだ。

 将棋関連のことだろうと、お爺ちゃんが言っていた。

 人脈をつくるにしても、話の種にしても、プロ棋士桐山零、本人に会えるとなれば、それはお金以上の価値を生むことがあるらしい。

 大人の世界は複雑だ。

 そんなやりとりを平然とこなせる、零ちゃんもまた、私よりもずっとずっと大人だった。

 

 

 

 


 

 どうして、そこまでしてくれるの? 何度か尋ねた事があった。

 その度に、零ちゃんは僕がそうしたいからだよ。と答えた。

 ひなちゃんが思っているよりもずっと、此処は僕を救ってくれて、癒やしてくれる場所なのだと、照れくさそうに小さく教えてくれた。

 

 そしてたぶん、あの日一緒に餃子を食べた時からだ。

 それまでは、ほんの少しだけ、遠慮をみせていた零ちゃんがうちに来ることをためらわなくなったのは。

 こちらから声をかけないと、来なかった零ちゃんがたまにフラッと寄るようになった。

 その時はいつもお土産があるのが零ちゃんらしいけど。

 何も無くても寄って良いっていつも言ってるのになぁ。

 私たち、家族はその変化を大いに喜んだし、みんな零ちゃんが来てくれるのが嬉しかった。

 

 零ちゃんの事を知っていくと、将棋の世界でどれだけ、零ちゃんが凄いのかも少しずつ分かってきた。

 もう、お爺ちゃんだけじゃない。川本家は全員が零ちゃんのファンだもん。

 記事のスクラップも、番組の録画も自然と増えていった。

 その内容には、いつも最年少記録、史上初という言葉が踊った。

 

 一番好きな表現がある。

 ある対局の零ちゃんの一手が、魔法の一手と表現された時だ。

 それを生み出す彼の手は、”魔法の手”だと賞賛されていた。

 お爺ちゃんは、それだけ凄い一手だったんだと、解説もしてくれた。

 その一手は、劣勢だった状態を一転させたし、その一手があったから、その対局は名局になったそうだ。

 いったいどれだけの人間が、その一手に魅せられた事だろう。

 

 そうか。零ちゃんは、魔法使いだったのか。

 突然、私達の前に現れて、大変な時にいつも助けてくれた。

 選んだのは、私たちだ。

 でも、選べるようにしてくれたのは、選択肢はあるのだと教えてくれたのは、零ちゃんだった。

 父の時も、母の出産の時も、お姉ちゃんの進学の時も。

 そう、まるで物語の主人公を支える魔法使いのように。

 

 何故だか、ストンッと納得してしまった。

 同時に少しワクワクもしてくる。 

 ずっと、見ていたいなぁと思った。零ちゃんの将棋も、その生き様も。

 きっと、苦しくても楽しくて、厳しくても優しい、そんな物語みたいな日々が紡がれているのだ。

 

「楽しかったね。零ちゃん」

 

 夏祭りのあと、皆でカレーを食べながら呟いた私に、

 

「……うん。そうだね。とっても楽しかった」

 

 零ちゃんは、優しく笑ってくれた。

 本当は、忙しい大事な時期だって知ってた。

 だから、チラッとのぞきにだけ来てくれたら、それで充分だと思ってた。

 でも、零ちゃんはいつも私の想像より一歩先にいて、手を伸ばしてくれる。

 手伝いに来たいって言ってくれたこと、すっごく嬉しかったんだよ。

 

 お父さんが家を出て、ももが生まれてから初めての夏祭りだった。

 去年はうちも、色々あったけどそれを吹き飛ばすくらい楽しいものにしたかったし、お世話になったご近所さんたちに、変わらず元気な三日月堂を見せたかった。

 私とお姉ちゃんもいっぱい手伝って、すこし大変だったけど、想像の何倍も楽しかった。

 お母さんはももの世話もあるし、新商品を中心になって考えたのは私たちだ。

 これから先も、この大切な場所を守っていきたいから、出来ることは何でも挑戦したかった。

 

 零ちゃんとそのお友達も手伝ってくれたおかげで、随分と回転がよくなったから、最後の方は品切れになるほど。

 にわか雨に降られたけど、お母さんも、お婆ちゃんも、お爺ちゃんも、お姉ちゃんも、ももだって、皆楽しそうに笑ってた。

 前から好きだったこのお祭りが、もっともっと好きになれるんだって、驚いたくらい。

 私の隣に座って、ゆっくりカレーを食べている零ちゃんを横目でそっと見つめた。

 

 最近、びっくりするくらい背が伸びて、そして大きな棋戦を終えるごとに、また一つ遠くにいってしまうような気がしていた。

 でも、零ちゃんはまるで、此処に帰って来ることが当然のような顔をして、うちに遊びに来てくれる。

 

 それがどんなに嬉しいか、ちゃんと伝わってるといいなぁ。

 だから私はいつだって、とびきりの笑顔と美味しいご飯で迎えてあげたい。

 最近は、料理の味付けだって覚え始めたんだよ?

 

 格好いい、魔法使いさん。

 その手で、いっぱいの棋譜を残して、沢山の人を魅了させて、魔法をかけ続けて下さい。

 私は、ずっと貴方の魔法を見ていたいし、そんな貴方を応援したいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十九手 彼が待つ人

 8月末日。

 僕は、獅子王戦挑戦者決定三番勝負の第一局を迎えることとなった。

 

 獅子王というタイトルは七つあるタイトルの中でも名人とならんで、特別なタイトルと言っていいだろう。

 免状に名前を記す棋士も当代の名人と獅子王の二人だ。

 どちらも将棋界の顔といって良い。

 

 

 

 賞金総額は、七大タイトルの中でも随一。

 予選トーナメントをぬけ、本戦トーナメントを勝ち進むだけでも、そこそこ良い額をくれるし、この三番勝負もかなりのものである。

 また、面白いのが、予選には奨励会員もアマ名人も女流プロだって出場することが出来る。おそらくトーナメントに参加する人の人数も他のタイトル戦よりも多いのではないだろうか。

 

 名人戦はどんなにはやくても、新人はA級にあがるまで5年が必要だ。それだって難しいし、A級の10人に入り一年かけて対戦して名人への挑戦権を得る。

 一般の方からすれば、気の長い話だろう。

 

 対して獅子王は予選に勝てさえすれば、一年目でも本戦に出場することができる。

 もっとも、下の予選トーナメントの組ほど本戦出場枠はすくないから、狭き門になるが。

 僕自身は去年予選六組で優勝して、その一枠を射止め、本戦トーナメントに進んだ。タイトル戦にかまけていたので、本戦の途中で敗退したけれど、今年はここまで来ることが出来たのだ。

 

 三番勝負。

 挑戦者をきめるのに、3回も時間をくれるタイトルはそうない。

 一回で決まらないことを良しとするのか、それとも強敵相手に2勝しなければならないことを嘆くかは人それぞれだろう。

 

 僕は……。

 たぶん、少しワクワクしている。

 だってあの土橋さんと、これほどプレッシャーのかかる舞台で指しあうのだから。

 

 でも、大事な初戦だ。少し緊張する。

 これをとるかとらないか。精神面でも大きく影響する。

 

 

 

 

 

 振り駒の結果先手は土橋さんになった。

 初手は角道を開く7六歩から。

 対して、僕は2手目に飛車先を突く8四歩と返し、対局はスタートした。

 

 早々と居飛車を明示する形となる。

 戦型の選択権は先手の土橋さんにゆだねると、3手目は6八銀とされ、矢倉が指向された。

 

 僕は、4手目に3四歩として、角道を開き、それにたいして、土橋さんは7七銀。

 直接対峙する角道を止めた。

 その後、数手進めて19手目4六歩。

 飛車先を決めてから、3筋の歩を伸ばし、急戦を目指す形を取り始める。

 

 

 それなら、と僕は持久戦模様に駒組みを進めることにする。

 27手目に土橋さんが、6六銀として戦場におくりだした銀の頭上に、6四歩として、歩を突き出してけん制した。

 中盤までは、どっちつかずの展開だった。

 

 昼食後先に仕掛けてきたのは、土橋さんだった。

 31手目に4五歩とすると、歩を突き合わせてきた。

 その後、戦場に跳ね上げた桂馬を起点として、角も投入し、模様に迫力をどんどん増していく。

 

 このまま、流れを持っていかれるわけにはいかない!

 僕は飛車を活用し、相手の桂馬を刈りとった。

 けれど、その後の手番でみごとその飛車は抑え込まれてしまい、その後土橋さんは力強く歩を前に出し、攻勢を強めていく。

 

 

 嫌な雰囲気だ。

 形勢の針が先手へと傾く音がしつつある。

 解っていて、見過ごすわけもなく、僕は中央から反撃し、角・銀両取りをかけた。

 

 対局は夕食後までもつれこんだ。

 

 その後も土橋さんは、落ち着いた指し回しで形勢を保ちつづけた。

 とった角も銀もうまく使わせてもらえないまま、対局は終局へと進む。

 

 そして、81手目5四銀。

 致命的だった。

 飛車・金両取りを仕掛けられたのだ。

 なんとか、生き残る道を探したけれど、これ以上活路はなかった。

 

 

 

 87手目の5四桂で、僕は一息お茶を飲むと、負けました。と、深々と頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 とんとんとん。と小さな足音が聞こえてきて、僕はピクッと耳をすます。

 間違えるわけがなかった。

 顔上げてうつらうつらしていた意識を呼び覚ます。

 数秒後ガチャリと鍵を開ける音がして、玄関のドアが開いた。

 

「ただいま」

 

 と、小さな声とともに僕のご主人さまが帰ってきた。

 お気に入りのクッションから降りて、お出迎えに行く。

 おかえりと鳴いてみせると、零は微笑んで僕の頭を撫でてくれた。

 

 今日はタイキョクというオシゴトの日だ。ガッコウとは違う日。

 ガッコウならもっと早く帰ってくるし、零はこんなに疲れて帰ってこない。

 

「遅くなってごめんね。ご飯すぐ出すね」

 

 ご飯だ!

 零はオシゴトの日もガッコウの日もいつも多めにカリカリを入れて置いてくれる。

 昼間から夕方にかけてお腹が空くとテキトーに食べる。

 シロにいが、がっつかなくても無くならないという事を教えてくれた。

 自分のお皿にある分はちゃんと自分でペースを決めて食べるのだ。

 

 でも今日みたいなタイキョクが遅くなると流石に少しお腹が空く。

 寝て待ってたら、あまり気にならないけど。

 

 零は僕たちのお皿にご飯を入れるとお風呂に入りに行ったみたいだった。

 人間は、僕たちと違ってぺろぺろしないから、お風呂が必要らしい。面倒だよね。

 

 今日はしゃんとしてるし、そんなに疲れてないから、勝ったのかな?ってシロにいに聞いたらあれは負けたなって言われた。

 

 えー。

 そーなの。難しいなぁ。

 シロにいは邦晴のこともずっと見てきたから、こういうことは外さない。

 

 そうかぁ。今日は大事なタイキョクだったらしいのになぁ。

 僕までなんだか落ち込んでしまったら、シロにいはまだあと2回あるさ。と顔をペロペロ舐めてくれた。

 そうなんだ。タイキョクもいっぱいあるから難しいなぁ。

 

 シロにいは、本当に物知りだ。

 僕をみつけてくれた最初からそうだった。こういうのを年の功っていうらしい?

 

 小さい時のことはあまり覚えていない。

 あったかくてふわふわしたお母さんのそばにいたのに、ある日お母さんは帰ってこなくなった。

 後から知ったけど、野良には珍しいことじゃないらしい。

 まわりに兄弟もいたきがするけど、気が付いたら僕はひとりぼっちだった。

 

 カラスは怖いし、ほかの猫はおこるし、子供には追い回されるしで散々だった記憶しかない。

 それで、静かな茂みの陰で小さくなって震えていた。

 そうしたら、いきなりぬっと白い大きな猫がやってきた。

 一目でわかった。ここは彼の縄張りだからほかの猫がいなかったんだ。

 圧倒的な強者の気配だった。

 僕は何も言えずに、ただただ縮こまっていた。

 

 そうしたら、彼は僕の匂いをひとしきりかいだあと、お前、まだ生きてるのか?とそう鳴かれた。

 ぼくは小さく、みぃとだけ一声鳴いた。

 彼は、ふんと小さく鼻を鳴らすと、仕方なさそうに僕の首のところをくわえて、少しだけ目につきやすいところまで運んだ。

 そして、そこでめいっぱい鳴いてろとだけ言い残した。

 

 言われたとおりに、みゃあみゃあ残りの力をつかって鳴いていたら、和子が来てくれた。

 ドロドロだった僕を抱き上げて、家にいれてくれて、あとはよくわからないけど色々全部してくれた。

 病院とかいう怖いところにも連れていかれた。でも、あれは必要なことらしい。

 それから、和子の家の子になった。

 シロにいは、僕が大きくなるまでだって言ってたけど、身体が大きくなってもおまえはまだちびだから良い。と言って、置いてくれた。

 追い出したら、和子が悲しむからだってさ。

 

 そのあと少ししてから、零が来た。

 シロにいは子供は嫌いだって言ってたのに、零は不思議な子だからいいらしい。

 僕も零はすきだ。隣にいると心地いいから。

 だからなんだかよくわからないけど、あの家を離れなきゃいけなくなった時も、ちょっと怖かったけどついてきた。

 シロにいは色々説明してくれたけど、要は邦晴が足を怪我したせいだ。年をとるって大変だなぁ。

 

 零がお風呂から出てきた。適当にごはんを食べた後、今日はもう寝るみたいだ。

 明日もガッコウなんだって。

 夏場で少し、じとじとして暑かったけど僕は零のそばで寝ることにした。

 去年の夏も零はなんだか忙しそうで、きつそうで、なんだか張り詰めてる感じだったから、よくこうして寄り添って眠った。

 

 でも、今年はすこし雰囲気が違う気がするんだ。

 うまくは言えないけど……。うーん。余裕があるのかな?

 忙しそうだけど、それも含めて楽しんでる感じだった。

 

 でもこのタイキョクは少し違ったみたい。

 去年のときと似た感じ、ちょっとだけピリピリしてる。

 シロにいはそれだけ、大事なタイキョクだったんだろうって言ってた。

 

 だから最近来客も少ないのかもしれない。

 零の部屋にはオキャクサンがよく来る。あんまり僕たちの縄張りによそ者が入ってほしくないんだけど……。

 

 ゴトウサンとコウダサンは、邦晴の家でもよくあった。ゴトウサンは怖いから苦手。

 目が合うとしっぽがピーンッてなる。

 

 最近よく顔をみるのは、スミスサンとヨコミゾサンとイッササンとニカイドウ。

 ニカイドウからは時々犬の匂いがする。でもまぁいい奴。チュールくれたし。

 イッササンはちょっと騒がしいから、そばには行きたくない。

 ヨコミゾサンは時々なんか、落ち込んでる。

 スミスサンがこの中ならいちばん近寄りやすい。シロにいは貧乏くじ引くタイプだって言ってた。苦労してそうな人って意味なんだって。

 

 夏以降よく顔をみるのはソウヤサン。

 この人がくると零が将棋しかみえなくなるから困る。

 シロにいはブラックリストいりだって怒ってた。ブラックリストってよくわからないけど、キケンな奴の事らしい。

 ソウヤサンは静かだけど、なんか気配が普通とちがうから苦手。

 ギラギラとした近寄りがたい何かをまとってる。

 シロにいはオーラがどうのって言ってた。

 

 でも、零もちょっと変わってるから二人は波長が合うみたい。

 

 プロキシという人たちの中だったら、島田さんは好きだ。自然の匂いがするし、優しいし、僕も膝に乗ってもいいかなって思える。

 零もよくお世話になってる人なんだって。

 

 あとは、あかりさんとひなちゃんも好き。和子とおなじあったかい雰囲気がするから。

 最近はうちに来ることは減って、帰宅した零の服から二人の匂いがすることが多い。

 あっちのおうちでご飯をもらってるんだろうって、シロにいが言ってた。

 

 でも、その頻度も減っている。

 零はほとんどの時間を将棋に費やしていた。なんだか、わからないけど大変そうだ。

 ほんとは遊んでほしいし、もっと構ってほしいけど、しばらくは我慢しないといけないかな。

 

 その日から、何度か太陽が昇って、月が顔をだして、また太陽が昇って……。

 まぁ、何日か経って、零の帰りがまた遅い日があった。

 タイキョクの日だったんだ!

 

 帰ってきた零は、すっごくすっごく疲れてた。

 こういうのボロボロっていうのかな?

 僕らのお皿に、カリカリを入れると、すぐにベッドにごろんってなってた。

 

 これは、また負けちゃったのかなぁと思ったんだけど、シロにいが今日は勝てたんだなって。

 

 はー。そうなのか。

 勝った日の方が疲れるんだって。そういうもんなのかな。

 

 じゃあ、また遊べるようになるかな?って聞いたら難しい顔をされた。

 あと一回あるらしい。そして、それにまた勝っちゃったらもっと忙しくなるらしい。

 うーん。プロキシって大変なんだな。

 

 零はご飯も食べずに、お風呂も入らずにそのまま寝ちゃった。

 いいの?ってシロにいに聞いたら、よくないけど起きないから仕方ないって。

 代わりに明日の朝少しはやめに起こしてあげるそうだ。

 イチジカンくらい。

 それって具体的にどれくらいなんだろう?

 シロにいは空が少し明るくなって、でも雀はまだ動き出さないくらいだって言ってた。

 零はいつも雀より後に起きるから、確かにすこし早い!

 はやく起きたら、お風呂にもはいれるだろうって。一日くらい別に入らなくてもいいんじゃないかと思ったけど、外に行くならあんまり良くないらしい。

 

 人間ってたいへんだ!

 零が困ると、かわいそうだから、僕はなるべく朝日が差し込んだらすぐわかるところで寝ることにした。

 明るくなったら、一生懸命鳴いて零をおこしてあげなきゃね。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 9月上旬。

 獅子王戦の第二局の前からは、学校も始まっていた。

 鮮やかに取られた第一局と、夜中目前まで粘って僕がとった第二局。

 

 今期の獅子王への挑戦権は第三局までもつれ込むことになった。

 集中力はどんどん高まっている気がする。

 ただ、相手はあの土橋さんだ。一瞬の隙をひっくり返されてしまうだろう。

 

 第三局が行われた日は、残暑が色濃くのこる。うだるような暑い日だった。

 あらためて振り駒で決まる最終戦の手番で、先手を得たのは僕。

 

 先手をとれたら、初手は決めていた。

 飛車先を突く2六歩。居飛車を明示する手だ。

 対する土橋さんは2手目に3四歩と角道を開くにとどめ対局はスタートした。

 

 続く3手目に、僕が角道を開くと土橋さんは直接相対峙した角道を止めて振り飛車投入を示唆する。

 

 そのまま振り飛車模様で進行していた対局は、12手目。

 土橋さんはいきなりノータイムで8四歩とし、一転、居飛車へと戦局を移行した。

 

 ……そうだよね。

 そうすんなりと、好きな展開にもっていかせてくれるわけがない。

 僕は数分小考すると、歩を突いた3筋に3七銀として、銀を繰り上げ早い仕掛けを目指した。

 居玉のまま駒組みを進める土橋さんを横目に、機敏に3筋を押さえ込み、大きな拠点を作っておく。

 

 

 そのまま、拮抗を保ちつつ午後の対局へ。

 

 

 

 土橋さんの36手目の2三歩をみて、僕は後々のこと考えて、飛車を2六の地点に浮かせて構えた。

 それを見逃す人ではない。ノータイムで7筋の歩を突き出し、7五歩。ゆるやかに、しかし確実に攻撃の態勢へと移ろうとしていた。

 こういう切り替えの早さというか、気転の速さは土橋さんの強みだ。

 

 でも、ここは冷静に、焦ってはいけない。右の桂馬を跳躍させて39手目3七桂として、力を溜めた。

 完全には受けに回ってはいけない。

 常に攻撃的な姿勢を保ちつつ、仕掛けどころを探らなければ、一気に持っていかれてしまう。

 ギリギリの綱渡り、お互いに切っ先をまったく譲らない緊張感。

 

 そのまま対局は夜までもつれ込み、夕食の休憩をはさんだ。

 

 

 

 少し疲れていた。でもまだ頭はフル回転できる。

 アドレナリンが出まくりで、おなかは空いていなかったけど、食べれるだけたべた。脳は糖分を欲しているはずだから。

 悪くはない戦局だ。

 でも、どっちがいいとも言えない。

 勝ちきれるだろうか……。

 そんなことを考えながら、夕食を食べ終え、対局に戻るまえにトイレを済ませておこうと、出た廊下で、僕はおもわず立ち止まってしまった。

 

 久しぶりにみる宗谷さんの姿がそこにあったから。

 よく見るスーツを着ていた。仕事でこちらに来ていたのかもしれない。そのついでにこの対局も見てくれているのかもしれない。

 でも、彼が気にしてくれているのは、うれしいと思った。

 

 すれ違うために廊下の端に寄った。対局中のものに声をかけることはしないから、僕は会釈だけして、その場を離れるつもりだった。

 その僕の耳に小さく彼の声が届く。

 

「土橋くんと指すのも楽しいけど、僕は次は君がいいな」

 

 グっと息をのみこんで、思わず振り返った先に彼はもういなかった。

 肌が泡立つ、胸の奥からこみ上げる何かがあって、そしてそれはグルっと僕の体中を一周した。

 心臓が高鳴っていた。

 鼓動の音が耳の奥で聞こえるほど。

 でも、驚くほど頭の中は冷静だった。

 

 

 

 宗谷さんがあそこで僕を待ってる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 終局が近い。

 そして、もう僕の王が生きる道はなかった。

 ……あそこが、痛かったなぁと今なら分かる。

 夕食前までどちらがいいとも言えない、ところだっただけに悔しい所だ。

 もう少し良い形になるまで、指し合おうか。

 せっかくだ。せめて綺麗な形にしておきたい。

 

 対面に座る桐山くんの事を眺める。

 はじめて対局した時は、彼はまだ小学生だった。今もまだ中学二年生だけど。

 細く、小さい、苗木だった彼は、今は少し大きくなって、しなやかな木へと成長した。

 元々、完成されていた棋風はさらに成熟し、そして今や落ち着きと安定も現れている。

 

 良いな、と思った。

 桐山くんと宗谷くんの対局をみてみたいと思ってしまった。

 たぶん、それが僕の最たる敗因だろう。

 

 宗谷くんは今、絶好調だ。

 これまでの彼の人生において、一番かもしれない。

 だって、今年度に入ってから一敗もしていない。

 いや、桐山くんにMHK杯で破れたのを最後と言った方が良いかな。

 

 1月から3月に僕と対局した玉将戦も、4月から6月にあった隈倉さんとの名人戦も、6月から7月頃の島田さんとの聖竜戦も、宗谷くんのストレート防衛だった。

 そして、いままさに番勝負中の後藤さんとの棋神戦、3戦までおわって宗谷くんが勝ち、次の4戦目をとればまたストレート防衛になる。

 もう少しで勝てそうだった対局もあった。

 でも、そのあと少しも勝ち取らせず、宗谷くんはタイトルを防衛し続け、いまだ七冠を維持している。

 

 二度目の七冠とこの圧巻の防衛の連続に、彼がまた他の誰にも到達できない領域に至ったと評価する人は多い。

 まさに神の子。

 一人だけ違う世界を生きている。……なんてね。

 

 でもね。

 僕は君に期待しているよ、桐山くん。

 宗谷君は君を待ってる。

 

 僕でもない。

 隈倉さんでも、島田さんでも、後藤さんでもない。

 他の誰でも無くて、君だよ。

 

 年末の君の部屋で、どのタイトルで君が上がってきたとしても、対面にいるのは自分が良いとそう言ったその時からずっと。

 ひょっとしたら、孤高の存在として頂点を極め、耳が聞こえなくなりだしたその時からかもしれない。

 

 桐山くんが宗谷くんと同じ世界に行くのでも良い。

 宗谷くんのことをこっちに引きずりおろして、彼だって人間だったのだと、僕たちに教えてくれるのでも良い。

 

 どちらにしたって、宗谷くんは一人じゃなくなるんだから。

 宗谷くんと指す対局は特別。それがタイトル戦なら殊更に。

 出来ることなら、彼の心を沸き立て、彼に望まれるのは自分でありたかった。

 でも、今回は君に譲るよ。

 次はきっと、僕がもらうけれど。

 

 そんなことをつらつらと考えながら続きを指していたけれど、それももう終わり。

 

 綺麗な棋譜になったなぁ。

 勝ってる側は、間違えないように慎重に神経をすり減らしながら、終局まで指し続ける。

 桐山くんはもちろん間違えなかったし、終局までのビジョンも僕が描いていたものより整ったものになった。

 本当に不思議な子だ。

 誰とも違う感性を持ち、そして僕らプロすら惹きつけられるそんな将棋を作りあげることが出来る子だ。

 

「……負けました」

 

 深々と頭をさげた。

 いろんな想いと、期待をこめたそんな一礼。

 この瞬間、最年少の獅子王への挑戦者が誕生した。

 この記録をずっともっていたのは、宗谷冬司だったけれど、君はやっぱりそれを塗り替えていくんだね。

 

 初めて、宗谷くんの口から君の名前を聞いた時から、僕はずっとこんな日が来れば良いと思っていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「……負けました」

 

 頭はフル回転して、神経をすり減らして、一手、一手、進んでいた僕の耳に、その言葉が届いた。

 すこし、時間をおいて脳まで到達する。

 はっ、として慌てて、有り難うございました。と頭を下げた。

 

 顔を上げて、大量のカメラのフラッシュを浴びながら、見えた土橋さんの表情は、納得した穏やかなものだった。

 対局後すぐの表情にしては、あまり見ない感じで、少し困惑したのだけれど、すぐインタビューが始まったので、その真意はくみ取れなかった。

 

「まずは、桐山七段、挑戦権獲得おめでとうございます」

 

「有り難うございます」

 

 部屋にいる記者の数、マイク、カメラの数は以前にもまして多い気がした。

 

「対局の方ですが、途中までどちらに転んでも可笑しくないほどの接戦でした。夕食後、一気にしかけましたね。狙っての事だったのでしょうか?」

 

「いえ、いつ仕掛けようかと思いつつも、土橋九段はそう簡単には戦況を握らせてくれませんでした。終局間際に、決め切れたのは……少しだけ上手く戦法が決まった事と、あと運もあったかと」

 

 本当は、もう気持ちでもっていったようなものだ。一瞬見えた光明に全力を投じた。

 絶対に渡したくなかった。その一心だった。

 

「これで、桐山七段は史上最年少での獅子王への挑戦になります。またこの対局のタイトル保持者は、現在七冠である宗谷獅子王ですが、意気込みのほどは?」

 

「宗谷獅子王と公式戦で対局するのは、3月のMHK杯以来になります。誰がみても絶好調の最強の相手です。でも、ずっとずっとその最強の獅子王に挑みたかった。昨年の秋のように、簡単に対局を落とす事はしません」

 

 長い、対局になる。獅子王戦は二日制の七番勝負。

 さらに持ち時間は8時間。その分、深い将棋を指すことが出来るだろう。

 

 他にも、いくつかのインタビューを受けたあと、土橋さんと感想戦をした。

 いつもは時間をわすれるほどのめり込んでしまうのだけれど、今日は珍しく彼の方から疲れているだろうから、ほどほどで終わろうと言われた。

 

 感想戦終了後、席を立とうとする僕に土橋さんが囁く。

 

「桐山くん。勝ちなよ」

 

「え?」

 

「君なら出来ると思ってる。一勝だなんて言わない。宗谷くんからタイトルを取っちゃいな」

 

 驚いて固まる僕の肩を叩いて、彼はいたずらっぽく笑った。

 正月に集まったメンバーで残ってるのは君だけだから。と続けて彼は退出した。

 

 よく分からないけれど、何かとても大切なものを託された。そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




クロの視点めっちゃ楽しかったです。
クロの視点の時に、人名にカタカナと漢字やひらがなが混じっているのは仕様ですので。

そして、ついにまた挑戦権を獲得しました。
土橋さんは宗谷さんが、桐山くんを待ってるって言いましたが、きっと彼自身も、ずっと待ってたんだろうなぁって思います。



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第五十手 末の弟弟子

 藤澤門下には、末の可愛い弟弟子がいる。

 私の親友の息子であり、藤澤師匠の最後の弟子である、桐山零はこの度また、大きなタイトルに挑むことになる。

 

 棋神戦の時ですら、早すぎると思ったけれど、それから一年ほどでまた挑戦権を取るとは予想もしていなかった。

 会長は大いに喜んでいたし、スポンサーの新聞社も号外を出すほどだった。

 宗谷名人の度重なるストレート防衛と、七冠の維持に世間は関心を寄せている。

 そこに、今年に入って唯一、MHK杯という公式戦で彼に黒星をつけている者が挑戦者になったのだ。

 期待がかかるのも当然だった。

 ネットの記事だけでなく、テレビ番組でも大きくとりあげられていたが、当の本人はいたって冷静だった。

 

 祝いを述べたメールへの返信は落ちついていたし、今はリハビリ専門の病院へと転院している師匠の元へ、報告がてら連れて行った時もいつも通りの様子だった。

 学校の方にも連絡は済ませ、対局とのすりあわせはしてもらえそうらしい。

 むしろ先生達が大喜びだったと、告げられた時は少し笑ってしまった。

 

 このくらいの年の子であれば、舞い上がったり変に力が入ったりといった事があるのが普通だが、零くんにそんな様子は微塵もない。

 集中を研ぎ澄ませ、対局に向けて静かに気持ちを高めているようだった。

 

 娘の香子に言わせれば、零くんは周囲の反応に無頓着である、と。

 世間一般で自分がどう評価されているのか、知らない訳では無いようだが、特段思うところもないようだ。

 周囲からの期待と重圧と関心に押し潰される様子もなく、どこ吹く風といった様子なのには随分と驚かされた。

 将棋に強く関係している事以外興味が薄く、その対象は自分の事も当てはまる。

 

 思えば、初めて会った時から、不思議な子どもだった。

 先に逝ってしまった親友への思いから、内弟子にしようとした私の思慮の浅さをあっさりと見抜き、子ども達との向き合い方を考え直させてくれた子だ。

 

 不器用な人間だと自覚はある。

 子ども達が、将棋に興味を抱き、この道を志そうとしてくれたのは嬉しかったが、逆に無理に将棋に拘らなくても良いのだと、そう教えてやることができなかった。

 あの子達の意思で将棋をしているのか、それとも私の教えからこの道に拘ってしまっているのか、判断はついていなかった。

 

 娘の香子はそれなりに指せたし、女流としての可能性は大いにあったと思う。

 ただ、あの子は奨励会に拘っていたし、私がそれとなく女流の道もあると勧めても却って意固地になってしまった。

 このままで良いのか。

 はっきりとプロは無理だろうと告げるべきなのか。

 迷っているうちに、香子はある日突然、奨励会を退会すると告げてきた。

 

 まさか、いきなりその決断をすると思わず、やけになっているのかといぶかしんだ。

 けれど、香子の瞳はまっすぐに私を見つめていて、思いつきで言っている事ではないと感じられた。

 この先には上がれないと思うと、そしてプロ棋士にどうしてもなりたい訳では無い自分に気がついたと。

 将棋はたぶん好きだけれど、この世界で戦うには少し足りない。今日は良い対局が出来たから、それで終わりにしたいと。

 

 香子は名前を出さなかったが、その日の対局が零くんだったことは私も知っていた。

 あの子との対局がこれほどまでに、娘の心を動かしたのかと、私はただただ感心した。

 

 そうして、香子は奨励会を去った。

 弟の歩はそのことに動揺していたが、あの子はまだ挑戦する気があったらしい。その翌年奨励会に入会し、今もまだ続けている。

 

 退会後、香子はしばらく将棋を指さなくなった。

 生半可な気持ちで打ち込んでいたわけではないことは、私も分かっている。

 将棋以外の事を何か模索しているようだと、妻からは聞いていた。

 しばらくして、ファッション雑誌のモデルになったと聞かされた。私はよく分からないが、妻はとても喜んでいたし、凄いことなのだと褒めていた。

 私が反対すると思ったのだろう。

 香子がどれだけ真剣か、熱心に取り組んでいるのか、華やかに見えて意外と薄暗いところも多い業界の大変さ等々、どこから知り得たのか定かでは無い情報とともに、色々聞かせてきた。

 ただ、その話よりも何よりも、記事に載っている娘の写真は、親の欲目を差し引いても、良いものだと思った。

 あの子が頑張りたいのなら、応援したいと素直にそう思えた。

 

 私が知らないことも多いが、食事の席で聞けば、香子は少し面倒くさそうにしつつも、丁寧に答えてくれた。

 初めて見開きに大きく写真が載ったときは、何も言わずに机の上にそのページが開かれていた。

 将棋をしていた頃は共通の話題があったが、それ故に会話が減り、踏み込むことに躊躇することが多かった。

 私達は今の方が、不器用ながらに意思疎通が出来ている。

 

 そうするうちに零くんは、藤澤師匠の弟子となり、奨励会を抜けプロになった。

 娘と彼の不思議な交流はいまだに続いている。

 香子が勝つまで駒落ちの枚数を増やしながら行っていた対局は、いまは四枚落ちに落ち着いたようだった。

 零くんは月に一回はうちに食事をしにくる。

 誘っているのはこちらからだが、基本的に断ることはしない。

 そのたびに、時間が許せば、香子と指し、最近は歩とも指しているようだった。

 

 奨励会を去りモデルの道に進んだ娘と、未だ奨励会で研鑽を積んでいる息子と、奨励会を抜け史上最年少でプロになった親友の息子。

 ともすれば、縁がないまま終わっても可笑しくなかった3人が、自宅の居間でじゃれ合いながら将棋を指している。

 不思議な感覚だが、私はとてもその光景が見たかったような気がした。

 

 

 

 自分の身の回りの事は、何でもそつなくこなす零くんだが、此方としては少しは頼ってほしいとも思い、機会がある度に門下の者達で可愛がっていた。

 タイトル戦はその最たるものだ。

 名誉なことだが、準備にはそれなりに時間と手間がいる。できるだけ煩わしさを減らしてあげたかった。

 

 一年前に作った着物のほとんどは、やはり丈が少し足りなくなっていた。直せない事も無いが、あまり同じものばかりとも行かないだろう。

 数着、新しい着物を作った。

 その中に一着、ある方から贈られてきた特別なものを交ぜておいた。

 誰からなのかは、零くんには今は告げない方がいいだろう。

 青碧色の生地に、桐の花の紋が小さく入ったこの着物。

 まだ少し丈の直しがいるが、これに袖を通せるほど、大きくなったのが感慨深い。

 

 この着物を着て、タイトルに挑む彼の姿を何より私が見たかった。

 そして、あいつにもみせてやりたかったと、そう思った。

 

 

 

 

 

 



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第五十一手 我が校の有名人

 俺の通う中学は、都内でもそこそこの規模と学力を誇る進学校だ。

 自分は、それほど頭は良くなくてスポーツ推薦枠を利用して進学した。

 小学校の頃からやっていた柔道で、俺はそこそこの成績を収めて、一応ながらに強化選手の認定も受けている。

 俺はこの道でやっていきたいと思っているし、できる限り柔道にだけ集中していたかったから、私立を選んだ。

 打ち込める環境がそろっているし、一般の中学と違って、既になにか目的を持っている奴も多く、周囲の雰囲気も向上心があるというか、悪くない。

 クラスメイトには、俺の他にも、別のスポーツの強化選手も居た。何かの大会で優勝した奴もいた。今度海外に行くからとしばらく学校を休む奴もいる。

 中々に興味深い奴が多い。

 

 そんな、俺たちの中学で、頭一つ飛び抜けた有名人がいる。

 名前は桐山零。俺の同級生でクラスメイト。

 将棋のプロ棋士だ。

 

 後から思えば本人は本意ではなかっただろうが、入学式の時から、目立っていた。テレビの取材があった上、そもそも入学式の一年ほど前から、テレビで頻繁にその顔をみていたのだから。

 正直、同じクラスだった事も、え? って感じだった。

 テレビで見ていた桐山は、すっごい大人びていたし、同い年に思えなかったから。

 詳しくは知らないが、将棋界のいろんな史上初を成し遂げているらしい。

 将棋には柔道みたいに、重量別のクラスがあるわけじゃないし、大人だろうが子どもだろうが、同じ土俵で戦っている。

 素直に尊敬できたし、同い年の奴が大人に勝って、負けましたと言われている姿は、単純に格好いいと思えた。

 一体どんな奴なんだろうと、少しワクワクした。

 

 少人数制を売りにしている、この中学の一クラスは20人程度。担任の林田先生は良い具合の距離感を知ってくれている教師という印象だった。

 クラスで初めの自己紹介の時、おーい中学生プロ、出番だぞ! と桐山に声をかけていた。少しの緊張感と浮き足だったそわそわした雰囲気だったクラス全体が、その言葉で適度に緩んだ。

 

「桐山零と言います。千駄谷小学校の出身です。趣味は将棋で、一応職業が棋士です」

 

 人前で話す事に、もう既に慣れているんだな。と一言しゃべっただけで分かった。

 

「対局の都合上、お休みすることが多くなると思いますが、仲良くして頂けると嬉しいです。よろしくお願いします」

 

 自然体だった。そして、テレビで見るよりも柔らかく、穏やかな雰囲気だった。本当に、仕事中とは全然雰囲気が違う。対局をしている時の映像では、もっと近寄り難い感じだった。

 その後、歴史の教科書に出て来そうなインパクト抜群のクラスメイトの出現もあり、初日から色々と面白いことが多い日になった。

 

 桐山の印象はというと、真面目で静かな人って感じ。

 公立中学にいったダチが見たら、驚愕しそう。このクラスはなんだか落ち着いた奴が多いけど、ふつう中学生ってこう、もっと落ち着き無いよな?

 俺としてはこのクラス、過ごしやすくて良いけどさ。

 

 入学して少しして、担任とのちょっとしたやりとりや桐山の様子から、師匠宅を出て一人暮らしをしている事が分かった。

 本人はあまり知られたくないようだったので、俺たちはうっすらそうだろうなと思っていても、触れ回ったり、口外したりは勿論しなかった。

 ただ、大変そうだなぁとは思う。

 働いて、メシ作って、掃除して、そして自分で起きて学校に来る。

 考えただけでも、気が重くなる。

 いつも大量の飯を作ってくれる母さんに、すこしは感謝すべきだろうか。

 

 

 

 

 


 

 桐山はどんどん勝って、ますます有名になって、中一の夏頃、タイトル戦というものに挑む事となった時、世間の熱量はまさにピークだったと言って良い。

 でも、意外とこの学校の上層部はきちんとしていて、煩わしい取材やテレビは滅多な事では入れなかったし、桐山の意思を第一に尊重しているようだった。

 

 知り合いが有名になっていくのって、少し誇らしくて、なんか少し寂しくないか?

 ただ、ちょっとだけ自慢できるとするなら、中学生をしている桐山零を一番よく知っているのは、このクラスの俺らだって事。

 

 朝は基本的に余裕を持って登校して、自分の机で棋譜か本を読んでることが多い。

 でも、対局の日の翌日は、極稀にギリギリに駆け込む時もある。

 対局がたてこもうと、どんなに忙しくても、課題を忘れたことは無く、授業についていけないような様子はみられない。野口からよくノートのコピーを貰っていた。

 でも、運動は苦手みたいだ。体育の授業はいつもすこし、困ったような雰囲気で俺らの後ろの方にいる。

 疲れている日の翌日は、見学している事もあった。

 日付が回るまで対局をしていた翌日に、走り回れなんて、確かにきついだろう。

 フケて保健室で寝てても文句言う奴なんていないだろうに、桐山は真面目で体育館の端でちゃんと座ってみていたし、何かあとで教員にレポートのようなものを出していた。

 選択授業でとっていた書道は達筆で、俺はその字がめちゃくちゃ好きで、道場に飾りたいからと、一筆すきな言葉を書いて貰った事がある。

 あと、俺らのクラスは一般クラスなのに、定期テストのクラス平均が高い。

 さすがに進学クラスの奴らには負けるが、平均点をグッとあげる奴が一人いることと、何を聞いてもわかりやすく答えてくれる奴がいるから。

 まぁそいつは同一人物なんだけど。

 桐山は本当に頭がいいから、たまに進学クラスのやつが図書室で唸っていると、その問題にヒントを出すことがあるそうだ。

 入学早々の定期テスト、数学の1位だけ、進学クラス内の聞き込みで見つけられなかったらしい。

 張り出したりしないから、本人が言わなければ迷宮入りだ。

 俺はそれ、きっと桐山だったんじゃないかって思っている。テスト返却の時、解説も行われるけど、あいつはその日珍しく、棋譜を眺めているようだった。

 直すところがあるのなら、ちゃんと聞くのが桐山だ。つまり、何処も間違いはなかったのだろう。

 どんなに、成績が良くてもそれを触れ回ったりしない奴だ。というよりも、興味が無いというのが正しい。成績は自分と向き合うもので、桐山が勝ち負けにこだわるのは、将棋に関してだけだった。

 

 部活に割く時間なんて無いようにみえるが、いつの間にか将科部なんていう、コアな部活に入っていた。

 野口が部長らしいし、面白そうな活動をしているし、すこし興味がある。

 たまに実験の成果だといって、匂い袋だったり石けんだったりを持ち帰っているのを見ることがある。その時の桐山の顔は、同い年っぽくて親しみやすい。

 そういえば、部員の一人が、いつからか先生達が将棋をしにくる、と笑っていたっけ。

 実験の邪魔にならないように隅の方で、桐山に多面指しされているらしい。

 目撃情報によれば、面白いけどヤバイ絵面と評判だ。

 

 

 

 

 


 

 桐山はなんでも卒なくこなすし、人生きっと簡単なんだろうなぁと、漠然と考えていた俺が、その認識を改めたのは、一年の秋のこと。

 桐山は夏休み前くらいから、タイトル戦という棋戦に挑んでいた。いくつかあるうちの一つの挑戦権を取ったらしい。

 それ自体がもう異例のすごさらしい。この言葉も何度きいたか分からないけど。

 きっとまた、あっさり勝っちゃうんじゃないかって、一般人代表の俺たちは思っていたわけ。

 ところが、そう簡単にトップは落とせないらしい。

 宗谷名人のラスボス感は半端なかった。

 最初の対局が終わって出た記事で、酷いものでは、悪手で自爆、惨敗、なんて言葉まで踊っていた。

 手のひらを返したみたいなその記事に、は? ふざけんなよって思ったし、俺は内容が気になって、将棋は分からないくせに、いろんな人の解説を読んだ。

 確かに、桐山の失着? というものだったらしい、でも本人は指した瞬間気づいていたという事だった。集中力の乱れ、一番あいつに足りていなかったのは長時間の対局に耐えうる体力だったらしい。

 その解説は少しだけ納得できた。桐山、いっつも体育へろへろだもんなぁ。

 インタビューの内容も何度も流されていた。

 本当に悔しそうだったから、次は頑張れよって心の中で応援していた。

 第二局目は鮮やかに勝って、そしてその後の対局も自分なりに打開策を見つけながら、食らいついていた。

 だけど、新学期早々にあった対局で宗谷名人の防衛は決まった。

 

 惜しかったなぁと思った。でも、お疲れ様って言ってやりたいと、桐山ならまたすぐ次の機会があるだろうと、そんな風に軽く考えていた。

 

 体調を崩したらしく、それから二、三日、学校を休んだ桐山がはじめて登校してきた。

 その時の姿に、掛けようと思っていた言葉は霧散した。

 ビックリする位痩せていた、体調は戻ったと言うけれど、なんでそんな顔白いんだよ。

 どれくらい、消耗して、すり減らして、あの対局に臨んでいたのか一目瞭然だった。

 そして、これ程かけても届かなかったのだ。

 あの桐山零が、負けたのだと、俺はやっと理解出来た。

 

 担任や、野口たち、比較的交流がある人達は色々声を掛けていたし、校長を初め先生達も一言ねぎらっていた。

 でも、俺には何も言えなかった。

 勝負の世界に身を置いて、多少は戦っている身だったから。

 かけるものの重さと、届かなかったものの大きさと、身につまされるような現実の厳しさを感じて、息がつまった。

 

 人生簡単……? そんなわけあるか、馬鹿。

 極めて行こうとするからこそ、上を目指せば目指すほど、苦しいのだ。

 もっと、楽に生きられたかもしれないのに、桐山は自ら激戦区、ひょっとすれば地獄のような、抜け出すことの出来ない混沌の中に、飛び込んでいっている。

 

 

 

 


 

 なんとなく勝手に気まずくなって、あと少しの畏怖もあって、俺はあまり桐山と話さなくなった。

 年が明ける前くらいだったと思う。

 俺は、柔道の試合中に負傷して、その怪我が無理をすると良くないということで、しばらく練習が出来なくなった。

 勿論、出来ないなりにやることはあるんだけど、それでも、毎日していた事がこなせない。

 その間に、ライバルたちはどんどん、先に行くのではと焦燥が募った。

 

 何時もならホームルームが終わったら、さっさと帰るのに、教室にだらだらと留まって、どうしたもんかと考えていた。

 

「あれ? 珍しいね。まだ残ってるなんて」

 

 そんな時、静かに教室のドアを開けて入ってきたのが桐山で、あいつは俺をみて目を丸くしていた。

 

「桐山も珍しいな、今日は対局なかったのか?」

 

「うん。だから、久々に部活に顔を出してたんだ。佐伯くんは今日は、練習はいいの?」

 

「俺は、しばらくは練習が出来ないから。本当はリハビリの方に行っても良かったんだけどなぁ」

 

 気分が乗らなかった。というと、桐山は少し不思議そうにした。

 

「……復帰の試合はいつになりそうなの?」

 

「年明けに一つ、大きな大会がある。それには、なんとか間に合わせたいと思ってる」

 

 ただ、出たところでどうなるのだろうか。

 勝負勘が戻っていなければ、散々な成績になるかも知れない。

 選手層が厚い柔道では、それだけで強化選手から外れることもある。

 いや……寧ろそれすら待たずに、年末には外れてるかもな。

 俺の他にも期待が掛かってるやつなんて、沢山いるし。

 

「そっか。じゃあまた年明けからは、忙しくなりそうだね。試合が多くなるなら、顔合わせること少なくなるかも。頑張ってね」

 

 桐山は、俺の復帰が遅れるなど、微塵も思ってないみたいだった。

 

「……間に合うと思うか?」

 

「え? 違うの? 佐伯くんがそのつもりなら、きっとそうなるんだろうなって思って。君、何時も粛々と有言実行してる印象だったから」

 

 武道家の人って、そうなのかな? ストイックだよね。だってさ。

 おまえがそれを言うのかよ!? って吹き出しちまった。

 まぁでも、悪い気はしない。

 そうか、やるかどうか決めるのは俺だ。

 そして、間に合わせてみせる。

 医者だって、経過の事はあるから絶対とは言えないが、それだけあければ、問題ないと言っていたのだ。

 

「桐山は、また最近対局数増えてるな。年明けは、もっとなのか?」

 

「うん。棋神戦のときに、ほとんどのトーナメント落としちゃったけど、そろそろまた次の予選、本戦が始まっていくし」

 

 負けて、無くして、また積み重ねて。

 俺と同じだ。

 勝負の世界で生きていくというのはおそらくこういうことなんだろう。

 

「お互い来年も頑張るかぁ。桐山の中継がまたテレビで取り上げられるの楽しみにしとくわ」

 

 タイトル戦とか、大きい棋戦は、ダイジェストとかで放映されることも多い。つまりはそういうことだ。

 

「ありがと。じゃ、今日も寒いらしいから帰るときは、気をつけてね」

 

 桐山は、そう言ってなにかを机から取ると、教室をあとにした。

 必要なものを取りに来ただけで、まだ帰る訳ではないらしい。

 ……俺も、そろそろ出るか。それで少し遅くなったけど、帰りはちょっとリハビリにでも寄っていこう。

 気分がどうとか言ってられねぇ。

 積み重ねるしかないのだ。

 今の最善を積み重ねなければ、俺が行きたい場所には辿りつけないのだから。

 

 年が明けても、俺は強化選手のままだったし、復帰戦は完勝……とまでは、いかないがそこそこ上手くいった。

 相も変わらず、今も柔道三昧の日々だ。

 

 

 

 進級して2年になったが、偶然にも桐山とは同じクラスだった。

 年度末に、七冠になりラスボス感を増していた宗谷名人を、公式戦でやぶって優勝してからも、彼は相変わらず、淡々と日々を積み重ねることを止めない。

 そして、ついにまたタイトルの挑戦権を手にした。

 それも、将棋界の中ではなかなかに、意味の大きいタイトルらしい。

 

 あまり騒いで本人が居づらいといけないし、基本的に俺らはほどほどに声を掛けるのがいつもの感じ。

 外で散々言われてるだろうから、学校くらい気兼ねなくいたいだろ?

 頑張れよ。とか見るからなぁとか。その辺、軽く言うくらいだ。

 でも、珍しく将科部の人間がちょっとした、応援もかねて手ぬぐいのようなものに、寄せ書きをしていた。

 桐山が対局で休みの日に、教室で作業をしていて、たまたま見かけた俺に、よかったらどうか? と声をかけたのは野口だ。

 校長とか、先生も書いてたし、個人的に桐山と面識がある奴も書いていて、かなりの数になっていた。

 

 俺は、少しだけ迷った。

 けど、せっかくだから一言だけ書いた。

 もう一年半も一緒に過ごしてきたんだし、あの日、背中を押してくれたのは桐山だ。

 あいつはあの時、そんなつもりは、無かっただろうけど。

 

 ”積み上げれば、届く。”

 

 ただそう一文。

 俺からの最大の激励だ。

 期待していた、俺が見たかった。

 見せてくれよってそう思った。

 お前には、それが出来るだろう? それを見たら俺もこの先、積み続ける事が出来るよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十二手 神の子に届く風

間に入れ忘れた掲示板回を二回追加しています。
棋神戦の前と記念対局の後。


 時間は瞬く間に過ぎていく。

 挑戦権が決まってから、学校との調整や着物の準備、そして勿論対局の研究と慌ただしい毎日だった。

 

 獅子王戦は将棋界の顔となるタイトルの一つであり、賞金額もさることながら、番勝負に少し変わった特徴もある。

 最初の対局である。第一局の開催地が国外であることが、過去多々あったのだ。

 それも一度や二度では無い。

 今回はどうなるのだろうと、思っていたが案の定だった。

 

 10月上旬に行われる、今期の獅子王戦第一局の開催地はイギリスのロンドンになる。

 

 国外対局になるかは、微妙なところだったのだが、やはり話題性と盛り上げたいというスポンサーの意向が強かったのだろう。

 幸いにもパスポートは藤澤師匠にお世話になり始めたときにすでに取得してある。

 仕事で海外なんてことが稀にあるからと、作ることを勧めてもらって良かったかもしれない。

 お役所仕事だし、発行には意外と時間がかかる。もし、今取っていたらギリギリになってしまっただろう。

 猫たちのことは、今回和子さんが少し忙しそうだったので、ひなちゃん達にお願いしたら、快く引き受けてくれた。

 うちの鍵を渡しておいて、餌やりとトイレの世話をたまにしに来て貰う。

 うちにきても、あの二匹が嫌がらない人は少ないから、本当に助かる。

 数日のことだし、ペットホテルよりは家の方がいいはずだ。あの子たちはちゃんと待っていてくれるだろう。

 

 

 

 会長は僕より宗谷さんのことが心配な様子だった。

 将棋関連の関係者は、みんな同じ便でロンドンまで行くし、道中もほぼ団体行動になるのだけれど、それでも何度も念押ししていた。

 おまけに、桐山おまえと宗谷は思考が似てるし、あいつが考えてることもわかるだろう!? ちょっとフラッとどこか行かないように見張っといて! ……なんて。

 

 空港について飛行機を降りたとき、少し空気が違う気がした。

 異国の気配がする。

 

 イギリスの気候は日本の四季とすこし似たところがあるらしいけれど、何より雨が多い。

 けして雨量が多いわけではないが、一日のうちでなんども降ったりやんだり、頻繁に天気が変わる。

 10月は日本でいえば、秋の気候だけれど、ここは本当に寒暖差が激しい。春のように暖かな日をみせれば、急に冬の気配を感じさせる寒い日があったり。

 体調管理には充分気をつけろと、言い渡された。

 

 対局の会場はロンドン市内のハイドパークの側にあるホテル。

 ハイド・パーク、ショップが立ち並ぶオックスフォード・ストリート、地下鉄マーブルアーチ駅からそれぞれ徒歩5分以内で、観光にはもってこいだと、一緒に来ていた一砂さんとスミスさんが話していた。

 隙を見て行く気なんだなぁ、と小さく笑ってしまう。

 歴史を感じさせるイギリス風の外観は、町並みとよく馴染んでいた。

 

 すぐチェックインして、とりあえずは荷物を置きに部屋に向かった。

 前夜祭までは少し時間がある。僕は観光はいいからすこしでも休みたかった。

 時差の影響もあるみたいで、少し眠たいし。

 

「Hi, are you the challenger this time?」

 

 エレベーターボーイが気さくに話しかけてきた。さすがに、棋院の貸し切りとはいわないものの、日本人の団体客がこの数日間ホテルのほとんどを占めるわけで、イベントごとがあるのも把握しているのだろう。

 

「Yes.」

 

「That's incredible! Can I have your autograph?」

 

 彼は、僕の返事に信じられないといった表情でそう早口でまくしたてた。

 言葉の端々から、こんなに子どもなのに、という雰囲気が読み取れる。うーん。これは実年齢より小さくみられてるな。

 こっちの人達って、ほんと背が高いし。

 

「……OK! By all means.」

 

 苦笑しつつ頷いておいた。この二日間また会うこともあるだろうし。お世話になるんだからそれくらいはいいだろう。

 

 

 

 エレベーターを降りたところで、一砂さんが興奮したように僕に話しかけた。

 

「やべぇ、桐山英語わかんの?」

 

「え? ……あぁそっか」

 

 そういえば、普通に返事をしてしまったけど、中学生って英語ならいたてだっけ……。

 

「えぇ……っと、まぁ簡単な会話だったら。あとは! 雰囲気ですよ。なんとなくで答えてます」

 

「いやーそれでもたいしたもんだわ。俺らは一応高校でてるけどさ。試験の時以外さっぱりだぜ」

 

 スミスさんまで、そう感心したように言うから、恐縮してしまった。

 グローバル化が推奨されていた未来。やはりある程度分かった方が楽しいし、海外で将棋をしてくれている人もいるから、その人たちとも指せたらと思って、そこそこ勉強した。

 ……結局、将棋の感想戦は勢いでだいたい伝わってしまうから、文化は言語を超えるなぁと面白かったけど。

 

「なんて声かけられてたの? チャレンジャーは挑戦者だよな?」

 

「君が今回の挑戦者か? ってきかれました。その後は、驚いた後に、サインくれって。僕のサインというか、揮毫、漢字だけどいいのかなぁ」

 

「寧ろ喜ぶんじゃね? 読めないだろうけどなぁ」

 

 そうやって、笑っていたけど、彼は後日エレベーターに乗ったとき、本当に色紙を手渡してきた。

 そして、筆ペンでかいた揮毫を渡すと“So cool !!”と大興奮だった。お気に召していただけたのなら嬉しい。

 

 

 

 前夜祭の前に滞りなく検分をすませた。この身体になってもう二回目だし、慣れたものだ。

 畳はないから、今回の対局は和装だが椅子に座って行われる。

 高さはどうかとか、座り心地がわるくないかとか、その辺はいつもと違った。

 宗谷さんは繊細そうにみえるけれど、意外とこういう環境の変化には柔軟に対応するいうことを僕は知っている。

 そして対局への集中が増す。タイトル戦のときはなおのこと。

 

 将棋盤と駒を確認して、揮毫をする。今回はさすがに現地のものというわけにいかず、日本から持ち込んだものだ。

 この将棋盤は、後からホテルに寄贈されるらしい。なにやらちょっとした展示を行うそうだ。

 気合いをいれて丁寧に書いておいた。

 

 

 

 前夜祭の流れは、海外だからといっても、日本で行うときとほとんど変わらない。海外メディアが一応入ってはいるけど、将棋はチェスに押されて海外ではそれほどメジャーではないので、本当に少数だ。

 参加者のほとんどが日本人で、これといった緊張もなかった。

 

 両対局者の入場後は、主催者挨拶、将棋連盟代表として会長の挨拶、開催地の代表者の挨拶になる。

 いつも同じような内容になることが多いけれど、開催地の代表者の挨拶のときは通訳がはいるし、スポンサーも久々の海外開催ということで、気合いが入っていた気がする。

 

 イングリッシュガーデンという言葉があるくらい、花に関して盛んなイギリスらしく、会場のあちこちに花瓶が置いてあったし、花束贈呈で頂いた花は、美しいバラが主体だった。あまりみない形と色のものもある。

 

 さぁ贈呈のあとは、まずは僕の挨拶だ。

 

「皆さん、こんにちは。また、こうしてご挨拶出来ることを嬉しく思います。思い起こせば、一年ほど前、タイトルは違えど棋神の位をかけて、宗谷獅子王とは七番勝負をさせて頂きました。

 様々な評価を頂きましたが、あの時の対局内容は私としては不本意なものが多かったです」

 

 後半戦の対局はまだマシだったけれど、第一局の内容は褒められたものではない。体力というあらがえない身体の幼さに悩まされた。

 

「こうして再び、挑む機会を得ることができました。さらに獅子王戦という最高の舞台です。宗谷獅子王の好調ぶりは皆さんもご承知の事だとは思います。ですが、一矢報いたいとは言いません。私は本気でタイトルを取りにいきます」

 

 挑戦者の言葉としては、胸をお借りするとか、自分のベストを尽くしたいとかその辺りが無難だ。でも、今回は強気でいきたかった。言霊ってあるとおもうし、何より僕がそうしたかった。

 

 続いて、現タイトル保持者の挨拶となる。

 

「獅子王というタイトルは、私にも思い入れがあるタイトルになります。当時19歳だった私は、このタイトルではじめて挑戦権を得て、獅子王を獲得しました。当時の最年少記録だったそうです」

 

 宗谷さんが記録のことを持ち出すのは珍しい、おそらく新聞でも書かれていたし、メディアを意識してのちょっとしたサービスも入っている。……ここ会長が考えたんじゃないよね?

 

「もっとも、挑戦権獲得の最年少記録は桐山七段がぬりかえてしまいましたが」

 

 この言葉で会場がドッと沸いた。まさか本人の口から、言われるとは思ってもいなかったので、僕は目を丸くする。

 

「けれど、タイトル獲得記録まで、そう易々と渡すつもりはありません。当時、挑む立場だった私が、今度はそれを阻む立場にいる。不思議な縁も感じます。勝負の行く末を皆様には見届けて頂ければとそう思います」

 

 最年少での獅子王獲得以来、只の一度も無冠になった事が無い、七冠保持の絶対的な存在。

 言葉の重みが違う。

 だからこそ、挑みたいと強く思う。

 誰よりも、貴方を満足させる将棋が指したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「こりゃ、もう決まりだな」

 

 俺の言葉に、検討していた棋士たちはグッと黙り込んだまま、複雑な表情をみせる。

 だが、誰一人として異論は出なかった。

 それほどまで、圧倒的な寄せ。芸術的と言っていいだろう。

 

 

 

 昨日の一日目はどちらが良いとも言えない拮抗した盤面だった。

 

 先手は宗谷だった。

 初手は角道を7六歩から、桐山の応手は飛車先を突く、8四歩として、対局はスタート。

 早々と居飛車を明示し戦型の選択権を先手に委ねた桐山に、宗谷は3手目を6八銀とし矢倉の形をとった。

 

 桐山が4手目に3四歩と角道を開くと宗谷は7七の地点に銀を繰り上げ、自らの角道を止めた。

 これまで不突きが主流だった飛車先の歩を、少考ののち軽く突き出したのだ。さらに宗谷はその居玉のまま、早囲いの矢倉調に駒組みを進行。

 対する桐山は、7四歩として、7筋の歩を突いて急戦投入をみせつつけん制した。

 

 互いに角を自陣最下段に引き下げラインを代えてから、宗谷は23手目に3六歩と、歩を突いて空け、25手目には3七銀とその明けた地点に銀を繰りあげた。

 手堅さが好まれる通常の序盤戦とは異なる、積極的な模様になる。とても珍しい形だった。

 

 けれど、桐山も揺るがず、丁寧に指し進め、対局はどちらが優勢かも言いがたい状態で、宗谷が封じ手をし、一日目が終了した。

 

 明けて二日目。注目の宗谷の封じ手は2四歩だった。

 俺としては、6五歩と後手の角を動かす手が有力かとも思ったが、宗谷はより積極的に、飛車先から突っかける事を選択したらしい。

 

 桐山はその封じ手に慎重にいこうと思ったのだろう。およそ30分かけて長考にはいった。

 そして、その次の手が同銀でその歩を払った。

 宗谷はそれに、43手目4六角とし、その後僅か一分ほどで、桐山は44手を六同角、躊躇無く角交換を行う。

 その後の進行はこれまでと一転激しいものになった。

 

 角交換成立後、桐山は7筋の銀を吊り上げにかかったが、それに対し、宗谷は6筋の好所に角を打ち込む。八方ににらみをきかせる好手に見えた。

 けれど、桐山はその手に対しても僅か一分ほどで、7二飛とする。読み筋だったとしか思えないほど、鮮やかな切り返しだった。

 

 そして、二日目の昼食後。

 じわじわと、だが確実に戦況は傾き始める。

 その様子を俺たちは、まさかまさかと思いながら、固唾を飲んで見守った。

 

 桐山は飛車先の歩を伸ばし、宗谷の玉の頭上で銀を捕獲し大きな拠点を作ると、飛車に続いて角を争点目掛けて投入。

 直線的に玉への圧力を強めた。

 

 宗谷はこれにおよそ50分の長考の末に、桂馬をタダ捨てして後手の角を遮断する。

 その後桐山は僅かな長考のあと、桂馬を払った。そして続く、宗谷の61手は3五銀。銀を角頭に突き立てた。

 その角取りに構うことなく、62手目に6五桂とし、争点目掛けて桂馬を放り込み、桐山は一気に寄せの態勢に入った。

 

 そこからの指し回しは見事だったとしか言い様がない。

 主導権を握り、見事に盤上を支配していた。

 反対サイドに桂馬を放り込み、柔と剛を織り交ぜつつ、玉とともに飛車をも縛りつける。

 一体、いつから読んでいて、この展開に持ち込んだのだろうか。

 

 少なくとも、宗谷がなにかミスをした訳では無い。

 序盤からずっと微妙な展開が続く、前例がない細かい将棋だったと言える。

 見通しがたちにくいその局面を、まさか経験の浅い若手の挑戦者がここまで操るとは。

 

 一年前、棋神戦の第五局。

 当時もこうして二人の対局をみていた。

 もう数年もすれば、タイトル戦でも宗谷に引けを取らず、見事に指し合うだろうとそう思っていた。

 俺は宗谷の域に桐山が到達するのは、まだ先だと無意識にそう思っていた。

 

 そこから、僅かに一年だ。

 引けをとらない? バカか、俺は。

 思わず笑ってしまいそうなほどだった。

 痛快じゃ無いか。

 俺から名人位をとり、あっという間に棋界の頂点に君臨したこの男の前に、ついに現れたのだ。

 俺たちのなかで、どうしたって宗谷は特別なたった一人だった。だが、その認識を改める時が来たのかも知れない。

 

「3月のライオン」

 

「あ? 急にどうしたんだよ。朔ちゃん」

 

 俺の隣で、将棋をみていた朔ちゃんがぽつりと呟いた。

 

「いやな。さっきそこの通りの店に飾ってあったポスターに書かれてた。イギリスのことわざだ。“3月はライオンのようにやってきて、子羊のように去る。”」

 

「今は10月だぜ。もうろくしたか」

 

「うっさいわ! 感傷にくらい浸らせてくれよ」

 

 全く情緒が無いなんて、言い腐る朔ちゃんをなだめつつ、そのことわざについて聞いた。

 イギリスの3月の天候は、気まぐれで予想できず、荒れた天候になりやすいらしい。

 まぁ、日本の春一番と似たような感覚らしい。

 ……春一番なんて目じゃねぇ気がするけどな。

 こりゃ、日本の秋の台風なんかよりも、強い風だわ。

 

 

 

 桐山……おめぇさん、ほんと突然降ってわいたくせに。

 他の誰の風も届かなかった神の子を、引きずり降ろすのかもしれないな。

 

 

 

 104手目、桐山の4一玉にて、宗谷の投了。

 第一局目は桐山の白星となった。

 今年度、只の一度も黒星を持たず、タイトル戦もストレートで防衛し続けていた宗谷相手に、誰が見ても文句なしの完勝だったと賞賛できる、そんな対局だった。

 

 

 

 

 

 

 

 




原作、3月のライオンのタイトルの由来には諸説ありますが、サブタイトルで英語原文が載っていますし、イギリスのことわざが理由の一端ではあると思います。
後は、将棋界において3月は順位戦の最終月です。来期の順位戦、名人位の挑戦権の行方といった激動の月になるから、という考察があったりも。

会長は桐山くんを風に例えていますが、かなり最初のほうの会長視点で、嵐を呼ぶかもなと言っていたのと対にしています。


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第五十三手 僕が残してきたもの

 

 獅子王戦の第一局を僕が取ってからの日々は、もうめまぐるしかったと言って良い。

 無敗で防衛し続けた七冠がついに黒星。なんて騒がれていたけれど、僕はそんなことよりも、対局後宗谷さんから貰った言葉の方が嬉しかった。

 負けたのに、こんなに納得した対局は久しぶりだと、彼は本当に楽しそうだった。いつもは、ほとんど動かない、口角が僅かに緩んでいて、感想戦の長さはタイトル戦後とは思えないほど白熱した。

 あの手は? ここは? 二日目のこの時点からもう君は読んでた? 興奮していたのかもしれない。僕は初めて、ここまで饒舌になった彼を目の当たりにした。

 そうして、全部終わった後に言われたのだ。

 

「第2局目は楽しみにして、今度は僕が魅せるから」

 

 現タイトルホルダーからの宣戦布告だった。

 第二局目、京都で行われたその対局は、その宣言通りだったと言って良い。

 序盤、僕は、中飛車を選択しそのまま玉の囲いを穴熊に、宗谷さんも穴熊をとり、お互い固い組み合いになった。

 一日目の封じ手は僕が行った。どちらかというと、僕持ちの意見が出るくらい上手く指せたつもりだった。

 でも、明けて二日目のお昼前、穴熊を崩すために互いに、縦からの攻略を狙ってはいた、そこででた、宗谷さんの9六金という一手が見事だったのだ。

 8七の地点のスペースをあけつつ香車を引き上げるという妙手、タダで金を渡してでも上部に玉の脱出を優先していた。

 あまり、見ない……というか、まず思いつかない手だった。実際僕も指されるまでそこに来るとは思ってもいなかったのだ。

 結局その対局は、宗谷さんの勝ちとなった。

 

 そこからの対局は激動だったと言って良い。第3局目は僕がとった。でも続く、第4局目はまた宗谷さんが取る。

 そして、先日終わった第5局は、二日目が0時をまわる大熱戦だったが、辛くも僕が勝利した。

 今のところ3勝2敗。お互いに取って取られて、ここまできた。見てる側からすれば、非常に面白い展開だっただろう。

 でもなんとか、先に角番を取る事が出来たのだ。

 次、今までの流れだと宗谷さんが取る番だなんて言われているのも知っている。

 

 でも、もし僕が勝つ事ができれば、4勝目。獅子王位奪取ということになる。

 そんな第5局が終わって、すぐのある日の事だった。

 僕はその日順位戦があって、将棋会館に来ていた。七番勝負中ではあるけれど、他の対局も当然あるわけで、取れる対局はちゃんと勝っておきたい。

 ましてや、来期はB1を狙うのであれば、順位戦は一局たりとも落とすわけにはいかない。一期抜けには10戦全勝が確実なのだから。

 

 幸いその日の対局も問題なく白星を獲得し、帰宅しようとしていた僕は会長に呼び出された。

「急にすまんな、桐山」

 

「いえ、もう帰るところでしたし、大丈夫ですよ」

 

 会長の表情は、いつもと違って硬かった。僕は少しだけ嫌な予感がした。

 

「獅子王戦の次の第6局なんだけどな。開催場所が変更になったんだ」

 

「そうなんですか? 急ですね」

 

「あぁ、実は予定していた旅館でボヤ騒ぎがあってな。たいした被害では無かったそうだが、修繕にすこし時間がいるし今回は難しそうらしい」

 

 珍しい事だが、そういうことなら仕方ないだろう。

 

「それで……な。次の対局場所の候補地に名乗りを上げてくれて、なおかつ予定が立つのが長野の旅館だけだったんだわ」

 

「長野……ですか」

 ポツンッと一言、無意識そう呟いてしまった。自分でもなんと言っていいか、分からなかった。少しだけ複雑だ。

 聞き慣れたはずの、でもどこか遠くに聞こえるその懐かしい場所。

 

「次の第6局目。おまえにとったら勝てば、宗谷から獅子王を奪取できる大事な一局だ、なるべく他の事で煩わせる事が無いようにしてやりたかったんだが……」

 

「いえ……、大丈夫です。寧ろ今まで一度もなかった事の方が珍しいですし」

 

 どうして、気づかなかったんだろう。

 タイトルホルダーや挑戦者の故郷で、タイトル戦をするのは別に珍しくない。候補となる旅館が是非にと声をあげれば、実現もしやすい。

 それでも、以前の棋神戦の時も、今回の獅子王の時も、対局地が長野になることはなかった。

 僕がこれまでに呼ばれたイベントも長野だったことはない。

 気を遣われていた。いや、配慮してくれていたのだ。

 はっきりと伝えたことはないけれど、僕の経歴は知られている。東京に将棋会館があるのがこっちに来た最大の理由だが、あそこに僕の居場所がなかった事も、また事実なのだ。

 

「ほんと、すまんな。急な開催となると、あちこちに声をかけたんだが、どこも色よい返事をくれなくてな」

 

 その長野の旅館は、前の棋神の時も熱心に売り込んできたらしい。

 それもそうだ。初のタイトル獲得へのチャレンジ。是非地元でと思うことは、悪いことじゃない。

 今回の獅子王の時も、候補からは外れていた。

 けれど、この急な申し出を受けてくれたのは、その旅館だけだったのだ。

 

「もう2週間きってますからね。寧ろ引き受けてくれた事が嬉しいです。僕は大丈夫ですよ。その旅館で何かあったわけじゃないですし」

 

 名前を聞いたけれど、とくにピンッとは来なかった。老舗旅館だろうけれど、おそらく家族で行ったことはないはずだ。

 

「そうか。それなら良かった。まぁ前夜祭の時は、おまえのファンも来るだろうし、上客の中には、おまえのお祖父さんのことを知ってる人もくるかもしれん。田舎の開業医ってのは顔がひろいからな」

 

 会長は幸田や、おまえのなじみの棋士をいかせるから、絶対に側を離れるなと言ってくれた。

 何よりも、僕が対局に集中することが大事だと。

 大丈夫だと、本当にそう思っていた。

 僕の記憶では、長野で過ごした日々も、父や母、妹のことももう何十年も前の事だったから。

 それに事故から既に5年も経っている。親戚や家のゴタゴタも既に収まって、僕のことなどほとんど忘れているだろうと、そう楽観視していた。

 

 

 

 

 

 


 

 新幹線に乗りながら窓の景色を眺めていた。特段、いつもと何かが変わる気はしなかった。移動だって同じだ。隣に座っていた幸田さんは、今回のことで特別なにか言ってきたりはしなかった。

 でも、菅原さんに連絡をとっているのは知っているし、いざとなればすぐ電話で対応してくれるように頼んでいたのも知っている。

 あの時の事は片もついているし、あの人達も時と場所くらいはわきまえてくれるはずだ。面倒事はおきないと思っているんだけどなぁ。

 最寄りの駅に着き、バスに乗り換えて、目的地に近づくにつれ、なんだか不思議な感じがした。

 はっきりと記憶にないのに、知っている気がする建物や景色が多い。

 僕はふと、旅館の所在地を確かめた。知っている地名だ。

 漢字が目に入った途端思い出した、昔住んでいた家があった街の隣の市だった。

 ここに来るのに車で30分少しだろうか……。意外と覚えてるもんだな。

 

 旅館に着いたときも、僕はその外観に不思議な既視感を覚えた。何故か見たことがある気がする。ひょっとして来たことがあったのだろうか。

 手続きは会長がいつものように済ませて、僕は女将さんに部屋へと案内された。

 落ち着く雰囲気の良い旅館だ。

 ずっと人気だったのだろうなぁ。部屋を続く廊下から見事な中庭がみえ、そこに鹿威しもあった。

 あれ? と思って立ち止まる。

 

「あの鹿威し……どこかで」

 

「あぁ、ひょっとして気づかれました? 桐山七段はお若かったですし、覚えてらっしゃらないかと思ったのですが……」

 

 女将さんはそう微笑んだ。歳を重ねてらっしゃったけれど、僕はこの方の事も思い出した。

 

「すいません。今思い出しました。僕は、此処に家族で泊まった事がありましたね」

 

「はい。妹さんが中庭を随分と気に入られていて、桐山七段もそれに付き合って此処であそんでらっしゃいました」

 

 此方から、お声をかけるのはどうかと思いまして……と、少し目を伏せた。

 僕が覚えていないなら、それでも良かったのだろう。

 

「いえ、大切な想い出です。気付けて良かった。そうか……此処には来たことがあったんですね」

 

 何年も前の事だろうに、僕たち家族のことを覚えて居てくれた人がいた。

 それも、とても幸せな瞬間を。そのことが、嬉しい筈なのに、同時に忘れてしまっていた自分にギュッと胸が苦しくなった。

 

 

 

 忘れている記憶の欠片が、次々と繋がるように。

 目にする度に、聞く度に、思い出していく。

 間違いない、此処はどれほど時が経とうと、僕の生まれ故郷なんだ。

 

 

 

 部屋で落ち着き無く、そんなことを考えていたらあっと今に前夜祭の時間が近づいてきた。

 幸田さんが着物を着るのを手伝おうと、部屋に来てくれるまで、僕はそのことにまったく気づいていなかった。こんなに日が傾いて来ていたのに……。

 着物は、青碧色の生地の新しく追加された物。

 これは生地から仕立てたものではなく、あらかじめ出来ていたものを僕に合わせたので、何故か印象に残っている。

 幸田さんは着付けた後に、僕をみて、何か少し言いたそうに口元を動かしたけれど、すぐに首を振って何でも無い、よく似合っていると背中を叩いてくれた。

 いつもの頑張っておいで、という合図だ。

 

 前夜祭が始まる。

 いつもの流れなのに、どうしてか少し居心地が悪いというか、そう、僕は緊張していた。

 

 明らかに歓迎ムードなのだ。

 今までの対局地もそうだったのだけど、今回は僕個人への声援を大きく感じる。

 隣には宗谷さんが居るというのに、こんなことは今まで一度もなかった。

 開催地代表挨拶にきていた市長はもうほんとに喜んでいたし、対局者挨拶の後のフリータイムの時も熱心に声をかけてくれた。

 握手を求める声の数、サインをお願いされる数、向けられるカメラのフラッシュの数、いつもの比では無かった。

 有り難い事だから、一つ一つに答えるけれど、その小さな積み重ねが、ガリガリと僕の何かを削る。

 

 そして何より驚いたのが、極稀に壮年の男性から告げられる、若先生に似ているね。というその言葉。

 初めは一瞬、誰のことだろうと思った。でも、すぐに父のことを指していると気づいた。

 

 閉じていた記憶の箱から、スッと出てきたその単語。

 父に連れられて、お祖父さんが催す大きな集まりに何度か行ったことがあった。

 そこで、父は若先生と多くの来賓から呼ばれていた。

 そうだ、病院でもそうだったじゃないか。

 医院長の跡継ぎ息子、皆の若先生。決して嫌みな感じでは無く、親しみと、期待と、そんな気持ちをこめて呼ばれていたと思う。

 もう5年も経っているのに?

 違う。まだたった5年だ。この地では、若先生という父の面影がまだしっかりと息づいていた。

 

 幸田さんは、何度も僕に先に抜けるかい? と小さく聞いてくれた。

 でも、それは出来なかった。

 ここに居る、多くの人が僕を見に来てくれていた。挑戦者としてそれを蔑ろにしたくなかった。

 そろそろ、お開きかな? というムードになったとき、零っ! と声をかけられた。

 若い男の子の声だった。声の方をみると、僕と同い年くらいの男の子がいた。

 

「俺の事わかるか……?」

 

 少し眉をよせて、所在なさげな様子だった。

 大きくなっていたから、すぐには分からなかった。でも、その声と口調と、微妙に斜め下に向けるその視線。

 

「か、かずや……くん?」

 

 僕の言葉に、従兄弟の和也は安堵したように一息ついた。

 

「忘れられてたらどうしようかと思った。獅子王戦、第6局の開催おめでとうございます。コレ、一応うちから」

 

 ずいっと突きつけられた花束は、シンプルで細身にまとまっていた。荷物にならないような配慮だろうか。

 戸惑っている僕にだけ、聞こえるように彼は小さく呟いた。

 今だけ受け取ってくれ、嫌なら後で捨ててくれて良いと。苦み含む疲れたような声だった。

 

「ありがとう。貰っとくね」

 

 なんとなく、彼がこの場に来た理由が分かった気がして、僕はにこやかにそれを受け取った。周囲に喜んで受け取ったように見えるように。

 彼はほっとしたように見えた。

 同い年の中学生が二人集まれば、この場では少し目立つ。

 案の定、地元の新聞社の記者が写真を良いかと声をかけてきた。

 彼は、サッと僕のほうをみた。頼むと言われたのが分かった。

 花束がよく見えるように手に持って、笑顔で和也に肩を寄せた。

 彼はすぐに、やんちゃな中学生らしさを全面にだして、僕を肩をくむと空いた手で、カメラに向かってピースをした。

 眩しいほどのフラッシュとともに、耳元で、彼がごめんな。と囁いた。さすがにその後はすぐ別れると思ったのだけど、

 

「なぁ、5分でいいから話せないか? ……できたら、人がいない所で。この会が終わるまで待つから」

 

 会話が聞こえるか、聞こえないかくらいの位置で見守っていた幸田さんが、間に入ろうとしてくれたけど、僕はそれを制した。

 

「いいよ。コレ、僕の部屋の番号。前夜祭が終わったら来て」

 

 サイン用のペンで、彼の手の甲に小さく番号をかいた。うなずいた彼は、僕の側を離れると、先ほどの記者に話を聞かれているようだった。

 終始にこやかに対応している。良い所のお坊ちゃんって雰囲気だ。あんな大人びた表情をする子だっただろうか。

 

 その後は、何事もなく終了の時を迎え、僕と宗谷さんは退出した。

 

 

 

 

 部屋に帰って、着物を脱いで、荷物を整理していたところで、扉がノックされる。迎え入れた、和也の表情は固かった。

 

「今日はさ、ありがとう。……零は、俺になんか来て欲しくなかっただろうけど」

 

「そんなことは無いよ。ただ、すこし驚いて」

 

 数年ぶりの従兄弟と、何を話せばいいのか分からなかった。微妙な間とあまり好ましくない沈黙が入る。

 

「今更、どの面下げてって笑って良いんだぜ。俺の母さんのこと、恨んでるだろ?」

 

 僕が何も言えずにうつむくと、彼はため息をついた。

 

「……すげぇ奴になっちまったと思ったけど、そういう所は変わってないなぁ。良い子ちゃんで、いつも言い返さない」

 

 和也と僕が遊んだことはもちろんあった。お祖父さんのところにお正月は集まるのが当たり前で、そんなとき貴和子さんは絶対に旦那さんと和也をつれてきた。

 子どもは仲良く遊んでいなさいと、よく二人で追いやられたけれど、正直僕らは気が合ったとは……言えない。

 

「わりぃ。何も悪くないよ、おまえは。こっちの都合なんだ。もうさ、みせてやりたかったなぁ。零が史上最年少の小学生プロ棋士になったってニュースになった時のうちの母さんの顔」

 

 顔を上げた僕が目にしたのは、辛そうにゆがんだ彼の表情。たぶん初めて見た。

 

「すっげぇ、バッシングだった。そりゃそうだよ。一人残った息子を追い出して、病院をのっとって我が物顔だったのは、親戚中が知ってる! みんな手のひら返してさぁ。なんて非道なことをって。葬式の時は、だぁれも反対しなかったのにな」

 

 じわりじわりと、彼の言葉が耳をさす。

 プロ棋士になった直後、藤澤さんの家に連絡をしてきた、親戚が何人もいた。

 僕のことを引き取りたいと。全部藤澤さんが一刀両断したし、その後も僕の耳に入らないように気を配ってくれた。

 あの人達が、長野でどうしているかなんて、考えもしなかった。

 

「その後もずっと、何かニュースになる度に、長野は大きな人材を逃したってな。別におまえの功績が、キリヤマの功績な訳でもないのにさ。棋神の時、こっちには来なかったろ? 俺らのせいだって、そりゃもう鬼の首とったみたいだった」

 

 もともとちょっと、ヒステリー気味だった貴和子さんは、その辺りからそれに拍車がかかったらしい。

 

「だから今日絶対にお前と会ってこいって、言われたんだ。全く自分で来ればいいのにさ。子ども同士の方がいいって。何を今更。……でも、ほんと助かった。写真も撮られたし、あの記者には従兄弟だっていうのは、伝えさせてもらってる」

 

「あ、うん。それは別に大丈夫。僕もあまり確執があると思われたくないし、実際に僕らは従兄弟だ。そういう写真が一枚くらいあった方が自然だろうし」

 

「仲良かったの? とか聞かれたけど、正月に一緒に遊んでましたってだけは言わせてもらったぜ? 一応事実だしさ」

 

「うん。分かった。確かにお祖父さんのところで、遊んだもんね」

 

 それが、一般的な〝仲が良い〟だったかは、微妙な所だが、僕と彼も分かっている。ただ……僕たちには建前が必要だった。

 思うところが、全く無いわけでもない。でも、苦しんで欲しいわけではないし、彼らだけ異様に標的にされるのは、何か違うと思う。

 

「良いよな……零は」

 

「え? 何が……?」

 

 淡々とうなずき返していた、僕に和也が拗ねたように呟く。

 

「東京で一人で住んで、自分のやりたいことやって、すっげぇ才能があってさ。分かってるさ、ただの僻みだって。俺の知らない苦労があったはずだって。でも、でもさ、やっぱ羨ましいよ」

 

 酷く息苦しそうな声だった。

 

「母さんは異常だ。最近は特にそう思う。何かの妄執にとりつかれてるんだ。父さんはそれに飽き飽きしてるしさ」

 

 病院の事もあまり上手くいっていないそうだ。

 お祖父さんはいまだに、株の多くを保持し、弁護士とともに病院の経営をにぎり続けている。でも、前線でもう医師はできないから、和也のお父さんが事実上は医院長。

 閉鎖的なところがある田舎の私立病院で、東京からきた外の医者が馴染む苦労は、計り知れない。

 おまけに、病院職員の誰もが知っているのだ。

 医院長の娘が、兄の死後、何をしてどういう経緯で、夫をその地位に据えたのか。

 

「父さんも、最初は喜んだ。でも、数ヶ月もすれば思い知ったよ。病院の看護師も、他の医者も、事務員だって、皆が若先生は……てさ。いつまで経っても、消えないんだよ。今でさえ、医院長と呼ばれても、若先生には勝てないんだ」

 

 もう、いない人間を引き合いに出されて、ずっとその人と比べられるのは、どんな気持ちなんだろう。

 

「零の父さんはさ、凄い人だったんだよ。皆、一揮さんに継いでほしかったんだ。未だに爺さんだって、認めてないから、ずっと名誉医院長なんてやってるし」

 

 彼の口からでた、父の名前は生々しいほど、鮮烈だった。

 遠い記憶が揺れる。

 白衣を着ている父の背中。

 それほどまでに、慕われていたと、幼い僕は知らなかった。

 

「零は数学得意だったよな」

 

「……うん。他の教科よりは、すこし」

 

「いや、勉強はいつも俺より少し出来た。母さんはすっごいそれが気に入らなくてさ、何度も怒られたんだぜ」

 

 ……そう、だっただろうか。あまり気にしていなかったから、覚えがなかった。

 

「眼中に無かったよなぁ、うちのことなんか」

 

 僕の表情から、すぐに分かったのだろう。和也は呆れたようにそう続けた。

 

「一揮さんが生きててさ、病院継いでたら、おまえはきっと医者になってたんだろうなぁ。今もそんだけ頭の回転良いんだしさ」

 

 和也の口から出る、もしもの未来は、僕が確かに辿ったかも知れない道。

 でも、もう二度と選ぶことは無い道。だからこそ、言葉にされると胸に刺さった。

 

「和也くんは、この先どうするの?」

 

「あのおばさんが、俺に選ばしてくれると思うか? 今からもう詰め込み教育だよ。引かれたレールの上をいく以外、選択肢なんてない。医学部に強い有名私立の高校に受からなかったら、俺マジで刺されそうだぜ」

 

 冗談半分と本気半分。そんな感じで自分をあざ笑うように告げる彼が痛々しかった。

 

「でもさ。あらがってまで、なりたい何かもないんだ。逆らうには、俺は子どもだし。せいぜい頑張るよ。別に、勉強も嫌いな訳じゃないし。……ただ、今日の零は、すげぇ格好よくて、なんつーか眩しくて、羨ましかった。それだけ」

 

「うん。……あの、僕ほんとに何も出来ないけど、病院の権利とかは全部もう放棄してるから。本拠地はこのまま東京のつもりだしさ。おばさんにはそう伝えといて。……気休めかもしれないけど」

 

「伝えとくよ。今日は会ってくれてサンキューな。……会場から追い出されるかもって実はちょっとビビってた」

 

「そんなこと! しないよ。……僕も、ごめん」

 

 何に対してのごめんかは、僕自身、はっきりとはしなかった。

 ただ、和也は和也で大変で、彼はこの地でもがいてて、ひょっとしたらそれは、僕が東京に行かなかったら、あんな風に目立つ形でプロにならなければ、避けられた事もあったかも知れないから。

 和也は僕の言葉に、肩をすくめて、零はすぐ謝るよなぁと苦笑した。彼も別に僕を恨んではいない、それは分かった。

 退室する彼を見送ろうとしたとき、ハッと何かを思い出したようだった。

 

「あ、そうだ。これだけは、俺の独断だけど、零は知っておいた方がいいと思って。お前の家な、ちょっと前に売れちまった。父さんはやめとけって止めたんだけど、母さんがもう見たくもないって手放したがって……」

 

 一瞬、何の話かよく分かなかった。僕の家は東京の六月町にある。

 

「だったらお前に返してやれば良かったのにな。今なら維持する金も持ってそうだったし。……でも買い手がついたってきかなくて。一応知らないよりは良いかと思ってさ」

 

 買い戻したいなら、急いだ方がいい、買い手がリフォームするかも知れないし。と、続ける彼の言葉は、スルリと僕の耳を通過して、全くとどまってくれなかった。

 じゃあ、と去って行く和也に無意識に手を振りながら、やっと理解した。

 家? いえ……? 誰の家? 何の家?

 あぁ……そうか、僕の生まれた家、長野にあったあの家。

 

 売られたのか。

 

 そっか……でも、仕方ないよな。貴和子さんに管理を移譲したのは僕だし、あの時はそうする以外方法は無かった。

 それに買い取ったとしてどうするんだ? 長野には、そう来るわけじゃ無いのに。そんな事が、ぐるぐると頭の中を回り始めた。頭では理解していた、だからどうだって言うんだって。

 

 ただその瞬間に張り詰めていた何かが、確かに崩れてしまった。

 その事に、僕は気づいていなかった。

 

 

 

 

 


 

 なんだか寝てたのか、おきていたのかよく分からないまま朝を迎えていた。

 大丈夫。だいじょうぶ。いつも通りで、対局に集中しよう。

 呼吸をして、着物を身につけると少しだけ、落ち着いた気がした。

 でも、なぜか何時もより時間がかかってしまって、少し早足で対局場へ急ぐ。

 

 その途中、大盤解説の会場への入り口が見えた。

 なぜ、そこが気になったのか。どうして、目にしてしまったのか、もうこれは運というか縁というかそんな類い。

 見間違える筈が無い、車椅子の老人が入り口の側の陰にそっと佇んでいた。

 父の遺骸に縋って泣いていた、怒号がふっと耳に浮かんだ。

 僕の祖父に間違いなかった。

 将棋は嫌いだったはずなのに、来てたんだ。

 ……なんのために?

 分かっている筈なのに、それを期待するには、あまりに遅すぎる気がした。

 

 

 

 対局場について、下座で宗谷さんを待った。

 現れた彼は本当に何も変わらず、何時もと同じだった。

 真っ白な、大きな鳥が、上座に舞い降りる。

 いつもは、高く高く手の届かない所に居る鳥が、このときだけは僕だけをみて、目の前に座る。

 ……落ち着け。

 大事な一戦だ。今は、この盤上だけを見ていたら良いんだから。

 それでも、駒を持つ指先がビックリするくらい冷たかった。

 

 先手は宗谷獅子王、初手角道を開ける7六歩。

 僕の応手は3二飛車。角道を開けるより、飛車先の歩を突くことよりも、飛車に手をかけ、三間飛車にした。その後徐々に美濃囲いへと移行していく。

 宗谷さんも最初は、あまり積極的に仕掛けにこなかった。

 嵐の前に静けさのように、局面は穏やかな進行となり、お互いに玉の囲いに手をいれる。

 宗谷さんは、角の上に玉を乗せ、左美濃囲いの形へと整えていった。

 

 戦況が動いたのは昼食後だった。

 正直お昼はあまり食べられなかったといって良い。というかもう何の味がするのかさっぱりだった。

 宗谷さんは、角を自在に操って、攻守にバランスを取り、力を溜めていた。

 そうして、じわりじわりと陣形を整えつつ、歩も生かして、僕の囲いを崩そうとする。

 大きな失着はなかった筈だ。ただ、攻めきる事もできなかった。

 僕はただ、彼の手を受け流し、耐え、自陣を守ることしか出来なかった。

 

 あっという間に封じ手を迎え、一日目が終了して、部屋に戻る。

 

 

 

 扉を閉めた途端、頭を抱えて座りこんだ。

 決して悪い戦況ではない。

 でも絶対に僕の方が良いのではない。これまでの獅子王戦の中では一番、悪い一日目だったと断言できる。

 それが、悔しくて仕方なかった。

 何度も気もそぞろになった。その度に、何度も、何度も、宗谷さんの駒音で盤上に意識を引き戻された。

 今、何処にいて、何をしているのかを思い出しなよと、言われた気がした。

 

 昨日からの出来事を思い出す。

 懐かしい町並み。

 よみがえる記憶。

 ここに残っていた、父と母と妹の面影。

 成長していた従兄弟。

 そして、もう誰かの物になってしまった、生まれ育った家。

 

 大丈夫。過ぎたことだ。

 もう過去の事だ。全然気にしていない、つもりだった。

 

「バカか、僕は……」

 

 気にならない訳ないだろう。それを自覚できていなかったことが、問題だ。受け入れずに、目を背けた結果がコレだった。

 しばらく、そのまま座り込んでいたけど、皺にならないように慌てて着物を脱いでかける。

 

 背中、背紋下がりの位置に、小さく一つ紋。

 桐の花だった。よく知っている。

 間違いない、うちの、桐山家の家紋だ。今の今まで、ここに刻まれているのに気づかなかった。震える指先でソッとなぞった。

 

 朝、対局場にむかう途中で、チラッと見えた車椅子に乗った厳しい横顔が頭をよぎる。

 コレを背に、対局していたのになんて様だ。

 

 ははっ、と小さく声がこぼれた。

 泣きたいのか笑いたいのか、自分でもよく分からなかった。

 グッと唇と噛みしめる。なんだか、もうぐちゃぐちゃだった。

 

「……嫌だ。駄目なんだよ」

 

 絞り出した声は、かすれていた。

 

 このまま終わりたくない。

 ここで負けても、勝率は並ぶ。まだ第7局がある。

 でも、このまま負けてしまったら、僕は絶対に次は勝てない。

 このまま、こんな情けない対局しか残せなかったら、僕はもうこの地に二度と自分で足を踏み入れることが出来ない。そんな気がする。

 

 

 

 明かりもつけていない部屋の真ん中。

 掛けた着物の前で拳を握りしめ、じっと立ち尽くした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十四手 此処に在るもの

 

 ひんやりと部屋が冷え込む気配で、我に返った。

 気がついたら、随分と時間が経っていた。

 

 どうしたらいいのか、分からなかった。でも、このまま部屋にいたら駄目だと思った。

 ジーパンとシャツに着替えて、上着を掴んで、廊下に飛び出す。

 早足ギリギリくらいの、速度で会長の姿を探し続けた。

 控え室の側の部屋で、他の棋士たちと一緒にいるのを見つける。

 よかった、幸田さんも一緒だ。伝える手間が一つ減った。

 

「会長! ちょっと良いですか?」

 

「おぉ~どうした桐山。風呂には入ったのか?」

 

「いや、えっとお風呂はまだです。あの、……すいません。今から少し出てきてもいいですか?」

 

 僕の言葉に、会長は目を丸くした。

 

「今からって、外にか? そりゃあ別に時間の使い方は自由だが……」

 

 普通は明日に備えて、施設内でゆったり過ごして、早めに寝るのが通例だ。でも、今はそれでは駄目だった。

 

「絶対日付が変わる前には戻ります。お願いします」

 

「……分かった。幸田、ついてってやれ。それから、車。ホテルの人に借りれないか聞いてやるよ」

 

 何処に行きたいのか? 何をしたいのか? 理由は全く聞かれなかった。

 ただ、僕の好きなようにさせてくれて、少しでも動きやすいように考えてくれた。

 車はすぐに借りられた。ホテルの人が運転しようかとも、申し出てくれたけれど、断って幸田さんに頼んだ。

 これから行く場所は、幸田さんがよく知っている所だから。

 

 行ってどうしたいのかは、分からない。でも行かないと、絶対に後悔する……そんな気がしたから。

 伝えた住所に幸田さんは一瞬固まったけれど、なにも言わずに車を走らせた。

 僕はただじっと、窓から見える景色を見ていた。

 

 近づく度に、懐かしい場所が沢山あった。

 母さんと買い物に出かけた商店街。

 僕が通っていた小学校。

 父さんが務めていた桐山医院。

 ちひろと遊んだ公園。

 

 あふれてくるのは大切な想い出だった。どうして、忘れることができようか。

 ずっとずっと、仕舞い込んでいた。

 この地を離れて想い出すには、この記憶はあまりに優しすぎたから。

 

「着いたよ、零くん。だけど、中にはいるには叔母さんに鍵をもらわないといけないんじゃないかな」

 

「……もう。叔母さんにも此処の扉は開けられませんよ。誰か別の人の手に渡ってしまいました」

 

 幸田さんは驚愕して何か言おうとしたけれど、僕はただ静かに首を振った。

 中に入りたいわけじゃなかった。ただ、確認をしたかった。

 既に外観が変わってしまっている可能性もあったけど、建て直す事になって更地にでもなっているかと思ったけれど、変わらずにそこにあった。

 門構えも、奥にみえる家も、小さな庭も全部そのままだった。

 いっそ、更地になっていた方が諦めがついたかもしれない。

 あまりに当時のままだった。

 

「桐山七段……!?」

 

 道の端にとめた車のそばで、家を眺めていた僕に声がかかる。

 

「どうしたんですか、今は獅子王戦の最中では?」

 

「田村八段じゃないですか! お元気でしたか?」

 

「おぉ……幸田八段まで。おかげさまで元気にやっておりますよ。引退してから、時間を少々もて余しております」

 

 声をかけてきた初老の男性は、幸田さんの知り合いのようだった。

 八段……引退。この人もプロ棋士なのだろうか。田村八段、名前はどこかの棋譜でみた。顔はあまり見覚えが無い。

 

「零くん、こちら田村八段だ。きみが奨励会に入った頃はもうフリークラスにおられたし、プロ入りする頃に引退されたから、あまり面識がないだろう」

 

「こんばんは、桐山零です」

 

「おぉ、会えて光栄ですよ。同じ長野出身の棋士として、あなたの活躍は本当に嬉しかった。して、うちの前で何をやっとられたんです?」

 

「この家……田村八段が買われたんですか!?」

 

「えぇ、半年ほど前でしたかな。しばらくは引退後も東京におったのですが、長野に帰ってきたくなりまして。今は妻とすんどります」

 

「それは……なんと、不思議なご縁だ」

 

「この家は僕がむかし、長野に居た頃に住んでいた家だったんです」

 

 田村さんは僕の言葉に、目を丸くした後、れいというのは桐山七段のことだったのですね。と何故か納得した様子だった。

 そして、少し話をしましょうと、家の中に招き入れてくれた。

 中に入って、つくづく思った。

 当時のままだった、ほとんど手が加えられていない。痛んだところに修復がかけられているくらいだろう。

 通された居間は、僕と幸田さんがよく将棋を指した部屋だった。

 

「……そうでしたか、私が会ったのは君の叔母さんだったんだね」

 

 田村さんは、一通りの事情を聞くとそう呟いた。

 

「買い戻したいとかは思ってないんです。ただ、もう一度だけ見ておきたくて。いい人に買って頂いたようですし、良かったです」

 

「リフォームも随分薦められたんだが、私も妻もあまりこの家をいじりたく無くてね」

 

 そうだ、君も覚えているだろう。田村さんはそう続けると、僕たちを家の中央に位置していた大きな柱の前へと案内した。

 

「この柱を見たときなぁ、妻がリフォームはやめようと言ったんだよ。私たちにも子どもがいる。誰かがこの家で育って、想い出が息づいている。消してしまうにはあまりに忍びなかった」

 

 覚えている。

 はっきりと思い出せる。

 何本も小さく、線が沢山ひいてあった、僕のお腹の位置の高さまで。

 小さなその線の横には、れい何歳。ちひろ何歳。と、細いペンで書かれている。

 薄くなり、かすれていても、その文字は残っていた。母の文字か、父の文字か、どちらのものかもハッキリ分かった。

 ちひろの線は、僕の腰にだって届かない高さのまま止まって、もう二度と刻む事は出来ない。

 ふと、すこし目線をあげた先に、僕の頭一つ分くらい上。一本だけ線があって横にお父さん、と書かれていた。

 

 あぁ……そうか。いつか、追い抜くんだって、一回だけお父さんの高さにも印をつけたっけ。

 僕は、こんなにも貴方の視点に近くなっていたのか。

 柱に手を触れて、何分、そうやっていただろうか。

 引きつるような声が、ノドの奥から漏れた。

 

 いつの間にか、幸田さんも田村さんもいなくなっていた。

 だからもう良いやと、その手を握りしめ、柱に縋るように、声を上げて泣いた。

 理解できないまま、泣くことも出来ずに長野を離れた前世、落ち着いた振りを装って少しだけ泣いたけれど、淡々と荷物を整理した5年前。

 泣いても仕方ないから諦めて、悲しいから考えないようにして、頭の中から全部追い出した。

 

 記憶の限り、初めての事だった。

 家中に届くのではないかと思うくらいの声で、むしろ空のその先まで届いてしまえと思った。

 この体中に渦巻く、行き場の無い想いが洗い流されていく。

 僕の生まれた家は、その全てを受け止めてくれた。

 

 

 

 

 おそらく数分だったけど、つき物が取れたような気がした。

 目元は赤いし、服の袖はぐちゃぐちゃだし、酷い物だったけど、もうそれが可笑しいくらいだった。

 先ほど田村さんと話していた部屋をのぞく。

 幸田さんと田村さんはお茶を飲みつつ談笑していた。絶対に声は聞こえていたけど、さっきの事は何も言われなかった。

 

「桐山七段、幸田さんにもお話したのだが、落ち着いてからで良い、この家の名義は君に移そうと思う」

 

 田村さんは穏やかにそう切り出した。

 

「え? でも、買われたんですよね? そんな申し訳無いですよ」

 

「元々、妻と私の静かな余生のために買ったんだ、その後しかるべき人の所にもどるように先に手続きをしておきたい」

 死んだ後では、親戚たちが何か言わないとも限らない。そうならないために、先にもう僕に移しておきたいと。

 

「何、持ち主の名義など、住むものの心持ち一つでなにも影響はせん。その代わり家賃は勘弁してくれ」

 

「そんな、頂けませんよ。維持費だってかかるのに、僕ばかりが得してしまう」

 

 人が住まない家というのは不思議なもので瞬く間に、痛む。この家も一応、管理はされていたが、それでもこの数年でだいぶ古くなったところもあるだろう。

 水回りや、屋根の塗装など、直したところもあるはずだった。

 

「何、悪いことばかりでは無い。私は長野で将棋を教えたいと思っていてね。小さな教室を開こうかと。この部屋を使わせて貰っても良いかい? 桐山七段の生家だなんて、御利益ありそうじゃないか」

 

 茶目っ気たっぷりにそう言ってくれた。

 それは……なんて幸せな響きなのだろう。

 買い取って取り戻したところで、長野で寂しく佇む家になるならそれは意味がないのではと思っていた。

 でも、こうして将棋が好きな人に住んで貰って、そんな風に使って貰えるならこんな嬉しいこと無い。

 父さんに僕が将棋の楽しさを教えてもらった部屋で、新たに将棋の楽しさを知る子がうまれるのかもしれない。

 

「ありがとう、ございます。本当に、有り難うございます」

 

 何度も、何度も、お礼を言った。

 田村さんは、仕事で近くに寄ったときは、いつでも泊まりにきたら良いと言ってくれた。

 ここは君の長野の家だと。

 

 渡された合い鍵を握りしめる。

 大切な、大切な宝物だ。

 

 帰りの車の中で、幸田さんは後で、菅原に頼んでおくからと申し出てくれた。

 

「それからな、零くんが良かったらだが、第6局が終わったら東京に帰る前に、一揮に顔を見せにいかないか?」

 

「……はい。是非お願いします。本当は今日、家はきっと外からしか見れないだろうから、その後行こうかと思ってたんです。でも、今は終わった後に、ゆっくり会いに行きたいです」

 

 会って言いたいことがあったわけじゃない。ただ一度行っておきたかった。

 でも、もう大丈夫だ。

 僕は手のひらの中にある、鍵の感触を確かめた。

 長野にある家族の遺灰があるお墓、今世ではまだ一度も参った事がなかった。

 薄情な事だ。何度だって来ようと思えば機会はあったのになぁ。

 

「零くん、この対局で着ている着物のことなんだが……」

 

 言おうかどうか迷っている風だった幸田さんに僕は続ける。

 

「あ、大丈夫です。気づきました。お祖父さん今日観に来てくれてたみたいですし」

 

「まさか! 一揮が聞いたら、ひっくり返るなぁ。それくらい将棋を避けてらしたのに」

 

「でも、今日の内容はいまいちでしたから。……明日も来てくれたらいいなぁと思います」

 

 今はそう思える。幸田さんは僕の言葉に、何度もそうか、そうかとうなずいてくれた。

 そうして、僕は夜の10時頃には旅館に戻った。

 戻った僕をみて会長は、明日への準備は出来たみたいだな、と笑ってくれた。

 そして、じゃあさっさと寝るんだと僕を部屋へと促す。

 今日はちゃんとよく眠れるような気がした。

 

 

 

 

 

 


 

 

 翌朝、獅子王戦第6局、二日目が始まる。

 局面は中盤だ……ここからまだ、巻き返すことだって出来る。

 

 宗谷さんはまず6六銀と銀を強く前に出し、僕の角を払いのけ。

 それに対して、80手目、僕は、同歩としてその銀をもらう。

 81手目、さきほど取った角を、躊躇無く僕の陣営へと打ち込み4三角とする、一気に開戦か? と身構えたものの、宗谷さんは焦らずジッと自陣の再整備を施した。

 僕はそこで大きく、息を吐き出す。

 行こう、先にしかけられると今劣勢の僕にとって、良いことは無い。数手かけ左側から、桂馬を二度ほど跳躍させ、好所に飛び出し相手の角を取りに掛かった。

 それに対して、宗谷さんは89手目6四角。角を逃がすこと無く、強気に僕の金を取りに来て強襲。

 盤上で激しく駒がぶつかり合う。

 角に続いて、飛車も切り、僕の玉を守る2枚の金を剥がしにきた。

 この時点で、宗谷さん金2枚、歩5枚。僕の持ち駒は、角、銀、歩が一枚ずつ。

 両者とも持ち駒が多い、ここから大きく動きはじめる。

 守りに入る気はなかった。桂馬の3度目の跳躍から、飛車を投入しいち早く、寄せにいく。

 それでも、宗谷さんはまだ守りは万全とみたのだろう、99手目6三金。攻勢を示す強い一手だ。

 

 徐々に局面が落ち着き、終盤は7から9筋にかけての苛烈な玉頭戦になる。

 形勢が二転三転する中で、互いに時間が10分を切った。正念場の終盤だ。

 

 112手目、6九龍。徐々に徐々に、ペースを上げつつ、確実に宗谷さんの玉に迫っている筈だった。

 でも、7四桂。あえて、僕が指した龍は取らない、軽く羽ばたいたような軽快で、痛烈な一手だった。

 絶妙な6一の絶妙な位置にいた銀との連携で、あっというまに僕の玉が追い込まれる。

 

「詰めろ」だった。

 

 このまま、何も出来なければ9手詰めで僕の負けだ。

 

 どうする、どうする、どうする。

 持ち時間はもう無かった。

 でも諦めていなかった。

 一瞬で数千手をすっとばしたような感覚。

 

 パッと銀が光った気がした。

 

 気がつけば、122手目6六銀。

 銀をタダ捨てして先手の6六桂の打ち場をなくし詰み筋を消す。

「詰めろ逃れの詰めろ」起死回生の一手だった。

 

 はぁぁっと大きく息を吐き出す。呼吸をすることすら忘れていた。それぐらい集中していた。

 難を逃れたものの、宗谷さんの玉も硬く、最終盤の激戦は、どちらとも決めきれずもつれにもつれて、夜の22時をまわったところで、同じ局面を4回繰り返した。

 

 そう、千日手が成立したのだ。

 

 将棋において、駒の配置、両対局者の持ち駒の種類や数、手番が全く同じ状態が1局中に4回現れると千日手となる。

 千日手となった場合、公式戦では30分の休憩後、先手と後手を入れ替えて、最初から指し直しだ。

 千日手の成立が宣言されたとき、思わず笑いをかみ殺した。

 もう一度指せるのかと。一日目のようなふがいない立ち上がりにはしない。

 指し直し前の両対局者の各残り時間がそのまま持時間となり、片方または両方の対局者の持時間が60分に満たない場合は、持時間が少ない方の持時間が60分になるように、両対局者に同じ持時間を加えることになる。

 宗谷さんも僕もほぼ時間を使いきっていたので、おおよそお互いに持ち時間60分の指し直し対局だ。

 前の時も数度しかなかったが、その度に、酷く消耗した指し直し。

 ましてや、タイトル戦の長期戦の後だ。僅かな30分の時間を有効に使わねばならなかった。

 

 急いで部屋に戻り、体力を回復させるために少しだけ眠ることにした。

 思考が鈍るから、コレをしたくないという人も勿論いる。

 でも僕は迷わず、仮眠をとることにした。

 なんとなく、家の鍵をにぎりしめ布団のなかでうつらうつらした僕は、その僅かな時間で、夢を見た。

 

 

 

 

 いつかの、この旅館での光景だ。

 妹のちひろが中庭の鹿威しをよく見たくて、母の手をひっぱり庭に降りていく。

 実際にあったことか、僕の勝手な想像かは分からないけれど、その光景は眩しくて心地よかった。

 母は少し暑そうに、鞄から扇子を取り出していた。

 あぁ……あの扇子。

 なんで忘れていたんだろう。ちゃんと持ってきていたのに、対局に連れて行かなかった。やっぱりどこか余裕がなかったなぁと思う。

 

「大きくなったな、零」

 

 ポンッと肩に手が置かれ、そう声がかけられた。

 振り返ると、父が、穏やかに微笑んでいた。

 

「……うん。身長だいぶのびたでしょ? 父さんにだって追いつくよ」

 

「ほんとになぁ。こんなに視線近くなっちまって」

 

 言いたいことは、いっぱいあったはずなのに、言葉になるのは簡単なそんな会話だけ。

 

「プロ棋士になったんだな。いやーここまで強くなるなんてあの時は思いもしなかった」

 

「もう父さんには負けないよ。あ、そうだ。藤澤師匠に師事してるんだ」

 

「あぁ、驚いたけど嬉しかったよ。出来た方だ、人間としても、棋士としても。しっかり学ぶと良い」

 

 父は、これまでの僕の全てを知っているようだった。不思議なことにそのことに違和感はない。

 

「零、将棋は好きかい?」

 

 生前の父にも聞かれたこの質問、かつての僕はなんと答えただろうか。

 うん。とただ曖昧に頷いただけのような気がする。

 実際幼き日の自分はそれほど、将棋が好きなわけじゃなかった。

 将棋を通して、父が僕だけをみてくれる事が好きだったのだ。

 ……でも今は違う。

 

「うん。好きだよ。とっても好きだ。僕の大切な生き方そのものなんだ」

 

 自信を持ってそう告げて、僕は笑った。

 

「そうか……良かった、本当に。指しなさい。好きなように、自由に、お前らしく」

 

 父はそう力強く頷いて僕の胸を、三回叩いた。

 

 目ざめは、スッキリとしていて、先ほどの疲労感が嘘のようだった。

 残酷なほど優しい、そんな夢だった。

 スーッと頬をつたって、流れた涙を拭った。

 じんわりと暖かい気がする胸に手を当ててみる。

 

 僕は思い出した。

 最初に、僕に将棋を教えてくれたのは父だったことを。

 そして、僕の棋風の中に、確かに父の指し筋が息づいていることを感じた。

 

 

 



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第五十五手 捨ててきた僕と、抱えてきた君

 

 いつからだろうか、こんなにも君との対局を心待ちにするようになったのは。

 

 初めて会った炎の三番勝負の時から、君の印象は鮮烈だった。

 おそらく長い将棋人生で初めてだった。初めましての対局で、年下の子に負けた、と思わされたのは。

 あの対局、僕はただ興味のそそられるままに指し、そして、君は、勝利のために全力を尽くした。盤上を支配され、主導権を握れないまま終わるなんて、同輩たちとの対局でもそうは無い。

 年齢など関係無いのだと、いつも思っていたはずなのに、実感させられる側にまわったのも初めてだった。

 

 僕にとって将棋は、言語よりも簡単な対話の手段だった。

 その将棋で、対等に、話し合える存在が増えたことが嬉しかったのだと思う。

 だから、気長に待っていようと思ってたんだ。

 でも、君は予想に反して、あっというまに目の前に座ってみせた。

 プロ入り後、ただの一度も負けずに君は上がってきた。少ない機会をものにして、公式戦での対局を勝ち取ったのだ。

 連勝記録を抜かれたことはニュースになっていたが、そんなことは気にもならなかった。記録はいつか破られる。

 それよりも、その無敗の君に、初めての黒星を与える役目を貰えたとさえ思った。

 序盤の主導権は桐山くんにとられたものの、そう簡単に運ばせるつもりはさらさらなかった。

 中盤以降、持ち時間が少なくなったこともあり、早指し気味になって、君に失着がみられた。あぁ……もったいないな、と少し思ったけれど、そこから一気に畳ませてもらった。

 

「楽しかったよ。でも、今度はもっと持ち時間が長い対局でもやってみたい」

 

 終わったばかりで、そんな感想をつぶやくと、

 

「僕も……そう思います。終わったばっかりなのに、またすぐ次こそはって。あぁ……でも悔しいです。終盤に差し掛かった頃、失着したのは僕です」

 

 桐山くんは、指先を触りながら、そう答えた。

 

「分かるよ。そういうものだから。君はやっぱり僕と似てるね」

 

 果てしない経験の蓄積の結果か、生来の勘の良さか、感覚が思考を上回ることを、すでにこの子も知っているのかと、感慨深かった。

ゆっくりしたかった感想戦は、次の対局のこともあり早々と切り上げることになる。

 少し疲れた様子で、失着に気落ちしているようにみえたから、思わず声をかけてしまった。

 

「タイトル戦の上座で、君が奪いにくるのを待ってるよ」

 

 聞こえなくても良いくらいの小さい声だったのだけれど、君はしっかりと僕の目をみて答えた。

 

「必ず、その場に行ってみせます」

 

 闘志が宿る、良い目をしていた。

 朝日杯で君と指した日。あの日たぶん僕は、君を後輩のプロ棋士としてではなく、好敵手としてみるようになった。

 

 

 

 


 

 そこから、わずかに半年経たず、君は約束を果たしにきた。

 

 最年少挑戦者の誕生。

 ざわめく将棋界のことなど、いざしらず僕は単純に嬉しかった。七番勝負を君とできることに心を躍らせていた。

 会長は口うるさく、僕にこれまで以上にタイトルホルダーとして、しっかりしてくれと、後輩のフォローを頼むぞと言ってきた。

 初めてのタイトル戦の時、僕も沢山失敗をしたし、将棋を指すだけなのに、こんなことに何の意味があるだろうと疑問に思いながら、様々な雑事をこなした。

 

 まだ中学生のはずの桐山くんは、想像よりずっとしっかりしていた。

 一人前に挨拶をし、会話をこなし、そつなくこなしていた。大人となんら変わりなく感じられた。

 

 だから、僕はほんの少しだけ、第一局で驚いてしまったのだ。

 あぁ、この子はまだ子どもだったんだ。

 一日目の対局内容は素晴らしかった、棋力においてなんら遜色ないことを示していた。それゆえに二日目の急激な手の粗さが目立った。集中力が切れていることは明らかだった。

 思えば、まだ中学生だったのだ。

 当時の自分でさえ、三段リーグを戦っていたころだ。

 二日制のタイトル戦、疲れないわけがない。残念に思ったけれど、仕方ないと分かっていた。

 でも、君はそんな評価をものともせず、二局目には新しい手で挑んで勝ってみせて、五局目には長時間の対局さえも、ものにしてみせた。

 久しぶりに、楽しいタイトル戦だった。

 第六局も場合によっては僕は負けていただろう。そして、もし第七局が出来たなら、それもきっと面白い内容になったと思える。

 ストレートで勝つタイトル戦が増えていた。そんな中で、もう少しでイーブンまで戻されるところだったのだ。

 疲れていたけれど、僕はその日まともに寝られなかった。頭の中はその日の対局でいっぱいで、もし彼がこう指していたらと、無数の分岐を考えていた。

 

 翌日、体調を崩して寝込んでいると知って、やっぱりなと思ってしまったのは内緒だ。桐山くんが、それだけ全力で挑んでいたのは分かっていた。そして身体はギリギリでついてきていたのだろう。

 なんとなくお見舞いに行った先では、島田が世話を焼いていた。すこし外したいとのことだったので、代わりに様子をみる。

 眠っている様子をみていると、昨日まで対局をしていた相手と同じ人物にはとても思えなかった。まだ、幼く、未熟だ。それなのに、将棋は強い。

 昨日の棋譜をながめながら、改めてそう思った。

 目覚めた桐山くんは、僕がいることに少し、驚いたようだった。

 

「それ! 昨日の第六局の棋譜ですか?」

 

けれど、すぐ僕が持っているのが、昨日の棋譜だと気づいたらしい。

 

「うん。ずっと見てるんだ。どれだけ考えても、次から次に別の手が浮かぶ。本当にいい将棋だった。僕が勝てたのは運の味方もあったね」

 

 互いに最高のパフォーマンスを発揮しなければ、指せない対局がある。これは、間違いなくそんな対局だった。

 

「嬉しいです。……他の誰にそう言って貰うよりも、一番うれしい」

 

 まだ、相変わらず覇気が無いけれど、桐山くんは少しは嬉しそうだった。

 その様子をみて、言っておかなければと思う。

 

「昨日の対局の駒音が、僕の耳から消える前に、またちゃんと前に座りに来て」

 

「え……でも、他のタイトルは……」

 

「新人戦の記念対局でもいい。MHKだってまだ勝ち残ってる。待ってるから」

 

 他人の対局の状況を把握してるなんて、今までは無かったことだった。

 でも、昨日の対局が終わって、次はいつ公式戦で当たれるのだろうかと、調べてしまった。

 負けたばかりの相手に言う言葉じゃないって、分かっている。

 それでも、伝えておくべきだと思った。

 

 

 

 

 

 


 

 日々の棋戦を重ねていく、変わりのない日々。けれど、それが何より生きていると感じられて好きだった。

 そうするうちに、僕たちは似ているなんて言われるようになった。

 桐山くんが僕が持っていた最年少記録を悉く塗りかえている事も要因の一つだっただろう。将棋が強いという点において、僕たちはたしかに似ていたのかもしれない。

 

 でも、他のところはちっとも似てないと思う。

 会長はよく、宗谷が当時これくらいしっかりしてくれていたらと愚痴をこぼしているし、僕も桐山くんは人としてなかなかに自立が出来ていると思う。

 何度も家に将棋を指しに行かせてもらった。

 部屋はいつも、それなりに片付いていて、自炊もして、師匠から託された猫の世話もしていた。僕が泊まった時には、僕の予定も把握してくれていたし。

 何もかもぼんやりと通り過ぎていく、僕の日常と違って、彼はたぶん普通にも生きていける人だと思う。

 

 それを羨ましく思った事はない。ただ、その普通にも生きられるはずの彼が、将棋を選び、常人では考えられない熱量を注いでくれていれば、それで構わなかった。

 

 その年の暮れの事だった。

 東京へ行く用事があった僕は、宿のついでに将棋を指したくて、また桐山くんの家にお邪魔していた。

 なぜかついてきた土橋くんと、隈倉さん。そして、勝手にやってきた島田と後藤さんがそろい、なかなか面白いメンバーでの年越しになった。

 一足先に、眠ってしまった桐山くんを横目に、話すみんなの言葉をなんとなく聞いていた。

 

「まぁ、プロ棋士の中で、一番桐山くんに勝ち越してるのは、僕だけどね」

 

 思わず、口を挟んでしまったら、お酒が入った面々が口々に言い募る。

 

「おまえはあの七番勝負で、対局数を稼いだからな」

 

「早くA級にもあがってくればいいのにね。総当たり戦きっと楽しいよ」

 

 A級順位戦の総当たり、僕が名人をとってしばらくになるから、もう数年は参加していない。今の順位戦はとても面白いだろう。

 

「桐山くんとのタイトル戦は良かったよ。特に後半戦。……はやく、またあんな対局ができたらいいな」

 

 暑かった夏はすっかり遠ざかり、もう冬になってしまった。

 

「あのタイトル戦から、宗谷の棋風ちょっと変わったよな?」

 

「そうだね。受け身が多かったのに、ちょっと好戦的になったし、目新しい手が増えた」

 

「そう? あんまり、意識してなかったけど。でも、刺激を受けたのは確かだから。色々やってみたくなったのかも」

 

 皆が言うならそうなのだろう。今までだって停滞していたつもりは無いけれど、最近のモチベーションは随分変わった。

 

「刺激ね……棋匠戦にやたらと気合いが入ったのもそのせいか?」

 

「うーん、挑戦者側も久々に体験したくなったからかな」

 

 現在、僕が持っていない唯一のタイトルだ。挑戦者になりたければ、勝ち上がるしかない。

 

「後は……なんとなく欲しくなったんだ。七つ目のタイトルも。そうしたら、あの子がどのタイトル戦で挑戦権を取ったとしても、目の前にいるのは僕でしょ」

 

 口にして、自分でもはじめて自覚した。

 そうか、ぼくはあの子とまた、タイトル戦がしたいのだ。ただの公式対局では満足できない。

 

「かー! 俺らは眼中にないってか!! おまえ、今に見てろよ」

 

「くっそ、余裕こいてるうちに、ぜってぇ引きずり降ろしてやる」

 

「別に、隈倉でもいいよ。後藤さんとも土橋くんともタイトル戦をやるのは楽しいし。島田もはやく上がってきてね」

 

 なんだか、やる気を出してくれたようなので、隈倉さんと後藤さんにも、発破をかけておく。

 

「宗谷くん、今いろいろと楽しいんじゃない?」

 

 嬉しそうに笑いながら、土橋くんにそう尋ねられた。

 

「……うん。 そうかも。 これはたぶん楽しいって感情だと思う」

 何かを心待ちにして、わくわくするなんてそんな気持ち、もう随分前に忘れてたと思ったのに。

 

 

 

 

 


 

 年が明けて、僕は棋匠を柳原さんから、奪取した。

 これで、二度目の七冠となる。

 今年は、どんな一年になるだろうか。これから6つあるタイトル戦のどれかで、もう一度、なんてそんな風に思った。

 

 いつか、なんてそんな風に思っていた僕の予想を上まわり、その冬のMHK杯の決勝で桐山くんと再戦となる。

 全棋士参加の棋戦であり、撮影もされる特殊な棋戦。

 わずか13歳で、彼はそのタイトルを取りに来た。

 

 そして、忘れもしない5二銀。

 優勢だった戦況を一気にひっくりかえされた、その一手を、僕は超えることが出来ずに負けた。

 桐山くんは六段から七段になった。プロになってまだ二年、彼は着実に上ってきていて、そしてその肩書きでも僕に並ぼうとしつつあった。

 

 1月から3月の王将戦は土橋くんと、4月から6月にあった名人戦は隈倉さんと、6月から7月の聖竜戦は島田と、7月から9月にかけての棋神戦は後藤さんと対局をした。

 あわやという対局もあったけれど、わずかの差で勝り、ストレートで防衛してきた。

 

 不思議なもので、あの年末に、桐山くんの部屋で話をしたメンバーとそれぞれ対局をしたことになる。

 タイトル戦を一つ終えるごとに、自分の段階が一つまた一つと上がっていくような気持ちになれた。

 

 今年僕は、桐山くんに負けたMHK杯の対局以外、公式の対局では負けていない。あとは、彼が来てくれたら最高なのになって思った。

 9月の上旬、土橋くんとの三番勝負を彼が戦っていた。再び上がってきた。それも獅子王戦という最高の舞台だ。

 どちらも一勝一敗、次の対局で僕の挑戦者が決まるというその対局。

 戦局はどちらが良いとも言えない状況だった。夕食後、たまたま桐山くんとすれ違う。

 本来対局者に声をかけたりなどしない。

 だから、これは独り言だ。聞こえても聞こえなくても構わない。小さな声で囁く。

 

「土橋くんと指すのも楽しいけど、僕は次は君がいいな」

 

 だって、土橋くんとは、もう今年タイトル戦はしたからね。

 桐山くんに、聞こえていたかは分からない。

 

 彼は勝った。最年少の獅子王挑戦者がやってくる。

 

 正直に言おう。

 僕はわくわくしていた。それはもう楽しみにしていた。

 

 第一局目、桐山くんにとっての初めての海外での対局になる。

 僕は土橋くんと違って移動の時間が大嫌いだから、海外の対局はあまり好きではない。日本の方が落ち着くし。

 彼はどうだろう。時差にやられてはしないだろうか。慣れない気候は体調に影響してはいないだろうか。

 そんな心配はすべて杞憂だった。

 僕はもちろん勝つつもりだった。負けるつもりで指すことなど一度もない。

 本気だった、叩き潰しに行くくらいのつもりだった。

 それなのに、二日目。特段大きなミスをしたわけではない。それでも、戦局は彼に傾きはじめた。

 封じ手をしていたのは僕だった。悪くない手だったと思う。けれど、想定の範囲内だったのだろう。盤上を支配したのは彼だった。

 そして、僕は負けるのだ。

 今年のタイトル戦で初めて一つ落としたことになる。

 会場の誰もが思っただろう。

 桐山零はすでに、僕と比肩する実力を持つと。

 

 このまま、負けてしまっては面白くない。第二局は僕がとった。

 そのまま、勝てるとは微塵も思わなかった。予想に違わず、僕らはそれから、お互いに取って取られて。そうやってこの番勝負を進めてきた。

 

 この第六局も本当に楽しみにしていたのだ。

 対局の旅館が長野になった事に、僕は何も思わなかった。桐山くんもそうだと思っていた。

 すこし異変を感じたのは前夜祭の時、君はすでに人気者だったけれど、今回はその予想をはるかに上回っていた。

 会長が少し不安そうだった理由がようやくわかった。僕が京都で対局するときもこんな感じだけれど、それよりもさらに熱の密度が凄かった。

 彼が初めて、故郷でする対局だったからかもしれない。

 でも、君なら、今までのようにそんな事は歯牙にもかけず、対局に集中してくると思っていた。

 

 一日目、それは裏切られた。

 明確なミスがあったわけではない。けれど、このシリーズ内の対局からは、明らかに一手への集中力が違った。

 

 あぁ、どうして。

 どうして、人は、煩わされてしまうのだろうか。

 憤りを感じるというよりは、ただ、残念だった。

 このまま終わるのだろうか。

 僕がかりに勝ったとしたら、まだ第七局がある。

 でも、なんだかなぁ。やっぱり要らないな、と思った。将棋に影響がでるなら、他のすべてが邪魔に思えた。

 煮え切らない気持ちで、その日は終わった。

 

 二日目、対面にすわる桐山くんは、すっきりとした表情だった。

 数手指しあって分かった。何かにケリがついたようだった。これは面白くなりそうだと思う。

 詰めろを先にかけたのは僕だった。勝ったと確信さえしていた。

 

 でも122手目、6六銀。

 

 それは、息を飲むほど、美しかった。 

 死んだはずの盤面が、一瞬で息を吹き返した。

 

 千日手が成立し、この対局は流れてしまった。

 

 

 

 23時前に始まった、指し直し対局はもうすぐ深夜2時をまわろうとしている。

 対局中に疲労を感じることは少ないのだけれど、さすがに僕も思考の鈍りを感じていた。

 指し直しは、先手後手を入れ替えるから、桐山くんが先手で対局は開始した。

 彼の選択した戦法は矢倉。

 僕もそれに応えた、長時間の対局後すぐの持ち時間1時間しかない指し直しでは、定石がある程度整備されている戦法がやりやすい。

 

 桐山くんは次第に、4七銀3七桂型と言われる現代矢倉の王道へと、構えを整えていった。

 本当に、興味深いよ君は。さっきみたいな誰も思いつかない手を指したかと思えば、手堅く無難だからこそ強い、こんな形も操ってみせる。

 あぁ本当に楽しかったなぁ、このシリーズ。終わった5局も全て面白かった。

 あの、6六銀。あれは素晴らしかったなぁ。全く僕の読みに入っていなくて意表を突かれた。

 

 もう少し、時間がかかると思っていた。

 それでも良いから待っていたら、そのうち上がってくる子だとは知っていた。

 初めて指してから2年と少しか、想像よりもずっと早かったよ。

 ありがとう、ここまで来てくれて。

 

 元々持っていなかったのか、途中で捨ててしまったのか分からないけれど、将棋以外は本当にどうでもいい僕と違い、君の周りは色々と煩わしそうだった。

 この第6局だってそうだ。昨日指した時は、悪くはなかったが、らしくも無かった。

 だから少し、残念だなと思うと同時に、やはり煩わしいことは切り捨てるに限るなんて思った。

 

 でも、少し違うのかもしれない。

 その全部を抱えてたまま、いや抱えているからこそ、今日の君は強かった気がする。

 そんな形もあるんだね。知らなかったよ。

 

 どうして全てのタイトルを手に入れてまで、君を待ちたかったのか、今ようやく分かった。

 僕は、確かめたかったんだ。

 

 捨ててきた僕と、大事に抱えてきた君と。生き方が真逆の二人が、これほど美しい対局を作る事が出来る。

 どちらの生き方だって間違っていない。

 この将棋がその証明だ。

 

 神の子と称されているのは知っている。

 

 僕は別に将棋の神様なんてものはいないと思っている。

 でも、もし、そんな存在がいるのなら、二つだけ感謝しても良い。

 僕を将棋と出会わせてくれた事、それからこの子を僕の前に座る相手として、連れてきてくれた事を。

 

 ……勿体ないなぁ。終わってしまう。こんなに楽しかったのに。

 まだまだ、もっと指していたかった。もっともっと面白くなるんじゃないかってそう思う。

 あぁ、そうか。忘れていただけで、僕にだってあったのかもしれない。

 

 だって今僕は悔しいんだ。

 久しぶりだよ、こんな気持ち。

 君が僕に思いださせたんだ。

 来期の獅子王戦、今度は挑戦者になって戻ってくるのも悪くないな。

 何故だかそれは、上座で待ち続けるより楽しそうだと、心が躍った。

 

 

 

 147手目、桐山くんの8四角にて僕は投了した。

 この瞬間、将棋界に新たな獅子王が誕生した。

 

 

 

 



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終局 魂に刻む

 

「負けました」

 宗谷さんの声は静かでもよく通る声だった。

 

「ありがとう……ございました」

 

 終わった。勝った。僕が!

 

 その瞬間、こみ上げた気持ちを表す言葉を僕は持ち得てはいない。

 たまらなかった、顔をしばらく上げることが出来なかった。

 伏せた視線の先で、着物と扇子が目に入った。ありがとう、おかげで勝てたよ、と心の中で呟いて、一滴こぼれた涙を拭った。

 

 深夜2時をまわったにもかかわらず、まだ報道陣は残っていた。

 僕も、もうほんと限界のギリギリだったけれど、不思議とこういう時、頭は冴え渡っていて眠くは無い。

 

「桐山七段、いや、新獅子王ですね。おめでとうございます。素晴らしい対局でした」

 

「はい。……はいっ! 有り難うございます。本当にまだ実感はわきません」

 

 実は夢でした。という方が現実味を感じるくらいだ。

 

「プロになり3年目の年……まだ千日手の経験はなかった筈です。その上タイトルが掛かった大事な一戦。どういう心持ちで望まれたのですか?」

 

「指し直しの前に、……夢をみました」

 

「夢ですか?」

 

 自然と口から出てしまった。

 あっ……言ってしまったものは仕方ない、記者の困惑を余所に続ける。

 

「父と母と妹が出てくる夢です。とても幸せな夢でした。……なので、その気持ちを抱えたまま、僕らしく指そうとそう思いました」

 

 父の言葉が対局中ずっと胸のうちにあった。

 夢の中で三回叩かれた胸のうちがずっと熱かった。あれは3人分のエールだった。おかげで心地よく指せた気がする。

 

「長野でのタイトル戦、色々な思いもあったかと思います。今の一番の気持ちを教えてください」

 

「将棋が好きです。もうただ、それだけで良いんだって、ようやく分かった気がします」

 

 随分、回り道をした。

 この先も何度も悩むし、ひょっとしたら揺らぐこともあるかもしれない。

 でも、今の気持ちを大切にしたいと思った。

 

「では、宗谷前獅子王。本シリーズを振り返っていかがでしたか?」

 

「全体的に、非常にハイレベルだったと思います。一局たりとも、不格好な将棋はありませんでした。そのことに関して、私はとても満足しています」

 

 宗谷さんは淡々と応えた。その表情は落ち着いていて、本当に満足しているみたいだった。

 

 

「本局は終盤一度、宗谷前獅子王が詰めろをかける場面をありましたが、桐山獅子王の見事な切り返しがありましたね、それに関してはいかがでしょう?」

 

「あれは桐山獅子王の6六銀が、見事だったとしか言いようがないですね。あの手について考えたいことも山ほどあります。本当に素晴らしい一手でした。あまりに良すぎたので、指し直しの間も気になってしまって、それが私の敗因ですね」

 

「桐山新獅子王の印象について、教えてください」

 

「印象というか、一つだけ。取られて悔しかったから、来年は僕が取りに行きます。なので、上座でお待ち頂ければ」

 

「え? あ、はい。楽しみにしています?」

 

 こちらに直接、宗谷さんが笑顔でそう言ってくるものだから、僕は意表を突かれてそんな返ししか出来なかった。

 対局室にいた関係者からは、いくつか耐えきれなかったのだろう笑い声が漏れた。

 感想戦を行いたかったところだが、僕も疲弊していたし、時間も時間だったので、後日ということで、そこでお開きとなった。

 明日というか、もう今日だけれど勝った僕にはそれなりにこなす仕事もある。さすがに今日は眠らないとまずいだろう。

 

 

 

 

 


 

 激闘から数時間後、諸々の仕事を終えたその日のお昼過ぎ、僅かな休憩時間を使い、僕は郊外の墓地を訪れた。

 墓前で手を合わせ、対局の報告と、遅くなってごめんと一言。

 

 カラカラと車輪が回る音が聞こえて視線をそちらに向ける。

 車椅子に乗った祖父の姿がそこにあった。付き人に車いすを押してもらいながら、墓参りに来たようだ。

 

「来ておるかと、少し期待しておった。一揮に報告に来たのか?」

 

「はい」

 

「そうか……では、ワシが来る必要はなかったな」

 

 祖父はそう言いつつも、持ってきた花を墓前に供えた。

 近くにくると、記憶の中の姿との違いが際立つ。細く小さく、年を重ねたことが感じられた。

しばしの間、沈黙が流れる。

 

「今回の対局で着ておった着物なんだが……」

 

 それを破ったのは祖父の方からだった。

 

「あ、はい。ありがとうございました」

 

「あれは……一揮が着ることがあるかもしれんと、数十年前に仕立てたものだった。だから、少しデザインが古い。若いおまえにはもうちょっと、今時の物をやっても良かったかもしれんな」

 

「え。父さんにですか? でも、お祖父さんは将棋が……」

 

 

「矛盾しとるだろう。息子に将棋などやめて家を継げといいつつ、もしかしたらと思ってこっそり着物をしたてる。結局あやつに見せたことは一度もなかったがな。だが、箪笥の肥やしにするよりは、お前が着てくれてよかった」

 

 知らなかった。祖父もそんな風に葛藤していたなんて、お祖父さんの前で将棋の一言は禁句だった。一度だって、そんな素振りをみせたことはなかったのに。

 

「対局をするお前をみた。零は、一揮に目元がそっくりだ。あいつがもし着ておったら、どんな風だったか、よく分かったよ。……大きくなったなぁ」

 

 一般的によく耳にする、息子と孫を慈しむ、祖父の言葉だった。一度でも良いから聞きたかった、言葉だった。

 

「あの……観に来てくれて、嬉しかったです。二日目も、来て下さってて」

 

「一揮が将棋に興味をもったのは、ワシが昔していたからだ。もっともあいつがのめり込み、プロになると言い出した時に、すっぱり止めてしまったがな。だが今でも、ある程度は分かる。見事な対局だった」

 

 今日此処で、会えなければ、この人が将棋を指せることを、僕が知ることは無かっただろう。

 

「……後悔しておるよ。今更、と思うだろう? 死んでからでは、何にもならんのになぁ」

 

 自分が築きあげ、そして地元の人々にも愛された病院だった。だからよそ者やよく知らない人では無く、自分の息子にと思ってしまったそうだ。父さんが戻ってきて、仕事ぶりをみていても、それは間違いでは無かったと感じたそうだ。

 

「最終的に選んでくれたのは、一揮だ。それを誇りに思う。ただ、もしプロ棋士になっていたのなら、今回の零のように対局していた未来もあったのかと。そして、おそらくその時は東京にいるだろう。あの事故にはあっていなかったかもしれない」

 

 せめて、年齢制限ギリギリまで、挑戦させてやるべきだったと。それだけが、未だに心残りだという。

 

「零、……すまんな。お前に関してはワシはもう謝る事しか出来ん。いつまでも死んだものを悼み続け、気がついたら、残った孫は娘によって長野を追い出されていた。こんな情けない祖父はおらん」

 

「そんな事! 東京に行ったのは、僕の選択です。長野には、想い出がありすぎたから……、それに将棋をしたかったから」

 

 スルリと自然に素直な言葉が落ちる。将棋をしたいと祖父の前で口に出来たと知ったら、父は驚くだろう。

 

「東京での生活はどうだ?」

 

「楽しいです。色々あったけど、沢山の人に出会って支えて貰いました。東京に行ったから出会えた人達です。僕は、幸運だったと思います」

 

 祖父は、チラリと僕の付き添いに来ていた幸田さんをみた。そして大きくうなずいた。

 

「それなら、ワシももう後悔など言えんな。零が出会った方々に失礼だ。孫が良い縁に恵まれた事、感謝することにしよう」

 

 祖父はその後、幸田さんと少し話をしていた。長野の事で何かあれば、一報が欲しいと。

 老い先短い老人に何が出来るかは分からないが、親戚の尻拭いくらいはすると。

 

「貴和子の事も、和也の事も、病院の事も心配するな。ワシが目を光らせておく。……おまえが、仕事で長野に来ることがあれば、また観に行く」

 

「僕の方も、近くに来ることがあれば、会いに行きます。何があったかとか、良かったら聞いて欲しいです」

 

「……そうか。楽しみにしとるよ」

 

 祖父は、少しだけ僕にしゃがむように頼んだ。

 そっと僕の頭を撫で、顔の形をなぞり、僕の手をそっと握った。

 もういない誰かを重ねつつ、今ここにいる僕の存在を確かめていた。

 

「零、一揮の分まで、沢山指してやってくれ。ワシは、時間の許す限りそれをみておるよ」

 

「はい。約束します」

 

 祖父の手を握って、何度もうなずいた。

 

 長野から僕をみてくれている人、長野で僕を待ってくれている家。

 僕がずっと、目を背けていただけで、ちゃんと此処にあったのだ。

 

 

 

 

 

 


 長野から戻った翌日。

 獅子王位を得たからといって、僕の日常がこれといって変化するわけでは無い。

 今日は対局がないから、朝起きて、猫たちとごはんを食べて、学校へ行く。普通の中学生と同じように。

 肩書きが獅子王に変わることと、このタイトルを取った時点で段位が八段になったそれくらいだ。

 ただ、携帯には、読み切れないくらいのお祝いの連絡が入っていた。

 二海堂や島田さんといった将棋関係者からは勿論、川本家の皆さんに、林田先生を初めとした学校の皆、青木くんや藤澤さん、今日は沢山の人に報告とお礼に行かなければ。

 

 マンションを出て何時もの川辺を行く。

 穏やかな水面、川の流れは、どれほどの時間を重ねても変わらない気がした。

 

 一度目を生き、そして今を生き。

 長い時間を将棋に注いできた。

 

 それでもなお、飽きること無く、惹きつけられる。

 多くの人に支えられて、僕はこれからも将棋を指して生きていく。

 桐山零、これが僕の名前。

 長野の桐山医院の孫、名前は父が付けてくれた、この名前を誇りに思う。

 

 

 

 順位戦B級2組在位、八段、14歳。

 獲得タイトル獅子王一期。

 

 僕が僕である限り、たとえ何度やり直したとしても……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――職業プロ棋士。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 長いあとがきが読みたいひとは活動報告の方で。

 お付き合い有り難うございました。
 ひとまず、これにて逆行桐山くんシリーズ本編は完結となります。
 私が一番書きたかったのは、長野で桐山くんが宗谷さんと対局し、そして色々あったけど、タイトルを獲得する、その一連の流れです。

 こちらで初めましての方も沢山いたようで、私としては嬉しかったです。
 それなりに畳んだつもりではあるのですが、pixivの方では、まだまだ蛇足というか番外編をという声もあるようで。
 気が向いたら、またいつか上げようと思います。
 
 それでは、3月のライオンが好きなすべての方に感謝を。

 藍猫 




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感想戦
シチューの香り


 

 すっかり寒くなり、年の瀬も近づいてきた。

 今年の将棋界は激動の一年で、会長職にある俺としては、嬉しくもあり、忙しくもあった。

 

 年が明けて早々に、宗谷が二度目の七冠となり、そこからの見事としかいえない防衛の連続。

 まだこのまま、あいつの一強の時代が続くのかと思いきや、その宗谷へと挑んだ若き才能。

 

 桐山が獅子王戦の第六局目に宗谷から、そのタイトルを奪取して、まもなく一ヵ月が経とうとしていた。

 

 世間の注目を集めた対局だった事もあり、連盟としてもその後の対応に追われていたが、それも落ち着いてきた。

 そして、話題の中心の桐山はというと、こちらが驚くほどに変わらずに日々を過ごしている。

 舞い上がることも、気負い過ぎることもなく、ただ粛々と。

 

 

 

「失礼します。会長、こんにちは」

 

「よー。桐山お疲れさん。悪いな。学校帰りに」

 

 扉が叩かれたあと、入室してきた桐山に声かける。

 

「いいえ、今ちょうどテスト期間なので。午前中に帰れるんです」

 

「お前さん、それ。勉強するように早く帰してるんだろ……」

 

「帰ったらテスト範囲の見直しはしますよ。下手な成績をとると藤澤さんにも申し訳ないので、そこはちゃんとします」

 

 問題ないと告げたこいつが、優等生であり学校の成績も上位であることは知っている。

 まともに授業が受けれない時期もあるだろうに、たいしたものだ。

 

「そういえば、来年は中三だっけ。おまえさん高校はどうするんだ?」

 

 ランドセルを背負い、会館に通ってきていた記憶も新しいが、もう中学も最終学年になるとは、子供の成長ははやいものだ。

 すでに身を立てて、忙しく働いている。進学をするかどうかはこいつの自由だが、来年はタイトルホルダーとしての仕事もある。受験は大変だろう。

 

「まだ、はっきりとは決めていませんが、進学するつもりでいます」

 

「ほー。そうなのか。いや、てっきり中学までにするのかと思ってな」

 

「駒橋高校に進学するには試験もありますが、外部受験でなければ、それほど受験は大変じゃないですよ。将棋界は、昔は学歴無用だったかもしれませんが、今は世間体的にも高校へ行っておきたいなぁとは思います。……勉強がしたいというのとは少し、違うかもしれませんが」

 

 桐山は、まだ決めかねているようだった。

 俺は本当にどちらでも良いだろうと思っていた。

 そりゃあ、将棋に専念してくれた方が、外の仕事も振りやすいし、連盟としては助かるが、こいつはまだ未成年である。

 大人が慈しみ、支えてやるべき年齢なのだ。

 

「まぁ良く悩むこった。勉強がしたいっていうなら、後になって高卒の認定試験うけて、大学に入った方が、時間的な融通は利きそうだが。

 10代の青春ってことを考えると、今、高校に進学する価値もあんじゃねぇの? 文化祭、体育祭、研修旅行、いや~楽しそうだねぇ」

 

 何十年も前の自分の若い頃を思い出すと、やはりそういう経験も大切にして欲しいと思う。

 もっとも、宗谷はそんなもの知ったことではないといった風に、当然のように高校へは行かなかったが。

 

「それはそうと、今日は免状を書くんだったな。事務所の方に置いてあるから頼むわ」

 

「分かりました。夕方まで作業しますね」

 

 将棋連盟では、アマチュア正式免状を発行している。

 免状を取得した人の名前は、日本将棋連盟台帳に記載され、名前も保存されるのだ。

 免状の文末には発行の年月日とともに、時の日本将棋連盟会長と名人、獅子王が自筆で署名することになっている。

 俺たちとしても、収入源の一つであるし、申請する側としても、「棋力を公認する証し」となる。棋士の自筆というのも、そう安いわけでもないのに申請が途絶えない、理由の一端ではあるだろうが。

 

 近年では、会長と名人、獅子王の他に、記録的なタイトル獲得があった時など、追加署名が入った免状が発行されることもある。記念にと言うやつだ。

 おそらく、桐山の初の獲得タイトルが、獅子王でなかったら、名人と獅子王の署名の後に、こいつの名前とタイトルをいれた免状が、間違いなく発行されていただろう。

 

 ここ数年は、宗谷ひとり呼び出せば済んだところが、名人と獅子王が分かれたために、二人分の署名となり、面倒にもなった。

 だが、新獅子王の署名は、それを補ってあまりある。

 新規の申請は、桐山の獲得前と後では、数倍になった。

 ここ数年変わり映えしなかったうえ、桐山が挑戦権を獲得してからは、期待して待っていた人もいたのだろう。

 

「俺と宗谷の分はもう書いてあるから、書き損じるなよ」

 

「……プレッシャーかけないでくださいよ。なるべく、ある分は終わらせておきます」

 

「無理なくな。明日テストなんだろ」

 

 からかったものの、桐山が失敗したことはなかったし、署名もその歳からすれば考えられないほど、達筆だった。

 自筆の上、筆で書くわけだから、それなりに見栄えもいる。

 場合によっては、ちょっと書道ならってこい、なんて展開にもなるんだが。

 宗谷の初めてのタイトルの時を想うと、桐山は本当に手がかからない。

 京都からわざわざ出てくる必要がある、宗谷と違いフットワークも軽いし、仕事もはやい。

 もうすでに何度か書いてもらっているが、手慣れた様子に驚いたのは俺だけではない。

 

 つくづく対照的な二人だが、将棋に関しては似ているところも多く、二人の再戦を心待ちにする将棋ファンは多いだろう。

 宗谷は今年で30歳、まだまだ棋力が衰えることはないだろう。

 桐山はまだまだのびるだろうし、この二人が指し続けるとどうなるのか、先がたのしみなものだ。

 

 

 

 

 


 

 年が明けて、年始の行事も落ち着いた1月の末。

 僕の獅子王就任式が行われる。

 都内のホテルで関係者や将棋ファンなど約500人が出席するそれなりに大きな会となる。

 一般参加は抽選となったらしく、参加される方には是非楽しんでいってもらいたい。

 あまり無いことではあるが、スポンサーの新聞社の意向もあり、web上で配信もされるらしい。

 当日は獅子王戦ランキング戦各組優勝者へのメダルの贈呈も行われるのが恒例のため、棋士の参加も多くなる。

 初のタイトル獲得ということもあり、あわせて祝賀パーティも行われる。スポンサーとの関りを深める大事な機会でもあり、今日一日は忙しくなりそうだった。

 

「零くん、見違えたなぁ。今日もよく似合っている」

 

 会場入りする前、控えの部屋に来た幸田さんに、声をかけられた。

 

「有難うございます。この袴、お祖父さんが贈って下さったんです」

 

 着物はすでに何着か持っているけれど、式典に参加するなら紋付袴となる。

 用意しようと思っていた矢先に、実家の祖父と藤澤師匠から、準備するから心配するなというお言葉を貰った。

 

「聞いているよ。師匠も贈りたかったようだけれど、小物を用意することで折衷としたみたいだ」

 

「驚いたのですが、後援会の名簿の中に、桐山医院の名前がありました。なんというか、上手く言えないのですが、あの日、獅子王戦の翌日にお祖父さんと話せて、本当に良かったとそう思います」

 

「あぁ、本当に。今日は来れないけれど、孫をどうぞよろしくと師匠のほうへ言付けもあったらしい。お花も贈られて来ていたよ」

 

「見ました。すごく立派でしたね」

 

 幸田さんとそう話しながら、僕は祖父の胸の内を想った。

 “来られない”のではなく、おそらく僕のために“来ない”という選択を取ったことを。

 “行きたくないから”ではない。お祖父さんが動く事で付随する、長野の叔母さんたちの動揺や、また僕の気持ちも考えての“行かない”だと今は分かる。

 来てほしいような気もするけれどやはり緊張してしまうと思うから。

 こうして応援しているよ、と形にしてくれる事が、とても嬉しい。

 

 

 

 式は、主催新聞社代表の挨拶から始まり、日本将棋連盟会長の挨拶、来賓の祝辞などが続く。

 獅子王推挙状、獅子王杯の贈呈の後、花束をくれたのは、師匠の藤澤さんだった。

 足は随分とよくなり、普段は杖も使っているけれど、少しなら普通に歩くことも可能だ。

 頂いた花束とともに、師匠と写真を撮られ、そのあとお言葉をもらう。

 

「まずは、獅子王獲得おめでとうと、そう強く伝えたい。

 彼を弟子にしたのは、小学5年生に上がったばかりの頃でした。

 僅か数年ではありますが、実の孫のように思っています。子どもの成長はかくも早く、目を見張るものがありますが、彼は特にそうでした。もう、プロ棋士としても、一人の人間としても、立派に歩んでいます」

 

 師匠は、そこで一度言葉を切った。

 すこしだけ目線を上げて、遠くをみる。

 

「桐山くんとの縁が繋がったのは、彼の父親が私の弟子であったからでした。彼の人もまた、立派な将棋指しでありました。

 私が自分の師匠から受け継いできた将棋が彼の人に繋がり、そして、また桐山くんの中にも息づいていると思います。

 私はそれが誇らしい。我々の将棋を胸に抱きながら、どうかこのまま健やかに、歩んでいってほしいと切に願っています」

 

 師匠は、僕の背中をゆっくりと叩いて静かに席に戻った。

 言葉の中に、長く歩んできた重みと時間がある。

 この人の弟子でよかったと、自然とそう思った。

 

 最後は、就任者の謝辞で締める。

 なんども経験したけれど、いつも身が引き締まる思いだった。

 いっぱい考えてきたのに、何故だろう。いつも半分も言葉にできない。

 

「本日はお忙しいなか、本当に大勢の方に出席いただきまして誠にありがとうございます。

 獅子王戦は私にとっては、二度目のタイトルへの挑戦でした。前回の棋神戦と同じく、相手は偉大な先人である宗谷名人、緊張と期待とともに、挑んだタイトル戦であり、大きな経験ができたと思っています。

 第一局目に、白星を挙げてから、取って取られてのシリーズでした。千日手となった第六局目は、初めて故郷で開催された対局だった事もあり、私にとって忘れられない対局となりました」

 

 長野に行けてよかったとそう、思える日が来るとは、僕自身も予想していなかった。

 

「沢山、たくさん応援してくれる方がいました。私が考えているよりも、もっと多くの方々が。その声援が大きな力となりました」

 

 東京で応援してくれていた、藤澤家や川本家、施設のみんな。

 長野でも心を砕いてくれた、幸田さんや会長、棋士の方々。

 応援してくれている、地元のファンの人、祖父。

 そして、あの夢。

 それが無ければ、僕は果たして、勝てていただろうか。

 

「その事を忘れずに、これからも指し続けていきたいと思います。また、獅子王として、恥じない活躍ができるように、精進していきます。今日はどうも有難うございました」

 

 沢山の拍手のなかで、深々と頭を下げた。

 多くの期待と称賛が僕の上に降り注ぐ。

 昔はそれが重荷でしかなかったけれど、今は素直に受け取ることが出来るようになった気がした。

 

 

 

 その後の祝賀会でも多くの人に声をかけてもらった。

 一息を付けたところで、見知った顔を見つけて嬉しくなる。

 

「二海堂も来てたんだ」

 

「うむ。友の晴れ舞台だからな。それに兄者のメダルの授与もあったのだ。

 桐山、あらためて、獅子王就任、心からお祝い申し上げる」

 

 二海堂らしく、律儀に向けられた謝辞に、僕の肩の力も抜けた。

 

「ご丁寧に、有難うございます。そうか、2組の優勝者は島田さんだったね」

 

 獅子王戦ランキングの1組の定員は16名。毎年4人が降級し、2組から4人が昇級する。

 優勝した島田さんは来期1組だ。

 1組からは、当然他の組よりも多くの人数が本戦に進む。

 次は挑戦者として来ると笑っていた宗谷さんの事もあるし、来年、僕の前に座るのは誰なのか。すこし怖くもあり、楽しみでもある。

 

「……随分先に、行かれたとは思う。でも、まだ此れからだからな! 俺とおまえの対局の歴史は、これから始まるんだ!」

 

 こういう所が二海堂の良いところだ。そして、いつも僕に刺激をくれる。

 

「まずは新人戦だ。桐山、忘れてないだろうな? 俺は絶対に獲るからな!」

 

 今年の4月プロ棋士になった、二海堂が参加する新人戦トーナメントは、この前の年末から始まったところだ。

 これから来年の秋にむけてゆっくりと対局が進められる。

 そして、優勝者は新人王となり、タイトルホルダーとの記念対局がある。名人との対局となることが多いけれど、近年では他のタイトル保持者が相手に選ばれることもある。

 

「待ってるよ。約束わすれてないから」

 

「当然だ! 楽しみにしていてくれ」

 

 興奮気味に笑う二海堂は、もし僕が防衛出来ずに来期獅子王を奪還されたら、なんてきっと考えもしないのだ。

 そして、自分は全力で新人王を取りに行くのだろう。

 二海堂が新人王になれたとしても、その時僕が無冠では意味がない。

 だとしたら、やっぱり僕も頑張らないとって背筋が伸びた。

 

 

 

 

 沢山のお祝いの言葉をもらって、会も終了が近づいた頃。

 僕はふと、物足りなさと寂しさを感じて、会場を見回していた。

 僅かな気疲れとともに、どことなく帰りたいなぁと思う自分がいることに気づく。

 帰りたいって何処に?

 前回の初めての就任式の時はこんなことは思わなかったのにと不思議に思う。

 その僕の鼻先を、するはずのないシチューの香りが掠めていった。

 

 あぁ、そうか。そうだったな。

 前回はこの場所に、彼女も居たのだ。ここに呼べる程の関係だったから。

 一度気づいてしまうと、もう駄目だった。

 誰よりも見て欲しかったし、そして誰よりも純粋に僕の努力が実った事を、喜んでくれただろう。

 そう思うと、無性に会いたくなってしまった。

 走り出したくなるような気持ちを、ひと呼吸して抑えて、そのまま会の終了まで役目を果たした。

 着物もちゃんと片付けなければならないし、頂いたものへの対応もある。

 結局その日は、随分遅くなってから、家路につくことになった。

 

 

 

 

 


 

 就任式から、日が明けて、落ち着いたある日。

 僕は川本家を訪れていた。

 自分から希望したのもあるし、皆さんが改めてお祝いをしたいと言ってくれたからでもある。

 

「いらっしゃい、零くん。外は寒いでしょう。はやくおこたに入っちゃってね」

 

 玄関で出迎えてくれたのは、あかりさんだった。

 

「れーちゃ!」

 

「こんにちは、ももちゃん」

 

 まもなく1歳になるももちゃんは、伝い歩きが出来るようになって、発語もすこし単語らしきものを発するようになった。

 一番最初にそれっぽかったのは、やっぱりママだったみたいだけれど、比較的はやく僕の名前っぽいものを呼び始めたことには、驚かされた。

 相米二さんに、じーじより早かったぞと、苦言を呈された時には焦りもしたけれど。

 

「桐山くんが、シチューが良いって言っていたって聞いたから、そうしたけど。ほんとうにこんな簡単なものでよかったの?」

 

 美香子さんは、産後すこし体調を崩していた時期もあったけれど、今も元気に彩さんと一緒に、三日月堂を切り盛りしている。

 

「有難うございます。とても好きなので、嬉しいです」

 

「おいしいよねぇ。私、お母さんとおねえちゃんの作るシチュー大好きだよ。毎日でもいいくらい!」

 

 そう言って笑うひなちゃんに、僕は目を細める。

 変わらない懐かしさと、愛おしさを感じて。

 

 店仕舞いを終えた、相米二さんと、彩さんも来てくださって、皆でご飯を食べた。

 就任式の様子は、ニュースでも流れたようで、口々に褒められて、嬉しさと同時に照れくささもある。

 

「良い袴だった。それに着られることもなく実に立派なものだ」

 

「ほんとうに、うちに来るようになったのが2年前だっけ。背もすごく伸びたよね」

 

 食事を終えてそうしみじみと言った相米二さんに、片づけをしつつあかりさんが続けた。

 

「テレビでみるれいちゃんもカッコいいけど、私はここで一緒にシチュー食べて、ふわふわ笑ってるれいちゃんも良いと思う」

 

 ひなちゃんが無邪気に告げた言葉が、胸に響いた。

 

「どっちの僕でもいいの?」

 

「うん! もちろん! あ、でもお着物着てるところはいつかみたいなぁ」

 

 そう言ってほほ笑んだ彼女に、思わず口をついて出た言葉。

 

「僕も、本当は一番にみて欲しかったかも」

 

「え、誰に?」

 

「誰にって、ひなちゃんに。自分の晴れ舞台を一番近くで見てほしいなってそう思った。次の就任式には関係者枠で呼びたいから」

 

 目を丸くして驚く彼女に、ぼくはまた伝えるのだ。

 

「だからさ、ひなちゃん。僕の婚約者になって下さい」

 

 さっきまで賑やかだった川本家の居間が、一瞬でシンッと静まって、皆が動きを止めてしまった。

 僕の言葉に彼女は眼を丸くして驚いて、小さく口をパクパクと動かす。

 

「えっ、えぇ!? それって、れい、零ちゃん。わた、わたしのこと」

 

 あぁそうか、僕はまた形式ばっかり気にして一番大事なことを忘れていた。

 

「うん。僕は、ひなちゃんの事が好きだよ」

 

「えっと、えぇっとね。実はね。わた、私もっ……」

 

 真っ赤になった彼女が目を回して、バタンキューになるところは前回と一緒で、なんだか懐かしくなってしまった。

 おかしいなぁ、ちゃんと段階を踏むのは大事だと、以前こんこんと様々な人から言われたから、今回はいきなり結婚まで飛ばさなかったのだけど。

 にわかに騒がしくなった川本家の中で、そんなことを思いつつ。

 

 目が覚めた彼女に、今度は夢だったと思われないように、何度だって言葉を告げよう。

 大丈夫。

 僕は、玉を捕らえるのは得意だから。

 

 

 

 ここは、やさしいシチューの香りに満ちた、あたたかい場所。

 

 

 

 将棋の道で生きていく事、これから先の将来の事、考えるほどに気が遠くなる。

 ただ、生きていくだけでも難しいけれど、この世界はまた、特別難解だから。

 勝たなければ、強くなければ、無価値だと、そう思う日もある。

 好きだけでは難しく。

 時には深い闇に飲み込まれることもあるかもしれない。

 溶けて、混ざり合い、身を削りあって戦って、身体がほどけて消えてしまいそうになる激戦を積み重ねて、僕らはただ、その先にある対局を目指す。

 ギリギリの淵に立ち、深い深い河の底に沈みながら、何度でも何度でも。

 

 

 

 ここは、そんな僕を引き上げて、ほっと息をつかせてくれる場所。

 僕がぼくでいるための場所で、そうあらせてくれる場所。

 それは、このシチューの香りで、君の隣だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




就任式と、零ひな回でした。
就任式に関しては、9月に某棋士も初めて行ってまして、だいぶ参考にしましたね。

そういえば、零ちゃんとひなちゃんの関係の行く先を書いてなかったなぁと。
今の二人の年齢を考えると、中学生と小学生で、周囲としては可愛いやりとりだなぁって感じかもしれませんが、桐山くんは大真面目です。

原作の14巻と15巻。
柔らかく、やさしく、でもちゃんとこの二人が青春してるのをみるともう最高なんです。
まだ未発日も未定ですが、16巻に収録予定の話も楽しみで、たのしみで。

最終話の投稿以降も、沢山の評価、お気に入り登録、ご感想をありがとうございました。



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受け継がれるモノ

桐山くんのお祖父さんの視点です。


 

 人生は後悔ばかりだ。

 こんな歳になっても、どうしようもならない現実を突きつけられる。

 

 振り返ると、まぁなんとも仕事に生きた人生だった。田舎者ながら医学の道を志し、周囲の支えもあり、医者になることができた。

 馬車馬のごとく働いた研修医時代、大学病院での専攻医としての長きにわたる研鑽の日々。

 理不尽な事がなかったわけではないが、医局にも恵まれたおかげで、腕を磨くことにそれほど不自由はなかった。

 そして地元の有権者の支えもあり、ずっと目標であった故郷での医院の立ち上げも果たせた。

 医者としては、これ以上ない成功の道の一つを辿れたと思う。他人からすれば、随分と華々しい人生だったのではと言われる事も理解している。

 

 ただ……。一人の人間として、親として、今思えば後悔しかなかった。

 

 最初に生まれた子は、男児であり、跡継ぎとして育てることに何の疑問も持たなかった。厳しく育てたし、要求する事も沢山あったと思う。

 一揮は、聡く、優しい子だった。期待に応えようと努力したし、仕事に忙しい父親に文句を言った事も一度もなかった。

 

 思えば、あの子が私の決定に異議を唱えたのは、将棋の事だけだった。

 奨励会に入りたいなど、正気かと思ったが、息子の意志は固かった。

 気まぐれに教えた将棋に、これほどはまり込んでいくと予期できていれば、私は絶対に将棋に触れさせなどしなかっただろう。

 息子には意外にも、それなりの才能があった。センスというよりも、努力出来る才能が。

 一揮が将棋に魅せられていくほどに、私の焦燥は増していき、そして親子が衝突することが増えた。

 息子が本気で悩んでいることが分かっていながら、此方を選ぶべきだろうと、迷う余地などないだろうと、責め立てた。

 大学生活終盤までもつれ込んだその攻防は、結局一揮が折れて、将棋の道を諦めることで片が付いた。

 

 息子が将棋を諦めてくれたことに安堵し、医学の道を選んだことは決して間違いではないと今でも信じている。……そう思わなければ、やっていけなかった。

 

 私がそうであったように、またおおよその医者がそうであるように、一揮もまた大きな病院で研修医、専攻医時代を働いた。そうやって先人たちからの英知を受け継ぎ、腕を磨いていくのだ。

 見合いの世話をしたこともあったが、本人が気乗りではなく縁は結べず。

 そのうち自分で気立ての良い女性を連れてきて、その方と一緒になりたいという。真剣な表情と息子の選んだ女性だった。私は言葉こそ、少なかったもののその縁を祝福した。

 私の妻も、私が求めた女性だった。支え合って生きて行ってくれれば、それでいい充分だった。

 家庭を持ち、親となり、一人の男として自立していった。

 その間、ひそかに将棋を続けていることも、プロ棋士となった同輩と交流を持っている事も、もちろん知っていたが、仕事を疎かにする事も無かったため、知らないふりをした。

 

 妻に早く先立たれ、一気に自分の衰えを感じ始めたときに、息子にすべてを譲ろうと思った。

 まだまだ頼りないが、人望もある。少し早いが、代替わりしても問題ないだろう。何か困った事があったとしても、この子なら周りが支えてくれる。

 そして、息子に後を譲り、あとは静かに見守っていくだけだと、そう肩の荷を下ろした。

 

 

 息子が事故に巻き込まれ、帰らぬ人となったとの一報が入ったのは、そんな折だった。

 

 

 まず、なにかの間違いだろうと考えた。まさか、そんなことがあるわけないだろうと。

 一揮の急死は、到底受け入れることなどできなかった。

 今でも鮮明に思い出せる。遺体の確認をした時の、足元から崩れ落ちる絶望を。

 真っ暗に覆われた視界と、深い苦しみは、私からまともな判断を奪い、その日からしばらくの記憶は曖昧である。

 そして、正気に戻ったのは、文字通り全てが、手遅れになった時だった。

 

 家の事も、病院のことも全て娘の貴和子が思い通りにしてしまっていた。少々性格には、難があったが、仮にも実子である。まさかあそこまでしてしまうとは夢にも思っていなかった。

 平等に接してきた……とは、とても言えない。貴和子自身にも、思う事は多々あったのだろう。

 決して敵わぬ、優秀な兄への劣等感、自分に期待しない家への不満。

 それをすべて、清算する機会だった。

 私には、娘を責めることは出来ない。自分が蒔いた種でもあったのだから。娘婿は、素晴らしいと称賛されるほどではないが、跡取りをなくした病院を継ぐという事に、躊躇しない程度の腕と野心もあった。少々の我の強さは、意志の強さにもつながる。何も全てが悪ではない。

 ましてや、既に様々な手続きが終わった現状で、私に残された道は多くはなかった。精々世話になった者たちや、ずっと病院を支えてくれていた者たちが、娘の意向でいいようにされないよう、口を出すくらいである。

 

 そして、やっと病院が落ち着いた頃、私はやっと思い出した。そう本当に情けないが、やっとその事に思い至ったのだ。

 生き残っていた孫の零は、どうしているのだろうかと。

 娘よりも信頼している壮年の秘書に、零はどうなったと聞いた時には、既に遠い地へと追いやられていたのだ。

 自分の不甲斐なさに唖然とした。気弱なところもあるが優しい子だった。厳しく接していたために、私の事を怖がってもいただろう。

 けれど、大事な孫だった。

 正気であれば、身内がいながら、どこともわからない施設に引き取られることを、良しとはしなかっただろう。

 

 今更だが、間に入ってくれたという弁護士を通して、連絡を取ろうとしたことがある。

 そして、零は会う事を望んではいないと、やんわりと断られてしまった。

 分かっていた、それも当然だろう。

 生まれた家の権利すら、管理という名目の下、叔母に奪われ、味方が一人もいない長野に帰ってきたい訳がない。

 それでも、諦めきれず、自由にならない身体の事もあり、東京に行くのが難しい自分の代わりに、秘書にこっそり様子を見てもらいに行った事もあった。

 同じ施設の友人と、元気に学校に通っていたと、将棋の大会でいい成績を収めていたと、そう報告を受けた。

 将棋……、また将棋なのかと不思議な縁を感じたとともに、なぜかストンと納得してしまった。

 あの時の気持ちを、うまく表す言葉を私は持ちえない。零がその道を行くことを止めたいとは思わなかった。

 

 それから、ずっと密かに見守り続けた。今の時分は、テレビや新聞でも随分詳しく将棋の事をとりあげてくれる。また秘書がどこからか雑誌などで零の様子が取り上げられていれば、ひっそりと教えてくれた。

 けれど、零が将棋を指す姿を観に行った事は一度もなかった。ただ、この長野の地から、孫の仕事の成果をひっそりと知るだけにとどめる。

 奨励会を抜けプロ棋士への道を歩みはじめた時、連勝記録を打ち立てた時、初めて公式戦で敗けた時、タイトル戦に挑んだ時、節目にはいつも一揮の墓へと報告に行った。おそらく、この地へ足を運ぶことが出来ないでいる、零の代わりのつもりだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 


 

 月日が流れ、零は粛々と棋士の道を極めていった。

 二度目のタイトル挑戦、その大事な一戦を急遽長野で行うと聞いた時、神はなんと残酷な事かと思った。

 集中したいであろう大事な一戦で、これほど心が乱される状況は無いだろう。あの子にとってやりづらい事この上ない。

 

 貴和子には、決して会場に近づくなと、釘をさしていたが、それも気休めだろう。対局の前には、前夜祭もあると聞いていた。地元の有力者のなかには、まだ一揮の事を覚えて下さる方が多くいた。そして、どれほど時が流れたとしても、此処で生きた記憶があの子のなかで、失われるわけではない。

 どうか、何事もなく終わってくれとそう願うばかりだった。

 しかし、何かはしたいと思う此方のわがままで、弁護士を通して、着物を贈った。一揮にと密かに仕立てていた着物だった。所詮こちらの自己満足、身に着けてくれなくても良かった。

 

 許されるわけがないと、会場に行く気がなかった私の背を押したのは、零の様子を東京まで見に行ってくれた秘書だった。

 あの子に僅かでも動揺を与えるわけにはいかないと固辞する私に、会わなくても一目みるだけでも、と珍しく強く申し立てた。

 もう何度もあるとは限らない機会を逃すのですかと、容易く失われると知っているでしょうと、諭されて、折れたのは私だった。

 実際、成長した零のすがたをこの目でみる最期の機会になるかもしれなかった。

 

 前夜祭では会う確率が高まるので、対局だけを観に行った。

 会場に現れた、贈った着物を身に着けた零の姿を目にした時、嵐のような感情が私のなかで渦巻いた。

 

 

 

 あぁ、生きている。零の中に紛れもなく、一揮が生きていた。

 

 

 

 面影、僅かな所作、ふとした時に感じる。無論すべてが同じわけではない、ただ余計にそのわずかな一致にハッとさせられた。

 そして何より、将棋を指すその姿にこそ、もう何十年も前の息子の夢の果てを観ているようだった。

 どれほど後悔しても、決して選ばせてはやれなかった一揮のもしもの道。その頂きに挑む零の姿に、ただただ涙がこぼれた。

 いっそ憎いほどだった将棋に、感謝する日がこようとは思いもよらなかった。

 おそらく、他の何であったとしても、こんなにも強烈に感じることはなかっただろう。

 一揮が私に抗ってまで、選ぼうとしていた将棋だったから、私が諦めさせた将棋だったからこそ、これほど駆り立てられたのかもしれない。

 勝手に重ねて、思う事が、零にとって重荷になるかもしれないと分かっている。

 しかし、湧き上がるこの気持ちは抑えることなどできなかった。

 零が将棋をしていると知ったあの日。もしかしたら、こんな姿を観たかったのかもしれない。

 

 息子が生き、育み、守ってきたものは、確かに孫の中に受け継がれていたのだ。

 ただ、此処で生きて将棋を指してくれている、その事だけで、すぎるほどだった。

 結果など、もはや些末な事だった。必死に打ち込むその姿に、ただただ幸あれと、神に祈った二日間だった。

 

 

 

 

 

 


 

 対局の翌日、息子の雄姿を報告しようと一揮の墓を訪れた。

 そこに、先客の姿をみて、私は静かに息を吐いた。

 

「来ておるかと、少し期待しておった。一揮に報告に来たのか?」

 

「はい」

 

 零は、まっすぐに此方をみてそう答えた。

 

「そうか……では、ワシが来る必要はなかったな」

 

 数年ぶりに面と向かって話す。花を添えながら、なんと続ければよいか頭の中で何通りも考えたが、全くまとまらなかった。

 

「今回の対局で着ておった着物なんだが……」

 

 昨日の対局する姿を思い出し、言わなければと思っていた言葉がようやく口をつく。

 

「あ、はい。ありがとうございました」

 

「あれは……一揮が着ることがあるかもしれんと、数十年前に仕立てたものだった。だから、少しデザインが古い。若いおまえにはもうちょっと、今時の物をやっても良かったかもしれんな」

 

「え。父さんにですか? でも、お祖父さんは将棋が……」

 

 零は、本当に驚いた様子だった。無理もない、この子が生まれてからわしは一度も一揮と将棋の話をしたことは無かった。

 

「矛盾しとるだろう。息子に将棋などやめて家を継げといいつつ、もしかしたらと思ってこっそり着物をしたてる。結局、あやつに見せたことは一度もなかったがな。だが、箪笥の肥やしにするよりは、お前が着てくれてよかった」

 

 今にして思えば、なんともくだらない意地だったことだろう。たった一言、告げているだけで変わったことなどいくらでもあっただろうに。

 

「対局をするお前をみた。零は、一揮に目元がそっくりだ。あいつがもし着ておったら、どんな風だったか、よく分かったよ。……大きくなったなぁ」

 

 しみじみとこぼれた言葉。零が見せてくれた“もしも”の姿は、眩しいほどだった。そして、私の後悔を深く募らせるものだった。

 対局を観に行った事に、律儀に礼を告げてくるその子に、思わず懺悔してしまうほどに。

 たられば、を言っても仕方ない事だ。全て後の祭り。そう分かっていても言わずにはいられなかった。

 息子への後悔、守ってやることができなかった、孫への後悔。一度口をつくと、次々とこぼれおちた。

 

「東京に行ったのは、僕の選択です。長野には、想い出がありすぎたから……、それに将棋をしたかったから」

 

 零は決して、私を責めなかった。その優しい心がいっそ酷なほどに。この子はもう乗り越えて、たった一人見知らぬ土地で生き抜いてきたのだ。

 

「東京での生活はどうだ?」

 

「楽しいです。色々あったけど、沢山の人に出会って支えて貰いました。東京に行ったから出会えた人達です。僕は、幸運だったと思います」

 

 忌み事一つも落とさずに、幸運だったと笑える強さを持っているこの子が眩しかった。そう、言わせてしまった自分の不甲斐なさを、今は、横に置いておく。

 零の隣で、静かにこちらを見守っていた男性をみた。後見人をしてくれている方とは何度か連絡をとった事がある。その時、門下の方々皆で、零の事をみてくれていると言っていた。

 そのお一人なのだろう。

 

「それなら、ワシももう後悔など言えんな。零が出会った方々に失礼だ。孫が良い縁に恵まれた事、感謝することにしよう」

 

 今更ながらに、その方とも連絡先を交わした。貴和子が何か言ってくるような事があれば、くれぐれも教えてくれと頼んだ。

 

「貴和子の事も、和也の事も、病院の事も心配するな。ワシが目を光らせておく。……おまえが、仕事で長野に来ることがあれば、また観に行く」

 

「僕の方も、近くに来ることがあれば、会いに行きます。何があったかとか、良かったら聞いて欲しいです」

 

 これまでの長きにわたる空白の時間に、思う事がないわけがない。それでもこの子は、会いにくると言ってくれた。

 

「……そうか。楽しみにしとるよ」

 

 本当に大きくなったと思う。背丈ものび、目線が随分と高くなった零に、しゃがむように頼んだ。

 その姿を目に焼き付ける。似た部分ばかりに目がいくが、この子だけの特徴が、とりわけ愛しくも思えた。

 

「零、一揮の分まで、沢山指してやってくれ。ワシは、時間の許す限りそれをみておるよ」

 

「はい。約束します」

 

 ただ、此処で生きてくれているだけで、眩いほどの希望なのだから。

 

 

 

 

 

 それから、少し季節が移った頃。零が獅子王就任式を行うと聞いた。

 孫の晴れ舞台だ。東京に行くことも考えたが、貴和子たちの気持ちと、いままで無関心だった身内が急に乗り込むのも、と考えて見送った。

 師匠の藤澤さんにご相談し、袴と花を贈れただけでも、御の字だろう。

 

 桐山獅子王、なんとも厳かな響きだ。まだ齢十四の子どもが背負っていける肩書なのか、些か心配でもある。

 けれど、零ならばそれは余計なことなのだろう。たとえ苦難の道であろうとも、あの子はこの先も、顔をあげてまっすぐに進んでいく。

 世紀の天才児、将棋の神に選ばれた子、世間は、華々しい言葉で、あの子をほめてくれている。その称賛が過ぎたるものかどうかは私には、分からない。

 そして、それはどうでも良いことなのだ。

 

 あの子は、ただの私の孫で、一揮の息子。それだけで充分だった。

 願わくば少しでも長く、その魂の輝きを、この老いぼれに見守らせてくれればと思う。

 

 

 

 

 





ただこの世にいきてくれているだけで、充分だと思ってくれる人がいる。たった一握りのその存在が身内の中にも居てくれたらなと思いました。
原作の桐山くんはお身内の縁が薄すぎるので……。


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後ろでも、前でもない

二海堂くんと桐山くんの記念対局のお話。


 

 将棋と出会えたことは、俺にとって、何よりの喜びだった。

 何時だっただろうか、自分は他の子のように外で自由に遊びまわることが難しいのだと、知ったのは。

 好きなものをお腹いっぱい食べることさえ、時には命にかかわった。

 沢山の検査をして、様々な薬を試してきたが、現代の医学では、俺の病に完治を期待することが難しかった。

 

 摩耗していく日々の中で、出会ったのが将棋だ。

 知れば知るほど楽しくて、新しいことを覚える度に、強くなっていく自分を感じることが出来た。

 あの子と同じように走り回ることが出来なくても、盤を挟んでなら対等に勝負が出来た。

 たった81マスの盤の上、その上でなら俺だって主人公になれた。大人にだって負けなかったんだ。

 気が付けば、どんどんのめり込んで将棋の奥深さにハマっていった。

 そうやって、楽しくなって本気になって、情熱を注いでいくほどに、この病はまた俺に現実を突き付けてきた。

 ただ座って駒を指しているだけじゃないかと思われるかもしれないが、頭をフル回転させながらの強者との対局は、想像以上に体力を消耗する。時には、何時間という長さにもなる。

 その対局についていくには、俺の身体には、少々どころではない難があった。

 でも、諦めることなど、もう出来なかった。

 将棋は俺の人生と同義になっていた。

 

 両親は俺を止めた。俺の性格を良く知っている分、中途半端で終われない事を直感していたのだと思う。

 無理をして、さらに身体を壊したらどうするのかと言われた。その上、身を犠牲にしてまで頑張っても、病が足を引っ張る事は目に見えていると。

 将棋が好きであるからこそ、本気だからこそ、口惜しいと思う日々になるかもしれないと、懇々と諭された。

 文字通り人生をかけて打ち込んで、その上で打ちのめされたら……と心配してくれていた。

 当時、どうして分かってくれないのかと詰め寄ったが、あれこそ親心だったのだと、今なら少し分かる。

 

 俺は諦めなかった。最初は反対していた花岡も味方につけ、何度も何度も頼み込んだ。

 そして、師匠に出会えた。

 

 最初に声をかけてくれたのは師匠の方だった。随分と熱い将棋を指す子がいたものだ、と柔らかく笑ってくれたのを覚えている。

 沢山、たくさん話をした。師匠は全部分かっているみたいだった。

「お前さん、もう選んじまったんだね」と、少しだけ苦しそうに眉を下げたあと、オヤジさんの事は任しておけと、説得に協力してくれた。

 後から聞いた話では、師匠はもう弟子は取らないと言っていたらしい。それなのに、なんで自分を?と尋ねると、おまえさんの魂に惹かれたんだよ、と頭をなでてくれた。

 

 

 

 色んな人の助けを借りて、結局最後は家族も応援してくれて、そして今の俺がいる。

 将棋を知り、師匠に出会い、兄者を紹介してもらって、俺の世界はどんどん広がった。

 ベッドの脇の小さい窓から、外を走り回る子を眺めるのではなく、盤上で自由に走り回ることが出来るようになった。

 

 そして、将棋の神様は、俺にもう一つ最高の贈り物をくれた。

 生涯のライバルという存在を。

 

 

 


 

 奨励会に入って、プロという最高の冒険の舞台を目指して、研鑽を積む日々。

 上ばかりみていた俺の後ろから、あいつは猛スピードで駆け上がって来た。

 

 はっきり言おう。あの時の俺は少し捻くれてしまっていたのだと思う。

 

 将棋への向き合い方は、千差万別。その真剣さは他人が測れるようなものではない。それなのに、大会で当たった相手に物足りなさを感じ、奨励会に入会後も、どこか周りとの温度差を感じていた。

 自分以上に、将棋一筋で全てをかけている人なんて同世代にいないのでは、とまで思ってしまった。

 

 そんな俺の前に桐山は現われて、そして、俺は頭をかち割られたのだ。

 

 奨励会に入るにしては若い、と話題になっていたその少年は、その年の子ども大会を総なめしていると言っても良かった。奨励会員になれば、一般の大会に出ることは叶わない。まるで今のうちとでも言うように、あっさりと出た大会のその全てで、結果を残していた。

 入会前からの期待の新人の話は、奨励会員の中でももちろん話題になった。その時は、俺はまだ桐山の存在を気にもかけていなかったのだ。入会前に話題になっても、それは一時的なもので、その後が続くものなど、ほとんどいなかったから。

 けれど、そんな周囲のことなど知らぬと言わんばかりに、奴は淡々と記録を重ねてみせた。入会後ただの一度も負けることなく、昇級を決め、そしてその次も……。

 そうなってくると棋譜が気になってくる。そして、目の当たりにしたのだ。

 

 圧倒的な棋力の差を。

 

 まともに、指し合えているものなど、ただの一人もいなかった。まぐれだなんて自分を誤魔化している会員もいたけれど、そんな生易しい差ではなかった。

 

 たった、数枚の棋譜でそれを見せつけられて、俺は唖然としてしまった。同年代で、これほどの棋力を持った人がいることに。そして、恥ずかしくも思った。自分はなんて思いあがっていたのだろうと。

 1級にいる自分の所まで、桐山はすぐに上がってくる。そして追い越していくだろうと、確信があった。

 だからこそ、1回あるかどうかのその対局を、大切に指したいと強く思った。

 奨励会での桐山の棋譜は全部何度も並べてみた。残念ながら、その内容からは真のあいつの強さを読み取ることは、ほとんど出来なかった。誰一人として、あいつの本気を引き出せてはいなかったのだから。

 対局出来る日を心待ちにしながら、俺はひたすらに自分の腕を磨き続けた。その日が来た時に、最高の状態でいたかった。あいつに白星を増やすだけの、ただの一人で終わりたくなかった。

 1級に上がってきた桐山との対局相手の中に自分がいた事に、俺は飛び上がらんばかりに喜んだ。

 桐山と対局が出来る。実際に指して見なければ、どれほどの差があるかは分からない。

 

 

 待ちに待ったその日。

 

「ついにこの日がきたか! 桐山零。俺はお前と対局できる日を心待ちにしていたのだっ」

 

 席についた桐山を前にして、思わずそんな言葉をかけていた。

 奨励会で桐山は、必要以上に喋らない奴として有名だった。感想戦は長くつきあってくれるが、それ以外の雑談となると幹事の兄者と話すくらいだった。

 返事は特に期待していなかった。これはあくまで俺の意気込みを知って欲しかっただけだ。

 だから、少し、ほんの少しだけ驚いたのだ。

 

「僕も……楽しみでした。よろしくお願いします」

 

 桐山は、そう好戦的に笑った。楽しみだった、ということは俺のことちゃんと知ってくれていたのか?

 その答えはすぐに出た。戦局が相居飛車となったからだ。桐山は俺の得意戦法を知っていてくれて、そしてあえてそれに乗ってきた。驚きと共に嬉しさがこみ上げる。自分の得意とする戦法でかかってこいと、それをねじ伏せてみせるというあいつの気迫が伝わってきた。

 長い一局となった。俺の手はどれも決め手にかけて、じわじわと追い詰められていた。

 

 食い下がって、食い下がって、なんとか生きる道を探し続け、177手の熱戦だった。

 

 これまでに無いほどの力戦、間違いなく俺の糧となる一戦になった。

 ……それでも、桐山には届かなかった。あぁ、これでは駄目だ。まだこいつの本気を引きずり出すことなんて出来ない。

 

 だから、本当に驚いたんだ。対局後に桐山から声をかけてくれたことに。

 

「……先に行って待っています。君とは棋士になってから、また指したいです」

 

 一瞬固まってしまって、その言葉を理解しようとしているうちに、桐山は席を立ってしまった。

 また、指したいといわれた。棋士になってから。自分がプロになることを微塵も疑っていない。そして、俺がプロになると信じてるってことだろ!?

 退出しようとしていた桐山の背中に、慌てて声をかけていた。

 

「なぁ……桐山、俺はお前のライバルになれるか?」

 

 今はまだ、届かないけれど。

 

「そうだと、良いなぁって思ってます」

 

 桐山は一度立ち止まって振り返ると、そう静かに応えてくれた。その瞳が、まっすぐに俺を見てくれていたから、あぁ俺だけじゃなかったんだと、そう思えた。

 これが、どんなに嬉しかったか。将棋をして良いと認めて貰ったその日と同じくらいに、嬉しくて仕方なかった。

 一方的に思ってるだけじゃ、好敵手なんて言えないだろ。俺は桐山に、俺を見て欲しかったのだとその時になって分かった。

 

 

 

 

 


 

 桐山は宣言通り、どんどん先に進んでいった。

 無敗で奨励会を通過すると、史上初の小学生でプロ入りを果たす。誇らしいと同時に、焦りも感じていた。

 

 テレビの企画で兄者や、A級の棋士達と互角に戦っていた桐山を見て、あぁあいつの本気を引き出すにはあのレベルまで、到達しないといけないのかと実感した。

 プロ入り後、何十局の対局を経ても、あいつに黒星をつけれる人はいなかった。それほどまでに、強かった。鮮烈なほどのその才能に、焦燥がつのった。

 

 兄者が開いている研究会にも誘われたが、俺はすぐに参加すると返事をすることが出来なかった。

 正直にいって、未だ三段リーグにも上がれずに奨励会でぐずぐずしている自分が許せなかった。

 プロの方々と肩を並べて、桐山と顔を合わせて、研究会に参加する資格があるのか、自信を無くしてしまった。

 

 焦りから、体調を崩して奨励会を休むはめになった。入院先のベッドの上で、深く沈んでいた時の事。

 何食わぬ顔で、あいつが顔を出すもんだから、こっちはたまったもんじゃない。

 そのくせ、俺の悩みなんて知るかとでもいうように、

 

「将棋は一人じゃさせないから、俺の前に座ってくれる一人に二海堂がいてほしい」

 

 最年少でプロになり、未だ無敗の天才は、臆面もなくそう言い放った。

 目先の対局より、何十年も先まで俺と指したいと願ってくれた。

 

 どんな激励より嬉しかった。生涯をかけて隣で競い合う相手を、得られる人など、どれほどいるだろう。

 

 たぶん、俺はどこかで諦めてしまっていたから。自分には時間が無いと思っていたから。

 だから、記憶に残るような最高の一局をはやく指したいと、焦ってしまう。

 でも、もっともっと長く、沢山の対局を重ねていけたら……。

 

 そうなりたいと強く思った。桐山と、兄者たちともっともっと沢山の対局を指して生きていきたい。

 

 

 

 

 


 

 それから、次々と記録を打ち立てて、破竹の勢いで進んでいく桐山の背中を、俺は必死に追いかけてきた。

 あいつの初のタイトル戦、時期尚早だったという周囲の評価をものともせず、宗谷名人と戦いぬく。

 

 子どもだから?体力がないから?まだ、経験が浅いから?そんな評価を全部吹き飛ばしてしまった。

 

 その雄姿に触発されて、俺も三段リーグを一期抜けした。

 肩を並べれたなんて、まだとても思えないけれど、それでも同じ土俵にやっと立つことができる。

 プロ入り後、多くの強者と戦う機会を得た。三段リーグは魔窟だと言われていたけれど、皆それを切り抜けてきた方々だ。一筋縄ではいかなかった。

 

 でも、ただで負けるわけには行かなかった。食らいついて一勝でも多くと、一局、一局をこなしていく。  

 勝率は、ここ最近の若手の中で、かなり良いと兄者に言われた。

 桐山は、兄者との研究会以外にも、若手で集まる会を開くようになった。俺としても沢山の人と繋がれるし、積極的に参加した。

 名人やA級棋士という、予想外の来客もあり、思いもよらぬ対局ができることも密かな楽しみとなった。

 

 

 そして、その年の冬。いつかは訪れるだろうと思われていたその日は、思ったよりもずっと早くにやってきた。

 桐山が宗谷獅子王からそのタイトルを奪取した。タイトルを獲得するという事が、どれだけ難しいのか俺たちプロなら、身に染みて知っていた。

 その上、相手は七冠だった宗谷名人。将棋界の頂点に君臨するその人に、桐山は真っ向から挑み、そして勝ってみせた。

 世間でもとても話題になったらしいが、それ以上に俺たちプロ棋士たちに与えた衝撃は大きかった。

 勝てる。宗谷冬司だって負ける。孤高のように頂点にいたその人に手が届くことをあいつは証明してみせたのだ。

 

 

 それから、少し後に行われたその就任式には、祝いの言葉を告げるために出席した。

 主役の桐山は忙しそうにしていたが、直接言葉をかわす事もできた。

 

 壇上での挨拶を立派にこなし、そのあとも多くの人に声をかけられている桐山を眺めていた時だった。

 

「悔しいなぁ、坊」

 

 俺の横で、兄者が小さくそう言う。その言葉に驚いて隣を見上げてしまった。

 

「俺は、一組の優勝、桐山は初タイトル。一回りも違うあいつに先を越されちまった」

 

 今年度、兄者は宗谷聖竜に挑む機会があった。けれど、結果はストレートで宗谷聖竜の防衛となった。他のどのタイトル戦もそうだった。宗谷名人に黒星をつけれたのは桐山だけだったのだ。

 獅子王戦後、これからは”二人の時代”になると一部の人が言っているのも、俺たちの耳に入っている。

 

「あいつは、凄いやつです。本当に。でも、それでも俺は絶対に諦めません」

 

「……分かるよ、俺も一緒だったから。ずっと宗谷の背中を見てきた。ただの一度も、あいつの前を行けたと思えた日はない。でも、前に座る努力を辞めたことは無い。たまらないんだよなぁ、あいつとのタイトル戦」

 

 しみじみと呟く兄者の目には、熱がこもっていた。

 何年……いや何十年も、プロになってから指し続けてきたのだ。歩みのペースは違えど、それでもただ粛々と。

 

「お前ら二人なら、この先も大丈夫さ。俺もうかうかしてられない。はやくタイトルの一つでもとらないとなぁ」

 

「俺も、まずは一つあいつとの約束を果たしたいと思います」

 

 来期の記念対局に向けての、新人戦トーナメントもついに始まっている。俺は勝ち抜かなければならない。優勝すれば、タイトルホルダーとの対戦ができる。

 相手が桐山かどうかは分からない。でも、まずは俺が勝たないとはじまらない。チャンスはその後、きっと訪れるはずだ。

 

 

 

 

 


 

 今年度の終わり、順位戦を全勝して無事C級2組から、C級1組へと昇級できた。桐山もB級1組へ進んでいた。

 あいつがそこで長く足踏みするとは想像出来ないから、俺たちが順位戦で当たれるのは、お互いがA級になった時かもしれない。

 

 全てのタイトル戦でシードを持っていた桐山は、勢いそのままに聖竜の挑戦権を獲得する。あいつが中学3年の夏のことだった。

 そして、宗谷聖竜と五番勝負を制して、2冠となった。お互いに2勝2敗からの最後の一局はこれまた、至極の一局だった。

 一方で俺も順調に対局を勝ち進めていた。

 獲得タイトルが増え、また次の挑戦権のための大事な対局が増える中でも、桐山は研究会を開き続けた。

「負担じゃないのか?」と尋ねたスミス氏の言葉に、桐山は「この時間も好きだから」と答えた。

 それに、公式戦での対局の機会が減る分、俺たちとの対局機会を持ちたいらしい。

 どこでどんな戦型が流行りだしているのか、誰がなんの戦法が得意なのか、プロである以上いつかは公式戦で対局する必要が出てくるからと。タイトルホルダーになっても、……いや、寧ろなったからだろうか。あいつはより広い視点で、将棋と向き合っているようだった。

 

 

 

 今日も、その若手研究会に向かうため、桐山のマンションへと向かう。そのエントランスで、よく知る後姿をみつけた。

 

「宗谷名人……!」

 

「……、こんにちは。君がいるって事は、今日は勉強会の日なんだね」

 のんびりとそう呟いたその人は、よくアポ無しで桐山の部屋を訪れる。月数回の研究会に、その日が重なることも時々あった。

 

「今日も指していかれますか? 我々は大歓迎です」

 

「うん、そのつもりで来たんだ。獅子王のタイトル戦がはじまったら、さすがに顔を出せないからね」

 

 昨年取られたそのタイトルの挑戦権を獲得したのはこの方だった。桐山との聖竜戦の裏でそちらの対局も大変だっただろうに、それでも掴んでみせた。今度は挑戦を受ける側として、桐山は宗谷名人と対峙することになる。

 ……今年、この人が防衛出来なかったのは桐山との聖竜戦だけだった。宗谷名人にとっても桐山はやはり特別なのだろうか。

 その関係性に羨望を感じずにはいられなかった。

 

「宗谷名人……、もし、もし今日お時間が許すなら、是非俺とも対局して頂けないでしょうか?」

 

 新人戦の決勝戦が間近に迫っていた。どうしても、ものにしたい一戦の前に、強者と一局でも多く指したいと思ってしまう。

 

「僕は構わないよ。あぁ、……そういえばもうすぐ新人戦の決勝か」

 

「ご承知でしたか!」

 

「うん、ちょっと前に桐山が話してたよ。彼、楽しみにしてるみたいだった」

 

 名人はいつ頃からだったか、桐山の事を呼び捨てにするようになった。桐山は勿論、敬称つきで呼んでいるが、公式の場でない二人の雰囲気は、研究仲間というか、少し気安いものに感じられた。

 年が離れた二人だけれど、おそらく誰よりも将棋でお互いを認め合っているからこそだろう。

 

「待ってた人が、大事な対局で目の前に座ってくれるのは、特別なんだよ」

 

 桐山の部屋につく前、そうポツリと呟く。

 

「僕との約束を、彼は何度も守ってくれた。だから僕は今年、絶対に獅子王の挑戦権を取りたかった」

 

遥か高みにいると思っていたこの人の、思わぬ熱意を感じて俺は息を飲んだ。

 

「君も、果たせるといいね」

 

「はい、必ず果たしてみせます」

 

 

 

 

 秋が深まり、冬の気配を感じるようになった頃、ついにその日がやってくる。

 

 相手は、山崎順慶氏。昨年、新人王を獲得した方だ。

 その前の年、新人王を取ったのは桐山だった。ちょうど宗谷名人との初めてのタイトル戦だった棋神戦の後だったから、この二人の記念対局は注目度はちょっと普通じゃなかった。

 一転、昨年はちょうど桐山と宗谷名人の獅子王戦の最中に、記念対局が行われたために、どうしてもそちらに話題負けするのは否めず……。

 本人の心中は分からないが、新人王のタイトルの重み自体は変わらない。間違いなく、この方も若手の中の実力者だ。それを俺は超えていかなければならない。

 

 

 対局室に向かう途中、会長が声をかけてきた。

 

「おう、二海堂。気合入ってんな!」

 

「無論です。大事な対局ですから」

 

「なら、もっとやる気出る話してやるよ。今年の記念対局、タイトルホルダー側は桐山で行く。お前が勝てば、あいつと指せるよ」

 

「本当ですか!?」

 

「毎年宗谷じゃ面白味もねぇからな。桐山なら世間の注目度は元々高いし、期待の若手対決って盛り上げ方も出来る。何より、話を向けてみたらあいつはやる気十分だった。はてさて、なんでかねぇ」

 

全身が沸き立つような感覚がした。桐山は話を快諾した。時期によっては獅子王の防衛戦と重なる大事な時期かもしれなかったのに。

 後は……、俺が勝てば、対局は実現する。

 

 

 

 

 対局がはじまる。

 初手は山崎氏の飛車先を突く2六歩からはじまる。俺は2手目に同じく飛車先を突く、8四歩と返した。

 続く2五歩に、四手目8五歩。戦型は相掛かりとなった。

 互いに角頭を金で受け、飛車の横に銀を立てる

 おなじみの同形模様の出だしから、さらに両サイドの端歩を突き合う。

 12手目9四歩に対して、山崎氏の13手目は4六歩。

 ここまでの同形模様から外れ、俺は14手目8六歩とし、自らの飛車先8筋の歩を突き合わせた。

 

 同歩からの同飛の進行で歩交換が成立。俺は浮いた飛車をいったん元の位置まで下げ、その先へ銀を乗せ、棒銀の構えをとる。

 

 戦局は、2筋でも歩の交換が成立。

 26手目、突進してきた山崎氏の飛車先をおさめるべく、2三歩。

 そして、相手が飛車を2六の地点へ浮かせて構えたのをみて、30手目に3四歩として、自らの角道を開いた。

 

 互いに相手からの角交換を誘いつつ、居玉のまま駒組みは進行していく。

 38手目2五歩とし、2筋の歩を突き出し、飛車を吊り上げる。

 39手目2五同飛に対して40手目、7六銀。歩を払い、銀を角頭に突き立て、強く角交換が要求された。

 注文通り、先手からの角交換が成立すると、俺は44手目に6五銀と銀を6筋へ引き下げた。

 

 45手目に山崎氏は、桂馬を1筋に跳ね1七桂。相手が力を溜めてきているのが分かった。

 俺も、銀を5筋に引き下げ、5四銀として足元を固めていく。

 

 47手目8五歩に対して、48手目1五歩。1筋の歩を突き出し、桂馬を咎めにいく。

 

 軽く桂馬を捌いてから敵陣に角を成りこみ、62手目3一金とした俺に、山崎氏は63手目2六飛。戦力を2筋に合わせて駒音高く、反撃の姿勢に入ろうとしていた。

 

 予感がした。このままでは、相手の飛車を追う事になり、そしてそのまま千日手もあり得る盤面だった。

 

 無理をせず、流れに合わせて、仕切り直しにしても良い。

 でも、本当にそれでいいのか? もう一局、同じだけの熱量で万全の体勢で、30分後にまた指せるのか?

 誰よりも自分の身体を知っていた。今ならまだ間に合う位置にいる。

 無理に千日手を避けようとして、戦況を不利にして、負けては元も子もないのは分かっている。

 

 ただ、お前はずっと誰と対局してきたんだ!?

 誰の前に座りたいと思っている!?

 此処で勝ち切る自信を持てなくてどうするんだ、二海堂晴信!!

 葛藤したのは一瞬。俺は力強く次の一手を指した。

 

 全120手、お互い持ち時間を使い切った長期戦を制し、俺はこの年の新人王となった。

 

 

 

 

 


 

「坊ちゃま、いよいよですね。爺も、精一杯応援しております」

 

 花岡はそう言って、そっと俺の背中を押してくれた。

 何処に行くのも付いてきてくれて、誰よりも俺の味方で居てくれる。その存在にどれほど、助けられてきただろう。

 

「あぁ、行ってくる。見ていてくれ」

 

 花岡は最初から一緒だった。俺の将棋が始まったその日からずっと、一緒に戦ってきた。

 積み重ねてきた苦悩と葛藤を誰よりも知ってくれている。そして、何より今日という日に懸けた想いも、分かってくれている。そんな人が背中を押してくれることを、幸せに感じながら、部屋を出た。

 

 対局の為に用意された部屋は、厳かな雰囲気だった。神宮寺会長が相当気合を入れてくれたと、桐山が話していたがこれほどとは。

 先に下座について桐山を待つ。この、相手がくるまでの緊張感を、俺は嫌いではない。高まってくる対局への熱を、自分の中で感じられるから。

 そう間を置かず、部屋へと入って来た桐山は、今日は緑青色の着物を身に着けていた。

 通常の記念対局はスーツであることが多いのだけれど、これも会長の意向だったらしい。

 着物に着られることもなく、自然と着こなしたその姿は、獅子王としての貫禄すらあった。

 

 スルリと風が吹き込むように、目の間に座る。

 顔をあげた桐山と目が合う。

 俺の目をみたあいつは、少しだけ口角をあげた。思わずこぼれたというようなそれは、まるでいたずらっ子のようで。

 その表情をみたとき、俺はハッとした。

 気圧されるな。ずっと望んできた桐山との公式の対局なのだ。

 

「定刻になりましたので、始めて下さい」

 

 その言葉に、お互いにお願いしますと一礼する。

 

 

 

 後ろからおまえの対局を見ているわけじゃない、横でお前の対局を検討しているわけじゃない。

 今、俺は、桐山の目の前に座っている。

 

 さぁ、楽しい冒険の始まりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 二海堂くん視点で、記念対局に至るまで。
 原作のほうで丁度、二海堂くんと桐山くんの対局が終わりまして。この二人って本当にお互いがいてくれて良かったなぁとしみじみと思い。ずっと、書きたいなぁと思いながらも、なんとなく書かずにいた、記念対局編書くなら今だな、と奮起した次第です。

 次回は桐山くん視点で記念対局の様子



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目の前に座る君に

 

 思わずこぼれた僕の表情に応えるように。今、目の前で君が好戦的に笑う。

 二海堂との記念対局が始まろうとしている。

 対局場の雰囲気と、和服で将棋盤を挟んだこの状況が、二海堂と戦ったタイトル戦を思い出させた。

 かつて、僕が玉将の防衛2年目となる年に、挑戦者になって、やってきたのは二海堂だった。この記念対局と同じように、同世代で幼い頃からのライバル同士の対局だと注目を浴びたっけ。

 結果は4勝3敗で僕の防衛だった。7番勝負までもつれ込んだ、大熱戦。すべての対局が、脳裏に焼き付いている。

 あの時の僕は、まさかそれが二海堂との、最初で最後のタイトル戦になるなんて、想像だにしていなかった。

 体調を崩して、Aから降級し、不戦敗が続き、治療に専念することが決まった二海堂に、僕は絶対に戻って来いよと声をかけた。君は、当たり前だろうと笑っていた。

 

 でも、その機会は訪れなかった。病のために、29歳の若さで、その先が絶たれた君の心中を、僕ではとても推し量れない。

 最期の時まで、棋譜を諳んじていたという君。まだまだ、たくさん対局ができると思っていた。

 

 未来でいったい何が起きるのか、なんて誰にもわからない。僕だって、そうだったのだから。

 

 君と、真剣勝負ができる機会を、再び持てた事が嬉しい。

 僕はずっと、君との対局の続きを探していたのかもしれない。

 感謝します。本当にありがとう神様。だから、将棋は辞められないんだ。

 

 二海堂、君との対局は何故かいつも熱くなってしまう。でも、それはきっと僕だけじゃないはずだ。

 

「お願いします」

 

 きっとまた、忘れられない一局になる。そんな予感がしていた。

 

 先手は二海堂。初手は飛車先を突く2六歩だった。

 僕は2手目に、角道を開ける3四歩と返した。

 と、二海堂はここで開始そうそうに異例の長考に入る。その間約20分ほど。

 

 居飛車の意思をつよく明示した二海堂に対して、僕の手はまだ居飛車、振り飛車どちらの方にも動ける。戦法を決める大事なタイミングではある。じっくりとこの先の展開を吟味しているのだろうか。

 そして、長考の末に、3手目に2五歩と指してきた。この手は僕に3三角を強要してくる一手だ。振り飛車の投入を誘われている。

 

 うん、いいね。勿論受けて立つよ。

 

 開幕からお互い、丁寧に指し進めた。まるで、戦いの前に熱した頭を落ち着かせるように。この対局の始まりを、ゆっくりと噛み締めるように。

 

 僕は、8手目に4四歩とし、自分の角道にストップをかけた。二海堂の9手目は、5筋の歩を突く、5六歩。それを見て僕は、少し考えたのち、飛車を4筋へと進め、10手目4二飛。振り飛車の王道とも言える、「ノーマル四間飛車」で勝負をかける事にした。

 お互いに、飛車のポジションが決まり、玉の囲いを目指す手筋となった。

 先に8筋へと玉を寄せた僕を追いかけるように、二海堂も角をどかせて玉を同じく8筋へと移動する。

 22手目、僕は9筋の香車を上げて、9二香として、堅くて遠い「穴熊」を組んだ。対して、二海堂も23手目、9八香。9筋の香車を上げて同じく「穴熊」の形をとる。

 そのままお互いに玉を「穴熊」の中に潜り混ませて、銀で閉じ、「相穴熊」が完成した。

 二海堂は、角も取り込んだ形で隙間無く「穴熊」の外堀を埋めてくる。

 僕は、36手目を4五歩とし、4筋の歩を突き、飛車先を決め角道を通す。二海堂の37手目は、8六角と、角を8筋に繰り上げてきた。

 

 そこからは、まるで仕掛けるタイミングを伺うように、飛車を動かし、パスの応酬が続き、膠着状態に入る。

 僕の54手目、7三金。「穴熊」の横で、「高美濃囲い」を完成させた。

 二海堂は飛車先の歩を伸ばし、55手目に6五歩。

 「穴熊」に眠らせたまま、その横で金と銀を組み変える僕に、二海堂は63手目に6筋に引いた角を5筋へと繰り出した。

 

 僕が飛車を自陣の最下段に引く、4一飛とすると、65手目に7七銀と、6筋に構えた銀を自陣へと引き戻し、囲いに連結。互いに、二枚の金・銀に飛車・角の大駒が連なる形となった。

 玉を「穴熊」に潜り込ませた状態で、囲いの組み替えにとりかかる二海堂に対し、僕は70手目2六角として、角を迫り出した。

 けれど、二海堂はこの角には反応せず、自陣の囲いを整え71手目、8八銀。

 

 そして、72手目、4六歩。飛車先4筋の歩を突き出し駒をぶつけ、僕は仕掛けを開始した。

 模様を引っ張るように、敵陣に切り込んでいき78手目、6五銀。二海堂が狙われた角を7七の地点に引いたのをみて、ノータイムで角交換を敢行し、80手目に同馬。

 

 この局面での互いの持ち時間は、僕が30分以上あったのに対して、二海堂は既に数分となっていた。

 模様の厚みは、若干二海堂に分があるが、僕は攻勢を強めて、どんどん圧力をかけていく。

 

 転機だったのは、85手目だ。

 二海堂はこれまで、こうこつと積み上げてきた自陣の守りから、桂馬を跳躍させて、6五桂とした。角交換の時に跳ねた桂馬を、飛車先に乗せて、僕の金へと当ててきた。

 

 僕は金を逃がすために、86手目に7二金。そして、二海堂は5筋へと桂馬を跳躍させて、87手目に5三桂成。成桂をつくりながら、気持ちよく飛車先を通してきた。

 

 このまま好きにさせるわけにはいかない。手持ちの角を二海堂の飛車にひっかけるように88手目、5七角。

 そこから中盤までの膠着状態が嘘のように、互いに敵陣へと迫り、盤面は白熱。

 

 最後はともに1分将棋に突入した。

 

 あぁ、終わってしまう。まだ終わりたくないのに。

 ずっとずっと指していたい。真夏の遊園地の屋上、焼きつくような日差しの中で、それでもずっと指し続けたあの日のように。

 今日という日が、この対局が終わらないでほしいと思うそんな気持ち。

 時間を忘れて遊び続けた、幼き日。その時間が永遠に続くのだと錯覚していたそんな日。

 不可能だって分かってる。それでも、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 


 

「負けました」

 147手目に、二海堂が7二角としたのをみて、僕は頭を下げた。

 先に膠着を打破するために踏み込んだのは僕だった。

 持ち時間を先に使い果たしたのは二海堂だった。

 けれど、1分将棋に入ってから、彼は抜群の集中力と勝利への執念で、耐え忍び続けたのだ。

 チャンスがくるまで、最後まで決して諦めなかった。

 

 形勢は一転、二転したが、その執念で、彼が掴みとった勝利だった。

 

「……ありがとう、ございました」

 

 噛み締めるように二海堂が応える。疲労困憊といった感じだ。それは僕も同じだけれど。

 宗谷さんとの記念対局とは全く違った形になったなと思う。ねじりにねじれて、お互いに勝利への道を譲るまいと、なりふり構わず殴りあった。

 

「桐山、終わったばかりで言うのもなんだが……。また指したいな。最高の舞台で」

 

 感想戦をするために移動する道すがら、二海堂がふと呟く。 その言葉を聴いたときに、僕はたまらなくなった。

 僕は、たぶん、ずっと、この言葉を聞きたかった。

 

「すいません、少し、外します」

 

「桐山!? すぐに始めるって言ってたぞ!」

 

「数分で、戻りますので!」

 

 皆の列から僕は少し外れる僕の背中に、スミスさんが慌てたように、声をかけてくる。申し訳ないけれど、もう振りかえって返事をすることもできなかった。

 駆け込んだトイレの手洗い場に移る自分の顔の情けなさに、少し笑えてしまった。この顔では人前に立つことは出来ない。

 

「あぁ……、負けた。めちゃくちゃに悔しい」

 

 抑えきれなかった想いが、溢れて、溢れて……。まったくいつ以来だろうか、負けて涙を我慢出来ないなんて。

 それくらい、本気だった。そして、文句なしの良い対局だった。

 

「あぁ、悔しい。悔しいのに……、なんでこんなに嬉しいんだろ」

 

 相反する感情が、抑えきれないほどに湧き出てくる。

 以前もこれまでも、幾度となく、二海堂と対局してきた。私的に指した回数はとても多いだろう。

 でも、公式戦で戦った数はそこまで多くは無い。

 だからこそ、どの対局も特別だったし、自分の中の何かを変えてくれるくらいの重みがあった。そして、その対局が終わるたびに言われてきた、「また、指そうな」っと。

 

 僕はたぶん、ずっと聞きたかった。

 “また“が、訪れなかった彼との最後のタイトル戦から、ずっと。僕に勝ち、そしてまた指そうと、無邪気に笑う君の言葉を。

 

 勝てば嬉しい、負ければ悔しい、勝負の世界の当たり前。

 でも、結果に腐らず受け止めれば、勝っても負けても、その対局は僕にとってのかけがえのない一局になる。

 そして、やっぱり同世代は特別だった。ずっと隣で走ってきた、お前がいるから、走ることを辞めなかったんだ。 将棋は、1人では指せない。幼い頃の僕が、誰かが対局盤の前に座ってくれるのを待っていたように。

 あぁ……そうだ。まさに、この関係をライバルって言うんだろうな。

 

「次は……、次は譲らないけど」

 

 そう強く言葉にして、顔を洗って、切り替える。

 

 あまり長く待たせていけない。この記念対局の主役は僕ら二人だ。最後まで仕事はやりきらないと。

 

 

 

 

 


 

 感想戦は大盤解説の前で行われた。

 

「序盤は桐山獅子王のペースだったように思えましたが、いかがでしょうか」

 

 スミスさんの問いかけに、二海堂が頷いた。

 

「どこで形勢が良くなったかは、正直よく分かってません。終盤でも終始ペースを握っていたのは桐山獅子王でした」

 

「最初の長考はやはり序盤大事に行こうと思っての事でしょうか?」

 

「そうです。桐山獅子王との対局はずっと待ち望んでいたものでした。私は、気を抜くとすぐ前のめりになりがちなので」

 

「桐山獅子王は、振り飛車を誘われたときに迷いなく飛び込みました。これは待っていた展開でしたか?」

 

「いえ、どんな戦法でこられても、僕は応えるつもりでした。その方が良い展開になると思ったので。結果負けてしまいましたが、この選択には間違いはなかったかなと思います」

 

二海堂が決意をもって、選んだ戦法だ。わざわざかわしてまで試したい展開を持っていたわけでもなかったから、最初からこれは決めていた。

 

「お互いが穴熊を組んでからは、少し膠着状態になりました。仕掛けるタイミングは難しかったでしょうか?」

 

「迂闊に踏み込めば、桐山獅子王にはかわされてしまいます。皆さんもよくご存じでしょうが、盤面の変化にとても強い方ですから、じりじりと待っている間に、先に攻められてしまいました」

 

「桐山獅子王はどうですか?攻めたタイミング的には?」

 

「そうですね。難しい展開になったとは思いました。あのタイミングが遅かったか速かったかは、もう少し吟味する必要がある気がします。ですが、先に攻勢にでたことに後悔はないです」

 

「私的には、どうにか先に仕掛けたかった。桐山獅子王相手に、受け手に回ってしまうとなかなか打開できないので」

 

 二海堂が悔しそうにそう言った。

 

「桐山獅子王は、印象的な一手はありました?」

 

「85手目の6五桂ですね……。随分と思い切って切り込んできたなと」

 

「打開するには危険を覚悟で飛び込むしかなかったので」

 

 決死の一手だったのは間違いない。

 

「そこが勝機に繋がったと考えていいでしょうか?」

 

「きっかけにはなったかと思いますが、劇的な一手というほどでもないような。その後も桐山獅子王に沢山かわされてますし」

 

「実際、終盤だいぶ込み入った盤面となりました。あそこで切り崩せていれば……と思う点はあります。ただ、最後の二海堂四段の粘りが強かった」

 

「確かに、1分将棋になってから長かったですが、集中を切らさずに指し続けていたと思います」

 

「もう必死でした。なんで勝てたのかと思うほどなので、後でよく検討します。な、一緒にどうだ?」

 

「次の研究会? 自分が負けた対局はあんまりとりあげたくないんだけどなぁ」

 

 突然いつものように、振られて、反射で普通に応えてしまった。島田研究会での次の棋譜はこれで決まりだろう。

 

「お二人は、私的でもよく対局されるとのこと。この先も、多くの対局期待しています」

 

 スミスさんが、うまく締めてくれて、感想戦はこれで終了。会場の人たちも楽しんでくれたようだった。本来は、タイトル保持者である僕が勝ってあたりまえの対局。期待に応えられず、雰囲気が盛り下がってないか少し心配もあったのだけれど、対局の内容は観に来るに値したと、評価してくれたのだろう。

 

 

 

「桐山は、もう何度もこんな対局をしてきたんだな」

 

 感想戦が終わり、会場の片づけを手伝っているときに、二海堂がしみじみと呟いた。

 

「素直に言おう。羨ましいし、焦りもする」

 

 そう真正面から言われて、僕もふと思い至った事があった。

 

「そうだね、何局か忘れられない対局があるよ。でも、まだまだ足りないし、もっともっと出来るって今日改めて思った」

 

 この先の未来で、いったいどれほどそんな対局に出会えるだろう。

 

「次は檜舞台の上で」

 

 僕の言葉に、二海堂がはっと顔をあげた。

 

「初めて指したテレビの企画対局の後に、宗谷さんが僕に言ってくれた言葉だよ」

 

 僕にとってはただの企画対局ではなかった。初めての記念対局での後悔を拭う、もしもを指す事ができた大事な一局だ。

 それから、僕と宗谷さんはもう何度かのタイトル戦を戦ってきた。

 

「上がってくるだろ、二海堂」

 

 俺と二海堂にだってできるはずだろう。今日はその前哨戦だ。

 

「無論だ! 楽しみに待っていろ」

 

 確信をもって告げた僕の言葉に、二海堂は力強く頷いた。その笑顔が、いつかの彼に重なった。この先に、どれほどの対局がまっているのかは、誰にも分からない。

 

 それでも、何度だって次の対局の約束をしよう。

 今日の対局は最高だった。きっと次はもっとだ。そうやってこの先もずっと、僕も、君も、そして皆が将棋を指し続けていくのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 負けて悔しいし、でもなんか嬉しくもある。素敵なライバルがいる関係。私にこの二人の関係性を書ききれるのか。締めの地点が決められず書きあぐねていました。
 端的に表すとまさにライバル、それ以上の言葉はいらないような気もしますが。
 もし、もう少しだけ何か言葉にするならば……、そんな二人の関係性を感じていただけると嬉しいです。

 


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大切なもの。大切なこと。

高橋くんの視点です。


 

 俺は、下町の牛乳屋の家に生まれた。

 毎日飽きもせず、家のうまい牛乳を飲み続け、そのおかげかどうかは分からないが、身長は一時期からぐんぐんとのびた。

 

 じーちゃんも、親父も、気難しいけれど、仕事に誇りを持っていて、そしてこの町の事を愛していた。

 

 三月町の住人は大きな家族だ。

 商売をしている住人も多かったから、子育ては持ちつ持たれつで助け合うことも多かった。

 

 川本とはお互いの祖父同士が仲がよく、その関係で気が付いた時には友達だったと思う。

 所謂、幼馴染というやつだろう。

 

 川本のじいちゃんは、和菓子屋をずっとしていて、最近は洋風のものを扱うこともあり、そんなときにうちの牛乳を仕入れてくれていた。

 じいちゃん同士は腐れ縁だのなんだと、言い合うことは多いけれど、将棋もよくしているし、やっぱり仲が良いのだと思う。

 

 幼稚園、小学校と一緒に上がっていき、他の近所の友人とも一緒に川本とはよく遊んだ。

 

 綺麗な姉ちゃんと優しい母ちゃんがいることは知っていたけれど、そういえば親父さんは殆ど見たことがなかった。

 でも、親の事は遊ぶのに関係が無いし、俺は事が終わるまで全く、川本家に何があったのかは、全く知らなかった。

 

 小学3年生の時だったと思う。

 川本の親父さんは出ていき、川本の家は母子家庭になった。

 

 このご時世だ。片親の家庭は別に珍しいことじゃない。

 けれど、やっぱり噂は流れてしまう。そして、他人の家のことを面白そうに、色々いう人もいた。

 

 三月町の住人は、三日月堂の事を良く知っていたし、川本の家の人たちのことを、誰も悪く言ったりしない。

 

 クラスの誰かが、あの子は父親に捨てられたんだと陰口を叩いていたけれど、そんなんじゃないって事、俺は知ってた。

 だから、何も言い返さない川本に、俺の方がやきもきしてしまった。

 

「言い返したら良いのに、俺が代わりに言ってやろうか?」

 

 なんだが無性に腹がたって、そう川本に言ったけれど、あいつはきょとんとした顔をした。

 

「どうして? 言わせておけば良いんだよ。ちゃんと知っていてほしい人たちは皆分かってくれてるの、私は知ってる。それに、そんな事言う人と関わりたくないから」

 

 あいつは凄く、堂々としていた。

 しっかりしないと、という気持ちがそうさせるのか、川本はすごくシャンとするようになった。

 かっこいいなって思えた。

 

 怖がったりも、下を向いたりもしないで、本当にずっといつも通りだったから、変な噂をする奴もすぐ飽きてやめてしまった。

 

 母親に、川本の事を話すと、凄く大人の対応だと驚いていた。

 言い返したり、反論したりするのにはエネルギーを使う。関わりたくない相手にそれをするとこちらも疲れてしまう。

 かといって言われっぱなしも良くないが、川本の気にしてませんという毅然とした態度は、相手にとってつまらなかったのだろう。

 だから、飽きられるのも、はやかったらしい。

 

 いつの間にか、妙な陰口はすっかりなくなっていた。

 

 

 

 

 

 


 

 それからしばらくして、川本の家に年の離れた妹が生まれた。

 随分前から、お姉ちゃんになれる、とはしゃいでいたのをみてきた。

 どこか、寂しそうだったあいつの雰囲気が、一気に変わったというか、戻ったとな思えて、俺も嬉しかった。

 

 近所に新しい赤ちゃんが生まれると、三月町はお祝いムードで、うちの家からもお祝いを持っていた。

 

「こんばんは! おふくろが持って行けって」

 

「あれ? こんばんは。ひなちゃんのお友達かな?」

 

 出迎えてくれたのは、川本のかーちゃんでも、姉ちゃんでもなくて、優しそうな兄ちゃんだった。

 

「どうぞ、上がって。皆、夕飯の用意をしてるんだ」

 

 ひなちゃん、お客さんだよ、とその人はとても慣れた様子で俺を奥へと通した。

 

「あ、おばさん。これ、うちのおふくろから……」

 

「あら~高橋くん、すっごく背が伸びたわね。牛乳もありがとう。まぁおくるみもこんなに沢山、本当に貰っていいの?」

 

「どうぞ、服とかタオルとかその辺は、甥っ子たちとかが使ったけど、まだ綺麗なやつらしいです。うちにあっても仕方ないので」

 

 子どもが生まれると色々物入りらしい。服とかタオルとか涎掛けとかいくつあっても足りないと言っていた。

 

「高橋くんも良かったらご飯食べていく?」

 

「あ、いえ。今日はうちでもう作ってくれてるので、大丈夫です」

 

「じゃあ、良かったら。これ、僕が持ってきたお土産のお菓子、いくつかご家族にも持って行って」

 

 俺を中に通してくれたお兄さんが、高そうなお菓子の箱を開けてみせてくれた。

 

「え、悪いですよ。川本に持って来たんでしょう?」

 

「いいよ、持って行って! いっぱいあるでしょう。零ちゃんいつも買いすぎるんだよ」

 

 川本が楽しそうに笑いながら、俺に沢山勧めてきた。

 

「え、でもひなちゃんたち結局食べきるよね?」

 

「残ったら勿体ないもん! でも毎回買って来なくても大丈夫なのに」

 

「そう言われても、せっかく地方に行ったら色々買いたいけど、僕一人じゃ食べきれないし……」

 

「桐山くん、いつもそう言うけど、うちに買う予定無かったら殆ど買わないでしょう。この前、藤澤の奥様に聞いたのよ」

 

 あかりさんはそうやんわりと指摘した。

 

「……まぁ、良いじゃないですか。ひなちゃん、こういうの好きだよね?」

 

「そりゃあ、大好きだけど」

 

 勢いよく、川本が答えると、その人は満足そうに頷いた。

 

 零ちゃん……。桐山くん……。もしかして、と思ったけれど、テレビでみる印象とあまりに違っていて分からなかった。

 

「あの、人違いだったらすいません。桐山零七段ですか?」

 

「挨拶もせずにすいません、桐山零です」

 

 その人は、僕の言葉に少しだけ驚いたようだったが、すぐに穏やかにそう返事をした。

 

「あっ! 高橋勇介です。あの、そこの牛乳屋の息子です」

 

「あぁ、それで牛乳。ひょっとして、ひなちゃんの家の牛乳いつもそこで買ってる?」

 

「うん、そうだよ。三日月堂で使ってる牛乳もそう!」

 

「どうりで美味しいと思った」

 

 家の事を褒められて、素直に嬉しかった。

 

「あの、桐山七段がどうして……」

 

「敬称は大丈夫です。段位で呼ばれると仕事を思い出しちゃうので。川本家の人たちには、色々と、お世話になっています」

 

「いや、俺の方こそ楽に話して貰ったら……。すいません、いつもテレビで観てる人だから、なんか舞い上がっちまって」

 

 そう、いつも将棋を指しているところしか観てこなかった。

 だから気づけないくらい、柔らかい雰囲気で、リラックスしていたのに、余計なことを言ってしまったかもしれない。

 

「零ちゃんは、よくご飯を食べに来るんだよ」

 

 俺の緊張をよそに、川本はのんびりとそう続けた。居る事が当たり前になっているそんな感じだった。

 

「三日月堂も随分とお世話になってるけどね」

 

 川本の姉ちゃんはそういって、笑っていた。

 

「あ! 対局にも持ってきてましたね。そうか、それで……」

 

 川本のじいちゃんのお菓子は本当にうまいから、気に入ったのも分かる。川本の姉ちゃんも母ちゃんも店をよく手伝っている。その関係なのだろうと思った。

 

「零ちゃん、高橋くんはね。野球がとっても上手なんだよ」

 

「凄い! 野球してるんだ。確かにスポーツ少年って雰囲気あるね」

 

「いや、そんなまだまだ全然で。……桐山さんは小学生でもうプロになってましたよね? それってどんな気持ちでしたか? 不安は無かったですか?」

 

 野球は好きだ。すごく好きだ。

 でも、これだけで食っていける保証なんて何処にもない。

 夢はプロ野球選手なんて子どもは沢山いる。

 だから、今はみんな笑って、頑張れという。

 

 でも、俺は本気で目指したいと思っていて、だからこそ色々考えてもいた。

 

 家の事だってある。じいちゃんから親父へと引き継がれつつある牛乳屋をみて、次は俺がって気持ちもある。

 

 じいちゃんや親父が、桐山さんの事を話しているのを聞いたとき衝撃だった。

 俺と同じ小学生でプロになった人。

 野球よりずっとプロになる門が狭い将棋という世界で、たった4つ上のその人は、その日からずっと大人と同じように、活躍していた。

 

 桐山さんはじっとだまって、僕の目を見返してきた。

 

「……不安だったよ。でも、変な話将棋しかなかったんだ。そして、ある意味では、それは幸福だった」

 

「幸福……?」

 

 桐山さんの事情は少しは知っているから、将棋しかなかったという言葉の意味は理解できた。

 けれど、それが幸福だったってどういう意味なんだろう。

 

「普通はさ、もっと色々悩むんだと思う。その選択肢の多さも幸せなことなんだろうけれど、僕にはそれが無かった。だから、考えもしなかった。将棋以外の道を行くことを。有無をいわずにただ一つにかける。それって結構難しいけど、逆にそのおかげもあったような気がする」

 

 色々悩む……まさに自分の事だった。

 たった一つにかける。それは凄く怖い事だ。でも、この人はそれをやり遂げて、そして今もそれを続けていた。

 

「凄いっすね。だからMHK杯勝てたんですね。俺、みてました」

 

「あれね! すっごくカッコよかった。零ちゃんまけそうな雰囲気だったけど、スパンッて指してそこから一気にだったよね」

 

 川本が興奮したように相槌を打った。

 

「ひなは、本当にあの対局が好きよね」

 

「ありがとうございます。テレビで全部放映してくれるのは珍しいですから、印象に残ったのかな?」

 

 桐山さんは、照れたように笑っていた。

 

「高橋くんも、将来の事を今からしっかり想像する事は、それだけですごい事だと思う。悩んだ末に選んだ結果っていうのも、僕は大事だと思います。野球のことなんだよね? できる場所が、沢山あってそれだけでも悩むと思う。でもきっと、君の夢のために選んだら、それが一番なんじゃないかな?」

 

 そうだ、野球ができる場所は沢山ある。

 今は、リトルのチームに所属しているけれど、中学になれば部活にはいるか、強いシニアのリーグに入るのか、選択肢が生まれてくる。

 桐山さんほどじゃないけれど、俺もちゃんと考えて選ばないといけない。そして、それを最後に決めるのは、自分じゃないといけないと言われた気がした。

 

「高橋くんの夢はプロ野球選手?」

 

 川本が無邪気に聞いてきた。

 

「……おう! 俺はプロ野球選手になる!」

 

 仲間内のノリじゃない、尊敬する人と幼馴染の前で俺はしっかり宣言した。

 

「私の夢はね。三日月堂をもっともっと素敵な場所にすること! 大好きな場所をもっと大好きにしていくの」

 

「良いね。二人とも素敵な夢だ」

 

 桐山さんは、目を細めて優しくそう言ってくれた。

 

「あの、プライベートなのに、こんなこと頼むのもあれなんですが……、今度じいちゃんに一筆いただけませんか? 貴方の事すごく応援していて」

 

「あぁ、もちろん良いよ。色紙? 扇子? どっちがいいかな。今度、ひなちゃんに渡しておきます」

 

 長居してしまった。帰り際に、だめもとでお願いしたら、桐山さんは気軽に頷いてくれた。

 

 後日、川本を通して、台紙が付いた色紙に美しい揮毫を書いてくれた。

 じいちゃんは家宝にすると大騒ぎして、嬉しそうだった。

 

 俺は、ただの川本の幼馴染だ。

 それっきりになるかと思った桐山さんとの交流は、意外にもその後も川本の家で会うことで続いた。

 

 

 

 

 

 


 

 俺が出会った翌年、中学二年生の時に、桐山さんは獅子王というタイトルを獲った。

 中学生のタイトルホルダーの誕生に、俺のじいちゃんは大いに喜び、その偉業を称えた。

 

 それからも彼の強さは増していった。

 

 中学三年生の初夏に聖竜のタイトルを宗谷名人から奪い、そして秋には獅子王戦の初の防衛。

 これには、親友の二海堂さんとの約束も大きなモチベーションになったらしい。

 二海堂さんが新人王を獲り、桐山さんと記念対局をするという約束。

 二冠になった桐山さんは、その資格を充分に持ち、そして将棋連盟側もずっと宗谷名人だったそのタイトルホルダー側の役割を、今年は桐山さんに任せた。

 そして、二海堂さんも約束を果たし、新人王となる。

 

 記念対局は見事なものだった。

 ライバルという高めあえる関係は、すごいなぁと思った。

 

 

 

 高校には進学せずに将棋に集中するのかと思った桐山さんは、予想に反して、在籍していた私立中学の連携校へと進学した。

 

「進学はしないのかと思っていました」

 

 川本の家でばったり会った時にそう言ってしまった。

 

「まぁ随分悩んだけど……。冬に棋匠もとったし、来年からはA級だから大事な時期なのは分かってるしね」

 

 丁度この前、桐山さんは三冠になった。

 かつては七冠を保持し、将棋界の最強とうたわれた宗谷名人から、タイトルを半分近く奪取している。

 そして、順位戦だ。B級一組も全勝で抜けた桐山さんは、次年度のA級順位戦を戦う。

 そこを勝ち抜けることができれば、名人位にも挑むことができる。

 当然最年少記録だ。日本中が期待していることを、この人が知らないわけはない。

 

 それでも、高校の進学を選んだ。

 

「理由をきいてもいいですか? 将棋に関していうなら時間を取られるし、周りも反対しませんでしたか?」

 

「一部の人には勿体ないとは言われちゃったね。でも会長は許してくれたし、師匠は寧ろ応援してくれた」

 

 桐山さんはそこで一度、言葉を切った。続きを探している感じだった。

 いつもこの人は、その場しのぎの言葉を返さない。

 俺に対して真正面から応えてくれる。それがどんなに嬉しかったか。

 

「……前例を作りたいと思ったんだ」

 

「前例? プロ棋士でありながら高校を卒業するってことですか?」

 

「もちろん高校在籍中にプロになってそのまま卒業する人はこれまでもいたし、通信とかを使って卒業した人もいるにはいる。でも、タイトルを持ちながら卒業した人はいない」

 

 ……それは、そうだろう。そもそも中学で獲ってる人が、目の前のこの人だけだ。

 

「もし、僕がちゃんと両立して卒業できたら、今後もプロ棋士をしながら、または目指しながら、高校も行って卒業する人が増えると思う。それは奨励会員も一緒。多いんだよ、高校受験を期に奨励会を辞めちゃう子もね。そういう子は、結構親に言われる子も多い。事情は様々だけど、本意じゃない子もいたかもしれない」

 

 だから、そんな子が、あの人に出来たんだから自分も頑張れるって言いやすくなったら良いなって。桐山さんは、そう静かに教えてくれた。

 

「……すげぇ。道を切り開くってことですよね!? めっちゃカッコいいっす」

 

「ありがとう。まぁ僕の行ってる駒橋高校は、だいぶ配慮してくれてるから、それを指摘されると辛いんだけどね」

 

「いやでも、スポーツ特待生みたいなもんですよね? 制度としてあるならありですよ」

 

「とりあえずは、頑張ってみるよ。あまりに成績がおちたり、どっちつかずになったりしたら、また考える」

 

 そう言った桐山さんの目には、強い闘志があるように見えた。

 

 

 

 

 

 そして、本当に負けなかった。

 初夏の聖竜の防衛戦、相手はいつもの宗谷名人ではなく土橋九段だった。防衛は成功する。

 その後も、保持していた獅子王と棋匠のタイトルも渡すことはなかった。

 そのうえ、棋匠戦とほぼ同時並行でタイトル戦が行われる王将戦で挑戦者となり、宗谷王将からストレートで奪取する。タイトルの番勝負で宗谷名人が、一勝もできなかったのは実は初めてだったらしい。

 

 これで、4冠。桐山さんは、現状の棋士の中で、最も多くタイトルを持つ棋士になった。

 宗谷名人が台頭しはじめてから、七冠ではないにしろ複数タイトルを彼の人以上に保持した人はいなかった。

 世代交代……という声がはやくも聞こえ始めるほど、この頃の桐山さんの勢いは凄かった。

 

 A級順位戦は3月に勝率がならんだ3人のプレーオフとなり、桐山さんはそれを勝ち抜いた。

 彼は来年度、名人位に挑む。

 高校生でその偉大なタイトルへ挑む権利を勝ち取ったのだ。

 

 

 

 

 

 


 

 彼の活躍をみながら、俺にも大事な転機の時期が訪れていた。

 

 中学は地元の中学に進学したけれど、野球部には入部しなかった。同じリトルの友人たちには随分と誘われたけれど、有名なシニアの監督から声をかけられていた方を優先した。

 強いシニアでいっぱい試合に出る事が出来たら、高校への選択肢も広がると思ったから。

 

 そこで、俺は切磋琢磨しあう多くの仲間たちと出会う。

 桐山さんと二海堂さんみたいな、良いライバルに沢山出会えた。

 

 その先も、俺は野球に集中できる環境を選び続けた。

 自分の夢のために、選択をし続けた。

 

 進学した高校は、毎年甲子園に出場する機会を得て、俺も二年の時から2回レギュラーとして出場することが出来た。

 一位指名……は無理だったけれど、ドラフトに選んでもらえるような選手になれた。

 大学への進学を考えた事もあったけれど、高校卒業後にプロになることを、はやいと微塵も思えなかったのは、桐山さんの影響があったと思う。

 

 

 

 

 俺を獲得した球団は、関東に本拠地をおくセ・リーグの球団だった。

 初年度は、なかなか使って貰えなかったが、代打で成績を残したこともあり、二年目からは準レギュラーのような扱いだった。

 三年目の今は、ショートのレギュラーの座を狙いながら、練習に励んでいる。

 

「高橋~! 今度の始球式、おまえ打席にたってくれ」

 

 広報担当の人にそう声をかけられたとき、自分が? と思ってしまった。プロ三年目といえ、まだそれほど人気があるわけじゃない。

 始球式に立つのは球団の顔のような選手が多いはずだ。

 

 疑問に思ったことが伝わったのだろう、相手の事を教えてくれた。

 

「ほら、このまえ永世獅子王を獲っただろう。プロ棋士の桐山先生。話を受けてくれたんだよ。将棋連盟の会長のプッシュも大きかっただろうけど。打席に立つならお前がいいそうだ。ファンなのかな?」

 

「え! 桐山さんが始球式に出るんですか!? ……大丈夫かな」

 

 受けてくれたのは勿論嬉しかった、そのうえ自分を指名してくれたのも。けれど、運動は苦手だった筈だ。

 川本はあれで、結構ミーハーな所もあるから、旦那が始球式に出たら喜ぶだろうし、それも理由な気がした。桐山さんは、本当に川本には弱いから。

 

「知り合いなのか! じゃあ色々よろしく頼むよ」

 

「はい、勿論です」

 

 久しぶりに連絡をとろう。

 練習がてら、キャッチボールに誘ったら、頷いてくれるだろうか。

 その時は絶対に指に怪我をしないように、細心の注意を払わなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




5巻に収録予定の高橋くんの視点でした。
ひなちゃんと同じ年なので、桐山くんと4歳も離れているのかぁ、子どもの頃の4歳ってすごく遠く感じたなぁと思いながら書きました。

高橋くんは絶対にプロ野球選手になってくれると思うので、夢をかなえてプロ野球選手になってもらいました(笑)

お久しぶりの3月のライオンの投稿になってしまいました。
3月はイベントにも出ますので、3ライいっぱい投稿します。
次は、後輩くん(原作の桐山くんのクラスメイト)視点で高校生の桐山くんの話を投稿予定です。

1巻から3巻の在庫が復活していたり、4巻の通販の予約が始まったりしています。
詳しくは、BOOTH等のショップ等を見てください。


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星を追う人

 

 俺の進学した高校には、有名人がいる。

 

 私立駒橋高校には連携中学があり、半数以上が持ち上がりで進学してくる。

 けれど、その開けた校風から外部からの入学も多く、私立らしくスポーツ推薦なり、学業の特待生制度なり、色々な制度があった。

 

 俺がこの高校を選んだのは、家から近かったからだ。

 そして、公立高校に落ちたからでもある。滑り止めに選ぶにはいささか贅沢な高校だったが、何より近さが魅力的で、そして親も結局許してくれた。

 

 探せば実は丸々で凄い人が、沢山いる我が高校には、日本中が知っている有名人がいた。

 プロ棋士の桐山獅子王。

 

 最初は、え?って思ったけれど、入学式で既に噂になっていた。一個上にテレビでよく見る人がいるって。

 プロ棋士?って何?将棋のプロ?へぇ~くらいの認識の俺でも知っているのには理由がある。

 スポンサーの関係なのか、最近よくCMで観るのだ。

 特に、獅子王というタイトルを数年前にとってから、その頻度は上がり、将棋の人といえば俺ら若者にとったらこの人だった。

 

 

 

 昨年この人は本当に凄かった。

 将棋のタイトル戦? という大事な対局で勝ち続け、負けなかった。

 ちょうどこの前4冠になったらしい。

 10年以上もずっと、将棋界の最強といえば一人の名前があがっていた。なんか白っぽい人だった気がする。

 でも、最近は二人の名前があがる。もしかしたら、桐山先輩の方をあげる人がいるかもしれない。

 

 若いことは知っていた、でも同じ高校にいるってなんだか変な感じだった。

 

 外部受験組は人数が少ないから、必然的に持ち上がり組とは絡みにくい。

 だから、俺は同じような境遇で駒橋に進学してきた、山本って奴と仲良くなった。

 眼鏡かけて真面目そうなのに、実はあんまり勉強は得意じゃない。

 

 駒橋は一応、部活に入らないといけない。特別な理由……、例えば外のクラブで頑張っているとか、将棋の仕事があるとかなら免除されるだろう。

 一般学生の俺は、なにかしら部活にはいる必要があった。

 

 山本と、どーしようかと、とりあえず気軽に見学をしていった。

 運動部はないな。

 強豪の部活もあるし、どこも雰囲気がガチぽかった。

 

 じゃあ、文化部にしようって話になって、目に留まった部活があった。

 放課後将棋科学部。

 名前からして、人気が少ない部活が合わさって、人数を増やしたのかと思うが、ここはそうじゃなかった。なんてたって、桐山先輩が所属している部活だ。

 将棋に少し興味があるやつならこぞって入部するだろう。

 

 俺も最初は有名人みたさに見学にいった。

 で、そこにいたのが野口先輩だった。

 何? あの人、キャラ濃すぎでしょ。

 将棋科学部は、先輩たちが高校に進学してきた時に作ったらしい。

 普通はなかなか作れない新設の部活があっさり作れたのは、桐山先輩が校長たちに将棋を教えているかららしい。……おかしくね?

 

 なんか色々面白そうだったのと、実験もお堅くなさそうだったので、俺と山本は入部を決めた。

 休む時に連絡が要らないっていう緩さも良かった。たぶん桐山先輩のことを考慮しての事だと思う。

 

 くだんの先輩には入部して一か月がたとうとしても、会えなかった。

 

 初めて顔を合わせたのは、GWの前の時。

 山本と休み前の最後の実験だ、と少し早めに科学室に向かったら、先輩が一人中にいた。

 

 電気もつけずに、窓辺でなにか紙を読みながら、静かに座っていた。

 その日はとても天気がよくて、開かれたカーテンからの日差しで、随分と部屋は明るかった。

 蒸し暑い夏が近づいてきていたが、まだ気温が高くなくて、吹き込む風は涼しい。

 

 話しかけられなかった。

 山本と一緒にぼーっとその様子に見入ってしまった。

 

 入り口が開いたのに気づいたのだろう、こっちをみた先輩が驚いたように目を丸くした。

 

「小池くんと山本くん?」

 

 は? なんで知ってんの?

 

「はい! 新入生の山本です。あの、先輩に会うの初めてですよね」

 

 山本が驚いたようにそう聞き返した。

 

「あ~、学校には来てたから、顧問に新入部員の顔と名前を軽く教えてもらってたんだ」

 

 先輩は少し、考えた後にそう返事をした。

 ちょっとみただけで覚えられるもんなのか。

 

「小池です。いつ会えるのかなぁってちょっと楽しみにしてました」

 

「どうぞ、よろしく。ごめんね、あんまり顔を出せてなくて。野口先輩から、GW前の最後だって聞いてたから、今日くらいはって思って」

 

「部長のこと、野口先輩って呼んでるんですか?」

 

 桐山先輩と部長は同級生のはずだ。

 

「あーなんとなくね。あだ名みたいなものなんだ。他の2年もみんな呼んでるでしょ? 出会ったころから貫禄あったんだよね」

 

 思い出しているのか、そう柔らかく笑った先輩は、普通の高校生にみえた。

 

「おーす、桐山。お前ホームルームにも来なかっただろ」

 

「林田先生、お疲れ様です。本当についさっき学校に着いたんです」

 

「さっきまで対局してたもんな。随分とはやく畳んだなぁ」

 

「ちゃんと感想戦もしてきましたよ? でもなんか相手が萎縮しちゃって」

 

「棋士番号が桐山より若いなら、そりゃあ怖いさ。4冠の獅子王の相手なんて」

 

 年も近いし、もっと気楽にしてほしいんですけどね……と桐山先輩が呟いていた。

 

 顧問の林田先生と桐山先輩は仲が良いとは聞いていた。

 実際林田先生が将棋が好きなのは、入部してしばらくしたらすぐに分かった。

 プロ棋士が部員にいるなんて、嬉しいだろう。

 

 それから、すぐに部長や、他の先輩たちもやってきて、部活がはじまる。

 てっきり将棋をするのかと思ったら、予定通りの実験だった。

 将棋の日はあらかじめ決まっているらしい。

 校長たちへの配慮がいるからなぁと林田先生が言っていて俺らは、首をかしげてしまった。

 

 後からわかるが、将棋の日は、校長、教頭、学年主任を含め、将棋が大好きな教員が集合して、部活の空間がだいぶカオスなことになる。

 なんだか、それはそれでおかしくて、俺はこっそり笑ってしまった。普段、関われない先生たちの姿をみられるから、俺は将棋の日も結構好きになった。

 

 

 

 桐山先輩は本当に忙しそうで、部活に顔を出すのは月に数回だった。

 でも、俺らのことも気にかけてくれて、たまに参加するその日もずっと居たみたいにスルッと中心にいた。

 

 成績が良いらしくて、試験の前の詰め込みの時に、昨年のまとめノートのコピーを貸してくれた。

 これがまた読みやすいし、分かりやすい。そしてヤマも結構当たる!

 桐山ノートと言われて、おれたち1年部員の間で崇められた。

 このノートに俺は今後三年間随分とお世話になる。いや、本当に感謝しています。

 

 

 

 


 

 成績優秀、仕事も順調そう、何も困ってなさそうな先輩の苦労を目の当たりにしたのは、名人戦というタイトル戦が終わった時だった。

 

 大事な対局だったらしい。

 ファンも待ちにまっていて、そして桐山先輩自身も獲りたかったであろうタイトル。

 昨年度の成績が良くて、先輩は今年の名人位に挑む権利があったらしい。

 

 そこまで興味がなかった俺が、中間考査でひぃひぃ言ってる間に、それは終わっていた。

 実は出会ったころの4月からこの長い対局がはじまっていたらしいが、それすら知らなかった。

 

 先輩は2勝4敗で宗谷名人に敗れた。

 

 その最終結果は、凄くテレビで取り上げられて朝のニュースにすらなった。

 だから、俺は桐山先輩の負けが確定した翌日にそれを知った。

 母親が、あらぁ残念だったわねぇと呑気にコメントしているのを横で聞きながら、先輩も負ける事があるんだなぁ、なんてこれまた呑気にそう思った。

 

 

 

 でも、世間はそれで許してくれなかった。

 

 

 

 桐山先輩が桐山獅子王になってもう3年が経つ。それ以降、タイトルに挑戦し、取れなかったことは無かったらしい。

 そして去年の華々しい成績。

 期待されていた。名人位を最強の棋士から奪取し、新しい時代、此処に来たれりと示すことを。

 

 そして、同時に宗谷名人の人気も伺えた。

 林田先生が言っていたが、古参のファンからしたら長年名人位を持ち続けている宗谷名人こそが、未だに将棋界最強らしい。

 昨年はすこし調子が悪かっただけで、これが本当の実力だと声高に言う人も沢山いた。

 

 桐山先輩が負けたことだけが、ただただピックアップされて、彼のそれまでの頑張りなんて無かったように扱われている気がして、モヤモヤした。

 今回だめだっただけで、まだ獅子王なのに、まだ4冠なのに、その全てが無くなったみたいだった。

 

 恐ろしい世界だと思ったし、勝手に盛り上がって盛り下がってる、周りが怖いとすら思った。

 

 

 

 定期考査の事で恩も感じていたし、なんとなく元気が無かったらどうしようとか思いながら行った先の部活で、先輩は普通に笑っていた。

 

「あぁ小池くん久しぶり。新しい香料に挑戦したんだって? 今、野口先輩に見せてもらってた」

 

 何も変わらなかった。

 先々週に会った時と全く一緒の雰囲気で部活をしていた。

 

「おつかれ、さまです。あの、先輩……対局、残念でしたね」

 

 思わず言っちゃった。けど、これ触れない方がよかった!? とか思っても後の祭り。

 

「あぁ名人戦ね。流石に宗谷さんは強かった。簡単には渡してくれないよ、大事なタイトルだからね」

 

 一度、少し目線を伏せて、先輩はそう言った。

 

「でもね、また次があるから。A級順位戦は大変だけど、また勝ち抜いて挑戦する」

 

 続いた言葉は力強くて、真っすぐに見返してきた目が輝いていた。

 

 えっ、つよ。この人、めちゃくちゃ強い人じゃん!

 普段の部活の時の先輩と、印象が違いすぎて驚いてしまった。

 

 そうだ、だって小学生からプロなんだ。

 負けなかったわけがない。

 周りに何か言われなかったわけがない。

 それでも、ずっと、ずっと戦ってきたんだ。

 もうそれが6年目になる。

 

 6年……俺の人生の三分の一よりも長い時間。なんだか俺がぼーっと生きて来たその時間で、この人はどれだけの事をしてきたのだろう。

 

 素直にかっこいいなぁと思った。

 真似できないし、真似しようとも思えない。

 けれど、そう。憧れのスポーツ選手や芸能人をみる感覚に似ているかもしれない。

 この日から俺はもうちょっとだけ、将棋についてちゃんと知って、先輩を応援したいと思った。

 

 

 

 将棋科学部というくらいだから、将棋をすることも勿論あって、俺も次第にルールを覚え始めていた。

 それとは別に、プロ棋士の世界についても野口先輩や林田先生は熱心に教えてくれた。

 タイトル戦の数、種類、歴史の長さ、聞けば聞くほど、気が遠くなった。

 特にこの前、先輩が負けた名人戦。なんて気の長い予選だろうか。

 何年もかけてA級という所に上がってこなければいけない。

 そして、一年かけて戦い抜いて、一番の成績でないと名人には挑めない。

 

 今年、名人の奪取に失敗した先輩は、またA級順位戦に挑んでいるらしい。

 

 それだけじゃない、別のタイトルの防衛戦もある。

 対局のスケジュールをみたら、この人いつ高校の勉強をしたり、遊んだりしてるんだろうって思った。

 俺たちが普通に過ごしてる時間のほとんどを将棋に捧げている。

 

 勝手だけど、負けて欲しくないなって思った。

 だって、負けたらまた色々言われるんだろう。

 こんなに頑張ってるのにさ。

 

 先輩は有名税ってやつだからって、気にもしてなかったけど。

 

 そんな俺の想いなんていざ知らず、先輩はちゃんと勝った。

 調子を崩すのでは、なんて噂されてたけど、負けなかった。

 

 夏に聖竜の防衛を、秋に獅子王の防衛を、冬に棋匠と王将の防衛をした。

 そう、四冠を維持してみせた。

 俺と同じように高校に通いながら、時には部活に顔を出しながら。

 

 そして、A級順位戦。

 昨年はプレーオフになったというこの順位戦。

 桐山先輩は全勝した。

 文句なしで、来年度再び、宗谷名人に挑む。

 

 その強さに、再び名人に挑むのは自分だ、誰にも渡さないって言ってるみたいだって林田先生が笑っていた。

 

 

 

 

 

 


 

 一年、たった一年みてきただけだった。

 でも、先輩がどんなに頑張っていたかを知っていたから。

 次の年度の名人戦は、俺までずっとハラハラしていた。

 

 4月から開始するその対局は相変わらず大注目された。

 

 桐山先輩が2勝で宗谷名人が3勝になったときに、去年の再来かと、第六戦目はみれたもんじゃなかった。

 二日目に、興味がある将棋科学部員で集まって、どうなってる? どうなってるの? ってずっと野口先輩や林田先生の周りをぐるぐるしていた。

 

 先輩は劣勢だったらしいが、最後まで諦めず、そして勝ち、3-3のイーブンまで戻した。

 

 

 

 そして再びあの6月。

 最終戦。名人戦第七局。

 TV中継はなかったけれど、みんなでネットの中継をみた。

 二日目は校長の許可を得て、学校に集まった。なんなら先生たちも一緒にずっと見守っていた。

 

 中継で宗谷名人が負けましたと頭を下げて、先輩がありがとうございましたと返した時、俺は泣いてしまった。

 勝った、先輩が勝ったよって、山本や観ていたみんなと大騒ぎしてしまった。

 

 一年前の6月に、先輩が名人位を取れなかったときは、気がついたら終わっていた。

 将棋のことも、タイトル戦の事も何も知らなくて、あぁ負けることもあるんだなって、それだけ。

 

 それから、一年。

 ただひたすらに、その輝かしい頂きを目指して、一つ、一つ、勝ち星を集めて、努力している先輩の姿をみてきた。

 俺がみていた部分なんて、小さな欠片くらいだっただろう。

 

 何もしてない、ただみていただけだけれど、なんだか報われた気分だった。

 勿論、頑張ったのは先輩で、報われたのは先輩の努力だ。

 でも、これが自分の事のように嬉しいって事なのかもしれない。

 

「そうかぁ、桐山これで、名人で獅子王なんだな。……感慨深いよ。なんか本当に一気に遠い人間になっちまった気分」

 

 林田先生が男泣きしながらそう言った。

 

「免状を……是が非でも、秋の獅子王戦が終わるまでに貰わねば」

 

「校長っ!アマ三段の免状をとられるのですか!?」

 

「もう少しですからな、規定に達し次第、申請を出さねば」

 

 稲葉校長と、玄田教頭が興奮気味にそんな話をしだした。

 

「免状? 将棋に免許があるんですか?」

 

「免許っていうか、アマ用の段位とかを証明する免状を将棋連盟が発行してるんだよ。……有料で結構いい値段するけど、署名してくれるのが、時の連盟の会長と名人と獅子王でさぁ」

 

 林田先生が説明してくれた。

 

「つまり、秋に桐山くんが獅子王戦を終えるまで、その免状には桐山名人と桐山獅子王と書いてくれるわけですな」

 

 野口先輩がそれに相槌をうつ。

 

「え、めっちゃ良いじゃないですか。俺も欲しい」

 

「そうだよなぁ。俺も欲しいよ。桐山がこの二つのタイトルを同時に持つことは早々ないだろうし。でも、直筆は段位からだから、小池にはちょっと難しいかもな」

 

 段位……将棋のルールをやっと覚えた程度の俺では確かに難しいだろう。

 

 

 

 

 

 それからしばらくして、将科部に桐山先輩が顔を出せる日に、俺たちは小さな祝勝会を開いた。

 

 桐山先輩はよく笑っていて、校長たちの熱烈なお祝いの言葉にも上手に返事をしていた。

 

 あの後家に帰ってから、アマの段位免状の高さに目をむいて、とても学生には払えませんって言ったら、先輩は少し考えた後にこう言った。

 

「何年経っても、大丈夫だよ」

 

「え? どういうことですか?」

 

「皆が大人になって、まだ将棋がちょっと好きで、それで免状を申請しても良いかなって思えるくらい稼ぎもある頃。その時も、僕はきっとタイトルを持ってる」

 

 桐山先輩の言葉に気負いは全くなかった。

 

「ずっとは持っとくのは無理だと思うけど、何度だってまた取るよ、名人も獅子王もね」

 

 だから、焦らなくて大丈夫なんて笑っているのだ。

 

 はぁ~~~かっけぇな。そんな事言っちゃうんだ。

 

「先輩、約束ですよ! 俺、覚え悪いからきっと何年もかかっちゃうんで」

 

「それは……楽しみだな」

 

 何が楽しみなのか、分からなくて首をかしげる俺に続けるのだ。

 

「何年後も、将棋で繋がってられるって事だから」

 

「~~~っ! 絶対、初段をとってみせますから!」

 

 一体、何年先になるのだろう。

 先輩に会うまでは、将棋の駒の種類だって知らなかった。

 

 でも、その何年後、何十年後に、もし本当に俺が免状の申請を出したとして、名前を書いてくれるこの人が、一瞬でもあぁこの名前、知ってるなって思い出してくれたら、それって凄く良いなって思える。

 高校時代にこんな名前の後輩がいたなって、ちょっとでも、気づいてくれたら良い。

 

 だから、俺はこの先も、のんびり将棋を楽しむし、先輩の勝ち星の動向をずっと追いかけようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




原作で桐山くんのクラスメイトだった小池くんの視点です。
文化祭の頃から仲良くなって、ほんとうに微笑ましかった。
逆行軸では後輩になっちゃうのですが、これはこれで良いかなと。


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かつての家族で、親友で

 

 青木継(あおきけい)、僕の名前。

 職業は作家。

 幼い頃は自分が、夢を叶えて作家になるなんて、考えもしなかった。

 

 残念ながら、恵まれた家庭に生まれたと言えない僕は、誕生日すら曖昧で、気が付けば施設で生活していた。

 幼少期の楽しかった事を思い出せと言われると、とても難しい。逆に、記憶から消した思い出の方が沢山ある。

 

 けれど、幸運な事に僕は出会った。

 間違いなく、人生を変えるほどの出会いだった。

 桐山零。かつての僕の大切な家族で、今は親友だ。

 

 いつも俯いて、すぐに泣いていた僕に、顔をあげる事の大切さを教えてくれた人。

 環境を言い訳にせず、ひたむきに努力する事の意味をみせてくれた人。

 何かを好きになれば、どんなに辛くても、少しだけ息がしやすくなるのだと、笑ってくれた人。

 

 彼は凄い人だった。

 天涯孤独の身となって、僕と同じように、施設にやってきた。

 人見知りな僕は、はじめて声をかけてくれた時、ペコリとお辞儀を返すことしかできなかった。

 せっかく一人部屋だったのに、また二人になるのかと、複雑な気分だった。なんなら、だいぶ失礼な態度だったと思う。

 

 本当に気が弱かったから、誰かと同じ部屋だったら絶対に僕が譲ることになるのだ。この前まで一緒にいた年上の子はあまり無茶を言わない人だった。というか僕に興味が無かった。

 大きくなった今なら、分かる。

 たぶん施設側が気を使ってそういう人を、相部屋にしていてくれていた。

 

 だから、同い年の男の子と一緒なんてどうなるだろうって、本当にドキドキしていた。

 

 桐山くんは、「ベッドの上と下、どっちを使ってるの?」って聞いてくれた。

 僕は小さく「上……」って一言だけ答えた。

 二段ベッドは上が好きな子が多い、譲ってって言われるかなって思った。

 でも、彼は、「じゃあ下を使わせてもらうね」ってあっさりそれだけ。

 

 会話はいつも彼からだった、最初は施設の細かいルールをたずねてくれた。

 今更だけど、あれはわざとだったんだろうなぁ。職員が説明しないわけないし、桐山くんが聞いてなかったわけがない。

 

 ただ、決まっている答えがあるから、僕は返事がしやすくて、そして、新しい子に教えてあげる事があるということは、僕へ彼への警戒心を解きやすくした。

 

 静かで落ち着いていた彼は、僕と波長があった。

 合わせてくれてたんじゃないなら良いなぁって思うけど、たぶん本当に合ってたんだと思う。

 同じ小学校へ通うようになって、学校なんて嫌いだった僕に、そこでも居場所をくれた。

 

 桐山くんがいなかったら僕はもっと虐められていたし、そして、たぶんそれに抵抗するすべをもたなかった。

 先生にだって言えなかっただろう。誰も助けてなんてくれなかっただろう。いや、ひょっとしたら気づかれてすらいなかったと思う。

 それくらい、僕という存在は薄く、軽いものだった。

 何をしたって、誰も文句なんて言わない。守ってくれる人なんていない。

 唯一無二の守護者である筈の親がいないとはそういうことだった。

 

 だからね、怒ってくれて、嬉しかったよ、本当に。

 

 いや、叱っていたの方が正しいかな。声を荒らげることもなく、ただいたずらっ子を諭した。

 たぶん、向こうも本気じゃなかったんだ。子どもって結構残酷だから、悪ノリで越えちゃいけない一線も越えてしまう。

 教師では、意固地になってしまう。教師や施設の人の前では、起こらない諍いも沢山ある。

 それを諫めるのが本当に上手だった。

 

 品行方正で優等生の彼は、教師への印象も大変よく、そして彼の横にいる僕への印象も良くなった。

 彼が教えてくれるから、勉強も出来る方に分類されるようになった。

 そもそも、出来ません、分かりませんと大人に聞けるようなタイプじゃなかったから、同い年の彼が教えてくれて本当に助かった。

 

 桐山くんは空気の舵取りが上手な人だった。

 だから、施設でも学校でも、なんだか過ごしやすくなって、僕は生きるってこんなに穏やかなものだっただろうかと思った。

 

 随分と経ってから、君は僕に、人生が二回目なんだって教えてくれたよね。

 あれ実は今でも、結構本気で信じている。だって君は、あまりに大人すぎた。カッコよすぎたんだよ。

 大袈裟じゃなくて、僕の人生を救ってくれた。

 

 桐山くんには、将棋という生き甲斐があった。

 そして、それは思ったよりずっとはやく彼を施設から卒業させてしまった。

 

 僕に一番に教えてくれたよね。聞いた瞬間、僕が何を言ってしまいそうになったか、分かる?

「置いていかないで」って叫びそうだった。

 でも、次の瞬間に全部飲み込んだ。

 優しい君は、僕が泣いたら、此処にいてくれるかもしれない。

 もっと先延ばしにしようとしてしまうかもしれない。

 それだけは絶対にしたくなかった。

 お師匠さんの所なら、桐山くんは図書館にいかなくても、将棋が出来るだろう。

 ちびっこたちの相手をせがまれる事も、僕らに勉強を教える手間もなく、全部将棋に捧げるだろう。

 あの公園で、もう家族には会えないからって困ったように笑っていた彼の事を、僕はずっと誰かに守ってほしかった。

 ずっと、僕を、僕らを守ってくれていたのは、桐山くんだったから。

 

 弱虫な僕は、泣かないって決めたのに、君が施設を旅立つ日に泣いてしまった。

 大丈夫、置いて行かれるのには慣れてるじゃんって言い聞かせてたのに、あぁまた僕は残るんだって、そう思ってしまって。

 

 ねぇ、だから、「また此処に、遊びにくる」と君が約束してくれて、たとえそれがその時だけだったとしても、救いだったんだよ。

 そして、君がくれた詰め将棋の本は、僕の宝物になった。

 

 

 でも、僕のヒーローは約束を破らない人で、本当に頻繁に遊びに来てくれた。

 対局の日は、流石に来ないけれど、短い記録係の仕事の時などは、帰りついでに施設に顔を出すことも多かった。

 そして、いつも桐山くんはお土産を持ってきた。

 気をつかわなくていいのに、とどんなに職員の人に言われても持ってきた。

 お菓子だったり、ちょっとした軽食だったり、食べ物が多かった。

 お腹がいっぱいになるって幸せなことだ。

 施設のご飯は精一杯頑張ってくれていたけれど、おやつって子どもにとったら特別だ。

 桐山くんが持ってくるおやつは、スーパーの特売で買えるものでは当然なかった。

 箱すらキラキラしていて、高そうってああいうのの事をいうのだろうと、幼心に思ったものだ。

 なんというか、そういう商品があることを知るきっかけになった。もちろんチロルチョコもすきだし、ポッキーも美味しい。

 でも、そうじゃない特別な日に贈ったり貰ったりする、お菓子があることを、僕たちは彼のお土産で知っていった。

 

 まだ、奨励会員だったころは、貰い物だからと持ってくることが多かった。

 でも、プロ棋士になってからは、自分で買ってきてくれるようになった。

 三日月堂のお菓子が多くて、桐山くんだけじゃなくて僕たちも好きになった。

 地方にイベントに出かけたら、その地域のものを買ってきてくれた。

 

 施設にいる僕らは、学校の旅行で初めて他県へ出かけることが多い。

 学校と施設という小さい世界しか知らないし、そこで生きることが精一杯のぼくらは、その時になって世界の広さに、驚く。

 感動する子もいるけれど、だいたいはその途方のなさに怖じ気づくらしい。

 

 桐山くんが外から持ってくる様々なものは、僕たちにゆっくりと、確実に外の世界を教えていった。

 なんで、施設にインターネットの設備が整ったのか。どうして、パソコンが増えたのか。

 各部屋につく卓上ライトだったり、エアコンだったり、少しずつ整っていく環境。

 その資源がどこから来ていたのか、当時の僕たちは知らなかった。

 彼は知らなくて良いと思っていたのだろうし、たぶんそのまま知らない子の方が多いと思う。

 

 

 小学校を卒業してからは、桐山くんと会う機会は減った。

 でも、節目に施設に遊びにきてくれるし、メールでのやりとりもずっと続いていた。

 それに、将棋の成績をずっと追いかけていたから、疎遠になったとは思わなかった。

 

 詰め将棋の本の内容を覚えて、将棋のルールも覚えて僕はちゃんと将棋を指せるようになった。

 施設の子たちの間でも少し流行って、半分くらいの子が指せるから対局の相手には困らなかった。

 でも、大会に出たいとか思うほど、がつがつはしてなかったから、同好者の間でゆっくり指すくらいがちょうど良かった。

 

 そうするうちに桐山くんはプロ棋士の中でも、すごく強い人と言われるようになった。

 テレビのニュースにだって出ることが増えた。

 僕たちはそれが誇らしく、そして、そんな君の活躍をみることが好きだった。

 

 初めてのタイトル戦の後。すごく大変だっただろうに、ほとんど間をあけずにまた、うちに顔を出してくれた。

 

 桐山くんを誘って、いつもの公園にいった。

 この公園で、幾度となく交わした彼との会話を僕は、これから先もずっと大事にしていくと思う

 

「あれ? 青木くん、背が伸びたね」

 

 ふと、目線があった桐山くんが、驚いたようにそう言うんだ。

 

「あ! 本当だね。桐山くんを追い抜いた。皆、成長期だし、今だけかもしれないけど」

 

 発育が悪く、細く小さかった僕が、桐山くんの目線よりも高くなった。

 

「桐山くんの影響で、支援者増えてるって、園長先生が言ってたよ。君は園を離れた後も、ずっと僕らを助けてくれてるね」

 

 この頃の僕は、まだ君が、どれほどのことをしてくれていたのか、本当の意味では知らなかった。ただ、園長先生からよく感謝するようにと度々言われるから、きっと沢山なんだろうなぁと漠然と考えていた。

 

「皆の応援も、僕を助けてくれてるよ。本当は、勝ってタイトルを獲るところを見せたかったけどね。がっかりして無かった?」

 

「うーん、少なくとも僕らはそんな事なかったよ。だって、最高にカッコよかった。色々言われてたのも、もちろん知ってる。でも君、ただの一度も諦めてなかったし、勝ちを捨てなかった」

 

 ネット中継だけでは読み取れない、苦労の一端を僕たちはみてきた。一部分でしか放映されないニュースでは分からない、君の努力を知っている。

 

「でも、桐山くんどんどん有名になって注目されてるからさ。結果だけみて、がっかりする人もきっといるんだろうね」

 

「それも、含めてプロの仕事だからね」

 

 割り切っている君は大人だ。だからこそ、僕は釈然としなかった。

 

「でも、勝敗は君だけのものだ。戦ってるのは君なんだから。ごめんね、僕らは勝手に君に夢を見て、君が活躍するのを喜んでる。この期待が君の重荷になってて欲しくない」

 

 身近な君の活躍に自分がみられない夢を重ねる子は多い。でも、それってすごく重たくはないだろうか。

 

「自由に将棋を指しててほしい。せっかく君が大きく羽ばたいてるのに、心無い声が、それを阻んで欲しくない」

 

 いい声だけ聞けたら良いのに、届けたい声だけが届けば良いのに、そんなことは到底むりで、時に百の称賛よりも、たった一つの批判に人は傷つくこともある。

 

「ありがとう。人気商売な所もあるから、色んな声があるのは、仕方ないんだ。大丈夫だよ、僕は自分が持てるモノだけ、大事に抱えて生きていくから」

 

 自分が持てるモノを大切に……。

 

「君たちの声援は、追い風だったよ、そんな声があるから、何があっても、また飛べる時があるんだ」

 

「僕たちは、声は負担じゃない?」

 

「もちろん。僕が勝っても負けても、全部、観ててくれるんだよね?」

 

「うん。そんな君の生き方に、憧れたから」

 

 負けたっていいんだ。むしろそこから前を向ける君にこそ、僕は憧れを抱いた。

 

「桐山くんに、一つだけ聞いて欲しいことがあったんだ。忙しそうだったから、いつでも良かったんだけど」

 

「どうしたの?」

 

「僕ね、母の手のぬくもりは忘れないけど、もう、待つのは辞めたよ」

 

 いつか母親というその人が現れてくれやしないかと、淡い期待を抱いたことを、僕は桐山くんにだけは打ち明けていた。

 

「信じたかったけど、誰かに縋ってるだけだと、足元が覚束なくなる。あのままじゃ、駄目だってずっと分かってた」

 

 待っているだけじゃ、何にもなれない。そんな生き方はたぶんつまらない。

 

「僕にも夢ができたからさ、それに向かって、まっすぐ突き進んでいく。何度でも諦めないで、戦ってる君をみて勇気をもらったから」

 

 何も持っていなくても、全部なくなっても、身一つで未来を切り開いた後ろ姿をみてきたから。

 

「青木くんが高く飛べるように、僕もずっと応援してるよ」

 

 穏やかにそう言う君の目はいつも優しい。

 どうして、そんな眩しいものをみるみたいな目で、僕をみてくれるんだろう。君は、僕らをいつも、尊いものをみるように、優しく慈しむように見守ってくれている。

 大切に思われることが少なかった僕らにだって、大事にされる価値がある、とそう思わせてくれた。

 

 桐山くんは一度だって、僕の夢を否定しない、僕らの未来を信じてくれていた。

 そんな君に、誇れるような事をいつかきっと成し遂げたいと思っている。

 

 

 

 

 

 


 

 

 僕は、地元の公立高校に進学した。

 

 桐山くんから高校に進学するつもりだって相談を受けたとき、駒橋高校のことを考えなかったと言ったら嘘になる。

 奨学金を借りたら行けただろう。でも、僕がそこに進学する理由はただ、彼と一緒に高校生活をしたいってそれだけで、夢や目標に関係あるかと言われるとそうじゃなかった。

 だからそれは止めにした。

 

 駒橋高校は通常クラスもレベルが高い。勉強には一応ついていけるだろうけど、それよりも僕は、何か書きたかった。

 今はWEB小説をあげるサイトはたくさんあった。

 自分のパソコンはないけれど、施設のパソコンは増えていて、時間は決められていたけれど、考えていた文章を打ち込むのには充分だった。

 

 書いた小説に誰かがコメントをくれるのは嬉しかった。好きなもので、見知らぬ誰かと繋がれた瞬間だった。

 

 小説を書く傍ら、僕は小さなブログサイトで、桐山くんの将棋の感想のようなものを書くようになった。

 これは、施設のちびっ子たちに、この前の対局がいかに凄かったかを、簡単に伝えるために、毎回将棋の内容について、抽象的にまとめていたことがはじまりだった。

 

 そのサイトは、割と読みやすいと評判で、最初は1桁だった閲覧者数が、年を経るごとにじわじわと増えていった。

 桐山零獅子王のファンだと公言して書いているから、少し彼びいきで記事を書いても、何も言われなかった。

 対局の相手についても桐山くんから聞いていた事もあって、僕は桐山零に関係するプロ棋士の関係性にも無駄に詳しかった。

 私的な観戦記ではあったものの、何年も続けるうちに、一定の読者がつくようになる。

 

 大きな図書館に興味があって、都立大学に進学してからも、その趣味は続いた。

 大学に進学する時には、さすがに施設を出なければならない。

 けれど、以前より施設と連携している支援制度が充実していて、孤児の僕たちでも一人暮らしが出来る程度には、お金を貸してくれた。

 しかも全額返還では無いらしい。今後続く、後輩たちのためにも、返還は頑張りたいと思う。

 

 大学は楽しかった。

 本を読むのが好きで、文字を書くのが好きな僕は、たくさん出されるレポートの課題も苦にはならなかった。

 人数が多い大学だったから、将棋のサークルとかもあって、そこで将棋が好きな友だちもたくさん出来た。

 

 そして、ありがたいことに、在学中にWEBで書いていた小説が出版社の目にとまり、僕は小説家としてデビューすることになる。

 ジャンルは、ずっと大好きな冒険小説だった。

 

 桐山くんに報告したら、想像よりずっと喜んでくれた。絶対読むからって、感想もおくるって宣言してくれて、そして本当に長い感想をくれた。

 青木先生のサインがほしいなんて言われて、僕はようやく、僕らにそれをねだられた時の彼の気持ちが分かった。嬉しいけれど、なんだか照れてしまう。

 

 執筆に集中しすぎて、単位が危うくなった僕を救ってくれたのは、将棋サークルの仲間たちだった。

 友人の協力を得てなんとか、留年せずに卒業をする。

 そして、ありがたい事に一作書き終えたあとも、小説の仕事はちゃんと貰えていた。

 

 

 

 

 

 


 

 プロ棋士桐山零についての本を出したい。そのライターを頼めないか? という依頼が来たのは、僕がお世話になった大きな出版社からだった。

 僕と桐山くんが25歳になる時のことだ。

 ちょうどこのとき、桐山くんは七冠を狙えそうでそれを、宗谷名人他、A級棋士たちに阻まれていた時期だった。

 あわよくば、七冠達成時に、もし無理でも充分売れるとの見込みで企画だろう。

 

 彼は賢い人だから、自叙伝くらい書いてみせそうだ。本人に依頼しないのかときくと、将棋に関する本でないなら難しいと断られたらしい。

 では、筆者は別で、監修だけしてくれないか? と食い下がると、あまり時間はさけないけれどと言いつつ、断られはしなかったらしい。

 そして、ふと僕のブログのことを言ったそうだ。

 編集者の人は、それを気に入ってくれたらしかった。

 

 全部読んだと言われた。中学の頃から10年にわたり僕が書き続けてきたその記録を。

 そして、これだけ長く、桐山先生の側で、彼と彼の将棋を観てきた人に是非お願いしたいと言われた。

 

 一度は断った。大事な友人との事だ。ちゃんと本人と相談したかった。

 

「え? あの話、本当に青木くんの所にいったの?」

 

「そうなんだ。桐山くんノリ気じゃなかったんだよね?」

 

「嫌だったって言うよりは、時間を取られたく無かったんだよね。でも、そうか。青木くんなら、話もはやいし、将棋の事も分かるし、良いかもしれない」

 

 この先も、そういう話はくるかもしれないけど、一冊出していれば断りやすいし、と頷く。

 

「青木くんの今の仕事の邪魔にならないなら、お願いしたいかも」

 

 君が書くことだったら信頼できる、なんて言われたら、もう断れない。

 ちょうど、一本小説をあげたところで、次の案件は構想中だった事もあり、僕はこの話を受けることになった。

 

 彼が寄せてくれた信頼には絶対に応えたい。

 その上で、もっと世の中に桐山零を知ってほしいとも思った。

 

 

 

 彼の生い立ちの事も書いていいかは、よくよく本人に相談した。

 桐山くんは、誰かの希望になるなら嬉しいからと、施設での生活について書くことも止めはしなかった。

 僕は、自分の事も含めて当時のありのままを書いた。

 

 桐山零は、決して恵まれた環境で将棋に打ち込んでいたわけではない。

 藤澤さんのところに引き取られるまでは、本当にいつ落ち着いて勉強できていたのだろうかと思うくらいだ。

 それでも、彼は諦めなかった。才能ももちろんあったのかもしれない。

 でも、その彼の苦労をそんな二文字だけで片付けたくなかった。

 

 改めて振り返り、他の施設の状況を聞くと、ひまわり園は良い園だったと思う。

 慈善事業のように園長は本当に子どもの事を思って営業していた。

 

 でも、だからこそ、お金は増えない。

 国や都からの援助にだって限界はある。

 寄付は大切な収入源だった。

 そしてその収入源に大きな貢献をしていたのが、同い年だった桐山くんだった事を、僕は園長先生のところに取材に行き、初めて知った。

 

 企業には、社会奉仕や地域への貢献活動といったものに力をいれるところも多い。イベントの協賛だったり、セミナーやスクール開催などその方法は多岐にわたる。

 

 桐山くんは、最年少でプロ棋士になってから、多くの企業と仕事をしてきた。獅子王のタイトルを獲得してからはなおさら。

 イベント、CM、テレビ番組、それこそ社長や会長といった役職の人と話すこともあった。

 報酬の話になったときに、自分個人への報酬を断るかわりに、園との繋がりをもってほしいと希望したらしい。

 直接的な寄付の話ではない、例えば食品を扱う企業であれば奉仕の一環としての商品の寄贈を。例えば、機器の会社であれば、小さな備品の寄贈を。一回の寄付ではない、出来れば、断続的に続き、双方に無理がない関係を築ければと、多くの企業に頼んだらしい。

 

 このネットワークは、ひまわり園だけに止まらない。恵まれない子どもたちの保護と養育に関わる多くの施設が恩恵をうけた。

 彼はもう何年もそうやって、僕らの後の子どもたちが困らないような環境作りに尽力していた。

 

 子どもが夢をみられる社会であってほしい。自分に娘が出来てからは特にそう感じるそうだ。

 本当に出会った頃から変わらない

 そのスケールはどんどん大きく広くなっているけれど。

 

 

 

 彼は今年七冠を目指す。

 それはなみ大抵の事ではない。

 

 高校3年生の時に、初めて名人を獲得し五冠となった。その年は聖竜と王将の防衛に失敗するが、獅子王と棋匠の防衛は成功する。

 これによって、5期連続の獲得となり、彼は高校生で永世獅子王となった。

 この獅子王のタイトルは、それ以降も桐山くんの代名詞となる。一度21歳の時に宗谷名人に奪取されるが、翌年に取り戻し、今日までまた保持している。

 

 そして、桐山くんは20代ながらすでに4つの永世資格を持っている。

 

 永世獅子王の次に獲得したのは、棋匠。はじめて獲得した15歳の時から21歳のときまで保持していたため、連続5期の獲得条件を達成した。一度島田九段に奪還されるものの、昨年再び獲得している。

 

 そして棋神。初めて挑戦したタイトルで、そこから長らく挑戦権の獲得には至らなかったものの、19歳で獲得すると、5期連続で保持に成功する。それにより条件を達成。

 

 最後に聖竜。これは、通算5期の獲得で永世資格を得られる。桐山くんは18歳のときに一度、土橋九段に奪取されたものの、その後21歳の時に獲得して保持しているので、すでに通算7期となる。

 

 連続5期か通算10期が獲得条件の王将も、とってとられてと連続では持っていないものの、昨年の奪取で7期獲得している。近い将来、永世資格を得るだろう。

 同じく連続5期か通算10期が条件の名誉棋竜は、昨年の獲得で通算4期の獲得になる。

 

 一番縁がない……と言っては語弊があるかもしれないが、獲得数が少ないのは名人だった。

 これまでに18歳と21歳と22歳の3期を獲得している。

 やはり名人を一番持っているのは宗谷名人だった。そして、その挑戦権を得るためにA級順位戦を勝ちぬくのも至難の業なのだとよく分かる。

 

 25歳になる今年度、彼は再び宗谷名人に挑む。

 冬に棋匠と王将をとったことで、桐山くんは現在六冠。もしこの名人戦で奪取すれば、宗谷名人以来の七冠達成者となる。

 

 僕はその偉大な記録への挑戦を側でみて、書かせてもらう権利をもらった。

 なんだか恐縮だとこぼすと、

「青木くんは同志だからね」

 

 桐山くんは、そう言ってくれた。

 

「同志? ぼくは一緒には戦えないよ」

 

「そんなことないよ、ずっと一緒に戦ってきた。それこそ、いろんなものとね」

 

 あぁ、そうかもしれない。

 思えば、君が共犯者になってよって笑ったその日。

 頼るばかりじゃなくて、非力な僕にもなにか出来ると知った日。

 たぶん、その日、僕は君を応援すると決めた。

 それからもう、15年あまりか。

 ずっとただ、応援してきただけのつもりだったけれど、君は、ずっとそんな気持ちだったんだね。

 

 桐山零は、僕のかつての家族であり、親友であり、そして、人生を生きていく同志だ。

 

 

 

 

 

 




青木くんも随分と成長しました。
観戦記を書いてくれたらきっと楽しいだろうなぁと、いつかこの設定も書きたいとおもっていたので、出せて良かったです。


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将棋の国の子ども

オリキャラです。
桐山くんとひなちゃんの子どもの視点です。
大丈夫な方は読んでください。


 桐山 千陽(きりやま ちはる)

 これが私の名前。

 歳は、12歳。

 そして、職業はプロ棋士。

 

 幼い頃から、将棋に触れて育った。

 将棋の駒を口にいれてはいけないと分別がつく歳になると、駒を触って遊んでいた。

 文字を覚えると同時に、数字を覚えて、棋譜が読めるようになるのも随分とはやかったらしい。

 詰め将棋が理解できる幼稚園の年長ごろには、わたしはそれにすっかりハマっていた。

 いつの間にか、自分でお絵かき帳に問題を作っていたのは、流石に驚いたとお父さんは笑っていた。

 

 私の父という人は、すこし変わった人だ。

 

 まず職業が日本に、数百人しかいない、将棋のプロ棋士だった。

 そして、その中でも、タイトルホルダーというかなり強い人だった。

 時にテレビで、時にネットの中継で、棋戦に挑む父の姿を、リビングでみんなで応援するのが日常だった。

 

 でも、家ではただの優しい父だった。というかお母さんにも私にもとても、甘かった。

 

 お母さんの実家は、和菓子屋さんをしていて、私や、妹たちの子育ての間でも、頻繁に手伝いに行っていた。

 美味しいものを作ることに携わること、人を笑顔にできるものを作ることが好きな人なのだ。

 私には妹が二人いる。3つ年下の次女と5つ年下の三女は、二人とも将棋にそこまで興味を示さなかった。

 それぞれが、それぞれに好きなことがあって、興味を持つものも違った。

 妹たちはかわいい。喧嘩もするけれど、大切な家族だ。

 

 長女によくあるらしい、お姉ちゃんがほしいという気持ちも私にはあまりなかった。

 母方の叔母であるもも姉ちゃんは、私より10歳年が上なだけだった。

 末っ子だった、もも姉ちゃんは、私を凄くかわいがってくれて、私たちは姉妹のように育った。

 

 

 

 私にとって将棋は、お父さんと遊べる道具で、そして沢山の人に構ってもらえる恰好の遊びだった。

 指せる相手は沢山いた、まずは、相米二おじいちゃん。本当はひいおじいちゃんなんだけど、おじいちゃんって呼んでる。

 覚えたての頃どんなめちゃくちゃな手を指しても、否定なんてされなかった。なんども何度も気長に対局に付き合ってくれた。

 

 それから、お父さんの友だち。

 学生時代、同じ部活だったらしくて、将棋が指せる人も多かった。アマの免状の申請を出してくれる人が今もいるらしい。

 お父さんは、初めて獅子王になってから、ほとんどの期間そのタイトルを保持してきた。たまに名人も一緒にとっていることもある。

 ついにこの前、三段の申請をしてきたよ、ってお母さんに嬉しそうに話しているのを何度か、名前を変えて耳にした。

 

 そして、私が大好きな作家の青木先生も時々、遊びに来てくれる。

 ファンタジー小説に定評があって、映像化された作品もいくつかある人気作家だ。

 そして、将棋について書いている本をいくつか出している。

 「獅子王と歩む道」というタイトルで、お父さんとの幼少期の思い出から、七冠達成のその日までを描いた、ノンフィクションの小説は、ロングセラーになっている。映画化の話も出ているらしいが、本人たち二人が照れくさいからと、断っているそうだ。

 

 最後に、ネットの誰とも知らない人々。

 パソコンを使えるようになると、すぐにインターネットを通じて、沢山の人と指すようになった。

 いろんな人がいたけれど、時間を選ばず指せることが良かった。

 幸田のおじちゃんの息子の歩さんは、その方面のお仕事をしていて、時々うちにやってきた。

 AIを使った将棋ソフトの開発に携わっているらしく、お父さんにプロ棋士の視点からの意見がほしいそうだ。

 解析ソフトの使い方も、詳しく教えてくれて、お父さんをはじめ、お父さんの研究会の人たちは、かなりお世話になっているらしい。

 

 お父さんは門下の集まりにも時々私を連れて行ってくれた。

 藤澤のお師匠さまも、幸田のおじさんも優しくて、大好きだった。

 そして、時間があれば皆が将棋を指してくれるのだ。

 それが嬉しくて、楽しくて、私はただ夢中になった。

 

 大人とばかりじゃなくて、子どもとも対局した方が良いと、お父さんは子ども大会にもよく連れて行ってくれた。

 勝ったらみんな喜んでくれるし、年の近い子たちとの将棋も楽しかった。

 

 そして、私は負けなかった。

 

 今でこそわかる。お父さん一人だけではない、ある程度指せるようになると、お父さんの家に訪れるプロ棋士の方も私の相手をしてくれた。

 そんな人たちと将棋を指して育った私は、知らず知らずのうちに英才教育を受けていたのだ。

 

 勝てるから、というよりも、私は誰かと将棋を指すことがとても好きだった。

 棋譜に美しいという感覚があることが分かるようになると、よりその傾向は強くなった。

 父の棋譜は美しかった。

 自分もいつかこんな棋譜を残せるような人になりたい、そう思うようになった。

 

 

 

 優勝したことがないこどもの大会がなくなった頃、お父さんに付いて行って混じっていた藤澤門下の会合で、興味があるなら奨励会に入会しても良いのではないかと話題になった。

 私が小学3年生になる時の事だ。

 

「少し、はやいような気もするのですが」

 

「本人が望むなら、実力的には充分だろう。君も小学4年生の時には入会していたし」

 

 お父さんのお師匠さまがそう答えた。

 

「千陽は? どうしたい?」

 

 お父さんはそう聞いてくれた。いつだって、まず私の希望をきいてくれた。

 

「受けたい! 強い人と戦いたい」

 

「大会には出れなくなるよ? 大丈夫?」

 

「うん、もういっぱい出たから、大丈夫」

 

 幼い私は、はやく皆の仲間入りをしたいと思っていた。

 それはつまり、プロにはやくなりたいということだった。

 

「正式に師匠を決めないといけないね。勿論、父親の零くんでもかまわないが」

 

 幸田のおじちゃんがそう言った。

 

「僕としては、父親は師匠とは違うと思うので……出来ればどなたかにお願いしたいと思っているのですが」

 

 私もお父さんが師匠はなんか、ちょっと違うなと思った。

 

「正宗おじさんが良い!」

 

 こういう時に自分の意見を言うのが大事だと教わって育った私は、すぐに手をあげて発言していた。

 

「えぇ!? 後藤さんが良いの?」

 

「そりゃあ良い、正宗もそろそろ弟子を取ってもおかしくない頃だ」

 

 藤澤のお師匠さまが、嬉しそうにそう笑う。

 

「……勘弁してくれよ」

 

 おじさんはそう眉をひそめたけれど、嫌だからじゃないって事が分かるくらいには、長い時間を過ごしてきた。

 

「駄目ですか?」

 

 弟子になるなら、敬語だろうと、言葉を改めて伺ってみた。

 

「……本気か?」

 

「いつだって、将棋については本気です」

 

「なら良い。……弟子になるなら、もうおじさんじゃ締まりがねぇな」

 

「はい! 師匠! よろしくお願いします」

 

 お父さんはそれなら、幸田さんでも良いじゃないかなんて言っていたけれど、藤澤門下の中で一番厳しいから、後藤おじさんが良かったの。

 なんだかんだ、皆が私に甘いのだ。

 将棋に関して手を抜かれたことは無いと思っているけれど。

 一番容赦なかった正宗おじさんを師匠に選んだことを、しばらくして会った香子姉さんは褒めてくれた。

 

 

 

 

 師匠は今は独り暮らしだ。

 私が小学生にあがってすぐ、師匠の奥さまの美砂子おばさまは、病気で亡くなられた。

 

 師匠はその時、しばらく将棋をおやすみした。

 藤澤門下の会にも顔を出さなくなったのを覚えている。

 数週間たって、お父さんが将棋を指しに行き、それからまた顔をだすようになった。

 

 その後しばらくは、妙に私と指してくれることが増えた。

 公式戦に復帰する気がまだおきず、暇だったからなんて言ってたけれど、幼い私はそれが嬉しかった。

 ちょうどそのころ、20代後半だったお父さんは、タイトルを幾つも持ち、それゆえに多忙だった。

 タイトル戦をしている時のお父さんに将棋を指してと頼めないくらいには、私は将棋の事を分かっていたし、将棋が好きだった。

 師匠は強かったし、容赦がなかったけれど、その時期沢山指してくれた事が、私の大きな成長に繋がったと思う。

 

「これ、美砂子おばさま? すごく綺麗」

 

 奨励会に入ってから、師匠の家に勉強にいくこともあった。

 

「ちょっと若い時の写真だな、おまえは殆ど覚えてないだろう」

 

 リビングに飾られていたその写真はとても素敵だった。

 

「私、おばさまの事、凄く好きだったの」

 

「美砂子は、おまえが覚えてるような歳のときは、もうだいぶ弱ってたろ」

 

「それでも、綺麗で優しかった記憶しかないよ。所作だったり、佇まいだったり、おばさまは私の憧れだった」

 

 美しく、しっかりとした女性だった。

 沢山素敵な女性をみてきたけれど、その中でも群を抜いて、カッコいい人だった。

 

「おまえ、俺の事はおじさんだったけど、美砂子のことはかたくなにおばさんとは呼ばなかったもんな」

 

「だって、師匠はお父さんと夜通し将棋したり、飲んだくれてたり、いっぱいカッコ悪い所もみてたんだもの」

 

 藤澤門下の人々は、身内のような気安さがあった。

 鬼のように将棋は強いけれど、どこか仕方ないところも沢山見てきた。

 

「師匠も分かってるでしょう。私はカッコいい女性が好きなの。香子姉さんみたいなね」

 

「香子? やめとけ、あんなキツイの」

 

「えぇ……ひどいなぁ。優しくて繊細なところもあるんだよ。姉さんは、弱く見られたくないからそういうところを、男の人の前じゃ絶対出さないの」

 

 お父さんより歳上の香子姉さんは、おばさんで良い、と言ってくれたこともあるけど、私はずっと、姉さんと呼んでいた。

 私の母は、名前のとおり陽だまりのような人で、いつもぽかぽかと暖かい。

 もちろん、大好きだけれど、私とはあまり性格が似ていないと思う。

 香子姉さんとは、将棋のこともふくめ、何故かとても波長があった。

 将棋にのめりこんでいく私を、母はお父さんに似たんだねと、無条件に応援してくれていた。

 香子姉さんは、もし、お父さんのように本気で将棋の世界で生きるなら、それはとてもしんどい事だと、そっと教えてくれた。

 それでも、私は、頑張ってみたかった。

 

 

 

 


 

 小3の8月に私は奨励会の入会試験を受けた。

 周りではいくらなんでも、早過ぎるだろう、親の欲目だなんて、声もあったらしいが、問題なく合格できた。

 奨励会の入会試験は最低の6級でもアマチュアの三段くらいの実力が必要だと言われている。合格率は三割程度らしい。

 

「甘くみてくる男がいたら、将棋でひっぱたいてやりな」

 香子姉さんは、私が合格したことを知ると、そう激励してくれた。彼女はそこで勝ち抜く辛さを誰よりも分かっていた。

 奨励会に女性は少ない。というかほぼ在籍していない。

 

 女性で将棋を仕事にしたければ、女流棋士の道がある。

 研修会という制度もあった。そういえば、周りからは、研修会に入れば? という話が一度も出なかった。そこからも、周囲の期待がわかる。

 

 私が指したいのは、お父さんで、そして藤澤門下や、島田門下、他交流があるプロ棋士たちだったから。

 初めから、奨励会を選んだことに後悔はない。

 

女で、奨励会は無理。入って分かったことだけれど、そんな雰囲気を肌で感じた。

 面と向かって言われたら、言い返すのに、現タイトルホルダーの娘に正面からそんなことを言ってくる人はいなかった。

 でも、陰口って意外と本人の耳にはいるものだ。

 

 だから、私は負けなかった。

 

 無敗で奨励会を突破した記録がある。

 そう、父、桐山零が残した記録だ。

 同時にそれは、奨励会の突破の最短記録でもあった。

 私は、父よりも一年はやくも入会した。

 昇級の規定は連勝であれば6連勝する事。難しいだろうか? そんなことは無い。

 現役タイトルホルダーにさえ相手をしてもらっている。

 今の奨励会の流行りも、充分に対策してきた。棋譜も、練習相手でさえ、伝手で望めば手に入った。

 私は間違いなく、恵まれていた。

 

 そして、それゆえに勝たなければならなかった。

 

 一度の奨励会で戦う局数は三局まで。

 父は、一度も負ける事なく三段リーグに到達し、それを一期で抜け、プロになった。

 同じことを出来ないとは思わなかった。

 

 小学四年生で三段リーグ入りを目指す。そう決めて、ひたすらに将棋にのめりこんだ。

 奨励会には、強い人はいっぱいいた。だからこそ、面白い棋譜も沢山出来た。

 私は、それが嬉しかった。

 無敗で級位をぬけ、初段になったころ。もう、私のことをとやかく言う人は、奨励会の中にはいなかった。

 

 どうやって、昇段を阻もう。どうすれば、勝てる?

 周りの目がすっかり変わっている事が分かった。

 

 流石に、初段に上がってからは、全勝ってわけにはいかなかった。

 初めて負けて帰った日、父はかえって良かったかもしれないと、呟いた。

 勝ち続けると、それが自分にプレッシャーになるから、と。

 

 その言葉どおり、負けてしまったものは仕方ないと開きなおると、連敗することはなかった。それに10月の後期リーグ入りをしたければ、もうあまり負けてはいられなかった。

 父は急がなくても、めちゃくちゃ先は長いと言ったけれど、まさに目の前のこの人なのだ。異例のはやさで奨励会を駆け抜けて、プロになってしまったのは。

 

 

 

 

 


 

 女流王座戦の一次予選に出ないか? と話を声をかけられたのは、小四の4月の事だ。

 隈倉会長が、負担でなければ是非と、そう持ちかけてきた。

 女性の奨励会員は、それだけで出場資格がある女流棋戦があるらしい。マイナビ女子オープンと女流王座戦がそれにあたる。

 

 随分と迷った。奨励会に集中したいような気もした。

 香子姉さんは、ここでも相談に乗ってくれて、とりあえず出れるなら出たら?と言ってくれた。

 誰でも資格があるわけじゃない、アマの人は予選を勝ち抜かなければ出れない。

 私は、研修会にも所属していたことはないし、全くそちらに関わらないというのは、なんとなく面白くない人もいるだろうとのことだった。

 

「それにね、やっぱり観たいと思うじゃない。きっと千陽は零みたいに、全部かっさらっていくわ。そこに女でしかとれないタイトルがあるなら、そっちも取ってほしいって思う」

 

 そこまで、好戦的な気持ちだったわけではないが、確かにお父さんは出られないのだから、自分が、という気持ちが生まれたのは確かだ。

 

 私は一次予選からの参加になる、そこで勝ち抜けば二次予選。

 本戦はシードの女流棋士と、二次予選を勝ち抜いたものを合わせて16名で行われるトーナメントだった。

 こんなことを言ったら良くないと思うので、ここだけの話。奨励会で戦うよりずっと楽だった。

 でも、同じ女性でしかも、同じ年頃の子も沢山参加していて、それは少しうれしかった。

 並行して、奨励会は初段から二段へとあがった。

 

 8月からは、マイナビ女子オープンに参加しながら、女流王座戦の本戦トーナメントを勝ち抜き、同時に奨励会での勝率も重ねていった。

 

 多数の棋戦を抱えることは、大変だと感じた。

 これがプロになったらもっとなのか、と父の多忙さも今なら納得できる。

 

 9月の一回目の奨励会で、12勝目をあげて、10月からの三段リーグ入りを決めた。

 将棋界の歴史で三段リーグに在籍した、女性会員は数人である。

 今期はもちろん私しかいない。

 

 鬼の住処と言われるほど過酷なその場所に挑む私を、父はまだはやいと思うんだけどなぁとひたすら心配していた。

 藤澤門下の人々は、喜んでくれて、二人目の小学生プロが生まれるのではないかと、激励してくれた。

 当然そのつもりだった私は、父と同じように一期で抜けますと宣言して、皆に驚かれた。

 師匠が、生意気なところがそっくりだと、小さく横で呟いて、当時の父と比べてか、懐かしいと皆が頷いた。

 

 同時に、私は10月から女流王座のタイトルへ挑む。

 小学四年生での挑戦は、最年少記録だった。

 一日制の5番勝負が出来ると聞いて、お父さんみたいだと、無邪気に喜んだ。

 

 世間がこの話題に注目しはじめたのはこの時くらいからだ。

 現役最強の棋士の子どもが、プロの手前三段リーグへと到達した。

 そして、同時並行で女流とはいえタイトル戦に挑む。タイトルホルダーは当然、大人だった。

取材をしようとしてくる人も多くなった。

 ただ、私は子どもだったから、その対応はすべて、家族や師匠がしてくれた。

 まだ、この時はそこまで大きな話にはなっていなかった。

 

 年末に3連勝で、そのタイトルを奪取した。

 小学生でタイトルホルダーという肩書きは父ですらもっていなかった。

 女流とプロでは色々違いすぎるが、それでも、世間は盛り上がりはじめる。

 

 そして、年が明けるとマイナビ女子オープンの挑戦者決定戦も勝ち抜き、私は来年度そのタイトル戦への挑戦も決めた。

 王座戦とは違い、このタイトル戦は、全戦通して和服で行われる。

 挑戦権を得てすぐに、着物を誰が仕立てるかで随分と、大人たちがもめていた。

 当然、父親にまず権利があると、お父さんが主張。師匠も勿論、贈ると言い出す。藤澤のお師匠さままで、でてくるし。結局、三組はつくることになった。

 着物は直しがききやすい。この先も着る機会を沢山作ろうと思う。

 

 

 

 

 


 

 いよいよ3月。三段リーグが終わる。

 お父さんのように全勝というわけにはいかなかったが、16勝2敗で、私は四段への昇段を決めた。

 

 二人目の小学生プロ棋士、そして、はじめて女性でプロ棋士を名乗ることが出来る。

 

 私の想像よりもずっと、大きなニュースになってしまった。

 小学校にも取材が来た。三段リーグを勝ち進んでいるときから、注目が高まっているのは知っていたけれど、これほどとは思わなかった。

 青木先生がお祝いの時に、既に私についての本を出さないかって依頼がくるって、お父さんに話していて、私も困ってしまった。

 アイドルのように扱われたいわけじゃないのだ。

 お父さんは困っている私をみて、色々なアドバイスをしてくれた。

 こんなに盛り上がるのは一時的だから、もう少ししたら落ち着くとか。

 でも、人気商売のところもあるから、ある程度は仕事だという心構えとか。

 道端で声をかけられたときの対応、これから起こるであろう、トラブルの予想。

 あぁ、お父さんも苦労してきたのかなって、思った。

 

 もう一つ、大きな選択をしなければならなかった。

 

 私は、奨励会を通過し、四段となった。研修会には所属していない。

 けれど、女流棋士の申請を出せば、今まで出場できた二つの棋戦とは別の女流の棋戦にも出場が可能になる。

 これは、将棋連盟が、いずれは生まれるだろう女性のプロ棋士のために、以前から決めてあったことだ。

 この申請は、四段になって二週間以内に出さなければならない。

 両方の棋戦に出るということは、それだけ日程は忙しくなる。

 三段リーグと並行して、二つの棋戦に出るだけでも大変だった。

 

 随分悩んだけれど、とりあえず申請を出すことにした。

 もし、しんどくなれば女流の方はお休みしてもいい。とりあえずは、頑張ってみようと思った。

 

 

 

 小学5年生で将棋界に入ってから、私は父の記録に挑み続けた。

 具体的には父が残した様々な最年少記録を更新することが期待されていた。

 父の時でさえ、今後破られることはないだろうと言われていたその記録を、娘が塗り替えようとしている。

 周囲の期待と目線が重いと感じることもあったが、私は家族と師匠に守られていたから、それほどひどくはなかった。

 藤澤のお祖父様も、幸田さんも、零の時を思い出すと、色々力になってくれた。

 

 騒がれるほどに、将棋界に父が刻んできた偉業を思う。

 

 二世に関しては、それなりの悩みがつきまとうとはよく言ったもので、私は常に父の背中を意識していた。

 父はよく自分は特殊だったから、気にするな、千陽の方がもっと凄いと、しきりに言ってくれた。

 私は、それに素直にはうなずけなかった。

 

 だって、お父さんはめちゃくちゃに強い。プロになって、ますます思い知らせられた。

 将棋界の歴史を塗り替え続け、今や最多のタイトル保持記録すら持っている。

 中学2年生で初めて獅子王のタイトルを手にしてから、一度も無冠になったことはない。

 だから、桐山九段と呼ばれたことはない。

 常にその背に、何かのタイトルを背負っている。

 25歳の時には史上二人目の七冠を達成し、35歳の現在は全てのタイトルで永世資格を持っている。

 

 

 

 対局相手に父の事を言われることは沢山あった。

 将棋が強い人ほど、もっと将棋が強い人のことが気になってしまうのはよく分かる。

 半分恨み言のような事をいう人もいたが、多くは好意的であったし、そして、並々ならぬ気持ちを持っている人もいた。

 

「桐山名人の娘さんだよね?」

 

「はい、桐山零の娘の千陽です」

 

 父の話をしたがる棋士は多い。この人は対局後の感想戦の時に持ち出してくれたから、まだ良識がある方だと思う。

 藤本九段なんて、「また小さい桐山か」と対面に座って早々に、止まらない想い出トークだったのだ。

 あんなに話しかけられながら、指した対局は無い。

 

「いやー、娘さんがもうこんなに大きくなったんだね。時の流れは残酷だ。僕は、今日きみに負けたけど、同じように君のお父さんにも負けたんだ」

 

 負けた話をされることも、沢山あった。この方が違ったのは、それをどこか嬉しそうに言うことだった。

 不思議そうな私の顔をみて、彼は続けた。

 

「忘れもしない三段リーグの17戦目、昇段を確実にしていた君のお父さんに僕は完敗した。当然、三段リーグは突破できなかった。当時の私は、23歳。君のお父さんは10歳だったかな。君は今、いくつなんだっけ?」

 

「10歳です。誕生日がきたら11歳になります」

 

「そうかぁ、娘さんがもう10歳なんだね。僕は、君のお父さんに負けたけど、それでも諦められなくて、年齢制限ぎりぎりまで粘るって決めたんだ」

 

 今、この人はプロ棋士だ。ということは、ギリギリでもそのチャンスをものにして、プロになったという事だ。

 

「プロになれて本当に良かったと思っている。……君のお父さんに負けてなかったら、たぶんプロにはなれなかった気がして。それからもう20年くらいか。相変わらずパッとしない成績だが、それでも将棋を指せることが喜ばしいよ」

 

 プロになって父と指したことがあるらしい。父はちゃんと気付いたそうだ。

 嬉しいと言ってくれたことが、何より感動したらしい。

 

 三段リーグで負かした人達の事を、私も覚えている。

 あそこは特殊だ。だって、文字通り人生がかかっている。プロになれるか、なれないかの目に見える線引き。

 私は、プロになった。なら、指さなければいけない。

 誰もが、感動するような一局を、一つでも多く残さなければならない。

 重たいとおもったけれど、負けたくなかった。

 

 

 

 マイナビ女子オープンのタイトルも奪取し、女流二冠となった私は、徐々に他の棋戦にも参戦していった。

 女流名人位戦と倉敷藤花戦のリーグ戦は、4月から始まった。女流王将戦はすでにタイトルをもっているから、本戦からの参戦で良い。

そして、プロ棋戦の方もある。

 まだ一年目の春は良かった。けれど、夏を過ぎると、どんどん棋戦が重なっていった。

 自分がいったいどの棋戦にでているのか、わけが分からなくなりそうだった。

 そんな私の棋戦の管理をお母さんは、きちんとしてくれた。

 次はどこにいく、何を着ていく、ちゃんと把握して伝えてくれた。

 

 女流棋戦と合わせると、連勝記録はどんどんたまっていった。

 

 

 

 そんな私の記録を止めたのは、父の親友の二海堂さんだった。

 

 女流の棋戦を除くと、連勝記録は27。

 父が持つ最多連勝記録の43勝にはとても届かなかった。

 内容も完敗だった。私にはまだA級棋士と最後まで指しあえる自力がないことを、目の前に突きつけられた。

 

 悔しかった。

 ぐずぐずと涙しそうになりながらも、決して感想戦をやめない私に、「千陽くんはもっと強くなるな」と二海堂さんが豪快に笑った。

 

 師匠は酷かった。負けて泣いてるようじゃ、プロじゃないって叱られてしまった。全部終わって家で一人で泣けという。

 父は、まだ小学生ですよ。悔しかったら泣きますよと私の頭を撫でたけれど、最後まで仕事をしろという、師匠の言葉を否定はしなかった。

 

 将棋だけじゃない、感情のコントロールも未熟だと、痛感した。

 お父さんだって、小学六年の時からプロ棋士だった。

 負けて泣いたところなんて、中継にもテレビにも映ってはいない。

 私も、ちゃんとしないとって落ち込んでいると、千陽と僕は違うからと、真剣な表情で諭された。

 男と女だから? って聞き返したら、そうじゃないって首を振られた。

 僕は特殊だったんだよって苦笑していた。

 

「悔しくてインタビューで泣いてる人をみて、千陽は情けないって思う?」

 

 スポーツの試合などでたまに見る光景だった。

 

「ううん。思わない」

 

 それだけ、真剣だったんだ、涙なんて止められるなら止めている。

 

「そうだよね、だから泣くのは悪い事じゃない、千陽はちゃんと感想戦もしてたからね」

 

 でも、やっぱり女の子が泣いているとなんとなく居心地の悪さがあるだろう。相手の二海堂さんに悪い事をしてしまった。

 

 それにめそめそ泣いていたら、私自身が侮られる要因になるかもしれない。

 それは、嫌だった。

 

「私、もっと、もっと、強くなる。勝ったら泣かないもん!」

 

 涙をぬぐって勢い良く立ち上がり宣言した。

 

 父はそんな私をみて、そういうところが本当に母に似ていると笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 


 それからも、棋戦を重ねる日々だ。

 

 女流のタイトルは、小学生のうちに全部とってしまった。

 今や私は、女流五冠である。

 

 タイトル戦をするだけなら、まだ対局数が少なくてすむから、中学に上がってからも、何とか両方の棋戦に参加するつもりでいる。

 私が両方の棋戦に参加するようになって、女流側の視聴者もスポンサーも随分増えたらしい。

 隈倉会長は無理はしなくていい、と言ってくれたけれど、将棋人口を増やしたいから、まだ頑張れると思う。

 この先、私がもっと強くなって、それこそ、お父さんとタイトル戦が出来るくらいになったら、さすがにこちらに集中しようかな、と思っていた。

 

 プロ棋戦の方は、なかなかに難しかった。まだ、本戦で良いところまで勝ち上がれたことは一度もない。

 順位戦は順調にクラスを上げてきた。

 中学一年になった4月。今期から、B級2組になる。

 父の研究会に参加している棋士の人とあたることにもなるかもしれない。

 どうしても、比べてしまうのだけれど、私と同じ年に、お父さんはタイトルの挑戦権をとっている。

 勿論私は、頑張るが、今年度それを達成するのは、なかなかに厳しいと思う。

 本当にA級棋士をはじめ、B級1組にも、びっくりするくらい強い人たちが、ごろごろいる。

 父はよく、こんな世界で、何十年も戦っていると思う。

 

 そうだ、忙しくて忘れるところだった。そろそろ、予定を立てないといけない。

 

「お父さん、今度の誕生日どうする?」

 

 お父さんは4月生まれだ。

 本当は、サプライズとかしてあげたいけど、それなりに忙しい、予定はあらかじめ合わせないと無理だった。

 私の質問に、お父さんは、はっとしたように立ち止まった。

 

「千陽、お父さん今度36歳になる」

 

 父は驚愕したようにポツリとそう言った。

 

「うん、だから聞いてるの。皆で予定合わせてさ、お祝いしようよ」

 

「もう、あと1週間だ」

 

「そう、1週間しかないの。お母さんとか、おばちゃん達の予定もあるでしょ?」

 

 何をそんなに驚いているのだろうか。

 父は、それから、この間にタイトル戦は無いし、それにもうとっくに超えてしまったと、唖然と呟いていた。

 

「何が越えてるの? まだだよ、誕生日」

 

 本当に将棋は鬼のように強いのに、日常ではどこか抜けているところもある人なのだ。

 

「いや……そうだね、ごめん。そうかぁ、36歳になるんだって感慨深くて」

 

 そうやって、溜め息をつかれると、何だが年をとったように見えてしまう。

 でも私は知っているのだ。

 

「そんな事言って。まだまだ、下にタイトル譲る気なんてないんでしょ」

 

「ないね、全く」

 

 父はすぐにそう答えた。

 30歳も後半になれば、少しは棋力がおちる人もいるが、まだそんな心配はいらなさそうだった。

 

「いつか、千陽がとりに来てくれるの待ってるんだ。恩返ししてくれる?」

 

 将棋界で、弟子が師匠に勝つことをそう表現する。

 私たちは師弟ではないけれど、実の親子だ。

 タイトル戦がもし実現すれば、そう表現されることもあるだろう。

 

「じゃあ、もう少し待ってて。そんなに待たせないから」

 

 きっと、この先の長い時間私は、お父さんや皆と将棋を指していく。

 その先できっと、そんな機会も訪れるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




千陽は以前の世界線では居なかった子です。
そして、将棋に興味をもつ子でもありました。

そのパラドクスが桐山零の人生にも、将棋にも影響を及ぼし、結果35歳の壁を超えることになります。
この先も、将棋界には様々な風が吹き、盛り上がっていくことでしょう。

連投します。
次の桐山くん視点で、この感想戦も一応の締めです。


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5月の花へ

 

 36歳になる。

 娘に誕生日の予定をたてようと言われて、僕はようやく気づいた。

 とっくに前の世界で、事故があった日を越えていた事に。

 

 千陽は、前回は居なかった子だ。

 僕とひなちゃんの間には二人娘がいたけれど、今回は千陽が長女で、そのあとに二人娘が出来た。以前の長女は次女になり、次女は三女になった。

 生まれた日も一緒だった。顔をみて、あぁそうだこの子だと思った気持ちを忘れてはいない。

 だから名前も一緒だった。

 

 千陽だけが、全て違っていた。

 

 不思議なことに、将棋へとても興味を持ったこの子は、みるみる強くなり、そして、プロになった。

 以前、二児の父だったからわかる、親がしていることにある程度の興味はもってみせても、ここまでハマることは珍しい。

 千陽は、まるでそう運命づけられたように、将棋の駒を持ち、その興味が他へうつることは一度もなかった。

 一般的に幼児がハマるようなキャラクターやアニメにハマる事もなく、じっと駒をみている子だった。

 詰め将棋を解けるようになるころには、もう僕と指すようになった。

 幼い手が駒をもち、おぼつかないながらに置いていく様子は、ただただ眩しく愛おしかった。

 

 強くならなくてもかまわない、将棋を好きでいてほしい、そう思いゆっくり好きなように指させていた。

 いつ頃からだったか。

 あの子が詰め将棋を自由帳に書き出した頃かもしれない。

 ひ孫が将棋に興味を持ったことを喜んだ相米二さんと指せるようになり、半年も経たないうちに、勝ちはじめた頃だっただろうか。

 大きくなるにつれて、興味は他にうつるだろうと思っていた僕の予想を裏切り、千陽はただただ将棋が好きだった。

 

 年末年始の大きな門下の集まりに子どもを連れていくことは珍しい事ではない。

 

 そうやって連れて行った千陽は、ひなた譲りの愛嬌で、気が付けば多くの人と将棋を指していた。

 父親の自分が知らぬところで、あの子はいつのまにか、沢山の人の将棋を吸収し強くなっていった。

 ごくたまに将棋を指すことはあっても、将棋の内容の指導のようなことはほとんどしなかった。

 僕が教えたのは、将棋のルールと礼儀作法と、少しの定跡くらいだ。

 父親として、そこに余計な感情を入れずに、この子に将棋を教えることが出来るとはとても思えなかったから。

 

 子ども大会に出場するようになった頃には、もう同年代の子で相手になる子はほとんどいなかった。そのうち、僕の関係のプロ棋士たちとも、それなりに指せるようになっていて、奨励会という話がでるのも、頷けた。

 

 入会するにあたり、棋力の心配はほとんどしていなかった。

 香子姉さんに聞いていたから、女性が奨励会に所属する過酷さが少し気になっていた。

 女流棋士は増えていたものの、女性が奨励会に入ったり、三段リーグを抜けようとしたりすると話題になる。挑戦する人が少ないからだ。それに、僕の娘が挑むのかと思った。

 

 師匠を後藤さんにしてもらってよかったかもしれないとふと思ったのはこの頃だ。

 もし、僕がしていたら、余計なことまで口出しをしてしまって、彼女と僕自身のペースを乱すことになっていた気がした。

 

 後藤さんは必要な手続きをこなすと、その後一切、千陽に特別声をかけたりはしなかった。

 千陽はほとんど負けなかったから、特別言うこともなかったのかもしれない。

 にわかに色めきたったメディアへの対応を、バッサリと終わらせ、自分もそうだが、千陽に時間を取らすこともなかった。

 彼がした事といえば、手が空いたら、将棋を指すそれだけだ。

 

「いつも、そうなの?」と聞いたひなたの言葉に、千陽は、「棋士と棋士とのことなの。将棋を指す以上の対話を知らない」そう答えた。

 

 あぁ、この子は自分の子だなと思うと同時に、ほぼ足踏みすることなく、プロの世界にくるなと直感した。

 

 同じ時期に参加していた女流棋戦で、次々に勝っていき、小学生でタイトルホルダーになったあの子は、奨励会も随分とはやくに突破した。

 自分の最年少記録がまさか娘に更新されるとは、不思議な縁だと思う。

 

 

 

 

 公式戦で、負けた千陽が本当に悔しがって泣いている様子に、僕は少しほっとした。

 

 二海堂には悪いが、良い仕事してくれたと思う。

 大きな負けをあまり経験してこなかった子だ。プロになって早めにこういう経験をしておいて欲しかった。

 泣いても、感想戦をやめないところなんかは本当に負けず嫌いだと思う。

 すぐにもっと強くなると宣言した姿は、ひなたによく似ていた。

 この子はまっすぐに強くなっていくとそう思えた。

 

 ずっとどこか千陽に申し訳なく思っている。 

 

 僕が打ち立てた最年少記録の更新を期待されることは、残酷なことだ。

 それを達成したときの、僕の将棋の経験値は、その年齢のものではない。

 それでも、千陽はやり遂げてみせた。

 奨励会を勝ち抜き、最年少でプロ棋士になった。

 その後も、彼女のペースで様々な記録を更新している。

 

 もし、仮に更新されるとすれば、それは宗谷さんのような時代を変える天才が現れる時だと思っていた。

 いずれやってくるだろうと思った、その天才は、自分の娘だった。

 なんというか、不思議な縁だと思う。

 

 以前、孤児になってしまい、単身東京の施設で育ち、プロになった僕を将棋界の子どもだと表現されたことがあった。

 

 千陽も将棋界の子どもかもしれない。

 主に関わったのは藤澤門下だけれど、島田研のメンバーとも僕の研究会のメンバーとも指してきた。

 

 でも、僕の時とは明らかに違うところが一つある。

 

 この子はずっと暖かい陽だまりのような場所で育った。

 将棋以外はポンコツだけれども、この子のためなら命すらかけるだろう僕。

 優しく、おおらかで、料理も上手な最高の母。

 喧嘩もするけれど、慕ってくれる妹たち。

 なんでも嬉しそうに話を聞いてくれる祖母。

 全てを肯定するレベルで溺愛してくれる曽祖父と、その横で笑っている曽祖母。

 

 無限に広がる世界と、自由の中から、それでも将棋を選び、好きになった。

 他にいくらでも選択肢はあった。

 将棋を選ばなくても、どんなことでも出来ただろう。

 今から急に別の何かになりたくなっても、この子が本気なら家族は止めない。

 

 それでも、おそらく千陽はこの先も変わらず将棋を愛して生きていく。

 それはなんて、尊いことなのだろうと思う。

 

 

 

 未来の記憶とは随分と違う人生を過ごしてきた。

 自分の将棋で様々な流れを変えて来ていた。

 それでも、どこか不安だった。

 僕は35歳で一度死んだから。

 漠然と、またそうなるのかもしれないと思う気持ちもあった。

 

 でも、この子が生まれて、将棋のプロになり、僕の私生活だけでなく、将棋界も大きく変わった。

 激動の毎日と、娘の成長をみている目まぐるしい日々に気づけば、いつの間にか、あの日を通り越していた。

 

 宗谷さんと、将棋の神様の話をしたことがある。

 

「桐山は僕にとって、生涯を賭して指し合うために用意された相手だと思った」

 

 真顔でそんなことを言われて、唖然としてしまったけれど、案外そうなのかもしれないとさえ思った。

 不思議な力はきっとある。

 なぜ僕が、未来の記憶を、あの葬式の日に思い出したのか。

 そうでなければ、この年齢差で宗谷さんと長く指しあうことなど出来なかった。

 

 そして、千陽だ。

 

 この子は、タイトルホルダーの娘として生まれた。

 以前の娘二人もそうだったが、当時の僕は藤澤門下との関わりは薄いし、自分で研究会も持っていなかった。

 千陽は、僕というきっかけで、生まれた時から将棋がそばにあり、ひなた譲りの愛嬌で、その将棋の世界をいつのまにか広げていた。

 その事が、女性で初めてのプロ棋士になるまで、彼女の棋力をあげたことは間違いない。

 

「まだまだ下にタイトル譲る気なんてないんでしょう」

 

 千陽が、イタズラっぽく笑い、こちらを見上げた。

 

 何かに導かれている。

 全てを注がれて、生まれた子のように思える。

 千陽はきっと、そう遠くない未来に僕の前に座ってみせるだろう。

 親子でタイトル戦……なんて、現実味のない響きだ。でも、実現すれば、きっと大盛り上がりだと思う。

 

「いつか、千陽がとりに来てくれるの待ってるんだ。恩返ししてくれる?」

 

 将棋の神様の愛を一身に受け、育ったこの子の前に座るラスボスの座を、他に渡すわけにはいかない。

 

 千陽が輝かしく花開くその最高の瞬間を、1番いい席で見るのは僕でありたい。

 

 なんだか、また頑張る理由が出来てしまった。

 あぁ、本当に、なんて将棋は面白いんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





March winds and April showers. Bring forth May flowers.

文庫版のサブタイトルでずっと使い続けた英文です。
多くの苦難を乗り越えて、その先で、大きく花が開くことでしょう。

長い間、お付き合い頂き、本当にありがとうございました。
今後の事とかは、また活動報告でも書きます。



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掲示板回 中学生プロ棋士桐山零くん応援スレPart79

 

153 名無し名人

決めた!!桐山くん、獅子王への挑戦権獲得!!!

 

154 名無し名人

おめでとうございます。

 

155 名無し名人

いつかまたタイトル戦はするとは思ってたけど、一年でかぁ。

 

156 名無し名人

俺は今年も挑戦者になるって確信してた。

 

157 名無し名人

これ?獅子王の最年少挑戦者?

 

158 名無し名人

土橋さんをぶっちぎったな。

 

159 名無し名人

>>157

勿論。最年少記録で、獲得したら最年少で獅子王になる。

 

160 名無し名人

第一局は土橋九段が勝ったからな。第二局では粘り粘ったとはいえ、三局目どうなるかハラハラだった。

 

161 名無し名人

夕食前まで分かんなかったよなぁ。よく押し切ったよ。

 

162 名無し名人

終盤力でまけてなかった。

 

163 名無し名人

獅子王戦の挑戦権か。二日制の七番勝負、去年の事を思うと少し不安もある。

 

164 名無し名人

まだ一年経っただけだもんな。宗谷名人の強さ、ここ最近は天井知らずだし。

 

165 名無し名人

俺は、やってくれると思うね。年明けに黒星付けてるし、充分やれるって。

 

166 名無し名人

MHK杯とは持ち時間からして、状況はだいぶ違うが……でも、期待はしてしまう。

 

167 名無し名人

名人は今年度のタイトル戦、一つも落としてない。全部ストレート勝ち、強すぎる。

 

168 名無し名人

そんな上手くいくわけないって気持ちと、でも勝つところみたい気持ちと両方。

 

169 名無し名人

インタビューの後、部屋を出ようとする桐山七段に、土橋九段が声かけてたの聞こえた?

 

170 名無し名人

中継繋がったままだったから、聞こえた。

 

171 名無し名人

俺も聞こえた。すごい小さい声だったけど入ってたよな?

 

172 名無し名人

ちゃんと拾ってんのね。

 

173 名無し名人

え?何?激励でもしてた?

 

174 名無し名人

「勝ちなよ。宗谷くんからタイトルとっちゃいな」的な事を言ってたと思う。ちょっと飛び飛びだったけど。

 

175 名無し名人

「君なら出来ると思ってる」って言うのも聞こえた。

 

176 名無し名人

うわぁ、マジか。熱い!

 

177 名無し名人

桐山くんこれは頑張らないと。

 

178 名無し名人

土橋九段も正月にやった王将戦のリベンジしたかっただろうに。

 

179 名無し名人

元々あんまり悔しいとか顔に出さない方だけど、今回も対局後から落ち着いてるよな。

 

180 名無し名人

内心はどうか分からないぜ、大人だからな。傍目にはどうとでもみせれる。

 

181 名無し名人

土橋九段は名局が生まれるなら、その対局者が自分じゃなくても良いって所はちょっとある。

 

182 名無し名人

桐山七段と宗谷名人のタイトル戦を見たい気持ちは、俺らには良く分かる。

 

183 名無し名人

絶対的な強さを見続けたい気持ちと、それが阻まれる瞬間をみたい気持ちと……。

 

184 名無し名人

楽しみだなぁ。七番勝負。

 

 

205 名無し名人

獅子王戦の第一局、ロンドンだってさ。

 

206 名無し名人

あらま、国外対局なん?

 

207 名無し名人

獅子王はスポンサーがお金もってるから、割とあるっちゃある。

 

208 名無し名人

うわー、対局者にとっては大変じゃない?

 

209 名無し名人

大変に決まってる。国内の移動だって忙しいのに……。

 

210 名無し名人

大丈夫かな。桐山くんたぶん初の海外だよな?

 

211 名無し名人

まぁおそらく。パスポートから作らないとだな。

 

212 名無し名人

まだ、5年パスポートしか作れない未成年……。

 

213 名無し名人

中学生で海外で仕事かぁ。立派なもんだ。

 

214 名無し名人

海外で仕事って聞くと余計凄く感じる。

 

215 名無し名人

環境が違いすぎる。緊張もするだろうし。何も今回じゃなくても良かったんじゃない?

 

216 名無し名人

スポンサーの意向かね。話題になるし。

 

217 名無し名人

これも仕事だ。そのうち行く機会もあるだろうし、慣れるって。……たぶん。

 

218 名無し名人

桐山七段だけじゃなくてさ。宗谷名人にも負担あるし。

 

219 名無し名人

あーーー。名人は特に苦手そう……。

 

220 名無し名人

旅を楽しむってタイプでは無いよな……。

 

221 名無し名人

会長が苦労してるって話は結構聞く。

 

222 名無し名人

じゃもしかしたら、国内戦より桐山七段に有利なのか?

 

223 名無し名人

分からん。桐山くんだってロンドンは肌に合わないかもしれん。

 

224 名無し名人

連盟の関係者も大変じゃない? 段取りから、持っていくものまで、海外ってなったら余計だろうに。

 

225 名無し名人

でも、海外の人にも将棋観てもらえる良い機会だし。

 

226 名無し名人

我が国の生きる伝説と、若き才能をしっかり観て欲しいね。

 

 

589 名無し名人

勝ったぁぁぁぁ!桐山七段が一勝目!!!

 

590 名無し名人

今年度誰一人として白星を勝ち取れていない名人からの一勝!

 

591 名無し名人

おめでとうございます。

 

592 名無し名人

これは文句なしの桐山くんの勝ちだわ。

 

593 名無し名人

名人に大きなミスがあったとは思えない。二日目の桐山七段の指し回しが見事だった。

 

594 名無し名人

うわー、うわー。勝てちゃうんだ。なんだかまだ信じられないよ。

 

595 名無し名人

二日目の局面、終盤とっても複雑だったし、よく捌ききった

 

596 名無し名人

タイトル戦が二回目とは思えないくらい落ち着いてたな。

 

597 名無し名人

なんかこうじわじわっと桐山七段のペースになってた。名人が間違ったわけじゃない。

 

598 名無し名人

見応えのあるとても良い対局だったと思う。勝ち切った桐山七段は凄い。

 

599 名無し名人

去年の棋神戦の第一局の印象、ふっとばしちゃったな

 

600 名無し名人

いろいろ書かれたからなぁ。はやすぎたタイトル戦とか。

 

601 名無し名人

まぁ、そんなやつらも対局進めば黙ったんだけど。

 

602 名無し名人

この対局みて、年がどうのとぐだぐだ言うやつはもういないわ。

 

603 名無し名人

初の海外って事で心配してたけど、問題無かったぽい。

 

604 名無し名人

問題ないどころか、前夜祭の記事読んだが、向こうの関係者に簡単な英語で答えてたらしい。素晴らしい対応力。

 

605 名無し名人

やば、英語までできるの

 

606 名無し名人

読んだ。ホテルスタッフに頼まれて、揮毫書いてあげたらしい。

 

607 名無し名人

神対応。中学生でこれができるんだから、凄い。

 

608 名無し名人

わぁ、海外にも桐山七段のファンできちゃう~

 

609 名無し名人

将棋の魅力を海外に広めてくれる良い仕事してくれたんじゃない?

 

610 名無し名人

囲碁は海外にもプロいるけど、将棋は日本だけだからな。

 

611 名無し名人

プロの制度とかはさておき、ファンが増えるのは嬉しいな。

 

612 名無し名人

しかし、宗谷獅子王の敗退からはじまるとは、誰も予想しなかったな。

 

613 名無し名人

このシリーズ目が離せなくなっちまった。

 

 

 

 

 

 


 

[chapter:中学生プロ棋士桐山零くん応援スレPart82]

367 名無し名人

いよいよ、第六局になるんだなぁ

 

368 名無し名人

熱戦が繰り広げられてて本当に嬉しい。

 

369 名無し名人

桐山七段が勝てばタイトル獲得

 

370 名無し名人

いや、順番なら名人が勝つターン

 

371 名無し名人

確かにここまで、取って取られて。一進一退って感じ。

 

372 名無し名人

せっかく故郷での凱旋対局だし、桐山くんますます気合い入るだろうなぁ

 

373 名無し名人

……うーん、どうなんだろう。

 

374 名無し名人

随分急に決まったみたいだし、何もないと良いけどと、少し心配。

 

375 名無し名人

不穏な事言うなよな~。藤澤門下の人たちいるし大丈夫だろ

 

376 名無し名人

なんか問題あるん?

 

377 名無し名人

そっか、奨励会時代から知ってる奴ならともかく、今はそんな出回ってる情報じゃないのか。

 

378 名無し名人

え、気になるんだけど。

 

379 名無し名人

桐山七段が長野から東京に来た経緯は少し特殊というか……

 

380 名無し名人

親や家族みんな亡くなった親戚の子どもを、わざわざ東京の施設にいれるなんて、絶対、碌な事なかったやろ

 

381 名無し名人

>>380

こら、そういう事言わない。実際はどうだったかは、当事者以外、誰にも分からないんだから。

 

382 名無し名人

まぁ小学生プロ棋士誕生を祝うその裏で、当時は週刊誌が色々書いててなぁ。

 

383 名無し名人

実際前のタイトル戦の時、長野での対局なかったじゃん。何回もタイトル戦してる棋士ならともかく、初のタイトル戦だぞ。

 

384 名無し名人

希望すれば、地元の開催の予定があってもおかしくないのに、そういえば無かったな。

 

385 名無し名人

えーーー。なんか不安要素がある状態で対局してほしくないんだけど。

 

386 名無し名人

予定してた所で、ボヤ騒ぎがあったんだろ。変えるのは妥当。

 

387 名無し名人

不測の事態だったのかもしれん。俺らには何も分からない。ただ見守るだけだ。

 

388 名無し名人

そうそう、大丈夫だって、もし取られても次あるんだしさ。

 

389 名無し名人

いや、此処で決めて欲しい気持ちが、大きいんだが。

 

 

472 名無し名人

一日目終了。今日は宗谷名人がおしてたな。

 

473 名無し名人

うーーーん。なんか、今回は厳しそ

 

474 名無し名人

桐山七段にこう、気合の一手ぽいのが無かったな。

 

475 名無し名人

離席もいつもより多かったよな?気分変えたかった感じ。

 

476 名無し名人

普段は離席もすくないのにね、トイレとか以外でするイメージない。

 

477 名無し名人

前夜祭参加した現地組なんだが……。桐山七段的にはしんどかったかもなぁ。

 

478 名無し名人

何?なんかトラブルあった?

 

479 名無し名人

いや、全く。恙なく終わったよ。けど、なんというか、期待が凄いというか……

 

480 名無し名人

凄い歓迎ムードだったけど?

 

481 名無し名人

色んな人に声をかけられてたな。終始和やかに対応してたぜ。

 

482 名無し名人

いつもだったら、当然宗谷名人の方がそういうの多いんだけど、今回は桐山七段の方への注目度が高くて。

 

483 名無し名人

はー。流石に地元だったってわけね。

 

484 名無し名人

家族の事で声かけてる人も若干いたしなぁ。

 

485 名無し名人

桐山七段のお父さん地元では有名なお医者さんだったぽいから。

 

486 名無し名人

同い年くらいの子も応援きてたぜ、友達かな?

 

487 名無し名人

あーーー、その子従兄弟だったぽいぞ。

 

488 名無し名人

>>487

ま? それって噂の叔母の子って事?

 

489 名無し名人

え、長野から追い出した元凶じゃん。

 

490 名無し名人

うっわぁ、その辺りの関係者も来てたの。

 

491 名無し名人

将棋と関係ない事は此処では言わなくていいだろ。

 

492 名無し名人

まぁ、いつもよりは気苦労多そうっていうのは分かった。

 

493 名無し名人

明日、切り替えてくれると良いけど。

 

494 名無し名人

悪い事ばかりじゃないと思う。ほんとにめちゃくちゃ好意的だったよ?

 

495 名無し名人

でも、声援を力に出来るのってある程度前向きな時じゃない?

 

496 名無し名人

俺は信じてる、大丈夫きっと勝つって。

 

497 名無し名人

流石に今回は宗谷名人がこのまま決めると思う。

 

 

634 名無し名人

うっわぁ千日手かぁ。

 

635 名無し名人

え、この時間から?今日指しなおすの?

 

636 名無し名人

そうだよ、指しなおしはその日。

 

637 名無し名人

えぇ……めっちゃ疲れるやん。

 

638 名無し名人

体力的に桐山七段が不利じゃね?

 

639 名無し名人

いやー、宗谷名人側だって相当しんどいよ。

 

640 名無し名人

ここまで来たら、もうどっちも気力で持たせてる。

 

641 名無し名人

でも……千日手決まったときの桐山七段の顔、みた?

 

642 名無し名人

いや、よく見えなかったけど

 

643 名無し名人

たぶんだけど……、笑ってたと思う。

 

644 名無し名人

思った!笑ってたよな?これは楽しみ。

 

645 名無し名人

おぉ。気合充分じゃん!

 

646 名無し名人

観てる側も体力的にキツイのにw

 

647 名無し名人

どーーーしよ、明日の一限目サボっちゃおうかなぁ

 

648 名無し名人

俺はちゃんと会社にいく。たとえ徹夜したとしても。

 

649 名無し名人

これは観るよ、観たいよ。だって今日決まるかもしんない。

 

650 名無し名人

中学生のタイトルホルダーの誕生、リアタイしたいだろが。

 

651 名無し名人

昨日は宗谷名人が有利に思ってる人が多かったのにw

 

652 名無し名人

今日の桐山七段みたらいけるかもって思った。

 

653 名無し名人

詰めろの回避、お見事でした。

 

654 名無し名人

もーーー絶対名人が決めたと思った。

 

655 名無し名人

解説もこれは厳しいって言ってたもんね

 

656 名無し名人

持ち時間10分切ったあの状況で、回避できる一手をよく思いついた。

 

657 名無し名人

122手目6六銀……いやぁ、しびれたねぇ。

 

658 名無し名人

これは今年の名局に絶対入る。

 

659 名無し名人

言うても、千日手は初だろ。持ち時間とかもちょっと違うし。

 

660 名無し名人

経験値が低いのは確か。でもそれ以上に期待してしまう。

 

888 名無し名人

おめでとう、ほんとうにおめでとうございます。

 

889 名無し名人

勝った!勝った!勝った!

 

890 名無し名人

桐山獅子王おめでとうございます。

 

891 名無し名人

本当に勝ってしまうなんて。

 

892 名無し名人

結局は宗谷名人が防衛するんだろうなって思ってた。

 

893 名無し名人

>>892

わかる。それくらい、今期の名人は強かったよ。

 

894 名無し名人

われ、うん十年の将棋ファン。宗谷名人が初めて名人になった時からみてるけど、いつかはこんな日がくるんだろうなと思っていた。

 

895 名無し名人

この日に立ち会えて本当に良かった。

 

896 名無し名人

まだまだ、宗谷名人の時代は続きそうだけど、今日確実に何かが変わったな。

 

897 名無し名人

いやぁここまで長かったなぁ。……あれ、長かった……のか?

 

898 名無し名人

奨励会時代から見守ってたとしても、5年ほどのはず。

 

899 名無し名人

あっという間だったわw

 

900 名無し名人

俺たちの桐山くんがついにタイトルホルダーか。

 

901 名無し名人

桐山獅子王、カッコイイじゃないか。

 

902 名無し名人

インタビューみた?

 

903 名無し名人

当たり前だろ、もう俺泣いちゃった

 

904 名無し名人

「将棋が好きです。もうただ、それだけで良いんだって、ようやく分かった気がします」……いや、これは泣くって。

 

905 名無し名人

おじさんはさぁ、ランドセル背負って記録係してた頃からみてきたわけよ。なんか感無量。

 

906 名無し名人

プロ棋士になったときの会見みてたけど、いつかこんな日が来るって信じてたわ。

 

907 名無し名人

でたw謎の保護者たちw

 

908 名無し名人

このスレはそんな奴ばっかだろw

 

909 名無し名人

いや、本当にめでたい。

 

910 名無し名人

ありがとうって言いたいわ、此処まで本当によく頑張ってくれた。

 

911 名無し名人

大変な事も沢山あったと思う、俺たちに今日の対局をみせてくれてありがとう。

 

912 名無し名人

中学生のタイトルホルダーか。これからが大変だなぁ。

 

913 名無し名人

獅子王って事は免状書いたりとかもあるわけでしょ?

 

914 名無し名人

雑事は増えるとは思う。

 

915 名無し名人

まだ学生も続けないといけないのに~~~

 

916 名無し名人

宗谷名人との対局をもっとみたいなぁ。

 

917 名無し名人

分かる。今回の獅子王戦、どの対局も見応えあったもんな。

 

918 名無し名人

名人もやる気だし、今年度の挑戦権決まってないのだってまだあるじゃん!

 

919 名無し名人

「取られて悔しかったから、来年は僕が取りに行きます。なので、上座でお待ち頂ければ」

このラスボス感よw

 

920 名無し名人

これ絶対来年の獅子王戦もこのカードだろw

 

921 名無し名人

防衛戦も観れるって事!? 楽しみだなぁ。

 

922 名無し名人

名人になるところも目撃者になってみせる!

 

923 名無し名人

順位戦も順調だしな。まさかの高校生で名人って事もありえるかもよ?

 

924 名無し名人

気が早い! でも是非やって欲しい~~~

 

925 名無し名人

高校生名人(ホンモノ)が生まれる可能性!?

 

926 名無し名人

(ホンモノ)笑ってしまった。アマの大会があるからなぁ普通はそっち想像しちゃう。

 

927 名無し名人

今日の獅子王の獲得が、歴史に刻まれたように、彼なら何度だってやってくれると思う。

 

928 名無し名人

この先もずっと応援する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[chapter:桐山零獅子王応援スレPart88]

 

512 名無し名人

桐山獅子王の就任式の様子、テレビでもちょっと流れてた!

 

513 名無し名人

夕飯時の結構良い時間だったよな?

 

514 名無し名人

夜の寝る前のニュースとかでもしてほしい。

 

515 名無し名人

もっと大きくニュースになっても良いと思うんだが

 

516 名無し名人

獲得自体は大注目だったんだけど。

 

517 名無し名人

世間の注目は、次いつタイトルを取るかにもう移っちゃってるからなぁ

 

518 名無し名人

就任式良かったぞ!存分に祝ってきたわ。

 

519 名無し名人

>>518

現地組? 羨ましいが過ぎるんだが。

 

520 名無し名人

もうめっちゃ豪華だった。あんな大きな会場でするんだなぁ。

 

521 名無し名人

いやぁ気合入れたんだと思うと。初のタイトルだし、獅子王だし。

 

522 名無し名人

当たり前だが、他にも棋士にも沢山会えた。

 

523 名無し名人

表彰式も兼ねてるからね。

 

524 名無し名人

俺、島田八段のファンでさぁ。一組の優勝のお祝い言ったついでに、つい口が滑っちまって。

 

525 名無し名人

何て言ったん?

 

526 名無し名人

次は島田八段の就任式期待してますっていっちゃった……。

 

527 名無し名人

ふぅ~かますじゃん。でも、島田さんは気悪くしたりしなさそう。

 

528 名無し名人

この先も精進しますって無難に返されたけど、目はガチだったよ。絶対タイトル取ってくれるはず。俺はずっと応援する。

 

529 名無し名人

宗谷世代は圧倒的強さの宗谷名人が色々独占しちゃったからなぁ。

 

530 名無し名人

>>529

その相手に勝ちたいと、かなりレベル高いとも言われた世代でもあるんだなぁ。

 

531 名無し名人

でもこれからは桐山獅子王もいるわけじゃん。棋士も大変だな

 

532 名無し名人

絶対、桐山世代って言葉もそのうちできるぞw

 

533 名無し名人

誰がそれにあたるんだろ。

 

534 名無し名人

>>533

二海堂とかじゃね? 桐山獅子王と仲もいいんでしょ。

 

535 名無し名人

なんか研究会開いたりもしてるぽいし!

 

536 名無し名人

皆で切磋琢磨して、もっと面白い将棋見せてくれるなら、最高だな。

 

537 名無し名人

そういえば、長野のご実家から大きいお花届いてたよ。

 

538 名無し名人

桐山獅子王もそれみて嬉しそうだったよなぁ

 

539 名無し名人

>>537

晴れ舞台だし、花を添えるくらいはするだろうよ。

 

540 名無し名人

就任挨拶きいたけど、本人的には色々吹っ切れて、一皮むけた感がめっちゃあった!

 

541 名無し名人

>>540

わかる!結果的に故郷での対局はいいきっかけになった感じ。

 

542 名無し名人

師匠の祝辞に感動した。お父さんの方とご縁も含めて。

 

543 名無し名人

「我々の将棋を胸に抱きながら、どうかこのまま健やかに、歩んでいってほしいと切に願っています」

いいよなぁ。師匠から弟子へってずっと繋がってきた歴史を感じる

 

544 名無し名人

中学生に獅子王が背負えるのかって声もあったぽいけど、あの姿皆にみせてまわりたい。

 

545 名無し名人

みたら何も言えなくなるはず。立派にやれてるよ桐山獅子王!

 

546 名無し名人

今の免状めっちゃ豪華よな。宗谷名人で桐山獅子王の署名入るんだろ。

 

547 名無し名人

すっごい申請きてるらしいよ。

 

548 名無し名人

将棋連盟のサイトで、順次対応していきますってお知らせあった。追いついてないんだろう。

 

549 名無し名人

今後将棋界を担うであろう桐山くんの初タイトルだったもんなぁ。

 

550 名無し名人

初タイトルが獅子王ってやっぱ彼持ってるというか、なんというか。

 

551 名無し名人

この先もいっぱいタイトル獲ると思うけど、初タイトルってところに魅力を感じてる人は多いはず。

 

552 名無し名人

俺も出したいけど、値段がなぁ

 

553 名無し名人

なんとしても手に入れたいけど、まだ初段ですらないから……次の機会までに段位取得目指さないと。

 

 




pixivの方で、掲示板風の後編まとめをあげたので、こちらにも少し。
元々、獅子王戦の時の掲示板をみたいと言われていましたので。

向こうの方はもう少し細々とした回も入れています。


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