告白 (hekusokazura)
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序幕

 小さな湖のほとりを通る道を、青年は歩いていた。

 砂利に草むら、そして時々水たまりが交互に続く未舗装の道は、一般車両1台分の道幅しかない。青年は最近手に入れたばかりのマイカーでこの土地までやってきたが、運転技術の未熟さは自覚しており、この細道にマイカーで進入する自信はなかった。

 正面から吹き抜ける風。右手には静寂に包まれた湖。左手には林立する広葉樹。新緑の隙間からは午後の強い日差しが漏れ出て、彼の歩く道に光と影のまだら模様を作っている。

 一般道に車を停め、日差しが照り付ける荒れ気味の細道を30分歩いた末に辿り着いた湖畔の道。汗だくになっていた彼にとって、涼やかな風と木陰に覆われたこの湖畔の道は、まるで天国のような場所だった。

 

「…らしくないな」

 

 青年は呟いた。

 

 彼はある人物を訪ねるべく、この道を歩いている。

 先ほどからその目当ての人物の印象を、眼前に広がる清涼感に包まれた光景に重ねようと試みるが、心に思い浮かぶのはまるで不出来な合成写真のようであり、とても不似合いで、らしくないのだ。

 実のところ、この道の行く着く先に、目当ての人物がいるという確証は得られてなかった。青年の中では80%くらいの確信は持っていたが、状況証拠のみしか揃っておらず、客観的にみた確率は半々といったところだろう。

 そして進めば進むほど、その人物の印象と解離していく爽やかな風景。

 彼の中での確率が急降下していく。

 青年は、ともすれば来た道を引き返してしまいそうになる足を叱咤しながら、道の奥へと歩みを進めていった。

 

 

 彼の中での確率がそろそろ50%を割ろうとしたころ。

 

 青年は、小屋の前に立っていた。

湖畔の畔に立つ小屋。木造の朽ちかけた小屋。一応、屋根と柱と壁はあるが、屋根と壁の至る所に苔が生い茂っており、柱も少し傾いている。何とか頑張って建っている、辛うじて雨露が防げている、そんな粗末な小屋だった。

 ずっと続いていた道が、この小屋で途切れている。見落とした可能性はゼロではないが、道の途中に分岐はなかったはず。湖畔と、この小屋のために用意された道。

 彼の中での確率は、30%を割ろうとしている。

 

 小屋を観察してみる。

 朽ちた柱や屋根、苔が生い茂った壁。一見して、建てられてから相当の年月が経っているように思える。

 ただし、放棄されているようにも見えない。小屋の周辺の草は踝の辺りまでで刈り取られており、広葉樹に囲まれながらも落ち葉に埋もれた様子もなく、板張りのポーチは綺麗に掃除されている。

 視線を小屋より奥の方へと向けてみると、小屋の右手には軽トラックが停められていた。暫く使われていないのか、落ち葉を被っている。一方で小屋の左手には炊事場のような場所がある。こんな場所にガスが通っているはずもなく、あるのは前時代的なかまどだ。そのかまどの方は落ち葉は被っておらず、火は消されているものの、くべられてまだそう時間が経っていない薪が積まれている。

 そこかしこ生活の跡。

 

 小屋には、誰かが住んでいる。

 

 ―――こんなところに。

 

 青年は生唾を飲み込んだ。

 その小屋の雰囲気と、目当ての人物の印象は、やはり頭の中でこれっぽっちも一致しないが、彼がかき集めた情報が、あの男はここに居る、と言っているのだ。

 ふと、自身の右手を見下ろす。

 右手が、小刻みに震えていた。

 青年は咄嗟に左手で右手首を握りしめ、震えが収まるよう念じた。

 うろたえるな、覚悟は決めていただろう…と、自分に言い聞かせる。

 

 小屋の板張りのポーチに上がる。コトリ、と靴で板を踏む音が響いた。つま先で板をこんこんと叩き、靴の裏についた泥を払い落とす。

 ノックをするべきかどうか迷ったが、未だに震えが収まらない右手は、直接ドアノブへと伸びた。

 時計回りに捻ってみる。

 

 回らない。

 

 ドアは鍵が締まっている。青年は困った様子もなく、ポケットから取り出した針金を慣れた手つきで鍵穴に突っ込み、上下に動かす。針金の先に神経を集中させているうちに、右手の震えは消えていた。

 固く結ばれていた金属同士が、解放される音。

 再度、ドアノブに手を掛ける。歪んだ小屋のドアだったが、錆びた蝶つがいの嫌な音が響いただけで、抵抗なく開いた。

 

 小屋の中はドアの位置からその隅々が見渡せるほどの小さな部屋だった。

 中央には小さなテーブルと椅子が一つ。その奥には鉄製の骨組みと薄いマットだけで出来たベッドが壁付けに置かれ、ベッドの上の壁にあるこの部屋唯一の窓から陽の光が射し込んでいる。

 

 その窓と対面にあるドアに立つ青年は、正面から射す陽の光に目を細めた。狭い部屋だったが、逆光でベッドの周辺だけがよく見えない。しかしそれほど強い光でもないため、目はすぐに慣れ、そして彼の双眸はその男の影を捉えた。

 

 男が壁際のベッドに腰を掛けている。

 青年が立つドアと対面するように、男が座っている。

 

 男の存在を認めた途端、青年は呼吸を忘れてしまう。

 

 ドアを開けるまでは、半信半疑だった。

 本当に、自分の推論は正しいのだろうか。

 間違っていなかっただろうか。

 

 そして、男が居る。

 こちらと対面するように、男が座っている。

 

 青年の頭は、咄嗟にあの部屋のことを思い出してしまう。人一人のために用意されたにしては無駄に広い部屋。その広さに反比例して、奇妙に照明が少ない部屋。これまた人一人のために用意されたにしては無駄に大きいテーブルに、あの男が両肘を付き、組んだ手の上に顎を乗せて、サングラス越しにこちらを見据えている。

 

 あの部屋に鎮座する男の姿が頭に浮かんで、そして今、目の前にいる男の姿にそれを重ねて。

 

 異変はすぐに気づいた。

 

 頭に浮かぶのは、行く手を塞ぐものは全て排除せんとする強固な意思を全身に滾らせながら、静かに座る男の姿。

 

 目の前にいる男は、項垂れるように、首を垂れ、肩を落とし、四肢を投げ出してベッドに座っていた。

 目は微かに開いていたが、何処か焦点の合わない瞳から放たれる虚弱な視線は、木板で出来た床を力なく彷徨っている。涎が滴り落ちる口からは、時折ぶつぶつとその男の声が漏れ出ていた。

 

 頭に浮かぶ男と、一致しない目の前の男の姿。

 

 青年は男に会うために、長い道のりと時間を越えてここまでやって来た。

 現地に入り、1週間以上の調査を重ねた末に、男がこの湖畔の近くに居ると、そう確信しても、青年はすぐに男に会いにいくことができなかった。数日の逡巡。その数日の遅れが、男が行方をくらませるための猶予を与えたかもしれないのに。

 いや、あるいはそうであってほしいと願っていたのか。

 この日、この小屋のドアの向こうには、誰も居なかった。

 そんな間の抜けた結末を、青年は心の何処かで期待していたのかもしれない。

 

 しかし男はそこに居た。

 

 ひと間違いではないか?別人ではないか?

 ここに至って。目的の男に相対してなお、青年は期待した。

 自分の記憶とはかけ離れている男の姿。もともと短く切り揃えられていた頭髪は、さらに短く丸刈りになっている。さっぱりとした頭髪とは対照的に、髭は顎だけでなく鼻の下まで蓄えられている。以前掛けていたサングラスはない。何より違うのが目。冷たい瞳の奥に宿る、恐るべき野心の炎を宿していた目が、今は空虚に満ちている。

 

「あなたは、…碇ゲンドウ…ですか?」

 声が掠れてしまう。

 喉が、舌が、乾いて張り付いてしまっているのは、歩き続けて大量の汗を流してしまったから、だけではないだろう。

 

 ここまでノックもなしに突然やってきた来訪者に対して何の反応も見せなかった男が、青年の呼びかけにようやく頭を上げた。虚ろな目が青年の姿を捉える。

 

 青年は繰り返す。

「特務機関ネルフ総司令官、碇ゲンドウですね?」

 

 男の表情に変化はなかった。数秒間だけ、青年の顔を見つめ、その視線はやがて天井へと移り、そしてゆっくりと、ぐるっと部屋の中を回って、再び床の上に落ちる。そして誰も居ない床に向かって、ぶつぶつと何事かを呟く。

 

 青年にとっては否定の言葉を期待しての呼びかけだった。「違います」と言ってくれたら、「ああそうですか。ごめんなさい」と言って、帰ってしまってもよかった。しかし肯定も否定もされず、無視という形での返答は、青年の心にもどかしさだけを残す。

 もどかしさが苛立ちへ、そして焦燥感へと変わり、彼を実力行使に走らせることにそう時間は掛からなかった。

 青年は大きな足音を立てて男の側に歩み寄る。前屈みの男の背中を青年は見下ろした。

 

「…返事を」

 静かな、しかし強く迫るような声を、男の背中に落とす。

 

 男からの返事はない。

 

 青年は行動に移した。男の肩からぶらんと垂れ下がった右腕を掴み、自身の胸元に引き寄せた。自らの右腕に引っ張られる形で、男の顎が浮く。

 男と青年の視線が、間近で交差した。

 

「あなたは碇ゲンドウですか」

 冷たいナイフのような声。

 

 もとよりこの場所に来ること自体が青年の心を穏やかならざるものにしていた。彼の脚を何重にも絡めていた逡巡の糸をようやく振り払い、この小屋までやってきたのだ。

 この期に及んで、あなたに無視されるために、ここまで来たんじゃない。

 

 せめて返事を。

 是でも否でもいい。

 返事をしてさえくれたら。

 僕は、自分が取るべき行動を決断できるのに。

 

 青年の呼びかけにも、なお無言を貫く男。

 

 青年の手に、力がこもる。

 戸惑いと怒りで頭が真っ白になりかけた。

 

 そんな青年の視界の片隅に、それはあった。

 青年が掴んだいた男の腕。男の手のひら。

 

 古い火傷の痕。

 男の手のひらに、こびりつく様に、それはあった。

 

 真っ白になりかけていた青年の視界が、急速に広がり、色彩を帯びていく。

 限界にまで高まった胸の鼓動が、少しずつ落ち着ていくのを青年は自覚した。

 

 青年は手の力を緩める。

 

「…久しぶりだね。…父さん…」

 

 青年の口から漏れ出た声は、落胆に塗れていた。

 

 

 その時だった。空虚に支配され、変わることのなかった男の表情が大きく歪んだのは。

 見開かれた双眸が、青年を睨んでいた。

 

「…誰だ…」

 

 男の口から初めて聞くことができた、意味のある言葉。

 

「…お前は、…誰…だ」

 

 数年前と同じ低くて、しかし酷く掠れた声。耳をそばだてなければ、聴こえないような弱弱しい声。

 青年の顔も、男同様に歪んだ。

 

「僕だよ。父さん」

 

 最後の別れから数年が経つ。成長期只中だったかつての少年は、身長も伸び、幼さを残していた顔貌も精悍なそれへと変化し、少年は青年へと成長を遂げていた。数年ぶりに突然現れた彼を、男が認識できないのも無理からぬことかもしれない。

 それは青年も分かっている。

 だとしても。

 

「…知らん。…誰だ」

 

 僕を知らない…?

 

 僕の人生をめちゃくちゃにした癖に。

 僕の大切な人たちを次々と不幸に陥れた癖に。

 

 僕を知らない…だと?

 

「僕だよ!父さん!」

 あえて名乗らない。

 この男の口から、自分の名前を聴くまでは、絶対にこちらから名乗ってやるものか。

 

「知らん…、知らん…」

 男は繰り返す。

「お前など知らん。誰だ。離せ、離せ、この手を離せ。誰だお前は。離せ離せ離せ離せ!離せ!離せ!!離せあああああああ!!!!」

 

 ついに狂乱した男は自身の腕を掴む青年の腕を振り払った。その拍子に男の体が大きく揺らぎ、男はベッドから滑り落ちる。

 床に這いつくばる男。

「うぅ…、知らん、…知らん。…お前など…知らん…」

 背後に立つ青年を背中で拒絶するように男は繰り返し呟いた。

 

 

 ―――なんだ…これは。

 

 

 無様な男の背中を見下ろし、立ち尽くす青年。

 

 なんなんだ…これは。

 

 苦々しく眉根を歪め、じたばたと床の上でもがく男を、手を差し伸べるでもなく見下ろしている。

 突然の訪問者に恐怖している様子の男は、床を這いながら青年のもとから離れようとする。

 青年は気づいた。

 

「…歩けないのか…」

 ふと視線を上に向けると、男が這って行こうとする先に、くたびれた車いすが置かれてあった。

 

 おそらく男の唯一の移動手段になるのであろう車いすに、男は腕の力だけを頼りに這い寄ろうとしていた。観察してみる限り、男の両足、特に膝から下が随意的に動いているようにはみえない。

 

 まるで大きな芋虫のように、床を這って行く男の背中。

 かつて、青年がこの世で最も恐れ、憎んだ男の背中は、そこにはなかった。

 困惑の沼に深く沈んでいく一方で、急速に冷めていく青年の心。

 

 見ていられなくなり、男の側に寄り、ひざまずく。

「起きて。父さん」

 男の肩に手を回し、体を起こそうとした。

 

「触るなぁ!」

 男の左手が青年の肩を襲った。その痩せこけた体からは想像できない力で青年は突き飛ばされ、背後のベッドで背中を打つ。

 青年の助けで上半身だけ体を起こすことができていた男は、尻餅をついたまま後ずさり、車いすに背を着けた。脂汗がしたたり落ちる額。小刻みに揺れる顎。ギョロっと見開かれた双眸から放たれる視線は、何かを求めるように忙しなく宙を舞っていた。

 

「ユイ…」

 小刻みに触れ合う歯がカチカチと嫌な音を立てる口から零れた名前。

 背中に痛みを堪えながら起き上がろうとしていた青年の動きが止まる。

 

「ユイ…どこだ…、ユイ。どこにいる…。…ユイ…」

 

 青年は頭を抱えた。頭を抱えるだけでなく、耳を塞ぎたくなった。

 この小屋に入ってからというもの、うんざりすることばかりだ。

 

 呼んだとて、どこからも返事が返ってくるはずのない名前。

 この世の何処にも存在しないその名を、真剣に呼び求める姿。

 

 認めるしかない。

 探していた男は確かにここに居た。

 しかし、自分が求めていた男は、ここには居ない。

 今ここに居るのは、畏怖と増悪の象徴であった男の、ただの抜け殻。

 

「俺を…一人にしないでくれ…」

 

 冷めていた青年の心の中からどす黒い衝動が溢れ出し、全身を滾らせる。

 

 この男の口からそのような言葉がこの世界に放たれることは、青年にとっては許しがたいことだった。

 まとも歩けもしない男の顎を蹴り上げ、浮いた顔面に膝を入れ、仰向けに倒れた男の腹部に踵を落とす。

 もし背後でドアが開く音がしなかったら、青年は衝動に突き動かされるままに、それらを実行したに違いなかった。

 

 開いたドアから流れ込んでくる柔らかな風。

 開いたドアの向こうに立つ人の気配。

 

 青年はあえてドアの方を見ない。

 

 醜い怒りに支配されそうになった自分の顔を見せたくなかったから。

 

 開いたドアの向こうに立っている者の正体を知っていたから。

 



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第一章 其の一

 かつて起こった極大事象により未だ混乱の最中にあるこの国で、生きているかどうかも定かではない一人の男を捜すという行為は、藁の山の中で小指の先程もない小さな針を捜す行為に等しいものだった。

 ましてや、対象は今や世界で最も有名な人物の一人となった男である。そんな対象の情報は毎日巨大な滝のように手もとになだれ込み、そんな大量の情報の中から有益な情報を拾い上げようものなら、それこそ大海に浮かぶ小さな木片を探し求める行為に等しいものだった。

 それでも生真面目な性格の青年は、毎日のように転がり込む情報を一つ一つしらみつぶしに当たっては徒労に終わるという作業を、この数年間ひたすら繰り返した。

 もはや対象の男は生きていないかもしれない、あるいは、国外に脱出しているかもしれない、という可能性に目を瞑りながら。

 

 

『軽トラックに乗る男を見た』

『軽トラックの助手席には女性が座っていた』 

 

 この情報も最初は日々浮いては沈む不確かな情報の一つに過ぎなかった。

 そもそも、何処に行くにしても大型ヘリコプターを繰り出し、運転手付きの高級車に乗っていたあの男が、軽トラックに乗っていたという時点で違和感しかない。それでも青年は、一般人から寄せられたこの怪しさ極まりない目撃情報についても、生真面目に調査した。

 すると、同様の目撃情報が他にも幾つか浮かび上がったのである。

 これらの目撃情報については時間や場所の統一性がなく、この情報の信憑性が取り立てて高いわけではなかった。しかし、青年の心はこの情報に強く惹かれた。

 掴んだ情報全てが目撃証言のみ。乗車する男の顔や、同乗していたという女性の顔、軽トラックの映像など、監視カメラ等による有力な物証がないにも関わらず、これらの証言が他の情報を差し置いて注目せざるを得ない魅力を放っていたのは、「軽トラック」という同じ乗り物を使いその傍らには必ず女性が座っていた、という共通項があったからだった。

 目撃証言は時間も場所もてんでばらばら。それがかえって、これらの証言に潜む連続性を感じさせる。潜伏を試みる男が潜伏先を定期的に変えているとしたら、目撃証言の時間と場所がばらばらであっても不自然ではないからだ。潜伏先を変えても乗り物は変えていないという点が、どうも間抜けに感じてしまうが。

 手もとに集まったこれらの証言が、男が女性を伴って全国各地を移動しているところを、目撃された証言だとしたら。

 

 そう。

 これらの目撃証言には、男の傍らに必ず女性が居るのである。

 

 青年はこれまでずっと続けてきた捜索方法を、変えることにした。

 捜索の焦点を男から、男の傍らに居たとされる女性に移すことにしたのである。

 

 男が行動を共にするであろう女性。青年の脳裏に浮かぶのは、1人だけだった。

 もちろん、青年が男の交友関係を全て把握しているわけではないし、むしろ青年が知らない交友関係の方が多いだろう。女性が、青年が知る者であるとは限らないのだ。

 だが、可能性の枠を広げてしまえば、調査すべき対象が鼠算式に増えてしまい、たちまち自身の能力を超えてパンクしてしまうのは目に見えている。

 だから青年は、まず頭に浮かぶその女性の行方を追うことにした。

 

 

 女性は科学者だった。男が統括していた組織における技術部門のトップだった。男が抱く野心の成就のためにあらゆるものを差し出していた。そして最後に男に裏切られていたことを知り、自棄に駆られた末に、男の計画の要となる巨大な水槽に浮かぶ虚無の群れを破壊した。

 裏切り、裏切られた間柄であるこの二人が、果たして今も行動を共にしているのか、甚だ疑問ではあったが、青年は女性科学者の情報を集め始めた。

 

 数カ月の調査の末、ようやく女性の身内を発見した。すでに女性の両親は他界し、女性は結婚もしていなかったが、地方都市の養老院に身寄りのない高齢者として入所している寝たきりの老婆が、女性の祖母であることを突き止めた。

 養老院に残されている老婆の面会記録を調べたが、老婆が入所して以来誰かが会いに来たという記録はない。老婆に届く手紙は役所関係のものばかり。資産も調べたが怪しい金の動きはなく、養老院の費用は老婆の年金と公費のみで賄われていた。新聞やラジオの尋ね人欄などにそれとなく老婆の情報を流し、実際に養老院で張り込みを行ってもみたが、老婆のもとに訪れる者はいなかった。

 女性科学者が老婆に接触した形跡はない。老婆から女性科学者の行方を辿るのは諦めた方がよいのか。青年が、以前から女性科学者の行方を追っていた仲間たちとそう相談し始めた頃。

 

 女性科学者の行方は思わぬところから、それも極めて近い場所から拍子抜けするほどあっさりと発覚した。

 何かヒントがあればと老婆が入る養老院の部屋の同室者のことも調べてみたところ、老婆のベッドの真向かいに眠る寝たきり老人が引っ掛かった。その老人は身元不明者としてこの養老院に引き取られていたが、身元不明者にも関わらず、数カ月前から1月に1回何者かが面会に訪れているというのだ。

 張り込みを行っていた期間中も、確かにその老人のもとを訪れている者を確認している。老人は自身が何者かも名乗れないほど老衰が進み意思疎通もままならず、食べる時以外はベッドで横になっている日々だ。来訪者はそんな老人が横になるベッドの側の椅子に座り、30分ほど滞在した末に帰っていっていた。

 

 再び養老院の張り込みを始めてから2週間。

 女性科学者は青年の仲間たちによって拘束された。

 

 張り込みの交代で拘束の場面に立ち会えていなかった青年が、女性科学者との面会が許されたのはそれから1週間して後のことだった。

 

 

 面会室に入ると、部屋を二つに分かつ透明なアクリル板の向こうに、青年の知る顔があった。女性科学者は短く切り揃えられた黒髪をしていたが、太目の眉と目の下のほくろは最後に会った時と変わっていなかった。

 

「お久しぶりです。リツコさん」

 

「そうね。シンジくん」

 

 青年の月並みの挨拶に微笑みで返す女性科学者。その笑みは懐かしい者に出会えた喜びもあったかもしれないが、かつての仲間(少なくとも同じ組織に所属し共通の敵を相手に戦った者同士)の手によって拘束されてしまった間抜けな自分に対する嘲笑が多分に含まれていた。

 

 様々な機関や組織から追われている身であることは重々承知していた。だから誰とも連絡を取らず、どこにも定住せず、身を潜め続けたのに、半年前に何故か余計な情報が自分の耳に転がり込んできた。

 

 祖母が某市の養老院にいる。

 

 長期にわたる「一人」での逃亡生活。孤独は、どんな病よりも強力に女性の心と体を蝕んでいた。

 一目見るだけ。もちろん正面から会いにいくような愚は侵さない。同室者の面会を装い、離れた場所からベッドに横たわる祖母を眺めた。

 一目見るだけで終わるはずだった面会は、2回、3回と重ねられた。

 あらゆるものから逃げ続けていた女性にとって、1月に1回、養老院に足を運ぶこの時だけが、自身を蝕む孤独から解放することができた。もはや足を止めることはできなかった。

 結果、そこに付け込まれ、今は虜囚の身である。

 

 常に冷静な観察眼を持つことが求められる科学者は、あらゆるものに対して感情を持ち込んではならない、と自身に言い聞かせてきたが、思えば極めて優秀な科学者だった母は情動に駆られた末に自ら命を断ち、コンピュータに姿を変えてもなお女の情を優先させたのだ。自分はその娘なのだから、その末路は推して知るべきである。

 

「みんなは元気にしているの?」

 挨拶を交わしたきり、話しを切り出そうとしない青年に、女性の方から声を掛けた。

 部屋に入ってきた青年をみて、月日の流れを感じてしまった女性である。背が伸び、体は同年代の男性に比べるとまだ華奢な方だが、かつての中性的な印象を持たせた少年の面影は薄くなっている。

 しかし性格は見た目のそれに追いついていないようで、引っ込み思案なところは変わっていないようだ。挨拶をするためだけに、わざわざここに来たわけではないだろうに。

 

「あの頃の仲間とは、そんなに会えてはいないですけど。ああ。アスカは元気にしてますよ。ちょっと元気すぎるくらい」

 女性に話題を振られることで、青年はようやく滑らかに話しをすることができた。青年は、彼が知る限りの「あの頃の仲間」の今の話を女性に聴かせた。

 

 女性の口から笑い声が漏れる。

「そう、マヤが活躍してるのは結構なことだわ」

 二人の共通の思い出を確認しあうことで、場の空気が少しだけ和らいだ。

 

 青年は切り出す。

「父さんの…。碇ゲンドウの行方を捜しています」

 女性は意地悪そうに目を細める。

「なぜ、それを私に聴くの?」

「目撃者がいるんです。碇ゲンドウがいて、…その傍らに女性がいる…っていう」

「それが私だっていうの?」

 女性は声を上げて笑った。

 

 青年の前では一度、彼の父親に対する恨み辛みを吐き出す醜態を晒している。その後に自分が及んだ凶行も目撃していたはずだ。彼の父親をどんなに憎んでいるか。彼はそれを知っているはずなのに。

「リツ子さんは、その…。父さんを好きだったから…」

「そうね。あなたの父親がその好意に付け込んで、散々利用し、弄んだ挙句に、不様に捨てられた女の一人よ」

 不愉快を隠そうとしない女性に、青年は奥歯を噛みしめ、視線を床に落とした。

 青年を落ち込ませることは本意ではなかったので、女性はすぐに語気を和らげた。

「ごめんなさいね。でも、本当に知らないのよ。私はあの時からあなたの父親とは一度も会っていないわ」

「そう…ですか」

 青年は視線を落としたままだった。沈んでいく語尾に吊られるように、肩まで落としてしまっている。

 女性は深くため息をついた。

 

「ねえ。タバコない?」

「すみません。まだ未成年なんで」

「そう。私は高校生の頃から吸ってたけど」

 青年は苦笑いする。ようやく視線が上がった。

 

「お父さんを捜してどうするの?」

「適切に処置します」

 青年は彼にしては珍しく迷いのない、そして無感動な声で答えた。

「そう。でもそれは別にあなたがやらなければならないことではないでしょう」

 大人たちの事情で無理やり戦いの場に駆り出されていたあの少年が、今も大人たちがやり散らかした事の後始末をさせられているのかと思うと、女性は今更ながらに青年が不憫に思えた。

「特に、他にやりたいこともないので…」

 後頭部を掻きながら答える青年の仕草に、どこか「誤魔化し」を感じたが、父親を捜す彼の動機についてはこれ以上触れないことにした。そして父親を捜すためにわざわざ自分を探し当てた彼の労力に、少しは報いてやれたらと思った。不思議と自分を虜とすることに手を貸した彼を恨む気持ちはなかった。

 

「もしあなたの父親が女と一緒に居ると言うのなら、私じゃなくてもっと他に思い当たる女がいるんじゃないかしら?」

「そう…ですか?」

「いたでしょう。いつもコバンザメのように引っ付いていたあの女が」

 自分があの男を最後に見た瞬間も、その少女は彼の背中の陰に居た。

「それはありえませんよ」

 強めの否定。人と目を合わせることが苦手だったはずの青年の視線が、まっすぐにこちらに向けられたので、女性は少したじろいでしまった。

「彼女はもう、この世界には居ないのですから」

 青年は話を続けるために、深呼吸を一つ挟んだ。

 

「僕は願ったんです。もう誰にも傷つけられたくない。誰も傷つけたくないって。そんな世界に行きたいって。でも彼女が叶えてくれた世界は違ったんです。僕が望んだものじゃなかった。そして僕はもう一度願った。もう一度、みんなに会いたい、と。その僕の願い…いや、わがままを、彼女は叶えてくれた。叶えて、…そして消えたんです」

 

 青年は最後の言葉を腹の底から絞り出すように吐き出し、一息ついたところで、自分が柄にもなく捲し立てるように喋っていたことに気づいた。そしてその内容があまりにも抽象的で支離滅裂であったため、女性はさぞ困惑していることだろうと恥ずかしく思った。

 

 女性を見る。

 女性は困惑などしていなかった。口の両端を吊り上げ、目を丸くしてこちらを見ている。

「あなた…。あの時のことを覚えているのね…!」

 

 いや、覚えているどころの話ではない。この子は、あの時、正にあの渦中に居たのだ。

 時間にすれば1分にも満たない彼の独白。しかしそこからもたらされた情報量はあまりにも膨大であり、それは彼女が半生を掛けて費やした研究の成果をいとも簡単に過去のものにしてしまったのだった。

 

 彼の独白を非常に乱暴にまとめるとこうだ。

 

 彼は世界を望まなかった。だから世界は破壊された。

 

 しかし彼は世界の再生を望んだ。だから世界は再び生まれた。

 

 彼自身の力でそんな大それたことが成し遂げられた訳ではないだろうが、そこには彼自身の意思が多分に反映されていることは間違いなかった。

 

 世界を破壊し、世界を創造する。

 なんという事だろう。

 そんな事ができる存在を、私は一つしか知らない。

 

「…あ…ぅ…」

 何かを言いたくて、しかし発してよい言葉が見つからず、女性はみっともなく呻いてしまった。

 

 ―――今、目の前にいる彼は、自分が生涯に出会った中で最高の研究対象ではないか!

 

 

 人としてではなく、観察対象として向けられる眼差し。あの頃から、女性科学者から時折向けられるこの視線が、青年は苦手だった。

 

 居心地が悪そうな表情の青年を見て、女性は彼方に飛ばし掛けていた理性の紐を手繰った。

「ふっ…」

 思わず吹き出してしまう。

 

「…おかしいですよね」

 青年は出来る事ならすぐにでも自身の発言を撤回したかった。自分だって、あの時のあの体験はまるで現実味がない。誰かに説明したくても、今喋ったこと以上のことを上手く説明できる自信はない。おそらく自分が出会ってきた人々の中で、一番頭の良いこの人ならば、自分の拙い説明でも少しは理解してくれると思ったが。

「いや、ごめんなさい」

 自分の笑みの意図を青年は勘違いしているようだ。だから女性は謝った。

 

 自分が可笑しい。

 数年間に及んだ逃避行。最初の数年は、捕まる事への恐怖に苛まれた日々。そして後半の数年は、孤独という恐怖に蝕まれた日々。

 自分たちが莫大な時間と労力を積み重ねて引き起こしたあの事象に対する研究心など、抱く余裕はこれっぽっちもなかったのに。科学者としての自分は、あの日死んだと思っていたのに。

 もう逃げなくてもいい。そんな安堵感が、本来の自分を取り戻そうとしているようだ。状況次第で盤上の駒が白にも黒にもなるパズルゲームのよう。どうやら自覚していた以上に、自分は軽い女のようだ。

 

 ―――感謝しなければならないかもね。

 

 その切っ掛けを与えてくれたのは、今も困惑したように不安げな視線をこちらに向ける青年だ。

 この部屋に入ってきた時から暗いままだった表情が、より一層暗くなっている。早くも自分の発言に後悔している様子であった。

 誰も分かってくれない、分かろうとしてくれない。自己を否定することから始め、終いには世界全てを否定してしまう、多感な思春期にありがちな思考が、表情から読み取れる。思春期と呼べる年齢はとうの昔に過ぎているだろうに。あれから数年経ち、それなりの経験を積み重ねているだろうに。

 この青年にもう少し自己肯定感というものが芽生えれば、良い大人に成長するだろうに。私たちのようなろくでもない大人ではなく、もっとまともな大人に。

 

 再び笑みが漏れる。青年の心情どころかその成長過程まで慮る自分が可笑しかった。自分にはそんな資格などありはしないのに。

 私ができる事と言ったら、取り戻しつつある科学者としての立場から、ささやかな助言を述べることくらいだろう。

 

「私はあの時、あなたの父親に殺されたわ」

 

 柔和な笑みを浮かべる女性科学者の口から放たれた言葉は、ただでさえ落ち込んでいた青年の心をさらに打ちのめすものだった。耳に届いた言葉を頭が上手く消化することができず、青年はただ「えっ…」と聴き返すことしかできなかった。

 物騒な告白とは対照的に、女性科学者は穏やかな表情を崩さない。心の中で「これは推測にすぎないけれど」と注釈を入れた上で話を続けた。

 

「あの時、あの瞬間。全てのものが自己の形を捨て、混ざり合った。文字通り、全てのものが。あの時世界を満たしていたものは、言わば原始の海。まだ何も始まっていない、そして何事も起こりうる、ただあらゆる可能性のみが漂うだけの世界」

 

 女性科学者は、言葉を一つ一つ丁寧に選びながら青年に語り掛ける。

 

「私はあの時、あなたの父親に殺された」

 女性科学者の右手が無意識に鉄の塊に貫かれたはずの胸に触れた。

「でも私は生きているわ」

 自身の心臓が奏でる鼓動が伝わってくる。

 

「あそこでは何事でも起こりうるわ。…何でも、ね」

 

 

 青年は書き込んだメモ帳を胸ポケットにしまうと、腰掛けていたパイプ椅子から立ち上がった。

「では僕はこれで」

「そう。ありがとう。わざわざ会いに来てくれて」

 青年の目的は自分に会うことではなく、自分が持っている情報を聴き出すことであったろうが、それでも女性は感謝した。

 青年が浮かべる笑顔が少しだけ柔らかい。

 

「銘柄はなんです?」

「え?」

「たぶん今度来る時は、二十歳になっていると思いますから」

「いいわよ。そう何度も来るものじゃないわ」

「せめて進捗状況くらいは報告させて下さい」

「ふふ、分かったわ。それじゃお願いしようかしら」

 青年は胸ポケットにしまったメモ帳を取り出し、女性が愛喫していた銘柄を書き留める。青年が紙に走らせるペンの音は、どこか軽やかだ。

「ねえ?」

 そんな青年の姿を優し気な眼差しで見つめながら声を掛ける。

「なんです?」

「ミサトはどうしているの?」

 先ほど青年が知らせてくれた「昔の仲間」の近況の中に、女性の親友の名前はなかった。青年はメモ帳を閉じ、ゆっくりとした動作で胸ポケットにしまった。

「…あれからミサトさんとは会っていません。陸自の記録ではあの時の戦闘で死亡したとありました。国の『帰還者』リストにもミサトさんの名前はありません」

「…そう」

「…はい」

「……そうじゃないかな、って思ってたわ」

 女性はそう呟き、優し気な微笑みは浮かべたままで、目を伏せる。

「…でも」

「…なに?」

「…あそこでは、何でも起こりうるんですよね?」

 青年のその言葉に、女性は少し吹き出してしまう。自分が言ったばかりの言葉を、彼はもう彼自身のものにしている。そう言えば、彼は人間関係には不器用だったが、それ以外のことについては比較的飲み込みの早い器用な少年だった。

「ふふっ、そうね。それじゃ頑張ってね。報告楽しみにしてるわ」

「はい。また」

 



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第一章 其の二

 青年のメモ帳には、女性科学者から教えられた数種類の薬の名前が書かれていた。

 

―――あの子は、その製造過程で生じた遺伝子上の欠陥がいくつかあるの。簡単に言えば、本来体内で生成されるはずの生命の維持に必要不可欠な内分泌物質の幾つかが、彼女の体は作ることができないのよ。つまり彼女が生きていくためには、その物質を外部から取り込まなければならない。要は薬を飲み続けなければならないの。

 

 それがメモ帳に書き留めたこれらの薬だという。

 

―――どれもそれほど珍しくはない、ありふれた薬だから、世間に出回っている量は途方もない数になるでしょうね。でもその組み合わせで飲んでいる患者で限定すれば、ある程度は絞れてくるんじゃないかしら。

 

「確かに『ある程度』は絞れましたよ。リツコさん」

 

 青年は目の前に積み上げられた段ボールの山を見ながら独り言ちた。

 厚生省に照会を依頼したところ、かの極大事象以降、教えられた組み合わせの薬を処方された延べ患者数が、すなわちこの段ボールに詰められた書類の枚数になるのだという。全国各地の医療機関で発行された処方箋や診療報酬明細の写しが詰め込まれたこの段ボールの山を見ていると、頭がくらくらしてくる。

 

―――もっともあの子が正規の医療保険機関から薬を入手しているとは限らないけどね。

 

 ありがたいことに女性科学者はこれから自分が行う地道な作業が、全て徒労に終わる可能性も示唆してくれた。

 

 それでも。

 あの時、女性科学者が語った言葉。

 

 ―――あそこでは何事でも起こりうる。

 

 青年がこの捜索を始めてから見聞きした言葉の中で、その短い言葉は他のどの言葉よりも力強く青年の心の中に響いていた。

 

 元来が豆な性格で地味な作業を苦にしない青年である。厚生省が電子媒体ではなく、嫌がらせの様に寄越した書類の山の精査を、常人が行ったならば発狂してしまいそうになるほどの気の遠くなるような作業を、飛ぶような勢いで処理し、「彼女」を捜し出す作業に没頭した。

 本来の捜索対象である男のことが青年の頭からすっかり消えたのは、彼がこの捜索を始めてから初めてのことだった。

 

 事前調査として「彼女」の出自を調べてみたが、予想はしていたことだったが「彼女」には戸籍も住民票もなく、彼女の存在を証明するあらゆる資料がなかった。書類上、「彼女」はこの世に存在しない人間だった。したがって、この書類の山に「彼女」の名前がそのまま載っていることはありえない。大量の知らない名前の中から、「彼女」を見つけ出さなければなならい。

 

 まずは性別。次に年齢。それだけでも、条件に当てはまる対象患者はかなり絞られた。そこから女性の目撃情報があった地域の医療機関で抽出すると、捜査対象としてかなり現実的な数にまで絞られた。

 青年はそこからさらに調査対象を絞っていく。

 男と女はおそらく、捜索の手を逃れるため、潜伏先を転々と変えている。また、女性科学者が言うには、女の遺伝子上の欠陥はいつか治癒するという類のものではなく、したがって薬は一生飲み続けなければならないものらしい。

 青年は対象の中から、同一の患者で転居を繰り返している者を捜してみたが、対象の中には見つからなかった。次に、薬の処方が途中で止まっている患者をリストアップし、「彼女ら」の死亡届が出されていないかを確認した。そして、死亡届が出されていない患者の処方が中止されてから近い時期に、別の医療機関で別の患者の名前で同様の処方が始まった患者を抽出する。同じ作業をひたすら繰り返す。

 用事がない限りは殆ど外出せず与えられた部屋に閉じこもり、昼夜構わず、寝食を惜しんで書類の山との格闘を続けて1ヶ月。

 

 一つの「線」が見えた。

 「線」の始まりは、かつてこの国の3番目の首都の名称を与えられた都市から、少し離れた小さな街。次は温泉で有名な海辺の観光都市。次は片田舎の漁村。次は広大な工業地帯の一角を担う地方都市。次は山間の農村。次は…。

 

 すでに深夜をまわり、誰も居ない部屋。室内に点く灯りは、青年に与えられたデスクの卓上ライトのみ。窓ガラスからは、真ん丸に輝く月の淡い灯りが差し込んでいる。

 ドアが慌ただしく開き、青年が大きな円筒状のものを抱えて入ってきた。コンビニで買ってきたコーヒーやサンドイッチが入ったビニール袋をデスクの上に投げると、椅子に座る暇も惜しむように、円筒に丸めていた大きな紙を広げる。

 それは大きな全国地図だった。こんな深夜でも営業している書店に駆け込み、買ってきたものだ。

 広げた地図を、壁に貼る。油性ペンで、買ってきたばかりの新品の地図に、どんどん点を書き込んでいく。全ての点を書き込み終えると、次に時系列順に、点と点との間を、線で繋げる。

 部屋の電灯を点ける時間も惜しいらしい。卓上ライトと月明かりだけの頼りない光だけが照らす部屋の中で、青年は地図の上に線を引いていく。

 一心不乱に。

 

 線を引き終えて、少し離れた場所から地図と、地図の上を這う「線」を見つめた。

 薄暗い部屋の壁に貼られた地図。

 月明かりに照らされた地図。

 そこに浮かぶ、「点」と「線」。

 

 地図上に書き込まれた「点」。それは、すなわち「彼女ら」。それぞれの街の病院や診療所で同じ薬を受け取った「彼女ら」。名前も違えば、生年月日も国民番号もバラバラの、書類上では全員が別人の「彼女ら」。

 「彼女ら」一人ひとりは別々の「点」でしかないが、地図上では一つの「線」として繋がっている。青年にはその「線」が、月明かりに照らされふんわりと浮かび上がっているように見える「線」が、一人の女性の姿を形作っているように思えた。

 

「…あや…なみ…」

 

 久しく口にすることのなかったその名を呟きながら、その線にそっと触れる。

 涙が溢れた。

 

 彼の指は「点」と「点」を結ぶ「線」をなぞり、やがて「線」の終着点、地方のとある街へと辿り着く。

 

 



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第一章 其の三

 暦の上では小暑を迎えた頃。

 青年は購入したばかりの中古の軽自動車を走らせながら、数時間前まで会っていた女性のことを思い浮かべていた。

 

「だから暫く留守にしていると思う」

 この話を切り出すと、案の定彼女は不機嫌になった。

 青年が住む街の中心街から少し離れた、テラス席のある喫茶店。彼女と落ち合う時は、決まって彼女のお気に入りのこの喫茶店だった。テラス席のパラソルの下、白い丸テーブルを挟んだ向かい側では、彼女が頬杖をつきアイスコーヒーをストローで行儀悪くずずずと啜りながら、「私は今機嫌悪いですよ」アピールをしている。

「まあ別にあたしはあんたが何処で何していようが、べっつにどうでもいいんですけどぉー」

 どうでもよいのであれば、わざわざ語尾を敬語にしなくてもよいのに。苦笑いするしかない青年である。

 

 二人はお互い保護観察中の身だった。大学に通うため県外に住んでいる彼女は、保護観察所への月1回の出頭のためにこの街に訪れており、「そのついで」と称して毎回青年を呼び出しては、喫茶店のコーヒー一杯で何時間も(女性側が一方的に)お喋りしたり、買い物に付き合わせたりしている。

 

「あんたの次の面談日はいつなのよ?」

「え?」

「だから来月の保護観察所の面談日。いくら「出張」中だからと言って、観察員の面談をサボるわけにはいかないでしょ」

「はあ」

「だ・か・ら。あたしの面談日をあんたの面談日に合わせてあげるって言ってんのよ」

「え?でも僕、先月で二十歳になったから。保護観察期間は終了したよ?」

「え!?」

 声を張り上げ、椅子から立ち上げる女性。女性の膝の裏に押され、椅子が音を立てて倒れる。

「あれっ!えっ!?う、うそ!?」

「いや…。うそも何も…」

 ひとしきり慌てふためき、今はこちらを見つめ固まってしまっている女性に、青年はとりあえず落ち着くよう声を掛けながら、訝し気にこちらに視線を寄せてくる他の客に頭を下げた。青年も立ち上がり、女性が倒してしまった椅子を起こす。その隣では相変わらず女性が固まったままで、「…しまった。…6月6日だった…」と呟いていた。

「ごめんね先に終わっちゃって。アスカは12月生まれだからまだ半年もあるけど」

「そ、そうよね。まったくこの国の杓子定規なやり方って、本当に気に入らない。なんで品行方正なあたしがあんたよりも保護期間が長いのよ」

 自分の痛恨の失敗に不機嫌を続けるための燃料が枯れてしまった女性は、青年に促されるままに椅子に座った。

 

「それで。就職は決まりそう?」

「幾つかの事務所からの誘いはきてるんだけどね」

「へー。すごいなぁ」

 その分野には疎い青年でも知っているような大手事務所からリクルートを受ける女性を、青年は素直に尊敬した。

「まああちらさんの誘いのままに決めてしまうのも面白くないし。卒業までまだ時間があるから、ゆっくり吟味してやるわ」

 青年からの羨望の眼差しを受けて、少しだけ上機嫌になる女性である。

「で?」

「ん?」

「あんたはいつまでその「バイト」を続けるつもりよ?」

「…一区切りつくまでは」

 いつも聞き役でいる青年。話の中心を自分に向けられると、途端に声のトーンが下がってしまう。

 女性の目はあからさまに「辞めてしまえばいいのに」と訴えているが、青年は気づかないふりでもするかのように女性から視線を外し、女性も青年の「バイト」が単に生活費を稼ぐためのものではないことを知っていたので、あえてそれを口にはしなかった。

 

 ―――お父さんを見つけて、どうするつもり?

 

 女性は聞きたがったが、その言葉も口にすることはできなかった。

 

 青年が長い「出張」に出る時は、おそらく青年の父親の手掛かりが見つかった時なのだろう。青年が長い「出張」に出る度に、青年が本当に彼の父親を見つけ出してしまうのではないか、と不安でならなかった。この親子が再会した末に、穏当な結末が訪れることなどどう頑張っても想像できなかったからだ。

 見つからなければいい。そう思う反面、とっとと見つけて片を付けてしまって、さっさとこの拘束時間はやたらと長いくせにしみったれたお給金しか寄越さない「バイト」から足を洗ってしまえばいいのに、とも強く思う。

 

「あーなんだかイライラしてきた……」

「いや。なんで…」

 機嫌が良くなったり悪くなったり。コロコロ変わる女性の表情を、青年は困ったように見つめた。

「あーあ。なにも今夜に発たなくてもいいじゃない」

「仕方ないよ。きょう出発したところで、明日中に辿り着けるどうかも分からないんだから」

「ふん。せっかくあんたがクルマ買ったっていうから、ドライブにでも連れていってもらおうと思ったんだけどなー」

「いやぁ…、アレに君を乗せるのはちょっと気が引けるなぁ…」

「別にポルシェに乗せろっていってるんじゃないんだから。なに?今日乗ってきてるの?」

「うん。ほら、あれだけど」

「どれ?…ん?…へー。何よ。そんなに悪くないじゃない」

「えっ?ん?あ、いやいや。違うよ。その隣のやつ」

「は?隣の?……Ohhh……」

「……」

「……」

「……ね?」

「……はい」

「……」

「まぁ…、1,000㎞走って無事だったら乗せてちょうだい…」

 

 

 青年が住む街を出発してからのトリップメーターが1,000kmを超えた。とりあえず、生まれて初めて購入したこの軽自動車は、あの女性を乗せる資格を得たことになる。

 

 後ろめたさはあった。「出張」理由は毎回告げていないが、おそらく彼女はその目的を察しているはずだ。だが今回の「出張」はこれまでの「出張」と事情が異なることを彼女は知らない。最終目的は変わらないが、そこに至る過程に新たな人物が加わっていることを彼女は知らないのだ。

 

 女性科学者を見つけ出した時、そのことを彼女に告げても彼女は「無関心」だった。自分たちの上官だった白髪の老人を発見した時も、やはり彼女は「無関心」だった。

 彼女の態度から何となく「無関心を装っている」ということは察することができるが、そこには「過去と袂を分かち、ただ前を向いて歩こう」とする彼女の決意が見て取れた。そんな彼女に比べ、過去に囚われてばかりの自分は何とまあ後ろ向きな人間なのだろうと、落ち込みたくなる。

 そんな自分はさておき、「過去」と距離を置こうとしている彼女に、今回の「出張」の目的を伝えてしまったらどうなることだろう。

「絶交…されちゃうかな?」

 

 彼女を知る人の間では、彼女は思ったことをすぐに顔に出し、口にする、感情的なタイプとの人物評が一般的だが、青年はそれを否定はしないものの、彼女の側面の一つを表しているに過ぎないと思っている。きっと、おそらくは、今もこうして定期的に会っている自分にも、寝食を共にしたあの女性にも、そして彼女が強い憧れを抱いていたあの男性にでさえも、彼女が素直なありのままの自分を表していたとは思えない。ところが自分がこれから捜し出そうとしてる人物は、おそらく、自分が知る限りでは、彼女が唯一うそ偽りのない感情を示した相手だ。それは好意的なものではなく、「敵意」というものであったが。

 もし今回の「出張」で、「彼女」を見つけてしまったら。そしてそのことを彼女に知られてしまったら。彼女は今まで通り「無関心」を装うことができるだろうか。

 

 いつも「出張」に出かける時は気分が重い。もし「出張」先で自分たちの努力が結実した場合、それは自分が血まなこになって探し求めていて、それでいてこの世で一番会いたくない相手との再会を意味しているからだ。

 しかし今回の「出張」に関しては気分の高揚があった。この世で一番会いたくない相手の前に、この世で一番会いたいと思っていて、でも決して会えることはないと思っていた人物が居るかもしれないからだ。

 しかし路面の衝撃がもろに伝わってくる薄い座席シートの上に何時間も拘束されている内に、次第に青年の心はいつも通りの鬱々たる気分に支配されていくのだった。

 



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第一章 其の四

 青年はレンガ造りの古びた診療所の前に立っていた。年季の入った鉄柵には、「本日休診」の札がぶら下がっている。

 青年が彼の住む街を発ったのが金曜日の夜。慣れない超長距離の運転だったが、そこは若さで乗り切り、僅かな時間だけ仮眠を取った以外は殆ど休みをとらずにぶっ通しで運転し続け、この街に辿り着いたのは日曜日の昼下がりだった。

 青年は肩掛け鞄の中から一枚の書類を取り出す。厚生省から提供された書類の写し。診療報酬明細書に記された医療機関の名前と、診療所の看板を見比べる。

 間違いない。ここだ。

 青年はそれがさして意味のない行動だと分かっていたが、思わず周囲を見渡してしまった。

 

 ―――この街のどこかに、「彼女」が。

 

 過疎化少子化高齢化の3拍子揃った、この国の地方にはありふれた何の特徴もない山間の田舎町。小さな役場とこの街唯一の小さなスーパーマーケット、郵便局に交番、そしてこの小さな診療所が、外界から忘れ去られてしまったかのようなこの小さな街の中核を担っている。

 

 本部、学校、そして解体の進む古い巨大な集合団地。当時、「彼女」と過ごした場所はその3つだけだった。クラスメイトたちとは街に繰り出してゲームセンターに行ったり映画館に行ったり。同居人たちとは一緒に買い物に行ったり食事に行ったり、いつだったか温泉に行ったこともある。「あれ」が起きてそれぞれが各地にバラバラとなり、それぞれの生活と人生を送るようになったが、それでも連絡が取れる仲間たちとは時々会って食事をしたり何処かに遊びに行くこともある。青年と様々な時間、様々な場所、様々な経験を共有してきた彼らは、ある者は飛び級での進学を繰り返しこの国で一番有名な大学を首席で卒業しようとしていたり、ある者は新しく生えた脚でバスケットコートを走り回っていたり、ある者はずっと気にしていた雀斑が消えたことで長年秘めていた想いを遂に告げたり、ある者は趣味が高じて陸自に入隊したり。成長期の只中に居た彼らは、14歳だったあの頃の姿を留めている者は一人もいない。

 しかし、青年の中での「彼女」は、あの頃の彼女のままだった。

 近未来的な3番目の首都の名を冠した都市。不自然に人通りの少ない高層ビル群の中で、一人佇む青緑色の吊りスカートと白いブラウスの制服を着た少女。あるいは人工的な液体に満たされた鋼鉄の器に身を沈める、白と黒のスーツで全身を包んだ姿の少女。

 科学の英知を結集した文字通りの人工培養された少女が、3階建て以上の建物がない、少し視線を遠くにやれば畑と山しか見えないような、こんな田舎町に住んでいる(かもしれない)ことは、青年には想像し難いことだった。

 

 書類によれば、「彼女」がこの診療所に初めて訪れたのが約3ケ月前。2回目の受診はその約1ケ月後。いずれも処方された薬は1月分であり、単純計算でそろそろ3回目の受診があるはずだった。そして青年が「彼女」であると目星をつけた「彼女たち」の書類上での足跡は、同じ場所に少なくとも3ケ月以上は滞在し、1年以内には次の場所へと移っている。「彼女」がこの行動パターンを今も踏襲しているとしたら、「彼女」はまだこの街にいるはずである。

 

 青年は診療所の近くにある公営アパートの2階角部屋に入った。アパートの空室率は7割を超えているため、彼の「バイト」先の名義を使えば、すぐに押さえることができた。

 軽自動車から荷物を六畳一間、畳敷きの部屋に運び込む。荷物といっても、寝袋や着替え、当面の食料などの必要最低限のものしかない。窓にはすぐに、あらかじめ買っておいたカーテンを掛ける。

 その窓からは、診療所の玄関がよく見えた。

 街を巡回したり、住民に聴き込みをして回ったりすることはできない。見ず知らずの男がうろついていたら、こんな小さな街ではたちまち噂になってしまうだろうから。

 窓辺にこれまた買っておいた座布団を敷き、カーテンの隙間からそっと診療所を見つめる。

 青年に「彼女」を捜す方法は、張り込みしかなかった。

 

 

 月曜日。

 9時。前時代的な看護服を着た中年女性が鉄柵扉を開け、診療所の一週間が始まる。

 

 火曜日。

 どうやら、いや、やはりと言うべきか。診療所に訪れる患者の大半は、高齢者のようである。

 

 水曜日。

 この日は朝からよく晴れ、天から降り注ぐ容赦のない日差しが地上を襲った。窓を閉め切っているため、アパートの中はサウナのような暑さになる。

 

 木曜日。

 一転して朝から雨。視界が悪く、おまけに来る人来る人皆傘を差しているため、診療所に出入りする人の顔が確認しづらくなる。何人かは顔の確認が出来なかった。その中に、対象者が居ないことを祈るばかりである。

 

 金曜日。

 暇なのか、診療所の老医師が、庭先で盆栽の剪定に勤しんでいる。

 

 土曜日。

 休診。

 

 日曜日。

 休診。

 

 月曜日。

 太陽が沈みかける時間帯に急患。運び込まれて30分後にサイレンを鳴らした救急車が到着し、サイレンを鳴らしながらどこかへ去っていく。

 

 火曜日。

 庭先で看護婦が、近所のお茶のみ友達と1時間近く立ち話をしている。

 

 水曜日。

 外来患者の一人が玄関前の柱に犬を繋いで診療所に入っていった。往来する人々に吠えまくっていて、迷惑極まりない。こっちの視線に気づいたのか、途中からアパートに向かって吠えまくっていたので、気が気ではなかった。

 

 木曜日。

 注射でもされたのか。診療所から子供の泣き叫ぶ声が聞こえる。

 

 金曜日。

 この日も診療所を訪れるのは大半が老人。それでも週の終わりの夕方近くになると、仕事を早めに切り上げて受診に来た、勤め人風の若い患者が増え始めた。

 診療所近くの役場から直接やってきたスーツ姿の人。整備士をしている風の、胸に某自動車メーカーのロゴが入った青いつなぎを着ている人。郵便配達の制服を着た人。日傘を差した地味な色のロングスカートとカーディガンを着て手提げ鞄を手に持つ人。保育園の制服を着る子供を連れた人。けたたましいエンジン音を響かせながら玄関前に原付バイクを止める人。パステルカラーの上下にエプロンと、いかにも保育園か、もしくは老人ホームに勤めていそうないでたちの人。

 

 

 俄かに混み合い始めた診療所の玄関から視線を離した青年は、窓から離れ、畳に腰を下ろし、背中を壁に預けた。

 深く息を吸い、長く息を吐く。

 もう一度。

 さらにもう一度。

 吐く息が途切れる間際、顎が小刻みに揺れることを自覚した。

 今にも破裂しそうな心臓の高鳴りを抑えようとしたが、深呼吸したくらいではまるで収まらなかった。

 天井を睨んでいた視界が、眼窩から溢れ出るものによって急速に霞んでいく。

 両手で口を抑えた。今にも叫び声を上げてしまいそうな口を、必死で塞いだ。

 すぐにでも部屋を飛び出したいという衝動に駆られる足が暴れる。隣と下の部屋が空き部屋であったことは、本当に幸いだった。足が畳を蹴る度に、安普請のアパートがゆらゆらと揺れた。

 

 すぐにでも。

 今、すぐにでも駆け出し、ドアを蹴破り、階段を滑り降り、道路に躍り出て、診療所の玄関に飛び込みたい。

 そんな、奥底からまるで間欠泉のように噴き出してくる衝動を、意思のみの力で抑え込もうとする行為は想像以上に身体に負担を強いる作業だった。

 気分が悪くなった青年は体を起こすと、今度は畳に這いつくばる。

 額を畳に押し付けた。立てられた爪が畳の表面を抉った。外に漏れないよう、押し殺した声で呻いた。今にも衝動に従ってしまおうとする身体を、意思を総動員させて抑え込んだ。

 

「…本当に…!…生きてた…!」

 

 抑えがたいほどの歓喜の波が全身を駆け巡るという、生まれて初めての感覚に青年は酔いしれた。

 



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第一章 其の五

 少し赤くなってしまった目で、青年は再び窓から診療所を眺めていた。すぐに外に飛び出すことができるようにあらかじめシューズを履いておく。そのシューズの裏は、歩き倒してすっかり薄くなっている。

 

 診療所で動きがあった。

 診療所の玄関から出てきた女性は、強烈に降り注ぐ西日を眩しそうに手を翳して遮る。一瞬、指の隙間からのぞく女性の目がこちらを見たような気がして、青年は慌てて窓から離れた。再び青年の鼓動が大きく高鳴る。

 診療所からアパートまでは十分に離れているし、カーテンの僅かな隙間から見ていたので、相手がこちらに気づくことは考えづらかったが、一人の女性の動向を無断で監視している立場が彼をいつも以上に憶病にさせていた。

 そっと、息も止めてカーテンの隙間から覗く。女性はすでに日傘を差して歩き始めていた。青年は慌てて、しかし物音を立てることなく、そっと部屋を出た。

 

 女性がスーパーマーケットに寄ったため、青年は散歩を装いその周辺をぐるっと一周して時間を潰した。2週間近く部屋に閉じこもりっぱなしだったので、少し歩いただけで膝と脹脛が痛い。

 ゆっくりと時間を掛けて一周したところで、買い物を済ませた女性もマーケットから出てきた。感づかれないよう女性からは十分に距離を保ち、後をついていった。

 

 濃紺のロングスカートにこげ茶色のカーディガンと、二十歳前後のうら若い女性が着る服としては地味すぎる出で立ち。目立たぬ服装を、と心掛けているのかもしれないが、これではかえって人目を引いてしまいそうな気がするが。

 右手には広げた日傘、左手にはマーケットで購入したものを収めたと思われる手提げ鞄を持っている。何を買ったのだろう。彼女が、お店で品物を買うという姿が想像できない。一人、社会の枠から外れて生きてきたような印象の彼女には、そんな誰もが行う当たり前の行為が、カタツムリが空を飛ぶくらいに不自然なもののように思えた。

 精々想像できるのが、ペットボトル入りの飲料水やレトルト製品、栄養補助食品くらいか。「生活を営む」という行為にてんで無頓着であった彼女のことだ。生活の基本である日々の「食」ですら、疎かにしていたに違いない。

 

 ただ気になるのはその手提げ鞄の端から覗く緑色の「あれ」である。先端が二股に分かれた細い筒状の「あれ」。

 遥か前方を歩く女性の手提げ鞄に向けて、必死に目を凝らす。

 

「あれは……ネギ…だ」

 

 ネギ。葱である。

 古くからこの国の食文化を彩ってきた葱。あったらあったで嬉しい、無ければ無かったで残念だけど特別困ることはない、そんな食卓の脇役、葱。

 衝撃が全身を駆け巡る。

 

 ネギ。

 彼女が…葱…だと!

 

 彼女はあの葱をどうしてしまうんだろう。斜め切りにしてみそ汁の中に入れてしまうのだろうか。刻んで冷ややっこの上にちょこんと乗せてしまうのだろうか。それとも一本丸ごと焼いて、素材の美味しさをそのまま頂いてしまうのだろうか。

 

 なんてことだ。

 彼女が葱を買っているだなんて。

 彼女が、生活の必需品でもない、食卓に彩を添えるためのものを購入しているだなんて。

 そんな彼女なんて、僕は知らない。

 ネギを買ってしまう彼女なんて、僕は知らない。

 

 僕の知らない彼女が、そこに居る。

 

 

 自分の両手で両頬をピシャリと叩く。

 

 ―――何を葱ごときで狼狽えているんだ、僕は…。

 

 ネギを突っ込んだ手提げ鞄をぶら下げ歩く、生活臭漂いまくる彼女の後姿を前に、未だに膝が笑っている。もし、あの手提げ鞄の中にかいわれ大根でも入っていようものなら、自分はショック死でもしてしまうのだろうか。

 青年は情けない膝を叩き、雑念を振り払って女性の尾行を再開した。

 

 

 街中を抜け、郊外の道へ入ると、尾行の難度が上がった。何しろ人通りがまったくないのだ。人々の中に紛れることができないため、十分に距離を取っていたとしても尾行する姿が目立ってしまう。しかし幸いにもすぐに陽が暮れたおかげで、女性を追跡する青年の姿は薄闇の中に紛れてくれた。

 彼女が歩く道。外灯は殆どない。「生活の営み」だけでなく「自らの身の安全」にも無頓着な彼女だった。こんな薄暗い道を若い女性が一人で歩いて、危ない目に遭ったことはないのだろうか。いや、むしろ、

「熊とか出ないよね…」

 そっちの方が心配になってくる。

 いつの間にか日傘を閉じていた彼女は、暗い夜道を、びっこを引きながら歩いていく。

 

 そう。

 手提げ鞄から覗くネギだけでなく、もう一つ気になる、いや、心配になってしまうのが彼女の歩き方だ。診療所にやってきて、診療所を出て、マーケットに寄って、郊外を歩く彼女。

 ずっと、左足を引きずって歩いている。

 マーケットを発ってからここまで30分。しかし人並みのペースで歩いていれば、15分程度の距離だ。そんな距離を、左足を引きずる彼女は、常人の倍くらいの時間を掛けて歩いている。

 

 どうしたのだろう。

 怪我でもしているのだろうか。

 

 ただでさえ後ろめたい気分なのに、辛そうに歩く彼女を遠くからただ見ているだけしかできない自分の立場がもどかしかった。本当なら、今すぐにでも駆け寄って、彼女の左脇の下に腕を差し入れ、その不自由そうな身体を支えてやりたいのに。

 

 道は広い田園地帯から、広葉樹が生い茂る森の中へと入る。その間、青年は女性と距離を取りながら、それでも薄暗い視界の中で彼女の姿を見失わないよう、必死に目を凝らしながら彼女の細い背中を追った。

 

 ところが、ついに青年は女性の姿を見失ってしまった。西の空を真っ赤に染めた太陽の残照も消え、弱弱しい月明りのみが地上を照らす時間帯。

 前を歩く彼女の背中が突如として消えてしまったのだ。

 青年は彼女が消えた地点になるべく足音を立てないよう、足早に歩み寄った。やはり彼女はいない。青年の顔が青ざめかけた時。

 本道から外れ、森の中に入る未舗装の脇道があることに気づいた。

 耳を凝らす。

 脇道の奥から、微かではあるが、足音が聴こえた。

 

 青年は、「はぁ」と安どのため息をつく。

 脇道の奥を見つめる。左右を樹々に挟まれ、奥は漆黒の闇。片方の足を引きずる足音が、その漆黒の闇の中へと消えようとしている。こんな暗がりを、灯りも点けずに。そう言えば、彼女は照明が落ちた本部の暗く入り組んだ通路も、迷いなく歩いていた。夜目でも効くのだろうか。

 この暗く足もとの悪い脇道を、灯りなしで歩ける自信はない。後ろポケットにはペンライトが入っているが、こんな暗がりでライトを照らしたら一発で尾行がばれてしまう。

 今日はここまでか。

 

 青年は目を閉じる。カサ、カサとまるで小鳥が干し草の上を跳ねるような軽い足音と、ズズ、ズズと地面を引きずる音が、交互に聴こえてくる。いつまでも聴いていたかったが、周囲の虫の鳴き声、風にそよぐ葉や枝の音に、その儚い足音はすぐにかき消された。

 



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第一章 其の六

 二日目。早朝。

 

 森の中を走る一本道。薄い霧が漂う樹々の隙間から、すっと、その女性は現れた。女性は一寸だけ周囲を見渡す仕草をすると、薄暗い森の一本道を、朝日が射す明るい方へと歩き始めた。

 

 女性が歩き去ってから1分後。樹々の隙間から、今度は青年が姿を現した。

 女性が現れた場所。注意して見なければ、樹々に隠れて気づけないような脇道を青年は見つめ、そして女性が歩き去った方向を見つめる。

 青年は少しだけ迷って、女性が去っていった方向へ歩き始めた。

 

 昨晩はアパートに帰ってからは一睡もできなかった。たった数十分歩けば辿り着くような場所に彼女が居るという事実が、青年の睡魔を蹴散らしてしまっていた。アパートへの帰り道に寄ったスーパーマーケットで買っておいたサンドイッチと缶コーヒーを朝ごはんにして、夜明け前に再びこの森の道を訪れ、眠い目をこすりながら脇道の様子を覗っていたのである。

 

 森を抜け、田園地帯に出ると、まっすぐに伸びる道を歩く女性の背中がすぐに確認できた。この時間帯だと、朝早くから農作業に勤しむ人々や散歩やジョギングをする者もちらほらおり、青年の姿は特段目立たない。今日も朝から日差しが鬼のように強く、田園に挟まれた道路の上を陽炎が漂い、日傘を差して歩く女性の姿をゆらゆらと幻影のように揺らしていた。

 

 一晩寝たくらいでは治らなかったのか。

 今日も、彼女は左足を引きずりながら歩いている。

 

 びっこを引きながら30分掛けて女性が辿り着いた場所は意外な場所だった。

 だだっ広い農場が広がる丘の麓に簡素な門があり、女性はその中に入っていく。女性だけでなく、他にも性別年齢ばらばらの人々が次々と、その門の中に入っていった。

 青年は人々に怪しまれないよう歩みを止めず、門の前を通り過ぎる。ちらり、と門に立てかけられた看板に目をやる。

 

『独立行政法人農林水産機構○△町生産組合農場』

 

 その法人は青年も耳にしたことがあるものだった。国家規模での第一次産業再編のために創設された法人で、その農場は、人手不足と食糧不足に対応するために国策として進められた農業の集団化により、全国各地で出来た大規模農場の一つだった。

「え?まさか…ここで…?」

 青年は歩きながら、上ずった声で独りごちた。

 

 捜索を始めて以来抱いていた疑問の一つが、「逃亡資金」の調達方法だった。

 各国の捜査機関が男を「極大事象」を引き起こした首班の一人と認定して以降、すぐに男の資産は凍結された。そして逃亡資金の流れから男の行方を捜索する試みもなされているが、男と繋がりのあった組織又は個人から特定の個人への資金流入の中で、男に行きつく金の流れは未だに確認できていない。もちろん男が隠し財産なるものを蓄えていた可能性もないとは言い切れないが、あの男が計画が失敗した後のことを考えてわざわざ逃亡資金を用意していることは考えづらいことだった。

 数年に及ぶ逃亡生活には、それなりの金が必要となってくるはずだ。その金を、「彼ら」はどのようにして調達しているのか。

 その疑問の答えが、ここにあった。それはある意味一番真っ当で、しかし「彼ら」を知る者からしたら最も意外な方法ではあったけれども。

 

 少し離れた場所から農場の門を見つめる。今も、続々と人々が門の中に入り、農場の奥へと消えていく。門から数百m離れた場所に目をやると、簡素な集合住宅が数棟あった。おそらく門の中に入っていく人々が寝泊まりする寮なのだろう。人々は、性別や年齢だけでなく人種すらもバラバラで、中にはいかにも脛に傷のありそうな面子もちらほらいる。深刻な人手不足のなか、働き手の出自や身分は問うていないのだろう。「彼ら」が足のつきにくいかつ真っ当な金を得るには、ここはもってこいの場所といえた。

 

 「彼ら」というが、この農場に来たのは女性だけだ。片割れは、今どこで何をしているのだろう。農場のある丘から、田園地帯を挟んで広がる森の方に目を向ける。

 世界中にその顔と名を知られている逃亡中の男が、寮生活はできまい。おそらく、昨晩女性が姿を消した脇道の奥に、彼らの住まいがあるはずだ。そしておそらく、女性は暫くこの農場から出てこない。その空いた時間を、あの森の脇道の捜索に充てるべきか。

 

 そこまで考えて、青年は急に胸が締め付けられるような不快感を覚えた。

 捜索の末に、「彼ら」の住まいを突き止めてしまったら。

 自分は、ついに、あの男と対面することになる。

 捜索の焦点を男から女性に変えてからというもの、青年は自身が何処かしら浮かれてしまっていることを自覚しており、そして昨日アパートから彼女の姿を見つけた瞬間は、今まで感じた事がないような多幸感に包まれた。

 しかし彼女との接触のその先に待っているものを少しでも考えてしまうと、自分の中で膨らんでいた高揚感に薄くない陰を差した。

 

 夕刻。

 農場からカランカランと鐘の音がする。暫くすると、門から続々と人々が出てきた。

 結局、青年は農場の終業時間まで、アパートで仮眠を取った。「彼ら」の住まいがあると思われる森の中の捜索は、先送りにしてしまった。

 そもそも女性が男と行動を共にしているとして、寝食の場まで共有しているとは限らないのだ。一網打尽を避けるため、普段は別々に行動している可能性は十分にある。今のところ「ただ生活をしている」だけの彼女だが、彼女が他者と何かしら連絡を取り合っていないか、もう少し観察を続けてみるべきだろうと結論付けた。

 門から出てくる人の数が疎らになった頃、ひと際細い影がすっと現れる。

 日傘を差した女性は、昨日と同じ手提げ鞄を持って、森へ帰る道とは別の方向へ歩き始めた。道の先にはあの診療所やスーパーマーケットのある街がある。

 遠くから門の様子を観察していた青年は、女性が歩く道とは別の道を使って、街へ向かった。

 

 冷房の効いたマーケットの中で、買い物客を装って商品を物色していたところ、予想通り彼女は現れた。仕事帰りにこのマーケットに寄って、買い物をして帰るのが彼女の日課になっているのだろう。

 そう広くない店舗内。彼女との接近に、青年の心臓が高鳴る。ばれてしまわないかと、被っていたキャップを目深に被りなおした。

 商品棚の陰から彼女を見る。

 青果コーナーで、幾つかの野菜を手に取り、買い物かごの中に入れている。そして、

 

「…葱だ…」

 今日も葱を一本お買い上げだ。

 

 彼女が青年にとって予想外の行動に出たのは、葱を買い物かごの中に入れた後だった。

 鮮魚コーナーの前を通り過ぎ、精肉コーナーの前へ。てっきり素通りすると思われたが、女性は精肉コーナーで足を止めた。

 商品棚に並ぶパッケージ化された肉類。女性は数秒間吟味した末に、一つを手に取り、買い物かごに入れて、そのまま会計コーナーへと向かった。

 会計を済ませ、手提げ鞄に商品を詰めて、店を出て行く。

 青年は適当に手に取ったガムとペットボトル飲料水を購入し、女性の後を追った。店外に出ると、女性は夕日を背に昨日と同じ道を歩いている。

 立ちすくむ青年。

 暫くすると、夕陽に向かってひょこひょこ歩く女性の背中は見えなくなった。

 青年は女性の背中を追うことなく、踵を返し、アパートへ向かった。

 

 

 カーテンの隙間から西日が差しこむ部屋で、仰向けで大の字になった。薄汚い天井を見つめる。

 背中の畳の冷たさが、外回りで汗だくとなっていた背中を冷やしていく。同時に、心の中が急速に冷めていくのを感じた。

 

 肉を食べないはずの彼女が、肉を購入した。

 そこから導き出される推論は、そう多くはない。

 

 女性が肉を食べるようになったか。

 それとも、女性以外の誰かに食べさせるために購入したか。

 

 

 

 翌日。

 青年はどこにも出かけず、時間を無為に過ごしていた。水を飲み、保存食を口にし、トイレに行く以外はずっと畳に寝っ転がっていた。

 この二日間の、ふわふわしていた気分が、嘘のように沈んでいる。

 

 あの男と、彼女が一緒にいる

 彼女は、あの男と一緒にいる。

 

 彼女が生きているかもしれない。

 その可能性を見出した時は、その他のありとあらゆることはどうでもよくなり、目に耳に入らなかった。

 彼女が、生きている。

 それさえ確かならば、他のことはどうでもよかった。

 

 でも、いよいよ彼女と、あの男が一緒にいることが現実味を帯び始めた今になって、この頭は奇妙に冷静になり、そして余計な思いを巡らせてしまう。

 

 古い世界が終わり、新しい世界が始まり。

 新しい世界で、彼女が一緒にいることを選んだのは、あの男だった。

 

 何故、彼女はあの男と一緒にいるのだろう。

 

 何故、彼女は僕らとではなく、あの男と一緒にいることを選んだのだろう。

 

 青年の知らないところで、青年が知る彼女とは全く違う生活を送る今の彼女。

 彼女と共に過ごした時間はわずかに1年。それからすでに数年が経過している。もはや自分たちが出会って共に過ごした時間と、自分たちが離れ離れになって経過した時間とは、後者がはるかに上回っている。その長い時間を、彼女はあの男と一緒に生きながらえている。

 自分という存在なしで、成り立っている今の彼女の生活。

 

 所詮自分は、彼女の人生の中でたった1年間存在した、点のようなものでしかないのではないか。

 今の彼女の人生に、もはや自分の入り込む余地はないのではないか。

 少なくともあの日々において、自分たちは強大な敵を相手に助け合いながら必死で戦ってきた仲間であったはず。

 でも、すでに彼女の人生に、自分という存在は必要ないのではないか。

 

 青年は寝返りを打ちながら苦笑した。

 

 そもそも自分は彼女に必要とされていただろうか。

 ただ同じ境遇というだけで、それ以外は特に接点もなく、交わした言葉は数えるほどしかない。彼女の中の大部分を占めていたのは、巨大兵器に乗って戦うことと、あの男のこと。それだけだった。あの集合団地と本部とを行き来し、生活の殆どを実験と訓練が占め、敵がやってきたら戦い、時間が空けば学校に行く。まるでルーチンワークのようだった彼女の生活。

 当時からして、自分なんかが居なくても、成り立っていた彼女の生活。

 

 それでもその数少ない交流の中で、自分は彼女との繋がりをかんじることができた、ような気がしていた。自分と彼女との間には、それはとてもとても細くて脆いものだったかもしれないけれど、確かな絆があったような気がしていた。

 そして、結局は彼女の中での大部分はやはりあの男のことが占めていて、あの男の願いを叶えようと彼女は人間の姿を捨てたのだけれど、でも、最後の最後に彼女が叶えた願いは、あの男のものではなかった。

 

 しかし今、彼女の横に立っているのはあの男であって、自分ではない。

 彼女が、新しい世界で選んだ居場所は、古い世界と同じ所。

 

 なんだろう、この喪失感。

 そう、あの時に似ている。

 

 彼女が自らの命を賭し、眩い光の中に消えていったあの日。

 違う。あの時ではない。

 あの時は、何かを感じることすらできなかった。

 

 その夜。

 彼女が生きていると聞いて喜んで、でも再会した彼女は、何処か、何か違っていて。

 そして彼女の秘密を知って。

 もう、自分が知るカノジョとは二度と会えないという事実を突き付けられて。

 それでも、以前とまるで変わらない彼女がそこに居て。

 失ってしまったようで、でも失っていなくて、でもやっぱりキミは居ない。

 悲嘆の刃に心を引き裂かれることもなく、絶望の沼に引きずり込まれることもなく、宙ぶらりんのような喪失感。

 

 そう。あの時に似ている。

 

 2日前に診療所で日傘を差した女性を見た瞬間、何故だろう、少しの迷いも疑いもなく、それが彼女だと分かった。容姿はずいぶん変わってしまっていた。ただでさえ細かった体躯は、さらに細くなっていた。それでもそれが彼女だと分かったのだ。

 青年は喜んだ。もう少しで彼女に会える、と。

 

 しかし今、天井を見上げる青年の瞳からは、喜色と熱っぽさが消え失せ、冷めきっている。

 

 

 ―――「あれ」は、本当に僕が会いたかった彼女なのだろうか。

 

 

 太陽が沈み、部屋の中が真っ暗となり、そして再び陽光が室内を明るくし始めた頃。

 青年はゆっくりと起き上がった。

 彼は寝ぐせがついた頭を掻きながら、感情が消えた声で、事務的に呟いた。

 

「行こう…」

 

 

 服を脱ぎ、浴室に入る。熱も勢いもないシャワーを浴びて2週間ぶりの垢を落とし、この頃油断したら数日で青かびのようになってしまう顎の髭をカミソリで剃り落とす。 

 着替え終えたら寝袋をしまい、食べ散らかした食品の袋をゴミ袋に入れ、室内を簡単に箒で掃き、カーテンを外す。まとめた荷物を全て軽自動車に放り込み、昼を過ぎた頃にアパートを出たのだった。

 



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第二章 其の一

 

「…碇…くん」

 背後で開いたドア。

 ドアから流れ込んでくる柔らかな風。

 柔らな風に乗る、小鳥のさえずりのようなか細い声。

 

 声のする方へ視線を向ける。

 開いたドアの向こうに立つ細い人影。

 

 彼女が立っていた。あまり見たことがない、少し驚いたような表情で。

 

 ここに辿り着くまでの心の葛藤。そしてここに辿り着いてから繰り広げられた、目を背けたくなるようなうんざりとした現実。

 それでも数年ぶりに間近に見る彼女の姿、そして耳にする彼女の声。

「綾波…」

 彼女の名前を呼ぶ声が震えているのを自覚した。

 ドアに立つその女性は普段よりも幾分見開いた双眸で青年を暫く見つめ、そして彼の足もとに視線を向けた。

 青年の足もとには床に尻餅をついた男。今や立つことも歩くこともできず、みすぼらしい老人のような姿をした男の前で、仁王立ちしている自分。

 これは少々説明を要する状況であったことを青年は思い出す。

「…これは…その」

 いつか遠い昔に同じようなことがあったな、と頭の隅っこで思いながら、青年が頭の中で言い訳を必死に考えていたら。

 

 背中から大声が轟いた。

「ユイ!!」

 驚いた青年が振り向くよりも早く、女性は抱えていた洗濯かごをテーブルに置くと、無駄のない所作で青年の脇を通り抜け、大声の主のもとに跪く。

 

 彼女がすぐ側を通った。

 ほのかに鼻をくすぐった、懐かしい彼女の匂い。

 でも側を通り過ぎた彼女は、こちらには一瞥もなく、今はあの男の側に膝を折っている。

 

「ああ…、ユイ。何処に行っていたんだ」

 男は縋りつくように、震える右手を女性に伸ばす。女性は男のその手を両手で受け止めた。

「ごめんなさい。洗濯ものを取り込んでいたの」

 今度は男の左手が、女性の二の腕を掴む。

「また消えてしまったのか…と。また俺を置いて何処かへ行ってしまったのか…と」

 女性の両手に包まれた男の右手と、女性の二の腕を掴んだ男の左手の甲に血管が浮き出る。女性の両手と二の腕が、少し離れた場所から見ても分かるくらいに歪んでいる。

「何処にも行ったりなんてしないわ」

 女性は少しも痛がる素振りを見せず、静かな声で言い聞かせた。

 男は今にも泣きそうな情けない顔を、女性の胸に沈めた。

「頼む。もう二度と俺を一人にしないでくれ」

 両手を塞がれている女性は、手のかわりに自分の頬を男の頭部に当てる。男を慰めるように、頬で男の頭を撫でた。

「大丈夫。側にいるわ」

 

 

 ―――なんなんだ、これは。

    僕は一体、何を見せられている。

 

 

 目の前で繰り広げられているコレは何かの喜劇か?もしかしたら男は自分がこの部屋に入ってからずっと、廃人の役を演じているのではないか。

 それとも二人して、自分をドッキリにでも嵌めようと思っているのか?どっかから赤いヘルメットを被った副司令でも出てくるんじゃないか。

 だとしたらあまりにもタチの悪い喜劇であり、あまりにも不出来なドッキリだ。

 ここに来てからというもの、本当にうんざりすることばかりだが、これはもはやうんざりを通り越して、ただただ不快だ。

 

 なぜ、あの男は彼女を僕の母の名で呼んでいるのか。

 いや、狂ってしまった男のことはいい。

 

 なぜ、彼女はその名で呼ばれることを受け入れているのか。

 

 立ち眩みを感じ、後ずさった青年の足が椅子に当たった。

 男が弾かれたように女性の胸から離れ、音を立てた青年を睨みつける。

「ユイ。こいつは誰だ」

 女性は瞳の動きのみで一瞬だけ青年を見て、すぐに男に視線を戻す。

「私の古い知り合い」

「知らん男だ。何故ここに来た」

「懐かしんでわざわざ訪ねてきてくれたの」

「なぜここに来る必要がある。なぜお前に会う必要がある!」

「彼はただのお客さんよ」

「こいつはお前を連れ去りにきたのではないのか!俺とお前を引き離そうと!」

 男の声と女性の手と腕を拘束する手が明らかに暴力的になってくる。青年は二人に割って入ろうとしたが、女性の一瞥に制止された。

「そんなことないわ」

「何故俺たちを引き離そうとする!何故お前は俺から離れようとするんだ!」

 男の耳には、すでに女性の声も届いていない。

「出て行け!すぐに出ていってくれ!出て行け!出て行け!出て行け!」

 振り回される男の腕がテーブルの脚に、ベッドの縁に、車いすのひじ掛けに、そして時々女性の腕に胸に頬に当たる。女性は暴れようとする男を抱き締めながら、青年を見つめた。目が、小屋からの退出を促している。

 青年は何も言うことができず、女性に促されるままにドアへと向かった。背中で、あの男の怒鳴り声と、その合間合間に聴こえる彼女のか細い声を聴きながら。

 

 

 小屋を出ると、壁付けにされた三人掛けのベンチがあり、青年はそこに腰を下ろした。

 ベンチから見える景色。陽光に当てられ水面がキラキラと光る湖、優雅に泳ぐ水鳥、木洩れ日が作り出す湖畔の模様。写真に収めれば、絵葉書にも使えそうな風景が広がる。

 背にする小屋の壁の向こう側では、男の怒鳴り声が今も続いている。

 青年の背中が前屈みに沈む。

 両手で顔を覆った。

 



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第二幕 其の二

 

 いつの間にか男の怒鳴り声は止んでいた。

 視界を塞いでいる青年の耳に入ってくるのは、セミの鳴き声と鳥のさえずり。

 それらの音に混じって、ドアノブが回る音、蝶つがいが軋む音。

 青年が顔を上げドアの方を見ると、ドアから出てきた女性と目があった。

 再び、少し驚いたように目を丸くする女性。

 彼女がこの短時間に2回も驚きの表情を見せることは大変珍しいことであったが、青年はそんな希少価値のある女性の表情を眺めることなくすぐに下を向いてしまった。

 暫くして、ドアのカギを締める音。そして青年の視界の隅を、ゴム製のサンダルを履いた女性の足が移動し始めた。左足を引きずるような歩き方。ほどなくしてその足は、青年の前で止まった。ベンチの中央に座っていた青年は、視線を足もとに向けたまま、体一つ分右側に寄った。再びサンダルを履いた足は移動を始め、青年の視界から見えなくなった。古びた木製のベンチが、ミシリという音とともに少し沈む。

 隣から、彼女の体温を感じた。

 

 青年は横目で女性を見る。ベンチの左端に、青年から体一つ分開けて座る彼女。膝に両肘をつき、前屈みに座っている青年とは違い、背筋をぴんと伸ばし、膝の上に交差させた両手を乗せ、視線はまっすぐに湖の水面を見つめている。

 目の前の自然豊かな風景も、先ほどまで小屋の中で繰り広げられた騒動も、全ては別世界での出来事とでも言うかのように、ただ座っている。

 

 たっぷりとした沈黙の後、先に口を開いたのは青年だった。

「父さんは…大丈夫?」

 女性は視線を動かすことなく、小さく頷く。

「ええ。落ち着いたわ」

 

「いつもあんな感じなの?」

「時々」

 

「綾波は…大丈夫なの?」

「ええ」

 

 一つの問答の間に、その問答の数十倍はあろうかという沈黙の時間。

 青年が何とか捻り出した問い掛けを、彼女は事も無げに、機械的に、必要最低限の言葉で返してくる。

 

 初めて会った頃を思い出す。彼女の前では会話の切り出し方も、紡ぎ方も分からず、得体の知れない緊張感に喉を絞められ、まともな会話が成立しなかったあの頃。今の状況は、まるで当時に戻ってしまったかのようだ。

 次に口に出す言葉が見つからない。

 聞きたいことは山ほどあった。でも、どの質問もこの場では場違いのように思える。何を言っても、ただ一言二言だけの素っ気ない返事が返ってきそうで、そこから話を繋げることなど出来そうにない。どの様な言葉も、彼女の前では無意味なような気がした。

 沈黙が長ければ長いほど焦ってしまう自分。でも、彼女は沈黙が続くことを少しも気にしない。このままお互い黙っていても平気で1時間でも2時間でも、下手をすれば陽が暮れて辺りが真っ暗になってしまっても平然としているはずだ。

 何か。

 何か話さないと。

 

「えっと…、葱!あのネギは…!」

 

 進退窮まった末に咄嗟に青年の口から放たれた言葉がそれだった。

「…ねぎ?」

 青年から投げられた意外な言葉に、初めて女性の顔が青年に向けられる。

 

 次の言葉を待つ彼女の視線の先で、青年は自分自身の言葉に呆気にとられてしまったようで、暫く固まってしまい、そして徐々に顔を赤くしていった。

「ご、ごめん…。何でもない…」

 

 ―――好きな葱の食べ方でも聴こうと思ったのか、僕は。

 

 追い詰められた人間は何をするか分からないと言うが、今の自分がまさにそうだった。

 額に手を当て、苦笑いする青年を、不思議そうに見つめる女性。

 醜態を晒して顔は真っ赤になっているが、自分の間抜けな発言が緊張し切っていた彼の身体を脱力させ、また彼女の視線がこちらに向いたことで、青年から次の言葉を出し易くさせた。

 

 少しだけ柔らかくなった声で青年は話し始める。

「ごめんね。父さんのこと…」

「どうして謝るの?」

「僕、父さんがあんなことになってるなんて知らなかったから…」

「…あなたには、知りえないことだわ」

「うん。でも、結果的に綾波に押し付けることになってしまった…」

「押し付ける…?」

 女性は青年の言葉の意味が分からないとでも言いたげに、反復した。

「うん。やっぱり、一応、僕は父さんの息子だから」

 やはり分からない、と言いたげに女性は首を傾げながら青年の顔を見つめる。

「ほら。こういう時って、やっぱり家族が面倒看るべきものだろう?」

「家族…が?」

「うん」

「そう…。分からないわ…」

「うん…。ごめん…」

 

 迂闊なことを言ってしまったと青年は思った。

 青年は単に社会通念上の「家族」の道理を言っただけだったが、「家族」というものを持たず、また「家族」というものが必要とされない環境の中でずっと育ってきた彼女に、一般常識における家族像を説くことの無意味さを、喋ってしまった後になって気づいてしまった。

 

 青年は話題を変えようと、殊更明るい声で尋ねた。

「あ…綾波は、元気にしてた?」

 ハウアーユーは会話の基本だ。

「ええ」

 アイムファインも返しの基本だ。普通はここからハウアバウトユーの流れになるのだが、もちろん青年は彼女にそんなことは期待していない。健気に言葉を続ける。

「最初見た時は誰か気づかなかったよ。綾波、随分変わっちゃってるんだもの」

 嘘だ。青年は女性を見かけた瞬間、すぐに彼女だと気づいた。でも「気づかなかった」とした方が、会話を広げることができそうだったから、彼は嘘をついた。

 そんな彼の涙ぐましい嘘にも、「…そう」とだけ呟く彼女。普通ならここから「どこが変わった?」あるいは「あなたも随分変わった」もしくは「変わっていない」の流れになるものだが、もちろん青年は彼女にそんなことは期待していない。

「どうやって染めてるの?その髪」

 青年は彼女の髪に視線をやる。

 女性は膝の上に組んでいた手を初めて解き、右手で額の生え際から垂れる栗色の前髪を数本引っ張り、自分の視界の中に入れた。

「普通の白髪染め。あまり上手くできてない」

 

 かつて、特異な容姿をしていた彼女の身体の中でも、際立って映えていた水色の髪。それが今ではどこにでもありふれた栗色の髪になっている。本人が言うように染めにはムラがあり、所々から本来の髪の色が覗いて見えるが、濃い栗色に対し、淡い水色はただの白髪のように見え、女性を本来の年齢よりも老けて見えさせてしまっている。

 

 「あまり上手くできてない」という彼女の言葉が、彼女にしては珍しく言い訳めいたような発言だったので、青年は少し可笑しかった。

「…瞳の色も変わったね」

「ええ」

「それはどうやって?」

「コンタクトを使ってる」

「一応聴くけど、ちゃんと毎日洗ってるよね?」

「?」

「最後に洗ったのはいつ?」

「……?」

「…とりあえず、今すぐ外そっか」

 

 赤い瞳の彼女が隣に座っている。

「大丈夫?」

「目がシパシパする」

「…よかったら今度良い眼科紹介するよ」

「大丈夫」

「…そう。…あと、日焼け予防はきちんとした方がいいよ」

「高梨さんにも言われた。日傘は差してる」

「(高梨さんって誰?)うん。でも綾波の顔、赤くなっちゃってるよ。農作業…してるんだよね?」

 三度、少し驚いたような表情の女性。

「ごめん。昨日、農場から出てくるところ見かけたから」

 出てくるところだけでなく、入っていくところまで見ていたことは黙っておいた。

「うん。農場で働いてる」

「農作業中はちゃんと日焼け予防はしてる?」

「長袖着て、帽子も被ってる」

 長靴にモンペ、長袖の作業着にエプロン、軍手、半麦帽を纏った彼女を想像する。

 うん、何だか案外結構意外にも似合っているような気がした。

「日焼け止めクリームとか塗ってる?」

 頭をふるふると横に振る彼女。

「やっぱり。手もほら。荒れ放題じゃないか」

 そう言って青年は女性の手に触れようとしたが、彼女はバツが悪そうに咄嗟に両の手をだるだるに伸びたカーディガンの袖の中に隠してしまった。

「ハンドクリームとか使ってる?」

 首をふるふると横に振る彼女。

「駄目だよちゃんと使わなきゃ。綾波って只でさえ肌が弱そうなんだから。今度良い皮膚科紹介しようか?……あっ」

 一人暮らしをしている娘のところを訪れた、世話焼きなお母さんみたいになっている自分に気づいた青年。

「…ごめん」

 彼女は「いい」と頭を横に振る。

 

「仕事は辛くない?」

「平気」

「意外だったな。綾波が普通に仕事してるのって」

「働かないと、食べていけないもの」

 女性が言ったことはこの世の中で数少ない真理の一つであり、至極真っ当なことだったが、彼女の口からそんな言葉を聴く日が来るとは思ってもみなかった青年である。

「ずっとあの農園で?」

 青年はまた知らないふりをする。彼女があの農園で働き始めたのは、早くても3月前であることを、彼は知っている。

「他にもいろいろ…」

「どんなことしてたの?」

「清掃とか…、交通整理とか…、水産加工場とか…、町工場とか…、いろいろ」

 そこまで聞いて、女性の職歴の中に、いわゆる「夜のお仕事」が無かったことに安心してしまう青年である。

「一度、男の人とお店で1時間お話しするだけでいい、って仕事があったんだけど」

「えっ!!??」

 おそらくこの数年で一番大きな彼の声。

「10分でクビになった」

「…だ、だろうね」

 

 青年は短くなったタバコを持っていた携帯灰皿の中に落とす。ズボンのポケットからタバコの箱とライターを取り出し、一本に火を点けると、右手の人差し指と中指の間に挟み、箱とライターはズボンのポケットにしまった。

 女性は青年の一連の動作を、やはり少し驚いた表情で見ていた。

「あ、これ?」

 女性の視線が、自分が指に挟んでいるタバコに向けられていることに気づく青年。

「ごめん。タバコ、大丈夫だった?」

 女性は頭を縦に振る。青年がタバコを吸っていることが意外だったとでも言いたげな表情。

「別に吸ってるわけじゃないんだ」

 青年の言葉通り、1本目のタバコも、2本目のタバコも、火を点けながらも一度も口に咥えてはいなかった。

「本当は人にあげるつもりだったんだ。暫く困らないように3カートン買ったんだけど。でもここに来る前に面会に寄ったんだけど、リツコさん、もう居なくなっちゃってて、今は行方知れずなんだ」

 彼女が少しでも自分に興味を持ってくれたのが嬉しかったからか。青年は自分が唐突に第三者の名前を出していることにも気づかず、話を続ける。慣れた手つきで先端に溜まったタバコの灰を、携帯灰皿の中に落としながら。

「僕の周りではタバコ吸う人、一人もいないからね。捨てるのも勿体ないから、二十歳になった記念に一本吸ってみたんだけど、これが不味いんだ」

 青年は初めて体内に取り込んだ「大人の味」を思い出して表情をしかめた。

「でもタバコの匂いはちょっと気に入ったんだ。だから時々こうして火を点けてる」

 タバコの先端に微かに灯る赤い火を見つめる。はた、と何かを思い出したように顔を上げ、女性の顔を見る。

「ごめん。この事は他のみんなには内緒にしておいてほしいんだ」

 何故?と少しだけ首を傾げる女性。

「だって恥ずかしいじゃないか。吸ってもないタバコに火を点けて見てるだけなんて。子供の火遊びじゃないんだから」

「…そうかしら」

「アスカとかにバレたらそりゃもう笑いものだよ。「あんたなんかココ○シガレットでも噛んでなさい」とか言われて絶対に馬鹿にされる。賭けてもいい」

「…アスカ?」

「そう。アスカ。アスカは元気にしてるよ。アスカは凄いんだよ。あの後大学に入ってすぐに卒業してご両親と同じ科学者目指してたんだけど、「結局人の世界を支配しているのは法なのよ」とか何とか言いだし始めて、大学入り直して、今は弁護士目指してる」

「…そう」

「アスカとは今も時々会ってるんだ。今は喫茶店とかで時間を潰すくらいだけど、アスカも12月には二十歳だから、きっとそれからは飲みにも連れて行かれちゃうんだろうな。あれは絶対にミサトさんタイプだから、ちょっと今から心配だよ」

「…そう」

「ほかにもトウジとか、ケンスケとか。洞木さんとも時々会ってるよ。トウジもすごいよ。義足付けてからは、物凄くリハビリ頑張って、今はもう普通にバスケットやってるし」

「…そう」

「ケンスケは念願の自衛隊に入ったんだ。よっぽど舞い上がってるんだろうね。今もよく戦車や戦闘機の写真を送ってくるよ」

「……」

「洞木さんは高校卒業したら、商工会議所に就職したんだ。トウジとは離れ離れになっちゃったけど、あの2人、この先大丈夫なのかな?」

「……」

「あとあのオペレーター3人組ね。伊吹さんは国立の技研に入って、ああ日向さんは国の機密情報漁ってたのがバレて実刑食らってたけど、出所してからは青葉さんとベンチャー企業起ち上げたらしんだ」

「……」

「……」

「……」

「…ごめん。つまらなかった?」

 最初は入れられていた女性の相槌が、青年が夢中になって喋っている間に消えてしまった。

 女性はゆっくりと、しかし縦か横か曖昧に頭を振った。

「その人たちのこと、知ってる、けど…。赤木博士以外、「私」、会ったこと、ない、から」

「……そっか」

 

 青年は自分の失敗に、心の中で頭を抱えた。

 

 全てが混ざり合ったあの時。特に密に交わりあった彼女とは、心の奥底で確かな繋がりを感じることができた。現に、彼女は最後に願いを叶えてくれた。

 彼女ととわの別れをし、月日が過ぎ、彼女の名を口にすることもなくなり、思い出すことも少なくなり、彼女の印象が薄れていく中で、いつの間にか自分の中でカノジョと彼女を重ねることに違和感が無くなっていた。やっぱり彼女はカノジョだったんだ。そう思うようになっていた。

 だから、今、横に座っている彼女に。久しぶりに、本当に久しぶりに会った、もう二度と会えないと思っていた彼女に、まるでカノジョと話しをしているかのように、話していた。

 青年は頭の中で時系列のページを捲った。

 確かに、「彼女」は女性科学者以外とは対面したことがない。

 カノジョが消えてしまい、もう一人の「別の」彼女が現れた時。2人目のパイロットは入院していたし、同級生たちはすでに疎開していたし、オペレーター達ともモニター越しの音声でしか交流はなかったはずだ。

 女性科学者は言っていた。彼女「たち」は、個体は別々であっても、魂と記憶は受け継がれている、と。

 確かに記憶は「共有」されているようだが、今、すぐ横に座っている彼女にとって、カノジョの記憶は所詮他人のものに過ぎないのかもしれない。自分が喋っていたことなんて、彼女にしてみれば、例えば写真でしか見たことがない人たちの話しを、長々とされているようなものなのかもしれない。自分だって、時折会う同級生たちから、大学や職場で自分の知らない友人たちの話しを喜々とされても、「ああそう」と愛想笑いを浮かべるしかできない。

 

 ふと、青年は思う。

 

 ―――僕は、

    僕はどうなのだろうか。

    今日、君に会いに来た僕は、彼女にとって…。

 

「…碇くんは…?」

 不意に、女性の方から声が掛けられた。

「碇くんは、どうしてたの?」

「僕…?」

 女性の方を向くと、彼女の瞳がまっすぐにこちらに向いていたため、青年は少したじろいでしまう。

「碇くんは、何故、ここに来たの?」

 瞬きもなく向けられる眼差し。青年はすぐに視線を逸らしたくなったが、誰かの手に拘束されているかのように、顔も瞳も彼女の眼差しから背けることができなかった。

「…僕は…君のことを捜していた…」

 嘘は言っていなかった。実際、彼はこの数か月間、女性を捜し出すことに腐心していた。

「…今日は、君に…会いに来たんだ」

 これも嘘ではなかった。彼女に会うのはその先にある目的を果たすための必要な過程でしかないが、「彼女に会いたい」という思いは本物だった。

 青年の返答に、しかし女性は表情を一切変えることなく、再び視線を湖の水面へと戻した。

 ぽつりと言う。

「何故…、会いに来たの?」

「何故…って…」

「あなたが捜していたのはは、本当に「私」なの?」

「……うん」

「あなたが会いたいと思っていたのは、……本当に…「私」なの?」

「……」

「「私」は、…あなたが知っている綾波レイ、ではないわ…」

 

 タバコを持つ青年の指が緩んだ。その拍子にタバコが大きく傾き、先端に溜まった灰が、ぼとりと地面の上に落ちる。

 青年は灰が落ちた地面を見つめた。

 鳥の囀りや虫の鳴き声が聴こえなくなった。

 木陰の隙間から降り注ぐ日差しが消え、周囲が真っ暗になった。

 女性は遠くを見つめたまま、それ以上話そうとしなかったし、青年も地面を見つめたままで次の言葉を見つけることができなかった。

 木漏れ日の下の三人掛けのベンチ。一人分の隙間を空けて座る男女。

 

 ただ時間だけが過ぎた。

 



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第二幕 其の三

 

 壁の向こう側から、小屋の中から声がした。

 最初は壁に阻まれ曇った声しか聴こえなかったが、徐々にその声は大きくなり、誰かの名前を叫んでいることが分かった。

 車いすで部屋の中を動き回っているのだろうか。小屋がミシミシと、音を立てて揺れている。

 小屋の軋む音が止む。少し経ち、今度は急にドアノブがガチャガチャと激しく回り始めた。

 ドアの向こうから、人の名を叫ぶ声が聴こえる。ドアを開けようと試みているのか、しかし鍵が掛かっているドアは開かない。中の者を出すまいと、薄い板に貧弱なノブのドアはその見た目に反して健気に頑張っている。

 

 壁の向こう側で繰り広げられている騒動を、青年は呆気に取られて見ていた。

 ふと、隣に座る女性を見た。最初にベンチに座った時と同じ格好で、背筋をぴんと伸ばし、膝の上に交差した両手を乗せ、視線はまっすぐに湖の水面に注がれている。隣に座る青年のことも、彼女が背にする壁の向こう側のことも、全ては別世界での出来事とでも言うかのように、ただ座っている。

「…あや…っ」

 そんな彼女の名前を呼ぼうとして、青年はすぐに声を飲み込んだ。

 同じ、ではない。

 彼女の交差した両手が、微かに震えている。

 

 青年はドアの方を見た。ドアノブは静かになっていたが、ドアの向こうからは変わらず、名前を呼ぶ声がする。

 ベンチから立ち上がろうとする青年。

 ドキッ、と心臓が波打つ。いつの間にか、女性の右手が青年の左足に触れていた。青年の動きを制止したその手は、そのままするすると青年の身体の上を滑るように移動する。彼女の、触れられているのか触れられていないのかも判別できないような軽い手の感触に、青年の顔は見る間に紅潮した。その手が行き着いた場所は青年の左肩だった。彼女の手は、やはり触れているのか触れていないのか分からないほどに軽く、微かな重さしか感じられなかったが、それでも肩に乗せられた女性の手は、浮いていた青年の腰を再びベンチに押し戻した。

 青年が座りなおしたのを確認すると、女性の手は青年の肩から離れた。

 女性は音もなく立ち上がる。ベンチの側にある小さなテーブルの湯飲みに手を伸ばし、中の水に浸していたカラーコンタクトレンズを人差し指に乗せる。二つのコンタクトレンズが女性の瞳に収まり、彼女の真っ赤だった瞳は鳶色に染まった。

 左足を引きずりながら、ドアに向かう。ロングスカートのポケットに手を突っ込み、中から鍵を取り出す。

 開錠の音、ドアノブを捻る音、蝶番の軋む音。

 開いたドアの隙間に、女性は頭だけを突っ込んだ。

「…どうしたの?」

 ドアの向こうからは男の怒鳴り声。

「大丈夫。私はどこにも行かないわ」

 男が何やら喚いている。

「ごめんなさい。お客さんが来ていたの」

 女性をなじる男の声が、少しだけ小さくなった。

「そう。私の古い知り合い。もう帰ってもらうから」

 そこまで言って、女性は背後を振り返った。

 いつの間にかベンチから立ち上がっていた青年が、女性の背後に立っていた。

 青年は何も言わず、ただ女性の目を見つめた。青年の無言の訴えを理解したのか、女性の目に僅かな逡巡が走る。そして再びドアに向き合い、隙間から頭だけを入れた。

「お客さんをお招きしたいのだけど」

 男の低い声。渋っているらしい。

「大丈夫。優しい人よ」

 「優しい人」。その人物評が、彼女の本心なのか、それとも男を落ち着かせるための方便なのか、青年には分からなかった。

「そう。分かったわ」

 女性はドアを目一杯に開放すると、自らは少し端により、青年が中に入り易い様に空間をつくった。

 青年は再び小屋の中に足を踏み入れる。

 車いすに座った男が、そこには居た。

 

 女性はテーブルに備えてあった木製の椅子を引き、青年に座るよう促した。そして自らは男の方に向かい、車いすの側のベッドに腰を下ろす。すぐに男の右手が女性の方に伸び、彼女の左手を握りしめた。加減のない男の手の力に、女性の手は見る間に歪んだが、女性は少しも痛がる素振りを見せず、空いた左手で男性の手の甲を撫でた。青年の方を見ないようにしている。

 

「…父さんは、いつからこうなの?」

 勧められた椅子に座った青年は小声で話し出す。

「分からない」

「父さんは…その。記憶がないの?」

 女性は小さく頷いた。

「新しいことも、すぐに忘れてしまう。あなたのお父さんが覚えているのは、あなたのお母さんのことだけ」

 男が一人息子のことすら覚えていないという事実は、青年にとっては驚きではあっても受け入れられないものではなかった。もともと子供の頃から何年も放置されてきた身であり、忘れ去られていたようなものだったから。ただ、男の中に残っているものが、自分は顔さえ覚えていない母親だけということが、ただでさえ遠い存在だった男を、更に彼方へと追いやっていった。

「歩けないの?」

「…一度は医者に診せるべきなんでしょうね」

 女性は頷きながら答える。それは世間が許さないということは、青年も分かっていた。

「……綾波は、ずっと父さんを看てきたの?」

「…ええ」

「誰かの助けは?」

 女性はゆっくりと頭を横に振る。

 

 小さな国家規模の予算が投入されていた組織の長だった男。その逃亡には、きっと外部から何らかの支援があるに違いない。青年も、その仲間たちもそう考えていた。きっと自分たちがまだ把握してない謎の組織があって、彼らが男に資金を提供し、潜伏先を提供し、その足跡を巧妙に隠していく。まるで映画の中での出来事だが、男の価値を考えればそんな謎の組織の力が働いてもおかしくないはずだ。青年も、仲間たちも、本気でそう考えていた。

 ところが蓋を開けてみれば、男の逃亡を助けていたのはたった一人の女性で、しかも当の男がこんな状態なのであれば、実態はこの女性の独力のみによるものとなる。

 青年とその仲間のみならず、男を追っていた各国の捜査機関や組織が、数年間に渡り(極大事象後でその捜査能力が著しく低下していたとは言え)たった一人の女性に振り回されていたという事実に、青年は唖然とするしかなかった。

 

「このまま、2人での生活を続けていくつもり?」

 青年の問い掛けに、女性はゆっくりと頭を縦に振る。

「この人には…、もう他に誰もいないもの…」

 男の手を撫でる。

「…私にも、…もう他に誰も…いないもの…」

 

 女性の言葉に、青年は少なくない苛立ちを覚えた。

 自分に対する当てつけなのではないか、とすら思った。

 

 似たような言葉を以前にも彼女から、いや「カノジョ」から聴いたことがある。

 あの頃はまだ出会って幾ばくも経っていない頃で、自分とカノジョとの間に途方もない距離を感じていた頃で。それでも少しだけカノジョのことが分かり始めた頃で。そして、二人で一緒に死線を越えて。

 「他に何もない」

 カノジョが言ったその言葉は、そっくりそのまま当時の自分に当てはまるものだった。でも様々な経験を経たことで、自分の中には様々な絆が育まれた。

 カノジョに直に確認したわけではない。でもきっと「他に何もなかった」カノジョの中にも、自分と同じように様々な絆が育まれていたのではないか。少なくとも、自分はカノジョとの絆を確かに感じていた。

 

 今の彼女の発言は、カノジョたちと共に死に物狂いで生き抜いたあの日々を、根底から覆されてしまったように感じた。

 大切な大切な絆を、否定されてしまったような気がした。

 

 青年は何かを言いかけた。しかし機先を制するかのように、女性は強い眼差しを青年に向ける。

 

「あなたが、許してくれさえしたら」

 

 彼女が言う「許し」の意味を、青年は正確に理解していた。

 男の唯一の肉親である青年に請う「許し」。

 彼女が必死で守ってきたものを、壊すか否か、その決定権を握る者への「許し」。

 

 迷いのない眼差し、に見える。

 本当にそうだろうか、と青年は思った。

 

 では何故、君の手はあんなに震えていたのか。

 

 小屋の中は照明の類がなかったが、一つしかない窓からは西に傾いた陽の光が差し込み、意外なほどに明るい。

 しかし青年には小屋の中が真っ暗に見えた。

 車いすの男と、その隣に座る女性。彼らの周りから黒い絵の具が大量に湧き出ていて、部屋の中のあらゆる物が黒一色に塗りたくられていくような、そんな錯覚を覚える。黒一色の背景の中に佇む2人も、2~3種類の絵の具のみで描かれた、とても出来の悪い肖像画のように見えた。2人を見ていると、自分までもが黒い闇に飲まれ、不出来な肖像画に描き替えられてしまいそうで、青年は咄嗟に視線を天井へと向ける。

 

 朽ちかけ、今にも落ちてきそうな梁。

 剥がれかけた屋根。

 傾いている柱。

 

 歪んでいる。

 この部屋は、とても歪んでいる。

 

 歪んでいるのはこの小屋が古いから?

 刻まれた年月が、この部屋を歪ませている?

 

 いや、違う。

 歪ませているのは…。

 

 青年は目を閉じる。

 軽く、深呼吸をした。

 

 開いた目を、男に向ける。

 呑気に眠りかけている車いすの男に。

 もう、彼女は見ない。

 もう、見る必要はない。

 

「やあこんにちは。碇ゲンドウさん」

 突然の張りのある晴れやかな声に、女性は目を丸くして声の主を見つめた。

 名前を呼ばれた男は、閉じかけていた瞼を何度かしばたかせ、急に大きな声を出した青年をぼんやりと見た。

「…誰だ君は」

 なるほど。確かに新しいことも忘れてくれる。青年は笑顔で続けた。

「初めまして。僕は碇ユイさんの知り合いなんです」

「ユイの知り合いなのか」

 確認するように女性を見る男。女性は青年の行動の意図が分からず困惑の表情のまま頷いた。

「ユイさんには昔から良くして頂いていて。素敵な旦那さんがいると聞いていたから、いつかご挨拶をしたいと思っていました」

「そうかそうか」

 男の顔が急に綻ぶ。自分たちを仲睦まじい夫婦と認める青年の発言が嬉しかったらしい。

「ユイとはいつ?」

「冬月先生の研究室でお世話になっていました。いやぁ、それにしても羨ましい。ユイさんには時々研究室のみんなに手料理を振る舞ってもらっていたんですが、これが実に美味しかった。彼女の手料理を毎日食べられるなんて」

「はっはっは。確かにユイの料理は絶品だ」

 こんな笑顔の父親は見たことが無い。ある種の不気味ささえ感じながら、青年は張り付けたような笑顔で続けた。

「特にあれ。なんだったかなぁ。あれは本当に美味かった」

「チキン・シュニッツェルだろう。ユイの得意料理だ」

 聴いたこともない料理名だ。

「そうそう。それです」

「昔はよく作ってくれたのに、最近は作ってくれないな。なあユイ」

 二人の奇妙なやり取りを呆気に取られて見ていた女性は、急に話を振られ、ただ言われるままに曖昧に頷くしかできなかった。

「そうだ。わざわざ訪ねてきてくれたんだ。夕食を食べていきたまえ」

 突拍子もないことを言い出した男を、女性は目を丸くして見た。

「え?いいんですか。嬉しいな。久しぶりのユイさんの手料理」

 その話に乗っかる青年を、これまた目を丸くして見る。

「ほら。ユイ。もういい時間だ。そろそろ夕食の準備をしてくれないか」

「…でも」

「構わないじゃないか。君の知り合いなのだろう?積もる話しもあるんじゃないか?食卓を囲んで話そうじゃないか」

「……」

 女性は黙って立ち上がった。青年を見るが、青年は女性の方を向こうともせず、嘘くさい笑顔を続けている。

「…分かりました」

 女性はテーブルに畳んで置いてあったエプロンを腰に巻くと、左足を引きずりながらドアに向かった。

 ドアの前で、もう一度青年の横顔を見る。やはりこちらを見ようともしない。少し振り返り、男を見た。笑顔で、女性に早く行くよう促している。

 女性はドアから外に出ると、小屋の裏の炊事場へと向かった。

 

 



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第二幕 其の四

 

 2人きりとなった室内。テーブルを挟んで1人は椅子に、1人は車いすに座っている。

 男は再び眠気が湧いてきたとみえ、大きな欠伸をし、寝そべるように車いすの背もたれに寄りかかり、うとうとし始めている。

 

 男の顔を、青年は眺める。

 平穏そうな顔。

 男と青年とで、振り返れば僅かでしかない共有した時間の中で、こんな穏やかな表情の男は記憶されていない。知らない者がみたら、この静かに寝息を立てる、顔中に深い皺を刻み、白髪交じりの髭をたくわえた、実際にはまだその年齢に達していないにも関わらずすでに老人の域に片足を突っ込みかけたような風貌のこの男が、世界を崩壊の危機に追いやった首班であるとは、夢にも思わないだろう。

 

 かつて面会した白髪の老人の証言を思い出す。

 男の目的は、とどのつまり、彼の妻との再会にあったという。

 実際には彼が彼の妻を失う以前からその計画は彼の許にあったというが、白髪の老人の見解では妻との再会こそが計画を推し進めるための彼の原動力となり、いつしか男の中では当初の目的よりも彼個人の目的の方が比重を占めるようになっていったのだという。

 全人類を一緒くたにすることがどうして彼の妻との再会に繋がるのか。白髪の老人の説明を聞いてもよく理解できなかったし、何より妻との再会という至極個人的な理由に、全人類を巻き込もうとする男の思考回路が青年には理解できなかった。

 

 心から愛した者を失った時、人はそんな狂気の沙汰に身をやつしてしまうのだろうか。

 青年には分からないことだった。

 

 だが、眉間に皺を寄せつつも満ち足りているようである男の寝顔を見ていると、男がそうまでして得たかった物が、何であるかまでは朧気ながらに理解できるような気はした。

 そして今、穏やかな寝息を立てる男。欲したものを、ついに手に入れたかのように、満ち足りた顔で夢の世界に身を委ねている男。

 男が欲したものをもたらした者が、誰であるかも青年は分かっていた。

 

「…ありがとう、綾波」

 たとえそれが偽りのものであったとしても。極めて歪なものであったとしても。

 青年は男の唯一の肉親として、彼女に感謝した。

 

 そして青年は、こうも付け加えた。

「ごめん…、綾波」

 その言葉は、彼女が懸命に作り上げ、必死に守ってきた、彼と、彼女の生活を破壊する者として呟いた。

 

 

 

 

 父さん。

 

 父さん?

 

 父さん、本当に何も分からないの?

 

 綾波が優しくしてくれるから、って、分からないフリをしてるんじゃないの。

 

 父さん。

 

 …本当に分からないんだね。

 

 あれから5年経ったよ、父さん。

 

 父さんが、父さんたちが、…僕らが世界をむちゃくちゃにしてから、5年が経った。

 

 世界では、まだ3割の人が戻ってきいないんだ。僕の周りでも、大切な人を失くし、今もその還りを待っている人たちが大勢いる。

 

 僕は何度か死にそうな目に遭った。

 

 アスカなんて本当に死にかけたよ。

 彼女の身体には、今もあの時負った大きな傷が残っている。

 でも彼女は強いんだ。あの時のことも、一生背負わされた傷痕のことも、世界を破綻させた主犯としてやり玉に挙げられたことも、全部遠くに投げうって前に進んでいる。今度こそ自分自身の人生を歩もうとしているんだ。

 

 世界だってそうだ。

 結局人間は、命がある以上営みをやめるわけにはいかないんだね。多分、あの日起こったことを受け入れている人なんて世界中探しても一人もいないと思うよ。でも、スーパーに行けば商品が並んでいるし、喫茶店に行けば温かいコーヒーがカップに注がれる。何処に向かっているか分からない道を、父さんが踏み入れるのを恐れていたこの道を、世界は今もコロコロと転がり続けてるんだ。

 あの日の前と変わらずにね。

 

 人間は、父さんが思っているほど弱くはなかったようだね。

 それとも、あんな事が起こっても、いつもと変わらない日々を送ることしかできない事こそが、人間の弱さの証なのかな。

 

 いずれにしろ、父さんが…父さんたちが…、…僕らがやったことは。その結果は。

 全人口の3割を削ったこと。

 それだけなんだ。

 それだけしか、僕たちの手には残されなかったんだ。

 

 なんてことをしたんだろうね。

 まったく、なんてことをしてしまったんだろう。

 

 そんなに母さんを失ったことが辛かったのかな。

 僕に母さんの代わりはできなかったのかな。

 僕では、父さんの心の穴を埋めることはできなかったのかな。

 

 碇ゲンドウ。

 僕は碇シンジ。

 あなたの息子です。

 

 あなたが僕のことをどれだけ忌み嫌おうと、あなたが母さんと唯一血を分け合ったのは、世界中どこを探しても、僕しかいないんです。

 

 僕はもっと早く、それに気付くべきでした。

 

 

 

 青年は音もなくゆっくりと椅子から腰を上げた。全身を支配するだるさを感じ、テーブルに左拳をついて身体を支える。ズボンの後ろポケットに右手を忍ばせた。

 

 車いすの軋む音。すっかり寝入っている男が、車いすの上で身じろぎをしている。お尻か腰でも痛くなったのか。何度かお尻の位置を変え、ようやく収まりのよい位置が見つかったのか、ふう、と深い息を吐き、その息はそのまま寝息へと変わった。

 

「…ああ、分かっているよ、ユイ」

 

 寝言を漏らしている。よほど居心地のよい夢を見ているのか、いつの間にか眉間の皺も消えた男の顔はどこまでも穏やかだ。

 

 寝言ですらも、その口から漏れるのはあの人の名前。

 その頭の中には、あの人しか残っていない。

 夢の中にも、あの人しかいない。

 僕も、彼女すらもいない。

 不幸に陥れた人たちのことも、めちゃくちゃに壊してしまった世界のことも。

 現実の世界にも、そして僕らにもこれっぽっちも目もくれず、夢の世界で、あの人と2人っきりで睦まじく過ごしている。

 

 テーブルについていた左拳が強く握りしめられた。

 

「…男だったらシンジ、女だったらレイと名付けよう」

 

 後ろポケットに忍ばせていた右手を出し、左手と同じようにテーブルにつかせ、両手で身体を支えた。そうしないと、震えている足が今にも膝から折れてしまいそうだったから。テーブルに突いた両拳も、微かに震えていた。

 テーブルの木目をなぞっていた青年の目が真ん丸に開かれていた。漆黒の瞳が、微かに潤んでいた。

 固く閉じられていた口が少し開き、微かに嗚咽が漏れていた。

 

 ―――なぜ、僕たちは家族になれなかったんだろうね。

 

 潤んだ目を右手の甲で拭き、一度だけ鼻を啜る。

 顔を上げ、窓に目をやった。やや高い位置にある窓ガラスからは時々女性の頭部が覗く。右に左に。彼女が炊事場と思しき場所を忙しく動き回っている様子がうかがえる。

 包丁がまな板をたたく音。何かしらの食材を水で洗う音。かまどに鍋を置く音。

 「彼女が料理を?」と最初は耳を疑ったが、窓の向こうから聴こえる音はリズムよく、手慣れており、淀みない。

 

 青年には母親と過ごした記憶がなかった。だから、母親が台所に立つ姿というものも、想像できなかった。

 すっかり傾いた陽の光が差し込む室内。きれいに片づけられたテーブル。テーブルを囲むように男と青年。台所からは夕餉の準備を進める音。

 母親が作る料理を食卓で待つ父と子。

 はるか昔から、世界のいたる所で繰り返されてきた、ありふれた家族の風景。

 

 西日が差し込む窓を見つめながら、青年は微かに笑った。

 

「…綾波の料理、…食べたかったな」

 

 青年は目を閉じるとすっと鼻で息を吸った。

 そこからは、一度も呼吸をすることなく一連の行為を済ませた。

 

 ズボンの後ろポケットから小型の拳銃を取り出す。見た目はおもちゃのような、手のひらに収まる小さな拳銃だった。

 拳銃は右手で構えた。構えたと同時に、親指で安全装置を外す。

 

 発砲。

 見た目同様、まるで癇癪玉が破裂したような軽い銃声。空薬莢が床をコロコロと転がる音。

 

 もう一度発砲。

 

 さらにもう一度発砲。

 

 

 発砲をやめると室内はたちまち静寂。

 陽光の筋の中を硝煙がたゆたい、火薬の匂いが鼻をくすぐる。

 

 外から足音。

 片足を引きずるような足音。

 落ち葉を踏む足の主の心情を示すかのように、乱れた足音。

 青年の背後のドアが勢いよく開け放たれる。

 青年は発砲した時の姿勢のまま、背後を振り返った。

 

 上気したように赤くなった頬。額に浮かぶ汗。汗で顔に張り付く髪。激しく上下する肩。その肩からはだけるカーディガン。

 今までに見たことがない、取り乱した姿の彼女が立っている。

 

 息が整わない女性は苦悶の表情を浮かべながら、青年の肩越しに「それ」を見た。

 見た瞬間は息を吐くことを忘れてしまい、呼吸不全になってしまった女性は咳き込むと、一度前屈みになり、深く息を吐いた。肺の中を空っぽにすると、今度は一度だけゆっくりと深呼吸をする。呼吸が落ち着いたことを確認した女性は、ゆっくりと体を起こした。

 

 青年は、そんな女性を眺めながら、律儀に銃を構えたまま待っている。女性が、この場で何が起きたかを理解しやすいように。

 

 青年の肩越しの「それ」を見届けた女性は、今度は青年の顔を見た。

 瞳に光はなく、息をしているかさえ怪しくなるほど、表情が動かない青年の顔を。

 

 二人はただ見つめあった。

 室内の酸素と、決して戻ることはない時間だけを浪費しながら。

 

 

 沈黙を破ったのは電子音。

 ピピピ、と控えめな電子音が、青年が履くズボンの左ポケットから流れてくる。

 主張控えめな音に、二人とも絡めた視線を解くことはしなかったが、青年は左手を動かしてポケットの中身を探った。

 ポケットから取り出した折り畳みの携帯電話。親指で携帯電話を開け、左耳に当てる。

 青年は無言。

 携帯電話のスピーカーからは、男性の低い声。

『……状況は進行中か…?』

 電話の相手の低い声に、青年はようやく口を開いた。

「はい。…いいえ、たった今、終了しました」

『…君の銃からの発砲信号を確認したが』

「はい。対象を射殺しました」

『……報告せよ』

「一六〇〇時に対象を発見。一七三〇時に対象に向けて三発発砲し全て命中。対象は死亡しました」

『了解した…。こちらも現在向かっている。君は引き続き現場保存のためその場に待機せよ』

「分かりました」

 電話のスピーカーからは、通話終了を告げる電子音。青年は携帯電話をたたみ、左ポケットに収めた。

 

 再び沈黙が場を支配する。

 青年は変わらず右腕で拳銃を構えたまま、顔だけを女性に向けている。

 女性は青年が電話で会話をしている間も、瞬き一つせず青年を見つめていた。

 

 

 

 先に動いたのは女性だった。

 青年から再び「それ」へと視線を移すと、ゆっくりと「それ」に向かって歩み寄り始めた。

 青年の側を通る。女性の耳には、青年の息遣いが微かに聴こえた。

 彼のまっすぐに伸びた右腕。握られた拳銃。

 巨大兵器に搭乗し、誰よりも上手くその兵器を操った青年なのに、ちっぽけな拳銃の構え方は酷くぎこちない。

 ぎこちなく構えられた拳銃の銃口が見つめる先には、車いすに座る彼の父親がいる。

 

 自分の側を通り過ぎ、ゆっくりと車いすの男に向かって歩く彼女の後ろ頭を、青年は黙って目で追った。ようやく、拳銃を握った右腕を下ろす。

 

 車いすの前に、女性は立つ。

 車いすの上には、背もたれに深く背中を預け、両腕をひじ掛けに乗せ、寝そべるように座っている男。

 彼女が目の前に立てば、すぐさま「彼女」の名前を呼び、その手を握ってくる男が、今は名前も呼ばす、手を握ろうともせず、動かない。

 女性の右手が、いつもなら男の握られているはずの右手が、所在ないように何度か虚空を握った。

 

 男の顔を眺める。

 下がった顎。うとうととしているような半開きのまなこ。緊張感のない垂れ下がった眉。

 視線を少し下に落とす。

 男の胸の中央からやや左に、3つの赤い斑点。斑点の中央には穴。

 女性の視点からは見えないが、車いすの下では大量の赤い液体が大きな円を作り、今もその面積を広げている。

 

 女性は腕を伸ばした。

 女性の左手が、車いすのひじ掛けに乗せられた男の手の甲に触れる。女性の小さな白い手が、男の厳つい手を包み込む。いつもなら骨が軋むほどに握り返してくるが、男の手は女性の手に触れられるままに形を変えるだけ。

 彼女の手が男の手を離れ、次に男の額に触れる。中指と薬指がくしゃりと男の前髪を潰した。手は男の顔の上を滑り、深い皺が刻まれた眼尻、皮膚の下に骨を感じる頬、白髪交じりの顎髭をなぞり、そして首に辿り着く。

 その首に、人差し指、中指、薬指をやや強めに当てる。

 指の先端が何も感じない事を確認した女性は、再び男性の顔に掌を滑らせ、顎、口、鼻を辿った手は、男の双眸に辿り着いた。

 一度男性の両目を覆った女の手が、再び顎の方へと動く。

 女の手に隠れていた男の目が現れる。

 少しだけ開いていた男の瞼が、完全に閉じられていた。

 

 女性が男の顔から手を離し、男の手を再び握ったころ。

 

 彼女の背後では、青年が拳銃を構え直している。

 

 



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第三章 其の一

 

 

これは罰? 

 

ええそう、これは罰。

 

ヒトのことわりに反し、自然のことわりに反し、

 

生命の尊さを貶めたワタシへの罰。

 

 

 

 

 

 

 何故、私は生まれてきたの。

 

 神様の贈りもの? 父と母の愛の結晶?

 

 いいえ。

 科学者たちが「あの人」から削り取った欠片から、人工培養し結果生まれたのが「ワタシ」。

 

 

 何のために、私は生きているの?

 

 遺伝子を紡ぐため? 愛を育むため?

 

 いいえ。

 エヴァに乗って使徒を倒し、来る日には人々の魂を集約し彼の地に導くために、「ワタシ」は生きているの。

 

 

 では。

 

 それでは、この「生」はいったい、何のため?

 

 全ては終わったはずなのに。

 あの日、彼の願いを叶え、全てを地上に還すことで、私の役割は終わったはずなのに。

 2度と目覚めることのない、深い眠りへとついたはずだったのに。

 

 なぜ。

 なぜ。

 ―――なぜ?

 

 

 

 指が見える。

 狭い視界の中に、指が5本。

 「動け」と命じてみる。

 指がうようよと動いてる。

 

 風に吹かれて揺れた髪が、左頬を撫でる。視界の隅には空色の毛先。

 

 右頬と、投げ出された手足から大地を感じる。

 

 私は生きている。

 

 

 なぜ。

 なぜ。

 ―――なぜ?

 

 

 

 

 

 大量の熱を浴び焼き付いた大地。

 毒々しい赤褐色の湖。

 空を覆う岩のような厳つい雲。

 

 錆びついた地面に、少女が横たわっている。

 膝を胸に引き寄せ、背中を少しだけ丸めた、まるで母体のなかで眠る胎児のような恰好で。

 空色の髪。透き通るような白い肌。

 ごつごつとした岩が転がる丘の上で、一糸まとわぬ姿で横たわる少女の姿は、神の祝福から外され下界へと堕とされた天使のようだった。

 

 薄く開かれた瞼の下から覗く赤い瞳は、肩からのびるほっそりとした腕の先を見つめている。

 瞳に映る指が、自分のものなのかどうかを疑っているらしい。

 次に少女は、額から垂れる前髪を数本指でつまみ、それを視界の中に入れ、凝視した。

 瞳に映る空色の髪が、自分のものかどうかを疑っているらしい。

 それは傍から見れば、深い眠りから目覚めつつ、もう少し微睡の中に身を委ねていたいと駄々をこねる幼子のような姿だった。

 

 しばらくして、少女は諦めたように、ゆっくりと、気だるげに上半身を起こした。

 視界が広く、視線が高くなり、改めて周囲の光景が彼女の瞳に映し出される。

 

 地面が抉られむき出しになった大地。

 血だまりのような広大な湖。

 

 少女は、かつてそこが豊かな緑に囲まれた、近未来的なビルが立ち並ぶ都市であったことを知っていた。

 そして、いつ、なぜ、どのようにして、そして誰が、このような変わり果てた姿に変えてしまったのかも、知っていた。

 

 だから、少女の瞳は、悲しみも、怒りも、恐れも、宿さない。

 眼前に広がる光景は、彼女の心情に1mmの波紋も広がせることはない。

 

 ただ心の中にあるのは「なぜ」。

 

 風景はすぐに飽きてしまい、代わりにじっと自分の手のひらを見つめる。

 

 

 ―――なぜ、私は生きている?

 

 

 元々、替えの効く命。

 個体がその活動を停止したら、魂と記憶は自動的に次の個体へと移し替えられ、新たな「生」が始まる。

 

 

 ―――ああ、そうゆうことか…。

 

 

 今までと、これまでと、何ら変わることのないルーティンが実行されただけ。

 

 彼の願いを叶え、役割を終え、それなりの満足感を得て自分の「生」は閉じられたのだと思ったけれど。

 自動的に、作業的に、当人の事情はお構いなしに、この命は再利用される。

 今回の再利用過程がこれまで繰り返されてきた再利用過程とは幾分違うような気もするが、自分がすでに再生産されている事実は認めるしかない。

 

 つまり、自分は「4人目」ということになるのだろうか。

 これは、4度目の「生」になるのだろうか。

 

 いずれにしろ、これまで繰り返されてきた「生」とは大きく違うところが、この「生」には目的が見当たらないこと。

 

 

 何故、生まれたのか。

 その答えは何となく見つかった。

 

 では、何のために、生まれたのか。

 

 これまでと同じルーティンが繰り返されたのであれば、生まれると同時にその「生」に自動的に付加されるはずの目的が、身体中のどこを探しても見つからない。

 だから少女は同じ問いを繰り返すしかない。

 

 なぜ。

 なぜ。

 ―――なぜ? と。

 

 

 

 目的がなければ、すべきこともない。

 何もすることがない。

 だから少女は、目覚めた場所から一歩も動くことなく、膝を抱えて座り込んだまま、丘の上から見える風景をぼんやりと眺めていた。

 

 分厚い雲は相変わらず空を一分の隙も無く埋め尽くしている。

 その為、陽が沈むと周囲は真っ暗になる。湖の水面を揺らぐ月の光も、空に散らばる星々も、闇を切り裂くような街の光も、丘の上からは見えない。真の暗闇。

 東の空が明るくなり始めた。

 十数時間ぶりに闇から解放された風景は、しかし以前と変わりはない。分厚い雲を何とか射抜いて地上に辿り着く弱弱しい陽光。時間と共に変わる陰の形、風に舞う砂塵や揺れる湖の水面。見つめ続けて認めることができた変化はそれらだけで、再び世界は暗闇へ。

 何をせずとも、何を欲せずとも、雲の上で太陽は勝手に昇ってきて、そして勝手に沈んでいっているらしい。

 自分の「生」と同様の、全自動の世界。

 

 何度目かの自動化した夜明けを迎えて。

 少女はようやく動いた。動いた、というよりは、身じろぎした、と表現した方が正しい。

 身体を右側に少し傾け、左の臀部を地面から浮かす。ずっと地面とくっついてたお尻の皮膚が、パリパリ、と糊付けされた紙を剥がすような音を立てて地面から離れる。暫く左臀部を浮かせていた少女は、一旦姿勢をまっすぐに戻すと、今度は左側に傾いた。右臀部の皮膚が、やはりパリパリ、と小さな音を立てて地面から離れる。

 どうやらずっと座り続けていた所為で、お尻が痛くなったらしい。

 何度か同様の動きを繰り返してみるが、お尻の痛みは取れないようで、少女は「仕方なしに」といった気だるい動作で両膝を地面に付き、完全に腰を浮かせた。両手も地面について四つん這いになり、そして片方の足のみを立てる。その姿勢のまま、腰の位置を少しずつ高くしていく。

 「この身体」をもらって、初めての立位。「この身体」に放り込まれて、初めて重力に逆らう行為。両膝がぷるぷると震えた。右に左に大きく揺れながら、背筋を伸ばす。両腕をぶらんと下げ、重力に身体を慣らしていく。

 回れ右をしてみた。目覚めてから、初めて背後の景色を見る。厳つい雲に覆われた空、荒涼とした大地。今まで眺めていた風景から、血だまりのような湖がなくなった以外は、何ら変わらない風景。何かを期待していたわけではないので、がっかりはしなかった。

 

 少女は歩くことにした。

 行きたいところがあるわけではなかった。周辺を散策したいわけでもなかった。

 また座るとお尻が痛くなってしまうだろうし、立ちっぱなしだと膝が痛くなってしまうだろう。きっと歩いていた方が楽なので、だから少女は歩くことにした。

 

 荒れた地面を裸足でペタペタと歩く。

 何も纏わない身体に、時折強い風が吹きつける。

 でも少女は気にせず、裸のまま歩き続けた。

 お尻が痛くなろうが膝が痛くなろうが、足の裏が泥だらけになろうが、風が身体から体温を奪っていこうが、ただ機械的に、自動的に、目的もなく再生産されたこの身体は、もはや労わる必要はない。

 

 陽が傾き掛けた頃、少女はある場所に辿り着いた。

 それは偶然か、はたまた帰巣本能の成せる業か。そこはほんの数日前まで、少女が唯一の居場所として認識していた、とある組織の本部があった場所。

 何か巨大な建造物があったと思われる瓦礫の山の隣では、巨大な穴がぽっかりと大きな口を広げている。穴の淵までいって、下を覗いてみる。

 穴の底を少女は知っている。少女の身体は知っている。

 そこは数日前まで、少女の「元」となったモノが安置されていた場所だったから。

 今はそこが空っぽになっていることは知っていたし、別に戻りたいという気持ちもなかったが、たまたま瓦礫の隙間から覗く地下へと降りる階段が目に入ったので、少女は今にも崩れ落ちそうなその階段を使って地下に向かうことにした。

 



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第三章 其の二

 男が居た。

 

 少女が目覚めてからというもの、ずっと地上から陽の光を奪ってきた分厚い雲。その雲の隙間から、少女が地下に潜ったと頃には少しずつ晴れ間が覗き始めた。一筋、二筋と、光の梯子が地上へと降りていく。

 少女が延々と続く階段を使い、巨大な穴の底に辿り着いた頃には、穴の底にもちらほらと陽だまりができていた。

 その陽だまりの中に、男が仰向けになって倒れている。

 

 少女は男の側に立った。

 

 

 ―――この人知ってる。

 

 少女は男の側の地面に両膝をついた。

 

 ―――「ワタシ」をこの世界に生じさせた人。

 

 少女は地面に両手をついた。

 

 ―――「ワタシ」に生きる理由を与えた人。

 

 顔を、男の胸元に寄せる。

 

 ―――「ワタシ」の全てを決めた人。

 

 右耳を、男の左胸に当てた。

 

 ―――そして、最後に私が裏切った人。

 

 トクトク、と、生命の脈打つ音が聴こえた。

 

 少女の右手が、地面に投げ出される男の手に触れる。少女の小さな白い手が、男の厳つい手を控えめに包み込む。微かに、少女の手を握り返しくる反応。

 少女の手が男の手を離れ、次に男の額に触れる。中指と薬指がくしゃりと男の前髪を潰した。手は男の顔の上を滑り、埃を被った頬をなぞり、そして彼の口に辿り着く。少女の手のひらに、男の吐息を感じた。

 少女の手はさらに男の顔の上を滑っていき、今度は右耳から左耳へと繋がる顎髭を、まるで男の輪郭を確認するかのように撫で始める。

 

 男から触れられることはあっても、少女から男に触れたのは、「記憶」を振り返る限りは初めてのことだった。

 近くに居て、でも月の裏側にでも居るかのような途方もなく遠くに感じる人。

 初めて間近で見て、初めて実際に触れてその存在を感じる。

 

 顔を撫で回され、ようやく男の瞼がうっすらと開いた。瞼の奥の瞳が、自分の顔をおもちゃにする少女に向けらる。その視線に、男の耳の穴をほじくっていた少女の手が止まった。

 

 少女は心の奥底で期待した。

 彼の第一声に。

 ただ自動的に再利用されただけでからっぽのこの「生」に、その口から何かしらの啓示が授けられるのではないかと、少女は期待した。

 

 少女を見ていた瞳はスライドし、少女の背後へ向けられる。そこに見えるのは、丸く縁どられた空。雲の隙間から、輝く太陽がその顔を覗かせた。巨大な穴の薄暗い底で、太陽を背にこちらを見るその少女の姿は、男の目にあるいは後光を背負った天使にでも見えたのかもしれない。

 男は少女の手の温かさをもっと感じようと、目を閉じ、自身の顔の重みを少女の小さな手に委ねた。

 

 太陽が雲に隠れ、陽が陰り、再び穴の底に薄い闇が舞い降りる。

 うっすらと開く男の瞼。逆光で見えなかった少女の顔が、はっきりと男の瞳に映りこむ。

 男の瞼が徐々に持ち上がり、そして大きく見開かれる。

 男の眉間に深い深い皺が刻まれた。

 

 男の表情の変化に気づいたのか、男の頬を柔らかく撫でていた少女の手が止まり、やがてゆっくりと離れた。

 

 男は上半身をゆっくりと起こした。頭痛でもするのか額に手を当て、警戒するように、周囲を見渡す。

 そして再び視線を少女に向ける。

 何か異形のものとでも相対しているかのような表情で。

 

 自分の特異な容姿が周囲から奇異の目を集めることは珍しいことではなかったが、この男からこのような目で見られることは今までにないことだった。

 少女は男の視線に気圧されるように、その場にペタンと尻餅をつく。

 

 男は口を開いた。

「…あ…」

 少女に向かって何かを言おうとして呻いたが、久しぶりに鳴らそうとした喉が上手く振動せずに機能不全を起こし、すぐに咳き込んでしまった。

 苦しそうに咳き込む男性を見て、少女は慌てて周囲を見渡す。

 その大半を瓦礫が占める地下の広大な空間。しかし所々に、かつてこの空間を満たしていた半透明の黄色い液体の水たまりができている。少女は男のもとを離れると、駆け足で水たまりの方へ行き、そして両手をお椀のような形にして、その水たまりの液体を掬った。手の中の液体が零れないように慎重に、そして駆け足で男のもとに戻る。

 男はまだ少し浅い咳きをしながら、駆け寄ってくる少女の姿を、やはり眉根を寄せて凝視している。少女はそんな男の側に膝を折ると、手の中の液体を、男の顔の近くに差し出した。

 男は瞳だけを動かし、少女が両手で作った器の中に満たされている液体に見る。そして、やはり瞳だけを動かして、少女の顔を見る。再び液体へ、再び少女の顔へ。同じ行動を繰り返す。険しい表情のまま。

 瞳以外を動かそうとしない男に、少女は何かに気づいたように瞼を瞬かせた。差し出した両手を一旦自分の方へと引き寄せ、そして自身の顔を手の器に近づけ、黄色い液体に口をつける。一口、二口。少女のか細い喉が微かに上下する。

 ここに来て、少女はようやく自分も目覚めて以来、飲まず食わずだったことを思い出す。久しぶりに口にする水分は瞬く間に全身に染み渡るような錯覚を少女に感じさせ、その感覚は自分が生きていること、自分が生き物であることを改めて少女に思い出させた。

 三口ほど液体を飲むことでこの液体が安全であることを証明してみせて、改めて手の器を男の前に差し出す。もちろん「衛生管理上」の観点からの安全を、少女は何の保証もできないが、少なくともこの黄色い液体それ自体は、飲んでも害はないものだ。そのことは男も知っているはずだが、パイロットでもなければまず口に入れることはない代物なので、男は口にするのを躊躇ったのかもしれない。

 男は険しい表情を崩さず、疑るような視線を少女に向けていたが、少女の気持ちが通じたか、口を小さく開き、少しずつ少女の手へと顔を近づけた。男の唇が、少女の右薬指と左薬指に触れ、そして液体へと沈んだ。

 男の発達した喉仏が、大きく上下する。

 男も自分が生きていて、自分が生き物であることを改めて思い出したのか、一口液体を啜った次の瞬間には、両手で少女の両掌を持ち上げ、液体を一気に口の中に注ぎ込んだ。

 無我夢中で自分の手の器から液体を飲み干そうとする男の姿を、少女はどこか満足気な表情で見つめていた。

 

 しかし、液体を飲み干し、今は腕で口を拭っている男の態度は、少女の期待に逆らうものだった。何かを言ってくれるものと思っていたが、彼の口からは空気が深く出し入れされるのみで、そして変わらず険しい眼差しを少女に向けている。

 その視線を受け止めきれなくなり、少女は視線を地面に落とした。

 微かに、唇を噛みしめる。

 

 

 ―――ああそうだ。

    分かっていたはず。

    この人は決して私を許さない。

 

 

 瓦礫の中から、緑色の大きな布っきれを引っ張り出す。それを何度か力強く上下させ、埃を落とす。いくら上下させても、布から出てくる埃の量は減る気配がなかったが、腕が疲れてきたので、少女は構わずその布をローブのように羽織った。

 とりあえずの衣料を手に入れた少女は、男のもとへと戻ることにした。別に素っ裸のままでも良かったのだが、もし今後誰か知らない人と遭遇した場合は、横にいる男の社会的地位の甚大なる損失が懸念された。

 

 男はいつの間にか立ち上がっていて、そして狭い空をぼんやりと見上げていた。しかし少女の足音に気づくと、すぐに険しい顔に戻り、小走りで駆けてくる少女を睨んだ。

 少女の足が徐々に遅くなり、やがて止まる。

 動けなくなる。

 自分には決して向けられることはなかったこの眼差し。

 

 自分はこの眼差しを知っている。

 それは男が、彼の野心の障害となると認めた相手に対して向けられた眼差し。

 排除すべきものとして認めた者に対して向けられた眼差し。

 すなわち、彼の「敵」に向けられた眼差し。

 認めれば、たとえ彼自身の肉親に対しても向けられた眼差し。

 

 あの少年は、実の父親からこのような眼差しを向けられていたのだろうか。

 

 

 ここに長居をするわけにはいかなかった。

 だだっ広い地下の空間のどこからか、時々何かが崩落する音が聴こえてくる。この空間が、いつまで保たれるか分からない。

 

 少女は未だに睨んでくる男に対し、自分が下りてきた階段を指さしてこの空間から出ることを提案した。男は今度も瞳だけを動かして少女が指さす階段を一瞥し、すぐに少女に戻す。「敵」を視界から外すわけにはいかないとばかりに。

 何も言わない男。動こうとしない男。

 

 少女は仕方なく、階段に向かって歩き始めた。背中を見せると刺されるとでも思っているのかもしれない。だったら、と、自分から率先して歩き始めた。これまでの男との関係では、決してありえなかった行動に少女自身大いに戸惑いながら。

 

 しかし。

 少女は振り返る。

 男は一歩も動いていない。

 

 3歩進み、再び振り返る。

 男は一歩も動いていない。

 

 男を見る。

 歩いた分、距離ができたため、男の表情はよく見えない。

 それでも分かる。

 男は今も変わらず、「敵」を睨むような表情で、自分を見つめていることだろう。

 

 少女は意を決し、駆け足で男に近寄る。

 なるべく男の表情は見ないようにしながら男の側に寄ると、男の肩からぶらんと力なく下がっている右腕を握った。

 男に背を向け、階段に向かって歩き始める。

 握った男の手を、引っ張りながら。

 

 もしかしたら振り払われるかもしれないと思った。

 自分の手に、「敵」の手に引っ張られるのを、男は受け入れないだろうと思った。

 ところが意外にも男は少女の手を振り払わなかった。ただし握り返してもこず、そして少女の細腕は男の体重を強く感じており、男が決して好んで少女の後に付いてきているわけではないことは分かった。

 そして少女の背中は、相変わらず男の睨みつけるような視線を感じていた。

 

 

 

 

これは罰? 

 

ええそう。これは罰。

 

彼を裏切り、彼に最大の恥辱を与えたワタシへの罰。

 

 

 

 

 何日も空を覆いつくしていた分厚い雲が、嘘のように引いていく。何日も太陽の恵みを受けることがなかった地上に容赦のない日光が降り注ぎ、大地は急速に熱を帯び始めた。まるで少女と男が地上に出てくるタイミングを見計らったかのように、天は過剰な恵みを示し始めた。

 

 霞が掛かった青空。赤い赤い大地。二つの絵の具だけで再現できそうな、誰かがおざなりに作り上げたような風景の中を、二つの影がとぼとぼと歩いている。

 先導するのは細い影。ボロボロの布切れを纏っただけの少女。布の隙間から覗くすらりとした手足は大地の色の正反対をいくように白く、歩調に合わせてふさふさと揺れる髪は空よりも透き通った淡い青色。

 少女の手に引かれて歩く男は、粗末ななりの少女とは違いきちんと服を上下で着こんでいる。しかし服装とは対照的に男の歩きはどこか無気力で、虚ろな瞳はぼんやりと空を見上げ、しかし時折睨むようにふさふさと揺れる青い髪を見下ろしている。

 

 陽が暮れると地上は途端に闇。新月であり、夜空を瞬く満天の星々の光では、地上を照らすには足りない。

 歩き疲れた二人は、男は大きな岩を背もたれに座り込みそのまま寝てしまい、少女も男から少し離れた場所の地面に横になり、胎児のように身体を折りたたんで眠りについた。

 

 

 陽が昇ると地上は途端に暴力的な光に満ち溢れ、数日振りの惰眠を貪っていた少女を強制的に揺り起こす。眠たい目をこすっていると、太陽を背に聳える大きな岩が目に入った。そして岩の陰に隠れるように腰を下ろしている男が、こちらを睨んでいる。

 そう、睨んでいる。少女が目を覚ます前から、ずっと睨んでいる。

 心の隅っこで、一晩経てばあるいは男の機嫌も少しばかりは和らいでいるかもしれないと、ほんの少し期待していたが、その期待はあっけなく砕け散った。

 少女は立ち上がり、周囲を見渡す。

 風景は飽きもせずに赤い赤い大地が続いている。昨日一日歩き通して、結局生きているものと出会うことはなかった。

 

 不思議だった。

 誰かに命令されたわけでもないし、この人は、まだ一言も言葉を発しない。

 なのに、自分はこの何もない世界で、一体何を求めて歩き回ったのだろうか。

 何もない、本当に何もない、空っぽの「生」。

 この人も、生涯を掛けてきた計画を完遂まであと一歩のところまで迫ったのに、自分に裏切られて全て失ってしまったはず。

 

 私は、私たちは、何を求めてこの何もない地上を彷徨っているのだろう。

 何故、私たちはこの世界に再び降ろされたのだろう。

 何故、私たちは生きているのだろう。

 

 

 なぜ。

 なぜ。

 ―――なぜ?

 

 

 少女は男の前に立つ。男から突き付けられる険しい眼差しは変わらない。

 少女は男に手を差し出した。瞳で、行きましょう、と訴える。

 しかし男は差し伸べられた手を無視し、少女を睨むことをやめようとしない。

 仕方なく、少女は昨日と同じように、男の顔をあまり見ないようにしながら男の手をとり、自分の方へと引っ張った。少女と男は文字通り、子供と大人くらいの体格差があったが、男は少女のか弱い手に引っ張られて抵抗なく立ち上がる。

 少女は男の手を引き、歩き始める。男はそれに付いていく。

 

 目覚めてから何度目かの夜を越える。照り付ける太陽は容赦なく二人の背中に降り注ぎ、地面に濃い影を作り出す。

 

 さすがに少女も男も体力の限界に近づいていた。なにしろ、口に入れるものがない。ただでさえ無気力に歩いていた男の足取りが、さらに重くなっている。

 少女の様子は男よりも深刻だった。水分と栄養の欠乏は男と同じだったが、少女は水と栄養以外のものの不足による身体の失調を自覚していた。目がかすみ、足もとが危うくなる。ともすれば前のめりに転倒してしまいそうになる自分の身体を、男の重たい身体を引っ張って歩いていることで、何とか立っていられる状態だ。

 

 汗で濡れた手が滑ってしまい、今日何度目かの転倒。

 四つん這いになり、肩で息をしている少女の背中を、男は手を差し伸べるでもなくただ立ったまま見下ろしている。疲れ切った顔で、しかし目だけはぎらついたまま。

 少女はふらつきながらも地面から膝を離し、腰を浮かせる。背後に伸ばされた少女の左手が、何かを捜すように開閉する。その手が、男の右腕に触れた。手は男の手首を掴み、少女は男の腕に縋りつくようにして立ち上がる。右手を右膝につき、口を開きながら浅い息を繰り返す。不規則な呼吸。呼吸が整うことを待つことなく、右膝から手を離した。

 そして歩き始める。

 歩き始めると、右手に背後の男の重みを感じる。

 もう後ろは見ない。

 

 

 天は、少しだけ気まぐれに優しさを示した。

 太陽がてっぺんに昇った頃から雲が広がり始め、そして太陽が雲に隠れるとポツポツと雨を降らせ始めたのである。

 

 しかし天はやっぱり気まぐれで、いや、もしかしたら最初から気まぐれの中に悪意を隠していたのかも知れない。雨はどんどん酷くなり、まだ太陽は高い位置にあるはずなのに、周囲が暗くて見えなくなるほどの土砂降りとなった。

 せっかく渇水という危機的な状況からは逃れられたのに、今度は与えてやった水分の引き換えとばかりに、地上の二人からどんどん体温が逃げていく。雨宿りをしようにも、土と岩しかない周囲に雨をしのげるような場所はなかった。

 

 先に力尽きたのは男の方だった。膝から崩れ落ちるようにその場にへたり込んでしまう。

 あまりの寒さに只でさえ白い顔が蒼白となっている少女は、動けなくなった男を見て迷ってしまった。迷いに迷って、しかし最後には意を決し、蹲っている男の背後で膝を折った。身に纏っていた布切れの前を開き、左右から男を布切れで包み込む。自身の胸と腹を、男の背中に押し付ける。

 少女が纏っていた、瓦礫の下から引っ張り出した布切れは工事現場用のものなのか、表面に撥水加工が施されていたようで、多少なりとも雨をはじいてくれている。

 男をその布切れで包み込み、そして自分の体温を幾らかでも分けてあげれば、少しは男の体力がもつのではないか、と少女は考えた。いつまでもつのか、そしていつまでもたせればよいのか、そこまでは少女には分からなかったが。

 もしかしたら激しく抵抗されるのではないかと思った。「敵」の抱擁を、この男が素直に受け入れるとは思えなかった。しかし男はもはや抵抗する力も残っていないのか、一度だけ肘で少女の腹を押したが、抵抗らしい抵抗はそれだけで、大人しく少女の庇護下に収まっている。

 少女は空色の髪を隠すように布の端っこをフードのように頭に被せ、雨から守りながら頬を男の後頭部に乗せた。

 

 布を打ち付ける大粒の雨の音。微かに聴こえる、二人の吐息。

 その中で、男がぼそりと漏らした「ユイ」という音を、少女の耳は聞き逃さなかった。

 

 

 雨は一向に弱まる気配を見せない。

 すでに布切れは雨をはじいてくれず、布の下に容赦なく雨水が浸透してくる。

 男の背中がどんどん冷たくなっていくのを感じながら、少女はぼんやりとした頭で、二人ともこのまま朽ちて果ててしまうのだろうかと考えた。

 

 もしこのまま静かに朽ちていくのならば、それこそこの「生」は何だったのだろう、と思ってしまう。

 

 粉を入れたカップにお湯を注いでスプーンでかき混ぜたらはい出来上がり、みたいなインスタントスープのような「生」。もはや不要なものなのに、不要なものから不要なものへと再利用されてしまった、本当に不毛な「生」。

 あの地下で男を発見した時、あるいは、あのまま放っておいたらそのまま死んだであろう男の命を、救い出すために与えられた「生」なのではないか、と自分に言い聞かせてみたが、もしそうだとしたら、どうやらその課せられた使命は果たせそうにない。

 

 それとも。と、自分本位な考えも巡らせてしまう。

 もしかしたら、自分に与えられたこの数日間は、裏切ってしまったこの男に対する贖罪のために用意された最後の数日間ではなかったか。

 

 あの少年の願いを叶え、それなりの満足感を抱きながら「生」を閉じようとして、しかし心の隅で裏切ってしまった男への罪悪感が残っていたのかもしれない。それを不憫に思った生物の運命を司る天上の何某様が、男への贖罪のための時間を、自分に与えてくれたのかもしれない。

 だとしたら、自分はこの数日間を、無為に過ごしてしまったことになる。貴重な時間を、ただ男と歩くことだけに割いてしまったことになる。

 きっとこの雨は、贖罪が一向に進まないことに呆れてしまった、生物の運命を司る天上の何某様が、与えてやったボーナス期間は終了とばかりに降らせているのだろう。

 

 

 その音は、少女が目覚めて以来、初めて耳にするものだった。

 風の音。土の上を歩く音。心臓が脈打つ音。水を掬う時の音。水を飲み干す時の音。コンクリートの塊が落ちていく音。雨の音。自分の、彼の、呼吸する音。彼の、彼の最愛の者を呼ぶ音。

 それら以外で、初めて少女の鼓膜を刺激するもの。

 

 閉じられていた少女の瞼が、その音に反応してうっすらと開く。

 黒い墨でも混じっているのではないかと思わせる、視界を塞ぐ大粒の雨の向こうで、微かに光るもの。太陽由来以外では、目覚めて以来初めて目にする光。

 その光はやがて強烈な閃光へと変貌し、そしてその音もどんどん大きくなる。

 

 少女は立ち上がった。

 

 再び少女の心の中で浮かび上がる疑問。

 

 なぜ?

 なぜ、自分は立ち上がったのだろう。

 

 そしてなぜ、大きなエンジン音を轟かせながら走ってくるトラックに向かって、手を振ったのだろう。

 

 



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第三章 其の三

 極端に悪い視界の中で、トラックの運転手がその存在に気付いたのは、ちょっとした奇跡だったかも知れない。大粒の雨の向こうで、この雨の中では余計に目立たない緑色のローブを羽織った人物が、控えめに手を振っている。

 少しびっくりしてしまった中年男性の運転手だが、しかしすぐに口元を綻ばせ、咥えていたタバコを灰皿に押し付けると、続けてブレーキをゆっくりと踏んだ。

 

 少女の目の前に、少しずつスピードを落としていたトラックが停車する。

 今時珍しい手動式のハンドルで窓ガラスが開き、運転手が顔を出した。運転手は開口一番「やあ、あんたで8人目だ」と弾んだ声で言った。

 

 運転手の話しによると、今現在、世界を未曾有の大異変が襲っているらしいが、この近辺は近辺で、数日前に発生した巨大な爆発で、かつて第3の首都の名を冠した大きな街が丸ごと吹っ飛んでしまったらしい。この国も世界も未曾有の大異変で混乱の極みに達しているため被災地への救助活動が遅れている中、都市の近郊に住んでいた運転手は居てもたってもいられなくなり、自らが経営する運送会社のトラックを走らせ、生存者の救出にあたっているのだと言う。

 

「君は一人だけか?」

 暗がりの中で見ると、まるで幼い子供のように見えるローブを纏った少女。その少女が自分の足もとを指さしている。その少女の仕草に、運転手はようやく少女の足もとで蹲っている男の存在に気付いた。

「二人か?」

 頷く少女。

「親子か?」

 運転手のその問いに、少女は何の反応も示さなかった。

 まあいい、と男は呟き、トラックの荷台を指さす。

「乗りな。避難所まで連れてってやる」

 

 少女は蹲る男の背中を控えめにとんとんと叩いた。少女の呼びかけに反応がないことはいつものこと。少女は右手で男の左手首を掴むと、左手で男の左肘を支え、そっと引っ張った。男は少女の手に促されるままに、のそっと立ち上がる。

 運転手を見た。顎で、トラック後部の幌付きの荷台を指している。

 少女は頷き、男の手を引いてトラックの後部へ向かった。

 

 2人の背中をサイドミラーで見送る運転手は、何とまあ淡泊な親子なんだ、と少し不満そうに鼻を鳴らした。これまで何人かの生存者を救い出してきたが、皆が皆、涙を流しながら感謝したものだが。そして暗がりのなか、トラックのライトに一瞬だけ照らされたフードの下の少女の髪が、妙な色をしていたような気がした。あんな10代半ばくらいの若い女の子が、早くから髪をあんなけったいな色に染めてしまって、あの父親もさぞかし苦労していることだろう、と同情の念を抱き、そして方々探し回っても未だ見つからない自分の娘の身を案じ、少しだけ涙ぐんだ。

 

 トラック後部に回ると、幌の隙間から中年女性が顔を出していた。濡れ鼠の二人を見て、「可哀そうに」と呟きながら、乗車を手伝おうと手を差し伸べてくれた。

 少女はまずは彼をと、男を先に荷台へと上がるタラップの前に立たせた。男はぼんやりと、差し伸べられた中年女性の手を眺めている。何かが欠落したような表情。男のその様子を見て彼の状況を察してくれたのか、女性は何も言わずに男の手を握り、引っ張ってやった。女性に引っ張られるがままにタラップを昇っていく男のお尻を、少女が押してやる。男が幌の中に入っていくと、少女もそれに続いた。

 

 幌の中は天井にぶら下げられた白熱電球で照らされていた。新たに加わった少女と男のほかに、運転手に助け出されたと思しき7人の男女が座っている。

 男をタラップの側に座らせる。決して広いとは言えない荷台は9人も乗ればほとんど隙間がなくなってしまい、少女も男と身を寄せ合うようにして座った。

 荷台の奥の小窓から運転手が顔を覗かせている。新たに助け出した2人が座ったのを見届けて、アクセルを踏んだ。

 

 水分を拭き取れるようなものがなく、とりあえず自分の手の先で雨に塗れた男の顔の水滴を拭い落してやっていると、誰かに肩をとんとんと叩かれた。

 振り返ると、隣に座る老婆が、少女に向かって手を差し出している。老婆の手のひらを見ると、一欠けらのビスケット。お食べ、と手のひらを少女に寄せてくる。

 少女はおずおずと老婆の手に自身の手を伸ばし、ビスケットを受け取った。

 

 「記憶」の箱をひっくり返す。脳に蓄積された「経験」を総動員させる。

 誰かに何かをしてもらった時に、とるべき行動。

 

 「あの時」は、咄嗟に「感謝の言葉」が出たようだけれど、この場では老婆に対してお辞儀をすることで、謝意を示した。

 

 少女は貰った一欠けらのビスケットを自らの口に運ばず、そのまま隣に座る男の口元へと持っていった。薄っすらと開く男の瞳は自分に近づけられたビスケットを見たが、それ以上の動きはない。仕方なく、少女はやや強めに、男の唇にビスケットを押し付ける。すると反射的に男の口が開いたので、少女は男の上唇と下唇の間に、そっとビスケットを滑りこませた。

 男の口から、ポリポリと咀嚼音が聴こえた。

 

 与えられたビスケットを、自らは一口も口にせずまっすぐに男の口に運ぶ少女の行為を好ましく思い、微笑んでその様子を見守っていた老婆。

 しかしフードの隙間から少女の髪の毛が見えて、老婆の表情は青ざめた。

 

 9人の人間がすし詰め状態となっているため、9人分の体温に温められて荷台の中は暖かかった。

 男はビスケットを食べ終えるとすぐに眠りに落ち、疲れ果てている少女もくてんと首を傾け、静かに寝息を立て始めた。

 

 

 トラックが停車した反動で、これまで続いていた小刻みな縦揺れが止まり、大きな横揺れが前へ後ろへと1回ずつ。無防備に寝ていた少女はその前後の揺れに前のめりに倒れこんでしまい、少女の前に座る若い男性に頭から寄り掛かってしまった。

 大きな横揺れと、倒れてしまった衝撃と、そして若い男性の「ヒッ」という短い悲鳴に、少女は泥濘のような眠りから覚醒させられる。

 開いた目の先には、知らない若い男の顔。若い男性は、目をひん剥いて少女を見つめ返していた。僅かに開いた口は、短い悲鳴を上げた時の形のままで、固まってしまっている。

 若い男性の表情に少女は居心地の悪さを感じながら、密着していた身体を離した。

 身体を離しても、若い男性の表情は変わらない。恐怖に慄き、動けなくなってしまったような表情で少女を見ている。

 少女はすぐに気づいた。

 若い男性だけではなかった。

 その荷台にいる、全ての者が少女のことを見ていた。

 無言のまま、瞬きもせず、息を潜めて、若い男性と同じように、何か、この世ならざるモノでも見ているような表情で。

 

 少女はトラックに揺られている間にはだけてしまっていたらしいフードを被りなおし、自分の空色の髪を隠した。

 髪を隠しても注がれ続けられる皆からの視線に、逃げるように、そして助けでも求めるかのように少女は隣に座る男を見上げた。

 

 男も、少女を見ていた。

 ビスケットを胃に収めて少しは回復したようで、生気を取り戻した目で、少女を見下ろしている。

 救いとは程遠い、それこそ「敵」を睨みつけるような表情で。

 

 幌の出入り口から運転手が顔を出す。

「着いたぞ。みんな降りてくれ。足もとに気をつけてな」

 中年女性は、今度はタラップの昇降を手伝ってはくれなかった。

 

 

「腹が減ってたらあっちで飯を配ってる。調子が悪かったり怪我してたら、向こうの救護所には医者がいっから。あっちの方では役所の連中が身元確認してるんで、落ち着いたら行ってくれや」

 運転手はそう告げるとトラックに乗り込み、荒野へと戻っていった。

 トラックから降ろされた9人は、それぞれ思い思いの場所へと散らばっていく。何度か、少女の方を振り返りながら。

 

 ぽつんと残された2人。

 少女は男を見上げるが、男はやっぱり横目で少女を睨むだけで、何も言ってくれない。男が何も指示してくれない以上、自分で考えて行動するしかない。それは少女にとってはとてもとても不慣れな事で、誰の指示にも命令にもよらず、自分の明確な意思で行動したことなど、この人を裏切った「あの時」しかなかった。

 

 周囲を見渡す。

 どこかの小さな町の公民館らしき敷地内に設営されている避難所。公民館の前庭や駐車場に天幕が並んでおり、その間を避難してきたと思しき人々がのろのろと、そして避難所のスタッフと思しき人たちが忙しそうに動き回っている。

 雨は止む気配を見せず、被災した人々と、救援に駆け付けた人々を容赦なく濡らせていく。

 とりあえず、今一番欲しいのは屋根だ。

 そこに思い当たった少女は、男の手を引き、公民館へと向かった。

 

 ところが、皆考えることは同じのようで、公民館の中は人・人・人でごった返しており、とても2人が入り込めるような隙間はなかった。2人と同様に全身ずぶ濡れになっている人々が、入り口に長蛇の列を作っている。避難所に押し寄せた避難者の数に対して、避難所を運営するスタッフの数はあまりにも少ないようで、誰かが入場整理をしている様子はない。そこかしこで「早く入れろ!」だの「子供を優先させて!」だの怒号が飛び交っている。

 少女は公民館の中に入ることを早々に諦め、まだ人の密度が少ない公民館の裏手に回り、公民館の屋根の軒先を借りる事にした。時折風に煽られて雨が入り込んでくるが、空の下に居るよりは遥かに雨をしのげる。公民館の白い壁を背にして、男を座らせる。少女は男に目で、ここに居て、と告げ、先ほどの運転手が指さしていた方へと駆けていった。

 

 

 当面の食料品や生活用品が配られている天幕の間は、それこそ人で溢れかえり、何処の天幕にも長蛇の列が出来ていた。

 学校には行ったことがない。以前行っていた「らしい」学校は、2人目によって跡形もなく吹っ飛ばしてしまっている。その2人目も、学校はさぼり気味で、たまに授業に出ても教師も黒板も見ることなく外の景色を眺めることに殆どの時間を割いていた、そんな授業日数ギリギリの不良学生だった「らしい」少女は、ここにきてせめて家庭科の授業くらいは真面目に聴いてほしかった、と2人目を心の中で呪った。

 衣・食・住。それが「生活三大要素」と呼ばれていることは少女も知っているが、どれから優先させるべきなんだろうと悩んでしまう。でもこういったものは大抵優先順位の高いものから並んでいるのものだから、まずは「衣」を確保するべきなんだろう。

 この避難所では「衣類」の配給は行われていないようだが、毛布が配られているようだ。少女は毛布の配布が行われている天幕の、列の最後に並んだ。

 30分くらいして、ようやく少女に順番が回ってくる。

 額を汗で光らせている受け付けのおじさんが、少女に向かって「何枚?」と聴いてくる。少女は右手でピースサインをする。おじさんは「オーケー」と言って、奥に積まれている毛布の山から2枚取り、雨に濡れないようビニール袋に入れてくれた。

 「頑張りなよ」と声を掛けながら、少女に毛布が入ったビニール袋を差し出す。

 少女は経験則に従い、お辞儀をすることで謝意を示しながら、おじさんからビニール袋を受け取る。

 受け取る為におじさんとの距離が縮まり、フードに隠れていた少女の顔がおじさんに見えたようで、おじさんの顔が一気に青ざめたが、少女はそれを無視してその場から足早に立ち去った。

 

 公民館の軒先に戻ると、男が30分前と変わらぬ姿勢で座っていた。少女はビニール袋を濡れない場所に置くと、男の前に膝を折った。

 男の胸に手をやり、ぐっしょりと濡れたジャケットを脱がせていく。ぼけっと虚空を眺めていた男は少女が側に膝を折った瞬間、少女を睨むことを再開したが、ジャケットを脱がされることには抵抗せず、肩までは簡単に脱がせることができた。しかしジャケットはもともとタイト気味でおまけに水分を吸っているため、腕から袖を引っこ抜くのに苦労した。

 十分に水を吸い重くなっているジャケットを上下に何回か強く降って水分を飛ばし、地べたに投げる。投げようとして、これは自分の服ではないのだ、と思いとどまり、丁寧に畳んで(本人は丁寧に畳んだつもりで)地面に置いた。

 ビニール袋から毛布を一枚取り出し、男に掛けてやる。体の芯まで冷え切っていたらしい男は、掛けられた毛布を素直に羽織った。

 

 続いて「食」の列に並んだ。

 「食」の天幕の柱にはラジオがぶら下げられていて、そのスピーカーからは落ち着いた、しかしどこか疲れたような男性の声が流れていた。

 

『……とし、当面の間、所在不明の総理に代わって、内閣官房長官が総理代理として内閣の指揮を執るとのことです。会見の終わりでは、今回の事象について、その関与が疑われる結社「ゼーレ」に倣い、正式に「サードインパクト」と呼称すると共に、「ゼーレ」の構成員であるキール・ローレンツ、碇ゲンドウらを重要参考人として指名手配することが発表されました。これを受けて警視庁公安部は……』

 

「何人?」

 それが自分に掛けられた声だと気づいて、はっとする。いつの間にか順番が回ってきていたようで、バンダナを頭に巻いたお姉さんが、受け付けテーブルの向こうで少女に顔を向けている。

 少女は右手でVサインをした。お姉さんは「オッケー」と返事し、空の段ボール箱の中に非常食が入った袋を二つと、バナナ2本、ミネラルウォーター2本、それに湯銭していた缶コーヒー2本を入れ、少女に差し出した。

 段ボールを受け取る為にお姉さんとの距離が縮まり、フードに隠れていた少女の顔がお姉さんに見えたようで、お姉さんは「ひっ」と引き攣ったような悲鳴を上げたが、少女はそれを無視してその場から足早に立ち去った。

 

 温められた缶コーヒーは有難かった。握っているだけで冷え切った手がじんわりと温かくなり、身体の緊張が溶かされていく。

 2本渡された缶コーヒーは、それぞれ無糖と加糖。

 少女はコーヒーを飲む習慣は全くなかったが、男と会食した時に男がいつも食後に用意されるコーヒーの中に、大量のスティックシュガーを流し込んでいた「記憶」が掘り起こされたので、加糖の缶コーヒーを男に握らせた。

 内臓から身体を温めようと、少女は自身の手に残った無糖の缶コーヒーのプルタブに人差し指の爪をひっかける。水分を摂取するといったら、水道の蛇口を捻るか、組織から支給されるペットボトル飲料水くらいでしか経験がなかった。「記憶」には、かつての女性上官がアルコール飲料の入った缶を開けるところが何回か刻まれているため、どうやったら中身を飲めるかは分かるものの、今回少女自らが初めて相対することとなった缶飲料。長時間雨に打たれてふやけていた所為もあり、何度目かの挑戦でプルタブがこじ開けられた時には、少女の人差し指の爪はボロボロになっていた。

 中の真っ黒な液体を啜る。

 

 少女が幼い顔を目一杯歪めている横で、男は缶コーヒーを両手で握ったままでいた。

 まだ9割以上残っている残りの缶コーヒーをどうしようか悩んでいた少女は、一向に缶コーヒーを飲もうとしない男を見て、せっかくの温かさが冷めてしまうと思い、とりあえずこれは一旦とばかりに無糖の缶コーヒーを地べたに置いた。男の手から缶コーヒーを引き抜き、今度は中指の爪をボロボロにして何とかプルタブを開けると、男に両手で缶コーヒーを握らせた。そして少女の手で男の両手を支え、缶コーヒーの口を男の口へと近づける。そこまでやって、ようやく男は自ら缶コーヒーの口を自身の口へと近づけ、中の液体を啜った。

 

 缶コーヒーをちびちびと啜る男の横で、少女は段ボールからバナナを取り出し、ヘタを毟って皮を剥く。男が啜っていた缶コーヒーを口から離したところを見計らって、剥いたバナナを差し出した。実はこの時初めてバナナというものを触った少女は、バナナは皮を剥いて食べるということまで辛うじて知っていたが、皮は全てを剥いてしまわずに残った部分をカバー代わりに使うことで手が汚れないで済むという誰もが知っているような一般常識を弁えていなかった。皮を全て綺麗に剥いた状態のバナナを男に差し出す。可憐な少女の手に、剥き身で直にしっかりと握られたバナナ。それを喜ぶか嫌がるか興奮するかは、受け手の趣味嗜好に委ねられるところであるが、この時の男はその点には何の反応も示さず、素直にバナナを受け取り口にし始めた。

 その様子を暫く眺めていた少女は、残されたもう一本のバナナを自分用に剥き、小さな口を丸く開けて、クリーム色の先端にかぶりついた。

 「世の中にこんな美味しいものがあったのか」とでも言いたげな少女の顔である。こんなに甘いのであれば、と、うっちゃっておいた無糖缶コーヒーを手に取り、中の真っ黒な缶コーヒーを啜り、続けてバナナをぱくつく。

 少女はこの時「生まれて」初めて、「食べ合わせによる相乗効果」というものを体験したのだった。

 

 バナナ一本で腹が膨れた少女は、まだちびちびとコーヒーを啜りながら大人しく座っている男を確認すると、もう一つの用事を済ませようと立ち上がり、天幕の方へと向かった。

 

 

 そこもやはり長蛇の列。しかも今までの列と違い、動きが遅い。これはかなり待たされることになると覚悟した少女は、時々投げかけられる自分への視線から守るように、頭を被うフードをさらに深く被った。

 なるべく見られないように。目立たないように。

 自宅と本部。普段行く場所と言えばその2つだけの、言わば一種の箱庭のような環境で生活してきた少女にとって、これだけの奇異の視線に晒されるのは初めてのことだった。

 そして誰にどんな風に見られようが気にしない性分だったはずの少女にとって、他者の視線をここまで意識することも、初めてのことだった。

 

 その老婆は、まるで不出来な案山子のような姿の子供に声を掛けようかどうか迷っていた。今も、その案山子の側を通る若い男が、通り過ぎざまに二度見していて、少女が気の毒になってくる。

 見ていられなくなり、意を決した老婆は、その案山子に近づいて肩をとんとんと叩いた。

 案山子がゆっくりと振り向いてくる。目深に被ったフード。フードの奥から、案山子の視線を感じた。

「あんたこれ使い。孫のお古で申し訳ないが」

 そう言って、老婆は手にしていた継ぎ接ぎだらけのズボンを差し出した。

 表情は見えないが、差し出されたズボンの意図が分からずキョトンとしているらしい様子の案山子。

 老婆はそんな案山子の手を取り、強引にズボンを握らせ、押し殺した声で言った。

「今履きなさい。今すぐ」

 案山子は頷くと、ズボンの口を両手で広げ、右足を中に入れようと片足立ちをした。

 ローブの布の端から見え隠れしていた案山子の小ぶりなお尻が、片足立ちしたことで丸見えになる。老婆は、野郎どもの嬌声が上がった方向に向かって、「このロリコンどもが」と睨んだ。

 右足にズボンの袖を通した案山子は、残った左足も入れてしまおうと、再び片足立ちになる。今度は少しバランスを崩してしまい、その拍子に目深に被っていたフードがずれてしまった。

 老婆の目に映る、案山子の赤い瞳と、空色の髪。

 たちまち悲鳴を上げて走り去っていく老婆の背中をぼんやりと見送っていた案山子は、仕切り直して改めて左足をズボンの袖に収めると、膝で止めていたズボンの口を腰まで上げ、そしてフードを目深に被りなおした。

 

 列の前の方では、雨着を着た女性が列に並ぶ一人ひとりに声を掛けていた。雨に濡れないよう雨着の下に隠しているバインダーの書類に、聴き取った内容を書き留めている。

 少女の番になった。

「どこか具合が悪い?」

 少女は頭を横に振る。本当は、何日も前から身体の失調を自覚しているが、ここであれこれ問診されると後々厄介なことになりそうなので、ここは否定しておいた。

「どこか怪我してる?」

 やはり頭を横に振る。

「いつも飲んでる薬がある?」

 少女は、相手にしっかり伝わるように、大きく2回頷いた。

「オーケー。処方箋か薬袋か、薬の内容が分かるものある?」

 頭を横に振る。

「飲んでる薬の名前とか量は分かる?」

 頭を縦に振る。

「んじゃ、これに書いて」

 女性から紙切れとペンを渡される。少女はささっと、慣れた様子で紙切れに書き込んだ。

「うん。これなら在庫があると思うからすぐに渡せるよ。あっちが薬剤師のいるテントだから、あの列に並んでね」

 そう告げて、女性は少女の次に並ぶ人の聴き取りに移った。

 

 ようやく長い列が途切れ、少女の番になった。

 テーブルの向こうに座る、「薬剤師」と書かれたゼッケンを身に付けた若い女性に、紙切れを渡す。その紙切れに書かれた数種類の薬の中に、厳重管理対象の薬剤がないことを確認した薬剤師は、天幕の奥に引っ込んだ。

 暫くして、薬剤師が戻ってくる。手には、小さなビニール袋。

「今日はあくまで緊急措置だからこのまま渡すけど、落ち着いたら必ず医療機関を受診して下さいね」

 そう言って、少女にビニール袋を差し出す。

 少女は、頷きながら差し出されたビニール袋を受け取ろうとした。

 

 目深に被ったフードで狭まれていた視界が、急に開けた。

 何者かにフードをはぎ取られたことに気づいた少女は背後を振り返る。

 そこに、フードの端を掴んだ若い大男が立っている。

 

 無礼にもいきなりフードをはぎ取ったにも関わらず、少女に振り返られた大男は一歩後ずさってしまった。そして少女の顔を真正面から見ることになった大男の目が、大きく剥かれる。フードを掴んでいた大男の手が、ゆっくり離れた。その手が小刻みに震えている。その気になれば5秒で畳んでしまえそうな体格差のある相手に、大男はまるで蛇に睨まれた蛙のように怯えていた。

 

 無礼にもいきなりフードをはぎ取ったにも関わらず、固まってしまった大男をぼんやりと見上げていた少女は、何事もなかったかのように大男から解放されたフードを被りなおそうとした。

 その少女の小さな手を、大男の、少女の頭を鷲掴みに出来てしまいそうな厳つい手が止めた。

 フードをはぎ取り、今度は手首を握ってきた大男を、少女は少し迷惑そうに見上げた。

 少女の視線を受け、大男はようやく口を開く。その体格に似合わず、掠れるような声が大男の口から洩れた。

「俺は、…あんたを知らない…」

 これがナンパだったら、なんとも斬新な一言目だったが、大男の目はいたって真剣だ。

「今日、初めて会ったはずなんだ…。なのに…、さっきからあんたの顔が見える度に、…あんたのその髪や、目が見える度に…、…なんなんだ、…これは。…よく分からない、…なんだこれ。…なあ、説明してくれよ?誰なんだ、お前」

 

 か細い少女と大柄な若い男という、奇妙な組み合わせ。その二人が何やら揉めている様子である。少女の小枝のような細腕を、丸太のような腕をした大男の手が掴んでいる。一見すれば、大男の方がその体格差を活かして、か弱い少女を一方的に暴力的に拘束しているように見えるが、お互いの顔は対照的で、涼やかに、と言うよりも無感動に大男を見上げている少女に対し、大男の表情にはなんの余裕もなかった。

 

 ただでさえ長蛇の列ができていた天幕。その先頭で揉める二人に、自然と周囲の視線が集まった。すると、そこかしから短い悲鳴のような声が上がる。

「…なあ、何なんだよ。何か言ってくれよ」

 いたいけな少女に詰め寄る大男。下手をすれば大男はこの場で犯罪者にされてしまう可能性もあったが、大男はそんな危険を顧みず、顧みる余裕さえなく、少女への詰問を止めようとしない。

「何か言えったら!」

 大男は自分が成人男性の平均身長を大きく上回り、肩幅も広く、顔もどちらかと言えば怖い方だと自覚している。それなのに、そんな自分に手首を乱暴に握られ、詰め寄られても、無言を貫く、それも別に怯えているわけではなく、困惑しているわけでわけでもなく、平然とした顔でいる少女に対し、ついに大男の口から大声が出た。

「何なんだよ!お前!」

 大声を出した拍子に、自然とか細い腕を握る手にも力が入った。握られた腕の痛みに、ようやく少女の顔に苦悶という表情が浮かぶ。

 何を言っても怒鳴っても、まるで自分の存在など無視するかのような態度だった少女が、初めて表情を変えたことに小さく満足した大男。握る手にさらに力を込めようとしたが、そんな大男の腕に痩せた中年男性が触れた。

 その痩せた男は揉めているらしい二人の仲裁に入ろうとしたのだろうか。

 いや、そうではなかった。痩せた男は、大男と同じような表情で、少女を見つめている。

「俺も…、お前を知っているぞ」

 痩せた男のその一言が引き金になった。

 

 いつの間にか少女らを囲んだ群衆のそこかしから、同様の声が上がった。

「私も知ってる」

「会ったことがある」

「いや、会ったことはないが、でも知ってる」

「え?何?有名人?」

「なんだかよく分からないけど、あの子見てると動悸が激しくなる」

「気持ち悪い。なに?あの髪の色」

「夢で見た?いや…違う」

「うわー、なんだか気持ち悪い」

「おい。これどうゆうことなんだよ」

「みんな同じこと言ってる。おかしいだろ!」

「なあ、あんた!何か言ったらどうだ!」

「そうだよ!説明しろよ!」

「いつまで黙ってるつもりだ!!」

 

 突然、大男に握られていない方の腕に、誰かが抱き着いてきた。

 見ると、やはり目を剥いた余裕のない表情の中年女性が、少女の腕に絡み付いている。

「ねえあなた。この人知らない?」

 震えた声でそう話す中年女性の手には、一枚の写真。写真に写るのは、その中年女性と、その傍らに笑顔で立つ中年男性。

「私の旦那。「あの日」に消えちゃってから、戻ってきていないの。散々探し回っても見つからないの。子供たちも毎日泣いちゃってて。警察に行っても今は非常時だからと全く取り合ってくれないの」

 そのように少女に訴える中年女性は、何故自分はこんなことを少女に言っているのか、自分の身内の行方を、「見ず知らず」の少女に訊ねているのか、おそらく理解していない。それでも、何故か少女の姿を見ていると、訊ねずにはいられなかった。

「ねえ教えて!後生だから!あの人を私たちに返して!」

 

 中年女性の必死の嘆願に覆いかぶさるように、怒号にも似た声があちこちから上がった。

 少女の顔の前には、次々と人の顔が写った写真が突き付けられる。

「ねえ、この人は?」

「この子を知らない?」

「こいつだよ。なあこいつのこと、知ってるんだろ?」

「まだ生まれて3か月も経ってないもの。一人でどっかに行くなんてありえないわ!」

「お前がどこかに連れていったんだろ!」

「なあどこに隠したんだよ!教えてくれよ!」

「あんたさっきトラックに乗せてやったじゃないか!だったら娘のことくらい教えてくれてもいいだろ!」

「返して!返して!返せ!返せ返せ返せ!」

「返せ!」

「返せ!」

「返せ!

「返せ!」

「なんで黙ってばっかなんだよ!」

「なんか言えよ!」

「返して!」

「返せ!」

「返して!」

「返せ!」

 

 大男に掴まれた手首。中年女性に抱き締められる腕。

 それだけではなかった。ほうぼうから伸ばされる手が、少女の二の腕を、肩を、脇腹を、足を、顎を、首を、頬を、耳たぶを、空色の髪を、掴み、引っ張り、捻り、毟っていく。何本かの腕は少女が纏うローブにも手を掛け、引っ張るため、ローブがはだけ、下の裸体が露わになるが、少女が半裸に剥かれている状況にも、周囲の大人たちには誰一人として我を取り戻すものは居なかった。

 

 

 

 

これは罰?

 

ええそう。これは罰。

 

たった一人の男の願望を叶えるために、

 

人々の魂を、

 

それぞれの事情などお構いなしに勝手にかき集め、

 

一つの小さな器に放り込み、混ぜっ返した挙句、

 

たった一人の少年の願いを叶えるために、

 

人々の魂を、

 

無責任にも地上にばら撒いてしまったワタシへの、

 

これは罰。

 

 

 

 

 

 

 全身に広がる痛みをどこか他人事のように、鼓膜をつんざく人々の怒号をどこか遠くで鳴り響く雷鳴のように、目に映る人々の狂気に満ちた顔を作り物の仮面のように、ぼんやりと無感動に感じ、聴き、見つめている少女。

 そんな少女だったが、どこかで囁かれたその言葉は聞き逃さなかった。

 

「こいつ。確か男と一緒にいたはずだぞ」

 

 それまで全くの無抵抗でなされるがままだった少女は、その声を聴いた瞬間、懸命に腕を、足を、頭を、全身を振り回し始めた。何とかして人々の手から逃れようと暴れてみたが、しかし非力な少女の力では人々の拘束する手はびくともしない。それどころから、暴れ始めた少女をねじ伏せようと、拘束する手はその力を増すばかりだ。

 もはや暴れることさえままならなくなり、少女がその痛みにうめき声を漏らし始めた時。

 

 バリバリバリ、と耳を劈くような爆音。

 上空から轟くその激しい爆音に、その場にいた全員が空を見上げた。

 音に少し遅れて、地上の空気が急速に巻き上げられる。天幕が飛びそうになり、そこかしこから悲鳴が上がった。

 見上げる彼らの視界を、巨大な機影が塞いだ。

 

 低空を旋回するヘリコプター。

 地上の人々があ然とその黒色の機体を見上げている中、一人だけ空に注意を向けていない者が居た。

 皆が上空に注意を向けている間、地上の少女は瞬時に行動に移す。緩んでいた拘束の手から両腕を引っこ抜くと、一番近くにいた大男の腹に、肩から思いっきり突っ込んだ。

 普段ならこんなか細い少女の体当たり程度ではこゆるぎもしない大男だが、上空を見上げていたために突如腹に食らった衝撃に面食らってしまい、少しだけ後ろによろめいてしまった。大男がよろめいてくれたおかげで少女と人々との間で隙間ができたため、少女はその空間を利用して身を翻した。

 振り返った先では、空を見上げて呆気にとられている薬剤師。少女は薬剤師の手にあった薬が入ったビニール袋を奪うようにむしり取ると、テーブルに手を付き、ぴょんと跳ねた。

 テーブルの上に仁王立ちする少女。目の前の2本の足を、唖然と見上げる薬剤師。

 少女ははだけていたローブを羽織りなおし、フードを目深に被りなおす。

「この野郎…!」

 か弱い乙女に向かって放つべきではない言葉を放った大男は、すぐさま少女を再拘束しようと両腕を広げて少女の脚に向かって突っ込む。再びぴょんと跳ねる少女。少女の足の下すれすれを、大男の頭が通り過ぎていく。

 テーブルが倒れる音、物が散乱する音、大男に覆い被された薬剤師があげる金切り声。

 少女の裸足は大男の頭へ音もなく着地。そして大男の頭の上で、再びぴょんと跳躍。隣のテーブルへと飛び移る。そしてそのままテーブルの上を駆け出した。

「おい!逃げたぞ!」

 痩せた男が叫ぶ。

 人々の手が、テーブルの上を走る少女を引き摺り下ろそうと少女の足に伸びてくるが、少女の細い脚はそれらの手を寸でのところで躱し、テーブルの上を駆けていく。

 テーブルの端っこに辿り着いたら、またもやぴょんと跳ね、次の天幕のテーブルへと飛び移る。

 

 いきなりテーブルの上に飛び乗ってきた、不出来な案山子のような恰好をした人物。

 血圧を測っていた中年女性は悲鳴をあげ、その隣で看護師に火傷の治療をしてもらっていた子供が泣き叫び、テーブルの上の医療器具を蹴散らかされた看護師が怒鳴り声を上げる。たちまちこの天幕もパニック。案山子は周囲の狂騒を気にせず、テーブルの上を駆け抜ける。パニックが大きくなれば大きくなるほど、逃げる案山子にとっては都合がいい。

 テーブルの端っこに辿り着いたら、次のテーブルへまたぴょんと跳躍。

 しようと思ったら、次のテーブルとの間で、突然天幕の中から現れた、患者を乗せた担架を運び出そうとする一団に遭遇。担架を持つ先頭の男に衝突してしまった。

「何をする!危ないだろうが!」

 担架を抱えていた消防団の男はそれなりに鍛えた身体の持ち主で、軽い軽い案山子に衝突されても、よろける程度で抱えていた担架を死守した。地面に転がった案山子に向かって怒鳴り散らす。

 

 顔面から地面に突っ込んでしまった。その拍子に両手に抱いていたビニール袋を放り出してしまい、ビニール袋から薬が入った包装シートが地面に散らばる。少女はじんじん痛む鼻を押さえながら身体を起こす。地面に散らばった包装シートを慌ててかき集め、立ち上がろうとする。

 飛んだり跳ねたりと無理な動きをしたからか、それともサイズが合っていなかったからか。ビリリ、とズボンが大きく割けた。裂けた布が足に絡み付き、動きづらい。

 

 案山子の手が、躊躇いなく破れたズボンをさらに引き裂き、脱ぎ捨てている。ズボンの向こうから現れた真っ白な足。一目で分かる女の、しかもまだ年端も行かない少女の素足。おまけにパンツも履いていない。

 呆気に取られてその様子を見守る担架を運ぶ一団の視線の先で、下半身が素っ裸になった案山子が立ち上がる。

 

 隣の天幕では激しい怒鳴り声が幾つも飛び交う。

「何処に行った!」「探せ!」「早く見つけろ!」

 担架を運ぶ一団がそれらの怒鳴り声に気を取られ、そして再び案山子の様子を見ようと視線を地面に戻した時には、すでに案山子の姿は消えていた。

 

 素っ裸になった下半身は動きやすかった。全ての拘束を打ち捨てた脚を縦横に駆使して駆ける。

小さな鼻の下から、赤い液体が滴った。

 

 

 目的の公民館の軒先に辿り着いたところで、少女は愕然とすることになる。

 そこにあるのは濡れたジャケットと捨て置かれた毛布。

 男が居ない。

 白い壁に背中を預けて座り、コーヒーをちびちびと啜っていたはずの男が居ない。

 

 群衆に囲まれ、怒声を浴びせつけられた時でさえ、せいぜい腕を酷くに掴まれて苦悶したくらいだった少女の顔に、深い焦燥が映し出せれた。

 男の姿を求めて、周囲をきょろきょろと見渡す。何度も右往左往し、裸の足が地面に転がる空の缶コーヒーを蹴る。

 近くで、やはり壁に背中を預けながら座っていた男性が、そんな少女の様子を見て声を掛けた。

「そこに居た男ならあっちに歩いていったよ」

 少女はすぐさま男性が指さした方へと走りだそうとしたが、少し思いとどまり、段ボールの中にあった非常食が入った袋を持つと、改めて走り出した。

 

 案山子のようななりをした人物が駆けていく後姿を見送っていた男性。

 その目が、驚愕に染まる。

「あいつ…、なんでパンツ履いてないんだ…」

 



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第三章 其の四

 公民館の敷地を出て、道路に出る。周囲をキョロキョロと見渡す。

 幸いにも、男の姿はすぐに見つかった。

 雨の向こう。街から離れ、田んぼに向かう小道を、男は歩いている。

 少女の顔に安堵の表情が浮かんだ。

 小走りで、男の後を追う。

 

 男は足早に歩いていた。小走りで追ってきた少女は、ほどなくして男の背中に追いついたが、あと数mのところで小走りをやめ、男の歩調に合わせた。

 歩く男の背中の、数歩後ろをついていく。

 数歩前を歩く、男の背中。

 それは、少女にとってとても見慣れた光景だった。

 

 田んぼが続く田舎道を歩く。

 今更になって、人々に掴まれ、引っ張られ、捩じられ、毟られた体のあちこちが痛くなってきた。見れば、白磁のような肌のあちこちに、人の手形の痣が出来ている。普段することがない大立ち回りもしてしまって、身体中の色んな筋が痛い。

 それでも、数歩前を足早で歩く男の背中を、懸命に追いかける。

 男の手を引っ張りながら歩いていた時のことを考えれば。男の重い重い身体を引っ張りながら、その背に男の鋭い視線を受けながら、道なき道を自らが行き先を決めて歩き続けた時のことを思えば、こんな痛みは気にならない。必要な薬も飲んで、感じていた身体の失調も和らいできた。

 

 時々、男の足が止まった。

 男に合わせて、少女の足も止まる。男が動き出すのを、じっと待つ。

 男が頭だけを動かし、背後を振り返る。

 背後の少女を見つめる。

 睨みつけるような、あの眼差しで。

 そんな視線を投げつけられる時は、少女はただ俯くしかなかった。まるで嵐が過ぎるのを、木陰に潜みただ待つことしかできない小鳥のように、男の刺すような視線が自分から離れていくのをひたすら待ち続けた。

 暫くすると、男は歩き始める。その背中を、少女は追う。

 

 雨を降らせ続ける黒い雲。日没を待つ前に、地上は暗くなってしまう。

 道端に屋根のあるバス停があり、男はバス停のベンチに腰を下ろした。歩き通しで疲れたのか、ふうとため息を吐き、天井を見上げ、そして目を閉じている。

 路上で佇む少女は迷っているらしい。暫く男の様子を観察していた少女は、意を決して男の側に歩み寄ると、近寄ってくる少女を薄目を開けて睨んでいる男の顔を見ないようにしながら、腕にぶら下げていた袋の中に手を突っ込み、取り出した乾パンを男の側に置いた。そして自分はベンチには座らずにバス停を出て、バス停の近くにあったお地蔵様が安置されている祠の軒先に座った。

 座ってしまうと、男以上に疲れている少女にもたちまち眠気が襲ってきてしまう。

 暗いバス停の中の男の姿が、どんどんぼんやりと薄くなっていく。

 暫くして、雨の音に混じって、バス停の方から包装紙を破る音。少しして、ボリボリと、何かを咀嚼する音。

 安心した少女は、閉じかけていた瞼を完全に閉じ、眠りの奈落へと転がり落ちて行った。

 

 

 

 薄ぼんやりとした視界。目に映るのは、水たまりが張った道路、雨が止んだ灰色の空、放棄された荒れた田んぼ、そして誰も居ないバス停。

 お地蔵様の足もとに抱き着くようにして寝ていた少女は飛び起きた。たちまち頭が祠の屋根に当たり、頭に鈍痛が響く。涙目でたんこぶができた頭を撫でながら、少女は周囲を見渡した。

 すでに歩き始めている男の背中が見つかり、ほっと安堵のため息を漏らす。

 すぐに追おうとして、立ち止まって、男が座っていたバス停を見ると案の定、まだ半分以上残っている乾パンがベンチの上に捨て置かれていたので、それをしっかりと回収し、男の後を追った。

 

 男は前日と変わらず足早に歩く。

 そもそも大人と子供の体格差であるため、同じ歩調であっても歩幅が違う2人の距離は自然と離れてしまう。所々で少女は小走りし開いた距離を詰め、一方男も時々足を止め、振り返って後ろの少女を睨んだ。

 並んで歩くわけでもなく声を掛け合うでもなく、時に離れながら、時に近寄りながら、時に見つめ合いながら、時に目を逸らしながら。奇妙な2人組は、無言で田舎の小道を歩いていく。

 

 結局、数日ぶりに止んでいた雨は昼前に再びぽつりぽつりと雨を降らせ、そして昼を過ぎた頃には再び土砂降りの雨となった。傘も差さずに歩く奇妙な2人はずぶ濡れになりながらも、歩みを止めようとしない。

 

 すでに人里は離れ、山道を行き、峠を越え、今は山と山の間の狭い土地に作られた田んぼの中の小道を歩いている。一度も休憩を取らず歩き通しのため、男を追いかける少女の疲労は濃く、さらに男は土砂降りとなってからは足を止めて後ろを振り返ることを止めてしまい、男との距離を詰める機会が失われてしまった少女との距離はどんどん開いていく。

 まるで滝のような大粒の雨に視界が塞がれ、前を行く男の背中が見えなくなってきた。少女はすぐにでも走って男の背中をその目に捉えたかったが、今や痛む膝に両手をつきながら辛うじて歩いている有様だった。

 

 このまま置いて行かれてしまうのだろうか。

 捨てられてしまうのだろうか。

 

 雨にまみれた少女の顔が、焦燥にもまみれ始めた頃。小道の真ん中で佇む男の姿を見つけ、少女は痛む膝に顔をしかめつつもほっと安堵の表情を浮かべた。

 男が遅れた自分をわざわざ待っていてくれているはずがない。なぜ立ち止まっているのだろう。

 雨の中の男の姿がはっきりとするに連れ、少女が抱いた疑問の答えが見えてきた。

 男が立つ小道の向こうに川がある。連日の雨で増水し、土の色をした川の水が濁流となって暴れている。立往生する男の向こう岸には、男が立つ小道と同じ幅の小道が続いている。川の水面では橋脚の跡らしき木の柱が見え隠れする。どうやら、川に掛かっていたはずの橋は、流されてしまったらしい。

 対岸までは5mほど。晴天の日は橋がなくても歩いて渡れそうな小さな川だが、増水し橋がない今は、対岸ははるか彼方だ。

 

 立往生したまま川の中の濁流を見つめる男。

 そんな男の耳に聴こえる音。雨の音と、濁流の音に混じって聴こえる音。

 背後から、ペタペタと、「あれ」が近寄ってくる音。

 奥歯を噛み締める。

 

 橋なき荒れ狂う川を前に立ちすくむ男に、少女があと少しで追いつきかけた頃、男は予想外の行動をとった。なんと荒れ狂う川の中に足を進め始めたのである。

 この国の成年男子の平均を上回る体格を誇る男だったが、片足を川に突っ込んだ瞬間、その体が大きく揺らいだ。濁流がまるで幾つもの手のように男の足に絡みつき、その激しい流れの中に引きずり込もうとする。男の腰が引け、上半身が右に左に大きく揺れた。一歩目ですでに男の歩みは封じられてしまっていたが、それでも男は諦め悪く、もう片方の足も川に突っ込もうとしている。

 そんな男のシャツを、何者かが引っ張った。振り返ると、少女が両手で男のシャツを引っ張っている。頭を横に振り、それ以上行くな、と無言で訴えている。

 

「あああ!!」

 最初、その唸り声が目の前の男から放たれたものとは、少女は分からなかった。男は唸りながらシャツを引っ張っていた少女の手を振り払うと、ついにもう片方の足を川の中に突っ込んでしまった。

 途端に男の両足が濁流に攫われ、膝を折られた男は川の中に尻もちをつくように倒れてしまった。腰から下が水の中に浸かってしまった男の足に、腕に、胴に、肩に、濁流の手が次々と絡みつく。男の体は瞬く間に胸まで沈んだ。男は手足をばたつかせる。かつて冷徹に組織を統括し、冷酷に任務を遂行していった男は思えないほどの狼狽ぶりだった。

 

 濁流に揉まれる男のすぐ側で、小さな水柱が上がった。

 土色の水面に、空色の髪が揺れる。

 

 男に比べれば遥かに小柄で軽い少女の体は、瞬く間に川底に引きずり込まれそうになったが、少女も懸命に手足をばたつかせ、男の体に密着するとか細い腕を男の腕に絡めた。

 もし少女が何の手立てもなく飛び込んでいれば、結果は絵に描いたような二重遭難になっていただろうが、少女は纏っていた布切れの端っこを先端が折れた橋脚に引っ掛け、それを命綱替わりにして荒れ狂う川の中に飛び込んだのだった。

 左手で懸命に布切れを握りしめ、右手で男の大きな身体を支える。濁流の中でも何とか姿勢を保つことができるようになった。川岸まではそう遠くはないので、あとは男が手を伸ばし、川岸に生える草でも何でもいいから掴んで、岸の上に這い上がってさえくれたら助かる。

 少女は男が身を守る行動に移ってくれることを期待したが、男はここでさらに予想外の行動をとった。

「あああああ!!」

 再び大きく唸り、暴れ始めたのである。少女の腕から逃れようと。まるで自分の腕に絡む少女の腕が、化け物の触手でもあるかのように。

 男が暴れるせいで少女の小さな顔が何度も川の下に沈む。その度に、大量の水が少女の口に、鼻に入ってくる。

 意識が遠のきかけ、男の腕を絡める腕から力が抜けた。

 男は少女の腹を押し蹴ると、ついに少女の腕から逃れ、自らは少女とは逆の方へと手を伸ばし、川岸の草を掴む。もう片方の手でも草を掴むと、川岸を這い上がり始めた。少しずつ男の体が濁流の中から抜け、腰までを陸まで上げたところで、地面に倒れこんだ。地面に腹ばいになりながら、肩で激しく息をする。何度かせき込み、口の中から土色の水が零れ落ちた。

 飲み込んだ水を吐き出し、少しだけ呼吸が落ち着いた男は、上半身を起こし、後ろを振り返った。

 布切れに必死にしがみつく少女が、濁流の中で揉まれている。

 

 男が川岸に這い上がったところを見届けた少女。しかし息つく暇もなく、今度は自分自身が生命の危機に晒されていることを思い出す。

 両手で必死に布切れにしがみつく。男の重みが無くなってしまったため、軽い身体は激しい流れの中で面白いように回転した。

 両手で布切れにしがみついていたが、いつまでもこのままでいるわけにはいかず、覚悟を決めて右手を布切れから離す。途端に全体重が左腕に掛かり、ずるずると布切れを握る左手が滑った。

 右腕を川岸に向かって伸ばす。川岸の草でもなんでもいい、とにかく掴めるものがあればと手を伸ばすが、少女の小さな手は水を掴むばかり。

 必死に腕を伸ばしながら、少女は心のどこか冷静な部分で思った。

 自分はなぜ、こんなに必死になって助かろうとしているのだろう、と。

 生命の危機に瀕し、それは至極真っ当な反応であるということは少女も分かっていたが、それでも自分の必死さがどこか滑稽だった。

 そんなことをぼんやりと考えているうちに、ついに水ばかりを掴んでいた右手が何か形のあるもの、固いものを掴んだ。

 少女の手は反射的にそれを固く握る。握って、手の中に収まったその形に、少女は掴んだ「それ」がなんであるか、すぐに気づいた。

 それは川岸の男の右足首だった。

 

 水の中の少女が必死にもがいている。川の底へと引きずり込もうとする濁流から逃れようと、無様に足掻いている。

 男はその様子をただ黙って見つめていた。

 水の中で何か、何でもいいから何かを掴もうとする少女の右手は、幾度か水に浸かった男の足の側を掠った。男が少しでも少女の手に自らの足を寄せてあげていれば、少女の手は男の足を掴むことができただろう。しかし男は何もせず、水の中でもがく少女をただ見下ろしていた。

 やがて少女の手が、自力で男の足首に触れた。少女の手は縋りつくように、男の足首を握りしめる。

 

 自分の手が男の足首を握っている。その足の延長線上に、川を見下ろす男の顔がある。まっすぐに少女を見下ろす男の顔がある。

 少女の体力は限界だった。掴んだ腕に自らの身体を手繰り寄せ、川岸にまで近寄れるほどの体力が、もはや少女には残されていなかった。

 自分が助かるには、この濁流から抜け出すには、足を掴まれた男がこちらに手を差し伸べてくれるか、掴まれた足を陸にまで揚げ川の中から少女ごと引きずり出してくれるか。いずれにしろ、少女の命は男の一挙手一投足に委ねられた。

 少女の頭はほとんど水の中に沈んでいる。濁流の揺れで時々鼻の辺りまで顔が押し上げられ、その時だけ水の中から出た赤い瞳が、男の顔を見ることができた。

 おそらくまともに息もできず、どんどん川の水を飲み込んでいる自分の顔は、ひどい顔をしていることだろう。見る者によっては目を背けたくなるよな、また見る者によっては無様すぎて滑稽に見えるような、そんな顔をしていることだろう。

 しかし、そんな少女の顔を唯一鑑賞している男の顔は、どこまでも無感動だった。蟻にたかられ全身を食い千切られている芋虫を、冷静に観察している子供のような眼差し。

 そして少女の命を握っている男は、少女に手を差し伸べることもなく、足を動かすこともなく、かといって少女の手を振り落とそうともせず、ただ今にも溺れようとしている少女の顔を、黙って見つめている。

 

 すでに左手は布切れの端を手放している。

 男の足首を掴む右手からも、徐々に力が失われていった。

 

 男の顔が離れていく。

 男の姿が、遠くになっていく。

 視界が半透明の土色になった。

 

 

 二つの赤い光が消え、しばらく空色の髪が土色の水の上を漂い、そしてその髪も水の中に沈でいった。

 濁流に飲まれ、消えていった少女を見送った男は、水に浸かっていた下半身を陸に揚げると、身体を引きずるようにして少しだけ川から離れた場所に移動し、そこに腰を下ろしたまま膝を抱えた。

 少女が消えていった川を、黙って見つめた。

 

 

 

 男の足首から手が離れた途端、支えを失った身体はあらゆる方向からの水圧に晒され、あっという間に錐もみ状態となった。たちまち平衡感覚は失われ、どちらが空でどちらが川底かも分からなくなる。水が、鼻から、口から、耳から、目の隙間から、次々と入り込んでくる。体内に入ってくる水と引き換えに、酸素がどんどん身体から失われていく。

 

 少女はもはや抗わなかった。

 激しい水の流れにも。体内に侵入する水にも。迫りくる死にも。

 川岸から見つめる男のあの顔が、今の自分の全てを物語っていたと思う。

 

 

 ところが、状況はそんな少女の覚悟などお構いなしに変化する。

 荒れ狂う川は、しかし少女が流された場所から50mほど下ったところで川幅を広げ、そして大きく蛇行していた。流れは緩やかになり、少女の身体はそのまま岸辺へと運ばれる。

 

 

 ―――まだ生きている。

 

 

 気づけば少女の身体は、岸辺に茂った太い幹の葦に引っ掛かり、肩から上を川面に出してぷかぷかと浮いていた。

 このままでいれば、いずれ川の流れが自分を引き込み、あの濁流へと戻されるのではないかと待ってみたが、本流の流れが嘘のように岸辺の流れは穏やかで、いくら待っても身体は引っ掛かった葦から離れることはなかった。

 少女は仕方なく、葦伝いに川岸に近づき、そして陸へと這い上がる。布切れは命綱替わりに使って手放してしまっていたため、数日ぶりの素っ裸になった少女の身体が、川岸に倒れこむ。

 体力は削げ落とされ、加えて数分間水の中に浸かっていたため身体がいつも以上に重力を感じる。立ち上がろうにも立ち上がれない。忘れていた膝の痛みもぶり返してきた。

 

 それでも少女は結局立ち上がった。地面に自分を縛り付けようとする重力と、地面から逃すまいとする膝の痛みに逆らって。

 なぜ、自分は立ち上がるのだろう。

 立ち上がらなければならないのだろう。

 そんな疑問を抱えながら。

 

 田んぼのあぜ道を使って川上へ歩く。

 ふらふらと、おぼつかない足取りで。

 ふと、一度だけ読んだことがある怪奇小説の「記憶」が掘り起こされる。挿絵がない古い本だったため、墓場から這い出てくる生ける死者の姿というものがどうも想像できなかったが、ああなるほど、今の自分が正にソレだ、などと場違いなことを考えながら、川上を目指した。

 しばらくして、川辺で膝を抱えて座る男が見えた。

 

 

 

 膝を抱えながらぼんやりと、少女が消えていった川の水面を眺めていた。

 周囲からは様々な音。頭上から降り注ぐ雨の音。目の前を流れる荒れ狂った濁流の音。田んぼから響く蛙の鳴き声。

 それらの音に混じって、川下の方から、ペタペタと、「あれ」が近寄ってくる音。

 奥歯を噛み締めた。

 

 

 

 視線を上げるのもしんどく、地べたを見つめながらふらふらと歩いていると、視界のすみの地面に小石が転がった。

 歩みを止め、視線を上げる。膝を両腕で抱えていたはずの男の右腕が肩の位置まで上がっていた。

 男に向かって歩みを再開する。すると男の右手で地面を這い、何かを掴むと、その手を大きく振った。男の手から放り投げられた小石が少女の足もとに転がる。

 さらに男に近づこうと歩みを進めると、再び男の右手が地面を探り、掴んだ石を少女に向けて投げてくる。

 そこからはもう止まらず、男は地面から少しだけ腰を浮かすと、周囲に転がる石を手あたり次第に拾っては、少女に向かって投げ始めた。

 すでに足を止めている少女に、次から次へと石が向かってくる。少女は避けようともせずに、ただ棒立ちになってそれを受ける。いくつかの小石は、少女の細い腿に、肋骨が浮き出たわき腹に、肉付きの悪い二の腕に当たった。

 男の手が、人のこぶし大の石を掴んだ。男の大きな手に掴まれた石は地面から離れると、宙に放物線を描きながらゆっくりと回転し、そして少女の真っ白な額に到達する。

 少女の足もとに、ごとりと大きな音を立てて石が落ちる。

 自分の額から少なくない血が滲み出ているのは、拭わなくても分かった。

 

 それでも少女は動かない。棒立ちを止めない。額からボタボタと流れる血を拭おうともしない。まるで子供のように、男がぽいぽいと投げてくる石を、今も二人を濡らす雨と同じように、それが当然とでも言うように、受けている。

 

 投げるべき石が足もとから無くなってしまい、男はまるで無くしてしまった大切な宝物でも探すかのように、石を求めて周辺に視線と両手を這わせる。しかし周辺にも手ごろな石が見つからず、

「あああ!」

 まるで玩具を取り上げられた子供が地団駄でも踏むかのように、男は両拳の腹で地面を殴った。

 一度では気分が収まらなかったのか、男は唸り声を上げながら何度も地面を殴る。何度も。何度も。

 それを少し離れた場所から見つめる少女は、地面を何度も殴る男の拳が本当に殴りたかったものは、きっと自分なのだということを察していた。

 

 何度も何度も地面を殴る男の拳の皮が裂けはじめ、血が滲み始めたのを見て、男の本来は他傷であるべき自傷行為を止めさせようと、少女は再び男に歩み寄ろうとした。

 途端に、

「来るな!!」

 それは目覚めて以来、男が発した初めての意味ある言葉だった。

「来るな来るな来るな…」

 地面を殴ることを止めた男は、かわりに地面についた両拳に額をつけ、蹲っている。

 男の拒絶する言葉を受け、少女は歩みを止めざるを得ない。

「なんなんだお前は…。なぜ俺に付きまとう…」

 男の顔が上がり、少女を睨み見る。

「誰なんだお前は!!」

 物凄い形相で睨んだと思ったら、次の瞬間には男の吊り上がっていた眉は垂れ下がり、「へ」の字になった口は戦慄き、情けないまでの、今にも泣いてしまいそうな表情に歪んだ。

「なぜ…、ユイのような顔をして俺に近づいてくる…!」

 

 

 普段は瞬きの少ない方である少女の瞼が、忙しく開閉される。瞼が閉じ、そして開かれる度に眼窩に収まる瞳は、きょろきょろと違う方向を向いている。両肩からだらりとぶらさがる腕の先の手が、意味もなく開閉する。心臓が控えめな胸から今にも飛び出さんばかりに激しく脈打ち、それに合わせるかのように呼吸が浅く小刻みになるのに対し、脳味噌からは急激に血液が引いていくのを感じた。

 今までに経験したことがない身体の変調。

 何度も大怪我をし、何度も死に掛け、実際に2回(3回?)は死んだけれど(死んだ時の「記憶」はないけれど)、これほどの身体の変調を感じたことはなかった。

 

 視界の右側が、急に真っ赤になった。

 思考がぐちゃぐちゃになっていた少女にとって、その視界の変化は混乱から狂乱へ転がり落ちるには十分な変化だった。

 少女は取り乱したように両手で顔を覆う。右目に纏わりついた赤い何かを引っぺがそうと、爪を立てて瞼を引っ掻く。

 額から滴っていた血は少女の爪ですぐに拭われたが、爪は血だけでなく瞼も引っ掻き、抉り、たちまち皮膚は裂け、血が溢れ出す。

 右側どころか視界全てが真っ赤に染まり、少女の狂乱はますます深みにはまっていく。まるで熱せられた鉄板の上に放り投げられたかのように細い足をぴょんぴょんと跳ねさせ、両手は瞼だけでなく顔全体を引っ掻きまわしている。

 もはや顔だけでは足りず、少女の手は喉元をも掻き始めた。自然と少女の顎が上がり、自身の手に覆われていた視界が広くなる。

 すぐ目の前に、男が立っていた。

 

 

 男は何やら意味不明なことを叫びながら、両手を前に突き出した。

 

 突き出された先には、少女の細い細い首。

 

 少女の喉は、うめき声を上げることすら許されなかった。

 

 気づけば後頭部が地面についていた。後頭部だけでなく、背中もお尻も、腿の裏も。

 真っ赤な視界。

 赤い色に遮られて朧げに見えるのは、男の上半身。

 男の両肩から生えた腕が、自分の方へと伸びている。

 腕の先にある自分の首には強烈な圧迫感。

 仰向けになり、顔の正面から受けることになった天から降る雨は、眼球を覆っていた赤い「何か」を洗い流し、視界の赤を消し去った。

 

 見えるのは男の顔。

 今にも泣きそうな、いや、すでに大粒の涙を零し、情けなくも鼻水を流し、戦慄くしまりのない口の端からは涎を垂らしている男の顔。

 戦慄く男の口からは、雨でかき消されそうなほどのか細い声で。

 

「まがい物まがい物まがい物まがい物まがい物まがい物まがい物まがい物…」

 

 激しい雨の音。すでに遠のきかけ始めている意識。

 その中でも、男の呪詛のような呟きは、しっかり少女の鼓膜を刺激した。

 

 

 

 

これは罰? 

 

ええそう。これは罰。

 

偽りの入れ物。偽りの魂。偽りの「生」。

 

偽りにまみれた、ワタシへの罰。

 

 

 

 

 なぜ、私は生まれたのか。

 自動化されたサイクルの中でこれまで通りつつがなく再生産されたのが私。

 

 では何のために、私は生きるのか。

 生産されるのと同時に付加されるはずの私の「生」の目的。

 いくら探し回ってみても、見つからなかったけれど。

 

 ああ、やっぱり。

 

 やっぱり私に授けてくれるのはあなただった。

 私の全てを決めるのは、あなただった。

 

 あなたを裏切ってしまった私。

 あなたの生涯を汚辱にまみれさせてしまった私。

 そしておそらく、あなたの心を壊してしまった私。

 

 贖罪などという生易しいものでは、あなたに対する私の罪は贖えない。

 あなたの心に渦巻く憎しみ。憎悪の全てをこの身で受け止めてこそ、初めてあなたに対する私の罪は許される。

 

 きっと。

 

 きっとこの「生」は、あなたに殺されるために授けられたものなのだ。

 あなたに殺されるために、この命は与えられたのだ。

 

 すべてが腑に落ちた。すべてが。

 

 

 

 まるで陶磁器のような透き通った白い肌。

 小枝のような細い首。

 あともう少し力を込めてしまえば、簡単に砕けてしまいそう。

 

 見れば見るほど、最愛の人に瓜二つ。

 でも違う。

 彼女は、そんな不気味な色の瞳はしていなかった。

 彼女は、そんな不可解な色の髪はしていなかった。

 その端正な顔には柔らかな微笑みが絶えず、

 慈愛に満ちた声は、耳にした全ての者を幸福へといざなう。

 貴様がどんなに彼女の見てくれに似せようとも、彼女には一歩たりとも近づけない。

 そこは我々の聖域。

 彼女を汚すな。

 彼女を冒涜するな。

 貴様がやっていることは、俺にとって最も許しがたい行為だ。

 

 

 少女の両腕が地面から離れる。

 白い、小さな手が、少女の頚動脈を締め上げる男の腕に触れた。手は、滑るように男の腕を登っていく。肘に触れ、肩に触れ、鎖骨に触れ、そして首に触れ。

 男の髭を蓄えた両頬が、少女の小さな手に包まれた。

 うっ血し、真っ青になっている少女の顔。血と酸素が届かない脳が悲鳴を上げているのだろう。苦悶に満ちた少女の表情。しかし半分だけ開いた赤い目はまっすぐに男の目に向けられ、そして顔に残った血液全てがそこに集まったかのように、両頬にはほのかに赤みがさしている。

 どこか恍惚とした表情を浮かべる少女の両手は、やがて男の頬を離れ、再び男の首、鎖骨、肩を辿り、両腕を滑り落ちる。少女の小さく真白い手が、男の大きな浅黒い手に重なった。白い手は何度か浅黒い手の甲を撫でた後、少しだけ引き返した。

 白い手は、浅黒い腕の手首で止まった。

 白い手は、浅黒い手首を握る。

 白い手は、握った浅黒い手首を、自分の方へと引き寄せた

 

 一刻も早く、彼の願いが叶うように。

 一刻も早く、自分に課せられた使命を果たせるように。

 

 両足が地面の上をもがく。踵が何度も地面を抉る。

 苦しい、苦しい、苦しい、と、自分の意思に反し、身体が勝手に暴れる。ともすれば自分の身体に覆いかぶさる男の腹を蹴飛ばしそうになる足を、意思を総動員して抑え付けた。

 もう少し。

 あともう少し。

 視界がゆらぐ。

 視界がぼやけてくる。

 視界が暗くなっていく。

 

 男の表情もよく見えなくなってしまった視界の片隅に、知らない男が立っている。

 



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第三章 其の五

 山間にあるその土地は大雨が続くと周囲の山々から雨水が集まり、田んぼの土手は崩れ、小さな川はたちまち氾濫してしまう。“突然の出来事”に、突然一人になってしまったその男は、黄色い雨着を着こみ、家族とともに守ってきた先祖代々の田畑を巡回していた。

 件の小川の様子を見るため、田んぼと田んぼの間を通る小道を歩いていると、大粒の雨の向こう、川の畔に黒い影が見えた。

 何だろう、猪か?と目を凝らす。

 雨着の男は、走り出した。崩れた土手の修復用に持っていたシャベルを頭上に掲げて。

 

 

 だめ。だめ。

 

 少女は頭を横に振りたかった。

 しかし首を男の両手が固定しているため、頭が動かせない。

 喉を抑え付けられているため、声も出せない。

 だから目で訴えるしかなかった。

 やめて。邪魔をしないで。

 

 

 

 裸に剥かれた少女に男が覆いかぶさっている。それだけでも十分に緊急事案だったが、男の両肩から伸ばされた手は、少女のか細い首を締め上げ、今にも砕いてしまいそうな勢いだ。見ると、少女が必死の形相でこちらに助けを求めているではないか。

 雨着の男に躊躇う理由はなかった。持っていたシャベルを振りかざし、横薙ぎで男の側頭部を狙い打った。

 

 自分の首を絞めていた男が、ボロボロに泣きながら首を締め上げていた男が、鈍い音と共に視界から消えた。シャベルを振り抜いた雨着の男は、さらに追撃を掛けようとしているのか、再びシャベルを振りかざしながら、視界の外へと行ってしまった。

 途端に、潰されていた気道に空気が吹き抜け、猛烈な吐き気に襲われる。停滞していた血液が噴水のように脳を駆け巡り、凄まじい頭痛が走る。

 弾かれるように起き上がった少女は、今度は地面に這いつくばり、背中と腹を大きく波打たせながら激しく咳き込んだ。

 生理現象からくる涙が止め処なく目から溢れる。それを一生懸命拭いながら、男と、雨着の男が消えていった先を見た。

 地面にひれ伏した男に、雨着の男が何度も何度も、シャベルを振り下ろしている。頭に、腕に、背中に、足に。まともに狙いも定めず、時には空を切って地面を抉りながら。何度も。何度も。

 やめて。

 叫びたかったが潰れた喉が声を響かせない。

 身体で止めに入ろうにも、足がしびれて立ち上がれない。

 少女が泥濘でもがいている間に、シャベルはさらに男の身体を痛めつけていった。

 

 雨着の男は、痛めつけた男が動かなくなったのを確認して、少女の方へと駆け寄った。

「なんてこと…ああ、なんてこどだ。君、大丈夫か」

 背中で雨を受け続ける少女の裸身を案じ、肩にでも掛けてやろうと思ったのか。男は自身が着る雨着を脱ごうとしながら、喉と胸を押さえ、咳き込む少女の側に跪いた。

 

 

 途端に悲鳴。

 

 ひっくり返り、尻餅をつく雨着の男。

 

 その悲鳴に、俯いていた少女の顔が上がる。

 

「ああああ!!」

 たちまち雨着の男の悲鳴が大きくなる。

 雨着の男は尻餅をつきながら、ずるずると後退する。

 雨着の男の腕が上がり、震える手が少女の顔を指さした。

「その目…!その髪…!」

 ようやく吐き気が収まり、呼吸も落ち着いた少女は、胃酸の臭いと味に顔をしかめながら雨着の男を見た。

 恐怖に慄く者の顔を。

 

「ああああ!!」

 再び叫び出す雨着の男は、まるで化け物とでも相対しているかのように、腰を抜かしたままさらにずるずると後ずさる。

 少女はそんな雨着の男に手を伸ばした。途端に、

「来るな!こっち来るな!」

 その白くてか細い手が、死神の鎌にでも見えたのか。半狂乱に陥ったように雨着の男は叫び続けた。

「俺も連れていくのか!俺の家族のように、どこかへ連れて行ってしまうのか!」

 少女が伸ばす手を振り払おうと、雨着の男はシャベルを握った腕をぶんぶんと振り回し、少女と距離を取ろうとさらに後退した。

 

 だめ!危ない!

 

 少女は叫びたかったが、潰された喉は一向に声を響かせてはくれなかった。

 

 少女が伸ばした細く白い手の向こう。

 雨着の男が、荒れ狂った川の中へと転がり落ちていく。

 

 

 少女が落水した時よりも、川はさらに凶暴さを増していた。雨着の男の顔は、瞬く間に土色の水に飲まれ、消えてしまった。

 ようやく踏ん張りを取り戻した足で立ち上がった少女は、すぐさま川下へと駆け出した。川は、50mほど下ったところで広がり大きく蛇行する。先刻はこの蛇行したところで葦の群れに引っ掛かり、少女は助かった。きっと雨着の男も。

 そんな少女の期待はあっさりと裏切られる。細い脚を懸命に伸ばし、50mを一気に駆けた少女。しかし少女が辿り着いた先にあったものは、葦の群れも水没し、土色の水一色に染まった川面。方々に目をやるが、雨着の男の姿はどこにも見当たらなかった。

 

 諦め悪く、少女はさらに川下へと駆ける。

 見ず知らずの、名前どころか顔さえよく見ていない男を捜して駆ける。

 だって…!だって…!

 

 川沿いを懸命に走り続けて10分。

 増水した川はついに氾濫し、周囲の放置された田畑に水が溢れ出している。

 川の水が浸入している田んぼの隅っこに転がる、黄色い布にくるまれた物体。

 

 目ざとく見つけた少女は、黄色い雨具に向かって田んぼの土手を滑り落ちた。

 うつ伏せに倒れている男の雨着を引っ張り、ひっくり返す。

 生気のない顔。真っ青な顔。

 すぐに雨着の男の胸に、耳を当てる。

 何も鳴らない。何も響かない。

 すぐさま雨着の男の腹にまたがり、両手で男の胸を押した。

 全体重を掛け、何度も何度も。

 雨着の男の肋骨を突き破る勢いで、何度も何度も押し続けた。

 極一部を除いて、他人の命に無関心だった少女が、見ず知らずの、名前さえ知らない男の止まった心臓に再び鼓動を宿そうと、懸命に、死に物狂いで押し続けている。

 

 だって。

 今、この場で、この瞬間に死ぬべき者は、この人じゃない。

 

 人の生き死にに運命というものがあるのかどうかは知らないが、少なくとも、今、この瞬間、この場で死ななければならないのは、この人ではない。この人に死ぬべき理由はどこにもない。死ななければならない道理が一片もない。

 

 今、ここで死ぬべき者は…。

 死神の鎌が振り下ろされるべき者は…。

 死を抱くのに、最もふさわしい者は…。

 

 世界がその死を認め、

 あの人がその死を望み、

 自らもその死を受け入れている者は…。

 

 

 何十回、何百回と押し続ける。叩き続ける。

 雨着の男の胸が、命のリセットボタンであると信じて。

 自分の命はリセットが効いた。

 あの少年と一緒に押した世界のリセットボタン。世界ですら不完全ながらもリセットできたのだ。

 きっと、この人の命もリセットが効く。そう信じて。

 

 胸を押し続けて、叩き続けて。

 

 それでも雨着の男の心臓が、再び動き出すことはなかった。

 

 

 10分で駆けた距離を、30分掛けて歩いて戻る。

 小道の端っこでは、男がうつ伏せに倒れている。

 少女はゆっくりと男の側に膝を折り、男のシャツを引っ張って仰向けに転がした。

 

「…うう」

 

 側頭部から伝う血。ボロボロのシャツの穴から見える、どす黒く腫れ上がった皮膚。両足は、ありえない方向に曲がっている。

 

「う…ぅ…」

 それでも、男の口からは微かな呻き声が漏れた。

 

 そうだ。この人も、今ここで死ぬべき人ではない。

 今、ここで死ぬべき者、…それは。

 

 少女は地面に投げ出された男の両手首を握り、持ち上げた。

 力の入っていない、だらんとした腕。

 腕の先の、男の両手を、自身の首へと持っていく。男の両親指が、自身の喉ぼとけに来るように。

 男の腕を、ぐいっと引き寄せる。

 男の親指を、自身の喉ぼとけに擦り付ける。

 

 少し咳き込むだけ。

 呼吸が苦しくなることもなければ、視界が暗転することもない。

 

 今、死ぬべき者…。

 …ここで、死ぬべき者。

 

 目の周りが温かい。

 雨で滲んでいた視界が、さらにぼやけて狭くなる。

 それが生理現象によって目から溢れたものではないことくらい、少女にも理解できた。

 



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第三章 其の六

 それは、おそらくあの雨着の男の家なのだろう。田んぼを見下ろす丘の上に、ぽつんと立つ一軒の民家があった。雨着の男は点けっぱなしで出てきたのか、家の中には灯りが点っていたが、人の気配はない。

 前庭には白い軽トラックが駐車されている。鍵は挿しっぱなし。捻ってみると、ブルルンとエンジンの音が鳴り響く。運転席に乗り込み、薄い鉄板のドアを閉める。ハンドルを握り、シフトレバーを後退に入れ、ゆっくりとアクセルを踏んでみた。

 首を傾げた。

 エンジンの音は高鳴るのだが、軽トラックは動かない。少し強めにアクセルを踏んでみる。エンジンは吠えるのだが、やはり軽トラックは動かない。

 サイドレバーというものの存在をようやく思い出し、左手で運転席と助手席の間にあるレバーを握った。親指でボタンを押し、レバーを倒す。

 途端に、後ろに向かって急発進する軽トラック。

 何かを破壊する音、押しつぶす音。

 咄嗟のブレーキ。急制動する軽トラック。拍子に小さな鼻をハンドルにぶつけてしまう少女。

 痛む鼻を押さえながらバッグミラーを見ると、後ろにあった納屋が半壊している。

 シフトレバーを前進に切り替え、ブレーキペダルからアクセルペダルに足を乗せ換える。

 

 訓練の一環として自動車の運転の講義は受けてはいるが、実用車を運転する機会は殆どなく、もちろん軽トラックは乗るのも初めてだ。おまけにこの軽トラックはかなりの年季ものらしい。アクセルの踏み加減が分からない。

 そして運転席に座るその少女は、儚げな見た目と控えめな立ち振る舞いとは裏腹に、何事に対しても躊躇いというものを知らない性格の持ち主だった。

 

 玄関が全壊した。

 

 納屋、玄関、庭に停めてあったコンバインに大八車、物干し竿、鉢植えを破壊したところでようやく運転の感覚を掴み、ほどよい加減でアクセルを踏みながらハンドルを切って前庭から道路に出ると、丘から下る一本道をゆるゆると走っていく。

 

 何事にも躊躇わない性格の持ち主である少女だが、さすがに倒れている男の側に軽トラックを駐車させる時は慎重だった。

 運転席から降り、荷台からラダーレールを引き下ろし、地面から荷台へのスロープにする。

 自分よりも遥かに大柄の男のシャツを、うんせうんせと引っ張り、荷台へと引きずり上げる。右手人差し指と中指だけでなく、手の全ての指の爪がボロボロになった。

 もう何時間も雨ざらし状態の男に、ブルーシートを掛けてやる。

 運転席に乗り込み、丘の上の家に向かって軽トラックを出発させた。

 

 

 とりあえず、家の中で一番広い畳の部屋に男を寝かせる。

 人の住まいと言えば、自分が住んでいた集合団地のあの部屋と、女性上官のマンションの部屋しか知らない。一軒家の日本家屋というものに立ち入ったのは、これが初めてだった。

 それでも、脱衣所にタオルの類が置いてあるのは、どの家でも共通らしい。ある限りのタオルを持ち出し、男のもとへと戻る。

 

 痛みにうなされ続けている男の顔をタオルで拭いながら、側頭部の傷を別のタオルで圧迫する。白いタオルは、たちまち真っ赤になった。2枚目のタオルを傷に押し当てる。しかしこれだと片手が傷を押さえることだけに塞がれてしまい、びしょ濡れの身体を拭いてあげることがでいない。見ると、部屋の隅っこに粘着テープが転がっていたので、傷に押し当てたタオルごと、粘着テープで頭をぐるぐる巻きにした。近い将来、男の毛髪が悲惨な運命を辿ることを、この時の少女はまだ知らない。

 

 シャツを脱がせると、あちこちに痛々しく腫れあがった痣ができている。台所に行き、流し台の蛇口の栓を捻る。世間は色々と大変なことになっているらしいのでどうかと思ったが、蛇口から勢いよく水が落ちてきたのをみて、少女の顔に少しだけ安堵の表情が表れた。

 何枚かのタオルを水に濡らし、しっかりと絞ると、男のもとにもどって、熱を帯びて真っ赤になっている痣一つ一つに濡れタオルを押し当て、患部を冷やしていく。

 

 バスタオルで男の上半身を拭き終えると、今度はズボンを脱がす。途端に男のうめきが悲鳴へと変わる。少女は無視して強引にズボンを引っ剥がそうとしたが、ズボンは水分を吸って体に密着しているため、なかなか脱がせることができない。見ると、部屋の隅っこにハサミが転がっていたので、そのハサミを使って男のズボンをチョキチョキと裁断し始めた。異性の裸体と言えば、あの毛も生えそろっていないような少年の裸しか見たことがなかったので、ズボンの下から現れた毛むくじゃらの男の足を見た時、思わず、うっ、と呻いてしまう少女である。

 

 上半身も悲惨だったが、下半身も負けず劣らず悲惨なことになっている。

 右足は下腿がおかしな方向に曲がっていた。左足は膝がぐにゃぐにゃになっていた。どちらも痛々しく大きく腫れている。

 部屋の周囲をくるりと見渡す。

 それは見慣れぬ引き戸だった。格子状の木枠に真っ白な紙な紙が貼られた引き戸である。少女はその珍しい引き戸に歩み寄ると、木枠を手に取り、ガタガタと揺らしてみた。引き戸は思いのほかあっさりと外れた。

 引き戸の全面に貼られていた白い紙は全て正拳突きで破る。半壊した納屋から持ち出した鉈を、格子状の板に向けて何度も何度も振り下ろし、板の隅を削っていく。生まれて初めての「ドゥ イット ユアセルフ」に、慣れていない少女の手から鉈が何度もすっぽ抜け、園芸用の鉢を割り、襖を突き破り、時には畳みに寝る男の頭上の柱に突き刺さることもあったが、1時間掛けてどうにかこうにか引き戸を縦横1mくらいの大きさにまで小さくすることができた。

 部屋の窓に掛かったカーテンを引っぺがし、ハサミを使って手ごろな大きさに切る。

 小さくした引き戸を、男の下半身の下に敷く。男の両足に厚めのバスタオルをぐるぐる巻きにする。そして格子にカーテンの切れ端を通し、バスタオルでぐるぐる巻きにされた男の足を、さらにカーテンでぐるぐる巻きにする。男の両足首、両膝下、両膝上、両鼠径部、そして胴と、計9か所をカーテンで結び、その下の格子状の引き戸に固定して動かせないようにした。即席の添え木の完成である。

 

 家の奥に行くと、誰かの寝室と思しき部屋があった。部屋の端っこに畳まれた布団一式を運び出し、男が寝ている部屋へと運ぶ。雨に打たれてすっかり冷え切った男の身体に、布団を掛ける。

 

 男は明らかに重傷であり、本来ならすぐにでも病院に駆け込むべきであることは分かっている。そしてこの家には電話があり、救急車を呼ぶには「1」「1」「0」を押せばよいことくらい、少女も分かっていた。ちらりと見えた真っ黒な電話は、不思議なことにボタンがなく、何か丸い皿のようなものが貼り付けられていたような気がしたが、おそらくそれは見間違いなのだろう。

 だが、もしそれを実行すれば、結果的に男を窮地に陥れることになることも、少女は分かっていた。

 今、自分が男にしてやれることは、これまでだ。

 殺されてやることもできない自分ができることは。

 

 

 

 脱衣所に立つ。

 洗面台には、大きな鏡があった。

 

 薄汚れた鏡に映る少女。

 乾きかけのボサボサの頭。長時間雨に晒され、血の気を失っている肌。

 

 濁流の中に消えていった雨着の男の顔が思い浮かんだ。

 実際にはもう雨着の男の顔は忘れてしまっているため、土色の水の中に沈んでいく男の顔は、畳の部屋で横になっているあの人の顔だったが。

 

 あの人の顔が土色の水に沈みながらこう言っている。

 

 ―――その目!

 

 頬に手を触れ、下に引っ張ってみる。下目蓋が開き、中に収まる眼球がぎょろりと押し出される。

 眼球の真ん中には、血の色のような禍々しい瞳。

 

 あの人の顔が土色の水に沈みながらこう言っている。

 

 ―――その髪!

 

 ボサボサに逆立っている髪に触れる。髪を指に絡め、軽く梳いてみる。ブチブチっと音がしたので梳いた手を見てみると、指に何本もの髪が絡みついていた。

 指に絡みつく、色素が抜け落ちたような奇妙な色の髪。

 

 視線を手から鏡へと移す。

 あちこちに擦り傷や切り傷。わき腹に浮き出る肋骨。憔悴し切った顔。首には、人の手の形をした痣が、くっきりと張り付いている。

 どぶ川にでも打ち捨てられた、出来の悪い人形のような姿。

 そんな体のてっぺんに乗っかった奇妙な色の髪と、顔の一番目立つところに収まる禍々しい色の二つの瞳。

 

 しばらく見つめていると、鏡に映る奇妙な髪と瞳の女の顔が、自分に語り掛けてくるような錯覚に襲われる。

 

 誰?

 あなた、誰? と。

 

 奇妙な髪と瞳の女だけではない。その背後から、幾つもの顔が水の底から湧き出る気泡のようにうようよと浮かび上がってくる。

 

 それは自分たちを助け出してくれたあの運転手だったり、そのトラックでビスケットを分けてくれた老婆だったり、毛布を配ってくれた男性だったり、食料を配ってくれたお姉さんだったり、自分のフードを引っぺがした大男だったり、腕に縋りついて写真を見せてきた女性だったり。

 幾つも、幾つもの顔を浮かび上がって、そして皆が口々にこう叫んでいる。

 

 お前は誰だ! と。

 

 誰だ?誰だ?誰だ? の大合唱。

 

 

 奇妙な髪と瞳の女の視線に耐え切れず、少女は鏡から視線を逸らした。逸らした先には洗面台の棚。

 棚には歯磨き用のコップに、4本の歯ブラシ。歯磨き粉に櫛やカミソリ。そんな洗面用具に混じって、栗色のチューブ容器があった。チューブ容器には「ヘアカラートリートメント」と書かれている。

 

 

 チューブ容器の説明書きには「30分待ってください」とあったので、脱衣所に投げてあったヘアキャップを被り、その間家の中を回ってみることにした。

 一家は4人暮らしだったようだ。畳の部屋の棚に写真立てがあり、その中に収められた写真には中年夫婦に老婆、そして中高生くらいの女の子が映っている。写真の日付は一月前。全員笑顔。この数週間後に、ここに映る四人のうち、三人が忽然と消えてしまい、そして残る一人も濁流の中に消えてしまうことになるなど、誰も想像していなかったことだろう。

 

 そこはおそらく写真に写っていた女の子の部屋。

 ベッドに学習机。カーテンやベッドに敷かれた布団のカバーは、この田舎然とした家には不釣り合いなポップな柄をしている。

 同世代の女の子の部屋に入るのもこれが初めてだった。学習机の棚には教科書やノートではなく、おおよそ勉学に必要のないもののように思えるマスコットキャラクターの人形などの小物がずらりと並び、本棚は漫画本やCDが占拠している。

 そしてベッドの上には、淡い色をしたブラウス。ベッドの下には淡い色をしたロングのフレアスカート。

 整頓が行き届いている部屋にあって、その衣類だけは不自然にベッドの上と下に脱ぎ捨てられている。一方で、ブラウスはボタンが上から下まできっちりと留められたままだ。ブラウスとスカートが落ちている周辺は、何かの液体で出来たシミのような痕がある。

 おそらくこの部屋の持ち主は、この服に身を包んでいて、ベッドに寝そべろうとしたか、それともベッドから起き上がろうとしたその瞬間に、「あの時」を迎えたのだろう。

 部屋の持ち主に降りかかったことまでは想像ができるが、それ以上に部屋の持ち主について思いを馳せることができない少女は、部屋の持ち主の父親が「あの時」以来一度も手を付けることがなかったそれらの衣類を無造作に拾い上げ、部屋を出ていった。

 

 

 酷い疲れに眠りの底に引きずりこまれたかと思えば、全身に広がる熱と両足の激痛に強制的に覚醒させられる。

 何度目かの強制的な覚醒に頭を叩かれ、うっすらと目が開く。

 板張りの天井。

 視線を足もとに向ける。

 縁側のガラス戸。その向こうには、雨が降り続く外の世界が広がる。

 視線を左に向ける。

 仏壇がある。

 視線を右に向ける。

 

 部屋の奥の方に、誰かがいる。

 土色の壁に背中を預け、畳に腰を下ろし、膝を抱えて蹲っている。

 

 淡い色のスカートに、淡い色のブラウス。

 膝を抱える腕にスカートの下から除く素足。雪のような白い肌。

 

 そして、栗色の髪。

 

 狭かった視界が大きく広がった。

 瞼が、限界まで開かれる。

 焦点を合わせようと瞳孔が収縮を繰り返す。

 

 布団から這い出た。

 途端に下半身に違和感。下半身が何かに固定されている。

 それでも構わず、畳を這った。下半身を拘束する板状の何かごと、畳の上をずるずると這っていった。

 全身を焼く熱や足の激痛など、どこかに溶けて流れ出してしまったかのよう。

 

 手を伸ばせば触れるほどの距離。

 伸ばす手が震える。

 

 顔は見えない。

 栗色の髪で隠れてしまっている。

 

 栗色の髪に触れようとして、一瞬躊躇い、しかし意を決して、壊れ物でも扱うようにそっと髪に触れる。

 掻き上げられる栗色の髪。

 髪の向こうに、女性の顔。

 柔らかな曲線を描く小さな鼻。白磁のような頬。

 長く繊細なまつ毛に包まれた瞼は閉じられ、薄く開いた桃色の唇からは規則的に吐息が漏れている。

 

 視界がぼやけた。

 頬を、熱い液体が伝う。

 

 男は女性の髪を優しく愛しむように掻き上げると、さらに自身の身体を女性に寄せた。

 

 

 誰かの手が自分の髪に触れ、頬に触れている。

 触れる手の平はごつごつとしているけれど、その撫で方は限りなく優しい。

 誰かに呼ばれた気がした。

 眠りの底に落ちていた意識がゆっくりと浮上していく。

 目を開くと、視界一杯に男の顔が広がった。

 

 点滴や注射の太い針は何度も血管に突き刺されたし、細い管を鼻の穴や口の中に突っ込まれたこともある。異物が身体の中に進入してくるのには、慣れっこのはずだった。

 しかし、今、唇をこじ開け、口の中への進入を試みている、ぶよぶよとした生暖かい「何か」には、未だかつてない、強烈な嫌悪感が全身を駆け巡った。全身に鳥肌。髪の毛から産毛までが全て逆立ち、頭の血が一気に足もとまで引いてしまったかのよう。胃腸がひっくり返り、心臓が今にも破裂してしまいそうに激しく脈打つ。

 反射的に、固く口を閉じた。

 何としてもその「何か」の侵入を拒もうと。

 

 それが、人間同士において特別な想いを伝えあうための行為であることは、少女でも知っていた。

 でもこれは違う。

 何かが違う。

 これを認めてしまうと、もはや自分が自分でなくなってしまう。

 自分という存在が粉々に砕け散ってしまう。

 そんな予感に襲われた。

 それは言わば迫りくる存在の危機に対する純粋な防衛本能。

 この身体が、ここまで素直に自己保存のために力を尽くすのはこれが初めてだったかもしれない。

 

 頑なまでに閉じられた唇。

 「何か」は一旦少女の唇への進入を諦めたらしい。唇から感触が消えた。

 頬に、ぬるい感触。相手が、頬同士をくっ付けてきたらしい。相手の髭が、ちくちくと痛い。

 

 耳元で囁かれる。

 

 それは人の名前。

 

 この場には居ない人の名前。

 

 この世のどこにもいない人の名前。

 

 まがい物ではない、ホンモノの人の名前。

 

 砕ける。

 砕け散っていく。

 たった一言。

 その囁きで、心の壁が音を立てて崩れ去っていく。

 ホンモノの人の名によって。

 まるでホンモノの人が、私の胸に拳を振り下ろしたかのよう。

 粉々に砕かれた心の壁。

 壁が無くなり、無防備になった器に、それはいとも容易く侵入してきた。

 

 

 ―――私が溶けていく。

    私が壊れていく。

    私が無くなっていく。

 

 

 再び唇に生温かいものが触れ、「何か」が口の中へと進入を試みようとしてくる。

 

 もはや拒むことはできなかった。

 この身体は、拒むことをしなかった。

 

 相手の重みに押され、背中が畳に付く。

 覆いかぶさってくる相手の身体を受け止めるため、相手の背中に両腕を回した。

 



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第三章 其の七

「初診ですか?」

 受付のお姉さんの問いに、どう答えてよいのか分からず、ぽかんとしたままお姉さんを見つめる。

「この診療所は初めてですか?」

 頷く。

「それではこちらにお名前を書いて、それと保険証をお願いします」

 首を傾げる。

「健康保険証はお持ちでないですか?」

 再度、首を傾げる。

 

 軽トラックに乗り込み、来た道を引き返す。

 峠道を越え、1時間掛けてたどり着いた町。小さな町なので、医療機関を探し出すのには苦労しなかった。世界的な混乱の中で通常営業しているのは珍しいのか、小さな町にも関わらずその小さな診療所には多数の外来患者が詰めかけており、受付のお姉さんにたどり着くまでに30分も待たされる羽目になった。ところが、ようやく順番が回ってきたところで、受付のお姉さんに「ケンコウホケンショウ」なるものの提示を求められてしまったのである。

 その特有の体質と職業柄のため、少女にとって医療機関とは2番目の我が家と言えるほどに馴染み深いものであったが、受診・入院先はいつも組織内にある病院だったため受診も入院もフリーパスであり、受診のための手続きなどしたことがないし、「ケンコウホケンショウ」なるものも見たことがなかった。

 峠道を越え、丘の上の一軒家に戻る。軽トラックの運転にも慣れたもので、丘までの細い坂道を、次に出掛けるときに出易いよう、バックで上がった。

 

 軽トラックから降り、その光景を見たときには少し呆れてしまった。

 前庭で、男が地面に這いつくばっている。下半身を格子状の板に固定されたままで。

 軽トラックから降りてきた少女を見るなり、

「ユイ!どこに行っていたんだ!」

 と怒鳴り散らす男。

 

 少女が少しでも姿を消すと、男は彼の妻の名を叫びながら、重傷の身体を引きずって家の中を這いまわっていた。格子状の板を引きずりながらのため、家の畳や床、壁のあちこちに傷ができている。これではおちおちトイレにも行けやしない。(ちなみにそのトイレは少女が見たこともないような形のトイレだったので、未だにどう座ったら正解なのか分からないでいる)

 この日はこの家に居候を始めて以来、初めての外出だった。男を留守番させることに不安はあったが、街まで彼を連れ出すわけにもいかなかった。

 

 男を布団に寝かしつけると、家の中を「ケンコウホケンショウ」を求めて探し回る。お姉さんの口ぶりからすると、「ケンコウホケンショウ」なるものは誰もが当たり前のように持っているものらしい。

 世間知らずではあってもそれなりに聡い少女は、「ケンコウホケンショウ」が誰でも当たり前のように所持しているものなのであれば、そして病院の受付で受け渡しするようなものなのであれば、それはそんなにかさ張るようなものではなく、おそらく手のひら大に収まるようなもの、例えばカードのようなものではないかと推理した。そうであれば、保管していそうな場所はある程度絞られてくる。家の中の戸棚や、小物入れを中心に探していく。探し始めて30分。ようやく「国民健康保険証」と書かれたカードを探し当てた。保険証にはそれぞれ個人名や生年月日、住所などが書かれてあり、そこで初めて少女はその保険証が単に皆に配られているものではなく、一人ひとりが自分専用のものを持っていることを知った。つまりこの保険証は、かつて少女が組織本部に出入りする時に使っていたIDカードと一緒で、本人以外の者は使えない仕組みになっているようなのだ。幸いなのは、この保険証には顔写真が貼られていないことであり、また機械に通さなければならないような読み取りコードがないことだった。

 その家では一家全員のものを一まとめに保管していたらしい。4枚の保険証のうち、自分と性別が同じで歳が近い生年月日のものを選び出す。

 

 

 翌日。

 出かける準備を整えた少女は、男が寝る布団の側に膝を折った。

 男は布団の中でうんうんと唸っている。昨日、無理に動いた所為で、少し引いていた熱がぶり返したらしい。深刻なのは両足の骨折で、折角添え木で固定していたのに、縁側から庭に落ちた衝撃でさらに患部に損傷を受けたようで、どちらもさらに腫れ上がり、強い熱を帯びている。

 しばらく男の額を撫でていると、その手を男が握ってきた。

 縋りつくような、男の眼差し。

「…ユイ。…俺を見捨てないでくれ…」

 

 軽トラックの薄いドアを開ける。

 乗り込もうとして、ふと、庭の隅に転がっているコンクリートブロックが目に入った。

 乗り込むのを止め、ブロックに歩み寄る。

 しばらく足もとのブロックを見下ろす。

 顎を上げ、顔を横に向け、縁側のガラス戸の向こうに見える、畳に敷かれた布団に目をやる。布団の隙間から覗く、男の足。

 再びブロックを見下ろす。

 

 前屈みになり、ブロックを両手で抱える。ブロックを腰の位置にまで持ち上げると、一旦右膝をブロックの下に入れて支えとして一息つく。少なく見積もっても20kgはあるブロック。生まれてこの方学生鞄以上に重いものを持ったことがない少女にとっては、未知の重さであった。そのブロックを、そこからさらにうんせと抱え上げ、右肩に乗せる。

 両手と肩で何とかそのブロックを支える少女の顔は真っ赤になり、両手はぷるぷると震え、足もとは今にも転倒してしまいそうなほどにふらふらだった。

 痩せた頬を大きく膨らませ、何回か深呼吸し、おへその下に力を込めると、何とか姿勢を正す。

 少しブロックの重さに慣れてきた少女は、姿勢は正したままで目だけを動かした。

 視線の先には、少女の左足。

 

 少女はそれが必要であると認識したら行動に移すのに一切の躊躇いを持たない性格だった。

 そして少女の身体は、あらゆる痛みに慣れっこだった。

 

 ブロックを、左足の甲に向けて落とした。

 

 

 

 

「ヤマモトヒロコさん」

 看護婦の声が、待合室に響く。

「ヤマモトヒロコさん」

 もう一度。

「ヤマモトヒロコさん、居ませんか?」

 さらにもう一度。

 少女は慌てて長椅子から腰を上げた。

 

 受付のお姉さんにその保険証を差し出した時、少女は珍しく緊張していた。嘘がバレてしまったら。そして事が大きくなってしまったら。

 ところが、お姉さんは保険証を受け取ると疑う素振りなど一切見せず、保険証に書かれた番号をコンピューターに打ち込みながら、「お名前が呼ばれるまでそちらでお待ちください」と長椅子に座るよう勧めてきた。拍子抜けするほどにあっさりと、受付を通ってしまったのである。

 

 受付があっさりとしていたのなら、診察もあっさりとしたものだった。以前、別の病院で薬を処方されていたと説明したら、眼鏡をかけた老人医師は何の検査もせずにあっさりと「では同じものを出しましょう」と答えてくれた。続いて痛々しく腫れあがった左足の甲を見せたら、「では鎮痛剤と湿布を出しましょう」と、ろくに検査もせずにあっさりと薬を出してくれた。それなのに「えらい目が真っ赤ですね。大丈夫ですか?」という余計な問診をしてきたので、「寝不足」と答えて誤魔化した。

 

 左足を引きずりながら軽トラックに乗り込み、峠を越え、丘の一軒家へと戻る。軽トラックの運転にも慣れたもので、以前は片道1時間掛かっていたものが30分で行けるようになり、つづら折りの峠道は一度もブレーキを踏まなかった。

 

 家にたどり着くと、この日も布団から這い出ていた男が少女を出迎えた。ただし今回はありとあらゆる出入り口に鍵を掛けていたので、庭にまで這い出ることはできなかったようだ。

 ガラス戸の向こうの縁側で仰向けに倒れている男は、少女の姿を見るやいなや、

「ユイ!どこに行っていたんだ!」

 とお決まりのセリフ。

 病院に行っていたことを説明すると、途端に心配そうな顔をする。

「…どこか具合が悪いのか?なんだその目は!真っ赤じゃないか!」

 自分のことは「寝不足」と答えて誤魔化し、男を布団に寝かしつけ、そして診療所で貰ってきた鎮痛剤を男に飲ませ、湿布を男の患部に貼った。

 

 

 

 死者への弔いとは何か。

 それを理解するには、少女は圧倒的に経験が足りなかった。ただ、この国では人が死んだら火葬にしなければならない、ということは知っていた。

 

 軽トラックで川沿いの道を走り、目的の場所で停める。トラックの側には、黄色い布に包まれた何か。運転席から降りた少女は、黄色い布の側に歩み寄る。撥水加工された黄色い布をはぎ取ると、そこには男の顔。腐敗がかなり進み、青紫色の肉の下から白い骨が露出した男の死体。布をはぎ取った瞬間、死体に集っていた大量の虫が宙に舞い始める。

 少女は軽トラックの荷台からラダーレールを下ろすと、死体を黄色い布ごと引っ張った。腐敗が進んだおかげで死体は随分軽くなっており、左足を痛めた少女の細腕でも何とか動かすことができた。うんせ、うんせとラダーレールの上に死体を滑らせていく。最初は自分の顔にも集ってくる虫たちを手で一生懸命払っていたが、払っても払ってもしつこく集ってくるので、死体をレールの半分まで引き上げた時にはもう諦め、鼻に入ろうが耳に入ろうが好きにさせてやっていた。異物が身体の中に入ってくるのは慣れっこなのだ。

 運転席に乗り込み、丘の上の一軒家に向かう。

 

 一軒家が見えたところで、少女はすぐにブレーキを踏んだ。そして、そっとエンジンを切る。ハンドルに隠れるように、身を低くした。

 少女の視線の先。丘の上の一軒家に向かう一本道を、知らない軽トラックが走っていた。

 

 軽トラックから降りた少女は、走って丘の上の一軒家に向かう。走るといっても左足を庇いながらの今の少女の走りは、常人の早歩き程度にしかならなかった。

 正面の一本道は目立ちすぎる。丘の裏手にある、細い道を使って一軒家へ。

 家が近づいてくると、男たちの声が聴こえ始めた。

 

「なあ、ヤマモトさんはどこに行ったんだ」

「あんたは何もんなんだ。なんでヤマモトさんちに居る?」

 

 誰かを問い詰めるような声。それらに混じって、

 

「知らん!知らん!ユイ!ユイはどこだ!」

 

 あの人の声が聴こえた。

 裏庭から家の敷地内に進入すると、生垣の陰からそっと家の中の様子を覗った。

 

 いつも男が寝所として使っている畳部屋で、2人の作業着を着た中年男性が、男を囲んで立っていた。作業着の男たちは、何を聴いても「知らん知らん」と繰り返す、最近になってようやく添え木代わりにしていた格子状の板から解放され、テープでガチガチに下半身をテーピングされた男に、途方に暮れている様子だ。そして「出ていけ」と怒鳴っている男に、片方の作業着の男は自分の頭を人差し指でさすと、それをクルクルとさせ、最後にパーとしてみせ、それを見ていたもう片方の作業着の男も、それに同意したかのように肩を竦めてみせた。

「あれか。「あの後」でキチ〇イになった奴が大勢居るって話だが、こいつもそのクチか」

「だろうな。とりあえず、救急車でも呼ぶか。酷い怪我しているぞ、こいつ」

「いやいや、それよりも警察に通報した方がいいんじゃないか。ヤマモトさんに、こんな知り合いが居るなんて聞いたことないぞ」

「そうだな。最近、空き家を狙った空き巣や不法滞在が多いって言うしな」

 

 少女は転がるように坂を下っていく。実際に坂の最後の3分の1は、痛めた左足がつんのめってしまって、コロコロと転がりながら下っていったが、痛めた足で下るよりは転がって下った方がむしろ速くて好都合だった。

 あちこに擦り傷や打ち身を作った身体で軽トラックに飛び乗る。実際には痛めた左足を庇いながらのそのそと運転席に這い上がったのだが、本人のイメージでは飛び乗った感じで運転席に座った。シートベルトを念入りに締めた。

 バックミラー越しに、背後の窓ガラスから荷台に乗せられた黄色い布に包まれた「それ」を見る。

 心の中で、ごめんなさい、と呟いた。

 

 

 作業着の男の一人が、携帯電話を耳に当てている。しかし、

「だめだ。ここ、携帯電話が繋がらん」

「俺のもだ。どっかに宅電ないかな?ん?」

 作業着の男の一人が、何かに気づいて縁側の外に目を向けた。途端に、

「わ!わ!わ!」

「え?何?どわああああああ!!!」

 

 2人の目に、前庭を突っ切って、こちらに突っ込んでくる軽トラックが映りこんだ。

 

 凄まじい衝撃。その衝撃を予想してハンドルを握る両手にあらん限りの力を籠め、耐えようとしたのだが、全速の軽トラックで家に突っ込むという衝撃は少女の細腕に籠められた力をいとも簡単に粉砕。小さな身体が前後に激しく揺れ、少女の頭は固いハンドルと固いヘッドレストの間を何度も行き来した。もちろん、エアバッグなんてこ洒落たものはこの20年落ちの軽トラックは備えていない。ひしゃげるボンネット。全面に白いヒビが広がるフロントガラス。

 朦朧とする意識を懸命に叱咤する。

 霞む視界で、周囲を確認した。

 縁側を突き破り、ガラス戸を粉砕し、畳の上に乗り上げ、部屋の奥まで到達した軽トラック。その軽トラックを挟んで、左側に腰を抜かして畳に座り込んでいる作業着の2人。右側に、やはり腰を抜かして目を丸くしている男。この軽トラックは、なかなかに都合の良い場所に突っ込んでくれたらしい。

 少女は歪んでしまったドアを体当たりするように強引に開けると、外に滑り落ちた。

「ユイ!」

 運転席から降りてきた栗色髪の少女を見て、すぐさま声を張り上げる男。そして、

「ユイ!どこに行っていたんだ!」

 と、お決まりのセリフ。

 全身に痛みを感じながら這い上がるようにして何とか立ち上がった少女は、男の問いは無視して、軽トラックで突貫する前にダッシュボードの中から回収し、スカートのポケットに入れておいたものを右手に握りしめる。

 赤い筒状のもの。筒の蓋を開けると、蓋に貼られている擦り板で、筒の先端をザっと擦った。たちまち、先端から真っ赤な火を上がる筒状のもの。

 少女は、火が点いた発炎筒を高々と掲げた。

 「色々なもの」が欠落してしまった男だが、仁王立ちする少女が右手に握った光る筒状のものを高々と掲げるその様は、彼が幼少期に熱中した光の戦士の変身シーンにそっくりで、心のどこかからか湧き上がってくる感動に男は目を潤ませていた。左手が腰に当てられていたならばもう完璧であったのだが、そんなことはどうでもいいし知ったことではない少女は、すぐに身を翻すと、火花を上げている軽トラックに駆け寄り、給油口を開け、火が点いた発炎筒をその中に放り込んだ。

 再び身を翻し、男の方に向かって飛び込む。続けて襲ってくる衝撃から男を守るように、男に覆い被さった。

 

 少女の背後で爆発音。

 一瞬の閃光の後、猛烈な炎と黒煙を上げる軽トラック。

 火の粉が飛び散り、男の上に覆いかぶさった少女の身体の上に降りかかる。身に纏っていたブラウスとスカートのあちこちに、火が点いた。少女は畳の上を転げまわって服に点いた火を消すと、軽トラックに乗って光の戦士が現れたと思ったら突然の爆発という訳の分からない状況に半狂乱に陥っている男のシャツを引っ掴み、畳の上をずるずると引きずっていく。途中、戸棚に置いてあった薬袋を掴み、両手を自由にするために薬袋を口に咥えた。爆発炎上する軽トラックの向こう側では、やはり半狂乱に陥っているらしい作業着の2人の喚き声が聴こえた。

 

 それは文字通りの火事場の馬鹿力であった。

 少女はその細腕で、痛めた左足で、一人ではまともに動けない男を炎上する家から引きずり出すと、作業着の2人が乗ってきた軽トラックの助手席に男を引きずり上げた。自らは運転席に乗り込むと、挿しっぱなしのカギを捻り、エンジンに火を入れ、シフトレバーを後退に入れ、今回は忘れずにサイドブレーキも外すと、思いっきりアクセルを踏んだ。

 丘を下る一本道を土煙を上げながら猛烈な勢いで後退する軽トラック。

 どんどん小さくなっていく丘の上の一軒家。

 その家から、這う這うの体で逃げ出しているただただ気の毒な作業着の2人。

 大きな炎と黒煙に包まれる家。

 炎の中心には、家をめちゃめちゃに破壊し、潰れてしまった軽トラック。

 その荷台には…。

 

 これはこれで、火葬になっただろうか。

 

 などと少女は頭の隅っこで考えながら、ハンドルを切った。 

 

 

 

 真夜中の山道を走る。あの炎上した家から飛び出してから、一度も休憩せずに。

 いくら少女が世間知らずだったとて、これだけの騒ぎを起こしてしまったら、もうあの地には居られない、どこか遠くに行かなければならないということくらいは理解できた。

 あの丘の上の一軒家に住み着いて約2月。人通りが皆無な山間のたった一つの家。蛇口を捻れば水が出るし、スイッチを押せば電灯がつくし、半壊した納屋を捜せば収穫したばかりの野菜があったり台所の戸棚には日持ちのする食品があったりする。

 その小さな住まいは、2人にとっては安住の地となる予定だった。

 あの家で、あの人の世話をしながら、時々軽トラックで街に買い物に出て、薬が無くなる頃にはコンクリートブロックで左足をしっかりと潰した上で診療所に行って、「ヤマモトヒロコ」を名乗る。あの家に住み着いて、約2月。ようやくこのルーティンに慣れてきた頃だった。これからも、ずっと、ずっとこのルーティンを繰り返しながら生きていく。それは決して愉快な未来予想図ではなかったが、そう生きていくことで、少なくともあの人の身の安全は確保できたかもしれなかった。

 でも、もうその甘い考えは捨てなければならない。

 

 一晩中山道を走り通して、目がしょぼしょぼしてきた。隣を見ると、件の男は狭い助手席で器用に身体を畳んで、すやすやと眠りこけている。

 ずっと田舎の細道を走ってきたが、やがて幹線道路と合流。大きな道路に出ると、あちこちで衝突事故を起こしたクルマが放置されていて、道路を狭くしていた。それらのクルマを縫うように慎重に軽トラックを進める少女。前方に、それなりに大きな街が見えてきた。

 

 街に入る前の、まだ周囲には田舎の空気が残っている郊外の道端で、少女は軽トラックを停めた。

 そこで、夜になるのを待った。

 

 闇の中を、じっと見つめる。

 田んぼや畑の合間に点在する民家。その中から、昼間から人の出入りがなかった家のうち、夜になっても明かりが点いていない家を探す。

 一つの家に目星をつけ、ヘッドライトは消したままで軽トラックをゆっくりと走らせた。

 

 呑気に眠っている男は助手席に残しておき、一人で暗闇の民家へ向かった。

 玄関には鍵が掛かっていなかった。玄関にはいくつかの靴が並んでいた。でも、家の中に人の気配はない。家に上がり、廊下の奥へと向かう。

 

 それは、おそらくこの家の食卓。

 台所の中央に置かれたテーブル。テーブルには、真ん中に大皿、大皿の両脇に中皿、それらを囲むように、茶わん、取り皿、箸。大皿の上には何かの根菜類を煮込んだものが盛られ、両脇の中皿の片方には菜っ葉、片方には柔らかく白い塊のような何か。そして茶わんにはそれぞれ白米が盛られ、取り皿には大皿や中皿からめいめいが取ったと思われる煮物や菜っ葉、白い塊が乗せられている。箸は、不自然にテーブルの上に散らばっている。そしてテーブルに付けられた4つの椅子には、脱ぎ散らかされたかのように、服が、下着も含めて上下一式投げられていた。

 

 それらを確認した少女は思った通りだと心の中で安心した。そして幾つかの戸棚を確認し、「ケンコウホケンショウ」を捜し出しすとそれをスカートのポケットに入れ、次にボストンバッグを拝借し、続けてタンスを開けて当面の着替えなどをバッグに詰め込んだ。食卓の上のものはすっかり腐っていたが、冷蔵庫の中身は無事なものもあり、幾つかの食品をバッグに詰め、それを肩に抱えると、家を出て軽トラックに向かった。

 

 トラックに乗り込み、エンジンを点ける。

 エンジンの音と、エンジンの揺れに、眠りこけていた男が目を醒ます。

「…ユイ。…今日は、どこに行こうか?」

 家族旅行に行っている夢でも見ていたのだろうか。

 栗色髪の女の小さな口が開く。

「……どこに…行きましょうか?」

 遠慮がちに、隣の男に問うてみた。

 男は身じろぎをしてお尻の位置を変えて、再び目を閉じる。

「どこでもいい…。君となら…」

 落ち着いた低い声でそう呟く男。

「…そう…ですか」

 やはり遠慮がちに返事をする栗色髪の女。

「ユイ…」

 男が呼んでいる。

 今まで聴いたことがない、穏やかな男の声。

 「記憶」の中に刻まれた、男が「私」を呼ぶどんな声よりも遥かにずっと、ずっと、ずっと、ずっと、慈しみに満ち溢れた声。

 運転席に座る栗色髪の女は返事をしない。

 男はすでに微睡みかけている。そして、ぼんやりとした声で。

「ユイ…、ずっと…一緒だぞ…」

 

 少女は少しだけ、下唇を噛んだ。

 0時の位置でハンドルを握る両手が、微かに震えた。

 少女の控えめな喉ぼとけが大きく上下し、生唾を飲み込む。

 胃の中に落ちた生唾に逆らうように、胃の底から何かが溢れ出てきそうで、少女は思わずハンドルを握る手に額を当てた。

 細い肩が小刻みに震える。

 

 少女の口が静かに開いた。

「…司令…」

 男の名を呼んでみた。

 それはほんの数カ月前。あの組織がまだあった頃、男の肩書がそうであった頃に、あの人に声を掛ける時と同じ口調で、呼びかけてみた。

 返事はない。スヤスヤと、寝息が聴こえてくる。

「…碇…司令…」

 再度呼んでみる。やはり返事はない。

 少女は構わず続けた。

 

「…司令、…なぜ、私を…造ったのです…か?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「…なぜ、…私を、…あの人の身体に…放り込んだのですか?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「…人類を、完璧な個体へと昇華させる…。それが…あなたの補完計画では…なかったのですか?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「では…なぜ…、あなたが造った人間は…、…こうも不完全な…出来損ない…なんですか?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「…どうして、…私を…造ったのですか…?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「…私は、…これからも…人として…、…生きることが…できるのでしょう…か?」

 その問い掛けに、答える者は…。

 

「…だ…」

 助手席の方から声がして、驚いた少女は伏せていた顔を上げ、隣を見た。

 いつの間にか目を開いていた男が、じっとこちらを見ている。てっきり男は寝込んでいると思っていた少女は、今の独白を聴かれたかと思い、何度も目を瞬かせた。

 男は、じっと、強い眼差しで、しかしそれは決して以前の鋭い睨むようなものではない、抱擁感のある柔らかな眼差しで、少女を見つめていた。

「…大丈夫だ…」

 男からの意外な一言に、少女ははっと息を呑む。

 男から向けられる柔らかな眼差し。その顔はあの時と。あの灼熱と化した鉄の器の中で、扉をこじ開けて自分の安否を確認し、安心したようにほっと溜息を吐いたあの時の顔と重なった。

 少女はそんな男の表情を懐かしく思い、まじまじと男の顔を見つめていたが、しかし男は眠気に誘われるままに目を閉じ、羽織っていた毛布を被り直し、身じろぎをして少女とは反対の方へと顔を向けてしまった。

 男は小さく欠伸をしながら続けた。

「…太陽と、…月と、…地球があれば…、人は…生きて行ける…」

 

 少女は左手で自分の胸を押さえた。

 小さな心臓が、トクトクと、いつもよりも明らかに強めの鼓動を打っている。

 指示、命令、時々の体調に対する気遣い。この人の口から、それら以外の言葉を掛けられたことがなかったから。まさかこの人の口から、こんな抽象的で感傷的で詩的な言葉を、自分に対して掛けられるとは思っていなかったから。

 

「…碇…司令…」

 気が付けば、自分にしては珍しく少し熱っぽい声で、隣に座る男の名前を呼んでいた。

 目頭が熱くなるのを感じた。

 

 すでに半分眠りかけている男は、少女に背を向けたまま言った。

「…そう言ったのはユイ。…君じゃないか…」

 

 栗色髪の女は男から視線を外し、フロントガラスの向こうに見える暗い田園風景に目を向けた。

 運転席の薄い背もたれに、深く、深く、背中を預ける。

 

「…そうでしたね、…あなた…」

 

 シフトレバーを前進に入れ、サイドレバーを下ろし、ハンドルを切りながらアクセルを踏む。

 やや乱暴な出発に、眠っていた男の額が窓ガラスに当たった。

 

 

 

 

 

 世界中から、大量の人が消えたままらしい。

 この国も、3割以上の人々が居なくなったままらしい。

 こんな情勢の中で、他人の名前と身分を手に入れるのは簡単なことだった。

 「ゼイキン」と「ホケンリョウ」さえ収めていれば、何も疑われなかった。

 

「オオツカノリコさん」

 

「テラダヤヨイさん」

 

「シミズエリさん、でしたっけ?どんな仕事を希望ですか?」

 

「ササキカナさん」

 

「はーい、今日から入りましたミズタニノアちゃんでーす。皆さん可愛がって下さいね~。ほら、ノアちゃん、挨拶して。…ほら、何やってんの?挨拶は?ちょっと…!」

 

「だからねユウミちゃん。紫外線を甘く見ちゃいけないのよ。その油断が将来大きなしっぺ返しを呼ぶことになるの」

 

「エンドウミチルさん」

 

「シノザキアユミさん」

 

 知らない名前。

 他人の名前。

 一定期間を過ぎたら、捨ててしまう名前。

 

 自分が自分でなくなる感じ。

 

 自分が消されていく感じ。

 

 私は誰?

 

 私は誰?

 

 私は誰?

 

 あなたは誰? 

 

 

 周囲の人々が私を呼ぶ名前が次々と変わっていく中で、あの人だけは、いつも同じ名前で私を呼んだ。

 

「ユイ」 と。

 

 時に愛しむように、時に甘えるように、時に優しく、時に激しく。

 「ユイ」と呼んだ。

 

 

 真綿で少しずつ首を絞められているような感じ。

 

 足から少しずつ肉をそぎ落とされていくような感じ。

 

 ホンモノの人に、少しずつ自分が乗っ取られていくような感じ。

 

 

 それは少女にとって、未だかつてない苦しみであり、最も深刻な罰だった。

 

 

 

 

これは罰? 

 

ええそう。これは罰。

 

罪びとであるワタシの、存在そのもに対するこれは罰。

 

 

 

 

 ではこれは?

 

 

 これは一体何に対しての罰?

 

 

 



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第三章 其の八

 

 

「綾波…」

 

 

 

 それは5年ぶりに人の声から聴く音だった。

 

 今や、それが本当に自分の名前だったのかどうかすら記憶が怪しい。

 

 でも、彼が呟いてくれた音。

 

 それは、紛れもなく私の名前。

 

 

 外で洗濯ものを取り込んでいたら小屋の方から何やら怒鳴り声が聴こえたため、最近少なくなっていた癇癪がまた出てきたのかな?とドアを開けたら、彼が立っていたのでとてもびっくりした。

 しかし驚いた以上に、彼の声で数年ぶりにこの世界に響かされたその音は、私の凍てついた心を少なからず震わせた。

 

 

「綾波は…大丈夫なの?」

 私の名前を呼びながら、私の身を気遣ってくれる彼の声が嬉しかった。

 なぜ、ネギのことを訊こうとしてきたのかはよく分からないけれど。

 

 

「一応聴くけど、ちゃんと毎日洗ってるよね?」

「農作業中はちゃんと日焼け予防はしている?」

「手もほら。荒れ放題じゃないか」

 あれこれ世話を焼こうとしてくれる彼の態度はちょっと鬱陶しかったけれど、でもこのやり取りは何かしら懐かしいものを感じた。

 

 

「アスカは凄いんだよ」

「トウジもすごいよ」

「ケンスケは…」

「洞木さんは…」

 

―――私は、あなたが知っている綾波レイではない。

 

 私の知らな人たち。知っているけど知らない人たちの話を嬉々として喋る彼の姿はちょっと不愉快で、だからあんな冷たいことを言ってしまった。

 

 

 小屋の中から。壁の向こうから、私を呼ぶ声がする。

 私ではない、ホンモノの人の名前で、私を呼ぶ声がする。

 戻らなくてはならない。

 私ではない、誰かに、戻らなければならない。

 

 ―――手が震えた。

 

 

―――あなたが、許してくれさえしたら。

 

 なぜあんなことを言ってしまったのだろう。

 私に許しを求めることなんて、許されないはずなのに。

 

 

「食卓を囲んで話そうじゃないか」

 あの人のその提案にはひたすら戸惑ったし、彼の奇妙な笑顔もどこか気味が悪かった。

 でも、彼と、彼の父親と、そして私と。

 3人で囲む食卓。

 その光景を想像すると、いや、想像しようにも想像できなかっけれど、その想像できない光景が待っていると思うと、心の中が少しだけ温かくなるのを感じた。

 

 

 あっ。

 そうか。

 

 きっと、そう。

 

 それは私には許されないことなのだ。

 罪びとである私には許されないことをしようとしてしまい、想像しようとしてしまい。

 

 これはきっと、その罰なんだ。

 

 そうかしら。

 よく分からない。

 

 

 でも、これだけは分かった。

 

 それはこの身体に魂を放り込まれたあの日以来、繰り返してきた問い。

 

 この手に掴めそうで、でも掴みかけたそれが本当に正しいものなのか確信が持てなくて、今日まで宙ぶらりんのままで来てしまった私の存在意義。

 

 

 何のために、私は生きているのか。

 

 その答えが、今、目の前に横たわっている。

 5年間積み重ねてきた私の「生」の行きついた先が、目の前に横たわっている。

 それが本当に正しいことなのかどうかも分からず、遮二無二、必死に守ってきたものの成れの果てが、目の前に横たわっている。

 

 何のために生きているのか。

 

 それは…。

 

 それは彼と。

 

 彼の父親とを。 

 

 引き合わせるため。

 

 「あの日」以来、離れ離れになってしまった彼と彼の父親とを。

 いや。もしかしたら、彼の母親が消えてしまったその日から離れ離れになってしまっていた、彼と、彼の父親とを、引き合わせるために、私のこの「生」はあったのだ。

 

 そして、意味も分からずに生きてきた5年間のその結果が、目の前に横たわっている。

 「結果」とは、即ち「答え」。

 答えは出た。

 これだけは、間違いない。

 

 地下で見つけたあの人。

 あのまま放っておいたら、地下の空間が崩れて死んでしまっていたあの人。

 トラックを呼び止めなければ衰弱で死んでしまっていたあの人。

 食糧を調達してこなければ栄養失調で死んでしまっていたあの人。

 川に飛び込まなければ濁流に飲まれて死んでしまっていたあの人。

 雨着の男を濁流に落とさなければ死んでしまっていたあの人。

 

 何度も何度も命の危機に晒されたあの人。

 その度に、守ってきた。

 それが本当に正しいことなのか、必要なことなのか、あの人自身がそれを望んでいるのかも分からないまま、とりあえず、成り行きで、たまたま側にいたから、だから懸命に守ってきた。

 あの人を生きながらえさせるために、世間から身を隠し。

 あの人を生きながらえさせるために、働き。

 あの人を生きながらえさせるために、身の回りの世話をした。

 

 あの人を生きながらえさせるために。

 生きさせるために。

 

 そして。

 

 

―――あなたに、殺させるために―――

 

 

 ごめんなさい。

 

 ごめんなさい、碇くん。

 

 私がしてきたこと。

 

 誰に命じられるでもなく、求められたわけでもないのに。

 あの人には一度首を絞められるほどに拒絶されたのに。

 他にすることがなかったから、仕方なく、ただ続けてきたこと。

 

 あの日以来、私がしてきたこと。

 

 それは。

 

 あなたに、

 

 あなたの父親を、

 

 殺させることになってしまった。

 

 

 ごめんなさい。

 

 

 碇くん、…ごめんなさい。

 

 

 

ああ。分かった。

これは、その罰ね。

 

 

そう。これは罰。

 

目に映るあらゆるものに無関心を決め込み、

 

ただ言わるがまま、流されるがまま、

 

全ての判断を他者に委ね、

 

自らは何も考えようとしなかったワタシ。

 

ワタシの生き方に対する、これは罰。

 

 

 

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 

 私の罪は、あたなの身に消しようのない深い傷痕を残してしまった。

 

 

 

 

 冷たくなっていく男の手を握る。

 男の顔に、苦悶の表情はない。

 日ごろから傾眠がちな人だった。きっと微睡んでいるときに逝ったに違いない。

 おそらく正確に心臓のある位置を狙った3発の弾丸は、撃たれた本人が撃たれたことを自覚しないうちに彼の生命を消し去ったに違いない。

 優しい心の持ち主である彼らしい配慮だと思った。

 頭を狙えばもっと簡単だったろうに。無駄に身体と部屋を汚すまいとするのも彼らしい。

 

 さあ今度こそ。

 今度こそ、私の生きる理由はなくなった。

 

 一人の女性科学者を奈落に落とした一つ目の「生」。

 一つの街を吹き飛ばした二つ目の「生」。

 世界中全ての人々に厄災をもたらした三つ目の「生」。

 一人の青年に、親殺しという人として最大級の罪を負わせた四つ目の「生」。

 

 もういい。

 

 もう十分。

 

 

 背後で鉄が擦れる音。

 彼が、私の後ろで、銃を構えなおしているらしい。

 

 きっと、銃口の先にあるものは。

 

 それは私にとっての福音。

 

 2度と、この命が再生産されることがないことを願って。

 

 

 ふと、ガラス戸に目をやると、ガラスに映った彼の姿が見えた。

 

 銃を構える彼。

 

 その銃口は、彼の顎に押し付けられている。

 

 



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第四章 其の一

 

 絞られた引き金。

 

 癇癪玉のような乾いた銃声。

 

 音と同時に訪れるはずの顎から口、そして脳へと突き抜ける大きな衝撃に身構えた。

 

 ところが、待てど暮らせど自分の命を絶つはずの衝撃がこない。本当なら今頃は頭頂部がぱっくりと破裂していて、血やら脳髄やらを周囲にまき散らしながら自分は床に倒れているはずなのに。

 自分はまだ、立っている。

 

 頭部のかわりに、別のところが痛かった。

 痛いのは右腕。拳銃を自分の顎に突き当てていたはずの、右腕。拳銃を顎に突き当てるために肘を畳んでいたはずの右腕。その右腕が今は肘をぴんと伸ばされ、拳銃を握る右手は天井へと向けられていた。痛いのは、突然に、そして無理矢理に肘を伸ばされてしまったので、筋を痛めてしまったのかもしれない。

 

 視界に広がるのは白髪交じりの栗色の髪。

 

 栗色髪の彼女が、自分の腕にしがみ付いていた。

 

 彼女の右腕が自分の右の二の腕に絡みつき、彼女の左腕が自分の右手首を握りしめ、拳銃を持つ自分の手を天井に向けて強引に伸ばしている。

 

 銃口から立ち昇る硝煙。おそらく天井には、豆サイズの小さな穴が開いているはずだ。弾丸は、間違いなく拳銃から放たれた。でも、その弾丸は自分の頭を貫かなかった。天井に穴を開けるだけだった。自分を解き放ってくれたはずの弾丸は、このあばら家に雨漏りの種を増やしただけだった。

 何故か。

 

 それは、彼女が邪魔したから。

 

 何故自分はまだ立っているのか。

 何故自分はまだ呼吸をしているのか。

 何故自分の心臓はまだ鼓動しているのか。

 何故自分はまだこの世界に留まってしまっているのか。

 何故自分はまだ生きてなければならないのか。

 

 彼女が。

 それは彼女が、余計なことをしてしまったから。

 

 

 

 咄嗟にしがみ付いた彼の腕。

 自分でも気付かない内に、勝手に、そして俊敏に動いた身体。不自由な左足のこともすっかり忘れて。

 

 間に合ったかどうかは分からなかった。

 しがみ付いた時には、銃声がしていた。

 

 しがみ付いた彼の腕に、力が宿る。私が無理に伸ばした肘関節を、彼は再び畳もうとしている。

 それで、ようやく彼が生きてることを知った。

 生きてくれていることが分かった。

 

 

 

 彼は自身の腕は肘を折り畳もうとして、腕にしがみ付く者が邪魔だと感じるや、しがみ付く者を腕から引き離そうと、空いた左手で彼女の右腕を掴み、背中と肩を反り返し始めた。

 彼と彼女の体格差は大きい。最後に別れた時は、彼と彼女は、彼女が少し目線を上げる程度の身長差しかなかった。ところが5年の歳月を経て、彼女の身長はあまり変わらなかった一方で、彼は彼の父親を超えるほどの背丈を誇っていた。

 背中と肩を反らしただけで彼の肘や手首は、彼女の手が届かないところまで離れてしまいそうだった。

 それでもしがみ付くのを止めようとしない彼女は、腕を精一杯に伸ばし、右手で彼の腕をにぶら下がりながら、左手は、彼の右手が決して彼の方に向かないよう彼の右手首を懸命に握り続けた。

 

 今度は何者かに、もの凄い力で後ろに引っ張られた。

 見ると、彼女の右腕を掴んでいたはずの彼の左腕が、今度は彼女が着るカーディガンの襟を下の白のブラウスの襟ごとむんずと掴み、それを容赦のない力で引っ張っていた。ただでさえダルダルに伸びていたカーディガンの後見頃が裂け、留めていたブラウスのボタンの幾つかが弾け跳んだ。

 ブラウスの前がはだけ、少しだけ彼女の胸が露わになってしまったからか。

 襟を引っ張る彼の力にほんの僅かながら躊躇いが生じる。

 その瞬間を、彼女は見逃さない。

 

 もはや大人と子供くらいの体格差。このまま取っ組み合うだけだったら、いずれ彼の腕力に屈してしまうことは目に見えている。

 だから彼女は武器を使った。今、彼女が所持している唯一の武器を。

 

 右腕に激痛が走る。上腕に、焼けつくような痛み。

 彼女が、彼の腕に噛み付いている。

 小さな口を目いっぱい広げ、彼の力こぶに齧り付いている。彼女の歯が、皮膚を破り、肉に食い込む感触。

 凄まじい痛みに彼はもはや彼女を気遣う余裕はなくなり、上半身をまるで炎にでも包まれているかのように激しく暴れさせ始めた。

 彼女の軽くて小さな身体は簡単に床から浮き、しがみ付く彼の腕にされるがままに振り回される。

 それでもしがみ付くことも齧り付くことも止めようとしない彼女に、ついに彼の足の方が根負けした。いくら軽いとはいえ人1人分。その重みを激痛が走る片腕だけでは支えきれなくなり、足がもつれ、腕にしがみつく彼女ごと、彼の身体は床へと倒れこんだ。

 

 薄暗い部屋に人2人分が倒れる大きな音。

 続けて、カタン、カタン、と木の床の上を、固い金属のものが転がる音。

 

 倒れた衝撃で呻く彼。おまけに一緒に倒れた彼女の膝が鳩尾にめり込む。

 彼の身体の上に倒れたことで幾分衝撃が少なかった分、早く立ち直ることができた彼女は、何かが転がっていった方へ向かって飛び込んだ。

 飛び込んだ先には、床に転がった拳銃。

 彼女の手は拳銃を拾い上げる。

 彼女の身体は、ころころと床の上を転がる。

 突っ込んだ先の木製の椅子をバラバラにしたところで、ようやく彼女の身体は止まった。

 

 仰向けになった彼女は、手にした銃を両手で構えた。

 間髪入れずに引き金を絞る。

 両腕に衝撃。

 1発目で肩が痛くなったが、躊躇わず、2度目の引き金。

 3度目。

 

 4度目になって、引き金を絞る時の感触が途端に弱くなり、おもちゃのような拳銃は撃針が空を切る貧相な音だけを響かせるようになった。

 それでも安心し切れず、5度、6度と引き金を絞り続ける。

 10度目を終えて、ようやく引き金から指を離す。

 それでもなお安心し切れず、床に寝っ転がったまま左手に握った拳銃を投擲。彼女の手から離れた拳銃はテーブルを越え、車いすの上を越え、ベッドを越えて窓へ到達。

 首尾よくガラスを割り、窓の外の彼方へと飛んでいった拳銃を見送った彼女は、肩で息をしながら後頭部を床に預けた。

 視線の先には天井。

 雨漏りの種が、さらに3つ増えた天井。

 彼の方からうめき声が聴こえたので、頭だけを起こして床に倒れたままの彼に視線を送った。

 

 鳩尾に膝を入れられ激しく咳き込む彼は苦痛に歪んだ表情で左手でお腹を摩りながら、一方の右手はズボンの右ポケットの中を探っている。

 

 「それ」を見ていた彼女は、心の底からうんざりしたように溜息を吐いてがっくりと肩を落とし、そしてもう起き上がるのも面倒とばかりに両膝と両手を床に付いて四つん這いになると、ドタドタと音を立てながら彼の元まで這い寄った。

 彼の近くまで這い寄ると、上半身を投げ出すように、彼の折りたたみナイフを握った右手に飛び込む。

 

 ポケットから取り出したナイフの切っ先を、すぐに喉に突き立てようとしたところで、右腕に急激に重みが加わった。その重みで腕が動かせなくなる。

 見ると、自分の右腕に覆いかぶさるように、またもや白髪交じりの栗色の髪。

 それを見た彼は心の底からうんざりしたように喉の奥底で唸り声を上げると、執拗に邪魔をする彼女にもはや容赦はしないとばかりに、自由な左手で彼女の頭を鷲掴みにする。

 

 彼の右腕に必死にしがみ付いていたら、誰かが頭を掴んだ。

 頭皮に激痛。床に突っ伏していた自分の顔が、強引に引き上げられる。彼が、自分の髪の毛を鷲掴みにし、引っ張り上げているらしい。髪を引っ張りながら、彼の腕から彼女の身体を無理やり引っぺがそうとしているようだ。

 彼の性格にらしからぬ、暴力的な行為。

 そっちがその気ならばこっちももはや容赦はしないとばかりに、彼女は髪の毛を掴まれていることも構わず彼の手に逆らって強引に顔を下げると、再び彼女の唯一の武器を行使した。

 小さな口を目一杯に広げ、今度は彼の前腕に思いっきり噛み付く。口の中に、血の味が広がった。

 途端に彼の悲鳴。

 彼女の口を腕から引き剥がそうと、髪を引っ張る彼の手が更に暴力的になる。彼女の耳にはブチブチと、自身の髪の毛が引き千切られる音が届いたが、彼女はそれには構わずに犬歯を彼の腕に突き立てると、まるで捕食した獲物を食い千切る肉食獣のように、頭を左右にぐりぐりと揺さぶりながら彼の腕に歯を食い込ませていった。彼の腕から血が噴き出し、彼女の口の周りを真っ赤に染め上げていく。

 

 あまりの激痛に足をばたつかせる彼。彼女の細い顎の何処にそんな力があるのか。皮膚や肉だけでなく、その下の骨まで砕いてしまいそうな勢いの彼女の顎。兎にも角にも彼女に自分の腕を食い千切るのを止めさせようと、彼女の髪から手を離し、今度は彼女の顔面を鷲掴みにして腕から引っぺがそうとした。彼女の端正な顔が、福笑いのように歪んだ。

 再び彼の悲鳴。

 彼女がその小さな顎に、さらに力を込めたようだ。

 痛みに耐えきれなくなり、ついに彼の右手が開いてしまった。コトリ、とナイフが床に落ちる音。

 彼は床に落ちてしまったナイフを拾い上げようと、慌てて上半身を起こした。

 

 ついに、彼の手からナイフがポロリと零れ落ちた。

 彼女はすぐさま噛み付いていた彼の腕から口を離し、すぐさま膝立ちをする。

 

 床の上に、鈍い光を放ちながら落ちているナイフ。その光は、彼にとっては救いの光。残された最後の希望。

 彼女に先を越される前に、そのナイフに向かって飛び込んだ。

 しかし彼が飛び込んだ先は床の上のナイフではなかった。

 彼の視界に広がる濃紺の布。それは彼女が履いていたスカート。

 彼が飛び込んだ先は、突き出されていた彼女の膝小僧だった。

 

 部屋の中に響く鈍い音。

 それは出会いがしらの見事な膝蹴りだった。

 突き出された彼女の膝に、彼は自ら顔面から飛び込んでしまう形となった。

 

 背中を大きく反らし、派手な音を立てながら床に倒れこむ彼。両方の鼻の孔から、盛大に血が噴き出す。頭蓋の中で脳味噌が撹拌し、視界のそこら中に火花が舞った。

 意識が混沌とする中、胸に感じる重み。

 明暗を繰り返し、揺らぐ視界には、彼女の顔。

 床に仰向けで倒れている彼の胸に、彼女が馬乗りになっている。

 

 ボサボサに逆立った髪。

 真っ赤に血塗られた口。

 肩から胸までがはだけ、ボロボロになった衣類。

 激しい息遣い。

 その姿を見上げる彼には、彼女の姿が人肉を食らう餓鬼にでも見えたのかもしれない。彼がその気になれば、軽い彼女を彼の身体から引きずり下ろすことは造作もないはずだ。それでも彼は彼を見下ろすか細い彼女のその姿に表情を引き攣らせると、怯えたように両腕で顔を覆った。

 

 股の下の彼が、まるで怯えた幼子のように頭を抱えて縮こまっている。もはや抵抗する気は失せたらしい。

 自分よりも遥かに体格で勝る彼を完全に支配下に置いた彼女は、一度ふんっ、と鼻を鳴らして息を整えると、おもむろに右手を頭上に掲げた。その手を、股の下の彼の顔面に向かって、彼の顔を覆う腕の隙間を狙って、振り下ろす。

 

 バチン、と鈍い音。

 

 赤く染まる彼の左頬。突然走った左頬への衝撃に、自分が何をされたか分かっていないのか、茫然とした表情の彼。

 彼女は左に降り抜いた右手を、返す手の甲で続けて右側へと降り抜く。再びバチン、と鈍い音。今度は、彼の右頬が赤く染まった。

 俗に言う往復ビンタは、一往復では止まらなかった。まるで彼に余計な考えを巡らせる暇は与えないとばかりに、彼女の右手は何度も何度も彼の顔の前を勢いよく行き来する。その度にバチン、バチンと鈍い音。彼の顔が、右に、左にと、交互に揺れた。

 

 何十回と続く平手打ち。全く止む気配のない彼女の制裁。

 両腕を使って懸命に彼女の平手打ちを防ごうとするが、彼女の右手は彼の腕の隙間を狙って的確に頬に振り下ろされていく。

 平手打ちの雨を腕で防ぐのは無理と判断したのか、彼はならば顔を隠してしまえと上半身を捻って俯せになろうとした。ところが彼女はそれも許さず、空いた左手で彼の顎を鷲掴みにして彼の後頭部を無理やりに床に押し付け、頭を固定する。そして往復ビンタを再開。

 バチン、バチン、と、規則正しい音が鳴り響く。

 もはや彼は腕で防御することも諦め、平手打ちの雨を受け続ける。

 バチン、バチン、と彼女の手が、彼の頬を殴る音。

 バチン、バチン、という音と共に、彼の痛みに呻く声。

 バチン、バチン、という音と共に、彼の嗚咽。

 バチン、バチン、という音がする度に、彼の瞼から涙が溢れ出す。

 

 バチン。

「…ごめん…なさい…」

 

 バチン。

「…ごめん…なさい…」

 

 バチン。

「…ごめん…なさい…」

 

 バチン。

「…ごめん…なさい…」

 

 バチン、バチン、バチン、バチン

 

「…ごめんなさい…、…ごめんなさい…、…ごめんなさい…、…ごめんなさい…」

 

 彼女の手が頬を打ち付ける隙間を縫って、泣きながら「ごめんなさい」を繰り返す彼。

 

 バチン。

「ごめんなさい…」

 

 バチン。

「ごめんなさい…」

 

 バチン。

「ごめんなさい…」

 

 パチ。

「ごめんなさい…」

 

 パチ。

「ごめんなさい…」

 

 パチ。

「ごめんなさい…」

 

 ペタ。

「ごめんなさい…」

 

 ペタ。

「ごめんなさい…」

 

 ペタ。

「ごめんなさい…」

 

 ―――。

「ごめんなさい…」

 

 ―――。

「ごめんなさい…」

 

 ―――。

「ごめんなさい…」

 

「ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…」

 

 いつの間にか室内に響くのは彼の嗚咽と繰り返される謝罪の言葉のみ。彼女の右手は、頭上に掲げられたままそこで静止していた。その右手が、ゆっくりと下ろされる。彼の顎を拘束していた左手も離した。浮かしていた腰を彼の胸に下ろし、両腕をぶらんと下ろした。

「ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…」

 見下ろす彼女に向かって、泣きながら繰り返し呟き続ける彼。

 そんな彼を、彼女は何も言わず、ジッと見つめ続ける。どこまでも深く、光を宿さない、静かな眼差しで。

 その視線に耐え切れなくなったのか、彼は目をギュッと瞑った。それだけでは足りなかったのか、彼の両腕が上がり、彼の両手が彼の顔を覆っていく。

 そして彼は泣きなら繰り返す。

「ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…」

 

 両目を両手で覆えって何も見えなくしてしまった彼。彼女は深く俯き深く溜息を吐くと、一度口を大きく開き口の中の液体を舌下に集め、その集めた液体をペッと床に吐いた。唾液混じりの赤い液体が、床を汚す。 

 まるでそれが合図だったかのように、彼女の全身を急激に痛みと強い倦怠感が襲った。

 彼の身体に跨る彼女の身体がぐらりと揺れ、転げ落ちるように床へごろんと倒れこむ。そのまま一回転し、床に仰向けになった。

 床に大の字になる彼女。

 胸が大きく激しく上下する。

 ハッハッ、と荒い息遣い。

 身体の節々が痛んだ。

 おそらく生まれて以来最も力を使った顎が、今はガクガクと震えて力が入らない。

 口の中に広がる血の味。

 もしかしたら、歯の何本かが欠けているかもしれない。

 全身がとても熱いのに、ブラウスのはだけた胸と右肩の周りだけがひんやりと冷たい。

 その胸の中におさまる心臓が、自分の耳にも聴こえるほどにバクバクと強く脈打っている。

 

 自分の吐息と、脈打つ生命の音と。

 それ以外の音が、すぐ隣から聴こえる。

 顔は天井に向けたまま、瞳だけを動かして隣を見た。

 

 「ごめんなさい」はすでに止んでいたが、悲嘆に塗れえた嗚咽と苦痛に苛まれた呻きを口から漏らし続けている彼。

 

 殴られ続けた頬が痛いのだろうか。それとも取っ組み合いをした時に、大きな怪我でもしたのだろうか。あるいは齧られた腕が、とても痛むのだろうか。

 でも往復ビンタを食らっただけで死ぬ人間はいないし、自分のようなひ弱な女ともみ合って出来る怪我なんてたかが知れているだろうし、腕だって別に切り落とされたわけでもない。

 だから、今は放っておくことにした。

 今は自分も体中が痛いから。

 

 嗚咽と呻き声の合間に、彼の呟く声。

 

「…もう、…無理なんだ…」

 

 掠れた、彼の声。

 

「…僕が…、僕たちが…壊してしまった、…この世界に、これ…以上、…留まり…続けるなんて、もう…僕には…耐えられない…」 

 

 彼女は分からなかった。

 彼はその告解を、誰に聴かせようとして呟いたのか。

 

 分からなかったから、今はとりあえず無視することにした。

 今は全身が火照っていて、あれこれ考えるのも面倒だから。

 

 彼は両手で顔を塞いだまま背中を丸め、彼女に背を向けるように横にゴロンと転がり、膝を腹に抱えて縮こまった。

 彼の顔が見えなくなったので、彼女は瞳を天井に向ける。

 

「…助けて。…誰か、…僕を助けて…よ…」

 

 彼の救いを求める声が聴こえる。

 

「…アスカ…」

 手に触れることが出来るものなら何でもいい。

「…ミサトさん…」

 自分を救い出してくれる者だったら誰だっていい。

「…トウジ…、…ケンスケ…」

 まるで今にも溺れそうになり縋りつくものを求めるかのように、手あたり次第に名前を挙げていく彼。

「…カヲルくん…」

 しかしその呼び掛けに応える者は誰も居ない。

「…父さん…」

 彼の声は、空しく虚空へと消えていく。

「……母さん……」

 それを最後に彼の口から意味のある言葉は出てこなくなり、呻き声も消え、嗚咽のみが聴こえるようになる。

 その頃には彼女の息遣いも落ち着いていた。

 

 静かになった小屋の中。

 一人は大の字になって天井を見上げながら、一人は身体を縮こませ、顔を手で覆いながら、狭い小屋の板張りの床に寝っ転がっている。

 

 割れたガラス窓から差す西日は、小屋の中を少しずつ移動していく。板張りの床の上を、綺麗に磨かれたテーブルの上を、彼女身に纏うボロボロのカーディガンの上を、彼の顔を覆った手を、車いすの車輪を照らしながら、少しずつ移動していき、やがて音もなく静かに消えていった。

 

 



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第四章 其の二

 

 先に動き始めたのは、彼女の方だった。このままでいるとこの部屋はたちまち真っ暗になって、身動きが取れなくなってしまうことを住人である彼女は知っていたからだ。

 テーブルの脚を支えに、上半身を起こす。椅子に突っ込んだ背中がピシリと痛んだ。

 ブラウスのボタンが飛び、はだけて露わになってしまっている胸。そう言えば、もみ合う前に彼が誰かと電話をしていたことを思い出す。5年前に突然人間社会に放り出され、5年間それなりに世間に揉まれてきたことで、それなりに社会通念というものを身に着けてきた彼女は、恥じらいというものこそないものの、最低限の身だしなみとしてダルダルになってしまって後ろ見頃も裂けているカーディガンの前をボタンで留めておくことにした。

 ボタンに手をやろうとして、しかし右手の指がボタンの上を滑り、上手くボタンを掴むことができない。右手が思うように動かない。と言うか、右手の感覚がない。不思議に思い右手を見たら、甲が水膨れのようにぷっくりと腫れ上がっていた。ひっくり返して手のひらを見ると、紫色の痣になっている。どうやら百回以上繰り返された往復ビンタは彼の心を屈服させるだけでなく、彼女の右手も破壊してしまったらしい。

 痛々しく腫れてしまった右手を、何度かグーパーと開閉させてみる。そうしている内に次第に右手に感覚が戻ってきて、それと同時にジワジワと痛みが広がっていった。痛いの痛いの飛んでけとばかりに右手をぶんぶんと降ってみたが、もちろんそんなことで痛みは何処かには飛んでいってくれない。

 彼女は諦めて、痛みを我慢しながら両手を使ってボタンを留めた。

 視線を右にやると、床に転がる折りたたみナイフ。それを左手で拾い上げる。

 

 

 テーブルに手をつき、不自由な左足を庇いながら立ち上がる。テーブルから手を離し、全体重を両足へと乗せてみたら、ズキリと右膝が痛んだため、再びテーブルに手をつくことになった。彼に決定的なダメージを与えた会心の膝蹴りは、どうやら彼女の膝をも破壊してしまったらしい。仕方なく、右膝に体重を掛けないようにしながら立ち、足もとを見下ろした。

 

 足もとには彼。

 両手で顔を覆う彼は、今は嗚咽も漏らず沈黙に陥っている。時々鳴らすのは鼻を啜る音だけ。

 彼女はテーブルから手を離すと、一瞬だけ膝の痛みに顔を顰めた後、彼の頭上を跨いだ。彼女の足首まで覆うロングスカートの裾が彼の前髪を撫でるが、彼は顔を両手で塞いだまま動かない。跨いだ先には戸棚。戸を開け、一番上の棚からランタンを取り出す。ランタンは電池式で、底の部分を捻ると淡い暖色系の光がランタンのガラス筒の中に灯った。

 ランタンを右手に持って、後ろを振り返る。ぼんやりと、小屋の中が照らし出された。

 

 血溜まりの上の車いすで、胸に穴を開けて横たわっている父親。

 腕から血を流し、顔を血だらけにして、床に倒れている息子。

 親子の間に、髪の毛を逆立て、口の周りを血まみれにし、左手にナイフを握り締めて立つ女。

 

 心臓の弱い者であれば卒倒してしまうようなスプラッタ―映画の一場面のような光景だったが、それらを唯一目にしている彼女の表情は少しも変わらず、そしてランタンを持ったまま、再び彼の頭上を跨ぐ。ランタンで部屋が明るくなった今、頭上を跨がれた彼からスカートの中身は丸見えのはずだが、彼女は一切気にする風なく彼の頭を跨ぎ、彼の手も彼の顔を覆ったまま微塵も動かない。

 

 彼女はテーブル伝いにひょこひょこと歩きながら、ベッドの方へと向かう。

 ベッドの向こうの壁には割れたガラス窓。念のため、ナイフの柄を使って窓に残っていた尖ったガラスを砕いておく。全てのガラスが砕け落ち、木枠だけになった窓。風通しがよくなり、外から心地よい風が吹き抜けた。その窓に向かって、ナイフを投げる。ナイフは鈍い光を放ちながら外の闇へと消えていった。

 窓から目を離し、下のベッドを見る。ベッドの白いシーツには、割れたガラス片が散らばっている。彼女は手に持ったランタンをテーブルに置くと、手でガラス片をベッドの中央に集め、ベッドの側に置いてあったごみ箱の中に落としていった。

 ベッドから白いシーツを引きはがす。

 埃を払うため、何度かシーツをふりさばく。シーツが上下に振られるたびに埃が床に寝っ転がる彼に掛かったが、彼は顔を両手で塞いだまま動かない。

 

 白いシーツをまとめ、小脇に抱え、ベッドから離れる。

 

 車いすの前に立った。

 

 すぐ側で繰り広げらた「妻」と、息子の大立ち回り。

 親子の大げんかにも、男はどこ吹く風。

 男は、1時間前と変わらない姿で車いすに寝そべっている。

 

 緩やかに閉じられた瞼。

 緩やかに閉じられた口。

 顔中の筋肉からすっかりと脱力したような表情。

 とても幸せな夢でも見ているような、穏やかな寝顔。

 

 

 

 この人の「生」は一体どんな結末を迎えるのだろうか。

 

 長い長い2人暮らしの中で、時折そんな想像を巡らせることもあった。

 自分と同じくらいの業を背負っている人。

 その結末が、平穏な訳がない。

 

 そして実際に迎えた結末。

 それは考えうる中で、最も悲劇的な結末。

 それは第三者から見れば、悲惨極まりない結末であったに違いない。

 

 それでも。

 そうだとしても。

 

 今、こうして、目の前で、全ての苦悩から解放されたかのように、穏やかな顔で人生の終幕を迎えているという事実。

 

 「愛する人」が作る夕食を待ちながら逝く。

 

 それはあるいはこの人にとって、最も幸せな形でのこの世界からの旅立ちではなかっただろうか。

 

 彼女は、そっと、男の頬を撫でた。

 彼女は、そっと、男の手を握った。

 

 男の顔に、そっと、顔を近づける。

 男の耳に、そっと、唇を近づける。

 

 

 

―――おやすみなさい。…あなた―――

 

 

 

 どうか、そのまま、安らかな夢を見続けてくれますように。

 

 どうか、旅立ったその先に、私などではない、あなたの傍らにいるべき人との再会を果たせますように。

 

 

 脇に抱えていた白いシーツを翻す。

 シーツは宙に広がり、そしてゆっくりと、ふんわりと、大きな羽根のように舞い降りていく。 

 

 男の顔が、シーツの向こうへと消える。

 男の胸が、シーツの向こうへと消える。

 男の手が、シーツの向こうへと消える。

 男の足が、シーツの向こうへと消える。

 

 こんもりとした小山になった白のシーツ。

 名残惜しむように、白いシーツの小山を見つめる。

 しばらくすると、小山の真ん中の辺りに、赤い斑点が広がった。

 

 

 

 ランタンを手に取り、踵を返す。再び彼の頭の上を跨ぎ、戸棚の前に立つ。2段目の棚から、救急箱を取り出す。姿が見えない「妻」を探すために不自由な身体であちこち動き回り、生傷が絶えなかった男のために、救急箱の中は充実した品揃えとなっている。

 救急箱を床に置いて、彼女自身も床に座る。膝が痛いので、足を伸ばしたまま座る。

 彼女が腰を下ろした側では、今も両腕で顔を塞ぎながら、いつの間にか仰向けになって寝っ転がっている彼。

 その右腕の上腕と前腕には、それぞれ一個ずつ三日月のような曲線で並ぶ小さな歯型。歯形からは血が滴っている。

 救急箱からガーゼを一枚取り出し、前腕の歯型に押し付け、圧迫する。右手でガーゼを押し付けながら、ガーゼをもう1枚取り出し、前腕に比べれば比較的傷の浅い上腕の歯型の血を拭き取る。赤く汚れた2つのガーゼを丸めると、ベッドの側にあるごみ箱に向かってぽいっと投げた。丸めたガーゼはゴミ箱には飛び込まず、ベッドの脚に当たってそのまま床の上をコロコロと転がっていった。

 取りに行くの面倒くさいのか、彼女は床に転がる丸めたガーゼを無視し、救急箱から脱脂綿と消毒液が入った小瓶を取り出す。小瓶の蓋を開け、脱脂綿に消毒液を染み込ませる。

 アルコールの匂いがたっぷりと染み込んだ脱脂綿を、彼の腕の歯型に当てた。すると彼の上半身が小さく痙攣するようにほんの僅か動いた。傷口に消毒液が染みて痛かったのかもしれないが、あるいは単に鼻を啜っただけなのかもしれない。だから彼女はそんな彼の反応を無視し、ペタペタと歯形に消毒液を塗りたくっていった。

 消毒液が染み込んだ脱脂綿を丸め、ぽいっとゴミ箱に投げる。今度はテーブルの脚に当たって、床を転がっていった。

 救急箱から2枚のガーゼと包帯を取り出す。真っ新なガーゼの1枚を前腕の歯形に当て、そしてその上から包帯をぐるぐると巻いていく。慣れた手つきで包帯の端できゅっと結び目を作った。2枚目のガーゼは上腕の歯型に。やはり包帯でぐるぐる巻きにし、結び目を作る。

 これで腕の治療は終了とばかりに、ぽん、と結び目と軽く叩いてみたが、治療される間もずっと顔を両手で塞いでいた彼は、今も顔を塞いだまま動こうとしない。

 彼のこの反応を彼女は特に気にした様子もなく、続いて救急箱から2つの脱脂綿と1枚のガーゼを取り出す。彼の顔を覆っている両手の隙間から、ひょっこりと覗く彼の鼻。今も鼻血をダラダラと流し続けている彼の鼻。幸い、折れてはいないようだ。

 ガーゼを左手の人差し指に巻き付けると、その指を彼の右の鼻の穴に無遠慮に突っ込み、ほじほじして鼻の穴に詰まった血を掻き出す。彼の鼻が「ふがふが」と間抜けに鳴ったが、彼女は気にせずに今度は左の鼻の穴に指を突っ込み、やはりほじほじする。血塗れになったガーゼを指から剥がし、丸めると、もうゴミ箱に投げ入れることは諦め直接床に捨てる。そして2つの脱脂綿を丸め、彼の2つの鼻の穴にそれぞれを突っ込んだ。

 救急箱の中の脱脂綿は残り少ない。彼女は残った脱脂綿全て取り出す。もう大事に取っておく必要はないから。左手で彼の顎を鷲掴みにし、少し力を入れて彼の口を強引に開かせる。右手で、脱脂綿を口の中に突っ込んだ。口の中は、逆流した鼻血で満たされていた。脱脂綿で、彼の口腔内の血を拭き取ってやる。彼女の手が彼の口の中で動く度に、彼の喉からもがもがと無様な声が漏れた。

 あらかた口の中を拭き取ったところで、涎と血塗れになった脱脂綿を彼の口から引き抜き、やはり床に投げ捨てる。涎と血塗れになった自身の手は、腰に巻いていたエプロンの端っこで拭った。

 鼻の孔に指を突っ込まれ、口の中に手を突っ込まれている間も、彼はなされるがままで両手は彼の顔の上から動かなかった。

 小瓶と包帯の余りを救急箱に片づけると、戸棚を支えにしながらうんせと立ち上がる。救急箱を戸棚に仕舞うと、3段目に並ぶ食器類を眺めた。お皿も、お茶碗も、お箸も、スプーンも、どれも2つずつ。その中から、やはり2つ並べられたマグカップを取り出す。右手に2つのカップ、左手にランタンを持ち、ひょこひょこと歩きながらドアへと向かった。

 

 ドアノブを回す音。蝶つがいの音。片方の足を引きずる足音。ドアが閉まる音。

 彼女が小屋を出ていくと、小屋の中は途端に暗くなる。

 闇の中に、こんもりとした小山となっている白いシーツだけが、薄ぼんやりと浮かび上がる。

 動くものは何もない、暗闇と静寂の部屋。

 暗闇に居るのは、動かなくなった父親と、動けなくなった息子と。

 

 不意に、「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」と唸り声。

 どこからか轟く唸り声に、床に倒れたままの彼の身体が驚いたようにビクっと強張った。

 唸り声は止まない。長く長く続く、唸り声。

 その唸り声は、ガラスが割れて風通しがすこぶるよくなった窓から流れ込んできているらしい。唸り声のもとは小屋の外。

 不意に、唸り声が鳴り止んだ。続いて、ペッと、口から何かを吐き出す音。

 そしてすぐに「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」と再びあの唸り声。今度はすぐに鳴り止み、そして続けてペッと、口から何かを吐き出す音。

 どうやら、小屋の外の彼女がうがいをしているらしい。彼の血で塗れた口の中を水でゆすいでいるようだ。

 彼女のうがいは2回で終わった。それからは彼女が立てる小さな物音だけが小屋の中に響いていた。

 

 

 

 暫くして、彼女が戻ってきた。

 やはり右手には2つのマグカップ、左手にはランタン。少し違うところと言えば、カップの口から薄い湯気が立ち昇っているところと、血で汚れていた彼女の口回りが綺麗に拭き取られていたところ。逆立っていた髪も、手で梳いたのか少し落ち着いている。

 彼女はランタンをテーブルの上に置くと、右手に2つ持っていたカップのうち、1つを左手に持ち替えた。2つのマグカップを2つの手で持ち、彼の側に立つ。足もとに寝っ転がる彼は、小屋を出た時と変わらず両手で顔を覆ったままでいる。

 そんな彼を見下ろしながら、彼女は2つのカップを持ったまま、ただ立っていた。

 ただ立っていた。

 ただ、突っ立っていた。

 彼が自分から動き出すのを待って、ただ見下ろし、ただ突っ立っていた。

 

 右膝が痛くなってきた。

 彼はぴくりとも動かない。

 我慢比べには自信があったのだが、今回は根負けしてしまった。

 

 彼女は彼の傍から離れ、テーブルの上に2つのカップを置いた。再び彼の元へと歩み寄り、彼を見下ろす。

 やはり彼は動かない。彫像のように動かない。

 彼女は前屈みになった。膝を曲げると痛いので、腰だけを曲げて床の彼に近づくと、手を伸ばして彼のシャツの両肩を握った。うんせ、と、彼の上半身を起こす。上半身は少し重かったが何とか起こすことができた。

 両肩を掴んだまま、しばらくその姿勢で待ってみる。でもやっぱり彼は動き出そうとしない。

 彼女は、彼が再び床に寝っ転がってしまわないよう肩を掴んだままで、彼の背中に回り、彼の背後に立った。

 彼の右脇に自身の右腕を、彼の左脇に自身の左腕を差し込む。彼の両脇を通り抜けた手を、彼の胸の前で組む。一回息を深く吸い込むと、うんせ、と彼の上半身を持ち上げた。彼の腰が、床から浮き上がる。

 何といっても、5年間も両足が不自由な、そして自分よりずっと大きい男の面倒を看てきたのだ。動かない人間の身体のどの部分を抱え、どのように力を加えたら動かし易いか、彼女はよく理解していた。

 しかしこの時の彼女は、彼との取っ組み合いですっかり体力を失い、おまけに膝も痛めていた。

 腰が浮いた彼をそのままベッドに引きずり上げようとしたのだが、思うようにいかず、彼を背後から抱えたままで背中からベッドに倒れこんでしまった。

 

 見事なジャーマンスープレックス。

 

 しかし柔らかいベッドの上なので、掛けられた側に大したダメージはない。一方、掛けた側は掛けられた側の下敷きになってしまう形となり、顔が相手の背中に押しつぶされ、息ができずうーうーと呻いていた。

 何度か身体を左右に揺り動かし、何とか上半身だけを彼の背中から脱出させる。せっかく梳いた髪がまたもや逆立ち、顔を真っ赤にした彼女の顔が、彼の背中から這い出てきた。肩で息をしながら、背中越しに彼の顔を見る。

 プロレスの大技を決められたにも関わらず、相も変わらず両手で顔を覆っている。

 女性を下敷きにしておきながらなおも自分から動き出そうとしない彼にいい加減苛立ってきたのか、彼女の綺麗な眉間に縦皺が寄ったが、すぐに諦めたようにため息を吐くと、未だ彼のお尻の下敷きになっている下半身を、彼の身体を両手で押しながらうんせうんせと引きずり出した。

 膝から下はベッドの外に下ろし、ベッドに寝っ転がっている彼。そのすぐ隣で、やはりベッドに寝っ転がり、顔を真っ赤にして肩で息をしている彼女。

 暫く茫然と天井を眺めていた彼女は、気だるげに上半身を起こす。

 彼を見下ろすが、やはり彼の両手は変わらず彼の顔の上。

 仕方なく、彼女は彼の背中に腕を回すと、彼の上半身を起こしてベッドの端に座らせる。そのまま前屈みにさせ、彼の両肘それぞれを彼の両膝に付けさせて腕をつっかえ棒にさせ、彼の座位を保たせようとした。しかしその腕にはまるで力が入っていないので、彼女が彼の身体から手を離すと彼の上半身は途端に前のめりに倒れそうになってしまう。これでは元の木阿弥と、慌てて彼の身体を支える彼女。背中の角度、両腕の広げ具合、頭の位置などを調整し、彼の上半身が自立しないかまるでバランスゲームでもするように試行錯誤してみたが、結局調和のとれた完璧な姿勢を見出すことができず、面倒になってきた彼女はベッドの隅に転がっていた枕を取ると、それを彼の膝と腹の間に強引に差し込んだ。彼から手を離すと、厚みのある枕が前のめりになることを防いでくれて、ようやく彼の上半身は自立した。

 

 ベッドから立ち上がり、テーブルの上に置いたマグカップの一つを手に取る。

 振り返り、彼の前にカップを差し出す。

 受け取ろうとしない彼に、いい加減彼の態度に慣れてきた彼女は、待つことなくすぐに彼の右手首を掴み、引っ張った。顔を覆っていた手の片方が離れ、ようやく彼の表情が半分が露わになった。悲嘆に暮れたように目をぎゅっと瞑り、目尻からは大量の涙を流し、鼻からは孔に突っ込まれた脱脂綿の隙間から滲み出てきた血の混じった鼻水が垂れ、歯を食いしばった口の端からは涎が垂れている。

 何とも情けない顔であり、見ようによっては滑稽ですらある顔だったが、そんな彼の顔の唯一の鑑賞者である彼女は憐れむ様子も噴き出す様子もなく、彼の右手にカップの取っ手を握らせた。握らせたものの、彼の指には全く力が入っておらず、彼女のもう片方の手がカップから離れてしまうと、たちまちカップは床に落ちてしまうだろう。彼女は片方の手でカップを支えながら、空いた手で今度は彼の左手首を掴み、引っ張った。顔を覆っていた手が2つとも無くなり、支えを失った彼の頭はカクンと落ちたが、膝と腹の間に挟んだ枕が良い塩梅に支えとなり、彼の身体がベッドの下に倒れこむことはなかった。

 だらりと垂れた鼻水と涎が彼女の右手を汚したが、彼女は気にせず彼の左手の平をカップの底に当てさせ、さらに彼の膝の上の枕にカップと彼の手を乗せる。

 ようやくカップが安定した形で彼の手に渡ったことを確認した彼女は、まるで丹精込めて完成させた彫像を見つめる芸術家のように、どこか満足げにカップを持ったままうなだれている彼の姿をしばらく眺めた。そして彼の鼻水と涎で汚れた右手をエプロンで拭うと、テーブルに置いていたもう一つのカップを手に取り、彼の横に座った。

 彼の上半身が横に倒れてしまわないよう自分の身体で支えるために、彼の隣に、ぴったりと、寄り添うように座った。

 マグカップに口をつけ、中身を啜る。

 彼女の控えめな喉仏が、コクコク、と上下する。

 マグカップから、彼女の唇が離れる。

 

「ふぅ………」

 

 ようやく一息つけたとばかりに、深いため息を吐いた。

 

 右肩に、彼の重みと体温を感じながら。

 

 



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第四章 其の三

 

 彼らが「そこ」から救出されたのは、目の前に広がる巨大な湖に半面を沈めていた巨大な少女の顔が、土砂降りの雨に打たれ、波打ち際に造った砂のお城のように崩れていき、湖の中に溶けて消えてから少し経った頃だった。

 今にもその身体から生命を手放してしまいそうな赤いスーツを身に纏う少女の傍らで、少女のために自分が着ていた学校指定のシャツを傘替わりにすることしかできず悲嘆に暮れていた少年。雨の音しか聴こえなかったその場所に、今にも止まってしまいそうなエンジン音を轟かせながらやってきたトラックが走ってきた時には、我を忘れて飛び上がり、トラックの前に飛び出したものだ。

 一寸ブレーキを踏むのが遅ければ轢いてしまっていたため、運転席の窓から顔を出した運転手は上半身裸の少年に向かって怒鳴り散らした。少年は謝りながらも「良かった!良かった!」と泣きながら運転席に駆け寄ってくる。

 その姿に、助けに来てやったのに淡泊な反応しか見せなかった先ほどの親子のことを思い出し、運転手は「やっぱこうだよな」と強張っていた顔を和らげた。

 少年はそんな運転手を運転席から引っ張り出し、地面に横たわっている少女のもとに連れて行く。明らかに重態な様子の少女に、少女がけったいなスキンスーツを着ていることに疑問を抱く余裕もなくなった運転手は、少年と一緒に急いで少女をトラックの荷台へと運び込んだ。

 

 湖の側で途方に暮れていた時は、この世界は自分と少女以外の全ての人類は溶けて消えてしまったのだと思い込んでいたが、荷台の幌の隙間から見える外の風景は荒涼とした大地からやがて田舎の素朴な風景へと変わっていき、そして雨の暗がりの中を少しずつ人工の光、街灯や民家、クルマの光がポツポツと現れ始めた。道端にはとぼとぼと力なく歩く人々の陰。そして連れて行かれた避難所は沢山の避難者でごった返していた。

 運転手はすぐに担架を持ってきてくれて、すぐに少女を救護所へと運び込んでくれた。医者は少女を見るなり深刻な表情をし、看護師にすぐに緊急搬送のヘリコプターを手配するよう命じる。

 何やら救護所の近くの天幕で騒動が起こっているようで、運転手は「様子を見てくる」と言って、命の恩人とはそこで別れることになった。

 

 程なくしてヘリコプターはやってきた。

 避難所の上を低空で進入してきたため、避難所は一時パニックになってしまった。公民館の近くの広場に着陸したヘリコプターに運ぶため、消防団員たちが担架を運ぶのを手伝ってくれた。みんなで担架を抱えて天幕を出た瞬間、横から飛び出てきたまるで案山子のような格好の下半身素っ裸の子どもに衝突されるというアクシデントはあったものの、無事、少女を担架ごとヘリコプターに乗せることができた。

 医師は「君もひどい栄養失調だ。同行して病院で診てもらいたまえ」と言ってくれたので、少年も一緒にヘリコプターに同乗させてもらった。

 

 上空へ舞い上がるヘリコプター。俯瞰から見る地上の姿に息を呑む。ヘリコプターの背には巨大な爆発で消えてしまった都市の跡。広い樹海のあちこちに、墜落したと思しき大型旅客機が上げる黒煙が見える。搭乗員によれば、このヘリコプターも墜落機の生存者を運んでいる最中で、たまたま空きスペースがあったのであの避難所に寄ってくれたらしい。機内には、少年少女以外にも身体を酷く損傷した怪我人が何人も乗っていた。海辺近くに出ると高速道路が見えたが、そこを走る車両は一台もない。各所で玉突き事故が発生していて、道路を塞いでいるからだった。目指す病院がある街も、あちこちで火災が発生している。

 

 搬送された大病院もパニックに陥っていた。訳を聞くと、病院のスタッフや患者の大多数が突如消えてしまったらしい。そんな混乱の中にあっても、病院の医師や看護師たちは、瀕死の少女に対してできうる限りの治療を施してくれた。手術は何時間にも及び、執刀した医師は、少女の「中身」がまるで後から適当に詰め込まれたように「位置」がバラバラだったと、訳の分からないこと言っていたが、少女は何とか一命を取り留めることができた。

 胸から腹に掛けて大きな傷が残ってしまったことを、執刀医は申し訳なさそうに説明していたが、目を醒ました少女は「命あってのモノダネよ」とあっけらかんと応じていた。

 少年の栄養失調は点滴数本で回復し入院3日目には退院許可がおりたが、「どうせベッドは空いているから」と医師が少女の容態が安定するまで病院に留まる許可を与えてくれた。

 

 彼らがやってきたのは、2人が入院してから一月が経過した頃だった。

 公安を名乗る彼らは少年を病院の一室に軟禁すると、そこから長い長い取り調べが始まった。本来なら彼らは少年、そして少女を病院から連行し、彼らが所有する施設へと移送させたがっていたのだが、少年少女が病院に留まることができたのは、彼らの身を案じた医師が、「彼らにはまだ治療が必要である。退院許可は出せない」と病院からの連れ出しを頑なに拒否してくれたおかげだった。もっとも、実際に少女の容態はまだまだ予断を許さない状況だった。

 相手が未成年というだけあって、公安の取り調べはそれほど厳しいものではなかった。彼らは少年少女が、彼らが捜査している組織が所有していた巨大兵器のパイロットであることまでは突き留めていたが、組織の関与が疑われている「極大事象」にこんな年端もいかない少年少女までもが深く関わっているとは思っていなかった。

 素直に取り調べに応じる少年の態度も、公安の姿勢を軟化させていた。そして長い取り調べの結果、公安は少年少女がパイロットとしては組織内で重要な存在であったが、その組織の内実は殆ど知らず、もちろん「極大事象」との関りも知らされておらず、ただの「末端」、「一兵卒」に過ぎなかったと結論付けた。

 ところが、世間は公安の発表に納得しなかった。極大事象から半年以上経過したにも関わらず、遅々として進まない捜査にしびれを切らしていた世間、特にマスコミは、組織の重要人物の中で公安が唯一その身柄を確保していた少年少女に社会的制裁を求め、遂には彼らが入院する大学病院を突き止めた挙句、病院の前に大挙して人々が押し寄せたのである。

 少年はまだ軟禁状態だったため事なきを得たが、その容態から逃亡の恐れなしとされていた少女は一般病棟に寝かされていたため、病棟内にまで進入してきたマスコミの餌食にされてしまい、次の日にはベッドに横になる少女の顔が世界中に配信されることになってしまった。

 病院は連日押し寄せるマスコミと野次馬の対応に追われる羽目になってしまい、これ以上病院に留まることができなくなった少年少女は、その日から取り調べの対象から保護の対象となった。

 

 公安が所有する施設での生活が始まってから半年。ようやく家庭裁判所での審理が終わり、2人に下された処分は保護観察だった。

 その日から一定の制限はあるものの、自由の身となった少年と少女。その頃には少女の身体も回復し、車いす生活からの卒業を済ませていた。何もすることが無くなってしまった少女は、自由の身になってからもしばらくはぼんやりと過ごし、無為に時間を浪費していたが、すぐに意を固め、大学に進学することを決めた。大学側は少女の素性を知り最初は入学に渋りを見せたが、少女がその大学の入学試験における歴代最高得点を叩き出してしまったことで拒むわけにもいかなくなり、渋々入学を認めた。しつこいマスコミは彼女の大学生活にまで付きまとい、さらに学生からの嫌がらせも絶えなかった。そのことを心配した少年に対しては「アタシが世界を破滅一歩手前まで追い込んだ大悪党だと思われてるんだったら、それはむしろ光栄なことだわ」とあっけらかんと答えていた。

 

 少年も自由の身になってからは、しばらく無為に時間を過ごしていたが、ある日そんな少年のもとに取調官として少年の担当をしていた公安の男が訪れた。公安の男の説明によれば、国は先の極大事象について独立した捜査機関を設けることを決定し、彼はその機関の一部門を任せられることになったのだという。ついては、捜査対象の組織の一員であった少年にその部門に参加し、組織で得た知見を捜査に役立ててほしいというのだ。国家機関であるため高校すら卒業していない少年を正規職員として雇うことはできないが、アルバイト代は出すという。

 他にすることがなかく、したいことも特になかった少年は、即決こそ避けたものの、公安の男が帰ろうとした時には承諾の返事をしていた。そのことを少女に報告したら、なぜ一言も相談しなかったのか、と烈火のごとく怒られ、「バカシンジ!!もう知らない!!」という言葉を最後に、しばらくは一切の連絡を絶たれてしまった。

 

 公安の男は承諾する少年に対し、こう忠告した。

 

「捜査対象には、当然君の父親も含まれている」

 

 少年は構わないと答えた。

 

 国家組織とはいえ、空前の人手不足のため、機関に配属された人員はその業務内容に対してあまりにも過少であり、少年が所属する部門の人員は片手で数えられる程しか居なかった。

 すぐに、アルバイト待遇であるにも関わらず、忙しさで目の回る日々が始まる。

 

 アルバイトを始めてから半年後。彼女からの電話は唐突だった。

「2月10日」

「え?」

「2月10日だから」

「だ、だから…何が?」

「2月10日、開けときなさいっつってんのよ!以上!」

 唐突に電話を掛けてきたと思ったら、切れるのも唐突だった。

 

 どうやらその日は、彼女にとって月1回の保護観察官との面談日らしい。保護観察所が少年の住む街にあるため、指定した日に街に訪れた少女は、少年のアパートの部屋にドカドカと上がり込むと、スウェットパンツにトレーナーという部屋着感満載の格好をしていた少年を怒鳴り散らし、余所行きに着替えさせた。「街を案内して」という少女に、少年は行きつけの食堂やいつも買い物をする商店街、近所の神社仏閣などを案内したら、思いっきり尻を蹴とばされた。

 

「3月16日」

 電話に出るなり彼女の声。

「はい」

 素直に応じる少年。

 

 学習するということ知っている少年は事前にリサーチしていたおしゃれな喫茶店に少女案内すると、少女は「ま、今のあんたにはこれが限界よね」と憎まれ口は言うものの、終始ご機嫌な様子だった。

 別れ際、少女は言った。

「アルバイトは順調なの?」

「順調…とは言い難いかな?まだ誰も見つかってないし」

「…そんなこと聴いてんじゃないわよ」

「ははっ。少なくとも、ネルフよりかは待遇はいいし、少なくとも命の危険は感じてないよ」

「まあ…、あそこを経験していたら、たいていの職場は天国に感じるわよね…」

 そう言って、少女は少し安心した様子で最終列車に乗り込んでいった。

 

 

「4月14日」

 電話に出るなり彼女の声。

「はい」

 素直に応じる少年。

 

 

 少年が所属するチームが成果を挙げ始めたのは、そろそろ周囲から「穀潰し」「税金の無駄」「解散させるべき」と囁かれ始めた頃だった。

 少年はその分野について本人にとっても意外な才能を見せた。巨大な人型兵器に乗り、人類の天敵相手に大立ち回りを演じるよりも、本来はチームの業務の大半である膨大な情報を一つ一つ精査していく地道な作業の方が、少年には合っていたのかもしれない。

 初めての功績は遺伝工学に強みを持つ地方の中小企業で名前を変えてひっそりと働いていた、元技術開発部技術局一課所属の女性を見つけ出したことだった。

 その後も何人かの元組織の人間を見つけていったが、少年が挙げた成果の中でも特筆するべきものは、かの組織のナンバー2であった老人の所在を発見し、拘束に至った例である。もっとも、発見した場所は地方の療養病院であり、発見した時点で老人はすでに余命幾ばくもない状態であったが。

 潮目が変わったのは、この老人を拘留し、亡くなるまでの2ケ月で行われた取り調べの内容が明るみになってからだった。

 病魔に侵され、意識も朧げな状態の中で語られた老人の告白。彼の証言により、捜査機関は初めて極大事象の全容と組織の全貌の概要が得られることになったわけだが、その衝撃的な内容はすぐさま彼の証言を極秘扱いとして封印させるに至った。ところが極秘扱いにしたにも関わらず、その一部がマスコミに漏れ、組織や極大事象に様々な国家や機関、企業、要人が関わっていたことが明るみになり、世界は極大事象以来の混乱に陥った。実際に幾つかの国の政府が転覆し、様々な機関や企業が煮え滾った世論や沸き起こった暴動によって潰されている。

 死の間際の老人の告白。その一部が漏れただけで、この有様だ。

 かの組織のトップであり、老人よりも遥かに危険な情報を持っているかもしれない人物。もしそんな人物が生きたまま拘束され、裁判等の公けな場で証言でもされたら。その影響は、誰も予測することができなかった。

 

 少年が所属する機関を始め、その人物の行方を追う全ての機関に、非公式な指令が下された。

 

 ―――発見した場合は、即刻殺害せよ。

 

 上司は少年に対してチームから外れること、即ち解雇を言い渡そうとしたが、少年は「無給でもよいから」とチームに留まれるよう懇願した。少年の心境を慮った上司の配慮だったが、少年の有能さは既に証明済みであり、上から一刻も早く対象を発見するよう巨大なプレッシャーを掛けられていた上司に、少年の希望を無理に退ける理由はなかった。

 

 上層部からの「殺害命令」を聴いた少年に、戸惑いも悲しみもなかった。

 もし彼の父親が生きたままで拘束されたとしても、その先にあるのは裁判という名の精神的拷問と、階段の頂上に待ち構える絞首台であることは、少年もよく分かっていたからだ。終着点に至るまでの経緯が煩雑か、そうでないかの違いでしかない。

 一方で、少年はこうも思った。

 一刻も早く、誰よりも早く、父親を捜し出さなければならない、と。

 彼に制裁を加えるべきは、誰でもない、自分でなければならない、と。

 彼の心の中で、奇妙な義務感が生まれたのである。

 

 父親の暴挙を止められなかった息子として。

 上官の恐るべき計画を暴けなった部下として。

 計画発動のための依代となった機体の、パイロットとして。

 

 自分には責任がある。

 裁判官席に座る法服を着た恰幅の良いおばさんは、被告が未成年であること、上官よりまともな情報開示を行われていなかったことを理由に、自分には事象にたいする一切の責任はなしと断じた。

 それはあくまで法の上での責任であって、自分には息子として、部下として、パイロットとして、明確な責任がある。あのおばさんは、ただ何も知らなかっただけだ。あそこで何が起きたのか、理解できていなかっただけだ。裁きを決める者が無知だったために、自分の法的責任は帳消しにされた。法律は、もはや自分を裁かない。裁いてくれない。

 だったら、世界に対する自らの責任については、自ら裁くしかない。

 

 あの日、あのヘリコプターから見た光景。

 あの日の前と後とで一変してしまった世界。

 

 そして「出張」で訪れる地。

 公共の掲示板に貼り付けられた尋ね人の紙切れの数々。

 空き家だらけの団地。

 路上に溢れる身寄りのない子供や老人たち。

 

 彼が一番最初に見つける可能性が高いからと、アルバイトの身分であるにも関わらず、少年にも拳銃所持の許可が特例で与えられた。「出張」の度に渡されるようになった小さな拳銃。その銃口を、自分の側頭部に突き当てたのは、1度や2度ではなかった。

 

 それを決行しなかったのは、いや、できなかったのは、彼女がそれを許さなかったから。

 彼女が、僕がこの世界から逃げ出すことを許さなかったから。

 

 度を越した誹謗中傷、嫌がらせ。

 スカートが切り裂かれたり、すれ違う人に飲み物を掛けられたり。そんなことは日常茶飯事。彼女がこちら側からの電話に一切出ないのは、嫌がらせの電話が絶えず、殆どの時間携帯電話を切っているから。彼女は言わないが、彼女の中学時代からの親友の話しでは、彼女のアパートには毎日のように差出人不明の手紙が大量に届き、ドアにはペンキやマジックで罵詈雑言が殴り書きにされているという。

 言ったことがある。彼女が今受けている仕打ちは、本来は自分が受けるべきのもの。

 自分が世間に向かって「あれ」は自分が起こしたのだと宣言する、と。

 

 彼女に、パーでなく、グーで殴られた。

 「余計なことしないで」という言葉と共に。

 

 彼女は街を歩く時も、列車に乗る時も、顔を隠そうともせず、堂々としている。

 その姿が、僕に「逃げ」を許してくれない。

 

 そして彼女の電話は、いつもタイミングを見計らったかのように掛かってくる。

 

「5月18日」

「はい」

 

「6月15日」

「はい」

 

 自分の中でどんなにその「衝動」が高まろうとも、その約束の日までは逃げることは許されない。

 

 一度だけ、月1回のその電話は、自分が拳銃の銃口を咥えていた時に掛かってきた。

「9月9日」

「…ふぁい」

「は?」

「…ふぁい」

「9月9日!分かった!?」

「…ふぁい」

「はっきり返事しなさいよ!はっきりと!」

 慌てて咥えていた銃口を口から離す。

「はい!」

 泣きながら返事をしていた。

 

 自分に、逃げることは許されない。

 この世界から。この世界にしてしまったことへの責任から。

 

 だから、あの男に世界が望む必要な制裁を下すのは、自分でなければならない。

 それが自分に残された、最後の責任の果たし方。

 誰にも譲るわけにはいかなかった。

 それが、僕の、果たさなければならない義務だから。

 パイロットとして。

 部下として。

 息子として。

 

 

 でも。

 けれども。

 

 自分が握る拳銃から放たれた鉄の礫が男の胸に吸い込まれ、あの男の生命を絶った時。

 気づいてしまったのだ。

 

 パイロットとして。部下として。息子として。

 自分の父親を殺すことで、世界に対する責任を果たす?

 

 そうじゃないだろう。

 

 お前の浅はかな脳味噌が、思考が、「世界への責任」などと、そんな遠大なことにまで及ぶはずがないじゃないか。

 お前が欲しかったもの。

 自分の親の命と引き換えにまでして得たかったもの。

 それは単に…。

 

「…僕は、…楽になりたかった…んだ…。…許されて、…僕は悪くない…って認められて…、早く…楽になりたかった…。…それだけ…なんだ…」

 



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第五章 其の一

 

 彼の独白が始まったのは、彼に温かいマグカップを渡してから暫くしてのことだった。

 途切れ途切れに、掠れ声で語らるその内容はあまりにも断片的過ぎて、それを聴く唯一の人物は、彼が何の話をしているのか、何を話したいのか、おそらくよく理解できていないのだろう。あるいは、はなから聴き取ろうとする努力を放棄しており、適当に聞き流していただけなのかもしれない。

 彼女は、注意して耳を傾けないと聴き取れないような彼の独白中も、時々手にあるマグカップを口に運んでは、中身の温かいスープをずずずと音を立てながら啜っていた。

 ランタンの光に朧げに照らされた室内。部屋の真ん中に置かれたテーブル。床にはバラバラに分解された木製の椅子。こんもりとした山になっている、所々に赤い斑点が広がる白いシーツ。ベッドの上に、寄り添うように座る凸凹の彼と彼女。二人の手には湯気が立つマグカップ。

 

「…ごめん、…綾波」

 

 名前を呼ばれ、彼女の視線は自分の隣に座り、体重を自分の右肩に預けてくる彼に向けられる。

 しかし隣に座る彼は、名前を呼んだっきり、それ以上は何も喋らず押し黙っている。

 

 

 ごめん、綾波。

 君の、君たちの。君が懸命に作り上げ、守ってきた生活を壊してしまったのは、命令のためでもない。社会的制裁のためでもない。世界への責任のためでもない。

 それはとても、至極、個人的な理由。

 

 自分が許されたかったから。

 単に、楽になりたかったから。

 

 だから壊した。

 後戻りができないまでに。決定的に。

 君の事情など、お構いなしに。

 壊してしまった。

 

 余計に身勝手だと思うのは、自分の個人的な理由を押し通した結果生じた未だかつてない強烈な自己嫌悪に、小康状態になっていた自死への欲求が急速に高まったことだった。

 息子として、部下として、パイロットとして、世界への責任さえ果たせば、自分にもこの世界に留まれる資格が与えられるのではないか。この世界の片隅に、ほんの少しでも自分の居場所を用意してもらえるのではないか。そう信じていたのに、いざ責任を果たしてみれば、残ったのは早く楽になりたかっただけの卑怯者な自分だけだった。卑怯者に優しくしてくれるほど、今のこの世界に余裕はない。

 逃げ出したい。

 一刻も早く、この世界から逃げ出したい。

 それはとても自然な流れだった。あまりにも自然過ぎて、銃口を自らの顎に突き付けていたことに、自分自身が気づかないほどだった。

 だから「それ」を邪魔されたとき、邪魔をした彼女がとても腹立たしかった。「それ」はお腹が減ったらご飯を食べる、催したらトイレへ行く、眠たかったら布団に入る、と同じように自身の欲求に素直に従っただけの、極当たり前のような行為なのに、彼女は全霊をもって邪魔したのだから、それは腹立たしくもなる。

 だから、2度も「それ」を邪魔された時にはついついカッとなってしまい、彼女の髪を引っ張ったり顔面を鷲掴みにしてしまったりと、少々、いや、女性相手にかなり乱暴な対応をしてしまった。結果、あっさりと返り討ちに遭ってしまい、右腕に思い切り噛み付かれた挙句、顔面に膝蹴りを食らう羽目になってしまった訳で。自分よりも遥かにか細い女性相手にマウントを取られ、三桁を超える平手打ちを食らう羽目になってしまった訳で。殴られながら、涙を流しながら、ひたすら謝らされる羽目になった訳で。あまりに惨めな自分の姿に、自死への欲求すら屈服させられてしまった訳で。

 誰かに命令でもされなければ、周囲の事柄に自ら積極的に関わろうとはしないはずの彼女。その彼女が、どうしてこうも執拗に「それ」を邪魔しようとしたのか。少し冷静に考えてみれば分かることだった。今まさに自ら命を絶とうとしてる者を目の前にして、人間が取れる行動は2つに1つだ。1つは、何もできずにただ事の成り行きを見守ること。もう1つは、やめさせようと試みること。人が死んだらその後始末はとても大変なことになってしまうので、ただでさえこの部屋では人が1人死んだばかりなのに、それがもう1人増えたらその後始末の苦労が倍になることを考えたら、彼女が後者を選択したのは実に彼女らしい合理的な考えだと思った。

 そして彼女は、それが必要な行為であると認識したら、躊躇いなく徹底的にやる性分なのだ。結果、彼女が傷つくことになったとしても、身に纏うものがボロボロになったとしても、口の周りを真っ赤に染めたとしても、人の腕に歯型を残すことになったとしても、往復ビンタのやり過ぎで己の手が痛々しく腫れ上がってしまうことになったとしても。平気で無茶をする。

 それが必要であれば、死の熱線の前にも躊躇いなく飛び出すし、組織の備品も平気で壊すし、爆弾を抱えて突っ込むし、自爆してしまうし、世界中の人々すべてを溶かしてしまうし。

 そして事が終わってしまえば、何事もなかったかのように平然としている。

 今も隣で、何事もなかったかのように、呑気にマグカップの中身を啜っている。

 

 彼女は変わらない。

 何人目であっても。

 世界が変わってしまっても。

 僕が人知れず、苦しんでいたとしても。

 

 変わる世界。

 変わっていく取り巻く人々。

 激しく揺らぎ、本来の姿さえもはや見失ってしまった自分。

 

 でも君だけは…。

 

 彼女は言った。

「私はあなたが知っている綾波レイではない」と。

 そうかもしれない。

 いや、きっとそうなのだろう。

 彼女は僕の知る限りでは3人目。

 見てくれはすっかり変わってしまった。生活様式も以前の彼女とは似ても似つかない。

 

 でも。

 

 やっぱり、君は君。

 君は揺らいでいない。

 「あの時」以前と、「あの時」以後で。

 誰しもが変わらざるを得なかった「あの時」を越えてもなお、変わらないままでいてくれる君。

 荒涼とした大地の上に深く打ち込まれた道しるべのように。

 嵐の中で煌々と灯る灯台のように。

 時が経てば必ず宙へと昇る月のように。

 変わらずに、そこにいてくれる君。

 そんな君が、僕の側にいる。

 それが僕には、とっても居心地よくて…。

 

 気づけば、自分の右手が、彼女の右腕のカーディガンの袖を握っていた。まるで彷徨った樹海の中でようやく見つけることができた道しるべにしがみ付く放浪者のように、ぎゅっと彼女のカーディガンの袖を握っている。迷子になるまいと必死に母親の手にすがる幼子のように、彼女のカーディガンの袖に爪を立てている。

 

「…逃げて。…綾波…」

 視線は足と足の間の床に落としたまま、隣の彼女に囁く。

「…もう少しで、…僕の仲間がここに来る。…その前に」

 

 対象と行動を共にしている彼女の存在は仲間たちも知っているが、彼女が現場に居合わせていることまでは仲間たちは知らない。彼女がこの場から姿を消せば、「彼女は居なかった」だけで事は済む。

 でも、分かっていた。彼女の返答が、否、であることくらい。

 

 触れ合う彼女の肩が揺れている。それを目視で確認した訳ではないが、彼女が頭を横に振っていることは、見ないでも分かった。

 彼女が自分の保身のために逃げていたとは考えられない。

 その彼女が5年もの間身を隠し、逃げ続けなければならなかった理由。

 その理由を壊してしまったのは、誰でもない、自分自身なのだから。

 もはや、彼女に逃げなければならない理由はない。

 

 嫌になるのは、彼女のその返答を予想していた自分。予想していて、次のセリフを準備していた自分。そのセリフのために、彼女の袖を掴んでいた自分。

 

 床に這わせていた視線を、彼女に向ける。彼の視線と彼女の視線とが絡み合った。カーディガンの袖を握った手と同様に、縋りつくような眼差しで。

 

「…じゃあ、僕と一緒に、逃げないか」

 

 「逃げないか」。この期に及んで、決定権を相手に委ねる自分の言い方が憎らしかった。

 

「…誰も居ない。誰も僕たちのことなんて知らない場所に逃げて、そこで一緒に、…死ぬまで、…ずっと…」

 この世界を壊した君と、壊させた僕とで、ずっと、ずっと…。

 

 彼女が去ってしまわないように。答えを強要するように、彼女のカーディガンの袖を掴む手に力を込めた。

 

 その提案に、彼女の目が虚を突かれたかのように少しだけ丸くなっている。しかしそれはほんの僅かな時間だけで、瞬きした次の瞬間にはいつもの彼女に目に戻っており、そして絡み合っていたお互いの視線を解き、テーブルの上のランタンを見つめた。彼女の鳶色の瞳の中に、ランタンの朧げな光が宿った。

 

 彼女は手に持ったマグカップを口もとに運ぶ。少しだけ唇を尖がらせ、その唇をカップの淵に付け、カップを傾ける。中のスープが唇に付いたら、ずずずとそれを啜り、口腔内へと注ぎ入れる。口から離したカップは膝の位置に戻し、喉を鳴らして口の中のスープを胃の中へと落とした。

 口の中が空っぽになったら、鼻の穴を膨らませて、肩を上げて、大きく息を吸う。

 そして今度は口の周りを膨らませ、肩を落とし、深く、長く、息を吐く。

 

 その、彼女にしては珍しい芝居じみた所作に、彼は彼女の口から直に返答を聴く前に彼女の返答を理解した。

 彼女の袖を握る手の力を緩める。

 彼女は視線を天井の隅っこに投げながらこう呟いた。

「…今度は、息子の面倒を看ることに…なるのね」

 

 無感動な声音で呟かれたそのセリフ。彼女がどのようなつもりでそのセリフを呟いたのか、その真意までは彼は分からなかった。

 それは彼女なりの皮肉だったのかもしれないし、あるいは彼女なりの冗談だったのかもしれない。もし、そのセリフが皮肉であり、冗談だったのならば、何事にも整然と簡潔に答え、遠回しな表現をするということを知らない彼女が、この5年間で皮肉や冗談まで言えるようになったのかと、かえって感心してしまう。

 いずれにしろ、彼女のそのセリフを承諾の言葉として受け取れるほど、彼の頭の中はお花畑ではなかった。

 あのような状態になってしまった父親の面倒を5年間。そして、自棄になってしまった息子の面倒をこの先何十年。

 自分の身に置き換えて想像すると、途端に胸やけがしてくる。

 自分はとんでもない提案を彼女に迫っていたようだ。

 彼は、彼女の袖からそっと手を離した。

 

 



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第五章 其の二

 

「…冷めてしまったわ」

 

 何口目かのスープを口にした後、彼女は彼の左手の中にあるマグカップに視線を落としてそう呟いた。

 彼の手に渡ってから時間が経過し、湯気が消えてしまったカップ。彼は一度もそのカップに口を付けていない。

「ああ、…ごめん」

 彼女に促され、慌ててカップを口に付けようとする。顔の間近にカップを近づけて、その中身が目に入り、ずっと焦燥と悲嘆と諦念に支配されていた彼の表情が、少しだけ綻んだ。

「……ネギだ…」

 カップの中身は具だくさんスープ、と言えば聞こえは良いが、斜め切りにされたネギだけが大量に入ったスープだった。

 

 彼が、カップの中身を見たまま、目もとは悲嘆に暮れたままで、でも口もとは少しだけ笑っていて、そんな器用な表情を浮かべて動かなくなってしまった。

 カップの中に変なものでも入っていたのだろうか。虫とか、ごみとか。

 

 やや怪訝そうに見つめてくる彼女の視線に気づき、彼は一度瞬きをする。すると、綻んだ口もとはそのままに、目もとからは悲嘆が消え、柔らかな表情だけが彼の顔に残った。

「いや…、ネギがたくさん…だね」

 たくさん「過ぎる」と言いたかったが、それは喉の奥に留めておいた。

 彼の言葉の意を測りかね、戸惑った彼女は視線を自分のカップに落とす。

「高梨さんが…、ネギは健康にいい…、言ってた…から」

「(だから高梨さんって誰?)うん。そうだね。ネギはカラダに良いよね」

 でも限度があるよ、と言いたかったが、それは喉の奥に留めておいた。

 彼は一度口もとまで近づけていたカップを、結局一度も口を付けずに膝の上まで戻した。それを横目で見ていた彼女の真っ新な眉間に、少しだけ皺が寄ったことを、彼は知らない。

 

「食事の準備はいつも君が?って、当たり前だよね。父さんにはできないよね」

 頷く彼女。

「毎日大変でしょ。僕も毎日ミサトさんやアスカの食事作ってたから分かるよ」

 頷く彼女。

 

 彼の「分かるよ」という言葉に、頷く彼女。

 お互い共感できる部分が見つかって、お互い、少しだけこそばゆい。 

 

「作るのは大して面倒でもないんだけどさ。何が大変って、毎日献立を考えなきゃならないことなんだよね」

 彼のその言葉については、彼女は頷くことも頭を横に振ることもしなかった。

「大変じゃない?」

 同意を求めてくる彼に対して、きょとんとしてる彼女。そこは共感できないらしい。

 彼女のこの反応の理由についてちょっと考えてみて、何かに思い当たった彼は、おそるおそる訊いてみた。

「…これは今日の晩御飯?」

 頷く彼女。

「…昨日のご飯は?」

 彼女は、彼の質問の意図が分からないとばかりに首を傾げながら、彼女が手に持つカップを指差す。

 彼は、予想通りの答えが返ってきてしまったことに、頭がくらくらするような錯覚を覚えながら続けた。

「…一昨日の晩御飯は?」

 カップを指差し続ける彼女。

「…その前の日の晩御飯は?」

 カップを指差し続ける彼女。

「…ずっとこれ?」

 頷く彼女。

「365日?」

 頷く彼女。

 

 自分は、何かとんでもない過ちでもしているのだろうか。問い詰めてきたと思ったら、唖然とした顔でこちらを見つめてくる彼に、彼女の少な目な瞬きが一気にその回数を増す。

 

 少し経って、彼女は何かに思い当たったようだ。

「…あの人には、もう一品つけてる。お肉が好きみたいだから、鶏のムネ肉を、ほかのお野菜と蒸したもの」

 彼女にしては珍しい言い訳めいた発言。

 彼は問う。

「毎日?」

 頷く彼女。

 

 どこか得意げな様子の彼女。もしかしたら毎日2品も作っている自分を自分で褒めているのかもしれない。そんな彼女に、彼は「そーゆーことじゃあないんだよ」と言いたかったが、それは喉の奥に留めておいた。毎日同じ献立でよくあの人が文句言わなかったな、と思ったが、ああそうか、あの人はすぐに忘れちゃうんだっけ、と一人納得した。

 

 自分は何も間違っていない、ということを確認して安心しているのだろうか。

 彼女は両手で持ったマグカップを口に付け、中身をごくごくと喉を鳴らして飲んでいる。実に美味しそうに。ボサボサに逆立った髪に、ダルダルに伸びた袖のカーディガンと相まって、その姿はどこか幼く彼の目に映る。そして人が1人殺され、1人が自死しようとし、2人で乱闘までしたこの殺伐とした現場で、どこか浮世離れした、と言うかトンチンカンな振る舞いをしている彼女の姿が急に可笑しくなり、思わず吹き出してしまいそうになった彼は慌てて右手で口を覆った。

 

 急に口を塞いだ彼を、訝し気にみる彼女。

「…いや、なんでもない」

 そう言いつつも、口もとのニヤケはそう簡単には取れそうになく、しばらく彼は自分の口もとを手で隠し続けなければならなかった。

 

 ―――まったく…、綾波には敵わないな…。

 

 手で口を塞ぎ続ける彼を見つめる彼女の眉根に、再び皺が寄ったのを、彼は知らない。

 

 

 ささくれだっていた彼の心が、少しだけ余裕を取り戻す。

 少しだけ余裕を取り戻した心は、周囲の様子を落ち着いて見つめることができる。

 

 木目がきれいに浮かび上がるテーブル。こんもりとした小山になっている白いシーツ。整然と食器や小物が並べられた戸棚。

 バラバラになった木製の椅子と、床に転がる丸められた脱脂綿にガーゼ、白いシーツの赤くなった一部を除けば、掃除と整理整頓が行き届いている室内。床に置かれた洗濯カゴの中は、いかにも太陽の光をしっかり浴びましたとでも主張するような、ふんわりとした衣類が、丁寧に畳まれて積まれている。

 

 2回だけ、訪れた彼女の部屋を思い出す。

 打ちっぱなしのコンクリート壁。埃が溜まった床。くしゃくしゃのベッドのシーツ。分別されずに適当にゴミが詰められ、溢れてしまっているゴミ袋。無造作に干された下着や靴下。

 

 一方で、この部屋は注意してみれば、窓際には小さな小瓶があり、一輪の野花まで飾られている。

 だめだ。

 ニヤケ顔が収まりそうにない。

 

 口もとを覆っている彼の手を横目で忌々しく見ていた彼女は、その手の向こうに見え隠れする彼の口が、締まりのない曲線を描いていることに気づいた。

 ついさっきまで奈落の底にでも突き落とされたかのような表情をしていた彼が、だらしなく笑っている。心労に耐えきれなくなり、ついにおかしくなってしまったのだろうか。

 

 少しだけ心配そうに顔を覗き込んでくる彼女に、彼はこんな場所で一人ニヤついている自分は、外から見たら何て気持ち悪いんだろうと客観的に分析し、「心配ないよ」と口もとから離した手をひらひらさせた。

「いや…その…」

 自分がニヤついていた理由を説明しようとして、言葉を慎重に選ぼうとして、言い淀んでしまう。

 

「君は…その…、「前の記憶」は、あるんだよね?」

 慎重に選んだつもりだったが、結局口から出てきた言葉は配慮を欠いた、無遠慮なものになってしまった。

 しかし、彼女が特に気にした様子もなく、素直に頷いてくれた。

「だったらさ。覚えていないかな?僕が言ったこと」

 

 僕が、あの地下のエレベーターで。

 僕たちが、2人っきりになったあのエレベーターで。

 僕はエレベーターの奥で、君はエレベーターの扉の前で。

 テストを終えて、2人で地上に向かっていたあのエレベーターで。

 僕たちが出会って、いくつかの出来事を乗り越えて、僕は、以前より人との触れ合いを恐れなくなっていて、殆ど喋らない君との会話もそれなりに自然と交わせるようになっていて。

 たまたま乗り合わせたエレベーターのあの空間がとても暖かくて、柔らくて。

 君と2人っきりであることが、とても心地よくて。

 だから、僕はあんなことを言ってしまったのだろう。

 今から考えればとても恥ずかしいことを言ってしまって。

 背中越しでよく見えなかったけれど、君はちょっと慌てていたね。

 

「君は案外、主婦とかが似合ってるんじゃないか、って」

 そこまで言って、横目で彼女の様子を覗ってみた。

 あの時のように慌てふためいてはいないけれど、彼女の頬がぽっと赤くなったような気がしたのは、光の加減の所為ではないのだろう。

 

 彼のニヤけた口から予想外な言葉が飛び出してきたので、彼女は暫く豆鉄砲でも食らったかのような顔をして、そして咄嗟に俯いてしまった。

 おずおずと頷く。

「…ええ、…覚えているわ」

 掠れるような声とは裏腹に、身体の中では全身を流れる血液が一瞬で沸き立ったような感覚が駆け巡り、カップを包む両手にぎゅっと力が入った。

 「覚えている」という表現は正確ではなかった。「覚えている」ではなく「知っている」の方が正しいのだが、訂正はしなかった。

 

 実は俯いて髪で隠れてしまった彼女の目が泳ぎまくっていることを知らない彼は、彼女が「覚えている」ということだけで満足し、彼女から視線を離し、再び部屋を見渡した。

 掃除が行き届いた部屋。丁寧に畳まれた洗濯もの。手もとにあるネギのスープ。

 

「…僕の予想、当たったね」

 

 当時の周囲の人々の中で、彼女が主婦業を真っ当(?)にこなす姿を予想できた人が、いったい何人居るだろう。

 断言してもいい。

 それは僕だけだ。

 

 まずい。

 またニヤけ顔が出てくる。

 

 5年前の自分の予言。

 それが立証されたことだけでも、自分の5年間、いや20年間が報われたような気がした。

 不思議だ。

 たったこれだけのことで、「あの時」以前と以後とで。

 あの瞬間を前後にして断絶してしまっていはずの時の流れに、たったこれだけのことで、一本の線が通ったような気がした。

 

 安っぽくて軽くて、でもとても深くてとても価値のある達成感に満たされながら、彼は手に持っていたマグカップに口をつけた。

 

 

 ひと時の混乱から立ち直った彼女。

 ずっと、隣の彼の一挙手一投足に注意を払っていた。ようやく手のカップを口に近づけたと思ったら止めてしまい。そして膝の位置まで戻してしまい。そして口を覆ってしまい。なかなかカップを口につけない彼の動き。それがとてもじれったくてもどかして、忌々しかった。

 彼女は、彼女にしては珍しくとても緊張していた。自分の手料理を、彼がその口に含もうとしている。あの人以外で初めて、自分の手料理を口に入れるのが彼。

 彼が料理が得意ということは知っている。彼の手料理を食べたことはないけれど、彼が作ったお弁当を赤毛の女の子が憎まれ口を叩きつつも美味しそうに頬張っている姿が幾つかの記憶の中にある。

 そんな料理上級者の彼が、自分の手料理を、今、口に含んでいる。

 カップに口を付け、カップを傾け、中身を口の中に注ぎ込み、こくこくと喉を鳴らしている。

 

 もしかしたら、繰り返されてきた4回の「生」の中でも、今が一番緊張しているのではないだろうか。初めて地下の部屋から出された時も、初めての起動実験の時も、初めての出撃の時も、自分の肥大化した身体が崩壊して地上に崩れ去った時も、あの人に無言で睨みつけられた時も、他人の「ケンコウホケンショウ」を受け付けのお姉さんに差し出した時も。

 ここまで緊張してはいなかったのではないか。

 

 何度か喉を鳴らし、そしてカップを口から離し、彼は、ふぅ、と深めの息を吐く。

 

 その様子を横目で食い入るように見ていた彼女は、カップが彼の顔から離れていくのを見届けた後、視線をテーブルの上のランタンに戻した。

 鳶色の双眸に、ランプの朧げな光が宿る。

 頬に赤みがさすのは、光の加減の所為ではないだろう。

 緊張で固く噤まれていた彼女の口が、少しだけ柔らかく緩んだ。

 

 今、このたった数秒間の、ほんの僅かな瞬間。たったこれだけで、自分の5年間、いや19年間が報われたような気がした。

 

 

 

 ―――覚えていないかな?

 

 ええ、覚えているわ。

 

 だって。

 

 だって、私には。

 何もなくなってしまった私には、とても多くの時間だけが与えられたのだもの。

 

 日々、繰り返される実験と訓練。敵が襲ってこない日は、一日の大半を実験と訓練に充てられる。戦闘も実験も訓練もない日は、学校に行き、一日の大半を退屈な授業に充てられる。自宅に帰ったら、シャワーを浴びて、食事を摂って、あとは寝るだけ。

 何もない日もあって、何もすることがない時間もあったけれど。そんな時は、自分という存在を問う出口のない堂々巡りの思考に陥ってしまいがちなので、ひたすら本を読むことに費やした。図書館に行き、本屋に行き、さして興味もない事柄や物語が書かれた本をひらすら読み漁った。

 

 4度目の目覚め。

 全ての役割を終えた後で、何かの気まぐれで始まってしまった4度目の「生」。

 新たな使命は与えられず、もしかしたら「これが」と思った役割や目的は全て外れで、宙ぶらりんのまま進んでいく私の4度目の「生」。

 主婦業は忙しかった。毎日掃除をし、洗濯をし、買い物をし、料理をし。

 お金を得るための仕事も忙しかった。朝から晩まで拘束され、休憩時間もそこそこに働かされた。

 人のお世話も忙しかった。食事を食べさせ、薬を飲ませ、身体を拭き、下の世話をする。

 それでも分刻みで決められていたスケジュールをひたすらこなしていた組織での生活に比べれば、ぽっかりと空く時間は多かった。組織に居た頃、スケジュールにぽっかりと穴が空く時は学校に行くことで空いた時間を埋めることができたけれど、今は学校という暇潰しさえ用意されない。

 ぽっかりと空いた時間。空虚な時間。そんな時は、以前ならひたすら本を読み漁ることに費やしていたが、4度目の目覚め以降は容易に本を手に入れることもできなかった。仕事や通院以外ではあまり出歩かないようにしていたし、田舎町を生活の拠点にすることが多かったので、街には図書館も書店もないことが多かった。勝手に住み着いた空き家には中には読書家の家もあったりして、大量の本が残されていることもあったが、それも1月くらいで全て読み終えてしまった。

 何もすることがないと、いつもの出口のない堂々巡りの思考の渦に嵌ってしまう。特に自分の存在意義さえも失ってしまった4度目の目覚め以降は、その渦の下は光が一切差さず、底が見えない、一度嵌ってしまったら二度と這い上がれない深い深い奈落の底なのだ。

 だから、何もすることがなくなってしまった時間は、ひたすら「記憶」を探った。「記憶」を本代わりに、そのページをひたすら捲り、読み漁った。

 

 自分の中に蓄積された「記憶」。

 自分のもののようで、実は自分のものではなくて、でもやっぱり自分のものである「記憶」。

 5年間、ひたすら、自分の「記憶」と向き合ってきた。

 

 それはまるで古びた白黒の写真のよう。

 捲られるページに貼り付けられている様々な場面の写真は、やっぱりどこか他人事で、知らない出来事のようで、でもやっぱり知っていて…。

 

 

 彼らが、地上に還ってく姿を、銀髪の少年と見送ったあの時。

 

 手もとに集めたすべての魂を、地上にばら撒いたあの時。

 

 あの人を裏切り、その手から「ワタシ」の片割れを奪い去ったあの時。

 

 初めて会う銀髪の少年に同じであると告げられたあの時。

 

 部屋にあった眼鏡を手で砕き割ったあの時。

 

 部屋にあった眼鏡を手で砕き割ろうとして、砕くことができずに泣いてしまったあの時。

 

 3度目の目覚めの時。

 

 赤毛の女の子に、頬をひっぱたかれたあの時。

 

 これまでにない強大な敵に爆弾を抱えて特攻したあの時。

 

 夕暮れの屋上で4人目の適格者に選ばれた彼に声を掛けたあの時。

 

 その生存が危ぶまれる彼に、心配どころか侮蔑の言葉を吐く赤毛の女の子に迫ったあの時。

 

 半透明の液体の中で、あの人に優しい眼差しで見つめられたあの時。

 

 私の「種」の胸に、巨大な槍を刺したあの時。

 

 実験のため全裸にさせられた挙句、どこかの森の中で半日間放置されたあの時。

 

 木陰で本を読んでいたら、初対面の赤毛の女の子に声を掛けられたあの時。

 

 ケージであの人に声を掛けられ、話しが弾んでしまったあの時。

 

 入院の日々。

 

 15年ぶりの敵の来襲。この日のために何年にも及ぶ厳しい訓練に耐え、果てしない実験を繰り返してきたのに、何もできず、事態が過ぎていくのをベッド上で見守ることしか出来なかったあの時。

 

 入院の日々。

 

 搭乗機の暴走。加重と無重力を繰り返す機内。全身を襲う痛み。砕ける骨。身体から噴き出る血。朦朧とする意識。あの人のほっとした笑顔。

 

 実験と訓練の日々。時々、学校。

 

 初めての学校。初めての外の世界。私の奇怪な容貌に、騒然とする教室。

 

 2度目の目覚めの時。

 

 知らない「おばさん」、知らない「おじさん」たち。

 

 初めて服を着て、初めて部屋から出た、あの時。

 

 初めての目覚め。あまり覚えていないけれど、半透明の液体の中で目覚めた時、初めて目にしたのは容器の前に立つあの人だったような気がする。

 

 そこで私の、ワタシたちの「記憶」のページは終わっている。でも、私の思考の手は、ページを捲ることを止めようとしない。

 さらなる深い、奥底へ。

 もはや「記憶」とすら呼べない、身体の細胞一つ一つに刻まれた「情報」の奥底へと潜っていく。

 

 それは遺伝子に刻まれた記憶?

 それとも「記憶」の渦の中に陥ってしまった私が見たまぼろし?

 

 

 

 子供がいる。

 

 小さな男の子がいる。

 

 とても眩しい光に満たされた空間の中で、満面の笑みを見せる男の子がいる。

 

 どこかで見たことがあるような男の子。

 

 彼に似ているような気がする。

 

 私にもどこか似ているような気がする。

 

 男の子は両手を私に向かって差し出している。

 

 男の子の手の平にあるもの。

 

 赤く光る、実。

 

 それを、嬉しそうに私に見せてくる。

 

 私の口が自然に開く。

 

 

―――もういいの?―――

 

 

 私の声のようであって、でも違うような気がする。

 

 男の子は破顔のまま「うん」と頷いた。

 

 私であって、私でない何かが、口を開く。

 

 

―――そう、よかったわね…―――

 

 



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第五章 其の三

 

 彼は、正直に、しょ・う・じ・き・に心の中で呟いた。

 

 まずい、と。

 

 口の中に含んだスープ。

 ネギの味しかしない。申し訳程度に塩がまぶしてあるようだが、口の中を支配するのはネギ、ネギ、ネギ。体に良いからと薬膳スープとして押し通せなくはないのかもしれないが、これが毎日食卓にのぼることを想像すると、それは一種の拷問ではないかとすら思ってしまう。

 毎日これを飲み続けた父親を思うと同情を禁じ得ない上に、ちょっとばかし尊敬してしまう。心の底から愛した人が作ってくれたスープなのだ。きっと彼女の機嫌を損ねまいと、心の中ではもがき苦しみながらも笑顔でスープをおかわりしていたに違いない。コップの中身を一気に煽ったあと、「まずい!もう一杯!」と叫ぶ父親を想像してしまい、思わず心の中で笑ってしまった。

 それでも自分は気づいてしまっている。彼女が。隣に座るこのスープを作った彼女が、髪の隙間から覗かせる瞳で、固唾をのんでこちらを見守っていることを。いっそのこと、口の中に含んでしまったものを、そっとカップの中に戻してしまおうかと不届きなことも考えたが、彼女の視線に気づいてしまったからには、この口に含んでしまったものを、吐き出してしまうことは許されない。もはや自分に逃げることは許されないのだ。

 

 こく、こく、こく、と喉を鳴らして口の中のものを胃の中へと落とし込んでいく。

 胃の奥から口の中へと湧き上がってくるネギの匂い。カップを口に付けた瞬間は、鼻の孔に脱脂綿が突っ込まれたまんまであったことを思い出し、鼻が塞がれたままだと飲みにくいのではと危惧したが、それはむしろ幸いだった。鼻の孔が脱脂綿で塞がれているにも関わらず、噎せ返ってしまいそうになるほどの強烈な臭い。涙が出てきそうだ。鼻が塞がれていなかったら、倍化された臭いに吐いてしまっていたかも知れない。

 何とか口の中に含んだものだけでも食道を通過させることに成功し、すぐにカップを口から離して、ふう、と口の中のネギ臭を外に追い出す。

 そっと横目で彼女の顔を覗いたら、こちらに向けていた視線はいつの間にかテーブルの上のランタンへと移っていた。

 表情の変化は見られないが、どこかしら満足げな彼女の横顔。

 まったく、人の気も知らないで…。

 

 でも。

 

 ああ、でも。

 

 これで僕の願いの一つが叶ってしまった。

 心残りの1つが解消された。

 

 彼女の。

 綾波の料理を食べることができた。

 

 ちょっと思ったのと違ったけれど。

 でもこれはこれで、彼女らしい。

 

 ああもう。

 もうこれで、思い残すことはないんじゃないだろうか。

 

 4年を費やした末にあの人を探し出して。

 

 この世界への責任を果たし。

 

 彼女との再会を果たし。

 

 彼女の手料理を口にすることができた。

 

 世界への責任を果たすことで、僕の心は楽になるかもしれないと思ったけれど、それは大きな間違いで。やって来たのは以前よりも増して強力な自己に対する殺人衝動で。

 

 でも、そんな荒み乾き切った心を、彼女が救ってくれた。

 彼女はやっぱり変わらず、揺るがず、超然としていて。

 それでいてどこかトンチンカンで。

 

 今、僕の心はとても穏やかだ。

 今、僕の心はとても満ち足りている。

 僕は、もう満足だ。

 

 ―――そう。こんな時だ。

 

 こんな時こそ、「あれ」はやってくる。

 心が穏やかで、満ち足りていて。

 こんな時こそ、「あれ」は鎌首をもたげてくる。

 無防備な僕の心に、「あれ」は音もなく入り込んでくる。

 

 「あれ」が囁いてくるのだ。

 「今は穏やかでも、いずれその心はさざ波立つだろう」と。

 「今は満ち足りていても、いずれその心は乾いていくだろう」と。

 

 隣の彼女にとても、とても感謝しながらも、僕の目は無意識に床に視線を這わせてしまう。「あれ」に囁かれるままに、それを求めてしまう。

 ああそうか。拳銃は彼女が撃ち尽くしてしまって、おまけに外に投げてしまったのだった。床に落としてしまったナイフもいつの間にか無くなっている。おそらくそれも彼女が処分してしまったのだろう。まったく、彼女は周到だ。

 他に何か都合のよい代物が落ちていないだろうか、と部屋を見渡しているうちに、僕の脳裏にあの時の光景が浮かび上がってくる。

 僕に馬乗りになって、鬼の形相で(少なくとも僕にはそう見えた)、僕の顔面に平手打ちの雨霰を降らせた彼女の姿が。

 途端に身震いしてしまう。身体が硬直してしまい、「それ」を求めて部屋の隅々に視線を這わせていた自分の行為が、この世で最もやってはならない、恥ずべき行為であるような気がして、思わず目を瞑ってしまった。

 

 僕はあの時、「ごめんなさい」と何度も言いながら、同時に彼女に誓っていたのだ。

 ごめんなさい。もうしません、と。

 まるで母親から折檻された子供のように、泣きじゃくりながら、謝りながら、宣誓させられていたのだ。

 まったく。彼女のあの姿が頭に焼き付いている限り、僕は、僕の心は、僕の身体は、「それ」を選択することができそうにない。「それ」を実行することができそうにない。まったく…、彼女は周到だ…。

 

 だから僕は2度と「あれ」の囁きに耳を傾けることはないだろう。2度とその囁きに乗せられることはないだろう。

 

 ―――でも。

 

 でも綾波。

 

 やっぱり辛いんだ。僕は辛いんだ。

 

 僕の心と身体に君が頑丈な鍵を掛けてくれたけれど、それでも「あれ」は構わず囁き掛けてくるんだ。

 「逃げろ」「逃げてしまえ」と。

 僕の心のどこかに、その囁きに乗ってしまいたいという想いの欠片がある。その囁きに身を委ねてしまいたいという想いの欠片がある。

 そいつらが、閉じられた僕の心の扉を内側からドンドンと拳を立ててこじ開けようとしているんだ。でも、君が掛けた頑丈な鍵がそれを許さない。そいつらが扉の外に飛び出して、囁きの手に自らの手を伸ばそうとするが、君が掛けた頑丈な鍵がそうはさせまいと、そいつらを心の扉の中に頑なに閉じ込めている。

 僕の胸を何かが突き破って出てきてしまいそうで、本当に気持ち悪い。内と外とのせめぎ合いの狭間で、心と身体がバラバラいなってしまいそうなんだ。 

 なぜ、こんなに辛い思いをしてまで、人は生きていかなければならないのだろう。

 なぜ、望まぬ「生」を強いられているのだろう。

 なぜ、僕は、生まれてきてしまったのだろう。

 

「どうして、…僕なんかが…生まれてきたの…かな…」

 自分の中で渦巻く闇を纏った問い掛けが、自分も気付かないうちに口から漏れ出ていた。

 隣に座る彼女は、両手でマグカップを握ったまま、無言でいる。

 

「どうして、…僕は…、碇ゲンドウ…と、…碇ユイ…の息子として、…生まれてきたの…かな…」

 彼らの子供としてさえ生まれてこなければ、こんな苦しみを味わわずに済んだはずなのに。

 隣に座る彼女は、テーブルの上のランタンを見つめたまま、無言でいる。

 

「……僕は…、これから…も…、人間として…、生きていけることが…できるのかな…」

 世界を壊してしまった自分は、本当に真っ当な人間なのだろうか。

 生と死の狭間をひたすら行き来している自分は、本当に生きていると言えるのだろうか。

 

 隣で息を呑む音が聴こえた。

 見ると、テーブルの上のランタンを見つめていたはずの彼女が、いつの間にかこちらに顔を向けている。まん丸と見開かれた鳶色の双眸で。

 しかしその視線はすぐに伏せられ、床へと落ち、テーブルへと向かう。瞳の動きに引っ張られるように、彼女の顔もテーブルの方へと向いていき、ぼんやりと何処か呆けた表情でランタンを見つめ直した。彼女の両手が何処か落ち着きなく、両手に収まるマグカップを揉んでいる。

 

 

 

 ―――あれはいつだっただろう。

 

    どこだっただろう。

 

 

 遠い遠い昔。

 いつか、どこかで、私は今の彼と同じ問い掛けを、あの人にしたような気がする。

 あの時、あの人は何と言っただろう。

 何と、答えてくれただろうか。

 思い出せない。

 思い出せない。

 とてもとても昔の話しで。

 私はあの頃から今日まで、ぼんやりと生きてきて。

 きっと大切なことも忘れてしまっているのだ。

 

 彼の問いに、今の私は何も答えることができない。

 彼の問いに答えを用意できるだけの経験値も、そして資格もない。

 だって…。

 

 ―――もういい…、もう十分。

 

 あの時、あの瞬間。

 私の想いは、彼の想いと同調していたはずだったから。

 彼の願いは、そのまま私の願いでもあったはずだったから。

 

 私に、彼の「それ」を止める資格はなかったはず。

 彼を傷付けてまで、彼を泣かせてまで、彼の「それ」を阻止する資格も権利も、私にはなかったはずなのに。

 

 なぜ私は彼を止めたのだろう。

 なぜ私は彼の願いを叶わせなかったのだろう。

 なぜ私は彼の苦しみを断ち切らせなかったのだろう。

 

 なぜ私は彼を生き続けさせようとしたのだろう。

 

 これではまるで。

 そう、これではまるで、5年前にあの人に対して始めたことと、一緒ではないだろうか。

 私はまた、あの過ちを繰り返すことになるのだろうか。

 行き着く先に、とてつもない悲劇が待っていたというのに。

 彼の行き着く先に、更に大きな悲劇が起こらないとは限らないのに。

 

 でも、私の身体は動いていた。

 考える前に、勝手に動いていた。

 ガラス戸に映る、彼が自身の顎に拳銃の銃口を突き付けているのを見た瞬間に、私の身体は勝手に動き、いつの間にか彼の腕にしがみ付いていた。

 そこからはもう完全に成り行き任せ。だって、一度止めてしまったものは、もう後戻りはできないから。一度始めてしまったことは、もうやめることはできないから。

 彼の腕に噛り付いてでも、彼の顔面に膝を入れてでも、彼の胸に馬乗りになってでも。

 一度止めてしまったから、とりあえず成り行きに身を任せ、たまたたま側にいたから、だから懸命に懸命に何度も何度も何度も彼の頬に平手打ちを食らわせた。

 彼を生きながらえさせるために。

 彼が望んでもない「生」にしがみ付かせるために。

 

 なぜ。

 なぜ。

 ―――なぜ?

 

 いいえ。

 その疑問はおかしい。

 その答えを、私はもう分かっているはず。

 

 それは「あの人」がそうさせたから。

 私の中にいる「あの人」が。

 「あの人」が、私の身体をそのように動かしたから。

 

 今の私に、彼の問いに答えることはできない。

 でも。

 そう。

 「あの人」なら。

 きっと「あの人」ならば…。

 

 

 ふと、左腕に感触があった。

 見ると、彼女がその細い両腕を彼の左腕に絡めている。そして彼の左肩に寄り掛かるようにして、彼の左腕に自身の体重を掛けていった。彼が何処にも行ってしまわないように。

「あや…」

「…わたし」

 彼女の名前を呼ぼうとした彼の声に、彼女のか細い声が重なった。

「…わたし、ずっと思っていた。…この身体に入れられる…そのずっと、前…から」

 横から覗く限り、彼女の表情はいつもの彼女の表情だ。ランタンを見つめる鳶色の瞳は、何の揺らぎもない。でも、彼女の小さな口から紡がれるか細い声は、ひどく震えている。

 

「わたしの、このカラダは、…わたしの…もの…じゃない。…いつも、…違和感があったわ」

 彼女の視線がランタンから離れ、彼の腕にしがみ付いている彼女自身の両腕に注がれる。

 

 

 自分の中の自我というものを自覚した時から始まった違和感。

 魂を次の身体に移植される度に感じた、まるで身体が無理やり入ってきた魂を異物として認識し、拒否反応を示しているかのような違和感。あるいは侵入してきた魂に対して、身体が魂に侵食してくるような、そんな違和感。

 その違和感は、あの人から、あの人の妻の名で呼ばれるようになって、そして会う人会う人が自分の名前を呼ばなくなって、より鮮明なものになっていった。

 魂の形と、器の形が、合っていないような違和感。

 自分が、自分でない感じ。

 身体が魂に問うてくる。

 あなた誰?

 あなた誰?

 あなた誰? と。

 

 

「最近になって、ようやく分かったの」

 果てしなく、自分の「記憶」と向き合った時間。

 果てしなく、自分の身体の遺伝子に潜った時間。

 「最近になって」と言ってしまったが、本当に分かったのはつい先ほどだ。

 

 眩い光の中、対面した赤く光る実を手に持った男の子。

 男の子に向かって声を掛ける、私であって、私でない誰か。

 その声は限りなく優しく、その瞳から男の子に注がれる眼差しは慈愛に満ち、伸ばされた両腕は今にも男の子を温かく抱き留めようとしている。

 

 

「このカラダは、わたしのものじゃない。わたしのために使っていいカラダじゃない、って」

 

 

 彼女のこの、自分とは違った意味で、自分自身の価値を徹底的に矮小化してしまう、ともすれば簡単に自分の身を犠牲にしてしまうような姿勢。昔から、そんな彼女の姿を見るのが痛々しくて、辛くて。だから、

「そんなこと…」

「分かるの。自分のカラダのことだもの」

 そんなことない、と否定しようとして、再び彼女の言葉と重なる。

 

 「わたしのものじゃない」と言っておきながら「自分のカラダのことだから」とか言ってしまっている自分。矛盾したことを言っていることは自覚していた。でも、うまく言葉にすることができないのだ。あれだけたくさんの本を読み漁り、たくさんの活字に触れてきたくせに、全く実になっていないことに、我ながら呆れてしまう。

 でも、もういい。自分が感じている違和感のことなんて、今はどうでもいい。

 今、彼に伝えたいことはそんなことじゃない。

 それは今、彼が隣に居ることで自分の身体から溢れ出てきそうな何か。指から、手から、足から、瞳から、口から、身体のありとあらゆる所から、彼に向かって溢れてしまいそうな何か。

 それはきっと、「あの人」の…。

 そう、きっと…。「あの人」の…想い。

 

 しがみ付くように彼の腕に絡めていた手の、左手を彼の腕から離す。

 手のひらを見つめた。

 

 言葉だけで伝えられる自信が無いのであれば、彼に直に感じてもらうしかない。

 理論よりも実践だ。

 

 

「分かるのよ…。この手は…」

 

 

 この手。

 私のものではない、誰かの手。

 この手がしなければならなかったこと。

 この手がずっとずっと、したかったこと。

 それはきっと、本を開くことでもなく、エヴァの操縦桿を握ることでもなく、学生鞄を持つことでもなく、雑巾を絞ることでもなく、軽トラックのハンドルを握ることでもなく、平手打ちをすることでもなく、包帯を巻くことでもなく、マグカップを渡すことでもなく。

 それはきっと。

 

 

 ドキっとした。

 自分の腕から離れた彼女の左手が、いつの間にか僕の頬を撫でている。

 少し冷たい彼女の手。僕の顔の隆起に合わせて、形を変えていく彼女の柔らかい手の平。

 

 

「…この手は、きっと、あなたを抱きしめるためにあったの」

 

 

 ほらやっぱり。

 どんな人、どんなものよりも、コレに触れている時が、一番しっくりくる。

 コレに触れていると、自分のものではないようなこの冷たい手が、少しずつぽかぽかしていくような気がする。

 間違いない。

 自分のものではないこのカラダは、でも不幸にも自分の魂が入ってしまったこのカラダは、本来はコレのためにあるのだ。

 もう迷わなくていい。

 

 少しだけ、彼女の左手に力が入った。視線だけを向けていた彼の顔が、やや強引に彼女に向けられる。鳶色の瞳が、まっすぐに彼の瞳を射抜いた。

 

 

「…この瞳は、きっと、あなたを見守るためにあったの」

 

 

 再びドキっとした。

 彼女の顔が、少しずつ近づいていくる。

 間近に迫る、彼女の瞳、頬、鼻、そして唇。

 

 彼女の右手のマグカップが、辛うじて引っ掛かっていた指からポロリと落ちた。ゴトンという音と共に床に落ち、倒れたカップ。中身のスープが床に広がっていく。

 彼女の顔が近づき、全身に緊張が走った彼の手からもカップが落ちる。底から床に落ちたそのカップは派手な音と共に砕けた。

 しかし2人は見つめ合ったまま。

 床に落ちた2つのカップを見ようともしない。カップが立てた音すら耳に入っていない。

 

 目を逸らしてはいけない。目を瞑ってはいけないと、顔中を緊張させ、必死に堪えていた。しかしそんな彼の覚悟と期待をよそに、彼女の顔は彼の頬を掠めるようにそっと横にそれていき、そして彼の左肩がすとんと僅かばかり重くなった。

「…この声は…」

 自分の左肩に顎を乗せえた彼女の唇が、左耳のすぐ傍にある。彼女が声を発するたびに、耳に彼女の吐息が掛かり、少しこそばゆかった。

 

 

「…この声は、きっと、あなたに子守唄を聴かせるためにあったの」

 

 

 

 彼が幼いころに消えてしまった「あの人」。

 彼を抱きしめることができなくなった「あの人」の手。

 彼の成長を見届けることができなかった「あの人」の瞳。

 彼に子守唄を聴かせることができなくなった「あの人」の声。

 彼のお喋りを聴くことができなくなった「あの人」の耳。彼と一緒に歩くことができなくなった「あの人」の足。

 

 彼を。

 気が付けば、彼の姿を追い求めるようになったのは、遺伝子がそう囁くから?

 私の全てだったはずの人の期待を裏切ってまで彼の願いを優先させてしまったのは、遺伝子がそう囁いたから?

 彼の願いを無視してまで彼の命を生きながらえさせようとさせたのは、遺伝子がそう囁いたから?

 「息子を守って」と、あの人の遺伝子が囁くから?

 

 記憶と魂は受け継がれても、その心までは受け継がれない。そう博士は言っていた。

 

 でも、ふつふつと湧き上がってくるこの感情。

 

 それは遺伝子が囁くから?

 

 私のカラダが、遺伝子に操られているから?

 私のココロが、遺伝子に侵されているから?

 

 遺伝子によって操られてしまう自分の行動。自分の感情。

 それはとても悲しいことだろうか。

 それはとても空しいことだろうか。

 以前の私なら、そう思っていたに違いない。

 昨日までの私なら。

 

 自分の自由にならないカラダ。

 自分の自由にならないココロ。

 ココロとカラダの乖離が、私を薄い紙きれのように引き裂いていく感覚に襲われ続ける毎日。

 こんなカラダは早く棄て去ってしまいたい。

 こんなココロは早く砕いてしまいたい。

 そう思い続けた日々。

 

 でも、今はそうは思わない。

 

 「あの人」のカラダ。

 リリスの魂。

 群体の器。

 幾つもの継ぎ接ぎだらけの記憶。

 

 これが。

 これこそが「私」という一つの個体なのだから。

 

 それらを全て含めた存在が、「綾波レイ」なのだから。

 

 そう思えば全てが受けいれられるような気がした。

 矛盾に満ち満ちた「私」という存在が、「私」の中の不可解な感情が、全て肯定されるような気がした。

 

 だから、自分のこの感情も、きっと間違いではない。

 悲しいものではない。

 空しいものではない。

 きっと、人が人を想うココロに、正解や不正解はないのだから。

 

 

 

 

だからそう。

 

ええ、きっとそう。

 

 

カノジョの。

 

カノジョたちの。

 

私の中に残るカノジョたちの想いも、きっと。

 

きっと。

 

 

 

 

「碇くん…」

 彼の、耳元に唇を近づけたまま、彼の、名前を呼んだ。

「…綾波…レイ…は…」

 カノジョたちの想いを、心に浮かべて。カノジョたちのココロを、その身に宿らせて。

 

 

 全ての「記憶」が色あせた写真、擦り切れてしまった古い古い動画フィルムのよう。

 私という存在がこの世に生まれた時から、捲り捲る「記憶」のページは、全てがモノクロの、何の彩りもない寂しいものだった。

 そのページを捲るのは、実に退屈な作業。

 誰も二度と顧みようとは思わないだろう、埃を被った萎びたアルバム。

 

 ところが、ある時期から。いや、特定の場面だけ、そのページは他のページとは様変わりし、とても瑞々しく、豊かに彩られている。

 

 

 包帯姿のまま、床に投げ出されてしまったワタシを抱き上げてくれた彼。

 

 病院の廊下ですれ違った彼。

 

 非常招集のため呼びに行ったら、校舎裏に倒れていた彼。

 

 突然、ワタシの部屋に訪れた彼。

 

 彼の父親の悪口を言い、ワタシにひっぱたかれてしまった彼。

 

 なぜ、エヴァに乗るのか問う彼。

 

 灼熱と化したエントリープラグからワタシを助け出してくれた彼。

 

 

 ―――「笑えばいい」という彼。

 

 

 そう。

 この頃から。

 この頃から、「記憶」のページは、急速に色彩を帯び始める。

 

 赤毛の女の子と仲良く踊る彼。…少し心がざわめく。

 

 丘の上から、全ての灯りが消えた街を、ワタシと、赤毛の女の子と、一緒に見下ろす彼。 

 

 ワタシの隣でラーメンを啜る彼。

 

 彼の匂いがする、初号機のエントリープラグ。

 

 エレベーターの中で、ワタシを「お母さんみたい」と言う彼。

 激しい動揺。

 ワタシの秘密を、彼が知っているかもしれないという恐怖。

 なぜそんなことに恐怖してしまうのか。分からず、余計に動揺してしまうワタシのココロ。

 初めての経験。

 

 虚無の海から生還し、ベッドですやすやと寝息を立てている彼。

 

 ワタシの散らかしっぱなしだった部屋を片付けてくれた彼。

 ア・リ・ガ・ト・ウ

 感謝の言葉。初めてのコトバ。

 

 親友の傷ついた姿に心を痛め、去ってしまった彼。

 

 それでも戻ってきて、ワタシたちを救ってくれた彼。

 

 33日ぶりに、ワタシたちのもとに還ってきてくれた彼。 

 

 ―――途切れてしまう、「記憶」のページ。

 

 

 3度目の目覚め―――。

 

 再開される「記憶」のページ。色褪せてしまっている「記憶」のページ。

 

 ワタシの淡泊な反応に戸惑っている彼。

 ごめんさい。碇くん。

 この時はまだ、遺伝子が囁かなかったみたい。

 

 心を赦せあう初めての男の子を、自ら手に掛け、絶望してしまった彼。

 

 アダム、そしてリリスと同化し、肥大化したワタシに恐れおののく彼。

 

 ワタシの膝枕に横になる彼。

 

 ワタシのもとを離れ、地上に戻ることを選んだ彼。

 

 ワタシのもとを離れ、地上に還っていく彼。

 

 

 彩り豊かに光を放つページ。

 そこには、いつも、碇くんが居た。

 彼と居るときだけ、その場面だけは、喜びと、悲しみが、満ち溢れ、ココロがどよめいていた。

 

 

 その「感情」が何なのか、「私」はまだ知らない。

 

 でもその「感情」を何と呼べばいいのかくらいは、「私」でも知っている。

 

 

「碇くん…」

 

 

 これは私の「ココロ」ではないから。カノジョの、カノジョたちの想いだから。

 だから私を抑えて、カノジョたちをその身に宿したつもりで、彼の耳もとに囁いた。

 

 

 

「…綾波…レイ…は…、碇くんを…愛してたわ。

 

 …心から……。

 

 誰よりも…愛おしいと思っていた」

 

 

 

 2人目?

 いや、3人目?

 どっちでもいい。

 どっちであろうと、この「感情」に間違いはない。

 私の言葉はカノジョたちのココロを、正確に表しているはず。

 

 

 右腕でしがみ付いていた彼の腕が、一瞬強張ったのを感じた。

 それが、耳元で囁かれてこそばゆかったのか、それとも囁かれた内容に驚いてしまったのかは分からない。でも、その後、急速に溶けていく彼の腕の力に、彼が自分の言葉を受容してくれたとを感じた。

  

 カノジョの、カノジョたちのココロを、私は伝えることができた、と思う。

 

 だから。

 ここからは。

 

 そう、ここからは、私自身の想い。

 

 カノジョたちのココロをこんな栗色の頭で喋ってしまったら、彼を戸惑わせてしまうだろうから、自分の髪が見えないようあえて彼の耳元で囁いてみた。

 

 ここからは、もう、違うから。

 ここからはもう栗色の頭を隠す必要はないから。

 

 だから、彼に密着していた顔を離した。

 彼から少し離れ、彼の顔をまっすぐに正面から見つめた。

 

 ああ、なんて顔をしているのだろう。

 あなたも、もう二十歳のはず。

 年齢の上では、もう大人のはず。

 私の中の遺伝子がこう言っているよ。

 大の男が、泣いちゃだめって。

 

 勇気をあげたい。

 彼に勇気を。

 生きるための糧を。

 

 

「覚えておいてほしい。

 

 あなたは色んな人から愛されていたことを。

 

 いつもではないかもしれないけれど。

 

 でもきっと、愛はいつもそこにあったわ」

 

 

 自分の想いだからだろうか。

 先ほどまでと違って、すらすらと、淀みなく滑らかに言葉が溢れていく。

 

 

「きっと、これからも、あなたを愛してくれる人が現れるわ…。

 

 だって、あなたは…ワタシたちに愛された…、ステキな人なん…だもの…。

 

 きっと…、…大丈夫…」

 

 

 ああでも。

 やっぱり何だか恥ずかしい。

 だって、自分の想いを言葉にすることなんて、初めてのことだもの。

 自分の想いをさらけ出すのは、やっぱり恥ずかしい。

 

 

「…きっと。…カノジョたちも、…そう…、信じて…いる…」

 

 

 自分はずるい女だと思った。自分の想いのはずなのに、最終的にはその言葉の責任をカノジョたちに丸投げにしてしまい、おまけに言葉もたどたどしくなってしまった。

 こんな意気地のない私を、カノジョたちは「情けない」と何処かでため息を吐いているかもしれない。

 

 アナタの、アナタたちの気持ちは、彼に十分に伝わっただろうか。

 ついにその口から伝えることができなかった、伝えたくても、その時間が与えられなかったアナタたちの気持ち。

 私の口は、それを過不足なく彼の耳に届けることができただろうか。

 

 ええ、そうね。

 きっとカノジョたちは私を褒めてくれていると思う。

 

 割れた窓ガラスから、心地よい涼やかな風が入ってくきて、私の前髪をさらさらと撫でている。

 きっと、カノジョたちの手が、風を通して、私の頭を撫でてくれている。

 「ありがとう」、と。

 「よく、頑張ったわね」、と。 

 それはおそらく、私の勝手な思い込みなんだろうけれど。

 穏やかな風は、今も私の前髪を、そして彼の前髪を、優しくさらさらと撫でていてくれている。

 

 

 私は理解した。

 

 ただ機械的に、自動的に再生産された私の4つ目の「生」。

 生まれた理由も、生きるための使命もなく、ただただ空っぽだった私の4度目の「生」。

 私という器。

 空っぽの器。

 なんにもない、なんにも残っていない。そう思っていた器。

 でも違った。

 空っぽの器。何も残っていない器。

 でも、その底。器の、一番の底。

 奥底に、こびりつくようにの残っていた何か。

 干からびていて、今にも蒸発してしまいそうな何か。

 乾いていて、でも、その分、かつて器を満たしていたどんなものよりも遥かに濃いもの。

 少し水を垂らせば、たちまちそれは潤いを取り戻し、豊かな光を湛え、芳醇な香りを漂わせ、あっという間に膨れ上がり、器から溢れてしまいそうになる。

 

 

 なぜ生まれたのか。

 なぜ生きるのか。

 

 罰を受けるため?

 そうかも知れない。

 

 贖罪のため?

 そうかも知れない。

 

 地下で死に掛けていたあの人を助けるため?

 そうかも知れない。

 

 人々の行く先のない慟哭の受け皿になるため?

 そうかも知れない。

 

 あの人に殺されるため?

 そうかも知れない。

 

 あの人の一番大切な人を演じるため?

 そうかも知れない。

 

 あの人と、彼を、再び引き合わせるため?

 そうかも知れない。

 

 彼に、彼の父親を殺めさせるため?

 …そうかも知れない。

 

 

 でも今、私は理解した。

 いいえ、私が、そうである、と、勝手に決めた。

 

 身勝手な私。

 でもよくよく振り返ってみれば、私はとても身勝手な生き方をしてきた。

 あの人の命令であれば、あの人のためであるならば、たとえその結果が多くの人々の不幸を招くことになると分かっていても、どうでもよかった。自分が必要ないと思えば、たとえ相手が求めてきたとしても、与えるということを一切してこなかった。身勝手に身勝手に生きて、そして挙句の果てには、あの人を裏切った。

 身勝手極まりない私。

 だから、この「生」では色んな罰を受ける羽目になってしまった。

 もう色んな罰を受けたらから。

 だから、もう怖くない。

 もう怖くないから、とことん身勝手になってやった。

 どんな罰でも受けてやる。

 10分後に私の頭上に隕石が落ちてきたって構わない。

 

 

 そう。

 

 きっとこの「生」は、今、この瞬間、この時のためにあったのだ。

 

 

 私という器の底に残っていた「愛」。

 こびりついていた「愛」。

 遺伝子に刻まれた「愛」。

 カラダに染み込んでいた「愛」。

 「記憶」に彩られた「愛」。

 それは彼への「愛」。

 彼に向けられた「愛」。

 彼のためだけの「愛」。

 あっという間に膨らんでしまった「愛」。

 器から、溢れ出てしまいそうなった「愛」。

 

 その「愛」を、次の器へと注ぐため。

 

 そのために、私は今日まで生きながらえてきた。

 もしかしたら4つ目の「生」だけでなく、「ヤナミレ」と呼ばれる存在それ自体が、今、この瞬間、この時のために生み出されたのではないか。そう思えてしまうほどに、この結論は私の心の中にすとんと納まった。

 

 私を再びこの世界に立たせたのは、人々の運命を司る天上の何某様ではない。

 きっと、この「愛」だ。

 

 あの地下で、私とあの人が引き合わされたのは、贖罪のためではない。

 無気力な「私」が器の中身を腐らせてしまわないよう、そして自らその器を砕いてしまわないよう、あの人は私の許へと遣わされたのだ。

 

 私が、彼とあの人を、引き合わせたのではない。

 あの人が、彼と私とを、再び引き合わせてくれたのだ。

 あの人の息子に、私の中に託された「愛」を届けさせるために。

 自分の命を賭してまで…。

 

 なんて身勝手なロジックだろう。

 なんて都合の良い解釈をしてるんだろう。

 でも、もう結果は生じてしまっている。

 だからもう、過程なんてどうでもいいじゃないか。

 

 

 今、「愛」は受け継がれたのだ。

 次の器へと。

 一滴残らず。

 

 

 ああ。

 これでもう本当に空っぽだ。

 私の器に唯一残っていたものが、次の器へと注がれ、もう私には本当に何もなくなってしまった。

 

 なんて晴れやかな気分なんだろう。

 なんて清々しい気分なのだろう。

 器の底に最後に残っていた欠片が吐き出され、ようやく魂が器にぴったりと収まったような気がする。

 心と身体がとても軽くて、今だったらこの不自由な左足でも、軽やかにスキップが、生まれてこの方一度もしたことがないスキップができてしまいそうだ。

 

 

 

 どこか高揚していて、ふわふわぽかぽかとした気分で天井を見上げている彼女の横では、深く深くこうべを垂れた彼がいる。その肩は小刻みに震えていて、膝の上に置かれた固く、固く握りしめられている両拳の甲には、目から溢れ出したものが滴り落ち、ちょっとした水溜まりを作っている。

 

「…ありがとう。…ありがとう…、綾波……」

 

 喉と顎が小刻みに震えてしまって、まともに声が出せないらしい。

 彼の口から繰り返されるその呟きはまともな形を成さず、彼女の耳には届かなかった。

 

 

 

 一人で自己満足な気分に浸ってばかりもいられなかった。

 

 彼が泣いている。

 声にならない泣き声をあげて、咽び泣いている。

 困った。

 自分の使命は果たせたと喜んでいたけれど、その事後処理のことまでは考えていなかった。

 自分の中に溢れていた「愛」を、本来持っているべき彼に届けたのだが、渡された相手がどんな反応を示すかまでは考えていなかった。

 彼が泣いている。

 大泣きしている。

 今までとは比べ物にならない程の勢いで泣いている。

 

 こんな時、どうすればいいの?

 

 「記憶」の箱をひっくり返す。脳に蓄積された「経験」を総動員させる。

 泣いている彼の隣で、困ってしまっている私。そう…、それはまるで…。

 

 ―――笑えばいいと思うよ。

 

 それはワタシたちの記憶の中でも、とても特別で大切な「記憶」。

 まるで魔法のような言葉だったけれど、でも今はちょっと違うと思うからちょっとあっちに行ってて。

 笑顔を向けようにも彼は俯いてしまっているし、何より私はこの身体に魂を放り込まれて以来、一度も笑っていないはずだから、きっと上手に笑えないと思う。

 

 どうしたらいい?

 どうすればいい?

 

 軽いパニック。

 

 

 そうだった。

 ああそうだった。

 答えはすぐ傍にあったんだっけ。

 

 さっき、自分で言ったばかり。

 あまりに気分がふわふわぽかぽかしていて、すっかり忘れてしまっていた。

 

 この手は、そのためにあるんだった。

 

 

 彼女は、彼の左腕に絡めていた両腕を離した。

 彼女の右腕が彼の背中に回り、首筋をなぞり、そして頭部へと。

 左腕は彼の右肩へと。

 彼の上半身を、自分の方へと引き寄せる。

 彼の身体からは、抵抗を感じなかった。

 彼の頬が彼女の胸に当たり、お腹を辿り、そして彼女の膝へとたどり着く。

 彼女は、膝の上に収まった彼の頭を、両腕でふんわりと包み込むように、そして自分の体温が伝わるようにしっかりと抱きしめた。

 

 この瞳は、そのためにある。

 

 彼の肩に自分の顎をそっと置く。

 肩越しに、今も咽び泣いている彼の横顔を見つめる。

 幼子が泣き止むのをそっと見守る母親のような穏やかな眼差しで。

 

 そしてこの声は。

 

 この声は…。

 

 …この声は…。

 

 

 さあ問題はここからだ。

 咄嗟にああは言ってみたものの、私は「子守唄」なるものを知らない。

 それどころか、生まれてこのかた歌というものを唄ったことがない。

 さっきは私の中の遺伝子に囁かれるがままに、そう口走ってしまってしまったのだけれど。

 残念ながら遺伝子は想いは提供してくれても、記憶までは提供してくれないようだ。

 今さら取り消すわけにもいかない。

 どうしよう。

 どうしよう。

 

 仕方がない。

 仕方がないから、私が唯一知っている歌。覚えている歌。

 子守唄では決してないだろうけれど。

 これしか私は知らないから。

 それを口ずさむことにした。

 歌詞までは覚えていないから、旋律のみをハミングで口ずさんだ。

 

 

 

 

 太陽が沈み、夜の帳がおりた湖。いつもなら虫や蛙の鳴き声が響くが、この夜の湖はしんと静まり返り、波紋の一つもない穏やかな湖面には真ん丸の月が浮かんでいる。

 湖の畔にぽつんと建っている小屋。唯一の窓のガラスは割れていて、その窓からは暖色系の淡い光と、小さな歌声が漏れ出ている。

 ランタンの朧げな光で照らされた部屋。ベッドに座る二人。

 一人はもう一人の膝の上に上半身を預け、もう一人はそんな相手の頭を優しく抱きしめている。

 膝の上の男性の頭を抱きしめる女性は、その耳元で、歌を口ずさむ。

 彼の後頭部に当てられた彼女の左手が、自身が口ずさむ歌に合わせるように、とん、とん、と軽いタッチで彼の頭を叩いている。

 

 それは母と子の姿。

 

 泣きじゃくる幼子を慰めようとする母。

 

 寝つきの悪い赤ん坊を、膝の上に乗せてあやす母。

 

 はるか昔から、世界のいたる所で繰り返されてきた、ありふれた家族の風景。

 

 

 

 

 歌声が聴こえてくる。

 

 小鳥のさえずりのような歌声。

 

 小川のせせらぎのような歌声。

 

 突然自分の中へと注がれた「愛」。

 止めどない「愛」。

 まじりっけのない、どこまでも純粋な「愛」。

 

 自分の中に洪水のように流れ込んできた純度100%の「愛」は、しかし自分の中に存在していた「あるもの」と反応しあう。

 

 そう。

 それは以前から自分の中にあったもの。

 ずっと前から、自分の中に存在していたもの。

 生まれた時から、確かにそこにあったもの。

 ずっとずっとそこにあったはずなのに、ずっと気づかないふりをしてきたもの。

 

 

 誰かが僕を呼ぶ声がする。

 色んな人が、僕を呼んでいる。

 

 真っ先に頭に浮かんだのはあのコの声。

「何やってんのよ。バカシンジ」

 

 ジャージ姿の彼。

「どないしたんやシンジ。なんや悩み事か。ほんならワイを一発殴ってみい。スッキリするで。ほんでその後はワイがお前を殴ったる」

 

 メガネを掛けた彼。

「なんだよ碇。そんなことで悩んでんの?それよりさ。今度横須賀にオーバーザレインボーが…」

 

 ソバカスの彼女。

「碇くん。アスカのこと、泣かせたらダメなんだからね」

 

 白銀の髪と紅玉の瞳を宿した少年。

「ありがとう、シンジくん。君に逢えて、嬉しかったよ」

 

 上官であり、同居人であり、仮初めの家族でもあったあの人。

「おかえりなさい、シンジくん」

 

 彼らだけではない。

 様々な人々の声が、僕を呼んでいる。僕に語り掛けてくる。

 

 彼ら彼女らから投げかけられるものは、時に憎しみだったり、時に怒りだったり、時に悲しみだったり。

 しかし、その中に混じって、確かに「それ」はあった。

 

 そして彼ら彼女らに混じって、あの人も僕の名を呼んでいる。

 

「よくやったな。シンジ」

 

 あの人も、僕の名を呼んでいる。

 

「そう…。よかったわね…、シンジ」

 

 

 彼女の言う通り。

 確かに「それ」はあった。

 いつも、僕の側に、いや、僕の中に「愛」はあった。

 

 その「愛」が、隣の彼女から注がれる大量の「愛」と反応しあい、たちまち何倍にも何十倍にも膨れ上がっていく。

 

 急に膨らんだ「愛」に慣れない胃がびっくりしてしまって、彼女が頑丈に掛けたはずの心の扉の鍵もいとも簡単に突き破ってしまい、嗚咽となって口から洩れてしまいそうになった。

 もったいなくて、だから口から洩れてしまいそうになったものは、感謝の言葉に変えて外に出した。

 

 ありがとう、綾波、と。

 

 

 慣れない、ただひたすら注がれ続け、溢れ続ける膨大な量の「愛」に、戸惑っていた自分の身体。

 戸惑い、強張っていた身体。それを、頭上から舞い降りてくる歌声は、温かいお湯に浸したように、じんわりとほぐし、ゆったりと溶かしていく。

 どこまでも温かく、どこまでも穏やかで、どこまでも満ち足りていて。

 いつまでもこうしていたい。

 いつまでも。

 

 歌声は同じ旋律を繰り返す。

 歌詞はない。

 彼女の鼻歌のみで繰り返される旋律。

 耳に馴染む旋律。

 いつかどこかで聴いたことがあるような旋律。

 

 記憶の遥か奥底に眠った、母親の記憶。

 母親に抱かれてた記憶も、子守唄を唄ってもらった記憶も、思い起こすことはできない。

 でも、ここでこの身を置いた、穏やかで、不可思議な体験の中で、もしかしたら沈んでいた記憶が揺り起こされ、掘り起こされたのかも知れない。

 自分はこの歌を知っている。

 彼女の口で奏でられるこの旋律を、僕は知っている。

 

 おそらく、子守唄になるよう、原曲よりも遥かに遅いデンポで奏でられる歌。

 ゆっくりと脈打つ心音に合わせるような落ち着いたテンポ。

 長調を基調とした、穏やかで、そしてどこか楽し気な旋律。

 

 「サビ」が終わり、歌は再び「Aメロ」に戻る。

 低い音階を行き来するやや平坦で、単調なリズムの旋律。

 歌は「Bメロ」へ。

 少し音階が上がり、続く「サビ」に向かってホップステップでもするかのような、軽やかな旋律。

 

 そして歌は「サビ」へと跳躍を踏む。

 

 そう。

 僕はこの「サビ」を知っている。

 この歌を知っている。

 

 

 

 抱きしめ、その横顔を見つめ、彼の心音に合わせてゆっくりと頭を撫で、子守唄を聴かせる。

 少しは癒されてくれたのか、腕の中の彼の身体はすっかり脱力していて、ただただ私の腕にその体重を預けてくれている。何の疑いもなく、全幅の信頼をもって、その身体を私に委ねてくれている。

 いつまでこれを続けていたらいいのだろうか。

 やめ時が分からない。

 やめようとは思わない。

 やめたいとも思わない。

 なんて贅沢な時間。なんて芳醇な時間。

 誰かを抱きしめているだけで、こんなに満たされた気持ちになれるなんて。

 とても素敵な時間。手放したくない空間。

 

 ところが、その時間は唐突に終わった。

 

 腕の中の彼の肩が、小刻みに震えている。

 今の今まで、すっかり脱力していた肩に、力が戻っている。

 小刻みな震えは、いつしか肩を頭を、上半身全体大きく揺らす震えへと変化した。

 見れば、彼の唇の隙間から綺麗な歯並びの歯が見え、ぎゅっと食いしばられている。

 

 そして、ついには彼は、彼を抱きしめる彼女の腕の中に自身の腕を滑り込ませ、その拘束を解こうとし始めた。

 彼の動きに抗うわけにはいかない。

 彼女は、彼の頭を抱きしめていた腕から、力を抜いた。

 彼はするすると彼女の腕からすり抜けると、上半身を起こす。

 

 今の今まで、彼の重みを感じ、彼の温もりを感じていた腕。

 ぽっかりと空いてしまった自分の腕。

 唐突に終わってしまった贅沢な時間。芳醇な時間。

 名残惜しむかのように、自分の腕を見つめる。

 

 そんな彼女の横で、彼はベッドに右手を付いて身体を支えながら、必死に左手で顔を覆った。

 堪えよう。堪えよう、と。

 せっかく彼女が与えてくれた癒しの時間に、これじゃあまりにも彼女に失礼だと、内からこみ上げてくるものを抑えようとし、内からこみ上げてくるものに負けそうな顔を隠そうとした。

 でも、ごめん、綾波。

 やっぱり無理だ。

 

 

「はっはっはっはっはっは…!」

 

 突然、声をあげて笑い始めた彼を、目を真ん丸にして見つめる。

 なぜ笑うのだろう。

 今のこの時間に、彼を馬鹿笑いさせる要素があっただろうか。

 

「くっくっくっく…くは、…はっ…ははははは…!」

 彼なりに何とか笑いを堪えようとしているのか、お腹を押さえ、声を押し殺そうとしていたが、ダメだったようだ。再び彼の馬鹿笑いが、小さな部屋の中に木霊する。肺の中を空気を全て吐き出すかのような大笑い。笑い過ぎて彼の鼻の両孔からスポンと吹き出し、放物線を描いて彼方へと飛んで行った脱脂綿を見送った彼女は、彼の笑い顔をまじまじと見つめる。

 知る限り、「記憶」のページを捲る限り、彼はどちらかと言えば控えめな性格で、表に出す感情も控えめで、少なくとも声をあげて笑う人ではなかったように思う。

 もしかしたら、これはとても貴重な場面に巡り合っているのかもしれない。

 彼の破顔を、興味深く見つめた。

 

 なぜ笑うのだろう。

 何がそんなに可笑しいのだろう。

 

 思い当たる節は……

 

 ある。

 

 何せ、初めて歌ったのだ。

 初めて、人に歌を聴かせたのだ。

 

 きっと、それはとても酷い代物だったに違いない。

 きっと、相当に音痴だったに違いない。

 聴くにも堪えない本当にどうしようもない歌声だったに違いない。

 

 でも。

 そうだとしても、何もそんなに笑わなくてもいいのに。

 あなたに手料理を食べさせる時もとても緊張したけれど、あなたに歌声を聴かせるのはもっと緊張したのに。もしかしたら、生まれて一番緊張していたのかも知れないのに。身体中の勇気を総動員させたのに。

 …そこまで笑わなくてもいいのに。

 

 私は子守唄というものを知らない。

 そもそも歌を知らない。歌を唄ったことなんて、一度もない。

 だから、唯一、覚えていた歌をあなたに聴かせた。

 

 どの街で暮らしても耳にした歌。

 どの街でも、聴かないことがなかった歌。

 どの街の、どのスーパーマーケットでも流れていた歌。

 お魚売り場、鮮魚コーナーの周囲では、必ずエンドレスで掛かっていたこの歌。

 何度も何度も聴いているうちに、自然と覚えたこの歌。

 私の唯一の持ち歌を、あなたに聴かせたのに。

 

 今も彼は、腹を抱えて笑っている。

 

 

 

 見れば、いつの間にか君が恨めし気にこちらを見つめている。

 いや。僕がとっても失礼な態度をとっていることは分かってるんだ。

 でも。

 いや、まさかこの場面で、あの歌を口ずさまれるなんて思ってもみなかったから。

 まさか君の口から、あの国民的ソングが出てくるとは思わなかったから。

 

「…ご、ごめん。ごめん…くくく…」

 

 誰にでも耳に残る、思い出の子守唄があるという。

 親に育てられた記憶がない僕には、それがなかった。

 でも今日から僕にも、思い出の子守唄ができた。

 もしいつか未来で、僕に何かの間違いで、僕なんかに子どもができてしまったとして。

 もしその子を寝かしつける役を与えられたら、きっと僕はなかなか寝付かない、泣き止まない子どもに向かって、今日君が僕にしてくれたように優しく抱きしめながら、今日君から聴いたこの歌を、僕の子どもに子守唄として唄い聴かせるんだろうな。

 「魚を食べると頭がよくなる」ことを説いたこの歌が子守唄に相応しいかどうかは分からないけれど。

 

 

 ようやく笑いが収まった彼。

 気づかないうちに、私はムッとした表情で彼を見つめていたらしい。

 目じりにたまった涙を拭いながら彼は言う。

 

「まったく…。やっぱり綾波には、敵わないよ…」

 

 そして朗らかに笑う彼。

 

 いったい何が敵わないのか分からないけれど。

 結局どうして彼が声を上げて笑ったのか分からないままだけど。

 

 柔らかな彼の笑顔を見て。

 

 頬がピンク色になっている彼の顔を見て。

 

 自然と私の顔も和らいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

司令。

 

碇司令。

 

今、どこに居ますか?

 

まだ、どこか近くにいらっしゃいますか?

 

それとも、もう「あの人」の許へと行ってしまったかしら。

 

 

司令。

 

聴こえていますか?碇司令。

 

あなたの子の笑い声を。

 

見えていますか?

 

あなたの子の笑顔を。

 

今、あなたの子は、笑っています。

 

あなたが、あなたの愛する人とこの世界で唯一血を分け合った子が今、

声を上げて笑っています。

 

あなた方の子にとって辛いこと、

苦しいことしかないこの世界で、

なおも彼は笑ってくれています。

 

 

 

 

ありがとう、碇司令。

 

私をこの世界に生まれさせてくださって。

 

ごめんなさい、碇司令。

 

あなたの期待を裏切ってしまって。

 

あなたの願いを引き裂いてしてまって。

 

 

こんなものが、あなたへの謝意になるとは思えないけれど。

 

贖罪になるなんてとても思えないけれど。

 

あなたの遺志を、

 

あなたの想いを、私なりに引き継いでみました。

 

 

不完全な群体の人類。

 

足りないものを補完し合い、

溶け合い、

使徒とすら混ざり合い、

一つの個体へと、

完璧な存在へと昇華する。

 

 

あなた方の計画を、私なりに真似てみました。

 

 

私の中にあった「愛」。

 

とても膨大で濃厚で、それでいてとても歪な「愛」。

 

その「愛」は今、

彼の中にあったとても繊細で、

脆くて、

今にも砕け散ってしまいそうな「愛」に注がれ、

互いに補完し合い、

溶け合い、

混ざり合い、

とても強靭な「愛」へと昇華し、

今、彼を優しく包み込んでいます。

 

きっとその「愛」は彼の中でさらに大きく豊かに育まれ、

やがては彼の器の中からも溢れ出し、

そして次の器へと注がれていくのでしょう。

 

その器で育まれた「愛」はさらに次への器へと、

いくつもの器へと、

引き継がれていくのでしょう。

 

そしていずれこの「愛」は、

地球と世界中の人々を温かく、優しく包み込むのでしょう。

 

その「愛」の中には、

紛れもなくあなたの「愛」も存在しています。

 

あなたはこの世界から旅立ってしまったけれど。

 

あなたの「愛」は失われません。

 

あなたの子が生きている限り。

 

きっとカノジョたちの「愛」も…。

 

碇くんが、笑っている限り…。

 

 

 

ようやく思い出しました。

 

司令。

 

碇司令はおっしゃいましたね。

 

あの日。

 

あの時。

 

あの場所で。

 

あなたは私に言いました。

 

それに私はもう一つ加えようと思います。

 

人類は、あなた方のように強くはないから。

 

あなたが愛した人の言葉に、

 

もう一つだけ、加えることを許してください。

 

 

太陽と、

 

 

月と、

 

 

地球と、

 

 

そして人々の「愛」があれば、

 

 

大丈夫。

 

 

彼らはきっと、強く生きていける。

 

 

 

 

 

司令。

 

 

碇司令。

 

 

こんなもの。

 

 

たったこれっぽちのこと。

 

 

それはあなたが思い描いていたことに比べれば、

 

 

取るに足らない、

 

 

とてもちっぽけなことかも知れませんね。

 

 

 

でも司令。

 

 

碇司令。

 

 

あなたの子は今、

 

笑っています。

 

 

 

あなたと、

 

 

あなたの愛する人とがこの世界に残した唯一の「愛」の証が、

 

 

今、笑っています。

 

 

 

 

これが私の、

 

 

 

 

私なりの、

 

 

 

 

 

身の丈にあった、

 

 

 

 

 

 

 

 

精一杯の、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――人類補完計画です―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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終幕 其の一

 

 すっかり陽が暮れて、明かりは闇夜に浮かぶ月の光と小屋の窓から洩れる灯りのみだった湖畔。

 そこが今は、眩い閃光に包まれている。

 

 小屋の周りを取り囲むように停められた数台の車。

 車のヘッドライト。設置された照明器具。

 車と車の間を、忙しそうに動き回る数人の人影は皆同じジャケットを羽織り、そのジャケットの背には二つの木の葉をあしらった内閣府のマークが貼り付いている。

 その光の中で、青年は背広姿の男性、この国の成人男性の平均身長を上回る背丈の持ち主の青年よりも、さらに頭半分ほど背の高い、がっちりとした体格の男性と話している。

 

 

 狭い未舗装路を車で走っていると、ヘッドライトに照らされた前方に、粗末な小屋が現れた。

 小屋の前には、こちらに手を挙げて合図するアルバイトの青年。

 車を降りて、青年のもとに歩み寄る。

 青年は、まるで守るように、小屋のドアの前に立っている。

「対象はこの中か」

「はい」

 問いかけに、短く答える青年。

 次々と小屋の周りに駐車される車。その中の一台に向かって、目配せした。車の中から鑑識班が機材を入れたケースを抱えながら降りてくる。

 

「彼女も…」

 青年に視線を戻す。

「彼女も中に居ます」

 少し思いつめた表情の青年。

「そうか」

 短いやり取りをしている間に、鑑識班がドアの前にやってきた。

 

 ドアを、守るように立つ青年。

「入ってもいいか」

 現場に入るための許可を、わざわざ部下から得る必要はない。

 それでも、この小屋の中は彼にとっての聖域のような気がして、そこにドカドカと足を踏み入れるのは気が引け、断りを入れずにはいられなかった。

 青年は頷くと、ゆっくりとドアから離れる。

「入る人数は最小限にしろ。それと、中に居る女性には一切構うな」

 上司から命じられた鑑識班は短く返事をすると、ドアを開け、小屋の中へと入っていった。

 

 

「…対象を撃った拳銃はおそらくあの窓の周辺にあると思います。真っ暗だったので、まだ探していません」

 ことの顛末を話し終えた青年は、「以上です」と言葉を切った。青年の報告を手帳に書き留めていた背広の男は、視線を手帳から青年へと移す。

「対象は、何か言っていたか?」

 

 なぜ対象は拘束でなく、殺害されたのか。なぜ我々は、この青年に実の親を殺させたのか。

 それは、彼の父親が持つ情報を全て封印するため。

 世界を転覆しかねない情報を、その持ち主ごと抹殺するため。

 青年が、父親から何か危険な情報を受け取っていないか。つい数時間前に実の父親をその手に掛けたばかりの青年に酷な質問をしているとは分かっていたが、確認しないわけにはいかなかった。上司として出来ることは、なるべく報告の時間を手短に済ませることで、彼をこの酷な時間から早く解放してやることだけだった。

 

「…どうした?」

 背広の男は困惑しながらそう言った。

 青年の口もとが笑っている。

 場違いな彼の表情。ますます彼の心境が憂慮された。

 上司の問いかけに、青年は頭を掻きながら答えた。

「はい。「一緒に夕食を食べよう」。父はそう言っていました」

「…そうか」

 青年から返ってきた何とも素朴な返答に、拍子抜けしたような声を出してしまう背広の男である。

「はい」

 何かを懐かしむように、今も小さく笑っている青年の表情。冗談を言っているようには見えなかったし、何かを隠しているようにも見えなかった。

「報告書を明日正午までに頼めるか?」

「はい」

「そうか。…大丈夫か?」

 背広の男が青年の肩にそっと手を置く。

 行きつく先が自分の父親の死というイバラの道を4年間も歩み続けてきた彼。熱心に仕事に励むその姿は傍から見ていて、煮え立った地獄の窯に父親もろとも落ちていこうしているようにも見えた。

 4年間も一緒にやってきたのに、彼のチームに対するどこか余所余所しい態度が変わることはなかった。まるでこの広い世界に立った一人で立っているような、そんな雰囲気を、常に彼から感じていた。

 肩を叩いてやることが、今の彼にとって何の足しにもならないことは分かっている。

 でも、上司は部下に伝えたかった。

 君は一人じゃない、と。

「はい。僕は大丈夫です」

 そう答える青年。

 緊張から解放された、どこか憑き物が取れたような穏やかな顔。

 この4年間、一度も見ることがなかった、光を宿した瞳。

 そんな部下の顔に、虚を突かれたようにきょとんとしてしまう上司である。

「その…大丈夫か…?」

 全く同じ言葉を繰り返してしまった背広の男。青年の心境ももちろん心配だが、それと同時に彼の身体のことも心配だった。

 青年から受けた報告は極簡単なものだったので、この小屋の中で繰り広げられた事の詳細は、明日にでも青年から提出される報告書で確認しようと思っていた。それにしても青年は彼の父親と、よほど激しい格闘を繰り広げたらしい。痛々しい青年の姿。彼の鼻の周りに残る血の痕。赤く腫れた両頬。右腕に巻かれた2つの包帯のうち、前腕に巻かれた方からは血が滲んでいる。

 何故か同じ質問を繰り返す上司に対し部下は少し困ったような表情を浮かべたが、上司の視線が自分の腕に巻かれた包帯に注がれていることに気付く。そして上司の言葉の意味を理解した部下は、前腕に巻かれた包帯を何処か愛おしそうに撫でた。

 歯を見せて笑う。

「知ってますか?工藤さん」

 名前を呼ばれ、背広の男は「何がだ?」と眉根を寄せた。

「ネルフの女はね、とても強いんですよ」

 

 

 小屋のドアが開いた。鑑識班の1人が出てくる。

「鑑識終わりました。仏さんを…」

 そう言いかけて、青年の姿が目に入り、咄嗟に口を噤む。

 背広の男に続きを促され、咳払いを入れる鑑識の男。

「ご遺体を運び出したいのですが」

「分かった」

 許可を得た鑑識の男は、駐車された車の中では一番大きいワゴン車のバックドアを開けると、中から担架を持ち出し、そして再び小屋の中へと消えていった。

 

 5分後。

 外で作業をしていた全員の手が止まった。

 全員の目が、「それ」へと集まった。

 

 開いたドアから出てくる、鑑識2人と、彼らに抱えられた担架。

 担架の上には、赤い斑点が浮かぶ白いシーツに包まれたもの。

 そしてその側には1人の女性。

 担架にぴったりと寄り添うように歩く、栗色の髪をした女性。

 女性は、もともと不自由な左足と痛めてしまった右膝で、たいそう歩きづらそうにしながら、懸命に担架に付いていっている。白いシーツの隙間から覗く、浅黒い手を握りながら。

 

 担架の上の白いシーツと、それに寄り添う女性の姿に、青年は目を奪われた。

 そろそろ自分の仲間たちが到着する時間になって、小屋から退出していた青年。ボロボロのなりの彼女に、男所帯の彼のチームがやってくる前に着替えておくよう促したからだ。女性は青年にわざわざ退出しなくてもよいと言っていたが、その辺の感覚も5年前と変わっていないことに彼は苦笑しつつ、小屋の外で待っておくことにした。

 そして着替えた格好で出てきた彼女。こげ茶色のカーディガンを脱いだこと以外はまるで変わっていない、濃紺のロングスカートと長袖の白いブラウス。しかしスカートには青年の鼻血の染みはなく、ブラウスも胸元まできっちりとボタンが留められている。5年前も彼らが通う中学校の制服以外の服を持っていなかった女性は、きっと今も同じスカートとブラウスの組み合わせしか持っていないのだろう。

 その濃紺のスカートが、人工の照明の強烈な明かりに照らされて、青年の目には淡い青色。彼らが通った中学校の女子制服のスカートの色に見えて、青年の心臓は僅かばかり高鳴ったのだった。

 

 はっとして、青年は同じように女性の姿に目を奪われていた上司の顔を見る。

 背広の男は青年の気持ちをすぐに察し、頷いた。

 青年は上司に頭を下げると、担架に向かって駆け出した。

 

 

 右膝の痛みを堪えながら、じっと担架の上の白いシーツに浮かぶ赤い斑点を見つめ、歩いていた。

 ふと、身体の右側が軽くなる。

 見ると、いつの間にか側に立っていた彼が、自分の右脇に手を差し込んで、歩きやすいように身体を支えてくれている。

 

 5年間、彼女が献身的にその身の回りの世話をしてきた人。

 その半生の大半において、彼女の心の大部分を占めていた人。

 そしてきっと今でも、彼女にとって、とても大切な存在であることに変わりない人。

 そんな人との別れを、自分がそうさせてしまった足の痛みで、邪魔したくはなかった。

 だからせめて彼女の歩みを助けようと、彼女の右脇に手を差し込み、身体を支えようと思った。

 

 ところが、彼女は白いシーツの下から覗く浅黒い手を握っていた左手を離し、その手で彼女の右脇に差し込んでいた彼の腕の手首を握った。

 彼女の手に、くいっと、腕を引っ張られる。

 引っ張られた先にあるもの。

 白いシーツの隙間から覗く、浅黒い手。

 

 彼女の顔を見た。

 私はもう十分だから。

 何も言わない彼女の顔が、そう言っているような気がした。

 

 彼女のその顔に、彼女のその手に促されるままに、その浅黒い手を握った。

 すでに氷のように冷たくなっている手。

 ごつごつとした厳つい手。

 古い火傷の痕がある手。

 

 

 父さんの手に触れたのはいつ以来だろうか。

 

 ましてや、父さんの手を握ったことなんて。

 

 

 最後の最後まで、自分に心を砕いてくれる彼女に感謝した。

 きっと、ここで彼女に促されなければ、自分は父親の手の大きさというものを、一生知らずにいただろうから。

 

 父親の手の感触を心に刻むように、じっと、結ばれた自分の手と浅黒い手を見つめていた。

 ふと思い、視線を側に立つ彼女に向ける。

 彼女に、空いた右手を差し出す。

 きょとんとしている彼女。

 そんな彼女の左肩からぶら下がっている腕の先の、彼女の小さな手を、半ば強引に握った。

 

 左手に父親の手、右手に彼女の手を握って。 

 

 二人の様子を足を止めて、黙って見守ってくれていた担架を抱える鑑識の男に、頷いてみせる。

 鑑識の男は頷き返すと、止めていた歩みを再開させた。

 彼らは、びっこを引きながら歩く彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてくれた。

 

 小屋からワゴン車まではほんの僅かな距離。

 いくら彼女の歩みがゆっくりだと言っても、ワゴン車にたどり着くまでの間はほんの僅かな時間。

 そんな短い時間であっても、ついつい想像を膨らませてしまう。場違いなことを考えてしまう。不謹慎にも口許に笑みを浮かべてしまう。

 

 それはいつだっていい。どこだっていい。

 青い空の下の公園でも、夕暮れ時の河川敷でも、たくさんの人々が行き来する商店街でも、波が押し寄せる浜辺でも。

 

 左手に父親の手。

 右手に彼女の手。

 

 家族と手をつなぎながら歩くって、きっとこんな感じなんだろうな。 

 

 

 

 自分の手から浅黒い手が離れ、担架がワゴン車の中に乗せられる。

 「さよなら、父さん」と呟くと、つないでいた彼女の手に、ぎゅっと力がこもった。

 

 ドアは閉じられ、黒い排気ガスを残して、狭い道を走り去っていくワゴン車。

 残された2人は、手をつないだまま、黙って、薄れていくテールライトの光を見守っていた。

 

 

 

 背広の男が二人の前に立つ。

 最後の別れの時間を与えてくれた上司に、青年は深くお辞儀をする。青年の謝意を頷くことで受け取った背広の男は、青年の横に立つ女性を見た。

 

「綾波レイ…だね?」

 背広の男の問いに、女性は黙って頷いた。

 

 自分から名前で呼びかけ、そして相手からそれを認める応答があったにも関わらず、背広の男は困惑の表情を浮かべている。

 

 国から莫大な予算が湯水の如く注ぎ込まれていたにも関わらず、徹底した秘密主義によってその資料が殆ど表に出ることはなかった組織。情報の殆どはかの極大事象によって破壊尽くされた本部と共に紛失しており、組織が所有していた巨大兵器のパイロットの一人であった女性についても、捜査機関が手に入れることができた情報は極僅かだった。背広の男が事前に確認できた彼女についての資料はA4サイズの書類一枚に収まる程度で国のデータベースには戸籍すらなく、手に入れることができた彼女の写真も、彼女の14歳のころの1枚のみだった。

 証明写真と思しき1枚。そこに映る、じっとカメラを見つめる少女。

 1度目にすれば2度と忘れることはないであろう、特徴的な容姿。

 真白い肌。空色の髪。真紅の瞳。

 その顔を見ていると、何故か心臓を鷲掴みにされているような錯覚に陥る。

 自分だけではない。

 新たに捜査対象に加わった女性の写真を部下全員に配ったところ、全員が1度見ただけで十分、あるいは2度と見たくないとでも言うように、その写真を返却している。

 今、目の前に立つ女性。

 その写真が撮影されたと思われる年から5年以上も経過していれば、ある程度容姿が変わっていたとしても仕方ないが。

 自然光ではない、人工の照明が当てられるこの場では断言はできないが、今、目の前にいる女性の髪は栗色で、瞳は鳶色をしているような気がする。

 たった1度見ただけで脳の奥底にこびりついてしまったあの写真の中の少女と、今目の前に立つ女性とはあまりにその容姿が違うので、「自分がそうである」と認められても、にわかには信じられないのだ。

 

 背広の男が、名前を問うたまま、固まってしまっている。

 相手の迷いを察した女性は、何かを思いついて、顔を伏せた。

 青年とつないでいた左手を離し、両手で右目に触れる。

 右の目もとをゴソゴソした後、続けて左目。

 何度か瞬きして、そしてすっと顔を上げた。

 

 真紅の瞳に見つめられる。

 途端に、心臓を鷲掴みにされるような錯覚。背中を伝う冷や汗。

 5年前の、あの一瞬の、空白の記憶を、掻き混ぜられたような感覚。

 自分よりも遥かに小さくて細く、その気になれば3秒で畳んでしまえそうな女性に見つめられ、咄嗟に視線をそらしてしまう。

 そんな背広の男をよそに、女性は右手に持っていた2つのカラーコンタクトレンズをぎゅっと握りしめて潰してしまうと、手を開いて地面にそっと捨てた。

 

「我々に同行してもらうが、よいか?」

 なるべく彼女の瞳を見ないように、彼女の小さな鼻を見つめながら話した。

 その鼻が、縦に揺れる。

 

「工藤さん…」

 青年は上司の名前を呼んだ。

 背広の男は腕時計に目をやる。

「3分やる」

 そう告げて、背広の男は彼らに背を向けると数歩ほど遠ざかった。

 

 

 

 一度離してしまった彼女の手を、もう一度握りなおす。

 彼女の、ルビーのような瞳。複数の光源に照らされているからか、万華鏡のようにきらきらと光っている。

 そんな瞳に見つめられて、たった3分しかないのに、彼は掛ける言葉を見つけることができずに、押し黙ってしまった。

 そんな彼の様子を見て、困ったような表情を浮かべる彼女。自分から時間が欲しいと申し出たくせに何も話せないでいる彼に対して、勇気を与えることができたと思ったのに未だにくよくよしている彼に、まだまだ心配ごとが尽きないといった表情だ。

 

「ありがとう…、碇くん」

 一向に喋れないでいる彼に、仕方なく彼女の方から声を掛けた。まったく、寡黙な性格はむしろこっちの方であるはずなのに。

 

「そ……」

 そんなことない、と言おうとしてしまい、辛うじて一文字目で止めることができた。

 一言目には否定の言葉。「でも」「いや」「そんなことない」。自分の口癖。悪い癖。

「僕こそ…、ありがとう、綾波」

 気の利いた言葉が思い浮かばず、結局彼女の言葉をオウム返しするだけになってしまった。

 気の利いた言葉のかわりに、握っていた手に少しだけ力をこめる。

 きっと聡い彼女は、心の温かい彼女は、これだけで自分の気持ちが伝わると思うから。

 そして、彼女の手の温もりを感じることができるのは、これで最後になるかも知れないから。

 

 これから彼女が辿る運命。

 それは彼にも予想できないことだった。

 

 自分たちの時は、未成年のいちパイロットとして問われた責任は最小限に留められ、むしろ保護される対象になった。

 でも彼女はどうだろうか。彼女が、自分たちと同じ扱いを受けるとは限らない。あの頃と情勢は変わってきているし、それに彼女と組織との関りは、自分たちと比べて遥かに深く、そして複雑だった。

 当時の組織が彼女に関わるあらゆるデータをその都度抹消してくれていたし、あの爆弾証言を残した老人も大人としての最後の責任を果たすべく、当時子供だったパイロットたちに不利に働くような証言は一つも残さなかった。青年らが拘束した元組織関係者も彼女の詳細について知る者は殆どおらず、あの女性科学者はその証言を取る前にこの国と海の向こうの大国との間で交わされた密約により国外に連れ去られてしまった。だから、彼の仲間たちに、彼女の組織内での重要性について気づいているものはいない。せいぜい、組織の最重要人物が特に可愛がっていた子供、という認識。なかには彼女はあの男の愛人だったという突飛な説を唱えているものもいたが。

 でも、調べが進めばいずれ彼女の正体が知れることになるかもしれない。

 彼女の情報がまるで残っていないのは、単に本部を襲った巨大な爆発と極大事象によって情報が紛失してしまったのではなく、組織が意図的に消去していたことに気づく者が、いずれ現れるかもしれない。

 彼女の姿を見た者が例外なく、恐怖にも似た感情を抱くことを、極大事象との関係に結び付ける者も現れるかもしれない。実際、それは正解なのだが。

 いや、真実が明かされなかったとしても、世界が恐れ、抹殺を望んだ男と、5年間も行動を共にしていたという事実を、彼らは軽視しないだろう。彼女が、あの男から何かしらの情報を受け取っていないか。世界を転覆させてしまうような恐るべき情報を、あの男から吹き込まれていないか。

 いずれ、彼女は容赦のない尋問に晒されるに違いない。

 それは、自分たちが受けたものとは比較にならないほどの、苛烈なものになるだろう。

 彼女の取り調べは公安警察が行うため、その身柄は内閣府直属の青年らのチームから公安に引き渡されることになる。そして下っ端の自分が公安の取り調べに立ち会うことなど許されないし、父親を捜し出したことでお役御免となる自分には、面会すら許されないはずだ。

 

 もし、彼女が自分の父親と同じように、彼女の存在そのものが危険であると判断されてしまったら。

 世界にとって、都合の悪い存在であると判断されてしまったら。

 自分の知らないところで、彼女の運命が人々の都合の良いように決められてしまったら。

 

「……?」

 握られた手が少し痛くなった。

 強張った顔の彼を見つめる。

「…碇くん?」

 その呼びかけに、彼は2回ほど瞬きをした。

 

 彼女の赤く輝く瞳に見つめられ、彼の顔が何かを決心したように一瞬引き締められ、そして和らぐ。

 

「綾波」

 彼の呼びかけ。自分よりもずっと身長が伸びてしまった彼の顔を見つめるのは、ちょっと首が疲れてしまう。

「…なに?」

「また会おう。綾波」

 迷いのない、光を宿した瞳が、自分を見下ろしている。

 

 彼女は少し目を伏せて、ゆっくりと首を横に振った。

「もういいのよ。碇くん」

 それは彼の提案を拒むものであったが、決して撥ねつけるような強い拒否ではなく、彼の言葉を優しく受け流そうとする声だった。

 

 彼女自身もおぼろげながら分かっている。

 この先、自分を待ち受けている運命に。

 

 きっと、今日、この日が、自分の旅の終着点なのだろう。

 そう考えると、自分の「生」はとても恵まれているように思える。

 

 もし人にはそれぞれに生まれた瞬間から課せられた使命というものがあったとして。

 生きている内に自らに課せられた使命に気付くことできる人がどれだけ居るだろう。

 ましてや、自らに課せられた使命を全うできる人が、一体どれだけ居ることだろう。

 

 私は間違いなく幸せだ。

 自分に託された使命を全うし、こんな満ち足りた気持ちで終着点を迎えられた人は、世界中を探してもそうは居ないだろうから。

 

 もう私は、向こう岸に辿り着いた者。

 だから、あなたはもう私に関わる必要はない。過去の残照でしかない私には。

 もう過去には縛られず、父の手からも、母の手からも、ネルフからも、エヴァからも、私たちが壊してしまったこの世界からも、…そして私の手からも解放されて、自由に生きてほしいの。

 

 

 彼女が僕の提案を拒むことは予想できることだった。

 だから僕は戸惑わない。

 そんなことで、僕の決心は揺らがない。

「君の気持ちなんて関係ないよ。僕はまた君に会いたいんだ」

 ははっ。我ながら、なんて身勝手な物言いなんだろう。

 きっと君はこう思っているんだろうね。僕に、過去には縛られず、父からも、母からも、ネルフからも、エヴァからも、僕たちが壊してしまったこの世界からも、…そして君からも解き放たれて、自由に生きてほしいと。

 違うよ綾波。そうじゃない。僕はもう逃げない。全てを受け入れることに決めたんだ。過去も、父も、母も、ネルフのことも、エヴァのことも、みんなのことも、この世界のことも、…そして君のことも。全て背負って生きていくことに決めたんだ。

 たくさんのものを背負ったはずなのに、不思議と今の僕の心と身体は軽く感じるんだ。だからこんな発言をしてしまったのだろうか。

 いつになく強気な僕の発言に、彼女は目を丸くしている。

 強気な僕の目が少しきつかったのか、彼女は目をそらしてしまった。

「…でも、きっともう無理」

 いつになく弱気な彼女の発言。そうかもしれないね。でも。

「そんなことない。今回だって見つけられたんだ。次もきっと見つけるよ」

 根拠なんてまるでないけれど。

 でも出来る気がするんだ。色んなものを受け入れた今の僕だったら、なんだって出来てしまうような気がする。君たちからたくさんの素敵な贈り物を受け取った今の僕は無敵なんだ。

「絶対に見つける。君がどこに居ようと。たとえ月の裏側にいたって」

 無敵な僕の強気な気持ちはどんどん加速度を増していく。

「そして君を僕のもとに取り戻すよ」

 止まらないんだ。軽くなった僕の足はもう止まらない。

「君は僕の……」

 

 止まらないはずなのに。

 

「僕の……」

 

 続く言葉が出てこなくて。

 

「……」

 

 …止まってしまった。

 

 

 君は…僕の…。

 

 何なんだろう。

 

 同僚?

 クラスメイト?

 友達?

 親友?

 戦友?

 恩人?

 愛しい人?

 恋人にしたい人?

 

 どれも正解のようで、正解じゃないような気がする。

 何というか。

 君と僕は、他人同士がある種の契約によって結ばれるような関係ではないような気がする。

 お互いがお互いを認め合うことで初めて成立するような、そんなあやふやな関係ではないような気がする。

 僕は、ずっと昔から、君のことを知っていたような気がする。

 それこそ生まれた時から。

 いや、もしかしたら生まれる前から。

 君はずっと僕の側に居てくれていたような気がする。

 もちろん、そんなことはあり得ないんだろうけれど。

 なぜかそんな気がするんだ。

 僕がこの世に生まれた瞬間に、一番側に居て。

 一緒に居ることがとても自然と思えるような存在。

 そんな関係を、いったい何て呼べばいいんだろう。

 

 この表現が果たして適切なのか分からないけれど。

 でも彼女がその紅玉の瞳を僕に向けて、じっと次の言葉を待っているから、考えなしの僕はとりあえずとばかりにこの言葉を使ってみてしまった。

 

「君は僕の…家族なんだ」

 

 そう口走ってしまった途端、ああ、何だかその言葉がとても当たり前のように、ごく自然に、君と僕の周りを包み込んで、じんわりと温かいもので満たしていくような気がする。

 そして僕がその言葉を口にした途端、彼女の顔が肩ごとぴくんと跳ね上がった。

「君は僕に残された唯一の家族なんだ。…家族は近くに居るべきなんだ。だから絶対に君を見つけ出す…、絶対に君を僕のもとに取り戻してみせる…」

 

 驚いたように僕を見上げる君の顔。

 君もそんな顔、するんだね。耳まで真っ赤じゃないか。

 その顔は喜びが半分、でも驚きと戸惑いも半分。

 まだ僕の言葉が信じ切れないかな?

 

「…どうやって?」

「…え?」

「どうやったら、私は、あなたのもとに戻れるの?」

 僕の行き当たりばったりな思考を見抜いているのだろうか。

 それでは不安とばかりに、具体的な方法の説明を求められてしまった。

「どうやって、って…」

「……」

「…その…」

「……」

「…えっと…」

「……」

「…うー…ん…」

「……」

「……」

「……」

 

 

「…いざとなったら、また一緒にフォース・インパクトでも起こしちゃおうよ」

 

 まるでイタズラでも画策する子供のような表情で言う青年。

 

「またみんなで混ざり合っちゃえば、きっと出会えるさ」

 

 

 もちろんそれは、まったくの無策のままただ思い付きで喋っていた彼が、彼女に具体的な方法の説明をせがまれ、進退窮まった末に漏らしてしまった冗談に過ぎない。

 冗談に過ぎないのだが、その言葉の意味を分かる者が聴いていたら、ゾッとするような、とても笑い事では済まされない冗談だった。

 

 そして、その言葉が意味するものを、この場で唯一理解できるのは彼女だけ。

 

 その彼女はちょっと困ったように、眉毛をハの字に曲げている。

 

「碇くん。お父さんと同じようなこと、言っているわ」

 

 彼女の指摘に、彼は照れ臭そうにはにかみながら言う。

 

「しかたがないじゃないか。僕は碇ゲンドウの息子だもの」

 

 彼の返答に、きょとんとした表情をする彼女。

 

 やがてその表情が、柔らかな微笑みへと変化する。

 

「ふふ…、そうだったわね」

 

 眩いライトの光の中で、彼女は少しぎこちなく、それでいて精一杯笑った。

 

 

 



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終幕 其の二《完》

 

 いつものテラス席のある喫茶店。パラソルの下、白い丸テーブルを挟んだ向かい側では、赤毛の彼女が頬杖をつきアイスコーヒーをストローで行儀悪くずずずと啜りながら、「私は今すこぶる機嫌が悪いですよ」アピールをしている。

 その反応を予想していた青年は、「はははっ」と乾いた苦笑いをしながら、ホットコーヒーをずずずと啜るしかできないでいる。

 

 恒例となった1月に1回の彼女とのデート(?)。

 彼が件の「出張」から帰ってきて初めてのデート(?)。

 世界中に、この年一番のニュースが駆け巡ってから、初めてのデート(?)。

 2人は毎回この喫茶店で落ち合っていたが、今回は青年が、列車に乗ってやってくる彼女が降りる駅まで迎えにいっていた。

 

 

 

「8月13日」

 いつもの彼女からの電話。

 4年間。欠かさず1月に1回、掛かってくる彼女のからの電話。

「分かったよ」

 いつもならここで、彼女は電話を切る。

 でもこの日は違った。

 日付を告げたまま、電話の向こうで押し黙っている彼女。

 何かを言おうとしているのか、何度か受話器に彼女の吐息が掛かって。でも結局何も言い出せなくて。

 約1分間の沈黙の後、声を掛けたのは彼の方からだった。

 

「あ、あのさ」

「……うん」

「僕が買ったあのオンボロ車」

「……うん」

「この度めでたく走行距離2,000kmを超えたんだ」

「……うん」

「だからさ」

「……うん」

「今度の8月13日は…」

「……うん」

「…僕が、あのクルマで、君を迎えにいこうと思うんだけど」

「……うん」

「…いいかな?」

「……うん」

「……覚悟しておいてよ。すぐにお尻が痛くなっちゃうから」

「……うん」

「あんなオンボロで、ちょっと恥ずかしいかもしれないけどさ」

「……うん」

「じゃ、8月13日の…」

「……うん」

「いつもの時間の列車だね?」

「……うん」

「じゃあその時間に駅まで迎えに行くから」

「……うん」

「改札口まで迎えに行くから」

「……うん」

「そこで待ってて」

「…………ずっと待っていたわよ。ばか」

 

 

 プラットホームに降りた彼女は、「待ってて」と言ってた癖に案の定先に改札口で待っていた青年を見つけた途端に駆け足になり、自動改札の扉に挟まれるというお約束を交えつつ彼の前に立つと、何も言わずに彼を抱き締めた。

 人々の往来が激しい改札口の前。

 中年サラリーマンはいかにも邪魔そうに表情を顰めながら2人を避けて歩き、初老のご婦人は若者のモラル崩壊を嘆くように頭を振り、高校の制服を着た女子3人組は口に手を当ててキャッキャと歓声を上げながら、2人の側を通り過ぎていく。

 突然の抱擁と周囲から集まる衆目に顔を真っ赤するしかない青年。

 それでも彼女の腕から逃れようとはせず、彼女の優しさに暫し身を委ねた。

 

 駅近くの保護観察所で本来の用事を済ませ、助手席に彼女を乗せて街中を走っている間は、クルマの乗り心地や青年の運転技術の感想など、他愛のない話しに終始した。

 

 喫茶店に到着し、いつものお気に入りのテラス席に座ってからも、彼女は大学の話し、就職の話し、流行りのファッションの話しなど、いつもと変わらない調子で喋り続けていた。

 おそらく青年を気遣っているのだろうが、彼女があまりにも「出張」の話しを避け続けようとしているので、仕方なく青年の方から「出張」の結果報告を切り出すことにした。

 

 彼女に報告した。自分の父親を発見したことを。

「……そう」

 

 彼女に報告した。自ら、自分の父親を殺めたことを。

「……うん」

 

 彼女に報告した。ついでに空色の髪の少女も(今は栗色の髪をした成年間近の女性だが)発見したことを。

「……は?」

 

 彼女に報告した。空色の髪の少女が公安に拘束されていることを。

「ちょちょちょちょちょ……」

 

 彼女に相談した。空色の髪の少女を自由にするために、法曹界を志す君の知識と知恵を貸してほしいと。

「はああああ!?」

 

 

 さっきまでのしおらしい態度の彼女は何処へやら。

 とっても不機嫌な彼女の出来上がりである。

 

 

 きっと、いや、絶対に不機嫌になるだろう。予想した通りの反応だ。

 彼女との付き合いは長い。

 何を言ったら、どんな態度を見せたら、彼女はこんな反応をする。だいたいのところは分かってしまうのだ。

 

 同じパイロットとして、同じ屋根の下で暮らした1年間。

 同じ病院で過ごした1年間。

 若干の空白の期間を挟んで、こうして月に1度会うようになってからの4年間。

 

 幼少期から中学生まで預けられていたセンセイの家を除けば一番。センセイたちともあの日以来連絡が取れていないから、今日まで続いているものとしては、彼女との関係は一番の長さだ。

 

 だから分かってしまうのだ。自分が何を言ったら、どんな態度を見せたら、彼女はこんな反応をするってことが。もっとも今日みたいに、公共の場、公衆の面前で、いきなりハグをされてしまうという、予想の範疇を大きく逸脱するような反応が時々あるところが、彼女の一筋縄ではいかないところではあるのだけれど。

 

 空色の髪の少女のことを伝えたら、きっと彼女はとてもびっくりするだろう。

 空色の髪の少女のことを助けてほしいと相談したら、きっと彼女はとても不機嫌になるだろう。怒っちゃうかもしれない。

 

 うん。

 ここまでは、彼女の反応は予想の範疇だ。

 ここまでは。

 

「…考えておいて」

 いきなりの相談だ。即決を迫るわけにはいかない。

 だから返答は今度会う時で構わないと伝えたんだけれど、うわっ、君って、そんな顔もできるんだね。そんなに眉間に皺寄せて唇をとんがらせちゃったら、せっかくの整った顔が台無しだよ。

 

 今日、伝えたいことは2つあったんだ。

 一つはカノジョのこと。

 もう一つは。

 

 これはずっと前から伝えたかったこと。

 伝えたかったんだけれど、こればっかしは口にしてしまうと、君がどんな反応をするのか予想できなかったから、だから臆病な僕は今日まで伝えられずにいたんだ。

 それに生と死の狭間をふらふらしてた僕に、こんなこと君に伝える資格なんて無いって思ってたからね。

 

 でもカノジョが教えてくれたんだ。

 カノジョと再会して、そこにあった確かな絆を感じて、僕は知ったんだ。

 

 人と人との絆の大切さを。

 人と人との絆が生み出す温もりを。

 

 カノジョとの間にあった確かな絆。

 

 だから、僕は、君とも、確かな絆で結ばれたい。

 

 だから、さ。

 

「ねえ、アスカ」

 

 うわ、相変わらず、すんごい顔してる。

 タイミング間違えちゃったかな。

 

 でも、やっぱり今言うよ。

 そうれがいいだろ?…綾波。

 君から受け取った大切なもの、とっても素敵なものを、僕の中にだけ留めておくなんてもったいないから、せっかくだから世界に向けて撒いていこうと思うんだ。

 だから…。

 

 

 

 

ありがとう、綾波。

 

僕に勇気をくれて。

 

 

 

ありがとう、綾波。

 

僕に「愛」を気づかせてくれて。

 

 

 

君に、

 

君たちに背中を押されて、

 

僕は前に進むよ。

 

 

 

 

 

「大切な話しが、あるんだ」

 

 

 

 

 

 

 

―おしまい―

 

 

 



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おまけ(綾波無双伝説)


蛇足な内容のうえにただ綾波におっ○○と言わせたかっただけの下種なお話です。




 

 

 空っぽの器。

 器の底に残っていたものを、次の器へと全て放り込んで、とってもスッキリした器。

 まるで2人目、3人目の部屋のような、何もない器。

 がらんどうの器。

 

 そう思っていたのに。

 

 器の底だと思っていたところ。

 最後に残っていたものが剥ぎ取られ、器の底が現れたと思ったら、底と思っていたさらにその向こうに、広大な空間が広がっていた。

 

 それはまるで図書館のような場所。

 膨大な「記憶」が本のように蓄積された、巨大な「記憶」の図書館。

 

 

 

 * * * * * * * * * 

 

 

 

 とある一室。

 部屋の中央には、部屋を2つに分かつようにテーブルが置かれ、さらにテーブルの上には透明なアクリル板が設置されており、分けられた区域を行き来できないようにさせている。

 テーブルには2人の女性。

 アクリル板を挟んで、互いに向き合うように椅子に腰かける、一人は背中まで伸びる赤毛を後頭部で一本に束ねた紺のスーツ姿の女性、もう一人は空色の髪を襟元まで短く切り揃えた女性。

 

 赤毛の女性は分厚いファイルに収められた書類をつまらなそうに捲りながら、空色の髪の女性に話しかけている。

 

「…ってことで。来週から検察の取り調べが始まって、そのあと家裁での審理が始まるわ。実際の裁判にはうちの事務所の先生が出てくるけど、それまでは一応アタシがあんたの担当者として取り調べに立ち会うことにしたから。分かった?」

「……」

「それにしても、あんたもツイてたわね。逮捕があともう少し遅かったら、普通に成人事件として刑事裁判になってたわ。来年には未成年の定義が変わるって言うし。ほんと、シンジに感謝しなさいよ」

「……」

「しかも担当弁護人があたしよ。このア・タ・シ。…ったく、法曹界に華々しくデビューするはずだったのに、初陣がこんなつまらない詐欺事件のしかも少年裁判だなんて。シンジのたっての頼みだから引き受けてやったの。あたしにも感謝しなさいよ」

「……」

「…ちょっと」

「……」

「何か言いなさいよ」

「…あなた…」

「は?」

「あなた、誰?」

 

 椅子から盛大にずっこける赤毛の女性。

 

「最初に名乗ったでしょーが!ってか、かつての同僚を忘れたの!」

 空色髪の女性は、ちらりと赤毛の女性の胸元にある名札を見る。

「…惣流…アスカ…」

「そうよ!」

「……変……」

「何がよ!」

「私が知っている惣流アスカとちょと違う…」

「はぁ?」

「私が知っている惣流アスカはもう少し鼻が低かった…。頬にはソバカスがあった…。眉毛はそんなに細くなかった…。唇はそんなに厚くなかった…。」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「…整形した?」

「せ・い・ちょ・う・したのよ!」

 

 2人がそんなやり取りをしている間に、赤毛の女性の背後のドアから一人の青年が入ってきていた。

「だから言ってるじゃないか。最近のアスカの化粧には迷いがあるって」

「うっさいわね!こちとら社会人1年目で色々試行錯誤してんのよ!ってか、接見できるのは担当弁護人だけよ。何堂々と入ってきてんの」

「はは、まあいいじゃないか」

 朗らかに笑う青年に、アクリル板の向こうの空色髪の女性もにこやかに笑いかける。

「シンジさん」

「やあ、レイ。元気してた?」

 今の今まで仏頂面だった空色髪の女性の豹変ぶりに、呆れてしまう赤毛の女性である。

 

 青年は頭を掻きながら言った。

「ごめん、レイ。やっぱり保釈は認められそうにないや」

「だから言ったでしょうが。少年事件では保釈は認められないって」

「うん。抜け道がないかとあれやこれや探ってみたんだけどね」

「弁護士の前で何さらっと危ないこと言ってんのよ」

「いいのよ、シンジさん。急いで出なければならない理由はないわ」

「うーん。せめて来月のミサトさん帰還パーティーにはレイにも出席してほしかったんだけどなぁ」

「いいのよ、シンジさん。生きていれば、また何時か会えるもの」

「そうだね。レイ」

「そうよ。シンジさん」

 

「…ちょっとお待ちください。お二人さん」

「どうしたの、アスカ?」

「え?なに?キモいんですけど」

「え?何が?」

「その呼び方」

「呼び方?」

「「シンジさん」?「レイ」?あんたたち、何時からお互いのこと下の名で呼びあうようになったの?」

「え?だってそりゃあ、ねえ?」

「ええ…」

「はいはいそこ、2人だけで分かったようにアイコンタクトしない」

「だってレイはもう、「綾波」じゃないから。お互い苗字で呼び合ったら変になっちゃうだろ?」

「いや、だからって」

「そもそもレイに碇家の養子になるよう言ったのはアスカじゃないか。その方が手続きを進める上で色々都合がいいって」

「そりゃね。ええ、そりゃそうよ。言ったのはアタシよ。でもさあ。何だかね。2人で名前呼びあっているの見てると、こう、鳥肌が立つのよ。いやね。ファーストが碇姓になったらね。あんたたち同士の呼び方も変わるってことはね。もちろん予想はしてたわよ。…でもね」

 赤毛の女性は身の毛でもよだつかのように自身の両腕を抱きしめた。

「これが、そ・う・ぞ・う・以上にキモかったのよ!はい、ファースト。こいつのこと呼んでみて」

「…シンジさん?」

「はい、シンジ」

「…レイ?」

「わあああダメダメ。やっぱ無理。むりむりむりむり、ムリなんですけど」

「じゃあどうしろって言うのさ。また戸籍からレイを外せっていうの?」

 

 

 

 あの湖のほとりの小屋で栗色髪の女性が公安の手によって拘束されて1週間後。青年は自身が予想していた通り、アルバイトをクビになった。

 ただの一般人となった青年に栗色髪の女性の処遇と所在はすぐに分からなくなってしまったが、青年は女性にあの小屋の前で誓った通り、熱心に女性の所在を捜した。アルバイト時代に培った知恵と技術とツテを使いまくり、時には法に抵触するような情報収集もしながら、必死に女性の居所を探った。

 そうしてようやく探り当てた女性の所在。これまた青年が予想した通り、まだ少年だった頃の青年と赤毛の少女が、大学病院から移送された公安所有の施設に彼女が拘留されていることを突き止めた。

 当然ながら、一般人の青年が施設に押し掛けたところで相手にされる訳がない。そして、彼女がいつまでこの施設に拘留されているかも分からない。他の施設に移送されるかもしれないし、もしかしたらあの女性科学者のように、知らない間に何処かの国だか組織だかに身柄を引き渡されるかもしれない。(もっとも、1月前のネットニュースに、某国の国営製薬会社が難病の特効薬を開発したという記事が載っており、その開発チームを撮影した写真のすみっこに、どっかで見たような特徴的な眉毛と目もとにホクロがある女性が笑顔で写っていたが)

 もし公安が女性の正体を掴んでいれば、人知れずに抹殺されるという最悪のケースも考慮しなければならなかったため、なりふりというものを当に捨てた青年は強硬手段に出た。

 ここ2~3年で活動を活発化させている某新興宗教団体に、女性がこの施設に不当に拘束されているとの情報を流したのである。

 その宗教団体は公安からも目を付けられている危険思想をもった団体で、簡単に言えば20年にも満たない間に2度も起こった大厄災を驕った人類に対する神からの天罰とし、来たる3回目の大厄災の日には彼らが奉る神さまを信じる者のみが救われる、と説いた排他的なカルト教団だった。

 青年は特別詳しい情報を教団に流したわけではなかった。簡単な手紙と、施設がある場所の地図、それに空色髪の少女の顔が写る写真を添えただけだった。

 手紙が届いた翌日には、施設は教団の信者数千人によって取り囲まれる羽目になる。

 きっと教団の連中は空色髪の少女が「あの時」に天から遣わされた天使さまだか預言者さまだかと勘違いしており(もちろん青年が勘違いするように仕向けたのだが)、それはそれで後々面倒なことになりそうだが、施設をぐるりと囲んだ人の壁によって施設への出入りは容易にできないようになってしまった。それはつまり、塀の向こうの彼女が、人知れず別の場所に移送されることがないか監視する、数千人のバイトを無償(切手代程度)で動員したことになる。

 

 その間、青年はすぐさま第二の手を打つ。この5年間で彼女がその身分を成り済ました個人を全て特定し、その親族を探し当て、片っ端から警察に被害届けを出させたのである。あらかた被害届けが受理されたタイミングを見計らって、青年はアルバイト時代にこっそり持ち出していた「彼女ら」の行動歴等を匿名で警察に提出。詐欺事件として立件するには十分過ぎる証拠が出揃ってしまった某市警察署刑事部の捜査第二課は、匿名で送られてきた証拠たちにご丁寧にも添えられていた女性の居所である施設に、身柄の引き渡しを求めた。

 

 公安は公安で、はっきり言って女性の身を持て余していた。件の男が常に身の近くに置いていたこと、その経歴が意図的とでも言えるような不自然さで抹消されていたことを考えれば、その女性が組織の中で何かしら重要な立場であったことは想像に難くなかったが、如何せん本当に綺麗に真っ新と経歴が消されてしまっているため、秩序安定を司る公安として女性を何かしらの罪で立件しようにも証拠がまるで無いのだった。せいぜい、指名手配中の男を匿っていたことくらいか。

 その女性の顔を見る度に、赤い瞳に見つめられる度に、全ての者が言い知れぬ不安や恐怖心を抱くということが、女性があの現象に対して深く関わっていた証左であると主張する者も居たが、それだけの理由で女性を人類史上最大となるテロ行為の実行犯であると証明するには、あまりにも根拠が貧弱過ぎる。

 もちろん、女性本人に対する徹底した尋問により、本人から引き出された証言によって罪を立件することもできるが、「上の人」には組織のトップを殺害したことで早々にこの件に幕を引きたい思惑が露骨に見えており、もうこれ以上余計な情報は掘り起こすなと言わんばかりの「上の人」からのそこはかとない圧力を忖度する公安の女性に対する尋問もそれほど熱が上がらなかった。結果的に、トップの死が、女性の身を守ることになったのである。

 公安としてはそろそろ女性を厄介払いしたい。女性科学者の時と同様にすでに幾つかの国や組織から身柄引き渡しの要求が来ているので、さっさと引き渡してしまおうか。公安がそう考えていた矢先に施設を危険思想集団の群れに囲まれ、あたふたしている間に某警察署の捜査第二課から詐欺事件での女性の身柄引き渡しを求められたのである。

 もう色々と面倒になってきた公安は、捜査第二課からの要求にもう面倒ごとは押し付けてしまえとばかりに、女性の身は青年の思惑通り捜査第二課へと引き渡されたのだった。

 

 かくして容疑者「綾波レイ」の完成である。

 担当弁護人は大学を中退し、某大手法律相談事務所に就職したばかりの、女性のかつての同僚。

 

 身柄引き渡しの日。青年は施設を囲む狂信者集団に紛れて、フェンスの向こう側の様子を見守った。

 警察が用意した移送用のヘリコプターに乗り込む瞬間の女性の姿が、ちらりと見えた。肩まで伸びた髪。毛染めはやめたのか、半分から下は栗色、半分から上は空色と、なかなかにエキセントリックな頭となっていた。

 女性はすぐにヘリコプターに乗り込んでしまったため、青年の存在には気づかなかったようだ。一方で女性を見送った、内閣府への出向から公安に戻っていた背広の男。かつて青年がアルバイトをしていたチームの責任者だったやたらとガタイの良い元上司とは目が合った。軽く会釈をする青年。青年の姿を見て色々なことに合点がいったようで、背広の男は「やってくれたな」と言いたげに苦笑いしていた。

 

 その日の夜に、青年の携帯電話に某留置所から電話が掛かってきた。

 電話の相手は、青年の唯一の家族。

 電話越しに聴く彼女の声はとても新鮮だった。

 お互いの健康や近況を報告しあった後、青年は提案した。

 

 本当の家族にならないか、と。

 

 沈黙。

 

 これは女性の担当弁護人兼青年の恋人である赤毛の女性からの入れ知恵であったが、青年も実に良い案だと思って彼女に提案してみたのだが。

 続く沈黙。

 やっぱりちょっと突飛過ぎたかな?

 

 と、青年がタイミングを誤ったと後悔し始めた頃。

 何やら受話器の向こう側から、何かがブンブンと降られている音がするのに気づいた。

 どうやら、相手はこれが電話であることも忘れて、何度も何度も何度もひたすら頷いていたらしい。

 

 女性の同意を得た青年は迅速に行動した。彼女の経歴が真っ白だったことをいい事に、彼女の出自をでっち上げたのである。

 すなわち、女性は青年の母親が青年の父親とは別の男との間でもうけた私生児である、と。これはつまり青年の母親が不貞を働いていたことになってしまい、しかも計算上不貞を働いたのは息子を出産した直後となってしまい、青年は彼の母親と父親が眠る墓の前で「このシナリオが一番都合良いから許してね」と土下座した。

 次に今や某ベンチャー企業の副社長に収まっている元作戦第一課オペレーターで前科持ちのメガネに頼み込み(脅迫し)、女性の出生記録を偽造させ、それを国のデータベースの中に潜り込ませた。そして身寄りのない彼女を組織が実験体として引き取り、その十数年後に同僚になった少年とが実は生き別れになっていた異父兄妹だったという感動的なストーリーを作り上げ、女性を青年の家の戸籍に入れてしまったのである。

 

 晴れて女性の正真正銘(?)の家族となり、また未成年の女性に対し、成人したての青年は彼女の後見人として堂々と彼女の処遇に関われるようになったのである。

 

 ここまではほぼ完ぺきに青年の筋書き通り。

 恐ろしいまでの行動力を発揮する青年に、彼の恋人は言ったものだ。

「あんた。だんだんお父さんに似てきたわね」

 青年は頭を掻きながら言った。

「仕方ないじゃないか。僕は父さんの息子だもの」

 恋人は青年の頭を軽くはたく。

「色んな女を泣かすところまで似たら承知しないんだからね」

 青年は照れ臭そうに笑う。

「父さんは母さんを失ってしまったからああなっちゃったけど。僕には君が側にいるから大丈夫だよ」

 つまり自分が不慮の死でも遂げてしまったら、青年は「ああ」なってしまうのだろうか。こいつが死ぬまで自分は絶対に死ねない、と世界の命運を背負ってしまった赤毛の恋人である。

 

 とにもかくにも、女性の身が秘密裏に処分されてしまう危険性が多分にあった公安の手から、彼女を救い出すことに成功した青年。公安警察から刑事部捜査第二課へ引き渡され、虜囚の身であることに変わりないが、これからは少年法が未成年の女性の身を守ってくれる。少なくとも秘密裏に処分されたり、どこかの国だか組織だかに引き渡される心配は大幅に減った。

 あとは裁判所が降す女性への処分を、いかに軽くしていくか、である。彼女が組織での実験体だったという、嘘とも言い切れないでっち上げのストーリーは、情状酌量の余地を十分に引き上げてくれることだろう。そしてその任を請け負ったのは。

「任せたよ。アスカ」

「肝心なところはあたしに丸投げなのね」

「それだけ信頼してるってことさ」

「あんた。それであたしをおだてたつもり?」

 と言いつつも、まんざらでもない表情を浮かべてしまう青年の恋人である。

 

 

 こうして本日、依頼人との初接見を迎えた新米弁護士だったが、話しはあらぬ方向へと向かっていた。

 

「呼び方なんでどうでもいいじゃないか」

「よかあないわよ!これはあんたの大事な大事な家族様の未来を左右する弁護人の精神衛生上、とてもとても重要な問題よ!」

「そんな…」

「はい。今日から戻しさない。あんたは「綾波」。あんたは「碇くん」。前と一緒」

「…別に、僕は構わないけど」

「私は、嫌よ」

「え?」

「は?」

 2人の視線が、アクリル板の向こうの女性に集中した。

 

 あの施設でチラ見して以来の彼女。肩まで伸びていた髪は襟元まで切り揃えられ、2人にとっては見慣れた空色一色の髪になっていて、5年ぶりに再会した時は日焼けで赤くなっていた肌もすっかり当時の白磁のような肌に戻ってる。その肌と同じような真っ白なブラウスに濃紺のロングスカートを着た女性は、顔の真ん中に収めた2つのルビーのような瞳で、アクリル板の向こうの2人を見つめていた。

 

「あんた今なんて言った?」

 不機嫌さを隠そうともしない担当弁護人である。

「私は、嫌」

「はあ?」

「え?どうしてかな?レイ」

「私とシンジさんは、もう家族なの。嘘しかなかった私の人生の中で、これは初めての嘘偽りのない真実の絆なの。とても大切なの」

「レイ」

「シンジさん」

 微笑みあう2人。青年の頭からは、元オペレーターのメガネに出生記録をでっち上げさせたことなんて、当に消えている。

「はいはいそこ!見つめあわないの!」

 アクリル板越しの2人の前に、手をひらひらさせる担当弁護人。

「惣流アスカ」

「な、何よ」

 いきなり名前を呼ばれ、たじろいでしまう担当弁護人。

「私たちは、もう家族、なのよ」

 彼女にしては珍しく含みのある言い方。挑戦的な言い方。

「お父さんもお母さんも亡くなってしまったシンジさんにとっても、私は唯一の家族なの」

 気のせいか、空色髪の女性の口の端が、少しばかり上がっているような。

「私はシンジさんの唯一の家族として、シンジさんが健やかな生活を送ることができるよう監督する義務があるわ」

「は?」

「え?」

「私はシンジさんの姉として、あなたが本当にシンジさんの恋人に相応しいのか、見定める責任があるの」

 

「はあああ!?」

「ええええ!?」

 

「ちょっと待ちなさいよ!!」

「ちょっと待ってよ!!」

 

「どうしてあんたなんかにそんなことされなくちゃなんないのよ!」

「どうして僕が弟でレイが姉になってるの!」

 

「シンジが誰と付き合おうがそんなの勝手でしょうが!」

「戸籍上は僕が2001年6月6日生まれで、レイが2002年3月30日生まれになってるんだよ!」

 

「そもそもなんであんた如きにこのあたしの価値を判断されなきゃなんないのよ!」

「生年月日でいったら、僕の方が兄になって当然じゃないか!」

 

「あんたうっさい!」

「へぶぅ!!」

 

 空色髪の女性の目が鋭く光る。

「…暴力。…マイナス5点」

「…何よ、今の」

 ぼそりと呟いた空色髪の女性を睨む赤毛の女性。

「あなたがシンジさんの恋人に相応しいか採点しているの。減点方式で最初の持ち点は100点。あなたがこの部屋に入った時から審査は始まってるわ。……今の点数、知りたい?」

「ど・う・で・も・い・い・で・す!!知・り・た・く・ご・ざ・い・ま・せ・ん!!」

「アスカ、落ち着いて…」

「あんたも見たでしょ聴いたでしょ!これがこの陰湿女の正体なのよ!知ってましたよあたしは!ええそりゃもう知ってましたとも!初めて会った時からこの女の本性を知っていましたぁ!」

「ちょっとアスカ!どおどお!」

 

「あなたたち!これ以上騒ぐようであれば接見を中止しますよ!」

 空色髪の女性の後ろで接見の様子を見守っていた留置所の女性職員が、もう見ていられないとばかりに声を張り上げる。

「構いません!はい!あたしはもう降りましたあ!この女の担当降りましたんでえ!どうぞ中止にでもなんでも好きにしちゃって下さあい!」

「…いいの?」

「何がよ!」

「これがあなたの初陣なのでしょ?あなたにとって大切なデビュー戦なのに、裁判どころか依頼人の信頼を得られないままに解任されたとなると…」

「うっ…」

「あなたの経歴に大変な傷痕を残すことになるでしょうね」

「見た!?見ましたか!?職員さん!今、この女、あたしを脅迫しましたよ!しっかりと記録に残しておいて下さいね!更生の余地なし!実刑判決でお願いします!」

「べ、弁護人との接見内容は記録には残せませんので…」

「伊勢佐木さん。もういいです。弁護人は取り乱して冷静な判断ができなくなってしまっているようなので。今日の接見はもう終わりにしましょう」

「ちょ、ちょっとレイ」

「ごめんなさい、シンジさん。でも安心して」

「え?」

「あなたに悪い虫がつかないよう、私がしっかりと守ってあげるから」

「は、はぁ…」

「悪い虫って誰の事ですかああ!あんたのような奴をね!性悪小姑って言うのよ!」

「ちょっとアスカ。お願いだから落ち着いて」

「惣流アスカ」

「何よ!」

「これだけは覚えておいてほしい」

「だから何よ!」

「あなたとシンジさんは、お互いが認め合った仲」

「はあ?」

「世間で言う、恋人同士」

「そ、そうよ」

「でも、それは所詮お互いの口約束に過ぎない」

「へ?」

「もし一方でもその仲を認めなくなれば、解消されてしまう脆く儚い絆に過ぎない」

「な…」

「どこまで行っても、所詮はただの他人同士」

「……」

「それに比べて、私たちは戸籍上でも姉弟という揺るぎない絆があるの」

「……」

「この国が私たちの絆を認めているのよ」

「……」

「それを忘れないで」

「な・に・勝・ち・誇・って・んのよ!所詮は姉弟以上にも以下にもなれない、つまらない関係でしょうが!」

「僕の方が弟だってことは、決定事項なんだね…」

「だったらあたしたちは明日にでも婚姻届け出してやるわ!」

「え!?」

「え!?」

「え!?」

「どうして伊勢佐木さんまで驚いてるんですか?」

「ご、ごめんさい」

「きゅ、急に何言い出すんだよ、アスカ…!」

「惣流アスカ。勢いだけで結ばれた男女は長続きしないって、高梨さんが言ってたわ」

「(だから高梨さんってホントだれ?)そ、そうだよ。こういう大切なことは、慎重に決めないと。だいいち、僕は今無職だよ?」

「あたしが養ってあげるわ!そうよ!そうそう!あんたがあたしんちに婿養子に来ればいいのよ!惣流シンジになればいいの!んで、あんたは一人寂しく碇姓を守ってればいいのよ!はっはっは!ざまあないわ!」

「つまりあなたは私の義妹になるというわけね。これは指導のしがいがありそうだわ」

「だ・か・ら・なんであんたが長姉になってんの!」

「あのぉ職員さん。ここって、喫煙所とかあります?」

 

「伊勢佐木さん、そろそろ」

「そ、そうね。接見時間はこれで終了です」

「はあい。イセザキさんとやら。さっさとその性悪女を監房にぶち込んでやってください。臭い飯でも食わせてやってください」

 

 女性職員は空色髪の女性の両腕に手錠を掛ける。

「ふっふっふ。あんたにはお似合いのアクセサリーだわね」

「ちょっとアスカ」

 空色髪の女性は椅子から立ち上がった。

 

「伊勢佐木さん?」

 監房まで先導するはずの女性職員が動き出そうとしないので、空色髪の女性は呼び掛けながら怪訝そうに女性職員の顔を見つめた。だが、空色髪の女性からは、女性職員の表情をうかがい知ることはできない。

 

 女性職員はサングラスを掛けていた。その女性職員だけでなく、この留置所の全職員には、空色髪の女性に近づく時はサングラスを掛けることを義務付けられている。彼女がこの留置所に移送された初日だけで、彼女の髪と瞳を見た者の中に体調不良を訴える者が続出したからだった。あてがわれた監房は当然ながら独房である。

 それはさておき、女性職員は弁護人でありながら依頼人を罵りまくる赤毛の女性に呆れつつ、一方でこの留置所に来て以来ほとんど口を開くことがなかった空色髪の女性が、人並みに喋っている姿に驚いていた。

 女性職員には空色髪の女性に、以前から聞いてみたいことがあった。今の雰囲気だったら、聴けるかもしれない。

 

「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけれど」

「なんですか?」

「なんであなた。私のことをずっと「伊勢佐木」って呼んでるの?」

「え?」

「は?」

「ん?」

 女性職員以外の3人が、頭の上に疑問符を浮かべている。

 

 暫しの沈黙のあと、青年が口を開いた。

「ど、どうゆうことですか?職員さん」

 女性職員は恐々とした様子で続ける。

「私の名前は「原田」よ」

「原田…さん。全然違うね…」

「誰かと間違えてんじゃないの?なっが~い逃亡生活でボケでも始まってるんだわ、きっと」

「ちょっとアスカ」

「人間違いなら別にいいのよ。そもそも私たちは収容者に対しては名前を明かさないから。あなたにもまだ一度も名乗っていないはずだし。…でも…」

「でも…なんです?」

「私の旧姓が「伊勢佐木」なのよ」

「え?」

「は?」

「それも2つ前のね。「あの時」の前までは、私は確かに「伊勢佐木」だったの。それで「あの時」に私の一家みんな消えちゃって」

「…そ、…そうだったんですね」

「私はその頃まだ高校生だったから、親戚の家に引き取られて養子になったの。その時苗字も「市川」に変わったわ。それで今年になって結婚して、今の「原田」になったの」

「わあ、そうなんですね。おめでとうございます」

「あ、ありがとう」

「バカね。今はそんなことどうでもいいのよ。問題は…」

「そう。私は自分の旧姓を名乗ったことない。先月からここに勤め始めてからは、同僚にも誰にも言っていないはずなの。もちろんあなたにも。それなのになぜ…」

「あんたが知っているのか…」

 3人の視線が、空色髪の女性の顔に集まる。

 

「レイ…?」

「あんた。説明できる?」

「どうして私の旧姓を知っているの?」

 

「…えっと…」

 空色髪の女性の目が珍しく泳いでいる。

「……その」

 

 空色髪の女性は、アクリル板の向こうの青年の顔を上目遣いに見つめた。

「レイ…」

 彼女の唯一の家族は、促すように彼女の名を呼んだ。

 

 空色髪の女性はゆっくりと頷き、そして呟いた。

「…知ってた、…から」

 

「知ってた…って」

 空色髪の女性の言葉を反芻する担当弁護人。

「前に原田さんと会ったことあるの?」

 青年の問いに、頭を横に振る空色髪の女性。

「え?じゃあ、知ってたって…」

「ちょっと待って。シンジ」

 青年の言葉を担当弁護人が制止する。

「あなた。職員さんの前の苗字が「市川」ってことは知ってた?」

 頭を横に振る空色髪の女性。

「でも「あの時」までの「伊勢佐木」って苗字は知ってたんだ」

 頭を縦に振る空色髪の女性。

「へーー」

「え、何?」

「ふーーん」

「どしたの?」

「ほーー」

「アスカ?」

 一人合点がいった様子の担当弁護人。

「ちなみにあんた。あたしがこの前中退した大学は知ってる?」

 頭を横に振る空色髪の女性。

「じゃあ、あたしがドイツ時代に卒業した大学は知ってる?これ、シンジにも言ってないけど」

 かの国で一番有名な大学の名前を呟く空色髪の女性。それを聞き、「Oh Mein Gott」と呟きながら頭を抱えてしまう担当弁護人。

「え?正解なの?アスカ」

「んじゃ。あたしのファーストキスはいつ?どこで?誰と?」

 空色髪の女性は少し頬を赤らめてから答える。

「2016年3月。葛城邸で。シンジさんと」

「…なっ!?」

 顔を真っ赤にする青年。さらに頭を抱える担当弁護人。

「まったく。…なんてこと…」

「え?アスカ?どーゆーこと?」

「…さすがは全人類の魂を集約したるリリス様ね…」

「え?」

「ふ……」

「アスカ?」

「ふっふっふ…」

「大丈夫?」

「はっはっはっは!」

 高笑いする担当弁護人。

「見えたわよ!勝ち筋が!」

 

 

 ちなみに婚姻届けについては、冷静になった赤毛の女性の「中卒の無職と結婚なんてやっぱ無理だわ」の一言で中止になった。帰り道に寄ったコンビニで、無料求人情報誌を全て持ち帰った青年である。

 

 

 

 

 取調室。

 机を挟んで、一方に赤毛の女性と空色髪の女性。対面するようにメガネを掛けた真面目そうな男性。

「検察官の安藤です。取り調べを担当します。君が碇レイ、逮捕時の名前は綾波レイ、だね?」

 頷く空色髪の女性。

「惣流アスカです。依頼人の弁護を担当する予定です。依頼人は未成年なので、取り調べには私が同席します」

「では、君に掛けられている嫌疑から説明するが…」

「あ、ちょっと待って」

「なんだね?」

「失礼ですがもう一度お名前を。フルネームで」

「安藤タカシだが」

「よければ名刺を頂くことはできませんか?」

 男性はスーツの内ポケットから取り出した名刺入れから名刺を一枚抜き、弁護人に渡す。

 名刺を受け取った弁護人はそれをテーブルに置くことなく、隣に座る依頼人の女性に渡す。

「どう?レイ?」

 名刺の名前を見つめる依頼人。

「安藤タカシ。〇〇県△△市出身。198X年5月10日生まれ。当時3X歳。既婚。趣味は家族には残業と偽っていた毎週末の風俗店巡り。当時のお気に入りのお店は〇△市駅裏のおっぱいパブ「たわわに実った果実ちゃん」。お気に入りのおっぱぶ嬢は右のおっぱいにあるほくろが可愛いハルミちゃんこと、当時大学生のオオヤマテルコさん。おっぱいを寄せられる度に谷間に万札を挟むことを至高の喜びとし……」

 

 

 ―――数日後。

 

 取調室。

 机を挟んで、一方に赤毛の女性と空色髪の女性。対面するように恰幅の良い強面の男性。

「検察官の轟だ。なんだか知らんが前任者が急に病休に入ったから俺が後任となった。俺は相手が未成年だからと言って甘くないからな。覚悟しておけよ」

「あのちょっと」

「なんだ、弁護人」

「名刺を頂けますか?」

「はあ?名刺?ったく、なんでんなもんが必要なんだ。ほらよ」

「ありがとうございます。……どう?レイ?」

「轟ケンジ。□□県××町出身。197X年11月22日生まれ。当時4X歳。バツイチ。」

「始まった」

「重度のマザコン。同僚の前では「オフクロ」と呼んでいるが、家では70過ぎの母親、轟ヨシエを「ママ」と呼んでいる。マザコンが行き過ぎて当時の嫁、轟マサコ、現手塚マサコに逃げられてからは、よりマザコンが重症化し、40を過ぎてもなお、ママとお風呂に一緒に入り、ママと寝所を共にし、週末にはママ相手に幼児プレイに耽る日々……」

 

 

 ―――数日後。

 

 取調室。

 机を挟んで、一方に赤毛の女性と空色髪の女性。対面するように無精髭を生やしだぼだぼのスーツを着た男性。

「検察官の宮園だ。前任者が…」

「名刺を」

「は?」

「名刺をください。はい、ありがとう。はい、レイ」

「宮園コウタロウ。〇△府□〇市出身。198X年2月19日生まれ。当時3X歳。既婚」

「はやっ」

「こう見えて好色の間男、女の敵。当時も結婚したばかりの妻、宮園ミホがありながら複数の女と関係を持ち、3人の女との間に隠し子を設けており、いずれも認知していない、女の敵。相手の女が裁判に訴えようとしたら検察としての己の立場と某大手法律相談事務所重役の父親の立場を利用して裁判を有耶無耶にさせ、悉く潰してきた女の敵。何も知らない妻から子作りをせがまれても一切応じようとしない、女の敵……」

 

 

 ―――数日後。

 

 取調室。

 机を挟んで、一方に赤毛の女性と空色髪の女性。対面するように高級そうなスーツを身に纏った男性。

「検事正の室岡だ。貴様が私の部下をいじめていると評判の綾波レイだな。どんな手を使ってるかは知らんが、私が出てきたからには多少の脅しなどは通用しないと思ってもらおうか」

「担当弁護人の惣流アスカです。検事正殿。よければ名刺を頂けますか?」

「ああいいが。…ん?あんた、どっかで見たことがあるな……。……おお、おおそうか。あの「世界を破滅に追い込んだ女」がこっちの世界に入ってきたってのは本当だったんだな。おいおい。世の中をこんな風にしてしまった奴が、他人の弁護なんてしてる暇があるのか?まずは自分の罪をきっちり償ったらどうなんだ」

「…レイ」

「はい」

「やっておしまい」

「室岡マサヒロ。〇×都□×区出身。196X年6月11日生まれ。当時5X歳。既婚。病的なまでのロリコン。18歳以下の女子でないと勃起しない変態機能不全者。妻は一回り以上年下で18歳の時に妊娠させた。妻が二十歳を超えると妻相手には勃たなくなり、〇△駅前で女子高校生相手に援助交際に励むようになる。2015年当時には中学生となっていた一人娘室岡ミヨコに欲情しだし、妻子が留守の間に娘の部屋に忍び込んでは娘のパンツを物色。娘のパンツを履かせた買春相手と事に及ぶ際中には「ミヨコ、ミヨコ」と娘の名前を叫びながら一心不乱に腰を振り……」

 

 

 ―――数日後。

 

 家庭裁判所の一室。

「……以上、10件の詐欺についてはいずれも立証には至らず、よって、綾波レイこと碇レイについては嫌疑不十分とすることが妥当であると検察側は判断致しました。したがって…」

「ちょっと待って」

 検事正の報告を制止する女性裁判官。

「あなたたち。彼女については証拠が十分に揃ってるって言ってなかった?」

「は、はい。そ…それ…が…」

 裁判官からの鋭い視線に恐縮する検事正。ちらりと横に立つ2人の女性を見る。弁護人の赤毛の女性。その向こうに、容疑者の空色髪の女性。

 弁護人の目が意地悪そうに細められ、その口が何事かを繰り返し囁いている。

「…みよこ…みよこ…」

 観念する検事正。

「それが、しょ、証拠を全て紛失してしまいまして…」

「なんですって!」

「申し訳ございません!」

 頭を深々と下げる検事正。

 得意げに話し始める担当弁護人。

「裁判長。証拠がなければ事件の立証は不可能です。依頼人を拘束し続ける根拠もありません。弁護人は依頼人の即時釈放を提案します」

「仕方がありません。容疑者、いいえ、碇レイさんはこのまま退席して下さい。荷物を受け取ったらそのまま帰ってもらって結構です。検察側は碇さんが迅速に保釈されるよう速やかに手続きに移るように」

「は、はい!」

 

 

 廊下を歩く2人。

 一人はぴんと背を伸ばした、実に自信ありげな様子で歩く赤毛の女性。

 一人は左足を引きずりながら、ひょこひょこと歩く空色髪の女性。

 2人の歩きは圧倒的に赤毛の女性の方が早いが、赤毛の女性は時折歩幅を狭め、足を止め、空色髪の女性の歩くペースに合わせてやっている。

 赤毛の女性がこそこそ声で空色髪の女性に話しかける。

「なんだか、えらいあっさり出られたわね」

「……そうね」

「大丈夫なのかしら。この国の司法って」

「…さあ」

「あんたって、もう何でもありね」

「…そう?」

「……ちなみに聴いておきたいんだけど。あたしの場合は…?」

「惣流・アスカ・ラングレー。ドイツ出身。2001年12月4日生まれ。当時15歳、中学生」

「…あるのね」

「2016年6月、当時の思い人だった15歳年上の男性、加持リョウジに対しおっぱい丸出しの半裸状態で関係を迫るという破廉恥っぷりを発揮し……」

「はいもういい。もういいです。…ってかおっぱい丸出しじゃないです」

「アスカがこういった話は少し盛った方がいいって…」

「でも良かったじゃない。これで前科持ちにならなくて」

「うん。…ありがとう。色々助けてくれて」

「何よ。今日はやけに殊勝じゃない。感謝の気持ちがあるんだったらさ。ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど」

「……?」

「なんであたしが弁護士になったかって、知りたくない?」

「別に…」

「今まであたしに対して嫌がらせしてきた連中に、合法的に仕返しするためよ。テレビ局や週刊誌はもちろん、あたしのブーツに画鋲を入れたあいつとか、あたしのカブをパンクさせたあいつとか、あたしのスカート裂いたあいつとか、あたしんちに落書きしたあいつとか、あたしに不幸の手紙大量に送りつけてきたあいつとか。あいつら大勢でやったら大丈夫とか勘違いしてるっぽいけど、全部、もう、ぜ・ん・ぶ証拠固めできてんだから。もう片っ端から訴えてやるんだから。ふっふっふ。ケツの毛まで全部毟り取ってやる…!覚悟してなさい…!っつっても、慰謝料勝ち取っても中には踏み倒そうとする不届き者もいるだろうから、そんな時にあんたのその力が役立ちそうなの」

「脅迫すればいいのね」

「理解が早いのは嬉しいけれど、言い方に品がないわ。「督促」と言ってほしいわね」

「…分かったわ」

「ははっ。あんたは今度からファーストチルドレン綾波レイじゃなくて、取り立て屋綾波レイよ。上手く行ったら取り分の何割かは分けてあげる」

 得意げに笑う赤毛の女性の横顔を見つめる空色髪の女性。

「ふっふっふ。あいつらがあたしに嫌がらせしてくるたんびに、頭の中にチャリーンと音が鳴って笑い堪えるの必死だったんだから…。まさにカモネギ状態。何だか知んないけどバカシンジが「僕が「あれ」を起こしたって名乗り出るよ」とか何とか言い出し始めるから、思わずグーで殴ってしまったわ」

 

 ―――復讐心に身を焦がし、見境が無くなってしまっている彼女。彼女から発せられるこの負のオーラはわが愛弟の情操教育に決して良い影響をもたらさない。

 

「……マイナス5点」

 

 ―――一方で、やられたらやり返す、ある種のこの逞しさはわが愛弟には少し足りないところ。彼女のこの攻撃的な性格は、内向的な彼の足りない部分を上手く補ってくれるかも知れない。

 

「……プラス5点。……プラスマイナスゼロ点」

 

 

「…なに?今の…?」

「知りたい?」

「知・り・た・く・ご・ざ・い・ま・せ・ん!さあ、これから忙しい日々が始まるわよぉ!」

 そう言いながら肩に腕を回してくる赤毛の女性を、迷惑そうに見つめる空色髪の女性。

「今回の慰謝料は総額で少なく見積もっても2億円にはなるわ。それを全部回収するのに長くて5年。集まったらさっさと弁護士辞めて投資を始めてそのお金を何倍にも膨らませるの。それで、…そうねえ。20億くらいになったら、次は何を始めようかしら」

「……それが…」

「ん?」

「…それが、あなたの生きる理由?」

「それがって、お金を増やすことが、ってこと?」

 頷く空色髪の女性。

「んなわけないでしょ。お金にしがみつく人生なんてまっぴらよ。お金はあくまで生きるための手段であって目的じゃないんだから」

「では、アスカの生きる目的ってなに?」

「はあ?生きる目的?」

 頷く空色髪の女性。

「生きる理由とか目的とかいちいち考えてちゃ人生つまんないわよ。確かに5年前までのあたしだったらエヴァに乗ることが人生の全てで生きる理由で生きる目的だったけどさ。でもその「全て」がああもあっさり奪われちゃったんだもの。あの日から生きる理由だとか目的だとか、そんな七面倒くさいこともう考えないようにしたわ」

「…そう」

「ま、でも。今、この時、この瞬間、この日を生きる理由ってものだったらあるけど」

「…それはなに?」

「家に帰ったらすっ裸になって、あっついシャワー浴びて、冷房全開の部屋で杏仁豆腐を食べる。これね」

「……そう」

「そ。もう、人生さいっこーの瞬間だわ」

「…ふーん」

「……」

「へーー」

「……」

「ほーー」

「何よ、その反応」

「…いいわね。それ」

「は?」

「私も杏仁豆腐、食べたい」

「何言ってんの。セン〇キ屋の超高級杏仁豆腐なのよ。絶対に分けてあげないんだから」

「…そう」

「んで?あんたはこれからどうするつもりよ?」

「…これから?」

「帰る家、ないんでしょ?今日から何処で寝泊まりするつもり?」

「碇くんのアパートに行くことになってるけど」

「はあああああ!何言ってんのよ!そんなの駄目に決まってんでしょ!」

「…どうして?」

「どうしてってあんた。そりゃ若い男女が一つ屋根の下で暮らせば間違いの一つや二つ起きるってものでしょうが」

「姉弟だもの。間違いの起きようがないわ」

「つい最近、自分の娘に欲情しているど変態公務員に会ったばっかでしょうが!ああ、もう分かった分かった。あたしんちに来なさい。寝床の一つくらいだったら何とかなるわ。セ〇ビキ屋の杏仁豆腐も食べさせてあげるから。んで、今後の訴訟と取り立ての計画でも一緒に練りましょ」

「…そう」

「いい!分かった?覚えておくのよ!男なんてのは所詮ケダモノだってこと!あっ、シンジ。こっちこっち」

 出入り口で2人を待っている青年の姿が見え、手を振りながら小走りに駆けていく赤毛の女性。

 その女性の背中を見送りながら、一人廊下で佇む空色髪の女性は呟いた。

「……男は、…しょせん…、…ケダモノ……」

 

 青年と赤毛の女性が空色髪の女性のもとに歩み寄ってくる。

「やあ綾波。おめでとう。これで晴れて君も……って、なんだかすんごい顔で僕を睨んでくるんだけど」

「碇シンジ。2001年6月6日生まれ。□〇県〇□市出身。当時15歳、中学生」

「へ?なに?これ」

「…始まったわね」

「2015年10月、深夜の葛城邸。間違えて碇シンジの寝所に入ってくる惣流アスカ・ラングレー。彼女が寝ぼけていることをいいことに、寝ている彼女の唇を奪おうとするも未遂に終わる」

「え…?」

「な…?」

「2016年9月、ネルフ本部内病棟。ベッド上には心神喪失状態の惣流アスカ・ラングレー。碇シンジは彼女が無反応であることをいいことに彼女の病衣の前をはだけさせ、おっぱいを露わにさせるとおもむろにズボンのチャックを……」

「うわあうわあうわあうわあうわあ!!!」

 

 綾波無双伝説が始まる。

 

 

 



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おまけ(無敵のシンジさん伝説)


ただ綾波にお○○ちゃんと言わせたかっただけのお話しです。



 

 

 とある2階建てアパートのドアの前で男と女が対峙している。

 アパートの住人であるタンクトップを着た長身茶髪ロン毛の男は、目の前に立つ紺色のスーツを着た、背中まで伸びる赤い髪を後頭部で束ねている女性を見下ろしながら、苛立ちのこもった声で言った。

「だから何度も電話で言ったじゃねえか!んな金はねえって!」

 自分よりも頭二つ分長身で、日焼けした肌にいわゆる細マッチョ系の引き締まった体躯の持ち主である男性の恫喝にも似た声にも、女性は物怖じ一つせず、腰に両手を付き、胸を張りながら言い返した。

「あんたの経済事情ははなっからお見通しなのよ。だからこっちも月10万円ずつの分割払いに応じたんじゃない。その支払いが3ケ月も滞ってるのよ。ほら、さっさと耳を揃えて出しなさいよ」

「こちとらあんたの訴訟の所為で職場をクビになっちまったんだよ!ったく、どーしてくれるんだ!」

「今後は人様に手出しする時はそれなりの覚悟を持ってからすることね。いい社会勉強になったじゃない。ほら、さっさっと授業料払う!」

「うっせーな!何度も言わせるなよ!クビになってこっちは金がねえんだ!なんだったらまた裁判所に訴えるか?差し押さえられるような財産なんて一つも無いけどな!」

「だから言ってるじゃない。あんたの経済事情はお見通しって。調べはついてるのよ。あんたの実家が地元じゃそれなりの名士で資産家だってことくらい。ほら。今からでもパパさんママさんにでも電話掛けて30万円くらいぱぱっと揃えてもらいないさいよ。なんだったら示談金と慰謝料合わせて400万円、パパさんママさんに工面してもらったら?」

「んなことできるか!」

「どーして。親子なんだからそれくらしてもらいなさいよ」

「できねーもんはできねーんだよ!分かったら帰れ帰れ!」

「どーしても支払いに応じないつもり?」

「何度も言わせんな!」

「ふーん。そっちがそのつもりなら、こっちにも考えがあるわ」

「んだよ?やろってのか?」

 これ見よがしに鍛えた二の腕を見せびらかす男。結局最後は腕力に物言わせようとする男に、女性は呆れたようにため息を吐いた。

「レイ…」

 赤毛の女性に呼ばれ、その背後にまるで影のように立っていたもう一人の女性が音もなくすっと一歩前へと進み出た。

 

 男は赤毛の女のことはよく覚えていた。何しろ自分がさんざん嫌がらせをし、アパートのドアや壁に落書きをしまくってやった相手だし、法廷ではけちょんけちょんに負かされた相手だったから。しかし、その赤毛の女の後ろに立つ、けったいな格好をした女には見覚えがなかった。

 濃紺のロングスカートに白のブラウス。そこまでは普通だが、首の上からが何処か奇妙だ。頭の上に乗っかった似合いもしないカンカン帽。その下から覗く襟元で切り揃えられた髪は、帽子に隠れてよく見えないがどこか現実離れした色をしている。そしてこれまた似合いもしない色付きの丸渕メガネ。

 まるで最終兵器の登場とでも言わんばかりの赤毛の女性の呼び込みに一瞬身構えた男だったが、出てきたのが赤毛の女性よりも頭半こ分低く、貧相な細い体つきをした女性だったので拍子抜けしてしまった。

 

 やや俯き気味の姿勢で前に出てきたカンカン帽姿の女性。

「レイ。懲らしめておやりなさい」

 まるで最後は「カッカッカ」と高笑いする諸国漫遊中の爺さんのような物言いをする赤毛の女性に促され、カンカン帽姿の女性はゆっくりとした動作で男の前に立つと、すっと顎を上げ、男を見上げた。

 

 油断し、あからさまに相棒を見下したような表情をしている男に、赤毛の女性は密かにほくそ笑んだ。あと少し待てば、相棒の口からは当人が身を捩らせたくなるほどの黒歴史大暴露大会が開始され、どんな相手でも最終的には土下座しながら「幾らでもお支払いしますから」と泣きついてくるのだから。

 あと少し待てば。

 待ちさえすれば…。

 よいはずだが…。

 

 相棒は、標的の男を見上げたまま黙っている。

 

 相棒が言うには、「それらの記憶」はまるで図書館の本のように彼女の記憶域の中に蓄積されているようで、「その記憶」を見ようと思ったら自ら本を探し出して閲覧しなければならず、自分自身の記憶とは違って自然に勝手に思い出したりすることはないのだという。例えば名前とか顔とか生年月日とか住所とか、相手の事前情報があればあるほど「記憶」の特定はし易く、今このように本人を前にして名前も分かっていれば「記憶」の特定は比較的容易のはずだが。

 

 相棒は今も男の顔を見つめたまま黙っている。

 

 もしかして標的の男の「記憶の本」に、黒歴史なるページは一枚も無いとでも言うのだろうか。

 この、見るからに脛に傷のありそうな男に、脅迫…もとい、素直に支払いを促せるような材料が無いとでも言うのだろうか。

 長い沈黙。

 

「なんなんだよ、こいつ」

 痺れを切らした男が、カンカン帽姿の女性の肩を小突いた。

 貧相な体つきの女性は、一突きで簡単によろける。

「ちょ、ちょっと」

 赤毛の女性は咄嗟に後ろに倒れかけた相棒の背中を支えたが、その衝撃でカンカン帽と丸渕メガネが地面に落ちてしまった。

「あ、やば」

 赤毛の女性は慌ててカンカン帽と丸渕メガネを拾い上げる。

 

 どん、と音がした。

 見上げると、男が背中をドアに貼りつけ、相棒を凝視している。

 驚きと、恐怖に満ちた表情で。

 

 男の目の前に立つ女。

 髪はどこか現実離れした空色。

 瞳は、禍々しい血の色。

 

 理屈は赤毛の女性にもよく分からないが、相棒の素顔を直視してしまった者は、皆一様にこのような反応をする。余計なトラブルを起こさないためにも、相棒の兄からは外に連れ出す時は他人にはあまり素顔を見させないようにと言われているため、赤毛の女性が用意したカンカン帽と丸渕メガネをさせていたのだが。

「まずっ」

 赤毛の女性が慌てて相棒の頭にカンカン帽を被せ、丸渕メガネを掛けさせた時にはもう遅かった。

 

「お、おまえは…、あの時の…!」

 男は脂汗を滴らせた顔で何かを言いかけ、そして飲み込む。

 そのまま固まってしまった。

 

 恐怖に満ちた表情の男。

 慌てた様子の赤毛の女性。

 そんな2人を他所に、当の空色髪の女性はずれたカンカン帽とずれた丸渕メガネというちょっと間抜けな出で立ちで、何事もなかったように涼やかな態度で相棒の赤毛の女性を見た。

「…行きましょう、アスカ」

 空色髪の女性は細い声でそう告げると、相棒の返事も待たずにアパートの階段を下りてしまった。

「え?ちょっ、ちょっと待ってよ!レイ!…んもう!」

 色々と想定外の事態に赤毛の女性は地団駄を踏む。

「これで終わりと思ったら大間違いなんだからね!覚えてなさいよ!」

 まるで小悪党の逃げ口上のような言葉を残しながら、慌てて相棒の背中を追いかけた。

 男はいつの間にか、ドアに背中を付けたままその場に尻餅をついていた。

 

 

 道を歩きながら赤毛の女性、惣流アスカは隣を歩く相棒に声を掛けた。

「レイ?何があったのよ?どうして何も言わなかったの?まさかあいつの過去に何の後ろめたいこともなかったなんてことはないわよね?」

 アスカの横を不自由な左足を庇うようにひょこひょこと歩く空色髪の女性、綾波レイ(本名:碇レイ)は首を横に振る。

「何よ。あるんだったらいつものように言ってしまえばよかったのに」

「あの場で言っていいものか、アスカの判断を仰ぎたかったから…」

 レイの言葉にアスカは軽くため息を吐く。

「ま、あたしの意見を尊重してくれるのは嬉しいんだけどさ。あんたもそろそろ自分で色んなこと判断できるようにならないと。あんたももういい大人なんだから」

「…そう?」

「そうよ。あんたの仕事っぷりをあたしはそれなりに評価してるんだから」

「そうなの…」

「ほら。自信持って」

「うん…」

「あんたはやれば出来る子よ!」

「…うん。分かった…!」

「よし!んじゃあ今からでも引き返してバシっと言ってやりましょう!」

「うん。言うわ。「あなた、人を殺したわね」って」

「はーい、ちょっと待ったー」

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

「いや、そりゃもうすぐに警察に行くべきでしょう」

 テーブルの対面に座る青年、碇シンジのその一言に、アスカは鼻から盛大にため息を吐く。

「…あんたって、ホントーにつまらない男ね」

 シンジがレイの説明を受けている間、ずっと不愉快そうに押し黙っていたアスカ。ちなみにこれが2人にとって半月ぶりの会話であった。

 アスカからのあからさまな不機嫌さをまとった鼻息に、シンジはびくつきながらも常識的な、アスカに言わせればつまらない発言を続ける。

「だ、だってそうじゃないか。これは殺人事件だよ?警察に任せるべきだよ」

 レイは隣に座るアスカを見た。腕を組み、足を組み、だらしなく椅子に座りながら明後日の方向を向いている。仕方なく、アスカに代わって遥かに口下手のレイが健気に続けた。

「遺体がないの…」

「…モノがなきゃ警察は動かないでしょうが」

 レイの言葉に、アスカの嫌味ったらしい呟きが続く。

「そ、そっか…」

 

 レイの片言の説明(それでも以前に比べれば遥かに流暢に話すようになっている)を総括すると、アスカが示談金と慰謝料の滞納分の督促を迫った男、斎藤タカシは、レイの中に蓄積されている「記憶」によれば、人を一人殺しているのだという。

 レイの能力はシンジも認めているところである。何しろ、シンジとアスカの一度目の破局の原因は彼女の能力によって暴露されてしまった彼史上最大の黒歴史に寄るものであったからだ。その能力の正確さは身に染みているのだ。

 そのレイが言うのだから、斎藤という男が過去に大きな罪を犯しているのは間違いないのだろう。

 

「それで…、僕はどうしたら?」

 レイはアスカを見た。やはり、不機嫌満載な顔で明後日の方を見ている。レイは仕方なく続けた。

「相手の人の名前と顔までは分かっているの…」

「殺された相手の素性を調べればいいんだね?」

 頷くレイ。

「はい、これ。手付金」

 そう言って、やや乱暴気味に万札をテーブルに置くアスカ。

「い、いらないよこんなの」

「なんでよ?あんたに仕事振ってんだから、受け取んなさいよ」

「身内だもの。受け取れないよ」

「はあああ?身内ですってえええ?」

 面白いように眉毛を吊り上げ、口を「へ」の字に曲げるアスカ。表情筋を自在に操る彼女を、何処か羨ましそうに見つめるレイである。

「ご、ごめん」

「ふん。レイ。先にシャワー浴びちゃうわよ」

 アスカは立ち上がるとレイの返事も待たずに部屋を出ていってしまった。

 

 落ち込んで項垂れている、恋人との3度目の破局を迎えているわが兄を見つめる。

 暫しの沈黙。

「…アスカ、僕のこと何か言ってた?」

 頭を横に振るレイ。

「……そう…」

 レイはテーブルの上の彼の手に自分の手を重ねた。

 少しヒンヤリとした手。それでもその手を通して、彼女の温もりが伝わってくる。シンジの表情が少しだけ和らいだ。

「…うん、ありがとう、レイ」

 

「…シンジさん…」

「なんだい?レイ」

「私の先月分のお給料、まだ頂いてないのだけれど…」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「…もう少し待ってくれるかな?」

「……シンジさん…」

「なんだい?レイ?」

「…そーゆーことろだと思うの」

 

 

 項垂れるシンジを残して部屋を出たレイ。ドアの向こうに、アスカが所在なさげに立っていた。もじもじしながらアスカはレイに言う。

「…あいつ。あたしのこと、何か言ってた?」

 首を横に振るレイ。

「なんなのよ、あいつ。さっさと謝りにこいっつーの」

 そう小声で怒鳴りながら、隣室のシンジに聴こえない程度の音で壁を殴る。

「あいつ、ちゃんとお金は受け取ったの?」

 アスカが置いていった万札はきちんとシンジのポケットに収められたので、レイは頷く。

「しばらく見ない間に痩せちゃってるじゃない。ちゃんと食べてるの?あいつ?」

「…心配なら、一緒にご飯、食べればいい」

「嫌よ。前はあたしの方から折れちゃったからあいつを付け上がらせることになっちゃったんだから」

「アスカが居ないと、食卓が寂しい…」

「う…」

「せっかくみんなで一つ屋根の下で暮らしてるんだもの。食事くらいみんなで摂りましょう」

「か、考えとくわよ…。ってか、あいつの仕事は上手くいってんの?」

「先月の依頼受注は5件」

「5件?たったの?ってかそのうち3件はうちの事務所からの調査依頼よね?」

 頷くレイ。

「だああ!ほら!だから言ったのよ!探偵業なんてそんなにうまくいきっこないって!」

「依頼数そのものはそこそこある。でも従業員が2人しかいないから、受注できる数が限られてくる」

「儲けは出てるの?」

「私のお給料は先月分がまだ未払い。…どこ行くの?」

「やっぱあいつのこと、一発殴ってやろうと思って」

「やめて。これでも彼、精いっぱい頑張ってるの」

「あんたはあいつのこと甘やかしすぎなのよ!」

「私はアスカからの報酬で十分お金があるから。今は彼の夢を支えてあげたいの」

「…あんた」

「なに?」

「もし誰かと付き合うことになったら、その時は絶対に私に相談しなさいね」

 なぜ?と首を傾げるレイ。

「相手がどうしようもない甲斐性なしだったらどうすんの?貢ぎまくって身を滅ぼしてしまうこと請け合いでしょう、あんたは」

 恋人の開業資金を半分出してやったあなたが言えたことじゃないでしょう、というセリフは飲み込んだレイである。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

「この中に該当の人はいる?」

 シンジがテーブルの上に並べた若い男性が写った数枚の写真。レイは即座に一枚の写真を指差す。

「ん…。彼は○△県○×市出身の木下トオルだね。199×年生まれ、当時は□△大学の学生だったようだ」

 シンジは鞄から取り出したファイルを読み上げる。

「サードインパクトの2週間後に両親の名前で警察に捜索願が出てる。知っての通り、当時の警察は、って今もだけど個々の捜索願に人手を割く余裕なんてなくて、ろくな捜査もされないまま「未帰還者リスト」入りになったようだね。つまり、国の記録上では彼はサードインパクトでの行方不明者扱いとなっているようだ」

 その後もシンジは「キノシタトオル」なる人物の個人情報を次々と読み上げていく。

 それをレイの隣で聴いているアスカは、今さらながらに国の捜査機関仕込みであるシンジの調査能力に感服した。彼女が勤める法律事務所が彼に様々な調査依頼をするのも、決して身内贔屓というわけではなく、たった1日で名前しか分からない人間をここまで詳しく調べ上げる彼の才能を買ってのことだ。

 

(だから報酬単価をもっと上げろって言ったのよ…!)

 

 シンジの探偵業の報酬設定。それが、彼と彼女の3度目の破局の原因である。自ら開業したとは言え、いきなり強気の報酬設定をするほど自信家ではないシンジはお手頃価格の報酬を設定したが、開業資金の半分を出した身であるアスカはきっちりと儲けが出るようシンジが設定した倍の報酬にしろと訴えた。3日3晩に渡って繰り広げられた喧々囂々の口論は、アスカの3度目の「あたしたち、もう別れましょう」の言葉で幕を閉じられたのだった。

 ちなみに1度目の「もう別れましょう」の後は、レイのアスカに対する「仲直りしないと取り立て手伝わない」の一言で3日で復縁。2度目の「もう別れましょう」の後は、朝ごはん担当のレイが毎日ネギスープを出すようになったので、2人の「もう仲直りしますから勘弁してください」で1週間で復縁した。

 アスカは密かに今回もレイがシンジとの仲を取り持ってくれるのではないかと期待していたが、3度目の破局からすでに半月。レイからそれらしいアクションはなく、悶々とした日々を過ごしているのだった。

 

 あらかた情報を読み終わって、シンジは2人に聴いた。

「被害者の身元はこれではっきりしたけど。…これからどうするの?」

「この…、木下くんだっけ?彼の遺体が見つからないことにはどうしようもないわね」

「…彼が今、何処にいるかは私にも分からない。でも、彼が何処で死んだかなら私、分かる…」

「…あんた。もう警察に就職しなさいよ。あんたが居れば未解決事件、大方解決するんじゃない?」

「…三億円事件の犯人なら分かるけど…」

「まだ生きてんの?」

「2016年の時点では…」

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 田舎道を走る、ガタピシ音を響かせるオンボロ軽自動車。運転席にはカンカン帽と色付きの丸渕眼鏡をした女性が、助手席には赤毛の髪の女性が座っている。

 

 所々陥没している路面。そこを猛スピードで走る軽自動車の貧相な車体が面白いように跳ねる。

「あんたって、相変わらずハンドル握ると性格変わるわね」

「アスカも早く免許取ればいい」

 5年間無免許運転を続けてきたレイにとって、正規の運転免許の取得は容易いことだった。一方で人型兵器の操作には天性の才能を見せ、ドイツ時代には戦闘機も乗り回していたアスカは、教習所に通い始めて早3年。未だに普通自動車免許取得に至っていない。なんでも「私の辞書に後退の文字はない」「エヴァも戦闘機も後退は必要なかったから」だそうだ。

 エヴァに乗り、戦闘機に乗ってきたアスカにとって、揺れる軽自動車の車内など揺り籠の中に等しいが、座り心地最悪の座席シートが路面の衝撃をもろに腰に伝えてくるのがいただけない。おまけに今、ハンドルを握っている空色髪の女の運転がなかなかに乱暴で、急加速急制動を繰り返すため余計に衝撃が腰に響く。

 3人の中で運転免許証を所持し、安全運転を心がけている唯一の人物は今日は同行していない。彼は可愛い妹から「クルマ貸して」と言われ、「お願いだから無事に返してよ」とその顔に不安を色濃く浮かべながら愛車の鍵を渡し、仕事に出かけたのだった。

 

「本当にこの道で合ってるの?」

 念のため地図を用意していたアスカだが、レイは初めて通る道であっても一度も確かめることなく車を走らせている。

「今、彼の記憶と目の前の景色を重ね合わせながら走ってる。当時と殆ど変わっていないから間違いない」

「何よ、その便利なVRナビは」

「あっ」

「な、何?」

「お爺さんが道端でおしっこしてた」

「…いちいち言わなくてよろしい」

 

 

「…いつつつ…」

 腰を摩りながら車のドアから出てくるアスカ。

 先に降りていたレイは、クルマの周囲を見渡している。

「ここなの?」

 アスカの問いにレイは頷く。

 

 2人が住む街から車で20分ほど走った郊外の田園地帯。その田園の外れの小高い丘の上にある溜池。その溜池周辺を整備した公園に2人は立っていた。公園の三方は溜池を囲むように森林が生い茂り、残りの一方は丘の下の田園風景を眺めることができる展望台になっている。郊外の公園で訪れる人も少ないのか、構内には人っ子一人いない。「事に及ぶ」場所としては、決して悪いロケーションではなかった。

 

 レイにとっては初めて訪れた場所。

 でも知っている場所。記憶にある場所。

 曖昧で鮮明な既視感に襲われる感覚は、あまり気分の良いものではなかった。

 

 2人で遊歩道になっている溜池の畔を歩いていると、ふとレイが足を止めた。

「どうし…っ」

 声を掛けようとして、アスカは言葉を飲み込む。

 ただでさえ白いレイの顔が青ざめ、頬を脂汗が伝っていた。

 

 

 

 

 目の前に男性が立っている。

 池の畔の遊歩道の真ん中に、彼は立っている。

 知っている顔。

 あの写真の顔。

 首元が隠れるやや長めの髪。美青年といって差し支えない、整った顔立ち。どこか中性的な印象の男性。

 

 その彼が何か怒鳴っている。

 こっちに向かって怒鳴っている。

 

 彼の言葉に、「私」は激昂してしまったらしい。

 怒りに支配され、視界が真っ赤に歪む。

 

 「私」は彼に掴みかかる。

 華奢な彼は「私」に簡単に地面に組み敷かれる。

 「私」は着ていたジャケットのポケットから用意していた果物ナイフを取り出す。

 

 彼の胸に刺す。

 もう一度刺す。

 さらに刺す。

 念のためまた刺す。

 止まらず刺す。

 刺し続ける。

 めった刺しにする。

 

 気が付けば血まみれの両手。

 血まみれのジャケット。

 血まみれの彼。

 

 「私」は慌てて池に駆け寄り、綺麗とは言えない池の水で両手を洗う。

 手の血を洗い流したら、今度は血まみれのジャケットを脱いで池の水で洗う。洗うがジャケットに染み付いた血はなかなか落ちず、もう面倒臭くなり、ジャケットをそのまま池の中へ放り投げた。水を吸い、沈んでいくジャケット。血まみれの果物ナイフも、池の中へ投げ込んだ。

 

 「私」の体から彼の血が消え、「私」は少しだけ落ち着いた。

 

 その時だった。

 

 青かった空が、真っ赤に染まったのは。

 

 まるで洗い流したはずの血を大量にぶちまけたように、空が深紅に埋められていく。

 

 毒々しい赤い空。

 

 大罪を犯した「私」を天上の誰かが見ていたのか。その彼らが地獄の蓋でも開けたのか。

 

 一瞬にして赤に染まった世界に「私」は怖れおののき、頭を抱えて喚いた。

 

 背後に気配。血まみれの彼が居る方に気配。

 

 振り向く。

 

 そこに横たわっているはずの、彼が居ない。血まみれの姿で倒れているはずの彼が居ない。

 彼が着ていた服だけがそこに残され、地面には液体か何かが滴ったような痕が残っている。

 

 居ない彼に代わって、「それ」は居た。

 白い女。

 どこかの学校の制服を着た、少女。

 真っ白な肌。

 空色の髪。

 今の空のような真っ赤な瞳。

 

 「私」は叫んだ。来るな、来るな、と。

 しかし「それ」は「私」の訴えに逆らって、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 「私」よりも遥かにか細い「それ」は、まるで大罪を犯した「私」を裁きにきた天子様のように、絶対的な存在感をもってこちらに近づいてくる。

 

 突然真っ赤になった空。

 突然現れた白い少女。

 異変は続く。

 

 少女の体が、崩れ始めたのだ。

 少女の顔が、瞳が、鼻が、口が、頬が。

 少女の腕が、胸が、足が。

 まるで火で炙られた蝋人形のように、溶けていく。

 

 あらかた溶けて蝋の山となった少女の体。

 今度はその山が、再び人の形を作り始めた。

 

 足が、腕が、胸が。

 頬が、口が、鼻が、瞳が。

 

 まるで動画を逆再生したように、溶けた蝋の山が人の形に戻っていく。

 しかし、再び成したその形は少女ではなかった。

 

 それは「彼」。

 「私」が今しがた殺したばかりのはずの「彼」。

 「私」がナイフでめった刺しにしたはずの「彼」。

 

 「彼」が、微笑みを称えた顔で、近づいてくる。

 

 すでに半狂乱に陥っていた「私」は、完全に発狂してしまい、自分のものとは思えないような叫び声を発しているうちに、視界は暗転。

 

 真っ赤な世界は漆黒の世界へと姿を変えた。

 

 

 

 

「…ッ!……イッ!……レイッ!…ちょっと、レイったら!」

 気が付けば、目の前には赤毛の相棒の顔。その顔が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。

「…アスカ」

 彼女の名前を呟いて、ようやくレイの瞳に光が宿った。

 

 

 突然地面に倒れこんだレイ。アスカは慌てて彼女の上半身を抱き上げたが、こちらの呼び掛けに対する応答はなく、軽く頬を叩いても反応はなく、薄く開かれた瞼の奥の瞳は呼び掛けるアスカの顔を見ようともせず虚空を見つめている。

 明らかな意識障害。

 彼女の意識が回復したのは、アスカが携帯電話で119を押そうとした寸前の時だった。

 

「レイ?ここが何処か分かる?」

 頷くレイ。

「ちゃんと声に出して言って」

「…○△市郊外…の、□×自然…公園…」

「今日は何月何日?」

「…6月…2日…」

 掠れてはいたが、しっかりと呂律の回った声で答えるレイに、アスカはようやく安心したようにほっと溜息を吐いた。

 

 それからアスカは足元がおぼつかないレイに肩を貸しながらオンボロ車まで戻ると、制止するレイに「前進だけだったらあんたよりも上手いわ」と言い放ち、法に仕える身でありながら帰りの道を無免許運転で帰ることになった。郊外の車一台がやっと通れるような狭い道。前から黒塗りのベ○ツが来ようがB○Wが来ようが一度も譲らず前進を押し通したのはさすがであった。

 

 

 

 

 お互いに向き合いながら膝を抱えて座る2人。

「ちょっとは良くなった?」

 アスカの問い掛けに、レイは俯いたままで小さく頷く。

 顔色こそ良くなったものの、レイは帰り道も帰宅してからも、ずっと黙ったままだ。そんなレイにアスカは手を伸ばし、少し乱れた空色の髪を梳いてやる。

 レイはぽつりと言った。

「初めて…見たの…」

 ようやく話し始めたレイに、アスカは急がせないよう柔らかい声で聴き返す。

「…何を?」

「「あの日」のこと…。世界中の…みんなが、溶けた…「あの日」の誰かの記憶…」

 抱えた膝小僧を見つめながら掠れた声で語る。

「私は…、世界中全ての人々に…、あのような光景を…見せたの…ね…」

 そう呟いて、再び黙ってしまうレイ。

 レイの言う「あの日」とは、6年前のことを指しているのだろう。彼女の告白は短く、なおかつ断片的だったが、レイが今何を思っているか、アスカは手に取るように想像することができた。

 抱えた膝に顎を乗せてぼんやりとしているレイに、アスカは自分の顔を近づける。レイの額に、コツンと自身の額を当てた。

「…バカね」

 その言葉とは裏腹に優しさと憂いに満ちたアスカの声。

「あんたがそんなことで思い悩む必要なんて全然ないじゃん」

「…でも」

「デモもへちまもないの」

 今度はゴツンと、少し強めに額を当てる。

「あんた、あたしが言ったこと覚えてる?」

 何を?と首を傾げるレイ。

「あんたは人形だって。命令があれば何でも言うことを聴く人形だって」

 そう言えば、確か「2人目」だったかがいつかどこかで言われたような気がする。レイは頷いた。

「あんたはあん時否定したけどさ。やっぱあんたは人形だったのよ。物よモノ。ネルフの備品」

 酷い言われようだと少しムッとした表情をするレイに、このコもあの頃に比べれば随分表情豊かになったものだと微笑ましく思うアスカである。

「人を刺殺したところで包丁に罪はない。人を撲殺したところで「バールのようなもの」に罪はない。それと一緒よ。あんたは頭がどうかしちゃってた大人たちに、いいように使われた人形でしかなかったの。だからあんたが「あの事」について罪を背負う必要なんてこれっぽっちもないのよ」

 物凄い論理の飛躍に、いまいちアスカの言葉を消化しきれてない様子のレイ。

「もう!鬱陶しい顔してんじゃないの!」

 そう言って、アスカはレイの足もとに自分のつま先を伸ばし、足の親指と人差し指の間でレイの脛の皮を摘まんで捻ってやった。

「…痛いわ」

 仏頂面でそう呟くレイ。

「痛かったら痛そうにしなさいよ。あんたはもう人形じゃないんでしょ」

「…そうね」

 今度はレイがアスカの脛の皮を、自身のつま先で挟んで捻ってやる。

「いったああああ!」

 顔中の筋肉を使って痛みを表現するアスカを見て、レイは口もとに手を当てながらクスクスと笑った。

「人が痛がってるの見て笑ってんじゃないわよ!この!」

 2倍返しとばかりに、今度は両手を使って湯舟のお湯をばしゃばしゃとレイに掛けてやる。

 負けじと、レイもお湯をアスカに掛け返す。

 2人が入って只でさえ狭いバスタブの中で、2人はすらりとした腕を足を大いにばたつかせながら、お湯の掛け合いっこに興じた。

 

 

 外仕事から帰り、家で書類の処理をしていたら、2人が何やら深刻そうな顔で帰ってきた。わが愛妹は青ざめていて、どこか足取りも悪い。急いで駆け寄り「どうしたの?」と声を掛けたら、破局中の恋人に睨まれながら「すぐにお風呂沸かして。お湯はぬるめで」と言われ、慌てて風呂場に駆け込んだ。

 指示された通りぬるめのお湯をバスタブに満たし、2人が居る部屋に行くと、破局中の恋人が愛妹の服を脱がせている最中だったので、慌てて別の部屋へと逃げ込んだ。

 2人がお風呂へと入る音。

 風呂場の外で、聞き耳を立てながら様子を覗っていた。

 沈黙は30分ほど続いた。

 心配になり、声を掛けようとしたところで、「いったああああ!」と破局中の恋人の悲鳴。

 風呂場に駆け込むべきかどうか迷っていたら、今度は「きゃっきゃ」と2人のはしゃぐ声が聴こえてくる。

「なんなんだよ、まったく…」

 ほっと胸を撫でおろすシンジである。

 風呂場のすりガラス越しに見える2人の影。うら若い乙女2人が、バスタブの中でお湯の掛け合いっこを楽しんでいるらしい。

 シンジは男なら誰しもが思うことを呟く。

「…僕も混ざりたいなぁ…」

 苦笑いしながら庭に干しているバスタオルを取りに行った。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 翌日。アスカは一人で件の自然公園に来ていた。レイも一緒に行くと言っていたが、さすがに昨日の今日なので、レイには自宅療養を命じていた。

 それにしても困った。

 レイの話しによれば、斎藤はサードインパクトが起きた正にその時にこの場所で木下くんに対して事に及んだらしい。そして斎藤にめった刺しにされたはずの木下くんの体は、サードインパクトによって液体化してしまったという。レイの「記憶」はここまでだ。

 その後木下くんはどうなったのか。液体化したままなのか。それともアスカ自身がそうだったように、サードインパクト直前に命を断たれた者の中には、サードインパクト後に生きて帰還した者もいるし、遺体のままで実体化した例もあるらしい。

 もし木下くんが生きているのであれば、それはそれで「ああ良かったね」で済ましてしまえばいい。しかし液体化したままなのであればもはや木下くんの遺体を発見するのは不可能で、斎藤の罪を立証するのは途端に難しくなってしまう。仮に遺体として還ってきたのであれば、きっと斎藤がその遺体を処理してしまっているはずだ。もう6年前のことだし、斎藤が自ら口を割らない限りは遺体の在処を探すのは極めて困難だろう。

 この公園が殺人現場であることは間違いないし、溜池を攫えば木下くんを刺したナイフが見つかるはずだが、いずれにしろ遺体がなければ警察に通報のしようがない。

 もうここに居ても仕方がないと、アスカはヘルメットを被って原付バイクにまたがった。エヴァにも戦闘機にも乗れなくなったアスカが自ら運転できる動力付きの乗り物は、今や原チャリだけになった。ちなみにアスカが乗る原付バイクは世界で最も売れているもので、赤く塗装された限定モデルだ。とても気に入っているので「郵便屋さんですか?」とからかってくる輩は片っ端から張り倒してやっている。

 

 

 来た道を戻っていると、田んぼを囲む土手の上に一人の老紳士が立っていた。作業着を着たその老紳士は股を開くとズボンのチャックを降ろし、モノを出して土手の下の用水路に向かって放水を開始。

「…あのクソジジイは…」

 乙女になんてもの見せるんだと毒付きながら、老紳士の方は見ないようにして通り過ぎようとした。

 昨日のレイの言葉を思い出す。

 

『お爺さんが道端でおしっこしてた』

 

 きっと、レイが言っていたお爺さんとはあのクソジジイのことなんだろう。おそらく「自分の田畑だから」とこうやって毎日好き放題立小便しているのだ。

 いや、ちょっと待って。

 あれだけ堂々と放尿していたら自分も気付いているはずだが、昨日の道で自分はあのクソジジイの立小便姿は目撃していない。もしかしたら、レイが言っていた立小便ジジイは、彼女がVRナビとして利用していた斎藤の「記憶」にある立小便ジジイだったのかも知れない。

 であるとしたら。

 慌ててブレーキレバーを握り、方向転換する。

 

「ちょっと!そこのお爺ちゃん!」

「ん?なんじゃあ?」

「ちょっ!まずはそれをしまって!」

 

 立小便ジジイのもとに歩み寄ると、斎藤の写真を見せた。

「こいつのこと。見たことない?」

「ん?誰じゃあこりゃあ?知らんのお」

「そっか。…えっと、…じゃ、じゃあさ。あの日。6年前のあの日。お爺ちゃん、何処にいた?」

「あの日?おお、あの日か。あの日じゃったら、儂は…。おお、そうそう。あの日じゃったらほら。今と同じようにここで小便かましよったでよ。がはははっ」

「…どんぴしゃね。じゃあさ。その時誰か見なかった?」

「うーん?そうさのお。そう言えば、あん時は何じゃ大きなバイクがえらいスピードでこの先の公園に向かって走っとったのお」

「バイク…」

 確か、斎藤のアパートの駐車場には大型のバイクが停めてあったような気がする。

「そのバイク乗り。何か怪しいところなかった?」

「うーん。別にないのう」

「…そう」

「じゃがのう」

「え?何?」

「そのバイクはあの日の次の日も来よったんじゃ。そん時はバイクの荷台に大きいシャベルを載せよったんじゃ。タケノコの季節でもないのに、おかしいのう思うとったわい」

 

 原付バイクを走らせながら頭の中を整理する。

 立小便ジジイの話しが本当であれば、残念ながら木下くんはもうこの世にはいない。バイクの主が斎藤であったと仮定して、「事に及んだ」次の日に、斎藤が現場にわざわざ大きなシャベルを持ち込む理由なんて、一つしかない。おそらく木下くんはサードインパクト後に遺体として戻ってきたが、あるいは生きて戻ってきて再び斎藤に殺められたか。バイクで遺体を何処かに持ち運ぶことなんてできない。

 木下くんは今も、あの自然公園の何処かに、埋められている。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

「そりゃさ。アスカが僕の腕を買ってくれてるのは嬉しいよ。でもさ」

 夕刻の商店街を歩く兄と妹。シンジは両手に買い物袋、レイは肩に買い物袋をぶら下げて、肩を並べて歩いている。買い物の内容は主に食料品や日用品の類で、行く店もスーパーマーケットや雑貨店など若い男女がわくわくしながら行くような場所ではないが、週に1回か2回、仕事でなかなか時間が作れない兄と一緒に行く買い物を、レイは楽しみにしていた。シンジも、妹の身の安全を考えてなるべく一人で外出することを避けさせているため、妹の数少ない外出の機会であるこの買い物を貴重な時間と捉えている。もっとも最近では、破局中の恋人が毎日のように妹を連れ出してくれており、それはそれで兄として(破局中の恋人として)寂しい思いをしているのだが。

 アスカと出かける時は色付きの丸渕メガネにカンカン帽と、余計に目立つのではないかと思うような心配な格好で出かけているレイだが、シンジと出かける時はシンジが用意したレンズに薄い色が付いたの○太くんメガネで目の色を変え、頭にはニット帽を被ることで空色の髪を隠している。以前のように髪を染めたりカラーコンタクトレンズをすればもっと自由に出掛けることができるのだが、シンジは何となくそれは妹にはさせたくなかったのだった。

「初っ端から報酬高くしちゃったら、来る客も来なくなっちゃうだろ?それで後から慌てて安くしちゃったら、それこそかっこ悪いじゃないか。それをアスカは分かってないんだよ」

 今日のシンジは終始、破局中の恋人に対する愚痴である。自分の1歩前を歩く兄の背中を、レイは少し困ったように、それでいて小さく微笑みを浮かべた表情で見つめている。

「アスカはシンジさんにもっと自信を持ってもらいたいだけよ」

 兄の自尊心を保たせつつ、相棒の肩も持ってやる。2人との生活を続けていくうちに、こんな気遣いもできるようになったレイである。

「僕も自信が無いわけじゃないさ。自信がなければ自分で開業なんてしようとは思わないさ。でも自己評価と世間の評価が一致することなんて、まずないじゃないか。本当の評価ってのは、その差を摺り合わせて摺り合わせて、少しずつ決まっていくものなんだから。報酬だって、評価がある程度定まった時点で改めて設定すればいいだけの話しだろ?」

「でも、一度そのお値段に慣れてしまったお客さんは値上げした途端に蜘蛛の子を散らしたように去っていく、って高梨さんが言ってたわ」

「(うーん、いい加減、その高梨さんに会ってみたくなったな)そうかもね。そうかも知れないよ?でもまずは最初の顧客を掴まなきゃ話にならないじゃないか。今は種を蒔いている時期なんだ。花が咲くにはもう少し待たないと」

「咲くまでに私のお給料は頂けるのかしら」

「実際にアスカの事務所は僕の腕を買ってくれて、少しずつ仕事を回してくれているんだし。アスカの事務所は大きいから、きっと口コミで色んな所から依頼が来るようになるよ。それで儲かるようになれば人も増やすことができて、たくさん仕事が受けられるようになるよ」

「人を増やしてしまったら私のお給料は払えなくなるんじゃないかしら」

「人が増えたらさ。今の事務所じゃちっちゃいからどこかのビルの一室でも借りようよ。それでちゃんと固定電話も引いて。ホームページなんかも作ってさ」

「……」

「レイは今は台所のテーブルを仕事机代わりにさせちゃってるけど。新しい事務所に移ったら専用の部屋を用意してあげるよ。肩書も事務員から秘書とかに変えちゃったりして」

「……」

「そんで折角だから僕もスーツを新調しよっかなって思うんだ。……ってレイ?」

 自分が語る夢想についに呆れてしまったのか、背中からのレイの相槌が消えてしまったため、振り返った。

「レイ…!」

 一歩後ろを歩いていたはずのレイの姿が、そこには無かった。

 

 

 

 それは人通りが少なくなったところを見計らって襲ってきた。

 背後から接近してきたその男は、ニット帽を被った女の右腕を掴み強引に背中に回すと、もう片方の手で女の口を塞ぎ、そのままビルとビルの間のうす暗い路地に女を引きずり込んだのだ。

 

 背中と後頭部に衝撃。どうやらビルの壁に、乱暴に打ち付けられたらしい。

 視界には男の顔。

 男は右手で女の胸倉を掴み、右肘で女の腹を押し付け、ビルの壁から女の体が動けないように固定し、左手で女の口を塞いでいる。

「…声を上げたら殺す…!」

 低い声で女を恫喝すると、男は左手で女のニット帽とメガネを剥ぎ取った。

 途端に男の目が見開かれる。

 襲ってきたのは男の方で、相手を支配下に置いているのも男の方なのに、空色の髪、真っ赤な瞳、真っ白な肌の女の素顔を見た途端、表情が恐怖に歪んだのは男の方だった。

「お前…、やっぱり…、あの時の…」

 戦慄する男とは対照的に、拘束されている女の表情は涼やかなものだ。

「あなた…、やっぱり木下さんを…」

「その名を口にするな!!」

 男の怒鳴り声と共に降られる男の左手。男の手の甲は女の頬に当たり、女の小さな体がコンクリートで固められた路地に倒れこんだ。男はそのまま女の体の上に覆い被さると、女の細い首目掛けて両手を突き出す。

「やっぱり見てたんだな…!お前さえ死ねば…!」

 ぶつぶつ呟きながら女の首を締め上げていく男。

 

 首に強烈な圧迫感を感じながら、レイはぼんやりと考えていた。

 つくづく、自分は首を絞められる運命らしい。

 聴くところによれば「1人目」は女科学者に首を絞められて殺されたようだし、6年前にも今や戸籍上では義理の父に首を絞められた。「1人目」はまだこの世に生を受けて間もない頃だからろくに抵抗できなかっただろうし、6年前の自分はとても無気力で、むしろその命を自ら進んで義理の父に捧げようとしていた。

 でも今は違う。

 今は違うから。

 今はとても幸せだから。

 隣に彼が居て。隣に彼女が居て。

 この幸せを手放したくないから。

 今の私はとても我がままだから。

 だから…!

 

 

「ぐあっ!」

 突然男はうめき声をあげ、女の首をから手を離し、その場に蹲る。

 男の股間を蹴り上げた女は男が悶絶している間にその体の下から這い出ると、明るい方へ、光が射す方へ、商店街の表通りへと向かって駆け出した。

「待ちやがれ!」

 男は苦痛に表情を顰めながらも立ち上がり、逃げ去ろうとする女の背中に手を伸ばす。

 

 背後から迫る男の気配。

 もう一度捕まったら、男はすぐさま自分を殺してしまうだろう。

 嫌だ。

 死にたくない。

 今は絶対に死にたくない。

 助けて!

「お兄ちゃん!!」

「レイ!!」

 シンジは駈け込んできたレイを胸にしっかりと抱きとめると、彼女の後ろから手を伸ばして迫ってくる男に対し、自らの拳を突き出してやった。

 男の頬にめり込むシンジの拳。男の口から小さな白い塊が飛び出し、鮮血が迸る。

 男の大きな体が、地面に転がった。

 

 ビルとビルの間のうす暗い路地から逃げてくる妹。その後ろを追いかけてくる茶髪ロン毛のタンクトップを着た長身の男。それを見た瞬間、シンジの理性はプッツンした。

「俺の妹に何しやがるんだこの野郎!」 

 男に渾身の一発を見舞ってやったシンジは、完全にキャラクターを失った様子で倒れた男に馬乗りになると、男の頭部に次々と拳を振り落としていく。

 しかし如何せん喧嘩慣れしていないシンジくんである。最初の一発はカウンター気味でもあったため見事なものだったが、マウントからのパウンドはまるで拳に力が入っておらず、男に追加ダメージを与えられていない。

 その間に最初の一撃からの昏迷から脱した男は、伸ばした手が触れたビールの空き瓶を掴むと、それを馬乗りになる優男に向かって振り上げた。

 派手な音を立てて底が砕け散るビール瓶。額から血が噴き出すシンジの体が吹き飛ぶ。

 形勢逆転した男は、底が砕けて鋭利な刃物と化したビール瓶を、倒れているシンジの首目掛けて振り下ろす。

「シンジさん!!」

 か細い叫び声と共に、背中から衝撃。

 レイに背後から体当たりされて、男の握ったビール瓶はシンジの首から僅かにずれてコンクリートの地面に達し、今度こそ完全に砕けた。

 

 表通りから人の声。

 路地の騒ぎを聞きつけた野次馬が集まってきたらしい。

「くっ、くそっ」

 男は観念し、悪態をつきながら路地の奥へと走っていく。

 

「シンジさん!シンジさん!」

 路地に、兄の名を呼ぶ妹の悲痛な叫び声が響いた。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 自然公園から帰宅したアスカ。

 リビングに入ると、フローリングに敷いたカーペットの上に2人が向かい合って座り込んでおり、破局中の恋人の血が滲む額に、相棒が脱脂綿に含ませた消毒液を当てているのを見てまず驚いた。その相棒の左頬には湿布が貼られているのを見て、ゾッと寒気がした。そして相棒から事のいきさつを聴いて、カッと頭に血が昇り、すぐさま踵を返した。

「アスカ。どこ行くの」

 可愛い妹に傷の手当をしてもらってデレデレ顔だったシンジの顔が少し険しくなり、出て行こうとした破局中の恋人を制止する。

「決まってんでしょ!警察よ!」

「駄目だよアスカ。行っちゃだめだ」

「どうして!相手は実力行使に出たんだから!探偵ごっこはもうおしまい!」

「でも行っちゃだめだよ」

「あたしが悪かったわ。うかつだった。あんたの言う通り、最初っから警察に相談すればよかったのよ。今からでも遅くない」

「うん。でもだめだ」

「なんでよ!あんたレイが危ない目に遭って平気なの!」

「平気なわけないじゃないか。でも今は行かないで」

「ああもう話しになんない。あたしやっぱ行くわ」

「行くなアスカ!!」

 シンジの怒鳴り声にアスカだけでなく、レイもびっくりして肩を竦ませた。

 シンジは震える自身の両手を見つめながら言う。

「僕の妹に…。こんな可愛い妹に手ぇ出しやがったんだぞ…。そんな万死に値する罪を犯した奴を…、ちんけな傷害罪なんぞで終わらせていいはずないじゃないか…」

 シンジの顔にサイコな笑みが宿った。

「後悔させてやる…。ふふふっ…。一生ブタ箱に押し込んでやる…。クックック…。一生臭い飯を食わせてやる…。それとも手っ取り早く○×組の若頭に頼んでコンクリート詰めにして駿河湾にでも沈めてやろうか…、ヒッヒッヒ…」

 何とも形容し難い、強いて言えば手負いの初号機で第14使徒を追い詰めた場面(もちろんテレビ版)の確変シンジさんのような笑みを浮かべているシンジに、完全に引いてしまっている2人。

 アスカは足元に座るレイのお尻をつま先で小突いた。何?と顔を上げるレイ。

「どうにかしなさいよ。あれ、あんたの兄貴でしょ?」

 アスカに言われ、兄の顔を見る。今も薄ら笑いを浮かべながら何やらぶつぶつと不穏当な発言を繰り返している兄を。

 アスカの顔を見る。

「あなたの恋人よ?」

「いや。あたしたち、もう別れてるんだから…」

 責任の押し付け合いを始めた2人をよそに、シンジはポケットから携帯電話を取り出し、どこかに電話を掛け始めた。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

「どっもー、こんにちわー」

「ちわーす」

「私たち、□○家庭裁判所の依頼を受けて参りました、調査会社の者たちでーす。はい、これ名刺でーす」

「な、なんなんだ、あんたら」

 いきなりアパートを訪れた背広姿の男性2人組を怪訝な顔で迎えた斎藤。

「はい。惣流アスカさんからあなたに対する慰謝料・示談金等の未払いの訴えがあり、家庭裁判所が近々あなたに対する強制執行、つまり財産の差し押さえをすることになりましたので、私たちはあなたの財産の事前調査に参りました。はい、これ家庭裁判所の令状でーす」

「やろう…、本当に訴えやがった…」

「これは裁判所命令なので拒否することはできません。もし拒否するのであれば、次はもっと大勢を引き連れて…」

「ああいいぜ構わないぜ。どうせ差し押さえられる財産なんてないんだ」

 斎藤は素直に2人をアパートの部屋に引き入れた。

 

 30分後。

「いやあー、あなたのおっしゃる通り、本当に何もありませんでしたねー」

「だから言ったろ。仕事クビになって、あらかた質屋に入れちまったんだ。その金も全部パチンコですっちまったけどな」

「こいつ。ほんまもんのクズやの」

「ああん?何か言ったか?」

「ああいやいや何も。ところで駐車場のあのバイクはあなたのものではないのですか?」

「あ、いやあれは違う。あれは俺のもんじゃねえ。俺はバイクなんて持ってねえ」

「はあそうですか。それで、これは惣流さんからの情報なんですが」

「なんだよ?」

「あなた、実は隠し財産持ってらっしゃる」

「は?隠し財産?」

「ええ。惣流さんがそう仰ってました」

「俺が?隠し財産?はっはっはっは!バッカじゃねえの!」

「へえ。違うと?」

「何言ってんだ、あいつ。やっぱ頭おかしいぜ。俺が何処に財産隠してるってんだ?」

「□×自然公園」

 メガネを掛けた背広の男のその一言に、斎藤の頬がぴくりと動く。

「…□×自然公園…」

「ええ。その公園の名前に聞き覚えは?」

「…知らねえなあ」

「ここから車で30分くらいのところにある公園なんですがね。本当に知らない?」

「だから知らねえって」

「そうなんですか。いや、惣流さんからの情報じゃあ、あなたがよくそこに通ってるって。ちょっと昔にはシャベルを持って行くあなたの姿を見た者もいるって。だからてっきりその公園のどこかに隠し財産でも埋めてるんじゃないかと思いましてね。本当に知らない?」

「知らねえって言ってるだろうが!」

「なんやこらあ!」

「ま、まあまあ、斎藤さん落ち着いて。知らないんだったら結構です。いや、良かった。面倒ごとにならずに済んだ」

「はあ?面倒ごと?」

「ええ。実はなんでもあの公園で遺跡が見つかったそうで、来週から発掘調査が行われるらしんですよ。公園の周りは全て掘り返されるそうなんですが、もしあそこにあなたの財産が埋められてて、それが掘り起こされちゃったら、それがあなたの財産であることを証明しなければこちらも差し押さえできませんから、色々と面倒だなー思ってたんです。いやー、良かった」

「ほんまこいつ。なんも持ってないから、わいらも楽させえてもろーたわ」

「ちょっと余計なこと言うなよ…。どうも斎藤さん。今日はご協力ありがとうございました」

「ありがとやした」

 

 

「やあ。2人ともご苦労さん」

「どや。わいらの演技もなかなかのもんやったろ」

「何言ってんだよ。こっちはいつ喧嘩になるかとヒヤヒヤだったんだぞ」

「ごめんね。せっかく久しぶりに休日が合って、3人で飲もうってことになってたのに、こんなことに巻き込んじゃって」

「まあいいさ。貴重な体験をさせてもらったよ」

「そや。こないオモロいことやったら、いつでも付き合うで」

「で、どうなの?新しい職場は?」

「んー、慣れんことばっかしや。社会人がこないめんどーとは思わんかったわ。今からでも大学生活に戻りとーてしゃーない」

「でも意外だったよな。この3人で唯一の大卒で会社勤めなのがお前だなんて」

「僕なんて中卒だよ?今の仕事が立ち行かなくなったらホントどーしよ、って思うんだ」

「そん時は陸自に来いよ。いつでもウェルカムだぜ」

「それよりもお前は惣流に養ってもれえりゃええやろ。あいつ色々荒稼ぎしとんのやろ?」

「…先月の稼ぎは僕の30倍らしいよ…」

「惣流も色々あくどいことしとんのやろうけど、お前もたいがいやぞ。そんな甲斐性なしで綾波んことまで養えるんかい」

「レイはアスカと組んでるから、むしろ僕よりも稼いでる…」

「かーー!相変わらず女2人の尻に敷かれとんのー!」

「そ、そっちはどーなのさ。アスカが言ってたよ。最近の洞木さんからの電話は同居人の愚痴ばっかりだって」

「う、うっさいわい!ヒカリの奴。一緒になる前んはあのーにしおらしかったのに…。一緒に住むようになったらいちいち小言ばかりでうるそーてかなわんわ。なんやあいつは。うちのオカンかっちゅーねん」

「結局さ…」

「何?」

「なんや?」

「こうやって、野郎だけでつるんでるのが、一番楽なんだよな」

「…ですよねー」

「…そうやなー」

「旦那、旦那。こないだねー、駅裏にいいお店見つけちゃったんですよー。粒ぞろいっすよー。」

「ほー、そりゃ結構ですなー」

「興味ありまんなぁー」

「行っちゃいましょーかー」

「行きましょう」

「行かいでか」

「はっはっは」

「へっへっへ」

「かっかっか」

 3バカの友情は永遠であった。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 陽が傾きかけた時間帯。

 人気のない公園。

 波紋一つない静かな溜池の畔で、ザクッザクッと、シャベルで地面を掘る音が響く。

 溜池の側を走る遊歩道が尽きる場所。そこから少し山の方へと入った茂みの中に、長髪をタオルで巻いたタンクトップの男がいる。

 男は手に持ったシャベルで、懸命に地面を掘っている。穴はすでに男の腿の深さまで掘られているが、まだ目当てのモノまで到達しないのか、男は掘る手を止めようとしない。

「くそっ!くそっ!くそっ!」

 シャベルの刃を地面に立てるごとに悪態を吐き続けながら、汗だくの男は穴を掘り続ける。

 

 カツン!

 

 地面にシャベルの刃を立てること何百回目か。シャベルの刃に、土とは明らかに違う感触が当たり、男は手を止める。シャベルを地面から浮かし、何かが当たった場所を覗き込んだ。

 男はすぐさまその場に蹲り、手で地面を払う。何度か地面の土を払いのけていくうちに、その下から白い何かが出てきた。

 男はごくりと唾を飲み込む。

 土の中から出てきたのは頭蓋骨。

 頭蓋骨の下の土をさらに払いのけていくと、次から次へと白骨が現れていった。

 

 

「それが木下さんなんですね」

 頭上からその声が降ってきた時、男は胸の心臓が破裂したかと思った。

 地面に四つん這いになったまま、顔を上げる。

 穴の縁に立ってこちらを見下ろしている、額に包帯を巻いた青年。その包帯の下にある怪我は男自身が負わせたものなので、男は彼の顔をよく覚えていた。

 

「これで証明されたわね。あんたの罪が」

 その声は背後から降ってきた。

 振り返る。

 こっちもよく知った顔。自分が徹底的に虐げてやって、その後手痛いしっぺ返しを食らわしてきた赤毛の女。

 その隣に立つ女。こっちは忘れたくても忘れられない女。「あの日」、この場所で、自分が大罪を犯す瞬間をすぐ側で見ていた女。空色髪の女は、無言でこちらを見下ろしている。

 

「て、てめえら」

 穴の中の斎藤はシャベルを武器として構えようとする。

「往生際が悪いんだよ貴様あ!!」

 この日も絶好調なシンジさんは斎藤がシャベルを構える前に、手に持っていた金属バッドを思い切り振り切ってやった。

「ぐはあっ!!」

 金属バッドの先端にわき腹を抉られ、その場に蹲り悶絶する斎藤。

 レイは思わず目を閉じ、アスカも咄嗟に顔を顰めてしまう。

「もうてめえは逃げられないんだよ。無駄なことに体力使う暇があったら、今のうちに腹いっぱい吸っとくんだな。もうてめえには一生吸うこたできねー娑婆の空気ってのをよぉ」

 

 アスカは茫然としながら隣の相棒に言う。

「…あれ誰?」

「あなたの恋人よ…」

「いや、だからあたしたち別れたんだって…」

 

 シンジさんはポケットから携帯電話を取り出し、番号を押すと耳に当てる。相手が出たのか、先程までのドスの効いた声が嘘のような半オクターブほど高い明るい声で喋り始めた。

「ああ、どうもどうも工藤さん。お久しぶりです。どうですか、新しい部署は?へー、そうですか。それは良かった。え?やだなー、所長とは言っても従業員2人だけの零細企業っすよ。もう貧乏暇なしっすわあ」

 相手は旧知の間柄なのか、ニコニコしながらお話を続けるシンジさん。

「え?あ、そーそー。それがちょっとお願いがありまして。今、○△市の□×自然公園に来てるんですが、パトカーを2~3台寄越してくれませんかねー。いやー、それが殺人事件なんですよねー」

 

 

「ねえ」

 アスカは穴の下で蹲っている斎藤に声を掛けた。まだ痛みに悶えているのか、斎藤は背を向けたまま返事をしない。

「ここには木下くんの遺体。池を攫えば木下くんを殺めた刃物もあんたの血塗れのジャケットもきっと見つかるわ。もうあんたに言い逃れは出来ない。だから教えてほしいの」

 少し呼吸が落ち着いた斎藤は這いつくばりながら肩越しにアスカ達の方を見やる。

「なんで、殺したの?」

 当然の質問を投げかけてくるアスカに、斎藤は再び視線を地面に落とした。

「うるせえ。どうしててめえに言わなきゃなんねえ」

「そこのオタンコナスが調べたところによれば」

 ニコニコしながら携帯電話で話を続けているシンジを顎で指しながらアスカは続ける。

「あんたたち、大学のサークル仲間だったそうね。でも周囲の証言によれば、同じサークルってだけで特に接点は無かったって話なのよ。そこのドテカボチャがいくら調べてもあんたが木下くんを殺さなければならない理由が見つからないの」

「だから言わねえって!」

「いいじゃない減るもんじゃないし。どうせ警察に捕まれば嫌でも白状させられることになんのよ?」

「うるせえ!!黙ってろ!!」

 そう怒鳴り散らすと斎藤は地面の土を掴み、アスカの足もとに投げつけた。

「な、何よ…!」

 アスカは戸惑う。シンジがよく見ているテレビの2時間サスペンスとかだと、追い詰められた犯人は自分から勝手にすらすらと白状していくものだが、それにしてもこの斎藤の頑なな態度はなんだ。人を一人殺したのだからそれなりののっぴきならない理由があったのだろうが、こうまで証言を拒む動機とはいったい何なのだろう。

 

「…アスカ…」

 そのぼそりとした呟きは不意に隣から投げかけられた。

 アスカは隣に立つ相棒を見る。穴の中の男を無感動な眼差しで見つめる空色髪の相棒を。

「なに?」

「個人的動機による殺人は統計的に分ければ主に3つ…」

「「憤懣・激情による殺人」、「怨恨による殺人」、「痴情のもつれによる殺人」の3つよね」

「この事件も特殊な事例じゃない…。あなたが3つ目に挙げたよくある理由」

「え?じゃあ、三角関係とか?片方が相手の女を寝取ったとか?」

 不謹慎にも目を輝かせてしまうアスカである。

 レイはゆっくりと頭を横に振る。

「これはあくまで彼と木下さんの、2人だけの問題…」

「え、じゃあどうゆう…」

「彼はゲイよ…」

「え?」

 

 固まってしまうアスカ。

 空色髪の女の暴露に、斎藤はがっくりと地面に膝を落とし、歯を噛み締めて地面を睨む。

 

「木下さんもゲイ…」

「そ、そうなの…」

 予想外の展開にアスカの目が泳いでしまう。少し頬を赤らめた顔で、穴の中の斎藤を見下ろした。

「へ、へー。そうなんだ。…世の中にはそんな人も居るってことは知ってたけど…、へ、へー」

 性的マイノリティに初めて会うような態度のアスカを、不思議そうな顔で見つめるレイ。

 

「碇くんはバイよ」

 

「え゛っ!?」

 

 斎藤を見下ろしていたアスカの顔が物凄い勢いでレイの方へと向けられる。

「な、な、ななな何て?」

 顎を震わせるアスカとは対照的に、表情一つ動かさず続けるレイ。

「バイセクシャル。両性愛者。両刀使い」

「えっ、ちょ、ちょまっ、えっ…、え、え」

 レイと、穴の向こう側で携帯電話で話している破局中の恋人を交互に見つめる。

「渚カヲルとの一件を知らない?」

「誰よそれ!」

 初耳だと言わんばかりのアスカの物言い。あ、そう言えばフィフスチルドレンが来たのはアスカがあっちの世界に行っちゃってた時か、と思い出したレイ。アスカから視線を逸らし、ゆっくりと穴の向こう側で携帯電話で話している兄に向ける。

「話すと色々とややこしい…」

「ちょっ!後でちゃんと説明しなさいよ!」 

 

 穴の向こう側で可愛い妹と破局中の恋人が何故かこちらを見つめてくる。

 シンジは顔から携帯電話を離し、「何?」と2人に視線を送る。

 

 笑顔のままでこちらを見てくる両刀使い。

 その笑顔を正面から受け止めきれず、アスカは思わず「ウッ」と呻いてしまう。隣の相棒の腕を肘で小突いた。

「…あれ、…あなたの兄貴よ」

「あなたの恋人よ」

「だ・か・ら、あたしたち別れてんのよ」

 アスカのその言葉に、レイは呆れたように鼻からをため息を吐く。

 両刀使いは一旦携帯電話を耳から離した。

「え?何?」

 笑顔のまま訊ねてくる両刀使い。

 アスカはぼそりと呟いた。

「シンジ…。あんたもつくづく難儀な男ね…」

「ん?」

 両刀使いの問いかけに、アスカは「なんでもない」とゆっくりと頭を横に振る。

 両刀使いは「そう」と返事すると、再び携帯電話で話し始めた。

 

「ったく。どーなってるのよ、碇家って…。みんな一癖も二癖もあり過ぎなのよ…!」

「身内が色々と迷惑を掛けるわね」

「言っとくけど、あんたもたいがいだからね?」

「え?」

「むしろ初めて会った時はあんたが断トツで変人だったんだからね」

「今は?」

「周囲の変人インフレが異常過ぎてむしろまともに見えてきたわ」

「そう…」

「あーー、でもどーしよ…!」

 アスカは両手で顔を覆う。

「この数日でいくらなんでも情報が氾濫し過ぎ。整理が追い付かない。ってかバイでサイコでシスコンって何よ?属性てんこ盛りし過ぎじゃないのあいつ」

「…バイでサイコでシスコンだけ?」

「は?」

「バイでサイコでシスコン。それだけ?」

「次は何が出てくるってーのよ…」

「知りたい…?」

「知・り・た・く・な・い!…ああ、でも知っておかなきゃなんないのかなー…」

 頭を抱えたまま身をよじらすアスカ。

「でも無理。私、自信ない。バイでサイコでシスコンでその他諸々のあいつを今まで通りに見ることなんてできそうにない」

「簡単なことよ…。碇くんは碇くん。ありのままを受け入れたらいい…」

「あんたはキャパ大き過ぎなのよ…!」

「いいの?」

 レイはアスカの目をまっすぐに見つめた。

「な、何がよ」

「まごまごしてて、…いいの?」

 細くて、それでいてどこか圧のある声でレイは問いかけてくる。

「碇くんの愛は深くて広い。それこそ私なんて足もとも及ばないくらいのキャパシティ」

「そ、そうなのよ。あいつ、去年くらいからなんか博愛精神に目覚めたのよ。「世界中に愛を蒔いていくんだ」とか訳の分からないこと言い始めたの。ラブ&ピースしだしたの。お前はレノンかっちゅーの。あたしはヨーコなんてまっぴらっつーの」

「そう。碇くんの愛は限りなく広く、世界中全ての人々に向けられている」

 

「死刑は無理ってのは分かってますよ。でも無期懲役くらいはできるでしょ?え?初犯だったらせいぜい5年くらい?いやいや。このクソヤローがたったの5年ですか?それじゃこれでどうです。殺人と死体遺棄と証拠隠滅と傷害罪の合わせ技でどうだあー!…え?それでも10年くらい?頑張って15年?なんでだああ!」

 

「あれのどこが愛が限りなく広いですって?」

「……何事にも例外はある。とにかく、碇くんにとって、世界中全ての人々が愛しい対象なの…」

「む…」

「これまではアスカにとって、碇くんとの恋のライバルはせいぜい周囲の女性くらいだったはず」

「そ、そうね」

「でもバイで博愛主義者の碇くんは無敵。あらゆる垣根が存在しない」

「……」

「世界人類。…未成年は犯罪になる可能性があるから除外するとして…、…ねえ、アスカ」

「何…?」

「地球上に成人の人類は何人いると思う?」

 

 気のせいだろうか。

 レイの両隣りにカッターシャツの前をはだけさせた男性2人が見えるのは。 

 

「…35億」

 

「これまた微妙に古いネタをぶっ込んできたわね…」

「…あと5000万人」

「うっさい」

 何故アスカに頭をはたかれたか分からず、涙目になりながらもレイは続ける。

「碇くんの前には35億、あと5000万人のライバルが居る。そのことをアスカは忘れてはいけない」

「う…」

「アスカ。もう一度言うわ」

 レイは再びまっすぐアスカの目を見つめる。

「まごまごしてていいの?」

 レイの圧のある視線と圧のある言葉に、アスカは頬を赤らめながら視線を明後日の方向へ向け、眉をハの字に曲げ、口をへの字に曲げた。

 強情な相棒に、レイは頬を緩める。

「私だって…」

 アスカは視線をレイに戻した。彼女の真っ白な頬が、気のせいか少しだけ赤い。

「私だって…、いつだって碇姓から綾波姓に戻してもいいのよ」

 口角を少しだけ上げた、どこか挑発的なレイの表情。

 アスカは再び視線を明後日の方向へ向け、唇をとんがらせた。

「…分かったわよ…、もう…」

 そんなアスカの横顔を、レイはニッコリとしながら見つめた。

 

 ―――35億の有象無象よりも、あんた1人の方がよっぽど脅威だわ…。

 

 

 

「俺のことは無視かあああ!!」

 穴からの大声。

 斎藤が、2人を見上げている。

「ああ、ごめん。もういいわ言わなくて。2人がそうゆう関係だったってんなら、動機はだいたい想像がつくから。あたしも悪かったわね。無理に聞き出そうとして」

「くっ…」

「あのレノン被れが集めた木下くんの写真。どれもどこか女性的な雰囲気の服装だったし、きっと顔は薄化粧してたわね。おそらく木下くんは自分がゲイ、…もしかしてトランスジェンダーでもあったのかしら。…そんな自分のことを何処かでカミングアウトするタイミングを探っていたのね」

 アスカの言っていることが正しいのか。斎藤は何も答えず、再び地面を睨む。

「サークル仲間の話しでは、木下くんは社交的な性格で誰とでも仲良くなれて、でもちょっと出しゃばりでお節介焼きで独りよがりで一人で突っ走ってしまいがちで。それが周囲とトラブルになることもあったらしいわ。…きっと木下くんは自分がカミングアウトする時と一緒に、あんたと交際していることを世間に言うつもりでいたのね。あんたはそれをやめさせようとしたけれど、木下くんは聴き入れてくれなかった。あんたはそれが許せなかったんだわ」

「あいつは…」

 斎藤は押し殺した声で語り出す。

「あいつは…分かっていないんだ。この世界は弱者には…、少数派にはとことん厳しいってことが。少しでも世界が決めたルールから逸れてしまったら、奴らは容赦しないんだ…。現に、俺は親にばれちまって、今は勘当同然さ…」

「そうよね…。世界は残酷よね…」

 相棒の声音が少し変わったような気がして、レイは隣の赤毛の女性の横顔を見つめた。

「弱者は虐げられる。少数派は蔑ろにされる。奴らは「その他大勢」、ただそれだけの旗印のもとに、みんなで寄って集って徹底的に嬲ってくるのよね。その行為には何の正義も正当性もありはしないのに…」

 アスカは話しながら自分自身が少し暴走しかけているのを自覚していた。自覚していたが、その口はもう止まりそうになかった。

 目の前に去来する様々な記憶。日常的に浴びせられた暴言。知らない人間に通り過ぎざまに飲み物を掛けられ、スカートを切り裂かれ。常に背中に恐怖を感じた帰り道。家に帰れば何度消してもすぐに現れ、増えていくドアや壁の落書き。

「あんたはそれが分かっていながら……!どうして……!あたしに……っ」

 

 声が大きくなりかけたところで、ふと、右手に感触。

 見ると、隣に立つ空色髪の女性の左手が、自分の右手をそっと握っている。

 そして、空色髪の女性が、何も言わず、ただ自分をじっと見つめている。

 どこまでも深い深い、深紅の瞳が見つめている。

 

 レイの、少しヒンヤリとした手の感触。レイの、何を考えてるんだか分からないような、それでいて何処か柔らかな眼差し。

 アスカの沸騰しかけていた頭は急速に落ち着きを取り戻していった。

 アスカは遠慮がちに握ってくるレイの手に自身の指を絡め、しっかりと握り直す。すると、レイの握る手にも力がこもるのを感じた。

 

 右手に彼女の存在を感じながら、穴の向こう側に立つ青年を見やる。

 今も、こっちのことなんて気にも留めずに、携帯電話で呑気に話し続けている。

 

 「なんでもアリ」の彼女がすぐ側に居て。

 無敵の男が手の届くところに居て。

 

 アスカはふふ、と笑った。

「ああ、なんだか色んなことがどーでもよくなっちゃった」

 あえて声に出して言ってみたら、不思議と本当に過去の色んなことがどうでもよくなっていくような気がした。

 そんなアスカの横顔を見て、レイもふふ、と小さく笑った。

 

「斎藤」

 穴の中で項垂れている男に声を掛ける。

「もういいわ。あんたの400万。全部ちゃらにしてあげる」

 アスカの突飛な申し出に、斎藤は顔を上げた。

「その代わりあんたはしっかりと自分の罪を償いなさい」

 アスカの言葉を彼の心は消化しきれなかったのか、斎藤は呆然としたままゆっくりと視線を落とし、地面を見つめた。

 暫くしてぼそりと斎藤は言う。

「……だ」

「は?」

「…嫌だ」

「え?」

「嫌だ…!俺は、刑務所なんかには行きたくねー!」

「えっ、ちょっ、今、いい流れだったじゃない」

 アスカの耳にはすでに岩崎宏○の歌声が流れ始めていたのだが、現実は火サス(1981年~2005年)のよういはいかないようだ。

「俺はムショには絶対入らねーぞ!!」

 そう叫びながら穴の中から這い出て、駆け出す斎藤。

 

 逃亡である。

 

「あ、あいつっ!ホントーに往生際の悪いっ!やっぱ今のなし!絶対に400万回収してやるんだから!」

 

 

「ええ。んじゃ、お願いします。ああ、できればダイバーも2、3人連れてきて下さい。池の中攫う必要があるんで。はい、はい、はーい。ではよろしくお願いしまーす。…ん。あれ?斎藤は?」

 ようやく携帯電話を切ったシンジにレイがぽつりと答える。

「逃げた」

 

 

 遊歩道に停められた大型バイク。それに跨った斎藤は鍵の差込口に手をやる。しかしいつもあるはずのものがない。

「か、鍵…!鍵どこだ…!」

「不用心ね。バイクを離れる時は鍵を抜いとかないと」

 斎藤のあとを悠然と追いかけてきたアスカは得意げに言いながら、人差し指に引っかけたキーホルダー付きの鍵をくるくると回して見せた。

「く、くそっ!」

 

「この野郎!俺から逃げられる男はこの世にゃ居ねえんだよ!」

 金属バッドを振り回しながら物凄い形相で追いかけてくるシンジが巻き舌で言い放つ言葉を、ついつい深読みしてしまい顔を赤らめてしまうアスカである。シンジの後ろを、レイがひょこひょことびっこを引きながら歩いてくる。

「ちくしょう!」

 ただならぬシンジの気配に怯えながら、再び駆け出す斎藤。駆けっこには男にも負けない自信があるアスカは慌てて追いかけようとはしない。

「おーおー、逃げよる逃げよる。…ん、あれは」

 斎藤が走っていく先には、3人が乗ってきたオンボロの軽自動車。斎藤は軽自動車まで走り寄ると、ドアのノブに手を掛けた。

「バカね。開くわけないじゃない。…って、あれ?」

 軽自動車のドアを開け、中に乗り込んでしまった斎藤。

「バカね。鍵が無けりゃ、動かせるわけないじゃない。…って、おおい!」

 ブルルンとエンジン音を響かせる軽自動車。

「あ、鍵、付けっぱなしだった…」

「お前もかい!」

 シンジの頭を思いっきりど突くアスカである。

 

 どす黒い煙を吐きながら動き出す軽自動車。

「ちょ、ちょっとどーすんのよ!」

 慌てるアスカの隣ではシンジが頭を抱えて喚いていた。

「ああ!ぼ、僕の初号機が!」

「あんた。アレにそんな名前付けてんの?」

「まだローンも残ってるのに!」

「あんな超オンボロを分割で購入したんかい!」

 斎藤を乗せた軽自動車を走って追いかけていくシンジ。

「もうっ!レイ!あんたはここで待ってなさい!」

 

 道を走り去っていく軽自動車。その後を走って追いかける男と女。それらを見送るレイ。左足が不自由なレイは、2人のように走って追いかけることなんてできない。もっとも、2人であっても走行中の車を足で追いかけようなど、どだい無理な話だが。

 何も出来ない自分をもどかしく思い、珍しく歯噛みするレイだったが、そんなレイの視界の隅に光るものがあった。

 それは地面に落ちた鍵。おそらく、アスカが落としたものだろう。

 レイはそれを拾い上げる。

 手に収まった鍵を見つめる。

 そして少し遠くに停められた大型バイクを見つめる。

 再び鍵を見る。バイクを見る。交互に2つを見る。

 視線の行き来を何度か繰り返し、レイは鍵を握りしめるとバイクに向かってひょこひょこと走り出した。

 

 バイクの差込口に鍵を突っ込む。

 そしてハンドルを握りながら、バイクシートに跨ろうとした。

 跨ろうとしたのだが、履いた濃紺のロングスカートの裾が邪魔になって、シートの位置が自分のお腹の位置にあるような大型のバイクに上手いこと跨ぐことができない。

 レイは躊躇することなくスカートの裾をたくし上げる。レイの真っ白な脛、膝小僧、そして太腿までを露わにすると、余った裾を巻いて縛った。

 下半身がすっきりしたレイは、右足でぴょんと跳ねると今度こそバイクに跨った。

 

 しかし跨ったはいいが、レイにはバイクを運転した経験がない。

 自転車に乗ったことくらいはあるので、ハンドルに付いているレバーがブレーキなのだろうな、ということまでは想像できるが、足もとにも何だか色々なペダルやレバーがくっ付いて、何が何やら。

 

 しかしレイはもちろんそんなことは承知の上でバイクに跨ったのだ。

 レイは知らなくても、「記憶」は「知っている」から。

 レイはバイクに乗ったことがなくても、無数の「記憶」は幾らでもバイクに乗ったことがあるから。

 

 レイは目を瞑り、ふぅ、と息を吐いた。

 

 

 

「返せーー!僕の初号機ーー!」

 シンジの背中が遠くなる。何せ初めて自分で購入した車だ。あんなオンボロとはいえ、それなりに、それこそ名前を付けてしまうくらいには、思い入れがあるのだろう。アスカはシンジにも駆けっこで負けない自信があったが、アスカの体力をシンジのマイカーに掛ける想いが上回ったらしい。

「ぜっ、ぜっ、ぜっ、…もう無理…」

 遥か彼方のシンジの背中を見つめながら、肩で息をする汗だくのアスカはついに地面に膝を折ったのだった。

「くそっ。このままじゃ逃げられる…」

 マイカーに掛ける想いはマックス200%のシンジであっても、いくら何でも走行中の車に追いつける訳がない。

 悔しそうに地面を殴るアスカの背後から、それは聴こえてきた。

 

 ドッドッド、と。

 オンボロ軽自動車が鳴らすガタピシ音に比べて、遥かに景気の良いエンジン音。

 

 なに?と後ろを振り向こうとした時には、それはすでにアスカの横を風を巻き込みながら走り過ぎていた。

 ばたつく髪を手で押さえながら、通り過ぎていった何かを見つめるアスカ。

 

 思わず吹き出してしまった。

 

 そして両腕を天に向けて突き上げる。

 

「行っけええええ!!レーーーーイ!!」

 

 相棒の名を叫んだ。

 

 そして呆れたようにこう呟いた。

「まったく…、本当に何でもアリね、あの子って」

 

 さらにこうも付け加える。

「パンツ丸見えじゃない…」

 

 

 

 

「待てっ!…へっ、へっ、へっ、待ちやがれ、このクソ野郎…へっ、へっ」

 無敵のシンジさんもさすがに息が上がってきた。すでに愛しの初号機の姿は遥か彼方。もう見えない。

 

「……!……さん!……ンジさん!」

 酸欠で目の前が真っ白になりかけた頃。何処からか自分の名を呼ぶ声がする。

 気が付けば、愛しの妹の姿が横にあった。

 あれ?レイ。いつの間に足が良くなったの?

 

「シンジさん!」

「ってあれ!?レイ!えっ!ええ!?」

 レイが跨っているものを見て仰天するシンジである。

「ちょっ!ってかパンツ!パンツ見えてる!」

「いいから早く!」

 妹のあられもない姿にさらに仰天してしまったシンジだが、レイの滅多に聴くことができない貴重な怒鳴り声にそれ以上何も言うことができず、伸ばされたレイの手を握る。そしてレイの腕に引っ張られながらレイが駆る大型バイクのタンデムシートに飛び乗った。

「掴まって!」

「は、はい!」

 レイに言われるがままに彼女の腰に腕を回すシンジ。

 途端に体が後方に引っ張れるような急加速。

 レイはアクセルを目一杯引き絞っていた。

 

 周囲の風景が次々と流れていく。鋼鉄の塊とLCLに守られたエヴァで全力疾走した時とは全く異なる高速の世界。剥き身の体を襲う空気の塊。足もとすれすれを高速で過ぎていく地面。

 アスカから聴いていはいたのだ。妹の運転は相当に乱暴だ、と。

 合法的に妹の体に抱き着くことができてラッキーと一瞬でも思わなかったかと言ったらウソになるが、少しでも気を抜けばたちまち振り落とされてしまいそうな妹の運転にそんな不届きな感想を抱く余裕はすぐになくなった。路面が荒れてようが急カーブがあろうが、妹が駆るバイクは常にフルスロットルだ。路面の凹凸を通過する度に大きく跳ね、カーブに突っ込む度に右に左に大きく傾く2人を乗せたバイク。レイの細くて柔らかい体に、必死にしがみ付く。

「うわあ!レイ!前、前!」

 シンジが叫ぶ。

「ちぃっ!」

 前方で、土手の上でいつもの放尿を終えた立小便ジジイが呑気に道路を横断しているのを見て、レイは軽く舌打ちをしながらハンドルを切った。

 バイクは立小便ジジイの側すれすれを通り抜け、道路を飛び出て、用水路を飛び越し、土手へと突っ込む。

「げふ!」

 後ろのシンジの呻きとも悲鳴ともとれる声を聴きながら、レイはその細腕で暴れるバイクの挙動を必死に制御し、なおもアクセルを全力で引き絞る。2人が乗るバイクは土手の斜面を所謂壁走りをしながら駆け抜けていく。

 立小便ジジイをやり過ごしたレイは再びハンドルを切る。バイクは土手の斜面を降りると再び用水路を飛び越え、道路に着地。

「ごふ!」

 再び背後でシンジの悲鳴が聴こえた。

 

 

 

 バックミラーを見る。健気にも足で走って追いかけていた2人の姿は見えなくなった。

 追われる身になってしまったものの、当面の危機を脱した斎藤はほっと溜息を吐き、背もたれに背を預けた。

「うおぉぉわわあ!!?」

 背を預けたその瞬間に運転席の窓ガラスが音を立てて割れたものだから、斎藤は盛大に悲鳴をあげてしまった。散らばるガラス片が斎藤の体に降りかかる。

「てめえ!!俺の初号機を返しやがれえ!!」

 砕けた窓ガラスの向こうで無敵の男が金属バッドを構えていた。

 

 シンジは本当は泣きたかった。中古車ディーラーの隅っこに打ち捨てられたように置かれていた愛しの初号機。乏しいバイト代をコツコツと貯めて何とか頭金を捻出し、血の涙を流しながら組んだ24回払いで購入した愛しの初号機。暇があればせっせと磨き、エンジンはすぐに不機嫌になるが修理に出すお金もないので何とか自己流で調節し、大切に大切に乗ってきた愛しの初号機。

 そんな手塩に掛けた初号機の窓ガラスを、自らの手で砕き割ったのだから。

「降りろ!!今すぐ降りろ!!」

 もうこれ以上初号機を傷付けたくはない。金属バッドの先端を初号機の割れた窓ガラスの中に突っ込み、斎藤を小突き回す。

 

「くそがあっ!」

 斎藤は咄嗟にハンドルを右に切った。

 

「きゃっ!」

「わあ!!」

 レイとシンジの悲鳴が重なる。

 並走していた軽自動車が急に右に振れ、バイクの後輪に接触したのだ。左に横転しかけるバイクのハンドルをレイが必死に右に切り、タンデムシートのシンジが懸命に自身の体を右に傾け、バイクを引き起こす。2人の息の合った動きでバイクは何とか横転を免れた。

 横転しかけたバイクが減速した隙に、軽自動車は黒い煙を吐き出しながら加速していく。

 しかしながら所詮はオンボロの軽自動車。再びレイがアクセル全開にしたバイクは、いとも簡単に軽自動車に追いつき、追い越した。また軽自動車に当てられないよう、右前方に陣取るバイク。

 バイクに接触して割れた軽自動車のヘッドライドを見て、シンジは絶望したくなった。泣きそうな顔で訴える。

「僕がどうなったっていい!世界がどうなったっていい!だけど初号機は!せめて初号機だけは…!」

「シンジさん!」

「え?今いいとこ…」

 セリフを遮られ、不満げにレイを見る。そのレイの赤い瞳は、左後方の軽自動車のフロントガラスを見つめている。

 レイが言わんとしていたことを察したシンジ。

「で、でも…!」

「シンジさん!」

「そ、そんな…!」

「シンジさん!」

「ぼ、僕にはできないよ…!そんな…、残酷なこと…!」

 そんな態度の兄に、呆れたように眉を顰めるレイ。一度深呼吸して、そして背中の兄を怒鳴りつける。

 

「バカシンジ!!早く!!」

 

 

「どわあああ!!」

 再び悲鳴をあげる斎藤。

 急に目の前が真っ白になったのだ。

 それが、バイクのタンデムシートに乗った無敵の男の金属バッドの一振りによって、軽自動車のフロントガラスが割られ、ガラス一面に蜘蛛の巣状のヒビが広がったのだと気付いた時には、目の前に電柱があった。

「くそがあ!」

 咄嗟に電柱を避けようとハンドルを右に切った。

 

 

「くぅっ!」

 再び軽自動車の急接近。接触を避けようと、レイもハンドルを右に切りながらバイクを急加速させる。

「うわあ!」

 しかしレイがハンドルを切った瞬間、愛しの初号機のフロントガラスに金属バッドの一撃を入れて放心状態だったシンジはバイクの急加速に耐え切れず、バランスを崩してしまった。

 

 

 咄嗟にハンドルを切ったのだが、間に合わなかった。

 電柱に突っ込む軽自動車。ボンネットがひしゃげ、フロントガラスが完全に砕け散る。

「うっ、うぅ…」

 斎藤は額から血を流しながらも逃亡への執念の火は消えることなく、歪んだドアをこじ開けると外に這い出た。全身に痛みを感じながら、立ち上がる。

 

 

 空が、地面が、何度も何度もひっくり返る。ひっくり返る度に、頭に、腕に、足に鈍痛が走る。

 ようやく空が上、地面が下と、視界が定位置に定まった。とは言っても、普段の視界に比べて視点はかなり低い。

 自分が地面に仰向けに寝っ転がっている事に気付くと同時に、近くに誰かが立っていることにも気付いた。

 

 

 無敵の男が地面に横たわっている。全身血だらけで。無防備な姿で。

 見れば、無敵の男が持っていた金属バッドが地面に転がっていた。

 

 

 額からダラダラと血を流している茶髪ロン毛のタンクトップ男が、金属バットを拾い上げた。そしてこちらに近づいてくる。

 逃げねば。

 今すぐ逃げないと、あの金属バッドの先端は、自分の頭に振り下ろされる。

 逃げないといけないのに。

 でも、全身が痛くて体が動かない。

 骨が折れてるわけではなさそうだし、筋が切れてるわけでもなさそうなのだが、全身くまなく打ったため、あちこちが痛くて体が言うことを聴いてくれそうにない。

 タンクトップ男が何か喚いている。おそらく精一杯悪態をついているのだろう。

 何かを喚きながら、握った金属バッドを頭上に掲げるタンクトップ男。

 自分の体は地面に張り付いたまま。

 歯を噛みしめながら金属バッドの先端を見つめた。

 

 

「お兄ちゃん!!」

 

 

 誰かに呼ばれたような気がした。

 次の瞬間には、斎藤の姿は視界から消えていた。

 

 何が起きたのか分からず、シンジはくらくらする頭の中で、記憶の映像を巻き戻し(ビデオテープ世代)してみた。映像の中で、再び金属バッドを構えた斎藤が現れた。巻き戻しを中止し、再生開始。次の瞬間には、まるで大掛かりな手品の人体消失のようにパッと消えている斎藤。再び巻き戻し、今度はコマ送りで再生してみる。

 金属バッドを構えて立っている斎藤。

 その右横から、何か黒いもの。

 コマ送りを進めていくうちに、画面の中に黒い何かがはっきりと現れる。

 それはバイクの前輪。

 さらにコマ送りを進めていくと、前輪は斎藤の顔に接触。

 たちまち歪む哀れな斎藤の顔。

 次のコマでは、斎藤の上半身はすでに画面の外へとフレームアウトし、そして次のコマでは下半身もフレームアウトし、斎藤の姿は画面から完全に無くなった。

 画面に残るのは前輪を浮かせた、所謂ウィリー走行をしているバイク。

 バイクを駆るのは、空色髪の我が妹。

 コマを進めていくうちに、バイクも妹の姿も画面の外へと消えていった。

 

 

 バイクを捨てたレイは地面に倒れた血だらけの兄のもとへと駆け寄ると側で膝を折った。

「シンジさん…!」

 兄の上半身を抱き上げ、その顔を覗き込む。

「れ、レイ…」

 掠れた声で妹の名を呼ぶシンジ。

「さ、…さ…」

 何かを言いかけて、痛みに言葉を飲み込んでしまう。

 レイは悲痛な面持ちで、シンジの声に耳を傾けた。

 シンジは唇が切れた口で何とか言葉を紡ぎ出す。

「さ、さっき…、な、なん…て?」

 「何のこと?」とシンジの顔を見つめるレイ。

「何…て、言った…?」

「…シンジ…さん?」

 シンジは頭を横に振る。

「ち、違う…、その…前…」

 レイは頭の中の記憶を手繰った。

 少しレイの頬が赤くなる。

 俯きがちに、こう呟いた。

「…おにい…ちゃん…」

 それを聴いた瞬間、シンジの頭ががくんと落ちた。

「もう…死んでもいい…」

 幸せ一杯目一杯の表情で気を失った兄に、妹は恥ずかしそうに「ばか」と呟きながらその頭を抱きしめる。

 遠くから、パトカーのサイレンの音が響き始めた。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 カーテンの隙間から午前の爽やかな陽光が差し込む。シンジは3人掛けのソファに寝そべりながら、うーんと背伸びをした。

 ここは街の隅っこにある2階建ての一軒家。シンジとレイと、そしてアスカがお金を出し合って借りた、3人の住処である。普段はシンジとアスカが2階を、レイが1階を寝所としているが、目下2階の2人は家庭内別居の真っ最中であるため2階はアスカが独占し、シンジは寂しくリビングのソファで寝泊まりをしていた。ちなみにリビングはシンジが生業とする探偵業の事務所も兼ねている。

 探偵事務所の事務員であり一家の主婦業の大半を担っているレイは、事務員の席であるリビングの隣にある台所のテーブルからソファで伸びをするシンジを見て優しく微笑んだ。

「…どう?」

「うん。まだちょっと肩が痛いけど、もう大丈夫」

 バイクから振り落とされて血だらけになったシンジはすぐに救急車で病院に運ばれ検査を受けたが、幸いに大きな怪我はなく翌日には自宅に帰された。今も額や腕など、服に被われていない肌には痛々しく包帯が巻かれているが、シンジの表情はいたって元気だ。

 頭を打っているため、医師からは念のた数日は安静にするようにとの指示を受けており、シンジは事務所開業以来初めての連休を楽しんでいる。

 書類仕事に勤しむレイの姿を満足気に見つめたシンジは、ソファの近くのテーブルに手を伸ばす。何枚かのパンフレットを手に取ると、寝っ転がったままその中身を眺め始めた。

 

「なに、読んでるの…?」

 台所の方からレイの問い掛け。心なしか、声が冷たい様な気がする。

「え、えっと…」

 後ろめたいことでもあるのか、シンジは返事を濁した。

 レイの目が光ったような気がした。

「自動車の…パンフレット…」

「う、うん…」

「どうして、そんなもの、見ているの?」

 レイは手もとにある自動二輪車の一発試験ガイドとディーラーのパンフレットを、他の書類の下にそっと隠しながら訊ねる。

「え、えっと…、やっぱり、車は、必要かな…、って」

「……買うの?」

「う、うん…」

「……どうしても?」

「……うん」

「……」

「……」

「……」

「……」

「…ごめん。レイのお給料は、近いうちに必ず渡すから…!」

 レイは溜息を吐いた。それは遠慮がちな溜息だったが、今のシンジにとっては遠慮なしのアスカの溜息よりもよっぽど怖い。

「…買う必要は、ないと思うの」

「い、いや。探偵はフットワークが命だからさ。どうしても車は必要なんだ。機材をたくさん積まなきゃなんない時もあるから、原チャリでも…だめ…なんだ…」

 無言のレイの視線が痛い。

「……だめ?」

 兄の縋るような視線に、レイはうー、と困ったように唇をとんがらせた。

 

 兄と妹の間に暫しの沈黙が続いた時。

 

「やったわよー!!惣流アスカ!!無事、400万円回収いたしましたああ!!」

 バン!とドアを勢いよく開け放ち、景気の良い声を上げながら入ってきのはアスカ。

「え?もう回収したの?」

「あいつの実家に行ったら親御さんがすーぐにお支払い下さいましたー」

 破局中の恋人の問い掛けにもアスカは上機嫌に返事する。

「…よく実の息子が殺人犯になったばかりの親の所に押し掛けられるね…」

「うっさいわね。あっちもこれが手切れ金とばかりにあっさりと用意してくれたわよ。息子も息子なら親も親ね。そんなことよりさあレイ!いつものようにご褒美食べにいきましょうかあ!」

 アスカの呼びかけにレイは腰掛けていた椅子を押し倒す勢いで立ち上がりながら言った。

「セン○キ屋!」

「…セ○ビキ屋って、あんた…。そう簡単に超高級パーラーに何度も行けると思わないでよ…。すっかり舌肥えちゃってから…。まあ、お金はあるんだし行けないことはないんだけどさ…。…んー、やっぱダメダメ。今日は○△町のカフェでフローズンパフェ食べるって、前から決めてたでしょ。ほら準備準備」

 アスカに急かされレイはトコトコと、左足を引きずりながらもどこか軽い足取りで自室に駆けていく。

 

 リビングの隅の姿見で本日のコーディネートを鼻歌混じりに確認しているアスカ。

 そんなアスカの後姿を、シンジはソファからじっと見つめる。

「…あ、あの…アスカ」

「何よ」

「ぼ、僕も一緒に行きたいな~……なんつって…」

「はああ?」

 鏡越しに睨まれ、シュンとするシンジ。

 扉が開き、レイがいつものカンカン帽と丸渕メガネ姿で現れた。 

「んじゃレイ。行きましょうか」

 アスカはレイの肩をぽんと叩き、さっさと出て行ってしまった。

「レ、レイ!」

 シンジは今度はレイを呼び止めた。

 扉の前でレイは立ち止まり、シンジの方へ振り返った。

 妹を見つめる、兄の縋りつくような眼差し。

「ほおらレイ!さっさと行くわよ!」

 アスカの声が聴こえる玄関の方と、ソファのシンジとを、レイは困ったように交互に見つめた。

「レーーイーー!」

 再びアスカの呼ぶ声。

 レイは一度視線を床に落とし、そしてシンジに向けた。

「…レイ…」

 期待をこめたシンジの声に、レイは答える。

「…お兄ちゃん…」

「なに?」

「私は妹だから、仕方ないけど…。アスカと付き合おうと思うのなら、もっと頑張って、相応しい男にならないと…」

 そう言い残し、レイはリビングを出て行った。

 

 レイが出て行ったドアを呆然と眺めるシンジ。

「…なんだよ…それ…」

 そう呟いて、ソファに倒れこむ。

「なんだよぉぉ…、それぇぇ…」

 呻くように繰り返した。

 

 とっても可愛い妹が居て。

 とっても素敵な恋人が居て。

 

 この家に引っ越した当初は、とても素晴らしいバラ色の日々が始まるのだと、そう思っていた。

 多分自分は世界で一番幸せ者だと、そう思っていた。

 

「なんか思ってたんとちがうー!」

 ソファに顔を押し付けながら叫ぶシンジ。

 ダーク(親父)サイドに堕ちるまでもう少し。

 

 

 

 

「彼、叫んでるわ…」

 道路に立つレイは、玄関の方を見ながら呟いた。

「いや…、あんたの最後の一言が効きすぎたんじゃないの?」

 アスカもレイと同じ方向を見ながら呟く。

 レイはアスカに「どうする?」と視線を向ける。

「もう少し待ってみましょ…」

 てっきりあの甲斐性なしは追い掛けてくるものとばかり思っていたのだが、甲斐性なしはやっぱり甲斐性なしだったようで、2人のアテは外れてしまったようだ。

 

 2人して玄関を眺めている。

「ねえ。レイ」

 アスカに呼ばれ、レイは振り返る。

「あんた。もう私の取り立て、手伝わなくていいわ」

 「なぜ?」と首を傾げるレイ。

「危ない目に遭わせちゃったし。それによくよく考えてみたら、他人の「記憶」を覗き見するなんて、あんまし良い気分じゃないでしょ?」

 自分を気遣ってくれるアスカの気持ちが嬉しかったのか、レイは微笑み、そして頭を横に振った。

「なんで?嫌じゃないの?」

 レイはぽつりぽつりと言う。

「おに…、碇くんの側に居ると、心がぽかぽかする…。アスカと一緒に居ても、心がぽかぽかする…。だからもっと、続けたい…。アスカと一緒に…」

 レイのまっすぐな眼差しを、アスカはぼーっとした表情で見つめた。

「あんた…」

「なに?」

「あんた、もういっそのことあたしと付き合わない?ってか結婚しない?」

 微笑んでいたレイの表情が、さっと真顔になる。

「碇家には、LGBTじゃない者もいるの」

「…ちょっと待って。その言い方だと、碇家には他にも居るってことになるじゃ…、もしかしてあの親父…!」

「私は副司令との関係を怪しんでる…」

「ちょっ、マジ!?ちょ、ちょっと、ちょっと。ちょいと親父さんの「記憶」を覗いてみなさいよ」

「私になんてもの見せようとしているの?」

「いいじゃない。ちょっとだけ、ちょっとだけよ」

「私にも見たい「記憶」と見たくない「記憶」を選ぶ権利くらい、あるわ」

「うううーー、知りたーい…」

 歯噛みするアスカに、レイは呆れたように溜息を吐いた。

 

「それにしても…さ」

 アスカは2人の間にあるモノを改めて見る。

「結局あたしたちって、あいつに対して大甘なのよね…」

 そのアスカの言葉には、レイは素直に同意する。

「仕方ないわ。だって私もあなたも、おにい…碇くんのこと、大好きなんだもの」

 そのレイの言葉にアスカは素直に同意したくないのか、うーと唸りながらも顔を真っ赤にさせてそっぽを向いてしまった。そんな態度のアスカに、レイは再び表情に微笑みを宿らせる。

「ああーーもうーー!何やってんのよあいつ!さっさと出てきなさいよね、まったく!」

 照れ隠しにそう怒鳴りながら、アスカは玄関の中へと消えていくのだった。

 

 アスカの後姿を見送ったレイは、数歩ほど後ろに後退し、改めてソレを見つめた。

 レイの前にある、玄関前に停められた一台の自動車。

 かつて欧州の島国の自動車メーカーが生産していた、可愛らしい小さなボディが特徴の車。セカンドインパクト以降生産終了となっているが、愛好家が多く中古車としてよく出回っており、これも市内の中古車ディーラーで見つけたアスカが即決したものだ。購入資金の半分を出したレイは、その隣にあった真っ白な軽トラックの購入を強く推奨したのだが、真っ赤に塗装されたこの車をいたく気に入ったアスカによってその提案はあっさりと却下されている。

 2人で市内の自動車屋さんを回って、この車を見つけたのは昨日の6月5日。

 今日は6月6日。

 現金一括払いし、無理を言って自動車屋さんに今朝届けてもらったのだ。

 

 レイは車の周りをゆっくりと歩きながら、その赤く光る車体をじっくりと眺めた。

 軽トラックの方がよっぽど頑丈で実用的なのに、と今も思うのだが、こうして眺めていると、これもそう悪くないな、と思えてきた。

 助手席のドアを開けてみる。

 小さな見た目だが中はそれなりに広い4人乗り。しかしながら2ドアタイプなので、後部座席に乗ろうと思ったら前席のシートを前に倒すと言うひと手間が必要だ。アスカ曰く「不便さを楽しんでこそ大人の趣味」なのだそうだ。

 昔から運転席と助手席は恋人同士が座ると相場が決まっているらしい。それくらいは弁えているレイは、助手席のシートを前に倒すと、後部座席へと乗り込む。ドアを閉め、助手席のシートを元に戻す。

 2人掛けシートの、真ん中に座ってみた。背もたれに深く背中を預ける。

 

 今は目の前は空っぽの運転席と助手席だけど。

 あともう少ししたらそこには大好きな兄と、大好きな親友がそれぞれの席に収まるはずだ。

 目的のカフェまでは、海沿いの道を走って1時間くらい。今日は快晴で、海は太陽の光をキラキラと反射させてとても綺麗だろう。絶好のドライブ日和だ。

 運転手には邪魔になるかもしれないけれど、2人掛けのシートの真ん中に座って、ラジオから流れるFMと2人のお喋りに耳を傾け、時々2人の間に身を乗り出してお喋りに割り込んで、時々シートの右端によって、右手に広がる海を眺めて。

 ただ車に乗って、みんなで出かける。たったそれだけのことに、こんなに心がワクワクする日が訪れるなんて、少し前までは考えもしなかった。

 シートの左側に寄り、おでこを窓ガラスに張り付けて玄関の様子を覗う。

 今頃中では親友が兄の尻をひっぱたきながら出かける準備をさせているだろう。

 それともすっかり仲直りして、口づけの一つでも交わしているかもしれない。

 

「…早く来ないかな…」

 

 レイは弾んだ声でそう呟くのだった。

 

 

 

 



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おまけ(女ジャックバウアー伝説・起)

色々とガバガバな内容ですが細かい事気にせずご覧ください。


―――これまでのあらすじ

サードインパクトから数年後、親父の行方を捜し続けてきたシンジくんは、何やかやあった末に親父を見つけ出し、ついでに親父と一緒にいたレイと再会し、何やかやあった末にレイと兄妹となり、何やかやあったか知らんがアスカと恋人同士となり、何やかやあってシンジとレイとアスカと3人で住み始めて、さてそれからそれから。

ちなみにレイはサードインパクト発生時点での全人類の記憶を持つというチートスキル所持中。


 

 

 

 その兄妹はどこか落ち着かない様子で長椅子に腰かけていた。

 

 両拳を両膝に乗せ、背筋をピンと伸ばした姿勢で、目の前の扉を固唾を飲んで見つめる兄。室内は十分に空調が整っているのに彼の額と頬には汗が滴り、右膝はがくがくとせわしなく貧乏ゆすりを繰り返している。

 その左隣に座る妹は、そんな兄を落ち着かせようと彼の左拳に自分の右手を添え、軽く握っているが、彼女自身も冷静で居られているようではなく、左手は自身のシャツの胸の辺りを鷲掴みにしており、その手は胸の中に収まる心臓の激しい鼓動を感じていた。

 

 兄が目の前の部屋から追い出され、外で待っていた妹と長椅子に座り、一言の言葉も交わさないまま1時間。

 

 扉が開き、女性が顔を出した。

 2人の顔が強張る。

 女性に呼ばれ、兄はすぐさま立ち上がり、ぎこちない足取りで部屋に入っていった。

 扉から顔を出した女性は妹にも「入らない?」と聴くが、妹は肩を竦ませたまま首を横に振る。緊張のあまり腰が抜け、立ち上がれなくなってしまった様子だ。女性の顔が引っ込み、扉は再び閉じられる。

 椅子には、妹だけが残った。

 

 兄が入っていた扉を、妹は全身をカチコチに凍らせたまま見つめる。

 

 暫くして、扉が開き、兄が顔を出す。

 デレデレ顔の、何とも締まりのない兄の顔が。

 

「レイ、おいで」

 手招きする兄。

 未だ緊張から解けていない様子の妹は、「動けない」と首を横に振り、長椅子に腰かけたままだ。

 そんな強張った表情の妹とは対照的なデレデレ顔の兄は、長椅子まで歩み寄ると妹の意思を無視してその細い腕を引っ張り強引に立ち上がらせ、そのまま扉の中へと引き込んだ。

 

 扉の中には数人の看護師や医師。彼ら彼女らに囲まれるようにある大きなベッド。

 そのベッドには、妹の親友が横になっていた。

 憔悴し切った様子の親友の顔。それでもその顔はとても晴れやかで、そしてやはり兄と同じようにデレデレ顔。

 親友の腕の中には白いバスタオル。そのタオルに包まれたもの。

 

 医師も看護師も、兄も、親友も。

 その部屋にいる全ての者が笑顔だ。

 ただ一人、妹を除いて。

 

 兄は妹をベッドの側に立たせてタオルの中のものをしっかりと見てもらおうと握った妹の腕をさらに引っ張ろうとした。

 ところが妹はそれに抗い、兄の手から自身の腕を引っこ抜く。

 兄は「どうしたの?」と再び妹の腕を掴もうとしたが、妹は自身の両腕を胸元に寄せて、兄に掴めないようにした。

 その時になって、頭の中が完全にお花畑になっていた兄はようやく妹の異変に気付いた。

 

 妹はそのまま後ずさり、壁に背中を付ける。

 赤い瞳が、ベッドの親友と、その腕に抱かれた白いバスタオルを凝視していた。

 

 大きく膨らんでいたはずの親友のお腹。

 そこには何もなかったはずの親友の腕の中。

 

 今、親友のお腹はすっかりしぼんでいて、そして親友の腕の中には、ほんの少し前まではこの世界に存在しなかったはずのものがある。

 

「レイ…」

「レイ…?」

 兄と、ベッドの上の親友に呼ばれ、妹は弾かれたように顔を上げ、2人を見た。

 

 兄は妹の赤い瞳の中に、深く渦巻く戸惑いと混乱を見た。

 

 妹は背中を壁にぴったりくっ付けたまま扉に向けて移動していく。そして扉を少し開けると、その隙間に身を滑りこませ、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 

「レイ…!」

 兄は妹の名を呼んだ。

「シンジ…」

 妻は夫の名を呼ぶ。振り返った夫に続けて言う。

「追いかけて」

「えっ、でも…」

「あたしのことは…」

 言いかけて、妻は頭を横に振る。

「あたしたちのことは大丈夫だから…」

 

 

 待合室に妹の姿はなかった。

 ふと、西に大きく傾いた陽の光が差し込む窓の方へ眼を向けると、バルコニーに佇む妹の背中が見えた。

 

 

 バルコニーの手すりに体を預けながら、ぼんやりと赤い太陽を見つめていると、すぐ横に人の気配を感じた。それが自分を心配して追い掛けてきてくれた兄であるということは見ないでも分かったため、視線は太陽に向けたままぽつりと言った。

 

「…ごめんなさい」

 

 おそらく、あの部屋はこの世界で最も喜びに満ちた場所であり、あの瞬間は誰もが手放しで祝福するべき時間であったはず。

 それを、自分は汚してしまった。

 2人にとって。いや、3人にとって、最も忘れがたい幸せな時間であったのに、自分はそれに水を差してしまった。

「気にしなくていいよ」

 そう言って、兄は項垂れている妹の頭を腕で柔らかく包み込み、ぽんぽんと頭を叩いてやる。

「僕だって頑張って立ち合おうと思ったけど、ひたすら狼狽えるだけで結局看護婦さんに邪魔だと追い出されちゃったからね。きっと今日のことはこれからずっとアスカにはなじられ続けらるんだろうな」

 恐妻に一つ弱みを握られたことを、それでもどこか幸せそうに呟く兄。

 そんな兄の横顔を見て、妹はやはり兄には自分の心の内を打ち明けておきたいと思った。

 

「初めて見たわ」

「僕だって初めてさ」

「命は…、あんな風にして…生まれるべき…なのね…」

 その妹の呟きに、兄はようやく妹の瞳に宿っていた大きな戸惑いと混乱の意味を知った。

 

 自然の摂理から生まれる新たな生命。

 この世界が誕生してから、幾度となく繰り返されてきた生の営み。

 代を重ね、どんなに進化が進もうとも、そこだけは汚されることのない、生命の聖域だったはず。

 

 おそらく妻の姿を目の当たりにして、妹は思ってしまったのだろう。

 自分は、違う、と。

 皆と、違う、と。

 自然の摂理から、一人外れた存在なのだ、と。

 

「私、やっぱり…変だわ…」

 あの部屋に入った瞬間、ベッドに横になる親友とその腕に抱かれたものを見た途端、自分という存在がとてつもなく不自然なもののように思えてきたのだ。ベッドで力尽き果てたようにぐったりと横になりながらも、慈しむように腕の中のものを抱きしめる親友と、その傍らで喜びに満ちた表情で立つ兄。非の打ちどころのない、完璧な姿で、自然の摂理の上に立つ彼ら。その中に、こんな不可解な存在の自分が入り込むことなど、とても許されないと思ったのだ。

「私、やっぱり…人じゃ…な…」

 言いかけたところで、頭を抱いた兄の腕にぐっと力がこもった。痛くはなかったが、言いかけた言葉はぐっと喉の奥に飲み込んでしまった。

「関係ないさ。君がどんな存在だとか、そんなこと」

「でも…」

 

「君は僕たちの家族」

 

 兄の口から何の躊躇いもなくとても自然に零れ出たその言葉は、妹の心をまるで柔らかな毛布のように温かく包み込んでいく。

「それ以外で君の存在を確認するために必要なことって、ある?」

 妹の強張った表情が緩んでいく。

 妹は遠慮がちに、頭を横に振った。

「だろ?」

 遠慮がちに頷く妹。

「今日は僕たちにとって、特別な日だ。僕たちってのは、もちろん僕とアスカだけじゃない。レイのこともだよ」

 

 兄は思うのだ。

 生まれた場所も境遇も性格も全く違う3人。でもどこか似た者同士。3人とも、家族という環境の中で育つことができなかった者同士。その3人がいつしか出会い、いつの間にか一緒に暮らし、そしていつの間にか家族になっていた。

 こんな素敵な家族は、世界中を探しても、そうはないだろう、と。

 

「今日は僕ら家族の中に、もう一人、新しい家族を迎えるんだ。それは誰かに与えられたものでも、預けられたものでもない。僕ら3人が一緒に頑張って、僕たちでゼロから育んだ命なんだ」

「…頑張ったのはお兄ちゃんとアスカだわ」

 妹の言う「頑張った」というのが、一体どの行為を指しているのか。思わず赤くなってしまう兄である。

「アスカが言ってたよ。本当にレイには感謝してるって。家事は全部やってくれたし、通院も付き添ってくれたし、つわりが酷い時は一晩中背中をさすってくれたって」

 兄にそう言われ、妹は少し照れたように頬を指で掻く。

「君には、誰よりも祝福してほしい。僕たちの新しい家族のことを…」

 

 妹は太陽を見つめ直した。真っ赤な瞳の中に、日没間近で煌々と燃える太陽が宿る。

 瞼を閉じ、そして開くと兄を見つめた。

 うん、としっかりと頷く。

「じゃあ、行こうか。僕たちの新しい家族を迎えに」

 そう言って自分の腕を引っ張る兄の手に、妹は抗うことなく付いていった。

 

 

 再び分娩室に入ると、医師や看護師の姿はすでになく、親友と「それ」のみがベッド上に残っていた。

 親友の顔は相変わらずデレデレ顔。

「何やってたのよ、レイ。早くこっち来て」

 親友に言われ、おずおずとベッドに近づく。

「ごめんなさい…、アス…」

「んなことどーでもいいーから。ほら見てよ。ちょー可愛いの」

 いつもと変わらない親友の口調。でもその顔つきは分娩室に入る前に見た時と、明らかに違う。

 穏やかで柔らかで慈愛に満ち溢れた親友の顔。

 何かの本で読んだような気がする。女性は「それ」を経ることで、生まれ変わるのだ、と。

 彼女は生まれ変わったのだ。

 そして、彼女を生まれ変わらせた存在が、今、彼女の腕の中にいる。

 妹は白のバスタオルに包まれたそれを覗き込んだ。

「ね?ね?めっちゃ可愛いでしょ」

 

「……」

 タオルの中身を覗き込んだまま固まってしまったレイ。

 正直なところ、レイはアスカの言葉に同意しかねた。

 

 人間社会に放り出されて早7年。どこか欠けていた自分の中の情緒というものもそれなりに確立され、美的感覚というものもそれなりに養われたと思っていた。

 それでも。

 今、親友の腕に抱かれたそれ。

 しわくちゃのそれ。

 閉じられた瞼の辺りがぽっこりと突き出たそれ。

 鳥のくちばしのような口をしたそれ。

 ピンク色に染まった肌のそれ。

 自分と同じようにそれを覗き込んでいる兄の顔を見る。

「かあ~い~ね~」

 相変わらずデレデレ顔の兄。どこから出しているのか分からにような、甘ったるい声でそれに呼び掛けている。

 親友の顔を見る。

「もう可愛すぎでしょう」

 レイはおずおずと頷いた。

「…うん、かわいい、かわいい」

 人間社会に放り出されて早7年。「場の空気を読む」というスキルを身に付けていたレイである。

 

 膝に手を付き、前屈みになって白のバスタオルの中のそれを興味深く見つめていたら、アスカが突拍子もない提案をしてきた。

「ほら、レイ。抱いてやって。ね?」

 そう言われた途端、レイは弾かれたように上半身を起こし、咄嗟に両手を背中に隠した。ふるふると、頭を横に振る。

「なんでよ。あんたもこの子が生まれるの、あんなに楽しみにしてたじゃない」

 アスカはそう言いながら、レイの方にバスタオルに包まれたそれを差し出す。アスカの言う通り、レイはアスカが産休に入ってからというもの殆どの時間を彼女と過ごし、暇があればお腹に向かって話しかけ、暇があれば自身の耳をお腹に引っ付け、お腹からの蹴り返しがあれば目を丸くしながら喜んでいたものだ。

「そうだよ。ほら」

 シンジはアスカが差し出すバスタオルに包まれたそれを大事そうに受け取るとレイに近寄ろうとする。

 途端に、頭を横に振りながら後退りを始めるレイ。

 

 シンジは妹の気持ちがよく分かった。自分も、初めて妻の手からそれを差し出された時は、どうやって抱いてやればよいのか分からず、大いに躊躇ってしまったものだ。それはこの世で一番大切なもので、この世で一番脆く儚いもの。自分なんかが抱いてしまって、もし壊してしまったら。落としてしまったら。いらぬ不安が頭を過ってしまうのだ。何の躊躇いもなく当たり前のようにそれを抱いている妻の姿が、何とも偉大に見えたものだ。

 しかし一度抱いてしまえば、それはこの世で一番の宝物。一度抱いてしまえば、二度と手放したくないもの。抱く者を、この世で一番の幸せ者にするもの。

 もしかしたら自分の半生の中で感じた一番の幸せを、ぜひ妹にも味わってほしかった。

 だからシンジは、この世で一番の宝物を、妹に向かって差し出そうとした。

 ところが妹がその宝物を受け取るのを躊躇っている間に、宝物のただでさえしわくちゃの顔が更にしわくちゃになり、ぐずつき始め、そして遂には鳥のくちばしのような口を一生懸命開けて泣き始めてしまった。

「わあ、どうしたどうした。よしよし」

 シンジは腕の中のそれをゆっくりと丁寧に揺さぶる。人差し指で、優しくそれのピンク色の頬を撫でた。

 新米パパは頑張ってそれをあやしているが、それは一向に泣き止みそうにない。自分の中にある全ての力を搾り出すかの勢いで、懸命に泣いている。

「もう、なにしてんのよ」

 泣き止まない宝物に狼狽えている夫の姿が見ていられず、新米ママは宝物を返してもらおうと両手を差し出す。

 夫が無力感に苛まれながら、妻のもとに宝物を返そうとしたその時だった。

 

 

 それは無意識のうちの行動だった。

 

 兄の腕の中で一生懸命泣き叫んでいるそれ。

 気が付けば、体が勝手に動いていた。

 兄の手から、親友の手へと渡ろうとしていたそれ。

 それを少しばかり強引に、自分の手の中へ。

 

 見た目以上に軽いそれ。

 それでも、ずっしりと腕に感じるそれの存在。

 まともに腕を動かすことも、脚を動かすことも出来ず、今できる事はただ泣き叫ぶことだけの、無力極まりないそれ。

 この世界に勝手に産み落とされたことにまるで強く抗議しているかのように、ただ泣き叫んでいるそれ。

 

 大丈夫。

 大丈夫。

 この世界はとても残酷で、とても辛いことばかりだけど。

 でも、とてもステキなところよ。

 

 相変わらず身体は勝手に動く。

 まるでそうすることをこの身体は知っていたかのように、それの後頭部に左手を回して背中を支え、肘窩を枕代わりにし、股の間から右手を差し入れてお尻を支え、そしてその小さな体全体をそっと胸に引き寄せる。

 

 

 若い夫婦は、彼らの妹(義妹)のその姿を呆気に取られて見ていた。

 彼らの生まれたばかりの赤ん坊を、抱きかかえるレイの姿。

 ゆっくりと上半身を揺らし、赤ん坊をあやすレイの姿。

 

 アスカは思わずシンジに訊ねてしまった。

「レイって、…もしかして子持ち?」

「…いや、…そんなはずはないんだけど…」

 

 いつの間にか赤ん坊は泣き止んでいて、今はスヤスヤと小さな寝息を立てている。

 そんな赤ん坊に、レイは小さな声で子守唄を聴かせてやっている。

 

「ねえ?」

「なんだい?」

「よりによって、どーしてあの歌なの?」

「ごめん、アスカ。碇家の家訓で、我が家の子守唄はあの歌って決まってるんだ」

「…そうなの。…ま、魚嫌いにはならないで済みそうね…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 アスカは慌ただしく支度を済ませると、玄関に向かった。

 その後をトテトテと、どこか危なっかしい足取りで追いかける小さな影。

「ママー、きょうははやくかえってきてね」

 玄関で外履きに履き替えたアスカは振り返り、膝を折って目線を低くしながら答える。

「ミチルが言いつけをちゃんと守ってたら夕飯前に帰ってくるわ」

「ほんとにー?」

「いいこと。お外から帰ったら?」

「てをあらう」

「ご飯を食べたら?」

「はをみがく」

「お昼を過ぎたら?」

「おひるねする」

「あとは?」

「レイちゃんのゆーことをよくきく」

 台所からエプロン姿のレイが出てくる。

「アスカ、お弁当忘れてるわ」

「あーごめんごめん。ありがと」

「ほんとにー?ほんとにはやくかえってきてくれる?」

「ええもちろん」

「でもこないだはまもってたのにはやくかえってくれなかった」

「え?そ、そうだったかしら」

「ええ。アスカは先週の金曜日は早く帰ると言いながら夜遅くに帰ってきた」

 レイは淡々と指摘しながら、足もとの子供を抱き上げた。

「うっ。あんた、たまにはあたしの味方をしてよ…」

 レイはふふ、と微笑みながら子供を抱きしめる。子供も、慣れた様子でレイに抱き着いている。

「ごめんなさい。私は3年前の今日、決めたから。どんなことがあっても、誰を差し置いてでもこの子の味方になろうって」

 アスカもふふ、と笑う。

「まあそりゃ何とも頼もしい守護天使ですこと」

 冗談ではなく、本気でそう思うアスカである。

 

「ねーママー」

 レイに抱かれた子供。

 肩まで伸びた栗色の髪を後ろで2本に分けてまとめ、黄色の吊りスカートを履いた蒼い目の女の子は、甘えるように母を呼ぶ。

「分かってるって。今日は絶対に早く帰ってくるから。たとえ天変地異が起ころうとも、フォースインパクトが起きようとも、使徒が襲ってこようとね」

「シトってなーにー?」

「使徒とは10年前に人類を襲った巨大生命体。その名は聖書に記された天使の名を…」

「余計なことは教えなくていいの。じゃ、ミチル、行ってくるわ。レイ、お願いね」

「いってらっしゃい」

「いってらっしゃい、ママー」

 10分前にシンジが出て行った玄関を、今度はアスカが出て行く。

 それを見送るレイと、ミチルという名の女の子。

 これが碇家のいつもの日課だった。

 

 

 5年前に某大手法律相談事務所に就職したアスカは、いずれは弁護士を辞めて貯めたお金で何か新しいことを始めたいとレイに打ち明けていたが、子供が生まれたことで暫くは安定した収入が必要となったため、5年経った今も比較的子育て世帯に理解のある事務所に職場を移して弁護士を続けている。

 シンジはようやく仕事が軌道に乗り、レイに宣言していた通りに仕事場を郊外の自宅から街中の雑居ビルの一室に移した。レイはミチルが就学するまでは子守りをすることになったため、レイを秘書にするというシンジの夢は叶っておらず、新たに雇った数人の助手と共に事務所を運営している。

 

 朝食の後片付けや洗濯物干し、掃除を済ませたレイ。

 掃除機を押し入れにしまっていると、ミチルがトテトテと歩み寄ってきた。

「レイちゃん、おわった?」

 レイは柔らかく微笑みながら頷く。

「じゃあ、いこー」

 そう言って、レイの手を引っ張る。

 

 2人して長靴と、汚れてもいいズボンと上着、そして麦わら帽子という格好で裏庭に出る。

 ミチルの子守りと家の家事に担うようになってから、レイは貯めていたお金で家の裏の遊んでいた空き地を買い取り、畑にしていた。作物、つまりは命を育てるという行為にレイはたちまち熱中する。かつての逃亡生活中には大型農園に勤めていたこともあるレイだが、その農園は分業化が進んでおり、レイは主に草刈りと収穫物の選別作業に携わっていいたため、作物を一から育てるのはこれが初めてだった。最初は一家4人の食事のおかずに出せる程度の野菜が採れる小さな畑は、今や趣味の範疇を超えた広い農地と化している。採れる野菜はとても4人のお腹だけでは消費し切れず、畑に面した道路の脇に小さな屋根付きの棚を作って余った野菜を青空市場として出しているが、近所の評判は上々で朝に出した採れ立ての野菜は昼前には全て売り切れており、無職となったレイの貴重なお小遣いとなっている。

 細腕で鍬を振りながら畑を耕しているレイの少し遠くでは、ミチルが菜の花の上をひらひらと舞う蝶々を追いかけている。様々な生命が充満している畑は、ミチルにとっては格好の遊び場だった。ミチルの母親が見たら卒倒してしまいそうな、ウネウネと動くミミズや芋虫を平気で摘まんでは、足場の悪い畑の中をうんせうんせと歩いてレイに見せに来る。レイは見せられる度に手を止めて、膝を折って目線をミチルに合わせ、ミチルの小さな手の中で動く虫を一緒に眺めるのだった。

 

 昼前には家に戻り、泥だらけのミチルと一緒にシャワーを浴びると、台所のテーブルで昼食を済ませる。

 食後は風が良く通る畳の間で一緒に横になり、お昼寝。

 

「ねえ、レイちゃん」

 遊び疲れて横になった途端にくてっと寝付くミチルだが、お昼寝から先に起きるのはいつもミチルの方だ。ミチルに起こされ、寝ぼけ眼のレイ。

「もう2じだよー」

 ミチルに促され、レイは寝ぐせがついた髪を適当に梳くと、いつものようにニット帽を被り、色付きメガネを掛け、がま口の入った買い物用の手提げかばんを手に取る。ミチルにはお出かけ用のバケット帽を被せ、手を繋いで外に出た。

 途中の公園で軽く遊んでいき、商店街で買い物を済ませる。家路に付く頃にはミチルはすっかり歩きくたびれているので、レイは左手に手提げ鞄、右手にミチルを抱きかかえて帰る。これもいつもの2人の日課だった。

 

 台所で料理をしていたら、お尻にミチルが抱き着いてきた。

「レイちゃん、きょうのばんごはん、なーにー?」

 甘えたようにまだまだ小さく短い足や腕をレイの足に絡めてくる。

「なんでしょーねー」

「なんだかいつものごはんとちがうねー」

「そーかーなー」

「しろいこなたくさん。たまごたくさん。ぎゅーにゅーもたくさん」

「なにができるのかなー?」

 レイはできてからのお楽しみとばかりに返事を濁しながら、ボウルの中身を泡立て器でかき混ぜ始めた。

「きょう、ママとパパ、はやくかえってくるかなー?」

「大丈夫。今日はパパもママも、絶対に早く帰ってくる」

「ほんとにー?」

「ええ、本当よ」

「うそついらハリせんぼんのますんだよー」

「そんなに飲んでしまったら死んでしまうわ」

「えー…」

 ミチルはレイの濃紺のスカートをぎゅっと掴む。

「レイちゃん、しんじゃうの…?」

 幼子相手に不穏当な事を言ってしまったと反省するレイである。

「大丈夫。私は死なないわ」

「ほんとにー?」

「ええ、本当よ」

「ハリせんぼんのんでもー?」

「ええ」

「けんじゅうでうたれてもー?」

「ええ」

「レイちゃんってつよいんだね」

「ええ、そうよ」 

「でも…、ミチルは…、けんじゅうでうたれたらしんじゃうんだよ…?」

「大丈夫」

 レイは料理の手を止め、腰に抱き着くミチルの頭をしっかりと抱き締めてやる。

「ミチルちゃんは死なないわ。私が守るもの」

 

 

 陽が暮れる前には、シンジが帰ってきた。

 包装紙に包まれた、何か大きなものを抱えて。

 

 陽が暮れてから暫くして、ようやくアスカが帰ってきた。

 最寄りのバス停から走ってきたらしく、肩で息をしている。

「ぜー、はー、ぜー、はー。セ、セーフよね…」

「ママー、おそーい」

 出迎えたミチルは、フリルのついたちょっとしたドレスを着ている。頭のてっぺんには大きなリボンが乗っかっていた。

「あら、可愛いじゃない、ミチル」

「レイちゃんがきせてくれたの。ねえ、きょうはすんごいごちそうだよー」

 ミチルに引っ張られてリビングに向かうと、なるほど、テーブルの上には大きな皿が幾つも並べられ、その上には色とりどりの料理が盛られている。

「わっ、こりゃすごい。レイ、頑張ったわね」

「本当に。ありがとう、レイ」

 アスカとシンジに言われ、恥ずかしそうにもじもじと両手を揉むレイである。

「ねえ。はやくたべよーよー」

 テーブルに両手をつき、ぽんぽんと跳ねるミチル。このままだとせっかくの料理をひっくり返してしまいそうなので、シンジはミチルを抱き上げた。

「ちょっと待って。ねえ、ミチル」

 アスカは、シンジが持ち帰った大きな包みを抱きかかえながら言う。

「なーに?」

「今日は何の日だ?」

「えー?なんのひだろー」

「今日は感謝の日よ」

「かんしゃのひ?」

「そう。ミチルがパパとママと、そしてレイのもとに来てくれて、ありがとー、って日」

「へー…」

「…よく分かってないようね。とにかく…」

 アスカが包み紙を破り、その中に入っていた特大のクマの縫いぐるみを出したと同時に、アスカ、シンジ、そしてレイは口を揃えて言った。

「「「誕生日、おめでとー!」」」

 

 

 レイが用意した料理やケーキをあらかたお腹に収めた4人。

「お姫様が綺麗におめかししてくれていることだし、せっかくだから写真でも撮ろうか」

 ミチルが生まれてからというもの、シンジの趣味はすっかりカメラになった。愛娘の写真はもちろん、事あるごとに家族の様子を写真に収めており、リビングの壁にはプリントされた写真が何枚も飾られている。

 三脚に乗せたデジタルカメラを置くと、タイマーをセットする。

「はーい、じゃあみんな笑って笑って」

「にー」

 シンジ、アスカ、ミチルはもちろんのこと、未だに意識して笑うことが苦手なレイも、にっこりとした表情でカメラの前に立つ。

 シャッターが切られる音。

「じゃあつぎはへんがおー」

「出た」

「ミチル、好きだねー」

 最近のミチルは写真に写る時はいつもにらめっこをした時のような所謂変顔で写りたがる。父母としては娘にはお淑やかに育ってほしいものだが、今日の主役の希望に逆らうわけにはいかない。

 もう一度カメラのタイマーをセットする。

「はーい。みんなへんがおしてー」

「いーーーー」

「ううううう」

 シンジは舌を出し、ギョロっと剥いた目の瞳を斜め上に向けた、まるで歌舞伎のキメ顔のような表情で。

 アスカは人差し指で鼻先を思いっきり突きあげ、いーーーと食いしばった歯を見せた表情で。

 ミチルは両手で顔を横から挟み、唇を尖がらせたしわくちゃのタコ入道のような表情で。

 それぞれがぞれぞれの変顔をして写真に収まる。

 カメラの液晶画面で撮った写真を確認するシンジ。皆の変顔に、思わず吹き出してしまう。それを横から覗き込んだアスカも、ぷぷっと吹き出した。しかしそのアスカの顔も、シンジの顔も、写真の隅に写る人物の顔を見てすぐに真顔になる。

「レイ…」

 2人の視線が自分に集まって、きょとんとしているレイ。 

「レイ。相変わらずあんたの変顔ってすごいわね…」

「うん。ちょっとレイの顔だけ別に印刷して、魔除けにでもしようか…」

 

 パジャマに着替えた3人が、3人の寝床のある2階へと上がっていく。寝床が1階にあるレイは階段を上がっていく3人を見送る。

「レイちゃん、おやすみ」

 ミチルは今にも寝てしまいそうな半分閉じた瞼でレイに言った。

「レイ、今日はありがとう」

「レイ、おやすみなさい」

 アスカもシンジもレイにおやすみの挨拶をすると、3人で2階へと消えていく。

 それを胸の前で小さく手を振って見送ったレイは自室に入ると、ベッドの布団に潜り込んだ。

 シンジがプリントしてくれた4人で写った写真を見つめる。そこに収まる全員が笑顔の写真。

 相変わらず、他の3人と比べて自分の笑顔はなんてぎこちないのだろう、と思ってしまう。それでも、ミチルが生まれたあの日に感じた、この3人の中に自分が収まる違和感というものは、随分薄れたような気がした。

 

 ―――僕たちは家族なんだ。

 

 あの日。5年ぶりに彼に会ったあの日に、彼が言ってくれたこと。あの日からの5年間は自分にとって、彼らと本当の家族になるための5年間だった。

 自分は、本当に彼らの家族になれただろうか。

 きっと。いや、間違いなく彼らは自分を家族の一人と認めてくれるているだろう。彼らはそういう人たちだ。

 

 では自分はどうか。

 

 正直なところ、よく分からない。家族になれたような気もするし、でも本当にそうなのか?と問うてしまう自分がいる。

 

 でも、まあいっか、と。

そんなことわざわざ考えなくてもいいや、と思う自分もいる。

 

 今日みたいな特別な日や、そうではない何でもない日々を積み重ねていくこと。たったそれだけをすることで、身に余るような途方もない幸せを自分は今享受しているのだから。

 明日も朝6時に起きて、朝ご飯の準備をして、2人を送り出して。掃除、洗濯を済ませてミチルと一緒に畑に出て。新しく作った畑は先々週に石灰を撒いて先週は肥料を撒き、下準備は出来ている。明日はミチルと一緒にトウモロコシの苗を植えよう。植えてから収穫できるまでは凡そ4カ月。もぎ立てのトウモロコシの甘さを、ミチルはまだ知らないはずだ。今から4カ月も先が楽しみでならない。

 頭の中で明日の予定をあれこれ巡らせているうちに、いつの間にかレイは写真を手に持ったまま、静かな寝息を立てているのだった。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「じゃあ、お外から帰ったら?」

「てをあらう」

「ご飯を食べたら?」

「はをみがく」

「お昼を過ぎたら?」

「おひるねする」

「あとは?」

「レイちゃんのゆーことをよくきく」

「よし。じゃあ行ってきまーす」

「いってらっしゃーい」

「いってらっしゃい」

 いつものようにパパとママを送り出した2人。

 いつものように午前中は畑に出て、お昼ご飯を食べ、お昼寝をして、買い物に出かける。

 

 商店街に行く前に、いつものように公園に寄り道し、遊具で遊ぶ。

 ブランコに揺られながらミチルは言う。

「ねえ、レイちゃん」

「なに?」

「きのうはごちそうだったね?」

「そうね」

「きょうもごちそうだよね?」

「それはどーかなー」

「えーー、ミチル、きょうもごちそうがいい」

「ご馳走は特別な日に食べるものよ」

「とくべつなひ?」

「そう。たとえばミチルちゃんの誕生日とか」

「じゃあ、つぎはママのたんじょうびだね」

「ふふ、そうね」

「そいで、つぎはレイちゃんのたんじょびだね」

「わたしの?」

「うん」

「私の誕生日も、…祝ってくれる?」

「もちろん。レイちゃんのたんじょうびは、ミチルがごちそうつくってあげる」

「ふふ、ありがとう」

 

 レイはブランコに乗るミチルの背中を押してやりながら、公園を見渡す。

 普段から人気のある公園ではなく、昼下がりのこの時間帯も構内は閑散としている。それでも構内には何組かの親子連れが居て、ミチルと年齢の近い就学前の子供たちが遊具で遊んでいて、その近くでは親たちが立ち話に興じている。

 レイはミチルに聞いた。

「ミチルちゃん」

「なーにー?」

「ミチルちゃん、友達、欲しくない?」

「ともだちー?」

 ミチルには同年代の友達がいなかった。そして友達が居ない理由の一端は、自分にあるとレイは思っている。

 時々、親たちからこちらに向けられる奇異の視線。こんなのどかな昼下がりの公園で目深にニット帽を被り色付きメガネを掛けてる自分は、世間知らず未だ克服中の自分であっても場違いな存在だと思ってしまう。

 ミチルは間違いなく地球上で一番可愛い生き物だ。それは全人類誰しもが認めるところだろう。それでもその隣にいる自分というけったいな存在が、周囲の子供たちや親たちを遠ざけてしまっていると思うのだ。

 アスカもああ見えて「ママ友」という面倒くさい関係は嫌うため、休日にミチルと公園に遊びに行っても周囲の親子連れの輪の中に入っていこうとはしない。シンジは博愛主義者の本領発揮とばかりに、ママ友パパ友の数は共に2桁を越しているらしいが、シンジが言うには2人で公園に出かけてもミチルは人見知りの本領を発揮してなかなか子供たちの輪の中に入れていないという。

 

「ともだちならいるよ」

「それは誰?」

 何となく答えの予想はついたが、一応訊いてみる。

「レイちゃん」

 レイはふふ、と微笑むと共に、心の中で小さく溜息を吐いた。

 ミチルのためにも友達というものを作ってやりたいと思うのだが、如何せん自分自身がこの半生の中で友達と呼べる存在は一人しか居ない。ミチルのためにできる事はなんでもしてやりたいと思うのだが、悲しいかなこの件で自分はまるで役に立つことができないのだ。

 

 

 ご機嫌なミチルはレイの手を引っ張りながら商店街へと向かう道を歩いている。レイは不自由な左足を引きずるように歩くため、レイよりもずっと小さいミチルとの歩くペースが丁度良い塩梅らしい。この歳ならそれなりの距離を歩くときはベビーカーを使っているママさんたちも多いが、ミチルはレイの畑仕事に付き合っているおかげか同年齢の子供たちと比べて足腰はよく発達しているようで、商店街までのそれなりの距離を平気で歩く。今も、スキップするような軽い足取りで、レイの前を歩いている。

 

「ミチルちゃん」

「なーに?」

「だっこしてあげよーか」

「えー、まだいい」

 行きは元気一杯目一杯で歩くミチルだが、所詮は余力を残しておくことを知らない子供である。帰る頃にはくたびれ果てて、レイに甘えて彼女の腕に抱かれて帰るのがいつもの日課だったが、この日はまだ商店街に向かっている途中で、レイの方から抱っこしよう提案してきた。

 余力を使い果たすまで疲れというものを感じ取ることができない子供であるミチルは、まだまだ自分で歩くぞ、と足を大きく振り上げ、繋いだレイの手と一緒に自分の腕をぶんぶんと振っている。

「だっこしてあげる」

「だいじょぶだよ。ミチル、まだつかれてない」

「うん、分かってる。でも私は今、だっこしたいの」

「いいよ。ミチルじぶんであるけるから」

「ミチルちゃん、だっこするよ」

「え?レイちゃ…」

 レイの顔を見上げようとした時には、すでにミチルはレイに抱きかかえられていた。

「レイちゃん。あついよー」

 自分の意思を無視され、むくれたように言うミチル。

「ごめんね、ミチルちゃん」

 レイは謝りながらもミチルを抱えたまま降ろそうとせず、そして歩みを速める。どうしても左足の踏ん張りが効かないため、レイが歩くたびにカクカク、とミチルのおさげが揺れた。

 

 レイはまずいと感じていた。

 公園から商店街へと向かういつもの道。こっちの方が近道だからかと、表通りではない、この裏道をいつも使っていた。

 まだ陽が高い時間帯でもどこかうす暗い道。道幅は小さい車が何とか通れる程度で、人通りはまるで無い。

 

「レイちゃん…」

 レイの何時もと違う様子に気付いたミチル。怯えたように、レイの名を呼んだ。

 そのミチルの頭をレイは抱き締め、胸元に寄せる。ミチルの視界を塞ぐように。

 レイの歩みが止まった。

 

 

 幼子を抱きニット帽を被った女性の前を、2人の屈強の男性が立っている。

 行く手を塞がれた女性はすぐに足を止め、踵を返そうとしたが、背後には先ほどから自分たちの後をつけてきていたもう一人の屈強な男が、間近まで迫っていた。

 前にも後ろにも行くことができず、幼子を抱きしめたまま立ち往生する女性。

 大きく深呼吸し、口を開き、そして叫ぼうとした。

 

 しかしレイが叫ぶよりも早く、背後から迫っていた男が一気にその距離を詰めると、その厳つい手でレイの口を塞いでしまった。さらに空いた腕をレイの腰に回し、完全に拘束してしまう。ミチルを抱き締めて両手がふさがっているレイには、抵抗する術がなかった。

 レイが拘束されている間に、前方の2人も距離を詰めていた。その内の1人はポケットからナイフを取り出すと、レイが抱き締めているミチルの後頭部にナイフの先端を突き付ける。

 その瞬間、レイの瞳に未だかつてない怒りの感情が宿り、体を激しく暴れさせ拘束の手から逃れようとするが、レイの腰回りくらいありそうな男の腕はびくともしない。レイが暴れた拍子に、色付きの丸渕メガネがレイの顔から地面に落ちた。

 ナイフを突き付けた男は押し殺した声で言う。

 

「声を出したら子供を殺す」

 

 レイはその真っ赤な瞳を男に向ける。

 自分の中に渦巻く憤怒の感情を全て瞳に集めて、それを相手に叩き付けるように。

 

 普段ならレイの瞳に見つめられた者は途端に怯み、恐怖に苛まれる。ましてや、激情を込めた今のレイの視線に射抜かれた者は、卒倒すらしかねない。

 ところが目の前の男は脅えるどころか、

「おおおっ」

 男は目を見開かせ、感動でもしているかのように瞳を輝かせた。

「間違いない…、あの御方だ…」

 ナイフを握る手が震えていた。

 男は高揚が収まりきらないのか、少し上擦った声で話す。

「危害を加えるつもりはない。私たちと一緒に来てほしい」

 男のその申し出に、レイは目を細めた。もう一度体を揺すってみるが、背後の男の腕はやはりびくともしない。

 レイは一度目を瞑る。そして開いた目を一度男に向けて、そのまま自分が抱くミチルの後頭部へと向ける。5秒ほどミチルの後頭部を見つめ、そして再び男に視線を戻し、請うような眼差しを向けた。

 男はレイが言わんとすることを察して頭を横に振る。

「駄目だ。その子も連れていく」

 

 男の返事を聴いて、レイの選択肢は1つに絞られた。

 レイは再び目を閉じる。

 

 観念した様子のレイを見て、男は人質にでもしようというのか、レイの腕からミチルを奪い取ろうとした。

 

「ぐあっ!」

 男の手がミチルの体に触れようとした瞬間、男は呻き声を上げてその場に蹲った。

 

 目の前の男の股間を蹴り上げてやったレイは、背後の男の手に塞がれていた口を強引に開き、今度はその手に噛み付く。

「いてえ…っ!」

 急所攻めも噛み付きも、レイの十八番だ。

 噛み付かれて背後の男の手による拘束が緩んだ瞬間、レイはすぐに身を捩らせて、今度は背後の男の股間に向けて膝小僧を突き上げてやった。

 

 股間を押さえ、地面に蹲って悶えている2人。

 僅か5秒の間に2人の屈強な男を無力化してしまったレイ。

 しかし敵はもう1人残っている。油断していた2人とは違い、最後に残った男は、もはやレイに対しか弱い女性という認識は持っていない。最後の男は、警戒しながらレイににじり寄ってくる。

 レイは集中した。

 

 

 その男は1988年に西欧の島国のとある街で生まれた。国内でも有数の貧困地区であるその街において彼の家も例外なく貧しく、ドラッグとアルコールが蔓延する危険と隣り合わせの環境下で彼は過酷な現実を生き抜くために腕っぷしを磨き、喧嘩に明け暮れる少年時代を過ごす。学校を卒業しても貧困の沼から抜け出すことはできず、日雇いの生活で得られる収入は僅かで、職にありつけなかった日は寒空の下でボランティア団体の炊き出しの列に並ぶ惨めな日々だった。そんな彼の将来を切り開いたのは、幼い頃に彼を危険な環境から守った彼自身の腕っぷしだった。ひょんなことからジムのトレーナーに目を掛けられ、アマチュアの格闘技大会で勝利を飾ると翌年にはプロデビュー。以後は瞬く間にスターダムへと駆けあがり、海を渡って国際格闘技大会のチャンピオンにも昇り詰め、世界で最も有名な格闘家となった。

 2016年当時、ライト級とフェザー級の2冠に輝き、パウンドフォーパウンドの一人と目されていた彼は、破天荒な生活ぶりや粗暴な立ち振る舞いとは裏腹に、オクタゴンではステップバックからのカウンターパンチを必勝パターンとする巧妙なストライカーだった。

 

 

 ドサっと大きな音。

 レイの足もとに、屈強な男が前のめりに倒れていた。

 

 レイを抱いた子供ごと拘束しようと正面からにじり寄ってきた屈強な男。レイがまるで怯んだかのように後退ったため、男は好機とばかりに両手を広げながらレイに向かって突進。

 餌に飛びついた男に、後は自分が突き出した右拳を男の顎に合わせるだけだった。

 

 「記憶」の中の技術は拝借できても、体そのものはか弱い女性の体でしかない。男の顎を撃ち抜いた細い右拳がじんじん痛んだ。

 しかしレイに、痛む拳にかまっている時間はない。

 左腕だけで抱いていたミチルを改めて両手で抱きかかえると、踵を返して走り始める。

 

 腕の中でミチルが言う。

「レイちゃん、つよいんだねー…」

 その声は半分は恐怖で震え、半分は瞬く間に男3人をのしたレイに対する感動で震えていた。

 レイはミチルがこれ以上怖がらなくていいように、厳しいその表情はそのままに声だけは落ち着かせて腕の中の子の耳に囁いた。

「言ったでしょ。私は強いの」

「うん!」

 元気よく返事するミチルの声からは、すっかり恐怖が消えていた。

 

 走っているうちに右拳だけでなく、不自由な左足の古傷もじわじわと痛んできたが、前方の角を曲がってもう少し走れば、人通りの多い大通りに出られる。

 もう少しの我慢だ。

 あと少し。

 もう少し。

 

 ところが角に差し掛かったところでレイの思惑は外れてしまう。

 

 角の向こうに待ち構えていたのはさらに5人の男。服装はばらばらだがその佇まいは何処か物々しくとてもただの通行人には見えず、さきほどレイが倒した3人の仲間であることは一目でわかった。

 5人のうちの1人が呟く。

「ちっ、あいつら逃がしやがって…」

 狭い道を塞ぐ5人の隙間を縫って大通りに出ることはとても無理そうだ。レイは立ち止まると、再びミチルの目を自分の胸で覆うように抱き直した。

 後ろを振り返る。

 顎を殴られた男はまだ失神しているが、急所を蹴られた2人はすでに復活し、ふらふらしながらもこちらに向かって歩いてくる。さらに道の奥からは、別の男3人の姿もあった。他に道はなく、完全に退路を塞がれてしまった。

 

 10人の男に囲まれる。

 レイはミチルに囁いた。

「大丈夫。あなたは私が守るから」

 ミチルはレイの胸に顔を埋めたまま小さなを頭を縦に振った。

「しっかり掴まっていて」

 レイの首に回したミチルの腕に力がこもった。

 

 レイは右拳をぎゅっと握った。たった一発で痛めてしまった拳だが泣き言など言っている場合ではない。今は足掻けるだけ足掻くしかないのだ。

 

 

 

「ねえ、ちょっと」

 女を囲んだ輪の一番外に居た男は、不意に後ろから肩を叩かれた。

「今取り込み中だ。別の道を回んな」

 赤の他人に首を突っ込まれては厄介だ。男は振り返らずぶっきら棒にそう答えて、背後の誰か、おそらく声の主は女だろう。その女に向かって手をひらひらさせ、何処かに追い払おうとした。

「なんなのよ。こんな美人が声掛けてんのよ。ちっとはこっち向きなさいよ」

「うっせーな。そっちは間に合ってんだ。あっち行けよ」

「失礼ね!あたしを何だと思ってるのよ!」

「うるせーババアっっッ!」

 

 背後でドサっと音がした。

 女を囲んでいた全員が振り返る。

 輪の一番後ろに居た男が、仰向けに倒れていた。

 

 地面に倒れた男の向こう。

 すらりとした体つきの黒髪の女性が、片方の脚を天高く突き上げた格好で立っていた。

 

「…誰が…ばばあですって…」

 微妙なお年頃の女性は額に青筋を浮かべながら怒りに震えた声でそう呟くと、男の側頭部に上段回し蹴りを食らわせた右足をすっと降ろす。

「野郎!」

 右隣に立っていた男が黒髪の女性に向かって鉄拳を見舞おうと右腕を大きく振りかぶった。

「ぐふっ!」

 しかし女性は降ろしたばかりの右脚をすぐさま水平に突き出し、そのつま先が男の鳩尾にめり込んだため、男は惨めな呻き声を上げながら地面の上をのた打ち回る羽目になる。

「レディに対して何て言葉使うのよ」

 あっという間に2人の男を地面に這い蹲らせた黒髪の女性。残りの8人が呆気に取られている間に、今度は左隣に立っていた男の頭を両手で鷲掴みにすると、ぴょんと跳躍。膝小僧が男の顎を割り、やはりドサっと音を立ててその男は膝から崩れ落ちた。

 3人目を倒され、ようやく石化の魔法から解放された残り7人の男たちは、一斉に女性に向かって襲い掛かる。

 

 突然の闖入者によって、レイを囲んだ男たちの集中が全て闖入者へと向いた。

 レイはミチルをしっかりと抱き締めると、黒髪の女性が現れたところから反対方向へと向かって駆け出した。

「ちょ、ちょっと!レイ!」

 黒髪の女性の呼び止める声は無視する。兎にも角にも、今の最優先事項はミチルの安全確保だ。

 駆け出した先。レイのカウンターパンチを浴びて倒れていた男がようやく意識を取り戻し、顎を擦りながら起き上がろうとしている。レイはその横を駆け抜け様にもう一度、今度は右のつま先を四つん這いの男の顎に食らわせてやった。

 

 

 1978年生まれの彼は公務員の両親のもと何不自由のない少年時代を過ごした。学業は優秀でそこそこ有名な国立大学の理工学部に進学し、卒業後はそこそこ有名な自動車メーカーの技術開発部に就職。セカンドインパクト後の混乱期の中にあってもそこそこ充実した順風満帆な日々を過ごしているかに思われた。そんな彼の人生を足もとから掬ったのは彼自身のギャンブル癖にあった。学生時代から賭けマージャンで友人相手にすでに借金を作っており、就職し定期的にお金が入ってくるようになってからは一度に賭ける金額も大きくなり、終いには裏賭博にまで手を出し、闇金相手にとても一個人では払い切れない程の借金を作ってしまった。後は典型的な転落人生。回収業者には昼夜問わず自宅職場問わず押し掛けられ、職を失った彼はいよいよ自分の臓器を売るか売らないかの瀬戸際まで追い詰められた。そんな時に彼は自分の中に培われた技術を活かすことで袋小路の自分の人生を切り開く手段を思いつく。即ち、自動車の窃盗である。彼は自動車メーカーの技術開発部の中でも、セキュリティ関係を任される立場にあった。 

 2015年につまらない保険詐欺で逮捕されるまでに、彼は一個人としては国内犯罪史上最大級の数の自動車を盗んだ伝説の自動車窃盗犯となっており、イモビライザーだろうがハンドルロックだろうが、彼に掛かればどんな車もものの数分で彼にものになってしまうのだった。

 

 

 軍隊仕込みの格闘術を持つ女性も、さすがに屈強な男10人を同時に相手にするのは分が悪い。

 一人にはどてっ腹に後ろ回し蹴りをぶち込み、一人には脳天に踵落としを食らわせ、さらに人数を2人削ったが、体力的にも微妙なお年頃の女性。すでに息が上がっている。おまけに最初に倒した3人も復活して戦列に復帰しようとしており、何人かは刃物を持ち出していた。

 ここまでは女性相手に手も足も出ていない男たちだが、取っ組み合いが長期化すれば頭数と体力という点で形成は徐々に男たちの方に傾いていくことは、双方にとっての共通した認識だった。ここまでコケにされっ放しの男たちだが、その表情には次第に余裕が浮かび始めている。

 

 しかし女性には焦りはなかった。男たちは気付いていないが、女性が着る黒のジャケットに隠れている脇のホルスターには、大きな拳銃をぶら下がっているからだ。

 だがこんな街中で発砲したくはない。このまま徒手で格闘を続けるか、それとも騒ぎが大きなることを覚悟で発砲するか、それとも逃げるか。

 女性が迷っている、その時だった。

 

 男たちの背後から、立て続けに大きなクラクション。

 振り返ると、狭い道幅ギリギリの中を、軽自動車がこちらに向かって猛然と突っ込んでくる。

「うわああ!!」

「どわああ!!」

 男たちは悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように道路脇へと逃げだす。一人は逃げ道がなく右往左往している間に突っ込んできた車のボンネットの上に乗り上げてしまい、背中からフロントガラスに激突。そのまま天井をくるくると回って道路に転がり落ちた。

 

 呆気に取られている女性の前で、フロントガラスにヒビが入った軽自動車が急停止する。

 窓ガラスが開き、中から空色髪の女性が顔を出した。

「乗りますか?」

 仏頂面で尋ねてくる空色髪の女性。

 黒髪の女性はぎこちなく頷きながら、後部座席へと乗り込んだ。

 

 

 黒髪の女性が乗り込んだのをバックミラーで確認したレイは、瞬時にブレーキペダルからアクセルペダルへと足を乗せ換え、思い切り踏み込む。エンジンが唸り声を上げると共に急発進する軽自動車。後部座席の黒髪の女性が悲鳴を上げる一方、助手席のミチルは絶叫マシーンでも楽しんでいるかのようにきゃっきゃと笑い声を上げていた。

 

「レイ…」

 後部座席から呼び掛けられ、バッグミラー越しに黒髪の女性に視線を送るレイ。

「どうしたのよ。この車」

 そう言われ、レイは前方とバックミラー越しの女性の顔を何度か交互に見た後、ぼそりと呟いた。

「……道に落ちていました」

 女性はこめかみを手で押さえる。

「何てこと…。あのレイがいつの間にこんな悪い子になっちゃったのかしら…」

 レイは冷たい声で言う。

「逮捕しますか?」

「別にあたしはケーサツじゃないんだから」

 ではあなた誰ですか?とはレイは訊ねなかった。

 

 後部座席に座る黒髪の女性。

 葛城ミサトのことはもちろん知っている。

 かつてレイがネルフに所属していた頃の直属の上官だ。だがネルフはとうの昔に解体されている。では今のミサトの肩書は何なのか。

 

「で…、この子がもしかしなくてもミチルちゃんね」

 ミサトが後部座席から乗り出し、助手席のミチルを見る。

「わーー可愛い!シンちゃんにそっくりじゃない。いや、目もと辺りはアスカ似かな?」

 そう言いながら、ミチルに手を伸ばすミサト。

 途端に、

「触らないでください」

 レイから何時になく厳しい声が飛んだ。

「何よー。人をばい菌扱いしなくてもいいじゃない」

 唇を尖がらせながらのミサトの抗議をレイは無視する。バックミラー越しにレイの厳しい視線を受け、ミサトは溜息を吐きながら後部座席のシートに背を預けた。

「レイとも10年振りじゃないの。もっとこうさ。再会の喜びとかあってもいいんじゃない?」

 明らかに不穏なレイの表情に、ミサトは空気を和らげようと殊更明るい声で話しかける。しかし「空気を読む」スキルを身に付けているレイも、この時ばかりは空気を読まなかった。

「なぜ?」

「へ?」

「なぜ、葛城三佐があの場にいたのですか?」

「ちょっとー。私ももう軍属じゃないんだから。これからはミサトって呼んで」

「質問に答えて下さい」

 つっけんどんなレイの態度にミサトは再び溜息を吐きつつ、それでもあの人形のようだった女の子が久しく会わないうちに随分と人間らしい感情を出すようになったものだと少し嬉しくなった。それが苛立ちという、受け手にとってはあまり好ましいものでないものであったとしても。

「ま、それについてはシンジくんやアスカを交えてから話しましょ。今日シンジくんは?」

「…把握されてるのでは?」

「ネルフん時みたいにパイロットたちを常時観察とかできないわよ。そんな人員もお金もないの。私「たち」の最優先観察対象はあくまで…」

 

 

 

 

 

 反転する世界。

 

 地面が上へ。空が下へ。

 

 粉々に砕けた無数のガラス片が車内をポップコーン菓子のように弾け飛ぶ。

 

 アスファルトに引きずられる天井からは火花が散る。

 

 衝撃と同時に急速に膨らんだエアバッグが視界を塞いだ。

 

 

 

 

 朦朧とする意識。

 ロックされたシートベルトが座席に体を貼り付けさせ、宙吊りのような状態。

 割れた窓ガラスの向こうで、前面がへこんだSUVタイプの大きな車が見えた。そこから、3人の男が降りてくる。何やら言い争いをしながら、こちらに近寄ってくる。

 

 レイはそこら中に痛みが走る体に懸命に鞭打ちながら、震える手を動かし、シートベルトのバックルを外す。途端に重力に体が引っ張られ、頭から天井に落ちる。

 助手席に目を向けた。シートベルトとエアバッグに守られたミチルは、気は失っているものの、少なくとも外見だけではどこか大きな怪我を負っているようには見えない。

 レイは膨らんだエアバッグを押しのけると、割れた窓ガラスから外へと這い出た。

 

 

 

「奴の車を止めるだけで良かったのに、あんな猛スピードで突っ込むバカがいるか!ひっくり返っちまってるじゃねえか!死んでたらどうする!」

「うるせえ!俺も車で突っ込むなんて今日が初めてだったんだよ!加減なんて分かるか!」

「おい、いいじゃねえか2人とも。ほら、ちゃんと生きてるぜ」

 見れば、確かにひっくり返った軽自動車の運転席から空色髪の女が這い出てきた。酷い有様で、服はボロボロ、額から、顎から、肩から、脚から、血が滴っている。

 

 女はふらふらになりながらもゆっくりと立ち上がっている。そんな有様でもまだ抵抗を試みようというのか、道に転がっていた拳大の石を握っている。その石を武器にでもしようというのか、女は近寄ってくる男3人を乱れた髪の隙間から睨みつけては、今にも倒れてしまいそうな膝を震わせて、石を握った手を大きく振り翳している。

 男の一人は腰のホルスターに下げていた奇妙な形をした銃を取り出し、女に向けて撃つ。

 銃の先端からコード付きの電極が飛び出し、女の腹に突き刺さる。

 途端に女の脚や背筋がピンと伸び、次の瞬間には全身が痙攣したかのようにガクガクと震える。

 男が奇妙な形をした銃の引き金から指を離すと、女は糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。

 

「俺は女を回収する。お前は子供を確保しろ」

 スタンガンを撃った男は別の男にそう指示すると、女のもとに歩み寄った。路上に倒れた女は白目を剥いて口もとからは泡を吹き、電流が途切れた今もぴくぴくと身体を震わせている。

「ちっ、最初っからこうすればよかったんだ」

 男は忌々しそうに言うと、女の頭髪を鷲掴みにし、頭部を引っ張り上げた。

「良かった。ガキは無傷だ」

 軽自動車の向こう側から子供の回収に向かった男の声がした。

「おう、さっさと確保しろ。人が集まってきやがった」

 そう言いながら、男は女の両脇に腕を滑りこませ、女を抱え上げようとする。

 

 ふと、女の目と視線が合った。

 

 視線が合う。

 女がこっちを見ている。

 真っ赤な血のような瞳が、こちらを睨みつけている。

 

 男は慌ててスタンガンの引き金を引こうとした。

 しかし男が人差し指を引き絞る前に、レイは右手に握っていた拳大の石を、男の右目に向かって突き出してやっていた。

「ぎゃっ!?」

 男は潰れた右目を両手で押さえながら短い悲鳴を上げる。

 その隙にレイは男の手から零れ落ちたスタンガンを拾い上げ、自分の腹に突き刺さったままの電極を引き抜くと、男の胸に突き立てた。

 間髪入れずにスタンガンの引き金を引く。

 すぐさま眩い火花が舞い散り、男は全身を痙攣させながら派手に倒れた。

「貴様!!」

 もう一人の男が駆け寄ってくる。レイは倒れた男の胸から電極を引き抜き、迫ってくる男に対して身構えようとしたが、男の方が僅かばかりに早かった。

 男は駆け寄り様にレイの胴体を渾身の力で蹴り上げた。

 レイの細い体が地面から浮く。

 

「おい!何やってんだ!」

 軽自動車の向こう側で、助手席から引きずり出した子供を抱えた男が怒鳴った。

「こいつ!亀田をやっちまいやがった!とんでもねー女だ!」

「いいからさっさと女を回収しろ!逃げるぞ!」

「分かってる!」

 男は乱暴に返事を返し、念のためもう一度、今度は顔を蹴り上げて女を完全に無力化しようとした。

 ところが、女の腹を蹴り上げた自分の右足が動かない。

 見れば、女が口から吐瀉物をアスファルトにまき散らしながらも、両目を開け、鋭い眼差しでこちらを睨んでいる。彼女の両腕が、男の右足を抱え込んでいた。

「ふざけんな!しつこいんだよ!」

 男は女の執念にゾッとしながらもまだ自由な左足を上げ、女の横っ面に踵を落とそうとする。

 

 パンッ!

 

 強烈な破裂音と共に、レイに踵を落とそうとしていた男の額がぱっくりと割れた。

 盛大に血と脳髄をまき散らしながら、男の体が地面に倒れる。

 

 レイは背後を振り返った。

 

 軽自動車の後部座席から、上半身だけを乗り出した血だらけのミサトが、拳銃を構えていた。

 

「おい水谷!水谷!おいマジかよ!」

 ミチルを抱えた男は地面に倒れた仲間の名前を叫ぶが、すでに絶命している仲間が返事するはずもない。

 ミサトはすぐさま最後の男に銃口を向ける。

 パンっ、と発砲音。

 男の足もとのアスファルトが弾けた。

「ひっ!?く、くそっ!」

 男はミチルを抱えたまま自分たちが乗っていた車へと走り出す。

 ミサトは逃げる男の背中に照準を定めるが、脳震盪から目覚めたばかりの目は焦点がなかなか合わない。下手をすればミチルに当ててしまう。

 ミサトが躊躇っている間に、ミチルを抱えた男は車に乗り込んでしまった。

「くそっ」

 悪態をつくミサト。

 ふと見ると、そこに倒れていたはずのレイが居ない。

 

 

 男は助手席に乱暴にミチルを投げるとすぐにアクセルを踏み込んで車を走らせ始める。

 ハンドルを切って、郊外の広い幹線道路へ向かおうとした。

「わああ!」

 途端に男の悲鳴。

 車の行く手に、あの女が立っている。

 

 

 車が猛スピードで向かってくる。

 鉄の塊が、こちらに突っ込んでくる。

 行く手に立ち塞がったところで、何ができるだろう。

 紙切れのように吹き飛ばされるだけだ。

 だからどうした。

 私は誓ったのだ。

 絶対に守ると。

 

 

 前方で両手を広げて仁王立ちする女。

「ちくしょう…、ふざけんな…、ふざけんなよ!」

 

 何が天使だ。何が神の御使いだ。

 教祖様はあんなこと言ってたけど、とんでもない間違いだ。

 こいつは悪魔だ。

 世界を滅ぼしかけた、悪魔だったんだ。

 殺してやる。

 そんな奴は俺が轢き殺してやる。

 

 男は手の甲に血管を浮き立たせてハンドルを握り締めると、アクセルを目一杯踏み込んだ。

 

「レイ!!」

 

 猛然と駈け込んできたミサトは地面を蹴るとレイの細い体に向かって飛び込んだ。

 胴に腕を回し、レイごと道路の脇に集められたゴミ袋の山の中に突っ込む。ミサトの宙に浮いたつま先を、車のサイドミラーが掠めた。

 

 ミチルを乗せた車が土煙を立てながら走り去っていく。

 レイはミサトの腕の中でもがいた。まだ追い掛けようとしているらしい。

「レイ…、もう無理よ」

 ミサトはレイを落ち着かせようと言い聞かせながら、彼女の体を必死に抑え込む。レイの方がミサトよりも遥かに大怪我だ。それでもレイはミサトの拘束から逃れようとし、遥か遠くになってしまった車に向かって手を伸ばしている。

「レイ…、今はもう諦めて…。私が…、私たちが絶対にミチルちゃんを取り戻すから…」

 ミサトはレイを背後から抱き締めながら、自分自身も悔しさに表情を歪ませながら囁いた。

 

 ついに車は見えなくなった。

 レイの伸ばされた手が虚空を掴む。

 

「……ぅぅぅぅうううああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」

 

 自分でも信じられないような唸り声を上げながら、レイは意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 



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おまけ(女ジャックバウアー伝説・承)

 

 

 

 暗闇の世界に徐々に光が差し、ぼんやりとした光景が浮かび上がってくる。

 

 度の強い眼鏡を掛けさせられたような視界。

 

 白い天井、白い壁。

 

 部屋の奥に、兄の姿が見えた。その隣に、親友の姿もある。彼らと対面しているのは医者だろうか。白衣を着ている。

 兄も親友も、憔悴し切った顔。親友の方は手にハンカチを握り、頻りに目もとを拭いている。

 

 兄がこちらの視線に気付いた。医者との会話を中断し、こちらに歩み寄ってくる。

 その表情は笑顔だ。

 でも、それが無理に作った笑顔であることくらい、人の心の機微に疎い自分でも分かった。

 兄の手が伸び、私の頬を撫でる。

 兄は何かを言っている。

 だが、鎮痛剤でも効いているのか私の頭の中はぼんやりとしていて、兄の言葉がうまく聴き取れない。おそらく私が無事であったことを喜んでいる、とでも言ってくれているのだろう。何も心配いらないよ、とでも言ってくれているのだろう。

 私の心は今粉々に砕け散っていて、だから彼の柔らかい表情が、温かい手がとても心地よく、全てを彼の優しさに委ねてしまいたかった。

 もちろん、そんな事、今の自分には許されないことは分かっている。

 

 突然、彼の優しい顔が遠ざかった。

 彼を押しのけるようにして、親友の顔が現れた。

 怒りに塗れた、親友の顔が。

 親友は両腕を突き出し、私の病衣の胸倉を掴むと、私の体を激しく揺さぶった。

 親友は何か怒鳴っている。

 相変わらず私の頭はぼんやりとしていて、親友の言葉をうまく聴き取れない。おそらく、彼女の宝物を守れなかった私を責めているのだろう。どんなことがあろうと守ってみせるといった誓いを破った私を責めているのだろう。

 彼女の私に対する糾弾は長続きせず、彼女はすぐに泣き崩れ、その場にへたり込んでしまった。

 兄は妻の震える肩を抱き、立ち上がらせると、彼女と一緒に病室を出ていく。

 

 医者がベッドまで歩み寄り、何かを言っている。おそらく私の容態の説明をしているのだろうが、やっぱり私の頭はぼんやりとしていて、医者の言葉をうまく聴き取ることができない。医者は一方的に話し終えると、そのまま病室を出ていった。

 医者と入れ替わるように、兄が戻ってきてくれた。

 

 

 

 今の妹は、まるで初めて出会った時のことを思い出させるような姿だった。頭に腕に包帯を巻いた痛々しい姿。

 シンジはベッドの端に腰掛けると、妹の額に手を当てた。

「ごめんね。アスカは今、動転してるんだ」

 妹の赤い瞳がシンジを見上げる。どこか焦点の合わない、虚ろな瞳。

「僕もちょっと混乱してる。警察からの詳しい説明もまだだからね」

 妹の手がゆっくりと上がりシンジの手を掴むと、包帯が巻かれた額ではない、頬の方へとシンジの手を移動させる。包帯越しではなく、直にシンジの手のひらに触れたい、と。シンジは自分の手を妹のしたいようにさせながら続ける。

「とにかく、君が無事で良かった」

 それは嘘偽りのない、シンジの本心だった。

「君「だけ」でも…」

 

 シンジの手を握る妹の手に、ギュッと力がこもった。

 見れば、妹の手が小刻みに震えている。手だけでなく、妹の体全体が震えていた。

 妹は泣いていた。

 

「…ごめんなさい」

 

 目覚めてから初めての妹の言葉。

 それを皮切りに、まるで堰を切ったように、普段無口な妹の口から言葉が溢れ出す。

 

「ごめんなさい…、ごめんなさい…、ごめんなさい…、ごめんなさい…」

 

 まるで言葉はその5文字しか知らないとばかりに、同じ謝罪の言葉を繰り返すレイ。

 いつの間にかシンジの手はレイの両手に握られていた。

「ごめんさい、ごめんさい、ごめんさい、ごめんさい…」

 涙が止め処なく溢れ出していた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 シンジたちの家には警察署長自ら訪れて、事件の概要を説明した。もっとも、署長とシンジは旧知の間柄で、署長はシンジがかつて国の捜査機関でアルバイトしていた時の上司であり、彼のチームが人類史上最悪のテロを引き起こした主犯格を探り当てたことで彼は一躍出世コースに乗り、今や30代半ばで地方警察の署長の座に収まっていた。

「今、署総出で娘さんの捜索に当たり、検問も敷いている。今夜中には広域捜査に切り替わり、近隣の所轄全てが協力体制を築き、機動隊も動くはずだ」

「…ありがとうございます」

 シンジが署長に対し頭を下げた時、署長の携帯電話が鳴った。署長はシンジに断りを入れながら、電話に出る。

 電話の相手と二言三言交わした後、署長の顔が険しくなり、言葉も荒くなった。

 何事か、と署長の様子を見守るシンジ。最悪の事態を思い浮かべ、一気に顔が青ざめる。

 電話を切った署長は、苦々しい表情を浮かべながらシンジに言った。

「すまん、碇くん。我々はこの件から手を引かなければならない」

「…え?っえ、ど、どうして…!」

 署長はソファから立ち上がると、無言で玄関に向かう。

「ま、待ってください!工藤さん!説明を!」

 無言のままの署長は靴を履くと玄関のドアを開ける。その表情が、一層苦々しくなった。

「説明か…」

「ええ。いくら何でもこれはあんまりです」

「説明なら…彼女に訊いてくれたまえ」

 シンジには背中を向けたままそう言い放つと、署長は玄関を出ていった。

 署長が去り、そこに居たのは葛城ミサトだった。

 

 

 

 かつての上官であり、1年間寝食を共にした女性。

 額や頬に大きな絆創膏を貼ったミサトをリビングに通したシンジは、紅茶の入ったカップをミサトの前に置いた。

「ありがとう。シンちゃんが淹れた紅茶なんて10年ぶりよ」

 ミサトは心底嬉しそうにカップを手に取り口に付ける。

「これくらい、訪ねてくれたらいつでも淹れてあげましたよ」

 やや棘のあるシンジの言い方。

「ごめんなさいね。せっかく「還って」これたのに。すぐにまた行方くらましちゃって」

 シンジは自身のカップの紅茶を啜りながら言う。

「ミサトさんがこの5年間、何をしていたかは興味ありません。僕が知りたいのは娘の行方だけです」

「そうだったわね…」

 シンジのその態度から2人の間に5年ぶりの再会を喜ぶ余裕はないことを再確認したミサトは、カップをテーブルに置くと持っていた鞄から資料が入った幾つかのファイルを取り出した。

「アスカは?」

 シンジの妻の姿はリビングにはない。

「ちょっと話しを聴ける状態ではないんで。今は鎮静剤を飲んで2階で眠ってます」

「そう。それがいいかもね」

 そう言いながら、ミサトは一枚の写真をシンジに差し出した。

 

 受け取った写真を眺める。

 その写真には、白髪交じりで眼鏡を掛けた痩身の男性が写っている。

 シンジの手に力が入り、写真に皺が寄った。

「その顔は、知っているって顔ね」

 眉間に皺をよせ、歯を食いしばっているシンジの顔を見ながらミサトは言った。

 

「宮部モトノリ…」

 

「そう」

「黒い月教団…。僕が公安に拘束されていたレイを助け出すために利用した宗教団体の教祖…」

 

 シンジが口にしたのは、5年前に最盛期を誇り、その後急速に勢力が衰えた新興宗教団体の名前であり、それはセカンドインパクトとサードインパクトを神が驕った人類に対して降した天罰であり、どん詰まりとなっていた人類への神の救いの御手であり、近い将来起こるフォースインパクトでは教団の信者のみが神の御手に救われ、新世界へと旅立てると説いた、排他的なカルト教団だった。

 5年前、シンジはレイを公安の手から解放にするために、彼らにレイが「神が遣わした御使いである」と信じ込ませ、彼らを利用していた。

 

「つまり…、これは奴らの僕に対する復讐だ…と?」

 シンジの声は震えていた。

 

 教団がレイを「神の御使い」と信じてしまった以上、将来教団からレイに対して何かしらの接触があることは十分に予想された。せっかく自由になり、ようやく誰のためでもない、自分自身のための人生を歩み始めたレイを、狂信者が集う教団に利用されてはたまったものではない。だから、シンジは先に手を打っていた。調べれば、次々と出てくる教団の違法行為。中には準テロ行為と呼べるようなものもあり、シンジは彼が掴んだ教団の暗部の資料を公安にリークしていたのだ。多くの逮捕者を出した教団は、その後急速に勢力を弱め、今では公安監視のもと片手で数えられる程度の拠点で細々と活動するまでに縮小していた。

 自分の妹のために利用した挙句、教団を瓦解させた自分。教団に自分の所業がばれないよう慎重にやったつもりだが、どこからか連中に漏れてしまったのだろうか。彼らが社会にとって極めて危険な狂信者集団であったため、自分のやった事については聊かの後ろめたさもなかったが、それが自分の家族に多大な危険を今まさに及ぼしているとなると話は別だ。シンジの中で、教団に対してというよりも、むしろ浅はかだだった自分自身への怒りがこみ上げてくるのだった。

 

 シンジの左膝の上に置かれた左拳が震えている。

「落ち着いて、シンジくん。彼らの標的はシンジくんじゃない。あくまでレイよ…」

 ミサトはそう言いながら、もう一枚の写真をシンジに渡した。

「これは……」

 受け取った2枚目の写真を見たシンジはふと何かに気付き、1枚目の写真と2枚目の写真とを見比べた。

「気づいた?」

 1枚目の写真に写っている老齢に差し掛かっていると見える男性。そして2枚目の壮年の男性。一見して別人のように見えたが…。

「これは、同一人物…ですか?」

「そう。よく分かったわね。おそらく整形してると思うから人相が変わっているけど、その写真は2人とも同じ人物よ。もっとも、2枚目の写真の男は三条ヨシタカと名乗ってたけど。1枚目の宮部は、その三条の10年後の姿、という訳」

「10年後…。っていうか、僕、この三条って人、知ってます…」

 そのシンジの言葉に、ミサトはよく覚えていたわね、とでも言いたげに目を少しだけ見開いた。

「この人、ネルフに居ました…」

 

 三条ヨシタカ。当時ネルフの技術開発部技術第一課に所属していた、赤木リツコ配下の複数の助手のうちの一人だった。当時のリツコの人事評価には、優秀ではあったが一流にはなり切れない、1.5流の科学者と記されている。エヴァの起動実験等にも何度か立ち会っていたため、パイロットたちとも面識があった。

 

「…元ネルフの科学者で…、今は教団の教祖…」

 話しの繋がりが見えず、困惑した表情を浮かべるシンジ。そんなシンジに、ミサトは説明を続ける。

「宮部、当時の三条にはね、もう一つの顔があったの。見えてこないかな?当時のネルフに居て、そのネルフが無くなった10年後にはフォースインパクトを待ち望む教団の教祖様になっている男の正体」

 シンジは数秒ほど考えて、呟いた。

「……ゼーレの関係者?」

「そっ。さすがね」

 

 ネルフとは人類の天敵たる使徒を撃退し、人類を破滅に追いやるサードインパクトを防ぐことを至上命題に置いた人類の最終防衛組織。当時のネルフ職員はほぼ全員がそう信じてその職務に身を捧げてきた。

 ごく一部の者を除いて。

 1.5流の科学者だった三条が、その「ごく一部の者」であったとは考えにくい。その三条が、ネルフが消滅した後に主義主張を180度変えたと考えるよりも、元からそのような思想に染まっていたと考えた方が自然だ。

「加地から受け取った資料の中に、三条の名前があったわ。彼はゼーレが送り込んだスパイだってね」

 その資料にはこうあった。科学者としては一流であるかも知れないが、スパイとしては三流だと。ネルフも人手不足だったが、ゼーレはそれに輪を掛けて人材不足だったようだ、とミサトにとっての元恋人の皮肉交じりのコメントが添えられていた。ネルフ側も彼がゼーレのスパイであると早々に見抜いていたため、三条は徐々に重要な実験から外されていき、ネルフの科学者としては飼い殺しにされ、そしてゼーレのスパイとしてはまともに活動できないままで、「あの日」を迎えてしまったらしい。

 

「その三条…、今の宮部が、レイを利用してフォースインパクトを起こそうとしている…と?」

 俄かには信じられないというシンジの表情。

 そんなシンジに、ミサトはさらっととんでもない事を口走った。

「実を言うと、フォースインパクトはもう起きてるのよ」

「え?」

「ちょっとこの表現は正しくないんだけどね。一応、私たちは暫定的にニア・フォースインパクトと呼んでるわ」

 

 ゼーレの遺志を継ぐため、三条から宮部と名を変え、活動のための資金調達と隠れ蓑にするために教団を興した彼は、かつてネルフの本部が存在した場所。今はその半径30kmが立ち入り禁止区域に指定されている旧芦ノ湖周辺に秘密裏に侵入し、そこからあるサンプルを持ち帰った。1.5流とは言え、腐っても科学技術の最先端を行くネルフの技術開発部門に所属ていていた宮部は、そのサンプルからあるものの再生に成功した。

 

「…アダムを…、再生した…んですか?」

「おそらく…ね。でも、再生したその瞬間に、それは起きた」

「…ニア・フォースインパクト」

 

 サードインパクトが人為的に引き起こされたものであると広く知れ渡って以降、当然のように世論は次なるインパクトの到来を危惧した。一度(実際には2度)起こすことができたのだ。次に、別の誰かが引き起こすことになっても不思議ではない、と。

 海の向こうの大国は世論の高まりに応える形で国防組織にフォースインパクト阻止を目的とした専門の捜査機関を設置する。

「それに元ネルフの私がスカウトされたってわけ。シンちゃんが公安にスカウトされたのと一緒ね」

 説明の途中で、ミサトは簡単に自分の身の上話を加える。

 ミサトが上級捜査官として国防組織で働き始めて半年経ったころだった。組織が全世界に張り巡らせた監視網が、アンチATフィールドの発生を確認したのは。

「そん時はもう大わらわだったわ。私の上司なんてこの世の終わりだー、なんて泣き叫んでいたわね」

 懐かしむように笑顔で当時を回想するミサト。

「でもアンチATフィールドの発生は極僅かな時間に過ぎずすぐに収まり、範囲も極小に過ぎなかった。私たちはただちに捜査を開始したわ。その捜査線上に浮かんだのが」

「…宮部モトノリ…」

「そう。シンジくんはあなたが公安にリークした資料があの教団の瓦解を誘発したと思ってるでしょうけど、実際は私たちの破壊工作の方が影響は大きかったでしょうね」

「そうだったんですね…」

「教団を瓦解させたところまでは良かったんだけど、宮部をはじめ教団の中枢人物たちは今も雲隠れしたまま。教団の本部に残された資料から彼らが何をしようとし、何をしたかまでは何となく掴めたんだけど、結局ニア・フォースインパクトはどこで起きたのか、再生されたアダムは今どうなっているのか、肝心なところは分からないままなの」

 

「経緯は分かりました。でも、そこに何故レイが関わってくるのかが分かりません」

「おそらく、だけど。彼らはアダムを再生できたまでは良かったんだけど、所詮はコピーものの粗悪品だったのね。アダムが出すアンチATフィールドは安定せず、彼らが思い描くようなフォースインパクトの発生までには至らなかったんだと思うわ。でも「あの日」のレイは、あの現象を完璧に起こし、操っていたわ」

「レイがいれば、彼らはあの現象を思うままに起こせる、ということですか?」

「少なくとも彼らはそう信じている」

「バカバカしい…」

「いずれにしろ、彼らは今回初めて強硬手段に出た。派手に動いて私たちに目を付けられることになったとしても、お構いなしって感じね。おそらく資金が尽き欠けて、なりふり構ってられなくなったのね」

「ミチルはレイを服従させるための人質にされた、ということですか?」

「…でしょうね」

 

シンジは紅茶を飲み干したカップをテーブルに置いた。ミサトを見る。

「ミサトさんたちのこれからの捜査方針を教えて下さい」

「ネルフほどではないにしろ、一応私たちも国家機密組織なんだけど」

「…そうですか。だったら僕は独自に動きます」

 ミサトは苦笑した。あの奥手でナイーブな少年だった彼とは思えない発言だったからだ。

「レイがその身を投げうってくれたおかげで、拉致犯の一人を生きたまま捉えることができたわ。スタンガンに撃たれて気を失ったままだけどね。奴が意識を回復し次第、尋問に掛かるわ」

「レイが…」

 シンジの脳裏に、全身に包帯を巻いた姿で病室のベッドに寝ていたレイが思い浮かぶ。

「それに、そろそろ連中からシンジくんに対して何かしらのアプローチがあってもいいと思うのだけど?」

 シンジは頭を横に振る。シンジも拉致犯から何か連絡があるものと思っていたが、彼らからは電話もメールも届かない。

「そう。いずれにしろ彼らの目的はレイ。再び拉致しようと襲ってくるか、それともミチルちゃんとの交換を申し入れてくるか。拉致犯が尋問で何か吐くなり、新しい情報がない限りは、連中の次のアクションを待つのが賢明よ」

「そう…ですね」

「大丈夫よ。人質としての価値があるうちは、彼らはミチルちゃんには手を出さない。レイの病室には私たちの警護が付いてるし、ここにも何人か警護と連絡員を残していくわ。警察には引き続き検問を行わせている」

「僕にできる事は、何かありませんか?」

 自分の家族を助けるために、守るために、ただ座して待つことなど今のシンジには出来ない事だった。

 そんなシンジの顔をミサトは柔らかい眼差しで見ながら、頭を横に振る。そして天井、すなわち2階へと視線を向けた。つられて、シンジも天井を見上げる。

「今はアスカの側に居てやって」

 シンジは視線を床に落とした。

「…そう、ですね」

 ミサトはソファから立ち上がると、シンジの側に寄り彼の肩に手を置く。

「ミチルちゃんは私にとっては姪っこみたいなものよ。大丈夫。絶対に助け出してみせるわ」

 そのミサトの言葉に、シンジは苦笑いする。

「ミチルに40歳のおばさんが居たとは知りませんでした」

 ミサトは不機嫌そうにシンジの頬を軽く抓った。

「失礼ね。まだぎりぎり39よ」

 

「じゃ、私は一旦支部に戻るわ」

 ミサトはテーブルに広げていた資料を鞄にしまう。シンジはソファから立ち上がると、ミサトに対して深々と頭を下げた。

「はい。ミチルのこと、お願いします」

「うん。任せといて。…ちょっとトイレ借りてもいい?」

「ええ。玄関の横の廊下の突き当りです」

 

 

 灯りの点いていない薄暗い洗面台で手を洗うミサト。鏡に写る自分の顔を見つめる。

 シンジは、少年時代だった10年前に比べてすっかり大人になった。廊下の棚に並ぶ家族写真に写るアスカも、実に魅力的な大人の女性へと成長している。鏡の中の自分の顔も、当時と比べて目じりに皺が増え、化粧も幾分濃くなった。

 鏡の中の顔は、苦虫を噛み潰したような表情をしている。

「…嘘つきってとこだけは変わらないのね。あんたは…」

 そう鏡の中の顔に言い聞かせた直後に、ミサトは息を呑む。

 

 ジャケットのポケットから携帯電話が鳴った。

 ミサトは鏡を見つめながらポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てた。

 電話の相手は彼女の部下の声。

 

 

 

 捜査官の男は開いた窓を見つめながら言った。

「対象Bが姿を消しました」

 そこは病室。窓に張られていたカーテンやベッドのシーツは全て剥ぎ取られ、窓枠からはそれらを一本のロープのように結ばれたものが3階下の庭に向かって垂れ下がっている。

 

 

 

「そう」

 部下からの報告を受けてもミサトは驚かない。

「対象Bの捜索は別のチームにやらせるわ。あなた達はこっちと合流して、連中のアジトの捜索に加わりなさい」

 電話を切って、ポケットにしまう。

「…まったく。本当に悪い子に育っちゃったみたいね。怪我人は大人しくしてなくちゃいけないって、学校で教わらなかった?」

 ミサトは振り返りながら、背後に立っていたレイに言った。

 全身に包帯を巻いた病衣姿のレイは仏頂面のまま答える。

「学校には殆ど行けませんでしたから」

 レイのその返事にミサトは苦笑いする。

 

「シンジさんとの会話を聴いていました」

「窃盗に脱走に盗聴?あんた、ほんとやりたい放題ね」

 ミサトは冗談めかして言うが、レイがミサトを見る厳しい視線は少しも揺るがない。

「シンジさんに言ったこと。あれはどこまでが本当ですか?」

「全部本当よ。なに?私がシンジくんに対して嘘を言ってるとでもいうの?」

 不愉快そうな表情で少し語気を強めたミサトに対し、レイは質問を変える。

「シンジさんには、本当に全てのことを伝えたのですか?」

 そのレイの問いに対し、ミサトは無言だった。

「彼ら…、拉致犯の本来の目的。それは私だけではなく、ミチルも含まれていたのでは?」

 ミサトは無言を続ける。

「彼らの行動は私だけでなく、明らかにミチルも標的にしていました。ただの人質目的とは思えません」

 ミサトは無言を続ける。

 

「ナターシャ・カミンスキーという名をご存知ですか?」

 唐突にその名を出され、ミサトは困惑の表情を浮かべる。

「ええ…。かの国の女スパイであり、凄腕の殺し屋。2年前にうちの諜報機関に捕まって死刑になったけど…」

「彼女はスパイや暗殺以外にも、尋問官としても一流でした。その方法は相手の神経の一部を切り裂くことで頭から下を動かせなくさせ、全身の痛覚は保たせたままで、ありとあらゆる苦痛を与えるというものでした。彼女はその尋問方法を、その気になればボールペン1本でもできたそうです」

 ミサトは、ふとレイの包帯が巻かれた右手を見た。

 その手には、ボールペンが握られている。

 今度はレイの顔を見た。

 凍てつくようなレイの赤い瞳。とても旧知の間柄の相手に向けるような眼差しではなかった。

 ミサトの背中を、冷や汗が伝う。

 

「シンジくんやアスカには聴かせたくないの」

 ミサトは小声でそう言った。レイは頷き、視線はミサトに向けたままで、顔を勝手口の方へと向ける。

 

 裏庭に出たところで、ミサトは鞄から取り出したタブレット端末を起動させ、レイに一枚の画像を見せる。

 それを見たレイの頭の上に疑問符が浮かぶ。

「これが何か分かる?」

「…人の体の、断面図写真」

 それは人の体を水平に断層撮影した画像だった。白と黒だけの画像の中に、人の形をした枠とその中の内臓らしきものが輪切りにされて映し出されている。

 何故ミサトがこのようなものを見せたのかも分からないが、それ以上にレイが不可解に思ったのが、その画像に写し出された人体の断面図そのものだった。

 一応心臓があり、肺があり、肝臓があり、胃があり、腸があり。写真の人物は女性であり、しかも妊娠中らしい。子宮には赤子の影もあるのだが。

 どれも位置が微妙におかしいのだ。心臓がお腹にあったり、胃が胸にあったりだとか、そのような明らかな違いではないものの、心臓がやや右の位置にあったり、膵臓が胃の前にあったりと、まるで間違い探しのように、本来あるべき場所から微妙にずれている。

 レイには思い当たることがあった。

「これは、アスカ…ですか?」

 ミサトは頷いた。

 

 アスカの妊娠が分かった時、レイはアスカから打ち明けられていた。自分の体の構造は、原始の海から再構成された時にどうもテキトーに再生されてしまったらしい、と。再構成されたばかりの時は「中身」がもっとバラバラで、最初に担ぎ込まれた大学病院の先生が何とかそれらしい位置まで戻してくれたらしい、と。

 アスカは怯えていた。こんな体で、丈夫な赤ちゃんを産めるのだろうか、と。そんなアスカを、レイはシンジと一緒に励まし続け、何とかミチルの誕生へと漕ぎつけたのだった。

 

「何故アスカの体の再構成がこんなに歪んでしまったのか。はっきりとした事は分からないけれど、おそらく本来のアスカの体にはなかった異物が再構成された時に入り込んだからだろう、とうちの分析屋は言ってるわ」

「異物?」

「分からない?お腹の辺りにある黒っぽいもの」

 レイは目を凝らして写真の人体に写る腹部を見つめた。確かに子宮の中に、黒い点のようなものがある。

「それ。ロンギヌスの槍の破片よ」

 レイの細められた目が瞬時に広がった。

「正確には、槍の模造品」

 

 「あの日」。「決戦の日」。アスカが操る弐号機は量産期による徹底した辱めを受け、その体は複数の槍の模造品によって貫かれた。その破片の一部が、アスカの体が再構成された時に体内に紛れ込んだのだという。

 アスカが妊娠・出産のために通った病院は、かつてネルフに勤めていた医師が開業したものだ。病院側はチルドレンたちの実情をよく承知していたため、アスカたちも気兼ねなく利用することができ、レイも顔を隠さずにアスカの通院や入院に付き合うことができた。レイの普段の薬もその病院から出してもらっていた。

 アスカの体内の異変に気付いた医師は、本人には「念のための検査」として全身スキャンを行い、子宮の中にあった異物を発見。その情報が紆余曲折を経て、ミサトのもとに届いたのだった。

 

「じゃあ次にこれを見てくれる」

 ミサトはタブレットに2枚目の画像を映し出した。

 やはり内臓の位置が微妙におかしい人体の断面図写真。しかし1枚目とは大きな違いがある。子宮がすっかり萎み、その中がすっきりしているのだ。その画像がアスカの出産後のものであることは、聴かないでも分かった。

 そしてもう一つの変化にも、レイは気付いた。

 1枚目の画像にあった、黒い点がないことに。

 レイの頭に、最悪な予感が巡った。

 

「そしてこれが最後の画像」

 タブレットに映し出された3枚目の画像。

 今度は先の2枚とは明らかに別人の断面図写真。一目でわかる、幼い子供の体内を写した写真。

 その子供の体内の真ん中に、黒い点がある。

 

「槍の破片は、今はミチルちゃんの体内にある」

 

 ミサトは彼女が初めて目にするレイの動揺が広がる横顔を見ながら続けた。

「さっき、病院の看護師の一人を拘束したわ。病院の職員全員を調べ、彼女が教団の信者と繋がりがあったことが分かったの。おそらく彼女から教団にこの情報が流れたのね」

 レイは画像の黒い点を見つめながら呟く。

「ロンギヌスの槍。ATフィールドを無効化できる、唯一の物質…」

「…そう。そしてアンチATフィールドを制御することができる唯一の物質でもある…。槍本体や模造品全てが失われた今、連中には喉から手が出るほど欲しいものでしょうね」

 

 ミサトはレイの手からタブレットを受け取ると、鞄の中にしまう。

「これが現状で私たちが掴んでいる事の全てよ…」

 ミサトの声が届いていないのか、レイはぼんやりと虚空を見つめている。ミサトはそんなレイの病衣の袖を、少し強めに引っ張った。レイのぼんやりとした目が、ミサトへと向けられる。

「釘を刺しておくわ。余計なことはしないで」

 レイは何も答えない。ミサトは努めて優しい声で話しかける。

「あなたは身を挺してミチルちゃんを守ろうとした。本当に立派だったわ。だから私もあなたの要求に対して誠意を見せた。今度はあなたが私の誠意に応えてほしい。今は私たちを信じて。この家で、シンジくんたちと吉報を待っていてほしいの」

 レイはゆっくりと視線を動かし、ミサトを見つめる。その視線に、ミサトは「ねっ」と念押しをしてくる。

 レイはゆっくりと視線を動かし、2階を見上げた。うっすらと光が灯る、シンジたちの寝室。今、そこでは親友が一人でベッドに眠っているはずだ。愛娘を攫われ、心を打ちのめされた状態で。

 さらにゆっくりと視線を動かし、リビングの窓へと視線を動かす。カーテンの隙間から、ソファに深く腰を沈め、両手で顔を覆っている兄の姿が見えた。

 

 レイはシンジのその姿を見つめながら呟いた。

「葛城三佐、1つだけ、質問、いいですか?」

「もう。だからミサトって呼んで」

 ミサトのそのおどけた返事にも、レイは一切表情を崩さない。

「あなた方…、いいえ…、葛城三佐にとっての優先事項は、ミチルの命ですか。それともフォースインパクトの阻止ですか」

 おどけていたミサトの顔が、瞬時に真顔になる。

「…その質問に、…私が答えられると思っているの?」

 レイの真っ赤な双眸が、ミサトを見つめる。

「葛城ミサト…」

 見慣れたはずのミサトでさえもゾッとするような深い深い紅の瞳。

「1986年生まれ。南極でセカンドインパクト阻止に失敗した葛城調査隊の唯一の生き残り」

 ミサトは目を細めてレイを睨む。

「あの日、お父さんを失ったあなたは、その後の全てを使徒に対する復讐とサードインパクトの絶対阻止に捧げている。ネルフに入職し、対使徒の最前線に立ち、使徒殲滅とサードインパクトの阻止のためであれば、泣いて拒否する年端もいかない少年までも無理やりエヴァに乗せて、あなたの目的のために利用した」

 気が付けば、ミサトは相手が怪我人であることも忘れてレイの胸倉を掴み、彼女の体を家の壁に押し付けていた。

 何かを言い返そうとして。

 しかしミサトは遂に自分の頭から、レイの言葉に対する反論を見つけ出すことはできなかった。

「あなた達には、悪いことをした…。本当にそう思ってるわ…」

 ミサトの声と手が震えていた。

 レイは表情を崩さない。

「構いません。過去の事について、私は誰かを責めるつもりも、そして資格もありません。…それに」

 レイはゆっくりと自分の胸倉を掴むミサトの手を自身の左手で包み込む。

「私にとって、過去とは今と未来を予測するための判断材料に過ぎません」

 自分の胸倉から、ゆっくりとミサトの手を離させる。

「当時のあなたの行動は自分の目的に沿って、一貫していました。だから訊いておきたいのです」

 レイは自分よりも頭1つ分高いミサトの目を、覗き込むように見つめた。

「あなたはミチルの命と、フォースインパクトの阻止と、どちらを優先させますか」

 

「……」

 

 ミサトは何も答えなかった。答えられなかった。

 レイは静かに言う。

「その沈黙が答えだと受け取ります」

「レイ…!私たちはフォースインパクトを絶対に阻止しなければならない…!でも信じて…!私たちはミチルちゃんの命も……!」

 レイを説得しようとして、しかしミサトの口が止まる。ミサトは何かを言おうと必死に口を開閉させるが、何故か喉から声が出ない。

 レイはミサトの手を離し、一歩遠ざかった。

 ふと、ミサトは自身の右手に何かで刺されたような痛みを感じた。

 レイはゆっくりと右手を上げ、右手に握っていたものをミサトに見せる。

 それは小さな注射器。

 

「葛城三佐」

 薄れゆく視界の中で、レイが語り掛けてくる。

「私も24歳になりました。年齢の上ではもう大人です。大人だから。だから葛城三佐の事情もよく分かっているつもりです」

 遂に堪えきれなくなり、その場に膝を折るミサト。頭から地面に倒れてしまうのを防ぐため、レイは優しくミサトの体を抱きとめてやる。

「でも私は誓ったんです。ミチルに。絶対に守るから、と。その約束は私にとって、何よりも優先させなければならないものです。…だから…」

 視界が暗転する。

 

「ごめんなさい…」

 遠くで、レイがそう呟いたように聴こえた。

 

 

 

 

 

 

「ミサトさん!?」

 裏庭で倒れているミサトを発見したシンジは慌てて彼女のもとに駆け寄った。

「ミサトさん!ミサトさん!」

 彼女の上半身を抱き起し、揺り動かす。すると、彼女の口から小さな呻き声が漏れた。

 その様子を見て、少なくとも彼女が生きていることを確認したシンジは、ほっと安堵の溜息を漏らす。

 ふと、彼女のジャケットの胸ポケットに、不自然ににねじ込まれた紙切れが目に入った。シンジはそっと、胸ポケットから紙切れを抜き出す。

 中身を開いた。

 

 妹の部屋へと駆け込む。

 そこに脱ぎ捨てられた、所々に血の痕が付いた病衣。それを拾い上げたシンジは、力なく妹のベッドへと腰を下ろした。

 

「…どうしたの?シンジ…」

 ドアの隙間から、妻が顔を出した。泣き腫らし、目が真っ赤になっている。

 夫は黙って妻に右手を差し出す。妻はその手の指に挟まれた一枚の紙切れを受け取った。

 しわくちゃの紙を広げる。

 一目で分かる、義妹の特徴的な文字。

 

 

 

 ―――ミチルを迎えに行ってきます。

      朝ご飯までには帰ります。

 

 

 

「…あたしが…、あたしがあんなこと言ってしまったから…。あのこ、責任感じて…」

 シンジはベッドから腰を上げると、紙切れの文字を凝視しながら肩を戦慄かせる妻を抱き締めた。

「君の所為じゃない…、君の所為じゃないよ…」

 シンジはアスカの頭をぽんぽんと叩き、彼女を落ち着かせるとドアへと向かった。

「どこ行くの?」

「決まってるじゃないか。彼女が助けに行ったのは僕たちの子だ。親が何もしないままでどうする」

 シンジのその言葉に、アスカは唇を噛み締めながら頷く。

 

 アスカもシンジの後を追って、廊下へ出ようとした。しかし出た瞬間に彼女の顔は夫の背中に当たり、その歩みを止められることになる。

「どうしたの?」

 立ち止まっているシンジの背中に問いかけた。

 シンジの返事に代わって、

「行かせないわ」

 アスカもよく知った声が答えた。

 シンジの肩越しに玄関の方を見る。背広を着た数人の異国の男たちが玄関に陣取り、その真ん中に葛城ミサトが立っていた。

 

「…ミサト」

「や、アスカ。久しぶりね」

 その軽い口ぶりとは対照的に、ぐったりとした様子で隣の白人男性の肩を借りながら何とか立っているミサト。

「ミサトさん…、この人たちは…」

「彼らはあんた達の護衛兼監視役」

「監視役って…、どうして僕たちを監視する必要があるんですか!」

「これ以上引っ掻き回されたくないからよ。そんなの、レイだけでたくさん…」

 吐き捨てるように言って、ミサトは男たちに目配せした。ずかずかと、男たちはシンジたちの家に上がり込んでいく。

 背の高いシンジよりもさらに高く、肩幅も広い男たち数人に囲まれた2人。

「ミサトさん!」

「ミサト!!」

 アスカはミサトに食って掛かるように男たちの隙間を縫って身を乗り出した。たちまち男の大きな手にアスカの腕は捻り上げられ、アスカは小さな悲鳴を上げる。

「妻を離せ!」

「ミサト!!」

 身動きが取れなくなったかつての部下たちを、ミサトは冷たい目で見つめた。

「ミチルとレイの身に何かあったらあんたの喉を食い破ってやる!」

 憎悪のこもったアスカの声をミサトは無視して部下たちに指示する。

「2人はリビングにでも監禁しておいて。くれぐれも丁重にね」

 そう言い残し、ミサトは玄関を出ていった。

 

 

 玄関の前では一人の青年がミサトを待っていた。白人の若い男性。ミサトの直属の部下だ。

「報告を」

「UAV(無人機)が拉致犯が乗り捨てたと思われるSUVを、現場から10km離れた場所で発見しました。おそらくそこから別の車に乗り換えたかと…」

「警察の検問は?」

「今のところ空振りです」

「もう包囲網の外に出たと考えた方がいいわね。拘束した拉致犯は?」

「意識が回復したという報告はまだありません。今、□○病院で治療を受けています」

「そいつの尋問はまだ無理か…。UAVはあと何機飛ばせそう?」

「今飛んでいる1機だけです」

「1機だけ?世界の破滅の危機だっていうのに?」

「使える監視衛星が1機ありますので、そちらと併用していくしかありません」

「…マイナー部門の弱みね。この期に及んで軍は非協力的か…」

「葛城主任…」

「なに?」

「対象Bの件は…?」

「…今の私たちに2つの対象を同時に捜索できるほどの余裕はないわ。今は対象Aの確保を優先。逃走車両の特定を急いで。SUVが発見された場所から半径50km圏内の監視カメラを全て確認。警察の検問を今の倍に拡大させなさい」

「分かりました」

「私は□○病院へ行くわ。何かあれば些細なことでも報告を」

 そう若い部下に言い残し、ミサトは車へと乗り込んだ。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 その男は10代のころから天才的なハッカーとしてその世界に名を轟かせていた。当初は各国の中枢サーバーに侵入し、そこに痕跡を残しては相手の反応を面白がるという単なる愉快犯だったが、サードインパクトという世界的な事変の後は体制側に対するサイバー攻撃に熱を入れ始める。彼の最も大きな仕事は、秘匿されていたサードインパクトの元凶とされる組織のナンバー2が残した証言を、世界に向けてリークしたことである。しかしその後に世界に巻き起こった動乱を目の当たりにした彼は急速な変節を見せ、サイバーセキュリティの専門家として体制側に協力。現在は国防本部に勤め、外部からのあらゆるハッキングに監視の目を光らせる日々を送っている。

 

 

 唐突にアラームが鳴った。

 椅子に腰かけながらカフェインをたっぷり含んだコーヒーを啜っていた男は、カップをテーブルに置くと身を乗り出して目の前に置かれた端末モニターを覗き込み、キーボードを叩き出す。

「どこのどいつだ?俺が当直の日に迷い込んできたお間抜けさんは…」

 モニター上には外部からのハッキングを示す警告。しかし男は慌てた素振りを見せるどころか、嬉々とした表情を浮かべる。

「ははっ」

 男は笑った。

「こりゃまた。随分古いプログラムを使ってんだな。10年以上前のものじゃないか。こんなもので、俺が作ったセキュリティを破ろうってのか?」

 超一流のピアニストのようにキーボードの上を走っていた男の指が、まるで倍速再生でもしているかのようにさらに加速していく。

「はーい、捕まえた。逆にあんたがどこの誰だか探ってやる。国内だったら10分後には即応部隊が突入しちゃってるよーん」

 男はけらけら笑った。

 彼がこの職に就いて5年。以来、国防本部のサイバーセキュリティが破られたことは一度もない。いつしか国防本部のサーバーは絶対に侵入不可能と言われ、かつては毎日何百件もあったサイバー攻撃も今や数日に1件という数にまで減っていた。

 たとえ相手がお粗末なハッカーであっても、彼にとっては久しぶりの獲物である。興奮した面持ちでキーボードを叩き続けた。

「…ん?」

 そんな彼の眉の片方が上がった。

「ちょっと待て…」

 そして眉根に皺が寄る

「…お前、誰だ…?」

 物言わぬモニターに向かって語り掛ける。

「なんでお前が、このプログラムを使っている…」

 キーボードを叩き続ける指が、少しずつ遅くなっていく。

「お前は………俺か?」

 ついには指が止まってしまった。

 

 モニター上に表示された侵入を仕掛けてくる相手側のハッキング用プログラムのデータ。

 それはかつて彼が国防総省のサイバーセキュリティを破った時に一度だけ使用した、彼が独自に組んだプログラムだった。

 

 茫然とモニターを見つめる彼の手が止まったのは、ほんの数秒に過ぎなかった。

 しかしその数秒が、この場では致命傷となりうる。

 

「Goddamn!!」

 我に戻った時には、敵はすでにセキュリティの第1防壁を突破していた。

「ふざけんな!」

 彼は悪態をつきながら慌ててキーボードを叩き始める。

「くそっ、速い!」

 ひと度防壁を突破した敵は瞬時にウィルスをサーバー上にばら撒き始めた。まるでハッカーとして暗躍していた彼の全盛期を思わせるような早業だった。

 ウィルスは高レベルの極秘ファイルが保管されているサーバーの第2防壁にも食い付き始める。瞬く間に浸食される第2防壁。

「舐めんなよ!」

 彼もすぐにアンチウィルスを投入。モニター上で貪り合いを始めるウィルスたち。

 

 異変に気付いた同僚たちが彼のもとに走り寄ってくる。

「何やってんだ!第2防壁も突破されてるぞ!」

「うるさい!これは超ド級のハッカーだ!このままじゃサーバーが乗っ取られちまう!」

 彼の警告を受け、顔を青ざめさせた同僚はモニターの横にある赤いスイッチに指を掛けた。

 それはサーバーを物理的にシャットダウンする、外部からのハッキングに対抗する言わば最終手段であった。

「待て!もう少し、あと少し!」

 彼は額中に汗を浮かび上がらせながら、凄まじい勢いでキーボードを叩き続ける。

「これで……どうだ!!」

 彼の人差し指がエンターキーを叩きつけた。

 途端に第2防壁を食い散らかしていたウィルスが消滅し始める。

 続けてサーバー上にばら撒かれたウィルスも消滅し、第1防壁の修復が始まる。

 

「ひええええええっ…」

 彼は奇妙な溜息を洩らしながら椅子の背もたれに寝そべった。

「肝冷やしたぜ…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 携帯電話に出る。

「葛城です。…え?本部から?…サーバーに侵入を許した?へー、アルバートが珍しくヘマしたのね。でも、それをどうしてわざわざ私に報告するの?」

 電話相手の話しを聴き、ミサトは思わず腰を浮かし、頭を車の天井に打ってしまった。

 上官の様子に気付き、運転席と助手席に座る部下が怪訝そうにバックミラー越しに後部座席のミサトを見る。

 電話を切ったミサトは2人に告げた。

「本部のサーバーが外部からハッキングを受けたわ。侵入先はこの町の図書館のパソコンから。閲覧されたデータは教団の資料よ」

 きょとんとしている2人。

「分からないの!彼女が、対象Bが動き始めたのよ!このままだと彼女に引っ掻き回されるわ!病院に急いで!」

 

 

 

 病院に辿り着くなり、ミサトは拉致犯の治療に当たっている医者に詰め寄った。

「彼の容態は」

「バイタルは安定しています。あと数時間もあれば意識も回復するでしょう」

「今すぐ」

「え?」

「今すぐ彼を起こしなさい。あらゆる薬物を投与して」

「な、何を言ってるんだ。薬物による強引な意識覚醒は脳に深刻な障害を…、下手をすれば命にかかわる…」

「いいから!」

 ミサトは医者の首からぶら下がる聴診器を毟り取り、壁に投げつけた。

 あまりと言えばあまりのミサトの態度に、医者は激昂する。

「無礼な!今すぐここから…!」

 続く言葉は出てこなかった。鼻っ面に拳銃の銃口を突き付けられていた。

 拳銃の主は言う。

「役に立たないのなら出ていくのはあなたよ。他の医者にやらせるまでだわ」

「くっ…、悪魔め…」

 ミサトは薄く笑う。

「いいわ。あの大厄災を防げるなら、鬼にでも悪魔にでもなってあげる…」

 

 

 

 輪郭が徐々にはっきりしてくる。

 視界の真ん中に、黒髪の女性の顔が見えた。

「はーい、こんばんわ。良いお目覚めね」

 その女には見覚えがあった。自分たちの仲間のうちの5人を、瞬く間に叩きのめしてしまった女。

 咄嗟に起き上がろうとして、しかし全身に力が入らない。

「あー、動かないで動かないで。医者は絶対安静って言ってるから。ま、心臓に直接電気流されたんだから当然よね」

「き、きさま…」

「おお良かった。喋れるようね。だったらさっさと教えて。あんた達のアジトはどこなの?捕まえた子供を、どこに運ぶ予定だったの?」

「誰が…言うか…」

「まあそうよね。神に仕えるあなたが、そう簡単に仲間を裏切るはずないものね。じゃあどんどん進めていきましょ。これって何かなー?」

 自分の目の前に突き出された女の手。その手に摘ままれているもの。

 

 それは指。

 それは…。

 

「ふ、ふざけんな…、それは…」

「あ、やっぱり分かった?そりゃそうよね。自分の結婚指輪くらい分かるわよね。でも世の中不公平だわー。どうしてあんたのような奴が結婚できて、私はまだ独身なのかしら。あー、ちなみにこっちが先に切っておいたあんたの小指よ」

「ふざけんな!ふざけんな!ふざけんな!」

「じゃあ次は中指を切ってあげるわよー。まだ18本もあるから、ゆっくりじっくりやっていこうね❤」

「やめろおおおおおおおおおお!!!!」

「じゃあ今すぐにおっしゃい!!」

 女に前髪を掴まれる。鬼のような形相だった。

「この世界を破滅させようって奴が、自分の指切られたくらいでピーピー喚いてんじゃないわよ!あんたの先達は、自分の息子の身すら計画に捧げたのよ!それくらいの度胸もない奴がフォースインパクトを起こそうなんてちゃんちゃらおかしいわ!」

 

 

 処置室のドアを荒っぽく開けてミサトが出てきた。駆け寄る部下たち。

「吐いたわ。即応部隊に連絡!」

「はい!」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 ドアを押し破る。

 ショットガンを構える者を先頭に、黒尽くめの集団が次々と内部へと侵入する。

 

 2つ目のドアを蹴破ると、中には数人の男。

 銃器を持った集団に突然押し入られ、男たちは慌てて手近にある武器。と言ってもナイフや鉄の棒といった、銃火器に比べれば貧弱極まりないものを手に取った。

「動くな!!」

 ショットガンを構えた黒ずくめの男が叫ぶ。

 ショットガンの男の背後にいた集団も、次々と男たちの胸に銃器の銃口を向ける。

 もはや反撃を試みる暇もなかった。

 

「クリア!」

「クリア!」

 他の部屋へと押し入った分隊から、次々と報告が上がってくる。

 黒ずくめの集団の中央に居た、即応部隊の部隊長に隊員の一人が駆け寄る。

「制圧完了です」

 最後の報告を受け、部隊長は無線のスイッチを押す。

「こちら突入班。建物内の制圧完了。なお、対象Aは発見できず。繰り返す。対象Aは発見できず」

 

 

 作戦指揮車となっているワゴン車の中でその報告を聴いたミサトは、思わず掛けていたヘッドセットを外して壁に投げつけた。スライドドアを開け、外に飛び出る。

「くそっ!」

 八つ当たりするように地面を蹴り上げる。しかし悔しがっている暇も今は惜しいので、すぐに即応部隊が突入した建物、郊外の廃工場へと駆け出した。彼女の部下もそれに続く。

 

 錆塗れの廃工場の一室。

 そこに拘束された男たちが集められていた。

 

 ミサトは屈強な隊員たちの人波を掻き分けて、拘束された男たちの前に出る。男たちは全員後ろ手に縛られ、目隠しをされ、膝立ちをさせられていた。

「捕まえたのはこれで全員?」

 部隊長に話しかける。

「ああ。構内はくまなく調べた」

「ふーん」

 ミサトは男たちの目隠しを取りながら、一人一人顔を確認していく。

 全員の顔を見終わって。

「ちっ…」

 舌打ちをし、親指を噛む。

「この中には居ないわね…」

 ミサトの苛立ちを表すように、彼女の踵がカツカツと忙しなく床を鳴らしていた。

「とにかくこいつらから聴き出すしかないわね。一人ひとり、別室に隔離して尋問始めて」

「はい」

 ミサトの部下や突入部隊の隊員たちが、男たちを移動させるため部屋の片方に集中した、その時だった。

 

 部屋の隅にあった用具入れが突然開いた。

 中から男が一人飛び出て、そのまま廊下へ繋がる扉へと駆け出す。

 ミサトたちは用具入れとは反対の場所に集まっていたため、初動が遅れた。

 

「待て!!」

 ミサトの直属の若い部下が叫びながら後を追う。

 

 廊下に出た男は、廊下の突き当りにある屋外への扉へと全力疾走する。

 

「くそっ!待ちやがれ!」

 言われて待つバカは居ないが、それでも部下は叫びながら男の背中を追った。

 

 男が外へと出る扉のノブに手を伸ばした、その時だった。

 

 部下の背後で破裂音。

 続けて部下の耳元を何かが高速で掠めていく衝撃。

 

「ぎゃっ!?」

 追いかけていた男が悲鳴を上げ、前のめりに倒れ、閉じられたままの扉に顔面から突っ込んだ。

 

 部下は振り返る。

 

 廊下の奥で、拳銃を構えたミサトが立っていた。

 銃口からは煙が立ち昇っている。

 

 銃弾が掠めた耳を押さえる部下の隣を、ミサトは何事もなかったかのようにツカツカと歩いて通り過ぎた。

 

 肩を撃ち抜かれた男は床を血だらけにしながらも、それでも外に逃れようと手に掛けたドアノブを捻ろうとしている。

 ミサトは、そんな逃亡への執念を見せる男の大きな穴が開いた肩を、すらりとした足で容赦なく踏んづける。

「ぐえっ!」

 潰れたカエルのような悲鳴を上げる男。

 ミサトは男のシャツの襟首を鷲掴みにすると、強引にこちらに振り向かせる。

 にっこりと笑った。

「ようやく知った顔に出会えたわね」

 ミサトが拳銃で肩を撃ち抜いた男。それは、ミサトの銃撃から逃れ、ミチルをSUVで連れ去った男だった。

 

 扉を背に床に倒れている男の、血まみれの肩を改めて念入りに踏んづける。

「ぎゃあっ!」

 男の悲鳴。

 自分の足の下で激痛に悶絶する男の反応を、ミサトは無視して話し掛ける。

「私が知りたいことは1つだけよ。女の子はどこ?」

「…知るか…!」

 男は顔中を脂汗に濡らしながら答えた。

「へーー、そーなんだー」

「ぎゃああああああ!」

 ミサトが男の肩を踏んづける自分の足に体重を掛けていくたびに、男の悲鳴も比例して大きくなっていく。

 男は呼吸不全にでも陥っているのか、息も絶え絶えに訴えた。

「知らないんだ…!本当に…!」

「ただの下っ端ってわけね…。じゃああんたが知ってることを全部話しなさい」

「知らない…!俺たちは何も知らされ…」

 パンッ!という破裂音。

「ぎゃああああああああ!!!!」

 ミサトが手に握った銃。銃口は床へと向けられている。その床には、男の右太腿。

「知ってることだけでいいの。あんたが何か思い出してくれるまで続けるわよ~、次は左足かな~?」

 血がどくどくと溢れ出す太腿を両手で押さえる男は、泣きながら言った。

「俺たちは…、女とガキを攫ってここまで連れてくることまでが役目だったんだ…。あの子は…、幹部の車で…、どっか行っちまった…」

「幹部の車の行き先は?」

「ほ、本当に知らないんだ!信じてくれよ!」

「幹部の人数は?」

「2人だった…」

「車種は?」

「ステーションワゴンだった…と思う…」

「ここを出たのはいつ?」

「30分前…」

「どっちに向かったの?」

「東方面だった…」

「そっ」

 

 ようやくミサトは男の肩から足を離す。

 拘束から解放されて気が緩んだのか、男はそのまま床へと倒れ、気を失った。ふと見ると、男を踏んづけていた靴の裏に血がベットリ付いている。ミサトは男が着るジャケットの袖に靴の裏を押し付け、血を拭った。

 

 振り返る。

 若い部下をはじめ、廊下に立つ男たち全員が棒立ちのまま、扉の前の女性捜査官を見つめていた。

 

「何ぼーっと突っ立ってんの?」

「は、はい!」

 ミサトは気を失った男の上を跨ぐと、扉を開けて外に出て行った。その背中を、若い部下は耳を押さえながら追いかけていく。

 

 

 指揮車に上がり込んだミサトはすぐさまオペレーターに怒鳴った。

「すぐに衛星に繋げて!この辺り一帯の映像をモニターに出すの!」

 

 指揮車内のモニターに、高度200km上空から地上を写した映像が映し出された。

 最大にまでズームされた映像。ミサトらが乗る指揮車の天井が見える。そこから映像は引いていき、廃工場の全貌、廃れた街、と徐々に映し出される範囲が拡大していく。

「車で30分前に出発したとしらもうかなりの距離を移動しているでしょうね。この映像をここから10km東に移動させることはできる?」

「はい」

「じゃあやって」

 映像が東に移動するにつれ、徐々に夜の暗闇を照らす人工的な光が減っていく。

「郊外の、しかも深夜です。走行中の車は僅かです」

 ぽつぽつと灯りが点在する映像。その灯りの幾つかは、移動している。

 その移動する光の一つ一つを、ミサトは凝視する。

 暫くして、ミサトは首を横に振った。

「…違う、この中にはいない…。さらに10km東に移動させて」

「はい」

 さらにモニター上の灯りが減る。

 その中で、やはり移動する光一つ一つを凝視するミサト。

「…違う。もっと東に動かしてみて。それで居なかったら別の方角を検討する必要があるわね」

「はい」

 さらに灯りは減り、山中なのか、モニター上はほぼ真っ暗になる。

 暫くして。

「これよ」

 ミサトは一つの光を指差した。

「こいつ…ですか?」

「ええ。こんなド深夜の、しかも対向車なんてほぼ居ない道路で律義に法定速度を守り、一時停止を守ってる。慎重すぎる運転よ」

「ただの模範運転者では?皆が皆、主任のような運転ではないですよ?」

 冗談交じりにミサトの判断に疑問を呈する黒人女性のオペレーター。ミサトはそんなオペレーターの頭を肘で小突いた。

「だったら他に見分ける方法なんてある?ここは女の勘を信じなさい」

「りょーかい」

「すぐにUAVを向かわせて」

「ですが、UAVはもう燃料が…」

「構わないわ。ギリギリまで飛ばして」

 

 

「捉えました。モニターに出します」

 オペレーターの声と共に、モニターに白と黒の映像。深夜の暗闇であっても、風景をはっきりと映し出す赤外線映像が映し出された。

 上空から地上を捉える映像。その道路上に、一台のステーションワゴンが走っている。

 尋問(拷問?)した男の証言と合致したため、ミサトは思わずパチンと指を鳴らした。

「車内の様子は分かる?」

 ミサトに聞かれ、オペレーターはモニターを熱感知映像に切り替えた。

 車内にはオレンジ色で形作られた人の影。

「2人居ますね…」

「これは…!」

 車のトランクルーム。そこにもオレンジ色で形作られた丸い「何か」が収まっていた。

「これよ!このトランクルームの中に対象Aが居るわ!」

 ミサトの言葉を聴いた即応部隊の隊長は部下たちに怒鳴った。

「聞いての通りだ!全員車に乗れ!出発だ!走れ走れ!」

 黒づくめの部隊員たちが、次々とワゴン車へと乗り込んでいった。

 

 ミサトはオペレーターに問う。

「部隊がこのステーションワゴンに追いつくまでの所要時間は?」

「飛ばせば30分ほどでしょうか」

「UAVの残り飛行時間は?」

「…5分です」

「ギリギリまで監視を続けさせて。以降は衛星に監視を引き継がせるわ」

「主任…それが…」

「何よ」

 歯切れの悪いオペレーターを睨みつける。

「この区域は間もなく衛星の監視区域から外れます。これ以上の空からの監視継続は不可能です」

 ミサトは唇を噛んだ。

「この先の道路の状況は?」

「分岐が続きます。上空からの監視がないと、追跡は困難です」

 

「主任…」

 ミサト直属の若い部下がモニターを睨むミサトの背中に声を掛けた。

 返事はない。

「主任…!」

「何よ」

 ミサトはモニターを睨んだままおざなりに返事をする。

「提案があります」

「言ってごらんなさい」

 若い部下は一度生唾を飲み込んだ。

「我々の最大の使命はフォースインパクトの阻止です」

「そんなこと、あんたに言われなくても分かってるわ」

「それには教団に槍の破片が渡らないこと。これだけは絶対に死守しなければなりません」

「何が言いたいの」

 

「UAVには対地ミサイルが積んであります」

 

 ざわつく指揮車内。

 ミサトはモニターを睨んだまま。

「今なら槍の破片を破壊できます。奴らに渡さなくて済む!」

「あなた。気は確か?あんたが言う槍の破片は、まだ3歳の女の子のことよ」

「そんなこと、分かってます!」

 ミサトはようやくモニターから視線を外し、部下を睨んだ。

「だったら言葉を濁さずはっきり言いなさい!ミサイルであの女の子を殺せと!」

 激しいミサトの剣幕。それでも部下は引き下がらない。

「ええ!今すぐあの子を!碇ミチルをミサイルで爆殺するべきです!跡形もなく!奴らに槍の破片が渡る前に!」

「ふざけないで!」

 ミサトの拳が指揮車の壁を抉った。

「たった3歳の女の子の犠牲のもとに成り立つ世界の平和なんて、私は許容しません!」

「許容するかしないかは主任が決めることではありません。世界が決めることです」

「世界…。ふっ、…世界ね…」

 ミサトは若い部下の言葉を鼻で笑った。

「この世界なんて、ほんとは10年前に滅んでたはずなの。今の世界なんて、たまたまおまけで続いたような、何かの気まぐれで始まったボーナスステージのようなものなのよ。そんなちんけな世界に大の大人たちがみっともなくしがみ付いてんじゃないわよ!あんたたちもプロならね!子供も世界も、両方とも守ってやろうっていう気概を見せたらどうなの!」

 

 睨み合う主任と部下の間を縫うように、オペレーターの怯えたような細い声が通った。

「UAVの残り飛行時間、1分です」

 

 若い部下は無線通信用のヘッドセットをミサトに差し出す。

「主任…、爆撃の命令を…」

 ミサトは首を横に振る。

「主任…、世界が滅ぼす気ですか…」

「まだ、私たちは、追い詰められてはいない…。この選択は早すぎるわ…」

「UAVの残り飛行時間、30秒です」

 

「主任…、私たちに…世界を滅ぼした悪魔になれ、と言うのですか…」

「鏡が無いのが残念ね…。今、私の目の前に悪魔の誘惑に負けた男の顔があるわ…」

「UAVの残り飛行時間、10秒」

 

「主任…」

 ヘッドセットを差し出す部下。

 ミサトは受け取らない。

「5秒、4、3」

 

「主任…!」

 ミサトは受け取らない。

「燃料ゼロです」

 

 UAVから送られてくる映像を映し出すモニターに徐々にブロックノイズが混じり始め、やがて画面は真っ暗になった。

「UAV、高度が下がります」

 淡々と状況を報告し続けるオペレーター。

「高度ゼロ…。UAV、墜落しました…」

 

 静まり返る指揮車内。

 たっぷりの沈黙の後、若い部下は乾ききった唇をようやく開いた。

「主任…」

「なに…?」

「僕は、家族をあの厄災で失いました」

「……」

「彼女は…」

 若い部下は目線で黒人女性のオペレーターを指す。

「彼女の両親は、厄災後の混乱期に暴徒に襲われ、殺されました」

 指揮車内を見渡す。

「皆、同じです。ここにいる全員が、あの厄災で家族を失ってるんです。ここにいる全員が志願です。皆が、二度とあの厄災を起こすまいと、自ら志願してこのチームに参加したんです」

 拳を握り締めながら、上官の顔を見つめた。

「あなたはそんな僕たちの心を裏切った」

 腹の底から絞り出すようにそう言った若い部下は、ミサトに渡そうとしていたヘッドセットを自分の耳に掛けた。コンソールのつまみを回してチャンネルを合わせ、回線を開く。

「ジョン・マキュアンです。はい…。…はい、その通りです。ええ。彼女の指示です。はい…。はい…」

 無線の相手と30秒ほど話した部下は、ヘッドセットを外すと、再びミサトに差し出す。

 ミサトは、今度は黙ってヘッドセットを受け取った。耳に掛ける。

 

『支部長のハワードだ』

「はい」

『判断を誤ったな、ミス.カツラギ』

「私はそうは思いません」

『そうか。いずれにしろ君は解任だ。指揮権をマキュアンに引き継ぐように』

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 明滅を繰り返す蛍光灯。薄暗い洗面台。薄汚れた鏡。

 

 そこに映る女。

 

 女は頭に巻かれた包帯を外し、その下に貼ってあったガーゼを剥がす。額の傷口を縫合した痕が現れた。動いた所為か、傷の隙間から血が滲んでいる。蛇口を捻ると少し濁った水が出てきた。水を手で掬い、額に当て、血を洗い流す。傷口が染み、女は思わず顔を顰めた。

 傷口を洗い終えた女は、顔を鏡に近づけた。

 自分の顔を睨む。怪我と疲労で憔悴した顔。

 女は口を広げる。ピンク色の舌の周りに、綺麗に並んだ歯。

 女は吟味するように、鏡に口を近づけながら、歯の一本一本を確認していく。

 女は丁度いい一本を見つけたようだ。

 洗面台に置いていたペンチを手に取る。

 ペンチの刃先を、右下の第一大臼歯に当てる。ペンチで歯を挟んだ。

 あらゆる痛みに慣れっこな女であっても、これから自分の身を襲う痛みにはさすがに身構えた。

 女の鼻息が荒くなる。

 

 意を決し、ペンチの柄を握り締めた。

 

 顎を通して、ゴキッという嫌な音が聴覚に伝う。

 

 薄暗い洗面所に、女の悲鳴が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 



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おまけ(女ジャックバウアー伝説・転)

 

 

 

 ノックの音がしたため、男は鉄扉の中央よりやや上にある覗き窓を開いた。

 ギョッとする。

 覗き窓の向こうに立っていたのは、バイクのフルフェイスヘルメットを被った人物。

 あからさまに怪しい。

 何より今日の、こんな深夜帯に、この場所に、人が訪れる予定などない。

 ヘルメットのフェイスガード越しに見える相手の目を凝視しながら、男は問う。

 

「何だ」

 

「…大師を」

 

 ヘルメットを被っていることを差し引いてもか細く聴き取りづらい声。

「は?」

 男は聞き返した。

「小野寺ヤスオ大師に…会わせて下さい」

「誰だそいつは。んな奴はいねーよ。帰んな」

 男は乱暴に覗き窓を閉じた。

 

 

「…誰が来たんだ」

 暗く狭い室内で椅子に座っていた初老の男性は焦燥に苛まれた顔で、来訪者を確認しにいっていた部下の男に尋ねた。

「分かりません。ですが…」

 焦った様子で帰ってきた部下は壁に立てかけていた自動小銃を手に取る。

「あんたがここに居ることを知っていた…」

 部下のその言葉に初老の男は腰を浮かした。

「…警察か?」

「分かりません。ですが…」

 部下は手に取った自動小銃を鉄扉に向けて構える。

「何だ…」

「あれは変だ…。何かおかしい…」

 ヘルメットのフェイスガードに隠れた相手の双眸が、彼には赤く光って見えたような気がした。

 

 部下が自動小銃を構えてから1分。

 彼が覗き窓を閉めてから何の変化も見せない鉄扉。

「…帰った…のか?」

 部下がほっと胸を撫で下ろし、自動小銃を下ろしたその時だった。

 

 爆発的なエンジン音が響いたと思った次の瞬間には、鉄扉が音を立てて吹き飛んだ。

 

「わあああ!!」

「ひぃっ!?」

 吹き飛んだ鉄扉の隙間から現れたのは車輪。

 続けて大型バイクの本体が水蒸気と土煙を巻き上げながら室内へと踊り込む。

「ぐへぇっ!!」

 不運にも鉄扉の正面に立っていた部下は突入してきたバイクの車輪の下敷きになる羽目になった。

 突然のことに床に尻餅をつき、腰を抜かしてしまった初老の男。

 目の前には、大型バイクに跨った人物。

 全身を純白のライダースーツに包み白のヘルメットを被った、一目で女性と分かる細いシルエット。

 その女性はバイクから降りると、バイクの下敷きになっている部下の手から自動小銃を取り上げ、壮年の男にその銃口を向けた。

 

「小野寺ヤスオさん…ですね?」

 

 厳ついバイクで鉄扉をぶち破って室内に乱入してきた者とはとても思えない、落ち着いた、と言うよりも凍てついた女性の声。

 問われた小野寺はぎこちなく頷いた。

「あなた方の教祖…。宮部モトノリに会わせてください」

 

 小野寺ヤスオは黒い月教団の東海地区を統べる幹部だった。この日、教団の関係者が一般人を拉致したという情報が舞い込み、当局による弾圧を恐れた彼は教団支部を離れ、側近の一人を連れてセカンドインパクトで廃墟化した街のこの小屋に身を隠していたのだった。

 

 女の問いに、小野寺は首を横に振る。

「知らん。教祖の行方は、2年前から我々も知らんのだ…」

 彼が否定した途端、女が構えた銃口が火を噴いた。彼の股の間の床が弾け飛ぶ。

「ひぃっ!?」

「小野寺ヤスオ。ゼーレの下部構成員。宮部モトノリが三条ヨシタカであった頃、あなたがゼーレとの連絡員であったことは「知っています」。ここがあなたと三条が連絡を取り合う場として使っていたことも」

「…な、なぜそれを…」

 それはゼーレもネルフも崩壊した今、彼らの教祖と自分しか知りえない事実だった。

「サードインパクト以前から宮部と繋がりのあるあなたが、宮部の行方を知らないとは考えられません」

 そう言いながら、女はヘルメットを脱いだ。

 

 小野寺の目が大きく剥かれる。

 ヘルメットの舌から現れた空色の髪。

 

「宮部に伝えなさい」

 自身の目を、真っ赤な瞳に射抜かれた。

「御使いが会いに来た、と」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 小野寺が携帯電話で連絡を取り始めた。

 レイは自動小銃から弾倉を引き抜き、小銃ごと床に捨てる。しばらく様子を見守るため、部屋の隅にあるテーブルに腰かけた。

 

「…ああ、…ああ、そうなんだ。…まちがいない…、綾波レイが…ここにいる…。お前に会わせろ…と」

 

 小野寺は小声で相手と話している。

 しばらく続きそうなので、レイは部屋の真ん中に陣取る自身が乗ってきたツアラーの大型バイクに目を向けた。

 

 硬い鉄扉に高速で突っ込みぶち破ったバイクは、前輪からフロントフォーク、ハンドルがひしゃげ、エンジン部分からマフラーまでも大きくへこんでいる。

 物に対する執着心というものが希薄なレイであったが、無残な姿の愛機を見つめるその目にはさすがに憐憫の情が浮かんでいた。

 

 成人を迎えるまで趣味というものと全く縁がなかったレイが、初めて持った趣味がバイクだった。

 ひょんなことから初めて乗ったバイク。タンデムシートに兄を乗せて、田舎道を疾走させたバイク。

 神経接続までして乗るエヴァ以上に感じた、機体との一体感。

 さっそく一発試験で普通自動二輪車免許取得後、すぐに一発試験で大型自動二輪免許を取得。溜めていたお金で中古の大型バイクを購入し、暇があれば郊外へのツーリングを楽しんでいた。2人乗りが可能な車種なので、兄や親友を度々タンデム走行に誘ったが、何故か2人には頑なに拒否され、3人でお出かけの日には仕方なく2人が乗る赤い小さな車をレイがバイクで後ろから追い掛けていた。

 ミチルが生まれてからはツーリングに行く暇もなく、新たに畑仕事という趣味も加わったため、今日このバイクに跨ったのは久方ぶりだった。

 

 レイには密かな野望があった。

 今はまだ3歳だから無理だろうけれど、ミチルがもう少し大きくなったら、タンデムシートにミチルを乗っけて遠乗りでもしたい、と。ミチルの親は大反対するかもしれないけれど。密かに子供用のライダースーツも買っていて。自分とお揃いのスーツを着て、まるで着ぐるみの頭のような大きなヘルメットを被ったミチルの姿を想像すると、ついつい一人でニヤケてしまう。

 しかし肝心の愛機がこんな有様。

 おそらく廃車は確定だろう。

 

 まあいい。ミチルが大きくなるまで、もう少し時間があることだし。

 またコツコツお金を貯めて、少し排気量大人し目の子供に優しいバイクをまたいつか買おう。

 

 そう心に決めているレイに、小野寺が声を掛けた。

「教祖がお会いになるそうだ…」

 

 

 

 

 小屋の前に一台のステーションワゴン車が停められた。

 中から男2人が下りてきて、小屋に入っていく。

 大型バイクが突っ込みしっちゃかめっちゃかになっている小屋の奥で、白いライダースーツを纏った女性がテーブルの上にちょこんと座って待っていた。

 2人の男は女性に近づくと恭しく頭を下げる。

「お迎えに上がりました」

 男の一人が女性に近づく。

「失礼します…」

 テーブルに座る女性の前に跪き、すらりとした足のつま先に両手で触れる。そのまま踵、脹脛、膝、太もも。続いて、もう片方の足もつま先から太ももまで入念に触る。

 見も知らぬ男のいきなりのセクハラ行為にも、女性は表情一つ崩さない。

 男はさらに女性の腰、お尻に触れる。

 その男の手が、女性のお尻にあるポケットの中に滑り込んだ。

 ポケットの中から、携帯電話を取り出す。

 男はその携帯電話を床に落とすと、踵で勢いよく踏み付けた。

 粉々に割れる携帯電話。

 自分の所持品を断りもなしに破壊され、しかし女性は相変わらず表情一つ崩さない。

 男の手はさらに上半身へと上がっていき、わき腹、胸、首回り、両腕、耳の裏、髪の中まで丹念に調べていく。

 ようやく男は女性から手を離すと、一歩下がり、再び恭しく頭を下げた。

 今度はもう一人の男が一歩前へ出る。

「申し訳ありませんが、こちらを…」

 男は女性に手錠と目隠し用の頭巾を渡した。

 女性は素直に自ら両手首に手錠を掛け、頭巾を被る。

 男に手を引かれて小屋を出ると、車の後部座席に乗り込んだ。

 

 

 真っ暗な視界の中で、女性は口の中をもごもごとさせていた。

 舌で、歯の裏を触る。

 右奥から3番目の歯の裏を舌先で押し当てた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 現場指揮を解任されたミサトは車の後部座席に乗せられ、支部へと移送されているところだった。

 携帯電話が鳴った。ジャケットのポケットから携帯電話を出す。

「?」

 ディスプレイに表示される「1234567890」という表示。

 あからさまに怪しい番号だが、支部に着くまですることがないミサトは電話に出てみることにした。

「…もしもし」

 応答してみるが、相手からの返事はない。

「もしもし」

 繰り返し相手に呼び掛けてみる。

『………』

 すると、微かにだがスピーカーにノイズが走るのが聴こえた。

『………はどこに……ですか?』

 ノイズに混じって女性の声。

 その声に、ミサトは聞き覚えがあった。

「あんた!もしかしてレ…!」

 相手の名前を言いかけて、運転手がバックミラー越しに怪訝そうにこちらを見ているのに気づき、ミサトは慌てて押し黙る。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 真っ暗な視界。車の走行音だけが耳に届く。

 レイは口を開いた。

「この車はどこに向かっているのですか?」

「それは答えられません」

 隣に座っているらしい男が答えた。

「これから行く場所に、宮部モトノリが居るのですか?」

「はい。あなた様のご到着を首を長くしてお待ちしておられます」

「ミチルは…。あなたたちが攫った子供は……」

「ご安心を。丁重にお預かりさせて頂いております」

 男の言葉を信じるに足る根拠はどこにもなかったが、それでもレイは胸を撫で下ろさずにはいられなかった。

「あなたたちが望むものは何でも与えましょう。だからあの子は。子供は必ず両親のもとに返すと、そう約束して頂けませんか」

「申し訳ございませんが、それを決めるのは教祖です。さあ、目的地まであと2時間は掛かります。それまではどうぞお休み下さい…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 指揮官の交代という異常事態に直面し、チーム内は混乱の最中にあった。

 女上司から指揮権を奪った青年捜査官だったが、UAVも監視衛星もない今、人手を動員して周辺を手あたり次第に探していくという凡庸な指示しか出せていなかった。

 

 指揮車の中で各チームから上がってくる情報を端末で整理している黒人女性オペレーター。

 教団に怪しい動きがあるとの情報が届いたのが先週。その日から始まった激務の日々。さすがに疲れが溜まっており、日付が変わった頃から強烈な眠気に襲われていた。オペレーターは端末のキーボードを叩く指を止め、大あくびをしながら大きく伸びをした。

 だらしなく開いたオペレーターの口。それを、背後から伸びてきた手が塞ぐ。

 目を白黒させるオペレーター。咄嗟に悲鳴を上げようとした。

「お願い…!シー…!シー…!静かにして…!」

「か、葛城さん…!?」

 背後からの声がつい30分前にチームを追い出されたばかりの女上司のものだと気付き、回転いすをくるりと回して背後に立っていた人物を見た。案の定、葛城ミサトが立っている。

「何やってんですか…!支部に戻ったんじゃなかったんですか…!」

「だから静かにしてって…!マキュアン坊やにバレちゃうでしょうが…!」

「何言ってんですか。マキュアンには私から報告します」

「ちょっ、お願いだから待ってよ。言い訳させて」

「言い訳って。そもそもどうやってここに戻って……あ…」

 オペレーターの目に入ったのは指揮車の近くに止められた車。ミサトを支部に連れて行くはずだった車。その助手席で、ミサトを支部まで移送させるはずだった彼女の同僚が、白目を剥いてぐったりとしている。

「あんたほんと何やってんですか!もう完全に叛逆行為じゃないですか!」

「いいからコレ!」

 ミサトはオペレーターの鼻っ面に自分の携帯電話を突き出す。  

「これ、聴いて」

 

『これから行く場所に、宮部モトノリが居るのですか?』

『はい。あなた様のご到着を首を長くしてお待ちしておられます』

『ミチルは…。あなたたちが攫った子供は……』

 

 ノイズ交じりのその音声に、オペレーターの表情が変わる。

「これって…」

「会話は途切れちゃったけど、通信はまだ繋がったままなのよ。あんただったら中継器を遡って通話相手の居場所特定することくらい、訳ないでしょ」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「着きました。足もとに気を付けて下さい」

 声の主に手を引かれ、レイは車から降りた。

 靴の裏に地面の感触。

 レイは小声で呟く。

「…乾いた空気。…乾いた土」

 頭巾を被った頭を左に右に大きく動かしてみる。

「…反響を感じない…、…広い…静かな場所…」

 それでも遠くからは、

「…虫や鳥の鳴き声。…人工的な音…なし…」

 そして、

「…錆びた鉄の匂い…」

「何かおっしゃいましたか?」

 男の問いかけに、レイは静かに「いいえ」と答える。

「こちらにどうぞ」

 男に手を引かれるままに歩く。靴の裏に土の感触。時々少し大きな石を踏む。少しずつ湿り気を帯びてくる空気。

 男が足を止めたのでレイも足を止める。

 男が何かのスイッチを押した。すると頭上から何かの駆動音がし始め、鉄の軋む音が鳴り響いた。それは鉄のケーブルを巻き上げる音。

「エレベーター…。地下に行くのですか…?」

 レイの問いに、男は答えない。

 目の前で、ガタン、と大きな音。キーッと鉄の扉が開く音。

「どうぞ」

 男に促され、数歩前に進み出る。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 モニターに映し出された波形データ。それが急に大人しくなった。

「通信、途切れました」

 モニターを睨んでいたオペレーターがそう告げた。

「地下に潜ったのね。はい地図、地図出して」

「ちょっと待ってくださいよ」

 ミサトに急かされるオペレータがキーボードを叩くと、モニターには地図が表示された。 

「電波の追跡から発信地はこの辺りですが…」

 オペレーターの指が地図上に半径10km程度の円を描く。

「…結構広いわね。でもレイの言葉から推測すれば、レイは今は山の中。山の中のある程度の広い場所で、山の中なのに鉄の匂いがして、地下へ降りるエレベーターがある場所と言ったら」

「…鉱山?」

「そ。この辺りの鉱山は?」

 地図上に2つのマーカーが表示される。

「この2カ所です。いずれもセカンドインパクト前に閉山されていますが。…どっちでしょうか?」

 ミサトは地図上に示されたマーカーを交互に睨む。

 5秒ほど考えて。

「…こっちよ」

 片方のマーカーを指差す。

「また女の勘ってやつですか?」

「違うわよ。こっちの鉱山はすぐ近くに川があるわ。だったらレイが川の存在を知らせてくるはず」

「じゃあこっちの鉱山に宮部が…あっ……」

「よしよしきたきたきたわよこれ。んじゃ、あとは車かっぱらって…ん?」

 背後に気配を感じ、ミサトは振り返る。

 

 1時間前にミサトを現場指揮官から解任させたばかりの若い部下が、額に青筋を浮かべながら立っていた。

 彼の背後では、指揮車の側に止められた車の助手席で伸びていた男が、別の部下の手によって介抱されている。

 

 ミサトは引き攣った笑いを浮かべた。

「マ、マキュアンちゃん。言い訳させてくれる…」

 年甲斐もなく上目遣いをしてくるミサトに、若い部下は深い溜息を零した。

「で、宮部を見つけたんですか…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 エレベーターが下降を始めたところで、ようやく視界を塞ぎ続けていた頭巾と手錠が外された。

 前時代的な水銀灯の鈍い光が照らすエレベータ内。剥き出しの鉄筋製で、目の前をゴツゴツとした岩肌が高速で下から上へと過ぎ去っていく。

 やがてエレベーターは最下層へ。隣に立っていた男が鉄柵の扉を開け、エレベーターを降りる。そこからは、トロッコ用のレールが敷かれた広い横穴が続いていた。レールとレールの間を歩く男の後をレイは付いていく。

 

 坑内は物々しい警備だった。30mごとに自動小銃で武装した警備員が立っている。

 深い深い、延々と続く横穴。15分ほど歩いて、ようやく目の前に巨大な鉄扉が現れた。

 男は鉄扉の脇にあった大きなボタンを押す。すると厚さ20cmはあろうかという鉄扉が大きな軋む音を轟かせながら開き始めた。

 ここまで数m置きに天井にぶら下がった水銀灯の頼りない光しかなかった坑内。少しずつ開く鉄扉の隙間から漏れる眩い光に、レイは思わず目を細めた。

 

 開いた扉の向こう。

 そこに数人の白衣を着た人々がいる。

 その白衣集団の中央。

 メガネを掛けた痩身の男性。

 

「やあ。久しぶりだね。綾波レイ」

 宮部モトノリが立っていた。

 

 

「こんばんわ。三条博士」

 レイの挨拶に宮部は苦笑する。

「その名で呼ばれるのは10年ぶりかな。僕はすっかり老け込んでしまったよ」

 宮部はこの10年間ですっかり白くなった頭髪を掻く。

「君は少しも変わらないね」

 まるで当時彼女が着ていたプラグスーツのような真っ白なライダースーツを着ているレイを、宮部は眩しそうに見つめるた。

 

 「変わらない」と言いながらも、宮部は10年ぶりに目の前に現れたレイの立ち振る舞いに少々驚いていた。

 零号機の起動実験にも幾度か立ち会った宮部。パイロットであるレイと顔を合わせる機会もあったが、当時の彼女は最高司令官の側にぴったりくっ付いて離れようとせず、データ収集のためにこちらから話しかけても「はい」「いいえ」だけの極々短い返事をするだけで、ましてや挨拶をするようなことは一切なかった。

 

「いや、君も少しは変わったようだね。ちょっとは大人になったのかな」

「三条博士」

 レイの凍てついた声が飛ぶ。

「私は昔話をしに来たのではありません」

「ふっ。そうだったね」

 レイは一歩前に出る。

「私はあなたの計画に全面的に協力します。その代わり…」

「あの子を自由にしろ…かな」

 何かの実験室なのか。部屋には様々な機器やモニター類が並んでいる。その部屋の隅を、宮部は見つめた。

 レイはつられて宮部の視線を追う。

 

「ミチルちゃん!」

 

 そのレイの叫び声に、宮部はまたも驚くことにいなる。ネルフに所属していた頃にレイと関わった数カ月の間に、レイが大声を上げる姿は一度も見たことがなかったからだ。

 

 レイの視線の先。やはり白衣を着た中年の女性に、ミチルが抱きかかえられていた。

 女性の腕の中で眠りこけていたミチル。レイの呼ぶ声にうっすらと目を開け、頭を起こすと寝ぼけ眼で周囲を見渡した。

 レイを見る。

「レイちゃん…!」

 途端にミチルの叫び声。

「レイちゃん!レイちゃん!」

 今すぐにでもレイのもとへと駆け寄ろうと、ミチルは自分を抱く白衣の女性の腕から逃れようと懸命に手足をばたつかせるが、女性はミチルの腰にしっかりと腕を回し、それを許さない。

 

「ミチルちゃん…」

 ミチルを見るレイの瞳が動揺に染まる。

 

 持ち主の感情を露骨に表す彼女の瞳。何事にも揺らぐことのなかったレイの瞳に、感情が宿っている。

 宮部は眉を顰めた。

 

「レイちゃん!たすけて!たすけて!」

 女性の腕の中で泣き始めるミチル。

「ミチルちゃん。大丈夫。大丈夫だから」

 レイは動揺する自身の心にも言い聞かせるように、ミチルに言った。

「あなたのことは私が守る。約束したわ。だから…大丈夫」

 レイの声は彼女が少女だった頃と同じようにか細いまま。それでも、不思議とレイの声はよく通った。

 レイの言葉が耳に届いたミチルは、涙と鼻水をしゃくり上げならも何とか泣き止むと、健気に頷く。

「そう。いい子ね」

 そう言って、レイは微笑んだ。

 

 レイの微笑みを見て、宮部は不快そうに呟く。

「…使徒もどきが人間ごっこか…」

 

 レイは宮部に向き直った。

「あの子をすぐに両親のもとに返す。それが協力するための条件です」

 宮部は不快そうな表情をすぐに打ち消し、小さく笑った。

「よろしい。リリス自らの助力となれば僥倖というほかない。約束しよう」

 背後に控える部下の一人に小声で話しかける。

「…すぐに実験の準備を。アダムの解凍に取り掛かりたまえ」

「今すぐに…ですか」

「ここが当局に見つかるのも時間の問題だ。それまでに我々の大願を成就させる。今日を新世界の始まりの日とするのだ」

「はい!」

 指示を受けた部下はすぐに壁際のコンソールへと駆け寄り、何かの操作を始めた。

 そして宮部は部屋の隅に立つミチルを抱く女性に目配せした。

 女性は頷き、腕に抱いたミチルを地面へゆっくりと下ろす。

 

「レイちゃん!」

 地面に下ろされたミチルは他の誰にも目もくれることなく、その小さな体躯を精一杯伸ばしてレイの方へと向かって走り始めた。

「ミチルちゃん…」

 

 

 リリスの模造品がその表情に満面の笑みを浮かべながら、駆け寄る幼子を胸で受け止めようと膝を折り、両腕を広げて待っている。

 宮部は思った。

 

 誰だこいつは。

 こいつは、本当に私が知っている、綾波レイか。

 

 ふと思いつき、宮部は護身用に持っていた拳銃を白衣のポケットから取り出した。

 

 

 涙と鼻水塗れのミチルが駆け寄ってくる。絶対に守り抜くと誓ったこの世界で一番の宝物が駆け寄ってくる。

 あともう少しで、その宝物を抱き締めることができる。

 

 駆けてくるミチルの、その向こう。

 ミチルの背後に立つ宮部。

 宮部が構える銃口が、ミチルの背中を狙っていた。

 

 

 剥き出しの岩石の壁に反響する発砲音。

 

 

「うぅっ!」

 乱反射する発砲音に紛れて呻き声。

 

 

 良かった。

 

 この世界で一番の宝物を抱き締めることができた。

 

「レイちゃん…」

 

 腕の中で、一番の宝物の可愛らしい口が、まるで天使のような声で私の名前を呼んでくれる。

 

「…レイちゃん」

 

 ああ、でも。

 天使のような声が震えてしまっている。

 

 そうよね。

 こんな赤いものを体からどくどく流していたら、怯えてしまうよね。

 

「レイちゃん!レイちゃん!」

 

 大丈夫。

 私は強いんだから。

 

 大丈夫。

 拳銃で撃たれても、死なないんだから。

 

 

 

 急に轟いた銃声。

 実験を始めるためコンソールを操作を始めていた科学者たち。

 咄嗟に銃声がした方向を見る。

 そこには拳銃を構えた彼らの教祖。

 銃口の先には、太ももから血を流して倒れている、神の御使い。

 

 白のライダースーツが瞬く間に真っ赤に染まる。

 ミチルを庇うように抱きしめたレイの左太ももから、血が流れ出ている。

 

 その様子を見て、一番驚いていたのは誰あろう、レイの足を撃ち抜いた宮部本人だった。

 

「なぜだ…」

 拳銃を握った手が震えた。

「なぜ、お前が撃たれてるんだ…」

 拳銃を撃ったのは自分自身なのに、なぜレイが血を流しているのか理解できていない様子だった。

 

 レイは焼け付くような痛みに表情を歪ませながら、宮部を睨んだ。

「ちっ!」

 宮部は再び拳銃を構える。

 咄嗟に、レイはミチルを隠すように腹に抱きかかえ、宮部に背中を向ける。

 

 立て続けに発砲音。

 レイのすぐ足もとの地面が弾け飛び、空色の髪を鉄の塊が掠める。

 

 腕の中のミチルが大声で泣きわめく。

 レイはそんなミチルを抱き締め、目を瞑りながら銃弾の嵐が止むのを待った。

 

 弾倉が空になる。

「おのれえええ!!」

 今までの落ち着いた振る舞いが嘘のように、宮部は叫ぶと拳銃を地面に叩き付けた。

「何故だあ!」

 幼子を抱き締めたまま地面に蹲る女に怒鳴りつける。

「何故ATフィールドを発生させない!なぜこんな豆鉄砲がお前の足を貫いてるんだ!」

 ゆっくりと顔を上げたレイは、目を細めて肩越しに宮部を見た。

 ミチルを危険に晒した宮部に対する怒りを露わにした表情で。

「その顔…、やはり…」

 感情に満ちたレイの顔。

 

「貴様、ただの人間になり果てたな…!」

 

 宮部は悔しそうに地面を蹴る。

「本宮!」

「は、はい!」

 突然拳銃を撃ち始めたかと思えば発狂したように叫び出した教祖様を呆気にとられて見ていた部下の一人は、自分の名前を呼ばれ慌てて宮部のもとに駆け寄る。

「リリスは使えん…!やはりあの子を…、槍の破片を使うしかない…!」

「では…」

「ああ。すぐに手術の準備をしろ。開腹し、あの子の体から槍の破片を取り出す」

「分かりました」

 部下に指示を終えると、宮部は地面に這いつくばるレイを冷めた目で見下ろした。

「…所詮はネルフの夢の抜け殻か…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 ミサトは機上の人となっていた。

 

 彼女が搭乗するのは武装した軍用ヘリコプター。ミサトが乗る機に率いられるように、3機のヘリコプターが編隊を組んで闇夜を飛んでいた。

「あんたもやるわね。いつの間にこんな良いもの手配したの?」

 真っ暗な眼下を眺めながら言ったミサトに隣に立つ若い部下が言う。

「軍が用意してくれました」

「ちっ。あいつら、あたしがUAV貸してってお願いした時はたった1機しか寄越さなかったくせに」

「あなた挙句の果てにその1機を墜落させてるでしょうが。日ごろから根回しってものが大切なんです。ネルフの時みたいに上から高圧的に迫れば誰でも言うこと聞くと思ったら大間違いなんですよ」

 部下からの叱責に、ミサトはバツが悪そうに舌を出した。

「とにかく、こいつだったら車で2時間掛かるところを30分も掛からずに行けるわ」

「でも大丈夫でしょうか」

「何が?」

「ヘリの爆音を轟かせながら近づいていったら、連中泡食って拘束した子供を…」

 部下はそこで言葉を切った。

「大丈夫よ…」

 ミサトは暗闇の地上を睨みながら言う。

「あの子は、絶対にレイが守り抜くわ…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「教祖さま…」

 明らかに苛立っている様子の宮部に、部下の一人が恐る恐る声を掛ける。

「なんだね…」

「地上から連絡が。緊急のようです」

 宮部は部下が差し出す受話器を受け取った。

「宮部だ」

『西の空から何かが近づいてきます。おそらくヘリコプターかと』

「弾圧者どもだ。武装した者は4分の1を残して全て地上に上げろ。奴らを地下に近づけるな」

『分かりました!』

「20分持ちこたえよ。さすれば君たちにも新世界への扉が開くだろう」

『はい!』

 受話器を置いた宮部は部下たちに向けて怒鳴った。

「急ぎ実験開始だ!当局がここを嗅ぎ付けた!」

 

 

「レイちゃん…、レイちゃん…」

 レイに抱きしめられたままのミチルが震えた声で囁く。髪の隙間から覗くレイの表情、荒い鼻息。そして自分のスカートを汚す真っ赤な液体。幼いミチルであっても、レイの身に重大な危機が迫っていることは分かった。

 それでもなお、

「大丈夫…。大丈夫よ…、ミチルちゃん…」

 レイは笑顔でミチルの顔を見つめる。

「ミチルちゃん…」

 レイはミチルの汚れた髪を優しく梳きながら名前を呼ぶ。

「なに?」

「これから私がすること…。それはとってもお行儀の悪いことだから…、絶対に真似しちゃだめよ…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 操縦室より突如けたたましい警報音が鳴り響いた。

「警告!レーダー照射警告!」

 操縦士がそう叫んだ瞬間、搭乗員の全員が一斉に機の周辺を見渡した。その1秒後、警報音が一段階甲高い音に変わる。

「ちくしょう!ロックされた!」

「全機!回避運動!」

 機長がそう叫んぶと同時に、3機で編成されていた綺麗な編隊が急速に崩れ、それぞれが別の方向へと急旋回し始めた。

「ちょ、ちょっと!大丈夫なんでしょうね!」

 ミサトは機長たちが座る操縦席に身を乗り出して叫んだ。

「何かに掴まって!振り落とされるぞ!」

 耳を劈く警報音が、一際その音量を上げる。

 上空の獲物を狙う鉄の矢が発射された合図だ。

「何処からだ!何処から来る!」

 操縦士も機長も共に首から上がもげそうになるほどの勢いで頭を振り回し、闇に光る閃光見つけ出そうと目を凝らす。不快な警報音の音程がどんどん上がっていく。機体に何かが急接近している合図。

「あれよ!2時の方向!ほら!」

 ミサトが指さす方向には、確かに光の尾を引きながら向かってくる飛翔物。

「機首上げ!!左へ急旋回!!」

 機長に命じられるよりも早く、操縦士は操縦桿を引き起こしていた。

「うわわっ!?」 

 急速に機体が浮き上がり、尻餅をついたミサトはそのままコロコロと後部のキャビンへと転がっていく。

「フレア射出!同時に機首下げ!」

 ヘリコプターの後部から眩い光を放つ幾つもの火の玉が発射される。さながら闇夜に咲く花火のようだ。

「ぐへえ」

 今度は急降下し、体が急速に重力を失い内臓がひっくり返るような感覚。ミサトは思わず胃の中のとんこつラーメンとレバニラ炒めを戻しそうになり、慌てて口を両手で押さえた。

 闇夜を切り裂くように飛んでいた飛翔物が、ヘリコプターではなくヘリコプターが夜空に置いていった花火の方へと吸い込まれていく。

 爆発。

「やった!ミサイル、外れました!」

「馬鹿やろう!もっとと高度を下げろ!敵さん、また撃ってくるぞ!」

「は、はい!」

 機体ががくんと傾くと、遥か下にあった地上が足に触れそうになるくらいにまで一気に近付いた。キャビンの後方からミサトが無様にひっくり返ったまま怒鳴った。

「ちょっと!ちゃんと目的地まで連れてってよ!」

「荷物は黙って座ってろ!」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 大道芸と一括りに言ってもその芸は多岐に渡り、ジャグリングやパントマイムといった定番のものからディアボロ、スティルトといった衆目を引く派手なもの、巨大な装置を使った大掛かりなものまで様々だ。

 幼少期に引き取られた地方の見世物小屋でキャリアをスタートした彼。特別手先が器用という訳でもなく、人に自慢できるほどの身体能力も持ち合わせておらず、かと言って派手な舞台装置が作れるほどの資金もない彼がこの世界で生き残っていく為に思いついたのが、その身一つで披露できるこの芸だった。「最後の見世物芸人」と呼ばれた彼はセカンドインパクト後の混乱期には各地の避難キャンプを巡り、驚きと笑いでキャンプ地を包み、避難民たちに勇気と元気を与えた。

 彼が得意とした芸。それは胃の中に収めたものを、口まで自由自在に出し入れできる技。

 所謂「人間ポンプ」というものである。

 

 

 レイが今まで見たこともないような表情を浮かべ、目を白黒させ始めた。

 僅かに開いた口から彼女の呻く声と共に空気が漏れ出る音。

 肌にぴったり貼り付いたスーツのお腹の部分が、うねうねと動いている。

 のけ反った首の喉が、うねうねと蠢いている。

 最後にレイの口から奇妙な呻き声が漏れ。

 

 ポコッ。

 

 それはレイの小さな口から出てきた。

 

 見た目と大きさはゴルフボールのよう。

 白い球を口から吐き出したレイ。

 咳き込み、涙目になりながらミチルに言う。

「いい…?絶対に真似しちゃ…ダメ…」

 その一部始終を見ていたミチルはおずおずと頷く。

「うん…、…ミチルがそれ…、まねすることは、ぜったいにないとおもうの…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「子供たちは地下よ!ここは容赦しなくていいわ!」

 ミサトの指示を受けた機銃座に座った搭乗員は、上空のヘリコプターに向けて自動小銃をばかすか撃ってくる地上の者たちに対して重機関銃の銃口を向けた。

 火を纏った鉄の塊が、雨霰のように地上の者たちに降り注いでいく。

 

 目的の鉱山跡上空に辿り着いた途端、地上からの攻撃を受けた。見れば数十人規模の武装した集団が手に持った銃器でヘリコプターに向けて攻撃を仕掛けてくる。

 中には、

「RPG!」

 ミサトは崩れかけた建物の影から携帯型ロケットランチャーを構える男を見つけると、すぐさま拳銃をぶっ放した。30m以上上空の、しかも揺れる機内からの拳銃による狙撃。弾丸は見事に男の胸を貫き、男は万歳しながら地面に倒れた。

「とても宗教団体レベルの武装じゃないですよ!」

 地上から放たれた弾丸が何度も機内を跳弾する。隣の若い部下も懸命に拳銃を撃ちながら叫んだ。

「泣き言はいいから今はさっさと地上を制圧して!着陸地点を確保するの!」

「やっていいんだな!」

 機長からの怒鳴り声。

「ええ!やっちゃって!くれぐれもエレベーターは壊さないでよ!」

 

 ミサトが乗る機体が高度を取り、機首を地上へと向けて下げる。

 次の瞬間、機体の両脇に備え付けられた大きな筒状のもの。その先端の、まるでハチの巣のように開いた幾つもの穴が、次々と火を吹いた。

 地上に襲い掛かる無数のロケット弾。

 地上を見つめるミサトの瞳に、立ち上る無数の爆炎が映し出された。

 

 

 

 黒く焦げた付いた地面へと、3機のヘリコプターが降り立つ。

 息吐く暇もなく、ヘリコプターのキャビンから武装した兵士たちが続々と地上へと降り立った。

「第1、第2分隊はエレベーターを確保!直ちに地下へ突入せよ!」

 部隊長の指示を受け、10人の兵士が焼き尽くされた地上で唯一焼け残ったエレベーターへと走っていく。

 ミサトは部隊長のもとへと駆け寄った。

「私も一緒に行っていい?」

「ミス.カツラギ。君はここに残って私と共に指示を出してほしい」

「…分かったわ」

 餅は餅屋に任せるべきだ。ミサトは部隊長の指示に素直に従うことにした。

 エレベーターの前に集まっていく兵士たちの背中を見送る。

 

 ふと視線をずらすと、エレベーターの側に横たわる影があった。

 それは黒焦げの人間。教団側の武装兵だろう。ほぼ全身が炭化した見るも無残な焼死体。

 エレベーターの兵士たちはこれからの突入作戦に集中し、黒焦げの死体には目もくれず、遠くから彼らを見守るミサトも気に留めようとしなかった。

 しかしミサトの目は僅かな変化を見逃さなかった。

 そのうつ伏せに地面に横たわる武装兵の顔。黒焦げの顔。その顔の一部が、白く変化したことに。

 それは人間の目。人間の白目の部分。

 死体の目が開いた。

 いや、死体の目が開くはずはない。

 黒焦げの人間の手が、ほんの微かに動いた。

 黒焦げの手に握られた何か。

 手に収まる程度の、小さなもの。

 黒焦げの人間の手が、その何かを最後の力を振り絞って握り締めた。

 ミサトは走り出す。部隊長の制止も聴かずに。

 走って、そして叫んだ。

 エレベーターに乗り込む兵士たちに向けて、「逃げて!」と。

 彼女がそう叫んだ瞬間、エレベーターは眩い閃光に包まれ、ミサトの体は吹き飛ばされた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 国民性としてこの国には手先が器用なものが多く、そして既製品の小型化に掛ける熱意には並々ならぬものがある。

 国立大学工学部を卒業し大手電機メーカーに就職した彼も、様々な精密機械の小型化を実現させ、その世界ではその名を知らぬ者はいない著明な技術者となっていた。その彼の人生が一変したのが2000年。地球規模の大異変と世界中を被った紛争。国内でも幾つもの反体制派が産声を上げ、各地でテロ行為が頻発。その闘争の士として暗躍したのが、彼だった。

 警視庁官舎爆破事件、内閣専用機爆破事件など、数々のテロ行為の実行犯として逮捕され、2018年に死刑に処された彼の組織での役割は、テロ実行のための武器製作。彼の手に掛かれば小型化できないものはなかった。それが通信機であっても、そして爆弾であったとしても。

  

 

 頭上から籠った音での爆発音が轟き、天井から土埃が舞い落ちる。

 宮部は天井を睨みながら呟いた。

「地上が制圧されたか…」

 地上の武装兵たちと連絡を取り合っていた部下の一人が言う。

「エレベーターを破壊したようです」

「彼らの殉教を無駄にしてはならない。すぐにでも実験を始めよう」

 部下の一人が駆け寄ってくる。

「手術の準備、できました」

 宮部は首を横に振る。

「手術の時間も惜しい」

 宮部は床の拳銃を拾い上げると弾倉を交換する。そしてツカツカと、ミチルを腹の下の隠しながら地面に這い蹲っているレイのもとへと歩み寄った。

 銃口をレイの頭へと向ける。

「この場で腹を裂き、槍を手に入れよう」

 レイの頭が僅かに上がり、血と土で汚れた空色の髪の隙間から覗く赤い瞳が、宮部を睨んだ。

 そんなレイを、宮部はつまらないものでも見るかのように冷めた目で見下ろした。

「ただの人間になってしまった貴様には何の価値もない…」

 人差し指を引き金に掛けた。

 

 

 コロコロと。

 

 不意に現れた白い球。

 ゴルフボールのような球が、足もとへと転がってきた。

 突然のことに、ただ黙って自分の股の間をくぐって転がっていく白い球を見送る宮部。

 部下たちも、この緊迫した場面でどこか呑気に転がっていく白い球を、呆気に取られて見つめていた。

 

 

 突然の閃光。

 

 突然の破裂音。

 

 続けてもくもくと立ち上る白い煙。

 

 

 閃光に視力を奪われ、周囲を覆いつくす白い煙に、たちまち室内はパニックに陥る。

 宮部は怒鳴った。

「狼狽えるな!ただの花火だ!」

 そんな宮部も、突然の爆発に拳銃を撃つ機会を失ってしまっていた。すでに視界は白い煙で満たされ、地面に這い蹲っていたレイの姿も見えなくなってしまった。

「くそっ!この煙をどうにかしろ!」

 部下の一人が慌てて天井に備えられた特大の換気扇のスイッチを押す。

 換気扇はゆっくりと回り始め、やがて室内の煙を吸い出していく。

 視界が少しずつ晴れていった。

 

「おのれええ!!」

 宮部の叫び声。

 レイが這い蹲っていた場所。そこには赤い血痕のみを残して、レイも、そして彼女が庇っていた子供も、その姿を消していた。

「残った警備兵を全員集めろ!槍を追うのだ!」

 

 

 

 

 

 銃弾で肉を削られた左太腿がズキズキと痛む。太腿だけでなく、日中の車による追突で負った全身の怪我が今更になってレイの痛覚を虐め始めていた。

 激痛に何度も気が遠のき掛け、全身に脂汗を滴らせながら、それでもレイはミチルを抱いて狭く暗い坑内を歩いた。本当は走りたかったが、今の体ではとても走る余裕なんてなかった。今できる限りの、最大限の速さで歩き続ける。

 迷路のように入り組んだ坑内。次々と現れる分岐。

 レイは一度も立ち止まることなく、歩みを進める。

 

 地上へと昇るエレベーターへの道を引き返すという選択肢はなかった。

 そこまでには何人もの武装した警備が居たし、はっきりとは聞こえなかったが宮部らの会話からエレベーターは破壊されたらしい。他の脱出口を見つけなければならない。

 

 すでにレイの頭の中には、地上までの脱出ルートは描き出されている。

 エレベーターに乗っていた時に、その隅っこにあった表示。

『坑内管理者 生島マナブ』

 薄汚れたプレートに書かれた名前。おそらく閉山される前、この鉱山が現役だった頃にここで働いていたと思われる者の名前。エレベーター内でその名前を見かけた時点で、自分の脳内にある「彼の記憶」を覗き見ていた。管理者だけあって、彼はこの鉱山の中を隅々まで把握していたらしい。エレベーター以外にも坑内から地上へと抜けだされる穴が幾つかあり、その中から最短ルートとなる道を「彼の記憶」とレイの頭は導き出していた。

 

 一度も立ち止まらずに歩き続けたレイの歩みが遂に止まった。

 壁にもたれかかるように背を預け、口を開けて肩で息を吸う。

 腕の中のミチルが身じろぎした。

「レイちゃん…、ミチル、あるくよ…」

 そう言って、ミチルはレイの返事も待たずに腕の中から滑り降り、地面に立つ。

 

 レイの顔を見上げた。幼子の目から見ても、レイの容態が深刻であることは察することができた。そんなレイを見て、しかしミチルは今は泣いてはいけないと必死に自分に言い聞かせ、目から溢れ出しそうになる涙を必死に堪えるのだった。

 そんなミチルを、レイは全身を蝕む痛みでぼんやりとしてしまった頭で、「ああ何て可愛いんだろう」と場違いな事を思いながら見下ろしていた。

 

「ミチル…ちゃん…」

 掠れた声で名を呼ぶ。その名を口にしただけで、不思議だ。全身の痛みが和らいでいうくような気がする。

 

「なに?レイちゃん」

 ミチルは鼻水を啜りながら返事する。

 

「パパと…、ママに…、会いたい…?」

 自分でも「なんて分かり切ったことを」と思いながら言った。

 

 ミチルは頷く。

「うん…。パパとママに、あいたい…」

 

 レイはにっこりと笑った。

「うん。私も…、会いたい…よ」

 

 ミチルはレイの手を握る。

「いっしょにかえろ。ミチルといっしょに」

 

「そう…ね。一緒に帰ろうね…。私たちのおうちに…」

 

「うん!うん!」

 ミチルの手に引かれ、レイの体が岩の壁を引きずりながら少しずつ動きだす。

 

「帰って…、朝ご飯、作らなきゃ…ね…」

「いいよ。あさごはん、ミチルがつくるから。かえったら、レイちゃんはゆっくりやすんでて」

「ミチル…ちゃん…に、…つくれる…かな?」

「うん。だって、ミチルみてたもん。レイちゃんがごはんつくるとこ、ずっとみてた」

「そう…だね…」

「だからきょうのあさごはんはミチルがつくる。レイちゃんにはいちばんにたべさせてあげるね」

「ほんと…に?」

「うん!」

「そう…。…だったら…」

 なかなか出なかったレイの足が、何とか一歩目を踏み出す。

 

「がんばらなきゃ…ね」

 

 この世で一番可愛い宝物が初めて作る料理を、彼女の両親を差し置いていの一番にありつけるという、この世で一番のご褒美を得らえる権利を頂いたのだ。これはもう死に物狂いにでも帰らなければならない。

 壁に手を付き、体を前へと押し進めた。壁伝いに、歩き出す。

 歩くたびに全身から何かが軋む音がし、穴の開いた太腿から血が溢れ出た。

 それでもレイは、ミチルに手を引かれ、歯を食いしばりながら歩き続けた。

 

 

 

 

 

 地面を伝う血痕。

 それを指さす自動小銃を携えた警備兵。彼の背後に並ぶ、さらに10人ほどの警備兵たちに目配せする。皆が頷き、音も立てずに血痕を辿って穴の奥へと足早に歩いていく。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 ぼんやりとした視界の中で、2人の男がこちらを覗き込んでいた。

 一人は即応部隊の兵士を率いる部隊長。一人は彼女直属の若い部下。

 

「大丈夫ですか?主任」

 まるで近くで教会の鐘でも鳴らされているかのように、頭の中をぐわんぐわんと音が響いている。その音の中を掻い潜るように、若い部下の声がミサトの聴覚に届いた。

 ミサトはゆっくりと頷き、仰向けの体を起こそうした。

 途端に頭痛。

「頭を打ったんですよ。安静にしてて下さい」

 簡易ベッドから上半身を起こそうとしすぐにふらついてしまうミサトを、若い部下が支えてやる。

「…イツツ。…突入部隊は?」

 部隊長は無念とでも言いたげに目を閉じ、黙って首を横に振った。部隊長の背後では、エレベーターシャフトが巨大な炎を上げて燃えている。

「私はどれくらい寝てた?」

「10分ほどです」

「状況は?」

 部隊長が報告を引き継ぐ。

「エレベーターは完全に破壊された。今、部隊総出で他の進入口を探しているが…、この暗闇では…」

「望み薄…か…」

 ミサトのその呟きからやや間を置いて、若い部下が口を開く。

「主任…、今、新たにUAVが1機、こちらに向かっています」

「そう…」

「はい…。それには、…地中貫通型の爆弾が搭載されています」

「そう…」

 ミサトは素っ気なく答え、目を閉じる。

 ふぅ、と溜息を吐く。

 目を開き、若い部下を見た。

「私はもう現場指揮権を剥奪された身よ。その判断はマキュアン。あなたに任せるわ…」

「僕に…?」

 若い部下の顔に明らかな動揺が広がる。

「ええ…。お願い」

 若い部下の肩に手を置く。

「世界を救ってみせて…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 長い長い坑道の奥に、物々しい鉄扉が現れた。

 大きなレバー式のドアノブを両手で握り全体重を掛ける。鉄の軋む音と共に、レバーが下がる。続いて両足を踏ん張り、肩で鉄扉を押した。見れば、足もとでもミチルが両手を扉につき、健気に重い重い扉を押し開けようとしている。

 2人の努力が実り、やがて扉が少しずつ開いていく。

 扉の隙間から、冷気が漏れ出で、ミチルは思わず肩を竦める。

 人一人が通れる程度の隙間ができ、レイとミチルは滑り込むようにその隙間へと入り込んだ。

 

 ここまでごつごつとした岩肌と、天井を這う細い電線、数mおきにある水銀灯の灯りだけが延々と続いていた。

 しかし鉄扉の向こう側。

 そこだけは、これまでとは全く異なる空間が広がっていた。

 

 広い広い空間。

 古い水銀灯ではなく、新しいLED式のライドで照らされた、講堂のような空間。

 ただでさえ寒い坑内で、ここはまるで冷蔵庫の中のように冷えていて、2人の口から吐き出される息はたちまち白くなり、天井へと昇っていく。

 床は変わらず剥き出しの岩石だが、それ以外の壁、天井は全て鉄板で覆われている。床にはレイの膝の高さまである極太のチューブが何本も這い、それらは空間の奥のある一か所へと集まっている。

 チューブが集中する先。

 円筒状のもの。床に横たえられた、人の大きさくらいのカプセル。

 上半分はガラス張りになっており、カプセルの中には蛍光色の灯りが点っているようだが、ガラスは冷気で曇っていて中の様子はよく見えなかった。カプセルの周囲には幾つかの排気口が空いており、そこから微かに蒸気が立ち昇っている。

 

 ミチルもこの空間の異質さに気付き、まるでそのカプセルに怯えるようにレイの背後に隠れた。

「…行きましょう…」

 レイはそんなミチルの頭を撫で、優しく声を掛ける。

 この空間が何を目的として作られたもので、あのカプセルには何が入っているのか。

 今のレイにはどうでもよいことだった。

 

 ここの管理者の「記憶」によれば、この空間は大量の鉱石を切り出した跡地であり、レイたちが入った扉の反対側にも出入り口があって、そこから更に狭い坑道が続き、やがて地上に出られるようだ。

 その出入口はあのカプセルが設置された場所の、ちょうど裏側にあるらしい。

 2人は野太いチューブを一つ一つ跨ぎながら進んでいく。

 今のレイにとってはチューブを跨ぐ動作だけでも体に負担らしく、傷ついた左脚を地面に付けるたびに顔を顰め、がくんと膝を折りそうになる。

 

 カプセルのすぐ側を通り過ぎる。

 少しだけ、レイの位置からカプセルの中身が見えた。

 

 手を繋いでいたレイの足が止まる。一緒に足を止めたミチルは、不思議そうにレイを見上げた。

 レイが、カプセルの方を見つめたまま、固まっている。

「レイちゃん…?」

 ミチルに呼び掛けられ、レイは一度だけ瞬きをする。ミチルを見下ろし、なんでもないと首を横に振り、重たい体を引きずるように歩みを再開した。

 

 

 最後のチューブを跨ぎ、地面に足をつける。

 

 あれ?

 

 地面に足をつけたはずなのに、足の裏に地面の感触がない。

 何もない空間を踏み抜いてしまい、レイの体が音を立てて倒れた。

 

「レイちゃん!」

 

 ミチルの悲痛な叫び声が側で聴こえる。

 地面に倒れている自分。足の裏には何も無かったはずなのに、普通に地面に這い蹲って倒れている自分。

 足の裏に何も無かったのではなく、自分の足が何の感触も感じていないことに気付くのに、30秒ほど時間を要した。左足を動かそうにも、鼠径部から下がまるでもがれてしまったかのように、自分の左足というものを感じない。見れば、左足はすべて血に染まり、泥に塗れている。

 

 レイの左足はとうの昔に限界を超えていた。

 ならば、と。

 右足だけで懸命に起き上がろうとする。

 しかし。

「う…」

 まだ感覚がある右足も、まるで自分の言うことを聞いてくれようとはしない。何度も地面を蹴り、踏ん張ろうとするのだが、右足は空しく地面の上を滑るだけで、まるで力が入らない。すでにレイの右足も限界を迎えていたようだ。

 

 ならば、と。

 レイは両腕を使って地面を這ってやろうと思った。

 両腕が使えないのであれば、胴体を芋虫のようにウネウネと動かして、這ってやろうと思った。

 胴体が動かないのであれば、顎の力だけでも使って這ってやろうと思った。

 なんでもいいから。

 自分の体で動く部分があったらそれを駆使して、進んでやろうと思った。

 ミチルと一緒に。

 絶対にミチルと一緒に地上に出ようと思った。

 でも。

 

「レイちゃん!レイちゃん!」

 地面の上で言うことを聞かない四肢を必死にばたつかせ、のた打ち回るレイに、ミチルは必死に呼び掛ける。せっかく堪えていた涙が、ボロボロとミチルの瞳からこぼれ出ていた。

 1分ほど必死に藻掻いてみて。でもその結果得られたのは泥まみれになった体と、地面の上に体を引きずってできた5cm程度の血の跡だった。

 

 レイは目を閉じる。

 考えを巡らせている時間はない。

 選択肢は、一つしかないのだ。

 

「ミチルちゃん…」

 開いたレイの赤い瞳が、ミチルを見つめる。

 レイの有様に混乱している様子のミチルは、涙をぼろぼろと零しながらレイの名前を呼び続けている。

「聞いて…、ミチルちゃん…」

 レイの再度の呼びかけに、ようやくミチルはレイの声に耳を傾けた。

「ミチルちゃん…、あれ…」

 そう言って、レイは視線をある方向に向ける。

 それはこの空間の奥。灯りの届かない暗がり。

 そこに、人が一人通れるほどの穴が、ぽっかりと空いている。

「いい。ミチルちゃん」

 呼び掛けられ、その穴を見つめていたミチルの顔がレイの方へと戻る。

「ここからは…、一人で行くの…」

「え…?」

「あの穴を行けば…、歩いて…行けば、 地上に…、上に出られる…わ…」

「レイちゃん…?」

「上に出たら…、女の人を…探して…。かつらぎ…みさと…っていう人…」

「レイちゃん…、なに…いってるの…?」

「その人が…、ミチルちゃんを…、パパとママのところに…、帰してくれる…わ…」

「レイちゃんも、いっしょに、かえるんだよね?」

「もちろん…よ。…でも、私はここで…少し…休んで…いくから。…ミチルちゃん…は、先に…行ってて…」

 そう言って、レイは微笑む。

 その笑顔を、ミチルは見つめる。

 見つめて、暫くして、そしてギュッと目を瞑る。

「だめ!れいちゃんもいっしょにいくの!」

 レイの笑顔はいつもの笑顔と変わらなかった。それでも、ミチルはここでレイと離れ離れになってしまうと、もう二度と会えなくなってしまうような気がしたのだ。

「ほら!レイちゃん、たって!いっしょにいこう!」

 レイのぶらんとした力ない腕を握り、引っ張る。

 レイは首を横に振った。

「だめ…、私は…行けないの…」

「そんなことない!いこ!いっしょにかえろう!」

「だめ…、だめ…なの…」

「やだ!やだそんなの!そんなのやだ!」

 泣き喚くミチル。

「ごめんなさい…。…ごめんなさい…、ミチルちゃん」

 いつの間にか、レイの瞳からも大粒の涙が零れていた。

 レイは最後の力を振り絞ってミチルが握っている自分の右手を動かし、その手をミチルの後頭部へと回すと、ミチルを自分の胸元へと抱き寄せた。

 ミチルはレイの胸元に顔を沈めながら訴える。

「レイちゃんいった!いっしょにかえるって!」 

「…ごめんなさい…、…ごめんなさい…」

「ミチルとのやくそくやぶっちゃやだ!」

「…ごめんなさい…、…ほんとうに…」

「ね?ミチルといっしょにかえろ?」

「…ミチルちゃん…」

 

 ミチルを抱く腕に力をこめる。この子の温もりを、最後に感じようと。

 そして、

 

「ミチルちゃん…、行って…」

 自分とミチルとの間に手を滑りこませる。

 

「お願い…、行って…」

 ミチルの体を突き放した。

 

「行くの!ミチルちゃん!」

 

 

 ママはよく怒る。

 普段は優しいし大好きだけど、怒るととっても怖い。

 大好きなパパは怒ることは滅多にないけれど、それでも自分が何かいけないことをすると、厳しく叱られる。

 でもレイにはこれまで怒られたことはなかったし、怒鳴られることもなかった。 

 そのレイが、今は厳しい眼差しで自分を見つめ、そして声を張り上げている。

 

 

 ミチルはレイの血で汚れたスカートを、ぎゅっと握った。

 

 ミチルは駆け出した。

 

 しかしそれは、レイが望んだ方向ではなかった。

 ミチルは叫ぶ。

「だれか!ねえ、だれかたすけて!」

 誰も居ない大きな空間の中で叫ぶ。

「たすけて!レイちゃんをたすけて!」

 

 レイは地面に這い蹲ったまま、そんなミチルの姿を顔を歪ませて見つめていた。

「…お願い…、…逃げて…」

 

「たすけてよ!」

 大きなチューブを幾つも跨いで部屋を駆けまわる。幾度となく躓いてしまい、顔から地面に落ちてしまい、小さな鼻からは鼻血が出てしまい、それでも血を拭おうともせずに立ち上がると、懸命に走り回り、声を張り上げ続ける。そこら中に手あたり次第叫んでいくが、だだっ広いこの空間で息をしている者はたった2人だけ。ミチルの声に応じるものは誰も居ない。広大な部屋の中を、空しくミチルの声だけが木霊する。

 

 ふと、部屋の中央に鎮座する大きなカプセルに目がいった。

 冷気で曇ったカプセルのガラス。

 

 そこに何かが居る。

 誰かが居る。

 人が居る。

 カプセルの中に、人が入っている。

 

 ミチルはカプセルに駆け寄った。

 どんどん、とカプセルの窓ガラスを叩く。

「ねえ!おねがい!たすけて!たすけて!」

 何度も何度もガラスを叩く。

 そのうち、ガラス以外の箇所にもミチルの小さな拳が触れ、何かのボタンに触れ、幾つかのボタンに光が灯った。

「ねえ!ねえったら!」

 カプセルの中にいる「何か」は返事をしない。

 まるで死んでいるかのように、静かにカプセルの中で横になっている。

 

 

 背後で鉄の軋む音。

 振り返ったミチルの視線の先に、ミチルたちが入ってきた鉄扉の隙間がさらに大きく開き、そこから人が次々と入ってきた。

 ミチルはカプセルから離れると、すぐに鉄扉から入ってきた人たちに向かって駆け出す。

 

 レイの表情に絶望が浮かぶ。

「…だめ…、…だめ…よ…」

 叫びたかったが、喉に力が入らない。

 レイの視線の先で、ミチルが鉄扉から入ってきた警備兵たちのもとへと懸命に駆けていっている。

 

 

 

「ねえ!おじさん!」

 幼子は声を張り上げて呼んだ。

 坑内でも最重要地点であるこの「みささぎ」までやってきた警備兵は、入るなり駆け寄ってきた幼子を無言で見下ろす。

「おねがい!レイちゃんをたすけて!しにそうなの!」

 幼子が指さす先に警備兵は視線を向ける。

 確かに、「リリスの模造品」改め、「人間に堕ちたリリスの模造品」が下半身を血まみれにして倒れている。

 警備兵はやはり幼子に対しては黙ったまま、鉄扉の近くに設置された受話器を手に取り、耳に当てた。

 相手が出る。警備兵は低い声で会話を始めた。

 

「…捜索隊です。槍を確保しました…」

『よし。その場で殺せ。宿主が死んだところで槍は消えはせん』

「はい」

 

 警備兵は受話器を置く。

 腰のホルスターから拳銃を抜いた。

 

 

 ミチルを取り囲んだ警備兵の一人が拳銃を抜き、ミチルの頭に銃口を向けている。

 ミチルは何が起きようとしているのか分からず、ぽかんとその銃口を見つめている。

 

「あっ…、ぁあ…、ぅうああ…」

 叫ぼうとした。

 大声を張り上げて、奴らの注意をこちらに向けて。

 そうすれば、その隙にミチルが逃げてくれるかもしれない。

 僅かでも希望は残されるかもしれないのだ。

 

「あ…、ああ……、うぅぅ…」

 何でもいい。何かを叫べ。声を出せ。音を出せ。

 

「う……、ぅう…」

 でも声が出ない。

 この喉は、何の音も響かせない。

 レイの手が、指が、岩の床を引っ掻く。

 

 

 誰でもいい。

 

 誰でもいいから。

 

 あの子を。

 

 あの子だけは…!

 

 

 

 いくら教団の大願のためとはいえ、幼い子供を真正面から撃つのはさすがに気分の良いものではなかった。

 引き金に掛けた警備兵の人差し指が、微かに震えていた。

 それでも、今日この日を迎えるまでに、一体何人の仲間たちが犠牲になっただろうか。

 彼らの無念は、今、自分のこの指に掛かっている。

「悪く思うなよ…」

 引き金に掛けた指に、力を籠めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ビー!ビー!ビー!

 

 

 

 部屋中に大きな電子音が響いたのはその時だった。

 

 警備兵は咄嗟に人差し指を引き金から外した。

 電子音は部屋の中央のカプセルから鳴り響いている。

 その警備兵だけでなく、他の警備兵も動揺した様子でそのカプセルを見つめた。

 

 けたたましい電子音を鳴り響かせるカプセルは、やがて圧縮された空気が抜けるような排気音を出し始め、そして実際にカプセルの周りに設置された数本の排気口から白い蒸気が一斉に立ち昇った。

 

「た、隊長…」

 警備兵の一人が幼子に拳銃を向けていた警備兵に震えた声で呼びかける。

「ああ…」

 隊長は掠れた声で応じる。

 

「奴が…目覚めた…」

 

 あらかたガスを吐き出し終えたカプセルのガラス窓の部分が、がたんと動いた。ガラス窓が少し浮き上がり、そして水平に動いていく。

 

「ふあ~あ…」

 

 緊張した警備兵の視線が集まるその先から、何とも間の抜けた欠伸が聴こえた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「…主任…」

 

 様々なセンサー類に繋がったモニターを見つめていた女性オペレーターの顔が青ざめ、震えた声でミサトを呼んだ。

「なに?」

 ミサトは燃え上がるエレベーターシャフトを見つめながら返事する。

 

「ATフィールドの発生を確認しました」

 

 ミサトの顔が、ゆっくりとオペレーターの方へと向く。

 

「ここから500m北、地下200m付近です」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 蒸気が立ち昇るカプセルから、むくりと人の影が起き上がる。

「ふあ~…」

 再度、呑気な欠伸。蒸気の隙間から、天へ向けて突き出し、伸びをする腕が見えた。

 やがて蒸気の中から2本の真っ白な脚がにょきっと出てきて、地面に降り立つ。

 

 

 固唾を呑んでカプセルの様子を見つめる警備兵たち。

 受話器で通話をしていた警備兵の一人が隊長に言う。

「教祖は「待機せよ」と。「刺激するな」と言っています」

「…ああ、分かってる…」

 

 

 その隊長はこの廃鉱山に教団が拠点を設けた頃からの古参の者だった。

 そして3年前の惨劇の夜も、その場に居た。

 試験管の中で産声を上げた生命体。

 ある一点を超えると「それ」は急速に細胞分裂を繰り返し始め、あっという間に膨れ上がり、超強化ガラスでできた試験管を砕いてしまった。

 モニターを凝視していた科学者の一人が叫ぶ。強力なATフィールドが発生していると。その直後に、試験管の一番近くに居た科学者の体が爆ぜた。白衣が血にまみれ、内臓物が弾け飛んだ。

 科学者が更に叫ぶ。続けてアンチATフィールドが発生していると。すると試験管の近くにいたもう一人の科学者の体が急に、まるで火に炙られた蝋人形のように溶け始めた。科学者は泣き叫びながら、やがて服だけ残して液体と化した。

 生命体はATフィールドとアンチATフィールドをまるで振り子のように交互に展開させていき、その度に、彼らにとっての新たな神の誕生を見守ろうと集まっていた教団の幹部や科学者、警備兵たちの体が次々と破裂し、次々と溶けた。

 室内に居たほぼ全員が恐慌状態に陥る中、彼らの教祖、宮部だけがその顔に狂気の笑みを浮かべ、「新世界の始まりだ」と叫んでいる。

 ところが相反する2つの膨大なエネルギーを矢継ぎ早に発する生命体は、次第にその活動を弱めていき、そしてついにはその肉体を崩壊させ始めた。

 室内に居たほぼ全員が安堵する中、宮部教祖だけが焦りの表情を浮かべ、部下たちに生命体の即時凍結を命じた。

 凍結されたことで何とか形を保つことができた生命体は、直ちに生体維持のためのカプセルの中に入れられ、以来、地下深いこの空間、「みささぎ」と呼ばれるこの墓で眠りについていたのだった。

 

 

 その生命体が今、地面に足をつけ、立ち上がろうとしている。

 拳銃を握る自分の手の震えを、抑えることができなかった。

 

 やがて蒸気が晴れていく。

 薄れていく蒸気の中に現れる人の影。

 

「やあ、こんにちわ」

 

 朗らかで、透き通った声。

 

 カプセルの前に、小さな子供が立っていた。

 

 

 

 

 



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おまけ(女ジャックバウアー伝説・結)

 

 

 

 指揮車内は静まり返っていた。

 まるで石化の呪文でも唱えたみたいに、オペレーターがそれを告げてから、誰一人として動くことができなかった。

 

 彼らに時間的猶予があったわけではない。むしろ時間が経てば経つほど、事態は深刻化していくことは誰しもが分かっていたが、それでもたっぷり2分の間を取ったところで、ようやくミサトがツカツカと靴の音を立てながらオペレーターの近くへと歩み寄った。

 

 モニターを覗き込む。

「ATフィールド…だけなの?」

「はい。…微弱ですが、ATフィールドのみをセンサーは感知しています…」

「過去のデータと照合…」

「はい…」

 オペレーターがキーボードを叩くと、上半分に現在センサーが感知している波形が表示され、下半分に3年前に感知した波形が表示される。

「99.9%、同一のものです…」

 ミサトは苦虫を噛むような表情で呟く。

 

「アダムが…目覚めた…」

 

「主任…」

 若い部下が囁き掛ける。

「UAV到着まで、あと5分です…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 地下のその一室は静まり返っていた。

 

 まるで石化の呪文でも唱えたみたいに、大人の誰一人として動くことができなかった中で。

 

「ねえ!」

 

 ミチルだけが動いた。

「ねえ!おねがい!レイちゃんをたすけて!」

 

 ミチルの視線の先には、カプセルから現れた子供。

 中世的な顔立ちをしているが一糸纏わぬ裸体の股間には男性器があり、子供は男の子であることが分かる。

 ミチルはその男の子に駆け寄ろうとして。

「きゃっ!」

 その首根っこを、警備兵の一人が引っ掴む。

「もうはなして!はなして!」

 ミチルは懸命に暴れるが、掴んだ警備兵の腕はびくともしない。

 もう自分のことはどうでもいい。今大切なことは。

「おねがい!レイちゃんをたすけて!」

 男の子に向かって訴える。

 

「ん?れいちゃん?」

 小さな女の子に言われて、男の子は周囲を見渡した。

 カプセルの向こう側に、人の足が見えた。

 男の子は歩き出す。

 歩くたびに揺れる髪から、不可思議な燐光が舞った。一糸まとわぬその体は赤みを帯びた淡い光を放っており、限られた光源しかない薄暗いこの部屋の中で、子供の周囲だけが明るかった。

 

 大きなカプセルをぐるりと回ると、なるほど、人が倒れている。

 すらりとした身体に纏った白のスーツ。その左足が血に塗れ、ぐったりとした四肢からは生気が感じられず、その顔には血の気がない。

 瀕死の女性の姿を認めた男の子は、小さな女の子の方に目を向けた。

 

 男の子の視線を受けて、ミチルは再度叫ぶ。

「たすけて!おねがい!」

 

 男の子は少し目を丸くする。

 

 そして足もとの女性を見る。

 

「僕が?」

 

 ミチルを見る。

 

「彼女を?」

 

 女性を見る。

 

「助ける?」

 

 ミチルを見る。

 

「なぜ?」

 

 ぽかんとした顔。

 

「どーして僕が彼女を助けないといけないんだい?」

 

 

 そんなことを問い返されるとは思ってもみなかったミチルは一瞬きょとんとし、そして改めて訴えた。

「このままじゃ、レイちゃん、しんじゃうもん!」

 

「へー、死んじゃうんだ、君」

 そう呟いて、男のは女性を見下ろした。

 何かに気付いたように、男の子の片方の眉が上がる。

「あれ?あれれ?君って…」

 急に女性に興味を持ち始めた男の子はその場にしゃがみ込み、女性の顔を覗き込む。

 乱れた空色の髪の隙間から、瞼を薄く開いた真っ赤な瞳が男の子を見つめた。

 男の子の、やや大きめの口が三日月のように曲線を描く。

「君って、なんだか僕と似ているね」

 嬉しそうな男の子の声。

 

「もしかして君、僕のママかい?」

 

 

 男の子が。見た目はミチルよりも幾ばかりか年上の子供が、自分の顔を覗き込みながら突拍子もないことを尋ねてくる。

 レイはゆっくりと首を横に振った。

「…いい…え…、私は…、あなたの…ママ…じゃない…わ…」

「へー、そうなんだー。ざーんねん」

 男の子は唇を尖がらせる。その不貞腐れ方がどこか不機嫌な時のミチルに似ていたので、レイは思わず笑ってしまった。

「…あなたは…、誰?」

「僕?」

 レイの問い掛けに、少し首を傾げて考え込んで。

「さあ、分かんない」

 笑顔で答える男の子。

「名前…は?」

「知らない。僕にも名前、あるのかな?」

 

 カプセルにずっと閉じ込められた子。

 世界と隔絶された子。

 どこか、少女時代の自分の境遇と似ていた。

 

「ねえ…」

「なんだい?」

 親近感が湧いたからか。レイは自分でもおかしなことを言うな、と思いながら口を開いた。

「私のこと…、助けて…ほしい…の」

「えーーー」

 途端に顔を顰める男の子。

「どーしてさ。僕のママでもないのに」

 全くもって、その通りだ。今日初めて会った、しかもこんな子供に、何てお願いしているのだろうと自分自身でも思う。

 それでもレイは続けた。

「ママには…なれないけれど…、友達には…なれる…わ…」

「トモダチ?んーー、トモダチかあ」

 人差し指を顎に当て、天井を睨みながら「トモダチ」というものの価値を吟味する男の子。

「…もっと、…ほかのことが…いい?」

「んんん」

 今度は腕を組んで考え込む男の子。

「あなたが…、望むもの…」

「僕が望むもの…?」

「そう…」

 レイは相手を慌てさせないよう、静かに、ゆっくりと男の子に訊ねた。

 

「あなたは…、何を…、望むの…?」

 

 

 男の子は暫く虚空を見つめた後。

「うん、決めた!」

 満面の笑顔でレイの顔を覗き込む。

 

「なまえ!」

 やや大き目な口を目一杯開けて男の子は叫んだ。

「名前がいい!」

 

「なま…え…?」

 キョトンとして男の子が言った言葉を反復するレイ。

「うん。僕、名前が欲しいんだ」

「…そう…」

 

 レイは困ってしまった。

 唐突に名前が欲しいと言われても、困ってしまう。名前というものは、親が吟味に吟味を重ねて付ける物であるということを、レイはミチルが生まれた時にミチルの両親を見て知っていたからだ。

 今日初めて会った自分が、おいそれと名前などを与えてもよいものだろうか。

 

 …実は。

 本当は初めて男の子の顔を見た時から、レイの中では男の子にぴったしな名前が思い浮かんでいたのだが。

 

「私なんかが…決めても…いいの?」

「うん。君がいい。君に決めてほしい」

 男の子は何の躊躇いもなく言ってくる。

「分かった…わ」

 レイは観念した。

 

 

「あなたの名前…」

 生唾を飲み込む。柄にもなく緊張してしまった。

 

「うん!」

 男の子は期待に満ちた顔で待っている。

 

 

 

 

「あなたは、

 

 

   ナギサカオル…、

 

 

      渚カヲルよ…」

 

 

 

 

 ナギサカオル。

 

 その6文字を聴いた途端、銀髪の男の子は赤い瞳を輝かせた。

 

「うん!僕はカヲルだ!渚カヲルだよ!」

 喜びを全身で表すようにぴょんぴょん跳ねる男の子。

「ありがとう!お姉ちゃん!」

「…そう、…よかったわね…」

 気に入ってくれたようでなによりだ。レイはホッとした様子で、男の子を見上げた。

 

「ねえ…君」

 放っておけば一晩中飛び跳ねていそうなので、頃合いを見計らって男の子に声を掛ける。

「なんだい?」

 男の子は飛び跳ねるのを止め、レイを覗き込む。

「私のこと…、助けて…くれる?」

「もちろんさ!」

 そう言って、男の子はレイの左太腿の銃創に手を翳した。

 男の子の手が輝き始める。

 男の子の手のひらから極小のATフィールドの結晶が幾つも舞い散り始め、傷口へと付着していく。

 結晶が付着した傷口は瞬く間に塞いでいく。傷の周りがまるでぬるま湯に浸されたように温かさを感じていく。何も感じなかったはずの左足の感覚が、徐々に蘇っていく。

 

 レイは、ATフィールドにはこのような使い方もあるのか、と感心して男の子を見つめた。

「…器用なのね…」

「にっひっひ」

 褒められて、男の子は得意げに笑う。

「じゃあ…」

 レイは視線を向ける。警備兵に拘束されているミチルに。

「あの子も…助けて…くれる?」

「えええ?どーしてー?」

 振り出しだ。レイはがっくりと肩を落とした。

「あの子は…、きっと…、あなたの…、ステキな友達に…なってくれるわ…」

「トモダチって必要かな~?」

「ええ、友達はとても素敵な宝物よ…。それに…」

「それに?」

「あの子は、この世界で…一番可愛い生き物よ。そんな子を友達にしないなんて…、あなたは人生の9割を損することになるわ…」

 どこか迫力のあるレイの物言い。

「んーー、君が言うのならそうなのかな~」

 男の子はそんなレイの圧力に少し気圧されたような表情で頷いた。

「じゃあ、周りのおじさんたちは?」

 そう男の子に聞かれ、レイは目を細める。

 

「あの人たちは……敵よ…」

「うん!分かったよ!」

 

 

 

 気が付けば、自分の首根っこを掴んでいたはずの警備兵が、壁まで吹き飛ばされていた。

 

 

 瀕死の女の側でしゃがみ込み、何やら話し込んでいる男の子。 

 突然、両手を挙げてぴょんぴょんと跳ね始めた。

 その様子に狼狽える警備兵たち。

 再び男の子はしゃがみ込み、女と話し込む。

「うん!分かったよ!」

 男の子が元気よく言い、立ち上がった。

 振り向く。

 こちらに向かって、手を翳す。

 次の瞬間、女の子を拘束していた警備兵の体がふわりと浮き、そして何かに突き飛ばされたように壁へと吹っ飛んだ。

「ぐあ!」

 悲鳴を上げて、床へ崩れ落ちる警備兵。

「な…!」

 突然のことに動くことすらできないでいたら、今度は吹き飛ばされた警備兵の横に立っていた別の警備兵の体が、まるで透明な巨人の手に摘ままれているかのように宙へと浮いた。

「うわああ、わあああ!!」

 たちまちパニックになった警備兵。

 手に持っていた自動小銃の銃口を男の子に向け、引き金を引いた。

 けたたましい銃声。

 それが合図だったかのように、隊長以外の全員の銃火器の銃口が火を噴く。隊長が何度も「撃ち方止め!」と叫ぶが、彼の声は銃声でかき消されてしまう。室内は硝煙に満たされた。

 全員が弾倉に込められていた銃弾を撃ち尽くす。

 今度は室内を静寂が包む。

 硝煙が晴れていく。

 

 それは奇妙な光景だった。

 警備兵の前にあるもの。

 警備兵の前の空間に、浮いているもの。

 無数の銃弾。

 まるで静止画像のように、彼らが撃ったはずの銃弾が宙に浮いて、固まっている。

 誰の仕業か。

 こんなことをしでかせるのは一体誰か。

 考えなくても分かった。

 隊長は悟った。

 「あれ」に対しては、あらゆる物理的な攻撃は無意味であると。

 

 男の子はにっこりと笑っている。

 こちらに向けて翳していた手を降ろした途端、宙に浮いていた何百発という銃弾がバラバラと床に落ちた。

 男の子はにっこりと笑ったまま、再度、警備兵たちに向けて手を翳した。

 今度は隊長の体が、壁へと吹き飛ばされた。

 

 

 拘束から逃れたミチルは、レイのもとへと駆け寄った。

「レイちゃん!」

「ミチルちゃん!」

 泣きながら走ってきたミチルを、レイは強く抱きしめる。

「レイちゃん!ばか!うそついたらハリセンボン!」

「ごめんね…。ごめん…、ミチルちゃん…」

 ミチルは最初こそ、その小さな拳で何度もレイの胸を叩いていたが、やがてそれも止め、レイの首に腕を回して抱き着き、わんわんと泣いた。

 泣きじゃくるミチルの頭を撫でながら、レイは男の子背中を見た。

 

 

 指揮を失った警備兵たち。もはや混乱は極地に達し、おのおのが勝手に所持する銃器を男の子に向けて撃ちまくっている。中には自動小銃の先端に付けられたグレネードランチャーをも、ここが地下であることも忘れてぶっ放している者も居るが、彼らが仕掛ける全ての攻撃は、男の子が狂騒の彼らとの間に張り巡らせる見えない壁によっていとも簡単に阻まれるのだった。

 男の子は無力な警備兵たちを、一人ずつ壁に向けて吹き飛ばすことに夢中になっている。まるで地面を這う蟻の列を踏みつぶして喜んでいる子供のように、けたけた笑い声を上げながら。

 

 

「レイちゃん…」

 その様子を怯えたように見つめるミチル。

 レイは足に力を入れた。男の子に治してもらった足は、万全ではないにしろ、立てるまでに回復している。

 極太のチューブに寄り掛かるようにして立ち上がりながら、そっとミチルを抱き上げた。

 

 男の子を見る。

 気のせいか、男の子を包んでいた赤みを帯びた淡い光が、強くなっているように見えた。

 

 レイは腕の中のミチルを見た。

 けたたましい銃声と、男たちの悲鳴に怯えた様子で、目をギュッと瞑っている。

 

 男の子を見て。

 そしてミチルを見て。

 そして背後の地上へと向かう穴を見て。

 もう一度男の子を見て。

 

 歩き出した。

 男の子に背を向けて。

 穴に向かって歩き出す。

 

 穴の入り口に立つ。

 再度、男の子の背中を見る。

 自分が与えた、渚カヲルという名の男の子の背中を。

 そして踵を返す。

 穴の奥に向かって、駆け出す。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「…こんな複雑なATフィールドの動きは、ネルフの対使徒戦の記録にもありません。ますます強力になっていきます」

 オペレーターの報告にミサトは歯ぎしりをした。

 

 オペレーターは「複雑な動き」と表現したが、ミサトには目まぐるしく変わるATフィールドの波形データが、ただただ不安定であるとしか見えなかった。

 このATフィールドがひとたび反転すれば。

 それはすなわち、あの悪夢の再来を意味する。

 いや、あの悪夢などではない。

 

 あの時、「奴ら」は最終的には溶けた全ての人々の魂を集め、新たな単一の生命体へと進化することを目論んでいた。

 今はその魂を集めるための「器」さえない。全ての人々が溶けて、それでおしまいだ。

 

 教団の連中はそれが分かっているのか。

 いや、分かっていないからこそ、こんな大それたことを、平気でしでかしてしまうのだろう。

 あのネルフですら、ゼーレですら成しえなかったこと。国家規模の予算を投じてまで成しえなかったこと。

 それを1.5流の科学者と、狂信者しかいない教団などが成しえるはずもないのに。

 それでも、ネルフが残した、ゼーレが残した負の遺産は、1.5流の科学者と狂信者しかいない教団に、この世界を、人類を滅ぼしてしまえるだけの力を与えようとしてしまっている。

 その暴挙に、かつての自分が知らなかったとは言え加担してしまっていたという事実に、今更ながら忸怩たる思いに苛まれるミサトだった。

 

「マキュアン…」

 隣に立つ若い部下に声を掛ける。

「はい」

「UAVは?」

「すでに頭上です」

「…決めるのは、あなたよ…」

「…分かってます」

 若い部下の喉から生唾を呑む音が聴こえた。

 

「主任…」

「なに?」

「あの人は。…彼女は…、あの子を助け出してくれるでしょうか…?」

 ミサトは若い部下の横顔を見た。表情はいつも通りだが、その瞳に僅かな逡巡が宿っている。

 

「ええ…、もちろんよ…」

 

 そう返事はするものの、正直なところミサトの中にはそう言い切れるほどの根拠などまるでなかった。

 ネルフ時代も他のパイロットに比べ、それほど交流の機会を持てなかった彼女。エヴァに乗る為に生まれてきたようなシンジ、そして操縦センスには天性の才能を持っていたアスカに比べ、パイロットとしての彼女はそれほど特筆するべきものはなかった。彼女の任務遂行能力について、全幅の信頼を寄せられほどの判断材料が、ミサトの手もとには無いのだ。

「レイ…、何やってるの…」

 一向に炎の勢いが収まらないエレベーターシャフトを見つめながら呟く。

 

 根拠があるわけではない。

 それでもミサトは心のどこかに確信に近いものを持っている。

 あの彼女が、誰かの命令ではない、自らの意思で危険の渦中へと飛び込んだのだから。 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 20年以上も前に閉山した鉱山。20年以上も使われていない坑道。あちこちが崩れ、崩落した岩が転がり、土砂に埋まっている。

 その僅かな隙間を、微かに風の通りを感じる方向に向かって。

 

 闇の奥に、小さな光が見えた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「あ~あ、終わっちゃった…」

 動く者が一人も居なくなり、男の子は残念そうに呟く。

「あれ?」

 振り返ったら、そこに倒れているはずの、自分に名前を与えてくれたお姉さんの姿がなかった。

「ちぇー、つまんないの…」

 せっかく自分との「同類」と出会えたと思ったのに。男の子はつまらなそうに床に転がっていた銃弾を蹴飛ばす。

 転がっていた銃弾の先に、人の足があった。

 あれ?全員、動かなくさせたはずなのに。

 見ると、そこには白衣を着た数人の大人たちが立っていた。

 

 

 

 半分開いた鉄扉の中に入る。

 宮部はその光景に息を呑んだ。

 この坑内でも特別に広い空間。めちゃくちゃに破壊された室内。へこんだ壁、へこんだ天井。千切れた極太のチューブ。火花を上げる機械類。

 床に、壁に、天井に張り付けにされて、こと切れている警備兵たち。

 その中に立つ、淡い光を纏う男の子。

 

「おじさん、だれ?」

 男の子の問い掛けに、宮部は目を丸くする。

「…話せるのか…」

「ねー、聴いてるんだけどー」

 男の子は唇を尖がらせながら言う。 

「ああ、私は宮部という。元気そうだね、アダム」

 機嫌を損ねそうな男の子に、宮部は努めて優しい声で答えた。

 しかし、

「アダム?」

 宮部の呼びかけに、男の子はかえって不機嫌そうに目を細めた。

「アダムって誰?僕は渚カヲルなんだけど」

 

「…なぎさ、かおる…」

 男の子の口から出た名前を、舌の上で転がすように呟く。

 

 宮部はその名前を知っている。

 かつて彼が心棒したゼーレがネルフに送り込んだフィフスチルドレンであり、その正体は17番目の使徒の「ヒト」としての名前。

 

 彼らが壊滅したネルフ本部から持ち帰ったサンプル。地下に残されていたLCL。それにはかつてそこに安置されていたリリスと、そのリリスと融合したアダムと、そしてそこで散った17番目の使徒の遺伝子が残されていた。彼らはそのサンプルの中からアダムとリリスの遺伝情報を別々に抽出し、それぞれの再生を試みたが、彼らの技術では不純物を完全に取り除くことはできず、再生されたのはアダムの遺伝情報を母体とした幾つかの遺伝子の複合体だった。

 だから、男の子の容姿が、17番目の使徒とそっくりであっても、不思議ではなかった。

 だが、何故この男の子が。生命体として活動し始めた直後に凍結され、3年後に解凍されてまだ数分しか経っていない男の子が、何故その名を口にするのか。

 宮部は事態が自分の思惑を超えて動いていることを理解した。

 

 男の子の体を観察する。

 3年前と一緒だ。

 ぶらんと下がった男の子の手の先端から、何かが滴り落ちている。汗などではない。光輝くそれらの鱗粉は、男の子の肉体そのもの。

 急速なエネルギーの消耗によって、男の子の体はその形を保てなくなり始めている。

 一瞬にして崩壊し始めた3年前に比べればその体は遥かに安定しているように見えるのは、膨大なエネルギーを無計画に発生し続けた3年前の生命体とは違い、この男の子はそのエネルギーをそれなりに操れているからなのだろう。

 人知を超えた巨大なエネルギーを操るもの。それは男の子の中の自我。

 それが生命体の中に確立されたのは、男の子が「名前」を持ったからか。

 ではその男の子に「名前」を与えたのは誰なのか。

 

 今、目の前で起きている事象に対し科学者としての興味は尽きなかったが、しかし今は科学者としての本懐を遂げるべき場面ではない。

 確かに男の子は3年前と比べれば遥かにエネルギーを上手く操っているが、肉体が崩壊に向かって転がり落ちているのは紛れもない事実だ。このまま男の子にそのエネルギーを反転させ、解放させたところで、その発生範囲は上手くいったとしてもせいぜいこの国を覆うくらいだろう。

 それでは駄目なのだ。

 それだけでは駄目なのだ。

 それは、ゼーレの本懐ではない。

 

 6年前のあの日、あの事象を完璧に操ったリリスの模造品。あるいは、ATフィールドとアンチATフィールド、相反するエネルギーに調和をもたらす槍。

 そのいずれかがあれば、男の子の肉体を安定化させ、地球を覆う規模のアンチATフィールドを発生させることができるはずなのだが。

 

 しかし。

「おのれ…」

 この部屋まで追い詰めたはずの、あの女と子供がいない。

 居るのは、崩れかけのアダムの粗悪品のみ。

 

 宮部は背後の部下に囁く。

「すぐに…再凍結の準備を…」

「しかし…、敵はすぐ上にまで…」

「アダムを失えば、それこそ我々はおしまいだ。アダムの保全を何よりも優先する…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「ATフィールドが弱まっています」

 目まぐるしく変化していたモニター上の波形データが徐々に落ち着いてきた。

「マキュアン」

 部隊長が進言する。

「ATフィールドが弱まっている今がチャンスなのではないか」

 部隊長の発言を聞いて、ミサトは若い部下の横顔を見つめた。

 白人青年の額に、大量の汗が伝っている。

 青年は一度ギュッと目を瞑り、彼が信じる神の名をお祈りのように口ずさむと、オペレーターに伝えた。

「UAVの基地に繋いで下さい」

 青年のその一言に、ミサトは天を仰ぎながら目を閉じた。

 ふらふらと、臨時の指揮所として設置された天幕から外へと出る。

 

 星が広がる夜空を見上げた。

 

「ごめんなさい…、シンジくん…」

 この夜を越えた後、もう二度と顔を合わせることはできないだろうかつての同居人の名を口にする。

 

「ごめんなさい…、アスカ…」

 この夜を越えた後、もしかしたら本当に自分の喉を食い破りにくるかもしれない赤毛の女性の名を口にする。

 

「…ごめんなさい…、…レイ…」

 この夜を越えることが、もう二度と太陽を見ることができなくなった、空色の髪の女性の名を口にする。

 

 ミサトは空から地上へと、ゆっくりと視線を下ろす。

 見えるのは小さな山。

 闇夜の中にひっそりと聳える山。

 この小さな山の地下深くを狙って、もう間もなく空から爆弾が降ってくる。

 この小さな山は、跡形もなく消えるだろう。

 その下にいる人々もろともに。

 

 消えてしまう瞬間を、目に焼き付けよう。

 その光景から、目を逸らすことは、自分には許されない。

 爆風に吹き飛ばされてしまわないよう、大地を踏みしめながら、小山と対峙した。

 

 その小山の麓で、何かが動いたような気がした。

 

 

 

 

 

 オペレーターが通信機のコンソールを操作している後ろ姿を、息をするのも忘れて見つめていた。

 

「ちょ、…ちょっと…、ちょっとちょっと…」

 

 重苦しい空気が覆っていた天幕の中に、どこか拍子抜けさせるような声が響く。

 声の発信源は天幕の外から。

「ちょっとマキュアン、マキュアンちゃん…、ちょっと…、ねえちょっと!」

 

 基地との回線が繋がるのを簡易椅子に座って待っていた青年は、事あるごとに自分をからかうように「ちゃん付け」で呼ぶ上官に、何もこんな時にそんな呼び方しなくてもいいだろうと腹を立てながら腰を上げた。

 天幕の外に顔を出す。

「なんですか?」

 天幕の外では、何故か目をまん丸にした上官がこちらを見つめながら、何処かを指さしている。

 彼女の指の先には爆撃対象の小山。その麓。

 青年は闇の中のそれを凝視した。

 

「え!うそ!まさか!」

 青年が何かを叫びながら天幕を飛び出してしまった。

 オペレーターは慌てて彼を追う。

「ちょっとマキュアン!」

「え?なに?」

「基地と繋がったよ」

「え、うそ、マジで?」

「あんたが繋げってゆったんでしょーが!」

「ちょ、どーしよ。と、とりあえず明日の天気でも聴いといて」

「はああ!?」

 ぷんすか怒っているオペレーターを置いて、青年は彼の上官と共に小山に向かって走っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 何百メートルも続いた暗闇を抜けたその先。

 

 風を感じ、汗まみれの額が気化熱でヒンヤリと涼んだ。

 

 光が灯る方へと歩き出す。

 その人工的な光の主が、果たして味方なのか敵なのか。

 全身を覆う疲労。もう色々と考えるのも面倒なので、敵だったらその時はその時でまた考えようと、まるで光に導かれる虫のように、ふらふらと歩いていった。

 

 視界はぼんやり。

 汗が滴って、意識も朦朧で、おまけに闇夜の下で、数m先もよく見えない。

 

 そのぼやけた視界の中で、2人の影がこちらに走り寄ってくる。

 何かを叫びながら走り寄ってくる2人。

 

 視界は相変わらずぼやけていて顔はよく見えないけれど、2人のうち1人はきっとあの人。

 

 ほら、ミチルちゃん。

 

 この人が、あなたのパパとママの、かつての保護者。

 

 カツラギミサトさんよ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミサトは走りながら両腕を広げた。

 ミチルを抱きながら、前のめりに倒れてしまいそうになっているレイを抱き留めるために。

 そして両腕に重み。

 自分の腕の中に収まった、レイの横顔。

 血まみれで、泥まみれで。

 それでも小さな微笑みを称えたその横顔を、ミサトは何よりも美しいと思った。

「よくやった…、よくやったわ…レイ…」

 

 地底から這い出てきた女性と子供を、涙ぐみながら抱き締めている上官の背中を、若い部下も感極まった顔で見つめていた。

「本当に…、帰ってきた…」

 周囲は敵だらけだったはず。逃げ道なんて、何処にもなかったはずなのに。

 10時間前に病院でその姿を初めて見た時点で、体中に大怪我を負っていたのだ。今も、下半身は血まみれになっている。そんな満身創痍の身で、子供を一人抱えて穴から這い出てきたのだ。

 なんたる強靭なる意志。

 

 彼女だけではない。

 最後まで、彼女の生還を信じて疑わなかった自分の上官。

 彼女が、この空色髪の女性とかつては上官と部下の間柄であったことは知っている。そして今日、いや日を跨いで昨日が10年ぶりの再会であったことも知っていた。

 彼女は、なぜここまで空色髪の女性のことを信じることができたのだろうか。

 世界の命運と天秤に掛けてまで。

 若い部下はふと、自分がこのチームに入った時に、誰かから聞かされた言葉を思い出した。

 

 

 ―――ネルフの女はやたらと強い。

 

 

 

「レイ…、本当によく…頑張ったわね…」

 ミサトは自分のジャケットの袖で、レイとミチルの汚れた顔を拭いてやる。

 レイの乾いた唇が開いた。

「葛城三佐…」

「もう、ミサトって呼んでよ」

「早く…シンジさんと…アスカに…」

「そうね。すぐに伝えるわ」

 レイの腕の中のミチルがミサトを見上げた。

「パパとママに、あえる?」

 ミチルに言われ、一瞬きょとんとするミサト。すぐにミチルの言うパパとママが、彼女のかつての同居人2人であったことを思い出し、心の中で笑ってしまった。

「ええ、もちろんよ」

 

「…主任」

 若い部下がミサトに耳打ちする。

 ミサトは目もとを拭いながら頷く。

「ええ、そうね。レイ、歩ける?」

 レイは頷く。

「今すぐここを離れるわ」

 レイは何をそんなに慌てているのだろうと首を傾げる。

「無人機がもう間もなくここを爆撃するわ。弾頭は遅延型。地下深くも破壊できる、貫通型の爆弾よ」

 ミサトを見つめるレイの目が少しだけ大きく開く。

「地下にいるアダムもろとも、この鉱山を破壊するわ」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「渚カヲルくん」

「なんだい?」

 与えられたばかりの名前を呼ばれたのが嬉しいのか、男の子は笑顔で宮部の呼びかけに返事をした。

「脅かすようなことを言ってすまないが、今君は、非常に危うい状態にある」

「危うい?どうして?」

「見たまえ。その手を」

 宮部に促され、男の子は自分の手を見る。指先から光の雫が滴り落ち、地面に落ちている。そして指の第1関節から先が、無くなっていた。

「君の体は急速に崩壊が始まっている。このままではあと30分ももたないだろう」

「えー、平気だよ、こんなの」

 そう言って、男の子はその手を一度だけ勢いよく振ってみた。すると次に現れたのは、第1関節までしっかり再生された手だった。

「ほらね」

 得意げに言う男の子。

 宮部は表情を顰める。

 男の子は気付いていないが、手の指が再生された代わりに、彼の足のつま先が急速に溶け始めたのだ。

「渚くん。我々は君を救いたいんだ。君を助けたい」

「えええ。初対面の君らがどーしてそんなこと言うのさ。気持ち悪い」

 あからさまに警戒心を見せる男の子に、次にどのような言葉を掛ければよいのか苦慮してしまう宮部。

 

 少し考えて、

「…そ、それは我々が君の友達だからだよ」

「トモダチ?」

 その言葉を聴いて、男の子は初めて宮部らに興味を持ったように彼らを見る目を丸くする。 

「へー、そうなの。君も?」

 男の子は宮部の右隣に立つ男性に目を向けた。

 彼らにとっての「神」に見つめられ、その男性は今にも卒倒してしまいそうな顔をしている。

「…おい、本宮」

 彼らの教祖から小声で叱責が飛ぶ。

 男性は慌てて首を縦に振った。

「あ、ああそうだ。私たちは君の友達だ」

「そこの君も?」

 今度は左隣に立つ女性に目を向ける。

「そ、そうよ」

 女性も引き攣った笑顔を浮かべながら頷く。

 他の白衣を着た面々も、次々と頷いた。

 男の子の頭に、自分の名前を与えてくれたお姉さんの言葉が浮かんだ。

 

 ―――友達はとても素敵な宝物よ。

 

 男の子は赤い瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。

「わあ、やったあ!僕にはこんなにたくさんの宝物があったんだ!」

 

 なんだかよく分からないが、我らの神はとても上機嫌らしい。宮部らの顔に安どの表情が浮かぶ。

「さあ渚くん。我々の…」

「ねえ!だったらさ!」

 満面の笑みの男の子の目が煌々と光った。

 男の子を包む淡い光が、赤から青へと転じた。

 

 

「僕と一緒になろうよ!」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「レイ。立って。行きましょう」

 そう言って、ミサトはレイの体を支えながら立ち上がらせる。

 しかしレイの膝はすぐにかくんと折れ、地面に付いてしまった。

「おおっと。大丈夫?」

 ミサトの呼びかけにレイはゆっくりと頷く。しかしその表情はあからさまに辛そうだ。

「ミチルを…」

「え?」

「ミチルを、お願い…できますか?」

 そう言いながら、レイは抱いていたミチルをミサトに預けようとした。

「え?…いいの?」

 レイの意外な申し出に、ミサトは些か戸惑ってしまった。頭には、昨日10年ぶりに再会したレイが、ミチルに触れようとした自分を強く拒否した場面が浮かんでいた。

「はい…」

 レイの手で差し出されるミチル。

 それをミサトはとても大切な宝物を扱うように、丁寧に大事に受け取った。

「…レイちゃん…」

 知らない女性の手に預けられて、心配そうにレイを見つめるミチル。

「大丈夫よ…」

 レイは笑顔を浮かべてミチルを見つめる。

 

 そう言えば、子供を抱くなんていつ以来だろうと思いながら、ミサトはミチルを落としてしまわないよう、両腕でしっかりと抱き締めた。

「じゃ、行くわよ」

 それを合図に、皆は走り出す。

 爆撃の影響が及ばない、皆が待っている指揮所の天幕に向かって。

 

 走り出して。

 

 しかしミチルが叫んだ。

 

「え?レイちゃん!レイちゃん!」

 

 肩に抱きかかえた子供の叫び声に、ミサトは慌てて足を止めた。

 振り返れば、すぐ後ろに付いてきているはずのレイの姿がない。

 見ると、自分たちが走り始めた場所に、レイがまだ残っていた。

「レイ!何やってんのよ!そこは危険よ!早くこっちに!」

 ミチルも叫んだ。

「レイちゃん!はやくきて!」

 

 レイは静かに笑っている。

 その笑顔に、ミサトの胸が強く騒めいた。

「レイ!お願い!早く!」

「レイちゃん!レイちゃん!」

 

「葛城三佐…」

 レイの声がする。遠くに離れているのに、特に大きな声を出しているわけでもないのに、なぜかレイの声はよく通る。

「だからミサトって呼んでよ!」

 

「葛城三佐…、私…、戻ります…」

 

 ミサトの眉間に皺が寄った。

「どうして…!」

「レイちゃん!」

 ミサトとミチルの声が重なる。

 

「子供が居たんです。私によく似た子供…」

 

 レイの言う子供。それが「何」を指しているのか、ミサトはすぐに分かった。

「それはアダ…!」

 あれは人ではない。我々が庇護するべき対象ではないのだ。

 しかしミサトらの理屈は、レイには通用しなかった。

 

「あの子は私です。私と一緒なんです」

 レイの静かで、それでいて鋭い声がミサトの言葉を封じた。

 

「大人たちの勝手な都合で生み出されてしまった子です。大人たちの勝手な都合で、処分させる訳にはいきません」

「…そ、それでも…!」

 続く言葉が見つからない。

 レイの発言は決して自分を責めているものではないのだろう。だが、当時大人としての責任を放棄して子供たちを戦場へと立たせていたミサトにとっては、レイの言葉がどんなナイフよりも鋭い刃となって彼女の胸に深く突き刺さる。

 「あなた達とは同じ轍は踏まない」。レイが意図した思いではないだろうが、ミサトにはレイがそう言っているように聞こえるのだった。

 

「レイちゃん!レイちゃん!」

 肩に抱いた幼子の叫び声に、ミサトは我に返る。

「レイ!あなたの今の最大の責任は、ミチルちゃんを両親のもとに返すことなんじゃないの!」

 ずるい言い方だとは思うが、頑ななレイの態度を変えさせる唯一の説得材料はこの子しかいない。

「あなたの身にもし何かあったら、ミチルちゃんの心に癒しようのない深い傷を負わせることになるわ!あなたはシンジくんやアスカが苦しんだ傷を、この子にも味わわせるつもりなの!」

 

 やはり自分の選択は間違いではない。

 レイの顔に走る明らかな動揺を見て、ミサトはそう確信した。

 

 レイの握った右拳が震えている。

 レイは目をぎゅっと瞑り、震える右腕を左手で抱いた。

 目を開き、一度地面を睨んで、そして改めてミサトを見る。

 

「葛城三佐…」

「ミサトって呼びなさいよ!いい加減怒るわよ!」

「ミチルのことを心配する必要はありません。私は必ず戻ってきますから…」

 その瞳から動揺はすでに消え、固い決意のみが宿っていた。

 

「ミチルちゃん…」

 レイは表情を和らげ、ミサトが肩に抱いているミチルを見つめる。

「レイちゃん!」

「ごめんなさい。少し離れるから…」

「だめだよレイちゃん!いっちゃやだ!」

 悲痛な表情を浮かべるミチルとは対照的な、柔らかな笑顔のレイ。

「ミチルちゃん、私のこと…好き?」

 何の脈絡もなく投げられた問い掛けに、しわくちゃだったミチルの顔が一瞬きょとんとする。

 しかし答えは考えるまでもないので、すぐに口を開いた。

「だいすきだよ!パパとママとおなじくらいすき!」

 一切の迷いがない返事。レイは瞳を潤ませる。

「ミチルちゃん、あの子は好き?さっき、地下にいた銀色の髪をした男の子」

「きらい!だいきらい!」

 今度も即答。レイは困ったように笑う。

「どうして?」

「きらいなものはきらいなの!」

「でも、あの子は私と一緒よ。あの子は私なの」

「…レイちゃんと?」

「使徒の欠片から生まれた、大人たちの勝手な都合で作られたかわいそうな子…」

 ミチルはぶんぶんと、その小さな頭を横に懸命に振る。

「レイちゃんのゆってること、ぜんぜんわかんない!」

「でも私は幸せだった。碇司令に大切に育てられて、シンジさんに出会えて、アスカに出会えて…」

 

 ミサトは14歳だった頃のレイのことを思い出していた。

 まるで人形のように、その顔に一切の表情を浮かべることはなかった少女。

 「人の幸せ」というものから、最も遠いところに立っていた少女。

 その少女だった女性が、今は全てのものを慈しむかのように、柔らかな笑顔を浮かべている。

 

「あの子にも教えてあげたいの。あなたが生まれたこの世界はとてもステキなところだと。…ミチルちゃん、あなたが生まれた時と同じように…」

 

「レイちゃん…」

 ミチルはその幼い頭でも感じ取っていた。もはや、レイの意志は揺るがないと。

 

「ミチルちゃん」

「…レイちゃん」

 大粒の涙が溢れる目で、レイを見つめる。

「待っていて。素敵な友達を連れて帰ってくるから…」

 胸元で小さく手を振るレイ。

 ミチルは歯を食いしばりながらも、右手を上げ、紅葉のような小さな手のひらをレイに向け、軽くグーパーをした。

 レイはそんなミチルにニッコリと笑うと、ミサトに視線を向ける。

「葛城三佐…」

 ミサトもやはり歯を食いしばりながら顔を俯かせる。

 そしてゆっくりと頷いた。

 

 

 

 

 白いスーツの後ろ姿が消えていった闇の中を見つめていた。

 ミサトの背後に、若い部下が立つ。

 ミチルに聞こえても理解できないだろうから普通に話しても問題はないのだろうが、それでも部下はあえてミチルには聞かせないよう、ミサトの耳もとに口を近づけ、小さな声で囁いた。

 

 ミサトの目が見開かれ、驚愕に染まる。

 

 部下の囁きは、アンチATフィールドの発生を告げるものだった。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 一度通って来た道だし下り坂だ。

 ミチルも信頼できる元上官に預けて身も軽くなり、地下深いあの大きな空間に戻るのに、それほど多くの時間は要さなかった。

 

 暗い暗い穴の向こうに、淡い光が見えてきた。前方から漂ってくる冷気が肌を撫で、目的地が近いことを知らせてくる。

 その光の方から男の悲鳴が聴こえ、レイは身構えた。

 更に悲鳴。今度は女性。いずれも大人の声。

 その中に混じって、すすり泣く声。

 レイはゆっくりと歩みを進める。

 

 

 光の縁に立つ。

 あの空間。地下にしてはとても広い、鋼鉄の板で囲まれた部屋。

 部屋の中に足を踏み入れた。

 

 

 めちゃくちゃに破壊された室内。へこんだ壁、へこんだ天井。千切れた極太のチューブ。火花を上げる機械類。

 床に、壁に、天井に張り付けにされて、こと切れている警備兵たち。

 そして、鉄製の床のそこかしこに散らばるもの。

 

 それは白衣。

 床に打ち捨てられたかのように白衣が落ちている。

 白衣の周りには液体が広がっていた。

 

 すすり泣きは部屋の中央にある巨大なカプセルの向こう側から聴こえてくる。

 チューブを跨ぎながらすすり泣きのする方へと近づいていく。

 

 カプセルの向こう側。

 そこに立つ、一糸纏わぬ姿の男の子。

 身に纏うのは青白い光。カプセルから出てきた当初は赤みを帯びた淡い光だったそれは、今は薄暗かった室内を太陽の下と見紛うほどに明るく照らしている。

 

 男の子は両手で目を覆いながら泣いていた。

 男の子の足もとにもやはり白衣。白衣の周囲には半透明の黄色い液体が広がり、男の子の白い小さな足を汚している。

 白衣の襟元にはメガネが転がっている。

 それは、男の子の生みの親だった科学者が掛けていたもの。

 

「君…」

 レイの呼びかけに、男の子ははっとして声のする方へと目を向ける。

 

 レイは僅かに息を呑む。

 男の子の顔の左半分が崩れていた。唇がまるで溶けたゴムのようにだらんと垂れ下がり、眼窩からはまるで半熟卵のように眼球がだらんと垂れ下がっている。

 しかしレイが息を呑んだのは、男の子の崩れた顔を見たからではない。

 大粒の涙を零す男の子。

 からからと笑い、ぶーと不機嫌になる表情豊かな男の子。

 そんな男の子が、瞳から大粒の涙を流し、悲嘆に暮れている。

 ミチルと共に過ごすようになってからというもの、たとえそれが赤の他人であったとしても子供が悲しむ顔を見るだけで心臓が鷲掴みにされたような痛みに襲われるレイだった。

 

 涙に濡れた視界の向こうに立つ女性が自分に名前をくれたお姉さんだと気付き、男の子は縋るような眼差しでレイを見つめた。

「お姉ちゃ……」

「ひっ…!ひいぃ…!」

 レイの居る方へと手を伸ばそうとして、しかし今度は背後から誰かの声がし、男の子は声がした方へと目を向けた。

 白衣を着た中年男性が極太のチューブに隠れながら、正面の鉄扉へと這って向かっている。

「君!」

 男の子はその中年男性に向かって叫ぶ。

 男の子に呼び止められ、中年男性は青ざめた顔を男の子に向けた。

「待って、君!君は僕と友達になってくれるんだろ!」

「やめろおお!来るな!来るなぁ!」

 男の子が駆け寄ってきた途端、中年男性は恐怖に歪んだ顔で大声を出した。

「こんなはずじゃ!我々は究極の生命体に生まれ変わるはずでは!こんなはずじゃないんだ!」

「待って!待ってよ!僕を一人にしないでよ!」

 鉄扉に向かって這う中年男性。その背中を追いかける男の子。

 中年男性の背中に向けて伸ばされた男の子の手のひらの前に、青白い八角形の光が輝き出す。

「うわああ!!」

 

 鉄扉の前で眩い閃光が瞬き、カプセルの側に立つレイは少し目を細める。

 やがて閃光は消え、室内は少しだけ暗くなった。

 

 鉄扉の方向から、男の子のすすり泣く声。

 レイは声のする方へと歩いていく。

 

 鉄扉の前に立つ男の子。

 男の子の足もとには白衣。半透明の黄色い液体。

「…どうして、…どうしてみんな、消えちゃうんだ…。…僕はただ、…みんなと友達に…なりたかっただけ…なのに…。みんなと……、1つに…なりたかっただけなのに……」

 

 レイの足音が聴こえたのか。

 男の子は、やはり大粒の涙を零した顔を振り向かせる。顔の左半分だけでなく、左半身全体が火で炙られた蝋人形のように崩れている。

 男の子はレイのもとへと駆け寄ってくる。左足が床を蹴るたびに床には光る足跡が残り、男の左足がどんどん短くなっていく。男の子は構わず、それとも気付いていないのか、無くなっていく左足で懸命に床を蹴って、レイにもとへ駆け寄っていく。

 駆け寄ろうとして。

 しかしレイが立つ場所の数歩前で男の子は何かに気付いたようにはっとし、そして立ち止まる。

 

「君も…、僕が近づいたら…、消えちゃうの…?」

 

 眼窩からだらんと垂れ下がった眼球がレイを見つめた。

 レイはゆっくりと頭を横に振り、そして柔らかく笑った。

 

「大丈夫よ…。私は消えたりしないわ…」

 男の子に近づこうとし、一歩前に出る。

 

「ダメだよ。君は僕に名前をくれた大切な人なんだ。君まで消えてほしくない…!」 

 男の子はまるでレイの歩調に合わせるように、一歩後ずさる。後ずさろうとして、後ろに出した左足の膝から下はすでに無く、男の子は足場を踏み外したようにバランスを崩し尻餅をついてしまった。倒れた瞬間に、今度は右足の膝から下がすっぽりと溶け落ちた。

 

 レイは転んでしまった我が子を介抱する母親のように、小走りで男の子のもとまで駆け寄り、男の子の側で膝を折った。

 

 男の子に手を伸ばす。

 男の子に向けられた手の先がじりじりと。それはまるで炎に炙られたような感覚。

 男の子との間の空間に、八角形の青白い光の輪が浮かび上がる。

 指の先が、溶け始めた。

 

「ダメだ!僕に近づいちゃ!君が消えてしまう!」

 

「大丈夫よ…」

 すでに手は無くなり、手首までもが溶け始める。

「君まで消えちゃやだ!離れて!」

「大丈夫…、私はあなたと一緒よ…」

 

 

 

 私はあなた。

 

 あなたは私。

 

 人であって、人でないもの。

 

 使徒であって、使徒でないもの。

 

 人の手によって作られた入れもの。

 

 人の形をした、人の形に似せられた、魂の器。

 

 

 

 男の子の目が見開く。

 溶けたはずの、お姉さんの手が再生され始めたのだ。

 新しく生まれた手は、男の子が纏う青白い光に反するような、赤い、まるで血のような色の光を纏っている。

 その手の指の先から、赤い、八角形の光の輪が広がり始める。

 その赤い光の輪に反応するかのように、半分が溶けた男の子の体全体から、強烈な青白い光の輪が広がり始めた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 画面上に映し出されるのは踊り狂うような波形データだった。 

「今までにない強力なアンチATフィールドです!このままでは臨界点を突破します!」

 オペレーターの悲鳴のような報告を受け、部隊長は現場指揮権を持つ青年捜査官に迫った。

「マキュアン!もう一刻の猶予もない!決断するべきだ!」

 青年の同僚も血相を変えて彼に詰め寄った。

「臨界点を超えたらもう後戻りはできない!また世界の全ての生命が溶けてしまうんだ!しかも今度は誰も「帰還」できない、文字通りの絶滅だ!」

 同僚はUAVの基地に繋がっている通信機のヘッドセットを差し出す。

「今すぐ命令を。世界を救うんだ…、マキュアン…!」

 皆に囲まれる青年。両拳を握り締め、地面を睨んでいる。

「何を躊躇している…!マキュアン!」

 部隊長の暑苦しい顔がすぐ側に迫った。青年は目を瞑る。

 

 青年の瞼の裏に浮かぶのは、あの女性。

 白いスーツを身に纏った、空色髪の女性。

 10年前に、玄関で母親に渡されたランチボックスを鞄に詰めながら、スクールバスが停まるバス停まで駆けていた時に、突然目の前に現れた当時は少女だった空色髪の女性。

 自分の家族やガールフレンドやクラスメイトたちを奪い去っていった女性。

 自分にとっては、悪魔の使いのような女性。

 

 自分がこのヘッドセットを受け取り、通信相手にただ一言の指示を出すだけで、この世界は救われる。

 一人の女性の命と引き換えに。

 それは天秤に掛ければ、瞬時に片方に傾いてしまう。

 比較対象にすらならない。

 自分には、何の躊躇う理由もない。

 

 数時間前に、自分は上官に同じ選択を迫った。

 彼女が自分の進言を拒否した時、自分は上官」の思考回路がまるで理解できなかった。

 なぜ世界を救える好機をみすみす逃したのか。

 色々と不満はあるが、尊敬できる上官だった。

 しかしあの時は、その上官が世界で一番愚かな女に見えた。

 

 そして今、その選択権は自分の手の内にある。

 数時間前に自分が提案したことを、誰に邪魔されることなく自らの手で実行するだけだ。

 自分には、何の躊躇う理由もない。

 

 なのに。

 なぜ。

 どうして自分は、このヘッドセットを受け取れない。

 なぜ、あの時のあの女性の顔が浮かんでしまうのだ。

 なぜ、救い出した子供を上官に預け、そして暗闇へと消えていった、あの女性の顔が瞼の裏にちらついてしまうのだ。

 むしろ自分にはあの女性に対して復讐する権利さえあるはずなのに。まるで人形のような感情というものを感じさせない顔で、自分から当時の自分の全てを奪っていったあの女性に。

 

 なのに今浮かぶのはあの時の女性の顔。

 

 人間味に溢れた顔。

 

 柔らかな笑顔。

 

 見なきゃよかった、あんな顔。

 

 

「マキュアン!」

 同僚はついに、青年の手に強引にヘッドセットを握らせた。

「マキュアン!指示を!」

 部隊長の怒鳴り声。

「臨界点突破します!」

 オペレーターの悲鳴。

 

 手のひらのヘッドセットを見つめる。

 目をギュッと瞑る。

 ヘッドセットを見つめる。

 ギュッと瞑る。

 

 その繰り返し。

 

 

 ツカツカと、誰かが歩み寄ってくる足音。

 気が付けば、手にあったヘッドセットが無くなっている。

 自分の隣では、自分の手から奪ったヘッドセットを耳に掛ける彼女。

 彼女は言った。

 

「こちら現場指揮所。爆弾投下。爆弾投下せよ」

 

 ミサトは吐き捨てるようにそう言うと、ヘッドセットを取り、地面に投げ捨てる。

 

「主任…」

 掠れた声で上官の背中に声を掛ける。

 ミサトはゆっくりと若い部下の方へと振り向いた。

「…これは私たち大人の仕事よ。マキュアンちゃん…」

 掠れた声でそう呟くミサトの右頬に、一筋の涙が伝った。

 

 ミサトに抱かれるミチルは、自分を抱く大人が今何をしたのか理解していない。

「レイちゃん…」

 必ず帰ってくると約束して暗闇に消えていった家族の名前を呟いた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 男の子が放つ強烈な青白い光の波をかき分けるように、赤い光を纏う手がゆっくりと進んでいく。

 

「感じる…?」

 レイの柔らかい声での問い掛けに、男の子はおずおずと頷く。

「うん…、温かい」

 

 レイの赤く光る手のひらが、男の子の顔に触れ、可愛らしい曲線を描く頬をゆっくりと撫でた。

 たちまち触れたところに幾つもの燐光が舞い、触れたレイの手が溶け始める。レイは意識を集中させ、自分の手の形を強く心に思い浮かべる。すると赤く光っていたレイの手がさらに強い光を帯び、溶けた手が徐々に元の形へと再生されていく。

 

「誰かに触れるのは、これが初めて?」

「うん。だって、僕が触ろうとしたらみんな溶けちゃったり、破れちゃったりするんだもん」

 拗ねたように頬を膨らませる男の子。

 そんな男の子を、レイは穏やかに微笑みながら見つめ、そしてもう片方の手も男の子の顔に近づけた。男の子が無意識に張り巡らせる最終結界に触れたレイの手は、融解と再生を繰り返しながらも時間をかけて男の顔に辿り着き、両手で男の子の頬を包み込んだ。

 

「これが、「人」よ…。自分ではない、誰か…」

 男の子はレイの手のひらの感触を確かめるかのように目を閉じた。

「うん…、温かい…」

「気持ちいい?」

「うん…、気持ちいい…」

 男の子の頬に、再び涙が伝い始める。

「今あなたが感じているもの。それがきっと…、愛よ」

「アイ?」

「そう。自分と、自分ではない誰かがあって、初めて生まれるもの」

 

 レイは男の子に顔を近づける。

 最終結界に触れたレイの顔は、幾つもの燐光を迸らせながら溶けていく。

「お姉ちゃん、面白い顔―」

 溶けたレイの顔を見て笑う男の子。

 赤い光を増すレイの顔は少しずつ再生されていき、

 

 コツン

 

 額を男の子の額に優しく当てた時には、レイの顔は元通りに戻っていた。額と額がくっ付き合った場所は途切れることなく燐光を舞い散らせ、額同士は融合と分裂を繰り返している。

 

「人の顔見て笑っちゃだめよ…」

 幼子を優しく窘める母親のような声で言うレイ。

「だって面白かったんだもん」

 そう言いながら、歯を見せて笑う男の子。

 その歯が、1本1本ずるりと抜け落ちていく。

「…僕、このまま消えちゃうんだね…」

 床に落ちた歯を見つめながら男の子は寂しそうに言う。

「こんな気持ちいいものなら、もっと早く、その「アイ」ってやつを知りたかったな」

 レイは男の子の両頬を包み込んでいた手を少しずつ肩の方へ、背中の方へと回していき、そっと小さな体を抱きしめた。

「大丈夫。あなたは消えたりしない。イメージするのよ」

「イメージ?」

「自分のカタチ、人のカタチ、誰かのカタチ…」

「カタチ?」

「そう。あなたは私。私はあなた。でもあなたはあなた。私は私。似ているようで、全く違うもの」

「僕たちは一緒じゃないの?」

 レイの言葉を聴いて、途端に悲しそうな顔をする男の子。

 レイはゆっくりと首を横に振る。

「悲しむ必要はないわ。私たちは、他者の存在を感じて、初めて愛というものを知ることができるのだから…」

「よく分かんないや」

 あっけらかんと言う男の子に、レイはくすりと笑う。

「簡単なことよ。あなたが今感じている愛。それを頭に思い浮かべるだけ。誰かに触れ、触れられることで感じる愛の温もり。その温もりこそが人のカタチよ」

 レイの体全体が淡い赤い光に包まれる。

「分かる?」

 男の子は、うん、と頷く。

「これが私よ。私のカタチ」

 レイは抱き締めていた男の子を少し離し、男の子を顔を見る。

「あなたなら分かるはずだわ。人のカタチを形作るもの」

 レイに問われ、男の子は、うん、と頷く。レイはニッコリと笑う。

「今度はあなたの番よ。あなたのカタチを、私に教えて」

 レイに言われ、男の子は目を閉じた。

「イメージするの」

「分かったよ…」

 男の子が放つ強烈な青白い光が少しずつ和らいでいき、やがてその光は徐々に赤みを差していく。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

「こ、これは…!」

 再びオペレーターが声を上げる。

 

 すでに未来は決した。

 あとは人類生存のために天から遣わされる鉄と火薬の塊が落ちてくるのを待つだけ。

 今更何があったとしても、これから目の前で起こることは変わらない。

 だから誰もオペレーターの上げた声に興味を持てなかった。

 静まり返っている指揮所内。

 ミチルを抱いたミサトは、気だるげな動作でオペレーターに目を向けた。

「なに?」

 ミサトに問われ、オペレーターは少し躊躇いを見せた後に、途切れ途切れの声で報告した。

「アンチATフィールド…、消失しました…」

 その場にいる全員の視線が、オペレーターに集中する。

「何かの間違いではないのか…!計測ミスでは!」

 迫力のある部隊長の怒鳴り声に、オペレータは怯えながら反論する。

「何度も確認しました。センサーは正常に作動」

 もう一度モニターを確認し、改めて確信する。

 皆を見た。

 

「アンチATフィールドは消滅しています」

 

 

「レイ…」

 ミサトはかつての部下が消えていった闇の方を見つめた。

 

 ミサトの耳に、空から高速で飛来する物体の巨大な風切り音が聴こえた。

 

 ミサトは抱いたミチルの目を塞いだ。

 

「レイ!!」

 

 

 闇の中に聳えた小山

 小山と言っても、小さな人間に比べれば遥かに巨大な岩石と土の塊。

 その小山が、一瞬盛り上がった。

 ミサトらのいるところまで伝わる地響きのような衝撃。

 小山が少しだけ形を変えて数秒後。

 小山全体が大量の土砂を巻き上げながら吹き飛ぶ。

 土砂に紛れて所々に巨大な閃光。

 地鳴りのような爆発音。

 遅れて強烈な爆風が指揮所の天幕を襲い、全員が立っていられずその場に蹲る。

 

 目の前に立ち昇る巨大な土煙。

 熱風に煽られ、周囲の木々に火が回る。

 上空に巻き上げられた大量の土砂が重力に引かれ地上に降り注ぎ、土埃が舞い上がって小山があった周辺を黒い霧に包んだ。

 

 ミサトはミチルが土埃を吸ってしまわないようジャケットの袖でミチルの口や鼻を覆いながら、小山があった方に向けて目を凝らす。

 

 徐々に晴れていく黒い霧。

 

 

 そこに現れたのは、巨大な穴。

 小山は綺麗に無くなり、大地にはぽっかりと空いた巨大な穴があった。

 その穴は今ももうもうと土煙を立ち昇らせている。

 

 

「…レイ」

 土煙を見つめながら、ミサトは呟く。

 あの巨大な爆発の下にいた女性の名を。

 

 

 抱いていた小さな女の子が身じろぎする。

 ミサトは女の子の顔を塞いでいたジャケットの袖を離す。

 女の子は少しだけ咳き込みながら、閉じていた目をゆっくりと開いた。

 

 ミチルの目に飛び込んできたのは、彼女が最後に見た光景とは全く違うものだった。

 そこにあったはずの朽ち果てた建物や、炎を上げるエレベーターシャフト、そして闇夜に聳える小さな山。

 それらが全て根こそぎ無くなり、あるのはぽっかりと空いた大きな穴ともうもうと立ち昇る土煙だけ。

 

 ミチルはミサトの顔を見上げた。

「ねえ、レイちゃんは…」

 ミサトは一瞬ミチルと目を合わせるが、すぐにその視線を逸らしてしまう。そのまま俯いてしまった。

「ねえレイちゃんは!」

 自分の問い掛けに答えてくれないミサト。ミチルは抗議するかのように声を張り上げ、同じ質問を繰り返す。

 ミサトは何も言わないまま、ミチルの顔を自分の胸で覆うように抱き直した。

 ミチルはミサトの腕の中で暴れる。

「やだあああああ!」

 そして自分の非力な膂力ではミサトの腕から逃れられないとみるや、大声をあげて泣き始めた。

 

 ミサトはミチルを抱き締めながら、巨大な穴に背を向けた。

「ミチルちゃん、帰ろうね…。パパとママが居るところに…」

「やだあ!レイちゃんもいっしょ!」

 ミサトは一度唇を噛みしめる。

「…レイは…、もう…」

「レイちゃんゆったもん!かえってくるってゆったもん!」

 ミチルの言葉がミサトの胸を抉る。ミチルが言う彼女の約束。それを果たせなくさせたのは、自分なのだから。

「ごめんなさい…、…ミチルちゃん…。…ごめんなさい…」

 

 

 ずっとずっと、何度も何度も泣き叫んで、ついに疲れてしまったのか。もっとも普段なら、両親に挟まれてベッドの中で両親に挟まれながら眠っている時間帯である。ミチルの腹の底から響いていた慟哭は少しずつ大人しくなり、そして今はミサトの胸に顔を埋めながらシクシクと泣いている。

 ミサトは一刻も早くこの場から離れ、この子を両親のもとに送り届けよう。彼女が抱いた最後の願いを叶えようと、ミチルを抱いたまま停車されている車へ向かおうとした。

 

 

 ミサトの前に、彼女の若い部下が立っていた。

 若い部下は、呆然とした表情で巨大な穴の方を眺めている。

 現場指揮権を持つ彼に、この子を連れ出す許可を得ておこうと、彼に声を掛けた。

「マキュアン…」

 ミサトの呼びかけに、しかし若い部下は返事をしない。

 呆然とした部下の顔。

 その顔が、徐々に険しくなり始める。

 部下の右手が、腰のホルスターの拳銃に伸びた。

 

 ミサトは若い部下から視線を逸らした。

 その視線の先に立つ、即応部隊の部隊長。

 母国の軍隊の特殊部隊に所属した経験もある歴戦の兵士である彼の顔も険しい。

 手に握った自動小銃を、穴の方に向けて構えている。

 

 2人だけではなかった。

 ほかの部下も、兵士たちも、ある者はやはり険しい顔で、ある者は怯えたような顔で、皆が同じように穴の方を見つめている。

 

 ミサトは振り返った。

 振り返って、そして目に飛び込んできた眩い光に思わず目を細めた。

 

 

 まるで昼間の太陽のように煌々と光る球体。

 光球が、巨大な穴の上にふわふわと浮いている。

 

 

 光球はゆっくりと穴の上を移動しており、ミサトらの方へと近づいてくる。

 ミサトを除く全員が後退った。

 

 ミサトはミチルを左腕のみで抱え直すと、空いた右手で自身の目に日陰を作り、光の球を凝視した。

 

 光の球のようにみえたそれは、実際は幾重にも折り重なってできた八角形の赤い光の輪の集まりだった。

 その光の輪の集まりの中央。

 とりわけ強烈な光を放つ光球の中心。

 

 誰かが居る。

 眩い光の輪に阻まれ、人物の顔はよく見えないが、ミサトはその者の正体が直感で分かった。

 

「…レイ…」

 

 巨大な穴の上から移動した眩い光の球は、やがてゆっくりと地上へと降りていく。

 光の輪の隙間から、白いスーツを纏うすらりと伸びた足が見えた。その足が、柔らかな着地でゆっくりと地上に降り立つ。

 

「主任…」

 後ろで若い部下が呻くように言った。

「視認できるほどの強力なATフィールドです…」

「分かってる…」

 ミサトにとっては10年前に散々その目で見てきた光の輪。10年ぶりに目にする絶対不可侵の壁。

 

 少しだけ光が弱まり、光球の中央に立つ人物のシルエットが見えた。

 そこに居たのは一人ではなかった。

 光の輪の中央に立つ女性。その女性の腕に、誰かが抱かれている

 それは小さな男の子。

 

 モニターを睨むオペレーターは思わず生唾を飲み込む。

「パターン照合確認…、アダムです…」

「アダム…、あれが…」

 ミサトは目を細めた。

「ではこのATフィールドは…アダムが…」

「いいえ」

 オペレーターは頭を横に振る。

「アダムからもATフィールドを検出していますが、極微細で安定しています。このATフィールドは…」

「…彼女から…」

 オペレーターの言葉をミサトが引き継いだ。

 オペレーターは更に続ける。

「…分析結果、出ました。……パターン青…です」

 深刻そうなオペレーターの報告に対し、ミサトは心の中で思わず笑ってしまった。それは10年振りに耳にする響きだったから。

 

「「あれ」は危険だ…。ミス.カツラギ…」

 百戦錬磨の部隊長が顎を震わせながら言う。

「分かってる…」

 ミサトは落ち着いた声で答えた。

「でも…、だからと言ってそのおもちゃでどうしようっていうの?」

 ミサトは部隊長が構える自動小銃に目を向ける。

「それとも、また爆弾を落とす?それすらも通用しないと思うけど」

 このチームで唯一人類の天敵と交戦経験のあるミサトは、確信をもって言った。

「ならばどうすると言うのだ」

 部隊長の苛立ちのこもった問い掛けに、ミサトは笑みを零す。

「私たちはネルフじゃないのよ。任務はフォースインパクトの阻止であって、使徒殲滅じゃないわ」

 そう言いながら、ミサトは光球に向かって一歩前に進み出る。

「主任、危険です!」

 背後から若い部下の心配そうな声が飛ぶ。

「そうね。もうちょっとこの光を弱めてくれないかしら。これじゃ顔も見れないじゃない、レイ」

 ミサトは呼び掛けるが、光球の中からは何の返事もない。光の壁に阻まれて、ミサトの声が中まで届いていないのかも知れない。

 

 

 ミサトは目の前の光の球に意識が向いていて、油断してしまっていた。

 腕の中で身じろぎ。

 気付いた時には、女の子がミサトの腕から逃れ、地面に降り立っていた。

 そのまま、光の中心へと向かって駆け出す。咄嗟に女の子の腕を掴もうとしたが、女の子の腕はするりとミサトの手を逃れ、あっという間に遠くへと行ってしまった。

「ミチルちゃん!待って!」

「危ない!」

「止まれ!」

 ミサトやその部下たちが口々に小さな背中に向かって叫ぶが、一度走り出した女の子の足は止まらなかった。

 止まるはずがなかった。

 

 

 ミチルが懸命に両腕を振る。

 ミチルが懸命に足で地面を蹴る。

 ミチルの小さな体が、光の中へと吸い込まれていく。

 ミチルの前方を塞ぐ、赤い八角形の輪。八角形の輪が幾重にも折り重なった光の壁。

 ミチルの目にもそれは見えている。

 それでもミチルの足は止まらない。

 光の壁に、勢いよく突っ込んでいった。

 

 それはまるでガラスが砕けたような音だった。

 パリン、と派手な音と共に、砕けた光の壁。

 ミチルは何事もなかったように走り続ける。

 続けて現れる光の壁。

 今度もミチルは何の躊躇もなく突っ込む。

 ミチルが触れたと同時に。

 ガラスの砕ける音。

 やはり光の壁は砕け散る。

 絶対不可侵の壁。いかなる物も通さないはずの壁。

 それを3歳の女の子はいとも簡単に通り抜け、砕いていく。

 まるでドミノ倒しのように次々と光の壁を打ち破っていく女の子。

 12枚目の壁。

 とりわけ強く光り輝く、八角形の輪が何重にも重なる光の壁。

 それすらもあっさりと砕いて、そしてその光の壁の向こうに。

 

「ママ!」

 

 ここまで懸命に駆けてきたミチルは、壁の向こうで待っていたレイに向かって、その小さな両手を精一杯伸ばした。

 

「ミチル…!」

 

 張り巡らせた光の壁を全て打ち砕いて駈け込んできたミチルに、レイは男の子を右腕のみで抱え、空いた左腕を大きく広げる。

 ミチルは広げられたレイの腕に飛び込んだ。

 小さな体を胸でしっかりと受け止めたレイは、そのまま左腕をミチルのお尻へと回し、抱きかかえる。

 

「おかえりなさい…、ママ…」

「ただいま、ミチル…」

 

 ミチルの頬に幾筋もの涙が伝う。

 レイの右頬にも、すっと一筋の涙が伝う。

 レイとミチルは、お互いに涙に濡れた頬をくっつけ合いながら、お互いの温もりを確かめ合うのだった。

 

 

 レイの右腕に抱えられた男の子は、2人の顔を不思議そうに交互に見る。

「ママ?彼女は君のママなのかい?」

 男の子の問い掛けに、ミチルは甘えるようにレイの頬に自分の頬をすりすりさせながら男の子を見た。

「ちがうよ。でもママだよ」

 何とも矛盾しているミチルの言葉。しかし男の子は、

「へー、そうなんだー。いいなー」

 妙に納得したように頷き、そしてレイの頬にすりすりしているミチルを羨ましそうに見つめた。

 

 レイはそんな2人を微笑ましく見ながら、そっとミチルの顔から離れた。

「ねえ、ミチル」

「なに?」

「あなたに紹介するわ。彼は渚カヲル。あなたのお友達になってくれる子よ」

 紹介され、男の子はミチルに満面の笑みを送る。

「やあ、僕はカヲルだよ。よろしく」

「ええええええ」

 ここにきて人見知りの本領を発揮するミチルである。ぐっと顔を寄せてくる男の子に、思わず距離を取ろうと背を仰け反らせている。

 

 そんな様子のミチルを困ったように微笑みながら見るレイは、今度は右腕に抱いた男の子を見た。

「カヲル」

「なんだい?」

 ミチルの態度にちょっと不愉快そうな表情だった男の子だったが、他の誰よりも自分の名前を呼ばれたい相手にその名を呼ばれ、すぐに上機嫌になる男の子。

「この子はミチルよ。碇ミチル。お友達になってくれるわよね?」

 ミチルの名前を聴いて、男の子は吹き出している。

「へー、イカリミチルだって。おっかない名前ー」

 途端にミチルは頬を膨らませた。

「おっかなくないもん!パパがつけてくれたなまえだもん!」

「へー、パパがつけてくれたんだ。僕は彼女に貰ったんだよ。えーと、あ…」

 今更のような顔をして、男の子はレイの顔を見た。

「君の名前、なんだっけ?」

「レイよ。碇レイ…」

「イカリ…。じゃあ、やっぱり君はこの子のママなの?」

 ややこしいことになってきて、レイは苦笑する。

「いいえ。この子のママは、アスカよ」

「ふーん。じゃあパパは?」

 そう男の子に問われ、レイは少しだけ迷ったような表情を浮かべた。

 

 この子は生まれたばかりで、自分や兄が知るあのフィフスチルドレンではないことは分かっている。でも自分自身、本来別人格だったはずの「2人目」と「3人目」は、「4人目」が生まれてから10年も経って、カノジョらの記憶と共にすっかり統合されてしまっているような感覚を持っている。

 この子がどのような経緯で生まれたか、レイは知らない。自分のように魂や記憶の継承が行われているのかも分からない。ただ見た目だけを受け継いでいるだけなのかもしれない。でも、もしこの子の中で自分と同じような事が起きていたら。

 ミチルの父親の名前を伝えて、この子の中に制御不能な感情の変化が起きてしまわないだろうか。

 

「イカリシンジだよ。ミチルのパパはイカリシンジ」

 そんなレイの迷いを他所に、ミチルは大好きなパパの名前を自慢げに答えていた。

 

「いかりしんじ…、いかりしんじ…」

 その名前を、繰り返し呟く男の子。

 

 ぱあ、と男の子の顔に笑みが広がる。

「何だか知らないけど、君とはとっても仲良くなれそうな気がするよ!」

「ええええええ」

 赤い瞳を爛々と輝かせながら再び顔を近づけてくる男の子に、ミチルは再び人見知りの本領を発揮して大きく背を仰け反らせる。

 そんなミチルに、レイは諭すように言った。

「ほら、ミチル」

「えーーー」

 ぐずついてしまうミチル。

「この子は、ミチルと仲良くなりたいそうよ」

「うん!トモダチになろうよ!」

「うーーーーー」

 暫く低く唸っていて、そしてミチルはようやく諦めたように顔を上げた。

 そんなミチルを、レイはニッコリと見つめながら語り掛ける。

「仲良くなりたい時はどうしたらいい?」

 

「キスをする」

 

 そのミチルの言葉に、途端に表情を引き攣らせるレイである。

「そ、そそ、それはちょっと早いんじゃないかな…」

 おそらく、生まれて初めての"どもり"を経験したレイである。

「えー、だって、パパとママはけんかしてなかなおりするときは、いっつもちゅーしてるよ」

「へー、チューしてるんだ」

 男の子は得意げに言うミチルの顔を興味深そうに覗き込む。

「うん。そいでそいで、よるになったらはだかでプロレスごっこしてるの」

「へー、プロレスごっこしてるんだ」

「やめて。そんな生々しい話し、聴きたくない」

 仲良く話す2人の幼子の頭上から、彼女にしては珍しい不愉快そうな声が降ってきた。

「なまなましいはなしってなに?」

「そりゃ君。男と女が裸になって肌を寄せ合ってすること、つまりはセ…、痛っ!」

 ゴツンと、男の子の額にヘッドバッドを食らわせたレイ。

「あなた、どうしてそんなこと知ってるの」

「えー?だって彼らにとっては、繁殖していくうえでの必要最低限の知識なんじゃないの?」

「ミチルにはまだ早い」

「どーして。いいじゃん、教えてあげようよ」

「私の言うことが聞けないの?」

「ちぇ…、分かったよ…」

 レイに凄まれ、拗ねたように肩を竦ませる男の子。

 しかしすぐに気を取り直し、悪戯っぽい笑みを浮かべてその顔をミチルに近づける。

「じゃあさ、じゃあさ、こうしようよ」

 いつの間に仲良くなったのか、ミチルも男の子に耳を寄せる。

 ごにょごにょと、何事かをミチルに耳打ちした。

 男の子の提案を聞いて、今度はミチルの顔にぱあ、と笑みが宿る。そして、

「うん、それいい!」

 

 ミチルに何事かを耳打ちする男の子。

 それに対して元気いっぱいに答えるミチル。

 急に意気投合した2人をきょとんと不思議そうな顔で交互に見つめるレイだった。

 

 

「あらまあ、両手に花じゃない。レイ」

 

 傍から見れば何とも微笑ましい会話をしている3人を、邪魔しないように少し遠巻きに見ていたミサトは、会話が途切れたのを見計らってレイのもとへと歩み寄った。

 近寄ってみて、レイの顔を見て思わず吹き出してしまった。

 

 レイが両腕に抱えた子供たち。

 一人は左腕に抱えた栗色の髪の女の子。その女の子が、ピンク色の小さな可愛らしい唇をうー、と突き出して、レイの左ほっぺにくっつけている。

 もう一人は右腕に抱えた銀色の髪の男の子。色素の薄い、やや大きめの口をやはりうー、と突き出して、レイの右ほっぺにくっつけている。

 

 突然のことに目を白黒させていたレイ。

 暫くして、その目と眉の両端がだらんと垂れ下がった。

 

 そんな見たこともないレイの表情に、ミサトは笑いを禁じ得ない。

「なんて顔してんのよ、レイ」

 ミサトに言われ、レイは少々呂律の回っていない声で答えた。

 

「わたし…、もう死んでもいいです…」

 

 

 

 

 後に還暦を迎えた葛城ミサトは彼女の家族や友人たちに囲まれた祝いの場でこう言っている。

 これまでの半生を振り返って最も後悔している3つのこと。

 1つ。父親とよく話をしなかったこと。

 1つ。学生時代の恋人と悲しい別れ方をしたこと。

 1つ。両頬を天使たちにキスされ、何とも締まりのないデレデレ顔の綾波レイの顔を写真に撮っておかなかったこと。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 さすがに疲れた。

 レイは車の後部座席に座っていた。碇邸に送ってもらうために、ミサトが用意してくれたものだ。すぐ隣には、すやすやと寝息を立てているミチル。ミサトからもらった毛布を2人で仲良く纏い、シートに腰かけていたのだが、ミチルはレイの腕に抱き着いたまますぐに眠りに落ち、レイもだらしなくシートに寝そべっている。

 

 安心しきった顔で眠っているミチルの寝顔を見つめていたレイは、ふと、車窓の外へ視線を向けた。幾つかの車両が停まっている中で、照明器具が立てられたひと際明るい場所。

 そこに、防護服を着たものものしい装いの数人が、何かを囲みこみ手に持ったセンサーを翳している。

 彼らが囲みこんでいるのは、あの男の子。

 ミサトから借りたジャケットを肩に掛け、椅子に座りながら、科学者たちの検査を受けている。

 レイの視線に気付いたのか、男の子は振り返り、にっこりとした笑顔を向けて小さく手を振ってきた。

 レイも微笑み、小さく手を振り返す。

 科学者に声を掛けられ、男の子は正面を向いた。あー、と口を開ける。防護服を着た一人が男の子の口に舌圧子を突っ込み、舌や喉の様子を確認する。

 

 男の子の検査はまだまだ続きそうだ。レイはシートに頭を預け、瞼を半分閉じ、車の天井をぼーっと見上げた。

 することがないと、すぐに眠気が襲ってくる。

 少しずつ、瞼が落ちていった。

 

 

 どこからか話し声がする。この車の近くで、誰かが立ち話をしているらしい。

 男の声。

「あれが世界を滅ぼす力を持つアダムか…」

 女の声。

「まさかあんな小さな子供だったなんてね…」

「今は大丈夫なのか?」

「ええ。アンチATは消失、ATは極微小量のみ検出されているらしいけれど、安定しているらしいわ」

「でも気の毒だな」

「ええ、そうね。あんなに可愛いのに…」

「アンチATフィールドを一度でも発生させた以上、人類にとっては悪魔のような存在だ」

「ええ。良くて永久凍結…」

「サイアク処分されてもおかしくないだろうな…」

 

 

 半分閉じかけていた瞼を開き、車の天井を見つめていた。

 息もせずに。

 

 天井を見つめる赤い瞳を少しずつ動かす。

 自分の腕に抱き着きながら眠っている幼子の顔を見つめる。

 そのふっくらとした可愛い頬を、人差し指でそっと撫でた。

 

 

 ふいに、後部座席から声を掛けられた。

「何だね?」

 運転席に座る男はそのか細い声を聴き取ることができず、聴き返した。

 後部座席に座る女性は少し身を乗り出し、再度声を掛ける。

「書くもの…、ありますか?」

 男は背広の内ポケットからメモ帳を3枚ほど千切り、ボールペンと一緒に女性に渡してやった。

 

 

 

 誰かにほっぺを撫でられたような気がした。

 続いて、ほっぺを何か柔らかいもので、例えるなら人の唇のようなもので触れられたような感触がした。

 抱き着いていたはずの腕の感触が消えてしまった。

 どうしたんだろう。

 少し不安になるが、でも今はとっても眠いから、確認するのもおっくうで、だからそのまま眠り続けることにした。

 

 だって、あの人はもう帰ってきてくれたのだから。

 

 きっと、もうどこにも行かないはずだから。

 

 ずっとずっと、一緒のはずだから。

 

 

 

 

 現場の事後処理は全て部下たちに押し付けるつもりだった。

 今はとにかく、一刻も早く、彼女とあの子を、家族のもとに返してやりたいから。

 それでも部下たちは自分の身をさっさと解放してくれない。いい加減、私の指示なんかなくても動けるようになってほしい。っと言うか、私はすでに現場指揮権は剥奪されている身なのに、なんでいちいち私にお伺いを立ててくるのか。

 

 部下たちの報告をイライラしながら聞いていたミサトは、ふとレイたちが乗った車の方を見た。そろそろイライラし始めたレイが何かしでかしてやいないかと恐る恐る見てみたが、車は静かな様子だ。

 安心して、イライラ顔のままで部下に向きなおろうとしたが、どこか違和感がして、もう一度車を見る。

「ちょっとごめん」

 ミサトは部下の報告を一旦打ち切らせると、車に向かって足早に歩いた。

 

 車のドアを開け、後部座席を覗く。

 

 そこには毛布にくるまれた女の子が一人。

 すやすやと、眠りの国にその小さな体を委ねている。

 

「ねえ、レイは?もう一人はどこに行ったの?」

 トイレにでも行ったのだろうか。

 部下の運転手に訊ねた。

 

 反応がない。

「ねえ!」

 上司を無視するとは良い度胸ね、と思いながらミサトはその部下の肩を小突いた。

 肩を小突かれ、頭からハンドルに向かって倒れこむ運転手。

 

 

 ビーッと、派手なクラクションが鳴り響き、周囲に居た捜査官や科学者たちの顔が一斉に車に向いた。

「何でもない。何でもないのよ」

 そこには取り繕ったような笑顔を見せる女性上級捜査官。

「どうかしましたか?主任」

「何でもないって言ってんの。さっさと事後処理済ませて」

 

 

 部下たちを車の周囲から追い払ったミサトは、気絶している運転手の体を起こし、姿勢を崩させないよう頭をヘッドレストに固定させた。

 運転手の背広の胸ポケットに、不自然にねじ込まれた紙切れの存在に気付く。

 

 しわくちゃの紙切れを広げた。

 

 

 ―――葛城三佐。

      ミチルをお願いします。

 

 

 

 

「どうかしましたか?」

 被検体の検査を終え、防護服を脱いでいた科学者の一人は、血相を変えて飛び込んできた女性捜査官に声を掛けた。

 ミサトは肩で息をしながら問う。

「あの少年は?アダムは?」

「被検体なら、現状では人体に有害なしとみてあの護送車に乗せましたが」

「そ、そう。ありがと」

 

 ミサトはワンボックスタイプの護送車のバックドアの前に立つ。

 そっと、バックドアを開け、中を覗き見た。

 

 護送車の中を確認したミサト。

 ギュッと目を瞑る。

 

「どうかしましたか?」

 科学者に声を掛けられ、ミサトはそっとドアを閉じた。

「あの子、よく眠ってるわ。そっとしといてあげましょ」

「ええそうですね。ラボに着けば「あれ」も色々大変でしょうから」

「そうね。ここは私が見とくから、あなたは自分の仕事に戻って」

「分かりました」

 

 科学者が立ち去り、ミサトは再びバックドアを開けると、護送車の後部座席に上がり込んだ。バックドアを閉じ、中から鍵を掛ける。座席の一つには、男の子の監視役とし車内に残っていたらしい部下の一人が、やはり気絶してぐったりと座席にもたれかかっていた。

 

 気絶した部下以外は誰も居ない後部座席に腰掛け、深く項垂れる。

 

 両手で顔を覆った。

 

 

 

 それからどれくらいの時間が経ったのか。

 

 

 ズボンのポケットに入れた携帯電話が鳴り、ミサトは取り出して画面を見た。

 「0123456789」のふざけた番号。

 電話に出る。

 

「もしもし…」

 

『葛城三佐…』

 

 よく知った声が聴こえ、ミサトは深いため息を吐きながら少し乱れた前髪を掻き上げた。

 

「なぜ…、こんなこと…したの?」

 電話相手に問う声が震えている。

 

『ミチルの初めての友達を守りたい。…それだけです』

 

 電話相手は今、自分自身がどんな大それたことをしでかしているのか分かっているのか。

 いつもと変わらない平坦な声に、ミサトの中に怒りにも似た感情が沸き上がってくる。

 

「分かってるの?あなたが今抱えているもの。それは子供の姿はしてるけど、とても危険なのものよ?」

 

『でも、この子はミチルの大切な友達なんです…』

 

「お願い。戻ってきて。ミチルちゃんと一緒に、シンちゃんやアスカのもとに帰りましょ。ね?」

 

『この子も一緒に…ですか?』

 

 電話相手の問い掛けに、ミサトは唇を噛みしめる。気休めの嘘など、通じる相手ではない。

 

「…それは…できないわ…」

 

『それでは私も戻ることは…』

 

「戻ってきなさい!レイ!これは命令よ!」

 

 携帯電話に向かって怒鳴りつけるミサトの目じりに、数粒の雫が浮かんだ。

 

 怒鳴り声を上げてからやや間を置いて。

「…お願い…、戻ってきてよ…、レイ…」

 今にも崩れてしまいそうなミサトの声が、電話のマイクに吸い込まれていく。

 

『……』

 ミサトの声に、電話相手は無言。

 

「なんで…?…どうしてあなたが…、そんなこと背負いこまなくちゃいけないの…?」

 電話相手に抱く怒りにも似た感情。

 それは自分の任務を阻まれたことから湧き上がってきたものでは決してなかった。

 

 

『……』

 ミサトの問い掛けに、電話相手は無言。

 

「私たちね、この一週間、ずっと、あなた達の事、監視してたの。教団に怪しい動きがあると掴んでから、ずっとね」

 

『……』

 

「ずっと見てたわ。あなた達のこと。あなたとミチルちゃんと、シンジくんとアスカ。ミチルちゃんの誕生日会の様子も、あなたがミチルちゃんと畑仕事しているところも、あなたがミチルちゃんと買い物に行っている姿も、全部見てたのよ」

 

『……』

 

「私ね。シンジくんやアスカが将来家庭を持って、平穏な暮らしをしているところは、何となく想像できてわ。でもね、レイ」

 

『……』

 

「あなたが誰かと幸せな家庭を築いている姿は、まったく想像できなかったの。あなたが誰かの家族になってるなんて…」

 

 かつて絶対的な権力を持っていた最高司令官の庇護下に居た少女。

 それは誰も近づけない、籠の中の小鳥。

 変にお姉さん気分を出して、2番目と3番目の子の疑似的な保護者になって、それがあの子たちのためと思い込んで張りぼての家族を演じてみたけれど、1番目の子には最後の最後まで近づくことも手を差し伸べることもできなかった。

 3人の子供たちの中で、一人だけ別世界に立つ、人の温もりというものから隔絶された、人ならざるものの空気を纏っていた少女。

 

「でもあれは…。シンジくんとアスカとミチルちゃんと、そしてあなたは、紛れもない家族だったわ。とても素敵な。他人の私が誰かに自慢したくなうるような…、本当に幸せそう家族だった…」

 

『……』

 

「ねえ、レイ。あなた…そんな家族を…、捨ててしまっても…いいの…?」

 「あの日」から10年も掛けてようやく手に入れ大切な宝物。

 それを今、電話相手は。

 当時の大人たちの勝手な事情で、勝手に生み出され、勝手にいいように利用されていたかつての少女は。

 今の大人たちの勝手な事情で、勝手に生み出され、勝手に処分されようとしている一人の子供のために、大切な宝物を棄ててしまおうとしている。

 

 自分の中に渦巻く怒り。

 それは電話相手に対してのものではない。

 大人たちが勝手にしでかしたことの後始末のために、当時少女だった彼女に、彼女がやっと手に入れた宝物を棄てさせるまで追いつめてしまった、今の大人たちに対して。それには、もちろん自分自身も含まれている。

 

 自分自身に対する怒りはまるで火で炙ったよに喉をカラカラにし、顎が震えさせて、言葉の最後の方は切れ切れになってしまった。

 

 電話相手は無言。

 でも、スピーカーの向こうで、微かに鼻をすするような音が聴こえる。

 

 暫くして。

 

『葛城三佐…』

 少し震えた声で名前を呼ばれた。

 

「いい加減、ミサトって呼んでよね…」

 答えるミサトの声も震えている。

 

『私たち…、ホンモノの家族に見えましたか…?』

 

 半分不安げに、そして半分期待を込めて。

 そんな電話相手の声。

 

 ミサトは目を閉じ、1週間見てきた彼女らの姿を瞼の裏に思い浮かべる。

 

「ええ」

 いや、わざわざ思い浮かべるまでもない。

 

「羨ましくなるほど、とっても素敵な家族だったわ…」

 

 それは頑なな相手を説得するために飾り立てた言葉ではない。

 嘘偽りのない、ミサトの本心の言葉。

 

 

『ありがとう、葛城三佐…』

 少しだけ相手の声音に変化があったことを、ミサトの耳は感じた。

 

『その一言で、私のこれまでの全てが報われたような気がします…』

 

 その言葉に、ミサトは悔しそうに唇を噛み締める。

 

『大丈夫です、葛城三佐。私たちは離れ離れになる。でもこの絆は失われない。だって、私たちは家族なのですから…』

 

 もはやどのような言葉も、彼女の意思を覆すことはできないとミサトは悟った。

 

『葛城三佐…』

 

「何よ、ファーストチルドレン…」

 強情な相手に、少し不貞腐れた態度で返事してみる。

 

 電話相手は少しだけ笑った。

『私は24歳になりました。年齢の上ではもう大人です』

 

「私はもうすぐ40よ。完全にオバさんになっちゃったわ」

 

『この子はまだ生まれたばかり。見た目以上に、ずっと幼い子供です。大人は幼い子供たちを明るい未来に橋渡しできる存在でなくてはなりません』

 

「ええ…、ほんとうにそうね…」

 自分にはそれができなったけどね、とミサトは心の中で呟く。

 

『かつ……、ミサトさん…』

 

「おっ、ようやく下の名前で呼んでくれたわね」

 

『私はあなたのようになりたいのです』

 

 電話相手が呟いたその言葉をミサトは咄嗟には理解できず、車の床を見つめていた目を点にしてしまった。

 

 

『あなたのような大人に…。その命を賭してまで…、シンジさんを初号機に乗せ…、彼の命を…、世界の未来を繋げてくれた…。ミサトさん…、…あなたのように…』

 

 

 気が付けば、自分の膝の上は大量の涙で濡れていた。

 堰を切ったように流れ出した大量の涙。

 今も止め処なく溢れ出し、頬から顎へと伝う、大粒の涙。

 ミサトは化粧が崩れてしまうのも構わず、右手で目の周りを一生懸命拭った。

 

 

「レイ…」

 

『何ですか…?』

 

「あなた…、私のこと…、許してくれるの…?」

 

『私に誰かを許す資格なんてありません…。ですが…』

 

「…なに?」

 

『私たち、もっと色々、お話しをしていたらよかったですね…』

 

 ミサトは泣きながら笑う。

 

「あんたがそれゆーの?」

 

『はい…』

 

 スピーカーから聴こえる相手の声。

 ミサトは思った。

 きっと、相手も自分と同じように、泣きながら笑っているのだろう、と。

 

 

 何度か深呼吸する。

 乱れた呼吸を整える。

 目を閉じ、眼球に溜まった液体を搾り出す。

 

 再び目を開いた時、彼女の顔は国防本部の上級捜査官の顔に戻っていた。

 

「あなたが抱えちゃったもの…。それは小さな核弾頭みたいなものよ…。私たちはそれを見過ごすわけにはいかない。あなたはこれからずっと私たちから逃げ続けなくちゃいけないの」

 

『構いません。…この子を守れるのであれば』

 

「私たちだけじゃない。世界中の捜査機関があなた達を追うことになるわ」

 

『あなた方に私たちを捕まえることはできません。それは、碇司令の時で証明済みのはずです』

 

「あなた一つ大切なこと忘れてるわ。あの時は私は居なかったのよ」

 ミサトは意地悪っぽく問うてみた。

 

『ミサトさんでも無理です。私たちを探し当てることができるとしたら、それはきっとシンジさんだけです』

 

 不敵な相手に、ミサトは笑う。

「すごい自信ね」

 

『そして、シンジさんがあなた方に協力することは、決してないでしょう』

 

「ええ。そうでしょうね…」

 ミサトはそっと目を閉じる。

「レイ…」

 

『はい…』

 

「2時間あげる。それまではうちの初動は抑えてみせるわ。2時間の間に、できるだけ遠くに行ってね」

 

『はい…』

 

「2時間経ったら、もう容赦はしないからね。全力であなたの後を追うから」

 

 その穏やかならざる言葉とは裏腹に、ミサトの声は優しさに満ち溢れていた。

 

『ミサトさん…』

 

「なに?」

 

『くれぐれも、ミチルのこと…』

 

「ええ。父の名に懸けて、私の手でシンジくんとアスカのもとに送り届けるわ」

 

『ありがとう…、ミサトさん』

 

「それじゃあね、レイ」

 

『はい…』

 

「風邪、引かないようにね…」

 

『はい…』

 

「私に捕まるまで元気でいるのよ…」

 

『はい…、ミサトさんも元気で…』

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 携帯電話を切ると、窓を開け、電話を外に投げ捨てた。続いて口を大きく開け、右下の奥歯の隙間に詰め込んでいた極小の通信機を取り出し、それも外に投げる。

 

 一度だけ深く深呼吸し、目尻を手で拭い、鼻を啜った。

 

 通話が終わってから1分後。

 助手席から上半身を倒して、運転手の膝枕で寝ていた男の子が、大きな欠伸をした。

 体を起こし、今度は大きく伸びをする。

 寝ぼけまなこで窓ガラスの向こうの、真っ暗闇の景色を見つめた。

「ここ、どこだい?」

「さあ…」

「どこに向かってるの?」

「もう少し走れば、海に出ると思う」

「へー、僕。海って初めて見るよ」

「きっとこれから、色々なものを見ることになるわ」

「へー、楽しみだな」

 男の子は運転席に座る空色髪の女性を笑顔で見上げた。

「ねえ、あの子は一緒じゃないのかい?」

 女性はやや躊躇いがちに頷く。

「あの子は、パパとママのもとに帰ったわ」

「ふーん」

 男の子は床に届かない足をぶらぶらとさせた。

「いいなー…」

 寂しそうに自分の揺れるつま先を見つめている。

 

「ねえ?」

 つま先を見つめたまま隣の女性に声を掛ける。

「なに?」

「やっぱり君のこと、ママって呼んじゃだめかな?」

 女性は隣の男の子を見下ろした。

 男の子はじっと自分のつま先を見つめている。

 今は運転中のため、すぐに正面に向きなおった。

 

「…いいわよ」

「ほんとに!」

 女性の返事に、途端に表情を輝かせる男の子。

「約束事を守ってくれたら…ね」

「うん!うん!君との約束事ならどんなことでも守るさ!」

「外から帰ったら手を洗うこと」

「うん!」

「ご飯を食べたら歯を磨くこと」

「うんうん!」

「お昼を過ぎたらお昼寝すること」

「うんうんうん!」

「それと…」

「それと、…なんだい?」

 

「必ず幸せになること…」

 

 

 夜道を走る白の軽トラック。

 道の行く先では、長い長い夜が終わり、空が明るくなり始めている。 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 普段は大人3人と子供1人が団欒するためのリビング。

 今はそのリビングに大人5人が入っいていて、しかもそのうち背広を着た異国の男3人はやたらとガタイが良く、リビングをいつも以上に狭く感じさせ、さらにむさ苦しくさせていた。

 その3人に囲まれるように、ソファに腰掛ける夫婦。時々3人を睨みつけるが、相手は室内でしかも夜なのにかっこつけてサングラスを掛けているため、その表情をうかがい知ることはできない。

 

 妻が立ち上がり、ドアへと向かう。

 すかさず男の一人が前に立ち塞がる。

「どちらへ?」

「トイレよ。なに?ここでしろって?」

「同行します」

 

 まるでゴリラのようなガタイの男を引き連れてトイレに向かう。

 トイレのドアを開き、中に入る。

 ドアを閉めようとしたところで、

「閉めないでください。開けたままで」

 男は、アスカが閉めようとしていたドアを手で押さえた。

「はあ?」

 相手が誰であろうと物怖じというものを知らないアスカ。片眉を吊り上げながら大男を睨み上げる。

「開けたまんまだとできないんですけど」

「決まりですので」

「落ち着かないのよ。出るものも引っ込んじゃうわ」

「決まりですので」

「はあ…」

 大げさに溜息を吐く。

「じゃああんたも一緒に入って。だったら文句ないっしょ」

「え?」

「密室で人妻の放尿シーンをあんたに見せてあげようって言ってんのよ。ほら、入りなさいよ」

「し、しかし…」

 存外、大男はウブらしい。急に狼狽え始めている。

「何してんの。それともここで漏らしてほしい?へー、あんたもなかなかの趣味ね」

「わ、分かりました。閉めて結構です」

 

 ドアが閉じられたのを確認して、アスカはトイレの洗浄レバーを押した。ザザザー、と水が流れる音。

 音がしている間に、便座の上に上がり、高窓に手を掛けた。

 

 

 リビングに残った夫と大男2人。

 大男の一人の背広の内ポケットから、携帯電話の呼び出し音がした。

 電話に出る男。

 厳つい彼の顔が急に明るくなり、ソファに座る夫を見た。

 

 

 ドンドンドン、と急にドアを叩く音。

「ちょ、何よ!まだ出してる最中よ!」

 抗議の声を上げるも、ドアを叩く音は鳴りやまない。

「も、もうちょっと待ってよ!あと少しだから!…こんにゃろ」

 ついにドアを叩く音は、ガンガンガン、とドアを蹴る音に変わる。そして、

 

 バン!

 

 派手な音を立てて開いたドア。

 

「アスカ!……、って何やってんの?」

「え?シンジ?」

「今、ミサトさんから連絡が入ったんだけど…、とりあえずそこから降りよっか」

「そ、…それがお尻が挟まっちゃって…、動けないのよ…」

「アスカ、ちょっと太った…?」

「シンジ…、後で泣かしちゃる…」

 高窓に上半身を突っ込んだまま動けなくなっているアスカのお尻を、シンジと大男3人は呆れたように見つめた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 家の前に一台の車が停まる。

 後部座席のドアが開き、黒髪の女性に抱かれた我が子の姿が見えた。

 

 母は待っていられず走り出す。

 子供も待っていられず、女性の腕から降りて駆け出した。

 

「ママ!」

「ミチル!」

 泣きながら駆けこんできたミチルを、アスカは強く優しく抱きしめる。

 母子に遅れてシンジとミサトはお互いの顔を見つめながらゆっくりと歩き、抱き締め合う2人に合流した。

 

 シンジはミサトに向けて、深く深く頭を下げた。そんなシンジにミサトは小さく笑いながら肩をぽんぽんと叩く。

 シンジが顔を上げたところで、ミサトは事の成り行きを全て説明した。

 

 ミサトの説明を聞いていくうちに、シンジの眉根に皺が寄っていく。

 隣でミチルを抱き締めながら2人の会話を聞いていたアスカも顔を険しくさせ、口を手で覆った。

 

 ミサトの説明を聞き終えても、2人は暫く何も言えずにいた。

 母の首に抱き着きながら、ミチルは言う。

「…レイちゃん、…どっかいっちゃった…」

 今にも泣きそうなミチルの頬に、自分の頬を当てながらアスカは言う。

「そうね…。…でも、ちゃんと約束通り、ミチルをあたしたちのもとに返してくれたわ」

「レイちゃん…、とってもつよかったんだよ…」

「ええ。知ってる…。知ってるわ…」

 アスカは言葉を詰まらせながら、ミチルの小さな肩に自分の顔を埋めた。

 

「ミサトさん」

「なに?シンジくん」

「レイは、これからどうなるんでしょうか?」

「そうね。少なくとも、私たちはもう間もなく総力をあげて、彼女の追跡を始めることになるわ」

「…でも、無駄ですよ」

「無駄かしら」

「ええ、ミサトさんたちが彼女を捕まえられるとは思いません。5年間も世界が血眼になって探していた父さんをレイが匿い続けたことはミサトさんも知っているはずです。もしこの世界で彼女を探し当てることができるとしら、それはきっとぼ…」

「シンちゃん、だけかな?」

 ミサトに得意顔で言葉を遮られ、シンジは憮然とした表情をする。そんな態度のシンジを他所に、ミサトは声に出して笑った。

「ふふっ、あんたたち、本当の兄妹みたいね。レイとまったくおんなじこと言ってる」

「「みたい」じゃないですよ。僕らは本当の家族なんですから」

 少し照れたように頭を掻くシンジ。そしてその隣に寄り添うように立つアスカと、そしてそのアスカの腕に抱かれたミチル3人を、ミサトは羨ましそうに見つめた。

 でも、本当なら彼ら3人の隣に、もう1人、空色髪の彼女が立っているはずだった。

 

「…ごめんなさい。…レイのこと」

 ミサトは俯きながら言う。

 その言葉にシンジは目を閉じ、静かに溜息を吐く。

「仕方ありません。彼女が自分で決めた事です。…それに」

 隣のアスカの肩を抱き寄せる。

「僕たちは家族です。でも家族だからと言って、いつまでも一緒に居られるという訳ではありません」

 アスカの腕に抱かれたミチルの鼻を、人差し指でちょんと突く。

「ミチルだって、いずれは僕たちのもとから巣立つ日がやってくるんです」

 鼻をつつかれたミチルは、不思議そうに父の顔を見上げていた。そんなミチルを父は少し寂しそうな眼差しで見つめた。

「レイの場合は、ちょっと唐突過ぎましたけどね」

「ま、これはこれであのコらしいけどね」

 アスカは今にも泣きそうな顔をしながら、肩を竦めて言った。

 シンジはそんなアスカの肩をぽんぽんと、慰めるように優しく叩いた。

 ミサトを見る。

「でも、だからと言って僕らの絆が失われるわけじゃないですから…」

 

 ミサトは目を細める。

「ほんと。あんたたち見てると、40間近になって家族の一人もいない自分が惨めに見えてきちゃうわ」

「何言ってるんですか」

 シンジはきょとんとした顔でミサトを見た。

「僕はミサトさんだって、家族だと思ってますよ」

「ええそうよ」

 アスカが言葉を繋げる。

「なんちゅーか。いつまで経っても身も固めず心配ばかりさせて、たまにふら~と帰ってきては騒動を巻き起こす。ほら、あったでしょ。こないだ7チャンでやってた古い日本の映画」

「あああれ。寅さんだ寅さん」

「そーそーそれ。で、立ち位置からいってシンジが妹のサクラね」

「じゃあアスカがヒロシってこと?」

「なんであたしが前田ギンなのよ!…って、何泣いてんのよ、ミサト」

「え?」

 

 ぽろぽろと大粒の涙を零していたミサト。アスカに指摘されて自分が泣いていることに気付き、慌ててシャツの袖で目もとを拭いた。

 

 今日泣くのはこれで2度目だ。

 自分はいつからこんなに涙もろくなってしまったのだろう。

 歳の所為とは断じて思いたくないが。

 

「ミサトさん、大丈夫ですか?」

 シンジは心配そうにミサトの顔を覗き込む。

「ご、ごめん…。こんな、おばさんがみっともないよね…」

「別に構いませんけど…」

 何とも返事のしづらいミサトの言葉に、シンジはごにょごにょと語尾を濁す。

「ねえ、シンちゃん…」

「なんですか?」

「ちょっと…いいかな…」

 ミサトが求めていることを聞かずとも理解したシンジは、ゆっくりと頷いた。

 ミサトは左腕をシンジの背中に回した。そして右腕をアスカの肩へと回す。

 

 アスカの腕に抱かれたミチルごと、3人の家族をミサトはその腕に抱き締める。

 

「本当に、あのシンちゃんと、アスカが…、こんな素敵な家族を…作ってるなんて…ね」

 シンジはミサトの背中に腕を回し返す。

「ミサトさんが…、僕の命を繋いでくれたおかげです…」

 ミサトはくすりと笑う。

「また兄妹で同じこと言ってる…」

 

 東の空から太陽が昇り始めた。

 地面に、4人で1つの長い長い影が伸びていた。

 

 

 

「さあて…」

 すっかり化粧が崩れてしまった顔を、両手でパンパンと叩く。

「んじゃ、シンジくんが言う、絶対に捕まえられない彼女を追っかけにまいりましょうか」

「お手柔らかにお願いしますよ?」

 おどけた表情のミサトに、シンジも柔らかく笑いながら言った。

「あ、そっか」

 ふと何かに思い当たった様子のミサト。

「ん?なんです?」

「私が子供の頃に好きだったアニメって何か分かる?」

「なんですか、唐突に。やっぱりコンバトラーVですか?」

「あんた、私を幾つだと思ってんのよ…。ルパンよ、ルパン三世」

「へー」

「じゃあ私が憧れたたキャラクターって誰か分かる?」

「やっぱり不二子ちゃんですか?」

「銭形よ。銭形警部。これで子供の頃の夢が叶ったわ」

 シンジは苦笑いする。

「一生追いかけっこするつもりですか」

「待てい、レーイってね。んじゃね」

 ミサトはシンジたちに手をひらひらさせながら車の方へと向かう。そんなミサトの背中にシンジは少し大きな声で言った。 

「あまり無理しないで下さいよー、いい歳なんだから」

「うっさいわね!」

 ミサトは降り返りながら怒鳴る。

「アルコールは控えめにして休肝日をつくって。寝るときはちゃんとお腹隠して寝てくださいね」

「あんたは私の母ちゃんか!」

 シンジの言葉にいちいち突っ込み返すミサトの姿を、アスカはくすくす笑いながら見つめる。

「今度来るときは事前に言ってくださいね。ミサトさんが好きだった紅茶入りのシフォンケーキ焼いて待ってますから」

「ホントに?やったね!」

 最後にもう一度手を振って、ミサトは車の後部座席へと乗り込んでいった。

 

 夜明けに向かって走り去っていく車を見つめるシンジ。

 その隣では、アスカに抱かれたミチルがすやすやと寝息を立てている。

「あれ?」

 アスカはミチルの後ろ髪を短く纏めた2つのおさげを手に取った。

 いつもお気に入りの赤いゴム紐で纏められているミチルの髪。

「どうしたの?」

 シンジがミチルの寝顔を覗き込む。

「…これ」

「こより…だね」

 ミチルのおさげを纏めていたものはいつものゴム紐ではなく、紙で作ったこよりだった。

 アスカはミチルを起こさないように、静かにこよりを解く。

 そのこよりを、広げてみた。

 

 アスカは、くすっ、と笑う。

「いつ見ても下手な字ね」

 しわしわの紙面には、特徴的な義妹の字が綴られていた。

 

「えーと、何々。苗の高さが50cmくらいになったら根元に肥料をやり、しっかりと土寄せをすること。株の先端に毛のふさふさが出てきたら、もう一度肥料をやり、土寄せすること。乾燥に弱いので水やりはこまめにすること……。何よこれ」

 てっきり自分たちへの別れの手紙かと思ったが、

「…トウモロコシの育て方…だね…」

「レイの奴。あたしたちにあの畑を引き継がせるつもり?」

「…そうみたいだね」

「嫌よ土仕事なんて!は?収穫したら塩ゆでにして一番にミチルに食べさせること?うっさいわ!」

 シンジは憤慨している妻に苦笑いしながらもう一枚のこよりを広げた。

 シンジは、ふっ、と笑う。

「アスカ」

「何よ!」

「これ」

 シンジに渡された、やはりしわしわの紙切れを見る。

「たったこれだけ?」

「うん。らしいだろ?」

 アスカは小さく溜息を吐いた。

「ま、そうね」

 しわしわの紙面にはただ一言。

 

 

 ―――また、いつか。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

「うわ、眩し…」

 

 空の明るい方を静かにじっと眺めていたら、ぽっと顔を出したそれに男の子は思わず目を瞑ってしまった。

 

 初めて目にする自然界で最も強烈な光。男の子はおそるおそる瞼を開ける。

「あれが太陽なんだね」

 静かに波立つ海面に光の道を作りながら昇っていく太陽を、圧倒されたように見入る男の子。そんな男の子の頭上から、目の前の強烈な光とは対照的な、どこまでも限りなく柔らかい声がゆっくりと静かに舞い降りてきた。

「ええ、そうよ」

 

 誰も居ない海岸。

 砂浜に腰を下ろし、水平線を見つめる女性。

 女性が組んだ胡坐の上に、男の子がちょこんと座っている。

 

「海ってほんとに広いし、ほんとにしょっぱいし、ほんとに波が立ってるし。この世界って面白いことだらけだね」

「ええ。この世界は、あなたの知らないステキなことで満ち満ちているわ」

「楽しみだなー」

 

 男の子は背後から自分の腰に回された女性の手を握った。その手首には、2つの赤いゴム紐が巻かれている。

「ありがとう。こんなステキなものを見せてくれて」

「うん…」

 

 男の子の頭に顎を乗せながら、ぼんやりと水平線を眺めている女性。

 その瞳は眩い朝日を見つめながら、心の中の瞳は別のものを見ていた。

 

 

 あれは1カ月前だっただろうか。

 あの赤い小さな車に4人が乗ってドライブに出かけた日。

 ミチルが、初めて海を見た日。

 4人で出かけた、最後の日。

 

 ミチルも、今の男の子のように、だだっ広い水溜まりを目の前にただただ感動していた。

 延々と寄せては返す波打ち際をきゃっきゃとはしゃぎながら走り回っていた。

 兄と一緒に作ったお弁当をみんなで食べて。ミチルと一緒に貝殻集めをして。ミチルと一緒に砂で大きな山を造って。凝り性な義姉は1時間掛けて砂の通天閣を造ってたっけ。

 この日は朝から本当によく晴れていて。

 水平線には赤と紺の濃淡を作りながら陽が沈んでいって。

 そのあまりの美しさには3人は黙って静かに見つめていて。

 遊び疲れたミチルは兄の腕の中でぐっすり寝ていて。

 せっかくの景色なのに勿体ないと義姉は少し不満顔で。

 またみんなで来たらいいさ、と兄はミチルの寝顔を愛おしそうに眺めながら言って。

 兄の言葉に私は、そうね、と言って。

 またみんなで、こんな美しい風景を見ることができるんだ、と、あの時は何も疑わずに信じていて。

 

 水平線の上に浮かぶ真ん丸の太陽が、ぐにゃっと歪んだ。

 

「ママ…、泣いてるの?」

 腕の中の男の子が顔を覗き込んでくる。

 女性は熱くなった目頭を手の甲で押さえながら、目尻から溢れる液体をありのままに頬に伝えせた。

「ええ…、そうよ…」

「…そうなんだ…」

 男の子は海に向き直る。視線を水平線の彼方からこちらに向かって一直線に伸びてくる光の道に向けた。

「僕、さっき生まれて初めて泣いたよ…。なんだか胸がぎゅーっとされてるようで、お腹もぐるぐるしてて、とっても気持ち悪かったんだ…。あんな苦しい思いをするなら、もう泣きたくないな…」

 女性は陽の光にきらきら煌めく男の子の銀色の髪を撫でる。

「…きっと、これからも涙を流す日が来ると思うわ…」

 その女性の言葉に、男の子は口をへの字に曲げた。

「ふーん。この世界って、とても辛いことだらけなんだね…」

 男の子は足をぶらぶらと揺らす。

「ええ。この世界はとても残酷で、とても辛いことばかりだけれど…」

 女性は男の子の頭をぎゅっと抱きしめる。

「…でも、とてもステキなところよ」

「そうなの?」

「ええ…。いつか、悲しみや絶望じゃない、もっと別の…、違う涙を流す日が、きっと来るから…」

 

 腕時計がピピピと鳴った。

 それは彼女らに与えられた猶予時間が終わったことを知らせるものだった。

 

「行きましょう」

 女性は男の子の腰を支え、自分の足で立たせる。

 そして女性も立ち上がり、お尻についた砂をぱぱっと払う。

「どこに行くの?」

 男の子は女性を見上げながら言う。

「どこに行きたい?」

 男の子は女性を見上げながらにっこりと笑った。

「どこでもいい。ママとならどこでも」

 母親の手をぎゅっと握る。

 どこか懐かしい男の子のその言葉に、母親は小さく笑った。

「そうね…」

 男の子の顔から視線を上げ、空を見る。

 海の上を、どんどんとその高さを上げていく太陽。

 ふと、背後を振り返る。

 そこには、太陽と入れ替わるように地平線の向こうへとその身を沈めようとしている月が浮かんでいた。

 手の中にある小さな男の子の手を、ぎゅっと握り直す。

「太陽と…、月と…、地球があれば…、どこでもきっと大丈夫よ…」

 

 軽トラックを停めている海岸沿いの道へと歩き始める。

 男の子が、甘えるように女性の腕へと抱き着いてくる。

「ねー、ママ。だっこして」

 母親は「今日だけよ」と言いながら、男の子のお尻に腕を回し、ひょいっと男の子を抱き上げた。

 1人分と半人分の重さを支える足の裏が砂にきゅっと沈み、その感触が心地よかった。

 

 砂浜に、2人で1つの長い長い影が伸びていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 さすがに3人目ともなれば慣れたものだ。

 左腕で抱かれた赤ん坊は、口に近づけられた哺乳瓶の乳首を嫌がらずに咥え、ちゅっぱちゅっぱと小気味好い音を立てながら美味しそうにミルクを飲んでいる。

 

 ソファで赤ん坊にミルクを与えている父の隣で、娘は学校で出された宿題を前にして頭を悩ませていた。

「なんだ、ミチル。全然進んでないじゃないか」

「だって、将来の夢とか思い浮かばないんだもん」

「子供が夢がないとか寂しいこと言うなよ」

「じゃあパパは子供の頃はどうだったの?」

「ん…」

 子に問われ、父はそう言えば自分も子供時代はどちらかと言えば冷めた子供で、特に夢もなかったことを思い出した。

「んーー」

「ほらあ」

「と、とにかく作文なんて難しく考えなくていいんだよ。例えばミチルが一番好きなものって何だい?」

「ママ」

「(パパじゃないんだ…)じゃ、2番目は」

「レイママ」

「……じゃあ「お母さんになりたい」でいいんじゃない、もう…」

「ふーん」

 父のどこか投げやり気味のアドバイスに、娘は鉛筆のお尻で顎を押しながら天井を睨んだ。

「あ、そうだ」

 良い案を思いついたらしい。

「「お嫁さんになりたい」。これにしよ」

「それはだめ」

 すぐに父からダメ出しが出た。

「えー、なんでよ」

「ダメなものはダメです」

「いいじゃん。「お母さんになりたい」がよくて、なんで「お嫁さんになりたい」がダメなの?」

「パパが許しません。他のにしなさい」

「もーーー」

 

 娘がぶーたれていると、ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。

「はいはい」

 父は哺乳瓶をテーブルに置くと、電話に出る。

 

 

「もしもし。はい、碇ですが。…ええ、そうです。碇シンジです。

 

 え?どなた?

 

 えっ。え!

 

 リツコさん!

 

 へーー!いやーー!お久しぶりです!何年振りですかね!

 

 そうですねえ。あの面談室で会ったっきりでしたもんね。

 

 元気にしてます?

 

 そう、そりゃよかった。僕も、それとアスカも元気にしてますよ。

 

 はい。ああ、僕らが結婚したこと知ってましたか。へー、マヤさんから聞いてたんですね。

 

 え? いやいや、いいですよ今さらお祝いなんて。もう9年も前ですから。

 

 いやあ、でも嬉しいな。またリツコさんと話せて。あれっきりでしたからね。

 

 え?テレビ? ああ、近くにありますけど。今自宅に居るんで。

 

 テレビを点けたらいいんですね?

 

 ……はい、点けましたよ。え? 国営放送に?

 

 ……はい、チャンネル変えました。って、リツコさんじゃないですか!

 

 わあすごい。リツコさん、テレビに映ってる。えっ?これ生放送? はは、手振ってる。

 

 リツコさん、あんまり変わってないですね。髪の色も金髪に戻したんですね。うん、そっちの方が“らしい”ですよ。

 

 ん?ここどこです?どっかの空港? すごい広い場所ですね。

 

 え?アスカ? ええ、今日は家に居ますよ。っと言っても、今は家の裏の畑で草刈りしてますけど。

 

 ええ、そうなんですよ。あのアスカが畑仕事ですよ。

 

 レイが畑やってたんですけどね。レイが残した畑をアスカが継いで耕してるんですよ。ぶつぶつ文句言いながら、もう5年も。

 

 レイが帰ってきた時に、そのまま返せるようにって。

 

 って言っても「このアスカさまがやる農園をそんじょそこらの家庭菜園と一緒にされちゃ困るわ」とか言って、最近じゃヤギ飼い始めて何だか凄いことになってるんですけど。

 

 今はレンと一緒に畑の土手の雑草をヤギに食べさせてるはずです。

 

 え? レンですか。

 

 2番目の子供ですよ。男の子です。

 

 ちなみに3カ月前にはメイも生まれまして。ええ、女の子です。

 

 え? …いやいや、だからお祝いはいいですって。

 

 実はミサトさんから毎年のように雛人形やら五月人形やらが送られてくるから、置くとこなくて正直困ってるんですよ。

 

 あの人独り身でしかもずっと海外出張でお金使う暇がないから、全部僕たちの子に注ぎ込んでるんですよ。

 

 そりゃ、ありがたいんですけどね。いい加減、そろそろ自分の身を固めて落ち着いてくんないと。

 

 え?

 

 

 そのミサトを?

 

 

 出し抜いてやった?

 

 

 ごめんなさい。全っ然話しが見えないんですけど。

 

 はあ。とにかくアスカを呼べと。

 

 テレビを見てたら分かる、ですか。

 

 ええ、ミチルはここにいますよ。

 

 じゃあアスカ呼んできますね」

 

 

 父は携帯電話で話しながらソファから立ち上がり、末っ子を抱いたまま裏の畑に通じるガラス戸へと向かった。

 

 娘は宿題の手を止め、テレビを見ている。

 

「あっ!」

 

 その娘が、突然大きな声を出した。

 ガラス戸から外に出て、サンダルを履こうとしている父。携帯電話を耳から離した。

「どうした?ミチル」

「ママだよ!テレビにママが映ってる!」

 テレビを指差しながら興奮気味に言う娘。

「何言ってるの。ママは畑だよ」

 父はサンダルを履き終え、そのまま畑へと向かってしまった。

「へー、リツコさん、C国の宇宙開発チームの責任者になってたんですね…」

 

「ほんとだよ…。レイママが映ってるんだよ…」

 父のことは放っておいて、テレビのすぐ前に移動し、画面に映し出された映像にかぶりつくように見入る娘。

 

 映像が映し出してるもの。

 どこかとても広い場所。つなぎ目のないコンクリートの地面。青い空。遠くに見える地平線。

 そんな場所にぽつんと停められたバスから、何人かの男女が降りてきている。

 皆、どこか風変わりな服装。皆、片手に全面透明なヘルメットを抱えている。

 

 テレビのスピーカーからは女性のアナウンサーの声が流れていた。

 

『サードインパクト以来途絶えていた宇宙開発ですが、今回のC国の打ち上げにより再び世界の宇宙開発競争が熱を帯びそうです。今、地上に降り立った8名の彼らは赤木リツコ博士が開発した全く新しい宇宙航行システムにより、これから月面へと赴きます。彼らの任務は月面基地の建設。最長で10年間という長期に渡る過酷な任務が彼らを待っています』

 

 遠くから8人の様子を写していたカメラがぐぐっと寄った。

 

『先頭を歩くのが今回のチームで唯一名前が公表されているヤン・リー船長です。その後ろを歩くのは女性でしょうか。C国宇宙開発局から公開された資料によれば宇宙船のパイロットを務めるそうですが、…珍しい髪の色をしていますね。その後ろを歩くのは…、はは、こちらに向かって手を振ってくれています。彼は今回のチームで最年少でまだ10代とのこと。打ち上げが成功すれば宇宙に行った初めての子供ということになります』

 

 歩く8人を追うカメラ。

 8人の向こうに、巨大なロケットが青い青い空に向かって聳え立っている。

 

 テレビに見入るミチルは目を輝かせる。

 少しだけ、ほんの少しだけ寂しそうな顔で。

 

 ミチルはテレビに向かって小さく手を振った。

 

 

「レイママ…、行ってらっしゃい…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 市立第壱小学校。

 3年C組の教室。

 何枚もの原稿用紙が貼られた壁の掲示板。

 作文の表題は『将来の夢』。

 

 

 

 

 

 

将来の夢

 

3年C組 碇ミチル

 

私の将来の夢は、宇宙飛行士になることです。

 

宇宙飛行士になって、月に行って。

 

ママじゃないもう一人のママと、初めてのお友達に会いに行きたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

―おしまい―

 

 

 

 

 



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