桂香の元カレ (サルガシラン)
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一勝三百連敗、愛は負けてない。


オリ主の名前どうすっかな……盤上の駒……バンジョー? 万丈!!

将棋知識0でもりゅうおうのおしごと!が書きたいなー。なら芳醇な仮面ライダーのネタぢからを借りるんだ!な物体。

登場する人物、団体、国名はそれっぽい架空のものです。ライダーとのクロスオーバーではないのであしからず。


 

 

「すっごく楽しかった!」

 

 

 彼女の笑顔と将棋に魅せられあっけなく恋をした。

 

 

「清滝さーん、付き合ってくれー」

「いいよー」

 

 

 長きにわたる猛アタックの末になんとか交際が始まり。

 

 

「――――くん……別れよう?」

 

 

 そしてフラれた。

 

 

 

 ☖☖☖

 

 

 

「あい、対局する二人をしっかり見ておくんだぞ」

「はい、師匠」

 

 雛鶴あいが俺、九頭竜八一への弟子入りを両親に認められ、歓迎会から一週間が過ぎたある日。俺はあいを連れて、俺の師匠である清滝鋼介の家にお邪魔していた。

 

 今、目の前で行われている将棋をあいに見せるためだ。

 

 七寸盤を挟んで対峙するのは一組の男女。

 

「……」

 

 女性の方は師匠の一人娘にしてスタイル抜群の美女。

 頼りになる俺たちみんなの優しいお姉さん、清滝桂香。

 

「今日こそは……今日こそは勝って桂香さんと……!!」

 

 その桂香さんと対局する男を端的に表現すると、巨大な筋肉だった。

 

 彼の名前は八方(やつかた) 万丈(ばんじょう)

 桂香さんのかつての同級生で、憎っくき桂香さんの元カレだ。

 

 

 正座なのに目の前の七寸盤が小さく見えるほどの座高と、世紀末救世主伝説もかくやの筋肉。

雄々しい印象があるけれど「今夜は焼肉っしょー!!」という大きな文字と焼肉のイラストのダサい黄色Tシャツがすべてを台無しにしていた。

 あれ確か去年の暮れに紅白出てたバンドのやつだよな。名前なんだったっけ。

 

 こんな風貌で本職は世界を飛び回る翻訳家だっていうんだから、意味がわからない。

「あれだ俺の腕にかかればどこでてもできる仕事だからな。世界中でコネ作って仕事とるんだよ。いやーたいへんだなー」と本人は言うが、絶対に旅行楽しむついでに仕事してるタイプだ。

 帰国する度、お土産片手に桂香さんに挑んでくるのはもう清滝家では恒例行事。

そのオチも含めて、だ。

 

 で、肝心の将棋はというと、その生き方と同じく破天荒と言うほかない。

定跡外しでしか指さないような手を序盤中盤と好んで指し、不利になってからが本番と言わんばかりに巻き返しが大の得意。隙だらけにしか見えないのにアマチュアながら妙に才能があるせいか、相手にするとやたらと厄介だ。逆に定跡通りに打ちだすとなぜか弱くなるような人でもある。

 

 雑に強く、型にハマらず我が道を行く戦法。

 定石に頼りがちな桂香さんにとって、地力の差もあってまさしく天敵と呼べる将棋指しだ。

 

「師匠」

「どうした、あい」

 

 

 まあ、それは本来なら、の話だけど。

 

 

「あの人、すっごいデレデレしてますけど……」

「ああ、まるで集中してないな」

 

 真剣な桂香さんを見て、気持ち悪いくらいに顔をだらしなくさせる万丈がそこにいた。

 

 万丈はかつて「将棋に真摯な桂香さんは最っ高に心が燃えてフォーリンラブ!」と意味不明の供述をしており、桂香さんと対局すると必ずこうなる。そして明らかな悪手が増える。

 

 将棋舐めてんのか、と思うが本人は至極真面目に勝とうと研究して挑んではいるから質が悪い。

その甲斐があるのかないのか、悪手からの巻き返しは師匠も目を見張るほどだ。

 

 真剣に向き合って、気づいたら毎度このザマなんだ。

 

「ししょう、ししょう」

「どーした、あい」

「桂香さんが……なんていうかフンイキが……強そうです!」

「ああ。桂香さんは万丈を相手にするときは、ものすっごく調子が上がるんだ」

 

 目の前のダメ男とはうってかわって桂香さんはオーラを幻視するほど将棋に没頭していた。

笑みが浮かぶほどの自信に眼は輝き、風なんて吹いていないのに髪が浮き上がっていると見間違うほどの気迫が全身から滲み出ていた。

 それを見て万丈の鼻の下がさらに伸びる。おいピンチだぞ。

 

 その絶好調に万丈の悪手が手伝って、単純な実力だけは上の万丈を相手に俺が知る限りでは桂香さんは一度も負けたことがないのだ。

 

 おまけに。

 

「し、ししょー……!」

「どーしたー、あい」

「あの人、頭がウサギさんみたいになりましたよ!?」

 

 さっきまで落ち着いていた万丈の髪の二房がピンと上向きに跳ねだした。

 

「ああ、万丈の癖なんだよ。驚くとあんな風に髪が跳ねるんだ」

「そんなことあるんですか!?」

「うん、あるんだ」

 

 持ち主の感情を表示するようにピコピコ動く、弟子のアホ毛を見ながらきっぱりと言い切る。

二人ともどういう理屈で動いてるんだろう。

 

「で、対局中にああなったなら自玉に即詰みを見つけたってこと」

 

 ウサギの耳にも見えそうなその二房の跳ねっかえりを桂香さんが見逃すはずもなく、そうなればもう対局ではなく桂香さんのための詰将棋だ。

 油断なく、詰み筋をキッチリ読み切り詰めろをかけた。

 

「……くぁぁ、負け、ました……!」

「ありがとうごさいました」

 

 万丈はもう挽回の手はないながらも粘り続けたが、動けなくなってようやく投了。

 

「わかったかあい。棋士にとって棋力は大事だ。でも棋士の戦いはそれだけじゃない」

 

 キチンと集中できないと実力を十分に発揮できないのは当然。実力の劣る棋士がずっと上の相手に調子如何で勝つことは珍しくないし、その逆も然りだ。自玉の詰みに気づいても涼しい顔をしていれば回避できることだってないとは言えない。

 

「余計なことに気を取られず、強くなっても調子に乗らない。そして自分のピンチをわざわざ教えたりもしない。当たり前だけど、盤外の戦い方の注意点を覚えておくのも大事な将棋の道だ」

「ちゅういてん、ですか」

「しっかり覚えて強くなっていこうな、あい!」

「わかりました、師匠!」

 

 あいに身体ごと向き合って今日の目的をしっかりと伝える。

目の前に見事な悪い例があったおかげか、あいも実感を伴って受け止めることができたようだ。

笑顔で頷く姿がかわいい。

 

 師匠と弟子が笑いあいながら更なる成長を誓う。はた目からみたら絵になる光景だろうと思う。

なお、横にある盤外戦がまったく出来ない男の屍は見ないものとする。

 

「じゃあ万丈くん、今日はウチのお掃除お願いね」

「はい……誠心誠意ピカピカにします……」

「あとお昼と晩御飯もよろしく」

「はい……精一杯おいしく作りマス……」

「やった! 時間できちゃった~」

 

 七寸盤が小さく見えたほどの巨体はどこへやら。

敗北のショックで縮こまった万丈に桂香さんは花咲く笑顔で家事を押しつける。

その手慣れ具合に疑問を持ったのか、あいから質問が飛んできた。

 

「これってどういうことなんですか師匠?」

「いや、ぶっちゃけこれって賭け将棋なんだよ。万丈が勝ったら『桂香さんに復縁を考えてもらう』桂香さんが勝ったら『万丈がなんでも言うこと聞く』って条件の」

「えっと……それって……」

「うん……まあ、全部万丈から言いだしたことなんだけどね……」

 

 どうしてこんなことが始まったのかは俺でもイマイチわからない。

 気づけばそんな恒例行事が始まり、負ける万丈も桂香さんの頼みならばと片手間で仕事しながら家政夫をやり抜く尽くしっぷりだ。

それでいいのかと思うけど本人すっごい幸せそうだしなー……。

もう桂香さんは無理筋と諦めて、その才能をもっと他のことに費やせばいいのに。

 

「はっはっはっは! 結局いつも通りやな万丈ー!!」

 

 今まで黙って新聞読んでた師匠が上機嫌に笑いだした。傍には万丈のお土産だろう、蛇酒の酒瓶が装備されている。流石に昼前から飲んではないはずだ。素面で煽ってるよ師匠。

 

「その程度でウチの桂香と付き合いたいとか十年早いわ青二才!」

「だってよ清滝先生! 娘さんが目を逸らせないくらい魅力的すぎるんすよ!!」

「当たり前や! わしの自慢の娘やぞ!」

「いよ、容姿端麗! ナイスバディ!」

「見てくれしか褒められんのか、お前はぁ!?」

「料理もできる! 気遣い上手! 身内を大事にできるいい女!!」

「そうやろうそうやろう!」

「お義父さん娘さんとの交際をお許しください!」

「おとといきやがれ色ボケマッチョ」

「やっぱり勢いなんかじゃ無理か……!!」

 

 また漫才やってるよ……ほんと仲良くなったなこの二人。

 

 桂香さんと万丈がまだ交際していたころ、万丈が誤って家にやって来たことがある。

そのときの師匠といったら、人を殺しそうな顔して「わしより将棋強くなきゃ男女交際なんて許さんもんねー!!」と万丈が倒れるまで平手でボッコボコにしてたのに。

 

 今じゃ将棋の話もできる、弟子でも棋士でもない気楽な飲み友くらいの仲なんだそうだ。

 

 やいのやいのと騒ぐ万丈と父親を前に、桂香さんは呆れ顔で口を開いた。

 

「正直ね、万丈くんの気持ちは嬉しいよ」

「え、マジで?」

「でもね」

 

 万丈に満面の笑顔を向けながら一言。

 

 

 

「わたし、今は将棋が恋人だから!」

「ぐはあぁぁぁ!」

 

 

 

 万丈さんがいつも通りにお断りをされて、くず折れた。

見慣れた光景である。お約束を終えて桂香さんが部屋からゆっくり出ていった。

 

 

「…………みなさんすごく慣れてるみたいですけど、これって何回目のことなんですか?」

「えーと今回で……」

「記念すべき三百回目よ」

「さんびゃく……!?」

「姉弟子」

 

 俺から返答を奪うように俺の姉弟子、空銀子が万丈の敗北回数を容赦なく吐き捨てる。

 今まで万丈がお土産に買ってきたワニ型クッキーをつまみながら横で観戦していた姉弟子は、半泣きの万丈をゴミを見る目で見下した。

 

「この盛りのついた負け犬。いい加減に桂香さんのこと諦めたら?」

「諦めらんねぇんだぁ……桂香さんより好きになれる女、世界どこいーってもいねぇんだよぉ!俺をフるときの笑顔でも惚れ直しちまうんだよぉぉ……!」

「成長ないうえしつこすぎて相手にされないだけなんじゃないの? 他の女にも桂香さんにも」

「ん? 執念深さでいったら銀子ちゃんも八一に似たようなも……」

 

 くず折れたままの万丈の足を姉弟子がゲシゲシと蹴り始めた。

 

「もう一回頓死しろこのストーカー! 持ち駒! 色ボケ肉だるま!」

「肉だるま!? せめて筋肉だる……あ、止めて蹴らないで足はまだ痺れてる……のぉぉ!!」

 

 姉弟子は桂香さんくらいにしか心を開かない人見知りだが、万丈とは割と上手くやれている。

姉弟子からどれだけ辛辣に扱われてもまったく堪えた様子がないからだろうか。

 

 そういう所で信頼されているらしく、姉弟子が女流タイトルを獲得し取材やら何やらで忙しかった時期には、桂香さんに頼まれてボディガード兼付き人みたいなサポートをしていた。

 スーツ着てサングラスかけてる大柄の筋肉男を引き連れて歩く姉弟子は、女王の名に恥じない貫禄だったのを覚えている。

 

「ん? おお八一、久しぶりー」

「久しぶり。相変わらず諦め悪いな」

 

 姉弟子の蹴りの連打が止んだ頃、どうやらようやく俺たちの存在に気付いたらしい。

 

 万丈は俺が竜王を獲得した直後も姉弟子のときと同様、付き人のように色々と助けてくれた。

最後に会ったのは諸々の問題が落ち着いてから万丈が仕事で海外に飛んでいった日なので、だいたい二ヶ月ぶりくらいになる。

 

「まぁな。それより大丈夫か、また変な女ひっかけてねぇか? あとロリコンになったって?」

「それが会って早々に聞くことか!?」

「いやお前、ちょっと見ねぇとすぐ知らねぇ女と仲良くなってるじゃねぇか。質悪いの含めて」

「へえ……?」

「師匠……?」

「違うから! この人が妙な勘違いしてるだけだから!!」

「将棋は調子良くなったんだってな! いやー安心したわ、心配してたんだぞ?」

「それを先に、というかそれだけを聞いてくれよ!!」

 

 カラカラ笑う筋肉男を無視して、ハイライトのない瞳で見据えてくる姉弟子とあいをなだめる。

二人とも時々急に怖くなるのは本当になんでだろうか。

 

「んで、その娘が噂に聞いた八一のお弟子さんか」

「そ、そうそう! 今日はこの娘を紹介するために来たんだよー! ほら挨拶挨拶ぅ」

「むぅ……雛鶴あいです、師匠の内弟子をさせていただいてます」

「こりゃご丁寧に。八方万丈と申します」

 

 二人に詰めろをかけさせた元凶が話をふってきたので、それに乗っかり逃れる。

 むくれながらもしっかりと自己紹介をするあいに、万丈は目線を合わせ丁寧にお辞儀を返す。

すると彼女の顔をじっくり見やってふむ、とうなずいた。

 

「へー、ひな鶴の女将さんに似て意思の強そうないい顔してるわ」

「え、お母さんとお知り合いなんですか?」

「どっちかというと隆さ……君のお父さんとだな。昔、旅先でお世話になって」

「お父さんと……」

「それに友達があそこの調理場で働いてんだ。『おばあちゃんが言っていた……』」

「ああ、てんどーさん!」

 

 万丈さんの誰かのモノマネらしい顔と動きに、わかるわかると手を叩いて笑うあい。

ひな鶴にも知り合いがいるのかこの人……。

 

 万丈はそのフットワークの軽さゆえかあっちこっちに顔が広い。

近所のカフェのマスターを始め、岐阜のトマト農家とか湘南のサーファーとか遠い国の物理学者。

挙句の果てには、ウチの一門の誰とも交流がないプロ棋士と筋トレの話で談笑してたりと、下手したら棋界に限定しても俺より顔が利くかもしれない。少なくとも姉弟子は優に超えている。

 

 少し話す間にもう打ち解けたのか、あいが万丈の手をガシッと掴んで励ました。

 

「バンジョーさん、わたし、桂香さんとのこと応援します! がんばりましょう!!」

「…………八一ぃ!」

「なんだよ」

「この娘、良い子だなぁ! 良い弟子もったなお前ぇ!!」

「あーはい、そうですねー」

「えへへ~」

「チッ」

「それじゃ、良い子のあいちゃんにお近づきの印と弟子入り祝いを兼ねてコイツをあげよう」

「これは……?」

 

 万丈が取り出したのは手のひらサイズの――といってもあいの小さく可愛らしい手には少し大きな――半透明のボトルだ。

何かと思えばこれか。以前、俺や姉弟子が貰ったものと同じ種類のものだろう。

 

「トート共和国ってとこのフルリボッタルっつーお守りだ。中身よーく見てみな」

「あ、ちっちゃいウサギさん!」

 

 それを覗きこむと木彫りの赤いウサギが中に詰められていた。

 

「ボトルに願いの象徴を『詰めて』手に掴むっていう縁起物だ。棋士にはピッタリだろ?」

「アンタまたそれ?」

「お前らにもやっただろ龍の奴と錠前の奴。他にもお守りあるからお前らももってけ」

「芸がないって言ってんの。毎度毎度どっかの変な開運グッズ渡される側の身にもなったら?」

「あはは……」

 

 姉弟子の辛口意見にちょっと同意する。

気持ちは嬉しいのだが、ちょっと間を空けて会うたびにこうやって海外のお守りとかを渡されてしまうとちょっと反応と置き場所に困るのが本音だ。特に統一感とか。

 

「じゃあ俺が翻訳した本欲しいか? もしくは俺が書いた微妙に売れない旅行記。サイン付きで」

「いらんわボケ」

 

 八方万丈 著「傷心・旅イカダ」著者の知り合い中心に好評販売中。一応、俺の部屋にもある。

 

「これってウサギさんだとどういう意味になるんですか?」

「あの国だと赤ウサギは『平和』『才能の発展』『成長』だな」

「わあ、ありがとうございます」

「よかったなあい」

 

 これから育っていくあいにはピッタリのお守りにお礼を言うあい。嬉しそうだ。

 

「他には『パートナーと良い関係を築く』とかもあったな」

「本当にありがとうございます!」

「よ、よかったなあい?」

 

 付け足された情報にさらにお礼を言うあい。さっきよりすごく嬉しそうだ!

 

「さてと、そろそろ昼だし飯食ってくだろ? 待ってろ、俺渾身の筋肉料理とプロテインを……」

「あ、万丈くん」

 

 満足したのか足のしびれがとれたからか。足をポンと叩いて万丈が立ち上がり盤を直し始める。

と同時に桂香さんがなぜか蛍光灯を手に戻ってきた。

 

「あとで買い出し行くから車出して。予備の蛍光灯とか色々まとめて買っておきたいの」

「おう。いつものとこでいいんだよな?」

「じゃないと迷うでしょ~? あ、上着はちゃんと着てね?」

「わかってるわかってる」

 

 …………。

 この二人を形容するのにピッタリな言葉がある気がするが……。

 

「あの、ししょう……?」

「言いたいことはわかる。でも気にするなあい…………口に出したら投了なんだこれは」

 

 

 認めると負けた気がする。

 お世話にはなっているし良い奴なのはわかっているが、それとこれとは話が別なのだ。

 

 

 

 片付け途中の盤の上では、万丈側の玉が桂馬と香車に王手をかけられていた。

 

 

 

 




名前は万丈、中身はカシラ。ダサT着こなす将棋以外はてぇん才。そんな主人公。

仮にプロ棋士を仮面ライダー、女流棋士を電波人間タックルと考えると主人公のレベルはブラッドスターク(エボルト抜き)。


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八方万丈:初期フォーム


 感想で続けてと書いて下さった方々に感謝を込めて送る、あなたを振り落とす過去編。



 

 

「よろしくお願いします」

「……よろしくお願いします」

 

 

 八方万丈はその一局を忘れない。

 

 

 高校に入学して間もない四月。

出来たての将棋部へと発起人である部長の堀戸に無理矢理連れられて、彼女はやって来た。

 

 プロ棋士の娘だという彼女が備えていたのは、男子の目を奪う可憐さとプロポーション。

万丈とは同じクラスだったが入学から日も浅く話したことはなかった。なんか可愛い子がいるな、程度の認識だった。

 

 だから、騒々しい奴に腕をひっつかまれてきた彼女に万丈は同情した。

部長を名乗る女はどうせまた嫌がる相手を強引に素人だらけの将棋部へ連行してきたのだろうと。

手ごろな相手が欲しいと中学時代の万丈に将棋を覚えさせサンドバックにしたのと同じく、高校でもその傍若無人さの被害者を量産するだろうと。

 

 

 憐れな少女への万丈の第一印象は、クラスの可愛い子。

 第二印象は人の迷惑を省みない悪魔の重戦車による、新たなる被害者。

 

 指差しやすい位置にいたという理由で相手に選ばれた万丈は、疲れと不機嫌さがにじみ出る少女と安物の布盤で指し始め。

 

 

 

 その中盤。それまでの印象がすべて吹き飛んだ。

 

 

 

 彼女の一挙手一投足にどうしようもなく動けなくなった。

穏やかな顔立ちに浮かぶ真剣さと、風に揺れる栗色の髪に。

十分に読んだ筋を迷わず描く自信に満ちた細い指と、澄み切った翡翠の眼に。

 

 視界は彼女とその将棋に占領され、耳朶には駒が布の上で擦れる微かな音だけが届いた。

 

「……あ、負けました」

 

 勝負になるはずもなく。

粘ったものの勝ち筋がないと気づき万丈は投了。

それでも、対面で満足げに息を漏らす彼女の姿に心はもっていかれていた。

 

「ありがとうございました! 八方くん、でよかったよね?」

 

 驚いて万丈の髪が二房、ピンと跳ねる。

迷いが晴れたかのような清々しい顔で笑いかけてきたその美少女に、うめくように答えた。

 

「ハイ、ヤツカタバンジョーと申しマス……」

「八方くんの将棋おもしろいね! 指しててすっごく楽しかった! もう一回やらない?」

 

 

 彼女への新たな印象は。そんな考えなど頭から燃えて焼き切れるほどに。

 

 彼女――清滝桂香の笑顔に、火のついた顔でコクコクと頷くことしか万丈には出来なかった。

 

 

 

 

 そして万丈はバカになった!!

 

 

 

 

「清滝さん、好きです!!」

「え!? えーと……友達から始めましょ」

「ぐあああっ……」

 

 早々に告白し、案の定丁重にお断りをされた。

その後、暗黙の不可侵条約を破ったと男子連中からシメあげられ、ちゃっかり桂香と友達になっていた堀戸&女子たちによって心身ともにトドメを刺される始末。

 

 

「清滝さん、最っ高に好きデス!」

「ごめんねー。これ次の授業で使うらしいから持ってくの手伝って」

「ウーッス。ギターと音叉と……トランペット? 次の授業って物理だよな?」

 

 それでもつぶれない万丈は攻めの手を打ち続けた。

 

 万丈が告白し、桂香が適当に断る。それが常態化するまで続けたのである。

ときおりドン引きされ周囲が呆れ果て、あまりのフラれっぷりとめげなさに不屈の告白オヤカタとあだ名されるほど全身全霊のアプローチをかけた。当初は万丈を避けていた彼女も、次第に諦めたのか順応した。

 

「じゃあ全部持ったし早く行きましょ」

「ちょっと待て、手伝うとは言ったが他の教材も全部押し付けるのはどうかと! 重いぃ……」

 

 ついでに万丈への遠慮がなくなり扱いがぞんざいになった。

 

 

 

「どうっすか清滝さん! この鍛えぬいた大・胸・筋!」

「すごいねー。正直ひいちゃうぐらい」

「……おい部長さんよ、反応がスゲーイ微妙なんだけど。話が違うんじゃねぇか?」

「ふーっはっはっは! ぶ、文化部の、くせに……ハリウッドみたいな筋肉! パネぇー!」

「………………アーユーレディ?」

「チャーオォウ、不屈の筋肉オヤカタ!」

「ぅぇ、堀戸ォ!」

 

 ただ玉砕するわけでは終わらず万丈は己を磨いた。

 

 気を抜けば突然跳ねる頑固な寝ぐせをねじ伏せ、以前より身だしなみに気をさくのは序の口。

全身放送事故と罵られたファッションセンスを、Tシャツがダサい程度まで矯正。

精神を削りながら恋愛ハウツーやら女子目線でみるモテる男の条件やらを徹底リサーチ。

果ては恋愛運の上がる開運スティックなるものにまで手を出し、冷静になってへし折った。

 

 桂香の好みが筋肉ムキムキのマッチョマンだというホラを吹き込まれると、栄養士並みにこだわった食事と身体が壊れるギリギリまで肉体改造を施し魅惑の世紀末ボディへと変身をとげる。

オチは噓つきと筋肉の鬼ごっこだったが。

 

 

 

「清滝さん、愛してまっす」

「はいはい知ってる。うーん……竜をここで放置するのはもったいなくない?」

 

 桂香と指したいがために将棋の腕も磨いた。

共通の話題であると同時に、万丈が一番見たい彼女は半端な腕では見れないからだ。

部員ではないもののたまに指しにくる桂香に、下手な姿は見せられないという意地もあった。

 

 祖父の蔵書の棋書をダンベル片手に読み込み、プロテインを摂取しながら詰め将棋を解き、ストレッチ中に将棋番組へ耳を傾けた。集めた知識をぶつけるべく部員をはじめ、近所の将棋道場で常連客や一番強いおじいさん、その人に勝とうとやってくる幼い道場破りを捕まえて指しまくった。

 

 他にも戦略眼を鍛えるといいぞぉとのたまうオッサンから兵法書をもらうとスクワットで熟読。

ゲーマーから瞬間の判断力が上がると聞けば格闘ゲームをやり込み、俯瞰する能力が付くと聞いてサッカー部員に教わりながらサッカーゲームにどっぷり浸かり、近所の婆ちゃんに集中力が上がると吹き込まれて太極拳体操とヨガが習慣になった。

 

 他にも、駒の気持ちを感じようと周りを巻き込んで人間将棋を実行したり、目隠し将棋を覚えるため目隠し生活を一か月続けたりもした。

 

 すべては桂香と将棋を指すためであった。

 

「そうか? ここで竜がふんぞり返ってたほうが他の駒もノリノリになるだろ」

「ごめん言ってる意味がわかんない」

「え。戦いってノリが大事なもんだろ?」

「そういうこと言ってるんじゃないよバカ」

 

 

 

 努力は実り、万丈はどういう訳か将棋が雑に強くなった!

 しかし、桂香と将棋の話をしても噛み合わなくなるという本末転倒が待っていた!!

 

 

 

 悲しみをぶつけた結果、万丈は高校生対象の将棋大会を連覇。虚しい勝利に万丈は泣いた。

 

「くっ……ちくしょぉぉ……」

 

 しかし、そこで彼を立ち上がらせる救いの手が伸びた!

 

「まったく見てらんないな!」

「中学からのダチの赤羽……?」

 

「俺たちが助けなきゃ全然ダメそうだもんなオヤカタ!」

「サッカー部の青葉」

 

「イッショにキバろうゼ……オォヤカァター」

「自称帰国子女のキバ=T=バッツ―!」

 

「……ま……楽しくやろうじゃない」

「部長の堀戸まで!?」

 

 万丈の努力に桂香の心は小動もしなかったが、友人たちの心は動かした。

その後、桂香に呆れられときに見直され、友人の手を借りたり協力するふりの堀戸に弄ばれたり。

 

 

 そんな感じで過ぎた忙しない一年間が終わる、桜咲く三月。

 

 

「清滝さーん、付き合ってくれー」

「いいよー」

「そっかー」

「……」

「……」

 

 二人きりの教室で、万丈は今日も桂香と将棋を指していた。

万丈は己の悪手によって挽回できなくなった戦況を、最後までどうにかならないかと足掻く。

パチパチと。打つ度に鳴る木製盤のもとへ窓から入り込んだ桜がひらひらと舞い降りてくる。

 

「それで、どうするの?」

「おう………………んん?」

 

 赤い顔で悪戯が成功したように微笑む桂香と髪の毛をはねさせて惚ける万丈。

 

「詰み、だよ?」

 

 将棋盤で桂馬と成香によって動けない玉へと、飾るように桜が降りた。

 

 

 

 

 

 そうして、万丈は人生の絶頂を迎えた!

 

 

 

 

 

 桂香いわく「根負け」によって始まった交際は順調だった。

 

 

「清滝さん、今日は俺がめいっぱい楽しませて……」

「帰る」

「エーッ!! 待ってなんで!!」

「ちょっ……こっち来ないで! 何なのその鎖ジャラジャラしたタキシード!」

「下手な格好で清滝さんに恥かかせられないから気合入れてきたんだぜ!?」

「その気合と一緒に歩くのは一生の恥!!」

 

 初デートに万丈が空回った結果、全身にチェーンと鍵を付けた地獄タキシードによってすべてがご破算になりかけたり、デート中に迷子になったり、桂香が作ってきたお弁当に混ぜられたピーマンをそれだけ取り除いて食べ切り「器用か!」と叱られたりしたが、おおむね順調だった!

 

 

 

「ほうほう……君が噂の万丈くんなんやな? うちの桂香と付き合いたいゆーんなら……」

 

 しかし、万丈の試練は終わらない。

 

「わしら一門に将棋で勝ってからにしてもらおうやないか!!」

「ば、バンジョーなんかにけいかさんはわたさないぞ!」

「ぶちころす」

 

 ある日。暗くなるまで指してしまったので将棋道場から常連の小学生二人を家へ送ると、彼女とその父親が待っていた。幼い道場破りこと八一と銀子はなんとプロ棋士である桂香の父、鋼介の内弟子だったらしく万丈と桂香は不意の遭遇に交際の事実をうっかり口から滑らせた。

 

 当然、鋼介の万丈を見る目が「幼い弟子を送ってくれたマッチョ」から「娘にまとわりつく悪い筋肉野郎」に変貌する。かくして、清滝一門がよってたかって万丈を攻める構図が完成。

 

「どうしてこうなんだよ……」

「ご、ごめんね。付き合ってあげて」

「いや、いいんだけどな。ただ、この娘がずっと……」

「ぶちころす」

「……しか言わないのがおっかないぐらいで」

 

 娘を守りたい親。憧れのお姉さんを渡すまいとする少年。ただ殺意の眼光を向ける白い少女。

立ちふさがる三人相手に平手でボッコボコにされながら、万丈はぶっ倒れるまで指し続けた。

 

「手をつなぐまでなら許す!」

「手!? 公然と手つないでいいんすか!? 桂香さんいいのか!?」

「待て、なんでそないに喜んどるんや。付き合っとるんだよなお前ら」

「うん。でも彼こういう人だから」

「……けいかさん。ホントにいいの、コレで」

「ふふ、慣れちゃった」

「…………くー……ぶちこ……」

 

 甲斐あって。万丈は勝利はもぎ取れなかったものの、その根性を認められ交際は一応許された。

当初とは違う意味で反対されそうになったが、許された!

 

 

 そして季節をめぐりながら万丈と桂香の日々は続いた。

 

 

春は互いに初めての恋愛を手探りで距離を縮め。

夏は海や祭りを堪能し。

秋は体育祭や文化祭を燃え尽きるまで騒ぎ。

寒い冬は身を寄せ合って道を歩く。

 

 まさに順風満帆。

世に言うリア充とは俺のことであると万丈が図に乗る程度には最高の人生を謳歌していた。

 

 

 

 そんな順風満帆で人生最っ高なリア充ライフまっただ中の高校三年の四月。

 

 

 

「万丈くん。私、本気で女流棋士になりたいの。だから……だから……」

 

 

 ――別れよう?

 

 

 窓の外で無風の土砂降りが世界を濡らす中。万丈は膝から崩れ落ちひび割れて砕け散った。

 

 

 

 リア充、体よくフラれたってよ。

 

 

 





 ボルテックフィニーッシュ! イエェーイ!

 もし桂香が女子校出身と判明した場合、この話は隠れ身の術でドロンします。




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桂香と八方くん


 これを読んだあなたは「桂香ってこんなキャラじゃ無くね」というだろう。
 だが待ってほしい。某 銀〇の姉上もメガネとチャイナには良いお姉さんだが、ゴリラ相手には姉ゴリラの本性を表すだろう。それと同じ理屈だと採点を甘くしてほしい。

 無理か。


 

 

 私、清滝桂香には悩みがある。

 

「清滝さん、君が好きです!」

「いつも通りに切り捨てるね」

「いつも通りにゴメンされた!?」

 

 高校入学直後から毎日のように告白してくる八方万丈くん。彼がその元凶だった。

 

「くそぅ今日も同じ展開なのかよぉ……」

「で、今日はなにが変わったの?」

「昨日ようやく届いた『恋が成就する開運ナンバースティック』を着けてきた……!」

「それでどうしてうまく行くと思ったの!?」

「だよなチクショウ!」

 

 取り出したスティックをなにが開運だー! と泣きながら膝で蹴り折る姿を苦笑いで眺めた。

こんなやりとりが、もうかれこれ二ヶ月も続いている。

 

 

 きっかけはクラスメートの堀戸千絵。

どこから聞きつけたのか私がプロ棋士である清滝鋼介の娘だと知った千絵は、入学早々立ち上げた将棋部に私を入部させようと勧誘してきたのだ。

 

 嫌だった。確かに私は父に将棋を教わっていた。でもそれはもう昔の話で、今は将棋の存在なんて考えたくないほど嫌いだった。

 

「一回だけ顔出してくれるだけでもいいから! 顔だけ、顔だけ!」

 

 問題はそう言っても千絵が引き下がらなかったこと。

教室でお手洗いで、ときにゴミ箱に隠れて待ち伏せられて。あまりのしつこさにいい加減疲れてしまった私は、ナンパ男のような提案につい妥協してしまい彼女に連行されたのだ。

 

「よろしくお願いします」

「……よろしくお願いします」

 

 そこで指したのが部員の八方くん。

将棋歴は浅いというそのクラスメートには悪かったけれど、連れてこられて不機嫌だった私は適当に相手をしてさっさと帰ろうと乗り気じゃなかった。定跡もなにもないような序盤の動きで、思惑通りにすぐ終わるだろうと侮っていたのも束の間。

 

 

 その一局が私に火を灯した。

 

 

 久しぶりだった。

 頭の中に将棋盤をいくつも広げるのも。

 駒を持つ手が踊るように動くのも。

 思い描いた筋を盤面で実現することも。

 相手は次にどんな手を指してくるんだろうってワクワクするのも。

 

 ブランクも将棋が嫌だってことも忘れて、目の前の将棋に没頭した。

 

 この手はどう? なんでそんなところに……そっか! そこにいかせるほど甘くないよ。そんなのじゃダメ。これで形勢はこっちのもの。え、さっきの悪手が!? だったらこう!!

 

 熱かった。冷めきっていた心の奥に火を付けられたような興奮があった。

 

「ありがとうございました! 八方くん、でよかったよね?」

 

 対局は私の勝利。満足感と興奮冷めやらぬまま八方くんにもう一局の約束を取り付けた。

 

「清滝さん、好きです!!」

「え!? えーと……友達から始めましょ」

「ぐあああっ……」

 

 それは悪手だったと三日後の私はその日の私の迂闊さを呪った。

どういう訳か、翌日から彼は私に付き合ってほしいと付きまとってくるようになった。最初に断ったときにお友達から始めましょう、なんて言ってしまったのが失敗だったと後悔する。

 そう返事をされて本当に友達になろうと接してくる奴があるか。そして一晩たったらまた告白してくる奴もいてたまるか。

 

 最初は困ったことになったな、と嘆息した。だって、好きでもない相手にそんなことをされてもはっきり言って鬱陶しいだけ。

 もう一人のしつこい方は流石にそんな私の状況に同情してくれたのか、もう部活に勧誘をしてくることは無くなった。要するに追ってくる人が変わっただけ。前とは別の理由で将棋を嫌いになりそうだった。

 

 

「賭け将棋?」

「そう。それで私が勝ったら、もう告白なんてして来ないで」

 

 八方くんからの猛アタックが一週間ほど続いたころ。

そろそろなんとかしたかった私は千絵に相談した。小学校からの腐れ縁だという彼女なら彼をどうにかする方法を知ってそうだったからだ。

 

「もし八方くんが勝ったら一回だけデートするぐらいなら付き合ってあげてもいいよ?」

 

 他の友達も交えて相談し検討した結果、八方くんに賭け将棋を持ちかける案を採用した。

彼の将棋は定跡外の手ばかりで面白かったけど、だからこそ粗だらけで付け込める隙も多い。最初に指した時は油断して拮抗したが、最初から本気で指せばブランクのある私でも間違いなく負けたりしない。それぐらいの実力差なのはわかってる。

 

 万丈の頭じゃそんなの測れないからデートを餌にすれば後は楽勝、とは悪い顔した千絵の談。

騙すようで悪いとは思ったが、賭けなんて騙される方が悪いのよと彼女に背中を押された。

 早く解放されたかったのもある。今は銀子ちゃんたちの手前、家では二人のお姉さんとして色々気を使わなければならない。それは苦じゃないけれど、学校でまで気を使うようになるのは勘弁してほしかった。

 

「あー……」

 

 私の提案に八方くんは難しい顔をしていた。一も二もなく飛びついてくると予想してたのに。

 

「嫌なの?」

「そうじゃねぇんだけど……なぁ、俺が勝ったときの条件変えてもいいか? デートじゃなくて」

「……何?」

「俺が勝ったら、これからも告白するのを許してくれ」

 

 予想外の返答。その妙に遠回しな要求に疑問符が浮かんだ。

 

「勝ったら付き合ってくれ、じゃないんだ……?」

「そりゃそうだろ。こんなので嫌々付き合ってもらったってなんも嬉しくねぇよ」

「ふぅん」

 

 景品じゃねぇんだから、と当たり前のような顔で駒を並べだす八方くん。

変なとこ律儀だなーと対面に座りながら、彼への評価をすこし改めた。

 

 そして、その対局は――――。

 

「う、そ……っ」

 

 私の、負け。

 

 最初に対局したときよりも格段に強くなっていた。あのときから本格的に将棋の勉強をし始めたそうだ。後にその勉強の中身を聞いてみると一部を除けば初歩の初歩、むしろそんなこともやらずにあれだけ打てていたのかと気づいて驚かされた。

 

「ふぃ~……」

「……」

「………………なぁ、清滝さ」

「八方くん」

「ん、どうした……?」

「指そう」

「え」

 

 でもそのときはなにもかもどうでもよかった。

ただ悔しさで一杯だった。悔しさで内側から焼け焦げるような感覚も久しぶりだった。

 

「いいから。もう一局」

「あの、賭けは……?」

「何度でもしてくればいいでしょ全部フッてあげるから! そんなことより将棋!!」

 

 髪の毛が変にはねてるその男子を逃がさず、その日は勝ち越すまでムキになって連戦した。

 

 

「清滝さん、俺は貴女に夢中でっす!」

「私は詰将棋解くのに夢中だからごめんね」

「二手で即詰みした!?」

「そろそろ諦めて告白してくるの辞めない?」

「そんな! 俺に死ねってのかよ!?」

「なら私が告白受け入れたら八方くん死ぬよね」

「そうなったら完全勝利の喜びで不死鳥の如く生まれ変わるって!」

「今のところ不死鳥どころかゾンビだよ?」

 

 大げさに嘆く八方くんをバッサリと切り捨てる。なんだかんだと関わってる内に遠慮するような間柄ではなくなっていた。あと告白を断るレパートリーがやたらと増えた。遺憾だった。

 

 私はほんのすこしだけれどまた将棋に向き合い始めた。

まだ父に……師匠に向き合うのはためらってしまって、隠れてこっそりと、だったけれど。八方くんを相手にするにはまだそれで十分だったから。

 

 

 こうして私には、何ヶ月たっても毎日のように告白してくるライバルができたのである。

 

 





 己の理解力の無さを屁理屈で誤魔化そうとしたことを深くお詫びいたします。

 誰か代わりにもっと書いてくれ桂香ヒロインの小説……! 八銀も天衣も良いけども!


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元カレと師弟


 過去と現在の話のシャトルラン。キバかな?

 そんなわけで現在編。たとえどんなに続けてもアニメの範囲で終わる模様。



 

 

「ただいま~」

「おう、おかえり」

 

 俺、九頭竜八一が新たな弟子、夜叉神天衣の指導を終えて部屋に帰ると万丈の声が返ってきた。

 

「風呂にするか? 飯にするか? それとも……」

 

 もう夜なのになぜか電気のついてない廊下で万丈らしき珍妙なシルエットが新婚三択っぽいなにかをぬかしている。また変なことをやりだして……と呆れながら明かりをつけると。

 

 

「この娘たちと将棋にするか!?」

 

 

 そこにはJSが実る筋肉が屹立していた。

 

 

「師匠っおかえりなさい!」

「バンジョーすごーっ! みんなつかまってるのにビクともしないや!」

「っけ、けっこう高いのですぅ!!」

「わァ、たかーいたかーいダヨー!」

 

 正確にはJS研のみんなが万丈の伸ばした腕に掴まって、そのまま持ち上げられていた。片腕に二人ずつ、計四人の小学生が万丈の腕だけで宙ぶらりんで楽しそうにしている。

なにその羨ましいの!?

 

「いや、なにやってんだよ!?」

「仕事で疲れて帰ってきた九頭竜先生に驚きと笑いを提供してやろうと思ってな」

「反応に困るわ!」

「ま、ホントは何人同時に持ち上げられるか試してたんだわ。ねー」

『ねー!』

 

 『ゴリラ問答』Tシャツの万丈が同意を求めると、腕から幼い四重奏が返事をする。留守番を頼んだのはこっちだけど数時間で手軽に仲良くなりやがって……。

 

 今日は家でJS研の日だったが帰りが少し遅くなりそうだったので、万丈が桂香さんと予定が合わず時間が空いていたので留守を任せた。女子小学生だけだとちょっと安全面に不安があるし。

 

「ともかく、留守番ありがとう。助かった」

 

 大成功ー、と降ろした小学生たちとハイタッチする万丈に礼をいうとひらひら手を振られた。

 

「こっちの台詞だ。今やってる翻訳が女児向けの本でよ、ナウなヤングの意見聞けて助かったわ。

仕事の方もはかどったし、またいつでも呼びな」

「ナウなヤングって……でも翻訳の仕事ってそういうのも必要なんだな」

「流石に女子小学生の感覚は直接聞かなきゃわかんねぇからなー」

 

 あっけらかんと笑う万丈の姿を見て、俺はこっそり見直した。

俺はプロ棋士として指導対局をすることもあるが、相手はほとんどが年上だ。だから現竜王という肩書があっても素直に指摘を受け入れてもらえないことが時々ある。

それを踏まえると自分の本業への意見を戸惑うことなく子供に聞ける万丈ってすごいのかも……。

 

「あと恋愛相談にのってもらった」

「それは小学生に聞くことじゃねえよ二十五歳!!」

「最終的にオスの白馬型バイクより足速くなって校庭から将棋で求婚という答えにたどり着いた」

「明後日の方向に走り出してる!?」

「なんか行ける気がする、もう誰にも止められねぇ!」

「止めろー!? 人生の棋譜を汚しぬく詰みに一直線だから!!」

 

 どう考えても桂香さんに迷惑だから絶対止めろ! 前言撤回。こいつただのバカ!!

 

「んで八一、どうすんだ飯か風呂か。もしくは筋トレからのプロテインか」

「三つ目変わってるし……俺は別にそんなムキムキになりたくは」

「筋肉つけたらさっきのができるぞ」

「……」

 

 ちょっと悩んだ。

 

 

 

 ☖☖☖

 

 

 

 そんな風に師匠と万丈さんが楽しそうにやっていた日から何週間かたったころ。

 

 

「どーしたあいちゃん。何か用かい?」

 

 わたし、雛鶴あいが師匠とケンカして大先生のお家へ家出して三日目。

夕方、桂香さんに負けた万丈さんが台所でお皿を洗ってる所をのぞいてたら声をかけられた。隠れて様子を伺ってたのに『スパークリング泡ぁ!』Tシャツの人にバレた。

 

「いえ、その……」

 

 聞きたいことがあるのにどう切りだせば良いのか迷って下を向いてしまった。

 

「……じゃあ話し相手になってくれよ! 手は皿の相手してんだけど、口と頭が暇しててさ」

「お話ですか……?」

「このままじゃこの手強い汚れにイラつきそうなぐらい暇なんだ、助けてくれ」

「……なら、はい」

 

 洗剤のついた手で小さくおいでおいでされて、台所に入る。

手伝いますか、と聞くとこっちはいいのいいのとやんわり断られた。ちかくにあった踏み台をイスの代わりに座るとすっごく大きい万丈さんの背中がさっきより大きく見えた。

 

「つっても何の話すっかなー……あいちゃんは何かないか、友達の話とか」

「お友達……?」

「そっ。お友達がなんか悩んでたーとかでいいぞー」

 

 万丈さんの声が洗い物の音と一緒に降ってくる。

 そうだ。お友達の話ってことにしてわたしの相談を聞いてもらおう。それなら、家出の事情を知らない万丈さんにもわたしの悩みだってわからない。

 

「……学校のお友達の話なんですけど」

「ふんふん」

「そのお友達がし……か、カレシに浮気されたんです」

「小学生の話だよな?」

 

 万丈さんがびっくりしてふり返る。そんなにおかしいかな?

クラスメートの美羽ちゃんだって、家庭教師のお兄さんと付き合ってるって言ってたし。そういうと万丈さんがゴリラみたいに顔を難しくしてお皿に向きなおった。

 

「んんーそっかぁ……さ、最近の小学生って進んでんナー……わるい続けて」

「そのお友達は年上のカレシさんとドーセーしてるんですけど」

「最近の小学生って進んでんな!?」

 

 再び万丈さんが勢いよく振り返る。お笑い芸人のコントみたいだ。

 

「そのカレシがよそで他の女の子の手を取ってイチャイチャしてたんです」

「……もしかして、その女の子も小学生?」

「はい、お友達と同い年でしかも名前まで同じなんです」

「その男をカチ割らなきゃいけない気がしてきた。年上として」

「それは! 困り、ます……お友達が……」

「あー……そーだな、ウン」

 

 筋肉ムキムキの万丈さんと師匠とケンカになったら間違いなく師匠が負けちゃう。スイカ割りみたいに師匠がタテにさけちゃう。

 

「それで、お友達はそれ見てどうしたって?」

「ケンカしちゃって口もきいてないそうです。謝られたそうなんですけど、ゆるせなくて……」

「そりゃなぁ……」

「あと相手の女の子は今度会ったら全力で立場を教えてあげるみたいです」

「恐ろしい教育!? どうしてそうなった!!」

 

 万丈さんの髪の毛がウサギさんみたいにはねた。ビックリしたときのクセ、だったっけ。

 

「お母さんに相談したら『泥棒猫は徹底的に潰して立場を教えなさい』って言われました」

「恐ろしい教育ぅ……泥棒猫とか、小学生の娘にする教えか……?」

 

 万丈さんは渋い顔してるけど、お母さんは師匠へのアピールの仕方を教えてくれるわたしの心強い味方。昔お母さんにお父さんとどうやって結婚したのと聞いたら「お母さんがアプローチをして始まった大恋愛の結果」らしいからお母さんが教えてくれるアピールはきっと間違ってない。

その話を横で聞いてたお父さんはなんでか苦笑いしてたけど。

 

「か、噛み合いになりそうなら周りと相談して止めような……?」

「そんなことしませんよ?」

 

 だからあの天衣って娘とは将棋でオハナシをする。師匠に将棋を教わってるならそのうち必ず研修会にやってくる。そのときてってーてきにしよう。

 

「ならいいんだけどよ……とりあえず返り討ちにならないように気を付けんだぞー?」

「はい、大丈夫です」

 

 だってわたしにはりゅうおうである師匠が認めてくれた才能がある。あの娘もそうらしいけど、わたしは研修会でもたくさん勝てるくらい成長してる。入りたての娘に負けたりしないもん。

 

「でもその女の子がどうってことより」

 

 わたしに黙ってよりにもよってかわいい女の子を弟子にしてたのは、もちろん許せない。

わたしだけが師匠の弟子だから。師匠の弟子なのはわたしだけの特別だとおもってたから。

でもそれより。

 

 ――――俺は別に、あいに興味深々とか、全然そんなことあるわけ……!

 

「ウソをつかれたり、師匠に興味がないって言われたことが、すごくモヤモヤして」

 

 なにか隠しごとをしてるのは師匠のクセで気づいてた。それを問いつめたら、おじさんの指導対局をしてるとウソをつかれた。

 あのときからずっと胸の奥がすごくざわざわして気持ち悪い。これはきっとそのせいだ。

これがある間は師匠と会いたくない。師匠と会ったとき変な顔をしちゃいそうだったから。そんな顔を師匠にだけは見せたくなかった。

 

 そういうと万丈さんの手が止まった。髪の毛も落ちついた。

 

「……大事なことをちゃんと言ってくれないってのは寂しいよなぁ」

「万丈さん……?」

 

 万丈さんが小さな声でつぶやいた。なんだか悲しそうな声だったような気がする。

 

「あぁ、わるいわるい……モヤモヤする、か。苦しいよなぁ。口でうまく説明できないもどかしさってのはすごく嫌なモンだよな」

「はい。でも……このままは嫌なんです」

「おぉ、そりゃいい傾向だな」

「だから万丈さん、質問してもいいですか?」

「お、何だ? 何でも答えちゃうぜ」

 

 許可をもらってようやく、万丈さんに最初から聞きたかったことを聞く。

 

 

「桂香さんに三百回フラれてもガンバれるヒケツを教えてください!!」

「だーいぶ慇懃無礼な質問だっ!!」

 

 

 何かと思えばそんなこと聞きたかったんかーい、と万丈さんがのけぞってまた髪がはねた。

 

「その話の流れでなんでそんなこと聞きたくなったわけよ!?」

「それがわかったらイヤな気持ちを無くして師匠と会える気がするんです!」

「いやよりにもよってなんで俺のー…………あー……桂香さんか?」

「はい。桂香さんに相談したら『本人に聞いて』って」

「桂香さぁーん!! いや別にいいんだけども!」

「だって変じゃないですか! 好きな人から全然興味ないどころかお付き合いしたくないって毎回言われてるのに全然こりないなんて、なんでそんなに平気そうなんですか!?」

 

 すごく変だ。もう別れたのにもう一回付き合ってって言うために何度も何度も対局して勝てなくて、もしも勝ったってお断りされそうなのは子供でもわかるのに諦めてない。だから今日も桂香さんのお願いをきいて晩御飯を作って洗い物をしてる。

 わたしなんて師匠からドア越しに一緒にいるのが嫌になったわけじゃないって言われてもまだモヤモヤするのに。

 

「変って言われてもなぁ。桂香さんに拒否されてないから、に尽きるんだよなぁ」

「そうなんですか?」

「そりゃ『もう二度と来ないで~!』とか言われてたら、いくら俺でも引き下がるわ」

「じゃあ桂香さんはどうして……?」

「…………さぁ? おかげで俺は桂香さんに会いに来れるんだから理由はなんでもいいって」

 

 そういえば万丈さんは桂香さんにとってすごく調度いい練習台なんだって師匠がいってたきがする。万丈さん本人の忙しさもあって月に一度か二度くらいしか対局を挑んでこないし、桂香さんの都合を最優先するから無下にしづらいとか。

 

 前に見たドラマでそんな登場人物がいた気がする。その人は散々悪い女の人につくしたのに利用されて捨てられる、かわいそうだけどちょっと気持ち悪い男の人だったと思う。

 桂香さんは、本当は万丈さんのことをどう思ってるんだろう。

 

「他は……うん。あいちゃん、単純接触効果って知ってるか?」

「たんじゅん……?」

「簡単に言うと、一緒にいる時間とか回数がたくさんあると相手にその気がなくても自分と仲良くしたいかもなーって思ってもらえるっていう話だ」

 

 質悪い友達が言ってたことそのまんま言ってんだけどな、と万丈さん。

 

「例えば、あいちゃんがこれからも八一のところで内弟子をしてれば、前よりあいちゃんを大事にしたいなーって思わせられる、とかな。たくさん会ってればウソを吐かれたりしても、もうするなーってちゃんと怒れるぞ」

「……お友達の話なんですよ?」

「だから例えば、だろ?」

 

 へっへっへと笑う横顔を向けられて、プイッと顔をそらす。ほっぺもふくれた。

 

「だから、今はお断りされてても桂香さんにいっぱい会って興味を引きゃいいってわけだ。同じやり方で八一たちとも仲良くなれたしな」

「そうなんですね……」

「まぁ長いこと続けてたら桂香さんに会いに来てるのか、八一たちに会いに来てるのかわかんなくなってきてんだけどな!」

「変わっちゃってます! 目的!!」

 

 冗談だよ半分、とカラカラ笑う。ぜんぜん冗談に聞こえない。

 

「あとはー……将棋に勝ちたいから、だな」

 

 わたしはハッとして膝をギュッと握りしめた。

 

「賭け云々より負けっぱなしはゴメンだわ。一々落ち込んだままじゃいられねぇって」

「っ……」

 

 負けたまま終わりたくない。

 

 同じことをお母さんに叫んだのはついこの間のこと。なのに今わたしなにやってるんだろう。このお家でも将棋は桂香さんと指せるし大先生だって教えてくれる。それに不満なんてない。

 

 でも、わたしは師匠に教わりたい。師匠に教わって強くなりたい。

 だけど、モヤモヤしたまま師匠のところに戻りたくない。モヤモヤが変に残りそうで。

 

 でも。だけど。でも……。

 

 

「あいちゃん」

 

 

 顔をあげると、いつのまにか万丈さんが目の前でしゃがんでいた。

 

「好きな人のことでモヤモヤするのは、もうしょうがねぇんだ。だから半端に納得しないで、そのモヤモヤ一度思いっっ切りぶつけてみな」

 

 優しい目がまっすぐ向けられる。その手を見ると洗剤で泡だらけだった。

 

「そしたらきっとスッキリして晴れると思うぜ」

 

 初めて会ったときもこんな風に目を見つめられたのを思いだす。

あのときわたしは万丈さんと桂香さんがうまく行くのを応援するって口に出したんだった。

 

 本当は桂香さんにカレシさんができれば敵が少なくなるとおもったから。

師匠は桂香さんにすごくデレデレするときがある。師匠が隠せてるとおもいこんでるエッチなマンガとか本。その開きやすいページは桂香さんみたいにお胸の大きな女の人ばっかりだった。

 だからきっと師匠はちいさい女の子とそういう大人の女の人が好みなんだ。わたしだっていつか大人になったら大きくなるもん。多分。空先生よりは。

 

 だからそれまでに師匠と桂香さんが万が一にもお付き合いし始めないように、万丈さんが桂香さんのカレシになってくれたら安心だとおもってた。

 

 そういうズルいことを考えていたのがなんでか、すごく恥ずかしくなって目をそらした。

なのに万丈さんはクシャっと笑って。

 

「……って、いうことをお友達に言ってあげな。少しは助けになると良いんだがな」

 

 え? っとなってから思いだした。そうだ、お友達の話ってことにしてたんだった。

 

「あ、はい、すっごくサンコーになりました! きっと、お友達も!」

「そりゃいいや……っうおヤベ洗剤垂れるっ」

 

 慌てて洗い場に戻ろうと、万丈さんの背がぐんっと伸びる。その背中がさっきよりもっと大きく見えた気がした。

 

「……うんっ」

 

 万丈さんにも届かないぐらい小さく息をはく。

 師匠のことはまだ許せないし、モヤモヤは無くなってない。でも今度は師匠とちゃんと話せる。そんな気がした。

 

「あいちゃ~ん、お風呂沸いたから一緒に入ろ~?」

 

 台所の外から桂香さんがひょっこり顔を出して、わたしを呼んでいる。

 

「は~い! あ、万丈さん!」

「おん?」

「お風呂からあがったらわたしと一局おねがいします!」

「……いいぜ、負けねぇぞ~」

「はい!!」

 

 万丈さんの強さはこの間のJS研でわかってる。ホンヤクのお仕事の合間にわたしたちとも四面指しでやってくれたから。今は強い人と指して今より強くなりたかった。あの女の子に負けたりしないように。

 

 キョトンとしていた桂香さんが、やる気になったわたしを見て急にふふっと笑った。

 

「どうしたんですか?」

「ううん、元気になって良かったなって」

 

 桂香さんが万丈さんの方へ向いて微笑む。

 

「あいちゃんとどんな話してたの?」

「……いやぁ何も? ちょっと手強い汚れに洗剤つけてただけ」

 

 

 

 

 それから。

 

 結局わたしは夜叉神天衣ちゃんに負けちゃった。だけど負けたくない、勝ちたいライバルができてもっともっと強くなりたいって改めて思えた。

 師匠ともちゃんと話してわたしが一番なんだって確かめて、天衣ちゃんよりたくさん指導対局をしてもらって仲直り。モヤモヤなんてすっかり消えちゃった。

 

 万丈さんにそれを伝えたら、少し困った顔をしてから「良かったな」ってすごく喜んでくれた。

 

 

 





 解決はしない。でもできることはやる。それを女は知っている。


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桂香とオヤカタ

(前回のアンケートを確認)ふむふむ。




 

「八方くん、自分でお弁当用意してるの?」

「おう、弁当に筋肉に効くおかず入れてくれって頼んだら、なら自分で作れって怒られた」

「そりゃそうでしょ。急に筋肉に効くものって注文されても困るもの」

 

 年を越して三学期。くり返し対局している内に八方くんとはかなり仲良くなっていた。

 個人的な事情で父にも八一くんたちにも頼れない以上、研究するとなると学校の将棋部に協力してもらうしかない。そうなると相手になるのが部内で段違いに強い八方くんだけなのだ。

 実力の方は私と互角ぐらいでも感覚のみで指しているのか、彼と将棋の話をすると同じものの話をしているのか不安になるほど噛み合わない。

 

「おかげで鶏肉料理は自信あんだわ。これとか自信作。おひとついかが」

「じゃあ貰おっかな。代わりに私の玉子焼きあげるね」

「清滝さんの玉子焼き……家宝にします……!」

「今食べて傷むから。はむ……あ、これ美味しい」

「あぐっ…………ふっわぁ、天使が迎えに来たような美味み!!」

「ようなじゃなくて迎えが来てる!? 玉子焼きに猛毒仕込んだ覚えないよ!?」

「バッチリミエター……この玉子焼きに比べれば、俺が作った料理はブタの餌ぁぁ……」

「ブタの餌を美味しいって言った私の立場。じゃなくて戻ってきて!」

 

 ウサギの耳のように突然はねた癖っ毛の先から出かかる魂を、その頬をパンパンはたいて体に押しこむ。その目がバッチリ開いてこっちをミタころには、彼の顔は腫れて私は肩で息をしていた。

 

「清滝さん、胃袋を掴まれました。好きです」

「……一口で幽体離脱する人にごはん作るのは嫌……!」

 

 相変わらず八方くんは私に告白してくる。何度断っても諦める気配がなかった。

 

 

 

――――万丈? いい奴だよね。桂香の前だとウザイし気持ち悪いけど。

 

 

 同級生を捕まえて彼のことをたずねると全員がそう答える。八方くんはそんな人だった。

 

「八方ぁ~またお前か~!」

「やっべ、大杉先生だ!!」

「この教師大杉から逃げられると思うな~!」

「ミスターオオスギ、ハエーイ!? オヤカァタァ!」

「ここは俺が引き付ける。このタコを頼んだ! キバっT、鷹山、逃ゲルロォ!!」

「八方ァ!」

 

 ある日の昼休み。タコ一匹を片手に教育指導の先生と追いかけっこする八方くんを見た。

 

 八方くんはいつも中心にいる。人の輪の中ではなく、騒ぎの中心にだ。

 気難しいクラスメートと険悪になったかと思えば翌日にはゆで卵とハンバーガーを食べながら仲良くしていたり、誰とも話したがらない女子に話しかけて土日を跨ぐと急に明るくイメチェンした彼女と肩を組み「みーたん、みーたん!!」とアイドルの話で騒いでいる姿があったりと、その内学校中の人間と友達になりそうなくらい人と仲良くなるのが上手だった。

 

「あ、清滝さん好っきでっすぅ……!」

「先生にコブラツイストかけられながら条件反射で告ってくる人は嫌」

 

 ただし、私に対してはその限りじゃなかった。

 

「くっそぉ、てめぇこの堀戸ォ!」

「フーッハッハッハー万丈また騙されてやがんの!」

「どこまでも反省しやがらねぇなぁ……仕方ねぇ、やっちまうぞ鷹山!!」

「食らえ狩ってきた生ダコ!」

「うひぃっタコ、ダゴォ!? アタシ、タコ嫌いなんだよー!!」

「お前が持ってこさせたんだろうが!?」

 

 そうして仲良くなった相手と一緒に千絵と起こす騒動でバカ騒ぎをするのだ。千絵の運が良いのか実は計算してるのか、大事になるギリギリのところで丸く収まってしまう。

 でも、千絵に関しては本当に反省してほしい。八方くんに変なことを吹き込んだおかげで、なぜか私がマッチョ好きって周囲に思われてしまっているのだ。あの日は帰りにパフェを奢らせた。

 

 

「今日こそは一点とってやるぜサッカー部!」

「……まず真っ直ぐ蹴れるようになってから来なよオヤカタ」

「おらぁ!」

「ぅらぴすっ!?」

「赤羽ぁ!?」

「なんでそのモーションで斜め後ろに飛ぶのさ!?」

「白銀ニューステージの向こうで、婆ちゃんが俺を……」

「しっかりしろ赤羽!? お前の婆ちゃん今朝もみんなと太極拳してたぞ!!」

 

 体育の授業中、八方くんのシュートが同じチームの赤羽くんの顔面へ突き刺さった。仕留められた被害者を加害者が慌てて保健室へ運んで行く。

 

 八方くんは得意不得意が非常に極端だった。

運動神経はあるのに球技の類はすべてノーコン。英語なら外国人の先生と変なTシャツの話で盛り上がるくらい得意だけど、音楽や美術だと周りが正気を失いかねないおぞましさがあった。

 

 なんというか才能が少しでもあるなら百点、ないならマイナス百点、みたいな人。将棋もある方の中の一つなんだろう。ない方は軒並みヒドイままだ。

 

「この球技大会こそはゴールを決めてやるぜ青葉ぁ……!」

「オヤカタいつになく真剣だ……一体何が」

「俺がゴールを決めたらな……清滝さんの買い物の荷物持ちができるんだよ! 実質デート!!」

「それ自分でもデートじゃないって気づいてるよね?」

「くらえ万丈ヘッドクラッシャー!!」

「ヘディング……ウソだろ真っ直ぐ飛んだ!?」

「足がダメなら人間の一番の武器を使うだけだ!」

 

 ただし、私が関わるとその限りじゃない。約束をした日から球技大会まで朝と放課後に一生懸命シュート練習をしていたのを知っている。とりあえず買い物は千絵たちと一緒に八方くんが悲鳴をあげるまで買いこんだ。

 

 

「清滝さ……あー……」

「……なに?」

「なんでもねぇや」

 

 友達とケンカしたりして、私が疲れてるときや不機嫌なとき八方くんは告白してこない。

いつもふざけてるようで、相手が本当に嫌がる一線はよっぽどじゃないと踏み越えてこないのだ。

 

「食うか? ひとやすミルク」

「…………うん」

「ほれ」

 

 それは私相手でも変わらない。渡されたキャンディを舐めると口の中にミルク味の優しい風味が広がった。

 

 

 一度決めたら一生懸命で行動力があって、人の心をこじ開けて引っ張り出してくる。けど無神経じゃない。

 

 でもそれが私の前で発揮されるのは稀。好きだと言いつつ本当は私のことが嫌いなんじゃないだろうかこの男。

 

 

「そもそもなんでそんなに私にこだわるの?」

 

 疑わしかったので直接聞いてみた。

 

「清滝さんが好きだから」

「じゃなくて。なんでそんなに、その、好きなのかって聞いてるの」

「……引くなよ?」

「引くような理由なの?」

「そうじゃねぇけど……堀戸にも聞かれて答えたら『本人には言わない方がいい』って止められてよ」

「……引くかどうかは聞いてから考えるね」

「怖ぇな」

 

 聞いたのを後悔しそうになりながら答えを促す。一度指した手に待ったをかけては棋士としての沽券に関わるから。それじゃあ、と八方くんが口を開いて。

 

「まず優しくて気配り上手なとこがいい。野球部の夏の応援でカネサソリちゃんが熱中症で倒れそうになってたとき真っ先に自分のタオルと水筒差し出したりさ。友達と話してるときも前に出るんじゃなくてちょっと後ろに引いて周りを上手く回すのは棋士ぽくってグッとくる。若干見通しが甘いとこも隙が有って良いし、それでいて負けず嫌いなのがたまんねぇ球技大会のときのラスト三秒とかな。それから頬に手を当てて笑ってるときの仕草が」

 

「待った、十分わかったから。もういいから」

 

 消防車の放水を浴びせかけられるような言葉の激流にストップを呼びかける。

 

「え、まだまだ全然言いたりてねぇ……」

「いいから……!」

 

 千絵の判断は正しかった。これは引く。なんでそんなところまで見てるのと引く。こんなの聞いてたら引きすぎて体温が上がってしまう。既にもう顔があつい。

 

 

「清滝さん、アイクレイジーフォーユー……」

「動きと言い方が気持ち悪いからごめんなさい」

「想像以上の全否定が返ってきた……」

「もう私なんか放っておいてこの間の女の子と仲良くしてれば?」

「この間の女?」

「日曜日に楽しそうに歩いてたじゃない。たまたま見かけたの」

「日曜……女…………ああ。あいつ男だぞ」

「いやそれは苦しいでしょ。フリフリの可愛い服着てたじゃないあの娘」

「……」

「……」

「…………」

「…………マジ?」

「マジ。あいつ色々あって引きこもってたんだけど、ようやく外を出歩けるようになったんだわ。本当にしたいこと親と話して解ってもらえたんだと」

「そう、なんだ……」

「それに俺は誓って清滝さん一筋だって」

「……それは別に聞いてないかなっ」

 

 今日も彼はへこたれない。胸を撫で下ろしてしまったのは不覚だった。

 

「清滝さん、お慕いしております!」

「もうちょっとシチュエーション考えてから出直してー」

「待て、渡り廊下のなにが悪いんだよ。こいつだって好きで渡り廊下じゃないんだぞ」

「渡り廊下のために怒る人初めて見た。でもなんか見下してない?」

「そりゃ下に見るだろ。いつも足で踏んでんだから」

 

 いつまでも彼は諦めない。こんなくだらない話すら楽しいのはきっと気のせいだ。

 

 

「はぁ……」

 

 自室のベッドに寝転ぶ。考えるのは八方くんのことだ。

そろそろ一年近くこんなことを続けているのに止めるような気配はない。何度も何度も好きだと言えば、押し切れる女だとでも思われているのだろうか。あいにく私はそんな簡単な女では――。

 

「………………また断っちゃった」

 

 ――あった。

 

 自分でもビックリだった。顔も筋肉も別に好みではないし、対局して告白されてをくり返していたぐらいで何か大きなきっかけが有った、とかそんなことはない。

 

 冬のある日。家でその日の棋譜をノートにまとめる途中で用を足しに行ってチャックを閉めていたら、ふと八方くんを好きになっていると気づいたから始末が悪い。

 色んな意味で頭を抱え、部屋に戻る途中ですれ違った八一くんにすごく心配された。

 

 切羽詰まって千絵に相談した。他人を思い通りに操りたいという理由で心理学に詳しい彼女によると単純接触効果というものらしい。ついでに愛の告白というのは相手を肯定する行為だから、誰でもちょっとは持ってる褒められたい欲を刺激されちゃって好意を持ちやすくなるんだとか。

 

 ある種洗脳みたいなものだから気にしない方がいいそんな効果狙う男どの道ロクな奴じゃない相手はあの万丈、と説き伏せられた。

 

 が、もう色々手遅れだった。

一度自覚してしまってからずっと彼の顔が頭から離れない。好きだと言われるのを喜んでいる自分がいる。何度も何度も攻められる内に私の囲いは削りとられてしまっていたのだ。攻めてくる彼のことを無視できなくて、もう気になって気になってしょうがない。

 

 なら断らずに告白を受けいれればいい。わかっているのにそれができない。だって……。

 

「いまさら引っ込みがつかない……!」

 

 告白され続けて早九ヶ月。いまさらどんな顔をして受け入れればいいの……!

同じことを繰り返してきたせいで、反射的にお断りする変な癖がついてしまっていた。

 

 大体にして八方くんだって悪い。告白自体にありがたみがまるで無い。

普通、愛の告白ってここぞというときに意中の相手との関係を進める詰めろや必至の一手だろう。駒の価値で例えると飛車角だ。なのに彼は歩を進める感覚で告白をしてくる。需要に対する供給過多で価値の大暴落を起こしてるのだ。そろそろと金にも成らない歩になりそう。

 

 こっちは花も恥じらう年頃の乙女。もっとこう、思わずオーケーしてしまうようなシチュエーションと言葉を高望んだって許されていいはずだ。いつも通りのやり取りで受けいれてしまったら負けのような気がしている。

 

 

 そんなことを悩んでいる内に季節はもう春になっていた。

窓の向こうで立ち並んだ桜が咲き、気の早い桜木はいくつかの花弁を散らし出している。

心地良い風がそよぐ中で、私はいつも通りに八方くんと将棋をしていた。

 

 とは言っても、この将棋は私が優勢のまま終盤も終盤。どこを打てば逆転負けしちゃうのかを考える方が難しい完全な必至。それを窓側の席に座る八方くんがそれをうんうん唸りながら往生際悪く睨んでいた。

 

「あ、そうだ」

 

 ちらりと目だけが私へ向いて目が合ったと思えば、弾かれるように彼が顔をあげた。

 

「どうしたの? 逆転の手でも思いついた?」

「今思い出した。この間の話の続き」

「どの話の続き?」

「なんで俺が桂香さんのこと好きかってやつ。一番大事なのが言えてねぇ」

 

 これだけは絶対言っておかないと、と前置きする彼を余所にふわりと吹いた風が私の髪を撫で、桜の香りが鼻をくすぐる。そういえば今は二人っきりだなー、と思案する私に彼は気づかない。

だから、そのまま窓の外の桜を背にして。

 

 

「将棋の話すると、すっげぇ楽しそうに笑ってるのがめちゃくちゃ好きなんだ」

 

 

 ――――そう彼はクシャっと笑った。

 

 

 顔を盤上へ向け直す彼を余所に、私は動けなくなっていた。

 

 あぁ、もう。

 どうしよう。私の負けだ。投了だ。

 もしこんな心地のまま告白された日にはきっと――――。

 

「清滝さーん、付き合ってくれー」

 

 次の一手を考えてるうちにポロッとこぼれた、みたいな気軽さ。これで成功すると思ってないのが明確な、口をついて出たような告白だった。

 

 ……ふぅん。

 

 カチンときた。投了するのはやっぱりなし。何度も断ってきたこちらにも非はあるけど、こんな気分にさせておいてそんな緩め手を指してくるならこっちにだって考えがある。

 

「いいよー」

 

 いつも通りに断る声音で。

今までの中でも一番おざなりに伝えてきた告白に応じた。そっかー、なんて将棋盤を睨みながら頭を捻る彼を眺める。

 

 あつい。このままきづかなかったらどうしよう。いまさらなにをっておこらない?

木製盤の横にある対局時計が、やけにゆっくりと時間を刻んでくる。いつもなら、追い詰められるとこんな風に遅くなってって願うのに。今だけはもっと早く進んでと胸の鼓動が催促している。

 

 パチンと。彼が玉を逃して一秒。二秒。三秒。十九秒たってようやく、勝負相手が顔を上げる。

 

 

 髪の毛が、ウサギになった。都合の良い幻聴を耳にしたような変な顔だった。

 

 

 すかさず往生際の悪い玉の腹に成香を滑らせた。

 勝ったなんて思わせてあげない。絶対に逃がしたりなんてしない。

 

「詰み、だよ?」

 

 

 だってこれは私の完全勝利なんだから。

 

 




この後りゅうおうのおしごと!開始時までに三百回負けます。(アンケート反映)


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八方万丈:強化フォーム


 これをりゅうおうのおしごと!の二次創作と騙る勇気。



 

 

「オヤカタ早まるな! 考えなおせって!」

 

 蝉が合唱する晴天の1学期終業式。その直後のこと。

赤羽が自殺志願者を引き止めるように万丈をとがめた。

 

「大げさだな……別に危ねぇことするわけじゃねぇだろーが」

「いやいやいや! オヤカタだと地雷原をバイクで突っ切るのと同じだよ!」

 

 呆れてこぼす万丈のボヤキを青葉が青ざめた顔で否定する。

 

「まだ人生ながいゼ。命投げ捨てるのはモッタイナイよ」

「だから死ぬかって。キバッTまでなんなんだっつの」

 

 穏やかに諭すのはキバ=T=バッツ―。

三人とも万丈にとって特に気の置けない良い友人たちであった。

 

 三者三葉。それでも皆一様に万丈を案じて彼の計画をやめさせようと必死であった。

 というのも。

 

「ただ夏休み使って流行りの『自分探しの旅』に出るっていってるだけじゃねぇか」

「それが致命的なんだよこのド方向音痴が!」

「その流行りとっくに終わってるんだよ!」

「最悪アノヨへ迷子になるナ」

 

 野営装備を満載した愛用バイクにまたがる万丈へ三方向から反論が打ち返された。

その重装備は何だと青葉が問いただしてからずっとこの調子である。

 

 たかがひとり旅。しかしそれを行うのは他ならぬ八方万丈。

 

 数多ある万丈の欠点が一つ、方向音痴。

その酷さたるや、目的地が北にあれば西北西へ歩き出し、海へ集合をかければ砂浜ではなく崖の上へたどり着く。通学路ですら普段と違うルートを選ぶだけで迷う絶望的方向感覚。

 ひとり旅なんぞ始めた日には、最悪の場合はどこぞの樹海にでも入り込んで文字通り死ぬまでさまようハメになるのは火を見るより明らかだった。

 

 赤羽たちの懸念は至極まっとうな物。

だが、己が身を案じるがゆえの怒りに対し、万丈はやたらと不敵に鼻を鳴らした。

 

「そうじゃねぇんだよ。俺のこの旅は迷子になったら終わりじゃねぇんだ」

「じゃあどういうことなんだ」

「その方向音痴を治すために旅に出んだよ」

「治す? どうやって」

 

 半目で睨む赤羽に万丈は自信満々に答える。

 

「俺は一度通った道は流石に迷わない! そうだろ青葉」

「うん、まぁ……でもそれそんなドヤ顔で言うほどのことじゃないよね?」

 

 まったく自慢にならないことを誇る友人に青葉は心底呆れた。

 

 万丈は記憶力がある方である。

今までの人生においても自分に必要な道は、地図も勘も頼れないので目と脚で覚えてきた。

誤って入った道も一度通ればどこへたどり着くか忘れたことはない。地元の道は頭に入っている。

全ルート迷子済みだ。

 

 この方向感覚は筋金入りだが勝手知ったる道は例外。

 そこから導きだした方向音痴の治し方とは、つまり。

 

 

「日本中を迷って道を覚える!二度と迷子にならないための『日本一周迷子旅』なんだよ!」

 

 

「旅にデル前から頭がマイゴになってるゼこのバカ!?」

「そして旅の間はピーマンだけ食う! ついでに苦手を克服して健康的な食生活だ!!」

「むしろ不摂生ジャネーか!?」

 

 片手にピーマンをかかげながら吠えるバカのあまりに頭の悪い発想にキバが吠える。青葉など開いた口が塞がらなくなっている。残る赤羽は万丈へと当然の疑問をぶつけた。

 

「だいたいさ俺たちもう受験生なんだぞ。んなことしてる場合じゃないだろ」

「……あぁ。そんな場合じゃねぇから、無理にでもやるんだよ」

 

 うって変わって神妙な面持ちになった万丈は、雨の気配などない青空に手を伸ばす。

その腕は三か月前の万丈の腕とは似ても似つかぬ細いものだった。

 

「テメェらだってわかってんだろ。このままじゃ俺はどうにもダメなままだってな」

 

 

 桂香から別れを切り出された雨の日から、万丈は壊れた。

 

 

 顔面からは力が抜け常に上の空。酔っ払いの二日酔いでもこうはならないだろうほどやつれ、筋肉もしぼんだ。何も身が入らず将棋は全敗。素人の新入部員にすら負ける体たらく。

他にも習慣になっていた太極拳は体操と拳法を間違えまさかの習得。ヨガにいたってはうっかり宙に浮いて講師の河内がなんやと!? と腰を抜かした。

 

 当然、勉強も手につかず成績はがくりと落ちた。赤点で補習となるのを回避したのは運が良かったのか逆に悪かったのか。

 

「区切りをつけてぇんだよ……このままじゃ受験どころか年単位で腑抜けのままだ」

「オヤカタ……」

 

 別れを切り出された直後の万丈は崩れ落ちはしても、それを拒むことも揉めることもなかった。

曲がりなりにも彼氏として付き合う間に桂香の気持ち(・・・)はわかっていたからだ。

そうでなくとも生半可な覚悟と努力では彼女が目指す夢を達成するなど到底無理であることも。

自分と過ごすことに時間を割いていられないことも。

 

 わかっていた。

 わかっていたから素直に受け入れた。

 愛する彼女の夢のためだ、嫌われたからでもないのだしと己に言い聞かせた。

 

 ただその甘い考えが自分にとって想像を遥かに超えた悪手だったというだけだ。

 

 普通に会話を試みると、どこか鼻白んだ空気が二人の間を漂った。両者の温度差から生まれた凍りつく気まずさが、一切の容赦なく万丈をガリガリと抉った。

 

 後悔した。

 後悔したことが悔しかった。

 

 将棋のために別れたことが悔しいのではない。その程度で桂香を、その夢を素直に応援できなくなった自分が情けなくてたまらなく悔しい。

 

 方向音痴を治す。好き嫌いを無くす。ただのついでだ。

本当はズルズル引きずるそんな女々しさと器の小ささを何もかも振り切るための傷心旅行なのだ。

 

 

「んじゃなテメェら、新学期で会おうぜ!!」

 

 

 だから万丈はピーマン片手にバイクを吹かして旅に出た。日本地図を轍で埋めるのだ。

 

 

 

 

 

「あん? なんだこの看板。日本語書いてねぇじゃねぇか」

 

 そして気付いたときには国外へ脱出していた!

 そのまま世界一周迷子旅が始まったのである!!

 

 

 

 

 

「桂香さんー! アイラビュー!!」

「フン……日本の猿が俺の『風都タワー』を理解するとはな」

「へっ、路地裏のロバ男爵が俺の歌に耐えるとはな。仲間内だと鼻歌も封印させられたのに」

「お前は……強いな……」

「……楽しかったぜ、お前とのデュエット」

 

 とある貧民街で万丈は夢破れたロックシンガーと固く握手を交わした。

フラフラ迷っていると、旅行者を狙いのスリに財布と一応あったパスポートを奪われた。

同じ被害にあったサーファーと一緒にそれを追った先で、貧民街のリーダーである彼から「ここで弱い者に与える物などない。奪い返したければお前の強さを見せろ!」となぜかチェスを挑まれなんやかんやでデュエットして和解。

 

 握手を交わす二人の足元には殺人音波の二重奏に仕留められた人々と動物が転がっていた。

財布などは取り戻し、その後なぜかスリの女に感謝され連絡先を聞かれた。

 

 

「桂香さーん! ビィチャムドハイルタィ!!」

「兄さん頂上だ……僕たちは頂上に、着いたんだ!二人とも、生きて……!!」

「ああ……ヤケに朝日が目に沁みやがる……」

 

 ある大きくそびえ立つ山の頂上から夜明けに向かって叫んだ。

万丈はとりあえず旅を続け、まず過酷な環境で鍛えて元の筋肉を取り戻そうと山へ。

途中で遭難してた兄弟をダンベル代わりに拾ってそのまま登り切り、元より強靭な筋肉を得た。

お礼したいという小説家兄弟を相手に、持ってたシャタルでそのままエクストリーム対局。

 下山後、万丈の世紀末ボディに見惚れた山の麓のオカマに誘われたが命をかけて丁重に拒んだ。

 

 

「桂香すわぁん!ウォーアイニー!!」

「ホワチャー!? 奥義伝授ホーイ!」

「なんて男だ……覚えた奥義を老師の腰を治すためだけに使うだなんて、なんて無駄なことを!」

「バンジョーありがとネ! これでまた夜の街に繰りだせるヨー!!」

「いや労われよ腰」

 

 ある国の料理店では怪しい老人店主の腰を、習った拳法を打ち込んで治療。

五千年の歴史と言いつつ三日ですべて覚えられる謎のインチキ拳法だが、旅の役に立った。なお、店の本で学んだ料理と整体の知識の方が旅で大いに役立つこととなる。

 中国将棋を指している途中、後継者として孫娘の婿になってくれと頼まれたが返事代わりにインチキ拳法を打ちあった。

 

 

「桂香ずぁん! ポムラクゥン!」

「おばあちゃんが言っていた。『恋とは心が下に落ちる浮遊感』だとな。お前は俺の『恋する麻婆豆腐』を口にした……その意味を理解できたか?」

「トキメイたぜ……俺の負けだ」

「いや負けないで下さいよ! 僕たちの命がかかってるんですよ!?」

「はっ! 危ねぇ、料理する前に棄権しそうになっちまった……!」

「フッ甘いな」

「お上がりよ! 俺の『愛は負けない麻婆豆腐』を食らえ!」

「フッ辛いな」

 

 ある街ではトラブルに巻き込まれた日本の料理人とともに地下料理界で戦った。

ピーマンを切らして倒れた万丈は助けてくれた彼らと、命がかかったお豆腐料理五番勝負に参加。

 勝負は最終的に虎を放った主催者と、メス虎に懐かれた万丈によるマークルックで決着した。

 

 

 

 巨大な壁に三分割された内戦続きの国では、変なガスを浴びて前後不覚に陥り。

 美味そうな果実が実るざわめく森では、白服の金髪男と闇のチャトランガで変なリンゴを賭け。

 風車が彩る風の止まない都市では、危険な薬物をムリヤリ注入されそうになった。

 

 いくつもの世界を巡り命の危険が山ほどあった旅の中でようやくピーマンに慣れた万丈は気づいた。己の悩みのちっぽけさと、極限状態に近づくほど心を埋め尽くす彼女への慕情に。

 

 彼氏彼女じゃなくなったからなんだ、死ぬわけじゃなし。

 彼女を応援したいなら、大事なのは自分が彼女を好きでいることだけだ。生きてるんだし。

 彼女が自分を好きである必要はない。彼女の幸せを願うことだけだ。命ある限り。

 

 

「……なんとしても帰らねぇと。赤羽たちとの約束もあるしなぁ」

 

 

 そんなことを日本へ向かうイカダの上で雲一つない青空を見上げながら悟る。

 

 そう、生きていることがなにより大事なのだ。

決意を新たに、行く手を阻む荒波とイカダを壊しそうな程じゃれつくイルカたちに挑んだ。

 

 

「桂香さんンン、愛してるぜぇ!!」

 

 

 





この中に一行、原作キャラがいるかもしれない。いないかもしれない。


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銀子ちゃんと悪夢


 これを銀子回と騙る狂気。



 

 

 ステンドグラスを通った日光がバージンロードを柔らかく照らす。私はそれを家族の席から見下ろした。

 

「姉弟子、どうしたんですかボーっとして」

 

 隣に座る八一が顔を覗いてくる。絡められた指が温かい。

 

「別に。なんでもない」

 

 今日はハレの日。それも私たちのお姉さん、桂香さんの結婚式。相手は言わずもがな。

 まぁ思うところはあるがこうなるのは時間の問題だったし、桂香さんは幸せそうで師匠も桃の被り物をつけて剣を振り回しながらも認めた以上は私も大人にならざるを得ない。

 

「姉弟子は最後まで反対でしたものね」

「当たり前でしょ。あんな色ボケ筋肉ゴリラが桂香さんに相応しいわけないでしょ」

 

 苦笑いする弟弟子を知らんぷりしてステンドグラスを見上げる。

まぁ、私もあのゴリラ男には度々世話になっているし、横のロリコンと違って桂香さん一筋なので及第点ぐらいには評価しよう。

 ため息を一つ。式の前に憎たらしい花婿を睨みつけてやろうと顔を向けて、違和感に気付いた。

 

「……?」

 

 あの男はあんなに細い身体付きだったろうか。もう少し背丈があったような。茶色くて長い髪だったろうか。キレイな女性のような顔をしていただろうか。

 いや、というか。

 

 

「ねえ八一」

「はい?」

「なんで桂香さんが新郎の所に立ってんの?」

 

 

 新婦の入場を待つ新郎の位置にタキシードを着こんだ桂香さんがいた。あんな胸の膨らんだ新郎がいてたまるか。最近また大きくなったと小さく呟いてたのをなぜか思い出した。

 

「なに言ってるんですか、今日は桂香さんの結婚式じゃないですか」

「結婚式だけど……おかしいでしょう?」

「なにがですか?」

 

 心底不思議そうな顔で首を傾げる八一。この男はロリを拗らせてどうかしてしまったのか。

 

 違和感に気付くともう全部おかしかった。

光るステンドグラスをよく見てみると将棋の駒とポーズとってる筋肉しか描かれてないわ、神父の位置に黒い小童が脚立に立ってふんぞり返ってるわ、上空でJS研の小学生たちが天使やってるわ、八一は私の手を握ってるわと意味がわからない。最後はともかく。

 

「それでは新婦の入場よ!」

 

 黒小童の威勢のいい宣言と共に全員が見守る中ゆっくりと扉が開かれる。嫌な予感しかしない中で、その先にいたのは――。

 

 

「ウホッ」

 

 

 ――ゴリラだった。

比喩ではなく、正真正銘のゴリラがウエディングドレス着てた。

 

 

 純白を纏った黒く毛深いゴリラがダンベル引きずりながらバージンロードを練り歩く様を参列客がパチパチと拍手で迎えている。私は拍手どころかパチパチと瞬きするしかできなかった。

 

 ゴリラ。ゴリラ……ゴリラ!? 筋肉ゴリラじゃなくて動物のゴリラ!? 混乱する私をとり残して式は粛々と進行する。

 

「病めるときも健やかなるときもこのゴリラを愛すると誓う?」

「はい、誓います」

 

 お願いだから誓わないで桂香さん。ゴリラのような人間と結婚するのとゴリラのようなゴリラと結婚するのは雲泥の差があるわ。

 今すぐ叫び出して暴れたいのに体が言うことを聞いてくれない。八一と絡めた指をどういうわけか解けない。仕方ないのでもっと強く絡めた。どうすることもできず、誓いの言葉はゴリラの手番だった。

 

「ウホ?」

「ウホッ」

 

 黒小童のゴリラの猿真似にご本人ゴリラが頷く。あの短い問答で誓いの言葉が圧縮されてるのだろうか。ゴリラ語は理解できない、だれか翻訳してくれないだろうか。知ってる翻訳家もゴリラだから期待できない。

 

 予定通りに進んで行くのを止めたいのに止められない。指輪の交換で玩具みたいにバカでかいダイヤの指輪が桂香さんからゴリラの太すぎる指に入れられていく。

 

「では誓いのチューを!」

 

 ちょっと赤い顔した黒小童がちょっと上擦った声で規定通りの絶望を宣言する。

 

 なにが悲しくて尊敬する人と見知らぬゴリラのキスシーンをみなければならないのか。

誰か助けて。どんな理由でもいいからこの結婚式に似た地獄絵図をぶっ壊して。

 

 願った次の瞬間。ゴリラのヴェールが上がり唇が触れあいそうになったその瞬間、扉の方からバゴーンと何かが殴り壊されるような破砕音が教会に鳴り響いた。

 

「ウーホー!」

 

 そこにはゴリラがいた。壊れた扉を踏んづけながら新たなウエディングゴリラが乱入した。

 

「あれは!」

「は、突然なに?」

 

 隣の八一が唐突に立ち上がって大仰に驚いた。指が離れちゃったじゃないバカ。

 

「サゴーゾのゴリラさんだ! 冒険に出たハズじゃ!?」

「誰よ!?」

 

 さも知っていて当然みたいな声音でバカが式に突入してきたゴリラの名を喚く。

周りの参列客も「さごーぞ……」「サゴーゾ!」と知り合いが突飛なことをしだしたような驚き方でゴリラの侵入を呆然と眺めていた。誰か警察か動物園に通報しなさいよ。急いで。

 

 サゴーゾとかいうのが桂香さんの隣にいるゴリラの顔面に向かって、どこから取り出したのかバナナを房で投げつけた。

 

「ウホッ!?」

「ウーホー!」

「ウーホッホウーホッホウー!」

「止めるんだサゴーゾさん! ゴリライズに桂香さんを任せるって言っただろ!」

 

 バナナを皮切りに桂香さんそっちのけで争い始めた二ゴリラ。殴るわ蹴るわダンベル投げるわロケットパンチするわとやりたい放題だ。意味は解らないけど良し。このまま式を壊せゴリラ。

 スルーしそうになったが、あっちのウエディングゴリラもなんか判別できる別ゴリラらしい。

 

「『輝きのデストロイヤー!!』」

 

 その激闘へ水を差すように、また轟音が鳴り響く。

 機械音らしき声と同時に、いつのまにか直っていた扉がダイヤモンドのような結晶になりながらまた吹き飛んだのだ。

 

「あれは!」

「またなんか知ってんのアンタ」

「心優しいハーフゴリラのゴリラモンドさん……あなたのそんな姿見たくないよ俺……!!」

「ゴリラとナニのハーフなのよアレ……?」

 

 体の半分がゴリラでもう半分がダイヤモンドみたいな石で出来ているゴリラっぽいナニカが乱入しゴリラの喧嘩に無言でエントリーしていく。片手に持ったバナナっぽい槍を振りかざして。

 

「『ボルテックフィニーッシュ!』」

「ウーホー!?」

 

 槍持ってない方の手で殴る。槍の使い方を解ってないようだった。

もうバージンロードは増殖するゴリラのせいでぐっちゃぐちゃだった。

 

「お前の夢はなんだ!!」

 

 また直っていた扉をこじ開けて今度はスーツの男が押し入ってくる。

 

「ゴリラじゃない!?」

「あれは!」

「今度は誰なのよ……?」

「フワさんだよ。腕力がすごいんだ」

「知ったこっちゃないわボケ!」

 

 ここまで来て普通に知らない男の人に入ってこられると余計に意味がわからない。乱闘するゴリラを無視して、手に持った扉の残骸をポイっと捨てながらこちらに近寄ってきた。

 

「おい。ここら辺に逃げ出したゴリラがいると通報があったんだがどこにいる」

「は? それならそこに……」

「なに言ってやがる。数は多いが花嫁がいるだけじゃねぇか」

 

 人間だと思っていたが、見た目だけの脳ミソゴリラだった。

 

「どう! 見ても! そこにゴリラいるでしょ!?」

「ゴリラが花嫁衣裳着るわけがないだろ。常識でものを考えろ」

「ブチ殺すぞワレ」

 

 この光景の前で今さら常識を説く方が非常識極まりないだろう。

 

「待てぃ!」

 

 なんか聞き覚えのある声でちょっと待ったコールがかかる。

 

「桂香さんをどこのバナナの皮とも知れねぇゴリラに花嫁だろうと任せられるか!」

 

 扉を普通に開けて普通に入ってきた『プロテインの貴公子』Tシャツゴリラは人間の言葉を普通に喋っていた。

 

「あれは!」

「今度は何のゴリラなわけ……!」

「なんでこんなところにゴリラが!?」

「四匹目になってから驚くんじゃないわよ!」

 

 せめて新婦の入場から驚け。喋るゴリラへの反応だけが普通でどうする。

 

「桂香さんの一番は将棋でも、二番目以降は誰にも譲らねぇ! いずれは将棋より好きだと言わせてみせるぜ!!」

「それはあり得ないかなーっ!」

「夢見るぐらいは許してくれよ……!」

 

 妄言を吐く新ゴリラに乱闘を静観していた桂香さんが容赦のない大声にで断言する。

悔しそうにあっさり崩れ落ちたゴリラは半泣きだ。コイツだけは知り合いのゴリラかもしれない。

 

「ウホッ、ウホッ」

「ウーホー!」

「逃げたゴリラってのはお前か。ゴリラは残らずぶっ潰す!」

「『イエェーイ!』」

「ゴリラだあ!? 俺はプロテインの貴公子だ!」

 

 なんだこれは。一教会に四ゴリラってどういう状況だ。しかも全ゴリラが桂香さんを狙っているようだし。確かに式を壊せと願ったけれど、ここまでやれと言ってない。誰でも良いから収集を付けて欲しい。

 

「新郎、アンタが決めなさい!」

「私に将棋で勝った人と結婚します!」

 

 痺れを切らした黒小童に促されて桂香さんが七寸盤をドンと置いて力強く言い放つ。良かった、それなら万が一負けてもゴリラと結婚することにはならない。

 

「よし、なら将棋のために合体するぞ!」

『ウホー!』

 

 知らない男の号令にゴリラ共が合意代わりのドラミングを連打する。合体できるなら将棋をする意味がない。

 

『エクストリーム!』

『タカ、クジャク、コンドル!』

『トライドローン!』

『マイティブラザーズXX!』

『クローズビルド!』

『トリニティ!』

『アサルトバレット!』

 

 ゴリラの大きな手に握られた数々の玩具みたいなのから起動音が木霊する。ゲームセンターみたいにやかましい。そして極彩色の光がゴリラたちを包んでいった。

 

 ――Are you ready?

 ――ダメです!

 

 最終確認染みた音声にゴリラたちの悲鳴混じりの拒絶が届く。光の向こうからの断末魔は聞くに堪えなかった。

 

「ゴリラとゴリラとゴリラとフワさんとゴリラが一つに……!」

 

 なんか無駄に驚いてる八一を無視して死んだ目でその光景を惰性で見続けた。

 

 完成した衝撃で、特に貴重でもないステンドグラスが吹き飛んだ。

光が晴れて行くと見覚えのある筋骨隆々のシルエットがゆっくりと立ち上がる。そして、片手のバナナを高く高く掲げて吠え猛った。

 

 

「そして現れる俺が八方万丈だっ!!」

「どうあがいてもゴリラ!」

 

 

 限界になって叫んだところで目が覚めた。

 

「……」

 

 酷い寝汗と不快感が体にへばりついていた。朝を知らせるアラームも止めないまま額の汗を忌々しくぬぐう。

 

 夢の内容はまったく思い出せない。だがともかくふざけた内容だったのは確かだった。

 

 その日はどうにも不愉快だったので、その日に対局したヤンキー女が放心するまで徹底的に攻め立てた。

 

 





 今回は多数のオリジナルゴリラが登場します。苦手な方はプラウザバック。


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娘の彼氏と父親


 ハザード、オン!(デレーデデーデデー♪)



 

 

 とある若い棋士の結婚式に参列した日のことを夢に見た。

 

 ――わぁ、キレーイ!

 

 純白のウエディングドレスを纏う花嫁の姿に、まだ幼かった桂香が目を輝かせる。

 

 ――おとーさん、わたしもアレきてみたい!

 

 花嫁を指差す娘の顔にキラキラした笑顔が無邪気に咲いていた。ウエディングドレスの意味もまだ解ってはいないだろう娘にわしは――――。

 

 ――お父さんに将棋で勝てる男でも連れてこない限り許さん!

 

 本気でキレた。すごい剣幕で怒鳴った父親に娘は当然泣き叫んだ。やらかしたと気づいたときには娘はもう、助けを呼びに駆け出した後だった。

 

 ――どれだけ先の話に怒ってるのよ。キレイなドレスを着たいって言っただけでしょう?

 

 反省するわしへと呆れ果てた女の声が突き刺さる。

 

 ――それに、それじゃ桂香はプロ棋士としか結婚できないじゃない。

 

 ぐずる娘をあやしながら 責するその様は、夫を相手にするというよりも手のかかる息子に道理を教えるようであった。

 

 ――桂香も好きな人の隣であのドレスを着て良いのよ。お母さんみたいにね。

 ――おかーさんもきたことあるの?

 ――ううん。お母さんのときは白無垢だった。

 ――しろ……?

 

 優し気な微笑みで膝の上の桂香を撫でる母の姿に、勝ち筋はないと察し娘に謝った。

 

 

 妻が遠い所へ旅立ってしまうより、ずっと前の夢だった。

 

 

 

 娘の彼氏が家へやってきた。

 

「いやーウチの弟子が世話かけたようで! 若いのにしっかりしとって感心するわ!」

 

 挨拶に来た、わけではなく。遅くまで出歩いてた二人の幼い弟子を送り届けてくれたマッチョな少年。最初はその認識だった。

 

「清滝鋼介九段です、よね……? プロ棋士の」

「お、わしのこともご存知とは光栄やな。そういう君がバンジョーくんやな?」

「な、なぜ俺のことを……?」

「八一から聞いたんや。将棋道場で高校生の兄ちゃんと仲良うなったってな」

「……あ、あぁ!! な、なるほどぉー」

 

 なぜか青い顔の少年が、手を洗いに行った弟子たちを追うように家の奥へと視線を送る。

 腕を磨くため将棋道場へ道場破りに行く八一たちは、晩飯でちょくちょくその日のことを話てくれる。主に八一が。そこで時折話に出るのが、会う度に強くなるバンジョーという高校生の話。

 

 それを聞いて、その兄ちゃんと時々でいいから指してもらえと指示したのは一年前のことだ。話を聞く限りその少年が在野の、それも遅咲きの天才だと予想できた。そういう棋士を相手取り、自分の後ろから天才が追ってくる感覚を二人に肌で味わってもらいたかったからだ。

 狙いは上手く行き、二人が得た物は多かったようである。彼には感謝せねばならない。

 

「じゃ、じゃあ俺はこの辺で……」

「え、万丈くん!?」

 

 話もそこそこに帰ろうと身を翻す少年を少女の声が引き留める。振り向くと娘の桂香が心底驚いたような、だが嬉しそうにも取れる顔でそこにいた。

 

「なんで家に? 今日約束してたっけ?」

「……八一と銀子ちゃん、送ってきた。表札、見て、俺、驚き」

「なんやお前ら。知り合いなんか?」

「知り合い……っていうか……」

 

 頬に手を当てて要領の得ない返答をする赤面した娘と顔中に汗をダラダラと流す筋肉少年。少年の頭にはさっきまではなかったはずの寝ぐせ染みた髪の跳ねが生えていた。

 

「ク、クラスメート! なん、すよ!! ねぇ桂香さん!」

「……そーだねー。ただのクラスメートダヨネー」

 

 弁解するような筋肉坊主の証言に、むくれる様に斜を向き棒読みで同意する娘。ほうほう。

 

「ほぉ、クラスメートか」

「そりゃもう、オレ、ケイカサン、タダノトモダチ……」

「下の名前で呼び合うただの男友達か」

「……け、結構そういう奴いる、すよ……?」

 

 その通りだが、釣りあげられそうな魚のように激しく泳ぐ目では説得力ないぞこの野郎。

髪の跳ねがもう一房増えて狩られるウサギのようだ。ポーカーフェイスもできないらしい。

 

 娘が隠れて棋譜を並べているのも、男の影が見え隠れしているのも気づいてはいた。着信やメールにはにかんだ反応をしているのを時折見かけるし、そこへ話しかけて慌てて取り繕われたこともある。先週からにやける頻度が大幅に上がり、スキップしそうなほど機嫌が良かった。

 

 将棋を嫌いになっていた桂香が隠れながらも再び将棋に向き合い始めたことに、男の存在が絡んでいるという不愉快な確信がずっと渦を巻いていた。

 

「バンジョー」

「はぃ……」

 

 間違いない。元凶はコレや。

 

「弟子を送ってくれた礼もまだやし、上がって行き」

「いや、お気持ちだけで……!」

「万丈」

 

 声を裏返らせて震える小僧の肩を握りつぶすつもりで掴む。逃がしはしない。

 

「そこそこ指せるらしいし……ちょっとわしとも指そうやないかぃ……!!」

 

 

 

 そして始まった娘の彼氏な筋肉坊主との、二人の交際を認める認めないを賭けた対局。

 

「粘るやないか」

「桂香さんとのお付き合いを認めてもらうまで、折れないっすよお義父さん……!」

「誰がお義父さんやおとといきやがれゴリマッチョが」

 

 娘に集る不埒な虫かと思えば、二度も全駒されても諦めない中々根性のある野獣だった。

 

 これでもう四局目になる。

初めは八一と銀子も含めての平手三面打ちだったが、窮鼠猫を嚙むというべきかこの筋肉は二度の惨敗を経てわし以外の二人から勝利をもぎ取った。

 二人は負けた悔しさから泣き出したので別室で桂香に慰めてもらっている。今日はもう夜遅いのでそのまま寝支度をしている頃だろう。鍛え直すのは明日からだ。

 

 小僧の実力は把握できた。向こうもわしとの実力差を流石に理解できているだろう。

しかし勝利を狙う気勢は削がれることなく、むしろ徐々に増していくようだった。

 証拠に対局するわしの指し筋を学び、微かではあるが一局指すごとに強くなっている。試すように隙を見せれば、想定以上の手で応じてくる様は棋士の血を沸き立たせてくる。

 

「……!」

「甘い」

 

 素人にしては面白い。だがそれで勝利を譲ってやるなど棋士のやることではない。男が駒に噛みつかんばかりに盤を睨み抜いて出した一手を容赦なく潰す。

 

 惜しい。この男がもっと早く、小学生いやせめて中学生の始めごろから将棋に向き合っていれば

一角のプロ棋士になれていたやも知れないその才能が惜しかった。

 

 所詮はたらればの話。独学ゆえに悪癖を正す者がいなかったのだろう、その棋風はもはや矯正ができないほど捻じ曲がっている。

 もし通常の棋士を武装した兵士と例えるなら、この万丈という男の指し筋は野生の獣である。

人を兵士にすることはできても、獣を人にすることはできない。そういう話だ。まだ未熟な八一たちや桂香ではその野性に惑わされるのも止む無しだが、逆に言えばうちの弟子たちの良い練習台が関の山ということ。

 

 ともあれ。その根性を認め、あと五局程度で勘弁してやろうと決めた。

 

 次の瞬間。

 

「――――っぁ!!」

 

 万丈の目の色が変わる。その将棋すら変身した。

 

 獣は、それに気づかぬ愚か者に容赦なく食らいついた。

二手三手。そこでようやく獣の変貌に気づいた人間は負けじと獣狩りの態勢を取る。だがその数手の差が命取りだった。

 

 一手指す。威嚇とともに噛みつかれる。

 攻め手を指す。武器を腕ごと食いちぎられる。

 逃げの一手を打たざる追えない。回りこまれ頼みの防御も剥ぎとられる。

 

 まるで開けてはならない猛獣の檻を壊してしまったような、バケモノを縛る鎖を解いたような、そんな取り返しのつかない愚行をしでかした気分だった。

 じわじわと、しかし確実に肉を骨を、いや首を狙う獣を仕留めるのはもはや手遅れ。振り上げられる獣の爪が首へと伸び、己の最期を幻視し――――。

 

 

「ぐべぇっ……!」

 

 獣が目の前で顔面からスッ転んだ。

 

 

「……はぁ?」

 

 現実に引きずり戻される。実際には万丈が七寸盤にドグシャと倒れ、盤面を崩したのだ。

数秒なにが起こったのかわからず滝のように流れる汗もそのままに、握りしめた膝の上に散らばる桂や香をぼんやりと眺めていた。

 

 最初に対局が台無しになったと気づき、次いで目の前の不心得者への怒りに飲まれかけ、最後にプロ棋士でも弟子でもない少年が対局中に倒れたとようやく理解して血の気が引いた。

 

「け、桂香! 水、水持って来い!!」

 

 慌てて娘を呼びつけながら、目を回して倒れた少年を介抱する。

 

 早い話が電池切れだ。若手の棋士によくある話で、慣れない長丁場にペース配分を間違え、限界になり座っていることもままならなくなる。ここまで派手に崩れ落ちる輩は棋界にいないが、彼はただの素人だ。気をつけろと注意する師もいない。

 慌てて水を持って来た桂香に介抱を手伝わせながら、水をかけられたように冷めた頭で少年の置かれた状況を分析した。

 

「……待ぁ……ぇ……っ」

「万丈くん……?」

 

 助け起こされた万丈が朦朧としたまま桂香を制し、その手を借りて七寸盤の前に座り直した。

 意図を察して対面に座し、満身創痍の棋士を見据える。

 

「ま……け、まし…………た」

 

 深く頭を下げ投了を絞り出すと、糸が切れた人形のように桂香の膝へ倒れこんだ。

呆気にとられるわしを置いてきぼりに、ちゃっかりと膝枕を堪能するかのような男の寝顔。そのあまりのだらしなさに腹を立てる気も失せた。深いため息を吐き出す。

 

「桂――――」

 

 視線を上げると、娘の穏やかな笑顔があった。

 

 眠る少年の頭を、娘は労わるように撫でながら微笑んでいるのだ。

その微笑みに、かつて愛し未だ冷めない人の面影を見て、静かに目をつぶる。

まぶたの裏で在りし日の家内が呆れた顔で微笑んでいる。

 

 ただの少年が、勝ち目のない相手に限界へと踏み込んだ。それもたかが高校生の男女交際を認めないとごねる、彼女の父親に認められるためだけに。

 

 懐かしさと、喜びと、寂しさと。複雑ではあったが悪い気分ではない。

育てた者を送り出すのも、己から負けを認めるのも棋士としてあるべき姿だと身を正した。

 

 

 翌朝、娘との交際を認めた。彼氏の方にはとりあえずプロレス技をかけ、下手な真似はしないよう堅く誓わせた。

 

 その後、大手を振って家に出入りするようになった万丈と五局ほど指した。あの夜から少々の底上げがなされたようだが、最後に見せたあの実力を発揮することは一度もなかった。あれはただの火事場の馬鹿力だったようだ。

 

 





前回の悪ふざけを反省ししばらく真面目になります。


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桂香とカレシ


 桂香の初恋は、将棋。



 

 

「くかぁ~……」

「うぅ~……」

「…………やい……ちぃ……」

「……川の字じゃなくて上の字、かな?」

 

 家の縁側で、万丈くんと八一くんと銀子ちゃんの三人が一緒になって寝ていた。

「スダコウルフ」Tシャツのお腹を八一くんが枕にして、その八一くんを枕に銀子ちゃんが眠る姿は、何も知らない人なら仲の良い兄妹のお昼寝だと判断する光景だった。

 

 傍にある七寸盤を考慮すれば、指し疲れて一度お昼寝を始めた塩梅だろう。横にある自由帳に書かれた棋譜を見るとこれは八一くんが勝ったようだった。

 片付け忘れられた盤上をみんなが起きないように静かに整頓する。まったく、師匠がこれを知ったら激怒どころじゃ済まな――。

 

「……?」

 

 一瞬、なにかがおかしい気がしてなぜか手が止まる。けれど盤上に変なところはない。実力の近い棋士同士が真正面から殴り合ったのが解る盤面だった。

 感じた違和感の正体がつかめず、気のせいかなと首を傾げてそのまま駒を袋にしまった。

 

「みんなよく寝てるな~……」

 

 銀子ちゃんの顔を覗き見ればすごく幸せそうな寝顔をしている。代わりに八一くんはうなされているようだ。寝てるときにお腹が何かで圧迫されると嫌な夢を見るというし、万丈くんのお腹は枕にするには硬いので寝づらいだろうな。私も枕にしたらゴツゴツして辛かったし。

 

「……私は仲間外れなの?」

 

 だらしない寝顔をする万丈くんの頬を抗議を込めてつつくと、くすぐったいのか更にほにゃっと緩むのが悪戯心をくすぐった。

 

 私たちの交際が認められてから、万丈くんは家に結構な頻度で出入りするようになった。

もちろん私に会うため、のはずだがこうも八一くんたちとの仲の良さのを見せられると本当は二人に会いに来てるんじゃないかと疑わしくなる。

 

「……」

 

 なんとなくキョロキョロと周りを見回す。父は今向こうの部屋にいるから、当たり前だけど他に誰もいない。三人はぐっすり眠っている。

 

 静かに深呼吸。

 そして眠る彼の耳に口を近づける。

 すこし躊躇してから、意を決して……。

 

「好きだよ~……」

 

 囁くと、万丈くんがビクッと動いた。こっちもビクッと硬直する。

もしかして狸寝入り? と息を呑むけれど頭を見れば髪が落ち着いたままで寝息も続いていた。ただタイミング悪く動いただけだと胸を撫で下ろす。

 

「…………ん~っ……」

 

 ……私はなにをやってるんだろう。安心して我に返るとだいぶ恥ずかしいことをしているのを自覚してしまった。なんだか暑くってパタパタと両手で顔を扇ぐ。

 今ので八一くんたちが起きちゃってないかと誤魔化すように視線を巡らせると。

 

「――――」

 

 銀子ちゃんと、目が合った。

 

 パッチリ開いた目と赤面した顔が私に向けられている。醜態を目撃されたのは間違いなかった。

 

「……し~……」

 

 唇に指を当てて笑って誤魔化すしかできなかった。

その後、銀子ちゃんはわかってくれた。おやつ代が地味に痛手。

 

 交際を認められて、結構な日々を重ねたある日のこと。

 

 彼と別れることを決める、ほんの少し前の出来事だった。

 

 

「八方先輩、付き合ってください!」

「……悪ぃ。俺、彼女一筋なんだ」

「ウソ言わないでください、その人に今もフラれ続けてるんですよね!」

「ウソじゃねぇよ!? 今はちゃんと付き合えとるわ!?」

 

 交際がスタートしてから、なぜか万丈くんはモテるようになった。

友達に原因を聞いてみた。付き合い出して落ち着き「清滝桂香の前だとウザくて気持ち悪い」という目立つ欠点がなりを潜めていいところだけが浮き彫りになりだした、らしい。

 

 なにをいってるんだろうか。万丈くんの欠点がその程度なら私もう少し楽だよ?

交際後の初デートを頭おかしい服を着て来るし筋肉だしせっかく作ってきたお弁当を嫌いなものだけ器用に残すのにすごく美味しそうに食べるし手を繋いでないとすぐ迷子になったり手が思ったより大きくて男の子なんだと違いを見せてくるし筋肉だし将棋はどんどん強くなるし気を抜けばプロテインだし返信マメだし交友関係が広すぎてほったらかしにされるしでも頼ると安心できるし弱ってると優しく抱きしめてくる筋肉だし。

 

 ちょっと近くで見ていれば山ほどの欠点が目に付くのに、そんなことも知らずこの男を好きになってしまう娘は正直気の毒だと同情してしまう。ちょっと嫉妬するかもと懸念してたけど、そんなことはなかった。うん、ちっともなかった。

 

「万丈くん、モテモテだねー」

「勘弁してくれよ……はっ、不安にさせたならまた何度でも告白を……」

「……ふふ。もう一生分聞いたからいらな~い」

「勘弁してくれよ…………」

 

 おまけに丸一年の告白とごめんなさい合戦がほとんどの生徒に知られているせいで、私たちが彼氏彼女の関係となったのがクラスメートにすらイマイチ信用されてなかった。

彼の彼女は私ですよー。

 

 

「お邪魔しまー……」

「あかん!! こんな温い手で満足して強くなれると思うな!!」

『はい師匠!』

「……お邪魔だから帰りま~す」

「万丈! 丁度ええからお前もこいつらと三面打ちしろ!」

「お、俺じゃ指導の邪魔に……」

「こいつとの二面ならええ感じに思考が乱されるやろ。それに負けんようわしと指せ!」

「お邪魔キャラ扱いだ!?」

 

 家族旅行のお土産を持って来た万丈くんを巻き込んで、師匠が私や八一くんたちの指導をする。

 

 私は父に、師匠に正式な弟子入りをした。

万丈くんとの交際がバレると同時に再び将棋を始めていたこともバレたからだ。本当はとっくにバレていたらしいけど。

 それを機に女流棋士になりたいことも伝えた。当然反対されたけれど粘って押し通して、師匠の方が折れてくれた。例えダメでも誰かさんみたいにどれだけかかっても粘るつもりだったけど。

 

 

「ほれ、おかゆ持って来たぞ~。舌ヤケドすんなよ」

「バンジョー、ごめん迷惑かけて……コホっ」

「……」

「風邪っぴきが何言ってんだよ。こういうときはしっかり甘えとけ!」

「でも今日は……」

「……実は今日予約してた映画な、今朝レビューみたら評判最っ悪だったんだ」

「……は?」

「桂香さんと見に行ってたらどうなってたことか……マジで助かった。風邪ひいてくれてありがとよチビども!」

「……治ったら将棋でボコボコにしてやる……!!」

「なら、変な気ぃ使ってないでとっとと風邪治しな。へっへっへ」

「ぐぬぬ……」

「……ふん」

 

 貴重になったデートの日に八一くんと銀子ちゃんが揃って風邪をひいて看病で行けなくなると、文句も言わずに手伝ってくれた。

 

 

「……」

「……」

「……行くぞ」

「……どっ、うぞ?」

「…………」

「…………ぁ……」

「………………でっ……け」

「………………おっきぃ……」

 

 恋人らしいことも、した。きもちよくしたし、すごくきもちよかった。

 

 

 

 付き合う日々は幸せだった。

 

 彼と過ごす日々は刺激的で私の知らない楽しいことが沢山あった。普通はそうはならないでしょと笑わさせれた。今まで友達とやっていたことがもっと楽しくなった。ケンカをしてとことん言い合っても最後には仲直りできた。辛いときに一緒にいてくれた。

 

 手間のかかる子供みたいだと思っていたら、ふとした時に頼りになる男らしさを魅せられて不覚にもドキドキさせられて。

 

 ずっとこのまま一生を共にできたらと思うぐらいには幸せだった。

 

 

 

「……あ、りま、せん」

「桂香さん……?」

 

 

 ただ一つ不幸があったとすれば。

 彼が、私を遥かに超えて強くなってしまったこと。

 

 

 その日はいつものように指していただけだった。いつものようにお互い本気で指していた。

彼が蟹ムシャムシャ食ってたら思いついたーと挑んてきたのが始まりだった。最初はなにそれと笑えていた。序盤はまた変な戦型になったと楽しかった。

 中盤で笑みが引いて、終盤は血の気が引いた。目の前の男も似たような状態だった。

 

 圧倒的な実力差。いままで全力で並走していた相手が、突然バイクにでも変身して私を置いていったようだった。

 

「ありません」

 

 それを認めたくなくてもう一度挑む。完敗だった。

 

「あ、りません」

 

 師匠の指導によって以前より明確に強くなる。また完敗だった。

 

「……ありま、せん」

 

 これまでの彼との棋譜を並べて徹底的に研究した、その次の対局も。

 

「ありません……!」

 

 その次の次の次も。いくらやっても勝ち筋が全く見えなかった。

 

 この男が、プロ棋士を目指していたのならどんなに悔しくたって納得できた。

 この男が、ただ棋界の門の狭さと年齢を理由にプロ棋士になるのを諦めていたなら理解できた。

 この男が、好きなものを聞いて迷わず将棋をあげる人なら妥協もできた。

 

 でもそうじゃない。彼にとって将棋はあくまでも数ある得意な遊びの一つでしかない。

 

 誰より彼と指してきた私には解ってる。この男が将棋を指すのは私と対局するためだけ。

 将棋が好きな私と本気で指すため。将棋が好きなんじゃない。ただ私が好きなだけなんだ。

 

 腹が立った。妬ましかった。なにより情けなかった。

 

 そのまま彼を嫌いになれたならまだよかった。

気持ちが、積み重ねてきた短くも濃い思い出が拒む。

手も足も出ない才能を持つライバルに棋士としての自分が荒れ狂う。

決して手加減をしないでくれる非情な優しさが嬉しかった。

まるで参考にならない成長方法が理不尽過ぎて心をかきむしられた。

彼のことを嫌いになりたくなかった。

 

「ぁっ……あり、ま……ぁ、ああ……!」

 

 完敗。彼へのあらゆる感情が渦巻いてぐちゃぐちゃに濁る。あたまがおかしくなりそうだった。

 

 

「私、本気で女流棋士になりたいの」

 

 

 だから別れた。逃げたのだ。

そう告げて崩れ落ちながら受け入れてくれた彼から、その後の憔悴にも目を逸らして逃げたのだ。

 

 そして将棋に没頭した。心が乱れなくなって前より良い手が指せるようになった。

師匠はなにか言いたげだったけれど、結局なにを言うでもなく厳しく私を鍛えた。八一くんたちも察してくれたらしく万丈くんのことを話題に出すことは無かった。すこし寂しそうな顔からも目を逸らした。

 

 別れてからは将棋に打ち込む時間は増えて、研修会でも順調に勝ち星を稼いだ。

二ヶ月も経つ頃にはとっくに心は切り換えられていた。もっとたくさん指したい。もっと強くなりたい。研修会の年下の子たちともうまくやれているし問題なんてない。

 すぐに女流棋士になるのは流石に難しいけれど、きっと二十歳になるころには資格申請ができるようになるだろう。

 

 将棋は好きだし苦しくて楽しい。勝っても負けても熱く焦がれる感覚が心地いい。自分より強くて才能がある相手に会っても、悔しい勝ちたい強くなりたい以上のことはなにも感じない。

 

 でも。でもなぜか。

 

 ジッと見つめてくる黒くて哀しいモノに背を向ける罪悪感と、真っ暗でどこまでも伸びる長い道を独り走り続ける孤独が何時までもモヤモヤと胸の奥に残り続けた。

 

 

 

「俺、やっぱり桂香さんが好きだ」

 

 万丈くんがまた告白をしてきた。夏休み明けだった。

 

 始業式が終わってすぐ、千絵たちから離れたわずかな時間の渡り廊下。夏休み前の弱った彼の姿はなく、前よりも大きな筋肉と自信に満ちた顔つきが日に焼けて雄々しく私を見据えている。

ただ目の下の深いクマと石鹸のニオイに微かに混じる磯臭さは気になった。

 

 別れたのに迷惑。フッたのは私なんだよ。夏休みに危ない目に遭わなかった?

前のように条件反射で断れれば良かったのに、唇が重しを付けられたみたいに開けなかった。

口を閉ざしたままでいると彼は複雑に微笑んで、続ける。

 

「返事はいらねぇんだ。ただ……その、応援してるって伝えたかった」

 

 勝手なこと言って悪い、とばつが悪そうに頭を掻く。

彼ことだ、夏の間は立ち直るために普通じゃない経験をしたに違いない。夏服のままでは、頭を掻く腕や首元に走る見覚えのない傷跡を隠しきれていなかった。

 

「……俺が告白すんのはこれで最後だ」

 

 なにも答えられず黙る私を寂しさが混ざる優しい眼差しのまま見つめて。

 

「桂香さんならなれるぜ、女流棋士。俺が保証する」

 

 そうクシャっと笑って、満足したように私を横切って赤羽くんたちの方へ歩いていく。

 

 なんだ、それは。それがカッコイイとでも思ってるのか。いつかやってきた壁ドンより引くような真似をしている自覚はないのだろうか。自分の言いたいことだけ言ってやりたいことだけやって私を置き去りにしていく。そういうところが、そういうところが……。

 

 背中に手を伸ばすこともなく、彼が友達と共に曲がり角に消えていくのを見送った。

 夏が終わっても暑さは容赦なく肌に纏わりついて、湿気のある熱風に肺が焦がされているようだった。ここから見える空は嫌味なくらいに青く広がって、空に引きずりこまれそうだった。

 

 

 

「けいかさん、だいじょうぶ? どこかいたいの?」

 

 その日、家で晩御飯の準備をしていると銀子ちゃんが心配そうな顔で私の服の裾を引っ張った。

 

「え……突然どうしたの?」

 

「だって、ないてる」

 

「え?」

 

 驚いて頬をぬぐってみる。

 指先が、濡れていた。

 

「あ」

 

 気づいて。それが手遅れだと思いだして、涙があふれだした。

 

「そっか……そ……っかぁ」

 

 オロオロしている銀子ちゃんにもはばからず、その場でしゃがみ込んで嗚咽しながら泣いた。慰めてくれる銀子ちゃんに甘えて、もっと泣いた。

 

 

 ああ、そっか。

 

 私、自分で思ってたよりずっとずっと、かれのことがすきだったんだ。

 

 





 次回「元カレと思春期八一のエロ本事情」


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元カレと思春期八一


 主題はエロ本だけどエロいことは全くしてないお話。



 

 

「こいつが例のブツだぜ、おぉ客さんん……」

 

 暗い部屋の中。

 サングラスをかけた筋肉質の男が低い声で、大きなスポーツバッグを差しだした。

 

「この中に……」

 

 ゴクリと生唾を飲み込む。

 

 所持する危険性から、手を出すに出せなかったそれ(・・)に震えながら手を伸ばす。

不用意な手が命取りになる局面で駒を動かすような慎重さでその中身を確認する。

 

「これが、そうなのか……?」

 

 この「ハンニンコミック」Tシャツ男は信頼できる運び手だ。それを疑うわけではないが、不安になって再度たずねる。ぱっと見では願い求めた品だとは判別できなかったからだ。

 

「安心しな……こいつの良さも隠蔽性も俺が保証するぜ」

 

 渾身のドヤ顔がサングラスの下で作られている。つまり偽装は完璧、というわけなのだろう。

 

「じゃあこれが……!」

「ああ、これが…………」

 

 男が神妙な顔でサングラスを外しながら、宣言する……!

 

 

 

「部屋にそのまま置いててもバレないエロい本だ……」

「ありがとう……! ありがとう万丈……!!」

 

 

 バッグの中に入ってたのは数多くの漫画や小説。種類も巻の数字もバラバラのそれは、男の友となるお色気シーンが含まれているという共通項があった。

 

 俺こと九頭竜八一。中学一年生の記憶である。

 

 

 始まりは俺の苦悩もとい煩悩だった。

 手元にエロいものが欲しい。そんな欲望が生まれたのだ。

 

 中学生になって思春期の男子らしくそういうモノに興味を持ち始めたが、俺が身を置く環境を考えるとそれに手を出すのは非っ常にハードルが高かった。師匠の家で内弟子生活をしているため同居する二人の女性の目を気にしなければならないのだ。

 

 まず桂香さん。彼女は掃除をするために結構な頻度で俺の部屋に入ってくる。俺も自分の部屋ぐらいは掃除はするが、割と四角い部屋を丸く掃いてしまっているらしく姉弟子の部屋とまとめて汚れを落とされる。

 

 さらには姉弟子がいる。桂香さんなら掃除のときも俺に配慮してくれるので隠す準備ができるがこちらはそうはいかない。突然突入してきてVSを始めたり、知らない内に俺の部屋でマンガを勝手に読まれていたりとわりと傍若無人だ。文句を言えればどんなに良かったか……!

 

 万事休すと打ちひしがれる俺の肩を慮るようにポンポンと叩く者がいた。万丈だ。

 

 我らが桂香さんにフラれてからはもう会うこともないのかと寂しい気もしていたこの男は、厚顔無恥にも最近また師匠の家に出入りするようになった。それも桂香さんとヨリを戻すためだ。

 

 桂香さん本人がそれほど嫌がっていないし、なんならほぼ便利なパシリ扱いをしてはいるが俺からしてもコイツのしつこさは目に余る。

 憧れのお姉さんであり妹弟子である桂香さんに年単位でまとわりつく悪漢に、清滝一門の長男として一言ビシッと言ってやろう。そう手を払いのけようとして――――。

 

 

「バレないエロ本が有るって言ったらお前はどうする」

 

 ――――その手を固くつかんだ。

 

 

 かくして現在に至り、裏取引ごっこも終わったので閉め切ったカーテンを開ける。

 

「ほ、本当にバレないんだよな?」

「焦りなさんな。将棋漬けでこういうの探せない八一ちゃんが好きそうなの持ってきたからよ」

 

 サングラスを仕舞ってバッグを漁り、ビニール包装の新品を取って掲げる。その表紙を見ただけでは、そういう本だと保証された今もにわかには信じられない。

 

「本に関わる仕事してると、種類問わず読む機会が多くてよ。最悪銀子ちゃんが勝手に見ちゃっても『え、そんなつもりの奴じゃないんですけど?』ってとぼけられる奴だけ選んで来たぞ」

「配慮の鬼……! 感動した! 俺、初めて万丈のこと尊敬したよ!!」

「はっはっはもっと言えもっといえーい! おい初めてっつったか?」

 

 たくよー、と不貞腐れながら『火星のパンドラ』と題された本を開いてエッチなページを開いて見せてくる。ほー。ほぉー……。ほぉぉー……!

 

「コイツとかはエロもそこそこ有るが、本編の方もかーなーり面白いからそっちでも楽しめるぞ」

「なんか濃い目の表紙だから手に取ったことなかったけど、こういう奴だったんだな」

「ああ。ファンからは『話がまともでむしろエロが邪魔』とか『人に薦めたいけどおっぱいが割と多くて困る』とか散々だぞ」

「邪魔呼ばわりされてるじゃねぇか」

 

 なお、後に俺も同じ感想を抱くことになる。

 

「ハマったら他の巻も集めてみな。バレても話が面白いから集めてますって言い張れるぞ」

「……なんか木を隠すなら森、じゃなくて森造るために木を植えてないかお前」

「さぁ? 気のせいじゃねぇかな~」

 

 吹けてない口笛を吹きながらあらぬ方へ向く姿は、誤魔化す気があるのかないのか。

ま、本当にハマったら集めてみるかな。

 

「なんか赤いと思ったら少女マンガもあるのか」

「おう。男は結構見落としちまうが、少女マンガって割と過激なのが多いぞ。コレとか」

「へぇ~……ぇマジでいきなりだ!」

 

 『知らないほうが良い鴨』という本を半信半疑で開くと数ページ目からおっぱじまっていた。

しかし、こういうのを目的に少女マンガを買う人間はいるのだろうか。

 

「女の方がちょっと成熟早いからマセてるってのもあるけど、こういうのは少年マンガで言うところのバトルとかお色気シーンの代わりに求められるもんなんだよ」

「バトルの代わり……? そんなメインになってそうな部分なのか……」

「まぁ、それちょっと対象年齢上の奴なんだけどな。需要が有るからそういうのが多いわけだし、見たときに派手さがあるのはわかんだろ?」

 

 少女マンガって恋愛がメインなイメージがあるけど……そうか、だからこういうのは男と女の決戦シーン扱いなんだな。

 

「一応注意しとくが、恋愛で悩んでも少女マンガ参考にするのは止めとけ。フィクションだから許されてるのばっかだからな」

「いや、それは注意されなくてもわかるよ」

「俺は参考にしてヒデェ目にあった…………おのれ俺様系」

「いや、それは注意されなくてもわかれよ」

 

 どうせ桂香さんに壁ドンで「俺の物になれよ」みたいなことしてドン引きされたんだろ。

 

 呆れながらパラパラめくると、一冊ごとのエッチなシーンの少なさに眉が少し寄る。そういう場面だけを求めて読んでるせいもあるが、少々物足りなさがあった。

 

「女の子の成熟が早いっていうなら、姉弟子も早くそうなって欲しいなぁ。突然俺の部屋に入らなくなったらもう少しわかり易くても大丈夫なんだろうし」

「あん? お前の場合は銀子ちゃんの抜き打ちがなくても桂香さんにバレんだろ」

「え、桂香さん相手なら入ってくる前にちゃんと隠せるから大丈夫だぞ?」

 

 きょとんと言い返す俺に万丈が姿勢を正して忠告する。

 

「いいか八一、どんなに巧妙に隠したところで、母ちゃんにエロ本は隠し立てできねぇもんだ」

「桂香さんは母親じゃないぞ。俺たちのお姉さんだ」

「わかっとるわ。聞け、今言ったことはわかるよな」

「よくあるって言うよな」

 

 実家にいる兄貴もお袋にエロ本見つかって勉強机の上に積まれてたな、と黙って思い起こしていると、なんでかわかるか? と万丈が問うてくる。

 

「それはな、母ちゃんがエロ本隠すようなところまでキチンと掃除してくれるからだよ……!」

「お袋……!!」

 

 母親の愛に不覚にも不意打たれ郷愁の念を禁じえなかった。それがエロ本の話によってもたらされたことからは目を逸らす。

 

「そして桂香さんは確実にそういう隅々まで掃除してくれるタイプだ……!」

「桂香さん……!!」

「そして見つけた後も見てみぬフリをしてくれる優しさがある!」

「その優しさは嬉しいけど恥ずかしい!!」

 

 優しさで塗装された地獄、辛い……! 絶対にそんな目に会いたくない! 隠し通すぞ!

 

「要するに良妻賢母な桂香さんは最高なんだ!」

「結局それかと思うけどそうだな。結婚したい!」

「ざけてんじゃねぇぞこのクズ竜くんが」

「突然本気でガンつけてくるなよ……」

 

 憤怒を顔全面で表現する万丈を雑にあしらいながら他の本を手に取り新品保証のビニールを剥がして、当該ページの有無を見分していく。

 

 ……ふおぉー、これはすごい。

 

「……ん?」

 

 確認を続ける内になんとなく違和感を覚えた。

対局相手の悪手を見逃しているような、気のせいで済ましてはいけない嫌な感覚。

 

「……なぁ、万丈」

「どうした八一?」

 

 その感覚に従って他の本を次々と確かめる内に違和感は確信に変わった。

 

「お前が持ってきた本……なんか桂香さんに似てるキャラ多くないか?」

 

 まず、キャラの胸が大きい。俺がそういうのが欲しいと注文したからなのでそれは問題ない、ないのだ。それは大変ありがたいのだが……。

 

「はぁ? なに言ってんだお前」

「いやだって……このキャラとかこっちの奴も同じ系統の女の子だろ?」

 

 問題はそのキャラ造形だ。茶髪ロングだとかお姉さんキャラだとか。一冊ごとのお色気シーンが少ないのも手伝って桂香さんを連想しそうなキャラがイケないことになってる場面だけが集まっているように錯覚してしまう。

 

「俺が桂香さんっぽいのがエロい目に合ってるのだけ持ってきたと?」

「……」

「いやいやいや、流石の俺でもそんな気持ち悪いことしねぇって」

「じゃあ、見てみろよ」

 

 促す俺にまさかー、と笑う万丈が適当な本を一冊手に取りそういうシーンを見る。

 

「いやいやいや、適当に選んで持ってきただけなのにそんな」

 

 笑いながら二冊目をチラ見。

 

「いやいや」

 

 余裕がなくなってきて三冊目。

 

「いや……えぇ……」

 

 表情が抜け落ちて四冊目。

 

「……」

 

 パタンと五冊目を閉じ。

 

「…………………………マジだ」

 

 顔を両手で覆ってか細い声でうめいた。自覚なかったのかよ。

 

「待ってくれ……俺、気持ち悪ぃ」

「いまさらだろ」

 

 大ダメージを受けて筋肉がくず折れた。自覚なかったのかよ。

 

「まったく万丈は本当にしょうがないやつだなぁ~」

 

 苦悶する万丈を尻目に本をしっかりと確保する。それはそうとして、万丈が折角持って来てくれた本だ。ちょっとケチがついた程度で手放すのは忍びない。今後、お世話になる本という名の友たちを宝を扱うように本棚へと運ぼうと立ち。

 

「待て」

 

 腕を掴まれた。

 

「なんだよ」

「そいつは没収だ」

「俺にくれるんだろ?」

「事情が変わった」

「お前の事情だろ」

 

 筋肉を駆使して本を奪い取ろうとしてくる万丈に全力で抗う。

 

「いいやよく考えたらお前にエロはまだ早いぜ中一ちゃんが……!」

「なにをイマサラ……!」

「代わりに銀子ちゃんっぽい女がエロい目に会ってるの探してくるからよ……!」

「いらねぇよそんなモン!?」

 

 そんなの男の友にしてるってバレたら姉弟子に殺されるわ!!

 

「桂香さんと一つ屋根の下で暮らしてるような奴にこんなもん悪影響だろうがぁ……!」

「桂香さんにそんな邪な目を向けるわけないだろうがぁ……」

「ああ、テメェ桂香さんに魅力が無いってぬかす気かぁ!?」

「言ってないしそれで突然キレるなめんどくさい……!!」

「桂香さんはなエロ方面においても最高の女なんだからな!」

「お前から聞きたくないわそんな話!」

「へー万丈くんそんな風にみてるんだー」

「惚れた相手とどこまでもイキたいなんて当たり前だろ!」

「ふ~ん」

「お前が知らないようなところも全部最っ高なんだよ桂香さんは!」

「そんなこと言ったら俺なんかな、桂香さんと一緒にお風呂入ったことあるんだからな!! お前は一緒に入ったこともそういう桂香さんも知らないだろう!!」

「懐かしいね~。八一くんそのときすごく恥ずかしがってたよねー」

「なんだとこの羨ましい! 俺だってな、桂香さんとホテ……!」

「それ以上口にしたらタダじゃおかないから」

 

 ……。

 

 思考が止まる。万丈の髪が二房はねる。二人そろって同じ方向に首が動いた。

 

 

 桂香さんが、いた。いつも通りの穏やかな笑顔で、いた。

 

 

「あの、桂香さん? いつから聞いていらしたの?」

 

 あまりの事態に思わずお嬢様みたいな口調で質問する俺を、彼女はニコニコと見つめて。

 

「『お母さんには隠したりできない~』みたいなこと言ってた辺りかな?」

「ああ、結構前から聞いてらしたのね……」

 

 顔は笑顔で声も明るい。なのに押しつぶされそうな圧があり、底冷えするように耳に響く。

端的に言って、コワイ。

 

「万丈くん?」

 

 ドン! 俺に注目している間にこっそりと退出しようとしていた万丈を、桂香さんが片手で壁を叩いてその行く手を阻んで追いつめる。わあ、壁ドンだぁ……初めて見たあ……。

 

「万丈くん」

「はい」

「持ってきた本を全部まとめて、ちょっと来なさい」

「あの、釈明の余地を……」

「来なさい」

「ハィ……」

 

 ガッと首根っこを掴まれ万丈が背中を丸めて小さくなる。桂香さんに負けた後でもならないような萎縮具合が桂香さんから発せられる威圧の大きさを表すようで恐ろしい。

 

「八一くん」

「は、はひ」

 

 万丈の首元をひっつかんだまま桂香さんが振り返る。能面のような笑顔に思わず正座する。

 

「八一くんもお年頃だから、そういうのに興味を持つのはある程度仕方ないと思うよ」

「桂香さん……」

 

 片手を頬に当て叱るような諭すような声は、それだけを勘定するとただの優しいお姉さんだ。

ただ反対の手を見ると恐怖で縮み上がる巨漢を手荷物のようにぶら下げる姿が、それがタダの現実逃避であると突き付ける。

 

「でも本は没収ね」

「ハイ」

 

 当然だろう。自分に似たキャラがエッチな目にあっている本を、男の友として所持されるなど女としても家族としても許せる話じゃない。

 これだけで済まないだろう、もっと重い罰が与えられるだろうと囚人のように次の言葉を待つ。すると、下を向いて震えている俺へとなだめるような声が降り注いだ。

 

「これは没収するけどほどほどに楽しむくらいなら私もとやかく言わないから安心して?」

「桂香さん……!」

「私からはそれでおしまい」

 

 下された無罪放免の沙汰に希望とともに顔をあげる。良妻賢母と万丈が称えるのも当然だったと歓喜に号泣しそうになる。肩に過重積載されていたプレッシャーから解放されて、軽くなった体のまま飛べそうな心地だった。

 

 

 

「でも銀子ちゃんから話があるみたいだから聞いてあげてね?」

「――――」

 

 

 

 扉の向こうから、白く小さな執行人の姿が覗いていた。

 ゴミを見る視線が真っ直ぐに俺を貫いていた。

 

 宙へ浮かぶ心地から処刑台へ叩き落される。準備万端ですぐにでも執行されそうな雰囲気だ。

 

 スポーツバッグと万丈を引きずって桂香さんが出ていくと、交代するように姉弟子が入室。

まっていまふたりっきりにしないで。

 

「……」

「あの、姉弟子。そう実は、これは万丈にそそのかされて……」

「死ねヘンタイ」

 

 全力で踏まれた。

 

 

 その後、俺は姉弟子に踏みに踏まれてしばらく口を聞いてもらえなくなり、万丈は桂香さんからのお説教を受けたからなのか妙にやつれていた。なぜか桂香さんもフラフラだったが。

 

 





 子供のお仕置きとオトナのオシオキ、というのを思いついたけどボツ。


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八方万丈:中間フォーム

急激な閲覧者と評価とお気に入りの上昇にビビり散らしております。
誤字報告ありがとうございました。




「いいのかよオヤカタ」

「泣いてすがってヤリ直シテェモラエマセンカァってか? みっともなくて目も当てらんねぇな」

 

 友人の心配を歯牙にもかけず、グラスの酒を煽る。

これで何杯目だったろうか。万丈は明日来るだろう二日酔いが頭を過ぎって、やっぱり考えるのを止めてさらにグラスに酒を注ぐ。もう瓶からラッパ飲みしてしまおうか。

 

 

 世界一周迷子旅から時が経ち、今日は高校卒業後初の同窓会。

会場の一角で万丈は静かに赤羽たちと飲んでいた。

 

 

 迷子旅からからくも生還しギリギリ二学期に間に合った万丈は、桂香にまた告白をした。

付き合えなくても好きでいる、と一方的に伝え万丈はとりあえず立ち直った。

そのまま適当な大学を受験し合格、最後まで周囲を大騒ぎに巻き込みながら卒業した。

 

 出発から頓挫した日本一周の旅も、北海道から再挑戦し講義の合間合間でこまめに実行。

現在は岐阜県を計画的に迷子になっているところだった。

 

 大学生活も良好。言語学の教授とも筋トレを通して仲良くなり、その紹介で始めたマイナー言語を翻訳するバイトで確かな手応えを感じた。旅で得た人脈を活かしつつ卒業後は本格的にそれで生計を立てていこうと考えていた。

 

 元々、語学に関しては幅広く学んでいた。

「余所の国に行くなら死んでもその国の言葉を喋りなさい。余所の国から来たなら殺してでも日本語を喋らせなさい」という母の教育方針と万丈の遊び半分のやる気が本人の素質にまさかのベストマッチ。大抵の国の言葉は喋れたところに迷子旅による経験で完全に身についた。

 

 恋愛という点を除けば、充実した日々だ。その画竜点睛を欠く状態も万丈は納得していたのだ。

 

 

 ところが。万丈は岐阜のとある場所で恐ろしいモノに遭遇し、その価値観が揺らぐ。

 

 

 ――――結婚してくれる男はいねぇがぁ……!

 

 

 その名を独リ神。

 

 未婚の男を見つけるやいなや独り身で生き続ける苦しみをまき散らして結婚を迫る、痛ましくも哀しむべっきー存在だった。

 その女に似たナニかによる婚姻届け攻撃をいなしつつ、知り合いの熟女好きの独身男性を紹介してラブ&ダブルピースフィニッシュで無事決着。

 難は逃れたものの、その有り余る嘆きと呪詛に正面から向き合い受け止めてしまったのが不幸の始まり。万丈の中に己の未来へのどうしようもない恐怖が生まれたのである。

 

 

 万丈はこれからも桂香を好きでいるつもりだ。

だが、それで生涯独身でいると決めるのは早いのではないか。

しかし、本命の相手がいるというのに他の女性に恋愛だの結婚だのしてもらうのは不誠実だ。

 

 そんな葛藤から次の恋へと踏み込みたいが割り切れない千日手状態の万丈。そこへ同窓会を企画したいという一本の電話が届いたのだ。

 

 

 企画者の女は一人でも多く参加者を募りたかった。

バイト先である店から、ここを同窓会の会場にして一定以上の人数を集めて売り上げに貢献したら特別ボーナスを出すと約束させたからだった。そのためには同窓の連絡先をすべて知る万丈はなんとしても協力させたかった。

 

 なのでやる気になるよう適当に言葉を尽くした。八方万丈をやる気にさせるには清滝桂香のことを持ち出せばいい。それは万丈を知る者、つまり同級生全員の共通認識だった。

 

 焼けぼっくいには火が付き易い。同窓会でヨリを戻すなんてよくある話。時間が経ってるから桂香の気も変わってるかもしれない。ちくわ大明神。ホテルで一晩語り明かせ。えとせとら。

 

 その目論見はまんまと成功。ボーナス目当て女の無責任な甘言にまんまと乗せられ、全面協力。

独リ神の悪影響で迷子旅の中で得た答えをすっかり忘れ去り、未練たらたらの万丈は淡い期待を胸にルンルン気分で一時間早く会場入りし――――。

 

 

「じぇぁりぇ~……この酒ツエーイ」

 

 

 このザマである。

 

 偶然にも桂香と同時に会場にたどり着き、店の前でばったりと鉢合わせた。

その顛末は語るまでもない。万丈が管を巻く姿がすべてである。

 

 万丈は己の悪手を悟り、潰れるまで飲むと決めた。

目から水が流れそうだった。ついでに胃からもあふれ出そうだった。

 

「ペース早くネ? 一緒に飲んでたカネサソリちゃん、もうグロッキーだゾ」

「たく、ボーナス目当てとか太ぇこと考えやがって……こいつも相変わらずだな!」

 

 とりあえず、適当をのたまった企画者の女は潰してバイト仲間らしいキバに任せた。

幹事自体は別の奴なので問題はない。この酔い潰れ女は高校時代から金が関係する時は微妙に信用できなかったからだ。なので責任感が強い鷹山くんに後始末ごと押し付けた。

 

「でも本当にいいの? 清滝さん、今フリーだって盗み聞いてきたよ?」

「いいのぉ。男はフリーでも将棋にはフリーじゃねぇんだよぉ」

「……そうとう酔ってきてんね」

 

 酔っ払いの意味不明の発言に呆れる青葉を知らん振りして盗み見れば、そこにはめかし込んだ桂香が堀戸含む高校時代の友人たちと談笑する姿があった。傍目には楽しそうに笑っているとしか見えないだろう笑顔に万丈はため息をついた。

 

「でもよ、前だって何度も押してようやくだったじゃ……」

「赤羽」

 

 ぴしゃりと出した低い声が、喧騒の隙に生まれたわずかな静寂に小さく響いた。

 

 

「男と女が進めた一手にな……“待った”なんてねぇんだよ」

 

 

 そんな当たり前の事実を、彼女の顔を見るまで気づかなかった己に鼻が鳴る。

万丈がグラスの酒を一気にあおれば、とびきりキツイ刺激が喉を焼く。今日はとことん飲むと決めた。明日はツラいが、今までの二日酔いに比べれば何でもない。

 

 だから、もういいのだ。もう……。

 

「へっ……まったくオヤカタは本当しょうがねえなあ」

「あん?」

「飲むんでしょ。付き合うって!」

「新しい酒モテキたヨー!」

「お前ら……」

 

 あやすように。祝うように。他の参加者たちから浮くほどに騒ぐ。

思わず熱くなる目頭を軽くこすって、万丈は周りを囲むかけがえのないバカどもの音頭を取った。

 

「よーし。店の酒、全部飲み干すつもりで行くぞテメェらー!」

『おおーう!』

「八方ぁー予算オーバーするから止めろー。じゃなきゃ狩るぞ?」

「予算内で行くぞテメェらー!」

『おおーう!』

 

 幹事の鷹山からの苦言を冷や汗流しながら音頭を取り直す。

 

 この酒が抜けた頃には、ようやく新しい一手を打てるだろう。

だから。もう少しだけ酔わせてくれと掲げたグラスに反射する小さな彼女に万丈は独り言ちた。

 

 

 

 

 

 

 

「げぇいがぁずぁーん!! もういっがい、もういっがい……やり直じで、もらえまぜんがぁ!」

「ちょ、ちょっと万丈くん! はな、放してよ、お酒臭いし……もう!!」

 

 数十分後。

ぐでんぐでんに酔っぱらって泣きじゃくる男が、昔の女にすがりついてみっともなく復縁を迫る。

そんな目も当てられない醜態が、そこにはあった。

 

 赤羽たちは顔を覆った。

 

「飲み過ぎだよオヤカタ、ぅヤメロォ!!」

「うるせぇ! 千%合意議決するまで諦めてたまるくぁ!!」

「男と女に“待った”はないんじゃなかったのかよ!」

「“待った”してぇよぉ……人生詰むまでコンティニューしてぇんだよぉ……!」

「いろいろ台無しじゃねぇかナ! オラは・な・れ・ろ……!」

「げいかざぁーん……! ばなじ、話だけでもぉぉ……!」

「聞く! 後でいくらでも聞くから……あー勘弁してよもー!」

 

 見かねた仲間たちが総出で桂香から万丈を引き剥がしにかかり、しばらくして化粧室から戻ってきた桂香の友達の堀戸がその暴れる大バカをシメおとして騒動は収束した。

 

 数日後、万丈は菓子折り片手に清滝家へ土下座及び切腹も辞さない勢いで訪問し、色々あった。

 

 

 

 そして色々あった末の現在。

 

「あ゛り゛ま゛ぜん゛」

「じゃあ今回はねー……マッサージして」

「もう全身隈なくやらせていただきます!」

「お父さんを」

「職業柄、肩と腰がなー……ガチガチなんや」

「あ、はい。じゃあ一旦、身体伸ばすところから始めましょうか」

 

 

 今日も元気に負けていた。

 

 




次回、色々した話、かもしれない。


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桂香と元カレ・前

長くなったので前後編に。



 

「桂香は最近どうなの~?」

「うん、いい感じかな」

 

 空々しい嘘が口からこぼれて、来たことをまた後悔した。

 

 今日は高校の同窓会。

同級生の二人が働く小さなお店を貸し切ったそれは、最初の乾杯を除いて誰もが近くのテーブルで思い思いに飲んでいた。私も同じくグラス片手に久しぶりの友達と旧交を温め合っている。

 

 大学の課題がすごく面倒くさいとかバイト先で彼氏ができたとか、教授の弱みをあらかた握ったとか。かつての同級生たちの近況が耳に刺さる。それぞれ中身に違いはあるけれど、みんな充実しているのは間違いなかった。

 

 話を振って相づちを打ち私振られたら不自然じゃない程度にはぐらかして、お喋りが好きな子に手番を渡す。彼女の話が続くよう質問をして言葉を引き出す。

 

「……あ」

 

 そんなことをくり返してグラスを傾けると、喉に欲しかった水分が流れてこない。いつの間にか飲み干してしまったようだ。他の子のグラスはまだ十分なカサがあった。

 

「空になっちゃった。新しいお酒とってくるね」

「いってら~」

 

 テーブルにも空瓶しかなかったので友達の輪から離れ、酒瓶が集められて山脈みたいになってるカウンターへ向かった。

 

 

 卒業から数年。私は未だ女流棋士になれていなかった。

 

 あれからも師匠の指導を受け、八一くんや銀子ちゃんを始めとした何人もの棋士と寝る間も惜しんで何度も対局を重ねた。いくつもの棋譜を並べ新しい定跡が生まれればキチンと学んだ。

怠けてなどいない。自分にできることを精一杯やっている、つもりだ。なのに女流棋士どころかそこへ指の一本もかけられていない状態だった。

 

 先を歩く兄弟子姉弟子との差は開くばかり。同期のほとんどはとっくに私を置いていった。同い年が最近女流棋士になった。

 

 ナニカが欠けて足りない。そんな感覚が私の中に越えられそうで越えられない小さな壁を、いくつもそびえ立たせていた。

 

 壁の前でもたつく内に周りの棋士が進んで行く。それを少しだけ忘れたくて、心を落ちつけたくて参加した同窓会。

 それは見事な悪手だった。進んで行くのは棋士だけじゃないなんて当たり前の話で、私が足踏みして焦る間に私以外の全部がどんどん変わって行くのを突き付けられただけだった。

 

 酒瓶の山脈の前で手を伸ばすでもなく立ち止まる。

 私なんで参加しちゃったんだっけ。そもそもなんでこんなに飲みたくなってるんだろう。飲み過ぎたときの凄惨さは父の奇行で十分に理解しているのに、まだ飲みたい。

 

 体が重い。頭も重い。お酒が入ってるのも相俟って思考が安定してくれない。心が底なし沼に踏み入ったように重く後ろ向きで嫌な感情へと沈んでいく。

 

 

 

 

「じ~にあ~す!!」

 

 

 

 

 バカみたいな明るい大声。とても頭の悪そうなそれが、暗い底から私を強制的に釣り上げた。

 

「とことん付き合うっつったけど、オヤカタ流石に飲みすぎじゃないか!?」

「うるへ~! 俺は今、完全無欠のボトルヤローなんだよ~!!」

「ラッパ飲みでちゃんぽんはヤベーって! キバっTそっちおさえて!」

「……狩るかぁ……!」

「オォウ、止マーレだタカヤマ!!」

 

 発生源のテーブルに目を向けると凄惨な地獄絵図が形成されていた。

赤羽くんに青葉くんにキバくん。彼と特に仲の良かった三人がお酒のボトルを二本掲げる彼と、その大騒ぎにキレた幹事の鷹山くんの両方を相手に奮闘していた。あの二面打ちは大変だろうな。

 

「すべては実験のための祭りで迸るー!」

「……ぷ、ふふ」

 

 支離滅裂に叫ぶ彼の酷い有り様に、つい笑い声が漏れてしまった。

嘲笑じゃない、思い出し笑いだ。千年の恋も醒める酔っ払いの醜態なのに、その光景がどうしても高校時代を思い出させて懐かしくなるからだ。

 

「あっはっはっは! やれやれ万丈~!」

「またやってんの!? 成長しないな~がんばんなさい三馬鹿どもー!」

「おい見てないで手伝ってくれよ!?」

 

 他の同窓も同じだったらしく、やいのやいのとグラス片手に彼らへ野次を飛ばす。赤羽くんが抗議するけど当時の担任までケラケラ笑ってるのだから増援は見込めないだろう。

 

 彼が中心になって騒いであの三人とかが巻き込まれて、何人かが怒って他はみんな笑ってる。

 おまけに、多分その原因は――――。

 

「……まったく。見てらんないわ」

「千絵?」

 

 目を細めていたら千絵が呆れ顔で寄ってきた。

 堀戸千絵。自分で立ち上げた部活の女部長で在籍時は部を大会三連覇に導いた功労者。彼女のおかげで私と彼は出会ってしまった、恩人のような元凶のような親友だ。

 

「千絵はあっちに行かないの?」

「アタシが? なんで?」

 

 心底不思議そうな顔でパンツスーツを着こなす千絵が首を傾げる。きっと記憶喪失なのだろう。

そうでなきゃ、自分がしでかした所業の再現を前にこんな太々しい顔はできない。

 

「前なら千絵もあっちで騒いでたじゃない」

 

 大抵は千絵が彼をおちょくるための嘘が原因でああなって、最後に彼女が彼を嘲笑って反撃されれば昔の完全再現になる。

 

「あんな変わらないバカと違って、アタシはもっと上のフェイズに上がってんの」

「大学教授の弱みを握ったり?」

「人聞きが悪いなぁ。ちょっと交渉材料を集めてるだけ」

「恨み買って刺されたりしないでよ?」

「葬式にマスコミが来たらこう答えといて『品が良くてイカした女でした』って」

「『いつかこうなるだろうなと思ってました』って答えとくね?」

 

 おどけた顔で笑えないジョークを吐く質の悪さは、変わらないどころか進化を遂げたらしい。そんなの嫌だから本当にやめてよ?

 

 私の小言なんて暖簾に腕押しとばかりに受け流して、千絵は彼の方を見て鼻で笑った。

 

「よくもまあそんな同じ相手に執着できるもんだわ」

「うん……そう、かもね」

 

 鷹山くんと取っ組み合う彼がああやって騒いでいるのはきっと私のせいだ。

集合時間に余裕をもって会場へ来た私は、お店の前でバッタリ彼に遭遇してしまった。

 

 そして私は、なにも言わずそのまま踵を返した。

 

 会う度に告白してきたあの頃と変わらない、嬉しそうな顔を向けられて逃げたのだ。

 そんな彼を見て思い出したくなくて。今の不甲斐ない自分を見られたくなくて。

 

 そのまま電車で帰ろうとしたら駅で千絵たちに捕まり、時間通り会場入りしてしまった。思い直してさっきの態度を謝りたかったけれど、様子を伺ったときにはもう彼らと飲み始めていて近づくに近づけなかった。

 

「とっとと他のに目を向ければ終わる話でしょ」

「うん……」

 

 頷くフリをして、彼があの顔を誰かに向けているのを考えるとチクリと胸が痛んだ。とやかく言う資格はないのに。

 

 

「誰が来ても袖にして……吹っ切れた~って顔してんのにうじうじ未練がましいったらない」

「そっか……」

 

 そういえば千絵は彼と同じ大学に行ったんだっけ。彼があの始業式の日の言葉通りであることにホッとした。ホッとした自分に驚く。彼にとって良いことじゃないのに。

 

「まだわかってないようね」

 

 そんな私を千絵が嫌なものを見た、みたいな渋い顔で見据えてくる。

 

「さっきからアンタの話してるんだけど」

「え」

 

 予想だにしていなかった言葉に身体が硬直する。

 

「さっきも今も、うわの空であの世紀末チラッチラッ見てれば誰でも気づくわ」

「そんなことして……」

 

 ない、と言い切れなかった。確かに彼の様子を盗み見ていたのは一度や二度じゃないけれど、ジト目で吐き捨てられるほどジロジロ見ていたつもりは全くなかった。

 

「自覚なし?」

「うっ」

「あのザマ見てそんな顔してる時点で重症だけど。そこまでか」

 

 うろたえる私へ千絵はこれ見よがしに嘆息する。

向こうの戦いは佳境らしく、三人は健闘虚しく蹴散らされ最後に残った彼もアームロックをかけられてギブアップしていた。

 

「あの銀河無敵のバカは見た通り、どんな女が言い寄ろうがな~んも変わりゃしない。どうせこれからも」

「……」

「……ホント、バカな話だわ」

 

 クイッとお酒を飲みながら、どこか遠い目で鷹山くんにお説教される彼を眺める千絵。彼女から見ても彼の調子は昔と同じらしい。

 

「アレが、アンタらが桂香次第なのはアンタもわかってるはずよ」

「それは……」

「だから何かを期待してここに来たんでしょ。時間より早く来たりして」

 

 フッたアンタがなにもしないのは勝手だけどね、と自分のグラスを押しつけて来た。

 

「これお願い。適当にしといていいから」

「良いけど……どうしたの?」

「お花摘みに行くの」

 

 あとよろしく~と手を振って千絵は化粧室の方へ歩き出した。

 言いたい放題に発破をかけて私を置いていってしまった。本当に昔からやりたい放題して他人任せにするんだから。

 

 千絵は勘違いしている。そんなつもりで同窓会に来たわけじゃない。

 

 彼のことはとっくに吹っ切れている。

確かに男性からそういう誘いをされたこともあるし千絵から男の人を紹介されたことだってあるけど、全部断っている。

 でもそれは今は手一杯だからだ。銀子ちゃんたちがいるおかげで特定の相手がいなくて寂しい、なんてことは考えたこともない。

 別れてからは時たま父が奇行を起こすくらいで、むしろ彼がいないから静かで落ち着いた生活ができている。物足りなさなんて感じてない。

 

 ナニカの期待が有って同窓会に来た、なんてことはまったくない。

 

 そのはずなのに、千絵のお酒はしかめ面の女性が私を見つめる姿を写していた。

 

「きゃ……」

「ぬお」

 

 突然、背中にトンと誰かがぶつかった。

 

「あ」

 

 振り返ると、彼。

 

 時が止まったように見つめ合う。

その赤ら顔を見れば酩酊寸前の泥酔状態だと誰が見てもわかる。きっと追加のお酒を取りに来たんだろう。離れた方がいいと直感が警告してるのに、そのうろんな眼の色に足が動かなかった。

 

「……ぁん……」

 

 彼がもごもごと呟いて、頭の中の警告がうるさくなった。

助けを求めたくてさっきまで地獄があった方をみたら、乱闘はとっくに終わって鷹山くんが倒れた赤羽くんたちを適当に座らせて静かに飲んでいた。救援は無理そう。

 

「桂香さぁ~ん!」

「や、ひゃぁ」

 

 酔っ払いに抱きしめられた。昔より硬く大きくなった胸板と腕が、力強く上半身を覆ってびくともしない。うわぁお酒臭い……。

 

「ちょっとなにす……!」

「だいじょぉぶ!」

 

 頭の上であやす声がする。なにが大丈夫なのか。お酒臭いしちょっと汗臭いし熱くて頭に血が昇るし困惑して心臓がうるさいしでこっちは全然大丈夫じゃな――――。

 

 

「桂香さんは負けっぱなしでいるような女じゃぁあぁりません!」

 

 

 ――――。

 

「ずぇったい諦めないし投ぁげ出さねぇ止まらねぇからよ」

 

 なにを、いってるんだこのおとこは。やさしくあたまをなでないで。

 

「もっと自信持ってぇ胸張れぇい」

 

 熱くって臭くって。目に沁みて視界が霞んできた。

 

「だからぁ、んな辛そうな顔しないでくれよぉ~……」

 

 涙まで出てくる。私って泣き上戸だったろうか。そうじゃないなら、なにも知らないはずなのに好き勝手のたまうこの酔っ払いのせいだ。

 

「っ!」

 

 言い返してやりたくてその厚い胸を押しのけて距離を取る。

 

「……」

「えっと……」

 

 さっきとは打って変わって静かにフラつく彼が、とろんとした眼で私を見つめている。

 

 言葉が喉から先へ出ていってくれない。

最近はどうしてるのセクハラよまた変な服装で出歩いてない今は彼女いるの? とりとめのない言葉が浮かんでは沈んでいく。なにより聞きたいことはあるけれど、口にしたくないし答えて欲しくなかった。

 

「……飲み直ぉし~ましょぉ~」

 

 自分が今なにをしたのか忘れたように、彼が背を向ける。

 

――桂香さんならなれるぜ、女流棋士。俺が保証する。

 

 予感があった。このまま行かせてしまったらもう二度と手の届かなくなる。そんな予感が。

 

――俺、やっぱり桂香さんが好きだ。

 

 あの日と重なるその背中をこのまま行かせてしまったら私は。

 

――桂香次第なのはアンタもわかってるはずよ。

 

「ぁ……」

「……?」

 

 指が、彼の袖をつかんでいた。引っ張られて彼の足が止まる。

 

――“  ”の話すると、すっげぇ楽しそうに笑ってるのがめちゃくちゃ好きなんだ。

 

 いま行かせてしまったら彼に。

 

――ありません。

 

 私は二度と万丈くんに勝てなくなる――――!

 

 

 

「賭け将棋、しない?」

 

 

 

 口が勝手に動き出した。

 

 あなたの本気は今どれぐらい強いの?

 私の本気はいまどれぐらいあなたと戦える?

 

 今日だけは将棋を忘れていたかったのに、確かめずにいられなくて彼の前では無理だった。他のどんな棋士よりも本気で指して本気で勝ちたい、その将棋指しの前でだけは。

 

 短い沈黙。そのあと、フルフルと震えて振り返った彼の顔は。

 

「……う、ふぐっ……う、うぅ~……」

 

 我慢できずに泣き出す寸前だった。あ、頓死級の悪手を指した気がする。

 

「げぇいがぁずぁーん!!」

「わ!?」

 

 お酒のニオイを垂れ流す巨大な筋肉にさっきより強く抱きしめられ復縁を懇願される。私を助けようと赤羽くんたちがこの酔いどれを引き剥がそうとするけど、結局は千絵が絞め落とすまで続いた。酒気も酷かったけれど正直涙と鼻水の方がキツかった。

 

 




 オリキャラを都合よく使いすぎか……?

 次回、酒の勢い。


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桂香と元カレ・後

 ストック無くなったし、これで完結でいい気がしてきた……。


 

 腕を絡めて放さずに、その唇を塞いだ。

 

 

「……」

「……」

 

 万丈くんの部屋で彼と一緒に朝を迎えた。

 お互い下着一つ纏わず、狭いシングルベットの上で。

 

 窓の外からチュンチュンと鳥が鳴き声を奏でる朝。あまりの事態に二人で放心した。彼なんて遠い目で虚空を仰いでいる。私も同じような顔をしてるんだろうなーと腕枕されながら現実逃避していた。

 ふっと首をベッドの下に向けるとドレスやスーツや下着が脱ぎ散らかされていて、ナニをしたのかを視覚に突き付けられる。

 

 その、違うのだ。

同窓会の二次会にも参加せず部屋へ直行してさっそく対局したけれど、酔った状態ではまともに指せないという至極当たり前の真実に私たちはたどり着いた。対局中盤のことだった。

 

 なので一旦、酔いが醒めるのを待とうと合意してまどろんでしまったのが悪手だった。

昔贈った誕生日プレゼントが大事にされているのを発掘してしまったり、そこからじゃれてるうちに偶然ベッドに押し倒されたり、気の迷いでその背中に腕を回してしまったりと、不可抗力でどんどん袋小路に進んでしまったのだ。

 

 そう。これはそう。

 お酒のせいなのだ。

 正常な判断ができなかったのもすごく気持ちよくなってしまったのもすべてお酒の魔力なのだ。

 おさけってこわいな。

 

「……~っ!」

 

 同窓会で酔って元カレと盛り上がっちゃった挙句、自分からノコノコお持ち帰りされて朝チュンしてお酒のせいにする自分。

 

 己の痴態を直視できなくて羞恥心だけでそのまま消えてしまいそうだ。八一くんたちには死んでも知られたくない。お墓まで持って行こう。

 なんて情けない、こんなのまるでダメな女の一例みたいじゃない。こんな大人になりたいと思ったことは一度だってないのに!

 

「きゃっ……」

「桂香さんん……!」

 

 あんまりな現実に悶えたのが運の尽き。狭いベッドと壁の間にあった隙間へとシーツごと転げ落ちてしまった。

 

「生きてる、か?」

「………………しにたいぃ」

 

 痛い。落下した痛みは大したことないけれど心の方は致命傷でズタボロだった。

 

「あー……桂香さん」

 

 現実逃避から先に帰還した万丈くんが、シーツで体と顔を覆う私を隙間から抱え上げる。こちらはまだ帰り道で迷っている途中なので、シーツを押しつけたまま腕の中から返事をする。

 

「…………なに?」

「……将棋、どうする」

「…………また、今度でいい?」

「……そうだな」

 

 お互いに将棋ができる精神状態に持ち直す余裕はなく、その日は対局日だけ決めて解散した。

……もっとたくさん飲んでおけば良かった。それなら同じ結果になっても夜の内容を忘れられたかも知れない。まえよりじょうたつしてた。

 

 

 それから数日後。

 

 

「……最近、どうなの?」

「……一昨日、編集の姉ちゃんに褒められた。急に表現とか良くなったって……なぜか」

「そーなんだー」

「桂香さんは?」

「…………あれから、ちっちゃな壁を超えた感じがするの。なぜか」

「そ、ソーナンダー」

 

 対局日。約束通り家へやって来たスーツの万丈くんに嘘はなさそうだった。

 

 あの朝から、私は唖然とするほど上手く行きだした。

心は絶叫マシンのように乱降下しているのに、将棋は絶好調だった。あの夜に整体染みたこともされたせいか身体の方も絶好調。恥ずかしいくらいに快調だった。

 

 この対局でもそれは同じだ。いつもより有効な手や筋が頭に浮かんで、七寸盤の上はずっと私の優勢。このまま行けばまず負けない。

 

 ただ……。

 

「……ねえ、万丈くん」

「……はい」

「ちょっと弱くなり過ぎてない!?」

 

 問題は彼の方だった。

私と別れてから将棋の駒にも触れてないという万丈くんは、ブランクがあるとかいうレベルじゃないほど弱くなっていた。初めて指したときの方が幾分か強かったかもしれない。ついでにまるで集中できてないらしく悪手が多くて負けようがない。

 

「面目ねぇ……!」

「どうしてこうなっちゃったの……?」

 

 歳をとると発想が硬くなって弱くなる、なんていうのは棋士の間では常識。でも、それじゃ説明がつかないほどの落差だった。私もあれからちょっとは強くなったはずだけどこんな一方的になるわけない。彼が手加減している様子もなく、悪手の度に髪の毛が跳ねてもう針山みたいだった。

 

「どうしてと聞かれても」

「心あたりない?」

「心あたり、と言うか……」

「?」

 

 歯切れ悪く濁して目を逸らす彼をジッと見つめると観念したように口を開いた。

 

「桂香さんが……」

「私?」

「綺麗になってるから」

「は?」

「集中できねぇ……!」

 

 駒袋を投げた。

やたらに真剣に吐露する顔面へと力いっぱい投げつけてやった。

 

「ふ、ふざけてるの!?」

「大真面目だ。久しぶりの対面長時間でこっちはずーっとドッキンドッキンなんだ」

 

 駒袋を顔に貼り付けたまま色ボケ筋肉が開き直る。というか。

 

「この間もっとスゴイこと長時間したでしょう!?」

「それもフラッシュバックしてんだよ!!」

 

 駒袋を引っぺがして再び投げつける。今度は顔に貼り付かず膝へと落ちた。対局中にナニを考えてるんだこのバカ正直筋肉は。ああもうはずかしい。

 

「……」

 

 ろくでもないカミングアウトのせいで場に沈黙がのしかかる。対面の巨漢は刑の執行を待つかのように静かに項垂れている。顔は耳まで赤かった。こっちは頭から火が出そうだ。

 

「……えっち」

「ぐうぉ……」

「へんたい、スケベ、底なし」

 

 身をかき抱いて睨み、ようやく絞り出した言葉に万丈くんがのけ反る。ちょっと嬉しそうな顔するなバカ。

 

「あ、あと考えられるのは……」

「他にも有るの……?」

 

 この話から無理にでも方向転換をしたいのか、他の原因を思い出そうと頭を巡らせる。今のだけで胸やけしそうなのに、まだなにかあるのだろうか。

 

「……別れた後の三年生の夏休み、あっただろ」

「う、うん」

「あのとき俺、休み全部使って世界で迷子になってたんだ」

「そんなことしてたんだ……」

「その途中とある国で頭に悪影響の変なガスを浴びちまったんだ」

「なにそれ、大丈夫なの?」

「専門家にガス抜いてもらったら、デトックスしたみたいに調子よくなったから心配ねぇ」

 

 今もすっげぇ快調だし桂香さんは大好きだし、とアピールする彼にそっと胸を撫で下ろす。後半は別に言わなくてよろしい。

 

「ただ……」

「ただ……?」

 

 

「多分それから将棋がすっげぇ弱くなっちまったんだと思う」

「そんなバカみたいな話ある!?」

 

 

 吸ったら将棋だけ弱くなるガスがあってたまるか。ふざけんな!

 じゃあなに。時々夢に見て寝起きを最悪にするあの始業式のときには、もうこうなってたの!?

 

「でも他に解りやすい原因…………ねぇし」

「うぅ~……!」

 

 私の涙は何だったのかとこの筋肉ダルマを小一時間問いつめてやりたい弱体化具合。あの頃コレだと知ってたら……ううん、逆に弱すぎてがっかりしてたかも。

 

「――――はぁ」

 

 なんかもう、いいや。

 

「とりあえずそのガスが出る国の名前、教えて? 絶対に近づかないようにするから」

「信じてくれんのか? 言ってる俺もどうかと思う話を……」

「……万丈くんなら何があってもおかしくないから」

「桂香ざんん……!!」

 

 諦めた目で見つめると万丈くんが感涙する。信頼してるんじゃなくて、ヨガで宙に浮くようなバカな人の話に呆れているのだ。

 

「万丈くん」

「お、おう」

「指すよ、早く」

「め、目が据わってらっしゃる……」

 

 コレに拘っていた自分が果てしないほど馬鹿馬鹿しくなった。終局してお暇してもらおう。

なんか、冷めてしまった。どうしても勝ちたかったはずなのに、もう勝敗とかどうでもいい。

 

「これで終わり」

 

 なんの感慨もなく詰めろをかける。でもこの筋肉は完全な詰みまで粘るから、面倒だけれど最後まで付き合おうとため息を吐いて――――。

 

「まだ行ける」

「え?」

 

 彼の目の色が変わる。

 

「――――!」

 

 一手指しただけで私には解った。私の心を折るほど強くなったあの頃の、多分それ以上の彼だ。

落ちぶれたはずの相手が、突然あの頃以上に輝きだした。

 

「……!」

 

 即座に応じて戦況が変貌する。

別人が交代したかのような手が盤面をどんどんひっくり返していく。彼の打ってきたいくつかの悪手が私の攻めを阻む駒に変身し、終戦間近の盤上が一変した。

 

「この……!」

 

 もう早く終わらせて、読み返さない棋譜にしてしまいたいのに。

 

「行かせない……!」

「こっちの台詞!」

 

 熱い。

 

「まだ……!」

 

 熱くてもっと指していたい。その強さに口の端が吊り上がっていくのを止められない。

 

「ぁ、はぁっ!」

 

 本当にこの男は!

 

「はは……!」

 

 冷めた直後に、火を付けるなんて本当に質が悪い――――!

 

 

 

「……負け、ました」

 

 崩れるように万丈くんが頭を下げた。

 あの頃以上の実力。それでもここに来るまでの損失を取り返し切れず、対局は私の勝ち。

 

「ありがとうございまし、た」

 

 言い終えるより先に二人そろって背中から倒れた。

 深く息を吐く。荒い呼吸をする喉が、必死で回転させた頭が熱い。冷たい水で冷ましたい。

 

「はぁ、はぁ……はあ、はははっ」

 

 吐き出す息に笑い声が混ざる。圧倒的な優勢を覆されたのに相手のミスのおかげで勝てたようなものなのに、勝てたことが嬉しくて仕方ない。

 

「……ちゃんと、強く、なれてたっ!」

 

 彼と付き合っていた頃のままなら、今の勝利は得られなかった。彼の猛攻を捌き切ることなどできなかったと断言できる。

 

 ずっと独りで迷子になったような心細さに悩まされていた。進んだつもりになっているだけじゃないかって自信が持てなかった。

 

 強くなった実感が、今確かに私を満たしていた。

 

「……やっぱ、好きだなぁ」

 

 ついこぼれたような声音で彼が呟く。いつの間にか起き上がっていたようで、寝転ぶ私を七寸盤の向こうから穏やかな表情で見つめていた。

 

「えっち」

「またか。なにがだよ」

「視線がやらしー」

「変なとこ見ちゃいねぇよ……」

 

 嘘。今さら逸らしたって目が胸とか脚にふらついてたのバレバレだからね? ジロジロ見てたわけじゃないし万丈くんだから別にいいけど。今日は体の線が出る服着てるしね。

 

「で、どうすんだよ」

「? どうするって?」

「賭け将棋だって言い出したの桂香さんじゃねぇか」

「あ」

 

 そうだった、忘れてた。色々と一杯一杯で何を賭けるのかなんて話し合っていなかった。

 

「どうしよう……」

「俺も確かめなかったけどよ……なにか俺にさせたかったんじゃねぇのか?」

「えーと」

 

 困った。その場の勢いで口に出したから、彼から何か貰おうとか何かしてもらおうとかはまったく考えてなかった。本気の将棋ができればなんでもよかったし。

 シテもらいたいこと、と考えて同窓会の夜が過ぎって慌てて頭から追い払う。

 

「……保留でいい?」

 

 絞り出した返答に彼が渋い顔で眉間を摘まんだ。わぁ、かれのこんなところ、はじめてみたぁ。

 

「……条件つけていいか?」

「……どうぞ」

「なら桂香さん」

 

 勝ち負けのメリットデメリットがわからないまま賭けに応じてくれた彼には、多少の無理を言う権利があると思う。彼なら非常識なことを要求するわけないし。

 

「これからも、俺と賭け将棋をして欲しい」

 

 え。

 

「これからもって」

「言葉通りだ。何度でも桂香さんと指したいんだ」

「は……は?」

「俺が負けたときは、桂香さんの言うことなんでも聞く。パシリでもなんでも便利に使ってくれ」

「待って待って!」

 

 急な話についていけない。

私だって出来るならこんな駒落ちどころじゃないハンデからの辛勝じゃなくて、彼の実力が十分に発揮された状態で決着を着けたい。

 本当は前のように一緒にいられたらと思うけど。その、私も調子が良くなるから。

 

 賭けに勝って無理矢理にでも私にさせたいことがあるのだろうか。

それはない。万丈くんは自分が得をするために人を嫌々従わせて良しとする人じゃない。

 

 あれ。今までちゃんと考えなかったけど、彼って賭けで本気になる人じゃない?

 

「どう、して」

「また諦めたくなくなったんだよ。初めて賭け将棋したときみたいに」

 

 また? と首を傾げると、彼が恥ずかしそうに頬を掻いて話しだした。

 

「あのとき『俺が勝ったらこれからも告白すんの許してくれ』って言っただろ。覚えてるか?」

「うん。回りくどいなーって思ったの覚えてる」

 

 あの対局のことはもちろんよく覚えてる。

彼からの猛アプローチにうんざりしてなんとか止めてもらおうと仕掛けた賭け将棋。あのときの惨敗が私の棋士としての心に再び火を付けたんだから。

 

「俺さ、実は勝っても告白すんの止めるつもりだったんだよ」

「え」

「あの直前に堀戸の奴から『桂香ホントに嫌がってるからいい加減にしな』って詰められてな」

 

 千絵? そうだ。彼のことで困ってたから、彼女に相談して賭け将棋を提案されたんだっけ。そっか、知らないところで助けようとしてくれてたんだ。

 

「自分でもやり過ぎたーって反省してさ。本当はあのまま『明日からもう近寄りません今まですいませんでしたー!』って謝って終わるつもりだった」

 

 賭けを持ちかけて来たとき本気で嫌そうな顔してたからなー、と苦笑いする万丈くん。

 

「じゃあなんで……」

「そう言おうとしたら、桂香さんがもう一回指すよ! ってすげぇ剣幕で迫ってきただろ」

「そうだったっけ……?」

 

 言われて見れば、あのとき万丈くんがなにか言いたげだったような……。どうだったっけ。思わぬ敗北の悔しさでそんなこと気にする余裕がまるでなかったことだけは覚えている。

 

「さっきみたいに、絶対負けない! っておっかないけどすげぇ良い顔でよ」

 

 忘れたりしない、と目を細めて彼があの日の感情を赤裸々に語る。

 

「あぁ、この娘は本気で将棋が好きなんだなぁって改めて解ってさ」

 

 諦めてたまるかっていうその真剣さに。好きなことに全力で挑める熱意に。

 

「惚れ直して、こっちも諦めたくなくなっちまったんだよ」

 

 そう言って照れ臭そうにクシャっと笑う。

 

「だから、桂香さん」

 

 微笑む彼がいつかのような提案をする。

 

 

「俺が勝ったら、もう一度だけ告白するのを許してくれ」

 

 

 確かに賭け将棋をしよう、なんてあの時のように言ったのは私だ。でもそっちまであの時と同じようなことを言うなんてズルい。

 

「……勝ったら付き合ってくれ、じゃないんだ」

「おう。それで嫌々付き合ってもらったってなんも意味ねぇよ」

 

 上等だ。ならこっちだって同じようにしてあげる。

 

「いいよ。何度だってフッてあげるから」

 

 今度は根負けだなんて言ってあげないからね。

 

 

 

「よぅし、そうと決まればちゃんとしねぇとな!」

「なにを?」

「清滝先生に土下座。付き合ってねぇのに娘さんに手ぇ出しちまったからな。会わせる顔が……」

「そんなとこをちゃんとしなくていいから!」

「安心してくれ。殺されても文句は言わねぇ」

「なにも安心できない!」

 

 なんとしてでも父のところへ行こうとする万丈くんを、全身でしがみ付いて引き止める。

 最初のお願いは、あの夜の口止めになった。

 

 



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元カレと銀子


あと2、3話で完結のつもり。私がキチンと完結するまで書ける……だと!?


 

 

「銀子ちゃん、八一の誕生日になに渡したら良いと思うよ?」

「なに突然? どんだけ先の話してんのよ」

 

 季節は梅雨真っ只中の六月。

私、空銀子はウチの大事な桂香さんに言い寄る筋肉男の運転で家に送られていた。例のごとく桂香さんに負けて頼まれたらしい。

 後部座席の窓から見える夜の街を大粒の雨と風が濡らしている。傘があっても防げそうにない雨模様を眺めると車の送迎があって助かったと小さく息を吐く。便利な筋肉がいて良かった。

 

 この男の世話になるのは一度や二度じゃない。

こういう夜道の送迎もあるが、わかりやすいのは女流タイトルを獲得したときの厳ついSPの真似事だろうか。インタビューの当たり障りない返し方を教えられたり質の悪いファンや記者から護ってもらったりとか、世話になっていることは残念ながら事実。

 

 でもあのサングラスとスーツの大男を引き連れた写真で「新女王、堂々たる貫禄!」って大きく記事に載せられたのは一生許さない。悪目立ちしたでしょうが。

 そのときだって、一緒に来てくれてた桂香さんにも同じ格好にさせて「ペアルック最っ高!」とか言って喜んでたし。桂香さんもちょっとノッてたけど。

 

「いや、少ししたらしばらく日本から離れるんだ。戻ってくんのは八一の誕生日過ぎた頃になりそうだから、今のうちに考えとこうってな」

「あっそ」

「とりあえず俺厳選の美味いプロテインセットが第一候補なんだけど……」

「それ一昨年やって微妙な顔してたでしょ。学習能力無いの?」

「だから相談してんだよー。あいちゃんと住みだしたし、一緒に使えるシェーカーとか良いと思うんだけどなぁ」

 

 心底残念そうなのが後ろからでもバックミラーで見える。コイツは脳ミソまで筋繊維に浸食されているらしい。八一が悪影響を受けないようにまた釘を刺しておかないと。八一の家に住み着いた小童は早々とこの筋肉ゴリラに絆されて役に立たないから。

 

「なんで私に聞いてくるわけ? それこそ桂香さんに相談すれば良いでしょ」

「銀子ちゃんの意見も欲しいんだよ。万が一かぶったら悪ぃし」

「私とアンタの発想がかぶる? 名誉棄損で訴えられたいの?」

「むしろ俺の名誉が著しく損なわれてんじゃねぇか!?」

 

 プロテインと元カノしか頭にないゴリラ・ゴリラ・ゴリラと、将棋に傾倒する普通のホモ・サピエンスを同列に語るな。

 

「何も決めちゃいないわよ。アイツの誕生日なんて覚えてもないわよ」

「気のない振りすんのはわかるけど、過剰だろ? 何年か前に『誕生日が覚えやすいのが取り柄の名前~』とか言ってプレゼント渡してたじゃねぇか」

「うるさい」

「今年も考えといた方が良いぞー。あいちゃんと天衣ちゃんがそういう気満々なんだからな。ちゃんとインパクト与えとかねぇと勿体ねぇだろ」

「……うるさい」

 

 最近、八一のところに裸の幼女が押しかけてきたと腹を立てていたら黒い小童が更に増えた。どっちもあの鈍感を見る目が師匠に対する以外の感情があるのがバレバレ。マセガキ共め。

 あのバカもバカだ。小学生相手にデレデレしてんじゃないわよ、クズロリ王め。

 

「それこそプレゼントは私ーってやるくらいのインパクトが……」

「アンタにセクハラされたって桂香さんに伝えとく」

「俺が悪かった。だからその手に持った携帯をゆーっくり降ろすんだ。話せば解る」

「……AgitΩのソース」

「へっへっへ交渉成立だぁ……ダースで持って来るぜ姐さん」

「多い。三本」

「いや三本も十分多いわ」

 

 ソースはオタフクが至高。

でも以前この男がお土産に持ってきた「レストランAgitΩの美味ソーっス」もバカにできない。海外の本店でしか買えず、この筋肉に頼るしかないのが惜しい。

 

「まったく……脳みそピンクに腐ってんじゃないの?」

「でも男は超喜ぶんだなコレが。やるなら思い切りが大事だぞ、始めは盛り上がるけどちょっと照れると一気にぐっだぐだになるから気を付けな」

「なにその妙に……やっぱりなんでもない」

 

 これ以上聞くとこっちがダメージを受ける、気がする。下手に深追いをして攻め駒を奪われ自陣を荒らされるなんて目も当てられない。

 

 恋愛話にこの筋肉が絡むと大抵ロクなことがない。

 桂香さんにどっかの将棋バカのことを相談したときもそう。主なアドバイスが男からアプロ―チされたら対処すればいいとか受け身側の助言の割合が多い。参考になりそうでならない。

 しかも中身はやたらと実践的なのに、迷子になるって言って自然に手を繋ぐーとかデートに変な服で来たら試着室に投げ捨てなさいとか、想定する相手がどう考えてもコレだ。参考にならない。

 

「つまりよ、あいつ相手にはそれくらいはっきり好意を示すのも戦略だって話」

「……具体的には?」

「まず告る」

「『戦略』を辞書で引いてきたら?」

 

 相手がバカ詰みの手順を踏んでないのに即王手を狙うなど素人でもやらない。

 

 そもそもコイツに八一のことを相談した覚えは一度もない。桂香さんが言い触らすわけないので問いただせば「え、隠してたのか?」とマヌケ面で答えたので足の指を踏んでやった。コレと二人になると結構な頻度でこの話題になる。鬱陶しい。

 ……まぁ? コイツのお節介で遊園地に八一と二人っきりで出かけさせられたことはあるし? 鬱陶しいなりに役に立ってはいると言ってやらなくもない。

 

「でも俺これで桂香さんと一度付き合ってんだぞ。実績がありますぅ~」

「そうね。たった一年でフラれた実績があるわね」

「ぐぅ、俺のアキレス腱に容赦がねぇ……!」

 

 序盤だけ優勢で中盤以降劣勢になるような研究をそのままなぞる棋士がどこにいるか。

 

「極端なこと言ってんのはわかってるけどよ……相手は八一だぜ?」

「……」

「一回ちゃんと告っても『か、からかわないで下さいよ姉弟子!』ってなりそうだぞ」

「……似てない」

 

 有効な返し手が即座に打てず下手なモノマネを咎めるくらいしかできなかった。声真似はともかく発言自体は遺憾ながらあり得る。あの朴念仁の鈍さを言及されたら同歩しかないのだ。

 アイツのそういう点だけはこの色ボケ筋肉を見習えと辟易して、やっぱり足して二で割って筋肉だけ差っ引けばちょうど良くなると考えなおす。

 

 というか。毎度のことながらそもそも。

 

「……余計なお世話」

 

 私はプロ棋士になって八一と戦うまでどうこうする気はない。

 あの将棋バカと本当に向き合うつもりならプロ棋士の世界で真剣勝負をするほかない。私たちは男とか女とかの前に一介の棋士なのだ。これだけは譲るつもりはない。

 

 棋士じゃないコイツに私の意地は理解できないし、説明する義理もない。コイツは大事なことを賭けて負けたのにヘラヘラして同じ失敗をするような奴。それが将棋ならば尚更。

 

 この男を嫌いな理由はまだある。この男は間違いなく将棋星人だ。才能だけならもしかしたら八一に迫るかもしれない。なのにコイツは桂香さんと指すためだけに地球へ永住して、そのまま地球観光を楽しんでいるのだ。

 

 師匠や桂香さんに負けず劣らずこの男にお世話になってるのはわきまえている。桂香さん一筋でどっかの誰かみたいにフラつかないのも悪くない。

 それでも好きにはなれない。多くの棋士が悪魔に魂を売ってでも手に入れたい物を持つくせに、それをよりにもよって女流棋士になろうと懸命な桂香さんと指すためだけに投げ捨てるような奴を棋士として姉弟子として妹分として許せない。

 

 だからバックミラー越しに睨みつけると、男が鏡の中で困ったように微笑んだ。

 

「余計でも世話焼きたくなるんだよ。もどかしいし……羨ましいしな」

「羨ましい?」

 

 車が停まる。フロントガラスで赤信号が雨水で滲みながら光っていた。

 

「だってお前ら、どっちがどんだけ将棋一生懸命やっても問題ねぇだろ」

「……?」

 

 言葉の意味がまったく理解できない。そんなの棋士なんだから当たり前でしょ。

 

「俺と桂香さんだと……そうも行かねぇからよ」

 

 運転席からそう呟いて苦笑する。

 

 ……私は二人が破局した理由を知らない。

別れる少し前から鬼気迫る雰囲気で将棋に没頭する桂香さんの姿に、別れてしばらくしてから破裂したみたいに泣き出した姿に、それを聞いてはいけない気がしたから。

 この筋肉が賭け将棋しにくるようになってからは、そんなことなかったみたいに桂香さんは調子を取り戻して昔より楽しそうだけど。

 

 それでも今一歩、あと一歩。目指す場所に届いていない桂香さんがいる。

この男に桂香さんを含む私たちは世話になっているけれど、あくまで将棋以外のことでしかない。

 

 以前の強さのままなら、それに引っ張られて桂香さんの実力も引き上げられた可能性もある。実際は得意戦法が参考にしづらいトリッキーさなうえ、肝心の桂香さんとの対局じゃデレデレして集中力はボロボロ、頓死すれば髪の毛でわかる体たらくぶり。

 こんなのと戦って強くなれと言う輩がいたら、その正気を疑う。

 

「……アンタまさか、あの素人みたいな弱さって……」

「んなわけねぇだろ、いつも本気でやってる。本気でやって本気で桂香さんに見惚れてんだ」

「情けないことを胸張らないでくれる?」

 

 まさかと思って問いただせば、呆れた本音が返ってきた。信号が青に変わって車が動き出す。

 

「ただもし……もしだぞ? このままただ勝って、OKされても……堂々巡りな気がしててな」

 

 微妙に身が入らねぇのも本当だ、と吐露する男と鏡越しでも目が合わない。運転してるから、だけじゃないと思う。小道に入って車の速度が落ちた。

 

「……将棋一筋で、将棋盤に向かうあの顔がたまらねぇんだ」

 

 でも出来るならな、と続いて。

 

「あれを一度でいいから将棋抜きでこっちに向けさせたいんだよ」

 

 じゃなきゃ意味がないと言いたげな顔は、どこか遠くにある宝物を眺める眼差しをしていた。

 

「……ふん」

 

 それを理解できるのが腹立たしい。

私はあの頭がほぼ将棋に占領されてる将棋星人に、真剣勝負で将棋ごと私に目を向けさせたい。

それは私にとって将棋はすべてだから。私のすべてをぶつけて受け止めさせて勝ちたいから。

 

 でも、この男はそうじゃないんだろう。

将棋がすべてってわけじゃないから、それ以外で桂香さんと向き合って振り向かせたいんだろう。

 

 そんなの、無理。桂香さんは棋士で将棋が恋人と胸を張れる人だから。

それを望むのは、銀をそのまま真後ろに下げたいと望むのと変わらない。二人が今の関係のままずっと千日手をくり返す理由がわかった気がした。

 

「俺は将棋のことじゃ役に立てねぇ」

「……」

「だから、もし桂香さんが銀子ちゃんたちを頼ってきたら……頼むわ」

「……そんなことになったら、アンタなんかに言われなくても助けるに決まってるでしょ」

「だよな。でも頼むよ」

 

 嬉しそうにクシャっと万丈が笑って、停車する。いつの間にか家の前に到着していた。

 

「ま、お前らはこんな風にこじれたりは無さそうだからつい、な。将棋以外なら手伝えるからよ。車で送ったり、恋愛相談とかな」

「……まるで参考にならないからいらない」

「頼むからもうちょっと手心加えてくれねぇかな!」

 

 茶化すバカの声を背にドアを開けて傘を差す。雨は振り続けているけど風は少し止んでいた。今のうちに屋根の下へ避難してしまおう。

 

「あ、八一の誕プレ……やっぱプロテインセットに……」

「プロテインから離れろ筋肉バカ」

 

 すっかり忘れていた話題に、もう八一の分もソース買っておきなさいと言い含めておいた。

 ……私も今年はちゃんと考えておこうかな。

 

 

 後日。

 

 

「万丈くん、晶さんに聞いたんだけど……前から知り合いだったんだってね?」

「お、おう。六年ぐらい前ガン……海外にいる特殊技能を教えてくれる師匠の元で一緒に……」

 

 万丈のいない所で無事に壁を乗り越えた桂香さんが、頼まれた家事を終えて筋トレしてた筋肉ダルマの背中に腰を下ろしてイチャついてるのを見かけた。

 晶……? ああ、黒い小童がいつも連れてるスーツの女か。

 

「頼りになる素敵な兄弟子だったんだってね~」

「えっと、兄弟子っつっても俺が二週間早かっただけで……」

「へぇ~なんだか聞き覚えある関係だな~」

 

 「海賊電子ジャー」Tシャツの上でグリグリとお尻を動かす桂香さんはニコニコしてる。口調は棘があるのに、どちらかというと楽しいオモチャで遊んでるような表情だった。

 

「晶さん美人だもんね、若いもんね。五歳も年下だけど成人してるから問題ないもんね?」

「あのう、筋トレの負荷を上げてくれるのは助かるんだけど、その、重心を考えて頂けると」

「あら、私って重いの?」

「羽根のような軽さと柔らかさで宇宙までイケそうです!」

「じゃあこのまま頑張ってね」

「重心んん!?」

 

 ……………………堂々巡り? こじれてる?

 

 怪訝な顔で隠れて眺めていたら、言い合いが終わり桂香さんがその背中にしな垂れかかって、耳元で囁いた。

 

「崩れずにやり終わったらご褒美あげるね?」

「……うおおおぉっ!」

 

 ……言いたいことは有ったけど、見なかったことにして通り過ぎた。

 

 下手な深追いは、禁物。

 

 





万丈、桂香さん成長イベントをスルー。あれは自分の過去と向き合って殻を破るのが良いので仕方ないね。なお原作より強化されてる模様。


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元カレと竜王


万丈が余計なことをする話。


 

 

「邪魔するぞ」

「邪魔だ帰れ」

 

 暗く閉じた部屋に踏み入った万丈を、硬く低い八一の声が切り捨てた。

 

「そういうな。散らかったゴミくらいなら掃除してってやるからよ」

「必要ないんだよ肉ダルマ」

 

 不機嫌さを隠さない八一の悪態を、柳に風と受け流す万丈。それがまた八一の癇に障った。

 

 

 タイトル防衛戦、竜王戦七番勝負。八一はすでに三連敗を喫していた。

 

 相手は棋界最強とも謳われる“名人”。次元の違うその強さに八一は徹底的に打ちのめされ完全に己を見失っていた。

 

 あと一度でも敗北すれば八一は竜王を失冠する。

対して名人はこの七番勝負に勝利すればタイトル保持通算百期と永世七冠を達成するという偉業を同時に達成するのだ。その名誉がかかった世紀の大一番に棋界から、いや日本中から注目が集まっていた。

 

 世間は名人の勝利に期待し、八一は完全にただの敵役。当然の流れではあった。

 

 聞こえない振りをしていても耳に突き刺さってくる記者たちの声。一局目の敗北で完全に破壊された将棋観と自信。あらゆる要素が八一を袋小路へと誘った。

 

 八一は一人、少しでも勝つ確率を上げるために将棋ソフトを中心に研究を行う。エナジードリンクと即座に食べ終わる携帯食料やカップ麺で最低限の栄養補給をし、ほぼ部屋からも出なかった。

 

 勝つために無駄な必要ないものをすべて排除して切り捨てて、自分が正しい方向に進んでいるかもわからないまま昼も夜もなく八一は名人との戦いに備えて将棋に没頭した。

 

「俺の状況わかってるだろ!? お前に構ってる暇ないんだよ!!」

「エゴサする余裕はあるのにか?」

「……!?」

 

 知られているはずのない行動をピタリと言い当てられ、八一は息を呑む。すると、万丈がこれ見よがしに深くため息を吐いた。

 

「……やっぱりやってやがったな。竜王になった後といい、負けが混むとそれだ」

「っ……何なんだよ」

 

 バツの悪さに顔を背けた。

 

 別にナルシストになったつもりはない。だが魔が差して、今の自分が世間にどう見られているのか、それがどうしても気になって一度だけしてしまったのだ。

 

 結果は、最悪だった。

名人の勝利を前祝いしながらついでに行われる若すぎる竜王への揶揄や、三連敗から失冠を確信したような嘲笑の数々。もっと最悪なのは、そこから姉弟子や弟子たちを非難する流れにまで発展するのを目にしたことだった。

 

 まるで日本中が八一の惨敗を望んでいるようだった。

 自分のせいで、大事な人たちまで悪く言われる現状が嫌で嫌で仕方なかった。

 

 それも、今は気にしていられるほど余裕はない。

 

「一人にさせてくれ……一分一秒が惜しいんだよ」

 

 名人に勝つためには一人で一局でも多く研究するしかない。それが八一の結論である。

 

 食事をする時間も惜しい。寝る間も惜しい。他人と話すのに時間なんて割いてられない。

 

 だから、あいを師匠の家へと遠ざけた。

 だから、様子を見に来た銀子を追い返した。

 

「十分間だけ時間寄こせ。そうしたら出てってやるよ」

 

 そんな事情もお構いなしに万丈はずけずけと煽るように踏み込んでくる。

 

「それとも、このまま押し問答するか? 俺は譲らねぇぞ」

「っ……いい加減にしろ!」

 

 万丈に特別苛立ったわけではない。だが、八一はもう限界だった。

 

「どいつもこいつも何なんだ!? 入れ替わり立ち代わり俺の邪魔して!!」

 

 堰を切ったように口汚い罵倒がとめどなく溢れてくる。万丈のみならず他のみんなも貶すそれが自分の喉から吐き出されていくのを八一は理解できなかった。できないまま、したくないまま激情に任せて吐き続けた。

 

「お前はいいよな、大した肩書もないから気楽で! こんなところにいないでヘラヘラ楽しく世界一周でもしてたらどうだ!? それか桂香さんの尻でも追って、いつも通りまるで成長しないロクでもない将棋指してとっととフラれちまえ!!」

 

 最悪の気分だった。

 

 部屋に響く怒鳴り声が数日前にある少女にしたことを否が応でも八一に想起させた。

あらゆる地雷を踏み抜いていった彼女が部屋に来た理由を八一は知らない。ただ自分を励まそうとしてくれていたことはなんとなく解っていた。

 

 泣かせた。

 

 幼い頃から一緒に育って。幼い頃から一緒に将棋を学んできて。

 とても大事な女の子を、お前は弱いから研究の邪魔だと当たり散らした。

 

 あいも同じだ。

 彼女の母親に彼女を立派な棋士にすると啖呵を切って数ヶ月、大事な一局に備えて教えを乞う弟子に八つ当たりし、あの娘のため自分のためと言いながら家から追い出し師匠に押し付けた。

 結果、あいは負けたらしい。もう一人の弟子はしっかり勝ったらしいが、天衣はいつもと違って慎重策での手堅い勝利。そうしなければならないほど、自分の指導は弟子たちの力になっていないのではと不安が募った。

 

 

「いらないんだよ、邪魔なんだよ、鬱陶しいんだよ! なんの役にも立たないから消えてくれ!!」

 

 

 クズ。

 

 銀子が言い捨てて行った言葉の通りだ。八一の名前をもじって散々言われてきたこと。

 ここ最近その通りであると痛感している、己の醜悪な本性。

 

 ドロドロと汚く濁ったそれを剥き出しのまま万丈へと投げつけた。言いたい放題に吐きつけて息が切れる。荒れた呼吸を整えながら、八一は濁った眼で万丈を睨みつけた。

 

「その通りだな」

「あ?」

 

 気が抜けるほどいつも通りの声に、八一は肩透かしをされた。そんな八一を気にすることなく万丈は淡々と返答する。

 

「俺はお前の邪魔をしてるし将棋でも役に立てねぇ、いらないってのも当たってる。俺が悪い」

「だから……!」

 

「なのに、なんでお前は自分が全部悪い、なんて面してんだよ」

 

「え」

 

 八一が思わず顔に触れると涙が流れていることに気づいた。

 

 喚いていたのは自分なのにと、恥ずかしさに水を差され八一は返って冷静になってしまった。

 

「確かに? あいちゃんは見てられないほど落ち込んでるし、銀子ちゃんも泣かせた。そこだけ見りゃお前はクズさ」

 

 何でもないように突き付けられる事実に八一は言葉に詰まり、万丈の攻勢は止まらない。

 

「でもな、それでちゃんと罪悪感あるなら、まだどうとでもなる」

「どうとでもって……適当なことを」

「なるんだよ。お前らはこの程度で切れるような仲じゃないし、お前も言うほど腐っちゃいない。お前より口も性格も悪い奴、世界にどんだけいると思ってんだ?」

 

 知ってるの数えるだけで夜が明けちまうよ、と苦笑する万丈。

 

「それとも今ので俺が傷ついたとでも? んなこと気にするほどご丁寧じゃないだろ俺ら」

「それは……」

 

 その通りだった。

八一からすれば万丈は、姉同然の存在にベタ惚れストーカー寸前の気の良いダサT筋肉。万丈からすれば八一は、愛する女性にとって大切な唐変木で将棋が強い放っておけない弟分。

 

 お互いそれなりに尊重しあって来た自覚はあるが、それ以上に雑に扱いあった間柄でもある。風邪の看病をしてもらった後に八一と銀子の二人で万丈を将棋でボコボコにしたり、エロ本騒動の時に一人で逃げようとした万丈に物言いをして別のエロ本で懐柔されたりとか。

 

「……独りで抱えこんでたら腹の中で腐っちまうんだよ」

 

 夢への道を遥か高みまで登りつめようと進む人間には、その途上で他の誰にも手助けができない大きな壁に阻まれることがある。質が悪いことに、そうなったときは耳障りな外野の声が足を引っ張って邪魔をしてくる。

 そういうモノに人生を歪められた人間は世界に沢山いると万丈は語る。

 

 例えば、一度は夢を掴んだが、事実無根の盗作疑惑と過激なバッシングによって親類も財産も夢も失いまともに歌うこともできなくなった路地裏のロックシンガー。

 

 例えば、兄妹揃って名声と巨万の富を得たがそれに目が眩んで這い寄る周囲に疲れ果て、冬山で心中を図ろうとした小説家兄弟。

 

 挙げだせばキリがない。万丈にできるのは彼らから教わった子供でもできる対処法を、たかが十七の少年が重圧に押しつぶされ同じ轍を踏まぬよう噛み砕いて伝えることだけだった。

 

「無視できるならそれでいい。腹立ったんならちゃんと怒って吐き出せ、言い返せ。不安になったなら意味なくても誰でもいいから愚痴れ。腐る前に処理しねぇと思考が鈍って凝り固まっちまう」

 

 それは棋士にとって致命的だろ、と続く。

 

「ま、この筋肉様の言う通りに今からやれってのも酷だわな。だから後々助けになりそうなもん持って来た」

「……持って来た?」

「決まってんだろ?」

 

 お土産だよ、と万丈が差し出す紙袋は、ここ数日いつも外のドアノブにかかっているタッパー入りのソレと同じだった。差し出されるまで、万丈が手に何かを携えていたことにも八一は気づいていなかった。

 

「方々行って集めて来た九頭竜 八一竜王の防衛成功を願う、棋界の外にいるの奴らの応援だ」

「は……?」

「だから今日は、俺がそれと一緒に渡しに来た」

 

 押し付けられた紙袋を覗けば、何かが一杯に書き込まれた色紙が何枚も投入されていて、その下の底にいつものタッパーがあった。

 

「旅館ひな鶴の皆さんにお前らと初めて会った将棋道場の爺さん婆さん、湘南の奴らに……他にも色々な。お前の知り合いのところにちょっと行って一筆書いてくれって頼んだ」

 

 八一が一枚抜き取ると部屋の暗さで読みづらかったが、太字で豪快な四字熟語や達筆で細く走った俳句らしきもの。大勢の人間が書いていることが一目でわかる文字の不揃いさだった。

 

「名人応援してるって奴もいたからみんながみんなってわけじゃない。でもここに書いた奴らはちゃんとお前に勝って欲しいって本気で思ってる」

 

 そこに書かれた文字は長短さまざまであったが、皆一様に八一の勝利を願い世間の気運に負けるなと活を入れる文言だった。

 普段の八一であれば、こういう品を貰えば素直に感謝して受け取り気分も晴れただろう。

 

 だが。

 

「……こんなのが、なんだってんだよ」

 

 色紙を紙袋に差し戻す。今の八一にはなんの慰めにもならなかった。

応援してるからなんだ、こんな色紙がなんだ。そんなもので強くなれるなら苦労はない。

 

 棋士の戦いは、孤独だ。

どれだけ研究仲間が居ようと、応援するファンが山のように居ようと、対局になれば己の身一つで将棋盤と対面の棋士に向かい己の知識と経験と知恵で挑むのみ。

 

 師匠も桂香も他の棋士も。全員ライバルであると同時にそれを理解しているから、八一に干渉しない。これを自力で乗り越えられないなら、例え名人に勝てたとしても竜王の名の重さに潰されて終わるだけだと。

 

 追い詰められ強さを求め転げまわる棋士に、こんなものは無価値だ。

 

「なんにもならねぇな。有ったところでお前の将棋の腕が上がるなんてこともねぇ」

 

 八一の拒絶に、万丈は毅然と彼を肯定する。

 

 こう返されるだろうことは万丈にも解っていた。だから棋士たちに書くのを頼まなかった。

これで立ち直る程度なら、あいや銀子によって八一はとっくに持ち直している。自分程度がなにかしたところで、この少年の大部分を占める彼女たち以上に影響を与えられるはずもない。

 

 八一は決して弱い男ではない。少しの切欠があれば自力で復活する。だが、その切欠はどう考えても将棋になるだろう。

 

 万丈にはそんな将棋を指すことはできない。

 将棋を指せても棋士ではないから。彼らのように人生を捧げるほどの情熱を持てないから。

 

 だから万丈がこの部屋へやってきたのは、まったくの無意味でしかない。

 

「でも、頭の端に置いとけ」

 

 それでも。

 

「ネットだのマスコミだのみたいに日本全国津々浦々がお前の敵じゃないってことを」

 

 無意味であることを承知で、万丈は駆けずり回った。

 金沢へ向かい神奈川へ向かい、海外移住した将棋道場の最強爺さんのためにカナダへ向かい。

 

「お前に頑張れ、お前は強い、元気になってくれって言いたい奴が沢山いるってな」

 

 万丈は棋士ではない。だから八一と話に来た。罵倒されに来た。

 何か一つに人生を賭けて情熱を燃やせる人間が羨ましくて、大好きだから。

 ただ吐き出すことでほんの少し肩が軽くなるように、余計なお世話をしに来ただけなのだ。

 

「それはお前が竜王だから、なんて理由じゃない」

 

 それを述べる気はない。九頭竜 八一なら必要ないからだ。

 

 万丈が落ちていたビニール袋を拾い上げて、周りに転がっていたエナジードリンクの空瓶や携帯食料の空き箱を次々に放り込んでいく。

 

「強くなるために余計なものを退かして捨てる。それが必要なこともあるだろうよ」

 

 八一の眼前に膨らんだビニールを掲げた。

 

「捨てるモンを間違えてる」

 

 責めるでも呆れるでもなく、ただ淡白な眼がゴミ袋越しに八一を真っ直ぐ見つめていた。

 

「……明日、桂香さんの対局がある」

 

 告げられ、八一は思い出した。

そうか、明日はマイナビ女子オープンの本戦、それも桂香さんが女流棋士になれるか否かが賭かる人生を左右する一局。だが相手は確か……。

 

「桂香さんが勝つところ見逃すんじゃねぇぞ」

「……相手はあの女流名跡だぞ?」

 

 ゴミ袋片手に部屋を去ろうとする万丈の背中に否定を投げる。

 

 人生がかかる彼女には悪いが、難しいと言わざるを得ない。

対局相手は女流タイトル“女流名跡”を二十年近く保持し続け、エターナルクイーンとも称されるあの釈迦堂 里奈。最近まで研修会で燻っていた人間が敵うほど甘い相手じゃない。

 

「だからなんだ」

「釈迦堂さんの強さを知らないのか?」

「昔、一度だけ指してもらったことあるよ。強ぇよな」

「なら!」

「でも勝つ。今の桂香さんなら」

 

 振り向いた万丈の眼に宿るのは絶対的な自信と信頼。自分の根拠のない言動を、いや桂香が勝利することをまったく疑っていない揺るぎない眼差しが八一を射抜く。

 

「しっかり見てろ。元カレ一人投げない、誰も切り捨てない人間が積み重ねた強さをな」

 

 万丈は思い出す。八一の部屋に来る前、桂香から「明日の私の対局を見て欲しいって八一くんに伝えてくれる?」と頼まれたときの彼女の穏やかな顔を。

 

 

 その瞳の奥で、煌々と燃える心の火を。

 

 

「ああなった清滝 桂香が、負ける気がしねぇ」

 

 

 そう言い捨てて万丈は扉をバタンと閉めて部屋を後にした。

 

「……なにが十分間だ。とっくに時間切れだよ」

 

 万丈が闖入してきてから、時計の長針が半周していることに八一はずっと気づいていた。対局ならとっくに敗北だ。

 

 暗い部屋に静寂が戻り、一人黙ってパソコンの前に座り直す。

少しでも強くなるため、万丈が来る前となんら変わることなく将棋ソフトと向き合い始めた。

 

 そう何も変わらない。ただ侵入してきた筋肉ゴリラに時間を浪費させられただけ。

 

 何か変わったとすれば、部屋に散らばっていたゴミと入れ替わりに万丈が持って来た紙袋が鎮座したことと、どうしてか少し肩が軽くなったこと。

 

 そして明日のある対局の開始時間を確認したこと。それだけだった。

 

 

 

 

「……師匠は、どうでしたか?」

「……悪い。まだもう少しかかりそうだ」

「そう、ですか……」

「……外はもう暗いし、今日は帰ろうか」

 

 部屋の外で待っていたあいに万丈は薄く笑んで謝罪した。

 

「袋、預けてもらったのにゴメンな」

「いえ……あいが行っても師匠のおジャマに、なるだけですから……」

 

 この間、十歳になったばかりの少女の声が尻すぼみに小さくなっていく。

 

 あいは八一によって家から遠ざけられてから、毎日のように料理を作りタッパーに詰めて八一の元へ届けに来ていた。彼の好物を詰めたお弁当を。

 

 八一が元気になるように、彼の力になるようにと、願いを込めて作ったお弁当だった。

 

「大丈夫だよ、あいちゃん」

「え……」

 

 沈む少女を家へ送りながらジャケットの下に「キードラゴン」Tシャツを着こむ筋骨隆々の偉丈夫がニッと微笑む。

 

「こういうのは地道に積み重ねてくとじわじわ効いてくるもんなんだよ。ほら、歩だって一歩しか動けねぇけど軽んじちゃいけないし、後々になって効いてきたりするしな」

「……」

「無駄にならねぇよ。あいちゃんの努力はちゃーんと八一に届いてあいつを元気にするからよ」

「そうです、よね……」

「おう、そうですよ」

 

 弱々しいあいにも伝播するようにと、万丈が満面の笑みで信じろと言い切った。

 日が暮れるのがすっかり早くなった冬の帰り道を、幼い子供が心細くならないように半歩だけ先導して進んでいく。

 

「……頼んだぜ、桂香さん」

 

 





次回「Perfect Triumph(完全勝利)」


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桂香と万丈


最終回。これが彼らの最終フォーム。

――Are you ready?


 

 

 私は将棋が好きだ。

 

 父の影響はもちろんあるけど、それだけなんてことは絶対にない。

 

 研鑽の末に得る勝利の喜びも。

 自分以上の実力者に敗北する悔しさも。

 強くなろうともがいて傷ついて苦しむ辛さも。

 そこで得た数多くの繋がりも、何もかもがかけがえのない私のすべてを支える大切なもの。

 

 人生を全部かけても構わない。

 一度は離れてしまったけれど、もう嫌になることなんてあり得ない。

 世界にどんな素敵なものが在ったって、これより好きになれるものなんて他にない。

 

 

 私にとって将棋はそういうものだ。

 

 

 

「うん……うん、それじゃあね」

 

 会話を終えて通話を切る。将棋会館の微妙に肌寒い廊下で深く息を吐く。

 マイナビ女子オープン本戦。私はあのエターナルクイーンこと釈迦堂女流名跡に勝利した。

 

 ついに私は女流棋士になる資格を勝ち取ったのだ。

 

 実感はあるようなないような。釈迦堂さんから健闘を称えられ観戦記者からのインタビューも受けてさらには今まさに銀子ちゃんからお祝いの電話までもらったのに、まだどこかフワフワと夢見心地なのはなんでなんだろう?

 

 理由は沢山思いつく。女流棋士と言っても三級で、まだ仮免許みたいなものだから。最大で二年の間に条件を満たせなければ規定によって資格を取り消されてしまう。あくまで私はまだ女流棋士を名乗ることを許されただけなのだ。

 

 他には、時間だと思う。女流棋士になると決め本格的に打ち込み始めて早八年。長い長いトンネルを抜けたはずだけど、その暗いトンネルで長いこと生活していたせいで外の明るさにまだ目が眩んでいるのだろう。

 

 女流棋士になる以外に負けられない理由が別にあった。

 博打のような勝負手を指し続けた末の薄氷の勝利だった。

 限界を超え続けて燃え尽きてる。

 他にも。他にも……。

 

 あとは、まぁ、もう一つ。

 

「……むぅ」

 

 うんともすんとも言わない携帯を見て、唇を尖らせてしまった。

 

 期待していた相手から連絡が来ない。

父から、ではない。師匠として面と向かって報告するのを家で待ってくれているだろうから、電話してくることは無い。私たちは親子だけど師弟だからこれぐらいで丁度いい。

 

 別にそうして欲しいだなんてねだったことはないし、そうしてくれるなんて彼が明言したこともない。今すぐしなければならないことでもない。

 

 でも、彼なら言わずとも、というか私がしなくていいと断ったって誰よりも早く電光石火でそうして来ると確信していたのに、肝心なときにコレである。べつにさみしくないもん。

 

「……ふぅ」

 

 ……本当は一番聞きたい声は他にある。でもそれを望むのは贅沢だ。

もし彼が狙い通りに立ち直れたとして、真っ先に私の元へ連絡を寄越して来たらダメだ。他にその声を聞かせなきゃいけない相手がいるでしょ、ってお姉さんとして叱りつけなきゃ。

 だけどきっと嬉しいのを抑えられないと思う。

 

「……ヒドイなぁ私」

 

 一番早く祝って欲しい相手が言わなくてもして欲しいことをわかってと勝手に拗ねているのに、実のところは他の男の子の声が聞きたいなんて思っている。改めて自覚するとなんて悪い女の考えだろう。

 彼が知ったらどう思うだろう。流石に怒るだろうか。大袈裟に悲しむかも。仕方ねぇなって呆れて笑ってくれる、のを期待するのは都合が良すぎるかな。

 

 でも今日ぐらいは、今ぐらいはそんなワガママも許されていいでしょう。

 

 思考を巡らせていると、また携帯が鳴った。

 

「……ふふ」

 

 液晶に映る彼の名前。頬が緩むのに気づかないフリで深呼吸して、電話を取った。

 

「もしもし、万――」

 

 

 

『桂香さん!』

 

 

 

 その声に息が止まる。

 電話から届いてきたのは待っていた相手じゃなく若い男の子の声だった。

 でも本当は今一番聞きたかった声だった。

 

「八一、くん……?」

『俺……俺、対局っ見てたよ!!』

『桂香さん!』

「っ……!」

 

 八一くんの涙ぐんだ声がつっかえながら聞こえてくる。声色は明るく、あいちゃんの声も小さいながら電話口に届いていた。

 

 もうその声だけで十分だった。

 

 私の対局をちゃんと見ていてくれたこと。

 それで元気になってくれたこと。

 あいちゃんと仲直りできたこと。

 

 聞こえてくる一つ一つの言葉に目頭が熱くなっていく。

八一くんなら見ていてくれる。彼にならどんな言葉より将棋で語りかければ届くと信じていた。

 

 それでもほんの少し不安だった。あの対局は私にとって会心の一局。それが何の意味も無かったらどうしよう。全部私の一人相撲だったらどうしよう。

 

 そのほんの少しが涙になって流れ出ていく。さっき直したばかりのお化粧が落ちそうなくらい涙が出て止まらなかった。

 

 

 届いていた。ちゃんと、届いてた……!

 

 

『……そうだ』

「っ……どうしたの?」

『桂香さん、おめでとう!!』

『ああぁ! テメェこら八一ぃ!!』

 

 八一くんからのおめでとうが聞こえたと同時に、焦ったような怒号が電話の奥から口を挟んだ。

向こうでわちゃわちゃと騒いでる音に呆気に取られて涙も止まって息と笑みが漏れてしまった。

 

『こんの……あ、桂香さぁん! お電話代わってあなたの万丈ですよー!』

「こんばんわ。八一くんに代わって?」

『即座にチェンジ要求……!?』

 

 まだ八一くんにありがとうって返事が出来てないの。後でいいからちゃんと代わってね?

 

『くそぅ八一の野郎……俺が最初におめでとう付き合って下さいって言う計画だったのに……!』

「残念だね。あ、ちゃんと両方の意味でだよ?」

『わかってるよチクショー!!』

 

 心底悔しそうな万丈くんにクスクスと笑ってしまった。涙声なのを誤魔化せているだろうか。問題ない、彼は気づかないでいてくれるから。いつもより妙に明るい声音なのがその証拠だ。

 

「八一くんが言わなくっても、ちょーっと前に電話で銀子ちゃんから言ってもらったよ?」

『ぐっ……だが家族同然の銀子ちゃんなら……ん仕方ない……!』

 

「そもそも対局相手の釈迦堂さんが言ってくれたし」

『ぬがっ……いや強敵からの賛辞だったらまだセーフ……セーフ……!!』

 

「あ、観戦記者の人からも言われてた」

『ぐおぁああ、どうしようもなく他人ンン……!!』

 

 万丈くんが崩れ落ちる姿が見なくてもわかった。そろそろ可哀想だからこれぐらいにしよう。

 

「そんなに悔しがるなら、すぐに電話してくれば良かったのに」

 

 本当はそうして欲しくて期待してた、なんて絶対教えないけど。

 

『いや、それは無い』

「えー……どうしてー?」

 

 

 

『だって桂香さんが一番喜ぶのは元気な八一だろ? 俺の声よりそっちが先』

 

 

 

 トクンと。

 胸が強く高鳴る音がした。

 

『二人だけで話させてたから遅くなっちまったけど、サプライズは成功したか?』

「……」

 

 くやしいなぁ。またこんなことで。

 

『桂香さん?』

「……うん……うん。大成功!」

 

 携帯を当てる耳が熱い。発熱でもしてるのだろうか。ならあしたしゅうりにださなくちゃ。

 

「万丈くん、えと、あのね?」

『どーした?』

 

 彼の名を呼ぶ喉が急に乾いていく。暖房が効きすぎてるんだ。かおがあつくてしかたない。

 

「ううん、なんでもない。そろそろ、切るね」

『え。おい、ちょっと待った!!』

 

 なんだかわからなくなって変なことを口走る前に電話を切ろうとして、ストップがかかる。

 むねのおくでぽかぽかがあふれだして、くるしいのにきもちいいほどあたたかい。

 

「な、なに?」

『なにって……俺まだ言ってねぇだろ』

 

 いけない。聞いてはいけない。耳を離さなきゃ。

 はやくいって。ずっとききたかった。みみをすまさなきゃ。

 

『桂香さん』

 

 それを聞いたらこの熱いのが体中で駆け巡って冷めなくなってしまう。

 それをきかせてわたしをもっとあたたかくして?

 

 

 

『おめでとう』

 

 

 

 ズルい。そんなの二歩だ。それも打ち歩詰めの二歩だ。反則にもほどがある。

それに「付き合って」をなんで言わないの。それならいつも通りでいられるのに。

 

「……おめでとうって言ったってまだ仮免許みたいなものなんだよ?」

『おう』

 

 そっか。私は、彼の声を最初に聞きたかったんじゃない。

 

「浮かれてるようじゃ、すぐに足をすくわれちゃうんだから」

『おう』

 

 どうしても譲れなくて、でも逃げる理由にしてしまったあの雨の日からずっと。

 

「だから……だから……」

 

 彼にこう言いたかったんだ。

 

 

 

「私、女流棋士に、なれたよ……!」

『ああ。おめでとう』

 

 

 

 胸元で握りしめた手が、熱い。

ようやく溢れて来た実感を、もう手放すもんか。頬を伝う涙もそのまま静かにそれを噛み締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「まだ負げだぁ……」

「今日はいつにも増してデレデレしてたもんね」

 

 七寸盤を挟んで万丈くんが頭を垂れる。いつも通りに私の勝ちだ。

 

 あれから少しだけ時間が経って、今日は現在も竜王であり九段の八一くんが中心になって企画したお花見。天気は気持ちのいい快晴で見上げれば青空と満開の桜に目を奪われた。

 

「だってよ、今日の桂香さんいつにも増して気合入っててよ……桜なんて見てる場合じゃねぇ」

「お花見だよ?」

 

 お花見はみんな楽しみ抜いて、もうそろそろお開きになりそうな雰囲気があった。

用意したお弁当は食べきってしまったし、大人たちのためのお酒ももう空だ。父は酔って酒瓶抱えて寝てしまったし、八一くんはシャルちゃんを膝の上で眠らせ、目の据わったあいちゃん銀子ちゃんを始めとする女の子たちに包囲されてタジタジだ。他の人たちも遊び疲れてしまっていたり、桜もそろそろ見飽きて空気がダレてしまっていた。

 

 だからというか、今はこの七寸盤の方へ特別注目している人もいないようで。

 

「今日はどうしてもらおうかな~」

「こうなりゃなんでも来い。桂香さんの頼みならなんでもござれだ~い……」

「そう? じゃあね……」

 

 

 

「結婚して?」

「おう、任せろ」

 

 

 

「じゃあこれに名前と印鑑お願い。今度出しに行くから」

「あ、はい……」

「あー良かった」

「…………えっと、んん?」

 

 すかさず荷物に忍ばせておいた緑色の紙を手渡す。

 数秒経って、彼の頭がウサギになる。いつものことなのに、いつかの焼き増しのようだった。

 

「待って桂香さん」

「対局は終わったの。いまさら待ったはなしだよ?」

「そうじゃなくて、俺たち付き合ってないよな。今」

「そうだけど……ほとんど付き合ってたようなものでしょ」

「そうだけどもそれ言っちゃおしまいだろ!?」

 

 手に持った婚姻届を高級品を預けられたみたいに大事に保持しながら狼狽する万丈くん。

 

「私と結婚したくないの……?」

「一生添い遂げたいです」

 

 少し潤んだ眼と上目遣いで返事を誘うと即答で望む言葉が返って来た。

 ん、言質も取れた。練習した甲斐がある。

 

「プロポーズしてもらったし、もう十分でしょ」

「ハッ……!? 待った待った! こんな暴発みたいなプロポーズねぇよ!? せめてやり直しを」

「待ったなし。もう一生分聞いてるからいらなーい」

「いや、男女交際とプロポーズは似て非なるものだと……!」

「万丈くん」

 

 ごちゃごちゃうるさい彼に最後の一手を打ち込む。

頬を撫でる風と桜の香りがいつかを思い出させる。あの日と違うのは校舎じゃないことと私たちが大人になったこと。そして何より七寸盤に並んだ盤面でわかる両者の実力だろう。

 

 変わっていないのは彼の気持ちと、きっと本当は私の気持ちも。

ずいぶん遠回りして、彼に負担をかけて周りも困惑させて呆れさせてしまったけれど、ようやく終局へ進められそうだ。

 

 彼がどんなに強くなっても、もう逃げることは無い。その覚悟も準備もできている。

 そういう未来への筋を思い描ける自信が胸を満たしているから。

 

 

「詰み、だよ?」

 

 

 将棋盤の上で成香と成桂によって動けなくなった彼の玉を、あの日のように桜が飾った。

 

 

 

 あぁ、忘れてた。

 

 あのね、万丈くん。

 

 私ね。

 

 

 

 将棋と同じぐらい、あなたが好き。

 

 

 



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