大正時代、1912年に始まり1926年に終わった、日本史において最も短いとされる時代区分。
それでありながら急速に近代化したことにより完全に列強の仲間入りを果たし、世界に軍事力と技術力を見せつけた日本にはしかし、『鬼』と呼ばれる怪物が蔓延っていた。
鬼──それは決して、狂人を比喩としてそう呼んでいる訳ではない。
人外の生命体、元々人でありながら、外道へと足を踏み外した異形の化け物。
陽の光に弱く影の元でしか活動できない、という西洋における吸血鬼にも似た特徴を持ちながらも、それを弱点として見いだせない程に強靭な怪物。
夜闇に紛れ、人の血を啜り肉を喰らう彼らはその昔──平安時代に生まれたたった一人の鬼から鼠算のように爆増した。
正しく夜の支配者、闇の帝王。
だがしかし、その蛮行を赦さず立ち上がった者たちがいた。
鬼殺隊──特殊な鍛錬を重ね、特異の戦技を学び、首さえ落とせば鬼を殺しきることのできる特別な鉱石から作られた武具を振るう、鬼狩りの戦士達。
鬼の始祖が生まれてしまった家の長を中心に、鬼に家族を、恋人を、友を殺された者が集まり出来上がった復讐者たちは、鬼を滅ぼすと誓い叫んだ。
鬼は基本的に相対した人間は殺し喰らう、ゆえに彼らの存在は明るみに出ることはなく、ほとんどの人間は鬼が実在するとは露ほども思わない。
だが鬼を知るものでなければ鬼狩りになる段階にすらたどり着けはしない。
ゆえに鬼殺隊はどの時代も少数だ、これから先も増えることはないだろう。
一人一人が強くとも、少なければ鬼を根絶やしにすることは不可能だ。
抵抗はできても押し切ることができず、被害は増え続ける。
只人たちはそれを知らない。
鬼殺隊の剣士たちは鬼狩りという修羅の道に多くの人を引きずり込もうとは思わない。
鬼は暗躍し、人を喰らい、高らかに笑う。
鬼狩りは、その身を削るように命を摩耗させる。内に秘めた燃え滾る復讐心、義務、責任に身を委ね。
人と鬼の殺し合いは暗闇の中、未だ続いていた。
齢九つの時に命を救われた彼は現在、齢十四にして階級は『甲』。
実力ごとに分けられた鬼殺隊の階級は上から『甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸』となっており、つまるところ伊佐那は一番上の階級である──と、言いたいところではあるが実は違う。
階級自体は確かに最上位ではあるのだが、甲の階級の者の中には『柱』と呼ばれる九人の剣士がいた。
柱──それは文字通り、鬼殺隊という組織を支える鬼殺隊内最強の戦士たち。
要するに甲の中でも最も優れた九人というわけだ。
伊佐那は甲であっても選ばれた九人ではなかった、とはいえその実力は折り紙付きであり非常に優秀とされており、鬼殺隊の長からも柱に負けず劣らずの信頼を受けている。
その信頼に応えるように伊佐那もまた、各地を飛び回るようにして鬼を狩り続けている。
伊佐那は茶屋の前にて、隣に座った女に説教をされていた。
一応、聞いてはいるのだがそれはそれとして二人の間に置かれた三食団子をパクパクと口に運んでいた。
喉が詰まらぬように一緒に頼んだ冷たい茶で喉をすすげば女の額に青筋が浮かんだ。
女の名は胡蝶しのぶ、伊佐那の同僚だ。
「もしもーし、伊佐那さん? 私の話聞いていますか?」
「え? あぁ……うん、聞いてる聞いてる、聞いてるよ」
バッチリだ、と付け加えれば席をトントントントンと叩いて『私怒ってますよ』アピールを過激化させるしのぶ。
それを見て、伊佐那は内心ため息を吐きながら「今日は厄日だな」と思った。
ただでさえ今日は朝から任務任務任務で大忙しだったのだ。
特に直近の任務なんか山まで出張らねばならず、また鬼の数が多かったため山中走り回る羽目になった。
しかもその中には傷を負った同僚から致命傷を受けた同僚、既に物言わぬ骸になった同僚までいた。
伊佐那とてこれまで戦ってきた身だ、血も死体も見慣れてはいる。
だが見慣れているからといって、何も思わない訳ではない。お陰で気分は最悪だ。
(こんな時は美味いものでも食べて切り替えなきゃだな、今日は昼から団子祭りだ!)
団子は伊佐那の大好物だ。
食べて忘れる、というわけではないが気分は晴れるだろう、好物なのだからそれもなおさらだ。
悪い手段ではない、少なくともうじうじと考え込んでしまうよりはマシだろう。
そういう訳で伊佐那は推しの茶屋に足を運んでいた。
山のように積み重ねてもらった三食団子と、いつもは頼まないちょっと高めの甘いお茶。
完璧な布陣である、とお昼特有の陽気に当たりながら舌鼓を打っていた。
そんな時なのである、胡蝶しのぶという女がやってきたのは。
「こんなところで会うなんて奇遇ですね、伊・佐・那・さ・ん」
やっと見つけた、と言わんばかりの顔──というか事実「やっと見つけたぞこのクソ野郎」という思い込めてしのぶはそう言った。
伊佐那は思わず「マジかよ」という顔をした。
言わずとも分かるだろうが、伊佐那としのぶはただの同僚という関係性に留まらない。
とはいえ別に恋仲という訳ではない、言うなれば彼らの関係は『医者と患者』だ。
しのぶには同じく鬼殺隊に所属する胡蝶かなえという姉がいる。
しのぶはその姉とともに蝶屋敷という屋敷で暮らしているのだが、彼女らはこの屋敷を傷つき弱った隊士の療養の場として開放しており、そこでしのぶは医者まがいのことをしていた。
まがい、とは言うがその腕は相当なもので、本職の医師と比べても遜色はない。
そして伊佐那はそこの常連だった──否、常連になるべき人間だった。
それは伊佐那が弱いからという訳ではない、戦闘時において無茶する人間だからではない。
伊佐那は病を患っていた、前触れもなく血反吐を吐き、頻繁に熱が上がり頭痛を起こす、時折心臓が止まったかと錯覚する程の痛みが胸を襲うこともあった。
しかも性質が悪いことにそれは未知の病であった。
しのぶや、本職の医師でも現状治すことは不可能であり、進行を遅らせたり症状を抑えたりするのが精いっぱいだった。
だが、それでも無いよりはマシなはずなのだ、けれども伊佐那が自発的に蝶屋敷に足を運ぶことは滅多にない。
何故かといえば
(俺、薬苦手なんだよね)
こういうことだった。
伊佐那は極度の甘党だった、苦いものが大嫌いだったのだ。
ついでに言えば彼は蝶屋敷が嫌いだった、誤解無きよう、分かりやすく言えば病院が嫌いなのである。
蝶屋敷は病院で、処方される薬は全て──少なくとも伊佐那が貰う薬は全て──激苦い、良薬口に苦しだ。
そして伊佐那は病院が嫌いで、苦味も嫌い。
寄り付かないわけである、しかも鬼殺隊であるだけあって彼は痛みに耐えるのが得意だった。
しかししのぶがそれを許さない。
それは生来持っていた優しさか、それとも医者としての矜持か、はたまた同僚でも数少ない同期であり、友人であるからか。
どれにせよしのぶは伊佐那を見つける度にひっとらえて蝶屋敷にぶち込み診断、処方、療養のトリプルコンボをぶちかましていた。
「前にお会いした時に私が言ったことを覚えてますか?」
「……さよちゃんがおにぎりと一緒に頑張ってくださいね! って言ってくれたな」
「わ・た・し・が、言ったことを、覚えてらっしゃいますか?」
ニコリと笑っていたしのぶの笑顔の圧が強まった。
伊佐那は思わず「ひぇ……」と声を漏らした。
「……薬がなくなったらまた来いって言ってた気がしないでもなくもない、な」
「えぇそうです、その通りですね。二週間分のお薬を持たせ、定期的な経過観察がしたいので絶対に来てくださいと言いました。さて問題です、あれから何日経ったでしょうか?」
「一か月くらい?」
「二か月と三週間です!」
「くぁっ」
ヒュッという風切り音と共に放たれたしのぶのデコピンが伊佐那のオデコにクリーンヒットした。
女性とは言え鬼殺隊、流石に痛くないと言ったら嘘になる。
放っておけばもう一発くらい放ってきそうなことを察して伊佐那は手を出した。
「ま、まぁ待て、落ち着いて聞け、しのぶ」
「言い訳ですか?」
「そうだ言い訳だ、でも制裁を下すのはそれを聞いてからでも遅くはないんじゃないか?」
ふむ、としのぶは思う。
このバカの話を聞く必要あるか? と。
しかし考える。
伊佐那はこれでも甲の剣士だ、多忙に次ぐ多忙だった可能性もある。
うぅん、としのぶは唸り、そして結局聞くことにした。
彼女はどこまでも慈悲にあふれた少女であった。
「わかりました、聞くだけ聞いてあげます」
「良し来た──しのぶは薬がなくなったら来いと言った、そうだろう?」
「えぇ、そうです」
しのぶの返答を聞くと同時に伊佐那はフッ、と勝ちを確信したように笑った。
しのぶが眉を顰める、だがお構いなしに伊佐那は懐から巾着を取り出した。
青と白で彩られているそれは伊佐那の薬入れだ。
長い間使っているのかややほつれていたが、それでも大切に使われているのが見て取れる。
それが分かってしのぶは若干表情を和らげた。詳細は省くがこの巾着はしのぶが伊佐那に贈ったものだからである。
自分の贈ったものが大切にされているという事実は誰だって嬉しいものだ。
ふふっ、内心ちょっとしのぶは気分が良くなった。
「何と薬の存在を今お前と出会うこの瞬間まで忘れていたんだ」
「────」
しのぶは絶句した。
半ば本能的に口元を片手で覆い、巾着の中から薬を出して、数える。
種類別に包みを分けられた錠剤が各十四袋! 粉薬の入った包みも十四袋!
うーん、一つも減っていない。こいつ渡したその日の内の分すら飲んでねぇ!
これはもう忘れていた、というよりは飲むのが嫌すぎて記憶の彼方にぶん投げていたとみて間違いないだろう。
(あれ?)
だがしのぶはここで、薬の種類が一つ足りていないことに気づいた。
毎日飲むようのものとは別に、ここぞという時にだけ使ってください、と念を押して渡した薬。
解熱鎮痛剤──いわゆる痛み止めだ。
どれだけ診療しても、薬を投与しても現状できるのは精々が健康管理と症状の緩和、遅延だけ。
だがそれだけでは流石に心もとない、それゆえにしのぶは伊佐那に特製の痛み止めを処方していた。
かなり強力、それゆえに副作用も大きい。
だからこそ一回分しか渡さなかったものだ、それだけが無くなっていた。
「伊佐那さん、痛み止めはいつお飲みなられましたか?」
「痛み止め? あっ、あのやたらデカい丸薬」
「そうでそうです、それです。いつ使いましたか?」
「蝶屋敷を出て、すぐに」
「はい?」
「いやだから、蝶屋敷を出てすぐに飲んだんだって。お陰でやってきた痛みはすぐ霧散したから助かった、でもそのあとやってきた眠気がやばかったな、気合でねじ伏せたけど一瞬意識持っていかれた」
「す、すぐ後ろに病院があったのに飲んだんですか!?」
「いやだって……やっと解放されたのにまたベッドに縛り付けられるのはちょっと…」
遠慮したかった、と伊佐那が言った。伊佐那としても少々申し訳なさは感じているようで、随分と控えめな声だった。
だがそんなことは関係ない。
直後、ブチっと音が鳴った。
しのぶはキレた、そりゃそうだ。
「ば、ば、馬鹿なんじゃないですか!?」
「うがぁっ!?」
瞬間放たれた右ストレートは過たず伊佐那の頬へと吸い込まれていった。
ドグォ! という通行人たちが足を止めてしまうほどの音がして伊佐那の体が宙を舞う。
今のしのぶはさながら噴火した火山だ。今なら鬼の頸すらぶった斬れるとしのぶは思った。
ドシャッと大の字に落ちた伊佐那の前に、しのぶが立つ。
「さて、伊佐那さん。私に何か言うことはありますか?」
「…………ごめんなさい」
「はい良くできました」
じゃあさっさと蝶屋敷に行きますよ、と言う。
──否、突如空からやってきたそれに言おうとした言葉は遮られた。
それの名は鴉──鎹鴉。
鬼殺隊の隊士一名一名に必ず付けられる、任務の伝令役だ。要するに彼らは人の言葉を話す。
人の目から見れば彼らの姿は普通の鴉と変わらず一緒に見えるがしかし、その鎹鴉の足首には青色のリボンが巻かれていた。
伊佐那が、パっと見た時にすぐに自分の鴉であると分かるために巻いたものだ。
つまりこの鎹鴉は伊佐那の鴉ということである。
剣呑というかなんというか、少なくとも和やかではない雰囲気の間でその両翼を大きく広げてからそっと伊佐那の頭に降り立った。
数秒の沈黙、伊佐那としのぶは目を合わせ──そして鴉はさっとまた飛び立っていった。
「悪いな、どうやら仕事が入ったようだ」
「そのようですね……はぁ、仕方ありません」
鴉は何も二人の仲裁をするために降りてきたわけではない。
当然、任務の伝令だ。だがこんな大勢の人がいる中で声を出すわけにはいかず、彼はこういう形をとったという訳だ。
後で人気のないところにでも行けば改めて任務の通知がなされるだろう。
よっこらせ、と立ち上がった伊佐那は手早く土埃を払って残った団子を手に取った。
「じゃ、俺は行くから、さいなら」
「えぇ、本当に……本当に仕方ないので私も着いていくことにします」
「は?」
「ふふっ、だって伊佐那さんそのまま逃げる気満々じゃないですか」
「ぐぬっ」
図星であった。
むしろこのタイミングで任務が来てラッキー! とすら思っていたほどである。
「ですから私が着いて行って、終わり次第そのまま蝶屋敷にお連れしますね?」
「い、いやでもしのぶだって忙しいだろうし──」
「なんと、私はさっき任務を終えてきたばかりで暇なんです! ね、問題ないでしょう?」
「それにこれは、俺の仕事──」
「一人でやるより二人でやった方が効率良いじゃないですかぁ」
「それそうだけど……」
頼むから見逃してくれ、と伊佐那は思った。
絶対逃がさねぇからな、としのぶは思った。
かくして折れたのは伊佐那の方だった。
「分かった、分かったよ。好きにしてくれ」
「はい、言われずともそうさせていただきます!」
そうと決まれば早く行きますよ、としのぶが言って伊佐那は苦笑う。
これじゃどっちの任務が分からないな、と思って団子を一つ口にした。
「あ、それ私にもいただけますか?」
「え? 嫌だけど……」
「くれるんですね? 流石伊佐那さんです!」
「いやあの、ちょっ……まぁいいか」
返答を無視して団子を一本持って行ったしのぶに嘆息を一つ。
だがまぁ、経緯はどうあれ仕事を手伝ってもらうの事実なのだ。
その前金と考えれば安い方だな、と思いもう一つ団子を口にした。
五話くらいで終わります。多分。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
潜入
ろくに整備はされておらず、人の姿が見当たらないような寂れた道を伊佐那としのぶは歩いていた。
横並びに、気軽に話しながら進むその様子は二人のことを知らない者であれば恋仲だと勘違いするかもしれない。
そのくらい二人は互いの歩幅やペースを把握していて、意識することなく互いに合わせていた。
とはいえ、そんなことを本人達が言われれば猛烈に否定するだろうが。
実際、伊佐那はしのぶのことを可憐だとは思っているが、そういう目で見たことは無かった。
「それにしても、伊佐那さんは随分と働き者なんですねぇ」
「そう思うか?」
「えぇ、朝方も任務に出ていたのでしょう? それでまた、お昼からもう一件だなんて」
「言うほど珍しいことでもないだろう……ここ一週間で立て続けに三人、俺と同じ地区を担当していた隊士が死んだ、これから行くのはその尻拭いだ」
「……そういうことでしたか」
「あぁ、その内二人は戌、一人は丙だった。となると相手の鬼は──」
「十二鬼月の可能性もある、ですか」
「そうだ、だから一応覚悟はしておいた方が良い」
「了解です」
少しだけ考えるような素振りは見せたものの、問題なくそう返したしのぶを見て伊佐那は「流石だな」と思う。
しのぶの階級は伊佐那と同じ『甲』だ、つまりは相当の強者。
けれどもしのぶと組んで戦うというのは伊佐那にとっては随分と久し振りのことだった。
それこそ最後に組んだのは鬼殺隊に入ったばかりの頃で、当然ながら当時の階級はどちらも『癸』である。
風の噂や世間話なんかでしのぶの強さは耳にはしていたが、実際の実力はまだ見たことがない。
あの頃からどれだけ成長したのかが、伊佐那は少し楽しみだった。
十二鬼月の名に少しも慄かないくらいだ、期待はしても良いだろう。
「伊佐那さんは怖くないのですか?」
「鬼がか?」
「はい」
「そうだな……死んだ三人は、全員同僚でもあって友でもあった。担当地区が同じだったから、それなりに顔を合わせたし、月に一度くらいは集まってご飯を食べた。
だから思うんだ、彼らは死ぬ時どれくらいの恐怖を味わったんだろうかって。どれくらいの苦しみを味わったんだろうかって。
考えれば考えるほど、腹の底で何かが蠢くし、逆に頭は冷や水をかけられたみたいに冷たくなる。
そうなるとさ、あー、怖がってる場合じゃないなぁってなるんだよな」
「復讐心ですか」
「そうかもしんない、でもそんな難しいものじゃないような気もする。いや、怒ってはいるんだよ、確かに。でも怒ってるから鬼を殺すとか、仇を取るんだとかは多分、ちょっと違う。
あいつらはさ、結構みんないいやつだった。人を守るために刀を取ったと胸を張って言えるようなやつらだった。
でも死んだんだ、守れなかったし、これから誰かを守ることはできない。そうなったらあいつらは不安になるんじゃないのかなって思うんだ。
あの鬼にもっとたくさんの人が殺されるんじゃないかって。だから、俺がそいつを殺して、俺がいるからここは大丈夫だって教えてやりたい……んだと思う」
「相変わらず、伊佐那さんは優しいんですねぇ。その優しさをもうちょっと自分自身に向けてくだされば言うことは何もないのですが……」
「またそれか、俺は俺にかなり甘い方だ、だからほら、嫌いなものは食べないようにしてる」
「あのですねぇ、私は本気で言ってるんですよ?」
嘆息を一つ、それからしのぶは伊佐那を見た。
気付いてないとでも思ってるんですか? としのぶは言った。
「貴方が薬を飲まないは、蝶屋敷に寄り付かないのは、薬が嫌い、病院が嫌い、それだけの理由では──」
「しのぶ」
伊佐那が、吐き出すような強さでしのぶを言葉を断ち切った。
しのぶは不満げに伊佐那の顔を見て、それから苦笑いした。
踏み込み過ぎたか、と息を吐く。
「もう村が見えてきた、その話はまた今度な」
「はいはい、わかりましたよぉ」
少しだけ歩みを速めた伊佐那にしのぶもまた、追いつくように地を蹴った。
夕暮れ時に二人がやってきたのは、随分と人気の無い小さな町だった。
特徴的なものは何もなく、精々が奥に寺らしき建物があるくらいだ。
かなり寂れているようで、町と言うよりは村と言った方が正解かもしれないな、と伊佐那は思う。
それは単にここの人口が少ないからなのか、それとも鬼のせいなのかは分からない。
遠くから見て分かるのはそのくらいだけだ、これ以上は直接入って調査をしてみないと分からないなと伊佐那は結論付け、しのぶも異存はないようだった。
「当然ですね……ところで、なのですが」
「ん?」
「このような格好をする必要はあったのでしょうか?」
そう言ったしのぶの服装は、いつもの鬼殺隊の黒い制服では
今の彼女は袴──白と紫に彩られた矢絣袴というやつを身に着けていた。
矢羽根のような図案が縦に並び、それをが二列おきに逆方向に並んだ図柄のものだ。
それに加えてしのぶは頭に鞠のようなデザインの簪を刺し、黒の編み込みブーツを履いている。
この時代──大正時代はこれまでも入ってきていた洋装と、定着していた和装が織り交ざる形のものが流行りつつあった。
しのぶの今の姿はそれに沿ったものだ、もう少し先の時代の言葉で言うのであれば、ハイカラというやつだろうか。
それに対して伊佐那もまた、制服ではなく袴姿だった。
こちらは誰もが着ていそうな無難な袴の上に、黒のトンビコートを羽織っているだけだ。
「あの村に入った隊士が三人も死んでいる、死んだってことは戦ったってことだろ。そこに同じ服装をしたやつが来たら仲間だと思われるに決まってる。あっちに先手を取られる要素はなるべく排除したい」
「理屈としてはもっともなのは分かるのですが……」
彼女とてまだ十四歳の少女だ、こういう服装が嫌いなわけではない。けれどもしのぶは鬼を殺すと誓いその道を邁進し続ける剣士でもある。
基本的に時間があれば鍛錬や、薬や毒の精製に励むような模範的な隊士でありお洒落といったものにほとんど縁がない。精々が姉の手によって幾らか着せ替え人形にさせられたくらいだ。
しのぶは不満げに履き慣れないブーツの爪先でトントンと地を叩いた。
「まぁ安心しろよ、その格好も似合ってんぞ」
「なっ!? そ、そういうことは聞いていません!」
「え、今のそんなに怒るところあった? 女子、分からなすぎるな……」
若干引き気味に伊佐那はそう呟いて、それから適当な宿屋の扉を開けた。
ここまで誰とも出会っていないことに不信感を覚え、一応の警戒をしながら開けたその先は、特に何の変哲もない受付だ。
気だるそうにしている女性が、俺達の顔を見て驚いたように口を開けた。
「あらまぁ、若いお客さんとは珍しいね、ここは宿屋ですけど、泊まりですか?」
「あぁ、俺と連れの分で二部屋貸してください」
「何泊で?」
「んー……」
伊佐那がしのぶを見て、小さく首を傾げながら指を一本立てる。
そうすればしのぶは少しだけ口元に手を当てて、それから指を二本立てた。
伊佐那が「了解」と頷いた。
「一先ず二泊お願いします」
「はいどうもぉ、こんな辺鄙なところで二泊だなんて、アンタ達も変わってるねぇ、何するんだい?」
「ん、これでも一応仕事でして、地質鉱物学の先生の助手してるんですよ。その関係でこっちの地質だったり地理を調べに来たんです」
「あら、その歳で立派じゃないの、頑張ってね」
「はは、ありがとうございます」
そう言って渡される鍵と引き換えに幾らかの銭を渡す。
部屋は上だから、番号間違えないでね、と受付の女性は上に繋がる階段を指さした。
伊佐那としのぶは揃って頭を下げてから上がる。
ギシギシと踏むたびに鳴る階段は、ここが古い建物だと証明しているようだった。
「嘘を吐くのがお上手なんですねぇ」
渡された一〇二と一〇三の鍵の内、一〇二の部屋に入ればしのぶがクスクスと面白そうに笑いながらそう言った。
「嫌味な言い方するなよな、必要だったから身に着けた、それだけだ」
しのぶが「申し訳ありません」と嬉しそうに笑いながら隣に座った。
「これからどう動くかは決めていましたか?」
「今日のところはもう休んでいいかと思ってた。時間も時間だし、調べるなら明日の方が都合が良いだろう」
「それもそうですね、ただ夜は──」
「分かってる、片方が寝てる間は片方が起きてる、それで良いだろう」
「はい、それなら私も異存ありません──あぁでも」
「うん?」
「夕餉はどういたしましょうか?」
まだ何かあったか? と横を向いた伊佐那が「あー」と困ったような顔をする。
伊佐那は結構……いや、かなり不健康的な生活を過ごしている人間だ。
一日一食や二食で済ませることもあり、事実、伊佐那は「今日は晩飯抜きで良いな」などと考えていた。
いつもならそれで良かっただろうが、しかし今回は事情が違う。
他の人間であれば「俺は良いから食べてきな」くらいは言うだろうがことしのぶにだけは通じない。
三食毎日食べてくださいとあれほど言いましたよね? とニコニコしながら言われるに違いないだろう。流石に一日二回も説教されるのは勘弁したいところだ。
「この宿屋ので良いだろう、それとも何が食べたいとかあったか?」
「いえ、私の方は特には。ただ何も食べないとか言い出したらどうしようかと思いまして」
そこはちゃんとしているようで良かったです、としのぶが笑うのを見て伊佐那は「危なかったな……」と一人冷や汗をかいていた。
どうやらこの選択は正解だったようだ、命拾いしたぜ、と伊佐那が思えばしのぶは跳ねるように立ち上がって伊佐那の方へと振り返る。
「では行きましょうか」
「もうか?」
「午後六時と言えば夕餉を取るには一般的な時刻だと思うのですが、もしかして──」
「あぁはいはいはいはい、俺が悪かったってば。ちょっと時間把握できてなかっただけだから」
行くってば、と立ち上がればしのぶがよろしいと言わんばかりに表情を和らげた。和らげると同時に「くきゅるるる」と可愛らしい音が彼らの部屋に響いた。
数秒の沈黙、伊佐那がしのぶを凝視して、しのぶは顔を背けた。しのぶの顔が少しだけ朱に染まる。
紳士であれば、そうでなくともデリカシーのある人間であれば聞こえなかった振りでもするかもしれない。
いつもの伊佐那であればそうしたかもしれない、だが今の彼は緊張させられた理由がそれかよ、という呆れたような感情の方が上回っていた。
「お前……腹減ってたんならそう言えよな」
「~~~~っ!!!」
「ちょ、まっ、いたっ、痛い痛い! 痛いから蹴んな!」
「まったく、伊佐那さんは気遣いというものを知らないのでしょうか」
「や、だから俺が悪かったって言ってるだろ……ここは俺が出すから、それで勘弁してくれ」
「仕方ないですねぇ」
今回だけですよ、としのぶが薄く笑う。
どうやら許されたようだ、と伊佐那は安心してほっと息を吐いた。
二人は今、宿屋の一階にある食堂らしき場所に対面で腰を掛けていた。
彼らの他に客はいないようで、ここの従業員も今のところあの受付の人しか見ていない。
少し不気味だな、と伊佐那は思うがしかし、同時に鬼の気配を感じることができていないのもまた事実であった。
一応刀は布に隠して持ってきているからいざと言う時は対処できるだろうが、常に緊張にさらされる状況というのはストレスだ。
少なくとも警戒しやすい部屋に戻りたいな、と伊佐那が思っていれば先ほどの女性がおぼんを手に持ってきた。
そこから伊佐那達の前に並べられたのほかほかの白飯に焼き魚、それから豆腐の味噌汁だ。
「それではごゆっくりどうぞ」
と立ち去った女性を見ながら、やっぱりここは受付の人しかいないのだろうか、と伊佐那は思う。
だがこれだけ小さな町だ、彼女一人でも切り盛りするのは可能だろう。彼女が自分で言っていた通り、ここはあまり人が来るようなところではない。
そう考えれば特に不思議なことではないのだが、いかんせんここには鬼がいると聞いて来ているだけに何もかもが怪しく見えてしまうな、と伊佐那は思った。
「大丈夫ですよ、伊佐那さんに何かあっても今回は私がいますから」
そんな伊佐那を見かねてか、しのぶは安心させるような笑みでそう言った。
伊佐那がそれもそうだな、と小さく笑う。
鬼殺隊の隊士が今の二人のように、数人でチームを組んで任務にあたるというのはそう珍しいことではない。
だが伊佐那はこれまでの戦いはほとんど一人で駆け抜けてきていた。誰かと組んで戦ったのも、新人の頃にしのぶ達と組んだくらいだ。
だから、こういうようなやり取りは新鮮だなと思う。
伊佐那はいつもよりは幾分かリラックスできていた。
「さて、いただきましょうか」
「あぁ、そうだな」
手と手を合わせて「いただきます」と言ってから食べていく。
そういえば米を食べるのは何日振りだろうか、と己の乱れた食生活を思いながら咀嚼し、飲み込む。
後はもうその繰り返しだ、伊佐那はご飯を食べている間はあまり喋らないタイプの人間だった。
ごはん中は静かに、そして出されたものは何であろうが残さない、それが伊佐那の所謂個人ルールというやつだった。
ご飯は素早く、美味しく平らげる。それが伊佐那の流儀とでも言うべきものだった。
「……?」
だが、前触れもなくそれはやってきた。
先ほどまで明確に回っていたはずの思考が突然鈍くなり、目の前にいるはずのしのぶの姿がどこかぼやける。
必死に目を開けようとしても、そこだけ重力が強くなったかのような瞼の重さだ。
意識を集中してみるが、どうにも身体がだるい。まるで朝起きた時ような、まるでしのぶから貰った痛み止めを飲んだ時のような──。
そこまで考えて伊佐那はようやく「あ、これ眠気だ」と気付いた。
そう、今伊佐那の身体は強烈な眠気に襲われていた、
徐々に徐々に音が遠くなっていく、その中でこれは自然なものではないという本能からの警鐘だけが伊佐那の意識を繋ぎとめていた。
(これ、かなりヤバイ)
そう察すると同時にガクンと頭が落ちて肘をつく。
「伊佐那さん!?」
驚いたようにそうしのぶは叫ぶ、どうやらしのぶは眠気に襲われていないらしい。
伊佐那より食べる速度が遅かっただろうか、だがこの場においてそれはラッキーだ。
渾身の力で卓上の皿たちを薙ぎ払い、そして伊佐那は掠れたような声で叫んだ。
「薬だ……!」
その一言だけで、しのぶはすべてを察する。
同時に片手で持ってきていた刀を布から解いて──そして。
声が降りかかってきた
「お味の方はいかがでしょうか──あれ? お嬢さん、もしかしてお口に合いませんでしたか? それはもう、
受付の女性が、怪しく笑う。
もしかしたら五話では終わらんかもです。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
開戦
彼女の口端は吊り上がっていて、いかにも愉快そうなのに比べしのぶの眉は細められていた。
だがしのぶは目の前の女性を切り捨てることができないでいた。
ほとんどお荷物と化した伊佐那がいるせい……ではない。
(彼女は人間だ……!)
そう、二人と相対する女性は間違いなく人間だった。
決して鬼ではなく、全てが常人のそれ。けれども狂人の片鱗が見え隠れしている。
「これは少し想定外ですね、二人ともアラナギ様にいただいてもらう予定だったのに」
「アラナギ様……?」
「この町の守護神様です、アラナギ様は人の肉を好むんですよ」
だから私たちは、お客人をみーんな捧げてるんです、と当たり前のように言った女性にしのぶは冷や汗を流す。
アラナギ様というのは鬼なのだろう、それは間違いない。だが人を喰うと分かっておきながらそれに……信仰にも近い何かを持っている人間と出会うのはしのぶは初めてのことだった。
人間は未知を恐れるものだ、そして一度恐れてしまえば乗り越えることはそう容易いことではない。
只人よりも力は強く、また戦う技術もあり、精神も鍛えられている。
そんなしのぶが半歩後退した、後退して、どうするべきか思考を回す。
──瞬間、しのぶの身体は宙に浮いた。
否、浮いたどころではない。浮遊感を与えられて、そのまま高速で景色が流れ去った。
「──────!?」
「きゃああ!?」
声にならないしのぶの悲鳴と、女性の悲鳴が同時に鳴り響く。
女性は弾かれ倒れこみ、しのぶは片腕に抱えられていた。
「──あぁ、フラフラする。頼むぞしのぶ、悪いけどお前にかかってるっぽい」
「えぇ、分かっています……というより伊佐那さん、動けるのですか?」
「気合で動かしてる、でもいつ落ちるか分かんねぇ」
そう、伊佐那は己の身体を気合で動かしていた。
かつてしのぶお手製の薬の副作用による眠気にすら抗い切った伊佐那だ。これくらいは余裕である──という訳ではないが、何とか意識を繋ぎとめることには成功していた。
身体もある程度は動く、だがある程度にすぎない。
思考も靄がかかっているようだった。
「つーか何でしのぶは平気なんだよ……」
「私は毒使いですから」
そう言ったしのぶに、伊佐那はなるほどな、と頷いた。
しのぶは鬼殺隊内でも珍しい──というよりは恐らく、ほぼ唯一の毒を使って鬼を殺す剣士だ。
もっと正確に言うのであれば、
そしてその毒は常に彼女の手によって更新され続けており、その過程で彼女は少量の毒を身体に取り込み続けていた。
当然死ぬためではない。彼女はどれほどの効き目があるのか、どれくらい強い毒であるのかを、自身の身体を以て確かめていた。
また、誤って服毒してしまっても大事にならないよう毒に対する抗体を作っておくのも目的の一つであった。
盛られた睡眠薬が効かなかったのもその為だろう。
「良いな、俺も抗体欲しい」
「ふふっ、どの毒もにがーいですよ?」
「げぇっ」
伊佐那は嫌そうに舌を出して、それからしのぶを下ろす。
「とにかく、今は逃げるのが先決ですね」
「だな、まさか町の人に薬盛られるとは思わなかった」
短いやり取りを交わしてから扉を開ける、そうすれば目の前には閑散とした町の光景は──広がって
人、人、人、人人人人人人人人人人人人。
老若男女関わらず、どこにいたのかというほどの人間が宿屋の前にいた。
全員がその手に鍬だったり刃物だったりを手にして伊佐那たちを、酷く不快になる目で見ていた。
「っ!」
ドン、と後ろ手でしのぶを押して、そのまま自分も屋内へと戻る。
素早く扉を閉めてから、しのぶと顔を合わせ、少しだけ考えた。
「上です、上から逃げましょう!」
「それだ!」
階段を何段も飛ばして駆け上がるしのぶの背中を追って、伊佐那は身体を引きずるように床を蹴る。
しのぶは一瞬伊佐那を気にかけて、まだ大丈夫そうだということを確認してから一〇二号室の扉を蹴破った。
素早く入り込み、窓を開け放つ。
「伊佐那さんは先に行ってください、私はちょっと荷物を回収していきます」
「了解、さっさと来いよ」
言うや否や伊佐那は静かに踏み込み窓の縁へと乗っかった。
ここは二階建ての宿屋だ、つまり窓から少し上を見上げれば屋根である、
伊佐那やしのぶにとっては、少し跳ねれば届くくらいの距離だ。
そのことを一瞬確認してから伊佐那は宙を舞う。
曲芸師もかくやというように、彼は月夜の空の下で跳ねた。
ザリッと音を鳴らして屋根に着地する、二、三歩だけ横にずれてから伊佐那は下を眺めた。
「こんなにいたのか……ていうかこれ、この町の人が全員集まってるのか?」
気を抜けば飛びそうな意識を握りしめながら伊佐那は、コンコンと頭を叩いてそう呟く。
そうしなければ頭は上手く回りそうになかった。
「具合はどうですか?」
「結構やばめ、もう落ちそう」
「それはちょっと困りましたねぇ、私の手持ちでもそれに対するような薬がなくて」
伊佐那と同じように跳んできたしのぶが「申し訳ありません」と目を伏せて言う。
「気にすんな、こうなったのは十割俺の落ち度だし、いてくれただけで助かってる。俺一人だったら今頃死んでたかもだしな」
「もう、縁起の悪いこと言わないでください……これからどうしましょうか」
「一先ずは逃げの一手……と言いたいところなんだけどな」
苦笑いを浮かべながら伊佐那は下を見れば、先ほどからどんどんと増していく人の群れがそこにはあった。
その内の一人と目が合って、誰かが叫べば全員が俺たちを見た。
「状況が悪いですね……」
「あぁ、まさか町ごとこんなんだとは思わなかった」
あの様子だと下手に逃げても追ってくることだろう。彼らとて彼らの町がこのような状態であるとは他の人たちにも知られたくないはずだろうし、そもそも二人は町人達にとって供物である。
ここ周辺に限れば彼らにとって庭場だ、追いつかれることは無くとも追いすがれるだろうし、加えて鬼まで出てきたら鬼だけを斬るというのはかなり困難だ。
また、ここで日を置いたことで新たな被害者が出る可能性は見過ごせない──見過ごしたくない。
そして何より伊佐那には、長時間の活動ができるか、という疑問があった。
先程からずっと激しい眠気に取りつかれている。すぐ落ちるということは無いだろうが、遠くない内に落ちるだろう。
逃げている最中にそんなことになったら最悪だ、しのぶは恐らく伊佐那を見捨てない。
しのぶに伊佐那を抱えて逃げ回るだなんて芸当は純粋な筋力の問題で不可能だ。
つまり見捨てないためには鬼ではないただの人をその手で殺めるしかないし、それができなかったら二人もろとも捕まるだけということになる。
だから、伊佐那は考える。鈍りに鈍った気合で回転させた。
「仕方ない、鬼を狩ろう」
「正気ですか?」
「俺はいつだって正気だっての……多分、ここの鬼はあの寺にいるんだと思う。だから今から一気に襲撃して蹴りをつける」
「……悪くない手だとは思います。ですが、大丈夫なんですか?」
「俺なら問題ない、むしろ戦ってる方が集中できる。それに鬼を殺したと証明すればあの信仰具合だ、町の人たちもそっちに気を取られるだろ。その間に逃げよう」
「そうですねぇ……」
そう呟いて、しのぶは伊佐那を横目で見た。
傍目から見ても分かる消耗具合だ、時間がないというもの本当のことだろう。
彼にとって今、こうして作戦を立てている時間すら惜しいものだということが存分に分かる。
かと言って伊佐那が提案した作戦も悪いものではない、だからこそしのぶは冷静に考えて、十数秒の後に頷いた。
「分かりました、そうしましょう。ただし時間はかけずに、迅速に」
「元よりそのつもりだ──行くぞ!」
言うや否や、伊佐那は屋根を蹴り上げた。
瞬間、彼の身体は掻き消える。否、そう見えるほどの速さで移動をし始めた。
世が世なら忍者と思われてもおかしくないような速さ、軽業で二人は屋根の上を駆けだした。
家と家の間を飛翔にも近い跳躍で超えていく、町人達が二人が移動したことに気付いて大声と共に走り始めた。
とは言え二人の移動速度には敵わない、がそれを差し引いても伊佐那は冷や汗を垂らした。
「随分熱狂的だな」
「何を以てここまでのものに成長させられたのかは、少々気になるところではありますね」
基本的に鬼が人をこのように支配するという図はあまり見る光景ではない。
なぜなら鬼は人を喰うからだ。支配下に置こうがなんだろうが、鬼は人を喰らうという衝動に打ち勝つことがほとんどの場合において不可能とされている。
知性もなく、理性も捨て、人を喰らい力を付ける。鬼とはそういうものだ。
だが、そうではない鬼がいたとするのであれば、その鬼は恐らく──いや、ほぼ確実に長生きをしている鬼だということに他ならない。
長生きをする鬼は、強い鬼であるとイコールで結ぶことができる。
それだけの間、人を喰らっているということなのだから。
「伊佐那さん、遅いですよぉ」
「こなくそっ」
若干、しのぶの背中を追う形で伊佐那は夜闇の中を駆けていた。
薬を盛られたせいで動きが鈍い、というのもあったが万全の状態であっても彼女の速さに追いつくのは難しそうだな、と伊佐那は思う。
それほどまでにしのぶは速い。
だからこそ伊佐那は安堵にも近い感情を得ていた、これであれば相手の鬼に敵わなかった時、彼女であれば逃げ切ることはできるだろう、と。
戦いにおいて弱気さは好ましくないが、最悪のことを考えておかない訳にはいかない。
自分一人ならまだしも今回はもう一人いるのだから、と伊佐那は思う。
「どう攻め込みましょうか」
数分の後にようやく辿り着いた寺を見下ろしながらしのぶがそう問いかける。
本来であれば詳細に調べた後に入るルートと、退避するルートを決めてから攻め込むのが定石だ。
だが今はそれが出来ない、となればやれることは一つだけ。
「正面突破、それしかないだろ」
「ですよねぇ」
正面突破というのは力あるものだからこそできる芸当だ。
ゆえにしのぶはあまり正面突破を好んでいなかった、ましてや屋内だなんて完全に相手のテリトリーだ。
だが今回はそうもいかない、覚悟を決めるようにしのぶが息を吸って吐き出した。
「行きましょう」
「あぁ」
タンッ、という軽やかな音と共に二人が屋根を蹴る。
着地するのは寺の前、木造の扉を伊佐那は渾身の蹴りで破壊した。
「らぁ!」
その先に広がるのは奥行きのある長大な一室。
その中は人工的に灯された篝火たちによって明るく彩られていて、中央に人影が、一つ。
それは随分と長い黒髪を、顔を隠すように床に垂らしていた。
赤の着物を身に纏い、そこから覗かせる肌は病的なまでに白い。
恐らく女性の鬼である彼女は、血の水たまりの上で二人を見て、嗤う。
「最近は随分と騒がしいですね……おや、その刀、見覚えがございます」
しのぶは口を開かない、ただ己の刀を抜き放ち一瞬の隙を伺い続ける。
そして伊佐那もまた口をつぐみ、姿勢を低くした。左手は鞘に、右手は柄に。
「あぁ、そうです、鬼殺隊と申しましたか。色付き刀を携え、只人よりは少々戦いの技術を備えた、弱き人。数日前も、三人ほどいらっしゃいました」
「──彼らは、どうなった」
「もちろん、いただきましたとも。
そう言って女の鬼はそっと部屋の隅を指さした。
誘導されるように伊佐那が見れば、そこにあるのは砕かれた三本の刀──日輪刀。
見覚えのある色だ、三本とも、かつて三人が持っていた刀の色と一致している。
「私を殺すと仰られていたのですが、とてもとても、冗談かと思うほどに弱うございまして、拍子抜けでございました……とはいえもう何年も、私より強い方とはお会いできていないのですが」
「そうか」
何の感情も籠っていない返答が、室内で響く。
瞬間鬼は恐ろしい速さで数歩下がった、彼女の前には抜刀をした、一人の剣士──伊佐那。
ハラリ、と黒髪の欠片が舞って床に落ちる。
「じゃあもう良い、死んでいいぞ」
「おやおや、随分と血の気が多いようで──しかし、そう上手くはいかないかと思いますよ」
そう言って彼女は己の左目を露にするように髪を払った。
人であるときならば、さぞ麗人だと噂されたであろう容姿に、真っ赤な瞳。
その目の中には「下壱」という二文字が刻み込まれていた。
それが示すところは即ち──下弦の壱。
十二鬼月は上弦の六人、下弦の六人に分けられ、その数字が小さければ小さいほどの強いとされている。
つまり目の前の鬼は、ただでさえ凶悪とされる下弦の鬼の中でも最も強いということに他ならなかった。
鬼がいやらしく笑う、それを前にして二人の鬼狩りは静かに冷静に、息を吸い込んだ。
鬼狩りと鬼の殺し合いが、幕を開ける。
プロットが毎日悲鳴上げてぶっ壊れてる、助けてくれ。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
鬼殺
鬼という存在は元より人だったものが、とある鬼の血を入れられることで変生し人外へとなり果てたものの通称だ。
鬼となった者は一般的には理性をなくし、知性を落としただ人を喰らう化け物へと変わる。
植物でもなければ、獣の肉でもない。人の血を、肉を求めるのだ。
何故かと言えば鬼は人を喰らうことで"強く"なるからである。
只の人間が毎日走り込みをすれば体力がつくように、毎日筋トレをすれば筋肉がつくように、鬼は人を喰らうことで身体的ステータスを飛躍的に向上させ、緩まった知性を取り戻す。
そして一定以上の血肉を食めば、やがて異能に目覚めるのだ。
この異能のことを人々は『鬼の血によって手に入れた力』──即ち、血鬼術と呼んでいた。
血鬼術の内容は、鬼によって千差万別である。
つまり鬼の数だけ存在するユニーク的なスキルであり、その鬼自身もどのような力を得るかはわからない。
現代風に言うのであればガチャである。コツコツと石を貯め(人を喰らい)、その末にようやく引ける一度きりのガチャ。
とは言え、ここで手に入れる能力というのは何も完全なランダムではない。
その鬼の戦闘スタイルや思想、好む環境になるべく沿ったものが発現するようになっている。
徒手空拳を使う鬼であればそれを強化するような力が手に入るだろうし、森の中に生息するのであればそこでの戦いを有利に運べるようになる力を手に入れるだろう。
ゆえにこそ、力を得た鬼は狡猾になる。
その力を万全に発揮できるような場所で生活するようになるだろうし、工夫だってする。
人を喰らえば喰らうほど自身のステータスも上がるのと同時に、血鬼術の力も増幅するからより人を喰らうようになる。
力を得た鬼を殺すのは、只人には不可能で、鬼狩りにも困難だ。
だからこそ、伊佐那は最初の一撃で全てを決めるつもりだった。
踏み込みは軽やかに、しかし力強く。体捌きは敵の警戒をすり抜けるように、抜刀は目にも止まらぬほどの速さで、狙いは急所である首を。
洗練された一撃だった、それこそそこらの鬼であれば首を断たれたことにすら気付かなかったであろう程の一刀。
だがこの鬼は躱した、間違いなく油断していたその意識の隙間に挟み込まれた一撃を、見て、気付いてから躱したのである。
いくら伊佐那の身体が薬に侵されているとは言え、その反応速度は伊佐那達の想像以上のものであることを示していた。
ダンッ! と鬼が床を叩く、同時に彼女の影からは一本の薙刀が姿を現した。
まるで影から取り出したみたいに──否、事実影から取り出したのだ。
「下弦の壱・アラナギと申します──冥府の底で、誰に殺されたかをしっかりとお伝えなさい」
「随分とでかい口を叩くんだな」
「えぇ……大口ではないので、ご勘弁を。あぁ、それと、町の人はここには入って来ないようにしてありますので、存分に力を振るってくださって結構ですよ?」
「そいつは重畳──じゃあ」
「はい、お死になさい」
「──ッ!」
室内に、金属音が高らかに響き渡る。
金属と金属がぶつかり合って火花を散らし、伊佐那とアラナギは超至近距離で顔を合わせた。
「思いのほか遅いですね」
「言ってろ」
首を狙われた一閃を後ろに受け流す、同時に伊佐那は刀から左手を外してアラナギの着物を襟を掴んだ。
(剣技だけで生き残れるほど甘くねーんだよ、お前らの相手は!)
ヒュゥゥ、と言った異質な呼吸音が鳴り響き、伊佐那の年相応に細い腕がグッと筋肉で盛り上がる。
瞬間、アラナギの視界は反転した。普通に見えていた世界が突如として真っ逆さまになりながら、横へと投げ飛ばされる。
「なっ──」
「蟲の呼吸──蜂牙ノ舞・真靡き」
放たれたのはたった一撃の突き。されども何よりも速く、何よりも鋭く、そして何をも伏せる、毒の刃。
アラナギは咄嗟に薙刀でガードしようとして、されども何かに阻まれた。
否、何かではない。伊佐那が先ほどまでアラナギを掴んでいた左腕で、薙刀を抑えている。
(まずい──)
そう思うには遅すぎて、『下壱』と刻まれた眼を蝶の一撃が貫いた。
基本的に鬼は、鬼殺隊の持つ特殊な刀で首を斬られる、もしくは太陽の光を浴びることが無ければ死ぬことがない生物だ。
どの部位を焼かれようが斬られようがいずれは再生する、けれども痛みを感じないわけではなかった。
それをしのぶは知っている、だからこそ目玉を狙って貫いた。
より毒を注ぎやすく作られた特性の刀を以て、しのぶは的確に左目から頭蓋を駆け抜けるように穿ち、毒を放つ。
蜂牙ノ舞・真靡きはただひたすらにスピードに物を言わせた超高速の一閃だ。何せ彼女の毒は鬼を殺す毒。一度その身に入れることが出来れば勝ちである彼女にとってそれは最も使い慣れ、尚且つ信用している剣技。
(まだっ!)
だが、彼女はそれだけでは止まらない。
しのぶはこれまで十二鬼月の鬼とは一度も遭遇したことが無い、だからこそだった。
十二鬼月は、他の鬼とは格が違うとされた鬼だ、鬼殺隊で言う柱に値する。
それに選ばれるほどに力を付けた鬼に、たった一度入れただけの毒で倒せるとは限らない。
「蟲の呼吸──蝶ノ舞・戯れ」
念には念を、けれどもそこに焦りはなく。それこそ蝶のように軽やかにしのぶは舞った。
まるで演武のように、されども苛烈な鬼殺の意思を込められた高速の連撃が自由落下するアラナギの全身へと叩きこまれた。
──否、叩きこまれたように、そう見えた。だが、違う。彼女の切っ先は後数ミリメートルと言ったところで真っ黒な何か──影に阻まれていた。
「しのぶ!」
「分かっています!」
それを目視すると同時に二人は弾けるようにアラナギから飛び去った。
だが、遅い。
極至近距離まで迫っていたしのぶの足を手の形をした影がギュッと握りしめていた。
アラナギの怪しく甘美な声が、囁き声のように聞こえる。
「うふふ……まずは一人」
「水の呼吸──捌ノ型・滝壷」
瞬間、溢れんばかりの水流が影を断ち切った──否、実際には水流なんてものはほんの一滴も発生していない、けれどもアラナギの目には確かに見えた。
濁流のような水が伊佐那の漆黒の刀を包み纏い、垂直に断ち切る。
軽く跳ねてからの一閃、伊佐那は左足で着地すると同時に無理矢理アラナギを見る形で前を向き、しのぶを抱え右足でバックステップ。
「助かりました、ありがとうございます」
「問題ない……それよりアイツ毒、喰らったんだよな?」
「毒は確かに注入しました、効くかどうかの確認はこれからですね」
「なるほどな」
じゃあ一気に攻め立てるか、伊佐那は一歩踏み込んだ。
全身の気怠さを追い出すように、忘れるように、呼吸を深くする。酸素を循環させて、血流を速くする。
「水の呼吸──壱ノ型・水面切り」
「それはもう、見たことがございます!」
水流と真黒の影がぶつかり合って、刃が軋む。
そこから更に大型の影を引き出そうとしたアラナギの腕が、止まった。
「ガッ、アァァァ!?」
アラナギが左手で、再生しつつあった左目を抑えた。
ダラダラと涙の如く流れ始めた真っ赤な血は、彼女の再生が進んでいない証拠だ。
力が弱り、取り出されようとした影は沈み込む。
けれども伊佐那と拮抗している影は弱まることは無かった。アラナギは絶叫を轟かせ、顔の左半分を破り取らんほどの力で掴みながらも影を手繰った。
──だが、伊佐那だけを止めようとも意味はない。
この場に鬼狩りは、二人いる。
「蟲の呼吸──蜻蛉ノ舞・複眼六角」
無慈悲にも放たれたそれは、猛毒の六連撃。
突き刺す、というよりはより多くの毒を注入することを目的とされたそれの連撃速度は今までの二つと比べればあまりにも遅い。
だが毒に苦しみ、片目を潰され遠近感も潰されている今のアラナギにそれを阻む方法はない。
「うふふ、これでも昔は役者を目指していたことがありまして」
「がぁっ……?」
「しのぶ!」
──その、はずだった。
超接近したしのぶの胴を、薄く薄く研がれた影が貫いていた。
更には蛸足のように分かれた影の手足がギュルリと伊佐那に巻き付いて動きを阻害する。
声と共に、彼女の口から鮮血がゴボリと吐き出され、アラナギは嬉しそうにそれを左手で受け止めた。
露になった左目は既に再生しきっていて、手にためられた血液をアラナギは如何にも美味しそうに、伊佐那に見せつけるように飲み干した。
その血に濡れた手で、伊佐那の頬を撫でる。
「そう吠えないでくださいまし、貴方方が弱いのがいけないのですよ?」
水の呼吸は臨機応変、変幻自在。
それこそ水流のように、いかな状況にも対応出来るように作られた型で、数ある呼吸の中でも万能型と言っても良い呼吸。
だがそれゆえに突出した"力"のある単体の型が存在しない、どれもが見るものを惑わすような歩法を基に作り上げられたいわば丁寧な型だ。
つまり今の伊佐那のように、動きを止められてしまうと途端に力が減衰してしまう型だ。
最も、このような状態に陥ってしまえば炎か雷、もしくは岩の呼吸の剣士でもなければ絶体絶命ではあるだろうが。
「炎の呼吸──壱ノ型・不知火」
炎の呼吸は水の呼吸とは真逆の呼吸、歩法を無視しただその場で、一刀の元に断ち切るべく編み出された"力"の呼吸。
複数の歩みではなくただ一歩、しかし何十歩もの重みを持つかの如き一つの踏み込み。
水よりは苛烈に、一度により多くの酸素を取り込み、水のように長期的に回すのではなく爆発的な勢いで血流を回す。
『次』をほとんど視野に入れぬほどの呼吸、型。
それはほんの一瞬だけ伊佐那を筋力の限界まで引き上げた。
万力の如く身体にへばりついていた影がぶちぶちと千切れ落ち──爆炎を纏った一刀が袈裟懸けにアラナギを引き裂いた。
「ア、アァァアァァアァァアア!?」
「今度は演技じゃねぇっぽいなっと!」
半回転して身体を捻り、左足の蹴りを放つ。
首元を狙ったそれは差し込まれた腕を蹴り折り跳ばす。
それから半透明の影を斬り裂いて、それに持ち上がられていたしのぶを抱き留める。
「しのぶ、平気か、返事しろ、おい!」
「あまり、大きな声で叫ばないでください……大丈夫です、傷は深いですがまだ戦えます」
「無理はしなくていい、後ろで隙伺ってろ。前には俺が出る」
「ですが、それは──」
あまりに危険だ、と言おうとしてしのぶはやめる。
負傷したしのぶと、薬を盛られた伊佐那。
どちらが前に出るべきかは考えるまでもない。
先ほどまでの戦闘を見て、しのぶはそう思う。
睡眠薬、それも相当強烈なのを盛られてここまで動ける伊佐那は正直に言って尋常ではない。
もし薬を盛られておらず、万全の状態であれば伊佐那は目の前の鬼ですら難なく狩れたであろう、そのことをしのぶは直感的に理解していた。
だからこそ、しのぶは口を噤み一歩下がった。呼吸を以て血の流れを操り、持ってきた痛み止めと薬で応急処置をする。
それと同時に伊佐那は前に出る、呼吸音は水の呼吸のそれに戻っていた。
「はっ、はぁ……驚きました、二つの呼吸を扱う剣士を見るのは初めてです」
「まぁ、自分で言うのもなんだが珍しい方だと思う。あんたも、そんな俺に殺されるんだから少しは誇らしいだろ?」
「嫌ですね、死ぬのはあなた方の方では? ほぅら、後ろの女の子も苦しそうですよ?」
「知ってる、けど俺に治す手立ても知識も無い、だからもしそうなったらお前の首を手向けにするよ」
短い言葉の応酬、会話が途切れるのと同時に金属音は響いた。
幾つにも枝分かれした影を、伊佐那は斬り裂き躱し、前に進む。
「具合でも悪いのでしょうか! 顔色が悪いですよ!」
「あんたの顔色よかマシだろうよ!」
伊佐那は、己の口の中を噛み潰して強制的に己の目を覚ます。
戦場の空気、生き死にの狭間、そして痛み。
それらを以て落ちゆく意識を握りしめていた、全身は既に酷い倦怠感に襲われていたが、それも関係ないと伊佐那は潰しきる。
理想とは程遠い剣舞、けれどもそれは追いすがるように影を斬り裂いていき、まるで沼の中に突っ込んだかのような重さの足はそれでも前へと進む。
未だ胴の回復を済まし切れていないアラナギが一瞬、ほんの瞬きにも劣る数瞬だけ恐怖の色を映した。
振り払うように戻りはしたがしかし、伊佐那はそれを見過ごさない。
呼吸を、整える。
炎と水が、織り交ぜられる。
彼ら──鬼殺隊が使う呼吸には基本となる『炎・水・雷・岩・風』の五つの呼吸が存在する。
鬼殺隊隊員はその内の一つを習得し、もしくはそこから更に派生された呼吸を使う。
──だが、そもそもこの五つの基本の呼吸はとある一つの呼吸から派生したものに過ぎない。
それはかつて、鬼殺隊という存在が誕生したばかりの頃に生まれた一人の天才剣士が使っていた『日の呼吸』。
そのたった一人の天才剣士にしか扱うことができず、他の者にはその片鱗しか扱えなかったため、呼吸は派生した。
数百年もの間、呼吸は派生し続けた。だが、伊佐那はそれを統合させる。かつての天才には届かずとも、確かな才と積み上げた力を以て。
水のように流麗で、しかしどこまでも燃える力強い型。
その型は未完であるがゆえに、未だ
名を得ることすらおこがましく、されども練り上げられ、頂へと手を伸ばすその一撃は影を裂き、その先の首へと刃を差し込んだ。
「──!?」
瞬間、伊佐那の膝が崩れ落ちた。
姿勢が崩れ、力が抜ける。ほとんど切断まで持っていた首はしかし、皮一枚で繋がっていた。
伊佐那の絶望の目と、アラナギの歓喜の目がかち合って、鬼は嗤う。
「ハッ──ははっ、ははははは! あともう少しでしたね──え?」
血飛沫を上げた首が繋がろうと元に戻る。
否、戻ろうとして、もう一本の刀がその薄い肉と皮を断ち切った。
着物を靡かせた少女が、静かに告げる。
「残念残念、おしまいです」
伊佐那一人であれば、今ここで死んでいただろう。
しのぶ一人であっても、やはり力及ばず死んでいただろう。
だが彼らは二人であった、いかな偶然とはいえ、伊佐那としのぶは二人でここに来たのだ。
それが彼らの勝因で、アラナギの敗因だった。
長く伸ばされた髪ごと斬り落とされ、首が宙を跳ねる。
同時に首の断面から身体と頭はボロボロと灰のように崩れ始めた。
これが鬼の死だ、死体は残らず霞と消える。
「しのぶ! 身体は!?」
「問題ありません、まだ動けます……ただ、私も伊佐那さんも長時間の活動は無理でしょう。だから──」
「あぁ、さっさと退散するに限るな。町人達は来ないつってたし、裏口からこっそり出りゃバレないだろ」
「そう、ですね……ゴホッ」
「おいおい……」
相槌と共にしのぶが血を吐き出す。
医療の心得があるしのぶが大丈夫だと言っているのだから、今すぐヤバいという訳でもないのだろうが、それでも重傷は重傷だ。
仕方ないか、と伊佐那は独り言ちてしのぶを抱き上げた。
「い、伊佐那さん!? 私は──」
「うるせぇ、幾ら俺だって見るからに重傷なやつに走れとは言えねぇよ。黙って捕まってろ……あぁ嘘、蝶屋敷までの案内を頼む、ついでに意識飛びそうだったら叩き起こしてくれ」
「ですが……」
「良いから、時間もない、行くぞ」
「ぐっ……はぁ、どうやらそれが最善のようですね。分かりました、ただ出来るだけ揺らさないでくださいね?」
「厚かましいやつだな、お前……」
そう言って、二人は寺の裏からそっと出て、そのまま地を蹴った。
人とは思えぬ速さで駆ける彼らの姿は直ぐに闇夜へと解け消えた。
企画期間内に終わらない、死。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
休息
蝶屋敷には胡蝶姉妹のほかに大勢の隊士が滞在しており、そのほとんどが非戦闘員だ。
そう、非戦闘員。
鬼殺隊は伊佐那のように鬼と直接殺し合う戦闘員ばかり目立ちがちだが、中にはそれをサポートする隊士が二種類存在する。
それが隠と治療隊員だ。
鬼殺隊に入ったものの、鬼と戦うのを恐れてしまった者。
戦う才能がなかったもの。身体が弱かったもの、まだ幼いもの。
理由はそれぞれであるが、鬼が憎くとも戦えない、もしくは戦わない者達を中心に彼らは構成されている。
鬼殺隊は戦うための組織であることから、一見戦闘員の方が大変のように見えるかもしれないがそれは大きな間違いだ。
いつの世も、たった一つの職種で成り立つような組織は存在しない。
戦闘の華々しさ、もしくは血生臭さに隠れているが、当然どちらもなければ鬼殺隊は続かない。
例えば隠の仕事なんかは戦闘員に比べれば恐ろしいほど多岐にわたる。
鬼殺隊内の情報伝達から始まり各地に散らばる鬼たちの噂集め、情報収集、人員配置、全隊士の給料計算から戦闘後の後処理、負傷者の運搬、死傷者の埋葬……など数え上げればキリがないほどで、その一つが欠けようものなら鬼殺隊は時間をかけて崩壊するだろう。
戦闘員を車と例えるならば、彼らはいわばガソリンだ。
鉄の塊たる自動車が動くために必要な燃料となり、全力で戦闘員を後押しをする者たち。
では治療隊員は何に当たるかと言えばそれは当然整備士だろう。
負傷をすればそれを治し、病にかかればそれを癒す。身体に不具合が出る度に全力を尽くして万全に持ち直させる整備士達だ。
こちらは戦闘員や隠と比べ、女性の比率がやや多く、そのほとんどが蝶屋敷で活動をしている。
これは治療隊員のトップがしのぶであるからという理由に尽きる、彼女の元で活動した方が彼ら彼女ら自身のスキルアップにもなるし、何より鬼殺隊の負傷者が運び込まれるのは主にここだ。
鬼殺隊の戦闘員は死傷者も多ければ負傷者も多い、お陰で蝶屋敷はいつだっててんてこ舞いで、今日も慌ただしくたくさんの隊士たちが屋敷内を駆けまわっていた。
「きよぉー! これ洗濯お願い!」
「はぁーい! なほ、後藤さんにこのお薬持ってって!」
「わかったぁ!」
姦しく、まだ小さな女の子たちがタオルだったりご飯だったり、薬だったりを持ってあっちに行ったりこっちに来たりを繰り返す。
その様子を伊佐那もまた、布団に寝かされながら呆けたように見ていた。
というか、呆けたようにして見ることしか、今の伊佐那にはできなかった。
あの夜の戦い、下弦の壱を討伐した日に伊佐那はほとんど外傷を受けることは無かったが、代わりにその身に薬を盛られていた。
当初は酷い眠気から伊佐那は睡眠薬と断定していたが、その中身はもっと酷い──言ってしまえば毒である。
眠気を誘発させるほかに全身を弛緩させ、指の一つも動かせなくなるような麻痺を起こす毒。
そういったものをもろに喰らってしまっていた伊佐那は現在、元より患っているモノのこともあり縛り付けるような形で布団にぶち込まれていた。
比喩ではない、ガチだ。
今現在、彼の胴と敷布団がは一体化するように紐が巻き付けられていた。
紐が通っているのは腰辺りだから、多少の自由は効くが「絶対に逃げるんじゃねぇぞ」という強い意志が目に見える形でここに現れていた。
伊佐那の複数に渡る脱走が切欠で始まったこれは、最初は戸惑っていた一般の隊士たちも今ではずっかり見慣れたものである。
とはいえ紐は紐だ、普通に身をよじれば抜けられるし伊佐那ほどの筋力であれば普通に切れる。
だがそうしていないのは伊佐那の「流石にこれ以上は面倒くさいな」という気持ちと、「これを切ったら次は本当に全身拘束されてしまいそうだ」という気持ちが出した結論であった。
(まぁどちらにせよ身体は怠いし、お館様にまで話が行ったせいで任務は来ないから暇だし良いんだが)
薬は抜けたが、それすら分からないくらい──というか盛られた薬が麻痺やらなんやらの効果があったことも分からなかったくらい、もうずっと前から付き合っている身体の気怠さにため息を吐く。
ゴロリ、と気軽に寝返りも打てないことに若干不便さを感じながら伊佐那は天井を眺めた。
考えるのは、しのぶのことだ。
あの日血鬼術によって腹を貫かれたしのぶは、しかし今はもう当たり前のように医者としてこの屋敷で活動を行っていた。
彼女曰く「急所は外しましたし、直ぐに処置もしましたので」とのことだ、あとは多分痛み止めも飲んでいるのだろう、と伊佐那はあたりを付けていた。
だがそれでも傷を負っていることに変わりはない、それでも休まないのは……休めないのは、この屋敷で最も医療について知識があるのがしのぶだからであろう。
他の隊士たちも日々研鑽を重ねているが、しのぶにはやはり数歩劣る。
柱制度もそうだが、個々人の強さに鬼殺隊は頼り過ぎなんだよな、と考え始めれば「きゅるる」という音が伊佐那の腹から鳴った。
「ん、もう昼か」
いつもであればそう思う前に皿を持ってこられるものだが今日は随分と忙しいらしい。
であれば自ら取りに行くべきなのだが、生憎布団を背負って移動するなんて趣味は伊佐那にはなかった。
伊佐那は上半身を起こしてふむ、と数秒だけ考える。
「まぁ一食くらいは良いか」
「あらあら~、ダメよ? そんな不健康なこと言ってたらまたしのぶに怒られちゃうわ」
数秒だけ考えた伊佐那が結論を出したのと同時に、女性の声が響くのは同時のことだった。
しのぶに少しだけ似ていて、けれどももう少しだけおっとりしていてゆっくりめな、高い声。
「カナエさん……お久しぶりですね」
「そうねぇ、もう二か月ぶりくらいかしら? しのぶが全然来ないって怒って大変だったんだから」
早く来ないかしらって思ってたんだけど、まさか二人揃ってフラフラになって来るとは思わなかったわ、と笑った女性の名は胡蝶カナエ。
胡蝶しのぶの姉であり、花の呼吸を扱う剣士──花柱。
「何か気付いたら時間経ってたんですよ」
「もう、ちゃんとお医者様の言うことは聞かなくちゃダメなのよ?」
ふわふわと、見ようによって能天気にも見える彼女が伊佐那は嫌いではない。
物腰柔らかで、いつも笑顔で人々を落ち着かせるような女性、けれどもその実力は想像以上で、かつ強か。
伊佐那は、そんな胡蝶カナエという人をその優しさという点において誰よりも信頼していた。それこそ、彼女の妹であるしのぶよりも。
「良いんですよ、どうせもう、そう長くない」
「──また、頻度が上がったのね」
「えぇ、最近は三日に一度くらいになりましたかね。前までは一週間に一度だったから、もうそろそろかな、と」
「対抗策は──」
「最近までは結構頑張って探してましたけど、諦めました。もうダメなんです」
力なく笑った伊佐那を前に、カナエは眉を下げ、困ったように、悔しそうに顔を歪めた。
──そう、伊佐那を身を蝕むものは決して未知の病なんていうものではなかった。
それは、今の彼らにとってなすすべは無く、ただ眺めることしかできない災害のようなもの。
「個人的な見立てだと、あと半年も保たないと思います。あぁ、心配しないでください、お館様にはもう伝えてあるので、後のことはバッチリ」
「そういう問題じゃないでしょう!」
カナエが伊佐那の両肩を掴んで、叫ぶようにそう言った。
クシャリと布が歪み、彼女の白く細い指が伊佐那の肩に痛みが無い程度に食い込む。
「まだ、何か手はあるかもしれないわ。そうよ、だってしのぶの薬に関する知識は飛び抜けているし、それに他の子たちだって──」
「カナエさん」
左肩にかかったカナエの手を、伊佐那はゆっくり外し握り込むように、優しく握りしめる。
カナエの薄紫の瞳を覗き込むように見た。
「ありがとうございます、でももう良いんです。全部こうなる運命だった、それだけのことなんですよ」
「でも、そんなのって、あんまりじゃない。何で、どうして伊佐那くんがこんな……」
「良い行いしてようが、悪い行いしてようが案外関係ないってことなんじゃないですかね。そもそもこの世に鬼なんてものが蔓延ってるんですから、神なんてものは無慈悲なものなんですよ。無慈悲に、運命は与えられる。そういうものなんです、多分」
「──ッダメよ、そんなのダメ、ダメ! いけないわ、諦めるのだけは、絶対に」
カナエは握られていた左手を強く握り返した。
己を宥めるように見ていた伊佐那に、発破をかけるように。
「まだ、半年はあるんでしょう? その間に見つければ良いだけじゃない、やっぱりもっと多くの人に伝えて……」
「ダメですよ、カナエさん」
だが、伊佐那は首を横に振る。
それだけはダメだと、認められないと静かに。
「これ以上しのぶに負担はかけられない、ただでさえ医者と鬼狩りを並行してやってるんですから、これ以上は過労死させちゃいます。それに他の隊士たちもそうです、ただでさえ命がけなのに、俺なんかの為に時間を割いてもらうのはあまりにも、申し訳ない」
「そんなことは──」
「あります、ていうかもう柱の人たちにも、お館様にも散々手伝ってもらったじゃないですか。その上で手立ては何も見つからなかった、そうでしょう? まぁ、一部の人以外には秘密にしてるって点はちょっと申し訳ないけれども、俺が死んだ後にお館様の方から伝えてくださいますから、ね? 気に病まないでください」
「……嫌よ」
「へ?」
「そんなの嫌に決まってるじゃない、認められないに決まってるじゃない……」
ポロリと一滴、彼女の瞳から涙があふれ、頬を伝って落ちた。
だがそれを無理矢理抑え、カナエは勢いよく伊佐那を抱き留めた。力強く、けれども優しく。
「何よりも嫌なのは、伊佐那くんがもう、諦めてしまっていること。もっと生きようとしてよ、死にたくないって、そう言ってよ、ねぇ」
「言ったところで何かが変わるのなら! ……言ってるんですよ、でも何も変わらない、変わる訳がない。言葉だけでは何も変わりはしない、でも動いてもダメだった。色んな人を頼り、全国の医者を当たって、それでもダメだった。じゃあもう仕方ないじゃないですか」
「それでも、希望を持ってさえいればもしかしたら──」
言葉を止めるのに、伊佐那は言葉を使わなかった。
抱き寄せられていたのを、抱き寄せ返す。
「その気持ちだけで充分です……ていうか、これでも生きようと思って戦ってこれたのは、貴女達姉妹……カナエさんとしのぶのお陰なんですよ。
事情を知っているカナエさんは俺の為にってあちこちまで足を運んでくれて、俺を支えてくれた。
しのぶも、言わなくとも多分アイツは病気なんかじゃないってもう気付いてて、その上で解き明かそうとしてくれた。その事実だけで随分と助けられました」
だから、もう良いんですよ。と伊佐那は笑みを浮かべた。
指で少しでも押せば、直ぐにでも崩れそうな虚勢から生まれた笑顔。けれども本人にとっては精一杯の笑みだ。
カナエにそれは、突き崩せなかった。
彼女はもう「でも」を口には出せない、彼の覚悟も想いも知ってしまったから。
一度抑えたはずの涙をもう、止められない。
「ごめ、んなさい。こんなつもりじゃなかったの、伊佐那くんを困らせるつもりは無くて、ただ、ただ──」
「分かってますよ、カナエさんは優しい人ですから」
その言葉に、カナエは耐え切れない。
優しさだけでは人は救えない、それは今、目の前の少年が証明していたから。証明、してしまっていたから。
そっと静かに身体を離し、カナエは目元を拭う。
「伊佐那さーん、入りますよぉ」
不意に、聞き慣れた少女の声がノックと共に響いた。
彼らが反応するより先に扉は開く。
「お昼御飯ですよ、ちゃんと食べてくださいね──って姉さんじゃない、どうしてここに……姉さん?」
「しのぶ──」
ボロボロと涙を零すカナエを前に、しのぶは動きを止める。
何があったかはわからない、けれども二人の間で何かがあったことは分かって、しのぶは伊佐那の名を呼ぼうとした。
そうしようと、したのだ。
伊佐那もそれが分かって、しのぶへと視線を合わせようとして──その時、
ドクン、と全身の細胞が跳ねるような感覚。血流が急激に遅くなり、心臓が悲鳴を上げて、骨は軋み、肉は震えだす。
絶叫すらあげたくなるような激痛が頭の先から足の先まで絶え間なく駆け抜ける。
それはまるで、
正確には、
絶叫の代わりに、ゴボリと血を吐いた。
「伊佐那さん!?」
「伊佐那くん!」
耳に届くその声は、しかし伊佐那には随分と遠くのもののように聞こえた。
ただそれをちゃんと聞き取ろうとする努力すらできなくて、何度も咳をするように多量の血を吐き出した。
真白な布団が朱に染まる、蝶の姉妹が駆け寄ってきて、叫ぶように何かを言っている。
視界すら霞んできた伊佐那にそれは聞こえない。
けれども、歩み寄ってくる死の音だけは、明確に耳朶を打っていた。
伊佐那の身体は病に侵されている訳ではない
猛毒に侵されている訳ではない。
彼の身体は──鬼の血に侵されていた。
ほんの極々微小な程度の鬼の血が、彼の身体を作り変えようとしていた。
けれども彼の身体に元から流れる血は、それに抵抗しうるだけの力を持った珍しい血──いわゆる稀血であった。
二種類の血がもう何年もぶつかり合っていて、その度に変化を起こす身体はもう限界だった。
羽々島伊佐那は鬼の血に殺される。
家族と共に襲われ、運良く生き残ったあの日に決められた死の定め。
それが彼の、運命だった。
後二話くらいで終わります、多分。そのはず。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
氷蝶
深夜二時を回った頃、伊佐那は不意に目を覚ました。
視界に入ったのは変わらない蝶屋敷の見慣れた木造天井。
全身から滲み出ている多量の汗に不快感を感じながら、深くため息を吐いた。
(なーんにも思い出せねぇ)
記憶を必死に探ってみたが、どうにも朝方起きてからの記憶が飛んでいた。
とはいえ伊佐那にとってそれは特に珍しいことではない──既に珍しいことではなくなっていた。
大方突然ぶっ倒れでもしたか、それとも寝そべったまま気絶でもしたのだろう。
適当に当たりを付けてから上半身を起こす、そこで腰に回されていたはずの紐がないことに気づいた。
良く思い出せないとはいえ自分で外すような真似はしないはずだ、となれば誰かが外したのだろうか。
珍しいことでもあるものだとグルリと首を回してから何となく室内を見回した。
「──っ、び、びっくりしたぁ、何やってんだこいつ」
伊佐那から見て右側、ちょうど窓がある方向に彼女──しのぶは佇んでいた。
いや、佇んでいたというよりは眠っていたと言った方が正しいだろう。
胡蝶しのぶは、寝ている割には随分と姿勢を正したまま眠りに落ちていた。
どうやら寝落ちするまで自分を見ていてくれたらしい、少しは休めばいいのに随分と働き者なことだ、と思ったところでようやく伊佐那は昼間の出来事を思い出す。
「あー、これはもう、カナエさんが話しちゃったのかもな……」
伊佐那にとって不意の吐血や金縛りはもう慣れたものだ、けれどもあそこまで酷いのは初めてのことだった。
身体中の血を吐き出したような気すらして、何なら何回か死んだなとすら思ったほどだ。
良く死ななかったな、なんて思ってから己の手のひらを見た。
浅くすぐ消えそうな傷から、二度と消えそうにない深い傷が刻まれ、何度も剣を握った跡のある己の手。
それを何度もグーパーと開いたり閉じたりを繰り返してみた。その行為自体に特に意味はない。
ただ、ほんの少しだけの刺激を感じてみたかっただけだ。痛みには及ばずとも、爪が食い込む感触は何となく自分がまだ生きていると感じさせてくれるような気がして、そうしてみた。
だがそれすらもう、感じないことに気付いた。
意識して力を込めて握りしめれば、やっと握りしめているのだと分かる程度の鈍さ。
(また触感が薄くなっている)
そう、『また』だ。
段階的に、伊佐那の五感は削られるように無くなっていた。
だがそれも呼吸を行い全身を活性化させれば大きな問題では無かったし、事実、伊佐那もそのように思ってきた。
(それは分かってるんだけど、何なんだろうな)
薬の匂いがうっすらと漂っていて、如何にも病院といったイメージを擦りつけてくるような場所だからだろうか、今まで気にしていなかったことも何となく気になってしまう。
このまま弱って弱って、弱り続けた後に死に果てるのか、それとも鬼に成り果てるのか。
どちらにせよそれは死んでるも同然だな、と薄く笑ってから「あぁそうだ」と思う。
「カナエさんに一言謝っておかないと、泣かせてしまったから」
明日の朝にはしのぶにも感謝と謝罪をしないとだな、と心中で付け加えて伊佐那は立ち上がる。
昼間に酷く吐いたせいだろうか、グラリと眩暈がしたがそれを気力で強引に立て直した。
ふー、と静かに長く息を吐いて、呼吸を整える。
一定以上の実力を持った隊士であれば、寝てる間でさえ特殊な呼吸をするよう心掛けている。
当然伊佐那もこれまでそうしていたが、体の不調のせいで途切れてしまっていた。
腑抜けてるな、と自嘲してから意識を切り替える。
傍にあった自分の羽織を肩にかけ、刀を握って部屋を出た。
どこに行くにも刀を連れていくのはもう癖のようなものだ、物騒だからせめて室内では手ぶらでいろと良く言われるがこればっかりは治せないだろうなぁと伊佐那は思う。
いつでも、どんな時でも戦えるようにしておきたいというこの年頃の少年にしては数少なく、また血なまぐさい我儘だ。
そんな訳で伊佐那は部屋を出た訳だが、しかしここで一つの問題に直面していた。
(当然っちゃあ当然なんだけど、この時間だと多分──ていうか絶対、もう寝てるんだよな……)
思い付きで出てきたものの、ここで伊佐那はようやくその事実に気付いていた。
正確な時間は分からずとも、窓から入ってくる月の光に屋敷内のこの静かさだ、流石に夜遅い時間であることくらいは理解できていた。
であれば今は身体を休めるべきだろう、さっさと寝床に戻り眠るのが最善だ。
──だが。
「妙に目ぇ覚めちゃったし、ちょっと外出るか」
妙な時間に起きてしまい、寝るにはちょっと目が覚めすぎている。そんな現象に襲われていた伊佐那は少しだけ考えてから散歩することにした。
夜中の散歩は少々不気味だが、しかしいつもはしないことと言うのは総じて人の好奇心を刺激する。
特に伊佐那はまだ十四歳の少年だ、それにこの時間に活動するなんてことは鬼を殺す時くらい。
何も考えることなく夜出歩くという行為自体が彼の好奇心を酷く刺激していた。
そうと決まれば早速行こう、と彼は足早に玄関へと向かい、自分の靴を引っ張り出す。
「あれ?」
そこで伊佐那は、一つ気付いた。
──カナエの靴が無い。まぁ靴というよりは彼女の場合草履なのだが、兎にも角にもカナエのそれが無かった。
いつもある場所にない、さっと視線を流してみるがそれに該当するものは無かった。
「カナエさん、外出てるのか?」
そうであるならばちょうど良い、屋敷の中よりはずっと話しやすいだろうしちょっと探してみるか、と伊佐那は足早に屋敷を出た。
静かに、足音や物音を立てることなく外に出て、同時に呼吸を深く、長くする。
弱った五感を鋭く尖らせて、カナエの足跡をたどる。
「んー、こっちかな」
辿る、といっても正確な足取りまで掴むことは伊佐那にはできない、というよりは嗅覚だったり聴覚だったりと生まれながらにして鋭敏な感覚を持つ者くらいでないと正確につかむのは無理だろう。
ただでさえ伊佐那は素の感覚が落ちている、それでも何となくは分かるというのは偏に彼の生まれ持った才能と、重ねてきた鍛錬の成果であろう。
明確ではないがしかし、信頼できる程度に掴んだ彼女の足取りを追うようにフラフラと歩き出す。
季節は夏から秋へと移り変わっている真っ最中で、夜だと少しばかり肌寒い。
羽織は持ってきて正解だったな、と伊佐那は羽織が肩から落ちないように抑えながら月夜の下を進んでいた。
視界の悪い中でもその足取りは淀みなく、定期的に探りなおしながら伊佐那は歩いていたが、不意にその歩みを止めた。
「何だこれ……この感じ、鬼か?」
カナエがそうであるように、一定以上の実力を持った者というのは無意識的に己の気配を隠す。
だがここに来てカナエの足跡が容易に掴めるようになった、それと同時に強い鬼の気配を感じ取る。
それはつまり、ここでカナエは鬼と遭遇し戦闘を始めたということに他ならない。
ゾワリと嫌な予感が肌の上を駆け抜ける、腑抜けていた意識を鋭く入れなおして力強くを地へと足を叩きつけた。
「カナエさん……!」
戦闘がいつ始まったのかは分からない、つい先ほどかもしれないし、もっと前かもしれない。
けれども伊佐那は、少なくとも数十分は前だと確信していた。
残っている足取りや気配、それから今戦っているのが近場ではないということがその確信させていた。
カナエさんと鬼は恐らくかなりの距離を移動している、その事実が不安を嫌に煽る。
胡蝶カナエ──花柱にさえ選ばれた彼女は鬼殺隊内でも有数の実力者だ、それこそ彼女と並ぶのは同じ柱でも片手で数えられるくらいだろう。
そんな人が、これだけの時間をかけて未だ倒すことができず戦闘を継続させている。
それはつまるところ、その鬼がそれだけの戦闘力を保持しているということに他ならなかった。
柱に近い、もしくは柱とは同等の実力を持っているとされる伊佐那は、万全の状態であれば下弦の鬼でも苦戦することなく殺すことができる。
となれば同じ柱のカナエもそうであるはずなのだ。
それが示すところは──
(上弦の鬼!?)
そう思いいたるのと同時に伊佐那は脂汗を流す。同じ十二鬼月とは言え、上弦と下弦の実力は言葉通り桁違いだ。
下弦の鬼を殺したという報告は珍しくはあるが、無いことではない。
だが上弦の鬼を殺したという報告はもう、百年以上も聞いていないということを伊佐那はお館様から聞いていた。
つまり上弦の鬼はそれほど前からずっとこの世に存在していて、柱でさえも殺してしまうということに他ならない。
カナエは実力者だ、それは間違いない。だがもし、もしも、上弦の鬼が相手なのであれば、それは非常にまずい状況だ。
少なくとも一対一で勝てる相手ではない、それはきっと、カナエも分かっていただろう。
それでもこうして戦闘に応じたのはきっと、蝶屋敷には近づけないためだ。
あそこを襲撃されれば鬼殺隊は一気にパフォーマンスを落としてしまう、そのことを危惧した可能性が高い。
最も、純粋に逃げることすら叶わなかった、という可能性もあるのだが。
伊佐那は意図して後者の可能性を振り落とす、もしそれほどまでの力量差があるのであれば、恐らくカナエはもう、死んでいるだろうから。
そう考えるのは、予想だとしても良い気はしなかった、だからなるべくその可能性は隅に寄せて、ただ伊佐那は地を駆けた。
鬼特有の濃く、異常な気配を感じ取る。同時に金属音が耳朶を叩き、頬を撫でる空気が冷気を帯びた。
それだけで、伊佐那は多くのことを悟った。
それはカナエが未だ存命であることへの安堵。
それは未だ戦っているという事実への恐怖。
意識すればするほど分かる、カナエの消耗具合、呼吸のリズムが狂い始めているという事実。
それらをひっくるめて、飲み込んだ。
呼吸を、練り合わせるように、紡ぐように、重ねる。
それは町中での出来事だった。
中心からは外れ、空き家が多く並ぶ町の寂れた一角。
見通しの良い広い道の中で華々しく蝶は舞っていた。
局所的に起こった氷雪の嵐の中で、美しく華麗に、しかし、血に塗れ。
鬼の顔は影になって見れなかった、けれども背丈や見て取れる筋力量から男性だと一旦仮定した。
踏み込みは鋭く、早く、力強く。
柄を握り込み、呼吸は深く、重く、沈み込ませるように、天へと至るように。
されど日には届かず、しかしその縁に指は引っかかる。
炎とも、水とも言えない半端な呼吸、頂点へと登り詰めている最中の、進化の途中の呼吸。
故にその呼吸に名前は無く、また型にも名前は無い。
氷雪を晴らすように熱い、炎のような大切断。
けれどもそれは水流のように美しく。
蝶をすり抜け、鬼を断つ。
「あれ? 誰、君」
それは、間違いなく伊佐那にとって最速かつ最強の一刀だった。
他の鬼殺隊──柱たちの目から見てもそれを止めるのは至難の業であると理解できるだろう、下弦の鬼であれば気付く前に断ち切られるだろう。
そういったレベルの抜刀、切断。
だが、だが──その鬼は、黄金によって作られた扇でそれを
「なぁ──」
「今日は随分と餌がやって来る日だなぁ、あ、でも君は男かな? だったらあんまり興味はないなぁ」
まぁでも、と鬼は言う。
栄養には変わりないし、残さずは食べるよ、と余裕そうに鬼は言う。
その左目に刻まれた字は『上弦』、右目に刻まれた字は『弐』。
一瞬呆けてしまった伊佐那が地を蹴りつけ──同時に氷が花開いた。
「が、あぁぁぁ!?」
「伊佐那くん!」
二人の間には蓮を模したかのような氷の華が咲き開いた。
それにほんの少しだけ触れた指先から一気に手首まで凍りついてから、やっとのことで伊佐那は転がるように離れ切った。
伊佐那の凍った左腕が、だらりとぶら下がり、その横にカナエが駆け寄ってきた。
「っ、はぁ、い、伊佐那くん──げほっ、どうしてここに?」
「いやまぁ、色々あったんですけど後でにしましょう。今は目の前のこいつです、と言いたいところですけど──」
そこで言葉を区切って、伊佐那はカナエを視界に収めた。
その姿は今まで見ることすらなかったような有様だ。
身体のあちこちは凍りついていて、それより多くの箇所から出血がしている。そして何より──
「カナエさん、呼吸が……」
「────っ」
そう、カナエは今、まともな呼吸ができていなかった。
ただ会話をするだけでも苦しそうに顔を歪め、今にも崩れ落ちそうな勢いだ。
伊佐那は少しだけ考える、考えて、考えて、すぐさま結論をはじきだした。
「カナエさん、逃げてください」
「──え?」
「だから、逃げてくださいって言ってるんです。呼吸もまともにできないんじゃ、戦えないでしょう」
「で、でも!」
「でもじゃない! 貴女を死なせでもしたら、俺は俺を許せませんし……それにしのぶにも怒られてしまう、だから」
逃げてください、という伊佐那にカナエは言葉を返せなかった。
伊佐那の言っていることは正論だ、いかに柱と言えども呼吸が上手く使えなければ只人同然である。
ここで残って戦えば足手まといになるのは想像に難くない。
だが、だがしかし。
伊佐那はあの鬼には敵わない、そのことがカナエには今の一瞬の攻防だけで理解できていた。
想像を絶するほどの、隔絶した力量差が二人の間には広がっている。
だから、ここで置いていくというのは見殺しにするということに他ならない。
されどもそれは、伊佐那自身も分かっていることで、その上で言っていることも、カナエは分かっていた。
今、彼らが鬼狩りとしてするべきことは、ここで二人とも死ぬことではなく、どちらか片方だけでも生き残ることだろう。
いつの日か必ず、あの鬼を殺すべくやつの手の内をより多くの隊士と共有することだ。
数瞬──一秒にも満たない程の思考の末、カナエは苦々しく言葉を漏らした。
「あの鬼は、上弦の弐。血鬼術は冷気を使用、先ほどのように突然多量の氷を発生させることもあれば、蔓みたいに伸ばしくるし、粉のように散布して肺を潰してもきます。近づけば近づくほど呼吸をするのは致命傷……私に分かるのは、これだけ。伊佐那くん、伊佐那くん──ごめんね、ありがとう」
「いやいや、何となく惨めに死んでいくのかなー考えていたくらいなので、死に場所をくれて光栄なくらいですよ。こちらこそ、ありがとうございました。貴女に出会えて……貴女達姉妹に出会えて、俺はきっと幸福でした」
──さようなら。
別れの言葉が重なり合って、カナエは地を蹴った。
直後、パチパチと拍手が闇夜に響き渡る。
「いやぁ、感動的だったねぇ! 本当に感動な別れだった、俺もちょっとばかり涙が出たよ。格好いい覚悟だねぇ!」
「──うるせぇな」
「おいおい、そんな邪険にするなよ、これでも君たちの為に待ってやってたんだぜ? 俺は優しいからさぁ」
「何が狙いだ」
「狙いも何もないさ──だってほら、俺は今から君を直ぐに殺して、あの子を追って殺して喰うからさ、変わらないんだよ。あぁでも君たちは俺の中で再会できるね! 良かった良かった!」
「は、上弦の鬼ってのは随分と頭が空っぽで、うっすい言葉ばかり吐くんだな」
「……?」
「人を真似たような気色の悪ぃ作り笑いをしてんじゃねぇよ化け物。優しさも喜びも感動も、何もわかってねぇのに表面上だけ取り繕っている。上弦の鬼ってのは、お前みたいに感情も知らねぇ気持ちの悪ぃやつしかなれねぇのか?」
「──驚いちゃったなぁ、君みたいな意地悪を言う子は、初めてだ」
「そうか、言ってくれるようなやつも、周りにはいなかったのか。可哀想な奴だな、お前」
「何でそんな、酷いことを言うのかな」
氷雪が吹き荒ぶ。水と炎が、揺れ動く。
一人の少年が地を蹴って、作り上げた仮面を捨てた鬼が、腕を振るった。
またプロットちゃんが壊れてるな……後二話で終わります、多分(発生する前話あとがきとの矛盾)。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
夢現
赤く、夕日の色に染まった道を二つの影が走っている。
片方はまだ幼い少年で、もう片方はそれより少しばかり大人びているように見える少女。
先を行く少女は楽しそうに笑いながら、少年へ向かって声をかけていた。
「遅いよぉ、早く早く!」
「待ってよぉ!」
買い物の帰りだろうか、二人の手にはそれぞれ小さな袋がぶら下がっていて、走っている少年は忙しなくそれを揺らしながら走っている。
そんな少年を見ながら少女は嬉しそうにパンパンと手をたたいてた。
おーにさんこちら、とでもいうように軽やかな足取りで少年が必死に詰めた分の距離を離していく。
「ほらほら、遅いと置いてっちゃうわよ!」
「ぐ、ぐぅぅ、いじわる!」
「ふふふ、なんとでも言いなさーい!」
トントンっと少女は跳ねる。跳ねるように先へと進み少年は、ひたすら「待って」と駆けていく。
先ほどまでグーっと真っ黒に伸びていた影は少しばかり薄くなっていて、もうそろそろよるがやってくることを明確に示していた。
太陽の時間は終わり、一時の闇が訪れる。
少年は、夜が嫌いだった。夜は暗くて先が良く見えないからだった。
見えないということは、その先に何がいるのかが分からない。要するに少年は、分からないということが嫌いだった。
だから夜が来ない内に少年は、少女へと追いつきたい。
一度見えなくなってしまえばもう捕まえらる気がしなかった。
「早くしないと夜までに家につけないわよ? 夜は鬼が出て、怖いんだから!」
「お、鬼の話はやめてよぉ!」
おとぎ話でも、怖いものは怖いんだからと少年は言う。
大正の時代、身の回りに色んな科学が浸透していき幽霊や異形何てものの正体が詳らかにされ始めた頃だ。
いくら幼い少年と言えども信じはしない、だが怖くないわけではない。
ただでえさ夜は嫌いなのに、眠れなくなってしまう、と思う。
そんな思いを振り払うように少年は足を速めた。
「あうっ」
同時に石を踏みつけて、バランスを崩した。
受け身も取れずに少年は転がって、少女は「あちゃあ」といった顔をした。
仕方ないなぁ、と空けていた距離をなくす。
「もー、どんくさいなぁ、何やってるの」
「姉ちゃんが急かすのが悪いんじゃんかぁ」
「あらら、泣かないでよ、ごめんって。お姉ちゃんが悪かったから、ね?」
涙でにじんだ視界の中に、手が差し出される。
少年は不安気にそれを握って立ち上がった。
「もう置いてかない?」
「えぇ、約束するわ」
「本当に本当?」
「当り前じゃない、弟を守るのはお姉ちゃんの役目なんだから」
「……その、姉のせいで転んだんだけど」
「あーあー、聞こえない聞こえない! ほらもう夜が来ちゃう。その前に早く家に入りましょ」
少女が強引に話を切り上げた。
少年はしばらくじっとした目で見たが、やがて諦めて、手を引かれるままに歩き出す。
離れいていた距離が無くなって、二つの影が並んで歩きだす。
それは、いつの時代だろうとどこにでもあるようなありふれた日常の光景。
それは同時にどこまでもかけがえのない物だった、失われてはいけないものだった。
だが、失われてはいけないものほど真っ先に無くなってしまう。
世界はそういう風にできていた。
「すいません、道を尋ねたいのですが」
日はもうすっかり沈み夕暮れに染まっていた空が、黒く染まったころに男は現れた。
夜の闇に溶け込むような真っ黒な着物を来ていて、片手には洋風の鞄をぶら下げている。
少女は姉らしく、弟を後ろに隠して口を開く。
「道……ですか?」
「えぇ、隣の町からここまで歩いてきたのですが、どうも迷ってしまったらしくて。できれば今日中に宿を見つけたいのですが……」
男がやってきたのは、ちょうど姉弟が向かっていた方向だった。
二人の家より更に……数時間は歩けば小さな町がある。
きっとそこから来て、先ほど自分たちがいた町に行きたいのだろう、と少女は解釈した。
まっすぐの一本道なのだが、夜になれば不安になってしまうのも分かる、と少女はうなずく。
「大丈夫です、ここをまっすぐ行けばすぐにつきますよ」
「あぁ、そうなんですね。助かりました」
満足したのか男は少しだけ頭を下げてから二人の横を通り過ぎる。
同時に、少年が眉をしかめた。
「血の匂い?」
思わず声に出してしまったのは、未だ彼が幼いからだろう。
けれどもそれがいけなかった。ここで犯してはならない、痛恨のミスとでもいうべきことだった。
ギョロリと男が目を見開いて二人を見る。
「今、なんと?」
「血っていうか……何だろう、とっても生臭い匂いだね、お兄さん」
「ちょっと!」
失礼でしょ、と少女が少年の頭をたたく。
そんな様子を見ていた男の雰囲気が突然、変化した。
「あぁ、今度からは気を付けるよ……」
「がぁ!?」
言うと同時に、男の指が少女の肩を貫いた。
人差し指がまるで包丁みたいに容易く入り込み──そして、少女は破裂した。
ボコボコと風船みたいに膨らんで、あっけなく。
肉片を巻き散らかして亡くなった。
「──え?」
「鬼狩りどもに、少しでも足跡を辿られるのは面倒だ」
ヒュッと風を切るような音がした。
少年の頸に、浅い傷がついた。男にとってはそれだけで充分だった。
少量であろうが、血は血だ。
鬼の始祖たる男の血が入り、少年が倒れ伏したのを一瞥してから男は去っていった。
その様子を伊佐那は、まるでスクリーンでも見るようにして眺めていた。
鮮明に映し出されたかつての記憶を、見せつけられるみたいに。
この後、少年──当時の伊佐那は立ち上がる。
暫く姉を──姉だったものを見てから家へと帰り、そして親の死体と出会う。
そしてようやく、鬼殺隊と出会うのだ。
そこからはもう、流れ作業のように拾われて、育てられ、当たり前みたいに鬼殺隊へと入隊した。
不思議なことに、姉も、そしておそらく親を殺した鬼に恨みを抱くことはなかった。
けれども、許すべきではないんだろうな、と伊佐那は思う。
だから、鬼を斬ることにした。斬って斬って、斬り続ければいつかあの鬼と出会うかもしれない。
もしそうなったら、その時ようやく、復讐心というやつを抱けるのかもしれないな、と考えて。
幕は落ち、伊佐那の前には闇が広がった。
どこまでも広く、果てしない黒の世界。
先ほどまでは座っていた気がしていたが、今はもうそれすら分からなかった。
そんな中で、伊佐那はぼんやりと思う。
(夢なら早く覚めないかな)
伊佐那にとって、この記憶を夢で見ること自体は良くあることだった。
だから、早く終わらないかな、と彼は思う。
だけど、今回はいつもと状況が違っていた。
いつもであればこの辺で目が覚めるのだ、だがその予兆が全然なくて、代わりにボコボコと空間が歪み始めた。
なんだ、と伊佐那が思う前にそれは姿を現した。
「鬼……?」
鬼の大群が、伊佐那を取り囲んでいた。
見たことがあるような気のする鬼だ、と思えばその中には下弦の壱もいて、「あぁこれは俺が殺してきた鬼たちだ」と分かった。
こいつらをどうすればいいんだろう、と思う前に腰に刀が差さっていたことに気づいた。
鬼殺隊に入ってから、一度も折れることなくずっと自分を支え続けてくれていた愛刀だ。
真っ白な柄を握りしめて、抜き放てば現れるのは純黒の刀身。
闇の中でもはっきりと分かるくらい美しい黒の刀は、そこにあるだけで安心感を与えてくれた。
それを見て、伊佐那を息を吐く。
「夢の中でまで鬼狩りか……模範的な隊士だな」
自分で言った言葉にそうか? と疑問を持ちながら伊佐那を愛刀を構える。
呼吸を静かに整えて、集中力を限界までとがらせる。
ここが、夢の世界だからなのかは分からなかったが身体はひどく軽かった。
長い間付き合ってきた全身の怠さは完ぺきに消えていた。
少々頭がふわふわとして、思考が緩いような気はするが、でもそれだけだ。
ここ数か月の自分と比べるまでもないほどのコンディションの良さ。
伊佐那の口角が意図せず吊り上がっていた。
そこからは、ただ只管に刃を振るった。
夢の中であることも忘れて、刀を振り続け、鬼を殺し続けた。
どれだけ殺したかはわからない、数える気などそもそも存在しなかった。
戦場において、一瞬の気の弛みは即死とつながる。
それを伊佐那は身体で覚えていた、だから意識することなく余計な情報は考えることはない。
──ただ。ただ、そんな伊佐那でさえも、少しだけ、否が応にも気になることがあった。
それは鬼たちのことだった。
能力だとか、戦闘力だとか、そんなことは特に問題ではなかったが、しかしただ一点。
鬼たちがしきりに何かを言っていた。
こちらに問いかけるように、叫ぶように、泣くように、あるいは、願うように。
彼らはずっと何かを言っていた。聞き取ることができなかっただけに、それが少しだけ頭に引っ掛かって気になった。
だがそれも、少しだけだ。
頭が自分でも分かるくらい熱に浮かされているのが分かっていて、でもそれに抗うことはせずに流された。
そうしてやがて、その引っ掛かりも消えていく。
それでよかった。どうでもいいことは考えないに限ると切り捨てた。
夢の中であろうとも、己は鬼狩りなのだ。だから今は、鬼を狩り尽くす。
そう思って伊佐那は刀を握りしめて振るえば、血肉はあちこちに散らばった。
もう何十匹も倒した伊佐那の身体は返り血でびっしょりだ、だが、そのことにわずらわしさを感じながらも、ただ走る。ただ斬り捨てる。
鬼の数は徐々に徐々に減っていき、やがて皆消えた。
静寂だけが訪れて、そうしてやっと伊佐那は一息ついた。
「ちょっと、疲れたな。夢の中で疲れただなんて、少しおかしいけれど」
それでもやっぱり少し疲れた、とその場に座り込んだ。
こういうのを精神的疲労とでもいうのだろうか、と伊佐那は思う。
きっと起きても寝て休んだ気がしないんだろうなと思うと少しだけ笑えた。
「あぁ──そういえばこれ、夢なんだっけ。早く覚めればいいのに」
伊佐那はそう、ぼそりと呟くように願った。
刀を床に刺し、それにもたれかかるように大きく息を吸えば不意に、音がした。
緩みきっていた感覚を、鋭く尖らせる。
(速い──走っているのか、こちらに来ている!)
休んでいたとはいえ、警戒自体はそこまで緩めたつもりはなかった。
だが、それでも探知できなくて、ここまで近づかれなければ気付くこともできなかったそれに慄きながら弾けるように立ち上がった。
柄を握る、刀を引き抜く、姿勢を落とし、構える。
未だに真っ黒な空間の中で、ある一点だけを見つめ続けた。
そっと息を吐く、そして吸いなおす。それを繰り返し続けてコンディションを整え──そして、それは来た。
「────?」
それは、空間がそのまま開かれているような感覚だった。
夜よりもずっと暗い、真黒の空間がまるで扉を開くみたいに一部開いた。
瞬間、それを起点に真っ暗だった空間が一気に移り変わった。
作り変えられた、と言っても良いかもしれない。
パラパラと玩具みたいに空間は、木造であろう屋敷の一室のような風景に切り替わる。
夢にしたっておかしなものだ、と普通は思う。けれども伊佐那はもうそこまで頭が働いていなかった。
現れた鬼だけを、ただ見つめる。
今まで見たことの無い鬼だった、だけど、見たことがあるような気もする鬼だった。
真っ白な羽織を着た、女性の鬼。真っ白な羽織に、大きな髪飾り。
蝶を模した髪飾りだ、それを見ると同時に何故だか頭の裏がズキリとうずくように痛んだ。
何故だか見ていると、酷く気が緩んで柄を手離してしまいそうになる。
そんな感覚を伊佐那は、力づくでねじ伏せた。
「次は見知らぬ鬼か、何だってんだ今日の夢は」
だがそれでも、殺さないという選択肢はない。
現実だろうと夢だろうと、それだけは譲れなかった。
「伊佐那、さん?」
鬼は何か──言葉だと思う──を放ったが、しかし伊佐那には聞き取れない。
夢だからそうなのか、それとも自分が狂っているのか、と少しだけ考えた。考えたけれども、すぐにやめた。
いや、やめたというよりはもう何かを深く考えることが伊佐那にはできなかった。
何かに突き動かされるように、今の伊佐那は動いている。
「悪いな、何言ってるか全然分かんないんだ」
そう、吐き捨てるように言って。
伊佐那は一歩踏み込んだ。
ヒュルリという、鬼殺隊隊士特有の呼吸音。
それが二重に響き渡る。
水と炎は織り交ぜられて、頂へと手を伸ばす。
「馬鹿な人ですね……本当に」
水と炎をかきまぜて振るった一刀は、しかし何かを斬り裂くことはなかった。
なぜか軌道を見透かされていたようにその鬼は動いて、そっと、人を殺すには──────いや。
同時にぼんやりとし続けていた頭が、急に冴えわたるような感覚が全身に広がった。夢だと思っていた世界が、急に嘘みたいに現実に、染め上げられていく。
鬼が──いや、人が。見覚えのある女子が、けれども記憶よりはずっと大人になったしのぶが伊佐那をグッと、抱きしめていた。
「お久しぶりですね、伊佐那さん。随分と……本当に、随分とお変わりなられたようで」
「俺からすれば、しのぶと会ったのは、昨日のことなんだけどな──あぁ、でも、そっか。そうなんだ、あの日俺は負けて、でも殺されずに、鬼にされたのか」
もしくは鬼に勝手になったのかも、と伊佐那は思う。
ただどちらにせよ、四年間、自分の意識すら吹き飛ばして暴れまわったのだと伊佐那は思う。
鬼として、人々を殺し、喰らったのだ。
今なら聞き取れなかった言葉を、理解することができた。
皆、知り合いだった。さっきまで殺していた皆知り合いで、皆名前を呼んでくれていたのだ。
伊佐那、と。こんなところにいたのか、と。
だがそれも、もういない。全員伊佐那が、殺し尽くした。
「なぁ、あれから、何年経った?」
「もう四年です。みんな……みんな! 貴方を探し続けていたんですよ、隊士に中には、今だって貴方のことを探している人がたくさん、いました」
「そっか……そういえば、カナエさんは?」
「安心してください、姉さんはまだ生きていますよ。ただもう引退して、今は育手兼、医者をしています」
「あぁ、それは良かった、本当に、本当に良かった……」
意図せず涙が零れ落ちる、止めようと思ってもそれは止まらなかった。
今更泣く資格なんてないはずなのに、伊佐那は人間ですらないのに。
意識も飛ばし、記憶も飛ばして友を殺した伊佐那には、もう。
けれどもしのぶは優しく、優しく伊佐那を抱きしめた。
「私の──私の刀には、鬼を人に戻す薬がちょうど一人分入れてあります。だから──」
「いや、それはダメだよ、しのぶ」
「──どう、して」
「……だって俺、薬嫌いだから」
しのぶの小さな背中をポンポンと叩く。
それが、伊佐那に出来る精一杯の気遣いだった。
そしてそれを、しのぶは悟る。
「そう、でしたね。伊佐那さんは、本当に、本当に。いつもいつも私には、治させてはくれない」
「悪かったな、昔から、我儘なもんで」
「まったくです、ずぅっと振り回されてばかりでした」
「ごめんって、でもこれで、それも終わりだから」
──殺してくれ。
その言葉は思っていたよりもずっとすんなりと口から出た。
しのぶが泣きそうな顔をして、口を開く。
「伊佐那さんは、医者の私に殺せと言うんですね」
「まぁ、それこそ治療みたいなものだと思ってくれよ」
「本当に──伊佐那さんは、馬鹿な人ですね」
そう言って、しのぶはグッと柄を握り込む。
ガチンっという硬質な音と共に毒が刀身から放たれた。
ジワリジワリと、全身から力が抜けていくことに伊佐那は気付く。
しのぶの放った毒は相当強力で、伊佐那はもう耳が聞こえなかった。
視界も薄れていって、どんどん靄がかかっていく。
その中でもしのぶの顔だけは見えて、そのしのぶが口を動かした。
──また、いつか。
不思議とその声だけは、聞こえた気がして。
溶け落ちていく感覚を覚えながらも、言葉を返した。
──さようなら、と。
終わり!
目次 感想へのリンク しおりを挟む