果てまで見渡せど尚果て知れない——達人として研ぎ澄まされた感覚すら疑われるほどの広大な空間にて、一人の男が座している。
鞘に納められた大刀を痩躯な、しかし鍛え上げられた肩に立て掛ける男は、これから起こる事柄に対して物憂げな溜息を小さく吐く。
まるで何者かを待ち受けるかのように虚空を見つめる男の、その瞳の奥に宿る巨大な感情。それは紛れも無い”諦念”、そして——
「……待っていたよ」
独り言ちると同時、完全に閉ざされた空間へと一筋の光が舞い込んだ。たった一つしかない扉から現れ出でたのは、溢れ出る闘志を隠そうともせず、魔物のような兇相を愉楽に歪めた一人の偉丈夫であった。
男の知る限り”この世で最も強いであろう怪物”が、唸るように嗤いながら言う。
「あァ? 手前ぇは待ってなんかいねぇだろうが、この日をよ。寧ろ”永遠に来なきゃいい”とさえ思っていた筈だぜ。俺には分かる。……待っていたのは
おや、と思う。人の心など気にも留めない獣のような男だと見做していたが……
「中々どうして、今日は口数が多いじゃないか。『獲物』を前にした貴様らしくもない」
ゆらりと立ち上がる。この一瞬まで浮かべていた苦笑は掻き消え、音もなく刀を鞘から引き抜いていく。
「わかるさ。この戦いに於いて……貴様と彼女の因縁は完全に終わりを迎える。……僕は『あの人』の代わりだからな。一千年もの呪縛を断ち切るとあっては、さすがの貴様も幾らかの感傷だって覚えるだろう」
「御託はもう十分だろうが、さっさと始めようぜ!」
ああ、更木。
貴様から奪い取ったこの名を、再び貴様へと正統に受け渡す時が来た。
「ああ。最強の死神が相手をしてやる」
此れを以って。
僕は、生まれて初めて人を救うために剣を振るう事となる。
「二代目『剣八』——卯ノ花剣八がな」
◼️◼️◼️
「……い、……きろ」
頭が痛い。
意識がグラグラと揺らいで、どうやら吐き気もするようだ。
うだるような夏の日差しに晒されているのも相まって、今しがた全身に刻み込まれた打撲の痛みが、じんと熱を孕んで躰を包み込んでいるような錯覚を覚えずにはいられない。
ここは一体? 僕は、何を——
「——ぃ加減、起きろってんだコノヤロ──ッ!」
「ぐっはぁ!?」
痛っったい!?
いきなり響いた頭蓋への衝撃に瞠目しながら、僕はやっと完全に目を醒ました。はっきりしない視界をふらふらと彷徨わせれば、今にも鉄拳を振りかざそうとするガラの悪い男が目に入ってくる……。
「ま、待って! もう起きてますから——」
「どっせ──い!」
「ぶべぁ!!」
必死に叫んだ制止の声は聞き入れられず、無意味な拳骨を二度も喰らった僕は、側から見れば気味がいいほどに打ち飛ばされてしまう。ゴロゴロと不格好に地面を転がり、肌に刺さっていく細かい石くれなどに顔をしかめることになった。
「な、なにするんですか。これが医者のやること——」
「ついでにオラァ!」
「ついでにって何だこの野郎!!!!」
「痛えなチクショ────!!」
いい加減にしろよ、こっちだってそう何度も殴られるわけないだろ。調子に乗って人を散々コケにしてくれたクソ野郎の顔面にボギャッと拳を入れ、なんとかノックダウンすることに成功した。悪は滅びたのだ。
「う、ウデを上げたじゃねぇか。流石はアイツのガキだぜ……」
つぅと血の垂れる鼻を押さえながら悪びれもせずに言う男を前に、僕は苦い表情で吐き捨てた。
「……バカを言わないでくださいよ。貴方ほどの瞬歩の達人が、僕みたいなヒヨッ子のパンチをまともに喰らうはずはないんだ」
「フン、たりめぇよ。『雷迅』とまで言われたこの
「……じゃあ、なぜ?」
「ツッコミをわざわざ避けるような無粋なボケがいるかよ」
「漫才やってんじゃねぇんだぞ……ッ!」
そんなくだらない理由で二回もぶん殴られたのかよ。死ぬほど憎たらしいが、かといってもう一度殴ろうとしても絶対に当たらないだろう。
こめかみをヒクつかせながら悔しさに身悶えする僕を白い目で見てくる彼の名前は
そんな大層な肩書きを持つ彼だが、隊長の仕事も放り出して何をやっているのかといえば……どこから嗅ぎつけてきたのか、剣術修行をしようという僕と
彼ほどの達人に傷を癒してもらえるのというのは、なるほど確かに幸運なことだろう。しかし……見ての通り、彼はどうも治療者にしては性格に難があるような気がする。はっきり言って、出来ることなら副隊長の数男さんか三席の数比呂さんにお願いしたい所だったが、彼らはたぶんこの迷惑腹巻き野郎が放り出した隊長業務の代行に忙しいのだろう。
いや、彼らも彼らでとんでもない荒療治を強いてきたりするのだが、それはただ隊長の命令に従順にやっているだけだ。本人達が至ってまともで余計なことをしないだけマシというものである。
「……って、そうだ!
——と、ここまで来て僕はようやく現状を思い出した。
先程まで僕と戦っていた師匠がどこにも見当たらない。僕にここまで傷を負わせ、あっさりと気絶させて見せたあの人が……
「此処に」
「うわ──ッ!」
ぞっとするような冷たい声と霊圧を背後から感じて、僕は思わず飛び上がってしまう。
「常在戦場。気を失った程度で霊覚を乱すとは何事ですか」
声のした方向に慌てて目をやると——抜き身の刃を
あれはおそらく、
「ご、ごめんなさい」
「天示郎。彼の怪我の具合は?」
「こっぴどくやってくれたみてェだが、俺を誰だと思ってるよ? 細けぇモン含めて、骨折は粗方治してあるぜ。流石に打撲の痛みは薬を取ってこねえと暫く引かねえだろうが、いま動かすには十分だ」
骨まで折れていたのか。僕も相当鍛錬を積んだと思っていたが、まさか木刀でここまで打ちのめされる事になるとは。
ともあれ、それも治して貰えたのならば有難い。稽古の続きをしようと、迷わず得物を構えようとしたところで——
「そうですか。では、今日はこれにて仕舞いとします」
「えッ?」
斬魄刀を鞘に納めて立ち上がり、師匠は隊舎へと歩き去っていく。それを少しの間ぼんやり見つめていた僕だったが……ハッと我に帰って嘆願の声を上げた。
「ま、待ってください! まだやれます!」
「聞こえなかったのですか?」
ザッ、と立ち止まり、一瞬だけこちらに視線を遣った師匠と目を合わせた瞬間——
恐ろしいほどの霊圧に、押しつぶされた。
「今日は仕舞い、と言いましたよ」
「——ッ!?」
ぶわっ!! と。
先程とは比較にもならない”圧”に思わず膝を突かされ、滝のような冷や汗が流れるのを止められない。ぜぇぜぇと胸を抑える僕に関心を失ったのか、師匠は何事も無かったかのような足取りで歩みを進めていた。
……正直、師匠が霊圧を控えてくれた今となっても動悸が治まる気配は無い。でも、このまま場を後にされる前に言わなければならないことがあるはずだ。
一時は
「御指導……ありがとうございましたッ!」
「…………」
こちらに目もくれずに去っていった師匠の後ろ姿を認めたのち——一気に力が抜けたのか、僕はそのまま地面にへたり込んでしまった。
……
そう、彼女こそは「戦闘専門部隊」十一番隊隊長にして——最強の死神を意味する『剣八』の名を冠する唯一の人物、卯ノ花
僕、卯ノ花
◼️◼️◼️
「……で、何だって俺について来やがったんだ?」
スッカリしおらしくなりやがった輔忌のボウズに疑問をぶつけながら、俺——麒麟寺天示郎は四番隊舎に併設してある自作の温泉に浸かっていた。
救護詰所の公共施設として一応は自由に利用できるように解放されてはいるが、なまじ薬効が強いだけに気軽に入れるような場所じゃねぇ。大した怪我でもねぇのに平気な顔して俺に付き合ってるってのは大したモンだが、いつ
「……僕は」
「あ?」
「僕が不甲斐ないばかりに、今日は師匠を……母さんを失望させてしまったんでしょうか」
「俺の質問の答えになってねぇな」
「はは……どの面を下げて、のこのこと家に帰ればいいって言うんですか……」
チッ、ぐちぐちとくだらねー事を抜かしやがるガキだぜ。
慰めるような台詞は言いたかねぇが、輔忌の剣はその歳に釣り合わないほど鋭く研ぎ澄まされつつある。それこそ、俺が今までに見てきたどんな早熟の天才ってやつよりも飛び抜けた早さでだ。
だからこそ、何故そうまで焦って力を付けようとしてんのかがわからねぇ。……ま、わからねぇ事は聞いてみるのが一番だな。
「て前ェは何だってそんなに強くなりてぇんだ? 隊長の地位が欲しいからか、強ぇ奴と戦いたいからか」
「…………」
「それとも何だ……て前ェが『剣八』の息子だからか?」
「……違いますよ」
だーもう面倒くせぇな、男ならハッキリ物を言いやがれ!
早くも苛々しはじめた俺の心中を知ってか知らずか、輔忌はぽつぽつとその胸の内を明かし始めた。どうせ言うんなら最初ッからそうしろよな。
「僕はただ——
「ほォ」
「どうしても、助けたい人がいるんです。例えば……大切な人が重い病気にかかっているとして、天示郎さん。貴方は医者としてその患者を治してあげたいと思うでしょう? でも、もしその人が治療を拒んだとしたらどうしますか?」
「ブン殴って言うこと聞かせた後に無理矢理治す」
当たり前だろうが、そんなもん。なんで俺が治したい奴を黙って見過ごさなきゃならねぇんだ?
なぜかそれを聞いて驚いたようにこっちを見てきた輔忌は、ふっとした苦笑いと共に肯首してきた。ヘコんだり驚いたりしたかと思えば急に笑いやがって、忙しい野郎だな。
「そう、ですか。いいですね。僕も出来ればそうしたい」
「じゃあ、そうするんだな」
「ただ……僕の”患者”の病はとても重くて。どうやって治したらいいのかもさっぱり分からないんです。もしかしたら下手に手をつけるより何もしない方が良いような病気なのかもしれない。今の僕には、とても判断のできない事です」
「…………」
「だから少しでも多くの選択肢が必要なんです。僕がいずれ来るその時に何をするべきか、いつか答えを出すまでに……そのために、僕は力が欲しいんです」
改めて、俺は輔忌の顔をまじまじと見つめた。
卯ノ花の奴とは似ても似つかない、毒っ気のねぇトボけた面をしてやがる。……だが、将来を語る時のこの
「俺は、て前ェのやりたい事なんざこれっぽっちも興味ねぇ」
「構いません。これは僕の問題ですから」
「だからそのために強くなりたいっつったって、俺から何か言ってやるつもりはねー。……だが、一つだけ言える事があるとすりゃあ」
「?」
「卯ノ花がて前ェに『失望』なんかしてる筈はねぇ、って事だ」
俺にとっちゃ尋常一様に過ぎない事実を言ってみれば、輔忌は呆気にとられたのか、馬鹿みてぇな表情で薄らと口を開けていた。……つくづく、面を被った
「これは確実に言える事だぞ。アイツは自分の息子だからって勝手に強くすることに執心するような奴じゃねぇんだよ。何なら『戦いなんてしたくない、死神になりたくない』と言おうが、それはて前ェの勝手だろうと、そうスッパリ割り切れるような女だぜ」
「……それは、僕に興味がないって事ですか? 僕の力を取るに足りない程度のものだと思っているから……」
「馬鹿か。あんなに戦いを好きだと思ってる——俺には分からん感覚だし、普通に”頭おかしーんじゃねーの”とは思ってるけどよ——そんな奴が、自分のガキが他の誰よりも早く腕を上げてるって事に期待しないわけねぇだろう。だからて前ェが剣を置けば確かにアイツは残念がるだろうが、それはそれだ」
「じゃあ!」
「さっきの、ふぁ〜あ……『稽古打ち切り事件』のことか?」
欠伸混じりに言葉を遮って訊いてみれば、あまりに予想通りな答えが返ってきやがった。くだんねー。
「……そうです。あれは母さんが僕に見切りをつけて——」
「ありゃ大方、て前ェを必要以上に痛めつけちまったのに『やっちまった』とでも思ったんじゃねーの。あれで息子の骨をバキボキ砕くのには流石に堪えたっぽいしな」
「…………」
「ま、あれで冷血漢ってワケじゃあねーって事だな。……アイツも子に対する情けぐらいは人並みにあるんだぜ? あ、人並みってのは言い過……たぶんな。たぶん」
……そこまでやる前に『我に帰る』のが普通だろうとは思うけどよ。ま、あの馬鹿に限ってはそこまで期待しちゃいけねぇか。
俺が付いて行ってなかったら結構ヤバい感じだったぞ、あの様子だと。鬼道の才能もあるみてーだし、だから俺が『上』に行くまでに回道の一つでも仕込みたかったんだが……人が善意で物を教えてやろうってのに毎度毎度「必要ありません」と断りやがって。
あいつも今日の事で、
「……て前ェを諫めるためにだろうが、いきなりあんな霊圧垂れ流して来やがったのには流石に『何やってんだ』と思ったがよ。幾ら何でもあそこまで不器用な奴だったとは……
「……なんで、」
「おォ?」
「天示郎さん、なぜ貴方は母さんの事をそんなに知ったように話すんです? 四番隊と十一番隊の隊長同士、そう接点があるとは思えませんが」
おっと……喋り過ぎちまったか。
いい加減、俺も湯に浸かり過ぎたな。暑さで口を滑らせないようにそろそろ上がろうかとも思ったが、輔忌の野郎「話すまで出させねーぞ」って面してやがる。
しゃァねーな。言っても困るワケじゃなし、もうちっと付き合ってやるとするかよ。
「そうだな……いっぺん、アイツが俺の診療所に駆け込んできやがった時があってな。そん時からの付き合いって事になるのかね?」
「すると、母さんは病気か何かを患って?」
無意識かどうかは知らんが『怪我』の選択肢を真っ先に除いて質問してきた輔忌に、俺は首を横に振りながら答える。
「ちげーよ。……どうしても治して欲しい奴がいるってな、男を背負ってやって来たんだ。信じられるか? アイツがあんなに必死な顔してやがったのは、後にも先にもあれだけだったかもしれねぇ」
「ははぁ。さてはその人ともう一度戦うために、一度自分で斬った相手を治せと言うんですね?」
こいつ、時々とんでもねー事を言いやがるな……。
後で告げ口してやると言ったら絶望的な表情になった輔忌を無視しつつ、俺は続きを語り始めた。
「そいつは妙な症状でな、原因らしき原因が見当たらない癖に、日に日に衰弱だけはしていったんだ。俺も手は尽くしたが、完治させる事はできなくてな。担ぎ込まれてからちょうど七日目で逝っちまいやがった。……屈辱だったぜ。あんな患者は初めてだった」
「…………」
「俺は結局何も出来やしなかった。だが、卯ノ花の奴はそうは思わなかったみてぇだ。『せめて彼が安らかに最期を過ごせたのは貴方の御陰だ』ってな。で、そん時からちょいちょい交流が続いてるってワケよ」
黙って話を聞いていた輔忌はといえば——神妙な表情で、どうやら何かを考え込んでいる様子だった。
そりゃあそうなるわな。滅多に感情を表に出さねぇ卯ノ花にもそんな一面があったとは、コイツも初めて知ったんだろう。多分。
「……ありがとう、ございました。母はあまり自分の事について話しませんから、天示郎さんから話が聞けて嬉しいです」
「オウ」
……顔つきが変わったな。
いつ泣きベソかき始めてもおかしくなかったようなさっきまでよりゃ、大分良い。自分のやるべき事を捉え始めた奴の顔だ。
「僕は……そろそろ上がります」
「まだ何か、俺に訊く事はあるかよ?」
「大丈夫。——もう、大丈夫ですよ」
◼️◼️◼️
僕は、他人には決して言えない
この世界の成り立ち、数百年後に起こる出来事を示すもの……そして何より「卯ノ花輔忌が存在しない世界」がどうなるかを、生まれた時から大まかにだが知っているのだ。
物心のつき始めたばかりの幼い頃は「記憶」と「現実」の区別がつかずに戸惑ったものだが、今となっては割り切っている。
当然初めは思い違いや、妄想の産物か何かだろうと疑っていた。見たことも聞いたこともない事柄を、しかし「知って」はいるなど……荒唐無稽もいい所だと自分でも思っていたからだ。
それでも僕はこの記憶が事実のみを示しているという事を理解せざるを得なかった。現在の時点で確認できる範囲だけでも「記憶」との相違がほとんど見受けられなかったからである。
例えば——死神が戦闘に用いる呪術の一種『鬼道』についての記憶は、その番号や詠唱の言霊が教本に記されていたものと完全に一致していた。
例えば——回道を開発した天示郎さんが『零番隊』へと近いうちに昇進するらしいという事を、噂が流れるずっと前から知っていた。
いずれも僕が知る筈のない事を事前に知っていたということになり、どうやら思い違いなどではないのだと確信するほかなかったわけだ。
やりようによっては、多くの人が傷付くであろう災いの芽を摘むような真似だって簡単にできてしまうだろう。
僕はまだ、弱い。肉体的にも、精神的にも。
この記憶をどう使えば良いのか、それすら持て余しているのが現状だ。僕にとって確定した未来とは、緻密に組まれた積み木の塔も同然だからだ。何処を動かせば何が起きるのか、どれだけの力を使えば結果が変わるのか……願うならば、こんな記憶など持って生まれない方が良かったとさえ思ったことも一度はあった。
しかしだ。
今の僕にはやらなければならないことがある。
卯ノ花八千流、僕のたった一人の母。
千年後の未来に於いて、最強の男に『剣八』を託す
彼女は未来で言っていた。
——『それこそが 私の罪』
彼女は未来で言っていた。
——『役目を果たして死ねることの、
何と幸福であることか』
なるほど確かに、母さんは更木剣八と戦い、そして死ぬのが何よりの望みだったのだろう。僕が勝手にしゃしゃり出て、その生涯を賭した決意を反故にする権利などというものは何処にも無いのかもしれない。
加えて言うなら、母さんは側から見てもあまり良い人物だとはとても言えない。尸魂界きっての大悪人だと後ろ指を指される事も、僕が周りからその煽りを受けた事だって一度や二度ではない。人としても母としても失格で、その命を救う価値も理由も無いのだと、見限ってしまうのが当然なはずだ。
だが、ああ、だが——! この言いようのない思いは何だと言うのか。
救わなくては! 母さんを、『卯ノ花剣八』を、僕が、この手で!
何が僕をこうまで熱くさせるのか、
彼女が
僕はまだ、弱い。精神的にも、肉体的にも。
何を以て母さんを『救った』とするのかはまだ分からないし、今の自分にそれだけの力があるとは思えない。だが確実に言える事は——この使命を、更木剣八なんぞにくれてやるのだけは、それだけは絶対に許せないって事だ!
百年、千年経とうとも……成し遂げて見せるぞ。
必ず——。
お気付きでしょうが主人公、
BLEACHで被殺といえばやっぱりコイツら! 剣八システムは被殺で成り立ってるようなもんですから(十一代目はなんかもう永遠に殺される気がしないけど……)。
あとプロローグがもう短編のそれじゃありませんね。どう見積もっても期限の22日までに完結する気配がありませんね。本当にありがとうございました。
(追記:2022/11/28)
初代護廷十三隊の情報が開示され、時系列的にも今作における主に麒麟寺さん周りの整合性が非常に怪しくなってしまいました。というかかなり決定的に後発の原作情報にぶっ刺された例になると思います。
卯ノ花さんと面識があること自体は変わりないと思いますので決定的に展開が破壊される事は無いかと思いますが、また書き直す度に師匠の気まぐれでお出しされた情報に重ね重ね丁寧に殺される可能性があり、よって現在手をつけているBLEACH二次創作からは一旦手を離して静観することに致しました。また何かあればその時対応を決めようと思いますので、どうかよろしくお願いします……
……決め打ちしたのは悪いけどさぁ!麒麟寺さんが初代四番隊隊長ってフツー思うじゃん!!なによあの男!!
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ぼくの世界は
走る、疾る、奔る。
『ハァッ、ハァッ……!』
護廷十三隊への入隊を果たしたばかりの少年は今、ただ
それは何かしらの目的を持っての事ではない。とある根源的な衝動とでも言うべきモノ——つまりは”死”から逃れようとして、どこへ向かうでもなく、その恐怖から背を向けてただ逃避しているに過ぎなかった。
敵と戦い、道も半ばに殺されるのは確かに恐ろしい事だ。それでも彼には護廷の二字を背負う者としての自覚があった。いざ強敵との戦いに敗れ、戦いの内に死ぬとして、その運命を一人の戦士として受け入れる覚悟もあった。だが『これ』は何だ? こんなものは……到底受け入れられる物ではない。
——塵芥にも劣る矮小な存在として、誰にも気づかれぬままに”消滅”する最期などというものは。
カッ、と。
『ひ、ひぃッ!?』
刹那、瞬く閃光。この戦が始まってから何十回と経験したその『兆候』に対し、無駄と知りつつも瓦礫の陰へと転がり隠れずにはいられない。
直後の事だった。
少年は、その時自分の意識がぷつりと途切れたのだと思った。あらゆる感覚が掻き消え、耳も、目も、そして肌に感じていた焼け付くような熱気さえもが無くなってしまったのだと。間違いだった。
ゴバッ────!!
それは、もはや爆発とも呼ばぬ”何か”であった。体中のあらゆる内臓が、腹の中に直接巻き起こった台風にすり潰され掻き乱されるかのような衝撃。地獄の窯に放り投げられ、一切の容赦も無く吹き付けられた業火をも生温いと思わせる程の爆熱。
気づけば少年は、焼け焦げた土が露出する通りへと身を投げ出していた。この戦いが始まるまで整然と敷かれていたはずの石畳は見る影も無い。身を隠していた瓦礫の山はいつの間にか消えていたが、それは自分が吹き飛ばされたのか、あるいは瓦礫の方が根こそぎ砕け散ったのか。それもどうでもよかった。
既に上下の感覚も分からなくなっているが、それでもどうにかここを離れようと立ち上がろうとして——そして、見てしまった。
でろり、と。
半端な形を保っているだけに最悪だった。
それは、見知った死神の焼死体。
とりわけ仲が良かった訳でもないが、比較的歳の近い者同士として何かと言葉を交わす事もあった。
『うっ……』
喉の奥から込み上げるものを必死に抑え、驚愕に目を見開きながらズルズルと後ずさる。とにかく、とにかくこの場所から少しでも離れたくて……そしてその背中が
『死んで、たまるか……』
こんな所で、死んでたまるか。
そう少年は
自分の持つ”力”の象徴——己が魂の写し身である斬魄刀をその手に握るが、これが一体どれほどの慰めになるものか。
そしてその時はやって来た。
破壊の爆炎、世界を灼き壊す茫漠たる霊圧が、再び急激な高まりを見せていき——
『あぁ……ああああああああああああああああああ!!!!????』
◼️◼️◼️
「——ああッ!?」
極限まで高まった恐怖にとうとう耐え切れず、卯ノ花
くそ、あの戦争。ああ……なんて目覚めだ、寝汗も酷い。
「うっ、ぐ……」
「はぁ……」
ああ、それでも碌に眠れていないのは確かなのだろう。起きて身支度を済ませようと立ち上がるのも気怠いように思えて、僕はそのままだらりと布団へ体を投げ出した。
「何やってんだろ、僕……」
ポツリと。誰へ向けてでもなく口から漏れ出た呟きは、滲みるように冷たい明朝の空気へと溶け込むように消えていく。
臆病者——僕の、僕自身に対する今の感情はそれに尽きる。
薄く視界が滲んでいるのは寝起きで頭がはっきりしないからか、それとも……
「御早う、輔忌」
「うわ────ッ!?!?」
ビッックリしたぁ!?
背筋が凍るように低く静かなその声が聞こえてきたのは、光の差し込んでいる襖の側から僕を挟んで反対の方からだった。……あれ、かなり前にも同じような事があったような気がする。
「か、母さん!?」
落ち着いて目を凝らして見てみれば、そこに居たのは見知った女性——僕の母親でもある、卯ノ花八千流その人だった。
「ど、どうして僕の」
「寝言が耳に障ったので」
「部屋に……あ、ハイ……」
聞こえていたのか……。母さんの寝間はこの部屋の隣だから、確かに声が漏れたりすることもあるだろう。
しかし、それにしても迂闊だったな。これはマズいぞ。毎晩のように見るあの悪夢も……
だから今まで必死に隠し通してきたのだが——
◼️◼️◼️
十年前、首魁であるユーハバッハの率いる
僕は今の時点で母さんが『剣八』であること、天示郎さんが護廷十三隊の隊長であることから、今が「”記憶”の中の黒崎一護らの戦いから千年以上前の時代」だろうという予想を付けていた。そう遠くない未来において滅却師と死神の間に巻き起こる戦争を、僕は知っていたのだ。
正直言って、僕はこの戦争に対してさしたる危機感というものを感じていなかった。
“記憶”の中で千年後のユーハバッハが『殺伐とした恐るべき殺し屋の集団』と形容した通り、この時代の護廷十三隊の戦力は正しく強力無比。安寧を得ると共に”大義”が枷となっていった千年後のそれとは全く異なる、純然な”武力”のみが寄り集う魔窟——既に結果を知っていたというのもあるが、それを差し引いたとしてもこの時代の十三隊が”敗北”する等という未来は微塵も想像できなかったからだ。
蹂躙。この戦を表現するとして、これ以上に適当な表現は他にないだろう。侵略者である滅却師の部隊は次々と壊滅し、ユーハバッハでさえも一刀の元に斬り捨てられたというのだから、両者に隔たる実力差は明らかだと言えた。
結局のところ、この時点で滅却師が死神に勝てないのだという僕の予想は当たっていた訳だ。
——たった一つの誤算を除いては。
護廷十三隊総隊長、
未来においてユーハバッハは彼を『部下の命にすら灰ほどの重みも感じぬ男』と表していたが、
僕は、その脅威に心の底から震え上がった。
瀞霊廷を踏み荒らされ激怒した総隊長は、ものの一日で何千という滅却師を殲滅した。だがその過程に於いて……
炎熱系最強にして最古の斬魄刀、流刃若火の卍解『残火の太刀』。
その力は今回の戦争でさえ一部のみしか振るわれる事はなかったが、それはこの際問題にはならない。重要なのは、そう。『斬るもの全てを爆炎で灼き尽くす業火の剣』が、その力を殆ど無差別に撒き散らせば一体どうなるのかという点だ。
結論から言おう。
この戦争で隊士の半数以上が犠牲になったが、その八割は『残火の太刀』の爆熱に灼き殺された。
前線で戦っていた
◼️◼️◼️
尸魂界は文字通りに”半壊”した。
この十年で瀞霊廷は徐々に復興の兆しを見せているが、人々の心に刻まれた傷はあまりに大きく、深かった。
あの地獄から辛うじて生き残った僕も、今なお『あの日』の悪夢に苛まれている。
僕は、戦いは怖くない。
しかし……僕は今、”前に進む”ことを躊躇している。
この世界には元柳斎を遥かに凌ぐほどの敵がいる。僕の力など足元にすら及ばないような、世界を破壊する力を持った存在がいる。
生まれた時から知ってしまっている僕は、
“母さんを救いたい”という願望が、この件を通してさえ只の一度も揺らがなかったという事実だ。
本当に、”諦めよう”などという考えがほんの少したりとも湧いてこないのだ。
刻み込まれた傷を無視し、この衝動とでも言うべきモノが暴れ狂っている。諦めてしまえば苦しまなくて済むのに、どうしても戦いの道を降りる事ができない。
そうしてそこから、更なる焦燥が湧き上がる。渦巻く意思の力とは関係無しに、この身体が既にして戦いを拒むようになってしまっているのだから。残火の地獄が事あるごとに脳裏を過り、剣を取ることさえままならない。迷いを晴らそうとどれほど鍛錬に打ち込もうが、今日に至るまで克服の兆しさえ掴めていない。
ここまで来てしまうと、自分の精神状態がいかに”異常”なのかを嫌でも理解させられてしまう。理由が存在しない、半ば本能的とすら言える、狂おしいほどの『救い』への渇望。矛盾を孕んだ内心に、しかし葛藤は含まれない。
「——先程からそう俯いて、如何かしましたか」
「あ、あぁ……大丈夫、です。夜分遅く、お騒がせして申し訳ありませんでした」
「…………」
この苦悩を余人に悟られる訳にはいかない。
天示郎さんが以前話してくれたことが本当なら、戦いに苦しむ僕を、母さんは戦いから遠ざけようとするやもしれないからだ。『剣八』絡みの問題を解決するのに必ずしも武力が必要だということは無いのかもしれないが、はっきり言ってそうなる可能性は高くないだろう。
どちらにせよ、僕自身の都合や
「そうですか。それにしては、今晩もまた随分と
「……っ」
だというのに今、それを他ならない母さんに問い詰められるという失態を演じている。
『あの日』の悪夢を見ることは何度でもあったが、その度に僕はそれを悟られまいと、必死に声を押し殺してきた。それを下らない寝言なんかで、今日に限って——
「え?」
『それにしては、今晩もまた随分と
母さんは今、何と言った?
『それにしては、今晩もまた随分と——』
それは、つまり、
『
「輔忌」
はっ、と。
掛けられた声に向き直る。対面に佇む母さんは、何時もながらのひどく読みにくい表情でこちらを見つめていた。
「貴方がこの十年間ずっと、『あの日』の恐怖に呑まれて過ごしていたことは知っていました。……同時に、どうやらそれを私に知られたくないらしいのだとも」
「なん、で」
「その思いを尊重し、私は『然るべき』時が来るまで知らぬ振りを通してきたのです。分かりますか? これを今日打ち明けたという事が、一体何を意味するのか」
あまりの事に思考が追いつかない僕を横目に、母さんは——初代『剣八』は、その場からゆるりと立ち上がった。
「今が『その時』だと云う事です。行きますよ、輔忌。十一番修練場へ」
その時だった。
くぅ────
「……ん?」
突然にしてその場に響いた
何の音だか分からずに当惑しているのではない。むしろ、それは今まで生きてきた上でかなり聴き覚えのある音だったが、あまりに場にそぐわないものだったので混乱しているのだ。
それは、腹の虫が鳴る音だった。
「「……………………」」
誓って言うが、僕ではない。するとこの場にはあと一人しか居ないわけだが。いや、しかし、それは……
「……あの」
「その前に
「あの、もしかして、一晩中枕元に座っていたんですか……?」
「何か?」
「いや、その……はい」
とても目を合わせるような真似は出来なかった。
ただ、伏目ながらもちらりと上目に視界に入った限りで見たものを言わせて貰うと——その時の母さんの顔は、まったくいつも通りの、しかしどこか空恐ろしいものを感じさせる無表情だった。
◼️◼️◼️
十一番修練場。
その名の通り、十一番隊が領有する修練場の一つだ。十三隊の中で最も広い敷地面積を誇るだけでなく、総隊長率いる一番隊のそれに匹敵するほどに管理体制が厳格であるという事も知られている。
“記憶”の中の更木剣八はこういった事にも無頓着だったために隊員の風紀が問題視されていたきらいがあるが、“身内の恥は隊が恥として雪ぐべし”とする現隊長の母さんが取り仕切る今の十一番隊はそういった横暴さは見られない。
……その代わりにこの時点の十三隊をして随一と言えるほどの剣吞とした空気や殺伐さは、もはやある種の血生臭ささえ漂わせているほどではあるのだが。
「貴方が恐れているのは『巨大な力』。人という生き物がどう足掻こうとも抜き差しならない様な事態に陥った際に感じるものです。其れを貴方は、先の大戦にて解放された山本重國の卍解に見ている。相違ありませんね?」
「は、はいっ」
三尺下がって師の影を踏まず。修練場までの道中を母さんの……いや、先生の後に付き従いながら、僕はこれから行うことの説明を受けていた。
「卍解を持つという事は、”一つの世界”を掌の上にする事と同義だと言えます。解放された霊圧は文字通りに場を塗り潰し、支配する」
卍解。死神が用いる斬魄刀戦術の最終奥義であり、その戦闘能力は第一段階解放の始解から五〜十倍とも言われている。”記憶”から数々の隊長格を始めとした死神たちのそれを知っている僕としても、実物を目にしたのは『残火の太刀』が発した余波のみだ。
「個々の世界を
「それは……」
「そう。貴方が内面に巣喰う恐怖——“あの人”の世界を打ち祓うための唯一であろう方法です。心傷もある程度落ち着き、それを成すに足る実力を付けたと判断したからこそ、今が『その時』です」
——卍解なさい、輔忌。
そう淡々と言い放った先生に、”出来るだろうか”と僕は思う。しかし同時に、この胸に熱く滾る使命感は”やるしかない”と吠え猛る。
何しろ自分一人では手掛かりさえ掴めなかった暗闇の道に、救うと誓ったその人に手を引かれてまでここに立っている。そして何より……
「直々に御指導頂くとあっては、先生の顔に泥を塗る訳には行きません。必ず……必ずやり遂げて見せます……!」
この人とならば、僕は何だって出来るはずだから——。
「あぁ、此度の卍解修行に私は関与しませんよ」
「は?」
意気込みも新たにいざ斬魄刀を抜こうとした瞬間、唐突にそんな事を言われた僕は思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
え……いや、それってどういう事?
「卍解の修行はこの上ない危険が伴う過程であるという事は語るまでも無いですね。そうなると、つまり……私では、果たしていざと言う時に収まりが付くものでしょうか。そうは思いませんか?」
「えぇ……?」
「天示郎が側に居れば”万が一”は防げたのでしょうが、あの男ときたら肝心な時に限って『手が離せない』等と……瀞霊廷の復興に手を
「あの、ちょっといいですか……」
「零番隊への昇進を急かされてまで尚留まっているというのだから、まさか嘘を吐いているとは思えないのですが……まだ何か?」
「『いざという時』って、まさか随分前に僕の骨を折った時の話ですか?」
「…………」
「…………」
図星だ、これ……。
まさかまだ気に病んでいるとは思わなかったぞ。らしくないと言えばいいのか、らしいと言えばいいのか測りかねるな。
「そういう訳で、貴方の修行は別の人が監督します。さぁ、着きましたよ」
どういう訳なのかはさっぱりわからなかったが、いい加減これ以上触れると後が怖いと察した僕は、大人しく指し示された件の人物へと集中することにした。
「
「……隊長? こんな朝ッパラから呼び出しぃ、一体どうなすったんです」
「あの人は……」
見覚えがある。というか、ほぼ毎日のように見掛けているまであるような……話をした事こそあまりないが、僕はこの人を知っている。
「理由も話さずに呼び出したのは謝罪します。さて、用事があるのはどちらかと言うと私では無いのですが……」
「あっ、はい!」
言いつつこちらを流し目に見遣った先生の意図を読み取って、僕は慌てて挨拶をした。
「吼翔
「おお……? ああ、隊長のセガレか。こうして話すのは久しぶりやな。しかし、なんでまた俺が呼ばれたん——」
「——”卍解”の修行を」
僕がその単語を口にした瞬間、元々やや硬い彼の表情が輪を掛けて引き締まった。
そうだ、この時代の十三隊はまさに比類無きほどに強大な勢力を誇っている。その中でも戦闘専門、最強と名高い十一番隊の副隊長が、
少々逡巡する素振りを見せた後——身の丈六尺*2は明らかに超えるだろうという黒髪の大男が、確かな隊長格の威厳を伴って声を放った。
「そうか。……ええわ、付き合ったる。だが”覚悟”せぇよ? 生半可なヤツに扱える力とちゃうねんぞ」
「……ええ、承知の上です!」
「わかった。十一番副隊長、
杯の終了まで二時間を切ってから、まるっと十話は使いそうな短編のうち二話目をぬけぬけと投稿する参加者の屑がこの野郎……
さらっとオリキャラまでぶち込みやがって、こいつ終わらせる気あるんですかね?
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深淵の領域
それは、まるで水底に墜ちゆくかのようで——
意識はより深く、より奥の底へと溶け落ちる様に沈み込む。
『————……』
然る後、青年の
薄く目を開けると、辺りはいつの間にか広がっていた”薄暗い陰”に覆い尽くされている。
夏日が燦々と輝いていた外の風景とは明らかに『ちがう』が、——変化はそれだけに止まらない。
草履越しに鈍く伝わるその不気味な感触は、まるで地面に敷かれた動物の皮の上を踏み締めているような錯覚を青年に抱かせた。
おおよその人間が”不気味だ”というような感想を抱くであろうこの感覚は、当の輔忌にとっても好ましいものではなかった。
だが、それも触覚で感じられる不快感など遥かに凌駕するほどにおぞましい、とある一つの事実の上に成り立っているちっぽけな要素に過ぎないのだと考えれば、所詮は瑣末事の域を出ない程度のものだった。
この空間は——総て、人皮で出来ている。
この事実を踏まえてさえ「ああ不気味だ」等と、これを知る以前と変わらない限りの感慨を持てる人間がどれだけいるだろうか。加え、他にも“もの恐ろしさ”を構成する要素が数え切れないほど点在する。
完全に閉じた闇には決してならない程度の厭らしい薄暗さ。
どこにも背中を預ける事が出来ない、四方へと果てしなく広がる空間。
それにも関わらずどこか閉塞感を感じるのは、これが天井だとでもいうように、地上数間の上方からは床と同じような人皮で空全体が覆われているからか。
——そして何より、人皮の表層に何万と張り付く『目』。
人間のそれより何倍も大きい『目』は、一定の感覚を置いて床と天井の全体をビッシリと覆っていた。ここに来る度少しずつ観察した限りでは、これらの視線が一斉に輔忌へと向けられる事は無いらしいが、こちらの動きに対してはある程度の反応を見せるようだった。
ぎょろ、ぎょろりと、その動きは中途半端な知性のようなものを感じさせるだけに
初めて自分の精神世界へ入った当時、輔忌はとある一人の
『F』の
無論、例え大まかな特徴に相似している点が多々あったとして、本質的にまで同じようなものかと問われるとやはり首を傾げざるを得ないのだが。
『…………』
輔忌は、当然の事ながらこの風景が好きではなかった。
それは己の精神が”恐怖”を象徴する悍ましき能力に相似するという事実によるものであり、人体で塗り固められた冒涜的な空間に対するごく一般的な感性からなる嫌悪感によるものである。明々白々たる感想だと言えた。
だが……何か、それだけでは決して無い。単なる嫌悪感だとか不快感だとかとは全く異なる、
『全く、もって……忌々しいな……』
ただし、今回はそんな事を考える為に此処に来た訳ではない。
暗く昏い、皮肉を
小さな、しかし強烈な存在感をも同時に伴う、どこか調子の外れたような、笑い声がした。
『……居るんだろ?』
背筋に滲む昏い怖気を敢えて無視しつつ、輔忌は声の出所に確信をもって問いかける。
『今日、僕が……何故貴様に会いに来たのかは分かっているだろう。出て来い……』
恐ろしく低く、
然れどもその淑やかさの裏には、声の主が単なる悪意をもって意図的にそれを作り上げたに過ぎないのだという——則ち”底意地の悪さ”とでも言うべきモノがひしひしと感じ取られた。
ひたすらに醜いだけの声より、そうした一部の行き過ぎた清らかさが
人の不安を徒に煽り高める為だけに絶妙な加減を施された、相当に明確な悪意がそこにあった。
否、それは殆ど
辺りを包む薄暗闇の内から、まるで紙に水が染み込む際に色が変わるように。その中の何処からとも知れず、薄っすらと、ゆっくりと姿が浮き出る様は、正に
すぞぞっ……と、そこに現れ出でたのはどこか海洋生物を思わせる、ぬらぬらと黒光りした皮膜の塊。輔忌青年に倍するほどの背丈を持ち、ぶかぶかに広がったヒダを全身に纏い引き摺っている。
長身の割に痩躯であるためか遠目に見れば外套を着込んだ紳士のようにも見えるが、それは正しく、異形の骨肉が寄り集まる怪物であった。余った皮に覆われて元の骨格すら判別できない顔をニタニタと嗤いに歪める様はひどく不快で、醜悪だ。
『…………』
その甘言に従った末に何が『始まる』のかは、青年にとって知る由もない。
だが、だとしても、それが少なくとも歓迎すべき事柄ではないだろうという事ぐらいは確かだと、悪魔のような怪物の嗤いを見て理解している筈なのに。
気づけば既に、輔忌は己の直感に背を向けていた。
一歩、また、一歩と足を踏み出していく。
けれど、平時の彼を良く知る者ならば分かるはず。
どこか熱に浮かされたようなふらふらとした足取りは、未知へと踏み込む勇気だとか挑戦に値する勝算だとか、
言われた事をそのままに従い、置かれた状況を吟味しようとすらせず、己の意思などまるで存在しないかのように。
『……次は、何だ?』
彼我の距離は見る見る詰められていき、手を少し伸ばせば届くだろうという所まで縮まった。
“近づいて来い”という言に則して見せた青年に、皮膜の怪物はたった一言、とても奇妙な言葉を口にする。
腰へ差した斬魄刀を抜き取り——怪物に向けて
また怪物は、それをごく自然な、そうして当然だとでも言うようなやや尊大ぶってさえいる様子で、長く鋭く伸びた悪魔のような五指を器用に操って掴み取った。
鞘から刀身を抜き放ちながら、それは唄うように語る。
そう言いながら、怪物は今しがた受け取った斬魄刀を輔忌の胸に突き刺した。どくどくと血が流れて、
えっ?
どさっ、と。
それは人が倒れる音では無かった。
事切れるのも時間の問題というような、力も命もぐったりと抜け切った肉の器が、ただ在るがまま地面に落ちるだけの音だった。
『かッ、あ—-、?』
調子っ外れの狂った嗤い声と死にぞこないの体から漏れ出す喘ぎだけが、肉と目玉のスクエアに虚しく果てなく広がっていく。
胸を刺し貫いた、どうしようもないほどの痛み、苦しさ、そして驚愕。取りかえしのつかない事がおこったのだという認識だけがきけん信号のように青年のあたまをかけめぐり。
その様なかんがいすらも、
いのちと共に、
ああ、ながれでて、
きえ る ?
◼️◼️◼️
「はっ?」
いつの間にか布団の中に横たわっていた体を起こしながら、卯ノ花
「……、…………?」
訳がわからない。
直前の記憶がどうも曖昧で、自分がどういった経緯で寝具に寝そべっているのかもはっきりしない。
とりあえず辺りに注意を向けてみると、何やら幾つかの薬品を混ぜたような、しかし良く嗅ぎ慣れている匂いがつんと鼻をついた。
「ここは……四番隊舎?」
より正確に言えば、併設されている救護詰所か。
時刻は真夜中のようで何もかも見え難い。それでも少し首を横にして見回してみれば、自分と同じく横になっている人たちが何人か視界に入って来た。
はて、すると僕はここに来るまで一体何をしていたんだったか。曖昧な記憶を必死に遡ってみると……
「っ! …………ぅ、あ」
突如、刺すような痛みが頭に響くと同時、急激に記憶が溢れ返ってきた。
「……そうだ、確か副隊長と卍解の修行をしていて、”対話”の為に刃禅を組んでいたんだ。それで……」
——自分の斬魄刀に、殺された?
「……………………」
いや。
たかが”対話”がこんな結果に終わったのも……僕が不甲斐無いからなのかも、知れないな。
にも関わらず、卍解を会得するに至るまで必要な二つの条件のうち、僕は未だ前提となる『具象化』の糸口さえ掴めていないのだ。
具象化を物にするまでには、才ある者でも最低で十年以上の年月を要すると言われている。ならばその半分にも満たない時間を使ってしまったとして、何をそう焦る事があるだろうかと人は言う。
だが、僕は一刻も早く力を得なければならないんだ。この身に纏わり付く獄炎の幻惑を取り除く為には、最早それ以外に方法は無いのかも知れないのだから。
そして何より——こうして足踏みを続けている事実がそのまま”母さんを救う”という……生涯を賭した目的から自分を遠ざけているのかと思うと、
「クソッ……」
今考えれば、我ながらどうかしていたとも思う。まともな思考を持っていたなら、幾ら自分の斬魄刀とはいえあんな奴に迂闊に近づくなどあり得ない事だ。
……とは言ったものの、もう他に方法が無かった、というのも確かなんだよな。
「結局振り出し、か……」
この四年間、具象化はおろか対話にすら全くの進展が無かったのも、全ては僕の斬魄刀が”あれ”だから。
来る日も来る日も「こちらに来い」の一点張りで、それは何故かと質問しようが
しかし、今日の一件で流石に少しは目が覚めた。同じ轍は二度と踏まないだろう。…… それが再びの停滞を意味するとしても、僕にはもう、打つ手が無いのだから。
「……それにしても、ここまで僕を運んで来てくれたのは吼翔副隊長なのか? 急に気を失ったものだから迷惑をかけたかもしれないな……」
そうだ、埒の明かない事を考えていても仕方がない。
今はそこが一つ気掛かりだ。直属の上司にここまで手間を取らせたとあっては申し訳が立たないし、流石に今はここを動けないが、これは後日改めて謝りに行かなければ——
「あれ?」
ふと、違和感。
身を起こした時は周囲を確認するのに集中していて気づかなかったが、両の肩口のあたりから妙な感触が……何かむず痒いような、そんな感じがする。
しかし暗くてよく見えない。何とは無い軽い気持ちで左腕の袖を
できなかった。
「え」
両腕が、無い。
右腕の肘から上、左腕に至っては肩から丸ごと——
何事もなく目を覚ましたと思った?ところがぎっちょん(四肢欠損)
アニメ斬魄刀異聞篇の影響もあってか、何かにつけて美女、美少女、美少年あたりとして描写されがちなオリ斬魄刀。
逆張りクソ野郎こと点=嘘がお送りするのは、そんな鰤二次の現状に対して(特に投じる必要のない)一石を投じた珠玉のクソ斬魄刀です。俺が死神に転生しても絶対こいつは欲しくありませんね(適当)
オマケに見た目でいえばブラック•ジャックに出てくる奇病患者とドッコイぐらいです。救いはないんですか!?ありません。
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雨は未だ止まず
「うっ……うわああああッッッ!?!?」
深く静かな真夜中の病室。
ふかふかの枕に頭を預け、ひどく疲れた体を休めようと気持ちよく眠っていた矢先。ハッと、突然に聞こえてきたとんでもない大声に俺は叩き起こされた。
「腕が、僕の腕が!!」
うおお、やかましい、クソやかましいぞ。こんな夜更けにバカでかい声を出しよってッ。
「誰か——」
「
俺の眠りを妨げやがったドアホへの怒りをめいっぱいに込めつつ、
「ひっ」
蚊の鳴くような声を漏らしたっきりドアホは押し黙りおったが、むろんタダじゃあ済まさねえぞ。最低一発はぶん殴ろうという腹積もりで声がした方にズンズン向かっていくと……はて、腕だって?
「この野郎、覚悟は出来てんだろう……ぬ、輔忌か」
「ふ、副隊長? どうしてここに」
なんだ、隊長のセガレか。
すっぱりと両腕を切り落とされ、焦燥からかびっしりと冷や汗をかいている上司の息子が目に入ってきた。
「……あ、あの」
「…………」
……どうやら顔を真っ青にしているのは、怒れる上司に
ある意味では弟子とも言える小僧への”複雑な感情”をどう表したものか、暫しお互いを気まずげに見つめあいながら言葉に詰まっていると……あああ、面倒くさい奴等が来おったぞ。相も変わらずドタドタと喧しい連中やな。
「
「詰所は共同の施設ゆえ、夜半の騒音は謹んで頂きたく!」
「数男さん、数比呂さん!?」
ちい、四番隊の副隊長と三席どののお出ましかよ。
性格からして真っ先に飛んで来そうなのは麒麟寺隊長やが、あの人はあの人で忙しいらしいからなァ。
それというのも、はや十四年もの年月が経とうとしている
その爪痕は我らが瀞霊廷にいまだ根深く残っており、治療専門四番隊の長ともなれば以前のようには動けない、と、聞いたところによるとそうらしい。
……うちらの被害も大体は総隊長の仕業なんやけど、ま、それはさて置き。
「あのっ、夜中に騒ぎを起こしたのは申し訳ありません。でも、腕が……僕の腕はどうなってるんですか!?」
「……! 卯ノ花、それは……」
「いい、数比呂。あれについちゃあ俺が話す」
「吼翔副隊長……」
……やっぱり
遅からず説明しなけりゃならん事だと、重い気持ちを抑えて俺は口火を切った。
「単刀直入に言やぁ——輔忌、お前の腕を切り落としたんは、俺や」
「…………ッ!」
「だがまあ、ジッサイのところ
餅は餅屋。この辺りは専門家に任せた方が良いだろうということで、俺は丸ぶち眼鏡の副隊長に声をあげた。俺の意図を汲み取った数男が輔忌の状態に説明を始める。
「はっ、はい。……よく聞くんだ、卯ノ花。君の両腕は殆ど完璧な状態で此方に保管してある。我々では迂闊な処置が出来ないのだが、つまり——」
そこで自分達の不甲斐なさを恥じ入るように一旦言い淀んだ後、救護隊の副隊長は努めて不安を煽らないような明るい声色で続きを口にする。
「麒麟寺隊長ならば
「余計な事は言わんでええ。ったく、つくづくお前ら二人に喋らせたら何を口走るか分かったもんじゃねぇ」
「…………治る……」
回道に明るくない俺がハッキリ言える事じゃあないが、どうもそういう事らしい。自分の腕がキチンと元に戻るってことを知った輔忌はというと、徐々に安堵の色を取り戻し始めていた。
だが……事の本筋は
自分の口調が思っていた以上に重くなっていることを自覚しながら、俺はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「分かるか?」
そうだ。これほどの大怪我を俺との戦いで負ったのだという、その事実。同時に俺が
病衣の襟をべらりと捲り、首から下を隙間無く埋め尽くすように覆っている包帯を見せる。
顔色を驚愕に染めた輔忌を無視しつつ、俺はその包帯をおもむろに剥がしていく。数男と数比呂がまた何か騒いでやがるが、知ったこっちゃねぇ。
「殺し合ったんだよ、俺たちは。お前の腕を両方ブチ切ってよっ……そうして止めてなきゃ、こっちが殺されてたんだぜ?」
そうして表れた、左腕の付け根。
斬魄刀を思いっきり突っ込まれ、めちゃくちゃに掻き回されてドス黒く染まった傷。凄惨な殺意の痕跡だけが、そこにくっきりと浮き出ていた。
◼️◼️◼️
天示郎さんの尽力の甲斐もありすっかり元通りになった両腕、それらをぼんやりと眺めながら、卯ノ花
「あいつだ」
いつまで経っても楽にならない現状に気が立っているのだろう。”久しぶりに顔を合わせたと思ったら腕を切り落とされて運ばれてきた馬鹿”を処置する時の天示郎さんといったら、それこそ怒髪天を衝くようだった。
でも、彼は僕に”何があったのか”とは決して問わなかった。母さんから僕の状態を聞いていたのだろう。それは僕にとっては本当に、本当に有り難いことだった。
だってそうじゃないか。斬魄刀との対話に
「………………」
先刻から薄暗くなり始めた窓の外にちらと耳をやれば、ザアザアという重たい雨音が辺り一面に響いていた。それがまるで今の僕の心境を体現しているようで……とかく、余計に気が沈む。
「あいつだ……」
再度、呟きを繰り返す。
無意識のうちに僕の体を突き動かしていたナニカ。吼翔副隊長から聞いた当時の僕の様子を鑑みるに、もはや確信をもってそれを言い切れた。
『異変を感じ始めたのァ、お前が刃禅を始めて半刻ばかし経った時や。いきなりお前は——なんつーか、急に苦しむようなそぶりを見せて、ほんでブっ倒れた』
ようやくまともに動くようになった腕で目元を覆いつつ思い起こすのは、詰所にて副隊長から語られた事の詳細だ。
『精神世界で何かがあったって事だけは分かったけぇ、すぐに俺は叩き起こしてやろうとした。あんまし適当な方法じゃねぇんだが、それでも応急処置ぐらいにはなるからな。だが……すぐにお前は起き上がった。それも不気味なほど、
『……今にして思やァ、この時点でお前に意識は無かったんやろうけどな』
『”こちらに来てくれませんか”……「ヤツ」は、俺に向かってそう言いおった。当然俺は行ったさ。隊長にお前を任されとる身で、何かあってから動くんじゃ遅いけぇよ』
『そうして、そりゃあ間違いだった』
その『やり口』に、やはり僕はどこか既視感を感じていた。
それも当然だろう。……”こちらに来い”という台詞で相手を誘い込み、近づいてきた者を刺し殺す。それは正しくその当時、他ならぬ僕自身が身をもって体験していたものに違いなかったからだ。
稚拙だが、狡猾。”相手に疑われてさえいなければ”という但し書きが付くものの、相手のカンがよほど鋭く、実力が高くなければ——その点で言えば居合わせたのが吼翔副隊長で本当に良かったが——ほとんど確実に相手は死ぬだろう。そして「ヤツ」は今のところ、そのやり口を”疑われていない“相手に対してのみ向けている。
「————、」
寝具のすぐ横を見遣れば、そこに
憎らしいほど自分の手に良く馴染む柄と、浅黒く染まった緋色の鞘。それに納められたギラつくように鋭い刃は、いまだかつて斬れない物に出会ったことがない。不本意ではあるが紛れもない、相棒と呼ぶべきモノ。僕だけの斬魄刀。
斬魄刀は死神と寝食を共にすることとされている為、例え病室であろうと、……場合によっては独房の中のような場所であろうと、必ず近くに置かれるものだ。であるからして、
ふと気づけば、僕はおもむろに眼前の刀を手に取っていた。
その行為に理由は無い。その筈だ。だが、どころか、それに止まらず——どうしようもなくやり場の無い感情にただ身を任せて、鞘から刀身を引き抜いていた。
戦時特例等非常事態下の外での『それ』が立派な隊規違反である事など、既に気にすらも留めていなかった。
そうして、”呼ぶ”。
直後。
変化は、呆れるほどに静かだった。
その刀の形状を例えるならば、”古代遺跡のレリーフから直接飛び出してきたかのような”という形容を前提に語る必要があるだろう。波形に歪んだ長方形の幾何学模様があしらわれた精緻な掘り込みは、そのモチーフを全体的な形状に至るまで侵食させている。
しかしながら、その刃渡りが解放前に比べて確かに”短くなっている”というのは否めなかった。
流石に
だが。
先に語った形状の不利を根底から覆す、ある圧倒的なまでの特殊性がこの斬魄刀には秘められているというのは、“それ”を一目でも見た者の誰もが瞭然として理解するはずだ。
「……尸魂界の歴史始まって以来、唯一にして初の事例、なんて言われてるけど。こんな不祥が先輩になるなんていったら、あの二人に悪いのかもな」
取り回しの容易な短い刃は
解放と同時に左手の内に現れた、全く同じ形状をとった二振り目。それが僕の斬魄刀”
「……”花天狂骨”は、必要に応じて斬魄刀自身が片割れを産み出した」
鈍に輝く双刃を睨みつつ、僕は斬魄刀の”二刀一対”について思いを馳せる。
「”双魚理”……ああ、あとは”斬月”も。あれらの場合は、死神としての力とは全く異なる魂魄の力が裡に混ざっていたことが二振り目の存在に影響したんだと考えるのが妥当だろうな」
遠い未来の記憶によれば、二刀一対の斬魄刀は千年後に至るまでたったの三組しか存在せず、さらにその全てには”由来”と言うべきものがあった。だが……
「それなら僕の”蜥蜴”には一体——何の『意味』が在るんだろうな」
いくら思考しようと、応える者は、居ない。
◼️◼️◼️
重ねて言うが、今この場で酌牽蜥蜴を解放した事にさしたる理由は無い。ただ、『こいつ』なのだ。『こいつ』こそが僕を苦しめ、吼翔副隊長を傷付け、——そして恐らくは、あらゆる生命を殺傷することさえを欲望しているであろう邪悪の徒。そんな下衆が前回の刃禅で僕を刺殺し、意識を途絶させる寸前に放ったある一言を思い出す。
……
悍しいほどの悪意。人を傷付けようという意思。葛藤も、逡巡も、憎悪も理由も大義も鬱憤すらも無い。何も無い。ただただ何かを殺したくてたまらないというようにしか見えなかった。あれはまさしく、化け物だ。そしてそんな斬魄刀を形作ったのは、僕だ。
「は、はは……」
思わず笑いが漏れてしまう。だってこんなの……笑うしかない。
僕はただ母さんを”救い”たいだけだ。本当に”救い”たくてたまらないのに、しかし、その願いを悉く打ち崩しているのは、よりにもよって自分自身と同義たる斬魄刀に他ならない。
「ッ、うぐっ……!?」
と——鬱屈し始めた思考と共に、激しい頭痛が巻き起こる。
もはや慣れた、とは口が裂けても言えないが。この現象に心当たりがあった僕は、すぐさま酌牽蜥蜴の始解を解いた。重なるように一本の刀へと収束した斬魄刀を脇に放り投げ、苦しみ、悶えながら寝具に倒れ込む。
「く、ぁ……ッ!!」
また、まただ。
脳裏に文字通り焼きついた十四年前の地獄の光景が、鮮明に浮かび上がって離れない。鼓膜を破るばかりの轟音、総てを紙のように吹き飛ばす爆風、そして、そして、……でろりと焼け焦げた、人の臭い。
あれ以来まともに刀を振ることさえ出来なくなった僕が斬魄刀などを解放すれば、果たして如何なるかも知れないというのは薄々分かっていた事だ。ああ——それでも、やらずにはいられなかった。
発作のように時折現れる幻影は今も徐々にこの身を削っている。喉まで出かかった吐瀉物を何とか押し込み、思う。
もう、時間が無い。
更木剣八をどうにかするとか、卍解を習得するだとか。そんな悠長で先の長い目標を構えている暇なんて、何処にも残ってなどいないのだ。
ここのところ、力が先細るように目減りしていくのを感じる。長い間放置されてグズグズに腐った心の傷に、もはや体のほうが保たなくなってきているのだ、と。
「ぐ、がはっ、げほッ……」
胸を掻き抱き、目に涙さえを浮かべながらうずくまる。
酌牽蜥蜴は強力な斬魄刀だ。並一通りのそれらと比べるならば、寧ろ突出しているとさえ云えるだろう。卍解さえ……『残火の太刀』と同じ領域である卍解さえ習得することが出来れば、心へ巣喰うこの”恐怖”さえも母さんの言う通りに取り払えるのではないかと、そう思える程に。
だけど、そんなの……僕には無理だ。
「おい」
例え”力”を得たとして——内外すら問わずに殺意を振り撒く斬魄刀。どうして己のものであると、そう胸を張って言えるだろうか。
生命を預けるに足る、全幅の信頼を置けるだろうか?
「輔忌?」
前進を恐怖し、挙げ句の果てに自分自身さえをも遠ざけ、また恐れ…………
「輔忌──……」
ぼく、は…………
「呼ばれたら返事ぐれぇしろやッ……このボケがぁぁ!!!!」
「散々呼び掛けてやったのを片っ端から無視しやがってよぉ! 退院がてら人がせッッかく見舞いにでも来てやろうってのに、おめーは自分の隊の副隊長を何だと思っとるんや! あァ!?」
「っづぁ…………!」
呆然。
突然の罵声と側頭部を通り抜ける拳骨の衝撃に何が起こったか理解できず、僕はしばらくの間口を半分開けて呆けていた。
ひとしきり捲し立てた後に、その誰かがこちらを見下ろしている。数日前の病衣と違い、身に付けているのは黒色の死覇装。短髪黒髪の偉丈夫。そこに居た人物とは紛れも無く——吼翔副隊長、その人だった。
「も……申し訳ありません、全く気が付きませんでした」
「あーそーやろうなァ! 周りなんかちぃとも気にしてなさそーやったもんな! こっちが見とって寒気がするほど辛気くっせぇ顔しとったでお前! 昨日の朝飯何やったか思い出そうと考えとる猿か!」
「そ、そこまで言わなくても」
「あ“あ”!? 黙れたわけ馬鹿この舐めとんのかコラぁ!!!!」
「ちょ、やめっ、ぐぷ……ッ!?」
痛い痛い痛い!
あろうことか、副隊長は襟を引っ掴んでガクガクと首を揺さぶってきた! 今にも殴り付けられそうな勢いだぞ……!
こちらが全面的に悪いにしてもやや理不尽な仕打ちに涙目になっていると——どすん、という音を立てて寝具に腰を打ち付けてしまった。半ば放り投げられるような形で手を離されたからだ。
次は何と言われるのか、当然僕は身構えていた。すると黒髪の大男は大きく息を吸い込んで……
「お前が何に悩んどるのかなんぞ、そのツラ見てりゃすぐ分かんだよ!!」
────……。
「えっ?」
「ああ、お前は結局なんにも言わへんかったがな! その”酌牽蜥蜴”がクソ難儀な性格した野郎だって事ぐれぇ、お前の刃禅の後のくっせえ顔を何百回も見させられた俺が気付かねえとでも思ってんか! ウジウジウジウジよぉ〜〜ッ!! それで大方こう考えとんのやろ! 『あいつを今の形にしたのは僕だ。僕にあんな一面があったなんて……』自分で自分に幻滅しとんのや。見下げ果てた奴だと思っとる!」
「そんな事は」
「バッッカじゃねえのか」
僕の掠れるような声など耳に入れようとすらしていない様子で、吼翔副隊長は腕を組みながらあっけらかんと、言い放つ。
「俺の親父は、お前の母ちゃんに殺された!」
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
「…………」
「隊長がまだ隊長じゃなかった、
今までの文脈を清々しい程に無視した唐突極まる告白に、僕の頭は真っ白になった。
「う、そだ」
「何が嘘なもんか。息子のお前が、自分の母親がどういう人間か知らねえ訳はねぇだろう」
「なら、どうして」
「…………」
「どうして、そんな素振りを見せずにいられるんですか。親の仇が隊長を勤める十一番隊で、副隊長なんか」
返答が、ほんの少しの間だけ詰まった、ような気がした。
「俺の親父は、そりゃあ強え男だった」
しかし、その沈黙が決定的なものになる寸前。
「——そして、呆れるほどに血の気が多かった。そんな親父はある日噂を聞いた。”幾度斬り殺されても絶対に倒れない”……それを指して自らを『剣八』と称した、ある女の噂」
「…………」
「お前、さっき言いおったな。『親の仇の下でどうして副隊長なんてやっていられるのか』……”遺言”だよ。俺がガキの頃、斬られて俺の目の前で死におった、クソッタレの馬鹿親父がただ一つだけ残していったモンだ。”それ”を果たすためだけに、俺はここに居る」
どんな内容かは言えんがな、と副隊長は前置きしつつ、
「俺の言いてえ事が分かるか」
一拍だけ置き、そして語る。
「人なんぞを殺して悦に入っとる卯ノ花隊長も、手当たり次第に斬りまくって最後にゃ返り討ちにされて死んだ親父も、そんな親父の遺言を律儀に守っとったら仇の下で働いていた俺も、どいつもこいつも気狂いみてぇなもんだろう。どうだ、この世界ってやつは存外……救いようがねぇもんらしいじゃあねぇか」
だから、何だっていうんですか。
それで、周りを傷つけるだけの斬魄刀を作ったという、その程度の事で自分を嫌うことはないとでも言いたいんですか。
「違う」
なら、それなら……
「お前は”独り”じゃねえ、って事だ」
「…………」
「お前の周りに、お前を頭ごなしに責められるような真人間がそんなに大勢いるってのか? いいや、おらんな」
「…………」
「いいか、お前は俺にどこか似とる。だから一つだけ教えてやる」
「…………」
「こんな狂った世界には——お前みてぇなろくでなしにも味方でいられるようなクズどもが、存外多く居るもんだからよ」
そう言い放ち、吼翔副隊長は背を向けた。
去り際、呟くようにして。
「頑張れよ。お前のこと、大切に想ってくれてる人がいるからな」
——じゃあな。言いてェ事はそんだけだ。
◼️◼️◼️
嵐のように過ぎ去っていく吼翔の背中をじっと見つめた後、輔忌は側に放り投げられていた斬魄刀を再び手に取った。
憎らしいほど自分の手に良く馴染む柄。浅黒く染まった緋色の鞘。ギラつくように鋭い刃。そこに在る様は先と何らの違いは無い。しかし——青年の瞳に宿る”色”だけは、数分前と比ぶべくもない決意の情熱が宿り始めていた。
◼️◼️◼️
一方。
「ご無事ですか、隊長!!」
「た……隊長!」
尸魂界の片隅、果ての果て。
北流魂街80地区『更木』に於いて、とある決定的な一幕が終わりを迎えようとしていた。
息子が自分のためにゲボ吐くぐらい頑張ってるって時に、何を好みのショタといちゃラブデート(語弊)なんかしてるんですかねこの異常母親……
一応は「ほんとに辛いなら戦わなくても良いんですよ……?」ぐらいの母親らしい心配は持ち合わせてるはずなのですが、それはそれとして頑張っては欲しいし、それはそれとして自分は暇だからとそこらで遊び回ってるから肝心な時にどっか行ってる女です。これのために人生捧げてる輔忌くんが、どれだけ狂人してるか分かるでしょう……?
あとは、そう、完全オリキャラの吼翔副隊長が読まれる側にとってどう見えてるかは気になりますね。そこらも含めて感想など頂ければ幸いです。
そして今回は全人類の夢、<<オリ斬魄刀の開示シーン>>をとうとう執筆してしまいました。
恥の多い人生を送ってきたモンだがよ……もう、元の生き方には戻れねぇンだな……へへっ……
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ドロップアウト
明くる日。
覚醒と睡眠のはざまを揺蕩う意識の中、仄かに香る薬の匂いに自分が起きた場所が四番隊舎の病室であることを思い出しながら、青年は珍しくも”あの日”の悪夢に苛まれない内に目を覚ました。
「う……ん」
それが果たして自隊の副隊長から投げ掛けられた昨晩の言葉よるものであったのか、
「〜〜を……、」
「…………に……。 ──ッ!」
——本来ならば病室という場所までは及ばない筈の、四番隊員らによる奇妙な喧騒の声によるものだろうか?
無用な心労を負傷者に与えぬ為、救護詰所は彼らの細心の注意によって静寂を保たれなければならない。昨晩の騒ぎは十一番隊の輔忌たちによる揉め事だったが、その対処へ早急に当たったのが”副隊長”と”三席”だということからも、患者に対する彼らの精神が特に表れていると云えるだろう。
「……?」
早朝ともなれば尚更に、このような病室にまで届くほどの喧騒は普通ではないと言える。
一抹の胡乱を感じ取った輔忌は身体を起こし、ふらふらと引き寄せられるように現場へと歩いていった。
◼️◼️◼️
「だからオメー、霊湯液の在庫は捌番薬棚のどっかだっつってんだろ!
「どう……したんです? 随分と騒がしいようですが」
ああ、何を眠てえ事を言ってやがる! この期に及んで呑気にほっつき歩いてんのはどこの馬鹿だ!?
声のした方向を見もせずに、麒麟寺天示郎は苛つきを抑えようともせずに怒鳴りを上げた。
「オォ!? 手が空いてンならうろうろしてねーで……何だ、て前ェかよ」
「え、ええ」
って、こいつは輔忌のボウズじゃねーか。こいつの声を四番隊のどいつかと間違えるなんざ、俺もいよいよ焦りが過ぎているのかもしれねえな。
しかし——こいつは一体どうしたもんか。
無意識に指の爪を噛みながら、ほんの僅かの間だけ考える。
「隊長! 器具と薬品の準備が完了致しました!」
くそ、悠長に構えてる時間はねぇな。
……仕方ねぇ。遅かれ早かれって奴だ。
「輔忌、今から発つぞ」
「え?」
「死覇装は向かいの部屋に何着かある。適当なのを着てこい。……さっさとしろ! 3秒以内に戻って来なかったら連れてってやんねーからな!」
呆けて動かない小僧を有無を言わせずに叩き出し、俺は部屋の戸を閉める。余計な荷物も増やしちまったもんだが、まあ支障にはならんだろうよ。
「…………ふぅ」
そして、——ずらりと目の前に並んだ医療道具の数々に思わず顔を顰める。小山ほどもあるこれらをそのまま担いで行けるだけの薬籠に詰め込む作業が残っているのだ。
くそったれ。俺に面倒事を持ち込んできやがるのはいつだってお前らだよ。
「こいつらが必要にならなきゃいいが。……頼むぜ、卯ノ花よ」
その都度首を突っ込んじまう俺も俺だがな。
「て前ェや
卯ノ花の奴、子供ができて少しは丸くなったかと思えば”これ”だからな。即座に考えを改めさせられる。今回もあいつのバカな思いつきか暇つぶしにしか見えなかったが……まあそりゃ置いといてだ。
輔忌の腕を引っ掴みながら超速の瞬歩で駆け抜ける。途切れ途切れにうつろう視界、景色がぶっ飛ぶように後方へと流れ過ぎていく。流魂街と瀞霊廷との境界はとっくに置き去りになっていた。
「よっと! ……こりゃついさっきの話だが、連中の一人が帰ってきたんだよ。それも
「……それっ、て!」
流石だな。
いや、見込んで連れてきたが見込み以上だ。輔忌は俺に引っ張られながらとはいえ、尸魂界でも随一の瞬歩の速さに体勢を崩さず、俺の荷物にはならんようにと自分の足で対応して付いてきている。そして滝のような汗を流しながらも何かに勘づいたように声を発した。
「“非常事態下”の緊急伝達!? 出向した隊が対応不可能な状況に陥った際のっ……」
「ああ……最低でも一人を寄越す。そういう決まりだ」
「でもっ……ただの隊士だけじゃない! 十一番隊の席官級だって大勢同行していましたし、
ああ、そうだよくそったれ。
卯ノ花の奴でも”対処”ができねぇ、しかもそれが
「各隊の隊長格には全員お呼びがかかっているだろうよ。一番最初に着くのは俺達だろうがな……輔忌?」
ふと、すぐ後ろを疾る輔忌を見遣る。
「まさか……」
流れる汗をそのままに、その俯きがちな顔を見るに俺の問いかけなんか耳を素通りしているようだった。
「おい、何を考えてやが……——ッ!」
る。というセリフの続きは見知った霊圧の感覚に途切れていった。輔忌も全く同じものを感じたようで、進行方向そのままへ安堵とも驚きともつかない反応を示す。
「あれは……」
「母さんの霊圧!? どうやら無事のようですが……っ」
尸魂界の最果てにまで離れていて碌に追えなかった霊圧をやっと捉えられた。だが普段のそれとは……想像も付かない程に弱々しい。立っているのもやっとという状態だろうって事は簡単に想像がつく。
更に奇妙な事には……卯ノ花の奴をそこまで追い込んだってえ餓鬼の霊圧までは感知できないってところだ。
つまり、勝ったのか……?
「……何れにせよ急ぐに越した事ァねえな。しっかり掴まれ、こっからはちいとキツいぜ!」
「っ、はい!」
近づけば近づくほど、だな。十一番隊員のものらしき霊圧も一緒に感じられるようになってきた。
弱り切ってさえ雑魚連中のそれを塗り潰すばかりの卯ノ花の霊圧の存在感には呆れちまうが、隊もろとも全滅って場合は考えなくっても良くなった。
さて、この辺りの筈だが。見るとほんのちょっぴりだけ木々の少ない開けた地形に、酷く小さなボロい小屋が数軒ばかり立ち並んでいるのが見えた。十数人ほどの死覇装を着た死神たちがその内の一軒を取り囲むようにして辺りを警戒しているのがわかる。
……五つ前後の死体が血塗れで転がってるのにはツッコまねえぞ。見たところ隊士のうちの誰かでもないようだが、小屋の持ち主をぶっ殺して乗っ取ったんじゃねえだろうな。
まあ、もともと『更木』はイカれた破落戸どもが羽虫みてーに湧いて出てくるクソみたいな土地だ。例え穏便に建物を借りようっつっても、住人の方から急に襲い掛かってくるってのもザラだろうしよ。
……ホントに連中が”穏便”な対応を試みたかってーと、かなり怪しいモンだがな。
「うわぁ、命の価値が軽い……」
輔忌も同じように考えたようで、ポツリと一言だけ言及するに止まった。まあ、ここはそういう場所だしな。
「おい野郎共! 四番隊隊長の麒麟寺だ! 被害はどの程度か言ってみろ!」
大声を出して呼び掛けてやると、まさに打てば響くって感じだな。こちらから見て先頭に立つ男が少しの動揺と安堵を挟みつつも返答を寄越した。
「麒麟寺隊長!? 良かった、
「
「……ええ、分かりました。貴方にはその理由もあるでしょう。麒麟寺隊長、卯ノ花隊長を宜しく頼みますッ」
霧崎ってのは確か伝令の為に瀞霊廷まで戻ってきた十一番隊員の名だったか。そして目の前のこいつも輔忌と知り合いらしいが、つくづく連れて来たのが隊の”身内”で良かったな。話が早くて助かるぜ。
「任せとけよ、死んでねぇ限りは助けてやるさ」
隊員の包囲を通り抜けて、ギシリと軋んだ小屋の引き戸を密かな決意と共に滑らせた。
そこには寄せ集めのものと思われる布団が一枚、その上に稚拙な手当らしきものを施された卯ノ花が横になっていた。
その辺の布を破って包帯代わりに巻いてあるんだろうって事がかろうじて見てとれるぐらいのモンだが、そもそも十一番隊の脳筋どもに期待なんざしてもなかったしな。そりゃまあ良いだろう。
入ってきたのに気づきもせずに虚空を見上げる卯ノ花を怪訝に思いつつも、俺は何時もと変わらない調子で声をかけた。
「こっ酷くやられたな」
「天、示郎?」
「輔忌もいるぞ。ああ、無理に体は起こすな。服はこっちで脱がせっからよ」
パッと見た限りでは……思った程の傷ではない、か? だが、それにしては霊圧の揺らぎが酷いもんだ。戦いの消耗が祟ったのか、或いは俺の預かり知らない何かがあったのか。こちらを見ているようで見ていなさそうでもある、どうにも焦点の合っているのかもハッキリしない
どのみち詳しく診る必要はあるな。背負っていたバカでかい薬籠を下ろして早速診察に取り掛かろうとすると——何だ、輔忌が俺の腕をがっしと掴んできやがった。邪魔だぞ。
「何だよ」
「分かってます。当然の流れですよね、勿論分かっています。……僕は外で待っていますので。ひと段落したら呼びに来て下さい」
「なに?」
どういう事だ。と言いかけたが、やめる。ガラガラと引き戸を開けて外に出て行く輔忌の背中を、わざわざ止める事はしなかった。
ああ、実の母親の裸をまじまじ見るのはきついだろ?
わからんでもない。
「こんなもんか」
全ての傷に処置を施した訳じゃないが、とりあえず服に隠れる範囲は済んだな。一番深刻だった
しかし卯ノ花もこういう時に輔忌ほど——色んな意味でだが——自分の身体に頓着するタイプじゃねーだろうとは分かっていたが、こっちもやり易くて助かるぜ。
「…………」
だがそれにしても、やはりどこかうわの空だな。訊かれた事に返事する以外にほとんど喋らねーし——それはいつも通りか。ともかく、まるで”されるがまま”といった様子で、こうなると
「……良いぞ! 入って来い」
この沈黙に耐え切れなかったって訳じゃあねえが、そうだな、外で気を揉ませているだろう輔忌をそろそろ中に入れてやらないとな。腰を上げて戸口に向かいながら声をかけると——
内側から開けた戸を挟んで目に入ってきたのは、思いもよらない男の姿だった。
「き……麒麟寺、隊長」
地に蹲るように荒く息を吐きながらこちらを見上げて来たのは——十一番隊副隊長、吼翔権十郎その人だった。
「て前ェは」
「一人で来たそうです。瀞霊廷から、この更木まで」
限界まで疲弊しきっているらしい、ともすれば今の卯ノ花よりよっぽど具合が悪そうな体を脇に屈んで慮っていた輔忌が補足を入れる。
「ここに着いたのは本当につい先程の事でした。卯ノ花隊長の事を聞いて飛んで来たそうですが……」
……大した野郎だ。俺たちに続いて二番目にここへ来るのが他のどの隊長でもなく、吼翔だとはな。
こっから瀞霊廷だぞ? 尸魂界の半分を横断するような距離だ。俺が言うのも何だが、これを日が中天に昇るまでに走って越えられるような奴が他にいるとは思わなかった。
そのせいか息を整えるのにも必死で碌に声も出ないようだが、その抉ぐるように俺を見上げる懸命の表情。いくら俺でも、それが一刻も早く自隊の隊長の安否を耳に入れたいと思っているからこそのモンだという事は直ぐに分かった。
幾らかの逡巡すら挟むまでもなく、俺ははっきりと答えを口にする。
「卯ノ花は深手を負いはしたが、報告にあった餓鬼は見当たらねえ。奴は……勝ったんだろォよ」
「!!」
「詳細はまだ何も聞いちゃいねえがな。話はこれから始まる。吼翔、て前ェも副官として此処に居るんなら——聞くべき事は聞いておけ」
上がった息も抑えつつある吼翔。
「っ、く……。分かり、ました。せやけど、麒麟寺隊長」
そう言ってよろよろと腰を上げた大男は、俺の視線を受けながら深々と体を前に傾けて、
「その前に——有難う御座いました。隊長の命を繋いでもらって、俺は感謝してもしきれんのです、本当に、恩に着ます」
頭を下げてこう言った。
……ったく。羨ましいとはケほども思いやしねーが、奴の周りにもいつの間にか人が増えたもんだな。あいつと初めて会った頃、元柳斎にしょっぴかれてやって来たあの当時とはどこか違う。
例えそれが小さくたって、一つの人の輪の中心にいる。そいつはやっぱり、孤独に剣を振るうだけだった昔から何かが変わり始めているって証拠なんだろう。
それでも、ああ。
やっぱり羨ましくはなんねーな。
卯ノ花剣八を“マトモな形”で慕ってる奴は、誰もいねぇんだから。
◼️◼️◼️
「…………」
小屋の裏口をくぐり、後ろ手に戸を閉める。
ガタン。古くなった木材のぶつかり合う音が聞こえると同時に、背後から注がれる視線がそこで途切れてくれたような気がして、そこで吼翔権十郎は大きく息をついた。
自隊の隊長から語られた事の顛末に、呆然としていた。
無理も無い。ここ更木で彼女が遭遇したという子供の話だけは前もって耳に入れていたが、それが卯ノ花剣八という死神に与えた影響は、一朝一夕に飲み込むにはあまりにも大きすぎた。
『あの子は、私よりも「剣八」に相応しい』
『この名を名乗る資格は、敗けた私には最早ありません』
それを聞いた吼翔は天地がひっくり返るような驚愕を受けた。正しく狼狽えていた。”剣八”が明け渡される。そんな事実が何より信じられなかった。
『ですが……』
けれど自ら”剣八”を棄てた、一人の女の悔恨を極めるといった様子で吐き出された次の言葉だった。先んじて生じた驚きは更に強いそれによって容易く塗り潰される事になる。
『私はあまりにも
『敗けた私は剣八として死んだ。ですが、私を越える”次の力”は他ならぬ私の剣によって喪われたのです』
『それこそが、私の罪』
言葉を、失っていた。
『……これからて前ェはどうすんだ。”剣八”を棄てた卯ノ花よ』
そこで麒麟寺の質疑が想起される。剣八の価値観に然程重きを置かない彼の考えはこの時も冷静だった。
『天示郎。貴方が私へ再三繰り返してきた言葉の意味が、今になって漸く分かった気がするのです』
『…………』
『目の前の
卯ノ花の発する台詞に誰よりも既視感を覚えた麒麟寺は目を見開き、まるで不愉快なものを見たとでも言わんばかりに睨み付ける。
『
『ええ、そうでしょう。周りの人々が幾ら傷付こうとも動かなかったこの心の初めてそれを欲するに至った切っ掛けが、他ならぬ自身の窮地に依るもの等と』
自らの醜悪な性情は重々理解しているといったふうに自嘲し、女は粛々と言を紡ぐ。
『天示郎……
無論、時間はかかるでしょうが。
そう締め括られた言葉を聞いた麒麟寺は、眉根に皺を寄せたままそれ以上を語ることはしなかった。
『剣八は……』
未だに動揺が抜け切れていない吼翔を差し置き、恐る恐るという調子で輔忌が呟く。
『母さんも、”更木の少年”も名乗る資格を逸した。それで失われた、宙吊りになった剣八の名は、どうなるのですか』
結論から言って、現在の吼翔が抱えている動揺の殆どはこの問いが齎したものである。この事実は……護廷最強と言われた戦闘部隊の副官にまで上りつめた男にとってさえ、とても受け止めきれるような事ではなかったからだ。
『私は、十一番隊長を辞します』
『次の隊長に相応しいのは、吼翔、貴方を置いて他に居ないでしょう』
『そしてこれは……無論、荷が重いと感じるならば断ってくれても構いませんが』
「……………………」
卯ノ花が倒れたと聞いた時点で、少しでも考えなかったかと言われると嘘になる。
十一番隊副隊長。剣八に最も近い男は他ならぬ自分であると、自他共に認める立場に彼は居た。
「俺は……」
自惚れている訳では無い。
埋めようもない実力の差が彼我の間に横たわっているという現実は良く理解している。だからこそ、果たしてこの提言を受けてもいいのだろうか、この身に余る”名”だろうか、と。自らに向けられた疑念は精神を揺さぶり、止め処無く噴き出し続ける。
「っ?」
と——背中を預けていた小屋の戸がガタと動き、体の重心がずらされた事で前方向へとよろめいた。
中の二人が出てきたのだろうか。そう思って後ろへと目を向けると、そこへ顔を出したのは輔忌一人であった。
「…………」
「……吼翔副隊長」
暫し向き合う両者。
果たして、先んじて口を開いたのは輔忌であった。
「お受けするつもりですか、あの話を」
そう来るだろうというのは薄々分かっていた。
態々一人で聞きに来た。それはつまり、母親の名を継ぐ男へとその心意を測りに来たのだろう。真っ直ぐにこちらを見据える瞳に応えるため、吼翔は静かに、しかし確固たるものを持って告白した。
「”剣八”は——先代を討ち取って初めて受け継がれる血塗られた名だと、卯ノ花隊長は常に言うとった」
「ええ」
「もし俺がその名を預かるとすりゃあ、それは卯ノ花隊長を越えた時だと……ずっと、そう。ずっと思っとった。だが、そうはならんみたいだなぁ……」
「それで困惑が勝っている、と?」
どこか遠いものを眺めるように視線を宙に投げながら、男は首を横に振る。
「いいや」
言葉が、一拍だけ空いた。
「受けるさ」
長い、長い息をつくようにポツリと吐き出された一言だった。
隣の青年は理由を問う事をしなかった。
それは男の中だけで完結していれば良い思いが結論を付けたものであり、横から口喧しく物を言うような事ではない。
「そう、ですか」
それを聞いた輔忌は俯くように目を伏せ、
「ならばあなたは僕の敵だ」
心胆を寒からしめる、絶対零度の声だった。
「な……?」
「妥協も、放棄も。僕には許されていないから」
底冷えするような冷たい霊圧を一身に浴び当惑する吼翔に向けて。剣八の血を引く
十一番隊の十一月をサボって申し訳ありませんでした(土下座)
いやあ、麒麟寺の出番がこうも多くなるとは思わんかったです。最初と最後の三人称以外、今回はオール麒麟寺視点です。だってこの人今作屈指の常識人なんだもん……役割的にも出しやすいんだもん……
今回は展開を大きく動かすための繋ぎ回といってもよく、次回から色々……色々あります。ガンバレ輔忌くん!ガンバレくーとび副隊長!
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その夜は静かに
日頃の喧騒から唯一解放されるこの刻限ばかりは、耳鳴りを引き起こすほどに広大な静寂に包まれた十一番修練場も単なる無人の荒野としての存在意義を全うするだけの場所に過ぎない。
しかし、詰まる所を語るとすれば。
ここ連日に渡る夜に限り、終ぞ土地の安息が保証された瞬間は来なかった。
「はっ、はぁ……!」
青白く
その安眠へ文字通りに影を落とす、とある一つの、異類の存在が蠢いていたからだ。それの正体である僕——卯ノ花
否。ただ、というには語弊がある。かろうじて正眼の構えは維持されているものの、その剣先は目に見えるほど震えており、持ち手の内心の揺らぎをそのまま伝えている。
もえる とかされる
千切れる
焼けて 痛い 助けて
いやだ やめろ
敵わない
怖い
根底にこびり付く感情はいつもそれだった。
前に進もうとする意思、すなわち運命に抗う力。すべてが灰塵に帰したあの日、人が持ちうるそれらの能力の一切を粉々に打ち砕かれたからだ。
“いくら手を尽くそうとも覆す事のできない現実がこの世界には幾らでもある”と真に理解し、心の底から恐怖した。それからというもの——この身命を賭した野望を果たすために力を使うことを、他ならぬ自身の体が拒否するようになっていった。
幸か不幸か、既にその時点で僕は一人の死神として生きていくには十分過ぎる程度の実力を備えていた。
だから個々の力量が重んじられる十一番隊に於いても一定以上の立ち位置に甘んずる事が出来たし、何ならこれからの長きに渡る人生を惰性に任せて生き永らえようとも、自分の居場所を自分で作れるだけの能力は持ち合わせている、のだが。
「ふぅ────」
噴き出る汗と共に抜け落ちる腕の力に任せて剣を降ろし、そのまま地面に杖のように突き立てる。支えが無ければ立っているのもやっと、それぐらいの消耗が積み重なっていた。
本当ならこんな筈ではなかった。吼翔副隊長への”果たし合い”に勝つため、僕はここで斬術の鍛錬を積もうとしていただけ。僕の心にのし掛かる恐怖の、真に恐ろしい点はこれなのだ。
“これだけやって敵わなかったらどうすれば”
“どうせやったところで無駄だろう”
“きっと成し遂げられない”
強烈な敗北、そして失敗の疵痕。
何事かを成そうとする度に脳裏に浮かび上がるそれは、謂わば
今この瞬間にさえ、刀の柄を握る手への感触が卯ノ花輔忌という死神の怖れる情感を痛いほどに叩きつけてくる。
皮膚をすり抜け骨まで達し、心の臓を握り潰すかのように襲い掛かる”疑念”とでもいうべき感
『なりません』
『いいえ』
滅多な事では揺らぎを見せないのにも関わらず、その否定の声には僅かな怒りの色が垣間見えるようだった。
多少の驚きは抱くが、表には出さぬように努めて言葉を受け流す。
『既に決めた事です』
『死にに行くようなものだと、理解しているのですか?』
『
迷いの無い即答。これを予想していなかったのか、未だ床に伏せるままに
『思うに、僕と副隊長の実力は然程に離れてはいません。……分かっています。彼と違って僕には卍解が無い』
それは、死神同士の戦いにおいて致命的ともいえる前提ではあるが。
『ですが、僕の斬魄刀の能力はご存知でしょう。どこまで持ち堪えられるかに依るとはいえ——』
『勝つ見込みがあるとでも?』
威圧するような霊圧を真っ向から受けつつ、黙したままに”肯首”を返す。
『………………』
暫し、沈黙が部屋を覆う。
先んじて言を発したのは——
『その裡に潜む”恐れ”を捨てられない限り、貴方に卍解を持つ吼翔は殺せません』
断言。
その座を既にして捨て去った、しかし今の自分などよりも遥かな高みに居る女傑の
『重々、承知の上です。それでも僕は……』
分かりきっていた事だ。だが、僕は思わず歯噛みした。
自分というものの無力さをまざまざと言い付けられた気がして、どうしようもなく情けなかったんだ。
はっきりいって、その時の僕はかなり取り乱していたんだと思う。
絶望的な無力感、胸に刻み込まれた信念、そして——今にも全てを放り投げてでも逃げ出したいという、逃避の願望。相反する三つの思いにすり潰されて、頭がどうにかなりそうだった。
でも。
それでも何かを言い返さないといけない気がして、誰に向けているのかももう分からなくなってきた言葉を吐き出そうとして。
俯かせていた顔を上げた時。
目に入ってきた母の表情を前に、思考は消えた。
千切れんばかりに布団の端を握りしめていた。
静かに、激しく。
長い長い、
失望か、激情か、憐憫か?
いや。
ひどく悲しそうに。
ただ涙を流していたんだ。
ああ。
その涙の理由が、ぼ
「やめ、ろ」
視界が明瞭になっていく。
意識に覆い被さっていた膜のような何かが一気に吹き飛んだような、はたまた世界の全ての景色や物事がぐるりとひっくり返ったような、そんな感覚が襲い掛かる。
夢中にまどろんでいたかのような脱力感が未だに残っているものの、倒れ伏していた上体をゆっくりと起こした。
「─────……」
周囲を見渡せば十一番修練場の変わらぬ風景が目に入る。月の傾きを見る限り、
夢を見ているようだった、とは不思議と思わなかった。
吼翔副隊長に果たし合いを申し入れ、その話を先代の剣八である母さんに持ち込んだ日の”光景”……と云うより、あれは。
「記憶、そのものか」
あたかも、”あの場”で感じた全てがそっくりそのまま反芻されたかのような。
今も尚、たった数分前まで自分が正に”あの場”にいて、同じ事を言われ、同じ事を言い、同じ事を感じたのではないかと錯覚しそうになるほど鮮明かつ強烈に蘇った、いや、
どうやってかは分からない。
だが、こんな事が可能な存在は一つしか思い浮かばなかった。
「……
それは滲み出るかのように。
濁っているような透き通っているような男声のような女声のような、結果として人の不安を煽り高めるためだけに調節されたような
「なっ──」
ただし、そうして自らの斬魄刀が現れるという事はなく——
——引き摺り込まれた、という方が適切だろう。
全く意図する所では無かったのにも関わらず、薄暗く、胎動し、酷く冒涜的な肉と眼の精神世界に足を踏み入れさせられていた。
◼️◼️◼️
……例えば、持ち主の魂魄が過度な消耗を負った時に限り。
それが肉体的なものであれ精神的なものであれ、斬魄刀は使い手の自我を繋ぎ止めるために精神世界へと引き込むことがあるという。
死神とは共依存の関係にある斬魄刀は押し並べて”忠実”な存在であり、持ち主の意に反する行動は滅多に取らないとされている、らしい。
しかし……強行に意識を引き摺り込みながら愉悦に満ちた悪辣な笑みを浮かべるこの姿を、僕にはとても”忠実”である等と見ることは出来そうにない。
痩躯の怪物は引き裂けるかのように醜く嗤い、顔を歪めて囁いた。
『何だと……、っ』
いや待て、考えろ。
母さんを引き合いに出された事で危うく乱れかけた感情を落ち着かせる。こんなもの、僕を苛立たせる為だけに放たれたであろう単なる挑発に過ぎない。
ならばこいつが……僕の精神を執拗に揺さぶろうとする理由は一体何だ?
本来ならば斬魄刀にここまでの力は無いはずだ。持ち主の合意無く意識を落とし、自由自在に夢を見せる。死神と斬魄刀の関係は対等で、だからこそ一方が他方を支配するような事があってはならない。
……まさか。
酌牽蜥蜴は、あの”能力”を僕に使っているのか? あの力なら持ち主の僕にさえ強い影響を与えることができるかもしれない。
だがそれは一体いつからだ? その力を知っている僕がそれを易々と見逃すはずは無いだろう。
長年をかけて僕を騙して、精神世界で突き殺したあの時か? だとすればあの時から何が変わった? 力を奪われたのか?
思考を回すべく沈黙する僕を酌牽蜥蜴は面白そうに見つめ、
けらけら、げらげらと、皮膜の怪人は下劣に嗤う。
知らず知らずの内に”自己”の一切を侵略されていたという事実。確かに、全くの容赦無く突き付けられたそれは例えようもない恐怖となってこの身に襲いかかってくる。
しかし、だ。
『貴様は、何がしたいんだ』
『何を思ってこんな事をする? 何を願い、何を望んでいるっていうんだ? ……僕には分からない。僕を食らって殺戮の限りを尽くすことか? 貴様は前にそう囁いたな。それが貴様の——求めることか』
自分が自分であるかもわからない、見ているものが目の前にあるものではないかもしれない、それは僕にとって真に恐ろしいことじゃあない。
僕が本当に恐れること、それはこの手で母さんを救うことが出来なくなることだ。それを邪魔するものに感じる思いは恐怖ではなく——怒りと、そして侮蔑でしかない。
怯むどころか挑みかかるような口調でにじり寄る僕を見て何を思ったか——あるいは何も思っていないのかもしれない——そんな嗤いをたたえて斬魄刀は言う。
『……戯れ言を』
そこで酌牽蜥蜴はその骨ばった体を弓なりにし、なんとも芝居がかった様子で天を仰ぎながら両腕を広げ、仰々しくもこう言い放った。
言葉の波は、まるで濁流のようだった。
それを目の前の死神が理解しているかいないかなど関係ないとでも言うように、最後の一息は聞き分けのない子供にものを言い聞かせるふうな口調で吐き出された。
焦がれるほどの興奮が、落ち窪んだ眼窩の奥に燃え上がっていた。
そして渦巻く情熱はそのままに——両の目が同じ方向を見ているかも怪しいギョロギョロと跳ね回る視線を急に束ねたかと思えば、その正気とは思えない瞳で僕を見た。
ああ。
そろそろ我慢の限界だ。
『……黙れ!』
その怒声は考えるよりも先に、猛烈な激情を伴いながら口をついて吐き出された。
叶う? 夢が叶うだと?
『貴様の思い通りになどなるものか! 薄汚い下衆め、殺せ殺せというのなら、いいだろう。貴様の力で僕を殺意で満たしてみろ!』
決して許してはおけない。
その邪悪な野望を”夢”などと、まるで希望を見るように綺麗な言葉で語る事それ自体が許せない。
『だが「最初」は貴様だ! 最初に死ぬのは貴様だ、何者に操られようとも! これだけは忘れさせられるとは思うなよ……!』
『何を……!』
ゆっくりと頬を撫ぜる声、諭すような息遣いすら感じる。
こんな事も理解できないのかと、いっそ清々しいと言えるほど高慢な態度。あまりの怒りには目が眩むほどで、その衝動が決定的な所まで来る寸前、その時だ。
息が、詰まった。
昂っていた精神はその言葉になりを潜め、曇りがかっていた頭の中が途端にクリアになる。
それは愉しそうに、痩躯の怪物は細く長く伸びた指をこちらに指して言う。
『…………』
そうだ。
僕は、
いくら母さんでも、いや『初代剣八』であるからこそ、当代を差し置いて戦いに赴くことは決して無い。僕より先に母さんが死ぬ可能性だけは、これで完全に潰えることだろう。
剣八を名乗るという事は——母さんを”救う”ために取り得る最高の手札になる。
その結論に辿り着いてからは早かった。
この身には妥協も放棄も許されない。それを成し遂げるために僕自身の命を含めた全てを犠牲にできる。例え吼翔副隊長を殺さなくてはならないとしても「それは仕方の無いことだ」と、本気でそう思うことができる。
解っている。自分が紛れも無い異常者であり、たった一つの執着のために他者を害することが出来るという点に於いては目の前の怪物とそうそう変わりなど無いという事。今更否定するべくも無い事実であり、それを奴は僕と同じか、それ以上に理解している。
『解って、いる』
この、残酷な世界に産まれ落ちたその時から解っていた。
この膨大な強迫観念に対してはどうしようも無いほどに”凡庸”な感性は、
謂わば、これはその罰なのだろう。理性と衝動の矛盾に苦しみ、足掻き、尚も血塗られた”救い”を希わずにはいられない。
だからこうなって当然。畜生にも劣る卑劣な殺人者として、僕はその行いが報われる最期の時まで進み続けなければならない。
目を上げると、酌牽蜥蜴の手には刀が握られていた。
直ぐに覚る。死神となったその時から片時でも離れたことのないそれは、見間違えようも無く『酌牽蜥蜴』そのものであると。
絶え間無く醜悪な笑みを顔面に貼り付ける骨と皮の怪人。そうして斬魄刀の取った次の行動に、僕は思わず目を見開いた。
僕を突き殺して力を奪ったあの日、その焼き増しのようだった。
ただ一点の違いは——鋭く伸びた五指に握られた
力だ。
どれだけ強く求めても手に入れる事は出来なかった”力”がある。
何かを考えるよりも先に、手が動いた。
刹那の逡巡すらも挟まず、目の前に差し出された刀へと吸い寄せられるように近づいていき、そうして——
『一緒にするなよ、クソ野郎』
差し伸べられたその手を、弾き飛ばした。
ああ、ちくしょう。冷や汗が止まらない。
僕の衝動はあの手を取ることが最善だと判断している。なのに拒絶した。魂の奥底から溶岩のように沸き立つそれに、他ならぬ自分が背を向けた。
想像を絶する苦痛だ。金属が擦り切れるような警笛の音が耳の奥でけたたましく鳴り響き、心臓は狂ったように早鐘を打つ。頭痛もするし、吐き気もだ。だが——こうなる事を全く予想していなかったとでもいうように怒りの色を滲ませた目の前の怪人の顔を見るだけで、少しは胸がすくというものだ。
『可笑しいとは思わなかったのか』
昏く誘うように囁き掛けられた——僕にとってはこの上なく甘美な響きを伴った——問いを全く無視して言い放つ。
『”ただ”剣八が欲しいなら、何も今。この機会に副隊長を殺して奪い取る必要はどこにも無いだろう』
前提が間違っているのだ。
僕は未来の”記憶”を持っている。千年後までに護廷隊の戦力が少なからず落ち込むという事を知っている。名だけが欲しいのならば、実力を徐々に弱めていく代々の剣八のうちいずれかを殺せばそれで済むのだ。十分に力を付ける時間も得られるし、確実に行くならこの手に限る。
……最も、流石に
難易度云々という話ではなく、そんな体たらくでは『剣八として真っ先に更木と戦うこと』を母さんが許さない恐れがある。
母さんが執着を持てなくなる程に”剣八”の格を落としては、態々僕がそれを目指す意味も無くなってしまう。だから僕は
しかし、何故この挑戦を吼翔副隊長が二代目を受け継ぐ直前というこの時に行う必要があるのか。それは”先代の死により受け継がれる”剣八の名が唯一、確実にその前提を覆す継承の機会が他に無いからだ。
『次の戦いで、僕は勝つ。勝って”剣八”を手に入れる』
つまり、これは。
『だけど副隊長は殺さない』
これは謂わば、最後の抵抗。
自分の為だけに誰かを殺せという、僕自身の嫌って止まない醜い衝動を可能な限り押し殺すための悪足掻き。
『二代目剣八の継承権は、
『これは先代の剣八から受け継ぐための殺し合いではなく、
『当然、僕の身勝手は押し通させてもらう。もらうが、そのために人が死ぬのは——』
やっぱり、嫌だ。と。
確かにその通りだ。自分の状態ぐらい分かっているし、このまま吼飛副隊長と戦って生き残れる、どころか、
更に言えば、副隊長が同様に僕を殺さずに勝とうとする、などという甘い考えも捨てるべきだ。彼は”剣八の名を受け入れる”という事の意味を知らぬ人ではない。そうしてここで僕が死ねば、全ては僕が見た”僕が存在しない歴史の記憶”を辿るだけの結果であり、それは母さんの避けられない死を意味する。
酌牽蜥蜴の言う通り、僕の生きる意味そのものである目的を鑑みればこの
だが、本当にそれでいいのか?
出来ない事には出来ないと目を背け、己を騙し、後の人生に消えぬ後悔を残すような者が本当に母を助けられるのか? 自分すら救えぬ者が、本当に?
『さあ、その通りかもしれない』
それを決して否定はしない。時々、僕は何がしたいのかも分からなくなる。
『何が正しい選択かなんて、僕に分かる訳は無い』
それは断じて諦観ではない。僕は強欲で、何よりも多くを求めているから。
『だが
両の拳にぐっと力を込め、皮膜の天井が覆う空に向け、張り裂けるばかりに——叫ぶ!
『僕は変わる。貴様もそうだ! 自分を誇って生きる事を諦めるな! こんな僕達でもそれが出来るんだ!! だから先ずは——』
◼️◼️◼️
ちりちりと、明け色の陽射しが瞼越しに目に入る。
未だ肌寒い外気に身を包まれているだけに、よりその陽光が顕著に感じられるようだった。覚醒した意識と共に薄っすらと目を開き、薄暗くも青々と地面を照らす暁の空をぼんやりと見上げる。
「はぁ」
帰ってきた。
全く浮かない気分ではあるが、今はその事実を噛み締めよう。ゆっくりと上体を起き上がらせ、片膝を投げやりに立てながら傍らの斬魄刀に視線を移す。
精神世界から離れる直前、酌牽蜥蜴の放った言葉に思いを馳せる。
何しろあの顔だ、表情こそ読み取れなかったものの……あの声色は奴の思うところを余す事無く僕に叩き付けてきた。
……極々短い、まるで一人きりで呟く愚痴のような単語を二、三と零して奴は消えた。
ただ一つ分かる事は、あいつは本当に”がっかり”している。文字通りではある。しかしそれは、もはや絶望の域に達するほどの失望であったらしい。ほんの少しだけ時間を戻せばあんなに愉しそうに嗤いの形相を浮かべていた事なんて、それこそ想像も付かないほどに……萎え切っていた。
つまり結局、協力を取り付ける事すら出来なかったわけだ。
この分では正直……勝ち目はあまり無いだろうな。
まあ、それでも。
「良いんだ、これで」
これが本当に僕のやりたかった事なのかは分からない。ただ、今だけは、この清々しい胸の気持ちに従っていたい。
もうすぐ朝日が昇る頃合いだ。
さんさんと輝くそれを見上げながらゆっくりと立ち上がり、纏わりつく冷気を振り払いながら歩き出す。
新しい一日の始まり。
そしてこの日こそが、全てを決める一日だった。
さあ、戦いを始めよう。
まるで主人公みたいだぁ…(直喩)
投稿が遅れに遅れて申し訳…ありませんでした…ッ 被殺願望杯が始まってからはや半年以上が経ち、短編と銘を打っておきながら終わる気配がありません。オマケに半エタり状態の別作品から熱烈な感想を頂いてしまい…ううっ、頑張ります…
それと、前回の誤字報告ありがとうございました。前回のそれが初めての経験だったので嬉しいやら恥ずかしいやら。
ただ何であれ、読者様からの反応は作者にとって望外の喜びをもたらすものであります。拙作をお楽しみ頂けましたら、是非感想など書き込んだくださればモチベーションも爆上がりてなワケでして…へへ…(欲しがり)
で、輔忌くんが前回の最後で唐突に”オメーをブチのめす”発言をしたのには思ったよりマトモな思惑があったんですね。それが果たして上手くいくのやら…どうぞお楽しみに。
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Cut the thin skin and divide it into two.
この日。
明け方の僅かな明るさに目を醒ましたその瞬間から、全ての景色が違って見えるような気がした。
「…………」
布団をどかし、顔を洗い、
何故だか、普段から何気なく行なっていた動作らが今日ばかりは新鮮な感覚を伴っていて。その時その時に自分が何をしているのかがハッキリと分かり、改めて自分というものを意識させられた。
「…………」
いつも通りに畳まれている死覇装を着付け、しかし一つだけ今までとは違う”それ”に目を向ける。
隊長羽織。
十三隊の各隊長にのみ着用が許される、死神にとってあまりにも重い意味を持つ羽織。前任の隊長は、隊の異動にあたり既にその立場を辞していた。
それから程無くして、彼は隊長の地位を任命された。
「…………ふぅ」
袖を通したうえで、これは面白いほどに違和感しか感じないなと肩をすくめる。それでも——隊長羽織に”十一”の文字を背負うという事の重責を噛み締めながら、これから起こる事柄を鑑みれば自分でも妙だと思うほど落ち着いた気分で
◼️◼️◼️
道を歩けば、目が醒めてから感じていた景色の見え方の違いがより顕著に感じられるように思えた。
「今日は確か十一番隊の……」
「——ああ、まさかあの輔忌が……」
護廷隊が、いや——瀞霊廷中がさざめいている。
二代目『剣八』を決する戦い。まず間違い無く尸魂界の歴史へと永遠に刻まれるであろう出来事におよそ全ての死神たちが多大なる関心を注ぎ込んでいるのが分かる。
「しっ……吼翔隊長が通るぞ……」
(……そうか)
他ならぬ当事者である自分がこの変化を誰よりも鋭敏に感じ取っているというのはある種当然の事かと、ひとり納得して。
すう、と目を閉じた。
視界が暗闇に覆われつつも吼翔の足取りに不安は無い。この程度で歩行に支障が出るほどヤワな鍛え方はしていないし、何より今は——声が聴きたいヤツが居る。
「なあ」
『なんだい?』
一瞬の間も置かずに声が返って来た。
誰に向けてかも判然としないような呟きの意図をやはり汲み取って返事を返してくれるこいつは、これから自分が何を言うのかも正しく理解しているのだろう。
それでも何事かと訊き返したということは——この気持ちを伝えたいのではなく、言いたいからこそ言うのだと。それを分かってくれているからに他ならない。
やはりこいつには敵わんな。そうぼんやり考えながら、他の何よりも信頼を置く自らの相棒に対してその心中を吐露し始める。
「ご免な」
『なにが?』
「オマエを遣って、輔忌を斬ること」
『オレはあの子に情なんて持ってないよ。知ってるでしょ? そんなセッテンも無かったしさ』
「ああ知っとる。オマエが俺を慮ってくれとるってこともな」
『……ん』
少しだけバツが悪そうに言葉を詰まらせた胸中の声に、やはりそうかと眉を顰める。
「俺は——こんな日が永遠に来なけりゃ良いと思っとった。輔忌を斬るのに思うところが無い訳がねぇ。……知っとるよ。オマエは、俺に自分を曲げて欲しくねぇんだろう? 俺が嫌だと思う事をやって欲しくない」
『……ソレが分かってるならさぁ、どーしてここで止まらずに突っ張っちゃうかなぁ。ねぇ、主様?』
「いや……済まねぇ……」
自分から話を切り出しておいて何だというのは否めないが、自分の問題に対する推測にこうも真正面から肯定を返されると罪悪感が強くなる。
思わず落ち込んだ様子を見せる吼翔だが、無二の相棒はくつくつと笑いを堪えてこう答えた。
『冗談。まあ、全く思ってないってんじゃ無いけどさ——そうまでしなきゃならない
「…………」
『うん、大丈夫。今日まで色々な事があったけど——オレはオレで、主様はやっぱり主様で、それは今も昔も変わってない』
暗闇に紛れて耳朶を揺らすその声はしかし、自分たちが進む道を指し示すように迷いの無い朗らかな色があって。
そうして再び目を開いたとき——吼翔の目の前に広がるその光景は、尸魂界のいかなる地にも含まれない絶景の様相を呈していた。
まずあったのは、地にも空にも果て知れず広がる青空であった。
空中には無数の岩石の欠片が散りばめられており、吼翔が立っているのはその内のひとつ、一際大きな、まるで無人の荒野を切り出して浮かべた小島のような大地。
『何があっても、どんな結果が待っていても』
目を細めつつ辺りに吹き荒ぶ風を感じながら、この世界の主は目前に立つ異類の存在を真っ直ぐに見つめる。
『——最後までそばにいるからさ!』
次の瞬間、周囲が強い光に覆われた。
「待っ……」
眩さに思わず目を閉じ、そして開くと——平素と変わらぬ瀞霊廷の街並みがあるだけだった。
暫し辺りを見回して余りにも突然な現実への帰還に呆然としていると、突然、吼翔はぷっと笑いを吹き出した。その意図を徐々に察し始めたのだ。
「野郎、照れてやんの」
慣れない台詞を吐くからだ、と独り言ちる。
そんな悪態にもキレがなく、どうやら彼自身、その献身に報いたいと思ってしまっているらしい。それがまた心底おかしくて、額を押さえるも笑いが止まらない。
ひとしきり笑い切ったあと。目の端に少しだけ浮かんだ雫を指で拭い、あの世界と同じように良く晴れた空へと向かって囁いた。
「ありがとうな。——行ってくる」
◼️◼️◼️
世紀の対決を見届けようとこの場に集まった隊士の総数、実に数百を優に越えていた。
周囲の喧騒を歯牙にも掛けず、
「…………」
これ程までの人数がここに集まったのは、
隊士が隊長へと至る条件。その一つが『隊員二百名以上の立会いのもと現隊長を一対一の対決で殺害する』こと。
曲がりなりにも隊長としてその任を受けた吼翔が同隊の隊士である輔忌と果たし合いを行う——例え輔忌自身にその気が無くとも周囲の認識は違う。この
(殺しはしない)
四方より注がれる色めきだった視線。それは時の”最強の死神”を簒奪せんと目論む青年に対する好奇心であったり、卯ノ花八千流という咎人を憎む者からの怒りであったり、或いは——限り無く勝ち目の薄い戦いに何故赴いたと、輔忌という青年を知る者たちからの当惑。
いや、勝ちの目が薄い、というのは理由の一つにも入らないのかもしれない。彼を知る者らにとっての輔忌とは親を敬い、吼翔を慕い、部下からの信頼も厚く、何より……戦いに狂う剣八としての性分など到底持ち合わせていない筈だった。
(ただ、勝つ。勝ってようやく——全てが始まる)
当の輔忌は彼らに対して心のどこかでは申し訳ないと感じている一方で、やはり思考の大半はこれより始まる戦いに向けていた。
この試練を吼翔と共に生きて終える事が出来たなら、その時は帰りを待つ人たちに頭を下げて謝ろう。ただ、
「よォ」
斯くして青年がただ時を待っていると——群衆の中から割って現れるように、一つの人影が寄って来た。
視界にちらりと映った隊長羽織。すわ吼翔がやって来たのかと身構え目線を上げれば、そこに居たのは四番隊隊長、麒麟寺であった。
「何か御用ですか?」
この場に隊長格が躍り出たという事実に場の空気が一斉に緊張するが、当の本人らは周囲などまるで気にしていないかのように言葉を交わす。
凪の空気。この場は差し詰め台風の目か。時代の嵐の渦中に居ながら、覚悟を決めた者の心を常に支配するのは理性の二文字だった。
「常日頃から多忙を極める四番隊の隊長が」
「馬鹿、十四年も経ちゃあ俺らの仕事も減るっつーの。こんなんが永遠に続いて堪るかよ」
「それもそうです」
麒麟寺がこの場へ来ない理由として使うにはそろそろ無理があるな、と思い直す。
「なら、どうして?」
「実を言やァ、これも仕事だ。……次の隊長を決める死合いが執り行われるとくれば、そいつを仕切る役が要るだろう。二百人の立ち会いとは別にな」
「それが天示郎さん、何故貴方なんですか?」
率直な疑問を輔忌が口にすると、麒麟寺はいかにも気怠げに頭を掻きながら答えを言う。
「こーゆーのは普通、総隊長とかの出番なんだけどよ。それが止められたんだ。誰にって? ……卯ノ花にだよ」
「…………」
「誰がやるって話が隊首会で出てよ。”じゃあ定例通りに”って事で纏まる直前、吼翔の奴が懐から手紙を取り出してきやがった。誰からっつーのは言うまでもないだろうが、とにかくその内容をなぞる形で元柳斎がハブられたってこったな。それでお前らとも何かと縁がある俺に白羽の矢が立ったってのは俺にとっちゃ迷惑なことでしかねー訳だが……」
(ああ……)
輔忌は、ここで母の意図する所がすとんと理解できた。
山本元柳斎重國。護廷十三隊総隊長でありながら、先の大戦で猛威を振るった災禍の元凶。そして——輔忌が抱える傷心の直接的な根源そのもの。
剣八として相応しいのは吼翔であると理解している『卯ノ花剣八』としては、この戦いに於いて輔忌を手助けするという事は己の矜持に反する行為。
そして一介の四番隊員でしかない自らに新しくその名を付けたという『卯ノ花烈』には、次代の隊長を決するものとも見做されているこの戦いを止める力は無い。
だからこれは、ただ一人の『母』として。
卯ノ花輔忌という青年が赴く戦いに母として出来る行いを全うした。例えそれが本当に微々たる、事の大局には殆ど影響を齎さない行動であっても。
「——ありがとう、ございます」
静々と、しかし万感の思いを乗せられて零れ落ちた呟きへと繋がった。
「……いいか、輔忌よ」
麒麟寺はその輔忌の様子についてとやかく言う事をしなかった。彼の母からは僅かな話しか聞いていないが、それでも目の前の青年がどういう状態でこの場に居るのか、またこのやり取りがどれほど輔忌にとって救いになったかぐらいは言葉に表されずとも大方見当が付く。
だから伝えるべき事を伝えた今、次に口にする言葉は彼等の情感についてなどでは無い。
「
それはつまり——
「卯ノ花にはもう少し教える時間が必要かとも思ったが、奴の才能は折り紙付きだ。俺の
「…………」
「——『上』に行ってくる。だからまあ、俺の仕事はこれが最後って事になるな」
「……それを今、何故僕に?」
「分からねぇか?」
全くこいつは信用できない。そう言いたいかのように大きく呆れた素振りを見せた麒麟寺は、この期に及んでさえまるで普段通りの、人を小馬鹿にしたような調子でこう言った。
「俺ぁ自分で言うのも何だが、仕事に関しちゃ”完璧主義”だ。……て
——俺の最後の仕事に、後味の悪いモンを残していくような真似だけは許さねえ。
「…………」
「ああ、て前ェが俺のために動くなんて事がある訳は無いってのは良く知ってるぜ。だが俺は——て前ェらが知っての通りどうしようもなく”我儘”な奴らしいからな。どう転ぶにせよ
生きて帰ってこい、とは口が裂けても言えやしないんだろうな。
そんな益体もないことを朧げに考えながらその実、輔忌は麒麟寺の
「天示郎、さん……」
恐らく、麒麟寺は感謝の言葉を素直に受け取りはしないだろう。
それでも、彼は決して見失うべきではないものに再び目を向けさせてくれた。その事実に対して輔忌が今一度言葉を返そうとすると——
「——井戸端会議をしている時間は無くなったみたいだぜ、どォやらよ」
「…………!!」
麒麟寺が輔忌の元を離れ、これより戦場と化す舞台の中央にまで進み、一層騒めく群衆の中のある一点を見遣る。やがて
「——ちぃとノンビリ歩き過ぎたみたいやなァ」
黒髪短髪の大男。
十一番隊の命運を一身に背負い、輔忌との雌雄を決するべく死合う事を余儀無くされた男——吼翔権十郎だった。
「来たか、吼翔」
「遅うなってすんません、麒麟寺隊長。始めましょうか」
「……良いのかよ? これが最後になるかもしれねえぞ」
「構いませんよ」
様々な意味が込められた問い掛け。どんな結果に至ろうともこの戦いは彼らにとって大いなる変革を齎すだろう。一つだけ確かな事実は、今まで通りの日常が再び訪れる事だけは決して無いということだが。
「——たった今、発破ならかけられて来たもんで」
そう言いながら自らの斬魄刀を軽く撫ぜた吼翔に目を細め、”何も言う事は無い”と判断したのか。麒麟寺は周囲の群衆へ向けて声高に宣言する。
「——此れより!! 十一番隊隊長吼翔権十郎、並び同隊士卯ノ花輔忌による『果たし合い』を始める! 隊長就任の資格に基づく掟により、この戦いで卯ノ花輔忌が吼翔権十郎を殺害した場合は……」
普段の斜に構えた態度からは想像も付かない程に凛とした声で場を仕切る麒麟寺。護廷十三隊の隊長として“最後”の仕事に悔いを残したく無いとの先程の言は伊達や酔狂ではないらしい、と輔忌は考え——ゆらりと立ち上がり、こちらへ歩みを進める吼翔に目線を向ける。
「御早う御座います、吼翔隊長」
「おう」
これから死闘を演じるにしては余りにも平静を保った視線。それが既にして覚悟を決めた両雄の間に交錯する。遂に対面を果たした二人の間に横たわる沈黙の中で、先んじて口を切ったのはやはり吼翔だった。
「今更
「…………」
「あの日、俺が剣八の名を継ぐ気でいるとお前に言った時。お前は何も訊いてこなかったな。それはお前が、俺の”決意”が何なのかってのは俺だけが知ってりゃええモンなんだと考えたからだろう」
「…………」
「——正直、あの時はそれを言わずに済んで助かったと思ったよ。だったら俺も同じ道理を返すまでや。無理に踏み入ろうとはせん。ただ、これだけ覚えとけ」
そこで、絶えず響き渡っていた麒麟寺の声がピタリと止んだ。最後に周囲へここから更に離れるように言った後、こちらに向かって目で合図を送ってくる。——配置に付け、という事だろう。
そうして吼翔は大きく溜め息をつき、背を向け、楕円形に形作られた広場の内に輔忌の対面となる方向へと歩いていく。頭を後ろ手に掻きながら、まるで独り言ちるかのようにこう呟いた。
「俺も、引いてはやれん事情を持ってこの場に立っとるっつう事をな」
この戦いを、自分が制する。
「それでは——四番隊隊長、麒麟寺天示郎の名の下に、決闘の開始を此処に宣言する!」
吼翔が抱き続けてきた”何か”を確実に打ち砕く結果になるであろうその勝利が彼にとってどれほどの無念か、輔忌は想像することさえ儘ならない。
ただ、譲れないものがあるのは此方も同じだったというだけの話。
「
じゃらン、と。
その場に現出したのは二振りの刀。本体の凶暴性などまるで感じさせないほど精緻に彫り込まれた古美術品のような外見は元より、その真価には秘められた力がある。
尸魂界に一組しか存在しないと言われる二刀一対の斬魄刀。一生の内に一度でも実物を見れるとも限らない稀有な存在に観衆が
いや、この場合——
「ぐッ……!」
臨戦態勢へと移行した瞬間、身を焼くような獄炎の幻惑が辺りを包む。視界に映る全ての死神の体が焼ける臭い、顔が融け、剥き出しの眼球がこぼれ落ちる妄想が頭蓋に響くように駆け巡る。
輔忌が”あの日”を思い出すのは、果てしなく困難な道のりへと足を踏み出す行為によってだ。
それはどうしようもない力に押さえつけられ、振り回され、失敗し、傷付く事が恐ろしいからだ。それだけの体験が彼をそうさせた。そういう意味では、”ほとんど勝ち目も無いような”この戦いに対して感じる恐怖は最も強烈な類のものになる。
本来なら—— 立って、こうして息を吸えていることすら奇跡のようだと青年は思う。それでもどうにか構えの体裁を保っていられる。
(……母さんのしてくれた事のお陰に違いない)
災禍の元凶、山本元柳斎がこの場に居ない事が直接の理由という訳ではない。母の想いが子に伝わり、その胸を満たす感謝の心こそが輔忌の足を支えているのだ。
本来の実力が出せる等とはとても言えない。だが、それでも戦うことはできると分かった。それだけ分かれば十分だった。
腕の震えは徐々に収まり、目には闘志が宿る。
輔忌の様子を黙してただ見ていた吼翔は、遂に刀を抜き払う——
吼翔隊長の斬魄刀。ああいうのが本来あるべき姿勢ってもんじゃないんですかねぇ! どこかの誰かは持ち主を執拗に虐待してくるとか、斬魄刀として恥ずかしくないのかよ?
ホワイトもそう思います
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避けられぬ戦い
見届ける資格など、ある筈が無い。
戦士としての矜持を軽んじてはならない——等と、身の毛もよだつばかりに無責任な題目をさも”仕方がない”とでも言うように振りかざし、私が語るところの『誇りに殉ずる道』に従って進む息子を——それがまるで無謀な、自殺まがいの愚行だというのに——止める事さえしなかった。
……いや、それも、それすらも。
今にして思えば、
私は——あの子が分からない。
その違和に初めから気付いていた訳ではない。けれど今回の件と言い、あの子が命まで懸けるに足る”何か”は確かに在る筈なのに、それが全く理解できない。
そうして輔忌が「吼翔との決闘を決めた」と一方的に言って聞かせたあの日に漸く、私はその事実に克明に気付かされたのだ。
何を見ているのか、
かつて惹かれた筈のその色を。
得手勝手にも、『恐ろしい』等と感じていた事を。
◼️◼️◼️
きりきり、きりきり……と。
金属がゆっくり引き延ばされていくかのようなその雑音を耳にしながら、
その刀からは、まず
至近距離にて相手の刀から手指を守るための役割を果たすそれが無くなる。これが彼にとって不利な変化になるのかと言えば……答えは否だ。
その斬魄刀——
柄の片側に寄りながら先細っていく刀身はやがて鋼という材質にあるまじき”柔らかさ”を帯びていく。刀身……いや、もはや鋼線とでも呼ぶべきか。何重にも巻き束ねられた長大なそれは武器として十分な破壊力を既に持っているが、あの飛掛の真価はそんなものではない。
注目すべきは刀身にあたる鋼線ではなく、刃にあたる部分だ。
その
先端は鋭く尖り、逆に根本は丸みを帯びる。水の雫を縦に潰したような形の細長い金属板が、根本の中心に空いた小さな穴を鋼線が縫うようにして纏めている。何枚も何枚も……。
鋼線に括り付けられた総計十八枚もの金属板。
それが斬魄刀『飛掛』の刃。
ぽつり、”剣八”に最も近い男は——他の誰にも聞こえぬよう、心中に言葉を連ねてゆく。
傲りでも何でも無く、それは単なる事実であって。業腹ではあろうが輔忌自身さえ認めざるを得ないような現実を頭の中に並べ連ねつつ。
しかし。
しかし、十一番隊隊長は己の前言を全く無視するかのように——
巻き束ねられた斬魄刀、飛掛を横薙ぎに振るい……バシンッ!! と、一瞬にして伸び切った鞭のような刀身が空気を引き千切る音が炸裂する。
歩みは、尚も止まらない。
「ああ」
歩みは止まらない。
見遣れば輔忌も同様に、その歩みをじりじりと進めている。抱える思惑は違えども、ことこの戦いにおける姿勢は奇しくも全く同じであった——。
瞬間。
緩やかに、しかし鮮烈なまでの緊張感を孕みながら近づく二人の影が——消失した。
大半の観衆は何が起きたのか理解すらできず。それが『見えた』数少ない実力者の内ある者はさっと顔を青ざめさせ、またある者は興味深そうに眉を上げる。
尸魂界屈指の実力者らが互いを仕留めるために放つ全力の瞬歩。再び両者の姿が像としてこの世界に映った時。
敵を食い破らんと奔る刃同士の哭き声が、蒼天の空に木霊した。
◼️◼️◼️
——見届ける資格など、ある筈が無い、のに。
ああ、今日、私はその場所に行くつもりは無かった。合わせる顔も無いと思っていた。
あの、空を軋ませるような霊圧と剣戟の音を感じるまでは。
どうして私は、走っている。
「はあっ、はあっ」
傷は癒えようとも霊圧を測れば些かの爪痕を引き摺っていると言わざるを得ないこの体で、というだけの話ではない。
どうして涙が溢れるのだろう。
どうして胸が痛むのだろう。
母親のくせに、私自身が捨てた名を懸けて戦う息子を止める事さえ出来なかったくせに。
それでも、貴方に一つだけ。
恥を忍ぼうと”母親として”、訊きたいことがまだ一つあるから。
輔忌、貴方は——
◼️◼️◼️
ギン、ギィン! と、刃を纏った鋼線による連撃を二本の刀で捌きつつ、卯ノ花
鞭のような特性を併せ持つ斬魄刀、
時に流し、時に弾き、時に躱し……しかし防戦一方では削られるだけ。すぐにでも攻勢に回らなければならない。
手数ではこちらが勝っている分、付け入る隙は必ずある筈なのだが——
(……、っぐ)
その隙をどうしても見付けることが出来ない。
流れるような吼翔隊長の剣捌きが飛掛の弱点である隙の大きさを見せないようにしているというのは勿論そうだが、それ以上に。
(頭が割れそうだ……! クソッ!)
未だに癒えない心の傷が、僅かに必要な集中すらを掻き乱して止まないのだ。
多少は持ち直したとはいえやはり一時凌ぎに過ぎず、徐々に思考の余裕が奪われていくのが分かる。このままでは飛掛の攻撃に耐え続けることさえ儘ならなくなるのは必然だ。
増してや——吼翔権十郎の持つ斬魄刀に秘められた
と……攻勢に回る為に裂ける余裕が圧倒的に不足する中、ジリ貧のままに押されていると。
「
ガギン、と一際強い衝撃音を響かせると同時に吼翔隊長は飛掛と共に後方へ下がった。
明らかに優勢である膠着状態を解いてまで、何故——? 胡乱に思う僕の思考を他所に、この戦場を支配する彼はどこか憂鬱な色を覗かせて言う。
「これが最後なら……この日は全力のお前と戦おうと思っとった。だがそりゃあ、どうやら叶いそうも無ぇ」
「……らしく無い、ですね」
確かに、全力を出せない事は僕にとっての不都合に違いない。だがだからと言って、それはあなたにとっての好都合でしかないじゃないか。
「…………」
「僕達は互いに想像の及ばないような決意を以ってここまで来たはず。……だからこそ僕には分かる。この期に及んでまで戦いの拮抗なんかを望むようであれば、あなたはたった二文字の名前を巡って僕と殺し合いなんてしないでしょうに」
どんな手を使ってでも——“剣八”が欲しい。その欲求に関して言えば僕と隊長はこの上なく通じている。例え、一体何が互いをそうさせるのかを互いに知らないのだとしても。
「……俺一人の戦いなら、そら、そーやろうなぁ」
俯き、項垂れ、だらりと両腕を下ろしながら懇々と言葉を垂れる。それなのに流石は十一番隊隊長の成せる技か、一見した感触とは違って付け入る隙が全く無い。不用意に近づけば直ぐ様斬られる——その緊張感を手放さないよう気を張り詰めつつ、吼翔隊長の言に耳を傾ける。
「それじゃアカンのや。俺は今日……俺の戦いを
「………?」
捧げる? 見せてやりたくない? 一体……何を言っているんだ。
「まあ……お前が調子を出せん事情も分かっとるし、そりゃあ仕方の無い事やと割り切ってもいる。納得してくれると、思うしかねぇか」
「何を……」
「——お喋りが過ぎたな」
どこか自分自身に言い聞かせているような独り言をひとしきり語り終えた後、吼翔隊長は目線を明確に僕へと向け直した。
「そろそろ息も整えられたか? そんなら精々、“戦い”のテイぐらいは保ててくれとでもお祈りしつつよ——ちょいと本気でやらせて貰うで」
「………っ!」
来るか……あの
ただならぬ気配を表出させながらも、ぶぅン! と、先程までと同様強烈な"飛掛"の一撃が飛来する。
(——弾く! 一発を凌いでから様子を見る!)
唸りをあげて襲い掛かる鋼線だが、一回までなら確実に払えることは分かっている。飽くまでも迎え撃つ姿勢で二刀を構え、右手から横薙ぎに振るわれる斬魄刀に沿わせる形で接触させた瞬間——。
「っ!!?」
がッギぃ——!! という轟音と共に、
(ま、——ずいッ!)
飛掛の能力から何が起こったかを辛うじて把握し、それならば次に取るべき行動は何かと逡巡……する暇も惜しみ、全力で体勢を低く
斬魄刀”飛掛”の能力——それは、鋼線に括り付けられた十八枚の刃を個別に『固定』する力。
横薙ぎに振るわれ、酌牽蜥蜴に払い除けられるはずだった刀身が接触する瞬間、付属する刃が『固定』された。結果として僕の防御は受け止められ、停止した刃よりも先端に位置する刀身は依然勢いを殺されずに——
ズパッ! と。
咄嗟に低く屈めた体を掠めるように、僕の頭上を猛然と刈り取っていった。
「良く躱した。ほんなら——こいつはどうや」
「おおおッ!」
ギリギリで躱し切れなかったのだろう、額の片側を斬られたのか右目の視界が血で滲む。それを拭っている暇などある訳も無く、いつの間にか手繰られていた飛掛が今度は真っ直ぐに飛んで来る。
鞭という武器は一撃を放った瞬間にしか攻撃の意味を成さず、また防御の手段も持たないという弱点を持つが……飛掛は違う。
伸び切っていようが
(いつ”固定”される……!?)
直線の軌道でこちらに走る飛掛はただえさえ防ぎ難い威力を持つというのに、例え弾き飛ばすことが可能だとしても固定の能力で押し切れない。
ならばここは……!
「ふっ───」
正面から相手をするのは間違いなく悪手。飛んで来る一撃の側面へと這わせるように刀を押し当て、軌道をズラしながら直撃を避ける!
例え迫り合いに強かろうが、一度攻撃を外せば隙が大きいのは変わらないはず。伸び切った飛掛の導線に沿うようにして一気に距離を詰めることができる——!
「これ、でっ」
と。
一旦は過ぎ去った危機から注意を逸らす余裕が生まれ、待ち望んだ攻撃の機会が訪れたと思った、瞬間。
「引っ掛けろ……」
意識を向け直した先の、吼翔隊長のその表情には、『不正解だ』とでも言うかのような落胆の色があって——
「
ぐわんっ! という音さえ聞こえるようだった。
敵の攻撃を捌き切り、隙だらけの相手の懐へ潜り込もうと前に進んでいた僕を上回る速度で、吼翔隊長が
「なん——」
「らおォ!!」
ゴッバギィ! と。
「ぐっ──」
攻め手の反応を正に擦り抜ける速度で、意識の外からの蹴りが僕の肋骨を抉り砕いた。
「が、あっあぁぁ!!?」
カウンター!? まさか、そんな——こちらが反撃に移るタイミングとしては完璧だった! そもそも一撃を放ってからあんなに速く体勢を立て直して、しかも飛び蹴りを入れる余裕なんて出来る筈が……
「っは!?」
血を吐きながら吹き飛ばされて倒れ込む寸前、伸び切った飛掛の刀身がはたと目に入った。
“固定”されている……まさか!?
(空中に刃を『引っ掛けた』まま、柄側から引くことで本体を引き寄せた!? さながらゴム紐に物を挟んで飛ばすように……!)
戦闘経験の差か、または戦いに向ける覚悟の差か?
変幻自在、無数の戦術。その飛掛の力の一端すら引き出せていないはずなのに、ただ一つ確かな事。それは”固定”の能力を解放してからたったの二手にして、絶体絶命にまで追い込まれているという事実だけだった。
なんとしてでも瞬閧使い以外に白打を使わせたい系作者、人呼んで逆張りクソ野郎とはこの点=嘘よ。がはは!
……輔忌くん、そろそろ勝てそう、ですかね(申し訳なくなってきた)(結局死なせるための杯に出しておいて抱く感情ではない)(能力の後発開示等のイベントで大幅なOSR稼ぎが可能なので大丈夫です)
戦闘シーンを書くのが10ヶ月ぶりだからといって更新は遅いし分量も少し足りんのと違うか?すいません……
江戸時代的時代背景のくせに堂々と外来語を連発できるブリーチ二次で更新遅いのは言い訳なんぞできんわ!鬼滅ニ次とかの作者様はそのへん大変なんだぞ!
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輔忌
都合上、あと数話はこれぐらい長いかもしれません。
それは遥か遠く、昔々の出来事だった。
その子供は物心の付き始めた頃、自分が周囲の”大人たち”から強い憎悪の目を向けられていることに気が付いた。
そういったものから自分を守ってくれる”大人たち”も居たが、既に頭の中に内包されていた未来の記憶との折り合いも付けられていなかった彼にとって”身に覚えの無い事”で訳のわからない悪意を毎日のように浴びせられる日々に、当然の事ではあるが疑問や恐怖を感じずにはいられなかった。
言うに及ばず、少年が暗い幼少期を過ごしていた事は誰の目から見ても確かであった。
そして——普通の子供になど向けていい筈が無いほどの悪意は、彼らに手の付けようもない程の広がりを見せていく。
大人が向ける視線に影響された同年代の子供たちからすら無邪気かつ心無い言動を受け始めた頃。幼かった彼は自分自身の運命をこう思った。
◼️◼️◼️
一瞬だけ、意識が遠のいていた。
「…………」
明滅する意識を手探りで押さえ込みながら、卯ノ花
随分と——懐かしい記憶が開いた気がする。
あの頃はまだ自分がどういうモノなのかも分かっていなくて、世の中が窮屈で仕方がなかったな。
(なんで、こんな事考えてんだっけ)
鼓動が脈打つ。脳の奥底が弾けるように熱い。これは戦いの感覚だ。自分の中で戦意は未だに煮え滾っているんだと確かに分かる。
なのに、何故だろう。
この青い空の真ん中から照りつける日差しに感光したものだろうか——瞼の裏に映り込んだあの時の記憶が、妙に頭から離れない。
いや。
(いいか、どうでも。そんな事は)
そう。結局のところ僕にとっては自分自身の事などどうだっていい。やらなければならない事が、まだ他にあるから。
思考を切り替え、現実に引き戻す。地面に倒れ込んだまま身体の具合を確認する。
あばらを何本か
だけど、これ以上は持ち堪えてもいられない。
そろそろ手札を切る時か——。
(
自身の脚が輔忌の身体を砕いた感触を確信しながら、しかし
(
否、仕掛けることが出来なかったと言うべきか。
霊圧の上昇は死神同士の戦闘において最も重要な意味を持つ。輔忌が何をしたのか、あるいはしようとしているのかが不明な現状、杞憂であるなどと考えはしない。
圧倒的に優位な状況にあるからこそ、ここで無理に攻めた所で得はしない。
そして何より——吼翔は輔忌の斬魄刀、酌牽蜥蜴の能力を
彼自身が戦闘専門部隊の副隊長として幾多の戦場を駆け巡り名声を轟かせてきた一方、輔忌はここ十余年の間全くと言って良いほど戦闘行為に関わって来なかった。
斬魄刀の能力に目覚めてから程なくして件の戦争に巻き込まれたという輔忌の実力は誰の目にも晒される事が無く、その理由の実態を知る数少ない一人である吼翔ですらも例外ではない。
(出し惜しみなんぞしていられる状況でも無し。二刀の特性を発現しただけの
その斬魄刀に何らかの『底』があるならば、それを出してくるのはこの場面をおいて他に無い。警戒を新たに、ゆっくりと立ち上がる青年の一挙手一投足を見逃すまいと注意深く観察していると——、
(あ?)
ふと、気付く。変化しているのは霊圧の強さだけではない。
過去の心傷によるものだろうが、輔忌はこの戦いが始まってから常に息を少しだけ乱し続けていた。加えて肋骨を数本折った影響もあり、肉体、精神状態は共に最悪に近いだろう。
だが……今の彼はどうだ?
滝のように流れ落ちる汗——良いだろう。
苦悶に満ちた表情——この状況、そしてダメージを鑑みればそれも道理だ。
しかし、その”息”だけが何処か違う。
平常時と比べて明らかに大きくなっているのは確かだ。だが、その、最早一切の乱れを見せないほどに規則正しく整った、
「な」
一瞬、だった。
敵の動きに応じて思考を切り上げる、といったプロセスを踏む間も無く。
吼翔権十郎の目の前に、既にして斬魄刀を振り上げた状態の輔忌が姿を現した。
「ッ
言い切る隙さえ与えられなかった吼翔は即座に鞭のような斬魄刀を振るうことで攻撃を防ごうとし、そして。
「——ふっ!」
下段から薙ぎ払われる、余りにも鋭く重い一撃。
がギぃん! という莫大な金属音が響き渡った。
「ぐあッ……!」
これは如何なる不条理か——質量に何倍もの開きがある酌牽蜥蜴の一振りに、
異常だ。これは——輔忌自身の膂力が上がっている。
飛掛の強みであるリーチの長さは、裏を返せば懐に潜り込まれると本領を発揮できなくなるという事だ。距離を離そうと
しかし、これは。
(速さや力だけじゃねぇ、最初のアレは……瞬歩の”出始め”に気づけんかった!
こんな馬鹿馬鹿しい話があるか、と十一番隊長は思う。霊圧、身体能力、技術……死神としての戦闘能力、およそ全ての要素が一瞬の内にハネ上がっている。
「有り得ん!」
吼翔にはそれが獲物を絡め取る蛇のような、しかし
両者動かず睨み合う事暫し——自身の予想を遥かに上回った輔忌の底力に対して吼翔は問う。
「何故そんだけの力を持っときながら——そいつをたった今まで抑えながら戦っとった……!」
言いつつ、彼も輔忌が敢えて手加減をしていたとは露ほどにも思ってはいなかった。
ただ単純に疑問だった。肋骨の負傷を負う前にこれだけの力を発揮されていたなら、さしもの吼翔とはいえ始解で相手取るには難儀な戦いとなっていただろうに。
「人間の肉体は」
そこで輔忌は淡々と、まるで朗読するかのような平坦な口調でもって言葉を発した。疑問を放ったのはこちらだが、さりとて殺し合いの場で悠長に返答を寄越すほどの余裕があるとも思えず吼翔は眉を
「どう足掻いても”不完全な力”しか発揮し得ないという事を知っているでしょうか。それは自身の全力に骨や筋肉が耐えられないために脳が制限を設けている事が原因ですが、それは魂魄の身に於いても例外ではありません。……いや、自らを容易く害し得る『霊力』という力を孕んでいるだけ、僕達の身体はより強い制約をかけられていると言ってもいい」
生物の脳は常に大量の制約を”無意識の内に”肉体へ強制している。つまり誰しもが身体機能の大半を意識の奥底に封じ込められており、それが『潜在能力』として眠っているのだ。
「しかし唯一、
ありとあらゆる肉体の制約を無視する事によってのみ成し得る『身体能力の最大活用』。
限界の扉を”開く”力——それが、生来の使命に狂う青年の斬魄刀。酌牽蜥蜴の能力だった。
「……成程」
その事実に吼翔は、しかしただ溜息を吐くように言った。
「確かに、恐ろしく強ぇ。細けえ理屈はともかく、要はアタマん中を
「ほんで、お前が今までこんだけの力を使わずにいた理由もな」
「…………」
チラリと目線を動かし、輔忌の腕を見遣る。
先程吼翔の飛掛を打ち崩して見せた青年の両腕がほんの僅かに、しかし
「その腕を見るに、本来はカラダを守る為に”使わない”力を無理矢理使うってのがどれ程の事かはよう分かるわ。それだけの負担を主人に強いるたぁ、全く難儀な刀だよ」
良くて重度の疲労、悪ければ多少の肉離れ——つまりは筋肉の断裂を引き起こしている可能性すらある。それでも剣を手放す気配すら見せないあたり、どうやら継戦の意思は微塵も揺らいではいないらしいが。
しかし、輔忌が起き上がってからのあの一合。あれは後方に下がった吼翔が追い縋られなかったのでは無い。
こうして輔忌から会話を切り出すのも、言ってしまえば少しでも回復の時間を稼ぐ為だった。時間の猶予が必要だったのは吼翔の方では無く、他ならぬ輔忌の方だという事。
こうした会話が長引く事がどちらの益となるかを正しく理解しておきながらも、しかし吼翔は尚も探るような口調で言葉を重ねる。
「……だがそれだけじゃあ出し惜しみをする理由にはならん。消耗が速いだけの手札なら尚更直ぐに切るべきやからな。すると浮かび上がるのは、お前のその能力の『本質』。アタマん中の領域を余すことなく使い倒すっつう事は、一度覚えた事を絶対に忘れることが無いって事だ。……いや、”何を忘れないようにするかを選べる”っつった方が正しいか」
ヒトの脳は何かを覚えることにつけても取捨選択を常に行う。最も分かりやすい例は短期記憶と長期記憶か。耳慣れない言語の単語を覚えたり、初見の折り紙の折り方を習ったり。そういった事は得てして短期記憶、つまりは意識しなければ明日にでも忘れるような儚いものでしかない。
だが、もしも自分の脳を自由自在に一から十まで操ることが出来るとすれば?
さして興味も無い折り紙の折り方や聞きかじったばかりの異国の言語を、それこそ『自分の名前』や『誕生日』のような長期記憶の領域に無理矢理押し込めることが出来るとすれば?
それは、つまり。
「
輔忌が全力を出し渋っていた理由がこれだ。消耗の早い能力の解放を前にして少しでも吼翔の攻撃を『記憶する』。
持ち堪えようによっては逆転も十分に可能ではあったが、たったの二合で本気を出さざるを得なくなったこの状況は青年にとって非常に不味い。
自ずから『切る』のではなく『切らされた』手札は、弱い。
「とは言え」
「…………」
「無理くり俺の懐まで潜り込めるだけの力をお前が手にしてんのは確かや。しかも打ち合う度にお前の動きが良くなって、俺の手札は減らされていくときた。今までのやり方を続けてりゃあ、少しばかりの距離を保って戦う俺の”飛掛”だとキツいものがあるやろな」
そう。弱点を暴いた所で生半可な事ではどうにかなる物でもない、酌牽蜥蜴の無敵さはそこにあった。
だが吼翔の表情は未だに曇らない。何気なく言い捨てながら、斬魄刀を軽く横薙ぎに振るい『固定』する。横一直線、ぴたりと刀身が固まった飛掛を確かめる。
「…………?」
何をする気だ、と怪訝に思う輔忌を他所に。
まるで”面白くなってきた”とでも言わんばかりの声色で。
「ほんなら俺も——ほんの少しだけ冒険しよか」
その柄から手を離したのだ。
「は……?」
輔忌が愕然とするのも無理はない。地面と水平になるよう傾けられた”飛掛”が、ただ両者の間に目線ほどの高さを保ったまま留まっているだけなのだ。
(まさか本当に素手で戦う訳じゃないだろう。しかし何故
奇策。
良く捉えてもそうであるとしか形容できない吼翔の行動は、しかし確実に輔忌を混乱たらしめていた。本来ならば戦いの放棄とすら取れるようなふざけた一手だが、それが吼翔ほどの男にとってどれほどの意味を持つ物なのか、と。
「はよ来んかい。休憩時間は終いやで」
「————っ」
そして短髪黒髪の大男は、そこから一歩たりとも動かなかった。
完全に”待ち”の構えだ。今の輔忌を相手に自分から攻めるのは厳しいと判断したのかは定かでは無いが……しかし輔忌はその誘いに敢えて乗る事にした。
(……いいや、乗ってやる。この能力の消耗は早いが、並大抵の策は容易く踏み越えられる)
強化された速力と技術を以って——ただ地を駆けた。
ごうっ!! と。一瞬にして最高速まで達した体で風を切りながら、些かの
(武器を持ったままの近距離では分が悪いと判断したからこその素手? ……それなら防御はどうする? すべて躱せると踏んでいる訳じゃない筈だ)
絶影を思わせる俊足を維持するのに必要なだけの集中力を注ぎ込み、一方では敵の観察に一切の余念が無い。
身体と思考が切り分けられる。その両方を支配する酌牽蜥蜴の凶刃からは、自らの得物を手放した男に逃れる術など有りはしない
——かのように思われた。
(……!!)
あと一歩で剣が届くという間合いまで迫った瞬間、輔忌の目にはとある”違和感”が映り込んで見えた。本来ならば思考の余裕などありえない刹那の間、しかし加速した思考は寸前でその違和感を看破した。
“飛掛”が、ゆっくりと落下し始めている。
それは即ち『固定』の能力が解除された証。通常の運動法則を取り戻し重力に従ってただ落ちているだけで、それだけならば特に問題は無かったのだが。ただ何度でも言うが、輔忌は
その落下先が、彼の酌牽蜥蜴の太刀筋にピッタリと重なっている事に。
「ッ、く──!」
このままでは不味い。ここで再び『固定』を喰らえば隙を晒す事はおろか、
その結果だけは回避するべく、輔忌が臨んだ対応は迅速だった。
すなわち脱力。極限の反応速度から為されるそれは威力と反動の大幅な減衰と同時に、手首から先への衝撃を急速に受け流す!
(……コレに気付くかよ!!)
からん──という”
(やはり近距離を白打で押さえる気か、防御は宙吊りにした”飛掛”に任せる事で……!)
(だが俺の『固定』はこいつにゃ破れねぇ、防御に回す力も隙も最小限にてめーを刈り取る!)
(それでも甘い! 酌牽蜥蜴は二刀一対、最初から片方が防がれようと意味は——)
(——
時間にして僅か二秒か三秒、それぐらいの一瞬だっただろうか。思考の応酬。ここを制する者が次の攻撃を与える機会を得るだろう。
半端に空中に留まった飛掛をかいくぐり拳の距離まで間を詰めた吼翔へと、向かって右方向より絶死の二撃目が襲い来る!
飛掛の『壁』を潜り抜けたのは吼翔自身、彼を守る物は既に無い。
だが一体、誰が言っただろうか?
飛掛の絶対防御が、『壁』などという一つの形にしか比喩され得ない、と。
「おっ……らァ!」
「!!」
ある前提として。
吼翔は無策で輔忌の前へと躍り出た訳では決して無かった。彼我の間に飛掛の防御無くして接近戦に挑むのは自殺行為だと分かっていたからこそ、潜り抜けた時に『掴んでいた』。
それぞれが個別に固定される十八の刃、その先端の一枚を。ほんの僅かな力で、指に挟んで。
がギン——! 一体何度目だろうか、硬質な音が再び
迫り合いに持ち込めば”必ず”引き分けにまで持ち込める——例え
(まッ、ず──!?)
いずれも必殺を想定していた攻撃を両方とも防がれた事で大きく隙を晒す。そうなれば当然、吼翔の白打はその身に届く!
がすっ、という鈍い音だった。
「ぁ……?」
一瞬、何が起きたか分からなかった。
辛うじて輔忌が目視できた攻撃の像は、拳ではなく『掌底』。大きく身を振りかぶった吼翔が、掌の付け根を用いて体の内部に深いダメージを負わせる事を目的としたそれを横薙ぎに振るうところまでは辛うじて目視することができたのだ。そして次の瞬間、
「あがぁッ!?!?」
ぐらんッッ!! と、まるで天地がひっくり返ったかのような感覚がその身を襲う。
(
酌牽蜥蜴という斬魄刀の性質上、痛覚に訴える類のあらゆる攻撃は無意味となる。思考と感覚を切り分けて行動すらできる輔忌にとって、例え金的を食らおうが目玉を潰されようが即座に反撃に移ることができるからだ。
ならばこの状況、このたった一手分のみ生まれた攻撃の機会をどう使うのが正解だろうか?
(脳を直接叩きに来た、か……くそ。意識、がっ)
それは霊力の源、
「——あああアァッ!!」
「んな……っ!」
絶叫。
本当の際々、もしかしたら偶然とすら呼べるかもしれない反射の動きがあった。
明滅しながらも飛び込んで来た視覚情報を辛うじて処理する事が出来たのは、しかし酌牽蜥蜴の能力によって自我を支えるのに全力を出すことが出来なければ叶わなかっただろう。
当て身を放った吼翔の認識が浅かった。見誤っていたのだ。輔忌という死神が持つ奥底までの限界を。
碌に判別すら出来ていない危機に対して選択したのは——果たして捨て身の対応であった。
ザクッッ!! と。
咄嗟に翳した腕が、上腕が。
「なん……」
「──────、」
飛掛の刃ただの一枚ではこれ以上押し込む事は出来ない。どころか、輔忌を『固定』の能力でさんざんに翻弄してきたその刃自体が皮肉にもこの場に吼翔を縛り付けていたのだ。
そして当然、懐に飛び込んでまで押し通すつもりだった攻撃が失敗に終わった際に食らう反撃がどれだけ
ゆらり——上段へと繰り出された一発の『蹴り』が、対する相手の側頭部へと吸い寄せられるように伸びていく。それを認めた吼翔は半ば無意識的に右腕で頭を覆うが、
「うッ、がぁ……ッ!?」
想定したものを遥かに上回る”衝撃”! ……受けてはいけないものを受けてしまった事に気がついたのは、それが終わってからだった。
(…………あ……)
もはや原形を留めないほどに——破壊され尽くした利き腕だけがそこに残っていた。
身体能力がこの上なく”上振れ”ている今の攻撃を何も考えずに食らって無事にいられる筈が無いのだ。
綱渡りで成功させ続けてきた飛掛の防御の感覚に狂わされてしまったのか。どちらにせよ、脳の領域を最大限に活用できる輔忌との”思考”の遅れがここに来て現れた。
思わず目の端がじんと滲む。人として逃れられない生理現象としての涙だったが、同様に腕を犠牲にした輔忌の目にあるのは純粋な一つの思いだけ——闘志。
体も、力も、命も、彼がただ一人全ての能力を戦いにのみ注ぎ込むことが出来る存在だからだ。その一点はまるで二人の間に介在する”生物としての差”を象徴しているかのように見えた。
「「——おおおおッッ!!」」
だが吼翔も伊達に霊界の頂点、その一角に座す死神ではない。風に揺れるほどひしゃげた利き腕に見切りを付け、次に放ったのは意趣返しとも取れる渾身の蹴り。しかしその矛先は先程のような致命傷を狙う上段ではなく、掬うような下段。
ばすンッ! という、まるで何かが破裂でもしたかのような尋常ではない音を響かせ、足を刈られた輔忌は凄まじい勢いで倒れ込む。
「がっ……」
と——先程の掌底が脳へ与えたダメージは、完全に抜け切ってはいなかった。地に倒れ伏した状態から一瞬、輔忌はほんの一瞬だけ動くことが出来なかった。
だが吼翔はその『一瞬』に勝負を賭けた!
「引っ掛けやがれ……っ」
——その”刀”は常に彼に寄り添っていた。
すぐ背後に存在を感じていた。何故ならそれが吼翔権十郎の——ただ一振りの相棒だから。
宙に散乱した刃など見もせずに、それが自分を斬りつけるなどと考えもせずに。ほんの少しの躊躇もなく後方へと伸ばした左手はまるで計ったかのようにその柄を手中に収め、そしてこう叫んだものだった。
「飛掛ぇぇッ!!」
倒れ伏した輔忌の正中線へと振り下ろされる、正真正銘渾身の一打。
構えも碌に取れていない今、まともに食らえば今度こそ死は避けられないだろう。
(ほんの……少し……)
もう殆ど意識が擦り切れている、朦朧としていると言ってもいい。体力もいよいよ限界に近付こうとしていた。
(少しだけでいい……体が動いてくれれば、あんな大振り……直撃さえ避けられれば……)
だがあと少し、たったの二尺か三尺、それだけでいい。それだけ体を横にずらす事さえできれば、この一回を回避する事さえできれば。
「うご、け……」
それだけの時間で頭へのダメージも回復するだろうという算段が付いていた。
(動け! くそ、動けっ……)
最後の望みだった。希望が残されていた。
それだけはこの土壇場で輔忌の肩を押すものだった。
かくして致命の一撃が振り下ろされると同時——青年は体の奥の奥底から絞り出したほんの小さな、しかし確かな力が四肢に漲るのを感じたような気がした。
「あ、がああああああッッ!!!!」
◼️◼️◼️
自らの運命を名前から悟った卯ノ花輔忌という少年が次に思った事は、何故自分にこのような名が与えられたのか? という疑問だった。
生まれた瞬間、あるいはこの世に生を
ある夜、少年は母親の寝間を訪れた。就寝前の僅かな時間を瞑想に耽っていた卯ノ花八千流は黙したまま静かに子を部屋に迎え入れ、そうしてただ無言で言葉を促した。
少年は話した。憎しみを
長い長い瞠目と沈黙の末、母は応えた。
幼き輔忌には何故母がそのような表情をするのか、当時は理解が及ばなかったが。
憂いを帯びた彼女の顔は、どこか悲しげに見えるようだった。
少年の胸に驚きは無かった。怒りも、嫌悪もそうだった。ただ単純に疑問だったから再び訊いた。
卯ノ花八千流はおもむろに立ち上がり、息子の側へ歩を進めながら言葉を連ねた。
噛み締めるような、吐き出すような言葉だった。
独り善がり、とも取れる。
まるで呟きにも似た抑揚の抑えられた言葉を発し続ける彼女にとって、女の我が身より数段小さい子供が自分の言っている事を正しく理解できているか否かは、あまり気にするべき事柄では無いのかもしれなかった。
だが、ゆっくりと息子の頬に手を伸ばし、撫ぜるように添える——その彼女の表情は翳りに覆われて輔忌には良く見えなかったが、たった一つだけ確かに分かることがあった。
いかなる夜闇にも遮ることの出来ない、悲哀と親愛の情だった。
そっと、名残を惜しむように手を離す。
一人の母はくるりと振り向き、やがて思い出したようにこう言ったものだった。
+36436411451419194545OSP
輔忌くんの勝ちが確定しました(なお)
卯ノ花隊長の名付けグセ、こっちは
しっかし戦闘シーンよくわからんですね……自分で読み返すとシチュそのものはともかく、表現がなんだかテンポ悪く見えてきたりするんですよね。でもどう直せば良いとかが見えてこない……こういうとこで迫力ある文章を前面に出していきたいものですなー。
そういう意味でも感想など頂けると助かります。嘘です。ただ単に欲しいだけです。かーっ、卑しか作者ばい!(自己紹介)
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クリサリス
当時は尺の管理が甘く、この度ある程度小分けにして出したほうがいいとの結論に至りました。そのぶん更新ペースは上がります。
————またもや、短い夢を見た。
卯ノ花輔忌という死神がその名前と共に生まれてくるまでの起源。遠い記憶が
だけど、こう何度も似たような回想が甦るのには理由がある。
皮膜の怪人、その下劣な嗤いが脳裏を奔る。
所有者の脳を自意識の元に支配する能力——その力は、元を辿れば僕にとって最も手渡してはならない者の手に委ねられていることを忘れてはいけない。この力がある限り、僕の全ては奴の思いのまま。
だから、尚更それが疑問なんだ。
『夢』は全て酌牽蜥蜴が見せようと思って見ているものだ。それが何故
いいや、違う。
あいつの目的は——僕を、奴自身と同じ殺人鬼に仕立て上げること。そこに並外れた執着を抱いているのは確かだ。
もしかすると、奴はこの記憶こそがその邪悪な目的を叶えるため僕に見せるべきものだと判断しているのかもしれない。
……だとすれば、それは全くの見当違いだ。
己の心を
何としてでも吼翔隊長と生きてこの戦いを終わらせる、その意思を貫く。
なら、するべき事は一つだろう?
「ハァ、ハァ──……」
吼翔の仕掛けた最後の攻撃は成功に終わった。
倒れ伏した輔忌を全力の一撃で即死させる、という当初の目的がそのまま果たされた訳ではない。しかしながら、それに等しい程度の成果を『飛掛』は挙げていた。
這い出るかのようにして絶死の太刀筋から逃れた輔忌の体は、しかしその”右腕一本分”を覆うように巻き込んでいたからだ。
飛掛が可能にする無数の戦術の中で最も厄介なものの一つ——拘束だ。
たったの一度でも絡め取られた上で『固定』を受ければ絶対に逃れられない。とんな縛道をも凌駕する”絶対性”がそこにあった。
(…………終わり、か)
揺るぎない勝利を確信してはいたが、しかし慢心は無かった。輔忌の左腕はまだ自由な上、こちらは拘束に回した斬魄刀を満足に振えもしないという状態。今でこそ地べたに縛り付けられているが、その覚悟や能力を思えば
無論、そうなった所で右腕を失った輔忌に負ける道理など有りはしないのだが。
やはり勝ちを確信しながら、輔忌の左手から如何にして斬魄刀を弾き飛ばした後に止めを刺すかという算段を立てていると——
「な……!?」
突如として響き渡る怒号にも似た叫び声。その出所は誰あろう、他ならぬ輔忌の口から出たものであった。
その口上が何を意味するかを知らない吼翔ではなかったが、それでも驚愕を隠せなかったのには理由がある。
瞬間、輔忌を中心とする周囲の地面が凄まじい勢いと共に隆起し炸裂する。
鬼道—— 死神が戦闘に用いる呪術の一種。習熟すれば強力な手札となり得るが、それには極めて繊細な霊力の制御と言霊の詠唱を必要とするはず。
(どうなってやがる……)
そしてこの場合に於いて何よりも重要なのが。
(輔忌が鬼道を修めとったやと? ……ンなもん、
実際に術の効果として表れた現象を見るにその筋は直ぐに消えたが、一瞬は単なるブラフではないかとすら考えた。事実、そんな話が風の噂にも聞こえない程度には輔忌の修練は剣術に重きを置いていた。
五十番台後半。鬼道を軸に戦う死神にとって決して高くはない数字だが、ぶっつけ本番でこれほどの威力を出せるものでもない筈だ、と。
ただ——
(——
反復練習を必要としない輔忌にとって鬼道とは『鍛え、研ぎ澄ます』のではなく『終える』ものでしかない。
斬魄刀の開放状態に限り永遠に鈍ることのない技術を通常の何百倍もの速さで修めることができる。そんな輔忌が鬼道を鍛える所を誰も見た事が無いとしても無理は無い。
無数の岩石群として次々と地中から飛び立っていくそれらは、同時に術者の周辺に巨大な風穴を残す。
それは斬魄刀と地面に挟まれた腕を自由にするために、
巻き付くのではなく、ただ覆い被さるように『固定』していた飛掛の拘束はただの一手で意味を成さなくなった。激しく舌打ちしつつ、吼翔は”大地転踊”の対処に追われる事になる。
「くッ」
避ける、叩き壊す、弾き飛ばす。身の丈を優に超えるほどの巨岩を後方へ跳び回りつつ次々と捌いていくが、視界を埋め尽くさんとするばかりの質量を防ぎ切るには広範囲に手が回るような鬼道系の能力を持たない飛掛では分が悪い。
片手間に揃えた付け焼き刃の手札とはまるで思えないほど——その術は完成されていた。
(この潰れた利き腕庇いながらじゃあ全部を相手しとる余裕は無ぇ。……なら!)
だんっ!! と。
飛来する岩石群の間に僅かな隙間を見出し、吼翔はそこに迷わず飛び込んだ。そうして時に身を捻り、時に避けられぬ岩を蹴り飛ばし——時間にして一瞬にも満たない内に岩石の壁から脱出する。
(”大地転踊”は威力こそあれ所詮は中位鬼道、相手を追尾するような術じゃねぇ! こうして向かって来た方向から追い越しちまえば直ぐに撒ける! そして——)
空高く跳躍した吼翔が一直線に向かう場所、そこは未だ体勢を立て直せてもいない輔忌が蹲っている地面だった。
(これ以上の余計な時間もやらんッ! これで終わり……)
と。
「散在する獣の骨 尖塔・紅晶・鋼鉄の車輪……」
(————!!)
耳朶を揺らす言霊の詠唱と霊圧の高まり。ここに来て輔忌の狙いをようやく把握した吼翔だが、しかしその表情に焦りは全く無い。
(
完全詠唱で威力を高めに来た。つまり次の一撃は必ず当てようという気でいる筈だ。
……だからこそ。武器を空間に『引っ掛ける』能力によって空中であろうと構わず動き回れる吼翔は、その瞬間思わず安堵した。
「——動けば風 止まれば空 槍打つ音色が虚城に満ちる」
(来や、がれ! 際々の所で『固定』してやる……!)
だからこそ、その言葉は吼翔を驚愕せしめた。
「は────」
ひゅんっ、と。
輔忌が指先を横薙ぎに振るうと同時。
握りしめていた飛掛の柄が、その手からこぼれ落ちた。
「斬魄刀を、片時でも手放したのは。失策、だった……」
俯きがちに呟く輔忌の表情は窺えない。
しかし、その人差し指と中指から薄っすらと伸びる光の筋は——正しく飛掛へと直結していた。
「そして……簡単だった。絶対に気付かれないように、小さく薄く抑えた霊圧の『紐づけ』——あの数合の間にあらかじめ結んでおくのは、本当に簡単な事だった」
二重詠唱、という技がある。
鬼道戦術の極みとされる超高等技術。げに恐ろしきは、その片方を同様の高等技術である
つまり、更なる本命の鬼道が控えている。
「漸く、捉えた」
回避手段の武器を失い、無防備を晒す吼翔を仕留めるに十分な威力を込めた破道が——。
——淡黄の爆雷が、晴天の空に響き渡った。
◼️◼️◼️
「うわぁッ……!?」
「あの鬼道は何だ!? あいつ、いつの間に……!」
「さっきの剣戟が見えた奴はいるか……!?」
二百名を優に超える立ち会いの騒めきを耳にしつつ、
「……通し、やがったのか」
輔忌のヤロウがここまでやれるとは。十四年間も前線から退いていたとは思えねぇ、この短時間で隊長レベルの戦いに適応しやがった。
——俺の最後の仕事に、後味の悪いモンを残していくような真似だけは許さねえ
「……これからて
戦いが始まる前、あの時の俺の言葉を忘れたとは言わせねぇぞ。て前ェが迫られた選択の結果は、俺を納得させてくれるほどのモンなのか?
ここで吼翔を始末する。それも一つの選択だろうよ。
だがな、それじゃあ俺は満足できねぇんだ。
て前ェが腹の底で何を企んでいるかなんてのは知らねぇし興味も無ぇ。それでも、その
誰も殺さなくていい、呆れるほどおめでたい平和な生き方ってやつを。
この世界で意思を通すには力が要る。体も、心のそれも。
俺が”上”に行っちまう前に、だからそれだけは見届けさせてくれよ。
なあ、輔忌?
て前ェは本当に——
「はあ、はあ……」
と。
しゅたっ、という風を切る音と共に現れた一人の女を俺は見遣る。
「来たか……”烈”」
今日だけは顔を出さねぇもんだと思っていたがよ。どういう心境の変化があったかは知らんが、一足遅かったみてーだな。
そら、もう決着が付くとこだ。
「…………違う……」
……何?
違う? 一体何が違うって——
「違う!
◼️◼️◼️
「あれは……」
修練場に突如現れた母の霊圧に僕は瞠目した。
「いや……それは後回し、か」
自分達の戦いの外で一体何があったのかは分からないが、どちらにせよ、先ずもってやるべき事があるからだ。
(死なないまでに『雷吼炮』の威力は調整した。その上で吼翔隊長に力を示し、そうして……剣八の名を預かるまでだ)
成さなければならない事の果てしなさを覚悟しつつ煙幕に足を踏み入れようとした——次の瞬間。
「よォ」
ガシッ、と。
“背後”から伸ばされた左腕に、首を締め付けられた。
「が、っ!?」
分からなかった。
何が起こったのか全く理解できなかった。あまりにも突然の事に目を白黒させるより他に無かった。
「やってくれおったな。……一瞬や。一瞬だけあの判断が遅れとったら、俺は今ここに立ってもおれんかったろう」
ギリギリギリ!! という音まで聞こえるかのような
「ぐっ、ああああ!!」
「ッ、ち────」
苦し紛れの蹴りによる反撃だが、身体への直撃を嫌ったその剛腕により凄まじい勢いで投げ飛ばされることで回避される。
受け身も取れず地面に叩きつけられた僕がゴロゴロと転がる姿を見ながら、もはや血と汗で全身をべったりと汚した死神は独り言として呟いた。
「やはり……お前を素手で殺しきるのは難しいかよ。どれだけ消耗していようがな……」
「うう……っ!」
徐に僕から背を向ける。そして振り向いた先は、未だ『這縄』に縛り付けられたままの”飛掛”だった。
「無駄や……」
咄嗟に指を動かして飛掛を遠くに投げ飛ばそうとするがもう遅い。その寸前に全ての刃がその場に『固定』された。
最早何者も彼らの間を遮ることができない——そう理解し、ようやく僕は疑問に思う。
(どうして……あの場面、どうやったって躱せなかった筈なのに! どうやって僕の
ちゃりん、と。
「…………っ!」
その時、まるで小さい金属片が地面に落下でもしたかのような——微かな音が辺りに響いた。
まさか。はっと息を呑みつつ、先程鬼道の余波で展開された煙幕の真下を凝視すると。
「飛、掛……」
その十八の刃の内、たったの一枚。
それだけが『固定』の力を失って地に落ちていた。
「まさか、」
「
とうとう自らの斬魄刀をその手に取り戻した吼翔隊長は言う——“隠し玉を持っているのが自分だけだとでも思ったか”、と。
「…………」
「……行くぜ」
左手に得物を構え、とうとう彼は走り出す。
この体に残っている体力はほとんど限界で、既に意識も朦朧としているようなものだった。刀を握る手にはほんの少しばかりの緩みも無かったが、それもいつ糸が切れるように倒れ込むかもわからなかった。
(駄目、か……気が 遠く……)
意識が途絶えかけ、今にも前のめりに倒れ込もうとした、次の瞬間。
誰かの呼ぶ声が。
耳に響いた、気がした。
ただ一声、叫んだ。
「お、オイ……?」
天示郎がこちらを窺うように見てくる。もしかすると——この決闘の場で私が何かを
ただ一声。それだけで十分な筈だから。
私とあの子の間には、それだけで。
一瞬の交錯があった。
襲い来る吼翔隊長の飛掛と僕の酌牽蜥蜴が接触し、そして通り過ぎる。
自己を完全に支配できる僕にとって有り得ない話だが——自分自身を生かそうとする”本能”のような何かが僕の体を勝手に動かしたような気さえした。
「ぐぅ——」
バキッ、という音と共に。
鋼鉄が堕ちた。
迫り来る『絶対防御』の刃、その全てをすり抜けた僕の剣が飛掛の”刀身”を半ばから切り落としたのだ。
極まった技量。……それは、吼翔隊長の動きの全てを
……だけど、それが限界らしい。
僕の目にはもう、世界が世界として映っていないのだ。
十四年前の災禍の記憶が、完全に意識を埋め尽くしつつあった。指先が炭化し、足元がボロリと崩れ落ちる。自分が今両足を地につけて立っているのか、顔に付いた眼球が前を向いているのかも瞭然としない。
もう指先一本すら動かせない。あと一歩、ほんのあと一歩を踏み越えきれず——僕は、負けたのか。
あの一瞬、かろうじて僕の耳まで届いた言葉。
ようやく分かったんだ。どうして母さんがここに来たのか、そして——
ようやく、分かったんだ。
僕が隊長との決闘を決めたと母さんに報告したあの夜。あの涙の理由が。
薄々気付いていた事だ。僕が生来抱えてきた”母を救いたい”という不明な衝動……これは、僕の物じゃない。
誰か、いや何か。僕の知らない何かがこの心に植え付けていった紛い物、呪いのようなもの。
それを僕に気付かせてくれたんだ。
僕が輔けているのは、果たして本当に己の心か。
それを訊くためにここに来たんだ。
これは、僕の心じゃない。
ああ——いっそ、何もかもさっぱりと投げ出してしまおう。母さんは僕に、それをこそ望んでくれた。今からでも遅くないのかもしれない。
普通の死神として、生きていきたいと。
こんなにも空が青いだなんて。
もっと早く気がついていればな。
「吼翔、隊長」
「…………」
喉さえもぼろぼろに擦り切れてしまっているな——そう思いながら、掠れた声で降参の意を表明しようとした、
その、寸前。
ぞくっ、と。
「あ────」
深淵の領域からまろび出た、不浄の怪物の声がした。
◼️◼️◼️
先程まで感じていた晴れやかな気持ちが一気に塗り潰される。腐敗した果実からだくだくと吹き出る汚液のような、あらゆる魂にとって忌避するべき感触が、毒となって、心に滴っている。
「やめろ——」
気づけば奴はそこにいた。
僕の真後ろ、息遣いさえ感じる距離。余り過ぎた皮膜に覆われた体で覆い被さるように、僕の耳元で囁いている。
「やめてくれ。僕は、もう」
「違う、それは」
僕の本当の心じゃない。
そう言い切る前に、僕の目にある光景が映し出される。
更木剣八の斬魄刀が、卯ノ花八千流の胸に突き込まれる光景を。
更木剣八の腕の中で——母は、
これは母さんにとっての悲願なのだろう。自分が手にした力の全てはこの一戦の為にあったのだと、そう断言できるほどに。寧ろ……その運命の決着に僕が介入することは、彼女にとって最悪の結果の一つとさえ言えるのかもしれない。
でも、どうして。
僕がそんな事を望むはずが無いのに。
どうして、
これが僕の意思ではないだろうに。
やっぱり、僕は——
あの結末が認められない。
◼️◼️◼️
誰しもが驚愕に目を見開いた。
刹那の一合、片方の斬魄刀を半壊せしめた衝突。その直後——輔忌は、吼翔に
その動きに精彩など欠片も無く。動かせない体を無理やり動かし、ただぶつけようとしているだけだった。
「それが……」
『何か』が輔忌をここまで決定的に追い詰めた。それが何なのかは知る由も無かったが。
吼翔は、ぽつりとただ呟く。
「お前の答えかよ」
——壊れかけの飛掛が、体を一瞬で引き裂いた。
彼を縛り付けているものを思えば、一瞬でも”正気”を取り戻せたのは奇跡にも等しいことでした。
仮初の願望を一瞬でも溶かすことができたのは、やはり卯ノ花さんだったから、という話。
この子また負けてる…………。
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The 11th Battle against
輔忌が血を噴いてその場に斃れると同時。
「どう、して……」
どうしてこうなった、何が輔忌にここまでの事をさせた? もしや、その原因が自分にあるとしたら——いいや、その是非を追及したところで意味は無い。ただ一人答えを知る輔忌は今、目の前で敗れ去ったのだから。
「クソッ……」
それは麒麟寺とて同じ思いだった。
馬鹿野郎が——そう苦渋に満ちた声で吐き捨てるも、あまりにも不明な輔忌の行動、その理由が明かされる事は最早永遠に無くなってしまった。
だが……彼にはまだ背負うべき役目というものがある。
決着が付いたも同然である以上、場を仕切らなければならないのは他ならぬ自分だと。吼翔が止めを刺すのを待ってからにせよ、目を背けてばかりもいられない。
そうして、どっぷりと溢れ出した血の海に沈む輔忌の体に目を向けた時。
思わず我が目を疑った。
「な…………」
たっぷり十秒は動けずにいた。
護廷十三隊の隊長という地位に昇り詰めるまで多くのものを見聞きしてきた吼翔は、この霊界において自分が即座に理解の及ばない事柄などそうは無いだろうと、そう何処かで考えていたのかもしれなかった。
そして今、それが単なる思い上がりに過ぎないのだと知った。
ぶくぶく、ぶくりと。
地に伏せた輔忌の輪郭が、
そうして倒れたまま動かない輔忌の影法師が倍ほどにまで膨れ上がった頃合だろうか——“かぎ爪”のような外形をした人ならざる腕が、その襟元からぬらりと這い出るのだ。
ゆっくりと全容を現していく悪夢を前に、しかし誰一人としてその場から動けずにいた。腕から始まり、ひだのような皮に覆われ原形を窺えないほど醜い頭部、一見すれば外套を着込んでいるかのようにも見える異形の身体——死覇装の内側からまろび出た怪物は、鷹揚に口を開いてこう呟いたものだった。
それから怪物はニタニタとした嗤いを絶やさぬままに、とあるモノに目を向けた。
瀕死となった輔忌がとうとう地面に投げ出した二振りの斬魄刀、酌牽蜥蜴。そのうちの一本を徐に手に取ったのだ。
「オイ……」
吼翔の半ば呆けたような制止の声など耳にも入っていないかのように、皮膜の怪人は刀を振り上げ。
一瞬の迷いも無く。まるで何十年も前からの既定事項を淡々とこなすような気軽さで。
輔忌に向かって振り下ろした。
「うっ、ぷ……」
骨子と皮膜の怪物。
その余りにも不気味な存在を目の当たりにした隊士達の中には、吐き気を催し膝をつく者さえあった。無理もない。それを”誇り高き護廷十三隊として恥ずべき痴態である”などと声高に罵る輩は、少なくとも彼らと同じ光景を目にした者の中には存在しない。
それだけの醜悪、それだけの惨悽。
誰もその場から動けなかった。
——ただ一人を除いて。
躊躇なく振り下ろされた凶刃——それを受け止める刀があった。
「な……」
両者の間に割り入る影が一つ。声も届くかどうかという程の距離を一瞬で駆け抜けた
「よもや……止めはしないでしょうね、吼翔」
人外の膂力をもって押し込まれる刀を——卯ノ花烈は、眉一つ動かさずに受け止めていた。
「……確かに。時の『剣八』を決する戦いに、他ならぬ私が私情を挟むなどあってはならない」
ここで彼女が動くということは怪人にとって予想外の展開だった。その”名”に対する拘りの強さを知っていればこそ、例え子が殺されようとしていたとしても決して出て来る筈はないだろう、と。
「ですが。何処の者とも知れぬ不埒者がこの勝敗に水を差す様な事があれば、況してや勝利の栄誉を掠め取ろうというならば」
しかし——先代剣八の眼から渦巻く”殺気”の念。
感じ取った瞬間には、既に踏み込まれていた。
「其れを阻むに、些少の躊躇いも無し」
ズバァッ!! と。
目にも止まらぬ神速の斬撃により、胸部から血液を噴き出している事に数秒遅れて気が付いた。
直ぐ様後方へと退がる事を選んだ判断は限りなく正解に近しいものだった。だが、それが一体何になると言うのだろうか。
たった数歩程度の距離が、初代”剣八”の戦いに於いてどれほどの意味を持つと言うのだろうか?
後ろへと跳ね飛ぶために力を込めようとした怪物は、そこで自分の両脚が消失している事にようやく気が付く。斬り飛ばされた体の一部を視界に入れた次の瞬間には刀を握る右腕が落とされ、ぞっとするような浮遊感に逆らえぬまま地面に落下していた。
(貴方が敗北し、じきに死ぬとしても——)
刹那の瞬間。
圧倒的な速力により敵を追い詰める傍らで、卯ノ花烈は思いを巡らせた。
(輔忌、貴方の姿は私の中で永遠の物になる。その姿を徒に穢すものがあれば……貴方を見送ることさえ、私には耐えられないから)
だから最後に、今にも命を失おうとしている背後の我が子に向かって。
親になりきる事さえ出来なかった女は、ただ呟くだけだった。
「さようなら、輔忌」
胴が地に付くまでの一瞬の時間さえ与えず。その剣が怪人の命脈を絶つべく首元にまで届かんとした、正にその時。
その声で烈が刃を止める事が出来たのは、それが吼翔から発せられたものだったからに他ならないだろう。
「そいつの正体——
「…………!!」
衝撃だった。輔忌が『具象化』を会得していないという先入観によるのもあったが、それにしても。
醜い皮に覆われた蝙蝠傘のような姿形は元より、不遜極まる態度、染まり切った悪意。現在に至るまで清廉な生き方を送ってきたとは決して思わないが、そんな自分からしても一見して嫌悪を覚えざるを得ないようなこの怪物が。
動揺し、しかし依然として剣先を退けずにいる烈へと吼翔は言う。
「斬魄刀ってことは、これが輔忌の力だってことに違いはありません」
「何を……」
「……だったら、そいつを倒すんは」
——俺やァないといかんでしょうが。
虚を突かれた、と言ってもいいだろう。
確かに、理屈で言えばそうはなる。しかしこの状況で”剣八”としての道理を持ち出されるとは、初代である彼女自身思ってもみない事だった。
剣八の名に対する吼翔の執着を軽んじていた訳では無かったが、そこに至るまでの過程への拘りは——想像の範疇を超えていた。
僅かな逡巡の間、足元の怪人——酌牽蜥蜴が、
「…………」
あまりにも——そう、自らが抱える
その衝撃は恐らく、怪人の物言いが否定の隙も見当たらないほど的を射たものだったから、
しかしふと、吼翔と烈の二人は疑問を抱く。
いくら具象化によって顕現している身といえど、精神体を本体とする斬魄刀を相手に物理的な損傷がどこまで致命的なものになるかは彼らにとって未知数だ。本体の魂魄が正常である限り、破損しようとも自己を修復さえしてみせるのが斬魄刀だ。
だが、利き腕であろう右腕と両脚をすっぱりと落とされて身動きさえ取れないこの状況。
だというのに、
誰も、その瞬間を認識できた者はいなかった。
ただ忽然と、まるで最初から何もそこにいなかったとでも言うかのように——怪物が姿を消した瞬間を。
◼️◼️◼️
『…………………………』
圧倒的な薄闇が拡がる、人皮と目玉に形作られた悍ましき空間——自身の精神世界にて、輔忌は独り
青年の貌に浮かぶその表情は、生まれて始めて肺に空気を入れたかの如き自由の歓び、それを目前に踏みつぶされた絶望すらも通り越し……”無”そのものに染め上げられていた。その内心を敢えて明らかにするとすれば、謂わば『諦念』と呼ばれるものに他ならない。
現れたことに気配すら無かった。
もはや聞き慣れた嗄れ声、彼のすべてを完全に支配しつつある悪意の象徴がこの上なく唐突に耳朶を揺らすが——それにも関わらず、輔忌は俯かせた顔を上げようともしないどころか、何の反応も見せる事は無い。
実に愉しそうに、歌い上げるように軽やかに。ありとあらゆる爽快の感情を乗せた限りなく醜い声が、人皮と肉、そして眼球の支配する空間へと吸い込まれるように消えていく。
ごろん、と。
まるで邪魔な物でもどけるかのように蹴り押された輔忌の体は、まったく無抵抗のまま仰向けになって転がった。
朗々と語り続ける斬魄刀を目の前にしても、もはや心はピクリとも動かなかった。
やはり自分には無理だったと、過去の選択を悔いながら何も果たせないまま死にゆく絶望を頭の中でただ吐き出すだけの、物言わぬ骸に等しい存在。それが今の輔忌——いや、輔忌だったもの。
そんな状態を知ってか知らずか、少なくとも酌牽蜥蜴は全く意には介してなどいないという様子で、機嫌良さげにも語りを続ける。
その言葉を口にするかしないかという瞬間に、虚空から一本の刀が
人ならざる五指に握られた柄、そして浅黒い緋色に染まった鞘の特徴は正しく、解放する前の酌牽蜥蜴に他ならない。
心底から侮蔑しきったような嘲笑。
それに対してさえ何の反応も示さず、ただ仰向けに皮肉の天井をぼんやりと見つめるだけの虚ろな躰。これを一通り眺めて満足すると——限界まで顔を嗤いに歪めきった怪人は、それは愉しそうにこう言った。
誰に聞かせることを意識しているふうでもなく、ただ言うべき事を口から吐き出しているだけだとでも言うように。
その嗤いは顔にピッタリと貼り付けたまま、刀を握る手を上段に振り上げ——
まるで
あまりにも鋭いその刃を、胸の中心に突き込んだ。
◼️◼️◼️
「消え、た……?」
吼翔と烈、どちらともなく呟いた言葉が果たして誰のものであったのか、という疑問は意味を成さなかった。なぜなら、この場における両者ともが全く同じ現象を目の前にそう思っていたからだ。
姿を消す寸前の口ぶりからは存在そのものを維持できなくなったというふうでもない。どこかに身を隠したのかと推察するも、『酌牽蜥蜴』にそのような能力が無いというのは明らかな事だ。
そして、次の瞬間だった。
「吼翔、隊長……」
「————っ!?」
吼翔と烈、その両者はほとんど同時に同じ方向へと目を向けた。
それはそうだろう。もう目を開けることさえ儘ならないほどに消耗しきった……輔忌が声を上げたのだから。
「やっぱり……僕は貴方に勝てなかった。剣八の名を勝ち取ることもできずに、僕は負けてしまうようです」
「…………」
しかし何故だろうか、その輔忌の表情は今までとどこか違っているように見えたのだ。
血を流しすぎて青白くなったから、というだけではないだろうが——なぜだかどこか清々しいような、憑き物が取れたかのような顔だった。
「だけど、この戦いは……僕にとって意味のあるものでした。僕がこの場所に来させるに至った、
「!!」
「だからもう、良いんです。そして、そう。今更、あまりにも虫が良すぎるかもしれないけれど。この言葉を口にして初めて……僕はようやく、救われる」
——降参します、吼翔隊長。
「………………」
少しだけ何かを躊躇うように、しかしその”何か”を振り切ろうとするばかりの決意の表情と共に——戦いの終幕が告げられた。
たった今『剣八』の資格を手に入れた吼翔は暫し茫然とした後、何事かを迷い悩むような葛藤の色を覗かせながらも……程なくして返答を寄越すに至る。
「……わぁッたよ」
「…………」
「お前の
決定的だった。
その宣言をもって、ここに決闘の勝者が決まると同時に——吼翔は『剣八』を勝ち取った。
(終わっ……た……?)
あまりにも唐突な輔忌の告白——そして戦いの終わりを前に、私はその場に縛られたかのように動くことが出来なかった。
「ありがとう、ございます」
倒れ伏したまま静かに礼を言う輔忌を見ても尚、これが現実なのだという実感が湧いてこない。あれだけ願っていた子の無事を、なぜだか上手く受け止められないのだ。
それは勿論、あまりにも急な展開に頭が追い付いていない、というだけの事かも知れないけれど。
それなら……
「……ぐ、がはっ」
突然青年が吐き出した夥しい量の血液を目にして、吼翔は自分が彼に負わせた傷があまりにも深かったことを今更ながらに思い出す。
当然のように目を覚ましたことで感覚が麻痺しかけていたが、酌牽蜥蜴の能力で無理矢理意識を保っているだけに過ぎなかったのだろう。息も絶え絶えという様子で、しかし困ったような笑みを僅かに浮かべつつ。輔忌は今までの人生で決して許されることが無かった行い——即ち『助けを求める』ための言葉を、生まれて初めて放ったのだ。
「ぐ、吼翔隊長、麒麟寺隊長の所まで……手を貸して頂けませんか。僕も貴方も、傷を癒してもらわないと」
「……おお」
とは言うものの、吼翔の右腕はもはや殆ど使いものにならないほど潰れているのだ。手を貸すとしても、麒麟寺の元にまでそのまま移動するとなるとやはり難しい。
斬魄刀の始解を解き鞘に収め、左手を空けなければなるまい——
(——あ?)
そこまで思い至った、正にその時だった。
その
ある種『矛を収める』という類の直接的な行動そのものが——その『疑念』を抱かせるに至る引き金になったのかもしれなかった。
「オイ、てめえ……」
「何ですか? 正直、もう限界が近いんです。申し訳ありませんが、本当に早く——」
「
瞬間、息を吞んだのは他でもない——四番隊に所属する卯ノ花烈だ。
未だ修行中の身とはいえ、既にして極めて優れた回道の才能が広く認められ始めている彼女を眼中にさえ入れる事無く、
今までの遣り取り、表情に垣間見えた心境などを全く無視した、いっそ冷徹とすら取れる俯瞰を極めた視点。唯々結果としてのみ場に残った”状況の本質”とでも言うべきもの。『気を抜いた者を至近にまで誘い込む』という振る舞いは、まるで。
ズァオッ!! と。
空を切る音さえ凄まじい程の勢いで振われた”飛掛”は、瞬時に切り離した一枚の刃を音速を超える速さで打ち出した。
鞭の性質を併せ持つ飛掛の最高速度をそのままに繰り出される遠隔攻撃は、疲弊しきった輔忌の神経が捉えられる速さを完全に凌駕していた筈だった。
しかし——
「ここ」
すうっ、と。
飛んできた刃に沿わせるように……否、
「——のは、まあ『
異常な事態は此れに
いつでも刃を弾き飛ばせる、その段階に至った彼の剣は、触れるか触れないかという
「…………!?」
それは、
眉間の寸前、
代わりに”誰か”が目を背けた方向。何も存在しないはずの虚空へと、再びただ『置く』ように右手の剣を持ち上げた先に。
ずるっ、と。
「ぐっ?」
「が、あああぁぁぁぁぁ!?!?」
「くぃひひッ! あららァ大当たりィ!! 歩きの
全ての動きが読まれている——静止した剣に自分から飛び込んだ形になる吼翔は、得も言われぬその不快感に”ぞっ”とした。
「はー、はーッ……! てめぇは……!」
「くひひひ! 久しぶり、とでも言っておこうか? 早速で悪いんだがぁ——」
身体の一部を失った喪失感、そして激痛。そんなものに気をやっている暇など全く無かった。
今まで敵対はしながらも、戦わなければならない運命にあったとしても。互いに何が為にその”名”を望むのかすらも知らないけれど、望む心の情熱だけは、確かに通じ合っていた筈だった。
なのに、こいつは一体何なんだ?
同じ顔が吐き出す言葉、歪む表情、蔑む目。どれをとっても何一つ重なるものの無い、しかし徹底的な冒涜だけがそこにあった。
「——返して貰おうか。この前の借りでもなぁ!」
血液が溢れ出る左腕を抑え、もがき苦しむ吼翔へと迫る刀は、残った右腕へと吸い寄せられるように伸びていく。
それは決して敵を殺そうとするものではなく、ただ単純に更なる苦痛と辱めを与えるだけの行為。何を考えるという前に、思わず吼翔に加勢しようと烈が動きかけたほどだった。
「————やめろッ!」
瞬間、吼翔の叫びに烈は足を止める。
左手の飛掛、その”絶対防御”は健在だ。紫電一閃、瞬時に躍り出た『固定』の壁が間に挟まり、その追撃を受け止め、軽やかに空宙で回転しながら後方へと素早く下がる。
片腕を失うほどの激痛の中でも翳りの見られぬその体捌きを目にし、ほうと感心したような声を漏らす”輔忌の顔をした男”も全く無視し、吼翔は決闘に割り入ろうとした不届き者へと諭すように声をかける。
「さっきも言いましたが……あいつの正体は”酌牽蜥蜴”! 奴はまだ戦おうとしとるだけ、そんなら! 手出しは無用!」
「しかし……!」
息子のあまりの様子に冷静でいられないのだろう、震える声で尚も言い募る烈を横目に、醜悪なる表情を隠そうともしない男——酌牽蜥蜴が言い放つ。
「ッひひ!! 殊勝! 全くおまえは殊勝だよ吼翔権十郎! だがそれは、ちょうっと
二振りの斬魄刀を持つ手を大きく広げ、空を仰ぎながらも高らかに、謳い上げるようにこう言った。
「おまえは”二度”! 二度も
「…………」
一部には不明な単語が入り混じっていたが、ただ言わんとしている事は十二分に理解させられた。
その言い分はどうしようもなく正しい。
酌牽蜥蜴による『記憶』、それは余りにも克明に輔忌の脳髄へと刻み込まれ、もはや吼翔という男に負ける方が難しい。
だが、それでも。
たった一人で戦うことを宿命付けられた死神は、この程度では止まらない。
「……てめぇが”戦士”じゃなくて助かったぜ」
「んん?」
「あーあーあーッ……! これじゃあよォ、こんな奴と拮抗した勝負なんて
突然、堰を切ったかのように
「……っ」
それを何と受け取ったか——烈は途端に踵を返し、麒麟寺の元へと全速力をもって駆けていった。
その様子を黙って見送った吼翔は、唯一場に残った酌牽蜥蜴にでもなく、誰にでもなく、宙に向かって問い掛ける。
「なあ、そうやろ? ——『ナユ』」
「くひッ、何をごちゃごちゃと言ってるか知らないが、おまえが頼るべき烈を行かせていいのかぁ? 正直言って、あの化け物がどこかにハケてくれたのはわたしにとって大助かりなわけだがな」
おお怖かった、と
「心配すんな、あの人にゃ皆を下げて貰うだけや。——今の三倍は離れて貰わな、この場にいる奴らを潰さずに済ませられる自信がねぇ」
「ほう……?」
「これが最後。正真正銘、てめぇに見せたことのねぇ、俺の『底』ってやつはこれしかねぇ」
行くぜ、と。
今までとは比較にならないほど巨大に膨れ上がる霊圧の感覚。身を焦がすばかりのそれを身に宿しつつ、ただ相棒の”真名”を呼ぶ。
“取ってつけた型”異常者たる輔忌くん、彼の普通寄りな倫理観は単なる未熟の表れで、異常者をやるには弱すぎる。よってどこかで叩き直さなきゃいけないんですね。
だからって人格破壊とかしてくる斬魄刀はキャンセルだ(鋼皮の意思)
卯ノ花さんのナチュラルにイカれた残虐ファイト、酌っちの一転攻勢、くーとび隊長の卍解など、今回は見どころも中々盛れたので個人的には満足でしょうか。お楽しみ頂けたら幸いです。
『とびかけばってんそうそうそうわん』、語呂が良いのか悪いのか……次回、いよいよ決着か?
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決着
目が覚めた。
としか言いようがないと思う、多分。
「……?」
今まで自分が何をしていたのか。これがどうも曖昧でよくわからない。ただそんなさっきまでの状態と違って、僕は自分というものをちゃんと認識している。それを目が覚めたというなら、そうなんだろうか。
ここはどこだろう。見たことのない場所だと思ったが、覚えがあると言われればあるかもしれない。
陽が差し込み、明るくて、緑がある。分かるのはそれだけだけど、どこか安心するような、ホッとするような場所のように思えた。
「……何やっとん?」
「うわっ」
その声を聞いて驚いた。何故って、それは吼翔副隊長のものだったからだ。
背後から耳を揺らした困惑するような口調に慌てつつ、僕は直属の上司に向かって弁明する。
「も、申し訳ありません! 気が付いたらこんな場所にいて、」
「オメー、人んちの庭に入っといてまず言うのが”こんな場所”か……?」
「えええ……?」
そ、そんな事言われても。って、まずい。吼翔副隊長、あれはかなり怒ってるぞ。血管がピキピキいってるのが見てわかる。
「……ハァ、まあええわ。話でもあるんやったら上がってけ。茶ぐれぇ出すぞ」
「はっ……はい?」
「なんでそこで疑問系やねん」
戦々恐々としていた僕をよそに、副隊長はさっさと家の奥に進んでいった。こんな所にさっきまで家なんてあったっけ? いや、そんな事はどうでもいい。
ここでやっぱり帰ります、なんて言っちゃまずいよなぁ……。
「まっ、待って下さいよ!」
いまいち腑に落ちない所もあるけど、考えていたってしょうがない。置いてきぼりを食らう前に、僕は急いでその後を追わなければならなかった。
なんだか、とても大事なことを忘れているような気がするけれど。
いつも通りの日常の空気に、何故だか酷く心が安らいだ。
◼️◼️◼️
最初の変化は顕著に表れた。
“飛掛”の最たる特徴は、鞭状にしなる刀身に付属する十八の刃だ。そして卍解の名を口にした次の瞬間、その全ての刃が、一斉に
ばら、ばらばら、と。見る見る内に”牙”が削がれていく己の武器の様相を一顧だにせず、吼翔はゆらりと歩みを進めるだけである。
更なる変化は——左手に握る刀身に出た。
それは非常に微妙な変化ではあったが、しかし明らかに”性質”そのものが組み変わっているという事が見て取れた。
ぐにゃり、という擬音すら聞こえるような屈曲。弾かれるように手を離れたそれは、平べったい帯状のような、いわは”金属製の包帯”とでも形容すべき形へと姿を変える。
独りでに宙を舞うそれは、変形を終えると同時に吼翔の腕へと巻き付いていく。
……いや、”腕に巻き付く”という表現はあまり適切ではないのかもしれない。
その帯は先程まで腕が”あった”場所——酌牽蜥蜴によって切り飛ばされた、虚空の右腕を依代とするように巻き付いていたのだから。
「……正直、ホッとしたったわ」
肉体反応を確認するかのように閉じる開くを繰り返す自らの腕を見つめながら、
「こんなになっても俺の”装腕”がちゃんと動いてくれるかどうかなんざ、当然試したことなんて無いんでな」
新たに形成された金属義手には、それぞれの指先の形が奇妙に歪んでいた。
本来爪があった部分にすっぽりと穴が空き、内部は空洞になっている。周辺には
そして——“刀身”は”腕”に変化した。
ならば、切り離された”刃”はどうか?
ぐつぐつぐつぐつ!! と。それは無数の金属片が互いを喰らい合うように寄り集まる音だった。
地に落ちたそれらは徐々に浮遊しながら、元の体積を明らかに無視した大きさにまで膨れ上がっていく。直径二丈*1にも及ぶ球体にまで成長した後——ばつん、ばつん、という音を立てながら、再び少しずつ分離していくのだ。
しかし、その数は元の三分の一にも満たない、五枚の板となっていた。
五枚の”刃”は始解のそれに限りなく近い、絵画的表現をとった水滴のような形状を取り戻した。
「成程」
そこで、輔忌の顔をした男——
「おまえの刃は水滴ではなく、いわば『爪』だったというわけか。そしてその装腕は差し詰め、浮いた刃を絡繰人形のごとく操る”操腕”であり”爪腕”」
その答えとでも言うように、吼翔が横薙ぎに右腕を振るうと同時、五枚の巨大な刃が爪の位置と連動しながら飛行する。
軽く振るっただけだというのに、その速度と力強さは相当のものに見える。局地的な暴風、そして土煙に目を細め、人の皮を被った怪物は実に愉しそうに嗤ったのだ。
時はほんの数秒だけ巻き戻り。
「烈!? 何だったんだよアイツは、どこに消えた! 状況は!!」
麒麟寺が泡を食ったように捲し立てるのを無視しつつ、長い距離を一瞬で飛び越え降り立った烈は唯一伝えるべき事を言う為に口を開く。
「——吼翔が卍解をするつもりです。私達はともかく……隊長格に満たない者がここにいるのは不味い!」
「ハァ!? 吼翔の卍解がどうした、解るように説明しやがれ!」
かの卍解、
その能力を知らない麒麟寺が、いっそ過剰なほどにこうして慌てふためく烈の様子に疑念を抱くことに無理はない。だが——次に放たれた彼女の言葉は、彼の想像を遥かに超えるものだった。
「”距離”を離せと言っているんです!! この場に何百もの死体の山が積み上がるような事になる前に、早く!!」
「ヒャア!!」
“装腕”の動きに連動して襲い来る巨大な刃の乱撃を、酌牽蜥蜴は高揚に叫びながら次々と受け流していた。
卍解によって莫大に膨れ上がった霊圧、そして手指を動かす速さをそのまま拡大して損なわぬ大質量の攻撃力。大地を揺るがす轟音と共に振り下ろされるそれを真面に受けていれば、矮小な二振りの斬魄刀などたちまちの内に肉体ごとすり潰されていただろう。
「くひははは!! さぁさぁどうする、さぁどうする! 一度受けが成った攻撃じゃあわたしを殺せんぞ! もっともっとぉ……目新しいものを見せてくれんとなぁ!?」
しかし怪人の防御はそれ以上のものだった。粗野な口調からは想像もつかない流麗な剣筋が織りなす受け流しの連続……見る者に舞踊を思わせる程の技量は、宙を自在に飛び翔ける爪牙の刃を全く寄せ付けずにいた。
今でこそ防戦に手一杯という様子だが、その技術を尋常ならざる速さで『記憶』しつつある彼が攻勢に移るだけの技量を身につけることにはそう時間はかからないだろう。
「…………ふん」
と——その時、吼翔の猛撃がはたと鳴りを潜めた。
金属義手を手前に折り曲げて『爪』を引き戻したかと思えば、彼は奇妙な事を口走り始める。
「そろそろ潮時。綺麗な締め括りとはちと違うがよ……さっさと終わらせたるか」
「あああ?」
あまりに唐突な勝利宣言。
当然訝る酌牽蜥蜴だが、ほどなくして得心行ったと一つ頷く。
「何だ、この期に及んで見せていない手札がまだ有るとでも? いいだろう、わたしを殺せるようならば——」
「既に」
と。
そこで漸く怪人は気が付いた。
「見せとるわ」
ぎりぎちギチぎりギリリ……! と。
何かが軋み、そして歪んでいくような酷く不気味な”音”が、吼翔の眼前で留まっている卍解の刃を中心に響いていることを。
「お前、空を掴んだことはあるか?」
「何ぃ……?」
何が軋む音なのかは分からない。分かりようがない。ただその音を聴いていて感じるものがどういった感情なのかは分かる。
自分でもとても信じられなかった。彼は彼自身とその感情は全く無縁であると思っていたからだったのだが——
「始解と関連せん能力の卍解なんてありゃしねぇ。そいつは斬魄刀のてめぇ自身が一番知っている事やろうが。俺の”飛掛”の能力は『刃を宙に引っ掛ける』こと。その全てが俺の指先に宿ったということ……」
それは”不安”と呼ばれるものだった。
理由など未だに分からない。だがだからこそ、いわば一生物としての、いや、この世界に存在する一存在としての本能に訴えかける異常な感覚だけがそこにあった。
喩えるならば、そう。堅牢な鉄芯に支えられた巨大な塔が、その芯を丸ごと砂の柱に置き換えられたような。
これ以上あの”音”を聴いてはいけない、と。
「もう一度言うぜ、
分からない。目の前の男が何を喋っているかなど分からない。分かりたくもない。カチカチという小さな雑音が新たに聴こえてきて驚いたが、それが自分の口から響いていることには終ぞ気がつく事はなかった。
やるべき事はただ一つ。この卍解を止めなくてはならない。
「よく見とけや、とんでもねぇ事が起こってるぜ……」
「何をする気だ、おまえッ————!!」
しかし、その動きはどうしようもなく遅かった。
彼は余裕を見せ、時間を与え過ぎたのだ。自分を殺せる手立てがあるものなら見せてみろと、そんなものが間に合う筈もなく——
「天の蓋が、引っこ抜けンだよ」
ばづンッ、と。
世界から、音と光が消え去った。
◼️◼️◼️
「ん……?」
「妙な顔しくさりおって。どうしたよ?」
「いえ、ちょっと揺れたような気がして」
足元がぐらついたような、とても大きな振動か何かが地面を通り抜けたような。吼翔副隊長の家でお茶を頂いていた僕は、そんな不安を煽る感覚を感じたのだった。
尸魂界にも地震があるとは知らなかった。過去や未来の出来事をある程度見渡す”記憶”を持って生まれた僕だったが、生憎とありとあらゆる知識を隙間無く持ち合わせている訳では決してない。
この世に生を享けてはや数十年経つが、始めての体験というものに事欠くことは意外と少ないものだ。——と、そんなふうに能天気に構えていたのがいけなかったのだろうか。
ぐらぁっっ!! と、先程とは比べ物にならない揺れが僕達を襲ったのだ。
「う、わッ!」
ちゃぶ台の上に置いていた僕の湯呑みが音を立てて砕ける。突然の事態にどうすればいいか分からなくて吼翔副隊長のほうに目を向けると……
「わぁちちちちち!!! あっ、あっづぁ!?」
「…………」
その湯呑みをなんとか両手にキャッチしていた。ただし、熱々のお茶をだばだばと辺りに溢しながら。
自宅のものが壊れるのを嫌ってどうにか手を出したのか。そうすると、彼って意外と貧乏性なのかもしれない。
「オイ! 口に出てんぞ誰が貧乏性やコラ!!」
「いえ、その……小さい頃から屋敷暮らしだったもので、そういうのはちょっと僕にはわかんないです」
「てめぇ!!」
あまり知りたくなかった上司の価値観を目の当たりにして唸っていると。
「ちくしょう……ともかく、怪我ぁ無かったか? 割れた破片は危ねぇから触んないで待ってろ」
思いも掛けず、返ってきたのは僕を心配する言葉だった。
ぶつくさ文句を言いながら台所に引っ込んでいった彼を見送って、僕はその認識を新たにした。
————やっぱり、優しいな。
ただ強いというだけではない。口調こそ乱暴だが、殺伐とした十一番隊の副隊長としてはやや似つかわしくないと言えるほどの姿勢は僕にとって心地良くもあった。
雑巾はどこにやったかと探している副隊長を横目に、まあ、ああは言われたけど手伝いはしないとな。せめて自分の湯呑みが割れたものぐらいは集めておこうと、何とは無しに一番大きい破片を手に取ると、
「あれ?」
手にあったのは、破片ではなく、剣の柄。
それも、これは、この刀は。間違えようもない——
どくんと、心臓が跳ねた。
◼️◼️◼️
「ブッ壊れた空間が元に戻ろうとしてんのか……神様が決めたルールってやつが乱されたからなのか」
荒廃。
赤熱した大地には何もかもが残らず、全てが死に絶えているだけだった。
死と無のみが支配するその場において、ただ一人言葉を喋る誰かが——吼翔権十郎が言った。
「どういう理屈かは俺自身よぉワカらんのだが、ともかく
端的な表現ながら、全くその通りだった。
その爆発は辺り一面を呑み込み、十三隊最大の敷地面積を誇る十一番修練場の実に七割を埋め尽くしていた。
その爆風の中心に立つ吼翔がどうして無事でいられるのかといえば、それは”飛掛の刃”が持つ『絶対防御』の特性によるものに他ならない。
グゴゴゴ……と、一列に並んだ傷一つ無い卍解の刃が『固定』を解かれると同時に動きだす。その陰から姿を表した吼翔は、掌を上に向けた右腕の金属義手をゆっくりと開いていた所だった。
誰もを消し飛ばす最大の暴力から、無敵の防御によって自分だけは逃れることができる。それこそが吼翔の卍解、”飛掛抜天爪操装腕”の理不尽さだった。
「しかしよぉ——まだ生きていられるんかよ、てめーは」
驚き呆れることも忘れているという様子で、吼翔は目の前の『かたまり』をただ見ながら呟いた。
吼翔を除き、爆心地から最も近しい場所にいた男。
輔忌の肉体を乗っ取った斬魄刀、酌牽蜥蜴は血反吐を吐きながらも尚嗤い続けた。
「くっ、ひひ。良いのを一発、貰ってしまったなぁ——本当に、良い刺激に、なった」
辺りに満ちるのは爆風がもたらした虚無だけではなかった。衝撃を食い止めるために展開された数十という数の鬼道の残骸がそこら中に散らばっている。
あの一瞬でよくもこれだけの事が出来たものだ。そう吼翔は思うが、完全にとはいかなかったらしい。万全の状態で同じ爆発をもう一度防ぐというなら分からないが、どうやらあの様子では無理がある。
「まだやるか? 先に言っとくが、今のを一度や二度しか使えねぇだろうなんて希望を抱いてんならやめとけよ。確かに『ねじ切る』までにもけっこー霊力を使うが、あの『爆発』はあくまで
何十回。
単純に巻き起こす事ができる破壊力の量で言えば、吼翔の卍解は『残火の太刀』にすら並ぶとすら言えるかもしれない。
しかし——それほどの圧倒的な脅威を目の当たりにしても尚、酌牽蜥蜴の下卑た嗤いを崩すには至らなかった。
「ぐ、ばっ……はぁ、はぁ……ひ、ひひひ。最強の死神……『剣八』の名を、流石狙うだけの事はある……」
「何が可笑しい? 諦めて死んでくれる覚悟でも出来たかよ」
「いいやァ……ほんとうに、羨ましいと思ったのさ。その霊圧、力量、何より……それだけの力を悠々と扱うだけの、精神力。おまえの”飛掛”といったらまったく果報者さ。わたしの持ち主がおまえ、吼翔であったならばどんなにか……」
「願い下げや、下衆が」
吐き捨てるような拒絶の言葉を突き付けた直後、再び卍解の装腕を握り込む。
「死ぬ時の最後の一瞬ぐれぇは——主人と添い遂げる覚悟を待って逝くもんや」
ギチギチぎりぎり!! と。
空間そのものを破壊する、膨大な力の奔流が五枚の刃に込められていく。解放の瞬間、起爆、来る——、
「くひッ——」
◼️◼️◼️
「はぁ、ハァ、うううっ——」
どうして? どうしてこうなった?
どうして、どうして……
目の前。血の海に沈む青褪めた顔。良く知った、あんなに優しい人の顔。
その人の胴に馬乗りになって、僕は何度も何度も何度も剣を振り下ろしていた。
後ろから襲い掛かられてすぐに手足を動かなくして、やめてくれと叫ぶ彼をいかに切り刻んでやったかを思い出す——
まずは左腕の付け根を抉り込むようにめちゃくちゃにした。右腕を半ばから切り落としてやった。その後は全身を見境なくズタズタに刺した。
むせ返るような血の臭いと手に残る感触。酸っぱいものが喉の奥まで込み上げてきたのを感じる。目の端に自然と涙が溜まる。口を手で押さえて、死体の上に跨ったまま、僕は子供のようにただ蹲った。
「どうして……」
ごうん、ごうん……! と。
再び世界が揺れ動く音が聞こえる。地震のような、どこか遠い所で何かが爆発するような……。
その胎動を体で感じる度に
目の前で呑気に雑巾なんかを探す吼翔副隊長がどうしようもないほど憎くなって、殺してやりたいと思うようになった。何故だかは全く分からない。だけど、確かに望んでいたんだ。
副隊長は、僕が望んだから死んだ。
この『揺れ』は何だ。どうして世界が揺れるほど……僕は、彼をどうしても殺したくなるほどに憎むんだ。
「おまえ、オマエが……」
また、まただ。世界が揺れて、動いて、また僕は彼を……
「オマエが悪いんだ……ッ」
ぐちゃぐちゃになった感情を誰に向けてでもなくただ吐き出す。死体に向かって剣を振り下ろす気にもなれず、喉が張り裂けるのにも構わず絶叫する。
訳も分からずぐつぐつと沸き立つ苛立ちと憎悪を少しでも抑えようと歯を食いしばって俯いていると——どこからともなく、酷く聞き慣れた声がした。
「っ……!?」
「酌牽、蜥蜴? 貴様か、僕の頭を操ったのは……」
「っあ、……うあぁ……」
一度 絶望に融かされた 怯弱たる心は。
あるべき形へと 変わっていく。
めき。
◼️◼️◼️
「何だよ、ありゃあ……」
空間を引き裂く爆風が過ぎ去った直後。
身を護らせていた『爪』の刃を退かし、視界を確保した上で目に入ったモノ。
「まだ死んでねぇ、だと? いや、違う。それどころじゃねぇ」
——何や、あの『樹』は?
吼翔の眼前に突如現れたのは、一本の枯れ果てた樹木であった。葉を付けず、灰色に朽ち、どこか希薄な存在感を漂わせる。——そして
「で、っけぇな……」
巨大。
自分達が今居る十一番修練場をそれこそ覆い尽くすような、吼翔の”飛掛抜天爪操装腕”が巻き起こす爆発に劣らぬ
今にも朽ち果てそうな、しかし十二分に太い枝の先端全てに繋がっているように見えるのは”鎖”だろうか。無数のそれが垂れ下がり、どこに繋がっているのかと見ようとすれば……
(なん、だ? こいつを見てると……妙な気分だ……)
決して悪い気分ではないのが不思議だった。頭が冴えるというか、周りの空気を鋭敏に把握できるというのだろうか……。まるで冷水を頭から被ったようなハッキリとした感覚がじわじわと強くなっていくようだった。
「ぐ、がっ」
だからこそ気が付いた、のかもしれない。
遥か遠く。爆風に吹き飛ばされ、血と肉がぐしゃぐしゃになるまで痛めつけられた輔忌の体が——その時確かに動いたのだった。
「……”具象化”と来てまさかとは思ったがよ。この短時間に”屈服”まで達成するか。こんな土壇場で卍解に目覚めるやと?」
天才。
陳腐ではあるがこの上なく的確、そんな言葉を連想した吼翔だが、それ故に無念でもあった。若き才能が芽吹いた瞬間に立ち会えたのは光栄ではあったが、その芽を潰さなければならないのも他ならぬ自分なのだと。
あるいは最初から卍解を身に付けていれば、胸中に巣食う”恐怖”を除いた上で戦いを挑まれていれば……結果は誰にも分からなかった。
だが今の輔忌はどうだ? 全身に隈無く傷を負い、自身の斬魄刀に刻み込まれた精神の傷は計り知れない。
終わらせる。この五指を軽く振るえば、吹けば倒れるという程に衰弱しきった肉体はもはや”爆発”の能力を使うまでもなく紙切れのように轢き潰せる。どんな技で受け流そうと、そもそも全身の筋肉がズタズタに断裂していればどうしようもない。
「本当に、お前は良うやったわ。ここ数年お前を一番近くで見ていた俺が認めたる。……これまで追い縋られるとは思わんかった。次に戦うような事がありゃ、俺はたぶん負けとった」
「…………。」
「……行くで」
肌を刺すような痛みを伴うばかりの沈黙が過ぎ去った後、先に動いたのは吼翔だった。絶死の爪腕を振りかぶりつつ一歩を踏み出し——、
天地が裏返った。
少なくとも吼翔にはそう感じられた。しかし
今の状態を一体どう形容すべきなのであろうか。
天と地が、裏返っている。
文字通り、
「なっ……!?」
上下がそっくり
たちまちバランスを崩し、
目を瞑ってでも問題無く歩けるほどに優れた運動神経と空間把握能力を持つ吼翔が
「? ……!?」
早い話——最初に起こった”分かり易い”異変が、更なる異変の感知を妨げていたからだ。
足に力が入らない。
息が詰まって苦しい。
体中に鈍い痛みが奔る。
なのに上手く呼吸ができない。
ギラギラと周りが眩しくてたまらない。
腕の痛みに噴き出していた汗がぴたりと止まった。
そして何より、ひどく眠い。
(何や、これは……! 奴の卍解の能力!? っつうか、)
——どういう能力だよッ!?
始解との繋がりが無い卍解の能力は存在しないと言うが、吼翔の身に降りかかった異変は余りにも多様だった。確認できただけでも十を越えるそれらが次々と増え、または減っていく。
(不味い……ッ、この隙はヤバい! だが力が……)
「グオぁあ◼゛️◼゛️◼゛️◼゛️◼゛️◼゛️◼゛️ァ オ ー ー ー ー ッ ッ ッ ッ ッ ッ !!!!!!!!!!!」
耳を疑った。
仕事柄、地獄の門が開く瞬間など数多く目にしてきた吼翔だったが——その絶叫は、その悍ましさは、この絶叫にも遥かに及びはしないだろう、と感じた。
「うっ、あ……」
上下が反転した視界から辛うじて目に入ったのは——二刀の頃の酌牽蜥蜴とは似ても似つかぬ片刃の直剣をたった一本ずらずらと引き摺り、ゆっくり、ゆっくりと此方へと歩み寄る輔忌の姿であった。
脇差より少し長い程度の短小な刀身は通常の長さと同程度に伸びていたが、握り拳二つばかりという刃の縦幅は特徴的だった。
尸魂界では目を引くタイプの刀剣ではあるが、例の巨木と同様の
(あいつッ、俺を殺す気でいやがる! どうにかして……立たなけりゃあ……)
これほど無様に地べたを這ったことなど今までの人生で一度もなかった。生きるのに必死だった。勝つのに必死だった。勝たなければならなかった。
少しずつ体に力が戻りはしていたのだ。平方感覚も正常に戻りつつあった。どうやらこの能力は強大かつ不明瞭だが、抗うこと自体は不可能ではないらしい。もう少し時間があれば立つことだってできると思った。
しかしそれも——『症状』の進行が、命に届くまでは。
「あえ……?」
気がつけば、意識が朦朧としていた。
全身の力が再び抜け落ちていく感覚。
(おれの、心臓 とまっ て ?)
どしゃっと音を立てて倒れ込み、なんとか目を向けた先に見たモノ。
胸のど真ん中に突き刺さった刃と溢れ出る血液を最後に、冷たい闇の底へと永遠に消え去った。
ここで6話『最後の夜』を読むと、意味不明すぎた酌牽蜥蜴の言ってることに理解と共感ができると同時に、ただの甘ちゃんだった輔忌が後戻りできなくなる所、つまりは剣八の名前までようやく行き着いてしまうまでの変容が見て取れるという仕組み。
黒崎一護みたいなヒーロー的主人公は世界に必要ではあるけれど、輔忌のやろうとしてる事はそんな人達には絶対ムリですから。
次回、最終回。
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剣八の墓標
最初の記憶は、土と血のにおいだった。
男たちの怒号と悲鳴だけが響く場所。
殺して奪うが当たり前。掃き溜めのような暮らしの中で、ただ一つ焼き付いた覚えがあった。
でっけえ背中が、俺を守っていたことを。
流魂街の末も末。北の最低地区、第八十地区『更木』に生きることを強いられた俺——吼翔権十郎は、この土地の例に漏れず盗賊まがいの仕事で食いぶちを得ていた。食いぶちと言うが、当時の俺はハラが減る魂なんてのはそうそういないってことを知りもしなかった。
といっても俺のようなガキんちょがこんな土地で生きてられるわけもないから、ああ、守ってくれる大人がいたことだけはマジに幸運だった。
物心ついた頃、俺は一人の男と暮らしていた。
やつは馬鹿みてぇに腕っぷしが強いんで、そこらのごろつきの身ぐるみ剥いだりするのが楽でよかった。
俺はそいつのことを『親父』と呼ぶようにしていたが、実の父親なのかどうかは知らん。母親はいなかった。もしかしたら、みなしごを集めて育てるのが趣味なのかもしれない。
人が住んでる草ぶきの家を燃やして回って俺と一緒に爆笑してるようなどクズだったが(ガキんちょのした事だ。奴はともかく、俺は許せ)ともかく、どうもその説はアリなのやもしれぬと思うに至る事件が起きた。
「ごん! めしの支度できてっかー?」
「親父ー? どやった、今日の釣果はー?」
「喜べ! おめぇ妹できたぞ!」
「は?」
驚くべきことに、俺に妹ができたらしい。
そりゃ『は?』だよ、マジで。
奴の大きな腕にちょこんと抱かれた、俺の半分くらいのちっこい人間。今にも泣き出しそうな女の子がぶるぶると震えあがっていた。
「なんで?」
「よく見ろ、この子……」
「うん」
「かわいいじゃん」
「バカ」
犬や猫じゃないんだから、人の子をさらうな。しかし、もしかすると俺もこんな風に拾われたのかもしれんのだと思うと強くは言えん。
まあなんやかんやあって、吼翔
わざわざ親父がみそめるだけの事はあり、ナユはかわいいやつだった。いっつもオドオドしとる臆病者で、正直なところ居ても良いこととかは特に無かったが、お兄ちゃんと呼ばれるのは悪くなかったので、俺らも精一杯守ってやったさ。
ところで、俺も喧嘩はまあまあやる方だった。親父のもとでのびのびと鍛えられたからか、近頃は奴と一緒になって暴れまわっていた。知らん人をフクロにして金目のものを奪ったり場合によっては殺したりすることを悪く思わないでもなかったが、こんなとこにいるのは大抵クズばっかりなのでやめることはなかった。
親父は本当に楽しそうに人を殴るから、俺も戦いは嫌いじゃなかった。朱に染まっていったんだな、二つの意味で。
それで、しばらくナユと暮らしていて、なんだか俺に訊きたいことでもありそうな遠慮がちな視線を向けてきたもんだから、俺はお兄ちゃんだからな、快く聞いてやった。
「どうすれば、お父さんやお兄ちゃんみたいな強い人になれますか?」
「お前にゃムリ!」
泣きそうになったナユを慌てて宥めすかしていると騒ぎをききつけた親父にゲンコツをくらった。くそが。
だってしょうがない。ナユはどう見ても荒っぽいことなんて出来ないもんな。
そんな俺たち一家の暮らしは楽しいもので、あっという間に数年が経過した。めちゃくちゃ強い奴の下で思いきり暴れて、家に帰ったらかわいい妹と笑って、食べて、風呂入って寝る。
最低地区とは思えない面白おかしい暮らしは、言うても貧しくはあったが、何度でも言おう。楽しかったさ。
ある夜。
寒風吹き荒ぶ森の中で、俺らはとあるボロの木造小屋に居を構えていた。今日もよく暴れたと、ある種心地よい疲労感と共に寝に入っていたところだった。
ちゃりちゃり、刀を研ぐ音が聞こえてくる。
「親父? 今夜も出るん?」
「起きんでええよ、ハナタレ。くうー、今日はやけに寝れんくってなあー」
あの刀、あれは死神たちの斬魄刀だ。
何年か前に見かけた死神の死体、ありゃ
しばしば、眠れぬ夜に人を斬る。
イカれてるなーと思うかもしれんけど、ここじゃ割と普通のこと。戦うのが好きな親父のことだから、俺も別に思うところは無かったさ。
「何でも相当の使い手があらわれたって話だぜ。”幾度斬り殺されても絶対に倒れない”……それを指しててめぇに『剣八』と名を付けた女」
「ふーん。そういや昼にボコったチンピラがそんな事言っとったなぁ」
そう言い残して、親父は小屋を出ていった。
程なくして雨が降り、帰りは遅くなるかもなー、なんて漠然と思ったりもした。
そうして、朝になっても親父は帰ってこなかった。
そんなこと、そんなバカなことがあるかと思ったさ。はっきり言やぁ俺はあの人を無敵だと思っていた。斬魄刀まで持って鬼に金棒。噂に聞く刀剣解放とやらが出来るようには見えなかったが、一度、天を見上げるばかりのくそでかい虚を一撃でぶった斬ったのを見てからは、誰もあの人を止めらんねぇなと確信したもんだったからな。
昼を回り、夕方になっても帰ってこない。ナユのやつが不安げに俺を見る。いよいよ泣きそうだ。慰めてやんなきゃ。
「大丈夫や。……あいつが帰ってこないことなんて、ないって」
「うん……」
その日の仕事はやめにして、俺らは飯を食ってそのまま寝た。明日、親父が帰ってくることを心から信じながらだ。
その晩、夜更けのことだった。
親父は帰ってきた。
見知らぬ長髪の女に肩を貸してもらって、親父はどうにか帰ってきたのだった。俺らは俄かに喜んで出迎えた。
だが、その傷に俺は絶望した。血だらけで、顔は真っ白。衣服はあちこち穴が空いて、襤褸を着ているのと変わらなかった。それを見て、もう助からない、と悟った。
親父を連れてきた女は親父と同じほどではないが、負けず劣らずといったふうに傷だらけの血まみれだった。相当疲弊した様子だったが、確かな余裕がまだあった。女は言った。
「その男の誇り高き強さに免じ、最期の願いは確かに聞き入れました」
こいつだ。
件の剣八。親父をやった奴。俺はそいつに飛びかかろうとしたが、目を向けた先には既に誰もいなかった。消え去った。
「ごん……ナ、ユ……」
ハッと気がつき、親父にかけ寄る。
なんだ、何を言おうってんだよ、くそ。俺たちを……ナユを置いていってくれるなよ。
「あの、剣八……卯ノ花、剣八。……恨まないで、やってくれ。あいつは、おれの光でいてくれた……最後まで……。おれのような人間にとって、あんなに嬉しいことはなかった……」
「ば、バカ! くそ親父! んな事言われたって……俺らはどうすりゃあいいんだよ……ッ!」
「う、ああ……お父さん、お父さん……」
「……ご免なぁ」
息が浅くなってきた。もう時間がない。
「ごん……聞いてくんねぇか」
「なんだよ……ッ」
「あいつの強さに、おれぁ……惚れちまったんや。何度斬っても倒れねぇってのは、本物やった……」
「…………」
そう語る親父の目は、これから死ぬものとはとても思えないほど爛々と輝いて、まるで子供のようだった。
戦いの愉しみを知らんでもない俺の心根に、その目はぎくりと深く突き刺さった。
「いいなぁ……『剣八』だってよ、俺も……あの名、を……」
親父は、息を引き取った。
朝になり、小屋の裏に遺体を埋めて、小さな墓を建ててやった。ナユが泣きながら手伝うといって聞かないので、余計に時間が立ったような気がする。
小屋に戻って泣いてるナユを慰めてるうちに日が沈みかけてきて、外はすっかり夕焼けに染まってきた。いたたまれなくなった俺は外の空気を吸うため、裏の墓のところに行った。
墓には親父が使ってた斬魄刀が掛けてあって、何だか寂しそうに見えさえした。この下にあの無敵の親父が眠ってるなんて、どうも現実感のないことに思えた。
「お兄ちゃん」
「わッ」
驚いた。中で泣きじゃくっていたナユがいつの間にか後ろにいたからだ。
俯いた顔の表情は見えないけど、その雰囲気がなんだか幽霊みたいで少し怖かった。俺らはもともと幽霊みたいなもんだけども。
「お父さんの遺言……覚えてる?」
「あ、ああ。『剣八』を恨まないでやってくれ、とか。……バカげた話やな。てめぇを斬り殺した奴を気にかけるなんて」
あの人らしいと言えば、らしい。
という言葉までは出てこなかったが、それくらいナユも分かっているだろうな。
「違う。そっちじゃないよ。……お父さん、『剣八』の名前を、欲しがってた」
「……そうやな」
自分では手が届かないってことを分かってても、それでも焦がれずにはいられなかった。……その夢を、最期は俺に語りかけた。
「そうだよ。お兄ちゃんなら、できる。そう信じてたから、お父さんはお兄ちゃんに託したんじゃないのかな? お兄ちゃんなら……!」
「……悪ィな」
俺は……そんなものの為に命を捨てられるほど、強くはねぇんだ。あの人の代わりには、とてもじゃないがなれやしない。
もう、この戦いは終わったことだ。これからは二人で生きていくことを考えなきゃならん。そう言い捨てて、俺は逃げるように小屋に入った。
この時、俺が気付いていれば、全てが変わっていたのかもしれない。それが出来なかったからこそ——。
翌朝、ナユの遺体が見つかった。
目が覚め、隣に寝ているはずだった妹がどこにも居ない。まさかと思い裏の墓を見に行くと、立て掛けてあった斬魄刀がどこにもない。こそ泥が入っただけならどれほど良かったことか。だが、始めから犯人などいなかった。
森の奥。陽の光も疎らな奥地に、ナユの体はバラバラに喰い千切られて散らばっていた。
虚なんて大層なもんじゃない。オオカミだ。なんて事のない獣の群れが、家族を食わすために妹を殺したに過ぎなかった。
「あ、ああ……」
なんで、どうしてこんな事を。何の力も持っていない、非力な妹が、なぜこんな事を。
理由なんてもちろん分かっていた。分からないフリなんてしちゃいけない。妹の遺体のすぐ側、魚の小骨でも除けるように打ち捨てられた一本の刀は……親父の墓の、斬魄刀だ。
「うっ……うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
妹は、妹は、俺の代わりになろうとしたんだ。
不甲斐ない俺の代わりに、強くなって『剣八』を手に入れようとしただけなんだ。強くもない、刀の振り方なんててんで知らないってのに、どこまでも親父のために!
親父の形見をもって、あの臆病なナユが小さな勇気を精一杯に振り絞って、暗闇の森に一歩を踏み出し、ただの獣に喰い殺されて無様に死んだ。
どこまでも腑抜けな俺のせいで死んだ。死んだ。俺に代わって、親父のために。
「うううう、あっ、ぐあああ……」
たった一日のことだった。俺は二人の家族を失い、孤独になった。
そして誓った。必ず、妹の無念だけは晴らさなくてはならないと。
二人の形見となった斬魄刀を手に取り、俺は瀞霊廷へと旅立った。
それから気の遠くなるほどの鍛錬を経て、卯ノ花剣八と出逢い、いつの日か挑む勝負の時のために力を磨き、副隊長の座を手に入れ、ついには十一番隊の隊長となった。
この日、俺は四年間を共にした弟子を殺す。
今日という日に至るまで、一度たりとも
こちらをじっ……と見つめる、俺だけに視える妹の亡霊が。
親父。
悲願を果たす為、剣八の名を捧げよう。
ナユ。
無念を晴らす為、この戦いを捧げよう。
ああ。やっぱり、輔忌よ。
お前は、俺に似ているな。
◼️◼️◼️
肉と眼。
最早見慣れてしまった自らの精神世界で、卯ノ花輔忌は記憶の奔流の余韻に浸っていた。
とても……長い夢を見ていた。
吼翔隊長の過去を辿る、長い長い夢。
『今のは何だ? 何故貴様が吼翔隊長の記憶を持っている?』
ふむ。
率直な感想を言わせてもらえば……
『自分でも不思議なものだが、特に何も』
どういう事だろう。僕は吼翔隊長を生かした上で勝つなんて大層難儀な計画を立てていた筈なのだが、そんな気もすっかり消えて無くなってしまった。
もし隊長がこれこれこういう事情があるから俺に剣八を譲ってくれなんて言ってきたら、後ろから斬りつけてやるだろうな。
『ああ、いつでもいいぞ』
『更木剣八以外は例え相手が部下だろうとキッチリ殺しておく。実力者が変に生き残っては"記憶"との差異が広がるばかりで良いことはない』
『無視だ。朽木ルキアを程々に絶望させておかないと、崩玉によって黒崎一護へ完全譲渡される筈だった霊力量が不安事項になるからな』
『それも無視……と言いたい所だがそうはいかないな。東仙要には死神を憎んで貰わなくては事だ。この目で彼女が止めを刺される瞬間を
どれもこれも、来る日に僕の力や知識を活かす為に必要不可欠な工程だ。むしろ不思議なのは、事前に考えておいて然るべきこれだけの方針を今に至るまで思いもよらなかったということだ。
……いいや、不思議ではないな。
殺すとか見捨てるとか、以前の僕なら耳を塞ぎたくなるような単語ばかり。考えることを無意識に放棄していたんだろう。あのまま何も考えずに更木剣八が来るまで漫然と生きていくとなると、それはそれでぞっとしない話だ。
とどのつまり、啓蒙。
僕にはそれが必要だった。
『貴様の底意地の悪さは心底嫌いだ』
『だが……今なら分かる。少なくとも僕が役目を終えるまでは、貴様とは上手くやっていけそうだってことぐらいはな』
やらなければならない事がある。
その為なら、僕はいくらでも汚れてみせよう。
◼️◼️◼️
柔らかな光を瞼越しに感じる。
病室の寝具に横たわる身体を感触として確認しながら、意識の覚醒を自覚する。嗅ぎ慣れた薬のにおいからここが四番隊舎であることはすぐに分かったが、どれだけ眠っていたのかが不明だ。
「ん……」
ゆっくりと目を開き、辺りを見渡していると——一人の女性と目が合った。
僕のたった一人の母親、卯ノ花烈が驚いたようにこちらを凝視していたのだった。
「お早う、御座います。僕はどれだけ──っ?」
ふわりとした感触に目を白黒させていると、どうやら母さんに抱きしめられているらしいという事が分かった。かすかに腕が震えているのが分かる。
……心配を掛けさせてしまっただろうな。どれぐらい眠っていたのかは分からないが、いつまで側に寄り添ってくれていたのだろうか。そう思いを巡らせるだけで、大切なものが欠け落ちてしまった筈の胸が一杯になる。
静かに、動く両手で母さんを抱き返した。
いつまでも、こうしていられたら。
そう思ったが、僕は黙って手を離した。そんな資格は元より有りはしないのだから。
『己が心』を『輔く』べし。
母さんが僕にただ一つ願い、そして与えた名前。それを僕は捨て去ったのだ。自らの在り様をこうして捻じ曲げ、目的の為だけに跡形も無く破壊した。
今ここに居るのは、力に生き、更なる力に死ぬ事を宿命付けられた、謂わば時代の贄とも形容される者。
母の名前を受け継いだ、ただの卯ノ花剣八だ。
「母さん……麒麟寺隊長を」
ぽつり、と。
意識的に抑揚を抑えた頼み事を口にする。母さんは少しだけ肩を揺らした後——一言も発さず、病室を後にした。
入れ替わるようにやって来たのは麒麟寺隊長だった。目を覚ました僕に驚くこともせず、ぶっきらぼうに椅子を持ち出し、寝具の側で行儀悪くガタンと音を立てて腰を下ろした。
足を組みつつそっぽを向いて何も喋らない麒麟寺隊長に、相変わらずの気難しさだなと苦笑しながら僕から声を掛けた。
「お早う御座います。僕は何日ほど眠っていたのですか?」
「七日」
なんと。そんなに傷は深かったのか。酌牽蜥蜴の奴、勝手に体を動かしてきた割には散々なやられようじゃないか。
「……傷はその半分の時間で治してやった。俺を誰だと思っていやがる。……問題は、あの症状だった」
「症状?」
「ありゃあ一体何時の話だったか……て前ェにも話してやった事があるだろう。烈のヤツと俺が、どうやって出逢ったのかってぇ話は」
「……?」
確か……母さんが一人の男を、血相を変えて担ぎ込んでやって来たという話だ。その男は麒麟寺隊長ですら手の施しようがない状態で、原因も不明なまま衰弱していき、亡くなった。
その時の縁で、隊長と母さんは少しばかりの交流が有ったのだとか。
「そうだ。……俺が看てからそいつが逝っちまうまでの時間が——丁度、七日だったともな」
「…………え?」
「原因がわからねぇ。どこにも異常が無いってのに、霊圧が日に日に衰えていく。俺にはどうする事も出来なかった。……はっきり言って、手前ェが今日になってスッカリ元気になりやがるは思わなかったぜ」
そう語る麒麟寺隊長の表情は言葉と裏腹に、あまりにも強烈な慙愧の念を浮かべていた。
医術の敗北。霊界の最高峰として築き上げてきた誇りを崩される悔しさは、僕なんかが察するに余りあるものだろう。
「そして……その男は、て前ェの父親だった男だ」
「…………。」
僕の、父親。
今まで母さんから話を聞いた事は、思えば一度たりとも無いだろう。片親である事を疑問に思わなかったのかと言えば嘘になる。
「聞かされていなかったのには、何か事情があるのだと考えていました」
「俺もそう思う。だが、この症状を再び目にしたとくれば、この俺がて前ェに伝えてやらないって選択肢は無ぇだろう。……この話はここまでだ。これ以上は何も知らねぇし、言ってやれる事も無ぇよ」
「……有難う御座います」
「礼には及ばねーよ。それより、俺が訊きたい事は他にある」
「体調なら今の所問題はありませんが」
「吼翔を殺したな」
「……ええ」
不機嫌そうに銜え楊枝を上下に揺らす隊長を見た瞬間、僕は彼が何を言いたいのかをすぐに覚った。
「あれが俺にとって『納得の行く結末』だったのかってのは、正直なところ分からねぇ。分からねぇから、何としてでもて前ェを治してやって、起きたその顔を見てから決めようと俺は思っていた。……実際はワケもわからず勝手に治っちまったんだから世話ァねーがよ」
意識は朦朧としていたが、吼翔隊長を殺した時の感触はハッキリと覚えている。そして後悔は無い。目的を妨げる敵を殺した事に後悔は無い。
が、こういった生き方をする以上、今までとは比べ物にならない程の敵を作ることも確かだろう。無論、その覚悟は出来ているのだが。
「……今分かった。変わったんだな、て前ェは」
「そうらしいですね」
「そんならまだマシだ。俺が思う最悪の場合って奴にはならなかったらしいからな。……良いとこ、最悪から二番目ってトコだがよ」
そう言って麒麟寺隊長は立ち上がった。
変わらず不機嫌そうではあるが、どうやらお眼鏡には適ったようだ。今ここで彼を始末しなければいけないような事態にはならないようで内心胸を撫で下ろす。そうなれば“記憶”との乖離が取り返しのつかない事になってしまう。
「最後に……て前ェの卍解の事だが」
「っ?」
一つ前置きした上で隊長の口から出てきた単語は、僕自身ですら未だに全容を掴めていない能力についてだった。
「あの『樹』を視た奴らが全員動けなくなってな……次々と倒れていった。そいつはて前ェの母親ですら例外じゃなかった。とんでもねぇ範囲を攻撃する卍解だ。そのままにしていたらあの場にいた全員が死んでいたかもしれねぇな」
「それは……そのままにしていたら、とは?」
「俺がて前ェを直接止めた。あの場で俺だけは動くことが出来たんだ。あの力はどうやら抵抗の仕様がある類のモンらしい。そん時は流石の俺も必死で、自分がどうやって立つことができたのかも分からなかったが……今にして考えりゃ、あの能力の正体についていくらかアタリを付けるぐらいの事はできる」
「…………」
「しかし、ま……答え合わせはやめとこう。ちょいと前なら兎も角、今のて前ェがそう易々と弱味を握られてくれるとは思えねーしな。精々次の機会まで、斬魄刀の手綱ぐれぇは握れるようになっとけよ」
「……何から何まで、感謝します」
「そんじゃ、俺はさっさと
「そうですか。……寂しくなりますね」
嘘偽らざる本心を言うと、彼は何でもないかのようにこう言った。
「て前ェは思ったよりしぶとそうだし、今生の別れって事にもならんだろォがよ。……じゃあな」
部屋を後にした隊長に軽く手を振って、僕は再び寝具に背中を預けるのだった。
◼️◼️◼️
「
三日後、一番隊舎にて。
護廷十三隊総隊長である山本元柳斎が、この場の二十名以上の隊長格へと朗々とした声で宣言する。
「それではこれより、新任の儀を執り行う」
ほんの一週間前までは顔もまともに見ることができなかった総隊長だが、今では彼と相対しても卍解の脅威を頭に過ぎりすらしなくなった。
未だにこの人と同じ領域に至ったとは言えないが、もはや時間の問題だろう。
「各隊長の耳には伝わっている事と思うが。十日前、十一番隊隊長吼翔権十郎が二百名以上の隊員立ち会いの下、決闘に敗北を喫した」
初めて袖を通した隊長羽織に妙な感覚を覚えるが、思えば吼翔隊長も同じ思いをしたのだろうか。今となっては尋ねようもない、それこそ益体の無い考えだな。
「よって隊長任命の掟に基づき、件の決闘の勝者である卯ノ花輔忌——改め、卯ノ花剣八を十一番隊新隊長に任ずるものとする」
ようやく、この一歩を踏み出した。
必ず野望を果たしてみせる。
母より継いだ、卯ノ花剣八の名に懸けて。
剣八の墓標はこれにて完結。丁度一年間に渡るご愛読ありがとうございました!
………………。
正確に言えば、短編パートは完結、という事です。
本作は被殺願望杯という催しに合わせて急遽物語を詰めたもので、輔忌が剣八の名を手に入れるまでの物語、つまり『原作知識をインストールされた二代目剣八がいろいろと足掻くお話』の本筋に至る前、いわばプロローグまでを書く予定だったんですね。
だからこれまでに残っている多くの謎、例えば『二代目の父親って結局何者なの?』とか『例の原作知識ってどこから生えてきたの?』とか『二代目の卍解はどういう能力なの?』とか……そういった諸々の設定は結局明かされないまま、暫くは私の脳内で眠っていて貰うことになります。
いつかこの短編が連載として帰ってきた時は、全ての謎は明らかになるでしょう。しかし……
ここまでを形にするのに丸一年、はっきり言って計算外でした。完全にエネルギーが切れました。ジャンプ読み切りからの設定で(ほんの一部とはいえ)書きたいネタが破綻する可能性すら浮上しました。
はい、ぶっちゃけやる気が無くなってきたんですね。はい……。書きたい構想だけは最後まで、というか最後よりも後のことまで考えてはいるのですが、書くのに疲れました。こればっかしゃしょうがない。
しばらくは別の作品でものんびり書きながら英気を養うことにします。とはいえ、まあ、折角積み上げた多くの設定を出力しないのは勿体無いにも程があるので、無論いつかは続きを書くとは思います。
しかし私は中々単純な生き物ですので、感想や評価が思いの外伸びれば連載執筆までのハードルは多少なりとも下がるかもしれません。わかりますか?僕は今乞食をしています(ゴミ野郎)
……とはいえ、こんなやる気のない勘違い野郎にくれてやるかよ!ぺっ!という方が大半でしょう。大丈夫。そうなると思って、一番読者が喜ぶやつを最後に持ってきましたから。
それではどうぞ、Cパート的なものです。
「おーい、待ったかーい?」
「いいや京楽、今来たとこだ」
小川のせせらぎの音が心地良く響く。
立派な桜の木の下で、いかにも目付きの悪い男が、華やかな女物の着物を着込み笠を被った派手な男を迎えていた。
「全く、キミの方から花見に誘うだなんて珍しいじゃないの。いっつもボクが誘うと『木なんか見て何が面白ぇんだ』なんて言って荒事の方に吸い寄せられちゃうんだからさ」
「悪りぃ悪りぃ、今日ばっかりはそういう気分じゃなくってよ。何だ、浮竹の奴はまたいつものかよ?」
「うん、口惜しそうにはしていたけどね。具合が悪いなら寝てなさいって、柄にも無くお母さんみたいな事を言ってきちゃったよ」
二人は親友同士であった。
軽薄な性格で戦いを好まない京楽に対して、もう一人の男は戦闘専門部隊として名を馳せる十一番隊の副隊長を務める生粋の戦士だったが、二人は不思議と馬が合うのだった。霊術院時代からの交友は今も続き、こうしてしばしば酒を酌み交わす仲である。
持参した酒をちびちびと飲みながら、久しぶりの安らかな時間を会話に花を咲かせていた。
「いやぁ、それにしても二代目にはボク達三人とも頭が上がらないよね、相変わらず。入隊した頃から目を掛けてもらってさ……キミなんてすっごく優秀だから、どこか他の隊で隊長として何年かキャリアを積めば零番隊への昇進もありえるって噂だよ」
「うげっ、その話はやめてくれよ。斬り合う相手もいねぇお空の宮殿でずっと暮らすなんて御免だぜ」
心底嫌そうに舌を出す親友を見て、変わらないな、と京楽は笑う。彼と気軽に会えなくなるのも寂しい話だったので、出世に意欲の無いその態度は有難かった。
「しっかし……二代目かぁ」
「……また嫌な事を考えてそうだね?」
「嫌な事なんてとんでもねぇな! むしろ逆だっての、あの人は本当に強え人だよ。前線にあまり出ないことをよく思わねぇ奴らもいるがな。……くっそお」
親友の悪い癖が出た、と京楽は顔を顰める。
「あの人と……死合ってみてぇな……」
最近はこればかりだ。飲みに誘われる頻度が日に日に上がってきているのだが、この話をしたいがために京楽らを誘っているのだという事はとっくに察していたものだった。
「……確かに、キミは強いさ。本当に。言っちゃ悪いかもしれないが、今の隊長さん方の大半と比べたってキミの方がずっと、というぐらいにはね。しかしあの人は……」
「二代目『剣八』。七百年間もその名前を守り続けてきた男。……やっぱり俺は、あの人との果し合いがしてぇんだよ」
こういう時に真っ先に反論するのが浮竹だった。恩のある上司と親友が命を奪い合う。戦士の誇りを重んじるあの優男といえど、そう易々と見過ごせる考えではないのだった。
しかし一方で京楽はこうも考えていた。こいつは決して諦めない、と。遅かれ早かれではあるが、背を押されれば彼はすぐにでも決心するだろう。ならば浮竹がこの場にいない今、その後ろ髪を引くことは、果たして親友として正しい行いなのだろうか?
「分からないな……」
「ああ?」
「止めたって聞かないだろうし、それでも止まって欲しいという思いもある。さてどうすればいいのやら……ボクにはとても分からないよ、
神妙な顔をして頷く親友の眼を見据えて、京楽は粛々と言葉を紡ぐ。
「あの人は、挑む者を決して生きては帰さなかった。剣八の名前を守り続け、時にはその名に相応しいと思えるような強者さえ何人も屠ってきたという。積み上がった死体の上に表情を変えずただ佇むその様子を指して、
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