魔女兵器 〜Another Real〜 (かにみそスープ)
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プロローグ 【少女と旅路】
第0節 〜索引〜


 今までのあらすじ——。

 

 俺は『レン』……いや、正確には違うが今は『レン』として生きてる女子高生だ。……ごめん、これも正確には違う。

 

 元は俺は、ごく普通の『男子高校生』だった。

 だがある日、課外授業で某英霊が戦う黄金の杯に似た『異質物』……『ロス・ゴールド』を狙うテロリストの襲撃に遭う。

 そこで何があったのか俺は詳しくは知らない。だが強い衝撃を受けて気絶してしまい、目が覚めたら……世界滅亡の災害に巻き込まれてしまった。

 

 しかもただの災害じゃない。

 都市全体は廃墟になり、街は燃え盛っていた。人間は狂気に満ちた表情のまま塩の彫刻となっていて、触れただけで首が崩れ落ちる惨状が満ちていた。

 

 俺は心から願った。

 

 ——仮に……もしも……。

 ——『神様』が本当に存在していれば……。

 ——お願いだ……すべてを夢に……。

 

「全て、夢であってくれ——」

 

 

 ————ならば、我が器になるがよい————。

 

 

 眩い光に包まれて俺は目覚めた。

 夢の内容は惨たらしく酷いものだったが、最後の方は朧げだった。

 きっと夢だろう。『ロス・ゴールド』は突如消滅した件はあったものの、ネットニュースでも第五学園都市——つまり『新豊州』が壊滅した事実なんてなかったし、安心し切っていたんだ。

 ……だけど、体に異変が起きていた。

 

 早い話が……その、何故か俺……お、女の子になっていたんだ……。

 

 そこからはトントン拍子ながらも色んな出会いと、運命が俺を導いてくれた。

 

 俺と同い年ながらも『魔女』である『アニー・バース』と出会い、更にはSIDの長官『マリル・フォン・ブラウン』に目をつけられた。

 

 事情を説明したところ、半信半疑ながらもマリルは突如消失した『ロス・ゴールド』の件について、俺が深く関係してるんじゃないかと推測して、最重要人物として、非常に……ひじょ〜〜〜に手厚く保護してくれた。

 

 彼女が自身が持つ権限をこれでもかと利用して、俺のデジタル化されているプロフィールをすべて編集……というより改竄をしてくれた。

 結果として俺は『レン』という可愛らしい名前を与えられた。……名前の由来は情けなくなるから聞かないでくれ。

 

 学校はもちろん転校して、庶民である俺とは確実に縁がないであろう超セレブリティなお嬢様学校『御桜川女子高等学校』に入学したり、アニー共々SIDの捜査員として色んな任務を受けていた。

 ……まあ当時の俺はあくまで候補生だったけどね。

 

 その任務にも色んな出会い、成長、因縁があった。

 

 身体中に無数の傷跡を残す、義眼の少女『イルカ』——。

 第四学園都市、つまりは『サモントン』からの視察団代表であり、そのサモントン総督の孫娘『ラファエル・デックス』——。

 俺のメイド力の低さに怒りをぶつけてきた未だ謎多きメイド『ファビオラ』——。

 そしてそのメイドの主人である、とてもじゃないが歳下には見えない金髪の少女『スクルド・エクスロッド』——。

 突如蘇った、かの詩人の詩に登場する魅惑のお姉さん『ベアトリーチェ』——。

 

 まだ終わらない。そこからも色々な大事件が起きた。

 

 青金石柱から復活した女性錬金術師『ハインリッヒ・クンラート』——。

 南極で保護された悲しき過去を持つ少女『バイジュウ』——。

 孤独な審判騎士『ソヤ・エンジェルス』——。

 奇妙な縁で共闘(共犯?)関係になったオッドアイの少尉さん『エミリオ・スウィートライド』——。

 同じく共闘関係となったエミリオの妹分『ヴィラ・ヴァルキューレ』—。

 突如として俺の前に現れた謎の少女『シンチェン』——。

 そして、コバルトブルーの髪色を持つ『誰か』——。

 

 波乱と怒涛に塗れた事件しかなかった。

 事件の裏には様々な思惑や意図があり、それに巻き込まれて傷ついたこともあったし、失うこともあった。

 

 ……そんな中で今でも俺が生きてるのは奇跡としか言いようがない。

 

 だから、時々思ってしまう。

 この世界は水槽に付けられた脳内の中身、仮想プログラムの世界、子供が描く空想……色々と仮説はあるけれど、この宇宙は別の誰かが見ていて、その誰かさえも別の宇宙から誰かに見られてるんじゃないかって。

 

 もしも、本当にもしも……『俺達の先にある実際の世界』という宇宙の概念の先……。内包された宇宙の果てや、隣り合わせの宇宙とかではなく、宇宙の外まで解き放たれた存在がいたとする。

 その存在がいたとしたら色々な呼び名はあると思うが、シンプルな呼称として神様と仮に定めよう。

 ならば疑問に思ってしまうことがある。「どうして神は救ってくれない」かと。

 

 神話を紐解けば個人を救う神はいないということは多い。「俺」を救う神はいない。「あなた」を救う神もいない。

 だけど「俺達」を救う神がいる。「あなた達」を救う神がいる。「大地」を「海」を「物」を「魂」を救う神がいる。

 されど「俺」を「あなた」を救う神はいない。神の愛は非常に虚げで気紛れなものは知ってる。問題はどうして、神様はそのように成り立ってしまう?

 

 それは、この世界はどこかの神様が見ている夢みたいなもので、いつまでも神様は悠久な眠りを続けているんじゃないかと思ってしまう。

 夢を微睡む神様に「自己」はない。「自己」がない以上「他己」もない。だから個人というものが欠損してしまうのではないかって。

 

 ならばどうして神様は、この異質な世界を見続けているのだろうか。人間が誰しも悪夢を嫌う。この七年戦争で未だに怨恨止まぬ世界を神様はどうして見続けているのか。

 答えは出るはずがない。神様は覚めない夢を見るだけ。

 宇宙の中で動き続ける俺達を(あなた達を)夢の揺りかごに乗せて宇宙の外から包み込むだけ。

 

 だが、その神様の夢がある日気紛れに変わってしまったとしたら——?

 

 

 …………

 ……

 

 『混沌』とした夢は終わりを『告』げた。

 『白』紙となったシナリオを『演』者と観客は取り戻すため、『亡』くした物を『死』に物狂いで『算』出する。

 

 ……

 …………

 

 

 その果てに、同じ夢を神様は見れるのだろうか。仮に見れたとして、内包していた宇宙はどうなってしまうのだろう。

 

 俺達がいる世界は様変わりしてしまうのか。

 夢は泡となって俺達は消えてしまうのか。

 もしくは俺達によく似た俺達が生まれるのか。

 

 あるいは……もっと別の何かになるのか?

 

 これはそんな、あり得たかもしれない『もう一つの夢』

 

 ——失い尽くした『 』は、恐れなどない——

 

 人の夢というものは儚く。

 神が見る夢は如何様なものなのか。

 



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第一章 【深海浮上】
第1節 ~深海~


 今から簡単な質問をします。あなたは海が何色に見えますか——。

 

 青色——そうですか。水色——そうですか。

 海色——詩的です。夏色——詩的です。

 青春の色——そろそろ本題に移ります。

 

 本来、海は色とカテゴリされるものではない。そもそも根本的な問題として『色』というもの自体が、概念上『色』と捉えていい存在ではない。

 

 なぜならこの世界には『光』がなければ、あらゆる物を観測できない非常に不出来なものだ。そして『光』があるだけでは『色』は証明できない。観測者の認識を持って初めて『色』は成立する。

 

 もう一度質問をします。あなたは海が何色に見えますか——。

 

 あなたは青色。あなたは水色。

 お前は海色。お前は夏色。

 青春の色はボッシュート。

 

 同じ物を見ているのに何故答えが変わるのか。それは物理的刺激が同じであろうとも、質的経験の差異によるものが大きい。これをとある思考実験として行われており、実験内容は『逆転クオリア』と呼ばれる。

 

 質的経験とは何なのか。簡単なものだ。

 あなたは赤をイメージする時、何が出てきましたか。

 あなたは緑をイメージする時、何が出てきましたか。

 あなたは青をイメージする時、何が出てきましたか。

 

 赤をイメージしたら炎。緑をイメージしたら森。青をイメージしたら海。と今回はわかりやすく表現させよう。逆もまた然り。

 ……これは最初の問いの一つの模範であろう。この観点が『逆転クオリア』の一つの例題となる。

 だが中にはすべてを『リンゴ』を答える人間は必ず存在するだろう。リンゴは赤いし、『青リンゴ』に至っては緑色に熟れている。

 

 だが同時にここで疑問を覚える。

 どうして『青リンゴ』なのに、『緑色』と定義できるのか。歴史的観点から見ればもちろん理由はあるが、問いたいのは哲学的観点によるものだ。

 そもそも『色』とは『光』によって認識される。ならば『色』=『光』と言われれば、そうとは言えない。夕陽は赤いし、朝日は白いだろう。だがそれは人間自身が『光』自体を質的経験から、『光』を『色』として変換してるに過ぎないからだ。『光』自体に『色』はない。

 

 だとしたら、根本的な『色』とは。

 『光』はあくまで色を観測するために必要な前提でしかない。

 『観測者』は質的経験から『光』によって観測される色を判断してるに過ぎない。

 必ず『光』を介さない『色』がどこかに存在するのだ。その『記憶』や『記録』が観測者に宿っているからこそ、『観測者』は初めて『質的経験』から『光』を通して色を定められる。

 

 改めて問います。あなたは海が何色に見えますか——?

 

 ————。そうですか。

 ————。そうですか。

 ————。そうですか。

 

 ようやく本題に移れます。

 あぁ、安心してください。これで最後ですよ。

 

 あなたに問います。『光』も届かぬ『海』の底の底。その名は『深海』

 光が届かぬ以上、観測はできない。

 観測ができない以上、観測者は存在しない。

 観測者が存在しない以上、色は定められない。

 

 定められないなら、深海とは『何色』なのか——。

 

 ………………。

 ………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ごめんなさい。

 最後に『私』の話に付き合ってください。

 

 

 

 

 

 今から難しい質問をします。銀河とは何色ですか?

 

 答えなくて大丈夫です。先ほどの問いの反証みたいなものですので。

 

 ですから、すぐに本題に入ります。

 

 あなたに問います。『光』がたどり着く『銀河』の果ての果て。その名は『宇宙』

 光が届く以上、観測はできる。

 観測ができる以上、観測者は存在する。

 観測者が存在する以上、色は定められる。

 

 定められるのなら、宇宙とは『何色』なのか——。



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第2節 〜清漣〜

 ああ、いつぶりだろう——。この目に焼き付いた地獄を夢に見た。

 

 崩れ去ってく街並み。燃え盛る新豊州。塩の彫刻と化した人間。

 

 どこまでも現実的な夢——。

 だが俺は知ってる。これは多分夢じゃない。多分現実にあったこと。もう一つの現実だとマリルはいつか言っていた。

 

 今回の夢はやけに鮮明だ。浮ついた足取りではなく、まるで現実のように一歩、また一歩と歩くたびに焦土の熱は足裏を溶かし、蒸せ狂うほど肺を焼き焦がす。

 

 その地獄は脳裏に燻るもう一つの地獄を思い出す。七年戦争だ。

 貧困に喘ぐ子供、血濡れの子供、銃を握る子供、共食いをする子供、子供、子供、子供子供子供子供子供——。

 

 俺のトラウマが何度も再生される。

 最悪だ、最低だ。核の抑止を超えた『異質物』の絶対的な力は、七年間も全人類の『悪性』を扇動して争いを続けさせた。それで俺の家族は…………。

 違う。今はそんなことはどうでもいい、過ぎたことだ。今気にしたってどうなるものじゃない。

 

 地獄を歩み続けると、やがて最後の刻が来た。

 凜然と浮かぶ黄金の異質物『ロス・ゴールド』……。あの日、あの時の再現のように、何かを待つように黄金の杯は浮かび続ける。

 

 ふと気になって自分の身体を見た。俺は『俺』だった。

 あぁ、そうか。またもう一度願わないと行けないのか。

 何を? ——決まっている。夢の再演さ。何故か理解してしまう。願わなければこの地獄から覚めることはないと。

 

 ——■に……も■も……。

 ——『■■』が本当に■■して■れば……。

 ——■■■だ……■■■を■に……。

 

「■■■、■■■■■■■——」

 

 

   ——我が器よ、変革の時は来た——

 

 ——今一度この地獄を生き抜いて見せよ——

 

 

 …………            …………

   ……            ……

 

 

「————ぁぁああああああああ!!!!!!」

 

 未だ聞き慣れない『女の子』の声を聞きながら『俺』は目覚めた。

 視線を下ろす。たゆんたゆん。すごいでかい。

 股関部分を動かす。記憶の形すら曖昧な我が息子はいない。

 

 当然のように——『女の子』として……『レン』としての今日が始まる。

 

「おはよう、レンちゃん。今日もうるさいね♪」

 

 夢の内容は朧げでよくは覚えていない。ただ漠然と不安だったことだけはわかる。

 だがそんな些細な気持ちなんて、青い髪をツインテールで纏めた少女——『アニー・バース』の笑顔を見たら吹き飛んでしまった。

 

「い、いつもうるさいみたいに言うなっ!」

 

「え〜。寝言は大きいし、あの日は絶叫するし、今でも寝ぼけて立ちションして叫ぶし……」

 

「ごめんなさい、それ以上言わないでぇ……!」

 

 最近になってアニーは俺を揶揄うのが、どうも板についてきたのが否めない。マリルの教育が進んでるのか、それともラファエルの罵りがそうさせてるのか……。もしくはド天然か。

 何にせよ、俺の基本的人権は悲しくなるほど尊重されてない。

 

『お前の人権は文字通り私が握ってる。少なくとも保障はしているから安心しろ』

 

「それを胸のスピーカーから言わないで、マリル姉さん……っ」

 

『生意気な口叩くとお偉いさんの仕事増やすぞ〜。今度はどんなCMをやりたい? 私のオススメは『ラストブレイド』というゲームの番宣だ』

 

「そのゲーム、色々と大丈夫?」

 

 俺の記憶が正しければ、時代遅れのCGデザリングとか盗用BGMとか慣性無視の移動とか色々と面白おかしいゲームとしてネットで大喜利状態だった気が……。

 

『例え問題が一つや二つ抱えたところで、お前の可愛い姿なら勝てるぞ。知ってるか、裁判は女の子の涙で勝てる。……仮に敗訴してもSIDの力もあるしな』

 

 史上最悪なフェミニズムなうえに、納税者様の血をそんな些末なことに使うなっ!!

 

『冗談だ。流石に製作者の努力を無為にするほど私も鬼ではないよ。……まぁ、お前の肖像権は既に売っているのだが……』

 

「待て!? 売ったってどういうこと!?」

 

「現在お前をモデルとしたアバターが活躍中だ〜。毛先から下着の色まで再現されてるぞ〜」

 

 この人に人権握られてる時点でダメかもしれない。

 ……悪というのは人種や性別ではなく個人の問題なんだろうか。逆に正義はわからないけど、悪は明白であり即ちマリル也。

 

『くだらない哲学問答考える暇あるなら、とっとと歯を磨いて身嗜みを整えろ』

 

 マリルには例えスピーカー越しでも心中は筒抜けのようだ。

 

「おおぉ〜! おっ、おぉ〜」

 

「おっ〜? おっおっ……おっ?」

 

 そして話題の『ラストブレイド』は、現在イルカとシンチェンが遊んでいるが、何か相当気になるところがあるのか、二人揃って百面相を繰り広げる。

 イルカは純粋に楽しんでいるが、シンチェンは笑顔のまま顔が青くなったり汗を流したりと忙しい。

 

『パンツの色は純白ですわ〜!!!』

 

「その声……っ! 何でソヤがそこにいるんだよっ!?」

 

『伝えてなかったが、近日中に『時空位相波動』についての現段階の情報を元老院で纏めるからな。そのためにSIDのエージェント達を招集している。……そう、全エージェントをな』

 

『だ・か・ら〜……私もいるわよ〜!』

 

「その声はエミリオか……。って、待て! お前も俺のパンツを——」

 

『安心しろ。私と確認した時はノーパンだったぞ』

 

「そもそも見るのを止めろよ、ヴィラァ!」

 

 思わぬ人達が胸元からドンドン聞こえてきて、朝っぱらから心身共々疲れが溜まる。

 だが悲しいことかな、俺の人権はほとんどない。借金娘に保証されるのは最低限の自由と意思だけなのだ。

 

『そういうことだ。新豊州で待機することになるから、1日か2日くらいは会わせるさ。……それにあの子も帰ってくるしな』

 

「あの子……? もしかしてっ!?」

 

「ああ。お前が思う通りの人物だよ」

 

 珍しく優しげに伝えるマリルの声に、自分でも分かるくらい期待に胸を膨らませる。

 

「じゃあさ! パーティしようっ! みんなで歓迎してさっ!」

 

『元よりそのつもりだ。お前たちも異論ないだろ?』

 

 『問題ありませんわ〜』『私も大丈夫♪』『エミがいいならオッケーだ』と三者同様の返答が返ってきた。

 隣で聞いていたアニーも嬉しそうに頬を綻ばせていたが、視界の端では針時計がチクタクと時を刻むのが見える。

 時刻は8時前。それを見て、俺は少し危機感を覚えた。

 

「——あっと、ごめんマリル! 今日は一限目から体育だから急がないといけないんだ!」

 

「そうだった! 早く行こう、レンちゃん!!」

 

『おう、行ってこい。帰りは遅くならないようにな』

 

 

 …………

 ……

 

 

 秋模様真っ盛りな新豊州の通学路を駆け抜けて、俺やアニーが通うお嬢様学校『御桜川女子高等学校』へとたどり着く。

 腕時計を確認すると時刻は8時15分。まだ余裕はあり、これならホームルームのチャイムまでに着替えぐらいは済ませられそうだ。

 

「おはよう、ラファエル!」

 

 校門前に見慣れた黒髪の女生徒が見えた。

 周りとは明らかに雰囲気も服装も異なっている。俺やアニーも含めて御桜川に通う女生徒達は皆が黒のセーラー服を着るというのに、彼女は緑色のブレザーに緑色のコートを羽織ったりと校則違反の塊なのに、それをさも当然のように堂々と歩いている。

 だが彼女に関しては仕方ない。教師も女生徒も相手の立場を知っており、彼女が冷ややかな視線を流すだけで恐怖で身を縮こませる。

 

「おはよう、アニーに女装癖。……何かあった?」

 

 我らのサモントン総督の孫娘、毒舌お嬢様こと『ラファエル・デックス』様だ。唯我独尊の性格が災いして、自国から留学扱いで一時出国された人だ。

 あまりのVIPなのでこんな粗暴な態度など許されるのが、彼女の世間的身分の高さが肌身で理解してしまう。

 

「SIDにエージェントが集まるみたいでさ。エミやヴィラも来てるし、ベアトリーチェとかも戻ってきたりでパーティするんだって」

 

 エミ達の名前を聞いて、何かを探るようにラファエルは表情を強張らせる。

 

「どうした、ラファエル?」

 

「……聴き慣れない名前を聞いたから、思い出してただけよ」

 

 あっ、そっか……! 

 エミはあくまで愛称なんだから伝わるわけないじゃん……!

 

「この女装癖が……。頭の中身は鶏さんかしら」

 

「ご、ごめん……」

 

「別に謝る必要ないわよ。それで誰なの? そのエミって?」

 

 訝しげな顔で詰めてくるラファエル。

 その視線は言い様のない『圧』を感じて、暗に「誤魔化したら分かってるだろう?」と脅迫していた。

 どうしよう……? マサダ事件のこと教えても、エミと俺の深い部分については他言無用だってマリルに言われてる……っ!

 

「エミはあれだ! マサダの聖女様で引っ張りだこの『エミリオ・スウィートライド』の愛称! ほらネットの動画でもエミが両断したのは知ってるだろ!? あれで助けられた縁でねっ! 動画でも俺も被害者の一人で映ってるし!」

 

 とりあえず当たり障りのない部分を伝える。大人は嘘つかない的なアレだ。俺は子供とかそんな小さなことはどうでもいい。

 

「そんなことは知ってるわよ。他には?」

 

「他っ!? ないないっ! エミに関してないよな、アニー!?」

 

「ないと思うよ、多分ない、きっとない」

 

 信頼度ガタ落ちっ!

 

「……ちっ、玉なし変態には言う度胸はないか」

 

 非常に不服そうな顔をしながら、ラファエルは事情を察したのかこれ以上何も言わずに納得したようだ。

 

 しかし、玉なしは現在進行形で事実とはいえ……。

 と思っていたら、ラファエル自身でも下品だと思ったのか少しだけ頬が赤くしてしまい、一つ咳払いをして話を戻す。

 

「ところで! あんた他にも隠してることない?」

 

「それこそないって!」

 

「レンちゃん、それだとさっきの問答が台無しになってる……」

 

「それはもういいわ。で、どうなの?」

 

 ラファエルに言われて少し考えるが他に伝えることもない。強いて言うなら『時空位相波動』云々についてだが、これは校門前で話すことでもないし、そもそもラファエルとも無関係だ。

 

「ないと思う」

 

「そう。……気のせいかしら」

 

「気のせいって?」

 

「アンタが寝付きの悪そうな顔してたから、悪い夢でも見てるんじゃないかと思っただけよ」

 

 その言葉に俺は少し驚いた。

 ま、まさか、俺の表情ってそこまで分かりやすいのか……!?

 

「レンちゃんの心配してたの?」

 

「はっ! 誰がこんな変態女装癖のメイド野郎を心配してるって? 誰が?」

 

「……たまに思うけど、ラファエルって素直なのか天邪鬼なのか分からなくなる」

 

 俺もそう思うよ、アニー。

 だけどラファエルのことだから、心配はしてくれてると思う。

 

「ちょっと寝不足なだけさ。気に病むことじゃない」

 

「心配してないって言ってるでしょ? 心配するならアンタの成績よ。今日、美術の授業もあるんでしょ」

 

「…………さて、今日のログインボーナスは……」

 

「ふっ、哀れね。私に泣いて縋るのが目に見えるわ」

 

 すいません、ラファエル先輩。ものすごい忘れてました。

 本当は勉強するはずだったのに……なんで忘れたんだ?

 確か「美術観点は興味のあるものから発想が得るのが基本」とかラファエルが言ってくれて、それでラファエルと協力してブロッククラフトを始めて……。

 

 

 …………

 ……

 

 

 ——《平地作業が遅いッ! あんた普段右手を何に使ってるの?》

 ——《ななな、ナニって!? 何ですか!?》

 

 ——《これが中世ヨーロッパの街並みの再現よ》

 ——《なるほど……。こういうゲームだと中も自分で作るから理解が深まる気がする》

 ——《まだよ。これから壁画の再現もするんだから。……ちっ、建築物の大きさとドット数の都合で精巧な出来は期待しないほうが良さそうね》

 ——《えっ、まだ続くの?》

 

 ——《あのぉ……そろそろ勉強……》

 ——《私の芸術に終わりはないっ!!》

 

 ——《もう午前3時か。明日は学校もあるしお開きね》

 ——《ふぁぁ〜……。……ぅん、んっ……? おやすみぃ……》

 

 

 ……

 …………

 

 

「………………ところでさ、昨日さ、ラファエルとさ、ゲームしたんだけどさ」

 

「ぅ——。よ、予鈴がもうすぐよ。自分のクラスに行きなさい、ブルマ野郎っ」

 

 ……お前が犯人じゃん。

 

 

 

 ——昼休み。

 

「女装癖。今日、購買でレインボーパンというキナ臭い新商品出たそうよ?」

 

「このお嬢様なんでも食うな……」

 

 そして当然のように下級生のクラスに入ってくる。

 ラファエルの制服は他の生徒とは違うというのに、もはや見慣れすぎて誰も気にも留めない。

 

「あれは見た目からしてセンスが壊滅してるのが分かるから買わなかったわよ。今日は無難に焼きそばパン」

 

 すでにそれが俺のイメージするVIP級お嬢様からかけ離れてる。

 ……そもそも焼きそばパンって花の女子高生が買うものか……? いや、現在進行形で女の子してる俺だってカツサンドとオレンジジュースだけどね。

 

「レンちゃん、教室前でニュクス先輩が呼んでるよ」

 

 アニーに言われて教室の外を見る。

 そこには長い紫色の髪を靡かせながら、まるで一枚の絵画のように廊下の窓辺に佇むニュクス先輩がいた。

 

「ふんっ。……早く行ってやれば」

 

「お、おう」

 

 若干ラファエルが不機嫌そうだが、行かないとそれ以上に不機嫌になりそうなので迅速に向かう。

 

「ごきげんよう、レンさん」

 

「おはようございます、ニュクス先輩。どうしたんですか?」

 

「この学校に慣れたのかなぁ〜、って先輩風吹かしにきたのとパーティのご招待をね」

 

 ……パーティのご招待?

 

「ごめんなさい。近日中ならアニー達と一緒に歓迎会みたいなものが……」

 

「その歓迎会が私が招待するパーティです。……SIDの協力でいくつか返還されたストラツッティ家の資産ですので、情報漏洩などは心配しなくて大丈夫ですよ」

 

 ああ、なるほど。考えれば、あの家で全員入るのは狭すぎる。

 アニー、ラファエル、イルカ、シンチェン、マリル、愛衣、etc……。思いついた顔を次々と浮かべる。

 …………合計で10人は超えるな。そこまでの考えが回っていなかった。

 

「本当は私も参加したいところですけど、ボディガードのこともあり当日は来れませんので……どうぞ、好きに使ってください」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

「——私は行かないわよ」

 

 敵意の籠もったラファエルの声だ。

 振り返ると、駄作と呼ぶ作品を見る時の目つきよりも鋭くニュクスを睨んでいる。

 

「そんな血生臭い女のとこに、私は行かない」

 

「今回は純粋な好意です。……あなたがそういうと思いもあって、私は欠席してるのですから遠慮はいりません」

 

「ちっ、貞淑に振る舞いやがって。施しなんて受けないわよ。……レン、先に謝っとく。今回は私のワガママで欠席させてもらうわ」

 

 申し訳ない顔をしてラファエルは教室から出ていく。

 引きずる性格ではないとは思うけど、放課後にでも遊びに行って気分転換したほうがいいかもなぁ……。

 もしかしたら機嫌を直して来てくれるかもしれない。

 

「ごめんなさいね。私のせいで機嫌損ねたみたいで」

 

「大丈夫です。俺からも謝っておきますから」

 

「ふふ、ありがとう。……あと口調は直したほうが良くってよ」

 

 男だから意識して直すの難しいです。

 

 

 …………

 ……

 

 

 ——放課後。

 

「ラファエル! どっか遊びに行こう!!」

 

「……しょうもないところに行ったらただじゃ済まないわよ」

 

 う〜〜ん、従来偏屈・偏食・偏頭痛疑惑のトリニティ偏なお嬢様だけど、ここまでご機嫌斜めなのも珍しい。

 これは相当お怒りな感じだ。初めて見るかもしれない。

 

「——アンタ、私に失礼なこと考えてる?」

 

「考えてない! 考えてない!」

 

 エミとかもそうだけど、読心術紛いなことされると、俺ってそんなに顔に出やすいのかと思ってしまう。

 

「ふん。なら近辺にストレス解消できる場所とか知ってる?」

 

「ええっと……。ゲーセンだろ? それに銭湯、ボウリング、ネカフェ、ゲーセン、ラーメン屋、焼肉屋、ゲーセン、カラオケ、ゲーセン……」

 

 アニーから「レンちゃん、ゲーセンが4つある!」とツッコミが入るけど、舐めてもらっては困る。ゲーセンはゲーセンでもレパートリーが違う。格ゲー特化もあれば、キャッチャーゲーム特化、シューティング特化、中にはホカホカ弁当自販機もあって飲食スペース完備のとこさえある。

 

「チョイスが全部男臭い。デートプランの才能ないんじゃない? 仮にもサモントン総督の孫娘相手に、お前は庶民の食事を勧める? ……けど悪くないわね。褒めてあげる」

 

「マジ?」

 

「マジよ。ラーメン屋……ちょうどいい。やけ食いでもしたい気分だったのよ」

 

「ラファエル! それは乙女の敵だよっ!!」

 

「ストレスも乙女の敵だけど……。安心しなさい、その分夜は抜くから。女装癖、アンタのオススメは?」

 

「麺によって変わるしな……。好きな味は豚骨ベースだけど、細麺だと背脂系のバリカタ、太麺だと魚介出汁の効いた縮れ麺とか……」

 

 店によっては醤油ベースにしたり、つけ麺にしたりとラーメン道は奥が深いのだ。

 

「あっそ、ありがとう。アニーも来るでしょう?」

 

「ラーメンか……。——いいねっ! 私も久しぶりにガッツリといこうっ!」

 

「そのあとバッティングセンターにでも行ってさ」と俺達は会話に華を咲かせながら、新豊州の商業地区へと足を運ぶ。

 女の子になってから自分の胃のキャパシティは把握済みだ。男の時だったら大盛り・替え玉・ライス・餃子付きでも食い切れたが、今だとこのうち二つ抜かないといけない。

 だとしたら考えなければいけないのはバランスだ。

 

「おっ。レンちゃんが真面目な顔してる」

 

「どうせメニューでも考えてるのよ」

 

 お気に入りのラーメン屋の前に来た。今時立て看板なのが、店主の麺に対する自信を裏付ける。

 やはりここは王道の替え玉+餃子か。それともライス+餃子か。もしくは麺一色で楽しむために大盛り+替え玉か。

 だけど、今から入る店は餃子の味付けが深く、柚子胡椒で食べるのがたまらない。非常に悩む。

 

「でさ、俺がゲーセン行ったらアーケードの記録が……」

 

 聞き覚えのある声。振り返ると、懐かしさが込み上げる連中がそこに来ていた。

 

「おっ、おまえら——」

 

 ——声をかけようとした直後、ふと思い出した。俺は面識があっても、あいつらは『俺』の面識がないことを。

 今の俺が奇怪な行動をしたように見えたのだろう。俺が声を掛けようとした数人の男達は、怪訝な目をして横を通り過ぎて行き、人混みの中に消えていく。

 

「……知り合いじゃなかったの?」

 

「……知り合いだよ。……知り合いだったんだよ」

 

 その返答にアニーは察したようだ。俺から視線を外し、足早で券売機前で考え込んでいるラファエルのところへと向かう。

 

 さっき見たのは俺が『男だった頃のクラスメイト』だ。

 元々いた学校では単位制のうえに課外授業が多く、クラスメイトと同じ授業を受けることは多くはなかった。入学仕立てで友好関係もそこまで深くないけど、休みに入れば一緒にゲーセンやボウリングだってしたんだ。

 

 仕方ないとはいえ『俺』が俺として気づかれなかった。ただ正直自分でも驚いたことがある。

 いつも「俺は男だ」と言っていて、男とバレそうになると誤魔化してるくせに、いざこういう状況になるとホッともしないし寂しくも感じないことに。

 

 自分が女の子……というより『レン』として生きてるのが当然になってるのが今改めて感じた。

 

「……うん、俺は俺だ。レンでもいいさ」

 

「女装癖! アンタは何にする?」

 

 だって、こうして『レン』として生きてる『俺』を受け入れてくれる新しい友達がいるんだ。名残惜しさも当然ある。だが今はそんなことは忘れよう。今日の夢みたいに。

 

「じゃあ、替え玉付き背脂マシマシ豚骨チャーシュー大盛り! ラファエルの奢りで!」

 

「昼時に寝言を言うな」

 

 なんてラファエルお嬢様から、いつもの辛口を言われて奥の席に向かおうとすると——。

 

「あへ?(ずずっ) んっ……レンお姉ちゃん、久しぶり〜!」

 

 カウンターの陰に隠れてラーメンを啜る金髪の少女と出会う。

 第二学園都市『ニューモリダス』の理事会メンバーの一人娘、『スクルド・エクスロッド』がそこにいた。



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第3節 〜波乱〜

「スクルドっ!? あれっ、えっ、どうしてっ? というかメイドのファビオラはっ!?」

 

「邪魔だから置いてきちゃった♪ ファビオラって「豚骨ラーメンは毒です。邪道です」とか言って私に勧めないんだもん♪ …………それにファビオラの料理は、あれだからね……」

 

「うわー、この子フリーダムっ」とアニーは気の抜けたツッコミを入れる。

 

「でも置いてきたかいがあったよ! ここのラーメンすごく美味しい! ……あっ、お忍びナウだからファビオラには内緒ね」

 

 確かにいつか見たお人形に着せるような薄黒いガウンではなく、白のシャツの上に青いワンピースに着て、これまた青い帽子を被ったりとオシャレながらも目立ちにくい色合いだ。

 だが、彼女自体が持つ精霊のように神聖で愛嬌がある雰囲気は、素朴な服装に反してより一層際立っても見える。

 

「それで、今日はどんな用事で新豊州に戻ってきたんだ? 例のアレか?」

 

 さすがに一般客が入り混じって会話も聞こえやすいなかで、SIDの情報を漏らすほど俺の口も軽くはない。

 だがスクルドには伝わるであろうニュアンスで聞いてみたが、本人は頭に「?」と疑問符を浮かべる表情でラーメンを啜り続ける。

 

「Sが頭につくアレ」

 

「——それか。違うよ、新豊州に来たのは別件」

 

「そっか。じゃあパーティに誘えないか」

 

「バッドタイミングだね、そんな余裕ないや……。今も優先度低い用事ほっぽり出して来てるんだし」

 

 ほっぽるな、ほっぽるな。

 いくら可愛くても許されないこともある。

 

「でも仕方ないよね! ここのラーメン屋、前にレンお姉ちゃんから勧められたお店だし!」

 

 あぁ^〜、でも俺なら許しちゃう^〜。

 そうだよな! 子供相手に時間の束縛はしちゃいけないよな〜!

 

「レンちゃん特有のキモいオーラ出てる……」

 

「ロリコンの上に女装野郎よ。キモいのが当然じゃない」

 

「あー、あー。聞こえなーいっ」

 

「だけど残念。人と会う用事は山ほどあるから餃子は食べれなかった」

 

「また今度来ればいいじゃん。ファビオラも説得すれば渋々来てくれるって」

 

「——そうだね。今度来た時に……ね♪」

 

 どこか神妙な顔つきをしたかと思えば、年相応の無垢な笑顔を見せてスクルドは店から出て行く。

 直後、店外から「私の視界から離れないでくださいと何度も——!」とピンク髪赤縁メガネことファビオラの愛ある怒号が聞こえてきた。

 どうやらお忍びは失敗に終わったらしい。

 

「俺の分買ってくれた?」

 

「悩んでたみたいだから替え玉、ライス、餃子とか全部買っといたわよ」

 

「そんなに食えないよっ!? 廃棄前提なら世論が黙ってないぞっ!」

 

「そうだよっ! レンちゃんをフォアグラにしないで!」

 

 俺をアヒルの詰め物で例えないでください、アニーさん。

 

「あんたが食べ切れないのは想定内だし廃棄もさせない。食べ切れなかった分を私が貰ってあげるというシェア精神よ。些か不衛生だけど、食品を捨てるよりかは衛生的でしょ?」

 

 おお、世界最大の食料輸出国責任者の孫娘なだけあって、なんとも合理的で魅力的な提案。

 アニーが「料理シェアでも世論がうるさいよ」と言っているが、唯我独尊のお嬢様にはそんな言葉なんて完全耐性で弾く。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて〜。……だけど普通に半分こにしないのか?」

 

「いいのよ。私だって自分の分を堪能したいし。あんたが食べ切れなかった分を貰えるだけでシェアとしては十分なのよ」

 

 そういうものか。……そういうもんかも。

 

 

 …………

 ……

 

 

 ——同時刻、SID本部。

 

 レン達が和気藹々と街を巡る呑気な声を聞きながら、黒い軍服に身を包んだ赤髪の女性マリルは、元々威厳ある顔つきが鬼を殺す勢いで更に険しくなる。

 

「あのバカ共が……。人の気も知らんで……」

 

「いいじゃないですか。マスターが年相応の遊びを楽しむのは嬉しいことですよ。むしろわたくしのように大らかに解放して、うら若き高校生活をさせるのも一興では?」

 

「お前は解放しすぎだ。さっさと服を着ろ」

 

 不服そうな顔をしながらもスレンダーで非常に整った容姿を持つ金髪の女性ハインリッヒは、一糸纏わぬ姿から一瞬にして下着が見え隠れする薄手のシャツと太腿を見せびらかすショートパンツスタイルに切り替わる。

 

「いや……もう少しTPOを弁えろ」

 

「これでも言いますか。しょうがないですね」

 

 ため息をつきながら、ハインリッヒは今度はカッターシャツっぽい白いブラウスに黒いレギンスといったビジウスウーマンスタイルへと早変わりした。

 マリルもそれに納得したのだろう。「うむ」と小さく頷き、周りを見渡す。

 この場にいるのはマリルとハインリッヒを合わせて合計四名。

 

 一人はタブレット上に出ている何かしらのデータを、メガネ越しに見ては自分を抱くように悦に浸る銀髪の小柄な女性『愛衣』——。

 もう一人は同じくタブレット上で、撮影(もしくは盗撮)した成果をスライドショーで流すレンの画像を見て、同じく自分を思考へと想いを馳せて悦に浸る銀髪の少女『ソヤ・エンジェルス』——。

 

 マリルは目眩と頭痛を覚えそうになった。

 

「「失礼します」」

 

「エミリオ・スウィートライド、並びにヴィラ・ヴァルキューレ。基礎身体訓練を終えて、ただいま戻りました」

 

「よしよし。軍人上がりの格式張った挨拶はいいな。私がまともなのだと実感させてくれる」

 

 マリルの言葉の意味もわからず、疑問符を表情に出すエミリオとヴィラ。二人が理解する日はそう遠くない。

 

「ここは前職と違い、そこまで固くならなくていい。レンみたいに大口開けて眠らずに話を聞いてくれれば、お咎めもせんさ」

 

「レンちゃんって、そこまで呑気というか緊張感ないんですか……」

 

「あいつにとって、校長の話と私の定期ブリーフィングは子守唄なんだろうよ。悪気はないし根は良い子だ。皆が保証する」

 

「そんなこと分かっていますよ」とエミリオは笑顔で言い、準備されていたパイプ椅子へとヴィラと共に隣り合わせに座る。

 

「マリルさんもラファエルさんと同じく面白い匂いをしてますわ〜〜〜っ! ……だというのに、わたくしにはあんな乱暴な——」

 

「話が進まんから黙れ。それではブリーフィングを始める」

 

 懐から取り出した資料を丸め込み、わりと本気の勢いでマリルはソヤの脳天を叩く。

「い、ったい、ですわぁ〜〜〜!!!」と痛みを訴えるが、その声は艶やかな嬌声も入り混じっており「愛衣よりヤバいやつかも知れん」ともマリルは思うがひとまず置いておくことにした。

 

「おはようございます、ハインリッヒさん。ほらヴィラも」

 

「……おはようございますっ」

 

「ふふっ。マサダブルクでの話は聞きましたわよ。わたくしはハインリッヒ・クンラート、今後ともマスター共々よろしくお願いします」

 

「マスター」という単語にエミリオとヴィラは再び疑問を表情に浮かばせる。

「マスターとはマリルのことか?」とヴィラは聞くが、ハインリッヒは顔を横に振る。「レンちゃんのことかしら」とエミリオが聞くと、今度は顔を縦に振った。

 ならば次に浮かぶ疑問はこれだ。エミリオとヴィラは同時に問う。「どうしてレンちゃんをマスターと呼ぶの」「どうしてバカをマスターと呼ぶ」

 

「ふふっ。それはもちろん、この世の中で、わたくしの身体、力、精神、すべてをマスターの力で合成されたからですわ」

 

 ハインリッヒの答えは常人では意味不明な羅列のオンパレードでしかなかった。

 エミリオとヴィラは再び疑問を表情に浮かばせて、互いに目を合わせる。「意味がわからん」「私も」——視線を合わせるだけで二人の会話が成立していた。

 

「SIDのエージェントになったんだ。エミリオとヴィラには日を改めて『錬金術』について教えてやる。とっととブリーフィングを始めるぞ!」

 

 有無を言わさぬマリルの怒号に、この場にいる全員が危機感を感じたのだろう。場は一気に静寂に包まれ、マリルの咳払い一つですらやけに耳に響く。

 

「今回集まってもらったのは、いくつか理由がある。愛衣は既に知っているが、近日中に元老院に『時空位相波動』について今一度情報を共有しなければならない。そこでいくつか君たちの意見も尋ねたいところではあるのが——それよりも「なぜ『時空位相波動』について元老院と改めて情報共有する必要性」という点に関して説明させてもらう。君たちの指標にも関わることだ」

 

 マリルの言葉に今までの空気は嘘のように消え、部屋全体が重苦しくなる。

 

「実はここ数日前から新豊州が所有する海域にて『時空位相波動』の前兆らしき波長を検知している。あくまで前兆の上に、反応自体も非常に些細で微弱なものだ。……だが問題はその範囲なんだ。その範囲は、SIDでも観測史上最大であり、その範囲は現段階で——『半径30キロメートル』にも及ぶ。これは新豊州市が持つXK級異質物【イージス】の絶対防御フィールドの35キロメートルに匹敵しかねない大規模な物だ。本格的に活動を始めたら規模はさらに拡大し、新豊州全域を呑み込みかねない」

 

 驚異的な大きさを誇ることに一同は各々反応を示す。

 

 愛衣はマリルの言葉を聞きながらタブレットに真剣に見つめ、ペン回しをする。

 ソヤは手を顎に添えて目を伏せて考え事に更け込む。

 ハインリッヒは口を噤んで静かにマリルを見つける。まるで話の続きを急かすかのように。

 エミリオとヴィラは、自分達の理解が及びない物であることからイマイチ理解しにくいが、三者三様の反応から只事ではないことだけは察していた。

 

「衛星写真で確認したところ範囲内に人が住めるような島々は存在しない……。となると、今回の『時空位相波動』については従来とはおかしな点がいくつか見受けられてしまう」

 

「愛衣、説明を頼む」と一度教鞭を置き、マリルは愛衣に自分の下へ来るよう指示する。

 

「それでは戦術研究部主任である私から説明させていただきます。『時空位相波動』というものは、『異質物』が特定の条件を満たすことで反応を起こし時空位相……つまりは世界の概念自体を揺らがせるものです。この『特定の条件』というものは……さてエミリオ・スウィートライドさん♡ ここからは予習の成果を聞こうかしら~~~」

 

 最初は真面目で責任ある立場の気品を漂わせた愛衣だったが、最後には一仕事を終えたかのように満足して猫撫で声でエミリオへと話を続かせる。

 

「はい! ……諸説ありますがSIDはこの条件を『人間がどういう形であれ干渉する』ことを暫定としています。これにより異質物から影響を受けた人間を『魔女』と呼称しており、この影響を受け心身を暴走状態となった存在を『ドール』と呼ぶ……で、間違ってないでしょうか?」

 

「大体正解♡ じゃあ続いてヴィラちゃんに問います。ここでマリルが問いたい『おかしな点』とは?」

 

「はい! ……今回問題が発生する海域では人が住める島々が存在しない……。つまり異質物に接触する人間がいない以上、異質物は『時空位相波動を発生させることができない』ということです」

 

「はい正解。これについて私はある仮説を立てました。——『人間ではなく、知生体に接触することで反応する』こともありうるのではないかと。これについて反論などは」

 

 すぐにハインリッヒは挙手した。

 

「その説はありえないかと。これまでの位相波動が、学園都市や他国の首都に非常に多く発生しているものと矛盾してしまいます。仮に知生体に反応するのであれば、位相波動は野生生物が生息する熱帯雨林もそうですし、そもそもとして地球の割合の都合上『海』にて発生する可能性が最も高くなります。しかし海に発生したことは、今まで一度たりともない」

 

「私もマリルに似た事言われたよ。……だとしたら、この海域に『人間が生存』できる領域があるということになるんだよね。それってさ……」

 

 愛衣の言葉にハインリッヒは眉をひそめる。しかしすぐさま彼女は表情を崩すと笑みを浮かべながら告げた。

 

「『アトランティス』などと呼ぶものが存在するとでも?」

 

「おや、稀代の錬金術師が否定するのかい?」

 

「『アトランティス』は存在していますよ。ただ新豊州の座標からして、その海域に実在することはない」

 

 彼女の自信を持った口調にマリルは問う。「確信を持っているな」

 

「だってアトランティスは……第三のセフィロス——『理解』を司る場所ですから。詳しい場所も深度もお答えしましょうか?」

 

「結構だ。ならば他に思い当たる海底都市はあるか?」

 

「……『あの方』が言っていた海底都市が本当にあるのなら、1つ思い当たる節があります。ですが、それこそ有り得ない。場所も違いますし、何より真理に近づかねば見えない入り口さえ、今の技術では捉えること自体が不可能ですわ」

 

「現に……ねぇ?」とハインリッヒは口角を上げ、悪戯な微笑みをマリルに向ける。彼女が言いたいことをマリルは理解している。

 

 思い出すのは方舟基地での出来事。青金石柱からハインリッヒが出現した直後、レン達は『因果の狭間』と呼ばれる異空間に転移し、その後南極にて発見された。彼女が言いたいのはそれのことだ。

『因果の狭間』にいた間、通信のビーコンは完全に途絶していた。それは言い換えれば観測できない領域にいたということ。ハインリッヒが言う『真理に近づかなければ見えない入り口』とは『因果の狭間』で間違いはない。

 

「だがそういうことなら」とマリルはある推論を立てたが、それはあまりにも危険が伴う上に現段階では実行する意味がない、という結論に達して赤い髪を掻き毟る。

 

「まあマスターがご自分の力を完全に理解し制御できるようであれば、わたくしみたいな者でも到達できるとは思いますが」

 

「必要ない。話を続けるぞ」

 

「わかりました」

 

 その推論を堂々と口にするあたり、このハインリッヒの性根というか思考は中々に狂っている。

 仮にもマスターと呼ぶべきレンを危険に晒すというのに、自身の探究心を満たそうと模索する根性は、愛衣のマッドサイエンティスト気質とはまた別の方向で極まっている。これでレンに関しては自分を度外視して第一に考えるあたり尚更質が悪い。

 

「……でしたら衛星写真の不備で観測できてない島々があるというのはどうでしょうか。不備と言っても技術や点検の問題ではなく、地球の磁力による電波障害などを推しますが」

 

「説として提唱するには妥当だな。だがここは新豊州……大陸プレートによる頻発な地震はともかく、磁場による電波障害など記録に多くない。あっても数十秒の問題で、それが衛星が通りかかる時に偶然重なって起きて、今の今まで島を捉えることができなかったということが可能か? アトランティスを見つけるより難しいだろうよ」

 

「同意しますわ。自分でもありえないとは思っておりましたので。だとすれば、残る推論はただ一つ」

 

「私が思い立った仮説と同じだろうよ。つまり——」

 

 ——時空位相波動によって『都市そのもの』が空間転移してきた。

 

 マリルとハインリッヒから告げられた仮説は周囲に緊張が走らせた。

 息を飲むたびに緊張の糸は張り詰めていき、やがてソヤが呟く。「でしたら」

 

「……その仮説には一つの条件が生まれますわね。必ず世界のどこかに、同じく半径30キロメートルにも及ぶ『時空位相波動』の前兆が観測されてなければなりませんわ」

 

「……だからマリルは個人の仮定で終わらせたのでしょう」

 

「ああ、そうさ。世界中を隈なく探したが、そんな反応どこにもなかった」

 

 エミリオとヴィラは推論の数々に唾を飲む。傭兵時代にいくつか経験したとはいえ、『時空位相波動』の専門的な意見をを聞くのは初めてなのだ。自分達では把握しきれていない実態や、想像もしていない仮説の数々には自分達が今まで世界事情とは離れた存在であったのかを実感させる。

 

 同時にこんな緊迫とした状況でも寝ることもあるレンを想像し、改めて緊張感がない少女だと二人は認識していた。

 

「だとしたらなぜ……?」

 

 エミリオの疑問に愛衣が答えた。「これで最初に戻るんだよね」

 

「前例がないから元老院もSIDも対処に困ってる。だから各々で有力な仮説を立てる必要が生まれたんだ」

 

「どんな頓珍漢な意見でも構わん。どうせ机上の空論は付き纏う。……たくっ、こんな時期に異質物も面倒を起こして……」

 

「方舟基地での実験第二弾が予定してるからねぇ。デックス博士も新しく代表を呼ぼうとしてる時期なのにタイミングが悪いったらありゃしない」

 

 不機嫌なマリルに、愛衣は気の抜けた声で言う。隣の芝生は青い、というやつだ。

 愛衣にとってはマリルの頭痛の種など割とどうでもいい。それがSIDの長官を任されてるマリルの立場であり責任なのだから。愛衣の加虐性は底はないのだ。誰であろうと、人が悩む姿は悦に浸れる。ヤバイ、笑みが溢れる。

 

 そんなだらしがない愛衣の表情を見て、エミリオとヴィラのこれでもかとドン引きした。ついでにそんな愛衣の捻れた感情を理解したソヤも酷い顔をしており、そちらにも二人はドン引きした。

 

「この場でまともなのは、私とヴィラとマリルさんとハインリッヒさんしかいないのでは」と思い、エミリオはハインリッヒの方を振り返ると、何故か少しずつ服が量子化して全裸になりかけてる金髪の変態がそこにいた。

 ヴィラは理解が追いつかず思考停止するなか、エミリオは「何故服が?」と問う。金髪の変態は量子化した服を元に戻しつつ言った。「考える時は裸の方が集中しやすいので、つい癖で」と。

 

 とうとうエミリオも思考停止し、ある結論に至った。

 ——もしかしてレンちゃんが寝る理由は、現実逃避の一環だったのではないかと。



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第4節 〜朝凪〜

 ラファエル達と商業区で遊び倒してから数日後。

 

 うらら〜、な気分で腕時計を確認する。時刻は午前九時半。

 俺は駅前にあるカフェで、眠気覚ましにコーヒー(砂糖入り)を飲んで日光浴をしていた。

 

 今日は平日なのだが、諸事情あって学校は本日欠席としている。

 理由は当然SIDの任務だ。任務内容は重大なのだが、俺の役割は重要じゃない。誰かの偵察や諜報活動というわけでもなく、現段階では護衛というのが最適だろう。

 ……その護衛対象は、ここで落ち合う予定だ。セキュリティも何もないが、別に来るのは大統領や官僚ではない。ましてや国宝級科学者でもない。

 ……いや、立場はともかく中身は国宝級かも。ハインリッヒからたま〜に神秘学や錬金術の話を聞くし、ラファエルからも生物学なども教えてもらっているが、未だにあの時の会話が1ミクロンも理解できていない。本当にあれは地球の言葉なのだろうか。もしくは俺の脳味噌はラファエルの言う通り「おサルさんレベル」なのだろうか。自信無くす。

 

「お久しぶりですね、レンさん」

 

「おはよう、久しぶ……りッ!?」

 

 後方から懐かしい声が聞こえて振り返る。

 だが俺が見たの物は、想像を遥かに超えていた。

 

「どうしました?」

 

「………」

 

 久方ぶりに会う黒髪の彼女は、雪のように白いワンピースと肌はそのままに、どこか活発的な雰囲気を宿らせていた。

 理由は簡単だ。彼女のミステリアス×クレバーな雰囲気からは想像つかないアグレッシブ×スポーティな自転車が彼女の横にあるのだ。さらに彼女が抱える大容量のリュックサック。

 どう見てもアウトドア系なのだが、その中でもアスリートなどのエキスパート御用達の本格系だったのだ。文学少女である彼女が与える印象とは正反対である。

 

「その自転車は?」

 

「これですか? アニーさんから勧められたクロスバイクです。某有名スポーツメーカーでオーダーメイドしたもので、お値段は自動車と差はないぐらいですよ」

 

 煌々とした目で俺を見る。「どうですか!?」と言わんばかりの自慢げであり、ネタバレをしたくて堪らない子供のような感じ。

 そんな彼女に魅了されて、もっと新鮮な姿が見たいと思い質問をする。

 

「どうして買ったの?」

 

「見聞を広げるために世界中を見に行ってましたが、やはりバスやタクシーだけだと限界な部分もありまして……。リハビリにも丁度良いですし、移動手段としてこう……ポチッと」

 

「ポチったの!?」

 

「はい。通販サイトが取り扱う商品も多様性に溢れてて、タブレットも19年前とは比較にならないくらい高性能で……特にメモリがいいです。これで複雑な計算や証明を記述するのに表計算を複数立ち上げても落ちませんし、バックドアや外部ハッキングなどによる情報漏洩も対策も万全で……」

 

 ン?

 

「デザインも中々に利便性特化で……。最初は大型化していて持ち辛さを懸念していましたが、触れてみるとそもそも厚さ自体が薄くなっているため軽くて無駄な要素も排除して画面が大きくなっていて……。しかも対応する外部デバイスの対応数も多種多様……ほぼ全てのプラグ対応するのは中々に凄いですよ。音声機器や映像機器もそうですけどエフェクターなども拡張性が高くなっていて、今や直列繋ぎを20個以上してもノイズが発生しないんですよ?」

 

 キキッ??

 

「ですが悲しいことも多かったです……。私が眠る19年の間に七年戦争があり世界情勢は様変わり……。六大学園都市でさえサモントン以外では、農作物を作ろうにも『黒糸病』が常に付き纏っていて、食料問題は世界各国で問題が起き、それに伴う慢性的な戦争も見てきました……。ですが、悲しいだけではありません。現在枯れかけた大地でも問題なく発育できる品種改良した『ポマト』や『キャメロット』というものが開発中なんです。特にこの『キャメロット』……あっ由来はニンジンとメロンの遺伝子組み換えで生まれたものなんですが、理論的には気候・条件を問わず栽培が可能なんです。ニンジンに含まれているカロテンのおかげか『黒糸病』が発生するリスクも他の農作物と比べれば数値上5%も低いんですよ? まさしくアーサー王伝説の登場するにふさわしい名であって……ここまで期待が膨らむといつかはたどり着きたいですね、理想郷に。……とはいっても今のままだと味の問題が付き纏うのと、そもそも研究機関の政治的保障が薄いので頓挫する未来も見えているのですが……」

 

 ウキキッ???

 

「おサルさんには難しかったですか?」

 

「酷くないっ!!? 俺のEDUいくつにされてるの!?」

 

 最低値かっ!? 3d6の最低値なのかっ!?

 

「ごめんなさい。ラファエルさんと口論する時の必死さが大好きで、ついイタズラをしちゃいました。レンさんのそういう男の子っぽいところ、好きですよ」

 

 いや、ラファエルとは口論じゃない。敗北確定のワンサイドゲームもしくは公開リンチなんですけど。あと、そういう意味じゃないのが分かっていても「好き」という言葉にむず痒くなる。

 

 などと色々思うが、彼女の微笑を見てしまうとどうでもよくなる。

 それほどまでに楽しそうで、どこか儚げで、なぜか悲しそうで、だけど温かな彼女の笑顔にときめいてしまった。

 

 まるで、霜が溶けて春が訪れた花のようで。

 彼女も少しずつ、ほんの少しずつ、例えその一歩が小さくても確かに歩み出そうとしている。

 真っ白になってしまったキャンバスに、色をつけるように。これからの彼女の人生は少しずつ鮮やかになっていくのだろう。

 

「じゃあ、行こうか。——『バイジュウ』」

 

「はい。旅先でのお話、いっぱい持ってきましたから。…………あとお土産も」

 

 照れ臭そうにリュックサックを叩く彼女を見て、俺も思わずマリルのような意地が悪そうな笑い方をしてしまった。

 多分、マリルがたまに……いや頻繁に俺を見て笑うのはこれが理由の一つなのだろう。頑張った彼女が誇らしげなのが、我が事みたいに嬉しくなってしまう。

 こんな幸せをいつまでも独占しちゃいけない。早く行こう、マリル達のいるところへ。

 

 

 …………

 ……

 

 

 幸いにもバイジュウが購入していたクロスバイクは折りたたみ式だったこともあり、問題なく電車に乗れた。

 電車から降りた後は徒歩で目的地に向かうのだが、重装備のバイジュウを見るのは流石に忍びなく俺はリュックサックを背負うことにした。クロスバイクは高級品のうえ扱いを知らないので俺が持つのは怖い。

 

「……やっぱり重くないですか?」

 

「い、い、いやいやっ! 大丈夫っ、これくらいっ!」

 

 なんだこのリュックサック。持ってみると見た目以上に重い。持つ分には問題ないのだが……。

 

「何入ってるの?」

 

「ええと……ラファエルさん用に《宗教思想と偶像崇拝の裏表》。ハインリッヒさん用に《宇宙開拓論文》と《絶対性量子力学の空想理論》。アニーさん用の《人体力学の可能性》。レンさんには《電子機器による思考領域拡張》。他SIDの皆様と共有で地域名物の菓子や、自分用の参考書、辞典、論文、タブレット、などなど……」

 

「おサルさんにはわからない内容だらけだぁ……」

 

 今日から文明人やめたほうがいいのかな……。

 

「……あとはちょっと早いクリスマスプレゼントとか」

 

「——そっか」

 

 思い出すのは腕時計にあった録音ボイス。彼女の親友が残したものだ。

 内容は重要なものじゃない。秘匿すべき情報もない。

 あるのは一人の女の子が、親友に我が儘を言うだけのなんてことない日常。ただそれだけ。

 だけど同時にそれしかない。だからこそ大事にしなきゃいけない大切なモノ。

 

「目的地はここの海岸沿いの道路を歩いて行くんですよね?」

 

「そうなんだけど……あっ」

 

 見えた、今回の目的地であるニュクスの別荘。

 いかにも別荘ですよ、と主張せんばかりの王道的なログハウス。…………が何故か数軒。というか……。

 

「……つまりこれ全部?」

 

 恐る恐る振り返る。

 あらま白い砂浜。果てまで煌く青い海。

 

 ……マジすか。

 

「これ全部……ニュクスの所有地なのっ!!?」

 

 どう見ても企業運営できるリゾート施設なんですけど!?

 これ全部私的利用の所有地なの!? さすがにシーズンになったら一般解放したりして貸すくらいはするよね!!?

 

「水着持ってきてませんけど、ワンピースでも大丈夫でしょうか? あと顔が青ざめて痙攣してますが日射病ですか?」

 

「海には嫌な思い出があるだけ……」

 

 水着溶解事件は二度とごめんだ。ラファエルがいない以上、あの水着しかないだろうし、絶対断固拒否。男の尊厳をかなぐり捨ててでも阻止して見せる。私は生娘なのですわ。

 しかし、間近で見るとここまで広いなんて……。諦念の境地に達して砂浜を見渡す。

 オーシャンビューとして最高だ。そして最高に開放的だ。だけど最悪に開放的な人物がいることに気づいた。

 

「何で裸族になってるのっ、ハインリッヒぃぃぃいいいいいいい!!?」

 

 魂の叫びがこだまする。それに気づいたであろう豆粒サイズのハインリッヒは、こちらに手を振ってくれた。遠すぎて見えないのが幸いだ。その……色々と。

 

 目を凝らすと、他にもチラホラと見覚えのある人物が確認できた。

 あの特徴的なピンク髪とヘソだしトップスの露出過多なセンスは間違いなくエミリオだ。頭部にサングラスをかけていて随分楽しげな雰囲気。となると隣にいる似た雰囲気の銀髪がヴィラか。姉妹コーデみたいなのだろうか。イマイチこういうのは把握しきれない。

 

 ビーチパラソルの影で、サングラスをかけてタブレットに向き合っているのは愛衣で確定。

 あの特徴的な白髪や男性受け、機能性、季節のコンセプトなどのありとあらゆることに無頓着な水着デザインの上に、さらに空気読めずにパーカーやウインドブレーカーではなく白衣を着こなすセンスは間違いなく愛衣。

 

 そして強制的に目を向けられる魔性感は……。確実にベアトリーチェだ。赤髪、抜群のプロポーションとなるとマリルもいるが、この惹きつけられる感じと、首掛けタイプのビキニとパレオ、そして麦わら帽子と貞淑な美を意識した感じはベアトリーチェだ。

 ………思わず見惚れそう。

 

 となると隣の赤髪こそがマリルなのだろう。服装はいつもの黒い軍服をマント状にしてラフに過ごしているという、他の人たちと比べて厳粛である意味場違いな印象を受ける。とはいっても今回ここに大勢SIDのエージェントが招集できたのはマリルが任務として枠組みに収めて苦労してくれたからだ。

 

 内容は昨日のうちに把握済み。

 ここの近隣海域にて観測される時空位相波動のデータを収集するのが主。海域にて観測されるには非常に珍しいし、現在の脅威度は低いので今のうちの調査できるだけ調査したいとのこと。もし監視中に問題が発生するようなら速やかに対処するという内容だ。交代制で見張るとはいえ、チームを結成して顔合わせぐらいはしないといけない。その顔合わせに乗じて歓迎会を開くことになったのだ。

 

 ……アニー達は今回お世話になるログハウスで待機中かな? 

 アニーも「やることあるから先行くね! バイジュウのエスコートは任せた!」といってイルカとシンチェンを連れて早々に向かって行ったし……。

 

 とはいっても予想はつく。こういう時、早く出るのは大抵サプライズをするためだ。……俺自身経験はないから、本当に予測の範囲でしかないけど。

 

 バイジュウと「どんなサプライズが待ってるんだろう」や「アニーさん達の水着とか気になります?」などと談笑しながら向かうと、意外とすぐに別荘に着いた。

 バルコニーから見える水平線は星のようで煌びやかで、髪を撫でる潮風は語りかけるように優しい。

 

 ——あなたは海が何色に見えますか?

 

 その時、なぜか海の彼方から優しげな声が響いてきた。

 

「ん? バイジュウ今何か言った——」

 

「——ヤババババババババッッ!!!!」

 

 ドアが勢いよく開き、小さな身体が俺の腹部へと突撃してきた。

 特徴的な猫耳型ヘッドホンを外してるものの、この大きさと妙な言葉遣いは間違いなくヤツだ。

 

 ……だが待ってほしい。俺は駅前で何を飲んだ? そう、コーヒーだ。

 コーヒーは利尿作用があるんだ。利尿作用とは排泄器官を促進するものであり、早い話がトイレが近くなるということだ。嫌な予感がする。

 

 衝撃は両足で支えきれず、そのまま小さな身体と共にもたつきながら倒れ込む。

 背部に激痛。次に腹部に女の子の重量が叩き込まれる。そして猛烈に股部分にあの衝動が迸る。

 

 っ、ぅう…………セーフっ……!!

 

「レンちゅぅうううわああああぁぁぁぁんん!!! 今ね、声がしたの!!」

 

 小さな身体——シンチェンは腹部の上で怖いのか驚いているのか、落ち着きのない様子でソワソワと動き続け、俺のアレを弄ぶように刺激し続ける。無垢の恐ろしさここに極まれり。

 

「あっ、あっ……んっ! そうだねぇ……! 俺も聞こえた……っ! だからっ、話を聞いてあげるからっ、どいてくれる……っ?」

 

「わかった!!」

 

 シンチェンは勢いよく起き上がり、そして——。

 俺の、腹部を、ジャンプ台にして、華麗に離れた。

 

 ——チョロ。

 

 ………………嫌な音がしたな。



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第5節 〜夕凪〜

 少女は漂う。長い長い眠りの中で揺り籠の安らぎを感じながら漂う。果てのない概念を漂い続ける。

 あまりにも果てなく広がる朧げな概念は、ある意味『海』のようでもあった。

 

 ——ここはどこでしょうか。

 

 少女は漂う概念の中、微かな意志を発する。

 

『光』が見えた。ならばここは深海ではない。

『光』が見えた。ならばここは宇宙ではない。

『光』が見えない。ならばここは宇宙ではない。

『光』が見えない。ならばここは深海ではない。

 

『 』が見えた。ならばここは深海だ。

『 』が見えた。ならばここは宇宙だ。

『 』が見えない。ならばここは宇宙だ。

『 』が見えない。ならばここは深海だ。

 

 少女は漂い続ける。長い眠りは、永遠ではない。

 少女は微睡ながらも目覚め始める。

 眠りから目覚めるのに理由はない。見上げたら流れ星があったように、偶然の産物や気まぐれの積み重ねに過ぎない。だが、少女を眠りから呼び覚ますには流星一つで十分なのだ。

 

 覚醒した意識は目的もなく果てなき概念の先を見つめた。

 やがて一つの『光』を見た。やがて一つの『 』を見た。

 

 少女の意識は浮上する。少女の肉体は沈没する。

 生まれたての意識に姿はなく模倣するものを詮索する。

 

 流星は砕け星屑に。やがて砂のような小さなきらきら星に。

 

 そうだ。私もこれになろう。

 海から波へ。やがて波は音を轟かせる。

 

 

 …………

 ……

 

 

「レンちゃんって、女性のエスコートさえままならないね……」

 

「あはは……。俺、今からオムツしたほうがいいかね……」

 

「足りないのはおつむかなぁ」

 

 最近アニーが冷たい。やっぱマリルの教育の賜物じゃないかな。

 あまりにも惨めすぎる。客人であるバイジュウには玄関先の後片付けをさせてしまうし、アニーには替えの下着を準備させてしまう。

 

「気にしなくて大丈夫ですよ。その、なんというか……うん、ファイトです」

 

 バイジュウの言葉は辿々しく、最終的には何とも言えない励ましをもらう。もうそれ自体が惨めさの証明だ。俺の心はグッサグサ。

 もうお嫁に行けな…………くていいな。俺男だし。九割九分九厘超えて十割十分十厘の確率で俺は男だ。パーセントの確率表記おかしくなるけど、それほどの自負が俺にはある。

 

「申し訳ないと思うなら準備を手伝う! やることはいっぱいあるよ〜〜!!」

 

 アニーに手を引かれて、俺はキッチンへと連れて行かれる。

 どうやらこの別荘はリビングキッチンらしく、調理場から直接リビングの確認ができて、そこにはイルカとシンチェンがテーブルの上でエプロンをつけて何やら作業しているのが見えた。

 

 そしてキッチンにはソヤがいることも確認。ソヤはこちらの存在に意にも関せず一心不乱に調理場で勢揃いしている肉、野菜といった食材を切り刻む。

 

 そして俺が連れてこられた場所には電子コンロ。その上には水が張られた耐熱容器があり、そして真横には大量の生卵とソヤによって切り分けられた野菜の一部達。

 ここまで来て何をするのかを察せないほど俺も鈍感ではない。今季のモテる男の条件は鈍感系ではないのだ。

 ……俺は一度たりともモテたことないけどね!

 

「はいはい! レンちゃんの女子力を見せる時! サラダを人数分作るんだから卵を茹でて、その間にサニーレタスとかトマトを盛り付けよう! バイト先でもそれぐらいはするでしょ!」

 

「りょ、了解!」

 

 アニーも忙しなく動き続ける。

 隣の調理場で作業をしており、徳用サイズの豆乳を大きめの銀ボウルに注ぎ入れている。しかも銀ボウルは確認できる限り、合計五つは確認できる。

 

「そ、それは何?」

 

「豆乳シャーベット。プレーン、バナナ、ココア、レモン、ミントと味と風味は選り取り見取り!」

 

 そう言いながら味に対応した粉末や、レモンやミントの葉を豆乳に浸していく。そして俺のバイト先よりも一回りは大きい業務用冷蔵庫に銀ボウルを慣れた手つきで運び入れる。その時、冷蔵庫にまた別の味を作成中であろう銀ボウルが見えた。他にも色々な食品や飲料があり、仮にゾンビ映画みたいなクローズドになっても一週間以上は生きていけそうな貯蔵量だ。

  

「アニーって料理もできるのか……」

 

「そこまで上手じゃないけどね。これもただ豆乳にフレーバー混ぜて、凍らせるだけだし。……本当は豆乳とは別のも作ってみたかったけど、材料もないし」

 

「ソヤがやってるのは?」

 

「見ての通り野菜類、肉類を掻っ捌いてる」

 

「じゃあリビングでイルカとシンチェンがやってるのは?」

 

「掻っ捌いた具材を鉄串に刺してる。つまりBBQ! バー、ベー、キュー!!」

 

「——いたたたっ!」

 

 テンションが鰻上りのアニーの裏で、シンチェンが悲鳴を上げた。

 指先を見ており、わずかだが血が滲み出ている。どうやら鉄串が指を掠めたようだ。

 

「大丈夫か、シンチェン?」

 

「……んっ」

 

 心ここにあらず。おそらく大丈夫だと返事したんだと思う。

 とりあえず救急セットを取り出して応急処置を済ませると、シンチェンはポツリと呟き出した。

 

「声が聞こえたっ……。知らないけど、どこか安心できる声がした……」

 

「イルカ、聞こえてない、ショック……」

 

「そうなのか、アニー、ソヤ?」

 

「わたくしは見ての通り解体パーティー中ですので聞く耳が持てませんわっ!!」

 

「私も聞いてないかな〜……」

 

「バイジュウは?」

 

「私も特には……」

 

 どうやらシンチェンが聞いた声は、誰も聞いていないみたいだ。

 ……もしかしたら俺が聞いた声はシンチェンと同じものかもしれない。

 

「アニーさん。私に手伝うことはありますか?」

 

「いやいやっ! バイジュウは客人なんだし、帰国したばかりなんだから休まないとっ!」

 

 バイジュウもどうにか手伝いたいご様子でアニーと押し問答中。

 その間にちょっとシンチェンに確認を取ろう。

 

「どんな声だったんだ? シンチェン」

 

「う〜〜ん!! ふむふむ……。そうか……あーなるほどぉ……」

 

 もう答えは見えた。

 

「わかんないっ! 私と似てるような似てないようなっ!」

 

 少なくとも女性っぽいということだけは分かってよかった。

 

「じゃあ何て言われたんだ?」

 

「銀河や宇宙が何色とか言ってたなぁ……」

 

「じゃあ俺とは違うのか……」

 

 俺の時は『あなたは海が何色に見えますか』だった。

 宇宙と海とでは文字通り天と地の差がある。だけど質問内容は似たり寄ったりだ。何かしらの関連性はあるだろう。

 

 ……もしかして今回の異質物と関係してる? でも、そんな呑気な質問をする異質物ってあるのか? そもそも新豊州が所有するXK級異質物である【イージス】システム以外に意思に近い思考を持つ異質物とかあり得るのか? 

 

 ……不安だ。マリルに相談しよう。

 

「ごめん、アニー! ちょっとマリルと話してくるっ!」

 

「では、その間レンさんのお仕事はバイジュウが貰いますね」

 

「えぇ……。まぁ、いいかぁ……」

 

 

 …………

 ……

 

 

「——というわけなんだ、マリル」

 

「そうか、意味わからん。熱中症か? 愛衣に診てもらえ」

 

 ですよね。自分でも発想が貧相かと思ってる。

 

「冗談だ。前代未聞の海域での反応だ。ならば前代未聞の現象が起きても不思議じゃない」

 

「マリルの冗談は冗談って分かりにくいだよっ!」

 

「お前の訓練増やすぞ〜。まあ、お前の話は無碍にはできん。……とはいっても推測しようにも情報が足りんな」

 

 さりげに訓練量増やさないでもらえますかね……? 毎回いっぱいいっぱいなんですけど。

 

「愛衣はどう思う?」

 

「思いつくとしたら特定の人種に音を届けることかなぁ。カクテルパーティー効果やモスキート音みたいな。レンちゃんもシンチェンも特殊な子だから、そういう異質物が放つ音波を受信できそうだし。だけど、そうなると聞きたい意見は他にもあるんだよね〜」

 

「どんな?」

 

「レンちゃん積極的〜♡ 愛衣さんはそんな野獣なレンちゃん好きだよ〜!! だけど残念。今求めてるのはレンちゃんじゃないんだな」

 

「わたくしを呼びましたか?」

 

 背後から今聴きたくない人の声が聞こえた。裸族(ハインリッヒ)だ。絶対に今俺の後方には裸族モードのハインリッヒがいる。

 

「呼んだかな」

 

「会話は聞こえていたので手短に。恐らく愛衣が求める意見とは、わたくしとシンチェンのような『特殊な方法で生成された肉体』か、マスターとベアトリーチェのような『新生児同然の肉体』を持つ者のことでしょう。残念ながら、わたくしは蚊の音ほども聞こえていません」

 

「私も聞いていないわよ」

 

 今度はベアトリーチェの声が聞こえてきた。

 だが残念、穴が開くほどベアトリーチェの水着を見たいのだが、隣に裸族がいるのが想像つくので振り向いた瞬間に一線を超えてはならない部分を踏み入ることとなる。

 

「久しぶりね、レンちゃん。相変わらず初心で可愛い子……」

 

 背中越しに俺に抱きついてくるベアトリーチェ。

 手は撫でるように胸元に沿われ、息遣い一つで耳から下腹部を熱くさせる。そして伝わる弾力&匂い。男を狂わすメロンサイズ&情熱を煽るバラの香り…………って冷静に本能を委ねるなっ! 

 

 魔性の色気に脳内で甘く蕩けるのが祓うも、脳裏に浮かぶのは蠱惑的なベアトリーチェの姿のみ。

 

 俺、ベアリーチェのこと見てないよね? ベアトリーチェもブレスレットをしてるよね? 『呪い』なんて受けてないよねっ!?

 

「マスターは何を恥ずかしがってるのですか?」

 

「ここにいる全員が魅力的なのよ。……特にハインリッヒ、あなたはね。この子には刺激が強すぎる」

 

 わざとですか、ベアトリーチェ様。

 今最も刺激が強いのは、耳元で聴こえるあなたの息遣いなんです。声を発するたびに背筋がゾクゾクして、視界と脳が「見ようぜレン? 男なら見るのが礼儀だ。むしろ見ない方が女々しい」と正当化してくるんです。

 

「わたくしの身体をこと細かく錬成したのはマスターですし、毛の一本まで把握済みだと思われるのですが……。水着を着た方がいいと?」

 

「ええ。どんな魅惑的な身体も、日常に溶け込むと逆効果よ。その恵まれた肢体はとっておきなさい」

 

「これは大人びたご意見。生前は研究肌の学者しか周りにいなかったので、女性としてのアドバイスは新鮮ですね。面倒ですがそうしましょう」

 

「だそうよ——。もう見ても大丈夫」

 

 マジっすか。ありがとうございますッッ!!!!

 

「——じゃないっ!! 水着も気になるけど、一番は異質物についてなんだっ!!」

 

「素直になってもいいのよ」と頭を撫でてくれるベアトリーチェ。

 今は本能に身を窶して良い場面ではない。

 

「ハインリッヒもベアトリーチェも聞いてないとなると、その肉体的な関連じゃないってことだし。となるとあり得るのは保有している、もしくはされてる情報的な共通点かな。ノックの音を聞いてないとなると『天国の扉』でもないし……。完全にレンちゃんとシンチェンの限定した情報となると……」

 

 ——愛衣の中である情報が掘り返される。

 ——過去にレンがソヤを救出した際に起きた『光』。

 ——レンとニュクスが接触した時に起きた2.5YB(ヨタバイト)の超高密度情報量。

 ——『リーベルステラ号』でレンにだけ認識できたシンチェン。

 

 ——次々と推測が推測を呼び、絡み合っていく。

 ——だが推測を積み重ねても実証できなければ推測のままだ。塵はどんなに積んでも塵なのだ。

 

「……それに問いの意味が気になる」

 

「海が何色のこと?」

 

「レンちゃんは海が何色だと思う?」

 

 言われて少し考えてみる。そして目の前の海が目についた。

 青……いや、愛衣が質問してるんだ。そんな単純じゃないだろう。

 だとしたら海は水だ。水ということは……。

 

「水色ッ!」

 

「うん、典型的な答えありがとう」

 

 あまりにも投げやりの愛衣の反応に愕然とする。

 すごい馬鹿にされた感じ……。

 

「残念ながら答えは科学的には不明なんだ。暫定としては無色透明だけど、光の検証は未だに続けられて今でも明確は答えは得られてない」

 

「待て。海の色なんだろ。なんで光の話が出てくるんだよ」

 

「お前は本当に呆れるくらい無知だな。ここはSS級科学者、マリル・フォン・ブラウン博士として個別指導をしてやるとするか」

 

 愛衣との会話に割り込むマリル。「お前好みの資料だ」と彼女はタブレットをこちらに手渡してきた。

 画面に表示されるのは流動的に動き続けるグラフ。意味がわからないので即刻タブを切り替える。切り替えた先には光、色、宇宙といった単語を検索して片っ端から羅列したであろうサイトのURLがズラリと並んでいた。

 画面をスクロールして、URL先を見てみるもどれもありがちなタイトルだ。「宇宙とは何なのか? 調べてみました!」とか「徹底考察! 海の神秘!」とか。

 

 ……ネットサーファーも長いから身に染みてるけど、こういう情報は大抵信憑性も情報量もない。

 これを見るくらいなら自分で教科書や参考書を開いたほうがいい。

 

「お前の海とは何色なのか、という疑問について答えは愛衣が言った通り不明だ。だが見ての通り、今私たちの前にある水平線は煌めく青一色。普通は青色だと思うだろう」

 

「うん。だけどそもそもとして『海』は『水』だろ。だから水色かなって……」

 

「考えは悪くない。だが、そもそもを考えるなら根本的な部分を考察するべきだ。そもそも『色』とは何なのかを」

 

「色は色だろ? 赤は赤だし、青は青。黒は黒だろ」

 

「じゃあ信号機の色は赤と黄色と青か? よく思い浮かべろ」

 

 ……言われてみれば不思議だ。信号機は確かに赤信号、黄信号、青信号と漠然と捉えていた。だけどよく考えると、青信号って『緑色』じゃないか?

 

「もっというなら肌色もそうだな。色合い的には確かに『肌色』なんだが、語感的に『肌の色』かと言われれば疑問が湧く。わかりやすく黒人、白人を例にするが二人とも『肌色』ではないだろう。両者の肌色は黒と小麦色だ。もしこれが通常だと仮定したら、両者にとってそれこそが『肌色』となる。まるでミーム汚染のようにな」

 

「それは発想の飛躍だろ。意味ないじゃん」

 

「そうだ。お前が提唱した『色は色』という問答について意味はないんだ。信号機の青は、緑に見える。そんなの根も歯もないことを言えば個人差でしかないんだ」

 

「じゃあこの問答なに?」

 

「短絡的だな。上辺だけで理解するのはよくない癖だぞ。『色は色』を提唱したのはお前であって、私が提唱したいのはまた別だ。では意地悪問題。私が本来したい話題とは?」

 

「えーと……」

 

 少しずつ話を頭の中で巻き戻した。VHSみたいに記憶に微々たるノイズを交えながらマリルが問いたいことを推理する。

 そもそもとして『海』は『何色』なのか? それで俺が投げて脱線したのが『色と色』。これを巻き戻してマリルが言っていたのは……。

 

 ——『色』とは何なのか。

 

 いや、これでは質問を質問で返すだけで話は進まない。意地悪問題と言っていたし、マリルが求めてる答えは違う。

 だとすればここから派生しなければならない。上辺だけで理解するのではなく、言葉の意味を理解する。SIDの訓練で本質を見逃すなといつも言われてるじゃないか。

 

 ——『色』は個人差なんだから、問答に意味はない。

 ——ならば『色』自体の問いには意味はない。

 ——だとしたら問いたいのは『色』自体ではなく、『色』の本質。

 

『色』って何だ。個人差。最初に戻って堂々巡り。

 違う違う。そこじゃなくてもっと根本に。質問の内容が見えない時は命題を逆にして。

 

 ——『あなたは』海が何色に『見えますか?』

 

「色を『見る』ことに対して、かな……?」

 

「当たらずも遠からずだ。『見る』には——つまり色を観測するには必須条件が2つある。それが何だと思う?」

 

「それが『光』ってこと? じゃあもう一つは?」

 

「お前は光が勝手に色を見ると思うか? もっと大事で当たり前なものがある。光はあくまで色を見せるものだ。だとしたら、色や、光を『見る』のは?」

 

「あっ、俺か」

 

「よくできました。お前でもいいし、私でもいいし、愛衣でもアニーでも、そこらにいる変態でもいい。色を見るのには『光』と『観測者』が必要なんだ」

 

 マリルはそこで一息吐いた。

 

「ここで海と光の関係性になるんだ。最初の話に戻るが、海は何色に見えるか? という問いに対して光は密接に関係している。海自体の色は未だ不明だが、観測者から見た海の色は基本は青だったり水色だったりする。夕刻になればオレンジにも見えるだろう。これらはすべて光が海を通して反射するから起きる現象なんだ」

 

 そこまで聞いて、ようやくクイズ番組とかの豆知識でそんな説明があったことを俺は思い出した。

 海は光を取り込んで人間の視界に入ることで、初めて海の色は青く見えるとか何とか言っていた。

 

「ん? じゃあ、あの声の問いって——」

 

 結局のところ個人差では? 

 それだけ簡単な答えなら、マリルと愛衣が悩むところなんてカケラもないじゃないか。

 

「よく気付いたな。普通なら個人差で終わるんだ。絶対的な色ではなく、一個人の認識の色を問う程度の問答なんてな」

 

「だとしたら、この問答は『普通』じゃなくて——」

 

「そう。今回問われる対象となっているのは、レンとシンチェンなんだ。イレギュラーとイレギュラーに対する問いだ。当然求めてる答えは『普通』であるはずがない。『イレギュラー』でなければお前たち二人に問う意味はない」

 

「なるほど。……あっ、それが愛衣が言いたいことでもあるのか」

 

「そういうことだ。問いの本質を忘れるなよ。メディアが大衆を煽動するように、必ず『問い』というものは『質問者が欲する内容』と『解答者に求めている答え』がある。1+1=2なんて素直な物じゃないんだ」

 

 その言葉を聞いて、俺は再び声の質問を思い出す。

 

 ——あなたは海が何色に見えますか?

 

 その答えは今は持てない。恐らくこれに関して、そう易々と返答していいものではない。

 海を見据えて質問の意味を再び考える。『何色』だ。海とは『何色』なんだ。俺から見たら『海』って何なんだ?

 

 無い頭で絞っても答えは生まれはしない。やがて青い海を見続けてたことで、青髪の少女アニーのお願いを思い出した。

 

 ……いつまでもこうしちゃいられない。早く戻って準備を手伝わないと。

 

「どうですか、マスター。砂浜にある素材で水着というものを錬成したのですが中々の傑作だとは思いませんか?」

 

 と思って振り返った矢先。ご満悦なハインリッヒがいた。自慢の水着が視界に入る。

 白い貝殻が3枚あった。胸部に2枚、下腹部に1枚。それらを繋ぐ紐以外は何も着ていなかった。

 

 ……どこが大丈夫なんだよっ、ベアトリーチェッッ!!



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第6節 〜潮騒〜

 バーベキューでひたすら食欲をこれでもかと煽り立てた後は海辺で水合戦したり、砂浜でビーチバレーしたりとあっという間に時刻は夕暮れ時となる。位相波動の観測は今も続いており、現在はハインリッヒがデータ収集を担当中。他は各自待機状態で別荘の領地内で自由行動。

 

 過ごし方は各々個性的だ。

 マリルはほどほどに酒を楽しみつつ時空位相波動の情報整理を余念なく続けており、愛衣は今まで不明瞭となっていたデータをサルベージして考察に耽る。

 

 エミリオとヴィラは今後俺達と同じ御桜川女子高校へと入学する手配となっており、二人は制服をチェックしたり教材を確認したり予習したりと、どうあれ学生生活を楽しみにしてるように感じる。

 

 ベアトリーチェとバイジュウは自室で読書を満喫中。

 イルカとシンチェンは遊び疲れて熟睡中。

 

 となると残るのは、俺とアニーとソヤということになる。

 

「いや〜、海岸でバーベキューはやっぱいいなっ!」

 

「うんうんっ! 好きなだけ食べて、好きなだけ遊んで、好きなだけ休むっ!」

 

「こんなに楽しいのに、なぜラファエルさんは来ないのか……。やはり、わたくしには理解しがたいお方ですわ」

 

 三人揃って仲良くバーベキューの後片付け中。

 アニーは食器類の洗濯。ソヤは設置したバーベキューグリルや鉄網の清掃。俺は使用した炭の処分、鉄板やビーチバレーの道具を元の位置に戻したりの力仕事だ。

 

「これが終わったらバイジュウと一緒にボードゲームでもしようかっ!」

 

「そういえば物置にいくつか未開封のやつがありましたわね。稀少なものもいくつか……」

 

「ボードゲームかぁ……。オセロ位しかやったことないんだけど」

 

 現代っ子はもれなくアプリやビデオゲームしかしてない。

『大乱闘スマッシュ・シスターズ』、『パケットモンスター』、『ファーストファンタジー』『GBUP』、『昨日方舟』、『少年前線』などなど……。

 そういうアナログ系はここ最近やった覚えがない。

 

「オセロの他にもモノポリー、ゴキブリポーカー、お邪魔者、人狼、ブロックス……結構ありましたわよ」

 

「野球盤はあった?」

 

「どうでしょうか。こういうのは面白い『匂い』で判断することが多くて……ブラックな感じしか覚えておりませんわ」

 

 それを聞いてソヤが上げたボードゲーム全般やりたくなくなった。

 ソヤが『面白い』という時点で危険度が跳ね上がり、汚い手段が常套手段として使えるゲームなのではないかと勘ぐってしまう。

 

「どうせ夜通しでやるんだし、なんでもいっか! レンちゃん、今夜は寝かせないよ〜♪」

 

「うぇひひひ……今宵は楽しみですわね♡」

 

「ソヤが考える如何わしいことは微塵も起きないぞ」

 

「ちぇっ」とブーブーと不貞腐れるソヤ。

 そうこうしてるうちにバーベキューの後片付けは終わり、皆揃ってボードゲームを大量に抱えてバイジュウのところへ突撃しようとする。

 

 ——途端、胸元にいつもの痺れが走った。

 

『悪いな、レン。パジャマパーティーの真っ最中か?』

 

「マリルっ! 今からボドゲやるんだけど一緒に……」

 

『誘いは後だ。現在観測中の海域に大きな揺らぎが発生した。時空位相波動に達するには不十分だが、何かの拍子で活動する可能性も考慮すると無視もできない。早急に出撃準備をしろっ』

 

 マリルからの言葉に俺達三人は瞬時に気持ちは切り替える。

 両腕に抱えていた遊具は廊下の端に置いておき、速やかに出撃待機場所となる海岸沿いの崖の下へ向かう。

 

 

 …………

 ……

 

 

 予めここの地理は確認しており、出撃待機となる崖下には昔の海賊が使用していたと思われる天然の空洞があることをSIDは把握していた。

 目的地に向かうと、待っていたのはマリルとハインリッヒの2人。そして海賊が使用していた海賊船——なんてロマン溢れるものではなく、最新鋭のモーターボートだ。

 

「これって……」

 

「異質物のエネルギーを使用した局地戦闘用モーターボートだ。機種は《Satisfaction》というメーカーが製造した《トリシューラ》を改造したものだがな」

 

 企業名を聞いて俺はすぐに思い出した。確か競技用のモーターマシーンを製造しており、ネット上で度々ネタにされる有名企業だ。

 企業理念が『更なる満足へ!』だったり『満足しようぜ!』と意味不明だったり、イベントで姿を見せる社員が全員袖無しジャケットを着て常人には理解不能な論理を発表したりなど、妙な部分が好評を得ている。

 もちろん社名に恥じない品質は保証しているので、企業としての信頼も随一だ。顧客もしっかり満足させてくれる。

 

「あれ? でもこの形式で異質物のエネルギーを使うのは……」

 

 いつかSIDで受けた講習の一つを思い出す。 

 EX級、XK級を除く異質物が持つエネルギー効率は非常に優れているものの、それを普遍的な物に変換するのは莫大なコストがかかり、通常のエネルギーとして普及するのには現状不可能だと言われていた。

 例えば都市の電力もそうだし、車や船といったバイオ燃料もそうだ。異質物は普及された規格に対して適応しにくいからこそ、従来のエネルギー構造は現役のままでいられるのだ。

 逆に言えばコストさえ掛ければ変換可能ではあるので、用途を絞り込めば異質物のエネルギーを利用できる。その一つが異質物武器だ。あと俺に支給されてるいくつかの戦闘服。

 ただそれをしても利益率としては下の下らしいので、大抵はエネルギーではなく資材として使うのが常識らしい。それがシンチェンやエミリオ達と会った『リーベルステラ』の金庫室にあるコンテナや、スカイホテルで『黄金バタフライ』を保管してたアタッシュケースだ。

 

 だが、目の前にあるボートはどうだ。

 見た目は確かにカタログで見た《トリシューラ》とほぼ同じだ。違いがあるとすれば、船体の関節や排泄部分から青白く揺らめく光が見えることだ。これは異質物の特徴で間違いない。

 マリルが口にした『異質物のエネルギーを利用した』という言葉に偽りなどなく、船という規格に異質物を適応させたのだ。

 

「まさかこのためだけに血税を搾り取ったなッ!?」

 

「ところがぎっちょん。船の燃料規格を異質物に対応できるようにするだけならコストは大統領専用車よりも掛からん。一番費用が膨れるのはエネルギー自体を普及した規格に合わせることなんだ」

 

「じゃあ最初からそうしようよ!」

 

「アホか。異質物のエネルギー自体は千差万別の上に単純じゃない。確かに熱、液体なら大丈夫さ。だが中には情報、時間などが異質物のエネルギーとして内蔵してることもあるんだ。どうやって現代技術で適応したエネルギーに変えればいい? 答えろ、どうしたらいい? 答えてみろレンちゃ〜〜〜ん♪」

 

「無理です……」

 

 だとしたら、このモーターボート……つまりは電力のエネルギーを内蔵する異質物のエネルギーがSIDは予め保有していて、それに合わせたと考えるのが自然だ。

 だけどそんな『電力』に適合した異質物なんて、今までの調査で見つかったことあったか?

 

「これに見覚えはあるだろう?」

 

 そう言ってマリルは一つの見覚えのある『電池』を見せてきた。

 

「あっ、それってイルカがくれたのだ!!!」

 

 イルカが渡した『電池』を見て、俺はあの日の夜を思い出す。

 初めてイルカと出会った江森変電所での出来事を——。

 

 

 …………

 ……

 

 

《イルカ、は、『執行人』》

《『執行人』……中二病的な称号っぽいけど、最近の子の流行りか?》

 

《えっと、……チョコレートをあげるから、そんなに怒らないで……》

《ちょこれーと?》

《これはみんなを幸せな気持ちにしてくれる甘~い食べ物だよ!!》

《見知らぬ幼女を餌付けするレンちゃんのセリフの方が、よっぽど誘拐犯みたい……》

 

《……これ、あげる》

《これは……液中プラズマ?》

 

 

 ……

 …………

 

 

 今思うとバッドコミュニケーションだった気がする……。

 

「でも、あれは普通の液中プラズマじゃ……」

 

「お前は底抜けのアホだな。『天国の扉』が起きた時にヤコブが交渉材料に使うほどだぞ? 『魔女』としてのエネルギーになる以上はただのエネルギー体なわけないだろ」

 

 確かにそうだ。それに一応口に入れるものだ。

 逆に普通の液中プラズマだったら危険だってもんじゃない。……普通のプラズマって何だろう。

 

「規格を合わせる基も、イルカの装備という参考例があったからな。お手頃な費用で間に合わせることができたんだ」

 

「なるほどなぁ〜……」

 

「問答は済んだか。発進する準備は出来てるから、さっさとどこかに掴まれ」

 

 モーターのエンジンが入る。それと共に発生する青白い光。『電池』が持つ異質物エネルギーの放出だ。

 

「————きゃぁぁぁあああああっっっ!!!!!」

 

「振り落とされるなよ、小娘共ッ!!」

 

 マリルはボートを発進させた。なぎ払うように襲いくる横の重力。俺は情けない悲鳴を上げながら手摺りにしがみ付いた。

 

 刹那で最高速に達したボートは、瞬く間に海上を駆け抜けていく。

 爽快感は微塵も沸かない。この殺人的な加速はどう表現すればいいのか。ジェットコースターが落ちる速度を数倍にでもして維持するような重さと言えばいいのだろうか。どう形容しても「超気持ち悪い」の一言に収束する。

 

 そして地理を把握するおまけで、もう一つ知りたくもないことを俺は知っている。海岸から少し離れた岩礁地帯は複雑な構造をしており、真っ直ぐ進み続けるのは不可能なことを。

 つまり、それは船体が旋回するいう意味であり、操舵者はあのマリルだ。初めて方舟基地に向かう際に「本当生きててよかった」と思うほどの異次元運転を発揮したマリルがボートを動かす。

 

 どうなるかなんて予想するまでもない。

 

「ぅっ……!!」

 

「これは、効くね……っ」

 

 アニーも三半規管が故障したご様子。青い髪もあって、より一層表情に陰を落として体調が必要以上に悪く見える。他のみんなは大丈夫そうなのが、一層アニーの容体を心配させる。

 

「だいじょ……うぷっ!」

 

「吐かないでね……レン、ちゃん……ぅぇ……」

 

 お互いに今にも吐きそうになりながら励まし合う。

 ソヤが小声で「これはこれで有りですわ」と言ってるが、何が有りなのか。口から吐瀉物を掛け合いそうになる女の子二人を見て萌えるのか。俺には無理だぞ。

 

「マいぅぅ……えげばぁ、びぃばばっ?」

 

「すまないが、私が会得してる言語に対応してないのは分からん」

 

「マリル、エミ達は?」と言いたかったが伝わらない様子。

 そこで精神力が尽き果てて、以降俺はただ嗚咽を漏らすだけのオーディオ機器となるだけ。

 

 と思った矢先、ハインリッヒが爆速で駆けるモーターボートの慣性なんて露知らず。「クスクス」としか言いようのない笑顔を浮かべてこちらに向かってきた。

 

「お困りでしたらお助けしますよ、我がマスター」

 

「おげぇぁっび……」

 

「……本当に解読に困りますね。『お願い』で間違いないですか?」

 

「ばぁぃ……」

 

「わかりました。我が叡智をお見せします」

 

「ぁぁぃぃぃぉ……ぅぷっ……!」

 

「……アニーさんの分もですね。かしこまりました」

 

 するとハインリッヒの戦闘服から光の粒子を光り出して、俺達を取り囲む。

 吐き気も視界の不安定さも少しずつ収まっていき、光が晴れるころに先ほどまでの感覚が嘘のように消えていた。

 

「服自体に防護術式を施しました。それさえあれば、慣性によるGの働きや水中での負担も軽減できます」

 

「あぁ〜……ありがとうハインリッヒ。すごく楽になったっ!」

 

「俺も楽になったよ……で、なんで俺だけ服装変わってるの?」

 

 アニーはいつもの青いパーカーを模した戦闘服だというのに、俺の服だけいつもの袖なし臍だしの黒いセーラー服ではなく、ピンクのインナーと白のローブに様々な装飾を施した何とも形容し難い重装備に変わっている。露出している部分はスカートの先から見える太ももくらいなのだが、不思議なことに重量感などは一切感じない。

 

「ラファエルさんがいないと魔術的な回復は見込めないので、万全を期してマスター用にわたくしのお古を調整しました」

 

「これハインリッヒのお古なのっ!? 嘘だろっ!!?」

 

 なんでこんな貞淑な衣装が着れるのに、あんな裸至上主義が生まれるの!? 

 

「服自体に身体の基礎代謝を上げる力や、熱や電気に対する繊維、念力や幻覚といった類を軽減する防護術式を組み込んであるので、戦闘がかなり楽になると思いますよ」

 

 やだっ……俺の服、高性能すぎ……っ!?

 

「ただし服自体の魔力がなくなると、動きにくい衣装になってしまうので、そこのところはご了承ください」

 

 どうやら異世界無双系の主人公には俺はなれないらしい。

 実質的な弱点ないのがナウくてヤングでトレンディ―なのになぁ。

 

「どう、アニー?」

 

「うんっ、似合ってるよ! ……ただ、それだけ高性能だと私が上げた服はお払い箱だね。……リカルメにでも出品する?」

 

「いやいや! これはあくまで決戦用というか、デンドロビウムみたいなもので、普段はアニーのが一番楽だよっ!」

 

「それとマスター。こちらも渡しておきます」

 

 いつか見た緑色の宝石が、ハインリッヒの手からいくつか貰う。

 

「ラファエルさんが念のためと、夜な夜なこさえてくれました。使い方は覚えてますか?」

 

「忘れる方が難しいよ」

 

 使用方法、体液に触れさせる。効果、回復する。以上終了。

 危なくなったら傷口に触れさせるか、それとも宝石自体を舐めればいいとかいう現代医療を舐めたものだが、効力自体は折り紙付きで使用さえすれば肌が焼け焦げても完治するほどだ。

 

 ……ラファエルも、こんなことなら意地張らずに来ればいいのに。

 どんだけストラッツィ家というか、マフィアとかのキナ臭い血筋が嫌いなんだよ。

 

 海を横断して数分。目的地となる海域まで到着した。

 だが異変らしい異変は見られない。波は荒らむことなく平穏そのものだし、海中を見ても毒沼とか酸化してるみたいな分かりやすい変化も起きていない。

 

「俺には全然分からないけど、マリルやハインリッヒはどう思う?」

 

「水質に変化はないですし、気流の乱れも感じません。潮の香りも……問題はありません」

 

「私も的が外れた。違法渡航者などが潜水艦を利用して異質物を持ち込んだかと思ったが……ソナーを起動しても反応が見当たらない」

 

 どうやら二人にも見当がつかない様子だ。となれば頼れるのはあと一人。

 

「映像は回しているが、見えるか愛衣」

 

『見えてるよ〜♪ 『天国の扉』の時を反省してカメラも切り替え可能な三段仕様にしたから全部試したけど…………こちらでもわからないだよねぇ、これが♪』

 

 イヤホンから愛衣の興奮気味な声が聞こえる。なぜ科学者というものは理解不能な自体に直面すると興奮するのか。普通は恐怖するものじゃないかと思うのだが……。愛衣だけが例外なのか?

 

「んっ……。味の変化はありませんね」

 

「海水を飲むなよ!?」

 

 例外はもう一人いた! ハインリッヒだ! 

 こいつもさも当然のように奇行に走ってやがる!

 

「視覚、触覚、聴覚、嗅覚すべてが問題ないのです。ならば味覚にも頼るでしょう」

 

「虱潰しとか頭脳派のすることじゃねぇ……」

 

「未知の探究はフィールドワークが基本ですよ? 研究というのは狭い部屋で閉じこもってばかりでは実りません。何事もとりあえずチャレンジです」

 

 多分その思考を持った人間がフグを食えるようにしたんだろうなぁ。

 

「叡智というものはもっと大らかに、もっと自由に、もっと大胆に。私のように開放的にならないと」

 

「お前の場合は開放させすぎだ」

 

 珍しくマリルの手刀がハインリッヒを襲った。愛衣がいなくてある意味手持ち無沙汰なんだと思う。

 だが手刀を食らった本人は「これはこれで……」と思わぬ反応をしていてマリルも流石に困惑を隠せないでいる。

 ……科学者全員が愛衣やハインリッヒみたいな変態だったら世界はもっと酷いことになるのだろうか。

 

『んっ、どうしたのシンチェン? ……伝えたいことがある? ちょっと待ってね〜。…………よし、いいよ!』

 

『あ〜あ〜、テステス! 本日は晴天なり! あいうえおあいうえお! 隣の柿は良く客食う柿だ!』

 

 人喰い柿が生まれてる!?

 

『こらこら、遊び道具じゃないんだよ』

 

『分かってるって〜♪ ——コホンッ』

 

 いつもの戯けた態度は咳払い一つで消え失せる。

 そうだ、頼れるのはもう一人いた。Wikipediaを朗読するかのように様子がおかしくなったシンチェンがいた。

 

『海は光によって色を変える。朝日は輝き夕日は眩くように海は変わる。だけど海を照らす光は二つある』

 

「光が二つ?」

 

『一つは陽光。一つは月光。両方とも光だが、その性質は大きく違う。特に月光は危険。何故なら『lunatic(狂気)』という言葉の語源は月から来るほど、月の光には魔力は溢れている』

 

 シンチェンの言葉は相変わらず文字を朗読してるだけで、本人が理解してるかどうか怪しいトーンだ。

 だが逆にそのトーンが、彼女の語り部をよき一層不安と焦燥を助長させる。

 

『月の魔力は代々言い伝えられていて、かのローマ帝国三代目皇帝、ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスは狂気に満ちた王だった。それは月に魅入られていたという説もあるぐらい』

 

「…………そういうわけですか」

 

「どういうこと、ハインリッヒ?」

 

「異質物は人間に干渉することで初めて時空位相波動は発生しますが、正確には異質物が持つ『情報』に影響されて…………。いえ、異質物に限った話ではありませんが、人間という者は『情報』に酷く影響される。宗教、アイドル、インターネットのフェイクニュース、創作物における独自的な科学……。この際何でもいいでしょう、マスターが想像しやすいのを選んでください」

 

 ……アイドルにしようかな。女の子になってから推す機会が少なくなったけど、高崎明良ちゃんのファンだし。

 

「どういう形であれ人間というのは『情報』と隣り合わせです。異質物が与える知識も、アイドルが歌う歌詞も、宗教が唱える倫理も……。全ては人間を『狂わす情報』なのです。でしたら、ここで問題は湧きます」

 

「問題?」

 

「果たして、異質物だからこそ『情報』を持つのか、『情報』を持つからこそ異質物なのか……。後者ならば媒体さえあれば『情報』を与えるだけで異質物に相当する兵器を作れる」

 

 その言葉で俺は『天国の扉』を思い出した。

 あれも街頭に特殊な壁画と、携帯などのカメラを通して見ることで観測者の暴力性を『狂気』へと昇華させた。

 そして最終的に『狂気』という『情報』は伝搬して新豊州各地で暴動を引き起こしたのは記憶に新しい。

 

「まさか位相波動が少しずつ反応が大きくなっていたのは……」

 

 マリルが頭上を見上げる。『満月』が世界を照らしていた。

 満月の鏡像は海面に映され、波が揺れるたびに満月も歪む。まるでこれから起こる何かを笑うように。

 

「月の魔力という『情報』が満たされるのが今宵この時だった。だから位相波動が今まで前兆しか見せなかった……。だとしたら——」

 

 直後、海面が揺れる。海で地震が起きたと表現するのは些かおかしいが、俺の語彙力ではそう言うしかない。

 

 すると海面の底から影が見える。それも一つじゃない。十、二十、三十——。徐々に増えていき目視できるだけで百は超える。

 

 そしてそれはやがて群体となって姿を見せた。

 

 白目を剥いた眼球、カエルのような水かきが付いている手、明らかに人の肌ではない薄青い肌と、人間の原型からは掛け離れている。

 肌の色素はガラスのように薄いのか変形して一体化した臓器の数々がうっすらと見える。

 だが一番特徴的なのは下半身であり、脚がなく『尾』がある。歩くのではなく泳ぐためにある部位だ。陸上での活動するという生態があれにはない。

 

 形容するならば——それは『人魚』としか言いようがない存在がそこにはいた。



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第7節 〜人魚〜

 海上には『ドール』とは似ても似つかない人型の『何か』が犇めき合っている。

 

 白目を剥いた眼球、カエルのような水かきが付いている手、明らかに人の肌ではない薄青い肌と、人間の原型からは掛け離れている。

 肌の色素はガラスのように薄いのか変形して一体化した臓器の数々がうっすらと見える。

 だが一番特徴的なのは下半身であり、脚がなく『尾』がある。歩くのではなく泳ぐためにある部位だ。陸上での活動するという生態があれにはない。

 

 見覚えがある。非常に見覚えがある。

 今でこそ見ることは滅多にないが、子供の頃は母親がテレビや絵本で見せてくれていた。

 

 ——あれはそうだ。一番当てはまるのは『人魚』と呼ばれる存在だ。

 

(……だとしたら、いくらなんでもグロテスク過ぎるだろっ!?)

 

 あんなのが人類が夢見た種族『人魚』だったら、全国の夢見る子どもたちは号泣なんてものじゃない。子供の頃に見たらトラウマになって毎晩夢に出てくるぞ……。

 現に隣にいるアニーは鳥肌を立てており、ソヤも若干引き気味な表情で群れを成して突撃してくる人魚へと臨戦体制を構えようとする。

 

 衝撃的な遭遇に誰もが反応が一瞬遅れる。マリルでさえも息を呑み、魚雷のように海中から飛び出た人魚の接近に反応が示せない。

 皆が胸中に抱く思いは何か。驚愕か、恐怖か、躊躇か、困惑か。何にせよ、大抵の人間ならこの状況にはすぐには対応できない。

 

 だからこそ——。

 

 ——ガキィィイインッッ!!

 

「魂を食べたいのね……ラピスラビリ」

 

 こういう時のハインリッヒは良くも悪くも心強い。

『真理』を求める彼女にとって人魚はただの『未知』にしか過ぎず、故に好奇心の対象にしかならない。人魚の突進を双剣で弾き返し、続け様に回し蹴りで人魚を海へと打ち上げた。

 

 逃すまいと稀代の錬金術師は双剣を携えて、どういうわけか生身で海上を走り抜けていく。

 得物の名は『ラピスラズリ』——。魂を喰らうことで輝きを増す、ハインリッヒが最も得意とする武器だ。

 人魚と交わす瞬間に一閃、人魚の首を刈り取った。正確無比な絶命の一撃は彼女がいかに戦場で場数を踏んだかを物語らせる。

 吹き飛んだ頭部の断面から出血はなく、代わりの赤い霧が撒いて最初から何もなかったかのように消失した。

 

 ……訓練やドールとの実戦でいくらか見慣れたとはいえ、こうやって人型の生物が消えていくには少々心苦しい。ドールと似ているから生命活動をしてない、という認識は持てても、そう簡単に割り切れるものじゃない。

 

 ——そう、簡単に割り切ってはいけない。人魚がドールと似たようなものなら、きっと『首を切った程度で活動を止めるはずがない』のだ。

 

 残された胴体は未だに動き続けて、ハインリッヒの僅かな隙をついて再びこちらに突撃してくる。

 もう迎撃準備はできている。今度は俺が守る番だ。右手にある金属バットを強く握り込んで……。

 

「『均衡』こそが世界の自転を維持する力——」

 

 だが、ハインリッヒの実力は底知れず。人魚の強襲を後出しで対応しきれるのだ、余裕の笑みを浮かべながら。

 彼女が放った赤黒い球体が首なし人魚にぶつかると、突如して人魚の動きが極限にまで遅くなる。

 

 その隙をソヤは見逃さない。自身の武器である電動チェーンソーを取り出し、荒々しく動体を何度も挽き裂いた。そして今度こそ人魚は活動を停止して、完全にそのすべてを赤い霧へと変えて消える。

 

『うんうん♪ ラピスラビリに付与した『フィオーナ・ペリ』の術式は機能してるね』

 

「なんだよ、『フィオーナ・ペリ』って?」

 

 イヤホンから聞こえる愛衣の声に俺は質問を投げる。

 聞き慣れない単語が急に飛び出したら、説明を入れるのが少年漫画の鉄則だぞ。

 

『ハインリッヒが開発した概念系の新武装だよ。彼女の周りに浮かぶ赤黒い球体は『汐焔』って言うんだけど、それは彼女を自動で守る護衛機みたいなもので、彼女の意思が強ければ強いほど威力と防衛範囲を広げるものさ。恐ろしいのは、それらはある機能を成立させるための副次的な産物にしか過ぎないということ』

 

「副次? じゃあ元々の使用用途は別なのか?」

 

『そうだよ。これが生まれたのはレンちゃんが彼女の欲求を昂らせたのが発端さ』

 

 欲求を昂らせた……って、微妙に如何わしい言い方にするなよっ!

 

『レンちゃんは『因果の狭間』や『天国の扉』を対処してきたじゃないか。とはいっても両方とも完璧ではない。前者は方舟基地から南極へのワープして、後者はレンちゃんの体感時間10分と違って実際は2時間の経過。この差に何かしらの起因するのが『あの方』への打開策に繋がるんじゃないかとハインリッヒは考えたのさ』

 

『因果の狭間』などの異能に対して自力で対処するための技術——。

 ハインリッヒの奴、過去に魔導書を収集して『あの方』に接触して以来、傀儡にされたのがよっぽど癪だったんだな……。気持ちは分からなくもないけど。

 

『研究を重ねてハインリッヒは一つの結論に達した。どちらも一度世界の概念から離れている以上、世界の概念に関与している。そしてそのどちらにも時空位相波動は発生しており、時空位相は世界の概念を揺らがせるもの。そこで彼女が考えた、「時空位相波動を意図的に起こせば面白そう」ってね。これを戦闘用にしたのが『フィオーナ・ペリ』なんだ』

 

 ……訂正。錬金術師の考えることは意味わからんっ!

 

『汐焔には意図的に時空位相を極小で暴走させる術式と、素体となる『異質物』のカケラが組み込んであって、人体に触れたら本来それらが持たない『情報』を付与して世界の概念に齟齬を起こす。結果として存在証明が出来なくなり、動きが遅くなるという原理さ。…………コンピュータ的に言えばメモリへの負荷処理を急激に増やして処理落ちさせるもので、出力さえ増やせば自己崩壊さえできる』

 

「…………うん! そういうことかっ!」

 

 なんとなく理解できたような、理解できないような……。なんにせよ俺には想像がつかない力を行使していることだけはわかる。

 だが、そうなるとハインリッヒが海上を移動できるには何でだ? 理論を聞く限りフィオーナ・ペリとは無関係じゃないか。

 

 気になってハインリッヒを観察してみると、走り抜けた後には足形に氷漬けとなっている海が見える。

 …………錬金術師らしく足先から何かしらの魔術的な物を使用して、海を瞬時に氷へと凝固化して足場にしてた感じなのかな? ……どうあれとんでもない力業だな。

 

 イヤホンからも愛衣が『ハインリッヒの体重から考えると氷の質量は……』とか『この質量の水を氷に変えるのに必要なエネルギーは……』とかなり興奮気味だ。こんな異常な状態でも、愛衣らしく対象への疑問を検査しようとするという正常に狂ってる彼女に安心する。

 

「でも、これじゃあ俺達は遠隔で対処するしかないよねっ!?」

 

 一応船に積んであるエアロゲルスプレーを足場として噴出してもいいけど、これだって人間の体重を支えられるほど便利な物じゃない。仮に乗れても出来としては壊れかけのサーフボードになる未来しか見えない。

 

「そのための極地戦闘用だッ! こちらから接近して通り魔でもしてろッ!!」

 

「りょ——っかいですわぁ!!」

 

 海上を円状に動き続けるボートの上で、ソヤは艶やかな笑みを浮かべながら次から次へとチェーンソーの刃は人魚の肉を挽き切る。

 俺も負けじと金属バットを人魚の顔面にぶつけて、スプラッター映画より酷い顔にして怯ませる。

 

「——跳弾力野球ボール、シュートッッ!!!!」

 

 シュートという名のストレートを、アニーは鞭のように身体を撓らせたオーバースローで投げる。彼女の最高球速は訓練の末に139キロも出ており、並の人間なら普通に骨折しかねない。殺人的な速度を誇る白球は人魚の動体へとクリーンヒット。消失まではいかないものの、リリーフ投手として最適な防衛を見せてくれる。

 

 だが、そこまでなら超人にすぎない。ここからが『魔女』の本質だ。

人魚に直撃したデッドボールは意思を持つように次々と他の人魚へと喰らいつき猟犬へと豹変する。執拗に何度も人魚の間をピンボールのように跳ね返り、すべての人魚にハットトリックを決めていく。競技がもう滅茶苦茶だ。

 

「支援攻撃は私に任せといて! いざとなったらL字投法もある!」

 

「頭に『殺人』がつく投法だろ、それ!?」

 

 ネットの古参ネタで見たことあるよ! 他にもナイアガラとか三段何とかとか、頭の悪い(褒め言葉)野球をしてたよね!?

 

 だがこのコンビネーションがあって、しばらくは問題なく戦えた。そうしばらくは。

 

 俺とアニーが船を防衛。ソヤは人魚の迎撃。ハインリッヒは単独行動で殲滅を謀る。

 …………どう見てもハインリッヒの負担が大きいのだ。今回は街中ではなく海上だ。従来の戦闘方法が機能しない以上、どうしても初陣の役割分担では労力に差は出てしまう。

 

 それをマリルが気付かないはずがなく、苦虫を潰した顔で船の操舵に集中している。この掟破りの速度で、粗さはともかく正確な距離感を掴んだまま人魚に接近するのには技術以上に精神力がいる。現にマリルはほんの少しだが疲労を見える。

 

 このままだとジリ貧だ。掃討できるかと言われれば可能ではあるが、マリルがいつまでも保つかと言われれば考えにくい。彼女だって人間だ。ロボットのように冷たくて残酷な一面はあっても、その全てが機械じゃない。だからこんな俺を彼女なりに守ってくれる。

 

 ハインリッヒも万能無敵ではない。個人だけでは、どうしても数の暴力は対処しきれない部分が存在する。特に防衛面に関しては如実だ。船の防衛には一向に参加できない。

 

 何か、何か打開策がないか——。

 人魚の数や猛攻は止まらず、俺たちは防戦を強いられる。

 金属バットだって、電動チェーンソーだって、野球ボールだって、双剣だって複数を処理するには基本的に向いてない。

 

 複数を対処するにはFPSとかなら手榴弾などの爆発物を使うか、RPG-7みたいなミサイルを使用するしかない。

 だが悲しいことに銃火器類はドールなどの生命体には効きづらい。何故ならドールは身体も精神も既に狂っており、腕の切断や心臓を打ち抜く、全身火傷にするなどでは活動を停止することはない。無力化には物理的に細切れにするか、関節という関節を全て折るなどの徹底さが必要だ。

 

 人魚も同じだ。

 牽制用に女性でも取り扱える低反動のサブマシンガンが準備されているが豆鉄砲もいいところだ。この状況では小銃の鉛玉と、節分の豆に差なんてない。むしろ腹拵えできるだけ豆の方が有意義だ。それぐらい銃火器は無力なのだ。

 

 このままでは、ここにいる全員が重傷を負うのは免れない。

 ハインリッヒがくれた戦闘服と宝石がなければ、脆弱・貧弱・軟弱な弱小キュービックな俺はすでに瀕死状態である。生傷だらけの肉体に、衣類としての役割が最低限しか果たせない戦闘服。だが戦闘服はズタボロになろうとも、概念的な防護が重要なのでこれでも機能としては問題なく機能するのは幸いだ。まだ戦える。

 

 戦闘に慣れてるソヤは無傷を維持しているが、疲労は隠しきれずは動きの繊細さが鈍くなってる。

 支援特化しているアニーも無傷だが、いつまでも集中力が続くわけもなく投球フォームと息に乱れがある。

 

「火、水、風、土、光、そしてカバラの蒼き守護者の名にかけて——、降臨せよっ!」

 

 だがハインリッヒの猛攻は止まることはない。

 彼女の背後には『蒼き守護者』と呼んでいる人型のオーラみたいなのが現出しており、ハインリッヒと共に超高速で人魚を対処する。そして汐焔も縦横無尽に戦場を駆け抜けており、接近する人魚の動きを次々と止めて、ハインリッヒはついでのような動作で処理をする。

 汐焔だけでは対処しきれず距離を詰める人魚もいるが、彼女は決して驕らず、むしろ全力で立ち向かう。一撃で腕を斬り、二撃で首を刈り、三撃で胴を断つ。

 双剣の輝きは増すばかり。だが至上の輝きには至らず。果ての見えぬ独壇場では、智恵はいつか輝きを燻らせるのだ。

 一体に対する斬撃が三撃から四撃へ。やがて五撃へ。それでもハインリッヒは舞い続けるしかない。

 

 ——ならば輝きを取り戻させよう。二人の主役を以て。

 

 途端、海上にて世界を裂く閃光が奔る。

 

「この光……どこかで……?」

 

「ああ、見たことあるに決まってる。だってあれは……」

 

 忘れるもんか。これは雷光だ、電撃だ、落雷だ。

 電光石火の瞬きで、海上に姿を見せる人魚を消し炭にする。

 

「レンお姉ちゃん、友達……。みんな傷つける……。イルカは許さない……っ!」

 

 ————天使が光臨した————

 

 苦戦を察して駆けつけたヘリから、雷光を纏うイルカは重力の法則に従わず、一定の速度で少しずつ降りてくる。

 トリックでもなんでもない。彼女が持つ『電撃』の応用で電磁浮遊しているだけだ。

 

 体格に不釣り合いな金属グローブから迸る青白い電撃を見て、江森発電所で初遭遇した時の少女の姿を思い出す。

 

 機械仕掛けの装甲とローブで隠れていたが、かつてのイルカは苛烈極まるドールとの戦闘の繰り返しで満身創痍であった。そこから保護して前線から撤退させたため、今の今まで本格的な戦闘など試したことはない。イルカが万全に戦闘を行うところは誰も見たことなかったのだ。

 

 だから俺は——いやアニーもイルカの正確な強さを見誤っていた。

 もしかしたら、この場にいる全員が。

 

 そもそもとして戦闘経験豊富なイルカが今までドールとの戦いに参加できなかったのには理由がある。療養の意味ももちろんあるが、一番の理由は『街中での戦闘に不向き』ということだ。

 

 少女が持つ魔法は『電撃』だ。それも極めて強力なもので、出力さえ上げれば人なんて一瞬で灰塵と化す。

 だが、それは社会に於いては強力ゆえに発揮してはならない。人間の社会というものは進化と発展を繰り返しいき、原始時代とは違い炎ではなく『情報』と寄り添う社会となった。人間が情報を扱うのではなく、情報が人間を扱うというどこか歪な感じとなって。

 

 ……実際、情報に守られてるからこそ俺は『レン』なのだ。文字通り肌身で情報というものを実感している。

 

 だが情報社会には致命的な欠陥がある。情報が人間を扱う以上、情報の絶対的価値は高まる。その体制を脅かすものがあるとすれば、それは社会崩壊を招く『テロ行為』に等しい。

 事実、新豊州では《サモントン条約》によって発電施設や情報関連施設などは非武装地域として定められており、どんな事情であれ戦闘及び工作を起こすのは第一級テロ活動として認定している。

 新豊州の【イージス】は普通の電撃どころか異質物武器の電磁攻撃では物ともしないのでイルカも問題なくはあるのだが、もしもの可能性もある。だから今までイルカは実戦で出されることはなかった。

 

 だが社会から離れた場所ならどうなる? 《サモントン条約》に定められてない地域から離れ、かつ電磁攻撃を放っても社会的問題が発生しない場所で戦うことになれば、イルカはその実力を十全に発揮するだろう。

 

 今この状況下において、イルカは『誰よりも強い』——。

 

「ここから先は、私の世界……。あなた達、焼き尽くされろ」

 

 眼前に広がる敵の波は少女の魔法を放つだけで無力化される。圧倒的な数を誇る人魚達はイルカに近づくことさえままならずに、肉体を黒く焼け溶けて海に還る。

 

 この圧倒的で暴力的な戦果、ファンタジー系RPGゲームとかで雷魔法や光魔法が優遇される理由がわかる。

「興味ないね」のセリフが有名なゲームでもリメイクされたら終始雷魔法は弱点を付けてたし……。

 

 ハインリッヒは笑みを浮かべて、一度船へと戻ってくる。

 これだけの戦果を見れば笑みも溢れよう。ここまで圧倒的な戦果だと一息吐いて笑みも出てしまう。

 だが彼女の笑みは俺とは違う。あれは『悪い笑顔』だ。何かを思いついたからやろうと魂胆している。

 

 あいつ、この状況下で不利益なことはしないと思うけど、何をしでかす気だ……!?

 

「イルカさん、ここは一つ連携技といきましょう」

 

「……おぉ〜! カッコいい!!」

 

 ……連携技とな? そんなの……そんなの……っ!! カッコいいに決まってるだろ……っ!!

 男子諸君……いや、全人類の心に刻まれたお約束じゃないか……!

 

 ハインリッヒだって「こういうの好きでしょ?」と言わんばかりに俺にドヤ顔を向けてくる。

 大好きです! 連携、合体、融合とか大好きです!!

 

「イルカさんは最大出力で電撃をタイミング良く放つだけでいいです。術の構成などの諸々はわたくしで微調整します」

 

「わかった、がんばって」

 

「あなた様に敬意と感謝を」

 

 ハインリッヒはイルカの前に出て、光の粒子で円陣と見覚えない図形をいくつか展開した。

 

「舞うは嵐、奏でるは災禍の調べ……。術式解放ッ! 蒼き守護者の名の下に、粛清せよっ!」

 

「認証コード、音声入力。Transient、Electromagnetic、Pulse、Surveillance、Technology……。機能解放、イルカ、狙い撃つ、ぜ……」

 

 二人の魔力は共鳴し、暴風が起きる。風が一つこちらに向かうだけで海を引き摺り、気流を荒らす。やがて暴風は雷を迸り、空気全体が緊張感を帯びていく。

 そして身体が無意識に警鐘を起こす。今すぐ逃げないといけないという生存本能、そして生物が持つ本能的な恐怖——嵐の予兆、天変地異の前触れを。

 奇跡を起こすのが錬金術なら、災禍を起こすのもまた錬金術が目指す一つの真理なり。

 

「「テンペスト・アタックッッ!!!」」

 

 駆け抜ける嵐は、海を巻き上げ空を裂いて世界を侵す——。

 災禍は眼前に映る全てを飲み込み、海でさえ楔を抜かれたかのように嵐を中心に海水が吸い込まれて水平線は露わになっていく。

 

 その時、海の隙間で光が見えた。

 途端、頭の中で衝撃が走る。心臓の鼓動が早くなる。耳が出血したのかと錯覚する。激しい目眩が襲う。

 

 言い表せない混沌とした感情が、溺れるように流れてくる。

 ああ、この感情は——。『魂』が塗りつぶされるような——。

 

 深い………………、

 

 深い…………、

 

 深い……、

 

 ……

 

 そこで意識が途切れる。

 まるで世界との繋がりが絶たれたかのように。



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第8節 〜浅滩〜

 ——『■』とは何か?

 意識を記録した■■■……hhhhhhh。

 

 物理学『■■』…………概念。幻覚、■。

 

 ——『深』淵に『潜』り込んでいけない。

 

 

『■■■■』とは……。

 自分が何らかの感覚を失ったとして……aaaaaaa。

 

 臨床研究……『■■■■症候群』。

『■』は虚実のイメージを作り続ける。

 

 ——『創』造された記憶に『反』するな。

 

 

 優秀な品格を……iiiiiii。

 今までの……思ったこと…………?

 

『人々が1つの■■に対して感じる■■■は、生まれつき…………?』

 

 さて、次に同じ■■が…………本当に……■■なのだろうか?

 

 ——今は『黙』して『示』された記録を歩め。

 

 

 2人を別々に監禁し、それぞれに『■■』と『■■』……。

 

          【この情報は確かですか?】

【この記憶は確かですか?】

     【この記録は確かですか?】

 

『……それぞれに『星尘(スターダスト)』と『□□(□□□□□)』とyyyyyyy……』

 

 【この情報は  汚染  されてます】

 

『星はTwinkle——。海はBoom——。2人はiiiiiii……』

 

 【この  記憶  は汚染されてます】

 

 ……『星』は『臨』む。『塵』となって『降』り注いだ『 』を。

 

 【この  ■■  は  ■■  されてます】

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

 ——ねぇ? 覚えている?

 

 ——『 』は待っているよ……。

 ——『宇宙』が見える『深海』の底で。

 

 

 ……

 …………

 ………………

 

 

 ………なんだこれは。

 

 ——頭痛がする。

 ——猛烈な頭痛だ。何度目だよ……。

 

 誰かがセメントを流し込んで、じわじわとかき混ぜているかのようだ……。

 頭の中にガンガンと響き、激しい耳鳴りが俺を襲う。

 俺……語彙力がなさすぎじゃないか。

 

 俺は……どうした?

 

 ゆっくりと脳を覚めさせる。

 人魚と戦って……ハインリッヒとイルカが嵐を作って……。

 

 そうだ——。嵐の中で見たんだ、強く光る何かを。

 

「……じょうぶ!? 起きて、レンちゃん! 大丈夫っ!?」

 

 身体が揺れて、ようやく俺は意識を取り戻す。

 目を開けるが視界は霞んでいる。それでも、心配げに顔を覗かせる少女の姿が映ってることはわかる。

 次に騒々しい音が聞こえた。辺りを見回すと水平線は見えない。とりあえず船の上ではなさそうだ。

 

「大丈夫……。……紙ある?」

 

「あるけど……何に使うの?」

 

「……ヨダレを拭かせてください」

 

「なるほどね」と少女は納得して、ポケットから携帯ティッシュを渡してくれた。

 ……毎回こういう時ヨダレ出るんだよなぁ。それで大抵何時間も寝ていて……。

 

「気絶してから3時間弱……マサダの時といい、レンちゃんは寝坊助かしら?」

 

「ありがとう、アニー……」

 

「……まだ寝ぼけてる。この顔が目に入らないのかな?」

 

 今度は頭を強く揺さぶられて意識が覚醒する。

 朧げだった視界も鮮明となり、少女の顔を認識する。髪色はアニーの青とは全く違うピンク。瞳は……青色とオレンジ色の二色だった。

 

「エ、エエエ、エミリオッ!!?」

 

「Exactly♪ ……どうやったら私とアニーを間違えるの? 声で間違えたとか?」

 

 そのとおりでございます……。

 

「そこまで似てないと思うけど……。ハインリッヒさんとバイジュウさんの声を間違えるぐらい」

 

「そうかな……そうかも……」

 

 覚醒した意識はあらゆる情報を明確に理解する。

 騒々しい音はヘリのプロペラ音。水平線が見えないのはここが空だからだ。つまり俺は現在ヘリの中にいるわけで……。

 

「あれ? 俺達が乗っていたボートは……?」

 

「魔力を帯びた嵐と無茶な運転が祟ってエンストよ。だからこうしてヘリで回収してあげてるの。ね、ヴィラ♪」

 

『そうだ。たくっ……イルカを連れてきたのもアタシ達なんだから礼ぐらい欲しいもんだな』

 

 ヘリの操縦席にいるであろうヴィラの声がスピーカーから聞こえる。二人の気の抜けた声を聞くだけで人魚の危機は一度脱して、ひとまずは大丈夫なことが伺える。

 

「他のみんなは……」

 

 機内を見回す。搭乗席には肩を寄せ合って眠りにつくアニーとイルカが目についた。

 この光景を見ると本当に出会った頃を思い出してしまう。江森発電所での出来事の際、同じようにヘリの中で俺もこんな風に一緒に寝ていたっけ。

 

「あら、お元気そうでなりよりですわ」

 

 傍らには物騒にもチェーンソーの点検をするソヤがいた。独特な修道服は今は脱いでおり、キャミソール一枚と完全脱力状態である。心なしか瞼は重そうであり、表情に妙な艶めきを感じる。

 

「ふぁ〜……。あっ、愛衣からレンさんに口伝えがありますわよ……」

 

「愛衣から? どんな?」

 

「『シンチェンが電波ビンビンに受信中。曰く「見える見えるシンチェンには見え〜る!」だって。海域に何かあるらしいからよろしくね』と、ひっへまひたふあぁ〜…………ぐぅ」

 

 原文ママに伝えてきたな……。

 自分の役割を終えて気が抜けたのか、最後には呂律がロクに回らず糸が切れた人形のようにソヤはチェーソーを抱きながら幸せそうに眠りについた。お勤めご苦労様。

 

「でも数時間も俺は寝てたんだろ? その間に何かしら見つかったんじゃないのか」

 

「イチゴ大福より甘ちゃんね。見つからないからこうしてソヤが伝えてるんじゃない」

 

「そマ?」

 

「そマよ、レンちゃん。私とヴィラが空から、マリルとハインリッヒは情報収集と修理ついでにボートで待機したまま探したけど、それっぽいのは見当たらなかったのよ」

 

『これが観測したデータのまとめだ』とヴィラは言って、操縦席から分厚いA4クリアファイルとタブレットを投げ渡してきた。

 中身を見てみるが一部は俺には理解できないものなので、仕方なく航空写真や海域全域の位相波動を数値化したデータも閲覧したが確かにこれと言った異変は見られない。

 タブレットの画面も変えて、ヘリの外装カメラとリアルタイムで共有してみるが何かしらの違和感は覚えない。

 

「う〜ん……。だったらこれ以上は俺が見ても手詰まりなんじゃ——」

 

 あれ、なんだろう。デジャヴを感じる。

 写真では見えない。カメラ越しでも見えない。データでも観測できない。『リーベルステラ号』で初めてシンチェンを会った時と相似点が多すぎる。

 

「ははっ、まさかね……」

 

 ヘリの窓を開けて安全を確認すると、少しだけ身を乗り出して海を見下ろす。

 未だに嵐の爪痕が残っていて、海流は何かを導くかのように渦巻いている。その先に俺は見た。

 

 まるで某一族の如く、小さな女の子の足が海上に生えているのを。

 

「——緊張感ないけど相当危険だな、アレ!!?」

 

 

 …………

 ……

 

 

 ——三十分後、ログハウス簡易作戦本部。

 

「お前は毎度毎度……」

 

「すいません本当すいません……」

 

 少女の救助活動は困難を極めたものの、とりあえずは一命を取り留めた。今はベッドの上で衰弱してはいるものの安らかな寝息を立てている。

 

 救出劇は聞くも涙、語るも涙の大スペクタクルだった。情けなさが極まって。

 

 ヘリは海上では低空飛行できない上に、少女の姿は俺しか分からないから俺が救助活動に向かうしかない。だが俺は泳ぎが得意じゃないのブタ手札っぷりに悪戦苦闘。

 最終的にはハインリッヒがエアロゲルスプレーと錬金術を駆使して簡易的な足場を作ってくれたことで少女の救出に成功した。

 

 以上、情けない大スペクタクル、完——。

 

「お前は事件が起きるたびに、幼女を保護という名目で拉致監禁する趣味があるなんてな…………。どこで育て方を間違ったのやら。ヨヨヨ……」

 

 わざとらしくマリルは目を拭い、悲しみに暮れるフリをする。

 何とも言えない表現なのだが否定できない事実に、俺はただ苦笑いをするしかない。

 

 今までの俺の実績。

 イルカ、チョコレートで懐柔。

 スクルド、ファビオラの一件で親しくなった。

 シンチェン、最初から懐いていた。

 今回、意識不明のところを保護←NEW!

 

 ……大丈夫だ、問題ない。今回以外は同意の下だから問題ない。そして今回は人命救助の末だ、道徳的に問題ない。

 

「しかしこうして間近で体験すると……奇妙なものだな」

 

 マリルは手にあるクラゲ状の物体を舐め回すように見る。

 シンチェンが落とした金平糖と同じように、少女が落とした謎の情報結晶体だ。アニーと同じように、マリルはそれを触ることで今現在少女の姿を視認できている。

 

 少女の姿は子供ながらとても雅な物だった。呼吸一つが規則正しく、まるで波の満ち引きを歌うように寝息を立てる。

 マリンブルーの髪は文字通り海のように煌びやかで淡く、撫でると手から滑り落ちる水と同じく綺麗に毛先一つさえ絡み付かずに指が通る。

 体つきからしてシンチェンよりも一つか二つほど年下だろうか。少女というより幼女に近い。

 

 これこそ、俺が知っている『人魚』に近しい存在だ。もっと言うなら『人魚姫』というものに。

 海のように精練で泡のように儚く消えそうなイメージが少女にはある。

 

 違いがあるとすれば、分かりにくいがシンチェンと同じような音楽機器が耳に装着してることだ。シンチェンは猫耳型ヘッドフォンだったが、少女の場合はクラゲのように配線が多いイヤホンだ。配線の先に端子はなく、ただ無意味にぶら下がっているだけ。ぶっちゃけイヤホン型の耳栓にも見える。

 

「私からは高度な立体映像にしか見えん……。それなのに光熱や電磁波は観測されない……。愛衣の気持ちも分からなくないな」

 

 その愛衣本人は現在名指しで少女との面会謝絶となっている。理由はもちろん実験対象として良からぬことをする恐れがあるから。今はアニーの監視の下、リビングで大人しく情報収集に努めているだろう。

 

「こうして触ると面白いわね。リーベルステラ号でも私が見えなかっただけで、あの子もこんな感じでいたんでしょ?」

 

 触れないホログラムに感動している子供のように、エミはその手を少女のあちこちに移して楽しんでいる。

「今ここでザクロジュースを零したら世にも奇妙な死体の完成ね」とか言ってるけど、それもうマサダでシンチェンがやった。

 

「レンちゃんだけ触れるなんていいね〜♪ どんな感じ?」

 

「普通の子供だよ、シンチェンと変わらない」

 

 俺は少女の頬に触れて指先で摘む。これを赤ちゃん肌というのだろう、突きたての餅みたいにプニプニで逃れ難い中毒感を感じる。

 エミやマリルからすれば立体映像に干渉する俺を見て興奮を隠せないでいる。当人からすれば自分しか触れられないって、割とホラーなんだけどね。

 

「こうしてみると確かに存在していることはわかるのにな……。金平糖共々このクラゲも後日検査に出すか」

 

 途端、ドアからトントントンと優しくノックする音が聞こえた。

 一度マリルと視線を合わせて「問題ない」と了承をもらうと、俺は「どうぞ」を入室を許可した。

 

「失礼します」

 

 入ってきたのは、雪のように繊細な肌を持つ黒髪の少女——。

 

「バイジュウか……。どうしたの?」

 

「回収された少女について、興味深い事を愛衣さんが言っていたのですが……。ベッドの上で寝てる子で間違いないですよね?」

 

「そうだよ。この女の子が……」

 

 ん? 待てよ——。

 俺が疑問に抱いた瞬間、マリルも違和感に気付いたようですぐさま問い質した。

 

「待て。お前、この子が『見えている』のか?」

 

「はい」とバイジュウは頷いた。

 マリルは少女を殴る勢いで触りにいくが、先程と同じく立体映像のように手は空く通過するだけだ。

 

「……この物体に触ったか?」

 

 今度は手に握り込んでいたミニクラゲをバイジュウに見せるが、彼女は「いいえ」と首を横に振る。そこで俺はやっと疑問が昇華された。

 バイジュウには『情報結晶体に触れなくとも少女の姿が見えている』ということに。

 

「……バイジュウ、この子に触ってみろ」

 

 やや興奮が混じりながらもマリルは冷静に席から立ち、バイジュウへと少女との接触を勧める。

 バイジュウも頷くと、昂る好奇心を抑えるように一度深呼吸をして少女の下へ向かう。そしてその手を少女へと向けると……。

 

 ——バイジュウの手は少女の髪を『撫でた』。

 

「……ッ!? まさか本当に……!」

 

「嘘っ!!?」

 

 予め覚悟していたとはいえ、俺もマリルと似たような驚愕の表情を浮かべているだろう。それぐらい衝撃的な光景だった。

 

 シンチェンも今現在みんなが視認して触れられるようになっているが、それができるようになったのはマサダブルクに入国してからだ。

 触れることができるのは俺だけで、視認することは結晶体を介さなければ不可能だった。だがバイジュウはどうだ。今何がどうなった。

 俺以外が触れた、結晶体を介さずに見た、そして存在が確立されてもいないのに上記二つを熟してしまった。

 

 それがどういう意味を持つのか。頭の悪い俺でも、今まさに愛衣やマリルが持つであろう探究欲が刺激される。

 

 エミに至っては興奮を隠す気さえなく、少女の身体を触ろうとするが自分の手では触られず、バイジュウの手を掴んで擬似的に触れる事を楽しんでいる。

 もちろん興奮とは一時的なものだ。自分でも何をしてるのか気づいたエミは恐る恐るバイジュウと視線を合わせる。バイジュウは驚きから何の反応を示すことができず石化。手を繋ぎあったまま二人して表情が固まる。

 非常に気まずそうだ。何だろう、学祭で冗談半分にキスしたらお互いに意識しちゃう感じに似てる。

 

「……手、温かいんだね。……バイジュウ、さん……」

 

「い、いえ……。……エミリオさんこそ、私より大きいんですね……手が……」

 

 二人してみるみる顔が赤くなっていく。こっちまで恥ずかしくなってきた。

 

 救いを求めるように俺はマリルを見る。

 この状況なら「生娘かっ」とでも一括浴びせたほうが二人の緊張が溶けるというのに、嗜虐心の権化であるマリルはこの状況を見逃すはずがなくニマニマと腹黒い笑みを浮かべて静観に入る。

 

 かといって俺もあの気まずい空間に割り込めるほど度胸は据わってない。というか、こういう女の子同士の間に入ろうとする男は某グラップラー漫画のようにボコボコにされる気がしてならないのだ。

 

「え、えーっと……指が、綺麗だね……」

 

「そ、その……エミリオさんも、爪が綺麗です……」

 

 というか二人して褒め合うな、それは褒め地獄だ。SNSで反応されたら反応を返し、またそれを返すという永久機関だぞ。

 

 だから手を離してっ。そしてこの空気をどうにかしてくださいっ。

 

「んぅ……んっ……?」

 

 などと祈っていると神は慈悲をくれた。

 未だに触れ続けるバイジュウの手が寝苦しくなったのか、少女はゆっくりと瞼を開いていく。

 

 少女の瞳を初めて見て俺は惹かれた。同時に寒気が感じた。それは深い、深い、深い…………。どこまでも深い……。海のように煌びやかで、海のように底が知れなくて、海のように…………。

 

『彼女』の瞳に俺は吸い込まれていく。

『□□』の瞳に俺は飲み込まれていく。

 

 脳裏にある言葉が浮かぶ。「深淵を除く時、深淵もまた覗いている」と。

 

 俺はあの言葉を思いだす。

 

 ——あなたは『海』が『何色』に見えますか?

 

 ……『何色』だ? この少女の瞳は俺には分からなかった。海としか言いようがない。

 深海、清漣、朝凪、夕凪、潮騒、潮汐…………。いやそんな言葉遊びはどうでもいい。本能さえも思考の海に溶かすのが一番まずい。

 何もかもを飲み込み、何もかもを吸い込み、何もかもを惹かせる貪欲で純粋で矛盾した海の瞳。

 

 少女の瞳はあまりにも人を『狂気』に魅入らせる。

 

 だけど同時に、俺は直感した。

 俺はこの子を『知っている』と。

 

「……っ!? ぅぅ〜〜〜っ!!」

 

 目覚めた少女は現状に恥ずかしさを感じてバイジュウの手を振り払う。同時にエミの手も離れる。

 周りからの奇異の視線を感じて自分の下に敷かれているベッドのシーツで顔を隠そうとするが、実体を持たない少女では掴むことなく、ますます顔は紅潮して耳まで真っ赤にする。そしてイヤホンの光学部分は真っ赤に点滅を繰り返し、配線端子は犬の尻尾のように動き続ける。

 

 その時には少女の瞳はただのオーシャンブルーでしかなくなる。海みたいに煌びやかで、海みたいに静けさを感じる。ただそれだけだ。それ以上特別な感情は溢れはしない。

 

 至って普通の……いや身体的特徴を考慮したら普通とはだいぶ離れているが、それ言ったら俺は元は男だ、いや男だ。元ではない。ただ身体が生物学的に、そして電子情報や戸籍的にも女の子であって俺は歴とした男だ。

 ……ここまで来ると判断材料って個人の視点ってかなり入るんだな。

 

「ぁぅぁぅぁぅ……」

 

 ともかく少女は『普通の女の子』としか今は感じない。目が覚めたら見知らぬ人が自分を取り囲むようにいるという状況、子供からすれば圧迫感からパニックを引き起こすのは当然だ。

 こういう時はどうすればいいのかなぁ、とか思いながら俺は子供時代の思い出を振り返る。

 母さんが遊園地に連れて行ってくれて、俺が迷子になって、無茶苦茶泣き叫びながらも女性のスタッフが対応してくれて……。

 

「…………バイジュウは子供の相手できる?」

 

「てんで分からないです……」

 

 冷や汗を垂らしながら頬を掻くバイジュウ。子供のパニック状態は雛鳥と一緒で、最初に見た人とコミュニケーションを取って周りは距離を置いてフォローに回るほうがスムーズに行きやすい。

 とはいってもバイジュウ本人が子供の相手が分からないとなるとなぁ……。

 

「じゃあ私が相手しようか? 孤児院でも面倒見たことあるし」

 

「やっ!! ぴんくのひと、いやっ!!」

 

 舌足らずながらも少女の残酷な発言にエミは酷く傷ついたようだ。

 ヴィラの姉貴分を自負していることもあり「この道も長い姉貴肌なのに……!」とショックのあまり壁に語りかけてしまう始末だ。

 

「では私が相手しよう。親と子という意味では馬鹿の面倒を見てるしな」

 

 不出来な子で悪かったですねっ。

 

「そこのはばねろおばあちゃんもやっ!」

 

「ハバネッ……!? このクソガキッ……!!」

 

「落ち着けってマリル……!!」

 

 確かにマリルは赤いし世界一辛辣かもしれないけど、初対面の相手に暴言をぶつけるほどかっ!?

 ただここまで遠慮がないと、違う意味でますますシンチェンに似ているなぁ……。

 

「じゃあ誰がいいかな?」

 

 視線を合わせてバイジュウは優しく少女の手を握りながら問う。

 

「くーるびゅーてぃーなひとと、ばかなお姉ちゃんがいい……」

 

 最初にバイジュウ、次に俺を見る少女。

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 …………………………。

 

 ————このクソガキィィイイイイ!!

 

「気持ちはわかるけど落ち着いてレンちゃん!」

 

「どいてエミッ! そいつ怒れないッ!」

 

 今! 俺の怒りが有頂天でヒャッハーッッ!!!

 

「レンさん、静かにしてくださいっ! この子がまた怯えちゃいますっ!」

 

「ご、ごめんバイジュウ……」

 

「他の皆さんも一度落ち着いて、私とレンさんでこの子の面倒をしますので速やかに退室を」

 

 バイジュウの言葉に渋々とマリルとエミが部屋から出て行く。

 まるで母親の逆鱗に触れた子供のようだ。反抗したいことはあるが、同時に逆らうと目前の面倒が降りかかるのもわかるので従うしかない。

 

 やがて部屋は俺とバイジュウと少女の三人となり静寂に包まれる。暫く無言で見つめ合うと、バイジュウは意を決して話を始める。

 

「君の名前教えてくれる?」

 

「ハ、ハイ……いいですぅ……」

 

 先ほどの生意気な口に反して想像できないほど潮らしくなる。水を失った魚というか、波が引いた砂浜というべきか。とにかくすごい二面性だな……。

 

「名前わかる?」

 

「あぅ、わかりますぅ……」

 

「じゃあ教えてくれる?」

 

「ハイっ、い、いいです……っ」

 

 ——??? なんか妙に会話が噛み合わないな……?

 

 子供はこういう時、本当のことしか言わない。ただパニックってるだけで、情報の伝達がおかしくなるだけだ。例えるなら飴、雨。期間、帰還。そんな感じだ。

 となると……既に彼女は名前を言っているのか? だとしたら……考えられる組み合わせは……。

 

「バイジュウ、俺が聞く」

 

「……任せます」

 

 バイジュウと席を代わり、少女の前に座る。

 

「君の名前は『ハイ、イイ』なのかな? それとも——」

 

 俺の問いに、少女は壊れた人形のように高速で紅潮した顔を何度も頷かせると、これまたネジマキが狂ったように緊張した声で言った。

 

「ひ、ひゃい……私は、『ハイイー』ですっ」



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第9節 〜海伊〜

あの漢字が変換対応してないぞ、ジョジョーーーーッ!!


「ハイイーですか……」

 

「ひゃい……。わたしのなまえはひゃいいいですぅ……」

 

 とんでもない二面性は分かっていたが、想像してたより緊張感を持った様子で少女は返答する。

 

「ありがとう、怖い思いさせちゃったね。えっと……」

 

 バイジュウは懐から四角形の銀紙包装の物体をいくつか取り出す。

 

「キャラメル食べる?」

 

「バイジュウ、多分実体はまだ持ってないから口にできない」

 

「そうでした……」

 

 バイジュウは少し恥ずかしそうにキャラメルを枕の横に置いておく。実体を持ったらいつでも食べれるようにした配慮だろう。

 

「じゃあ自己紹介しようか。私はバイジュウ。隣にいるのはレン」

 

「ばいじゅう……? ばいじゅう……? ……しろいおさけ?」

 

 随分噛み締めるように名前を言うな……。まるで知識だけはあるのに発声が追いついてないような……。いや逆か? 発声器官は問題ないのに知識がないからなのか?

 

「似てるけど、それはパイチュウまたはパイチョウかなぁ。私はバイジュウだね」

 

「ばいじゅう、バイじゅう、バイジュウ……。うん覚えた、くーるびゅーてぃーはバイジュウ……。……バイジュウ!!」

 

「はい。クールビューティー、バイジュウです」

 

 天然が入ってるのか? それとも子供のテンションに合わせているからか? バイジュウが『クールビューティー』を自称する姿は少し面白い。

 

「となりのばかが……レンっ」

 

 吐き捨てるように言うなよ!?

 

「レンっ、お姉ちゃん……。そうだ、お姉ちゃん! レンはお姉ちゃん!」

 

「……レンさんの妹ですか?」

 

「一人っ子だよ」

 

 じゃなかったら妹系のゲームは多分やってない。

 

「…………記憶違い? いや思い違い……? でも……」

 

 なにやらバイジュウは思考に耽っている。

 少女に関する手掛かりが思いついたのか?

 

 と思ったら胸に痺れが走る。マリル達からの連絡なのだが、声を発することはなく接続を繰り返して痺れを断続的に与え続ける。

 

 ——まるで目前の危機を警告するかのように。

 

「……レンさんって一人っ子でしたっけ?」

 

 ————あ゛っ!!?

 

「いやいやいや!! 兄貴いる! いましたっ!」

 

「ですよね。航空機の事故で行方不明だと聞いていたんですが……」

 

「あまりにも思い出したくない物だったからすっかり……っ!!」

 

 っっっっっっぶねぇぇええええええええ!!?!? とんでもない即死トラップだったぁぁああああああああああ!!!!

 

 普段「俺は女の子」とか乙女設定に慣れすぎてるせいで、家族設定のことをすっかりと忘れていた! 

 

 今の俺は……というか『レン』はマリル・フォン・ブラウンに養子的なもので保護されているが、生まれや育ちは男の時と一緒だ。ただ一つ追加されている虚偽の情報があって、レンはあくまで『俺』の妹であり、その兄貴である『俺』は母さんとの航空機事故と一緒に行方不明になったという設定だったんだぁ……!!

 

「そう、ですよね…………。すいません、不躾に聞いてしまいました……」

 

「いやいいよ、へいきへいき。おれはっ……、いいや! わたしはあにきのことそこまですきじゃないから……」

 

 自分でもとんでもない失敗をしたと思い、弁明しようとした言葉全てが震えていた。こうなってしまうと、好きでもない兄貴の影響で俺を一人称で使うのさえ違和感を感じて一人称を変えてしまいたくもなる。

 

 ぁぁぁ……! 穴があったら入らせてくれぇ……っ。

 

「はくじょーもの! レンお姉ちゃん、はくじょーもの!」

 

「黙らっしゃい!」

 

「だまら……? ……だまらっしゃしゃ? ……だまらっしゃしゃ!」

 

「違う。しゃしゃじゃなくて、しゃいだ」

 

「だまらっしゃいしゃい!」

 

「バット! リピートアフタミー? だ・ま・ら・しゃ・い!」

 

「ばっとばっと! りぴーと、へるぴみー! だまらっしゃい!」

 

「ヘルプミー!? 助けて欲しくなってる!?」

 

「へるぷゆー?」

 

「助けられてるねぇ……」

 

「真面目に答える必要ないと思いますよ」

 

 ごもっともです、バイジュウさん。

 

 ……しかし気になることがある。少女から聞いた言葉はまだ少ないとはいえ、その全ては舌足らずだ。バイジュウの名前さえ噛み締めるように言わないといけないほどだ。

 それなのにある二つの単語だけ非常に流暢だ。俺の名前『レン』と『お姉ちゃん』…………。名前の『ハイイー』も含めたら三つか。シンチェンが無性にマサダを目指したように、少女の方針を決める道標になるかもしれない。

 

 今のままだと情報が少なすぎる。『レン』『ハイイー』『お姉ちゃん』では何も繋がりが持てない。

 ……だとしたら試してみる価値はあるか。逆にどんな言葉や単語なら流暢に喋れるのかを。

 

 とはいっても尋問紛いなことは少女には酷だし、まだ俺個人での考えに過ぎない。みんなと相談してから本格的に勧めればいいだろう。

 

「バイジュウ、ハイイーもある程度落ち着いたみたいだし、リビングで合流する?」

 

「そうしましょうか。ハイイーちゃん、さっきよりも多くの人と会いますが大丈夫かな?」

 

「うん……。だいじょうぶ」

 

 ……『大丈夫』は違うと。

 忘れていった枕横にあるキャラメルを俺は回収して、俺達はリビングへと向かった。

 

 

 …………

 ……

 

 

「レンちゃ〜〜んんっ♡♡ これを見てみてぇ〜〜〜〜♡♡♡」

 

 リビングに向かって開口一番、愛衣が発情期を迎えた野生動物みたいに艶めきを帯びた声で興奮していた。そこまでくると「見て」のニュアンスも誤解されかねない。

 暴走する愛衣を「待っていた」と言わんばかりにマリルは金平糖(情報結晶体)を投げつけて黙らせた。

 

「いったぁあああああ!!? 貴重なサンプルを存外に扱わないでよっ!!」

 

「この程度で壊れるわけがないのは知ってるだろ」

 

「そうだけど……まあいいか。とにかくっ! レンちゃんには寝耳に水かもしれないけど凄いことが分かったよ!」

 

 起きても耳を通り過ぎると思う。

 

「じゃんじゃじゃ〜ん! 今明かされる衝撃の真実ぅ〜!!」

 

 そう言ってリビングの液晶モニターに、愛衣が操作するタブレットの画面が共有される。

 表示されたのは二つの情報データの解析内容。片方は見覚えがある、これは『シンチェン』と溢した情報結晶体の情報だ。そのほとんどが不明ものだと言っていた覚えがあるが、今は解読不能な羅列の一部が赤文字でマーキングされてある。

 

「バイジュウも含めて詳細までは把握してない人もいるから、改めてこのデータの説明をさせてもらうわ。担当は私、戦研部主任である愛衣が務めさせて頂きます」

 

 仰々しく一つお辞儀をすると、先ほどの野生全開の表情はどこへ行ったのか、愛衣は今まで見たことない真面目な顔となってモニターの前へと移る。

 

「これはシンチェンが保有する情報結晶体、型式名称『柔和星晶』または『金平糖』と呼ばれるものから検査した情報となります」

 

「おぉぉ〜〜……。そんな名前があったのか〜〜……」

 

 当のシンチェンはどうでも良さげに目を伏せて反応している。

 

「見ての通り情報は人類が持つあらゆる言語と一致しておりません。……そしてあらゆる法則性も見当たっていません」

 

「あらゆる言語に一致しない……。解読しきれてない考古学文字とかも含めてですか?」

 

 誰よりも早く愛衣の言葉にバイジュウが食いついた。

 

「含めてだね。理由は簡単に言うと特殊なアルゴリズムで構成されてるから、と言えるんだけど……実際は一段階どころか一次元も違うんだ。そもそもとして別種の情報として出力されてる『何か』を無理矢理『アルゴリズム』に変換してるに過ぎないからね。十進数を二進数で表現するのとは訳が違う」

 

「十進数……? 二進数……?」

 

 ゲームで聞いたことはあるが意味は詳しく知らない。

 

「無知……と言いたいけどレンちゃんの学年だと習わないか。まあ今は物の例えだから気にする必要ないよ。話し続けるね」

 

 ……俺黙ってよ。絶対に話の腰を折る。質問は話が全部終わったからだ。

 

「C++、Java、PHP……。すべて独自のコードとアルゴリズムで処理してるけど、結局のところ全ては人間が理解できる言語の一つにしか過ぎない。だから日常でもよく起こる。動作なら電子レンジはボタンを押せば作動する、冷蔵庫は中身を冷却する……。言葉なら山と言ったら川。ツーと言ったらカー。おまたせと言ったらアイスティーみたいに。……なんでそうなるのか『理解してないのを理解した』まま」

 

 ……。

 

「もちろんこれは悲観することじゃない、むしろ技術として惜しみなく称賛すべきさ。肥大化した社会は情報の『簡略化』と『統一』を求める。だからインターネット言語も少しずつ変える。藁ではなく草、草ではなくW。『了解』も『りょ』だけで伝わるようになる。支払いも現代では紙幣ではなくWebマネーさ。会員カードもコンビニを中心に連盟店が数多く存在している」

 

 …………。

 

「同時に悲劇も生まれる。統一されて多様化した一つの情報は愚者を浮き彫りにする。例えばスマートフォン、勘違いしがちだけどこれは固定電話を発展させたものじゃない。パーソナルコンピュータを極限にまで小型化したものに過ぎない。賢者なら正しく使うし、凡人なら間違いを起こさない。だが愚者は過ちを犯す。参考例は星の数ほど想像つくだろう?」

 

 ………………。

 

「だから人間は『情報』に呑まれる。今や『情報』こそが中心さ。人間なんて情報のアタッチメントと錯覚するほどにね。SNSで様々なコミュニケーションが取られるけど、果たして君も相手も『互い』をどこまで『理解』してるかなぁ? 二進数の羅列に浮かぶ情報だけで相手を理解した気になる……。いや言い変えよう、確かに理解はしている。文字の意味を、文字に込めた想いを。その感受性があるからこそ小説、ドラマ、演劇、歌、アニメのエンターテインメントは映えるのさ。ならば『人間』はいるのかなぁ? 欲しいの『人間』ではなく中身、つまりは『情報』またの名を『技術』『感性』『個性』……例えは何でもいいや。だから言うでしょう、神絵師の手を食って神絵師になりたいとかさ」

 

 ……………………そろそろ知恵熱出そう。

 

「まぁ、難しい問答をしたけど私として当然『人間』が存在しなきゃいけないというけどね。医療関係者だから命を粗末にするわけにもいかないし、そもそもこういう哲学問答が発生するからこその『人間』だ。『情報』が支配する社会では、確かに人間の価値は0でしかないけど同時に0でもある。人間という絶対的な指標があるからこそ『情報』は絶対的に等しい相対的な価値を宿す。人間がいないと『情報』は破綻するのさ」

 

 ……難し過ぎて意味わからん。

 人間は人間だし、情報は情報だ。それ以上でもそれ以下でもないと個人的には思ってしまう。

 

 ……ん? 似たようなこと前に考えなかったか?

 

「…………まあ、こんな哲学的な部分は心底どうでもいいんだけどね」

 

 流し目で俺を見た後、獲物を捕らえるように愛衣は猟奇的な視線でベアトリーチェを定めた。

 

 ……考えたら死者同然のベアトリーチェが肉体を再構成して復活するというトンチキ過ぎる経験したら哲学の一つや二つ吹き飛ぶ。

 公表したら宗教倫理の根本からひっくり返されるから、未だに知っているのはスカイホテル事件で居合わせた俺、アニー、ラファエル、マリル、愛衣、そして交渉材料で得たソヤ、あと研究に没頭してたら自力で到達したハインリッヒだ。

 

 中でもラファエルは今でも鮮明に思い出せるほど激しく気を荒げて、ベアトリーチェの所在を徹底的に追及した末で自分に納得のいく結論が出るまで自国で自主的に調査したほどだ。

 宗教国家であるサモントンで、その責任者の孫娘である彼女にとっては価値観そのものが引っくり返るに違いない。

 

 ……そんな衝撃的な体験をしたら、彼女の倫理にある『情報』というのは酷く意味が変わる。それはつまり人間の『生死』さえ『情報』の一部なりかけないのだから。

 

「そうですねぇ。私だってある意味『情報』だけになって悠久の時を過ごしましたけど、人間だからこうして今は謳歌してるわけですし……。早く本題へと移してください」

 

 退屈そうに欠伸をするハインリッヒ。当人からすれば生前か『因果の狭間』で到達した思考なのだろう。前述の話を全く聞き耳を持っていない様子だ。

 

「こんな退屈な哲学問答だって立派な証明だよ。だって、こうやって君たちは身を持って体験したはずさ。話を聞いたか聞いてないか、賢者と愚者の体験をね。果たして『理解したのを理解した』のか『理解できないのを理解した』のか……。あっ、レンちゃんは当然前者としては期待してないからっ♪」

 

 その通りですけど、最後の最後でいつもの調子に戻るなっ!!

 

「だからこそ、この情報結晶体は狂気に満ち溢れてる。こいつは『何か』が『情報』になっているのに、一切『情報』としての価値が把握できない。そしてこうして『アルゴリズム』化しても、現代では到達し得ない言語で構成されている……。高次元というべきか、超常に塗れてるというか……。魂や光の物質化、時間の固形化、マイナス化した炎、並行世界の観測、惑星の意思表明……。絵空事と言われた推測や空論などの価値を持つ情報は、この情報結晶体の中では理論として成立するほどの『情報』が圧縮されてる……。こんな金平糖一欠片でどれくらいの情報量があると思う? ……YB(ヨタバイト)だよ? 2の80乗か10の24乗だよ。TB(テラバイト)の四段階も上だよ。桁数なら『禾予(ジョ)』。一、十、百、千、万、跳んで億、兆、京、垓……次に『禾予(ジョ)』だよ。こんな一欠片でだよ?」

 

「あはははは!!」と狂気——というより狂喜に魅入られた愛衣の笑い声が笑い声が響く。その声は依然艶やかなのだが、何か負の感情を噛みしめてもいる。

 

「くやしいなぁ、くやしいなぁ……。何も分からないなんて、くやしいよぉ……」

 

 感極まって涙さえ浮かべ始める愛衣。言葉では悔し涙に聞こえるかもしれないが、表情は明るく笑顔のままだ。

 あれは喜んでいる、というより——悦んでいる。

 

「科学者なのに何も分かんないっ!! だというのに、このクラゲ型の情報結晶体……『柔積水晶』はいとも簡単に、こっちを見下したようにぃぃいいいい!!」

 

 怒りと悦びに満ちた声で愛衣はタブレットを操作してスクリーン上にもう一つ羅列されたデータが表示される。

 話からしてハイイーが落とした情報結晶体の内容だろう。金平糖と同じように赤文字でマーキングされてる文字があり、見比べてみると赤文字の部分は表記は全く同じだった。

 

「わかる? この意味? この情報結晶体二つは「お前ら凡クラのために教えてやる」と言わんばかりに情報の一部を『理解できるアルゴリズム』に変換してきたっ!! しかも同じ情報を同じタイミングで示し合わせたっ!!」

 

「情報が、情報を!?」

 

 俺は驚く。続いてバイジュウは質問する。

 

「『情報』の正体は高度に発達したAIということですか?」

 

「これをAIで片付けたら人類は今頃愚かさで絶滅してるね。もっと現実離れした……概念が情報結晶体の中で実体、命、魂を『確立』してるんだよ……」

 

 興奮を誤魔化すように愛衣は顔を伏せる。

 

「いやぁ、あまりにも研究者として完全敗北……。何も理解できないまま理解させられる……。悔しくて惨めで情けなくてね……………」

 

 伏せた顔に光が差し、愛衣は悦びの思考に身を浸した。表情は紅潮を帯びたまま、緩む頬が崩れないように手で押さえている。

 

「——興奮しちゃぅぅうううううううう♡♡♡ 探究心もっ♡ 被虐心もっ♡ 嗜虐心もっ♡ コリッコリに刺激されるぅぅうううう♡♡♡」

 

 ……想像以上にやべぇ。

 完全に脳内麻薬が彼女のあらゆる感覚を絶頂させてる。今なら五感全てが彼女を満たす悦楽の対象だ。

 

「あぁん♡ だけど次は絶対負けなぁい♡ 今度は私が絶対に暴いてやるんだからっ♡♡♡」

 

 控えめに言って…………控えめに言って……。

 …………………………うん、全部アウトだわ。

 

「今だッ!」

 

 愛衣の顔面にマリルの強烈な手刀が直撃する。「げぼらっ!」とおおよそ女性らしくない悲鳴を上げたが、その衝撃のおかげで愛衣は正気に戻ったようであり、赤く腫れた顔を除けばいつもの表情に元通りだ。

 

「ありがとう、マリル。ちょっと脳内トリップしちゃってた……」

 

「重要な話ばかりするから止めようにも止めにくいんだ。発散するなら我慢せずに適度にやってくれ。それにな……」

 

 周りを見るようマリルはジェスチャーする。俺も愛衣も見回した。

 

 アニー、白目を剥いて意識が明後日の方向に逝っていた。

 イルカ、豆乳シャーベットに夢中。

 ベアトリーチェ、渇いた笑みで冷や汗を流している。

 ソヤ、全体的に表情が固い。笑ってる時に頭痛が起きた感じだ。

 エミリオ、脳内キャパを超えてるのか眉間に皺を寄せてる。

 ヴィラ、姉貴分と同じく脳内キャパを超えて青ざめてる。

 バイジュウ、大真面目に聞いている。

 ハインリッヒ、欠伸をして興味なさげである。

 シンチェン、最初から話を聞いておらず緩い顔でゲームをしている。

 ハイイー、興味深そうにシンチェンを見ていて同じく話を聞いていない。

 

 ……死屍累々の阿鼻叫喚だな。

 

「一度休憩だ。話の続きは、コーヒーが冷めた後でもいいだろう」

 

 そう言ってマリルはキッチンへと向かいコーヒー豆を挽いた。



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第10節 〜海底〜

 疲弊した精神が安らいだところで会議は再開される。

 子供組(イルカ、シンチェン、ハイイー)は難しい話など最初から知らん、という感じでボードゲームに打ち込むが、全員初めてやるゲームのせいか説明書と睨めっこしているのが微笑ましい。

 

「……んっ、ぷっはぁ〜! じゃあ会議を再開しようかっ!」

 

 特製のエナジードリンクを飲み干した愛衣は再びタブレットを手に取ってスクリーンの前へと移る。皆もすでに座椅子に腰を置いたり、壁に背を預けていたりと各自落ち着く体勢で愛衣の話を聞き始めた。

 

「この赤文字で表示されたアルゴリズム……。これを解析した結果、圧縮されたファイルを発見したの。中身は画像が3枚とそれに対するテキストデータが各1枚ずつ」

 

 スクリーン上に三つの画像が表示される。

 一つは何かしらの建物を屋内を撮影したものだ。ドーム状の建造をしており、天井は燻んだ白色で覆い尽くされており、まるでプラネタリウムのようだ。 

 だというのに室内には投影機は一切見受けられず、あるのは中央に安置されてる円状のテーブルのみ。円状の魔道陣を施した脚まで隠す長い群青色のテーブルクロスが敷かれており、机上には水晶玉と散乱されているカードが何十枚と見える。

 

「これは『観星台』とデータでは書かれている……。場所も不明、画像では建材料も分からず絞り込む事は不可能……。現状は謎としか言いようがない」

 

 続いて二つ目の画像が表示される。それを一目見て俺は苦手意識を覚えた。

 陳列される本、本、本本本…………。世界を覆うほどの本棚の数々。それら全てに本が隙間なく納められる。その総数は国立図書館を遥かに凌駕している。表現が乏しいが、俺の知る尺度ではそれが限界だ。他に比べようがない。

 漫画なら心躍るが、装飾や厚さからして辞典などの類に近い。勉強が苦手な俺にはこの光景は非常に堪える。

 

「2枚目は逆に名称がなく座標だけがあるんだけど……これが奇怪でね。示した座標は『赤経 3h 47m 24s、赤緯 +24° 7′ 0″』……」

 

 座標が言われた瞬間「『プレアデス星団』」と小さく呟いた声がリビングに響く。愛衣でも、マリルでもない。かといって博識のバイジュウ、ハインリッヒの声でもない。

 

「『プレアデス星団』……またはM45、昴(すばる)と呼ばれる牡牛座の散開星団。約6千万から1億歳と比較的若い年齢が集う青白い星の集合群。ギリシア神話、中国、日本など様々な言い伝えや創作があり、代表的なのは『プレイアデス七人姉妹』や、清少納言が著した枕草子の一節『星はすばる』などがある。他にもカードゲームなら『セイクリッド・プレアデス』の名称だけで畏怖する決闘者がいる」

 

 恐る恐る皆が振り返る。振り返った先にはボードゲームに視線を向けながら、焦点がまるで合わずに譫言のように口にするシンチェンの姿があった。

 難しい言葉を並べるシンチェンの姿がカッコいいからか、イルカとハイイーはシンチェンへと惜しみない拍手を送っている。

 

「シンチェン、毎度言うが……」

 

「全然分かんないっ!!」

 

 ありがとう、いつも通りの君で安心する。

 

「……まあ、『プレアデス星団』は一般教養はそんなところかな。だけどね……この二つの情報結晶体、送信元が『プレアデス星団』の特定区域ってことも既に分かってたんだ。問題は特定区域が何なのか……。そんな時にプレアデスを示した座標と謎の『図書館』の画像。推測するに……」

 

「……この『図書館』が特定区域に当たるというのですね」

 

 バイジュウは確認するように聞くと、愛衣は頷いた。その表情は少しだけ紅潮気味であり、異変に気付いたマリルは目からビームを放っているのではないかと錯覚するほど視線で愛衣を威圧する。

 戯言一つ言わせまい重圧だ。空気が重くなるのを感じた愛衣は咳払いをして話を続ける。

 

「あくまで可能性だけどね、砂漠に落ちた針を探すよりかはマシ程度の。とはいってもこれは優先順位としては低い。重要なのは次さ」

 

 三枚目の画像が表示される。

 これは……ジェットコースター、というべきだろうか。青々とした世界に螺旋状のレールが深淵に向かって延々と伸び続けている。比較対象がないため具体的な大きさは把握できないが、写真を見る限りは高層ビルの高さを遥かに凌駕する長さだと思える。螺旋の中央にはいくつか球体型施設があり、最深部にはそれまでの施設よりも何倍も大きい網目模様の球体型施設があった。

 同時に、最後の施設は写真でも廃墟とわかる程度には一部は朽ち果てており、建造されてから長い年月が経っていることも推測できる。

 

「これは2017年頃、ある企業を中心に各国から未来都市計画の一環として援助されてた海底施設、通称『Ocean Spiral(オーシャン・スパイラル)』と呼ばれるもの。本当は2030年に完成する予定だったんだ」

 

「それなら私も知ってます。上昇する海面、困窮する資源、排出されるCO2、当時様々な問題に直面した人類の持続性を上げるために考案された開拓計画……。都市部から離れている事から2025年頃には異質物研究の黎明期ということもあって研究機関の最前線にする構想もあったほどです。しかし……」

 

 バイジュウは言いづらそうに俺を見る。俺だって馬鹿だけど鈍いわけじゃない、その視線の意図は見当がつく。だから思っていることをすぐに口にした。

 

「『七年戦争』の、影響か……」

 

 今は2037年。『Ocean Spiral』の建設予定年はちょうど七年前。

 ——つまりは『七年戦争』の被害にあったことは少し知恵があれば誰でも分かる。

 

 当時は人類の希望として活気に満ちた物だと、母さんも言っていたっけ。七年以上前ならアニーも知っている様で、「そんなことあったな〜」と懐かしんでいる。

 

「そう、七年戦争のおかげで財政や国家は一変して崩壊。未来都市計画なんて破綻して、今では六大学園都市が中心となり環境問題は異質物研究の一環で解消済み。建設目的すべてが達成されたから、お役目ごめんと戦後は廃棄されたものなんだ」

 

 そんな廃棄された施設に何の意味があるんだ……? 意思ある情報が人間に見せるために変換したんだ。情報の価値としては当然あるに決まっている。

 

「これは盲点だったよ。表示されてる座標は丁度時空位相波動を観測した場所を示してる……。まさか正体はアトランティスでも、並行世界や都市のワープとかじゃなくて、忘却の都という単純な物だったなんてね」

 

「じゃあ今観測されてる時空位相波動って『Ocean Spiral』で発生してるのか!?」

 

「だと思うんだよ。だけど致命的な矛盾が一つだけある。『Ocean Spial』は新豊州の海域内で建造されていないんだよ。プレートの関係で地震や海底火山が少ない西アフリカの海域に建造されてるんだよ」

 

「とはいっても『記録上』の話だろう? 重要な施設なんだ、正確な建造場所を有耶無耶にするのも別に不思議ではない。SIDで調査すれば真相も分かるさ」

 

「そこは後日って感じだね〜。それに場所の座標を無視すれば、今回の話もすべて辻褄も合う」

 

 愛衣はタブレットを操作して画面に更なる画像とデータが追加する。俺達が海上で戦った人魚と、何やら二つのデータを比較した線グラフなどを纏めた資料だ。

 

「レンちゃん達が交戦した人魚みたいな敵……。『マーメイド』と呼称するね。脳波から発せられる電磁波とかを調べたら『ドール』と一緒だったんだ。だから素体はまず間違いなく私達と同じ『人間』……『Ocean Spiral』は海底都市ということもあって研究者用の居住区や異質物研究の施設も内包してると考えると……」

 

「研究者が『ドール』となり、環境に適応した結果が『マーメイド』ということか。『ドール』とはいえ素体が人間である以上は、できることはどんなに極めても人間が機能として行える範囲に過ぎない。……地上で生きる人間にはエラ呼吸や深海の水圧に耐える肉体構造はしてないが、それは異質物の影響か、それともまた何か別の影響で変化したとみるか……」

 

 マリルは一人納得した表情を浮かべる。

 

「人間が人魚になるなんて、異質物とはいえそんな馬鹿な事があるのかよ」

 

「そんな馬鹿な事と似た事をしてるサンプルを私は知ってるぞ」

 

 そうでした。俺は男から女になった馬鹿なサンプルでした。

 

「時空位相波動が起きたのはマーメイド誕生によるもの……。だとしたら疑問点は廃棄施設とはいえ管理されていた異質物が何故『今頃になって起動した』のか……。満月の周期は約一ヶ月、正確には29.5日……これだけが条件ならもっと前に時空位相波動は発生している」

 

「何かキッカケがあったには違いないが、そればかりは『Ocean Spiral』に直接潜入して情報収集するしかないな」

 

 …………愛衣とマリルの話を聞いても俺の疑問は深まるだけだった。

 人魚——マーメイドがドールと性質が似てるのも分かった。発生した理由も分かった。問題は次々と解決していて、後は事態を落ち着かせるだけに見える。

 

 だけど、ある部分だけの疑問は未だに尽きない。俺は脳内に刻まれた彼女の言葉を思い出してしまう。

 

 ——あなたは海が何色に見えますか?

 

 今までの情報整理に、彼女の質問を連想させる物なんて何一つ見当たらない。

 

 …………まだ何も解決してないんだ。

 

「……そうなると潜入部隊を作らないといけないね。ここまでに何か質問とかある? 無いなら部隊編成に話を変えたいんだけど」

 

「すみません……。質問というより提案なのですが、その部隊編成に私を入れてもらえませんか? いえ、入れないといけませんよね?」

 

 希望を出したのはバイジュウだ。現状、彼女はここでは客人に過ぎない。SIDのエージェントとしての役職はあっても、今回の作戦に参加する権限などは一切持たないのだ。

 

「……できないって言いたいけど、上手いところで切り込んでくるなぁ……。そうだよ、バイジュウの言う通り。できれば作戦に参加してもらいたいんだ」

 

 俺にとっては不服なのだが、愛衣も頭を抱えてる様子だ。声を荒げたりせずに二人の会話を静観する。

 

「今回、情報解析を行うエージェントは最低でも三人は必須なんだ。一人目は作戦本部で総合的な処理をする者、二人目は海上で情報収集する者、三人目は『Ocean Spiral』内で情報収集するもの……。どこが一番負担が大きいのかはバイジュウはわかるよね」

 

「二つ目の海上……。何故なら拠点がない以上、継続的なフィールドワークで行う必要がある。そして同時にそこが相手の戦力が集中する場所でもあるため、配備するエージェントは戦闘能力を持つ者でなければならない。……しかも海上という劣悪な環境で実力を発揮できるような人材が望まれる」

 

 戦闘能力と情報処理ができる、なんて該当者はこの場で二人しかいない。バイジュウ自身とハインリッヒだ。そして劣悪な環境でも実力を出せるのは、先程の戦闘からして間違いなくハインリッヒだということもわかる。

 

「……あらマスター? わたくしに何かご用でしょうか?」

 

 俺の視線を感じて柔らかい笑みを浮かべるハインリッヒ。

 

「い、いや……。ハードワークだなぁって」

 

「お心遣いに感謝を。わたくしもそれしかないと既に理解していますので、マスターは大船に乗った気分で見守ってください」

 

 気品を持ってハインリッヒは深々と一礼した。

 

「だけど戦闘と情報処理ができるエージェントが必要なのは三つ目もなんだ。これは屋内だから別に担当を分けても問題ないけど……。シンチェンが言っていたことも考えるとどうしても自衛能力は欲しいんだ」

 

「シンチェンが? 何を言ったの?」

 

 愛衣の意味深な言葉に俺は反応した。

 

「レンちゃんがハイイーの看病する中、シンチェンは電波受信して言っていたことはね……『星と海は二人で一つ。私はあそこに行かないといけない。ハイイーと一緒に』ってね」

 

「うげぇ……。マジかよ……」 

 

 思わずリーベルステラ号で「あっち!」とマサダブルクを指差していたシンチェンの姿を幻視してしまった。

 

 確かにそれは両立できるエージェントのほうが望ましい。無力な子供二人に合わせて、無力な研究者一人の合計三人を戦術的にカバーするのは労力が段違いだろう。三人の護衛対象で、苦労は三倍ではないのだ。苦労は三乗なのだ。

 

「…………待って。看病してる中で言ったのか」

 

「そうだよ。私も気になって質問したら返答は『あなたには言えない』って言われたけどね」

 

 愛衣の答えは俺の予想を察したものだった。

 シンチェンは「ハイイーと一緒に」と言っていた。俺がハイイーを看病してる中で言ったなら、まだ誰もハイイーの名前を知らないし本人さえ目覚めてない時だ。

 

 じゃあ、何で知っている——。考えるまでもない、返答は「あなたには言えない」だ。元々シンチェンはハイイーの事を知っているのは明白なのだ。

 

「これ以上護衛対象は増やしたくない。だから……休暇中で悪いけど、バイジュウには協力してもらいたいんだ」

 

「任せてください。私で良ければ尽力いたします」

 

 こうしてバイジュウは作戦への正式な参加許可をもらった。時刻は22時、そろそろ就寝したい時間だが任務となると今日は徹夜になるのは間違いない。

 あくまで山積みとなっていた問題を整理しただけだ。具体的な指標が出ても事態の究明には未だ遠い。今日は本当に眠れない夜になりそうだ。

 

 マリル、愛衣、バイジュウが中心となって人数の割り振りを検討し合う。作戦本部は最小限、海上はエキスパート、屋内はあらゆる状況を判断……と時間は掛からずに決まりそうだ。

 

 その僅かな間にでも、こちらは少し聞かないといけないことがある。

 

「はらぺこはらぺこはらぺーにょ……」

 

「くうくうぐうぐうきゅーるるる……」

 

 二人してトランプゲームを遊び倒して疲れ果てた様子だ。シンチェンもハイイーも謎の言語で空腹を訴えている。一方イルカはテーブルで伸びる二人を尻目にポテトチップスをボリボリと頬張っていた。

 

「……夜食でも作ろうか? おにぎりとか、簡単でいいなら俺だって作れるよ」

 

「ありがたいぜ……」

「ありがたいね……」

 

 いつからそんなシンチェンとハイイーは仲良くなったんだ!? 

 

 二人揃って目を伏せて礼を言う姿は、まるで一緒に育った『姉妹』のように見える。とても微笑ましい光景ではあるのだが、私情は一度置いてイルカの一つだけ質問した。

 

「イルカ、遊んでる時にハイイーがハッキリ喋った言葉とかわかる?」

 

「……? わかんない……」

 

 それもそうか。発声している言葉の拙さなんて意識しない限りわからない。仮に発音の拙さがないのが言葉を覚えていたとしても、繰り返し発言することでハイイーは徐々に言葉の拙さを慣らして違和感などを溶かしてしまう。

 

 そして今ハイイーに改めて聞いたところで遊び倒した後だ。もうシンチェンとイルカの名前を言うのに拙さが見えるわけがない。最初から言えたかどうかなんて今では分からないのだ。もしかしたら一部の慣用句は既に覚えてしまったかもしれない。

 

 一度目を離してしまうと、ハイイーが紡ぐ言葉の重要性は途端に不明になる。海に流されるビンのように、探そうにも探せない状況へとなってしまった。

 

「ありがとう、イルカ。えっと……」

 

 いつも通りポケットからお菓子を探そうとするが見当たらない。

 俺が定期的に渡してるせいで既にイルカは期待した目で待っているところすまないが、今手持ちがないんだ。

 

 何かないかと探してポケット全てを漁る。そして胸元のポケットで見つけた。先程バイジュウがハイイーに渡そうとしたキャラメルを。

 数は合計4つ。子供達に全部渡しても1つ余ってしまうが、それは俺が食べればいいか。小腹が空いてるのは俺も同じだし。

 

 などと気の緩みからか、俺のお腹から可愛らしい音が鳴った。

 

「……ぇっと……」

 

 子供達以外は緊張がある状況でこれは恥ずかしい。

 

「レンちゃん。…………実は私もお腹空いてた」

 

 するとエミのお腹は少し豪快な音を立て、続いてヴィラのお腹からもっと豪快な音がリビングに響いた。

 二人して少し頬を赤らめるが、それが連鎖してここにいる全員のお腹が一斉に鳴り始める。

 

 ……場が静まること数秒。誰かが笑うと、これまた一斉にみんなが笑って場の空気が一気に和やかになった。

 

「……英気も養わないといけないし、夜食ついでにみんなのおさんどんしようか♪」

 

「それもそうだな。午前はアニー達と任せたんだ、夜はアタシとエミに任せてくれ」

 

「じゃあ、ありがたく任せるよ」

 

「いや、お前は手伝え」

 

 なんで!? 俺だって午前はバーベキューの手伝いをしたんですけどっ!?

 ……しかしアニー達の労力に比べたら力になりきれてないのもまた事実。ここは大人しく手伝うしかないだろう。

 

「おっと、忘れるところだった。これ三人で分け合って食べて」

 

 俺は子供達に三つのキャラメルを渡す。

 

「わ〜い、ありがとうお姉ちゃん」

 

「ありがとう、レンちゃん!」

 

 シンチェンとイルカはすぐに銀紙の包装を外してキャラメルを口にした。口内で甘さを堪能しており、表情はマシュマロを焼いた様に頬を溶かす。

 

「——ありがとう、レンお姉ちゃんっ!」

 

 そしてハイイーも確かにキャラメルを口にした。口にしたのが初めての様で、驚いたり喜んだりと百面相で味を堪能しきっている。

 周りにいる皆もハイイーがキャラメルを食していることに驚きはするも、シンチェンの前例もあり特に大騒ぎをすることもなく、それぞれ話し合ったり、エミ達の手伝いをしようか本人に伺ったりする。

 

 ……少女はもう実体を持っている。

 それはなぜか……とてつもないことが起きる前兆にも思えた。

 

 気の迷いだ、酷く気にすることでもない。俺もキャラメルの包装を取り外し、口に入れながらエミ達と一緒に夜食の準備へと取りかかる。

 

 キャラメルの味は、俺の小腹と心を満たしてくれる。

 

 だけど、これを渡してくれた本人……。

 ……バイジュウの『心』を満たすことはないと感じてしまう自分がいた。

 



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第11節 〜潮汐〜

 エミ達と共同で作った夜食作りは充実した物となった。皆が満足するために鍋物として豆腐、白菜、豚肉問わずとりあえずと言わんばかりに冷蔵庫にある鍋に合う食材は全て皆の胃の中に収納された。

 

 訓練に明け暮れるエミとヴィラに炊事が可能なのかと一瞬思ったが、よく考えればマサダの孤児院で姉貴分をやっていたんだ。そういう面では不安に思うことはないだろう。

 

 ——「料理はね、大体煮込めば何とかなるのよ」

 ——「そうだな。レーションよりは遥かにマシだ」

 

 ……なんて言った時は一転して不安に襲われたが、実食したら問題なかったので気にしないでおこう。

 

 夜食は俺が担当して、宣言通りおにぎりと本当に簡単なものだ。

 中身は鮭フレーク、おかか、青梗菜、ツナマヨ、ネギトロと豆乳シャーベットに負けないラインナップだ。そして市販の沢庵、だし巻き卵、梅干しを副えて栄養バランスもいい。

 

 各自好きなだけ取っていった後は、作戦ごとの班に振り分けられた部屋で話し合うことになった。

 

 作戦本部班は情報処理担当として愛衣、補佐としてベアトリーチェが配備。

 海上班は指揮担当としてマリル、戦闘特化要員としてイルカ、情報処理兼戦闘要員としてハインリッヒが配備。

 

「はむはむっ…………。んっ……いいですか皆さん。作戦の想定ですと屋内である以上、遠距離武器や範囲系の武器は非常に危険です。ブルー・オブ・ブルーをする恐れもあります。くれぐれも小銃や手榴弾の使用は控えてください」

 

 そして残る『Ocean Spiral』……略称『OS班』はバイジュウを中心とした他全員となった。人数が人数なのでそのままリビングで作戦会議を行われる。

 メンバーはバイジュウ、エミリオ、ヴィラ、アニー、ソヤ、俺。そして護衛対象のシンチェン、ハイイーの二人だ。二人は作戦とは深く関われないので、今もボードゲームに遊び呆けてもらっている。

 

 ……人数が多く感じるが、護衛対象が二人もいることも考えるとむしろ最低限とも言える。

 

「同士討ちしないためにも現場指揮はどうするの、隊長さん?」

 

 エミは試す様にバイジュウに問う。

 ……俺とアニーはバイジュウとは面識があるから不安はないし、ソヤも「レンさんが信頼するなら信頼しますわ」というが、エミとヴィラが傭兵上がりなうえに今日が初対面だ。

 二人からすれば自分たちを差し置いて、隊長として就任されるバイジュウの実力も気になるところだろう。

 

「安心してください。そのために、作戦中は屋内捜索用の陣形を考案しました。こちらをご覧ください」

 

 そう言ってバイジュウはタブレットを操作して、画面共有させたリビングの大型スクリーンへと映す。

 表示されたのは図形だ。点が合計五つあり、それを線で結ぼうとすると十字形になるよう配置されている。

 

「我々はインペリアルクロスという陣形で戦います。私を中心として、実戦経験が一番多いエミリオが前に立ち、左右をアニーとソヤが固める。 レンさんは私の後ろに立つ。 ヴィラはレンさん達の護衛を頼みます。そうすればシンチェンとハイイーがいても安心して探索できます」

 

 ……どこかで見たことあるというか、これゲームのチュートリアルでよくあるやつだよね!?

 

「レンちゃん、この陣形をゲームでよく見てるから不安?」

 

 あっ、はい。

 …………当然のようにエミに心を読まれてるな。

 

「安心して♪ 確かにこれは最高の布陣ではないけど、陣形の役割分担は単純にして明快だから、今回みたいに即急の部隊でもすぐに熟せるのよ」

 

「それに前衛という一番負担が大きいところを場慣れしたエミが……。本来の陣形にはない『護衛』という役割を私に任せてる」

 

「これを躊躇なく出せる辺り元は軍人関係者だったんだろうな」とヴィラはバイジュウに向けて言う。

 その視線は南哲さん(俺が女の子初心者の時にあった筋肉モリモリの男性)がマリルに向けてる時と似ている……。恐らくヴィラなりの敬意と信頼の表明なのだろう。

 

「この布陣は、最強でも最硬でもありませんが、現状私達にとっての最良とはなります。作戦開始前までに基本的なコンビネーション及びハンドサインは必修し、モールス信号などの方法については各自余裕を持っていたらで大丈夫です」

 

 バイジュウは再びタブレットを操作して、各自が持っている端末にデータが送られてきた。

 内容は先ほどの取り決めを画像や動画で再現したものだ。中身は真面目そのものなのだが、こういうのを見ると薬物依存のループみたいにネタ用に改変されたものを思い出すのが現代ネット民のしょうもない性を感じる。

 

 そして資料を眺めていて俺はふと気づいた。

 

「……俺は何をすれば?」

 

 俺に送られてきたデータにはハンドサインやモールス信号などの意思疎通方法しか載っていない。コンビネーションのコの字さえ見当たらない。

 

 ……これじゃ俺が攻撃に参加できないんですが。

 

「レンさんは今回『護衛』となる対象ですから、コンビネーションに関われません。自衛はできるので、子供達を守ることに尽力してください」

 

「自衛だけ?」

 

「だけです。そして『動かない』という役割は重要なのです。私も中央にいるため基本は動かないようにしますが、数次第では止むを得ず出るしかないこともあります。そうなると陣形の中心は誰が支えるのか、それがレンさんです」

 

 ……それでも男の子として女の子に守られるのは不甲斐なさを感じてしまう。元々はアニーと一緒に守り守られるためにSIDに所属したのだから尚更だ。自分だけお姫様だなんて嫌だ。

 いざとなったら——、と思ったら彼女は不意に俺を抱きしめてきた。

 

「……無理だけはしないください。本当に『いざ』という時は子供達共々逃げてください。……私はもう大切なものを失いたくないんです、この身に変えても……」

 

 悲痛な声で彼女は訴えた。

 脳裏を過るのはスノークイーン基地での惨劇だ。バイジュウはそこで様々な物を失くした。

 時間、仲間、家族、——そして親友。どれか一つでも再び失ってしまうのは想像するだけで心が裂けそうになる。

 

「……それは俺も同じだよ。七年戦争で両親は行方不明になって俺は孤独だった……。だけど今はアニーがいる、マリルもいる、バイジュウもいる、みんな大切なんだ……! 俺だってみんなを守りたいんだ……。そ、その……と、友達として……」

 

 途中で熱くなりすぎて、最後は気恥ずかしくなってしまう。どうして俺はこう肝心なとこでヘタレるのか……。

 だけどバイジュウは笑っていた。悲痛な雰囲気なんてもうない、彼女は心の底から笑ってくれている。

 

「やっぱり男の子ですね……。まるで告白みたいでしたよ?」

 

「あ、あはははっ……。お、俺は女だから……」

 

 気恥ずかしさが抜けないし、「告白」という言葉に俺は顔が沸騰したように真っ赤になる。

 

「……いいのか、エミ。作戦準備とはいえ気が抜けすぎてないか?」

 

「あれがレンちゃんだからいいの♪ 肩肘張っちゃうとダメダメなんだから自然体が一番」

 

「そうですわ♪ レンさんはピュアなままが一番ですの♪」

 

「うんうん♪ ヘタレだからこそレンちゃんなんだからっ!」

 

 内緒話するなら聞こえないように言えよっ!! もっと恥ずかしくなるだろっ!?

 

「ところでお前の武器や能力は何だ? 司令塔であるお前が中心になる以上は把握しないと戦闘に支障をきたす」

 

 ヴィラの何気ない質問にバイジュウは「そうでしたね」と軽く相槌を打って、リュックサックから漁り始める。

 収納スペースは細かく駒分けされているようで、大荷物であるはずなのにバイジュウは難なく折りたたみ式の銃器を取り出した。

 

「マーメイドには銃火器は効かないんだろ? 武器としては心許なくないか?」

 

「ふふっ。これは『銃』ではなく——」

 

 バイジュウは自慢げな顔を浮かべると、銃は展開されて全容を見せる。

 引き金がある。銃身は……わからない。あるにはあるが、同時に刀身でもあるのだ。剣と銃が一体化しており、これを俺はゲームで見たことがある。主にシリーズ8作目の大人気ゲームで。

 

 最後に「じゃん」とバイジュウは刃先を狙い撃つように構えて、俺達に武器を見せつけた。

 

「銃——、いや、剣——、違う。これは……『銃剣』!?」

 

 俺よりも早く目を輝かせて驚くヴィラ。子供のように燥ぐ妹分を見て、エミは優しい表情を浮かべて「いつまでも変わらないだから」と慈しんでいた。

 

「はい、ハインリッヒさんから教授した錬金術を現代科学で再現しようと思ったものです。登録名称は『知性(ラプラス)』と名付けてます。……再現性の問題と戦闘スタイルから二刀流になるんですけどね」

 

 技術の未熟さを恥じてるみたいだ。バイジュウの左手には先ほどの銃剣とはデザインが似てるものの、肝心の銃の機構は存在せず純粋な刃として機能している。

 

「ラプラスか……。……私もそういうカッコイイ武器あるわよ♪」

 

 今度はイタズラを思いついた子供みたいな表情を浮かべたエミは自分の人差し指の爪で、親指の腹を切った。

 切れ味は抜群らしく、すぐに指を伝って血が滴り始める。

 

「ちょっ!?」

 

 俺が驚いたのも束の間、流血は縫うように形を整え始め、最終的には女性が持つにはかなり大振りで柄には髑髏の装飾した大剣へと変化する。指の血は最初から無かったかのように傷は塞がっていた。

 

「『アズライール』……私の武器であり能力。私の能力は『自分から流れ出た血を瞬時に硬化させる』という物だけど基本は不良品でね。盾とかには使えるけど、アズライール以外は能力を使った直後に蒸発するから武器としては一切使えないの」

 

「硬化した血が蒸発するということは、血は特定以上の熱を持っているのですか?」

 

「そうね。硬度に関わらず使った数秒後に蒸発する。熱量は測ったことないけど、鉄鋼より硬くなった血がすぐに消えるんだし相当じゃない?」

 

「でしたら、お一つ伺いたいことが……」

 

 二人は内緒話をするように真面目なトーンで話し始める。

 

「……いいね。使い捨てならではの方法ね♪」

 

「ええ。エミリオさんとは戦術研究でも良き話し相手になりそうです」

 

「さん付けしなくていいよ。親しい人は『エミ』って呼ぶから、気軽にそう呼んで♪」

 

「えっと……。それでは、エミ………………さんっ」

 

 いきなりの愛称呼びをバイジュウは言われるがままにしてみるが、愛称だけの擬かしさから顔を赤くしてしまう。

 

「ご、ごめんなさい……。こういうのは慣れてなくて……」

 

 両手の人差し指を突き合いながら、ますます顔を紅潮させるバイジュウ。

 ……正直意外な一面が見れて、恥ずかしそうにする彼女を見るだけでこちらも恥ずかしくなる。

 

「……さっき思ったけど、やっぱり素直で可愛い子じゃない♪」

 

 ……可愛い子って言ってるけど、エミとバイジュウ同い年なんだけどなぁ……。

 

「……気になってはいたのですが、どうして『アズライール』なんですか? 確かにマサダはユダヤ教ひいては旧約聖書などに精通する宗教法人なのは知っていますが……エミさん自身は信仰心とか、ないですよね?」

 

「立場的にはあると言わないといけないんだけどねぇ……。実際はハロウィン、クリスマス、バレンタインなんでもござれの信仰心なのよね……」

 

 かなり身も蓋もないことを言ったな。

 確かに新豊州は科学的な思考と政策をしてるから宗教に拘りがなく色々とやるが、それをマサダ出身のエミが言っていいのか? パパラッチがいたら炎上確定だぞ?

 

「じゃあ、どうしてアズライールという名前に?」

 

 バイジュウの再度の質問に、エミリオは「待っていた」と言わんばかりの極上の笑顔を見せる。同時に背筋が凍りつくような視線も発生し、振り返ると殺意が篭ったヴィラの瞳が。

 

 ……「我、例ヱ親愛成ル者デモ、ヴァルハラ二送ル也」と言っている気がする。

 

「うふふふ……♪ ここだけの話、ヴィラがね——」

 

「そこで掘り返すなぁぁあああああああ!!!」

 

 ……もしかしなくても『戦女神様』が久し振りに覚醒したとか?

 

「うっ、うふ、あはは、あは! あはくすぐったいぃ! やめてよヴィラぁ!」

 

「いいや! 今日という今日はエミでも止めないっ! いつもいつも……っ!」

 

「言わないぃ……もう言わないからぁあ〜! あっははっ!」

 

 涙目寸前のヴィラの表情とは打って変わって、かなり本気の体制でエミに羽交い締めを繰り出している。

 エミも笑い泣きをして「ギブッギブッ」と言っているが、とても諦めた表情をしておらず、終いには自力でその拘束を抜け出した。

 

「で、でもヴィラぁ……そこまで焦ると自白してるような物よ〜〜?」

 

 息を整えながらエミリオは戦女神様を煽り立てる。そしたら再びヴィラは顔を赤くして絞め殺す勢いで渾身の力を入れるが、エミリオは余裕綽々に拘束から抜け出してスカートの埃を落としていた。

 

 ……よく考えたら怪力娘であるヴィラの拘束を軽々抜けるエミリオってすごいな。

 

「戦闘訓練さえ続ければ、こういう単純な力勝負なら相手の力を逆利用したりで覆せるわよ。女性である以上はどうしても筋力の差は出るから私達みたいな軍人は覚えないと逆にダメだし」

 

 また当然のように心読むよなぁ……。エミリオは配慮できるからズケズケと人の心を土足で踏み荒らすことはないから気にはしないけど。

 

「レンちゃんも覚えといて損はないよ。だってこんなに可愛いんだから、もし街中でオジサマとかに拐われたら……ね♪」

 

 ……前言撤回。その言葉は男にとって悲しみを背負うしかない。

 

「他に聞きたいことはある?」

 

「いえ、大変参考になりました。マサダの『神の使者』の実態……とても面白いものでした」

 

「その通り名は背中がむず痒くなるかなぁ……。私そういうのガラじゃないのよ」

 

 砂嵐を真っ二つにしたら『神の使者』と呼ばれても仕方ない。その砂嵐が災害を引き起こすものなら尚更だ。だからこそ栄誉を讃えてマサダの宗教教育の首席顧問として身を置いてるんだし。

 

 ……その一件で俺がマスコット扱いされてることを考えたら立場が雲泥の差だなっ!?

 

「ヴィラさんはどうなんですか?」

 

「ア、アタシにそういう恥ずかしい渾名はないっ! 決してないっ!」

 

「武器の話なんですけど……」

 

 バイジュウからの冷静なツッコミに、ヴィラは少し頬を染めながらも安心してホッと一息つく。

 さっきから自爆してるな、戦女神様。

 

「そっちで良かった……。アタシは並外れた怪力ぐらいだぞ。それを活かした超質量の鈍器があるぐらいだ」

 

 そう言ってリビングの隅に置かれている獲物を指差した。

 ハンマー、どう見てもハンマー、圧倒的にハンマー。正確には『戦鎚(ウォーハンマー)』だけど認識に問題はない。

 長さとしてはヴィラより一頭身分ぐらいは小さく、鎚頭は片方が純金属の塊で構成されている。もう片方は航空機などに見られるホイール状に組まれた羽みたいな物がついている。あれって何て言うんだっけ?

 

「登録名『重打タービン』……。マサダ陸軍研究所の最新型だっていうけど特殊な機構が使い物にならない以上、本当に見た目だけが豪華な鈍器さ」

 

 そうだ、タービンだ。確かガスとか水蒸気とか、何でもいいから気体の圧力で回すことでエネルギーを生み出す機械だったはず。

 …………でもエネルギーを生み出す機能が備わってるからこその『タービン』だよな? それなのに特殊な機構を使わないってどういうことだ?

 

「何キロですか?」

 

「10トン」

 

 10キロかぁ……。米袋程度——ってトン!?

 つまりは『10000キロ』!? 大型トラックと同じっ!?

 

「そんなの鼻が長い海賊ぐらいでしか見たことないぞ!?」

 

 ヴィラは軽々と持ち上げて振り回すが、その動作は柄以外が全部風船とかじゃないと納得できん。もしくはありったけの夢を詰め込んでるか。

 

「知らんっ。そんなことはアタシの管轄外だ」

 

「………………はふほほぉ」

 

 だし巻き玉子を口に入れながらバイジュウは戦鎚を触れて確かめている。流石に10トンを誇る戦鎚を持ち上げるヴィラを見て驚いているのか、額には冷や汗が見える。

 

「ヴィラさん、どれくらい使ってますか?」

 

「性能実験として二回触ったきりだ。そんなの持っても銃撃戦じゃ役に立たないからな」

 

 一理ある。銃は剣より強しともいう。

 魔女と言っても素体は人間なのだから、ただ力が強いだけの能力は適材適所が限られている。そして尚更場所を選ぶ戦鎚なんて使う場所なんて限られている。

 

「通りで機構の部分が綺麗なわけですね……」

 

「何度も言うが使わないからな。戦力としては組みにくいと思うが、その分格闘訓練や銃撃戦もこなしてるから安心してくれ」

 

「それは最初から全面的に信頼してます。となると……」

 

 バイジュウは顎に手を添えて思考に耽る。頭の中であらゆる状況をシュミレートしてるようだ。指差しや視線で武器を意識しては頭を捻り、指で空に丸や縦棒を引いたかと思うと、再び視線を武器に戻して納得した表情を見せた。

 

「十分に把握できました。作戦の行動内で足りない物資がありますが、それは後でマリルさんと相談してきます」

 

 こんなにいても足りない物があるのか……。

 

「我々OS班の第一優先すべき目的は施設内の情報収集です。あくまでも異質物の処理については可能であればの行うものとなりますので、深追いは禁物となります。以上で作戦通達を終えますが、何かありますか?」

 

 周りを見回すが特に誰も意見はないようだ。当然俺も伝えたい意見はもうない。先の自衛について全力で取り組むだけだ。

 

「それでは作戦開始まで陣形の動きやハンドサイン諸々の把握をお願いします」

 

 そう言ってバイジュウはタブレットを置き、足早にリビングから出ようとする。

 

「どこに行くの、バイジュウ?」

 

「少しだけ自室に戻ります。今のうちに纏めたい情報があるので……」

 

 先程エミ達の武器を見て考え込んだり、足りない物資があるとか言っていたし、それの整理だろうか。

 バイジュウのことを見送り、俺も自分ですべきことを再確認をする。

 とりあえずは添付された資料の内容を覚えよう。小腹が空いていることもあり、俺はおにぎりを口に含みながら資料を眺め始めた。

 

 

 …………

 ……

 

 

 月明かりのみが彼女の部屋を照らす。水槽のような淡い煌めきは、見る物全てに靄がかかったようだ。

 そんな中でも少女の目に入る物全てが鮮明に映る。皺が目立つ絵文字の抱き枕、カバーが擦り切れた物理学の本、指の脂が染み込んだSFホラー小説、そして……『育成』に関する本。

 実態を知った時は思わず笑ってしまったが、少女にとってすべて大切な思い出だ。忘れることは絶対にない。

 

 白い手を机上に滑らせ、目的の端末を見つけた少女はデータを入力し始める。レンの予想は正しく、少女は先程のデータを一定のテンポで次々と入れていく。

 ものの数分で入力を終えると、蒸しばむ空気が篭るの感じて部屋の窓を開けた。

 

 肌寒い潮の夜風が彼女の身体を横切る。身震いすることはない、彼女は生まれつきの特異体質で体温が変化することがないのだ。潮の風は彼女にとって、夜に吹いても変わらず海の匂いだけを感じさせる。

 

 それでも少女は温度を感知できる。

 寒さとは何か、暑さとは何か…………少女は知っている。

 

 少女は自分の手をぼんやりと見つめた。

 

 

 …………

 ……

 

 ——《こ、これ、俺の番号ッ!》

 ——《べ、別にやましい事を考えてるとかではなくて、その……》

 ——《……ごめん! 拭かせてくださいッ!!》

 

 ……

 …………

 

 

 今でも鮮明に思い出せる。

 色付きリップクリームで、少女の手のひらに書かれた数字の文字列。

 不器用な男の子みたいに勇気を振り絞って連絡したいと告白した女の子……いや、レンのことを。

 

 思い出は積み重ねるものだ。少女は自分の口元に手を触れる。

 

 レンが作ったおにぎりは美味しかった。

 レンが作った卵の味は少し薄味だった。

 レンは相変わらず不器用で優しかった。

 

 どんな些細なことでも彼女には大切な思い出となり、空白の心を満たしていく。思い出は氷結の夢に光を差してくれた。

 

 思い出は広がるものだ。少女は目を瞑り振り返る。

 

 アニー達と一緒に料理の手伝いをした。

 バーベーキューで皆と食事を共にした。

 バーベーキューの後は皆と色々遊んだ。

 

 こんな些細なことでも彼女には大切な思い出となり、哀傷の心を癒していく。思い出は氷結の夢に暖かさを伝えてくれた。

 

 思い出は深まるものだ。少女は胸の鼓動に耳を澄ます。

 

 エミリオの手は大きくてしなやかだった。

 ヴィラの能力は本物で逞しく力強かった。

 ハイイーの頬辺は赤子みたいに温かった。

 

 それが些細なことでも彼女には大切な思い出となり、悲愁の心を包んでくれる。思い出は氷結の夢に温もりを届けてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが…………。

 氷結の夢は、未だ覚めることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと気になって少女は手元に散乱するパズルピースを見た。形状からして白一色の無地だ。少女の懐かしさを感じ、ピースを埋め始める。

 

 滞ることなく進んで完成間近。

 そこで少女の手は止まる。

 ピースがこれ以上、手元に存在しない。

 どこに無くしたのかと箱を漁るが出てはこない。

 

 パズルは埋まらないまま月夜だけが流れる。

 月光は潮のように、パズルの上で影を満ち引きする。

 

 最後のピースはどこにもない——。どこにも。



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第12節 〜涟漪〜

 息詰まった待機状態に鬱屈を感じてしまい、気分転換にとバルコニーへ出て夜風を浴びる。夜風が髪を撫でて気持ちいいが、さすがに海岸線沿いなのもあって肌寒さも感じてしまう。

 

「夜更かしは肌荒れの原因よ、可愛い子ちゃん」

 

 バルコニーには先客がいた。赤い髪を潮風で靡かせて、情欲を煽るようにベアトリーチェは俺を見つめる。

 

「しょうがないだろ。それに俺は男なんだから美容とか気にしてないし」

 

「あなた、いつも自分は男だと言うわね……。深い部分までは詮索しないけど、男でも睡眠くらいは気を遣った方がいいわよ。あなたの好きなゲームだって健康だからこそやれるんだから」

 

 それを言われると反論しづらい。仮眠でも取るべきだろうか。

 

「そういえばベアトリーチェはここで待機だよね? 戦闘だって行えるのに何で?」

 

「私は能力はあくまで相手に『幻惑』あるいは『魅了』するという、精神的な影響を与えるものなのよ。幻惑は範囲が大きいし、そもそもドールやマーメイド相手だと精神が破綻してる以上は効き目がほとんどないの」

 

 スカイホテルでの出来事を思い出す。

 真なる闇から吠ゆる数百万にも及ぶ甚大な悲鳴。厄災が具現した光景は切り裂かれた地獄の断片にも見えて、身体全てを凍てつかせる恐怖を感じたことは忘れたくても忘れられない。

 

 ……思えばあの時ラファエルも呆然としていたな。

 スノークイーン基地でも幽霊に関して腰が引けた事を言っていたし、あのお嬢様は意外と恐怖体験とかに免疫なかったりするのかな? 今度ホラー映画でも一緒に観に行って確かめてみよう。

 

「魅了に関しては強制力があるからわからないけど、これもドールやマーメイドは女性しか確認できない以上は有効打になり得ない……。もちろん、レンちゃんみたいな物好きがいれば別だけど」

 

 別に物好きじゃない! 男として至って普通なんだよっ!

 

「禁断だからこそ創世記の二人はリンゴを口にしたというし、そう恥ずかしがることもないわよ。私だって浮気者の惚気共を罵るのは楽しかったわ……」

 

「さては味を占めたな……?」

 

 浮かぶのは『天国の扉』によって引き起こされた猫丸電気街の暴動騒ぎ…………に乗じて、日頃の鬱憤を爆発させたとしか思えない渾身の演説をしたベアトリーチェの姿。

 

 ……あの時に助けてくれたメガネの青年、ジョンは元気にしてるかなぁ。また会えたら改めて礼ぐらい言いたいものだ。

 

「まあ、そんな感じよ。呪いや魔法が通用しない相手に対しては、私だってただのか弱い一般人……。今回は淑女するわ」

 

 か弱さを自称するのは果たして淑女なのか? そしてパレードカーの上で大演説するのも淑女なのか? そして淑女するって? いつから動詞になったの?

 永遠の淑女、久遠の女性と呼ばれるベアトリーチェ……すご〜く世俗に塗れてないか? 淑女の概念が壊れてるのか、現代に適応した淑女がこれなのか、教えてエロい人。

 

「それに、私はあの子と関わらない方が…………」

 

 ベアトリーチェは彼方の先を見つめる。彼女の言葉と態度は、酷く暗くて重苦しさを感じさせる。

 ……あの子とは誰のことだ? ベアトリーチェがこんなことを言うのは初めての事だし、今日会ったハイイーかバイジュウのどちらかだろうか。

 

「……何でもないわ。お詫びに、これはあなたに返しとくわ」

 

 そう言ってベアトリーチェはペンダントを取り外すと、胸元にそそり立つ双子山に埋まっていた装飾品を露わにする。

 明るく濃い緑色の結晶体。美しくも鮮やかに輝きを放つ至上の存在感は一度見たら忘れる事はない。

 

「『エメラルド』……あれ? ラファエルに返してなかったの?」

 

「あの子も言ってたでしょ。「今はあんたのよ」だって」

 

 そう言われればそうなのだが、お嬢様が身につけていた宝石なんて恐れ多くて所持するだけで心労が嵩む。それが嫌だし俺が持っていては豚に真珠だから、武器として変換できるベアトリーチェに今まで預けていたんだけど……何もこのタイミングで返すことはないだろ?

 

「戦わない以上は使い道がないもの。御守り代わりに持っていなさい」

 

「すごく嫌だなぁ……」

 

 とは言ってもお詫びとして渡されたら、断る理由も薄いので渋々と受け取るしかない。

 ラファエルから預かったままのサモントン国宝の1つ……。なのにどうしてラファエルは易々と誰かに渡せるのか……。

 

《ふんっ。自分以外が持つならアンタが一番マシなだけよ》

 

 ……まずいな。以心伝心だけでなくイマジナリーお嬢様さえ出てくるほどラファエルに対するスキルが病的に酷くなってる。

 

《ウイルス扱いするとは良い度胸ね》

 

 ……今からでも宝石を手離したくて堪らない。

 

「大丈夫? 顔が引き攣ってるけど……」

 

「だ、だだだ、だいじょうぶっ。……というか夜更かしを言うならベアトリーチェもだろっ!」

 

「……私はただ景色を肴にしてるだけよ」

 

 バルコニーの手摺りに腰を置くベアトリーチェの手元を見ると、そこには氷が溶け切ってないガラスのコップとお酒、そして炭酸水があった。

 ……政府の偉い人と付き合いで、少しは知ってるけどああいうのはソーダ割り、水割りとか言うんだよな? となると度数の高い酒のはずだから蒸留酒に分類されるやつか……。悪いが俺の知ってる酒は黒尽くめのコードネームぐらいしか知らんぞ。

 

「今日だけは眠りたくないの……。今日がどんな日か知ってる?」

 

「満月の日だろう?」

 

「また別よ……。今日は9月24日……『彼岸』って言葉は知ってる?」

 

 単語だけは聞いたことあるけど、それも丸太を持ってる漫画で見ただけだ。意味なんて一切知らない。

 

「知らないって顔ね……。簡単に言えば遠くにいる人を思うことよ。彼は今でも煉獄にいるのかしらね……」

 

「地獄送りっ!?」

 

「違うわ。煉獄は浄罪の旅路……地獄は罪を抱いて溺れたものが辿り着くところ……。彼は自分を……」

 

 今日の彼女はよく喋る。アルコールが進んでいるのか、頬には熱が篭り、瞳は潤んでおり、息遣い一つが艶かしい。コップを撫でる指先さえ扇情的でこちらの本能を擽る。

 よし、冷静になれ。野獣になってはいけない。……今にして思えばベアトリーチェのテンションが少しおかしいのは酒の影響か。

 

「かの詩人、ダンテは自分を旅人と見立てて生涯全てをあなた様に捧げた。その証として二つの詩を残して……ですわよね♡」

 

 夜風と歌うように銀髪の少女——ソヤはベアトリーチェの会話に入り込む。肌寒さを感じているのか、ソヤは黒い修道服の上に赤いジャンパーを崩して羽織り、その手には湯気が立つ保温カップを持っている。

 

「レンさんもどうですか? 飲むと身体の芯から火照って気持ちいい気分になりますわよ」

 

「ほほほ、火照って気持ちいいなんて……」

 

「ただの生姜湯ですわよ♡」

 

 ……そうだな、わかっていたさ。

 だけどソヤが言うと別の意味に聞こえるんだよっ。

 

《あなたがスケベなだけでしょう》

 

 イマジナリーお嬢様……。再現度が高いわ……。

 

「レンさん、彼岸とは現代では春分または秋分の日のこと。仏教的には現世を超えた悟りの境地を意味しますわ。……黄泉や地獄などの宗教的価値観に多大に触れる特殊性から花の語源となるほどですの。『彼岸花』とかは聞いたことはおありでしょうか?」

 

「鬼がつく漫画で出てきた覚えがあるなぁ……」

 

「その知識ですと二つの意味で青そうですわね」

 

 未熟で悪かったな。所詮ミーハーですよ。

 

「彼岸花の花言葉は赤ならば情熱、再会、独立、悲しい思い出……などですわ。赤は血や死のイメージが付きやすく、炎や感情を意味しやすいのですの。他にも死人花、葬式花、火事花、墓花、地獄花などの異名もありますが……どれも良い意味ではありませんわね」

 

「青は?」

 

「ねぇですの。基本は赤か白ですの。あってもヒガンバナ科ヒガンバナ属の『リコリス・スプレンゲリ』ぐらいですわね。広く言えば彼岸花ではあるのですが……そこまで行くと魚のイワシみたいに面倒になるので省略させて戴きます」

 

「へ〜〜。……それが今の状況と関係あるの?」

 

「お酒は製造方法は果実、穀物など多岐に渡りますが……花でも作れるのですよ?」

 

「嘘っ!?」

 

「正確にいうと『リキュール』という分類にあたるのですが、まあお子様のレンさんには詳細は置いときまして……」

 

 えぇ……。ソヤもお子様なのでは……?

 

「彼女が飲んでいるのは『彼岸花』をブレンドしたもの……洒落乙に言えば『リコリス・ラジアータ』なんですの」

 

「そして」と一息置いてソヤはベアトリーチェの側に行く。

 

「あなた様なりの彼に対する弔いなのでしょうね。……毒処理はしっかりしてますの?」

 

「してるわよ。この日のために作った特製品なんだから……。あなたも飲む?」

 

 未成年に勧めるなよっ!?

 

「お断りしますわ、見ての通り健康体ですので。生姜湯で十分ですの」

 

 逆に健康じゃないなら飲むみたいな言い方だな、おいっ。

 

「でも贅沢ですわよね……。こうして誰かを弔えるなんて……」

 

「……あなたも気づいていたのね」

 

「感情と匂いには敏感ですのよ」

 

「おーい、さっきから話の内容がチグハグで理解しにくいんだが……」

 

 プロ同士多くは語らないとでもいうのだろうか。

 

 などと思っていると、ベアトリーチェは真剣な顔つきをして周りを見回し、ソヤも数回匂いを嗅ぐ動作をするとゆっくりと口を開いた。

 

「レンさん……。くれぐれも、そして何があっても……バイジュウさんには伝えないでくださいまし……」

 

「バイジュウに……?」

 

「私達はどういう因果か貴方を中心に集まっている。それを発展させて個人的な交友関係を結んでもいる……。ハインリッヒとラファエル、シンチェンとイルカ、私とソヤ…………。だけど仲には相容れない……いいえ、相容れすぎるのも絶対あるの……」

 

 それがバイジュウなのか……?

 

 しかし相容れないならまだわかる。こうも人数がいると苦手意識が起こるのも分からなくもない。俺だって未だに愛衣には苦手意識を持っているし、ソヤもイルカに対して若干押しが弱い。曰く「苦手ではなく、本能的な部分が……」とネコ科代表的なことを言っていたが。

 

 だけど『相容れすぎる』のどこがダメなんだ……?

 

「レンちゃん……。私はベアトリーチェ……。現代では偉人や神名を付けるのも珍しくないから疑問視されてないだけで、本来私は本当の意味で『この世に存在しない者』よ」

 

 名前というとラファエルとかヤコブとかか……。ある意味、ヴィラもそうか。

 

「いや、それ言ったらハインリッヒもそうだろ……」

 

「それを言いましたら私やアニーさんもそうなるのですが……。レンさん、『因果の狭間』に囚われた者と『死者』は明確に違うのです」

 

 ソヤの言葉に俺は固まる。

 

 ……そうだ。最初にアニー、その次に『因果の狭間』からハインリッヒが出現した事で、その間に出現したベアトリーチェの『死者』という認識が歪んでいた。

 ソヤに関してもそうだ。彼女はエルガノと同行した際、決死の覚悟でヘリ内で自爆を起こしてこの世から一度……。いや正確には彼女も『天国の扉』という『因果の狭間』と同じような異空間に囚われたに過ぎない。

 

『因果の狭間』はあらゆる世界の事象や時間から切り離された異空間。地獄や煉獄といった死者の国とは違う。そこは決して『死』の世界ではない。

 だからこそアニーも、ハインリッヒも、ソヤも、死者ではない。『この世に存在しない者』というだけに過ぎない。

 

 ……俺は明確な『死』という物から向かい会うのを無意識に避けていた。何でかなんて考えるまでもない、一度意識してしまう俺自身の価値観がブレるのを本能的に感じていたからだ。

 

 だって、だって……。俺の母さんは、父さんは……。

 形式上は『行方不明』となっているが……。もしも、もしも本当に『死亡』ということになれば——。

 

 脳裏に横切る灼熱の光景。塩と化した人々。

 俺は知っている……。俺は知ってしまっている……。

 

 あの『地獄』を……。

 

「——それ以上、意識を踏み込んではダメ。そこから先は狂気の世界……禁忌に触れたら『人間』じゃなくなるわよ」

 

 強引に肩を掴まれ、ベアトリーチェと視線を合わせる。

 瞬間、彼女は全身を包むように優しく抱擁した。

 

 ……同時に身体に熱を感じた。この視線、この感情、このむず痒さ……ダメだ。俺は貴方に『魅了』されている……。

 

「——こうでもしないと貴方が戻れなくなる。…………落ち着いて、落ち着いて……私の言葉を聞きなさい。力を抜いて、息を吐いて、私に身を委ねて……」

 

 彼女の言葉を俺は無意識に聞き入れてしまう……。

 力を抜きます。息を吐きます。貴方に身を委ねます……。俺の意識は微睡み蕩けるように霞みが掛かる。

 

「リラックス……リラックス……。頭の力を抜いて……。気が散る考え事、不安な出来事、露となって貴方の心から浄化される……。純粋な気持ちで、私の声に耳を澄まして……。私の声に応じて……」

 

 あぁ——。もっと……。もっと……欲しい……。

 もっと俺を求めて、欲しい…………。

 

「ベアトリーチェ、様…………」

 

「——効き過ぎたようね。今戻してあげる」

 

 そう言って彼女はいつの間にか外していた指輪を戻す。同時に俺の意識は引き上げられる。まるで釣り上げられた魚だ。

 突如として覚醒した意識は、陸に上がった魚と同じように混乱しながらも確かに自己を戻そうと、未だ『魅了』に囚われる一部の意識を矯正しようとする。

 

「あ、あれ……? ごめん……! 今離れぇ……れぇ……!!」

 

 ……何故だろう。ベアトリーチェの腰に回した腕は離れず、触れ合う頬も彼女の胸元の弾力が名残惜しくて遠ざかろうとしない。

 

 ……いやいや、まずいって! 公然猥褻罪で逮捕されるッ! 流れに乗じたセクハラ良くないッ!!

 

「そのままでいいわよ。話さえ聞いてくれれば」

 

 そう言って彼女は俺の頭を撫でてくれる。

 これは……無性に安心感をくれる……。心に温かさを届けてくれる……。肌に優しさを感じる……。

 これは……どこかで……ずっと昔に、感じたことあるような……。

 

「あぁ〜〜〜〜♡ ピュアピュアでいいですにゃ〜〜〜〜♡♡♡」

 

「発情期のネコかっ!!?」

 

 ソヤの猫撫で声で我に戻った俺は、ようやく全意識が『魅了』から解放されてベアトリーチェから離れる。

 

「……もう大丈夫?」

 

 少しばかり名残惜しそうに問うベアトリーチェ。

 

「大丈夫、大丈夫……。それで、その……バイジュウと関わっちゃいけない理由って……」

 

「あの子の心は未だに『過去』に囚われている……。凍て付いた記憶、凍て付いた熱、凍て付いた心……彼女の全ては氷結の夢に微睡んだままなのよ」

 

「そうですわ。わたくしも感情を匂いで判断できますが……バイジュウさんの心は酷く悲しい物でしたわ……。どこが上で、どこが下で、どこが前で、どこが後ろで……。まるで深海に潜る気分でしたわ……」

 

 ……正直二人の答えは薄々予想がついていた。バイジュウに『死者』の話をさせては、きっと拭いきれない思いと向き合わなきゃいけなくなる。バイジュウの心が壊れるのが先か、氷結の夢が壊れるのが先か。どちらか一方が壊れるまで終わらない自己問答に。

 

「レンさんを中心にバイジュウさんは確かに心は導かれておりますわ。まるで篝火のように……。でも、どこに導かれようともその先には隔たりがありますの。ガラスのように透明で、ダイヤモンドより硬くて厚い心の壁が……」

 

「レンちゃんが繋ぐ心の灯火は小さくても決して無駄じゃないのは分かってる。だけど、人間の心の寂しさはより大きな炎を求めてしまう……。その炎がどれほど危険であろうとも……」

 

「それがベアトリーチェ……。いいや、つまり——」

 

 ——『死者の蘇生』——。

 

 なんて甘美な響きなのだろう。本来は絵空事に過ぎない、だけど改めて認識して感じてしまう。もしや可能ではないかとって……ベアトリーチェを見てそう思ってしまう。

 

「私の所在は今でも極秘事項なのはそれが理由よ。もしバイジュウが私の事を知って、その可能性を知ってしまったらどうなると思う?」

 

 ……想像するまでもない。彼女は追い求めてしまうだろう。禁忌の道を歩み、その先に求める物があるのなら。

 

「彼女は絶対に探究するわ。誰よりも賢いのに愚かで、誰よりも清らかなのに醜くて、誰よりも真面目なのに無防備な子よ。…………絶対に彼女は成し遂げて、到達しようとするでしょうね。ハインリッヒの『真理』さえも超えて、超えて……超えたからまだ先へ……」

 

「その先は間違いなく地獄が待っていますわ。『扉』の先に待つのは、極楽浄土ではなくもっと恐ろしい『何か』……。狂気に魅入られたら彼女は一生抜け出せない足枷と共に生きていくことになる……」

 

 だからこそベアトリーチェは言っていたのか。バイジュウとは相入れ過ぎると。

 

「……じゃあ、どうすればいいんだよ。そんなバイジュウを……友達として俺はどうやって力になってあげたらいいっ!!」

 

「貴方は十分力になってるわ……。後は切っ掛けさえあればいいの……。あの子自身の彼岸花を咲かせるような……」

 

 ベアトリーチェは一気に酒……彼岸花のリキュールを飲み干した。

 

「…………レンちゃん」

 

「は、はいっ」

 

「決して、繋いだ心は離しちゃダメよ」

 

 そう言うとベアトリーチェはバルコニーから立ち去ろうとする。そしてログハウス内に入る直前、忘れ物を思い出したようにこちらへ振り向いた。

 

「それと最後に一言」

 

「な、なにっ?」

 

「……ごちそうさま。おにぎり美味しかったわよ」

 

 ベアトリーチェは家内に姿を消した。

 俺は花弁と酒気を肴に、満月を見る。

 

 …………待つしかないのか。その時が来るのを。

 だったら、その時まで……俺は守らないといけない。

 

 独りぼっちで深海に漂う彼女を。



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第13節 〜潜水〜

 

 …………

 ………………

 ……………………

 

 ——キィィ……ゴォォォン……。

 

「——ここが水深500mに位置する『Ocean Spiral』の第一階層、深海ゴンドラの発着エリア……。活動するための酸素も十分供給されてる……」

 

「うへぇ……潜水艦の中って想像以上に息が詰まるな……」

 

 俺達は目的となる施設『Ocean Spiral』へと辿り着いた。施設内は床を除いた全てが三重張りの強化ガラス構造に、シーリング構造を挟み、さらにその上に再び三重の強化ガラスと万全を期した建築となっている。

 

 見上げた海中はこの世の物は思えないとても美しい空間だった。

 大海を漂う海洋生物が見え、大海を渡る魚群も見える。乱雑に配置したようにしか見えない岩礁は、海の蠢きに適応したことで自然の強さを輝かせる形状をしている。

 まさに天然の巨大水族館だ。ここに居住区を持てるとなれば、海底都市は楽園と呼べるかもしれない。過去の人達がここを人類の開拓地と呼称するのも頷ける。

 

「目的地は海底4000m以上に沈んだ『Blue Garden(ブルー・ガーデン)』と呼称される施設になります。OS班は深海ゴンドラを使い、最深部にある海底資源の発掘基地『Earth Factory(アース・ファクトリー)』を経由することで目的の施設へと行きます」

 

 バイジュウの通達に皆が頷く。

 

「道中、深海観測のモニタリング拠点もありますので情報収集を怠らず、かつ迅速に目指します。各自、最新の注意を払ってください」

 

『了解』と皆の声が反響する。

 昨晩の陣形に配置すると、エミはゴンドラの配電を確認して施設が今も生きていることを把握。ゴンドラ内部を確認して、安全確保と稼働できることをハンドサインで伝えてると、一斉に乗り込んで更なる深度へと突き進む。

 

 …………話は少し巻き戻る。

 

 

 …………

 ……

 

 

「待たせたな。これより『Ocean Spiral』の本格調査を開始する」

 

 深夜2時、陽が昇るよりも前に招集を掛けられる。各自、仮眠や武器などの準備万端の状態だ。マリルの声に即座に全員応じて横一列に並んで待機する。

 

「潜水艦の手配が終えて、既に海岸から150m離れたところで待機している。操縦員は……本当にバイジュウで問題ないんだな」

 

「大丈夫です。自動化が進んで19年前の規格より遥かに操舵しやすくなっています。ヘリの操縦よりも簡単かと……」

 

「大した自信だ。では準備していたエージェントは撤退させて、ログハウス内で待機へと努めさせておく。ハインリッヒ達も既に海上へと向かい、残存するマーメイドの殲滅を尽力しているため速やかな作戦行動のを頼むぞ」

 

 各自渡されたタブレットの画面に配布されたデータを確認する。表示されたのは二つの簡略化された画像。片方は『2030』と、もう片方は『2037』と表記された二つの『Ocean Spiral』の建築構造が照らし合わされる。

 

「ご覧の通り、目標となる施設の見取り図だ。外界からスキャンして確認したが、廃棄されたことで当時の建造とは異なる部分がいくつかある。最大の違いは本来水深0m〜500m内にあるはずの『Blue Garden』が倒壊して、最深部にまで沈没していることだ。潜水艦を使って直に向かいたいところだが……」

 

 タブレットの画面に情報が追記される。最深部にある『Blue Garden』の補足情報だ。外殻にはまるで守るように、先日以上の数を誇るマーメイドが目視するのも難しいほど施設を覆っている。

 

「ご覧の通りだ。魚雷をブチ込んでもいいが、それで施設が破壊されて異質物を調査できなくなったら元も子もない。そこでOS班には水深500mの深海ゴンドラ発着エリアか、水深2500mに位置する深海港から潜入して内部から確認を行い目的地に辿りつけるか確認してほしい」

 

「でしたら第一優先は500m地点のエリアからが望ましいです。深海にマーメイドが多く存在する以上、水深が浅いほど危険度は下がります。いくら情報を集めても潜水艦の安全を保証できなければ、帰還する可能性は薄まり探索の意味がなくなるので……」

 

 間髪入れずにバイジュウはマリルと応対する。

 

「もちろん安全が確保できない、施設が止まっていてゴンドラを起動できない、気温・湿度・酸素濃度・疫病など、どれか一つでも条件が合致できなければ第二優先として2500mの深海港に向かい、同条件下を確認して……となりますが。警戒しないといけないのはマーメイドだけでなく、もしかしたら人員が『生存』している可能性もあり、その場合は交流ができるかどうか……」

 

「……私でも驚くほどの聡明さだな。そこまで既に考慮してるとは、レンも見習え」

 

「え? どうして生存者がいると警戒する必要あるの?」

 

「……海底都市というが、実際は現代社会より隔離された施設だ。そこで自給自足ができて『文明』が年数単位で成立すれば、それはもう独立した『国』なんだ。様々な人種が現代でも争いを起こすんだ、海底都市という『国』に選民思想が根付いていた場合……我々を『敵』として定める可能性も十分にある」

 

 選民思想、という言葉を聞いてマサダブルクの人種差別を思い出す。

 確かにあそこも外城と内城で成立している社会が違う……。内城は平和で現代社会を築かれており、外城は一歩でも踏み出せばテロリストが潜む地雷源である。

 

 同じ国民なのに宗教思想が違うだけで争うんだ……。それだったら確かに他国民で、考えが違うともなれば…………おかしくはないのかもしれない。

 

 でも、青臭いけど納得はしたくない。

 今いる俺たちは全員違う人種どころか、生まれた時代さえ違うのに仲間としている……。じゃあ、手を取り合うのも可能なんじゃないかと小さな希望を持ってしまう。

 

「とはいってもドールは人間を襲うんだ。マーメイドも同じように人間を襲って文明が崩壊してる可能性もまた十分にある。残酷かもしれないが、その場合は気負いする必要はない」

 

 だけど、今はそんなことを考えてる暇はない。大事なのは今ある自分の役目を果たすことだ。

 

 俺の役割はOS班でシンチェンとハイイーの守って、班全体を観察して周りの状況を常に把握すること。

 そして……OS班全員で無事に帰還すること。

 

 こうして俺達OS班は潜水艦へと搭乗して『Ocean Spiral』へ向かうことになる。

 

 

 ……

 …………

 

 

 エミのハンドサインで安全を取ると、俺たちは水深1500mに位置する『深海生物モニタリング拠点』へと潜入する。

 

 エミとヴィラは小銃を構えて常に警戒を続け、バイジュウも神経を研ぎ澄まして辺りを観察する。アニーとソヤもそれぞれの得物を手に室内の物陰を見て、見落としがないかの確認を怠らない。

 

 俺も……………。

 

「たいくつぅ〜」

 

「ひまですぅ〜」

 

「はいはい、次はこのアーカイブしたアニメでも見ようか」

 

 ——緊張感持ちたいけど、この子連れ出勤では無理だっ! 持つにしても別の緊張感しか持てないっ! 

 

 現在、俺の背中にはおんぶ紐で赤ちゃんモードであるハイイーと、左手には背負われるハイイーを羨ましそうに指を咥えて見てるシンチェンがいる。

 自衛隊の救助活動に使われる頑丈なおんぶ紐だから、大人でも重心が偏りが生まれずに移動できるものの、それでも幼女一人分の体重をずっと背負い続けるのはキツい、とにかくキツイ。背筋が強制的に伸ばされるのもそうだが、それによる肩や首の凝り、そして足裏に乗る重さが普段より何倍もくる。

 

 いきなり二児の子を持つことになるなんて……。

 ええいっ、これを毎日熟す全国のシングルマザーorファーザーは化物かっ!? 

 

「レンちゃんママ〜。休憩しよっか〜」

 

「た、助かるぅ……!!」

 

 アニーの緩い言葉に心底救われて、俺はハイイーを下ろした途端に膝から崩れ落ちて前屈みに倒れた。

 

 ほんとぉ……ほんとぉキツイぃ……っ!

 

「尻だけあげて横になるな、だらしがなさすぎる」

 

 ヴィラは室内の廃材を使って入り口に簡素なバリケードを積み上げていき、最後にはあの10トンある戦鎚を支えにして、こちらへと戻ってきた。

 

「警戒はアタシがしておく」

 

 そう言ってヴィラは入り口を見ながら、小銃や持ってきた物資の確認をし始める。

 

「それではレンお母様、2人の面倒はわたくしが見ますので、暫しのお休みを」

 

 ソヤからの有難い言葉に甘えて、俺は冷たい鉄の壁に背を預けてこの施設で唯一海中が見れるガラス細工の天窓を見上げる。

 

 …………ここまでの情報を整理しよう。

 

 まずここまでにくる間、施設内にドールやマーメイドの出現は見られなかった。そして水深1000mにある『深海音波モニタリング拠点』と、水深700mにある『スーパーバラストボール』という施設全体を支える制御拠点へと脚を踏み入れたが、特に新しい情報が見当たらず。

 

 続いてゴンドラのコースター内で確認できるインフラの運搬状況を確認したが、驚くべきことに全インフラは未だ顕在だということがわかった。

 つまり電気・水・酸素……さらに二酸化炭素の排出管理から、この施設の目的である海底資源の発掘なども全て稼働したままだ。

 

 ここの『文明』は生きている——。そう結論付けることができた。

 

「ふんふふ〜ん♪ ……すごいね〜〜! 見たことない海中生物がいっぱいあるよ♪」

 

 アニーは端末を操作して上部にあるスクリーンへと表示させる。

 …………残念ながら俺には魚の区別が付かない。見分けられるのはマグロ、クジラ、チョウチンアンコウといった明らかに見た目が違うやつぐらいだ。見たことないと言われても、俺には全部見覚えがあるような魚類としか判断できない。

 

「こっちもすごいわよ……。深海には石油がまだまだ眠ってるし、それどころかメタンハイドレートさえ、この施設なら環境条件を変えずに採取できる……! CO2排出問題は異質物で解決してるから、使用する熱エネルギーとしては価値が薄いけど、これが異質物黎明期に発見していれば……世界のエネルギー事情は大幅な改善が見込めたわね……」

 

 ……わからないから調べてみたいが、肝心の端末は現在シンチェンとハイイーが仲良くアニメを見ていて手元にないので断念する。

 

 とりあえずエミが興奮してるし、相当すごいんだろうなぁとは思っておく。

 

「…………っ」

 

 そしてこんな未知っぽい発見の多くがあるのにも関わらず、学者気質であるバイジュウは一切反応を示さずに、自分が調査している端末の前で目を見開いて固まっていた。

 

「バイジュウ、何か見つかったのか?」

 

「…………っ。ここは深海1500m……なのに、南極でもないのに……『アレ』がいるわけがない……」

 

 何やら譫言を言っている。声が小さくて俺には聞き取れない。

 気になってバイジュウがいる端末の前に行き、俺は画面を覗き込んだ。

 

 画面全てを覆う巨大な目玉が映っていた。あくまで「目玉」と呼べるだけで、見方によっては不透明なクラゲにも見える。

 バイジュウは「目玉」を拡大させて、瞳孔という滝つぼのような黒く深い大穴を念入りに確認する。

 

 こうしてみると……巨大なサンゴ礁みたいだな。

 こんな大きい生物が海底にいるのは分かったけど、見た感じは別にクジラと大差はないんじゃないのか?

 

「…………ない、これ以上ない……」

 

 そう言って彼女は端末に苛立ちをぶつけるように、画面を消して背を向けた。振り向いた時には、隊長として冷静沈着なバイジュウの表情が見える。

 

「皆さん、異質物に関する情報はありましたか?」

 

「いや〜……。深海生物の情報はあるけど、異質物に関するのはないかなぁ……」

 

「私の方も特には……。海底資源は無尽蔵にあるから、維持に支障が起きなければこの施設は1世紀はまず運用に困らないことくらいね」

 

 収穫は薄いようだ。

 これ以上手に入るものはないと判断して、俺達は再びゴンドラへ搭乗して水深2500mに存在する深海港へと向かう。

 

 とはいっても港は港だ。それ以上でもそれ以下でもない。安全を確認して、潜水艦内部のデータを調査したが最後の計測記録が2030年を示している以外は真新しい情報はなかった。

 

 ……やはり七年戦争を境にここで何かがあったんだ。だけどここは戦争とは無縁の海底都市。直接の被害は合わないし、ゴンドラで見た限りではインフラも十二分に自給自足できている。協力してくれた国家が崩壊したとしても、間接的被害は受けにくいはず。ならばどうしてここは2030年で計測を終えたのか……。

 

 疑問は水深と共に深まるばかり。

 そして俺達は最深部である『Earth Factory』へと辿り着く。だがここにも何もない。未だに海底資源の採掘は稼働し続けており、プログラムは与えられた使命のままに溶解や加工を続けている。

 ここまで深海に近づくと、ガラス細工の天井や壁はマーメイドの姿が見え、水槽にいる魚を観察するようにこちらを見守って来ている。そして通り道の先には…………目的地となる『Blue Garden』の球体施設が見えた。

 

 ……まるでマーメイドは歓迎しているようだった。俺達がいるところはレッドカーペットみたいなもので、俺たち招待客が来場するのも待っているような。

 

 嫌な予感は当然ある。だけど進むしか俺達に出来る行動はない。

 

「ある日〜」

 

「海の中〜」

 

「サメさんを〜」

 

「調理した〜」

 

「フカヒレじゃねぇかっ!!」

 

「出てきた食材は〜」

 

「黒い卵だった〜」

 

「キャビアだっ!?」

  

 空気が読めないのか、あえて読まないのか。シンチェンとハイイーは仲良く歌を歌ってピクニック気分全開だった。

 ……今はこのぶち壊しの空気がありがたい。歌を頻繁に歌っていることもあって、もうハイイーの言葉の拙さはどこにも見えない。結局は何だったのか…………。今では謎に包まれている。

 

「ママも歌おう〜」

 

「ママって呼ぶなっ! 背中から下ろすぞっ!」

 

「レンちゃん……育児放棄するのっ!?」

 

「言い方ァ!!」

 

 アニーはマリル並みのわざとらしいリアクションしてきた。やっぱマリルに似てきたよな?

 

「わたくしとはお遊びだったのですの……!? こんなにも可愛い子達を見放すなんて……!!」

 

「ソヤも乗るなっ!」

 

「……ヴィラ奥様、お隣のレンという奥様……実はですね、かくかく……」

 

「しかじか…………あら本当ですの? ……エミ。思うんだが、これアタシのキャラじゃないだろ」

 

「あら、いいじゃない♪ レンちゃんママというか、私たちがママ友してるところ想像できる? 今のうちに昼ドラ雰囲気でも楽しんだもん勝ちだって♪」

 

 エミとヴィラも小芝居に参加してきた。

 

「…………私は何ポジになればいいですか?」

 

「バイジュウは乗らなくていい」

 

「そうですか……」

 

 ガッカリしなくていいんだ、バイジュウ。君だけは正気でいてくれ。じゃないと本当に空気が崩壊する。

 俺達は何とも言えない空気で『Blue Garden』内の調査を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………今思えば、この空気は最後の余韻だった。これから目撃する惨劇に備えて休憩地点。言うなればボス前のセーブポイント。

 

 俺達は想像もつかなかった。

『Blue Garden』内で起こったことなんて……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 異臭がする。視界が真っ赤に染まる。

 

 そこにあるのは醜悪の極みだった。

 何が『Blue Garden』(青の庭)だ。誰かがここを楽園と呼んだ。だけど実際はどうだ? ……此処こそが地獄の最果てだ。

 

 飛び広がる血痕の数々。連なった死体の数々。干からびた白骨体もあれば、四肢がない男性の死体、衣服が乱れて重なる二人の男女の死体、見せしめのように磔にされた女性、細切れとなった肉塊…………この世の『死』が詰まっていた。

 

「何も見えないよ〜、レンちゃ〜ん」

 

「レンお姉ちゃん、見えないよぉ……」

 

 俺は知らぬ間にシンチェンの目を塞いでいた。気がつけばヴィラもハイイーの目を塞いでくれている。

 

「子供には酷だな……」

 

「ありがとう、ヴィラ……」

 

「お前にも言ってるんだ馬鹿。嫌なら目を瞑れ、アタシはお前を守るために側にいるんだ」

 

「子供ならヴィラもそうだろ……」

 

「アタシ達は慣れてる。軍人って、そういうもんだ」

 

 ヴィラはそう言いながら、ハイイーに応急処置用の包帯を目隠しとして巻いた。その流れでシンチェンの前にも行き、一言「悪いな」と言って同様にシンチェンの目も塞いだ。

 

「これで大丈夫だ……。エミからの合図はどうだ?」

 

 急かされて俺は周りの惨劇から目を逸らして、エミリオの手に集中する。ハンドサインはあった。「安全確認・集合」と指示をくれる。

 指示に従って俺達はエミリオの所に集合し、集合した場所の前にある自動ドアを見る。そこには『Control room』……つまりは、この施設の管制室と記載されたプレートがあった。

 

「バイジュウ、開けられる? ここはカードキーか20桁の暗証番号が必要なんだけど……」

 

「………………道中にそれらしきヒントはありませんでした。しかし20桁のパスワードを一通り行うのはあまりにも……」

 

 俺も思い返すが検討はない。それは皆も同じ雰囲気だ。シンチェンもこの状況では電波受信はせずに、ただ大人しくしてるだけ。

 

「——じゃあ、アタシに任せとけっ」

 

 突如ヴィラは鉄製の扉に正拳突きをお見舞いした。

 

 ドォン!! と会心の一撃が響く。砲弾が撃たれたのかと錯覚するほど豪快な音だ。一撃で掴みどころができるほど扉は歪み、それを取っ手にしてヴィラは強引に管制室のドアをこじ開けた。

 

 …………うそぉ?

 

「ナイス♪ 流石は私のヴィラね♪」

 

 技を超えた純粋な強さ、それがパワーだってBクラスのサングラスが言ってたな……。こういう時は力任せもありなんだなぁ。

 

 とにかくヴィラが強行突破してくれたことで、管制室へと俺達は侵入する。バリケードになりそうな廃棄機材は見当たらないので、ヴィラは再び拳一つで扉自体の噛み合わせを悪くして簡単な力では開かないように変化させた。

 

 暴力で解決するって……。こういう時にはいいなぁ……。

 

 室内には今までの惨状はなく清潔な空間だ。目の前には一台の端末と、そのすぐ近くで倒れる痩せ細った男性の姿と…………模型のように展示される鉱石が一つ。

 

 その鉱石は……初めてシンチェンと会った時にいたリーベルステラ号の古代隕石と酷似していた。

 

「……もう、事切れてる」

 

 エミは端末の前にいた男性を壁の端に寄せて祈りを捧げた。その一連の動作は精錬で、彼女が『神の使者』と呼ばれる存在であることを改めて実感する。

 

 一方、バイジュウは既に端末の操作を始めており、何があったかを把握しようと忙しなくキーボードを叩き続ける。

 

 やがて一つの気になるデータが見つかったようで、彼女は静かに呟いた。

 

「音声データ…………ファイル名は『CoC』?」

 



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第14節 〜浮上〜

普段は魔女兵器本編をリスペクトしてゲーム内と同じように7000文字を目安に書いておりますが、重要回なので驚異の10000文字突破です。そして第一章最終回である第19節まで多分そんな感じです。

なお本編の星塵降臨、第19節は約14000文字な模様。
やっぱ本家って……すごい(頭レンちゃん)


 

 ==========音声データ再生==========

 

 この記録を見たものに告ぐ。

『Ocean Spiral』の異質物研究……これは人類の新たな開拓への礎にはならない。むしろ破滅を導くものだったと断言せざるおえない。

 

 私は『Ocean Spiral』宗教学問研究兼異質物研究部門、最高責任者『ドルフィン・パルス・アンデルセン』だ。深く、私は謝罪をする……。

 申し訳ない。私にはこの『文明』を制御することはできなかった……!!

 

 …………まずは、事の顛末を説明する。

 

 当時人類の最先端であった『Ocean Spiral』に協力を仰ぐために、異質物研究が海底都市に参入したように見えるが……。実は逆なんだ。

『Ocean Spiral』側から異質物研究を参入するように懇願したんだ。理由は単純にして明解かつ強固なものだ。海底都市の運営という計画と維持…………これらは海底資源の発掘作業による利益で賄う物だったが、次々と浮き彫りになる問題やそれに伴う耐久性の改善などを再計算した結果、負債を返済するのに予測で70年かかるという利益率の低さが露呈したことで資金援助が絶たれてしまい破綻、それに伴う運営委員会での派閥抗争が生まれたのだ。

 大まかに分けて、施設運営を継続するものと破棄させるものだ。無論当時の私は研究部門の責任者の一人として『継続』を望んだ。

 

 この争いを危険視した『Ocean Spiral』運営委員会はとある企業に話を持ち込み、ある条件を二つ呑むことで資金援助を成立させて、この派閥抗争をひとまず終結させた。

 

 そのとある企業の名は『フリーメイソン』だ。秘密結社と呼ばれるものだが、実態は下手な宗教法人やブラック企業よりも慈善に満ちた巨大組織だった。…………そうだったんだ。

 

『フリーメイソン』が出した条件の一つが、先ほど話した異質物研究の参入だ。運営委員会も居住区を持て余していることもあり許諾した。

 二つ目は不思議なことに『Ocean Spiral』の建造場所の変更だった。それも公の記録では違うようにしてだ。具体的な指定があるのかと思えば、希望は太平洋であればどこでもいいと言ったのだ。運営委員会は快く呑んで『Ocean Spiral』の建造場所を極秘で変更したのさ。

 

 ……今にして思えば金に目が眩んでいた。おかしいと思うべきなんだ、何でこんな相手にとって得がない条件を提示された意味を。

 そんな資金があるから最初から『フリーメイソン』の独断で建造して異質物研究をすれば良かったのだ……。最初から求めていたのは我々という研究機関と『Ocean Spiral』で今後生活する『約1万人』という人員が目当てだったことになぜ気づかなかったんだ……。

 

 …………すまない、取り乱してしまった。

 それが起きたのは2018年末期のこと。ジョーンズ博士が異質物を再発見・再認識してからそう時間は経っていない。そこから施設の建造が始まり、ひとまずの骨組みが6年後の2024年春頃に誕生した。私は妻と生まれたばかりの娘を置いて研究部門の責任者として現場に赴いて異質物研究を行ったのだ。

 

 異質物研究として最初に運搬されたのは一つの魔導書と、一人の被験体だった。被験体の心臓は既に止まっていて、顔もグシャグシャで見るに堪えない姿だったのは今でも覚えている。遺体の身体は時が止まったように綺麗だったのが被験体にとって幸いだったのか……。

 そんな状態なのに被験体の脳波は微弱な信号を出しつけていたんだ……。まるで『魂』が叫ぶように……。

 

 続いて魔導書についてだ。

 魔導書の記載された内容は私には把握できなかった。文字としては読めるのに、英文として見ようとすると途端に認識を拒んでしまう不思議な魔導書だった。

 恐らくは選ばれた人間だけが理解できるのだろう……。先天的な物か、後天的な物か。これは今後の実験次第で分かるはずだった。

 

 最初に課された実験内容は被験体と魔導書を相互影響を観測し続けること……。それは何事もなかったのさ。……ただ爆薬だっただけさ。

 

 次に運ばれたのは思考制御型の異質物。思考制御と言っても俗に言う催眠装置とか、洗脳装置みたい強制力があるものじゃない。

 ただ道端に空き缶が落ちていたら「道中にコンビニがあるし、そこで捨ててあげようかな」と思う程度の超微弱な異質物だ。異質部の脅威度は研究対象となった時点で『Safe』なのは、これを見つけた時代でも同じなのだろうか…………。

 

 いや、今はそんなことはどうでもいい。

 この異質物を取り入れたのがまずかった。研究は進んだ、順調に進んだ、おかしいくらいに順調だった。船の帆が自然の風ではなく、人工的な風に吹かれたように。

 

 海底都市の発展は進み、各国の一部の上層階級の富豪や、貧困や差別で国から見放された人種が次々と海底都市の移民を始めた。

 そこは楽園と言っていい。富豪は未知の体験が味わせる極上のリゾート施設として、棄民はここで人権を得たことでようやく人間として認められる。ここでは既存の思想は価値観は何もない。誰もが選択できる勉学を励み、誰もが選択できる食事を楽しみ、誰もが選択できる未来を誇っていた。

 理想郷さ。間違いなくね。ただ……目前の誘惑に囚われすぎて、理想郷の維持性は外界にある『通常の社会』があることで保たれていることから目を逸らしていた。

 

 やがて2030年。『Ocean Spiral』で異変……違うな。恐らく陸上社会で異変が起きたのだろうな。突如として各国との連絡が絶たれた。

 海流も大きく変わり、ここにある潜水艦の規格では潜航不可能だと判断され、突如としてここは脱出不可能な牢獄となった。

 

 ここには食料も、水も、電気も、酸素も、資源も全てある。

 貧困に喘ぐことはない。皆がここでの生活を知っているから、懸命に陸上からの救助が来るのを待ったさ。だって、ここから唯一連絡が送受信できる宇宙上のある衛星だけが顕在だったから。救援信号を出して待ち続けた。

 

 一週間……半月……一ヶ月……半年……一年……。やがて誰かが言ったんだ。「もう救助を待つ必要はない。自給自足ができるならここが新しい国だ」と。

 

 ここには食料も、水も、電気も、酸素も、資源も全てある。

 外界に囚われる必要はない。皆がここでの生活を知っているから、途端に海底での社会が組み上げられたのさ。

 ……問題はここからだ。新しく社会を、新しく国を作るとして、それは『本当に新しい物』が生まれると思うか? 答えは「生まれない」だ。

 

 人間は既存のシステムに拘り続ける。何故なら変わらない平穏こそが『絶対的な安心感』を生むからだ。

 ……この海底都市なんて人間のエゴの塊みたいな物だ。我々人間は海底に住むというのに、『自分を変えず』に海底都市を作るという『環境を変える』ことを選んだ。これも絶対的な安心感を得るためだ。人間は原始時代から続く『二本足で歩く』というシステムから離れることはできない。それと同じだ。

 

 ここでの生活は統率を取る者が現れた。ここでは紙幣に意味はないのに、血縁も意味は持たないのに、それなのに既存のシステムを求めて、貴族は自分が統率者であると名乗り出た。これも安心感を得るためだ。貴族は人の上に立つ、それが彼らにとっての当たり前のことだからさ。

 

『Ocean Spiral』運営委員会は実質壊滅を迎えた。無論研究部門もだ。私はここでは平民にしか過ぎず、貴族の圧政により継ぎ接ぎだらけの社会が生まれた。そんなのが長く持つか? ……持つわけがない。貴族主義に反感を持った人々はやがてレジスタンスを組んで貴族社会を壊そうとした。

 

 だが……貴族は隠し球があった。彼らはひと時のリゾートとして来訪した身。本来ここにあるはずがない護身用の拳銃を所持していたのだ。閉鎖的な空間で、これほどまでに分かりやすい力の誇示はない。貴族は既に海底資源の運用・管理を握っていて、拳銃は量産化していた。これでは武器を持たないレジスタンスは成す術もない。一転してレジスタンスは沈静化して圧政社会を強いられた。

 

 力を持たぬ人間はどうすると思う? 強いものは力を求めるだろう。弱いものは救世主を待つだろう。…………それを両立させる存在は既にこの『Ocean Spiral』にはあった。

 

 そう、建設当初に運搬されていた『魔導書』だ。

 やがてどこかの女性が魔導書を見つけた。そして解読して女性は『力』を得た。力を得た女性を弱者は『救世主』として崇めた。

 ……閉鎖的な空間で『宗教』という物が生まれたのだ。

 

 こんな状況じゃなければ悪とは言わないさ。宗教の思想は、時として絶対的な秩序となり閉鎖的な空間では安寧を与える。メンタルカウンセラーなどが閉鎖空間で重要視されるのは、それが理由だ。人間は拠り所を欲しがる。

 

 だがそれは『不安』や『恐怖』に感情が属してる場合に限る。

 人が『不満』や『憤怒』に感情に属してる場合は、安寧ではなく闘争を求めてしまう。

 

 女性は魔導書の力を皆に広め、皆に言葉として伝え、皆に崇拝させた。やがて救世主さえ量産し始めて、魔導書こそが絶対的な信仰対象となった。

 彼女らを中心とした宗教は常に讃えていた。「ふんぐるい むぐるうなふ」だの「いあいあ」だの……。耳障りだったさ。本当にそれは地球上に存在する言葉なのかとね……。

 

 それがあってご覧の通り、この施設は惨劇が溢れている。

 貴族は皆殺しにされて、魔導書を讃えた宗教が残った。闘うべき相手もいなくなったはずなのに、彼女達は争いをやめず、むしろ仲間を増やすようになった。暴走した狂気は納めるべき場所さえなくなった。

 

 貴族や宗教に属さない私達多くの『中立派』は格好の獲物にされた。脅迫されて無理矢理属した者もいる。反抗して殺された者もいる。中には内部から解体しようと無謀な賭けに出る者もいた。

 

 だが時として女というものは……快楽さえも武器にした。

 反骨心を持った中立派は次々と骨抜きにされ、彼女達に子供を孕ませて男達を堕落させた。そして生まれ育った子供を魔導書へと信仰させて、着実に勢力を固めた。

 子供が生まれ育つ頃には……既に信仰者達は狂気に呑まれて『人の形をした何か』に変貌していた。個人差はあるものの、あるものは足が退化して魚の尾になっていた。あるものは手がカエルのような水掻きがついていた。あるものは呼吸さえままならなくなった。フィクションにある『人魚』や『半魚人』みたいなものさ。

 実際に体験してみると『人』という表現は優しすぎる。信仰者の姿はあまりにも人と呼ぶには冒涜的過ぎた。

 

 気がつけば私を含む十人の成人男性と四人の成人女性、そして例の被験体しか残らなかった。

 ここは楽園ではない。狂気に呑まれた信仰者達を中心とした宗教は、男性ら諸君には多大な影響を与えて恐怖に身を竦んだものもいれば、「これが真実の愛なんだ」と同性愛に目覚めたのもいた。女性達も同じようなものだ。そこに性差なんてない、人間なんてない、ただの野生動物の生存本能がひしめき合っていた。

 

 そんな生活が……7年も続いた。

 気が狂ったのはどっちだ。人間として狂気に呑まれた信仰者なのか、動物として本能に呑まれた私達なのか。私は逃げるようにそこから出て行き、この記録を残している管制室へ辿り着いた。

 

 私がいる管制室は最高責任者用のカードキーがないと入れない物となっている。だから管制室だけはセキュリティの都合もあって、魔導書を持った彼女達でさえも通常では侵入するのは不可能だ。

 

 ここはテロリスト対策の非常用シェルターでもある。ここでは自動的に生産された食料・水は常に一定量のまま供給されている。

 救難信号はまだ生きている。私は一抹の希望にかけて待って、待って、待って待って待って待って待って…………。待ち続けて…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本日、救難信号の送信先となる衛星は突如として消失した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『STARDUST(スターダスト)』は流れ星のように焼失した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここには食料も、水も、電気も、酸素も、資源も全てある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがここには『希望』はなかった。

 あるのは『絶望』だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぁぁ……うっぅぅ…………っっ、ぅぅ……!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………もう私に生きる活力は残されていない。残した家族との再会だけが生き甲斐だったのに、それさえも断たれてしまった。

 

 だからいつか訪れるであろう人類のためにこの記録を残す。

 一方的な呼びかけさ。『Call of Call』……とでも言っておくか。タイトルに深い意味はないはずなのにな……。どうしてファイル名に拘ってしまったのか……。

 

 今にして思えばどうしてこんなにも思考が偏ってしまったのだろう? どうしてどこかでおかしいという違和感に気づかったのだろうか?

 

 もしかしたら……この異質物が『思考制御』していたのかもしれない。人間が最も洗脳されやすいのは『大衆心理』だ。皆が皆「そう思うかもしれない」という思考制御が固まれば、それは強力な洗脳装置だ。

 

 だが確認する術はない。今この状況では異質物が何をやっていたかなんて明確な答えを出せるほど、私の探求欲はない。

 もしも……もしもそうだったら怖い。ならば最後に皆を『思考制御』から解放しなければならない。私は異質物研究の全ラインを停止させて、異質物研究を終了させた。

 

 これで皆が『思考制御』されることはない。残った誰かが新しい希望を見出してくれるかもしれない。狂気に染まった信仰者の誰かが正気に戻るかもしれない。

 

 せめて最後に家族と会いたかった。

 今頃娘は13歳か……。頼れる大人はいるか? 友達はいるか? ……なーんてくだらないこと言ったな。

 お前は生まれた瞬間から愛嬌があった。きっと友達も、仲間も、頼れる教師や大人もいるんだろうなぁ……。

 

 愛している……。心の底から……。

 魂から願う……。家族の幸せを……。

 

 最愛の妻『アリエル』……。

 そして最愛の娘『イ——』

 

 ==========音声データ終了==========

 

 

 …………

 ……

 

 

 ……再生された音声は終わり、辺りは静寂に包まれる。

 シンチェンとハイイーさえ重苦しくなった空気には堪えたようで、口に戸を立てられたように口を噤んでいた。

 

「……ねぇ、レンちゃん。つまりマーメイドが……」

 

 狂気に囚われた、と言っていた。

『魔導書』から与えられる『情報』に堪えきれず、当時は『魔導器』もなかった閉鎖的空間だから起こった感染病棟。それが『Ocean Spiral』の正体であり、周りのマーメイドは当時いた宗教として成立していた『魔女』達の成れの果て……つまりマリルの予想通りに『ドール』と同じ結末を辿った者………………。そう考えるのが自然だ。

 

 だとしたら恐ろしいことが一つある。『魔導書』が与える『情報』は人の脳や身体を限界を超えるだけではなく、そもそも人として変貌するほどの影響があるということ。

 ……むしろ『ドール』はまだ軽傷なのかもしれない。人の姿を保っているだけマシで、実際に重症化したら『マーメイド』に……違う。今回が『マーメイド』というだけで、恐らくは『魔導書』ごとによって定められた冒涜的な姿に変貌する。

 

 脳裏に掠めるのはホラー映画の数々。ジェイソン、ゾンビ、キョンシー、吸血鬼、人面犬…………。もしかしたら人間が作り出すホラーであるハエ男、ムカデ人間とかも……。

 いや、もっとだ。もしかしたら童話に出てくる『人魚姫』『親指姫』『ジャックと豆の木』みたいな特殊な人間……。実際に起きた猟奇的な殺人事件である『ジャック・ザ・リッパー』『バートリ・エルジェーベト』『ジル・ド・レ』…………。歴史の背景で全貌が明かされないだけで、もしかしたらその全てが『魔導書』の『情報』によって変貌された人間の成れの果て、もしくは題材としたお話だったのかもしれない。

 

 もしそうだとしたら……時を止める吸血鬼、古代エジプトの王の魂、願いが叶う七つの球、名前を書くだけ死ぬノート、多種多様の真拳使い…………。それらさえも、全てが過去に存在した『魔道書』や異質物に何かしらの影響を受けて『実在』していたのかもしれない……。

 

 想像を広げると際限がない。今まで自分が信じていたものが根底からひっくり返された。フィクションは所詮フィクションだ、だからこそエンターテインメントになる。

 

 それが実際にあるとしたら…………。わからない。興奮するかもしれない、恐怖するしかもしれない、平静なままかもしれない。

 

 ただ、俺はそれが実際に「あるかもしれない」と漠然とした考えを持ってしまったことに身震いを起こした。

 

 誰かが言ってた。「歴史は勝者が作るもの」だと。

 

 ……俺達が今まで信じていた、知っていた、当たり前だと思っていた歴史の数々、あるいは常識は既に都合のいい摺り替えの末に誕生したものかもしれない。

 

 冷静に振り返ると今いるハインリッヒだって……歴史上では男性だった。強烈な個性で誤魔化されていたが、彼女の存在自体が『歴史の真偽性』を覆いに揺らがせる。

 

 常識が常識を覆す。頭の中で事実がすり替わるのがわかる……。これこそが『ミーム汚染』なのではないかと錯覚する。

 

 ふと目に入った。展示されている古代隕石が。

 

 思考制御型の異質物……。モニターの前で鎮座しているリーベルステラ号で触った古代隕石と酷似したもの……。

 この異質物が原因なのか……? 音声データの主、ドルフィン・パルス・アンデルセンが言っていた。「そう思うかもしれない」という思考が本当にこの異質物が働きかけているとしたら……。もしかしたら今俺が考えてることさえ世迷言で、事実とは無関係……かもしれないし、じゃないかもしれない。

 

 だけど、この考えに疑問を思うこと自体に声の主は危険視していた。

 それが異質物の特性であり、今回の事態を引き起こした遠因だと。

 

 だが実態はどうだ。異質物研究を終了させたにも関わらず、マーメイドは未だ顕在で誰一人正常に戻っているものはおらず、見事に施設は崩壊していた。

 既に引き返せない地点にまで人間の思考と狂気は進んでしまっていたのか、それとも異質物自体の効力とは今回の事態とは無関係なのか。

 

 ……俺にはとても危険なものと思えない。

 古代隕石を見て、危険じゃないと考えている自分がいる。これには大事な物が詰まっていて、無くしちゃいけないモノな気がしてならない。

 

 ………………だが、思えないだけなら分からない。

 これが本当に思考制御型の異質物なら、これ自体が制御された考えかもしれない。何か重大な見落としをしていて、異質物自身が自己を守ろうと見落とした情報を見ないように誘導しているのかもしれない。

 

 自分の思考に、自分が出したものという確証が持てない。これ自体が……。

 

 自分の思考が制御されて出た考え……かもしれない。

 自分の思考が制御されずに出た考え……かもしれない。

 

 思考は堂々巡り。質問を質問で返す。

 考えはメビウス。答えはループ。

 

 思考が『未来(さき)』に進めない。

 信じていた『現在(いま)』は否定された。

 

 ダメだ。疑問が更なる疑問を読んで思考の海に引き摺り込む。

 まるで深海のように……。

 

 

 深い………………、

 

 深い…………、

 

 深い……、

 

 ……

 

 

 思考の…………『深海』の底へ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——あなたは海が何色に見えますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本来、海は色とカテゴリされるものではない。そもそも根本的な問題として『色』というもの自体が、概念上『色』と捉えていい存在ではない。

 

 なぜならこの世界には『光』がなければ、あらゆる物を観測できない非常に不出来なものだ。そして『光』があるだけでは『色』は証明できない。観測者の認識を持って初めて『色』は成立する。

 

 そもそも『色』とは『光』によって認識される。ならば『色』=『光』と言われれば、そうとは言えない。夕陽は赤いし、朝日は白いだろう。だがそれは人間自身が『光』自体を質的経験から、『光』を『色』として変換してるに過ぎないからだ。『光』自体に『色』はない。

 

 だとしたら、根本的な『色』とは。

 『光』はあくまで色を観測するために必要な前提でしかない。

 『観測者』は質的経験から『光』によって観測される色を判断してるに過ぎない。

 必ず『光』を介さない『色』がどこかに存在するのだ。その『記憶』や『記録』が観測者に宿っているからこそ、『観測者』は初めて『質的経験』から『光』を通して色を定められる。

 

 あなたに問います。『光』も届かぬ『海』の底の底。その名は『深海』

 光が届かぬ以上、観測はできない。

 観測ができない以上、観測者は存在しない。

 観測者が存在しない以上、色は定められない。

 

 定められないなら、深海とは『何色』なのか——。

 

 ………………。

 ………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんばんは」

 

 ——そこで俺は気づく。

 

 辺り全体は暗闇に包まれており、嗅覚も触覚などの感覚が機能しない。機能するのは視覚と聴覚のみ。暗闇の空間にはスポットライトに照らされたように少女が一人佇んでおり、人懐っこい笑顔を浮かべて俺に話しかけている。

 

 少女の姿はコバルトブルー……ではなくマリンブルーの髪をしたセミロングで、服装は袖なし肩紐なしのストラップレスドレスと呼ばれるものを、大胆にもミニスカにするという形状でかなり露出度が高い。活発そうな彼女の雰囲気に似合っている。

 そんな元気潑剌な見た目なのだが、俺にはどうしてもそれだけに収まらない魅力が不思議と感じてしまう。

 

 夏の一幕というか…………普段元気な子が、海岸線沿いで海を眺める時のような……神聖な思い出が形となったような魅力が彼女にはあると直感的に思ってしまう。

 

「君は……?」

 

 彼女のマリンブルーの髪はこの世界でも海のように煌びやかで淡く、水のように滑り落ちそうだ。

 暗闇の空間では呼吸一つさえ耳によく届く。彼女の呼吸は清漣とした穏やかなもので、こんな状況でも安心感を包んでくれる。

 

 だというのに……彼女の瞳だけは分からなかった。海としか言いようがない。

 深海、清漣、朝凪、夕凪、潮騒、潮汐…………。どんな言葉でも形容できない。何もかもを飲み込み、何もかもを吸い込み、何もかもを惹かせる貪欲で純粋で矛盾した海の瞳。

 

 彼女の瞳はあまりにも魅入らせる。『何に』——?

 分からない。だけど俺は直感した。

 

 俺はこの子を『知っている』——。

 

「私は…………なんて名乗ろう? え〜っと……悩むなぁ。ハ……いやいやいやダメダメ。それはあの子の名前……」

 

 彼女はいきなり頭を抱え込む。まるで自分を見ているようだ。

 テスト用紙の前で頭を抱える俺、失言をして言いくるめようと焦る俺、男だとバレそうになって誤魔化そうとする俺…………全部見に覚えがあって親近感を感じてしまう。

 

「……アンノウン? いやぁ、センスないなぁ。……オーシャン? なんか、安直だなぁ。……ジェリーフィッシュ? うーん、長いなぁ。……じゃあ、捻ってオケアノス? ……元ネタが髭面のお爺さんだしなぁ」

 

 待て、髭面のお爺さんって絶妙に敬ってない言い回しだな。

 とはいっても俺自身も偉人に関して遠慮がない時あるし……。そういう意味でも似たもの同士かもしれない。

 

「うんうん……決めた。ひとまずは『オーシャン』って言っておくよ。お姉ちゃんも真名で活動してないみたいだしね」

 

「お姉ちゃん?」

 

「あれ、覚えてない? 私のお姉ちゃん」

 

 そう言って彼女は燦々とした笑顔を浮かべる。まるでシンチェンが無邪気に笑った時と似たように。

 まるで…………まるで、なんだ? シンチェンとは見た目は似ていない……。強いて言うならハイイーだが、かといってハイイーとも雰囲気は似ていない……。

 

 強いていうから二人で一つだ。

 ハイイーが成長した見た目に、シンチェンの活発さが混じったような……。そんな印象を受ける。

 

「待ってね。検索中、検索中…………ありゃー、お姉ちゃんはそこで会ったのか。記録と違うけどいいか……」

 

 彼女の言葉の意味が、さっきから理解できない……。

 

「マサダブルクの博物館で話した女性を覚えてる? シルクみたいな綺麗なコバルトブルーの髪色で、私より身長高くて、君よりは身長低いんだけど……」

 

「あぁ、覚えてるよ」

 

 あの見た目は忘れようにも忘れられない。

 

 赤子のような綺麗な肌と金色に輝く瞳。存在するだけで世界の中心となりそうなオーラを発する絶対的な存在感。話す言葉一つ一つが優しく響き、その全てが祈るように歌ったのではと思ってしまうほどだ。

 

 彼女が歌ってくれた話は今でも鮮明に覚えている。

 人類の祖母『ルーシー』の話……。名前の由来は当時ラジオから流れたバンドマンの楽曲だということ。ルーシー最も早く直立二足歩行を達成した人類であるということ。

 

 そして……祖母と言われているが、ルーシーが必ずしも『女性』ではないという。

 確か、良好な状態で保存された死体ならサモントンの遺伝子分析技術で血縁関係を鑑定できたとかも言っていたよな……。

 

 ……一番強烈に残っている記憶は、最後に口にした言葉。

 小さい頃に、お母さんが読み聞かせてくれた本の文章……。俺は未だに本の名前を知らない……。

 

 そんな本に記載されていた文章を彼女は歌ってくれた。

 

「それが私のお姉ちゃん♪ 名前は……うん、私が暫定しよう。『スターダスト』っていうんだ」

 

 星屑? 星塵? ……または別のスターダスト? 何にせよ、あの時見た彼女には相応しく綺麗な名前だ。

 

「……って、君のお姉ちゃん!?」

 

「Yes! you are お姉ちゃん!」

 

「それだと俺がお姉ちゃんになるよ!?」

 

「マジ? じゃあ、I am お姉ちゃん!」

 

「自分が姉になってるねぇ……」

 

 お姉ちゃんとは違って知性の輝きを感じないな、おいっ!

 

「と、ともかくっ! やっと来てくれた……」

 

 そう言って彼女は耳に息を吹きかけて囁いた。

 

「最も寒い場所でも、最も暑い場所でも。昼が続く場所でも、夜が続く場所でも……。海を渡り、海の向こう側まで……」

 

 それは、名無しの本に記載されていた本の一節。彼女もまた歌うように俺に伝えてきた。

 

「ねぇ、君もどこからそれを……!」

 

「じゃあ、時間だよっ! ドォーン!」

 

 突き離された。途端に感じる浮遊感。この感じは知っている、夢が覚めるのと一緒だ。もうすぐ彼女とは離れ離れになってしまう。

 

「まだ私にはやることがある……。今はそっちが最優先だからね」

 

 彼女に聞きたいことがあるのに、まだ話さないといけないことがある気がしてならない。

 足掻く俺と視線を合わせ、今日一番の晴れやかな笑顔を浮かべて彼女は手を振る。夏のひと時が終わる瞬間を、俺は無性に感じていた。

 

「君は、髪を伸ばしても似合うね……」

 

 彼女が呟いた言葉を最後に、俺の意識は浮上する。



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第15節 〜Eclipse Soul〜

フウウウウウウ〜〜〜
わたしは……子供のころ ゼルダの伝説の「ライクライク」ってありますよね……
あの形状……呑み込みを見た時ですね
あの「リンク」と一緒に呑み込んだら溶けて出てこない「盾」……
あれ、……初めて見た時……
なんていうか……その……下品なんですが……
フフ……下品なので、やめときます……。

まあ……何が、言いたいかというと……。
スライム、とか……アメーバ、とか……いいよね……。


「おーい…………レンちゃーん?」

 

 俺の意識は覚醒した。気が動転して散漫としていただけで、今回は時間は大きく経っていないようだ。目覚める前と大きな差は見られない。

 

「…………アニー?」

 

 聞き慣れた声に俺は応答する。

 

「うん、大丈夫?」

 

「……ありがとう、大丈夫」

 

 今度は間違えていないみたいだ……。

 エミも「おっやるねぇ」と感心しているけど、そう何度も間違えるほど俺も薄情者ではない。

 

 覚醒した意識はすぐに俺は目の前にある異質物を見る。

 

 …………これは、どうすればいい? 俺はこの異質物をどうしたい? 

 ……心は既に決まっていた。何故かは分からないけど、これだけは「かもしれない」というものではなく確信だ。

 

 俺はこれを…………危険な物じゃないと確信する。

 

 今回の悲劇は魔道書が引き起こした物であり、これ自体に何らか悪影響は与えてる可能性は考えられない。むしろ「かもしれない」と考えるなら、この異質物が与えた良い影響を考えた方がいい。

 

 マーメイドがドールと同じなら、基本理念は人間を襲うように設定されている。それは本能的な物だと、いつか愛衣は研究成果で言っていた。

 だというのに周囲のマーメイドは俺達を襲うことなく静観するのみ。これこそが本当の『思考制御』じゃないのか? ドルフィンは言っていたじゃないか。最も強いのは『大衆心理』だと……。

 最初の悲劇は単純に肥大化した『大衆心理』のもの。むしろ最初の女性は救世主ではなく悪魔になることさえできた。『魔導書』の力とは絶対的だ。その一部を使うことで『魔女』として支配者になることもできた。

 …………すぐに力を行使しなかったのは、それこそ『救世主』となっていた女性こそが『思考制御』をされていて「一人では支配者になれないかもしれない」と思ったことで、とりあえずは仲間を作っていき、やがて増大化した信者の意思が『思考制御』を超えた『大衆心理』を持つことになった考える方が…………俺として納得いく。

 

 そして時は経って信者はマーメイドになった。マーメイドになったことで『狂気』に染まった彼女に心理状態などない。信者ではないものを襲う、という大衆心理は既に本能へと変わり、改めて『思考制御』が影響を及ぼしている……。

 だから『外的要因』さえあればマーメイドはすぐに本能に目覚める。その外的要因こそが『満月』だとしたら……。

 

 

 …………

 ……

 

 

「時空位相波動が起きたのはマーメイド誕生によるもの……。だとしたら疑問点は廃棄施設とはいえ管理されていた異質物が何故『今頃になって起動した』のか……。満月の周期は約一ヶ月、正確には29.5日……これだけが条件ならもっと前に時空位相波動は発生している」

 

「何かキッカケがあったには違いないが、そればかりは『Ocean Spiral』に直接潜入して情報収集するしかないな」

 

 

 ……

 …………

 

 

 そのキッカケこそがマサダブルクで起きた……衛星『STARDUST』が落ちたことによる二酸化炭素を多量に含んだ砂嵐じゃないのか?

 

 あの事件で俺は二週間気絶して、その後も訓練とマスコットキャラとして多忙な毎日を過ごしたが……事件から『まだ一ヶ月経っていない』じゃないか。『STARDUST』が落ちてから、今日にかけてまだ一度も月は真円を描いたことはない。

 

 ドルフィンは異質物の全ラインを停止させたと言っていた。それによって基地全体の異質物影響が弱まり、先日『STARDUST』が落ちてから初めて満月を描いたことで、月光が届く水深までにいるマーメイドが本能に影響されて海上に出た。それこそが最初の戦闘で起きたこと。

 

 時空位相波動が大きくなったのはむしろ……施設の力がなくなり異質物自身が力を大きくすることで、本当に起こるはずの悲劇を抑止するの同時に、ここで起きてる未曾有の危機を伝えようとしていたからだとしたら…………。

 

 ……とはいっても、ここまで全て推測だ。推測は証明できない限り、価値を保たれることはない。今ここでそれを確証にする手段はない。

 

 だとしても…………今、対処すべきなのは未だ顕在で『Blue Garden』内のどこかにある『魔道書』だ。

 

「レンさん、どうしましたか……?」

 

 あまりにも長時間思考に耽る俺に、バイジュウは心配そうに声をかけてきた。

 

「……大丈夫。一先ずはここの異質物は置いておいて、マーメイドが今も暴れている原因となっている『魔導書』を探すのが先決だと思うんだ」

 

「それもそうですね。…………でしたらレンさんはここでシンチェンとハイイーと共に待機してください。異質物の監視をするのもそうですし、マーメイドとは別種の進化を遂げたのがまだ施設にいるとすれば……子供達は足手纏いになります」

 

「……俺もそう思っていた。ここはドルフィンさんの言う通りなら、普通のマーメイドなら侵入できない設計になっている……。下手に子供達と一緒に行動するよりかは、ここにいる方が安全だ。……それでいいよな? シンチェンもハイイーも」

 

「ん? いいと思うよ。私に言われても分からないし」

 

「いいと思います……」

 

 電波を受信してないから、本当にそれでいいのだろう。

 

「……一応アニーさんも残っていてください。仮に侵入された場合、この閉鎖空間で子供二人を庇いながら一人で守り切るのは厳しいです。最低では二人で組んでカバーしたほうが賢明でしょう」

 

「了解です、バイジュウ隊長♪」

 

 そこで俺達は分かれて、管制室で俺とアニーはシンチェンとハイイーを守るために待機することになる。

 

 ……それにこの異質物はまだ自分で探らないといけない気がする。

 

『魔導書』について不安はあるが……今は信じてバイジュウ達を待つしかない。

 

 そこでふと考えてしまう。自分で考えたのか、それとも導かれたのか。この際それはどうでもいい。疑問は疑問だ。

 

 そういえば……『被験体』って何だろうと。

 

 

 …………

 ……

 

 

 レンから離れて数分。バイジュウ達は『Blue Garden』内の本格的な探索を進める。道中、変異中のマーメイドもいたりしたが、それらを全て掃討して施設内を探索は滞りはない。

 元々施設にいたマーメイドと敵対する人種は事実上の全滅をしているため、遭遇するマーメイドの数は海上に上がった時よりも遥かに少ないのは幸いというべきなのか…………。それについて誰も話題にすることはなく彼女らは黙々と足を進める。一番警戒している事態から逃げるように、あるいは解決するように早々と進み続ける。

 網目模様の天井を境に漂う無数の……『約1万』はいるであろうマーメイドが総出で襲撃することを想像すると、焦燥に駆られてしまうのは仕方のないことなのだ。

 

 探索を進めてさらに十数分が経つ。『魔導書』は未だに見当たらず途方に暮れる。まだ探索すべき場所はあるとはいえ、神経を張り詰めながら全方位を警戒して捜索するのは中々に重労働なのだ。

 

 バイジュウは一つ深呼吸をする。それは静寂に包まれたこの場所ではやけに響いていき、呼吸一つさえ研ぎ澄ますほど薄くなっていることに気づいた。

 冴えた感性は今一度現状を把握しようと、浸水する床を踏み締めて辺りを警戒する。どこを見ても覆い尽くされたマーメイド達から突き刺さる全方位からの視線視線視線…………。

 

 そこでふと気づく。ここにいるマーメイド達は敵意を持っていない。自己意識を持たないドールやマーメイドに対象を観察するという『理知的』な行為をするわけがない。

 だとしたら敵意がないのに何故私達を見る? 仲間意識を感じているから? 違う。なら海上での戦いなど起こるはずもない。今マーメイド達が敵意がないまま静観をしているのは、何かしらの影響があるからに違いないのは確かだ。

 

 考えられるのは、あの異質物が何かしらの思考や本能を妨害してマーメイド達の攻撃性を制御している。それは十二分にあり得る。だが、その制御の末にマーメイドは『観察』という一種の『理知的』な行為を選ぶのだろうか?

 バイジュウは見上げる。網目模様の天井から覗かれるマーメイド達の視線を全て捉える。それら全てと視線を合わせた。

 

 そして驚愕のことを知る。

 マーメイドは全て『バイジュウ達に視線を合わせていない』ということに。

 

 背筋が凍るような事態に立ち止まったバイジュウを見て、エミリオ達は「どうしたの?」と久しく聞いた声が届くが、バイジュウにとって気にしなければならないのは、マーメイドが視線の意味だ。バイジュウは思考に耽る。

 

 この場にいるマーメイド全てがバイジュウ達を見ているのに、バイジュウ達に視線を合わせているものは誰もいない。むしろ見ているのは、その先の『何か』だ。

 バイジュウは振り返る。職員や研究員などの過去に『魔導書』の宗教と反発したであろう人々の惨劇の後しか残っていない。血は既に乾き切っており、浸水した床に血に溶けていないことから、それは相当時間が経っていることが死体の状況からも推測できる。

 

 もう一度見上げる。マーメイド達の視線は相変わらず静観を決め込んでいる。これから起こる『何か』を見守るように、ただただバイジュウ達を見ている。

 

 もう一度振り返る。広がる惨劇の後。乾いた血。浸水した床。

 そこで二つの違和感に気付いた。一つは浸水した床だ。いつ頃から出たものかは想像するしかないが、こんな海底都市でわずかでも浸水するなんて致命的な欠陥構造だ。今にも崩壊してもおかしくはない。

 だとしたらこの水は……。生活排水などのラインから漏れ出た水だろうか。それならばまだ把握できるが、だとしたら何故、この浸水した水は『無色透明』なままなのだ。

 

 もう一つは……『全方位』からの『視線』だ。

 ここは水深4000mに位置する最下層だ。前後左右、上を含む場所から視線を感じるのは当然だ。マーメイドが覆い尽くしているのだから。

 なら『下』からの視線はなんだ。床一面、特殊防水加工した金属製のタイルだ。マーメイドなんてどこにもいない。あるのは…………『水』だけだ。

 

 嫌な予感であってくれと、バイジュウは祈りながら視線を下ろす。広がるのは『無色透明』で揺れ続ける水。だが『水』は施設を照らす『人口光』を反射することなく、ただ模倣した『液体状の何か』でしかないことに、そこで気付いた。

 

 すると——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テケリ・リ—————!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テケリ・リ—————!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不快極まる甲高い音がフロア全体に響いた。不安を助長させる音は、獲物を定めた獣の『鳴き声』のようにも聞こえる。

 

「なにっ? この不快な音……?」

 

「どこからだっ!? わかるか、ソヤッ!?」

 

「…………なんですのこれ。匂いが……しないっ……?」

 

 混乱するエミリオとヴィラ。戸惑いを隠せないソヤ。

 独特な鳴き声は恐怖を駆り立てるように、徐々にその大きさを増していき不快感を逆立てる。

 

 テケリ・リ—————!!!

 テケリ・リ—————!!!!

 テケリ・リ—————!!!!!

 

『液体状の何か』が波を立てて、その姿を変えていく。それは異形と形容するに他ならない。不定形の身体は体調を1m、2mと少しずつ大きくしていき…………。

 

「死線演算…………完成ッ!」

 

 先手必勝。大人げない、卑怯、狡猾なんて言葉は戦場では何の価値も持たない。

 異形が5mに達する直前、バイジュウは身体から光の粒子が溢れ始め、少しずつ形を現すソレに白光する粒子を雪崩のように放つ。その数はゆうに百を超え、圧倒的な量を誇る粒子は寸分違わず全弾が異形に直撃した。

 

 彼女がいくつか持つ特異体質を活かした技能——『量子弾幕』。

 

 身体中から独立したエネルギー理論で構築させた白い光の粒子を放つ制圧・牽制目的の戦闘技能。

 それは単体での威力は非殺傷性の銃を発砲する程度の威力しかない。もちろん成人男性などを対象とした一般的な制圧手段としては一発でも脅威なのだが、ドールなどの異形相手になれば加速度的に効果が薄くなることをバイジュウは知っている。

 

 だが、それでも数を束ねれば異形相手でも『怯ませる』程度の効果が出ることもまた知っている。その隙を、エミリオ達が見逃すはずがない。

 

「伽羅斬ッ!!」

 

 ふた色の眼が異形の急所を捉えた時、超高温の熱線が戦場をなぎ払う。エミリオが放った大剣の一閃は、一瞬で戦場を水を蒸発させて、眼前に佇む異形の肌を抉るように深い火傷痕が浮き上がる。

 

「解体される準備は、よろしくって?」

 

 問いに慈悲はなく愛もなく殺意もなく、ただ執行する。

 火傷痕ごとソヤは電動チェーンソーで異形を抉り削る。鋸が肌を引き摺る音と異形の悲鳴は不協和音を奏でようと、ソヤは『処刑人』の名に恥じない無慈悲な表情で切り刻んでいき、やがて異形は身体のバランスを崩して倒れ込む。

 

「砕け散れッ!!」

 

 戦女神は空を跳ぶ。序曲などなく最初から終曲を奏でる。

 鉄鎚は振り落とされた。質量10トンを誇る戦鎚は異形の頭部を正確に射抜き、強烈な破裂と破壊の音が入り混じる。衝撃が止むと強化タイル共々異形の頭部は陥没されており、目も当てられないほど飛散した状態となっていた。

 

 質量10トン——。言わば暴走する大型トラックに轢かれる以上の衝撃だ。衝撃が一点に集中するということを鑑みれば、下手をすればレールを駆ける電車にも匹敵しかねない。例え何であろうとも生物であれば致命傷になるのは間違いない。

 

「…………どう、ヴィラ?」

 

「……手応えがない。ダメージは確かにあるんだろうけど……」

 

 全員の視線が倒れ込んだ異形へと向かう。瞬間、彼女達の背後から呑み込むように水という名の不定形の異形が巻き上がり、襲い掛かろうとする

 

「これぐらいは予測済みっ!」

 

 エミリオは歯で指の腹を噛みちぎり、血を散弾となって瞬時に水に溶ける。

 だが、エミリオの能力はここからだ。彼女の能力は『血を硬質化』させるのもそうだが、同時に『血を瞬時に蒸発させる』ものでもある。圧倒的な熱量を誇るエミリオの血を取り込んだ水は、一瞬にして水蒸気となって弾き飛んだ。

 

「……どうしたの? これで終わり?」

 

 エミリオの問いに異形は沈黙する。痙攣などの動作も起こさず、何かを考えるようにひたすら静かに横になり…………突如として頭上からマーメイドの視線とは違う『威圧感』がバイジュウ達を襲う。

 

「伏兵っ!?」

 

 見上げた先に映る物を見てバイジュウ達は畏怖した。そこには驚愕すべき事実が潜んでいた。

 網目模様が全て蠢いている。瞬時に理解してしまう。網目模様は薄く引き伸ばされた異形の皮膚が擬態したものであり、あれもまた異形の一部なのだと。そしてそれら全てがバイジュウ達で沈黙する異形へと群がっていく。だが、ただ群がるだけじゃない。『Blue Garden』内のありとあらゆる廃材、機材、銃器から鉛玉まで取り込んで収束していくのだ。まるで文明を喰らうかのようだ。

 

 あまりの事態に一瞬行動は遅れるものの、皆は無我夢中で収束する異形の皮膚を切り払い、焼き払い、なぎ払い、切り払い焼き払いなぎ払い、切り焼きなぎ——留まることを知らずに群がり続ける。

 恐らくは99.9%は撃退した。何一つ恥ずべき失態などない。成果としては順調だ。だが、それでも0.1%は通してしまう。例え0.1%でも……それは致命的だった。

 

 例えるならば人口と一緒だ。ある国の人口が70億だとしよう。そのうち99.9%が何らかの災害などで亡くなったとしても、残り0.1%となると、それだけで700万という膨大な数に達する。それと一緒なのだ。

 

 膨大な僅かが文明と共に異形と溶け合っていく。機材は足となり、廃材は頭となり、銃器は腕となる。

 ここには全てある。求めればいくらでも、いくらでも、いくらでも何様にも姿を変えることができる。実験や研究も兼用しているならば尚更だ。不定形の生物が特定の姿を持たないのであれば、どこまで変化や擬態ができるのが試すのが生物としての当然ではないか。カメレオンでさえその程度のことはやってのける。

 

 ここで一つのSF小説を思い出してほしい。ある日、地球に襲来した火星人が侵略活動をするものの、最終的に『風邪』という病原菌に耐性がなく絶滅したという話だ。 

 

 確かに耐性がなく一度目は絶滅するだろう。だが、二度目はどうだ? 上手くいくはずがない。対策はしてくるだろうし、何より『耐性』を持とうとするのが当然ではないのか。人類が予防接種をするように。

 

『知性体』であれば誰であれ『成長』を促すからこそ『知性体』だ。それは人間でも、動物でも、宇宙人でも、情報でも……全て一緒だ。例外などはない。ならば『知性体』であるはずが異形も、環境に合わせて成長や適応するのが当然なのだ。

 

 溶け合った末に誕生したのは、もう異形とは呼べない姿をしていない。あえて名をつけるなら、機械仕掛けの巨兵——。異形と現代科学の融合ともいえる。

 不定形の肉体はスライムやアメーバ状を基本に3m級の人型の体躯をしていた。頭部、腹部、腕を除く関節部以外には鎧のように機材が継ぎ接ぎだらけで繋がっており、最も特徴的なのは手に分類される部位にはは筒状に穴が空いた謎の物体が装着されている。見方によっては出来の悪いシャワーヘッドだ。

 

 だが、それは情け容赦ない死の具現でしかないことにバイジュウ以外には気づかなかった。

 巨兵はシャワーヘッドを構える。バイジュウは盾になるように前に出て、自身の獲物であるラプラスを取り出し——。

 

 巨兵は津波のように押し寄せる暴徒鎮圧用の兵器——『放水砲』を打ち出した。

 

 

 …………

 ……

 

 

 ドオオォォォォォ…………ンッッ……!!

 

 

 やけに大きい反響音が俺の耳に届く。何かしらの交戦であろうか、バイジュウ達がマーメイドとは別種に進化した信者と戦っているのか、それとも別の何かか……。

 

「……どう思う、アニー?」

 

 不安になって聞いてしまう。

 

「う〜ん……ヴィラのハンマーとかじゃないの? 10トンもあるんだから、振り下ろせばそりゃドデカイ音の一つぐらい出るんじゃない?」

 

 アニーはアニメを見るのに疲れて眠たげなシンチェンを膝枕で介抱している。一方俺は微睡むハイイーの背中を撫でながら抱っこをしている。どちらも既にお疲れモードだ。

 

「それもそっか……」

 

 ヴィラなら確かにこの重低音ぐらいは起こせそうだ。そう思うことで安心感を覚える。

 閉鎖空間での十数分。いくらか安全とは緊張は持つものであり、気楽にバイジュウ達の帰りを待てるほど俺の神経は図太くない。今か今かと内心焦り続けるのが止められない。

 

「それよりさ、この異質物はどうしようか……」

 

「う〜ん、詳しいことはマリル達に任せることになるしなぁ。EX級ならサモントンに寄贈されるかもしれないし、仮に再定義してSafeだとしても、この事件を起こした可能性があることを考慮するとな……」

 

 俺自身が危険物でないと思っていても、周囲がそれを思うかは別問題だ。証拠もない俺の理論を説いても、ドルフィンの理論を説いてもどちらも水掛け論だ。こればかりはマリル達次第だ。

 

 ……個人的にはリーベルステラ号のコンテナみたいに、人体への影響を与えず人目が極力つかない場所で保管するのが一番だと思うが……これもシンチェンと出会うキッカケになった古代隕石と同じようにした方が良いという考えなんだろうなぁ。

 

 などと考えると、施設に再び衝撃が奔る。

 

 

 ダァァアアアアアアアアアア—————!!

 

 

 これは…………なんだ? 

 

「何この音……?」

 

 アニーからも不安そうな声が漏れる。

 

 ……トイレを流す音? 違う、もっと厚みがある。これはゲリラ豪雨でマンホールから逆流する排水のような……。それをもっと大きくしたような……。

 

 違う違う。もっと強烈に媚びついた記憶だ。なんか重大なことがあってって………たった一回に嫌悪感を覚えるほどで……。確か……歴史の資料で……。

 

 そこで気づいてしまった。この場合はどっちにしろ、このままでいる方がまずいということに。

 

「アニー! シンチェンをどこか高いところに避難させて!」

 

「えっ!? わ、わかった!」

 

 俺はハイイーを長テーブルほどはある端末の上に乗せて、接近し続ける流水音に心臓をバクバクさせながら、すぐさま自分の武器である金属バットで管制室の内部ロックを壊した。噛み合いが悪くとも硬く閉ざされた鉄の扉だろうと、ヴィラの力が無かろうとも…………渾身の力でほんの僅かに開けられた。

 

 途端、施設全体が足先まで浸かる濁流が流れ込んできた。

 …………予想通りなら、これはどういう理由か逆流した施設の生活排水ごと海底の資源を巻き上げている。つまり…………これが海水と繋がる生活排水と繋がった配管からの逆流だとしたら、下手したら海水そのものが流れ込んでこの施設自体が『沈没』する恐れがある。

 

「アニー! 脱出する準備だっ!」

 

「分かった!」

 

 アニーは異質物をアタッシュケースの中に入れて、シンチェンとハイイーに白い球体を口に含ませる。

 飴玉……というわけではない。ハインリッヒが作り上げた携帯版酸素ボンベだ。前に南極で活躍した超高火力カイロみたいな暖玉と、ランプ代わりに発光した電玉……それの酸素版だ。

 脱出時の危機を想定して、作戦前にマリルから渡された品物であり、口に含めば1時間は身体活動を維持できるほどの酸素と気圧を供給し続ける。さらに防護術式を展開して海流の影響や水圧を軽減する効果もあり……と、つまり今俺が着てるハインリッヒのお古と簡素版だな。

 

「レンちゃん、どこに行くの?」

 

 俺が使用していたおんぶ紐でアニーはシンチェンを抱えながら聞いてくる。シンチェンは突如として起こり続ける災難に、眠気が混じりながら驚いた顔をしていた。

 

「…………何か嫌な予感がするっていうか、その言葉にしにくいんだけど……」

 

 バイジュウを守らないと——。

 そう『魂』が叫んだような気がしてならない衝動が湧き上がる。

 

「……バイジュウ達を助けに行きたいんだ」

 

「……はあ!? いやっ、分かるよっ!! レンちゃんの気持ちは非常に分かるし、気持ちは同じだけど…………普通はみんなもこの事態には気付いて脱出するよねっ!?」

 

 そりゃそうだ。だって携帯酸素ボンベは別に俺達だけが持っているわけではなく、OS班全員が各自1つずつ持っているんだ。同様に治癒能力が持つ緑色の宝石も各自1つずつ持っている……。並大抵の危険なら個人で解決できてしまうのだ。

 

 それでも……どうしようもないほど駆り立ててくる。思考制御……ではない。本当に心の底……もっともっと深くから……本当に『魂』が叫ぶように訴えてくるのだ。

 

 バイジュウを守らないと、って。

 

 …………ベアトリーチェだって言っていた。繋いだ心は決して離しちゃいけない、って。

 

 今が、その時なんだと『魂』が理解する。

 

「…………ダメ、だよな」

 

「あぁ〜……わかった! じゃあ二手に分かれよう! 私は『Earth Factory』でバイジュウ達がいるか確認するから、その間だけレンちゃんは絶っっっっ対にぃ!! この施設を右回りで捜索することッ!!」

 

「——うんっ!」

 

「私がバイジュウ達を見つけても見つけなくても戻るから、そこで合流した時点で捜索は一度切り上げッ! 施設の様子とバイジュウ達が帰還するの待って、諸々判断したのちに脱出か捜索続行かを判断するッ!! それと……私の方が安全が確認できるところに行くんだから、ハイイーも私が預かる。これでいいね?」

 

「アニー…………ごめんっ! あと、ありがとうっ!」

 

 俺のわがままを通して、アニーが呑んでくれた。

 俺はハイイーを預けると泥濘んだ床を踏み締める。どこかで危機に陥っていると何故か確信してしまいながら、バイジュウ達を求めて俺は走り出した。

 

 

 …………

 ……

 

 

 ラプラスの特性とは——『斥力』と『引力』を両方の銃剣で発生させて、それによって発生する力場を操作するのが本来の使用方法だ。

 故に知恵あるものが使用すれは様々な状況を打開しうる力になり得る。実際『放水砲』の超圧縮された高水圧の弾丸は、ラプラスの特性によりその全てを勢いだけは受け流して危機を脱したかに見えた。

 

「っ……! がっ……!」

 

 だが現実は知恵を超えて、バイジュウの皮膚に研ぎ澄まされた『弾丸』が突き刺さる。弾丸の名は『鉱石』——。海底資源として無尽蔵にある純粋な質量弾。

 それが水圧と流水によって研ぎ澄まされ『放水砲』と共に殺人的な加速を持ってバイジュウを襲ったのだ。

 

 雪のように綺麗なバイジュウの白い肌に血が滴る。

 視界も赤く染まり、そこでバイジュウは頭部のどこかから出血があるのを理解した。

 

 思考に問題——。なし。

 距離感に問題——。なし。

 平衡感覚に問題——。なし。

 

 幸いにも擦り傷であることに、バイジュウはほんの少しの安心感を覚えるが危機的状況は依然として顕在だ。それどころか問題は増加している。

 足先にまで浸かる濁流。先ほどエミリオが気化させた水分や、水深からくる基本温度の低下などから急激に外気温が低下し始めている。それらはバイジュウにとっては体質上問題ないが、他の三人は違う。

 

 急激に熱を奪う低気温は、情け容赦なく意識を削り取っていき、歩くどころか喋ることさえままならなくなる。既にヴィラとソヤは急激に変化に対応できずに身体をフラつかせており、エミリオは自身の能力で血を蒸発させる熱で体温を維持して意識を保とうとする。

 

 だが、そのような行為を巨兵は許すはずがない。

 不定形の腕は突如として伸びていき、瞬時にバイジュウ達の周囲を囲んだ。刹那、抱きしめるように腕は収縮して彼女達をアメーバ状の中に引き摺り込んだのだ。

 

『がっ……!!?』

 

『ぼぁ……!?』

 

 僅かに意識と体温を保てたバイジュウだけが回避行動が取れたものの、他の三人は巨兵の腹部へとそのまま取り込まれてしまう。水温はもしかしたら通常とは別かもしれないが、それ以前にあれでは酸素が持たない。エミリオも懸命に懐から携帯酸素ボンベを取り出そうとするが、巨兵の体躯であるアメーバ状の液体は、愉悦を得るようにエミリオ達の四肢が動けなくなる程度まで硬質化していく。

 

 エミリオ達の指先はピクリとも動かない。まるで標本のように巨兵の中で大事に飾られてるように。

 無色透明状の半固形と化した液体の中でエミリオの視線だけが動き、バイジュウを見つめる。その視線は酷く泳いでおり、今にも気を失いそうなほどだが何かを訴えてもいる。

 

 逃   げ   て。

 ……バイジュウにはそうとしか捉えられなかった。

 

「やだ……」

 

 バイジュウの声は震える。

 

「やだっ……!」

 

 バイジュウの悲痛な叫びが轟く。

 

「——絶対にやだっ!!」

 

 彼女の脳裏にほんの一日、だけど掛け替えのない一日が瞬きに過ぎる。

 

 

 

 それら全て……私の心の傷になって……。

 彼女のように、時の忘れ物になる……?

 

 

 

 嫌だ……。嫌だぁ……っ!

 

 

 

 また…………私を置いていくの?

 

 また…………私を独りぼっちにするの?

 

 また…………私は誰も守れないの?

 

 

 

 バイジュウに目前の死が迫る。

 巨兵は『放水砲』を再びバイジュウに照準を合わせ——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どけぇえええええええええええ!!!!!」

 

 可憐ながらも勇ましい少女の声が戦場に響く。

 

 



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第16節 〜Predator Dream〜

【第一章】全19節まで毎日更新確定【完結】


「どけぇえええええええええええ!!!!!」

 

 可憐ながらも勇ましい少女の声が戦場に響く。

 

 少女は瞬時に状況を理解した。手に持つ金属バットを全力で投げて、巨兵の腕部へと激突させる。それと共に揺れる照準、放たれる水の砲弾と数多の鉱石の弾丸。

 研ぎ澄まされ鉱石は流れ星のように美しく煌めくも流れ着く先は『死』という着弾点。

 それらは飛びつく少女の顳顬を掠め、身を挺してバイジュウを抱え込んで少女は転がる。

 

「〜〜っ!! 大丈夫か、バイジュウ!?」

 

「レンさん……」

 

 濁流の泥が全身にこびり付き、みっともない姿になりながらもレンは何とかバイジュウを助け出した。そこでバイジュウは改めて意識を整える。

 

 今度こそ助けなければならないと。

 

「レンさん……手持ちの武器に変化は?」

 

「バットを投げ捨てたことくらい……」

 

 つまりは武器はなく、あるのは標準装備の小銃、ナイフ、閃光手榴弾、後は応急手当の簡易セットなどなど……。正直心許ない、というのがバイジュウの本音だった。

 だが、レンさえいれば……二人いればこの状況を打開することは可能だとバイジュウは考える。

 

『放水砲』を放ってから、再度貯めるのに数十秒かかるのはバイジュウは既に把握している。連射ができるのであれば、あのようにエミリオ達を『人質』に取る必要はない。

 だとしたら、その数十秒と人質の奪還こそが現状を打開させる鍵となるのだ。

 

「……いやいや! 大丈夫なのっ!?」

 

 バイジュウからの耳打ちされたアドバイスにレンは戸惑いを隠せない。何故ならそれは無謀以前に、下手したら自殺行為にしかならないからだ。

 

「信じてください……私達を」

 

 真剣に見つめるバイジュウの瞳に、レンは折れてその作戦二つ返事で引き受ける。

 

 作戦は一瞬で決まる——。『放水砲』の再装填まで後20秒、それまでが二人にとっての作戦遂行時間となる。

 両者左右に分かれて巨兵を見定める。巨兵が獲物に捉えたのは……バイジュウだった。巨兵は手となる鉄製の銃口をバイジュウに叩きつけようとするが、鈍重な動きを見切れないほどバイジュウは愚かではない。その隙をついてバイジュウは懐へ跳びこんだ。

 

 手元に掲げるのはラピラスとは別の、ただの鋭利な刃物。護身用のギミックナイフ。巨兵はすぐに意図を察して腹部への硬質化を急ぐ。

 

 だが、その瞬間に巨兵の背後から小規模な爆発が発生した。衝撃は巨兵にダメージこそ負わせないものの僅かに身を止めて、腹部の硬質化が僅かに綻びる。

 

 背後にいるのは小銃を構えたレンの姿と飛び散ったビニール袋。そして携帯型酸素ボンベ。

 

 ——断熱圧縮熱が起こす爆破現象だ。

 

 近年でも医療用酸素ボンベや、ガスコンロの開閉などでも度々火災が発生するケースの一つ。急激に上昇した酸素濃度は断熱変化のひとつとして、圧縮するときに圧力エネルギーと熱エネルギーに変換されてエネルギーとして保存される。このエネルギーは非常に引火性が高く、マッチを擦る時などで起きる摩擦熱や、タバコの煙程度で容易く爆発してしまうのだ。

 レンはそれを利用して、密閉したビニール袋に酸素を注入して巨兵に投げつけ、小銃で狙い撃つことで即座に爆破する即席の手榴弾を作り上げた。

 

 とはいっても、量さえ間違えなければ爆破の規模としては精々縁日の手持ち花火を集約した程度の威力しかない。そして間違えられるほどレンの度胸は据わっていない。

 

 だが、その程度の火力でも、隙さえ生み出せるのならばバイジュウには充分なのだ。ナイフを構えて渾身の力で巨兵の腹部……さらに言うならば『エミリオの腹部』へと深々と突き刺した。

 半固形状となった状態ならば、外部から刃物などは通すことができる。もちろんそれだけでは何の打開策にもなりはしない。突き刺したのがエミリオだというのがこの場に置いて最も重要な意味を持つ。

 

 バイジュウは一気に刃物を引き抜き、エミリオの腹部から夥しいほどの血が半固形の液体へと混じり合う。

 

 エミリオの能力は『血の硬質化』とそれに伴う『血の蒸発』——。

 

 この瞬間を誰よりも待ち望んでいたのは、自由を奪われて脱出手段を絶たれていたエミリオ自身だ。

 

 血はすぐに熱を帯びて針千本となり、取り囲まれている自分達を避けて巨兵の腹部を可能な限り串刺しにした。それと共に赤黒い針は気化を始め爆散。巨兵も内側から水飛沫となって弾き飛び、その衝撃でエミリオ、ヴィラ、ソヤの全員は空へと放り出される。

 

 バイジュウとレンはすぐに受け身を取る態勢へと移り、バイジュウはヴィラを、レンはソヤを倒れ込みながらも受け止めた。

 

 そしてエミリオは濁流渦巻く金属タイルの床に顔から着地した。

 

「いったぁああ!!? ちょっと! 女の子の扱いはデリカシーなんだから優しく切ってよ!? あと立役者なんだから受け止めてっ!?」

 

「ご、ごめんなさい! 下手に傷が浅いと血が足りないかと思いまして……。それにエミさんは一番年上ですし、他の二人は意識さえあるか不安なので……」

 

「一理あるし、いいけどねぇ……。貧血気味は置いといて、すぐ傷口が塞がるのは我ながら便利な能力だと思うわ……」

 

 泥だらけの顔は特には気にはせずに、エミリオは未だに少し滴る腹部の血を止血させるのを先決させる。

 

「すまない……。おかげで助かった……」

 

「げぇぇ……。わたくし確かに被虐気質なところはありますけど、あくまでソフト系なので流石に窒息プレイは遠慮したいですわね……」

 

 朦朧とした意識のままヴィラとソヤの二人は立ち上がる。戦闘する意思は十二分に残っており獲物は絶えず握っているものの、二人の呼吸は酷く弱まっていた。

 

「とりあえず呼吸を整えてくださいっ! あの程度で引かせられるとは思えません……」

 

 バイジュウから指示で深呼吸をして息を整える二人。少しでも早く息を整えるために二人は携帯版酸素ボンベを使用する。指示した本人も今のうちに流れ出た血を止めるために、緑色の宝石を傷口に触れさせて傷を癒す。

 

「この際『魔導書』どうとか言ってられないな……」

 

「ええ……撤退を第一とします。アニーさん達はどこにいますか?」

 

「バイジュウ達を手分けして探すためにアニー達は一度『Earth Factory』に向かった。俺も右回りでしか捜索しないように指示されてるから、この道沿いを戻ってゴンドラまで迎えば必ずどこかでアニーと鉢合わせするようになってる」

 

「わかりました。でしたら、今は合流が先決ですね」

 

 もう陣形なんて機能しない。迫りくる脅威はあの異形のみ。それから逃れることこそ最善の陣形になる。

 

《警告。『Blue Garden』内のEブロックからGブロックまでに海水の侵入を確認。施設の維持を最優先し、直ちに該当箇所を隔離廃棄します。繰り返します》

 

 それは一種の救いであり、同時に滅びの宣告だった。

『Ocean Spiral』は少しずつ、その役目を終えようとする。

 

 

 …………

 ……

 

 

「うわぁ……。でも、管制室はCブロックだからまだ余裕は……あるのかなぁ?」

 

『Earth Factory』の探索を終えて、合流のために『Blue Garden』内へと帰還していたアニー達。シンチェンとハイイーはもう何をしても起きないのじゃないかと思うほど、深い睡眠状態となっていて、アニーとして気持ち楽な状態ではあった。

 

 だが、それとは別に宣告される施設の隔離廃棄。現在アニーがいるのは入り口であるAブロックのため、被害は合わないものの、もしレン達がその範囲内にいれば救出するのは不可能に近い。

 

 気が気でない待機時間。EからGとなると、隣接するDやHが雪崩的な被害が発生する可能性もまだあることを考えると、どうか早く合流したいとアニーの気持ちは前へ進もうと逸るが、現状では生存と合流、どちらの意味をとっても待機がベストなのだ。

 

 もしも既にレン達がH以降のブロックにいて大回りをして向かっている場合、仮にアニーが早く合流しようとBやCブロックに行くと合流することなく、むしろアニー自身が連鎖的に閉鎖する恐れがあるブロックに隔離されて二次被害に合う可能性があるためだ。

 

 そしてAブロック隔離や、ましてや『Blue Garden』そのものの廃棄する宣告があった場合、無慈悲だがレン達との合流は諦めてシンチェンとハイイーだけでも逃さないといけない責任がアニーにはある。

 

 今の彼女には信じて待つしか選択がない。やがてアナウンスが告げる。《DブロックとHからJブロックを隔離廃棄します》と。

 遠くからシャッターが下りる音が聞こえて来る。空気に緊張感が増す。続いて告げる。《Cブロックを隔離廃棄します》と。

 

 少しずつシャッターの下りる音が近づいて来る。

 まだか、まだか——。アニーの焦りは加速する。

 

 すると、近くシャッター音と共に聞き覚えのある声も聞こえてきた。

 

「…………ーい! アニー!」

 

「レンちゃん!」

 

 バイジュウ達を連れて走って来るレンの姿がアニーは捉えた。同時に身体に流れる安堵感。だが安心し切るのがまだ早い。

 

「無事で良かったぁ〜……」

 

「再開は喜ぶのは後です。事態は一刻を争います」

 

「そうだね、バイジュウ。ゴンドラまでの安全は確認できてるから、早く行こうっ!!」

 

 足早に皆がゴンドラと向かう。やがてアナウンスが『Blue Garden』の完全封鎖を宣告する。

 

 何故この時誰も気付かなかったのか——。設計上『Blue Garden』は漏水による封鎖は想定済みだからこそ隔離廃棄機能がある。

 それが機能せずに立て続けに隔離廃棄を実行し、最終的に『Blue Garden』は完全封鎖となった。

 

 ここまでの劇的な流れに、なぜ何者かが工作していることに気づかないのか——。

 

『Blue Garden』内で不定形の物体が蠢き続け、やがてそれはゴンドラの、コースターに取りつき始めた。

 

 

 …………

 ……

 

 

 俺達は一心不乱にゴンドラを目指して『Earth Factory』の連絡通路を全速力で駆ける。皆の息は乱れており、少しでも気を緩んだ瞬間今にも倒れそうだ。

 

 特に重症なのはエミリオだ。止血は既に済んではいるが、あのゴーレムみたいなアメーバから抜け出すためとはいえ、やはり腹部からの出血の量が多すぎた。ラファエルの魔力が込められた緑色の宝石……長いから『治癒石』でいいや。

 治癒石では傷口、疲労、毒素などを完全に治療することはできても、人体として不足した『血液』までは治すことはできない…………というか供給できない。

 

 ヴィラとソヤは体力をある程度取り戻したとはいえ、それは諸々の代償の末だ。倦怠感と疲労、それにバイジュウが言う『放水砲』から発射された鉱石の流れ弾でできた切り傷があったこともあり、既に彼女らの治癒石の魔力は尽きた。そして呼吸を整えるために携帯版酸素ボンベ………………これも長いので『酸素玉』でいいだろう。

 とにかく酸素玉を4分の1を使用して状態だ。俺も即席爆弾を作るために同等の量を消費している。

 

 まだ余裕があるとはいえ……もしもう一度、あのアメーバの襲撃があった場合———。

 

 だから、すぐに気づいた。俺の中で『恐怖』の象徴となりかけているアメーバ状の物体は、俺たちが向かうゴンドラの終着エリア……『Earth Factory』の中央エントランスエリアにいた。

 

 造型は先程とは違い、かなり変化が起きている。

 露出していたアメーバ状の部位は既に頭部しかない。その頭部にも機械の部品が取り込んで蠢いており、赤いランプがサイレンのように点灯している。

 

 あれではもうゴーレムやアメーバとかではなくロボットだ。機械仕掛けの巨兵は、こちらが接近するのを待ちわびていたように腕部を振り上げる。

 

 そして問題は手の部位だ。

 ——『二門』あった。『放水砲』は両手の部位の設計されており、その二つが既に照準を定めて、こちらに銃口を向けていた。

 

「まずいっ——。エミさん、フォローお願いしますっ!!」

 

「今度は遅れを取らないわよっ!!」

 

『放水砲』が二重となって放たれる。狭い連絡通路では、すべてを飲み込む津波に等しい重圧で俺達を襲いかかってくる。

 

 バイジュウはラプラスを振り翳し『引力』と『斥力』の力場を作り出し、俺にはよく分からん化学反応やらエネルギーで見えないフィールドが張り巡らされたように、バイジュウを中心として津波は円を描いて俺達を避けていく。

 

 だが、装填される弾丸は『水』だけじゃない。第二の弾丸『鉱石』が襲撃してくる。単純な質量と速度を持って接近する鉱石は、バイジュウのエネルギー力場でも完全に受け流すことはできず逸らすのが限界だ。

 しかし『鉱石』という弾丸に置いては『逸らす』だけで不十分なのだ。それでは乱射された散弾、跳弾と変わりない。予測不可能な流れ弾が脚に被弾したとなると、それだけで機動性を失い、次弾の『放水砲』を交わし切れずに直撃する。

 

 つまり、第一も第二も『完全回避』以外は、事実上の『死』を意味する厄介極まりない超高密度の弾丸なのだ。

 

 その第二の弾丸は——エミリオが腕の静脈を使った『血の壁』を全体に展開することで受け切る。

 

「うぇええ……吸血鬼みたいに輸血パック直飲みしないと……」

 

『神の使者』と呼ばれる身で吸血鬼とか大丈夫かと気になるところだが、今はそんなことを言っている場合じゃない。

 

 全員が無傷なのはいいことだが、その代償は大きい。エミリオの顔は青褪めて、足元さえ覚束ずに今にも膝から崩れて倒れてしまいそうだ。

 

 これではもう一度防ぐのだけで限界だ——。

 

 子供達を抱えて動けないアニーを置いて、全員が機械仕掛けの巨兵へと突撃する。俺も自身のではなく、アニーが所持していた金属バットを借りて戦闘に参加する。

 

 バイジュウの言葉は当然覚えている。『いざ』という時は逃げて欲しいことを。だけどみんなを守りたいのは俺も同じだし、同じくらい今この場からみんなと逃げたい。

 

 だけど、こいつを『倒さない』と誰も『守る』ことも『逃げる』こともできない。

 

 だったら、全部を使ってでも対処するしかない——っ。

 

 手には既に準備しておいた酸素爆弾が合計3つ。俺が持つ酸素玉の残量を全部使っている。

 

 これが俺が持てる全部————。

 なんて、ひ弱なんだろう————。

 

 俺は『魔女』じゃないから、エミリオ達みたいに能力を持っていない。

 正確には持っているのだが、それはハインリッヒやベアトリーチェなどの封印されていた『魂』を呼び覚ますだけだ。今ここに、そんな『魂』を呼び出せる異質物も、魔導器もない。

 

 だけど、それを言い訳に……立ち止まる理由にしてはいけない。

 

 先陣を切ったヴィラが戦鎚を巨兵の鎧へと振り回す。超重量の鉄槌は鎧を直撃して、巨兵の重心を大きく揺らしたが倒れることはない。

 

 ……まるで何かに支えられているようだ。

 

 だが攻撃の手を緩めることはない。俺も追撃として酸素爆弾を投げつけて、小銃で撃ち抜いて爆発させる。先ほどよりも湿度は低いこともあって、爆風は勢いを増して一瞬で巨兵を包み込む。

 

 しかし、巨兵はゴンドラの終着エリアのゲート前から一向に退けることはなくひたすらに耐え続ける。

 

 爆風に乗じてバイジュウとソヤが斬りかかった。

 ソヤは強引に巨兵の左腕部を削ぎ落とし、バイジュウも『量子弾幕』とラプラスの特性をフル活用して全弾を脚部に直撃させ、さらには右腕部を破損させる。

 

 これで左手の『放水砲』はまず無力化できた。だというのに、不気味なほど巨兵はその場から動くことはない。

 

 

 倒れない、崩れない、揺るがない。不気味なほどに動かない……。

 

 

 そこで気付く。巨兵はゴンドラを……より言うならコースターを背に立っており、コースター内を通して巨兵の背には幾重にも繋がったパイプやチューブが鎧や腕部に張り巡らせている。

 

 もしも予感があっているならば……。あいつは今『コースターすべてを供給ライン』として水や鉱石を補充し続けている——。

 元々ゴンドラは海底資源の移動と運搬を兼ねたインフラの中心だ。供給先が『Blue Garden』というだけで、その供給ラインを巨兵が変更、もしくは強奪したとしたら、不可能ということはないだろう。

 

 もしそうだとしたら、それは規格外規模を持つ半永久的なタンクだ。最高貯蔵量は俺には計算不能だが、コースターは高さだけで『3500m』に達して螺旋状に最下層まで伸びている。半径なんか裕に1キロは超えている。この規模がすべて銃でいう弾倉などに値するとしたら……いったい何発打てる?

 

 いや、それよりも…………どうやって『脱出』すればいい? 

 

 コースター全てが掌握されてるとしたら、下手に手を出してコースターやゴンドラを破損させた場合は、水深2500mの深海港にある旧式潜水艦にさえ辿り着けるか怪しくなる。

 

 愚鈍な思考など許さないと言わんばかりに、巨兵は残された右の『放水砲』を放とうとする———。

 

 懐に入り込んでいるソヤ、ヴィラ、バイジュウは無視して、俺を標的に直線状に繋がるアニーとエミリオが対象だ。俺に防御手段などあるはずがない。

 

 だけどバイジュウの一太刀もあって『放水砲』の機能は弱まっているのは確かだ。近距離爆発で銃口自体をお釈迦にするのは不可能だし、何よりバイジュウ達が巻き込まれてしまう。だけど今なら…………被弾する中心対象が俺なら、自爆覚悟で弾丸を捌き切るのは可能だ。

 

 構えと同時に、俺は残った二つの酸素爆弾を取り出した。一つは直線状に投げ、もう一つはワンテンポ置いて山なりに放り投げる。

 

 二重の弾丸には、二重の爆風で挑む。単純な計算だ。

 

 その間に俺は口に治癒石を含んでおく——。被弾は覚悟の上だ、俺は意を決して第一の爆弾に向けて小銃を発砲。第一の弾丸は爆風に入り混じり、見事に威力を相殺することに成功する。

 

 だが爆風を裂いて接近する青、赤、黄の多種多様・豪華絢爛の鉱石——。第二の弾丸が襲来してきた。

 しかし動作は既に終えている。弾丸が爆風を裂く直前に、俺は眼前に落ちてきた第二の爆弾へと小銃を放っている。

 

 再び爆発。今度は十分な距離は取っておらず、爆風と共に俺は後方へと吹き飛ばされる。火傷を負うのが当然の状況だが、ハインリッヒの戦闘服と治癒石の相互効果で比較的軽傷で済んではいる。

 

 だけど……熱いものは熱いし、痛いものは痛いっ……!

 

「レンちゃん!」

 

「……無駄にはしないっ!」

 

 アニーが名前を叫ぶ声だけで意図を把握した。使い切った俺の治癒石は吐き捨てて、アニーの治癒石を受け取る。

 

 だけど『放水砲』は何とか受けきった。これで巨兵が脅威となり武装はしばらく使用できない。その間に接近している誰かが対処してさえいれば……。

 

 

 爆風が晴れる——。だが、そこには驚愕の光景が広がっていた。

 

 

 血塗れになって倒れるヴィラとソヤ。それを離れた位置で見つめるバイジュウ——-。復活している巨兵の右腕————。

 

 脳内でアドレナリンが分泌されて世界がスローになって見える。加速された思考は現状を把握しようと高速で理解を促す。

 

 破壊された右腕は違う機材を取り込んで、既に違う機構の銃口へと様変わりしている。ミニガン(M134)のように筒状に組まれた銃口という名の大口パイプ管が合計6つ——。

 

 あれは『放水砲』の超高密度の水弾と射程距離を削ぎ落とした代わりに、鉱石と高密度の水弾を『乱射』するために特化させた機構だ。それで無防備なヴィラとソヤを、バイジュウが防御に回る前に迎撃した——-。

 

 あの巨兵、状況に応じて武器を最適化している——。

 

 思考に時間を割いたのは致命傷だった。

 巨兵は両腕を構える。右腕の『放水砲』は依然としてこちらに向け、左腕の『乱射水』は執拗にヴィラとソヤを定める。

 

 無論、バイジュウだって無闇に眺めるだけじゃない。傷ついた彼女達の前に立つことでラプラスのエネルギー力場を利用しようとするが、それでは足りない。水の弾丸は捌き切れても、鉱石の流れ弾にはバイジュウ含めて必ず全員のどこかしらを切り裂く。

 傷ついたヴィラとソヤでは被弾一つだけで死にかねない。例え今この状況で治癒石で回復しようとしても、治癒石は即効性があるわけじゃないので、どうにかしてこの一回だけは耐え切らないといけない。

 

 その手段はある——。この距離なら、俺が全速力で駆けて『身を盾にすれば』ヴィラとソヤは守り切れる、確実だ。

 だけど、そうなると無防備なアニーと衰弱しきったエミリオは『放水砲』に——。

 

「行って、レンちゃん!」

 

 エミリオの声に、俺は駆け出した。

 信じる————。バイジュウだって、危機的な状況からエミリオ達を救出するために覚悟を持って傷つけた。

 

 俺だって、エミリオが必ず防ぐと信じて、エミリオから離れるしかない——。

 

 鮮血は花弁となり、死の弾幕が咲き乱れる。

 

 

 …………

 ……

 

 

 吹き荒れる水飛沫と鉱石の粉塵。ラプラスが発生させる力場によって致命傷だけは避けることにバイジュウは成功する。

 

 レンが身を挺したこともあって、ヴィラとソヤは無傷であり、怪我を負ったのはバイジュウとレンのみ。

 バイジュウが最も被弾率が高く、太腿や肩などの露出する部位のほとんどに深い傷跡があり、あろうことか両手の甲には深々と破片が突き刺さっている。激痛からラプラスを握る力が弱まり、重力に従って銃剣は床へと音を立てて落ちてしまった。

 

 もうバイジュウには治癒石はなく、ヴィラとソヤも現在使用中だ。手元に回復手段するがない状況で、非常に危機に瀕した状態となっている。

 

 違う、一番の危険なのはエミリオだ——。バイジュウは振り返った。

 

 あそこまでの貧血状態では、防ぎ切れるだけの盾を展開すると、例え凌いだとしてもエミリオ自身の命が危ぶまれる。そして凌げなかった場合は子供達諸共、二重の弾丸によって命を奪われる。

 

 どちらにしても無事では済まない。

 霧散した水飛沫が晴れて、視界が鮮明になる。

 

 バイジュウが見た先には、二重の膜が張られている——。白と赤の二色の膜——。

 

 白いのは『エアロゲルスプレー』が噴出した防弾膜だ。ひ弱なアニーやレンが銃弾対策として常に持ち出している戦研部の愛衣が生み出した作品の一つ。

 小銃程度の銃弾なら防ぐ優れものだが、いくら半壊状態の『放水砲』でも、それだけでは水と鉱石の弾丸は防ぎきれない。だからエミリオは『血の膜』で補強することで強度を上げて、最低限の血の量で防ぎ切った。

 

 この状況下でもエミリオは最善を尽くすことを諦めていない。誰よりもボロボロで、誰よりも治癒石の効果は得られないのも関わらず、懸命にそして——。

 

「受け取ってッ!!」

 

 そして、選択を誤ることがない。

 

 アニーが渾身のオーバースローで、エミリオの治癒石をバイジュウに投げ渡した。もうエミリオには戦う気力も、守る意思も薄れている。それはバイジュウ達も同じであり、治癒石で回復を終えたヴィラとソヤは既に度重なる連戦と『放水砲』によって限界を超えて、エミリオと同じく今にも気絶してしまいそうだ。

 

 これでアニーとエミリオの治癒石も、レンの回復とバイジュウに充てられて、もう残る治癒石はシンチェンとハイイーが持つ緊急用と後がない。

 

 戦えるのは、実質バイジュウとレンの二人のみ。

 

 全霊を持って、この危機的状況を打開するのを任される。

 

 だが『乱射』というのは絶え間なく打ててこそだ。

 

 巨兵は放つ死の弾幕は、もう目前。

 レンは自分でも訳も分からぬまま身体が動く。

 

 発射まで3秒、レンはラプラスを拾い上げる。

 

 発射まで2秒、銃口が妖しく蠢く。

 

 発射まで1秒、ラプラスの駆動音が響く。

 

 

 

 発射まで0秒——。

 死の弾幕が二人を襲う。

 

 

 

 少女は『魂』から、願う——。

 自分に、俺に……。

 

 …………『私』に守れる力があったらと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——『魂』とは何か?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識を記録した、ある種のエネルギー体か。

 それとも観測できない量子状態的な存在か。

 

 あるいは『魂』とは単なる概念の一つかもしれない。

 

 物理学における『時間』の概念と同じく……。

 

 ただの幻覚………………『夢』。

 

 ならば唯一の問題は————。

 夢を見ているのは————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第17節 〜Calculation of Chaos〜

 ……どこからか衝動が湧き上がる。

 

 

 ——守らないといけない。

 

 

 

 声は聞こえない。モノクロ映画の演出みたいに文字を浮かび上がらせるイメージと意思が伝わるだけ。だけど俺は何故か確信していた。これは女性の声だ。それも俺がどこかで知った覚えのある声。

 悲しみが身体の底から湧いてくる。『魂』が塗り潰されそうな悲しさだ。

 

 

 

 ——力を貸して。

 

 ……君は誰?

 

 ——あの子の『魂』に惹かれた『夢』のような存在。

 

 ……『夢』?

 

 ——そう『夢』。無力で、覚めたら露となる……。だけどあなたが力を貸してくれればあの子を守れる。

 

 ……守る、か。

 

 

 

 自己さえ掠れつくほど『俺』の意識は溶けていく。

 少女は『魂』から願う——。

 

 

 

 ……もう二度と『俺』(わたし)の大切な人を失いたくない——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 機械仕掛けの巨兵が放った死の弾幕は、一向にバイジュウを襲うことはない。

「何故、どうして?」と思うバイジュウは途絶えそうだった『魂』を手繰り寄せて、事態の確認を急ぐ。

 

「——下がって、バイジュウ。ここは俺に任せて」

 

 巨兵の前には傷だらけのレンが立ちはだかっていた。露出する身体の部位には痛々しい跡が無数にあり、内出血も酷く今にも皮膚を裂きそうほど青黒くなっている。

 

 先ほどのバイジュウが皆を守った時と同じように、ラプラスの特性を活かして全ての弾丸を致命傷からは逸らしたんだろう。それはわかる、だがそれだけでは捌き切れはしない。ラプラスの力場だけでは捌き切れないから、今のままで二重の防護や身を挺した決死の防衛が行われたのだ。『ラプラス』だけでは今の状況を作るのは不可能だ。バイジュウはレンを見つめて、現状の把握をより深く得ようとする。

 

 だが、疑問は更なる疑問を呼ぶことになった。

 

 レンの手には『見覚えのない銃剣』が握られている。銃剣の長さは変わらない。刀身から持ち手、柄までほぼすべてが変わっている。色はオーロラのように淡く色を変色し続けており、『泡沫の夢』のように揺らぎ続ける。

 

 だというのに、バイジュウは「あの『ラプラス』の形状はなんだ——」と考えてしまった。

 

 そこまで変貌しているのにバイジュウには何故ラプラスと思えるのか。それは幻出されているラプラスの形状自体が、本来バイジュウが目指していた完成型だからだ。昨晩口にした『再現性の問題』を解決した理想の武器が、今レンが振るう銃剣なのだ。

 

 どういう理屈で存在しているのか推測さえままならない。唯一納得のいく理由……いや、戯言を呑むしかバイジュウには考えを纏める手段を持てない。

 

 後の『未来』を手繰り寄せて、その特性を『覚醒』させたかのように、この場に幻を現実として確立させている——。

 そう考えるしか納得いく解答が生まれなかった。

 

 だがバイジュウの疑問は尽きない。

 だとしたらレンの周りに浮かび続ける複数の『黄色い浮遊物』は皆目検討がつかないのだ。

 

 アレは今この場にいる誰の武器でもない。素直なレンが自身が使う武器を隠すのは想像できない。SIDが秘密裏で試作した異質物武器かとも思うが、そうだとしたらマリルや愛衣が秘匿する理由が分からない。思考の中であらゆる情報を繋いでも、答えどころか推測さえできない。

 

 だとしたら完全な第三者の介入があったとしか思えない。この宮殿内に存在する何かがレンへと変化を及ぼしている。そう考えるしかこの状況を説明できない。

 

「バイジュウ、早く下がって」

 

 思考に耽っていたバイジュウの意識はレンの言葉で引き戻される。今は自問自答をする余裕はない。

 戦力となるのは二人のままで絶体絶命。依然として状況は最悪に瀕したままだ。

 

「レンさん、アイツには一人よりも二人で——」

 

「いいから早く下がれって言ってんだよ!!」

 

『彼女』の怒号がバイジュウを怯ませる。その言葉遣いはバイジュウが知るレンには絶対出来ない。確かに男の子っぽいとは思ってはいるが、優しいレンならここまでの威圧感は出るわけがない、とバイジュウは感じていた。

 

「あなたは誰——?」とバイジュウは思いながらも、彼女の言葉にバイジュウは逆らいもせずに、ヴィラとソヤを連れて速やかに距離を置く。誰なのか、とは思いはするが猜疑心は湧かない。むしろ彼女には不思議な『安心感』が湧くのだ。

 

 まるでどこかで出会ったことがあるような……懐かしさを感じざる得ない。

 

「覚悟しな、デカブツ……」

 

 一声告げるとレンは巨兵に恐れることなく、真正面から挑んでいく。

 

 このままでは二の舞になる——、バイジュウは確信した。

 高圧縮された水と鉱石の散弾は、ラプラスでは全てを弾き返すことは不可能だ。例え今持つのが理論上のラプラスであろうとも、散弾の質量、物量共にラプラスの許容量を遥かに凌駕する。10の数字が二倍や三倍になったとしても、50の威力を防ぎ切れるわけじゃない。

 

 巨兵は喧ましい機動音と共に、再び死刑宣告へ移す。

 

 発射まで3秒。巨兵はすでにレンへと狙いを定めており、その左腕を振り下ろして構える。

 

 発射まで2秒。バイジュウは十分な距離を取り、流れ弾が来ないよう細心の注意を払いながら戦闘を見守る。

 

 発射まで1秒。レンは未だに射程範囲のど真ん中だ、懐にまで飛び込めてない。あれでは前後左右どんな回避行動をしても避けきれず、ラプラスでも捌き切れない。

 

 発射まで0秒。死の弾幕が再び降り注ぐ。

 

 集中砲火だ。無骨な銃口から、無慈悲に散弾が放たれる。推定弾数は百を超える弩級火力だ。直撃すれば一瞬でミンチ状になるのは想像に難くない。

 

 あくまで『直撃』すればの話であるが。

 

「——ッ! こっちだッ!!」

 

 レンは斥力と引力を駆使してバリアを展開しながら、さらに跳躍量さえ強化させて致命傷以外は負わないように宙へと大きく飛んだ。空中は最も機動力が低下する空間だ。普通なら悪所にもほどがあり、放たれ続ける散弾は容易くレンを捕捉する。

 

 だが、レンは『もう一度跳んだ』————。

 

 鮮血に染まる彼女は先ほどの『黄色い浮遊物』を足場に空を駆ける。一段、また一段と足場を踏み越えて巨兵の頭部へと到達。狙いを外された巨兵の反応は僅かに遅れ、無防備にもレンの斬撃を受けて赤色のランプが消灯する。

 

 するとどうだ。まるでそれが『目』であった言わんばかりに巨兵は全体の動きを乱して、散弾も狙いが定められず雨霰。巨兵自身へと被弾をする。

 その隙を今のレンは見逃すはずがない。すぐさま足元に滑りおちて、姿勢を崩しながらも攻撃態勢へと移る。だが、次の瞬間彼女はバイジュウが思いもしない行動に出た。

 

 両手の武器——ラプラスをバイジュウに向けて投げ捨てたのだ。

 大慌てでバイジュウは拾い上げ、疑問と共にレンと視線が絡み合う。

 

 

 

 ——それ、ちょうだい!! 

 

 

 

 アイコンタクト——。そんなものは作戦行動前の連絡手段には定めてない。バイジュウにレンの視線の意図など理解できるはずがないのに、なぜか分かってしまうのと同時に『懐かしい』とも感じてしまう。

 

 バイジュウの足先に何かが当たる。見てみると、先の散弾に堪えきれず手放してしまったソヤの電動チェーンソーが転がっていた。

 

 ——バイジュウは視線の意図をすぐさま理解した。

 

 一言「ごめんなさいっ!」とバイジュウは叫んで、力強くチェーンソーを蹴り滑らせてレンの元へと届ける。確信してた様にレンは崩れた体制であろうともチェーンソーを拾い上げ、強引に振り回して巨兵の両足を切断。

 

 バイジュウもすかさず走り出す。

 

 今のラプラスが本当に理論上のスペック通りなら、鉄製の腕部如き、当てさえすれば破壊することができる——。

 

 それは的中した。一刀両断、振り抜いたラプラスの刀身は左腕のミニガン機構のパイプ管を鎧の上から切り裂いた。

 踏み込んで巨兵の懐へと飛び込むバイジュウ。続く二閃目—-。今までの苦戦が嘘のように、右腕の『放水砲』を完全に切り裂いた。

 

 ——脅威となる両腕の銃器を二人の力で壊しきったのだ。

 

 巨兵はうつ伏せに倒れ込んだ。背に繋がっていたコースターとのインフラはいくつか断裂してしまい、コースターから海水がこれでもかと流れ込んでいる。

 

 

 

 

 

《コースターと『Earth Factory』に浸水を確認。現状調査……施設に『壊滅的』な損壊を確認。直ちに避難をお願いします。繰り返します……》

 

 

 

 

 

 ついに崩壊までの前兆が始まった。足元には水溜り程度とはいえ海水が広がり、否が応でも二人に危機感を逸らせる。しかし驚異の排除はまだ終わってはいない。

 

 両足は機能停止、頭部のセンサーも破壊済み。だが、それで無力化できるほど巨兵は粗悪な作りではない。

 

 陸に打ち上げられた魚が暴れる様に、その巨体を痙攣させて腰から下に垂れ滴るアメーバ状の液体は、少しずつ固まっていきヘドロとなって立ち上がる。

 頭部にあるセンサーも切り替えたのか、赤ではなく黄色のランプを灯す。それと共に、巨兵の意思はレンへと突き刺さるほど敵意を向ける。巨兵の脅威は未だ健在なのだ。

 

 レンの出血量は既に生死を分かつとこまで来ている。これ以上の無理は確実に死を招く。表情には苦痛が浮かんでおり、今にも倒れそうだ。だというのにレンは応急手当のセットから、痛み止め用のアンプルを打ち込んで戦いを続ける。

 

「絶対に守り抜く」という意思ではなく『覚悟』を持っている。バイジュウにはそれが表情から察せらせる。心理的な理屈ではなく、『魂』で確信を持って理解してしまう。

 

 面制圧の散弾は無駄だと学習したのか、巨兵は腕部の残された機構束ねて瞬く間に、一つの細長い銃身へと変化させる。

 

 それは『ウォーターカッター』だ。超質量の水に鉄粉などを混ぜながら高速で噴出させて、その圧力と流速からガラスから金属から裁断する人類の叡智。人が触れさえしたら、塵芥のように一瞬で切断される。

 

「いい加減しつこいんだよッ!!」

 

 もはや使用することさえレンは許さない。電動鋸を押しつけるように巨兵へ投げ捨てて、視界を同時に奪い、次の瞬間それを足場に一気に後方へと跳びかえって一つの得物を手にする。

 

 それは質量10トンの怪物兵器——。

 マサダブルク陸軍研究所が開発した最新兵器『重打タービン』——。

 

 普通なら使用不可能だろう。超高密度・超高重量こそが最大の武器であると共に仇なのだ。だからこそヴィラしか使いこなせていない武器なのだから。

 

 だが本当にそれが真実というわけではない——。

 

 兵器というのは二つの基準を満たせなければ兵器としての前提自体が成り立たない。

 一つ目は『利用目的』、二つ目は『汎用性』だ。その二つを満たして兵器は初めて完成といえ、それと共に量産される。

 

 量産される以上は『汎用性』はとうに解消された問題がある。その問題こそが弩級の重量だ。質量10トンの問題を解決し、誰もが使用できる条件が必ずあり、その条件とは『使用方法』に尽きる。

 

 だからこそ名称が『重打タービン』なのだ。

 タービンというのは様々な種類と組み合わせがある。水力、蒸気、ガス、風力……。衝動、反動、軸流、半径流……。その中でも小型化、耐久力、エネルギー運用に適したのはガスと半径流を組み合わせた『ラジアルタービン』という機構だ。俗に言えば『ターボチャージャー』ともいう。

 

 独立したエネルギー運用は無人機やミサイル、ロケットなどといった誘導弾のエンジンにも採用されていることもあり、研究者の一部は皮肉で戦鎚をこうも名付けたという。『ラケーテン(Raketen)ハンマー』とも。

 

 レンが手にした戦鎚を強引に円を描くように回転する。付属されているバーニアが点火すると加速力を生んで少しずつ、より大きく遠心力によって円を描き始める。蓄えられた運動エネルギーがタービンを起動させて、連鎖的に発電エネルギーを蓄え、やがて第二機構のバーニアが点火。更なる加速を生み出して回り続ける。

 

 つまり水車のような半永久機関で力を蓄え続けるのが本来『重打タービン』の使用方法なのだ。

 ヴィラはこの推進力自体を能力による『筋力』でカバーできるからこそ、特殊な機構が使い物にならないと言ったのだ。

 

 第三機構のバーニアが点火して更なる加速を生み出す。

 更なる加速はタービンの変換効率を上昇させる。変換効率が上昇したことで発電するエネルギーもまた加速度的に上がる。

 

 発電したエネルギーは第四機構のバーニアが点火する。点火したことで再び加速を重複させ、重複された加速度は運動エネルギーを更に蓄えられて更なる発電エネルギーを生み出し、第五機構のバーニアへと——。

 

 これを繰り返し、戦鎚に内蔵された全十個はあるバーニア機構が全点火。もはや台風のように黒く渦巻いてレンが回り続ける。

 

 唯一の問題は、使用者の耐久力——つまり、レン自身が殺人的な加速と遠心力に耐えきれるかが本来の戦鎚にある懸念点ではあるのだ。だからこそバーニアの機構は段階刻みでもあるのだ。使用者が限界を感じ、ある程度の加速度だけでも使用できるように。

 

 だがGの変動ならハインリッヒが組み上げた防護術式と、戦闘服の作用で受けることはない。問題など起こるはずがない。

 

 全力全開——。手加減なしで叩き込める。

 

 これらの問題と使用方法を解決されれば、あとは本来想定されている『目的』を完遂するのみ。

 

 蓄えられた加速度は一気に解き放たれ、弾道ミサイルのようにレンは戦鎚に引き摺られて、巨兵へと亜音速で強襲する。

 刹那で着弾——。質量10トンによる超加速による押しつけは、何人であろうとも受け止めきれるわけがなく、巨兵の身体を押し貫き、それだけに留まらずにコースターごと引き摺り飛ばした。

 

『重打タービン』——。本来の使用目的は城塞を破壊するために生み出された強襲用兵器——、つまりテロ促進の兵器なのだ。

 

 マサダブルクでは外城、内城での区域であまりにも人種と宗教の差別は酷い。外に住まうものは常にテロリストの恐怖に晒され、内城で悠々と暮らすマサダ市民に不平と不満を抱いていた。

 

 だからこそある宗教学者はこう言った。「あの壁さえ破壊すれば自由が得られる」と——。

 

 その思想に感銘を受けた研究者が生み出したのが、城塞の破壊に特化された『重打タービン』なのだ。例えそれで城塞を破壊したとしても、真の自由など得られるはずはないというのに。

 

 だが今だけは本来の使用用途の通り……自由のために——。ここから抜け出す一手として放たれた。

 

 巨兵は既に全武装が歪み切って、もう鎧程度にしか機能しない。散々皆を苦しめた『放水砲』も『散弾水』も、奥の手であったはずの『ウォーターカッター』でさえも機能を停止した。

 

 背についたインフラの配管は逆流を起こして、コースター内で次々と機能停止に追い込まれる。

『Ocean Spiral』全体が危機に瀕して、レン達は脱出する手段も刻一刻と削られていき危険は迫りくる。だがそれは異形も同様だ。『Ocean Spiral』自体が機能を停止すれば、異形が持ち得る現代技術は作動しなくなる。

 

 この戦いはもうすぐで終わりを迎えている——。

 

 異形は夥しい鳴き声を上げて頭部を固形化する。幾重にも研ぎ澄まされ、幾重にも並ぶ鋭利なサメのような歯——。足掻くように異形は大口を開けて、戦鎚の反動と流血から意識朦朧と無防備に佇むレンへと向かう。

 

 遠い——。バイジュウはその動作を見た瞬間に一歩を踏み始めたが、大型の異形と、女性としては身長が高いバイジュウでも、そもそもの体躯が倍以上ある。異形が俊敏に動くのなら、バイジュウの動作など見てからでは追いつくはずがない。

 

 もし今の状況を打開できる人物がいるならば、それは最初から異形の足掻を予期して動いていた者ぐらいだ。

 

 異形の口は閉じられる。爆発したように施設内には血が飛散し、彼女の腕は血みどろとなる。

 

「——女性に噛み付いていいのはペットか、恋人だけよ?」

 

 だが、噛みつかれたのはレンではなく、立つのでさえ精一杯なはずのエミリオだった。噛みつかれたのは前腕——手首側から肘にかけての部位だ。橈骨動脈ごと深く突き刺さっており、かつてないほどの血が絶え間なく流れ続け、異形の体内も体外も赤く染まる。

 

 エミリオに戦う気力も、守る意思も薄れている。

 だが失ってはいない——。戦うことも守ることもできないが、同士討ちする『覚悟』は既にできている。

 

 その意味を察せないほど異形は野性的ではない。何故なら『Blue Garden』での初戦——。似たような状況から打開されたのだから。

 

「恋人希望ならごめんなさい。悪いけど、手を切らせてもらうわ!!」

 

 瞬間、異形の口から鮮血の槍が一つ体外へと突き出る。続いて耳、頬、眼球、腹部、胸部、脚部、腕部……。まるで鉄処女とは逆のように、内側からあらゆる部位という部位、器官という器官を串刺しにする。

 

 エミリオの能力。それは自身から流れ出た『血の硬質化』と……それに伴う『血の蒸発』——。

 

 爆ぜた。沸騰された血のは異形の内部すべてを熱で満たし、今度こそその全てが霧散し舞い上がって、異形はその姿を完全に消滅させた。

 

 これで、全てが終わった——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰もがそう思った。

 

 

 

 だからこそ最後の足掻きまでは誰もが予想できなかった。

 

 異形の身体は確かに爆ぜた。だが、それはあくまで異形自身を構成する不定形までにしか過ぎない。鎧のように身につけていた鉄腕は、爆ぜた勢いのまま高々と飛び上がる。

 

 あれは撃鉄だ。純粋な質量という1発限りの弾丸が装填されている。そして不幸にも、レンへと向けて非情に降り注ぐ。

 

 レンはもう満身創痍だ。歩くことさえままならない。謎の浮遊物も動作が鈍く、撃鉄の動きに反応を起こさない。ただの一撃、あるいは一歩を踏み出すだけで危機を脱せるというのに。

 

 バイジュウは踏み出し続ける——。だがもう遅かった。わずか一歩が、一瞬が、あまりにも遠く、異形の最後の一撃を持って今度こそレンは命を落とす。

 

 祈るだけ無駄だというのはバイジュウも分かっている。祈りが届くなら、祈りが叶うのなら、バイジュウはあの悲劇に会うことはなく、19年という凍てついた時間は無二の親友と共に過ごせる大切な時間になっているはずなのだから。

 

 それでも今は願うしかなかった。

「待って——」と。『魂』の底から願う。

 

 すると、バイジュウから白光の粒子が広がり、レンと共に優しく包み込んだ。バイジュウ本人にも意味がわからず、ただ真っ白な空間には、レンの他にも『懐かしく見覚えのある影』が見える。

 

 影はまるで笑うように、懐かしむようにバイジュウの『魂』へと囁く。

 

 

 

 

 

 ——「怖がらないで、私がいるから」——

 

 

 

 

 

 その言葉は忘れようがない。

 その温もりを忘れるわけがない。

 その姿を忘れてはいけない。

 

 バイジュウは確信を持ってしまった。

 

 レンの中にいる『誰か』の正体を。

 

「これは『夢』なのだろうか」とバイジュウは刹那に思う。

 

 温もりを掴むように、バイジュウは『魂』という手を伸ばす。

『影』となって佇む彼女は、確かにその手を愛しむように掴んだ。

 

 そこで光は消える。

 

 永遠にも思えた一瞬は終わり、再び絶望が現実へと襲いかかる。

 

 撃鉄は落とされる——。

 

 夢想の一瞬なんて幻だと、温もりなんてないと、そんな些細な願いごとも、あの日感じた痛みや孤独さえも、そのすべてを跡形もなく否定すると言わんばかりに無情にも叩き落とされる。

 

 だが、その一瞬には意味があった。

 

 誰かであるはずの『彼女』にバイジュウの『魂』が伝わり、振り返ることなく最後の一撃を、握られているはずがない『銃剣』で切り裂いた。

 

 それは19年前、バイジュウがスノークイーン基地で使用していた銃剣。真の意味でこの場に存在するはずがない失った武器——。

 

 

 

 銃剣の名は『氷結稜鏡』——。

 

 

 

「————ッ!! 、、、…………ッ!!」

 

 

 

 力尽きた少女に、バイジュウは二つの名を叫ぶ。

 心から慕う彼女達の名前を思い焦がれながら。

 



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第18節 〜Awakening〜

 ……意識が保てない。

 ……自己が霞む。

 ……ごめん、みんな……。今回ばかりは……。

 

 ——諦めんなっ!!

 

 死に体寸前の俺の意識に、彼女の声はまるで張り手の様に俺を覚醒させる。視界は未だに開けず身体の感触もない。

 …………というか、何もないんだ。ここには視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の全てが意味を為せない。あるのはただ『魂』だけなんだ。

 

 ——諦めんなよ! 諦めんなよ、お前!! どうしてそこでやめるんだ、そこで!!

 

 ……あの、すいません。キャラ変わってません?

 

 ——いんや? これが私だよ〜!

 

 彼女の声(意思)は生きることに全力で、俺に『生存』を望んでいた。『光』が見えない寂しい世界で、その行為は心が温かくて嬉しい。

 

 ……もしさ、ずっとこのままだったら……側にいてくれる?

 

 ——ひゅ〜ひゅ〜プロポーズ? モテる女は辛いね〜!

 

 ……プ、プププ、プロポーズじゃないっ!!

 

 ——照れんなって〜♪ 今は同性愛もありらしいよ〜♪ like×likeじゃなくてlove×loveだぜ〜〜〜??

 

 ……、…………いいんですか?

 

 ——君はそうしたい?

 

 ……はい!!!

 

 ——わぉ、意外と肉食系。う〜〜〜〜〜ん。

 

 考える仕草を彼女は声に出す。

 

 ——断るッッ!!!

 

 あっ、やっぱり? 分かってたとはいえ少し傷つく……。

 

 ——でも一人ぼっちは嫌だよね。私も長いことここにいるし。

 

 ……どれくらい?

 

 ——さあ? 一年かもしれないし十年かもしれない。もしかしたら百年かも。腹の虫さえ鳴らないから時間経過がわからんちん。

 

 時間がわからない、という言葉と奇妙な空間に俺はアニーのことを思い出す。

 

 アニーも『因果の狭間』で七年間を過ごしていたが、時間については非常に曖昧だったと言っていた。少なくとも七年間もいた覚えはないと言っていたが、そんな曖昧な時間でもアニーは方舟基地での出来事で非常に取り乱してしまった。

 

 それなのに彼女は今なんと言った? もしかしたら百年かもしれない——? こんな光も熱も色もない世界で、ずっと一人ぼっちでいたというのか?

 

 そんなの……………………狂うに決まってる。

 

 ——嬢ちゃん、そんなに感傷的になんなよ。せっかく話し合えるんだ、気が晴れるまでピロートークしようぜ!

 

 だというのに彼女は明るく、むしろこちらを励まそうとするほど活発だった。

 

 ……そうだね。俺も君のこと知りたいし。

 

 ——俺っ子! リアル俺っ子だ! 君みたいな可愛い女の子が『俺』だなんてギャップ萌えだね〜♪

 

 ……俺の顔を見たのかっ!!?

 

 いつどこで!? こんな世界じゃ五感全てが役に立たないのに!? もしかして心眼か? 長いこといるから、意思が発達して第六感が覚醒してるのか?

 

 ——いや、さっきまで君と一緒に戦ったじゃん。その時にチラッとね。

 

 ……ああ、そういう。

 

 ——すごい可愛かったよ♪ 暖かい瞳、黒い服、赤みのある黒髪で愛嬌満載の顔でさ、このこの〜♪

 

 何故だろう。猛烈に俺の顔とか頭を撫で繰り回されてるイメージが湧く。

 

 ——私の大切な人に、君は本当鏡合わせだよ。

 

 ……大切な人?

 

 ——そっ。冷たい瞳に、白いワンピース、青みがかった黒髪、無愛想で、いかにも「人に興味ありません」って感じの子だったよ。

 

 そういえは彼女と繋がったのは『大切な人』を守りたいからだった。彼女が挙げた特徴と一致するのは、バイジュウしかいない。

 そんなバイジュウを守りたい人物といったら……彼女しかいないのでは?

 

 ——だけどさ。話したらこれが面白いし、人見知りなだけで愛嬌もある子だったんだよ〜♪ 冷たい瞳とか言ったけど、学問とか表情筋は真面目すぎて死んでるのに、瞳だけは子供のようにキラキラさせてさ〜。バレンタインとかでチョコを交換する時なんて恥ずかしそうにラッピングした手製チョコを「ひ、日頃のお礼っ」とか君みたいに緊張して渡すし、クールな見た目なのにコーヒーとかは苦手で、女子らしく甘いものとか香水とかも気を遣ったり、本当ギャップ萌えというか、そういうの狙ってるのか! と思うくらいあざとくてね〜!! 

 

 ……君はもしかして。

 

 ——おっと、それ以上は言わない! 女の子はミステリアスな方がいいんだよっ、この純情っ♪

 

 明るく茶化す声で俺の言葉を遮る。

 

 ……それでもいいか。それだったらさ、何かバイジュウに伝えたいことある? でもラブコールはなしね。俺から伝えるのは、その……は、はは、恥ずかしぃぃっ……。

 

 ——ありがとう。……でも、ごめんね。私は『夢』なんだ。覚めたら夢なんか忘れる様に、私との会話なんて忘れるよ。

 

 ……忘れないよ。

 

 ——無理だって。人の夢と書いて『儚』いんだぜ?

 

 ……じゃあ思い出すッ!

 

 ——嬉しいけど、私のことよりバイジュウちゃんのこと聞かせて欲しいな。あの子、私がいなくても元気にしてる?

 

 ……元気だと思う。うん、元気だ。だってさ。

 

 そこから俺は彼女にバイジュウの事を話した。目覚めてから世界を旅して知識を深めたこと。休日には図書館に籠って見聞を広めてること。クロスバイクに乗って世界中を駆けたこと。

 そして、あの出来事から19年もの月日が経っていて、君がいなくて悲しそうな顔をしている時があることを。

 

 ——そっか、19年も経ったんだ。

 

 ……バイジュウとは今でも距離感がある。会話は弾むし、趣味も合う。だけど、どこか遠慮しがちなんだ。俺だけじゃなくみんなに対して……。

 

 大切な友達だからこそ頼りたいし頼られたい。それはバイジュウだって同じはずなんだ。愛読書に登場する主人公みたいに俺は鈍感じゃない、理由は何となくは察せる。

 彼女はきっと……。君のことを忘れて、今を生きることに負い目を感じてしまっているんだ。

 

 ——バイジュウちゃん、割とヘビィな子だからねぇ。あっ、体重じゃないよ。ましてやゴッドリンクもしない。ハートの問題ね、ハートの。育ちが育ちだから、人との繋がりに人一倍大事に思ってるからさ、あの子。多分「みんな私が守らないと」って感じじゃない?

 

 ……100点満点中の120点だよ。本当に君は、バイジュウのことが。

 

 ——大好きだよ。大好きで、守りたくて、放って置けない子。

 

 ……もう一度会いたい?

 

 ——もう一度、なんて無理だよ。会ったら何回も会いたくなる。だけど私はもうここにいるしかないんだ。ここは境界線。君と私の間には『門』があるんだ。これを超えない限り……私は覚醒することはないし、覚醒したとしても肉体がない。

 

 ……じゃあ、一緒に行こう。今回みたいに、バイジュウといる時だけでも君が俺の意識を呑み込んでいいさ。

 

 ——無理なんだよ……。この『門』は『夢』を行き来する……。私が君の意識をこれ以上呑み込んだら瞬間、あなたも『夢見る人』となって永劫に抜け出せない世界に囚われることになる。

 

『門』——。その言葉で俺は『天国の扉』を思い出す。

 あの時、ソヤを助け出す時に『天国の扉』の前でソヤを引き摺り出し、その手で扉を閉じて事件の終幕を迎えた。

 

 だとしたら……あの時と同じように『門』に触れさえすれば——。

 

 そう思った時に気づいてしまう。今の俺には身体の感覚がない。手を伸ばして触れようにも触覚は機能しないし、彼女が言う『門』を見ようにも視覚は一向に暗闇を映したままだ。

 

 この世界では俺が介入する余地などどこにもない……。

 

 ——まあ気持ちは嬉しいよ。でも、私はずぅぅぅぅぅっと……ここにいるから。

 

 そう言って彼女は俺の『魂』を抱いた。

 

 ——君だけじゃない。バイジュウの側にも、私はずっといるから……。本当にたまにでいいさ。バイジュウが大人になって、いつかは伴侶ができて、それで子供ができて…………。ごめん、ちょっと嫉妬した。

 

 ……自分で言ったことなのに?

 

 ——うん。どんな形でも私は嫉妬しちゃうな……。バイジュウちゃんの幸せな姿を思うと、嬉しくて嬉しくて仕方ないのにね……。それが自分じゃないと考えると、どうしても妬んで仕方ない……。でもそれでいいのかもね。私のことを忘れるくらい幸せな毎日を過ごして、空や雲とかを見た時に、ふと思い出してくれればいいんだ。そんなこともあったけど……今は幸せですって。

 

 ……本当に良いのか? 俺のことを考えなければ君は……。

 

 ——それじゃ何も変わらない。バイジュウちゃんにとって、あなたも既に大事な人なの。

 

 ……、…………絶対いつか迎えに来るから。どれくらいかかるか分からないけど、絶対迎えに来るから。

 

 ——ここに来て長いからね、待つのは慣れてるよ♪ バイジュウちゃんが来るのに、後何万年かかるかなぁ〜〜。

 

 そこで俺の意識は浮き上がるのを感じた。同時に暗闇の世界に少しずつだが輝きが差し込む。これは一体…………?

 

 ——そろそろ時間か、お別れだね。

 

 輝きの向こうに知っている温かを感じた。これは……。

 

 光じゃない、太陽でもない…………。

 

 これは『色』だ。極彩色の輝きなんだが……。この『色』は『何だ』? 知っているのに……。知っているからこそ分からないのか……?

 

 ——さようなら。行っておいで、君がいるべき場所に。

 

 ……絶対っ! いつか、バイジュウと一緒に君を『門』の外に連れ出すから!

 

 ——、…………じゃあ、その時に改めて聞くよ。バイジュウちゃんの道を。……君の道を。

 

 ……最後に、俺はレン! レンっていうんだ!

 

 ——『最後』じゃないでしょ、レンちゃん。

 

 ……そうだね、それじゃあ。

 

 ——『また会う日まで』……。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……がっ!?」

 

「皆さん! レンさんが息を吹き返しました!」

 

「やりましたわっ!」

 

「あとはエミだけか……」

 

 まだ残っている口の苦味と、胸に込み上げる気持ち悪さを吐き出すと、俺の霞んだ意識は少しずつ晴れていく。

 

 何がどうなっているんだ……?

 現状の把握を急ぐ。だが記憶に不鮮明なところが多すぎた。

 

 異形と戦い、皆が傷ついて、俺も必死で応戦してヴィラとソヤも守って……。そこから空白が多すぎる。

 

 何と何をして……あの異形を倒したんだ?

 

 ラプラスを拾い上げたところまで覚える……。そこで自分にもっと…………。もっと何かが欲しくて……。

 そしたら意識が……『魂』とかが溶けるような感覚が湧いてきて…………。

 

 最後に……バイジュウと『誰か』の声が耳に入ってきて……。それで異形の腕をラプラスで……切ったんだっけ?

 

 そう考えて、俺は握られてる獲物を見る。

 俺の手に握られているのはラプラスではない。過去の映像で見ていたバイジュウの銃剣だ——。

 

 ……どうしてこれを俺は持っているんだ? 

 

 瞬きをした時には、それは役目を終えたように蜃気楼となって消え去っていた。…………まるで最初からなかったかのように。

 

 疑問に思わなければいけないのはそこだけじゃない。どうして俺は無事なんだ。

 

 不思議な気持ちだが、胸の奥にある疼き……言うなら『魂』とも呼べる部分で確信してしまう。俺は異形との戦いで、何かが衝動的に湧き上がって決死の覚悟でバイジュウを…………バイジュウ達を守ろうとしたんだ。

 

 それで死ぬほどの……エミリオと同じぐらい傷だらけになっていたはず……。だというのに何で……?

 

「良かったぁ〜。宝石で回復できて……」

 

 ……治癒石が間に合った? 俺はあの時すでに治癒石は全部使い終わっていた。他のみんなもそうだから、必然的にシンチェンかハイイーの治癒石を使ったことになるのか?

 

 ……それだけだと無理だと思う。治癒石の効果は、あくまで身体の傷を癒す程度のもので、肺や心臓の呼吸とか血液補充とか循環系には一切効力が持てないとラファエルは前に言っていた覚えがある。実際、少し前に衰弱した身体では呼吸がままならなかったヴィラとソヤがいい例だ。

 

 確かに俺はボロボロの傷だらけで治癒石がないとお陀仏だっただろう。しかし、それでは弱り切った身体までは回復できない。だから、それを繋ぐための何かしらの延命処置がないと不可能だと感じてしまう…………。

 

 ——って、今は自分のことはどうでもいい! 生きてるならそれでいい!

 

「エミは……エミリオはっ……!?」

 

「心臓も息もだいぶ弱まってる……。右手も……」

 

 ヴィラに言われて気づく。エミリオの右手が……正確には右手首は『切れかかっている』ということに。

 

 骨から筋繊維まで丸見えであり、赤黒い出血とは裏腹に筋繊維自体は驚くほど赤くて綺麗だ。だけど…………それがかえって気持ち悪さを増大させる。

 

 ヴィラは懸命に出血を抑えるために、脇下の止血点を押して可能な限り止めているが長くは持たない。長時間やってしまったら、手首だけでなくエミリオの右腕そのものが壊死してしまう。

 いや…………それ以前にエミリオそのものが——。

 

 その時、心臓が焦りから鼓動が早くなる。

 

 早くなるのだが………………胸の中に拭きれない違和感を覚える。

 …………下着がズレた感覚ではないが、なんというか……ないものがあるというか……ホックが外れてむず痒さを覚えるような……。

 

《何か忘れてない?》

 

 どこからともなくイマジナリーお嬢様の声が聞こえてきた。

 

「もしかして……!?」

 

 俺は胸の中から…………首から下げていたペンダントを取り出した。

 ベアトリーチェから返されたラファエルの『エメラルド』————。なのだが、造形が俺が知っているのとはだいぶ違う物になっている。

 

「うそっ……?」

 

「ぁ〜…………」

 

 今までの史上の輝きが嘘のようにヒビ割れて光沢が燻んだ、ただの緑色の石となっていたのだ。

 

 ……まずいまずいまずい。理由はどうあれ非常にまずい。どれぐらいまずいかというと、眉間に寄った皺が戻らないし、滝のように溢れ出る冷や汗が止まることがない。

 

 だけど、もしかしたら…………。そのもしかしたらが起きたら……。

 祈るように俺は燻んだエメラルドをエミリオへと押しつける。

 

「………っ……っ」

 

 わずかだがエミリオの呼吸に命が宿る。切れかかっている右手首も紙みたいに薄いものの、繋ぎ合わせようと筋繊維から皮膚まで少しずつ伸びていくのがわかる。

 

「息を吹き返した……!? だけどこの回復速度じゃ……」

 

 これが本家本元の宝石の力…………。もしかしたら俺があんな窮地に瀕しても生存できたのも、ラファエルのエメラルドのおかげだったんじゃないか……?

 

 考えれば俺みたいな痛がりが、あんな血塗れや火傷塗れになってショックで気絶してないこともおかしいのだ。戦闘中も治癒石の力を促進しながら、俺の傷をずっと癒してくれていた……。

 

 だとしたら……ラファエルがここまで守っていてくれた……?

 

 なら今は、エミリオのために頼むっ……!!

 

「これはラファエルが使っていたエメラルドだ。こんな程度じゃない……。でも、魔力が足りないから残った宝石を全部集めてくれ!」

 

「分かったっ!」

 

 俺も自身の懐から譲り受けたアニーの分も合わせて、二つの治癒石を取り出す。アニーも先ほど俺の治療に使っていたものを取り出し、ヴィラとソヤも自身が使っていたのをエミリオに傷口に沿える。

 

「バイジュウさん、例え塵みたいにわずかでも残っているものを……」

 

「………………あっ、はい! 私とエミさんの分ですね……」

 

 少し上の空だったが、ソヤの声に応じて彼女もすぐに手持ちの治癒石を渡した。最後にアニーが残っていた子供の分まで覆うように、集めて宝石と重ね合わせる。

 

 これで今ある手持ち全部がエミリオの元に集められる。

 

 宝石からはエメラルドを中心に、野に吹く風のように爽やかな緑の粒子が吹き遊びエミリオの手首へと溶けていく。

 

「……っ! っっ!!」

 

「大丈夫だ……大丈夫だ……」

 

 声にならない金切り声を上げるエミリオ。いくらか繊維が繋がって余裕が生まれたことで、ヴィラも止血点ではなく包帯を使用した直接的な止血法へと変えて心肺蘇生の工程へと移す。

 驚くべき速さで心臓マッサージと始めて正しい手順を悩みなく行う。別に呼吸は止めっていないため人工呼吸はしない。ただただ少しでも停滞している血液を循環させるために、一心不乱にヴィラは豊満なエミリオの胸を押し続ける。

 

「かっ……! かはっ!」

 

 やがて血液循環を取り戻したエミリオは、今まで溜まり込んでいた血反吐を吐き出した。その表情には、やっと生気が宿り始め…………心の底から安心感が溢れてくる。

 

「ふぅぅ……ふぅぅ……! もう、だいじょ……ぶだよ……ゔぃ、ら…………」

 

 エミリオが痛みに耐えながら上半身を起こす。顔は青ざめたままだが、血が通り始めたことで肌には温かさは戻り、彼女の息遣いも安定してくる。

 

 これで最悪のことは避けられそうだ。労うように俺はエメラルドを回収しようと手を伸ばす。

 

 その時、役目を終えたエメラルドに更なるヒビが入った。

 そして最後には砕け散った。ラファエルの……デックス家の家宝が見事に砕けた。

 

 …………残ったのは断片と化したエメラルドと、それを納めていたペンダントの型のみ。

 

 背筋が凍るのを感じた。まずい事態がマジまずい事態になった。

 

「どどど、どうしようかっ、アニー……?」

 

「………………………………………とりあえず今後の下僕生活に備えてラファエル様と呼ぶ練習したら?」

 

 ですよね……。

 あぁ、今度はマスコットガールだけじゃなくて、靴磨きやお色仕立てから身の回りの世話さえも行うことになるのか……!

 

 

 …………

 ……

 

 

『靴磨きさえできないの? だったら犬みたいに舐め回しなさい』

『何この雑な掃除? これなら換気だけで十分ね』

『壊滅的なセンスね。まあ人のセンスは12歳までに決まるというし、悲観することもないわよ』

 

 

 ……

 …………

 

 

 …………想像できるのが嫌だなぁ。

 

「呑気なところ申し訳ございませんが、かなりヤベー状況ですわよ……」

 

 ソヤ特有の汚い口調を久しぶりに聞いた気がするが、言っていることに偽りはない。

 

 異形を倒したまではいい。だけど、その代償として施設全体が崩壊の一途を辿っている。ゴンドラを起動して俺達が使用した潜水艦までたどり着きたいところだが…………ウンともスンとも言わない。

 

 …………どうしましょう?

 

「……深海港自体はまだ生きています。そこに移動して潜水艦に乗り込めば……脱出の可能性はあります」

 

 確かに壊れているのはあくまでコースター内部だけだ。その道中にある様々な観測エリアや、深海港は恐らく浸水の危機にはまだ瀕してないはず。

 でも……ここは水深4000mだぞ? 俺達が乗っていた潜水艦は水深500mにある。仮に水深2500mにある深海港を目指そうにも深度は1500mもの差がある。

 

「でもゴンドラは止まっている……どうすれば?」

 

「…………私達にはこれがあります」

 

 微妙な表情をしてバイジュウは指先にある物を摘んで見せる。それは先程俺がお世話になったハインリッヒ印の『酸素玉』だ。

 

 ……オッケー、理解できた。逆流でコースター内を満たす海水を利用して直に泳ぐわけか。確かにそれなら脱出……というか水深2500mにある旧式潜水艦まではたどり着けるとは思う。だけどそれには致命的な見落としがある。

 

「バイジュウすまない……。俺の分は使い果たしている……!」

 

 そう。先の戦闘で俺は酸素爆弾として自分の分の酸素玉を全て使い果たした。治癒石と同じように一人一つずつしか持っていないため、現状酸素玉を数は俺の分だけ不足しているのだ。

 

「えっと…………それには……考え自体はありまして……」

 

 途端にバイジュウは潮らしく言葉を紡ぐ。

 

 使い果たした俺の酸素玉をどうにかして供給する方法でもあるのか?

 

「その……大変申し訳ないんですけど…………。あの、レンさんのを使い果たしてしまったことは、私に…………せ、責任がありますので……」

 

 そう言ってバイジュウは口に酸素玉を含む。

 

 うん、まあ、酸素爆弾はバイジュウからの案だけどさ。それ以降の三発作った酸素爆弾は俺の独断だから気にする必要ないのでは……。

 

「はぁぁぁ〜〜っ♡♡」

 

 ……何故かソヤの吐息に艶やかさが帯びる。途端にこれから起こる何かに嫌な予感が走る。

 

「その、失礼しますっ!」

 

 バイジュウは意を決して、俺の——。

 

 ……口にぃぃいいいいいいいいッ!!?

 

「んっ……!!?」

 

 

 

 ——————————————。

 ——————————————。

 ——————————————。

 

 

 

「ん……んんっ……」

 

「♡♡♡世界一ピュアなキスですわーーッッ!!♡♡♡」

 

「わおっ、大胆……」

 

「こんな時に見せつけるな……」

 

「レンちゃん……」

 

 ————あたまのなか が まっしろだ。

 

 口の中に何かが入ってくる。…………酸素だ。

 

「んー!! んー!?」

 

 喋りたいとこだが、ここで口を開いてしまったら共有してもらった酸素玉が無駄になってしまうのは理解している。

 

 それはわかる……分かるんだけどもぉ……!!

 

「……こ、こここ、これは人工呼吸と一緒です! で、ですので……互いに、ノーカン…………ということで、その……い、嫌ってわけじゃないんですけど……」

 

 俺は思いっきり同意して首を大きく縦に動かす。

 

 もう無心になってコースターを昇るしかない。

 

 

 …………

 ……

 

 

 浸水は進み『Earth Factory』は海水で満たされるが、俺たちはコースター内に海水を溜める逆流を利用して手早く水深2500mに位置する深海港にたどり着き、その潜水艦に乗って脱出を謀る。

 

 進路を決めて起動できるのを祈り、途中で支障が出てもいいようにマリル達に伝わるように救難信号を常時発信していく。

 

 ……とりあえずはひと段落はついた。

 今までの疲労が一気に抜けたことで、腰が砕けたように皆が一斉に座り込み、隣り合っていた俺とバイジュウは肩を寄せ合う形となってしまう。

 

 …………疲れもあって沈黙がいつもより重い。先ほどのこともあり、何と無くギクシャクした空気というか、空気の壁を感じずにはいられない。

 

「レンさん………」

 

 沈黙が広がる潜水艦の中、バイジュウは気恥ずかしいながらも聞いてきた。

 

「なに? バイジュウ」

 

「あなたは…………『どっち』?」

 

 …………まさか、俺が男か女かを改めて聞いているのか!? 

 それともさっきのキ……いやいや、人工呼吸で俺にその気があるのかを確認しているのか?

 

「えっと……」

 

 …………深く考えるがどちらも違う気がする。

 理由は分からないけど、何となく『魂』の底からそんな気が湧いてくる。だから、俺が伝えることはシンプルなものになる。

 

「…………俺は俺だよ」

 

「そう……ですよね……。あなたは、レンさん……ですよね……」

 

 悲しくも嬉しそうのに「良かった……」とバイジュウは万感の思いとともに涙を溢す。

 ……その姿に俺は申し訳を感じた。なにか選択を誤ったんじゃないか、ここにいるべきなのは俺じゃない誰かなんじゃないかっていう……何とも言えない罪悪感が湧く。

 

「ごめん……。本当にごめん……」

 

「いいんです……。レンさんが無事なら……」

 

 胸の中で泣き続ける彼女を見て……思わず、愛しさから背中に手を回して温かさを感じてしまいたくなった。

 

 温かい……。身体の底から……下腹部にも温かさが伝わる……。

 

 この感覚……いつ以来だ……。

 

 ——何かがバイジュウと繋がるのを感じる。それと共に『魂』から何かが溢れてきて、堪えきれずに私は口に出した。

 

「私はずっと、バイジュウちゃんの側にいるから……」

 

 ————ん? 

 

「えっ……?」

 

「んっ!? ままま、待てっ!? 俺今なんて言った!?」

 

 『私』!? 今私って言ったか!?

 

 待て待て待て!!?!? ついに心まで乙女になり始めたのか!? 確かに自分が男の時の顔さえハッキリと思い出すの難しくなってきたとはいえ、こんな風に自然と女の子になっちゃうの!?

 

 ぁぁああああああああああ!! そうなると自分の語尾さえ気になり始めた! 「なっちゃうの」とかは男でも使うのに、これも女々しさの表れかと思うと…………っっ。

 

 

 

「——そっか」

 

 

 

 バイジュウの頬に涙が一つ落ちる。

 

「そっか……。そうだったんだ……!」

 

 彼女の瞳は、今までどこか影が沈んだものではなく晴れやかな物となる。

 

 彼女の中で衝撃があったのか、笑顔のまま涙を少しずつ流していく。その笑顔は今までとは違い、とても煌びやかなもので、春を迎えて咲き乱れる花のように美しかった。

 

「ありがとう……『レンちゃん』。あなたのおかげで……自分の力が何なのかようやく分かりました……」

 

 改まってバイジュウは俺を見て、静かに呟いた。

 

「あなたの『魂』はとても純粋ですね……」

 

 

 

 

 …………こうして俺達の海底都市を巡る異質物事件は幕を閉じた。



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第19節 〜星之海StarOcean〜

第一章、最終回です。


「病院食って、万国共通で味うっっっっっっすいわよね……」

 

『Ocean Spiral』の一件から数字後。俺達は今回のMVPであるエミリオを労いに、アニーとヴィラと一緒にSIDが株主とする病院へと足を運んだ。

 そこまでは良かったんだけど…………。病室に入った途端あんなに腕や腹から血を出して、挙句には手首からも大量出血させたりと生死を彷徨った人物のはずなのに、フードファイター顔負けの量の食器を積み上げるマサダブルクの神の使者様がいた。

 

「この人、先日まで危篤状態だったよな……?」

 

「まあ、出血多量以外は何の異常もなかったからね……。脱すれば納得というか何というか……」

 

 そうだね、出血多量以外は何にも無かったね。それが尋常じゃないから労いに来たのだが。

 

「ほふほふへ……んっ、はぁ…………。そもそもね、出血多量で安静状態なら鉄分たっぷりの料理準備してくれた方が個人的には嬉しいのよ。レバーとかレバーとかレバーとか……」

 

 文句を言いながら本日7杯目の山盛りの白米を平らげて、電子ジャーから8杯目をよそう。そして電子ケトルからお湯を注いでインスタント味噌汁を準備し、さらには誰かが持ってきていたコンビニの袋から野菜を中心とした洋風オードブルさえも出してきて即座に食事を再開させた。

 

「改めていただきます♪」

 

「あとエミが健啖家だったことに驚きを隠せないんだが……」

 

「すすぅ〜……。……私やヴィラはそこらの成人男性より食べるわよ。一応軍人上がりだからねぇ〜♪ 基本的な新陳代謝が違うのよ♪」

 

 …………確かに今思えばこいつらバーベキューでも食っていたし、夜食でも鍋物とにかく全部突っ込むハングリー精神全開だったわ!? マサダブルクでもザクロジュースを常備してたりするし、振り返れば思い当たる節がかなりあるぞ。

 

「あっ、悪いけどお釣りはあげるから病院近くの『大吉菓子寮』っていうお菓子屋さんで、新商品全部買ってきてくれる? 見ての通り重病人で絶対安静だから♪」

 

「どこがっ!? 仙豆食った後並みの元気だぞっ!? というかそんだけ食ってるのに、まだ食い足りないのっ!?」

 

「病院食だけだと足りなさすぎるのよ、量も味も。子供のおやつじゃないんだから」

 

「患者のために考えられたメニューをおやつ扱いか……」

 

 全世界の医師は泣いていい。

 ……まあ一般人じゃなくて『魔女』だから多少の常識は通用しないのかな……?

 

「これでもエミはお前の顔ほどあるハンバーガー二つを十分で完食するほどの胃だぞ。それをコーラで流し込む根っからのジャンクフード愛好家なんだ」

 

 それを聞いて俺はどんな表情になったのか。少なくともぎこちないものだったには違いない。

 ジャンクフード愛好家まではわかるが、俺ぐらいの顔となるとそれは本格派のハンバーガーだ。もはや愛好家の領域じゃない、ジャンキーでありジャンカーだ。マジモンの愛好家だ。

 

「ちょっと……それだと誤解されるでしょ」

 

 眉を潜めて文句を垂れるエミ。

 だよね。流石に女の子がそこまで食べれるなんて、イルカ以外にいるなんて信じられ——。

 

「その時はセブンアップだって。コーラだと、私がデブみたいじゃない……」

 

 否定するのはそこっ!? そして微妙に恥ずかしがるのもそこっ!? というかコーラもセブンアップも同じ炭酸飲料だよ!?

 

「あの時はセブンアップだったか。……ん? じゃあ去年のナポリタン3キロがコーラだったか?」

 

「ナポリタンの時はペプシよ。コーラの時はチーズピザ2キロの時だね」

 

 完全なデブまっしぐらだっ!?

 

「というか色々と飲むな。料理で決めてるの?」

 

「逆かなぁ。炭酸飲料で食べる料理変えてるだけ。そして炭酸の移り変わりも早いのよね。今はオレンジファンタだけど、前は順にドクペ、サイダー、マウンテンビュー、カルピスサイダー……。その時で食べたいのも変わるのよ」

 

 その気持ち分からなくもない。分からなくもないが……流石にフードファイターみたいなことはしない。

 

「あぁ……炭酸飲料で肉をたらふく流しこみたい……。ジンジャーエールかレモンサイダーがいいわね……。ライム系統で餃子を流すのもいい……」

 

 うん、これはもう放っておいて大丈夫だろう。退院祝いには食い放題の焼肉とか、SNSでよく見る餃子パーティ的なサプライズとかすれば喜びそうだ。…………そのための費用はマスコットガールとして頑張るしかないかぁ。

 

 ……費用という単語で、思い出したくないことを思い出して心労は重なる。何故ならもっとドデカイ物を俺は払わなければいけないのだから。

 

 

 …………

 ……

 

 

「許せないわね……許せないわ」

 

 後日、御桜川女子高等学校にて。

 放課後に俺はもう靴を舐め回す勢いで頭を下げてラファエルに謝罪していた。

 

 謝罪する理由はたった一つ。先日起きた『Ocean Spiral』事件……そのまま『OS事件』に関して、壊してしまったデックス家の家宝にしてラファエルのペンダント『エメラルド』のことについて他ならない。

 

「ほんとぉ……! このとおりぃ……!!」

 

 誠心誠意、全力を込めてラファエル様に土下座をする。当然額は地面についている。

 圧倒的……圧倒的な土下座……ッ! 今なら焼き土下座さえ可能である……ッ!!

 

「……? なんで頭下げる必要あるのよ?」

 

「えっ!? だってラファエル様のペンダントを……!」

 

「あー、それも確かに許せないわね。でも仕方ないでしょう。真に美しい物は至高の宝石よりも今を生き抜く命よ。それがアンタみたいな変態女装野郎やマサダの聖女様やらの命のためなら仕方ないわよ」

 

「じゃあ、何に許せないんだ……?」

 

「決まってるでしょう……? 何杯も食って人一倍カロリー摂取してるくせに太らないエミリオに言ってるのよっ!!」

 

 えぇ……そこぉ……?

 

「私なんか夜抜いたのに、あのラーメン食べた後に0.2キロ増量なのよ……!? 私こそが至高の芸術だというのに、この体重増加は許せないわ……! そんな乙女の苦労なんか無縁だと言わんばかりに食いやがって……」

 

「いや……軍人とお嬢様じゃ基本的な運動量が違うし……」

 

 ラファエルはエージェント的な扱いは受けてるけど、サモントン総督の娘ということもあり、お爺さんからの許可をもらえない限り作戦参加すらままならないご身分だ。そのせいでSIDの訓練にも本格参加は出来てない。その差はカロリー消費量という意味では大きい。

 

 ……まあ何が言いたいかというと、実は消費カロリー的な意味では俺はラファエルよりも普段から何倍も消費していることなんだが。

 

「じゃあ、私に合うスポーツジムを教えなさい、これは命令よ。念のため言っておくけど、一週間もフロに入ってないヤツの汚らしい手で、同じダンベル持ち上げたりプールに入ったりする汗臭いのはお断りよ。男臭いのはアンタだけで勘弁したいの」

 

 臭くて悪かったな!

 

「てか、俺が決めるの!?」

 

「さっき様付けしたでしょう? 傅く覚悟の準備はできてるんでしょう?」

 

「そこまでする義理は……」

 

「できなければアンタを器物損壊罪で訴えるだけよ。理由はもちろん分かってるわよね? お前がデックス家の家宝を壊してサモントンの権威を貶めたからよ」

 

「尽力いたします……」

 

「よろしい。……まあ今回の件は私の不備にしといてあげるわ。バイクで事故ったとでも言えば何とかなるでしょう。所詮はエメラルドだし」

 

「ラファエルってバイク乗れるの?」

 

「17歳よ、当然じゃない。管理が面倒だからレンタルでしか乗らないけど」

 

「へぇ〜、じゃあ今度後ろに乗せてよ」

 

「別にいいけど……。女性にしがみつくのは女装癖として情けなくない?」

 

 ……確かに。想像してみると、年上とはいえラファエルの背中を掴んでいる姿は女々しさ全開だ。

 

「じゃあ、俺が免許取り次第ラファエルを後ろに乗せる!」

 

「ダメよ。色々と条件はあるけど、免許取ってから一年以内は2ケツは禁止が定められてる」

 

 そうなのか……。道交法って難しいな……。

 

「そう落ちこむこともないわよ、二台で走ればいいじゃない。…………まあ、その時までにはセンスのないデートプランぐらいは磨いておきなさい」

 

 ……ゲーセン巡りじゃダメだよなぁ……。ウインドウショッピングとかか……? それとも映画館や博物館とかか……? 

 ゲームなら選択肢あるけど、自分で考えると候補が多すぎて分からない……。こういうところがセンスないって言われるんだろうなぁ……。

 

「というか、私への説明がまだ終わってないでしょう。エミリオやエメラルドのことは分かったから、もっと別の詳細を言いなさいよ」

 

「そうだった! じゃあ次は——」

 

 

 …………

 ……

 

 

 ——SID本部。

 

「今回の事件……。中々興味深い資料だな……」

 

「そうね。特にこの異質物……いえ、この異質物にあった『情報』……」

 

 頬が緩むのを必死に抑えながら愛衣はタブレットを操作することなく、水槽に泳ぐ魚を慈しむようにひたすら撫で続ける。そこに本当に何かがいるように、マリルはタブレットの画面を覗き込んだ。

 

『ここは狭いですね……』

 

『二人暮らしだと狭いよ〜。もっと大きい家にして〜』

 

 タブレットの画面には、まるでアニメキャラをデフォルトしたみたいに二頭身で表示された二人の少女が映る。

 

 一人はコバルトブルーの髪色で、もう一人はマリンブルーの髪色だ。それはレンが今回の事件で知った姉妹————スターダストとオーシャンが頬を合わせながら文句を言い続ける。

 

 今回の『OS事件』で回収した異質物から回収されたものを解析した結果、湧き出た意識を持つデータだ。流石のマリルと愛衣もこの二人が突如として画面に出現した時には、あまりの想定してない事態に探究心よりも驚きの方が先に出て来てしまった。

 

 今となっては恰好の観察対象となって、インターネットにさえ繋がらない端末に隔離している状態になってはいるのだが。

 

「ごめんね〜、今ある容量最大の端末には入れてるんだけど……。君らみたいな生命体はプロトコルにないから良い意味で困るんだよ」

 

「今現在お前らのためだけに専用のサーバールームを作っている。容量は……いくらあっても足りんか。まあ最低限としてPB(ペタバイト)ぐらいは用意するさ」

 

『これ以上軽量化できないから早く〜』

 

『お姉ちゃんもちょっと辛い……』

 

 二人は短い手足で距離を取ろうと頑張るが、画面が小さいのか相対的に彼女が大きいだけなのか、二人は未だに頬さえ離れるのが難しいほど狭い空間の中に囚われている。

 

「そんな状況で悪いが、今回の事件について聞きたいことは山ほどある。協力さえすれば……ある程度の自由行動を認めるぐらいしか交渉カードがないな」

 

『お姉ちゃ〜ん、どうしよっか?』

 

『もちろん飲みましょう。そして先に言っておきます。我々から情報は得るのは非常に難しいことを』

 

「何故だ?」

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■—————』

 

「あっつっっ!!?」

 

 爆発的に熱が籠るタブレットに、愛衣は思わず手を離してしまい落としてしまう。

 

 鳴き声と判断するのさえ不可能だと超音波——。いや、マリルは直感で判断する。これは『言葉』だ。ただ、ひたすら『言葉』に『厚み』というか『質力』を感じるという不思議な感覚が起こる。

 

『——こんな感じです。我々情報生命体には独自の言語と呼べるものがあり、たったわずかな■■■だけでも、情報量としては膨大なのです。それはお分かりでしょうか』

 

「……ああ。お前たちのアルゴリズムは見ているから把握はしている」

 

『そうですか。私達のメッセージが届いて良かったです』

 

 メッセージ——。どこまでも研究者の努力を馬鹿にしたような口振りだが、実際今回の事態については金平糖とクラゲの情報結晶体がなければ『Ocean Spiral』の存在さえ気づけなかった。

 

「聞きたいことはシンプルなものさ。オーシャンに聞くが、レン達は潜水艦を使って施設内を脱出したんだ」

 

 マリルの問いは続く。

 

「だがな……レン達は潜水艦を使ったが19年前の船体では、七年戦争の影響で多大な変化をした海流には耐えきれん。だというのに……どうやってあの潜水艦を海上まで浮上させた」

 

『その程度の質問? 簡単だよ。丁度いい人手があそこには山ほどあったからね〜〜。私のカケラと端末があったから少し影響を与えて手伝ってもらったの』

 

「………………まさかマーメイドかッ!!?」

 

『そう、正解』

 

「だがマーメイドは『狂気』に陥ったことで生まれる存在……。そこに人間を守る意思が生まれるのか?」

 

『『狂気』に陥ってはいないよ。ドールもマーメイドも異質物や魔導書から付与された『情報』の負荷が制御できずに、ただ暴走しているだけ。人間を襲うのも、その大半が元々彼女達が人間を思いながら力を行使していて……それがすり替えられちゃっただけなの』

 

 オーシャンは悲しみを帯びた声で語り続ける。

 

『『Ocean Spiral』にいたマーメイド達も、全員が資料通りの貴族に反してのものだけど……それだって自分たちの家族や大事な人を守ろうとしたから起きたこと。その思いの根本は暴走しても無くなったりしない。だからそれを思考制御という『情報』で一時的に上書きさせて……潜水艦を助けるように呼びかけただけ』

 

 衝撃の事実にマリルと愛衣は無言になってしまう。

 今までドールの生態についてアニーやイルカの協力もあって少しは把握できたと思っていた。まだ解明できていない部分は大きくあるとはいえ、少しずつ理解に近づいているとは思っていたのだ。

 だが実態はもう少し深くあったのだ。ドールやマーメイドは『情報』の負荷によって『狂って』はいない。付加された『情報』に耐えきれず、『情報』の通りに行動してるに過ぎないということが判明したのだ。

 

『幸いにも異質物と媒介が近くにあったから、思考制御の力を増幅させることができた。おかげでマーメイド達を集めて潜水艦を海上に上がる海流にまで乗せることができたし、そのあと暴走しないように可能な限り魔導書との接続を切って役割を終えられた……。7年間の悲劇は、今回で収束したの』

 

「……だとしたらシンチェンとハイイーはお前達と同じ情報生命体なのか? 潜水艦での救出中、二人は未だかつてない脳信号と輝きを放っていた。オーシャンの話が事実だとしたら、その媒介こそはシンチェンとハイイーということになるが」

 

『その通りと言いたいですが、前半は違います。私とシンチェンは同一個体から生み出されたものではありますが……シンチェンは在り方はどうあれ『人間』としてデザインされた端末です。私は中立として見守る情報生命体なのです』

 

 マリルの問いに答えたのはオーシャンではなくスターダストだった。

 

「端末か……。お前とシンチェンは『同一個体』から生まれたと言っているが、お前も本体とは別の端末と呼べる存在なのか?」

 

『そうですね。私はあくまで人類と星の繁栄を観測し続ける存在……。宇宙の果て……『エーテルの海』に佇む■■とは違うのです。もちろん妹であるオーシャンもです』

 

「中立としてか……。ならお前らは何の目的で観測し続けている?」

 

 マリルの問いに、スターダストは無機質な目で返答した。

 

『あなたにそのsanityはない……。知ってしまえばあなたは永劫の智恵に溺れるしかない……。だけど警告と事実の押し付けだけはできるわ』

 

 そこで彼女の目に優しさが籠る。

 

『本来、私達の目的は『人類と星の繁栄』を見守る存在。星は廻り、人もまた巡るように……』

 

『海は広がり、人もまた流れる……。中立としてその繁栄を静かに見守り続けるのが私達の役目…………だった』

 

「だった?」

 

 意味深な言い方にマリルは思わず聞いてしまう。

 

『あなた達も気づいているでしょう? この世界があまりにも出来過ぎていることを…………』

 

 スターダストの言葉にマリルは思い当たる節がいくつか浮かんだ。

 

 日時計の開発。ハッブル宇宙望遠鏡の開発。マゼラン艦隊の地球一周。ライカ犬を始めとした宇宙開拓。テスラコイルの発明。インターネットの開発。さらに火の誕生。

 

 そして…………レンの生存力だ。

 

 今回の『OS事件』も多大な負傷者が出たものの、結果さえ見れば死傷者はゼロなうえに最善ばかりだった。

 

 最初の海上戦での戦力——。

 手渡されたラファエルのエメラルド——。

 数が足りきった治癒石——。

 無駄がなかった武器と人選——。

 

 全てが一つでも欠けていただけで事態はここまで早く収束を迎えなかった。

 

 特にエミリオに関しては奇跡的だ。新たな聖女として誕生した彼女が仮に死亡した場合、新豊州の意図的な事故ではないかと疑われてマサダブルクとの外交に致命的な問題が発生した恐れがある。それでもし軍事戦争にまで発展して、マサダブルクのXK級異質物『ファントムフォース』が起動してしまったら…………それだけでマサダブルクの破滅と共に世界は道連れにされていた。

 

 だが結果としてはエミリオの怪我は後遺症がないうえに、病院での診断結果は『血液不足』となっただけだ。外傷も右手首の痕が薄く残る程度しかなく、側から見れば軽い事故でついたものしか見えない。

 

 あまりにも出来過ぎている。それこそ過去に相対した問答の一つ、シィ教授から出てきた「なぜ、未だに世界の終わりは来ないのか?」という教授の娘の世迷言……。そしてそれに対する答え……。

 

《この世界にはゲームのような『セーブ』機能を持つ異質物が存在している》

 

 愛衣も似たようなことを口にしていた。

 マサダブルクの事件終結後、超展開な理論すぎて言っている自分でも馬鹿みたいとも補足していた。

 

 そのシィ教授と愛衣の推測が事実であるように……スターダストは笑っていた。

 

『だけど……この宇宙は変わってしまった。それによって因果も大きく変化して、致命的な問題が起きた……。未来が『不確定』になったの』

 

「未来が『不確定』だと……?」

 

『それに一番早く気づいたのは間違いなくレンちゃん……。続いて……いや、これはあなたが知っていいことじゃないわね。ここは黙秘するわ』

 

 マリルは追求したい気持ちが湧くが、スターダストの表情は愛くるしい見た目に反して真剣そのものだ。真理に触れるというよりかは、人道に反すると言いたげな表情だ。大人しく話を聞き続けるしかなく、マリルは改めて腕を組み直す。

 

『とはいっても、私自身に情報の欠如も多いわ。私のカケラが近くにない……。あくまで私はオーシャンの異質物を経由して来てるだけ。大半の情報は……リーベルステラ号で発見した古代隕石に積められている』

 

 リーベルステラ号に搭載されていた古代隕石……スターダストの異質物は、今現在サモントンの教皇庁で保管されていることをマリルは思い出す。

 

 ……方舟基地での第二実験の時に話題に持ち出してみようか。そう脳裏に過ぎったのである。

 

『だけど、これだけは分かるから言わせてもらう』

 

 スターダストは重苦しく口を開けた。

 

『ポイント・オブ・ノーリターン…………。人類はもう引き返すことができないところにあることを』

 

 

 …………

 ……

 

 

 ——ある日、ある時間。

 

 ——新豊州、スティールモンド研究センター。

 ——霊魂研究部門、エネルギー開発機関。

 

 

 白衣を纏った少女は楽しげに歩を進める。

 

 歩む背筋は力強く、薄幸な肌は雪のように儚い。

 風に揺れる黒髪は、蚕の糸のように鮮やかで淡い。

 

 気品ある佇まいは海のように穏やかだった。

 

 それが彼女にとってのいつも通り。

 気骨と胆力、そして自信に満ち溢れた足踏みだ。

 

 絶世の美少女とも呼べるほどの彼女に声をかけるものはいない。

 その圧倒的な存在感から恐れ慄いているわけではない。その存在感とはまた違う圧倒的な存在感を放つ奇天烈な物を彼女が身につけているからだ。

 

 白衣の下に着ている黒いシャツにプリントされた縦書きの二字熟語——。

 

 

 

 

 

 『生存』———。

 

 

 

 

 

 その強烈な存在と違和感から、誰も声をかけることなどできないのだ。

 

 

「バイジュウ博士……。その個性的なシャツは何ですか?」

 

 バイジュウが研究室に入った時、そこにいる一人の男性研究員からようやく言及される。

 そこでバイジュウは少し胸を張って、自慢するように言った。

 

「願掛けですよ。ナウくてヤングでトレンディだと思いませんか?」

 

「ナウくてヤングでトレンディなら、ナウくてヤングでトレンディなんて言葉は使いません」

 

「それに願掛けって……今時らしくありませんよ。『魂』のエネルギー研究の成果を願うなら、成就とか達成の方がいいんじゃないんですか?」

 

 女性研究員が発した単語——『魂』のエネルギー。

 これこそがバイジュウが今この研究センターにいる理由だ。

 

 バイジュウは体温維持・完全記憶能力・超人的な暗算能力・光の粒子の放出……と様々な特異体質と能力があるが、『OS事件』の時にレンと触れ合ったことで新たな力が目覚めたのだ。

 

 それは『魂を認識する』能力——。ある意味ではソヤの共感覚にも近い。

 これによってバイジュウは世界に新たな法則があるのを確信し、この研究センターで実現しようと、世界を渡り歩いている時に取得した博士号を駆使してSIDの監視の下で所属している。

 

『魂を認識する』——。その言葉に嘘偽りも齟齬もない。

 

 世界中には様々な人の『魂』が渦巻いており、誰かが誰かを思う時にその人の『魂』が触れ合い、繋がりを求めようとする力をその目で見えるのだ。

 それは無限大に広がっていって、新たな次元へと昇華する瞬間を街中を眺めれば驚くほど体験できる。

 

 それが最も強く感じたのは『OS事件』での一幕、レンとの繋がりを持った影——。あれこそ『魂』が新たな次元へと昇華されて、たどり着いた一種の果て。

 

 それによって……バイジュウは一つの考えを得る。

 私の『魂』も彼女を思い続け、繋がりを求めようとすれば、いつかはたどり着けるのではないかと……。

 

 

 

 ——私ならね……好きな人を救う。

 

 

 

 そして今度こそ言わなければならない。

 

 

 

 ——次のクリスマスまでには少し早いけど、私が予約を入れてもいいかな?

 

 

 

 今まで伝えたくても伝えられなかった言葉を。

 

 

 

 ——ほら笑って。

 

 

 

 その言葉が誇れる自分であることを、胸を張って笑える自分であることを。

 

 そのためには——生きるしかないのだ。

 

 

 

「私が何より願うのがこれなんです。……生きてさえいれば、どんな失敗も、どんな苦境も、どんな過ちも…………いつか笑い話にできますから」

 

「そんな前向きなネガティブやめてくださいよっ。研究者たる者、成功や実在を証明することが生きがいなんですから!」

 

「ええ、ですからバイジュウ博士の研究は私達の手で絶対成功させます! 何年かかろうと失敗や過ちなんてことはありませんっ!」

 

 二人の研究員の言葉は、バイジュウにとって嬉しい物であった。こういう些細なことも、彼女に伝えなければならない——。バイジュウはそれを胸に今も生き続ける。

 

「諸君、紅茶淹れ終わったよ」

 

 備え付けの台所から青髭が少々残る男性がバイジュウの横へと歩み寄る。バイジュウが所属している霊魂研究部門の主任『ヴォルフガング教授』だ。

 誰にも自然体で、そよ風に仰がれる草のように掴みどころがない教授だが、霊魂研究において派生した成果において様々な実績と特許を取得しているというその道の権威として有名な人物であり、バイジュウとして学者の一人と大変興味深いこともあり、この部門に所属されることは非常に喜ばしいことではあった。

 

「教授、僕のレモンティーにはシロップと氷くださーい」

 

「私のアップルティーには砂糖だけください」

 

 二人の研究員は教授の立場など知らんと言わんばかりに、遠慮なく自分達の要望を伝えていく。

 

「少しは年寄りを労りたまえ」

 

「いいじゃないですか。秋も冷え込んだこの頃、色恋沙汰も運動もない研究員にとって、こういう優しさという温もりを感じないと凍死するんですぅー」

 

「それとこれとは別問題です。おっと、バイジュウ君は何を入れるかね?」

 

「そうですね……」

 

 何気ない教授達の会話を聞いて、バイジュウはふとある事を思い出した。

 

「でしたら——」

 

 それは『彼女』と出会ってから少し経ってからのこと。

 

 

 …………

 ……

 

 

 大学教授の金庫番号を教えた波乱の出会いから初めての秋模様。特に何かをするわけでもなく、バイジュウは冷淡に自身の研究と学問に明け暮れ、彼女は引き続き目的がある様子で大学生活を満喫していた頃。

 

「今年の秋も最後なんだね〜。今年はバイジュウちゃんと会ったり、色々とあったけど……う〜ん、実にアレだね。何一つ秋っぽいことしてないっ!」

 

 ある日、終わりを告げる秋模様を楽しもうと彼女に誘われて、バイジュウは街中のベンチで本を片手にマイペースに過ごす。

 

「私は読書の秋を楽しみましたけど……」

 

「私はバイジュウちゃんとの思い出を作りたいの〜〜〜〜!! 読書で思い出作ろうとしたら、図書館でバニーガールになるぐらいしかないじゃ〜〜んっ!!」

 

「出禁になるので止めてください」

 

「げっ……。バイジュウちゃん激おこプンプン丸?」

 

「プンプンです。バイジュウちゃん、激おこです」

 

 わざとらしくバイジュウは怒り、彼女は「ごめんよ〜」とこれまたわざとらしく涙目になりながら、バイジュウへ抱きつきながら謝り続ける。

 

 これがバイジュウと彼女の関係だ。自分たちの距離感が誰よりも理解しているからこそ、気兼ねなくふざけるし、他愛のない会話も楽しくてついつい付き合ってしまう。

 

「…………くしゅん!」

 

「えっ、風邪? せっかくの休みに風邪なんか引いたらもったいない! どうするマフラー巻く?」

 

「誰かが噂をしてるだけです。……体質のことは覚えてますよね?」

 

「あったり前じゃん! 私がバイジュウちゃんのことについて忘れるわけないじゃん!」

 

「ですから平気です。私が風邪を引くことは…………ちゅんっ!」

 

「四六時中薄手の白いワンピースで、くしゃみ連打されたら説得力ないね…………。ちょい待ちな、嬢ちゃん……」

 

 彼女はベンチから腰を上げて、目の前にあるコーヒーショップに駆け込む。屋外から持ち帰りができる構成となっている店であり、バイジュウの目からでも分かるくらい、テキパキと迷いなく彼女は注文を始めるのが見えた。

 

 ……私、コーヒーは苦手なんだけどなぁ。

 

 バイジュウはそう考えると、彼女は自信満々の笑顔で二つの保温用カップ持って戻ってきた。

 

「お待たせ! バイジュウちゃんコーヒー苦手だったよね? だから別のにしといたよ〜♪」

 

「そんなことまで覚えていたんですね」

 

「何度も言わせんなって〜♪ 私はバイジュウちゃんのことなら忘れるわけないし、ずっと側にいるんだからそれぐらい分かるって〜♪」

 

 そう言いながら彼女は温かいカップを差し出してきて……。

 

「ほら、あんたの——-」

 

 

 ……

 …………

 

 

「……『ミルク』を一つお願いします」

 

 秋空のアフターヌーンティー。

 

 見上げた空は19年前と変わらずに、ただ気ままに流れ続ける。

 

 思い出は色褪せることはなく、今日も景色を彩ってくれる。

 

 宇宙も、海も、星も、花も、命も、魂も。

 

 

 

 

 ——あなたは海が『何色』に見えますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 未来の変革を確認。

 情報の再度収集と更新を開始。

 

 

 

 

 

 …………? 

 

 

 

 

 情報生命体『星尘』との通信が途絶。

 情報生命体『海伊』との通信が途絶。

 

 

 

 

 …………情報不足。推測不可能。観測推奨。

 

 

 

 

 ……………議論終了。

 これより私は絶対中立という役割を破棄する。

 

 

 

 

 

 ソレは無表情で本を閉じる。

 散乱された本の数々を足蹴にして、青く広がる球体を見つめた。

 

 球体と鏡合わせのようにソレは見つめ合い、やがて青くて無機質な瞳が生まれる。瞳が瞬く時、ソレは最初からそうであったように小柄な少女へと姿を変えた。

 

 

 

 

 

「■■■——。□□□——。gんg——。げんご——。ゲンゴ——。言語——。よし、これでいいな。出力完了」

 

 

 

 

 

 少女は青く広がる球体——。

 『地球』を眺めながら、宣戦布告のように言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は『■■■■』。プレアデス星団の観測者」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 くぅ〜疲れましたw これにて完結です!

 ……って一昔前のSSで流行っていたイメージが抜けないこの頃、とりあえずは第一章【深海浮上】は完結しました。

 たくさんの感想、お気に入り、評価などをくださった方々に感謝と謝罪を伝えます。
 ネタバレ防止のために感想の返信は一度客観視して、客観した文章をもう一度客観視して問題ないなら返信という形を取っていたため、感想に対する自分が伝えたい思いが非常に淡白になっていました。

 評価に関してはどんな評価であれ嬉しい限りです。高評価ならば評価してくれた方の感性に響いて嬉しいと感じましたし、低評価ならば魔女兵器の世界観を伝えきれない自分の未熟さを感じて一層精進しようと頑張りました。

 詳しい補足についてはマイページの『活動報告』に記載してますので、ご興味がある方はどうぞ。


・今後の更新について

 現在テロップ自体の製作はしている……。というより実は根本自体は第一章製作前から出来ています。その名残が最初にあったりします。
 ただ、これだとキャラは全員登場せず、後の事を考えると二次小説から興味を持って初めて見た人には、個性的な魔女兵器キャラに二章、三章と突如出てきて脳が破壊される恐れもあるので、一度保留になり『深海浮上』を改めて作りました。結果的に現在繋がりがある魔女達はほとんど出せて一安心です。

 そんなわけで現在執筆中です。予定では第二章は15〜20節ほどで、10節くらいストックができたら更新を再開します。資料とかを調べたりと並行作業するので、恐らく半月〜一ヶ月ほどかかると思われます。大体10月くらいを目安にしていただけたらと思います。

 それまでの間は気分転換に書いた番外編や、ゲームの『少女と皇帝』のようなショートストーリーなどをちょくちょく更新して行けたらと思いますので、今後ともお暇な時間にでも流し読みして頂けたら幸いです。



・最後に

 次回のタイトルは第二章【神統遊戯】(仮名)を予定しておりますのが、その前に第一章後日談のショートストーリー【少女と偶像】を緩〜〜〜く書きますので、今後の更新をお楽しみくださいませ。そちらに関しては多分4節ぐらいになります。

 今後も日本版『魔女兵器』のサービス再開や展開、中国版での本格的なサービス展開なども含め読者皆様の二次創作活動なども魂から願いつつ、一度筆を置きます。

 それでは…………ノシ。


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閑話① 【少女と偶像】
第1節 〜仮想と偶像〜


【予定】全4節

9月24日→第2節投稿
9月31日→第3節、第4節投稿


《ヨーヨー、Yohtube(ヨーチューブ)! 新時代Vtuber姉妹の〜〜〜》

 

《スターダストと》

 

《オーシャンです!》

 

《今回実況するのは大人気ゲーム『Fall Girls』です。端的に言えば敗者の山に勝者が一人佇む弱肉強食のゲームです》

 

《もちろんお姉ちゃんなんかに負けません! ……ファッキュー! 私の尻尾返せぇー!》

 

《ゲームにムキになっては…………クソカス野良チーターがぁあああああああ!! チーターならせめて走れ! 空飛んでんじゃねぇ!! 落ちろ蚊トンボがぁ!!!》

 

 

 …………

 ……

 

 

《うんうん……♪ 中々にエモ〜い感じの姉妹だね……♪》

 

《私、『高崎明良』はここに宣言しますっ! この姉妹とコラボをするということをっ!!》

 

 

 ……

 …………

 

 

「なんだこれ……」

 

「なにこれ……」

 

「なによこれ……」

 

「なんじゃろねこりゃ……」

 

「キリマンジャロコーヒー……」

 

 最後は意味わからない。俺、アニー、ラファエル、シンチェン、ハイイーと順にテレビに放送されてるワイドショーの企画の一つ『今日の秋良ちゃん』を見て思ったことを各々口にしていた。

 

「紅茶淹れ終わりました」

 

 そして俺達が屯してる家の主、バイジュウがトレーを持って入ってきた。トレーには色とりどりのマグカップが6個置かれている。そのうち二つは耐熱性プラスチックカップであり、その二つをシンチェンとハイイーの前に置いた。

 

「はい、シンチェンとハイイーにはキャラメルミルクティーです」

 

「ありがとー」 

 

「ありがとー」

 

 輪唱するように二人はお礼を言う。順に俺達の分も置かれていき、各々自由な分配で砂糖やミルクを掻き混ぜる。

 

 現在、俺達はバイジュウの私室で寛いでいる状態だ。変に凝ったインテリアとか一切なく、壁という壁には本棚が設置されており、その全てが本のみで埋め尽くされている。

 しかもそれだけでは飽き足りず彼女が普段使うベッドの横や枕元にも山積みとなった本の数々があり、少しズボラなところがあるのが窺える。とはいっても埃は全然ないし、テーブルも本があること以外は小綺麗に纏まっているものだ。視界に煩い存在を放つものがなく、換気窓もほどほどに風が入るものだから眠気が来るほど心地よくて、穴場の図書館や放課後の教室という印象さえ受ける。

 

 そんなバイジュウの部屋に集まっている理由に関しては…………。

 うん………………先日、返却された美術テストにて赤点ギリギリの成績を俺は叩き出したのが原因だ。それに危機感を感じたラファエルが我らのマリル様と直談判。了承を得て「ついでに他の成績も見てもらえ」ということで学者肌であるバイジュウの家で勉強会をすることになったのだ。

 

 そしてラファエルから美術、歴史、生物学を教えてもらったところで疲労が爆発した俺は休憩を希望。どこぞのギターアニメみたいに、何とかティータイムと洒落込んだわけだ。

 

 だという時に、知っている顔ぶれが知らない間にVtuberを名乗り、知っているアイドルが意味不明なことを言い出したら、それはティータイムの混乱の渦に呑まれてしまうのは必然なのだ。

 

「スターダストさんとオーシャンさんと一緒に……」

 

 バイジュウは自分の分であるミルクティーを口にしながら呟いた。

 

「う〜〜〜〜〜〜ん。いや〜、売れっ子の秋良ちゃんがコラボする自体は不思議じゃないんだが…………そもそもとして何でVtuberやってるの、あの姉妹ッ!?」

 

『OS事件』から一週間、ある程度のことはマリルから聞いている。

 あの姉妹は情報生命体という一次元ほど違う存在であり、彼女達に生身というものは存在しない。協力する理由も、情報を収集する時に下手なトラブル沙汰は起こしたくないということ。そしてシンチェンとハイイーを…………どういう形であれ干渉できる繋がりがあるということ。

 

 そこまでしか俺は聞いていない。俺だってもう少し詳しいことを知りたいと言ったが、それ以上のことは知る必要がない、とマリルに一蹴されてしまったのだ。

 

 まあ難しい話は聞いても通り過ぎること多いからな……。マリル達でさえ理解できてない雰囲気はあったし、そこに俺が割り込んでもチンプンカンプンなのは間違いない。

 だから、とりあえずは『すごい存在』として認識してはいたけど……。

 

 ……それがVtuber言ってるの見たら困惑もするだろう!?

 

「外の世界に興味あるとは言っていたし、自分達なりに繋がろうとした結果じゃない?」

 

「いつかスパチャで投げ銭守銭奴として染まるんでしょうね……」

 

「ラファエル、配信者全員がそうであるように聞こえるんですけど」

 

「そう聞こえないなら小学生から道徳と国語の授業をやり直しなさい。けど貶してはないわよ。むしろ金に溺れるのは金を持つものしかできない特権であり義務。守銭奴全開で金を撒き散らしたほうが金回りが良くなっていいのよ」

 

 ラスボス系お嬢様はいつもの超然とした態度で紅茶を優雅に飲む。

 

「見てみてレンちゃん。あの姉妹『星之海』ってグループ名でチャンネル作ってる。ゲーム実況どころか歌ってみたとかやってる……」

 

「活動から一週間しか経ってないのに再生数が全部50万超えてやがる…………」

 

 今の再生数は昔と違って七年戦争の影響で利用者数が減少してるため、ほぼ倍の100万再生と思った方がいい。

 

 …………俺が気まぐれでゲーム実況あげた時なんか再生数31回で、低評価が二つついて速攻で心折れたなぁ。

 

「姉妹でトークしてるから実況しながら場を繋ぐのがスムーズだったり、クロストークをしないから聞き取りやすいし、そもそもゲーム自体もそこそこ上手い……というかレンちゃんみたい」

 

「歌ってみたも歌詞の内容に触れないでおくけど、普通に歌の技術もプロ級ね……あの二人本当にただの情報生命体かしら?」

 

 ただの情報生命体って何だよ。情報生命体の時点で超常だわ。

 

「あの〜〜、一つ聞いていいですか?」

 

「いいよバイジュウ。どんなこと?」

 

「Vtuberって何ですか? Yohtuberなら知ってるんですけど……」

 

 世界が凍てついた。まるでVHSやビデオデッキが伝わらない昭和世代に俺達は固まってしまう。今回の場合は逆ではあるのだが。

 

 そこで思い出す。バイジュウが19年間も眠り続けていた。遅れた知識を取り戻すために彼女は見聞を広めに世界中を回ったが…………確かにこういう娯楽系まで手を出すのは難しいかもしれない。

 

「そうか……19年前だと2018年か……」

 

 その時だと…………まだ黎明期か。Vtuberの歴史は2016年からアイキズナを中心として活動が盛んになったけど、流行語大賞となって本格的に表に出始めたのは2018年から2019年あたりだ。確かにその時なら今やメジャーとなったVtuberという単語も聞き覚えがないのも仕方ない。

 

 …………異質物の研究が盛んになったのもその辺りだったよな。OS事件での音声データでも、ドルフィンがジョーンズ博士が再発見云々とか言っていたし。

 

「う〜〜〜〜ん。どう説明すればいいのかなぁ」

 

「そう悩む必要もないわよ。新しい表現方法の一つ、といえば簡潔に済むわ」

 

 我らのラファエルが説明を始めた。

 

「ある著名人が口にしたわ。Vtuberとは性別や障害といったハンディキャップを乗り越えて、誰もが活躍できるデジタルサイボーグ的な存在だと。これは間違いじゃないわね。ボイスチェンジャーやモーションセンサーも高性能化して男女問わず何にでもなれてしまう、もちろん動物にでもね。これは情報社会において自分の『肉体(リアル)』を晒さずに『魂(アイデンティティ)』を表現するという意味でも非常に都合が良いのよ」

 

「…………随分詳しいっすね」

 

「芸術とは現代の価値観と常に向き合うものよ。私自身バーチャルを介して表現するのは性分じゃないけど、表現としては面白いものよ。…………だってねぇ?」

 

 俺を見ながらラファエルは意味深に笑う。……言いたいことが分かるのが、随分と長い付き合いになったことを実感する。

 

「まあその程度よ。根本的なものはYohtuberの基本から一切離れていない。『なりたい自分になれる』『制約を乗り越えることができる』ということはトランスジェンダーやデミ・ヒューマンから解放されて大らかに活動できる意味を持つ。…………そういう自由になった自己を表現することで『自分を好きになる』という人種も多いわ」

 

「自分を好きになる?」

 

「アイデンティティを確立させるのは、何よりも自分が自分を好きになることよ。我思う故に我あり、とでも言っていいわね」

 

「自分が嫌いでも、自分を好きになってくれる人がいれば確立できるんじゃないの?」

 

 映画でもよくあるし。

 

「お前は自分の嫌いな教師の話を真面目に聞く? それと同じで自分で自分が嫌いな人間は、何を思っても何を好きになっても、嫌いな自分を通して見てしまうから結果的に何も関心を抱けない。アンタの例題は恋人をキッカケに自分を好きになるハートフルストーリー…………アンタには無縁なものよ」

 

 お気楽な能天気で良かったわね、とでも言いたいのか!?

 

「だから宗教というのものはある……。自分の価値を絶対的な何に委ねることで楽になる。その『何か』は別に神様じゃなくていい、芸能人やアイドルでも問題ない。ある意味ではその偶像を自分に投影することで自己を保つのがVtuberとして一面でもある」

 

「まあここまでいくと、もっと根本的な問題になるから本題とは無縁ね」と言ってラファエルは紅茶を口にして話を終わらせた。

 

「こんなところかしら……」

 

「人間の心理というものは解放的になっているのに、根本的な『魂』は一切変わらないんですね……」

 

「…………『魂』が不変だからこそ人間は2000年以上も文明を維持できてる。悲観的に捉えることでもないわ」

 

 …………一つ言っていいか。

 

「アニー、俺はこの話についていけてない……」

 

「私もだよ」

 

「偶像とはいったい……うごごごご」

 

「わたしは、ネオハイイー。すべての記憶、すべての存在が永遠に分からない……」

 

 こんな無能なラスボスは嫌だ。

 雑談をし終えるとCMが終わり『今日の高崎ちゃん』の後半が始まる。

 

《はい! というわけで本日は新豊州の学区にあるライブハウスに来ています! こちらでライブを行う予定となっておりまして、詳細は下のテロップで…………スタッフさ〜ん! テロップ出てないですよ〜!》

 

 この身体になってから高崎秋良ちゃんのライブや推し活もしなくなったよな……。SIDの任務とかで忙しくなったのと、毎日女の子生活の気苦労、それに俺個人のネット購入履歴はマリルに筒抜けなせいでタペストリーやアクリルスタンドなどのコレクション性が高くて部屋の中で嵩むものがが手元に置きにくいのもある。

 今の俺にできるのはジュースなどのコラボ商品、キーホルダー、ダウンロード販売の楽曲を購入するぐらいだ。収納スペースって残酷だよね。

 

《物販も選り取り見取り! ライブハウス限定のペンライトに、先行発売のコメンタリー付き写真集などもありますので、是非皆さまお越し下さいませ! またクリスマスライブパーティのチケットも現在予約受付中! 今年の聖夜は私と一緒に歌い明かそうッ!》

 

 クリスマスライブって2ヶ月以上先だな…………余裕があれば行きたいんだよな。

 

《では最後に今日の運勢です! 今日の主役となるラッキーな人は…………乙女座ですッ! 特に金運がいいね、占い結果によると…………うん! なんかいい感じ!》

 

「漢字読めてないのかしら?」

 

《えっ? ええっと…………本当ですか!? 皆さんコラボに対するコメントありがとう! おかげでトレンドに乗りました!》

 

「露骨にカンペ見たわね」

 

 ラファエルはそう言いながらスマホを操作して「本当にトレンドにいるわ」と呟く。俺もすぐさま確認すると、トレンド一位には『星之海』が出てくる。

 

 続いて『秋良ちゃん』『高崎秋良ちゃん』『#星之海コラボ』とかが出てくる。

 

 ……って待て!? この星之海コラボって何!? こんなタグ付け番宣してないぞ!?

 

「ソシャゲで実装されるみたいだよ、星之海姉妹。性能は環境崩壊待ったなし、とか言われてるね……」

 

「チャンネル作ってから一週間だろっ!? モデリングとかどうなるんだよ!?」

 

「大丈夫じゃない? あのパズルゲームだから絵さえあれば性能調整するだけだし。ほら20コンボ強化が五つあるよ。単体で759,375倍だよ」

 

「げー、しかも二人をリダフレにすると全パラ補正25倍、コンボ合計10加算、デバフ系目覚め無効、毒ダメと爆弾ダメ無効、固定追い討ち10億ダメ、ダメ超激減、50,000以上回復したらあらゆる状態異常全解除とか壊れじゃん。攻撃力10,000倍とか書いてるけど、これ全パラ補正も合わせると実質250,000倍だし……実質コンプガチャじゃん」

 

「インフレすごいけど、これ回復手段を無効にして覚醒とスキル無効に、さらにフレンドリーダースキル無効の攻撃くらうとかいう弱点あるよね……」

 

「皆さまの話題についていけません……。私の時は256倍の攻撃倍率だった気が……」

 

 しゃーない。年齢の逆算から言えばバイジュウは30代半ばの感性と噛み合う世代だ。今時のぶっ壊れ具合は当時のビット数の都合も解消してダメージ上限増えて、それに伴って相手のHPもこちらの火力も何千倍以上も差が出てる。

 

「これが人気キャラに対する贔屓ね……。既存のキャラが滅茶苦茶じゃない」

 

「金の力でシステム組んで楽してるお嬢様が言っていいセリフじゃねぇ……」

 

 こんな緩い感じで俺達の当たり障りない休日は過ぎていく。

 

「おまたせ〜♪ 検査通院からエミリオが帰ってきましたぁ〜!」

 

「ほら土産だ。じゃがりことかカントリーマアムとか手が汚れにくいのしといたぞ」

 

 ここでSIDの配置によって我らの御桜川女子高校に留学という形で入学してくるエミリオとヴィラがやってきた。理由は俺と似たようなもので、今後の学校生活において成績が追いついていけるかの再確認だ。

 

「ここらで休憩もお終いにしましょうか。女装癖の頭も締め直さないといけないし」

 

「ラファエルも私の学力見てよね〜♪ 同学年なんだから♪」

 

「私が世話役するのは女装癖だけで勘弁したいわ。ニュクスにでも聞きなさい」

 

「じゃあ、レンちゃんと合わせてヴィラの分だけでも!」

 

「おい、エミ。別にラファエルに見てもらう心配はないぞ」

 

「ダメよ。学力に問題なくともコミュニケーション支障があったら学校生活も楽しめないわよ? ヴィラはレンちゃんと同学年だから、ここは胸に飛びかかる勢いでラファエルのことを先輩って呼ばないと! もちろん私にも!」

 

「先輩呼びはエミだけにさせてくれ……」

 

「私は先輩って柄じゃないわよ」

 

「えっ、でもレンちゃんには呼ばせてるよね?」

 

「それは立場の違いとして分かりやすい敬称よ」

 

「エミさんとヴィラさーん! 何が飲みたいですかー!」

 

「じゃあ炭酸系あったらお願いするわ!」

 

「アタシはバイジュウにおまかせしとく!」

 

 姦しいとは文字通りこれだな。この場合、姦姦(かしま)しいって書く方が正しいけど。

 

 まあ、これからも和気藹々とした日常は一層厚くなっていくのだろう。バイジュウは御桜川女子高校ではなく、一人だけ目的があるから大学の研究機関に行くみたいだけど……。それでもたまの休日に集まって戯れれば、それだけで輝かしいものになると思う。

 

「————ん? 電話だ。……はい、アニーです。……うん。……うんうん、了解。じゃあ今からレンちゃんに変わるね」

 

 突如としてかかってきた電話。アニーにかかってくるのは大抵SID関係者からであり、恐らくはマリルか愛衣のどちらかがだ。そして急な依頼が発生して……というのがよくあるケースだよな。

 だからアニーの表情は少しずつ険しくは…………ならない。というより嬉しそうな雰囲気すら湧いている。

 

「もしもしマリル? 今変わったけど俺に用事ってどんな——」

 

 そんな調子だったから、俺も特に警戒心などもつことなど電話を受ける。

 だからマリルが今から話す内容が、目玉が飛び出すほどの驚くものであるという認識や覚悟さえ持っていなかった。

 

『緊急のお仕事だ。…………憧れのアイドル、高崎秋良と出会えるぞ』

 

 …………マジ?



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第2節 〜憧憬と夢想〜

カレンダー見たら9月31日なんてないじゃない!

……というわけで9月30日に第3節と第4節公開するように予定変更です。


「わたくし『studio imagination define』所属のマネージャー、ベアトリーチェ• ポルティナーリと申します。こちらはわたくしが担当しているタレントの…………」

 

「レ、レンと言います! きょ、今日はよ、よよよ、よろしくお願いしましゅ!!」

 

 やべ、噛んだ。

 

「よろしくね〜レンちゃん♪ 私は高崎明良! 今日は一緒に頑張ろうッ!」

 

 俺の手を秋良ちゃんが握ってくれる。

 

 ————ほわぁあああああああああ!! 幸せが心の底から漲ってくるぅ〜!!

 

「う〜〜ん…………。レンちゃんどこかであったことある?」

 

「い、いや! ありません!」

 

 せいぜい男の時に握手会やサイン会とかで数十秒話したぐらいです!

 

「彼女はいま事務所一推しのタレントでね、色々なコマーシャルでイメージガールとして出てるからその影響じゃないかしら」

 

「あぁ〜! そういえば電池のCMとかで見たことあるかも!」

 

 そんなわけで現在俺は彼女がいる轟(とどろき)スタジオへとお邪魔している。

 

 事情を話すとまあ非常に下らないというか、なんというか…………。自由に放置していた星之海姉妹ことスターダストとオーシャンが秋良ちゃんとコラボするを二つ返事で姉妹が勝手に了承。その帳尻合わせで俺とベアトリーチェがこうして彼女と直接対面して話すことになったのだ。

 

 とはいっても俺はあくまで秋良ちゃんとの話し相手で、本命はコラボの出資者となるスポンサーとの対談だ。スポンサーが『男性』であることはSIDは既に把握しているので、穏便な『話し合い』のためにベアトリーチェの『交渉術』を期待して呼んだ……そんなところだ。

 

 ……話し合いとは上手く言いくるめてるよな。無自覚な洗脳(魅了)は果たして話し合いと呼べるのだろうか。あまり深く考えないでおこう。

 

「じゃあ私は関係者各位に挨拶してくるから、後は段取り通りお願いね」

 

「わかりました!」

 

 ベアトリーチェは妖しいウインクを一つすると、待合室からヒールの音を響かせながら自分の職務を全うしに行く。

 

 流れる沈黙。未だに握られている秋良ちゃんの手はアニーやラファエルとは違って………………違って…………どういえばいいんだ? 

 ラファエルみたいに品やかな感じではないし、アニーみたいにタコだらけでもない。かといってマリルみたいに大人びた感じもないし、イルカみたいな幼い感じもない。

 

 今まで感じたことがない感触…………。何て言うんだろう。

 

「…………レンちゃん、本当に女の子?」

 

「うぇ!? お、俺はどう見ても女の子だろう!? ……いや、女の子だよ!?」

 

 突然とした秋良ちゃんの質問に俺は語尾を取り繕う余裕もなく返答してしまう。そんなおかしな俺の反応に、彼女は「クスクス」と微笑した。

 

「ごめんね、変なこと言っちゃって。レンちゃんの仕草とか顔とか手とか触って何となくなんだけどね…………ライブを見に来た男の子っぽいと思っちゃったんだ」

 

 合ってます。寸分違わず合っております。

 

「でも不思議だなぁ、君には本当に初めて会った気がしない。私はファンの顔とかなるべく覚えるようにしてるんだけど…………会ったことあるのに、会ったことがない不思議な感じ…………」

 

 そうですね。確かに『男』の時は1ファンとしてライブでサイリウム振ったり、握手会が触れた手が嬉しすぎて三日間手を洗わなかったりしましたけど、いま現在『女』の状態で会うのは今日が初めてです。

 

 ……なんて、口が裂けても絶対言っちゃいけない。

 

「まあ、今日は一緒に頑張ろうか! 今日の予定はどんな感じで組まれてるの?」

 

「えーっと……午前中は撮影が中心だね。後で合成するけど、俺はスターダストやオーシャンのモデルとして高崎さんの週刊誌などの特集用写真を撮ったり、俺個人としては新豊州の音楽を纏めたベストアルバムのジャケット撮影とか……」

 

 こうして午前最初の撮影が始まる。

 とはいっても、その重労働は俺が今まで体験したどんな仕事よりも充実で疲労が溜まるものだったと断言させていただく。

 

 

 …………

 ……

 

「秋良ちゃん、もっと大袈裟に笑っていいよ〜。Vtuber相手だとどうしても2.5次元に合わせる必要があるから、わざとらしいくらいの方が合いやすいからね〜」

 

「は〜い! じゃあ、こう指で口角を上げるのとかどうですか?」

 

「ナイスアイディア! だったら口角をピースサインで上げようか! 新豊州限定の写真集だから海外メディアには注意する必要ないし。あっ、レンちゃんはオーシャンみたいに活発乙女全開で片足を全力で曲げていいよ〜。スカートが捲れる恥じらいは分かるけど、どうせポーズを基に合成するからパンツは晒されないし」

 

「は、はい!」

 

 ……

 ……

 

「レンちゃん、もう少しお淑やかな感じで秋良ちゃんの肩に寄り掛かることできない?」

 

「これ以上ですか!?」

 

「これ以上って言っても腰引けてるからね……。スターダストをイメージして……一見大人しそうだけど、どこか隠しきれない妹と似た活発というか活力に満ちたポーズ……その辺をね」

 

「どんなん……?」

 

「頑張ろう、レンちゃん!」

 

 ……

 ……

 

「さあ、続いて単独でジャケット撮影だ。まずは秋良ちゃんから。今回はアルバム初回限定版の特典としてアルバム内の何曲かのイメージに合う写真撮るからね。最初はクール系とかにする? スイッチ入る?」

 

「ふぅ〜…………。——はい、大丈夫です」

 

「流石秋良ちゃん♪ ツインテも解いて一気に大人っぽくなったね……。けど、絵として寂しいからもう一つ小物とかでアクセント欲しいなぁ〜」

 

「ギターを抱く感じでいいですか?」

 

「抱くというより、撫でる感じのほうがいいかな。……レンちゃんの撮影で準備した廃材の大型スピーカーあるから、そこに背を預けてとかしてみる?」

 

「分かりました」

 

 ……

 ……

 

「いいねぇ、レンちゃん……さっきまでとは雲泥の差だね。見た目に反してクール系なビジュアルが似合う似合う♪ 男の子っぽい雰囲気もそうだけど、こういうのに憧れてたり?」

 

「はは、そうっすね……。ところで、このほぼパンツ同然のホットパンツ何とかなりません? こう左足を顔より高く上げると見えそうで……」

 

「それはマイクロミニショートっていうの。それにカメラの位置を調整して右腿で鼠蹊部が隠れるようにしてるからいいでしょう。…………ここまでイメージに合うと思ってなかったし、追加オーダーしてもいいかな?」

 

「どんな感じですか?」

 

「足のポーズはそのままで、右肘をスピーカーの上に乗せて左手はマイクを上向きに持ち上げようか。こうすれば一層ダーク系な絵になるはず……あっ、ついでにフードも深く被ろうか!」

 

「キッツイな、この姿勢ッ!?」

 

 ……

 …………

 

 

「一度休憩入りま〜す! 一時間後に撮影再開です!」

 

「お疲れ様で〜す!」

 

「でーすぅ……」

 

 かたや元気溌剌な秋良ちゃん。かたや呼吸困難な俺。バイタリティの差が如実に出ている。やっぱりこういうアイドル系の仕事をしている人って、根本的な体力というか活力が違いすぎる……!

 

「高崎さん凄いですね……。俺なんかもうヘトヘトで……」

 

 別に特に激しい運動をしたわけでもないのに、昼食時間でさえ俺は固形物を飲み込むほどの余力はなく、お茶を口に入れるぐらいしかできない。だというのに彼女は予めて購入していたコンビニ袋からおにぎり、スナックバー、サラダチキン、果汁ジュースなどが色々出てきては口の中に納められていく。

 

「はむはむ…………。こうでもしないとエネルギーが持たないからね。今は忙しい時期だからCD収録やライブの打ち合わせ、テレビ出演、星之海コラ……それに来週にはMV撮影で地方に行かないといけないしね……。練習も疎かにするわけにはいかないから、この空き時間で少しでもギターに触りたいし」

 

 秋良ちゃんは手早く昼食を済ませてウェットティッシュで手を拭くと、宣言通りギターを持って機材に配線を繋ぎ始める。弾き語りみたいなことをするのかと思いきや、ヘッドフォンを付けるとギターの単音を出しては弦に触れてと何かしているようだ。

 

「何してるんですか?」

 

「チューニング。これで弦を調整して音の基盤を作ってから演奏しないと、他と合わせた時に不協和音とかが起きるの」

 

 彼女は手のひらサイズの機材をを見つめながら応える。……そうか、あれがよく単語だけ聞くチューナーというやつなのか。チューナーで何かしらのデータを見て音を調整……つまりチューニングするというわけね。

 

「へぇ〜、ギターってそんなことするんだ……」

 

「そう♪ …………うん、これでいいかな」

 

 そうして彼女は本格的な練習を始める。目を瞑り、足でリズムを刻みながら指の感覚だけで弦を弾いて音を奏でる。耳を澄ませば鼻歌で歌を歌っている。思っている以上に本格的だ。

 

 一曲を演奏し終えて彼女は深呼吸を一つする。神経を再集中させて再び指を弦に当てると、今度はまた違った音が室内に響いてきた。

 

「音変わったけど大丈夫!? そのチューニングというのズレたりとか……」

 

「ん? 変わってないよ? 変えたのはこっち♪」

 

 焦る俺に、彼女は平常心のまま指で摘んでいる三角形の小物を見せてくれる。

 

「これはギターを弾くのに必要な『ピック』っていう道具なの。ピックだけでも色々な素材と形があってね、今使っているのはウルテム製のティアドロップのHARD。さっき使っていたのはカーボン製ティアドロップのHARD」

 

「ティアドロップ? HARD?」

 

「形のこと。これは涙みたいな感じをしているからティアドロップ。他にもトライアングルとか指につけるフィンガーとかある。HARDはピック自体に厚さのことで、これらがどれか一つでも変わるだけで音も変わるよ」

 

「うそっ!?」

 

「これが本当なんだ♪ それどころかアコースティックギターは製作した時の素材だけで大きく変わるからね……同じように弦とかでも……。ほら、SNSとかでさ色々なコップに水入れて音を奏でるの見たことある? あれと原理は似てるの」

 

 それなら見たことある。コップの縁に指を滑らせて音を出したり、水量が違うコップを箸やスプーンや爪とかで叩いて演奏するやつとかあった。

 

 あぁ……そう考えるとイメージしやすい。ピックは箸やスプーンで、コップの材質や水量とかがギターの素材やチューニングみたいなものになるのか。

 

「まあ、エレキギターも周りの音も吸い込むし機材の繋がりで色々できるけどね♪ 例えばピックじゃなくてこういうので弾いたりもできるよ」

 

 次に彼女が取り出したのは片手で持てる電動ドリルだ。とはいってもギター用に改造されており、先端にはドライバーではなく歯車の形をしたプラスチックカバーが取り付けられている。

 

「これはモーター音とかも反映するから、単音連続で出しながら演出したい時に使ったりするかなぁ……」

 

 そう言いながら彼女は電動ドリルの引き金を引いて「ウィイン!!」と豪快に回るモーター音と共に、人間業では不可能と思われるエレキギターの単音が連続してスピーカーから聴こえてくる。

 

 だけどその音に違和感を感じた。確かにモーター音と一緒に聞こえてきたが……実際に唸っておるドリルの音と、スピーカーから流れる音に分かりやすいぐらい違いがある。

 

「気のせいだったら申し訳ないんだけど、実際の音とスピーカーから聞こえる音って違う?」

 

「違って大正解。だって今はこのエフェクターっていうの繋げてるもん♪」

 

 今度は足先でスピーカーの前にある機材を指し示す。板型の基板には多種多様のスイッチやダイヤルが付いており、まるで配電盤を複雑怪奇にしたようだ。

 

「それはマルチエフェクターって言って、一つで色んな効果音や加工が施せるの。ディレイとかリバーブとか…………たまにだけど、意図的にノイズだして音楽の狂乱性を演出したりとか色々できるよ」

 

「音楽って色々あるんだなぁ……」

 

「これは本当に一部分だよ。ギターの知識でしかない。音楽はドラム、ベース、ピアノとか代表的だけど……オーケストラまでいけば金管楽器、ヴァイオリンだって色々と知識と管理方法がある……。どれか一つでも欠けたら音楽は成立しないんだよ」

 

 俺が感心しすぎで無言になる。彼女もヘッドフォンを付け直して楽譜を見直してギターを弾いて、弾いて、弾き続ける。弾くたびに身体で刻むリズムは振り子のように大きくなっていき、やがて撮影用の衣装の重さやギターの重量を物ともしない軽やかな動きで練習を続ける。

 

 俺はそんな彼女に本気で見惚れてしまった。それは初めてのことではない、二度目だ。一度目はまだ名も馳せてない彼女のストリートライブを初めて見た時のこと。

 

 服装は今と比べて地味だったのは覚えている。学生バンドの延長線上のような物で、仲良くみんなで学生服で路上で歌い明かしていた。そこで俺はとても輝かしいものを見たと感じた。

 

 まだ男だった上に中学生だった時の話だ。今では掛け替えの無い友人であるアニー達がいなかった頃、俺は七年戦争の傷が癒えずどうも色付かない青春を過ごしていた。別に友達がいなかったわけじゃない。ただみんなどこかしら傷心があって、それを感じて一歩踏み出せない自分がいたことが原因だったんだって今では思う。

 

 そんな時に見た彼女が『高崎秋良』となる前の歌は強烈だった。俗に言えば神曲とか言っちゃうやつ。

 でも、教養が薄い俺にとってその言葉で形容するしかないほどの衝撃的だったのは事実だ。歌が『生きてる』ような感覚——まるで『魔法』のように綺麗で鮮やかな歌い方だったんだ。

 

 同年代の女の子が歌っているとは思えないほどで、一瞬で俺は虜になった。ほどなくして彼女は中学生にしてマルチアイドルで芸能界デビューという話題で一躍新豊州の顔となった。その時に俺は、あの時見た彼女が『高崎秋良』だったことを知った。

 

 それからは推しの日々。あの時見た輝きの正体を知りたくて、可能な限り彼女の輝きを追い続けていたんだ。

 

 …………初心を思い出せるほど彼女の尊さは変わってないんだと、改めて感じた。

 

 だけど、同時に俺は今まで見たタレント達を思い出してしまう。全員が全員彼女みたいに煌びやかで眩しい存在ではない。中には夢半ばで折れてしまう者もいたんだろう。

 

 指で数える程度の経験とはいえ、撮影や収録スタジオではそういう子が何人かいた。俺自身に業界関係者に会話をするという免疫がないことや立場、年齢のこともあって話に混じることがなかった。

 思い返すと撮影の合間にどこか虚しそうな感じで、ソファに腰を置きながらスマホを弄り続ける子役も見た。人との関わりを避けるように自販機横のベンチに腰を置く歌手もいた。逆に積極的に偉い人と話し合うタレントもいた。

 

 ……全員それぞれ胸に抱いた夢に燃え上がるもの、逆に燃え尽きたもの、そもそもとして夢さえないのに燃え上がらせるものと色々といる。俺はあくまでSIDの活動の一環としているだけ。この世界は、俺がそう簡単な覚悟で触れていい業界じゃないんだ。

 

 だから、こうして俺がお遊び気分でいることは本当に貴重な体験だと感じてしまう。特番とかでやるタレントの密着ドキュメンタリー……それをカットなし・台本なし・NG指定なしの生で高崎秋良に関わっている……。

 

 ラファエルみたいに超然としたお嬢様とはまた違う絶対的な存在感だ。これが俺の同年代だと思うと……すごい尊敬してしまう。

 

 だからこそ、これから耳に入る言葉には信じられなかった。

 

「あ、秋良ちゃん! 大変なことが起きた!」

 

「どうしたんですか、マネージャーさん?」

 

「来週末のライブ…………中止になるかもしれない!」

 

 中止——。

 

 彼女の『夢』が壊れる音が聞こえた気がした。



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第3節 〜現実と努力〜

確かに9月30日に投稿する……するが、今回まだその時間の指定まではしていない。どうかそのことを諸君らも思い出していただきたい。

つまり……私がその気になれば第4節は10年20年後ということも可能だろう……ということ……!

まあ、何が言いたいかと言うと第4節は今日の18時00分に予約投稿していますのでご安心を。



 俺と秋良ちゃんの耳に衝撃の言葉が伝えられた。

 

 ——ライブが中止? それって……。

 

「どういうことですかッ!!? なんで目前に迫ったライブが中止にならなきゃいけないんですかッ!!?」

 

「仕方ないんだ! さっき脅迫状がネットで拡散されて……しかも宣言通りライブハウスで放火を起こしたんだ。ニュースを見てみろ」

 

 マネージャーは自分のスマホを秋良ちゃんに見せつける。そこには生放送で「人気アイドル高崎秋良への宣戦布告、ライブハウス炎上か!?」と不安を駆り立てるタイトルで情報が流されている。

 現場に赴いたアナウンサーはマイクを片手に消火活動されるライブハウスの中継を伝えている。発生したのはつい20分前……。周りへの被害は現在出ていないのが今のところ幸いというべきか。

 

「うそっ……。こんな酷いことを……」

 

「…………ショックなのは分かるが脅迫状の内容はこうだ。『来週行われる高崎秋良のライブを中止せよ。さもなくば彼女の命はない。これはお遊びでも、冗談でもない。その証明を今からライブハウスで見せてやる』……と」

 

 それがこの放火だというのか? だとしたら惨すぎる……。目前に迫った高崎秋良の夢を目の前で踏みにじるようにするなんて……。

 

「…………警察には既に連絡して身元を特定するようにはしている。だがもしものこともある。ライブに来るファンや何よりも君自身の安全を確保するためには、脅迫者の要望を呑むしかないんだ……!!」

 

「だけど、今ライブを中止になんかしたら……」

 

「……そうだね。チケットは払い戻し、火事となったライブハウスへの賠償金とレンタル金、拵えたグッズなど様々な金銭問題が発生することになる……。それに脅迫状の前科がある。しばらく歌手として活動は停止せざる終えない…………」

 

 …………呑んでも呑まなくても一緒だっていうのかよ? そんな八方塞がりな状況ってあるのかよ……。

 

「そんな……一回中止するだけで高崎さんの歌は消えるのか!?」

 

「…………ライブだってタダじゃないんだ。僕だって少しでも観客に安く提供するために万全の準備と早期予約でレンタル料を切り詰めて、CMやネットでの宣伝費を浮かせるために秋良ちゃんも自らテレビに出て番宣を行なって、配送業者との予約で運賃を安く見積もって……」

 

「配送業者……?」

 

「ライブの機材は全部ライブハウスであるわけじゃないんだ。ギター、マイク、配線コード……ある程度の大きさはスタッフが持っていくことはできるさ。だけどピアノ、大型スピーカーなどは配送業者に予約する必要がある。しかも個人じゃなくて法人としてだ。事情がどうあれ「中止なので配送しなくていいです。この件は無かったことに」とは言えないんだ。当日動くはずだった業者の人件費の補償……つまりキャンセル料すら発生する」

 

 知らなかった。ただ一回のライブだけでそこまでの人達が動くだなんて…………。

 

「…………少し、外に出ますっ……!!」

 

 高崎さんは必死に涙を堪えながら部屋から出ていく。

 一番悔しいのは彼女自身だ。自力で夢を追い続けて、念願のライブハウスでの単独ライブ。掴み取った夢の第一歩を目の前で壊されたのだ。その気持ちは理解しようにも理解しきれないだろう。それほどまでに彼女の心には悔しさがあるに違いない。

 

「どうにか……できないんですか?」

 

「…………可能と言えば可能さ、ライブを強行すればね。だけど脅迫状も届いて上に事前に実行するほどだ。そんな危険なライブに観客も集まるわけがない」

 

「じゃあ……犯人がすぐにでも捕まれば……」

 

「…………可能、かもしれないね。一日や二日で解決する杜撰な犯人ならね。だけどライブまでは一週間しかないんだ……子供の君にどうにかできるのか?」

 

 ……俺には無理だ。だけどSIDの力があれば……っ!!

 

「無理でしょうね……諦めるしかないわ、レンちゃん」

 

 撮影室にベアトリーチェが戻ってきた。スポンサーとの話し合いに疲れたのか、それとも能力を発揮した名残なのか、Yシャツのボタンが肌けている。胸元が見えそうで見えないチラリズムに男心が擽られそうになる。……でも今は、そんなことはどうでもいい。重要なことじゃない。

 

「いち企業の私達じゃあ犯人を捕まえることはできないわ。今は大人しく待つしかない……」

 

 それは遠回しにSIDとしての力を借りられないことを意味していた。

 

 ……そうだよな。これはあくまで防衛庁関連の仕事、それも放火騒ぎとはいえ『非常識』という『常識』の範囲内での出来事。異質物や魔導書などの『超常』の対応を主にするSIDで取り扱ってくれるはずもない。ましてやマリルは元老院だけでなく連合議会といった自国だけでなく、他国との組織とも毎日途方もないほど会議や情報共有を行なっている。こんな些細な出来事など話を聞くだけで温情というものだ。

 

 ……もしやるなら本当に自力でやるしかないけど、俺にそんな力はない。今は座して待つしかないんだ。

 

「今日の撮影は終わったのでしょう? だったら一度事務所に戻りましょう」

 

 悔しい。悔しくて仕方ない。俺がもしマリルまではとは言わず、せめてラファエルみたいに随行員一人ぐらいなら動かせるような立場や権力があれば…………。

 

 OS事件の時もそうだ。俺の手持ちはあまりにも少ない。肝心な時に限って、自分はあまりにも無力だ。異形を倒したのだって、俺に『誰か』が力を貸してくれたからに過ぎない。

 

 マサダブルクでエミリオが処刑されそうになった時もそうだ。俺は自分の力でマサダの内情を解明したから救えたと思っていたが、実際はマリルのフォローがなければ足蹴にされる内容だったとも言われた。

 その後のCO2を多量に含んだ砂嵐でさえも、俺がどうやらエミリオに力を与えて両断したからこそ起きた奇跡ではあるが、それだって俺自身が起こした自覚なんてない。ただ事実を伝えられただけ。

 

 この身には絶対に『魂』を呼び覚ます以外の何かしら役立つ力はあるというのに…………。

 ソヤと初めて猫丸電気街を回った時もそうだ。サモントンが誇る情報機関『十字薔薇(ローゼンクロイツ)』に所属する『セレサ』が言っていた。

 

《うーん、素質は悪くないけど鍛錬が足りていないわね》

 

 その言葉は事実で、実際そこで軽い手解きをしてもらったら徒手空拳からでも刃のように鋭い一閃を指だけで放てることを知った。俺には自分で引き出せないだけで、戦う力が確かにあるのは分かっているんだ。

 

 だけど……今必要なのはそんな力じゃないことも分かっている。必要なのは『戦う力』じゃなくて『動かす力』だ。……もっといえば高崎秋良の夢を繋げるための力なんだ。

 だって『夢』を無くした瞬間……俺が誰かの夢を諦めるのを認めたら、どこかで約束した『誰か』との『夢』さえ諦める気がしてならない。

 

 それだけは絶対にしちゃいけない。諦められない誰かの夢を目の当たりにして、俺に守れる力があるというのなら…………例えどんな小さな協力でも惜しみなくやらないといけない気がしてならない。

 

 …………だけど俺にそんな力はどこにある? 考えろ、考え抜け。俺ができる最大限のこと。

 

「……お先に失礼します」

 

「……お疲れ様。個人的にできることなら協力はしてあげるから」

 

 俺は立場上マネージャーであるベアトリーチェに一礼して撮影室から出て行く。向かう先は決まっている、高崎秋良が行うはずだったライブハウスだ。

 きっと、きっと何かしら……。力になれることがあるはずなんだ。

 

 

 …………

 ……

 

 

 とはいって意気込んで向かったのはいいものの……。

 

「やっぱり野次馬はいるよな……」

 

 スタジオから出て一時間。警察と消防隊、そして民間人が渦巻くライブハウス前へと着く。

 一応、今の俺は知る人ぞ知るCMに出るタレントの卵だ。なるべく目立たないようにツバ付きの青色帽子を深く被ってライブハウスの外部から観察してみるが…………やはり外観から分かることは少ない。SIDから捜査願は出ていないから防衛庁に交渉できず屋内に向かうことさえ厳しい。

 

「後をつけてみればやっぱりか……」

 

「ひっ!?」

 

 後方から男性の声がすると、突然として肩が捕まれる。今でかつて感じたことのない漠然とした不安に背筋が凍りそうになる。

 

 これが、女子がよく言う生理的な身の危機……!! 

 

「…………なんだ、高崎さんのマネージャーですか」

 

 警戒度全開で俺は振り向いた先には見覚えるのあるスーツ姿の男性がいた。先ほどスタジオで悲報を伝えた高崎秋良のマネージャーだ。急いで着いてきた様子であり、ネクタイピンがズレている。

 

「なんだって……不躾だなぁ。女の子タレントなら愛嬌がないと苦労するぞ」

 

 まるで体験したかのようにマネージャーさんはため息を吐きながら、俺の手を引いて群衆から抜け出る。こちらも顔が知れた相手なら警戒する必要も薄いので、そのまま俺は手を引かれ続けた。

 

 入り組んだ薄暗い路地裏を歩き、やがてライブハウスの裏手を辿り着く。そこには一人の警官が真剣な顔つきで辺りを見回しており、こちらに気づき次第厳粛な態度のまま「ここは立ち入り禁止ですよ」と注意を促してきた。

 

「すいません。私は高崎秋良のマネージャー『藍川(あいかわ) 増雄(ますお)』と言います。控室にいくつか搬入済みの機材があるので無事かどうかを確認したいのですが……」

 

「そうですか。少々お待ちください…………。警部、高柳です。実は…………」

 

 どうやら連絡を取り合っているようだ。まあ当然だよな、むしろ血税搾り取っているのだから報連相はしっかりしてくれて一安心ともいえる。

 

「はい…………分かりました。……お待たせしました、上官からの許可が出ました。そちらのお嬢さんの身分を聞いてもよろしいですか?」

 

「別事務所のタレントでレンというのですが、彼女もここでライブのゲストとして出演する予定でして…………リハーサル中に忘れた企画書と台本を取りに来たんです」

 

「……なるほど、分かりました。どうぞ、お通りください」

 

 どこからそんな嘘八百出てんだよッ!? そしてそんな嘘を信じるなよ!? 大丈夫なのか防衛庁!? 職務怠慢とかじゃないよな!?

 

「…………これを見て」

 

 ライブハウス内を見て回って俺はステージ前のスクリーンを見る。そこには先日から準備をしていたであろう様々な機材が置かれているが、放火の影響でいくつかは黒コゲとなってしまっている。

 

「……酷いですね」

 

「ああ……。これ何か秋良ちゃんのお気に入りで勝負ギターである『A-Killer』さ。…………見ての通り、使い物にはならない」

 

 藍川マネージャーがステージ上に指差した物は、ギターの持ち手くらいしか原型が残ってないほど焼け溶けていた。

 

「彼女はこのライブを…………いや、ライブだけじゃない。これまで全部のハードなスケジュールを乗り越えるために、花咲く女子学生との青春を全てアイドル活動に向け続けて血の滲む努力をし続けてきたんだ……」

 

「努力を、続けて……」

 

「ああ……。そもそもとしてファンのみんなは当然すぎて気にも止めてないけど、ギターを持ちながら歌って、しかもパフォーマンスをするって……とんでもなく体力を使うんだよ。君は走りながら歌うことはできる?」

 

「……できなくも、ないと思う。歌う曲次第としか言いようがないけど」

 

「うん、そうだね。続いての質問だけど、君は4キロ近い物を何時間も持ち続けて動くことができる?」

 

「……できなくも、ないかなぁ。2リットルのペットボトル飲料を片手に一つずつ持つと考えればだけど」

 

「うん、そうだね。続いての質問は、君はヒールを吐きながら踊ることはできるかい?」

 

「……できる、かも知れない。とはいっても社交ダンスみたいな緩い感じならという話ですけど」

 

「うん、そうだね。…………それを全部纏めてできる?」

 

「……無理です」

 

 どう考えても無理だ。どれか一つでもかなりキツイというのに、それを纏めて行う? 引きこもり体質な俺には不可能に近い。ジャケットの撮影でさえ体力を使いきってしまうというのに。

 

「だけど彼女はできるんだ。縦横無尽にステージを駆けて、ギターがない間奏でも観客の声援に応え続けて、歌いながらギターを弾き続ける。ストリートライブで最高2時間。今回のライブハウスではトークショーを挟んで6時間もの長丁場だ……。そのために彼女は単独ライブが決まってからの数ヶ月、食事制限もして徹底的な身体作りと有酸素運動で肺活量を鍛えてもいた……」

 

 食事制限という単語で昼食時の彼女を思い出す。おにぎり、サラダチキン……どちらもタンパク質を取るために食事で、サラダチキンに至っては低脂質・高タンパクでダイエットとしてもエネルギーとしても高効率を誇るものだとアニーは言っていた。それだけだとビタミン不足になるから野菜などで補う必要があって……。

 

 そこで思い出す。彼女は果汁ジュースを飲んでいた。正確にはドリンク……もっと言うなら『スムージー』というものだった。あれは様々な野菜をミキサーで液体状にしたものだ。ビタミンどころか鉄分やカルシウムさえ補える。となれば足りないのは……何だっけ? 確かアニーは……。

 

 

《ダイエットとかと一番向き合わないといけないのは何よりも空腹だね。間食はできるだけ抑えたいから、食物繊維が豊富なのが望ましいかなぁ〜。…………というか何で身体作りについて聞くの? レンちゃん別に太ってないよね?》

 

 

 ……最後については思い出す必要ないな。俺がただオンラインゲームを夜通ししたいがために万全の体調作りに聞いただけだし。

 

 だけど、その時にオススメされたのは『プロテインバー』というものだ。甘味としては十分だし種類が豊富でダイエットにおける部分的な栄養不足を補える。何よりも食物繊維が豊富だ。

 

 あのスナックバーは今思えばプロテインバーだったんだ。そう多くない量で活動しきるために必要なエネルギー要素……。彼女の食事に『甘え』はあっても『妥協』なんてものは何一つない。

 僅かな休憩時間でもギターの練習をして、しかも俺の質問にも笑顔で受け答えしてくれて…………彼女は本当に音楽が好きなんだ。それは理解すればするほど至るところに努力の痕があることに気づく。

 

 俺は彼女と握手した時の感覚を思い出していた。あの言いようのない感触はギターを弾き続けてできた切り傷やマメの痕だったんだ。それだけじゃない。握手会とかで何百人ものファンと触れ合って、サイン会で何百人ものファンに直筆で応えていた。そんな日々だから彼女の手は同年代だというのに俺より遥かに手が大きくなっていて…………。

 

 しかも、それらのいくつかはずっと前からあるもので…………俺が初めて彼女を見たあのストリートライブよりも前からのはずだ。もしかしたら物心ついた時には既に出来ていたのかもしれない。

 

 それなのに……こんな些細なことで無くなってしまうのか? 彼女の努力も、夢も、こんな些細な現実の前に押し潰されて消えてしまうというのか。

 

 …………ダメだ。きっと何か手立てがあるはず。

 俺は必死になってステージを観察していき、何かできることがないかと考えていく。

 

「あれ…………?」

 

 そこで俺は気づく。爆破によって焼けたギターの周辺に昔ながらの折りたたみ携帯らしきものも焼け焦げているが、それ以外は無事なままであり……それら全てが電子機器だった。鍵盤などの操作するものはあるが、確かこういうものは物理的な反応じゃなくて、接触反応で電気信号が送られて音が出るはず……。

 

 待てよ……。だとしたらこれって……。

 

「……藍川さん。ライブを行うには何が足りないんですか……?」

 

「…………ライブの最低条件か?」

 

「はい……。当日行うのに必要な最低条件です」

 

「……大前提として演奏場所と楽器全般と音響機材一式、そして機材を扱うスタッフがいればどういう形であれ行える。後は暴動対策に規模に応じた監視体制を取れるガードマンとかだな」

 

 …………ライブハウスは無事だ、あくまで楽器が一部燃えただけで施設自体に大きな問題は出ていない。そして楽器全般と音響機材一式、機材を扱うスタッフ、それにガードマンか。

 

 ………………。

 ……………………。

 

 ……できるかもしれない。全ての条件を満たしながらライブを行うことが。

 だけど、あくまで無い知恵を振り絞ったものだし、そのためには最低でもあの二人の協力が必須だ。これが断れたら八方塞がりもいいとこだし、できないと言われたらそれまでだ。

 

 とりあえず俺はメッセージアプリを開いて二人に連絡を入れる。今回の件と、俺がしたいこと、それについて二人が可能であるかの確認を。

 

 返信が来るのにそう時間は掛からなかった。何せあの二人は……。

 

 

 

 

 

 スターフルーツ:《できますよ》

 クラゲヘッド:《できるよ〜!》

 

 

 

 

 

 情報生命体——-いや、今をときめくVtuber『星之海』だからだ。こんな面白い話に乗ってくれるのは間違いないのだ。というか登録名は相変わらず変更なしか……。まあ、姉妹らしいと言えばらしい。

 

「ねぇ……マネージャーさんは2020年に起きた厄災のこと知っていますか?」

 

「あぁ、覚えているよ。世界的な緊急事態だったからね。今では異質物研究も進んで医療も進歩して無縁ではあるが……」

 

「……そんな時にですよ、アーティストの数々は動画サイト通じてあることをしたそうなんです。それでネット文化はまた一つ新しい境地へと辿り着いたとも聞きました」

 

 俺はもちろん生まれてさえいないから又聞きをした事柄でしかない。母親からこんなこともあったのよ、とか教科書で軽く触れた程度の知識でしかない。

 だけど……少しでも可能性があるというのなら……高崎秋良の夢を応援できるのなら…………やってみる価値はある。

 

「…………まさか、やるのかい? あの伝説をもう一度?」

 

「やりましょう。高崎秋良と『星之海』によるコラボ企画…………yohtubeにて『無観客ライブ』の生放送」



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第4節 〜軌跡と奇跡〜

 数日後、ライブハウスで念入りな準備が行われる。

 

 高崎秋良が所属するスタジオの代表と、俺が所属するスタジオの代表…………この場合、藍川さんとベアトリーチェが警備状況や配線環境などを整えてディスプレイ上にどれほどのラグがあるかどうかを確認している。

 

 生放送タイトルはこうだ。『【高崎秋良×星之海】新次元ネットライブ!【無観客ライブ】』————。

 内容としてはこうだ。本筋である歌自体は無料公開で、リハーサルやメイクシーンなどの裏側は有料チャンネル会員限定公開に設定。今現在も有料会員限定で公開中だ。これは商業的な面もあるが、リハーサル中も生放送することで危機的な状況や不審者の発見を早期発見するための策でもある。

 

 つまりネットに生放送することで、監視体制という問題をある程度視聴者に任せているのだ。もちろん、それに任せただけでは杜撰もいいとこだ。刃物といった強襲目的の対策として高崎秋良の周辺にはボディガードが数人配置している。

 

 これだけ準備していれば遅れを取ることはない。施設自体に時限装置がないのは確認済みだし、俺個人としてはその線は薄いとも考えている。

 

 というか……このライブ自体が観客や無観客であろうとも、脅迫犯が来ることはないと思ってもいる。

 

「ねぇ……。本当に犯人が来ないなんて可能性あるの?」

 

 個人的な協力でボディガードとして黒スーツにサングラスと身を扮しているアニーが声をかけてくる。

 

「……脅迫状が届いてから考えたんだ。脅迫の内容と放火するという行為が噛み合ってないことに」

 

「ん? どこも噛み合っていると思うけど」

 

「脅迫状の内容は端的に言えば『高崎秋良のライブを中止すること。拒否すれば高崎秋良の命はない』ってものだ。…………一見繋がって見えるけど、脅迫を拒否した場合の内容は『個人』の命を狙ったものだ。個人の命を狙うなら放火なんていう高崎秋良本人を直接狙いにくい『不特定多数』が犠牲になる方法を取るか……?」

 

「う〜ん……確かに違和感はあるけど、特別変に思うことかなぁ?」

 

「『放火』なんて手段を取るなら、脅迫状すら書く必要がない。それこそライブハウス自体を全焼させて無理矢理中止にすることもできたんだ。この時点で矛盾が発生する。中止にはしたいけど、ライブハウスを全焼するようなことはできない。だとしたら犯人の目的は『中止』の先にある何か…………もしくは放火に乗じた何かだと思う」

 

「おぉ……! 冴えてるけど大丈夫? 本当にレンちゃん?」

 

「アイデアロールがクリティカルすることぐらい俺だってあるよ!?」

 

「ごめんごめん。まあ、レンちゃんの推測が合ってるとして……その『何か』は具体的にはわかるの?」

 

「目的までは分からない……。だけど、こんな回りくどいことをする犯人だ。恐らく高崎さんとは近い縁がある人物なのは間違いない」

 

 だからこうして生放送で高崎秋良の周辺を徹底的に厳重体制にしてるんだ。俺だって今回の出番はネット配信の監視と、裏側トークのゲストとしての役割があって犯人の逮捕には助力できない。

 

 だけど、犯人の逮捕と無観客ライブは推測通りなら全く別物だ。開始さえすればもう手出しはできない。無観客ライブが成功して……守銭奴っぽい言い方はアレだが視聴者の投げ銭次第では負債をすべてカバーできる。その利益を少しでも負債に当てるために、チャンネルも高崎秋良の法人ではなく星之海が勝手に『個人』として開設してるもので行いのだ。これなら面倒な分配もいくつか減る。

 

 しかし犯人の逮捕も可能であれば行いたいところ。何せ無観客ライブをほぼ独断で行うのだ。高崎秋良サイドに属する人間がこれを見たら、何かしらのアクションを起こすのは間違いない。再度の放火は警戒体制的に難しいと考えると、行うのは目的の隠蔽だと俺は思う。

 だとしたらそういう裏方事情はベアトリーチェが任せるのが一番だ。何せ諜報に関しては『魅了』の能力があるから情報戦においてこれ以上ないほど頼もしい。既に本人には説明していて、高崎秋良側のスタッフに関してリハーサルの台本合わせと称して積極的に探りを入れてもらっている。彼女のことだからヘマをすることも考えられない。

 

 この時点で俺が行うことは本当にライブの成功を祈るだけ。そのためには少しでもエンターテインメント性を高めるために、裏側のトークや彼女のリハーサルをしっかりと確認しなければならない。

 

「……電子ピアノ使うの上手ですね、スターダストさん」

 

『音楽関係は前から嗜んでいましたから。これくらいはできますよ』

 

 今回の目玉である高崎秋良と星之海の姉、スターダストがステージ上でリハーサルを行う。スターダストは現在ホログラム映像で映し出されているものの彼女が鍵盤を弾くと音が響いてくる。

 これは電子機器だから起こせる演出だ。情報生命体で『生身』を持たない星之海は通常の楽器を弾くことはできない。だが電子機器ならネット上に繋いでしまえば直接電子ピアノなどの中に侵入して、実態がなくとも鍵盤に応じたプログラムを誤作動させることで間接的に弾くことができる。オーシャンも電子ドラムをホログラム上では叩いて見えるように演出している。

 

「……お二人とも遠隔でセッションを合わせるなんて凄いです。いくら技術が進んでもラグは回線の都合上どうしても遅延があるというのに……」

 

『私達はあくまで指定されたテンポにラグを計算してタイミングを合わせてるだけだよ。高崎さんが曲を崩さない卓越した技術があるからこそできるんだし』

 

 などとオーシャンは言うが、実際はここにいないようでいるんだけどね。だからこそタイムラグが最小なんだし。情報生命体は愛衣が調べても不明な点が多いのだ。

 

 とはいっても高崎秋良が元々持つ実力が高いからこそ安心して任せられるという点は真実で間違いない。朝からリハーサルが続いているというのに、一向にブレることがない歌唱力とギターの技術。それはステージ内を駆け巡ったりと体力面も消費しているはずなのに、むしろ本番に近づくにつれて高まっているのが素人目から見ても伝わってくる。彼女が持っているギターは今まで使用していた『A-Killer』ではなく全くの別物だというのに。

 

 ギターの名は『Gipson柔楓』——。

 

 …………俺がこの日のために藍川さん聞いてライブのために自費で用意した最新モデルだ。価格は何と驚異の500万を超える。名義は藍川さんにして、そのまま高崎秋良に渡してもらった。

 

 その性能は驚くなかれ、俺には全然理解できなかった。最高品質のフレットが云々、フィンガーボードが云々言われたがチンプンカンプン。一番驚くべき点は『変形機能』があるとのこと。

 見た目以上に重い木製を模したエレキギターだが、何とどこかの研究機関が金銭目当てに『異質物』研究の一部をこのギターに提供したらしい。大丈夫か、その研究機関。

 しかも異質物技術は演奏者のパッションとかいう曖昧なモノを感知して、それがある段階まで高まったらVタイプのエレキギターになるとかいう曰く付き。もちろん俺のパッションなんて不足してるので、そのVタイプは見たことないし、今までそんなところまで高まっているのを見たことがないと販売してくれた店員も言っていた。

 

 故にある意味この不良品紛いは完全な一点モノ。世界で唯一使っているのが今目の前にいる高崎秋良ということになる。果たしてその姿を今宵見せるのか。

 

 …………しかし500万。イメージガールの仕事をしてるとはいえ、借金娘の身で無理をしてしまった。このことがマリルの耳に入ったらこっ酷く怒られるんだろうなぁ。後のことを考えると頭が痛くなりそうだ。

 

「スターダストさん、ピアノの音響のバランスが悪いので音量調整しますね」

 

『分かりました』

 

「オーシャンさんは丁寧過ぎます。もう少し大胆にやっても私は合わせられますので、もっと暴れてください」

 

『了解!』

 

 生身を持たない星之海は同時進行で電子楽器全般を演奏しており画面越しから見れば、わずか三人しかいない状況で多種多様な楽器が響く摩訶不思議な映像が映し出される。

 

 本番まで、あと数時間。それまで三人はライブを成功しても失敗しても最高のものにしようと、全力でリハーサルに励む。

 

 

 …………

 ……

 

 

 ——ライブハウス屋外の裏路地。

 

 電柱に背を預けながらベアトリーチェは腕時計を見つめて誰かを待ち続ける。その表情は隠しきれない『怒り』に満ちていた。秒針が一つ、また一つと音で時を刻むたびに、彼女の表情はより険しくなっていく。

 

 やがて一つのリムジンがベアトリーチェが待つ路地裏の前に止まり、そこから恰幅がいいスーツの男性とパーカーを羽織った少女が、ベアトリーチェが派遣したエージェントと拘束されながら彼女の前に連れてこられる。

 

「おい、ここはどこだ! 私は今忙しいのだよっ!」

 

 口うるさく叫ぶ恰幅な男性とは対照に、パーカーの少女は俯いて静かに事態を見守り続ける。

 

「先日ぶりですね、高崎秋良のスポンサー……黒部(くろべ)さん」

 

「君は……ベアトリーチェか。なんだい、先日のお誘いがこれかね。確かに情緒的な物を望んでいたが……君の趣味なら私も興じるとするよ」

 

「……ふっ!」

 

 直後、ベアトリーチェの細長い脚部が卑しく笑う男性の鼠蹊部を蹴り上げた。予想だにしない一撃に、男性は表情を一変させて堪え難い痛みからイビキのように響く呻き声を上げる。

 

「鈍いのは股間だけにしときなさい。頭まで鈍いのは男性として魅力が損なわれるわよ」

 

 ベアトリーチェは黒部の頬を握り潰すように挟み込み、自身へと視線を合わせる。

 

「私はね、女の子の弱みに漬け込んで悪事を強要させるような外道は許せないのよ。今回の脅迫事件と放火……犯人はアナタでしょ?」

 

「……何のことかね?」

 

「知ってる? 詰んだゲームを続行するほど無様で惨めな姿はないのよ。今すぐ投了をするか、豚みたいな鳴き声を上げて御用にされるか、選びなさい」

 

「……はっ、詰むも何もゲームに参加した覚えなんてないが?」

 

「……私は拷問の技術を役割上覚えていてね。アンタみたいな三下に相応しい自白方法なんて幾らでもあるのよ」

 

 すかさずベアトリーチェは黒部の仰向けに押し倒し、両腕を足で挟み込んでその股部分を顔に押し付ける。そしてベアトリーチェは蠱惑的な視線で見下ろして語る。

 

「刹那の幸せぐらいは上げる。ただし今から爪を一つ、また一つと剥がしながら事態を告げるから、自白する気になったら教えなさい。…………まずは小指から」

 

 黒部の右小指から激痛が走る。声をあげようにもベアトリーチェの股で口は塞がれており、その悲鳴が表通りに響くことはない。

 

「……黒部社長はどうしたんですか?」

 

 突如としてのたうち回る黒部の姿に少女は疑問の声を出す。それもそのはず。ベアトリーチェは爪を剥がす宣言はしているが、側から見れば何もしておらずに黒部がただ暴れているだけ。見方によっては錯乱状態になったように見えるのだ。

 

「……彼女は催眠術みたいな能力を持っていてね。幻痛を与える暗示でもしているのでしょう」

 

 監視役のエージェントは静かに告げた。少女からしてみれば何のことだが理解し難いが、自分たちがされている事態の理由は理解しており、諦念の気持ちでベアトリーチェの言葉を聞き続ける。

 

「まずは放火の件について……。脅迫の内容もだけど、計画が杜撰すぎるのよ。おまけに徹底さもない。だって目的は高崎秋良の失墜と、その弱みを利用すること……大方接待とかその辺でしょうね、ナニがどうとかは名誉のために言わないでおくけど。そのために事務所との共用備品である『A-Killer』だけを燃やしたのでしょう? 高崎秋良だけに最低限で効果的な責任と負債を負わせ、事務所自体の損害を抑えるために」

 

 ベアトリーチェは小声で「次は薬指」と呟くと、黒部はさらに足を大きく動かして襲いかかる幻痛から逃れようとする。

 

「まだ耐えるのね、無駄なのに。……そんな局所的な狙いなんてしたら少しでも考えれば分かることよ。ただやり方だけは少し頑張ったようね。そのためにあの子を……高崎秋良の同期である『上原(うえはら) アンコ』を利用するのは許せないけど」

 

「続いて中指」ベアトリーチェは息づくように囁く。

 

「機材の一部に爆薬を仕込み、搬入と共にギターと隣り合わせになるよう設置する。……そこは話し合いの段階で管理方法を決めていたのでしょうね。メンテナンス用のオイルとかも近辺に置くようにしたとか、コンセントと繋がったコードを置くとか……おかげで綺麗にギターだけが溶解していたわよ。問題はその爆破方法……」

 

「はい、人差し指」と感情の篭ってない声で言う。

 

「爆破方法は携帯の着信時の振動。昔の携帯は改造も安易な上に電波も多量に発生する。それらに反応するよう細工して爆破する。爆破時刻と発信者は自分にアリバイを作るためにアンコさんに任せた…………。そんなところでしょう?」

 

「最後に親指」とベアトリーチェは告げて、黒部の口を塞いでいた鼠蹊部を少し動かして声を出させるようにする。

 

「ふぅー……! ふぅー…………! だ……だとしても、私が協力すると思うかね……っ? それならアンコが個人で行っても不思議じゃあない……。むしろ自然だ、何せ……彼女は成功している秋良を恨んでいる……っ!!」

 

「そうね。彼女は成功した高崎秋良を恨んでいるでしょうね……。だって彼女は中学時代、高崎秋良と一緒にバンドを組んでいた一員だもの」

 

 ベアトリーチェの言葉に少女は酷く怯えた声で告げた。「知っていたんですか……?」と。

 

「調べたら分かったわ。……まさか芸名がそのまま本名とは思ってなかったけど『高崎 アキラ』とアナタは中学時代でバンドを一緒にやっていて、その縁でバンドメンバー全員で芸能界デビューした。……だけど夢は長く続かなかった。才能の問題、勉学の優先…………どんな理由にしろ一人、また一人と脱落していって……高校に入る前に残ったのはアナタとアキラちゃんの二人だけになった」

 

 アンコは無言でベアトリーチェの話を聞き続ける。

 

「アキラちゃんは抜けたメンバーの穴を埋めるために血の滲む努力をした……結果としてそれがあの子を独立したマルチタレントとして本格的なデビュー……『高崎秋良』としての活動の遠因となった。残されたアナタは頑張り続けたけど結果は実らず……バンドの活動で損失した費用を返すために裏方の仕事にも手を出していた……さぞ辛かったでしょうね」

 

「……辛かったですよ。だけど辛かったのは、裏の仕事なんかじゃない……。身体を売るなんて抵抗なんてありませんでしたから。だって私には音楽しかなかったんですから」

 

「……アナタ、七年戦争で生まれた孤児なのね」

 

「そうですよ。私は生きるために何でもしました……。飢えを凌ぐために店から食べ物を奪った。衰弱死した仲間の衣服を奪いもした。お金を稼ぐために性行為もしましたよ。私の処女なんて…………業界で散らす前からとっくに無いんですよ?」

 

 今度はベアトリーチェが無言となってアンコの話を聞く。

 

「そんな中でも音楽だけが私にとって唯一の安らぎだった……。私は落ちていたボロボロのギターで何度も心の全てを歌にして叫んだ……。それだけが生き甲斐だったから。……そうして生き抜いて、学園都市として体制が整う頃には今みたいな標準的な生き方ができるようになった。……私は当然音楽の道を選んで、小学校でも中学校でもギターを弾き続けた……そんな時にアキラに出会いました」

 

 アンコの目に涙が溢れている。それは怒りや嫉妬などからではない。自分の無力さを噛みしめたものだ。

 

「彼女は何もかもが輝かしかった……。才能に満ち溢れ、彼女の音楽はまるで太陽のようで……そんな眩しさが、私にとって私の音楽が焼け解けるように感じてしまった……!」

 

 音楽性の違い——。いや、この場合は音楽の価値観だろう。アキラとアンコではそこが決定的に違った。

 

 アキラは『歌う』ために生きている。

 アンコは『生きる』ために歌っている。

 

 初めから目的意識が正反対の二人だった。どちらが正しいなんて、そんなのは決めることはできない。できないが……業界である以上、成功と失敗は付き纏う。

 

 そんな中で栄華を飾った『高崎秋良』と、栄華を散らした『上原アンコ』…………。正反対のアキラが成功し、自分が失敗に属したらその心境はいかほどのものか。

 

 それは、自身の全てを『否定』されてるに等しい残酷さだ。

 

「だったら、どうしてアナタはアキラちゃんに伝えなかったの? 自分の音楽が否定しているというけど……むしろ一番否定しているのはアナタ自身よ」

 

「私、自身……?」

 

「だって言ったじゃない。『何度も心の全てを歌にした』って……。そんな素直さのまま生きていけば、アナタは面と向かってアキラに嫉妬をぶつければ良かったじゃない。それができない時点で…………残酷かもしれないけど、アナタの音楽はそこで終わっていた。自分で自分を否定したのよ」

 

 ベアトリーチェが告げた事実に、アンコは糸が切れた人形のように膝を折って地面へと座り込む。

 否定していたのはアキラでも、高崎秋良でも、周りの人でもなくて自分……。その事実に、惨めで愚かだったことを自覚してしまったアンコは後悔に満ちた表情で一粒だけ涙を零してしまう。

 

「だから彼女は……アキラちゃんは『高崎秋良』として歌う。自分が自分と表現できるのがそれしか知らない不器用で真っ直ぐな子だから……今回の無観客ライブもそう。今まで応援してくれたファンや関係者に精一杯報いるために……『歌』として届けることを彼女は選んだ。だって……それこそが『アイドル』なのだから」

 

 そう言ってベアトリーチェはタブレットを一つアンコの前に差し出す。それは現在生放送中の『無観客ライブ』が映し出されていた。

 

 ステージの上では汗だくになりながらも、精一杯の歌と笑顔で無人のライブハウスを駆け抜ける高崎秋良の姿があった。視界には観客などいないはず。だというのにアンコの心は、まるでその場にいるような熱気と興奮を感じずにいられない。

 

 高崎秋良は次の楽曲に移り、無人なのさえ利用してステージから飛び降りて観客席へと走り、ステージ上では絶対行えないようなアクロバットを決めた。

 

 そのアクティブさは目を見張るなんて物じゃない。ハイヒールを吐き、ギターの配線コードから絡むことなく、見事に空中一回転を魅せて間奏が終わると同時に何事も無かったように再び歌とギターの演奏をしながら観客席の奥へと向かう。

 

 無人の観客席には誰もいない。だというのに彼女の歌の熱が、心が、魂が、アンコも含んだ画面で見回るファン全てがその場にいるではないと幻視するほど高崎秋良が輝いて見えた。

 

《ありがとうーーっ!! みんな、ありがとうーーっ!! スパチャも合計500万突破でありがたいですっ!!! 次はライブ初披露の新曲……だけど、みんなー! ここで私の想いを聞いてくださぁーい!!》

 

 新曲——。その言葉はベアトリーチェだけでなく関係者各位なら驚きを隠せないものだ。何故なら、本来このライブで『新曲』を発表するプログラムなんて組んでなんていない。それは画面越しからでも騒つくライブハウスや、目を見開いて動きを止める星之海姉妹の反応からでも見てとれる。

 

《今回のライブハウス放火と脅迫……。それで私のライブは中止となり、皆様が想像する通り多額な負債を私は抱えています。だから無観客ライブを行い、ファンの皆に今までの感謝と関係者各位の負担を減らすために……私はここで歌っています。……言いたくはないけど、高崎秋良にとって最後のライブなるかもしれない……。そう思ったら、今までの歌では……私の全部を伝え切れないっ!!》

 

 それは今までの輝かしく歌う彼女の姿ではなく、素の状態『アキラ』として叫びだった。

 

《だって! 私の歌はッ! 心はッ!! 魂はッッ!!! 皆に届けるための歌……。私自身を表現した曲なんて何一つない……。私の歌は……皆がいることで輝いていけた。……だからそんな想いを……私の全てを届けるのではなく、聴かせるために歌います》

 

 皆がいることで輝けた。その言葉にアンコは高崎秋良とアキラの心境を悟る。

 彼女のマルチタレントっぷりは、在りし日の中学バンドの延長線上でしかない。今まで夢を落とした仲間たちの夢を抱えて、たった一人でも歌い続けている。それがアキラが持つ本質的な輝き——。

 

 その輝きを応えるように、彼女が今持つ木製を模したギターはVタイプのパンクなギターへと光を纏いながら変化を見せた。

 

《聞いてください……。高崎秋良の単独演奏曲。拙い私だけの、裸の心で書き記した私の歌…………『My Life』!》

 

 

 …………

 ……

 

 

 最初に謝るよ。私は、アナタのことを知らない。

 名前も、好きなことも、嫌いなことも、顔も知らない。ごめんね。

 

 次に感謝を。アナタは、私のことを知っている。

 名前も、好きなことも、嫌いなことも、顔も知っている。ありがとう。

 

 アナタは私をいつも応援してくれた、ありがとう。

 アナタは私をいつも見守っていてくれた、ありがとう。

 アナタは私をいつも傍にいてくれた、ありがとう。

 

 こんな不躾な子でごめんね、感謝は本当だから。

 だけど私には歌うことしかできない……。

 だから今ここで全てを歌い明かそう。

 日が暮れても、夜が明けても、夢が消えるとしても。

 

 沢山の全てにありがとう。

 全てが嬉しかった。全てが楽しかった。

 

 でも、ごめんね。それじゃあ足りないんだ。

 

 『私』の全てはそれじゃあ伝え足りないんだ。

 

 上手くもない私の歌や言葉では表し切れない。

 だけど、こうするしか私は自分を表現できない。

 

 だから、ごめんね。こんな未熟な私が歌を歌って。

 だから、ありがとう。こんな未熟な私を応援してくれて。

 

 そんな全てに……『私達』は紡がれている。

 

 

 ……

 …………

 

 

 一曲が終わり、アンコールが書き込まれて続けて次の一曲が始まる。スパチャの金額は1000万に突入——。一つ自体の金額は100や500といった少額だというのに、積み重なって大きな金額となり繋がる。まるで今まで彼女が積み上げた努力のように。

 

 これこそが『高崎秋良』——。

 その有り様、その輝かしさこそが『高崎秋良』だったのだ——。

 

「こんな子の夢を失墜させようとなんて……黒部さん、最悪よ。それに今回の計画は最初じゃないでしょう? 調べれば余罪なんていくらでも出そうだもの……業界はそういうの多いそうだから」

 

「ヒィ……!!」

 

「……私も最悪な人間ですよ」

 

「そうね。計画したのは社長さんとはいえ、実行したのはアンコさんだもの。……まあ、アナタ自身の罪は器物破損と放火騒ぎ程度よ。長期間の執行猶予は免れないだろうし賠償金も発生するでしょう。だけどそれで見放すほど私たちも残酷じゃないわ……。今回の件で高崎秋良は、私達の事務所に移籍することになる算段があるの。今でも名義があるアナタも移籍することはできるけど……どうする?」

 

「…………遠慮します。私の罪は私の罪ですし、私の音楽は私の音楽です。自分で尻拭いをしないと……アキラに合わす顔さえありません」

 

 そう言ってアンコは路地裏から消えた。

 

 その日の無観客ライブは大成功を収めて、負債はすべて返済し終えたことが後にベアトリーチェの耳に伝わる。それほど時間が経たないうちにライブハウス放火事件の犯人逮捕の報道と高崎秋良の移籍も発表され、こうして一連の事件は終わりを向かえた。

 

 

 …………

 ……

 

 

 ——後日、SID本部にて。

 

「マリル? この預金明細から脈絡なくSIDに返還されてる500万ってなに?」

 

「我が子に対する慈悲だよ。本当は怒りたいところだが……初めて自分の力で何とかしようと頑張ったんだ。御祝金としてギター代ぐらいは私からSIDに返しといてやったのさ」

 

「へぇ〜〜、そんなことあったんだ〜〜」

 

「あぁ……アイドルには興味なかったが、高崎秋良の歌は中々にいいものだぞ? 愛衣も聞いてみるか?」

 

「いいけど……何その音楽ジャケット? レンちゃん、珍しくカッコよく写ってる〜っ!」

 

 そんな話もあったそうな、なかったそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、新しいプロデューサー? え? 私の? えぇっ!?」

 

 もしかしたらいつかの未来、どこかの場所でいつか夢見たバンドの少女達は新たな再会があったかもしれない。

 

 だけどそれはまた別のお話。




閑話①【少女と偶像】のこれにて終わりです。あくまでゲーム本編にあるオーガスタと一緒で、顔見せとちょっとした事情把握、そして僕自身の頭お休み的なもののため、かなり気楽にやっておりました。

明日の10月1日から第二章【神統遊戯】開始です。
お話も戻るため、深海浮上と同じように『毎日一話投稿』をするよう心がけます。とりあえずは後書きを書いた8月28日の時には第8節までは毎日投稿できる目安が経っておりますので、ご安心くださいませ。

では、今後とも魔女兵器本編のサービス再開や今後の展開を願いつつ、後書きを終わります。


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第二章 【神統遊戯】
第1節 〜Now Loading〜


 囲碁とはいつから互戦の場合、先手は6目半というハンデを背負うルールができたのか。

 

 それにはゲームの歴史というものを紐解かねばならない。

 

 基本、囲碁だけでなく将棋、チェス、カードゲームなど様々なゲームにおいて先手というものは絶対的に有利な状況が多い。理由は多種多様あるが、共通して起きやすいのは『先手は後手を勝たせない』という戦法が通用しやすいからだ。

 

 先手必勝、早いもの勝ち、先んずれば人を制す——。様々な歴史で生まれた言葉が証明となる。

 

 そもそもゲームでは勝敗を決める以上、どうしても勝つ条件か負ける条件が定められてる。大抵は勝つ条件なのだが、この勝つ条件というシンプルなものが非常に難しいのだ。

 

 何故なら勝ちを決める時点で迎える結末は3つしか発生しない。

 

 どちらかが勝ち、どちらかが勝てない。

 どちらとも勝つ、という引き分け。

 どちらとも勝てない、という引き分け。

 

 これらのうち、自分相手問わずに『勝つ』のは二つしかない。先手はこの二つを潰せる絶対的な強みがあるのだ。まるで未来を見通しているように。

 

 実際この先手の強さからくるアドバンテージが高すぎるが故に、現代におけるゲームのほとんどには先手の圧倒的な有利に対して、先手にハンデを設けたりまた別のアドバンテージを後手に与えたりと試行錯誤している。

 

 囲碁なら先手6目半という、予め点差みたいなものを相手に与える。これも当初はなかったが、先手の優位性ががあまりにも高く『勝つのは確かに難しいが、負けるのはもっと難しい』というほどのものであり、時代を経るごとに戦術が研究による最適化によって4目半、5目半と増え続けて現在の6目半にまで到達することになる。

 

 カードゲームなら先手の手札枚数を減らしたり、攻撃などといった一部の行動を制限する、相手の行動中でも妨害ができるカードを製作したり、あるいは後手には一度だけ相手より早く動けるように使い切りのマナを渡したりと多種多様だ。カードゲームの種類によって、その差は大きく分けられる。

 

 将棋やチェスは実力の均衡を考慮して一戦ではなく二戦や三戦といった複数回行うことで勝敗の平均値を競うようにした。これは囲碁でもそうであるが、最初の打ち方が決まっていない囲碁においてこの平均値でさえあまりにも差がありすぎたために現在の形となって勝負は行われている。碁石を使う遊びに関して言えば、五目並べに対しても先手は禁じ手というものが存在しているほどだ。

 

 …………と、こんなゲームといっても探ろうとすれば深い歴史があるのである。

 だからこそ、互いの実力が均衡している時は先手が齎すアドバンテージというものは非常に大きい。

 

 ましてや自分より判断力、洞察力といった要素が劣っている相手がいたとしても先手、というだけで負けを擁することも多々にある。 

 

 囲碁、将棋、チェスに運の介入は有り得ない。だからこそ先手は思考を飛び越えることなく盤面を操作し続ける。まるで『未来』を予知して『確定』させるように。

 

 しかしそれは『勝負』と言えるのだろうか? 初めから『勝ち』が決まっているのなら、果たして『勝ち』と『負け』はあるのか?

 勝利には意味も価値もある。だが、定められたそれは枠組みの中での話。『ルール』があるからこそ成立するのものだ。

 

 その時点であなたの勝利は『ゲーム』の中の『ルール』によって得た『勝利』に過ぎない。

 

 もし本当の勝者がいるなら、その『ゲーム』さえを作り上げた創造者に他ならない。

 

 だが、その創造さえも一種の闘争によって生み出されたものだ。闘争である以上は『勝負』は付き纏う。

 

 だとしたら創造者がいる世界……言い方は数あれど『現実』での勝負とは何なのか? 勝利とは何なのか? 敗北とは何なのか? ルールは何なのか?

 

 だからこそ勝負というものは非常に面白い。あらゆる知略と、落ちている運さえ見つけて拾い上げる度胸。そして定められていない勝利条件。不確定要素の塊が多く、未来を予知することなど到底不可能な盤面。このハンデさえもハンデになり得ない混沌さ。

 

 それらが総合することで初めて現実における『勝負』というものは成立する。現実において、盤面この一手というものは安定なんて物はほとんどの場合は存在しないのだ。

 

 ある意味においては現実のありとあらゆる選択と努力は『勝利』を得る『ゲーム』にしか過ぎないのかもしれない。ハッピーエンドも、バッドエンドも、トゥルーエンドも……どんな結末になろうとも目指した志はその一点に尽きる。

 

 例え踏み出した一歩が間違っていようが、それまでの過程が間違っていようが、その果てにたどりつく答えが間違っていようが、その志ざした勝利へと踏み出した選択だけは間違っているとは誰にも言えず、普遍的で不変的な価値を持つ『勝負』と言えるだろう。

 

 

 

 

 

 さて…………そんな『勝負』というものに、貴方が相対する相手は果たして誰なのか。

 

 自分より劣る弱者か。

 溺愛する弟子か。

 目標となる師匠か。

 絆を紡ぐ親友か。

 愛を育む恋人か。

 競争する好敵手か。

 高みを目指す強者か。

 

 あるいは、見果てぬ未来の到達者か。

 あるいは、過ぎ去りし過去の亡霊か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もしくは……鏡合わせの『自分自身』か。



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第2節 〜New Game〜

どうしてCODE:SEEDもサ終するのよ〜〜っ!!

日本はどこでレンちゃんを見ればいいんだ〜〜っ!!


 いつからか、その子はずっと俺の視界にいた。

 

 第二学園都市【ニューモリダス】——。

 今現在、俺はある用事でここに来てから一週間も経つが、その子がいつも公園にいることに最近気づいた。

 

 最初に見たのはお昼時。公園のベンチで密かな楽しみであるブラックコーヒーと卵サンド、そして揚げたてのフライドチキンを食べていた時だ。

 

 やけに目立つ赤と白が作られたダイヤ柄の帽子に、これまたダイヤ柄で遇らう真紅の…………なんて言うんだ。雑誌で見たことある、ああいうのは……サロペットスカートって言うんだっけ? 女の子じゃないから詳しく分からん。

 

 ともかくそんな童話に出てきそうな不思議で奇抜な格好をした金髪の少女は、常にその公園で草むらにある何かを見つめていた。

 

 もちろん最初は「そういう趣味の子かなぁ」とか「何かの撮影か?」と思って気にも止めなかった。気にし始めたのは、その夜に飲み物でも買おうとホテルから出て公園近くの自動販売機に行った時だ。その子は瞬きさえもしてないのでは疑うほど微動だにせず、昼と変わらずに草むらを見つめ続けていた。

 

 そして次の日。用事が建てこんでしまい、夜遅くにホテルに戻った俺は公園を通りすがった時に、これまた微動だにせずに草むらを見つめる少女がいた。

 

 ……地縛霊か何かか? 気味が悪くなってすぐさま俺はホテルの寝室で、悪霊であれば退散するように思いながら就寝した。

 

 次の日。ハムカツサンドとサイダー、そしてこれまたフライドチキンを買って公園のベンチで束の間の日向ぼっこでもしようとした時、またまた少女は微動だにせずに草むらを見つめ続けていた。

 

 ……誰も補導してないし、本当に幽霊なのかな? と思うのは自分でも仕方がないと思う。

 

 次の日も少女は公園にいた。たまたま用事がない日だったこともあり、ホテルの一室から双眼鏡で一日中覗き込んで少女を見続けた。

 

 結果は俺が観察してから寝付くまでの16時間、飲み食いどころか本当に瞬き一つさえせずに少女は草むらを見つめ続けていた。

 

 ここまで来ると……何であろうと興味が湧いた。

 

 次の日、俺はあらゆる準備を整えて少女がいる公園へと向かった。

 

「おーい、そこのお嬢さーん」

 

「……………………」

 

 ガン無視である。とはいっても長期戦は覚悟の上だ。

 俺はゲン担ぎと長時間の戦闘に備えて、今のうちにブラックコーヒーを飲み、彼女の近くにビニールシートを引く。気分は一人で紅葉狩りを楽しむ観光客だ。この場合、見るには紅葉ではなくミステリアス少女になるんだけど。

 

「疲れない? ここに飲食物いっぱいあるから、気が変わったら一緒にお茶会でもしない?」

 

 ……自分でもアレだが下手なナンパ師みたいだな。

 

「…………………………」

 

 当然、俺の声は無視である。

 いったい何があるんだと俺も覗き込むが、別に何の変哲もない草むらだ。野球ボールさえも落ちてないし、あるとしたら虫や花ぐらいだ。

 

「…………こんにちは」

 

 そこで初めて彼女の声を聞いた。

 彼女の声は生まれて初めて声を出したと言わんばかりに、無機質で無感情だった。今のは人の言葉かと、つい疑ってしまうほどに。

 

「お、おう。こんにちは」

 

 これまた無機質な瞳で見つめるものだから、つい萎縮してしまう。

 ……女性と面と向かって会話をすることが少ないから萎縮することも確かにあるが、彼女との会話はそういう度を超えている。

 

「……………………………」

 

 再び流れる沈黙。彼女はそれ以上の会話は続かず、日が沈んだ後でさえも彼女はずっと草むらを見つめ続けていた。

 

 俺だっていつまでも居続けるわけにはいかない。

 開かずに残ってしまった缶コーヒーを一つ、彼女の空虚な手に握らせる。

 

 ……俺が握ったことさえ認識してない様子で、彼女は未だに草むらを見続けるとは流石に驚いたが、これ以上は明日に支障をきたす。俺は足早にその場を去った。

 

 …………自分の手を見つめる。

 

 ……彼女の手には温もりがあった。確かな人肌の温もりが。

 

 

 …………

 ……

 

 

 後日、本日の天気は雨と雷。悪天候様は絶好調だ。

 雷が落ちて、世界の景色は点滅する。遅れて届く轟音が耳を劈く。それが短い感覚で繰り返される。

 

 ……だというのにニューモリダスの電力供給は異常は発生することなき正常に動き続けている。やっぱり異質物研究が進んでからは、こういう設備などの電力面に関しては新豊州を筆頭に対策が講じられてることを改めて実感する。

 

 俺は流し見しているテレビの音声を耳にしながら、ホテルの窓からいつもの少女を探すように公園を見つめる。あの特徴的なダイヤ柄の赤い服と帽子が視界に即座に目に入った。

 

 …………流石にこんな悪天候では少女の姿は見えないと思っていたのになぁ。

 

 俺はすぐに傘を持ち出して、いつもの草むらから少し離れた木陰へと足を運んだ。そこには雨雲を見上げる彼女の姿があった。

 

 彼女の横顔はただ暗く覆う雨雲を見つめているだけだ。それは草むらを見ていると時と同じで、いつもの無機質で無感情で無表情だ。悪天候に対して悪態をつくような素振りさえ見せない。頬を伝う雨粒は、その異質さから涙と思うことさえない。

 

 ……世界に独りぼっちで佇んでいるみたいで、ひどく虚しさを感じてしまう。まるで見えない壁があるようだ。

 重苦しい隔たりは声をかけようとした俺の口を塞き止めて、見上げる少女への干渉を許さない。そんな時間が永久に続く…………。そう錯覚しそうなほど長い時間が経過する。

 

 やがて彼女は俺のことに気づき、顔だけをこちらに向けて抑揚のない声で言った。

 

「こんにちは。今日はいい天気だ」

 

「どこがっ!!?」

 

 今までの空気なんか本当に錯覚だと言わんばかりに、彼女は呑気に俺へと挨拶をしてきた。

 

 開口一番調子を崩された。マイペースな子だとは薄々思っていたが、こんな天気でも彼女に何か特別な変化が起こることはない。

 

「……ここ数日見てたけど、君は草むらで何を見ていたんだ?」

 

 出会ってから……というか知ってからずっと気になっていたことを、今が好機だと感じて思わず聞いてしまう。

 

 彼女は未だに表情を崩しはしない。こんな彼女からいったいどんな内容が聞けるのか……。もちろん黙秘された場合は潔く諦めるしか——。

 

「カマキリを見ていた」

 

 は?

「は?」

 は?

 

 カマキリを見ていただけ?

「カマキリを見ていただけ?」

 カマキリを見ていただけ?

 

「そうだ」

 

 無表情のまま彼女はそう言った。理解が追いつかない。

 

「そういうお前は何日も私を見てたと言っていたな。私が知る限り、それはストーカーというのだろう? お前はストーカーか?」

 

 理解する時間さえ与えずに彼女は会話を続ける。

 

「違う! というか何でカマキリを見てたんだ……?」

 

「観察していた。予めて情報を得ていたとはいえ、実際に見てみるとカマキリとは実に面白い」

 

「だが」と彼女は一息置く。

 

「私はまだカマキリの交尾を見ていない」

 

「こ、こここ、交尾っ!?」

 

 いきなりぶっ込んできたなっ!?

 

「聞き覚えないのか? ……種族の差異か? ならば言い換えるとSEX(セックス)だな」

 

「せっっっっっっっっ!!?!?」

 

 待て待て。彼女いない歴イコール年齢の俺には、その話題は刺激が強すぎる。

 

「これも知らないのか。ならば——」

 

「もういい言うな、それ以上言うな、頼む言わないでください」

 

「そうか。……ならば知っているだろう。観測した通りの年齢ならお前はすでに中等教育課程を終えている」

 

「知っていますけど……」

 

「ならば教えろ。私に交尾というものを」

 

「言い方ァ!」

 

「私にセッ——」

 

「カマキリの!! ……カマキリの交尾は8月の終わりから9月の初めにかけてなんだ。今は10月、すでに繁殖の時期は過ぎてる」

 

「そうだったのか……。それは残念だ」

 

 無表情で無機質な目で無頓着に言っても、全然残念そうに感じない。

 

 ……不思議でマイペースだとは思っていたが、まさかここまでだなんて。

 

 雨の滴が再び彼女の頬を伝う。気にもしない態度も継続だが、先ほどの隔たりなどもう感じない俺は、仕方なくハンカチを取り出して彼女の頬を拭う。

 

「…………寒いのか?」

 

 彼女の頬に触れた初めて気づいた。彼女の身体はひどく弱り切っている。そして…………人肌には温かったはずの彼女の温もりは、今にも倒れてしまうじゃないかと思えるほど熱を失っていた。

 

 そこで気付く。服はとうに湿気を吸い込んで水気を帯びている。それは帽子も靴もそうだ。かなり前からこの雨の中でいたのが窺える。

 

 …………帰る場所がない、そう考えてしまった。

 

「……寒いのかもしれない。私はあまりにも人間の体験を知らない。故に感情表現さえ乏しく、あらゆるものがどういうものか一から知る必要がある」

 

 彼女の言葉の節々から疑問が湧くが、今は言及するべきことはそこではない。

 

「じゃあ、聞くぞ。今どんな気持ちだ?」

 

「どんな……? 該当範囲が多すぎて絞り切れない。すべてを伝えればいいのか」

 

「言い直す。気持ち悪いとか、体調が優れないのは分かるか?」

 

「分かるぞ。私は体温33.9°と平均体温を大きく下回っている。あらゆる自律行動に支障が発生中だ。あと先日私を舐め回すように見続けて、今日は急に声をかけたお前は一般的に見て気持ち悪い」

 

 最後のは余計なお世話だっ!

 ……ともかく、そんな体温じゃ間違いなく低体温症の初期症状だ。このままだと意識さえままならない。

 

「カマキリの観測はいくらでもしていいけど、今だけは休ませるぞ。近くに俺が拠点にしてるホテルがあるから、そこに連れて行く」

 

 見た目以上に軽い彼女を身体を両腕で抱える。よくあるお姫様抱っこというやつだ。

 

「……ストーカーに身の自由を奪われるシチュエーション。こういう時に言うのか」

 

 ストーカーじゃないし、身の自由を奪った覚えはない。

 

「やめて、私に乱暴する気でしょう。エロ同人みたいに」

 

 全く情欲を滾らせない抑揚だった。

 ……何というか思ってたより百倍不思議な女の子だと感じてしまう。俺はすぐさまホテルへと連れ込んだ。

 

 ……同時に問題がいくつか起こる。

 

 身分も知らない彼女を無断でホテルに連れ込むのはまずいと感じ、身分証明できるものがないか確認を取ったが、彼女は一向に「持っていない」の一点張り。頭痛が痛いと言いたくなるほど、ダブルパンチであり目眩を引き起こす。

 

 とはいっても、ホテルのフロントで事情を説明しようにも赤の他人すぎて上手く説明はできないし、問題ごとをあまり起こしたくない立場だ。仕方なくホテルスタッフの目と監視カメラを可能な限り掻い潜って、俺が利用している一人用の宿泊部屋に彼女を連れ込むことになってしまう。

 

「…………」

 

 つまり室内にあるバスルームを貸すわけで…………ずぶ濡れだった衣服を脱ぎ捨て、バスタオル越しながらも霰もない彼女の姿を目にしてしまったのだ。

 

「……これはどうやって使う?」

 

 しかもどういうわけか『風呂』という概念を知らないという、凄まじい事態だ。もう頭を抱え込んで仕方ない。どこから説明すればいいのか…………。

 

「……ここを捻れば温かい水が出る。それで身体を暖めろ」

 

「これを捻るのか」

 

 そう言って初めて触る玩具を試すように、無機質で無表情なまま一心不乱にシャワーの蛇口を一方向に回し続ける。当然そんなことでは水の勢いは増す一方だ。飛散したシャワーが乱反射を起こして、俺と彼女の二人揃ってずぶ濡れになる。

 

「……こういう状況は濡れ場といえばいいのか?」

 

「言葉は文字通りの意味として機能しない時もある。その言葉は別の意味だ、くれぐれも今後は口にしないように」

 

「そうか、なるほどな」

 

 ……見知らぬ女性の裸体を見るわけにもいかない。

 

 俺は「逆に捻れば水は出なくなる」とだけ伝えて早急にバスルームから出て行き、服を脱ぎ捨ててフェイスタオルで身体中を水分を拭き取り、寝巻きへと着替える。本来一人利用だからホテル側もタオルなどの基本的な生活用品は一式しか用意してくれないのだ。彼女のことを考えると最低限のものは準備したほうがいい。

 

 とりあえずホテル系列で営業しているコインランドリーに彼女の服もろとも衣服をぶち込んでおいた。待つこと20分、乾燥機も併用していることもあり洗濯し終えた衣服からは柔軟剤の香りが仄かに花を擽る。

 

「面倒ごとが増えるな……」

 

 彼女を無断に連れ込んだのがバレたら色々と面倒なことになる。というかバレてる可能性の方が高い。どうすればいいのか……。

 

 思考を続けながら、そのままエントランスにある24時間経営のコンビニへと入店する。「貴方と家族になりたい」というフレーズが個性的で独特な入店音を耳にしながら、寝間着として取り扱ってる男女兼用のグレージャージ、歯磨き、タオルケットなどをある程度購入すると俺は彼女が待つ自室へと戻る。

 

「……おかえり」

 

 予期せぬ彼女の言葉に、俺も「た、ただいま」と吃りながら返答する。

 20分も過ぎてることもあり、彼女は既にシャワー浴び終えてバスタオル一枚という心許ない状態でベッドへと腰掛けていた。乾き切っていない彼女の髪と頬に吹き忘れた水滴が伝う。バスタオルも特別大きいものではないから、少し視点を変えれば上も下も見放題なほど無防備だ。

 

 ……シチュエーションがシチュエーションだから、彼女がいくら無機質なままでも男として少しはムラッとはくる。だが俺は紳士だ、急に野獣になるほど節度がない人間ではない。

 

「おかげで行動に支障は出ない。感謝を伝える、ありがとう」

 

「そ、それは良かったよ……。あと、これ君用に準備したジャージ……う、後ろ向くから着替え終わったら言ってっ!」

 

「わかった。着替え終わったら言えばいいんだな」

 

 ジャージの包装を破く音と、下着が皮膚を擦る音と息遣いという二重の艶かしい音が耳に残る。

 

 …………無心になれ。無心になるという時点で無心ではないが、それでも無心になっていると思い込め。

 

「着替え終わった」

 

 振り返ると一転して芋感全開の少女が爆誕していた。無機質で無表情。この世の善悪さえまだ把握できてない無垢な子供みたいだ。無だらけの顔でも垢抜けない純粋な印象を受けてしまい、そんな彼女を見ると…………どうしてか保護欲が駆り立てられる。

 

「じゃあ温かい飲み物を用意するよ。部屋に備え付けられてるのはインスタントだけど色々な茶葉からコーヒー、コーンスープ、味噌汁と結構あるよ」

 

「…………ならば昨日くれた飲み物が好ましい」

 

「コーヒーか。好きなのか?」

 

「いや不快になる味だった。焦げた砂糖水、甘い泥水……。なんとも形容し難い舌触りと香りで……マジ不味いってやつだ」

 

 時々言語センスがキャラと噛み合わなくなるな……。というか別に好きでもなんでもないのか。

 

「だけど……不快で不味いはずなのに、何故か満たされる味だった。これを理解するためにもう一度飲んでみたいのだ」

 

「なるほど、不思議な魅力を感じたってわけね」

 

 ……もしかしたらただのカフェイン中毒かもしれないが、その辺りを突っ込むのは野暮だろう。俺は電子ポッドからお湯を注いでコーヒー豆の粉末を蒸らし、再度お湯を注いでカップにコーヒーを抽出する。手早く角砂糖や粉ミルクの包装を準備すると、カップのソーサーに乗せて彼女へと差し出した。

 

「苦いとか香りが苦手だと感じたら、その二つを溶かせばある程度変わるよ」

 

「分かった、色々とすまないな」

 

 彼女は一口、また一口と舌で確認しながら角砂糖や粉ミルクを混ぜていく。……最終的には角砂糖三つに粉ミルク一袋で落ち着き、一息つくように俺と視線を合わせた。

 

「多少はマシになった。…………けど、満たされる味の理由が分からないままだ。何を入れてもこれだけは変わらない……何故だ?」

 

 やっぱカフェイン中毒じゃねぇの?

 

「……私個人の趣味嗜好はどうでもいいか。それよりも今はお前に礼を尽くさないといけない。こういう場合はどうすればいい?」

 

「どうすれば、いい…………だとっ!?」

 

「知識ではあるのだ。相手の好意に返上できる物がない場合は、自身の身を持って奉仕したほうが良いと。だが私は見ての通り人間初心者だ。知識で知っていても、実際の礼節とは違う可能性も十二分にある」

 

 …………人間初心者ねぇ。もうこの際、そういうことは追求しないでおくか。

 

 しかし……………どうすればいいか。知識と実際とは違う可能性を言及してる以上は、俺がこと細かく説明すれば鵜呑みにして何でもしてくれる可能性もある。それを利用すれば…………いやダメだ、やめておこう。卑しいことしか思い浮かばない。

 

 何より…………こんな無垢な子は守らないといけない。そうとも感じる自分がいた。

 

「じゃあさ、君のこと教えてよ」

 

「…………それが望みなら伝えてもいい。どうせ私にも協力者が欲しいとは思っていたとこだ」

 

 彼女は咳払いをして姿勢を正して話を始めようとする。……芋感あるジャージ姿なのが申し訳ないな。

 

「私は人間どころか地球の生命体ですらない。どうだ、驚いたか」

 

 ……いや驚けねぇよ。散々「人間を知らない」とか「人間初心者」とか四六時中草むらを観察したり、物を知らないのに知識は豊富とかいう超常染みたことをしていたら、むしろ宇宙人とかの類の方を思い浮かべる。

 

「私はある目的のために地球を観測していたが……ある時を境に、地球を見守る■■と■■が反応を途絶。その後は■■■■■■■■■■————」

 

 脳が壊れそうなほど厚みのある『言葉』が彼女の口から紡がれる。俺には完全に理解不能。この調子で聞き続けたら頭が割れて、女装好きの変態になりかねない。

 

「頼む……。人間に理解できる言葉にしてくれ」

 

「■■■■■——。…………すまなかった。まだ言葉さえも不自由でな。コミュニケーション以外の会話の時には思わずこの言語が出てしまう……。君に認識できる言葉っで出来るだけ説明する」

 

「いやいや! それよりも前にもっと大事なこと!」

 

「大事なこと……?」

 

 ああ……この子、ここまで無知なのか……。

 

「俺は君のことを知りたいと言った。……それは目的もそうだけど、一番は君の名前が知りたいんだ」

 

「…………自己紹介というやつか。確かにコミュニケーションにおいて自分の身分を明かすのは効果的だという知識はある。…………なるほど、こういう時のコミュニケーションは間違ってないのか」

 

「では」彼女は一息置くと「改めて自己紹介する」と宣言する。

 

「私は『セラエノ』。プレアデス星団の観測者」



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第3節 〜Day Game〜

 後日、ホテルのチェックアウトを済ませて俺は公園へと向かう。そこには先日ホテルに連れ込んでしまった少女…………セラエノがいた。

 

「おはよう。今日はいい天気だ」

 

「曇り空だよ」

 

 服装は昨日と変わらず赤い衣装を着回している。衛生上の問題を感じるが、まあ洗濯には出したから大丈夫ではあるだろう。

 

 ……俺はホテルの中での出来事を思い出す。

 

 やはりという当然というか、チェックアウトで立ち会った女性スタッフにはセラエノを連れ込んでしまったのはバレてしまった。ただ、スタッフが優しい人であり「この事を知っているのは昨日勤務してた監視スタッフと私の二人だけだから秘密にしておいた。若い子は盛んでいいわね♪」と言ってお咎めなしだった…………。優しいのは訂正しよう。優しいけどスケベな人だった。

 

 だから今日でここのホテルとはおさらばだ。宿無しとなり、どうしようか四苦八苦したものだが、その女性スタッフは温情から「2キロ離れたホテルなら二人利用でも大丈夫よ。ホテル提携での招待なら2割引にもなるし。もちろんラブホじゃないわよ」と電話を一つすると彼女が代わりに予約の手配をしてくれた。

 

 …………そういう意味では優しい人なのかも。

 

 ともかく俺とセラエノは今そのホテルに向かうことになるのだが、チェックインまでには4時間近くある。その間にどうやって時間を潰すか。幸いニューモリダスは銃社会とはいえ基本的な文化レベルは新豊州と引けを取ることはない。娯楽に満ち溢れた大都会ということもあり、探せば探すだけ暇つぶしというものができる。

 

 セラエノの文化交流を考えると決してこの時間は悪いものでもない。…………宇宙人の相手なんてするだけ無駄なのにな。

 

「何か見てみたいものとかあるか? 幸い持ち合わせはあるから、ちょっと贅沢ぐらいは大丈夫だぞ」

 

「…………何をすればいいのか。こういう場合はエスコートするものじゃないのか?」

 

 ……確かに男なら女性をエスコートするものか。

 

「じゃあまずは街中のお店を全部見て回るか」

 

 俺は彼女の手を引いてニューモリダスの街へ繰り出す。相変わらず無機質で無表情だが、セラエノの足取りは軽い。……多分、本当に人間としての経験が薄いからなんだろう。こんな素振りだが、内心は好奇心に満ち溢れていて楽しみなんだ。

 

 俺は昨晩セラエノと話した内容を思い出す。

 

 

 …………

 ……

 

 

「私はセラエノ。プレアデス星団の観測者」

 

 プレアデス星団……。確か宇宙のどっかに固まる星の名称だったっけ? ……あとで調べればわかることか。今知るべきなのは宇宙人…………セラエノが話す内容のほうだ。

 

「私の使命は人間と星の繁栄を見守り続けること。そこには本来私のような絶対中立の存在は何が起ころうとも介入してはいけない……。何故ならここに理由がある」

 

 突如『無』から本が彼女の手に収まる。それは大人気育成ゲーム『パケットモンスター』の完全攻略ガイドなどの本格な攻略本よりも遥かに厚くて大きく、セラエノの細腕で持ち上げるのが不思議なくらいだ。

 

「これはプレアデス星団にある『情報』の一欠片だ。これを見たら最後、どんな賢者であろうと自分の無知さと愚かさを嘆いて自己崩壊を起こすか、苦痛に耐えきれず死を選ぶだろう」

 

「そんな賢者ですら死に急ぐものなのに、狂わないお前の天然っぷりはある意味奇跡だなッ!?」

 

「天然……? 私はお魚さんではないぞ」

 

「既に『お魚さん』って表現する時点でボケボケだ。つまりその本は…………ええっと……そう、『アカシックレコード』みたいなものか?」

 

「『アカシックレコード』…………。そうだな、細かい部分を言及すれば差異はあるが認識として間違いない。これを閲覧すれば元始からのすべての事象、想念、感情といった宇宙が納めた記憶から概念まで、さらには宇宙誕生以来のすべての存在について知ることができる。それは過去・現在・未来のありとあらゆる全てだ…………例外などない」

 

「はずだった」と彼女は間髪入れずに話を続ける。

 

「だが今は『未来』だけは『不確定』となり、私が持つこの断章も白紙となってしまった」

 

 そう言って彼女は断章と呼ばれた本を俺に向けて…………。

 

「待てよッ!? 端的に言えば、見たら死ぬ本だろッ!? 見せるなよ!?」

 

「死ぬだけじゃないか。それに今はその効力を断章は持っていない」

 

 死ぬことをそんな軽く流すやつを初めて見たぞ。

 まあ、そういうことなら一安心……「はずだ」——って、おい!?

 

「オイオイオイ死ぬわ俺!」

 

「だがこうして見ても死んでいない。良かったじゃないか」

 

 そうですね。ほんとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおに心底良かったと安心してるよ。こんなところで死ぬとこだったわ。

 

「…………しまった、さっきのはコール&レスポンスというものをすべきだった。今のは流れからして『ほう死なないのですか。大したモノですね』とかいうべき場面だったのではないか……?」

 

「現実でインターネット文化や言語を口に出すのは痛い子だから止めとけ」

 

「なんと……。では実際にイキスギてる人間も、尊死する人間も、登校中にパンを食べながら「きゃー遅刻ぅ遅刻ぅ」という女子高生も、朝起きたら女の子になってる男の子もいないのか」

 

「…………いたらやだね」

 

「ショック……」

 

 だから無機質で無表情に言ってもショックそうな印象が皆無なんですけど。

 

「……コホン。ご覧の通り断章の中身は白紙だ。これでは私の存在意義が崩れてしまう。しかも同胞との連絡は途絶えていて情報の再更新さえできない。これはいけない、ニートの誕生だ。そう感じた私は絶対中立という立場を放棄して、情報収集のために地球という惑星に降臨したのだ」

 

「その情報収集第一号がカマキリか」

 

「その通りだ」

 

 そんな誇らしげに言われても困る。カマキリの生態なんか新約アカシックレコードに記載されたところで誰が喜ぶんだよ。

 

 …………待てよ。『誇らしげ』? 今、俺は無機質で無表情な彼女から『誇らしげ』という機微を感じ取れたのか? 

 俺は今一度彼女の表情を伺う。ダイヤモンドもビックリの仏頂面だ。……分からん。本当に顔が固まってるんじゃないかと気になってしまい、恐る恐る彼女の両頬を引っ張る。

 

「はひほふふ」(なにをする)

 

「別に表情筋死んでるわけじゃないんだよなぁ……」

 

 縦縦横横丸書いて……。動かそうと思えばプリンみたいに動くな。むしろ感情表現なんか楽だと思うぐらいだ。

 

「今どう思ってる?」

 

「ひへふぁふぁふぁはひほは? ふはひは」(見てわからないのか? 不快だ)

 

「見て分からないから聞いてるんですけど……」

 

 俺は彼女の頬部から指を離す。どうやら痛覚はあるようで、少しばかり赤く腫れた頬をセラエノは優しく摩っている。

 

「そうか。今まで私がしていたコミュニケーションとは、お前には十分に伝わっていなかったのか」

 

「コミュニケーションを円滑にしたいなら、その仏頂面なんとかしないと苦労するぞ」

 

「こうか?」

 

「変わってねぇよ」

 

「じゃあこうか」

 

「だから変わってねぇって。目さえ動いてないぞ。せめて目を閉じて笑顔を浮かべるぐらいはできるだろう」

 

「できるな」

 

「……能面みたいだな」

 

 見ていてここまで不安になる表情は初めてだ。

 

「……人間の表情とは難しいな」

 

「喜怒哀楽で表現しよう。嬉しい時」

 

「こう」

 

「……怒ってる時」

 

「こうっ」

 

「…………悲しい時」

 

「こう……」

 

「………………楽しい時」

 

「こう」

 

「……いいんじゃない?」

 

 残念ながら区別がつかない。

 

「そうか。良かった」

 

「……嬉しいのか?」

 

「嬉しいからこういう顔をするんだろう?」

 

「そうだね」

 

 俺には全然分からんッ!!

 

 

 ……

 …………

 

 

 そんな感じで夜は過ぎた。セラエノの表情は結局朝まで改善されることはなかったが、おかげで表情ではなく雰囲気の機微でセラエノの感情が察せられる程度には俺も読み取れるようにはなった。

 

 足取りが軽い時はワクワクしている証拠。瞬きをするのは驚いた証拠。自慢げに話す時は軽く鼻を鳴らし、逆に鼻を深く鳴らした時はご立腹な状態だ。悲しい時は言葉の息遣いが増える。…………まあ大体そんな感じだ。

 

「ふむ……。ここのコーヒーはお前が淹れたのと違い随分味の深みもコクもある。酸味も弱くて飲みやすい。…………結果、お前の淹れたコーヒーはマズイということが判明した。というか苦いお湯だな、アレは」

 

 現在、大手ショッピングモールのコーヒーコーナーにて。俺はセラエノに貶されながら試飲できるコーヒーを全てセラエノに飲ませていた。

 

「そりゃインスタントだしね……」

 

 ましてやお湯を注いで抽出しただけだ。一からコーヒー豆を挽いたわけでもないし、焙煎という豆自体の加熱行為、エスプレッソみたいに水蒸気で抽出するみたいな専門的なものでもない。味の品質などそれは雲泥の差だろう。

 しかし、それが俺の実力だと判断されるのは遺憾ではある。

 

「…………だというのに不思議だ。私はお前が淹れたマズイコーヒーの方が好みだ。何か理由でもあるのか?」

 

「ただ貧乏舌なだけだろ」

 

 とりあえずセラエノが気に入ったコーヒー豆を購入。種類はモカとコナだ。……子供舌疑惑も出てきたが、それを突っ込むのは野暮だ。こういう入りやすい入り口から沼に落とすのがコーヒー道の始まりさ。

 

 座椅子にもなる特製のスーツケースに入れて、セラエノと二人で文化交流は続く。お次はお約束のファッションショーだ、アパレルショップの前へと辿り着く。

 流石にセラエノの服装がこれ一品だと可哀想に感じてしまうので、気に入ったのがあったら一つぐらいはプレゼントしてもいいだろう。

 

「……」

 

 ニューモリダス一推しのミリタリールックを試着。無表情。

 

「……」

 

 伊達眼鏡と萌え袖で演出した文系スタイルを試着。無表情。

 

「……」

 

 知的感を考慮して白を基調としたコンサバ系を試着。無表情。

 

「……」

 

 似合わないの承知でJKギャル系を試着。無表情。

 

「そこは何かしら怒ってもいいからリアクション欲しいな……」

 

「……理解しているとはいえ、やはり人間が服を着るという行為に疑問を持つ。服を着ることで保温性や種族としての地位を象徴するのは分かるが、種族として本当の力を見せつけるなら裸が一番絶対的じゃないか」

 

「人間の社会は野生的じゃないからな。その魅力は伝わりにくい」

 

「そういうものか」

 

 視線を横に逸らしてセラエノは考え込む。視線を合わない時は大体考え事をしている時だ。無機質な瞳でもそれぐらいの機微なら分かるものだ。

 

「……お前は服というものを着せ替えしなくていいのか?」

 

「俺は女物の服は着ないから……」

 

「……? 服とは着るためにあるのだろう? なぜお前は着ないのだ?」

 

「俺は男だから! その服は女性用! 着たら変態だから!」

 

「了解、お前は男だな。女性の服を男が着たら変態。これも理解した」

 

「トランスジェンダーに配慮した発言をしてください」

 

 そのままファッションショーは続行。最終的には「これが一番良かった」と、白のロゴ入りTシャツにロングスカートとサンダルを購入することになった。俗に言うノームコア系だ。活動もしやすいシンプルなものであり、ある意味ではセラエノの服に対する無頓着さが出てるとも言える。

 

 そして時刻は正午、お昼ご飯の時間帯だ。同時にチェックインの時間まで2時間ぐらいとなる。

 …………昼食を済ませたら、あと回れるのは一軒くらいだな。さてどうしようか。

 

「お待たせしました。こちらタコと胡瓜の酢物と小海老のサラダ、それにオニオンサーモンのカルパッチョとロブスターのオムレツになります」

 

 せっかくセラエノがいる中での昼食だ。豪勢に海鮮料理専門のレストランで食事をすることにした。

 ニューモリダスは海湾沿いの都市であり、世界最高の貿易港というから様々な種類の料理がこれでもかと楽しめる。特に海鮮料理に関してはどこに行っても絶品の一言だ。

 

「この酢物にある吸盤が付いた赤い物体……かの旧支配者に似ている……」

 

 何やら意味不明なことを呟くセラエノ。タコは苦手なのかと思ったが、どうやらそういうわけでもなく躊躇いなく口に含んで食感を楽しんでいる。

 

「他にも気になる物があったら注文していいぞ。ただし食べられる範囲でな」

 

「安心しろ、無限に食べられる。このフィッシュアンドチップス、赤身魚の盛り合わせ、それにマグロとアボカドのナムルを注文したい」

 

 ……こいつ意外と舌が肥えてやがる。注文したものを早くはないものの一定のペースで平らげていき、その姿は本当に堪能してるのかと疑うほど事務的だ。

 

「お待たせしました。こちら——」

 

「オーダー追加。燻製カジキのトルティーヤ、ホタテのバター醤油グリル、ボンゴレパスタも頼む」

 

「かしこまりました」

 

 一定のペースで……。

 

「お待たせしました。こ——」

 

「オーダー追加。ロブスターとエビのリゾット、シーフードパエリア、特選イカの刺身も頼む」

 

「かしこまりました」

 

 一定の……。

 

「お待たせ——」

 

「オーダー追加。面倒だからこのページにあるメニュー全部」

 

「かしこまりました」

 

 い——。

 

「おま「オーダー追加。メニュー表にあるの全部」かしこまりました」

 

「お前だけ世界が加速してない!?」

 

 そして動揺しないウェイトレスのプロ根性もすごいなっ!?

 

 

 …………

 ……

 

 

「大変美味であった。これは断章に記しておかねばならない」

 

「アカシックレコードがただのグルメレポートになっとる……」

 

 そりゃ物凄い勢いで平らげていき、全メニューを食すのにジャスト2時間だ。この場合、完食したセラエノもだがハイペースで料理を提供するスタッフも凄い。これに関しては周りのお客様が見世物気分でセラエノへの食事提供を優先してくれたのが大きいのだが、何にせよここにいる全員がクレイジーであった。

 しかもそのフードファイター顔負けの食欲から、ギャラリーからチップを貰う始末だ。おかげで俺自身が支払う料金は全体の二割と想像より安くなった。

 

 ……まあ既にその二割が、最初に想定していた支払い金額以上なんだがな!

 

「もうチェックインの時間は過ぎてる……。どうする、このままホテルに向かうか? それとももう一件ぐらい寄って行くか?」

 

「寄っていいなら寄らせてくれ。私の目的は『人間と星の繁栄』を見守ること。そして私自身がそれを理解することだ」

 

 じゃあ、もう一つぐらい寄るとするか。ガイドブックを広げて俺は周辺の情報を調べる。

 …………近くにあるとすれば博物館や美術館系統か。セラエノの目的とも合致するし、そこらへんを目指すとするか。

 

「よし、じゃあ宇宙開発技術館でも行くか?」

 

「…………やめとく」

 

「おっ、珍しく拒否の意思。じゃあ人民歴史博物館とかはどうだ?」

 

「…………それも嫌だな」

 

「じゃあどこがいい?」

 

「逆に聞く。お前はどこに行きたい?」

 

 意外な質問に俺は固まる。

 

「確かにお前が提案した二つの場所は非常に興味がある。だが、それ以上に……楽しくないんだ」

 

 楽しくない——。セラエノは相変わらず無機質で無表情だが、その言葉をキッカケに少しだけ表情に影を落とす。

 

「楽しくない? 行ってもいないのに?」

 

「そうだ。私には喜怒哀楽がまるで分からない。だから学ぶにはお前から模倣するしかないんだ。しかし……そのお前自身が今は楽しそうに感じない。それでは私が本来知るべき『人間』を理解できないんだ」

 

 ——その言葉はどんな言葉よりも心が込められてる感じがした。

 

 ……参ったな、図星だ。今まではコーヒー選び、着せ替え人形、食事は俺自身結構楽しもうとした節はあった。だが生憎と俺は元々普通の男子学生で、学術的興味なんてゲームで出てくる神話や偉人ぐらいなもので、歴史自体に興味なんてカケラもない。

 

 ……セラエノの『心』は、もしかしたらどんな人間よりも敏感なのかもしれない。

 

「それにホテルにはテレビやインターネットで動画が観れるのだろう? 考古学的知識はそこで学ぶさ。だから今だけはお前の心の有り様を見せてくれ」

 

 そう言われたら俺だって自分の心に素直になるしかない。俺が今一番行きたいところ……。

 

「じゃあ射撃場に行こうか。ここから近くにある地下施設に拳銃からライフルまで扱ってる所があるんだ。ニューモリダスに来たら、本場の銃社会の訓練や風景とか味わないと損だぜ」

 

「——うん、楽しそうだ。是非とも行かせてくれ」

 

 俺達は日が暮れるまで遊び呆けた。今日一日を俺にとって掛け替えない物にするために。今日一日が彼女にとって実りある物にするために。

 

 …………俺に残された時間は多くない。

 

 (とき)は少しずつ変革を(きざ)む。交わるべき日はそう遠くない。



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第4節 〜Night Game〜

 …………入室してから思ったことを告げる。

 

 あの女ぁあああああああああああ!!

 

「ふむ……部屋のガイド案内を見る限り、ここは『セミダブルルーム』というらしいな」

 

 そうなのだ。俺達が案内された……というより女性スタッフが予約していたのはセミダブルという、本来『一人部屋』で扱える寝室を割増料金を『二人利用』できる部屋だったのだ。

 部屋の広さ、収納スペース、ベッド、テーブルなどは確かに完全な一人用よりは大きいものの、当然ベッドは一つしかないため二人で一つを扱うことになる。……今日もタオルケットに包まって床で寝るしかないのか?

 

「安心しろ。横幅は普通のダブルベッドと差はない。二人で寝るには十分だ」

 

 一緒のベッドで寝るのが安心とかけ離れてるんだよ! 童貞の俺に昨日今日知り合った女性と一緒に寝れるほどの根性はない!

 

「私と寝るのは嫌なのか? 昨日もそうだったが」

 

「いやいやいや! 別にセラエノのことが嫌いなわけじゃない!」

 

「好きなのか。照れる」

 

 無機質で無表情に「照れる」と言われても、全く持って照れてるようには感じない。しかも見た感じ、目線とか頬を掻くといった動作で恥ずかしがってる様子もない。セラエノ検定一級への道は未だ遠い。

 

「いいか、セラエノ。後学のために言うが、一緒に寝ていいのは恋人か家族だけだぞ。もしこれから一人になったとして、俺も当然として見知らぬ男に「一緒に寝よう」とか言うな。あらぬ誤解を生む」

 

「理解した。では私と恋人か、家族になれば一緒に寝てくれるんだな」

 

「発想が飛躍してるぅぅうううううううう!!!」

 

「どうする。夫婦には若すぎるから兄妹とか姉弟とかか? それなら遠慮なくセラエノお姉ちゃん、セラエノ姉さん、セラエノお姉たま、好きな感じで呼んでいい。貴重な経験になる」

 

「そんな好奇心のために俺の尊厳を破壊するような呼称なんて恥ずかしくて呼べるかァ!!」

 

「では私が妹になるとしよう。そしてお兄ちゃんと呼ぼう。これはこれで良い経験だ」

 

 ダメだこの子、知的好奇心が高すぎてあらゆる属性を踏み抜いていくつもりだ。こちらの羞恥心とかお構いなしだわ。

 

「不服か? ならば——」

 

「わかりました! 恋人でいいです! だからお姉ちゃんとも呼ばないし、お兄ちゃんとも呼ばなくていい! オッケー?」

 

 セラエノは親指と人差し指で輪を作りながら「オッケー」と淡白に言う。

 

 …………自分でも小っ恥ずかしいことをしたかも。ごめんなさい、父さん母さん。こんな無責任な息子で申し訳ない。

 

「とりあえず荷物はすべて整理しておいたし、ノートパソコンのケーブルを繋いだぞ。これでインターネットが見れるのだな?」

 

「ああ。で、このアイコンを……って何してるんだ?」

 

「このマウスというものを動かせばカーソルが動くのだろう? だから動かしてるのだが……一向に動かない」

 

「接地させないと動きません!」

 

 どんなに空に向かってマウスを縦横無尽に動かさそうともセンサーが反応しないで動くわけがない。

 

「そうか。……おい、マウスを動かしていないのにカーソルが動いているぞ。これが世に聞くポルターガイスト現象か?」

 

「タッチパッドに触れてるだけだ。これは今はオフにするか」

 

 先行き不安だ……。これではローマ字入力さえ一から教えないといけないのか? それに悪質なウイルスとか違法サイトとかネットリテラシーを何もかも教えないといけないのか?

 

 ……想像してみる。

 

 

 …………

 ……

 

『お兄ちゃ〜ん♡ セラエノ、ヒーローの綴りがわかんな〜い♪ えっ……そんなお兄ちゃんったらエッチ……♡ HEROでヒーローだなんて……。だってH(エッチ)とERO(エロ)で……♡』

 

『ぴえーん!! セラエノのSNSが炎上したよぉ〜!!』

 

『お兄ちゃーん! エッチなサイトを見たら100万円払えって言われたけどセラエノそんなお金持ってないよぉー!』

 

 ……

 …………

 

 

「誰だ、こいつッ!!?」

 

 俺のギャルゲー知識のせいで、想像上のセラエノのキャラがおかしくなってる!? 無垢な感じはあると思っているが、いくら何でもおかしいだろう!?

 

「うるさい、急に叫ぶな。今時の若者か」

 

 今時の若者じゃい!

 

「…………なるほど。『a』『i』『u』『e』『o』を基礎に組み立てればいいのだな……。『K』と組み合わせれば『か行』で、『S』なら『さ行』……小さな『や』はどうすればいい?」

 

「『しゃ』なら『sya』とか入れればいい。単体で小文字を入れたいなら前に『X』を付けれればいい。『や(ゃ)』なら『xya』とかな」

 

「把握した。感謝する」

 

 想像以上に学習能力が高い。一度体験すればそれだけで十分そうだ。だがインターネットは険しい道のりだ、一度や二度は痛い目を見るかもしれない。

 セラエノはネットサーフィンを開始する。タイピングの仕方が最初はぎこちなかったが、みるみる速度は上がっていきわずか10分でブラインドタッチができるところまで成長を果たす。やっぱこいつだけ世界が加速してるとしか思えない。

 

「ふむ……。まとめサイトとはいいな。見た感じだと、この動画サイトなら多種多様な動画が投稿されてるとある」

 

「はい、そのURLは違法サイトーッ! おもくそエロ動画サイトーッ!」

 

 そのURLには悪戦苦闘した覚えあるので忘れようがない。即行でセラエノからマウスを取り上げる。おかげでセラエノ自身どこか不満げな雰囲気が漂う。

 

「ならどこで見ればいい」

 

「yohtubeとかエコエコ動画がいいんじゃないか。俺が世代なだけだけど」

 

 SNSでも繋がりさえ持てれば動画を見れるからそれでもいいんだけどね。だが、いま現在対人経験が不足しているセラエノをSNSの領域にまで野放ししたら、それこそ危険が危ないというアホみたいことが起きかねない。絶対ありとあらゆるコメントに噛み付いていき、論争を繰り返して炎上を迎える未来しか見えない。

 

「そうか。利用者が多いのはどちらだ」

 

「間違いなくyohtubeだな。エコエコも好きだけど、どうしてもサイト特有のノリのせいで固定ユーザーが増えにくい。ようつべなら色々と方針が違う投稿者がいるから好き嫌いは別れるけど、まあ慣れれば快適だよ」

 

「ようつべ?」

 

「yohtubeの略語だな。他にもうぽつとかあるな。動画に関係ないところなら『RT』と書いてリツイートとか、了解の『りょ』とかある」

 

「りょ」

 

 ……まずいことが起きた気がする。セラエノが略語を覚えたら会話の内容が凄まじく縮まるんじゃないのか? そうしたらただでさえ無機質なのに、その上に理解不能な略語を使われたらどうすればいい? というか人には発声不可能な言葉を知っている以上、もしかしたら『ギャル文字』とかもそのまま言えるんじゃないのか……?

 

 不安がさらに募る中、俺のポケットが震えが走る。すぐさま震えの正体であるスマホを取り出すと、そこには『非通知』が一件。それはすぐに切れると、すぐに再び『非通知』の電話が来る。それを何度か繰り返して、最後には何事もなかった様にスマホは沈黙した。

 

 ……5回ということは『完成』の合図か。

 

「セラエノ、ちょっと外に出るけどオートロックだから鍵は閉じなくていいからな」

 

『Oh Yes!』

 

 …………セラエノの方からやけにネイティブで野太い男性の声が聞こえてきた。てっきりエロ動画を踏んだのかと警戒して振り返ると、別に如何わしいサイトに繋がってる様子もなく、こちらに画面と顔を向けるセラエノが音声ファイルの再生ボタンを黙々とクリックする姿が映るだけだ。

 

『Oh Yes! Oh Yes!』

 

「……何やってるの?」

 

「サンプリングボイスで少しは私の気持ちを伝えようと思ってこうしてる」

 

「普通に言えば理解しようとするから……」

 

『Uh huh』

 

 今度はセクシーな女性の声が響いた。

 

「……実は気に入ってるだろう?」

 

「あーはん」

『Uh huh』

 

「……とりあえずお留守番よろしく」

 

『Oh Yes!』

 

 ……楽しそうで何よりです。俺は愛想笑いだけを浮かべて部屋から出た。

 

 ホテルの寝室から出て直ぐの角。公衆電話専用の防音個室へと入り、事前に知らされていた非通知先の電話番号へと折り返しの電話をする。

 

『はいは〜い! いつもあなたと共にあるイナーラちゃんで〜す! ……で、どちらさま?』

 

 三回目のコールで出てきたのは聞き覚えのある女性の声。彼女……『イナーラ』にはこのご身分になってから随分お世話になっている。

 

「…………………………」

 

『…………………………ご用件は?』

 

「タクシーを頼む。目的地は5キロ先の料亭だ」

 

『はぁ〜〜〜〜。事前に注文してた依頼主ね……。5番となると……はいはい、できてますよ。受け渡し場所は……そうね、ダンスや音楽に興味ある?』

 

「人並みには」

 

『じゃあ、海湾沿いの『Seaside Amazing(シーサイド・アメイジング)』っていうクラブで会いましょう。時刻は今日の開演時間から一時間後。カクテルでもお願いしようかしら』

 

「未成年だろう……」

 

『互いにね。じゃあ情熱的な一杯でもお願いするわ〜♪』

 

 最後に口づけの音を響かせてイナーラとの電話は終わる。

 

 ……いつも思うけど調子が狂うテンションだ。相変わらず真面目に相手しようとするこっちが馬鹿馬鹿しくなる。

 イナーラから指定されたクラブをスマホで調べて、住所を頭の中に叩き込む。

 開演時間は20時から。となると待ち合わせは21時となる。今の時刻が19時前と考えると、今からだと交通機関を使えば1時間以内には着くか。

 

 …………せっかくだしセラエノも連れて行くか。

 俺の秘密を知られてしまう恐れがあるのは痛手になるかもしれないが、彼女の今後も考えるとできるだけ経験を積ませて人間社会に送りたい。それでもし…………。

 

「いや、もしは後でいいだろう。今はセラエノと一緒に踊りに行くか」

 

 

 …………

 ……

 

 

 少し時間を置いて夜道を歩くこと十数分。俺とセラエノは待ち合わせ場所となるクラブの前まで着く。

 セラエノは現代の知識に吸収するのに夢中で、着いたというのにイヤホンから流れるVtuberの動画に見続けている。表情は相変わらず仏頂面のままではあるが、そこはかとなく楽しげだ。

 

「へぇ〜『星之海』っていう姉妹Vtuberかぁ。気に入ったのか?」

 

「…………」

 

 珍しく無言だ。道中でイヤホン越しからでも会話は成立していたので、単に聞こえてないというわけではない。だとしたら動画に心躍る内容でもあったのだろうか。セラエノの心境など知る由もない。

 と思いきや、セラエノはいきなりイヤホンの片耳を外すとそれを俺の耳につけ始める。まさか、この状況………本当に恋人とかにある一緒に音楽を聞くとかいう————!!

 

『Oh Yes!』

 

「返答するのに時間がかかってただけかい!」

 

「迂闊だった、動画の再生中はサンプリングボイスが使えない。やはり自分の口で返答する必要あるな」

 

「それが普通のコミュニケーションだからね!?」

 

「マ?」

 

「すごい勢いで学習してるのは分かるけど、それが普通なんだ」

 

「なら何故スタンプや絵文字があるのか……。人間のコミュニケーション形態は実に複雑だ」

 

 セラエノにとってコミュニケーションの出力は一つだけっぽい。まあネット文化と実際の文化は差異があるからな。その辺は本当に体験しないと分からないだろう。現実で「ンゴ」とか「よろしくニキ」とかいうやつは基本いない。

 

 そうこう言いながらクラブの中に入る。薄暗い建物の中、様々な客の出入りが行われる。そのほとんどがリズムに合わせて踊っていたり、曲を肴に酒とトークに酔いしれる客もいる。

 

「お客様。会員証はお持ちでしょうか?」

 

 スタッフの一人が話しかけてくる。当然俺の分はあるが、セラエノの分は今は持っていない。とはいっても、それぐらいは織り込み済みだ。

 

「俺はありますけど、この子はイナーラさんからの招待客でね。彼女に確認をとってくれないかな。俺の会員証を見せれば分かると思うよ」

 

「かしこまりました」

 

 スタッフは俺の会員証を持って店の奥へと姿を消す。

 

「……ここではこんな風に踊るのか」

 

 待ち合わせ人であるイナーラが来るまで間、セラエノが無表情で腰とくねらせて足でテンポを取る。

 

「ここではもっと大袈裟でいいぞ。腕を上げて振り回すしてもいいぐらいだ」

 

「分かった」

 

 素直に腕を振り上げて、腰を横に動かして踊りを活発化させるセラエノ。当然仏頂面のままで踊り続けているため、側から見ればかなり不気味である。

 

「おっまた〜〜♪ ごめんね〜、わざわざここに来てもらって♪」

 

 数分後、入れ替わりに踊り子衣装のイナーラが姿を見せる。胸と股以外ほぼ全てを素肌を曝け出す扇情的な衣装であり、もはや下着として機能してるかさえ怪しい。

 

 すぐにセラエノに気づいたイナーラは値踏みをするように見定めていく。上半身から下半身、続いて瞳を覗いて見つめ合う。なおセラエノは今もなお踊りながらイナーラを見つめている。

 

「こんばんは。私はセラエノ、プレアデス星団の観測者」

 

 当然、セラエノはいつもの無機質・無感情・無表情な抑揚で挨拶する。イナーラは彼女の踊りながらの突然すぎる挨拶に目を見開き、その反応から伝わってないとセラエノは思ったのか、踊りをやめて俺の使ってないスマホから『Hello!』と陽気な女性の声を響かせた。

 

「…………不思議ちゃんが好みなの?」

 

「違う」

 

「なんと。では先ほどの恋人宣言が嘘だったのか」

 

「それも違う!」

 

「違うのに違う……。どういうことだ……?」

 

 馬鹿正直過ぎて話が進まねぇ!

 

「ふ〜〜ん……。こんな子のためにぃ〜、わざわざ身分証明をイナーラに作らせたのぉ?」

 

 わざとらしいぶりっ子口調でイナーラはこちらの神経を擽ってくる。とはいってもこれが彼女の平常運転だ、今更咎める気なんてさらさらない。

 

「そうだよ。文句ある?」

 

「ないっつーの。ここはニューモリダス……対価に見合う物さえあれば何でも揃う欲望渦巻く都市よ? お代は取ってるんだからどう使おうがアンタの勝手」

 

 そう言って彼女の手から鍵を一つ受け取る。それは駅前などにある保管ロッカーの鍵だ。鍵には番号が書かれたプレートが取付けられており、そこには三桁の数字も記載されている。

 

「わらしべ長者で悪いけど、場所はシーサイド駅の首都航空行き線の改札前ロッカーよ。…………そこに諸々全部入れてあるから」

 

「ありがとう」

 

「それと警告。私もね、仕事上誰彼構わず依頼は引き受けるから耳に挟むんだけど……。アンタ、あの組織に狙われてるよ」

 

「……好都合」

 

 そろそろ此方からもアプローチをかけないと思っていたところだ。なにせ、本来の予定とはだいぶ方針が変わってしまっている。

 

 ……むしろ願ったり叶ったりだ。こちらから出向いてでも会いたいほどだ。

 

「ふ〜ん。まあ私も中立だから依頼主が話さない以上は、どんな事情があれ踏み込まないようにするけど…………あの子が何かあった時のフォローぐらいはしようか?」

 

 イナーラはセラエノを見つめながら言う。その表情は珍しく慈しむように見据えており、まるで妹や弟を心配そうに見守る姉のようであった。

 

「どういう風の吹き回し?」

 

「こんな仕事でもお気に入りってあるのよ。アンタはお得意様だからね、アフターケアぐらいはサービスでもいいよっていう。あの子面白そうだし♪」

 

「じゃあお願いしとくよ。とはいっても、退場するにはまだ早すぎるけどな」

 

 そう言って俺はセラエノを連れてクラブを後にする。

 

 夜風が吹き抜けるニューモリダスの都市。

 耳を澄まさずとも眠りを知らぬここでは、いつでもどこでも喧騒が起きており静寂というものを知らない。

 

 だという今だけはやけに静かに感じる。何かが起こる前触れのように、一歩を踏み出すたびに静寂は増していく。

 

 やがて俺達の前に一人の少女が姿を見せる。

 夜でも鮮やかに舞う黒髪。血などを知らない無垢で温かい赤い瞳。身長は俺より少し低い。

 

 俺は…………この可憐な少女をよく知っている。

 

 少女は俺を力強く睨み続け、やがて意を決したように重苦しく言葉を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「答えろ。お前………………『誰だ』?」

 

 可憐な少女————『レン』が俺にそう告げた。

 

 さあ、本当の始まりはここからだ。



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第5節 〜Game Start〜

 ——数日前、新豊州。

 ——SID本部にて。

 

 

「なんだよマリル……。突然こんな時間に呼び出して……」

 

 寝癖髪と眠気で落ちる目蓋を必死に堪えながら俺はマリルがいるブリーフィングルームへと向かった。

 時刻は午前4時……。運動部でもない俺にはこの時間帯に起きるのは、ネットゲームのイベントを消化する時以外はありえない。つまり何かしらが起きない限り起きることはないということだ。しかもこの場には俺とマリルしかいないという非常に珍しい状況だ。否が応でも何か人員が集めることさえままらない重要なことがあったのではないかと思ってしまう。

 

「……やはりお前はここにいるよな」

 

「……そりゃそうだろ? 流石のマリルも寝ぼけてるのか?」

 

「夢とかで済ませられるならそうしたいところだ。これを見てみろ」

 

 マリルは眠気か、それとも事態の深刻さから鋭い目つきのまま俺にタブレットを手渡してくる。

 画面にはいつか見た覚えがある俺のプロフィールが記載されている。……確かこれは俺が最初に女の子になった時、SIDの力で改竄してくれた時の情報画面だ。こんなのを俺に見せて何になるんだ?

 

 寝ぼけた頭のまま自分のプロフィールを眺め続ける。上から下へ、下から上へ。変わったところなど見当たらない…………と思っていた。

 

 何度か往復したところで記載されている情報におかしな点があることに気づいた。といっても不具合の一言で片づけられそうな些細な情報の齟齬だ。少し前にマサダブルクに行ったし、何なら『OS事件』で海底にまで行ったことで反応が途切れた可能性もある。しかし、それしか異変らしい異変は見当たらない。

 

 それは俺の新豊州の滞在状況だ。おかしなことに『出国』として現在の状況が登録されている。

 

「出国……? 俺はここにいるのよな?」

 

 そこでようやく眠気が覚める。確かに不思議な状況ではあるが…………そんなに事態を焦るほどのことか? 愛衣やアニーに声を掛けて、時間を改めて話しても十分なことではないのか? 疑問が疑問を呼び、尚更俺とマリルしかいない状況に、俺が思っている以上に事態は深刻ではないのかと不安が走る。

 

「レン、覚えているか? 『イージスシステム』とSIDの情報が連携していることは」

 

「ああ、覚えてるよ。なにせ『イージス』が俺のことを俺と証明してくれたじゃないか」

 

 俺とマリル、そしてアニーと初めて会った日を思い出す。あの日、女の子初心者だった俺は何とかして、俺が『俺』であることを証明しようとした。学生証やらスマホやら色々と証拠を提示したけど、なによりも決定的だったのは、新豊州が持つXK級異質物『イージス』が自発的に持つ保護機能による新豊州市民の識別方法によるところが一番大きい。

 

「そうだ。『イージス』の力で、お前はお前という証明をした。だがな……この証明は絶対だからこそ絶対に有り得ぬ状況さえ生み出す」

 

 絶対だからこそ生み出す状況……? マリルの言葉にはある部分を暈すように説明を続ける。

 

「そもそも、どうやって『お前』は『お前』だと証明させた? 性別か、名前か、動作か、仕草か、脳波か……。どれも正解であり不正解だ。『イージス』はその個人によって定めた『魂』によって登録を振り分けている。それらが導き出した情報からSIDはお前の元々あった情報と照合……にわかに信じがたいがお前がお前という証明を得た。ここまではいいな?」

 

「問題ない」

 

「だがな……。『イージス』が定めるのはそこまでだ。ある程度の自己判断能力を持つ『イージス』は己の中で情報を処理し、己の中で情報を保護する。それを解析してSIDは正式な住民IDを発行する。ここで初めて情報の齟齬が発生しうる」

 

「じゃあ、ただのヒューマンエラーってこと?」

 

 それはもう別の意味で深刻ではある。天下のSIDが杜撰な管理をするなんてエージェントや組織の教育が行き届いてないか、あるいはスパイによる情報工作か……。どちらせよ穏やかなことじゃない。

 

「ヒューマンエラーじゃない。むしろ『イージス』が優秀すぎるから発生するんだ。再度言うが『イージス』とSIDの情報は絶え間なく情報を交換し続けており、そこに本来データの齟齬などが普通は発生するはずがない。何故なら『イージス』の判断基準は『魂』だ。その『魂』によって判断をして、新豊州市民だけでなく旅行客などもIDを振り分けて極力保護対象にしようと『イージス』は常に動き続ける。そのIDの数はそれこそ人類の総人口と常に同じ数を刻み、IDの数値が同じということはあり得ない…………。同じ『魂』など本来二つと存在しないのだからな」

 

 同じ……『魂』は、本来『二つ』と存在しない……。

 

 マリルの言いたいことが段々と理解してくる。それは俺にとって喜報や朗報と言った最重要事項の一つかもしれない。

 

「だからこそ……。肉体が違うとしても、同じ『魂』を持つ人間を『イージス』が観測した場合どうなる? 『同一人物』として扱って、『イージス』は自己で情報整理と完結を済ませて再度保護に努める。我々SIDは『イージス』と違って『魂』ではなく、それに基づいたデータを照合する。そこで初めて我々は気づくのだ。『イージス』が更新した履歴と、我々SIDが更新した履歴に決定的な違いが生まれることにな」

 

「それって……つまり——」

 

「ああ。結論から言えば、ついにお前が『男』だった時の姿を持つアイツが捕捉できた。『イージス』がお前の『魂』が海外へ旅立つ時、SIDのデータは確かに自室で熟睡中のお前を捉えた」

 

 熟睡中をつけるのは余計だよっ!

 

 ……だけど、それはとんでもなく俺にとって貴重な情報だった。『男の姿を持つ俺』と『レンの姿を持つ俺』……。これはだいぶ前から気になり続けていたことだ。

 

 男の俺について忘れたことはない。イルカと出会った日からすぐのこと、突如として俺の姿をしたアイツはニューモリダスにあるアルカトラズ収容基地を襲撃。その中に保管されていたEX級異質物『天命の矛』を強奪して逃走。以降、姿を表すこともなく行方不明な状況が続いていた。

 

 今の今まで音沙汰なしだったはずなのに、まさかここに来て初めて痕跡らしい痕跡を残すなんて……。

 

「となると『魂』の行き先……つまりは男のお前がどこに行ったのか気になるだろう?」

 

 マリルの言葉に俺はすぐに頷く。

 

「だからこちらも調べておいた。アイツは…………新豊州からニューモリダスへと旅立ったという履歴を『イージス』から手に入れた。それに伴ってニューモリダス首都航空の空港にある監視カメラから、入国する男のお前が目撃されている。まず間違いなくアイツは、ニューモリダスに今潜伏している」

 

 ニューモリダス——。世界最高の貿易港にして、絢爛華麗な風光明媚を地とする銃社会。そんな硝煙と共に胡散臭さが香る街で再び男の俺が現れたということに、俺は疑問しか浮かばない。

 

 アイツは一度『天命の矛』を強奪した都市へとまた向かっていったというのか? 一体何のために? 

 アルカトラズ収容基地を襲撃した一因もあって、現在ほとんどのEX級異質物は『サモントン協定』によってサモントン教皇庁に管理のもと収容されている。アイツがもしも再び異質物の強奪目当てで来襲したしたら、目指すべきはサモントンであるべきだ。

 だというのに何故? 無い頭でも考えればいくつか理由は推測できる。

 

 ニューモリダスについて詳しい話はマリルから聞いているし、何よりスクルドの出身地ということもあってサモントンやマサダブルクと並ぶほど政情は把握している。そしてニューモリダスが第二学園都市として象徴するXK級異質物『リコーデッド・アライブ』の詳細についても。

 

 もしアイツがニューモリダスに再び出向く理由があるとすれば、まだ移送途中のEX級異質物を強奪するか、もしくはニューモリダスの別の収容基地で管理されているsafe級異質物の強奪。あるいは『リコーデッド・アライブ』自体に目的があると考えるのが自然だ。

 

 XK級異質物『リコーデッド・アライブ』——。

 新豊州が持つ『イージス』の防護特化やマサダブルクが持つ『ファントムフォース』の攻撃特化と違い、その異質物の効力は『一定の対価を払うことで、同等の価値を持つものへと変換する』という、いわば『等価交換』という言葉がこれ以上にないほど相応しい異質物だ。

 

 最も恐ろしいところは『対価』とは『何でもいい』という点に尽きる。故にニューモリダスではあらゆる物に価値が生まれる。塵も積もれば山となるという諺があるが、所詮塵は積んだところで塵に過ぎない。だが『リコーデッド・アライブ』の前ではどんな塵であろうと、瞬く間に金や食料に変換されるという奇跡にも等しいことが起こりうる。

 とはいっても、あくまで『交換』に過ぎないので、地表上に存在しないものに変換することはできないらしいが……。問題はニューモリダスがこれほどまでの情報を惜しげもなく『公表』しているという点だ。

 

 新豊州もマサダブルクも……いや六大学園都市すべてがXK級異質物について本質的な能力については機密事項にしていることはいくつかある。実際『イージス』の判別方法が『魂』で行われていたなんて、新豊州市民の俺でさえレンになるまで知らなかったことだ。

 

 ニューモリダスが『リコーデッド・アライブ』の情報をそこまで公表する以上、何かしらの情報や効力はまだ隠し持っているのは明白だ。それをアイツが知っていて、その秘匿された効力を目当てにニューモリダスに向かったとしたら…………向かう理由としては十二分にあり得る可能性だ。

 

「アイツの目的も気になるが、そんなものは捕らえてから尋問すれば幾らでも分かることだろう。第一優先はとにかくアイツの随時追跡、並びに確保だ。そのためにも、いの一番にエージェントを派遣する必要がある」

 

「とはいってもな」とマリルはそこでため息をつく。

 

「ニューモリダスが誇る情報機関『パランティア』との連携は政府側からの圧力もあって、新豊州の情報機関であるSIDが大手を振って入国をするわけにいかん。下手したら外交問題にも繋がる」

 

 ……気のせいかな。その流れどこかで、というかつい最近マサダブルクで入国するための手筈と似ている気がしてならないんだけど。

 

「そ・こ・で、お前には身分を偽装してニューモリダスへと潜入。現場に到着次第、ある人物と協力してアイツを追跡することになった」

 

「やっぱり? だとしたら、その人物って……」

 

「実態としては二人なのだが、協力者の関係で三人いる。…………その内二人は想像はつくだろう。ニューモリダスの件なら協力を仰がない方が無理というものさ」

 

 マリルの言う人物にすぐに思い浮かんだ。先ほどあげた少女、スクルド・エクスロッドとメイドであるファビオラに違いない。

 

「もう一人の人物は…………個人請負業者として世界各地で活動を行う仕事人『イナーラ』だ」

 

「イナーラ?」

 

「国のトップなら一度は耳に挟む極秘人物だ。元老院のジジイ共は全員知っているし、他国ならランボット、エクスロッド議員、デックス博士…………恐らくはラファエルやエミリオも知っているであろう有名人さ」

 

 全然聞いた覚えがない人物だ……。まあ諜報員や忍者は存在が認可された時点で三流というらしいし、一般人である俺に噂も聞かないほどの人物となるとそれだけ優秀ということだろう。

 

「どういう人なの?」

 

「何でも屋、とでも言えばいいだろう。護衛、情報収集、暗殺、窃盗、テロ行為…………どんなことでも金さえ積めば熟す仕事人さ」

 

「聞く限り大悪党じゃないか!? そんな奴に頼んでSIDの立場は大丈夫なのか!?」

 

 俺の疑問にマリルは鼻で笑いながら答えた。

 

「事情が複雑でな。有り体に言えば義賊的な扱いを世界各国から扱われている。もちろん世界中で捉える方針はあるが……彼女のおかげで政界のパワーバランスが保たれている一面もあることで各国全てとは言わないが、イナーラに弱みを握られてる。そんな奴が捕まりでもしたらどうなると思う?」

 

「弱みが漏れなくてハッピーとかじゃないの?」

 

「頭の中は未だに夢心地か? マサダブルクの一件、ある人物の死亡を引き金として衛星『STARDUST』を落としたように、逮捕がキッカケでイナーラが持つ情報漏洩したらそれこそ各国がパニックになる。ただでさえ七年戦争の影響で世界はボロボロな上にそんな事態が起きてみろ。まず間違いなく六大学園都市以外の国は壊滅状態になるし、学園都市も無事では済まない。破滅へのスイッチは何もマサダが持つ『ファントムフォース』だけじゃないんだ」

 

「……あくまでかもしれないだろ?」

 

「その『かもしれない』が起こすのが全人類バッドエンドなら、例え天文学的な確率でも触れない方がいい。もしイナーラを確保する時があれば、それはもっと未来の…………世界が安定期になってからだ」

 

「その頃にはお前もイナーラもおばあちゃんかもしれないがな」といってマリルは笑みを溢す。

 

 てか、おばあちゃんって、俺はそんな長くまで女として生きるのがマリルの中では確定されてるの!?

 

「イナーラのことは資料を渡すから移動中にでも見ておけ。そんなことより今後のお前の動き方と役割について説明しなければならない」

 

「入っていいぞ」とマリルが手に持っていた端末に言うと、ブリーフィングルームの自動ドアが開かれる。

 

「久しぶり〜、レンお姉ちゃ〜〜〜〜ん!!」

 

「スクルド! ラーメン屋以来か!」

 

「お久しぶりね、駄メイドことレンさん」

 

「駄は余計だよ、ファビオラ!」

 

 俺の前にニューモリダスの御用人であるスクルド・エクスロッドと、そのメイドであるファビオラが姿を見せた。

 

「レン、お前にはスクルドのSPとしてファビオラ共々行動を共にしてもらう。お前自身の自由となる時間は少なくはなるが……スクルドは第二学園都市ではある程度自由に行動できる権限がある。それに同伴してターゲット探ってくれ」

 

「分かった。ターゲットについて、二人はどこまで知っているんだよな?」

 

「お嬢様と違って、私はターゲットの詳細までは聞かされておりませんが……メイドとは常に一歩退いて事態に当たり君主に傅くもの。気にはしておりません」

 

「私も政治家の娘だからね、ターゲットがアルカトラズ収容基地で強奪とかの部分も聞いてるよ。これはファビオラも知っているけど…………私自身は……うん、特にはないかなぁ」

 

 その言葉には明らかに嘘が入り込んでいた。以前、ファビオラの一件で親しくなった時にスクルドは言っていた。彼女自身が持つ能力『未来予知』——、それで俺の『姿』を見たと。

 

 その姿とは、奇しくも俺が夢に見た学園都市の崩壊と同じ光景であり、俺が男だった時の姿だという。顔も身長も髪の長さまで全て覚えている様子で、女の俺を見た時にはかなり疑問に満ちた質疑応答をしたのは覚えている。

 

 ……そこまで鮮明に覚えているのなら、俺がニューモリダスの空港で姿を見せたと知った時はスクルドも驚愕したんだろうな。何せ本来いるはずがない人物がそこにいるのだから。

 

「そういうわけだ。レン、SPの訓練は覚えているだろう?」

 

「覚えています。護衛対象の安全を第一に考えて行動する。第二に連絡を常に絶やさないこと。第三に身を危険に晒して事態の究明に当たらない。あくまで護衛が目的だろう?」

 

「よろしい。ならば特殊作戦用の服に着替えておけ。今回は……喜べ、こういうものだ」

 

 マリルは手元のスーツケースからクリーニング屋で仕立てたばかりと見間違うほど綺麗な黒のスーツが出てくる。

 それを手渡されて俺は感じた。これ完全に防弾製だ。通常よりも遥かに重く、裏生地には関節部以外に鉄板が仕組まれていて、軽く羽織るだけでも姿勢が矯正されて、見てくれだけは逞しく見えてくる。

 

「おぉ……念願の男物……ッ!!」

 

 おかえり、俺のマイフェイバリット。こんなタイプの服を着るのは入学式以来だけど、それでもこの胸にこみ上げるワクワク感は何とも言えない。メン・イン・ホワイトを見た時と同じ興奮が激ってくる。

 

「ほら、動きやすさ重視で下はスラックスと革靴だ。中に着るのはカバーバンドとベスト、どっちがいい」

 

「ベストでいいよ。……ネクタイはどうしようかな♪」

 

 お洒落にリボンタイとかにしてみようか。それともオーソドックスにダービータイや蝶ネクタイにしようか……。

 

「随分と楽しげですね、レンさん。男装の趣味でもおありですか?」

 

 ファビオラの何気ないツッコミに俺は固まる。

 

 そうだよな、普段ラファエルから女装癖、女装癖と言われてずっと潜在意識で女の子の服を着るのに抵抗感を覚えていたが、改めて考えると俺は現在女の子ではあるから、逆に男物の服を着たら『男装癖』と呼ばれる存在になるんだよね……。どちらにせよ、俺はどんな服を着ようが変態の道は避けられないのか?

 

「……あっ、そう言えば忘れてた。ファビオラ、レンお姉ちゃんが『男の子』かどうか確認しなくていいの?」

 

「分かり切ってるので大丈夫ですよ、レンさんは『男の娘』ではありませんから。しかしボーイッシュではあるので私的には全然アリですけどねっ♪」

 

 ——意外ッ、迫りくる新たな性癖ッ! 

 

 ファビオラにも、ソヤやハインリッヒに負けない秘めたる何かがあるのではないかと、俺の本能が警鐘を鳴らす。

 

「レンさん……見た感じ、男装は初めてでしょうか?」

 

 初めてじゃないけど、初めてですッ!!

 

「ええ、ええ……。女性が男性の服を着るのは気苦労がありますから……。サラシを巻いたり、肩幅を調節したりとありますからね……。胸に余分なスペースもないで、スーツのボタンが付けられなかったり、ヒップが大きくて丈は十分なのにズボンが入らなかったりと……」

 

「く、詳しいっすね……」

 

「仕事と趣味は兼用していますから。ですが、私はそういう頑張ろうとする女の子にも控えめに言って『超萌えます』」

 

 ひえっ……!! 控えめで超までいくのかよ……っ!?

 

「レンお姉ちゃん……。私も興味あるから観察するね♪」

 

「嘘だろっ……!?」

 

「はいッ! というわけでファビオラ自らが男装というものを伝授致しますッ!! さあ、まずは全てを脱いでもらいます!! 話はその後で!!」

 

「や、やめてくれぇぇえええええええ!!!」

 

 これから重大な任務が起こるというのに、何でこんな目に合わなきゃいけないんだよッ!



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第6節 〜Half Time〜

 先の男装事件から数時間後、俺はエクスロッド家が所有する小型飛行機の中にいる。個人所有物ということもあり、普通に乗る旅客機の狭苦しいエコノミー席やファーストクラスみたいな豪華な個室とはわけが違い、機内全てがラウンジとして設計されたVIP仕様だ。ソファから大型モニター、果てにはビリヤード台からダーツなど遊戯が多種多様だ。

 一見、燃料や領空的な問題で一般利用の乗客がいないのは予算的にどうなのと思うが、そこらへんは「触れちゃいけない事情がある」とスクルドは天使みたいな外見とは裏腹に、悪魔みたいな腹黒い笑みを浮かべてはぐらかしていた。政界の娘って怖い。

 

 そういうこともあって俺はニューモリダスに着くまでの間、スクルド達と遊戯を楽しむつもりだったが…………。

 

「ほい、インナーブルにスリーヒット。これで150点獲得」

 

「やった! 私はトリプル20が二つとシングル20で140点!」

 

「お前ら初心者相手に手加減とかしようよ……!」

 

 こうも手も足も出ないと楽しむ余地がない。……何より、こいつら容赦ない! 

 ルールはカウントアップで8ラウンド制。合計で採った点数が一番多い人物が勝利というものだ。そして今は7ラウンド目。俺はダーツ機の上に表示されている現在のスコアを見てみる。

 

 スクルド:1040

 ファビオラ:1050

 レン:816

 

 どう見ても逆転不可能な状況だ。仮に俺がトリプル20を3連続成功しても得られるのは180点で追いつかない。既に俺のゲームは終わっている。

 

「これでも手は抜いてますよ〜レンさ〜ん♪ 私はリング内のダブルやトリプルは全部シングル扱いな上に私だけセパレートブルで分けてるじゃないですか〜♪」

 

「そうだよ〜♪ 私だって投擲距離は子供用じゃなくて通常ラインでやってるだし〜♪ それにレンお姉ちゃんは最初からトリプル20の五つ分、つまり300点貰ってるじゃんか〜♪」

 

 だとしても……ここまでの敗北は心労的にキツい。それがダーツだけでなくビリヤードからトランプ、UNO、果てには世界的に人気なカードゲームなど様々なゲームでボッコボコのボコにされてきた。

 

 

 …………

 ……

 

『ごめんね、お姉ちゃん! ストレートフラッシュ!』

 

『レンさんからのドロー4をお嬢様と私で返して合計12枚……自滅しましたわね』

 

『全ワルキューレで直接攻撃! バトルフェイズ終了時に速攻魔法《時の女神の悪戯》を発動! 再び全ワルキューレで直接攻撃!』

 

『レッドゾーンZのアタック時に革命チェンジ、レッドギラゾーン。ファイナル革命で他クリーチャーをすべてアンタップしてダブルブレイク。ザ・レッドのアタック時に手札に戻したレッドゾーンZに侵略。効果でシールドを墓地送りしてダブルブレイク。ついでに赤のコマンドが出たから禁断解放してドキンダムXでトドメ』

 

 ……

 …………

 

 

 思い出すだけで酷い有り様だ。

 

「ふっふっふ……。いくらお嬢様でも遊びで負けるほどファビオラは優しくありません。お嬢様が勝つには私の次の三連インナーブル入れた1200点を超える必要があります。それにはお嬢様は160点を超える……つまり全て18点以上のトリプルを決める必要がありますよ?」

 

「その言葉、そのまま返すよ♪ ファビオラだって、ここまでインナーブルを7ラウンド全て成し遂げたけど、それが8ラウンド目まで持つかな? 一つでも外したら50点は消えてその時点で1150点……110点程度の差ならトリプル20を二回決めたり、ブル二回で適当に11点以上を狙うだけで勝っちゃうよ?」

 

 俺には『その程度』ができないんですけど。何だよ、この二人の高レベルな実力は……。きっと戦闘力がインフレする漫画に出る一般人は超戦士達の戦いをこんな風に見つめていたのかもしれない。

 

「今日は負けるわけにはいかない……。ファビオラにはレンお姉ちゃんの前で堂々と自分が持つ下着を全部口頭で説明してもらうからね……!」

 

「何とマニアックな……。お嬢様、いつからそんなご趣味が……!」

 

「趣味じゃない! ファビオラに与える罰だよ!」

 

 しかし、今はあんなに楽しそうに遊ぶスクルドだが、発進前は酷く不安げな顔をしていたのが嘘みたいだ。そして何故そんな顔をしていたのか、その理由を俺は知っている。

 

 話は少し巻き戻る。

 

 どこまでかというと……ファビオラによる男装徹底指導による男性が男の服を着るのと、女性が男の服を着るのでは決定的な違う部分を身体で教えられた後ぐらいだ。

 

 

 …………

 ……

 

 

「うぅ……俺の全てが霰もないことにぃ……」

 

「いいじゃないですか。おかげでサイズもバッチリ採寸し直しましたし、これもメイドが為せる神業、なのですよ」

 

 確かにサイズピッタリだけどね。俺は鏡に映る自分の姿を見つめる。

 

 上下共に黒で統一されたメンズのフォーマルスーツ。シミひとつない白のカッターシャツと繊維が整った黒のリボンタイが英国紳士を思わせる上品さが漂っており、背筋さえ伸ばせば俺でさえ実際の年齢より一回りも大人びた気品を持つジェントルマンに見えてくる。グレーのベストも色合い自体は地味な印象を受けるが、今の俺の髪色は黒と赤のツートンカラーなので、この地味さがファッション初心者にありがちな『服に着られている』という印象をなくし、俺自身が服を着こなしている感さえ出てくる。しかもベスト自体は小さい物を使用して背筋も矯正させてるので、その小慣れた雰囲気を醸し出すのに一役買っている。

 

 胸を小さく見せるコルセットも付けてるから胸元が目立つこともなく、むしろ少し逞しい胸筋にも見えるし、髪さえ切り落とせば一見では女性とは思えないほどだ。この際、思い切って断髪してみるのもいいのかもしれない。長い髪を維持するのが大変なことをこの身体になってから否が応でも知っている。安易に女性にポニーテールやツインテールなどを勧めるのは下手したら殺人事件の理由にもなりかねないほどに。

 

「あぁ〜〜……。やっぱいいよなぁ〜〜!!」

 

 改めて思ってしまう。この着心地、特に股下辺りのフィットした感覚はスカートでは味わえない安心感と安定感。下着が見られる心配もないし、やっぱり男性物こそ俺には合う。最近は自分の元の顔さえ思い出すのが苦労するし、先の一件で『私』が出ることに不安な思いをしたが、これだけで俺は男だと自信が持てる。やはり俺は男だと、高らかに宣言できる。

 

「いいでしょう、たまには男装というのもっ!」

 

「……ファビオラ、話が噛み合ってない」

 

 スクルドの冷静なツッコミが入る。

 そう、俺は男装を楽しんでるわけではない。元々男性なのだから、こういう服を着て心を満たす安心感に浸っているに過ぎないのだよ。

 

「う〜む……。イマイチお嬢様の言い分は理解できませんが、それはそれ、これはこれ。メイドらしく慎ましく納得しときましょう」

 

 不思議そうな表情を浮かべながらファビオラはとりあえずは納得したようだ。思えばラファエル、バイジュウ、ソヤ、エミリオ…………出会う先々ほぼすべての人達に男疑惑持たれてるけど、逆にファビオラからは一切そういうことを思われたことないんだよな。気づいてないのか、気づいてはいるけど踏み込もうとしないのか……。もしくは単に俺に必要以上に興味がないのか。

 

 何であれ男疑惑が持たれないのは弁解する機会が減るというわけではあるので、俺としては気分的に楽ではあるのだが。

 

「ファッションショーは終わりか? じゃあ任務の手配と説明を続けるぞ」

 

 マリルの言葉に、俺とスクルド達は気持ちを切り替えて本題の話を聞く姿勢となる。

 今はスーツ云々やファビオラ云々については二の次だ。一番はニューモリダスで目撃された俺が男だった時の姿を持つアイツについて知るのが第一優先だ。

 

「先も伝えたが、今回のターゲットはニューモリダスに潜伏しているこの少年だ。住所も名前も『不明』ではあるが、こいつは政府が極秘で追っている重罪人であることは間違いない。何せアルカトラズ収容基地でEX異質物を強奪したんだ、放っておくわけにもいかん」

 

「その割には随分と熱があるように思えますが」

 

「おいおい、これでもSID長官だぞ。市民の安全と繁栄を願っている身として、国際的な犯罪者を野放しにするわけないだろう」

 

 マリルが言うと詐欺師の謳い文句みたい、とか言ったら怒られるんだろうなぁ。

 

「そこで最重要人物の確保、並びにEX異質物の回収を目的としてレンをスクルドの護衛として配置させてもらう。レンの所在を知っているのはこの場にいる私達と、既に事情を説明して裏側の手引きをしてもらったスクルドの父である『スノーリ・エクスロッド』議員と手引き先である情報機関『パランティア』のみだ」

 

「だが」とマリルは間髪入れずに話を続ける。

 

「他の情報機関も政治家も脳みそに苔が付いた存在ではない。数日もあれば今回の事態には気付くだろう。政府関係者に気づかれずに目標の人物を人知れず確保するのが一番スマートではあるが……そこのところ実際どうだ、ファビオラ?」

 

「…………私が2年前に『パランティア』に所属していた時から変わっていなければ、あの情報機関は精密射撃や市場調査といった物を得意としていて諜報に関しては政府直属の機関に劣るのが実情ですね。ですからパランティアと連携が取れても厳しいところがあるかと……」

 

「やはりそうなるか……。だとしたら作戦の指針はこうだ。理想としてはレンはスクルド達と同行して第二学園都市へと入国。スクルド護衛の任務を行いながら、こちらは水面下でイナーラと連絡してお前と接触してもらうよう手配する。接触でき次第、スクルドとの予定を合わせながらイナーラと情報交換をしてターゲットの場所を絞り込んでくれ」

 

「そこまでコソコソやる理由あるかなぁ……?」

 

 俺が溢した疑問にマリルはため息をつく。その視線は「今ここで言わんでくれ」と言うように呆れ気味だ。

 

「アイツの身分は現状不明なんだ。拘束され次第、身ぐるみ全部剥がされて情報という情報を抜き取られるだろう。EX級異質物を強奪する手練れなんだから、さぞかし興味が湧くよなぁ〜〜♪ どんな情報が漏れ出るんだろうなぁ〜〜。手段や目的、それに国籍とか気になるよなぁ〜〜」

 

 マリルの言い含めた発言に俺は察した。ファビオラやスクルドがいるせいで、俺の内情をすべて言えないことを考えると、つまり言葉の意味は俺の身を案じているんだ。今回の作戦、隠密にやる理由に関してはSIDがニューモリダスに潜入する問題もあるが、何よりも『SIDがアイツを確保』しなければならない事情もある。

 

 他国がアイツを確保したとして、その場合『俺』としての情報が漏れることになる。そうなると完全に『俺』が犯罪者として認定されて、『俺』という存在は一転して社会的地位が失ってしまうのだ。

 

 そんなことになれば、今ここにいる俺という存在が元に戻る手段を手に入れたとしても、今後の生涯を平穏に暮らすには『レン』として生きることを余儀なくされる。つまり俺が『男に戻る』という可能性が潰されるということなのだ。

 

「まあ、そんなところだ。他国にアドバンテージが取れる情報が取れれば外交にも強く出れる。多少の危険を承知してでも確保に動く理由にはなるさ」

 

「マリル……」

 

 普段から色々と弄ってくるけど、そういうところしっかり考えてくれてるんだな……。思わず感涙しそうになる。地獄にも仏、鬼の目にも涙とはこのことか。

 

「だが、この指針はあくまで早期決着を狙ったものだ。アイツの確保が遅れた場合、パランティアにも協力を仰いでもらうことになる。そうなると政府機関にもこちらの潜伏がバレる恐れが高くなる。……レン、今回はマサダブルクみたいに私の助力があると思うなよ。アレだってそう出したくない手なんだ」

 

 マサダブルクの助力となると、エミリオが人質に取られた時にした俺の無謀な交渉術のことだよな。あれもマリルがSID長官が直々の連絡を取ることで、俺の立場を暗にフォローしてくれたから効果を得られたものだ。

 この手は『情報』が不明瞭だからこそできる情報戦なうえにこちらが下手となるものだ。マリルとしては好ましくないからこそ、あの状況下でも最後まで出し渋っている。雑に扱ってしまうと『もしも』の時の切り札がなくなってしまうのだ。

 

「わかっている……。今度はヘマをしない」

 

「よろしい。パランティアと協力する場合は追って連絡を渡す。それまではスクルドは護衛とイナーラとの交流に勤しんでくれ」

 

「交流って……」

 

「あの女は相当変わり者だ。きっと気に入られるぞ」

 

 気に入るんじゃなくて、気に入られるのか……。ソヤとか愛衣みたいな変態じゃありませんように。

 

「それでは通達を終える」

 

 その言葉を最後にスクルド、ファビオラ、俺の三人は即座にSID内にある移動用エレベーターを経由して、黒塗りの防弾仕様のSUVへと乗り込んでエクスロッド家所有の航空機が待つ空港にまで向かうことになる。

 

「久しぶりだね、お嬢さん」

 

「あ、お久しぶりですっ」

 

 乗り込んだSUVの運転手は、ソヤと一緒に新豊州を巡った時に知り合ったいつぞやのお爺さんだった。タクシー運転手に扮した姿ではあるが、その人が良さそうな笑顔と年季の入った皴は忘れる方が失礼というものだ。あの時には移動手段として非常にお世話になりました。

 

「すいません、新豊州国際空港までお願いします」

 

「あいよ。代金は嬢ちゃんのスマイルな」

 

「あははっ……あざっす」

 

 ごめんなさい。そういう年寄り特有のジョークには俺は応えられるほどボキャブラリーが豊富ではない。

 

 車内には女性キャスターがニュース速報を読み上げるラジオの音だけが響く。後部座席に俺達三人は乗っているものの、特に弾むような会話などは起こらず俺は窓の外ばかり眺めていた。ファビオラも俺とは理由は違うが、同様に外を見てスクルドへの襲撃がないか付き添いのメイドとして常に注意を払っている。…………俺も今はSPなんだからスクルドに気を配らないといけない。

 

 そう思ってスクルドを見ると、彼女は今までの天真爛漫な笑顔はどこにいったのか、とても子供とは思えない不安げな瞳で俯いていた。

 

「……お嬢様、やはり不安ですか?」

 

「うん……やっぱり、ね……」

 

 その表情は見覚えがあった。先日、ラーメン屋であった時の最後に見せた神妙な顔つきと非常に似ている。あの時はすぐに笑顔を見せたから一種の迷いか、あるいは見間違いかと思ったが、どうやら俺が想像しているよりも根深かったらしい。今でもその思考の痼りは残っているようだ。

 

「……何か困ったことがあるなら言ったほうが楽になると思うよ」

 

「うん、そう思ってた。レンお姉ちゃんなら伝えたほうがいいって……」

 

 するとスクルドは困った顔を浮かべ、恐る恐る運転手に聞いた。

 

「……こっちの会話を聞こえなくすることとかできるかな? 無理なら大丈夫なんだけど……」

 

 そんな頓珍漢な質問に、運転手は特に表情も変えずに左手をハンドルから放して、ファビオラが座る後部座席左側にあるボタンを指した。

 

「滅多に使ってなかったけど、そこを押せば防音フィルターが運転席と後部座席の間に貼られた気がするよ。大声でも出さない限り運転席には届かないし、それに俺も歳も食って耳が遠いから仮に聞こえても忘れるってもんさ」

 

「マリル長官も変な機能付けるよなぁ」と運転手は笑いながら言った。いや、そんな機能を覚えている時点で忘れるとは到底思えないんですけどz

 

「ありがとう。それじゃお言葉に甘えてっと……」

 

 スクルドはファビオラの身を乗り出してボタンを押した。運転手が言っていた通り、俺達との間に防音フィルターが即座に展開されて、ラジオの音さえかなり篭っているのがこちら側からでもわかる。耳を澄ましてもニュースキャスターの声の判別すら難しい。かなり優れた防音性だ。

 

「…………じゃあ、レンお姉ちゃんに伝えることがあるんだけど……その前に約束して。今から言うことは嘘でも何でもない。証明する手段も、確証的な意見もない。だけど私は直感したんだ。きっとこれは事実だって。それでも約束して…………私の話が『本当』のことだって」

 

 少女が必死な思いで溢した言葉は悲痛に満ちていた。俺よりも博識で聡明なあのスクルドが、そんな曖昧な表現をしなければならないほどの事態が何かあったのだ。俺には想像もつかない葛藤や思考が今までずっと張り巡らされていたのだろう。

 

 そんな少女に俺は何ができる? そんなの——決まりきっている。

 

「信じるさ。だって俺は君にとって『一番大切』な人だしね」

 

 あの時体験したファビオラの『記憶』は『夢』となって忘れてしまったけど、そのために紡がれた約束までも儚く消えたわけじゃない。この繋がりは確かに大切にしなければいけないものなんだ。

 

「その言葉、聞き捨てならないんですけど詳しく聞いてもよろしいでしょうか?」

 

 突如、ファビオラの瞳から熱光線が出るのではないかと錯覚するほど殺意に満ちた視線が送られる。

 

「待って! 俺、何もしてないっ!」

 

「日々政治家達におべっかを絶やさないスクルドお嬢様ですが、その実かぼちゃパンツの卒業さえ出来ないほど初々しい心の持ち主なのです。どういう経緯かは知りませんが、そんなお嬢様を汚すような真似をしている場合こちらも殺菌処分を考えないといけないんですが?」

 

「お姉ちゃんとは何もないから! それにかぼちゃパンツのこと言わないでよ!?」

 

「マジでかぼちゃなの!? この年齢でッ!?」

 

「違うからッ! いや、違わないけど今日は違うからッ!」

 

「そうですッ! 本日はキュートなクマさんパンツです!」

 

「それも言わないでよ!」

 

 どんちゃん騒ぎな後部座席。そんな雰囲気を感じて運転手は困った表情を浮かべながらフィルターをノックしてくれた。そして口パクで「聞こえるからね」と渇いた笑いを浮かべた。

 

 そこでスクルドは冷静さを取り戻したのだろう。顔を赤くしながらも咳払い一つで落ち着きを取り戻し「この恥かしめはいつか必ず……」と物騒なことを呟いている。

 

「…………こんな後に言うのも難だけど……実は……」

 

 やけに長く感じる沈黙。一秒か、十秒か、それ以上か。あるいは意外にもすぐだったのか。スクルドは目を伏せながら告げた。

 

「私、未来が……『見えなくなった』の……」

 



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第7節 〜Loss Time〜

なんか2時投稿されてることに後から気づいた。


「私、未来が……見えなくなったの……」

 

 スクルドから告げられた言葉の意味に、俺は一瞬理解ができなかった。

 

 未来が見えない……。つまり『未来予知』の能力が使えなくなったということなのか? 

 

 そんな俺の考えを読み取ったように、スクルドは一つ頷くと眉を下げて困った表情を浮かべながらも言葉を続ける。

 

「安心して、実害のある不利益とか一切ないから私自身そこまで困ってはいないよ。『未来予知』とカッコつけていても、実態は割とよく当たる勘程度と思った方がいいくらいの物だし……」

 

 よく当たる勘程度の物——確かに言い得て妙だ。スクルドの『未来予知』能力は漫画やアニメとかにあるものに比べて絶対的な物ではない。

 

 前に播磨脳研で説明されたことを思い出す。

 

『未来予知』といっても、あくまで頭の中に断片的な『記憶』があるだけで、その『記憶』を思い出したとしても、どれが過去でどれが未来かなんて本人でさえ判別がつかないと。

 

 何故ならテレビなどの録画と違い、客観的に記された『記録』でない以上、断片的な『記憶』で感じたことを手がかりに予測したところで、人の脳というものは主体となる部分までしか覚えることができず、他の細かい情報を把握することができないのだ。人間の記憶というのは予め脳内で再構築、あるいは整理された情報でしかないと、かつてスクルド自身が言っていた。

 

 例えるならば、自分の記憶に『甘いケーキ』を食べた記憶があったとする。だが、それは『いつ食べたのか』を覚えているだろうか。ましてや『どんな名前のケーキ』だったかを覚えているか。

 ケーキを食べる機会なんて過去にも未来にも腐る程ある。その時漠然と『記憶』していた『ケーキを食べる』という行為は果たして把握しきることができるか。今この瞬間こそは『未来予知』で見た場面だと。

 そんなのは実際に目の当たりにして、本人が『デジャブ』というものを感じることで、初めてここが『未来予知』の能力で見た光景なんだと再認識できるのだという。スクルドの能力はそんな感じなのだ。

 

 だからこの能力が役に立つのは極めて特殊な非常事態に陥った時ぐらいだ。過去の事件や災害を調査して『未来予知』で見た『記憶』が『記録』に該当しないであれば、必然的にそれは『未来』に起こることだと推測できる。そこまで行って初めてスクルドの『未来予知』は信頼できなくもない内容へとなるのだ。

 

「……正直『未来予知』があって助かったことなんて数えるぐらいしかないし、むしろ杞憂に終わるから気苦労の方が多かったんだけど……。唐突にいつかの朝、夢から覚めた時に理由もなく気づいたの。私の『未来予知』が機能しなくなったことに」

 

「不思議だった」とスクルドはSUVのフロントガラスを見つめながら言う。

 

「何かね、心臓が丸ごと無くなったっていうのか……。指先に持った箸の感触がないというか……。付けているはずのメガネを無くしたというか……。そんな感じ程度の違和感しかないのに、確信を持って『未来予知』ができないって……そう感じ取ったの」

 

「……スクルドは能力を失って不安なのか?」

 

「『未来予知』ができなくなったこと関しては不安じゃないよ。ただ物心付いた時からある能力だから、実際になくなったと思うとどんなに異質でも寂しくは感じたよ。だけどそれとは別に…………能力とは関係ない『予感』がするの」

 

「『予感』?」

 

 予知ではなく予感——。

 

「どんなに寝て覚めても頭に焼き付いて、振り払うことができない『予感』——。それは、私が『死ぬ』かもしれないっていうもの」

 

 アイスで当たりを引いた、というように呆気らかんにスクルドは『死』という予感を口にした。

 あまりにも平静なまま口にするものだから、俺は聞き流しそうになりかけたスクルドの言葉を辿りながら会話を紡ぐ。

 

「待って。そんなアッサリと自分の『死』を口にする?」

 

「あくまで予感だからね、かなり漠然とした。記憶にある感じでもなく本当にイメージが湧くだけ。いつ死ぬかも分からない以上、もしかしたらただ単に老衰かもしれないし。そんなのに一々杞憂してたら若ハゲになっちゃうよ」

 

「だけど、問題はここからなんだ」とスクルドは付け加える。

 

「その『予感』と能力の消失……。それ境に私の『記憶』にあった事態とは差異がある出来事が頻繁に起きたの。密売していた組織を確保した際は売買していたのが銃ではなく麻薬だったり、お気に入りのスイーツ店の記念来店客数が一日遅くなったり……」

 

「待て待て。スイーツ店の出来事と、密売を同列に扱うな」

 

「ニューモリダスだと割とあることだからね。慣れたくなくても慣れちゃうんだよ。……それに差異があるのは、アナタと会ったときも『未来予知』と違う光景ができていた」

 

 俺と会ったとき——。そこで俺はラーメン屋でスクルドと話し合ったことを思い出す。

 

「私の記憶が正しければレンお姉ちゃんは『一人』で来て、しかもその時刻は『黄昏時』のはずなんだ。決して放課後の黄昏時の前じゃない。私が思い浮かべる情景とは差異が大きすぎる。……しかも『OS事件』なんて私の『記憶』には載ってない。もちろん偶然そこを『未来予知』していないとなればそこまでだけど、私は知ってるんだ……。本来、レンお姉ちゃんは『OS事件』じゃなくて別の異質物について事態の究明に当たっていることを」

 

「……スクルドの『記憶』だと本来どうなるはずだったんだ?」

 

「……あの時起こるはずだった事態は時空位相波動じゃなくてミーム汚染による情報改革。夢の中で見た光景なら、新豊州全体が大規模な『停電』が起きて交通機関の麻痺、情報手段の途絶、新豊州自体が陸の孤島になりかける災害級の事態が起こるはずだった……」

 

「……そんな事があったのか?」

 

 その言葉に【イージス】によって成り立つ新豊州の事情について俺は考えていた。

 

 新豊州は【イージス】の攻撃性能が皆無であることから、異質物研究が進んでいる学園都市なのにも関わらず他国から迫害されることなく中立なままであることは一般常識として浸透している。その一環として新豊州が運営するセキュリティが堅牢であるデータベースには、同盟国共通で使用できる様々な記録が共有されている。軍事規模、最新鋭の研究、サモントン以外で猛威を振るう農作物を犯す『黒糸病』…………などなど。それらについての対策や成果などリアルタイムで更新され続けている。

 

 そんな秘匿すべき最重要情報を新豊州が受け持っている以上、漏洩は当然として『破損』や『消失』などをさせることもあってはならない。【イージス】を起動させ続ける莫大な電力供給を相まって、新豊州は徹底した電力の供給と維持性を提供している。確かマリルの言っていたことに覚え間違いがないなら、15億ジュール相当の電磁攻撃や地震などの災害、果てには異質物からの攻撃があったとしても無傷のまま機能し続けるほど資産を投下していると言っていた。XK級異質物【イージス】の防衛機能もあり、その電力の維持性を瓦解させるには同じくXK級相当の異質物でもない限り不可能だと。神話に出るイージスの名は伊達ではないと誇るように。

 

 そんな【イージス】の防衛機能さえも突破して、新豊州が『停電』するなんて事態が、スクルドが『未来予知』した『記憶』ではあるというのか? 

 

 ……口には出さないが、そればかりはとても信じられない。

 

「だけど実際は起こらずに、レンお姉ちゃん達は『OS事件』の解明に当たった……。本来『記憶』にあるはずの出来事は丸ごと無くなって、『記憶』にないはずの出来事が突如として起こり始めた。それは私の『未来予知』と『予感』もそう。それが同時に起こるなんて……不気味でならないの。まるで『世界そのものが誰かによって作り変えられた』みたいな気がして」

 

「……ファビオラはどう思ってる?」

 

「信じる、信じないにせよ、私は旦那様の言う通りスクルドお嬢様を守るのみです。『死』を予感しようが、目前に迫ろうが、冥土に渡すつもりなどありません。お嬢様にどんな危機が起きても、自身で見た未来に殺されるというのなら、ファビオラが未来を焼き尽くして炭にするだけですので」

 

「ははっ……頼もしいことで」

 

 何でだろう。ファビオラとは播摩脳研の一件以来、スクルドの召使い以外では深い親交はないはずなのに、以前からそういう姉御肌な気質があった事を知っている気がしてならない。

 

「問題はなぜ『世界が作り変わる』と錯覚するほどの事態が起きたのか……。私はそれ以来ずっと考えてるんだ。世界は知らない間に、もう引き返す事ができないほどの矛盾や欠陥があって、少しずつ崩壊してるんじゃないかって……」

 

 世界が崩壊している。その言葉は誰にとって嫌なものであり、俺にとっては思い出したくもない地獄を想像させてしまう。

  

 あんな事態が、世界のどこか……あるいは『因果の狭間』と呼ばれるようなところで起きているとでもいうのか。誰にも知られることなく、漠然とした感覚だけで捉えることしかできない何かが。

 

「死ぬのは怖くない。だけど、パパやファビオラがいなくなるようなことがあったら……ううん、レンお姉ちゃんやアニーさん達もそう。大事な人達がいなくなるのは…………もう嫌なの」

 

「……お嬢様、失礼します」

 

「ふぇっ?」

 

 突如としたファビオラの畏った宣言に、年相応の可愛らしい声をあげながらスクルドは自身が愛する召使いへと視線を向けた。

 

 ——パチンッ。

 

 途端、破裂音に近い音が俺の耳に届く。スクルドは額を小さな両手で覆って涙目となり、ファビオラは眉を細めていかにも「怒ってます」と言いたげな表情をしながらデコピンとして弾き出した中指を構え続ける。

 

「いたいよ、ふぁびおらぁ……」

 

「こちらは心が痛いです。お嬢様、未来はあくまで未来に過ぎません。お嬢様が不安に思うことは、このファビオラの炎を持って全て灰とします。燃やして、ひたすら燃やして、燃やし続ける……。未来を糧として『現在(いま)』いる貴方様に命の熱を届けます」

 

 そう言ってファビオラはスクルドを抱きしめた。

 

「ですから、安心してください。私達はいま確かにここにいます。未来に怯える必要はありません。お嬢様はいつもらしく元気に、ワガママに、私を振り回していればいいんですよ」

 

 ファビオラは母親のような包容力で、より深くスクルドを抱きしめる。

 

 その光景に俺は自分の母親の姿を幻視した。

 思い浮かべるのは地獄の日、2024年7月25日……『大災難の日』、つまり『七年戦争』が引き起こるよりも前の出来事。

 

 基本的には優しかった母親だった。滅多に怒ることは少なかったが、気分を害した時に子供みたいにブーブーと文句を垂れる一面があったのは今でも覚えている。

 

《どう? SSS評価でクリアできた?》

 

 ゲームをするな! というより難易度の高い目標を定めて俺をゲームからすぐに諦めさせようとしたっけ。今にして思えば良い手段だよな。俺も将来自分の子供……………………。

 ……………そう、父親となる時には試してみてもいいかもしれない。

 

《今日も一緒に寝ようか》

 

 夜とか暗いところが怖くて、寂しくてお母さんと一緒に寝てもらったけ。今じゃあ進んで暗闇でゲームして、プラチナトロフィーをゲットするほどゲームも上手くなったけど。

 おかげで今でも元気です。産んでくれたお父さん、お母さんありがとう。息子…………は今では娘となっておりますが、友達にも囲まれて楽しく過ごしています。けれど、叶うのなら両親と再会したい。そして大手を広げてアニーやラファエル達を友達として紹介したい。

 

 そしてみんなに母親の料理を味わってもらって、産んでくれた恩義を報いるために出来る限りの親孝行がしたい。

 

 ……そんな風と両親のことを馳せてるだけなのに涙が溢れそうになった。

 

 だから、今現在こうして触れ合うファビオラとスクルドを見ていると、少しやきもちを妬いてしまう。

 

「もし、次いけない事を言ったら、ファビオラもちょっぴり本気でお説教します。いつもみたいに逃がしませんからね♪」

 

「…………ありがとう、ファビオラ」

 

 

 ……

 …………

 

 

 とまあ、そんなことが飛行機に乗る前にあった。おかげでスクルドは元気いっぱい。元気がありあまり過ぎて、飛行機に乗ったら思い出したようにスクルドは下着の件についてファビオラに問い質した。

 

 ファビオラも悪気があったわけではないと弁明したが、残念ながらいくら大人びていようがスクルドは根本は子供だ。許せないことに対して感情を一度置いとけるほどの余裕などないので、こうしてダーツ勝負でファビオラの下着を公開するかどうかを賭けた仁義なき戦いが繰り広げられているのだ。

 

 さっきまでの感動短編が台無しである。

 

「くっ……! ここに来てインナープルに二つ、アウターブルに一つ……合計125点とは……」

 

「へっへ〜♪ 残念だけど、たかが135点差。これで決めるよッ!」

 

 ダブル20、トリプル30で合計100点。残り35点。

 

 そして最後の一投。ブルにヒット。正確にはアウターブルだが、俺とスクルドはファビオラと違ってブルに内側と外側で点数が変わるルールではないので、この点数はインナーブルと同じ50点だ。15点超過してスクルドの逆転勝ちとなる。

 

「いぇ〜い! ブイブイ! ダブルピース!」

 

「私が負けるとは……!」

 

 悔しさに顔を顰めながらも、ファビオラはメイド服のスカート部分に手を入れて何やらゴソゴソと何かを取り外す音が聞こえた。

 俺はつい反射的に振り向いてしまい、ファビオラの足元をとらえた。そこには先ほどまで影も形もなかったはずのピンク色のガーターベルトが落ちている。

 

 ……状況的に考えると、まさかこのメイドは……。

 

「ファビオラさん脱ぐんですか!?」

 

 思わず敬語で言ってしまう。待ってくれ、年頃の男性である俺には下着の公開ショーは刺激が強すぎるんですが。

 

「仕方ありません……っ。負けは負けですので……っ!」

 

 次に網タイツが擦り落ちてくる。待て、マジか。嬉しいか嬉しくないかで言われたら大変嬉しいのだが、そういうのは心を許した恋人のために見せるのが王道じゃないのか。こんな罰ゲームのために見せるものではないと俺は思うのだが。それはそれとして自分以外の下着姿も見てみたい気持ちも十二分に湧くのだが。

 

「ええいっ——。覚悟は既に決めておりますっ……!!」

 

 そうしてファビオラはスカートの裾を捲り上げようと手を引き上げて——。

 

「ファビオラ!? 脱いでとも見せてとも言ってないよっ!? あくまで口頭で説明するだけっ!!」

 

 寸前、スクルドがスカートの裾を強引に下げて下着公開は止まられた。

 

 青少年あるある。際どいものは大抵良いところで見れない。



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第8節 〜Additional Time〜

「ここが第二学園都市ニューモリダスかぁ……」

 

 航空機から降りた俺は、眼前に広がる美しい新世界に見惚れていた。スクルドやファビオラが本来住んでいる学園都市、その名は『ニューモリダス』——。

 

 着陸先の空港が港湾付近だったこともあり、教科書やインターネットで見る立体道路や高速道路などといった如何にもなビル群が並ぶ大都会の中心から少し離れており、視界に広がるのは綺麗に流れる川や海が見渡すことができる絶好のリゾート地だった。

 

「おぉ〜〜!! すげぇ〜〜!!」

 

「今見える海がニューモリダス名所の一つ『ロング・ビーチ』だよ。海鮮料理とか色々あるけど、私のオススメは『ラベンダーアイス』とか、某夢の国を参考にした『シーソルトアイス』とかの氷菓子。夏場で食べる時は最高だよっ」

 

 銃社会や絢爛都市と言われるものだから工業地帯や都市開発とかで重機の作業音とか、少し裏路地に行けば第六学園都市『リバーナ諸島』までとはいかないが、マフィアが絶え間なく銃撃戦を繰り広げる治安の悪さというか……それこそ『ATG』みたいな警官と視線を合わせただけで発泡されたり、常習的な車両窃盗があったりと、常にファビオラがスクルドを守らないといけないほどだと警戒していたが…………実際こうしてみるとエンターテインメント性や発展具合なら新豊州を超えうるほど盛んで街が息づいている。

 

 見渡せばこれでもかとインテリアとかアパレルショップが並んでおり、小腹を空かせば「待っていました」と言わんばかりに視界に絶え間なく映り続ける飲食店の数々。ハンバーガーやパスタ、エミリオが喜びそうな大ボリュームを扱うものから、格式が高い……って寿司ッ!!?

 

「あれぇー!? 寿司って新豊州とか辺りの名物じゃ……!?」

 

 というか小籠包やグリーンカレーとか、明らかに国風に合わないのもいくつか見えるぞ!?

 

「ニューモリダスは世界最高の貿易港ですので。色々と輸入や輸出も盛んになれば、様々な文化は根付きます。それにこんな広い海を活かさない点もありませんから、漁猟とかも精力的に行ってますよ♪」

 

「サモントンが輸出している『黒糸病』対策をした農作物だけじゃ食料は全て賄えないからね。ニューモリダスも魚介類を提供してるんだよ〜〜!」

 

「そんな盛んなのに何で銃社会なんだ……?」

 

 素朴に思った疑問を口にしたところ、スクルドは少し顔を曇らせ、ファビオラは慣れているように言葉を出した。

 

「外交が盛んになると、どうしても『他国』の人間が移住することも多いのです。ここは見ての通りリゾート地としても一級品なので、世界中の著名人が別荘を持ったり……」

 

「だからここの国民に『純粋なニューモリダス市民』って全体的に見ても半分もいかないんだ。しかも移住してきた人達のほとんどが七年戦争で棄民となった人達や、サモントンに受け居られなかった戦後の移民……戦争や思想の差異で保身的になって疑心暗鬼に陥った人達は分かりやすい武力を求めたの。…………それが銃社会が発展した理由。視覚化された武力と、卓越された治安警察は銃社会という特異な状況であるにも関わらず国として繁栄している……まあ犯罪件数は六大学園都市でトップだから誇れることでもないんだけど」

 

 意外な事実を知ることになるが、さして俺は驚きはしなかった。マサダブルクでの出来事がそういう根本的な文化の差異について、国ごとに違うということを知っていたからだ。

 

 こうして聞くと改めて新豊州は平和だと思ったが……同時に『平和』って何だろうって、つい考えてしまう。第五学園都市『新豊州』や第二学園都市『ニューモリダス』でここまで差があるのに『平和』が維持されてるのだ。他の学園都市はどうだったか思い出す。

 

 第一学園都市『華雲宮城』は完全な格差社会だ。マリルが「馬鹿は高いところに登るというが、あそこまで行くとある意味では天才だな」と皮肉を言うほどに。官僚が幅を振りかざして、権力の格差が他国とは比べようにならないほど厳格であり、曰く山岳地帯を利用して文字通りの上下社会を築き上げてるのこと。だというのに、華雲宮城では思想自体が栄光もそうだが、歴史や伝承といった遺物を中心に秩序を構築するため国民は現状については不満に思うことはないらしい。

 

 第三学園都市『マサダブルク』は生まれや宗教の違いでテロ活動は絶えることはない。だからこそ『内城』と『外城』と区分けして『壁』を作り上げて、分かりやすい隔たりを作ることで最低限の治安を維持している。俺自身が内城に入ったことで平穏度合いは知っているし、外城は外城で孤児院で子供達が自分なりの幸せを育んでいた。それは国の根本にある思想が自立を促す物があるから成立する平和であり、その思想こそが国取り合戦をしようとハモンやムシャルの壮絶な裏の闘争が引き起こした遠因でもある。自分なりの平和を実現させるために。

 

 第四学園都市『サモントン』は国民間での富裕層と貧困層があり、最底辺まで行けばホームレスや浮浪者がいることが度々話題になる程だ。だけど宗教という思想が全国民に信仰されており、そういう富などの差で争いが起こっているということは聞いたことがない。…………ラファエルはそんな思想に「ああいう役立たずのゴミ共は、全部屠殺所に送ればいいのに……」と転校当初に吐き捨てたほどだ。今思えば彼女が本来持つ優しさなど微塵もない言葉遣いであり、ある意味ではニュクスより扱いはキツかったかも。

 

 第六学園都市『リバーナ諸島』は、そんなニュクスが元々いた場所だ。本人の口頭によればマフィアが統治することで犯罪が犯罪を減らすという摩訶不思議な状態となっており、犯罪件数だけ見れば六大学園都市の中で一番低いとされている。とはいっても綺麗事だけで成り立つ国情ではなく、法外の地としても様々な取引や違法ギャンブルなどで国を回すほどであり、その生き方は国民全体の思想に息吹く『すべての主義主張に意味は無くすべて虚しい。人生は素直に自分の欲望に従うべき』と刹那的な生き方を重んじるほどだ。

 

 ……様々な形で六大学園都市は『平和』という秩序が成り立っている。そんな物は本当に『平和』と言えるのか。疑問に思ったら新豊州さえの『平和』さえ偽りなんじゃないと少し考えてしまう。

 

「でも、こうして国民みんなが元気で楽しく生きてる……。私はこのニューモリダスが好き。いつかパパと一緒に国を支えて行きたいと思っていけるほど」

 

 規律さえ尊守されていれば、どういう経緯や結果であれ平和というものは尊いものだと謳うように、スクルドは天使のような微笑みで語ってくれた。

 

 ……前は庇護欲とか駆り立てられた彼女のためにファビオラを助けたけど、こうしてみると高崎さんみたいに守りたいと思う『夢』があることに気づいた。

 

「スクルド…………」

 

「だからレンお姉ちゃんが新豊州でラーメン屋を教えてくれたように、私もとっておきのお店を紹介したいの。銃社会というけど、ニューモリダスだって楽しくて素敵なところだって」

 

 スクルドは無邪気に俺の手を掴んでくる。ファビオラの方を見てみると「しょうがないですね」と言いながらも笑顔を浮かべると「夕刻を迎える前には戻りますよ」と注意を促しつつも了承を得る。

 

「じゃあ、行こうっ! まずは私がオススメするのは洋服店! 今ね、お姉ちゃん好みのミリタリールックとかニューモリダスで密かなブームなのっ!」

 

「意外と引く力強いなっ!」

 

「お嬢様待ってくださ〜い」

 

 金色の天使を先頭に、鈍臭い黒髪とピンク髪のメイドは蜜の匂いに釣られる蜂のように付いていく。少しずつ移り変わるニューモリダスの街並み。服を見て楽しく談話したり、射撃場でSIDの訓練で培った技術を実感したり、海鮮料理を楽しんだりと至れり尽くせりだ。格好はSPなのに、気分は完全に旅行で浮き上がっている。これならアニー達とも一緒に来たかったが、目的は『俺』の姿をしたアイツを捉えることだ。イナーラという諜報員の情報待ちになるとはいえ、ふとした拍子に見つけることができるかもしれない。気持ちを切り替えて、俺は辺りを見回して目的となる人物がいないか確認した。

 

 その時、視界の片隅で不思議な少女が見えた。ダイヤ柄の赤帽子と赤いサロペットスカートを着た金髪の少女——。

 微動だに動かずにひたすら草むらを見続けている。その姿は何故か愛くるしくて……まるで子供が無邪気に何かを観察しているように見えた。

 

「次行こうっ! 今度は宇宙開発技術館っ!」

 

 引き続きスクルドの案内の下、ニューモリダスを時間の許す限り回り続ける。その去り際、金髪の少女と視線が合った。その無垢が詰まった瞳の奥に、言いようのない翳りが少しだけあるのを俺は感じた。

 

 

 …………

 ……

 

 

 夕刻。洋服やインテリアなどのウィンドウショッピングを時間の許す限り楽しみぬいて、スクルド達と俺は最高レベルのセキュリティを完備したVIP御用達のホテルで宿泊することになる。スクルドは政界的な付き合いでファビオラだけを連れており、今室内にいるのは俺一人。きっとスカイホテルであった時と同じように大人相手でも堂々と交流を行なっているのだろう。俺には到底できない。

 

 その間に俺は明日と明後日の予定を確認する。データを見るだけでは退屈で仕方ないが、スクルドの護衛も目的といえば目的だ。こちらも疎かにすることはできず、自由となる時間を把握していつでもイナーラと連絡が取れるように準備を進める。

 

「この生活に慣れて色々と食うようになったけど……やっぱ、無性に食いたくなる時あるよな♪」

 

 予定表を見ながらも片手間でカップ麺にお湯を注いで束の間の贅沢を満喫する。マリルや愛衣、それどころかアニーさえも「カップ麺は身体に毒」と言われて買うことが許されることなく断食を強いられていた。意外とそのストレスというものは高く、流石のラファエルも同情したのか馬鹿にしたのか、「私は食べるけど、あなたは食べないの?」と目の前で啜る音を聞きながら食べていた時には殺意が芽生えそうになったほどに。

 

 だからこそ監視の目が緩い今のうちに、こうした嗜好品を食べるのだ。ここでなら流石にSIDも俺の食事情までは把握しきれない。胸元の埋め込まれてるスピーカーだって、位置情報と健康状態をリアルタイムで送受信するが、カップ麺食ってすぐに体調に変化が起きることはないし、位置情報なんて何の意味もない。久しぶりに解放された心のままにカップ麺を口にする。

 

「おいしい〜〜〜〜っ!!」

 

 ホテルのディナーもそれはそれで美味しいのだが、元々平凡な男子高校生である俺にはジャンキーなコンビニ飯のほうがご馳走だ。このわざとらしい醤油味と、わざとらしいスパイシーさ、そして謎のブロック肉。これこそ俺が半月近くも求めに求めた至高の味。

 

 ものの見事に数分で食いきった俺は腹八分目となった胃を摩りつつ、再び予定表を頭の中に叩き込む。さて本腰を入れて頑張ろう。

 

「お邪魔するわよ〜〜」

 

 と思った瞬間、聞き覚えのない女性の声と共に厳重に閉ざされているはずのドアが開かれる。即座に俺は懐に忍ばせてある対人用の電気銃のセーフティを解除して、堂々と侵入してきた客人モドキへと向けて構える。

 

 そこにはサイズの合わない黒ジャンパーが目立つ赤髪の女性がいた。ジャンパーの中には、白色のブラウスに編模様の青のミニスカートといったSNSでよく見る『童貞を殺す服』に近い。首元にはチョーカーにスカーフ、耳には目立たないものの真珠のピアスをしており、独特ながらも相当にファッションに詳しそうな風貌をしている。

 

「誰だ、お前!?」

 

「ふふ〜ん、誰だと思う〜〜?」

 

 ケラケラと笑いながら赤髪の女性は俺の顔を覗き込んできた。彼女の瞳は碧緑色に澄んでいるが、今浮かべる表情とは相反したものを感じてしまい、彼女に対する疑念がますます強くなってくる。

 

 途端、彼女の表情は真剣さを帯びた眼差しとなり、俺の身体をくまなく見つめてくる。コロコロと表情や雰囲気を変える風のように気紛れを感じた俺は、構えていた銃の力が意識するよりも前に抜けきっていた。

 

「…………アナタの瞳、見覚えがあるわね。前に依頼したことあった?」

 

「いやいやいや……。知り合った覚えなんてこれっぽっちもないです」

 

「だよね〜」と彼女は不思議そうに言うと、気持ちを切り替えたのか、背筋を伸ばすだけで、雰囲気は一転して厳粛なものとなり、気品が漂う立ち姿へとなった。

 

「それでは答え合わせ、私の名前は『イナーラ』。SIDに正式な依頼を持って貴方の協力をすることになったフリーの諜報員。今回はよろしくね」

 

「君があの……」

 

 俺は赤髪を靡かせるイナーラの顔を見つめながら、航空機の中で確認した彼女の情報を思い出す。

 

 個人請負業者として世界各地で諜報活動や破壊工作を行う仕事人。出身地などといった個人情報を正確に知るものは不思議なことに誰もおらず、身長も風態さえも曖昧で語り継がれる存在であり、金さえ積めばどんな依頼であろうと確実にこなす。SIDの調査書通りの内容なら、要人関係などの困難な依頼を特に好んでいる傾向があるとのこと。しかもどういうわけか、どんな手口であろうとも隠蔽工作を行うことさえないという大胆不敵っぷり。

 曰く異質物武器を所持しているだの、『聖痕』などを持った特殊な能力を持つ人物だの言われているが実際のところは不明。その性質と手口から、過去にインドで起きたEXランク異質物の遺失事件に関与している可能性があることさえ考えられるほど神出鬼没だという。

 

 だがこうして実際の目の当たりにしてみると……意外なことに身長は俺と対して差はないし、年齢もラファエルと同じかそれ以下に見えなくもない。大人しくしていれば普通の……というには見た目が派手ではあるから、高校生ヤンキーに見えなくもない。

 

「というか、何でわざわざ無駄に侵入とかするの……?」

 

「挨拶代わりのデモンストレーションだっちゅーの。私の実力に信頼と疑念を持って欲しくてね。とりあえずこれあげる」

 

 そう言ってイナーラは、ジャンパーのポケットからクシャクチャに丸まった紙屑を二つ俺に差し出してきた。

 

「これ何?」

 

「広げれば分かるつーの。あとこの時間にカップ麺食うのは感心しないなぁ。ブックブクのブッタブタになるよ?」

 

「なんでカップ麺を食べていたことを知っている!?」

 

 あの時にはまだ部屋に入っていないじゃないか!

 

「いや、インスタント特有の匂いって強烈だから。鼻が効く奴なら見なくて分かるよ。あとコンビニで捨てたレシートも見たし。……ホテルまでの道でチキンも食ったな?」

 

「この事はマリル様にはご内密に……っ!」

 

「こんな価値のねぇ情報を誰にも教えるはずがないでしょうが」

 

 欠伸をしながらイナーラはスマホを片手で操作しながらため息をついた。

 

「まあ、今日は顔見せ程度だからこの辺でバァ〜イ♪ また会える日を楽しみにしてるわ〜〜♪」

 

 風にように現れて風のように去るとはこのことだ。まるで突発的な台風がひと暴れしたように、俺は訳も分からぬまま部屋から出て行く彼女を見ていた。

 

 そんな後ろ姿を見届けて…………見届けて…………。瞬間に気づいた。俺がイナーラの姿を『覚えていない』ということに。服装どころか顔や髪色さえ霧がかかったように朧いでいて思い出せない。まるで俺自身が『記憶喪失』でも引き起こしたように。

 

 同時に脳裏に浮かべたのはイナーラの情報の一部について。SIDの調査書では『出身地などといった個人情報を正確に知るものは不思議なことに誰もおらず、身長も風態さえも曖昧で語り継がれる存在』と記載されていて、さらには『異質物武器を所持しているだの、『聖痕』などを持った特殊な能力を持つ人物』とも言われていた。

 

 だけど……。『記憶』の通りなら異質物武器特有の光とかは確認していない。だとしたら、これはラファエルやソヤが持つ本人が持つ『聖痕』や『魔導書』由来の能力ではないのか。それなら『隠蔽工作を行うことさえない』という部分もある程度頷ける。こんな能力があるなら、隠蔽工作などするだけ無駄なのだ。

 

「……信頼と疑念を持ってもらうねぇ」

 

 確かにこんな能力を味わったら信頼に足る人物か怪しくなってくるものだ。レシートの件もあえて伝えてきたのは、『どんな小さいことでも見落とさない』という意味を持つかと思うと怖くなるが…………アイツに接触できるまたとないチャンスなんだ。こんなところで足踏みする訳にはいかない。

 

 俺は自分の手に握り込まれた二つの紙屑を広げて中身を確認した。一つは電話番号と思われる数字の羅列と、「ここに私は大抵いる」という一筆と住所が記載されていた。調べてみると、そこは海湾沿いで経営しているダンスクラブ『Seaside Amazing』という場所だった。メモ通りなら大抵はいるということだが、マリルの手筈通りならここで情報などを交換すればいいのだろう。

 

 それは分かった。だけど、もう一枚の内容についても無碍にできるものではない。俺は思わず唾を飲んで、一言一句間違いがないかその文字を見つめた。

 

 

 

 

 

 ——『エクスロッド暗殺計画』——。



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第9節 〜Standby Mode〜

左脇下と首筋左側の慢性的な痛みと、リア友との原神のしすぎでストックがあと2話分しかないため、一度体調回復の優先と話を纏めるために次回の投稿だけは一週間後になります。


 数日後、スクルドの件について詳しく聞くために日々の護衛を熟しながら、ようやくできた纏まった時間を使ってスクルド、ファビオラ、俺の三人はイナーラが待つクラブ『Seaside Amazing』の前へと着いた。

 

 とはいっても今は午前中。経営時間外のため閑古鳥状態だ。それに見える見えないはおいといて、俺はニューモリダス用に作成された新社会人の身分証明があるし、ファビオラも同様にあるのだが、見た目からして普通に小学校高学年よくて中学生にしか見えないスクルドはこの未成年お断りのクラブに真正面から入店するのは難しい。議員の娘でもあるから政治に関心な人は顔も知っているのもあるだろうし。

 

 だから、その点に関して予めイナーラに電話してクラブに入るための経路を教えてもらっていて、俺達は職員用の出入り口を探してクラブの周辺を見ている。

 

「あったあった。てことは……」

 

 正面玄関からかなり離れて、建物と鉄網の仕切りの間にある小さな小道を見つけた。ある人が一人通るのにやっとだが、その奥には確かに金属製のドアノブが付いた扉と、事務所用の室外機と換気扇が見える。

 

 俺は事前に伝えられていた室外機の足の裏から鍵を取り出して、ようやくクラブの中に入った。意外にも事務所はクラブという割には、想像していたよりも慎ましく小綺麗に整頓されていた。確かに衣服は多種多様だし、衣装合わせの鏡などどこを向いても自分が映る奇妙な空間ではあるが特徴的なのはそれぐらいだ。

 

「ハロハロ。元気にしてた?」

 

 事務所の奥にあるいかにも偉そうな黒のチェアには、肘掛を利用して頬杖をするイナーラと『思わしき人物』がいた。何せ不思議なことに彼女を見た瞬間、先日朧いで消えた『記憶』の中で彼女の姿が、眼前にいる女性の姿となって復元されたのだ。正直本人かどうか怪しいところだ。『記憶』は決して『記録』ではないから、脳で変換された自分にとって都合のいい認識で保管されているとスクルドに言われている。俺はその『記憶』が正しいのか確認するためにイナーラをよく観察した。

 

 赤髪と表情の豊かさはそのままだが、その姿は先日ホテルで見せた黒ジャンパーを基点としたものではない。ダンスクラブという場所に適応するにしてはかなり大胆であり、胸元と鼠蹊部以外は露出している上にショーツに関しては紐でしかない。脛まで届くベールが頼りなく一枚付けられているだけであり…………あまり言いたくないが、18禁ゲームとかのビジュアルでよく出るタイプのやつだ。

 

「……ここってそういう店なんですか?」

 

 だから思わず聞いてしまった。未成年お断りといい、裸同然の衣装といい、ここはエロゲーとかであるそういうお店ではないかと。

 

「あながち間違いでもないけど、別に如何わしいことはしてないよ。表向きは普通に音楽流して踊ってもらって、VIP用に用意された地下に行けばストリップショーとか際どいポールダンスとかはするけど……行為は従業員全員で徹底的に守ってる」

 

「それも諜報員としての収集能力とかってやつですか?」

 

「これに関してはクラブのオーナーだからね。ここ私が経営してるお店」

 

「えっ!? じゃあイナーラ自身も踊ってるの!!?」

 

「うん。純粋に身体を見せつけるのは趣味だし、諜報活動に一環としてハニトラする時に便利だからね。そういう地盤作りのためにここで実績ぐらいは作っておかないと。だから…………イナーラの踊りに魅せられた男は、み〜んな鼻の下伸ばしちゃうんだよぉ〜」

 

 急におちゃらけた口調になったかと思いきや、イナーラは思い出したようにケラケラと笑い出す。どうやら思い出し笑いしてる様子であり、しばらくその笑いが止まることはなかった。

 

 だがその間、俺の脳内は彼女の刺激的な言葉の数々を聞いて悶々としてしまう。踊りとは具体的などんな踊りなのか。際どいポールダンスというがアレか、股部分を押し付けながら上下運動してるのか? それにストリップというがどこまで脱ぐのか。下着までなのか、それともモザイク映像のその先までなのか。健全な男の子としては想像してしまう。

 

「今想像したでしょ♡ イナーラがぁ〜エロエロな踊りをしてぇ〜おじ様達に媚びを売る姿をぉ〜♡ 」

 

「し、してませんっ!」

 

 そんな妄想をする俺を見て、イナーラ馬鹿にするような口調と態度で蠱惑してくる。人差し指を俺の胸に当てて輪を描き、舌を出して何かを舐め回すのを連想する動きで挑発してくる。

 

「ふ〜ん、今が売れどきのJKなのに援助交際やパパ活とかしないほど奥手なのか、貧困に縁がないお嬢様か、自分の価値に気付いてないのか。何にせよこんな世の中で珍しい子ね」

 

「援助交際っ!? 如何わしいことを言うなよ!!」

 

「あっはっは〜! 何この子、女の子なのに男の子みたいに新鮮な反応してくれてる〜♪ お二人さん、この子って昔からこうなのの?」

 

「昔馴染みではありませんが、初心なのは確かですね」

 

「まあそうじゃない?」

 

 ファビオラもスクルドに至ってはかなり適当な返事だった。しかも二人揃って一連の行為についてはノーコメント。そんなスクルドが「早く話を進めてよ」と言いたげな視線に、俺は当初の目的を思い出して話を切り出す。

 

「俺が童貞とかはどうでもいいっ! 本題に入るけど『エクスロッド暗殺』って何だよ! スクルドや、そのお父さんが狙われているのかよ!」

 

「童貞……? 処女じゃなくて?」

 

「〜〜〜っ!!」

 

「顔真っ赤……耐性がないのね。ここまで来るとイナーラちゃんでも可哀想に感じちゃう。じゃあお望みどおり、その情報についての詳細を教えてあげる」

 

「まあ適当なところに座っておいて」と言って、イナーラは冷蔵庫を開いて飲み物を人数分取り出して注いできた。全員揃って同じものであり、メロンソーダみたいに鮮やかな緑色が揺れている。

 

「……無臭ですか」

 

 と何かを警戒するようにファビオラが意味深に呟いた。

 

「毒も睡眠剤も入ってないから安心しなさい。そんな野暮なことをする女じゃないから」

 

「言葉だけ信頼関係が作れるのは家族ぐらいなものです」

 

 ファビオラは躊躇なく一口を飲む姿はあまりにも自然体過ぎて、俺は思わず惚れ惚れしてしまった。主人を思い率先して毒味をすることに従者としての重責を体現している。

 

 ……俺もSPの立場を考えるならば、こういうことをできるようにならないといけないよなぁ。

 

「エクスロッドの娘さんも遠慮なく飲みなさい。おかわりもいいわよ」

 

「はぁ…………マリルもそうだけど、何でこういう地味な嫌がらせするかなぁ」

 

「嫌がらせ? 優しさの間違いじゃないのか?」

 

「……これ私が気に入ってるスイーツ店にある飲み物なの。裏メニューだから、私が愛飲してることを知っている人はファビオラとかの近しい人物だけなのに……」

 

「諜報員だからねぇ〜〜。それくらいは片手間で分かるわよ」

 

「アナタからすれば個人情報なんて筒抜けってわけね……」

 

 ということはイナーラの諜報力は個人だけで組織であるSIDに及びかねないというわけか。確かにこんな人物が金頼みで何でもするのは怖くもあるし頼りになる……国家が裏で使うのも分からなくもない。

 

「さて……ええっと……そう、エクスロッド暗殺に関しての情報について、まずは教えるわね。第一に議員の暗殺は別に今に始まった話じゃない。ニューモリダスは物騒だからエクスロッド議員に限らず、政治家は常に命の危機に晒されてるわ。だからエクスロッド議員はSPを付けているし、娘さんにはメイドに扮したボディガードを付けてる」

 

「メイドは別にカモフラージュじゃないわよ」とファビオラは乱暴な口調でため息をついた。

 

「だけど今回は別。SIDとは別に、ある人物に頼まれて調べてたんだけど……ファビオラ、あなた『新豊州記念教会』で命の危機にあったそうね」

 

「なぜそのことを——?」

 

 ファビオラの静かな驚きは俺にとって大きな動揺だった。あれは極力情報がバレないように、SIDが極秘裏で対処にあたったはず。播磨脳研にいたのだってマリルと愛衣と俺ぐらいだ。移動係のエージェントがいるにいるが、それは外で待機状態となっていて、内部についての詳細は聞かされていない。アニーでさえこと細やかな情報は聞かされていないのだ。

 

 どうやって情報が漏洩したということが脳裏で駆け巡るが、これさえも個人請負業者として諜報員をするイナーラの実力で暴いたとでもいうのか。だとしたら彼女が持つ情報の圧とはいったいどこまで——。その実態を初めて見てマリルの『イナーラに弱みを握られている』という言葉を理解した。もしかしたらイナーラという女性は、SIDですら手出しが難しい存在なのではないかと。

 

「仕事柄色々とね。その事に関しては私は無関係とは言っとくわ、あくまで情報収集の一環で知っただけ。だけど、その事と暗殺計画については繋がってはいるわ」

 

「君はその暗殺計画に関与してるのか……?」

 

「したかったとは言っておく。だけど先約があったから暗殺計画は断るしかなくてねぇ……今回はアナタ達の味方」

 

 意味深に笑みを浮かべてイナーラは自分のジュースを口にする。

 

「その依頼主のことについて仮に知っていても明かさないからね。私はあくまで中立の存在。………ただし事情があれば別だけど」

 

 イナーラは親指と人差し指でサインを作って催促をした。その態度でスクルドは不快感を示した。

 

「『無能』になら手を貸すってこと?」

 

「文化圏の違いは怖いわね〜〜。新豊州だと『お金』を表すサインよ。額は言い値だけど……さて何億積む?」

 

「ボッタクリもいいところだね。それじゃ友達なくすよ」

 

「冗談が通じないお子様ね、じゃあサービスしてあげる。電話主は名前も明かしてないし、声も加工してたから性別も不明よ。電話番号も非通知なうえに逆探知対策もされて位置情報も登録情報もデタラメ……。まあ、つまり何も分かってないってこと」

 

「これ以上調べるのは私のメリットでもないし」と笑顔を絶やさずにイナーラはスクルドを品定めするように見つめる。当人はその視線に対して受けて立つようにすぐに言葉を返した。

 

「じゃあ何で暗殺計画に教えてくれたのかな? 聞いた限りだと、その『情報』は今回の本筋となる件とは無関係だし、アナタみたいな守銭奴は無償で提供してくれるわけないよね」

 

「……エクスロッド議員の娘は伊達じゃないわけか。いちいち鋭いガキね、そういう子も好きだけど嫌い」

 

 嫌いと言いつつ、イナーラの笑顔は変わることなく、より一層スクルドを気に入ったように笑みをさらに深める。

 

「それに関しては暗殺事件を調べてくれ、という依頼主がいたから調査したのよ。そして依頼主から「近日中にスクルド・エクスロッドが君の元に来るから教えてやってほしい」と言われてね…………。対価は貰ったからこうして話してるってわけ」

 

「その依頼主は分かる?」

 

「今度は分かるけどさっきと一緒。そしてこの情報はお得意様だから高く付きます。何百億で買う?」

 

「……私個人の判断じゃ無理だね。惜しいけどいいや」

 

「旦那様に相談してもいいのでは?」

 

「依頼主が分かったところで暗殺事件の内容とは無関係だから。お金を払うなら、暗殺事件企てた首謀者を突き止めろって言うよ」

 

「……本当無駄金を搾らせないクソガキね。子供は子供らしく親に泣き縋ればいいのに」

 

「そうやって見え見えの挑発されて買うほど愚かじゃないの。それにそれは演技でしょ? 私の怒りを買って本題を逸らす話術…………男を手玉に取るのは得意だけど、曰く私みたいなクソガキを扱うのは苦手みたいね。諜報員だけじゃなくて保育士もやってみたら?」

 

 天使みたいな見た目で、少女とも思えない語彙力で悪魔染みた会話を繋げるスクルドの姿に俺はラファエルとニュクスの言い争いを思い出してしまった。今すごくスクルドが遠くにいて怖い存在に感じてしまう。

 

「ちぇっ、そこまでお見通しか……。じゃあ本題に戻る?」

 

「ええ……。だけど、アナタが求めてる本題はどっちかな? 暗殺計画の方? それとも今回の件でSIDで調査依頼を受けてる『男』の方かな?」

 

 スクルドの絶えない言及に、ついにイナーラは笑顔を潜ませて真剣な表情となった。

 

「エクスロッドの暗殺は確かに気にはなるけど……。それは私側の問題であって、レンお姉ちゃんの問題じゃないから。それに暗殺計画と新豊州記念教会の件は繋がってるんでしょ? それぐらいあれば私やファビオラだけでも心当たりがある候補はいくつか湧くし……」

 

「そうですね。私もキナ臭い人物は思い浮かべております。暗殺の件にしては私達で何とかしますので、レンさんはどうぞ自分の任務をこなしてください」

 

 ファビオラもスクルドの言葉に賛同し、俺に話を切り出すようジェスチャーをした。

 

「…………目的の人物がどこにいるか分かったのか?」

 

「…………潜伏先までは分からない。だけど確実に姿を現すであろう場所ぐらいは分かる。場所はシーサイド駅の首都航空行き線の改札前。日程は分からないけど、時間は多分夜でしょうね。そこで何かしらの取引がある……。それぐらいよ」

 

 たった数日でかなり具体的な情報が出てきた事に、彼女が持つ情報網が異常の中の異常だと改めて気づいた。アルカトラズ収容基地での出来事から数ヶ月……SIDも含めて各国の情報機関が草の根を分ける勢いで調査して影さえ掴めなかった存在がこうも容易く入手するなんて……。

 

「……ファビオラ、予定変更。暗殺事件についてパパ達と共有しなきゃいけないから一度お家に戻ろう。レンお姉ちゃんはお家に入れられないから外で自由行動ってことでいいよね」

 

「異論ありません」

 

 その言葉は俺をしばらくSPの任務から解放することの会話だった。これは二人が勧めてくれたまたとないチャンス。今日か明日か、それとも明後日か。いつ来るかは一切分からないが、場所さえ分かっているなら直に張り込んで来るまで待つのみ。

 

「ありがとうっ!」

 

 俺はその事に感謝の言葉を伝えてクラブから一目散に出て行った。それから起こる会話の内容など、この時の俺には知る由もない。

 

「今度はアナタが求める本題の話。暗殺計画について聞きたいことが気になることが一つだけあるから教えてほしい」

 

「いいわよ。何について教えてほしい?」

 

「……アントン神父について、今知っていることを教えてほしい」

 

 

 …………

 ……

 

 

 時間はかなり過ぎて夜になる。俺は駅前で文字通り誰かと待ち合わせするように、背を柱に預けて眠気覚ましに微糖コーヒーを口にする。苦味を中心とした味付けは脳を刺激し、眠気を少しずつ晴らして砂糖の甘みが後味をまろやかにする。

 

 ここに来て午前中だから、それまでの間はずっとここにいた。退屈で仕方ないと思うかもしれないが、実際はそうでもない。俺はこの日が来るのを待ちわびていて、これまであった道筋を全て脳裏に思い浮かべていたのだ。

 

 全ては『ロス・ゴールド』の消失から起きた一連の特異な出来事。俺は女の子となり、やがて俺が男の時だった姿を持つアイツが、ここニューモリダスで再び姿を現した。

 

 一度目はアルカトラズ収容基地でEX異質物である『天命の矛』を強奪して逃走。その顔さえ隠さぬ大胆不敵っぷりから、すぐに情報は分かるものと思っていたが…………意外にもそれ以降なんの音沙汰もなく今の今までアイツは雲隠れしていた。

 

 ラファエルと一悶着あったスカイホテル事件。

 方舟基地での実験で誕生した希代の錬金術師ハインリッヒの出会い。そしてその影響で南極に飛ばされ、スノークイーン基地でバイジュウの救出もした。

 そのあとも新豊州記念教会でファビオラが意識を失い、播磨脳研で彼女の記憶に入って救出……したっぽい。

 

 後は……そうだ。夏期の授業で一度サモントンにある博物館へとアニーとラファエルで回ったこともあった。あの時は俺はイースターエッグの空間に引き摺り込まれて、皇帝と呼ばれる『オーガスタ』っていう少女とも会った。

 

 それにその後は新豊州にある猫丸電気街で、サモントン出身の元審判騎士であるソヤと一緒にショッピングをしたりした。途中でローゼンクロイツのセレサさんと出会ったり、イルカが神輿に担がれたり、『ジョン』という人物に助けられたり、エルガノの謀略に嵌められて一時は大混乱を招いたが……事態は最終的には平穏に終わりはした。

 

 だけど、その影響で起きた『天国の門』の膨大なエネルギー。それが謎の超高密度な情報を持っていて、それを追い求めた一連の流れでマサダブルクへ潜入。エミリオやヴィラと知り合い、シンチェンと触れ合い、そしてニュクス先輩のことを深く知れて、何よりスターダストと出会うことができた。俺は未だにあの歌の内容、意味、出典を彼女から聞いていないし、彼女は「今の私では覚えていない」と言及していた。

 

 それからは割と近いうちに起きたことだ。『OS事件』に高崎さんの無観客ライブ…………。本当にこれまで色々とあった。

 

 俺が女の子になってからこれだけのことがあったにも関わらず、アイツは姿を見せなかった。だというのに今回のニューモリダスにて二度目となる出現で、ついに手がかりとなる映像を見て、そしてイナーラの情報でついにここまで辿り着いた。

 

 俺にはこれが罠かと疑いは少しはあった。だけど今はそれさえを踏み抜かねば、アイツと今後機会は永久に失うと思うし、何よりスクルドも言っていた。『世界が誰かに作り替えられた』と。

 

 そんなタイミングで俺とアイツが都合よく接触する機会ができた。これは運命の導きなのか、それともその『誰か』の意図的な策略なのか、果たしてそれは何なのか。

 

 後者だとしたら俺達はいわば盤面上の駒に過ぎないのか。役割と役目を常に背負わされ、遥かなる高みから『誰か』は俺達を監視しているのか。

 

 前者だとしたら俺達は何を求められて運命はここに交わるように仕向けたのか。スクルドはこうも言っていた、『引き返すことができない』とも。そして『未来予知』の能力が消えて、未来が見えなくなったとも言っていた。

 

 それは逆に考えば……『未来』が『無い』かもしれない。既に『未来』が無いから、スクルドの『未来予知』は機能しなくなったとも考えられる。

 

 それらを打開するために俺とアイツが今ここに交わることを、運命は選んだとでもいうのか。答えは分かるはずがない。最適で確定した一手なんて、俺たちが生きる世界にあるはずがない。この世界は囲碁や将棋みたいなゲームじゃないんだから。

 

 やがて俺の前に二人の人物が姿を見せる。

 

 一人は特徴的なダイヤ柄の赤い帽子と赤いサロペットスカートの少女。無機質で無表情な瞳で、少女は俺のことをただ見つめ続ける。

 

 そしてもう一人は、見た目に特徴らしい特徴なんてありはしない。少し癖っ毛が入ってる程度で、どこにでもいるごく普通の男子高校生だ。

 

 夜だと尚更目立たない黒髪。恋愛なんて知らない垢抜けない瞳。身長は俺よりも少し高い。

 

 俺は…………この素朴な少年をよく知っている。

 

 少年は俺を試すように見つめ続け、やがて俺は意を決して重苦しく言葉を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「答えろ。お前………………『誰だ』?」

 

 素朴な少年————『アイツ』に俺はそう告げた。

 

 さあ、ここからが本当の始まりだ。



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第10節 〜Load Game〜

思っていたより左側の痛みが長引き、大体治ったのが3日前と時間をかけてしまいました。そのため次回のストックも2つのみと進捗がナメクジのため、次回の投稿も一週間後になります。


「答えろ。お前………………誰だ?」

 

 まだ丑三つ時ではないというのに、人っ子一人いない駅前。そこで俺とアイツは邂逅した。

 

 見覚えのある髪、見覚えのある顔、見覚えのある足取り、見覚えのある手、見覚えのある————。実際に見て、観察すればするほど確信していく。これは『俺』だ。俺という俺はここにいるはずなのに、目の前にいるアイツも間違いなく『俺』だと確信に確信が上乗せされる。

 

 互いの視線が交差する。未だかつて味わったことがなく、異質な緊張感が場を包み込む。呼吸一つが重く苦しく辛い。唾を飲み込むだけで喉に鉛が流されたような強い違和感を覚える。ありとあらゆるもの全てが、この場において『異質』に感じる。

 

「そうだ、よく考えれば私はお前の名前を聞いていなかった。おい、教えろ」

 

 そんな緊迫した空気の中で、素っ頓狂で抑揚のない緊張感皆無の声が響いてきた。それはアイツの隣にいる赤い帽子の女の子からだ。どことなく声はラファエルと似ている気がするが、その声は緑色のお嬢様と違って毒気など微塵も感じない。むしろ正反対の純粋で聖なる声に感じたぐらいだ。

 

「……その前に自己紹介するの忘れてた。私はセラエノ。プレアデス星団の観測者。君の名前も教えてくれ」

 

「え、はい。俺の名前はレンっていいます……」

 

 あまりにもマイペースに話を切り出すものだから、俺もさきほどの緊張感が幾分か抜けて彼女の言葉に返答をした。

 

「ありがとう、レンというのか。……女の子だから『ちゃん』付けが好ましいな。覚えておく、レンちゃん」

 

「そうかそうか、レンちゃんか……」

 

「今はなっ!」

 

「じゃあ俺も其れに肖ろう。……そうだな。レンの最初の姿だから、俺は『アレン』とでも名乗っておくか」

 

 アレン——。それがアイツの名前だというのか。

 

 見た目は『俺』だというのに、本来の『俺』の名前を名乗らずに、むしろ俺のレンから派生したように付けてきた。

 

「お前はアレンというのか。……うむ、互いに名前を知ったことだし、これで私達はより深い親交を得たわけだな」

 

 何が最初の姿だよっ! 俺は俺であって、お前はお前だろっ!? 断じてお前は俺じゃないし、ましてやレンでもないっ!!

 

「その反応からしてレンさえも愛着があるんだな。……そうかい、立派に女の子してるようで安心したよ」

 

「兄貴面するな」

 

「……兄貴? ということは私はアレンと恋人なのだから、必然的にレンちゃんは私の義妹となるのか」

 

「お前、そいつと恋人なのかッ!? 俺に許可なく、恋人を作るなよ! 俺の身にもなれよッ!!」

 

「やっぱ面倒なことになった……っ! しっかりと弁明しとくべきだった……っ!」

 

 一転して緊張感皆無の雰囲気。別の意味で俺はアイツが『俺』という確信を持ってしまう。

 

「そうやって考えなしに行動するから不憫な目に合うんだよッ! いつか借金抱えて人権最低限の玩具にされるぞ!」

 

「今のお前の扱いじゃないか! 見たぞ、ルージュのCM! なにノリノリで塗ってるんだよ!」

 

「演技指導の賜物だわッ! 大体なんだよアレンって! 偽名付けるならもっと真面目に付けろバーカ! お前の中学時代のノートをネットに晒すぞ!」

 

「やめろッ! そんなことしたら黒歴史が始まるぞ!」

 

「百も承知だし、そもそも今はお前が『俺』だわ! 恥を知るのはお前だけだ!」

 

「こいつ社会的恥だけはレンの身分から逃げようとしやがって……!」

 

「その程度の恥は数ヶ月もすれば風化するからな! その間、俺はレンとして悠々自適に過ごさせてもらいますよ!」

 

 俺と『俺』が互いを貶し合う罵倒文句を続ける。いつもならラファエルを筆頭に様々な人達に言い負ける立場だが、今回ばかりは負けられない。こいつにだけは負けてはならないと本能が囁きまくる。

 

「……争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない」

 

 セラエノがよく聞くネットスラングをボソッと呟いたと、俺と『俺』は固まる。

 

 互いの視線が交差する。既視感全開の和みがある緩い空気。呼吸を何百回しようが快適で、唾を飲み込むのは水を飲むよ容易い。ありとあらゆるものすべてが、この場において『普遍』的なもの感じた。

 

 どこにでもいる普通の少年——。そんなアレンの姿を見て、俺はどういうわけか安心感というのか…………何とも言えない感覚を覚えた。

 

「……ところでさっきから気になっていたことを聞いていいか?」

 

 赤い帽子の女の子、セラエノが能面みたいな表情を俺に向けて口にする。

 

「どうしてレンちゃんは男の服を着てるんだ?」

 

「いや、それはだな……」

 

「アレンに教えてもらった。女の服を男が着るのは変態だと。ならば逆もまた然り。男の服を女が着るのは変態なのではないかと」

 

「は、はぁ!!?」

 

 いやいやいや! 気持ちはわかるが、俺としては俺は男だから男装してもおかしくない認識なんですが!? というか別に女の子でも男物を着てもいいだろう! オープン変態とかじゃない限りは!

 

「ププッ……。そういえばそんな風に言ったっけ……」

 

「お前の教育どうなってるの!?」

 

「ごめんごめん。これは全面的に俺が悪い。セラエノ、あの時にも口にしたがトランスジェンダーの言葉は知ってるか?」

 

「…………確か性認識の一種だな。性同一性障害とも言われている」

 

「そんな子なんだ。女の子だけど、男の服を着るのが当然で、逆ができない……というか恥ずかしくて着れない。そんな繊細な心を持つ人間なんだ」

 

 いや、それは『心』と『身体』の乖離が問題なのであって、俺のはまた別だから。生まれた時から今にかけて男のままで、『ロス・ゴールド』の件で突拍子もなく女の子になっただけ。

 

 ……なんて説明したところで、少し触れ合っただけでわかる。セラエノは一度追求したら満足する解答が得られるまで質問を何度もぶつけてくるタイプだ。例え多少の差異はあれど、トランスジェンダーの括りで把握してくれるなら、決して上手くない俺の口から出る説明が省けていい。

 

「なるほど。人間とはそういう内包的な問題を抱えているのか……。だが、その意識を持っているなら人間が目指すべき進化の先は精神の解放にあるはず。となれば尚更肉体とは未来では不要。服や見た目を追求し続けても無要。いずれは歴史的価値以外には情報としての意味がないのではないか」

 

「ダブルスタンダードを常に抱え込むのが人間なんだ。言葉を吐いたすぐに矛盾するほどに。人の命を大事にしない奴は死ね、みたいな」

 

「そうか、ダブルスタンダードか…………。ダブスタ……」

 

「う〜〜ん、勉強熱心で先生は嬉しい」

 

 愉快な会話を続けるアレンとセラエノ。その姿は恋人というよりかは兄と妹…………いや、もっと差がある。その姿は『父と娘』みたいだ。そして俺がいつか夢想する光景に似ていた。

 

 軽口を叩きながら、親として娘や息子と接して人生を育みたい。お父さんは生まれてすぐに行方不明になり、母も俺が4歳になる前には『大災害の日』で行方不明となり、俺は幼いまま七年戦争を生き抜いて新豊州にいる。

 だからそんな経験してしまったことから、俺は心のどこかでこんな光景を夢想していた。俺がイルカの好きなお菓子を腹一杯あげるだって…………思えば七年戦争で飢餓に苦しんだことと、親子として仲良く過ごしたい思いが遠因になっているんだって。

 

 この光景は微笑ましいものだ。俺が守らないといけない大事な『家族との記憶』と似ている。できれば手も触れずに、尊いなんか言いながら見守り続けていたい。

 

 だけど……今は心を鬼にして問い質さなければならない。

 

 アレン——。なぜお前はアルカトラズ収容基地で、EX級異質物である『天命の矛』を強奪したのかを。この問い一つで、今包み込んでいる和やかな雰囲気が一転するのが分かり切りながらも言及しなければ、俺は一向に前に進めない。

 

 俺は意を決してアレンへと言葉を紡いだ。

 

「アレン……俺がここにいるのはわかるだろう?」

 

 だが、俺の言葉はそんな光景を打ち壊せない拙くて曖昧な言葉で吐き出すしかなかった。

 

「……もちろん。ニューモリダス市内にある監視カメラで捕捉したんだろう? だからこうして馬鹿正直に顔を晒して街中を数日間楽しみ抜いていたんだ。こうしてお前と面と向かって話し合うために」

 

「俺と話し合うため……?」

 

「ああ。お前も前兆を感じたはずだ。世界そのものに異変が起きていることを……」

 

「…………異変ってどこから?」

 

 心当たりが多すぎて俺にはどこからが『異変』と言われてもしっくりこない。俺が女の子になってからか? 南極での一連の出来事か? 『天国の門』についてか? 情報生命体であるスターダストとオーシャンのことか? それともスクルドの『未来予知』がなくなったことについてか?

 

 思い浮かべられる全てに対して思考を巡らせる。だがアレンからの返答は酷くシンプルなものだった。

 

「全部だ。レンになってから…………いや『ロス・ゴールド』が起動するより前から今にかけての全部。時空位相波動の頻繁的な発生も、その全体的な異変の副次的なものに過ぎない」

 

「全体的な異変ってなんだよ……。」

 

「……俺は『可能性』を模索するために、ありとあらゆる手を使ってきた。このEX級異質物の奪還なんて一環に過ぎない。6面のダイスで『7』を出す……そんな可能性を見出せるものを探し続けて……」

 

「そんなに7を出したいなら、ダイスを真っ二つに割ればいい。ダイスは製作上、出た面の数字と裏側を合わせれば7になる。ためになっただろう」

 

「セラエノ、今真面目な話をしてるんだ。闇のゲーム紛いをしたいわけじゃないんだ。少しだけ大人しくしてくれ」

 

「…………しょんぼり」

 

「できればお口チャックもお願いな」

 

「ンー」

 

 親指を立ててセラエノは返答した。

 

「……だからこれまでは言っておく。SIDがいつまでも……新豊州の『平和』も、いや六大学園都市すべてが、いつまでも『平和』であると思うな。今ある全体的な異変なんて、いつかくる『未来』の前兆に過ぎない。これは引き返せない宿命だ、覚めることがない夢だ。こんな世界を生き抜きたいという意志があるなら…………お前はいずれ『第七学園都市』に訪れることになる」

 

「第七…………学園都市……ッ!?」

 

 そんなの都市伝説や噂話で出る程度なものだ。SIDが新豊州の都市伝説上で必要以上の膨張された恐怖の象徴になったり、ニューモリダスにあるパランティアを題材にしたFPSゲームが販売されたりなど、『第七学園都市』なんてそれらに該当する空想上のブラックジョークみたいなものだ。そんなのが本当に存在するとでも言うのか……?

 

「本当はこんなこと言う気なんてなかったさ。お前と俺が相見えるのはもっと先の未来の話…………だけどちょっとした事情が発生した。そのために俺はここに来るしかなく、同時にお前に事情を説明するための舞台になってもらった」

 

「事情を説明する……?」

 

「結論から言えば近日中、スクルドの『命運』は尽きる。これは覆らない『運命』だ。『未来予知』でも何でもない……確定した事実なんだ」

 

 スクルドの命運が尽きる——?

 

 俺は航空機でのスクルドとの会話を思いだす。

 

《どんなに寝て覚めても頭に焼き付いて、振り払うことができない『予感』——。それは、私が『死ぬ』かもしれないっていうもの》

 

 ……あの話はただの予感じゃなかったのか? だというのに、その『死』という運命は、アイツが言う通り確定した事実だから覆ることがないとでもいうのか。

 

 いや、それなら不本意で不愉快だが理解だけはできなくもない。だけど、それだったら……どうしてそんな『運命』を知っているのに、アイツはスクルドを助けようとしないんだ?

 

「ふざけんなっ……!」

 

 怒りに身を任せて力一杯に服の襟を掴みこんでアレンをこちらへと引き寄せる。だがそれは束の間。一瞬でアレンは俺の手を振り解いて、逆に俺の腕を広げて抵抗できない形へと変えた。

 

「レンもアレンも元々は同じ『俺』という存在から抽出された存在だ。…………言いたくはないが、単純な筋力なら男である俺の方が上だ。お前は俺に手も足も届かない」

 

「だけど……だけど……!」

 

 必死に俺は掴まれた腕を振り払おうと動かそうとするが、アレンの手は一向に解かれることはない。何か特別な力や拘束などといった体位を取られてるわけではない。純粋な筋力差——。どんなに心では男だと訴え、どんなに身なりを整えたとしても改めて今の俺は普通の女の子でしかないと実感してしまう。

 

 自分にさえ負けるほど今の俺は弱い——。レンはそれほどまでに一個人として非力なんだ。

 

「何度やっても一緒だよ。今のレンに、俺を勝つための力はない」

 

 何度も何度も抵抗を試みるが、アレンの表情は変わることなく悲痛な眼差しで俺を見続けている。

 

「お前は今まで一度でも自分だけの力で、異質に挑んだことがあるか? ハインリッヒに助けられ、南極のメタンもSIDに任せ、天国の門だってソヤが命懸けで奮闘して、マサダではエミリオに助けられ…………海底都市ではそれこそ多くの仲間達に助けられた末の結果だ」

 

「……確かに俺の力はちっぽけだけど……だからってスクルドが殺されていい理由にはならないだろ……!」

 

 スクルドとファビオラの絶対的な関係。2年前から主従関係となってファビオラはスクルドの世話係をするようになったが、あの二人にはそういう主従だけで括れる線引きを遥かに超えた信頼関係が構成されている。

  

 ある種それは『家族』という形にも似ており、俺はそんな姿を見て母親といる姿を夢想してしまった。そんな小さな温かな光景を守りたいと思った。それは俺が『俺』である以上、アレンも同じ気持ちのはずなんだ。そんな光景をアレンは否定するというのか?

 

「……俺だって守りたいさ。新豊州記念教会での出来事に介入してまで最初の運命から助けようとしたさ……」

 

 新豊州記念教会での出来事——。その言葉で俺はスクルドの状況を思い出し、一つの結論に達した。

 

「……アレはお前だったのか?」

 

 スクルドはファビオラの決死の忠誠心で、謎の幻覚に覆われた新豊州記念教会から突き飛ばして九死に一生を得た。その後スクルドはしばらく気絶したままで、目が覚めたら教会から離れたベンチで寝ていたという。

 もしその時の犯人がスクルド目当てで教会で一連の出来事を起こしたとしたら、そんな安全に配慮したことなんてするわけがない。父上を対象としたとしても脅迫材料としてスクルドを拘束することもできた。ファビオラの殺害を目的にしても、ただのボディガードを殺害するのが終着点なわけがない。その先には必ず成すべき目的があるはず。それにスクルドが関わらないという確証はない。

 

 あの時、あの状況で、スクルドの安全が保証されるとしたら、そこには必ず第三者の介入があり、スクルドは守られていたことになる。だとしたら第三者とは即ち……目の前にいるアレンに他ならない。

 

「そうさ。だけど未来や運命は変わっても、必ず帳尻合わせが発生することを知った。あの日、新豊州記念教会で死ぬはずだったスクルドは、今度はここニューモリダスで死ぬ運命にある…………」

 

「じゃあ今度も変えればいいじゃないか……!」

 

「……俺もそう思った。だけど利息ってのは貯め込めば貯め込むほど膨れ上がるのと一緒で、運命も先延ばしにするほど帳尻合わせとしての被害が大きくなる。スクルドの運命をここで強引に変えたら、今度はファビオラさえ巻き込み因果が生まれかねない……」

 

「……さっきから聞いてれば、お前なんだよ……!」

 

 アレンから口に出される言葉は、すべてネガティブ思考だらけの女々しさすら感じる不甲斐なさだと自分で自己嫌悪しそうになる。それは自分が元々持つ『普通の人』としての弱い感性に他ならない。どんな弱い言葉も、結局は俺自身がどこかで内包するものであると俺は理解しているため、自分で自分の弱さを諦念にも感情で受け入れているアレンの姿を見ると、自分の弱さそのものを体現しているようで無性に苛立ちが募るのだ。

 

「運命だの、未来だの、因果だの、それを知ってるお前は何だよ!」

 

「……説明してやろうか? アレンという存在がどんな風に生まれたのか?」

 

「……『お前』がどういう存在か……?」

 

 それは『俺』とはとても思えない表情をしていて、同じ顔だというのに明確に俺の中で『アレン』という男が構成されていくのを感じた。

 

「『ロス・ゴールド』の一件で、世界は二つに分かれた。変革した世界と、変革しなかった世界……そこで取り残されて生き延びたのが俺……運命を先伸ばした結果、運命に殺された男さ」

 



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第11節 〜Extra Tern〜

慢性的に左脇と首筋の痛みが続くので、最終話完成まで一週間に一話更新になります。完成次第、前書きに報告をして毎日更新に切り替えます。


「運命を先延ばしにした結果、運命に殺された男さ」

 

「『ロス・ゴールド』で運命を……?」

 

 アレンの言葉で思い出すのは、記憶に焼き付いた地獄の光景。燃え盛る新豊州の上空で妖しく光り輝く黄金の杯を見て、確かに俺は心の底から願った。

 

 ——仮に……もしも……。

 ——『神様』が本当に存在していれば……。

 ——お願いだ……すべてを夢に……。

 

『全て、夢であってくれ——』

 

 

 ……あの光景は忘れるはずがない。あの言葉を忘れるわけがない。事実、その地獄は『夢』のように消え去って、目が覚めたら俺はどことなく母親の面影がある少女の姿になっていたんだ。多分、母親が俺のような男の子ではなく、女の子を産んだらこんな風だったんだろうと思えるほどに。

 同日にアニーに出会い、マリルに保護され、愛衣に検査されたりと本当に気苦労が絶えないものだった。愛衣曰く新生児同然の綺麗な身体な上に、この身体には中世から現代にかけてまでのありとあらゆる病原菌といったものに免疫というか、そういう抗体があるとも口にしていた記憶がある。それに色々と衝撃的なことが起きた出来事だ。女の子の身体について、時空位相波動について、俺が『レン』という戸籍に書き換えられた件について。

 

 何より——突如として焼失した『ロス・ゴールド』について。

 

 かの聖遺物は太平洋に突如として現れたロス諸島という謎の島々で発見されたものだ。研究に研究を重ねた結果、異質物としての危険性はないと判断。危険度は『safe』と定義され、新豊州のどこにでもあるしがない研究センターの一角で学生の研究会として論議する対象にされた。実際、俺というごく普通の一般人が、単位の取得するという下世話な目的だけで手軽に接触できるほどセキュリティが緩い聖遺物だ。ある意味ではラファエルが気軽に遊び道具にしていたというロシア皇帝の遺産である『インペリアル・イースター・エッグ』と根本的な差など微塵もない。

 

 そんな危険とはまるで縁がないはずの異質物が、突如として研究センターにテロリスト襲撃したのか。襲撃で弾みで何かがあったのか、それとも別の理由があるのか、safe級であるはずの『ロス・ゴールド』が暴走。俺が知る某七人の英雄達が戦うアニメの悲劇みたいに、新豊州全体が炎に飲み込まれて、辺り一帯を焦土へと一変させた。人々は何故か塩の像となっていて、気絶していたせい俺では詳細を知るはずもなく、ただ狼狽えるしかなかった。その時に上空に輝く『ロス・ゴールド』を見たんだ。杯はただ上空で輝いたまま静止して、何か待つように俺の前で光臨し続けていたんだ。

 

 …………そんな『ロス・ゴールド』のせいで、確かに俺の運命は明確に変わった。男から女に変わるほどと言えば、それだけで衝撃的ではあるが、問題はそれを境に全世界に時空位相波動が急激に発生したという話がいつかマリルの口から出ていた。それによって『ドール』、あるいは新種定義された『マーメイド』みたいな『魔導書』の力を得て狂気に魅入られて暴走したものが急増したとも。

 

 世界は明確な様変わりを密かに果たしていたと言える。あの日、あの時に起きた地獄を再分配するように、その後も立て続けに事件は起きた。

 

 だけど…………アレンの言葉に嘘がなければ、運命が『変革しなかった』世界があると言っていた。それはつまり、あの地獄が地続きした世界があり、アレンはそこから来た世界だというのか? だとしたらそれは『未来』でも『過去』でも『現在』にも属さない世界。同じ『運命』はあるのに、明確に全てが違う世界の住人——創作や空想科学でよく話題に出される『並行世界』からの人物ということに他ならない。

 

「……その話、どこまで信じればいい?」

 

 正直全てが信じがたい。目の前に俺という存在がいる時点で、信じる信じないという次元は超えてる気がするのは百も承知だし、百歩も甘んじて譲ろう。だが、それでも足りないのだ。こんなトンチキが輪をかけている状況について。

 

「全部、といっても納得しないだろう。だからとりあえずは差異があるところをすべて口にする。まず俺がいた世界では『デックス』という家名は存在しない」

 

「デックスが存在しない……って、ラファエルがいないってことかっ!?」

 

 それは非常にまずい事態なのではないかと俺は考えた。何故なら第四学園都市サモントンは、世界的に蔓延する農作物を侵し尽くす『黒糸病』に唯一対抗できる都市だ。その理由としては、ラファエルの祖父であるデックス博士が第一人者として自国が持つXK級異質物『ガーデン・オブ・エデン』を研究することで得た成果だからだ。

『ガーデン・オブ・エデン』の性能は公表されている限りでは、池の形をした異質物であり、あらゆる植物を遺伝子レベルで改造することが可能であり、どんな環境にも適応されるといったものだ。攻撃それに防御などといった新豊州の『イージス』やマサダの『ファントムフォース』が持つ機能は一切持たず、かといってニューモリダスの『リコーデッド・アライブ』みたいに変換装置と違い明らかに穏便なものだ。だが、この『ガーデン・オブ・エデン』があるからこそ、サモントンで育つ農作物は『黒糸病』の影響を受けずに安定した食料が供給され続けるのだ。比喩でもなければ過言でもなく、デックス博士の研究があるからこそ世界は飢餓に苦しみ事もなく、サモントンは第四学園都市として絶対無比な立ち位置や宗教倫理観により国際平和フォーラムで『サモントン協定』が履行されて、現在世界中からEX級異質物がサモントンに収容されているのだ。

 もし根本的に『デックス』が存在しない世界がないとすれば、必然的に『ガーデン・オブ・エデン』の研究も進まず『黒糸病』が世界全てを侵し尽くすことになり、第四学園都市は建国されないのは目に見えている。そうなれば隣り合わせにある食料問題もそうだし、六大学園都市全体が持つ異質物の扱いに関する問題なども抱える事になる。

 

 まさか、それが原因の一つでアレンの世界の運命は閉じたのではないか——と勘繰ってしまうのは無理はない。

 

「別にいないわけじゃない。あくまで置換されてるだけで、俺の世界では『デッカーズ』という家系があるんだ。偏屈お嬢様も『ラファイル・デッカーズ』という名前になってるだけで性格も見た目も瓜二つさ。そこのところは安心していい」

 

「そうか……」

 

 どうやら俺が想定した最悪の事態は避けられてるようだ。だとしたら何故アレンの世界は滅びてしまったのか? 疑問に思う俺だが、そんな考えなど知らんとばかりに「他にも」とアレンは言葉を続ける。

 

「マリルは研究センターでのテロ騒動に巻き込まれて死亡していて愛衣がSID長官をしていたり、この時期なら既に『魔女小隊』というSID内で新部隊が誕生してたりする」

 

「マリルが……っ!?」

 

 他にも興味深いワードがあったが、一番驚いたのはあのマリルが『死亡』したという事実だった。あの鬼よりも怖くて、悪魔よりも狡猾なマリルがいとも簡単に死ぬ——? そんな話が本当に有り得るというのか?

 

「……言いたくはないが、マリルは『人間』なんだ。『聖痕』や『魔導書』の情報を持つ『魔女』とはどうしても違う。個人の戦力で言えば、俺やお前と大差はない。…………死ぬ時は本当に呆気なく死ぬんだ」

 

 未だに俺の腕を掴み続けてたアレンの手から力が抜けていくを感じる。悲しみに暮れて思考が疎かになったのだろう。俺は難なく拘束から抜け出てアレンと本当の意味で相対する。

 

「他にも相違点はあるが……今のお前に言っても伝わらないだろうさ」

 

「——わかったよ、平行世界の云々は受け入れるさ。だけどッ!!」

 

 俺は不意を突いて拳をアレンの隙だらけのみぞおちへと叩きこんだ。突然の攻撃に対応できるほど俺は……アレンは運動神経は高くない。少しばかり身体のバランスを崩し、俺はSID仕込みの戦闘術で一気にアレンを組み伏せて馬乗りの状態となった。

 

「いちいち小難しい理屈をこねてスクルドを見殺しにする理由にはならないだろうッ!!」

 

 怒りに任せて、俺は今度は頬に向けて一発だけ拳を入れる。

 これは意識を奪うための一撃。俺が本来受け持っている使命は『目標となる人物の捕捉と拘束』——。こいつが一々屁理屈を言うなら、一度牢獄にぶち込んでから事情聴取すればいいだけの話。例えそれが今知りたいであろう世界の真実の一部があるとしても……スクルドを見放してでも俺がするべきことではない。そういうのはマリルの仕事であり、そのために組織体制を持つSIDなんだ。さっさと拘束してアレンを放り投げて、俺はいち早くもう一つの任務である『スクルドの護衛』に戻らなければならない。そうすれば、こいつが言う運命を失くすことだってできるかもしれないんだ。

 

 だが、この一撃だけではアレンの意識を奪う事は出来ない。ならば首筋を絞めて確実に意識を落とせばいい。馬乗り状態では、いくら男と女の筋力さがあっても覆すのは難しい。そういうのも利用するのも手だとエミリオは言っていたし、何よりSIDの訓練で教わった。

 

 元が俺なら、微々たる性別での筋力差なんてマウントを取る優位性されあえば、いくらでも覆せる。アレンだってこの体位を抜け出すには、それ相応の知識がないと——。

 

「SIDの戦闘術なんて……俺だって知ってるんだよ!」

 

 それこそ『SIDの戦闘術』を受けていない限りは返せるはずがない。

 

 アレンは足を強引に持ち上げて、背筋と足の力で馬乗りとなっている俺の体制を崩していき、今度は強引に俺を下にして押さえつけてきた。

 

 同時にわずかに奔る痛み。電流が身体を貫いたようなほんの僅かな痛みだが、この程度で狼狽えるほど今の俺は未熟者ではない。すぐに痛みのことを意識の外に置き、お返しと言わんばりに頭突きをアレンの額にぶつける。

 

「お前だって戦えるんだろう! お前は俺だろう! どうしてそんなアッサリと諦めちゃうんだよッ!?」

 

「俺だって好きでスクルドを見放すわけがないだろッ! あんなに可愛くて人懐っこい子が……俺にとって妹みたいに可愛くて仕方ない子が……どうして俺自身が諦めきゃいけないんだよッ!!」

 

 互いに理性が不思議と溶け合うように怒号をぶつけ合う。人はこれを『同族嫌悪』というのだろう。俺だってアレンが諦める気持ちがあるのは分からなくもない。それに『夢』であった『誰か』の力が無ければOS事件は解決できなかったし、マサダでエミリオが人質にされた際も諦めかけたし、ソヤがヘリの爆撃に巻き込まれたのを目の当たりにした時には本当に一度諦めた。

 

 それは俺個人に、他とは違う『力』が自由に発揮できてないことを知っていたからだ。OS事件とマサダの時は明らかに俺以外の力が関わっていたし、ソヤの時は事前にお膳立てしたうえでの条件だ。アレンが先ほど言った通り一つでも俺自身が解決に導いてはいない。計算式と思考を事前に用意されて、その公式に当てはまるだけが今の俺の力であり限界。

 

 それはきっとアレンも同じで——。その限界をきっと並行世界で死ぬほど味わって——。きっとまたあの焼きついた地獄を見て——。

 

 その時、俺はいつか見た『夢』をふと思い出した。

 

 

 

 ——仮に……もしも……。

 ——『神様』が本当に存在していれば……。

 ——お願いだ……すべてを夢に……。

 

『全て、夢であってくれ——』

 

 

 

   ——我が器よ、変革の時は来た——

 

 ——今一度この地獄を生き抜いて見せよ——

 

 

 

 ……思えばあの時の俺は『俺』の姿だった、姿だけは『俺』だったが、それがつまり『俺の記憶』であるとは限らない。あの光景が本当は並行世界でアレンが見た運命の終着駅だとしたら——。何て飛躍しすぎた想像だ。鼻で笑って流せばいいというのに、何故か俺にはそれを確信できた。

 

 いつかどこか、誰かの『記憶』の中に潜り込んだ『記憶』がある。『夢』のように朧げだけどそこで不思議なことが色々あったはずなんだ。詳細なんて思い出せはしない。それでも自分のことのように、その

『記憶』を体験してきたはずだ。

 

 そんなことがあったとすれば、俺の想像だって満更不思議なことでもない。マサダでも意識がないまま同調を起こしたとマリルが言っていたし、OS事件でも『誰か』との『魂』が繋がった覚えはある。だったら自分と何らかの拍子で『魂』と『記憶』が『夢』で繋がったとしてもおかしくはない——。

 

 でも、それがどうした。諦める理由は分かる。諦めちゃいけない理由も分かる。だけど、それを諦める答えにしてはいけない。諦めちゃいけない答えにしてはいけない。スクルドの運命を終わるのを黙って見過ごすわけにはいかない。どんなに弱くて頼りない俺だとしても、ただ死を待って静観するのは御免被る。

 

 だから、こんな状況にかまけてる訳にはいかない。さっさとこいつを捕らえてスクルドの安全を何とかしないといけない。

 

 俺だってアレンに拘束された程度の状況を返すことぐらいは知っている。俺であるアレンだってできたんだ、これは筋力ではなく技術の問題。俺も同じようにこの体制を抜け出そうとするが——。

 

「んっ……んーっ!!」

 

 どんなに動かしてもアレンが体制を崩すことはない。むしろ徐々に重量が増していく感覚を覚えて、身体全体が動かすことすら困難になる。

 

「どんな手を使って……」

 

「お前、俺がどんな異質物を盗んだか忘れたか。思い浮かべて見ろ」

 

 そう言ってアレンは余裕そうな表情と、余裕そうな態度でシャープペンシルの芯をもっと細くした鋭利な物を見せつける。

 

 その言葉に俺はアレンがアルカトラズ収容基地から強奪した異質物——『天命の矛』について思い出す。

 

 神殺しの逸話を持つEX級異質物。その文献は非常に少なく、EX級と定義されている以上、その異質物が持つ性質の研究は宗教側の理由で許されてはいない。

 

 そのため『天命の矛』が持つ性質は分かっているだけでも二つ。

 

 一つは『高温で融解しない』——。

 二つは『振り回すと重くなる』——。

 

 そこで俺は気づいた。まさか今持っているシャープペンシルの芯よりも細いもの、あれが——と思ったところでアレンは思考を読み取ったように笑った。

 

「ご明察。これは『天命の矛』を研究して作られた異質物武器の一つ。対象に突き刺すことで、相手が反抗しようと動くたびにその芯は『重み』を持つ拘束目的を持ったものだ」

 

 いつどこで突き刺したのは考えるまでもない。体位を逆転されて、すぐに感じた僅かな痛み。あの時にアレンは俺へと異質物武器を突き刺していたんだ。蚊に刺されるよりも少し痛いぐらいなもので、その痛みの正体を正確に把握するのを見誤っていた。

 

「本来はそこまで細いと僅かな人の体温でも溶けかねないが……まあこれ以上は言うまでもないな」

 

 アレンはもう終わったと言わんばかりに立ち上がり、俺の拘束を解く。だが異質物武器の性能が無くなったわけではない。意識を持っているのに、仰向きに倒れ込んだ俺は動けずに悠然と見下ろすアレンと視線が合う。

 

「……やっぱり弱すぎる。今のお前に『運命』を変える力はない。スクルドを助ける力はない」

 

 スクルドを助けられない——。その言葉は俺の心に深々と突き刺さる。

 

「だが、いずれお前にはもっと過酷な『運命』が訪れる。その時が……俺とお前、本当の意味で邂逅する時だ。俺はそれまで『第七学園都市』で待っているぞ」

 

 そこでアレンは俺に背を向けて、距離を置いて待つセラエノの隣へと向かった。

 

「行こう、セラエノ」

 

「…………」

 

「セラエノ?」

 

「…………」

 

「おーい、聞いてますかー?」

 

「……お前がお口チャックっていうから、喋っていい時まで黙っていたんだ。終わるタイミングを言え。流石の私も少し不機嫌だ。プンプン丸だ」

 

「ごめんごめん、謝る」

 

「よし許す。ではレンちゃんとやら。また会う日までさようならだ」

 

 そんな余裕綽々の態度と雰囲気でアレン達は駅内へと足を運び、俺は一切の身動きが取れないまま見送るしかなかった。それがあまりにも俺とアイツとの実力…………いや、アイツだけは持つ『強さ』があって、俺には持ててない『強さ』があるのを理解してしまった。同じ俺だというのに、どうしてここまで差があるんだ。

 

 情けなくて悔しくて————。

 

 泣きたくて苛ついて————。

 

 それは立ち止まる理由にはならなくて————。

 

 だけど進み続けるには俺だけではあまりにも未熟で————。

 

 途端、胸元にいつもの痺れがきた。

 

『レン。バイタルが不安定になるのを観測したが、どうかしたのか?』

 

 今だけはその声を聞いても安心感なんて沸かない。むしろ自分の不甲斐なさをより一層感じてしまう。自分がどれほど今までマリルに頼り切りで、そして今も縋ろうとする自分がいることを自覚してしまうからだ。

 

「マリル……っ! おれ……おれ……っ! アイツを、捕らえらなかったぁ……!!」

 

『……分かった。ならばパランティアに連絡を取りあう算段に移る。出来る限り把握できた情報を口頭で伝えろ』

 

 俺は目に浮かぶ涙を堪えようとするも、隠しきれない涙声でマリルに情報を伝える。今はそれしか俺にできることがない。ただSIDに縋るしかできない未熟な俺に、俺はアレンの言葉の数々を身に染みて感じ取ってしまった。

 

 俺は…………こんなに弱かったんだ。



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第12節 〜One-sided Game〜

 レンとアレンが邂逅する数時間前。スクルドとファビオラはとある知人と会うために、ニューモリダス首都郊外にある教会の前まで足を運んでいた。

 

 その名は『トリニティ教会』。ニューモリダスに数ある教会の一つ。七年戦争の影響で半壊され、学園都市に発展に伴なって外観を損なわないように最低限の改修工事で保管された施設でもある。継ぎ接ぎだらけで閑散とした庭園は『黒糸病』のこともあって観葉植物といった加工された観賞用ものしかなく、それさえも手入れが届いていない。時によって朽ち果てた様子は一種の秘密基地にも見えて、ここでスクルドは今の今に至るまで親交深く関わってきた『アントン神父』にお世話になってきた。

 

 その思い出はスクルドにとって大事なものだ。二本足で立つ前から『未来予知』の影響もあって、思考の成熟が同年代と比べて一回りも早かった少女は周りと噛み合わずにいつも孤立していた。議員の娘という『エクスロッド』という立場。神託として神父自身から名付けられた『スクルド』という立場。それら二つによって成された『スクルド・エクスロッド』という少女の人生は、大人から見ても子供からしても酷くつまらないものであった。そんな中で秘密基地にも似た『トリニティ教会』でのアントン神父との幼少期での触れ合いは、年齢差なんて微塵も感じない楽しさに溢れていた。

 

 スクルドは『未来』ではなく『過去』に耽る。『記憶』に残る神父の顔を求めて。

 

 

 …………

 ……

 

《神父様。何をしてるのでしょうか?》

《神像を磨いているのですよ。お嬢様もやりますか?》

《やらせて!》

 

《ここは雨漏りしますね》

《ですので補修をしようかと。お嬢様も手伝ってください》

《はーい!》

 

《お嬢様、新豊州から金鍔を頂きました。一緒で食べましょう》

《……ありがとう。いただきます》

《おやつの後は運動も兼ねて庭の整備をしましょう》

 

 ……

 …………

 

 

「……よく考えたら程よく労働力にされてたかも」

 

「今更ですか? 私がここに来た時はお茶出しを任されましたからね?」

 

 思い浮かべるは白髪、白髭、白肌と黒装束の修道服以外すべてが白い中年の無邪気な笑顔。七年戦争の体験者でトリニティ教会に所属する前までに知り合った関係者のほとんどが死に絶えたというのに、心まで白く眩しい清らかな人だったのを二人は知っている。同時に剽軽な一面もあり、子育てに慣れた親のように要所が適当な面もあるのも知っている。

 

 二人はそれを思い浮かべて一瞬渇いた笑いが出たものの、すぐに緊張感を戻して互いの視線を合わせる。

 ファビオラは一つ頷くと、強盗でもするように教会の扉を蹴り開け、メイド服のどこからか取り出した拳銃を突きつける。

 

 中は散乱とした状況であった。礼拝堂に並ぶ長椅子には弾痕があり、神像は無惨にも砕け散っていて、その首は信仰心など足蹴にされたように埃が多大に募っている。

 

 二人は細心の注意を払いながら教会の中を進んでいく。中庭を過ぎ、納骨室、エントランス、台所と次々と確認を終えて、やがてアントン神父が普段使用する執務室という名の私室へと入った。

 

 そこは先ほど前の施設とは違い、幾重にも荒らされた酷い状態であった。参拝者に渡すための聖書から、植物や昆虫などの図鑑や神父が愛読していたファンタジー小説やスクルドには閲覧不可能な発禁本など様々な物が引き裂かれ、収納する本棚さえ倒壊されている。

 

《……アントン神父について、今知っていることを教えてほしい》

 

 スクルドはイナーラから告げられた情報を思い出す。

 

《…………行けば分かるわよ》

 

 たったそれだけでスクルドとファビオラは察した。先の事件が起きたそもそもの切っ掛けは、アントン神父からの手紙で『新豊州記念教会』に向かえと言われたのが発端だ。アントン神父が裏切ることなんて絶対に有り得ないのをスクルドは知っている。しかし筆跡も内容もスクルドが知るアントン神父の物なのも確かだ。

 だとすれば考えられるのは二つ。手紙の内容が漏れていたか、アントン神父に危機的な状況に合って無理矢理書かされたか。そしてイナーラの言葉さえ聞けば自ずと後者だと予測は固まる。危険を感じた二人は、父親と合流する前にせめて現状だけでも把握するために『トリニティ教会』へと足を運んだのだ。

 

 結果は予想した通りだった。強襲があった跡はアントン神父が拉致されたものだと考えることができ、現在では人目につかない場所で監禁されているか、それとも既に用無しとされて殺害されているか——。

 

 スクルドの脳内に過ぎる不安を振り払おうとするも、先日から続く予感の影響もあって『死』というイメージが消えることはない。むしろより深く鋭利に脳と心臓を貫くように具体的な『死』を思い浮かべてしまう。

 

 不安に駆られるスクルドはファビオラを横目で見続ける。重苦しい空気とは裏腹に色鮮やかなピンク髪と青を基調としたメイド服。その手に握られているミスマッチな拳銃。客観的に見れば全てがこの場に噛み合わないというのに、不思議とその姿でいることこそが自然だという佇まいで神父の痕跡を辿るための捜索を続ける。

 

 その姿はスクルドが知るいつも通りの彼女すぎて、いつも通りの頼りで世話好きで料理下手なファビオラを見てしまうと、アントン神父やスクルド自身に降りかかる予感がある『死』を何とかしてくれそうな気がしてくるのだ。

 

 2年前、レンが覗いたファビオラの『記憶』の出来事——。レン自身は詳しく覚えてはいないが、スクルドは実際にあった『過去の記憶』として覚えている。ファビオラがスクルドを、かつてのパランティアの諜報員達を守るために炎を纏う魔女として自発的に覚醒したことを。その甲斐あって『イエローヘッド』や『蜘蛛』といった自立行動型の軍事兵器からの強襲という窮地を脱したのだ。

 

 きっと今度もファビオラが何とかしてくれる——。スクルドの不安は既に消えさり、視界の端にいるファビオラはいつも通りの真剣な眼差しで現場を見つめ続ける。やがてファビオラは唾を一つ呑み込んで告げた。

 

「…………まずいことになりました」

 

「まずいこと……?」

 

「これ……恐らくマサダの新兵器『レッドアラート』が動かしてる可能性があります」

 

 その言葉にスクルドは肌身から熱を引いていくのを感じた。

 

 レッドアラートとは、2年前ファビオラ達を襲ったイエローヘッドと同じくニューモリダスの資金でマサダブルクで開発された新兵器。イエローヘッドが別名『黄黒の死神』と呼ばれるように、そのレッドアラートにも相応の別名がある。

 

 スクルドとファビオラはすぐにトリニティ教会を後にして、父親が待つニューモリダスにあるエクスロッド家を目指す。

 

 レッドアラート——。またの名を『血の伯爵夫人』——。

 

 

 …………

 ……

 

 

 俺は駅前でマリルの連絡を下に、パランティアの人達と合流する。そこには例の個人諜報員であるイナーラの姿さえも見える。服装はクラブにいた時の衣装とは違い、先日ホテルで見せたダボダボの黒ジャンパーを基にしたものだ。

 

「お、お久しぶりです、イナーラさんっ」

 

「おひさ〜。相変わらず色眼鏡全開ね」

 

 ケラケラと笑いながら、イナーラはパランティアから派遣された頭にバンダナを巻いた陽気なお兄さんと話し合う。陽気な男の名前は『カッセル』といい、ファビオラがパランティアに所属していた時からいる諜報員だそうだ。

 

「最後のあったのは…………いつ頃でしたっけ?」

 

「……半年近く前。突如として多数発生した時空位相波動について調査するために議会連中の協力したことは覚えてるでしょう」

 

 半年近く前……。多分、俺が『女の子』になってしまった日のことか。マリルもそれを境に突如として世界中で時空位相波動の発生が多発していたと言っていた。

 

「…………そうだった、そうだった! いやぁ、すいません。どうもイナーラさんの事になると忘れっぽくて」

 

「気にする必要ないわよ。私の『聖痕』……つまり能力だから」

 

 やっぱり再開するまで『記憶』に一切彼女の姿が思い出せないのはイナーラ自身が持つ能力だったのか。だとすれば先日ホテルで推測していた大胆不敵さもあながち間違いでもないのだろう。パランティアという情報機関に属する一人にさえ認識が曖昧になってしまうのだから、能力としての出来は俺みたいな半端者とか関係なく平等に同じなのだろう。

 

「相手の『記憶』から消えるとは……前にいた姉御より凶悪じゃないっすか」

 

「便利過ぎて困り物よ。だってこれ、私に関する情報は『自動的に消去』してくれるんだし」

 

「へぇ〜〜。どれくらいっすか?」

 

「名前と容姿と声色は絶対ね、後は個人差。思ったことや会話を忘れる奴もいる……中には私と時間そのものを丸々失うのもいたっけ?」

 

「随分と色々言うなっ!?」

 

 もし盗聴とか録音されてたらどうするのか、この踊り子は。

 

「どうせ忘れるんだしいいでしょう。録音したところで、私の能力対象は『私から得た全て』だし。どんな媒体で録音や録画をしても忘れるわよ。仮に覚えても霞がかって『イナーラとしての情報』として『記憶』が結びつくことはない。それらを断片的に再生されるのは、こうしてもう一度私に会えた時だけ……結構便利なセキュリティでしょぉ〜?」

 

 最後には、いつもみたいに可笑しな口調でイナーラはふざける。それがカッセルにとっては好ましいのか、頬を赤くして「そんな感じもいいっすね!」と笑う。

 

 だが、俺には一連の情報に妙な違和感を覚えた。『イナーラから得た全て』が『自動的に消える』——? じゃあどうやって個人請負業者の『イナーラ』としての立場を確立させたんだ。

 

 嘘が混じっている、明らかな嘘が。少なくとも俺は『イナーラ』という名前は覚えていた。名前を絶対に忘れるということに関しては嘘でしかない。

 だけど、それを言及したところで意味なんて一切ない。今はアレンの追跡もそうだし、アイツが再三口にしたスクルドの『死』といい『運命』をどうにかして覆さないといけない。

 

 近日中とは言っていたが……それは明日かもしれないし、もしかしたら今日かもしれない。何にせよ残された時間は少ないのだろう。それまでにSIDやパランティアとも頑張って何とかしないといけない。

 

 ……そう『何とか』だ。具体的な案なんて浮かびはしない。高崎さんの時だって無観客ライブは過去にあった事を準えただけだし、ライブ自体の成功は正直彼女自身と星之海姉妹の力は大きいし、犯人の特定だってベアトリーチェに任せっきりだ。俺自身が本当の意味で力になれたことなんて本当に些細な物で、だから俺は『俺』にすら負けてしまった。

 

 イナーラのことについて考える暇があるなら、少しでも知恵を搾り取って自分で考えるんだ。アレンの居場所を探る術を。スクルドの運命を変える術を。

 

 ……だけど、そんな決意だけで案が出るなら苦労はしない。答えなんて出るはずがない。今は情報がなさすぎる。ニューモリダスはマサダブルクと違い、辺り一面砂漠で閑散とした町並みではなく海を側した喧騒としたビル群だ。アレンの居場所なんてそれこそ無数にある。

 

 スクルドの『死』の『運命』だって、今分かるのは『エクスロッド暗殺計画』というイナーラから与えられた情報だけ。彼女自身も依頼を拒否したから依頼主の名前なんて覚えてないし、変声機を使ったから性別も年齢の特定できない。誰が計画してるかも分からない以上、計画者を捕らえるのは非常に難しい。どちらにせよ進歩はない。

 

 ……今はパランティアとSIDの情報を待つしかない身でしかないのだ。俺は気晴らしをするように、小声でマリルと繋がる胸元のスピーカー話しかけた。

 

「マリル……第七学園都市って本当に存在するのか?」

 

 アレンから伝えられた言葉は既にマリルに共有済みだ。第七学園都市から並行世界の可能性について伝えており、マリルならそれらについてどういう見解を持っているか気になったのだ。

 

『……学園都市の定義は知っているな?』

 

「うん……」

 

 そもそも学園都市は2018年、ジョーンズ博士が異質物を再発見・再認識されたことで異質物研究するための本格的な研究機関として生まれたのが発端だ。思想の雛形に関してはそれ以前にもあったみたいだけど、今の体制はジョーンズ博士の思想が基になっている所が多い。学園都市も小規模ながらも当初は何十と超えた建設計画があったそうだ。

 

 結果として七年戦争の影響でアメリカ、エジプト、ドイツといった既存している国家のほとんどは壊滅状態となり、いくつかの学園都市も崩壊したものの、残存された学園都市が独立した国家となって今の六大学園都市という体制を作った。その影響で現在の学園都市として数えられていない戦争前に破棄された学園都市はいくつかあるが、そもそもとして今の六大学園都市が『学園都市』として定義付けされるのは『XK級異質物』を所持している点が非常に大きい。

 

『確かにアルカトラズ収容基地から強奪された『天命の矛』は文献の数も少なく、研究されてない部分も多くて未知の部分が多い。研究さえ進めばXK級異質物になり得る物だ。しかし、あくまで可能性の話に過ぎず、そんなにゴロゴロとEX級異質物がXK級異質物に変わりました、なんてことは起きない。そのほとんどが現存するXK級異質物と比べたら赤子みたいなものさ。だから宗教法人は研究に悲観的なんだ。『未知という可能性』を持つことで、自分達が所持する異質物の権威を維持するために』

 

「大人って見栄っ張りだね……」

 

『気持ちは理解できなくもないがな。まあ共感は一切しないが……』

 

 ため息混じりにマリルは言う。

 

『異質物の価値を落とされるのは、宗教的には信仰する神の侮辱にも等しい。人は誰であれ貶されるのは嫌いなものさ』

 

「貶されるのが嫌なのが分かってるなら、俺の扱い改善してくれません?」

 

『お前のは自業自得だ』

 

 確かに……。俺の人権失墜は完全な自業自得だ。そのことに関して俺は強く言えないことに悲しさを覚えてしまう。

 

『……そしてXK級異質物は一つだけでも世界中に災害級の招く力を備えている。マサダの『ファントムフォース』も直接的だし、サモントンに至っては『エデン』の遺伝子改造で農作物全てを『黒糸病』以上の毒物にでもすれば人類史上最恐最悪のテロリズムが完成する』

 

「想像するだけで嫌だな……」 

 

 俺だって七年戦争の被害者の一人だ。貧困や飢餓に喘ぐ気持ちは痛いほど分かる以上、空腹というか食事に関しての脅威は人一倍恐ろしいのを理解している。そんなことになればサモントンは一転して独裁国家だ。

 

『そんな異質物は発見された時点で即研究及び保護は確定だ。六大学園都市で共有して対応にあたり、然るべき時が来たら研究対象として新しく学園都市を作る……そこまで来て初めて『第七学園都市』という設立という話が生まれるんだ』

 

『だが』とマリルは一息置いて話を続ける。

 

『生憎とそんな情報なんて今の今まで微塵も聞いたことがない。都市伝説として話のネタになるくらいなもので、七つ目の学園都市を作ろうという話は連合議会で起きたことは一度たりともない』

 

「……じゃあ第七学園都市なんてものは存在しない?」

 

『そういうことになるな』

 

 マリルからの結論を聞いて一つの安心を得て、同時に一つの疑問が浮かぶ。だとしたらアレンは何故『第七学園都市』が既に存在するかのように言っていたのか。考えられるとすれば、先のスクルドの死の『予感』と同じように、アレンはそれができるのを『予感』しているとしたら——。

 

 すると突然スピーカー越しから愛衣の『監視カメラの映像の集め終わったよー』と呑気な声が響いてきた。

 

「監視カメラの映像?」

 

『ああ、私たちは現状二つの問題に直面してるからな。一つは男のお前……アレンって奴の捜索と確保。二つはエクスロッド暗殺事件の首謀者の特定だ。前者に関しては現地にいるパランティアとイナーラに任せるとして、後者は『新豊州記念教会』で一度アクションがあったんだ。アレが暗殺事件として最初の動きとしたら、何かしらの証拠が残っていてもおかしくはない。それを私達SIDで検証するのさ』

 

「なるほど……」

 

 それだったら本当に今は座して待つしかない。俺は先ほどまで疑問に浮かべていた『第七学園都市』については思考の片隅に置いておき、駅前近くにある公園のベンチへと腰を置いてニューモリダス全体を眺める。

 

 眠りを知らぬ街並み。絢爛都市は、落ち込む続ける俺の気持ちとは裏腹に輝き続ける。視界と思考を嫌でも刺激させる輝きは、少しばかり微睡む意識を活性化させて俺の思考を改めて『第七学園都市』について考えさせようとしてくれる。俺は深呼吸をして眩い白光から視線を逸らし夜空を見上げると、そこには夜空に相応しくない色の光が視界に映っていた。

 

 空に——『赤い流星』が見えた。肉眼で捉えたそれは、人と呼ぶにはあまりにも長すぎる四肢と細すぎる胴体だ。眼に値する部位は月明かり良く眩しい赤い閃光が夜空を一閃した。

 

 その正体を俺は知っている。市街作戦において警戒すべき兵器『イエローヘッド』や『ハニーコム』や『蜘蛛』に並ぶものだとエミリオから聞いた。

 

 名は血の伯爵夫人ことレッドアラート——。

 

 それは『対魔女兵器』と呼ばれる局所的作戦遂行を目的としたマサダの軍事研究において最高傑作と名高い殺戮兵器——。



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第13節 ~Death Race~

『レッドアラート』——。それは『対魔女兵器』と呼ばれる兵器だが、実はこれ自体が完成したのをSIDやレン達が知ったのは、OS事件が始まる一週間前に遡る。

 

 切っ掛けはマサダブルクで起こしたエミリオの奇跡——。民を襲う二酸化炭素の砂嵐をエミリオはその手に掲げるアズライールで一刀両断、一瞬にして蒸発させてマサダブルクの危機を救ったことは記憶に新しい。

 

 しかし、この一件はマサダブルクに良くも悪くも国政に大きな影響を与えた。目に見える救世主は現人神と呼ばれる存在に等しく、宗教思想が根付いてない若年層にはヒーローやアイドルに近い眼差しで見られ、思想に浸かった民は宗教の崩壊を危惧したものもいる。思想の二分化はマサダブルクとしては内城、外城の問題もあり、新たな派閥も生まれる懸念点があったため、即座にエミリオを宗教と教育の首席顧問という形だけの名誉を与え、結果としてそれが他の権力争いに属さない信徒が崇め始めてエミリオ自身は国際的な権力争いからは隔離されることになる。

 

 だが隔離されたとはいえ権力としては依然として顕在したままだ。何かの拍子で政界に参入した場合、マサダブルクは一転してエミリオという聖女を中心とした勢力が生まれてしまう。それを危惧したマサダブルクの政治家達は意見を合致させ、軍事研究者へと『ある目的』を熟せる兵器の開発を依頼した。それによって完成された兵器が『レッドアラート』なのだ。

 

 超小型特攻ドローン『ハニーコム』——。

 重火力無人ヘリ『イエローヘッド』——。

 対城破壊運用兵器『重打タービン』——。

 

 開発された以上、そのどれにも属さない運用目的が『レッドアラート』にはある。それこそが『対魔女兵器』と呼ばれる所以となる。

 

 それは人工的に作られる『執行者』ということ。サモントンに元々いた『審判騎士』と呼ばれたソヤや、同国にある情報機関である『ローゼンクロイツ』に所属するセレサが主な仕事をしている役職だ。その内容は『魔女狩り』——つまりは『ドール』と呼ばれる存在に対抗しうる存在として各地に派遣される独立した戦力でもある。

 マサダブルクでは情報機関『マノーラ』に所属する『ヤコブ・シュミット』が『教団』の管理人として過去にイルカを『執行者』として利用していたこともあるが、今では適当な存在はおらず、ヤコブ自身がマサダブルクに姿を見せないこともあり人工的に『魔女』を作る計画は頓挫——。結果としてマサダブルクでは『執行者』と呼ぶべき存在がおらず、人工的に『魔女』を増殖できなくなった現在では『ドール』あるいは『魔女』に対抗しうる戦力だと持ち合わせていなかったのだ。

 

 そんな時に誕生したエミリオは政治的にも本人が持つ『魔女』として資質は脅威以外の何者でもなく『排除』すべき存在という意見が政界では纏められた。『排除』するために『手段』がいるのは当然であり、それこそが『レッドアラート』こと『血の伯爵夫人』なのだ。

 建前上は世界中で発生する時空位相波動によって発生する『ドール』の排除並びに敵対する外国への迎撃を主目的としてはいるが、実際はエミリオを排除したい政界の意識が見え隠れした代物だ。マサダ内部のテロやクーデター、あるいは先の砂嵐に乗じて『レッドアラート』を派遣してエミリオを排除しようとする魂胆が透けている。そのことをヴィラの父親を通してエミリオとヴィラは知っているからこそ、現在二人は協力の名の下にSIDの管轄内で生活して合法的に身を隠して安全を得ているのだ。

 

 しかし、それでは自体が先延ばしになるだけである。果たしてマサダブルク政府は来るべき日まで『レッドアラート』を放置するであろうか?

 

 否——。軍事国家であるマサダブルクが、対エミリオ改め『対魔女兵器』と呼ばれる戦略級の自立兵器を『軍資金の調達』として野放しにするわけないのだ。

 

 だからこそ第四学園都市マサダブルクの兵器であるはずの『レッドアラート』は、第二学園都市ニューモリダスの夜空で流星となって行動しているのだ。

 

 目的はただ一つ、シンプルに『抹殺』。それはつまり——。

 

 

 …………

 ……

 

 

 夜空に浮かぶ『血の伯爵夫人』を改めて確認して俺は背筋が凍るの感じた。あれは『イエローヘッド』や『ハニーコム』と違い、特定の範囲を無作為に攻撃するわけではない。特定の人物を抹殺するための自律兵器だ。あれが製造元である第四学園都市マサダブルクではなく、第二学園都市ニューモリダスにある以上は確実に抹殺すべき目標があるということでもある。

 

 抹殺——つまりは誰かに『死』をもたらすということ。俺は否が応でもスクルドのことを思い浮かべてしまい、レッドアラートへと警戒心を募らせる。獲物を捉える赤い識別信号は依然として輝き続けており、それは確かめる様にこちらへと少しずつ接近してくる。

 

 背筋に伝う汗が肌を凍てつかせ、血管を巡る血液は氷の様に冷えていく。レッドアラートにとって俺は目標の一つなのだと感じ、一歩、また一歩と後退りをしてしまう。

 

 緊張感が限界に達した。同時に深紅色の流星が駆ける。それがどういう意味を持つのかを把握するのに僅かに遅れた。

 急接近による突撃行動——。俺は回避行動さえも取れずにベンチから飛び出して転がるだけで精一杯だ。

 

 このままでは致命傷を負う——。身の危機を感じた瞬間、浮遊感が俺を襲う。直後、レッドアラートがベンチを巻き込みながら公園に設置された遊具から噴水まで破壊し尽くしていき、ニューモリダス中に轟音が響いた。

 

「セーフ……。一人でどっかほっつき歩くなっつーの」

 

 音が止むと同時に聞き慣れてきた声が耳に入る。レッドアラートと同様に血を彷彿させる赤い髪を持つイナーラの声だ。

 

「ご、ごめん……」

 

「謝る余裕があるなら逃げるの優先。イナーラさんは戦闘に関してはからっきしなんだから」

 

「イナーラさん、ここは俺達に任せて避難を!」

 

 すると今度はカッセルがパランティアの構成員を四人ほど連れてレッドアラートの前に立ち、躊躇いもなく構えてアサルトライフルを引き金を引く。今度は断続的にリズムを刻みながら発砲音が轟くが、レッドアラートは生命ではなく防弾装甲を纏った兵器だ。弾丸ではかすり傷を付ける程度であり、行動に支障をきたすことなく、人体を模した赤い四肢は機械とは思えぬほど柔軟な立ち上がった。戦闘体制をすぐに取り、銃撃を放つパランティアの構成員達に次々と襲いかかる。

 

 これはロボットというには、巧妙で繊細過ぎる。自律行動のために装備されているジェネレーターや武装の数々を鑑定しても3mに及ぶかどうか。人体を模した四肢には、それぞれ独立した思考回路と視覚センサーが搭載されており、各々の部位に当たるマニピュレータを動かすという設計だ。そのせいで頭部と呼ぶべき存在はなく、胴体だけがメインコアとバランスを取る設計を持つことで、アタッチメントの柔軟性を損なうことなく動力部の耐久性を維持している。これは予めSIDやエミリオから又聞きされていた情報だ。だが実際に観察して初めて分かる。それらの情報がいかに兵器としての完成度が高いのかを。空に浮かんでいた事実といい、生産数が少数ながらも確かにこれはマサダブルク屈指の自律兵器だ。『ハニーコム』の時といい、生物として機能する動きの根本を理解している。

 

「さっさと逃げるわよっ!」

 

 感心するのはそこまでにして、俺はイナーラさんに手を掴まれながら公園のすぐ近くにある裏道へと入り、レッドアラートの追跡を振り払う。

 

「…………まあ、そう簡単に逃してはくれないわよね」

 

 しかし眼前にはレッドアラートとは違い、青い装甲を持つ四足歩行の小さな兵器が十数個も見えた。これはレッドアラートに付属する超小型自律兵器『ブルートゥース』だ。サイズとしては成人男性の手の平より一回り大きい程度のものであり、名前の通り無線通信規格の機能を持つ兵器だ。これが存在する限りブルートゥースを通すことでレッドアラートには対象の補足されるということでもあり。現在逃走中の俺達にとって危険この上ない代物だ。

 

 だが、ブルートゥースが持つ役割はそれだけはない。その名前には通信規格だけでなく、『ブルー』と『トゥース』と分けて意味する役割さえ持つ。

 

 つまりは『歯』を意味する噛みつきと、『同士討ち』(ブルー・オン・ブルー)を意味する『ブルー』である。

 

「危ないっ!」

 

「分かってるって!!」

 

 俺の掛け声に合わせて、俺とイナーラは手を離して左右に広がり、迫ってきたブルートゥースの噛みつきを既の所で回避した。

 

 あいつの歯には『鎮静・幻覚作用』をもたらす『薬物』が混入されているのは俺でも知っている。何せマサダブルクが『ドール』と対抗するために、ありとあらゆる手段を持って作り上げたレッドアラートの付属機なのだ。『ドール』といえども元が人体である以上は、薬物の効果も出るかもしれないという考えがあって搭載されている。

 

 さて、どうするべきか。進もうにもブルートゥース。下がろうにもレッドアラート。どちらにしても危険地帯なのは変わりない。『OS事件』とは違い、ラファエルの協力なんてないから治癒石はないし、元より大規模な市街戦闘なんて考慮してないから、今の俺には救急セットの類さえ所持してない。ほんの少しの怪我でも命取りになりかねない——。

 

「しかし……レッドアラートもそうだけど、どうしてアンタみたいな女の子を狙ってるの? マサダブルクやニューモリダス相手にやんちゃ騒ぎでもした?」

 

 確かにイナーラの言葉はごもっともだ。俺はあくまで今回限りのボディガードに過ぎず、これらがスクルドを狙う輩の戦力だとしても、俺自身を対象にするのは些か疑問が湧く。俺自身の脅威なんてたかが知れているのだから、仮にスクルドの周りを狙うにしても筆頭はファビオラになるのは間違いない。だとしたら俺を狙う理由があるはずなんだ。機械が間違えることなんて基本ないのだから。

 

 何故俺を狙う——? 次々と襲いかかるブルートゥースの噛みつきを捌き切りながら考える。これ自体に殺傷力らしい殺傷力はない。ブルートゥースで無力化して拘束、あるいはレッドアラートが迅速に処理するための先鋒に過ぎない。先の遭遇でレッドアラートが俺を狙ったくせに、パランティアと合流した後はレッドアラートは追撃を行わずにそちらを攻撃し、次にブルートゥースを寄越してきた。この時点で『俺』に対する扱いは『抹殺』ではなく『拘束』が主にしてるのが分かる。

 

 ならばどうして『拘束』する——? 

 俺の『拘束』に何の意味がある——? 

『俺』に何を意味を持っている——?

 

「……そういうことか!」

 

 だったら、この状況はむしろ千載一遇のチャンスになる。迫り続けるブルートゥースの反撃を俺は止めて、イナーラに向かって声を張り上げて告げる。

 

「イナーラさん! ブルートゥースを無力化させないでください!」

 

「はぁっ!? あんたどういう状況か分かって言ってる!?」

 

 ヴィラやエミリオほど力強くはないとはいえ、しなやかな身のこなしでブルートゥースを一機ずつ確実に破壊するイナーラは驚きの声を上げた。

 

 無理もない。だって事情を知らない人に説明したところで、俺の考えや共感してくれるのは無理な話だろう。だけど、この仮説でなけれは『俺』を狙う理由が思いつかない。

 

 だってレッドアラートが俺を捕捉したというのに、目標である俺を執拗に狙うことなく付属機を派遣してきたのだ。対人特化であり、目標達成を優先する思考回路を持っているはずだというのに。つまりレッドアラートの思考判断での俺の優先順位は『高い位置にはあるが、最優先ではなく付属機に任せる』というのが分かる。なぜ、そういう思考を判断するのか。ここには必ず俺が想定している理由が関わっているんだ。

 

 イナーラは戦闘の合間だというのに、俺の瞳を見つめ続けて心情を理解してくれたのだろう。呆れ気味に溜め息を吐きながら、ブルートゥースから大きく距離を取ると、彼女は懐から手榴弾を投げつけた。

 

「……って、おいおいおい!?」

 

 あまりにも自然な動作で行うものだから、さも当然のように認識してしまったが、ニューモリダスで爆発物を使うのは大丈夫なのか!? パランティアは情報機関だから銃や爆発物を使っても不思議じゃないが、イナーラはどこの学園都市にも属さないだから、使用すると銃刀法違反とかに違反するよね!?

 

「目も耳も防ぎなさいッ!!」

 

 ――爆破音と共に、閃光が広がる。

 

 夜の世界に光が差し、世界は一瞬だけ朝日よりも眩しく白一色に染まる。

続いて襲い掛かってくるのは不快感だ。瞼を閉じているのに、視界が白黒に点滅して瞳孔が荒ぶる。耳も指を詰めて防いだというのに、脳ミソや目の奥が掻き回された感覚に陥り、足が付いているはずなのに身体に浮遊感を感じて仕方ない。

 

 この現象に俺はFPSで聞き齧りした程度の知識を思い出す。目は閉じても完全に光を遮断するわけではないし、耳栓なんかしたところで『音』というものは人体の水分を通すことで、耳が耳として機能する『三半規管』には普通に届く。イナーラが投擲した閃光手榴弾の衝撃は、俺の気休め程度の防護策では防ぎ切れるわけがなかったのだ。

 

「――――――!」

 

 耳を劈き続ける不快な音がイナーラの声を掻き消す。視界は点滅して彼女の口の動きも表情も分からない。だが急かすような挙動だけは、俺の身体を通して伝わる。その意図を把握した俺は全体重を彼女に預け、急いでブルートゥースから距離を置いて逃亡を図った。

 

 逃走して数分。ようやく視界が慣れて周囲の状況を把握する。警備の薄い、あるいは廃ビルに潜り込んだようであり、シャッターを下ろし、ロビーにあるソファやらテーブルでバリケードを積み上げて警備を固めるイナーラの姿が見えた。

 

 その間に俺は胸元のスピーカーへと応答を始める。特有の痺れが奔ってから十数秒後。聞こえてきたのはマリルや愛衣ではなくアニーの声だった。

 

『大丈夫レンちゃん!? こっちでも自立兵器の襲撃を確認したから対策を講じてるところなんだけど……!』

 

「こっちは大丈夫。深い怪我とかはない。それよりもブルートゥースの動きを追う事ってアニーでもできる?」

 

『パランティアとの協力さえあれば市街カメラは共有できるし、独自でも衛星を通せば追跡できるけど…………動向を追うのはレッドアラートじゃなくていいの?』

 

「……一応どっちも追ってほしい。だけど最優先はブルートゥースにしてほしいんだ。色々と自体が急転していて対応が間に合わないだろうけど……もしかしたら二兎を掴めるチャンスかもしれないんだ」

 

『……うん、わかった。ライブの時もそうだけど、こういう時のレンちゃんの考えは信じてみるよ』

 

 アニーからの言葉は、現在自信喪失気味の俺の心に温かく届いた。リアルタイムでSIDの情報を俺が持つ端末に送ってもらい、ニューモリダスの地図情報と合わせて現在の状況を詳しく把握しようとする。

 

「カッセル! そっちの状況はどう!?」

 

『予定通り、姐さん達が離脱したら安全第一で即刻こちらも戦線から引きましたよ! 市街のど真ん中で銃を撃ち続けるわけにもいかねぇし……』

 

 イナーラが持つ無線機からパランティアの声が聞こえてくる。どうやら一時はレッドアラートを攻撃を凌ぎ切ったようだ。

 

『だけど未だに上空で旋回中! 付属機も街中で見かけるし、見つかり次第再び戦闘になるのは間違いないですよ!』

 

「んなことはとっくに分かってるっての! さっさと上官の指示を仰げ! キャセールだって、いつまでも新人のケツ噴きするような甘ちゃんじゃないでしょうが!」

 

『とっくにやってますよ! だけど驚かないで下さいよ! 伝達された情報の通りならレッドアラートは合計『3機』行動してるんだ! そのうち一つは『ニューモリダス大使館』に向かってるんだぞ!』

 

「マジで言ってんのか、それ!?」

 

 無線機から聞こえた情報に俺は驚きを隠せない。

『ニューモリダス大使館』と言えば、ニューモリダスの議員達が集う建物の1つだ。それはつまりスクルドの父……スノーリ・エクスロッドがいるということでもある。

 

「ちっ……私の協力が扇げなかったからって、ここまで無遠慮な方法で強行するなんて……」

 

 悪態をつきながらイナーラは外への警戒を続ける。そういえば暗殺計画に関しては一度イナーラに依頼があって、それを突っぱねたとか本人が言っていたっけ。だから彼女から見れば、ここの一連の事件は『エクスロッド暗殺計画』を起こそうとする依頼主が起こしているように見える訳か。それならイナーラが俺に対して「ニューモリダスかマサダブルクに対して喧嘩売った」という言葉に対しても改めて納得いく理由ができた。

 

 …………ちょっと待てよ。何かおかしくないか。

 

 だったら何故、ここまで執拗に『俺』は狙われている? レッドアラートが俺を狙う理由は先ほど予測できた。だけど、それは明確な『理由』が見えたからであって、そこにそれ以上もそれ以下もない。騒ぎに乗じた執拗という『感情』任せの行動が見え隠れしてならない。まるで『誰か』が行き当たりばったりに行動してるような……。そんな考えは『エクスロッド暗殺計画』の考えにはそぐわない筈だ。

 

 つまり……この一連の出来事には『エクスロッド暗殺計画』を知った第三者が乗じたものという可能性が出てきたという事だ。

 

 ……そうか、それなら『3機』動いている理由が分かる。

 

 一つはエクスロッド議員の直接的な殺害のため。

 一つは理由は推測のままだが、俺を狙ったもの。

 

 もう一つは…………。

 

 俺の中で散り散りとなった情報という情報が紡がれていく。そして、あることに気づく。『足りない』と――。

 

「……アニー。レッドアラートとブルートゥースの動きはどうなってる?」

 

『赤についてはパランティアの報告通り。付け加えるなら行方を伝達してない一つは遠く離れた非武装協定地域で滞在しているということだね。戦闘行為は行っていないし、ここは距離が遠いからレンちゃん達と遭遇する事はないと思う。青は街中を大通りを巡回中。目立つからニューモリダス市民も落ち着かない様子で見守っているよ』

 

 警戒すべき二種類を『赤』と『青』と呼称して簡潔にアニーは伝えてくれた。俺はその情報から端末に写る現在地を照合して、予測をさらに広げて先手を打つ手段がないかと画策する。

 

「――ここだ」

 

 二種類の動きに不自然な『穴』があることに気づいた。それは警戒がないという意味ではなく、むしろその逆。レッドアラートとブルートゥースの動きは渦を巻くように動き続け、着実に、そして罠に嵌めるように『穴』に誘導しようとする動きが見て取れた。

 

 ここしかない。ここに今回の騒動に乗じた第三者の目的が――いや、本来この騒動を主目的となるはずだった人物がいるに違いない。

 

 ――――――――さあ、反撃開始だ。

 今まで後手に回っていたが、ここからはそうはいかない。

 



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第14節 〜Dead Heat〜

「たくっ……!! 次から次へとッ!!」

 

 ニューモリダス大使館前——。

 

 そこではファビオラがスクルドを背に大型バイクに乗り、大使館から離れようと奮闘していた。時速は150キロに到達——だというのに、背後から迫る超小型自律兵器であるブルートゥースが振り切れることはない。依然として加速は続け、160キロ、170キロと世界が残像となっても迫り続ける。

 

「『ハーディ・デイトナ』の名は借り物じゃないってのに……!」

 

 時速200キロ——。ついに世界が歪み、風が輪郭を帯びて視界を覆う。夜風は肌を突き刺し、血管を凍てつかせる。極度の緊張感と刃のように研ぎ澄まされた向かい風は一呼吸するたびに気管を貫き、急速にスクルドの意識を奪っていく。

 

 片やファビオラの意識は鎮まることはない。むしろ昂り、荒ぶり、全てを燃やし尽くすように燃え盛る。彼女の腰に回している腕から伝わる体温が、少女の溶けかかる意識を鮮明にしてくれる。

 

「あっち行って下さいませ! 燃えるゴミと燃えないゴミも!」

 

 それがファビオラの『魔女』としての力。非科学的に燃え盛る『炎』が、スクルドを守るように包み込み、同時に鞭のように撓って炎はブルートゥースを焼却しようと飲み込む。

 

 これは世界の法則として燃える通常の炎とは違い、ファビオラの炎は『燃やし尽くす』という意思を持って非科学的に燃え盛る。そこに物理的防御や防火対策など意味を持たない。まるで炎自体が『生きている』ように、対象を燃やし尽くすまで、その生ける炎は消えることはない。

 

「溶けない……!?」

 

 だが、ブルートゥースは炎の繭を物ともせずに突き破り、炎を纏いながら加速を続けるバイクへと少しずつだが迫りくる。バイクに追いついてくるのはファビオラにとっては想定内だ。レッドアラートの付属機として、短時間とはいえ限界速度は500キロに相当する危険物なのだから。

 

 しかし『魔女の炎』で溶けないのがファビオラには理解できないのだ。超常的な理屈で燃ゆる炎に、通常の法則で対抗するなど不可能であるはず。だというのに、ブルートゥースには効果が見られない。

 

(耐火加工——? は、意味がない……。なら何故?)

 

 ファビオラの疑問は解消されることはない。どれだけ思考を重ねても答えを得ることができない。

 

 無理もない。この時ファビオラはまだ知らないのだから。

 

 マサダブルクで製作されたレッドアラート並びにブルートゥースは、本来想定していた対象であるエミリオに対抗するため、彼女が持つ能力の片鱗によって発生する高温による『融解』や『灰塵』などを対策するために、ある特殊な加工を用いられてることを。それは生ける炎と同様に、超常的な理屈で成立されたものであることを。

 

 それは『異質物』を素材として加工されているということ。

 つまりブルートゥース自体が自律行動する『異質物武器』ということ——。いや、規模としてはそれ以上と言える。もはや『異質物兵器』と形容しても差し支えない。

 

「だったら機動力で振り切るッ!!」

 

 時速250キロの世界は街と風が溶け合い、搭乗者の感情を如実に浮き上がらせる。世界が『恐れ』と『怖さ』によって構成され、ファビオラの思考にある凄惨な光景が鮮明に映らせる。

 

 脳裏によぎる最悪の展開——。

 ハンドルを切るタイミング、身体の傾き、スピードを落とすタイミング——。

 

 どれか一つでも誤れば建物と正面衝突。刹那に二人は肉塊と化す。想像するだけで残虐極まりないオブジェクトだ。特に少女であるスクルドの顔さえ定まらない倒れる姿を想像するだけで、心臓が早まり焦りが生まれる。

 

 だが、ファビオラの覚悟はその程度で止まることはない——。

 

 あの日、決意したスクルドを守るという自分に課した使命。それは言われるがままにパランティアに所属した自分が初めて、誰かではなく自分でやりたいと思い背負った新たな使命。

 

 それほどまでスクルドの少女という笑顔は、ファビオラにとって太陽のように眩しくて綺麗で尊いものだから。

 

 それがあれば——ファビオラに恐れ慄くものだとありはしない——。

 

 時速300キロ——。世界も感情も溶けて消える。浮かぶのは『記憶』の全て——。その中にあるニューモリダスの地理をファビオラは拾い上げ、ハンドルをこれでもかと全力で握り込み、思い浮かべた道を確実に駆ける。決して小綺麗に区分けされてはいないニューモリダス港湾部の複雑に入り組んだ道だというのに、ファビオラは一度たりとも減速らしい減速をせずに走り抜け、迫り来るブルートゥースを完全に振り切った。

 

 だが安心するのはまだ早い——。ブルートゥースが追跡を止めるのは対象を見失うか、それとも『本体』へと対象が接近したからのどちらかだ——。

 

 加速する世界の中、鏡のように輝く車体の装甲に『赤い光』が乱反射してるのをファビオラは視認する。考えるより早くサイドミラーを強引に上向きしに、鏡越しに赤い光の正体を写す。

 

 夜空に浮かぶは『血の伯爵夫人』——。

 

 それは確実にファビオラ達を捉えて、腕部に当たる部位に装着された2本の大剣を振り下ろそうと急接近していた。

 

「っ!」

 

 即座にファビオラはブレーキとハンドルを同時に切り、急激に速度を下げながらレッドアラートの強襲を寸前のところで避けた。大袈裟に避けたこともあり、バイクのタイヤは摩擦によって擦り切れてしまい、走ることさえままならなくなる。

 

「失礼します、お嬢様ッ!!」

 

「きゃっ!」

 

 しかし、そこで立ち止まることなんてファビオラがするはずなどない。スクルドを覆うように抱え上げて、続くレッドアラートの攻撃を回避しようと細心の注意を払う。

 

 

 

 追撃の一閃——。

 

 これもファビオラは大袈裟に回避し、レッドアラートの間合いに入らないように全力で走り続ける。

 

 続く一閃——。

 

 鋒さえ届くかどうかの浅い一撃。それもファビオラは、絶対に当たってはならないと危機感を抱いてるように、さらに歩みを早めて強引に避ける。

 

 

 

 それには理由がある。レッドアラートが持つ大剣——それはブルートゥースと同様に『異質物武器』でもあるからだ。

 

 その『異質物武器』とは、本来だったらエミリオが両断した砂嵐についてマサダブルクが一度きりの『異質物』として弁明するために処分される物であったが、SNSでエミリオが解決した事実を公開されたことで処分は取り消し。後日レッドアラートとの運用を前提として研究対象となり、その果てに生まれたのがレッドアラートが使用する武装となっているのだ。

 

 異質物武器の名は『ニュークリアス』——。

 文字通り『核』が由来となる異質物——。

 

 意図的に小規模な『核反応』を起こすという埒外な奇跡と災害を孕んでおり、実験段階での運用時点で脅威として各学園都市で危険視されたもの。その武装はある特徴的な痕跡を残す。奇しくも、それは本来抹殺する対象となるエミリオの能力と似たものだ。

 

 そもそもとして『核反応』とは色々な種類がある。代表的なのは、核吸収、核錯乱など多種多様で、厳密な種類に関しては異質物研究が進んだ現代科学でも明確には定めてはいない。

 

 その中でも特に聞くのは『核分裂反応』であろう。

 

 不安定元素が分裂して、軽い元素を二つ以上作る反応。それが連鎖してさらに軽い原子状態となり、物体の崩壊現象を引き起こす。その際に多大な『発熱』を起こし、側から見ればありとあらゆるものが『融解』していく様は地獄絵図に他ならない。

 

 これは原子力を扱う技術で起こりうる原子力事故の一種でもあり、それによって発生する放射能問題から、絶対に引き起こしてはならないものとして常に細心の注意が払われる上に、仮に起きたとしても被害を最小限に抑えるために首都から隔離並びに厳重な管理された施設で人知れず行われるほどだ。それほどまでに『核反応』というものは絶大で危険な物であり、同時に生み出す資源は膨大なのだ。

 

 …………といって小難しい理屈を捏ねたところで想像するのは難しいに違いない。

 

 だからこれ以上の表現は濁し、非常に聞き覚えのある名称を一例だけあげよう。それこそが最も『核分裂反応』において轟く名称に違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つまりは『炉心溶融』——。

 あるいは『メルトダウン』——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう呼ばれる現象に近いものが発生する。

 

 

 

 

 

 

 

 戦闘の最中、大剣の鋒が裏道のビル群の壁を一つ、ほん少し傷をつけた。

 

 小石が当たった程度の削り痕。1ミリにも満たないであろう。だというのに、ビルのコンクリートはお湯に浸された氷のように、削り痕から円形に広がって溶け崩れていく。

 

 これこそが『炉心溶融』が引き起こす現象だ。『核反応』を中心とした発熱で、周囲にある物体を融解させる。臨界状態に達すれば、ありとあらゆる物を融解させて周囲一帯を崩壊させる災害級の原子力事故。

 

 もちろん眼前に起こるビルが溶ける現象については、理論的におかしいのは当然だろう。『核分裂反応』を発生させるには前提となる条件が成立していないのだから。

 

 しかし、それは『常識』に過ぎない。独立した理論によって『超常』が成立するからこそ『異質物』だ。その現象を引き起こすには、人智では計り知れないのもまた当然だろう。

 

 現代科学では把握しきれない埒外科学による『超常』で成立する対人抹殺兵器『レッドアラート』——。

 

『異質物』が生み出す人為的奇跡と人為的厄災——。

 

 超常による『核反応』で生み出される『原子力』をエネルギーとして活動する半永久自律兵器——。

 原子力エネルギーを使用する際の莫大な発熱に耐える『異質物』を使用した『耐熱装甲』——。

 

 だからこそ『災害用非常警報(レッドアラート)』——。

 

 そして一撃必殺の絶命の刃——。

 それが『ニュークリアス』なのだ。

 

 やがて切りつけられたビルの殆どが溶け切り、重心が支えきれなくなったビルが倒れ込んだ。幸いにも溶けたことで質量が少なくなり、連鎖的にビル群が倒壊することはなかったが、それによって発生する豪雨のように降り注ぐ瓦礫がファビオラ達を襲う。

 

 もし『ニュークリアス』が対人特化ではなく、戦略用兵器として最大出力として運用されたら、ファビオラ達が今いるニューモリダスのビル群なんて3分もあれば平らになってしまうだろう。

 

「大丈夫ですか、スクルド様……」

 

「私は大丈夫だけど……っ!」

 

 余裕がないのか、ファビオラは『お嬢様』という敬称をつけ忘れて身を挺してスクルドを守る。いくら着用しているメイド服の細部に防弾対策の金属プレートが入っているとはいえ、衝撃自体が無くなるわけではない。着実に、そして確実にファビオラに痛みと疲労が溜まっていく。

 

「こうなっては仕方ありません……。お嬢様は逃げてください」

 

「…………それしかないんだよね」

 

 スクルドの訴えにファビオラは「はい」と答えるしかなかった。

 

 言葉には出さないが、ファビオラにとってスクルドは守るためとはいえレッドアラートと対抗するには『邪魔』でしかないのだ。

 

 確かにスクルドを横にしながら戦闘をする訓練をファビオラは今までしてきた。銃弾にも身を盾にして防ぐ手段も心構えもできている。

 

 だけど、それは『普通』を相手にするときに限る。

 普通の狙撃手、普通の拳法家、普通の暗殺者。どれも『非常識』という名の『普通』でしかない。

『超常』の力を持つレッドアラートを相手にするには、スクルドを守りながら戦うのは、流石のファビオラでも荷が重すぎるのだ。

 

 その無力さをファビオラとスクルド、両者ともに感じているのだ。

 

 あなたを守ることができずに、ごめんなさいと。

 あなたに守られることができずに、ごめんなさいと。

 

「絶対に、死んじゃダメだよっ!」

 

「お互い様ですよ」

 

 その言葉を最後に、スクルドはビル群の裏路地のさらに奥へと進み闇夜と共に紛れ込んだ。

 ファビオラは振り向かえることなく、眼前に迫る敵へと意識を向ける。

 

 相対するは『血の伯爵夫人』——。

 対峙するは『炎上系バトルメイド』——。

 

「——では、こちらも本気を出すとしましょう」

 

 迫り来るレッドアラートの一閃、その前に『炎の壁』が立ちはだかり、大剣は『炎の壁』によって堰き止められて、その鋒はファビオラに届くことはない。

 

 同時に不可思議なことが起きる。『ニュークリアス』によって切られた『炎の壁』は、核反応を起こして『溶けた』のだ。

 

 ——本来『炎』というものは気体が反応することで発生する現象に過ぎない。そこに『質量』というものは本来存在しない。あるのは『熱量』という『エネルギー』にしか過ぎない。

 故に『物体を溶かす現象』である『溶解』において『炎』という『熱と光を発する現象』が溶けるということは本来ありえないのだ。それは流れる水が昇らないとの同様、人間の科学が根本から覆らない限り絶対だ。

 

 だがそれも『ニュークリアス』と同様、『常識』という名の括りであればの話だ。

 

 ファビオラはメイドである同時に『魔女』でもある。

 魔女の炎は生きており『常識』ではなく『超常』によって成立する。故に『質量を持つ炎』を作ることなど造作もない。

 

 やがて溶解した炎は一つの物体となってファビオラの手に収まる。それは弩級の刃だ。刃に値する部位には熱が充満しており、発熱して火に曝される鉄鋼のように橙色に発光する。

 

 さらにファビオラは、メイドスカートから桃色の謎の部品を取り出した。それは可変式の銃器であり、折り込んだ箇所を広げれば一転して持ち手が異様に短いアサルトライフルにも見える。

 自分の足の長さに匹敵するそれを、ファビオラは顕現した炎を纏った弩級の刃をアサルトライフルと結合させ、斧を持つように構え直した。

 

 得物の名は『火砕サージ』——。

 ファビオラが自らの手で考案・設計をした全距離対応型の十徳武器——。

 

「久しぶりに本職を熟すとしますか! 不燃だろうが、粗大だろうが、燃やして燃やして、殺菌、消毒、大掃除ッ!!」

 

 一撃必殺の刃——。

 そこに戦闘が発生するというのなら、決着もまた数刻で終わる。

 

 火砕サージの連結部から弾薬が一つ発射され、銃口から弾丸が放たれる。弾丸の大きさは一般兵士が使用する小銃よりも少し下回る程度。人間なら十分ではあるが、装甲を纏う相手には心許ない。

 

 完全耐火装甲であっても銃弾ならどうか、という牽制目的の一手だ。はなから仕留められるとはファビオラは微塵も感じていない。

 弾丸自体はレッドアラートに着弾し傷をつけたが、機能停止に追い込むにはあまりにも威力が乏しい一撃でしかなかった。

 

 しかし狙いはそれだけではない。炎の刃は銃撃によって発生した熱量、衝撃波をすべて運動エネルギーとして加算して、より一層激しく炎を灯す。

 

 これが火砕サージが持つ特性——。

 システム『イグナイテッド』——。

 

 ファビオラ自身が『なんで遠距離も近距離も熟る武器を作らないでしょうか?』という疑問と、それによって発生する致命的な問題点を無理矢理解消した末の運用方法。

 

 それは端的に言えば、銃を打った際の衝撃を丸ごと斧に宿して近距離戦闘に利用するという絵空事だらけの愚策極まるものだ。

 何せ根本的な問題として、近距離も遠距離も熟せる武器というものは矛盾の塊でしかなく、仮に成立したとしても互いの強みを潰した上に、機能拡張による武器の巨大化、巨大化による携帯性の低下、携帯性の低下による『武器』という個人で使用するには運用破綻といった問題が続々と発生するからだ。

 

 他にも耐久性の問題、実用性の問題、何よりも運用難易度。色々と問題があり誰もが気にもかけなかった空想戦闘理論。

 

 だが、ファビオラは見事にそれを形にした。『質量を持つ炎』は、携帯性の問題を解決し、銃器のフレーム自体を耐久特化にさせ、近距離武器として使用した際の衝撃による故障さえ解消させた。むしろその衝撃を『炎の刃』に充填させるというメリットに変換させたのだ。

 

 それがシステム『イグナイテッド』。ファビオラが武器特性に基づいた新たな戦闘体系。

 

 誰が呼んだか『ファイアー・ガン=カタ』——。

 

「————ッ!」

 

 互いの攻撃が鍔迫り合う。一撃必殺の刃は、炎の刃を一方的に退けて溶解させる。だが変幻自在の魔女の炎は溶けた瞬間に、新たな刃となって続くニュークリアスの斬撃を受け切り、再び溶解させて再生するを繰り返す。

 

 レッドアラートの亜音速に匹敵する剣劇は、ファビオラに攻撃する機会を一向に与えない。高速化する剣劇は、ファビオラの運動量で対応するには厳しく、また一発、さらに一発と火砕サージの弾丸を放出させて、その蓄積されたエネルギーを運動エネルギーとして利用することで強引に対応させる。

 

 そんな無茶な戦闘が長く続くはずがない。ファビオラは筋繊維が引きちぎられるような激痛に耐えながらも、レッドアラートの猛攻を見つめ続ける。

 

 勝負は一瞬で決めるしかない。攻撃を掻い潜り、僅かな隙を見つけるしかない。

 

 その隙に『一撃』を与えることだけが、ファビオラができる唯一の反撃手段だ。

 

 だが一撃さえあれば十分——。

 火砕サージに充填された弾丸のエネルギーは合計8つ。連動され蓄積されたエネルギーが霧散して消え去るまで残り数秒。

 

 刹那、ファビオラは見えた。

 縫う隙間が見当たらない剣劇。そこに見える糸のように細い隙を——。

 

「こ、こ…………だぁあああああああ!!!」

 

 今ここで倒す。例え相打ちになったとしても。

 

 出掛りの一閃。レッドアラートの関節部が僅かに緩む瞬間。人型である以上、必ず発生する力が絶妙に抜ける刹那。そこをファビオラを見逃さなかった。

 

 ニュークリアスの刃を、押し込むようにファビオラは火砕サージを叩きつけた。

 

 正真正銘の鍔迫り合い。

 銃撃による蓄積された運動エネルギーと、原子核反応を動力とする膨大なエネルギーのぶつかり合い。

 

 結果は火を見るよりも明らかだ。災害を相手に人間は勝つことなど出来はしない。

 

 ニュークリアスの刃が、火砕サージの連結部に到達した。そこは『炎』では形成されてない箇所。火砕サージが持つ脆弱点の一つ。ニュークリアスの刃は無慈悲にも、炎の刃もろとも火砕サージの連結部を容赦なく引き裂いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、人の叡智は災害をも乗り越える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 刃が壊されたことで連結部に伝わった『原子核反応』の衝撃という運動エネルギーを、ファビオラは火砕サージの銃器部分に蓄積させる。

 吹き飛んだ刃の部分をファビオラは気にも止めず、そのままレッドアラートの懐に飛び込み、その胴体へと銃口を押し付けた。

 

 火砕サージの運用は元より『全距離対応型の万能武器』だ。それは近距離も遠距離もそうだが、何よりも『零距離』という戦闘状況でも発揮する。

 

 蓄積された運動エネルギーを斧の攻撃に回すだけ? 

 それでは『全距離対応』ではなく『近距離特化』だ。誰がいつ、蓄積された運動エネルギーが『炎の刃』だけにしか使えないと言った。

 

 元より火砕サージとは、本体自体に蓄積されたエネルギーを斧や弾丸、それにファビオラの運動量増加としても利用できるよう開発されている。

 斧だけで対応できない相手なら、その充填されたエネルギーを次なる『弾丸』に乗せることで、その威力を幾重にも重ねて放つという運用も火砕サージには備えられている。

 

 これこそが『遠距離対応』であり、その威力を落とすことなく相手にぶつけることが『零距離対応』であり、それを使い熟すにはファビオラしかできない高等技術だからこそ皮肉めいた『ファイアー・ガン=カタ』と呼ばれるのだ。

 

 

 

 

 

 たった一発。

 その一発だけが全エネルギーを集約させて放てる。

 

 

 

 

 

 だが、元より一撃さえあれば十分———。

 防弾装甲が薄いことなんて『最初の一撃』で既に確認済みなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——ダァンッッ!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の一撃は、レッドアラートの動力となるメインコアを粉微塵に撃ち抜いた。

 

「…………清掃完了っと」

 

 残存する災害は残り二機——。



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第15節 〜Over Lap〜

総合評価500ptありがとうございます。
今後とも投稿ペースを維持しつつ体調改善を努めます。


 駆ける——。

 俺は駆ける——。

 ひたすらに駆ける——。

 

「ちょっと! そんなに急ぐ理由ある?」

 

 赤と青の脅威がいつ襲撃するか分からないニューモリダスの夜。俺はは手元にある端末からブルートゥースやレッドアラートの位置を随時確認しながら、それらに見つからないように裏路地を駆けていく。

 

「ある! もしかしたら元凶がいるかもしれないんだ……!」

 

 走りながら話しかけるイナーラに、俺は少し乱暴な返答をした。

 

「元凶……?」

 

 その声は疑問というより、思考に耽るような物だ。

 俺が先頭で走っているから表情は見えないが、何やら思うところがあるようだ。振り返って話しかけてもいいが、時間は刻一刻と迫ってくる上にブルートゥースの動きだって常に見ていないと、途端に閃きは輝きを失ってしまう。

 

 隠れるのに丁度いい物影を見つけると、俺とイナーラはそこに潜み込み、再び端末に映る青と赤の位置情報を確認する。

 

 …………今いる位置から一時と二時と三時の方向に各1体ずつ。そして十一時の方向には2体と、10時の方向に1機ずつか……。

 

 12時の方向が隙だらけ。それは分かっている。

 

 そしてこれが『罠だとも分かってる』のにも関わらず、俺は呼吸を整えると再び走り出した。イナーラも慣れてるからか、息を乱すことなく俺の後をついて来てくれる。

 

「走りながらで申し訳ないけど、元凶って何? あんたには『エクスロッド暗殺計画』の首謀者が分かったって言うの?」

 

「首謀者かどうかまでは分からないけど……っ! この一連の出来事については大体予想がついた! 第三者が関わっている可能性があることも……」

 

「第三者? ……まさか私とは言わないでしょうね?」

 

「言わないよっ! というか何でそうなるの!?」

 

「クセみたいなものぉ〜。こういう仕事してると、誰彼構わず私を疑うから、ちょっと探りを入れたくなるのが性ってもんでしょうが」

 

 こちらも慣れて来たとはいえ、イナーラが途端に見せる精神的多面性にはついて行けそうにない。

 

 おちゃらけたり、妖艶だったり、真面目だったり、疑り深かったり、今まであった誰よりも人間としての中身が掴めてない。俺も何日も一緒にいるわけでもないから、イナーラに関して任務中の会話だけで人物を評することはできはしない。

 

 ……とはいってもマリルの言葉通りなら、この人も割とアレな人物なはずなんだけどなぁ。どうしても『普通』な感じがあるのが否めない。

 

「なんか思ってるところ悪いけど、話の続きしてもらっていい?」

 

「あっ、ごめん……。えっと……そうだ。第三者については確定してるわけじゃない。もしかしたら心当たりがある人物がいる……そう思っているんだ」

 

「心当たりって……」

 

 イナーラは溜息をついた。心底呆れているのだろう、俺だってそういうので動くのは良くないのは分かっている。

 

 だから行動指針には、そういう感情は入れていない——。

 そのことを彼女に伝えると「はぁ?」とこれまた呆れた様子で言った。

 

「じゃあ何で動いてんの? 心当たりがあるなら、それに応じた対抗策があるって考えるけど、それを抜きにしたら愚策過ぎない? 相手の居場所が分かっているとはいえ、わざわざ敵陣の只中に突っ込んでいくのは無謀って言うのよ?」

 

「……だよね。俺みたいな半端者が動くのは無謀だよね……」

 

「いや、謙遜してるとこ悪いけど、アンタ筋自体はいいからね。確かにSIDのエージェントとしては未熟ではあるけど……。一般的に見れば女の子としてはかなり恵まれた身体よ?」

 

「というか」とイナーラは一息置いて告げた。

 

「アンタどっか卑屈になってない?」

 

 …………図星過ぎて何も言い返せなかった。

 

 俺は今すごい精神的に弱っている。

 アレンに負けたことが、ここまで堪えるなんて思ってもいなかった。

 

 あいつのことを考えると思い浮かべてしまうのは、告げられた数々の言葉の意味や真意。

『第七学園都市』や『マリルの死亡』や『魔女小隊』などの並行世界の出来事としか考えられない。何よりも心を揺さぶるのは目前に迫る危機。

 

 それは『スクルドの死』——。

 

 そのことを考えると、意識は一気に鮮明になって正気になれと自分を鼓舞する。頑張れと、挫けるなと自分を脅迫され、同時に焦燥感も湧き出てくる。

 

 今は卑屈になったり、弱ったりしてる暇も余裕もない。

 俺は強く頭を振ると、一度深呼吸をして心中を溢した。

 

「卑屈になってるけど……。こんな俺でもやれることがあるんだ。スクルドを助けることが……」

 

「お嬢様を助ける? 確かに今回のは暗殺計画の一連ではあるだろうけどさ……。だとしたらこの行動に意味ある? 助けるなら直接行ったほうが良くない?」

 

「あるし、向かってる。俺がここまで先導して来たけど、一度もブルートゥースに見つかっていない。……まるで『誘導』されているように」

 

「うん。それは衛生写真から注意深く見れば分かるよ。だから何? アンタはそれが分かってるのに、その通りに動いてるお間抜けということになるけど?」

 

「お間抜けにならなきゃいけないんだ。本来ブルートゥース全体の動きを把握できるわけがない。だけど俺たちは把握してる。何故なら組織の力が介入しているから」

 

「まあ、そうね」と簡単な相槌をイナーラは打ってくれる。

 

「……なら今現在進行形で狙われているスクルドとファビオラはどうだ? 何らかの組織に所属してるか? 仮に個人所有してる情報網があるとしても、それは父であるスノーリ・エクスロッドさんの力だ。大使館が襲撃された今、それが機能してるか?」

 

 俺の意見にイナーラは黙りこんで考え込む。

 短くも長い沈黙。自分の中で整理がついたのだろう、イナーラは「続けて」と催促してきた。

 

「…………もし機能してないとしたら、スクルド達は誘導される可能性が高い。逃走先のルートを絞り込んで、意図的に相手が想定していた場所へと向かわせる……それも可能だろう?」

 

「……面白い考えだけど、それならレッドアラートを使う理由がなくない? もし当たってると仮定して、そんなことのために人間絶対殺すマシンを使用するのは過剰じゃない? しかも3機……。1機でも充分が過ぎると思うけど」

 

「……レッドアラートが来たのは本来の目的があるからだ。エクスロッドを狙うのは、あくまで『ニューモリダス側の事情』……。レッドアラートの製造元である『マサダブルク側の事情』も金以外にあるはず」

 

 目的はただ一つ。ひたすら純粋に『抹殺』——。

 マサダブルクにとって、抹殺したい対象となるのは、この場にいるということでもある。

 

「……その本来の目的こそが、アンタが想像してる人物というわけね」

 

「うん……。予想してるのは二人……だけど……」

 

「だけど?」

 

 ……いやこれ以上は憶測だ。今したところで特別何か意味があるものにはならない。むしろ混乱の元になる。

 

「……これ以上は意味がない。さっき伝えた行動指針云々になる。だけどそういう可能性が見えたら、俺はスクルドを守るために動くしかない。……例え罠であったとしても」

 

「ふ〜ん……。色々とまだ問い質したいけど、私も依頼を請負っただけだからね。顧客がそういうなら、それ以上は踏み込まないでおきたいけど……」

 

「一つだけ分からないだよねぇ」と頭を掻きながら彼女は言った。

 

「アンタにとって、スクルド・エクスロッドって何なの?」

 

 ——その言葉を理解するのに時間がかかった。

 

 あまりにも当然すぎて、今まで頭の中で自然とスクルドを守ろうと考えていたが、そもそもとして何で俺はスクルドを守ろうとする?

 

 ……言葉で表すには難しい。理由なんて色々ある。

 

 悩んだ末に、自分語り思っていることをそのままに出した。

 

「俺はスクルドにとって『一番大切な人』だから。……子供の期待には応えないといけないだろ?」

 

 それは俺がどこか夢見て憧れてる『大人』としての在り方だ。

 憧れるのは、どうあれ今まで影にあったマリルの影響も大きい。

 

 南極事件や藩磨脳研での後処理。

『天国の扉』騒動で密かに起きたソヤとの裏交渉。

 マサダブルクでのエミリオを救うための交渉。

 

 ……そして今もアレンを捕らえるために協力をしてくれていること。

 

 全部、俺の我儘があった。

 

 マリルからすれば『新豊州』の治安に限っていえば上記全て無碍に扱ってもいいのだ。ソヤだって、エミリオだって、むしろ『新豊州記念協会』の時でさえファビオラを無視しても良かったんだ。

 

 だけどマリルは…………。全部受け止めてくれた。

 

 そもそもの始まりでさえ、俺が『女の子になった』という狂言紛いを信じてくれたからこそからだ。

 あれだって、この世界での最初の接触でさえ『ロス・ゴールド』の消失やら、俺が『時空位相波動』を突破したという興味本位から派生し、色々と事情や裏付けが奇跡的に重なっていたからこそ信じてくれたんだ。

 

 いちいち細かいことを言及せずに、『俺という一個人の存在』なんて無視して、アニー諸共『時空位相波動』を解決する『手駒』として言いくるめても良かったというのに。

 

 何でそうしたのか。それはマリルが根本的には優しい人だからだ。

 

 常に本人は「私も含めて元老院にロクなやつはいない」と口にはするが、どこまでいってもマリルは優しいし、大人としてしっかりと責務を果たしてくれている。

 

 何より行き場もなくて、これからどうすればいいのかも分からなかった『女の子の俺』は、藁にも縋る思いで彼女に会いに行った。

 

 そんな期待に、彼女は無償で応えてくれた。

 

 だったら、今度は俺の方こそ期待に応えないといけない。

 あの時俺が困っていたように、誰かが困っているなら応えないといけない。

 

 スクルドにとって、俺は『一番大切な人』でもあるんだから。

 

「……そっかそっか♪」

 

 イナーラはご満悦な表情を浮かべて、今までの肩が凝るような厳粛な雰囲気は消え失せ、初めて会った時のようなケラケラと飄々とした雰囲気を全面に押し出す。

 

「うんうん! イナーラちゃん気に入ったよ! 今日からアンタも私のお得意様だ!」

 

「そんなご機嫌になることっ!?」

 

「ご機嫌にもなるさ〜〜! ようやく納得がいったというか、何というか……。そういうことかぁ〜って」

 

「そういうことって、どういうこと……?」

 

 自分の中で解消できた何かしらの疑問でもあったというのか。

 

「気にしないで。女は謎が多いんほうがいいんだよ」

 

「まあ」とイナーラは一息置くと————。

 

「君みたいな青臭い子には分からないと思うけど」

 

 意味深な含みを入れて、彼女は優しく笑った。

 それは慈しむようで、そして愛しむようで——。

 

「……どういう意味?」

 

 つい、その表情にある心境が聞きたくなってしまった。

 

「う〜ん? そうだなぁ。強いて言うなら……」

 

 彼女は語るように優しく口を開き——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 最初からあった時から違和感しか感じなかった。

 私ことイナーラちゃんは、元来自分が持つ『聖痕』の影響もあって、誰よりも自分が覚えたことを忘れないように過ごしてきた。

 

《…………アナタの瞳、見覚えがあるわね。前に依頼したことあった?》

《いやいやいや……。知り合った覚えなんてこれっぽっちもないです》

 

 だから初めてレンの顔を見た時、まず間違いなく初対面だというのに初めて会った気がしない感覚を覚えたのだ。

 

 無論、私は生まれ変わりとか転生とかの世迷言は信じない根っからの無神論者だ。神様がいるなら、今の『私』なんているわけがない。ましてや『個人請負人』や『イナーラ』という名が世界中に轟くわけがない。

 

 だけど、この時ばかりは前世の付き合いとか、転生とかを信じたくなってしまった。

 それぐらいレンと邂逅した時には、言い表せない『運命』を感じてしまっていた。

 

 …………その疑問の正体がやっと分かったんだ。

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 

 

「ほら、アンタの依頼通りに、あの事件について調べてきてあげたわよ」

 

「ありがとう。本当イナーラには世話になるよ」

 

 それは数ヶ月前。

 私とアイツに頼まれて『ある依頼』の調査報告をした時のこと。

 

 その日は今でも思い出せるほど鮮やかで、楽しくて、幸せで…………そして苦くて、辛くて、褪せた出来事だった。

 

「世話になるって……それはお互い様。アルカトラズの時だって、協力しても良かったんだよ? なのに工作用の爆薬か端末だけ準備してくれればいいなんて……」

 

「こっちだって財政難なんだよ。おいそれと天下のイナーラ様に頼めるようなリッチマンじゃないんだ」

 

 そういって彼は決して真っ白ではない歯並びを見せて笑顔を見せてくれた。

 

「アンタ相手なら別に無償にしてやってもいいけどね」

 

「色々と店営業してるんだろ? 少しでも足しにしてくれたほうが……」

 

「個人経営だから気にしなくていいって。絞るもんは絞ってるし」

 

「……知ってるよ。そうやって言うけど、イナーラって身寄りのない人達を大勢匿っていること」

 

 私はそれに対して返答したくなかった。

 別に人助けがしたくてしてるわけじゃない。私の『承認欲求』を満たしたかったために行なった過剰なエゴみたいなものだ。

 

 ……今はもうそんな欲求なんてないから続ける理由もない。じゃあ『何故続ける』と言われたら明確な答えなんてない。成り行きといったほうがいいだろうか。

 

「……世知辛い世の中だからねぇ〜。こうでもして恩を着せなきゃ老後人生を安泰できないんだわ」

 

 とはいえ無言のままでは、彼の言葉に対して肯定を意味してしまう。私が『善意』で動くような薄っぺらい女だと覚えられたくない。

 だから見栄を張って、いつもの飄々とした態度を装い私が持つ弱さを隠す。

 

 …………彼にはとっくに私の事情なんて筒抜けだというのに。

 

「……ほんの少しでも助けられる運命があるというのなら、俺だって無償で手を貸すさ」

 

 そんなんだから、彼も私の言葉なんて上手く汲み取って話しかけてくる。私のことを理解してくれているから。そりゃもう恥ずかしいくらい赤裸々に。

 

「……でも、手を貸すのはすごいことだと思う。俺もイナーラみたいに人助けしたいさ」

 

「はっ! それでエクスロッド議員の一人娘も助けたっての?」

 

 吐き捨てるように出た言葉は、彼に依頼された内容である『新豊州記念協会』であったエクスロッドの一人娘と、その側近が襲われた事件についてだ。

 

 ある日、彼はエクスロッドのお嬢様を助けたという。それを私が知ったのは事件後のことだ。

 彼はどうしてこの出来事が起きたのかを調べるために、私に依頼してきた。調査情報も彼に渡して、その事件を起こした目ぼしい犯人についていくつか候補さえも上げている。

 

 それが今会っている理由——。

 

 ささやかだけど、私だけが彼を独占できる唯一の時間だ。

 

「……ちょっと違う、あれは自己満足さ。今度こそは、と思って……だけど結局はダメなんだ」

 

 ——初めて彼がひ弱な態度を見せた。

 

 その瞬間、私の中である感情が爆発した。

 我ながら醜い『妬み』というやつだ。

 

「……アンタにとって、スクルド・エクスロッドって何なの?」

 

 それは我ながら女々しくて大人気ない嫉妬だ。

 子供相手に自分の思いを垂れ流し、彼の心中を問い質そうとするなんて。

 

「…………」

 

 アイツは困ったような、恥ずかしいような表情を、これまた初めて浮かべた。

 

 ——知らなかった。私は、彼がこんな表情も浮かべられるなんて。

 

「まさかロリコン? 性癖は人それぞれとはいえ相手が悪過ぎない? あのエクスロッドだよ?」

 

「いやいやいや! 待て待て待て! まだ何も言ってないっ!!」

 

 彼はしばらく頭を抱えると悩むだけ無駄と考えたのか、先ほどまでの百面相は消え失せ、自然体ながらも悲しい顔で告げた。

 

「俺はスクルドにとって『一番大切な人』だから。……子供の期待に応えないといけないだろ?」

 

 その言葉は、私の胸を焼き焦がすほどの激情を抱かせた。

 

 妬み——? 違う。

 怒り——? 違う。

 悲しみ——? 違う。

 

 それは負の感情ではない。でも正の感情でもない。強いてあげるなら両方だろう。

 

 ——あぁ、何て『儚い』んだろうって。

 

 だから……改めて思ったんだ。

 

 背負わされた運命を無碍にもできず、見ないフリをすることもできない。だけど誰に頼ることもしない。そんな悲壮で不器用な彼の力になりたいと。

 

 それが……報われない思いであったとしても。

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 

「…………やっぱり言〜わない♪」

 

 結局は勿体ぶって口に蓋をしてしまった。

 

「気になるなぁ……」

 

「お互い様。それに今はエクスロッドのお嬢様が最優先でしょ」

 

 確かにそうだ。

 これ以上、推測や無駄だらけの話を続けても意味がない。

 

 スクルドを守る——。それだけが改めて分かれば十分だ。

 

 俺は目前に迫った目的地を見つめる。

 

 そこはニューモリダスに数ある教会の一つだ。

 七年戦争の影響で半壊され、学園都市に発展に伴なって外観を損なわないように最低限の改修工事で保管された施設でもある。

 継ぎ接ぎだらけで閑散とした庭園は『黒糸病』などの環境汚染の影響もあって観葉植物ぐらいしかなく、それさえも手入れが届いていない。朽ち果てた様子は、廃れたレストランや工場にも見えて、どうにも秘密基地という印象も拭えない。

 

 

 

 ここは————。

 

 

 

「……何でレンお姉ちゃんがここに?」

 

 その声を聞いて、最悪な事態は隣り合わせだったことを改めて認識した。

 

 俺は声がした方向へと振り返る。

 そこには守らないといけないと再認識させてくれた金髪の少女、スクルドの姿があった。

 

 少女が本来持つ精霊のように神聖で愛嬌がある雰囲気は消え去り、ガウンの裾は汚れまみれだ。可愛らしい革靴の爪先も相当に走ったのか、かなり擦り切れている。

 痛みに耐えるように表情を顰めるスクルドの様子からして、恐らく革靴で長時間走った影響で踵辺りの関節部も痛んでいるのだろう。

 

 心配はするし、さっさとここから退いて手当もしたい。

 だけど、それよりも先に聞かなきゃいけないことがある。

 

「……逆に聞くけど、何でスクルドはここに来たんだ? それにファビオラは?」

 

「……大使館が襲撃されて、ファビオラと途中まで一緒に逃げて……それからマサダの兵器に見つからないように逃げてたら見覚えのあるところに来て…………」

 

 予想していた通りだ。

 スクルドは首謀者となる者の手筈で、ここに意図的に連れ込まれるようにされてきた——。

 

「それに、ここなら非武装地域だから安全だし……」

 

「ここが非武装地域……」

 

 デジャヴだ——。デジャブを感じた。

 

 重なる『記憶』は二つ——。

 

 それは何時ぞやの夜。『雷光』の『記憶』——。

 それは何時ぞやの空。『天空』の『記憶』——。

 

 その二つに、『あの男』はいつも薄寒い笑顔を浮かべて歩み寄ってきた。

 

「おや……。いつ以来の顔ぶれが一人いますね……」

 

「……やっぱりお前だったか」

 

 俺たちがいる場所——『トリニティ教会』正門前に一人の男が立つ。

 

 温和で人の心に寄り添うような優しい笑顔。

 メガネの奥にある細く伸びる目は、まるで子供の成績を見て喜んでくれる保護者のように澄んでいる。

 

 だが俺は知っている。

 この笑顔に潜む悪質さを。この笑顔に潜む外道さを。

 

 思い出すだけで腹の奥で、怒りが煮え繰り返る。

 溢れ出る激情を少しでも押さえつけようと、俺はその男の名前を怒りと共に吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヤコブ・シュミット!!」



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第16節 〜Over Kill〜

「ヤコブ……なんで貴方がここに?」

 

「知り合いなのか……?」

 

 スクルドが溢した言葉に、俺は条件反射で問う。少女は「うん」と不安気に頷いて口を開ける。

 

「ヤコブとはアントン神父と『教会』関係での繋がりや、彼自身マサダからの親善大使としての交流があったの。私も議員の娘だから頻繁とは言わないけど話し合いもして……。最後の会ったのは、スカイホテルでの食事会だったかなぁ……」

 

 そういえば俺が初めてスクルドと顔を合わせたのは、スカイホテルでの一幕か。その後すぐに偉い人達に気負いすることなく話し合う姿を見届けたが、スクルドの言葉から察するに、その時には既にヤコブは潜伏していたのか。

 

 ……そう考えると、あのスカイホテル事件での唐突な襲撃も納得行く。セキュリティ完備していて、かつSIDも監視している中で、顔を知らないならいざ知らず、江守発電所であってから間もないヤコブを見落とすとは考えにくかった。

 それも『親善大使』という社会的な身分を使用して目立たないように行動すれば、色々な意味で知り得た顔しかいない著名人の中にいても特別目立つことはない。

 

 などと考えていると、本題に戻すように「だけど」とスクルドは一息置いて話を続ける。

 

「現在はエミリオさんが外交の代表者となっていて、彼がニューモリダス市内に踏み込む自由は今はないはず……。教会関係だとしても、今はアントン神父は行方不明……立ち入る権利もない」

 

「いやぁ、その通りです。流石は聡明なスクルドお嬢様だ」

 

 柔かに笑いながら拍手を送るヤコブ。

 人当たりがよく感じるが、俺には分かる。あの笑顔の奥には、イルカを見放した時と同じように、非道に満ちた感情が渦巻いていることを。

 

 拍手を終えると「それもこれも」と笑顔のまま、苦虫を潰したように鼻筋に皺を寄せてヤコブは俺の方へと向いた。

 

「君と会ってからだ。イルカは裏切り、スカイホテルでは異質物の奪取を妨害され…………親善大使も剥奪されて本当に良いことがない」

 

「イルカに関しては自業自得だ。お前が『物』扱いした挙句捨てたからだろう」

 

「……この際、あの役立たずについて気にしないでおこう。私は寛容な大人なのだからな。子供の逃避行くらい見過ごそう」

 

 役立たず——。

 こいつはイルカの強さも優しさも頼もしさも、何もかも理解していないのも関わらず『子供』扱いして『保護者』面してたっていうのか。憤怒で腑が煮え繰り返りそうだ。

 

「ははっ! 自分の無能さを棚に上げて良いご身分じゃない!」

 

 突如、イナーラは笑ってヤコブを挑発する。流石に癪に触ったのか、ヤコブも少しばかり笑顔を崩すと細い目を開けて彼女を睨みつけた。

 

「君は……かの個人請負人か。……改めて実感するが、君の能力は凄いな。認識するまで君のことだとサッパリ忘れていたよ」

 

「そのまま忘れてても良かったのよ。私には一文の得にもならないし」

 

「せめて自分の価値を上げてから言いなよ」とイナーラは嫌味全開で吐き捨てる。

 

「……『マノーラ』から脱退されて、マサダで肩身が狭いくせにさ」

 

「お恥ずかしいことにね。……耳が早くて苛立つよ」

 

 マノーラ——。確かマサダの情報機関の一つだよな……。

 俺の呟きにイナーラは頷き、胸元のスピーカーから痺れが奔る。両方とも肯定を意味する物だ。

 

「仕方ないわよねぇ? マサダで人工的に『魔女』を作る計画は停滞。挙句には本来持っていく予定だった異質物を回収できず…………そして損失を埋めようにも、目の上のタンコブであるエクスロッド関係者の圧力行為さえ阻止されたとなっちゃうとねぇ?」

 

「圧力行為って……。新豊州記念教会でのことか!?」

 

「そう。その事件起こしたの、そこにいるヤコブよ」

 

 だとしたら目の上のタンコブって……要するに、損失を埋めるのにスクルド達が邪魔だということだよな? どうしてスクルド達がマサダやニューモリダスにとって仇なす存在だと決められる?

 

「お嬢様でも理由ぐらいは分かるでしょう?」

 

 イナーラの問いにスクルドは「うん」と静かに頷いた。

 

「私のお父さんは銃火器の生産には非協力的なのよ……。とはいっても派閥としては少数派で……。外交との方針を決めようにも、議会での決議が重要だから銃製造について積極的な多数派にとって、お父さんは外交を遅らせる異分子でしかない」

 

「そういうこと。マサダは資金難で、ニューモリダスは兵器不足。両者共に問題を抱えてる部分を支え合うことができる。…………となると、それを邪魔するエクスロッド議員は、議会の多数派にとって排除したい障害でしかない」

 

「だけどこれ以上、銃社会を促すことはしちゃいけない。……何故なら私のような『能力』や近年急増した時空位相波動への対策……これについて予算を回すべきだとお父さんは提唱した。きっとこれは瞬間的な物ではなく、長期的な物……世界に新たに起こる武力になり得るって」

 

「まあ、だから現状は折半案で開発、研究を提唱。予算も上乗せしてマサダに銃開発と異質物対策の研究を受け持って貰った。で、テスト運用も兼ねてレッドアラートを派遣…………両国の障害であるエクスロッド議員の殺害を図った……」

 

「……何でヤコブが関わる必要があるんだ?」

 

 そこが俺にとって『足りない』部分だった。

 どんなに推測を立てても、どうしても関わってくる理由が見えてこなかったのだ。

 

「その首謀者として介入することで、外交の潤滑としてマサダでの地位を回復…………あるいはニューモリダスへの亡命を謀ってるってところかな。だってXK級異質物の『リコーデッド・アライブ』さえあれば、やり直しはできるものね?」

 

「だからといってさ」とイナーラは呆れるように会話を続ける。

 

「ここまでスマートじゃないこと普通する? とてもじゃないけどレッドアラートを使うほどの苦労に見合ってるとは思えないけど」

 

 煽るようにイナーラはそう言った。

 対してヤコブは、知らぬ間にいつもの人当たりだけは良い笑顔を浮かべて「ええ」とあっさりと肯定した。

 

「ですから、それ相応の理由を付けて送って貰ったんです。一つはエクスロッドの殺害として。もう一つは……」

 

「……アルカトラズ収容基地を襲った犯人を見つけた、ってところか?」

 

 挑発じみた俺の言葉に、ヤコブは驚く様子を見せることなく「その通りです」といとも容易く認めた。

 

「見つけるには時間はかかりましたからね、あの虫も殺せない地味顔は。……改めてあの様な子が収容基地を襲うとは、人とは見かけによらない」

 

 それをお前が言うか。初老に突入し、ある程度の落ち着きと優しさを持った風体だけはしているというのに。

 

「しかし、レッドアラートの通信記録を見て思ったのですが……アルカトラズを襲った者は見つからず、外見に類似点があるとはいえ、根本的に性別が違う君を襲うとは……不思議なものだ」

 

「まあ、こうして君と再び会えたのですから良しとしましょう」とヤコブは一人納得する。それについて俺には心当たりがあった。

 

 恐らくそれは文字通り『俺』を狙ったからだろう。

 新豊州が保持するXK級異質物である【イージス】が『魂』で『俺』を判断した様に、レッドアラートにも外見以外で行える何らかの判断方法があり、アレンとレンという、どちらとも『俺』である存在を襲撃した…………そう推測することができる。

 現に俺がここにいる理由自体が、【イージス】が『俺』という存在を誤認してくれたのが始まりなのだから、この仮説に間違いがあるとは思えない。

 

 ……問題はその『何らか』が不明ということと、そして何故この状況下で『俺さえも狙う』必要があるのか。俺にはそれが分からないままだった。

 そこが今の俺の限界。マリルや愛衣なら、きっと信憑性のある仮説を立てることぐらいはできるだろうに。自分の不甲斐なさを再認識してしまう。

 

「彼とエクスロッドのついでですし、君も処理しましょうか。どうせレッドアラートが一機潰れたところで、まだ二機残ってるんだ。一つは彼に、もう一つは豪勢に君に当てましょう」

 

「二機……。ファビオラは無事に迎撃できたんだ……」

 

「無理が祟って今は動けませんがね。無力化できれば支障はない」

 

 安心するスクルドに、ヤコブは不安を煽るように告げる。

 

 だけど、どうあれ離れ離れになったファビオラが無事なことが分かれば十分だ。ここで俺達でヤコブを捉えれば、少なくともエクスロッド周りの事態は丸く収まるはずなんだから。

 

「余裕綽々なところ悪いけど、私とSIDエージェント相手じゃ流石に分が悪いわよ」

 

 俺がSIDエージェントと言われると歯痒いが、ヤコブの実力はある程度は把握している身からすれば、イナーラの言葉は間違ってはいない。

 江守発電所の時は、俺とアニーしかいないのにも関わらず完全にイルカ任せ。スカイホテルの時は、不意打ちと異質物武器、さらには工作員を何人か連れての役満状態での対峙だ。

 

 だけど、それはベアトリーチェが一撃で打開させてくれた。対処もできずに錯乱していた様子や、発電所での潔く撤退したから考えて彼自身に特別な力があるとは思えない。そしてスカイホテルの時とは違ってヤコブは一人。状況は圧倒的にこっちが有利だ。

 

 この状況を覆す要素があるとすれば——。

 

「ですから、こうするんですよ」

 

 当然『異質物』となる。

 

 ヤコブがコートを翻して取り出したのは『剣』だ。

 とはいっても西洋系の無骨で叩き斬るようなデザインでもなければ、東洋でいう『刀』と扱われる薄く鋭いものでもない。

 無駄に黄金の装飾が施されており、実用性は素人目から見てもない。一見すれば修学旅行の売店や魔法少女アニメ系で見る『剣の玩具』とも思える。

 

 

 

 

 

 ——ドクンッ。

 

 

 

 

 

 だが、それが出た瞬間、俺の心臓が『燃える』感覚に襲われた。

 呼吸が苦しくなり、肺の中で熱気が渦巻く。体内を巡る血が急激に活性化して、まるで酷い風邪に掛かったように吐き気が込み上げてくる。

 

「あっ……ぁっぃ……!!?」

 

 声さえ出すのがままならない。外界の空気が肺と交わった瞬間に、火傷しそうなほど熱を帯びて酸素を押し出そうとしてくる。反射的に身体が呼吸を拒み、やがて立つことさえもままならないほど意識が霞んで膝か崩れた。

 

「そ、れは……!?」

 

 ヤコブが取り出した『異質物』に一番驚いているのはスクルドであった。

 喘息で苦しむ病人のように、胸に当たる部分を手で押さえて、今にも絶えかねない息を必死に吐き出しながら言葉を紡ぐ。

 

「異質物『イスラフィール』……っ! どうしてアナタが……!?」

 

 意識が朦朧として考えることができない。スクルドが驚いているというのに、なぜ驚くのか漠然としか把握できないほどに。

 

「そ、れは、アントン神父が…………! 封印、してい……たはずっ……!?」

 

「お答えしましょう。単純にアントン神父が行方不明となっていては教会の運営もままなりません……。後継者が管理を任されるのは当然でしょう?」

 

「後継者……?」

 

「おや、お嬢様もこんな状況では察しが悪いですね。では、説明してあげましょう。ですがその前に……」

 

 革靴が床を叩く。反響して届く音は少しずつ大きくなり、やがて俺の目の前で止まる。

 

「貴方は、外で戯れて貰いましょうか」

 

 力なく横たわる俺に、ヤコブは空き缶を蹴るような軽い動作で、俺を教会の外へと追い出した。

 

 途端に肺に冷え切った夜の空気が流れ込んできた。異質物が及ぼす効果範囲内から離れたおかげだろうか。

 酸素が頭に回ることで意識が鮮明化して、ようやく身体に先ほど蹴られた腹部が痛覚に伝達される。

 

 痛みを切っ掛けに身体の感覚器官が正常を取り戻し、やがて視界も定まって周囲の状況を把握する。

 教会の扉は固く閉ざされ、中に戻るのは至難だ。どこからか侵入できる場所がないかと思い、教会の周囲を見回す。

 

 そして気づいた。

 振り返った先には、月光を背に『血の伯爵夫人』こと『レッドアラート』が立ちはだかっていることを。

 

 ——この身一つで、災害に挑めというのか? 無理に決まっている。

 

 かつてない『恐怖』に、俺の身体は指先さえ動かせず、ただ震えるしかなかった。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 レンを追い出した直後、ヤコブは眼鏡の位置を整えると、すぐに会話を再開させた。

 

「では可愛いお嬢様のために説明しましょう。スカイホテルの一件……現地にいたのですから耳には挟んでいますよね?」

 

 その問いにスクルドは横たわりながらも小さく頷く。

 

「とはいっても、イナーラが説明した通りだ。失態続きで情報機関での地位が落ちてね……『教会』を使った人工魔女計画も今や引継という名の、事実上の凍結状態だ。心機一転してニューモリダスでやり直すには手間がかかる。それに研究に関しては焼き直しもいいところだ。私としてはそれは非常に退屈で仕方ない」

 

 まるで自慢をするようにヤコブは饒舌に語る。

 それは出来の悪い発表会みたいなものだ。誰一人として興味は湧かず、誰一人として関心を抱かせない自分の思考に浸るだけのつまらない物。

 

 だが、止めようにも『イスラフィール』の影響で動くことさえままならない。その異質物はEX級に指定されていて研究も碌に進んではいないが、スクルドが把握する限り『命の根源を燃焼する』という危険に満ちた物だとは知っている。

 

 ——だからこそアントン神父は封印していたというのに。

 

 神父の思いを無碍にして、しかも乱雑に、そして我が物顔に扱うヤコブを見るだけで、スクルドの中には、幼子が持つには大きすぎる『怒り』が込み上げていた。

 

「知人という立場もあって、迷える子羊となった私にアントン氏は手厚く歓迎してくれましたよ。研究の手立てもニューモリダスの情報機関の一つに言伝してくれて手配してくれた。…………そこで面白い話を聞いてね」 

 

「話……?」

 

「アントン神父がいるトリニティ教会には『コレ』が封印しているといい話さ」

 

 そう言ってヤコブは得意気に『イスラフィール』を見せつけた。

 

「最後の審判を伝えると言われる神の名を持つ異質物。ユダヤ教に精通する私としては、これは非常に興味深い一品だ。是非ともと、アントン神父へと話しあったさ」

 

「しかしねぇ」と勿体ぶるようにヤコブは嘆息をもらす。

 

「強情な人で一向に『封印』を解いてくれなかった。そこで私は議会を通じて情報機関と掛け合ってアントン神父の身柄を拘束させてもらった。幸いにも多数派は私の素性について好ましいと思っていたようで、快く引き受けてくれた」

 

「だけど」と今度は不満を言うような苛立ちを持って喋り出す。

 

「歯を捥いでも、爪を剥いでも、指を追っても詰めても……一度たりとも首を縦に振らなかった。強情が過ぎたので、うっかり眼球さえも潰してしまった。そのせいでアントン神父が亡くなってしまってね……いやぁ悲しい、実に悲しい。……おっと、子供には酷な話だったかな?」

 

 その表情は悦に浸る加虐的な笑顔だった。悲しさなど微塵も感じるはずがない。

 

「だが、決死の覚悟で黙秘したせいで『封印』はそのまま、保管している金庫も分からず仕舞いさ。……だがここはニューモリダス。全てのものに価値がある。……例えそれが『命なき者』でも『価値がある』のさ」

 

「だからこうした」とヤコブは懐からペンと紙を取り出して、何やら文字を書く。

 

 ——どうしてそんなことをするのか?

 

 スクルドは疑問に思う。直後にヤコブは筆を止めて、書き記した紙を施すような優しい笑みでスクルドの前に落とした。

 

 そこに記された文字を見て、声にもならない驚きをスクルドは抱いた。

 

 

 

 

 

 ——『新豊州記念教会』

 

 

 

 

 

 それは忘れようのない一文だ。新豊州記念教会で起きた一連の事態の始まりでもあるメッセージの内容そのものだ。

 そして忘れようのない筆跡だ。スクルドにとって第二の親同然でもあるアントン神父の筆跡そのものだ。

 

 見間違えるはずがない。何せ生まれたから今にかけてスクルドがお世話になった神父の文字だ。職務中に悪戯をしに来たスクルドを無碍にあしらわず、一緒に何度も見せてもらったのだ。絶対に見間違えるわけがない。

 

 かといって、年季を重ねた品のある文字書きは、誰であろうと真似できる代物でもない。例えそれが一晩で文字起こしを終えるスペシャリストだとしてもだ。

 

 もちろんアントン神父がヤコブということもあり得ない。誰がどう見ても顔も年齢も違う。

 

 

 

 ——じゃあ、何でヤコブはアントン神父の筆跡で映せる?

 

 

 

 そんなスクルドの疑問に、ヤコブは笑いながら答えた。

 

「『移植』したんですよ。ただ医学的なものじゃない、概念的な物だ。ニューモリダスが誇るXK級異質物『リコーデッド・アライブ』の効果で、私の『右手』と神父の『右手』を『交換』したんです」

 

 それは余りにも生命を冒涜したものだった。聡明なスクルドでさえも、理解することができず、ただ伝えられた情報を順番通りに積み上げることしかできない。

 

「おかげで指紋、脈、筆跡などを奪えましたから、イスラフィールを保管していた金庫や封印もアッサリと解錠できました。トリニティ教会もどうせ私が請け負う予定でしたので、支障が起きにくいように遺書も指印も神父のを利用して私の物になるように手配して、滞りなくこの教会を後継したわけさ。……そのついでに右手だけでなく他にも色々と頂戴してね」

 

「その中で一番有意義なのはここでした」と自身の額を指さすヤコブ。その意味を察せないほど、スクルドの意識は散漫としていない。どういう意味を持つのか、即座に理解してしまった。

 

「神父の『記憶』を得たことで、アナタが『未来予知』を持っていることを知ることができた……」

 

 絶句するしかなかった。それはスクルドが本当に親しい人にしか伝えていない情報だ。スクルドからすれば、それを共有するものは最も信頼しているということの裏返しでもある。

 

 秘密の共有は子供にとって大切な物だ。同年代から逸脱した感性を持つスクルドとはいえ、やはり子供である以上、そういう行動に憧れを持っていた。

 ファビオラを振り回す腕白さ。アントン神父を困らせる悪戯さ。レンと話し合う男女の距離感。それらすべてがスクルド・エクスロッドが持つ『未来予知』という『秘密』を共有する『友達』だった。そこにいる時だけスクルドは『ただの少女』としての顔を見せることができた。

 

 それを……ヤコブは土足で踏み込んだどころか、踏み荒らしたのだ。

 

 秘密を共有する一人、アントン神父を『殺害』して。

 あまつさえ、何処にいるか分からない『行方不明』という独りぼっちの状態で。

 神父は『七年戦争』の影響で、旧友さえ失った天涯孤独の身だというのに。

 

 

 

 ——最後まで、彼は一人っきりで死んだというのか。

 

 

 

「だからここまで回りくどい事をしてアナタをここに誘導したのですよ。アナタの身体も、能力も非常に興味深いですから」

 

 

 

 ——許せない。

 

 

 

「『未来予知』の力……果たしてどれほどの研究素材になるのか」

 

 

 

 

 ——許せない。

 

 

 

 

 

「それにニューモリダスの異質物は、果たして『聖痕』由来の『未来予知』で得た『記憶』をどんな価値を持って『等価交換』してくれるのか。非常に興味が湧きませんか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——許せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、ここで問題です。何故私はこうまでしてペラペラと貴方に説明してあげてるのでしょうか」

 

 動くことさえままならないスクルドに、ヤコブはわざとらしく革靴の音を立てて近づく。興奮を隠しきれずに浮かべる笑顔は一体誰に向けられたものなのか。

 

 その笑顔は——尊厳に満ちた自身へと向ける狡猾なものだった。

 

「それは……『勝利』を確信してるからですよ」

 

「ま、て……っ!!」

 

 イナーラの静止も聞く耳を持たず、ヤコブは『イスラフィール』と呼ばれる剣型の異質物を用いて少女の胸を刺し貫いた。

 

 吹き上がる鮮血。少女の身体から出るには、あまりにも多すぎる出血量だ。即死なのは間違いない。

 

 

 

 だというのに——。

 

 

 

「なっ……! 何故動ける……っ!?」

 

 少女の身体はユラリと立ち上がった。

 顔を伏せて表情は伺えないが、肌色は既に血の気を失って、どう見ても死に体なのにも関わらず。

 

「アナタの運命が見えたよ」

 

 それは宣告だった。少女が溢していい風格ではない。いや、そもそもとして『人間』が纏っていいものではない。

 

 まるで『神』のような佇まいだ。心の臓が貫かれているというのに、血は未だに止めどなく流れているというのに、まるで意にも介さずに少女の瞳はヤコブを見つめ続ける。

 

 無垢だったはずの瞳に宿るのは『怒り』の感情のみ——。

 途端、ヤコブは『命』を鷲掴みにされた感覚に陥った。

 

 それに呼応するようにイスラフィールが起こす『命の燃焼』が出力を上げていく。

 満ちては引いていく波のように、少しずつ少しずつ、されど確実に放出する『命の燃焼』を上昇させていく。

 

「っ……!?」

 

 突如として襲いかかる不快な感覚に、ヤコブは声さえまともに上げられずにのたうち回った。肺の中で出入りする空気が全て、鉄を溶かすような熱気を帯びて呼吸がままならない。

 

 先ほどまでスクルド達を襲っていたものと一緒だ。

 イスラフィールが持つ特性である『命の根源の燃焼』が、今でも所有者となっているはずのヤコブへと襲いかかってきたのだ。

 

 しかし、一つだけ明確に違うものがある。

 ヤコブの体内を巡り回る熱気の影に、命さえも凍らせる冷たい『少女の声』が『耳の中』から熱気と共に呼応しているのだ。

 

 

 

 

 

 ——あなたの魂があたしに応えた。

 ——後悔の念は、響かせなくていい。

 

 

 

 

 

「『死』だよ、死——」

 

 

 

 

 

 響かせるのは、断末魔だけでいい。

 スクルドの怒りは、灼熱のエコーとなって命を燃やす。



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第17節 〜Game Over〜

次回で第二章は最終回です。
最終話まで毎週更新になってしまい申し訳ありません。


 眼前に『血の伯爵夫人』こと『レッドアラート』が、その手にある異質物武器『ニュークリアス』を起動させる。

 

 あれについての情報は俺でさえ知っている。名の通り『炉心溶融』という核反応の一種を起こす超常兵器だ。掠った瞬間に忽ち人間程度なんて雪のように溶けきってしまう。

 

 かすり傷でさえ致命傷となる相手に、俺一人で挑めというのか? ……無理に決まっている。

 

 この身は女の子で、非力で、何よりもか弱いんだ。今でも恐怖に震えて仕方がない。足が動こうにも軋んで仕方がない。このまま殺されるのを待つしかないのか?

 

 それ以上の思考を許さないと言わんばかりに、災害は起動を終えて臨戦体制へと移る。『ニュークリアス』に施された特殊合金性の刀身に熱が篭もり、黄色い発光をして刀身が展開され、死への足音が今か今かと歩み寄ってくる。

 

 

 

 ——動け。

 レッドアラートが駆動音を蒸して接近してきた。

 

 ——動け!

 だというのに、俺の足は未だに根付いたように微動だにしない。

 

 ——動けッ!

 奮闘も虚しく、ニュークリアスの刃が無情に俺の首筋を——。

 

 

 

 ——切断せず、空を裂いた。

 

 

 

「えっ——?」

 

 違う。どういうわけか、俺が『一瞬で移動』したんだ。

 俺にそんな能力はない。過去に遡っても、そんな効果を発揮したことは一度たりともない。だとしたら何故——?

 

 そんな俺の疑問に、背後から優しい温もりが包んで答えてくれた。

 ここには俺しかいないはず。ならば、この温もりの正体は?

 

 即座に俺は背にある物に視線を向けるとそこには——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——『翼』があった。

 

「……臨死体験?」

 

 鳥のようなものではなく、天使が持つような純白で、陽光みたいな温かさを持った羽。それが俺の肩甲骨へと外付けされている。

 

 ……俺はいつからメルヘン希望の頭になった? 側から見なくても、これじゃあ冗談抜きで魔法少女か、それとも公衆の面前でコスプレをする痛い人だ。

 

 どうすればいいのか呆気に取られる。だって、どう足掻いても『翼』でしかない。これが粒子状のエネルギーとかだったら、嘘みたいに鋭敏なパイロットのように応用という名の真似事ぐらいはやろうとは思うが……。戦闘素人の俺には、本当に呆れるくらい策が思いつかない。俺の頭脳は灰色ではないのだから。

 

 そんな試行錯誤する俺に再び応えるように、その翼は意志を持つように右手を包んで、ある物体を糸で紡ぐように現出させる。

 

 形状は剣型。だが、持ち手や刀身と思われる部分の尺から推測しただけに過ぎない。刀身は星型の根の部分から二又になって伸びており、先端の部分は防犯用武器みたいにU字型になっていて殺傷力なんか微塵も感じない。

 

 黄金の装飾が施されていることから、一見すれば『イスラフィール』の亜種かと思ってしまったが、形状自体は大分別のベクトルに向いたものだ。あっちが魔法少女系なら、こっちはファンタジー寄りだ。

 

 ……そして生憎と、似たような物をゲームで見たことがある。口に出すには憚れる著作権が世界一厳しいあの企業の息が入ったゲームだ。

 

「キ、キー……ブレ——?」

 

 いや、今はそんな些細なことはどうでもいい。事態の把握と打開を考える方が最優先だ。

 

 マルシー的には非常に危険だが、この鍵にも近い剣……あえて名付けるなら『光の鍵』というべきだろうか。そして背中にある羽……俺が好きな原始から荒廃した未来まで冒険するRPG的に言えば『時の翼』も、俺の力になってくれるように感じる。

 

 力は未知数だ。だけど、激励するような暖かさや安心感を届けられたら、俺だっていつまでも震えてる訳にはいかない。臆病風に吹かれようと、及び腰でも戦うしかないんだ。

 

 困惑のひと時が終わりを告げる。レッドアラートが突如消失した俺をついに捕捉し直して臨戦体制を再開させる。

 俺も戦おうと、剣としての役割も果たせるかどうか疑問な『光の鍵』を構えた。どこから来ようと迎撃してやろうと勇んだところで、ある重要なことに初めて気付いた。

 

 …………構えが一切分からない。

 

 現在、ただ単純に持ち手に両手を添えるという初心書マーク丸出しの状態だ。これじゃあ、チンピラ未満の子供のチャンバラごっこだ。変な刀身をしているせいで、構えに安定感がないのが不安をさらに助長させる。

 

「こうなったら、コナクソのヤケクソだっ!」

 

 無抵抗のまま良いようにやられるのも癪だ。どうせ、こんな翼みたいに煌びやかな戦いにはならない。泥臭くなることは目に見えている。

 

 レッドアラートが放つ一撃死の刃が振われる。

 それを『時の翼』の速さを利用して寸前のところで交わしきり、その隙に、動力コアごと叩き斬ろうと『光の鍵』を胴体部の装甲へと——。

 

 

 

 

 

 ——ガァンッッ!!

 

 

 

 

 

「無理無理無理、できないッ!!」

 

 全身全霊で叩き込んだが、最高品質の鉄鋼で構成されてるだけある。所在不明のマジカルブレードを全力で振り被った程度では、装甲に僅かながらの傷を付けるだけで精一杯だ。

 

 ……思考を一生懸命重ねるが打開策は浮かばない。

 この『時の翼』と推進力を最大まで利用し、『光の鍵』で突貫することも浮かんだが、あれだけの傷から察するに、弱点である胸元の動力コアを装甲を超えて貫くことはできそうにない。

 

 ……超えるなら、それこそレッドアラート自体の無尽蔵なエネルギーを利用するぐらいしないと無理そうだ。だけど、それを利用する手段はない。

 

 かといって、それ以外の明確な弱点はない。実力自体は雲泥の差だ、相打ち覚悟でも動力コアを狙う算段でもしないと、それこそ意味もなく俺は殺されるだろう。

 

 ……となると、核反応に匹敵する絶対的なエネルギーが必要と考えた方がいい。だけど、そんな都合のいいものなんて手元にありはしない。

 

 答えは浮かばないまま、レッドアラートの猛攻を『時の翼』の力もあって間一髪でかわし続ける。

 

 ……ダメだ。何も策が思いつかない。

 

 そう思考した時、再び『時の翼』に温かさが籠る。その温もりは先ほどまでとは包容力が違う。同じ温かさなのに、まるで同一人物が『成長』したような……『未来』から熱を届けてるような……そんな不思議な感覚だ。

 

 だけど、おかげで身体の底から力が湧いてくる。骨という骨の軋みがなくなり、筋肉という筋肉が鞭みたいに唸りを上げる。根拠はないが、今ならシーズン全部サイクルヒットや三球三振の完全試合も熟せそうな無敵感が湧く。

 ボキャ貧だが、これは『祝福』だ。『時の翼』がどこからか……それこそ『輪廻』を超えた先から俺に力を貸してくれている。

 

 ……でも、できればもうひと押し欲しい。我儘かも知れないが、災害を倒すにはその程度ではまだ足りないんだ。

 

 その願いに呼応するように、今度は『光の鍵』がその姿を大きく変えた。

 特徴的な星形の柄の部分以外は面影もないほどだ。刀身の先には翼をモチーフにした二又の刃。色彩は太陽のような煌めきを収束させ、温かみを持った金属製の黒色へ。まるで『覚醒』したように、『光の鍵』と『時の翼』は装飾された羽を大きく広げた。

 

 ……相変わらず著作権的な危険は拭えないが、レッドアラートを打倒するという部分では確信は持てる。『これで倒せる』と——。

 

 問題は『どう当てるか』だ——。

 

 レッドアラートの動きは、AIで制御されてるとは思えないほど機敏で激しい。比喩でも大袈裟でもなく、下手したらアスリート選手よりも運動能力自体は高い可能性さえある。こちらも運動性能は底上げされてるから殴り合いでもしたら何とかなるかも知れないが、生憎と相手の武器は一撃必殺の『ニュークリアス』。かすり傷でも致命傷だ。その案は却下するしかない。

 

 だとしたら、もう答えは一つ。

 こちらも同じく『一撃必殺』で決めるしかない。

 

 決意を胸に。覚悟を心に。

 深呼吸を一つ。全てを抱いたところで目を見開くと、不思議なことが起きた。

 

 世界は極彩色に染まり、様々な『記憶』が目に入り過ぎ去っていく。それの正体は本能的に分かった。これは『未来』だ、この先に起こりうる全ての可能性を持った。

 翼の効力か、あるいは鍵の効力なのか、という細かいことはこの際どうでもいい。無数にある記憶のどこかに災害を打倒する手段があるはずだ。

 

 

 

 

 時間を通して映った、交錯する運命——。

 

 ————そこに勝機を見出す。

 

 

 

 

 

 視界には既にレッドアラートの姿はない。

 

 映るのは幾重にも広がる『記憶』という名の『未来』の大樹。枝分かれした未来の中に、唯一芽吹く花弁を探し出す。

 

 あれもダメ。これもダメ。自分にとって都合のいい『未来』という名の『結果』が見つからない。百を超えた未来を見た。千を超えた未来を見た。それでも見つからない。

 

 そして……万を超える『未来』の果てに、求める『結果』は見出すことさえできなかった。

 

 当然と言えば当然だ。『敵を倒す』……つまり『闘争』という行為はシンプルだが、それゆえに積み上げられた歴史は計り知れない。遡れば旧石器時代。もっと遡れば恐竜が息づく原始時代。『万を超える未来』を見たところで、『億を超える過去』に到達するには逆立ちして世界一周したところで足りに足りない。借金まみれの利息を返すことさえできない。それほどまでに『闘争』の歴史は長く太い。

 

 人は何故、熊と戦える? 当然、積み重ねられた歴史があるからだ。幾重にも引き裂かれた血の果てに『勝利』がある。

 

 人は何故、獅子と戦える? 当然、積み重ねられた歴史があるからだ。幾重にも噛みちぎられた血の果てに『勝利』がある。

 

 人は何故、病気と闘える? 当然、積み重ねられた歴史があるからだ。幾重にも壊し尽くされた血の果てに『勝利』がある。

 

 では、人は『災害』と戦えるのか? ……分からない。

 では、人は『災害』に立ち向かえるか? ……分からない。

 では、人は『災害』に勝てるのか? ……分からない。

 

 人の歴史において、今まで『災害』に勝てた覚えなどない。

 故に『勝利』など見えるはずがない。積み重ねられた歴史がないのだから。

 

 ……それと同じだ。俺には積み重ねた戦いなどない。

 故に『勝利』など見えるはずがない。万を超える未来の果てに到達したところで、『勝利』を知らない俺に、それが見えるわけがない。

 

 だが、それで諦める理由にはならない。同じことをアレンの時に思ったじゃないか。ここで諦めたら……俺自身がスクルドの生存を諦めることをしてしまう。そんな『未来』を認めるわけにはいかない。

 

 あぁ——。今になって、アレンの気持ちが分かるなんて。

 これだから同一人物というか、同じ考えを持つ人間のことなんて知りたくない。一つ分かるだけで、そいつが歩んできた旅路を安易に想像できてしまうのだから。

 

 何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も救えないか、考えて行動して、考えて考えて行動して行動して、考えて考えて考えて行動して行動して行動して…………。

 

 ……考え抜いた答えに、行動し抜いた答えに、『未来』を変えられないという選択を選んでしまったのだろう。きっと辛かったんだろうなぁ。苦しかったんだろうなぁ。

 

 ……自分のことだというのに「よく頑張った」と言って抱き締めたいぐらいだ。決してナルシストだからじゃない。……嫌な表現だが、きっとこれは『母性』というべきなんだろうなぁ。

 

 それでも『未来』がないというのなら、『運命』を無理矢理懐に捻り込むまで。

 万策が尽きただけなら、一万と一つ目の策を見出すだけ。俺みたいな馬鹿には、それぐらいの無茶苦茶な根性論が丁度いい。超常に付き合うだけ土台無理な話なのだから。

 

 緩んだ糸の先を限界まで張る。それは『運命』を可視化したもの。

 この糸は……排除しなければならない脅威がある。

 名はレッドアラート——。その先に俺がもぎ取る『運命』がある。

 

 全神経を脅威へと向ける。正真正銘、災害との一騎打ち。

 

 翼の熱は焼き焦げるほど熱く、鍵は神々しいほど光り輝く。

 

 この一撃で全てが決まる。

 翼に宿る全エネルギーを放出して、鍵を真正面に構えてこの身体は災害へと突撃する。

 

 特別な攻撃でも何でもない。単純な『突き』——。

 ただし、それは時間さえも飛び越えかねない『亜光速』の一撃。

 

 これが俺が放てる盤面この一手。

 災害にある僅かな隙を見つけ、その一撃を放ったのだ。

 

 間違いなく先手は俺だった。先手必勝の一撃は確実に捉えた。鍵の先には動力コア——。それが刹那の時間で届く。

 

 だというのに、災害の動きは遅れながらも確実に迎撃手段を取る。

 回避行動は取らない。カウンターを与える猶予などはどこにもない。

 

 あるのは……機械にあるのは『抹殺』という単純な目的のみ。

 殺せるならば、『相打ち』常套の一撃など躊躇なく、無慈悲に、機械的に行う。だからこそ自律兵器なのだから。

 

 鍵の一撃は走行を貫き、動力コアへと到達した。同時にレッドアラートの一撃が振われる。

 

 動力が失ってはいるものの、コマンド済みの行動を取り消すことはできはしない。出力不足ながらも、その手にある刃を振り下ろした。

 

 回避はできない。だが身を捻って傷を最小に抑えることはできる。

 だけど、それは致命傷だ。災害が持つ刃は、かすり傷でさえ絶命とさせる『ニュークリアス』——『最小の傷』でさえ命を落とす。

 

 

 

 

 

 ——同士討ちになる。

 

 

 

 

 

 ニュークリアスの刃は、俺の身体に食い込んで肩の半ばで止まった。刃はそれ以上進むことなく、切り口から血が溢れ出す。

 激痛が走りすぎて、むしろ痛みが感じなくなりそうだ。だけど、恐ろしいのは此処からだ。俺はこのままニュークリアスが持つ特性によって、チョコレートのように溶けて死ぬのだろう。……想像ができない。

 

 ……そう覚悟していたのに、異質物武器が持つ特性による『核分裂反応』による『溶解』など起きることはない。

 

 何故? ……疑問は一瞬で解消された。

 そして思い出す。愛衣に説明された覚えがある『核分裂反応』という原理について。

 

 

 …………

 ……

 

「『ニュークリアス』の特性は文字通り『原子核』と密接に関わってる『核分裂』が主な特徴。それは分裂する性質を持った原子核が中性子を吸収することで、一定の割合で核分裂を起こして同時に中性子という物が発生するというもの。この中性子が別の分裂する性質を持った原子核に吸収されれば連鎖反応が起こる。それによって発生する崩壊過程には『発熱』……つまりは『溶解』する作用があり、これが『炉心溶融』あるいは『メルトダウン』と呼ばれる現象の初期反応を引き起こす……ここまでは理解できた?」

 

「分かんない、わっかんない。愛衣の言ってることはひとつも分かんない」

 

「……参考に聞くけど、レンちゃんの脳内プロセッサは何世代前?」

 

「因数分解が分からないぐらいには。何で分解するんだろうって、自然のままでいろよ……と思うくらいには」

 

「そこからかっ!?」

 

 ……

 …………

 

 

 そこまで思いだして、俺は切り込まれたニュークリアスの刃…………その刃先が止まった肩に、何があったかを思い浮かべる。

 

 …………先の戦い、俺とアレンとの戦いで埋め込まれた『天命の矛』を使った異質物武器がある。異質物が素材にされていることもあり、これにはその異質物が持つ特性を色濃く受け継いでいる。

 

 

 

 

 

 ——『天命の矛』が持つ特性は現状把握している限り二つ。

 

 一つは、振り回すと重くなる——。

 二つは『高温で融解しない』——。

 

 

 

 

 

 だとしたら『発熱』は起きても溶けることはない。溶けることがない以上、連鎖反応は起こらずに崩壊することはない。崩壊することはない以上『炉心溶融』が起こることもない。

 

 つまり『ニュークリアス』が機能が発揮されることはない——。

 

 もちろん実際の理論なら、また別の反応、あるいは都合よくこんなことにはならないだろう。だが、それは『常識』の範疇ならの話。

 異質物は『超常』によって成立する超理論の世界だ。こんな推測が起きても……不思議じゃないッ!!

 

「だぁらぁぁああああああッッ!!!」

 

 渾身の力で、輝きを増した『光の鍵』を持ってレッドアラートの装甲ごと動力コアを引き裂いた。

 

 決して綺麗で上品ではない決着。奇声同然の雄叫びも、アニメや漫画みたいにカッコよくないはない。

 

 だけど、それでも、俺には十分すぎる。

 こうして謎の助力の末に一人で……『災害』を打倒したのだから。

 

「やった……やったよ……っ!!」

 

 感無量さから思わず膝の力が抜けて、情けなく女の子座りで尻餅をついた。痛みもあってか涙も溢れてきて、安心感だけが胸を満たしてくれる。

 

「ありがとう……」

 

 感謝の言葉を告げると、温かな翼と神々しい剣型の鍵は霧散して消え去った。

 同時に、残像する『未来』という名の『記憶』も綺麗さっぱりに消え去ってしまう。

 

 まるで『未来』が見えなくなったように——。

 

 …………それはとてつもない虚無感を抱かせた。

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

「私、未来が……見えなくなったの……」

 

 ……

 …………

 

 

 

 

 

 

 

『未来』が見えなくなったように……。

『未来』が消えたように……。

 

 

 

 

 

 スクルドが……消えてしまう……?

 

 

 

 

 

「スクルドッッッ!!!!!」

 

 居ても立っても居られず、激痛に身が軋みながらも耐えて教会の扉に手をかける。

 

 まだだ——。まだ中にはヤコブがいるんだ——。

 安心するのは早すぎる。行動するのが遅すぎる。

 

 こうしている間にも中ではヤコブは動いている。

 イナーラもいるとはいえ、相手は異質物である『イスラフィール』を持っている。その絶大な力の前では、基本的にほとんどの人間が無抵抗にやられてしまうだろう。

 

 もちろん俺もその一人だ。ここで向かったところで、何かできることはない

 でも、このままでいいはずがない。このまま立ち止まっていいはずがない。

 

 全部の力で扉を開ける。一歩踏み出すたびにバランスを崩しそうだ。だけど、スクルドの元に行かねばならない。

 

 教会の中に踏み入る。夜光だけが照らす暗がりの中には——。

 

 

 

 

 

「ねぇ、目を開けて……アンタはまだ……っ!」

 

 肌が燃え尽きて泡を吹いて倒れるヤコブの姿。

 血塗れでイスラフィールを手に倒れるスクルドの姿。

 その少女を抱き抱えて、懸命に声をかけるイナーラの姿。

 

 …………何があった? 何があった?

 いや理解は後でいい。今は……今だけは——。

 

「スクルドッ! 今助けて……ッ!!」

 

 懐に手を入れてラファエルの魔力が込められた石……OS事件でお世話になった『治癒石』を探す。だけど見つからない。

 

 それもそうだ。元々は戦闘なんか想定しない。

 そんな便利な道具を、この作戦では持ち込んではいないのだ。

 

 ……ラファエルの力はないんだ。どうすればいい?

 

 ……俺はこんな時でも『誰か』の力に縋ろうとしてるのか? 今にも息絶えそうな少女の姿を間近にしてるのに?

 

「レン……お姉ちゃん……」

 

「喋るなっ! 今……いまっ……!!」

 

 冷たくなった少女の手を握りしめる。

 何か、何か…………何でもいい、何かないのか?

 

 頼むから……今一度『時の翼』と『光の鍵』みたいな力を……!!

 

「私の力が届いて…………よかった……っ」

 

 

 

 

 

 少女の瞳は輝きを失い、ゆっくりと、確実に、力なく目を閉じた。

 

 

 

 

 

「……」

 

 穴だらけの胸に手を置く。

 …………何も伝わらない。

 

 穴だらけの胸に耳を置く。

 …………何も聞こえない。

 

 

 

 

 

 ————心臓が止まっている。

 

 

 

 

 

「————」

 

 声が出ない。代わりに思考が走る。

 そして過るのは……スクルドの最後の言葉。

 

 

 

『私の力が届いて…………よかった……っ』

 

 

 

 ……あの力は、『時の翼』も『光の鍵』も……全部スクルドが与えてくれた力だというのか。

 

 だというのに俺は、それに縋ろうとして……。

 こんな姿になってでも……俺のことを守ろうとしてくれて……。

 スクルドが命を賭してでも、俺を助けてくれたというのに……。

 

 俺は自分に言い訳して、惨めったらしく蹲って、自力で切り抜けようとすることさえ放棄していたというのに……。

 

 本来なら、俺がスクルドを守らないといけないのに——。

 

 この姿も、この心も、この力もお飾りでしかなかった。

 

「うっ……ぅぅ……っっっ!!!」

 

 泣くな。泣いたって何も変わらない。

 

 自分の惨めさに同情するな。

 自分の無力さを肯定するな。

 自分の不甲斐なさを正当化するな。

 

 全部——。

 全部全部——。

 全部全部全部——。

 

 全部、俺に力があれば何とかなることだった。

 

 アレンを捉えるのも、ヤコブを倒すのも、レッドアラートを破壊するのも……。

 OS事件も奇跡に縋っただけで……エミリオやソヤの時も、最後しか俺は些細な力にしかなれなくて……。

 もっと遡れば江森発電所やスカイホテルの時も……。

 

 いや、それなら、あの過ぎ去った『地獄』の時でさえも…………何とかなったかもしれないんだ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 私の大切な人に、君は本当鏡合わせだよ。

 

 ……

 …………

 

 

 

 脳裏に過ぎるは、いつぞや聞いたはずの『誰か』の言葉。

 その言葉に俺は、無性にバイジュウのことを思い出してしまう。

 

 ……彼女だって19年前のことを乗り越えようと強くなっている。

 俺以上の悲劇を味わったのにも関わらず、バイジュウは研究に明け暮れて、自分でも出来ることがあるんだと必死に努力しているというのに。

 

 

 

 何度も、何度も思い出しただろうに。

 

 何度も、何度も泣きたくなっただろうに。

 

 何度も、何度も情けなくなっただろうに。

 

 

 

 それでも彼女は、前を向いて進み続けている。

 

 

 

 

 

 …………俺は生まれて初めて、心の底から本気で思った。

 

 

 

 

 

 ——『強くなりたい』



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第18節 〜Continue〜

第二章、最終回です。

あと名前が固いし長いと感じたのとTwitterと統一するために『fate20111222』→『かにみそスープ』と改名しました。

今後ともよろしくお願いします。


「さて、とりあえず一連の事後処理を終えた訳ですが……」

 

『ご苦労だった。イスラフィールもパランティアの協力もあって速やかに再度封印と、サモントンへの手配が完了した。……個人請負人がここまで協力的なのは珍しいな。サービス料でも請求する気か?』

 

「個人営業だからアフターケアも万全じゃないと顧客の信頼度に関わるの。だから無償で……と言いたいけど、組織としての顔も立ててチップ程度なら貰いましょうか?」

 

『鐚一文足りともやらん。……それでは、手筈通りにスクルドの遺体はこちらで預かろう。ヤコブが言っていたこともある手前、ニューモリダスに置いたままにするわけにもいかんしな』

 

 虚脱感だけが心を通り過ぎ、イナーラとマリルの声が耳を通り過ぎる。

 

 何を言ってるか、全然わからない。

 

 未だにスクルドの重さを感じようと、ここにはいない少女の虚像を掴む。

 

 無駄だって分かりきってるのに。

 

 ……身体も、思考も、心も穴だらけだ。

 砕け散りそうだ。張り裂けそうだ。崩れ去りそうだ。

 

 だというのに……俺はここにいる。

 スクルドじゃなくて……何の役に立ってもいない俺が。

 

「……アンタが気にする必要はないわよ」

 

 背後から一番聞きたくない声が聞こえてきた。……ファビオラだ。

 

 今、彼女はどんな顔をしてるんだろう。

 怒りか、悲しみか。顔を合わせるだけの勇気がない。

 

 どうしても浮かんでしまうのは、自分を守ろうとする言い訳だらけの庇護心。なんて自分勝手なんだ。この期に及んで我が身のほうが可愛いとでも言うのか。

 

 彼女は…………ファビオラは、どんな時でもスクルドを守ろうと第一にしていたというのに。今更俺がどんなことを取り繕っても許してはくれないだろう。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 俺は顔すら合わせずに、ただ謝罪の言葉を吐き出し続けるしかなかった。

 ファビオラが俺と同じ状況だったら、間違いなくスクルドの身代わりになろうとしただろう。……いや、そもそもスクルドの命を晒すということさえ許しはしなかっただろう。

 

 ただ今回は生き残ったからここに居るだけで、ファビオラがレッドアラートと一騎討ちになった時は、命を落とす前提で戦ったに違いない。スクルドを危険から守るために、仕方なく自分から離れさせてでも。

 

「謝らなくていい。私に責任があるんだから……」

 

 仕えるべき主人がいないせいか、ファビオラの口調はいつもよりは荒々しい。だというのに、吐き出された内容は俺の身を案じた物だ。彼女のことだから嘘は言っていない。本心からの優しさだ。

 

 

 

 

 

 ————今は、その優しさすら痛みとなって突き刺さる。

 

 

 

 

 

「ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ」

 

 謝ることしかできない。流したくもない涙が、溢れてやまない。

 上半身を支えるために地面についていた両手は、いつの間にか力が抜けて額が地べたへと落ちていた。

 

 土下座でも、何でもない。みっともなく背筋が崩れているだけ。

 誠意なんてない。あるのは『ごめんなさい』としか謝ることができない無為に積み重なる負い目だけ。

 

「……辛いよね。苦しいよね。大切な人が、目の前でいなくなったんだもんね」

 

 そんな時、イナーラが声をかけてきた。

 いつもの飄々とした掴みどころのない雰囲気はない。むしろ親しさす感じるほど柔らかい物腰だ。まるで今生においての無二の親友のようで、何処からか安らぎを感じるほどに。

 

 俺と大して身長が変わらないはずなのに、一回りも大きく感じるほど優しい抱擁をすると、彼女は「だからさ」と話を紡いだ。

 

「……あなたが望むなら、今回起きたこと『忘れる』ことができるわよ」

 

 ——『忘れる』ことができる?

 

 この痛みも、この虚しさも、この悲しみも……。

 全部忘れることができるのか?

 

 それは、なんて楽なんだろう。なんて救いだろう。

 

 ……それに縋りついて堪らない。

 

「……イナーラに関することだけじゃなくて『他の記憶』も消せるの?」

 

 思い出すのはイナーラの知り合ってからの奇妙な感覚と、パランティアと合流してからの一幕、それにヤコブが口にした「認識するまで君のことをサッパリ忘れていた」という証言。

 それだけなら彼女の能力は『自分に関する記憶だけを忘れさせる能力』かと思っていたが…………。もしそうなら痛みを、悲しみを、時の置物として飾ってくれるのだろうか。

 

 心中を察したイナーラは「うん」と優しく頷くと、より一層温かく、力強く俺の身体を抱きしめてくれる。

 

「アンタ、見てるだけで堪え難いぐらい辛そうだからさ……本当は自分勝手にでもやりたいんだけどね……」

 

「……自分勝手にできない理由でもあるの?」

 

 その問いに、再びイナーラは優しく頷く。

 

「私に関することだけなら私自身の判断である程度弄れるけど、他の部分……。つまり今回の記憶を亡くすには、貴方の最終的な意思がないと消去できないの」

 

「そういう制約があるんだ」と今度は悲しげに言った。

 

「アナタにとって辛くて、苦しくて、悔しくて仕方がない事件だった……。エクスロッドのお嬢様だって忘れることできる…………望むならもっと前の記憶……忘れたくても忘れられない記憶も……」

 

 忘れたくても忘れられない記憶、それは決まりきっている。あの日、この目に焼きついた『地獄』のことだ。

 

 それさえも忘れることができるのか? 

 現実はただ酷く、連鎖するように血と涙が世界を染める。それから目を背けることは到できない。俺はあの『地獄』を知ってしまっているんだから。

 

 …………それを忘れることができる。甘美な響きだ。甘く蕩けてしまいたい。そうすれば楽になれるから。

 

 痛いほど、苦しいほど、イナーラの抱擁は力強くなる。自分のことのように親身になって考えてくれてるのは嬉しくもある。それに甘えて応えたくもなる。

 

 

 

 

 

 

 ……だけど。……だけど。

 …………だけど。…………だけど。

 

 

 

 

 

 

「……忘れない」

 

 忘れたら、もっと取り返しのつかない後悔を抱くことになる。

 

 それは、いつか交わした誓いだ。

 

 ——『彼女』との……。

 ——『■■■』との……。

 

 

 

 

 

 ——『誰』との誓いだ?

 

 

 

 

 

 ……ダメだ、思い出せない。頭の奥で霞が掛かって、その人の顔も名前も、話したであろう内容も浮かんでこない。

 

 だけど……何かを忘れるということは、その時した『誓い』を遠回しに裏切る気がしてならない。

 ……『誓い』の内容さえ思い出せないのが腹立たしいが、確かにしたはずなんだ。

 

 俺は絶対に『忘れない』って——。

 儚いものだけど、これは絶対に、絶対に成さなきゃいけない。

 

 だから、それを裏切らないためにも——。

 今ここで『忘れる』という選択をしてはいけないんだ。

 

「忘れたらきっと後悔を繰り返す。……だから、傷ついても、砕けようとも……俺は絶対に忘れない。……弱い俺は忘れないことしかないできないから」

 

 もし俺が報いることがあるとすれば、弱さを受け止めて強くなるしかないんだ。今度こそ絶対に、誰も死なせないために。

 

「……それは強さだよ。強いから、忘れようとしないんだ」

 

 一連の問答を終えると、彼女は悲しくも優しげな笑顔を少しだけ見せて——。

 

「…………分かりきっていたのにね」

 

 俺に聞き取れない声で何かを言った。

 

「……じゃあ、そろそろお暇させてもらうわ」

 

 彼女の抱擁が解かれる。ささくれ立った今の心境に、彼女が与えた優しさには名残惜しさを感じてしまうが、今はそのことを言うのは違う。

 

「……また会おう」

 

 伝えるのは再会の言葉。彼女が見せてくれた優しさを断った以上、いつか俺が決意したことを改めて示さなければ無碍にしてしまう。だから、この言葉は願いであり、戒めであり、誓いでもある。今度こそ誰かを『守れる』ように強くなった自分を知ってもらうために。

 

 イナーラは嬉しそうに笑うと、同様に「またね」と再会を期待する言葉を返して闇夜に溶けて消えていった。

 

 ……別れ際でも、出会った時と同じようにあっけらかんとした物だ。笑いながら近づいたように、去り際も笑っていた。

 

 そこでふと、不思議に思う。

 今度の俺は、消え去るイナーラの姿を『忘れていない』ということを。

 

 思い浮かべる、彼女の姿見を。

 記憶を胸に抱くように思い浮かべる。

 

 ふと気づく。手に何かが握られてることに。

 それは名刺だ。先ほど近づいた際に彼女が握らせたのだろう。

 

 何が書かれているのか。ただの興味本位で、記載されている内容へと目を通した。

 

 

 

 

 

 TEL:××××××××

 いつでも力になるよ。 by イナーラ

 

 

 

 

 

 

「…………不器用だなぁ」

 

 俺が言えた義理ではないと思うけど。

 これはいつか役に立つ時が来るだろう。

 

 忘れないように彼女の姿を再度浮かべる。

 傷んだような赤髪に、小洒落た服装。何よりも掴みどころのない飄々とした性格。

 

 彼女のことは分からないことだらけだったけど…………きっと、個人請負人として悪名が轟くほど悪い人ではない。そんな確信があった。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 慌ただしく、そして苦く終えた『エクスロッド暗殺計画』——。

 それには多大な陰謀の果てに、小さな犠牲者が一人で済んだのは一種の幸いとも言えるだろう。目的自体は果たされるため、全体的に見れば決していい終わりではないのかもしれないが。

 

 しかし、不可解な点が残ったままである。

 

 それは一騎だけ取り残された『レッドアラート』の所在——。

 その答えは、闇夜に紛れる少年の足元にあった。

 

「お勤めご苦労様」

 

 ニューモリダスで最も高層となるビルの屋上にて、アレンとセラエノは『鉄屑と化した赤い装甲』の上に腰掛けていた。

 金髪の少女は街の中で点在する人々を観察するように、超然とした雰囲気で見下ろしており、少年は逆に漠然とした態度で町並みを見渡していた。

 

「……アンタなら無事だとは思っていたけど、よくもまあセラエノを側に置きながら『無傷』で倒しきったね」

 

 そこに先ほどまでレンと一緒にいるイナーラが姿を見せる。

 

「色々とあってねぇ。これについて実は詳しかったりするんだ」

 

「そもそも」とアレンは話を続ける。

 

「魔女を殺すのに『赤』はないだろ。やるなら『銀』じゃないと」

 

「あ〜……そういうこと?」

 

 イナーラは空を見つめる。夜空に渡り鳥のように点々と連なる輝きが一定の方向に向かって飛び去っていく。

 

 その正体はレッドアラートの付属機こと『ブルートゥース』——。

 

「あっちが『本命』ってわけね。『情報収集』を目的とした機体……何も相手だけって訳がないか」

 

「そういうこと。レッドアラートは大義名分はどうあれ、増大している『魔女』と呼ばれる存在に対抗するための兵器だ。それが第一世代で完成……な訳ないだろ?」

 

「随分マサダの内情について詳しいわね〜♪ 私という存在がありながら浮気ですか?」

 

 イナーラはアレンの肩に身を寄せて揶揄った。アレンは気にもしない表情を浮かべてはいるが、押しつけられる豊満な感覚には抗えないのだろう。特に何かを言うわけでもないが、視線を一瞬だけそれに向けて「コホン」と一息おいた。

 

「……単純に関わりがあるだけだよ。遠回しに伝えるために、わざわざ大立ち回りもしたんだしな」

 

「大立ち回り?」

 

「これだよ」とアレンは手にある異質物武器をイナーラに見せると、彼女は「それかぁ」と納得した表情を見せた。

 

「別にこれに頼る必要もなくレンを無力化するとはできたんだ。体位の優位は取れていたし、男女の筋力差もある」

 

「……それに、どういうわけか思考が似たり寄ったりなわけだしねぇ?」

 

 余裕そうな表情から一転。アレンは「な、何のことかな?」と明らかに動揺した声を漏らした。

 それがイナーラには予想外だったのか、品のない驚き方をしつつ「下手くそか」と出来損ないのツッコミを入れてしまう。

 

「まあ、ともかく……これを使いたかったわけさ」

 

「ほーん。……いったい誰に伝えるために?」

 

「聡明な科学者二人にさ。……きっと、この意味に気づいてくれる」

 

「さて」とアレンは立ち上がり服の埃をはたき落とすと、二人の話なんて興味がないと街を眺め続けるセラエノへと声を掛ける。

 

「セラエノ、何か興味深いものは見つけた?」

 

 突然の声かけにも、セラエノは応じて首だけを器用に動かしてアレンと視線を合わせた。相変わらずの無垢で無表情で、輝きを持たない瞳だ。夜の帳はセラエノの表情が包んでいることもあり、アレンは内心「ホラー映像より怖いなぁ」とか思いながらも、視線を少しだけ外して考えるセラエノの返答を待つ。

 

「……あった。この町では様々な感情は蠢いていたが……中でも、特にあのレンちゃんという子は良い。喜怒哀楽を全て余さず感じ取れた」

 

 そう言い終えると、セラエノは無表情のまま鼻を軽く鳴らす。

 彼女の感情の機微についてはアレンはよく知っている。どうやら心の底から満足しているようだと感じて、久しい感情との触れ合いに、少年は年相応の笑顔を見せた。

 

「次はどんなところに行こうか」

 

「そうだな……。今は急ぐ用事もないし、イナーラにでも聞いてみるか?」

 

「えぇ……。じゃあ北極とか南極とかの辺境に行けば?」

 

「それなら北極に行こう。不変とされる『北極星』……プレアデスからでは見れないのだから、是非とも生で見ないといけない」

 

 実はそれ現代では少しずつ動いていることを言ったらどんな反応するんだろうなぁ、とかアレンは思いながら、変な表現ではあるが無表情で意気揚々と歩くセラエノの後をついていく。

 

「ちょっとー? 私は置いてけぼりですかー?」

 

「誘ったところでついて来ない癖に……」

 

「まあね」と去るアレン達と入れ替わるように、イナーラは鉄屑の上へと腰を置いて「またね」と再開の言葉を、アレンの背中に伝えた。

 

 少年もまた「またいつか」と残して、夜風と共に去っていく。

 苦虚な心に夜風は些か寒すぎる。少年は気を紛らわすために、胸中へと想いを馳せた。

 

 少年の中で巡るは未知の運命へと渡る痕跡。

 今回起きた事件の騒動についての結末だけには、訝しむ点があったのだ。

 

 ——レンが手にしていた見覚えのない『光の鍵』

 ——『アカシックレコード』にも近い『断章』と呼ばれる情報の消失。

 

 何よりも、スクルドの『命』は落ちてなお、その『魂』だけは顕在だということ——。

 

 それら全ては、アレンが知る『未来』には存在しなかった——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 ——数日後、新豊州。

 ——SID作戦本部内。

 

 そこには珍しく白衣を纏って頭を唸るマリルの姿があった。

 

「マリル〜♪ 良いニュースと悪いニュースがあります! どちらから聞きたい?」

 

「どっちも聞くんだ、できるだけ手短に頼む。こっちはスクルドの責任で解雇されたファビオラの雇用や、他部門での研究を照合するのに頭を使ってるのだからな」

 

 焦燥に押しつぶされそうなマリルを見て、愛衣は「大変ですなぁ」と揶揄うように言うと、小瓶に詰まった栄養ドリンクを一飲みして話を再開させる。

 

「そういうことなら仕方ない。じゃあオーダーの通りに……」

 

「まずはこれを見て」と愛衣は自身が持つタブレットの画面を、マリルが持つタブレットへと共有させた。

 

 そこに映るのは『ある人物』の生体情報だ。

 その人物の名は『スクルド・エクスロッド』——。先の事件で『死亡』した少女のデータが画面の中で記載される。

 

 あらゆる部位が『死』を意味する『活動停止』を掲示する。何かの間違いということは当然ない。1回目の検死と、2回目の検死は24時間以上も経過して行われており、医学的にも『死亡』という判断は既に下されている。

 

 しかし、その二つの診断で変わらずに『活動中』と記載されている部分が一つだけあったのだ。

 

「……『脳波』だけが活動を停止していないだと?」

 

「うん。現在スクルドの生命活動は停止中……だけど脳波信号だけが未だに活動中なの……まるで『魂』が叫んでいるみたいに」

 

「これと似たケース、どこかで聞いたことや見たことない?」と愛衣は今知ったなぞなぞの出題をするようにマリルに問う。

 その返答には時間を多く費やすことはなかった。手元にあるコーヒーを二口ほど飲んだところで、マリルは「簡単だな」と言いたげに鼻で笑うと告げる。

 

「南極で発見された際のバイジュウの状態と……後はOS事件で回収されたドルフィン博士が言っていた『被験体』の状態だろ?」

 

「そういうこと。『被験体』は海底で行方知らずだからどうしようもないけど、バイジュウについては保護観察の状況下から分かる通り、問題なく日常生活を送れるほど回復できてる……」

 

「となると、もしも『脳波』をキッカケとしたアプローチを行えるとすれば……」

 

「本当理解が早いね。ご想像の通り、事実上の『蘇生』をすることはできる…………あくまで可能性としての話だけど」

 

 可能性とはいえ希望が見えたのなら幸いだ、とマリルは思う。それがレンに伝えられるのなら、加虐心の塊であるマリルですら痛々しく疲弊していると心配してしまう我が子を元気付けることはできる。

 

 だがあくまで、それは希望——。つまりこれこそが良いニュースだ。

 

 だとすれば宣言通り悪いニュースの話も当然ある。マリルはある程度予想をして、愛衣へと話の続きを促した。

 

「さて、ここからが悪いニュース。スクルドの脳波は現在進行形で弱まってる……だから何とかして維持しないといけないんだけど……」

 

「……南極で手に入れた培養液で間に合わないと言ったところか」

 

「話が早くて助かるよ。バイジュウの時とは違って、肉体は死んでるからアレは適してなくてね。ドルフィン博士が言っていた『被験体』の状態だとしても共鳴していた『魔導書』あるいは、それに近い媒体となる存在が現在手元にない。…………このままだと本当にスクルドが死んでしまうのは時間の問題」

 

「だからさ」と愛衣は同級生にノート写させて? と言わんばかりの軽い物腰で言った。

 

「悪いんだけど……SIDが重要管理してる『時止めの魔女』との協力を仰げないかなぁ〜〜……って」

 

 ——『時止めの魔女』

 

 その名称に、マリルは心底嫌そうな顔を浮かべる。それを予期していた愛衣も「だよねぇ」と、労うようにマリルの肩に手を置いた。

 その態度が安易に「私にはどうにもできないから任せた」と言ってるのをマリルは察したのだろう。より一層眉間に皺を寄せてため息を吐いた。

 

「…………気は進まんのだが」

 

「ただでさえレンちゃんと同じ最高セキュリティで監視してるからね……これ以上こちらのワガママ通したらどうなるのか……」

 

 二人して苦笑い混じりの嫌な顔で頭を抱える。とはいっても、二人とも答えは出ているのだろう。マリルは再びため息を一つ吐くと「仕方ない」と半ばやけくそ気味に呟いた。

 

「掛け合ってはみるさ。流石にアイツでも少女一人の命に関わると知れば、重い腰も上げてくれるだろう。至急、手配を頼む」

 

「自分で準備しないの?」

 

「私も別のことを調べてる最中なんだ。今回の事件、細部において気になる点が多い」

 

「気になる点?」と愛衣は疑問符を浮かべる。マリルは「こちらにも良いニュースと悪いニュースがあるんだ」と自身が持つタブレットへと指を走らせる。

 

「……そもそもとしてマサダブルクは宗教や軍事関係などがあって、異質物研究については盛んではないのだ。だからこそ今まで異質物に頼らない自律兵器『イエローヘッド』や『ハニーコム』を製造していたんだ」

 

「そういえばそうだったね」と愛衣は要領を得ないまま頷く。

 

「しかし今回エミリオの誕生をきっかけに、一ヶ月足らずであそこまで完成度の高い『レッドアラート』と『ニュークリアス』というAIと異質物を複合させた兵器を製造した……こんなことが異質物研究を怠ってるマサダブルクに可能か?」

 

「……秘密裏で行ってるなら可能だろうけど、報告にはそれらしい記述すら上がってないから可能性としてなさそうだね。結論としては…………まあ、失敗するという前提なら可能かな。納期的にも実戦的な実験運用はできないからね」

 

「だとしたら……どうやって『失敗』を前提としてるのに『完成』に近い性能が誇れると思う」

 

 マリルの問いに愛衣は暫し口を塞ぐ。

 その答えを聡明な愛衣はすぐに導き出した。

 

「……技術の横流しってこと?」

 

「そういうことになる。技術の横流しされてる箇所はメインとなる部分が鉄則だ。だとしたらレッドアラートで持つ最も重要な『部分』とは何だ?」

 

「『炉心溶融』……じゃないね。それはあくまで『ニュークリアス』に搭載されてる機能だ。となると——」

 

 愛衣は答えをすぐに見出せた。

 

「『炉心溶融』さえ引き起こす『原子核反応』に耐えうる『耐熱装甲』……ってことになるね」

 

「ああ。その耐熱装甲以外では『ニュークリアス』の刃を耐え切るのは不可能だ。例え『魔女』の力を持ってしても……それはファビオラが証明してくれた」

 

 マリルの言葉に、愛衣は「そうだね」と考えながら頷く。

 

「しかし、今回の事件では『炉心溶融』に耐えたのはレッドアラート以外にも一つあった。……分かるだろう?」

 

 その問いの答えは瞬時に出た。愛衣の脳裏に掠めるのは、トリニティ教会前で戦闘をしていたレンに起きた『ある部分』を思い出す。

 

 観測不能なエネルギーを持った翼と剣の突貫。見事に動力コアを刺し貫かれたレッドアラートは、相打ち覚悟でレンへと『炉心溶融』を引き起こす『ニュークリアス』をか弱い身体へと振るい、確かに斬りつけた。

 

 しかし、結果として『炉心溶融』は引き起こすことはなかった。何故ならそれは——。

 

「……まさかッ!?」

 

「そのまさかだ。今鑑識に回しているが……ちょうど結果が届いたところだ」

 

 マリルはタブレット上に届いたデータを開示する。

 表示されたデータは『ある二つ』の物体の成分について。一つは『レッドアラート』と表示されており、もう一つは『天命の矛』と表示されている。

 

 

 

 一致性『100%』——。

 判定『完全一致』——。

 

 

 

「『レッドアラート』の耐熱装甲と、あの男……アレンによって埋め込まれた異質物武器の素材は全く同じだ。……この意味が分かるな?」

 

「……耐熱装甲は『天命の矛』が持つ『高温で溶解しない』という性質を持つ。でも、それが技術として確立されている以上はアレン君とマサダブルクは——」

 

「——ご想像の通り、繋がっている可能性が非常に高い」

 

 同時にそれは、ニューモリダスから強奪されたEX異質物『天命の矛』の所在についての重要な手掛かりとなるものだった。

 

 しかし、それだけならマリルは頭を抱える必要はない。問題はその『異質物』を加工した技術についてだ。確かに、学園都市では『異質物武器』という物が存在しており、それらは全ては元を正せば『異質物』が由来とはなっている。

 

 だが『異質物武器』は、あくまで本来『異質物』が持つ力を助長させるための目的として製造されるものであり、元々の運用方法自体が変わることはない。

 

 だというのに『天命の矛』を『装甲』として加工した挙句に少数とはいえ量産——。

 今の技術では方舟基地の建造を上回る製造費になるのは目に見えている。四六時中テロ活動が行なっているようなマサダブルクにそんな金銭的な余裕は一切ない。だからニューモリダスと繋がっているし、ヴィラやエミリオみたいな未成年が軍人として活動する教育があるのだ。

 

 だとしたら、どこかに『異質物の加工』を当然のように行えるという、桁外れの技術力を持った研究機関があるはずなのだ。

 

 しかし、それはマリルが把握する限りでは、六大学園都市のどこにも存在しているはずがないのだ。

 

 

 

 ならば、どこから?

 その疑問に、マリルはある名称を思い出すのであった。

 

 

 

(『第七学園都市』——。本当に存在するとでも言うのか?)




 くぅ疲w、とか言ってられないほど遅筆で大変申し訳ありません。整骨院などにも通い、毎日ケアもしていたのですが、結局は最後まで体調回復はできずに長時間の執筆作業ができませんでした。許せ、サスケ。

 ……というわけで第二章はひとまず完結です。
 消化不良感が否めないとは思いますが、元々この章は『バッドエンド』を予定しており、なおかつ次章での『起点』でもあり『再起』でもあります。

 故に、今回で溜まったフラストレーションは次章での爆発させるものとなります。つまり次章は少年ジャンプよろしく、熱い話をするというわけですね。

 ですので、もう暫くレンちゃんには曇ってもらいます。果たして彼(彼女)が暗い雰囲気から脱却するのはいつの日か。……その日は遠くはないでしょう。

 そういうわけで次回の更新は新年一発目【2021/1/1 12:00】となります。その間に『少女と偶像』のような閑話を入れたかったのですが、次に行うお話が構想を練っていたら思っていた以上に広がったために、閑話ではなく第三章として投稿することになりました。
 故に時系列上厳しいため、それまで更新はありません。ですので、気長にお待ちいただけたらと思います。

 それでは次回、第三章【剣聖抜刀】まで暫し筆休め。
 タイトルの通り、ついに『あのキャラ』が本筋に絡みます。

 かなり早いですが、皆様年末年始をお過ごしくださいませ。

 それでは……ノシ


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第三章 【剣聖抜刀】
第1節 〜修羅羅刹〜


 たまには趣向を変えるのも、また一興だろう。

 今回はある一人の、男の話をしよう。

 

 

 

 

 

 男は非常につまらない存在だった。ただひたすらに日々を銭稼ぎに費やし、酒も嗜まず、欲を喰らわず、名も疎かにしていた。縁を交わすことすらなく、繋がりと呼べるような存在は野鳥と季節だけぐらいなものだ。

 

 それは自身が持つ家族にもそうだった。

 

 男は長男として生まれた身だった。子宝に恵まれず、その時代にして二十代半ばという遅く産まれた子であった。母と父からすれば目に入れても痛くない愛しい子だ。衣食住にも不自由せずに育っていった。

 普通なら育てた恩に応えるために、何かしらの感謝や行動を示すだろう。だというのに男はカケラの興味も示さず、仕事を終えれば、ただ退屈という時間と共に空を眺めることしかなかった。

 

 そんな時間が今生が終わるまで過ごすのだろうか。

 

 

 

「何とも、退屈でつまらない人生だ」

 

 

 

 しかし、そんな中で唯一魅入られる存在を手にした。

 純鉄を打ち磨き抜かれた双つの刀。俗に言う『刀』と呼ばれる存在をある日、路の露店で目にした。

 

 今まで何物にも関心を向けなかった男にとっては、その刀身はどんな女性よりも美しく艶かしく、心の奥を掻き乱される感覚に陥る。

 側から見ても惹かれてることが分かったのだろう。露天を営む商人は見定めるような視線で告げた。

 

 

 

「おっと、旦那。この刀は安物じゃないんだ。欲しけりゃ対価を払え」

「ならば言え。その価値を」

 

 

 

 男は自身ありげに自分が持つ全財産を叩きつけた。何せ無趣味が功を奏して、着物にも酒にも博打にも遊女にも通わなかった堅物だ。生涯で一度たりとも浪費せずに積み立てられた金は、男の年代にしては破格としか言いようがない金額であった。

 

 普通の商人なら一言で受け入れて売買は成立するだろう。

 しかしその商人は笑った。人ならざる笑みを浮かべて、男へと甘言を伝えた。

 

 

 

「金じゃない、『魂』だ。旦那の来世を貰い受ける……それだけだ」

 

 

 

 これまた珍妙で法外な対価を要求してきた。極楽浄土、輪廻転生の信仰が厚い当世にて、輪廻から離れることを口にするのは何の意味があるのか。

 それは事実的な信仰の否定であり侮辱だ。同時にお笑い草だ。ただの人如きが理を外れるなど——。解脱者、破戒僧でもなければ不可能であるというのに。

 

 

 

「その程度——、何度もくれてやろう」

 

 

 

 男は笑いながら、その言葉を聞き入れて双つの刀を手に人里へと戻っていった。冗談半分でも、踏み倒す気でもない。ただ単純につまらぬ自身の魂だけをくれるだけでいいのなら、いくらでもくれてやろうという覚悟なのだ。

 

 それから男の人生には色がつく。ひたすらに剣へと打ち込んだ。

 朝日が昇ったら剣を振るう。仕事を終えれば剣を振るう。陽が沈めば剣を振るう。飯を口にした後に剣を振るう。眠りの前に剣を振るう。

 

 剣をただ木偶人形に打ち込むだけの単純な鍛錬だというのに、男には生まれて初めて感じた楽しさだった。始めた頃は不恰好な自己流の構えで鍛錬したこともあり、生傷が尽きぬ日はなかった。大怪我も負った日もあり、額や腕といったあらゆる部分に傷跡が見えた。

 

 師などいるはずもなく、男は独学のまま気が狂うほどの時間を鍛錬へと費やした。幾度の春を迎えたところで、才覚はついに芽吹くこととなる。

 

 ——意識すると同時に、木偶人形を切り裂いた。それがどういう意味を持つのか。男はその時はまだ知らない。

 

 それは、後に男が『剣聖』と呼ばれる極智へと足を踏み入れた瞬間でもあった。

 

 

 

 水より澄んだ凪の心境。

 雷さえ断つ霹靂の剣筋。

 獣すら慄く乱杭の風格。

 

 その一振りは光さえ置き去りにし、『斬る』という行為でさえ『斬った』と認識させる光速の刃。試し切りをするために、人里の周囲に蔓延る獣や盗賊を瞬く間に屠り尽くした。

 

 それは他者にとってどう見えたのだろうか。

 

 

 

「鬼だ。人のまま妖(あやかし)となりおった」

「見よ、あの額の痕を。忌子に違いあるまい」

「きっと彼奴を孕んだ女も物怪の類いだったのだろう」

 

 

 

 卓越された剣技は、現代における『魔女』の端くれであった。

 深き剣への思いは、現代における『狂信者』の先駆けであった。

 

 人外同然の扱いがそこには待っていたのだ。

 男は生まれ育った里から迫害され、里は男を『人間』として認めなかった。

 

 何より——。

 

 

 

「おらぬ、おらぬ。溺愛する我が子がおらぬ」

「腹より生まれし我が子が鬼であるはずがない」

 

「「鬼よ、我が子をどこに攫った」」

 

 

 

 ……親さえも男の存在を認めなかった。

 

 

 

 男は全てに打ちのめされた。

 だが男は泣き言も恨み言も溢さず、腰に添えた双つの刀だけを持って生まれ育った人里から素直に姿を消した。

 

 元より全てに対して蔑ろにし、剣と共にあった男だ。その報いは当然であると自分で分かっていた。

 

 ……親からの愛でさえ応えようとしなかった自分勝手なのだから。

 子宝に恵まれなかった家系で、やっとの思いで産んだ子がロクでなしの上に狂人だというのなら、愛想も尽かされるのも当然だろう。先に裏切ったのは、親の愛よりも剣への鍛錬へと向けた自分なのだから。

 

 ……その程度の罰など、男は甘んじて受けた。

 

 流浪の身となった男は、世界を彷徨う。

 旅路の中で幾重にも戦いを重ね、男の剣技はより強く、より鋭く、より早く、その心と共に研磨されていく。

 

 

 

「我が力に対抗し得る存在がおるとはな……。茨木であれば一太刀で首を持っていかれたであろう」

「退け、鬼を憎む道理などない。……拙も妖であるのだ」

「ははは!! お主……人の身で成り果てたか?」

 

 

 

 道中にて都を襲撃する最中にいた悪名高い真の鬼がいた。

 あるいは蜘蛛に扮した雌型の妖怪もいた。

 あるいは風に乗る翼を持った人型の物怪もいた。

 

 それらすべてを流れ雲のように、捉える存在などないと一刀で斬り伏せてきた。

 

 長い鍛錬の末に、男の剣は人では到底到達しえぬ領域へと達していた。

 その心は音にも振るわず、風にも揺らがず、岩でも砕けず、霞にも曝されず、炎にも炙れず、蛇にも見透かせず、蟲にも惹かれず、恋にも堕ちることすらなかった。

 

 安寧した家庭などなく、ひたすらに日が出ようが月が出ようが歩き続けて、幾度の春を迎えて、幾度の冬を乗り越えたのか。

 

 そこで知る。

 男が目指す剣の極地——それは『無』へと至るものだと。

 

 元より繋がりなど求めてはいなかった。

 故にその心には、誰もいなかった。

 

 親を捨てたのも、里を捨てたのも、全ては自分が招いたことだった。咲き誇る花を踏み荒らしたの同義で、今更どうこうなる問題でもない。

 

 ただ……その生涯に『意味がなかった』という事実に、男は呆れるように笑うしかなかった。

 

 鍛錬の意味など見出していなかった。最初はひたすらに楽しく、迫害されてからは贖罪の日々。

 

 恥だけを晒し続けてなお生きる理由には、何かしらの意味と大義があるのではないかと考えていたのに……男は最後まで無為に歳を重ねて、罪を作り、罪を償い続けただけの人生であった。『無』という存在に思い焦がれて、果てのない剣の道を歩むだけの。

 

 ……そして最後には都の主に脅威と判断され、『鬼』という名前を与えられて首を落とされることになろうとは——。

 

 

 

 ————それだけはごめん被る。

 

 

 

 男は人である。『鬼』でも『妖』でもあろう。しかし、それを認めていいのは他ならぬ血族のみだ。どこぞの偉いだけの存在に認められるのだけは、どんな恥辱よりも恥ずべきことであった。

 

 ならばと、断罪される前にこの命を絶とうと双つの刃を首筋と腹部に添えた。

 

 

 

 

 

「儂は人だ。名のある罪人でも鬼でもなく、名もなき人として命を絶とう」

 

 

 

 

 

 そう言って、男は躊躇いもなく自分に刃を振るった。

 

 刹那、生と死の狭間で彼は思う。

 

 

 

 ——もし次があるとすれば、酒も嗜み、女を食らい、悦楽を貪り、快楽に溺れ、家族を労おうと。

 

 ——まあ、妖の身では次があっても忌子であろうがな。

 

 

 

 

 

 …………これにて男の話は終わる。

 

 ご覧の通り、ただのつまらない話だ。



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第2節 〜可憐火憐〜

あけおめことよろ。

第三章は予定では全15節を予定しており、現段階では第7節までは毎日投稿となっておりますので、しばらくよろしくお願いします。


 朝、五時半。俺は最低限の身嗜みを整えると、男の時から着なれた男女兼用ジャージへ着替えて外へ出た。時期は10月半ばということもあり、この時間帯では太陽が昇りきるには些か早く、青空は暗がりを帯びている。

 

「おはようっ! ようやく遅刻せずに起きられるようになったね」

 

「…………でも、まだ身体が起きてない……」

 

「みたいだね。とりあえず口元の涎は拭いとこっか」

 

「うん……」

 

 待ち合わせ先となる新豊州運動公園には、新豊州のご当地アイドルこと高崎秋良がストレッチを行いながら待っていた。正式には動的ストレッチというらしいが、俺には詳しいことについて知らない。

 

「今日も30分を目安に5キロのランニング! 体力作りをするのに有酸素運動は効果的だから、今日も頑張ろう!」

 

 基本ゲーマー体質であるはずの俺が、どうして朝早くに高崎さんと一緒にランニングするのかというと『体力作り』という点に尽きる。

 

 先日ニューモリダスで起きた一件——。スクルドは未だ危篤状態なまま藩磨脳研で治療中となっている。どうやらファビオラの時とは違い『夢』を見ているわけでもなく、純粋に身体面でも酷く衰弱しており、いつ状態が悪化してもおかしくないという。

 

 どうしてこんなことになってしまったのか。それは俺が『弱い』からだ。スクルドをヤコブから助けることもできず、アレンにも徹底的に打ちのめされた。もしも俺があの時に強ければスクルドを守ることができたかもしれない。

 

 でも『もしも』はもしもだ——。

 一度起きたことを変えることは『ロス・ゴールド』みたいな異質物でもない限り不可能だ。だから、その『もしも』は過去ではなく未来に向けるべきなんだ。次にそういう局面にあったとしたら、こんな後悔や無力感なんて誰にも味合わせないように俺は強くなるしかない。

 

「よし」

 

 例え目の前の現実から逃げていると言われようと、今の俺にできることは強くなるために動き続けるしかない。時間が巻き戻ることも、止まることないんだから。だから今はほんの小さな一歩でも、俺は強くなるための歩みを止めるわけにはいかない。

 

 俺は高崎さんと並んで公園の舗装された道を走る。まずは体力作りからだ。SIDの基本訓練だけでは、急速に力をつけるにはあまりにも遠すぎる。少しずつ、自分から変わらないといけないんだ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「効率よく筋力付ける方法だと?」

 

 早朝ランニングを終えた次は、SIDの訓練施設にいるヴィラと話す。本日の学校は休みのため昼間から合流できたのは幸いだ。こうして朝早くから助言をもらうことができるんだから。

 

「筋肉なんて普段の積み重ねでしかないぞ。確かにオキシポロンや違法とはいえステロイドを使えば、ある程度は早く筋力を付けることはできる。だけどそれは偽りの強さだ。本当の強さは地獄の様な訓練に耐えてこそ意味があるんだ」

 

「ヴィラ……。レンちゃんが求めてるのは軍人みたいな物じゃないからね。地獄の様な訓練に付き合わせる必要もないから」

 

 火垂る身体と汗をタオルで拭いながら語るヴィラの横で、同じく訓練を終えたエミリオがスポーツ飲料を口にしながら話に入る。

 

「筋力とはいうけど具体的にはどこが気になるの? 二の腕とか太腿の弛みが気になるお年頃だったりするのかな♪」

 

「いや、そういう考えじゃなくて……。俺は少しでも強くなる方法が知りたくて……」

 

 俺の厳粛な態度で察したのだろう。普段よく笑うはずのエミリオでさえ、その表情には真剣味が帯びていた。

 

「……エクスロッドのお嬢様に関しては気の毒だって言うしかないけど……レンちゃんはそれでも最善を打ったじゃない。そこまで気にする必要もないじゃない?」

 

 そうかもしれない。あの時ヤコブが手にしていた『イスラフィール』の力は絶対的で、スクルドが奪取していなければ全滅もあり得ていた。

 そして奪取しても、外で待機していたレッドアラートを俺が破壊してなければ『生命』ではない自律兵器にスクルドが手にした『イスラフィール』の効力など及ぶわけがなく、これもまた全滅の危機に瀕していた。エミリオの言う通り、俺が取れた策は最悪中の最善であって、客観的に見ればスクルド一人に犠牲で済んだこと自体が奇跡だったとさえ言える。

 

 ……だけど俺は知っている。

 あの時、レッドアラートを打倒するために宿った『時の翼』と『光の鍵』——あれらは何らかの手段で俺に届けたスクルドの力なんだ。

 結局のところ、俺がしたことなんて些細な物で、ほとんどあんな小さな女の子一人が身の丈に合わない異能の力で解決したに他ならない。

 

 ……自分の不甲斐なさを棚に上げるなんてことは、とてもできないんだ。

 

「ごめんね、本当は気の利いた言葉くらいかけたいんだけど……。私達って悪くも慣れきってるから……その、上手く心からの励ましができないや」

 

 俺の打ちしがれた心境を察して、エミリオは力なく困った表情を浮かべて励まそうとしてくれた。

 

 悪くも慣れきっている————。

 

 確かにマサダブルクの事情や兵隊入りしていたエミリオとヴィラなら、人の生き死など数え切れないほどあっただろうし、もしかしたら不可抗力とはいえ奪ったことさえあるかもしれない。

 

 俺と周りにあるスクルドに対する温度差はそういうことなんだろう。単純に俺だけが、この目で人の生死を慣れてないから割り切ることができない。

 

 ……理屈がわかったところで、納得するわけはない。

 だからこうして助言を求めているんだ。

 

「お願いします。——強くなりたいんです」

 

 今度は頭を下げて懇願する。精一杯の誠意だ。

 しばし沈黙が流れると、ヴィラが呆れたような物言いで伝えた。

 

「……具体的にはどんな風にだ?」

 

「どんな風……?」

 

「強くなるにも方向性がある。具体的な指針がなければアドバイスの仕様がない」

 

「……それは……………………」

 

「答えが出ないからって『平均的』、『全体的』、『総合的』なんて言葉に逃げるなよ。一人の人間にできることは、何をどうしても一つまでだ。あれもできる、これもできるってのは便利ではあるが、対極的に見れば対応力や作戦成功率への微々たる上昇程度の成果しかない。直接的に強さとは一切関係しないんだ」

 

 ……何も言い返せない。軍人上がりのヴィラが言うのだから、そうであるのは間違いないのだろう。

 

「ヴィラの言い方はちょっとキツいけど私も同感。要するに『何でも屋』みたいな役割を持つには、レンちゃんの実力的に見合わないし……」

 

「……その通りです」

 

「それに戦況によって求められる技術は異なる。個人戦、集団戦、殲滅戦、防衛戦、包囲戦、消耗戦……。街中、海上、森林……。様々な組み合わせがあって、それぞれに応じた策がある。例えるならボクシングと相撲どっちが強いと言われても、土俵が違うんだから比べようがないとの一緒だ」

 

 これ以上ないくらい分かりやすく噛み砕いて説明してくれた。

 

 ……確かにスポーツや戦争に限らず、勉強や料理にもそれに応じた物があるんだ。総合的になんて言ったところで、それは分野の初心者の中の初心者に踏み入れたに過ぎない。それではエキスパートだらけのSIDでは実にならないのは目に見えている。

 

「……じゃあ、どうすれば強くなれる?」

 

「とりあえずは『何かしらの強み』——つまりは得意分野がないとどうしようもないかな。私なら『血の硬質化』とか、ヴィラなら『常人離れした怪力』とか……色々とね。分かりやすい強みがないと、作戦に組み込むこともできない」

 

「そしてそれに合った戦闘方法と、弱点の解消だな。アタシの能力は近距離戦での質量対決なら負けることはないが、遠距離にはトコトン向いてない。エミリオだって血を散弾みたいに飛ばすにしても、能力の性質上そこまで射程距離があるわけじゃないし、使用後は狼煙みたいに蒸発するせいで隠密には向かない。……証拠も消えるから、一概に弱いとは言い切れはしないが」

 

「だから私達は兵隊時代の名残もあるけど、遠距離戦闘での手段として銃器を使う……。もしくはチームを組んで互いにカバーする。そうする事ことも強さの一つだね」

 

 それも強さの一つ——。

 …………だけど、俺にはその『強み』さえない以上、根本的な『強さ』の指標さえないんだ。

 

 どうすれば……どうすれば、俺にそんな『強さ』が得られる? スクルドに与えられるような物じゃなくて、もっと自分だけの『強さ』が——-。

 

「……そういえば『強くなりたい』んだっけ?」

 

 思い出したようにエミリオは言った。何かしら大きな成果が得られる答えが聞けるかと思い、期待を込めて目を合わせると、当のエミリオは悪戯な笑みでこちらを見ていた。

 

「じゃあ、兵隊の時に私達の教官が問いたことを教えてあげる」

 

 エミリオが問おうとしてることが分かったのか、視界の端でヴィラも懐かしむように、可愛らしくも困ったような笑みを浮かべた。

 

 ……あの若干無愛想なヴィラがあんな表情を見せるのはレアだ。

 いったい、これからどんな内容は飛び出してくるのか?

 

 ——期待と不安で心が躍る。今か今かとエミリオの紡ぐ内容が待ち遠しい。

 

「『自分より強い相手に勝つには、自分の方が相手より強くなければいけない』ってのは分かる?」

 

「……いや、矛盾してない?」

 

 ……だと思っていたのに、告げられたのは頓珍漢な内容だ。

 

 これにどんな意味があるのか? そう思いながら俺が矛盾していることを指摘したら、エミリオは予定調和だと言わんばかりに微笑を溢して「そう、矛盾してるんだ」と安易に認めた。

 

「ではここで問題」

 

 間髪入れず、エミリオは次の言葉を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 ——『この言葉に対する矛盾と意味をよく考えなさい』

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「自分より強い相手に勝つには……自分より強くないといけない……???」

 

 ……どういう、ことだ??????????

 

「レンちゃん、頭の中疑問符だらけだよ……。答えは単純だって!」

 

 場所は変わり、SID内部の休憩所。そこで自販機からスポーツドリンクを取りながら、得意気で返答をしてくれるアニーがいた。

 

「スポーツと一緒で、訓練を重ねて相手より強くなる! これしかないって!」

 

「……お言葉なのですが、それだと『自分より弱い相手』に勝っていませんか?」

 

 直後、部屋の隅っこで寛いでいたソヤが根本的な指摘に、アニーは「あっ」と恥ずかしそうに表情とプルタブに掛けた指を固めた。

 

 その反応がソヤと同席していたラファエルとハインリッヒの壺に入ったのか、二人は笑いを堪えて可笑しな表情となる。

 

 まあ分かる。俺だって気づいた問題だから頭を抱え込んでるんだ。エミリオのことだから、ただの言葉遊びとは思えないし、その真意がまるで見えてこない。

 

「……大体訓練にしろ何にしろ、努力してホイホイ解消されるなら苦労しないわよ?」

 

「リバウンドしたもんね……」

 

「ぁ? なんか言った、女装癖?」

 

 言ってません。体重がさらに0.2キロ増加なんて言ってないので、視線だけで刺し貫くように睨みつけないでください。

 

「禅問答とは言えず、かといって哲学的でもない……。気分転換でも退屈そうな命題ですね」

 

 ハインリッヒは話の内容について興味がない様子だ。

 というか、珍しく休憩所にいることに驚きだ。いつもなら研究室に篭りっぱなしで、平気で数日間姿を見せないことすらあるというのに。

 

「お久しぶりですね、マスター。今日はラファエルさんと野暮用があって出ておりますので、終わり次第研究に戻りますのでご安心を」

 

「そんなに物珍しい顔してた?」

 

「いえいえ。ただ私もマスターと比べたら未熟な錬金術師ですので、少しでも時間があれば研究に割きたいだけです」

 

 未熟な錬金術師って……。未熟なら海を凍らせたり、嵐を再現したり、対象の時を遅行する紛い的な物は作れないだろう。

 

 謙遜なんだか皮肉なんだか……。

 どちらせによ、ハインリッヒが自身が持つ強みを理解してるからこその言葉だ。強みが分かってるからこそ、何ができるかを把握して発展させようとする。俺にも誇れるような強みがあれば、彼女みたいに尊大な態度を取れるだろうに。

 

 ……あぁ、ダメだ。卑屈が過ぎる。

 こんなちょっとした会話だけでも、ネガティブになってしまって仕方がない。いつか、誰かに当たってしまうかもしれない。

 

 ……今は一人になりたい。どこかに行って落ち着いたほうがいいのかも。

 

「おっと、こんなところにいたのか」

 

 休憩所へとマリルが入ってくる。どうやら激務続きのせいで、表情には出してないが、そこはかとなく顔色が優れておらず、その手にあるエネジードリンクが妙に痛ましい。

 

 俺が「お疲れ様」と労いの言葉を言うと、マリルは「お互い様にな」と、こちらの心境を見透かした返答をしてくれた。

 

「ハインリッヒでも探してたの?」

 

「探していたのはレン、お前だ」

 

「俺っ!? 何かまた失態でもやった!?」

 

 最近は心身ともに安定してないこともあって、勉学や疎かで赤点間近だったり、食も細くなって体重は一気に3キロも落ちたりした。表情を変えるのも億劫になって、今はイメージガールとしての仕事も休業中だ。思い当たる節はいくらでもある。

 

「不様さはともかく、失態はしてないぞ。……私の耳はよく届いてな。ここ数日のお前の行動と、先ほどまでの会話で想像はつく」

 

「……マリルにはお見通しか」

 

 マリルだけにはどんなに隠し事をしても見透かされてしまう。俺が今どんな苦しい思いをしてるのか、きっと分かりきってるんだろう。

 

「仮とはいえ親を舐めるな。……独り立ちしたい気持ちは分かるが、お前はどこまでも普通の子なんだ。背伸びはせずに、何はどうあれ私に相談するようにはしろ。何だって答えてやる」

 

「マリル……っ!」

 

 頼ってもいいのか。子供みたいに泣きじゃくりたい気持ちを、ただ我儘に言って重荷を肩代わりさせてしまっても。

 

 

 

 だったら、一度だけ弱みを言っても——。

 

 俺一人ではここで限界なんだと、言ってもいいのだろうか——?

 どうしたって前に進めないと、言ってもいいのだろうか——?

 

 

 

「というわけで喜べ。早速お前には特殊身体訓練を受けてもらうことにした」

 

「それはそれで急じゃない!?」

 

 なんて色々考えていたのに、呆気らかんとマリルは俺が強くなるために訓練をしろと言いつけてきた。それは毎日こなし続けている。今更、『基礎身体訓練』を重ねたところで、今以上に急速に強くなることなんて————。

 

 ——って、待てよ。冷静に考えるとなんて言っていた? 

 

「『特殊身体訓練』? 基礎身体訓練じゃなくて? 模擬戦闘とか、戦術講義とかじゃなくて?」

 

「ああ、場所は『霧守神社』——。そこでSIDがレベル5級指定で保護してる特殊エージェント、コードネーム『神楽巫女』の下で、お前にあるであろう力を呼び覚ましてもらう」

 

 ——それは俺が求めていた『何かしらの強み』となる話だった。

 

 俺が何かを伝える前に、マリルは俺が求めているものを理解して準備してくれた。

 

 その好意が、無性に嬉しくてたまらない。

 

「お前が強くなるのを楽しみにしてる。……いつも通りのお前じゃないと、私も弄りがいがないしな」

 

「——-うんっ!!」



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第3節 〜神楽巫女〜

「お待ちしておりました、レン様。私、この神社に仕える巫女である『霧夕』と申します」

 

「ご丁寧にどうも……」

 

 マリルからの紹介で俺は新豊州にある『霧守神社』という場所まで来ていた。

 とはいっても、この『霧守神社』は七年戦争前までにあった本物ではなく、第五学園都市が設立された際に重要な文化財として可能な限り再建されたものであり、使用されている柱からベニヤ板まで全て近代的な物だ。古めかしいのはデザインだけであり、実際は特殊な加工方法を用いて災害対策から防腐や異臭、さらにはスギやヒノキ材と木粉対策やらも既に対応済みと現代科学の進歩が伺える。これには花粉症患者も笑顔が咲く。

 

「霧夕さんが……その『神楽巫女』だったんですね……」

 

「左様です。どこか不思議だったでしょうか?」

 

「いや、神社とかにいる巫女ってアルバイトとかが多いって聞くので……」

 

 第五学園都市『新豊州』は基本的に無神論者ばかりな世俗ではあるが、全員が全員徹底された思考を持ってはいない。ハロウィンにはどんちゃん騒ぎを起こすし、新年にはいつもはしない参拝で今年を神頼みしたりと結構いい加減なものだ。

 

 もちろん俺もいい加減なものの一人であり、年に一回必ずここに来て「今年こそは彼女ができますように」など「サイバーパンク 30XXが発売されますように」などと願ったものだ。

 そのたびに霧夕さんの顔も毎年見て、「この人、今年もいるんだぁ」と一人の男性として見惚れていたものだ。

 

 だが実際こうして深く接してみると意外や意外、コッテコテのデッコデコのテンプレート通りの『巫女』と言わんばかりの黒髪に簪、そして白装束を纏った霧夕さんは、ここ『霧守神社』の正式な人物だったのである。

 しかもSIDが最高レベルのセキュリティで保護してる『神楽巫女』と呼ばれる人物なのだ。度肝を抜かれるのは当然だろう。

 

「確かに助勤の方は多いですね。新豊州はどうしても宗教などといった非科学的なものは感心が薄いので……。助勤の人々もコミケのために巫女装束を資料にして制作したり、興味本位で受けたり、単純に路銀が足りずに日給目当てだったりと様々です。……お賽銭も多くないというのに」

 

「現役巫女とは思えない現実的な言葉の数々……ッ!」

 

 知りたくはなかった。神社の内情が、そんな悲しいことになってるということに。

 

「ギャップに驚いてるようなので、もう一つ驚きの情報です。実は『霧守神社』では屋内にロボット掃除機やドローンを使っていたりします」

 

「神社にそんな近代的なものがッ!?」

 

 それも意外な事実だった。俺の中のイメージだと神社といった昔からある存在する風習や文化は当時のままをなるべく維持しているものかと思っていた。

 

「そうですよ。最新型の機械は優秀過ぎて、私なんか枯葉を処理したりするぐらいです。本業はお父様やお母さまに任せっきりで、勤務時間の半分以上はお茶飲んだり舞踊したりと……。クリーンくんは24時間勤務の働き者で、ドロちゃんは祭事だけでなく防犯対策として上空から監視してくれたりと私よりも役立っています」

 

「珍妙な名前が二つ……」

 

「私ではなく、ある人が付けたのです。そう呼ばないと後で非常に怒られるので……」

 

 今は俺と霧夕さん以外の人物はいないのだから気にする必要はないと思うが、彼女が気にするなら藪から棒に突く事ではない。俺はそういうものだと思いながら、彼女の案内に従い霧守神社を進みながら敷地内を見回す。 

 

 事前にインターネットで見た画像と神社の造りに差異はないのだが、実際見てみると、周囲に見えるビル群や電車の走る音など微塵も感じないほど、神社特有の神気みたいな空気感が漂っている。木々も葉の一枚一枚に生命力の強さを感じてしまい、秋も深まり枯葉として落ちる木の葉でさえ意志を持っているように舞い落ちる。

 

 普段は年末年始で人が混雑している時しか来てなかったから、人が閑散とした状況は新鮮な気持ちで見回してしまう。こうしてみると参拝客が犇めき合って狭い暑苦しいと感じていた神社と言うのは、心にまで肌寒さを伝えるほど侘しさがあった。

 

「こちらがレンさんが利用する寝室となります」

 

「うわぁ……本当にいる……」

 

 やがて俺が寝泊まりする部屋へとたどり着いた。襖で隔てられた先には、細く敷き詰められた畳の網目を移動する白い円盤型のロボット掃除機があり、しかもこのロボット掃除機は相当長いこといるのか、その上にはここで飼っているであろう猫が慣れた様子で丸まって横になっていた。

 

「この神社に住み着いてる野良猫です、名前はまだありません。……猫ちゃ〜ん、お客様が寝泊まりするので出てくださ〜い」

 

 猫は大人しく霧夕さんの言うことに従い、丸まった身体を伸ばすと足早に部屋から出ていった。去り際、俺の方に挨拶をするように「みゃお」と小さく鳴いてくれたのが妙に印象が残る。

 

「入浴や食事に関してはレンさんがご自由にして大丈夫です。商業区の銭湯やコンビニなどを利用して大丈夫ですし、事前にお伝えしてくだされば食事もこちらで用意できます。とはいっても、現代人の舌には合わない質素な物になりますが……」

 

「具体的な献立は?」

 

「白米を中心とした魚の炭火焼きや、おしんこ、汁物ですかね。あとは山菜の天ぷらとか……。パスタやカレーといったものは出てこないので、そういう時は外食をお願いします」

 

 魚を『炭火焼き』する時点で割と豪華だとは思います。

 

 そう思いながら着替えや日用品を詰め込んだスポーツバッグを用意された寝室に置いておき、霧夕さんの案内は続く。

 

「ここが練習稽古をする道場となります」

 

 霧夕さんに次に案内してくれたのは、撮影用の施設なんじゃないかと思えるほど小綺麗な空間だった。壁には練習用だと思われる木刀や竹刀、それに弓から模造刀などが展示されている。

 

「へぇ〜〜。木刀とか竹刀とか触るの初めてかも」

 

「あっ、一番奥の刀に触る時は慎重に扱ってくださいね。我が一族に伝わる由緒正しき真剣なので」

 

「真剣ッ!!?」

 

 じゃあ、本当に切れちゃうじゃん! 

 そういう貴重品の話は、借金娘の身なんだから敏感なんだ!

 

「というか普通触らせないんじゃ……」

 

「先祖代々から触らせる分には問題ないと言われておりまして。……まあ、曰く意思持つ妖刀らしく、不自由にすると祟られるとか。…………一説ではぁ、持ち主を生き血を欲する鬼に変えるなどは言われておりっ……!」

 

「あはは……」

 

 おどろおどろしく怪談話を伝えるように霧夕さんは俺に語りかけてくる。俺、そういうホラー系には耐性ないからやめてください。

 

「ですから触れる際には細心の注意をお願いします。それ以外でしたら、気軽に触れて大丈夫です。ただし許可なく振り回さないようにはしてください。型がなってない動きは怪我の元になりますので……」

 

「鍛錬の際は全集中でお願いします」と霧夕さんは笑顔を浮かべた。

 

 ……やっぱり巫女とは思えないほど聞き覚えのある単語が出てくるなぁ。そういうことなら、俺は俺の責務を全うするしかない。

 

 訓練だ。特殊身体訓練——。

 何が『特殊』なのかは未だに分からないが、わざわざマリルが手配してくれたんだ。きっと大きな意味がある。

 

「……ところで霧夕さんって、見た感じ文化系だから剣道とかには無縁だと思ったんだけど……こういう稽古もするの?」

 

 だけどその前に、少しばかりの疑問だ。

 

 霧夕さんに限らず、神社とかに仕える者は陰陽道とか式神とか、とにかく魔術みたいなものを行使するイメージが俺にはある。

 そんなイメージが固まってる中で、木刀とかの近距離武器を振るう彼女の姿を想像するのが難しくて、つい訪ねてしまうのは我ながらしょうがないと思う。

 

 そんな疑問に霧夕さんは優しく「いいえ」と笑い、間髪入れずに「ですが」と意味深に目を伏せて話を続ける。

 

「……あなたに勝つぐらいは造作もないですよ」

 

 顔色は窺えない。

 しかし、その口にはマリルよりも邪悪な笑みが浮かんでいるように見えた。

 

「……稽古じゃなくて、暇な時に振るったりしてるってこと?」

 

「それもいいえ。それどころか、『私』は生まれてから一度も剣を振るったこともないですよ」

 

「……じゃあ一度だけやります?」

 

 流石に少し癇に障った。互いに未経験だというのに、どこからそんな自信が湧いてくるのか。

 自分で提案をしておいて難なのだが、男が女子相手にムキになるのは多少大人気なかったかもしれない。

 

 

 

 

 

 ……そう考えていた俺が馬鹿だった。

 

 

 

 

 

「……その言葉に二言はないな?」

 

 ——血が逆流するような恐怖を感じた。

 

 霧夕さんは顔をすげ替えたように妖艶な笑みを浮かべ、口調も声のトーンも、同一人物とは思えないほど冷たくも妖しい雰囲気を帯びる。瞳も先程までの慎ましい優しさはなく、道端にある吐瀉物を見るような冷やかささえ感じてしまった。

 

「お、お願いします……っ!」

 

 思わず萎縮しながらも、俺は壁際の木刀を手にかけ——。

 直後、霧夕さんの形をした女性は舞うように俺の懐に入り——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——パァン!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつのまにか、

 

 奪い取った、

  

 木刀で、

 

 俺の下顎を、

 

 打ち上げた。

 

 

 

 

 

「調子に乗るでないわ、ヒヨッコが」

 

 

 

 

 

 そこで、

 俺の意識は、

 闇に落ちる。

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 

 ……頭痛がした。猛烈な頭痛がした。

 だけど、それが急速に引いていく感覚もして、俺は暗闇の中から意識を起き上がらせる。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っ!!」

 

 先程の冷徹な態度はどこへやら。誠意全開の声色で、目紛しく応急手当をしてくれる霧夕さんの姿を俺は見上げていた。

 霧夕さんは今まで見たことがないほど青褪めた表情で、冷水に浸したタオルを、未だに痛みが響く俺の下顎へと当ててくれる。程よく伝わる冷たい感覚が、これまた後頭部から伝わる程よい温かい感覚の相乗効果で気持ち良さが加速度的に上がっていく。

 

 夢心地だ。思わず意識が微睡んでしまう。

 俺は霧夕さんの看護を甘んじて受け、そのままもう一眠りにしようと……。

 

 

 

 ……

 …………

 ………………

 …………

 ……

 

 

 

 ……………………ん? 見上げてる? 

 

 俺は沈みそうだった意識を拾い上げて、現状の把握を急ぐ。

 

 天井。見える。

 背中。床に接してる。

 脚部。床に接してる。

 

 頭部。柔らかい感触ある。

 

 確認。後頭部に手を回して、感触の正体を探る。

 

「ひゃう……っ!」

 

 瞬間。霧夕さんの艶かしい声。

 把握。人肌の温もり。

 

 理解。…………………つまりは?

 

「ごめんっ! 今起きる!」

 

 これ膝枕だっ!? 男子高校生が憧れるラブコメシチュエーションの一つ、女の子の膝枕だよこれ!?

 

「いやぁ〜、まさかこんな一瞬で倒されるなんて……」

 

「あの……本当にごめんなさい。私はやめたほうがいいとは説得していたのですが……」

 

「せ、説得……?」

 

 ——誰に? まさか双子の姉や妹とか?

 

 ……いや、見回しても俺達以外には誰もいない。あるとしたら、壁に立てかけられた様々な稽古用の武具ぐらいなものだ。

 

「……あれ? マリルさんから私のことは聞いていないのでしょうか?」

 

 何も聞いてない。特殊身体訓練を手配したはずのマリルからは「行けば分かるさ。身をもって分かるさ。とりあえず分かるさ」と、かなりいい加減なことしか聞いていない。

 

 それを霧夕さんからは「マリルさんらしいですね」と渇いた笑いを浮かべながらも、姿勢を正して気品漂う見事な正座姿へと組み直す。

 

「では、改めて自己紹介します。今回、特殊身体訓練の担当を任された『神楽巫女』こと霧夕と——」

 

 そこで霧夕さんの雰囲気は、先程と同様に顔自体を入れ替えたように冷淡な物へと変わり——。

 

「————霧守神社の主神、『天鈿女命』や『天宇受賣命』と色々な呼び名はあるが…………最も通りの良い名なら、妾は『アメノウズメ』と呼ばれる者よ」

 

「アメノウズメ……!!?」

 

 聞き覚えしかない名称が、俺の耳に告げられた。

 

 

 

 アメノウズメ—————。

 

 

 

 その名前を聞き、俺は大きく唾を飲み込みながら言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……って何?」

 

 途端、空気が凍った。

 ごめんなさい。その名称はゲームで聞いたことはあっても、具体的に何の神様とかは一切知らないです。

 

「……霧夕ぃぃいいいいいいいいい!!!!! 貴様ら一族は、またも妾に恥を晒すかッ!!」

 

「いえっ! 時代の流れです! 立地の問題です! 新豊州は私も含めて無神論者が多いんですっ!!」

 

「ならば相応の務めを果たすのが道理というじゃろうが! 古来よりの契りを無碍にするつもりかっ!?」

 

「御言葉ですが、ご自身も努力したらどうですかっ!? そもそもこんな土地に未だに根付いてるんのがおかしいんですよっ! 大体何百年前の約束ですかッ! もう時効ですよ!」

 

「神霊や亡霊といった魂だけとなった者は、おいそれと動くこともできないのだ! 大体時効と言っても、元々は貴様ら一族から願った加護じゃ! 自分から願って、自分から取り下げるとか自己中すぎる! もっと頑張るのが人情であろう!」

 

「ムーリーでーす!! 水晶占い、風水術、占星術などのオカルトが廃れてる新豊州で神様を信じてくださいなんて言ったら、私は一転して狂人ですよッ!? 今だって『巫女』や『神社』という立場は、歴史的文化の価値があるから現存してるだけなんですから!! 『神楽巫女』と呼ばれてますが、半ばお飾りなんですっ!!」

 

 ……側から見れば百面相しながら一人芝居をしてる異常者にしか見えないけど、逆にそれが霧夕さんの中に、確かに『アメノウズメ』と呼ばれる存在がいることを俺の中で確信させてくれた。

 

「こうなったらお前も身体を捧げても新たな信仰者を物にせよッ! 安心せい、お前は見た目と声も一級品じゃ! 妾が保証する!」

 

「そうやって理由をつけて脱がせようとしないでくださいっ!! 私にも理想というものがあるんですっ! 黒髪で素朴で純粋な殿方! そして籍を入れた夜に、私の身体を捧げると決めてるんですっ!」

 

 …………手持ち無沙汰だなぁ。

 

「それなら目の前にいる小僧がいいぞ。お前の言う黒髪、素朴、純粋と見事に一致しておる」

 

「殿方だと言って…………って小僧?」

 

「小娘ではなく?」と俺に視線を合わせる霧夕さん。あまりにも突然に振られたため、俺も理解が追いつかずに固まったままだ。

 

 それを肯定と受け取ってしまったのだろう。

 霧夕さんは顔をみるみる赤くしていき、俺の身体を隅々まで凝視した。

 

「えっ!!? えっ!!?!? でもでもでも……っ!?」

 

 これでは見るというより『視る』だ。徹底的にこちらの身体を確認したのにも関わらず、目で得た情報だけでは信じられないのか、霧夕さんはこちらに手を伸ばして真っ先に——。

 

「ひゃっ……!」

 

 漏れる俺の声。

 

「ついてないです!」

 

 啖呵を切る霧夕さん。

 

「……お主かなり無遠慮なことしとるぞ?」

 

 相変わらず秘部だけには手を添えたまま、人格を交代させたアメノウズメさん。

 

 

 

 ——ふにっ。

 

 

 

「っ……!」

 

「あっ……」

 

 

 

 

 

 

 ——流れる沈黙。

 

 

 

 

 

 

「そ、その……気にしなくていいから……大丈夫だから……」

 

「……本当にごめんなさい」

 

 十数秒後。心底落ち込んだ雰囲気で、霧夕さんは床に『の字』を書いてしゃがみ込んだ。

 

 気持ちはわかる。俺だって目の前の可愛い子が「実は男の娘ですよ?」と言われたら、とにかく分かりやすい判断方法として、そりゃ確認すると思う。便所でナニの長さを見比べるの同じ感覚で気さくに。

 

 ……でもそれは男と男だからこそできる距離感で、しかもある程度親交がある場合に限る。それなのに創作物みたいなバグった感覚で、しかも身体上は女と女とはいえ、躊躇もなく第一に秘部に行くかと言われたら反応に困る。普通は胸だろう、つまりはおっぱいだろう。

 

 …………言い慣れてきたことに自己嫌悪しそうだが、それは今はどうでも良い。

 

 もしかしなくても霧夕さんって、今まで異性との会話を——。

 

『中々面白い子じゃろ〜?』

 

「うわぁあああああああ!! 急に背筋がゾワっとしたぁぁああああああああああ!!?」

 

 霧夕さんは未だに反省中だと言うのに、『俺の中』から先程とはまた別の声色にも聴こえるアメノウズメの声が届いた。マリルにも匹敵しかねない威厳と恐怖に満ちた雰囲気だ。本能的に萎縮してしまう。

 

『うむ。妾の思った通り、お主も依代として上質な肉体と魂をしておる。……まあ、お前の場合は人には言えん事情もありそうじゃが』

 

「依代ッ!? というか二重人格とかじゃないの!?」

 

『妾は主神で、アメノウズメだと言ったであろう。……しかしお前色々と面白いのぉ〜?』

 

「いっ……! ちょっ……!? ひゃ……!」

 

 俺の意思に反して『俺の両手』が、自分自身の身体を舐めるように這って、ありとあらゆる部位を確認するように一人でに揉みしだき始める。

 

 何とも言えない奇妙な感覚だが、直感でわかる。今の俺の肉体はアメノウズメと呼ばれる存在に操られている。どういう理屈かまではサッパリだが、科学的ではないということは確かだ。

 

『精神は男性……。肉体は女性………。適正も良き……。はぁ〜〜〜〜♡ いい、良い、イイ! 実に良いッ!』

 

 それにこの人、確実にロクな人じゃない。ソヤと似た系統だが、恐らくベクトルが正反対だ。ソヤが被虐的なら、こちらは加虐的だ。身の危険を感じて鳥肌が止まらない。

 

『遊び甲斐がある……。こんな気持ちになったのは——』

 

 すると、アメノウズメと名乗る存在の雰囲気は一転した。

 実体がないのだから表現的にはおかしいかもしれないが、彼女は思い出すように呼吸を澄ませて静かに黙する。

 

 やがて溜息とも嘆息とも言えない息を吐くと——。

 

『……………………何とも不思議な因果じゃ』

 

 と感慨深くアメノウズメと呼ばれる存在は囁いた。どうやら思い当たる節があるようだ。

 とはいっても、俺はこの人達とは初対面だ。何か言及したところで、俺自身わかることは少ないだろう。今は踏み込むべきことじゃない。

 

「あの〜……そろそろ、ここで何をするのかを聞きたいのですが……」

 

 踏み込むとしたら、今日ここにきた理由である『特殊身体訓練』についてだ。さっき言っていた通りなら、今回担当するのは未だに床に『の』を書き続ける霧夕さんと、現在俺の中にいるアメノウズメということになる。

 

『そうじゃの、話は霧夕を通して聞いておる。それでは始めるとするか』

 

 彼女は一拍子分の呼吸を置くと、特に勿体つけることもなく自然体のまま言った。

 

『特殊身体訓練、『刻印覚醒』をな』



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第4節 〜刻印覚醒〜

『刻印覚醒』——。

 

 正直、俺には聞き覚えのない単語だ。

 今まで『魔女』や『聖痕』などといった能力的な存在を聞いてはきたが、今回については皆目検討もつかない。

 

「それでは……まず『刻印覚醒』について説明させていただきます」

 

『仰々しい名前はついておるが、実際は簡単なものだ。気を張る必要などないぞ?』

 

 姿勢を正した俺は、知らない間に立ち直っていた霧夕さんとどこかでいるであろうアメノウズメと向かい合う。

 その間にアメノウズメと呼ばれる存在は、現在『すてれおたいぷ』という物になっていると辿々しく伝えてくれて、霧夕さんを通さずとも俺も彼女の声は聞こえてはきている。

 

 

「刻印覚醒……名の通り『刻印』というものを目覚めさせるものではありますが、これ自体は『聖痕』というものと大きな差はありません」

 

「じゃあ、その小さな差が何なの?」

 

「結論から言いますと『聖痕』由来の能力を使えるか、使えないか。いくら異能の力を宿していようと、最初から使えるものは限られているんです」

 

 最初から使えるものは限られる——。

 その話を聞いて、思い浮かべたのはラファエルやエミリオ達だ。

 

 ラファエルは元々癒しの力を秘めていた節があり、それをベアトリーチェや俺と繋がったことで、回復魔法を使えるようになった。

 

 エミリオやヴィラは本人達からの又聞きであるため『刻印』とは違うかもしれないが、異質物に触れたことで血を操作する力や、常人離れした怪力を身につけたりもした。

 

 ソヤの共感覚は生まれつき。アニーの超次元投法や打法は『魔導書』から付与された『魔法』の一欠片に過ぎない。ハインリッヒやベアトリーチェの能力については、元々あったものか『魔導書』によって付与されたものかは定かではないが……。

 

 そういう前者の存在……いつかマリルが口にしていた『魔女の繭』と呼ばれる段階での状態、あるいはその前段階に近いものを『刻印』というのだろうか?

 

「『聖痕』があるのに使えない状態。これを『刻印』と言い、それを目覚めさせる。これが今回行う『刻印覚醒』と呼ばれる特殊身体訓練といいます」

 

「あるのに使えない……そんな人いるの?」

 

 自覚があるのなら使えそうな気がするのだが。

 

「割といますよ? 例えば生まれ持って運がいい人とか、道案内を聞かされやすい人、スポーツ全般上手い人、物覚えが早い人……。『日常』に溶け込んでいて、分かりにくいけど『妙に人と違う個性がある』……そういう部分の一割くらいは『刻印』状態であることが多いんです」

 

 霧夕さんから実例を出されて、すぐに俺も身近にそういう人物がいたことを思い出した。当然、ラスボス系お嬢様ことラファエルだ。思い返せばスカイホテルでの一幕で——。

 

 

 …………

 ……

 

《それの何がおかしいの? こんな動物なんて、どこにでもいるじゃない?》

 

《いやいや、ここは地下3階の駐車場だぞ……》

 

《だから何よ? 普通でしょ?》

 

 ……

 …………

 

 

 とか、鳩がいることを不思議に思わないという常識はずれのこと言っていたな。

 

「それに気づいていても、今度はそれをどうやって『覚醒』させるかは能力に応じた訓練方法があり、人によって方法は違います。……その方法が分からずに『刻印覚醒』できない者もおります。というか大多数がそれです」

 

 今度もラファエルのことを思い出す。

 ベアトリーチェに指摘されて初めて力の使い方を分かったくらいだしな……。案外『刻印』……つまりは『聖痕』の卵は身近で存在してるものかもしれない。

 

「って、待て待て! 人によって方法が違う!? じゃあ、どうして俺と霧夕さんが一緒にいるの!? 聞いた限りだとマンツーマン的なスタイル意味ないよね!?」

 

「それは簡単です。……ウズメ様、お願いします」

 

 彼女は深呼吸を一つすると——。

 

「——よい。ここからは妾が説明しよう」

 

 アメノウズメ……長いのでウズメさんと呼ぶことにするが、霧夕さんの身体を借りて話してくれた。

 

「見ての通りだ。妾は霧夕の身体を借りている状態だ。こういう亡霊、神霊といった存在の魂を自らの身体に憑依させる術を『降霊術』といい、これこそが霧夕が持つ『聖痕』となる」

 

「なるほど……」

 

 だから聞き覚えのある神様であるウズメさんは、こうして霧夕さんの身体を動かしてるわけか。……というか逆か。霧夕さんが、ウズメさん力を借りたい代わりに身体を譲る……という認識のほうが正しいのだろう。

 

「……その『降霊術』と俺に何の関係が?」

 

「もう一度言う。亡霊、神霊と存在の魂を自らの憑依させるのが『降霊術』だ。……さて、お前これに似た覚えをしたことはないか?」

 

 似たこと? そう言われて、俺は今の今までの記憶という記憶を全て掘り返す。

 

 南極の時——、見当がない。

 藩磨脳研の時——、思い出せない。

 猫丸電気街の時——、思い当たらない。

 

 そこまで記憶を手繰り寄せて気づく。次の事件で起きた事態を。マサダブルクであった出来事を。

 俺自身に記憶はないが、映像状の記録とマリルの証言はこう言っていた。

 

 

 

 …………

 ……

 

《そしてエミリオ曰く、屋上でお前の手を引いた時、言葉では説明できない何か膨大な力が、体内へ流れ込んできたと。『ハニーコム』を撃退した時より何100倍も強力なものであったようだ。身体が溶けてしまうと思えるくらいに、おかしな感覚だったとも言っていた》

 

 ……

 …………

 

 

 

 それに——OS事件での時もそうだ。

 最下層で『異形』と戦闘した時、俺は何を思った——?

 

 

 

 …………

 ……

 

《自分に、俺に……》

 

《…………『■』に守れる力があったらと》

 

 ……

 …………

 

 

 

 そう思っていて……『誰か』の『魂』が流れ込んできて——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

《……もう二度と『俺』(■■■)の大切な人を失いたくない——》

 

 

 

《忘れないよ》

《無理だって。人の夢と書いて『儚』いんだぜ?》

《じゃあ思い出すッ!》

 

 

 

《もう一度会いたい?》

《もう一度、なんて無理だよ》

 

 

 

《絶対っ! いつか、■■■■■と一緒に君を『■』の外に連れ出すから!》

《…………じゃあ、その時に改めて聞くよ。■■■■■ちゃんの道を。……君の道を》

《最後に、俺はレン! レンっていうんだ!》

《『最後』じゃないでしょ、レンちゃん》

《……そうだね、それじゃあ》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……《■■■■■■■》——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

「——ッ!?」

 

「大丈夫か、小僧?」

 

 未だかつてない激しい頭痛が脳内で暴れ回る。

 氷柱が炎を纏って突き刺すように堪え難い痛みだ。

 

 

 

 ——この頭を割く『記憶』は——

 ——この胸を張り裂ける『悲しみ』は——

 ——この心を擦り抜ける『虚しさ』は——

 

 

 

「ッッ……!?」

 

 ——誰だ? 誰なんだ? 君は……!!

 

「ダメだ……ダメだッ……! 誰なんだ……ッ!?」

 

「意外と重症じゃのう——。って、言ってる場合じゃないですよ!?」

 

 途端、一人で二人分の声が聞こえてきた。

 声は手綱となり、■の心を引き上げてくれる。

 

「レンさん……大丈夫でしょうか?」

 

「……うん、大丈夫。私は大丈夫……」

 

 いや——待て待て。まだ気が錯乱している。

 

 ■ではない。俺だ。……俺? いや、■は俺……。

 ■ではない。私だ。……私は——私は……。私は……。

 

「しっかりしてレンさn————。起きろ、小僧ッ!」

 

「は、はいィ!!」

 

 背筋が強制的に叩き上げられそうな怒号で、俺は今度こそ意識を浮上させた。

 

 ……今、俺は何を考えていた? 自分が自分じゃなくなるような蝕む感じがしていたのは覚えているが……。

 ダメだ、これ以上思い出せない。ただ胸を突き抉る『悲しみ』だけが残っているだけだ。

 

「妾に人間の世話を焼かせるな。これでは立場が逆だ」

 

 そこでウズメさんの雰囲気は消え去り、霧夕さんが持つ優しい雰囲気が表に出てきた。

 

「突然私の身体を借りないでくださいっ!」

 

『緊急事態であった。まさかここまで此奴が器としての完成度が高いなんてな……』

 

「器……完成度……」

 

 そうだ、今は『刻印覚醒』についての話をしていたんだ。俺なりに出た答えを伝えなければ、話が進まないじゃないか。

 

 両頬を赤く腫れかねないほど強く叩いて、自分の意識が微睡んでいないことを再認識する。問題ない、俺は俺だ——。

 

「えっと、話は戻るんですけど……似た体験って——」

 

『まあ、実体験もしたし、今更妾が霧夕の身体を借りて実例を出すまでもなかろう。説明するのも面倒だから、あとは霧夕に任せる』

 

 実体験って……。まあ言いたいことはもう既に理解はしてあるのだが。

 

「そういうところ人任せなんですから……。ともかく、レンさんが想像してる通りです。私の『降霊術』と、レンさん自身が持つ『能力』…………これらは種類は違えど、方向性としては『非常に酷似』しています」

 

 ……思っていた通りの答えが返ってきた。

 

 確かに今さっき俺が引き起こした『魂が溶け合う』感覚と、霧夕さんがウズメさんを憑依させる『降霊術』はかなり似ている。

 

「つまり方向性が似ているから、この力を使い熟す助言が期待できる……ってこと?」

 

「はい。とはいっても、助力できるのは糸口までとなりますが。……それほど『刻印覚醒』というものは非常に繊細です」

 

 だけど、その『魂が溶け合う』感覚を能力として宿すことさえできれば、今度こそ俺はスクルドの時みたいな悲劇を起こさずに済むんだ。

 

 能力を身につけるにあたって、踏み出さなきゃいけない第一歩……その方向性が分かるだけでも儲けものだと思えてしまう。

 

「よし! じゃあ早速頑張ろう! まずは何をすればいい?」

 

 そうと分かれば、俺の調子も一気に上向きになる。方向性さえわかれば、あとはどうやって伸ばすかだ。期待で胸が込み上げる中、俺は好奇心とワクワクがいっぱいの視線で次の言葉を待っていると——。

 

「座禅です」

 

 ——昔の少年誌でもやらない恐ろしく地味な単語が聞こえてきた。

 

「今なんと?」

 

『座禅と言ったであろう。耳が遠い男は好かれんぞ』

 

 ウズメさんもエミリオと同じく読心能力持ちかい!

 

「座禅って……あの座禅?」

 

「はい、想像通りの座禅です」

 

 想像通りなら、寺内とかで足を組んで瞑想するやつだ。集中力が切れたら棒とかで肩や背中を叩きつけられたり、その姿勢のまま跳躍したりと、なんか結構色々と流派というか…………場所によって行うのは様々だった気がする。

 

「座禅とは精神統一の修行でありますが、それを行う理由に関しては『自我』を極力まで消して、自己以外で『自我』を確立させる心の強さを得るためにあります。先ほども混乱した状態となっておりますので……」

 

「自我を消して……自我を確立させる?」

 

 エミリオと同じ、とんち全開では?

 

「もちろん自己以外で確立された自我が、本当の自我と言えるかはどうかは分かりません。それさえも超越して『自我』を得る……それこそが、今のレンさんに必要な初歩となります」

 

「初歩ッ!!?」

 

『そうだ。貴様には最終的には、壁にかけられた真剣……『妖刀・蝶と蜂』に眠る力を、己の意思を保ちつつ振るうのが目的となる』

 

 そう言われて、先程霧夕さんに釘を刺された真剣へと視線を向けた。

 

 ——曰く、意思持つ妖刀。

 

 俺が苦手意識全開で話半分で聞き流していたということもあるが、霧夕さんがホラー番組みたいにおどろおどろしく伝えるものだから、冗談や御伽噺かと思っていたが……神様であるウズメさんが言うのなら、本当にこれは意思を持つとでも言うのか?

 

『とはいっても、あくまで最終的には話であるし、無理なら無理で構わん。代々受け継がれているが、霧守神社の巫女で妖刀の真価を発揮したのは一人しかおらんしの』

 

「たった一人ッ!? まさか——」

 

 そこで霧夕さんに視線を向けるが、当の本人は「違います」とアッサリと否定した。

 

『江戸時代の話だ。もうおらんし、お前が気に病む必要はない。……まあ、並大抵の力では到達不可能な領域だとは覚えておくと良い』

 

 神様がそう言うのなら、そう納得しておこう。本人が言っていた通り、あくまで最終的な話だ。今やるべきことが自我を確立させるためなら、座禅でも滝行でも何度もやってやる。

 

「お願いしますっ!!」

 

 

 

 

 

 ……と、意気込んでいたまでは良かったんだけど——。

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「呼吸は一定の間隔で、一定の量を心がけずに心掛ける!!」

 

 

 

 そりゃ酷いスパルタ指導が待っていた。

 少しでも呼吸の間隔がズレたり、背筋が曲がったりと、姿勢が揺らいだりしたら、全力で叩き棒で引っ叩かれた。それはもう痣が出来上がるほどに。

 

 

 

「あぁ〜〜♡ 良いのォ! 女子が悶える姿は沸るッ!!」

 

 

 

 霧夕さんの身体を乗っ取って、悦に浸るウズメ様の姿は本当にマリルと愛衣を悪魔合体させたような表情を見せるし、見た目は霧夕さんだから外見とのギャップ差が凄まじい。

 

 しかも、これが俺が情けない姿を晒すからという確かな理由があるせいで、不当だの過剰だの一切言えない。実際に指は痒くて眉が動いたり、集中しすぎて睡眠状態に入ったりとしているのだ。

 

 

 

「あの……レンさん?」

 

「ヒッ!? 追加の鍛錬でしょうか、ウズメ様ッ!?」

 

「今は霧夕ですっ!」

 

 

 

 挙句には霧夕さん=ウズメ様と脳が勝手に認識してしまい、今では霧夕さんの顔を見るだけで身が震え上がってしまうほどに、そりゃ大変痛い思いをした。

  

 だけど、アメノウズメ様のおかげで精神統一の成果は大きな向上を見せた。最初は風が通る音を聞くだけで雑念が起きたが、今では五分間も意識を安定させることができる。五分は短いとかいうなよ、これでも大きな進歩だ。

 

 

 

「今後は真剣を持つ重みを慣れてもらうために、常に模造刀を持ちながら鍛錬に励んでもらう。更には実戦稽古も追加する。着いて来れるな?」

 

「大丈夫です、アメノウズメ様!」

 

「よしっ! 元気が有り余ってるなら、今日の稽古は二倍漬けだッ!」

 

「ありがたき幸せでありますっ!」

 

「うむっ! 元気に免じて五倍増しでやるかのう!」

 

「ありがた幸せですっ!」

 

「ならば、さらに五倍付け———って、それ以上したら死んじゃいますよ! あとレンさんもイエスマンにならないでくださいっ!」

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

「……とまあ色々あってね。今ではアメノウズメ様の加護を受けた立派な使者として毎日祈りを捧げる——」

 

「レンちゃんが宗教に嵌まっちゃった……」

 

「流石の私も頭に効く回復魔法は使えないわよ?」

 

「リカバーないのかぁ」

 

「エスナじゃなくて?」

 

「アニー・バースだからね」

 

「……なるほど」

 

 鍛錬も早一ヶ月。日課となったラファエルの回復魔法で目立つ外傷という外傷を無くして貰いながら、今日までの鍛錬の成果についてアニーとラファエルに伝えていた。

 

 だというのに何だ、その無礼な態度は。アメノウズメ様を何だと心得ている。状態異常みたいなデバフだと思っているのか。どう考えてもバフに決まっているだろう。

 

「アナタ、自分が何だと思ってる?」

 

「それはアメノウズメ様に奉仕する従者でございます。この身の生涯をすべて捧げるべく加護を受けた……」

 

「思いっきり自我を見失ってるわよ。アンタはアンタでしょうが。……変態女装癖さん?」

 

「俺は変態でも女装癖でもない! ……ってアレ!!? 俺、別にウズメ様に奉仕する従者でもなくない!?」

 

「まだ抜け切ってないけど、ショック療法は成功ね」

 

「ナイスッ! ナイスだよ!」

 

 どうやらまた何かしら正気じゃなかった節があったようだ。こうしてやると分かるが、『自我』というものは結構あやふやでしょうがなく感じる。

 

 ……多分、俺が『男』でありながら『女』であるという奇妙な状態なのも起因してるのだろう。

 いつか愛衣が、俺の脳神経は男女特有の思考が両立しているとか言っていたのを覚えている。そのせいで色々と多感な部分があり、良くも悪くも共感しやすく影響を受けやすいとか、感じやすいとか何とか……。

 何せ聞いたのが御桜川女子校に転校してから間もない頃だ。そこまで言っていたかは流石に自信はないが、似たようなことは間違いなく口にしていた。

 

 ともかく、俺の状態はそれの影響も大きいとは思う。

 思い出すだけでも身震いする。あの『魂が溶け合う感覚』——。恐れか興奮かは定かではないが、こんな能力が制御できないという事実には未熟さを感じてしまう。

 

「これで目立つ傷や痣は無くなったわよ。……アンタってやつは、本当に私がいないとどうしようもないヘタレね」

 

「面目ない……」

 

「じゃあ、私たちは帰るから。冬休み前のテストもあるんだから、私のノートでしっかり勉強してね!」

 

「分かってるって。……マリルからも怒られるし」

 

 そこで二人は生活用品とか含んだ諸々を置いて行って、商業区へと姿を消して行った。

 

 ……さて、明日も鍛錬を続けないといけない。しかしテストの点数も疎かにするわけにもいかない。俺は棚付きのローテーブルに教材を入れて畳の上に座り、OS事件の時にバイジュウから手渡された《電子機器による思考領域拡張》と、アニーから貸してもらった《人体力学の可能性》について黙読を始める。

 

 目指すべき『強くなること』——。

 そのためには、全方面において頑張るのを怠ることはできないんだ。

 

「レンさ〜ん! 血族が不在なので今日は出前でも取りますか? ピザとかどうですか? フライドチキンとかどうですか!? パスタとかどうですかー!?」

 

『妾も外国の料理というのも実に興味ある! ウーパールーパーというものも現世ではあるのだろう?』

 

「前から思ったけど、アンタらの信仰心結構いい加減だよな!? あとウーパーイーツですからね!?」

 

 その夜クアトロピザを食ったが、霧夕さんは久方ぶりにこういうジャンキーな物を口にしたのか、面白いくらい輝かしい笑顔で頬張り、ウズメさんに至っては言い切れないほど一々面白い反応を見せたことで、普段の加虐的な雰囲気と相まって可愛く感じてしまった。

 

 ……やはりウズメ様は素敵なのでは?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、夢を見た。

 刀を手にしながら祈りを捧げる少女の姿を。病的なまでに白い肌に、細くしなやかな腕。身長なんか俺よりもどう見ても低く160にも満たしてない。

 

 彼女は身の丈に合わない刀を弱々しく抱き続け、虚空へと泣きながら祈りを……切望を吐き出し続ける。

 

 

 

 

 

「神様……お願いしますっ。どうか、どうか……すべてを夢にしてくださいっ……!!」

 

 

 

 

 

 それは、忘れようのない望みであった。

 何故なら、俺と同じ……『地獄』で願ったことと同じだったから。

 

 

 

 ……そこで夢から覚める。



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第5節 〜天狗之隠〜

「そう……そのまま肉体の力は最小限に……。精神と肉体が線引きされる境界線がいずれ見えてくるはずです。その先に『魂』だけが存在する世界があります……」

 

 

 

 ——。

 ———。

 ————。

 

 

 

『よくここまできた。だが、これ以上はまだ危うい。一度戻れ』

 

 

 

 ————。

 ———。

 ——。

 

 

 

「——やった、見えた!」

 

 さらに時は経過して早くも12月の初週。

 ついに俺は『自我』を確立させる糸口にたどり着いた。

 

 感覚としては不思議なもので、一番近い感触で言えばVRの感覚としか言いようがない。

 自分ではあるけれど自分の肉体ではない仮想の肉体。現実のものではないと止めどなく認識したまま、現実の肉体を動かすことなく、しかもコントローラがないまま脳内で操作を行う——。

 

 例えるなら、夢でオネショをしても現実ではするなって感じ。非常に集中力が要求される。

 

 長くて10分——。場合によってはもっと短くなる——。

 それが今できる『自我』を維持する時間だ。長いような、短いような……。

 

「やりましたね、レンさん!」

 

『うむ、妾が少々繋がりやすいように配慮していたとはいえ、よくもまあ二ヶ月で、自分から妾に近づくまでの段階まで持って来れたな』

 

「うん……だけど——」

 

 ここまで来て、改めてバイジュウが持つ『魂を視認する』という能力が凄いものであるのかを再認識した。ほぼ毎日、ブラック企業も真っ青の密度と時間を二ヶ月かけて、ウズメ様の助力がありつつやっと入り口まで来れるのが精一杯だ。

 

 ソヤの共感覚もこれに近い感じなんだろう。視界のあらゆるものが『色のついた匂い』となって見える……。バイジュウもソヤも、それらを視認するのを当然のようにやっておきながら、俺ではその領域に入ることさえ下準備と集中力がいる上に、さらには肉体面の視界として反映できない。

 

 イメージ上ではVR——つまりは『仮想現実』となっているが、実際のところは現実と仮想の融合——最も近しいのは『複合現実』と言える『MR』や『多用した新しい現実』を受け止める『XR』という認識が脳内で処理されてると思わないといけないんだ。そういう意味ではバイジュウから渡された書籍はイメージを固めるのに随分役に立つ。

 

 だというのに、この体たらく……。

 今まで自分が皆より下である自覚はあるにはあったが、ここまで大きな差があるなんて想像していなかった。

 

「それでは修行の第二段階。先程はウズメ様が止めてくださいましたが、今度は繋がってみましょう」

 

「繋がるって……まさか、あの妖刀を握るのッ!?」

 

「流石に無理です。……なので、こちらの木刀を使ってください」

 

 そう言って手渡されたのは、この二ヶ月で何度か触ったことが木刀だ。ごく普通の練習用であり、これ自体に歴史も曰くもないと思うんだけど……。

 

「レンさん。『九十九神』という物を聞いたことはありますか?」

 

「某著作権に厳しいアニメーション会社が描く玩具の物語的なやつだよね?」

 

「著作権に厳しいのは創作全般です。特別あの会社が厳しいわけではありません。……細かい部分は違いますが、まあそんな感じです。長い間使われた物には『魂が宿る』——これが九十九神ですね」

 

「『魂』か……」

 

 その単語にも随分聞き慣れたものだ。「どういうもの?」という疑問が湧く前に、「あぁ、俺が関わる物だ」と自然に受け入れてしまうくらいには。

 

 故に次にどう続くかも即座に理解する。つまりは『九十九神と魂を溶かすことを目指す』——そういうのだろう。

 そのことを霧夕さんに伝えると、褒めるように「はい」と笑顔を浮かべて答えてくれた。

 

「とはいっても『九十九神』という名前は付いていますが、実際に神様や精霊が憑いているケースは非常に稀です。レンさんも気づいてると思いますが、何代かに渡って使われている木刀でも憑かない時は憑きません」

 

「まあ、触って感覚で何となくは……」

 

「ですが、それでイコール木刀には『魂がない』ということではありません」

 

 ……木刀って無機物だよな? それに『魂』が宿る? 

 

 文字通りの意味なら、魂を持った精霊や神様が憑くわけではなく、木刀そのものに魂が宿るということになるが……? 不可思議にも程があるような……?

 

「これは人によって捉え方は非常に差があるため、これだ! ……と言える結論はありませんが……『魂』とは『情報』でもあります」

 

『魂』とは『情報』——。その言葉を聞いて、女の子になった直後『イージス』によって俺が俺である証明された事実を思い浮かべた。

 それを言われてしまうと、どうあれ納得せざる終えない。この身に起きたこと以上に不可思議なことがあるわけないのだから。

 

「培われた技術という『情報』は、使用していた人間だけでなく『物』にも宿ります。であれば『魂』から辿ることで『技術』という『情報』へと辿り着き、降霊させることができれば宿っていた技術を引き出すことができる……これが修行の第二段階となります」

 

「……理屈は分かったんですけど、可能なんですか?」

 

「可能というか二ヶ月前に実践しましたよ? ……あの時は初対面であるのも関わらず、ウズメ様がご無礼なことしてしまいました」

 

『妾は問題児扱いか?』

 

「実際に問題児です」

 

 二ヶ月前、初対面——。

 だとしたら、下顎を木刀で打ち上げられた時のことで間違いないだろう。確かに霧夕さん(ウズメさん?)は直前に『私は生まれてから一度も剣を振るったこともないですよ』とか言っていた。

 

 ……あれは魂に紐付けられた『技術』を『降霊』させることで振るわれた一刀だったってわけか。

 

「ん——? 降霊する魂は一つだけとかみたいな制限はないの?」

 

 そこで湧くのは一つの疑問。あの時確かに、俺はウズメさんの手によって一瞬で打ち伏せられた。しかしウズメさんが既に憑依してる中で、木刀に宿っていた九十九神……つまりは『魂』という名の『情報』を憑依させることができるのか?

 

「個人差によりますね。私でしたらウズメさん以外にも、もう一つぐらいは宿した魂を操作することは可能ではありますよ。物の技術もそうですし、他にも——」

 

『『言霊』とかな?』

 

 ウズメさんの悪戯じみた声が聞こえた瞬間、霧夕さんは女の子がしちゃいけない心底嫌そうな表情で虚空を睨みつける。

 ……俺には見えないけど、今あそこにウズメさんがいるんだろうなぁ。

 

「……何のことでしょうか?」

 

 すごく見ちゃいけない物を見た。

 

 霧夕さんの眉間の皺が取り返しのつかないほど寄せられ、それこそ般若が宿ったのではないかと錯覚するほど怒気という目力がウズメさんに突き刺さっている。

 

『昔のことを思い出したまでよ。あれは……お前が14歳の頃……札に術式を書いていた時、解放するための呪文をダークリパル——』

 

「言・わ・な・い・で・く・だ・さ・い!」

 

 14歳の頃——。呪文——。

 

 ……ああ、ここにも若き日の過ちを刻んだ人がいたのか。俺だってきっと、前に住んでいた部屋の奥には、思春期を侵した少年の夢が未だに眠っているんだろうなぁ。できれば掘り返したくないよなぁ。

 

『まあ、そういうわけで霧夕は呪文の詠唱に言霊を用いることもできる。妾がいても問題ないほどにな』

 

「へー……。だったら俺も鍛錬を続けていけば、能力を別の方向に伸ばすこともできるのかな?」

 

「うーん……正直レンさんの能力は、まだ入り口にたどり着いた段階でして、明確な効果などは分かり切ってはいませんからね……。能力次第としか言いようが……」

 

 だろうなぁ。そんな簡単かつ楽観的に習得できるなら、ここに二ヶ月間も鍛錬漬けになっていない。

 

「まあ、とにかく『刻印覚醒』は近道できても、いきなり一から十になるわけではありません。一から二、二から三。最短距離で真っ直ぐに、順番通りに熟すしかありません」

 

『舞踊と同じよな。流れがあるから舞は美しくなる。……継ぎ接ぎだらけの踊りは見るに堪えん』

 

 ごもっともだ。地獄のように長くも短い二ヶ月で得られた成果とは未熟過ぎて焦りが募りに募るが、道筋はあるのだからどうこう言えるわけでもない。ただひたすらに敷かれた道を歩むしかない。これしか今はすることがないんだから。

 

「やる……。第二鍛錬、魂を繋げて技術を得てやる!」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「隙だらけだ」

 

「なんでっ!? 何をどうすればいいのか分かってはいるのにっ!?」

 

 意外にも『魂を繋げる』ことには意図も容易く成功した。

 想像した通り、ただ維持するだけなら10分だったが、戦闘も兼ねると集中力を異様に消費してしまい、戦闘内容次第だが数十秒しか持たない。

 

 そこまではいい、想定通りだ、別に悲観することじゃない。

 

 問題はその先にあった。

 単純に『技術を行使できない』という問題にぶち当たった。

 

 やり方も理屈も頭にはある。魔導書と違って意味不明な羅列ではなく理解することもできる。だというのに何一つ使用できずに、本日何十回目となる模擬戦でウズメさんに連戦連敗を記録してしまう。

 

「何で……?」

 

 自由を得るために進撃する某主人公みたいに、仰向けのまま両足が頭の先にあるという恥ずかしい体位のまま疑問に耽る。

 

 そんな疑問にウズメさん——じゃなくて、いつのまにか切り替わっていた霧夕さんは知っていたと言わんばかりに「簡単ですよ」と優しく囁いた。

 

「純粋に『足りない』だけです」

 

「足りない?」

 

「はい、全体的に。筋力とか、反射神経とか、レンさん自身のフィジカルが絶対的に足りません」

 

「うそぉ……!?」

 

 ここにきて、そういう俺個人の身体的問題が出てくるんですか!?

 

『こればかりは反復練習を続けて慣らすしかない。筋力は……ここ二ヶ月で大して様変わりしておらんし、元々筋力がつきにくいと見える。……胸と尻は成長しとるようではあるが』

 

「あんた現代人だったら訴えられて死罪ですよ?」

 

『元々死んでおる〜〜』

 

 今まで座禅とかして自我とか確立したりとメンタル面での鍛錬だったのに、今度はそういうフィジカル面での鍛錬が始まるのか……。

 しかも魂と繋げることだって完璧じゃないんだ。今後も持続時間を伸ばして、実戦でも使えるようになるのに最低限でも一分……それ以上を求めないといけない。だというのにフィジカル面での鍛錬も続けて両立させないといけないのか?

 

「……辛いな」

 

 ひたすら辛い。別に嫌というわけでも、挫けそうとかではない。

 夏休みの宿題が終わっていないのに、さらに課題が追加されて、しかも夏休み明けに抜き打ちテストというイベント満載なことが純粋に辛い。恐ろしく体力も気力も疲弊して仕方がない。

 

 ただでさえ毎日限界ギリギリまで鍛錬してるというのに……果たしてその余裕が俺にはあるのか? 

 

「しかしフィジカル面では霧守神社では効果的なことができません」

 

『かといって『刻印覚醒』のために、精神鍛錬も疎かにするわけにもいかん。ここを離れるのも賢くはない』

 

 次々と問題は浮き出てくる。両立するには霧守神社にいるだけでは足りない。これでは鍛錬の意味が成せない。

 

「というわけで、ここからは鍛錬も兼ねたレクリエーションです」

『というわけで、ここからは鍛錬と戯れを混ぜた遊びをするか』

 

「……はい?」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

『ちは——』

 

「から!」

 

『む——』

 

「き!」

 

「それで百人一首するのッ!?」

 

 いくら何でも温度差がありすぎる。急転直下の高低差で耳諸共頭がおかしくなりそうだ。

 

『百対零で霧夕の完勝〜』

 

「イジメッ! 初心者相手に酷くないッ!?」

 

「いえ、レンさんも筋はいいですからね?」

 

「嫌味ッ!?」

 

「いえいえ本当です。見てください、ご自身の手を」

 

 霧夕さんに言われて自分の手を見てみるが、どう見ても可愛らしい女の子の手だ。木刀を握り続けてるから掌にタコがあるが、それでも我ながら見惚れるほど細くしなやかだ。

 これのどこに筋が良いと言えるのか。単純に身体的な質について言っているのだろうか?

 

「その手……取れはしませんでしたが、私が札を取るのに反応して無意識に伸ばされた手です」

 

「そりゃそうだよ……」

 

 百人一首なんて聞いたことはあっても、生まれてこの方一度たりともやったことがない。上の句や下の句とか言われても、内容なんて分かるわけがないんだから、相手が動かした手を追うしかない以上こうなるのは必然だ。

 

 ……ぶっちゃけ後出しの時点で無理というのは分かってはいるのだが、それでも手が出る物は仕方がない。

 

「それは私の動きを捉えて反応してるということです。裏返せばレンさんの『動体視力』と『反射神経』——フィジカルにおける重要な二つは、しっかりと水準以上はあるということです」

 

「あっ」

 

 言われて気づく。霧夕さんの動きに目は追いついているし、身体も反応して動いてくれている。先ほどまでは自分の身体的問題について悲観的になっていたが、こうして見ると意外と何となくなるかもしれない。

 

「ですから、今後もこの調子で楽しく頑張りましょう! 続いては『空間認識能力』を確かめましょう。積み木パズルとかどうですか?」

 

「うん。————いや、それ結局は危機感なくない!?」

 

 遊びです。典型的な遊びしかありません。

 頭では分かっていても、鍛錬という雰囲気においてそれでいいのだろうか。

 

『まあ良いではないか、今だけは楽しめ。…………本当に辛いのは、ここからなんだからな』

 

 ——それは、予想がついていた内容だ。

 むしろメンタルやフィジカルとかの部分的な問題が浮き上がる前に、懸念していた問題だったから。

 

 それはレッドアラートを倒す時に思ったこと。

 

 何度鍛錬して強くなったとしても、本当の完成形として成すには『ある過程』が絶対足りない。

 

 積み重ねた戦い——。実戦経験がないんだ。

 

『……まあ、第三の修行に入るまでは遊び尽くしておけ』

 

 

 …………

 ……

 

 

 それから夜になるまで色々と昔ながらの遊びをした。

 福笑い、蹴鞠、息止め競争、隠れんぼ、鬼ごっこ…………。更には叩いて・被って・ジャンケンポンとかした。

 

 結果としては善戦したのは、息止め競争とかいう同条件下での我慢大会ぐらいだ。成績は十戦三勝。

 他は地理を知り尽くして思いがけない場所にいたり、木々を把握して俺を効率的に追いかけたり振り払ったり、ジャンケンに至っては瞬時に反応しないとウズメさんが俺に憑依して妨害したりと結構悲惨だった。

 

「レンさん、『神隠し』という言葉を知っていますか?」

 

「歴代興行収入にある映画程度なら」

 

 夕食を終えて檜風呂で汗を流すと、俺達は霧守神社の庭内で話し合う。夜風が非常に肌寒く、何かしら着込みたいのだが、ウズメさん「ダメ」と念押しされて不可能だ。しかも服装に関してはここに来て随分と着慣れていた着物ではなく、霧守神社に伝わる特殊な巫女装束なのだ。露出部が多すぎて凍死しそうになる。

 

 基本的な部分は霧夕さんと同じで、違いがあるとすれば、基調とした色が白ではなく黒。そして脇腹から背中はモロ出しで、上半身を隠すのは首を通して胸部を支える前掛け。胸元の谷間も見えていて、客観的に見なくても痴女同然だ、恥ずかしくて仕方がない。

 

 ……女の子になってから半年も経つから、自分の裸体に関して慣れてしまうのが悲しくなる。肌を出しても恥ずかしいのに、それを慣れるって何だよ、露出狂の心境かよ。

 

『とりあえず知らんということだな』

 

「それでは私が説明いたします。『神隠し』とは——」

 

 そこから随分と長い説明が始まった。マサダブルクの博物館で聞いた内容よりも長くて濃い話だ。

 

 要点だけ掻い摘めば『人間が突如として消える』という現象だ。別名『天狗隠し』とも呼ばれているそうだが、それに関してはどうでもいい。重要じゃない。

 

 古来より人が消える現象は神の仕業とされてきた。曰く『罰当たり』とか、呪いだとか色々とあるらしい。そういう話だ。

 

「……その『神隠し』と、夜中に肌晒してる理由と関係ある?」

 

「作法とは違うことをやれば、バチが当たる。これもまた作法です」

 

「話聞いてます?」

 

「話してます。火に水をかければ消えて、油をかければ燃える。使用方法をそれぞれあり、間違えることも一つの方法なんです」

 

 イマイチ要領を掴めない。どうしてこんな冬真っ只中で肌を晒し続けないといけないんだ。寒くて寒くて寒い。

 

「神社の参拝は『二礼二拍手一礼』——。この逆をやってください」

 

 何でそんなことをするのか分からないが、言われた通りに悴んだ動作で『一礼二拍手二礼』と普段とは逆の手順を踏む。

 ……こういう作法って間違えたら祟りが来るとか聞いたことあるんだけど。今まで半信半疑だったけど、こうしてウズメさんがいる以上は本気で祟られるんじゃないかと不安になる。

 

「——安心しろ。今から祟る」

 

「ですよね!?」

 

 今度は背筋に寒気が走る。ウズメさんが脅しをする時はマジだ。マリル並みに本気で実行してくる。俺は確実に今からロクでもない目に会う。

 

「さあ、祟りの時間だ。鳥居を通って『霧守神社』から出ろ」

 

「罰は追放ですかッ!?」

 

「はいはい追放だからさっさと出ろ」

 

 背中を押されて鳥居から無理矢理押し出された。

 鳥居の先は石造の階段だ。不安定な体制のまま出てしまったら、身体のバランスを崩して真っ逆さまに下まで転がり落ちる——はずだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ———-途端、世界が塗り変わった。

 

 

 

 

 

 

 

 気温は一転して無くなった。暑いとか寒いとか一切感じない。環境音も一切感じない。葉音の揺れる音さえも。

 何よりも違うのは踏み込んだ足の先だ。階段ではなく歩道に変わっている。だけど、色合いの深みは均一で——つまり『影』がない。影がないから単色のまま世界は形作られており薄っぺらい絵を踏んでいる——そう錯覚する。

 

 覚えがある。この匂い、この雰囲気。

 

 これは、これは……これは——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『因果の狭間』——?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……いや、違う。だけど、ちょっと角度が違うだけで概ね同じ。

 見渡す景色は新豊州をそのまま反転させたような気持ち悪い色彩だ。空は赤く、立体物のほとんどが透けて骨組みどころか、建物と認識できる程度の線しか見えない。VRとかで形成される仮想空間をより一層現実感を増した感じだ。

 

 吐かれた息は本当に俺の物なのか? 空気が重く澱んでいるとかじゃない。まるで『酸素に値する何か』を吸って吐いてる。視界も『光を反射して視認している』訳でもない。ここでは通常の理屈では成り立ってない。超常だけで成り立っている。

 

 

 

 蠢く視界に映る新豊州を象った空間。

 この異質な世界は一体——?

 

 

 

「第三の修行——。領域を展開することに特化したEX級異質物を利用した空間での実戦訓練——」

 

 

 

 本来持つであろう厳粛で神聖な雰囲気で、ウズメさんは次の言葉を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「通称——『結界迷宮』」



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第6節 〜結界迷宮〜

「結界迷宮……!?」

 

 眼前に映るもう一つの新豊州に人気など微塵も感じない。入り口から見渡すだけで見える猫丸電気街、俺がバイトしていたメイド喫茶、御桜川女子高校など全てが記憶に寸分違いない建造だ。

 

「そうだ。霧守神社が管理するEX級異質物……入る方法は、先ほどの通り『妾が罰当たりとなると判断した状況で鳥居を通る』ことで繋がる鍛錬施設だ」

 

 以前として霧夕さんの身体を借りながらウズメさんは話を続ける。

 

「一説ではここは『星が生んだシェルター』やら『星の生存本能』……あるいは新豊州が持つXK級異質物【イージス】が根本的に持つ『人類管理・補完への緊急施設』とあるが……実態として仮説しかない不明瞭な場所だ。SIDの調査もそこまで広くされているわけでもない、常に注意を払えよ」

 

「……分かってマッシュ」

 

 

 

 

 

 ——ドンッッ!!!!!

 

 

 

 

 

 余裕を見せるために、ちょっとふざけた語尾で返答したのが仇になった。何故なら、突如として謎の衝撃に襲われて、俺の身体は数メートルも綺麗に吹き飛んでしまったからだ。

 

「——いってぇぇえええええ!!?」

 

「つまらん駄洒落言うからだ。ここの住人が怒りを露わにしよった」

 

 住人って何!? こんな異質な世界に住む奴がいるとすれば、アニーやハインリッヒみたいな否応がなしに囚われた人か、もしくは相当の物好きかのどちらかしかないだろ!?

 

 何が俺をぶっ飛ばしたのか確認するために、先ほどまで自分がいた場所へと視線を向ける。

 

 ————そこには赤く熟れた野菜があった。

 

「……トマト?」

 

 食欲をそそる艶やかな赤い光沢だ。一口齧りさえすれば、一瞬で汁が溢れて味覚を虜にしてくれるだろう。

 

 ……そんな物体が何故、俺がいた場所に転がっているんだ?

 

「ここに保管されているsafe級異質物、通称『批判的なトマト』や『トマトの審判』と呼ばれるものよ。くだらないジョークにだけ反応して突進している」

 

「ダジャレを言うのはやめなしゃれ、って——ボバサッ!!?」

 

 マジだ。本当に駄洒落に反応して突進してきた。

 さっきと同じ殺人的な衝撃で再び数メートル吹き飛ばされる。だというのに俺は無傷だ。予めこの事態を予期していたのか、肌丸出しであるはずの巫女装束は何らかの加護や術式が働いて守っているのであろう。こんな初見殺しでも対応してくれるのは大変ありがたい。

 

「他にも目を合わせると執拗に追ってくるだけの銅像や、水銀で構成された化物。それに思考を汚染する猫もいる」

 

「うわぁ……聞くだけで奇妙奇天烈な存在だ……」

 

「妾からすればドローンやお掃除ロボも似たような物だとは思うがの……。まあ、そういうわけで無法地帯だ。死ぬほど危険な奴は多くはないが、重症は覚悟しておけ。心身ともにな」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「じょ……女装癖ッッ……!?」

 

「なっ、なんで……?」

 

 約24時間後、結果としては散々な成果で結界迷宮から帰ってきた。どこぞの美しい魔闘家みたいに、顔中腫物だらけの血塗れという完敗っぷりであり、珍しく優しい顔つきでラファエルが献身的な回復魔法を施してくれる。

 

 なんだよ、あの猫。可愛らしい顔して爆弾を持って突進してくるとか神風特攻隊かよ。戦艦ならまだしも、人間一人に対して過剰すぎるだろ。

 それになんだ、あの女狐。倒した瞬間に分裂して袋叩きにしてきやがって。尻尾のモフモフが絶妙に気持ち良くはあったけど、痛いものは痛いんだよ。

 

「……痕にはなってないわよね……?」

 

「見た感じ腫れてはないけど、内出血してるから肌が青くなってるね……」

 

「内部の傷は集中力使うんだから、今後は勘弁してよね……」

 

「……ありばぼ」

 

 謎に香辛料を口内にぶち込んでくる人型の敵もいたものだから、唇もタラコみたいに腫れて呂律が回らない。

 

 本当なんなんだ、あの空間。あれは困難とか以前に理解不能すぎて純粋に探索することすら億劫になる。……恐らくSIDが調査しない理由って、そういうところがあるんじゃないかなぁ。

 

「皆様、時間も時間ですし夕飯とか一緒にいかがですか? 本日は寒いので、暖まるのに最適なキムチ鍋です」

 

「ならお言葉に甘えましょうか。偶には鍋をつつきたいし」

 

「霧夕さん! シメは何ですか?」

 

「うどんです」

 

 …………ラファエルとアニーは気づいていないが、その献立は間違いなくウズメさんの息がかかっている。今俺は口の中が切り傷だらけなのだから、そういう刺激物はかなり応えるのだが。

 

『安心せい。いざという時は、妾がお主に憑依して食ってやる』

 

 それただ自分だけが楽しみたいだけですよね。痛覚とか一部の五感を共有しなくていいからと、そうやって依代を存外に扱いやがって。

 

『丁重に雑に扱っているのだ。大事にしすぎると腐るし、乱雑だと壊れる。人間は脆いよな』

 

「人間が脆いとか、お嬢様もビックリのラスボスっぷり……!」

 

「アンタ、急に独り言をしてるけど大丈夫? ついに妄想癖もついたの?」

 

 今は言及しないでくれると嬉しいです、お嬢様。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 それからは目紛しく回り続ける鍛錬の毎日だった。

 起きてから眠るまで、精神統一をしてありとあらゆる生活を送り続ける。常の集中力を張り続けるのはかなり疲労感がすごく、最近では眠ることが一番幸せに感じるほどだ。

 

 遊びの時も制限を設けたりして、動体視力と反射神経を養い続ける。木刀や竹刀を使った稽古も日々苛烈を極めていき、痣が減ることはない。……まあ、増えてもいないからその分成長してるとポジティブに考えよう。

 

「精神が乱れておるぞ、ラファエル。妾の瞳が黒いうちは見逃さんぞ」

 

「……今更思うけど、なんで私たちも座禅してるの?」

 

「ラファエルがレンちゃんを怪我を癒すために来るのも退屈だから言ったから」

 

「お主も反応するな!」

 

「これもダメなのッ!?」

 

 …………ふふっ。

 

「レン、アウト〜」

 

「ケツカッティン!!?」

 

 年末年始恒例の絶対に笑ってはいけない番組みたいに尻を叩き続けられ、アニーとラファエルと俺は一緒に座禅を組みながら鍛錬へと励み続ける。毎日毎日、楽しくも実りのある鍛錬だ。意外と苦痛にはならずに日々の成長を実感できる。

 

 九十九神という物自体に宿った『魂』という技術は日にちが経つにつれて加速度的に身につけていき、拙いながらも殺陣もできるようになってきた。間合いも身体で記憶して、考えるよりも先に身体が対処してくれる。成長としては文句ない兆候だ。

 

 とはいっても霧守一族の殺陣はあくまで劇画みたいに舞踊として行うものらしく、護身としてはともかく本格的な剣士同士での斬り合いと比べたら実用性がないとウズメさんは言っていたが。

 

 ……果たして本格的な剣士とはどれほどのレベルを言うのか。セレサは当然として、エミリオやハインリッヒはどの段階にいるのか。非常に気になるところだ。

 

 

 

 やがて———。

 

 

 

「やった! 討伐数1っ!」

 

 12月半ば。今年が終わるのもあともう少しというところ、ついに俺は『結界迷宮』に潜む数々の謎生物……通称『エネミー』を打倒するまでに至った。

 

「やりましたね、レンさん」

 

『うむうむ。まだ数がいるとはいえ、ズブの素人が二ヶ月半でよくもここまで……』

 

「俺って、もしかして才能ある?」

 

『調子に乗るな。お前なんぞまだまだひよっこ……才能で言えば——』

 

 そこでウズメさんは押し黙った。これも初ではない。長い間一緒にいるのだから、内容について察しはついている。

 

「……それは度々口にする妖刀を使い熟した『巫女』の話ですか?」

 

『——そうだ。才能ならば彼奴……『霧吟』に追随するのはおらん』

 

「『霧吟』?」

 

 霧夕さんの時から少し思っていたが、何ともまあ発音しにくい独特な名前である。

 

『霧吟は霧守一族が半世紀毎に生み出す神楽巫女という存在の中でも特別に優秀なやつであった。その身に宿した数多の力は妾でも手に余るほどにな』

 

「そもそも霧守一族って何ですか?」

 

 ここ二ヶ月半も過ごしていて未だに疑問ではある。とはいっても鍛錬にはまるで関係ないので、今まで聞いてはこなかったが……。気になるものは気になるのだ。

 

 何せ『巫女』と『舞踊』することで『アメノウズメ』という存在を祭り上げる一族だというのなら、どうして『妖刀』という物が置かれる必要があるのか。

 それこそ世界一優しい鬼退治のように、ある一族が昔に神楽を伝授し続ける約束でもしてなければ、真剣を代々受け継ぎはしないだろう。

 

 素朴な疑問を投げた俺に答えてくれたのは、現在の神楽巫女としている霧夕さんだった。

 

「霧守一族は今ではアメノウズメ様の加護を得る由緒正しき神楽の一族ではありますが……歴史を遡れば、ある代までは『暗殺一族』と『神楽一族』と両方に分けられていたのです」

 

「……暗殺、か」

 

 今では一番嫌いな言葉かもしれない。否が応でもスクルドにあった一連の事件について追憶してしまう。

 

「暗殺一族は『妖刀』を、神楽一族は『アメノウズメ様』を祀っていました。しかしある出来事が起きたことで一族は共存……」

 

 暗殺一族は『妖刀』を祀っていた?

 神楽一族は『アメノウズメ』さんを祀っていた?

 

 だけど今の霧守一族はどちらも受け継いでいて、どちらも『魂』を宿すという命題のもとに置かれている。だとすれば……。

 

「ある出来事って——」

 

「ご想像の通り、歴代唯一『妖刀』の宿した巫女が誕生した…………つまり霧吟様が妖刀の力を発揮したのがキッカケです」

 

『正確には妾との両方をな』

 

 妖刀とウズメさんの『魂』をその身に宿した——。

 

 それは二ヶ月の鍛錬の甲斐もあって、すぐさま偉業——いや、不可能にも近いことが分かりきった。

 確かに俺だって、いくつかの魂と繋げることはできる。鍛錬を重ねれば、やがては妖刀やウズメさんにも自分から繋げることは可能であろう。それがいつまでかかるかは今は想像しないではおくが。

 

 しかし、その数ある魂を同時に繋げるのは直感的に不可能だとも分かる。ゲームで例えるのも難ではあるが、それはゲームのコントローラー一つで複数のキャラを同時に操作する芸当に近い。例え操作できたとしても、同時操作による負荷でハード自体が持ちはしない。

 

 俺が使い分けるなら、負担軽減のために武器をいちいち付け替えるぐらいでもしない運用できないほどに魂を宿すという行為は簡単にはいかないのだ。そもそもとして魂の数だけ自我が押し潰してくるのだ。数が増えれば、その分負荷は倍々ゲームで膨れ上がるというのに、それを同時に宿すなんて……。

 

『まあ、一族のあり方そのものを変えるほどの巫女だ。お前がどれだけ図に乗ろうとも追いつくことは不可能であろう。それほどまでに彼奴は才能にも恵まれていた』

 

「ははっ……確かにそうかも」

 

 そりゃ調子に乗るな、と言いたくなるよな。調子に乗るにしても、もっと実力をつけないと話にならない。俺は話を切り上げて結界迷宮内に潜むエネミー達へと向かっていった。

 

 ……だけど結局は一番の疑問については解消されないままだ。

 

 そもそもの始まりとして、なんで『妖刀』があるのか。

 そして、なんで『妖刀』が今でも祀られているのか。

 

 『魂』が繋がれば分かるのだろうか。ならば一日でも早く強くなって知ればいいだけのこと。それもモチベにして鍛錬を続ける。

 

 その日、討伐数は3まで行くと迎撃されて帰還することになる。先行きはまだ長い。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「雪も降り積もる時期かぁ……」

 

 さらに一週間。ついに12月の三週目。今年もあと二週間もしないうちに終わるし、何ならクリスマスまで一週間もない。

 

 今日までの成果は上々だ。とはいっても今までの繰り返しであり、分かりやすい変化は結界迷宮でのエネミー討伐数が10に到達したことくらい。あとは霧夕さんとの百人一首も何十回に一回は勝てるぐらいには札も覚えたし、位置を覚える記憶力と反射神経が伸びたことだろうか。

 

 今日も今日とて鍛錬を続ける。冬休み直前ということで午前授業となり、霧守神社に頻繁に来るようになったアニーとラファエルと共に精神統一を始める。

 

 二人に一回「この訓練、何か意味ある?」と聞いたことがある。なにせ二人の能力は『魂』に関するものではない。俺ほど効果的な成果は得られないだろう。初日に霧夕さんが「人によって方法が違う」ということも言っていたし。

 なお返答は「回復魔法は集中力使うから養える」と「心身が不安定だと制球が乱れる」と真っ当なものだった。俺とは違ってしっかりと自分の能力を理解している。

 

 そしてそのまま共同でレクリエーションタイムという鍛錬もやった。人数も増えたことでやれる遊びも増える。それに伴って伸びる方面も多様性を持って、成長がより一層効率的になった。二人羽織をした際にはラファエルの「あっつ!?」と凡そお嬢様と思えない叫びには吹き出しそうになったのは内緒。

 

 

 

 ——日々成長してるのが肌身でわかる。

 

 

 

「では、これより『妖刀』と繋がれるかどうか試してもらう」

 

 

 

 だから目標がそう遠くないことも肌身で分かった。

 

 

 

 目を閉じて心を研ぎ澄ます。目指すは『魂』の境界線。暗闇の底の底にある境界線へと向けて潜り続ける。

 

 目を閉じたからといって急に暗闇に入るわけではない。瞼の裏には光の残滓がこびりついて残像が浮かぶし、そもそも目を閉じただけでは光を完全に遮断することはできない。どんな暗闇でも霞のように蠢く光が浮かび続ける。

 

 しかし、それでも暗闇の底に潜ろうと心を落とせば、今度は暗闇そのものが曖昧となり、まるで万華鏡を見るように閉じた視界は回り出す。クルクルと、くるくると、狂狂と。

 

 

 

 まだだ——。『魂』の境界線までは遠い。

 

 

 さらに心を潜らせると、暗闇の世界により深く色を落とした黒い点が浮かぶ。それらが視界の中央に向けて線で繋がり、その先には光を通さぬ黒い球体が姿を表す。まるでブラックホールのように意識は落ち続け、やがて深淵へとたどり着いた。

 

 

 

 もう少し——。『魂』の境界線までは近い。

 

 

 

 そこで終着点。これで視界は完全に暗闇に包まれ、外界への情報は全て遮断される。視覚は機能せず、嗅覚も聴覚も意図的に断つ。味覚なんかそもそも必要ない。

 機能させるのは触覚のごく僅か、手に持った妖刀の感触だけだ。その奥にある『魂』との繋がりを手繰り寄せる。

 

 意識を一点に集約させて、刀の奥底に眠る『魂』を目指す。

 

 そして見つけた。

 

 闇の中の淡く煌めく輝きを。

 今にも砕け散りそうな儚い光を。

 

 これこそが妖刀が持つ『魂』——。

 

 シチュエーションのせいか、俺は『天国の門』を思い出す。

 あの時は闇の中に存在する門があって、中からソヤを連れ出そうと必死になっていたよな……。

 

 ……と、危ない。今は思い出に耽るほど意識に余裕はない。妖刀のことだけに集中しろ。

 

 

 ——繋がった。

 俺の手に、確かに妖刀の『魂』が触れる。

 

 この中には『技術』があって……そしてOS事件の時に起きた現象のように、誰かの『魂』が存在してるに違いない。今一度、あの現象さえ起こせれば……そこでようやく能力の糸口が見えるはずなんだ。俺自身が持つ能力がどのようになっているのか。

 

 魂を優しく撫でて抱きしめる。こうすることで『魂』が俺の中に流れ込んできて技術を教えてくれる。妖刀とは何かをこの身に直に教えてくれる。

 

 くれるはずなのに…………『魂』からの応答がない

 

 

 ……繋がった、はず。

 …………繋がった、よな?

 

 

 何度も何度も確認をする。だけど事実は変わることはない。

 

 

 

 

 

 ——恐ろしいことに妖刀の中に『魂』はあっても『中身』がなかった。

 

 それが何を意味するか。俺はすぐに理解した。

 

 

 

 

 ——『魂』が既に壊れていることに。

 

 

 

 

 

 それは悲しくて切なくて堪らない。初めてラファエルの回復魔法を覚醒させた時、ニュクスを初めて見た時。それらで必ず起きていた下腹部の熱さが、そのまま凍てついたようだ。

 

 ……なんで、どうして?

 

 一瞬で浮かんだ疑問を理解する前に、さらに意識を深く潜り込ませて妖刀の『魂』を隅々まで繋げて奥底まで探る。

 

 そこで見つけた。

 ガラス細工みたいに粉々になっている『魂の残滓』を。

 

 

 

 ——これが『魂』の『中身』があったものだ。

 

 

 

 俺は大事に残滓を掬い上げて胸の中へと抱きしめる。慈しみように、愛しむように力強く抱きしめ続ける。

 

 すると、残滓から『記憶』が流れ込んできた。

 淡く香る花のように意識し続けなければ溢してしまいそうな小さな物。だけど同時に、濃厚で濃密な感情が蠢いていた。

 

 

 

 暗くて……暗くて暗くて……。

 辛くて……辛くて辛くて……。

 苦しくて……苦しくて苦しくて……。

 

 

 

 それは、世界に裏切られたある少女の悲しい記憶だった——。



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第7節 〜剣気流星〜

第8節、第9節も明日明後日に投稿できるように間に合わせました(血眼)


 夢を見る。誰かの夢を見る。

 

 

 

 ——『夢』とはなにか?

 ——『魂』とはなにか?

 

 

 

 ……きっと誰かが決めていいことではない。

 人によって変わるものというのなら、答えは千差万別だろう。

 

 ある種のエネルギー体かもしれないし、観測できない量子状態の存在かもしれない。あるいは理解できない超常かもしれない。

 

 だからといって決められないからと片側だけを肯定し、残る片側を否定はしてはいけない。両者はともに存在するものだ。理解できないことさえも理解して受け止めなければならない。

 

 同様にこれから見るものも否定してはいけない。見てしまう以上、どんなに理解したくなくても受け止めなければいけない。

 それは確かに存在していた者の『記録』でもあり『記憶』でもあるのだから。

 

 これは、ある少女の『魂』が見せた『夢』である——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 少女は潔癖だった。極度な綺麗好きという意味ではなく、不正などを悪事を許さないという意味で、少女は常に正しい者でいようと、正しいことを行い続けるという純真で強い心の持ち主だった。

 

 悪に染まることはなく、少女は小さな身体ながらも懸命に村の端から端まで駆けて困っている人達に手を差し伸ばし続けた。

 時にはそれを邪険に扱うものもいる。それでも少女は迷いもなく、困り果てた民へと手を伸ばした。それが邪険に扱っていた者であろうと。

 

 だが『正しい』とは何か——。その答え次第では、時には石を投げられても仕方のない身勝手さでもある。

 

 少女は全体で見た『正しさ』ではなく、個人の観点からの『正しさ』を持っていたのだ。救いを求める弱者を助けるためなら、例え相手が自分より屈強な人であろうと抵抗して。つまりは多数や少数を基点とした救いではなく、見捨てられる無辜の救いこそが彼女が持つ本質なのだ。

 

 ならば、その救いには何を求めているのか。

 名誉か、金銭か、繋がりか。どれも違う。

 

 

 

 ——ありがとう。

 

 

 

 ……その言葉だけあれば、少女には十分だった。

 否。それこそが少女が求めている見返りなのだ。

 

 ただ、感謝を——。いや、見せかけや見栄などない裸の言葉を聞けるだけで。褒められようと、罵られようと一向に構わない。

 

 

 

 

 

 何故なら————。

 

 

 

 

 

 

《霧吟よ。お前もついに神楽巫女となる歳となった。我が一族としての誉れと思え》

 

《霧吟。あなたは神楽巫女の次期後継者となり、我ら一族の長となるです》

 

《そうなれば一族の未来は安泰だ。衰退するばかりの暗殺一族はやがて滅び、我らの教えこそが正しいものだと証明される》

 

《父上、母上。一娘として非礼をお詫びします。——私は神楽巫女となるつもりなどありません》

 

 

 

 少女——『霧吟』が身を置く家は、古きより同じ血筋であるはずなのに、信仰の違いで神楽一族と暗殺一族の二つに分かれていた。霧吟はそんな一族の片側、アメノウズメを祀る神楽一族として生まれたのだ。

 

 いがみ合う事情について当時の一族では誰も知らない。ただ、どういうわけか互いに嫌悪を示して今まで過ごしてきた。石を投げられたら投げ返し、河水を止めれたら止め返し、稲を燃やされれば燃やし返す。そんなイタチごっこの繰り返し。

 

 それは正しいことだろうか——。霧吟にはどうしても思えなかった。

 どんなに思考を前向きにしても、自分たちに正しさがあるとは思えないし、どんなに思考を後ろ向きにしても、自分たちに非があるのとも思えなかった。それは相手の立場になって考えても同じことだった。

 

 互いの一族は皆が見えない何かを敵対し、その対象を互いの一族に押し付けるように当て嵌めて争っている。それは一族の上に立つ者なら少なからず理解してるはずなのに、何故争い続けるのか。霧吟にはそれが理解できずに今日まで生きてきた。

 

 何が『正しい』のか。何が『間違っている』のか。

 それさえも教えてくれない一族に、心底嫌気が差していたのだ。

 

 

 

《ふざけるな! 一族を継がないとはどういうことだ!》

 

 

 

 父には殴られ、母には侮蔑された。対して霧吟は何も言い返さず、無防備に暴力を振われるまま考え続けていた。

 その気持ちも分かるからだ。霧吟は神楽巫女として、今後生まれることはないであろう類稀なる降霊術に適した肉体と精神を持っていたのだ。

 一度少女に憑依した『魂』は、瞬時に技術という技術を全て少女に継承する。それには際限がなく、名医を憑依すれば名医になり、剣士を憑依すれば剣士になり、神を憑依すれば神になる。死者が憑依することで完全なる生者となる。

 

 完成し尽くされた降霊体質。果たしてそれが霧吟だけの突然変異なのか、末代まで続くことを約束された精錬なる血なのか。

 それを少女の戯言一つで、一族が野放しにするわけなどあるはずがないのだ。

 

 

 

《……ならば継ぎます。ですが条件があります》

 

《条件とな?》

 

《——今代で一族同士の争いはやめさせます》

 

《できるわけがないだろう。過去にも戯言を言った長はいたが、アイツら拒み続け殺した。そんな無責任なことはさせん》

 

《私が当主になる以上、私が全責任を背負います。過ちを犯したなら私の首を刎ねればいい》

 

 

 

 見るに痛々しいほどの傷を負いながら少女は涙どころか、怒りや悲しみさえ見せずに超然とした態度で告げる。

 

 信仰すべきアメノウズメをその身に宿していないというのに、威風堂々とした佇まいは何なのか。我が子であるはずなのに、父には霧吟が本当に実の娘なのかと錯乱してしまいそうなほどに威厳に満ちている。

 

 

 

《……本気で言っているのか?》

 

《娘の考えより神楽一族の教えが正しいというのなら、今すぐにでも》

 

 

 

 ——つまり、ここで殺されるか。当主となって殺されるか。

 

 それを十代の折り返しにも満たない少女が覚悟を胸に告げている。その覚悟を無碍にできるほど父と母は冷酷ではない。だが、信仰を捨て去るほど意思が弱いわけでもない。

 

 重苦しい時がすぎるのを虫だけが知らせる。やがて霧吟でも父でもなく、静観していた母が沈黙を破り告げた。

 

 

 

《……アメノウズメ様より神託を授かりました。我ら一族は了承しましょう》

 

 

 

 ……少女は虚しさを覚えた。母からでも、父からでもなく、神楽一族が祀るアメノウズメからの言葉。

 一族としてなら誉れであろう。だが家族としてはどうだろうか。娘の言葉は、信仰する神よりも軽いと言うのか。

 

 

 

《だが暗殺一族がその言葉を潔く受け止めると思うか? 方法があるとでも言うか?》

 

 

 

 しかし了承されたのなら、それでいい。

 少女の思いと身体一つで、今代で一族同士の無為な争いを止められるならば喜んで差し出そう。

 

 少女は目を閉じ、淡々とその方法を告げる。

 

 

 

《決まっております。神楽一族がアメノウズメ様の言葉が絶対であるように、暗殺一族もまた絶対となる信仰があります。ならば——》

 

 

 

 ——妖刀共々、この身に両一族の加護を宿すだけのこと。

 

 

 

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——見たな。

 

 

 

 ——また貴様か。

 

 

 

 ——今度は逃がさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 妖刀にある残滓の『記憶』——。

 

 それを見ていた中、突如として異様な気配を帯びた何かが、俺の意識に割り込んできたのを感じた。

 

 

 

「まずい……っ!?」

 

 

 

 意識を浮上させようとするが、重りがついたように意識が闇の中に定着して動かない。眼前に潜む謎の存在は闇の中で輝きを放ち、こちらを睨みつけるように輝きを向ける。

 

 おかしなことに、その輝きは光ではなく闇だ。『闇が輝いている』という表現以外には形容しようがない輝きが、本来ならば虹彩の認識を正常に狂わせるだろう。しかしここは『魂』だけの世界。身体を襲う害は起こることはない。

 

 だが、逃げなければマズイことはわかる。何せ、コイツは今まで繋げていた妖刀の『魂』とはまた別の『魂』だ。

 逃げようにも意識は浮上せず、動こうにも闇の中では相手の正体も把握することができない。得られる情報はただひとつ、人を狂わす闇の輝きだけ。

 

 だというのにコイツと出会ってのは初めてじゃない。そう確信できる嫌悪感と既視感があった。

 そしてこの感覚もそれも一度だけじゃない、二度会ったことがある。二度もコイツの感覚を覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一度目は、方舟基地から南極へとワープする直前にあった『謎の輝き』——。

 

 二度目は、ソヤを救い出そうと手を伸ばした『門の向こう側』——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だとしたら、コイツは……っ!!」

 

 ——『あの方』だ。ハインリッヒが偶に口にする『守護者』という括りに縛り、ソヤを『門』へと誘い、アニーを『因果の狭間』に7年間も閉じ込めた元凶だ。

 

 どうする、どうすればいい——。

 

 この状況下では有効打がない。ハインリッヒと会った時は『因果の狭間』に閉じ込められ、俺が持つ謎の力で脱出できた。ソヤの時は『門』の中に手を入れて無理矢理に引っ張り出した。

 

 だからコイツと真正面とぶつかり合うことは一度たりともなかった。手を伸ばしても『門』の時みたいに閉ざす物がないし、ここは『因果の狭間』とも違う。今まで会った時と状況があまりにも異なる。

 

 迎撃の糸口すら掴めず、輝きは一瞬だけ揺らぐと、正体不明の衝撃が俺の意識に襲いかかる。それはどんな表現で言っても言い表せない、不快で不可思議な攻撃だった。

 

 ただの人間では味わうことは決してない衝撃の数々。理解してしまえば一瞬で理性が吹き飛んでしまうだろう。

 理解できずとも絶え間なく襲い続ける衝撃は、俺の意識は少しずつ削り取っていく。足先から少しずつ鑢のように粉微塵に削り取っていき、今にも消えてしまいそうだ。肉体の感覚がなくなっていき、胴体も頭部さえも————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だめだ。

 これいじょういしきがたもてない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もうかんじられるのは、てにある『ようとう』だけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……くらい。こわい。せまい。

 

 ここはあまりにもさみしい。

 くるって、くるって————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂狂

 

 

 

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 ——刹那、握られた『妖刀』の感覚が消えた。

 

 ——代わりに感じるのは、小さくも温かい『誰かの手』。

 

 ——それは優しい手つきで俺の両手を包み込んでくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……誰?」

 

 この場にいるのは俺とアイツだけで、ここは『魂』だけが潜り込める意識の底の底。ここに介入できるのは同様に『魂』だけだ。誰かが介入できる余地なんてないはず。

 

 

 

 

 

 ——いや、一つだけある。この場における『魂』は。

 

 

 

 ——それは、妖刀にあった『壊れた魂の残滓』だ。

 

 

 

 

 

 手の先から伝わる温かさで、意識は急速に戻って暗闇の中にいるもう一つの存在へと意識を向ける。

 

 

 

 ——そこには、見覚えのある少女がいた。

 ——記憶にいた少女と瓜二つの姿が、そこにはいた。

 

 

 

 少女は刀に手を添えて息を整える。

 

 溢す息は薄く、鋭く——。そして穏やかに。

 

 まるで芸術を見るようだ。一連の動作に無駄がない。

 

 

 危機的状況であるのに関わらず、迫り来る輝きの威圧は既に劇画の一幕としか思えないほど他人事だ。危機感など起こらず、ひたすらにその光景が瞳に焼き付く。

 

 瞬きなんかしていなかった。

 だというのに、少女の姿が霞んだ瞬間————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「————『逆刃斬』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 糸が解かれたように、輝きは綺麗に二つとなって裂き崩れた。

 塵となって崩れる様の『向こう側』には、少女は何事もなかったように自然体のまま、その背中を俺に見せる。

 

 これは瞬きさえも許さない超高速の——。

 ——いや違う。『超光速』の『居合切り』だ。

 

『抜刀』と『納刀』が見えなかったんじゃない。

 一連の動作がすべて『同時』に起きたと錯覚——違う。認識——もっと違う。

 

 事実だ。『抜刀』から『納刀』までの一連の『居合』という動作すべてが、ただ単純に寸分の違いもなく『同時』に熟す絶技。人間技では到底辿り着けるはずがない『魔法』にも等しい一閃。

 

 だが分かる。どうあれ今まで修羅場を潜り抜いてきたからこそ、感覚で確信が持てる。これは『異質物』でも『魔法』でもない。

 

 少女が行ったのは、ただの人間では到達不可能なだけの『技』にしかない過ぎないということを。

 

 脅威は過ぎ去り、暗闇に沈黙が訪れる。

 

 流れる沈黙の間さえ、少女の気品ある佇まいを見ると『騒音』だと錯覚するほど雅で神秘的だ。

 

 俺は緊張のあまり唾を飲み込む。それはやけに煩く聞こえ、呼応するように少女はようやく俺と視線を合わせてくれた。

 

 改めて知る。病的なまでに白い肌に、細くしなやかな腕。身長なんか俺よりもどう見ても低く160にも満たしてない。

 だというのに、少女が持つ雰囲気は幼い見た目に反して凛としたものだ。細く淡く艶やかであるはずの背筋は年季が感じるほどに逞しく、そして力強く、外見より遥かに年上に見えて仕方がない。

 

 そして、その姿見を俺は知っている。先ほどまで妖刀を通して見えた『記憶』にいた霧吟という少女であり、何より夢で見た人物と一緒だ。刀を抱きながら、弱々しく祈りを捧げた少女であるはずなのに——その風貌はどこにもない。

 

 そんな奇妙な感覚に俺は、ただこう言うしかなかった。

 

「君の名は——?」

 

 その問いに、少女は目を伏せて一考すると——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……『ギン』。それが、この身の名じゃ」

 

 成熟した老人のような振る舞いで、その名を告げた。



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第8節 〜灰殻道中〜

 ——頭痛がしない。

 

 ——なんて健やかな目覚めなんだ。久方ぶりかもしれない。

 

 

 

 

 

「——ぴゃぁあああああああっ!!?」

 

 ……だったのに、開口一番頭を突き刺す霧夕さんの絶叫が届いてしまったら頭痛を引き起こすしかない。除夜の鐘にはまだ半月ほど早いというのにこの高音は脳を揺らしまくる。

 なんだ、俺は意識を覚ますたびに頭痛にあう運命にあるのか。だとしたら診断書を貰わないといけない。具体的な症状に関しては全く詳しくはないから何も思いつかないけど。

 

 

 

 ……って、『意識』を覚ます?

 

 その言葉で今度こそ意識は覚醒した。

 

 

 

 そうだ——。俺はさっきまで妖刀の『魂』に触れていて、ある少女の『記憶』を垣間見ていた。そしたらハインリッヒが言う『あの方』と思われる存在と対峙したんだ。

 

 そして……記憶にいた少女と瓜二つの『ギン』と名乗る少女に助けられたんだ。そこで『魂』との繋がりが絶たれて戻ってくることになったんだ。

 

「なんじゃ……急に耳障りな声を出しおって」

 

 だというのに、何でギンの声が聞こえてくる? ここは『魂』だけの世界ではない。視界は閉じたままだが生身の感触はあるし、何より先程霧夕さんが甲高い叫びを上げてくれたことが、ここが現実の世界であるという証拠だ。

 

 ならば何故——? すぐさま俺は目を開いて声がした方へと視線を向ける。

 

「おっ、お主も無事で何よりじゃ」

 

 そこには、先ほど同じ姿見で立つギンの姿があった。

 相も変わらずに見た目は少女だというのに、その風貌と口調は老人のように静かだ。こちらの安全を確認して浮かべる笑顔は年相応の可愛らしいものではなく、歳を重ねた包容力に満ちたものだ。

 

 とてもじゃないが同年代とは思えない。今まで会ったことがないタイプだ。本来なら高嶺の花すぎて、近寄り難いなんてものじゃない。そう、本来なら。

 

 ……どういうわけか、俺はこの少女に未だかつてない親近感を覚えるのだ。何よりもこの親近感、近しいものを感じたことがはずなのに、今まで求めていた気がしてならない。一体本当にどういうわけなのか。

 

「……小娘」

 

「え、何ですか?」

 

 だから綺麗と可愛さを兼ね備えた見た目に緊張感を持つこともなく、ごく自然体のまま受け答えができた。

 

 少女は雰囲気を変えて、とても和服を着た女の子がしちゃいけないガニ股……有り体に言えばヤンキー座りや、うんこ座りと呼ばれる姿勢で俺と目線を合わす。

 

「今は鎌倉時代か? 江戸時代か? それとも……小耳に挟んだ大正時代とかか?」

 

「…………今は、年号なんてないです」

 

「…………年号がァ!? 年号がなくなっているぅ!!?」

 

 思考の片隅で「そんな反応取らないかなぁ」とか期待してたら、寸分違わず想像通りの反応示してくれた。意外とこの人、分かりやすい一面もある。

 

 しかし話を戻すが、今世では年号というものは残念ながら七年戦争を境に撤廃されてしまっているのもまた事実なのだ。

 元々年号自体が第五学園都市である新豊州の旧名『日本』でのみ使われていたこともあり、そういう細かい文化は他国民を数多く受け入れるために無くすしかなかったのだ。下手に残すと遺恨を生み出してニューモリダスみたいな銃社会や、マサダブルクの宗教の違いによる頻繁なテロ活動などが起こってしまう。

 

 だから今は歴史を刻んでいるのは世界共通の『西暦』だけだ。今は西暦2037年、それ以上でもそれ以下でもない。これに関しては世論の都合なのだから是非もない。

 

「銃が今の世でもあるのか? 豊臣秀吉が刀狩を試行したように、銃狩りなど起きなかったのか? 何より旧名が日本とはなんだ!? 下総、琉球などではないのか!?」

 

 ……なんてことを口頭で説明したのだから、焦っている口振りとは裏腹に興味津々で堪らない表情で少女ははしゃぎ続ける。

 

 一変した爛々と輝く瞳は、初めて南極で階段の素材を見て興奮していたハインリッヒの瞳と似てなくもない。

 唯一違う点があるとすれば、未知に対して期待を持っていることだろうか。その瞳に、恐怖や不安なんてものはない。

 

「こうしてはおれん! 久しぶりの現世じゃ、儂の目で直々に新豊州というものを渡り歩いてくれようぞ!」

 

「って、ちょいちょいちょい!! ギンさん!? 突拍子ですし鞘走り過ぎですし何より服! それだと寒いですよ!?」

 

 まるでゲリラ豪雨のように突き進む『ギン』と名乗る少女。俺は慌てふためきながら、その後ろ姿を追うしかなかった。

 

 

 

 

 

 ……だから、この時の俺は急すぎる転換に、起きていた事象について一切気づかなかった。

 

 

 

 

 

「……よ、妖刀が砕けて……女の子が出て……?」

 

 

 

 レンがいなくなってすぐ、霧夕は悲鳴の対象となる『妖刀』へと視線を下ろしていた。彼女の視界に映るのは、鉄屑どころか鉄粉となって散乱する『妖刀であったはずもの』——。

 レンが意識を取り戻す直前、謎の光によってそのような無惨な姿に変えられ、代わりに中から問題となる『ギン』という少女が出現したのだ。

 

「それに……あの姿は伝聞通りなら……」

 

 しかも、その姿見はレンと同じく霧夕もある疑念を抱いた。当時は写真もないため、口頭による言い伝えでしか身体の特徴を把握してないとはいえ、その隠しきれない神聖な雰囲気に霧夕はただ萎縮するしかなかった。

 

『間違いない、あれは『霧吟』だ。……小僧がギンと呼ぶのが釈然とせんが、見た目については妾が保証する』

 

 対してアメノウズメは冷静に現状の把握をし、霧夕が思っていることを淡々と認めた。

 

『……ただまぁ一つだけ言うとすれば…………』

 

 だが当人としては思うところがあり、息が詰まるような長い沈黙の後、心底怪訝そうに吐き捨てた。

 

『——何しに来おった、あの『クソ爺』が』

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「なんと……物見櫓が並んでおる……」

 

「ただの高層ビルです」

 

「ならば、より大きな高層びるという物はなんだ?」

 

「新豊州UDXです」

 

 学園都市成立前までは秋葉原UDXというらしいが、そのことを古人であるはずの少女……ギンに伝わるわけがないので口にはしないでおく。

 

「そうか……。よもや百年ほどでここまで様変わりするとは……文明開花の音とはよく言ったものだ」

 

「百年って……昭和時代の人ですか?」

 

「いやいや、儂が生まれたのはもっと前じゃ。鎌倉時代と呼ばれておる時代じゃよ」

 

「鎌倉っ!?」

 

 えっと……何百年前だ? 

 

 令和から遡って平成、昭和、大正、明治……なんか色々区分されてるけど統括して江戸、桃山…………。えっとえっと……戦国で——。

 

 ——って、戦国時代よりもっと前!?

 あの織田信長とかを筆頭とした武将の数々が生まれるよりも前じゃん!? 軽く500年以上前の人だよ!?

 

「がはは。その様子からして驚きを隠せないようじゃのう。まあ、こんなうら若き乙女の実年齢が裕に1000を超えておるのだから仕方あるまい」

 

「すごいナルシストですね……」

 

「なるしすと〜? なんじゃ、そのハイカラな言葉は」

 

「俺からすれば『ハイカラ』なんて言葉の方がなんじゃです」

 

 今時ハイカラなんて言葉を使う輩は、ナウくてヤングでトレンディを行く人ぐらいだよ。

 

「しかし……こうも見るものばかりだと悩むのぉ。それに匂う、臭う、非常ににおう……」

 

 そりゃ平日のお昼の真っ只中だ。新豊州を支えてくれる労働者達の汗臭さは例え屋外であっても気になる人には気になるだろう。……いくら昔の人が身体を清めるのに数日に一回とはいえ、身なりもしっかりとして綺麗な女の子だし、そういう面は相当気にして……。

 

「……食欲をそそる臭いが! この芳しさは……蕎麦じゃな!」

 

「そっち!? というか早っ!?」

 

 目を離した隙に彼女は忽然と消え去り、可愛らしくも中性的な声だけが耳に届く。その声を頼りに視線を移すと、駅前入り口の立ち食い蕎麦屋で既に注文しようとしていたギンがいた。

 

 ……明らかに人外染みた動きをしたというのに、何故にどうして周りの人達は無反応なのか。それだけ現代人は周囲に無関心なのか、それとも先程目の当たりのした『抜刀』と同様に、ギンには底知れない強さがあるとでもいうのか。

 

「店主よ、山かけ蕎麦を一つ頼む!」

 

「あいよ、嬢ちゃん! 隣の嬢ちゃんは何にする?」

 

 とりあえず追いかけたところ、同伴と思われたらしく髭剃り跡が濃い店主に注文を催促された。ちょうどお腹も減ったいたし、少し遅い昼食として奮発しようか。

 

「えっと……俺はかき揚げ蕎麦に海老天を乗せてください」

 

「儂の蕎麦は大盛りで頼むぞ!」

 

「元気があっていいねぇ! 英気を養うために、菜の花を使った和物もサービスしとくよ!」

 

「気前が良いのぉ。何か良いことでもあったのか?」

 

「だって女の子なのに『俺』と『儂』……しかも和服と刀とかいう非常識さ。さっき見た露出過多な金髪の姉ちゃんといい、今日も何かのイベントがあった感じだろ?」

 

「あはは……まあ、そんな感じです」

 

 確かに俺とギンは着物で、ギンに至っては刀を腰につけてる。普通なら警察沙汰だが、ガタイの良い親父店主さんが何とも楽観的なことな捉え方をしてくれて助かった。商業区の一つであるUDX近辺はイベントが週一以上はあり珍客が絶えることがないのが幸いしてる。

 

「——上手い! 上手い! 出汁に茶と鴨の深みがあって良い! 和物も……わっしょい!」

 

「おっ、出汁の味が分かる口かい? 若いのに舌が肥えてるじゃないか」

 

「こうなると酒が欲しくなるが……貰ってもよいか?」

 

「分かるが、流石に未成年には飲ませらんねぇだ、すまないねぇ。代わりに甘酒なら出せるぞ?」

 

「ならば甘酒で頼む」

 

 そんな中、俺は海老天を頬張りながらスマホに目を通す。気になることがあるからだ。

 

 ……やっぱり。『ハイカラ』なんて言葉は大正時代に流行したものだ。それに霧守神社で口にした『銃と今の世にある』ことと『豊臣秀吉の刀狩』……これらは14世紀から16世紀までの出来事だ。

 

 つまり、どちらも『鎌倉時代より後に起きた』出来事だ。ギンの言葉が本当なら、12世紀である鎌倉時代に生まれた彼女が、この言葉を知るはずがない。

 

 だけど……疑問はまだ尽きない。ギンの見た目は『妖刀』を通してみた記憶と、俺の夢で見た少女の姿の瓜二つだ。同一人物と言っていい。それなら彼女は『霧吟』であるはずなのに、ギンが持つ雰囲気は両方の記憶で見たものと明らかに違う。

 

 それにウズメさんの言葉を思い出す。『妖刀』を力を呼び起こしたのは歴代でも一人だけであり、それが『霧吟』ということ。そして、こうも言っていた。

 

 

 

 ——《江戸時代の話だ。もうおらんし、お前が気に病む必要はない》

 

 

 

 ……ギンは『鎌倉時代』の人間であるはずなのに、霧吟は『江戸時代』の人間ということ。仮説で浮かぶとすれば霧守一族は降霊術があるのだから『情報』が読み取ったという線。しかし、それはあくまで『過去』であれば話だ。今ここにいるギンは『鎌倉時代』の人である以上、それより未来である『江戸時代』に対しての知識が得られることは到底思えない。

 ……もしもさらに飛躍した発想をして強引にこの問題をこじつけたとしても、それなら『ハイカラ』という『大正時代』の言葉はどこで知ったという問題が起こる。

 

 しかも……何故、あの場面で『あの方』が出てきた——? 

 俺はただ『妖刀』の記憶を見ていただけで、どうしてアイツから干渉するように仕向けてきた? 理由が分からない。それにギンのおかげで窮地は脱したとはいえ、アイツがまた出てこないとは限らない。次の対策も考えないといけない。

 

 疑問だけが募っていく。腹は満たせても、心の余裕は生まれない。食事が進むのが遅い。俺が蕎麦を食べ終わる頃には、乗っていたかき揚げは汁を吸いすぎて崩れていた。

 

 ちなみに支払いは全額俺持ちだった。……いや、まあ想像してたけど。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 結局、疑問は解消される糸口さえ掴めずに新豊州巡りは続いた。

 

 古人にとって現代とは刺激の連続らしく、ギンはこれでもかと楽しそうにゲームセンターでメダルスロットをフィーバーさせたり、本屋では「アイツ、書籍を当世まで残す大物になったのか」と感慨深くしたり、釣具屋に入ったら「何故魚を釣るのに、ここまで複雑にする必要があるんじゃ」と文句垂れたり、極め付けには自動販売機から飲み物が出てくることに「妖怪か?」と警戒心を露わにしたりと、当人なりに現代を満喫したご様子だ。

 

「色々と見て回ったが、こうも視界がうるさいと流石に疲れが溜まる……」

 

 分かる。分かりみが深い。

 現代社会は色々と多様性に満ちすぎていて、一見しただけでは何が何だか分からない店が多すぎる。中古ショップは古本、機材、ゲーム全般。家電量販店は自転車、ゲームセンター、本屋も完備。場所によっては区域の図書館も兼ねていることもある。慣れたからいいけど、俺も最初の頃は把握するまで気苦労が絶えることがなかった。

 

 さっきまで色々なお店を見て回って、それでもまだ目移りする光景を初めて見るんだから、そりゃもう疲労感は尋常じゃないだろう。横目で確認するだけでは本人はまだ瞳を輝かせて周囲を見ているが、これは子供の空元気みたいなもので一気に急降下する。俺自身体験したことがあるから断言できる。

 

「おっ……おっ? あれは……銭湯か?」

 

 ギンが指を指し尋ねてきた。俺はその指先を追うと、そこには『湯』と暖簾を掲げたお店が一軒。気になることがあるので、試しにスマホで店について調べてみると……。

 

「……銭湯っすね。それもスーパー銭湯」

 

「すーぱー、とな? ……すごい銭湯というが、何がすごいのだ?」

 

 ここまで様々な英単語を教えたから、発音はともかくギンもある程度は横文字系の意味を把握してくれるから説明が省けて助かる。

 

 ……まあスーパー銭湯って言われても、何がスーパーなのか分からないよね。だけど、それは俺もそうなんだ。『スーパー』というが、それが普遍化してしまったら既にそれは『スーパー』ではなく『ノーマル』なのだ。どこから説明すれば俺も悩んでしまう。

 

「ジャグジー、岩盤、サウナ、電気風呂……とか聞き覚えあります?」

 

「……? …………???」

 

 やっぱり口頭で説明しても伝わるわけがなかった。珍妙な顔を浮かべてギンは俺の話を聞くが、どう見ても耳から入って耳から出ている。

 

「……休憩も兼ねて行きます?」

 

「行こうっ!!」

 

 大変元気な返事で肯定してくれた。であれば、こちらも思うところはあるとはいえ無視するわけにも行かない。仕方なく、俺は銭湯へと向かうことになった。

 

 二名分の利用料金を受付で支払うと、続いて券売機でバスタオルとフェイスタオルも二枚ずつ購入。ついでに入浴後のバスローブも二人分買っておけば準備完了だ。後は浴場に行くだけのこと。

 

「なんだなんだ。突然歩幅を縮めよって」

 

「いや……ちょっとね」

 

 …………とはいっても気後れしてしまうところはある。

 

 女の子になって半年。最初ほどにないにしろ、自分の裸体を見ることも未だ恥ずかしい男子にとっては、他人の裸を見るのは非常に躊躇してしまう。

 

 そりゃ初めてではないよ? 御桜川での体育の授業をする時にみんな着替えるさ、不可抗力で見ちゃうさ。でも着替えるの面倒だから、予め制服の下に体操服着てくる女子はいるし、俺やアニーも体育が一限目や二限目にある時は実際そうしてる。だから実際に無防備な裸体を見る回数自体は非常に少ないのだ。免疫力なんてできるわけがない。

 

 唯一慣れてるとすれば、イルカの裸ぐらいだ。出会った当初はお風呂に入る知識さえなかったから一緒に入っていたけど、それだって使命感があったからだし、そもそも子供だ。そういう対象に見るのは不可能だ。

 

「……落ち着け。これは仕方ないんだ、女の子だから女湯に入るのがマナーだ。決して如何わしいことはない。正当化もしていない」

 

 それに時間帯も時間帯だ。利用客も多くないだろうから、視界に入るのは少ないだろうし、仮に見ても叔母様方ぐらいだろう。意識してれば恥ずかしいなんて思うことはない。今こそ霧守神社での精神統一の成果を見せる時だ。例え鼻の下が伸びきっているのが分かっているとしても。

 

「……って、ギン?」

 

 と、意を決して女湯の暖簾を潜った矢先、後ろから付いてくる少女の気配が一切ない。気になってロビーまで戻ってみると、珍しく放心としながら男湯と女湯の待合場所前で立ち尽くすギンの姿があった。

 

「どうしたの?」

 

「いや、どちらに入るべきか悩んでおってな」

 

 手渡していたタオルと着替え一式を両腕に抱えながら、ギンは男湯を見ては溜め息を吐き、女湯を見ては頭を掻く。

 

 ……もしかして文字が読めないとか? 

 

 確かにどちらの暖簾も達筆な出来栄えだ。しかし、それでも読めるものは読める。だとしたら昔では『男』と『女』ではなく、何か別の表記で分けられていたのだろうか。決してないだろうが『雄』と『雌』みたいな違う漢字で。もしくは男女の区分けが無かったか。

 

「あの……暖簾の文字は男と女って書いてあって、今俺がいる方が女の子が入る浴場ですよ?」

 

 昔は色でも分かりやすくされていたが、当世では男女平等の影響で暖簾の基本色は白で統一されている。それも悩ませる一因なのだろうか。

 

「それは分かっておるよ。儂が悩んでおるのは根本的な部分だ」

 

 ——根本的な部分?

 

 と一瞬だけ頭の中で疑問に思った時には、ギンは勿体つけずに核弾頭級のトンデモナイ発言が飛び出してきた。

 

「……儂、見た目はこれでも『男』なんじゃ」

 

「——ゑ?」

 

 

 

 

 

 

 え? えっ? えっっ???

 

 

 

 

 

 …………ゑ? ゑっ? ゑっっ???

 

 

 

 

 

「えぇぇええええええええええええええ!!?!?」



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第9節 〜湯煙一幕〜

完成済みの話のストック切れたということと、FGOの村正PUの最終日までに石を掻き集めるために絆上げ周回する必要が……あったんですけど、今日引けたので特に問題ありませんでした。

とりあえず次回以降からの投稿は1週間後となりますが、なるべく早く更新頻度を戻せるように頑張ります。


「男……? ギンが男……?」

 

 混乱する頭で今一度ギンの身体を確認する。

 

 上は付いてる。どう見てもあの感じは付いてる。パッドとかの誤魔化しが効くものではないし、露出度的にありえない。

 ならば下はどうか。視線を下ろしてみるが分からない。スカートということだけ。

 

 ……両方あるってこと、ありえるの? そんな神話や薄い本でしか成立しないようなことがありえるの?

 

「見ての通り張りの良い乳はあるし、男根さえ無い身ではあるが、儂は正真正銘の『男』じゃよ」

 

「…………それってつまり、女ですよね?」

 

「うむ、この身体は真に正しき女性よ。見惚れるほど可愛くて綺麗じゃろ〜?」

 

 呆れるほどワザとらしく、ギンは胸や尻を強調しながら身をくねらせて「どうじゃ?」と尋ねてくる。すいません、明らかに逆効果です。魅力半減です。

 

 ……考えてみる。答えは浮かびかけたが……同時にすぐさま沈んでいった。

 

 理由は簡単。前提が違うということ。

 先程浮かんだ答えは、俺と同じで『性別が変わってしまった』ことを予測した。しかし、妖刀の記憶通りなら少女は最初から少女であり、今こうしているギンという存在の肉体は女性のままだ。俺と違って肉体が変わったわけではなく、むしろ逆に精神面で性別が逆転しているのだ。生まれてから男であった俺が、あの日を機に『女の子』になってしまったのは少し違う。

 

「なんじゃ、そんな難しい顔しおって。やはり男と入るのは嫌か? であれば気を利かせて儂は男湯に行くぞ」

 

「待って! SIDでも言い訳できないレベルで即逮捕だから! 見た目は女の子だからこっち来て!」

 

「では、失礼するぞ〜♪」

 

 ご機嫌な様子で足早にギンは女湯の暖簾を潜ってきた。

 

 ……いや、身体が女の子だから当然なんだが、こう『男』である事実を踏まえて見ると、どう足掻いても変態が突入してる場面にしか見えない。同性であるはずなのに鳥肌が止まらない。凄まじく嫌だ、来ないで欲しい。

 

「この中に衣類を入れるのじゃな……。ふむふむ但書の通りなら、これをこうして……おっ、開かなくなっておる!」

 

 ダイヤル錠にも興奮するギンの様子を俺は横目で確認する。そこには生まれた姿のまま何度もダイヤル錠を開け閉めする無邪気な美少女がいた。

 

 隠してる部位なんて一切ない。上から下までスッポンポン。アニメでよくある謎の光や過剰な湯気、それに不自然に視界を遮る障害物なんてない。タオルなんて心許ない障壁もない一面肌色状態だ。見える、見えるぞ、私にも秘部が——。

 

 …………いかん、いかん、いかんいかん! なにマジマジと見てるんだ!! 自分ので慣れているだろうっ!! 想像しろ、胸なんてものは柔らかいだけの胸筋だ!!! 男でも付く時は付くっ!!!!! 今更興味津々で見るほど俺もお子ちゃまではない!!!

 

 

 

 でも……でもでもでも。気になってしまう。

 

 ギンは『男』——。それがどういうわけか、今まで感じたことがない高揚感を抱いてしまう。それが本当だというのなら、例え本人の口から「男根がない」や「真正しき女性」と言われても、自分の目で確認しないと落ち着かない。

 

 その鼠蹊部には『ナニ』があるのか————。

 

 

 

「なんじゃ、なんじゃ〜♡  儂の裸を食い入りよって〜♡ 女の子同士、珍しいものでもなかろう♡」

 

「ブゥゥウウウウウウ!?!!?」

 

 覚悟が決まる前に、今まで側面状態でしか見れなかったギンが堂々と無防備に裸体を正面から晒した。

 

 当然ない——。ないが……ないから見てしまう。教科書でも断面図しか教えてくれない女性の秘部を。眼球が飛び出すほどにこれでもかと。

 

「きゃあああああああ!! 破廉恥っ! そそそ、そんなに見せないでっ!!」

 

 生娘全開の叫び声だが、今は自分への恥ずかしさなんて全部捨てられる。それ以上に相手の裸体を見るのが恥ずかしいのだから。

 

「銭湯だから裸は当然であろう。確かに男の裸なら見るに堪えんかもしれんが……女の裸なら他人であろうと見慣れておるじゃろ」

 

「だから見れないんだよっ! 俺だって男なんだからッ!!」

 

「ほ? ……ほー? ……ほうほうほう〜♡」

 

 ニマニマと、そりゃもう下丸出しの嗜虐的でスカべな笑みをギンは浮かべた。一転して美少女の顔が台無しだ。鼻の下が伸びきっていて、同性であろうと背筋が凍りつく。

 

「そうか、男だったのか〜。儂と同じ男だったか〜〜! いや、歳のせいか目が悪くての〜〜!! 気づかなくてすまないの〜〜〜!!! レンちゃんが女に見えて仕方なくての〜〜〜〜!!!」

 

 ウザいくらいワザとらしくギンは謝罪を言葉にする。

 ヤバイ、なんかSNSのネタとしてよく見る叔父さん構文を思い出す。言葉の節々から魂胆が透けてきて身震いする。

 

「積もる話もあるじゃろうし、背中でも流し合いながら語るとするか? 今は女の子同士、興味あるじゃろ♡」

 

「いえいえいえ、結構です。マジで結構です」

 

「恥ずかしがることはないであろう! ……男なら『裸の付き合い』というじゃろ? 一緒に……隈なく洗い合いでもして親睦を深めようぞ♡」

 

「ひぃぃ……!!」

 

 ごめんなさい、お父さん。ごめんなさい、お母さん。

 娘となった身である息子は、今宵純潔を失うかもしれません。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「なるほど……。呪いか何かで女の子になったと……」

 

「は、はい……」

 

 ……なんてことは俺の被害妄想らしく、極めて健全に身体を互いに隅々まで確認という名の流し合いをした。際どい触られ方もしたが、それも下心による手つきではなく、親心に満ちた優しい手つきだった。おかげで俺の身体は汚れ知らずの白肌だ。二重の意味で。

 

 結果として互いに相手の身体的な性別は『女性』でありながら、精神的な性別は『男性』であることが分かり、どうしてそうなったのか、先に俺の事情の方から説明することになった。

 

 …………マリルに許可もなく喋ってしまったが大丈夫かな? ここはひと気の薄いところだから、少なくとも先程の会話に聞き耳立てていた客はいなかったし、脱衣室ではプライバシーの都合で監視カメラは付いてない。俺が『男』である事実は、世間に漏れてることは万に一つもないとは思うけど……。

 

「はぁ〜♪ いつの世も風呂はいいのぉ〜♪ 月見酒が欲しくなるぅ〜〜♪」

 

 なんて考えていたのに、こっちの悩みなんて露知らず。本人は電気風呂に身を落としていた。電気風呂は所定の位置で腰を置けば微弱な電気信号で血行促進されるとかいう効果があり、お気に召した様子でこれでもかと表情を柔らかくしてギンは寛ぎ始めた。

 

「しかし女性というものは不便よな。胸が浮いて落ち着かん」

 

「すっごいわかる……。気にしちゃって集中できない……」

 

「寝る時も不便だ。呼吸がしにくい」

 

「それも分かる……。胸が邪魔だからうつ伏せでゲームしにくい……」

 

「汗ばんで蒸せるしの……」

 

「超分かる……っ!!」

 

 今分かった。最初に見た時の親近感の正体が。

 

 それは同性の……より正確には『男同士の会話』……しかも『女になったことでの悩み』を共感し合えることができるのを直感的に察知していたからだ。久しく感じたことがない多幸感が体の底から湧いてくる。

 

 そうだ、俺は男だ。男なんだから下世話な話をしていいじゃないか。女の子に夢見てもいいじゃないか。今の今までラスボス系お嬢様の「ヘタレ野郎」とか、SID長官の「ビール買い置きしとけ」とか、戦研部主任の「身体検査させて〜〜!」とか色々と女性に対する無情な現実を見せられた上に束縛されてきたんだ。今この瞬間だけでも、男としての開放感に浸っても許されるに決まっている。今誰でもなく男として俺が決めた。男は決意を曲げない、二言はない。

 

「お互いに苦労するのぉ……。そういう意味では男は便利じゃった……。特にチ○コは良かったのぉ……」

 

「分かる〜! ないと寂しいし落ち着かないし……」

 

「それに出す時も我慢が効かんしの。どれだけ我慢しても漏れるものは漏れる」

 

「それな〜……。漏れた時の恥ずかしさと言ったら……」

 

 と、そこで周囲の視線に気づいた。同年代は一切いないが、叔母様方の視線がやけに熱っぽくも差別的だ。影口で「最近の子はデリカシーがないわね」や「でも盛んでいいじゃない」という会話が密かに聞こえてくる。

 

 大人から見れば下品かもしれないが、ただチン○について話し合ってるだけだ。久々に気持ちが分かり合える男同士の会話なんだから水を差さないで……………………。

 

 

 

 …………そこで思い出した。いくら俺とギンが元は『男』であっても、今現在は女の子なんだ。となれば事情はどうあれ会話の大部分は女の子が話してることになる。それを踏まえて先程の会話を振り返ってみた。

 

 

 

 

 

 ……どう見ても痴女の会話だ。

 

 

 

 

 

「ギン……一度やめようか」

 

「なんじゃ、下世話な話は苦手なのか?」

 

「そうじゃなくてね……」

 

 思い返したら、溺れたくなるほど恥ずかしい会話だった。

 

「まあ、気にしないでおくか。電子風呂というのも堪能したし、次はどこに行こうかの……」

 

 上機嫌に風呂から身を出して連絡通路の案内板を凝視する。古人であるはずなのに適応力が高すぎる。

 

「……サウナとは、蒸し風呂みたいなものか。現代ではどうなっておるか気になるし、湯を通さずに女体を見れるのも眼福よな」

 

 そう独り言を終えた時、ギンは「お主はどうする?」と振り返りながら尋ねてきた。

 

 ……サウナか。……苦手なんだよなぁ。サウナ自体は好きなんだけど、入ってる人同士で我慢大会する暗黙の了解的な空気が。それによって妙に緊張感がある感じが。どうしても安らぎにきたはずなのに、逆の戦う感じになる雰囲気が。

 

「俺はいいやぁ〜〜……。ここでもう少し蕩けてるぅ〜〜……」

 

 今は羽伸ばししたい気分だ。我慢大会する気が起きない。

 俺の返答を聞くと、ギンは「なら儂一人で行くとするか」と特に気にせずに一人でサウナがある場所へと案内板を確認しながら向かっていった。

 

 ……って、ギンの『男』について聞くの忘れてた。これじゃあ、俺だけが話しただけじゃないか。

 

 ……けどいいか、また後にでも聞けば。それこそサウナから出てきた後でもいいだろう。気長に待とう。

 

 

 

 ——カポンッ。

 ——シャアアア。

 

 

 

 ……桶とシャワーの音だけが響く。時間にして10分くらいか。ギンが戻ってくることはない。我慢強いのか、単に道に迷って今頃サウナに入ったのか。戻ってくるまでもう少し時間がかかりそうだ。

 

 長風呂で火照った身体を休ませるために一度出て、水風呂に足先だけ浸けて熱を逃していく。ある程度したら今度は手で水を掬って首や脇の下といった関節部に当て水をする。これを繰り返すと、身体は回復魔法に当てられたような清涼感を感じて気持ちがいい。

 

「あら? 奇遇ですね、マスター」

 

 当て水を繰り返す中、そこで思いもしない人物の声が聞こえた。

 その声の主を俺はよく知っているが、問題なのはどうしてそれがここにいるのか。俺は振り返って、この場では正装である裸族に話しかけた。

 

「珍しいね。ハインリッヒが外出してるなんて」

 

 客観的に聞くと、ハインリッヒが引き篭もりみたいな感じになるので妙な罪悪感が湧くが、実際研究肌の引き篭もりなのだから仕方ない。

 

「私事がありましてね。そのために出ております」

 

「ハインリッヒの私事ね……」

 

 今までハインリッヒが研究室が出る時なんて食事か、任務か、野暮用くらいなものだ。野暮用とはラファエルの関連することであり、忘れがちだがハインリッヒはラファエルの『随行員』としてサモントンの使者と度々交流することがあるのだ。

 任務はOS事件みたいな大規模なものでもないと研究室での情報調査で済ますし、食事なんて研究に没頭して数日間食わないことさえある。ハインリッヒが外に出ることなんて結構稀なのだ。

 

 だからこそ、ハインリッヒが『私事』で外に出るという初めて知る事実に不安を隠せない。一体どんな『私事』なのか。研究対象となる実験サンプルが不足してるとかその辺りだろうか。

 

「…………改めて見ると……やはり生前より一回り……いや二回り……」

 

「人前で堂々と自分の胸を揉まんでくださいっ」

 

「ご安心を。マスターからの授かり物ですから大事に扱います」

 

 心配をしてるんじゃない。周りの視線を気にしてくれと言ってるんだ。先ほどまで男根について話していたせいで、俺に対する周囲の叔母様方の視線は余所余所しく、そこに自分の胸を揉む女まで近くに来たら誰でも変態の集団だと勘違いされる。

 

「それではお隣失礼……って、これ水風呂じゃないですか? マスターはそのようなご趣味が?」

 

「いや、湯冷めしてるだけだから」

 

「なるほど。マスターのご趣味ならば、それに合った物を作ろうかと思いましたのに……」

 

 自宅に水風呂を作る必要はない。水掛けシャワーで十分だ。

 

「それでは、わたくしはこちらのお風呂にでも入りましょうか」

 

 そう言って連絡通路のすぐ側のジェットバスに、ハインリッヒは身を置いて優雅な鼻歌をこぼす。

 

 ……ハインリッヒでも風呂は至福の時なんだな。誰にも邪魔されずに、伸び伸びと手足を解してジェットバスを楽しんでいる。案外風呂に入ることが私事だったのかも。ここなら合法的に裸族になれるし。

 

「……マスターは成長中と……」

 

 ……視線を感じた。具体的には胸部に、ハインリッヒの釘を打つような鋭い視線が。

 

 気恥ずかしいことこの上ない。このままでは水風呂を浴びているの茹だってしまいそうだ。俺は隠すために同じくジェットバスに入り——。

 

「ちょ、なにこれっ!? くすぐったい!!」

 

 男性では味わったことがない未知の感覚に襲われた。

 

 なんだ、このゾワっとする背徳感は……。

 そして、この言い表せない脳へと刺激は……。

 

 こんなこと男の時には感じたことなかった。こんな未知の感覚は生まれて初めてだ。恐怖だとしても、何を恐れているというんだ? たかがジェットバスだぞ?

 

「あぁ〜〜……。マスターはまだまだ初々しいのですね〜〜……」

 

「蕩けるの早いな……」

 

「完璧な身体でも、人間である以上はどうしても健康に害は出ますからねぇ……。なぜ人間は数時間動かないだけで支障が出る欠陥品に進化したのか……」

 

 さっきまで男性、女性の不便さについてギンについて話していたが、ハインリッヒからすれば人間自体が不便だと言いたげだ。やっぱ研究者の思考を理解するには、俺の脳ではキャパシティが追いつかない。

 

「レンちゃん、サウナとは実に良いの〜。蒸し風呂とはまた違った風流があって心地良かったぞ〜」

 

 ようやくギンが帰ってきた。長時間入っていたのが見てわかるくらいには、身体中蒸れた熱気が吸い込んだ汗を出している。どうやら我慢大会の勝者のようだ。背後には同様にサウナで汗をかいたであろう元気がない叔母様が何人か歩いているのが見える。

 

 まあ、ともかくこれで『男』についての話の続きが聞ける——。

 

「——待っていましたよ、貴方を」

 

 と思ったその瞬間、俺とギンの間にハインリッヒが割り込んできた。その背中は俺の守るようにギンの前に立ちはだかり、突然のことに俺の頭が理解に追いつかない。

 

「下がってください、マスター。この方は未知数です。味方であるという保証はありません」

 

「何を言ってるんだよ……。ギンはただ気の良い……」

 

「——黙ってください、マスター」

 

 空気が張り詰めるのが分かった。あのハインリッヒが、俺のことを崇拝してくれると自負してるのにも関わらず、身震いするような眼光で押し黙らせてきた。

 

 ——怖い、と本能的に感じた。それをハインリッヒは察して「ご無礼を」と優しい謝罪をしてくれる。

 

「おいおい……少女を困らせるのは、大人としてみっともないぞ? レンちゃんから離れたらどうじゃ?」

 

「貴方に用があると言っているのです。貴方さえ素直に応じてくれれば、わたくしもマスターを困らせずに済みますので、どうかお願いします」

 

「人に物を頼む時は誠意を込めることを知らんのか? せめて頭でも下げたらどうだ?」

 

「これでも下げてるんですよ?」

 

 互いに言葉の刃で相手を斬りつけ合う。両者共に臨戦態勢だ。一触即発の気配を察して、周囲の叔母様方はそそくさと浴場から消えていく。

 

 こんなハインリッヒが今まで見たことがない——。ここまでの敵意というか、警戒心を見せるなんてよっぽどの縁がギンとあるとでもいうのか?

 

 両者の眼光が交差する。身長は頭二つ分は違うはずなのに、二人とも同じ背丈で睨み合ってるように錯覚する。それほどまでの凄みというか、緊張感がこの場にはある。逃げ出したい気持ちは大いに分かる。

 

 そんな中、ギンはため息混じりに老人のような貫禄で告げた。

 

「……儂はお主みたいな佳人は知らんぞ」

 

「わたくしも、貴方みたいな老女は知りません。ですが……匂うんですよ。同族の匂いがこれでもかと」

 

 ハインリッヒの言葉には一つ一つに棘がある。目に見えて敵対意識を見せており、その言葉は遠回しではあるが威嚇行為だ。まるで「関わってくるな」と言うかのように威圧する。

 

「——あぁ、そういうことか。街中でやけに濃く感じた『匂い』はお前か」

 

 ——匂い? 今度は何の話をしてるんだ……?

 

「では先に名乗ろう。儂の名はギンだ」

 

「それでは謹んで明かしましょう。我が名はハインリッヒ・クンラート…………」

 

 理解ができない。二人の間に何があるというのか。

 だってハインリッヒとギンは生まれた世代も違うし、何よりも国も違う。どう足掻いても接点らしい接点などできるはずがない。

 

 だとしたら、この二人には何が——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたと同じ……『守護者』ですよ」

 

 

 

 

 

 『守護者』——。

 それは運命の囚人となった者の末路を意味していた。



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第10節 〜蝶舞蜂刺〜

一週間って意外と長いですね。

とりあえず現在は11節は完成済み。12節は執筆中とまだまだストック不足なので、次回も一週間後になります。


「お待たせしました、こちら湯上り御膳三人前となります」

 

 ……場所は先程と変わってスーパー銭湯内の食事処。そこで俺とギンとハインリッヒは座敷に腰を据えて食事を共にする。こういう場所にしては珍しく個室であるが、これは昔起きたあるウイルスによる影響の名残りらしい。おかげで他人に話を聞かれる心配もなく話題ができる。

 

 だってね、どんなに真剣に話し合ってもさ……風呂場で裸で話し合うなんて絵面締まらないじゃん? いや、今も三人ともバスローブ着て食べながら話すのも絵的におかしいけどさ……。裸で言い合うよりはマシじゃん? それに大衆浴場だから個人的なことで騒ぎを起こすのもマナー違反じゃん?

 

 それを二人に伝えたところ——。

 

「それもそうじゃな。飯でも食いながらの方が有意義というものよ」

 

「マスターのご提案なら喜んで」

 

 と意外にもすんなりと受け入れて今に至る。

 

 ……ちなみに食事代は全てハインリッヒ持ちだ。俺が言い出したことだし、俺が持つと言ったのだが、本人曰くサモントンの『随行員』としての仕事、SIDの『研究者』としての仕事で、所持金が腐るほど有り余ってるらしい。ハインリッヒ自身も購買欲とかには無頓着と口にしていたし、俺には嘘は基本言わないので、お言葉に甘えて食事を頂戴することとする。

 

「……さっき言っていたことは本当なの?」

 

 改めて話は戻り、俺はハインリッヒに目を合わせて真剣に聞く。先程の言葉は冗談ではないかの確認だ。思い出すのは聞き逃してはならないあの単語——。

 

 

 

 

 

 ——あなたと同じ……『守護者』ですよ。

 

 

 

 

 

 ……これが意味するのは、つまり今目の前にいるギンはハインリッヒと同じ『因果の狭間』で囚われていたものの一人を意味し、何かしらの特異的な状況において拒否権もなく『あの方』に使役される哀れな従者ということになる。

 

 ……こんな飄々とした人が? とてもじゃないが信じられない。それが本当だとしたら、想像しなければいけないことが一つある。

 

 

 

 

 

 本当に『守護者』だとしたら——。

 彼女は、いや彼は……ギンは——。

 

 いったい『何百年』あるいは『何千年』……。

 

 あの『因果の狭間』にいるんだ——?

 

 

 

 

 

「……残念ながら知らんとしか言えん。だが同族が言うのだ、きっと儂はその『守護者』というものじゃろう」

 

「なるほど……」

 

「それで納得しちゃう!?」

 

「ええ、まあ……。嘘は言ってるようには感じませんし……」

 

 意外だ。明確な答えを出さない限り、てこでも動かない研究者体質のハインリッヒがこんな曖昧な返答を受け入れるなんて。

 

「不承不承ながらも、わたくしも長い間『あの方』に仕えていた身。悪辣な手を使って縛り付けてくるのは分かりきっているので……。おおよそ『守護者』となることさえ伝えずに、ギンさんを手中に収めたのでしょう」

 

 なるほど。ハインリッヒの中では想定内だっただけの話か。

 確かにアニーを無理矢理『因果の狭間』に押し込んだり、ソヤ曰く「門を開けさせようと誘惑してくる」的なことも言っていたし、やり方が狡猾なことは俺でも想像できる。

 

「…………『あの方』とは、あの珍妙な『魔物』のことを言ってるのか?」

 

「ええ、互いの認識に相違がなければですが。『あの方』は人智では計り知れない存在……姿形は捉えることができず、状況によってその有り様は如何様に対応するため、明確な共有はしにくくはありますが」

 

「ならば間違いはあるまい。儂も彼奴には苦労しておる……。何度斬っても意味がないのでは、こちらも流石に萎えてくる」

 

「……今なんて言いました?」

 

「流石に萎えてくる、と言った」

 

「その前です。聞き間違いでなければ、あなたは『何度も斬った』と仰いましたか?」

 

「おう、言ったぞ」

 

 さも当然のようにギンは認めた。その言葉について嘘は言っていない。俺は一度だけとはいえ、その『斬った』瞬間を目の当たりにし、それによって『あの方』からの突然の襲撃から守られたのだから。

 

「……マジか」

 

 それが錬金術師であっても理解し難いのか、世俗に染まった驚愕を零した。

 

「……マジか」

 

 あまりの驚愕からか、二度それを口にした。

 

「……どういう理屈かは皆目検討もつかないのですが、どのように?」

 

「いや、そこにおったからスパッと」

 

「…………この件は一度置いときましょう」

 

 あのハインリッヒが匙が投げた、だと……!!?

 

「マスターからはギンに聞きたいことはありますか?」

 

「ええ!? ええと……色々あるんだけど……それよりも前にハインリッヒに聞きたいんだ」

 

「わたくしにですか?」

 

「うん。どうしてギンが『守護者』って分かったの?」

 

「簡単ですよ。方舟基地でわたくしが出現した時と同じ反応をSIDが捉えたから。それだけでは『魔女』あるいは『ドール』の誕生であること可能性もあったので、こうしてわたくし自ら現地に赴いて確認を……という感じです」

 

「なるほど……」

 

「ですから最初に霧守神社へと向かい、色々と状況を纏めて……こうして見ることで初めてギンが『守護者』であることが分かりました」

 

「実際にわたくしと状況が似ていましたし」と補足をしてくれる。

 

 ……そういえば気が動転してて考える余裕もなかったが、俺が手にしていたはずの妖刀がなくなっていたな。

 

 ハインリッヒの言う通りなら、方舟基地で俺が青金石柱を壊したことでハインリッヒが出現と同様に、妖刀を俺が壊したことでギンも出現した……と考えるのが自然だ。

 

 …………あれ? また壊してない? 

 青金石柱、未遂とはいえイースターエッグ、エメラルドと続いて今度が妖刀と家宝ブレイカーの道を極めていってないか?

 

 ……今は考えないでおこう。

 

「じゃあ、次はギンに聞くんだけど……ギンが言う『魔物』に対して知ってることはどこまで?」

 

「うーむ……。斬れる存在……ということと、理由をつけては現世に呼び出そうとする傍迷惑なやつよな。なんか小難しいことは言っておったが……最終的には儂の気に食わない輩を一人残らず斬り伏せておくだけでいい、とか扱いには困っておったの」

 

 つまりは多くは知らされず、『守護者』としての役割だけは全うしていた……ということになるわけか。

 

「次に聞くんだけど、『魔物』は斬ったらどうなるの?」

 

「大して意味もない。一時的に退けるだけで『魔物』自体が死ぬことは決してない。時が経てば執拗に追ってくるであろう」

 

 ……やっぱりアレだけだと対処し切れてないんだ。そう遠くない未来にでも、また襲撃されることを考えないといけない。

 

「最後に聞くんだけど……どうして『守護者』になったの?」

 

「————っ」

 

 途端、ギンは押し黙ってしまった。

 

 話したくないという雰囲気ではない。むしろ話すべきかどうか悩んでる。だけどその悩みは本人はかなり重要なのだろう。みるみる眉間の皺が深くなっていく。

 

「ごめん、聞かなかったことにしといて……」

 

「いや、よい。……これも数奇な運命な一つじゃろう」

 

 そこでギンは肩の力を抜いたかと思えば、今までの飄々とした態度は消え去り、初めて会った時と同じ神聖な雰囲気を纏いながら告げた。

 

「『守護者』となった理由——。それを知るには条件がある」

 

「条件……?」

 

「単純な話よ」とギンは言いながら人差し指を俺へと向けた。

 

「———-儂から一本取ってみろ」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 場所は変わり、再び霧守神社の道場。そこで俺とギンは対峙する。

 

「ハンデありの一本勝負。よろしいでしょうか」

 

 審判は霧夕さんが引き受けて、この勝負の内容を復唱する。観戦者はどこかにいるであろうウズメさんとハインリッヒの二人だけ。静寂が道場の空気を重くて息苦しい雰囲気へと様変わりさせる。

 

 ルールはハンデありの一本勝負——。制限時間帯に相手から一本取るだけのシンプルなものだ。問題はそのハンデの内容にあった。

 

 俺は竹刀だというのに、対してギンは『素手』であり、俗に言う徒手空拳という状態だ。そしてギンはたった『一手』しか攻撃できず、さらには制限時間内の『終了10秒前』にしか許されない。

 

 最後に、制限時間を超えた場合は無条件で俺の『勝ち』になること————。

 

 ……こんなのが勝負になるとでもいうのか? 俺自身、剣の腕はこの数ヶ月でかなり効率的に伸ばしてきたとはいえ、数多の『魂』から技術を教えてもらっている以上、達人には程遠いのも分かりきっている。同じ条件ではギンには万に一つの勝機もないだろう。

 

 だとしても、あまりにも条件に差がある。素手と竹刀では間合いの差がありすぎる。もちろん懐に入られたら素手の方が当然強いのは分かる。だけどギンが攻撃に入れるのは最後の10秒だけの一手だけ。それまでは懐に入ることはできても有効打がない以上は、俺が防御に回るのはその十秒だけでいい。勝つためなら10秒間逃げればいいし、逃げ切れなくても、その一撃を有効にしなければ結局は俺の勝ちだ。

 

 ……これではそもそも勝負にならない。俺にはどうしてもギンが『負け』に行ってるようにしか見えない。

 

 だというのに、俺の心臓が鼓動を早めて警鐘を鳴らす。竹刀に眠る『魂』も呼応するように、心の中で確信が広がり続ける。

 

 ———ギンが勝つ気がしてならないと。

 

「それでは、試合始め!」

 

 開始の宣言とともに俺は「よろしくお願いします」と礼節を口にする。この数ヶ月で何度も行った稽古の地続きだ。相手には礼儀を弁えないといけない。

 

 だがギンは違った。礼節なんて知らんと言うように、こちらを見つめ続ける。その視線は『試合』に挑むものじゃない。明らかにその先——『殺し合い』をするかのような冷徹な目をしていた。

 

「…………期待、外れかのぉ」

 

 途端、ギンは身体中から戦いの気配が消えた。

 

 ……違う、消したんじゃない。感じ取れないんだ。

 ありとあらゆる感情が煙が焚かれたように朧げで分からない。構えも取らずにこちらの動きを待ち続けるその姿勢は、果たして何を考えているのか。

 

 分からない、分からないけど……どうせ攻撃しなければ何も始まらない。

 

 一歩、踏み込んだ。だけどそれは予備動作ではない。既に攻撃へと移る一撃だ。剣道では動作を洗練、高速化し動作を『一拍子』で終えるように訓練する。踏み込んだ時には、相手の急所へと既に打ち込めるように。

 

 間違いなく俺にとって今までにない最高の一撃だった。理想的な呼吸と姿勢から放たれた胴体への突きは、距離の認識を見誤るほどの綺麗なものだ。達人相手だろうと一本とまではいかないが、最低でも有効打突にはなるであろう。

 

「ふんっ!!」

 

 だというのにギンは止めた。避けるのではなく止めたのだ。太腿と肘で竹刀を挟み込んで、強引に押し止めて突きの勢いを殺す。

 

 理解が追いつかない——。

 だが驚くには早すぎた。こちらが次の一手に思考を全力で回し続ける中、ギンは考えることさえも許さないと言わんばかりに挟み込んだ竹刀を力任せに折ったのだ。

 

 ————思考が止まった。

 これは試合だというのに相手の武器を叩き折るのが反則ではないのか? という自問自答だけが繰り返される。

 

「お前、何か勘違いしてないか?」

 

 混乱が思考を支配する中、ギンは冷たく告げた。

 

「これは試合ではない、勝負だ。死に物狂いで来い」

 

 挑発ではない、発破だ。こちらとギンの意識の差を表面化するための言葉。そもそもの勘違いを俺に分からせるための言葉。

 

 ……『勝負』において礼儀なんてない。『勝つ』か『負ける』かしかない。それはOS事件での異形との戦いや、レッドアラートの戦いで分かりきっていたことなのに。なんで綺麗に戦おうとしたのだろうか。ルールなんて本当の勝負なら無法で無用だというのに。

 

 

 

 ——そういうことなら、こっちも考えられる限りの手を打つしかない。

 

 

 

 思考を読まれないうちに、俺は無我夢中で突進をした。徒手空拳での組合だ。身体の大きさも体重もこちらのほうが重いのだから俺の方が優位はある。だがギンは汗ひとつ流さずに掴まれるはずだった腕を振り払い、俺の勢いを削がないまま壁へと追突させた。

 

 ——痛い。けどそれは想定内だ。

 

 こっちだって目に見えた一手を打つだけで打倒できるなんて到底思ってない。あわよくばという欲はあったが、本当に欲していたのはこの瞬間、ギンが背中を見せた状態で壁際まで誘導すること。

 

 ここ霧守神社の道場は壁のあちこちに木刀や竹刀、果てには真剣や模造刀などが飾られている。そして俺はその位置を目を瞑っていても把握できるほど稽古漬けにされていたんだ。竹刀が折られたというのなら、新しく手に取ればいいだけのこと。

 

 身体の流れを極力殺さずに、最小の動きで最大の武器となる使い込んだ木刀を手にする。ここ二ヶ月で一番振るった物だ、受け取れる技術自体は大したことはないが、もう既に俺自身が身につけた技術があれば十分だ。

 

 必要なのは一拍子だけ——。

 踏み込みを意識して、木刀を横に薙ぎ払った。

 

 今度こそ取った。これなら気づいたとしても、横に逃げることはできないし、前に逃げようにもすでに間合いにいるため避けきれない。姿勢を崩して避けたしても、今の俺の足元には先ほど折られた竹刀がある。これを蹴り込んで顔面にでも当てて目潰しでもすれば、次の身動きは取れない。これで詰みだ。

 

「多少はマシになったが、まだ甘い」

 

 だが、ギンは俺の予想を軽々と超えた。振り切った木刀に足を乗せて上に回避したのだ。

 

 曲芸紛いの回避方法——。

 跳躍したことによってギンの全体重は木刀へと乗せられ強制的に床へと叩きつけられた。同時に俺も倒れ込むが、今姿勢を崩しても制限時間はまだ余っている。焦る必要はないんだ、余裕を持って息を整えながら次の一手を考えるんだ。

 

「13回目……」

 

 途端、ギンは意味も分からぬ数字を口にした。

 

 13回目——。何がだ? 俺には想像できない。だけど、これは勝負だ。気を逸らすための詭弁という可能性もある。何にせよ意識する必要なんてどこにもない。攻撃を続けるしかできることがないのだから。

 

「23、25……」

 

 しかし、それでも虫食いのように小言は意識を侵していく。

 それは制限時間を刻んでいるのか——。にしては遅すぎるし、刻み方も法則性がない。

 果たしてその数字には何の意味があるのか——。不安は募るばかりだが、そろそろ制限時間に余裕がなくなってきた。攻撃を休ませるわけにはいかない。

 

 一心不乱に木刀を振り、時には投げつけたりした。さらには飛び込んでSID仕込みの足技で体制を崩そうともした。それでもギンを間合いに入れることさえできずに、いなされ続けて時間だけが無為に過ぎていく。

 

「41……」

 

 そして——ついに制限時間は終了10秒前を迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「構えろ——」

 

 宣告の直後、今まで煙に巻いたギンの意識が、一瞬だけ輪郭が明確となって浮き出てきた。

 

 その正体は『殺気』——。

 視線だけで射殺す様は、鷹よりも獰猛で蛇よりも鋭利だ。

 

 だというのに、瞬間が過ぎれば殺気は水に溶けたように消え失せた。海のように広大な意識の中、波一つ立たない凪みたいに穏やかだ。

 

 だから気づかなかった。ギンの身体は最初からそこにいたかのように容易く木刀の間合いをすり抜けて、懐へと飛び込んできていたことに。

 

 しかも、それは予備動作ではない。

 間合いに入った時には既にギンは攻撃体制となっている。

 

 素手であるはずのギンの手は、まるで真剣と錯覚するような気迫を持って手刀を構える。眉間に皺一つ寄せず、川に流れる落ち葉のように迫りくる様は、あまりにも自然体すぎて危機感さえ湧いてこない。そうであるのが当然であるように脳が勝手に認識してしまう。

 

 奇しくも、これに近しい感覚に覚えがあった。

 それはセレサと初めて会った時。文字通りの手解きがあってソヤの髪を、俺の指で切り裂いた時と同じものだ。

 

 頭では理解してるのに、身体が命の危機であることを理解してくれない。あの最低限の力しか入れずに脱力した姿勢でいられては、例え視認できていたとしても攻撃という動作を認識してくれない。

 

 故に、身体は一向に回避という動作を受け付けない。

 それは、俺に止める手段がないことを意味していた。

 

「い、一本……。ギンさんの勝ち、です……」

 

 勝負は一瞬にしてついた。

 

 既の所でギンの手刀は止まる。切断された数本の毛は抜け毛のように落ちるが、狙い所とされていた首筋には傷一つない。そこで初めて身体が『命の危機』であったことを理解したように脳に警鐘が走り、背筋が強張り汗が滲み出てきた。

 

「——はぁっ……!」

 

 あまりの緊張感から解放されたことで、集中力と一緒に溜め込んでいた空気を一気に吐き出してしまう。

 

 生きた心地がしなかった。今では身体中が震えて止まらない。

 

 これが……これが本当の『実戦』なんだ。今まで実践と思って訓練していた『結界迷宮』での戦いなんて、所詮は順当な戦いの積み重ねだというを認識を改めてしまう。

 

『結界迷宮』で実力を試すことはできる。だけどそれは、何度も何度も負けて……何度も何度も負けて……例えどんなに負けようと事故さえなければ生存が許される。そして積み重ねた敗北の末に、やがて力が実って勝つことができるんだ。ゲームと一緒でリトライが可能な訓練でしかなかったんだ。

 

「57……これが何を意味するか分かるか?」

 

 本当の『実戦』なら、こうはならない。負けは即ち『死』を意味する。負けは積み重なることは決してない。

 

 今ならギンの口にしていた数字の意味を、その口から答えを聞く前に理解してしまった。

 

「——本来、お前の首が落ちるはずだった数だ」

 

 

 

 圧倒的な力の差。抗うことさえ許されない。

 そこで俺は二ヶ月前に聞かされたエミリオの言葉を思い出す。

 

 

 

 

 

『自分より強い相手には勝つには、自分の方が相手より強くなければいけない』——。

 

 

 

 

 

 そこで、俺はやっと自分が本当にたどり着けなければいけない部分に気づいた——。いや、思い出した————。

 

 

 

 そもそもとして『強さ』って何なのかを。



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第11節 〜雪守月見〜

現在、12節と13節まで執筆を終えており14節と15節も執筆中。
来週もしくは再来週から第三章最終回(15節)まで毎日更新となります。詳細については追って報告します。


 今までこの二ヶ月間、ひたすら強くなろうと頑張ってきていた。

 だけど先日、ギンとの戦いで完敗した。そういう次元の話ではない力の差を見せつけられた。

 

 そこでやっと気づく。そもそもとして『強い』って何なのだろうと。その意味によっては……エミリオが口にしていた『自分より強い相手には勝つには、自分の方が相手より強くなければいけない』という言葉の意味も分かるかもしれない、変わるかもしれない。

 

 しかし、いくら模索しても答えは見つからなかった。その度に何が分からないのかを知りたくて、ギンに頭を下げて勝負を挑んだ。糸口さえ掴めずに途方に暮れていたから。

 

 

 

「——もう来るな。何度やっても一緒だ」

 

 

 

 だけどギンは断った。続け様に「儂にはお前が求めるものは持っておらん」と言って。

 

 それでも何かないかと助言が欲しいと申し込んだ。そしたらギンはこう言った。

 

 

 

「もうお前が持っておる。……無くしたなら拾ってくればよかろう」

 

 

 

 その言葉の意図をすぐに察した。

 

 だから……一度振り返ろう。

 なんで『強く』なる必要があり、俺が求めていた『強さ』がなんであったのかを。

 

 そもそもとしてスクルドを失った空虚感から、今度こそは守るために強くなることを望んだ。では『守る』ことに尽力すれば強くなれるのか?

 

 それは違う。守るだけでは強くなれない。

 では、戦うに尽力すればいいのか。それも違う。

 ならば、勝つために尽力するべきなのか。いや違う。

 

 すべてかと言われても違う。そんなのはヴィラが言っていた『何でも屋』であり、それは対応力が上がるだけで直接的な強さとは一切関係ない。

 

 ならば強さのある根本とはいったい——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「わたくしなら、どうやってギンを倒すですか?」

 

 自分の中である結論を見出した。それが正しいのかどうか、自分なりに確認するために、やらなければいけないことがある。そのためには、まず色々な人から話を聞かねばならない。まずはハインリッヒからだ。

 

「そうですね……。剣の腕においては手も足も出ないので、錬金術で足を凍らせたり、雷を打ち込んで神経を狂わせたり……とかですかね」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「私がギン様を倒す、ですかッ!?」

 

 続いて霧夕さんに聞いてみる。

 

「例え話だから簡単に考えて……」

 

「う〜ん……。どうすればいいですかね?」

 

『そもそも剣での勝負では無駄なのだ。ダークリパルサーサンシャインとか言いながら、距離を置いて弾幕でも張っておけ』

 

「そ、そんな技は知りませんっ!」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「ギンさんに勝つ方法……」

 

 三人目、アニー。決闘については目の前では見てはいないが、ハインリッヒが映像を記録してくれていたおかげで、SID関係者ならギンの存在は知れ渡っている。

 

「無理だね、絶対に無理。野球ならワンチャンあるかな〜……って感じ」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「闇討ち、ですわね」

 

「毒を盛る。手段は何でも良いのでしょう?」

 

 ソヤとベアトリーチェは無慈悲なくらい簡潔に答えてくれた。

 ……いやまあ、確かに手段は決めてないからいいけどね。勝つにしても色々あるんだから。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……それを聞きにきたってことは、レンちゃんなりの答えでも見えてきた?」

 

 今度はエミリオとヴィラに聞いてみることにした。内容は先ほどまで一緒で『ギンに勝つ方法』——。

 しかし、読心術持ちであるエミリオの前ではこちらの魂胆は透けているようだ。

 

「……内緒ってことで」

 

「ふ〜〜〜ん? じゃあ私達からの返答も秘密でいい?」

 

「いくらなんでも悪戯が過ぎないか、エミ?」

 

「いいの。本人にとっては答え合わせなだけでしょ?」

 

「うん、それだけあれば十分だよ」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……それで、私にどのような御用で?」

 

 最後にファビオラと聞いてみることにした。彼女だって俺と同じ……それ以上にスクルドを失った無力さに打ちのめされている。

 

 彼女はエクスロッド暗殺計画において無事だったということもあり、安全を第一とするために、エクスロッド家から解雇という形をされてスクルドの身体と共に雲隠れ。現在はSIDにて最高レベルのセキュリティで保護されている身だ。

 

 だが、それで大人しくするようなファビオラではない。日夜ハインリッヒや愛衣と共に話し合い、自身の戦闘技術や武器を研磨しているのだ。

 

 現在危篤状態であるスクルドが帰ってきた時…………今度こそ自分の使命を全うするために。

 

 だからこそ、俺と似たような心境を持つ彼女には、エミリオが問いた言葉遊びにどうやって返すのか知らなければならない。

 

「ファビオラはさ……自分より強い相手と戦う時、どうする?」

 

「はぁ? どうするも何も、戦う以上は目的を果たしますよ?」

 

 呆れ顔でファビオラは答える。その表情からは「お前は何を言ってるんだ?」と言いたげにも見える。

 

「大体、アンタが……そう、アンタみたいな馬頭の鹿頭がそんな質問するのがおかしいのよ? 誰かの入れ知恵?」

 

「エミリオからの入れ知恵かな……」

 

「あ〜、軍人上がりの聖女様ね。大方『自分より強い相手を倒すには、自分の方が強くないといけない』的なこと言われた?」

 

「よくご存知で……」

 

「軍での訓練だとそういうのよくあるの」と懐かしげにファビオラは零す。どうやらエミリオがいた軍事学校だけが受ける問答ではなさそうだ。

 

「私としてクソ喰らえって、感じの理屈ですけどね」

 

「何で?」

 

「何でも何も……戦う以上は勝たなきゃいけないでしょ。国を守るにしろ、人を守るにしろ。『強い』も『弱い』もない。それが『戦う』ってことでしょ?」

 

 ——ああ、ようやく納得のいくピースが全部埋まった。

 

 これだけあれば十分だ。今まで自分が持つ強さを二ヶ月間も求めて…………ずいぶん遠回りして、やっと強さの本質を知れたと思う。

 

「……ありがとう。参考になったよ」

 

「そうですか。お力になれたようで何よりです……『ご主人様ぁ』」

 

 ……何故かSIDで保護することになった時、メイドとしての雇い主になったのが俺だというのは内緒だ。正直、その身分は俺のメイドカフェ時代のバイトを思い出してしまって背中が痒くなってしまう。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「なんで私には助言を求めないのよっ!!」

 

「だってラファエル、戦うよりも治療要員じゃん!」

 

 ちなみにラファエルには珍しく手が出るほど怒られてしまい、両頬を抓られ続けて赤くなってしまった。

 バイジュウにも話を聞きたかったが、日夜研究に明け暮れる彼女に会う時間は取れなかった。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 そして翌日の夕暮れ時。俺はある場所に向かおうとする。当然、今日まで鍛錬に明け暮れていた霧守神社だ。ギンともう一度話すために荷物を纏める。

 

 俺が無くしていたもの。俺が得た答えを胸を張って言えるものだと証明するために。

 

「こんな時間に外出か? 男遊びでも覚えたか?」

 

「……マリル」

 

 玄関前、そこで久しく見た顔であるマリルがいた。連絡自体は取って声は聞いていたが、二ヶ月間も空いていると少し程度の風貌の違いは出る。俺もマリルも。

 

「まあ、そんなとこです」

 

「……恥ずかしがることもなく受け入れると、こちらの揶揄い甲斐がなくなるな」

 

「実際、男のとこに行くのは間違ってないし」

 

「それもそうか」

 

 軽口を言い合える中になったのは、ある種の成長であり、親離れでもあるのだろう。今まで俺はマリルに頼り過ぎていた。高崎さんの時に背伸びし過ぎてしまったが、今なら胸を張って自然体でいれるだろう。

 

「……大きくなったな。男しても女としても」

 

「発育に関しては言わないで……」

 

「……それに人としてもな」

 

 優しい笑みを浮かべて、マリルは慣れない手つきで俺の髪を乱雑させながら撫でてくれる。

 

 ……こう、マリルに裏表なく素直に褒められると、弄られるより恥ずかしい気持ちになってしまう。

 

「祝いだ。持っていけ」

 

 そう言ってマリルは空いている片手に紙袋を手渡しくれた。

 中身を確認してみると、これまた大事そうに梱包された大きい包箱があり、包装にはマリルお気に入りのお酒の銘柄が印字されていた。俺もよく知っている銘柄で、品にもよるが相場にして何十万から何百万とする有名店の物だ。

 

「……俺、未成年だけど」

 

「なら成人になるまで取っておけ。……もしくは振るうべき相手がいるだろう。行くだけ行って手土産がないのは失礼だからな」

 

 ……手土産か。こういう細かいところはまだまだお世話になってしまいそうだ。ありがたく受け取っておき、感謝の言葉を伝えると俺は玄関を開けて告げる。

 

「行ってきます、マリル」

 

「行ってこい、レン」

 

 外の景色を見る。今日の天気は大雪だ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 時刻は進み満月の夜。雪景色に覆われた建造物の数々は喧騒なほど眩いネオンライトに染まり、クリスマスや年末年始への足音を大きくする。そんな中、時代に取り残された静寂さで霧守神社は篝火だけを灯して来訪者を待ち続けていた。

 

 石造りの階段も今ではどこに段差があるのか分からないほど撫らかに降り積り、少しでも足を踏み外せば足を挫いてしまいそうだ。こういう時、除雪作業を速やかにできないのが人力と機械との明確な差だと思う。正直、ある程度は助勤の方々も常駐させた方がいいと思うよ、霧守神社さん。

 

「…………もう来るなと言ったであろう。おぬし、決死の覚悟は出来てるじゃろうな?」

 

 階段を登りきった先、そこには最初に出会った時とはまた違う着物を羽織るギンが月を肴に酒を嗜んでいた。

 

 本人はどうみても未成年なのだが、どうやら昔の時代は飲酒に年齢制限などないらしく、日々ギンはこうして酒を飲んでは思い耽る。楽しんでいるはずなのにどこか悲しげで、月の『その先』を見続ける。

 

 

 

 ——まるでそこに『誰か』がいるみたいに。

 

 

 

 それは情景としてはあまりにも神秘的で——。外見はともかく、中身は『男』だというのに思わず見惚れてしまうほどに。

 

「……ただ一緒に話し合いに来ただけだよ」

 

「なに? 手合わせではなく、一緒に月見に参ったじゃと? 何を言い出すかと思えば貴様——」

 

「これな〜んだ?」

 

 マリルから貰った紙袋から包箱を取り出してギンに見せつけると、瞳の色を分かりやすいほど変えて凝視してきた。

 

 中身についてはまだ言ってないというのに、人間離れした嗅覚で把握したのか、寒さで赤く染まる鼻を動かすと途端に何とも言えない表情を浮かべる。

 

「ま、まあ酒を持ってきておるなら、崖から突き落とすのは明日の朝まで待ってやらんこともないが……」

 

 最終的には言葉を弱らせてこちらの同伴を許してくれた。すかさず酒に合うと聞き覚えのあるツマミを取り出していく。

 

 明太子入りチーカマ、あたりめ、干しだこ、茎わかめなどなど……。

 ……あと酒とか関係なく俺自身が好きなポテトチップスやチョコ菓子とか。

 

「おお……」

 

 現世の安売り嗜好品を見て感動を隠さないギン。昔の嗜好品と今の嗜好品では種類にかなりの差がある。これには堪らないに違いない。俺だってこんな大人買いは初めてでワクワクしてるんだから。

 

「今日は話し合おう。結局、ギンが『女の子』になった話はまだ聞いてないし。俺だけ話すのも不公平でしょ」

 

「……それもそうじゃな」

 

 特に渋る様子もなく雪の絨毯を足で払い除けて、羽織っていた着物を一枚敷いて俺が座るところを作ってくれた。

 

「長くなるが、よいか?」

 

「いいよ、そのためにこうして用意したんだから。夜明けまで語り合おう」

 

「女子の夜遊びは感心せんぞ?」

 

「今は男同士、でしょ?」

 

「都合の良い時だけ性別変えよって」と呆れながらもギンはツマミを口にした。気品に満ちた口運びは高貴な生まれ育ちだと想像することはできるが、生憎と静寂しかない霧守神社ではどんなに小さくても咀嚼音が聞こえる時点で台無しである。

 

 でも……それくらいの雑さが男らしい付き合い方だろう。俺もポテチの袋を豪快に開けると、負けないくらい煩くポテチをパリッと噛み砕いた。

 

「では話すとするか。儂が女になった理由……それはこの身体の『本来の持ち主』である『霧吟』のおかげであり——」

 

 

 

 それは感謝と幸福を込めた賛辞であり——。

 

 

 

「どうしようもなく、無責任だった儂のせいでもあった」

 

 

 

 ——後悔と不甲斐なさに満ちた懺悔でもあった。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 始まりはいつからだったか。何もない『無』に等しい世界で、男はひたすらに無意味に漂い続ける。どれくらいの時間を無闇に過ぎ去り、どれくらいの思考を無駄に重ねたか。

 

 一年? 十年? 百年? 

 …………あるいは千年を超えるか。

 

 答えはどこにもない。男のいる世界は現世とはまるで違う定義で成り立つもの。そこに体感的な時間はあっても、相関的な時間などはどこにもない。

 その瞬間こそが今であり、過去であり、未来でもある——。そんな世界で男は自ら望んで一人ぼっちで漂い続ける。

 

 

 

 ——結局は輪廻転生といったものはなかったのぉ。

 

 

 

 と何度目かも分からぬ思考を男は繰り返す。後悔などありはしない。元々剣以外の全てに対して無頓着であった命なのだから。これは罪の重さであり、同時に罰でもある。それだけが男が実感できる心の動きだった。狂うことなく、狂った安心感で漂い続けるのだけが。

 

 

 

 …………そんな空虚な世界は突如として終わりを告げる。

 

 

 

 再び無間の闇の中で思考だけを重ねる中、何もない世界に突如として『光』が差し込んできたのだ。

 

 とても温かくて……。とても懐かしくて……。

 とても安らいで…………。とても気持ちよくて……。

 

 男はありもしない手を光へと差し伸ばす。

 すると、その手に握り返してくれる者がいた。それは細くしなやかで、慈愛に満ちた女性の手だ。

 

 温かな手は『魂』を抱く様に男を包み込み、子守唄を歌うように優しく告げた。

 

 

 

 ——おいで、もう一人じゃないよ。

 

 

 

 そこにはあるのは、無償の■だった。

 かつて男は『無』に至るために様々な物を切り捨てた流浪者であり、だからその末路としてこうとして無間の闇を彷徨い続けることになったというのに。

 

 ……それを掬い上げるのが、同じ『無』であるはずなのに、すべてを抱き止める者とは何と皮肉なことか。

 

 

 

 ——生まれよう。もう一度、世界に。

 

 

 

 声に導かれ、男の『魂』は光に向かって浮上する。

 ……闇の底では『何か』がいることに気づくことさえなく。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……っ! ……ろっ! おい、起きろっ!!」

 

 頭痛がする。猛烈な頭痛がする。

 ただでさえ痛みが引かぬというのに、周囲からやけにうるさい声が聞こえてしまっては、誰であろうと嫌でも重苦しい意識が起きてしまう。

 

 男は久しく視界を開き見上げる。

 

 ……見知った天井だった。木板で構成されており、根強い長寿の樹を使っていることから雨漏り一つない。

 

「ええい、うるさい……。この老いぼれに——」

 

 長い間、闇の中にいたがどうやら世界というのはそう簡単には様変わりしないようだ、と呆れながら男は起き上がると——。

 

 

 

 

 ……たゆん、たゆん。

 ……ぽよん、ぽよん。

 ……ぷるん、ぷるん。

 

 

 

 

 ——と今まで感じたことない違和感を男は覚えた。

 

「……? ……?? ……???」

 

 その正体は自分の身体から伝わってくる。それも胸部から。

 どういうわけか意味も分からぬまま視線を下へと向ける。

 

 

 

 

 

 ——そこには男の身には似つかわしくない、大きくはないが非常に整った『女性』の胸があったのだ。

 

 

 

 

 

「……どわぁああああああああああ!!?!? なんじゃぁぁあああああああああああああ!!?!?」

 

 未だかつてない衝撃が男の脳を混乱させる。

 

 確かに永劫にも近い時間を闇の中で過ごした。生前の姿さえ思いだせないほどに記憶は摩耗しているだろう。

 だが、それでも……少なくとも男の性別が『女』であったということは決してない。

 

 

 

 ——まさか本当に身も心も妖になったのか? 

 

 

 

 狐にも包まれた感覚のまま、自分の姿を確認すべく姿見を男は探す。この際なら水面に映る姿でも良いと必死に探す。

 

 そこでようやく見つける。鏡ではないが、疎らに砕けた刀身。そこに鏡の様に映る自分の顔を。

 

 

 

 

 

 ——どう見ても生前の自分とは絶対違うと確信できる『女性』の顔があった。

 

 

 

 

 

「はぁ!? 誰じゃ、この女は!?」

 

「お前の顔だろうが!!」

 

「誰に向かって口を聞いておる、若造が! まずは事情を話せっ! 何故儂がこんな花のように可愛くも美しい女子になっておるのか!!」

 

「…………もしや、本当に宿したというのか?」

 

「はぁぁあああああっ!? お前は何を言っておるのだ!?」

 

 男としては気が気でない。もしも妖狐か何かに喰われて、この身として誕生したというのなら、生前に首を落とす決意さえした妖怪扱いされることが笑い話にならないのだ。

 

『あの……。私の声、届いてますかぁ……?』

 

「あ゛ぁん゛!!?」

 

『野蛮が過ぎる声を私から出さないでください!』

 

「…………ん? お主の声……どこかで……」

 

 混乱が加速する中、どこからか……それこそ『魂』の奥底から聞き覚えのある女性の声が届いてきた。

 

 その声を男はよく知っている。

 無間の闇から掬い上げてくれた女の声だ。

 

 

 

 ——何故、自分の『魂』から、その女性の声が届いてくるのか?

 

 

 

 そんな疑問なんて「どうでもいい」と言う様に、女性は凛とした声で男に名前を告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『私の名前は『霧吟』——。貴方の魂を宿した者であります』



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第12節 〜日輪満天〜

1月中に完結させたほうがキリが良いと思い、1日早めての投稿です。ここから15節まで毎日投稿です。


「なるほどのぉ……」

 

『分かってくれたようで何よりです……』

 

 翌日。男は一晩語り合い、霧吟という女性に対して理解を深めた。

 

 神楽一族と暗殺一族の争いを無くすために、暗殺一族が祀る妖刀に眠る『魂』であったという男自身と、神楽一族が祀る社を拠所とする『アメノウズメ』の両方を宿すことになったことを。

 

 そして霧吟が完成された『降霊術』に適した肉体であるということ。その降霊術によって、男の『魂』は現在霧吟という女性の肉体へと入り、共に過ごすことになったことを。

 

「しかし、だとしたら儂がお主の身体を操っておる? この身体はお前の物であろう」

 

『そうなのですが、予想以上に貴方の『魂』が深いところにあったので疲労が溜まってしまいまして……今はこうして『魂』で会話するだけで精一杯なのです』

 

「……だからといって、普通は知りもしない男に自分の厠の世話さえさせるか?」

 

 そして現在、男は少女の身体のまま厠……現代であればトイレに籠ってアレを垂れ流すというかなり酷い構図で話し合っていた。二人からすれば普通に会話をしているだけだが、客観的に見れば独り言であることも酷さが増す。挙句には中腰のまま足を広げていたりと、可愛らしい見た目が急転直下する勢いで台無しする色気の無さだった。

 

 しかし男からすれば大真面目。今日も今日とて霧吟のために済ませた食事の排泄を慣れない手つきで行うのであった。

 

『まあ、その……あの……私、もう枯れた歳なので……。今更殿方が選り好みできる女ではないので……』

 

「枯れた? そんな麗しい見た目をしておるのに? お主、今いくつじゃ?」

 

『16ですね。いとおかしな16歳です』

 

「………………確かにな」

 

 現代とは違い、医療が発達していない江戸時代においては三十代半ばで死亡することも多い時代、子孫繁栄のために婚約の適正年齢は現代よりも遥かに下回っているのだ。

 

 それでも平均としては18歳前後ではあるのだが、それは一般的な身分であればの話。上流階級ともなれば、許婚ということもあり子作りなどは置いとくとして大体10歳、遅くとも15歳で婚約するのも不思議ではないのだ。

 

 そして悲しきことに、霧吟がいる神楽一族は上流階級の身分であるのだ。

 

「……まあ、悲観することはなかろう。儂も独り身ゆえな。この話はさっさと流すとするか」

 

『厠だけにですか』

 

「……そういう花がない発言が生き遅れの要因の一つとは言っておこう」

 

『そんなぁ!?』と分かりやすく傷つく霧吟の声を聞くと、男は自然と笑ってしまう。何ともまあ可愛げがある子だろうかと。

 親さえ捨て、子供さえ持たなかった老人としては目に入れるだけで痛くて眩い存在だと痛感してしまう。

 

『…………ところで貴方の名前を教えてくれませんか? いつまでも貴方では失礼ですし』

 

 何度も言うが、厠で中腰で話しているのである。

 

「生憎と名前も忘れるほどあそこにいての。名乗るべき名がない」

 

『じゃあ、私から名前を授けます! 私達は一心同体なのですから、貴方のことは今後『ギン』と呼びましょう!』

 

 何度も何度も言うが、厠で側からみれば独り言で話しているのである。

 

「おい、待て。勝手に付けるな」

 

『では『ギン爺』とかどうですか?』

 

「違う、そうじゃない。……が、それでもよかろう」

 

 抗議するだけ無駄そうだし、と男……改めギンは霧吟の身体を拭きながら厠からようやく出るのであった。

 

『今日から私とギンは家族です! 気軽に姉上とでも、母上とでも呼んでいいですよ!!』

 

「……儂、今はこうでも老人じゃからな?」

 

 そういう天然で図々しいという、およそ当時の女性として品が無さすぎる性格が婚期を逃したのではないかと思うギンなのであった。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 さらに日は過ぎていく。ギンが霧吟の身体で過ごすのも慣れ始めた頃、ようやく霧吟自体の回復が済んで今では交代で入れ替わりながら毎日を過ごす。

 

「……なぜ儂の手で衣装を変えねばならんのか」

 

『ねむいのですぅ……。まだねさせてくださぁい……』

 

「起きろ。袴の構造が一癖あるせいで儂には綺麗に結べんのじゃ」

 

「霧吟、いつまで準備に手間を取っておる。神楽巫女としての責任を知らぬとは言わせんぞ」

 

「母上っ! 今は爺が動かしてる故、慈悲を恵んでくだされ!」

 

 それは色々と互いに苦労しつつも楽しい日々であった。ギンにとっては生前切り捨てた全てが手に届く中にあり、今度こそは大事にしようと慣れない女の子の生活でも頑張って一から生き直しているのだ。

 

「剣聖様、稽古の方をお願いします!」

 

「うむ、日々精進するのは良きことよな。……しかし、どうして儂がこのような扱いを受けるのだ?」

 

『あの刀、昔色々な妖怪を屠った名刀らしく、そこから鍛治師や大名と渡って曰く付きでして。刃こぼれしないとかで重宝されていたんです』

 

「……確かに妖怪は斬ってはいたが……」

 

『まあ、今は私が壊してしまったのですが』

 

「古い刀だ、気にはせんよ。それはそれとして……」

 

「剣聖様、大名より召集が掛けられました。お急ぎを」

 

「……それでも、こんな扱いを受けるか?」

 

 生前の退屈でつまらない物と比べたら、今の生活は極彩色に染まった目紛しさだ。何をするにしても気苦労というものが出てくる。

 

 そんな感覚も、ギンにとっては真新しくて仕方がない。次はあるとすればと色々と考えていたが、まさかこんな形で叶うとは露にも思っていなかったほどに。

 

「きゅーけーでーす! 疲れましたねぇ〜」

 

『気持ちは分かるが泥だらけじゃぞ。近くに綺麗な川があるし、一度清めてこい』

 

「気が乗らないのでお願いしま〜す」

 

『水浴びくらいは自分でしろ! 何故儂がしなければならんのじゃ!』

 

 神楽一族としての仕事を熟す時には霧吟が、暗殺一族としての仕事を熟す時にはギンが、と二人は互いに支えながら過ごす様は、事情を知る人から見れば仲睦まじい家族にしか見えないほどに二人の関係は良好であった。

 

『いやぁ……。祀られるだけでは暇ではあるが……こうも有能だと暇でしょうがない』

 

「すまんのぉ、アメノウズメよ。酒くらいは恵んでやる」

 

『お前も一応は霧吟ではあるのだから、一族らしく妾を敬え!』

 

「わはは。…………あげんぞ?」

 

『…………よこせ』

 

 その『魂』を交換しながら過ごす生活に、神楽一族の主神であるアメノウズメも入っていた。彼女もまた授けられた供物を堪能するために、時たま霧吟の身体を借りては過ごすのである。

 

「うむ……この舌触り……米から取ったものか。質自体は良いが、深みのなさからしてまだ若い物を使ったか。まあ、これはこれで良いものよ」

 

『あはは〜〜♪ おはぁけはいいでふっふぅ〜♪』

 

『……何故飲んでいない霧吟が酔うのだ?』

 

「妾に聞くな。酒気が身体だけでなく魂にも及ぶと考えておこう」

 

 それが三人にとっての日常。神楽の仕事は豊作を願うために太陽や雨乞い、果てには村の厄災や子宝を願って舞踊を捧げ、暗殺の仕事は都における大名に仇なす存在を陰から始末する執行官であった。時には地域の長として祭り事も行い、村の活性化にも力を入れた。

 

 両方の一族を取り持つために生まれた『霧守一族』の長として霧吟は日夜誰よりも頑張り続けた。

 頑張って、頑張って、頑張り続けて……誰から見ても誇れる実績を残しながらも、それでもなお頑張り続けて…………。

 

 

 

 

 

 

 

『——なに? これから儂に頼みごとがあると?』

 

「ええ……。身体的な疲労は仕方ありませんが、精神的な疲労なら代わりながら休めば熟せる事がわかりましたし。今後は一族としてではなく……私個人のお仕事も手伝っていただきたいのです」

 

 そして自分だけが成せる使命さえも霧吟が全うしようと奮闘しているのを、この時ギンは初めて知った。生者が眠る丑三つ時、霧吟は休みきれていないか弱い身体に鞭を打って外に出たのだ。

 

 しかし霧吟のいう個人の仕事とは何なのか。飢えや金銭に困るような身分ではない以上は遊女ではない。かといって治安の維持という意味でならギンが暗殺一族の仕事として不備なく行なっている。今更この時間帯に賊が出るようなことはないというのに。

 

 などと霧吟の中で思考に耽るギンであったが、その答えをすぐに知った。ホタルの光だけが照らす砂利道。視界の片隅では、黒い瘴気を纏って呻き続ける何かがあったのだ。

 

『……亡者か』

 

 生者が眠る中、目覚めるとすればそれは死者しかいない。

 後悔と懺悔に満ちた怨嗟を吐き出し、怨恨は月夜に向かって叫び続ける。劈くほど叫び続けても、その声は生者に届くことはないというのに。

 

「ええ。いわゆる地縛霊というものです」

 

『……なんて言っているか分かるのか?』

 

「分かります……。分かるからこそ、私は果たさないといけません」

 

 霧吟は迷う素振りもなければ、警戒する雰囲気もなく無防備に黒い瘴気へと歩みよる。ギンから見れば得体もしれない瘴気だというのに、霧吟は迷子を見つけた大人の様な仕草で優しく話しかけた。

 

「こんばんは。何をしているんですか?」

 

《——■■■■■■■!?》

 

「はい……はい……。そうですか……」

 

《——■■■■■。■■■■■■■■■■?》

 

「もちろん、分かっていますよ。奥様にお伝えできなかった遺言を残したいんですよね」

 

《——■■■■■■■■■■■■■■■……》

 

「……では伝えましょう。新しい殿方を作って、自分のことを忘れて欲しいと。…………ですから、安心して私の中で眠ってください」

 

 霧吟は怨恨を優しく抱擁すると、まるで涙を流すように瘴気は崩れ落ちて消えた。それは何とも呆気ない物であり余韻なんて物はない。ただ『そこ』にあった物を確かに受け止めて、次へと足を運び凛とした少女がいるだけだ。

 

「今度は……あちらですね」

 

『……お前は死者の魂さえも救おうというのか? いったい何のために?』

 

 当然のように突き進む霧吟の姿を見て、ギンは聞くしかなかった。その行いに何の意味があるのかを。

 

「……じゃあ教えます。とは言っても、始まりはしょうもないですよ」

 

 霧吟は自嘲した笑みを浮かべて「私の体質はそこまで便利じゃないんです」と語りだす。

 

「類稀で適性が高い……。ありとあらゆる『魂』を宿して、それらが持つ力を完全に引き出す。私を通せば死者は生者となるほどに……」

 

『……そうだな』

 

 霧吟の言葉にギンは頷く。自分がそのおかげで闇の中から救い出され、今では現世に留まっているのだから。

 何を言いたいのか薄々とギンは察するも自分が促した手前、止める理由もなく「だけど」と霧吟の話を聞き続ける。

 

「……この力は、私は本当は嫌いなんです。だって……だって……!!」

 

 今にも泣き出しそうだが、精一杯押しとどめながら霧吟は胸に抱く思いを吐き出した。

 

「いつでも聞こえてくる……っ!! どんなに耳を塞いでも、どんなに心を閉ざしても、どんなに意識を無くそうと…………否応なく私の『魂』に響いてくる……っ!!」

 

 吐き出した言葉に、ギンは何も言うことができなかった。

 

「病で倒れた人の痛みが! 盗賊に襲われて死んだ人の怒りが!! 産まれてくるはずだった子の寂しさがっ!! 世界に見捨てられた無辜なる人々の声が……私の『魂』を蝕んでいくんです……!!」

 

 ……どれもギンには理解することは難しかった。

 

 病で死んだことはなかった。盗賊に襲われても返り討ちにできた。生き方はどうあれギンは生まれた末に自らの首を絶った。世界に見捨てれたのではなく、世界を見捨てた側の人間。それはどれもギンの体験がなく、想像はできても真の意味で理解することは到底できない。

 

 それが無理矢理……本人が口にしていた通り否応なく理解させられるとしたら、それはどのような気持ちになるのか。ギンには想像を絶するものだと考えてしまう。

 

「寝ても覚めても悪夢を見る様な日々の繰り返し……。母も父も理解してはくれずに孤独だった……。生きた心地がしない毎日だった……だけど死ぬことも怖い半端者だった……」

 

 ……普通に生きてさえいれば、そもそもとして『生きる』か『死ぬ』かどうかすら死の直前になるまで考えるはずがないのに。それを産まれてからずっと考えてしまっていたのだろう。まだ16である少女が毎日毎日、いついかなる時も。

 

 それこそ死ぬよりも辛い日々だったに違いない。何せ死んだ者達が『死』を嘆き『生』を訴え続けるのだ。例え霧吟自身に向けられた言葉ではなくとも、それは子供からすれば耐え難い苦痛だったであろうに。

 

『なぜ……儂には教えてくれたのだ?』

 

 だからギンは問う。何故それを自分に言うのかを。理解されて欲しいのなら神様や、それこそ一族が祀りあげているアメノウズメにでも吐き出せばいいのに。

 

「貴方も同じだったからです。『魂』に触れた時、貴方のこれまでが流れ込んできました……。貴方も誰も理解されずに生涯を終えたのでしょう?」

 

『……違うな。理解してくれようとしたのに拒んだだけよ。老いぼれの愚直な我儘でな』

 

「一緒です。自分のせいか、周囲のせいか……。そんなことは些細です。理解されないのは、繋がりを断たれるもの……。そこに原因なんてなくて『そういうものである』と定められた悲しい存在なのです……」

 

 どうしてそんな達観したことが言えるのだろうか。まだ16歳の少女に過ぎないというのに。何が彼女をここまで悟らせてしまったのか。

 

「そして……理解されないのは『私』や『ギン』だけじゃなかった。……むしろ生きとし生ける者の大半がそうだった。そして……それは『死者』も同じなんです」

 

『……そうか』

 

「私にはそれが苦しくて仕方なかった。こんな思いがあるなんて知りたくなかった。でも目を背けることももっとできなかった。だって、それは私が最も嫌うことだったから」

 

『…………そう、か』

 

 それは、とても生き辛い生き方だった。人間である身であるはずに、神にも近い体質と性格を持っていることは、これ以上にないくらいに残酷でやり切れない気持ちを抱かせる。無力であれば諦めもつくはずなのに、それさえも許さない並外れた才能を宿してしまった。

 

 ——きっと悲しくも残酷なことに、霧吟は人間に滅法向いてない有り方で今の今まで生きてきたのだ。とギンは悟ってしまう。

 

「……だから私は救うと決めました。理解されず、見放された人達をこの手で……この魂で受け止めようと。生者はまだ運命さえ微笑めば巡り会えます。だけど死者はそうはいかない。怨嗟に蝕まれ、成仏さえもできずに魂は縛られて永劫に一人で嘆き続ける……。そんなの我慢する理由も、できる理由なんてなかったら……救うしかないじゃないですか」

 

『そこに……お前が救われる余地があるのか?』

 

 純粋にギンは疑問を伝える。何せそれは無償の行いだからだ。

 死者から生者に与えられる実益は何もない。逆に奪い続ける。その心を時間を。だからこそ死者は忌み嫌われ、生者は次の人生に任せようと輪廻転生という枠組みに収めて無理矢理解消しようとする。死者とこの世の繋がりを一方的に断ち切りながら、優しげで誇らしげで悲しいだけの表情を浮かべて「これで終わった」という安心を得る。

 

 しかし、霧吟は違う。死者からの言葉を手に止めて背負い続ける。ずっとずっと。死者の数は生者よりも遥かに多い。そして死者とは減ることはなく増え続ける一方だ。その重みは……恐らく世界中の何よりも重すぎるはずなのに彼女は背負うことを選んだ、選んでしまった。

 

 ならば、そこには何かしらの理由があるはず。得るものがあるはずなのに————。

 

「……? 何言ってるんですか? もう私は救われてますよ」

 

 そんな物はないと暗に言うように、気の抜けた表情で霧吟は言う。

 

「だって、私とギンは一心同体——。もう理解し合える仲じゃないですか! 言いましたよね、運命さえ微笑めば巡り会えると」

 

 

 

 ——理解し合える仲。

 

 

 

 そんな言葉を純粋に言う霧吟の姿を見て、ギンは居た堪れない思いを抱く。

 

 すまない、儂はお前の吐き出した言葉や思いに何一つ報いることができないと——。

 

 理解しようと聞き続けていたが、どんなに聞いてもギンには霧吟の在り方に対して賛同することも肯定することもできるが、理解することはできなかった。

 

 何を思って、そんな不器用な生き方を選んだのか。

 環境のせいか? 家庭の問題か? 時代の影響か? 

 

 ……どれも違う。根本的に霧吟は優しすぎた。人間が持つには有り余る優しさと聡明さを持っていて、さらには恵まれた才覚を否応なしに宿してしまった。その性質の唯一無二さも少女はわかってしまい、この責務を全うできるのは自分だと確信している。

 

 だけど、その心だけは無垢な少女のままで……だからこその生き方を選ばせてしまった覚悟と決意に、ギンは理解する以前に尊敬の念を抱いてしまうのだ。

 

「ですから、私が救われるのは時間の問題。今日も世界で独りぼっちになってしまった人に、私がいると手を差し伸ばすんです」

 

 ならば、せめてか弱くも強くあろうとする少女に寄り添うぐらいはしよう。理解はできずとも、ギンと霧吟はもう家族なのだから。どんなことがあろうと、この魂が尽きぬ限り霧吟を守り抜こうと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……そんなこと、妖である魂には不可能だというのに。



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第13節 〜月下狂乱〜

「とまあ……そんな感じで霧吟を守ろうと決意してな……今もこうしておるわけよ」

 

 そこで話は終わり「酒で気分が上がったからか、少し喋りすぎたの」とか言いながらも更にギンは酒を煽って冬空の寒さを誤魔化していく。

 

 ……俺はその話に分かりやすい違和感を覚えた。だったら何故、今はギンしか表に出てこないのか。疲れているから出てこないとでも言うのか。

 

 それはあり得ない。これまでの鍛錬で俺だって『魂』がどこにあるかぐらいは分かる。霧吟の『魂』は今そこに……ギンの身体というよりは霧吟本人の『身体』にはないんだ。

 

「……霧吟は今でも君の中にいるの?」

 

 だから少し鎌をかけてみる。我ながら性根が悪いし、踏み込みすぎだとも思う。だけどここに後退りしてギンから何も聞けないのはもっと心地が悪い。

 

 だって、もう俺とギンは……アニーやラファエルと同じ『友達』なんだから。それが深刻なことだというのなら力になってあげたいんだ。今度こそ強さを見失わないために、無くさないために。

 

「……おるに、決まっておろう」

 

「…………だったら何で一度も霧吟は出てこないの?」

 

 それに今までの話はすべて『ギン』の視点から見た物で、一度たりとも『霧吟』から見た記憶の話ではない。ならば、そこには続きがあるはずなんだ。

 

 妖刀で見た記憶よりも前——。ある日俺が夢で見た景色——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

《神様……お願いしますっ。どうか、どうか……すべてを夢にしてくださいっ……!!》

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 悲しいことにあの夢での出来事が起こるのは確実なんだ。そして俺の想像が間違ってなければ、この願いこそがきっと———。

 

「……それは儂が女の子になったこととは関係ないじゃろ」

 

「……じゃあ『守護者』になったことと関係あるの?」

 

 そこでギンは言い淀んでしまう。きっと事実だからだ。

 最初からずっと考えていた。どうしてギンは鎌倉時代の生まれなのに江戸時代に関して流暢で、しかも大正時代と世代を飛び越えた知識があるのかを。

 

 だけど昨日ハインリッヒが『守護者』の言葉を出したことで新たな点が生まれ、そこに霧守一族の『降霊術』という点を繋げれば答えは出る。

 

 ……きっと鎌倉時代で命が尽きて『魂』となったギンを、後の江戸時代で生まれた霧吟が降霊させた。そして、何かしらの理由があって……あの夢の出来事が起きて願った結果……『霧吟とギン諸共に守護者』の契約を結んでしまったに違いない。

 

 守護者となった者は『あの方』……もしくはギンの言う『魔物』の従者となって時間を超えて『セフィロス』という概念的な存在に降りかかる脅威を排除する。それはいついかなる場所や時間であろうと関係なく駆り出される。

 

 ハインリッヒならペルー副王領や南極のように、ギンは過去に大正時代の『何処か』に呼び出された。だから時代が飛び飛びなまま知識が繋がっている。そう考えるのが自然だ。

 

「……一本取られたか」

 

 とその事を伝えると、どこか安心したような息を吐いた。

 

「仕方ない。約束通り『守護者』となった経緯を教えるか」

 

「え? でも俺、ギンにまだ勝ってないよ?」

 

「言ったであろう。儂から一本取れれば教えてやると。別に勝負に勝てとは一言たりとも言っていない」

 

 ……いやいやいや。納得いかない。

 俺としては確かに話を聞けるのはありがたいが、それはそれでギン自身が納得できる事だろうか。

 

 それが顔に出ていたのだろう。ギンは見た目相応の可愛らしさ笑顔を一瞬だけ浮かべると、すぐに年季が籠った風体へと戻り告げる。

 

「儂が納得して折れた。それで十分じゃろう。別に今日は手合わせに来たのでもないのだろう?」

 

「そうだけど……本当にいいの?」

 

「男に二言なし、というじゃろ。今は玉なしだが、肝が据わっていないわけではない。伝える覚悟などとうに決めておる」

 

 ギンは再び月を見上げて語る。まるで誰かに懺悔をするように。そこには俺が想像もしていなかった出来事があった。

 

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 

 

 それは災厄の序章だった。ある日、霧吟が住む村の近くで未知の感染症が起きたのだ。当時の医学では対処不能な病は、都で大きな脅威となり原因の究明と解決を最優先として治療に当たるように都付近の名医を可能な限り招集させた。

 

「……脈は落ち着いてます。このまま安静にしていれば大丈夫でしょう」

 

「すまない霧吟。私だけでは手が足りんのでな」

 

「いえ、この身が力になるのであればお貸しします」

 

 名医を降霊すれば一転して名医となる霧吟は、都にとって病の対処にあたるのにうってつけの人物だった。当世の医学では情報が足りずとも、過去の医者なら病の治療法を知っているのではないかという期待を込めて。

 

「……ダメだ。どの文献を見ても前例がない。霧吟はどうだ?」

 

「手のつく全ての魂から知識を会得しましたが病について思い当たる節がないとのことです。……信じてくれるかどうかまでは貴方次第ですが」

 

 しかし期待が実ることはなかった。霧吟は生まれてから触れ合った全ての魂と都にある魂から治療法について調べたが、今回の症状について思い当たる節がないという返答がきたのだ。

 

 疱瘡、麻疹、梅毒……それら全てに該当しない謎の奇病。感染した者の細胞から隅々まで食い尽くすという非常に危険な物であり、症状は頭痛、発熱、倦怠感からありとあらゆる全ての症例が気まぐれに患者に襲いかかるという事態には誰も知識を持っていなかったのだ。

 

 現代であれば『黒死病』『インフルエンザ』『コロナウイルス』と呼ばれる物に近いそれは、江戸時代においてはあまりにも感染力が高く対処法がない病だったのである。

 

「お前が言うのならそうであろうな。私は信じるよ」

 

「ありがとうございます……翼様」

 

 霧吟は翼という人物……後の世で『解体新書』を生み出した『杉田玄白』と共に懸命に民の看病に当たるものの、症状に関しては今までの前例がない以上は一から治療方法を模索するという後手に回る状態となっていた。

 

「違う……この文献も違う……。西欧からの医学書は他にないのですか!?」

 

「あるにはあるが、文字が違うのだから解読し切れていないのだ。せめて西欧からの医者がいれば良いもの……」

 

「……ギンから何か策は思いつきますか?」

 

『爺に流行病など分からん。ウズメはどうだ?』

 

『…………いや、思いつく事はないのぉ。妾もこのような奇病は初めて見る』

 

「…………っ!!!」

 

 自分の無力さに苛立ちが募り、霧吟は思わず無益な書物をすべて叩き落としてしまう。その顔には心の余裕などなく、彼女が本来持つ慈悲深さが裏返った悔しさが滲み出ており、かつてないほど余裕がないことが見て分かる。

 

「無辜なる民を救えずして何のための力か……。私には医療の知識を宿せるというのに……!!」

 

『前例がないのでは仕方がないであろう。お前も病にかかる前に一度村に戻っては……』

 

「それで私が感染源となってしまっては終わりですっ!! こうなってしまったら治すしかないんですっ!!!」

 

 苛立ちをさらにぶつけるように吐き出してしまい、ギンは思わず萎縮してしまった。それを察した霧吟は「……すいません」とより一層自分の不甲斐なさを噛み締めて、握り潰すような手つきで散乱した文献を手にもう一度役に立つ情報があるかを調べ直す。

 

「あまり死者の魂と交流しすぎると狂ってしまうぞ。一度落ち着け」

 

「民を守れない自責で狂いそうなんです。落ち着いていられる状況ではありません」

 

「……お前も難儀な性格だ。生き遅れになるのも頷ける」

 

 そう言いながら翼は茶を入れると座敷の上で一息入れた。まるで「自分は休むのだからお前も休んでいい」というように。

 それを察せぬ霧吟ではないはずなのに、彼女は翼を見ないことにして治療法の手がかりとなる物を探し続ける。

 

「何か……何か……っ!! 民を救い出す手段は……っ!!」

 

 希望の見えない心境は明かりのない夜道を彷徨う不安と似ている。一歩踏み込むたびに足音は一つ、また一つと大きく響くのと一緒で、焦燥も秒刻みで募るばかりだ。息をするのもさえ重くのしかかる重責に、霧吟の余裕を忽ちに喰らい尽くす。

 

「今すぐにでも文献を解読できれば、策は見いだせるかもしれないのに……」

 

『……霧吟。儂は妙案を一つ思いついたぞ』

 

 いても経ってもいられず、ギンは妙案という名の出来合いの案を思いついた。それが少しでも希望、あるいは気晴らしになればと願いながら「どんな手段でしょうか!?」と今にも刺し殺しそうな剣幕で問う霧吟に伝える。

 

『……簡単な話よ。お前は名医の魂に触れれば名医となり、剣聖の魂に触れれば剣聖となる。ならばお前も西欧人の魂に触れさえすれば……』

 

「……文献を解読することができる?」

 

『……西欧人の魂がありさえすればな』

 

 ここは江戸幕府だ。鎖国情勢である当世では外交貿易という形以外では西欧人が来ることはない。旅先で死亡して、さらには成仏せずに『魂』のまま彷徨っているという状況を掴むにはあまりにも絶対数が少なくて現実的な話ではない。だから、ギンにとってはこれは話にならない戯言でもあった。

 

「……そうか。……そうすれば解決まではいかないけど、手がかりが手に入る……っ!」

 

 だというのに、聡明であるはずの霧吟はそんな無謀な案に笑った。それは心境の裏返しであり、よほど余裕はなかったのだろう。藁どころか絹にさえ縋りたい気持ちに違いない。それほどまでに霧吟の笑みは疲れ果てた物だった。

 

『……無謀なのは分かりきってるであろう』

 

『お前に言われずとも分かっておる。笑い話にでもしてくれれば良いと思ったがの……』

 

 ウズメとギンは話し合うが、それにさえ霧吟は気づかないほどだ。心中察するに余りある。ギンは自分自身の身体を持たずに力にもなれないことに腹を立てながらも霧吟の動向を見守り続ける。

 

「…………この中で最も血が濃い文献は……っ!」

 

『おい、何故文献を漁り続ける?』

 

「西欧人の魂を探すのは夢物語過ぎます。あまりにも現実的じゃない。ならば少しでも可能性上げるために、九十九神に頼るんです。長年使われた文献なら、西欧人の魂まではいかずとも『知識』だけ宿した文献があっておかしくない……そこから少しずつ言語を理解していけばまだ間に合う…………っ!!」

 

 自分の案に単に乗っかっただけでなく、さらにその先を見据える霧吟の姿を見てギンは驚愕した。既に心は継ぎ接ぎだらけの傷だらけなのに、芯は折れることなく霧吟を動かし続けることに傷ましさを感じるほどに。

 

 しかし、それなら確かにまだ現実的だ。真に欲するのは治療法ではあるが、西欧の文献を読めればそれは分かることだ。『医療の知識』だけでなく『文字の知識』も会得する可能性も模索すれば解決策も見あたることだろう。

 

「これだ……この書物……これだけ『魂』が色濃く残ってる……」

 

 そしてその予測は的中した。数多く手にした文献の中に、霧吟が求める西欧文字を読むための『知識』がそこにあったのだ。

 霧吟は目の色を変えて次々と文献を手にし、一つまた一つと文献を読み込むたびに笑みを溢し、瞳には希望が満ちていく。

 

「読める……読めます……っ。すごい、すごい…………西欧ではこんな医学が……っ!! これなら民を救うことだって…………っ!!」

 

 よほど嬉しいのだろう。食い入るように霧吟は夢中になって文献を読み解いていく。ギンやアメノウズメは西欧の知識はないために、霧吟が口にする一部の単語に対しては理解はできないが、霧吟の反応からして相当に優れた物であることが察せられる。

 

「命を繋ぐ方法……。えっと……ふむふむ……これは芳香療法を使った医療術でしょうか?」

 

『どう言った物なのだ?』

 

「少し不思議な物ですが、陣を書いてある場所に薬膳を投じた粉末を燃やせば患者の身体が元気になるそうです」

 

『本当に意味あるのか〜? それで助かるのなら苦労せんぞ?』

 

「文献通りであれば。他にも……ええっと……『みいら』? と呼ばれる物を製造する時にも芳香療法は使うそうです」

 

『うさんくさ〜』

 

「物は試しです。一つずつ実践していき、最も効果がある治療法を探す…………これまでと変わりませんが、今はこれだけ参考となる物があるんです。きっと今回の感染症に適した処置があるに決まっています」

 

 どんな医療であろうと実行せねば正確な臨床結果が得られないのは事実だ。それが山のように試せるというのなら、時間はいくらあっても足りないだろう。霧吟は意気揚々と文献をいくつか手にし、翼の下へと向かう。

 

「翼様、この文献に載っている治療術を試してもよろしいでしょうか?」

 

「……どうせ八方塞がりだ。試してみる……しか、ないのだろうな」

 

 意外にも後の杉田玄白こと翼は不安そうに言い淀む。ギンにはそれが何を意味するのかよく分からなかった。

 民を救える可能性があるなら良いことではないのかと。前も後ろも真っ暗闇の感染症が蔓延る中、微かとはいえ見えた光が希望であるわけがないとでも言うのだろうか。

 

 だが、ギンは身体を持たぬ身。霧吟を通さねば翼には言葉一つ伝えることさえままならない。胸のしこりはそのまま心の奥底に置いておき、ギンは静観するアメノウズメと共に霧吟の行方をただ見守るだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………知っているだろうか。文献や書物という物は、中身はどうあれ外飾は『本』という形であることを。そして内容はどうあれ本に記載される情報は、本当も嘘もないただ『知識』を詰め込んだ物しか過ぎないことを。

 

 だからこそ、この場にいる全員が見誤っていた。霧吟が手に取った文献は決して『医学書』ではないということに。下手に文字を読む知識を得てしまったことで、『命を繋ぐ方法』という意味を履き違えてしまったことに。盲目的にこれは医学書であると思い込んでしまったことで、この先の悲劇を起こることを誰も想像していなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——霧吟が手にしたのは『魔導書』であったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「違う……違う……っ! 私がしたかったのはこんなことじゃないのに…………っ!!」

 

 最初は順調だった。治療を施した側から体調が回復していく民を見て、霧吟は喜びに打ち震えて一刻でも早く助けようと三日三晩都を駆け巡った。

 

 しかし、それが最悪な結果を産んでしまった。何故なら霧吟が施した治療術とは、人間が死から回避するために生み出された芳香を使った儀式術——人々を『生きた屍』にする禁忌の魔術だったのだ。

 それも『生きた屍』が純粋なる人間を少しでも齧ることで、同様に『生きた屍』へと変貌させる極めて悪質な感染方法を持つ。

 

 一度産まれた災厄はネズミのように際限なく増え続ける。霧吟だけでも治療を……魔術を施したのは数百人にも及ぶ。それが全員揃って一人でも噛めばどうなる? 一転して規模は千人単位にも及び、その千人が全員揃って一人を噛んで二千人。また噛んで四千人、八千人、一万六千人…………と感染者は加速度的に増え続ける。

 

 そして質の悪いことに、この魔術を解除する方法などなかった。正確にはあるのだが、それは魔術を施されたすべての『生きた屍』を今度こそ本当に屍と化す手段。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな非常な手段が霧吟には取れるであろうか——?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 否、取れるわけがない。ならば『儂』が代わりに斬ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……何故殺した』

 

『これ以上苦しむ前に殺すのが慈悲というものじゃろう』

 

『まだ民を助ける手立てはあったかもしれん! 霧吟は諦めていなかったであろう!?』

 

『だからといって、このまま壊れる霧吟を黙って見ておられるか!? お前は何もせずにただ見ているだけのお飾りなだけであっただろうが!!』

 

 こういう時、魂同士であるギンとアメノウズメの会話は嘘偽りも言葉を優しく包みという遠慮はなくなる。お互いの剥き出しの怒りを向けて、互いを罵り合う。

 

 

 

 その怒りの矛先は果たして『相手』に向けている物だろうか。

 

 本当は何もできなかった『自分』に向けているのではないか。

 

 

 

 

「やめてくださいっ!! 全部……全部全部…………私のせいだったんです……っ!! 自分の力だけじゃ何もできない無力なのに……! こうして無闇に手を出したから…………っ!!!」

 

 しかしどうであれ霧吟はその喧騒を拒む。自分の中で怒号が響き合うのが嫌だからじゃない。自分のせいで、酒を楽しく飲み合うほど心を開いていた互いの関係に亀裂が走るのが我慢できなかったから。

 

 今更どうこうなる問題でもない。一度起きてしまったことは取り返しがつかない。時間は戻ることなく、進み続けるしかない。この悲劇を受け止めるなら罪を背負い、罰を求めて、時の傷跡を忘れないように生き続けるしかない。

 

 

 

 

 

 そんなことは、ただの少女である霧吟にはとてもできなかった。

 

 

 

 

 

 

 彼女は身の丈に合わない刀を弱々しく抱き続け、虚空へと泣きながら祈りを……切望を吐き出し続ける。

 

「神様……お願いしますっ。どうか、どうか……すべてを夢にしてくださいっ……!!」

 

 万能の神様なんているはずないのに。生まれて初めて心の底から、ただただ願い続ける。どうか全てが『夢』であったほしいと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——なら、その願い叶えてあげましょうか?」

 

 絶望に押し潰される少女の前にある声が届く。その声は男性的や女性的ではない。だからといって中性的でもない。無機質なのだ。

 

 同じ人間が発したとは思えないほど無機質で異様な声。どこかこの事態をほくそ笑む下郎染みた声に、霧吟は項垂れながら首を精一杯上げて視線を合わす。

 

 

 

 

 

 その姿を霧吟は知っていた。何故なら、ある『記憶』で見た人物と瓜二つだったから。

 その姿をギンは知っていた。何故なら、自分が実際にあった人物と瓜二つだったから。

 

 

 

 

 

 ——それはギンが生前出会った刀の商人であった。



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第14節 〜魂魄陰陽〜

「——なら、その願い叶えてあげましょうか?」

 

 血煙と腐臭が漂う都にて、ある時出会った商人が霧吟達の前に姿を見せる。胡座でもしているのか大きさは霧吟の腹部程度までしかなく、身体の線さえ曖昧にする大柄なローブを羽織り、顔はベールで覆われて表情さえ窺えない。だというのに分かる、感じる、察する。それは確実に馬鹿にするように笑みを浮かべていることに。

 

 その不気味な風体は忘れることはない。確実にギンが生前に出会った商人だ。鎌倉時代に生きていたはずなのに、何故百年以上先の未来である江戸時代にまで存命しているのか。

 

「貴様——」

 

「あっと、大丈夫ですよ剣士様。私も『魂』を見通せる者。お嬢様の身体を通す必要などありません」

 

『……ならこのまま話そう。何故貴様がここにいる?』

 

 最も疑問をギンは口にする。すると商人はケラケラと出来立ての人形みたいな軽快な笑い声を上げてベールを剥いでその素顔を見せた。

 

 

 

 ————顔が見えなかった。

 

 顔があるのは『理解』している。だというのに、その造形を捉えることができない。人間の形をした『何か』がそこにはあったのだ。

 

 

 

「ご覧の通り、私は人ならざる者。『門』の導き手にして守護者。人間の時間では測れない存在なのです」

 

『門……? 時間では測れない……?』

 

「だからこそ私なら救える。今この時代を蝕む病原から屍の悲劇……それらすべてを無かったことにできましょう」

 

『救える? 何の利益があって?』

 

「私は『門』の導き手。故に『門』へと至る者を招かねればなりません。そして剣士様、あなたは選ばれた。『門』に至る者として」

 

 噛み合うようで噛み合わない会話。ギンの疑問に対して一見して答えてるように見えるが、実際は自分の意見をただ押し通してるだけの会話と形容するには烏滸がましいやり取り。怖気が奔るほど導き手と名乗る彼の言葉には『感情』が込められていない。

 

「だから助けましょう。だから願いましょう。私の言葉に従い、その手に『鍵』を握るのです」

 

「断る——」

 

 その心には、真なる救済の思いはカケラもない。そのことに気づいたギンは、錯乱する霧吟を魂の奥底に休ませるとその手にある刀で導き手を切り裂いた。

 

「貴様からは悪鬼よりも醜い匂いが漂う。戯言に乗るにしても、妖怪みたいに可愛げを取り繕うくらいはしろ」

 

 もう話すことなどない、というように切り裂かれた胴体へと向かってギンは吐き捨てた。

 

 しかし、それでも状況は変わることはない。依然として都は『生きた屍』によって蹂躙され尽くしている。霧吟も疲れ切っており、自分の意識で歩くどころか立ち直ることさえできない。

 

 これからどうすればいい? こんなにも絶望に打ちのめされた少女を胸に抱え、罪を背負い合いながらどこへと行けばいい? とギンは歩き出そうとすると——。

 

「おや? おやおや? おやおやおや? 断る? 何を仰るのかと思えば…………言ったでしょう。あなたは選ばれたと」

 

 それは目を疑う光景だった。皮膚が爛れ、肉という肉が晒される中、導き手は真っ二つに切り裂かれた胴体のままギンの前へと現れて話しかけてきたのだ。

 

 ならばと、次にギンは首を裂いた。それでも導き手は告げる。「『鍵』に選ばれた」と。

 

 まだだと、続いてギンは口を裂いた。それでも導き手は告げる。「『門』へと至る者に選ばれた」と。

 

 これならと、今度はギンは脳を裂いた。それでも導き手は告げる。「対価を払え」と。

 

 そこでギンの手は止まる。『対価』という言葉。それには聞き覚えがあったからだ。生前、商人と……導き手と刀を受け取る際に交わした言葉の一つ。

 

 その時頂戴された『対価』とは何か。それもギンは覚えている。

 

 

 

 ————『魂』だ。

 

 

 

「あなたは選ばれた鍵に門に魂は我が主神の手の中にしかし足りない肉体がない何故ない?どうしてお前の肉体がない?どこにもない?『無』にもない?足りない足りない足りないなら足すまでのこと」

 

 肉塊と化した身体は声どころか生命活動さえできないはずなのに、導き手は何事もなく「さあ願え」とどこからか不気味な声を発する。その声に呼び起こされるように霧吟の意識は表へと出てきて、泣き縋るように導き手へと首を垂れた。

 

『おい、行くなっ!』

 

「お嬢様願いなさいこの悲劇を無かったことにしたいと」

 

「……そ、それは——」

 

『乗るな! こいつの戯言にっ!』

 

「分かってます……。分かってますけど……。もう、それしかないじゃないですか……!!」

 

 犯した罪は霧吟の心を縛りつけ、垂らされた救いという糸に縋り付く。その先には地獄しかないというのが分かりきっているはずだというのに。

 

 いや、逆だ。分かりきっているからこそ願うのだ。罪と罰の贖罪を。

 

 罪は悲劇を生み出したこと。

 罰は地獄へと歩むこと。

 贖罪は悲劇を無かったことにすること。

 

 悲痛な覚悟をその胸に、ただの少女は自ら地獄へと足を踏み入れた。

 

「願います、願わせてください……。私はこの悲劇をなかったことに……夢にしたいです……っ!!」

 

 それは余りにも惨めな懇願だった。奴隷のように深々と頭を下げて霧吟は人ならざる者に願う。

 それが余りにも滑稽だったのだろう。人ならざる者はケラケラと絡繰人形のようなぎこちない笑い声で上げて「ならば対価をおくれ」と霧吟へと言った。

 

「……もちろんです。……捧げます、私の『肉体』を」

 

 後戻りはできない。少女はひたすらに地獄の先を歩き始める。ギンは知っている。その地獄の先には何が待つのか。それは『無』の中で漂い続ける孤独しかない。

 

 ギンと霧吟の出会いのように、運命が微笑めばいつかは出られるかもしれない。しかしそれは何百年、あるいは何千年と孤独の先にしかない。そんな空虚な時間の中で、ただ優しいだけの普通な少女である霧吟が耐え切れるわけがない。そこには『死』よりも悍ましい結末しかないのだ。

 

 お前がその道を歩む必要はない。お前にはまだ未来がある。何が生き遅れだ、生きてさえいれば伴侶は見つかるだろう。お前の人柄ならいつかは本当の理解者も見つかるだろう。こんな老いぼれと違って、一緒に歩める者がいるに違いない。

 

 だから、対価が必要だというのなら儂がいくらでも捧げてやる。魂だろうと、命だろうと、記憶だろうと、未来だろうと、全てを捧げてやる。

 

 

 

 

 

 ……だから、霧吟だけは奪わないでください。

 

 

 

 

 

 ギンは魂から願い続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——だが、ギンの声はもう誰にも届いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「契約は完了した願いは成熟したならば讃えよ唄え我が主神を崇めよその手の中に印はある」

 

「…………はいっ……!!」

 

 霧吟は人ならざる者と『魔導書』から伝えられた儀式を丁寧に一つずつこなしていく。操り人形のような拙い舞踊をしながら、その地面に円や図や印を記していき、魂のない空虚な声で一定の調子で唱う。

 

「…………ザイウェソ、うぇかと・けおそ、クスネウェ=ルロム・クセウェラトル。メンハトイ、ザイウェトロスト・ずい、ズルロゴス、■■=■■■■。オラリ・イスゲウォト、ほもる・あたなとす・ないうぇ・ずむくろす、イセキロロセト、クソネオゼベトオス、■■■■■。クソノ、ズウェゼト、クイヘト・けそす・いすげぼと・■■■■■■■■■。ずい・るもい・くあの・どぅずい・クセイエラトル、イシェト、ティイム、くぁおうぇ・くせえらとる・ふぉえ・なごお、■■■■。ハガトウォス・やきろす・ガバ・■■■=■■■■。めうぇと、くそそい・ウゼウォス………………」

 

 果たして何を言っているのか。それは口にしている本人でさえ測りきれない。だが、空気が澱むことは分かる。血が濃いとか、肺が咽狂うとか、息苦しいとか、空気がないといった些細な変化ではない。もっと根本的な変容だ。

 

「ダルブシ、アドゥラ、ウル、バアクル。あらわれたまえ、■■=■■■■よ。あらわれいでたまえ」

 

 

 

 

 ——世界が引き裂かれた。

 

 ——大地が空となり、地面が空となる。

 

 ——太陽と月が交わり、名状し難き星となる。

 

 

 

 

 

 霧吟が言葉を終えると同時に、世界は裏表をそのままひっくり返したように様変わりした。周囲は一転して闇よりも深く、深淵よりも暗い世界——『無』へと誘われる。

 

 ここでは光はない。

 ここでは音はない。

 ここでは匂いはない。

 

 そして命はない。あるのは『魂』の脈動のみ。

 

 だがその中で、一つの物体が姿を見せた。妖しく輝き続ける重たき刀身。それにギンには見覚えがあった。

 

『儂の、刀……?』

 

 そこでギンは思いだす。先程人ならざる者が「お前は『鍵』に選ばれた」ということを。

 

 

 

 ——あの刀こそ『鍵』なのだ。

 ——ギンが持っていた刀が『鍵』としての役割を持っていたのだ。

 

 

 

 刀は変容し球体状の肉塊となる。体表は虹色に輝き、艶かしく巨大な触手が蠢いて霧吟の身体を潰すように握りしめた。

 

《契約だ。お前の願い叶えてやろう》

 

 すると、今一度世界は反転した。再び太陽と月は交差し、地は地に、天は天へと昇る。世界は何事もなかったように縫われ、雲一つない満天の青空を見せる。

 

 霧吟は空に漂いながら世界を見る。そこには何事もなく日常を謳歌し、仕事に明け暮れ、酒を嗜む活気溢れる都があったのだ。

 

 願いの通り、その虹色の異形は意図も容易く民の救済を果たしたのだ。それを見届けた霧吟は万感の思いで「良かった」と心底安心したように呟き————。

 

《では貰い受ける。お前の身体を》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——呆気なく、少女の肉体は握り潰されて爆ぜた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『——霧吟っ!』

 

 先に反応を示したのは、起きた出来事に放心するしかないギンではなくアメノウズメであった。『魂』だけが存在できる『無』という概念の世界。そこでなら力を行使できると考えて、ウズメは己が支える死霊達を突貫させるが——。

 

《……不要な魂が一つあるな》

 

 しかし、それも呆気なく虹色の異形はウズメの攻撃をその血みどろの触手でいなし、その魂を卍搦めに捉えた。

 

『貴様、妾を誰と…………っ!!』

 

「矮小な神様なだけでしょう? ただ踊るだけの脳なしの神様。しかし我が主神はご機嫌だ。無能であろうと私自らが丁重に捨ててあげましょう」

 

《ならば任せよう。こいつには用はない》

 

 そしてこれまた簡単に、人ならざる者共々ウズメは『無』から追放された。

 

 残るはただ一つの魂。ギンだけが『無』の中で漂い続ける。

 

 ここで皆が塵芥のように消えるのかとギンが考えると、途端に血はギンを取り憑くように纏わりついてきた。訳もわからぬまま、血は肉となりギンの魂を包み捏ね上げる。不恰好な四肢が生まれ、そこから更に整えられ、長さが揃った指ができ、順番に削ぎ落とすように親指、薬指と整えていく。

 

「——がぁああああああ!!?』

 

 それは生命の誕生にしては余りにも冒涜的だ。玩具のような扱いで身体を作り、激痛と共に魂諸共肉体を矯正する。まるで首輪をつけるような戒めを込めた痛みだ。

 

《これでお前は私と真の契約を結んだ》

 

 そして、本当の意味で霧吟の肉体を持ったギンが誕生した。その身体にある『魂』は既にギンしかおらず、愛くるしい家族であった霧吟の『魂』はもういない。

 

 酷く空虚な心に、火種が一つ降りかかる。それは『怒り』だ。

 ギンの心に激情が奔る。魂さえも焼き切るほどの激情がその身を突き動かした。

 

「お前……お前ぇぇええええええ!!!」

 

 ギンは無刀のまま間合いを詰め、一瞬よりも早く異形を形なき刃で切り裂いた。

 

 生前、無自覚にも『無』へと至ろうと絶え間なく振った剣の腕は、今この瞬間のためだったと確信を持つ。我が手、我が剣。すべてはこの異形を討つためにあったに違いないと。

 

《契約者よ。お前の刃は危険極まるが、それは外側であればの話。我が手中であれば意味をなさん》

 

 刃は届いた、切り裂きもした。しかしそれだけだった。

 激情に身を任せ、挙句には既に異形に蝕まれた魂では、異形を本当の意味で断つことはできなかった。

 

「うるさい、黙れ!! 何故霧吟を巻き込んだっ!! 欲しいのは儂の『魂』だけであろう!!」

 

《お前が勝手に死ぬのが悪い。あの日、何故自分の手で死んだ? 『無』さえ切り裂く刃のせいでお前の肉体は『無』からも消えた。おかげで私も手を出さなければいけなくなった。こうして盟友を動かしてな》

 

「盟友、だと……?」

 

 盟友とは誰のことだ? あの商人のフリをして近づいてきた人ならざる者か。

 

 違う。確かに生前ではギンとの関わりがあったが、そもそもギンが自ら命を絶ったことで盟友を動かしたと言った。それでは因果関係が逆転してしまうのだから人ならざる者が介入する余地はない。あれは最終的に出てきただけで道筋に関係ないのだ。

 

 だとしたら、どこに盟友と呼ばれる存在が介入する余地がある? そもそも何でこのような事態が起きた? 虹色の異形が呼び出されたのは霧吟である以上、その過程に確実に存在するのだ。

 

 ならば翼か? 彼奴が文献を霧吟の手元に置くことで、来るべき都が病に侵された時に促すために。

 

 それは違う。霧吟が文献の知識を試そうとした時に、彼は渋々と受け入れていた。文献が持つ脅威を薄々と勘づいていたのだ。それに霧吟も一緒に既に紐解かれた文献を見て、常に可能性を模索していた。本当に霧吟に見せるなら、そもそも解読済みの物を用意していたに違いない。

 

 ならば何だ? どうして霧吟は文献を、今回の悲劇である『生きた屍』を作ることになった?

 

 

 

 それは、それは——。

 そもそも都に『原因不明の病』が——。

 

 

 

 

「まさか、お前——!?」

 

《左様。人間の病は我が手引きによるもの。『感染する者』はよく動いてくれたことよ》

 

「……なんで霧吟を巻き込んだっ……。可愛い霧吟を……っ!?」

 

《何度も言うな。お前が契約を切ろうとしたのが悪い。素直に死ねばこうはならずにすんだ》

 

 

 

 ——素直に死んでいれば、霧吟を巻き込まずに済んだ? 

 

 何を意味するのか見当もつかない。肉体が欲しいだけなら霧吟以外でもいいはずなのに、あえて霧吟を選んだ。そこには必然的な経緯があり、そこに生前のギンの行動が関わっているのだ。ギンは訳も分からぬまま、異形の話を聞き続ける。

 

 

 

《お前は死後、『無』の中で『魂』だけ漂った。契約があったからだ。しかし肉体だけ無かった。その刃で自滅したからだ。おかげでお前を従者として使役することができなかった。物は試しと未来から水色の少女を確保もしたが……ただの肉体ではお前の強靭な魂を接触することさえできなかった。であれば作るしかない、一からお前に適した肉体を》

 

 それは衝撃的な告白だった。異形の言うことに嘘偽りがなければ、霧吟はギンのために作られた存在ということになる。だとしたら少女が宿してしまった『降霊術』という忌むべき体質は生まれつきであるはずなのに、それは意図的な物ということになる。

 

《『魂』を宿す器を作るのは苦労した。異星の血が混じっては器には値しない。何百年と純粋な人間を扇動して番になるようにした。時には争いもさせて間引きもしたな》

 

「なら、霧吟の一族の争いは……!?」

 

《歴史にそういう記述があるなら私の介入かもしれないな。経緯はどうあれ、あの小娘の身体を得るために色々とした》

 

 だとしたら霧吟の命は最初から作られた物ということになる。母親にも理解されず、父親に理解されず、生まれた時から死者の声は否応にも聞こえ、それなのに神楽一族として将来も縛られた少女の人生は仕組まれたとでも言うのか。

 

 

 

 それら全てが作り物だったと、こいつは言うのか——。

 

 

 

 ふざけるな。あの心は、優しさは、品のなさは、遠慮なしは、紛い物でも作り物でもない。本物の霧吟の心だ。精一杯自分のことを受け止めて、それでも生き続けようと前進する命の輝きだ。それがただ『ギン』という存在を生み出すだけの雛形であるはずがない。

 

 

 

 

 

《喜べ。その犠牲の果てに『お前』という存在は確立された》

 

 

 

 

 

 だというのに、こいつは最初から霧吟の存在などいなかったと言うかのように、ギンという少女の生誕を祝福した。

 

 ならば理由をくれ。お前が納得するだけのくだらない理由をくれ。霧吟の命を犠牲にするだけの価値があったと言える理由をくれ。

 

 なんで儂を求めた。ただのくたびれた爺を欲した。最終的に『無』を切り裂くほどの剣聖へと静寂することを知っていたからか。この身には異形の怪物に求められるほどの『何か』があったとでも言うのだろうか。

 

 それをギンは異形に問い詰めると——。

 

 

 

 

 

《偶然だ。偶然、お前が鍵を得て、そのまま選ばれた。それだけだ》

 

 

 

 

 

 と、アッサリと太々しく大きい図体とは裏腹に、異形はあまりにも矮小で些細な理由を伝えてきた。

 

 ギンは怒りさえも通り越し、悲しみと無力さが湧き出る。何よりも一番湧き出るのは後悔だった。

 

 

 

 最初から剣などに魅入られず、ただの民として毎日つまらない日々を終えて生涯を終えればこうなることはなかった。

 

 剣に魅入られたとしても、その生涯を真っ当に終えてさえいれば、霧吟の犠牲が生まれることもなかった。何より『降霊術』に適した少女としてではなく、普通の少女として過ごせたかもしれなかった。彼女が求めていた理解ある家族を手に入れることができたかもしれなかった。

 

 いや、考え直せば色々と今回の事態を防ぐ要因はまだまだあった。

 

 何をカッコつけて『無』の中で罪と罰を受け入れるだ。一思いにその魂ごと死ねばよかったのだ。

 

 それができないなら、そもそも『無』の中で霧吟の声に惹かれて出ようとしたのが間違いだった。大人しく引き篭もって、その魂が消え失せるまで永遠を漂えばよかったのだ。

 

 

 

《これからは我が手足と従ってもらおう、剣聖よ。では、その身の勤めを果たす時まで、暫しの別れだ》

 

 後悔は募りばかり。異形の言葉さえ耳に入らず、その『無』の中で今度こそギンは、己が愛する少女の肉体を持って漂い続ける。

 

 誰の『魂』も聞こえない空虚な世界。無間の闇の中でギンは叫び続ける。誰に届く訳もないのに。届いているというのなら、霧吟が奪われることもなかったくらい分かりきっているのに。

 

 

 

 だというのに、僅かな『光』が差し込んできた。『無』の中でほんの小さな微かな温かみが伝わってくる。

 

「霧吟……っ!」

 

 その光と温もりはどんなに弱かろうと忘れる訳も、見失う訳もない。それは一重に望み続ける霧吟の『魂』が見せたものだ。

 

 光に導かれてギンは『無』の中を無我夢中で走り、そこに無造作に転がる光を無作為に拾い上げる。

 

 そこには残滓となって散りゆく霧吟の『魂』があった。身体が無惨に爆ぜてなお、彼女は最後までその心を声にして叫び続ける。

 

 少女が放つ最後の輝き——。それにギンは耳を、魂を澄ました。

 

『———————————』

 

 

 

 

 

 その声は、ギンには聞こえなかった。もう既にギンという肉体となった身では、魂の声を聞く体質は無くなっていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………これで話は終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………何ともまあ、惨めで滑稽で。

 

 …………つまらない話だ。



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第15節 〜雌雄〜

第三章、最終回です。


「……これで終わりじゃ。爺の昔話はな」

 

 …………あまりにも救いのない最後に俺は絶句するしかなかった。

 

 胸の内で色々な感情が渦巻いて仕方がない。二人が歩んだ日常は本当に楽しそうでこちらも笑顔になったし、霧吟の体質を知った時には悲しくなったりもした。

 

 だけど、それら全てが仕組まれたことだと知って俺も激情が駆り立てられる。話に出てきた『虹色の異形』……話の経緯やギンがこうして『守護者』としている以上、間違いなくハインリッヒが言っていた『あの方』で違いない。もう『あの方』なんて敬った言い方さえ気に食わない。あの異形はそれほどまでに霧吟やギンの全てを踏み躙ったんだ。

 

 許せない、許しちゃいけない。外道の道さえも外した悪辣過ぎる手だ。しかも話の聞く限り、異形が言っていた『水色の少女』……それはアニーなのではないか? そんな目的のために確保した挙句、不要になったからと現実世界で七年近くも『因果の狭間』……ギンが言う『無』の中で幽閉していたというのか。

 

 あまりの自己中さに、方舟基地から南極に辿り着く間に通った『因果の狭間』であったハインリッヒとラファエルの会話を思い出す。

 

 

 

 …………

 ……

 

《真なる上位存在は、人間のような矮小な種族など気にもかけてくれないのです。もう一つの角度から考えますと、人間は『あの方』にとってアリのような存在であり、彼はただ虫眼鏡を使ってアリを燃やすようなことを好む子供なのかもしれません。アリからすればそれは神の戒めであり、その背後に潜む黒い影に平伏すこととなります》

 

《はっ、ははっ……。そう言う話なら納得したわ。人間よ、跪いて私に祈りを捧げなさい——。神によって作られた最初のルールは、子供のようにワガママだものね》

 

 ……

 …………

 

 

 

 本当に『神様』だって言うのか? 神様だから人間なんて塵芥同然のような扱いでどうとでも扱っていいとでも言うのか。子供じみた理屈で動いているのだから許せっていうのか。

 

 ふざけるな——。俺達は……人間は、お前にとって遊び道具でも駒でもない。

 

 スクルドが死んだだけで、あんなに心に埋まらない穴が空いて胸がグチャグチャになる思いをしたんだ。たった一人の幼い命だけでこれだけ苦しいんだ、辛いんだ、切ないんだ。それを何度も何度もアイツは行なっているとしたら、遡れば何人もの人達がこんな思いをしたんだ。もしかしたら一度ならず、何度も抱いたかもしれない。

 

 そんなの……絶対に繰り返すわけにはいかない。誰かの幸せを侵し、未来を略奪するというのなら——。

 

 ——『神様』だって倒してみせる。

 

「……霧吟は最後に何て言ったのかのう。何せ儂のせいで生まれた因果じゃ。恨言……を言うような性格ではないが、きっと儂のことに幻滅したに違いない」

 

 ギンは自虐した笑みを浮かべて、さらに摘みを大量に含んで酒を煽る。もはやそれは月見酒ではなくやけ酒だ。見てて痛々しさを覚える。

 

 ……思えばギンは月を見ていたのは霧吟のことを思っていたからだったのか。古来より月は『死者の国』と呼ばれることは多い。亡き者となった霧吟は、今ではあそこにいるのかもと思いながら懺悔するようにギンは語ったに違いない。もう聞けない少女の最後の言葉に思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 ……いや待てよ。だったらあそこで見た記憶って——。

 

 

 

 

 

「……今ならまだ聞けるかもしれない」

 

 俺がふと呟いた言葉に、ギンは「なんだと?」と驚きの声を上げる。

 

 だって彼女は実際には月ではなく、あそこにいるはずだから。妖刀の……即ち『鍵』の中にあった魂の残滓が霧吟だというのなら、霧吟に触れられる機会がまだあるんだ。

 

 そのことをギンに伝えると……まるで女の子みたいな涙を一瞬だけ浮かべ——すぐに苦虫を潰したような自分の不甲斐なさを嘆く。

 

「……聞きたい、聞きたいさ。だけど儂には『魂』の声は聞けん……」

 

 そう。あくまであそこは『魂』だけが意味を成す世界。今のギンだけでは霧吟の魂を認識することさえできない。

 

「でも俺なら聞ける。俺なら霧吟の声が聞こえるんだ。だったら——!」

 

「……分かっているのか? 霧吟の声を聞きに行くということは、もう一度『魔物』と対峙することを意味する。あの時は偶々『無』の中で儂がいたから助太刀できただけで、今度は儂でも手出しできん」

 

 …………そんなこと最初から分かっている。もうとっくに覚悟は決めたんだ。今まで散々アイツには迷惑を被ってきた。アニーやハインリッヒ、それにソヤと俺。そして霧吟とギンも。ここで一発でもやり返さないと気が済まない。

 

「行くのは俺一人じゃない。霧吟までいかないけど俺も『魂』を宿せる身なんだ。……ギンも一緒に行こう」

 

 思いがけない提案だったのだろう。ギンは面食らった表情をすると、ほんの少しだけ嬉しそうにするが、すぐにそれは泣き崩れそうな少女のか弱い顔となる。

 

「……言うな。頼む、言わないでくれ……」

 

 自分でもどうしようもなく会いたいに違いないのに、ギンは願うように申し出を拒否した。

 

「もう、儂のワガママで……誰かを失いたくないんだ……っ!」

 

 その気持ちは痛いほど分かった。誰かを失うのは弾丸を打ち込まれるよりも重く苦しい。それが自分のせいだと言うのなら尚更だ。

 

「なぜお前は助力しようとする……。頼む、理由をくれ……。本当に納得できるだけの理由を……っ!!」

 

 求める理由は俺だけでなくギン自身にも問いかけている。それは『自分のせい』ではないという無意識的にくる庇護心からだろう。その気持ちも痛いほど分かる。俺だってスクルドが死んだ時に、泣き続けて自分の無力さを肯定しようとどこで思ってしまった。自分で立ち上がれたから良いものの、本来なら折れて逃げても誰も文句は言えない。

 

 ギンも本当なら自力で立ち上がれるほど強い人には違いない。だけどギンは生前と霧吟の時で、二度も『自分のせい』という理由を同時に突きつけられて自分で立ち上がる気力はもう無い。

 

「……似てると思ったから。俺と霧吟が」

 

 だったら誰かが差し出すしかない。ギンだってこのまま終わるのを良しとする訳がない。最初に言った霧吟の声が聞きたい、というのは心の奥底にある本音なんだから。

 

「お前が……霧吟と?」

 

 昔話を聞いて思った。確かに俺は生まれも育ちも普通だし、最初から生まれも育ちも特異な彼女とは類似点なんて一見無い。だけど、それはあくまで外的要因に過ぎない。似ているのは、もっと根本的なところ……内的要因による部分によるものだ。

 

 俺も霧吟も、最後の瞬間、地獄で願ったことは一緒だった。この地獄を夢であった欲しいと願った。

 

 そしてその互いに願いは叶った。だけど向かう結末は違った。

 

 命と身体では比べるのは烏滸がましいかもしれない。だけど、それでも……俺は代償の末に今では女の子でも幸せな日常がある。なのに、霧吟には何もなかった。俺なんかじゃ比べられない不幸を大量に背負っていたのにも関わらず。…………彼女の根本は、底なしに優しいだけの普通の少女だったのに。俺だって普通の少年だったのに、どうしてこんなにも結末が違う。あまりにも残酷すぎる。

 

 そんなの不公平じゃないか。一生懸命の報酬がないなんて。神様が認めても俺は絶対に認めてない。

 

 そのことを全部ギンに伝えると、ギンは戸惑う様子を見せる。瞳には希望と諦観の気持ちが移り変わりし、今にも動き出したくて仕方ないと言いたげだ。しかし霧吟を自分が生んだ因果の犠牲にしたという罪の鎖がギンを縛り続けている。

 

「行ってやれ、ギン……妾もこのために今まで一族を続けさせたのだから」

 

 振り返ると霧夕の身体を借りてギンと話すウズメさんがいた。そして、その手には…………壊れたはずの『妖刀』こと『鍵』が握られている。刃先は一人でに再生し続け、刀身は少しずつ妖しげな光沢を帯び始める。

 

「ウズメ……」

 

「この数百年ほどでお前は大分弱くなったな。まるで女の子みたいに」

 

「……そういうお前も積極的だな。あの頃は何もせずにおったくせに」

 

 確かに俺もそれは気になっていた。ギンの話を聞く限り、異形が出てくるまでウズメさんは都の病や『生きた屍』……恐らく『ゾンビ』や『グール』の件に関して一切の手を出していない。

 

「人も神も変わるさ。妾もあの時、神の身分として静観を決め込んでいた。人間の問題は人間の問題だ。神が介入するのは良くないと思ってな」

 

 ……立場の違いだというのなら仕方ないのかもしれない、と一人納得した時に「神と人の差なんてどこにもないのにな」とウズメさんは後悔に満ちた想いを溢す。

 

「あの日、異形を見て気付いた。あれこそが本当の『神』だと。妾が思っていた神は、あくまで人間より優れた生命に過ぎないと。あの瞬間、真の意味で種族的に上位であるものを知った」

 

「神様が『神様』という上位存在を認めた上に、神様は人間と同じか……」

 

 サモントン総督の孫娘であるラファエルが聞いたら、また卒倒しそうな考えが出てきたな……。

 

「ああ。古来より『雷』は神の裁きとされていたのに、いつぞやの時に『雷』を『電気』という力に変えて文明を発展させた。人は神の力を物にした……この時点で神と人の差なんてそう大きくないんだ」

 

 そういう意味では『海』とか『空』も元々は神様の領域って呼ばれていたんだっけ。だけど船で世界一周して世界の果ては滝壺ではなく、自国に繋がるものだと知って、空を行き宇宙へと行ったことで地球が丸いことを知った……で合ってるんだっけ?

 

「妾は悔いた。あの時、もっと早く介入しておれば少しは違う未来があったかもしれないと……。だから今はこうして霧吟が繋いだ霧守一族を存続させて自衛する手段や式神といった陰陽術を教えておる。……もう失わないように、あわよくば再生した『妖刀』に眠る魂を呼び起こすために……」

 

『そういう考えがウズメ様にはあったのですか……』

 

 ——いや、霧夕さんは知らんかったの!?

 

「お前は奪われたままでいいのか。自分にとって掛け替えの無い大切な存在を」

 

 ギンの瞳は大きく揺れる。振り子のように、揺れるたびに大きく、もっと大きく。その目に決意を宿していく。

 

「進め、男なら。奪われた信念を、誓いを取り返したいのなら……どんなに惨めでも、どんなに辛くても、どんなに意地汚かろうと戦うしかない。戦って戦って……戦い続けて……奪われた全てに報いるしかないんだ」

 

 そう言ってウズメさんは妖刀を押し付けるようにギンへと手渡す。

 

「……だが」

 

「お前が始めたというのなら、自分のケツくらい自分で拭くぐらいはしろ」

 

「……しかし」

 

「お前が始めてないというのなら、その罪と罰は飾り物になるぞ。霧吟の死は……本当に無為な物となるぞ?」

 

 さらにウズメさんは畳み掛けていく。

 

「……お前や霧吟が求めていた家族というものは、そんな薄っぺらい物なのか?」

 

「…………そんなわけ……ない……っ! 儂と霧吟の繋がりは……唯一にして無二の、生涯において最初の最後に得た大切な物なんじゃ……!!」

 

 一つ、大きな落涙が一粒妖刀に落ちた。雫は弾かれ、それと共に妖刀は熱を灯す。

 

「なら、答えは決まったであろう?」

 

 もうギンには迷いはない。覚悟と決意を全て背負い、再生し終えて夥しい妖気を放ち始める『妖刀』を掴んだ。

 そして俺へと視線を投げる。その瞳にはか弱い少女はもういない。時を重ねた者だけが持てる力強さが宿っていた。

 

 ——言葉はいらない。これからは『魂』だけの領域だ。ここでギンが言いたいことが分からないようなら一矢報いることさえできない。

 

 俺も同様に刀を掴む。そして意識を澄ます。思い浮かべるはギンの『魂』諸共縫うように自分の『魂』を繋げ、妖刀に眠る『魂』へと潜ること。

 

 

 

 ——願う。『魂』から願う。

 

 もう一度、霧吟に会いたいと『魂』から願う——。

 

 

 

 —-あぁ、久しく感じた感覚だ。

 

 魂の境界線が曖昧になって、自分とギンが交わり合っていく。だけどもう俺は惑わない、見失わない、この力を必ず使いこなす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——願う、願い続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 溶け合う感覚の中、自分の自我を意識するためにあることを心に思い浮かべる。

 

 俺は『男』でもあり『女』でもある。

 逆もそうで『男』でもなければ『女』でもない。

 

 俺はただ『俺』として、自分が守りたいものを守るために戦う。そのために強くなる。

 

 なら俺が守りたいものって——。

 決まりきっている——。

 そんなものは悩むまでもない——。

 

 追憶する。これまであった全てを。

 

 

 

 …………

 ……

 

《しっ——! 声を出すな……!》

 

《……ふぅ。やっと……私はアニー。私のバットを持ってるってことは、私が魔女ということはもう分かってる感じかな?》

 

《ほう? 私を知っているという情報をあっさり漏らすとは……。どうやら自分の正体を隠す気はないようだな……》

 

《どうやら私達ルームメイトになるみたいだね〜〜》

 

《ファスナーは、どの位置だ?》

 

《あぁ……これが本物のレンちゃんね? ふふふ、このプロフィールは本当に面白いわ〜》

 

《ごきげんよう。よろしければ、このハンカチをお使いください》

 

《……イルカ。任務・削除、ドール》

 

《息が苦しい……? んー……ちょっと待って……。普段どんな姿勢で寝てるの?》

 

《ちょっと、そこの女装癖》

 

《つまり、あなたは両親の命令に逆らえない『我儘な子供』ということでしょうか——》

 

《おいおい、何ぼんやり突っ立ってやがるんですか?》

 

《ファビオラ。あまり無礼はダメだよ》

 

《あぁ、——久しぶりに温度を感じたわ。こんばんは、うら若きお嬢さん達》

 

《あんた未だに心の底から、その少女設定を信じ込んで拗らせてるみたいね》

 

《水と炭素、塩と硫黄、ケイ素と鉄……。これほど完璧なまでに成し遂げるとは……》

 

《乙女かあんたは。挨拶と振る舞いが女々しい》

 

《マスターは何かの容器が必要なのでしょうか? 合成できる材料ならありますが》

 

《あ……な、た……な……ぜッ……》

 

《ふんっ。餅は餅屋でバカはバカね》

 

《あなたの番号、もう覚えちゃいました》

 

《その……これでもうアタシ達、秘密を交換した友達だよね?》

 

《白ストッキングのあんたも、悪くないわね》

 

《レンお姉ちゃん……チョコ、なくなった……》

 

《えへへへ〜〜〜♪》

 

《そんなに急いでどうしたのよ? あのメイドカフェにでも行くのかしら?》

 

《Mぅ〜〜ですぅ〜〜わよぉ〜〜〜!!!》

 

《気をつけなさいな、おチビさん……》

 

《さあ、愛しきクズども——正真正銘の変態達よ、覚悟なさいッ!!!》

 

《この先に小道があります。案内しましょうか?》

 

《早く案内してくださいまし〜〜♪》

 

《ぼ、僕の名前はジョンと言います。電気街のお店でアルバイトしてまして》

 

《あのドキュメンタリーの子ペンギンのように一匹で……》

 

《——今日はお洒落で綺麗ね、後輩さん》

 

《ジャカジャカジャカジャカ……ジャンッ! 私の名前はぁ——? 私の名前はぁ——。私の——……》

 

《マサダブルク国防軍、カラカル大隊所属のエミリオ・スウィートライド少尉よ。私達は海防任務を遂行するために来たの》

 

《何者だと聞かれて答えるならば、ヴィラ・ヴァルキューレ准尉と名乗るが》

 

《理由は忘れちゃったけど、あの方向のどこかに行かないと駄目だって感じたの! じゃないと……そうじゃないと、ヤバババだよ!!》

 

《レンちゃん……どうしてジャケットの中が、ロングキャミソールとレギンスだけなの?》

 

《搾りたてのザクロジュースは特産品の1つなの。すっごく美味しいわよ?》

 

《——不思議でしょう? こんにちは》

 

《あはははは! レンちゃん本当に可愛いわね! 心の中で質問したのね? 私が本当にテレパシーできると思って!》

 

《×××どもめッ!!! 国家の補助金で生活している癖に毎日毎日×××みたいな抗議しやがって!!》

 

《…………………………もはや隙が多すぎて、逆に判断にしづらいわ》

 

《も、もういいだろその事は!! 卒業したら……元に戻すから……》

 

《ほほぅ、ようやく今になって携帯を取り戻せたと……? で、それを思い出すまでに幾ら時間をかけた? 楽しんでるようだなぁボンクラァ!!》

 

《はらぺこはらぺこぺこりーな……》

 

 ……

 …………

 

 

 

 これまで紡いできた『日常』を……『普通』を守りたいから。ろくでもない、あるいはくだらない記憶の方が大多数を占めてるが、普通とはそういうものだ。当たり前に満ちた幸せほど大切なものはない。七年戦争の傷跡はそれほどまでにも大きいのだから。

 

 ……振り返って思ったが、ここまで本当に長い時を過ごしたんだな。まだ女の子になってから半年ぐらいしか経っていないのに、ここまで掛け替えない思い出がある。

 

 ……それを守るためなら『超常』と戦うことを、俺は迷いはしない。

 

 それだけは絶対に揺るがない、折れない、曲げない。

 

 それが俺が求めていた強さ。俺がアニーと一緒にSIDに入る時に思った根本にあった信念。戦うことに捉われて『強い』とか『弱い』とかを考えていたが、そもそもとして戦いの本質を忘れては何の意味もないんだ。

 

 これが俺が無くしたもの——。

 そして俺が得た本当の強さ——。

 

 

 

 ——自分より強い相手に勝つには、自分の方が相手より強くなければいけない。

 

 

 

 その答えは『誰にも負けないという強い意志と信念』を持つこと。

 

 

 

 ——この言葉に対する矛盾と意味をよく考えなさい。

 

 

 

 矛盾は『答えがない』ということ。

 意味は『正しくもあり間違っている』ということ。

 

 当たり前だ。戦う理由なんて人それぞれだ。色々と難しく考えすぎてて、みんなみたいにシンプルな答えを出すことができなかった。

 

 無論、そんな簡単な答えが合っているのか? という疑問は湧くだろう。だけどそれを信じ続けてこそ、戦い続けるからこそ、人は強くなれるんだ。

 

 そして、俺の答えが間違っていないことを証明するには——。

 

 

 

『いくぞ——レンッ!!!』

 

 

 

 ここで『勝つ』しかない。

 だからこそ、ここで雌雄を決する——。

 

 

 

 

 

 ギンの声が『魂』から響いてきたことで、身体中の血という血が活性化する。全ての血管が爆発的に循環を促し、筋肉が膨れ上がるようなとても力強い『魂』だ。

 

 これがギンが本来持てる強さ——。

 

 なるほど、溶け合う事で初めてわかる。この強さは明らかに常軌を逸している。ハインリッヒでも手が出せないし、まだ未知数ではあるがセレサより遥か上の次元にいる。

 

 有り体に言って負ける気がしない——。そう、確信できる。

 

 その目を見開いて世界を映す。

 見渡す限りの闇、闇、闇——。『無』という世界がそこにはあった。一歩も踏み出せない気が狂いそうな無限の闇。そんな世界に『光』が灯る。だが決してそれは温かな物ではない。この『光』こそが……この忌むべき『光』こそがアイツだ、あの方だ、魔物だ、神様だ。

 

 今度は意識を研ぎ澄まして『光』の先を見つめる。そして見つけた。世界を覆い尽くすほど強大で、冒涜的な形状をした虹色の異形を。

 異形は天さえも貫く極大な触手を蠢かし、星のような尊大な瞳をこちらへと向けて、深淵のような深みを持つ悍ましい口で告げる。

 

 

 

 

 

《今度こそ逃がさん。我が従者たる錬金術師共々、剣聖を返して————》

 

「『——秘剣ッ!!』」

 

 

 

 

 

 お前の話を聞く気はない。

 お前を目に入れる気はない。

 お前と戯れる気はない。

 

 

 

 

 

 『魂』を捻りこんで、この手に『無』を掴み取る。イメージするのは『刀』——すべてを斬り裂く無限にして夢幻の刃。

 

 蟲よりも小さな欠片を手に、蛇よりも鋭く狙いを澄ます。

 

 雷よりも轟く衝撃が指先を迸り、炎よりも熱い信念が手中に宿る。

 

 音よりも鳴り響く鼓動で、霞よりも鮮やかな虚像を浮かべる。

 

 獣よりも獰猛な闘争心が刀身を創り、岩よりも硬い覚悟で刀を打つ。

 

 恋よりも深い優しさで刀を見定め、風よりも涼やかな心境で刀を冷やす。

 

 そして、その手に刀は出来上がる。

 水よりも澄んだ刃。日光も月光も須く写し返す花のような美しさだ。

 

 そこに血という名の『魂』を流す。爆ぜるように送り込まれる俺とギンの『魂』に呼応するように夢幻の刃は、その刀身を赤く、紅く、赫く染め上げ、二つの『魂』は今一つとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 此処に至るまであらゆる収斂があった。

 

 縁を斬り、運命を斬り、業を斬り——。

 過分を捨て、重さを捨て、疾きを捨て——。

 

 我をも断ち、己を識った——。

 

 随分と長い時間を無為に重ね、無駄に遠回りしたが——。

 

 ————今此処でもう一度『運命』は交じり、断ち切る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『逆刃斬————ッ!!!!』」

 

 

 

 

 一閃。たった一閃。されど一閃。

 

 その一撃は、どんな概念であろうと超越する魔の太刀筋。先駆けの一手は『流星』よりも早く、速く、疾く———。『無』という世界諸共異形の存在を斬り裂いた。

 

 

 

 

 

《なん、だと……っ?》

 

 

 

 

 

 勝負は既に決した。

 

 世界の闇は薄氷のように砕け散り、今度こそ本当の『光』が『無』を照らす。儚くて小さくはあるが、何よりも温かな光だ。霧吟の『魂』が世界へと解き放たれる。

 

 それは——異形が結んだ契約を断った瞬間でもあった。

 

 

 

 

 

「『———宣戦布告だ。覚えておけ』」

 

 役目を終えて砕け散る夢幻の刃の代わりに、残滓となって降り注ぐ霧吟の『魂』を抱き込んで、異形へと臆する事なく告げる。

 

「『———俺は貴様を倒す者だ』」

 

 

 

 

 

 

 異形は俺の言葉を受け取ると、何かを言い残すこともなく潔く『門』を開いてその姿を眩ました。果たして『神様』という存在は、今の言葉をどう受け止めたのか。それこそ神のみぞ知るだろう。

 

 刹那——『門』の奥で確かに俺は見る。幾重にも並ぶ囚われた『魔女』達の姿を——。

 

 

 

 そして、そこには————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『スクルド』と『ミルク』がいた————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『ま、待て——っ!!!』」

 

 そこで『門』は閉じられ、『魂』だけの世界に俺と…………まずい、これ以上溶け合うのは危険だ。今度は『魂』が離れるの意識して、俺(儂)の『魂』は分離した。

 

「……いたっ。あそこに…………スクルドが……っ!? それにミルクも……!?」

 

 

 

 ——途端、頭の中で激痛が疾る。鎖で封じ込められた本物の記憶が呼び起こされる。

 

 …………そうだ。

 『OS事件』で俺は……ミルクの『魂』と溶け合う事で危機的な状況をバイジュウと共に打開したんだ。

 

 その後に確か、去り際の前に——。

 

 

 

《無理なんだよ……。この『門』は『夢』を行き来する……。私が君の意識をこれ以上呑み込んだ瞬間、あなたも『夢見る人』となって永劫に抜け出せない世界に囚われることになる》

 

 

 

 あの『門』こそが、ミルクが口にしていた『夢』を行き来する物なんだ————。

 

 

 

『霧吟っ! おい霧吟っ! 儂の声が届いているか!? 聞こえているか!?』

 

 頭痛は瞬時に晴れて、本来の目的を思い出す。そうだ、今此処にいるのは自分の記憶に耽るためじゃない。霧吟の魂を助け出すことが目的だ。

 

 俺はもう一度ギンの『魂』を縫いながら、霧吟の『魂』へと触れる。ここは『因果の狭間』と一緒で、外界とは異なる時間が流れる世界だ。二人が再開するのは数百年という単位で済むはずがない。

 

 果たして、その募った心には何があるのか。恨みや妬みとかのマイナス面な感情だろうか?

 

 ——なわけない。俺なら……俺ならきっと……。

 

 

 

《ギン……? そこに、いるの……?》

 

『ああ、ギンだ——。お前の家族のギンだ!』

 

《……やっと会えた……》

 

 

 

 きっと、万感の想いを込めて再開を喜ぶだろう。霧吟とギンは互いに求め合った本当の家族なんだから。そこに怨恨なんて入る余地はない。

 

 そしてもう一度再開した時、もしも俺なら——。

 

 

 

《大きくなったねぇ……って、元は私の身体だから私が大きくなったのかぁ……》

 

『……お前も年頃だったからな。大きくもなるさ』

 

《うん……やっぱ私って可愛いわ〜……》

 

 ……再開した相手の成長を見て驚いたり喜んだりするだろう。背が大きくなったなとか、カッコいい服着てるな、みたいな他愛のない会話をして。

 

 ——ってか、この人意外と自意識過剰だな!? そりゃ不幸な体質でもポジティブで明るく生活してたのも頷けるわ!!

 

 

 

《…………ごめんね、今まで独りぼっちにしちゃって》

 

 

 

 ……だけど、同時に底抜けに優しい人だ。溢れ零す無償の愛は、霧吟にとってギンがどれほど大切な存在だったかを物語らせる。

 

 

 

『……儂を責めないのか? 儂のせいでお前は……』

 

《そうだね。そういう無責任なところ、無計画なところ、ちょっとは叱りたいよ。だけど、私はこんな恵まれない体質のおかげで、それ以上に恵まれた出会いがあったから……。それだけで十分なんだよ。私の不幸は幸福だったから》

 

『……それでも儂は……』

 

《それ以上は本当に怒る。身体中に漆を塗って報復する》

 

 

 

 地味で強烈な嫌がらせだ。そんなことされたら、ありとあらゆる所が痒くて仕方がない。それを想像したであろうギンは、分かりやすいくらい『うげぇ』と嫌そうな声を漏らして強制的に卑屈な意見を押し留めた。

 

 …………歳の差はあれど、やっぱり霧吟ってギンにとっての母親みたいな存在なんだろうか。最近流行りのバブみ的な関係かと想像すると、途端にちょっとアレな感じになるけど……。

 

 なんか、こうやって無意識的に俺も考えが緩くなってしまうのが……二人が本当の気持ちが繋がった家族だと教えてくれる。

 

 

 

《それよりもギンが元気そうで何よりだよ。貴方もこの永劫の中……色々と従者としての使命を熟されていたんでしょう? 嫌なこととか無かった?》

 

『……あったさ。けど、お前と同じで有り余るほど楽しいこともあったさ。知っているか、現世ではスーパー銭湯という多種多様の風呂場があり、蕎麦を始め料理が美味しくなっておる。ただ不便なことに酒は二十歳からと定められておったりのぉ……。それに新豊州スカイツリーという城よりも遥かに大きく聳える高台があったな……!!』

 

《ははっ……。聞くだけで楽しそうだよ……》

 

 霧吟は子供をあやすようにギンの話した内容を受け止める。

 

 ……そうか。二人はこういう面でも欠如していて互いに求め合っていたんだ。

 

 ギンは生まれてから死ぬまで家族と疎遠だった。だから、どんなに時間を重ねても、そもそも『子供』にすらなれずに年老いてしまった。

 逆に霧吟は生まれてからずっと家族に過剰な期待を乗せられていた。だから、どこまで心が静寂しても『大人』になる成長がなく、こうして今も綺麗な優しさを持って当たれるんだ。

 

 互いにないものを求めてあっていて……そういう埋めあって支え合う関係が、時代も環境も性別も違う二人を本当の家族にしたんだ。

 

《えっと……あなたがレン、ちゃんでしたっけ?》

 

「うん……俺はレンです」

 

《私のギンがお世話になってます。……あなたのおかげで、ギンは色々と大きくなりました》

 

 え? また俺、無意識にハインリッヒみたいに体型変えてたの?

 

《……君もギンと同じ男の子かぁ。きっと仲の良い友達になれたんだろうね……。良かったね、ギン……》

 

『阿呆が……。こんな時でも儂のことを案じよって……』

 

《だってギン人付き合い偏って……っっ!!》

 

 瞬間、霧吟の『魂』が霞んでいくのを感じた。温かな光は徐々に熱を失い、今にもかき消されそうなほどに弱くなっていく。

 

「だ、大丈夫っ!?」

 

《もう時間がない……。契約が解かれたことで止まった時間が動き出した……。だからこそ、契約より放たれた私から伝えたいことがあります……。あなた方が今まで相手してきた異形の正体について……》

 

「異形の正体……?」

 

 そんなのがあるというのか? 台風みたいなもので、『神様』というシステムを持った意思を持つ自然災害的な存在ではないのか?

 

《異形の名は『ヨグ=ソトース』……。本当の意味であらゆる生命の上位に立つ星の外側から来た情報生命体……》

 

 

 

 ——情報生命体? ということは……スターダストやオーシャンと同様の存在とでもいうのか?

 

 

 

「そのヨグ何とかは、宇宙人ということになるのか?」

 

《そういう概念で捉えてはいけない……。人間が絡繰の歯車というなら、あれは絡繰という枠そのもの……。私もこれ以上はヨグ=ソトースの事は測れなかった……》

 

 ますます輝きは失っていき、もう抱擁するように抱き留めなければ霧吟の『魂』という熱は伝わらないほどになっていく。

 

 ……本当にもうないんだ。これで……霧吟とは本当に……。

 

《……最後に、レンちゃんにお願いがあります》

 

「俺にできることなら……なんでもいいよ」

 

 彼女が見捨てられた無辜なる民を放って置けないというのなら、俺も彼女を尊重して最後の言葉ぐらい果たして見せよう。例えどんな困難でも、辱めでも、必ず応えて見せる。

 

 

 

《——今後ともギンを、よろしくお願いします》

 

 

 

 ……だけど返ってきた答えは、あまりにも平凡なお願いで、それが霧吟の本質なんだと改めて実感してしまった。

 

「……俺が今後もよろしくされる側だけどいい?」

 

《ダメです。絶対にギンの力になるように努力と根性で頑張ってください》

 

 意外と手厳しい面もあるな……。しかも根性論ときた。まあ嫌いではないから全然良いけど。

 

《ギン……。もうすぐ私はあなたの顔も声も魂も聞こえなくなります……。だけど決して消えたりしてない。ずっと、ずっっと……レンちゃんの『魂』の中に溶けて、レンちゃんの武器に……力になって貴方を支えるから……》

 

『……ふん。いつまでもお前に縋るほど儂もガキじゃない』

 

《そうだね、お爺ちゃん——。あっ、あと身嗜みとかお風呂とか、本当に女の子になったんだから……って、時間が足りな……あああっ——!?》

 

 

 

 何か伝えようとしていたが、とうとう『魂』の熱はなくなり、俺の『魂』へと溶け込んで惜しくも最後まで届くことはなく、霧吟は消えてしまった。

 

 …………なんか随分と締まらない最後だな。

 

『……お前の言う通り、お前と霧吟は似ておったな。こういう締まらないところが』

 

「…………余計なお世話だよ」

 

 多分、これは意図的なものだ。永遠の別離になるというのに、霧吟は最後まで悲しみを背負わせないように、最後まで自分らしく心の底からギンを普通に心配しながら逝ったんだ。

 

 ……『死』は決して悪いことばかりでもない。そういうことも……彼女は俺に教えてくれたんだ。俺も彼女には頭が上がらない。

 

『…………最後の最後まで人のこと心配しおって。本当に……底抜けに優しい子じゃった……』

 

 …………霧吟の思いを背負い、俺たちの意識は浮上する。

 

 さあ、帰ろう——。温かな日常という『光』を求めて——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「——成し遂げたか」

 

 目覚めて一番、霧夕さんの顔で心配するウズメさんの姿が見えた。

 見えたが……随分と距離が近い。息が吹きかかるほどに近い。頼むから退いてください。

 

「あぁ……。これで儂も本当にただの爺じゃ。……何をすべきかのう?」

 

「一先ず、やりたいことでも探さない? 現世は色々とあるよ?」

 

 中々退いてくれないので、「ふがっ」と野蛮な声を上げながら無理矢理ウズメさん退かしながらギンに聞いてみる。ギンは眉間に皺を寄せて考えながら足元に散らばる破片を見つめる。

 

 ——それは今まで霧吟とギンを縛り付けていた『妖刀』あるいは『鍵』と呼ばれる存在だった物だ。もう妖しい気配はなくなり、今度こそ再生することはない。つまりギンが『守護者』として解放されたことを意味していた。

 

 やがてギンは妙案でも思いついたのか、明るい表情となってその考えを口にする。

 

「うむ! なら霧吟と同じく人助けでもしようか! それぐらいしか儂が知っていることないからの!」

 

 ——そうやって霧吟と同じ考えに行くのが、心で繋がった家族なんだと何度も実感させてくれる。

 

「であれば一宿一晩という言葉で片付けられる問題ではないが、レンちゃんよ。儂はお前に世話になったし、何か恩返しがしたい。この身でできることであれば、なんでもやってやろう」

 

「その身を……持って……なんでも……っ!!?」

 

 合法か!? 合法的にいいのか!! こんな美少女にあんなことやこんなことを——!! 

 

 

 

 …………

 ……

 

《儂の真心を込めて……萌え萌えきゅん♡》

 

《レンちゃんの手、温かいの。お返しに握り返したいが、儂の手は冷たいからの……お礼にマフラー掛けてやろう♡》

 

《その……儂の初めて……その口で受け止めて貰えんかのう……?》

 

 ……

 …………

 

 

 

 ——爺がやっていることを想像したら吐き気がした。ダメだ、見た目が美少女でも中身が男だと考えるだけで、こんなシチュエーションでは萌えはしない。逆に炎上という意味で燃えそうだ。少年ジャソプよりも熱く——。

 

「あっ……だったら、俺と手合わせをお願いしてもいい?」

 

「手合わせ? もう意味はないであろう?」

 

「俺が納得してないんだよ! それに男同士のリベンジマッチ……逃げたら男が廃るって言わない?」

 

「ふっ……ならば、その勝負受けて立つとするかっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——こうして長年続いた霧守一族の役目は完遂された。

 

 ……俺とギンの対決がどうなったか? そんなのはご想像にお任せする。いや、させてください。ちょっと散々だったんで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「というわけで本日からお前らの訓練をするギンだ! 儂が教えるからには、まずはウサギ跳び5000回を行う!!」

 

「ギン教官! それ現代医学で悪影響という結果が出てます!」

 

「黙れ! いやシャラップ! ティーチャーに、しかも年上に歯向かうものではない!!」

 

「今時レアキャラな年功序列で身分差別の石頭とかいうオンパレードだよ〜〜! しかも慣れない英語を使うサービス付きの〜〜! 助けてレンちゃ〜〜ん!!」

 

「俺に言われても……」

 

 とはいっても、俺の鍛錬は時間さえあれば続いた。更に時間は過ぎて、ギンは正式にSIDの一員となり『教官』という立場になって俺やアニーもまたさらに強くなるための実践訓練を重ねに重ねて、さらに重ねてととにかく続け続ける。

 

 そしてクリスマスでちょっとしたことや、年末年始で『奇妙な運試し』とかあったけど………それはまた別のお話。

 

 こうして俺たちは、ギンや霧夕とウズメさんを加えた新しくも慌ただしい日常のまま2037年は終わりを告げる。

 

 2038年も…………今度はスクルドやミルクも入れて、迎えられる日のために俺は『本当の強さ』のために今日も頑張り続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それでは今回の口紅テストですが……レンちゃん、ギンちゃん共々30点中5点未満ですっ!」

 

「いやいやいや!! どう見ても色同じでしょ!?」

 

「儂にも同じにしか見えんぞっ!!? 愛衣、お前嘘ついておるだろうっ!?」

 

 ——けど女の子としての素質までは鍛えきれんわっ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——2038/01/01 00:00。

 

 液晶モニターの時刻が新年を告げる。窓辺から映る街並みは、今日だけは眠らずに新しい年を祝福して、眠りにつくことはない。こんな平穏がいつでも続くと信じて疑わないように。

 

「……ついに運命の刻か」

 

 そう言って窓辺から離れる少年の影が一つあった。モニターの光でしか部屋を照らさないため、顔の造形など取られることなく部屋を後にする。

 

 そして液晶モニターに予め指定された設定の通りに自動的に落ちる。その直前、読み込みの画面で使用者のIDが一瞬だけ表示された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——『John Titor』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 くぅ疲w ……というわけで、なんとか一月中に第三章を終えられて満足です。いや、本当に第二章は体調不良で更新がナメクジで申し訳ないと今でも思います。

 これにて、ついにレンちゃんも立ち直り、ようやく最後の最後になって今までみたいに自然体なレンちゃんを描写できるようになって、本当にひと安心です。意識して少し固いレンちゃんを書くのは見ていて痛々しくて……思わずパンツがガビガビと……。



 さて、ここからは今後の更新内容と予定の報告となります。

 第四章【堕天使】は現在執筆中であり、今からでも始めたくはありますが……その前にひと休憩。ギン達も入れたレンちゃん達の健やかな日をお見せしたいと思います。

 というわけで第四章の前に閑話②【少女と日常】を今後は投稿していきたいと思います。話数は全部で『10個』で基本的に単話完結となるお話です。故にスケジュールもタイトルもしっかりと予定を組んでおり、下記が投稿日となります。

『2/7』第1節〜ラファエル・デックスは静かに暮らさない〜

『2/14』第2節〜はたらく聖女さま!〜

『2/21』第3節〜イルカの奇妙な冒険 スターオーシャン〜

『2/28』第4節〜聖夜の一幕〜

『3/7』第5節〜孤独の酒盛り〜

『3/14』第6節〜いざ、ショッピング!〜

『3/21』第7節〜バイジュウの休日〜

『3/28〜30』第8ー10節 〜御桜川学園祭①ー③〜

『4/1』第四章【堕天使】開幕。



 ……となっておりますので、今後とも長くお付き合いくださいませ。

 これで一度筆を置かせていただきます。いつまでも魔女兵器本編の再開の祈りつつ、お絵かきもSSも精進していきたいと思います。

 それでは……。


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閑話② 【少女と日常】
第1節 〜ラファエル・デックスは静かに暮らさない〜


仲がいいだけが『百合』じゃないんだよなぁ。


 ————後に『OS事件』となる日のこと。

 

 レン達が海岸でバーベキューパーティに明け暮れてる時、御桜川女子校の屋上にてラファエルは群がる鳩に餌を撒きつつも、退屈と向き合っていた。

 時刻は放課後ではない。むしろ午後の授業の真っ只中だ。だがラファエルは無断で授業を更けているのではない。正当な理由でここで個人的な「授業」をしているのだ。

 

 内容は非常にシンプル。高すぎる芸術センスが災いし、課題という課題をすぐに熟してしまい、現代美術で履修すべき時間を持て余してしまったのだ。

 本来は履修しないところも、教師は手持ち無沙汰なラファエルに伝えたがそれも終わり、ならばと教師の助手としてクラスメイトに享受する立場も授かったが、ラファエルのセンスに凡人が追いてこれるのは難しく、現段階で教えられる技術はすべて伝授してしまった。

 

 さすがに「何もしない」という「教育」を教師自ら行うわけにはいかず、「自習」という形でラファエルは美術の時間から解放されているのだ。

 

(とは言っても、レンもアニーも任務中だし……)

 

 内心ではレンのことを『女装癖』と呼ばないのは、ラファエルのちょっとした拘りだ。別に呼んでもいいのだが、女装癖と呼ぶと「好きでしてるんじゃない!」と顔を赤くして弁解するレンが好きなのであって、別に女装癖という愛称自体にラファエルが特別好んでるわけではない。それはそれとして女装(?)するレンは好ましくはあるのだが。

 

 しかし暇を持て余してるといっても、好きにできる時間は一教科分だけだ。いくら御桜川女子高が進級するための最低単位が多くはないとはいえ、SIDの任務や訓練で抜けることも考えると、次の教科さえもサボって街に明け暮れるのは賢くない。

 

(ハインリッヒもあっちに行ってるから暇ね……)

 

 特徴的な羽がついた髪飾りを指で弄りながら、ラファエルは新豊州を眺める

 もうすぐ終わりを告げる秋模様。曇りない晴天。頭を優しく撫でるそよ風。喧騒ながらも鮮やかな色を見せる新豊州の活気。考え事してたら頭にハトの糞が落ちてきたさえ今のラファエルには些細なこと。

 ラファエルの芸術センスに熱が走る。そして出た結論は以下の通り。

 

(アウトローになろう)

 

 こんな満天の青空の下で時間を潰すだけなのは勿体ない。狭い教室の中で本と向き合うのはもっと勿体ない。ならば学校から出よう。次の授業など知ったことではない。ラファエルは脱兎の如き勢いで校舎を駆け抜け、施錠された校門を乗り越えて学外へと飛び出していった。

 

 

 

 ────実はこの人、根はバカなのだ。

 

 

 

「何してるのかしら、あのナメック星人は……」

 

 窓際の席で数学の証明問題を解き明かして暇を持て余していたニュクスだけが、そんなラファエルの姿を目撃していた。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 今日という日は商業地区を歩くだけでは物足りない。

 そう感じたラファエルは、公園のトイレで鳩の糞を念入りに落とした後に、街中のレンタルバイク店に駆け込み、慣れた手つきで書類に筆を走らせる。手続きを済ませると店員からキーを奪い取り、店外の駐車場にある車種へと飛びついた。

 

 ラファエルが借りたのは中型ホバーバイクだ。近代では一部の軽自動車や二輪車などは既にタイヤではなく、浮力で進むのはもう常識のことだ。特に驚きもせずにラファエルはバイクに不調がないか確認を取る。

 

 借りたバイクは無骨で力強さを感じるデザインだが、橙色の搭乗席に白を下地とした赤いハートマークのデコレーションが施された装飾が、ラファエル一推しのポイントでもあったりする。

 

(こうして乗るのも夏以来ね)

 

 第四学園都市──『サモントン』にいた頃は、信仰心が深い自国では逃げるようにバイクに乗って穀物や麦を耕す黄金畑へ駆け出したことが何度かある。

 第五学園都市──新豊州に来てからは、夏場に一度ストレスでご立腹だったところを当たり構わず爆走した覚えもある。勢いのまま地区という地区を走り抜けて、『タイワン』という場所でタピオカミルクティーを飲んだこともあった。

 

 思い出はここまでだ。感傷に浸るためにここに来たのではない。『世界』を広げるために、ラファエルはここに来たのだ。

 ヘルメット、ゴーグル、プロテクターといった防具一式に身を包み、バイクのハンドルを少しずつ捻る。そしてある段階に達したところで、壊れるほどハンドルを全力で捻り、街へと走り出した。

 

 流れゆく街並み。うるさいほど主張が激しい広告も、蜃気楼のように歪み、瞬きの後にはコンビニエンスストアに早変わり。再度瞬けば今度は建設工事現場の作業へと流動的に変わっていく。

 十字路を曲がれば世界は一転。この時間帯から酒に飲む自由人、裏道でタバコを吸う学生達、見回りを続ける警官。警官が見えた瞬間、この時間帯で遊び呆ける自分に事情聴取されるのは面倒だと感じて、再び表通りへと戻る。

 

 世界はこんなにも統一性がない。平等を謳いながらも、こんな僅かな範囲ですら個という個がぶつかり合うのは人間の中身が滲み出ている。早い話が生き汚い。

 だけど、ラファエルからすればこうやって人が生きてる方が好ましい。サモントンにいる国民は信仰心が強いせいで、何をするにしても『神にお願いする』『神のせいにする』『神のおかげにする』——。この自己逃避が嫌悪するほど大嫌いなのだ。

 

 しかし、それはラファエル自身が神という宗教思想を嫌っているわけではない。むしろ総督の孫娘ということもあり、宗教思想に関しては常人よりも人一倍理解してさえいる。レン達に関わってから『魔女』や『魔導書』が何だとあるが、今でも神様という存在を信じるほどには信心深いのだ。

 

 だからこそ自国民だけでなく全世界にいる信者という名の『腑抜けた神の崇拝』を嫌悪しているのだ。

 

 何故その姿勢をラファエルは嫌悪しているのか。それには当然彼女なりの理由がある。

 

 宗教の歴史は遡れば色々と起源があるが、現代において特に名が広まっているのは当然『キリスト教』だろう。

 キリスト教とは起源や宗派などが様々であり、一纏めで括るのが非常に困難なものだ。たかが宗教だろう、とも思うかもしれないが、それで括れるなら某新世紀アニメも「ガソダムと同じロボットでしょう?」や、古く続く論争である「里と山、どっちもチョコ菓子でしょう?」と括られても文句を言ってはいけない。

 

 とはいっても実際、数が多過ぎて全てを例題にして解説するには無数の時間がかかる。だからあえてここは近代において最も根深くて普遍的な『旧約聖書』から派生したキリスト教を例にしよう。

 

『旧約聖書』——。あるいはただ単に聖書と呼ばれる聖典こそが、キリスト教における教義の中心となっている。

 その内容は全貌を知らなくても単語だけなら聞いたことが多い人はいるだろう。『ノアの方舟』『カインとアベル』『バベルの塔』と様々なものがあるが——。ハッキリ言えば、そのほとんどにおいて『神』は『神』でしかなく、『人』は『人』であることを謳っている。

 

 神からの天啓を聞いて、ノアは方舟を作りあげて神が起こした荒波から生き延びたが、最終的には神の干渉を拒んで人の世を作り上げた。

 アベルとカインも農作物のいざこざで殺し合ってしまったというもので、神の介入などはどこにもない。

 バベルの塔も、人が神の領地に踏み入れようとした末に神の逆鱗に触れて『塔だけを壊した』お話だ。

 

 それらにおいて『神』は『人』の力になったことはない。荒波を乗り越えた方舟を建造したのも、塔を作り上げたのも、殺人という罪を作り上げたのは全て人間だ。『神』は一度たりとも手を貸してはいない。

 

 それらが起こした活力と生き方こそが聖書が唱えたいものだとラファエルは考えている。

 

 何が我々は神の名の下に裁きを下すだ。神の名の下に裁きを下すな。人の名の下に裁け。

 

 何が神は常に我々を味方しているだ。神のおかげにするな、人の力で成したことだ。

 

 そうやって自分の責任から逃避する『自己を持たない信仰者』こそ、ラファエルは最も嫌悪する。吐き気を催すほどに。

 本当に神を崇拝するというのなら、人間がすべきことは吐き出すことだけだ。『これからテストで100点を採る』だの、『テストで100点採った』だの、何でもいい。これから人間が起こすことを黙って見ていて欲しいと祈るだけだ。起こしたことを知ってほしいと懺悔するだけだ。

 

 人間が起こした過ちも、成果も、全部人間のものだ。だからこそ人間の営みは美しくも汚く輝き続ける。

 

 だというのに——。ラファエルは自国民の腑抜けっぷりを思い出す。

 

 確かにサモントンは富裕層と貧困が極端に分かれている。だからこそ宗教思想が根付いて常に神の名の下に平等なのだと謳っている。

 だからといって、それで納得して自分の全てを神に委ねて生きるなんて、本来持つべき思想とはかけ離れている。幼少期のラファエルは忌むべき思想を確かに持っていた。だがラファエルは『本当の奇跡』を知ったことで変わった。「そのままではダメだ」と。

 

 もし本当に神様がいるとしたら——。12歳の頃、うっかり水に落ちて気を失った時に感じた『暖かい光』だ。あれこそが神の恩恵なのだと、ラファエルはずっと思ってしまっている。

 

 あの時、確かに『誰か』の手によって救い出された。そのイメージが今でも強く残り続けている。

 

(……そういえば『暖かい光』って、私が回復魔法を使う時のイメージと一緒よね)

 

 何の因果か、と思いながらもラファエルは商業区の端まで来た。ここから先は山が聳え、その麓には『霧守神社』という先程までラファエルの思考で中心にいた神様を祀っている神社があるだけだ。

 

(……戻ろうかしら)

 

 思った矢先、控えめな空腹の訴えがラファエルから鳴った。近くに飲食店などはないが、神社の案内板を見る限り境内には『精進料理』というものを提供する食事処があるようだ。

 

 しばし考えたものの、和風料理はそれほど口にしたことはないと思ったラファエルは、これも何かの縁かと思いながら霧守神社へと足を踏み入れた。

 

「いらっしゃいませ。……お一人様でしょうか?」

 

「見ての通りよ。……って、意外と若いわね。アルバイト?」

 

「一応は巫女をしてるので店主、という扱いでして……。まだまだ修行中の身ではありますが」

 

 少々及び腰で自信がなさげだ。とはいっても、それと料理の味が関わる影響はそう大きくはない。ラファエルは気にせずに案内された座敷へと座り、松竹梅でランク分けされたメニューの中でお嬢様らしく一番位が高い『松』——ではなく真ん中の『竹』を選んだ。

 

 理由は単純。ラファエルはA級とかB級グルメとかの階位ではなく、純粋に料理の味や質をこよなく愛するからだ。故に『平均的』な味が知るために『竹』を選んだのだ。

 

「少々お待ち下さ——。あっ、いらっしゃいませ」

 

 注文を終えたところで、さらなる客が霧守神社にやってくる。ラファエルが言えた義理ではないが、こんな祭事でもない何でもない時期に神社にやってくるのは相当な物好きか、信仰心があるかのどちらかだ。

 

 ラファエルはそんな珍客は誰のかと思い、視線を動かし————即座に素知らぬ顔で珍客から視線を外した。

 

「……貴方はこんなところで何してるんでしょうか?」

 

 だが珍客はラファエルを逃しはしなかった。ガッシリと両頬を摘まれて無理矢理視線を合わせられる。

 

 そこにはラファエルの中で嫌いな人ランキング上位に位置する女——。同学年にして元マフィアの一人娘である『ニュクス・ストラッツィ』が影が入った笑顔で睨みつけるという器用なことをしていた。

 

「はひよ。ほほへをははひはひゃい」

 

「何よ、はこちらの台詞です。無断で学校外に出てるから校長も教頭も大騒ぎしていますよ?」

 

 ——流石に何も言い返せない。現にサボってるのは事実であり、午後の授業を耽るのは教師達からすれば気が気でない。それも留学生の上にサモントン総督の孫娘というのなら尚更だ。

 

 ラファエルはニュクスへ特に当たるような口振りはせずに、両頬に触れられるニュクスの指を軽く弾くと、テーブルの上に予め添えられていたおしぼりで両頬を冷やしながら言う。

 

「サボっただけよ……。どうせ歴史の授業も都合のいい記録しかないんだから聞く価値ないわよ」

 

「遅すぎる中二病か何かを患ってるのでしょうか? ……というか、貴方少し変わりましたわね」

 

「はぁ? 何も変わってないわよ。あんた如きに私の何がわかるっていうの?」

 

「そうした理解を深めるために私と話してみますか? こうして皆が出払っているの希少ですし、何より同じSIDの一員なのですから」

 

 ラファエルが心底嫌そうな顔をしながらも、巫女店主はをもう一度呼んで「注文変更。『竹』を取り消して『松』二つと、善哉二つ」と改めて注文し直した。

 

「アンタの奢りね。それでいいなら聞いてあげる」

 

「……まあ、いいでしょう。所詮は子供じみた反抗ですし」

 

 とクスクスと小馬鹿にするようにニュクスは笑いながら席についた。巫女店主は二人のために程よく温かいお茶を置いていくと、注文変更を再度確認して厨房へと戻っていく。

 

「……で、何よ。私のどこが変わったというのよ」

 

「……さあ? けど最初会った時ほど嫌悪感が薄くなってはいるのよ」

 

「私は現在進行形で濃くなってるわよ」

 

 ラファエルに苛立ちが募る。先程「少し変わった」と言ったことで多少の興味を持ったから話を聞いているというのに、頭から有耶無耶にされては意味がない。

 

「やっぱりアンタみたいな女と食事するなんて間違ってたわ。食べたら即刻解散よ」

 

「……昔の貴方なら話を聞く前に絶対に拒否してたか、今みたいな状況になったら即座に出て行くとは言っておきますが」

 

 ……そう言われると「確か」とラファエルは考えてしまう。そもそもニュクスと一緒に食事をしようか? という考えが浮かぶこと自体がラファエルにとって異常なのだ。その異常こそがラファエルの変化であり——それがニュクスにとって好ましいと思っているのだ。

 

 だとしたら、その『変化』とはいったい——。

 

「……そういう気分なだけでしょう」

 

 答えが出ないままラファエルは言葉を濁しながら言う。対してニュクスは「そう」と大して気にもしない様子で返答を聞き、お茶を少しだけ口にする。それを見てラファエルも口寂しくなり、会話も進まないことから二人してお茶を飲むだけで時間は過ぎていく。

 

 やがて巫女店主が精進料理と善哉を作り終えて、ラファエル達の前に配膳される。精進料理とは肉は使わずに、豆類や一部の野菜を省いたものを煮たり焼いたり和えたりする料理だ。色合いは全体的に塩っけのある茶色であり、香辛料もないことから食欲を唆る匂いもせず、二人は遅くも一定のペースで無言のまま食事が進む。

 

「……こういうところも変わったと言いましょうか」

 

 半分ほど食べ進めたところで、ニュクスはようやく自分が気にしていたラファエルの変化の片鱗を口にした。

 

「……一緒にご飯を食べることが?」

 

「それもありますし、先程の時間……今までの貴方なら嫌うことでは?」

 

「はっ! 嫌いな相手と会話しないほど嬉しいことはないでしょう? 今も昔も変わる訳ないじゃない」

 

「一緒の空気を吸うことすら拒否しそう関係なのに?」

 

 これまたラファエルは黙ってしまう。それも事実だからだ。ニュクスと一緒の空間にいることなんて考えられないからだ。

 例え『○○しなければ出られない部屋』とかに入れられたら、内容にもよるが速攻で解決して一刻もはやく出て、とりあえずは服から髪を洗い流すほどには嫌悪感を持っていたことは覚えている。

 

「それに前なら私がどうこう言おうと貴方は噛み付いてきたわ。いえ、恐らく私に近しい雰囲気を持つ人達すべてに……。周りが全て敵だと言うように……」

 

 ラファエルはニュクスの言うことを否定しない。現に今でも嫌いでしょうがなく敵対視している人は多い。思い浮かべるは祖父でありサモントン総督であるデックス博士から、自分と同様に数多くいるデックス家の従兄弟や従姉妹達……。特に『天使長』の名を持つ最年長には吐き気が覚えるほどに。

 

 

 

 

 

 ——だけど、どんなに思い浮かべても、それら全ての嫌悪を退ける好意的な顔が一番最初に出てくる。

 

 

 

 

 

 それは犬みたいに従順で、猫みたいに気ままで、兎みたいに寂しがり屋で、亀のように呑気で、鳥のように自由で……しかもその上にゲーマーで変態で女装癖でロリコンで馬鹿…………と長々と思い浮かべたところでラファエルは「私は何を考えてるんだ」と頭を振るう。

 

「それも……可愛い後輩ちゃんができたからかしら?」

 

「……はぁ。認めるわ。そうね、私はレンと会ってからちょっと……ほんのちょっっっっっっっと変わったわね」

 

「誰も『レンちゃん』とは言ってないわよ? ふふっ……」

 

 ——頬が熱くなるのをラファエルは感じた。それを誤魔化すように精進料理を次々と口にし、すぐさま善哉を頬張り始める。まるで先ほどまで思い浮かべていた馬鹿のように。

 

「……レンちゃん、良い子だものね。私もあの子おかげで助けられたような物だし……」

 

「まあ、アイツなら誰彼構わず助けようとするわね」とラファエルはまるで自分ごとのように誇らしげに聞く。

 

 そんな表情を浮かべたラファエルに「そういうところよ」とニュクスは、まるで年上の先輩として助言するように言う。

 

「貴方、以前までは協調性とか皆無だったのに……レンちゃんと会ってから壁がなくなったのよ。同級生も『最初からあの雰囲気なら近寄りやすかったのに』とかため息ついてるわよ?」

 

「それ暗に私が『ぼっち』だって言ってる?」

 

「事実でしょう。あなた、お昼ご飯さえもどこか行ってるじゃない。十中八九、レンちゃんのところだとは思うけど」

 

「外食もしてるわよ。牛丼チェーン店とか、ワクドナルドとか……」

 

「それはそれで孤独のグルメよ?」

 

「ぐぬっ……!」

 

 言い訳しようとあまり考えずに言ったことが、墓穴しか掘っていないことにラファエルは悔しさを覚える。

 

「だから私もそろそろ『友人』としてお付き合いしようかと思うの。……いつまでもクラスで孤立するのは少々心苦しいでしょう?」

 

「余計なお世話よっ! 進級したらクラス替えもするんだし……」

 

「でも同学年に友達いないでしょう?」

 

「い、いるわよ……。隣の、クラスの子とか……」

 

「『名前』も言えないような子は友達って言える?」

 

 

 

 ——痛烈にニュクスの言葉はラファエルに刺さった。何故ならラファエルはその『名前』を素直に言えてない人物がいるからだ。

 

 いつもいつも『女装癖』『変態』『馬鹿』と色々と愛称のデパートとなる男にして女という変わった『レン』という子——。

 

 ラファエルからすれば、どう見ても『男』にしか見えないレンとは、事情もよく知らずに一緒に過ごしてきた。

 

 それは色々と騒動まみれの平穏とは言い難いが、充実した日々だった。しかし、どんなに時を過ごしてもラファエルはレンの素性について詳しく知る機会は一度たりともなかった。

 

 考えてしまう。自分はレンとは『友達』とは思っているが、果たしてレンからはどう思われているのか。いや、それはよく考えるまでもなく、彼のことだから『友達』だとは思ってはくれてるだろう。

 

 だけど『名前』を呼び合えない仲は、本当の意味で『友達』と言えるだろうか——。それがどこかラファエルは不安に感じてしまう。

 

 ただでさえ『レン』という名前を目の前で言えない。言えるのはレン自身がいない時と、始めた会った時ぐらいではなかろうか——。

 

 そのままで本当にいいのだろうか、とラファエルは考えてしまう。何故ならラファエルはまだ知らないのだから。『レン』という——いや『彼』自体の存在を。

 

 聡明なラファエルは素性を知らずとも察することはできる。

 レンという名は本名ではないということを。元は別の『名前』があったに違いないことを。

 

 神は見守り続けるだけの存在だ。しかしそれさえも見放された『彼』という存在に、ラファエルはどう向き合えばいい。誰からの恩恵も受けられず、どこかにいる『彼自身』という存在は誰が見つけてくれる?

 

 だとしたら、誰かが差し出さなければいけない——。それを考えたら見放せるほどラファエルも非情ではない。だったら答えはとうに決まっている。

 

 

 

 

 

「ラファエル——。私もいつまでも言い争うのは疲れますから。今後は互いに良い付き合いをしましょう。……今の貴方なら嫌いではないので」

 

 差し伸ばされた手は『握手』という、ニュクスからの友好的な交流をしたいというサインだ。何かしらのくだらない罠があるんじゃないかとラファエルは勘繰るが、特にそういう雰囲気もない。

 

 

 

 

 

 ——少しは素直になった方がいいのかと、ラファエルは考える。いつか本当に対等な『友人』としてレンの名前を…………いや、彼の『本当の名前』を口にするために。

 

 そのためには、まず一歩でも前に進まなければいけない。少しずつでも自分に『正直』になれるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも悩むこと十数秒。ラファエルは「まあ私も大人気ないとこはあったか」と、あくまで自分が折れたということで納得しながらニュクスとの握手に応じ——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「友人として忠告するけど、照れ隠しやストレスでヤケ食いするから太るのよ?」

 

「やっぱアンタのこと大っっっ嫌いだわっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その手は決して離すことはなく、むしろラファエルはニュクスの手を握りつぶすように握り返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ああいうのが『喧嘩するほど仲が良い』というのだぞ』

 

「そうなんですねぇ……。巷の女子高生はあのように……」

 

 食事処の片隅——。巫女店主こと霧守神社の責任者である『霧夕』と主神である『アメノウズメ』は、まだ名も知らぬ少女二人の喧騒を微笑ましく見守っていた。



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第2節 〜はたらく聖女さま!〜

 ——これは『OS事件』から『エクスロッド暗殺計画』までのお話。

 

 

 

 ヴィラは野暮用を済ませて御桜川女子校から帰宅した。

 帰れば少し早めに帰ったエミリオが、今日も「新しいお菓子買ってきたけどこれイケるわよ」とか言いながら、デブとは無縁な体型で笑いながら迎え入れてくれるだろう。

 それを想像するだけで妹分であるヴィラは、学年違いによる交流の低下によって不足した自分のことを構ってほしい欲求が満たされて少しだけワクワクしてしまう。

 

 しかし帰宅早々、ヴィラの眼前には世界が破滅するより驚愕な事態が飛び込んできたのだ。

 

「お帰りなさいませ、ご主人様〜〜!」

 

「……何やってるんだ、エミ」

 

「何って……。見ての通りですよ、ご主人様♡」

 

 自分の姉貴分であるエミリオが、何と白を基調したフリルMAXの乙女真っしぐらなメルヘン全開のメイド衣装に身を包んで、凄く楽しげに猫撫で声でヴィラに奉仕行為をしてきたのだ。

 

 意味もわからないまま「お風呂にしますか? ご飯にしますか? それとも……」とどこかで聞いた覚えのあるフレーズをエミリオが口にしたあたりで、ヴィラの脳内キャパシティが限界を迎えて一度気絶した。

 

 

 

 ——これはミーム汚染か、それか悪い夢だろう。

 

 

 

 などと思いながら倒れたのに、目覚めた時にはエミリオに膝枕をされて相変わらず「大丈夫ですか、ご主人様ぁ……?」と涙目で言われた時には本格的に泡吹いて今一度気絶しそうになったという危機については、本人の心中に収めた方がいいだろう。

 

「——どうだった、レンちゃん? 私のメイド姿は?」

 

「……ノーコメント」

 

 心中全てを掻き乱す衝撃の中、ようやくヴィラは最初からいたであろうレンの存在に気づいた。レンの顔は幸福と不幸が入り混じりながら鼻の下を伸ばすという女の子にあるまじき面白くもスケベな表情をしている。

 

 そんな表情の視線は、相変わらずご奉仕メイドとして振る舞い続けるエミリオに向けられていたことにヴィラは気づくと、遮るように二人の間に立った。

 

「馬鹿っ! エミのこんな姿を見るなっ!」

 

「いやっ! エミリオに頼まれて見てるんです! じゃなかったら……こんな生殺しの生き地獄を志願しないっ!!」

 

「エミから——ッ!!? やっぱり——」

 

「ミーム汚染って、思ってるところ悪いけど違うわ。私は正常よ、ヴィラ」

 

「いや待て、エミッ! ミームはそういう常識を侵す概念であって——」

 

「待つのはヴィラだって。御桜川女子高校への在学中、私達は『普通の女子高生』なんだよ? 今後はSIDの潜入任務もあるかもしれないからアルバイトもするように、ってマリル長官に推奨されてたじゃない」

 

「そうだが……!!」

 

「レンちゃんも今ではマスコットやイメージガールで活躍してて、前にいたメイド喫茶は縁がない状態だからね。こうして私がチャレンジしてるの♪」

 

 楽しそうに笑うエミリオ見てヴィラは何も言えなくなった。

 傭兵時代から人に扱われるのは慣れているから、エミリオが何かに隷属するのは別に違和感はない。今までと方向性が真逆になるだけなのだ。本質は一切変わりないのに、この見てはいけない背徳感を感じるのがヴィラには堪らなかった。

 

「他にも色々あるわよ。例えばこの格安イタリアンレストラン『サエジリヤ』のウェイトレスとか……いらっしゃいませ〜♪ ご注文は何になさいますか?」

 

「おい……」

 

「そうなんだよ……。俺はこのファッションショーを1時間以上も見ていて……。可愛いし、綺麗だし、際どい、って色々と思うんだよ。でも思ったら……エミリオには読心術があるからバレちゃうんだよょょおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

 

「なるほど……」

 

 初めてヴィラはレンに心の底から同情した。

 

 エミリオの特技である『読心術』については妹分であるヴィラはよく知ってる。感情コントロールをする訓練は受けているため、ヴィラはある程度対処できるが、少しでも気が抜けると途端にエミリオは心の中を容易く覗き込んでくる。実際これでヴィラは何度もエミリオ相手にカード勝負で負けており、軽いトラウマにもなっている。

 

 そんな能力を馬鹿正直なレンが標的にされたらどうなるか。

 答えは決まりきっている。服という服を剥ぎ取られ、隠すという行為が無意味であり、心が裸にされて好き放題にされてると等しい。

 好意は隠しきれず、劣情を持っていることを察せられ、そして建前やおべっかは筒抜け、逃げようにも嘘は意味をなさない、などなど——。

 

 ……悪い言い方をすれば精神的凌辱も同然なのである。

 

 それが1時間——。幸せだが、行き過ぎると地獄でしかない。

 レンは見事にエミリオの大和撫子七変化を堪能しすぎて骨抜き中の骨抜きになっていたのだ。

 

「アルバイトって色々あるのよね〜♪ 給料面はどうしても見劣りしちゃうけど飲食店からサービス業、警備業とか本当に色々あって……」

 

 子供みたいに燥ぐエミリオを見て、ヴィラは「なんでこんなにテンション高いんだ」と思いながらも、学生服から部屋着となる半袖のクロップドシャツへと着替えると、そのまま自室に鞄を放り投げてエミリオの話を聞き続ける。

 

「私達がいたマサダとは大違い……だよね……」

 

 エミリオの笑顔が曇る姿を見てヴィラはようやくわかった。

 

 ヴィラとエミリオが本来いる第三学園都市『マサダブルク』では、内城と外城で治安の差は大きい。二人も外城の出身であり、日夜テロ活動が慢性的に続く環境では毎日生きるだけで精一杯なほど過酷なものだ。そこには通常の社会が定めている『職業選択の自由』というものはなかった。皆が銃弾飛び交う市場の中で物資を売ったり、育てた野菜などを売ったりした。しかしマサダブルクは砂漠に囲まれた土地であり、育つ野菜の質など『黒糸病』もあって最悪もいいとこだ。それでも足りはしない。

 

 ある時レンさえも巻き込んで軍の物資を横流しして、エミリオがお世話になっていた孤児院へと寄付したが、それでもなお足りはしない。マサダブルクの子供達は常に貧困に喘いでいる。

 

 ……今ではエミリオが相応の地位を手に入れ、SIDのエージェントとして助力していることから、ある程度の食料は持続的に渡すことはできるが、それでも新豊州からマサダブルクの船や飛行機を使った郵送は危険が多すぎて、おいそれと渡しはできない。

 金銭はさほど大きな意味は持てないし、食料でも日持ちするものでないと意味がなく、しかも缶詰や飲料とそれなりに包装されたものは『バイオテロ』や『爆発物』を警戒されて禁止されている。そのような柵は今でも続いているのだ。

 

 エミリオはそんな不自由の中で育った。……とヴィラは聞いている。何せ生まれてから今まで一緒にいたわけではない。今では姉妹のように仲良く一緒にいることも多いが、最初に出会ったのは——。

 

「ヴィラ——。学校は楽しい?」

 

 エミリオの慈愛に満ちた問いに、ヴィラは「当たり前だろう」と言ってレンを見た。レンは「なんでこっち見てるの?」というが、その能天気さこそが、エミリオやヴィラにとって学校生活の穏やかさの象徴なのだ。

 

 そう、最初に出会ったのはヴィラがまだ12歳の頃。士官学校での中等部にて訓練兵として過ごしていた時の話だ。

 

 

 

 …………

 ……

 

「ごめんね〜! うっかり落としちゃってさ〜! 悪気はないんだよぉ〜〜」

 

「今日もオッドアイの奴、泥水被ってるぜ〜! ついてないでやんのー!」

 

 それはまだ傭兵となるために二人が士官学校にいた頃。そして二人が『戦友』という姉妹となる前の話。

 

 当時13歳のエミリオは訓練を終えて早々に汚水を浴びられる醜態を晒す。綺麗なピンク色の髪は泥に塗れて見るに堪えず、しかもどこからか調達したのか生き物の糞も入っている徹底っぷりだ。寮二階の窓辺という安全圏から確実にエミリオを見下す。

 

 あまりの所業にエミリオは特に感情も読めない表情で、虐められる原因となる青色とオレンジのふた色の眼を、イジメの主犯となる訓練兵達へと向けた。

 

 それの何が面白いのか。視線を向けられた訓練兵はさらに大笑いする。

 

「こえー! あの女、こっち見てるぜ?」

 

「目合わせたら呪われるぞ〜? これでもくらえってんだ!」

 

 さらにゴミ箱がエミリオに投げつけられた。幸いにも中身がないだけマシではあろうが、ただ捨てただけのゴミ箱では中にある腐臭までは取り除かれることはない。

 

「うわ〜、汚いのは目だけじゃなくて外面もかよ〜」

 

「ゴミ箱共々洗っとけ〜?」

 

「お、おい……。ちょっとやりすぎじゃないか……?」

 

「なんか文句でもあっか、ヴァルキューレちゃ〜ん?」

 

「おいおい、戦女神ちゃんをその名で呼ぶなって! あっと……ごめんね! 俺も言う気はなかったんだって!」

 

「「「あはははは!!」」」

 

 皮肉なことに、ヴィラは当初はエミリオを虐める側のグループの方にいたのだ。この時のヴィラも確かに力自慢ではあるのだが、現在の異質物で得た超人的な力と比べたら雲泥の差だ。あくまで普通の学校にいる体育会系男子の筋力なら勝てる程度の力であり、同じ士官学校にいる男性兵士と比べたら勝つのは難しく逆らえずにいた。

 

 とはいっても直接の危害は加えずに、多少は弄られる程度で静観するだけの傍観者という立ち位置ではあるのだが。それでもイジメを見ることしか自分に、当時や今から思い返してもヴィラは歯痒い思いをしていた。

 

「スウィートライドさん……。タオルあるから使って……これは清潔だから」

 

「ありがとう、ヴィラ……。けど気にしないで。私に下手に関わると、貴方も標的にされるわよ?」

 

 そして主犯達が寮の自室に戻ってすぐ、人目がつかない内にヴィラはエミリオへと僅かながらの助力をした。少々腰が引けた口調と態度は、申し訳なさくるものだ。現在のヴィラからは想像もできないほど潮らしい。

 

 そもそも『女性』が『軍人』になるということ自体、七年戦争の後でも差別的な扱いを受けていた。それがオッドアイという特徴がついているなら尚更だ。

 

 規則的なのに鬱屈で陰鬱で監視が行き届いた閉鎖的な空間。ストレスを溜めても発散できない環境において、エミリオの容姿は悪目立ちしすぎて恰好の的になったのだ。

 

「……教官に相談しよう。被害者が言えば見逃しもしにくいだろう」

 

「いいの。私はこういう役割なんだから」

 

 だというのに、エミリオは本当に気にもしない様子で笑顔を浮かべた。その笑顔には言いようのない影が浮き沈みしながら——。

 

 

 

 

 

「——ケーニッヒ教官! いいのですか、あのまま野放しにしておいて!」

 

「そうですっ! 軍人たる者、女性差別は問題ですっ!」

 

「僕もそう思います! 気持ち悪いのは分かりますが、いくら何でも目の色が違うだけであそこまでするなんて……」

 

 それを見てヴィラは無視することはできなかった。ある時、ヴィラは自分と同じイジメに反感を持つ中等部一年の士官を男女問わず集めて教官の抗議しに行った。

 

 教官の名は『アブラナ・ケーニッヒ』——。当時19歳にして女性という立場でありながら、並外れた基本能力と知識で『大尉』に上り詰めた生粋のエリートだ。

 

「いいんだよ。あれで一番いいんだ」

 

 ことの重大さには分かりきってるはずなのに、ケーニッヒ教官は気にも止めずに書類仕事を続ける。それがヴィラの癇に障り、教官相手だというのに彼女が本来持つ粗雑な口調が前に出る。

 

「ふざけんなっ!! あんたもスウィートライドさんを差別するってのか!?」

 

「大真面目だよ。それに軍人が感情を必要以上に荒立てちゃダメ。気持ちは分かるから見逃すけど、今後は教官相手にその口調は止めておきなさい」

 

 その目つきは歴戦の強者としての風格があった。一瞬で脊髄と心臓といった命の関わる部位を鷲掴みにされるような恐怖——。ヴィラ達は一転して押し黙ってしまう。

 それを見た教官は「可哀想だから、これだけは教えてあげる」と優しげに告げた。

 

「覚えておいて。目に見えることだけで判断するのは軍人として失格だという事をね」

 

 ヴィラ達一年生は全員揃って疑問符を浮かべた。ケーニッヒ教官もそれ以上言うこともなく書類仕事に戻り、もうヴィラ達と話すことはないと言わんばかりだった。

 

 

 

 

 

 ——その答えは、一ヶ月後に行われた対人格闘技の実技テストで明かされることになる。

 

 

 

 

 

「ひっ…………。こ、この女……こんなに強かったのか……!?」

 

「た、偶々だろう……。女が男に力で勝てるわけねぇんだからなっ!!」

 

「————よいしょっと」

 

 そこには傷どころか技一つ掛けられることなく、イジメの主犯達相手に無双するエミリオの姿があった。ヴィラの記憶に間違いがなければ、エミリオの成績は筆記などの成績がトップクラスに良くて、実技に関しては最下位同然だったはず——。そういう筆記だけは良いという鼻につく点もあったから今まで虐められたというのに、これでは話がまるで違う。

 

「ケーニッヒ教官——。教育はこれでいいですよね?」

 

 そしてエミリオも特に誇示する様子もなく、教官の前へと歩んで敬礼をした。教官が「十分だよ」と告げると、エミリオも敬礼を止めて教官の後ろへと姿勢を正して待機状態となる。

 

「諸君——。軍人、いや人間たる者、今のでどんな人や物であっても一目見ただけで判断するのは愚策と気づいたでしょう」

 

「それは違いますっ! この女はただ実力を隠してただけだ!」

 

「実力を隠すのも実力だよ? 戦場で馬鹿素直に地雷が表に出てる? これから打ちますと相手に宣言してから狙撃するスナイパーがいる? 戦場はスポーツじゃないの。浮浪者に混じって暗殺を試みる相手だっている。補給物資に化学薬品を混ぜて爆発物にしたりする。今回だって訓練だからいいけど、実戦だったら相手の実力を見誤って戦死しました、ということになるんだよ? 目に見えたことだけで判断するのは軍人としては下の下。今後は祖国に貢献できるよう改めるように。……子供じみた力と心をね」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 驚愕にヴィラは打ち震えながら、訓練を終えた後すぐさまエミリオの元に向かった。秘密主義が多い教官とは違い、エミリオならどうしてこのような仕込みをわざわざ行ったかを教えてくれると考えたからだ。

 

「ここの環境って基本劣悪でしょ? そうなるとストレスが溜まって誰かに当たって憂さ晴らしするしょうもない生徒がどうしても出てくるのよ。それ自体は教官が咎めば何とかなるけど、問題は『イジメの早期発見』という部分でね。不特定多数の誰かが狙われると教官も監視の一層強くして監視体制も強化されて、またストレスを溜めて……って悪循環が起こるの。ここまでは分かる?」

 

 そしてエミリオは隠す気なんか微塵も見せずに詳細を話し始めてくれた。見た目だけなら大人しいお嬢様っぽいエミリオが、いきなり流暢に話すことにヴィラは若干戸惑いながらも「うん」とひとまずは話を続けるために頷いておく。

 

「ならばと考えたのが分かりやすい標的をあえて作ること。言いたくはないけど見た目が醜悪とか、痛々しい部分があるとか……そういう意味では『ヴァルキューレ』という、インパクトだらけの名前を持つヴィラも予備軍ではあったのよ?」

 

「確かに」とヴィラは内心思ってしまう。実際、名前については度々弄られていた。

 

「まあ、その予備軍にも被害が行かないようにするにも、一時的にも虐められる生贄が必要なわけ。そこで候補に出たのがこの私。容姿端麗な女性だけどオッドアイ。オッドアイは共通として男は女性差別の思想で。女性は見た目は良い私を妬む。そこに筆記だけ成績は無駄に良いとなれば癇癪も起こすでしょ。『見た目が良いだけのガリ勉系』とか『ガリ勉のくせに調子乗るな』とか『女性のくせに上に立つ傲慢な態度』とか。…………まあオッドアイが強すぎて、それだけで十分なんだけど」

 

「で、でも……そうなるとスウィートライドさんは教官に言われて、その……虐められるようにされたってことですよね? そんな教官に反感を抱かない……ですか?」

 

「これ私自ら申し出たことだよ? 教官は猛反対だったけど、去年も同じ事をして成果があったから、今年も試そうと推してね」

 

「去年!? だってスウィートライドさんって私と同じ——」

 

「それは嘘♪ 本当は一年早い先輩です♪ 気づかなかった? 私を虐めてるのって一年坊だけだって。これだって去年私が披露したからこうなってるんだから♪」

 

 と先日見せた笑顔の影を取り払った悪戯な笑みをエミリオは浮かべる。そこで気づいた。先日の影は、別に悔しいとかの気持ちを押し殺したものではなく、この場面が来ることを知っていたことによる『余裕』や、一気に相手の立場が崩れる『愉悦』を想像していたことに。

 

 そしてヴィラは直感した——。この女、生粋のサディストだと。相手を陥れるなら、自らが被害者になることも良しとなる本物のサディストだと。

 

「私の容姿って悪目立ちするからね。去年は偶然標的されて今と似た状況になったの。だったら今年もいっそ他の生徒のために避雷針になって、時期が来たら遊び半分のガキみたいな相手には『わからせた』ほうが教育的に良いでしょう? だって『いじめは悪いことです』って事前に忠告するより『いじめには必ず報いがある』ってことを教えた方が効果的だし♪」

 

「まあ、それでも改善されないようなら——」と言いながらエミリオは踊り場に振り返り、まるで『何か』を威嚇するように壁へと小石を投げつけた。そこには先ほどまで話の中心にいたエミリオを虐めていた主犯格がいた。

 

「今度こそお灸を据えるだけよ——。ねぇ、今度は腹いせにヴィラを虐める予定の主犯さん?」

 

「な、なぜ気づいた?」

 

「読心術。けどアンタみたいな奴に細かく説明する気はないわ。……分かってるでしょうね? これ以上、横暴を続けるなら——」

 

「わ、分かってます! もうしないですっ!!」

 

「————嘘ね。私の『目』から逃れられると思ってる?」

 

 物陰から出てきたいじめの主犯をエミリオは拘束した次の瞬間、ヴィラは驚くべき光景を目にした。

 

「もう一度言うわ。これ以上の横暴を続けるなら——」

 

 ——銃口を口内へと押し付けているのだ。発砲すれば必然、弾丸を喉を貫き、火薬は口内全てを覆って火傷にする。

 

 少し想像するだけでも耐え難い苦痛が襲いかかる。それが冗談であればどれだけ救いだろうか。しかし、エミリオの目つきは本気だ。本気で撃とうとしているのだ。

 

「や、やめるっ! 本当にやめるっ!! だから、だから——」

 

 命乞いをするためなら全てを投げ捨てる覚悟で主犯格は言った。本当の本気で今後一才やる気はないと神に誓えるほどに。

 

 

 

 それに対してエミリオは笑顔を————冷たい笑顔を浮かべた。

 

 

 

「そっ♪ ……けどダメね。軍人には危機的状況においても祖国を裏切らない忠義が必要なの。今のアンタは、たかが銃口を突きつけただけで容易く自分の意思さえ曲げる臆病者。そんな人がいざ捕虜にされた時、こちらの情報を漏らさない保証がある?」

 

「ひぃ——!!」

 

「さよなら——」

 

 

 

 

 

 ——パンッ! と発砲音が寮内に響いた。

 

 

 

 

 

「……『空砲』?」

 

 だが実際に主犯格が血みどろになることはなかった。しかも銃声は響いたが、その音は火薬にしては軽いし響かなすぎる。ヴィラは改めてエミリオの銃を見て気づいた。その手にある拳銃は練習用の模造品——。つまりは火薬ではなく『ガス』を使った偽物だと。

 

「……あっ、ああ……」

 

「……小便なんか漏らしちゃって。しかも本物と偽物の区別さえつかないほど錯乱もして……。これは良心から言うけど、軍人向いてないから早めに退学してできるだけ普通の道に行きなさい。……気が動転して聞こえてはいないと思うけど」

 

 そう言ってエミリオは拘束を解除し、既に力なく項垂れる主犯格を置いて廊下の向こう側に行った。

 

 ——まだだ、まだ話は終わっていない。ヴィラはすぐに後を追う。

 

「ど、どうして助けてくれたんだ? アタシがあいつの標的にされることは、スウィートライドさんには関係ないだろ!?」

 

「……あなた、素だとそんな口調になるんだ。うんうん、そっちの方が芯がある可愛さがあって好きだよ」

 

「かわっ……!? 今はどうだっていいだろ!? なんで助けてくれたのか聞いてるんだっ!」

 

 ヴィラの怒号混じりの質問に、エミリオはほんのちょっと照れ臭そうにしながら言う。

 

「……教官はこうも言っていたわ。感情に流される軍人はクズだって。……だけど仲間を見捨てるのは、それ以上のクズだって。……タオルをくれたヴィラを見て、本当は心の底から嬉しかったんだ♪ だからもうちょっとだけ助けたくなったの♪」

 

 その言葉を聞いて、ヴィラはどうしようなく惨めになった。自分を守るためにエミリオを見殺しにして、良心を満足させるためだけに陰ながら手を貸しただけだ。だというのに、実際はエミリオ一人だけでヴィラも含んだ全生徒をイジメの標的から逸らしつつ解決する手立てを作っていた。

 

 嬉しいとか、悲しいとかの感情が湧く以前に……何よりもただ驚くしかなかった。そんな見返りなんてない善意だけでここまでのことが起こせるなんて。

 

 きっと、この人は何者をも裏切らない本当の『聖女』に近い存在なんだと——。思わず尊敬してしまうほどに、エミリオのその瞳は、ヴィラにとって力強く眩しい存在となった。

 

「スウィート、ライドさん……」

 

「そんな堅苦しく呼ばなくていいよ。私はエミリオ、親しい人はエミって呼ぶわ」

 

 その日、ヴィラは初めて家族による定められた目標や、士官学校で目指す目標とは違う——本当に自分自身が決めた目標を見つけた。

 

 この人みたいになりたい、と——。

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

「……おーい、ヴィラさーん? なんで俺を見たまま固まってるんですかー?」

 

「……何でもない。馬鹿は楽しそうでいいよな、って思っただけだよ」

 

「俺そんなに間抜け面してるっ!?」

 

 追憶から覚めてヴィラは改めてレンの顔を見る。

 

 戦争とは無縁そうな平和ボケした顔だ。親を失ったはずなのに、年頃の女の子……というより男の子みたいに健やかに成長した顔つきは、新豊州の教育体制が十全としている事の証拠だ。

 

 マサダブルクとは本当に大違いで——。そんな平和な学園生活が今更自分もできることに、思わずヴィラは普段の険しい顔を崩して笑ってしまう。

 

「ヴィラは何かアルバイトもしないといけないけど、何か候補とかある? ないなら仕事着で決めるのもモチベーション保つのにいいわよ!」

 

「ああ——。私もエミと一緒に色々試すか!」

 

「ヴィラったらさっすが!!」

 

 そしてそれはエミリオも一緒だ。平和な学校生活とは無縁で、高等部に入ってからは本物の戦場に傭兵として駆り出される毎日。そこには人間らしい自由などなかった。

 

 そこから一時的とはいえ解放される——。そんな自由を得たら誰だって満喫するに決まっているだろう。

 

「召使いよ。私のためにペプシを持ってきなさい……」

 

「えっ、エミはコカ派じゃ……」

 

「今はペプシよ。そろそろ飽きてきたからドクペでもいいけど」

 

 ヴィラは先ほどまでエミリオが来ていたメイド服を着る。サイズが違うため、丈とか無駄に長くて足を踏み外しそうとか、胸のスペースに妙な空白があると色々と違和感はあるが、それさえも含めてエミリオは「似合ってる」と言ってヴィラの恥じらいを少しずつ取り除いて調子に乗らせる。さながらそれはカメラマンの前で一枚ずつ脱がされるグラビアアイドルのごとく巧みな話術であった。

 

「お約束、一本お願いしますッ!」

 

「かしこまりました、エミ……ご、ご主人様ぁ……♡」

 

「キュートッ!!」

 

「エ、エミリオさん。し、診察のお時間ですよ〜……♡」

 

「エクセレントッッ!!!」

 

「スウィートライドさん! 先日の宿題、忘れたそうですねっ!」

 

「アメイジングッッッ!!!!」

 

 一転して二人は夕刻前のはずなのに、まるで深夜で酒に溺れた大学生のようなノリで色々と着せ替えを楽しんだ。

 

 メイド服、ナース服、家庭教師、さらには双子コーデから、挙句にはどこにそんなバイトがあるんだと言わんばかりのアニメのコスプレ衣装、紐しかない水着、裸エプロンなど、もうただの服遊びだろ、と言いたくなるほど二人はあれやこれやと衣装替えを楽しむ放課後であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あの……これ以上俺を苛めるの、やめてくれない……っ?」

 

 だがここにいる思春期男性代表であるレン(新豊州出身・15歳・女性)には生き地獄のフリータイム突入でしかなかった。

 結局、その後レンが開放されるまでに累計3時間以上は経過して、彼女はしばらく興奮状態のまま失神していた。

 緑色の毒舌お嬢様ですら流石に思うところがあったのか「災難だったわね」と仏頂面で言っていた、と後に青髪ツインテールは語る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「15分休憩ー! 各自、今のうちに喫煙などの小休憩に入らないものを済ませとけよ!」

 

「タバコなんて吸うわけないだろ〜。今は我らの天使様、ヴィラちゃんがいるんだから」

 

「別に吸ってもいいですよ。その間、私は離れてますから」

 

「若い者に気を遣わせたら歳上失格だろう? むしろヴィラちゃんは遠慮しないで。叔父さんが飲み物奢っちゃる」

 

「じゃあ、スポーツ飲料をお願いします」

 

 後日、ヴィラのアルバイトだけ決まった。内容は建設現場での土木材を運ぶ雑用だ。とはいっても異質物の影響で常識はずれの怪力を持つ彼女にとって、どうやらこれは軍人以上に天職だった可能性もあり、ぶっきらぼうな敬語も相まって今では現場の工事員に可愛がられるという結構高待遇であったりするのだが。

 

「あぁ〜〜可愛いわ、私のヴィラ……。あんなに汗だくになって……」

 

「ママ〜、あの人何してるの〜?」

 

「見ちゃいけませんっ!」

 

 そして建設現場から少し離れた木陰にして、アルバイト不採用となり暇でしょうがないエミリオがヴィラの様子を観察していた。

 

 

 

 

 

 ちなみにエミリオのアルバイト先が決まらなかった理由は——。

 

「エミ……。言いにくいんだけどエミの顔は目立つし、私と違ってマサダでの表立って目立つ地位があるから潜入員としてバイトするのは無理だと思うんだ」

 

「————あっ!?」

 

 

 

 

 

 ……という、そりゃそうだという話がファッションショーの後にあったからである。

 

 マサダブルクの聖女様も完璧なわけではない。どこか自分に関しては抜けているところがあり、ヴィラはそういう所は、せめて自分らしく支えようと今日も妹分として過ごしていく。



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第3節 〜イルカの奇妙な冒険 スターオーシャン〜

 ——これはレンがギンと会うまでの二ヶ月間、霧守神社で鍛錬をしていた時の話。

 

 

 

 

 悲劇が起きた。イルカは愕然と生気を消沈させながら空腹を訴える音を響かせ、テーブルの向かい側では冷凍チャーハンと即席中華スープをお裾分けするシンチェンとハイイーと涙ぐましい光景が広がる。

 

 時刻は午後8時。夕食にしては少々遅い時間だ。家にはイルカ、シンチェン、ハイイーのみがいる状況であり他には誰もいない。

 

 そう、本日はレンも含んだ保護者全員が外出しているという珍しい日なのだ。レンは霧守神社で鍛錬中。アニーはSIDにて指揮官補佐訓練を受講中。ラファエルはそもそも家主がいないため来訪する理由がなく、マリルと愛衣は本日もSID内で異質物や元老院、他の学園都市と連絡と会議が山盛りと押しつぶされているという日なのだ。

 

 となると夕飯は子供達だけで作らなければならないのは必然。とはいっても調理技術などない三人では料理などできないので、仕方なく即席料理で飢えを満たそうとしたのだ。

 

 

 

 ……しかし即席の料理でも気をつけなければいけないことがある。

 

 

 

「うぅ……イルカのご飯……消えた……」

 

 単純な話、調理方法を間違えた。それだけである。

 塩と砂糖を間違えた、醤油とソースを間違えた、お湯と水を入れ間違えた…………。まあ色々とある。

 

 しかし、今回のはそういうレベルではない。

 犯したのは禁忌。使用上の注意と禁止事項。それは『カップ麺を電子レンジに突っ込んだ』という事実——。

 

 これには色々な原因が重なった末に起きた悲劇だ。決して誰のせいでもないし、当事者のイルカが全て悪いというわけでもない。こうなるであろう偶然の積み重ねがあって起きた因果関係に過ぎないのだ。

 

 まず第一の理由。イルカは生まれと育ちの都合上、まともな生活知識は現段階でも不足しているということ。

 入浴、就寝、食事といったものに問題はなかったとしてもそれ以外……。例えばケーキの三等分の仕方、箸の正しい持ち方などは一切知らないのだ。今回起きたのは『カップ麺の作り方を知らない』ということ——。イルカはカップ麺も『インスタント食品』として覚えているため、数多くあるインスタント食品と同じく『レンジで温める』という行為が必要だと思い、お湯はおろか水さえ入れずに電子レンジへと入れたのだ。但書はしっかりと読もう。

 

 次に第二の理由。マリルと愛衣が徹底して『インスタント食品』や『カップ麺』といった即席料理を日常から極力置かなかったこと。

 基本的にマリルと愛衣は研究や国営で徹夜するのも当たり前という大忙しの身分だ。そのため睡眠不足による身体不調は頻繁に起こしてこともあり、せめては食事面では栄養面を妥協してはいけないと、そういう健康面で悪影響を及ぼしかねないものは控えていたのだ。仮に料理が面倒だとしても、金だけは湯水のようにある身分だ。その時は外食にしてもいいし、何なら出前や出張料理人とかを呼べばいいだけの話。お留守番が多いイルカであっても、基本的にそういう出来合いの物を口にする機会は決して多くはなかった。全国の奥様、出来合いの物で済ますことも時には愛なのです、そう悲観しないように。

 

 最後に第三の理由。保護者以外の人物も、それなりに料理には恵まれていたということ。該当者はアニー、レンは当然として、一緒に食事することも多いラファエルもそうだ。

 

 アニーもテレビみたいに綺麗で上品な料理は作れないが、決して作れないわけでもないのだ。運動好きな彼女がカロリー計算や栄養管理を怠ることはなく、彩りもそこそこに味も良い手料理を振る舞ってくれる。当然インスタントが出る訳がない。

 

 ラファエルもそれこそマリル達と並ぶ富豪だ。指先一つで高級珍味フルコースも可能だし、何なら彼女の好奇心旺盛な舌がA級グルメからB級グルメ網羅しようと積極的に外食に連れ出してくれるのだ。とはいっても、その贅沢三昧が当人の体重が増える一因でもあったりするのだが。どうあれインスタントが出る余地はない。

 

 そして肝心の『元男』であるレンは——実は人並み以上に料理ができたりするのだ。もちろん元々バイト先にいたメイドカフェで料理を作る経験をしていたというのもあるが、何よりレンは男である時は『一人暮らし』をしていたのだ。毎日インスタント、コンビニ弁当、外食では栄養の偏りはあるし、いくら政策としての援助金があるとはいえゲーマーであり課金厨でもあるレンは極力出資を抑えるために、節約料理というものを身につけているのだ。おかげで、そこらの若奥様よりも料理が上手ということもあり、料理に不自由することはなかった。つまりインスタントが出る理由がない。

 

 結果、イルカは『カップ麺』という存在を誤認したまま調理を開始。カップ麺の多くに使われてるアルミ容器が、電子レンジが発するマイクロ波による加熱処理で熱を帯びて発火。2037年の電子レンジは防火対策も万全で安全性は高いため、即座に停止したためボヤ騒ぎにもならなかったが、代わりにイルカの夕飯となる『ペヤソグ 超超超超超超超超超超超超大盛り焼きそば ゼタマックス(8368kcal)』は焼き焦げて食べれなくなってしまったのだ。ちなみにこの化け物食品が家にあった理由は、我らの可愛いレンちゃんが『SNSネタに便乗しよう』という軽い考えの下に内緒で買い置きした物だ。なおこの事はアニー共々マリルには既にバレているのは内緒である。良い子は遊び半分で食べ物を粗末にしないようでね。

 

「イルカさん……元気出して……」

 

「イルカちゃ〜ん! シンチェンのご飯あげるよ〜!」

 

 奥ゆかしく心配するハイイーと、少々お姉ちゃんぶりながらイルカに夕飯を分け続けるシンチェン。しかしシンチェンは自分の身体については誰よりも理解してるので「大丈夫……」と項垂れながら空腹をさらに轟かす。

 

 ……イルカは常人では色々と違う。『魔女』という点もあるが、後天的に備えられた義眼や機械仕掛けのグローブにその理由がある。

 

 イルカにとって食事とは通常の人間が行う栄養管理の他に、摂取したカロリーを無意識的に配分して自身が使う『魔法』である『電気』へと変換して貯蓄する体質があるのだ。溜め込んだ電気を消費することで義眼は機能してイルカの視界と視力を矯正並び強化をし、戦闘時のグローブを稼働させて電磁砲や避雷針といった役割を解放していくのだ。

 

 他にもイルカはヤコブの下にいた頃に色々と体内を弄られている。義眼から送信される高密度な情報を処理することや、進化をし続けるネットワークに対応するために脳には専用のバイオプロセッサなどが搭載されている。そのせいで学習機能や発声機能、あげくには器官の活動に支障を悪影響を及ぼしており、さらにそれを補うために内蔵器官を補助するための専用の人工器官を装着。それらはイルカの体重を否応もなく増加させ、通常の運動そのものが機能できなくなり、今度はそれを補うために筋繊維や神経を強化するための機能をバイオプロセッサに追加したり、電磁浮遊を起こすための反応体を埋め込んだり……と様々な後付け改造が施されており、それらすべてがイルカの『魔法』によって生成される『電気』を燃料として機能するように施されている。

 

 そのせいでイルカは痩せ細った幼い見た目ながらも『体重100キロ』を超える身となってしまった。タチの悪いことに、この改造のせいでイルカの純粋な人間としての機能はかなり衰弱しきっており、嫌でも機能を解放させないとイルカは生命活動さえままならないのだ。

 

 よってイルカにとっては『食事』とは、通常の人間以上に『死活問題』でもあるのだ。しかもシンチェンが提供してくれる量だけでは、ハッキリ言っておやつにもならない程のカロリーが必要であり、それは毎日万を超えるカロリーでなけれは満足に活動できないと不便極まる。

 

「充電……」

 

 とはいっても必要なのは『カロリー』ではなく、あくまで『電気』なため、時間効率さえ考えなければ身体の一部にあるプラグをコンセントなどに差しこんで、体内に『電気』を取り込めば大丈夫ではあるのだが。

 実際、イルカがヤコブの所にいたころは超圧縮した『電気』を纏めた容器——。いつぞやレンに手渡した『液体プラズマ』を口にすることで『電気』を無理矢理補給していたりする。

 

「……でもお腹は空く」

 

 しかし、それでイルカの『人間』としての生命活動までは補えるわけではない。結局は両方を満たしながらエネルギーを補給するには尋常ではないカロリー摂取が一番効率的で健康的なのがイルカという少女なのだ。

 

『う〜ん……。どうしよっか、お姉ちゃん。イルカちゃんを放っておくわけにもいかないよね?』

 

『……今は同盟関係ですし、まあどうにかしないといけませんね』

 

 シンチェンとハイイーが慌てる中、その視界を通して情報生命体であるスターダストとオーシャンは少しばかり考える。

 何せレンを筆頭に家主がおらず、しかも1番来る客人であるラファエルもこの場にはいない。となると次点でイルカの様子を見るのは、ほぼ必ずと言っていいほど一緒にいるシンチェン達を通して様子が見れる星之海姉妹しかいないのだ。

 

『1番呼びやすいのはレンちゃんとラファエルなんだけど……』

 

『もうお姉ちゃんが連絡しときました。けれど2人とも音信不通……。レンちゃんは鍛錬中の身であり、ラファエルさんは一応はサモントン関係者……おいそれと気軽に来れる身ではありません』

 

『だよね〜〜。だけど長官様も愛衣もお仕事で、アニーちゃんも訓練中で終わるのは後2時間は掛かるし……』

 

 二人して頭を捻らす。スターダストは心底心配そうに、オーシャンはどこか余裕を持って悩む。そんな顔をしている時だけは確かにスターダストはシンチェンであり、オーシャンはハイイーであることの繋がりを再度匂わせる。

 

『私たちに現実の肉体があれば簡単ですが、そうもいきませんしね……』

 

『あくまで私達とは別個体だからね、TwinkleとBoomは。こちらから強制的に肉体成長を促して私達みたいな見た目にできても、精神はそのままだし……』

 

 依然として二人は悩み続ける。あーでもない、こーでもないと姉妹はどこか危機感がない感じで話し合いをし、最終的には条件に見合う人物の特徴を順繰りに上げることになった。

 

『はぁ〜〜。どこかに心優しくて、融通が効いて、イルカ達が人見知りしない知人で、イルカの食費を受け持てるセレブリティな人いないかな〜〜……って——!?』

 

『そんな人いない——はっ!?』

 

『『いたっ! そんな都合のいい人っ!!』』

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 ——時は過ぎ、場所は新豊州で数々とする出店する回転寿司とは名ばかりのバラエティ豊かなチェーン店『ヌシロー』店内。そこには三人の少女と、三人の幼女がボックス席へと座り、液晶モニターに映るメニューを片っ端から眺める微笑ましい光景が繰り広げられていた。

 

「おお〜!! ハイイーは何にする!? 私はハンバーグ寿司!」

 

「えっと…………玉子サラダ軍艦……」

 

「イルカ、全部一貫ずつ欲しい」

 

「なんか寿司以外にも色々とあるな……。唐揚げは分かるが、醤油ラーメンとか店に置いていいのか?」

 

「いや〜ゴチになります、ニュクスさん♪」

 

「いえ、私一人だと三人の子供を見るのは面倒……もとい大変なので、こうして二人も招いているのです。遠慮せずに食べていいですよ、エミリオさん、ヴィラさん」

 

 異色な顔ぶれがそこにはいた。入り口側の席にはシンチェンを挟んでエミリオとヴィラが。向かい側の席には通路側から順にニュクス、ハイイー、イルカと並んでいるのだ。

 

 ニュクスは皆がメニューに夢中になる中、スマホを開いてSNSのメッセージ画面を一瞥する。

 

 

 

 スターフルーツ:《ヘルプ! カモン! レンちゃんハウス!》

 

 

 

 これがニュクスが呼び出された理由だ。つまりスターダストとオーシャンが揃って口にした『都合のいい人』がニュクスだった、ということである。ニュクスからすれば「どんな一大事があったのか」と焦ったものだが、向かってみれば子守の世話を任されれば色々な気持ちが渦巻き、それを解消するやり場もない。

 

 ニュクスは呆れ顔になりながら《他に何かありますか?》とメッセージを送り、すぐさま『クラゲヘッド』で登録しているオーシャンから《大丈夫! あとはお願い!》と返信をもらう。ニュクスもSIDの関係者であるため、ある程度は二人の事情は知っているが、こうも丸投げ状態だと無責任過ぎて少しばかり苛立ってしまいそうだ。

 

「わーい、届いたー。イルカの分は……」

 

「これがハイイーので、私はこれだからね!」

 

「やだっ! シンチェンお姉ちゃんのほうが大きいっ!」

 

「いくらでも注文して大丈夫だから喧嘩しないように」

 

 しかし、そんなのは子供達が大暴れしたら気にする余裕なんてなくなる。子供三人はまるで野獣のように食い尽くしていき、ニュクスは店舗側に迷惑が掛からないか細心の注意を払う。なにせ子供の世話をするなんて初だ。おっかなびっくりでどんな行動であろうと不安で仕方がない。

 

 そして肝心な助力のために呼んだエミリオとヴィラは——。

 

「……ここ寿司屋だよな? 出てくるの半分くらい寿司関係ないぞ?」

 

「ラーメン食べてるヴィラが言えた義理ないよね?」

 

「そっくり返すぞエミ。アボカド軍艦は寿司ではない」

 

「マヨアボカドだからセーフっ!」

 

「もっとアウトだっ!」

 

 ……と二人は二人なりに楽しんでいる様子であった。とはいっても視線は常に気配っているので、孤児院で子供相手が慣れていることくる余裕だろう。これくらいなら大丈夫だと、表情から窺える。

 

 そうと分かれば、あとは楽しむだけだ。ニュクスも自分のペースを守りながら食事を楽しみ始めた。

 

 楽しい時間とは過ぎ去るのはあっという間だ。

 エミリオとヴィラはおおよそ寿司屋である必要性がない物をチョイスし、ニュクスはいつでも箸を止められるように鮮度が落ちないだし巻き卵や唐揚げを食し、子供達は思い思いに頼んで規則性がない。

 

「スペアリブ〜♪」

 

「あら汁美味しい……」

 

「アボカド炙りオニオンサーモンもいいよ〜」

 

「エミ、今日はレモンかけるか?」

 

「ガリで口直しできるからいいかな」

 

 そんなこんなですぐに一時間は経過した。時刻はすでに午後10時を過ぎる。営業時間的には問題ないが、子供が同伴しては少々教育に悪い。

 そろそろお暇しようかとニュクスはイルカを見る。イルカは満足そうにお腹を膨らませているのに、まだ何か足りなそうな表情をしていた。

 

「……どうしたの、イルカさん?」

 

「……お腹いっぱい。だけど、足りない……なんで?」

 

 本当にイルカ本人でもよく分からない様子に、ニュクスも一緒になって悩む。満腹なのに足りないとはどういうことなのか。何か食べ足りないこと意味してるのか? 満足感とかであろうか? 

 

 知人ではあるが友人ではないニュクスではイルカの心中は測り切ることはできない。そこでふと視線があったエミリオへと問う。

 

「…………エミリオさんは、なんでか分かりますか?」

 

「私の読心術って深層心理を覗くものじゃないからね……。動作とか表情で見分けるものだから、本人が分からないならこっちも分からないからそこまで便利な物でもないの」

 

 期待していた答えは返ってこなかった。まあ、そこまで便利な物なんて異質物であろうとそうはない。XK級異質物である【イージス】でさえも敵意のない攻撃は無視するし、凶器などの持ち込みは認可する適当な所があるのだ。万能無敵な能力なんてあるわけがない。

 

「まあ甘い物は別腹って言うし、締めのデザートが足りないんじゃない? ここミルクレープとかショコラケーキとか色々あるわよ♪」

 

 といってエミリオは子供達にメニュー表を見せた。目に星が宿ったように煌びやかに興奮し、それはイルカも例外ではない。

 

「1人一品までね。こういうのは一回きりだから美味しいんだから♪」

 

「私の支払いなので勝手に……。はぁ、まあいいでしょう」

 

 どうあれイルカの物足りない表情が消えただけで良しと考えて、ニュクスもメニューに目を通した。そして驚愕する。そこにあるデザート一覧には『レアチーズケーキ』『苺ショートケーキ』と王道なものから、どうしてそういう結論に至ったのか企画者に聞きたい『ケーキラーメン』から『魚介ミックスケーキ』といった採算が取れるのか怪しいものまでラインナップされていた。

 

「…………イ、イルカさんは何にします?」

 

 若干笑顔が引き攣りながらもニュクスはイルカに聞く。

 

「う〜〜〜ん……」

 

 考える。どれが一番イルカが欲しい物なのか、とりあえずは考える。

 

 ——何せ今まで甘い物は常に手元にあったため、とりあえずは甘いものが欲しくなったら無作為に口にしていた。だから『どういう甘さ』が好ましいのか全く考えたことがなかった。

 

 ……そこでイルカはもっと根本的な事に気付く。『どうして甘い物が好きなんだろう?』と。

 

 もちろん理由は分かっている。あの日、レンからチョコレートを渡されたことで『甘い物は幸せになる』ことを教えてくれた。

 だけど、そこで気付く。イルカはレンから『チョコレートは甘い物』と教えてくれたが、イルカ自身『甘い物が何なのか』という疑問を湧かなかったことに。

 

 初めて食べるなら、そもそも味覚の情報が一切ない。だというのにチョコレートを口にした途端『苦くて、甘いもの』だと瞬時に認識して理解した。予め知識があるだけでは辻褄が合いにくい現象だ。

 

 だとすれば、いつかどこかで『甘いもの』を口にしたことがある。という結論にイルカは見出した。となれば次に考えるのは『いつかどこか』とはいつなのかと。

 

 イルカはノイズだらけの記憶を掘り起こす。色褪せた思い出は、イルカが求めていた答えがあるはずだから。

 

 それはヤコブの下に行くよりももっと前——。まだイルカの『□□』がいた頃の記憶にあった。それは……きっと生まれてからまだ数年しか経ってない頃ではないかとイルカは思う。

 

 

 

 …………

 ……

 

《イルカ〜! □□だぞ、元気にしているか〜! ……なーんてな》

 

《もう貴方! くだらないギャグを言う癖は直らないの?》

 

《家族と話せる時が唯一本当に気が休まるんだ。忙しい上に、ここでは情報漏洩対策に個人的な理由で地上への連絡は数ヶ月に一度しか取れないんだ。少しは許してくれ》

 

《……今年も帰れそうにないの?》

 

《うん……。海底都市は順調に進んでいて、スケジュールが分刻みでとてもいけない。それにここには長時間いるから、仮に地上に戻った所で高山病や宇宙酔いに近い症状が出て、数日は寝込んでしまう……。イルカの世話だけでも大変なのに、僕の世話までさせるわけにはいかないだろう?》

 

《そうか……。今年こそは一緒に祭日を過ごしたかったね》

 

《だけどここの建設終了予定の2030年になれば、一生贅沢に暮らせる生活が待ってるんだ。あと数年待てば、君とイルカと一緒に……どこにだって行ける。それこそ君と僕が好きな水族館を、海底都市なら天然で見に来れるんだ》

 

《それはいいね……。けどイルカのためにも広い世界を見せてあげたい……海だけじゃなくて、空や陸も全部……》

 

《なら世界旅行にでも行こうか! ニューモリダスでバカンス、サモントンで麦畑や緑化都市を見物したり、新豊州なら本場の漫画や寿司とか楽しめるぞ!》

 

《それにリバーナ諸島の孤島で別荘置いたり……マサダでも内城なら安全だもんね》

 

《まだまだあるぞ! スプートニク基地周辺なら宇宙船が見れるし、華雲宮城に行けば星だって見れるんだ!》

 

《ふふっ、本当にいっぱい楽しみがあるね》

 

《……あっと、もう時間か。10分しか許されないって酷いよな。僕の土産は届いてるかい?》

 

 そこでイルカの記憶に変化が起こる。モニター上に映る男の姿は横に流れ——いや、恐らくイルカを抱いている女性が振り向いたのだ。

 

 向いた先には壁際。そこには散らかってはいるものの、埃一つなく遊び倒されているお魚の縫いぐるみや、窓辺から見える庭には電気で動く子供が乗れる玩具の自動車が、一緒に遊んでくれるのを待つように今か今かと飾られている。

 

《届いてるよ。遊具からバナナケーキからココナッツミルク……全部イルカと一緒に楽しんでるよ。だけどもう少し気が利いたのない? 私、貴方のせいで5キロも太ったのよ? 痩せ気味だから知人にはまだ気づかれてはいないけど……》

 

《あはは、ごめん。幸せ太りってことで許してくれるかい?》

 

《許します。……必ず帰ってきてね。どんなに掛かっても、私は待ってるわ》

 

《ああ、必ず帰るよ——。愛しの□□□□とイルカのために》

 

《私も愛してるわ、□□□□□》

 

 二人の視線がイルカに向けられる。

 そこには、ただ子供を慈しむ『愛情』という笑顔があった。

 

 ……

 …………

 

 

 

「…………なんでもいい。ニュクスが好きなのを頂戴」

 

「えっ、私が? ……イルカさんに合うかしら?」

 

 イルカが欲しいのは決して甘いものではない。好ましくはあるが、一番好きなのは誰かから施される『愛情』というものだ。だからイルカは選ばない。何であろうと渡された物に嬉しさが込み上げるのだから。

 

 ……いずれ成長すれば自分で選ばなければいけない日もくる。だが、それは『大人』になってからの話。今はただの『子供』として目一杯甘えても許される。

 

 もう顔も名前も声も朧げな『誰か二人』のために、イルカは心の中で思う。

 

 

 

 ——今日もイルカは元気です、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……苦い。あんまり美味しくない」

 

「あはは……。イルカさんには早かったですか……」

 

 けどやっぱり、ある程度は自分で選ぼうとガトーショコラを口にしながら子供じみた不満を思うイルカであった。



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第4節 〜聖夜の一幕〜

キ○ティ○先生さん!?


 ——そして時はもう巻き戻らない。これはレンとギンが『無』の世界で『ヨグ=ソトース』と呼ばれる存在を退いてから数日後の話——。

 

 

 

 

 

『『『メリー…………クリスマース!!!』』』

 

 

 

 

 

 ——そう新豊州では、今聖夜で色づく『クリスマス』と呼ばれる祝日を過ごす一日であった。

 

 場所は我らの可愛いレンちゃんが住むマンションの一室。そこにはレンを筆頭にアニー、マリル、愛衣、ベアトリーチェ、ソヤ、ギン、イルカ、シンチェン、ハイイーがいた。

 

 ……いや、しかいないと言った方が正しいだろう。ラファエルを筆頭にハインリッヒ、エミリオ、ヴィラ、ニュクス、バイジュウ、ファビオラと数多くの友人達が不在という奇妙な状況でもある。

 

「なんでこんなに欠席者多いの? クリスマスって普通祝日だよな? マリルも珍しく休めるぐらいには大事な」

 

 そのことについてレンは疑問は口にする。それに答えたのはソヤであった。

 

「……大事だからこそですわ。レンさん、クリスマスとは本来どういう日かは知っていますか?」

 

「イエス・キリストの誕生日」

 

「……正確には違いますが、まあいいですわ。ともかくイエス・キリストの誕生を祝す日——。これはどんな宗教でも深い意味を持つのです」

 

 ソヤは呆れ顔になりながらも話を続ける。

 

「ラファエルさんはじゃじゃ馬ではありますが、あれでもキリスト教を全国民が信仰するサモントン出身であり、その総督の孫娘。同様にハインリッヒさんもサモントン関係者なので……自国の祭事を疎かにすることはできませんわ」

 

「……じゃあソヤは行かなくていいの? 一応はサモントン出身だよね?」

 

「私はサモントンの戸籍では『死亡』扱いですので、縛られませんの♡」

 

「うわっ、いい加減」とか思いながらレンは質問を続ける。「じゃあエミとヴィラは?」と。二人はサモントンではなくマサダブルク出身だ。信仰しているのもキリスト教ではなく、ユダヤ教のためクリスマスとは無縁だとレンは考える。

 

「むしろエミリオさんはもっと強い使命ですわね。レンさん、『ハッピー・ホリデーズ』は聞いたことありますか?」

 

「い——」

 

「分かってなさそうですわね」

 

「そうだけど、まだ何も言ってないよ!?」

 

「目は口ほどよりも物を言いますわ。『ハッピー・ホリデーズ』とは『ポリティカル・コレクトネス』——略して『ポリコレ』という思想から生まれた『メリークリスマス』に変わる掛け声ですわ」

 

「……? 別にメリクリって言えばいいんじゃ?」

 

「クリスマスはあくまでキリストの誕生を祝う物。他宗教の祭事を祝うなんて冒涜すぎます。……新豊州はその辺大変緩い思想ではありますが」

 

「確かに」とレンは考える。OS事件の時にエミリオが「ハロウィン、クリスマス、バレンタインなんでもござれ」と言っていたが、実際に新豊州の宗教観はキメラだ。あげくには年末年始には神頼みだし、何なら七夕になれば織姫と彦星に便乗して短冊で願ったりもする。

 

「とはいっても祭事は祭事。片方が祝う中、もう片方が祝えずに自粛するというのは一種の差別ではあります。そういう部分を公平・公正的な祭事であると定めるために政治的な思想が入ったのを『ポリコレ』といい、それが浸透しているのが『クリスマス』としてではなく『ハッピー・ホリデーズ』として今日を祝うのです」

 

「……それってエミリオとヴィラに関係あること?」

 

「大いにあります。あの二人——特にエミリオさんは『神の使者』や『聖女』とは呼ばれていますが、実際の政治的な立ち位置は『宗教と教育の首席顧問』という名誉的な役職ですの。ヴィラさんはその助手。……名誉職といっても、やはりマサダにおいての地位は『宗教と教育』に関わる者ですわ。このような祭事で『神の使者』と注目を浴びる存在が、放っておけるわけがありませんの」

 

「宗教って、そんな難しく捉える必要あるのかなぁ」とかレンは考えるが、それは新豊州生まれだからこそ持てる思想だと、この時のレンはまだ知らない。

 

「エミリオさんはそれで一時的にマサダに帰国してますが、身の安全は保証されていますので事故や事件には巻き込まれないとは思いますのでご安心を♡」

 

「でもマサダだしなぁ……」

 

 レッドアラートの製造過程を知っているレンからすれば気が気ではないが、同時にエミリオは地位としても高い身分ではあるので、そんな簡単に狙えるものではないと一先ずは納得する。

 

「ファビオラさんは、レンさんがテレビデビューしたことでメイドカフェでの潜入員がいなくなったため、その代役と信頼作りのために本日はバイト中。ニュクスさんは本日はボディガードの人達との私用が。バイジュウさんは——」

 

「……『大事な人』と過ごしてる」

 

「……そうですわね」

 

 そこで歯切れ悪く会話は止まってしまう。二人して辛気臭い顔をしていると、空気を読んでか読まずか「どーん!」と呂律の回らない口で二人の間に割り込む間男——ではなく外面だけは女性であるギンが茶化しに入る。

 

「なんじゃ、なんじゃ〜〜? 今日は無礼講じゃぞ? 楽しまんとな〜〜」

 

 パーソナルスペースとか一切ない遠慮なし配慮なしの距離感。その瞬間、ソヤが電撃にでも打たれたように表情を険しくて鼻を押さると涙目になって咆哮する。

 

「臭すぎますわーーっ!!? 私の嗅覚が捻り曲がるほど臭すぎますわーーーーっ!!? ゲロ以下の匂いがプンプンしますわーーーーーーっっ!!?!?」

 

「マジでくっさ!! ギン、口臭っ!!」

 

「はぁ〜〜? 美少女の吐息は嬉しい物であろう? ほれほれ、もっと味わっておけ〜〜」

 

 さらにもう一息——。ソヤは「ぎゃー!!」と少女とは思えぬ品のない絶叫をあげて気絶した。その青ざめた表情は状態異常のオンパレードと形容するしかない。『毒・暗闇・沈黙・睡眠・スロウ・バーサク・ストップ・石化中・石化・ゾンビ・体力0・死の宣告・即死』————。

 それら全てを内包してると言っても過言ではないほど、ソヤは痙攣しながら苦悶に満ちた顔が真っ青になっていく様は見るに堪えない珍妙さがあった。

 

 例え見た目が美少女であろうと、教官の名を持つ才女であろうと『くさい息』の破壊力は擁護できなかった。

 

「限度が——。ゔぉえっ!? これ酒の匂いだっ!?」

 

 そして被害者は増える。レンも、その全ての状態異常を引き起こしかねない『この世の全ての酒気』へと呑み込まれたのだ。

 

 発泡酒、ビール、ウイスキー、ワイン——。レンの年齢では計り知れない様々な酒の匂いが混じり合い、名状し難い感覚が襲う。三半規管が混乱して平衡感覚も思考もロクに保てない。

 

 レンは正直に思う。あの日より重くてキツいと。

 

「もっとじゃー!! 酒を持ってこーい!!」

 

「ちょっと! ギン教官は未成年でしょ!?」

 

 ごもっともなツッコミがアニーから入る。どうして身体年齢的には16歳であるギンがこうして飲酒が許されているのか。いくら家内でも許容範囲には限度がある。

 それに対してギンは少女の顔にしては、やけにウザさが極まる得意げな表情を浮かべて懐からある物を取り出した。

 

「わっはっは〜!! これが目に入らぬのか〜〜!!?」

 

 やけに芝居がかった声と見得を張って、その手に握った物をギンはアニーへと見せつけた。それは某時代劇でよく見る『印籠』——。ではなく、新豊州の住民なら誰もが持つ『IDカード』——つまりは身分証と呼ばれる物だ。

 

「それが何だ」とアニーは鼻を摘みながら身分証を見ると——。その中の一部に驚愕の記載があったのだ。

 

 

 

 それは生年月日が『2017年』——。

 つまり20年前に産まれたと堂々とホラを吹いた記載があるのだ。

 

 

 

「二十歳っ!? 身分偽装してるっ!?」

 

「身分偽装〜〜? では今は何年の何月じゃ? 儂の年齢から計算すると裕に百を超える年齢なんじゃが〜〜? 年齢はともかく酒は合法なんじゃが〜〜?」

 

「いいのかよ、マリル? 未成年の飲酒はアウトだろ?」

 

「……身分偽装だらけのお前が言っちゃいけないことだぞ?」

 

「うぐっ……!」

 

 それを言われてはレンは黙るしかない。女になって半年は経つレンではあるが、どう足掻いても元は男であり、今の身分も元々は男の時の戸籍を改竄して生まれたものだ。自分も身分偽装の恩恵をこれでもかと受けている以上、どうしても強くは言えない。

 

「そもそも元となる戸籍があって初めて『身分』という物は決まる。新豊州で認められる身分証がギンにはない以上、それがギンという男……? の戸籍になるんだ。そうなっている以上、ギンはれっきとした成人だ。お前が女性であると同じようにな」

 

「そういうわけじゃ〜〜。儂を酔わせたければ、その三倍は持ってこーい!!」

 

「……にしてはタフすぎるな。霧吟という女の身体は、よっぽど呑兵衛としての素質があったと見える」

 

「まあ、お酒の楽しみ方は人それぞれよ。私は景色を肴に、ギンは雰囲気を肴に楽しむ——。いいことじゃない」

 

 そう言って少し席が離れた安全圏からベアトリーチェは大人びた意見を言う。年季を帯びた余裕は側から見ても美しいものであり、思わずレンも生唾を飲んでしまう。

 しかし、そうして存在感を出したのがいけなかった。酒に呑まれたギンの暴走は止まることはない。次なる被害者——否、獲物を求める視線はその豊満で妖艶な四肢を持つ赤髪の淑女へと狙いを定めたのだ。

 

「そうよな〜〜♪ 酒の楽しみ方は人それぞれよ〜〜♪ 別嬪さんはいいこと言うの〜〜♡」

 

「ごめんなさい。来ないでください、本当に来ないでくださ——、きゃっ!?」

 

 普段は妖艶な雰囲気を纏うベアトリーチェでさえ、ギンから漂う酒気に恐れをなして生娘のような叫び声を上げて悶絶してしまう。「お願い、近づかないで」と若干瞳を潤わせて懇願するベアトリーチェを見て、嗜虐心を刺激されたギンは手にあると酒瓶を一口飲むと、より酔いを加速させて千鳥足でベアトリーチェへと迫ってくる。

 

「ふっふふ〜〜♪ ふっふのふ〜〜♪ ベアトリーチェは綺麗よな〜〜♡ 特にその澄んだ赤髪が良いぞ〜〜♡」

 

「魅了っ! チャームッ!! お願い効いてっ! このドスケベ呑兵衛に聴いて頂戴っ!!」

 

 まるでか弱い乙女のように悲痛な叫びをあげるベアトリーチェを見て、レンは先程の大人びた余裕はどこにいったのしまったのかと悲しい気持ちになる。酒とは時として、大人の尊厳なんて物はこうも簡単に押し壊す魔力があるのだ。

 

「効いておるから安心せえ〜〜♡ ……けっぷ」

 

「おぇぇええええええ……!!」

 

 そして零距離の間合いを取った瞬間、ギンは可愛らしくも不快さ極まる酒気をゲップとして吐き出した。嫌な深みを持つ酒気に鼻をやられたベアトリーチェはソヤと同じように顔を真っ青にし、今にも卒倒しそうな匂いに耐えながらもトイレに向かって逆流する胃物を吐き出す。

 

 それを見届けたギンはご満悦に「ケラケラ」と笑い、さらにその手にある酒を煽ると————。

 

 

 

「ひっく……。もぉぅ、限界ゃ〜……」

 

 

 

 一転して酒に溺れて眠りに入った。床暖房が効いてるとはいえ巫女装束にしては露出が激しい姿見で、少女のように穏やかな笑みを浮かべて大文字で寝ている。ただし寝息だけがカラスの求愛よりも耳障りな大音量ではあるのだが。

 

「うわぁ……これどうなってるの?」

 

 幸い騒動の最中、未成年であるレンでは買えない酒や摘みを補充するために外出していた愛衣だけが素面で現状を見渡す。

 

 大文字で寝る白髪で和服の美少女。某名探偵みたいにしわしわな表情を浮かべて気絶するソヤ。そして頭を隠して尻隠さず、と言わん状態で下半身だけ廊下に飛び出してトイレでグロッキーなベアトリーチェ。

 

 そんな阿鼻叫喚な状態に愛衣は——頬を紅潮させて満面の笑みを浮かべて悦に入る。

 

「あはは〜〜! なにこれっ! 写真撮っていい?」

 

「彼女達の尊厳のためにやめておけ」

 

「ソヤ、大丈夫……?」

 

「げげごぼうおぇっ……!!」

 

 イルカの心配とは裏腹に、そりゃもう地底湖から響くヌシのようにドスの効いた呻き声を上げてソヤはさらに深く気絶する。

 悲しいことに猫科的な感覚を持つソヤにとって、イルカという存在は電気を発生することも相まって本能的に苦手なのだ。レンと同行した際に足首につけられた放電リングの『電気』という刷り込みもあったりするのだが、それはそれとして初めて会った時の見た目からは想像もできないヘビィボディに若干畏怖してるところもある。……ともかく苦手意識があるのだ。

 

「ソヤ……元気出して……」

 

「ボドドドゥドオー……!!」

 

 イルカの更なる介抱にソヤは今度こそ白目になって気絶する。少女の純粋無垢な思いは、彼女にとって劇薬でしかなかった。

 

「ベアトリーチェおばさんも元気だして……」

 

「おばさん……」

 

 そしてハイイーも、久しぶりに容赦ない辛辣な言葉を吐き出すのであった。ナチュラルに幼女から「おばさん」呼びされることは、身体年齢24歳という全然現役の身としては酷く心苦しい物なのだ。

 

「ギンおじちゃ〜ん? 起きてる〜〜?」

 

「がぁー……。ごぉー……」

 

「だーみだねこりゃ……。熟睡してる……」

 

 シンチェンはシンチェンで、いつも通りの気の抜けた雰囲気で「やれやれだぜ」と言いたげに目を伏せた。

 

「あはは〜〜! 酒は飲んでも飲まれちゃいけないよねぇ〜」

 

「てか、なんで酒なんか飲むんだよ? 酒って悪いことの方が多いじゃん」

 

 今回の惨状を見て、未成年にとって当然である疑問をレンは言う。同じく未成年であるアニーも頷いて、お酒とは何がいいのか気になってしまう。

 

 それは全国の未成年が思う主張の一つだ。子供からすれば酒には悪いイメージしかない。メディアだけでも『飲酒運転』や『泥酔による暴行』——。バラエティになれば『アルコールの危険性』など様々なマイナスイメージが染み付いているのだ。

 

 それに対してマリルと愛衣は何とも言えない微妙な表情を少しだけ浮かべると「そういうお年頃でもあるか」と言って、空となったグラスに赤ワインを注いでマリルは話し始めた。

 

「『酒は百薬の長』という言葉を聞いたことあるか?」

 

「し——」

 

「らないか。では教えてやろう」

 

「俺ってそんな顔に出やすい!?」

 

「酒とは本来、長寿の秘訣となる漢方薬に近い役割を持つんだ。古来では酒は薬として使われているのは知っていたか?」

 

「初耳だけど、それはそれとして俺の話聞いてますっ!?」

 

「聞いてるぞ」とマリルは適当の同意しておきながら話を再開させる。

 

「『養命酒』という物はまさにそれだ。酒というが、実際は第二類医薬品に該当されている。サプリメントや風邪薬と一緒で、服用を誤うことをしなければ血行を促進して体調を整えたり、滋養強壮として身体の不足した栄養を補ったりな。とはいっても、アルコールは含まれているから服用後は運転厳禁だ」

 

「そんな都合のいいことある?」

 

「ではお前の好きな物はなんだ。ゲームにしろ食べ物にしろ、やり過ぎや取り過ぎは良くない。肉の食い過ぎでも『生活習慣病』は起こるし、糖分の取り過ぎは『糖尿病』の元だ。ゲームのしすぎは視神経に支障、あるいは長時間の姿勢維持による『腰椎椎間板ヘルニア』などを引き起こすこともある」

 

「それ酒でも同じこと言えない?」

 

「そうだな。酒の飲み過ぎは『アルコール依存症』や『肝臓病』をもたらす。これを『薬も過ぎれば毒』というが、別にこれは酒に限った話ではない。すべてに言えることなのさ。……まあ、アルコールはそのラインが他よりも圧倒的に低くて過ぎ去りやすい面は確かに無視はできないが、それを見極めるのは個人の問題だ。酒が良い悪いの話ではない」

 

「…………じゃあ、何で『飲み会』とかあるの? 健康としてお酒はいいことは分かったけど、大人の付き合いだとお酒である必要ある?」

 

「おっと、面白いところを突くな。確かに健康法としては確立されているが、嗜好品としての考えとして確かに酒は悪いことだらけだ。だがアルコールが持つ成分は、脳内にリラックスさせて解放的にさせる効果もある。…………これが大人になると効くんだ」

 

 しみじみと吐き出すマリルを見て、レンとアニーは頭に疑問符を浮かべる。それを見てマリルは「細かいところ似てきたな」と思いながら話を続けた。

 

「『子供』は良くも悪くも楽観的な部分がある。楽観さは理性のスイッチを自力で行うことが可能であり、人によってはこれが『大人』になっても制御できるのもいる。こういう奴は大抵酒は飲まないな」

 

「じゃあ、そういう考えができれば酒はいらないってこと?」

 

「そうだが、実際の大半の『大人』はそうはいかん。歳を重ねて、仕事を請け負えば『責任』と『立場』が生まれる。それにともなった『品格』というものもな。卍搦めになった心は自力で制御することは難しい。例えば……そうだな、お前に分かりやすく説明するなら、今日は新作ゲームの発売日で夜通しやりたいが、翌日には絶対に落とせないテストがあるからゲームをしてはいけない……的なものさ」

 

 レンは想像する。確かにそういう時は我慢してテスト勉強するしかない使命感に駆られて、ない頭を振り絞って教科書と睨めっこすることを。

 

「これは当然『人間』として正常さ。『欲求』を『理性』で抑えるのは人間社会では必須であり、こういったものが『ストレス』を生み出して抱えることになる。……自制して発散のしようのないストレスを吐き出すために、酒というものは嗜好品として必要なんだ」

 

「じゃあ酒は鍵みたいものってこと?」

 

「そういうことになる。そうでもして酔わないと、大人は心の自由を得られない者もいるからな。…………だが飲み過ぎも良くない。確かに酒は『理性』を緩くするが、それがつまり『本能』に身を任せていい理由にはならない。飲みすぎた挙句、無責任な暴行や性行為をしては、それはもう『大人』でも『子供』でも『人間』でもない。ただの『獣』さ。…………それがこれだな」

 

 そう言ってマリルはギンが巻き起こした地獄絵図を顎で指し示した。

 

「……とはいっても、気持ちは分かる。キリストの誕生だか何だか言うが、ここは新豊州である以上『クリスマス』は大切な人と過ごして楽しむ日さ。……こいつが一番大切だった人は、こうして酒に溺れて『夢』にでもいかなければ会えないと分かってる。……そんなのは偽物だって『理性』では分かりきっているのにな」

 

 マリルは上着を脱ぎ捨てて、熟睡するギンへと羽織らせた。その顔は心底楽しそうで安らかな間抜け顔だ。夢に浸って幸せそうにするギンを見て、レンは無性に『魂』から慈しむようにギンの髪を撫でる。

 

「……酒って悪い物でもないんだね」

 

「いや悪いぞ。それはそれ、これはこれだ。だから細心の注意を払いつつも、法律で未成年には飲ませないようにしているんだからな」

 

「じゃあ、今までの力説ってなんだよっ!!?」

 

「大人の都合の良い言い訳さ。まあ、言葉一つで考えがフラフラするような柔らかい頭には、お酒はまだ必要ないと覚えておけばいい。現実が苦痛になったら飲むぐらいで良いのさ」

 

「それが来るのは、世紀末になった時ぐらいだよ……」

 

「ん?」とレンは何かに気づく。

 

「となると——マリルも何かしら『酒』に頼りたくなるほど辛いことがあるってこと?」

 

「……お前が気にすることではない。大人が子供に気を遣わせたら面目丸潰れだろう? 今は『クリスマス』という行事を楽しめばいいんだ。まだ本命のクリスマスケーキも残ってることだしな」

 

「「「クリスマスケーキッ!?」」」

 

 聞き耳を立てていたイルカ、シンチェン、ハイイーの三人が一斉に食い意地を張って食らい付いてきた。マリルは「愛衣」とバトンを渡すように話しかけると、彼女も得意げな笑みを浮かべて買い出しの本命である大きな箱を取り出した。

 

「ふっふ〜ん♪ これが本日のメインディッシュ! 最高級のクリームと苺、そして超一流のパティシエが作ったフワフワでトッロトロの王道ショートケーキだよ〜〜!」

 

 こうして騒がしい夜は続いていく。新豊州では本日はメリークリスマス。過ごし方は人それぞれ。際限なく楽しむのも、酒に溺れるのも、由来通りに誕生を祝うのもご自由に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——そう、過ごし方は人それぞれ。中には『大切な人』を思って過ごすのもいる。

 

 

 

「今日は12月25日——。クリスマスだよ、ミルク」

 

 

 

 様々なイルミネーションで色づく新豊州とは違い、その一室ではスマホの明かりだけを頼りにバイジュウはローテーブルの前で蹲る。テーブルに置かれた『二人前』のケーキには一口も口をつけずに、その耳にはイヤホンが付けられており、ひたすらバイジュウはイヤホンから流れる『声』へと耳を澄ます。

 

 

 

《バ〜イジュ〜ウちゃ〜ん♪》

 

「ミルク……」

 

 

 

 何度聞いたか分からない『親友』の声——。

 何度聞いても安心する『親友』の声——。

 

 それは、何度聞いても変わらない——。何度も聞いても一言一句、抑揚も間も変わらずに何度も何度もリピートする。

 

 

 

《あと4ヶ月でクリスマスだよっ!! 私へのプレゼントはもう考えてるのかな? えっへっへ〜〜〜。この時期にクリスマスプレゼントの催促はちょっと意地悪だったかも……。でもね、私すごく楽しみにしてるよっ!! ……おかしいな。出会ってからまだ一年しか経ってないのに。バイジュウちゃんとは何世紀も前から知り合っていたような感じでさ》

 

「……大げさですね」

 

《——おっと! あんた今、大げさですねって照れながら言ったでしょっ!? だって私の前ではバイジュウちゃんは、隠し事なんてできないからねっ!!》

 

 

 

 何度も聞いているのに、涙が溢れて止まらない。この後は初めて会った時のことを話してくれる。金庫の番号を教えて無神経だのと言われるが、バイジュウは気にはしない。だって、二人にとって『運命』とも思える出会いだと感じてしまったのだから。

 

 ——親友の声が止まる。バイジュウはそこで片側のイヤホンを外し、涙で腫れた目を拭いながら伝えた。

 

 

 

「……ミルク。クリスマスプレゼント、しっかり用意したよ」

 

 足元にある埃一つない包装紙で包まれたプレゼントをバイジュウは撫でる。それは『OS事件』の前から準備していた物。その数は一つではなく総勢19個——。すべてバイジュウがミルクを思って用意した物だ。

 

 今までこれだけ準備しても渡せるわけがないと、どこか諦めていた。だけどバイジュウは確信している。あの日、あの場所で確かに『親友』の『魂』はそこにいた。

 

 

 

 ——さらに、レンから霧守神社での顛末を聞いた。ギンを捕らえていた『ヨグ=ソトース』と呼ばれる存在が開いた『門』の奥に、今は亡きスクルドとミルクがそこにいたと。

 

 その時にギンの詳細を通して様々なことを知らされた。『守護者』という存在を。『門』や『因果の狭間』といった、現代では未だ計り知れない存在があることを。

 

 ……そしてレンがギンを『守護者』という鎖から解放したということを。それが可能だというのなら、当然バイジュウにはある考えが思いつく。

 

 

 

 

 

 ——『門』にいるミルクへと手を差し伸べることを。

 

 

 

 

 

「……絶対に取り戻す。それまでプレゼントはお預けでいいよね」

 

 プレゼントを再び元の場所に置き、バイジュウは窓辺から街を見渡す。

 

 凍てついた19年という長い眠り——。その間にバイジュウはミルクと一緒にカフェを回ったり、ゲームセンターで遊んだり、ショッピングを楽しんだりと普通の過ごし方があったかもしれない。

 

 それが取り戻せるかもしれない。例えどんな貴方になっていようと、親友であるミルクと一緒なら、どこに行ってもそれは色鮮やかで何よりも大切なクリスマスプレゼントになるに違いないとバイジュウは思う。

 

「私だってお預けされてるんだから。ミルクからのクリスマスプレゼント、すごく楽しみにしてる」

 

 願うようにバイジュウは呟き、プレゼントの一つを愛しく抱きしめる。親友との再会を『魂』から望み続けながら、中身を見て驚く親友の顔を夢想しながら、眠り姫は眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 ……プレゼントの中身について、我々第三者が知っていいものではないだろう。これは二人だけの宝物なのだから。



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第5節 〜孤独の酒盛り〜

ズブロッカ……(譫言)


 新年が明けてすぐのこと。レン達がとある場所で『宝くじ』を貰ってる時と同時刻、ギンは特にすることもないので町をのんびりと歩いていた。

 

 普段は霧守神社の一室で居候のように剣を嗜み酒を飲んでいるが、新年では参拝客が多く落ち着いて過ごすことはできない。教官としても本日はお休みのため、本当に目的がないまま町をただフラつくことしかギンにはできなかった。

 

「……落ち着かんのぉ」

 

 元男性の剣聖は、現代の価値観としても女性としても適応した身であり、身体年齢に相応しい現代衣装で練り歩く。動きやすいように運動性抜群のハイテクスニーカー。健康的な四肢のラインを見せる黒のスキニーパンツと群青色のパーカー。その上に厚手の白いコートを羽織りと、どこからどう見ても『普通の女性』として何一つ違和感なく町を彷徨く。

 

 

 

 ——そんな一人で寂しく、誘うように歩く絶世の美少女を見逃す男なんているわけがないのだ。

 

 

 

「そこの可愛い子ちゃ〜ん♪ 俺と一緒にお茶でも——ぁひぃぅっ!?」

 

「うおっ。いきなり手を出すから反応してしまうではないか」

 

 

 

 だが、そこはか弱い女性ではなく、天性の才能を持つ剣士として簡単にいなすのがギンという男(女)だ。声をかけた直後、肩に手を置いたナンパマンに条件反射で回し蹴りを入れて一撃で叩きのめしてしまったのだ。

 

 ギンとしてはナンパされたという体験自体には恐怖はなく「やはり霧吟の身体は美少女なんだな」と現代でも通じる見た目に嬉しくはあったりするが、容赦なく蹴りを入れたことによる申し訳なさは感じてしまう。

 

「……正月は町が静かで退屈じゃ。かといって喧騒を求めて中央に行けば人混みは多すぎて困るし、こうして突然絡まれると手を出してしまうしの……」

 

 どうしようかと悩むギンの視界に、ふとあるお店が目についた。店の前で掲げる看板には『Seventh Heaven』と書かれており、外から店内を観察しようとするが窓ガラスなどないので把握することもできない。しかしギンは嗅覚で分かる。ここには上質な『酒』があると。

 

 さらにギンは超人的な耳を澄まして店内の様子を探る。恐ろしく静かだ。二人の人物が軽く会話してること以外の音の動きが感じられない。

 

「……うむ。ここが良さそうじゃな」

 

 ギンは手頃だと感じて、そのお店の扉を開けた。扉の先には雨水・防寒・防音などの対策から二重構造となっていて、アルコール消毒液と傘の水切り用の機材、そしてダイヤルロック式の傘立てが置かれた空間となっていた。すぐ目の前に入り口と同じ中が見えないデザインの扉と壁があり、ギンは安息を求めてその扉も開けた。

 

「「いらっしゃいませ」」

 

 その先には二人の男女がいた。男の方は『特徴がないのが特徴』と言えそうなほど地味で垢抜けない顔をした黒髪の少年だ。逆に女性の方は長い赤髪、耳にはピアス、首にはチョーカーと特徴しかない。二人とも同じ服装をしていることから従業員だということがわかる。

 

「……やけに幼い見た目ね。ここはバーだから未成年はお断りだけど、年齢を確認できる物とかある?」

 

 赤髪の女性は拭き取っていたカクテルシェーカーを置いて、ギンの年齢の確認をしようとする。一応ギンは戸籍としては二十歳と定めているが、身体年齢は霧吟が生きていた時と同じ16歳ほどだ。見た目だけの判断なら未成年と捉えられても不思議ではない。

 

 ギンは自分の若さに酔いしれるように「すまんのぉ」と自身のIDカードを見せようと懐に手を伸ばした時——。

 

「大丈夫ですよ、店主。彼女は成人です」

 

 ……と男性店員のほうはギンを見極め、それに対して女性は「そうなんだ」と容易く納得してカウンター席へと通してくれた。

 

 内心ギンは「年齢を見て驚く顔が見たかったのに」と思いながらも、上機嫌に案内された席に腰を置いて店内を見回した。

 

 店員二人の雰囲気からは想像もできないダークでシックという大人びた空間だ。ギンには聞き慣れないが、大きくも小さくもない心地良く耳に入るジャズバラードが初顔でも親しみやすい空間を作り出す。

 カウンター席の横側にある壁は一面全てが水槽で構成されており、優雅に泳ぐ小魚を見てるだけで、心が洗われるような穏やかさがあった。

 

「お客様。本日はどのような気分でしょうか? 適した物をご提供しますよ?」

 

 女性の言葉を聞いてギンは考えるが、生憎とギンの舌は酒の良し悪しは分かっても、酒の種類や品質に関してはまるで知らない。どんな米を使っただの果物を使っただの、そういう拘りを持って飲んだことはいのだ。

 

「う〜む……。残念ながら特にないんじゃ。それに普段日本酒しか飲んでなくての……。何がどうとか詳しくないのだ」

 

「でしたらこれを機に試してみますか? ここのバーは私自ら世界中から名酒という名酒を揃えた一級品ばかり。きっとお客様の新しい世界が開けますよ」

 

「……しかし好みの味とかも無いしの」

 

「そういうことでしたら、無作為に味を気ままに楽しむ、というのも良いですよ。この時間帯と時期なら人はそう来ないので、長時間なりの楽しみ方もご提供させていただきます」

 

「安酒で時間潰してボッタくるなよ〜?」

 

「ご安心を。私のお店には安酒などないので」

 

 そう言ってこの店のバーテンダーである赤髪の女性は、先ほどまで洗っていたシェイカーと同式の別物を取り出し、鮮やかな手つきでその中に様々な酒と氷を混ぜると、シェイカーは魔法にでも当たられたように『空中で踊り出した』のだ。

 

 いや、正確にはバーテンダーがその場で軽く投げて回してるに過ぎない。だがその動作が一瞬すぎて常人の目であれば捉えきれないだろう。ギンだからこそ視認できる匠の技だ。相当手慣れたバーテンダーであるとギンは確信し、期待で胸が躍る。

 しかし、それはそれとして見惚れるほど精細で大胆な動きだ。どこか扇情的に踊ってるようにも見えて、ギンは目を見放さずに見続けてしまう。

 

「お待たせしました。こちらジンをベースに、ライムとレモン果汁を合わせたショートカクテルになります」

 

「……飲みやすい」

 

 そして提供された酒を一口飲んでギンは舌鼓を打つ。舌の上で踊り、喉を滑る果物特有の爽やかさがありながら、酒の風味を損なわずに引き立てる玄妙な味付けはギンにとって新鮮な物であった。

 

「カクテルというのは、こんな飲みやすい物なのか?」

 

「種類によりますよ。お客様は初めてとの事で、分かりやすくも奥深い物をチョイスしました。他にもこういうのがあります」

 

 今度は背の低いグラスを取り出し、そこに子供の握り拳ほどの大きさの氷と黄土色の酒を掛け合わせた物をバーテンダーはギンに提供した。

 

「うおっ、なんじゃこのデカイ氷は?」

 

「ウイスキーのロックと呼ばれるものです。最初はストレートな味わいを楽しみつつ、時が経てば氷が溶けてウイスキーの味も少しずつ変わる……。量はシングルにしておりますが、それだけでも十分に楽しめます」

 

「これは効くのぉ……! 酔いもいい感じに……!!」

 

「しかも同じ酒でも、色々とありまして……」

 

 続いても同様のグラスとウイスキーを用意するが、今度は噛み砕けるほど小さい氷の集まりと共にかき混ぜる。そして最後に一切れのレモン汁を搾り出し、そのままレモンを優しくウイスキーの中に浸した。

 

「砕けた氷とレモンとな」

 

「今度はミストと呼ばれる物です。違いは……飲めばお分かりになるかと」

 

「なんとここまで味が透き通るのか……っ! 口直しのように清涼感がある……!」

 

「…………一応そこそこ度数あるんだけど」

 

 赤髪のバーテンダーは呆れ顔になりながらも、「では今度はお酒に合う物を」と言って手を叩いた。するとギンの後方から、いつのまにか厨房に向かっていた男性店員が「お待たせしました」と言って、トレイにある品をギンの前に置いた。

 

「こちら冬野菜とエビを使ったアヒージョとなります」

 

「……美味いなぁ! 酒を主役としつつ、上っ面だけの没個性ではない舌触り……。しかも味わいは酒を殺さぬようにきめ細やかに調和しとる……。さては何かしらの酒を混ぜておるな?」

 

「ええ。こちら少々白ワインを入れております」

 

「お客様。チェイサー……口直し用の飲料水はご用意しましょうか?」

 

「うむ。お前ほどの腕なら何かあるのだろう?」

 

「もちろん」と言って、即座にバーテンダーは作り置きしていた容器から黄色の液体を新しいグラスに注いで渡す。それをギンは口にした時、爆竹のような衝撃が口内を駆け巡った。

 

「……おぉ!? 口で果汁が弾けとる!?」

 

「シードル、あるいはスパークリングと呼ばれる物です。リンゴを単純に使用しただけではありますが……」

 

「分かる、分かるぞ……。ウイスキーと合う風味のおかげで、口直しでさえも摘みになる……っ! 刺激と共に口がスッキリとして、アヒージョがまた新鮮な味となって酒が進む……っ!!」

 

 ギンの口は酒とシードル、そしてアヒージョを繰り返し食べ飲み続ける。まるで人間火力発電所だ。止まることなく動き続け、さらにさらにと酒を食欲を煽り、さらに発電量を高めて加速する。バーテンダーと男性店員は内心「めっちゃ食うな」と思いながらも、同様に止めることなくサービスと商品の提供を続けた。

 

「犯罪的じゃっ……!! うますぎるっ……!!」

 

 ジン、ウォッカ、テキーラ、ラム——。

 スティルワイン、スパークリングワイン、フレーバードワイン——。

 ビール、リキュール、日本酒、梅酒、焼酎——。

 

 その日、ギンはありとあらゆる酒の贅沢を極めた。先日、というよりクリスマスに悪酔いするまで飲み続けた時とは大違いだ。まさか現代の酒がここまで嗜好品として完成度が高いことにギンは心から感動してしまう。

 

(……詫びでも入れないといけんの)

 

 クリスマスでの無礼をどうしようとかとギンは考える。こんな酒の楽しみ方もあるなら、あんな飲み方するべきではなかったと。昔ながらの酒乱として酒を浴びるように飲むアメノウズメの影響を悪い意味で引き摺り続けたことに頭を抱えてしまう。

 

 それがバーテンダーには物足りないことへの訴えなのかと感じ取り、即座に「お客様」と言って次なるサービスを提案してきた。

 

「ご希望でしたら奥のダーツブースに案内して遊戯も嗜んでいきますか?」

 

「……そこまでは良い。楽しみはまた後に取っておくさ」

 

「なら、もっと新しい飲み方も試してみますか?」

 

「興味はあるがまだよい。こんな時間に人気のない酒場で二人でいるなんて、何かしら事情があるであろう? これ以上儂が狼藉するのは都合が悪かろう。さっさと会計して去るさ」

 

 思わずバーテンダーは本当に一瞬だけ息をするのを忘れて警戒心を見せるが、当のギンはわざとらしく欠伸をして「いやぁ、酔いが回って頭が回らんのぉ」と言いながら、懐からSIDから支給されているクレジットカードで支払いを終えた。

 

「また来る。ここは本当に良い店じゃ」

 

 そうしてギンは『Seventh Heaven』のバーから出て行った。まだまだ青くて晴れ渡る空。少し寒い風で酔いを覚ましながら、ギンはあそこで堪能した味を思い出していく。

 

 

 

 ——そして気づく。店員の名前を聞き忘れたことを。

 

 ギンは後悔する。バーテンダーの名前を聞けばよかったことを。あのような……あのような……と考えたところで、ギンは自分の記憶に違和感を気づいた。

 

 

 

 ——バーテンダーの顔や性別が『思い出せない』ことに。髪色さえも思い浮かべないほどに記憶が削られている。

 

 

 

「……本当に酔い過ぎたかの。また行く時にでも覚えればよいか」

 

 

 

 少々不可解な所は覚えはしたが、ギンは気にしないで街を再び巡る。日中からの酒旅はまだまだ始まったばかりなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——ふぅ。何だったのかしら、あの娘。こんな時間に来る物好きだしちょっと驚いちゃった」

 

 ギンが退店してから十数秒後。カウンター席の下にある二重玄関が映るモニターを見て、赤髪のバーテンダーは緊張の糸を解いたように息を吐いた。

 

「仕方ないよ『イナーラ』——。ギン爺は酒が大好きだからね」

 

「お疲れ様。……成人だと知ってたり、ギン爺って妙な愛称で呼んだり、もしかしなくても『アレン』の知り合い?」

 

 赤髪のバーテンダーであるイナーラは、食器を洗い終えて戻ってきたアレンを労いながらもギンについて問いただす。それに対してアレンは少し懐かしそうに目を細めて言った。

 

「……『だった』かなぁ。ギン爺は俺のこと知らないよ」

 

「……そうか、ごめんね。ちょっとデリカシーなかった」

 

 それだけでイナーラは察した。イナーラでもまだ把握しきれないほどの色々と事情がアレンにはある。ここで触れるのは信頼を失うと感じて、それ以上は踏み込みはしなかった。

 

「気にしないで。今はイナーラもいるし、あとセラエノもいる」

 

「そういえばセラエノちゃんはどう? 何かしら進展あった?」

 

「これがダメダメ。やっぱりコミュニケーション能力が致命的だし、履歴書の住所欄やPRに『プレアデス星団』とか未だに書くんだぞ? 独り立ちするには全然ダメダメ」

 

「二回言うほど深刻か。まあ、側から見なくても不思議ちゃんだからね。……だからといって、こうして貴方がここで小銭稼ぎする必要なくない?」

 

「食い扶持が増えたんだから、金が多いに越したことはない。……あいつ結構金かかるし」

 

 

 

 アレンは同居中のセラエノの姿を思い出す。毎日ネットサーフィン三昧、テレビ視聴三昧のどこからどうみてもダメ人間の見本みたいな生活をする芋感ジャージ姿の金髪の少女を。野良猫と「ニャーニャー」と大真面目に会話して『断章』に情報を刻み続ける直向きな少女の姿を。情報収集と称して頑張って料理の腕前が上がり続ける努力家な彼女の姿を。家庭菜園で採集する時に「これも命。有り難く頂こう」と律儀に感謝を述べる優しいセラエノの姿を。

 

 それは本当にアレンにとって得難い日常だった。一目に付かないようにするために狭いアパートの一室借りる中、いつまでも帰りを待って食事を楽しんでくれる同伴者。一時的でも孤独なる旅路を一緒に歩んでくれる彼女は、アレンにとってかつて取りこぼした日常の象徴みたいな物だ。

 

 それが少しでも長く続けられるというのなら——。アレンは多少の遠回りをしてでも繋がりたいと思いたいほどにセラエノが大事なのだ。

 

 自身が背負った使命からは逃げることも、背くこともできない。それでも、その間だけでも、僅かでも失った日常を抱きしめたいぐらいには、アレンはどこまでも『普通の少年』だった。

 

 

 

「……それに今度望遠鏡買う予定だしな」

 

「甘やかし過ぎぃ〜〜。北極行って星が見れなかったこと気にしすぎでしょ」

 

「仕方ないだろ。あんな顔で「見えなくて残念だ」って言われたら、こう……なんというか……胸が苦しくなるだろ?」

 

「いやいや!? 私にはセラエノちゃんの表情見分けつかないよ!?」

 

 昼過ぎのバーで、世界の闇に生きる男女が少しばかりの陽光を浴びながら、彼らなりの『日常』を満喫する。それが次なる使命に赴くまでの短い物だとしても。

 

「……ところでギン爺って娘は何だったの? 教えれるなら教えてほしいにゃ〜〜♪」

 

「SID所属の実技訓練教官」

 

「SID所属って————ゔぉい!? 私、カードで決算しちゃったよっ!!? 履歴に残ってるよ、ここの会計記録っ!?」

 

「……なんかまずいことしちゃった?」

 

「まずくはないけどさ……。ここは普通の店だから、SIDの目が光るのが従業員に申し訳なくてね……。私もここに長居できないし……次はどこにしばらく潜伏しようか……」

 

「……ぁー、ごめんなさい」

 

 イナーラは「いいよ」と特に気にもせずに、痕跡を極力無くすためにレジのデータを照合したりして忙しなく動き始めた。

 

「となると俺もここのスタッフも今日までか……。新しく日雇い探すのも面倒だし、どこかイナーラの融通効くとこない?」

 

「あるけど……恥辱を味わうことになるけどいい?」

 

「そんな裏側の仕事しなきゃいけないの!?」

 

「いいんや。私が融通効くのが新豊州ではあと三軒あるんだけど、一つがタクシー会社、二つは不動産。どちらも資格が必要だからアンタにはダメ」

 

「……では、最後の一つは?」

 

「『女性限定』のアパレルショップ♪ スタッフも女性だけだから、もし働くなら『女装』することになるわね♪」

 

「……頑張って職探してくる」

 

「もう決定事項で〜す♪ あんたタッパ低いし童顔だから平気平気」

 

「えぇぇぇぇえええええええ…………」

 

 男女二人は次なる安息を求めて歩き始める。やがて来るであろう使命が訪れる時まで、二人は健やかな日常を二人なりに過ごしながら。



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第6節 〜いざ、ショッピング!〜

 ——1月某日。新豊州商業地区。

 

 現在レン、アニー、ラファエル、イルカの四人組は新豊州商業地区で一番と名高い大型総合デパート『イオフ』に来ていた。

 

 

 

 目的はただ一つ——。年末年始のバーゲンセール争奪戦——。

 

 …………には乗り遅れたが、とりあえず約束は約束なのでショッピングへと来たのだ。

 

 

 

 先日、レン達は実際に行こうとした。その前に空腹を満たそうと焼肉店に向かった道中、何故か奇妙なお店で、奇妙な『宝くじ』を貰い、その後実際に『宝くじ』をスクラッチしたところ————残念なことに、それ以上のことは四人揃って記憶が朧いでしまって何も覚えてない。

 

 だが流石に『宝くじ』を買う前までの事を忘れてはいない。その騒動で有耶無耶になってしまったが、後日ラファエルが「結局ショッピングしなかったわね」と言ったところ、アニーが「そういえばそうだね」と同意し、イルカは「うん」と菓子を食いながら頷き、レンは「じゃあ行こうか」と話があって今に至る。

 

「……まあ、やっぱり特売品は少ないわよね」

 

「見るからに在庫処分の格安福袋しかないねぇ〜〜。値段的には販売価格からすればお得ではあるけど、役に立たないものや型落ちが多いから結局使わずじまいだし……」

 

「……ジャンクパーツ、ない? イルカ……プロジェクターの性能上げたい」

 

「むっはー!! 対象ゲーム四本買うと一本無料だってさー!! こりゃお得だぜーーっ!!」

 

「…………限定的な25%オフに乗らされる買物弱者になってるわね……。ポイント付与の対象外だし、あんまり賢い買い物じゃないわよ」

 

 四人は早速各々の気持ちの赴くままにデパートの売り場をみんなで回り始める。イルカは機械関連、レンはゲームを中心に目を光らせており、アニーは「子供みたいにはしゃいでるなぁ」と生暖かく見守ってしまう。

 

「……良いわね、これ。インテリアとして使えそうだわ」

 

「えっ、何そのキョンシーみたいに半額の札貼られた石膏像? しかも無駄に大きいし」

 

 一方ラファエルは謎の特売品に目を付けたことに、アニーは引き気味であった。そんなことをラファエルは気にも止めずに「これもいいわね」と次々と謎めいたインテリアへ目移りしては即決でカード決済していく。アニーからすれば「どっちが購買弱者なのか」や「これがブルジョワの金銭感覚なのか」と思いながらも、財布と相談しつつアニーも自分の買い物を楽しもうと全店舗を細かく見てみると——。

 

「光るブラジャーっ!? 超魅力的〜〜!!」

 

 ……とまあ、ご覧通り全員どこかしらおかしいセンスを持っていた。それでも買い物は楽しいし、皆でお揃いのマグカップを色別に購入したり、本屋でファッション雑誌を見たり、ゲームコーナーで『太鼓の鉄人』や『パックウーマン』を興じたり、時には加湿器や小顔ローラーといった女性らしい美容用品などを見ては「これいるのか?」とレンは思いながらも楽しく過ごす。

 

「いやぁ〜〜、買った買った! 大勝利!」

 

「イルカも買えた。『ガセ・ネプチューン』と『ガセ・プルート』……。超次元、お得」

 

「ねぇ、ラファエル。さっき本屋でコッソリと買ってた本って何?」

 

「な、何のことかしら。《悪役令嬢は緊縛がお好き》とか知らないわよ?」

 

 そしてほんの少しの休憩時間。四人はデパート内にあるフードコートで食事を楽しむことになる。

 

 レンは『はなまろうどん』で購入した温玉うどん中盛と惣菜全種盛りを豪快に頬張り、ラフェエルはボンゴレ・ビアンコを気品漂う動作で食す。アニーとイルカはネギマヨと明太子の二種類のたこ焼きをシェアしながら食べあっていた。

 

「ん〜〜。次どこ回ろうっか」

 

「私は洋服を見たいわね。着る服が足りなくなってきたから」

 

「……あんだけ服あるのに?」

 

「はぁ? 季節ごとや天気、気分で考えたら全然足りないくらいよ。アンタ、ファッションに興味は……。……興味は…………?」

 

 ラファエルの顔色が少しずつ変わる。最初は意識の低いレンに対して説教しようと険しかったが、次には品定めをするように目を細ませ、最終的には新しい玩具を手に入れた子供のようにご機嫌な笑みを浮かべた。

 

「良いこと思いついたわ。アンタのセンスを試したいから今から一人で服買ってきなさい」

 

「はぁっ!!? いや、はぁっ!!?」

 

「あっ、それ私も薄々考えてた! だってレンちゃんって、部屋着以外は学生服だったり、戦闘服だったり、作戦用に用意された物だったり……レンちゃん自身が選んだ服って見たことないんだよね!」

 

「今こうして私服着てるだろう!?」

 

「馬鹿。それは『男』としてでしょ?」

 

 

 

 ——お気づきだろうか。実はラファエルが、今日に限ってレンを一回も『女装癖』と呼んでいないことに。それはレンが本日着ている服装に理由がある。

 

 レンの服装は可憐な見た目からは想像しにくい活発な物だ。上は白色のTシャツの上に青のデニムジャケット。下は群青色のダメージジーンズに白のハイテクスニーカー。そして頭に赤色のキャップを前後逆に被るという、一見してヤンチャな男の子に見える服装だ。

 メンズ用ではサイズが合わないのが多く、レディースデザインの物をレンは着ているが、その特徴がなければ男性と見間違える可能性もありうるくらいには女性としての華がないファッションを現在している。

 

 

 

「何か問題ある?」

 

「問題の定義が別ね。私達が言ってるのは『男』としての服装じゃなくて『女』としての服装をどこまで磨いてるのか知りたいの」

 

「えぇ〜〜……。着れれば服装とかどうでも良くない?」

 

 レンもお年頃であるため、お洒落に興味があるかないかで言えばあるが、そのレベルはあくまで外で見られた時に『ダサい』か『ダサくない』か程度の物だ。外で不必要に視線を浴びなければ何でもいいと思っている少年心からすれば、ラファエルの拘りは若干理解し難く、思わず頬を膨らませて文句を垂れてしまう。

 

「どうでも良くないわよ。私はね、完成されない作品やデッサンの狂った絵画を見ると修正したくてたまらないの」

 

「……えっと?」

 

「ちっ、ここまで鈍感か。要は貴方自身のセンスで『女性』の服を見繕ってきなさい、って言ってるの。男と女では求められるセンスが違うの。そういう部分が養われてるか確認してあげる、ってこと」

 

「いやいや!? 学校や作戦は仕方ないとして、日常では極力女の子の格好しないから!」

 

「でもでも〜〜! レンちゃんだって考えたことない? 女の子を自分で着せ替えてみたいなぁ〜〜とか!」

 

「そりゃ……その……あります……」

 

 現に『ゴッドハンター』や『モンスターイーター』では女性アバターを使う時は、世界観に合った自分の理想的な女性像を思い浮かべながら性能度外視でプレイしています、とレンは心の片隅で思う。

 

「じゃあさ! 自分のことどう思う? 男性的な目で見てっ!」

 

「えっ!!? えっと…………その……か……」

 

「か?」

 

「…………可愛いと思ってます……。け、けどそれとこれとは……」

 

「寝間着がウサギさんの模様入ってるのに?」

 

「うっ…………!」

 

「マサダの時だってキャミソール選んだよね?」

 

「うぐっ…………!!」

 

「もっと可愛くしたいと思わないと着ないよね。男らしく寝るなら、それこそTシャツ一枚でもいいし……つまりそれって——」

 

「認めますっ! 自分でもちょっと可愛い服とか着たいとか思ってますっ!! 女の子らしい服着たいなぁ〜〜とか思ってますっ!!」

 

「うんうん♪ それが普通だって♪ 私だってもし仮にカッコいい男の子になったら、それに合った服を見繕うと思うもん♪ ね、ラファエル?」

 

「え? あー……うん、そうね……。着るん、じゃない?」

 

「何でそんな歯切れ悪いの?」

 

「…………親戚に私と似た奴いるのよ。それが男だから、それで想像してただけ」

 

「ラファエルと似たラスボス系がまだいるの?」

 

「ラスボス系は余計よ。……ともかく一度くらい自分の意思で、自分の趣味で、自分のセンスで『女の子』としてファッションしてみなさい」

 

「いや……それでも……」

 

「イルカも見てみたい。レンお姉ちゃんの可愛い服」

 

 ——それが決め手となった。

 

 純粋無垢な子供の視線に当てられては、我らの可愛いロリコンであるレンちゃんは断るに断れない押しの弱さを発揮する。

 レンは自分の『理性』と『欲望』の天秤を、罪悪感と共に思いっきり『欲望』へと傾けてフードコートから飛び出し叫ぶ。

 

「こんちくしょぉぉおおおおおっ!! こうなったら誰がどう言っても文句言えない服にしてきてやるぅぅううううううう!!」

 

「頑張ってきてね〜〜♪」

 

「面白かったら、服の支払いは立て替えてあげるわ」

 

「頑張って」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……とはいってもなぁ」

 

 場所は変わり、イオフ・ファッションフロアの階層。今や入り慣れた女性用トイレにて下着を正しながらレンは鏡を見る。

 

 自画自賛で気恥ずかしさは覚えるが、レンからすれば『レン』という女の子の姿は結構可愛いとは思っているのだ。黒を基調とした赤メッシュの地毛。宝石のように綺麗に輝く赤い瞳。非常に整った肢体。今や絶滅種でもある大和撫子の素質を持つ風体は、レンの好みに結構刺さっているのだ。

 

 とはいっても性的対象に見れるかと言われたら微妙だ。元が元なためか、どうしても『母親』の顔が散らついてしまう。記憶は曖昧で顔つきもよく覚えてないが、その黒髪と優しくて温かい手は確かに覚えている。だからこそレンが『レン』という顔を見て、真っ先に連想するのが『母親』であり、どうしてもそれ以上の気持ちは何も湧かないのだ。

 

 ……母さんが俺ぐらいの時はこんな顔だったんだろうなぁ、と少しばかり現実逃避しながらレンは改めて考え直す。

 

 啖呵を切って飛び出したのは良いものの、生憎と化粧、口紅、香水、服装といった女の子として必需品の知識でさえ赤点回避が精一杯なレンには、今回のこれは中々に厳しいのだ。

 未だに化粧も上手くいかず、頬を無駄に赤くしてしまった時にマリルに言われた「アソパソマソショーに出るのか?」というのは今でもレンの心に深々と突き刺さっている。それほどまでに知識が身についてない。

 

「できる……。できる……」

 

「ねー、ママー。なんであの人、鏡の前で2回も言ったのー?」

 

「きっと進撃したい年頃なのよ。仕方ないの」

 

 レンは鏡の前で自分にはどんな服装が似合うか想像するが、やはり半年間養った女子力と、十数年一緒だった男子力では後者の方が軍牌が上がってしまい、無意識的にボーイッシュな物となってしまう。

 

 5分ほど考えたが答えはでない。しかし方針は何となく決まった。とりあえず青系統の色は極力使わないようにしようと。赤メッシュの髪は自分でも結構目立つと思っており、それと正反対である青系統の色は全体がチラつき過ぎて見栄えが悪いと考えたからだ。

 

 あとは数打てば当てるの精神でレンはファッションフロアを隈なく回る。最初は『ユニシロ』や『UG』で安く済まそうと考えたが、ここで問題が発生する。

 

「に、似合わねぇ……」

 

 見慣れたデザインによる没個性は、赤メッシュの強調性と噛み合わずに見事に見栄えが悪かったのだ。かといって柄が目立つデザインを採用しても悪目立ちが過ぎてこれも似合わない。

 

 途方に暮れてレンは休憩がてらタピオカミルクティーを飲みながら考え直す。まさかここまでファッションに苦労するとは、と。

 

 ベンチに座りながら某高級洋服店に飾るマネキンを見る。冬にあったブラウン色の厚いコート、タートルネックの白いセーター服、黒いミディスカート、鼠色のタイツ、白のピンヒールとラファエルが似合いそうなものだ。それをレンは自分に着たのを想像してみる。

 

「……いや、似合わねぇな」

 

 これも没案になった。今度は服に『着られてる』という印象が出てきてしまったからだ。170cm手前もあるモデル体型のラファエルと、現在162cmと半年前より1cm伸びたレンでは結構身長差があるのだ。ラファエルが似合う以上、レンが似合うわけがない。

 

 少しずつ方針は固まっていくが、それでもどうすればいいか分からない。時間はあっという間に一時間を超えて、レンはスマホを確認するがアニー達から急かす連絡はない。きっと時間がかかるのは予定通りなのだろう。レンは一安心しながらも『まだ時間かかるかも』と一つ連絡を入れ、その直後にアニーから『分かってるよ〜〜。あと三時間くらい悩んでも大丈夫だから!』と返答がきた。

 

「流石にそこまではかからないよ」と内心思いながら、レンは飲み干したタピオカミルクティーの容器をゴミ箱に入れて再度回り始める。

 

 

 

 ——そして二時間後。ついにレンは答えを見つけた。

 

 

 

「わからーん!! 全然わからーん!!」

 

 どんな服装を合わせても明確な答えが見つからない、という答えを見つけた。未だかつてないほどレンは、ナルシスト極まる恵まれた外見に対して怒りを感じたことはない。

 

 なんだ、この赤メッシュ。主張が強すぎてどうしようもない。上手く調和することがなく、服か髪かのどちらかが悪目立ちするしかないのだ。

 

「あれ? どうしたの?」

 

 転げ回る勢いで頭を抱えるレンに、聞き覚えのある声が届いた。決して聞き馴染んではおらず、だというのにこの距離感が近くて無遠慮なありそうなところ。そして飄々とした感じ。それは第二学園都市であった騒動で協力してもらった人物に他ならない。

 

「——イナーラ!? なんでここにいるのっ!?」

 

「野暮用。ちょっと色々とね。……で、話は戻るけど、レンちゃんはどうしてるの? 何か頭抱え込んでるけど」

 

「いやぁ……その……。新しい服買おうと思うんだけど…………あの……」

 

 しどろもどろになるレンの様子を見て、イナーラはその仕草と雰囲気から何かを察したように言った。

 

「……女の子の服が分からないって感じ?」

 

「そうっ! 話が早くて助かるっ!」

 

「じゃあ、店員のオススメ聞いてコーディネートさせるのも手よ。まあ大抵売れ筋の高い物を推されるだろうけど、ある程度は保証されるし」

 

「でも、それだと自分で選んだことにならないし……」

 

「ああ〜〜、そういうお年頃? ふ〜〜ん……気持ちはわからなくもないけどね」

 

「それで自分で選んだんだけど、何かどれも似合わなくて……」

 

「似合わない?」とイナーラは多少の疑問に思いながらレンの周囲を回って観察し始めた。一歩進むごとに「あー」とか「ふむふむ」とか「そういう……」とか言われたら、レンからすれば自分がどんな風に見られてるのか気が気でない。

 

 三周ほどしたら、イナーラは「なるほど」と納得した様子を見せて、普段のお茶らけた雰囲気と共に優しげな笑みを浮かべてレンに言う。

 

「うっし。じゃあ、ここでイナーラさんからアドバイスを上げよう」

 

「アドバイス?」

 

「そそっ。この程度なら大丈夫でしょ」

 

 すると、イナーラは優しい手つきでレンの背中をお腹を撫でた。レンは思わず「ひゃう」と小さな声を漏らすが、イナーラは特に気にもせずに「やっぱりか〜〜」と呟いた。

 

「レンちゃんはまず、背筋を伸ばすとこから始めよう」

 

「背筋?」

 

「レンちゃんって、若干姿勢が前のめりなの。スマホとかゲームとかで覗き込んでる癖もあるんだろうけど、一番は胸の重みに慣れてない感じがね」

 

「うっ……」

 

「だから姿勢を矯正しやすいようにコルセットから中心に組み立てたほうが絵になるよ。……私もそうだけど、レンちゃんみたいな目立つ髪色は堂々としないとまず始まらないから」

 

 堂々とする——。それは盲点だったとレンは思う。

 

 確かに今まで自分は『男』として生活してきたから、こうやって改めて服装を選ぶ時にある『女』としての自信が無かった。それが姿勢や精神にも出て、どんな服を見繕っても内心どこかで『似合わない』とか思ってしまい、自分自身に自信を持つことがなかった。それで本来の主役である『自分』がなくなり、次に目立つ『赤メッシュの黒髪』が主役となってチグハグになっていたのではないかと感じる。

 

 改めて今まで『自分の意思で選ばずに』着た服装を思い浮かべる。

 

 メイド服、ドレス……どちらもコルセットで背筋を伸ばしていた。ソヤの時に着た物は、ヒールや網タイツで足が楽では無かったから姿勢を正さないと負担が大きくなっていた。戦闘服や巫女服は訓練ということもあって、動くために常に気を張っていた。何にせよ、今の自分と違い無理矢理でも『自分』だと主張するような意識や姿勢があったのだ。

 

 そうか、この髪色を活かすには——多少冒険するくらいの気概がないとダメなんだ。とレンは本当の答えをやっと見つける。

 

「あとは『何か足りない』と感じたら、服を変えるんじゃなくて小物で補うと良し。私みたいにチョーカー付けたり、ピアスとかでさり気なく色合いを増やしたりしてね」

 

「ピアスか…………」

 

「ピアスでも穴開け式もあれば、磁石で挟むのもあるから怖がらなくていいわよ。それに小物と言っても色々とあるから。指輪でもいいし、ブローチでもいい……まあその辺は服装と本人のセンスよ」

 

 なるほど、とレンは思わずスマホを開いてメモ帳アプリに記入してしまう。

 

「これぐらいかな。後はレンちゃんのセンスで頑張ってね」

 

「ありがとうっ、参考になった! ……けどやけに具体的というか、アドバイスが的確というか……」

 

「あー……レンちゃんと似た子を最近手解きした、からかな……」

 

「俺みたいなファッション音痴いるんだな……」

 

「まあ、今まで関心持ってなかったら仕方ないんじゃない? これから頑張ればいいんだし。……あっと一番重要なアドバイスを忘れてた」

 

「一番重要?」

 

「——楽しみなさい。それが何よりだから」

 

 そう言って、イナーラは足早に群衆の中に呑まれて消えていった。一連の助言は、レンにとってかなり考えさせる物であった。

 

 

 

 何よりも『楽しむ』——。そんなこと、男の時でさえも考えたことがなかった。服なんか着れればいいと、とりあえず手頃な値段と着心地が良ければそれでいいと適当に買っていた。だから『楽しむ』という事自体を意識するのは今までなかったのだ。

 

 

 

「……よし。なら楽しもうかっ!」

 

 心機一転してレンは自分に合う服を探す。近くのアパレルショップに入り、コルセットを中心にして何が合うや、どんな色合いなら赤メッシュを活かせるのか考える。

 

「違う。これも違う。……これなら近い!」

 

 コルセットといっても種類は様々であり、それが変われば下地となりシャツのデザインも色合いも当然変わる。さながらそれはRPGでパーティを編成する時のワクワク感と似ている。

 

 何をどうすれば可愛くなるのか。可愛いと言っても、どういった可愛さなのか。花のように可憐なのか、雲のようにメルヘンなのか、虹のように煌びやかなのか。意識すればどれだけの可愛さがあるのか。レンにとって、それは『新鮮な衝撃』を受けたのだ。

 

 楽しい、こんなにも悩むのが楽しい——。

 

 そして————。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「意外と悩むね、レンちゃん。……メタモル見つかった?」

 

「私も予想外だわ。暇で一回書店で色々見てきたのに、それでも戻ってこないなんて。……私はまだよ」

 

「鯛焼き美味しい。……見つけたけど星4」

 

 

 

 なんと合計『5時間』経過したのだ。アニー達からすれば4時間以内には決まると思っていたが、意外にもレンは悩みに悩み抜いている。流石の三人もただ駄弁って待つのは限界だったらしく、アニーもラファエルもイルカも正月にやった『パケットモンスター』を一緒にプレイしていた。

 

「おまたせっ! これならどうだ!!」

 

 そしてついに話題の中心人物となるレンが帰ってきた。三人とも「やっとか」と思いながら、声がした方へと振り返り、ある者はベタ褒めしようと考え、ある者は笑い転げようと考え、ある者は夕飯なんだろうと考えながら、レンがいったいどんな服装を選んだのか興味深く目にした。

 

「どうだ? これが俺流のファッション!」

 

「お〜〜……。お?」

 

 イルカのリアクションはどこか淡白であった。

 

「お〜〜! 似合ってる!」

 

 アニーは心から褒め称えてくれる。

 

「…………ふーん」

 

「なんでラファエルだけ反応薄いんだよっ!!?」

 

 そして今回の言い出しっぺであるラファエルの反応はイルカ以上に薄かった。しかし別に興味がない、というわけでもなく、むしろその逆で目の色は品定めするようにレンの服装を観察し続ける。

 

 それは可憐で清楚で上品という、ある意味では『男が理想とする女の子』みたいな可愛さを持つ服装であった。

 

 胸元にフリルが装飾された縦柄の白黒ストライプブラウス。背筋を整えるサスペンダー付きのコルセットタイプのゴシックスカート。頭部には黒の横ストライプが入った白のベレー帽。下半身はワンポイントとしてあしらった薄い赤のリボンのソックスと、単純な黒のミドルブーツ。そそして色合いを増やすための水色の肩掛けトートバッグ。極め付けには、とても元男性が意識したとは思えない少しばかりの艶を出す程度のピンクのマニキュア。

 

 これがレンが全力で、凝りに拘った『可愛い』と思う服装。

 

 

 

 つまり俗に言う————。

 

 

 

「……『ゴスロリ』ねぇ」

 

 ラファエルは若干小馬鹿にしつつも、満足気な笑みを浮かべた。それに対してレンは「何か文句あるか」と不貞腐れたような表情をするが、ラファエルは「上出来よ」と意外にも素直に褒めてくれた。

 

「素直に良いと思うわ、女装癖」

 

「え……? あのラファエルが素直に褒めてくれた……?」

 

「似合ってるんだから褒めるでしょ。」

 

「つまり……?」

 

「私から見ても可愛いってことよ。宣言通り、私が立て替えてあげる」

 

「————やったぁあああああああああ!!!! ラファエルに褒められたぁぁあああああああ!!!!」

 

「あのラファエルからお褒めの言葉をもらえるなんて、半年間も女の子してた甲斐があったねぇ〜〜!!」

 

「ちょっと待ってアニー? 私って普段そこまで堅物に見られてるの?」

 

 こうしてレンちゃん初めての一人で決めたファッションは平和に幕を閉じた。自分で決めた服装もあってか、レンはその後も痛く気に入ったご様子で外出時もゴスロリファッションを決めて、その度に周囲の男性を視線を釘付けにしたのは本人はまだ知らない。

 

 なお、この事に関してマリルに「大丈夫か、アイツ?」と少しばかり不安そうな声を漏らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ラファエル〜〜、明日買い物行こぉ〜〜」

 

「わ、わかったわ……」

 

 後日。今回のショッピングが余程お気に召したのか、何か変なスイッチが入ったレンに、ラファエルはしばらく振り回れることになるのはまた別のお話。



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第7節 〜バイジュウの休日〜

 バイジュウの朝は早い。冬もまだ続く2月という季節。彼女はいつも通りの肩丸出し、太もも丸出し、防寒性皆無の白いワンピースで起床する。

 

 時刻は五時半。朝日も昇り始めるかどうかの時刻のため、普通の人なら眠気も消えず、挙句には『休日』という惰眠を貪ってもとやかく言われないのなら、温もり溢れる布団でもうひと眠りをするが自然というものだろう。

 

 しかし、バイジュウは違う。彼女は自身が持つ特異体質もあって一定の体温が保証される以上、身体的な温もりを求める必要もなければ、体温が一定のため睡眠の質に支障をきたす事なく理想的な休眠をとって覚醒することができるのだ。

 逆に一度寝てしまえば、中々起きないという裏返しでもあるのだが、そもそも人間は健康で文化的でなければならないのだ。健康でいるには睡眠は大事なのだから、そこの部分を誰かがとやかく言う権利はない。

 

「♪〜」

 

 鼻歌混じりで朝一番のホットミルクを淹れて気分を起こすのは、バイジュウにとってお気に入りの時間であり、同様に睡眠前に飲んで入眠するのも密かな楽しみだったりする。

 

 保温性のマグカップに注ぎ終えると、そのまま本が乱雑に山積みにされたローテーブルの前へと向かい、何があっても流行りそうにない顔文字はプリントされたクッションへと腰を置いて読書を始める。

 

 これがバイジュウの休日の過ごし方だ。

 朝はテレビも付けずに、小鳥の囀りと早朝ランニングで駆け出す足音、それに指が本を擦る音を耳にして、一人読書にふけいる。

 

 これを基本的に朝9時まで行う。朝食代わりでもあるホットミルクをたびたび口にしてはテーブルに置き、次の本へと手を伸ばして再び読書に戻る。それの繰り返し。

 

「…………もう肩が凝るほど読んでしまいましたか」

 

 論文を一つ、技術書を一つ、冒険小説を一つ、流行りの漫画を一つ読み終えたところでバイジュウは風呂場へと向かい、凝りに凝った肩を解してリフレッシュするのも欠かさない。

 

 そして入浴終了。自分自身には無頓着な部分があるせいか、入浴後もバイジュウの服装は別のとはいえ、先ほどと同じ白いワンピースであった。

 とはいっても、これから外出する手前それだけでは肌寒い。無論バイジュウではなく周りに人物がという意味のため、バイジュウは周囲に必要以上の注目を浴びないために、厚みのあるタイツを履き、裏生地が羊毛で編まれた厚手のコートを羽織って外へと飛び出した。

 

 まだま肌寒い新豊州。辺りを見れば防寒着と重ねに重ねてなお寒がる人集り。バイジュウは「この体質、意外と便利だなぁ」と再度実感しながらある場所へと歩き続ける。

 

 向かう先は行きつけの図書館。それも国立国会図書館だ。バイジュウは一般者用の図書館へと入ると、ロッカーの中に服やリュックといった物を仕舞っておく。図書館では盗難防止のためにリュックなどの色のついた入れ物は禁止されているため、バイジュウは別途で用意していた無色透明のトートバックに飲み物や利用者カードを入れて受付カウンターへと向かった。

 

「あら。本日も朝一番からご利用ですか、バイジュウ様」

 

「ええ。いつものお願いします」

 

「かしこまりました。2021年の2月3週目の各社新聞よろしいでしょうか?」

 

「はい。間違いないです」

 

「ではご用意いたしますので、30分ほどお待ちくださいませ」

 

 これもバイジュウの休日の一つだ。時間があれば、自分が眠っていた19年間という長い時間——。その間に何が起きたのかを、ありとあらゆる媒体を使って確認しているのだ。

 現代では紙媒体なんて手軽でもなければ、本当に塵ほど些細とはいえ資源の無駄ということもあって電子媒体が主流だ。しかし、こういう時は紙媒体のほうが『当時の価値観』としての『偏った主観的な情報』という『生きた情報』があるため、一概にどちらの方が良いとは言えない。バイジュウが今まで眠っていた間、どのようなことがあったかなんて電子情報という『現代の価値観』という『公平で客観的な情報』だけで知った気になるのは烏滸がましいのだ。そういう面もあって、バイジュウは異質物によって科学が急発展した今でも紙媒体は大好きなのだ。

 

「……待ってる間に、今日も何かしらの雑誌でも見ますか」

 

 そう思ってバイジュウは特に何を見るかを決めずに、雑誌や文庫本を管理するコーナーへと足を踏み入れた。ここは『雑誌』といってもジャンル自体は様々だ。ただニュースを纏めた情報誌もあれば、ファッションを取り扱った物、車やゴルフやパチンコといった娯楽を取り扱った物もある。果てにはアダルト雑誌もあるのだが、これ受付や端末を通さないと閲覧できない物となっている。

 

 バイジュウは「うーん」と、贅沢に悩みながら小説を取り扱う本棚へと足を踏み入れた時、ふと目に綺麗な少女の姿が目に入った。

 

「う〜〜ん……!!」

 

 それは不思議な少女だった。ここら近辺では全然見ない学生服と白髪。完全記憶能力を持つバイジュウからしても『初めて見る』顔だ。身長はバイジュウと一緒か、あるいは少々高い。その少女は、あと数センチほどの高さで届く書物へと頑張って手を伸ばし続ける。

 

 ……バイジュウは少女の足元のすぐそばを見た。そこには小さな脚立がある。それを足場にすれば、目当ての書物なんて軽く取れる程度の高さを持つ脚立が。

 

「あの…………」

 

「う〜〜んっ!!」

 

 しかしバイジュウの声は少女に届く事はなく、依然として夢中で頑張り続けて手を伸ばし続けている。まるで『普段なら届いている』と言いたげに奮闘する少女を見て、バイジュウは少し笑いながら、横から脚立を使って、少女が手の先にある書物を手にして渡した。

 

「これで間違いないでしょうか?」

 

「あっ、はい。ありがとうございます」

 

 虫も殺せぬような大人しそうな見た目と相反せず、性格もお淑やかな物だと、その物腰からバイジュウは感じとる。

 改めてバイジュウは少女を見た。宝石のように煌めく純粋無垢な赤い瞳。この世の汚れを知らぬような白い肌。そして何物にも染まらぬ美しさを持つ白色で艶のある髪。まるで『天使』のように綺麗すぎることを除けばただの普通な少女のはずなのに、バイジュウにはどうしても違和感を感じてしまう。それは『魂』を視認できるがゆえなのか、バイジュウには少女の姿がまるで違うように錯覚してならない。

 

 

 

 ——彼女が『悪魔』に見えて仕方ないのだ。

 

 

 

「……どうしたんですか? 何か物珍しいのが付いていますか?」

 

「いえ。私は普段からここを利用してるんですが、貴方を見た事なかったので……」

 

「そういうことですか。私は『サモントン』から来ている身でして、今日初めて来たんです」

 

「通りで見た覚えのない顔だ」とバイジュウは納得する。

 

「ところで普段から利用されてるとのことですが、読書が趣味なのでしょうか?」

 

「ええ。論文や技術書といった物が多くなりますが……」

 

「でしたらお勧めの本とかありますか? 私も読書が趣味でして、色々と本見るのが大好きなんです」

 

 バイジュウは内心「このご時世に本で見る物好きいるんだ」と自分を棚に上げながら話を続ける。

 

「お勧めですか……。好みとかあります?」

 

「でしたら胸がガーッと、ギューっと、するような物が好きなのですが……」

 

「……感動系の漫画や小説ということですか?」

 

「胸がガーッと、ギューっと、すれば何でも良いです」

 

 聡明であるバイジュウですら、いったいどういう表現なのか釈然としないまま少女が言う『胸がガーッと、ギューっとする』作品を考えた。

 

 バイジュウが思い浮かべた該当する物はビターエンドやトゥルーエンド系の報われないか、もしくは報われても小さな痼りが残るような良くも後味が悪い作品ばかりだ。特に友と死に別れる系がバイジュウにとって一番胸にくる。

 

「……あとは待つだけでお勧めされた本が借りられます。おかげで暫くは読書に困らなさそうです」

 

「それは良かったです」

 

「手伝ってもらってばかりなのも気が引けますし、私の支払いでお茶でもどうですか?」

 

 数分後。思い浮かべたタイトルをいくつかを伝えると、すぐさま少女は近くの貸し出し用端末で申請をして、そのまま何となくの雰囲気のままバイジュウと共にすることになった。バイジュウとしても30分間誰かと過ごすのは良い刺激になると感じ、是非ともと喫茶店で駄弁ることになった。

 

「紙媒体は持ち主の熱というか、歴史を感じやすくていいですよね。古文などは筆跡だけで著作者の想いが感じられるほど達筆だったり、弱々しかったり……紙の滲みだけでもどれほどの心が込められてるか、想像が膨らみます」

 

「私も似たような意見です。それに紙の本は捲る質感だけでも、積み重ねた時間を感じられるという得難い情報がありますから。皺が寄せたページはどれほど熱が籠っていたか、開きやすいページはどれほど栞が挟まれたか……人間性が感じますよね」

 

「分かります。……その感受性が分かるようでしたら、英語などの本が丁寧に翻訳されてる時の微妙な感じも分かりますか?」

 

「ええ……。時代背景や地理を考えると、当時の英語でも意味合いとしては乱暴なことが多いですから……それを考えないのは、歴史の価値を蔑ろにしてるような気はありますね」

 

「そうなんです! それを踏まえると『私は貴方を許しません。必ず同じ報いを与えます』みたいな和訳は——」

 

「『ざけんな! テメェのケツに銃口突っ込むから覚悟しな!』……的にニュアンスの方が強そうなのが多いですね」

 

「私はもうちょっと深めて、地域ごとによる発音の訛りも考えると『覚悟せえ!』的な発音になると思ったりしてます」

 

「それは盲点でした……。でしたら相手の立場次第では、銃もチャカというほうが正しいのかもしれませんね……」

 

 互いに名前も知らず、長々とカップ一杯で長時間も話し合う。なにせ一期一会だ。今を逃したら今後話し合う機会はないかもしれない。そう思うと二人は、互いに相手の意見や思想を尊重、あるいは対立してと数々の話し合いが繰り広げられる。

 

 本だけに限らず電子書籍のメリット、デメリットも話し合った。

 異質物を介さない純粋な科学などの発展性についても論議した。

 国ごとの文化による違いなども話題にしてより知識を深めた。

 

 両者のカップはまだ数口しか口にしてないのも関わらず冷え切るほどに時間は過ぎていく。30分という時間は二人にとってはあまりにも短く、気がつけば1時間も経過してもなお話は終わることなく話し合いは続く。

 

「あっ……すいません、話し過ぎちゃいましたね。こんなに気が合う人は本国にいないもので……」

 

 そして最終的には2時間も二人は話し合った。それでもなお二人は話し足りないと、名残惜しそうに空になったカップを撫でる。

 

「いいえ、私も久々に論議が白熱しましたし、貴重な意見も聞けただけでも感謝したいほどです。お茶もご馳走になりましたし」

 

「いえいえ。私も良い経験になりました。ラファエル様やガブリエル様以外にここまで博識な方がいるなんて想像してませんでした」

 

「ラファエルとガブリエル……デックス家の有名な人達ですか」

 

「はい。サモントンではデックス家は憧れの人達ですから……特に次期総督と呼ばれるミカエル様は18歳と思えないほど聡明な方でして。貴方もそれに肩を並べるほどの知恵をお持ちな物ですから……」

 

「……私はそこまで博識ではありません。ただ『既知を知っている』だけで、ミカエルさんの『未知を探究する』姿勢と比べたら些細な物です」

 

 それはバイジュウからの本心だ。目覚めてからの各国を見て回ったが、農作物を汚す『黒糸病』について世界中で問題となっている。最先端技術を持つ六大学園都市でさえも根本的な解決策はできておらず、今でもサモントンが持つXK級異質物『ガーデン・オブ・エデン』の効果を駆使することで何とか食料問題を維持するために孤軍奮闘してるのが実情だ。

 

 しかし、その『黒糸病』に対抗するためにXK級異質物は今も活動し続けているが、そもそも動き出したら絶対的なルールとして動き続けるXK級異質物をここまで『明確に利用しよう』とする案を出したのは誰なのか。

 

 食料問題は生産までの道のりを考えれば、わずか一週間でも決断が遅れるだけで致命傷だ。そしてXK級異質物は問題なく作動しているとはいえ一歩でも間違えれば、致命傷ではなく破滅的な問題となるのは目に見えている。

 

 何故なら『ガーデン・オブ・エデン』が公表されている効力とは『第一学園都市のXK級異質物の影響を受けない』というのと『植物の遺伝子改造』という物だ。遺伝子改造による植物とは、つまりは新種を作り出すことを意味し、どんなに安全を重ねても気温、湿度、光量、土の質…………その他もろもろが少しでも変わるだけで突然変異を起こす不安定な物だ。下手をすれば『黒糸病』よりも凶悪な物を生み出しかねない。

 

 世界の命運を分ける重大な決断。刻一刻と迫る選択の中、サモントンのXK級異質物を利用しようと最初に提唱したのが、他ならぬ当時11歳のミカエルなのだ。

 

 実際に具体的な計画と行動を起こしたのは総督であるデックス博士ではあるが、そのことはサモントン市民や、あるいは事情を深く知ろうとする物なら知れるほど有名な物だ。挙句には現在進行形で異質物研究をデックス博士と共に行う存在として各国から重宝されるほどだ。常に破滅と踊り狂う——それが『ミカエル・デックス』という存在なのだ。

 

 その英雄を超えた『神にも等しい決断』を行ったミカエルがいるからこそ、サモントンでは同じデックス家であるラファエルが問題発言をしようが、ミカエルという存在がいる限りデックス家の立場が揺れることはない。誰だって破滅と繋がる手綱など握りたくないのだから。

 

 そんな強靭にして狂人の精神性を持つミカエルという人物と並ばれるなんて、バイジュウからすれは恐れ多すぎて萎縮してしまう。

 

 とはいっても、それはそれとして嬉しくもあるのだが。ミカエルと並ぶ——それをサモントン市民から言われるなんて、最上の褒め言葉みたいな物だ。

 

「おお……っ! これが貴方のお勧めする『バスターズリトル』という小説なのですね……っ!」

 

 場所は再び国立国会図書館の受付カウンター。そこで少女は、バイジュウからお勧めされた本を食い入るように眺める。その瞳は純粋に本が好きという読書家としての一面が出てきており、バイジュウも共感して笑みを溢れてしまう。

 

「一見すれば青春系ですが、読み進めればあっと驚く世界観で良いですよ。特に最後のシーンが——」

 

「わわっ! それ以上はネタバレですから言わないでください!」

 

「あっ、ごめんなさい……。ともかくお勧めです」

 

 読書家としてネタバレを突きつけられるのは、何よりも怒り狂う事だとバイジュウは共感する。何故ならインターネットで堂々とネタバレしたレビューを見た時に、端末を般若の如き形相で叩き割ったことがあるからだ。その時に心の奥底から溢れる負の感情は、どんな穏やかな人物であろうと金髪に覚醒しかねないパワーに溢れることをバイジュウは知っている。

 

「……ええ、本当に楽しみです」

 

 少女は本を優しく撫でると——その瞳が『失望』や『絶望』の影が入るのをバイジュウは目にした。決してそれは期待通りの本ではなかったことへの落胆ではない。むしろその失望は『自分自身』——つまり少女に向けられる気がしてならないほどにその瞳は濁っていた。

 

「……やっぱり私のどこかに何かついてますか?」

 

 しかし、目を合わせれば影は消え去り、彼女のお淑やかで純粋な瞳が可愛らしくバイジュウへと問いてくる。先程の影があったとは思えないほどの綺麗な瞳であり、濁っている様子もない。

 

 ——きっと見間違えだ。そうバイジュウは解釈して「何もついてないですから安心してください」と言った。

 

「また、いつか会えますかね?」

 

「私は休日ならよくいるので、会おうと思えば会えますよ」

 

 用事も終わり、初めて会った二人はそろそろ別れる事となる。

 

 こうしてバイジュウの休日は過ごす。今日は珍客と出会ってしまったが、大抵はコピーされた新聞記事を喫茶店や自宅で読むのが日常だ。そして帰り道に夕飯の準備をするために、自炊しないバイジュウはスーパーなどで惣菜や出来合いの弁当を買って自宅に帰るという三十路のOLのような生活を送る。

 若干悲しさを覚えるかもしれないが、実際バイジュウが普通に生きていれば2038年には35歳〜36歳になるので仕方ない感性ではあるのだ。

 

「でしたら暫く新豊州にいるので、時間さえあれば来ますね♪」

 

「いつでも待ってますよ」

 

 二人の少女は人知れず繋がりを持つ。『魔女』や『異質物』とは関係ない純粋な『読書家』としての純粋なものとして、バイジュウは凍てついた時間を、友達を、趣味を、心を少しずつ取り戻していく。

 

 これはなんてことない、ただの少女達の健やかな日常の一幕である。

 

「…………あっ、連絡先くらい交換しておけば良かった」



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第8節 〜御桜川学園祭①〜

「御桜川ぁぁ……!!?」

 

『フェスティバル!!!!』

 

「コールありがとうー! 今年の学園祭は特命実行委員長エミリオ・スウィートライドと——」

 

『キャー! エミリオお姉様ーッ!!』

 

「……副委員長のヴィラが担当することになった」

 

『ヴァルキューレちゃーん!!』

 

「うるさいッ! その名は呼ぶなッ!!」

 

『カワイイーッ!!』

 

「そして今宵の特別ゲスト……忙しい合間に来てくれました、高崎秋良ちゃん!!」

 

「イエーイ! 知人繋がりで来たよ〜!!」

 

『キャァァアアアアアア!!!!』

 

「というわけで?」

 

「どういうわけで?」

 

「そういうわけで」

 

「御桜川女子校学園祭、開幕だよ〜!!」

「御桜川女子校学園祭、開幕ですっ!!」

「御桜川女子校学園祭、開幕だ」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「ねぇ……俺だけかな? 女子の声がうるさく聞こえるの?」

 

「ああいうのは男女問わず耳障りよ。慣れておきなさい」

 

「そうかなぁ? 甲子園よりかは静かだよ?」

 

「「甲子園……?」」

 

「……今ないの?」

 

 その日、新豊州の日付は『3月1日』——。特に記念日というわけでもないのだが、俺達が通う御桜川女子校では季節外れの『学園祭』が行われていた。

 

 理由は単純。3年生への『卒業式』の二次会的な役割があるからだ。御桜川の話ではないが、近年卒業生が馬鹿騒ぎしてSNSなどで炎上することが多発するため、せめて学園内での騒動なら鎮静化しやすいという自衛的な面もあって行われている。

 おかげで区内から出店もする企業も多数はあり、校門前に並んでいたりもする。これに関してはここはお嬢様学校ということで、予算的に呼びやすいという面と、一年で使われるはずだった学園予算の帳尻合わせという闇が深いところもあるのだが……今は気にしてないでおこう。

 

「今更知ったんだけど、エミリオってあんな人気なんだな……」

 

「姉御肌というか、お姉ちゃんオーラというか……なんか親しみやすい雰囲気はあるからねぇ」

 

「…………それに見た目は一級品だもの。私的にはどうかと思うけど、オッドアイも受けがいい時はいいだろうし…………悔しいけど、私でもあれには勝てないわ」

 

「何その不貞腐れた言い方?」

 

 負けず嫌いの偏屈お嬢様であるラファエルが、素直にエミリオに負けを認めているの非常に珍しい。果たして一年生である俺とアニー、それにここにはいないヴィラは知るよしもないことだが、二年生であるラファエルとエミリオには何かしらの因縁でもあったのだろうか。

 

「ふふっ、簡単な話ですよ。マサダブルクの聖女様に嫉妬してるんです。転校初日に腫物扱いだった自分とは違って、エミリオさんはその人柄ですぐに打ち解けてましたから」

 

 そんな時に大人びたような落ち着いた女性の声が聞こえてきた。

 最近はメッキリと関わりが少なくて交流がなかったが、それで忘れるような薄情な俺ではない。

 俺は、彼女の方へと振り向いて名前を呼ぼうとした時に、誰よりも早く憎たらしくラファエルはその名前を吐き捨てた。

 

「ニュクス——。何よ、嫌味でも言いの来たかしら。だとしたら暇人ね」

 

「事実じゃない。嫌味に聞こえるようなら、そう捉えるアナタの感性に問題があると思うのけれど?」

 

「それに」とニュクスは馬鹿にするように笑いながら、視線で自分の下を見るように促す。そこには眼帯、猫耳、クラゲと各々特徴的なワンポイントを持った三人の少女達がいた。

 

「イルカ、シンチェン、それにハイイー!」

 

「「「お姉ちゃ〜〜〜〜ん♪」」」

 

「痛っ!? いきなり両腕を引っ張らないでっ!? そしてハイイーは登ろうとしないっ!!」

 

 出会って5秒で我ながら酷い状態となった。右腕はイルカ、左腕にはシンチェンが綱引きのように俺の腕を引き伸ばし合い、手持ち無沙汰なハイイーが髪を蔦って肩車を強行しようとしてくる。非常に痛い、痛過ぎて鯛になりそうという意味不明な例えが出るくらい痛い。

 

「はいは〜〜い♪ レンちゃんはみんなの物だから仲良くしてね〜〜♪」

 

「久々の物扱いされる人権の低さっ……!」

 

 アニーは頭に「?」と言いたげに疑問符を出してるけど、それがもう無意識的に俺の立場を物語ってます。

 

「こ、う、し、て? 暇人ではなく一生徒として保護者の元に子供達を案内しただけに過ぎないのですが?」

 

「元々こっちが迎えに上がる予定だったのを、アンタが頼んでもいないのにやっただけじゃない。別に迷子になったわけでもないんだから余計なお世話よ」

 

「でもイルカ、退屈だった……」

 

「イルカちゃんに激しく同意!」

 

「シンチェンと同じ〜〜……」

 

「……だそうですよ、ラファエルさん?」

 

「…………卑怯じゃない?」

 

 流石のラファエルも子供に当たるのは気が引けるようだ。というか折角の文化祭なんだから、こういう日にまで喧嘩をするのは……。

 

「いいのよ〜、レンちゃ〜ん♪ 喧嘩するほど何とやら。あれが二人にとってスキンシップなんだから」

 

「エミリオは急に背中から話しかけた挙句、勝手に心読まんでください!」

 

「隙だらけなんだもん。相変わらずで安心したわ」

 

 相変わらずって……これでも色々と成長してるんだぞ。身長もそうだし、一応……ってそれ以上思い浮かべてはいけない! エミリオには読心術があるんだから知られてしまう!!

 

「〜〜〜♪」

 

 あっ、ダメだ。完全に俺が思ったこと見透かして、今にも吹き出しそうなご機嫌な笑みを浮かべてやがる。これがマサダの聖女様……どう見ても悪魔の類か何かじゃないのか?

 

「ところでエミリオ、聞き捨てならないんだけど。私とニュクスが仲が良いなんて、その目は飾りなんじゃない?」

 

「ええ、そうですわ。私がこのじゃじゃ馬と付き合いはあっても、仲が良いまでなんて……」

 

「うわぁ、素直じゃないお二人さん。今頃そんなツンツン流行らないよ?」

 

「「誰がツンデレですって?」」

 

「そういう素直じゃないところ〜〜♪」

 

 すげぇ。あのラファエルとニュクスを手玉に取ってる。これもエミリオが持つ読心術があるからこそ出来る芸当なのか。

 

「レンちゃん。ここだけの話、あの二人って最近一緒にスイーツを——うげっ!?」

 

 一瞬だ。エミリオが次の言葉を吐こうとした瞬間、ラファエルとニュクスは阿吽の呼吸でエミリオへとヘッドロックを決めた。

 

 とはいってもエミリオは軍人だ。二人がかりのヘッドロックであろうと、どこか余裕のある雰囲気で「ギブギブ」と言って楽しんでるご様子だ。

 

 ……なるほど。何となく二年生同士の繋がりが見えた気がする。もしかしなくてもラファエルもニュクスも、エミリオに対して強く出れないタイプだな?

 

「……ちっ、首落とす勢いでやったのに何で余裕なのよ」

 

「私、頑丈だから」

 

「それで片付いたら苦労しないわよ」

 

 半ば諦めたように呆れながらラファエルは言う。それは何度も重ねた末の結論だというように、溜息をつく気もないほどの呆れ具合だ。二年生同士が普段どうやって付き合っているかも察せられる。

 

「おーい、エミ。申請がきた企業の出店確認終えたぞ」

 

「ありがとう。問題とかあった?」

 

「全部欠員なしの時間通りだ。体育館では午前のワンタイムライブ中だし、今ならどこに回っても空いてると思うぞ」

 

「よし。じゃあ、どこから回ろうか、みんな」

 

 流石は軍人さんだ。スムーズに事を進めた上に、エミリオが取り出した学園の出し物マップには、色とりどりのマーカーペンでサインがしてあって、一目でどれがどういう系統の出し物をしているのか分かりやすくしてある。

 

 …………気のせいかな。食べ物関連だけ、やたら力強く書かれている。

 

「ふんふ〜〜ん♪ 企業からはチョコバナナ、リンゴ飴、ラーメン、唐揚げ……♪ クラスではホットケーキ、ホットサンド、たこ焼き、焼きそば、焼きうどん……♪」

 

「こっち側の出し物って焼き物しかないな……」

 

「衛生面的に火を通さないと危険ですからね。それにクラスメイト同士の交代も考えると簡単な物にしないと回りませんから」

 

「ねぇ、レンちゃん! こっちだとお化け屋敷とかあるよ!」

 

「おっ! しかもパソコン部のAR技術を使った本格派だってさ! 楽しみだな!」

 

「…………………………………へぇ」

 

「レンお姉ちゃ〜〜ん! 射的やりに行きたい!」

 

「イルカ、輪投げやりたい」

 

「はいはい、一件ずつ回っていこうな。ハイイーはどこに行きたい?」

 

「……ここの、リアル脱出ゲーム」

 

「二人一組の出し物だね。じゃあ、エミリオお姉ちゃんと一緒に入る?」

 

「やだ。シンチェンかレンお姉ちゃんがいい」

 

「またも断られた……」

 

「お前らー。迷惑だから横並びに歩くのだけはやめろよー」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 というわけで、とりあえずは手持ちができて分け合うことができるたこ焼き、唐揚げ、カステラ、フライドポテトを各々手にしながらクラスの出し物を順繰りに回ることになった。

 

 まず一番手。他所のクラスが提供している『トランプ』での『ポーカー勝負』だ。持ち数7点の範囲でワイワイと楽しむ軽い物なはずなのに、ここで二人の仁義なき勝負が繰り広げられていた。

 

 

 

 

 

「一枚チェンジ。……ふっ。エミリオ、今日こそ勝たせてもらうわ」

 

「チャンジなし。じゃあ、ラファエルの手札はフルハウスとかの強いわけね?」

 

「言うと思う? 読心術を持つ貴方に?」

 

「そう……なら私の手札を教えるわ。ワンペアよ」

 

「——っ」

 

「ふ〜〜〜ん。じゃあベッド。1点を置くわ」

 

「——レイズ。2点で勝負よ」

 

「そこにレイズ。もう2点追加で計4点」

 

「……ワンペアで自殺行為ね。もちろんコールよ」

 

「残り三点……これもすべてレイズ! これで合計7点!」

 

「……正気?」

 

「まだ私のバトルフェイズは終了していない! そしてレンちゃんのフライドポテトをレイズ!」

 

「待って!? 勝手に花京院でバーサーカーしないでっ!!?」

 

「まだまだぁ! さらにヴィラのたこ焼きもレイズ!」

 

「えっ!? いやっ、えっ!? ちょっ、えっ!!?」

 

「あんた、ふざけて——!!」

 

「————貴方の手札は、ツーペアでしょ?」

 

「えっ?」

 

「しかも絵札の。ジャックとキングのツーペア」

 

「————!?」

 

「じゃあ、コールしてくれるだろうし、いざ勝負——!!」

 

「ド、ドロップ!!」

 

 

 

 

 

 …………ラファエルが降り、互いの手札が開示される。

 

 ラファエルは口頭された通り、ジャックとキングのツーペア。

 対してエミリオは——ワンペアどころかの役なし。つまりは『ブタ』や『ノーカード』と呼ばれるものだった。

 

「——はぁっ!? チェンジなしのブタ札であんなレイズしたの!?」

 

「そうよ♪ 面の顔は剥がしたから、もう勝ち目ないわよ〜〜♪」

 

 当然、このあとエミリオは点数の暴力と読心術でラファエル相手に完勝した。おまけのついでにニュクスも俺もアニーも全員ボッコボコにされた。

 

「……ピンクの人、大人げない」

 

「うぐっ!?」

 

 ハイイーの嘘偽りない純度100%の罵倒がエミリオの心に突き刺さる。読心術の恐ろしさ、ここに極まれり。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 続いて二番手。野球部が提供する『ストラックアウト』だ。持ち玉12個で、合計9個の的を持ち玉介して落とせば得点となるゲームだ。これは野球経験者であるアニーが非常に目覚ましい活躍をして同時抜きで6球でクリア。そして単純に運動神経が良いエミリオが9球で全部撃ち抜くという、いきなりレベルの高い成績を叩きつけられる。

 

「ちっ。12球でやっと全部か……」

 

「いいじゃない。私なんて二つ余りよ」

 

「俺は一つ余りだ〜〜」

 

「届かないよ〜〜!」

 

「子供達は線よりも前に出てもいいんだから頑張って!」

 

「——ふんっ!!」

 

 ……そしてラスト。ヴィラが一球入魂で全部叩き落とした。それどころか、ストラックアウトのフレームそのものが歪むという、これまた妹分に恥じない負けず嫌いっぷりを発揮していた。

 

「わおっ。レーザービーム超えてサテライトキャノン」

 

 流石のアニーも若干ドン引きしながら球速測定器を見ながら言う。表示されるのは163キロ。メジャーもビックリだ。

 

 ……マサダブルク出身って負けず嫌いになるのか?

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 三番目。卓上遊戯部の『パズル』だ。ジグゾーパズル、知恵の輪、ルービックキューブ、様々な物を取り扱っている。

 

「へいっ」

 

「ええええっ!? ルービックキューブを4秒台で解いちゃった!?」

 

「ほいっ」

 

「知恵の輪も一瞬で解いたぁぁあああ!?」

 

「ちょこれーとっ」

 

「意味不明な叫び声だけど、今度はミルクパズルさえも難なく解いた!?」

 

「イルカちゃん。なんでそんなすぐに解けたの?」

 

「スキャニングした」

 

「アウトーっ!!」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 四番目。今度は『クイズ』なのだが——。

 

『問題です。アマゾン川で』

 

「はいっ! ポロロッカ!」

 

『正解です。続いての問題です』

 

「はいっ。トーチタス」

 

『正解です。続いて——』

 

「「アッシー、メッシー、パッシー!」」

 

「……二人とも意味わかってる?」

 

「「全然っ!!」」

 

 ……まあ、頭ウィキペディアであるシンチェンとハイイーにはクイズなんてあっという間に片付けてしまうのであった。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「いやぁ…………つくづく魔女ってひでぇな」

 

「ほほほへ」(ほんとね)

 

「あの、エミリオさん? 口に物詰めないで喋らないでもらえます?」

 

 ハムスターのように頬パンパンだと色々と台無しになる。

 

「んっ……。色々美味しくてね〜〜♪ ついつい食べ過ぎちゃった」

 

 確かに学園祭の出し物としては結構レベルが高い味ばかりだ。企業側は有名店からの出店があるから当然分かるが、学校側も一歩劣るがそれでも味の質自体は高水準だ。お嬢様学校ではあるが、在校生が家庭科の授業で調理実習をやるのが必修科目になってるのが理由だろうか。どうあれ美味しいのはいいことだ。

 

 ……しかし、割と遊び倒したな。子供達が口にした射撃、輪投げ、リアル脱出ゲームも回ったし、他にも水風船すくいとかダーツとかも楽しんできた。

 あとはARお化け屋敷に行きたいけど、向かおうと口にしようとした瞬間には、ラファエルがリードに引っ張られるブルドッグみたいに顔面を強張らせて威嚇してくるのでどうにも切り出しにくい。

 

 思考する中、突如として校内に「キーンコーンカーンコーン」という本当のチャイムではなく、放送室で予め録音された物が流れる。

 

 …………12時の合図だ。そろそろこちらの番か。

 

「行こうか、レンちゃん」

 

「よし。準備しないとな」

 

「準備? 何言ってるの?」

 

 俺とアニーの会話に、ラファエルは純粋に疑問を言う。この事は一年生組の俺とアニーとヴィラだけの秘密で、恐らく読心術持ちであるエミリオ以外には誰もまだ知られていないことだ。

 

 アニーは「ふっふっふ」と意味深に笑うと、ヴィラも「ふっふっふ」ととりあえず乗ろうと特に意味もなく不敵に笑う。それが奇怪な行動に見えた事で、エミリオ以外の全員が怪訝そうな表情を浮かべる。

 

 だが笑うのは二人だけじゃない、俺もだ。満を辞して俺も「ふっふっふ」と笑い、高らかに宣言する。

 

「もちろん、俺達のクラスの出し物さ!」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「女装癖の出し物ね……」

 

 一年生組と別れてから少し時間は過ぎ、ラファエル達はレン達のクラスへと向かう。子供達は「どんなだろう?」とワクワクし、ニュクスやラファエルに「知ってる?」と聞いてくるが、二人揃って「知らない」という。

 

「パンフレットには何て書いてあるの?」

 

「喫茶店だって」

 

「喫茶店ねぇ……」

 

 ラファエルは「溜め込むほど珍しい物じゃないでしょ」と言いながら、その脳裏には『喫茶店』という単語に反応して、レンとアニーがどんな服装で迎えていくれるのか夢想していた。

 

 メイド喫茶みたいに全員それっぽいフリルに身に包んでお出かけするのか。もしくは学校らしくエプロンと三角巾を付けるのか。あるいは制服のままなのか。

 

 ラファエルからすれば特に面白みもない。何せどれも見慣れた物だ。レンのメイド姿など、彼女がテレビデビューする前にバイトしてたメイド喫茶で見たし、エプロンは合同調理実習の時に見る時はある。制服なんてものは今更だ。

 

「安心しなさい。そんなつまらない物じゃないから」

 

「エミリオ……隙さえあれば心読むのやめなさい」

 

「じゃあ、もうちょっとラファエルも素直になってくれないかしら。そうすれば心読まなくても分かるから♪」

 

「素直って……私がどこが素直じゃないのよ」

 

「そういう可愛いところ♪」

 

「こいつには配慮とかないのか」と内心不貞腐れながらもラファエル達はついにレン達のクラスの前にたどり着く。横引き扉の前には、いかにも100均で揃えましたと言わんばかりにラミネートされたチープな木製細工の看板があり、そこには『喫茶店』と白と黄色のチョークで少しでも色映えしようと頑張っている。

 

 ……側から見なくても没個性なデザインに、芸術肌であるラファエルは「もっと良いデザインにできるのに」と、どうしてもリテイクしたい欲求が湧いてくるがひとまずは置いといて、果たしてどんな平々凡々な出し物になるのかとラファエルは先陣を切ってレン達のクラスへと入った。

 

 

 

「「「いらっしゃいませ、お嬢様」」」

 

 

 

 そこには普通の喫茶店だった。黒の燕尾服と白のワイシャツに黒のネクタイ、そしてワンポイントのポケットスカーフ。オーソドックスな執事服に身を包んだ男子生徒達が、来客した者達に客席にスムーズに紅茶やホットサンドを提供しては「お楽しみくださいませ」と優雅に去っては次の席へと向かう。

 

 …………しかし一つだけ問題があった。

 ここは御桜川女子校の名の通り『女性』しか通っていない学校だ。ここに『男子生徒』なんているわけない。だとしたら今目の前にいる執事達は何なのか。特に目立つのは三人だ。非常に優雅な身のこなしで絶え間なく動き続けている。

 

 一人目は白髪赤眼の執事。温和で穏やかな動作に、利用している客は目にハートを浮かべるように魅入られている。さながら物語上の白馬の王様そのものであり、思わずラファエルも子供時代の夢を思い出しては「あの頃は夢見がちだった」と一人思い耽る。

 

 二人目は青髪青眼の執事。元気で活発ながらも、確かな健かさで客一人ひとりに愛嬌を振りまいては礼儀正しくお辞儀をする。見ているだけで一種のパフォーマンスとなる様は、高級ホステスのナンバーワンみたいな風格を持っていて品がある。

 

 三人目は特にラファエルに目を引いた。何故なら知人に非常によく似た特徴を持っているからだ。

 

 どんな宝石よりも澄んだ赤眼。綺麗に整った黒髪の赤メッシュ。他二人と違って動作に特徴がないのが特徴だ。あまりにも自然体に動く姿は言いようのない男らしさを感じ、上記二人の絵空事みたいな世界な特徴と違って、等身大の男性としての品と穏やかさがあった。

 

 

 

 

 

 それはまるで、ラファエルが『認識』しているレンの姿と重なって見えて————。

 

 

 

 

 

「お嬢様。本日はどのようなメニューにしますか?」

 

「まさか、その声……その髪色……っ!?」

 

「作用です、ラファエルお嬢様。わたくしの名前はレンと言います」

 

 

 

 

 

 ——レン達のクラスの出し物。それは『男装執事喫茶』だったのだ。



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第9節 〜御桜川学園祭②〜

「まさか、その声……その髪色……っ!?」

 

「作用です、ラファエルお嬢様。わたくしの名前はレンと言います」

 

 ふふん、やっぱりラファエルも度肝を抜かれたみたいだ。ファビオラ仕込みの男装技術。それにイナーラに言われてから、気にするようになった男女間での姿勢の違いとかも考慮した独自の物だ。我ながら出来栄えとしては上々だろう。化粧に関してはクラスメイトに任せているけども。

 

 感想も飛び交い、イルカもシンチェンは「カッコいい」と素直に褒めてくれて、ハイイーは見慣れない姿をしてる俺を見て人見知りのところが出て萎縮気味。ニュクスは温和な微笑で「似合ってますわ」と言ってくれて、それにエミリオは同意して頷いてくれる。やっぱり称賛されるのは気持ちがいいものだ。

 

 

 

 そして肝心の偏屈ラスボス系グリーンお嬢様こと芸術肌のラファエル様からの感想は————!?

 

 

 

「…………んー?」

 

「反応薄くないっ!?」

 

「違うの、レンちゃん。今彼女は内心複雑で重い思いを背負って悩んでるの」

 

 重い思いって何ですか? 説明キボンヌ。

 

「彼女、普段『女装癖』や『馬鹿』とか呼んでたせいで、今のレンちゃんをどう呼べばいいか分からないみたい」

 

 流石の読心術だ。俺の思ったことを察して即座に説明してくれる。

 

「えぇ……そんなことで黙るぅ?」

 

「ラファエルにとっては大真面目。だって、こうして私が言っても反応一つ示さないでしょ?」

 

 試しにラファエルと視線を合わせて見るが、確かに焦点が合わない。自分の思考に耽るせいで、こちらが変顔を浮かべてもリアクションひとつくれない。

 

 これはこれで普段見ないから面白くはあるが……普通にいつも通り読めば良くない? もしくは名前で。

 

「お嬢様〜? 大丈夫でしょうか〜〜?」

 

「レンくん。どうしたの?」

 

 男装状態のアニーが俺に近づいてきた。キャラ付けも結構頑張っているようで、普段は「ちゃん付け」なのに、今は俺のことを「くん付け」で呼んでくれる。口調も声色もどことなくボーイッシュな印象を与え、これはこれでアニーのキャラに合っている。

 

「ラファエルお嬢様が放心状態になってる」

 

「えぇ〜〜? じゃあ、気付け薬として……ほいっ!」

 

 アニーは躊躇いなく猫騙しを繰り出し、その破裂音にラファエルらしからぬ生娘みたいな声で「きゃっ!?」と叫んで正気を取り戻した。

 

「………アニーか。それに……それに……」

 

「マイネーム・イズ・レン。リピート?」

 

「ノーセンキュー」

 

 ノータイムで拒否った。

 

「……………うー?」

 

 そしてラファエルにしては珍しい唸り声をあげる。

 

「………レンでよくない?」

 

「断固拒否」

 

 何でこのお嬢様は無駄に意思硬いんですかね?

 

「……狛犬でいいか」

 

「犬っ!? 執事なのに犬っ!!?」

 

 割とショッキングな命名なのに、エミリオとニュクスは「ははは!」と意味が分かったように笑い始めた。

 

「そこまで笑うこと!?」

 

「いやぁ、ピッタリだと思って……。だって狛犬って神の遣いよ? ラファエルに仕える狛犬…………。しもべという意味では、最高位に褒め言葉じゃない?」

 

「それに狛犬は『阿吽の呼吸』の元です。主人と従者がそのような関係であるのは、非常に喜ばしいことよ」

 

 ……つまり、ラファエルなりに執事服をベタ褒めしてくれてるってこと? こんな素っ気なし、愛想なし、遠慮なしの偏屈お嬢様が、俺のことを褒めてくれているのか?

 

「……そんな深い意味はないわよ。語感がいいだけ。さっさと席まで案内しなさいよ、狛犬」

 

 意味が分かってしまうと、犬扱いでもちょっと嬉しくなる自分がいるのが気恥ずかしい。きっと尻尾があれば、そりゃもう分かりやすいくらいにブンブンと振り回してしまうだろう。

 

「おほん……。さあ、お嬢様方席にご案内します」

 

 喜びで業務がままならない俺の代わりに、同じく男装姿のヴィラがラファエル達を案内してくれた。騎士のような静かで紳士的な佇まい、そして微かに香る乱暴感。ヴィラ自身が持つ気性の荒いところが見事に纏まっていて非常に絵になる。

 

「ヴィラも似合ってるねぇ〜〜」

 

「ああ。動きやすくていいぞ」

 

 ヴィラは褒められることに慣れてる様子だ。自慢気に鼻を鳴らしている。

 

「アニーさんもカッコいいですよ」

 

「あっ……ありがとうございます、ニュクス」

 

 素直に先輩から褒められては、アニーは少々恥じらってしまう。…………そういえば、転校初日で感じたアニーとニュクスの関係ってなんだったんだろう?

 

「ええっと……レン、お兄ちゃん? お姉ちゃん?」

 

「今まで通りでいいよ。ハイイーは何が飲みたい?」

 

 ここでようやくハイイーが俺のことが分かってくれて人見知りがなくなった。若干オドオドしているが、どうせ暫くしたらいつもの辛辣な言葉や——。

 

「某果樹園の柑橘一番搾り」

 

「…………オレンジジュースか」

 

 ……こういう遠慮ないところは完全にシンチェンと瓜二つだよなぁ。

 

「じゃあ私はコーラね」

 

「私はジャスミンティー」

 

「ホットチョコレート」

 

「ハイイーと同じでオレンジジュース」

 

「かしこまりました。ラファエルお嬢様は何になさいますか?」

 

「手挽きコーヒー」

 

 お嬢様方の注文を取ってアニー、ヴィラ、俺の三人は簡素な即席カーテンの向こうへと行き準備を進める。トレーの上にホルダー付きの紙コップを並べ、その中に必要な茶葉や粉末を抽出したり溶かしたりする。コーラに関してはただ打ち込むだけだが、これはしょうがない。更には注文のサービスで付けるスコーンも添える。

 

 これで準備完了だ。全て揃ったところでラファエル達の席に向かい、品物をこれまた簡素なテーブルクロスと花瓶で色鮮やかなテーブルへと置いて執事として伝える。

 

「「「ごゆっくりお過ごしくださいませ」」」

 

 後はお嬢様方の世界だ。これ以上は執事が踏み込んではいけない。俺たちは次のお嬢様のために、再び新しい紅茶を淹れる。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 とまあ、俺たちのクラスの出し物『男装執事喫茶』が終わりアニー、ヴィラ、俺の三人は教室から出て、お嬢様改め二年生組と子供達と合流する。全員揃って満足そうな表情をしており、率先してアニーが「どうだった?」と聞いて回る。

 

 

 

 ——さて、その感想は?

 

 

 

「まぁ、味は普通よね」

 

「そりゃ既製品揃えただけだし……」

 

 当然ながら質の良い飲み物自体は用意してあるが、出来合いの物は出来合いだし、俺たちに淹れる技術なんてものは付け焼き刃過ぎる。ラファエルの言葉に同意しているニュクスもそうだが、マジモンのお嬢様の肥えた舌を満足させるのは難しいに違いない。

 

「後は良かったわよ。本職と比べたら杜撰な動作だけど、執事喫茶という『ごっこ遊び』にしては本格的。既製品でも淹れ方は間違えてないから風味は飛んでないから十分に楽しめたわ」

 

「おお……ラファエルには褒め慣れてないから、背中がむず痒くなるね」

 

 分かる。非常に分かるよ、アニー。

 語頭に罵倒、語尾に罵倒をするラファエルから褒められるのは結構嬉しいんだよな。狛犬を引きずっているせいか、例えがアレだけど、お手とかの芸を褒められる犬が尻尾振っている感覚に近い。

 

「ニュクス達のクラスの出し物は何?」

 

「チーズハットグとタピオカミルクティーですよ。対して面白みもないでしょう?」

 

「えっ、コンビニとかにあるチーズハットグ? 学園祭で簡単に作れる物なの?」

 

「ええ、素材さえあれば揚げるですから」

 

 意外だけど、エミリオやラファエルがいるクラスにしては地味な感じは否めない。…………てか、二つとも女子校にしてはやけに高カロリー食品だな。もしかしなくても、と思うながらある人物に横目で見ると、誇らしげにそのオッドアイは「そうです♪」と言いたげに笑っていた。

 

 ……今は喫茶店で鼻を満たしたばかりだし、そういう食べ物系はまだ遠慮したいなぁ。けど遊び系も大体回ってしまったし……。

 

「う〜〜ん……他に良いのは——」

 

 

 

 —————ぁぁあああああん………。

 

 

 

 ………………ん?

 

「何か……近づいてきてないか?」

 

 

 

 ——レンさぁぁぁぁああああああん!!

 

 

 

 いや、気のせいじゃない。何かが確実に猛接近している。

 

 全員揃って声のした方へと振り返る。廊下の果ての果て。そこには見覚えのある背丈と頭巾を被った少女が、まるで猫のように目にも止まらぬ速さで飛びかかって————うぉい!!?

 

「レン、すわぁぁあああああああああああん!!!!!」

 

「うぉおおおお!? ソヤだ!?」

 

「うぇひひひっ……! こんな匂いを感じたら、居ても立っても居られませんわぁ……!!」

 

 ……どうしてソヤがここにいるんだ? と思ったら、やっぱり顔に出やすいようで、共感覚持ちのソヤが説明してくれた。

 

「町中が何か楽しくて青い匂いがしたもので、その匂いを追っていたら御桜川にたどり着いていたのですわ」

 

 そんなフェロモンに誘われる虫みたいに言われましても。

 

「そしたら学内からもっと良い匂いが漂ってきまして……それがレンさんだったのでここに来ましたわ。…………先ほどまで何をしていたのでしょうか?」

 

「えっと……男装執事喫茶です」

 

「…………なんと」

 

 途端、ソヤは絶望に打ちのめされたような悲惨で悲壮な顔つきになった。

 

「なんで、そんな面白イベントを見逃してしまったのですわぁぁあああああ!! レンさん! 何卒……何卒、私に見せてもらうことができますか?」

 

「勤務時間終えたので……」

 

「ジーザス……」

 

 涙目になって壁に「の」の字を書いてソヤは項垂れてしまう。

 

「まあまあ……。まだ皆で色々回るし楽しみはあるから」

 

「そんなこと言われましても、皆さん良い匂いしてますわ……。既に目ぼしい所は回った後なのでしょう……」

 

「夜になったらキャンプファイヤーしながら、高崎さんのライブあるから……」

 

「それまでお暇じゃないですか……っ!」

 

 じゃあ最初から一緒にくれば良かったのに、と言いたいところだがそれだけは言ってはいけない。なにせソヤのSIDでの役割は、小規模で発生する時空位相波動を取り除くことだ。俺達がこうして学園祭を行えること、俺が二ヶ月間も霧守神社に籠れたのだってソヤが影ながら厄介事を片付けていてくれているからだ。本人の気質からして表には出さないが、今だって時空位相波動を片付けてから来てくれたんだろうし、できるなら労ってあげたいのが本音だ。

 

「何か刺激的で、新鮮な物とかないでしょうか……」

 

「刺激的で新鮮ね…………」

 

 ……あるにはあるんだよなぁ。ある人物が頑なに拒否してたから今まで行かなかっただけで。

 

「……何で見てるのよ、女装癖」

 

 まあ、こちらのグリーンお嬢様ことラファエルのことですね。このラスボスは意外なことに高圧的な態度からは想像できないほど小心な所があり、お化けや蜘蛛といったものが大の苦手なのだ。

 

 何気に流しみてたホラー映画を一瞬見ただけで、某駄女神みたいな野生的な叫びを上げるし、何なら国民的なアクションヒーローである蜘蛛男を見た時なんかも「気持ち悪っ!?」と言って卒倒するほどだ。ちなみに後者について理由が分からないので聞いてみたところ————。

 

 

 

《昼夜問わず全身赤タイツが縦横無尽に白くてネバネバした物を飛び散らかす姿なんて怖気が走るでしょ!?》

 

 

 

 ……なんて名誉毀損として訴えられてもいいほど、かなりボロクソに言うほどには彼女はそういう系統が苦手なのだ。

 

 まあ、そんなこと小心者な所があって今まで学園祭の出し物にある『お化け屋敷』に行っていなかった。パソコン部がAR技術を駆使して、空き教室がある旧館一階をすべて貸し切った本格系だ。俺だって別に幽霊とかは得意ではないけど、それでも怖いもの見たさで体験したくはある。

 

 もう一度ソヤを見る。こちらの考えを読み取って、猫のくせに犬みたいに期待して目を輝かせて俺とラファエルを交互に見る。

 そして俺はラファエルを見る。ラファエルにはソヤやエミリオみたいに心を見透かすような特技はないが、こちらの考えが読めないほど付き合いが浅いわけではない。すぐに察してくれて、心底嫌そうな顔を浮かべる。

 

 周りのみんなに視線を向ける。アニーは「良いよ」と笑顔を浮かべ、ニュクスも「大丈夫ですよ」と言い、エミリオは「ん?」と今更聞くことかと言いたげで、ヴィラは「早くしろ」と言うように欠伸をした。子供達は学園祭を楽しんでおり「次はどこ行くんだろう?」と全員ワクワクしている。

 

 ——完全なる四面楚歌だ。

 

 ラファエルは「ぐぎぎ」と言いたげに、苦虫を潰した顔で歯を食いしばり、どうにか逃げきれないと算段しようとあっちこっちに視線を動かし、ついソヤと視線を合わせてしまう。

 

「お願いしますわ、ラファエルさん。サモントンのよしみとして……」

 

「…………分かったわ」

 

「はぁぁ〜〜〜〜♡♡♡」

 

 満足そうに惚けた声を漏らすソヤを見て、ラファエルは心底嫌そうに負という感情を全部乗せて吐き出すほどに重いため息をつく。

 

 ……次に行く場所は決まった。パソコン部主催の『お化け屋敷』だ。



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第10節 〜御桜川学園祭③〜

「ふぇふぇふぇ……御桜川女子高名物『七不思議体験お化け屋敷』によぉうぅこぉそぉ……!!」

 

「うわぁ、キャラ濃いな……」

 

「そういうキャラ付けです。私は館主の『カロリン』……。ここではパソコン部がAR技術と、一部カラクリ技術を使って触覚を再現した恐怖体験をする出し物になります。危険ではありませんが、いつでもリタイアできるように出口が配備されており、その際は「リタイア」と宣言してくれれば、こちらの案内犬が道案内をしてくれます」

 

「可愛い〜〜♪」

 

 ……学園内に犬が居て良いのか気になるが、そこは置いといておこう。エミリオが撫で回す二匹の犬の首輪にネームプレートを見る。

 ……『ポチ』と『ニコ』か。この子達に頼めばいつでもリタイアできるんだな。

 

 さて、その問題となるお化け屋敷を見てみる。安物に見えて、非常に遮光性が高い黒一色のカーテンに仕切られた廊下。その前には机の上で案内人となるカロリンは、一人ずつスマホに繋げられる小型端末とそれにケーブルが繋がった『メン・イン・ホワイト』みたいなサングラスを手渡してくれる。この小型端末が今回の恐怖体験となるAR技術のデータを詰め込んだ物だ。これを掛けてカーテンの向こう側に行けばお化け屋敷のスタートになる、とカロリンは口頭で説明してくれる。

 

「七不思議かぁ〜〜」

 

 身内で一番学園内の噂について機敏なアニーが『七不思議』について瞳をキラキラと輝かせている。かたやラファエルはカーテンの前で深呼吸を繰り返し「所詮は作り物、作り物……」と自己暗示を掛けている。

 

 ……ここで、この御桜川女子校の『七不思議』について簡単に説明しよう。俺達が通う御桜川女子校では、普通の学校による『トイレの花子さん』や『口裂女』や『動く人体模型』といった類ではない。一風変わった物ばかりなのだ。

 

 …………そして悲しいことに、俺はその内容についていくつかは詳しく知ってしまっている。そんなのが七不思議になるなんて、世も末というか何というか……。

 

「それではパソコン部が腕を振るった出し物を楽しんできてください!」

 

 館主であるカロリンはカーテンの向こうへと導く言葉を発して、俺達を館へと案内した。果たしてそれは不思議で素敵な世界へ導く魔法の言葉か、はたまた狡猾で陰鬱な世界へ導く呪詛なのか。それはこの先に行けば分かる事だろう。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 緑色の淡い蛍光灯の灯だけが廊下を照らす暗闇の世界。エミリオとヴィラは微動だにせず、ソヤとアニーは期待に胸を膨らませ、ニュクスは何とも言えないアンニュイな表情を浮かべ、俺と子供達は少しビクビクし、ラファエルは鼻息が荒くなるほど深呼吸を繰り返し、各々ARを映すサングラスを掛けた。

 

「「「ひぃっ……!!?」」」

 

 誰かは分からないが、掛けた瞬間に俺を含んだ数人が驚いた。何せ世界が一転してドライアイスを貼ったみたいに禍々しい紫と緑を帯びた煙を発したのだ。視界の片隅には『ミッション』と称してお化け屋敷を体験するための道案内が表示され、そのミッションの内容を見てみる。

 

 

 

 ——七不思議の一つ『ブルーレイ』を解明せよ。

 

 

 

 ……ああ、やっぱそれか。周りから聞こえる「あわあわ」と呻く子供達の声を他所に、俺の背筋から伝わる怖気は一瞬で引き、思考が急速に冷静になる。

 

 七不思議の一つ『ブルーレイ』——。

 これは帰りが遅くなった生徒が目撃した体験談であり、学校の警備員も謎が解けなかった曰く物だ。

 

 一年生の教室で微かな青い光が、まるで生きているように明るくなったり暗くなったりを繰り返す怪異現象。目撃者はその光を追って教室の明かりをつけたが、教室には誰もいないという怪談だ。

 

 …………なんだけど、俺はその謎について、ほぼ確信に近い予測は立っている。俺はその怪談の人物となった人物へと目を合わせた。

 

「……ん?」

 

 怪談の元となった人物である『イルカ』は「どうしたの?」と言いたげに頭を傾げてこちらを見返してくる。

 

 そう、七不思議にある『青い光』とは、イルカが持つ機能であるプロジェクターによるものだ。イルカは偶に一人で映画を見ようと暗がりとして絶好の場所である御桜川女子校に来る時があるが、これまた偶に疲れからかは寝てしまうことが多々ある。そうなるとプロジェクターがイルカの睡眠に合わせて『明るくなったり暗くなったり』して、それを目撃した生徒が教室に入った時には、イルカが睡眠時に起動させている『自動回避システム』による『光学迷彩』でその場にいるのに忽然と消えてしまう。そうなると何も知らない生徒からすれば、先程の怪異現象を体験する……というのが、この七不思議が生まれた理由だ。

 

 そんなしょうもないオチが待っているのが計七つ……一部は俺も知らないが、どうせこんなばかりでは怯えようにも怯えにくい。

 

 それはそうとして、事情を知らない者からすれば内容は怖くて仕方ないだろう。未だに誰かが「あわあわ」と怯えている。

 

「……てか、いつまで怯えてるんだよ。誰だ、あわあわ言ってるの?」

 

「イルカじゃない」

 

「ラファエルじゃないの?」

 

「こ、この程度で怯えるわけじゃない! エミリオじゃないの!? だって読心術が使えないものねぇ!?」

 

「いや、私じゃないわよ。ニュクスでもラファエルでもないなら……ヴィラとか?」

 

「なわけないだろう。アニーか?」

 

「違うよ。ソヤじゃない?」

 

「違いますわ。シンチェンかハイイーでは?」

 

「違うよ! ハイイーも違うよ!」

 

「……レンお姉ちゃんじゃないの?」

 

 …………あっれー? 一巡してない? 

 

 もう一度耳を澄ませてみる。声は右側から聞こえてくる。声のした方を向くと、そこには何もない。ただの柱だけが目の前にあった。

 

「ははっ……こっちから声したんだけど……何もないねぇ」

 

「……ねぇレンちゃん。言いにくいけど、私は左から声したんだけど……」

 

 ……エミリオとヴィラ以外の全員の顔が青ざめていく。じゃあ、この不規則で誰も発していない『声』はどこから聞こえてきてるんですか?

 

「てか、なんでお二人さんだけ余裕なの!?」

 

「んっ……いや、その……ふふっ……!」

 

 今にも爆笑しそうな顔でエミリオは我慢している。この『声』のカラクリについて気づいているかのように。

 

「……これサングラスから聞こえてくる『音』だぞ。掛ける部分がスピーカーになっていて、骨伝導で音を個人個人に伝えてるんだ。多分左右についてはランダムだろうな」

 

「マジか!? あっ、マジだ!?」

 

 ヴィラに言われてサングラスを外した途端、声は消えて無くなり、再度付けると「あわあわ」と恐怖に怯えた誰かの声が今度は左側から頭の中に響いてくる。しかも耳を澄ますと、声の他に微量だが風の通る音や呼吸音、心臓の音などもランダムに聴こえてくる。

 

「臨場感出すための物だろうな。サングラスも妙に重いし、恐らく心拍数をスキャンして、最適な環境音を流して恐怖を煽るようにしている。これを企画したやつは相当性格悪いぞ」

 

 な、なるほど……。場に合わせてBGMを変えてるみたいなものか……。カラクリが分かっても確かにこれは怖いし、仮に分かってもサングラスを外したら道案内もミッションも分からないから外すこともできないという徹底っぷりだ。巧みだが性格が悪すぎる。

 

「こんな科学的な方法で恐怖を煽るのが、現代のお化け屋敷か……」

 

「ホラーも時代を変えて変わるからね。今や貞子も井戸じゃなくてマンホール住みだし、出るのもビデオテープじゃなくてBlu-ray Discよ」

 

「それはそれで見てみたいな……」

 

 分かったことで一安心だが、これは思っていた以上に苦労しそうだ。このお化け屋敷……ただの七不思議と高を括ると痛い目を見そうだ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「どぅわー!! 足元に幽霊がっ!?」

 

「えっ!? 絶対上にいるよ!」

 

「ぎゃっ!? 目の前にお化けが!!?」

 

「「いないいない!!」」

 

「……おい三馬鹿トリオ。ARが共通してるとは限らないんだ。各々サングラスに割り当てられた——」

 

「ヴィラったら強がっちゃって♪ 姿勢が硬くなってるわよ♪」

 

「ゔぁあああああああ!! 首筋に冷たい物がぁぁあああああああ!!」

 

「ザクロジュースです♪」

 

「エミッ! こういう時にそっち側に回るなっ!!」

 

「ゔぇぇえええええ!!? 骸骨が歩いてきた!!?」

 

「やばばばばばばば!?」

 

「おー!? おー? お?」

 

「ARでも怖っ!!?」

 

「ぎゃぁあああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」

 

「レンちゃん! ラファエルが死んだ!」

 

「この人でなし!」

 

「ひゃっ!? 私の足首にも冷たい物が……っ! エミリオさん、今度は何をしたのですか?」

 

「何もしてないわよ」

 

「きゃっ……! って、ただのポチの鼻じゃないですか……」

 

「……ニュクスの驚いた声、初めて聞いた気がする」

 

「…………今のは忘れてください」

 

「うひひ〜〜♡ 良い声ですわ〜〜♡♡♡」

 

「「ワンワン!」」

 

「ポチとニコは庇って良い子だねぇ」

 

「…………犬は苦手ですわ」

 

「……ソヤって、トコトン猫科な生き物なんだな」

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

「ぜぇぜぇ……とりあえずお札ゲットぉ……!」

 

「ナイス、レンちゃん……」

 

 エミリオ以外が満身創痍(特にラファエルが酷い)の中、俺達は七不思議のいくつかを解決し、解決の証であるお札を手に五つ目へと向かう。ちなみに今まで解決した七不思議は『ブルーレイ』、『13階段』『画仙が宿っている美術室』『赤毛の妖怪』の四つだ。

 

 しかし、俺は舐めていた。

『ブルーレイ』という怪談について、いくら俺が真相を知っていてもパソコン部からすれば未解決の謎だ。そして出し物とする以上、未解決なりの答えをパソコン部は導き出す。その『答え』と『真相』が違うことを俺は想像していなかった。

 

 

 

「怖い……マジで怖いっ……!!」

 

 

 

 パソコン部が出した答えとは『人魂』だったのだ。ARによる映像とはいえ、集会をするように犇く人魂を目撃した時には卒倒しそうになったし、実際ラファエルは「くぁああああ!!?」と、もう優雅さとか上品さとかを全てかなぐり捨てた悲鳴を上げて逃走を図っていた。

 

 

 

 続く第二の怪談である『13階段』——。

 これは実際なら一度ギン教官が身分相応に相応しく学校に通うという話になった際、見学しようとしたら、酔いが回っていたせいで階段の段数を数え間違えた怪談という、二重の意味でくだらない物だ。しかしパソコン部の答えはAR技術を駆使した悪質極まるオチが用意されており、AR技術で階段があるように偽装。踏み込んだ時にはリアルの世界で用意された『ゼリー状の物体』を踏ませるという物だった。これは流石のエミリオも引っかかって、ヌメヌメした感覚に「不快っ!?」と野蛮な声を上げた。

 

 

 

 お次は第三の怪談である『画仙が宿っている美術室』——。

 実際の元となる犯人は、未完成品のデッサンを見て修正したくて堪らないラファエルの犯行による物だ。ここではAR技術によって蘇ったレオナルド・ダ・ヴィンチ【ゾンビ】(ここまでがサングラスに表示された名称)が「お前の身体……黄金比ではない。描き直してやる!」と鬼気迫る顔で追ってくるという非常に怖い思いをすることになった。ラファエルは「こんなの解釈違いよぉぉおおおお!!」と涙目で吠えながら逃げた。逃げた後は本当に死にそうな表情で「よ、余裕だったわね」と産まれたての子鹿みたいに震わせながら強がっていた。

 

 ……怖いなら「リタイア」と言えばいいのに、頑なに口にしないのは彼女が持つ最後の意地という物だろう。製作者からすれば、これほど良いお客様はいない。

 

 

 

 そして第四の怪談『赤毛の妖怪』——。

 これは俺達が誰も知らない七不思議だが、これ自体は七不思議の時点で解決法があるからか、手順通りにすれば滞りなくミッションを熟すことができた。流石に般若Lv120みたいなグレートでデストロイな角を生やしながら「私は綺麗か」と言われたら萎縮してしまうが、解決策があるだけマシだった。というか単純な凄みによる恐怖ならマリルの方が上なんだから慣れっこだ。問題ない……。

 

 

 

「…………うぅ」

 

「どうしたの、レンちゃん?」

 

「あの……トイレ、行って来ていいですか?」

 

 ……問題ないわけなかった。あまりの恐怖から尿意を催してきた。男の時と違って我慢が効かないから、催した時にはすぐに行くようにしないと、いくら人権が低かろうと社会的に取り返しがつかないことになる。

 

「いいけど……ついでに七不思議の五つ目解いてきてくれる?」

 

 ……それはしょうがない。このミッションは元々『一人用』であり、その場所は今俺が口にした『女子トイレ』なのだ。そこに五つ目の七不思議がある。

 

 

 

 ——七不思議の一つ『個室の怨霊』

 

 

 

 

 その内容はこうだ。

 

 2年生の女子生徒が突然腹痛に襲われて、1年生のトイレへと駆け込んだ。入り口から奥の2番目の個室トイレに女子生徒が入り、事を済ませようとした時、すぐ隣の個室から物音が聞こえてきたという。

 

 ……もちろんトイレ何だから誰かいてもおかしくない。問題はここからだ。しばらくすると、その個室から女の子の啜り泣く声が聞こえてきたのだ。

 

 時刻は夜の10時——。部活帰りで留まっていた2年生の女子生徒からすれば、何故この時間に1年生のトイレに誰かが、そして泣き声がするのは不思議でならない。女子生徒はその個室に耳を澄ますと、泣きながらハッキリとこう言っていた。

 

 

 

 

 

 ——面倒だ、どうしよう。

 

 

 

 

 

 女子生徒は気になり、足元の小さな隙間から個室を覗き込んだ。

 

 ……『足が見えなかった』のだ。そしてポツリ……ポツリと……確かに一滴ずつ『鮮血』が滴り落ちてきていたのだ。そして——。

 

 

 

 

 

 ——ギャァアアアアアアアア!!!!!

 

 

 

 

 と、その個室から悲鳴が木霊した。

 

 女子生徒は怖くなり、すぐにそのトイレから逃走した。その後、女子生徒は家庭の事情で引っ越したことで真相は分からず仕舞いだが、今でも夜になると、そのトイレの個室には怨霊が女子生徒の生き血を求めて住み着いていると言われている…………。

 

 

 

 

 

 ——果たして『個室の怨霊』の正体とは——

 

 

 

 

 

「……………………俺なんだよなぁ」

 

 目的地となるトイレへと辿り着き、俺は難なくお札を手に取りながら用を足す。

 

 ……怨霊の正体は他の誰でもない『俺自身』だ。恐らく俺が女の子になって間もない頃、その時はまだ全然知識もなければ意識もしていなかったが、ちょうど初めての『生理』を迎えていたのだ。

 

 生理用品とか当時持っていなかったし、それを目撃した時は驚きを通り越し過ぎて途方に暮れるしかなかった。血なんかまだ見慣れていなかったから、自分の股から漏れ止まらない血液を見てパニック状態で慌てふためくしかなくて、せめて片付けくらいは楽にしようと便座の上に座って何とか全てをトイレに流せるようにした。それが俺の『足が見えなかった』理由だ。それでも慣れていないせいで漏れ出た血が滴り落ちてしまったが…………それが女子生徒が目撃した物だろう。

 

 まあ、こんな史上最高のくだらないオチがあるのが『個室の怨霊』の正体だ。自分自身が当事者なのだから、他のと違って今まで以上に恐怖は湧かずにいる。その証拠に俺は現在進行形でお札を手に用を足すという緊張感がない構図に完成してるのだ。

 

 …………だが真相と答えは違うのが、このお化け屋敷だ。果たしてどんな怪異を見せるのか半分ドキドキ、半分ワクワクしながら待ち続けるが未だに何も起こらない。サングラスの情報も更新されないし、何かしらのアクションが起こる予兆もない。

 

「……結局、何も起こらなかったな」

 

 尿意を解消して便座を見るが何も起きてない。血なんてどこにもなく、あるのは綺麗に汚く排出された黄色の液体だけだ。……そういうフェチはないから、こういうアンモニア臭(?)は嫌悪感しかないからさっさと流すに限る。

 

「さぁ、出よう出よう……」

 

 

 

 ——ガッ。ガッ、ガッ…………。

 

 

 

 ……おかしいな。俺、個室に入る時に『鍵なんて掛けたか』? サングラスはあくまでARを見せたり音を聴かせるだけで、こういう物理的な障害なんて起こるわけがない。

 

 脳が理解を促そうと躍起になろうとした次の瞬間、今度は恐ろしくドギツイ刺激臭が個室内に漂い始めた。

 

 なんだ? この匂い……。

 これは俺が男の時にゲームに夢中になりすぎて、ペットボトルの中に出して放置されていた尿の匂いに近い。それをもっと悪い意味で深みを増したような不快感……。とてもじゃないが堪えきれない。

 

「……この匂い、便器から漂ってくる!?」

 

 待て。さっき俺が確認した限りでは、ただの薄く漂うアンモニア臭だ。ここまで強烈な物ではなかったはず。俺は恐々しながら便器を振り返る。

 

 

 

 

 

 ——そこには『赤く染まった水が流れていた』

 

 

 

 

 

「うぁぁああああああああ!!? 俺の生理期まだ来てないよぉおおおおおおお!!? 早くて半月後だよぉおおおおおおおおおお!!?」

 

 なんで!? なんで『赤い水』が流れているんだ!? もしかして知らない間に生理が早まったのか!? 

 

 気になって俺は即座に下着を下ろして股部を確認する。

 ……よし。下着は赤く染まってないし、鼠蹊部から血は出ていない。あの水は俺が出した血で染まった物ではないことは確かだ。だとしたら、この『赤い水』は……。

 

「……あぁ。サングラスが見せてる色か。臭いはともかく、これを外せばちゃんとした色が————」

 

 

 

 ——赤い水のままだった。

 

 

 

「ゔぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 サングラスぅ!! サングラス外してますぅ!!

 

「あはは……!? まさか、マジモンの心霊現象——」

 

 頭部に『何か』が滴り落ちてくる。混乱する中、俺はそれを反射的に見上げてしまった。

 

 

 

 

 

 ——そこには『赤い液体を口内から滴り落とさせる怪物』がいた。

 

 

 

 

 

「くぁwせdrftgyふじこlp————ッ!!!!!!!」

 

 

 

 

 リ、リ………………ッ!!!!

 

 

 

 

 

「リタイアァァアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 

 

 時刻は過ぎて夕刻前。校庭中央で灯り始める焚き火をボーッと眺めながら、俺はアニー達がお化け屋敷から帰還するのを待っていた。

 

 我ながら非常に情けない。脱落者第一号が俺なんて……。

 しかしあの『赤い水』や『怪物』は本当に何だったんだ? サングラス越しじゃなくて見えてた以上ARではない。

 

 まさか、本当に幽霊とでも……っ!?

 

「……レンちゃん? アレ、みんなで確認したら、ただの化学薬品と人形だったよ?」

 

 帰ってきて早々、アニーから耳を疑う発言があった。

 …………化学薬品と人形? えっ?

 

「だだだ、だだだったら! なんで『赤い水』が流れたんだよっ!? 俺がレバーを倒しただけだぞ!? 倒す前は匂いもしなかった!? ARでもない怪異現象だぞっ!? あれをオカルトと言わずして——!!」

 

「……トイレって貯水タンクがあって、そこに溜まっている水を流すの。その貯水タンクの水に化学薬品を混ぜて、そして便器内にも対応する薬品を塗っておけば、あら不思議。水が流れた瞬間に化学反応を起こして色の変化と異臭を放つようになるんです」

 

「えっ……? なら、なんで俺は個室から出れなかったの? それとこれ関係ないよね?」

 

「カロリンちゃんにネタバラシして貰ったけど、あの七不思議は便座のレバーを下げた時に全ギミックが作動するんだって。貯水タンクの水圧が変化することで、その間は鍵部分のロックが外から二重に掛かって出れないようになる。そして水量が減ることで比重が変わって天井に吊るされている人形も移動。気付いたら上にいるって感じ」

 

「そんなカラクリ——って、あっ」

 

 そうだ。最初にサラッと言っていた。『ここではパソコン部がAR技術と、一部カラクリ技術を使って触覚を再現した恐怖体験をする出し物になります』と——。

 

 その一部カラクリ技術が、あの七不思議の意味してたのかぁ……!!

 

「うわぁ……」

 

 理解した途端に恥ずかしさが込み上げてきた。赤が真っ赤になって熱を帯びてくる。ちょっと冷静になれば分かることだったのに……!!

 

「ふっ、男のくせに情けないわね」

 

「何だよ、ラファエル。お前だって…………って、エミリオ達は?」

 

「買い出し中。ラーメンとかお好み焼きとかのガッツリ系まだ食べてないでしょう?」

 

 ははっ、エミリオらしいわ……。

 

「しかし、そんなカラクリでビビるなんて……不覚だった」

 

「また来年、挑戦すればいいじゃん」

 

「うん、そうだね……」

 

 

 

 って————!!

 

 

 

「それって来年も俺は『女の子』のままだってことじゃん!!」

 

「あはは!! そう言えばそうだね!」

 

 

 

 こうして俺達の愉快な学園祭は終わる。キャンプファイヤーを眺めながら、高崎さんの歌声が体育館から響いてくる。

 

「レンちゃ〜〜ん!! 蕎麦買ってきたよ〜〜!」

 

「他にも色々あるぞ」

 

 買い出ししていたエミリオ達が両手いっぱいの食べ物を抱えて戻ってきた。みんな思い思いの品物を取っていき、俺も「ありがとう」と「いただきます」を言ってガーリックライスとステーキの弁当を受け取った。

 

 ……そうだな。また来年、こんなに楽しくて喧しい毎日を過ごそう。みんなとこうして何気ない祭事でも、ショッピングでも、クリスマスでも……………本当に何でもいい。何でもない毎日を過ごせるなんて幸せに違いないんだから。

 

 

 

 

 

「来年か……」

 

 

 

 

 

 視界の片隅。ラファエルは黄昏ながらそう呟いた。

 まるで「そんなことがあればいいのに」と願うように。

 




これにて閑話②【少女と日常】が終わります。

4月からは予定通り第四章【堕天使】が始まりますので、今後とも気長にお付き合いくださいませ。

ゲームで皆が頼りにする『あの人』が登場しますので、お楽しみに。


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第四章 【堕天使】
第1節 〜啓示が示された顛末〜


第四章、開幕です。
予定では15節〜17節になると想定しておりますので、しばらくの間お楽しみくださいませ。



 ——『堕天』、それは『天使』と呼ばれる存在が堕落して悪魔に身を染めること。

 

 悪魔に落ち切った天使は、通称『堕天使』と宗教の概念では捉えられている。

 

 

 

 ……ならば『天使』にとっての『堕落』とは何を意味するのか。

 

 

 

 最も有名な堕天使と言われば、キリスト教の『ルシフェル』あるいは『ルシファー』と呼ばれる存在であろう。堕天したルシフェルは悪魔の長——つまり魔王や『サタン』と呼ばれる存在と同一視されてもいる。

 

 しかし文献を紐解けば、かの大天使が『堕天』した理由について明確な記述がされているものは少ない。諸説は様々であり、創造神に対して叛逆を起こした罰、自ら悪魔となった、人間に知恵を授けた罰……などなど色々だ。正確な答えなどどこにもない。ルシフェルが『堕天使』になったことに対して結果はあっても、経緯について曖昧なままなのだ。

 

 だとすれば、何を持って『堕天』というのか。『堕天』という経緯があって、初めて『堕天使』という結果は生まれる。

 

 創造神に叛逆を起こせば『堕天』するのか——。

 自ら悪魔になることが『堕天』するのか——。

 人間に知恵を授ければ『堕天』するのか——。

 

 あるいはもっと別の何かなのか——。

 

 何せ上記で挙げた『堕天』について、どれも結果と経緯が同じなだけで根本が違いすぎる。正確な尺度を持って『堕天』を測る以上、絶対的で基準がなければ定めることはできない。

 

 ならば、その絶対的な基準とは何か。もっと有名な堕天使が記された『キリスト教』の教えそのものなのか。

 

 だが、ここで更なる根本的な問題が発生する。

 

 なにせ『堕天使』の概念とは、ユダヤ・キリスト教の複雑な歴史が背景があり、キリスト教の『原典』とも言える『旧約聖書』と呼ぶ『ヘブライ聖書』においては『堕天使』という概念は存在しないのだ。

 

 最も早く天使の堕落について記載されているのは、後期ユダヤ教諸派において成立した『偽典』と呼ばれる文書のひとつ『エノク書』にある。

 

 つまり、根本を次々と繋げていくと本来なら『堕天使』や『堕天』と言われる存在なんてないのだ。天使が罪を犯し、地に落ちるということは本来起きるはずないのだ。

 

 しかし現実に『堕天』という言葉が生まれ、『堕天使』という存在が認可されている以上、『存在しない』ということは存在しない。何であれ、そこに至るまで理由が必ずどこかにあるのだ。

 

 だとしたら『起きるはずがない』ことを『起きる』のが『堕天』とでもいうのだろうか。かの北洋神話にて戦乙女のブリュンヒルデがシグルズとの恋に落ちたように、自分が本来遂行すべき役目を放棄してしまうことが『堕天』とでも言うのだろうか。神は神、人は人であるように、神が、あるいは神の使いが人間に肩入れすることは『神』と『人』の均衡を崩すことを意味する。ルシファーが人に知識を授けたことが『堕天』した理由——つまり『罰』というのなら、遠回しに言えば人間が知恵を持つのは『罪』であるとでも言うのか。

 

 ならば人間が生まれつき持つ『知恵』が『罪』というのなら、人間は生まれついてから『罪人』だとでもいうのか。確かに神話をさらに紐解けば『創世記』にてアダムとイヴは楽園にて口にしてはならない知恵の果実を口にした。それにより人間は『知恵』を身につけ、それを『原罪』ともいう。しかし、ここでの『原罪』というのは『知恵』そのものではなく、アダムとイヴが果実を口にした際に『その禁忌に触れた罪を互いに責任転嫁しあった』ことが問題なのであり、『知恵』を得たこと自体には決して『罪』ではない。この『知恵』を『原罪』を人間が生まれついて持つ『罪』というのなら、この『罪』はアダムとイヴの物だ。人間の物ではないし、仮に人間の物と押し付けるなら、それこそ『罪を責任転嫁した』だけであり、その考えを広めた人物そのものこそが真なる『罪』を背負っていると言える。

 

 つまり『知恵』は決して『罪』ではない。『罪』ではない以上『罰』はない。『罰』でないなら『堕天』ではない。

 

 だとしたら神に不従順なのが『堕天』なのか。

 それは違う。不従順なだけで『堕天』されるというのなら、神話において不届きな事をしたのは多くいる。使命を恋と共に焼け落ちたブリュンヒルデもそうだし、アダムとイヴと同じく『約束を破った』という意味なら、かの有名な『パンドラの箱』を開けたパンドラもそうだ。しかしパンドラは箱を開けた後はどうあれ、最後まで『堕天』することはなく、大洪水さえも生き残り子孫を残した。

 

 では自ら悪魔になることが『堕天』なのか——。

 それも違う。『悪魔』になることが『堕天』というのなら『堕天使』というものは生まれない。ルシファーは確かに『堕天』したことで『悪魔』になった。しかし、結果としてそれは『魔王サタン』という新しい存在へと変遷したに過ぎず、ルシファー自身が『魔王』や『悪魔』という存在になったわけではない。かの熾天使は変わらずに失墜した羽を背に『堕天使ルシファー』として存在している。

 

 

 

 

 

 

 ならば『堕天』とは——。『堕天使』とは——。

 

 その翼が、地に失墜することには何の意味があるのか——。

 

 

 

 

 



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第2節 〜彼らは讃美を捧げる〜

 季節は巡り、春が来る。

 桜咲く並木道。御桜川女子高校の新入生達が足並みを揃えて校門を通る。校門の前には多種多様の制服を来た別校の男子生徒が一定の法則の下に列を成して見物しており、思い思いのことを口にしていく。

 

「流石は御桜川……っ! レベルが高い女の子ばかりだ……っ!」

 

「あぁ〜〜。お付き合いしてぇなぁ〜〜」

 

 そこに今度は俺達が通る。取り繕うこともなく自然体に。むしろこんな喧騒から早く抜け出るように気持ち早めに歩き続ける。さながら、それは漫画で見るお嬢様が登校するシーンのようだ。

 

「おぉ……あの赤メッシュの人、御桜川の子だぁ……!」

 

「すごい可愛いなぁ……。どこかのお嬢様じゃないかなぁ?」

 

「いいや、俺は芸能人と見たね!」

 

 …………まさか、そんなシチュエーションを俺自身が味わうなんて夢にも思ってなかった。

 

「ふふ〜♪ 人気者だね、レンちゃん♪」

 

「男にモテても全然嬉しくない……」

 

 俺とアニーは校門まで続く桜道を歩きながら話し合う。

 春が来た。つまりそれは時間の移ろいを意味しており、俺達は晴れて『二年生』となったのだ。同時にニュクスなどの先輩方は『三年生』になったことを意味し、悲しいことに俺が女の子になってから一年が経とうしているのだ。

 

 ……一年かぁ。長いようで短かったなぁ。中学の頃はもっとスローライフだった気がしたんだけどなぁ。オンラインゲームのデイリー消費したり、お気に入りのゲームの一周年記念まで待ち遠しかったりで結構一日が経つのが遅かった気がするんだけどなぁ。

 

「一年……経ったのか」

 

 俺はため息をつきながらお腹をさする。先日あの日が来たせいで、今日は不調子極まりない。ある程度慣れたとはいえ、これは何度経験しても痛くて辛抱堪らない。

 

 ……そう、この一年で何度も経験してるんだよな。そういう時期があることは男の時でも知ってはいたが、まさかここまでの頻度で来るとは思っていなかった。同時に『慣れ』というのが、いかに俺が『女の子』として適応してるかが嫌でも分かる。もうタマキン攻撃と生理、どちらがキツいかと言われたら確実に答えられるくらいには適応してしまうほどに。正直瞬間的な痛みは金玉だが、持続的かつ重いのが生理だ。どっちもどっちと言える。

 

 こんな痛みを女の子は頻繁に来ることに驚きを隠せず、一度俺はアニーに質問した。いつも元気そうに明るいアニーでも、こういう日が来た時には気持ちが落ち込むのかどうかを。

 

 

 

《……ごめん。魔女になった影響で時間がズレてるのか、通常の周期で来ないし、来ても軽いんだ》

 

 

 

 ……なんて言われた時には、思わずアニーに羨ましさで殺意を持ってしまうほどには生理という物は重い。俺はもう全国の女生徒の味方だ。生理を軽く見る男性諸君には、一度経験させたいくらいにはこの痛みは万人が知っておくべきだと思う。少なくとも理解はしろ。

 

 ……これだけでも辛いのに、女性はこれより痛いと言われる出産があるんだよなぁ。想像を絶する痛さだと考えるだけで背筋が凍————。

 

「って、俺は何を考えてるんだ……!!」

 

 なに自分が産むこと前提で考えてるんだよっ!! それに産むってことは、その……あの……あれじゃん!? 俺は男なんだからそんなことできないし、するわけないじゃん!!

 

「……顔青ざめてるけど大丈夫?」

 

「へいき、へっちゃら……。なんくるないさ」

 

「大丈夫じゃないねぇ」

 

 仕方ないだろう。自分で自分が恐ろしくなる考えを持ってしまったんだから。…………とはいっても興味があるかないか言われれば……………………うん、まあ、その、あの、って感じで…………。

 

 俺はチラリとこちらを見物する他校の男子生徒達を見る。野生的からインテリ、高身長から低身長とよりどりみどりだ。……仮にこの中から一人そういう関係を持つとして…………と考えたけど、とてもじゃないが今の俺が男子と一緒に恋人みたいなことをすることは想像できない。できるとしても、ボウリングしたりゲーセンに入り浸りする男同士の付き合い方のほうだ。真っ当な男女としての付き合いが俺にできる姿が微塵も浮かばない。

 

「ん〜? どうしたの? 周りに視線を泳がせて……?」

 

「な、なんでもない……っ!」

 

 こちらを心配そうに覗き込んでくるアニーの瞳を見て、自分でも分かるくらい頬が紅潮して熱くなるのが感じる。心臓が飛び出そうなほど心拍数が早まって、久しぶりにアニーを『友達』としてではなく『女の子』として意識してしまう。

 

 うん……。やっぱり俺は男だな。女の子を見てる方がドキドキするんだから。でもそれ以上に、その顔を見て安心感を覚えてしまう。この一年間通してずっと隣にいてくれた親しい顔。日常の範疇で心配そうな顔を見て、今日も何事もなく健やかな日が送れるのだと感じる。

 

「さあ、行こう! 新学期の開始だぁー!!」

 

「よっしゃー!!」

 

 ここから俺達の新学期は始まる。

 さあ、二年生としての生活はこれからだ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……まあ、意気込んでも午前授業なんだけどね」

 

 午前授業ということもあり、昼間から商業区で遊ぼうと皆が出て行ったことで閑古鳥となったラウンジにて俺達は居座る。メンバーは俺、アニー、ヴィラ、エミリオ、ニュクスだ。ラファエルがいないが、別に珍しいことではない。一応はお嬢様も留学生として来ているため、割と頻繁に教師達に十数分ほど呼ばれることくらいはあるのだ。今日もそれで遅れているのだろう。

 

「しかも今年もアニーとヴィラと同じクラスだったな」

 

「それ言ったらエミ達もそうだろ」

 

「そうね。新鮮味はなかったわね」

 

 などと実りのない会話をしつつ菓子や飲み物を口にしながら、各々自分勝手に好きなことを片手間に行う。

 

 アニーは現世に戻ってくるまでの七年間の間に起きた野球関連の雑誌や映像を見直し、ヴィラは根が真面目な部分があるところから翌日から行われる授業についての予習について余念がなく、エミリオはグルメでも求めているのか商業地区のガイドブックを流し読みし、ニュクスはその首に掲げている宝石……ええっと確か『ブラックオルロフ』って言うんだっけ? ラファエルが口にしていたくらいだし、さぞ高級なのだろう。結構丁寧に汚れを拭き取っている。そして俺自身はスマホで絶賛ゲーム中だ。美少女化した鹿達がレースをする『シカ娘』というものだが、意外にもこれが嵌る。

 

 完全に独立した遊びをしながら屯っている様は、どう見ても一緒にいるだけ意味があるのか問いたい気分だが、現代の子供達はこれぐらいの感性が普通だ。関わり時に関わって、関わらない時は意識はせずに放置。この距離感こそが現代っ子だ。

 

「しかし、ヴィラは勉強熱心だな。今から始めるなんて成績一位とか狙ってるの?」

 

「あのなぁ……アタシ達はお前と違ってSIDの任務としているんだ。優先順位がSIDの方が上な以上、いつ学校に来れない日が来るか分からないんだ。空いた時間に予習くらいしとかないと、いざという時に困る」

 

 これまた実りのない日常的な会話を続ける。最近は異質物問題は些細なものだし、全世界で起きている時空位相波動の発生も、あちこちで極小の物が出るくらいなもので、大抵の場合はソヤが出張するだけで解決してしまう。そのせいで全体的に緊張感というか、危機感という物が薄れてきており、こうした緩い雰囲気が2038年に入ってから1度たりとも締めた覚えがない。まあ、おかげでギン教官との訓練もかなりの密度で行えたから、俺も人並みには強くなることはできたので有難いけど……。

 

 ……これも『国際条約フォーラム』で締結させた『サモントン条約』が遠因だよなぁ。危険度が高いEX異質物をサモントン教皇庁で厳重に保存しているから異質物問題が起こることが少なくなった。各学園都市が抱える異質物はsafe級ばかりだから仮に問題が発生しても些細な物だし、自国の問題を自国ですぐに解決できる。それに伴い各学園都市の対応力も目覚ましい成長を見せて、時空位相波動によって発生する『ドール』という存在に対して対応し得る戦力も整えた。これによって俺達がここ数ヶ月、新豊州で平和に過ごせているのだ。

 

 ……だけど問題が起こらないから、ある奴の動向も非常に追いにくい。世界で手配されているAAA級指名手配犯——『男の時の俺』と瓜二つの身体、魂を持った存在である『アレン』の所在についても全く持って不明なのだから。それにEX級異質物が稼働することもないから、あの『ヨグなんとか』に接触する機会もメッキリ減った。四ヶ月前から一向にこれらに関して前進する兆しさえない。

 

 何か事態を好転させる一手でもあればいいのだが……そんな都合のいいことなどない。故にこちらとしてはSIDから本格的な指示があるまで待ち続けるしかないのだ。

 

「…………というか、ラファエル遅いな。いつになったら来るんだ?」

 

 スマホに表示される時刻を見て俺は呟く。ラウンジに集まってから既に30分以上経過してるが、エミリオ以上に見た目の色彩がうるさくて校則に縛られないグリーンお嬢様が一向に姿を見せない。

 

「レンちゃんは知らないですか?」

 

 ニュクスからの問いに俺は即座に頷いた。

 

「知らないよ。何かはまだ聞いてないけど」

 

「二学期早々、ラファエルさんはお休みよ」

 

「休み? 体調でも崩したの?」

 

 とてもじゃないが想像できない。あの天上天下唯我独尊を行くラファエルが、熱とか出して床で伏せている姿なんて…………。

 

 

 …………

 ……

 

『ケホケホ……。ご、ごめんなさいね……。わざわざ看病に来てくれて……』

 

 ……

 …………

 

 

 いや、想像してみると意外とギャップというか愛嬌というか……。潤んだ目とか、熱で赤くなった頬とか、申し訳なさそうに布団に包まって顔を隠す姿とか…………。あれ? 結構可愛くないか? というか色白の部類に入るから、弱気なところが見えると途端に薄光の美少女になるというか…………。

 

 ……横暴な態度が前面的に出てたから気にしてなかったけど、こうして見るとラファエルって実は結構可愛くて綺麗な分類だったんだな。今更認識を変更することなんて不可能なほど印象が色濃く付いてるけど。

 

「教師曰く『サモントンから呼び出し』があって休んだそうです」

 

「なんだ、そんなこと——って、サモントンから……?」

 

「ええ……。自国の騒動も収まってはいますし、方舟計画のこともありますし……もしかしたら……」

 

「方舟計画のことについて……?」

 

 それについては俺もある程度は聞いている。

 

 南極での一件以来、存在を忘れてしまったのではないかと今まで言及されてこなかった方舟基地だが、近日中にサモントン教皇庁が保護したEX級異質物の一部が、safe級に格下げされたおかげで実験の認可が降りたということを。その中には『リーベラステラ号』で目撃したスターダストの情報が入った隕石も入っていることもあり、マリルと愛衣は『OS事件』の際に解析した『柔積水晶(ハイイーが落としたクラゲ状の物体)』にあった『観星台』や『プレアデス星団の座標』についてどんな意味を持つのかを熱心に予定を組んでいる。

 

 ……俺が知っているのはそこまでだ。それとラファエルがいったいどんな関わりがあるんだ? 確かにラファエルは方舟計画において『サモントン執行代表』としていたけど……。

 

「……実は彼女、今回の方舟計画の『代表ではない』のです」

 

「代表じゃない? ということは別の人が来るってこと?」

 

「ええ……。そして、それはラファエルさんの立場を揺るがす材料でもあります」

 

「…………どういうこと?」

 

「ラファエルさんが元々自国で問題発言をしたために、その騒動から身を隠すために留学したのです。それが御桜川であり、その時期に『スカイホテル事件』での騒動などが重なったことで、ラファエルさんがある程度自分で選んだとはいえ、なし崩しでここに来たに過ぎません」

 

「お、おう……」

 

「しかし一年も経過すれば、自国での騒動も沈静化。それに『スカイホテル事件』でマリル長官が交わした契約も解消されます。そして当初の視察団代表も既に完遂済み…………つまりラファエルさんがここにいる理由は、SIDの繋がりとして『執行代表』という身分があったからです」

 

 そういえばスカイホテルでマリルがデックス博士に「ここ一年間のサモントン農産物を優先的に提供する」とか「第二学園都市の金融先物取引所への行動に目を瞑る」とか言っていたな……。

 

 そうか。もうそろそろ一年も経つとなれば、それらの契約も終えるまでもうすぐなのか……。

 

「それが解消されるとしたら……果たしてラファエルさんがここにいる理由があるのでしょうか?」

 

「えっ……? ここに、いる……理由?」

 

 そんなこと今まで考えたこともなかった。だって、新年も一緒に迎えて学園祭も一緒に楽しんでいて……これからもずっと皆と一緒だって無意識に思っていた。一緒にいることに理由なんてあるわけがないと……あるとしても『居心地が良い』からとか、そんな軽い物だと考えていた。

 

「……言いづらいのですが、もしかしたらラファエルさんはサモントンに帰国する可能性もあるかもしれません」

 

 

 

 ——サモントンに帰国する。

 

 

 

 ……それはラファエルと離れ離れになってしまうということだ。

 

 

 

「ははっ……。ははっ……! まさか……っ!」

 

 あまりにも唐突すぎて、ニュクスなりの冗談かと思って笑い飛ばそうと頑張るが、頬も思考も固まって上手く笑えない。それに誰もこの事について異議を唱える者はいない。皆が表情に少し影を帯びたまま黙りこくる。

 

 ……冗談なんかじゃないんだ。本当にラファエルが帰国してしまう可能性について皆が考えているんだ。『方舟計画』における『執行代表』ではないというだけで、ラファエルの新豊州での立場が失墜してしまうほど淡い物だったということを。

 

 そりゃそうだ。いくら御桜川女子校がお嬢様学校の高給取りだとしても、俺みたいな奴がコネもありとはいえ簡単に入学できるような場所だ。学業において特別秀でた結果を持っていないのに、ラファエルが…………というより世界有数の貴族家系である『デックス』そのものが、いつまでも御桜川にいることを許すだろうか。

 

 ……それに以前、ラファエルが視察団代表として初めて御桜川に来た時にこう口にしていた。

 

 

 …………

 ……

 

《ここの多くのデザインは、戦前の有名な建築を真似ているわね。それでいて、自分達の文化が基礎レベルより高いと主張している。だけどキャンパスの面積が小さすぎて各建築様式の間に緩衝と適度なスペースがない…………こんな場所にいて、あなたは鬱陶しくならないの?》

 

《お爺様が、私を他の学園都市に留学させようとしているのよ。そうでなければ…………こんな模倣だらけの中身が空っぽな場所なんて、————足を踏み入れる価値さえないわ!!》

 

 ……

 …………

 

 

 そうだ————。俺はこの学校に愛着はあるが、ラファエルはもしかしたら御桜川自体に愛着なんて物はないかもしれない。

 

 そんな場所から自国に戻れる権利があるというのなら…………いくらサモントン自体にラファエルが不満を持っているとはいえ、また別の学校に留学するためにサモントンに戻るのもあるのではないか?

 

「……じゃあ本当にラファエルは帰っちゃうのか?」

 

「……別に今って訳じゃないけど、その可能性は十二分にあるね」

 

 俺の問いに、アニーに似合わない暗いトーンで答えてくれる。

 

「代表の後見人が誰になるかは分からないけど、引き継ぎとかもあるだろうし……長くて二ヶ月先。短くて今月末……じゃないかな」

 

「もちろん帰国しない可能性もあるんだけど」とアニーはしどろもどろに口にする。

 

 そうだよな…………。いくらラファエルが当初は御桜川に嫌悪感を持っていたとしても、それをずっと一年間も抱いたまま、あの偏屈お嬢様が御桜川に通い続けるわけがない。必ずどこかしらに愛着が湧いてるからこそ今でも通い続けてるに違いない。

 

 だから……もしそうなら……。あのワガママお嬢様が自分の家系に交渉して、自分の意思で、自分のために、それこそ『デックス』としてではなく一人の少女として『ラファエル』として通うことを選んでくれるなら……もしかしたら今まで通り御桜川にいてくれるかもしれない。

 

  

 

 …………本当に、もしかしたらの話だ。

 

 

 

「……方舟計画か」

 

 俺は窓辺から商業地区を眺めながら呟く。その視線の先には、俺達と同じ制服を纏った見慣れぬ生徒達が楽しく遊んでいる。きっと今年入った新入生達だろう。去年の俺たちみたいに買い物を楽しんだり、カラオケやゲーセンなどを巡ったりして、彼女達なりの日常を育み楽しんでいくのだろう。

 

 ……あんな風に過ごせるのは、もうないのかもしれない。そう考えると憂鬱な気分になってしまう。

 

 

 

 

 

 もし本当にラファエルがいなくなったら——。

 

 いなくなったら、俺はどう思うんだろう——。

 

 

 

 

 

 時間は無常に刻み続ける。胸に言いようのない空虚な気持ちなど気にせず、ただ規則正しく秒針は進み続ける。



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第3節 〜四人の天使〜

 ——サモントン。デックス家本邸。

 

 

 

 緑化推進によって自然と一体化した庭園を、ラファエルは心底機嫌が悪そうに歩き続ける。道端に生える雑草も、庭を彩る花も、女神像を象って成長した樹木さえも等しく『汚物』を見るように蔑み、その隣にいる『随行員』として同伴しているハインリッヒへと話しかけた。

 

「今更呼び出すなんて、どんな意味があるのかしら」

 

「……分かっていらっしゃるのでしょう?」

 

「…………そうね。ちょっと八つ当たりしたかっただけ」

 

 その言葉は本心なのだろう。ラファエルは本邸の扉の前に辿り着くと、まるで突き飛ばすように豪快に扉を開けた。

 

 

 

 ——お帰りなさいませ、ラファエル様。

 ——お帰りなさいませ、ハインリッヒ様。

 

 

 

 本邸の扉を開けた先には、デックス家が数多く雇う従者が男女問わず列を揃えて傅いでいた。総督の孫娘というだけなのに、まるで神様みたいに扱われる態度を見て、ラファエルは改めて吐き気を覚えるほど自国の民に嫌悪感を示す。

 

 

 

 ——こんな奴らだって久しく忘れてたわ。

 

 

 

 視察団代表として新豊州に赴いた頃、元々はラファエルの側にいた付き人の存在が頭にチラつきながらラファエルは心の中で毒を吐く。

 

 

 

 ——こいつら全員揃ってイエスマン。

 ——「死ね」といえば本当に「死ぬ」ような重度の信仰者。

 ——『知恵』を持つのに『知恵』を放棄した人間未満。

 

 

 

 ラファエルは心底怪訝な表情を浮かべてシミ一つない、埃一つない、お話のように整い過ぎたカーペットを通る。道中、従者の一人が「ご案内させていただきます」と提案するが、ラファエルは従者を一瞥すると「邪魔」とだけ吐き捨てて目指すべき場所へと向かい続ける。

 

 いかにも機嫌が悪いと主張するように大股で、かつ腕も大きく振り、しかも早足で向かう。

 

 そして辿り着く——。自分が今回呼び出された理由について話し合う場所、デックス本邸の食堂だ。ここでラファエルは『ある人物達』と食事を共にしながら今後について決めなければならない。

 

 

 

 それは——『方舟計画』についてと——。

 

 ——ラファエルの今後についてだ。

 

 

 

 意を決してラファエルは食堂への扉も開けた。アンティーク製の縦長ダイニングテーブルとチェアが左右に五つずつ、そして奥と手前に一つずつと合計12席。その内三つの席に、ラファエルがよく知る人物達が言葉も交わさず、態度も変えず、ただ『そこにいる』だけという人間というより銅像の方が正しいと思えるほどに静かに座っていた。

 

 右奥から向かって二番目——。上座の定義からすれば、一番身分が低い位置には金色にも近い茶髪の色黒な少年がいる。続いて右側の一番目には青髪の程よく色気を持った好青年がいる。どちらも美男子の部類に入るほど顔は整っており、芸術肌で美的センスが冴えているラファエルでさえも、身内とかのお世辞は抜きにして世界でも十本指に入るぐらいだ。

 

 しかし中でも一番異質なのは、左側一番目の『最も高い上座』にいる赤髪で緋色の瞳を持った中肉中背の中性的な少年だ。だが『少年』なのは見た目だけであり、この中にいる誰よりも一番の歳上であり、ラファエルがこの世で誰よりも捉えきれない人物。人でありながら人にあらず、神でありながら神にあらずな正体不明の異様な存在。

 

 デックス家だけでなく、サモントンという学園都市に根付く『宗教思想』の体現者とも言える絶対的な現人神にして『天使長』の名を冠する化身。

 

 

 

 その名は『ミカエル・デックス』——。

 

 デックス家における次期最高責任者という立場におり、サモントンの次期総督と名高いラファエルの『従兄弟』だ。

 

 

 

「ハインリッヒ。ここからは身内だけの話だから待ってなさい」

 

 ラファエルの言葉に、ハインリッヒは従者らしく「了解しました」と素直に従い、速やかに食堂の扉を閉めた。

 

 これで食堂にいるのは四人だけ。四人に会話などは起こらず、ただ沈黙だけが場を包む。そこには疎外感や壁というものはなく、人間なのにも関わらずただ単純に機械的に『開始』を待っているだけだ。

 

 ラファエルはサモントンに戻ってから何度目か分からぬ溜息を吐きながら、自分が座るべき左側二番目の席へと腰を置いた。

 

 それが合図になる。沈黙を通していた三人は、一斉にラファエルへと視線を合わせた。その視線には共通して『人間味』がなかった。全員が逸脱した意思を持ってラファエルを見定めている。一歩間違えれば、瞳の奥にある慈悲や慈愛といった物を全てを溢すような鋭い視線を持って。

 

「…………随分とお早い到着ですね、ラファエル姉さん」

 

「……『ウリエル』」

 

 色黒の少年『ウリエル・デックス』は気さくながらも、どこかお面のように張り付いた気味の悪い笑顔を浮かべてラファエルを最初に迎え入れた。

 

 座席の位置からも分かる通り、ウリエルはこの中で最も立場が低くラファエルより一つ年下の従弟だ。昔はよく一緒にごっこ遊びをしたりと可愛がっていた弟分だ。その時は無邪気に勉学に励む普通の少年だったが、数年ぶりに面と向かって会った今では、その笑顔に潜む真意を見定められないほど『デックス』に相応しい風体になったとラファエルは感じてしまう。

 

「……今日は私達四人だけ?」

 

「叔父様の御眼鏡に合う子はまだまだ発展途上だからね。あの子達は僕よりも若いし、まだ義務教育も終えていない……姉さんが気に病むことじゃないさ」

 

「気にしてないわよ。それより早く用事を済ませなさい。私は無駄口を交わす理由も、余裕も、時間も、義務も、責務も、忍耐もないの」

 

「いやぁ〜〜、相変わらずツンデレちゃんで安心したよ。新豊州で俗世に染まったと聞いて、純真で綺麗な君が汚れたんじゃないかと心配してたから」

 

「……口を塞いでくれない? 『ガブリエル』」

 

「つれないねぇ。従兄として本当に、心の底から、本気で心配しているだけなのに」

 

 青髪の青年『ガブリエル』は飄々とした態度で、まるで兄貴分のように「頼って欲しいなぁ」と言いたげに満面の笑顔を浮かべてラファエルと話す。

 

 胡散臭い笑顔だが、ガブリエルの言葉には一言一句嘘偽りも冗談もない。本当にこいつは自分のことを心配していることをラファエルは知っている。何せ幼年期の頃、一番ラファエルの戯れに付き合ってくれたのがガブリエルなのだから。サモントン総督である叔父に続いて、博物館や歴史館に最も同伴してくれたのはガブリエルだし、何ならテーブルマナーや教育、果てには自転車やバイクの乗り方まで教えてくれたのはガブリエルだ。一つ年上なだけなのに、ラファエルの実質的な教育係になるほどに裏がない人格であり、同時に人徳もある人物だ。

 

 しかしそれはそれとして、詐欺師のように人の心に踏み込む笑顔が一番気持ち悪いと思いながらも、ラファエルはこの場において最も力を持つ人物へと視線を合わせた。

 

「…………おはよう、ラファエル」

 

「…………おはよう、ミカエル」

 

 ただ挨拶をしただけで終わった。それだけなのに、ラファエルからすれば気が気でない。彼の言葉一つで、優しく接するガブリエルもウリエルも一変して迫りくる可能性がある立場を力を持っているのだから。

 

 しかし、それ以降ミカエルから言葉を発することはない。むしろ目を伏せて「我関せず」と淡白な挨拶も相まって徹底的に無干渉だ。思わずラファエルは自ら問いてしまう。

 

「…………他に言うことはないの。今回集まったのは私個人の問題もあるんでしょ?」

 

「私は君個人の付き合いに言及する気はない。好きにしていいさ。興味もないからね」

 

「……まるで私は不要と言いたげね」

 

 自分で自分を貶しているようだが、その言葉が含む意味を知るラファエルは喜ぶように笑みを浮かべる。対してミカエルは表情一つ変えず、その『炎』とも『光』とも『星』とも言えない煌めく瞳をラファエルに向けながら言う。

 

「そういうわけじゃない。君はとても大事な一員さ。『ラファエル』としても『デックス』としても…………ただ、それと『君個人』は一切の関係はないだろう?」

 

 

 

 ——つまり私自身に求めているのは、その名に恥じない『信仰』と『権威』だけということね。

 

 

 

 相変わらず変化しないミカエルからの扱いに、ラファエルは本当に嫌になるほど溜息を吐きながら、誰も口にしないので自分から「本題に入りましょう」と言う。

 

「いいのか? 自分で自分の首を絞めるぞ? 久しぶりの再開だ。無駄話に花を咲かせても私は何も言わない」

 

「無駄口を交わす理由なんてない、って言ったでしょう」

 

「…………そうか。なら望み通り話を始めよう。半月後に行われる『方舟計画』について」

 

 そこで初めてミカエルは表情を変えた。悲しみを帯びた緋色の瞳は、これから起こる全てを見透かしてるかのように儚げであった。

 

「結論から言おう。ラファエル…………君から『執行代表』を剥奪させてもらう」

 

 ……それはレン達が危惧していた通りの内容だ。『執行代表』の剥奪——ラファエルの新豊州に滞在する理由の消失。つまり実質的な『帰国指示』をミカエルから通達される。

 

「『Noblesse Oblige』——。貴族たる者、自らが熟すべき役割が見えないほどラファエルは未熟じゃないだろ?」

 

 

 

 

 

 ——Noblesse Oblige。

 

 ——高貴な者の義務。高貴であるゆえ特権を得ている者は、それに応じた義務を負うべきである。

 

 

 

 

 

「……分かってる。『ラファエル・デックス』として、その義務から逃げることはしない。『執行代表』の剥奪……受け入れるわ」

 

 それはラファエルにとって最も忌むべき『呪い』にして、最もラファエルを形づける『祝福』の言葉である。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 一方その頃、ハインリッヒは扉の前で目を伏せ静かに思考を巡らせる。今後自分がどう立ち回るべきか否かを。

 

 何せハインリッヒが今現在SIDにて研究が行えるのは、ラファエルの付く『随行員』としての立場があるからだ。ハインリッヒ自身の戸籍がサモントンにある以上、ラファエルが帰国してしまえばハインリッヒ個人が新豊州に留まる権利を無くし、強制的に帰国するハメになる。

 

 そうなってしまえば、ハインリッヒが敬愛かつ一番の興味を唆るレンとは離れ離れになってしまうし、情報生命体として謎が多く残るスターダストやオーシャンについてなど消化不良となってしまう事が多々ある。ハインリッヒとしてはSIDはまだしも、レンからは離れたくないのだ。

 

 

 

 ——こうなったらマスターに再生してもらうことを願いつつ、今一度自爆でもするか。

 

 

 

 などと物騒な発想を浮かべる中、ハインリッヒの耳に「お久しぶりですね」という声が届いた。ハインリッヒはその声に思わず「げっ」と不満を溢しながら目を開く。

 

 そこには腕の関節ほどまでに伸ばした金髪を、簡単な後ろ結びをして女性がいた。高身長でスリムなハインリッヒと比べたら低いものの、平均的な女性にしては身長は高い方だ。華奢なラファエルを太ましくしたような身体付きと言えば分かりやすいだろう。

 

 白のワイシャツに腰巻きエプロン。手には小箒と塵取りと給仕のような服装をした彼女は「ハインリッヒさん」と、他の従者とは違い『対等』な口調で話しかけてきた。

 

「待つだけではお暇でしょう。親睦を深めるためにお茶でもしませんか?」

 

「……『モリス』、また雑用をしてたんですか?」

 

「はいっ!」

 

 彼女の名は『モリス』——。

 

 ハインリッヒが随行員になってから知り合った人物だ。包容力が高く聡明で義理堅く世話焼きと、優しさが人の形をしたような人格者だ。とはいっても、そういうお世話な所がハインリッヒは苦手意識を持っており、極力話したくない相手でもある。ハインリッヒは根本的にはラファエルと同じくアウトローな感性を持っており、体育会系委員長タイプであるモリスとは馬が合わないのだ。

 

「……相変わらずで呆れますわ」

 

「あー、すいません……。何分古い人間でして……。未だに掃除機を使うよりも箒を持った方が手に馴染むものでして…………」

 

「いや、そう言うことを言ってるのではなく…………いえ、何でもありません」

 

「はい? ……あっ、ところでお茶はどうします?」

 

「こういう非文明的な部分も苦手なんだ」とハインリッヒは頭を抱えながら「ご一緒させていただきましょう」と面倒臭そうに応えた。

 

「……他には誰がいるのでしょうか?」

 

「セレサさん、アイスティーナさん…………それに新しく『席』に入った子です」

 

「あぁ……歓迎会も兼ねてるのですね」

 

「はい!」とモリスは元気に応えるの見て、ハインリッヒは「本当にこいつが……」とさらに頭を抱える。何故ならハインリッヒは彼女の地位を知っているからだ。

 

 そもそも『十字薔薇軍』こと『ローゼンクロイツ』というサモントンの情報機関に所属するセレサを知り、ハインリッヒと『対等』に話す時点で彼女は有象無象の従者の一人ではない。モリスもまた『ローゼンクロイツ』の一員なのだ。しかし、その地位は他の工作員とは訳が違う。

 

 

 

 そもそも『ローゼンクロイツ』とは何なのか——。

 

 その始まりは15世紀に秘密裏に生まれ、17世紀の初頭にドイツで表に出た『薔薇十字軍(ローゼンクロイツァー)』を基にした組織だ。当時は『人類を死や病といった苦しみから永遠に解放する、つまり不老不死の実現のために120年の間、世界各地で活動を続けてきた』という記載があり『神秘主義』『新プラトン主義』『パラケルススの思想』などの様々な影響を受けてもいると言われている。これについてはハインリッヒ自身が著作した『永遠の智恵の円形劇場』に記載された『エメラルド・タブレット』についても言及していたりするが、とどのつまり『錬金術』だ。世界の——いや宇宙の『真理』を解明することを第一目的にしてると言ってもいい。

 

 とはいっても、それは当時の話であり『薔薇十字軍』と『十字薔薇軍』こと『ローゼンクロイツ』では思想も組織形態も違う。『ローゼンクロイツ』は秘密組織ではなく、サモントンが有する情報機関であり、その役目はサモントンの思想形態である『信仰を守り、神に対する畏敬と謙虚を保つことこそ救いとなる』を厳守することだ。つまりそれはサモントンの秩序を守ることも意味している。

 

 ではサモントンにとっての『秩序』とは何か? もちろん国民全てに『宗教思想』を根付かせて崩壊を防ぐことだ。だが、そんな漠然的な結果だけを求めるだけではいずれは瓦解するのは目に見えており、それはサモントンの『秩序』が崩れることを意味している。であれば、その『漠然的な思想』を形づける『象徴』を守ることが『ローゼンクロイツ』の役割となる。

 

 つまりそれは現在サモントンを統治し、今の政治体制と宗教思想を生み出したデックス家を守ることを意味している。サモントンの政治体制を『象徴』となるデックス家にいる『天使の名を冠する者』———-ミカエルやラファエルのためにその身を注ぎ尽くすこと。それこそが『ローゼンクロイツ』という組織がある理由だ。

 

 だが『ローゼンクロイツ』の全構成員がそれに殉じていては、単純な情報機関としては機能しない。さらには保衛局——つまり警察としての立場もあるのだ。国自体に捧げる力を、私物化させるのは政治的に印象は良くない。そこでサモントン総督であるデックス博士は『ローゼンクロイツ』にある『役職』を与えた。

 

 その名は『位階十席』——。『薔薇十字軍』に派生して生み出された秘密組織『黄金の夜明け団』または『黄金薔薇十字団』と呼ばれる組織の階級を基にした序列だ。それは当時の『薔薇十字協軍』の位階制度の模倣でもある。

 

 アレンジとして『生命の樹』に対応したセフィラを『十席』と定め、最も階位が高い者から順に『第一位』『第二位』『第三位』…………と役職を与え、必ず『席と順位』を持つ者には『二つ名』が与えられる。レンとあったセレサもその『席と順位』を持つ者だ。『ローゼンクロイツ』の『第二位』————襲名『執行者』————。

 

 

 

 ……本人は知らぬことだが、実はソヤも『位階十席』の候補として『ローゼンクロイツ』から目をつけられたことがある。だからこそ国家絡みで直ぐに解放できるよう、分かりやすい地位として『審判騎士』という物が修道会を通して与えられていた。

 

 

 

 その『ローゼンクロイツ』でも最高の権威を持つ『位階十席』にして『第一位』——。それこそがモリスが持つ役職。マリルと同じく『ローゼンクロイツ』という組織の実質的な長。

 

 

 セレサが持つ『執行者』や、ソヤの『審判騎士』と同じく二つ名を襲名する者——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——『聖騎士』

 ——人は彼女を『セイント(聖騎士)モリス』と呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハインリッヒさん。わたくし最近、広報係の仕事も兼ねて『Tmitter』というのを始めたいのですが…………『タブレット』という物はどこで買えばいいのでしょうか?」

 

「はぁ…………そうですか……って購入からですか!?」

 

 とてもそんな人物には見えないとハインリッヒは思いながら『方舟計画』について思いを馳せる。

 

 何故なら十中八九、今回選ばれた『執行代表』の『随行員』として同伴するのは間違いなく、現代人の癖に現代に全く適応できていないモリスになると確信しているからだ。



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第4節 〜聖なるかな〜

「「ウボァーー!!」」

 

「どうした小娘ども。マヌケな断末魔をあげて」

 

 日付は進み『方舟計画』当日。久方ぶりのマリルの極悪運転によって『天国の門事件』から実に数ヶ月ぶりに『方舟基地』へとたどり着いた。……シチュエーション的には『南極事件』の方が近いのは、何というか奇妙というか、任務なんだから当然というか…………。

 

「だいひょうぶ、レンひゃん……」

 

「だいひょうぶらへ……」

 

 どう聞いても大丈夫じゃないが、俺とアニーはゲロを吐きそうな気持ちを抑えながら車から降りて『方舟基地』の入り口前まで千鳥足で歩く。こんな事なら『OS事件』の時にハインリッヒから譲られた戦闘服でも着たかったけど、あれは燃費の問題で長時間任務には一切向かないから『南極事件』の時みたいなことになったら逆に邪魔になってしまうので着て来れず、今はいつもの戦闘用改造セーラー服だ。

 

 …………何やかんやでこれにもだいぶ慣れたよなぁ。当初は「恥ずかしくて死んじゃうくらい短い」と思っていたのに………。

 

「ふひひ〜〜♡ その表情も唆りますわ〜〜〜〜♡」

 

「……前から思ってたけど、なんでソヤは無事なの?」

 

「慣れですわね」

 

 今回SIDとサモントン側の話し合いのもと、前回『南極事件』に至る際に偶発的に起きた『因果の狭間』を通した転移現象という事故対処のためにソヤは呼び出された。前回はハインリッヒが同伴してくれたが、今回はスターダストの情報が宿った隕石——。シンチェンが落とした金平糖こと『柔和星晶』に因んだ『剛和星晶』という登録名を持った異質物に誰かが宿っているとは限らない。というかスターダスト本人はこちらの電脳世界にいるのだから、改めて誰かが出るわけがない。

 

 しかし異質物である以上、時空位相波動が起こらないとも限らない。というか『方舟計画』そのものが制御可能な時空位相波動と異質物を見極める実験施設だ。起こるのが前提であり、再び『因果の狭間』が発生してしまうと、前回と違って実行者の俺と『サモントンの執行代表』だけが囚われてしまう。これでは安全性が保障されないため、両者共に異質物に対応できるエージェントを一人連れてくると定め、SIDからはソヤが選ばれたというわけだ。

 

 ……まあ俺もギン教官のおかげで自衛できるようになったけど、それでも未だにソヤの方が強いのが実情だしな……。頼れる戦力があるには越したことはない。『サモントンの執行代表』が————。

 

「……執行代表か」

 

 …………頭にラファエルの顔がチラつく。そう、サモントンの執行代表がラファエルでない可能性がある以上、執行代表がどれほどの人物か測ることはできない。ただ単に偉いだけの人物だったり、ラファエルやソヤみたいに一芸を持った人物だったりするかもしれない。結局は未知数なのだから、ハインリッヒほどのオールラウンダーやギン教官みたいな戦闘民族でないにしろ、実力の引けは取らないソヤがいるのは好ましい事だろう。

 

 

 

 ……執行代表、誰なんだろう。願うが叶うならは——。

 

 

 

「…………なーに、しょぼくれた顔してんのよ」

 

 

 

 …………その声を聞くのは珍しくないのに、別に長い間離れていた訳でもないのに、待ち望んでいたからか、心が惹きつけられるように彼女と顔を合わせる。

 

 間違いない——。見覚えのある黒髪、見覚えのある緑色の服装。そして彼女のシンボルといえる羽を象ったブローチと『R』の文字を象ったバックル。必要以上に傲慢で尊大で、腰に手を置いて鼻を鳴らす高飛車な姿は間違いなく俺が願っていた人物だ。

 

 

 

「ラファエル!! なんでここに……いや、執行代表だよな! そうだよな!」

 

 思わず側に寄って肩を揺すって問う。しかしラファエルは、彼女に似つかわしくない『申し訳ない』と言いたげな雰囲気を纏って、まるで『頭を下げる』ように目を伏せて言った。

 

「……違うわ。私は引き継ぎ確認として居るだけ」

 

 望みは簡単に打ち砕かれた。そこにいるのは、俺が知るラファエルじゃないみたいだ。失礼も承知で思うが、ラファエルはこんなお淑やかで儚げじゃない。もっと傲慢で天邪鬼で愛想なしの遠慮なしだ。それに鳩がどこにでもいると思ってる常識はずれの天然お嬢様だ。たかが『執行代表』じゃなくなっただけで、あのラファエルが潔く自分が毛嫌いを公言しているサモントンへと帰るだろうか。ちょっと想像がつき難いが……。

 

「……その雰囲気からして察してるみたいね。それは間違ってないわ」

 

 ……嘘だと、思いたい。ラファエルが新豊州から離れてしまうなんて。

 

 まだこれから色々やりたいことがあるのに……。ラファエルのダイエットに付き合うためにジム巡りをしたり、バイクの免許を取って一緒に公道を駆けたり、それこそ今年の学園祭も見て回りたい。

 

 それに…………それにラファエルは『先輩』なんだから、俺よりも一年早く御桜川から卒業してしまう。だったら俺は『後輩』としてラファエルの卒業を見送ることもしたいのに……。

 

 全部……もう叶わなくなってしまうのか。

 

「……そう悲観する必要もないじゃない。……別に今生の別れって訳でもあるまいし」

 

「……いや、そうではあるんだけど……」

 

 確かに今後2度と会えないというわけではない。時が経てば再びラファエルと出会うことは不可能ではないだろう。……だけどきっと、その時に会うラファエルは『一人の女の子』としてでなく『サモントンの貴族令嬢』としてだろう。それは俺が求めている『日常』としての出来事ではない以上…………ラファエルとの付き合いは本当にここまでになりかねない。

 

「…………あんたってやつは本当にヘタレね」

 

「い、いきなりなんだよ!?」

 

「それに肝っ玉なしで、狛犬で、変態で、ロリコンで、女装癖で……」

 

「ぉ、おふっ……」

 

「……あんたの世話役、面倒だったわ。やっと解放されて清々する」

 

「————っ」

 

 ……それは素直じゃないラファエルなりの後腐れない別れ方なんだろう。配慮がないことが彼女なりの配慮で、愛想はなくても愛はある。そんな捻くれた彼女の優しさを察せられないほど、俺も鈍感じゃない。

 

「……………………あと——」

 

「ふーん……。セレサの言う通り、ラファエルはよほど君がお気に入りなのかぁ」

 

 俺の心境を察して、さらに何かを言おうとするラファエルの言葉を遮るように男の声が聞こえて来た。誰なのかと思い振り返ると、そこには目を見張るほどの美青年がそこにはいた。

 

 青を貴重としたフォーマルスーツに、水のように澄んだ綺麗な青髪。それをストレートポニーで纏めてる姿は、まるで漫画に出てくる貴族のお手本のような上品さだ。身長はラファエルよりも高く、恐らくは175cmぐらいだろう。少々首が見上げる姿勢となり、構図としては見上げる形となってしまう。

 

 

 

 思わず屈服しそうになる威圧感——。

 その癖に水晶のように煌めく瞳——。

 海のように大らかで優しい笑み——。

 

 

 

 それを見て思わず俺は——。

 

 

 

 

 

 ——ドクンッ。

 

 

 

 

 

 と今まで感じたことのない高揚感を感じた。そして、どうしようもなく頭の中が真っ白になって——。

 

 

 

 

 

「か、かっこいいっ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………………………………………………………………………………………はっ!!?

 

 

 

 

 

「えっ!? えっ!!? 大丈夫レンちゃん!?」

 

 …………今のはなんだ!? 気のせい……だよな!?

 

「……アニー。俺今なんて言った?」

 

「カッコいいって……」

 

 

 

 

 

 ————ゔぉぇええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

 

「おふっ……。これは私でも弄るのを躊躇うほどに、レンさんの匂いと感情がゲーミング的な混乱をしておりますわ……っ!」

 

 冷静に思い返して、のたうち回りたくなるほどの恥ずかしさが身体中の血を巡って熱を爆進させていく。

 

 俺は今……この世で最も末恐ろしいことを思ってしまったっ……!!

 

 男である俺が、同性である人物を『カッコいい』と思ってしまった……!! ロボットやヒーローを『カッコいい』と思うのは、少年心をくすぐられてるだけだからいいが、今回の場合は違う。今回思ったカッコいいは……!!  

 

 

 

 女として……『異性』という認識で男をカッコいいと——。

 

 

 

「ベアトリーチェ!! ベアトリーチェはいないですかっ!!」

 

「落ち着いてレンちゃん!! 気の迷いくらい一度くらいみんなあるって!」

 

「ベアトリーチェーーーーーーッ!!!!!! 頼むぅーーーー!! チャームくれぇええええええええええ!!!!」

 

「無い物ねだりもしない!!」

 

 落ち着いていられる状態じゃない! 今の俺が本当に『男』として正常なのかどうか認識するために、あの魅了の呪いを受けないと不安で仕方がない!

 

 あれを受けないと自分が『女の子』としての感性を身につけてしまったことを認めてしまいそうで…………!!

 

「大丈夫かい?」

 

「ひゃ、ひゃい! だいじょうぶでひゅ!」

 

 青年に距離を詰められて思わず後退りしてしまう。しかしそれは嫌悪感から来るものではない。むしろ嬉しさや恥ずかしさがごちゃ混ぜになった……言いたくはないが『乙女心』から来るものだった。

 

「…………相変わらずね。ある意味安心したわ」

 

「そ、そんな目で見ないでくれラファエル! 決して俺は……っ!!」

 

 未だかつてないほど『ゴミ』を見るような視線がラファエルから突き刺さってくる。

 

 あぁ…………俺は被虐体質じゃないのに、今はその視線がすごく嬉しい。俺が『男』だと、ラファエルが『一人の女の子』として証明してくれているようで安心してしまう。

 

「だ、大体! お前誰だよっ! ここは部外者以外立ち入り禁止だろッ!?」

 

 だが、それとこれとは別問題。ここ方舟基地は行政の目が行き届いた非武装地域。不審な輩なんて、例えそれが親指姫や一寸法師だろうと見逃しはしない。こんな美青年……青年を見逃すなんてことはありえないはず。

 

「はぁ……部外者じゃないわよ。彼こそが新しい『執行代表』————。私の従兄である『ガブリエル・デックス』よ」

 

 …………………従兄!? しかもデックス!?

 

「ラファエルって従兄弟いたんだっ!?」

 

「いるわよ。私の名前から想像つかないの?」

 

 ラファエルって…………確かどこかの天使の名前だよな。サモントン出身だろうし、きっとキリスト教辺りの天使名なんだろう。

 

 あぁ、そういう意味では不思議ではないのか。現代でも験を担ごうと昔の人命や天使の名前を付けるんだから、数多くいる天使の中でピンポイントで『ラファエル』を付ける訳ないか。言われてしまえば、他にもいるのは安易に想像できてしまう。

 

「それでは謹んで自己紹介をしようか。私の名前は『ガブリエル・デックス』。君は…………ふむ、なるほど。実に面白い子だね」

 

「ど、どうも……。俺の名前はレンといいます……」

 

「君がレンか。…………うん、実に可愛い名前だ。いやぁ、レンくん。ラファエルがお世話になったね。じゃじゃ馬娘だっただろう?」

 

「いやぁ〜〜……。そんな事はなかったり……あったり……ですかねぇ」

 

「ふん。こいつが私の世話になったのよ」

 

「それに関しては申し訳ない。私が甘やかして育てたのが悪かった。何せ生まれて初めてできた妹分だったからね。厳しくしようにも、それでも甘くてこんな駄々っ子になって……」

 

「ちょ、ちょっと! 私のことを無視する気!?」

 

「無視してないよ。ラファエルを通すと話が進みにくいだけ。昔みたいに『お兄様』と素直になってくれるなら取り合ってもいいんだぞ〜〜?」

 

「昔のことはコイツの前で言うなっ!! 本当アンタの趣味嗜好は……っ!!」

 

「趣味嗜好だなんて聞き捨てならないなぁ。可愛いものをもっと可愛くしたくなるのは性だ。ラファエルはもっと素直になった方が良い」

 

「あはは……」

 

 どうしよう、板挟みだ。前門にはガブリエル、後門にはラファエルで挟まれている。前からは興味深々、意気揚々と俺を観察しながらガブリエルは話し続け、後ろのラファエルは従兄であるガブリエル諸共ゴミを見る視線で威圧し続けているが、当の本人は気にしないどころか華麗に受け流している。その手慣れた扱いからして、本当にラファエルの従兄なんだろう。

 

「ガブリエル様、世話話はまた今度にしてください。今は執行代表としての責務を優先しますよ」

 

「いたたっ!! 引っ張らないでくれ!」

 

 与太話が二人で繰り広げられる中、突如として金髪の女性がガブリエルの頬を摘んで会話を強引に終わらせてくれた。ガブリエルの訴えに、金髪の女性は速やかに指を離して「今後も控えてください」と釘を刺す。

 

「いいじゃないか……彼が噂に聞くレンくんだぞ。学園都市の交易として話しといて損はないぞ」

 

「どう見てもラファエルさんと話してましたよね。公私混同はよくありません。それにレン殿下も萎縮しております。身内ならいざ知らず、人様に迷惑をかけるのは貴族の模範には程遠いのでご遠慮ください」

 

「相変わらずの女房体質、痛み入るよ……」

 

 ガブリエルは「こほん」と一息置いて先程の雰囲気から一転。ラファエルの初めて御桜川に来た時みたいな厳格で貴族然とした顔つきへと変わる。

 

 ……あぁ、嫌だ。胸の内でギャップでドギマギしてる自分がいるのが腹立たしい。

 

「先程ラファエルが言った通り、私がサモントンで新しく選ばれた執行代表だ。隣にいるのが私の『随行員』にして『ローゼンクロイツ』の一員である『モリス』だ」

 

「どうも、モリスといいます。今回の実験、どんな事が起きようとレン殿下はわたくしがお守りいたしますので、ご安心くださいませ」

 

「ご丁寧にどうも……」

 

 割と色々と新鮮な人物だ。『殿下』呼びされるのもそうだし、ここまで礼儀正しくて爽やかなクセのない人と合うのはSIDに入ってから始めてだ。

 

「…………私はソヤと言いますわ。互いにボディーガードとして今日は頑張りましょう」

 

「ああ、審判騎士さんですか! 総督からお話は聞いてはおりましたが、本当に生きていたんですね!」

 

 元々サモントン出身であるソヤのことを知っている様子だ。モリスさんは親しみやすい笑顔を浮かべてソヤと握手をする。

 

「……レンさん。聖騎士さんはともかく、ガブリエルさんにはくれぐれもご注意を」

 

 握手を終えた直後、ソヤはガブリエル達に聞こえぬように耳元で囁いて話してきた。…………ちょっと色々とツッコミたいところがあるんだけど………。

 

「えっと、聖騎士さんって?」

 

「モリスさんのことですわ。溌溂としてますが、あれでも『ローゼンクロイツ』の長官クラスに値しますので……」

 

「長官クラスって…………マリルに匹敵するってこと!?」

 

 思わず視線をモリスさんに向けてしまう。挨拶も終えて束の間、知らぬ間にモリスはガブリエルとラファエルに正座をさせて説教をしている。……一応ここ外なので、砂利の上で正座させるのは酷じゃない?

 

「いいですか、お二人とも。幼少期からそうですが、貴族として恥ずかしくないように振る舞ってください。お父様やミカエル様ほどとは言いませんがもう少し……」

 

「……ガブリエルが茶化すからよ」

 

「ラファエルが素直じゃないからだ」

 

「でーすーかーらー! そういうところを改めてくださいと言ってるんです! 貴族たる者、己が責任は己が背負う! はい復唱!」

 

「「貴族たる者、己が責任は己が背負う……」」

 

「では次に何をすべきかお分かりですね?」

 

「「……ごめんなさい」」

 

「……よろしい」

 

 あれが『ローゼンクロイツ』の実質的なトップ…………とてもじゃないがそうは見えない。というか二人を幼少期から見てるって…………見た目は二十台前半に見えるけど、実はもっと上だったりするのだろうか。

 

 ……というか『ミカエル』とかいう聞き覚えのない名前が出てきたけど、それも確か天使の名前だったはず。その人もラファエルの従兄弟の一人だろうか。だとしたらラファエルの親戚って結構いそうだな。

 

「……一応はそういうことになりますわね。ですが、問題はガブリエルさんですの」

 

「ガブリエルが?」

 

 そのままモリスから視線をズラして、ラファエルと一緒に反省中のガブリエルと向ける。すると、ガブリエルと目が合い、見惚れるような笑顔を浮かべて彼は言った。

 

「あっ、レンくん。実験開始まで時間あるから、待合室でお茶でも——」

 

「言ってる側から貴方は!! 天誅ですっ!!」

 

「ふもっふっ!!?」

 

 モリスさん渾身の膝打ちがガブリエルの脳天へと叩き込まれて、ガブリエルは意識を失い、そのままモリスは米俵を担ぐように身長175cmの肉体を持って方舟基地へと入っていった。

 

 ……あれが本当のソヤが言う通り警戒すべき人物なのか? どうにも信用ならないというか、信用したくないというか……。

 

 その、何というか……心が惹きつけられて言うんだ。

 ガブリエルを警戒したくないって、乙女心が…………。

 

 

 

 

 

 乙女心………………………………。

 

 

 

 

 

「…………ウボァー!!」

 

「あっ。また吐きましたわ」



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第5節 〜神の御席に上れ〜

『こうして集まるのは久しぶりだな……』

 

『この基地での実験も一年振りだ。高い血税を搾り取ったのに一回こっきり……一時はどうなるかと心配したものだよ』

 

「その点には関しては改めて謝罪を」

 

 場所は変わり、方舟基地の実験フロア——。

 そのフロアの上部にある防弾・防爆ガラスの向こう側にあるモニタールームで、マリルはいつものように互いの姿を撹乱させる映像会議を進める。

 

 会議の相手は『元老院』——。新豊州が誇る最高権威の行政機関。マリルはSIDの長官、SS級科学者の他に五人構成で運営する『元老院』の一員でもあり、この場の支配権でも握ろうと『ブライト』と『ギアーズ』がマリルに叱咜する。

 

『まあまあ、あのレンという娘の実験が行えるだけ僥倖と考えましょう』

 

 そこに『#C』が割り込んで仲裁をする。マリルを含む全員が胡散臭いが人の形をした中、特に秀でて臭わす胡散さは変声機越しでも隠しきれずに周囲の空気を濁らせる。

 

『レンの身辺保護は万全だろうな、マリル』

 

「ご安心を『華音流』。今回用意したボディーガードはサモントンでも指折りの実力を持つ『聖騎士』と『審判騎士』がいますので」

 

 そんな中、唯一レンには『興味』ではなく『心配』の雰囲気を見せる『華音流』にマリルはソヤとモリスについて伝える。全員『そうか』と言う様に口を紡ぐ中、華音流だけが『いやでも』と不安を続ける。

 

『『審判騎士』はまだいい。こちらにも『時空位相波動』についてのデータがある。ここ数ヶ月の『時空位相波動』並びに『ドール』の対処をしたのは彼女だ。規模は小さいとはいえ単独で熟せるとは……いったいどんな手を使ってサモントンからSIDへと移籍させた?』

 

「あなた方のご想像を超える手段を使ったとは言っておきましょう。詳細についてもご希望なら事細かく、耳を防ぎたくなるほどの内容をお伝えしましょうか? 何せ彼女の仲間を、義母を、その命を奪ってでも引き入れましたからね」

 

 事実とは少し異なるが、結果としては何も間違ってないマリルの言い分に華音流は絶句するが、『しかし』とすぐさま本題の話をしようと軌道修正する。

 

『『聖騎士』の方は頂けない。このデータに嘘がなければ、彼女には————』

 

「サモントンが選出したエージェントです。きっと大丈夫でしょう」

 

『…………いいか。レンが傷つくことは新豊州にとって大きな痛手だ。時空位相波動の研究は進まないし、この実験の失敗によるサモントンとの関係を悪化もさせたくないんだ。『黒糸病』による食料問題——。これに関してはサモントンが一手に引き受けてるがゆえに、この関係を断たられては新豊州は共食いをしなければ危機に陥る』

 

「ですが、その『黒糸病』対策がされているサモントン産の農作物も『時空位相波動』の影響で、少しずつ農作するための土地を削られつつあります。食料問題輸出もこの一年を通して10%近い減少を見せている。……これはサモントンにとって深刻な問題です。故にサモントンはレンに関しては無碍に扱うことも絶対しないでしょう。何せ『時空位相波動』のコントロールさえも可能かもしれない逸材…………。あちらも協力は惜しまないでしょう」

 

『だがしかし、これはいくら何でも…………。『審判騎士』や『執行者』の存在を知ると、何故此奴が『第一位』としているのか不思議でならない』

 

 華音流は認識阻害の映像越しでも分かるように、大袈裟に手元にあるタブレットを軽く叩く。それを合図にマリルも含む元老院全員がタブレットに表示される情報へと改めて目を通す。

 

 そこにあるのは今回選出されたエージェント達の経歴や個人情報が載っている。レンやアニーは当然として、前回の執行代表であるラフェエル、今回が初参加となるソヤ、ガブリエル、モリスとこの場にいる全員の詳細が記されており、その中で話題に上がったモリスの情報をマリルは見つめる。

 

 

 

 

 

 ========

 

 登録名:モリス

 IDナンバー:■■■■■■■■(閲覧にはサモントンの最高権限が必要です)

 階級:『ローゼンクロイツ・第一位』

 襲名:『聖騎士』

 年齢:■■歳(閲覧にはサモントンの権限が必要です)

 生年月日:■■月■■日(閲覧にはサモントンの権限が必要です)

 

 使用許諾済異質物武器:『聖槍』『ヨセフの血の盾』

 

 能力:なし。

 

 ========

 

 

 

 

 

 ——おかしなことはどこにもない。だからこそ『おかしい』のがモリスという女性の在り方だった。

 

『……『第一位』が、ここまで堂々と能力を『なし』と公表することなんてありえるのか?』

 

 華音流の言うことはごもっともであり、マリルもそれに同意する。何せマリル自身が過去にこう言っていた。『情報は秘密だからこそ価値がある』と——。

 

 確かに秘匿している部分はいくつかある。だが、この中で一番価値を持つのは『能力』の部分だ。これを公表することは自殺行為に等しい。どんなに前向きの解釈しても、他国から見ればサモントンが『我々の情報機関トップに力はない』と言っているに等しい。

 

 サモントンは自国の防衛能力に関しては、XK級異質物のこともあって他の学園都市と比べて異様に低い。新豊州やマサダブルクのような攻撃的でも防御的でもない。そして第一学園都市である『華雲宮城』の山岳地帯を利用した外国からの進入ルートが空だけと絞ってもいない。かといってニューモリダスやリバーナ諸島みたいに銃社会が発展していたり、ギャングが蔓延るという純粋な軍事力が高いというわけでもない。

 

 であれば、サモントンの防衛能力は『ローゼンクロイツ』という部分と『食料輸出による貿易関係』のみとなる。しかし前者はまだしも、後者に関しては、実際に皆が言うほど『絶対的なアドバンテージ』ではない。

 

 食料輸出を行えるということは、それだけ自国で生産される農作物に余裕があることではあるが、同時に農作物を作れるだけの『土地』があることを意味している。それはサモントンの国土は六大学園都市でも一番ということを意味しているが、国土は大きければ大きいほど必然的に要求される防衛能力も高くなる。自衛能力がなければ資源を求めての略奪という名目での『戦争』——あるいは植民地として他国の支配下に置かれるのが関の山だ。

 

 サモントンが保有するXK級異質物自体には戦術的価値が一切ないだから、サモントンは虚栄でも『我が国には力がある』と言わなければ自国の防衛さえできないのは目に見えている。だというのに『ローゼンクロイツ』の、それも実質的なトップであるモリスを『能力がない』と公表するのはどれほど悍ましい意味を持つのか————想像するだけでも恐ろしいことだとマリルは感じる。

 

 むしろ、この潔さこそが『サモントン協定』への道を速やかに行えたのか……とマリルは考えるが、それとこれとは今は話が別。マリルは「そうですね」と一息置いて華音流へと返答した。

 

「ありえなくはないでしょう。サモントンは国民全員に神に対する信仰心を根付かせ、デックス家が『天使』の冠することで神話の関係を疑似再現した。『ローゼンクロイツ』はあくまでその神の下に付く組織……無闇矢鱈にトップが実力を持ってはいけないという判断では? 私もSIDでは実力は一番ではありませんでしょう?」

 

『……まあ、納得できなくはないが……であれば今回の『方舟計画』に関しては次席の『執行者』にでも任せればいいだろうに』

 

『どうだっていいだろう。異常事態が発生したときに対処するのが方舟基地だろう?』

 

『ブライト……。だがその不注意でレンの身に何か起こったらどうしようもないぞ?』

 

『それはそれで良い実験成果だ。レンという女も所詮それまでの実験対象に過ぎなかったということ……名残惜しくはあるが、次の実験対象へと切り替えれば良い。お前もその程度の覚悟は方舟基地が企画された段階でしているだろう』

 

 ブライトのさも当然という非情な割り切りに華音流は沈黙する。言葉を発さずに静観するギアーズも『まあ、その程度はな』とその割り切りに賛同して言葉を続ける。

 

『では、そろそろ時間でしょう。これ以上の無駄話だ。少女達の実験を見守ろうじゃないか』

 

「…………#Cからは何かありませんか?」

 

 マリルは最初の仲裁以降、一向に口を挟まずにいる#Cへと話を振る。突然のことなのにも関わらず#Cは『ないさ』と至って冷静に返した。

 

『実験が起きたら科学者は見守ることしかできない。言うことがあるなら終えた後で十分だろう』

 

「……そうですか」

 

『逆に聞こう。マリルはこの実験に対する不安要素はないのか?』

 

 相変わらずマリルの言葉には、のらりくらりと避ける。さらには掴みどころがないくせに、一度手を出せば的確に相手側にとって触れたら面倒くさいという部分だけを突き返してくる陰湿さ。どうでもよくはない質問だが、かといって重要すぎるわけでもない絶妙な刺しどころ。

 

「これだからコイツは苦手なんだ」という吐き出しそうになる悪態を我慢しながらマリルは口を開いた。

 

「時空位相波動の規模ぐらいなものでしょうね。いざという時は方舟基地を放棄しなければならない、という判断をするのは私ですから」

 

『そうだな、全権を握っているからな。…………だが私からすれば、マリルが今回の異質物について何も言わないのは不思議だと思ってな』

 

「…………不思議とは?」

 

「おやおや。聡明なマリル殿でも分かりませんか? あの異質物……先日までは『EX級』と定めていたのに、今では『Safe級』となっている。これ自体は不思議ではありませんが……経緯がどうも不明瞭だ。なにせ『剛和星晶』は実態が掴めない得体の知れなさから、どこの宗教組織も受け入れず、流浪の果てに協定に従ってサモントン教皇庁に保管されるEX級異質物の一つとなった。EX級を解除するには、少なくとも『実態の掴めない得体の知れなさ』をどうにかしなければならないのは明白。…………いったい実験都市でもないサモントンがどうやって実態を掴んだのか」

 

 元老院の全員が#Cの口振りに黙るしかなく、マリルも痛いところを突かれたと心臓を巡る血が冷たさを帯びる。

 

 #Cが言うことは間違いではない。サモントンは宗教信仰が根付き過ぎており、自国が管理する異質物はすべて、歴史上で明確に力があることを証明されている物以外はEX級と定めて、宗教ごとの力を『不明瞭』にすることで誇示するという政策を行なっている。故にサモントン自らが格付けの段階下げだとかなり珍しい。何かしらの手引きがあったのは知恵と見識ある者なら分かるであろう。

 

 もちろん、その手引きをしたのはSIDだ。サモントンには予め『OS事件』の際に入手したハイイーの『柔積水晶』とシンチェンの金平糖こと『柔和星晶』から得られた情報をある程度共有している。そしてそれの大元が、今回の実験に選ばれた『剛和星晶』にあるかもしれないという話を。

 

 それをデックス博士は恐ろしく簡単に受けた。外交のどこからでも突かれても良いように『OS事件』から半年もかけて根回しを行い今に至る。

 

「……今回の異質物は歴史も薄くサモントンが預かっただけの物。格下げも他のと比べて安易なのもありますし、サモントンなりの異質物研究に対する一歩なのでは? 方舟計画も当初予定よりもスローペースで行っておりますので、少しでも未知のデータを解析したいという部分もあるかと」

 

 もちろん、そんなことはSIDとデックス家の一部が知っているだけで、他の者が知ることはない。マリルは嘘は言わず、事実を多少ボカした言い方で説き伏せると、#Cは『そうか』と想定した答えだというように抑揚も感情も息も乱さずに納得した。

 

『…………まあマリル殿がそういうのならそうでしょうね。そう考えときましょう』

 

 僅かにだが言い含んだ物言い。ここで食ってかかってはまたペースを握られて、また掘り返されることを予感したマリルは直ちに手を上げて宣言する。

 

「では、実験開始としましょう」

 

 マリルは映像室から実験フロアを見下ろす。既にフロアにはレン、ソヤ、ガブリエル、モリスがおり、少し離れたところに実験に支障はないことを見届けるためにラファエルもいる。アニーは実験フロアや映像室とは別の観測室でデータを収集中であり、インカム越しにアニーから『こっちも準備万全だよ〜〜』と呑気な声が届く。

 

 それを合図にマリルは実験フロアから見えるように手を掲げて告げる。「方舟計画、始動——」と。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 マリルからの合図が見えた。それを機に俺は台座の上で無防備に置かれている『剛和星晶』とは手を触れる。そして意識を澄ます。物に宿る『魂』への線を手繰り寄せ、拾い上げることを。

 

 ……今までの俺だったら、こんなことを自発的にできはしなかったが、ここ数ヶ月で『霧守神社』で培った技術を駆使すればどうにかできる。今度は青金石柱の時のように、訳も分からないままぶち壊してハインリッヒを解放したりみたいなことはしない。リーベルステラ号のように、知らない間にシンチェンが認識できるようになったりもしない。

 

 空気が張り詰めていく。この場にいる全員が息さえもしていないのではないかと錯覚するほどに、静かにこの実験を見守り続ける。

 

 

 

 ——そして見えた。星のように煌めく『魂』を。

 

 

 

 俺は迷いなく『魂』へと触れる。すると手の中で静電気の何倍もの痺れと、風船が破裂した時の何百倍もの衝撃が、無理矢理手の中で収めようと乱反射する。

 

『時空位相波動の前兆を検知——。細心の注意を払えよ』

 

「分かってるって!」

 

 胸のスピーカーからマリルの声が伝わったことで、意識を浮上させようとするが————。

 

「も、戻れない……っ!?」

 

 俺の魂が重力に引かれる——。いや惹かれる。星の煌めきはより一層強さを増して『光が光を呑み込む』という不可思議な感覚を覚えながら、光の中で俺も落ちていく。

 

 

 

 

 

 ——ここは既に現実の世界へと隔離した『魂』だけの世界。

 

 ——そんな世界の中で光は星となり、星は人となる。

 

 

 

 

 

《こんにちは……。って貴方ですか》

 

 そこには見た目だけならスターダストと瓜二つのはずなのに、別世界の住人のように異質な雰囲気を纏って佇む『誰か』がいた。

 

《私は■■——では伝わりませんよね》

 

 模範的な手の艶めき、理想的な目の大きさ。どれも人間的であるはずなのに、お手本すぎる綺麗さが逆に人間らしさを無くす。まるで『人間の形をした何か』にしか見えず、初めてマサダブルクの博物館でスターダストと会った時と違って綺麗とかの感想なんて微塵も浮かばない。

 

 ただただ、得体の知れない悍ましさだけが世界を丸ごと俺を包み込んで離さない。そんな恐怖とも興奮とも言えない心境を抱える中、振り払うように彼女の名前を聞いた。

 

「君は————?」

 

《私は『星尘』。『外宇宙』にある『エーテルの海』の管理者》



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第6節 〜翼は地に落ちる〜

《私は『星尘』。『外宇宙』にある『エーテルの海』の管理者》

 

「えっと…………なんと?」

 

 おかしい。ハッキリと名前を聞き取ったはずなのに、文字や音として認識することが困難だ。ノイズが掛かっているとか、他国の言語とかのそういうチャチな物じゃなくて……もっと恐ろしい片鱗。『言葉』自体の『次元』が違うような感覚に襲われる。しかし、その感覚は決して初めてではない。一度だけ、霧吟の口から出されたあの名を耳にした時の感覚と酷似している。

 

 

 

 ——『ヨグ=ソトース』という名の。

 

 

 

 何故か身体と脳が発音を拒否するように、俺自身では『ヨグなんとか』までしか言えないが、魂ではしっかりとその名を刻み込んでいる。ハインリッヒやソヤが『あの方』や『門』と呼ぶ存在——。決して忘れることはない。

 

 ……それがスターダストと瓜二つの『何か』と似ている。スターダストとオーシャンは『情報生命体』であるはずなのに、目の前の少女はそれとはまた異なる雰囲気だ。

 

 

 

 ——これが『外宇宙』の生命体、という存在なのか。

 

 

 

《……この際、私の名前はどうでもいいでしょう。『外宇宙』の情報は名前だけでも劇薬になりかねない。認識できないのは、まだ貴方が生命体として肉体も精神も正常ということなのですから》

 

『外宇宙』——。その単語に、俺は霧吟が口にした内容を思い出す。

 

 

 

 ——《異形の名は『ヨグ=ソトース』……。本当の意味であらゆる生命の上位に立つ星の外側から来た情報生命体……》

 

 

 

 星の外側——。それこそが『外宇宙』なのか、と。

 

 ……だとしたら彼女は『宇宙人』ということなのか。某SOSの名を持つ団が出る作品にいる『対何とかかんとか用ヒューマノンド何とか』みたいな。

 

 だけど霧吟はこうも言っていた。「そういう概念で捉えてはいけない」と。そして「人間が絡繰の歯車というなら、あれは絡繰という枠そのもの」だとも。

 

 ならば彼女は『宇宙人』という概念で捉えるには些か間違っているということになる。じゃあ、その概念で捉えてならないとなると、そもそも『外宇宙』という物自体が何なのか————。

 

 疑問が疑問しか呼ばない。スケールが違うとかじゃなくて、次元が違うとかじゃなくて——。本能が警鐘するんだ。

 

 

 

 ——それ以上、踏み込んだら戻れないと。

 

 

 

《レンちゃん。貴方は何しにここに来たの?》

 

 スターダストと瓜二つの彼女——。『星尘』は俺を値踏みするように、こちらへと視線を合わせる。その視線はマリルやラファエルみたいな高圧的でもなければ、エミリオみたいに見透かす物でもない。万象を知る超然とした物だ。

 

 

 

「…………えっと」

 

 思い出せ。そして冷静になれ。自我を取り戻すには、経緯を順繰りに遡るのが一番だと訓練で受けている。

 

 今ここにいるのは『方舟計画』として『剛和星晶』に触れているから————。『剛和星晶』に触れているのは、半年近く前に起きた『OS事件』で見た『観星台』や『プレアデス星団にある図書館』についての情報を知りたいから。

 

 …………よし。だいぶ整理はついた。俺は冷静さを取り戻して『星尘』へと今回の実験目的となる『OS事件』で見た『情報』について聞いてみることにした。

 

「観星台、って何?」

 

《古来、中国に伝わる天文台施設のことですね。周公測景台という影を測定するという一種の日時計施設のすぐ北にある——》

 

 ……いやいや、それは知ってる。そんなのはネットで見れば俺でも分かることだ。そして俺が知れるということは、当然マリルや愛衣もその程度の知識は既に持っていて、それを知った上での『OS事件』で『場所も不明、画像では建材料も分からず絞り込む事は不可能……。現状は謎としか言いようがない』と言ったんだ。

 

 後日、二人は一応その『中国』と呼ばれる国があった第一学園都市『華雲宮城』の簡単な調査もしたそうではあるが、成果としては意味がなかったと本人たちが口にしていた。それを踏まえた上で俺は質問したというのに…………。これでは骨折り損だ。

 

《……どうやら望み通りの返答ではなかったようですね》

 

「うん。俺が聞きたいのは君が…………なのかな? …………ともかくシンチェンが持っていた金平糖にあった情報にあった『観星台』についてなんだ」

 

 正確にはシンチェンとハイイーのどちらにも合った情報と言ったほうが正しいけど。

 

《あー、あれですね……。あぁー、あれですか……》

 

「そういえばそんなのあったなぁ」と言いたげに、星尘はスターダストの見た目でシンチェンのように何も考えてなさそうな緩い顔で呟く。

 

 ……さては此奴、見た目はスターダストなのに、中身はシンチェンとかいう残念な美女にカテゴライズされる存在なのか。『外宇宙』の生命体、というそれこそマクロ級な大層な肩書きがあるのに、実態はミクロ級だとでもいうのか。私は『外宇宙』の生命体の中でも最弱……みたいな四天王的な扱いだったりするのか。

 

 一気に実態の輪郭が掴めるような感覚が襲うが、あくまでそれが感覚である以上は錯覚である可能性は十二分にある。俺は細心の注意を払いつつも彼女の答えを待ち続ける。

 

《…………えっと……その……》

 

「分からないんかいっ!!」

 

《…………ごめんなさい》

 

 これじゃあ実験をした意味がないではないか。せっかくマリルがサモントンと面倒な手続きをした意味がないじゃないか。

 

《正確には『分かるはずなのに、探すことができない』って言った方が正しいです。…………あなた方の世界で言うと、インターネットが落ちているというべきでしょうか》

 

「……じゃあ、そのインターネットを直せば分かるってこと?」

 

《そういうことになりますね。『セラエノ図書館』からの応答がないので…………》

 

 

 

 ——セラエノ、図書館。

 

 

 

 その単語を聞いて俺は黙ってしまう。だってその二つの単語は、片方は俺が聞きたかったことで、片方は予期もせぬ人物の名前を冠していたから。

 

 

 

 セラエノ————。それは男の俺——『アレン』と一緒にいた不可思議が人の形を知らず少女の名だ。童話のような色鮮やか服装に身を包み、無機質で無頓着で無感情な瞳で、無表情で素っ頓狂で緊張感皆無という唯我独尊なさまで、俺とアレンの間に入ってきた金髪の少女。

 

 どうしてここでその名前を聞くのか——。疑問になって仕方がない。そして、どうしてその名前が『プレアデス星団の図書館』なんて——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 ——《私はセラエノ。プレアデス星団の観測者》

 

 ……

 …………

 

 

 

 …………あっ。ああっ!!?

 

 

 

 …………

 ……

 

 ——《私は星尘。外宇宙にあるエーテルの海の管理者》

 

 ……

 …………

 

 

 

 似てる——。口上も、どことない掴みようのない雰囲気も、今ここにいる星尘とセラエノは非常に似ている。見た目とかの問題ではなく、もっと根本的な部分が。

 

 

 

 まさか、あのセラエノって子は——。星尘と同じで『外宇宙』の生命体とでもいうのか——。

 だとしたら、セラエノが口にした『プレアデス星団の観測者』であり単語と、星尘が口にした『セラエノ図書館』を紐づけるとするならば——。

 

 

 

 

 

 ————おいっ! レン、聞こえてるかっ!!

 

 

 

 

 

 胸にあの痺れを感じて、急速に意識が『現実世界』へと戻ろうと浮上しようとする。これ以上は限界だと警鐘するように。

 

 だけど待ってくれ——。まだ彼女に……星尘から聞かなければならないことがあるんだ。『観星台』でも『図書館』でも『セラエノ』でもない。もっと根本的な概念についてだ。踏み込んだら戻れないと分かりきっているのに、これだけは聞かなければ引くに引けない。

 

「ねぇ——『外宇宙』って何?」

 

《…………それを知るには、貴方のsanityはまだ未熟すぎます。もっと多くのことを……世界を知らなければ、貴方の『魂』は狂気に取り憑かれる》

 

 狂気に取り憑かれる——。それがどういう意味を持つのか、俺にはまだ想像もつかないけど、きっとあの寂しい空間である『因果の狭間』よりも酷く凄惨なものに違いないだろう。

 

《……私が今言えるのはここまでです。これ以上は——》

 

「レスポンス待ち……。つまりはセラエノに聞くしかないってこと?」

 

《……セラエノのことを知っているのですか?》

 

 その言葉に俺は頷く。それに対して星尘は心底驚いたような、意外そうな表情を浮かべると、しばらく目を伏せて考えると、お告げのような神聖な雰囲気を纏っていった。

 

《……でしたらあの人に聞くのが一番でしょう。それが貴方がたにとって一番の近道になるのですから》

 

 

 

 それだけ分かれば十分だ——。

 

 セラエノを追うこと。それが『観星台』も『図書館』のことが分かることに繋がり、同時に一緒にいたアレンの所在についても分かるということだ。これは他の学園都市や情報機関にはない俺だけの情報——。これだけあれば、SID的には方舟実験は成功といっても良いだろう。

 

 追えば謎は分かる。追えばアレンに近づく。そして再びアレンと会うことは、アイツが口にしていた『第七学園都市』についても分かるかもしれないということだ。

 

 

 

「……ありがとう、教えてくれて」

 

 枝分かれしていた目的は、先を見れば全て繋がっていた。セラエノを追うにしろ、アレンを追うにしろ、世界では異質物問題やSSS級犯罪と関わる二人を追えば自ずと解決できるということだ。

 

 今回はここまでだ。胸の痺れが強くなるたびに、俺の魂も薄れて浮上を続ける。彼女も顔も既に輪郭さえ捉えきれないほど霞んでいき、俺はこの世界から出て行く。

 

 

 

 

 

 

《セラエノが動くなんて……。一体どこまでの変化が——》

 

 

 

 

 

 ——去り際、星尘はこちらには訳の分からない意味深なことを呟いていた。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

『おい、大丈夫か』

 

「…………大丈夫だよ、マリル」

 

 もう慣れっこになった頭痛と倦怠感。とりあえずは身体を起こさねば何も始まらないので、俺は頭痛を我慢しながらゆっくりと起きあがろうとするが——。

 

「……ぁれ」

 

 いつも以上に重くて仕方がない。確かに今まで身体中に鉛が付いた感覚はあったが、今回はそれが二倍にも三倍にも感じる。起き上がるだけで全力を振り絞らないといけないのは初めてだ。

 

「……実験はどうだった?」

 

『何とも言えん。時空位相波動を検知したが、時間が経つと一転して消失、同時にお前は気絶したからな。バイタルも測っていたが、眠るにしては容態が急降下過ぎる上に下降し続けていたからこうして声を掛けたが…………本当に何ともないか?』

 

 ……問題はないとは思う。頭も晴れてるし、身体が酷く重く感じること以外は傷も不調もない。辺りを見回しても前回みたいにシンチェンが出てきてるわけでもないし…………。

 

「うん、大丈夫。無事に実験は終えたと思う」

 

『なら良かった。……ではこれで実験終了となります』

 

『うむ……些か拍子抜けだな……。前回のような事態を期待していたが……』

 

『良いだろう、ブライト。成功は成功なのだから』

 

 ブライトと……もう一人は華音流と呼ばれる人物だろうか。こんな時しか声を聞かないから鮮明に覚えきれはしない。

 

『ちっ……つまらない時間だったな。とんど無駄足だったな』

 

『…………そういうことなら実験は終了としましょうか。では、後処理は任せましたよ、マリル殿』

 

 ギアーズと#Cと呼ばれる人物はそう言って、映像モニター室の明かりは消える。方舟基地の電力消費をやめて少しずつ暗がりを帯びておき————しばし時間が経つと「レン」と、胸のスピーカーではなく直にマリルが顔を合わせて実験フロアに降りてきてくれた。

 

「マリル……実は——」

 

「何かしら有益な情報は得られたんだろう。だが、それは後にしてくれ。ここからが本当の実験だ」

 

 …………えっ? 本当の実験? だって今回の『方舟計画』って、あの『剛和星晶』だけなはずだったんだけど。

 

「いやいや! そんなの聞いて——」

 

「あまり大きな声を出すな。驚くなとは言わないが、必要以上に感情を出すな。まだ元老院が…………特にアイツの目があるかもしれないからな」

 

 アイツとは元老院の誰かのことだろうが、俺は内情に詳しくないからマリルが誰を警戒してるかは想像できない。

 

 ——いや、そんなことはどうでも良くはないけど、重要度としては高くはない。問題はマリルが口にしていた『本当の実験』についてのほうだ。

 

「実験開始はいいけど……レンくんは連投して大丈夫なのかい? 無理そうなら私達は待つよ」

 

「連投とか以前に聞いてないよ!? また実験するなんて!?」

 

「まあ君は分かりやすいからね……。敵を騙すならまず味方から、ということかな」

 

「そういうことだ、レン。元老院の奴らもエミリオほどではないが、相手を見透かす下世話な奴が多くてな……ある意味、本命とも言えるこの実験を悟られるわけにはいかなかったんだ」

 

「……じゃあ、この実験知ってないのって……」

 

「お前とアニーだけだぞ。ソヤもラファエルも知ってるし、ガブリエルもモリスも知ってる。…………それに本命となる『異質物』の所有者もな」

 

「いや〜〜、大分こねくり回して貰ってご苦労様です、マリル長官」

 

 そこで聞き覚えのない声が聞こえてきた。振り返るとそこには明るい茶髪なのか、暗めの金髪なのか曖昧な色黒な少年がおり、その隣にはこれまた見覚えのない白髪の少女がいた。その腕の中には大事そうに『本』を抱え込んでおり————。

 

 

 

「あれは——ッ」

 

 

 

 そして一目で分かった。あれは『魔導書』だ。イルカの時に『魔導書の1ページ』だけを見ただけだが、本能が必要以上に訴えかけてきて分かる。まるで俺の魂の中で永遠に眠り続ける霧吟さえも叫んでいるんじゃないかと考えてしまうほどに。

 

「あれこそが本命だ。魔導書についての詳細は元老院どころか、サモントンでさえも他の情報機関は知らない」

 

「他が知らないって……じゃあ、これはサモントンが保有する異質物ってこと?」

 

「そうだな。しかも我々にとって縁が深くてな」

 

 縁が深い? この魔導書が? だとしたら江森発電所で見た物の大元だろうか。

 

「あの異質物がサモントンで見つかったのは2038年1月の半ば頃だ。場所は海岸沿い…………海流に沿って出てきたのが自然だな。だけど異質物だっていきなり生まれるわけでもない。海流に沿って出てきたのなら、その根本を辿ればどこから来たのか……ある程度は分かるよな」

 

 俺の思考では理解はできないが、納得はできるので、一先ずは頷いて話を聞くことに専念する。

 

「問題はそこにあった。海流を辿った結果…………『ポイント・ネモ』にほど近い場所……つまりは南太平洋側に位置する海流から来たという。そしてこの異質物はどこの学園都市でも『記録されていない』異質物……であれば、どこから流れてきたと思う?」

 

「どこからかって……学園都市じゃないなら、それは南太平洋側のどこかの施設————」

 

 

 

 

 

 南太平洋の、異質物を管理する施設——。

 

 

 

 

 

 その単語について俺でも分かるくらいピッタリに該当する場所が一つだけあった。何せその場所は、そこに記録された音声データに嘘がなければ、文字が読めず効果も不明な『魔導書』と、脳波だけを発し続ける一人の被験体が連れてこられた。その後、オーシャンの情報は入った思考制御型異質物こと『剛積水晶』が搬入された。それがその実験施設が作られた経緯だ。

 

 だけど、その内搬入された異質物の一つである『魔導書』を通して様々な因果で『OS事件』を引き起こしてしまって、俺達はそこにいたアメーバ状の『異形』を打倒して解決したんだ。

 

 

 

 ——事件の引き金となった『魔導書』を回収できないまま、『Ocean Spiral』は崩壊させて『OS事件』は終結した。

 

 

 

 だとしたら、その『魔導書』はどこに行った——?

 

 

 

 

 

「その『魔導書』って、まさか————」

 

「ご想像の通り、半年ほど前に我々が解決した『OS事件』が起こった場所である『Ocean Spiral』が流れてきた物だ」

 

「じゃ、じゃあ!? それ滅茶苦茶な危険物じゃないかっ!?」

 

 俺の危機感はマリルも同意らしく「その通りだ、レン。何も間違っていない」と認める。

 

「だけどサモントンは、『魔導書』を発見した少女のこともあって痛く興味を惹いてしまってな……。特にデックス家の一人であるウリエルが勧めてきた」

 

「ウ、ウリエル?」

 

 聞き覚えのない名前を聞いて疑問に思ったら、すぐさま金髪の少年が「僕のことだよ〜」と言って補足してくれた。……そうか、この子もラファエルの従兄弟の一人なのか。

 

「ここから先は僕が説明するよ。発見した少女は『魔導書』に触れたことで『ある力』に目覚めた…………。その力というのが——」

 

「見せていいよ」というようにウリエルは顎を指すと、白髪の少女は「はい」と頷くと、少女は目を伏せてお腹に力を入れるように可愛らしく「えいっ」と言うと、その姿を変貌させた。

 

 

 

 

 

 

 

 虫も殺せぬような大人しそうな見た目と相反した黒い角と赤い翼。腰部からは尻尾も生えており、その姿は俺が数多のゲームをやっていることもあり、ある単語が脳裏をよぎる。

 

 宝石のように煌めく純粋無垢な赤い瞳。この世の汚れを知らぬような白い肌。そして何物にも染まらぬ美しさを持つ白色で艶のある髪。まるで『天使』のように綺麗すぎるはずなのに、その異様な部分だけが彼女を一転して禍々しく見せる。

 

 その有り様はまさに『悪魔』だ。『悪魔』でありながら『天使』の美貌を持つ少女————。彼女を言い表すなら、この言葉しかあり得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 ——『堕天使』。

 

 

 

 

 

 

 

「彼女の名前は『ヴィラクス』——。この力を管理するために『ローゼンクロイツ』に迎え入れられた一員にして、最高権威を持つ『位階十席』の『第十位』さ」



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第7節 〜求めよ、さらば与えられん〜

「ウリエル様。これもう取っても大丈夫ですか」

 

「いいよ〜〜。邪魔だもんね」

 

「着脱式ッ!?」

 

『ヴィラクス』と呼ばれた白髪の少女は、その頭部に生えた異形の黒い角をオモチャのように取り外して「ふぅ」と一仕事終えたぜ、と言わんばかりに息をついた。……あの、まだ何も始まってないんですけど。

 

「実際邪魔ですし、重いですし、使いにくいし……。付けるだけ無駄ですよ?」

 

「え〜〜……。その翼も……?」

 

「はい。こう、パキッと取れますよ」

 

 今度はヴィラクスは「えいっ」と少し力んで腰から翼を引きちぎった。特に物騒な音もせずに、プラモデルの関節部が折れるような軽い音だけが鳴り「どうですか?」と、その赤い翼を見せつけてきた。

 

「作り物…………じゃないね」

 

 手に取って確認してみるが、角は骨が詰まった頑強な物であり、握り潰す程度の握力ではヒビすら入らない。翼も高級な羽毛枕に入れるような肌触りであり、この翼を枕や布団にして眠りたいほどに温かくて気持ちがいい。この温かさだって火の熱みたいなものではなく、生物特有の深みの温もりがある感じであり、それが作り物ではないことを尚更感じさせてくれる。

 

「さて、話を戻そうか。ヴィラクスは『魔導書』に触れたことで『魔女』になってしまった……。『魔導書』はヴィラクスを主人として認めたらしく、特に何かの影響を良くも悪くも与えてない」

 

「一応は『魔導書』に限らず本全般に触れれば、その本に触れた者の『記憶』や『感情』の一部が共有されるぐらいはあるんですけどね」

 

「ああ、そうだった」とウリエルは金髪を軽く靡かせながら頷くが、聞き流すことのできないことをサラッと言っていた。

 

 ——本全般に触れれば、その本に触れた者の『記憶』や『感情』が一部が共有される。

 

 ならば気になるのは、そのはぐらかしている『一部』がどこまでの範囲なのか。それについて俺はシンプルに「どこまで共有できるの?」と聞いてしまう。

 

「試しにヴィラクスの『魔導書』に触れば分かるわよ。いいでしょう?」

 

「はい。どうぞ」

 

 ラファエルの催促にヴィラクスは素直に応じて、特に何かを警戒する様子もなく『魔導書』を俺に差し出してきた。あの『OS事件』を起こした元凶であるはずの『魔導書』をいとも簡単に。

 

 ……多少の疑念は湧いてくるが、ヴィラクスが何か企んでいる感じもない。その動作は手慣れてもいるし、きっと今までも何人かこうして見せてきたんだろう。ラファエルが勧めた上に警戒している様子もないし、本当に『魔導書』自体には何の問題もないのだろう。

 

 俺は信頼しきって、その辞書並みに厚みのある『魔導書』に触ると、途端に脳内に電流が流れたような衝撃と共に『記憶』が鮮明に掘り出されていき————。

 

「————ぇ」

 

 浮かんだ『記憶』の光景に絶句するしかなかった。

 

 

 

 …………

 ……

 

《こ、これが女の子の…………やっぱり男と違うよな……》

 

《……男と女で違うって聞くけど、どんな感じなんだろう……》

 

《…………いやいや!! ダメダメ!! 絶対ダメ!!》

 

 ……

 ……

 

《ふふっ……。この闇夜のスナイパーである俺様に敵うわけがなかろうに……》

 

《あ、あの……。その……俺と付き合ってください!》

 

《はぁ、はぁっ…………。ぅっ……!》

 

 ……

 …………

 

 

 

「——ぁぁぁぁあああああああああああああああ!! イケない記憶がぁぁああああ!! 全て蘇ってくるぅぅううううううう!!!!」

 

 

 い、意識して思い出してはいけないことが次々と出てきたっ!? 

 

 これは俺が女の子になってから間もないことで…………風呂でつい、その…………あの……。青少年なら誰もが興味を持つ物をマジマジと見ちゃった時の……!!

 

 それに男の時にまだ青くて夢みがちな恥ずかしいセリフを言っていた時の物、思春期特有の無敵感で中学生の時に好きな女の子に告白して玉砕した記憶まで出てきてっ……!!

 

 

 

 それにそれに……!! この記憶は……っ!!

 

 

 

「……? あれ? この記憶って……。んー? レンちゃん女の子のはずなのに男性器が——」

 

「わー!! わーー!! それ以上は言わないでくださいっ!!!」

 

 それは俺が男の時に秘事をしてた時の白い記憶なんですっ!! 女の子が覗いていいものじゃないっ!!

 

「…………ふーん。やっぱりアンタ変態なのね」

 

「健全なだけですっ!!」

 

「まあまあラファエル。レンくんをイジメすぎると嫌われるぞ? 男の子なら誰だってしたい時はあるんだ」

 

「そうだ! 男なら…………って」

 

 …………なんでガブリエルが俺のこと『男』って、さも当然のように認識してるの? いくら俺の性別を知っている人が多いとはいえ、ガブリエルには言ってはいない。だとすればラファエルが教えたのかと勘繰るが、あのグリーンお嬢様がそんなことを教えるとは考えにくい。実際、ガブリエルの発言にラファエル自身も少々驚いている様子を見せているし。

 

「あの……俺、一応は女の子なんですけど……」

 

「いや、君は男だろう? 可愛らしい見た目をしてるが、私の目は誤魔化せないさ」

 

 これまた当然であるように、確信を持ってガブリエルは俺のことを『男』と断言した。それに対して冷や汗を流しているのが自分でも分かる。バイジュウの時からそうだけど、何で俺ってこんなに分かりやすい面があるの?

 

「へぇ〜〜。君、男だったんだ〜〜」

 

「なるほど。確かにそれなら色々と頷けますね」

 

「あぁ〜〜! 通りでレンちゃんの記憶に……あれ? でも、女の子だよね? んー?」

 

 ガブリエルの言葉に、ウリエル、モリス、ヴィラクスは各々の反応を見せる。ウリエルとモリスは特に驚いた様子も見せずに納得し、ヴィラクスは更なる疑問が渦巻いて、マイペースに自分の思考へと耽る。

 

「いやいや! 本当に女の子ですわよっ!?」

 

「今更わざとらしく女々しくなるな。それにガブリエルにそういう類は通じないわよ。これでも私の教育係だった男…………ムカつくけど、私の知識や観察眼はアイツ譲りなの」

 

 せめてもの抵抗も、ラファエルによって虚しく砕け散った。

 

 しかしガブリエルがラファエルの教育係……。確かにガブリエル自身が「ラファエルを育てた」と言っていたけど、兄貴的な面じゃなかったわけね。

 

「……いつから気づいてたの?」

 

「最初から。君のこと『くん付け』で呼んでいるじゃないか、レンくん」

 

 …………そういえば最初からガブリエルは俺のことを『レンくん』って呼んでたな。最初からお見通しなんて、ラファエルと初めて会った時に『女装癖』と呼ばれたことを思い出してしまう。それが本当にガブリエルがラファエルの従兄弟なんだと改めて実感してしまい…………ふとあることを思い浮かべた。

 

「……やっぱり、男が女の子してるのは気持ち悪いとかって思います?」

 

 何故か少しドギマギしながら聴いてしまう。それは女性的な感性からくる男性に対する興味的な物だが、俺個人的としては気のせいだと思いたいものだ。何せ認めたら俺は……その……アレなんで。

 

「思わないさ。私は可愛いモノなら何でも好きだからね。…………それが男でも」

 

「……え?」

 

「好ましいよ、君の在り方は特にね。立場とか何を抜きにしてもお付き合いしたいほどさ」

 

「「はぁ!!?」」

 

 突然のカミングアウトに、俺だけでなくラファエルも驚いてしまう。てか、男でもお付き合いしたいって……!?

 

「アンタ、いつからそんな趣味になったのよっ!?」

 

「そう怒らないでくれ、ラファエル。別に性的な意味じゃない。人間的な意味合いとしてだ。別に取って食おうだなんて微塵も思っていない」

 

 なんだ、そういうことか……。安心したような、ガッカリしたような……。いやいや、なんでガッカリする必要あるんだよ。男なんだから安心しろよ。

 

「それにラファエルの初恋だからね、無粋な真似もしないさ」

 

「はぁっ!? いや、はぁっ!? 誰が誰のことを好きだって!?」

 

「ラファエルがレンくんのことを好き。ガブリエルとしてではなく、1人の兄として祝福しよう」

 

「兄貴面するなっ!!」

 

「これでも私は、お前が「新豊州から出ていきたい」とか言わない理由が分かって安心したんだよ。夜遊び好きになったのかと本当に心配してたからな……」

 

「夜遊びなんかするわけないでしょ! 夜更かしは肌にとって悪いのよ!?」

 

「にしては、俺が思ってるよりかは肌のノリが悪いぞ。定期的にレンくんと遅くまで何かしてるだろう。目の周囲が妙に重くなってるし……視力を使うなるとゲームあたりだろう?」

 

「ち、ちがいますっ! これだから『お兄様』は!!」

 

 …………今驚くべきことが耳に入ってきたんだけど。『お兄様』なんて、そんな絵に描いた妹系お嬢様みたいなことを言わなかった? あのラスボス系偏屈グリーンお嬢様が? 

 

 しかもラファエルが俺のことを好き? ……いや、流石にないだろう。

 今までのことを思い浮かべてみたが、付き合いとして存外も存外だ。アニーの方が親しく話してるし、俺なんか「変態、女装癖、ロリコン」だけに留まらず他にも多種多様な罵倒をされている。確かに世の中には『ツンデレ』という属性は現実にも少なからずあるとはいえ、このお嬢様はそういう人種じゃないと思う。自分にはとことん素直なタイプだ。じゃなければ、サモントンでの問題発言は起きはしない。

 

 ……………でも、ソヤが前になんか言っていたっけ。ラファエルの匂いはどうのこうのって。はて、どんなことを口にしていたか。

 

「はいっ! そこまでですよ、お二人とも。今はウリエル様が説明中なんです。喧嘩なら人目のつかない所にしてくださいね」

 

「だってガブリエルが虐めるだもん!」

 

 ……ラファエルの口から「だもん」が出るとは思わなかった。

 

「虐めてない。ラファエルの代わりに素直に言ってるだけだ。何度も言うが、お前はもう少し素直になれ」

 

「素直ですぅー! 私は昔から素直ですぅー!」

 

「……私もいつまでも優しくありません。それ以上喋るようでしたら、武力行使も行いますよ」

 

「「……すいません」」

 

 喧騒冷め止まぬガブリエルとラファエルに対して、再びモリスは静かな怒りを見せつけて2人を黙らせた。それは長年の付き合いから来る一種の信頼感でもあり、俺では察せられないほどモリスに対して2人は必要以上に迅速に頭を下げていた。

 

 ……というかさっきのラファエル、なんというか……年相応というか、今までの傲慢な態度じゃなくなっていたな。もしかしてラファエルって幼い頃は割と素直な子で、ガブリエルの前だとその一面が出てしまう感じでもあるのだろうか。

 

「ウリエル様、お話を続けて大丈夫ですよ」

 

「あぁ、うん……。えっと……そうだ。まあ、そんな感じでヴィラクスは『魔導書』に触れた者の見られたくない記憶を共有できるんだ」

 

「見られたくない記憶ね……」

 

 まあ、万人が自分のしている姿を見られたくはないわな。

 

「だけど、それ以上の効力は『魔導書』は見せてくれないんだ。実験をして理解を深めようとしても、サモントンは異質物研究に関しては遅れをとっていて実験に必要な十全な施設がない。……そこで『方舟計画』さ。新豊州と協力して『魔導書』の力をどこまで制御できるのか、っていうのを調べてるためにね」

 

「こちらも最初は拒否したんだけどな。あまりにも得体の知れない『魔導書』……リスクを考慮したら前向きにはならんし、『方舟計画』には元老院も立ち会う以上、下手にそれを見せるわけにいかん。それにこちらには『魔導書』を解析して得することもない。だから交換条件を出した」

 

「元老院の目を欺きつつ、互いの利益となるよう、SIDが求める異質物を『方舟計画』提供しようと。…………それが『剛和星晶』だ。教皇庁に手を回してEX級から解除するのには苦労したとお祖父様が言っていたよ」

 

 今回はそんな経緯があって『方舟計画』が始動していたのか……。最初の実験はSIDの実益と元老院を欺くための物で、今から行う『魔導書』の実験こそがサモントン側がしたい物だと。

 

「……こんなところかな、『魔導書』については。これ以上は実験しないとサモントン側でも分からない」

 

 そう言ってウリエルは話を終えた。ヴィラクスもその手にある『魔導書』を実験フロアにある台座の上に置こうと向かうが、即座にガブリエルが「まあ待て」と割り込んで抑える。

 

「どうしたの、ガブリエル兄さん。実験には兄さんも同意してたでしょ」

 

「そうだが、我々は今日から明日の昼までなら新豊州に滞在できる。元老院がまだ見ている可能性も考慮すれば、もう少しだけ後回しにしても大丈夫だろう。レンくんだって疲れが溜まっているはずだしな」

 

「一理あるけど先延ばしにする理由にはならないでしょ。何か他の訳でもあるんじゃない?」

 

「……ラファエルにとって、これで最後かも知れないだろ。……だから、せめて思い出作りくらいさせてもいいだろう」

 

「ガブリエル……」

 

 ガブリエルの申し出にラファエルは何とも言えない表情を浮かべる。嬉しいような、悲しいような、余計なことをすんな……それら全てが入り混じった複雑な表情だ。

 

「そうだけどさ……。デックスたる者、覚悟の準備はできてるでしょ」

 

「……そうね。『Noblesse oblige』——。貴族たる者、そんな感情で動かないように……」

 

 ウリエルからの言葉にラファエルは、いつか聴いた単語を口にして再度決意を固める。

 

 

 

 

 

 ——『Noblesse oblige』(ノブレス・オブリージュ)。

 

 

 

 

 

 その言葉について俺はある程度知っている。簡単に言えば『貴族の義務』であり、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指しており、つまりは『社会の模範となるように振る舞おう』という意思表示だ。

 

 それは心理的な自負、自尊を促すものだが、同時に外側の社会的な圧力を受けているとも言える。もちろん無碍にしたところで法的な処罰は発生しないが、社会的な批判や、それに対する人格や倫理を攻撃されることもありうる。

 

 だから貴族は傅く者のために、常に正しくあらねばならない。民の模倣として常に先頭に立つ者でなければならない。そこに個人的な意思を介入させてはならない。例えそれが耐え難い物であろうと。それを行うこと自体が最も正しいのだから。

 

 ……それが『Noblesse oblige』だ。某F91が付くロボットアニメが口にする『貴族主義』の思想形態みたいな物であり、今はその思想がラファエルを縛り付けている。

 

 

 

 

 

「そうだな。『Noblesse oblige』……デックスにとって大事な思想だ。上に立つ者は相応の義務と責務を全うしなければならない。…………けれどそれを下の者に示すからこそ、下の者は上の者に傅くんだ。……ではここで問題だ、ウリエル。今ここで一番権威を持ってるのは誰だ?」

 

「……ズルいよ、兄さん」

 

「そう。『執行代表』であり、ミカエルに次ぐ権威者である私ことガブリエルだ。私が今やる必要ないと言った以上、実験も一度お休みだ」

 

 うわっ、強引な言いくるめしてきたな。そんな自分勝手なことをしたら白い目で見られるから、常に模範的で有れと定めるんじゃないのか?

 

「……ガブリエル様。そのワガママは貴族として相応しくありません。元教育係として見過ごすことはしませんよ」

 

「分かってるって。その代わり、サモントンに戻ったら手配とか色々全部俺一人でやるから……これもノブオジュだ」

 

「思想をいい加減にして略さないでくださいよ……」

 

 ガブリエルの言い分にモリスは若干呆れながらも「そこまで意地張ったらしょうがないですね」と懐かしげに呟くと、優しい笑みをラファエルに見せて言った。

 

「ラファエル様。そういうことですので、一度休憩です。レン殿下もお疲れではありますし……後悔のないように」

 

「………………そういうことなら分かったわ」

 

「ウリエル様は行かれますか?」

 

「僕はいいや。新豊州に興味なんてないし。ヴィラクスはどうする?」

 

「でしたら行かせてください。私も会いたい友人がいますので」

 

「了解。モリスはどうするの?」

 

「ガブリエル様とウリエル様をお守りする役目がありますので待機させていただきます」

 

「だってさ、ガブリエル兄さん」

 

「……別に一人でいいんだけどな。方舟基地には何もないんだし。それにモリスだって連日勤めてるだろう? 今日ぐらい羽休めしておいで」

 

「…………そういうのでしたらそうしましょう」

 

 ……どうやら一度長い休憩が入るようだ。俺としては疲労も溜まっているし、ありがたいことだ。

 

 それにラファエルと過ごす最後の一日……。なるべく後悔のないようにしておきたい。ラファエルと親しい人達をできる限り呼んで、今日だけでも最高に楽しく過ごすようにしよう。

 

 となるとアニー……は一緒に来れないか。最近副官補佐としての技術も身につけて裏方の実力もつけたから、マリルと一緒にここでやらなきゃいけないことがあるし。であればボディーガードも兼用してソヤは一緒に連れて……。

 

「…………ソヤ、どうしたの?」

 

 と、目線をソヤに合わせたところで気づく。今の今まで沈黙を貫き、その表情には今まで見たことのないくらい真剣な物だ。鼻先をしきりに動かしては、より一層眉間に皺を寄せて何かを考え、珍しくこちらの視線には一切気づいてない様子だ。

 

「ソヤ?」

 

「——え? ど、どうしたんですの? あはは……」

 

 再度声をかけて、ようやくソヤは俺に気づいた。本当に微塵もこちらには気づいてなかったようで、先程までの真剣な表情を誤魔化すように愛想笑いを浮かべて、下手なりに有耶無耶にしようとする。

 

「俺はどうもないけど……ソヤはどうかしたの?」

 

「…………えっと、その…………匂うんです」

 

「匂う——?」

 

 脈絡のない言葉。それがどういう意味を持つのか、ソヤ自身も把握できていないようで「そういうしかないんです」としどろもどろに話を続ける。

 

「正体不明の未だ嗅いだことのないゲロ以下の激臭……。この世のものとは思えぬ匂いがプンプンとフロア全体を覆っておりまして……。他の者の臭いさえ覆うほどドギツイのですわ……」

 

「それ、加齢臭とかじゃなくて?」

 

「そんなチャチな物ではありませんわ。あえて口にするならば……混沌が這い寄って来るような……そんな不快極まる物です」

 

 …………言っている意味が本当に分からない。ソヤがこんなことを言うなんて初めてだ。何かの予兆でもソヤなりに感じているのだろうか? ガブリエルに対して注意とかも言っていたし。

 

「ま、まあ……今は特に危険な感じはしませんし、一度は置いときましょう。それでレンさんはどうなさいますか? ラファエルさんと一緒にどこかに行きますか?」

 

 ソヤの言うことに俺は当然頷き、ソヤも「ではご一緒させていただきますわ♡」といつも通りの雰囲気で言った。

 



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第8節 〜みことばに従い、名を否まず〜

「ラファエル、今日はどこに行く?」

 

「どこでもいいわよ。気乗りしないんだから」

 

 突如できた半休。ラファエル、ソヤ、俺の三人はヴィラクスが連れてくる『ある友人』を待ちながらカフェで時間を潰している。

 

 ……そんな中、ラファエルは不機嫌だった。必要以上に保温性の紙コップに注がれたコーヒーを掻き混ぜ、入れるの入れないのか分からないままコーヒーフレッシュの爪部分を指で弾いては溜息を繰り返す。

 

 その不機嫌さは共感覚持ちのソヤは肌身で感じているのだろう。電流が迸るような鋭い目つきとなっているラファエルと目が合うたびに、ソヤは猫みたいに背筋をビクつかせて愛想笑いを浮かべ、それを見たラファエルは気を使われていることを感じてご機嫌斜めの角度を上げる。正直かなり気まずい。

 

 ……だけど俺はラファエルから離れようとは思わない。

 ……ここに来る前、方舟基地でガブリエルに言われたことを思い出す。

 

 

 

 …………

 ……

 

「ちょっと、レンくん。今から少しだけお茶会しない?」

 

「お茶って……」

 

 方舟基地にある待合室の一角。そこで俺とガブリエルは座り心地が悪い安物ソファへと腰を置き、テーブル越しで話す。給仕も兼ねているのか、モリスが「どうぞ」と陶器製のティーカップに高級そうな紅茶を淹れて渡してくれた。

 

「本当に少しだけですからね。無駄話もほどほどにしてくださいよ」

 

「分かってるって。……ただ彼とラファエルについて聞きたいだけだから」

 

 モリスは溜め息混じりながら「分かりました」と言って立ち去っていった。……あぁ、こういう細かい部分でデックスの繋がりを感じる。今の溜め息、すごいラファエルに似ていた。きっと彼女の癖が移ったのだろうと考えていると、ガブリエルは紅茶を一口飲んで語り始めた。

 

「……今はあんなツンツンのじゃじゃ馬娘なラファエルだけど、昔は結構素直で良い子でさ。いつも私の後ろに付き纏っていて、『お兄様、これはなんて言うんですか?』とか『いつかミカエルお兄様みたいに立派になるっ!』とか言って時間さえあれば一緒にいたんだ……」

 

「すごい……今とイメージ違うな……」

 

「素直で生真面目だから弄りがいもあってね……。歯医者に行ったらわざと『痛いよ〜!』って叫んだり、怪談話したり、蜘蛛とかカエルとか見せたりしたら、面白いくらいビックリしたり怖がったりしてさ……」

 

「あの一面、アンタが一枚噛んでいたのかっ!?」

 

 俺の咆哮に、ガブリエルは「もちろん」と、そりゃ憎たらしいほど良い笑顔で肯定してくれる。

 

「大変だな……。その、色々と」

 

 主にラファエルに対してだけど。もちろん俺の心意なんて知る由もなく、言葉のままに受け止めたモリスは「ええ、本当大変でしたよ」と心底苦労した言わんばかりに重苦しく吐いた。

 

「ガブリエル様はミカエル様と違って自由奔放というか、水のように捉えようのない人物というか……とにかく悪戯好きで……」

 

「直してる最中だろう。私もデックスの名を持ち、『ガブリエル』として恥じないように精一杯努めてる。……そりゃミカエル兄さんと比べたら雲泥の差だろうけど」

 

 ミカエル兄さん……ってことは、ガブリエルがラファエルの従兄なんだから、さらにその上がいるのか…………。

 

「まあ、そんな感じの幼少期をラファエルは過ごしていてね。そんなラファエルがじゃじゃウマ娘になったのは12歳の頃でね……。色々とあって豹変……というかある一面が芽生えたんだ」

 

「ある一面? ……話からしてあの気難しい面?」

 

「そう。けど、もっと言うなら『彼女自身』が新たに生まれ変わった、といった方が正しいかな」

 

「…………二重人格ということ?」

 

「いや、それは正しくない。先も言った通りラファエルは元々は純粋で、素直で、生真面目なんだ。あるゆる事柄を広い見識を持って受け止める感性の持ち主であるが故に、ラファエル自身は言うなれば『白紙』だったんだ」

 

 白紙——。ラファエルが白紙の存在——? つまり『何もない』ということだったのか。

 

 聞いた限りではラファエルの過去にそんな印象は受けないし、今のラファエルからもそんな印象がないどころか、個性派の塊すぎて、むしろ虹色と言っても足りないほどうるさくて禍々しい色に違いないと確信できる。

 

 そんなラファエルが『白紙』とはどういうことなのか。何度思考しても答えは見つからない。

 

「……白紙の理由、分かったか?」

 

 ガブリエルの問いに、俺は何の返答もできなかった。だって、その話が本当だとしたら、俺が知っているラファエルは『白紙』ではない時の物ということになる。

 

 ラファエルと会ったのは17歳の時——。それも新豊州に来た時が正真正銘の初めてだ。5年間もあればいくらでも色付けることはできるのだから、どんなに想像を膨らませても以前のラファエルについて何も浮かばない、浮かぶはずがない。

 

 それは俺にとって、ラファエルに対して未だに理解していない部分を突きつけられたような残酷さを感じた。

 

「……例えばの話、ある家族の息子がいたとする。その息子の名前が『二郎』とかだったらどう思う?」

 

「……どうも思わないけど。今時そんな名前の方が珍しいかなってくらい」

 

「じゃあ、そいつに兄弟がいたとする。名前は『一郎』としよう。『一郎』と『二郎』は兄弟だが、名前を聞いたらどっちが兄だと思う?」

 

「……『一郎』が兄だと思う」

 

「どうして?」

 

「どうしてって……。一とニだからとしか言えなくない?」

 

「……そういうことなんだ」

 

 ガブリエルは再度紅茶を口にして話を再開させる。

 

「ラファエルは生まれた時から役目を持っていた。『ラファエル・デックス』の名に恥じないように育てられた。…………そんな子はどんな風に育つと思う?」

 

 

 

 

 

 ——『ラファエル・デックス』の名に恥じないように育てられた。

 

 

 

 

 

 ガブリエルに言われて想像してみる。自分がそんな名を持って生まれたら、どんな風に育てられるのか。…………想像するのは容易かった。

 

「……天使である『ラファエル』として清らかに、貴族である『デックス』として高貴に育てられると思う……」

 

「そしてそれはデックス家全員に言えることだ。私も『ガブリエル』として己が責務を全うするように教育された。ミカエル兄さんも、ウリエルも……どういう理由があったかは計りきれないけど、祖父はそんな風に私達を育てた。モリスも女房役として個人ごとに最適な教育を施してくれた…………ある思想を常に宿しながら」

 

「それが『Noblesse oblige』…………。貴族の義務……」

 

「そう。我々デックスはその言葉を常に背負って生きている」

 

 

 

 ——なんだそれ。『義務』という名の『呪い』じゃないか。

 

 

 

「…………間違ってるのは当に分かり切ってる。だけど七年戦争以前から資源問題で世界はゆるりと破滅への袋小路に向かっていた。だから祖父はサモントンには偶像が必要だと決めて、宗教思想の根付きと共に自分の孫達に天使の名を与えた。……決して祖父に『愛』がなかったわけじゃない」

 

 

 

 ——偶像が必要だと決めて、孫達に天使の名を与えた。

 

 その言葉を聞いて、俺は高崎さんの番組をみんなで見てた時に、ラファエルが口にした言葉を思いだす。

 

 

 

 …………

 ……

 

《まあその程度よ。根本的なものはYohtuberの基本から一切離れていない。『なりたい自分になれる』『制約を乗り越えることができる』ということはトランスジェンダーやデミ・ヒューマンから解放されて大らかに活動できる意味を持つ。…………そういう自由になった自己を表現することで『自分を好きになる』という人種も多いわ》

 

《アイデンティティを確立させるのは、何よりも自分が自分を好きになることよ。我思う故に我あり、とでも言っていいわね》

 

《お前は自分の嫌いな教師の話を真面目に聞く? それと同じで自分で自分が嫌いな人間は、何を思っても何を好きになっても、嫌いな自分を通して見てしまうから結果的に何も関心を抱けない。アンタの例題は恋人をキッカケに自分を好きになるハートフルストーリー…………アンタには無縁なものよ》

 

《だから宗教というのものはある……。自分の価値を絶対的な何に委ねることで楽になる。その『何か』は別に神様じゃなくていい、芸能人やアイドルでも問題ない。ある意味ではその偶像を自分に投影することで自己を保つのがVtuberとして一面でもある》

 

 ……

 …………

 

 

 

 ……あれはラファエルが自分自身に言い聞かせるものだったんじゃないのか? 『ラファエル・デックス』という制約から切り離されて、彼女自身の『アイデンティティ』を確立させたいという無意識からくるものだとしたら………ラファエルはその『何か』がないというのか?

 

 だとすれば……新豊州に来てニュクスと言い争っていたことって……。

 

 

 

 …………

 ……

 

《あぁ、なるほど。つまり、あなたは両親の命令に逆らえない『我儘な子供』ということでしょうか——》

 

《むしろあなたこそ、自由と独立を表現したいのでしょう? なのに家族の権威を笠に着て優越感を浸る姿は、正直なところ、非常に滑稽だと思いますが》

 

 ……

 …………

 

 

 

「それに、今更十何年と生きた自分を否定できるほど我々は『自己』ができてない。望み望まれた末の生き方を喜んで、誇りに思って生きてきた。…………他の生き方を知らなかったから」

 

「それって、つまり———」

 

 

 

 俗に言う『デザイナーベイビー』もしくは『教育虐待』にも近い方法だった。だとしたらラファエルにとって『ラファエル・デックス』の名はどう思っていたのか。

 

 ガブリエルの言葉に嘘偽りがなければ、ニュクスの言葉を繋いで答えは見えてくる。自由と独立を望んでいるのに、十数年デックスの思想に染まった自分を今更変えることはできなかった。デックスの七光に甘んじる自分に心底嫌気を差していたに違いない。

 

 …………そんなの可哀想とか、辛いとか以前の問題だった。物心つく前から『ラファエル・デックス』として、親の意向に沿って生きていき、親の威光でサモントンで地位を固め、親の移行で新豊州に来た。

 

 そこにラファエルの自由意志はどこにもない。変えたくても変えられない——。いや、変える術そのものを知らない愚者未満——。『天使』の名を持つくせに、彼女自身は何にも成長せず、満たされたと思っていた人生は実は空っぽだった。

 

 

 

 そんなの——。そんなの——。

 ——最初から『生まれてさえいない』じゃないか。

 

 

 

「……それが今のじゃじゃウマ娘が生まれた理由だ。サモントンにいた頃は本当に不機嫌な塊でな……。だけど新豊州から戻ってきたら、今まで見たことがないくらいラファエルが精神的に成長しててな。気になって執行代表となってまで見にきたら……レンくんがいた」

 

 ラファエルの実態を知って愕然とする中、ガブリエルは唐突に俺の名前を出してきた。

 

「……だからラファエルは君を見て、憧れたに違いない」

 

「————憧れた?」

 

「だって君は『レン』であって『レン』ではない……そうだろ?」

 

 言ってる意味がよく理解できない。確かに俺は『レン』であって『レン』じゃない。…………そこにラファエルはどこに『憧れ』なんて物が発生するんだ? いくら罵倒文句がラファエルなりのスキンシップであると理解はしていても、そこに『憧れ』なんて物は微塵も……。

 

「君を見た時、ラファエルは衝撃を覚えたはずだ。『女の子』の見た目なのに『男の子』である君の有り様……それは誰よりも強く固まった『自己』ができている証明だ。…………君、ラファエルから何て呼ばれてる?」

 

「えっと……女装癖、変態、メイド野郎、ロリコン、おサルさん、狛犬……」

 

 我ながら何で覚えているのか。単純に物覚えがいいのか、どこか被虐体質があって愛称を気に入ってるのだろうか。…………前者だといいなぁ。

 

「色々呼ばれているな……。だけど、どれも君自身だ。『何にでもなれる』君を見て、ラファエルは…………いや、我々『何者にもなれない』天使の名を冠するデックス家は皆、君に惹かれるんだ」

 

「皆が……?」

 

「言ったろ。君とは個人的にお付き合いしたいって」

 

 見惚れるような淡い微笑をガブリエルは浮かべて、思わず俺の中の乙女がドキッとするのが分かった。いかんいかん……今はそういうやましい事を考えるような場面ではない。

 

「君と出会って、本当にラファエルは変わった……。君のおかげで、ラファエルはようやく人間性を見出すことができた……。だから、ワガママを言わせてほしい。『ガブリエル』としてでなく……私個人の……ただ従兄という『唯一の人間性』からくるお願いだ。…………言ってもいいか、モリス?」

 

「…………私が仕えるのはデックス全員です。ガブリエル様が他言無用というのなら口を紡ぎましょう」

 

「…………ありがとう」

 

 

 

 そう言ってガブリエルは、今までの高貴な雰囲気から一転して、威厳とか地位とか言った物をすべて無くした、ぎこちなくて情けない姿勢で頭を深々と下げて俺に告げる。

 

 

 

「頼む。デックスとしてでなく、兄貴分として頼む——。可愛い妹分であるラファエルを…………どうか最後まで……一緒に隣に居させてやってくれ」

 

 

 

 ………………えっと、それはもしかして……。

 

 

 

「ガブリエル様……。流石にそれでは、嫁入りさせるように勘違いしてしまいますよ……」

 

「……………………そうなのか?」

 

「そうですよ!? 貴方、サモントンで『付き合いたい男性ランキング第一位』に選ばれましたよね!? 女性に対する口説き文句も知ってますよね!? なんでそういう部分は知らないんですか!?」

 

「いや……付き合うなら当人同士で話し合わないと意味ないし……。第三者が何て言っても、それは大丈夫じゃないのか?」

 

「これだからガブリエル様は……。どこまでマイペースなんですか……!」

 

 あぁ……ガブリエルのそういう非常識な面を見て、俺はラファエルが鳩がどこにでもいると思い込んでいた事を思い出す。

 

 こんな人にだったら……こんな人のためなら、俺は誓ってもいい。最後まで俺はラファエルの側にいようと。

 

 

 

 ——その最後は、既に目の前に迫っていることを知りながら。

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

「お待たせしました〜〜♪ 連絡先もなかったので、知人と合流するのに時間が掛かってしまって……」

 

「いやいやいや!? 友人だよね!? 連絡先知らないの!?」

 

「だって新豊州の図書館で一度あった以来ですし……」

 

 こちらの追憶なんていざ知らず、やっと帰ってきたヴィラクスはとんでもない交友関係を口にした。果たしてそれは友人と言えるのだろうか。

 

 そんなヴィラクスに付き合う友人も友人だ。どんな個性派なのかと勘繰りながら、その後ろにいる貞子みたいな薄暗い雰囲気を纏った黒髪の女性へと目を向けると————。

 

「……グッドモーニング、レンさん」

 

「…………何故にバイジュウ?」

 

 見間違えるはずがない。その雪のような白い四肢に、儚げな瞳。どこからどう見てもバイジュウだ。ハイイー曰く、クールビューティーなバイジュウだ。何故にどうしてここにバイジュウがいるんだ。

 

「そこの女の子……ヴィラクスさんに呼ばれまして……」

 

「それは分かってるんだ。重要なのは、どうしてヴィラクスとバイジュウが知り合いなのかという部分なんだけど」

 

「図書館で」

「本を取ってあげて」

「そこから議論して」

「なんか気が合いました」

 

「まるで意味が分からないよ!?」

 

「「そうだよねー?」」

 

 本当なんで気が合ってるの、この二人。読書家の繋がりというのは、そんな些細な事がきっかけで、そこまで沼ることができるのか?

 

「……どうでもいいでしょう。それより早く行きましょう」

 

 二人が来た事で、ラファエルはこの場からどこかに行こうと急ぎ足で街に行こうとする。それは早く街を満喫したいのか、早く時間を潰して己が責務を全うするのを待ち侘びているのか。

 

 ……今の俺にはラファエルが分からない。果たして今のラファエルは俺が知っている新豊州で個性を爆発させていた一面なのか、それとも『ラファエル・デックス』としてサモントンに尽くそうとしてた時の貴族の一面なのか。もしくはその両方が板挟みになっているのか。

 

 ラファエル——。その心中は今どうなってるんだ? 苦しいのか、辛いのか、虚しいのか——。

 

 

 

 ——それとも以前のように『白紙』で、自分でも測りきれていないのか。

 

 

 

 何度思考しても俺には分からない。だけど俺は約束した。口にはしてはいないけど、ガブリエルの頭を下げても懇願した思いを無碍にはできない。そして、それが無くても俺の結論は変わることはない。

 

 

 

 ——最後までラファエルの側にいることを。



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第9節 〜翼は血に染まる〜

4月に入ってからゲームのイベントが重なる、リアルでやる事が多い、季節の移り目のせいで体調不良と色々とアレがアレになってしまい、ストックが尽きたため、申し訳ありませんが次回以降から暫くの間は一週間に1話投稿になります。


 その頃一方、方舟基地——。

 

 マリル、愛衣、アニーは緩やかに後日行う『魔導書』の実験を人知れず進める中、実験フロア内でガブリエルはウリエルと共に厳重に管理された『魔導書』を見つめる。しかし二人が向ける視線の意図は、二人して違う物であった。

 

 ウリエルは新しい玩具で遊びたい子供のような好奇心に満ちており、ガブリエルは逆に遊び疲れたように嫌気に満ちていた。

 

「ねぇねぇ、ガブリエル兄さん」

 

「なんだい、ウリエルくん」

 

「——なんか企んでる?」

 

 ウリエルの言葉に、ガブリエルは沈黙を通すことはせずに「企んでるさ」と素直に言った。

 

「方舟基地での実験は、両者ともに恩恵があるとはいえ、その背後には悟られない程度のもう一つの目的があるのは周知の事実……だろ?」

 

「いんや。そういうサモントンと新豊州としての企みじゃなくて……兄さん個人についてだ」

 

 まるで剃刀のように鋭利に切りかかる話題を振るウリエルの口に、ガブリエルは目を開いて視線を交わす。ウリエルの瞳は、歳下とは思えないほど達観していて、まるでこの世の全てを渡り歩いた老人のような底知れなさがあった。

 

「僕はね、そういうの好きだよ。人間として行動する心はね。……だけどデックスとしては許さない。貴族は相応の義務を全うする…………それに反することは兄さんだろうと許しはしないよ」

 

「するわけないだろう。私はガブリエルだぞ? その名に恥じぬ『神の言葉を伝える天使』としての責務は全うするさ」

 

「そうかなぁ。僕は兄さんが、ラファエル姉さんに入り込み過ぎてる気がしてならないよ」

 

 ケラケラと笑いながらウリエルは「分からなくもないけどさぁ」と話を続ける。

 

「姉さんはデックスでは非常に逸脱した感性の持ち主だ……。普通なら祖父もミカエル兄さんも『出来損ない』や『穀潰し』としてデックスから追放されてもおかしくないほどにね」

 

「あれでも信仰心は本物だ。下手な宗教家よりかは信心深いぞ、ラファエルは。それに度胸も据わっている。公衆の面前であの問題発言。時にはああいう意図的に空気読まない子は必要なんだよ、政治ってのは。だから祖父様はラファエルを気に入ってるんだからな」

 

 ガブリエルの言葉に、ウリエルは「そんなことは分かってるよ」と溜息を吐いた。

 

「……それでも限度がある。それに肩入れする兄さんは『ガブリエル・デックス』としてじゃなくて、一個人の意思の方が強く感じるんだ」

 

 ウリエルの視線と表情は変わらない。しかし、誰であろうと不機嫌だと分かるくらいには雰囲気は一変していた。

 

「……まあ、貴族の義務を忘れてないなら大目に見るようにするけど……。何かレンちゃんと会ってたからさ。——いざという時は覚悟しとけよ、ガブリエル」

 

 恩恵で人懐っこい表情から一転。あまりにも無機質で、瞳孔と目が一体化したのかと錯覚するほど捉えようのない視線をウリエルはガブリエルに向けた。

 

 それは遠回しな忠告だった。暗にレンとガブリエルがどの様な会話をしていたかを知っている様な口ぶり。確かに二人の会話の内容を耳にしているなら、デックスであるウリエルがそれを見逃すはずがない。少なくとも釘を刺してくるのは至極当然なことであった。

 

 

 

 それに対してガブリエルは笑みを浮かべ——堂々と告げた。

 

 

 

「覚悟はとっくに終えている。思いも託した。…………これ以上、私がすることなんてないさ」

 

「…………何を言ってるの?」

 

 ウリエルが疑問に思った直後——。

 

 

 

 

 

 ——ゥウウウウウウウウッッ!!!!!!

 

 

 

 

 

 ——方舟基地全体に耳を貫くほどの轟音にして高音、視界を赤く塗りつぶすサイレンが光り輝いた。

 

 

 

 

 

『緊急事態発生ッ! 『方舟基地』に侵入者有り! 繰り返します、侵入者有り!!』

 

 アニーの声が実験フロアに木霊する。スピーカー越しからマリルの『状況把握を急げ! エージェントを至急向かわせろ!』と迅速な指示も聞こえ、二人は一瞬で状況を把握した。

 

 しかし——二人の思惑は違う。ウリエルの視線は、先ほどより一層険しくなってガブリエルを睨みつけた。

 

「おい、ガブリエル——。まさか……」

 

「…………さあ? 偶然かもよ?」

 

「……それもそっか。まだ疑うには早いか——兄さん?」

 

 再び一転してウリエルは年相応の柔らかい笑顔を浮かべると、一先ずは異質物を保護しようと手早く端末を操作して『魔導書』を実験フロアの奥深くへと移動させる。迅速に連絡を取り継ぎ、状況を把握するためにモリスへと繋いだ。

 

「こちらウリエル。方舟基地はどういう状況なわけ?」

 

『侵入者が一人入っておりまして、ただいま身元を判別中です。もう少しで識別コードを解析できるとのことですが……』

 

『解析完了! …………これはッ!?』

 

 今度はインカム越しのアニーの声がウリエルとガブリエルの耳に届く。アニーの声は衝撃に呑まれたように息を潜め、唾を飲み込む音がハッキリと聞こえるほど一呼吸置くと——。

 

 

 

『——これはレンちゃん…………じゃなくて『アレン』ッ!!』

 

 

 

 自分が最も信頼する少女の本来の姿を持つ、漆黒の犯罪者の名を告げた。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「なんだ、こいつ……ぐあっ!?」

 

「奴を速やかに拘束しろっ!!」

 

 

 

 ——方舟基地、異質物用運搬通路内。

 

 そこで素朴な顔つきと身体からは想像できないほど、卓越した動きを持って銃を持つエージェントを無力化するAAAランク犯罪者として指名され続けているアレンの姿があった。

 

「こいつ、本当に人間か……っ!?」

 

「怯むなっ!」

 

「————どけっ!」

 

 狭い通路であるはずなのに、アレンは巧みなステップで縦横無尽に立体的に近づいてエージェントの発砲を定めず、その手にある『鍵状の細剣』と『一風変わった短剣』を一振りして次々と障害を排除していった。

 

 その鋭敏な動きは、とてもじゃないが人間技とは思えない。ニューモリダスでレンと手合わせた時は本気ではなかったとでも言うように、疾風の攻撃と、怒涛の気迫を持って物の十数秒で、およそ15名はいるであろうエージェントを無力化してみせたのだ。

 

「安心しろ。命を奪うほどアンタ達は強くない。……しばらく眠ってくれるだけでいいんだ」

 

 エージェントは決して弱いわけではない。確かに異質物に関してはレン達に一任しているが、それは『時空位相波動』の適正の都合であり、純粋に戦力としてレン達が一般的なエージェントより上という意味ではない。むしろバイジュウ、ソヤ、エミリオといった一部超人を除けば、『魔女』としての力を使わない単純な肉弾戦や銃撃戦になるとハインリッヒ、ベアトリーチェでさえエージェントの上位層には遅れをとることもあるほど精鋭揃いだ。新豊州の平和な治安に胡座をかく税金泥棒なはずがなく、その実力はレンからすれば目指したい物差しの一つになる程に。

 

 だというのに、アレンはそれらを一瞬で倒した。高校生にしか見えない若らからは想像できないほど、苛烈で迅速な強行突破を持って方舟基地を進み続ける。

 

「おっと待ちな。ここから先は通行止めだ」

 

 そんなアレンの目の前に防護服を一式纏った大男が立ちはだかった。アレンはその男の名前を知っている。その役職も。

 

 

 

 男の名は『南哲』——。新豊州防衛庁の職員にして、陸上犯罪取締部門の部隊長。かつてレンが江森発電所で再び会ったこともある男だ。

 

 

 

「そのまま大人しく投降してくれ。いくら実弾ではないとはいえ、子供相手に銃を向けたくないんだ」

 

「嫌だ、と言ったら?」

 

「じゃあ、しょうがないな」という言葉と共に、南哲はその両手で構えられてるアサルトライフルを発砲した。挨拶の様に一転の悩みもなく撃つその姿は、幾千もの経験から来る物であり、普通なら度肝を抜かれて初動が遅れるだろう。

 

 だが、アレンは知っている。南哲がその様な男であることを。撃つときは躊躇いもなく撃つことを予期していたアレンは、発砲の動作よりも早く前に踏み込んですぐさま南哲の懐へと潜り込んだ。

 

 既に銃器ではカバーしきれない間合い——。アレンはその手にある短剣の方を突き出し、その刃先を南哲の横腹に向けた。

 

「こちとら、銃だけが武器じゃないんでなっ!」

 

 しかし南哲も予想していた様に、すぐさま蹴りをアレンの肘に入れて短剣を弾いた。

 

 それどころか蹴りは腕関節のど真ん中——。人間が鳴らしてはならない悲痛な音が響くと、一瞬でアレンの腕は曲がってはならない方向へと折れてしまう。

 

 普通なら激痛で悶え苦しむだろう。だというのに、アレンは冷静に己の腕を見つめ、大きく深呼吸すると「ゴキッ!!」と、より一層不快な音を轟かせると、アレンの顔色は多少苦痛に歪んで腕は何事もなかったように戻った。

 

「……応急処置にしては些か雑じゃないか?」

 

「……急いでるからな。今回の実験、俺からすれば不都合極まりない。是が非でも止めさせてもらう」

 

 アレンの進撃は止まらない。再び向かうは南哲の懐——ではなく、その向こうにある実験フロアへの通路のみ。アレンの目的は、あくまで実験の不成立なのだから、障害さえ排除できるのなら別に真っ向から戦う必要などないのだ。

 

 針の穴を縫うようにアレンは南哲の間合いに踏み込み、仁王立ちする南哲の僅かな隙を掻い潜ろうと、一息飲む暇さえ与えずに抜けようとするが——。

 

「通さないって言っただろう!」

 

 即座に絞め技を決められて動きを止められた。アレンの頭部は南哲の右腕によってガッシリと固定されて、前進むことも、後ろに引くことさえ許されない。

 

 その体制は『フロントチョーク』——。首筋の気管を圧迫するその技は、シンプルながらも絶大な効果を持っている。なにせ絞め技の中で『最も速やかに人を殺す事ができる』と称されるほどであり、本当に容易く人の意識を殺すように削り取るのだから。

 

 それがアレンよりも二回り以上も身体が大きく、筋肉も漲っている成人男性がやったらどうなるのか。そんなのは火を見るよりも明らかだ。

 

 創作や空想では柔道などの技は体格差を無視して打開できるというが——それでも限度というものはある。そもそも柔道自体が『剛』を持つ者、つまりは体格が恵まれている者な場合、まさに鬼に金棒と言えるほど徒手空拳における純粋な凶器となるのが『絞め技』という技術だ。兎と亀のレースがあるが、最初から最後まで兎がゴールを目指していたら亀は勝つ事なんて不可能。単純なフィジカルというのは、それほどまでに残酷で明確な実力差を見せつけるのだ。

 

(なんだ。この違和感は?)

 

 だが、それは『普通』であればの話に過ぎない。全身全霊となると、華奢な男子相手では首の骨を容易く折ってしまうため、いくらか南哲は力加減をしているとはいえ、相手の意識を落とせるという手応えが一切感じない。首と腕の間に隙間があるわけではない。完全に締めの体制に入っている以上、呼吸なんてままならないはずなのに、アレンは一向に意識を落とすことなく不気味に拘束体制のまま沈黙を通す。

 

「……まさかっ!?」

 

 南哲は即座に嫌な予感を気づいた。だが気づいた時には遅い。アレンは既に動作を終えており、拘束体制のまま足を大きく振り上げ、力強く南哲の膝関節に目掛けて膝蹴りを入れた。

 

 もちろん、その程度では南哲に深刻なダメージになることはない。しかし怯まないわけではなく、僅かに姿勢を崩してしまう。そこからは地盤沈下同然の脱出劇だ。腕の拘束は緩み、そこからアレンは頭部を動かして隙間を生み出し、今度は腕を入れて更に隙間を大きくして、強引ながらも繊細な動作で抜け出した。その一連の動きを見て南哲は思う。

 

 

 

 ——こんなこと『呼吸』ができない体制の都合上不可能だ。だとすればコイツの脳や心臓は、人体医学とは別の原理で動いてるとしか説明できない。

 

 

 

 そんなことがあり得るのかと南哲は考えてしまうが、俄には信じがたい仮説だ。人が『人』である以上、人体医学が覆ることはない。仮に覆るとしたら、それは人の形をした『何か』に過ぎない。そんな存在が本当にいるのかと。

 

 しかし、南哲は知らなかった。その仮説が当てはまる存在が、レン達を中心としたSID内の一部が知っていることに。

 

 

 

 ——その名は『魔女』の成れの果て『ドール』ということを。

 

 ——そして、仮にその仮説を南哲は知っていたとして、致命的な矛盾があることを南哲は知らない。

 

 

 

 勝負はついた。別に相手を無力化する必要はない。アレンは眼前の障害をどうあれ乗り越えて、その先にある実験フロアに到達するだけでいい以上、拘束を抜け出した時点で南哲が『障害』としては機能してない。

 

「くそっ、こんなことはしたくなかったが……!」

 

 駆け出し背を向けて実験フロアを目指すアレン。その無防備な背後に、南哲はアサルトライフルを構え直して発砲した。

 

 だが、弾丸が届くことはなかった。アレンに被弾する直前、弾丸は何かの影響を受けて、弾丸とは思えぬ『曲線』を描いて逸れたのだ。見えない障壁に阻まれたとかではなく、弾丸が一人で明後日の方向に向かい続ける。

 

 そして南哲は気づく。アレンの手にある『一風変わった短剣』が発光すると共に周囲が歪み、弾丸は超常の理を持って制御されていることに。

 

 何度撃っても変わりはしない。全弾があり得ない軌道をしてアレンを避け続ける様を見て、南哲は戦慄する。これが『異質物』の力なんだと改めて再認識する。XK級異質物である『イージス』の恩恵もあり、新豊州は『異質物』の脅威性について些か認識不足していたが、改めて対面することで、ただの人間として実感した。これは人の手に余る代物だと。あまりにも

 

 アレンはそのまま駆けて行く。方舟基地の通路を迷う事なく、ただ一つの場所を目指して走り続ける。ただ無力に銃を撃ち続けるしかなかった自分に不甲斐なさを感じながら、南哲はその背中を見送るしかなかった。

 

 これが『異質物』を介した戦闘なのかと、自分が持つ力とはいえ別次元の代物だと再認識しながら。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 そして少年はたどり着く。今回の実験として運び込まれた『剛和星晶』と『魔導書』がある実験フロアへと。とはいっても既に侵入を観測して『異質物』は隠され、ここにいたガブリエルもウリエルも退避した後であり、そのフロアに残っているのは支柱ぐらいだ。中は閑散として目当てのする物の手がかりなどありはしない。

 

「動かないで。……バットで人は殴りたくないの」

 

 立ち尽くして周囲を窺うアレンの背後に少女の声が届いた。アレンは振り向くと、そこには水色のツインテールをぶら下げた少女が金属製のバットを突きつけていた。

 

 その姿は少年にとって非常に懐かしも親しみがあり、愛しむように瞳を僅かに潤わせ、泣くの我慢するようにその名前を吐き出した。

 

「…………アンネ」

 

 アンネという聞き覚えのない名前に、少女は「違うよ」とキッパリと否定して告げる。

 

「私はアニー。アニー・バース……。アンネなんて名前じゃないよ…………レンちゃん」

 

「俺もレンじゃない、アレンだ」

 

 二人の視線が交差する。互いの対照的な赤と青の瞳が交わり、その奥にある意識をアニーは理解してしまう。

 

 

 

 ——この子、本当にレンちゃんなんだ、と。

 

 

 

「……無理なのは分かってるけど、ここの『異質物』を渡してくれるか? そうしてくれたら、こちらも手荒な真似をしないで済む。……貴方を傷つけたくない」

 

「『異質物』は個人が持つには余りにも危険な物……。人の身に過ぎた力を持ったら、どういう末路を迎えるのかを私は知っている以上、アレンくんに渡すことはできないよ」

 

 アニーは今までの敵意は消え去り、優しく諭すようにアレンに言う。それは嘘偽りない本心から来る物だ。

 

「逆にお願い。大人しく投降して。…………事情を話せばSIDも無碍にはしないよ」

 

 アニーからすれば、レンという存在は恩人という言葉では足りないほどの借りがあるのだ。あの何もかも分からずに、何もかもが不安定な『因果の狭間』——。そこでアニーは現実世界に換算して七年間も孤独に閉じ込められていた。そんな世界から救い出してくれたのは、他ならぬレン自身だ。姿形が別物であろうと、その『魂』が同じだというのなら、例え自分がどんな目に合おうと助けてあげたくなる。今でも、アニーは思わず、そのバットを下ろしてアレンを無条件に通してしまいたいほどに。

 

 だけど、それはできない。そんなことをしたら、SIDにも迷惑がかかるし、何よりも本当の……というより女の子の方のレンを裏切ることになってしまう。

 

 だからアニーからすれば、これが最大限の譲歩。出来る限り戦闘行為などの荒事を避けて、大人しく拘束することがアレンに向けられる唯一の優しさだった。

 

「……事情を話せばどうにかなるか。そうだよな……そう思うよな……」

 

 アニーからの提案に、アレンは知っていたと言わんばかりに優しくも被虐的で、諦念の籠った寂しい笑顔を浮かべて言った。

 

「それで変えられるほど、世界はもう甘くないんだ。停滞に停滞を重ねたら今度こそ世界は本当に終わりを迎える」

 

「だったら尚更だよ……。確かに信じ難いけど、本当に世界が本当の終わりというのが来るのなら、SIDにだって協力できることがあるかもしれない。だから……」

 

「……ごめん、それが無理なんだ。真実を知ったら、きっとアンネは……アニーは戦うことを、進むことを止めてしまう……」

 

「だから話してよっ! 私の知ってるレンちゃんは、秘密主義で隠し通せる強い子じゃない……。どこにでもいる普通の子で……そんな子が寂しい瞳で背負い続けることを、私は見過ごせないっ!」

 

 アニーの必死な訴えに、アレンはその笑みを少しずつ歪ませながら聴き続ける。アニーもその懇願が届いているのだと気づき、何度も何度も「話して」と口に出し、その度にアレンの表情は歪む。

 

「言葉にするって……そんな難しいことじゃないでしょ?」

 

 やがて根負けしたアレンはため息を溢し、その表情を変えた。

 

 ——諦念や達観とはまた違った寂しくも悟った瞳。それはアニーにとって、今まで一度も見たことがないレンの一面であり、思わずアニーはたじろいでしまう。

 

「…………じゃあ、言うぞ。————お前に、レンは『殺せる』のか?」

 

「——えっ?」

 

 そこから発せられた言葉はアニーにとって予想外な物であった。どういう意味なのかと問おうとした時、その首筋に高電圧の衝撃が走り、一瞬にして意識が刈り取られる。

 

「だ、誰……っ!?」

 

 微睡み落ちる意識の中、アニーは自分の背後にいる人物の顔を捉えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ご苦労様。協力に感謝するよ、アレンくん」

 

 そこには、今回のサモントン執行代表である『ガブリエル・デックス』の姿があった。



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第10節 〜貧しいが富んでいる〜

『方舟基地』襲撃の件を聞いて、俺たちの休養は急遽中断となって、すぐさま蜻蛉返りすることになった。皆が皆、各々楽しんでいたこともあり、手にはタピオカミルクティーやらスムージーやらがあるが、場の雰囲気は重苦しいものに違いない。

 

 何せ『異質物』が強奪されるという大事件が起きたのだ。それも『アルカトラズ基地』と同様に、アレンが神出鬼没に現れて颯爽と『魔導書』と『剛和星晶』が盗まれる大失態だ。それに命に別状はないとはいえ、アニーも高圧スタンガンによって気絶させられて数日間は目を覚ましそうにないとも愛衣が言っていた。

 

 だが、そこまでなら警備性の問題から来るSIDの責任という形になるが事実は少々異なる。確かに『異質物』はアレンに強奪されることになったが、そこには共犯者がいたんだ。

 

「……本当なの、ウリエル?」

 

「本当だよ。ガブリエル兄さん…………いや、ガブリエルが裏切った。今回の実験計画を……デックスの威信を貶めるようなことをしたんだ……っ!」

 

 その共犯者が『ガブリエル・デックス』——。その事実に俺は少々気が滅入ってしまった。だって、あの人がそんなことをするなんて……想像できなかったから。

 

「……こちらも少々油断していた。あの弁明は全ては方舟基地の警備を少しでも薄くするためのものだったとはな……」

 

「…………ありえないわ」

 

 マリルの言葉にラファエルはポソッと呟いた。

 

「お兄様………………いいえ、ガブリエルはこんな大胆に裏切れるような人じゃないわ」

 

 ラファエルの言葉に俺も同意したくて堪らない。だって、少し話しただけでも分かる。あの人はラファエルを必要以上に溺愛していた人物だった。今回の先延ばしという名の、ラファエルを街に行かせようとしたのだって、この計画のために実行する背景はあるだろうけど、それでも本当の本気でラファエルが後悔させようにするための一面もあったに違いないのは確かなんだ。

 

 だけど……それを口にしたところで意味はない。現実に方舟基地から『異質物』はアレンとガブリエルに手によって強奪され、その後の行方は『異質物』共々不明なままだ。どんなにガブリエルのことを弁明しようと、起こった事実は変わりはしない。

 

「それに……私の事をダシにするような真似を……」

 

「気持ちは分かるよ、ラファエル姉さん。僕だっていまだに信じられない……」

 

「私もです。ガブリエル様はミカエル様の次席にいる者……。自身が問題を起こせば、自国に与える悪影響がどんな物を想像できないほど子供ではないはず……」

 

 サモントン関係者であるラファエル、ウリエル、モリスが各々自分の心情を口にする。そんな中、ヴィラクスだけは三人と違って「あの〜〜」と少々申し訳なさそうな声で意見を出した。

 

「『魔導書』の行方が分からないとのことでしたら、私の力を使えばすぐに分かりますよ?」

 

「…………マジで!?」

 

 ヴィラクスが持つ意外なスキルに、サモントン関係者として知っていたであろうウリエルとモリス以外の全員が驚いた表情を見せた。あのマリルでさえもだ。

 

「『魔導書』のマスターは私……。『魔導書』から知識が流れるという力を逆探知すれば可能です」

 

「はえ〜〜。…………『魔導書』をこっちに戻すことはできないの? 瞬間移動とか、自律移動とかで」

 

 某リリカルでマジカルでエースな作品みたいに。

 

「それは無理です。ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから……」

 

 ワープに似た実例はあるんだけどね。南極基地で行った時みたいに『因果の狭間』を介せばそれっぽくは。

 

「では、早速調べることはできるか?」

 

「できますよ。…………えっと……」

 

 マリルからの催促にヴィラクスは早速応えた。目を瞑って意識を集中させているせいか、ヴィラクスはコマのように回り続けて軸足もブレてドンドン明後日の方向に行ってしまう。

 

 傍目から見なくても、これ大丈夫なのかと不安になってしまう挙動だ。果たしてその結果はいかに。

 

「方角はあっちで……距離が…………分かりませんね」

 

「分からないんかいっ!!」

 

 いつぞやのシンチェン並みの雑過ぎる測定でどうしようもなかった。

 

『ですがご安心を。私達がいれば、お茶の子さいさいです』

 

 その時、思わぬ方面から助け舟が来た。この声、このトーン……つい先程聞いたけど、同時に長い間聞いてもなかったような不思議な感じ……。しかも電話機越しのような若干篭った感じは……!

 

「スターダスト!?」

 

 俺の端末に、電子世界にいるスターダストが声をかけてきた。画面にはエレクトロな景色を背に、スターダストがいつも通りのほほんとした微笑を浮かべている。

 

 ……そして背景には宙を漂いながら、読書をしているオーシャンの姿も見えた。まるで見えないハンモックの上にいるような落ち着いて本を読む姿は、あまりにも今の非常事態の空気と噛み合ってない。まあ情報生命体に空気読めと言っても、そりゃ難しいかもしれないけど……。

 

『はい、今をときめくVtuberのスターダストちゃんです。その方角でしたら、私も『剛和星晶』の反応を肌身で感じています』

 

「肌身って……」

 

『ですが、それが分かるだけで十分です。二つの『異質物』は同じ方向にあることが分かれば、後はオーシャンが何とかしてくれます』

 

『おいっす〜〜♪ 呼ばれて飛び出て何とやら! オーシャンちゃんです!』

 

 いや、さっきから見えていた。結構優雅にノンビリとフワフワしてたよね。

 

『私の情報が詰まっている『剛積水晶』は方舟基地にあるよね?』

 

「あぁ。ここは『異質物』の一時的な保管庫としてもあるからな」

 

『じゃあ、その座標を入れて……後は『剛和星晶』がある方角と、それに伴う『剛積水晶』との共鳴反応の強さを入れて……そこから逆算すると……出てきたよ〜〜!』

 

 元気いっぱいにオーシャンはドヤ顔をしながら、世界地図を見せてくれた。そこには方舟基地の場所を示す青い点があり、青い点からは破線が長く伸びて、最終的には海にある赤い部分を指した。それは現在も移動中だ。地図が縮小しているため視覚的には少々分かり辛いが、赤い点の情報を写す座標の単位が変化していることから分かる。

 

 だけど、気になる情報がもう一つあった。赤い点から更に橙色の破線が点滅を繰り返しながら伸び続けている。この点滅する破線が意味しているのは『予測』であり、赤い点も現在はこの『予測』に反することなく動き続けている。

 

「太平洋を横断中…………しかもこの渡航ルートは……!」

 

『そう。デックスのお嬢様なら分かるよね』

 

 そして、この『予測』の波線はある場所で消える。そこは『予測』が示した最終的な位置だ。その場所について、俺も知っているが、誰よりも知っているのはラファエル自身だろう。

 

 

 

 だって、そこはラファエルが生まれ育った国なのだから。

 

 誰よりも高貴であることを誉れにする国。

 どこよりも食料が恵まれた自然豊かな国。

 国民全てが信仰心を胸に宿す信心深い国。

 

 

 

 ——その名は、第四学園都市『サモントン』。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 場所は変わり、SIDが所有する軍用ヘリコプター内。そこでは急遽組まれた『異質物』の奪還のために作戦メンバーが搭乗していた。

 

 実際に現場に出るメンバーは俺、バイジュウ、ソヤ。バックアップはラファエル、ヴィラクス、モリスと丁度新豊州所在組とサモントン所在組で綺麗に分かれた。まあ、この振り分けになるのはしょうがないと言える。

 

 ラファエルは治療面では非常に優秀ではあるが、戦闘面では初級護身術程度の実力しかなく、正直な所、多分今の俺よりも弱い。

 ヴィラクスは『魔導書』がなくなったことで本来持つ力の大半を現在使用できない。これでは戦闘自体がままならない。

 

 となると上記二人がいくらバックアップで、サモントンに急遽設けた駐屯基地に待機とはいえ、誰かしら護衛がいないと、今度は駐屯基地に襲撃された時に対処できる人員がいないため、その保険としてモリスが待機することになる。そういう流れがあってこうなった。

 

「本当にモリスさんは待機でいいのですか? 私がバックアップに回った方が……」

 

 と口にしているのは、なし崩し的に作戦に参加することになったバイジュウだ。せっかくの休日を返上してしまい大変申し訳ないが、今は緊急事態だ。少しでも戦力が欲しいのが実情なため、こうして手伝ってくれるのは素直に嬉しい。

 

「大丈夫ですよ。私は『戦えません』から」

 

「……戦えない?」

 

 バイジュウはモリスに疑問を溢すと、モリスは「ええ」と認めた。

 

「甲冑なんて見掛け倒しの上に鈍重ですから、こういう強襲作戦には一切向いてないんです。…………それにいくら裏切ってるとはいえ、私はガブリエル様に手を出す気が起きなくて」

 

 モリスの言葉に、聞き耳を立てていたラファエルが「どの口が言ってるんだか」と不満を垂れるが、モリスの気持ちは分からなくもない。短い時間とはいえ、ラファエルのことを本当に大事に思っているガブリエル相手に手を出すのは少々気後れしてしまう。

 

 しかし、モリスの言ったことには疑問が残る。それでは『戦いに向いてない』とか『戦いたくない』という表現が正しいはずなのに、彼女が口にしたのは『戦えません』という断定だ。『ローゼンクロイツ』の第一席におり、デックス家でガブリエルやラファエルの教育係もしていた人物が、そんな表現をするのは些か違和感が湧いてしまう。

 

 それがどんな意味を持つかは計り知ることはできないけど……今はどうでもいいだろう。目的とは一切関係ないのだから。

 

 だって俺達はたどり着いたんだから。アレンとガブリエル……正確に言うなら『剛和星晶』と『魔導書』があると示された第四学園都市サモントン上空へと。

 

「すげぇ……ネットで見るより広大で、綺麗だ……」

 

 見下ろした景色に俺は感動した。そこに広がる『緑化都市』に恥じない一面のクソミドリ……じゃなくて宝石のように煌めく植物や木々が無数に立ち並ぶ様に。

 

 上空から見ても分かる。建造物の全ての屋根に植物があり、ベランダは柵にはグリーンカーテンが敷かれている。マンションなどになれば屋上には植物園や公園などが設置されており、ほぼ全ての建造物が昔に提唱されたエコロジー世界を実現させたような芸術的な都市だった。

 

 他にもまだまだ見るべきところはある。都市部から離れたら、一転して田舎臭さ全開の黄金色に波打つ麦畑が見えるが、驚くべきことにその広さが見たこともない。どれくらいの大きさかと言われたら俺の尺度では到底表現しきれない。少なくとも新豊州が二つや三つあっても容易に超えてる面積だ。本当に計り知れないほど広くて…………これが全てサモントンの国土だと思うと、あまりの凄さに興奮してしまう。

 

 以前、修学旅行で来た時は旅客飛行機に乗っていて、まともに上空から見てなかったから新鮮味を感じてしまう。

 

「これがサモントンよ。……感激してるとこ悪いけど、実態はそう良いものじゃないの」

 

「そうなの? だって、こんなにも綺麗……」

 

「国土の維持には色々と必要なものがあるのよ。予算もそうだけど、人員とか設備もね……貴方には辺境の土地が見えないのかしら?」

 

 そう言ってラファエルは辺境の先の先を指差した。俺も双眼鏡を使って見てみると…………。

 

「…………手作業でやってる?」

 

 双眼鏡越しでは、衣類さえも小汚い老若男女が畑を一心不乱に耕していた。そこにはトラクラーといった農業機械もないどころか、そもそもこんな広大な土地を移動するための『車』や『オートバイ』さえ見当たらない。周囲には木造建築の家や、自転車や井戸といった人力を利用する物以外何もなかったのだ。

 

「その通り。都市部から離れた場所は文明レベルが明治時代よりも低迷してるのよ。時代逆行も過ぎて笑っちゃうでしょ?」

 

「……どうしてこんなことになってるの?」

 

「サモントンにはホームレスが多いのは知ってるでしょ? 日夜ニュースで取り上げるくらいだもん。これは『七年戦争』を機に棄民を必要以上に受け入れてしまったのが原因の一つで、当時のサモントンはXK級異質物が動き始めたばかりということや、『黒糸病』のこともあって、とてつもない貧困に満ちた国だったの」

 

 ラファエルは語る。生まれ育った国のはずなのに『汚物』を見るような怪訝な目を浮かべながら。

 

「国土は問題ない。資源も問題ない。だけど食料と資金がなかった。だから黎明期のサモントンは自転車操業で国を繁栄してきた……。明らかに他の国よりも低迷した技術レベルでね……。こんな国土を持った国が、国自体から国民一人一人に文化的で最低限の生活を保障できるわけがなかった。……結果、国民全ては自給自足を強いられることになったのよ」

 

「……でも今なら貿易で資金も豊富なんだろう? 食料だってサモントンは世界随一じゃないか。だったら、もう問題ないんだろ?」

 

「それがそうもいかないの。『黒糸病』の農作物汚染は脅威なのは常識となった今、国一つ一つの農作物は壊滅的……いや、破滅的な大打撃を受けた。米一粒作ることさえ難しいほどにね。…………だけど、サモントンならXK級異質物の力を使えば賄うことが可能だった。…………この時点で、サモントンが選ぶ道は二つに一つとなった」

 

「……サモントンが独立するか、しないかってこと?」

 

「流石にそこらへんは察しがつくようね。そう、サモントンは自国だけで繁栄できることを分かった以上、国外との貿易を止めることもできたの。だけど、それはできなかった……理由は簡単で、文明レベルが低下していた当時、世界を敵に回したら領土目当てで戦争を仕掛けられて敗戦するのは分かり切っていたから。仮に勝てるとしても、それに伴う資源の消費量とも見合ってない。…………サモントンは世界と共存することを選んだの」

 

「……別に良い話なんじゃない?」

 

「ここまでなら美談でしょうね。だけど、ここから先は地獄以前の問題よ。人類は何億人いると思ってるの? 『七年戦争』の影響で世界人口は十分の一、更には国家崩壊して棄民状態となった人を入れなくてもザッと数えて半分の3億5000万人…………。それら全てをサモントンだけで賄えると思う? そりゃ新豊州に比べたら広大よ。だけど、いくら国土があろうと、世界からすれば何十分の一の小さな物に過ぎない。…………農作物だけとはいえ、サモントンの国土だけで世界の大半を賄うなんて無理難題だったのよ」

 

 突如として伝えられたサモントンの実態に、俺は絶句するしかなかった。あんなに緑化都市として宣伝され、自然と一体化してるように風潮されていたのに、その中身は余りにも凄惨なことに。

 

「それに農作物って言うけど、トウモロコシやサトウキビの穀物は自動車などのバイオ燃料としても使用できる……。用途が増えれば、需要も増える。需要が増えれば供給も増えざる得ない。……この国土だけで世界は農作物をもっと作ってほしいと懇願してきたの。…………未だにサモントンは都市部以外はライフラインさえ安定してないのにね」

 

「……じゃあ常に限界ギリギリだったってこと?」

 

「そうよ。世界事情と合わせるため、サモントンは結果的に国民に『奴隷』のように開拓を命じた。…………その開拓の成果が今見える黄金色の麦畑ってわけ」

 

 改めて黄金色の麦畑を見るが、もう俺にはそれが綺麗な物には見えなくなった。そんな俺の矮小な頭に浮かぶのは、よく創作やドラマに出る『夜景の美しさ』についてだ。あの風景だって、一見すれば綺麗かもしれないが、その光は『誰かがそんな夜になっても働いている』ことの裏返しであり、それを知ってからは夜景も素直に見れなくなった。そんな気持ちと似ている。

 

 ……そして実情を知ったからこそ、ある部分について考えてしまう。それは、あのスカイホテル事件での『一年間、新豊州への優先的に農作物を供給する』というのは、余りにも交換条件として酷だったのではないかと。

 

「…………国民は不満を抱かないの?」

 

 だからこそ聴いてしまう。そんな国民全てが奴隷であり、その中でも割合としてはごく少数とはいえホームレスなどがいる現状について、国民が何も言わないはずがない。

 

 それについて、ラファエルは吐き捨てるように言った。

 

「……何のための『宗教信仰』だと思う? 何のために『天使』の名を持つと思う? 何のために『貴族主義』だと思う?」

 

「……………………ごめん」

 

 そのための思想の根付きだと気付かされた。全員が全員、何かしらの『思想』を持ち、何かしらの『役目』を与えられた奴隷のような存在だと。

 

「私は……これが正しいと思ってたのよ。本当に、心の底から…………今でも頭では理解してるほどに……」

 

 聡明なラファエルだから理解してしまう。その在り方をサモントンが受け入れているからこそ、『七年戦争』で傷だらけの世界となった今でも食料問題はそこまで深刻にならずに済んでいることに。だからこそ今でも世界が存続できていることに。

 

 ……俺はそれに対して何も言えない。だって、俺が腹一杯食えるのだってサモントンが献身してくれたおかげだ。それに対して『間違ってる』と言ったら、今までの俺の生き方さえ棚上げしたあまりにも恥知らずで配慮のない物になる。馬鹿丸出しもいいとこだ。

 

 …………じゃあ、俺はなんて言えばいいんだ。その答えは見つからない。見つかるわけがない。最初からデックスどころか、国民さえも含んだサモントンのあり方に、部外者である俺が何も言えるわけがないんだから。

 

「…………さあ、そろそろ着陸よ。今回は任務なんだから、旅行気分にはならないようにね」



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第11節 〜その勢いは留まることを知らず〜

「ハインリッヒさん、髪綺麗で長ーい!」

 

「いたたたたたっ!! 髪を引っ張らないでください……っ!!」

 

「アンタもサモントンにいることになって、子供たちの世話役増えて助かるよ〜〜。……さて私は用事があるので、一眠りしますか」

 

「ただサボりたいだけですよね!?」

 

「あの…………何してんすか?」

 

 駐屯基地——。という名のデックス家が持つ数ある別荘のうちの一つ。そこに訪問したところ、眼前にいきなり飛び込んできたのは、10人以上はいる子供達と戯れるハインリッヒとセレサの姿だった。

 

 セレサはいつも通り気怠そうにしながらソファで子供の一人をあやし、ハインリッヒは普段のイメージとはかけ離れて子供達に揉みくちゃにされて、その美しく枝毛ひとつない金髪は、まるで寝起きの俺みたいに乱雑となっている。

 

「見ての通りだよ。護衛と称して親戚の子守りをするのも『位階十席』の仕事の一つさ。ハインリッヒちゃんは今はただの随行員だけど、いずれは席を用意されるからね。今のうちに慣れて欲しいわけ」

 

「じゃあ、ここにいる子供達って……」

 

「そう。未来のサモントンを担うデックスの一員。…………とはいっても未発達な状態。その名に恥じない子になるかは、まだまだ先のことだけどね」

 

「ね、シェキナちゃん」とセレサは自分の前にいる子供の頭を撫でながら言うと、シェキナという名の子供は「うん?」と意味も分からないながらも肯定した。

 

「……シェキナも天使の名前?」

 

 俺の問いに「そうね」と応えたのはラファエルだった。

 

「この中で一番末っ子。『シェキナ』の名は『生命の樹』の……って説明して伝わる?」

 

「ごめん、全く」

 

 俺の馬鹿丸出しな発言に「じゃあ説明するだけ無駄ね」とラファエルは速攻で話をやめた。知識不足で申し訳ない。

 

「さて、ここの別荘はデックスの私有地だから好きにして大丈夫よ。総督からも許可は頂いてるから。……でも、あのガブリエルが裏切るなんてね〜〜。…………いったい何があったのやら」

 

「私に言われても困るわよ。ガブリエルの事が測れるとしたらミカエルぐらい…………そういえばミカエルはいないの?」

 

「ミカエルは外交官として第一学園都市と第六学園都市、それに『バイコヌール基地』とかに顔出してるから不在よ」

 

「相変わらず忙しいのね……。何がそこまでミカエルを駆り立ててるのか……」

 

 セレサとラファエルの会話からして、どうやらデックスでも特別視されているミカエルという人物は今はいないようだ。ラファエルよりも特別視される存在……いったいどれほどのラスボス度数が高いのが少し気になっていたのに。

 

 でも、それは後でいいだろう。今は強奪された異質物の行方を追わないといけない。俺は絶賛演算装置として起動しているスマホへと目を向けて、そこに映るスターダスト達に声をかけた。

 

「どんな状況?」

 

『キンバリー・アン・ポッシブル風情? まあ、予測地点の集束は頑張っているのですが……』

 

『どうしても絞れる予測範囲はレンちゃん達がいる所から、おおよそ半径5kmが限界かなぁ。現地に『剛積水晶』持っていけるなら話は別だけど、EX級異質物をホイホイと国外に出すわけにはいかないし……』

 

 それはもう仕方ない。逆にどこにいるか分からない白紙の状態からサモントンの、しかもデックスの数多くある別邸近辺にいることが分かるだけで僥倖という物だ。

 

『ヴィラクスちゃんはどんな状況?』

 

「私も大体の方角が分かるまでしか……。感じからして、都市部で構えてるんじゃないかと……」

 

『あー、じゃあ都市部だって分かるなら探索範囲も半減だね。別荘は都市部から離れてるから、反対側の放牧地に向かわなくていいし』

 

「反対側は放牧地なんだ……」

 

「そうよ。家畜は当然として、今や絶滅危惧種と化したサラブレッドの馬とかもいるわよ」

 

「馬っ!? このご時世に馬っ!?」

 

 七年戦争の影響で甲子園や東京ネズミーランドを始め、ありとあらゆる施設は致命的なダメージを受けた。それはもちろん動物園や競馬場も例外ではない。だから家畜以外の動物…………ライオン、ゾウ、馬といった大型系の動物は漏れなく姿が見なくなったというのに……サモントンでは存命というのか。改めてサモントンのXK級異質物が優れていることを認識してしまう。

 

「自動車を持たない郊外の人達の貴重な移動手段なのよ。それにサモントンの農作物とはいえ、不細工だったり卑猥だったりと商品として市場に出せないのを処理したりと一石二鳥だし」

 

「どんだけ時代逆行してんの……。というか普通に自動車とか与えればいいのに……」

 

「サモントンの地質はXK級異質物によって保証されてるの。つまりは自然的ではない。だから下手にガスを排出する機械類を使うと、環境変化によって地質が変化して、それに伴ってXK級異質物も再度植物を遺伝子改造。結果的に突然変異を起こす可能性があるから、極力使用を控えるようにしてるの」

 

「なんかインチキ宗教によくある手を翳せば放射能が消える、みたいな言い訳に聞こえるんだけど……」

 

「植物はただ育つだけじゃないの。外界の情報に敏感に反応して、その成長を変化させる。……向日葵だって太陽に向かって咲くでしょう?」

 

 言われてみれば確かに。……にしては過剰すぎないか? 放射線とかによる食物汚染じゃないんだから、もう少し緩く意識してもいいのではないかと考えてしまう。

 

 ……でもXK級異質物を管理する以上、むしろそれくらいのほうがいいのか? 過剰が過ぎるほどに厳重に厳しい方が安全みたいな。

 

「与太話もここまで。ガブリエル達を探しに行ってきなさい」

 

 そう言ってラファエル達は俺達、捜索メンバーを見送ってくれた。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 さて、俺たちは逃走中のガブリエルとアレンを探しにサモントンの都市部に繰り出すことになる。全員戦闘用の装備は整え、今回はハインリッヒがいてくれたおかげもあって、例の『治癒石』もバックアップメンバー含めて一人三個とかなり奮発してくれた。しかし再度逃走を計られては面倒なため、一発で終わらせるために作戦メンバーとなった俺、ソヤ、バイジュウは都市部に潜伏しながらも、追跡のために普段とは違う服装で街中に溶け込むことになった。

 

 ソヤはアウトロー感漂う装いであり、いつもの特注修道服を中に着込みながら、その上に緑と黒を基調としたソヤには一回りほど大きいコートを羽織っている。そういうのがお気に入りなのか、被っている黒キャップには目立ちにくくも猫耳を象っており、コートも靴も靴下も猫をモチーフにしたワンポイントなデザインが見える。これはこれで非常に似合っているが、正直普段の装いからのギャップが強くて遠目から見れば別人に感じてしまうほどだ。

 

 かくいう俺も自分でもかなり大胆な装いではあったりするのだが。春先で暖かいこともあり、臍や腰が丸見えの無地で薄ピンク色のオフショルダートップスに、マイクロミニの青色デニムパンツ。見せ用とはいえ首から掛ける黒ブラ。我ながら相当攻め攻めだが、不思議と恥ずかしいという気持ちは湧いてこない。むしろカッコいいとさえ思う。

 

「……レンさん、随分と際どいですわね」

 

「ここまで来ると逆に良くない?」

 

「そうですが……今後レンさんのピュアピュアな匂いを堪能しにくいと考えてしまうと………うぅっ……」

 

 どうやらソヤからすれば不評のようだ。まあ、自分でも攻めすぎかと思ってるけど……なんかイナーラとの一件もあって、こういう装いするのも悪くないと知ったからなぁ。色々と着るのは楽しいんだぞ。

 

「…………いや、でもこれはこれで……周りの匂いを刺激することに、気づかない純情っぷりも…………純情系ビッチというような……」

 

 何を言ってるんだ、ソヤは。人をビッチ扱いするなんて失礼だな。ただ自分の肢体が魅せる可能性を模索してるだけなのに。

 

 

 

 ……さて、もう一人のメンバーであるクールビューティこと薄幸系インテリ美少女のバイジュウはどんな服装か。さぞ清楚だと期待していたのだが——。

 

 

 

「あの……バイジュウさん? そのシャツなんですか?」

 

「漢字プリントのTシャツです。海外受けいいですよ?」

 

 しかし、俺の目にはとんでもないファッション音痴のバイジュウの姿が焼きついて仕方なかった。ストレートタイプの薄青色のダメージデニムパンツとローヒールの黒いパンプスは良いんだ。下半身だけ見ればデスクワークで書類やデータ作業を熟すキャリアウーマンに見える。

 

 ……いや、上半身も要素だけ抽出すれば全然良いんだ。黒のシンプルなシャツの上に、ベージュ色の肩掛けカーディガン、変装用なのか薄黒縁の伊達メガネをしており、どう見てもバリバリ仕事のできるキャリアウーマンだ。どっからどう見ても完璧な仕事人だ。

 

 だというのに……だというのに、それら全てを一撃で粉砕、玉砕、大喝采する強靭、無敵、最強な存在感を放つワンポイントがある。それがシャツにこれでもかとクソデカ達筆フォントで印字された『冷奴』という文字なのだ。服装どころかバイジュウの美少女オーラさえも喰らい尽くす圧倒的な存在感は、あまりにも悪目立ち過ぎる。

 

「だからって、何故に『冷奴』……」

 

 まだ英語とかなら、雰囲気とかで誤魔化せるのに。

 

「これで『クールガイ』と読むんですよ。中々にカッコよくないですか?」

 

 いや『冷奴』は『冷奴(ひややっこ)』だろ。決して『冷奴(クールガイ)』とは読まないだろ。

 

「ソヤはどう思う?」

 

「十人十色ですわ。多様性社会に必要なのは寛容な気持ちですので、世間一般的な考え方を置いとけば、バイジュウさんの装いは個性的で大変よろしいかと」

 

 こいつ、遠回しにダサいって言ってる……!!

 

「まあ、これだけ全員服装が違えばガブリエルさん達も気づきにくいでしょう」

 

「違う意味では目立ちそうだから、周りのことも考えてほしいけどね……」

 

「そっくりそのままレンさんに言いますわ。……しかし、ここの匂いはいつ来ても慣れませんわね……」

 

「匂い? ……そういえば匂いさえあればソヤは追跡することはできる?」

 

「現状況では難しいですわね。住民の皆が信心深すぎて、似たような匂いしか発しないのです。流石にアレンやガブリエルさんは全く別の匂いではありますが、二人の匂いを掻き消すほどの人数ですので……」

 

「じゃあ匂いで追うことは……」

 

「できなくもないですが、匂いで追える時点で視認できる距離だとは言っておきましょう」

 

 うーむ、前途多難だな。絞れたと言っても、それでもサモントンの都市というだけで広大だ。どれほどか分かりきっていながらも、改めて周囲を見渡してしまう。

 

 ……ビル、マンション、アパート、一軒家、お店など選り取り見取りだ。しかもそのほとんどがベランダや庭に観葉植物があったり、グリーンカーテンだったり、花壇があったりと、緑豊かで落ち着いてはいるが、決して探しやすいというわけではない。この中で文字通り草の根も掻き分ける勢いで探すものなら、人員も少ないし、仮にいても潜伏場所も多そうで半年あっても足りはしない。そんな時間があったら再び逃走準備を終えてしまうし……。

 

「バイジュウからは何か策はある? 虱潰しでもいいけど、流石に時間を詰めるに越したことはないし……」

 

 とりあえずクソダサ印字シャツは置いといて、その聡明で博識だけは決して紛い物ではない知識に頼ろうとバイジュウに聞いてみることにした。

 

「私は追跡に関しての能力はないですからね。そういう面で期待されても困りますが……ただガブリエルさんはサモントンで知らない人はいませんから、住民が騒ついていない以上、外にいたり公共スペースにはいないでしょう」

 

「……つまりデックスが数多く所有する別邸のどこかって事?」

 

「いや、それもないと思います。デックスは所有する土地や別邸にいるとしたら、モリスさんやセレサさんや伝わるはずです。もしも仮に、極薄い可能性として二人も裏切り者だとしても、我々がここに来る前からハインリッヒさんがいますし、今はラファエルさんも居たりと隠蔽するのは困難を極めます。この線はまずないと考えて大丈夫でしょう」

 

 バイジュウも色々と考えてくれているようだ。

 

「それに『異質物』の動向も移動しないまま『潜伏』……。これはガブリエル達は少なくとも『数日間は生活できる空間を確保できている』という裏返しでもあります。つまりは衣食住が最低限保障されている状況ということ。お風呂は我慢するとして、食事も排泄も問題なく行えて人目につきにくい……そういう場所にいる可能性が高いと思われます」

 

「……ならセキュリティ意識の高いホテルのVIPルームとか?」

 

「惜しいです。いくらセキュリティが高いとはいえ、一日に一回は従業員から確認を取られますし、寝室とかも整えるために清掃員が入退室をします。そんな一般人の目に入る場所に『異質物』を持ち込むのは、とてもリスクが高すぎます。同様にホームレスがいるような公園や橋の下も可能性は薄いです」

 

「だったら、バイジュウはどこにいるか検討がついてるってこと?」

 

「……それは分かりません。私も決してサモントンに詳しいわけではないので……。これらの条件が当て嵌まる潜伏場所が見つかるかどうか……」

 

 流石にそこまではバイジュウでも分からないか。でも、おかげで捜索範囲はさらに狭まりそうだ。都市部の5km圏内の二人が証言した全てに該当する要素を含んだ場所にいる可能性があると…………。

 

「逆に聞きますが、レンさんは何かしら候補とか浮かびますか? 潜むのに絶好の場所とかは……」

 

「俺も修学旅行で来た一回だけだからな……そんな…………」

 

 …………あれ。そういえば一つだけ思い当たる場所がある。デックスの所有してる場所でもなければ、外でもなければ公共スペースでもない場所。偶然にも、俺は一度だけその場所に赴いたことがある。

 

 

 

 

 

 それは——サモントン政府の管轄所属である『ヴェルサイユ宮殿』という場所だ。

 

 

 

 

 

 あそこは確かに歴史的文化財として外も中も、骨董品さえも復元並びに模倣した物で真の意味で芸術的価値はないですねラファエルは口にしていたが、問題はそこではない。あそこは関係者以外立入禁止とされた区画が、生活に一切困らない範囲で確保されている。年がら年中デックスによって管理されてるわけでもないし、いくらラファエルの叔父が総督という身分であろうと、それだけでサモントンを全て支配できるわけではない。デックスという個人の管轄ではなく、サモントンという政府の括りであれば『公共スペースに属せず、人目に付かずに数日間は生活空間を確保できる』という条件を唯一そこは満たすことができる。

 

「…………それで本当にいいのか?」

 

 けれど確証があるわけではない。もしも俺なら、その条件に見合う場所がそこだから向かうという話に過ぎない…………。

 

 ……だからこそ自信も湧く。だって追う相手はガブリエルでもあるが、その隣には『アレン』がいる。俺がそういう方面で考える以上、多分恐らくきっと『俺』であるアレンも『ヴェルサイユ宮殿』が浮かぶ可能性が濃厚なんだ……。

 

「…………レンさん?」

 

「……『ヴェルサイユ宮殿』に行こう。恐らくそこに二人はいる」

 

 考えたって仕方がない。時間は刻一刻と削られているんだ。

 二人は俺の言葉に確信を感じて頷いてくれた。きっと『ヴェルサイユ宮殿』に行けば、何かしらの事は分かるに違いないと。



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第12節 〜翼は智を宿す〜

予定より意外と厚みのあるシーンが増えて、第四章完結に必要な話数が第18節〜第19節になりそうだということを報告します。
毎週更新も変わらずですが、5月半ばには完結できるとは思います。


『……続い……のニュースで……。……日前に顔なしの遺体が発見されました。年齢は10代ほどと思われており、身元特定のために——』

 

「……よし。これでテレビは繋がったな」

 

「叩けば直ると聞いたが、配線を改めて繋いでも直るのか」

 

「それ昭和以前の話だから……」

 

 

 

 ——ヴェルサイユ宮殿、関係者用フロア。

 

 そこには忙しなく動き続けるアレンをジっと見つめるセラエノと、色々と荷物を調べているガブリエルの姿があった。

 

 

 

「これは大丈夫……。これも大丈夫……。これは……賞味期限切れか。戦後の時に使用されずに保管されていた缶詰めと言っても、やっぱり年数単位だと腐る時は腐るよなぁ」

 

「水道やガスはどうだった?」

 

「水道は大丈夫。ガスは止めてあった。……一応電気コンロはあったから料理はできなくもないけど……」

 

「美味しくはなりそうにないな」

 

「……電気コンロとはIHではないのか?」

 

「全然違う」とアレンとガブリエルの二人は言うと、静観するセラエノを背に動き続ける。これは使えるか、あれは使えるかを繰り返し、壁を見てはこれは大丈夫か、あれは大丈夫じゃないかを言い続ける。

 

「しかし、ここを使うことになるなんて……。けれど準備するだけ損ということに本当にならないよね? 無駄足は嫌いだよ、私は」

 

「大丈夫、レンなら絶対気づく。俺達がここにいることくらい」

 

「まあ……君が言うなら信じるけどさ……。隣の女の子が『突然』現れた時といい、君達は不思議なところが多くある」

 

「私はいつもいたぞ。『断章』と私は二つで一つ。『断章の結晶』をアレンが持つ限り、私はいつでもどこでも出てこれる。すごいだろ」

 

「すごいすごい。すごいから大人しくしててね」

 

 いつも通り無表情で胸を張って威張るセラエノをアレンは適当に遇らうのを他所に、ガブリエルは内心「この子、全然意味分からないなぁ」と思いながらもアレンとの話を続ける。

 

「さて、最低限の準備は終えたし、後は迎え撃つだけだ。……絶対に『魔導書』だけは『誰の手にも渡しちゃいけない』からね」

 

「そうだな。保険として、セラエノはこちらが防衛する間に『剛和星晶』の情報を『断章』に記すようにしといてくれ」

 

「——必要ない」

 

 二人が話し合う中、セラエノは無表情なくせに威圧感に満ちた表情で告げる。

 

「既に『星尘』との情報は共有した。…………誰かは知らないが『外宇宙』の理に接触し、挙句には『門』に喧嘩を売った者のおかげで『門』の安息は無くなったからな。…………私も光よりノンビリする訳にいかないんだ」

 

 それぞれの思惑が交錯しながら、邂逅する時は迫る。アレンは手元にある端末を覗き見た。

 

 映るのはヴェルサイユ宮殿の入口前。監視カメラ越しで見る三人の少女達の姿に、アレンは苦笑いを浮かべながら、誰かに伝えるわけでもなくそっと呟いた。

 

「…………バイジュウ、いつ見てもそのセンスはないと思うぞ」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 目前に迫るは、いつぞやの修学旅行兼『インペリアル・イースター・エッグ』を通して、俺が謎の異世界に飛ばされた事変となった場所であるヴェルサイユ宮殿。そこに俺達は何かしらの情報はあるんじゃないかと足を運んだ。

 

 とはいってもアポもない状態での訪問。元は世界遺産とはいえ、今ここにあるのはあくまで復元したものの以上、歴史的価値など薄いため観光客の来館率も悪いため、予約をしていなければ館内を見ることもできない。現に俺達の目の前で物静かに閉まる城門には、工具店などで売ってる安物ではない本格的な錠前で施錠されていた。これではSIDで一応ピッキング技術を得ている俺でも解錠はできない。

 

「ヴィラはいないから『OS事件』みたいに物理で解決できないよな……」

 

「物理解決をご所望なら、私のチェーンソーでブッタ切れのコマ切れにすることもできますが、如何なさいますか?」

 

「アレン達がいない可能性も十二分にあるから強行策はなしでいこう。金属が摩擦する音も嫌いだし」

 

「まるで確信があるなら強行すると言いたげですね……」

 

 実際にいる確信があっても若干躊躇うけどね。腐っても世界遺産の復元だし。これ以上、賠償金とか請求されて借金娘を引き摺るのは懲り懲りなんだ。

 

「前に来た時はラファエルが突然現れたんだし、きっと関係者専用の…………おっと、あったあった」

 

 周囲を歩いて一つだけ錠前ではなく、電子ロックで施錠されたドアを見つけた。その扉は入り口にある古風な造りと違い、防弾性の金属扉であり、その造りに馴染ませようと多少は加工してあるが、それでも多少の違和感は感じてしまう。恐らくこれが関係者用の出入り口で間違い無いだろう。

 

 ……まあ、どちらにせよ問題はどうやって入るかだったんだけど……。

 

「…………故障してるな」

 

「故障してますわね」

 

「故障してますね」

 

 暗証番号、指紋認証、生体認証、そのどれもが機能せずに無防備に扉は開放されていた。まるで『ここから入って来い』と言いたげに、無防備ながらも威圧感を放つ佇まいで開かれた廊下の先を見て、俺は思わず生唾を呑んで考えてしまう。

 

「……ソヤ、匂いはどうだ」

 

「しますわ……悪巧み特有の薄黒い匂いが……。少なくとも『誰か』は絶対にいますわね」

 

『誰か』が悪巧みの匂いを漂わせながらいる——。恐らくアレンとガブリエルに違いない。まさか本当にヴェルサイユ宮殿にいるなんて……。

 

 ……この先にいることは分かった。けれど本当にここから先に進んでいいのか? 冷静に、そして改めて相手の戦力を分析してみる。

 

 まず『異質物』についてだ。『剛和星晶』は自己防衛する力はあるが、同時に自己防衛しかしない。他に数ある『異質物武器』と違って持ち主に力を与えたりはしない。これは脅威にならない。

 続いてヴィラクスの『魔導書』だ。これも脅威にならない。何故なら、ここに来るまでヘリの道中でウリエルもヴィラクスも『魔導書』は認証したマスター以外の命令は受け付けない事を実証済みと言っていた。つまり『異質物』自体は、敵対勢力としては出てこない可能性は非常に高い。

 

 だとしたら次は相手自体の人数はどうだ。確実にいるのはアレンとガブリエル。他にいるとしたら…………アレンの隣にいたセラエノの存在ぐらいだ。もしもアレンが何かしらの組織に属していた場合はその限りではないが…………組織に属しているなら、そもそもニューモリダス、新豊州、サモントンと点々とする必要はない。仮にここヴェルサイユ宮殿で籠城しようとしているなら、籠城しなければいけない身分という時点で無法者確定だ。だからどう見積もっても2人か3人のはずだ。

 

 だったら、最後に相手の戦力はどうだ。ガブリエルはラファエルと違って『魔女』ではない。そして先程『異質物武器』がないとも推測した以上、ガブリエル本人に対抗しうる力は持ち合わせていない。無力と考えていいだろう。

 

 しかしセラエノは余りにも未知数だ。『外宇宙』の存在とも星尘は言っていたし、下手したらあの『ヨグなんとか』に匹敵しうる存在だが…………ならば、どうして『方舟基地』を襲撃した際にアレンだけだった? もちろん今現在は一緒にいない可能性はあるが、もし一緒にいる場合なら、それは彼女が戦力にならないからではないかと考えてることができる。

 

 だとしたら問題はアレンだ。アレンの実力は如何程なものか。『方舟基地』へと単身で乗り込んで『異質物』を強奪するほどの腕前だ。ニューモリダスで『天命の矛』を利用した異質物武器を考えると、こちらまだ未知数なところはあるが……。

 

 

 

 ——勝機はある。俺はもう、あの時とは違う。アレンと一対一になっても対抗できる力を手に入れたんだから。

 

 

 

「…………行こう」

 

 その言葉を合図に、俺達はヴェルサイユ宮殿へと突入した。至って普通なはずなのに異質に満ちた廊下。一歩踏み出すたびに、緊張感から背筋や手から冷や汗が出て湿っぽくなる。一歩踏み出すたびに空気が冷えて肺が収縮して息苦しくなる。まるで深海に潜るような感じだ。ここは地上であり、油絵や陶器もあるはずなのに、徐々にそういう特有の匂いが薄らいでいく。

 

「……なぜ奥に行くほど『匂い』が『薄く』なっていきますの……?」

 

 その異質な雰囲気に『共感覚』持ちのソヤが見逃すはずがなかった。一歩、また一歩と進むたびにそれは如実に分かる。不安から手汗はありえないほど溜まりに溜まり、滝のように溢れ続ける。今にして思えば、今回はこのような薄い衣装にして良かったかもしれない。変にベタつかなくて済む。しかし、それと現状とは話は別だ。

 

 余りにも異様な雰囲気——。何故か感じる『孤独感』と、例えようのない不安から、俺はいても経ってもいられずに、二人と話して誤魔化そうと後ろへと振り返ると——。

 

 

 

「ねぇ、ソヤ——」

 

 

 

 ——二人が『消失』していた。今まで確かにそこにいたはずの二人が、最初からいなかったように姿を眩ませていた。

 

 ……理解が追いつかない。まるで幻であったかのように、二人の姿は忽然と消え去っている。一緒にいたはずなのに……どういうことなんだ。

 

 混乱する頭の中で一度落ち着こうと壁に手をつく。

 

 落ち着け——。

 落ち着け、落ち着け——。

 落ち着け、落ち着け、落ち着け——。

 

 深呼吸を一つ。目を閉じて一度視界の情報をリセットする。自分の四肢から伝わる情報を一つずつ再認識して落ち着きを取り戻す。

 

 そして、ある違和感に気づいた。身体に何も異常がないというか、少々の変わったところがないことに。心拍数は上がってないし、思考はボヤけてもいないし、筋肉が萎縮してもいないし、呼吸も乱れていない。

 

 じゃあ、どうして『冷や汗』が出てるんだ。ここまで『手汗』が溜まってるんだ——。

 

 狐に摘まれた感じを拭うべく、俺は改めて自分の手を見てみると、その正体に気づいた。これは『汗』じゃない。ましてや『血』でもない。自分の身体から流れている物ですらない。もっと単純過ぎて、逆に意味不明な代物だった。

 

 

「これは……『水』?」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「レンさんっ! ソヤさんっ! いったいどこに行ったのですか!?」

 

 ——同時刻、同じくヴェルサイユ宮殿にてバイジュウは『一人』で叫んでいた。しかし、その声はレンにもソヤにも届くことはない。音という物は、本来人間が視覚の次に重視する五感であり、一般的な条件下であれば人間の声は約180mまで届く優れ物だ。いくらバイジュウの目の前からレンとソヤの二人が突然消えたとしても、その180m範囲内であれば声だけでも本来なら届くはずなのだ。

 

 だというのに、音は分かりやすいくらい響くことなく消え去った。まるで『何かに吸い込まれる』かのように、バイジュウの声は遠くに行くたびに急激に萎んでいったのだ。

 

「…………『音の吸収』。それに『水』……。だとしたら、今まで私が……いや、私達が見ていたのは……!」

 

「そう、『水に映った鏡像』だ。お前達は進むたびに自ら孤立していったんだ」

 

 突如としてバイジュウの背から知人に良く似た声が届いた。その知人は今いるサモントンの令嬢であるラファエルであるが、視界に入ったのは見た目だけなら何一つ似ない金髪の少女だった。

 

 バイジュウが言えた義理ではないが、バイジュウ以上に無表情で冷たい印象を受ける瞳。童話に出るような鮮やかで、ボリューム溢れる赤いサロペットスカートとはミスマッチであるはずなのに、何故かそのミスマッチこそが似合う謎にして神秘的な雰囲気を纏う少女。その少女に、バイジュウは思わず聞いてしまう。

 

「貴方は……?」

 

「私はセラエノ——。プレアデス星団の観測者」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「私の相手はガブリエルさん、ってことですわね……」

 

「その通りだよ、審判騎士様」

 

 ——一方その頃、同じくヴェルサイユ宮殿内にてソヤは、今回の強奪事件を起こした首謀者の一人であるガブリエルと対峙していた。

 

「抵抗は無駄だと言っておきましょう。言いたくはありませんが、私は『魔女』ですので」

 

「昔は『魔女狩り』染みたことやってたのに、今は『魔女』だなんてね……。ミイラ取りが何とやらってことか」

 

「けれど」と感慨深そうにガブリエルは話を続ける。

 

「そんな君だからこそ問いたい。『魔女』であり『魔女狩り』でも審判騎士様に」

 

「……いいでしょう」

 

「人は何を持って『魔女』とする? 力か、地位か、金か? それを問いたい」

 

「さあ? 私、そういう部分は深く考えておりませんの」

 

「それと」とソヤは、コートの中に隠し持っていた折りたたみ式のチェーンソーを展開させた。

 

「慈悲も容赦もありませんの。私は母代わりのシスターさえも殺し、育ててくれた修道院をも裏切った魔女……。例えデックスであろうと、殺る時は殺りますわよ」

 

「…………じゃあ、殺ってみるかい? 今こうして無防備に佇むただの天使の名を持つ『人間』相手に」

 

「——そうするしかないとの言うのなら」

 

 刹那——。ソヤは鋭く研ぎ澄ました一瞬だけの殺意と決意を持って、猫のように俊敏にガブリエルの懐へと入り込んだ。

 

 同時に『ギュイイイイン!!』と、その手にある折りたたみ式のチェーンソーを起動させる。それはソヤが昔から愛用していた『執行人Matthew』ではなく、SIDより支給されたソヤ専用の『掃除屋Thanatos』という新型武器だ。切れ味抜群の上に、回転ノコギリの遠心力を利用して『屍弾』という特殊な加工を施した弾丸をぶつける殺意の塊のような代物だ。

 

 本来なら普通の人間相手に振るうには、余りにも度が過ぎた兵器だ。それもそのはず、この『掃除屋Thanatos』自体は徹頭徹尾『魔女』に対する殺傷力を高めた代物なのだから。『OS事件』の件もあって、ありとあらゆる条件下でも戦力を保障できるように『屍弾』という名の『爆弾』を射出する機能を備えさせた集団戦にも対応した一品。それは例え『魔女』相手だろうと過剰であり、まさに近代兵器が生み出した『魔女殺し』と言える。

 

 しかしソヤは自身の『共感覚』から伝える情報で、ある確信を持ってこの魔女殺しをガブリエルに振るう。その心境に潜む気持ちはただ一つ。

 

 

 

 ——ガブリエルには『何か』がある、ということだ。

 

 

 

「やはり……っ!!」

 

 切り裂いた瞬間、ガブリエルは『水』となって弾けて消えた。その先には余裕綽々な表情でガブリエルは立ちはだかっており、ソヤは「この程度『匂い』で分かりきっておりましたわ」と再びチェーンソーをその鼻につく表情へと向けた。

 

「これは強奪した『異質物』では見られない特性……。でしたら、それとは別に何かしらの『異質物武器』を使用して挑んでいるということですね……」

 

「『異質物武器』? ははっ……何を勘違いしてるんだか……」

 

 そう言うと、ガブリエルはその胸にある青色の宝石を指で摘んだ。それはラファエルが『エメラルド』を持っていたのと同様、ガブリエルに与えられたデックス家の家宝の一つ『サファイア』だ。それはどこにでも普通の宝石であり、それ自体に『魔力』があったとしても決して『異質物武器』にはなり得ない代物だ。

 

 それを見せつけるように出して、一体何の意味があるのか。ソヤは訝しげな表情を見せて注意深くガブリエルを見続ける。

 

「もう一度問う。人は何を持って『魔女』となる? そもそも『魔女』とは何だ。罪を犯したものか? 人の堕落の果てが『魔女』なのか?」

 

「何を言って……」

 

 そして、ソヤの目の前で不思議なことが起きた。その指にある『サファイア』が突如として形状を変えて『弓』に変化したのだ。

 

 ソヤは戦慄する。過去に『スカイホテル事件』でラファエルの『エメラルド』が、ベアトリーチェの力を持って『剣』となった事例があるのは知っている。しかし、それはベアトリーチェが『魔女』だからこそ出来た芸当であり、ただの『人間』であるはずのガブリエルが、ベアトリーチェと同様に『サファイア』の『魔力』を解放して武器にすることなんてできるはずがない。

 

 

 

 そう——。できるはずがないのだ。『ただの人間』が『魔力』を利用することなんて——。

 

 そんなことができるのは『魔女』だけなのだから——。

 

 

 

「続けて問う。天使は何を持ってその翼は堕ちる?」

 

 世界が呑み込まれていく。どこからともなく溢れ出す『水』が、ソヤとガブリエルの周囲を包み込んでいく。

 

 ——同時に『匂い』が薄まっていく。

 ——『匂い』が『水』に飲み込まれていく。

 

 それはソヤの『共感覚』が無力化されたことを意味していた。既に『匂い』は消え去り、もうソヤにはガブリエルの『感情』の動きや、それに伴うあらゆる行動の『予備動作』さえも不鮮明となる。

 

 この時はソヤは理解した。これは正真正銘『魔女』の力だと。ガブリエルはラファエルと同じように『魔女』の力を宿していたのだと。

 

 なるほど、確かにガブリエルはラファエルと同じデックス家の者だ。才能に恵まれた兄貴分だ。『魔女』になったというのなら、ラファエル以上に『魔女』に適した力を持っていても不思議ではないだろう。

 

 

 

 

 

 ——しかし、それは有り得てはいけない現象なのだ。

 

 

 

 

 

「我が名は『ガブリエル・デックス』——。司るは『四元素』の『水』——。堕ちたこの身に持つのは強大すぎる力を持って、お前の相手をしよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故なら、『魔女』の力という者は『女性』にしか宿らない——。

 

 

 

 ——『男性』であるガブリエルが、その身に『魔女』の力を宿すわけがないのだから。



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第13節 〜狂気に魅入る〜

「ガブリエル……どうして貴方が『魔女』の力を……!?」

 

「ラファエルだって『魔女』になって『風』の力を得ている。妹ができて、兄ができない訳がないだろう」

 

「『風』……? 『治癒』や『回復』ではなく……? いえ、それより……」

 

 何故ラファエルが『魔女』だということを知っているのか、それがソヤにとって気掛かりでしょうがなかった。

 

 ラファエルは『回復魔法』を確かに会得しており、その能力の利便性からSIDでも割と重宝されている。何せ医療設備もないのに人の傷口を後遺症もなく完治させるほど高性能な物だ。実際、半年ほど前にあった『OS事件』ではラファエルの魔力を宿した『治癒石』がなければ全滅もあり得たほどに。

 

 しかし、その能力はラファエル自身、一度だってサモントンに伝えた事はない。『魔女』という力の概念を知ったラファエルは、今までの価値観を覆して自分なりの答えを見つけ、自分なりの考えを持って新豊州に来る事を選んだ。その意思にデックスは一切絡んでいないはずなのに、どうしてガブリエルがラファエルの『魔女』としての力を知るのか——。

 

 そして、それ以上に疑問なのは、どうして『男性』であるはずのガブリエルが『女性』にしか宿らない『魔女』の力を持っているのか——。

 

 その真意を探ろうにも魔法由来の『水』の力で、周囲全ての匂いは薄まっており、ソヤの『共感覚』は無力化されている。心理的な問いかけをしても、能力ありきな所があるソヤにとっては真偽の判別ができないのだ。

 

「しかし先ほどから『四元素』だの『水』や『風』だの……。まるで他のデックスも宿してると言いたげですわね」

 

 だからといって、それで諦めるソヤではない。複雑な心境変化を猟犬の様に嗅ぎ取れないというのなら、単純な質問をすればいいだけのこと。つまりは『はい』か『いいえ』で答えられるようにすればいいのだ。もちろん、素直な答えが返ってくるとはソヤは思っていない。

 

 

 

 

 

 そう。思っていなかったのに————。

 

 

 

 

 

「——宿してると言ったら?」

 

「…………ご冗談を」

 

 

 

 

 

 思わぬ返答にソヤは動揺してしまう。『共感覚』で相手の心意を探れないことが、ここまで不安を助長させるとは思っていなかったソヤは「今後はメンタルトレーニングも取り入れてみますか」と思いながら、ガブリエルの言葉をどこまで捉えるべきか思考を巡らす。

 

「……本当だとしたら他のデックス……少なくともミカエルさんとウリエルさんも……名の通りでしょうか?」

 

 これも肯定するというのなら『デックス』という物は、自分達が想像するよりも表沙汰にしてない後ろ暗い部分が多くあることにある。

 スカイホテル事件で『黄金バタフライ』を密入していたことを初め、猫丸電気街でエルガノが起こした『門』の後ろ盾となっていたこと、そして『宗教信仰』『貴族主義』を掲げておきながら、それを唱えるデックス自身は『魔女』の力を蓄えているということを。

 

「その通り、だと言ったら?」

 

 そして、それさえもガブリエルは認めた。どこまでが本当かはソヤには計り知れないが、それも事実というのなら『四天使』の名を持つデックスは皆『四元素』の対応した属性を持つ『魔女』としての能力を持つ事になる。

 

 

 

 固体的の象徴であり支柱である『土』——。対応する天使は『ウリエル』——。

 流動性の象徴であり支柱である『水』——。対応する天使は『ガブリエル』——。

 揮発性の象徴であり支えである『風』——。対応する天使は『ラファエル』——。

 

 

 

 そして、上記の3元素よりずっと微細で希薄な元素で、自然な状態では、すべての元素の上に位置する絶対的な概念。3つの元素の象徴にして支柱、その特殊性から『第五元素』である『エーテル』の流体として実態の観念に対応する『火』——。対応する天使は『ミカエル』——。

 

 

 

 ありえない。あり得てたまるかと、ソヤは思ってしまう。何せこの中でラファエルを除く3人は『男性』であり、『魔女』の力に適合する前提がないからだ。いくらミカエルが中性的なことは知れ渡っているとはいえ『魔女』のルールを覆すことはできない。

 

 だというのに、残る3人はそのルールを覆す例外となっている。三者三様で見た目や思考に共通点は少ない。あるとしても『貴族主義』ぐらいな物で、そんなのが『魔女』の根底を覆されたら溜まった物じゃない。

 

『魔女』の成れの果てこそが『ドール』なのだから——。

 あの単純にして明快な脅威が、増殖されたら溜まった物ではない。そんな簡単な基準で『魔女』が、『ドール』が増えるなんて聞いたことが——。

 

 

 

「…………あっ」

 

 

 

 そこでソヤは気づく。気づいてはしまってはいけない事だと直感しておきながら、思考を止める事なく更に深く堀り続ける。

 

 

 

 では——何故『OS事件』でのドールの亜種である『マーメイド』があそこまで増殖しているのだ。音声データで子供を産んでいる話はあったが、そもそも人体は複数個体を埋めるほど頑強でかつ繁殖性の高い生物ではない。一年に一回、そして一人を産むのが基本的な生体となっている以上、数年足らずであそこまで増殖する事は不可能といっていい。

 

 ならば答えは自ずと一つ。あの施設にいた『マーメイド』は、その殆どが当時いた女性達が変質したのだと。そんな答えは最初から知っていた、音声データでもそうであると記録されているのだから。だからこそ、ある事実に気づいたソヤにとって、その答えは余りにも冒涜的過ぎると思ったのだ。

 

 何故なら、そこにいた女性達はソヤ、エミリオ、バイジュウ……果てにはラファエルや、そのイレギュラーであるガブリエルよりも明確に『普通』である人間なのだ。

 そんな『普通』である女性達が、何故『魔女』になれた? その果てに『マーメイド』という冒涜的な姿に変貌したとはいえ、ソヤ達も遥かに平凡な人達が『魔女』になる才覚だけは恵まれていたというのか? あそこにいた女性職員達のほとんどが?

 

 そんなわけがない————。

 

 だとすれば——。『魔女』というものに至るには、もっと根本的に違う『何か』が前提にあるというのか、とソヤは勘繰ってしまう。

 

 

 

 それこそ、自分達が先入観から信じ込んでいる『女性だけが魔女になる』という根底を覆す『何か』が————。

 

 

 

「さあ、お話もここまでだ。君の能力である『共感覚』は知っている。匂いであらゆる人間あるいは物体が宿す『感情』を読み取る……その匂いは攻撃するという『敵意』や『悪意』さえも嗅ぎ分ける優れものだが、同時にそれが君の弱点となる」

 

 

 

 匂いはすべて『水』に溶けて消えていく。『水』の虚像がガブリエルを包み込み、彼の居場所を曖昧にしていく。『水』が周囲を流れ、彼の足音さえも掻き消していく。

 

 

 

 ——そして、その環境下で行われる攻撃はただ一つ。

 

 

 

「がっ…………!!」

 

 

 

 単純にして強力な『遠距離攻撃』だ。第一射となるガブリエルの弓矢は、確実にソヤの機動力を削ぐために脹脛へと正確に射抜いた。

 

 同時に襲いかかる謎の目眩と冷たさ。ソヤの疑問はすぐに解消され、その原因は放たれた『矢』に問題があった。

 

 

 

「鋭利な『氷』……『氷柱』!? 『水』を凝固して放ったというのですか……!?」

 

 

 

 脹脛——それも血管が詰まった部分へと正確な射撃。それは固定化された『氷』を『矢』とし、血液の中に『水』へと溶ける事で血液濃度を薄くして徐々に弱らせる堅実で悪辣なスタイル。ソヤの持つ強みを根こそぎ潰していく。

 

 

 

「殺しはしない。傷つけるのも極力しないよう心がけよう。私は優しいからね。だから優しく嬲って無力化してあげるよ」

 

 

 

 それは視界、嗅覚、聴覚が共に使い物にならない絶体絶命の戦い。手元にある『治癒石』は合計3つ。しかも『治癒石』が治せるのは外傷や体調不良から来る頭痛、倦怠感の解消だけで、血液濃度を治療する事は一切できない。それは『OS事件』でエミリオが証明した事だ。

 

 これこそが生命の源である『水』の力——。

『水』は時にして、全てを呑み込み命を解かしつくす。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「なんで攻撃が全て当たらないの……!? 私の『量子弾幕』さえも……」

 

「私はお前とは戦う気はない。時間稼ぎさえできればいいからな」

 

 

 

 ——その頃、バイジュウとセラエノの戦闘は続いていた。だが、実際の内容を見てしまえば、それは戦闘と言えるほど苛烈ではなくお遊びに等しい惨状だった。

 

 何故ならバイジュウの攻撃は悉く当たらなかったのだ。別にセラエノが避けたわけでも、バイジュウが攻撃を外したわけでもない。『攻撃』そのものが、独りでに『逸れた』だけなのだ。

 

 斬撃もセラエノは瞬き一つの動揺さえ見せずに逸れて、バイジュウの能力である『量子弾幕』も数百と放ったのにも関わらず、その全ては例外なくセラエノのすぐ側を逸れたのだ。

 

 見えない何かに阻まれたとか、そういう次元の話じゃない。世界が、ルールが、セラエノに干渉することを拒んでいるのだ。バイジュウの意思や行動など微塵も介せず、世界のルールが『意思』を持つように拒んでいるのだ。

 

 

 

「……それはそれとして興味深い能力だ。完全に独立した理論で生み出されたエネルギー……。しかし所詮は『地球と人間のルール』に縛られた力だ。それでは私に届く事は絶対にない」

 

「やってみなくては——」

 

「避けろよ。今度は『エーテル』が『炸裂』する」

 

「エーテル……ッ!?」

 

 

 

 

 

 ——瞬間、『何もない空間』から閃光を放った。一秒にも満たないどころか、そういう次元の話ではない。明らかに『光』を超えた速度で『何か』がバイジュウに襲いかかってきたのだ。

 

 

 

 

「ぁぁあああああああ!!?!?」

 

 その『衝撃』はバイジュウの身体中を貫いた。想像を絶する『衝撃』は『死ぬ』とか『生きる』とか、そういう『痛み』や『威力』の次元じゃない。『熱い』とか『冷たい』とかでもない。そもそも『現象』さえも怪しい正体不明の何かが炸裂した。

 

 

 

 ——これが『エーテル』なのかと、漠然とバイジュウは認識する中、その『衝撃』をどうにか『情報』として『認識』しないと、頭が狂いそうになる焦りと不安を覚えながら思考を整理する。

 

 

 

 人間が人間である限り説明不可能な『衝撃』——。『何もない』はずなのに『衝撃』を起こす『現象』——。そしてそれはバイジュウが認識する限り、最も近いのが『光』という『情報』になって襲いかかってきた。

 

 

 

 それに最も近しい『情報』を持つ『現象』の名は——。

 

 

 

「その力……明らかに人の身には過ぎてる……! 『異質物武器』の度も超えてる……!! いや、XK級異質物でもこんな火力を瞬間的に『無』から生み出すのはできない……! まるで『太陽』が瞬間的に生み出される『衝撃』なんて……!!」

 

 

 

 それは『知識』が持つバイジュウだからこそ、唯一表現できる信じ違い物だった。

 

 

 

 

 

「『ビックバン』……ッ!! 存在するかも怪しいヨクトの世界の更に先……そんな小さなサイズで『ビックバン』という現象が起きたとしか思えない……っ!!」

 

 

 

 

 

 それこそがバイジュウを襲った『衝撃』に最も近い表現だった。だが『情報』を整理して『理解』したとはいえ、叩きつけられた情報量自体は桁違いにも程がある。

 

 もうバイジュウには指先一つ動かすことさえできないほどに感覚が麻痺していた。

 

「……っ!? 『瞬き』すると『左人差し指』が動く……!? 『親指』を動かすと『鼻息』が漏れる……っ!?」

 

 ——違う、麻痺してるんじゃない。『混乱』しているのだ。少しばかり『狂って』しまっているのだ。

 辛うじて発声機能だけは正常だが、それ以外が全て身体への命令をチグハグにしてバイジュウの動きを制限してしまう。

 

「これで無力化したな。さて、時間が来るまで私と話してくれないか? 飲み物を渡せないのは心苦しくはあるらしいが、まあ私には関係ないことだ」

 

 そう言ってセラエノは口付けでもするかのように、乱暴ながらも丁寧な手付きでバイジュウの下顎を持ち上げて視線を交じ合わせた。

 

 その瞳に、バイジュウは既視感を覚えた。その既視感は忘れようもない。南極の深海や『OS事件』の映像データの際に見た『巨大なサンゴ礁』や『不透明なクラゲ』みたいな『目玉』と似ているのだ。

 

 虹彩なんてまるで違うはずなのに漂う雰囲気で、セラエノ自身の『魂』の在り方で理解してしまった。

 

 

 

 ——人の形をした『何か』であると。

 ——その『何か』は、あの『目玉』と同じ存在であると。

 

 

 

「お前の『瞳』……私はよく知っている。完全にではないが『魅入られてる』いるな」

 

「私の『瞳』……? 魅入られてる……っ?」

 

 

 

 いったい何に魅入られているのか。バイジュウの『瞳』は——。

 

 

 

『瞳』——。

 そして『目玉』——。

 

 

 

 その二つから連想される記憶をバイジュウは思い出す。南極から救助されてから数日後、マリルから言われたある『情報』を——。

 

 

 

 …………

 ……

 

《失礼する。入院生活はどうかな?》

 

《珍しいですね、マリルさん自身が来るなんて。何か御用でしょうか?》

 

《あぁ、三つほどな。まずは長引く入院生活を紛らわせる文庫本をいくつか持ってきた》

 

《ありがとうございます。他の二つは?》

 

《悪い情報と大事な情報だ。どちらがいい?》

 

《……悪い情報で》

 

《……君の親友、ミルクが残した腕時計についてなんだが……。残念ながら完全な『修理』することはできなかった。何せ19年前の自動式だからな。『七年戦争』の影響もあって、予備パーツがない……。一応は機能する様に代用品で足りない部分は補ってはいる。これは君に返しておこう》

 

《……預かるだけです。私が預かるだけです……》

 

《……そうだな。君に預けておこう》

 

《……それに音声データだけでも残っていれば大丈夫です。それだけでも……本当に…………十分ですから……。腕時計の形が保てるだけ幸いです》

 

《……それなら良かった。ここからが大事な情報についてだ。心して聞いてほしい》

 

《……はい。お願いします》

 

《実はだな———》

 

 ……

 …………

 

 

 

 そこでマリルから聞いた情報をバイジュウは脳裏に一言一句浮かべる。

 

 マリル自身は『アレ』と呼称していたが、その『目玉』は『何かの原因』で安定を保つ事ができなくなって、バイジュウと『共鳴』する事で南極基地で事件が起きたと言っていた。

 

 そう、『共鳴』したのだ。バイジュウが眠っていた青い培養液を通して、バイジュウと『目玉』は共鳴していたとマリルは言っていた。

 

 だけど『共鳴』するには繋がるための道があり、人はそれを切っ掛けや『原因』と呼ぶ。

 だとすれば『目玉』と『共鳴』する『原因』が、バイジュウに『目玉』が目を合わせた時にあったのだ。バイジュウでも認識できないほど『何かしら』の繋がりという物が。

 

 

 それがセラエノの言う『魅入られる』ということなら——。

 

 バイジュウは未だに『目玉』との『共鳴』は置いとくとして、その原因となった繋がりはまだ残っているということになる——。

 

 

 

「これは…………アイツだな。侵略戦争で絶滅したと思っていたが……生き残っているのだ。少女に寄生してでも生き残りたいほどに……」

 

「な、何を言ってるの……」

 

「お前の主人は『古のもの』だ。…………なるほど、だから『量子弾幕』というものをお前は持っているのか。失われた技術……その全てをお前に託すことで、自身の生存をもう一度というところか……」

 

 

 

 意味が分からなかった。突如として告げられた『古のもの』という単語に該当する物が、バイジュウの知識のどこにもなかったのだから。

 

 なんだ、なんだその名前は——。

 バイジュウの理解が追いつかないまま、セラエノの言葉は続く。

 

 

 

「お前は観察対象として随分良いな。……その体質は生まれつきか。体温変化が極端に起きていない。となると、どこまでが適応できるのか……」

 

「なっ……なぜ、そのことまで……?」

 

「お前、海に潜ったことはあるか? どこまでの深度にいった? どんな条件下だった? ……もし可能性があるならば、お前は特定の条件さえ満たせば『宇宙空間』で生存が許される希少な人類ということだ。正真正銘『進化した人類』ということだ。人間はここまで成長していたとはな……観測者として、これほど喜ばしい事はない」

 

 

 

 バイジュウには一言一句すべてが理解し難い事だらけだった。突然過ぎる自分が持つ能力の看破。能力が発展した場合の推測など、何故か一目見ただけでセラエノはバイジュウの事を知り尽くしたのだ。

 

 なんだ、なんだこの子——。

 バイジュウが理解するよりも早く、セラエノは次々と新たな疑問を突きつけていく。

 

 

 

「…………ん? 待てよ、まだいるな。『何か』がお前を形成している……。これはいったい…………?」

 

 そして、セラエノの無表情が固まった——。

 

 それは『虚無』とも言えるような、影さえ差さず、瞳孔さえも揺らめかないほど固まった物だ。余りにも『人間』どころか『生命』さえも感じない表情に、バイジュウは生まれて始めて『冷たい』と感じる悪寒が身を凍らせた。

 

「……この瞳……見たことはあるが…………ありえるのか? ただの人間が『外宇宙』の存在に並びうることなんて……」

 

 

 

 独り言をブツブツ言いながら、セラエノの表情は少しずつ『生気』を帯びていく。張り付いた無表情は本当に少しずつ、少しずつ頬を歪ませていき———-。

 

 

 

「ふふふ……興味深いな。覚えたぞ……お前を新たに形成した『古のもの』以外の『何か』が……」

 

 

 

 笑ったのだ——。今までの無表情から一転して笑ったのだ——。

 

 初めてながらも、狂気極まる笑みをぎこちなく浮かべてセラエノは静かに告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——『レンちゃん』か」



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第14節 〜汝、皇帝の神威を見よ〜

第四章の最終回である第19節まで書き終えたので、今日から最終話まで毎日更新となります。


 ————ゾクッ。

 

 

 

 ヴェルサイユ宮殿内を一人で進む中、突如として俺の背筋に悪寒が奔った。心臓が鷲掴みにされたような不快感が襲いかかり、誰かいるのかという緊張感共々生唾を呑んで自分の心境を落ち着かせる。

 

「…………誰もいないよな?」

 

 前方への注意は向けながらも、背後を振り返って見てみるが予想通り誰もいない。バイジュウとソヤには合流できず、ここまで歩いてきたヴェルサイユ宮殿内に飾られた壺や油絵が広がっているだけ。何も変化など起きておらず、誰かがいた痕跡なんて影さえ見当たらない。

 

 

 

 ——だけど、この感覚は勘違いなんかじゃない。

 

 

 

 俺は今度こそ溜まった手汗を拭いながら思考へと耽る。

 

 だって、さっきの感覚は忘れようにも忘れられない『ある感覚』と似ているのだ。それは『星尘』や『ヨグ=ソトース』が纏っていた雰囲気と同じもの……あえて単語で表すなら『宇宙的恐怖』というべきか……とにかく、人の感性ではその全貌を言い表せない感覚だ。

 

 誰だ? 誰が一体この感覚を発しているんだ——。と改めて周囲を見回しても、やはり誰もいるはずがない。

 

「……気のせい、か」

 

 なわけない。そうでも言って自分に言い聞かせないと前に進めないだけだ。俺は自分の不安を誤魔化しながらも歩き続け、何とかして悪寒から抜け出せないかと試みるが、一向にあの感覚は付き纏い続ける。

 

 だけど、歩き続けて分かったことが一つある。この『宇宙的恐怖』には……『ヨグ=ソトース』みたいな『敵意』はない。かといって『星尘』みたいな『好意』もない。ただただ観察し続ける『傍観』という意思の方が強く感じた。

 

 …………どうやら手を出す気はないようだ。肩に重みを感じる気配は祓うことはできないが、俺に害を成そうとしないのが分かれば十分だ。早く二人と合流するためにも、こんな恐怖は他所にして歩き続けるしかない。

 

 

 

 歩いて……歩いて……歩き続けて…………。

 

 

 

 やがて俺は一つの開放感と幻想感溢れる広間に出た。

 

 

 

 そこはヴェルサイユ宮殿において、恐らく最も有名であろう『鏡の間』と呼ばれる場所だ。頭上を見上げればシャンデリアが眩き、どこかの画家が描いた戦争の天井画が見える。

 横に視線を向ければ、回廊の始まりから終わりまで続く黄金細工の燭台と、俺の身長よりも4倍近く高い鏡が立ち並ぶ。

 

 

 

 ……その回廊の果て、つまりは75m先——。

 

 ——-そこに『アイツ』はいた。

 

 

 

「……よう、半年ぶりだな、レン」

 

「アレン……」

 

 

 

 俺の目の前にアレンが一人で立つ。それを見て直感的に俺は理解した。ソヤもバイジュウも、きっとアレンが寄越した刺客であるガブリエルと誰か……恐らくはセラエノの二人に阻まれて分断されているということに。

 

「さて……話し合っても無駄なことくらいは分かるよな?」

 

「当然だ。俺とお前は追い、追われる者。どうして『異質物』を強奪したかなんて聞く気はない。聞くとしても捕らえた後でもいいだろう」

 

「前回は失敗したのに随分強気だな。その分、強くなったってことか?」

 

 それに対して言葉で返す必要はない。俺は手を翳して、自分の内に眠る『魂』を呼び覚ますように意識を集中させる。

 

 イメージするのは、あの日起こした『無銘』の一刀——。無限にして夢幻の刃——。

 あの日『ヨグ・ソトース』を退けるために、ギンと協力して手にした赤くて、紅くて、赫い刀身を細かく思い浮かべる。

 

 

 

 ——だが、あれはギンと一緒だったからこそ起こせた奇跡だ。

 ——ギンがいない中、俺にあの『刀』を手にできるのか。

 

 

 

 …………それが、できるんだなぁ。

 だって今の俺には——。

 

 

 

 …………

 ……

 

《ギン……。もうすぐ私はあなたの顔も声も魂も聞こえなくなります……。だけど決して消えたりしてない。ずっと、ずっっと……レンちゃんの『魂』の中に溶けて、レンちゃんの武器に……力になって貴方を支えるから……》

 

 ……

 …………

 

 

 

 あの時救い出した『霧吟』の残滓が居続けている。彼女が俺に力を貸してくれる限り、あの日に手にした奇跡は————。

 

 

 

 もう一度、この手に幻出し、現出する——。

 

 

 

「ほぉ……。『魂』を形にする力をコントロールできるようになったか……」

 

 アレンの驚いた声と共に、俺の手に赤く煌めく刀が収まる。俺の血脈と連動するように、刀に宿る『魂』も脈を打つ。

 まさに『心剣一体』だ。刀が砕ければ俺も砕けるし、俺が傷つけば刀も傷つく。あの日起こした奇跡は、夢でも幻でもなく、確かな現実として、俺の力となって現れたのだ。

 

 ……別にこれが初めてじゃない。この刀をぶっつけ本番で試すほど、俺は度胸もなければ勝負強くもない。これはあの日からギンと一緒に訓練することで、やっとの思いで再現した物だ。

 

 霧吟の残した言葉を信じて、ギンが本当に献身的になって訓練した末の賜物。故にこの刀には、エミリオの『アズライール』や、ヴィラの『重打タービン』の様に、SIDで登録された正式な名称がある。

 

 

 

 

 

 刀の名は『流星丸』——。

 ギンが命名した物だが、無骨で可愛らしい名であるはずに、不思議としっくりとくる名だ。

 

 

 

 

 

「——秘剣」

 

「……その構え——っ」

 

「逆刃斬ッ!」

 

 そして、霧守神社での訓練の成果も流星丸に宿す。ギンと『魂』を溶かしあった影響で、あの絶技を身につけるコツを会得していた。今日に至るまで何度も何度も訓練を重ねて……ようやく普通の居合切りの領域に達したのだ。

 ギンみたいに『超光速』ではないが、そもそも居合の時点で『高速』か『超高速』のような『音速』の一歩手前をいく速度だ。戦力としては十分すぎるほどの力だし、人間相手に振るう以上は当然『峰打ち』とはいえ、刀の材質が『鋼』なのだから、いくら峰打ちでも、その衝撃はプロ野球選手が金属バットを持ってフルスイングした際の威力にまで匹敵する。斬り殺す可能性をなくしただけで、打撲や骨折などの諸症状に関しては知ったことじゃない。

 

 

 

「届か……ないっ!」

 

「流石にちょっと肝を冷やした……。念のために、こいつを宮殿の地下から持ち出して良かったよ」

 

 

 

 だから殺す気はなかっただけで、手を抜いた覚えなど一切なかった。だというのに俺の居合切りは、アレンが持っていた一つの王笏によって阻まれた。その王笏に、俺は何故か魅入られるように観察してしまう。

 

 太陽を象ったシンボルを冠に戴く黄金色の王笏。信念と執念を纏う威風堂々としたフォルムは、まるで皇帝の神威を見せつけるように輝く。思わず平伏してしまいそうな高貴と光輝溢れる有り様だが、俺はそれを見てどんな感情よりも『懐かしさ』を覚えていた。

 

 

 

 ……あの王笏、どこかで見た覚えがある。いったいどこで見たものなんだ? と。

 

 

 

「『ジーガークランツ』——。ヴェルサイユ宮殿の地下保管庫にあった皇帝の王笏……。見た目はただの王笏だが、実はラファエルが持つ『エメラルド』と同じで魔力が篭った一品でな……魔力を解放すればこんなこともできる」

 

 廊下を一つ、王笏で叩くと閃光が迸った。その閃光は先程俺が『流星丸』を出した時や、スカイホテルでベアトリーチェがラファエルの『エメラルド』を変化させて大剣にした時と似たような物で、魔力を形として現出させる物であり、アレンの空虚だった片手に光は『剣』となって握られる。

 

「『ディクタートル』——。『ジーガークランツ』が『守り』というのなら、こいつは『攻める』ための剣だ。攻防一体の皇帝の力、その神威を見せてやろう」

 

 

 

 ここからが本当の『戦闘』だ——。

 覚悟を改めて、どこから攻めても、攻められようとも対応できるように身構える。剣先にも五感があるように意識を研ぎ澄まし、アレンの挙動は呼吸一つさえ見落とさない。

 

 それはアレンも同じであり、絶妙な距離を取ってこちらの動きを見続ける。右手には『ディクタートル』、左手には『ジーガークランツ』を握りしめて俺を睨む。

 

 

 

 ——間合いは若干遠い。これでは居合の動作に入っても、余計に一呼吸が必要となって、それが隙になってしまう。

 

 ——だけど同時にそれはアレンも同じだ。『ジーガークランツ』だか『ディクタートル』だが何だかは知らないが、どんな威厳に満ちた名を持っても所詮は『王笏』と『剣』だ。間合いは俺と対して差がないなら、相手だって攻め手が見えずに攻撃する気を窺うしかない。

 

 

 

 ジリ、ジリと摺り足で互いの間合いを測り続ける。どちらが最初に攻撃するか、目に見えぬ攻防戦だ。身体の動きを極限にまで最小にして隙をなくし、針の穴よりも小さな隙を見出すために精神を研ぎ澄ます。

 

 

 

 一挙一動、見逃さずに距離を詰め——。

 ほんの一呼吸が揺らいだところで、俺は意を決して間合いを瞬時に詰めた。

 

 

 

「——ッ!」

 

 

 

 隙は一瞬よりも一瞬だ。だけど、それを見逃すほど俺は甘くないし、それを補うほどアレンだって戦闘慣れはしてないだろう。何せ俺なんだから、どこまで行っても気が緩い所はあるに決まってる。そこを突いた絶妙にして絶好の詰め方だ。

 

 現にアレンに一切の予備動作も許さずに距離を詰めた。もう居合い斬りの間合いだ。ここからは一呼吸さえもあれば、王笏や剣諸共に一刀両断することも可能だ。

 

 今度は『斬る』——。目標は武器となる『ジーガークランツ』と『ディクタートル』の二つ。これは峰打ちなんて優しい全力では太刀打ちできない。故に斬る、例えアレンがぶった斬れることになったとしても。

 ……まあ、仮に狙いがズレて手とかの関節部位を切断したとしても、幸いこちらには『治癒石』があるおかげで、処置さえ早ければ後遺症もなく付け直すことも可能だ。エミリオが『OS事件』の際に実例となって証明してくれている。

 その際、死ぬほど痛いことにはなるが、そんな事は後で鑑みればいいだけだ。俺はそこまで非道でもなければ外道でもないからな。治療して貰えるだけ有難いと思って欲しい。

 

 

 

 

 

 獲った——。そう確信していたはずなのに——。

 

 

 

 

 

 ——ガァンッッ!!!

 

 と、王笏一つで居合い斬りを止め切り、金属同士がぶつかり合う衝撃音が響き渡った。

 

 

 

 何故どうして——。という思考から答えを導き出すまでに時間は掛からなかった。

 何故なら、刀と王笏の間——。ラファエルが回復魔法を使う時に緑色の粒子が舞うの同様に、そこには『黄金色の粒子』が刃先が食い込んだ王笏から漏れ出て、これ以上の切断を堰き止めていたからだ。

 

 

 

「王笏とは権威の証——。帝国のため、臣民のため、不退転の覚悟を形にした物。故に敗走は許されない、故に傷つくことは許されない。だからこそ輝きを戴く『勝者の冠(ジーガークランツ)』であり、その勝利を『独裁(ディクタートル)』が証明する」

 

 

 

 アレンは高らかに口上を唄うと『ジーガークランツ』から再び閃光が迸る。『黄金色の粒子』も呼応して蠢き、鎧を纏うようにアレンの周囲を包み込んでいく。一見すれば某願いが叶うボール集める摩訶不思議な作品にあるスーパー何とかと酷似しているが……見た目から漂う威圧感については冗談で済まされはしない。あの『黄金色の粒子』は間違いなく甘く見ていい物ではない。

 

 直感で理解した。あれはゲームとかでよく見る『シールド』とか『フィールド』とか呼ばれるタイプの『防御能力』だ。

 俺程度の攻撃は当然として、恐らく戦車装甲を貫くライフル弾や、ほぼ全ての手榴弾の爆撃を無傷で耐え斬る難攻不落の黄金粒子——。あえて名を付けるなら『黄金守護』と言えばいいだろう。あれはそういう類の物だ。

 

 まずい——。まずい——。

 何がまずいって、状況がまずい。SIDの訓練の一つである戦技教導という座学でSIDのエージェント、エミリオやヴィラ、ギン教官が全員揃って口にしていた。

 

 

 

 ——戦場において最も危機なのは『駆け引き』が無いことだと。

 

 

 

 何故なら、それは——。

 

 

 

「ちょっと痛いのが響くぞっ!」

 

 相手との読み合いがなくなってしまうからだ。先程の『間合い』の取り合いも、互いの実力が見えてないから起こりうる『駆け引き』であり、もしも俺に『黄金守護』に対抗する力がないというのなら、その防御力を活かしてゴリ押しするだけで完封できてしまう。

 

 当たり前だ。戦車で歩兵を潰すのと歩兵同士で銃撃戦をし合う、どちらの方がより確実で安全なのか。基本的には前者に決まっている。だからこそ技術というものは進化し、繁栄していくのだから。

 

 そんなものは、もはや『戦闘』にすら値しない戯れだ。

 

 現に俺は為すすべくもなく、アレンが振るう『ディクタートル』によって腹部を切り裂かれた。

 

「がっ、ぁぁ……ぁぁああっ……!!」

 

 激痛に耐えながらも即座に『治癒石』を口に含んで傷口を塞ぐ。麻酔なしの粗治療的な側面もあり、治療中も痛みは引きはしないが、傷口さえ何とかなれば後は我慢すればいいだけのこと。我慢してれば、いずれは痛みは消えていく。

 

 問題はその先だ。難攻不落の『黄金守護』——。

 手持ちの武器となるのは『流星丸』とSIDの支給品しかなく、打開できる手段はすぐに浮かびはしない。手数を増やすために『魂』を呼び起こそうにも、繋いだことのない『魂』を呼び起こすには相応の時間が掛かる。それをアレンが許すはずもない。

 

 

 

 どうする、どうすればいい——。

 

 

 

「汝、皇帝の神威を見よ——ってな。どうだ、いつか体験した皇帝の力……想像以上に強力だろ?」

 

「いつか体験した……?」

 

「忘れてるのか? ……じゃあ、こうすれば思い出すかなっ!」

 

 

 

 ガンッ! と王笏が地に突いた音が響く。それと共に『ジーガークランツ』から漂い続ける黄金粒子は光と影を一点に収束し、回廊の灯りをすべて暗闇へと塗りつぶした。 

 

 混じり合った一点の光と影はアレンの後方へと威光を示すように爆発した。影と光のコントラストが極限にまで反復的に変化して、視界をこれでもかと刺激する。

 

 まるで目の前に、神聖あるいは邪悪的な存在が降臨を迎えてしまったかのような光景にも見えるが……それ以上に感じたのは『皇帝』だ。

 国という存在に必ずある『光と影』——。それら全てを背負うと覚悟を決めた『皇帝』の姿が重なって見えたのだ。

 

 

 

 ——俺はその様を見て、初めて王笏の正体を思い出した。

 

 

 

 …………

 ……

 

《我は天命を授かりしホーエンツォレルン家の末裔プロセインの女王——》

《ドイツ連邦の主席にして、ドイツ全土を統一する皇帝!》

《そして——第四学園都市の最高元首——》

 

 ……

 …………

 

 

 

 あれは、いつか出会った少女——。

 

『オーガスタ』こと『ウィルヘルミナ・オーガスタ・ルートヴィヒ』が持っていた王笏だ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「無駄な抵抗はよせ。私は人間についてそこまで詳しくないんだ。いくら手加減しても、うっかり殺してしまうかもしれん」

 

「ぁ……ぁっ……!」

 

 一方、その頃——。

 バイジュウは未だにセラエノに翻弄され続け、雪のように白い肌は見るに堪えないほど赤黒く染まって痣となっていた。

 

 鼻の骨が折れて血が溢れ、行動するたびに極小の『ビックバン』現象をセラエノは放つため、眼球の情報も混乱していて色も距離感も正常に認識することができない。度重なる異常な『衝撃』の数々は、ラファエルの『治癒石』など応急手当てにもならずに既に全消費済み。

 

 まさに絶体絶命——。

 これ以上の抵抗は許されないほど、完膚なきにまで叩きのめされていた。

 

 

 

 

 

「っ…………ぐっ……!」

 

『まだ戦うか、ラファエルの力も困った物だな。延命は時には苦痛にしかならないというのに……』

 

 それはソヤも同じことだった。水の反響を利用して、サラウンド感覚で響くガブリエルの声を聞きながら、なすすべもなく回廊にて膝をついて満身創痍な状態だった。『治癒石』で治療済みで見えはしないが、既に関節部には二十を超える氷の矢が襲いかかり、運動神経はガタガタに傷付けられている。

 

 斬撃も爆撃もガブリエル本人に届きはせず、ただ水に映った虚像を弾け飛ばすだけ——。残る『治癒石』は後一つ——。

 

 まさに背水の陣——。

 これ以上の失策は許されないほど、危機に瀕するまで痛めつけられていた。

 

 

 

 

 

「これ以上はやめておけ。本気で戦ったら、人間が私に敵うはずないだろ」

『私は可愛い子が苦痛に顔を歪める姿を見る性癖はないんだ。弓矢を引くのも得意じゃない。互いのために戦うのはやめないか?』

 

 

 

 

 

 両者共々、台詞は違えど降伏を推奨する言葉を告げる。アレンも含め相手に『殺意』はない。ただ強奪した『異質物』を守りきるために、相対する敵を無力化できればいいだけのこと。

 

 降伏さえすれば、諦めてくれさえすれば——。これ以上バイジュウもソヤも傷つかなくて済むのだ。打開する手段が一筋も見出せていないのなら、素直に諦めることが賢明なのだ。

 

 

 

 

 

 だというのに————。

 

 

 

 

 

「嫌だ……と言ったら?」

「クソはケツだけから出してくださります?」

 

 

 

 

 

 両者ともに拒否した。二人とも一歩を踏み出すにも難しい瀕死状態だというのに、不屈の闘志を持って二人は立ち上がって臨戦態勢を取る。

 

 それが何を意味してるのか、セラエノもガブリエルもまだ理解していない。

 

 

 

 

 

「何故攻撃が逸れるのか……その法則を掴みかけてきたので」

「貴方の『水』の攻略法……分かりかけてきましたので」

 

 

 

 

 

 降伏しない理由——。それは反撃への糸口が見出せてからに他ならないからだ。

 セラエノもガブリエルも口を揃えて「何?」と溢す。それに対してバイジュウもソヤも口を揃えて「反撃開始」と高らかに告げる。まるで『皇帝』に反旗を掲げた『奴隷』のような薄汚く笑みを浮かべながら。

 

 

 

 ここからが二人にとっての『戦闘』だった。

『駆け引き』の材料は揃った。後はどうやって相手を出し抜き、その隙を突けるかの勝負。

 

 

 

 退くつもりなど初めからない。

 敗走する気もありはしない。

 

 ただ目的は一つ。

 強奪された『異質物』を取り返す——。

 

 そのために、二人の『魔女』は戦う。

 例え相手が常軌を逸した力を持つ存在だとしても。



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第15節 〜いと高き者〜

『私の能力の攻略法が分かりかけた……そう言ったか?』

 

「ええ、確かに言いましたわ。そのくだらねぇ能力を攻略すると」

 

 ガブリエルの問いに、ソヤは満身創痍な身体のはずなのに挑発する様に自信満々に告げた。それに対してガブリエルは「戯言を」とか一切言わずに真剣に思考に耽る。

 

 どうしてそんな確信が持てるのか——。

 人は本当に絶体絶命の窮地の中では笑うことはできない。例え幻であろうと、何かしらの一筋の希望が見えなければ虚栄を張ることさえできない。故にソヤの態度はガブリエルにとって不安材料となる物なのだ。

 

「〜〜〜〜っ!! さっ……! きほどからぁ! チマチマと一矢ずつ……っ!」

 

 思考は続ける。行動は休めない。正確無比な射撃を持ってソヤの機動力を削ぎながらも、何か見落としがないかとガブリエルはソヤを見る。

 

 観察する限り、ソヤの身体的ダメージは『治癒石』の回復を踏まえても深刻な物だ。先の強がりも気力を振り絞って吐き出した物であり、決して余力を隠し持っているわけでもない。

 

 であればガブリエルの位置をソヤは捉えたのか、それも違う。

 細心の注意を払って、ガブリエルは『水』の能力を微調整して足音も、匂いも、身体もソヤに感じさせない様にさせている。現に『氷の矢』をソヤは着弾するまで一度たりとも目視も予測も成功していない。その点に関しては不手際は確実にないのだ。

 

 

 

 では、どうして自身が持てる——。

 

 

 

「がぁっ!」

 

 

 

 ガブリエルは冷静に思考をしながらも、並行して今度は矢を二つソヤへと放って当てた。今度は脇腹と脛に一矢ずつ。激痛にソヤの表情は歪みながらも、自身に満ちた表情は崩さずに『水』に映ったガブリエルの虚像を切り刻み、その武器の特性を持って爆発させて『水』を弾けさせるが、それはガブリエル本体に当たることはなく無意味に終わる。

 

 もう一振り。さらに一振り。

 虚像に映ったガブリエルと弄ばれながら、ソヤの斬撃爆破は続く。その間にガブリエルは今度は三矢、ソヤの左肩、左肘、左手首を撃ち抜いた。

 

「そこですのっ!」

 

 そして今度はソヤは矢が放たれた方向へと斬撃爆破をするが、やはり虚像が弾け飛ぶだけだ。

 それもそのはず。ガブリエルの射撃は『水』の能力を利用することで『水流』を作り、着弾直前まで四方八方、縦横無尽に動いた末に対象を射抜くのだ。放たれた矢を直線で辿ったところで、実体のガブリエルへと届くことは決してない。

 

 

 

 分からない。

 理解できない。

 予測がつかない。

 

 

 

 ガブリエルは思考を続けながらも四矢を放つ。

 狙ったのはソヤの両踵、両膝裏——。問題なく正確に射抜いた。

 

 

 

「っっ……っ!!」

 

 

 

 それでもソヤの瞳は『諦め』を宿さない。絶対に討ち取るという『覚悟』を持って戦いを続ける。溢れ出る血なんて知ったことかと、闘争心が満ちに満ちた気迫を持って、その手にあるチェーンソーを握り直す。

 

 

 

 ——そこでガブリエルは気づいた。

 ——何故、ソヤの怪我が『治癒』されていないのだと。

 

 

 

「これだけあれば……十分、ですわ……」

 

 

 

 ソヤは不敵に笑う。

 自分に流れ溢れる『血の先』を見つけながら——。

 

 そこでガブリエルは勘づいた。ソヤがなぜ『治癒』を行わないかを。

 

 

 

『お前、わざと『血』を流したのか……? いくら匂いが消せると言っても、流れ続ける血という『線の繋がり』から漂う匂いは完全に消せないことを見透かして……? だけど『水』に流れる血の匂いを辿っても私に辿り着くことはないぞ? それで私の位置を探ろうなんて——』

 

「——なわけねぇですわ。これだから戦闘慣れしてないお高く止まった者は嫌いですの」

 

 

 

 しかしソヤは否定した。ガブリエルの予想を嘲笑うかの様に、乱雑な言葉遣いに丁寧な語尾を付けながら。

 

 

 

「それで分かるのは『線の繋がり』の始まりと終わりまで……。始まりは私で、終わりは不定……。そんなのは確固たる情報としては使えませんわ……確固たる情報としては」

 

『確固たる……!?』

 

「ですが判断材料にはなる……。匂う、匂いますわ……血がどこに流れるかが……ハッキリと……」

 

『だから何だっていうんだっ! お前が言ったとおり、終わりは不定だろう! それで何が『ハッキリ』と分かるというのだっ!』

 

「——私がただ無策に『爆撃』したと思いで?」

 

 そう言われてガブリエルは、意識はソヤに当てながらも、視界を動かして斬撃爆破の先を見た。もしかしたら監視カメラや仲間がいて、何かしらの方法を用いることで別媒体からの情報を得てガブリエルの位置を探ろうとしているのではないかと疑いながら。

 

 だが一目見ても何もない。ただ壁が崩落してるだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。ただ虚しく風が出入りする音が届くだけだ。

 

「『換気』って知ってます? いえ、貴族主義のお高い人間にはそんな事は分かりかねますか。でしたら説明をしましょう、簡潔に。要は室内の『空気』を入れ替えるんですよ。……『爆撃』したことで破壊された回廊の壁が、別の回廊と繋がって空気を入れ替えている……」

 

「そして」とソヤはこれから悪戯を遂行する子供のように笑みを浮かべた。

 

「『空気』である以上『気圧』もある。貴方がこの回廊を『水』で満たしたおかげで、すっかりここは空気が冷えて『低気圧』ですわね。まるで雨が降ってる屋外のように……」

 

『だから……?』

 

「その状態で別の回廊……つまり通常の気圧を持つ回廊と繋いだらどうなるか……。そう……っ! 『気圧差』による『突風』が起こる……っ! 『空気』の流れは急速に循環するっ! 冷蔵庫を開けたら冷気が出る様に……浴槽の蓋を開けると熱気が飛び出す様にっ! それは『血の匂い』も流れに流れ『線』は重なって『面』となり、『面』は合わさって『立体』となるっ! 人はそれを『空間』と呼びますわ!」

 

『だから何だって言うんだっ!! それで私の匂いが分かるわけが——!』

 

「匂いは分かりませんわ。ですが知りたいのは『位置』ですので問題ありませんの」

 

 するとソヤは足先から血を噴き出せながらも振り返る。無限に並ぶ虚像のガブリエルではなく、その先にいる本物のガブリエルへと。

 

 それはハッタリでも妄信でも何でもない。確信を持って幾重にも重なる『水』のカーテンの向こう側にいるガブリエルへと、ソヤは確かに視線を合わせた。

 

「見つけた……っ!! そこに、いますわね……っ!! 『匂い』で……そこにいるのが分かりますわ……っ!!」

 

『馬鹿なっ!? 私の『匂い』は確かに薄めたっ! 可能な限り薄くっ! プロの料理人が切った胡瓜よりも薄くしたっ! 鼻で捉えるのは不可能だというのに『匂い』で私の位置を確かに捉えているっ!?』

 

「ええ、『匂い』で感知しましたわ……。『匂いがない空間』という『匂い』を捉えることで……!!」

 

『……そういうことか……っ!!』

 

 

 

 そこでようやくガブリエルは理解した。いかにしてソヤが自分の居場所を正確に把握したのかと。

 確かに『匂い』でガブリエルの位置を追っていた。だけど、あくまで追っていたのは『ガブリエルの匂い』ではなく『ソヤの血の匂い』だけだ。しかし、これだけでは追えないのは先程ソヤも口にしていた。匂いの『線』を辿ってもガブリエルの位置を捉えるのは不可能だと。

 

 だから捉え方を二次元ではなく三次元にしたのだ。空気を循環させて、自分の血という『匂い』を回廊に充満させるという普通なら自殺行為の方法を使って。

 何せ『匂い』が充満してしまったら、全てが『血の匂い』となって判別が付かなくなるのだ。いくらソヤの『共感覚』が意味を成さない状況とはいえ、何かしら役立つかもしれない自らの嗅覚を潰すことに意味がないのだ。

 

 しかし状況によってはそれこそが最善策となる。それが今なのだ。

 周囲に『水』のカーテンを迷路のように張ることで視覚は不可能。ガブリエルが水を纏うことで『匂い』は薄れて嗅覚も無力となり、音も流水音によって掻き消される。

 

 

 

 そう——。

 ガブリエルの『匂い』はほぼ感知できないほど『薄れて』いるのだ。しかし、それはガブリエル自身が『存在しない』わけではない。『存在する』からこそ『匂いを薄めないといけない』のだ。

 

 

 

『こいつ……『血の匂い』を三次元的に広げることで、無理矢理『血の匂いが薄まるところ』を探したのか……っ! 恐らく成人男性一人分の空間が丸々薄まる『匂い』を……っ!!』

 

「ご明察っ!!」

 

 

 

 血の匂いを充満させて空間を把握したソヤは迷うことなく『水』のカーテンで仕切られた迷宮を駆け、最短距離でガブリエルへと間合いを詰めていく。

 

 その距離は着実に縮まる。30m……25m……少女の見た目から想像もできないほど俊敏に、それこそ獲物を見定めた猫のように鋭敏に接近してくる。

 

 

 

 だが、それで詰められるほどガブリエルは甘くない。

 位置が判明したところで間合いとしては、まだ20m以上はある遠距離状態だ。ソヤのチェーンソーは届かない中、ガブリエルの弓矢は依然として届く。このアドバンテージを活かさないわけがないのだ。

 

 今度は五矢——。四方から一つずつ、そしてもう一つは追撃としてワンテンポ遅れて同じ軌道を描くように調整して放った。

 

 

 

「どこから来るのか予測がつけば、素人の弓矢なんてどうってことないですのっ!!」

 

 

 

 しかし、既に『匂い』は空間を満たしている。矢は『氷』である以上は『水』であり、タイミングと軌道を『流水』を利用しているため、どうしても矢の軌道線は『匂い』を薄くしてしまう。

 いくら軌道が読めない矢が四方八方から襲いかかるとはいえ、その速度自体は普通なものだ。超人的な身体能力を持つソヤからすれば、蠅を叩きつぶす程度の感覚で足を止めることなく弾き返す。当然、追撃の矢も。

 

 

 

 なら——。15mまでソヤが接近したところで、ガブリエルは瞬時に思いついた奇策を実行した。

 

 

 

「っ!? 均一になりましたわ……っ! しかも混じりあって行く……っ! 血と血の『匂い』が……っ!」

 

 

 

 ソヤの嗅覚に突然の変化が襲いかかった。今まで『匂い』が薄くなる部分を探してガブリエルへと接近していたのに、それが突如として周囲と均一の濃度となった『匂い』へと変わったのだ。

 

 同時に『血の匂い』にも変化があった。それは『誰か』の『血の匂い』が混じりあっているのだ。この状況で『血の匂い』を混ぜようと考えるのは一人しかいない。

 

 

 

『ああ。私に纏った『水』を解除した上で『自害』させてもらったよ……っ! 循環しやすいように能力で『水』を『霧』にして混ぜることでね……っ! こりゃ痛い……涙が出るほど痛い……っ! だけど、君が『空間』という三次元的で高密度な情報を『匂い』で把握できるのは、嗅ぎ慣れた自分の『匂い』だからこそ……。私の『血』の匂いを混ぜれば情報処理が追いつかないし、私自身は『水』を纏ってないから薄くもならない……。私も『空間』となったことで、君は本体と空間の『匂い』の見分けがつかなくなったのだ……っ!』

 

 

 

 ガブリエルの予測は寸分の違いもなく的中していた。ガブリエルが自らの血を混ぜたことで、ソヤにはガブリエルの位置を認識できなくなっていた。匂いが戻る前の位置は流石に覚えているが、距離がある中、馬鹿正直にそのままガブリエルが留まるはずがない。その位置情報には何の価値もないのだ。

 

 だがソヤの苦痛混じりの笑みは崩れない。むしろ「そんなことは予測済み」と言いたげに一層笑みを深くして告げる。

 

 

「戦闘慣れしてないはずなのに、大した発想力ですわね……。けど一手……いえ、三手遅いのですわ!」

 

 

 

 途端、ソヤとガブリエルの間の回廊が爆ぜた。ソヤがチェーンソーを振るったことで『屍弾』が射出されて爆発したのだ。

 しかしその射程距離は精々10mであり、爆発範囲も半径5mほどだ。単純計算として15mでは、ガブリエルに爆発の衝撃が届いたとしても、爆発自体が被弾することはない。

 

 

 

「『空間』という三次元で把握できないなら、『線』と『点』という二次元で辿ればいいだけですわ」

 

 

 

 いったい何の意味があるのか、とガブリエルが思考するのと同時にソヤはそう言った。

 その言葉は嘘ではなく、先ほどまで確かにガブリエルの位置を見失っていたソヤは、再度ガブリエルの位置を捉えて真っ直ぐ向かってきたのだ。

 

 

 

『距離が縮まる……! まさか今度は……っ!!』

 

「爆ぜたことで『匂い』はさらに吹き飛ばしましたわっ! 私とあなたの血が入り混じった『匂い』は細菌のように『点』となって無数に……。しかしその中で『線』で繋がる『匂い』が二つ……。一つは私で、もう一つは貴方……もう『匂い』を辿るだけで場所は伝わりますわっ!!」

 

 

 

 つまりソヤは『空間に漂う血』ではなく『身体から流れ続ける血』の『匂い』を追うために、ノイズとなる前者を爆発させることで吹き飛ばしたのだ。

 それで『匂い』が全部吹き飛ぶわけではないが、残ったらソヤが言う通り『点』として漂う上に、爆破の際の火薬の『匂い』が入り混じる。火薬の匂いは当然ガブリエルの物ではないのだから、除外することでより正確にソヤは『匂い』を追うことができるのだ。

 

 

 

 距離は既に5m。

 もう『水』の虚像も、纏う事で『匂い』を薄めるのも無用の至近距離。ソヤのチェーンソーは起動し、小細工など真正面から切り裂こうと大振りで振り下ろした。

 

 ガブリエルも負けじと『水』を障壁を張って阻もうとするが、何も加工もされてない『水』の壁が、純粋な質量による斬撃を止められるはずがない。水を手で掬うと零れ落ちるように、刃も水を難なく裂いてガブリエルへと迫った。

 

 だからこそガブリエルは閃く。

 寄せては引く——。あらゆる物を受け入れ、元に戻る『水』の性質を利用することを。

 

 

 

「——ッ!! 猪口才なっ!」

 

「ふぅ〜〜……! アドリブにしては上手くいったか……っ!」

 

 

 

 至近距離となったことでガブリエルの肉声がソヤの耳に届く。しかし、その二人の間には『透明で厚みのある壁』が突如として出現し、ソヤのチェーンソーの歯を食い込ませて止めたのだ。

 

 その『壁』とは『氷』だ。ガブリエルが弓矢を作ったの同様に、『水』を凝固させて『氷の障壁』を作り出したのだ。切り込んでる最中のチェーンソーを巻き込みながら。

 

 刃どころか持ち手諸共氷漬けにしたことで、ソヤの手さえ動かすことができない。これではソヤも懐から物を取り出すという動作もできないし、その場から大きく動くこともできない。

 

 

 

 万策尽きた——。

 ガブリエルはそう確信した——。

 

 しかしソヤは笑う。彼女も確信して笑う——。

 その程度は読み切っていたと——。

 

 

 

「言いましたよね? 三手遅いと……。こんなこと……既に予測済みなのですわっ!!」

 

 

 

 

 

 ——ギュイイイイイイイイイインンンッッ!!!!!

 

 

 

 

 

 と、ソヤはチェーンソーが無理矢理エンジンを起動させて刃の部分を回転させた。ソヤのチェーンソーは流通してる物とは違い、戦闘用の簡易性を重視するために持ち手の部分を捻ることでエンジンが起動する特殊な機構なのだ。

 

 だが、それで動くはずがない。

 どれだけ特殊な機構とはいえ、使用しているエンジン自体は普通なものだ。回転数自体は変わりはしないし、刃はその全てを凍り付けにされている。虚しくエンジン音が鳴り続けるだけでそれ以上は何も起きないのだ。

 

 それでも回し続けるせいで、エンジンは酷使されて急激に熱が籠り、やがて持ち手となる部分から煙を吐き出し始める。

 

 だからこそ、ソヤは止めはしない。

 待っていたのだ。ソヤからすれば、一番欲しいのはこの『熱』なのだ。

 

 これで『氷』を溶かす——。なんて事は考えていない。こんな熱量では溶けるはずがない。そんなことはとうに分かり切っている。

 

 ソヤが求めてるのは別の部分だ。

『熱』を求めてるのは——ソヤが持つチェーンソー自身へと『ある影響』を及ぼさせるための物なのだ。

 

 

 

 

「そんなことしたら……っ!!」

 

「ええ——『暴走』しますわね。『熱』が籠って……籠りに篭って……チェーンソー内部の『屍弾』は暴発しますわっ!!」

 

 

 

 

 

 ——ソヤが待ち望んでいたのは、チェーンソーの中で機能停止している『屍弾』に熱を灯し、それに伴う暴発だったのだ。

 

 

 

 それは宣言通り暴発した。ソヤの手どころか、身体全て飲み込んでチェーンソーは豪快な爆発と共に氷の壁は砕け散ったのだ。氷の壁は氷塊となって爆風と共に飛び散り、両者を襲う。

 

 

 

 

 

 それは一瞬の出来事だった——。

 頭で処理していては追いつかない奇策中の奇策。普通ならそれだけ勝負が決する一発逆転の特攻——。

 

 

 

 

 

「——危機一髪だった。まさか同士討ちを狙うとは……」

 

 

 

 

 

 ——それをガブリエルは受け切った。

 

 爆風と、それに伴う熱気と氷塊の雨霰——。

 三重の致命傷となる攻撃を『水』の壁を瞬時に張ることで、最低限のダメージで抑え切ったのだ。

 

 爆風は『水』が受けたことで届かず、熱気は『水』によって打ち消され、氷塊は『水』がクッションとなって勢いが殺された。

 

 それでもある程度はガブリエルに傷を負わせたのが、至近距離故の火力だろう。爆風はガブリエルの足を大きく後退させ、熱気はガブリエルの頬を煤のように黒くさせ、氷塊は肌が赤く腫れさせた。

 

 

 

 ——その程度しかなかった。ガブリエルはそんな些細な傷しか負わなかったのだ。ソヤの特攻はほとんど意味をなさなかった。

 

 

 

 ——そして、ソヤはその程度では収まるはずがない。爆発に最も近かったのはソヤなのだから。『水』の壁を貼れないソヤは、その爆発を無力化させる手段を持ってはいない。

 

 

 

 

 

「いったいどこで、いつ……こんな少女がそんな覚悟を持って……」

 

 

 

 

 

 ——間違いなく、ソヤは『直撃』したのだ。

 

 ——爆発も。

 ——熱気も。

 ——氷塊も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「————は?」

 

 

 

 だから、その姿を見た瞬間、ガブリエルは驚愕と恐怖しか抱かなかった。

 

 爆風を裂いて、一心不乱に向かってくる『ソヤらしき人型の姿』を見て、あまりの衝撃に何も考えることができずに呆然とするしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「□□□□□□□□□————ッ!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——『焼死体』がガブリエルの元に走ってきたのだ。確固たる意思を持って、その使命を全うしようと。

 

 

 

 

 

 肌は黒く焦げて、頬も焼き溶けている。目なんか見るに堪えない痛ましさと醜さがあり、発したはずの声も喉が焼かれてマトモに出せない。それは元が少女とは到底思えない物だった。

 

 唯一彼女の特徴があるとすれば、その猫耳のキャップぐらいだろう。しかしそれが逆に異質さを際立たせ、見ようによっては『化け猫』が襲いかかるようにも見えるほど、その姿は気味が悪い。

 

 

 

 

 

 ——ガブリエルは知らなかった。

 ——ラファエルが施した『治癒石』の効能がどこまで効くのかを。それこそが、死に体となっているソヤを突き動かす原動力となっていることを。

 

 

 

 

 

 ラファエルの『治癒石』は、過去にエミリオの手首が切れかかるという重傷を負っても問題なく繋ぎ直せるほどの強力な物だ。

 

 つまりは『死亡』していなければ、例え『致命傷』を何度負おうとも後遺症なく癒す。ラファエルの回復魔法はそれほどであり、同時にそれは守るだけの堅実性だけでなく、攻撃においても『応用性』を見出すことも可能なのだ。

 

 

 

 ——ソヤは今、その口内に『治癒石』を含んでいる。先の駆け引きの最初の段階で、こうなることを予測して既に行っておいたのだ。

 

 

 

 ソヤの肌も、頬も焼け溶けている。それは確かに見るに堪えない怪物に見えるだろう。見た目だけなら、死体が動こうとする奇妙な光景なのだから。

 

 だが『治癒石』を口に含んでいたことで、その火傷は『皮膚』という『外傷』だけで済んでおり、内臓組織や筋肉などには一切のダメージが追っていない。

 

 違う——。正確には現在進行形で『回復』を行っているのだ。

 爆発の衝撃でミキサーのようにグチャグチャに成り掛けた筋肉を、心肺停止寸前にまで弱まった心臓さえも無理矢理に『治療』しながらソヤは前進してきているのだ。

 

 

 

 ——いったい、どれほどの激痛が彼女を蝕んでいるのだろう。そんなことは第三者が想像するのは不可能だろう。何せ『死ぬような』痛みじゃなくて、『死ぬ』痛みなのだから。想像するには余りにも絶する痛みには違いないだろう。

 

 

 

 しかし、ソヤはその程度の痛みなんて『どうでもよかった』のだ。この程度、あの時と比べたら『全然痛くない』と心の片隅で思う。

 

 

 

 だって——。

 

 

 

《ごめんなさい……。最後にもう一度、私は自分の我儘を通しますわ》

 

 

 

 

 

 もっと辛くて————。

 

 

 

 

 

《……何を、企んでいるのです?》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もっと痛くて—————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《もし……もしもレンさんが私を救い出せなかったとしたら……。その時は一緒に逝きましょう…………》

 

《ソヤ……また私を裏切るのですかっ!!?》

 

《憎たらしいほど……愛してますわ。本当に……》

 

《皆さま、今すぐ彼女を……この醜悪な魔女を! 撃ち——》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 愛僧混じりの義母(エルガノ)を、自分諸共殺めたのだから。

 

 その時と比べたら、この程度の傷など些細な物なのだ——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ト…………タァアアアアアアア!!!!」

 

 

 

 握り込んだソヤの拳は、的確にガブリエルの頭部を叩き込んだ。

 

 全身全霊、手加減無しの殴打——。しかもその手の中には、既に使い終わった『治癒石』を握り込むことで、拳の隙間を可能な限り無くして力が伝搬しやすいように。

 

 

 

「あがっ……!? がっ……?」

 

 

 

 ガブリエルがいかに『魔女』の素質はあれど、その身体能力は一般的な成人男性と変わりはしない。ナイフで切られれば傷はできるし、骨が折れたら動かなくなる。

 

 頭部を拳で打たれれば、脳震盪を起こして意識を失うのもまた普通なのだ——。

 

 

 

「こ……かかっ……!」

 

 

 

 呂律が回らないまま、その僅かな隙を突かれてガブリエルは倒れた。

 

 それと共にソヤも力なく倒れ込む。実質上の相打ちだが、ソヤからすればこれは『勝利』でもあり『敗北』でもあった。

 

 

 

「……末恐ろしい男でしたわ。ほとんど戦ったこともないのに……この私をここまで追い詰めるとは……屈辱ですわね……」

 

 

 

 ようやく喉も治り、焼け焦げた皮膚も瘡蓋となるまで回復したところで口に含んでいた『治癒石』の魔力は尽きた。死にはしないほどに治癒はされたが、歩く気力なんて残っていない。これでは別の敵と鉢合わせているであろうレンやバイジュウの元に向かえない。

 

 しかし、このままではまだ終われない。ソヤは這いずりながらも、ガブリエルの懐へと手を伸ばして、その中にある『携帯電話』を手に取って連絡をかけた。

 

 

 

 ——連絡先はデックスの別邸で待機するラファエル達だ。

 

 

 

『……どちら様でしょうか』

 

「私ですわ……治療を……。場所は…………ヴェルサイユ……。目標を…………見つけ……っ」

 

『ソヤ? ……ソヤッ!?』

 

 

 

 そこでソヤの意識は落ちる。

 痛々しい肌とは裏腹に、穏やかな寝息を立てながら——。



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第16節 〜天から落ち、地に倒れ〜

「攻撃が通らない『理由』じゃなくて『法則』と言ったか……。どうやら戯言ではなさそうだな」

 

「ええ、そもそもが間違っていました……。貴方が口にしていた通り『地球と人間のルール』に囚われていましたからね……」

 

 その手にある銃剣『ラプラス』を構えながらバイジュウはセラエノにそう告げる。

 

 それを見てセラエノは『笑った』——。

 誇るような、慈しむような、蔑むような——。人間という存在を見定める事そのものを楽しむように笑ったのだ。

 

「来い。私に見せてみろ」

 

 バイジュウは言葉ではなく行動で答えた。ボロボロな身体を強靭的な精神力で奮起させ、セラエノの眉間を切り裂くように振るった。

 

 既にバイジュウは脳の混乱による部位の誤作動には慣れた。ゲームのキーコンフィグを変え始めたように、少々ぎこちない動きではあるが、セラエノ自身はそう動くことはなく、観察するようにゆっくりと動くだけだ。基本的に高速戦闘となることはないのだから、それだけでもバイジュウにとっては十分戦力となる。

 

 しかし命中する事はない。セラエノが動くこともなく、その腕は自分の意思とは関係なくセラエノの顔から逸れて虚空を裂いた。

 諦めずに続けてバイジュウは『量子弾幕』を数百個と放ち、360°すべてを囲いながら一斉に射出した。『量子弾幕』はその全ての弾が、バイジュウの中で独立した特殊なエネルギー理論によって放たれるものであり、推進力に火薬も使用していなければ、火力に爆薬を用いる事もない。

 

 故に、その攻撃による結果に爆発などは発生せず、鮮明にバイジュウの目に映った。

 

 

 

 それは不可思議以上に不可思議だった——。

 

 

 

 逸れる、逸れる、逸れる——。

 全弾がバイジュウの意思や思考あるいは計算と呼ぶべき物を宿してるはずなのに、その全てがセラエノには当たりはしない。

 

 そして、重密度で放ったからこそ視認した。

 当たっていないのはセラエノだけじゃない。『量子弾幕』同士も当たっていないのだ。

 

 弾と弾同士の計算に間違いはない。途中で運動エネルギーなどが変化する様にバイジュウは施していない以上、弾と弾は確実に『直線』を描く。だというのに、弾はセラエノから明らかに離れた場所であるにも関わらず、互いが互いに干渉するのを逸れたのだ。

 

 

 

 その結果を見て、バイジュウは思う。

 

 

 

 

 

 ——これじゃあ当たらないわけだ、と。

 

 

 

 

 

「おい、さっきから馬鹿の一つ覚え……。失望させる気か? 根暗女」

 

 弾幕の雨を無傷で乗り切ったことが不服なのか、セラエノは失望でもしたように、いつもの無表情を浮かべてバイジュウを見下ろす。

 

 それにバイジュウも何かしら不服な点があったのだろう。見下ろされながらもバイジュウは不満気に目つきを鋭くしつつも、銃剣の握る力を少し解いて世話話をするように言った。

 

「……自己紹介が遅れてました。私はバイジュウといいます。…………根暗じゃないです」

 

「バイジュウ? ……未成年飲酒は良くないぞ?」

 

「だからそれパイチュウ、もしくはパイチョウです! それ2度目ですよ!? あと、これでも生年月日的には30代ですから!」

 

「わかづくりー」とセラエノは淡白に言うと「それで終わりか?」と心底つまらなさそうに告げた。

 

「………今ので確信したんですよ。どういう『法則』で、貴方の世界が成り立っているのかを」

 

 

 

「だから」とバイジュウは前置きし——。

 

 

 

「こうするんです」

 

 

 

 

 

 と、躊躇なく自分の『両眼』をその指で抉った——。

 

 

 

 

 

「————ッッ! ぁぁ……っ!!」

 

 

 

 

 

 血涙が留めどなく溢れてくる。同時に眼球も零れ落ちるが、実の所そこまで深刻な問題ではない。極めて丁寧に取り出したから視神経のダメージは最低限に収めている。だから無事に帰還できればラファエルの回復魔法さえあればどうとでもなるのだ。長時間続いて視神経が腐敗して死滅しない限り、この目は何度でも蘇る。

 

 だとしても人間が得られる情報のほとんどが視覚から来ている。いくら眼球が潰れようが爛れようが、自分から無くすことに意味はない。自殺行為でも余りにも度が過ぎている。

 

 

 

 ——しかし、バイジュウにとって今はその『視覚』が邪魔なのだ。

 

 

 

「それでは何も見えなくなるぞ」

 

「そうでしょうね……。ですが、私だけは違います……。私は五感以外でも外界の情報を得る手段があるんです……」

 

「直感や霊感といった『第六感』に値する物か?」

 

「いいえ……もっと確かな物……。私が持つ『魂を認識する能力』……。それは視覚、嗅覚、味覚、触覚、聴覚が例え腐ろうとも機能する能力です」

 

 すかさずバイジュウは斬撃を放つ。視界が閉じる前と変わらずあり続けるセラエノに向けて、情けも容赦も躊躇もなく確信を持って。

 

 しかし、そこまでなら先ほどと状況は同じ——。

 セラエノを捉えた斬撃は、今まで通りにバイジュウの意思とは関係なく『逸れた』——。

 

 

 

 そこでバイジュウは『視界』を閉じた事で分かる『魂』の流れを感知した————。

 

 ——『世界が重くなった』としか言いようがない情報がセラエノの『魂』から発せられていたのだ。情報過多による過負荷がセラエノを中心に『世界』を蝕んでいく。それが『量子弾幕』が持つエネルギー、性質といった要素を全て変質させて、最終的に『逸れる』という結果へと導く。

 

 

 

 それは『OS事件』でハインリッヒが考案・開発した『フィオーナ・ペリ』が持つ『世界の概念に干渉する』という形で、意図的に『時空位相波動』を起こす武装と似た現象を起こしていたのだ——。

 

 

 

 様々な疑問が募るが、そうであればとバイジュウが打つ手は一つ。なんであれ情報付与による結果を改竄したというのなら、起きた結果にさらに干渉すればいいだけのこと。

 

 

 

 バイジュウが持つ銃剣の名は『ラプラス』——。

 その銃剣が持つ特性とは『斥力』と『引力』を発生させて、この場にいるエネルギーの力場を干渉させるという物——。

 

 

 

 相手が『逸れる』という結果を生み出すというのなら、その結果をさらに再計算して力場を発生させて『量子弾幕』を再操作すればいいだけのこと。

 

 バイジュウは計算を瞬時に終え、セラエノの近くにあるいくつかの『量子弾幕』を力場を操作する事で『横に落とした』——。

 

 

 

「なるほど……冗談ではなさそうだな」

 

 

 

 当たった——。

 バイジュウの『量子弾幕』はセラエノが被るダイヤ柄の紅白帽子を撃ち抜いた——。

 

 初めての、それもぶっつけ本番の計算ということもあって、バイジュウが予測していた弾道は大きくズレて腹部ではなく頭部に向かったが、それでも今までの完全に『逸れる』という結果を覆す事はできた。

 

 

 

 ——あとはセラエノが持つ情報の数値、性質などの諸々を見定め、計算を少しずつ合わせれば勝てる。そうバイジュウは確信した。

 

 

 

「……だが視界を潰すだけなら眼を瞑るだけ十分ではないか?」

 

 撃ち抜かれた際に落ちてしまった帽子の埃を叩き落としながらセラエノは問う。編み下ろしていた橙色の長髪は世界を塗り潰すように解け広がり、目には見えないが一層深くなる彼女の異質感をバイジュウは感じ、思わず口に溜まった血と共に生唾を飲み込んだ。

 

「……眼を瞑るのは、決して『視覚』を失う事じゃない。『瞼の裏』を認識してるだけです。それでは貴方のエーテルを介した攻撃……『ビックバン現象』をまともに受けてしまいますよ。あれは『情報』を叩きつける物だから、視覚だけ封じても防ぐ事はできませんし、視神経はまだ生きてる以上、完全にはいきませんが……威力を軽減させることができる」

 

「そうでしょう?」とバイジュウが言うと、セラエノは帽子を被り、髪を編み込みながらも「そうだな」と認めるのではなく測るように言った。

 

「二十点ってところだ。エーテルの炸裂現象……『プラネットウィスパー』は別に視覚だけじゃない。五感すべてを強制進化させる作用だ。人間にとって麻薬よりも劇薬ではあるがな」

 

「プ、プラネットウィスパー?」

 

「私が命名した。こういう必殺技みたいなのには名前を付けるのが王道なのだろう? ……まあ、それでも人間は『視覚』が情報の八割を占めるというし、単純計算であれば威力は半減以上はしてるだろうな」

 

「とはいっても」とセラエノはその手を翳し、星を模っているはずなのに、不定形のまま変化し続ける杖を出現させた。

 

「『半減』される程度なら、そもそもの火力を『倍増』すればノープロブレムだ。別にあの程度の情報量なんか、空気と一緒でごく自然的にあり触れた物だからな」

 

「なら——!!」

 

 

 

 セラエノが構えると同時に、バイジュウはラプラスの力場変化を利用してオリンピック選手を凌駕する速さで駆けた。

『視覚』は封じられているが、バイジュウには『完全記憶能力』があるおかげで、必要以上に精神力を使うが盲目でも部屋の形や、自分の位置、それに伴う歩幅などによる可変した際の場所などは感覚である程度は把握できる。

 

 

 

 問題は『逸れる』というセラエノの世界にどう干渉するか——。

 ラプラスを利用しても流石に限度がある。手を増やすには、それ以外の方法で攻撃する算段が必要になるのだ。

 

 その答えは単純だった。バイジュウは目の前に転がっているであろう食事処に飾られる横長テーブルや椅子を思い出す。

 

 

 

「であれば……『逸れて』も無駄なほど超高質量をぶつければいいだけのこと——!!」

 

 

 

 銃弾程度の小ささか、斬撃のような線が薄い攻撃が無理なのであれば、大きくて太い攻撃をぶつければ可能性は見出せる。

 

 バイジュウは『量子弾幕』の展開と射出を繰り返しながらも、ラプラスを振るって斥力と引力の力場を乱立させる。その間に空間に干渉すれば、どんな物質であろうと運動エネルギーや地球の重力さえも歪ませ、実質的な無重力状態にも近い状態となる。

 

 

 

「なるほど。知恵を振り絞るな……だが、まだ足りない」

 

「だったら——!!」

 

 

 

 バイジュウの力場と、セラエノの世界——。

 

 それら二つの影響を受けたテーブルや椅子は無重力状態で乱舞する。ホラー映画にある『ポルターガイスト』のように物は上に落ちたり、下に飛んだり、形容し難い怪奇現象のオンパレード。それはもう物がではなく、世界そのものがおかしくなってるような異様さだ。

 

 しかし、それでも足りないというのなら、今度はバイジュウはフロアの『壁』と『柱』の一部を切り裂いた。

 バイジュウには様々な知恵がある。それはどんな分野であろうと関係なく、例えそれが建築業の知識だとしてもバイジュウは会得している。故にどれほどであれば建物が崩壊しないかの線引きを見分ける事はできる。リフォーム業者が躊躇なく壁を破壊し、張り替えるように。

 

 バイジュウは四方を埋める壁の『四つ』と、そのフロアを支える柱の計八本の内である『三本』を切り裂いてセラエノへと叩き落とした。

 

 

 

 だが、それさえもセラエノは逸らしながら避ける。柱は不自然に右や左に移動してセラエノを避ける余裕を生み出し、壁は絶妙なタイミングで襲来し、まるで彼女が歩く先こそが足場であるように踏み出す。

 

 壁は崩落し、柱も折れ、しかし残骸はセラエノの世界とバイジュウの力場が周囲を侵食していくことで、地に着くことなく空中で踊り続ける。

 

 二人の周囲は既に異次元同然の混沌を極めていた。ある意味ではバイジュウは視覚を失っていて正解だったかもしれない。

 こんな世界そのものがズレにズレて、輪郭さえ定まらない異空間と化した物は見えないことが。

 

 

 

「まだまだァー!!」

 

 

 

 バイジュウの手を止めずに猛攻を続ける。一度でも隙を見せて『ビックバン現象』改めて『プラネットウィスパー』を放たれたら、今度こそ再起不能となるダメージを負うからだ。簡単に威力を『倍増』できるのだから、それはきっと十倍にも百倍にも急激に跳ね上げることができるに違いないのだから。

 

 だが、このままではジリ貧だ。

 だけどバイジュウは既にそれも想定内でもある。

 

 

 

 準備は完了した——。

 既にこの空間自体に壁、柱、テーブルから椅子まで全てが空中で乱舞して、着実にバイジュウが真に狙う『目的』への布石となっている。

 

 

 

 機は熟した——。

 瞬間、セラエノの視界からバイジュウが消えた。漂い続ける障害物を身を隠した隙に、セラエノの視線から逃れたのだ。

 

 セラエノはバイジュウやソヤと違って他者を感知するような能力もなければ、レンみたいに危機感もないため焦燥に駆られて突然の閃きなども思いつかない。ただ無人となった先を見つめることしかできない。

 

 

 

 故に思考は常に冷静に——。

 セラエノは可能性を一つずつ潰していく。

 

 

 

 左を見る——。誰もいない。

 右を見る——。姿は見えない。

 後ろを見る——。女は見えない。

 改めて前を見る——。いるはずがない。

 

 

 

「……まさか?」

 

 

 

 前後左右でないとしら、残るは『上』のみ——。

 

 

 

 セラエノは検討がついて上を見上げるが、その思考の冷静さ故の遅さが仇となる。その時には既にバイジュウは行動を終えているのだ。

 

 眼前には既に——。

 

 

 

 

 

「ご存知……シャンデリアですッ!!」

 

 

 

 

 

 絢爛豪華で装飾過多な超大型シャンデリアが、天井さえも巻き込んでセラエノの頭上に叩き落とされた。

 

 フロアの天井は今まで漂わせていたテーブル、椅子、壁、柱、他にも燭台や鏡や銀食器などありとあらゆる物を巻き込んで下敷きにしたのだ。

 

 

 

「ぶっ潰れろォォオオオオ!!」

 

 

 

 ——これこそがバイジュウの真の狙い。

 ——『空間』そのものに『物体』を溜め込んで包囲網を作り、四方八方360°逃げ場なしの状況で、本命である天井落としで回避不可能な一撃を与えること。

 

 相手が圧死する不安はあったが、ヴェルサイユ宮殿の建築材料というか古来よりの建築物は大体が大理石でできている。ピンキリではあるが、そのほとんどは従来通り『柔らかく割れやすい』のが特徴だ。

 そのような材料なら、例え脳天直撃コースであろうとも打ち所さえ悪くなければ、瀕死とまで行かなくても建材の物量で身動きが取ることはできない。

 

 バイジュウからすれば、形はどうあれ拘束できれば良いのだからこれ以上ないほどの成果なのだ。

 対象となるアレンに近しく、謎多き人物であるセラエノを無力化できることは——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ———-そう思っていたのに。

 

 

 

 

 

「う、動かない……っ!?」

 

 

 

 

 

 崩落による粉塵が晴れたところで、バイジュウは違和感に気づいた。

 

 

 

 ——動かない。身体が一ミリたりとも言う事を聞かない。

 ——動かない。周囲に柱や壁が『空中に固定された』状態のまま。

 ——動かない。バイジュウの内蔵器官すべてが停止している。

 

 

 

 ——しかし不思議なことに意識だけは健在だ。

 バイジュウはその能力故に身体を動かすことなく、自分の背後に誰かがいることに気づいた。

 

 

 

 

 

 そこにいたのは————。

 

 

 

 

 

「私が『時』を止めた——。潰される直前にな……それで脱出した」

 

「やれやれだぜ」と『無傷』で佇むセラエノの姿があった。服に付いた塵や埃をはたき落としながら、セラエノはその身動きできないバイジュウの首筋にある黒髪を撫でた。

 

「トリートメントはしているか? 安心しろ。慈悲で喋ることぐらいはできるようにしてる」

 

「…………何言ってるんですか?」

 

「身動きできない中でこんな事を言われるのは中々に辱めだろう。ここから先、私がその左手を切断してしゃぶろうと、頬を舐めて汗の味を確かめようと、ディ・モールトと叫びながら相手の性的嗜好を探ったとしても…………お前は抗うことはできない」

 

「まあ、私にそんな趣味はないがな」とセラエノが吐き捨てると、バイジュウの黒髪から手を離して話を再開させた。

 

「これは『エーテル』が起こす現象の一端だ。情報を与えて相手の脳をパンクさせるなんて、運搬トラックの積載量を超えたら壊れるのと一緒で当然のことさ。『エーテル』は世界に注ぐ事で、強制的にお前達が言う『時空位相波動』とかいう物を空気のように生み出せる。生み出された時空位相は世界の齟齬となり、お前を『こちらの世界』と『あちらの世界』で挟み込んで動きを時間諸共に止めたのさ」

 

「では……これは『私』ではなく『世界』そのものに与えた末の現象と……!? 貴方は今もこうして動いているのに……!?」

 

「私達にとって『時間』や『空間』や『物体』と言った物は有っても無くても一緒だからな。例え今この場で私が心臓、脳みそを摘出されても、この肉体がスクラップみたいにざっくばらんにされても、時を止めるどころか逆行させて赤ちゃん以前にさせようとも、私は確実に『情報』として存在し続ける。それが時止めの世界でも自由気ままに動ける理由さ」

 

「私…………達?」

 

「ああ。私はプレアデス星団の観測者……俗に言う『宇宙人』とかそんな存在だと思ってくれて結構だ。『セラエノ』なんて名前も、私の識別名称において人間が最も発音しやすいから名乗ってるだけだ。お前達の仲間にいるのも、私と同じでそういう存在だ」

 

 

 

 ——何を言っているのか、バイジュウには理解できなかった。

 

 

 

 自分達の中に、セラエノと同様の存在がいる——? 

 

 

 

「? ……?? ……気づいてないのか? お前達の仲間に、私と同じ『宇宙人』がいることを」

 

「それは……シンチェンやハイイー……それに星之海姉妹の事でしょうか……?」

 

 思い当たる人物の名前をバイジュウは口にする。それに対してセラエノは相変わらず「?」としか言いようのない無表情ながらも疑問に満ちた顔を浮かべながら言った。

 

「シンチェン? ハイイー? …………ともかくあの姉妹か。あんなぐうたらは知らん。マジで知らん。ネットに動画あげとるパリピは知らん。あいつら本当に何やってるんのか……」

 

「で、では……いったい誰が……?」

 

 バイジュウには皆目検討がつかない。なにせバイジュウはもうセラエノの『魂』という、ある種『宇宙人』の在り方を既に知っている。『人間』か『宇宙人』かの違いなんて、『魂』を見比べれば一目瞭然だ。

 

 だが、思い返してもそんなセラエノと似た存在がいたなんて、シンチェン達の他に思い当たる節がない。それ以外の誰かを強いてあげるなら『守護者』という存在であったギンやハインリッヒくらいな物だ。

 

「無理もないか。あいつは『貌がない“故に”千の貌を持つ』存在……人間が口にする『神話』や『属性』に這い寄る事で、その存在を巧妙に擬態……あるいは一体化する奴だからな」

 

「……だとしたら、なんでそいつは私達と共にいるの……? 誰にも気づかれずに行動する以上、理由があるはず……っ!」

 

「動き出した理由は明確には分からんが……。ある日『門』の安息を脅かす存在が出たという情報を私が得てから、あいつは行動を始めた。きっとそれに起因しているだろう。何かしらの心当たりはあるか?」

 

 

 

 

 

『門』の安息を『脅かす存在』——。

 

 それを聞いてバイジュウは戦慄した。何故ならバイジュウ達にとって『門』という存在は切っても切れない縁があるからだ。

 

 それは2037年のクリスマス前のこと——。

 レンがギンと共に『ヨグ=ソトース』という存在を切り裂いたことは記憶に新しいし、それは異形だけに偉業を成した瞬間だった。誰にも手を出せず、ハインリッヒでさえも抗い難い存在を、たった一度とはいえ退いたのだから。ハインリッヒも子供みたいに目を輝かせて「流石は私のマスター……!!」と惜しみない賞賛を送ったほどに。

 

 

 

 しかし、それを成したからこそ『門の安息を脅かした』というのなら——。

 

 あの『門』は再び襲来してきたのだ——。

 恐らく今度は『門』以外の存在を連れて——。

 

 

 

 

 

 それが本当の姿形を知らないまま、バイジュウ達に溶け込む『仲間』の一人としている————。

 

 

 

 

 

「……だ、誰なんですか……。いったい誰が……貴方が口にする『あいつ』なんですか……?」

 

 

 

 

 

 何かが——。

 何かが、着実に来ている——。

 

 這い寄るように狂乱を、混乱を、騒乱を——。

 それらをすべてを入り混ぜた『混沌』を招く存在が——。

 

 

 

 

 

「そいつの名は————」



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第17節 〜唯一抜きん出て並ぶ者なし〜

「それは……オーガスタの……?」

 

 

 

 ——何故あれがここにあるんだ? 

 

 

 

 俺がオーガスタと会ったのは、修学旅行の際『インペリアル・イースター・エッグ』に触れたことによる異世界転移による物だ。

 

 あそこでは、第四学園都市がサモントンではなく『ベルリン』だったり、第一次大戦以前の服装では存在しないはずのオートマチックリボルバーやトランシーバーを用いた通信装置があったりと、こちらの世界とは歴史も文化も差異があった場所には間違いない。

 

 しかも驚くべきことに『ウィルヘルミナ・オーガスタ・ルートヴィヒ』という名前……あの後、一応気になってドイツの歴史を軽く調べてみたら、似たような名前はあっても同姓同名の人物が該当することはなかった。故にタイムスリップという線も薄く、一番可能性が高いのは以前アレンが口にしていた『並行世界』と言ってもいい。

 

 

 

 こちらにはいて、あちらにはいない人名……それこそアレンが言っていた『ラファイル・デッカーズ』と『ラファエル・デックス』のように……。こちらの世界ではオーガスタは過去・現在において『存在しないはずの人物』なんだ。

 

 

 

 だからこそ横繋ぎの世界ではなく、時間という縦繋ぎの世界としてオーガスタの王笏……『ジーガークランツ』が寸分違わぬ姿で存在してるのが気になって仕方がない。

 

 もちろんドイツ皇帝の権威を示す物だから、オーガスタだけが持つ唯一無二の物という確証はないが…………。

 だけど、その王笏から漂う魔力だけは誤魔化しようがない。あの魔力は、俺が異世界に召喚された際に発していたのと同質の物だ。同じDNAが存在しないように、魔力という物も近しい物はあれど完全に同じ物はない……とか何とかハインリッヒが言っていた覚えがある。

 

 

 

「ああ。正真正銘、これはオーガスタの……『ウィルヘルミナ・オーガスタ・ルートヴィヒ』の王笏さ」

 

 

 

 そしてアレンは認めた。その王笏がオーガスタの物であることを。

 

 …………宮殿の地下から持ち出したと言っていたが、どういう理屈で異世界の物を持ち込んだんだ?

 

 

 

 ——いや、今はどうでもいい。そんなことは予測する必要はない。アレンを捕らえて根掘り葉掘り聞き出せばいいこと。

 

 ——だから考えるべきは王笏が『どうやって手に入れた』ではなく、王笏を『どうやって攻略するか』だ。どんなに前者のことを考えたって、俺の戦況的不利には影響するわけがないんだから。

 

 

 

 刀を握り直して呼吸を整える。

 攻略すべきは『黄金守護』による人型機動要塞。

 だけど反撃の糸口が見えない。あの金城鉄壁を打開する策が思いつかない。

 

 

 

「おっと。押し通すわけにはいかない」

 

 

 

 そして戦いは一瞬の連続だ。呑気に思考を許すほどアレンも甘くはなく、その両手に一つずつ握られている『ジーガークランツ』という王笏と『ディクタートル』という細剣を乱舞してこちらを畳み掛けようと白兵戦となる。

 

 幸いにも防御性能が桁外れに硬い以外はそこまででもない。『ディクタートル』の刺突や斬撃は『流星丸』でいなせるし、アレン自身の機動力はギンと比べたら月とスッポンだ。間合いを見誤る事はないし、予測以上に動いても反応できるだけの反射神経が俺にはある。

 

 だが、それは俺がダメージを受けないわけではない。あくまで負傷や体力の消費を最小限に収めてるだけで、アレンは体力に関しては置いとくして、負傷については『黄金守護』のせいで小石をぶつける程度のダメージさえ与えられない。

 

 

 

 ——このままだと完全に押し負ける。

 

 

 

「他人の権威を振り翳して戦うとか……汚いよっ!? 男として恥ずかしくないっ!?」

 

「勝負に汚いも恥ずかしいもあるか。FPSとかで相手が落とした武器を利用するように、使える手立ては全部使うのが当然だろう。んな女々しい事を聞くな」

 

 

 

 何とかして考える時間を稼ぐために挑発もしてみたが、完全に言い負かされた。口勝負でも負けたら、後は何を持って打開策を見出せばいいんだ。

 

 ……というかマジでどうすればいいんだ? 『黄金守護』の防御性能は間違いなく今まで戦ったどんな存在よりも堅牢だ。黄金色だが、厚さ自体は薄くて頼りないオーラであり、一見するとハリボテみたいな存在だ。だが性能だけは折り紙付きで『流星丸』と俺の技量で対処するには余りにも力不足すぎる。

 

 それでも何とかして『黄金守護』を突破しなければならない。そんな窮地に佇む今の俺に思いつく算段はこの三つしかない。

 

 

 

 

 

 ①かっこかわいいのレンが突如反撃のアイディアロールをクリティカルする。

 

 ②仲間が来て助けてくれる。

 

 ③無理ゲー。ばたんきゅー。

 

 

 

 

 

 ……希望的観測に縋るなら②を選択するしかないが、これはどう考えても現実的じゃない。元々俺がここで一人で戦う羽目になったのは、相手の策略によって個人ごとに分断されたからだ。そうなっている以上は期待する方がおかしい。

 

 となると、やっぱり①しかない。あの攻防一体っぷり…………何かしらの隙がどこかにあるはず……。

 

 

 

「大きいの入るぞぉ!!」

 

 

 

 細剣の純粋な殺傷力を気にしていたせいで、打撃武器となる王笏の警戒を怠って俺の腹部へと襲いかかる。腸内が圧迫されて今にも上からも下からも垂れ流しそうな激痛に耐えながら、観察する集中力だけは怠らずに白兵戦を続ける。

 

 だけど、どんなにアレンの攻撃を掻い潜り、動作自体の隙を見つけて斬撃を試みても『黄金守護』に阻まれてしまう。

 何度も何度も続けて、何度も最初から繰り返す。今度は『ディクタートル』の刺突が右肩部を深々へと貫いた。

 

 

 

「っ〜〜!!」

 

 

 

 本当にギンとの訓練でこういう痛みに慣れておいて良かった。痛みのショックで混乱することなく、瞬時に距離をおいて即座に『治癒石』を口にして手当てを始める。負傷した身体をみるみる回復して右肩も腹部も治るが、これで残る『治癒石』は後一つ。ただでさえない余裕が、少しずつ着実に削られていく。

 

 だというのに相変わらず見えない。『黄金守護』を突破する算段が——。

 

 

 

 必ず……必ずどこかに……。

 付け入る隙はあると思いたいのに……っ!

 

 

 

「コナクソぉぉおおおおお!!」

 

 

 

 もうこうなったら玉砕覚悟のヤケクソだ。攻防を交えて隙が見えないなら、攻め一点に転じて攻めに攻め続けるしかない。攻撃は最大の防御ってやつだ。

 

 ……もちろん、そんなことは危険だって分かってる。むしろ一番危険な行為だとも。

 

 だって『黄金守護』の防御性能は桁違いなんだ。その分、纏っているアレンは『防御』という行為に意識を回す必要がない。『攻撃』という行為に意識をすべて回すことができる。

 

 

 

 ——では『攻撃』とは自分から攻め続ける主体的な物ばかりか?

 

 ——それは違う。『攻撃』にも種類があり、中には受動的な攻撃手段もある。

 

 

 

 ——つまりそれは。

 

 

 

 

 

「——この瞬間を待っていたんだっ!」

 

 

 

 

 

 ——『カウンター』という手段だ。

 

 こちらが転じた僅かな挙動を察して、アレンは王笏を逆手に持ち替えて杖部分を突き出すことで打突の構えとなり、俺の攻撃へと合わせてきた。

 

 

 

 やはりまずかった。これは眼球直撃コースは間違いない。

 下手したら目を貫いた際に頭部に達して、脳味噌をシェイクされる危険性さえ孕んでいる完璧なタイミング。

 

 もう俺の攻撃は止まることはない。せめてもの抵抗ができるとしたら、少しでも身体を逸らして負傷を和らげるしかない。例え和らげても致命傷であると分かりきっているのに。

 

 

 

 極限の状態となって、意識がドンドンと鮮明になって研ぎ澄まされていく。自分の『魂』が透明になっていく最中、世界は少しずつ停滞していく。秒針が1分で1秒を刻むように世界はフレーム単位の小刻みに動き続ける。

 

 そんな妙な感覚になって初めて俺は気づいた。『黄金守護』が誇る難攻不落の性能。そこに付け入る隙が確かに存在しているかを。

 

 そして見落としていた。『黄金守護』と今まで名を打っていたが、あのオーラ自体は『ジーガークランツ』を通して出ていることを。それは『ディクタートル』も同様であることを。

 

 

 

 ——そうか。これが『黄金守護』の弱点か。

 ——攻防一体とは即ち攻撃も防御も常に『同じ』ということ。

 

 

 

 これだ。ここを突けばいいんだ——。

 

 けど、分かったところで意味がない。いくら意識が極限状態という名の暴走をしていても、身体自体はそれに伴って高速化することはない。このままではスロー再生のまま打突してくる『ジーガークランツ』の攻撃を受け、鋭い痛みがゆっくりやってくるのは文字通り目に見えている。

 

 

 

 危機感は募りに募る。それに呼応するように世界はさらに遅くなっていき、フレームがフレームを刻むとしか形容できないほどに、世界はドットのようにガクガクと更なる停滞を起こしていく。

 

 

 

 

 

 まるで……時が止まったかのように……。世界が遅く……。

 

 遅く…………止まって—————。

 

 

 

 

 

「えっ——?」

 

 

 

 

 

 ————違う。

 

 

 

 

 

 ————本当に止まっている。

 

 

 

 

 

 ————世界が止まっている。

 

 

 

 

 

 ————『時』が動いてないんだ。

 

 

 

 

 

「……う、動けるっ?」

 

 

 

 

 

 身体全部が錘をつけて海中に溺れているように鈍重ではあるが、完全停止したアレンと違って、俺は全力で動こうと思えばミリ単位で動かすことができる。

 

 意識が加速しすぎて肉体を置き去りにしてるということはない。かと言ってどこぞの黒い白雪姫みたいに、フィジカルがフル・バーストして肉体が悲鳴をあげてるわけでもない。

 

 

 

 何だかよく分からないけど、これはチャンスだ——。

 

 正解は①でも②でも③でもなく、新しくできた④の『運を味方にする』というご都合主義もいいところだが、これはゲームみたいな完成された物語じゃない。偶然というものはどこでも転がっていて、それを掴んで活かす事も戦いだ。

 

 まあ『時間』が止まるなんてことは常識的にありえない事だから、何かしらの外的要因はあるに違いないが……どうであれ、ここを逃す選択肢だけは存在しないのは確かだ。

 

 

 

「——辛うじて避けたっ!?」

 

「っ——! この瞬間を待っていたんだぁああああああ!!!」

 

 

 

 そして『時』は動き出し、世界は刹那に加速する。それは俺とアレンを『時』も元に戻ることも意味する。

 

 鈍重な身体を捻りに捻って少しでも直撃のコースを外したことで、王笏は俺の頬を掠れ、左腕部に丸々と串刺し状態となって突き刺さる。

 

 とんでもない激痛が走るし、骨と絡んでまともに動かすことはできないが…………これでいい。骨と絡んだってことは、同時にそれは王笏の動きを止めたことを意味し、俺の身体に繋がってるということは『ジーガークランツ』が持つ『黄金守護』という規格外のパワーも俺に宿ることを意味する。

 

 

 

「これで……っ!! イーブンだっ!!」

 

 

 

 王笏に貫かれてはいるが、居合いの勢いは収まることはない。一度抜刀した物は、もう勢いのままに狙い澄ました相手を断ち切るために進み続ける。俗に言う『クロスカウンター』状態だ。

 

 以前とした王笏を掴み続けるアレンに回避する算段はない。互いに『黄金守護』を纏った状態では、攻撃も防御も相殺し合って今までの堅牢さは機能しない。『流星丸』の斬撃を防ぐことはできないんだ。

 

 

 

 そう。王笏を掴み続けてる限り——。

 

 

 

「いっ……てぇ!! まさかそこまでしてくる覚悟はあるなんてな……っ!!」

 

 

 

 瞬時に判断してアレンは『ジーガークランツ』から手を離して距離を置いた。対応が早かったのもあって、傷をつけられたのは左手首だけだ。切断はしてないが、あそこまでの深傷なら出血多量で少なくとも動かせはしないだろう。気絶だってありうるほどに。

 

 

 

 ……いや、むしろ気絶してないとおかしいはず。それだけ我慢強いってことか? 俺にしては随分と根性が据わってるな……。

 

 

 

 だけど王笏から手を離すということは、同時に『黄金守護』の恩恵を無くすことを意味し、左腕に突き刺さる王笏が宿す『黄金守護』は俺に纏うことになる。

 

 とは言っても、これはあくまで『皇帝』の防御性能の権威を一つを手にしただけで、同じく『ジーガークランツ』から出て『黄金守護』の攻撃性能を宿している『ディクタートル』についてはアレンが未だにその右手に持っている。

 

 

 

 …………だけど、もう『ディクタートル』が脅威じゃないのは知っている。あの『時』が止まったことで、『黄金守護』が本当に攻防一体の『皇帝』の名に相応しい最強の力を持つことは理解したから。

 

 

 

 つまり古事記とかにある『矛と盾』なんだ。この『ジーガークランツ』と『ディクタートル』という物は。

 

 盾となる存在が『ジーガークランツ』であり、矛となる存在が『ディクタートル』——-。

 

 

 

 では、ここでその『矛と盾』の話を思い出そう。

 

 内容はこうだ。『どんな盾も突き通す矛』と『どんな矛も防ぐ盾』を売っていた男が、客から『その矛でその盾を突いたらどうなるのか』と問われたら返答できなかったという話。

 

 

 

 なら、この『ジーガークランツ』と『ディクタートル』という最強の矛と盾がぶつかったらどうなるか————。

 

 

 

 

 

「レン……」

 

「出しな……。お前の……『ディクタートル』を……」

 

 

 

 

 

 最後の『治癒石』を口に含みながら『ジーガークランツ』を左腕から取り出し、俺とアレンは互いの『皇帝』の権威を構え直す。

 

 互いに左腕は機能しない。小細工なしの右手に持った『皇帝』の権威をぶつけ合うだけ。

 

 

 

 ——ついに矛と盾は交じり合った。

 

 ——互いの意地とか目的とか関係ない。ただどちらの方が強いかを証明するだけの戦い。

 

 

 

 ——その結果は、予測するまでもない。

 

 

 

「『Noblesse oblige』——。いつまでも『皇帝』の権威を『独裁』するのは、高貴なことじゃないぞ」

 

 

 

 最強の盾である『ジーガークランツ』と、最強の矛である『ディクタートル』の鍔迫り合い——。

 

 その結果は両者ともに『破壊』されるという、皇帝の失墜と解放を意味していた。

 

 もう権威も支配もない。だからといって、それで『皇帝』という在り方は変わってしまうのか。それだけが『皇帝』だというのか。

 

 

 

 ——そんなわけがない。

 

 

 

 …………

 ……

 

《あの頃、私が議事堂の中で泣かずに我慢できれば彼女は私の事を守ってくれると約束してくれた。——その人は、ライオネ・フォン・ビスマルク》

 

《だが、ビスマルクは泣きじゃくる私に告げた。人間は死に方に体裁を選ぶ生き物だ。謀事で暗殺されるか、処刑台で首で落ちるか。戦場で命を落とすか、どれも大差はない。大事なのはいかにして死ぬかだ。まだ陛下には分からない事かもしれない。だが陛下の亡き父に兄の意志を成し遂げるために私は最後まで共に争う事を誓う……と》

 

《ヴェルサイユ宮殿で私は戴冠を授かった。そして、彼女も首相から宰相へとなった。だがそれ以降、全てが変わってしまった……》

 

 ……

 …………

 

 

 

 ——『栄光』だけは、この手の中に。

 ——危険を承知で進むが『勝利』の果て。

 

 ——帝国のため。

 ——臣民のため。

 ——不退転の『覚悟』を。

 

 

 

 …………

 ……

 

《でも、今回の事件が巻き起こってさ? 俺を召喚することもできて。少なくとも自身に高い価値がある事を君は証明できたんだろう? それは議会を説得する材料として、もう充分なんじゃないかな——》

 

 ……

 …………

 

 

 

 ——それこそが『皇帝』の神威だ。

 

 

 

 

 

「がっ——!!?」

 

 

 

 

 

『皇帝』の象徴が砕けると同時、俺は即座に構えて呼吸を終えていた『流星丸』を抜刀した。峰打ちの居合いは見事にアレンの横腹部へとクリーンヒットして、剣先の感覚から骨を通して内蔵器官の奥深くまで届いてるのが伝わってくる。

 

 

 

 ——勝負あり。『治癒石』のないアレンにとって、この一撃は致命傷だ。

 

 

 

 トドメの一撃に言葉が浮かぶほど俺に余裕はない。この一撃を持って証明しよう。

 

 

 

 

 

 ——唯一抜きん出て並ぶものなし、と。

 

 

 

 

 



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第18節 〜翼は地に堕ちる〜

「ソヤッ! 聞こえてる!? 要望通り来てやったわよ!」

 

 戦いが終わりソヤの元にラファエル、ウリエル、ヴィラクスの三人が到着した。三人ともラファエルの治療とは別に応急処置用のキットも揃えて来ており、打撲や骨折などの諸症状を患うソヤを看病するために、迅速に添え木とギプスを施していく。

 

 傷だらけで火傷だらけのソヤに対しては、流石のラファエルも普段の天邪鬼な態度は表に出さずに「他に怪我してるところは?」と聞いては、対応する部位に治療魔法を施すのを繰り返すことから、その焦燥がどれほどの物かをソヤは肌身で理解した。

 

 同時にソヤは「この優しさを普段から前面に出してほしいものですわ」と内心思いながらも、何かを聞きたそうに待つウリエルに聞いた。「何か聞きたいことでも?」と。

 

「……バイジュウとレンはどこだい? 匂いで分かるんだろう?」

 

 ウリエルの問いは単純ながら最優先の物であった。ソヤは元々レンとバイジュウの二人と一緒に、逃走したアレン達を追跡するために行動していた。

 

 そして呼ばれて来てみれば、目に入ったのは一人で傷だらけで地に這い尽くばって満身創痍なソヤと、頭部を殴打された事で口を開いて白眼で気絶するガブリエルの姿だけがあったのだ。

 

 ウリエルからすれば現状の把握するだけでも一苦労だというのに、そこにレンとバイジュウがいないのだ。ソヤに一つや二つ聞きたいことはあるのは当然だろう。

 

「知りませんわ……。ご覧の通り私はボロボロでして……。匂いを判断する余裕が………いっ!」

 

 苦しみながらウリエルに報告するソヤの姿を見て、ラファエルは「無茶するんじゃないわよ」と安静を促す。

 実際、ソヤの身体は『治癒石』である程度回復したとはいえ、下手をすればそのまま命を落としかねないほど重症だったのだ。ラファエルが心配するのも当然だろう。

 

「ラファエル姉さん。どれぐらいで治せそう?」

 

「3分もあれば動ける程度にはなるでしょうね。完治なら相応の時間が掛かるわ」

 

「3分……長いね。こうしてる間に二人も危機に瀕してる可能性もある……。ここは手分けして探そうか」

 

「それが賢明ね」とラファエルはウリエルの提案を了承する。片隅で静かに見守っていたヴィラクスも「ウリエル様、どう動きますか?」と指示を仰いだ。

 

「そうだね……。僕とヴィラクスはこのまま進んで、バイジュウやレンを見つけ次第、状況に応じて対応しよう。それまでに見つからず、ソヤの治療を終えたら最初に僕達の匂いを追って合流……再度二人の捜索にしようか」

 

 ウリエルの言葉にラファエルとヴィラクスは頷いた。

 

「……ウリエル様? 早く行きましょう」

 

 指示のまま捜索に行こうとヴィラクスは動き出そうとしたが、肝心のウリエルは一向に動こうとせずに倒れ伏せるガブリエルを見下ろす。

 

 再度ヴィラクスがウリエルに「行きましょう」と催促すると、ウリエルは「その前に野暮用」と言って、ソヤの懐から『ある物』を取り出しながらガブリエルへと話し始めた。

 

「兄さん、裏切ったらダメでしょう? だからこんな目に遭うんだ。事情はよく分からないけど反省してくれよ。はい、プシュー」

 

 気を失い倒れるガブリエルに、ウリエルは悪戯をする様に無邪気な笑みを浮かべながら蔑む。

 ソヤから借りたSIDエージェント御用達の武装である『エアロゲルスプレー』でガブリエルを拘束するように吹き付けながら、心の底から見下すように——、しかし同時に讃えるという混沌した二つの感情が表情にしながら再度告げた。

 

 

 

「『裏切ったら』ダメだよねぇ——。『裏切ったら』——」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「うっし……。これで拘束完了と……っ!」

 

 アレンとの戦いを終えてすぐに、俺は『エアロゲルスプレー』でアレンの四肢を蛹状に包んで抵抗できないように拘束した。こうしてミノムシ状態にしておけば、目覚めたとしても何にもできずにスマートに事情聴取できる。

 

「お前には色々話してもらうからな。『天命の矛』や『並行世界』……それに今回の『魔導書』を強奪した目的とか……」

 

 意識を覚ました時にどういう質問から入ろうと考えながらも、壁に背を置いて、先頭で負った傷の痛みを引かせようと深呼吸を繰り返す。

 

 ……随分と呆気なく勝った、というのが正直な本音だ。

 前回みたいに『天命の矛』を用いた異質物武器を使用してこないし、何よりも『方舟基地』を襲撃した際の超人的な技能を見せてもいない。

 

 やったことと言えば、何処かから持ってきたオーガスタの王笏……『ジーガークランツ』を利用してきたことだけ。しかも、それは逆利用されることで今回のアレンの敗北を招いた。

 

 

 

 ……違和感を抱いて仕方がない。ここまで簡単に終わるはずがないと。

 

 まあ元々が俺なんだし、ここで終わりだとしても、それはそれで納得できなくもないが……いくら俺でももう少し手の入れようがあったはずだ。

 

 だから、まだ予感がする。ここからまだ何かが続くじゃないんかって。よからぬ事が起きる前兆なんじゃないかって。

 

 その前兆を知っているからこそ、アレンはこうして倒れ伏したのではないかと。

 

 

 

 ——そのために、ワザと『負けた』ように感じるほどに。

 

 

 

「レンさ〜〜ん!!」

 

 

 

 不安を抱いて仕方がない俺に、回廊の奥からヴィラクスの声が聞こえて来た。

 彼女がここに来るのは別に不思議じゃない。元々対象を見つけ次第、ラファエル達に連絡を入れて来てもらうように待機してもらってんだから。

 

 となると俺は呼んでないし……バイジュウかソヤのどちらかが呼んだということだろう。同時にそれは、少なくとも片方は重傷かどうかは置いとけば無事ということの裏返しにもなる。

 

「ここにいるぞ〜〜。『魔導書』は無事回収した〜〜」

 

 アレンを拘束する際に、懐に隠してあった『魔導書』は見つけておいた。残念ながら『剛和星晶』については不明のままだが……きっと、それはガブリエルか、もしくはここにいるであろうセラエノのどちらかが持っているに違いない。

 

「無事で良かったです……。って、これがアレンさんですか……。『魔導書』で見たレンちゃんの『記憶』と瓜二つですね。兄妹とかですか?」

 

「兄妹ではないかなぁ」

 

 ほぼ同一人物です。性別と世界線が違うだけの同一人物です。というか『記憶』見たんなら、俺が元々はアレンだって分かるだろうに……。

 

「ところでヴィラクス。他にも誰かと合流しなかった?」

 

「ソヤさんの要請で来ましたので、彼女とガブリエルとは会えたのですが……バイジュウさんだけは見当たらない状態でして……」

 

「……どこかで戦ってる様子もないよなぁ」

 

 耳を澄ましてどこかから戦闘の影響によって響く音がないか探ってみるが、そんな音は一向に聞こえずに風や木々が揺れる環境音しか聞こえないほどに静かだ。

 

 ……もう既に戦闘は終えているということか? だとしたらバイジュウは無事だろうか。そこが気掛かりでしょうがない。

 ヴィラクスの口振りからしてソヤの相手はガブリエルな以上、バイジュウの相手は未知数の塊であるセラエノに違いないのだ。彼女とバイジュウが戦うとしたら……いったいどうなるかなんて想像することもできない。

 

「……いや、もしかしたら案外仲良く話してるだけとか?」

 

 どちらもクール染みてるけど、個性的で何かどこか抜けた部分あるし……。馬が合ってる可能性もあるよな……。戦わずに相手を無力化できるなら、それはそれで結構なことだし。

 

「ヴィラクス〜〜、こっちには誰もいなかったよ〜〜……。って、レンじゃないか。しかも見た感じ……無事に『魔導書』を取り返せた感じ?」

 

「ああ……。傷だらけで、これ以上動くこともできないよ……」

 

「じゃあ、今すぐ治療しようか。ヴィラクスは応急手当の準備を。僕はレンから服を……脱がす必要ないか。露出度高いから、このまま治療できるか」

 

 露出度高いとか言わんでください。カッコいいと思ってるけど、改めて肌面積の多さを言われると気恥ずかしくなる。

 

「それじゃあ治療に邪魔な物を預かるよ。とりあえず、その刀とか砕けた王笏とか……あと『魔導書』もね」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「まさか……。あの人が『宇宙人』……。いえ、その……人智では計り知れない存在だったなんて……」

 

 一方その頃、バイジュウはセラエノから衝撃の事実を突きつけられて固まるしかなかった。

 

 自分の知識には一切ない『宇宙人』に値する超常的な存在が『ある人物』であったことを。

 

 そいつはセラエノから伝えられた通りなら、地球上の歴史において幾度か名を扮して介入したことがあったともいう。しかもその『扮した名前』の一部は、歴史や神話に残る名であり、バイジュウはその事実を知ったことで、胸の中でどうしようもないほど重苦しい『根源的な恐怖』が宿ってしまう。

 

「もし……もしもその話が本当だとしたら……今までの神話や逸話などは……」

 

「もしもじゃなくて確かな話だぞ。知らないならWikipediaとか見ろ。ビバ、インターネット」

 

 バイジュウの胸中なんていざ知らず。セラエノは呑気に言いながら『時止め』を解除してバイジュウを解放した。

 

 もうバイジュウがセラエノに太刀打ちする手段はない。天井も壁も建物が崩壊しない程度とはいえ、壊しに壊したせいでフロア全体は滅茶苦茶になっている。

 

 一歩、前に足を進めるだけで記憶にない瓦礫が当たり、それに躓いたバイジュウは受身も取れずに倒れてしまう。

 

「だとしたら……早く伝えないと……っ! 早くっ、伝えないといけないのに……」

 

 バイジュウは先の戦いで『視覚』を失ったせいで、周囲の状況を測ることはできない。『魂を認識する能力』でセラエノの位置は把握できても、瓦礫が重なるフロアの現状は『記憶』の姿とは違って間合いを把握することはできない。

 

 これではどこにも行くことができない——。

 暗闇の世界は恐怖と不安を駆り立てる。そんな心中を持って手探りで進もうとするバイジュウに、セラエノは何も言わずに持ち上げて一緒に歩き始めた。

 

「人という字は、支え合っているのだろう。肩ぐらいは貸してやるぞ」

 

「……それ最近では否定されてます。どこぞの脱法ドラッグ弁護士みたいに、人という字は自分の二本足で立つから人だと……」

 

「では地球にはこんな諺がある。『昨日の敵は、今日の友』とな。私自身にはお前に敵対する意識はない。元々は時間稼ぎが目的だしな」

 

 肌は冷たくて、言葉も抑揚がなくて感情が薄いのに、バイジュウにはセラエノの好意が温かく感じた。視覚を失っているせいもあってか、肌身で伝わる冷たささえも一種の温かさだと思えてしまうほどに。

 

 バイジュウは確信した。彼女の『魂』は誰よりも純粋で澄んでおり、基本的に無表情ではあるが、その心には確実に人間よりも人間的な優しさがあった。

 

『宇宙人』が人間より人間的とは、どんな冗談なのかとバイジュウは考えてしまうが、同時にバイジュウは知っている。人間の負の側面を。それによってバイジュウの父はガス爆発という誰かが意図的に起こした事故で殺害されたのだ。

 

 そんな卑しい一面を知っているバイジュウからすれば、どうしてもセラエノの優しさは、彼女が最も親しい人であるミルクとは別の魅力というか、知的好奇心を刺激して考えてさせてしまう。

 

 

 

 ——『人間』って何だろう、と。

 

 

 

 歩き続ける中、バイジュウはふと過去の出来事を思い出した。それはバイジュウの父が記していたノートの単語についてだ。

 

 

 

 ——『Ningen』計画I類。

 

 

 

 何故それを今更思い出したかはバイジュウには分からない。

 しかしバイジュウは追憶する。父親は死に際のメッセージにこうも残していた。

 

 

 

《特殊能力を持っているバイジュウは……必ずあの連中の標的になる》

 

 

 

 そこでバイジュウは違和感に気づいた。

 あの『連中』——? あの『組織』ではなく——? と。

 

『連中』ということは、父からしても全貌が掴めていない存在ということ。しかも複数形だ。だというのに『組織』と表記していなかったのは、父からすればその『連中』とは組織ではなく不特定多数だったということか。

 

 だったら、何故不明瞭な表記にした? 父ほどの社会的地位がある人物なら個人名を特定することは不可能ではないはず。その中で最も力を持つ『○○を筆頭に』など人名を挙げてメッセージを残せばよかったのに、何故『連中』という表記なのか。

 

 つまり、父は残した『連中』とはそのどれもが該当しない存在。

 

 

 

 …………

 ……

 

《お前は観察対象として随分良いな。……その体質は生まれつきか。体温変化が極端に起きていない。となると、どこまでが適応できるのか……》

 

《お前、海に潜ったことはあるか? どこまでの深度にいった? どんな条件下だった? ……もし可能性があるならば、お前は特定の条件さえ満たせば『宇宙空間』で生存が許される希少な人類ということだ。正真正銘『進化した人類』ということだ。人間はここまで成長していたとはな……観測者として、これほど喜ばしい事はない》

 

《無理もないか。あいつは『貌がない“故に”千の貌を持つ』存在……人間が口にする『神話』や『属性』に這い寄る事で、その存在を巧妙に擬態……あるいは一体化する奴だからな》

 

《もしもじゃなくて確かな話だぞ。知らないならWikipediaとか見ろ。ビバ、インターネット》

 

 ……

 …………

 

 

 

 セラエノの言葉の節々から、バイジュウの中で推測が組み立てられた。

 

 

 もしかしたら『連中』とは『人類』ではなく『宇宙人』——。

 それも複数の『宇宙人』が歴史の闇の中にいた——。

 

 

 

『複数』の『宇宙人』が前々から活動していた、ということ——。

 

 

 

 バイジュウの中で『根源的恐怖』が根強く芽生える。その感覚は奇しくもレンが『OS事件』で音声データを聞いた際に芽生えた物と似たような物だった。

 

 今までの『歴史』そのものが根底から覆される『恐怖』——。

 

 そして、その『恐怖』は着実にレンの目の前に来ている。それをバイジュウは直感し、一刻も早く伝えなければセラエノと共に足早に歩き続ける。

 

 

 

 やがて大きな回廊に出た事をバイジュウは肌身で感じた。『魂を認識する能力』で、バイジュウは周囲にいる人物を知る。

 

 

 

 そして見つけた。そこにはレンがいる事を。

 同時に戦慄した。既にそこには『アイツ』がいた事を。

 

 

 

 改めてバイジュウは認識した。その能力でそこにいる人物の『魂』の有り様を。

 それはセラエノとは違い、相互理解不可能な人ならざる『魂』があった。博識なバイジュウでさえ、どう表現すればいいのか分からないほどに。

 

 あえて言うなら、それは『邪神』というような、あるいは『堕落した大天使』というような、人を狂わせる魅力があった。

 その『魂』は『心』でもあり、一秒一秒で内包されている感情は様変わりしてバイジュウの認識を混乱させる。

 

 

 

 ——全てを愛してるからこそ愛などなく。

 ——全てを憎んでるからこそ憎しみなどなく。

 ——全てを悲しんでるからこそ悲しみなどなく。

 ——全てを喜んでいるからこそ喜びなどなく。

 ——全てを楽しんでいるからこそ楽しみなどなく。

 

 

 

 全ての感情がその『魂』に『同時』に内包されていた。『混沌』とした恐怖という恐怖を全て蠢かす存在を認識して、バイジュウは膨れ続ける『根源的恐怖』から逃げるように思わず叫んだ。

 

 

 

 

 

「——ダメです、レンさんっ!! その『化物』に……………………ウリエルに『魔導書』を触れさせてはいけませんっ!!」

 

 

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

「えっ? その声はバイジュウ…………」

 

 

 

 回廊の入り口前、バイジュウの声が聞こえて振り返る。

 

 ウリエルに触れさせてはならない——? 『魔導書』を——?

 

 何を意味して言ってるか分からないし、そんな願いは叶うことはない。だってもう既に——。

 

 

 

「もう遅いんだよねぇ……!!」

 

 

 

 ウリエルの手に『魔導書』は触れてしまっている——。

 

 

 

 

 

 すると、突然『魔導書』から禍々しい光が溢れ出し——。

 

 

 

 

 

「うっ……ぁっ……!?」

 

 

 

 光は『持ち主』であるヴィラクスを苦しめるように蝕み始めた。光は手先から蝕み始め、血管が浮き出て根が張るように枝分かれしてヴィラクスの体内を侵していく。それに比例してヴィラクスの呻き声も大きくなり、その声を楽しむように更に光はヴィラクスを蝕み、やがて根は彼女の首筋にまで到達し、腫れ切った膿の様に身体を青黒く染める。

 

 

 

「ヴィラクス……?」

 

 

 

 心配になって声を掛けて彼女に触れようとすると——。

 

 

 

 

 

「——ヴァァァアアアッッッ!!」

 

 

 

 

 

 彼女は獣としか言いようのない絶叫を上げながら悶え苦しんだ。そんな姿を見て、俺は恐怖以上の『何か』を覚えた。

 

 

 

 何か、彼女の意思や本能とは関係なく『何か』がヴィラクスの身体を変質させようと暴走している。『人間』の形をした『何か』へと変質……あるいは『進化』でもするように。

 

 

 

 眼がもう『人間』じゃなかった。白眼は流血でもしてるんじゃないかと赤黒く染まり、瞳孔は七色に変色して拡大と縮小を繰り返す。

 酸素を求めて開けっ放しの口も、顎が外れたのではないかと思うほどに長く伸ばし、黄色に変色した唾液が床に爛れ落ちると、火が付けられた蝋燭のように容易く溶解を始める。

 

 

 

 

 

「——アガガガガガガッッ!!?」

 

 

 

 

 

 肺や脳に酸素が回ってないのか、大口を開けて舌を剥き出しに、眼球を浮かばせ、さらには首筋を深く掻いて血が噴き出す。頬も急激に年老いたように筋肉が硬くなり、さながらそれは名画にある『叫び』のように表情が崩れていく。

 

 それは理性を持つ少女がしてはならない形相だ。本能だけが剥き出しになり、彼女を侵す『何か』に対応するために、人類は歩んだ数千年の進化の歩みさえも超越するほどに加速的に身体を変質させていく。

 

 だけど、俺はこれを知っている。この変質は知らないが、これが齎す結果を知りに知り尽くしている。

 だって、それは今の今まで訓練や日常の合間、断続的に発生する超小規模の『時空位相波動』の中で戦ってきた存在と一緒なんだ。

 

 

 

 

 

 ——『ドール』だ。『魔女』となった者の成れの果て。

 

 

 

 

 

 ——彼女は、ヴィラクスは今まさに『ドール』になろうとしている。

 

 

 

 

 

 ——怖い。怖い。怖くてたまらない。

 

 

 

 

 

 ——目の前にいる女の子が、知り合いが、友達が、少しずつだけど急速に『人間』の形をした『何か』へと変貌することが怖くて怖くて堪らない。

 

 

 

 だって、それは『死』よりも恐ろしいことだ。

 生きながら変貌されるなんて……生命そのものへの冒涜過ぎる。

 

 

 

 

「ふふっ……本当は『方舟基地』の実験に便乗して潰す気だったんだけどね……。この際、こうなった方が面白いから強行させてもらうよ」

 

「ウリエル……? いったい何を……?」

 

 

 

 だけど何で君は笑っているんだ。君とヴィラクスは、デックスと『位階十席』で繋がった主従関係ながらも大切に思っている同士だろう。なのに、変貌しつつある彼女を見て、どうして満面の笑みを浮かべることができるんだ。

 

 

 

 どうして——そんな馬鹿を見るような侮辱の笑みを浮かべるんだ。

 

 

 

「ウリエルぅ〜〜? 誰それぇ?」

 

 

 

 返答は正気を疑う物だった。ウリエルの形をした『誰か』は、他人事のように笑みを更に深くしていく。まるでではなく、確実にこの状況を楽しみながら、底なしの心を満たすためにゲロよりも臭くて汚い言葉を吐き出す。

 

 

 

「僕はねぇ、確かにウリエルではある。だけどウリエルでもない。されど『誰か』でもある」

 

 

 

 そう言うと、そいつは顔を手で覆う。そいつは何かをしていたわけではない。俺も一切瞬きもしていなかったし、目も離していない。

 

 だというのに——ソイツが顔を見せた時には、知人がいた。だけどそれは冒涜的な存在として『同時』に存在していたんだ。

 

 バイジュウがいた。ラファエルがいた。正確には顔面の『右半分』がバイジュウであり、残りの『左半分』がラファエルだった。

 

 けれど髪色は二人と違って黒ではなく赤色だった。そしてその色合いは俺は誰よりも知っている。この濃い赤色はマリルの髪色なのだ。

 

 

 

 

 

「私はバイジュウであり、ラファエルであり、マリルでもある。俺はスクルドであり、アニーであり、エミリオでもある。我は私であり俺であり……同時に誰でもない」

 

 

 

 

 

 言葉を発するたびにそいつの顔と身体は変貌していく。ある時はイルカとスクルドだったり、エミリオとアニーだったり、ファビオラとヴィラだったり、ベアトリーチェとハインリッヒだったりと組み合わせは無数に、そして無造作に繋げていく。

 

 まるで模した人物を全て馬鹿にするように——。

 そいつは俺の学校にいる知人から、どこかで見た芸能人、あるいは歴史の教科書にいる偉人へと化けていく。

 

 

 

「じゃあ……お前は一体……!?」

 

「そうだねぇ、色々とあるんだよ。人は我を『暗黒のファラオ』『闇をさまようもの』『赤の女王』……あるいは『セト』や『トート』と幅広く呼んでいたが…………あえて名乗るとするなら……」

 

 恐怖が世界諸共俺を縛りつけて離さない。指先一つ動かすこともできず、心は恐怖に染まり切って凍りつく。

 

 怖い、怖い、怖い——。

 怖い、怖い、怖い——。

 

 生きるとか死ぬとかそういうもんじゃない。

 

 

 もっと根本的な……計り知れない『恐怖』としか形容できない『何か』が俺にも蝕んできていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「我が名は『ニャルラトホテプ』——。君が喧嘩を売った『ヨグ=ソトース』の同胞さ」

 

 

 

 

 



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第19節 〜這い寄る混沌〜

「我が名は『ニャルラトホテプ』——。君が喧嘩を売った『ヨグ=ソトース』の同胞さ」

 

 

 

 目の前にいるウリエルの形をしていた化け物……曰く『ニャルラトホテプ』を名乗る生命体は、強烈に記憶に植え付ける邪悪な笑みと共に、忘れることのできない名を告げてきた。

 

 

 

 ——『ヨグ=ソトース』

 

 それはアニー、ハインリッヒ、ソヤ、ギンを傀儡にし、今現在でもその『門』の奥でスクルドとミルクを捉えている吐き気を催す邪悪なる存在の名だ。

 

 ……それの『同胞』だと? つまりは『対等』な『仲間』ということなのか? 対等ということは、あの『ヨグ=ソトース』と同等の力を持っているのか?

 

 もしそれが嘘偽りない本当のことだとしたら…………。

 

 

 

 

 

 満身創痍な俺に、こいつの対抗する手段はあまりにも少ない——。

 

 

 

 

 

「ふふふ……。良い顔だなぁ、恐怖に引き攣ってる……。——私はそういうレンちゃんも好きだよ?」

 

 こちらを馬鹿にするように、ニャルラトホテプは『アニー』の顔に変えて嗜虐的な笑みを浮かべる。

 

 笑うな。その顔で……そんな本当に心の底から『友好的』で人懐っこいアニーと同じ顔を見せるな。それはアニーだけの表情だ。決してお前の表情じゃない。

 

「どうしたの、レンちゃん?」

 

「ふざけんなっ! その顔を見せるなっ!」

 

「……酷いよ、レンちゃん……っ。私のことそんな風に言うなんて……っ!」

 

「い、いやっ……違っ……!」

 

 本当に本物のアニーと寸分違わぬ表情だから、涙を浮かべて傷つくアニーを見て思わず動揺してしまう。こいつはアニーじゃないのに…………心のどこかでアニーなんじゃないかと錯覚してしまうほどに、こいつの擬態は完璧過ぎて、今度はまた違う『恐怖』が心身を握りつぶしてくる。

 

「——じゃあ、私の方が好きってことかしら、女装癖?」

 

「ラファエルにもなるなっ!!」

 

「なによ、女装癖のくせに生意気ね」

 

「まあ」とラファエルの顔で傷ついた表情を見せながら、次の顔へとニャルラトホテプは変えていく。次に変えたのは見慣れた色黒の少年の顔、ウリエルだった。

 

「君と相手する時は、この人間の顔の方が落ち着くか。ええっと…………どこで話を終えたかなぁ?」

 

 中身が化け物だし、さっきまで完全にアニーやラファエルとなっていたはずなのに、今度は年相応の子供らしく無邪気な態度で考え出し、これまた無邪気に「そうだ」と少年らしい可愛くも芯のある声で話し始める。

 

「いったい何を、と君が言ってネタバラシしたんだったね。僕はね、最初は『方舟基地』の実験に乗じて、アレを利用して今回の事態を起こそうとしたんだよ」

 

 未だ苦しみから絶叫を上げて悶えるヴィラクスをウリエルは指差す。

 ……あんなに苦しんでいるのに『アレ』だと? しかも道具扱いするにしても、雑に指を差すなんて…………。

 

 

 

 ふざけんな——。

 

 人の命を侮辱してるのか——。

 

 あの『ヨグ=ソトース』と同じように——。

 

 

 

「『方舟基地』での実験で『魔導書』が異常を発生して、持ち主であるヴィラクスが暴走……。それで新豊州へと被害を与えつつ、致命的な実験失敗の話を材料に、サモントンと新豊州の交流も断絶……そうすることで新豊州へと壊滅的なダメージを与えて、君を苦しめようとする算段さ」

 

「だったのにさぁ」とウリエルは怒るのではなく、呆れるようにため息を吐きながら話を再開させる。

 

「いつから気付いてたかは知らないけど、ガブリエルが『魔導書』を持ち逃げしたおかげで計画は破綻さ。別に計画自体は練り直せばいいから、その点はいいんだけど…………恐怖で引き攣る人間の顔を見る、という『面白い事』を目の前で取られるとさ……。どうしてもオヤツを取られて不機嫌になる子供みたいな心境にならない?」

 

 不貞腐れながら、ニャルラトホテプはこちらに同意を求めてきた。

 

 

 

 ……分からない。アイツが何一つわからない。

 

 全部アイツが思ってることは『本当』だ。本当に心の底から同意を求めている。子どもじみた不満を抱えながら。

 だけど先の時も『本物』だ。アニーになって泣いたのも、ラファエルになって高飛車な態度もとったのに、確実にして絶対に『本当』だと確信している。本当に泣いていたし、本当に傷ついていた。真似た当人が実際に言われたら、そうするであろう反応を取っていた。

 

 

 

 だというのに同時に『偽物』でもある。泣いているからこそ泣いておらず、傷ついているからこそ傷付いていない。

 

 すべてが元々から『同時』に内包されている感情なんだ。

 

 

 

 あるゲームでこういう描写がある——。

 全人類を本当に『愛してる』からこそ、平等な愛となって『愛』そのものがなくなる、というもの。

 

 あいつはそういう類の生命なんだ。

 すべての『感情がある』からこそ、すべての『感情がない』という——。

 

 

 

 

 

「じゃ、じゃあ……ガブリエルが『魔導書』を盗んだのは……?」

 

「僕の計画を失敗させるためだろうね。とは言っても僕の擬態は完璧だ。確証がないから、こうして組織と連携せずに独断で行ったんだろうけど」

 

「それに」とニャルラトホテプは話を続ける。

 

「ラファエルを君の元に置きたい、という願いもあるかな」

 

「ラファエルを……俺の元に……?」

 

「ああ。というか、そっちが本命かな。もしも僕が本物のウリエルで何も起こさなかったとしても、ガブリエルは今回の『異質物』強奪を起こしたさ。……だって彼はラファエルを大事に思ってるからね。自分が執行代表となったことで、ラファエルがサモントンに戻ったら、芽生え成長し始めたラファエル自身の精神を腐らせてしまう。……ガブリエルだて総督やミカエルからの命令ならデックスとして拒否もできない。だったら彼はどうすると思う?」

 

「…………自分が執行代表に相応しくないことを証明する?」

 

「ご明察」とアイツはこちらの解答に応えた。

 

「自分の我儘を押し通すためなら、こうもなるさ。ガブリエルが執行代表となったことで権威を持つことによって私物化したとしたら……貴族たる者、そんなのは相応しくない。ガブリエルはデックスから追放され、新たに執行代表の選抜を余儀なくされる」

 

「しかし」と一息置いてアイツは話を続けた。

 

「ガブリエル以上に適任者もいない。ミカエルはサモントンの重臣だ。おいそれと気軽に離れることもできないし、次点としてウリエルに任せようにも、総督からすればラファエルより未熟な上にまだ中学生だ。別の学園都市に移すには不相応だ。他の子はもっとダメだ。まだ未覚醒な上に精神も未熟過ぎる。見ただろう、シェキナ達の無邪気さを」

 

「だとしたら」とアイツは人外じみた怪力で『魔導書』を俺から奪い取り、ページを捲り始めた。

 

「もう答えは出ている。『現状維持』さ。ラファエルの執行代表を取り消して、再び新豊州在中の執行代表として活動させる。それが最もサモントンと新豊州にとって一番ベターな選択になるからね。何せガブリエルが裏切ったんだ。『スカイホテル事件』でのこと、『天国の門』でのことを考えると両者の信頼関係も落ちに堕ちる。それでも両方の学園都市が穏便に繋がるには、前々から在中して個人として信頼関係を築いているラファエル以外にはいない」

 

「自分の身も立場も全部犠牲にするなんて、滅茶苦茶つまらない男だよねぇ」と心底つまらなそうにアイツは吐く。

 

 

 

 ——つまらない男、と吐き捨てたか。

 

 

 

 …………

 ……

 

《君と出会って、本当にラファエルは変わった……。君のおかげで、ラファエルはようやく人間性を見出すことができた……。だから、ワガママを言わせてほしい。『ガブリエル』としてでなく……私個人の……ただ従兄という『唯一の人間性』からくるお願いだ。》

 

《頼む。デックスとしてでなく、兄貴分として頼む——。可愛い妹分であるラファエルを…………どうか最後まで……一緒に隣に居させてやってくれ》

 

 ……

 …………

 

 

 

 どんな思いで、ガブリエルはラファエルを託したかを知らないくせに——!!

 

 

 

「ふっ……ざけんなぁあああああああ!!」

 

「レンさんっ! 無策で近付くのは……っ!!」

 

 

 

 激情がバイジュウの言葉を打ち消し、俺の身体を巡る血管をすべて沸騰したように熱くなってアイツへと踏み込む。

 

 

 

 一呼吸あれば十分だ——。

 

 心を怒りで研ぎ澄まして、アイツの身体を『流星丸』で両断した。全力を持って手加減なしに。一瞬でアイツの身体は縦で二つに分かれ、右半身と左半身は力なく…………倒れはしなかった。

 

 

 

「ダメだよ〜〜。我はニャルラトホテプ。外宇宙に潜む生命体さ。例え身体が二つに裂けても、我自身には痛みなんて物は感じないんだよ」

 

「でも〜〜」と言いながら、二つに裂けた身体を粘土のようにくっ付けて練り始めると、そこには先程の太刀筋の傷が痛々しい継ぎ接ぎとなって泣きじゃくるアニーの姿があった。

 

「痛いっ……! 痛いよ、レンちゃん……! どうして私にこんなことするの……っ!?」

 

 

 

 ——違う。俺はアニーを傷つける気はなかった。

 

 ——違う! アイツはアニーじゃない……!!

 

 

 

「レン、お姉ちゃんっ……。イルカに、酷いことする……怖いっ……」

 

 

 

 ——違う、違う。イルカを怖がらせる気はないんだ。

 

 ——違う。頼むからこれ以上誰かに変化しないでくれ。

 

 

 

「私は……お姉ちゃんを友達だと思ってたのに……。お姉ちゃんは私にこんな事するの……?」

 

 

 

 ——違う! 違うんだ! スクルドを泣かせたくなかった。

 

 ——違う…………。お願いだから……。

 

 

 

「ううっ……いたいよぉ……」

 

 

 

 ……頼む。誰かが俺の手で傷つけたと思わせないでくれ。誰かの姿を真似ないでくれ。

 

 

 

「痛い、苦しい……。助けて、レンさん……」

 

 

 

 …………お願いします。それ以上——。

 

 

 

「……見たくないわよね。だったら私の中で泣いていいわよ」

 

 

 

 目を瞑ってこれ以上見たくない時に、どこかで聞き覚えのある女性の声が耳に届いた。

 今度は誰だ。誰に化けたというんだ。これ以上は見ない方が良いのは分かりきってるのに……何故か俺は、抗う事なく素直に目を見開いてその声の主を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——そこには『母さん』がいた。

 

 

 

 

 

「お前っ……今度は……っ!」

 

 

 

 あまりの衝撃に唇の震えが止まらない。女の子になった俺と似た黒髪のロング。身長も今の俺を十年ぐらい経過したらそうなるであろう想像できるぐらいには少し高く、雰囲気も年季相応の母性を持っている。

 

 

 

 間違いない……。間違いなく……母さんだ。

 アイツが擬態したに違いない母さんだ——。

 

 

 

「ううん、私は私。あなたのお母さん……」

 

 

 

 目の前にいる『母さん』の形をしたアイツは、本当に優しく俺を抱き包んでくれた。力強くも優しく……身体ではなく心で受け止めるように温もりに溢れている。

 

 

 

 あぁ——。『本物』だ——。

 

 

 

 アイツが擬態した姿だと頭では理解していても、心が惹かれて仕方がない。これは正真正銘『母さん』の温もりだ。

 

 あの日……『七年戦争』で離れ離れになってしまった……っ!!

 

 

 

「母さん……っ!」

 

「無理しなくていいわよ。独りぼっちにさせちゃったね……昔のように呼んでいいわ」

 

「うっ……ううっ…………! ママ……ッ!!」

 

 

 

 分かってる。頭では分かってる……。ママじゃないのはわかってる……。それでも……思わず泣きたくなる。

 

 だって——。

 

 

 優しく頭を撫でる仕草——。

 俺を包んでくれる身体——。

 温かくて安心感が湧く声——。

 

 

 

 どれも全部、抗い難いほどに、疑いようもなく……幼い日に生き別れてしまった『ママ』なんだ——。

 

 

 

「おやすみ。私の可愛い子……。貴方の代わりは私がしてあげる」

 

 

 

 ……あぁ、眠くなってきた。今まで気が張り詰めていたせいか、緊張の意図が解けたら途端に全身の力が抜けていく。

 けど……大丈夫……。眠っても大丈夫……。だって……側には母さんがいる。

 

 俺には……。

 

 

 

 

 

「貴方の代わりは……『俺』がなるんだから」

 

 

 

 

 

 ——私にはママがいるんだもん。

 

 ——おやすみ、ママ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「レンさんの……『魂』が、消えた……? セラエノ……いったい何が……!?」

 

「『魔導書』に飲み込まれて別の次元に消えただけだ。そう焦る必要はない。レンちゃんの情報はまだ生きている……。問題はあっちだな」

 

 そう言ってセラエノはバイジュウの代わりに改めてニャルラトホテプを見る。

 

 そこには先程擬態していたレンの母親と非常によく似た少女がいた。同じ黒髪のロング。身長は先ほどよりも少し低く、雰囲気も母性よりも少年特有のどこかやんちゃさが溢れる。

 

 そしてもう一つ違うところがある。

 それは黒髪を色づかせる『赤メッシュ』が施されていることだ。

 

 その姿をセラエノはしっかり覚えている。先程、自分が興味を持った人物と全く同じ姿となっている。

 

 

 

 ——つまり『レン』がいるのだ。

 ——今度は『レン』へとニャルラトホテプは擬態しているのだ。

 

 

 

「相変わらず性根が悪いな……」

 

「あっ、セラエノじゃん。久しぶり」

 

「え……? えっ……? その声はレンさん……!? けど『魂』の形が……っ!?」

 

 視覚が機能しないバイジュウにとっては『魂』が違うのに、聴覚に届く知人の声と全く同じに聴こえる現象に困惑するしかない。セラエノが「気にするな。こいつはそういうやつだ」と抑揚が少なくも、確かな嫌悪感を持ってバイジュウの代わりに相対する。

 

「彼女がバイジュウか。ふ〜ん……セラエノがいる手前、下手に相手するのも面倒か。素直にバイジュウを渡してくれたら楽だけど、知的好奇心旺盛な君のことだ。絶対に手放すことはないだろう?」

 

「ああ。お前に渡すくらいなら私が保護する。彼女は私のだ」

 

 恥ずかしがることなく堂々と独占宣言をするセラエノを言葉に、バイジュウは思わず恥ずかしくなってしまうが、事態が事態のために惚気るような余裕は生まれはしない。

 

「じゃあ、今は我慢するか。俺たちが争ったら地球の文化は最低でも一つ滅びるからな」

 

 そう言いながらレンの形をしたニャルラトホテプはセラエノ達から視線を外し、もう苦しむことなく無表情なまま『人形』のように佇むヴィラクスを身体を舐めるように指を滑らせて囁く。

 

「今はこっちの玩具で遊ぶとするよ♪ 俺の可愛いヴィラクスちゃん♪ 計画は佳境だ。今こそ『魔導書』の力を解放させてくれ」

 

「はい……。ニャルラトホテプ様……」

 

「今はレンだから。趣味嗜好だから言うんだけど、恋愛ゲームの攻略キャラみたいに愛しく呼んでくれない?」

 

「はい……♡ レン様……♡」

 

「これが萌えってやつかぁ」と心底どうでも良さげにニャルラトホテプは言うと、改めてセラエノへと向いて話を再開させた。

 

「セラエノ。今からとっておきの面白いものを見せてやる。喜怒哀楽を知らない観測者にとって、極上の感情をご馳走してやる」

 

「極上の感情とな」

 

 

 

 セラエノは元々人間ではない。レンともバイジュウとも立場が違う。アレンとは協力関係。ヴィラクスとは知り合いではない。むしろニャルラトホテプの方が知り合いだ。

 

 故に彼女からすれば、今この場の誰よりも興味と関心を惹くのはニャルラトホテプしかいない。レンやバイジュウとは違い、本来の立ち位置である『観測者』に恥じない平等な価値観を持ってニャルラトホテプの話に耳を通す。

 

 

 

「人間で最も面白い感情は何だと思う? 喜びか、怒りか、哀しみか、楽しみか——。どれも違うねぇ。どれも尊いのは確かだが、人の感情の変化というのものは『余裕』があるからこそ生まれるものだ」

 

「なるほどな。一理ある」

 

「だったら『余裕』を奪うことで剥き出しになる感情が最も面白いか? となると、それも違う。そんなのは三流の答えだ」

 

「では二流のやることはなんだ?」

 

「人々が混乱させること。だけどこれはつまらない。命綱を付けたバンジージャンプと一緒で、事故でも起きない限りは想定を超えない。ゲーム内のコンテンツをやり込んだだけに過ぎないんだ」

 

「なら一流は?」

 

「もちろん、自分さえ巻き込んだ『全て』さ。三流も食う、二流も食う。余裕も、偶然も、事故も、必然も、全てを巻き込んで『混沌』の中で混ざり合う。その過程で飛び交う感情の発散、抑圧すべてが一瞬で輝き燃え尽きて、また違う感情となって繰り返す。これが俺にとって最高に退屈しのぎになるお遊びさ」

 

 それを本当に楽しくもつまらげに告げるニャルラトホテプを見て、セラエノは「相変わらずのゲスだな」と吐き捨てる。

 

「おいおい、今は年頃の男子……じゃなくて女子高生なんだよ。そういうこと言われたら傷つくな〜〜」

 

「私もここでは15歳のピチピチだ。年頃に刺激の強い話を聞かせるな」

 

「まあ、そういうわけだからさ……。今からサモントンは『混沌』の渦中に俺さえも巻き込んで終焉を迎える……」

 

 

 

 ニャルラトホテプは再びヴィラクスを抱きしめる。

 レンが浮かべることはできない残虐で嗜虐的な笑みを、これでもかと深く浮かべながら告げる。

 

 

 

「さあ、始めようか!!」

 

「にゃる・しゅたん、にゃる・がしゃんな……。にゃる・しゅたん、にゃる・がしゃんな……」

 

 

 

 ヴィラクスはニャルラトホテプの言葉に従い『魔導書』のページを開いて呪文らしき言葉を紡ぐ。

 呪文が一節、また一節と続いていくと、途端に世界が揺れた。地面ではなく確かに『世界』が揺れたのだ。まるで悲鳴をあげるように。

 

 

 

「何が……何が起きてるのですか……? セラエノさん……何が起きてるかを……!」

 

「大人しくしていろ! 私から離れたら死ぬと思え!」

 

 

 

 セラエノはそのやる気のなさそうな表情からは想像もできないほどに鋭敏にして俊敏に動き、倒れて拘束されるアレンを拾いながら彼女もまた呪文を紡いで三人の周りに障壁を展開する。

 

 

 

「天使の翼は地に堕ちた! サモントンは今から『失楽園』となるッ!」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 一方、SID本部——。

 

「ちょっと! ちょっとちょっと! マリル! マジでガチでヤバい!」

 

「言い方で危機感が薄れる! いったい何が……っ!」

 

 愛衣に催促されてマリルはモニターを見上げて絶句する。そのモニターは普段『時空位相波動』を表示するために使用しているものであり、発生するとその地点は赤く発光して場所と範囲を示す。

 

 問題はその範囲にあった。一瞬で規模が膨らみ続ける。普段は数十m単位の極小しか発生しないというに、今だけは縮小率を変更しないとモニターすべてが赤く染まるほどに大規模なのだ。

 

 

 

 ——あの『OS事件』で検知した前兆よりも遥かに大きく。

 

 

 

「馬鹿な……っ! 半径……10キロ……30キロ……。まだ広がっていく……っ!」

 

「しかもサモントンを中心にね! レンちゃんの生体反応は消えてるし……『時空位相波動』が展開されてるせいで、こちらから通信が全部途絶されるっ!!」

 

 未だかつてない事態にマリルも愛衣も余裕を取り繕う暇がない。大急ぎで事態の把握をするために、現在利用できるSIDの全勢力を稼働させて事態に当たる。

 

 待機中である『魔女』も全員動く。ベアトリーチェも、エミリオも、ヴィラも、ファビオラも、ギンもただならぬ事態を肌身でも心でも感じて動きを止めない。

 

「展開は終了したけど……こんなのが存在していいの……っ?」

 

「いったい……サモントンで何が起こってるんだ……っ!?」

 

 反応が収まって安定した数値がモニターに表示される。

 その数値にマリルと愛衣でさえも絶望に近い心境で驚愕するしかなかった。

 

 

 

 『時空位相波動』検知——。

 範囲は『約700km』——。

 つまり『サモントン』の国土すべて——。

 

 

 

 脅威レベル判定『Error』——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「おい……なんだあれ……」

 

 サモントンの上空。それを見て民は恐れ慄く。

 見上げた空の果て。そこには一つの『空虚な穴』があった。それは見方によっては地獄の入り口か、悪魔の口か、世界の闇が形となったようにも見える。

 

「空が……世界が……割れていく……!」

 

 それはそうとしか形容ができないような異常な景色だった。

 穴は少しずつ空にヒビを入れるように拡大しつつけ、空がガラスのように砕け散り、破片となって落ちてくる。

 落ちてきた空は少しずつ形を変えて、やがては『少女の形』となってサモントンへと襲来した。

 

 

 

「偉大なる……タカDuマm-smrti-ガハラ……ガハラガハガハラララ……Raaaaaaaaaaa!!!!!」

 

「ひっ……!!」

 

 

 

 襲来した少女は『ドール』だ——。

 ニャルラトホテプが起こした『時空位相波動』によって呼び出された従者の1人——。

 

 それが1人、また1人と落ち続け——。

 

 

 

「あ…………ああっ……」

 

 

 

 空を覆う『幾千万』の『ドール』が犇めき合う——。

 それはこの世の地獄というには生優しすぎる。六道輪廻の世界が歪み混じり、恐怖とも混乱ともつかない『混沌』という感情が民を縛り付ける。

 

 

 

 

 

 ある民は思った。これが世界の終わりだと——。

 ある民は思った。これは世界の始まりだと——。

 ある民は思った。神よ、私だけはお救いくださいと——。

 ある民は思った。神よ、この子だけはお救いくださいと——。

 

 

 

 

 

 ありとあらゆる感情がサモントン都市部へと伝播する。さながらそれはウイルスのように、ただ恐怖も興奮も諦めも抵抗も、全ての感情を爆発させて『混沌』が民を支配する。

 

 

 

 

 

「——肉体を盾とし、血液を矛とし、魂をかけて誓う」

 

 絶望に混乱し、救いを祈る民の前に、甲冑を身に纏い槍と盾を手にした騎士が姿を見せた。

 

 戦車ではなく要塞や軍艦のように重々しくも、力に満ち溢れた一突きが『ドール』を串刺しにし、一撃で機能を停止させる。それを騎士は地上に流れこむ『ドール』すべて平等に一撃で確実に葬り去る。

 

 しかし、それで空を覆う『ドール』の脅威がなくなるわけでもない。

 未だに1人、2人、10人、100人と爆発的に増え続け、サモントン全てを覆うように穴から『ドール』が溢れる。

 

 

 

 だが——。『ドール』が溢れ続けることはあっても、それ以上サモントン都市部に襲来することはなかった。不思議に思う民は空を改めて観察して気づく。

 

 

 

 ——サモントン都市部全てを覆う『膜』があった。オーロラのように揺らめき、頼りない見た目からは想像もできないほどに『ドール』達を押し退けて膜の外へと追いやる。

 

 

 

 民は知らない。それは騎士が持つ『盾』の効力だということを。

 

 

 

 その『盾』はサモントンが所有する異質物の一つ。

 登録名称は『ヨセフの血の盾』——。

 

 またの名を『ガラハッドの盾』——。

 あの『アーサー王伝説』に登場する『円卓の騎士』の1人であり、同時に『世界でもっとも偉大な騎士』と呼ばれた『ガラハッド』が使用されていたと言われる聖遺物——。

 

 その特性はシンプルにただ一つ。『守る』だけ。『戦う』ことは許されない。ひたすらに耐えて耐えて耐え続けるだけの『守る』ことしかできない『盾』なのだ。

 

 しかし盾の強度は使用者の精神力に比例し、心が折れなければ決して崩れはしない。

 

 

 

 例え、その身が朽ち果てようとも——。

 

 

 

 故に、サモントンはその折れることない騎士の心にも敬意を示し、その盾には『ヨセフの血の盾』や『ガラハッドの盾』以外にも、もう一つの名称が騎士と共に授けられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——『不屈の信仰』と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 立つ姿は、燃える薔薇の如く力強くも華やかに——。

 流れる黄金色の髪は、星屑のように煌びやかに——。

 鉄鋼纏う身体と意思は、ダイヤモンドのように砕けない——。

 

 

 

 

 

 まるで自分の『正義』や『信念』が正しいことであると告げるように、彼女の髪は『黄金の風』に吹かれていた。

 

 

 

 

 

「わたくしセイント(聖騎士)モリスは、死に至るまで、命を持って、民を守り抜くことを————」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 to be continued……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 くぅ疲w というには最近ほとんどのスレのSSが『怪文書』となっている今、流石に『くぅ疲w』は古いのではなく古すぎるのではないかと感じるこの頃。とりあえず第四章【堕天使】こと『サモントン編・前編』はひとまずここで終わりとなります。

 レンは閉じ込められ、バイジュウもソヤもボロボロの中、ついに目覚め活動を始める『這い寄る混沌』ことニャル様。
 第四章にもなって、クトゥルフ神話におけるメイン級神話生物が表立って行動するようなったことから、どれほどの危険性があるかTRPGプレイヤーならご理解いただけるかと。

 そして『魔導書』に操られ暴走するヴィラクス。サモントンが混沌となる中、立ちはだかるセイントモリス。果たして今後はどういう展開を迎えるのか。作者にも分かりません嘘です。

 そんなわけで次回、第五章こと【失楽園】は体調を考慮して7/1に開始する予定です。もしかしたら体調良好が続いて執筆速度が落ちないようなら6/1からでも可能ではありますが……余裕を見て7/1となります。申し訳ありません。
 
 それと第四章の最後になってニャル様が出てレンちゃんを精神的にボロボロにしましたが、あれは邪神的な側面の表現であると同時に『作者の性癖』の片鱗でもあります。
 第五章でもそんな精神的にズタボロにする描写が少しはありますのので、しばらく作者の性癖にお付き合いくださいませ。

 さて、今回はそういう感じで後書きを終えさせていただきます。
 それとTwitterでAmazon欲しいものリストを公開したら、コーヒーやらアイマスク、ビタミン剤、さらには液タブもご提供してくださって感謝です。改めてこの場でお礼を言わせていただきます。

 それと『昆虫食』も届きました。初めて食べたけど中々に美味しかったです。煮干し食ってるみたいで。



 それでは皆様コロナ禍でも負けず、健康を維持して過ごしましょう。
 
 バイビー!(マルゼンスキー)


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第五章 【失楽園】
第1節 〜荒野の果てから〜


予定通りスタートです。
今回は設定的に非常に重要な部分が多く、お話としては20節以上になり、また現在第11節まで毎日更新予定になりますので、しばらくお付き合いくださいませ。


 ——旧約聖書『創世記』第三章にて。

 

 天地創造の後に唯一神である『ヤフウェ』によって最初の人間である『アダム』は創造された。

 アダムが誕生した地である『エデンの園』の外は草木など一切生えてはいなかったが、アダムがいる『エデンの園』ではありとあらゆる種類の木や果実があり、そこには『生命の樹』と『知恵の樹』も存在していた記述されている。

 

 アダムは主なる神にこう言われていた。「決して知恵の樹に宿る果実——『善悪の知識の実』という『禁断の果実』を口にしてはならない」と。

 

 アダムは主なる神の御言葉に従い、決して『禁断の果実』は口にせずに過ごしていた。

 

 

 

 やがて、その『エデンの園』にもう1人の人間が創造された。

 

 その人間の名は『イヴ』。人類初の女性の名でもある。

『イヴ』の誕生について詳細に記した文献は少ない。『アダム』と同様に主なる神に創造されたという話もあれば、『生命の樹』に宿った果実が人の形になったという話もあれば、果てには『男性』であるアダム自身が産んだという説も出るぐらいには記述が少ない。

 

 ともかく人類初の男女である『アダム』と『イヴ』はこうして誕生された。だが、それは始まりの始まり。しかも急転直下の悲劇への始まりだ。

 

 女は楽園に突如として現れた『蛇』に唆されて『禁断の果実』を男と共に口にした。そうして初めて人間には『知恵』が芽生えた。同時に五感という物を意識し始め、そこで生まれて初めてアダムとイヴは自分達が『裸』であることに気づいたとも言われている。

 

 だが『禁断の果実』を口に代償は重かった。

 五感を得たことで女は『妊娠』と『出産』の痛さを知り、また『地』そのものでもあるアダムが口にしたことで、大地そのものが呪われて豊かな楽園は枯れ、汗を流して動かなければ飢えて死ぬほどに大地の実りは減少した。

 

 それを知って怒り狂った神は、せめてもの慈悲に衣を与えて2人を楽園から追放した。

 

 これが後にイギリスの17世紀の詩人『ジョン・ミルトン』氏によって書かれた『失楽園』の基にもなるが、これはまた別の楽園追放のお話だ。

 

 

 

 さて、こうしてアダムとイヴは楽園から追放された。

 だがここから先の2人の記述は非常に少なかったりする。2人の行く末を明確に書かれた物はほとんどないのだ。

 

 では、2人はそのあとどうなったのか。

 それは想像に任せるほかない。だが、単純な話として欲深き人間が果たしてその身一つで荒野に放り出された時、そのまま死を覚悟するだろうか。

 

 

 

 否——。人間の生は執念深い。

 きっと2人は新たな楽園を目指して足を進めるだろう。道の先に何もないというのなら、新しい道を作ろう。人はその底なしの欲望を時として『開拓』と呼ぶほどに生き汚いのだ。

 

 

 

 少年少女は、果てなき荒野に足を進める。

 その先には自分達が求める楽園があると信じて。

 

 

 

 それこそが人間のしぶとさだ。

 

 

 

 ——神様如きが、人間の歩みを止められるはずがない。



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第2節 〜抗う者たちの軌跡〜

「わたくしセイントモリスは、死に至るまで、命を持って、民を守り抜くことを————」

 

 

 

 サモントン都市部中央にて、サモントンが持つ情報機関『ローゼンクロイツ』が誇る最上位部隊『位階十席』の1人であるモリスは、自身が持つ異質物武器である『不屈の信仰』の能力を使用して障壁を貼って、上空から押し潰さんとばかりに飛来する『ドール』を1人残らず都市部への侵入を阻む。

 

 しかし、それでも数だけは増加し続ける一方だ。ドーム状に展開して外側へと押し出してはいるが、同時に『盾』が展開している障壁の内部から外部へと一切の干渉をすることはできない。

 いつまでも障壁を貼っていては数を減らすことはできず、放置し続ければ都市部の外にいる農地にまで被害は広がってしまう。

 

 

 

 だからこそ彼女達は動く——。

 サモントンの情報機関『ローゼンクロイツ』は自国と民を守り抜くために——。

 

 

 

「セレサ! アイスティーナ! 聞こえていますかっ!」

 

『聴こえてるわよ。流石の私も今回ばかりは欠伸するわけにはいかないからね』

 

『こちらも聴こえている。作戦通り、北東部に待機しているぞ』

 

『私も南西部に到着してるよ〜〜』

 

「分かりました! では今より『盾』の能力を一部分だけ解除します! そこから侵入してくる『ドール』をすべて排除するのですっ! もちろん、民の犠牲は出さないのも厳守っ!」

 

『『了解っ!!』』

 

 モリスの言葉を合図にセレサと、まだ見ぬ少女の名である『アイスティーナ』が動き出す。

 だが、モリスは都市部の中央で『盾』の効力で障壁を貼っている以上動くことはできず、彼女らの状況を逐一把握するのは難しい。しかも『ドール』の数は膨大なのに助力することもできない。

 

 さらに言えば彼女に戦うことはできない。『盾』によって発生する障壁は強力な代わりに使用者に一切の『攻撃』を許さない。『祈り』だけが形となり皆を守る。あらゆる外敵を阻み拒む城壁のように堅牢に。まさに鉄壁にして金城。されど、それだけが『盾』改め『不屈の信仰』持つ力ではない。

 モリスは次なる指示を伝令する。『位階十席』の『第一位』としてではなく『ローゼンクロイツ』の組織のトップとして、民を守ることに尽力する。

 

「異質物対策チーム並びにテロ対策チームなどの実戦メンバーは『位階十席』のバックアップを! 諜報や情報処理などの非戦闘員は、民を都市部のシェルターやショッピングモールなどの比較的安全な場所へと避難誘導を急いでください!」

 

 モリスの指示が、今このサモントンにいる全エージェントを扇動する。言葉一つを伝えれば、都市部にいるエージェントはそれを目印として悩みも恐れもなく進み続ける。

 

 さながらそれはオルレアンの乙女と呼ばれた聖人『ジャンヌ・ダルク』のようなカリスマ性だった。彼女の言葉はすべて勇気の旗印となって民を絶望から掬い上げ、心のどこかで怯え震えるエージェントを突き動かす。

 

 

 

 これこそが彼女自身に能力がなくとも『位階十席』のリーダー格である『第一位』に身を置き、同時に『ローゼンクロイツ』という組織を束ねる地位を任される理由なのだ。

 

 異質物武器である『不屈の信仰』を最大限に活かし、どんな事態に陥りようとも彼女の指示に迷いはなく、陣頭に立つことは我が務めだと言うように常に前に出る。

 

 

 

 まさに『Noblesse oblige』の体現者——。

 貴顕の使命を果たすべく、モリスは粉骨砕身の心で立つ——。

 

 

 

 故に彼女は『聖騎士』なのだ——。

 

 

 

『第三東部養豚地区からの報告ですっ! 飛来する『ドール』によって一部の橋や道が封鎖されて都市部に避難するまでの予測時間が三時間以上も加算されています! このままでは保護した4名の命が危険です、指示を!』

 

 その声の主はモリスは知っている。最近配属されたばかりの15歳の少年エージェントだ。

 身長も年齢の割に低く華奢で、少年という身でも些か頼りがない。だがそれは見た目だけの話であり、情報処理の能力は機械音痴であるモリスから見ても郡を抜いて早く、戦闘技術はその年にしては成熟して隙が少なく、『ローゼンクロイツ』における実技戦闘教官であるセレサでさえも「ありゃ、世が世なら英雄だわ。というかなろう系だわ、あれ」と欠伸混じりで言うほどに才覚に恵まれた存在だ。

 

 だが、それでは何の意味もない。現実はただ酷く、血と涙が溢れ返っており、都合良く解決できるほど優しい物語ではない。

 少年1人で何とかできるほど『異質物』や『ドール』は優しくないのだ。

 

「……馬やオートバイといった移動手段はありますか? あるようでしたら被害がまだ少ない外部に向かってデックス家の別邸に向かってください。その人数でしたら一週間は過ごせる食料はありますし、子供達の秘密基地と称して地下シェルターも完備しています。一先ずの安全は保証されます」

 

『馬ならありますが……二頭しかおらず、どちらも2人乗るのが限界です。誰か1人残ることになりますが……』

 

 

 

 逆に言えば、誰か1人が必ず犠牲になるということ——。

 名も顔も知らぬ誰かのために少年が命を落とすのは、あまりにも惨すぎる。まだ未来は樹木のように枝分かれして自由に選べるというのに。

 

 かといって見殺しにしろというのも、少年の未熟ながらも正義感溢れる精神では受け止め過ぎて壊れてしまう。

 

 

 

 そんなことを15歳の少年が選ぶには酷だ——。

 だけど迅速に選択をしなければならない。危機は依然として進行中なのだから。選ばないという選択だけは絶対にしてはならないのだ。

 

 私はどうしていつもそこに居ないのか、と沸き立つ思いをモリスは噛み殺しながら、その少年エージェントに指示を告げる。

 

 

 

「……あなたに代わって、神からの罰は私が背負います。ですから使命や責任から逃げて大丈夫です。誰も貴方のことは責めません」

 

『……いえ、僕はここで残ります。親父だって『七年戦争』で俺や王女であるモリス様を守るために、その身を捧げました。今度は俺が守る番なんです』

 

 少年が溢した『王女』という単語に、モリスは自嘲的な笑みを浮かべて言う。

 

「……私はもう王女ではありません。『七年戦争』を機にフランス王家の血筋は私だけとなり、権威はすべてデックスに捧げました。今の私は伴侶もいない頭でっかちの女性です。……もし王女を守りたい、という意思で犠牲になると言うのならハッキリ言います。無駄です、余計なお世話です。その気持ちこそ殺しなさい」

 

『いえ、そのような気持ちはありません。サモントンが落ちれば、それは世界の破滅を意味する。こんな化け物達によって絶滅されるというわけではなく、サモントンが崩壊することで食糧難が起こり、その僅かな食料を求めて人間同士の争いが起きて終焉を迎えます。…………そんな結末だけは見たくない。あんな地獄は……『七年戦争』だけで充分なんだ』

 

 少年の悲壮な決意は、何も彼だけが持つ物ではない。『七年戦争』の体験者なら、きっと誰もが心の片隅で抱える物。それはレンだってそうだし、御桜川に通う一般女生徒どころか、世界中の同年代が思うに違いない。

 

 けれどそれを実行できる者はほんの一握りだ。そしてそれは、どんな人物であろうと、理由を積み重ねて捻り出さないと覚悟できない末路だ。今、少年はそれを口にした。

 

 モリスに止める権利はない。彼女はもう王女ではないのだから。ましてや、その覚悟を弾き返せるほどの理想主義者でもないのだ。

 

 

 

「…………あなたの勇気に感謝と謝罪を。貴方の名も心も、私の身が尽き果てるまでこの胸に刻みましょう。恨みさえもすべて」

 

 だから認めてしまう。わずか15歳の少年が命を捨てることを。

 せめてもの償いとして、少年の名を忘れず、少年を死地に送り出したのは自分なのだから、自分を責めていいと告げながら。

 

 

 

『……恨みなんてありません。モリス様には本当にお世話になりました。最後になりますが、僕にとって貴方は誇りであり、憧れであり、今でも変わらずに愛してます。あの日、助けてもらってからずっと』

 

「——そうですか。レヴィン」

 

 それで通信は終わる。モリスは『レヴィン』という少年の名を胸に押し留め、今一度彼との思い出を振り返る。

 決して濃密な関係ではなかった。ただの口煩い女房体質の上司に、憧れと敬意を抱く部下。もちろんモリスは少年が自分に惹かれてることは最初から知っていた。だけど年齢差や自身の使命もあって、彼女は少年の思いに応えることはしなかった。

 

 それは少年に限った話ではない。モリスのカリスマ性に惹かれて尽くそうとする者達は『ローゼンクロイツ』には多い。きっと、それは今はなき王家の風格の名残りでもあったのだろう。モリスが下した決断を拒否した者は今までおらず、そのせいで何人もの命を捧げてしまったのか。

 

「……決して忘れはしません、貴方のことも。……これまでも、これからも……犠牲となる人々のすべてを忘れはしません……」

 

 胸の中でモリスは『七年戦争』から今にかけて、サモントンのためにその身を尽くし果てた人々の名前を思い出す。『ローゼンクロイツ』に所属する者だけでなく、子供や恋人のために選択したごく普通の民さえも——。

 

 

 

 レヴィン、フィアース、ログナー。

 クラリッサ、カティナ、ラブライナ。

 アミティエ、キリエ、グランツ。

 ユーリ、イリス、マクスウェル。

 

 普通なら数え切れないほどの人々がその命を捧げた。

 

 

 

 その数、実に『499万9911人』——。

 

 モリスはその全ての人物と名前の顔を、今でも鮮明に覚えている。

 

 

 

「URYYYYYYYYYYYYY!!」

 

 思い耽るモリスの背後から、障壁を貼る前の飛来で侵入していた『ドール』が襲いかかる。それに気づかないモリスではない。だが危機感を抱く必要はない。

 何故なら『不屈の信仰』は祈りの強さに比例して、その堅牢さを引き上げることで能力を拡張させる。障壁を貼る能力もその一環ではあるが、同時に使用者には攻撃を受け切る度量と信仰心があるなら、その種類に問わず攻撃を『反射』するという絶対防衛能力を宿す。

 

 故に回避行動も自衛行為も不要——。

 

 そのことはモリスを知る者なら誰もが承知の事実なのに、それを見ていた金髪の錬金術師こと『ハインリッヒ』は、思わずその手にある『ラピスラズリ』で瞬時に『ドール』を10等分に輪切りにして消滅させた。

 

「……無駄なことをしてしまいました」

 

 自分でもよく分からない行動をしてしまったハインリッヒは困惑してしまう。普段から服を脱ぎ捨てて思考するという性癖とも言える本能を抱えてる彼女ではあるが、その思考回路だけは知的好奇心や探究心に満ち溢れた学者肌だ。説明しきれない感情を自分が持つことに、苦虫を潰した表情を浮かべてしまう。

 

 だが、そんなことはモリスが知る由もない。彼女はその行為自体に無用だとは感じていても、誰かを守ろうとする心意気に「ありがとうございます」と素直に感謝を述べた。

 

「だ、大嫌いなあなたを助けるわけがないでしょう! ……もっと嫌いな連中が視界に入ったから排除したまでのこと。感謝を言われる筋合いはありません」

 

 感謝の言葉を想定していなかったハインリッヒが赤面となって慌てふためき、一息置くと言い訳がましく弁明する姿を見て、モリスは内心「ラファエル様みたいな素直じゃないなぁ」と感じながらも障壁の展開のために祈りを捧げ続ける。盾である『不屈の信仰』を構え、威風堂々と仁王立ちをしながら。

 

「……疑問に思っていたのですが、祈祷としては雑すぎませんか?」

 

「祈りとは心の所作。心が正しく形を成せば想いとなるのですから、形式など瑣末なことなのです。両手を合わせる必要も、膝をつく必要も正直どうでもいいのです」

 

「うわぁ、これが宗教国家のトップ層がする発言か」とハインリッヒは呆れながらもラピスラズリを握り直して、視線を交わさずに背中合わせとなって「指示を」とモリスに告げる。

 

「では南部に向かってください。あそこは人も少なく、畜産業も活発ではありません。錬金術を駆使して、嵐やらダイヤモンドダストやらご自由に振るっても大丈夫です」

 

「お心遣いには礼を言いましょう。本来は誰かを守るとか私の性に合わないのですが……今回ばかりは仕方ありません。『あの方』に面と向かってやり返せるチャンスでもありそうですし、素直に従いましょう」

 

 ハインリッヒはラピスラズリの他にもう一振りの剣を錬成して手に取る。

 それはハインリッヒが『フラメル』と呼称している赤い剣だ。『OS事件』で起きた海上での『マーメイド』との戦闘。それでハインリッヒは自分には長時間戦闘を行える持久力がないことを痛感し、それを補うために開発した新型武装だ。

 ラファエルが持つ『回復魔法』を錬金術で再現するために開発した物であり、その開発ルーツには『治癒石』を使用されたデータが参考となっている。

 

 流石に本家本元であるラファエルと比べたら回復効率は劣悪なんて物じゃないが、空間中の『魔力』を『フラメル』に取り込んで循環させることで半永続的に回復行為を行えるのは大きな差別点だ。これさえあれば『OS事件』のようにガス切れになって、イルカの助力が必要になることはない。

 

 

 

 攻撃特化武装『ラピスラズリ』——。

 防御特化武装『フラメル』——。

 万能支援武装『フィオーナ・ペリ』——。

 

 

 

 完全武装したハインリッヒに並大抵の相手は触れることさえ許さない。今の彼女ならば例えどんな人間が来ようとも相手になりはしない。

 

 それほどまでの決意と覚悟を持って、自身を貶めた『あの方』こと『ヨグ=ソトース』へと明確に反旗をあげる。

 

「『位階十席』の『第三位』——。襲名『錬金術師(アルケミスト)』のハインリッヒの地位に恥じぬように」

 

 ハインリッヒは深呼吸をして心身を整え、自分の立場を今一度ハッキリとさせるように告げる。

 自分は『守護者』として『あの方』に仕えるのではなく、レンを、ラファエルを、サモントンを、この国にいる人命を可能な限り守り通すことを宣告するように。

 

 

 

「鋼をまとい、剣を携え、 この身はすでに戦装束——。心せよッ、サモントンに仇為す者たちッ!!」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「セラエノ……いったい何が……起きたのですか……?」

 

 一方その頃、ヴェルサイユ宮殿にて。

 

 レンに擬態した『ニャルラトホテプ』が宣告をし、バイジュウ達へと何かしらの衝撃を与えたが、それをセラエノが阻止した。そこまで視覚が機能しないバイジュウでも理解はできる。

 

 問題はそのニャルラトホテプと、すぐ側にいたヴィラクスの『魂』が消失していることにバイジュウは疑問を覚えたのだ。

 あんな一瞬で消失するなんて、バイジュウが情報として知っている『因果の狭間』を介して移動することくらい思い浮かばない。だけど、そんなことが気軽に行える物なのかとバイジュウは考えてしまう。

 

「目が見えないと説明しにくいな。とりあえずニャルラトホテプは爆発的な『時空位相波動』を発生させると同時に、ヴィラクスの『魔導書』と一緒にヴェルサイユ宮殿からは消えたと言っておこう」

 

「ヴィラクスも一緒に……? 彼女もまたガブリエルと同じように、別の裏切り者だったのですか……?」

 

 もしくは人質として攫われたか——。

 そんな疑問を抱くバイジュウに、セラエノは心を読んだのか「どちらも違う」と言って話し始めた。

 

「あいつは『従者』にされただけだ。しかも自分の意思を捻じ曲げられた人形同然にな……。今のあいつなら、ニャルラトホテプの命令である限り、際限なく文字通り『何でも』するだろうよ……殺人は当然として『子供』を産むことも喜んでな」

 

「子供を……!?」

 

 突然の宣告に、あらゆる感情が入り混じるのをバイジュウは感じた。

 

 それは羞恥心でもあり、嫌悪感でもあり、好奇心でもあった。何であれ『子供』産むという行為、つまりは『出産』という響きには、学者気質であるバイジュウにとっては良くも悪くも惹かれる物があった。

 

「ああ。とはいっても赤ちゃんなんて可愛い物じゃないぞ。アイツによって孕まされた生命は人の形にはならん。ヒトの胎より生まれた兵器、と言っても過言じゃないほどに、冒涜的で狂暴な生命体が臨月とか関係なく子宮を無理矢理破き、母体を食い散らかす……」

 

 言葉一つ一つが、女性にとって悍ましい姿になることをバイジュウはハッキリと想像してしまった。

 母体が内側から食われて少しずつなくなるのか、それとも上からも下からも穴という穴から生命が漏れ出て母体を取り込もうとするのか、もしくは母体は風船のように弾け飛び、その残骸を食べてしまうのか。

 

 何であれ想像するだけで吐き気が込み上げてくるほどに、それは生命を冒涜した光景であった。

 

「今こうしても何もならん、とりあえず合流するとしよう。私とお前……両者の仲間達にな」

 

 だとすれば一刻も早くヴィラクスを救い出したい、とバイジュウは思った。

 あの日、図書館でたまたま出会って論争しただけが、それでもバイジュウにとっては数少ない交友関係の一つだ。それを手放せるほど、バイジュウの心身は冷たくはない。むしろ人情み溢れる少女なのだ。

 

 もう二度と、誰かの命が自分の手から零れ落ちるところを見たくないほどに、少女の心は繋がりを捨てることができないのだ。

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 そこはどこかも分からぬ暗黒の世界の只中。

 その世界の中で、2人の女性が混じり合うように互いの肉体を触れ合わせて、暗黒を照らす空間の裂け目へと視線を向ける。

 

 裂け目に写るは広大な緑化都市——今災厄に見合う『サモントン』の光景が、上空から見下ろすように映し出されていた。

 

「どうだ、ヴィラクス……。世界が蝕まれ、人々が恐れ慄く様は……」

 

「はい……。とても美しい光景です……」

 

「素直でいいんだけど……。それだけじゃ足りないんだよ。俺を満足させる答えじゃない」

 

 その暗闇にはレンの姿となっている『ニャルラトホテプ』と、自意識など薄れ、人形のように虚な目となって付き従うヴィラクスがいた。

 

 ニャルラトホテプは言葉でヴィラクスの肌身を撫でるように優しく問い、ヴィラクスは虚ながらも笑みを浮かべてその問いに応える。

 

「足りないのですか? いったい何が足りないのでしょうか……。悲鳴と絶望が広がっているというのに……」

 

「何のために、俺が君に『記憶共有』の能力を与えたと思う?」

 

「『記憶共有』……。……『魔導書』に触れた者の記憶が私の中に流れる能力……」

 

「よく覚えているじゃないか」と子供を褒める様に、ニャルラトホテプはヴィラクスを抱きしめながら頭を優しくも艶やかに撫で回す。

 

「想像しろ……。いや、追憶しろ……。この場にいる『ドール』はすべて『魔導書』に触れた者。俺の下僕であると同時に、お前の駒でもある」

 

「もちろん君は下僕じゃなくて大切な従者だけどね」と詐欺師紛いの言葉をニャルラトホテプは吐きながらヴィラクスの様子を伺う。

 

「『ドール』はすべて『魔導書』に触れた者……。つまり全ての『ドール』は私の記憶……」

 

 ニャルラトホテプに言われ、目を閉じてヴィラクスは流れる『ドール』達の記憶を辿っていく。

 

 蜃気楼のように歪んで流れる記憶は、常人なら理解できるはずがない。音も景色も解析不可能なノイズとなり、その記憶には一見して何の意味も無いものであろう。だが『魔導書』の持ち主であるヴィラクスは確かにその記憶を認識してしまう。

 

 流れる記憶は全て——『ドール』達が殺し回るサモントン市民の惨状を映し出した物であることを。

 

 ある者は四肢を引き千切られ——。

 ある者は体内を細切れにされ——。

 ある者は脳味噌を食い尽くされ——。

 

 赤子や子供となると更に酷く無惨な事になる。

 丁寧に手と足を踊り食いをされて泣き叫ぶ。あるいは抵抗できない事を良い事に、本能の赴くままに少年少女の全てを喰らい尽くす。さらには頭だけを捻り切って、宝物を抱える様に大事に持ち運ばれる者までいた。

 

 

 

「こ、これは……っ!?」

 

 その記憶を見て、ヴィラクスは頭痛に襲われる。あまりにも命を冒涜した行為の数々は、人間の正気という理性を一瞬で溶かし尽くし、理解を拒もうと生存本能が働いて少しずつ自意識を失わせていく。

 

 

 

「どうだ。『ドール』の記憶は?」

 

「くる、しいです……。いたい、です……。つらいのです……。ひとが……しんで、また死んで…………。……なぜ私、はここに……?」

 

 

 

 あまりの頭痛にヴィラクスの瞳に『正気』という光が宿る。だがそれさえもニャルラトホテプは計画通りだと言う様に、ドス黒い笑みをヴィラクスに向けて優しく言い聞かせ始める。

 

 

 

「そうかそうか。苦しいか、痛いか、辛いか。だけどこれこそが俺が知って欲しいことなんだよ」

 

「ニャルラトホテプ様が……? ……いえ、あなたは……?」

 

 

 

 ヴィラクスの問いにニャルラトホテプは答えない。そんな質問には意味がないと言う様に、自分の言葉だけをヴィラクスに向け続ける。

 

 

 

「いいか。これら全ては君を悦ばせる物なんだ。悶え苦しく様を見て、君はどう思う?」

 

「き、気持ち悪いです……!」

 

「気持ち悪い、それは正しい感情だ。だけど嫌悪すべき感情じゃないんだ。気持ち悪い、という感情はあって当然。喜んで受け入れるんだ」

 

「きもちわるいのは、よろこび……?」

 

「そうだ。だから恐れるな……その記憶は君を大いに楽しませてくれる」

 

 ニャルラトホテプの言葉に従い、改めてヴィラクスは『ドール』の記憶を覗いてしまう。当然見えるのは惨たらしく死に続ける市民の数々だ。一つだけでもマトモな人間なら耐え切れないのに、それが十、百、千と押し殺すように流れ続ける。

 

 

 

 その数え切れないほどの死の数々が、逆にヴィラクスの心を少しずつ凍らせていく。

 

 ——死なんて、こんなにあり触れて大したことがない物だと。

 

 

 

「人が死ぬ行く様はむしろ気持ちいいことなんだ。悦んでいいことなんだ。他人の不幸は蜜の味、受け入れて当然の感情なんだ」

 

「きもちいいこと……ひとがしぬのは……よろこんでいいこと……」

 

「そうだ。良い子だ、ヴィラクス。俺はそんなヴィラクスが大好きだよ」

 

「だいすき……ニャルラトホテプ様は、わたしを好ましく思ってくれる……。ひとを……不幸を招くことで、愛してくれる……!」

 

「そうだ。だから命じろ。『ドール』達に狂乱を、暴虐を、冒涜を。その混沌こそが俺とお前の悦びとなる」

 

「はい……♡ 私と貴方様の悦びのために……♡」

 

 ヴィラクスの自意識はもうなかった。ニャルラトホテプの忠実な従者として奉仕し尽くす信者となり、悦びと喜びの満ちた笑みで『ドール』から流れる記憶を楽しみながら、ニャルラトホテプと共に裂け目から見えるサモントンを観察し続ける。

 

 だがヴィラクスの視界には求める悦びはなかった。裂け目が写すサモントン都市部——。

 それはモリスの『不屈の信仰』に発生した障壁によって『ドール』の進行が阻まれ、指示に従って避難する民という2人にとって退屈で仕方がない光景しか写っていなかったのだから。

 

「……まあ『位階十席』に敵わないか」

 

「目障り……目障りだ……っ! ニャルラトホテプ様と私の絶頂を阻む者なんて……っ! こうなったら『ドール』を総動員させて……っ!!」

 

「いいや、『ドール』では力不足だ。ここは俺に任せておけ」

 

 子供を宥める様に再びヴィラクスの頭を撫でて、その無垢なる頬に口づけをすると、ニャルラトホテプは「出番だよ」と暗黒の世界に向けて言う。

 

 すると、暗黒から何とも形容し難い巨体を持った生物が『何十体』もニャルラトホテプの前に従順に足を揃えて立った。

 

 象よりも遥かに大きな体を持ち、曲がりくねった頸と繫がる頭部は馬に似た形をしている。全身は羽毛ように鱗が生え揃っており、コウモリの翼と似た皮膜が張られている。

 

 それは生物学的には『鳥』と呼べなくもない冒涜的な姿であり、それら全てにニャルラトホテプは高らかに命令を下した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——行け『シャンタク鳥』達よ。この国をカオスへと陥れてやれ」



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第3節 〜戦場を渡る鳥たち〜

「うし……。一先ずは掃除終了かね……」

 

 サモントン都市部郊外南西部にて、セレサは『ドール』の群れを刃が届く範囲で一体残らず葬り去り、現在は避難する民をマンションの上から遠目に見守って非常時に備えて細心の注意を払い続ける。

 

「……半信半疑だったけど、お嬢様特製の『治癒石』ってのはいいね〜〜。ビタミン剤とかカフェインよりも身体をシャッキリしてくれる」

 

 珍しく欠伸も眠そうな顔をセレサは見せず、口内で舐め回す『治癒石』の効力に感心していた。

 本来セレサは自分でもどうかと思うくらいに眠るのが大好きな怠け者だ。それも隙さえあれば睡眠しようと身体が覚えてしまうほどに筋金入りのだ。

 そんな習慣とも慢性的な疲労とも付かない睡眠欲がなくなるのは、現状では非常に助かるものだとセレサは考えてしまうが、同時に「これはこれでストレスだよねぇ」とも思い、上空から『ドール』を降り注ぎ続ける裂け目を見上げた。

 

「どんだけいんの……。対して強くないからいいけど、私が倒した分だけで500は超えるよ? 郊外の端に行くほど倍々で増えてるってのに、まだおかわりがあるなんて……日数単位で寝れそうにないね、これは」

 

 セレサは今度はサモントンの端の端を見つめる。そこには大体でも掴むことはできないほど豆粒なサイズに縮小された『ドール』達が何千、何万と犇めき合っていた。

「ここまで遠いと黒ずんじゃって、海苔の佃煮に見えなくもないなぁ」と呑気に思う様にするも、それでもセレサは一応はサモントン所属ということもあって信心深く、いくら救いの手がないとはいえ、人命を見捨てなきゃいけないことに思うところがあった。

 

「…………ん? なんか気配が……?」

 

 意識を研ぎ澄まして細心の注意を払っていたセレサだからこそ気づいた。周囲の空気が、何となく澱んでいる事に。

 

 それは前兆だった。季節や環境などの事情で渡り鳥が空を駆けるように、何かしらサモントンに得体の知れない何かが来るような気配をセレサは感じた。

 

「……まさかっ!!」

 

 セレサは目を見開いて天を戴く裂け目の奥を見た。あの奥から『得体の知れない何か』が来る事に確信を持って。

 

 その予感は的中する事になる。

 暗闇の裂け目。そこから形容し難い大型のコウモリや鳥のような姿を持った馬が出てきたのだ。

 

 しかし馬と言っても美しい毛並みがあるかと言われたらそうではない。かといって鳥だからと言って、包み込むように羽毛が生えているわけでもない。ワニよりも厚く荒々しい鱗で覆われており、鈍な刃や拳銃程度の小さく威力もない銃弾では傷一つ付きそうにない。

 

 劈く鳴き声は不快極まる。黒板やガラスを引っ掻いたような、あるいはカラスが甲高い悲鳴をあげるような、名状し難くも人間の聴覚に対して不快感を与える鳴き声だ。

 

 そしてその声は厚みを増していく。ウマ娘ならぬウマ鳥が次々と溢れ出し、都会の満員電車から乗降する社会人のように絶え間なく流れ続ける。

 

 

 

 その数『ドール』よりかは遥かに少ないが、実に『1万』を超えている————。

 

 

 

 それは各地に均等に向かって飛んでいく。東西南北、距離関係なく一定の間隔を空けながら、その地域にいるエージェントや市民など関係なく、目につく人間へと向けて滑空していった。

 

 その動きにセレサは違和感を覚えた。

 見たことない怪物ではあるが、とてもじゃないが知性らしい知性を感じない。それがどういうわけか統率された動きで各地で羽ばたいていくのは些かおかしく感じる。

 人間を襲うにしても、一つの対象に一斉になら分かるが、順番や役割が決まっているように動くのは野生的でも本能的でもない。

 

 

 

 ——まさか、この規格外な『時空位相波動』の発生は、過去にある国で大ダメージを負わした津波や地震みたいな震災という自然的な物ではなく、誰かが意図的に起こした物ではないか?

 

 

 

 そうセレサは感じ、すぐさま通信機を起動させてモリスへと連絡をした。

 

 

 

「モリス、聞こえてる? 緊急事態発生っ!」

 

『聞こえてますし、こちらも把握しております。なんですか、あの醜悪な鳥さん達は?』

 

「知らないよ。ただ『ドール』よりかは厄介なのは確実だね……。銃弾とかは通じそうにないし、空中で飛べる生態なのに『鱗』があるのもおかしい……防御以外にも何かしらの役割があるのは違いないけど……」

 

『情報が少なすぎて分からないと……。でしたら所感で大丈夫です。セレサからは、あの怪物は対処できますか?』

 

「見た感じ私の太刀筋なら斬れるとは思うんだけどね……。流石に『飛んでいる相手』を斬るには骨が折れるよ……」

 

 

 

 セレサにとって『飛んでいる』ことは非常に悩ましい問題であった。

 

 近代は『異質物』の影響で飛躍的に科学技術は向上はしたが、そもそも『人間』という存在自体は『異質物』研究の前後から、目覚ましい『進化』を遂げた物はほとんど確認されていない。

 

 もちろんセレサの知る限り、バイジュウやソヤ、それにアイスティーナなどは確かに『進化した人類』と言っていい特異体質を持っている。だが、それは遺伝的物ではなく、個人ごとに成長した突然変異による物であり、普遍的な存在としては認識されていない。

 

 故にどんな科学技術が向上しようと、扱うのがそういう突然変異の存在ではない以上、基準はごく普通の『人間』なのだ。

 人間は『空を飛ぶこと』ができない以上、人間を基準に『空を飛ぶ』という技術は発達しない。『飛行機』といった乗り物を駆使することで間接的に飛ぼうとする。それは『異質物』が再確認・再研究されてからもそうであり、どれだけ航空技術が発展しようとも、人間自体が『飛ぶ』という科学技術は発展していないのだ。

 

 もちろんイルカという例外は存在はするが、あれはコスト度外視、汎用性の低さ、イルカ自身の『魔女』として素質などを考慮した上での産物であり、今現在イルカがいない以上、思考に入れるのは間違いである。

 

 

 

 つまり、あの馬面鳥型の怪物に対して有効打が一切ないのだ——。

 

 

 

「……後手に回るしかないか」

 

 届くことがない刃を空を飛ぶ怪物へと向けてセレサは呟く。その内一頭と視線が合うと、怪物は何かを合図するように上空を旋回する。

 

 すると裂け目から一斉に『ドール』達が、セレサのいる区域へと飛来してきたのだ。その数は裕に100を超えており、本能の赴くままに障壁の中に入ろうと押しかけてくる。

 

 もちろん障壁内部に決して入ることはない。モリスの『不屈の信仰』は防御面に関しては絶対の絶対だ。彼女が祈り続ける限り、その障壁が崩れることは確実にないと断言できるほどに確定的と、しつこいくらい推せるくらいに。

 

 

 

 しかし、かといって24時間不眠不休で祈り続けるのは無理がある。正確にはセレサが知るモリスであれば、24時間くらいは可能ではあるが、72時間——つまり『三日』も来れば流石に限度がくる。

 

 そうなれば障壁は消えて、溜まりに溜まった『ドール』達はサモントン都市部へと流れ込んでくる。そうなったらサモントンは終焉を迎える。

 

 であればセレサが無視する理由はない。セレサがいる場所に10体ほど落ちてきた『ドール』達を、ギンと並びうる目に止めらぬ速さで『一閃』すると、全てのドール達が『全て違う太刀筋』によって身体が『三つ以上』に切り裂かれた。

 

 その剣技にしても抜刀術にしても不思議な太刀筋を見せるセレサだったが、それだけ終わるほど『ドール』は甘くない。

 再びセレサのいるところに10体は補充されると「面倒だな」とセレサは感じながら、再び刀を抜こうとすると——。

 

 

 

「——ッ!?」

 

 

 

 刹那、空で旋回していたはずの怪物が急降下して、その鉄さえも引き裂く鋭利な牙で噛み付いてきた——。

 

 

 

「ちっ……。こういう時だけ『ドール』達と連携するなんて……っ!」

 

 既のところで回避し、セレサは迎撃しようとするが、怪物はそれよりも早く上空へと再び上昇して安全圏で羽ばたき続ける。回避動作で抜刀動作を取れないのに乗じて『ドール』達も襲いかかるが、そんな隙はセレサにとって隙ではない。

 

 素手となっている右手で空気や風を掴み、気を澄ましてセレサは『ドール』の身体を切り刻む。それは以前セレサが新豊州に訪れた際、レンにその身体へと手解きした技と全く同じであり、それよりも卓越した技量を持って『ドール』を退けたのだ。

 

 しかし、それでも『ドール』達は当人達がどれだけ飽き飽きしようが増加を止めはしない。先ほどよりも多く20体はセレサの下に降り注ぎ、次々と波のように寄せては引いてを繰り返して襲いかかる。

 

 もちろん何体増えようがセレサが対処できない物ではない。瞬時に切り裂いて、切り裂いて、切り裂いて切り裂いて、切り裂いて切り裂いて切り裂いて——。

 

 その繰り返しの最中、僅かな隙を的確に見極めて馬面の怪物は再び急降下攻撃を行い、今度はセレサはマントに食らい付いて引き裂いた。

 

「こいつ……っ!」

 

 しつこいくらい増え続ける『ドール』を相手にしながらセレサは気づく。気味の悪い見た目に反して、怪物が取っている戦法は堅実かつ狡猾な物だと。

 

 安全が保証されている空中で待機し、その間に『ドール』による物量作戦で強引に隙を作り出し、それを突いて一方的に強襲をして即離脱する。俗に言う『ヒットアンドアウェイ』と呼ばれる物だ。

 

「こっちは鳥の相手はできないってのに……!」

 

 かといって怪物を狙うことはセレサには不可能ではないが、些か博打が過ぎる。高さとしては10mくらいであり、飛ぶのではなく『跳ぶ』のであればセレサの超人的身体能力もあれば届く事自体は可能だ。

 

 問題は『跳んだ後』のことだ。跳んだとしても、人間は空中では自由に移動できない。もしも斬撃を躱されたら決定的な隙を見せて怪物に噛み砕かれるし、仮に怪物を屠ったとしても、自由落下した際に地面を埋め尽くす『ドール』相手にはどう対処すればいい。地面がなけれは足先に力を込めることはできず、剣技も抜刀術も戦闘技能として活かせない。人間は地に足を付けることで生きていた生物なのだから、空中での戦い方など身につくはずもないのだ。

 

 かといって今のままでは『ドール』達の相手をした隙の怪物は襲いかかって、いずれは致命傷と言わずとも動きに支障をきたす傷を負うこともある。そうなれば『ドール』の物量で蹂躙されるのは目に見えている。

 

 ならば『ドール』の相手をせず、怪物と牽制し合うのはもっとダメだ。そもそもサモントン都市部の防衛戦は『ドール』の総数を可能な限り減らすための物であり、それを熟せないのは本末転倒だ。それは自分だけが助かる手段であり、決して民も仲間を救う手立てではない。

 

 

 

 せめて、どうにかしてあの怪物に届く『足場』さえあれば——。

 

 

 

 そう思った瞬間、空とサモントン都市部が煌めいた。

 光を乱反射させて存在感を際立たせ、光と光は繋がり、やがてそれは御伽噺のように煌めく橋となってサモントン都市部の空を覆った。

 

 どういうわけか理解が追いつかず、現状を把握するためにセレサは『ドール』と怪物の集中力を切らさないまま、その空中に漂う『光の橋』の見つめた。

 

 煌めく光を繋ぐ物——。その正体とは何なのか——。

 

 

 

「——『氷』?」

 

 

 

 その正体にセレサは驚愕した。その反応は当然であり、空中にはほぼ透明に近い『氷の橋』が架かっていたのだ。

 どうして氷点下でも絶対零度でもない環境下で『氷』が生まれるのだ? そんなのは『常識』では考えられない。『超常』の現象なのだ。

 

 

 

 つまり『魔女』もしくは『異質物』による力で発生した『氷の橋』——。

 

 

 

 セレサが思考を続けるの同時に、その空中に漂う氷の足場には見覚えのある人物が何人も駆け上がって、空を制する怪物の首を一刀両断していく。

 

 どうあれそれは起死回生の一手となり、一先ずはセレサの危機を脱して滞りなく眼前の『ドール』をすべて屠った。残る怪物も、その人物が確かに一頭ずつ落としていき、このサモントン都市部の危機を脱した。

 

 これで万事解決——。というわけにいかない。

 疑問は尽きていない。セレサには怪物以上に不思議なことが目の前に起きていたのだ。

 

 その疑問とは怪物を倒した人物にあった。より正確には、その人物の数に問題があったのだ。

 

 迎え撃つ人物の名をセレサは知っている。

 金髪のロングに、露出過多な機動力重視の装備は彼女が知る『ハインリッヒ・クンラート』が戦う姿で相違ない。そこは間違いない。

 

 

 

 問題は——。

 

 

 

「あれも……そこにいるのも……ハインリッヒ!?」

 

 

 

 

 ——そう。ハインリッヒが『何十人』と現れて、怪物へとその刃を叩きつけていることなのだ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……『シャンタク鳥』ですか」

 

 時間は少し巻き戻り、ハインリッヒもセレサと同様に『ドール』を屠りながら空を見上げる。そこにはハインリッヒが知る馬面鳥型の生物である『シャンタク鳥』の姿が空を覆っていた。

 

 その内一頭がハインリッヒに狙いを定めて、シャンタク鳥は旋回して『ドール』を呼び寄せていく。それはセレサを苦戦させた『ヒットアンドアウェイ』の合図だ。

 

 だが、それは空中での戦う手段を持たない相手に限る。ハインリッヒは即座に『ラピスラズリ』と『フラメル』を握りしめて、空を『跳び』——そして再び『跳んだ』

 

 

 

 ——その足の裏に、空中で足場のようになって浮かぶ『氷塊』を出現させて『跳んだ』のだ。

 

 

 

「わたくし相手には、それは分が悪いですわよ?」

 

 その光景をシャンタク鳥は馬面ながらも驚きに満ち、一瞬でその首を断ち切った。

 

 ハインリッヒは襲名通り『錬金術師』であり、その能力の汎用性は極めて高い。火を起こそうと思えば起こせるし、水を生み出そうと生み出せるし、風を吹かそうと思えば吹かせる。

 

 錬金術の基本である『四元素』をハインリッヒは当然扱えるのだ。

 ソヤを追い詰めたガブリエルの『水』を『氷』にする技術なんて、ハインリッヒからすれば既に辿り着いた真理の一つ。赤子を捻るより容易く行えるのだ。それこそ『OS事件』で『マーメイド』と戦うために、海上を凍らせて走ったように。

 

 それを応用すれば空中に氷の足場を作るのは、ハインリッヒに造作もないことだ。

 大気中には水分が漂っている。それを集めて凝固させれば空中に『氷』を出現させる程度なら容易く熟せるのだ。自由落下中にもハインリッヒは氷の足場を作り、安全に着地して再び地上の『ドール』への応戦を再開させる。

 

「……しかし数が多すぎますね。わたくし一人では、あの数をすべて倒すのには……まあ、障壁が持つまでには不可能ですね」

 

 片手間に『ドール』を相手にしながら、ハインリッヒは思考を巡らせる。『ドール』もシャンタク鳥も、ハインリッヒにとって雑兵も雑兵だ。しかし数が多くなれば、雑兵でも処理が追いつかない。どんなに強力な人間でも1人で相手をするには、どうしても限度があるのだ。

 

 

 

 わたくしが『複数人』いればいいのに——。

 そんな世迷言みたいなことをハインリッヒは考え——。

 

 

 

「……ああ。そうすればいいだけですね」

 

 何を思いついたのか、ハインリッヒは良からぬ笑みを浮かべて『ドール』の四肢を切り裂いたのだ。『ドール』というものは普通の人体は違い、四肢を切られようと頭が吹き飛ばされようとも、完全な機能停止になるまで消えることはない。四肢を切られても『ドール』は健在であり、残った頭部と胴体を持って、本能の赴くままに対象を殺そうと動き続けるのだ。

 

「ちょっとその身体、永遠に借りますわよ」

 

 だが、ハインリッヒにとっては『ドール』が死なずに抵抗する力を弱めることが狙いだった。何体か同様に四肢を切り裂いたところで、ハインリッヒは『フィオーナ・ペリ』の効果を使って『ドール』の動きを極限にまで遅くして、その『ドール』達へと自分の血痕が付いた手を翳した。

 

「『人体錬成』は錬金術師にとって禁忌ですが……『真理』に到達したわたくしには些事なこと。『等価交換』の原則に従い、貴方達20人ぐらいを『生贄』にしてさしあげましょう——」

 

 

 

 するとハインリッヒの手から稲妻が迸るように光が瞬き、拘束した『ドール』達を包み込んだ。蛹状となって包み込み、その膜は薄く、光を発すること内部が透けて、その中では『ドール』が泥のように溶けて混ざり合うという冒涜的な光景が繰り広げられる。

 

 そして暫時が経つと、蛹は爆発するようになくなり『1人の女性』が姿を見せた。

 

 服を一切纏わぬ生まれたままの姿で悠然と立ち上がる金髪の女性。それが夢遊病で彷徨う人間のように朧げな手つきで、その手に『ラピスラズリ』と瓜二つの剣を生成すると、これまたハインリッヒと瓜二つの戦闘服を身に纏う。

 

 

 

 それはもう見間違えようもなく『ハインリッヒ』だった——。

 ハインリッヒ自身の錬金術で、『ハインリッヒ』を作り出したのだ——。

 

 

 

「人体錬成、成功ですわね——。まあ、マスターと違って不良品ですし、わたくしよりも遥かに格下な模造品ではありますが……あなた方やシャンタク鳥程度なら十分でしょう」

 

 

 

 ハインリッヒ本体の言葉に嘘偽りはなく、作り出されたハインリッヒは表情もぎこちなく、瞳に生気を感じはしない。

 そして、その実力も嘘偽りなく、多少動きは杜撰ではあるが『ドール』では手も足も出ない高速の剣劇を持って、一瞬で10体以上を四肢を切断して無力化させた。

 

 そして、それさえもハインリッヒは新たな素材とし、次々と『ドール』を素材としたハインリッヒを量産していった。

 

 1人、また1人と増え続け——。

 やがてそれは『ドール』ほど無尽蔵ではないが、『百人』近い量産型ハインリッヒが生成された。

 

 

 

「行きなさい、わたくしの写し身——『ドール・ハインリッヒ』達よ」

 

 

 

 こうして量産型ハインリッヒはサモントン都市部に放たれる。

 ハインリッヒ本人が錬成した『氷の橋』を渡り、量産型ハインリッヒがシャンタク鳥達を撃墜していく。

 

 これがセレサの前で起きた不可思議な現象の経緯だった——。

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

「最低だな、ハインリッヒ。いくら命も自意識もないとはいえ、人形のように扱うなんてなぁ。俺にはできないよ」

 

「その通りです、ニャルラトホテプ様。私と貴方みたいに、お互いに大事に思いながら愛し合わないなんて……」

 

「そうだねぇ……。そういう順々な君が好きだよ」

 

 暗闇の世界で2人はサモントンの様子を見守る。切り札のように放ったシャンタク鳥は、ハインリッヒの策で大した戦果も挙げられずに落とされた。

 なのにも関わらず、若干焦燥するヴィラクスとは違い、放った当人であるニャルラトホテプや余裕な笑みを浮かべ、むしろサモントンを称賛するように拍手を贈った。

 

「シャンタク鳥は使い物になりませんし、また何かしらの策を講じますか? 貴方様が手を出さないなら、私が策を巡らせますが」

 

「いいんだよ。完全無欠の詰みゲーをしたら、人の心は死ぬんだよ。絶望もせずにゆっくりと……何の面白みもなくね」

 

 ニャルラトホテプはその両腕で優しく包み込んでいるヴィラクスの顎と頬を撫でる。本当にその手には苛立ちなどはなく、ヴィラクスに八つ当たりすることもなく、心の底からそう思っているように呟く。

 

「希望を与えられ、それを奪われる……。その絶望へと変わるまでの一瞬が一番楽しいんだ。ヴィラクスは俺の指示するまでサモントンを見てるだけでいいんだよ」

 

「失礼しました……! ニャルラトホテプ様の楽しみを奪うような発言をしてしまい……!!」

 

「許すよ。君は俺の従者だ。我儘も言ってくれないと、こちらも楽しみがいがない」

 

 ニャルラトホテプはヴィラクスの頬に口づけをする。それに熱を持ったヴィラクスは、自意識がなく洗脳された傀儡である事実を知らず、哀れにも頬を真っ赤にさせた。

 

「……しかし、無礼ではあるのですが、ここからの策はいかがなさいますか? 使い捨てできる駒は現在も投下中……。ハインリッヒを筆頭に『位階十席』では、このままでは手出しできません」

 

「そうだねぇ、まあ焦る必要はないさ。『ドール』は『無限』ではないが『無尽蔵』ではある。このまま一ヶ月とか放置しても尽きないほどに。ゆっくりと考えても問題ないのさ」

 

「でしたら……私から提案があるのです——」

 

 

 

 そう言うと、ヴィラクスは撫でられた頬を愛しむように指でなぞりながら、ニャルラトホテプの方へと振り返る。

 その瞳は『何か』を求めるように潤んでおり、夜伽を誘う生娘のように恥ずかしくも艶かしい吐息混じりで呟く。

 

 

 

 

 

「——産みましょうか? いえ……産ませてください。私が精一杯貴方様のためだけに奉仕し、貴方様のためだけに愛しい子を……この胎を持って……降臨させるのです」

 

 

 

 

 

 お腹を撫で、誘うようにヴィラクスはスカートを摘み上げる。そのスカートの中には、少年が求めるような夢見る純情な気持ちはない。卑しい『女』としての欲望がこれでもかと爛れていた。

 

 ニャルラトホテプも、その模した少年という少女の肉体の影響からか、そんな強引な誘い方をし、あまつさえ目の前にある下着が生々しく濡れ滴る様を見て、僅かに赤面を浮かべると——。

 

 

 

 

 

「……君がそこまで気にする必要はない。君は純情のまま尽くす在り方のほうが好ましい」

 

「左様ですか……」

 

 

 

 

 

 その誘いをニャルラトホテプを拒否した。それは模したレンが持つ純情さが及ぼした影響であり、ニャルラトホテプ自身も内心「何を気を使う必要があるんだ」と呆れながらもヴィラクスを見つめ直す。

 

 拒否された本人は、本当に残念がる様子で涙ぐむ。

 私は愛されていないのか——。従者であるはずなのに、奉仕することも許されない。これでは自分は『ドール』未満の愚者であると不甲斐なく感じて。

 

 それを見てニャルラトホテプは、何とも言えない表情を浮かべて告げた。

 

「……必要になったら俺が孕んで産むさ。愛しい我が息子をな。そのために……この身体を模したのだからな」

 

「身体……レンちゃんの物ですか?」

 

「ああ。とはいっても、まだ外見だけ模しただけだ。その全てを真似ているわけじゃない。…………慣らすには、時間が必要なんだよ。『善は急げ』というなら『悪は延べよ』だ。戯れ程度で相手をする方が楽しめる」

 

 ニャルラトホテプの言葉を聞いて、ヴィラクスはさらに涙ぐむ。

 言葉通りなら自分がここにいる意味などどこにもないことに、傀儡ながらも不安な気持ちを抱いて涙を溢れ出させる。

 

「では……私を何をすれば貴方様に尽くせるのですか……? 子を孕むのが貴方であれば、私は何のために……」

 

「ヴィラクスは側に居てくれるだけでいいんだ。俺は感情が全て内包するからこそ感情が生まれない。故に俺に代わる感情の受け皿が必要なんだ」

 

 

 

 その言葉に、ヴィラクスは救いのように顔を晴れさせてニャルラトホテプを見上げた。

 

 

 

「俺の代わりに喜び、怒り、悲しみ、楽しむ。——それが俺が君に与える役割なんだよ。君にしかできない……だからそれに尽力してくれればいい」

 

「なるほど……流石はニャルラトホテプ様です……♡ 浅はかな私とは考えてることが壮大であります……♡」

 

 

 

 心の底から崇拝するようにヴィラクスは瞳を潤ませ、頬を紅潮させ、吐息を嬉しそうに吐き出し続ける。

 

 それは発情期を迎えた犬や猫にも似ていて——。

 思わずニャルラトホテプは笑ってしまう。これだから人間は弄りのを辞められないと。

 

 

 

「……そういえば彼女は今、どうしてるのですか?」

 

 ニャルラトホテプの言葉を受け入れ、冷静さを取り戻したヴィラクスは、ニャルラトホテプが模した肉体の本体であるレンの所在について問う。

 

 その返答にニャルラトホテプは、ヴィラクスが抱える『魔導書』を優しく突くと、子守唄を歌う様な優しい声で言った。

 

 

 

「『夢』を見てるのさ——。温かくて、柔らかい……二度と目覚めたくないほどに幸福な『夢』を——」



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第4節 〜あたたかくて、やわらかくて〜

 ——頭痛がする。

 ——猛烈な頭痛だ。

 

 

 

 まるで酷い『夢』でも見たかのような……。

 そんな……重くて鈍い痛みで……。

 

 

 

「……生理、ってわけでもないよね」

 

 

 

 倦怠感を呼ぶ頭痛だが、いつまでもベッドで横になっているわけにもいかない。今日も今日とて学校があるんだ。寝坊したら、いつものように怒られるんだから、惰眠を貪ってる暇はない。

 

 

 

 …………『怒られる』? 『いつものように』? 

 

 …………いったい誰が怒るんだ? 家族か?

 

 

 

 何を考えているんだろう、私は。

 私にはそんな家族はいない。いるのは——。

 

 

 

「おはよう、お母さん!」

 

「おはよう、レン。寝癖ついてるわよ?」

 

「え、本当? 後でちょっと見てくる!」

 

「パパには挨拶はないのかい?」

 

「もうパパって呼ぶ歳じゃないよ、お父さん……。あと、おはよう!」

 

「ああ、おはよう」

 

 

 

 私をこんなにも優しく愛してくれる『お父さん』と『お母さん』がいるんだ。2人とも科学者で忙しい身であるはずなのに、家族同士の触れ合いを大事にしてくれる。

 

 必要以上に怒りはしないし、怒ったとしてもそこには愛情がある。こんな家族の元に産まれてこれるなんて私は幸せ者だ。

 

 

 

「お父さん、研究はどうなってるの?」

 

「レンもそういうのが気になる年頃か?」

 

「うん! だって『七年戦争』があって…………あれ?」

 

 

 

 ——『七年戦争』って何? と私の中で浮かんだ。

 

 

 

 そんなゲームにしか出てこないような名前がどうして浮かんできたんだろう。

 確かに私達が住む学園都市『新豊州』はゲームみたいに近未来ではあるけれど、それはこの『日本』という国において科学技術の最先端研究の都市として認定されたことによる援助を受けているからだ。

 

 その研究成果もあって『異質物』という過去の遺産……俗に言う『オーパーツ』とか『アーティファクト』とか『ロストテクノロジー』と呼ばれる類の技術も現代では復元できるほどになった。それに伴い技術力も飛躍して、世界はもう資源問題、環境問題、絶滅危惧種といったあらゆる問題とは十年以上前から無縁になって自然と共存している。今では宇宙や海底に生活圏を伸ばそうと奮起できるほどに、地上は豊かになったのだ。

 

 なのに、それらを奪い合う『戦争』なんて言葉が出てくるなんて……。やっぱり変な『夢』でも見ていたのだろうか。思い出せないけど、そんな嫌な『夢』なら思い出さない方がいい。

 

 

 

「……ともかく! 研究はどうなってるの? 私だってお父さんとお母さんの子供なんだから、将来は立派な科学者になるために知りたいの!」

 

「あれは難しいからなぁ。口で説明するにはちょっとなぁ……」

 

「じゃあさ! 今日、お父さんとお母さんの研究所に見学しにいくよ! 今日の課外授業でどこかの研究機関に行かないといけないからさ」

 

「おっ、それはいいな。急ではあるが、まあ私の言伝なら何とかなるだろう。母さんもそれでいいかな?」

 

「……いいと思うわ。この子には、早いとは思うけど……」

 

 お母さんの歯切れが悪いなぁ……。

 やっぱり私みたいな普通な子にはまだ早いのかも……。

 

「……レンが選んだことだから、私は親として力を貸してあげるわ。今日は楽しみにしてるわね」

 

 と思ったらすんなりと認めてくれた。困ってる様な、悪戯したい様な、そんな曖昧な笑顔を浮かべて。

 

 もう……昔からお母さんはお父さんと違って意地悪だ。

 私がゲームをする時だって、無理に「やめなさい」とか言わずに、あえて無理難題な目標をゲームの中に立てて、こちらのやる気を削ごうとするところとか……。

 

「じゃあ、朝食でも食べましょう。レンの大好物なオムレツも作ったから」

 

「やったー!」

 

 でも、そんなお母さんが私は好きだ。

 どんな時でも私のことを考えてくれるお母さん。研究者として最前線に立つのに、こんな凡庸な私を愛してくれるお母さん。

 

「父さんを仲間外れにしないでおくれ〜〜」

 

「分かってるわよ。サラダに合うシーザードレッシングも用意してるから」

 

 ——もちろん、それはお父さんもだ。

 私は、この両親と一緒に毎日いられて本当に嬉しい。

 

 食卓に料理が並ぶ。炊き立てのご飯に、昨日作り置きしていた豆腐とワカメの味噌汁。主菜にはソーセージとネギを混ぜた特製半熟オムレツ、副菜には胡瓜とトマトとサニーレタスのサラダと食欲を唆る彩りだ。

 

 それを家族で囲い、手を合わせて今日の始まりを告げる。

 

 

 

「「「いただきます」」」

 

 

 

 どうしてか……毎日食べてる馴染み深い味なはずなのに、何故か心の底から涙が出そうなほどに、その料理を味合う自分がいた。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「おはよう、アニー!」

 

「おはようさん! ……って、寝癖ついてるよ?」

 

 ……忘れてた、寝癖治してくるの。

 通学バックから愛用の赤い手鏡を出して確認してみるが、旋毛付近の髪がツノみたいに纏まって跳ねている。これは軽く水を付けて均すのも、櫛で解かすのも難しい。今日は整髪用のヘアスプレー持ってきてないし……どうしよう。

 

「レンお姉ちゃん、私が直してあげる」

 

「ありがとうな、イルカ……」

 

 とか何とか考えていたら『アニーの可愛い義妹』であるイルカが、その小さな身体を私に乗り出して髪を整え始めた。

 その手には整髪用の水掛けスプレーがあり、中等部なのに小学生みたいな小さな指を駆使して髪を解かしてくれる。

 

「へいっ。これで出来上がりだよ、レンお姉ちゃん」

 

「本当にありがとう……」

 

 解かし終えてくれたイルカに礼を言いながら、コアラのようにしがみつくイルカを離す。昔もこうやって事あるごとにくっ付いて、抱っことかおんぶとか催促されたな。

 

 

 

 その度に重くて背中が折れそうに…………。

 

 そう、昔は…………。

 

 重くて……背中が……。

 

 

 

「……イルカってこんな風に喋る子だったっけ?」

 

 それにここまで軽かったかな? 

 私の中だと、イルカの重さが背骨に支障出る感じだった気がしてならない。

 

 それに昔というが、私の中でイルカの幼少期のイメージが浮かばない。イルカやアニーとの付き合いは、研究者である両親が同じく研究者であるマリルさんとの交流があったからだ。それは今に始まった事ではなく、私が物心付く前からであり、であれば2人との交流も幼年期からとなる。

 

 

 

 だというのに『思い出せない』——。

 2人の幼年期の姿が、綺麗さっぱり出てこないのだ。

 

 

 

「? 私はいつもこんな感じだよ? ね、アニーお姉ちゃん?」

 

「うん。レンちゃんどうしたの? 調子悪い?」

 

 

 

 ……今日は今朝から妙な違和感を覚える。私の中で、辻褄が合わない情報が繋がっているのような……。まるで世界が今できて、それに強引に帳尻を合わせるような……何かが違うことが漠然と私の中で擽る。

 

 でも分からない。何が違うのか、私には何も分からない。

 だけど……とても重要な事な気がする。この違和感は確かな事なのに……どこがおかしいんだろう。

 

 こんな普通の生活のどこに、違和感があるというんだ——。

 

 

 

「何やってんのよ、あんた達」

 

「げっ、ラファエル……」

 

「げっ、って何よ。アンタまだ私の方が先輩だって自覚が足りないの?」

 

「だってラファエル、お嬢様なのに妙に俗物なところあるし……」

 

「何よそれ。美味しい物は美味しいでしょう。それが卵かけご飯だろうが、ピザトーストだろうが、業務スーパーで半額シール貼られた刺身の盛り合わせだとしても」

 

「そういう庶民的なところなんだよなぁ……」

 

 

 

 ……気のせいだろうか。ラファエルと話してる時には違和感を感じない。少なくともその時までは。

 

 次の言葉を聞いた瞬間、心の中で疑問は再び爆けることになる。

 

 

 

「行くわよ、レン。あんたのせいで私が遅刻したら、サモントンの貴族としてはみっともなくて、お兄さま達に合わせる顔がないわ」

 

 

 

 ただ名前を呼ばれただけなのに、ただ普通に学校生活を送っているだけなのに、ただラファエルがお嬢様してるだけなのに、妙にざわついて仕方がない違和感が体内を擽る。

 

 何か……何か絶対におかしいところがある。

 でも、それが私には分からない。分からない事が分からない。

 

 

 

 私は——いったいどうしちゃったんだろう。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……まあ、分からないのは普段の授業もそうなんだけどね」

 

「どうしたの、独り言して? リアルTmitter系女子になったの?」

 

 こちらの呟きを迅速に反応するアニーに、私は苦笑いを浮かべて「そうかも」と頷く。

 

 今朝の違和感は今朝までだった。何の変哲もない授業に、私はいつも通り頭を悩ませた。そこには違和感などなく、いつも通りに分からないと疑問符を浮かべるアホ面があったに違いない。

 

 …………気のせいということは絶対にない。

 今朝のどこかに普段とは違う部分があって、そこに違和感を持っていたのは間違いない。

 

「……まあ、今はいいか」

 

 そうやって自分を今は半ば無理やり納得させて、本日最後の授業である研究機関での課外授業が始まる。向かう先はただ一つ。私の両親がいる『スティールモンド研究センター』だ。

 

 課外授業と言っても、特に班分けされているということはなく、学校の目が届く場所であれば、事前にそこに行くことを伝えておけば個別に向かっても許されるのは我が学び舎の校風だ。おかげでこうしてアニーと2人で来ても問題なく申請が行え、係員の指示の下に見学用のIDカードの発行と、手の甲に赤外線を通して確認できる透明な判子という二重のセキュリティを準備して中へと向かった。

 

「おっ、来たか。小娘ども」

 

「今朝ぶりだね、マリルママ」

 

「こんにちわ、マリルさん」

 

「さん付けはしなくていいと言ってるだろう、レン。君の両親とは個人的にも付き合いがあるんだ。気軽にマリルと呼んでいいんだぞ?」

 

 そんなこと言われても、マリルさんは博士号持ちだからな……。それにSS級科学者として世界中で重宝される存在だから、自分とは住む世界が違うというか……。

 

 もちろんウチの両親も2人ともS級科学者だから、違う世界に生きてる価値観は理解できるけど……それはそれ、これはこれというやつだ。

 

「ええっと……マリル、さん。お父さんとお母さんはどこにいますか?」

 

「……まあ、そういうところがお前の可愛いところだよな」

 

 ……マリルさんに可愛いと呼ばれると、どうしてか背中のあたりがくすぐったくなる。言われ慣れてるはずなのに……どうしてだろう。

 

「お前の父さんと母さん、『ランドルフ』と『リン』は今回のためにある資料を持ち出してる最中だ。とっておきだから口外するなよ?」

 

「とっておき!? じゃあ未公開な『異質物』の情報ってこと!?」

 

「そういうことだ。とはいっても、ある程度整理された物だがな。推敲前の原稿みたいな物で、それを一度閲覧して問題ないなら公表するというものさ。出来立てホヤホヤだぞ〜〜?」

 

 それを聞いてしまうと、思わずワクワクしてしまう。まるでロボットとかに男の子みたいに瞳を輝かせて、今か今かと待ち望む自分がいるの少々気恥ずかしくなるくらいに。

 

 

 

「——ん?」

 

 

 

 …………『男の子』みたいに?

 

 

 

 

「…………何か思い出せそうな」

 

 

 

 どうして『男の子』という単語に反応してしまったのだろう。頭の中で今日一番の大きい違和感が住み着く。

 

 産まれてからこの方、男の子と遊んだことはあるけど、特に印象的なことはなかったし……。特別意識する様な異性なんていなかったはずだ。

 

 だけど、どうしてか『男の子』という部分に強く惹かれる自分がいるそこに何か大事な……その『男の子』という部分に、私の大事な何かがあるような気がしてならないと、そう確信できるほどに、強く惹きつけられる。

 

「……まさか自分が『男の子』だとか?」

 

 なわけない。私の記憶通りなら、私はしっかりと血の繋がった父親と母親の子として『女の子』として産まれ、今のいままで生きてきた。

 そりゃ、当時はやんちゃだったから男の子みたいと呼ばれることもあったけど…………今は流石に恋と青春を夢見る女子高生だ。昔みたいに男の子と間違われることはない。ラファエルと比べたらそりゃ見劣りするけど、これでも女性としてスタイルが恵まれてることは自覚してる。

 

 そんな私が『男の子』だったなんて……。

 冗談で言うにしてはいき過ぎてて面白くない。私の黒髪と顔つきは母親譲りで、つむじの向きと鼻の形は父親譲りだ。これこそが私が『女の子』として2人から産まれた証拠になり、それを疑うことは両親に対して失礼だ。きっとこの感覚は……私が『男の子』だったなんて勘違いなんだ。

 

 だけど、同時に脳内で警鐘が鳴る。それを勘違いで済ませてはいけないと。見過ごしたらもう拾い上げることはできないと。

 

 そして、ふとある映画のセリフが浮かんできた。

 

 

 

 

 

 ——『記憶は思い込みだ。記録じゃない』

 

 

 

 

 

 ……胸と脳がムカムカする。答えが分からない疑問ほど気持ち悪い物はない。何とかして解消しないと落ち着くことができない。

 

「来たか、レン! お望みの物を持ってきたぞ」

 

「お父さん……」

 

 悩む私にお父さんが声をかけてきた。横には研究資料を山ほど抱えた母がいて、私は「持つよ」と言って、その一部を運ぶのを手伝う。

 

 …………今は課外授業の最中だ。難しく考えるのはまた後で大丈夫だろう。別に今すぐ急いで解消すべき難題ではないし、解決したところで私自身の溜飲が下がるだけだ。優先順位なんて無いに等しい。

 

 そう、焦る必要なんてないんだ。この違和感は時間が経てばどうにかしてくれるだろう。解決するなり、忘れるなり、どういう形でもいずれ解消されるんだから、今すぐ求める理由なんてないんだ。

 

「今日はどんな資料を見せてくれるの?」

 

「ふふっ、今あなたが持っているのが今日の目玉よ」

 

 母さんに言われて思わず仰天する。だって今の俺が持つ研究資料はよくあるA4ファイルであり、それは使い切った大学生のレポートのまとめのように紙が嵩張った厚いだけのファイルにしか見えないからだ。

 

 ……これ全部が研究成果ということだろうか? 

 

 両親に聞いてみると、2人は「そう」とアッサリと認めた。

 

「本格的な話は腰を据えてするが、それはある日突然、宇宙開発機関として第一線である『バイコヌール宇宙基地』が飛ばした衛星に届いた情報について記載されてるんだ」

 

「宇宙からって……別惑星の隕石とか宇宙人の細胞とか?」

 

「発見されたら、それはそれで貴重だけど違う。届いたのは『情報』…………つまりは『メッセージ』に近い物なんだ」

 

 

 

 ——メッセージ。それのどこに研究に魅入られる要素があるのか。私にはちょっと理解しにくい。

 

 

 

「『メッセージ』というが、残念ながら人類の歴史において一度も発見されていない物で、ここにある『メッセージ』は文字にすることも言語化できないんだ。だからこそある事を裏付ける証拠になる」

 

「それが裏付ける証拠になる?」

 

「ああ。人類の歴史……地球上で今まで一度もなかったということは、この『メッセージ』は『どこからきて』『誰が出したのか』ということに行き着く。これはもう一つしかない、『宇宙人』だ。フィクションでも何でもない『宇宙人』に値する存在が確かにいることの証明でもあるんだ」

 

 そう考えると途端に魅力的に見えてきた。

 

 宇宙人からのメッセージ——。確かに研究する価値は大いにある。人間は人間としか会話できない。犬や猫と意識の疎通することまでしかできず、他種族との本当の理解への道のりは険しい。

 

 しかし『メッセージ』があるというのなら話は別だ。相手からの明確な意思表示があるというのなら、これをキッカケに『会話』をすることができるかもしれない。

 

 

 

 地球人と宇宙人の会話——。

 それは魅力に満ちた甘美な物だ。

 

 

 

「現在我々研究者はこのメッセージの解明中の物でね、少しずつ解読はしているのだが、未だに謎が多いんだ……」

 

「解明中……」

 

 

 

 確かに出来たてホヤホヤというか、何というか……。自分の親ながら凄いものを持ってきたと感心してしまう。

 テッキリ、もう研究が終わってる情報を持ってきて、その発展性を学生とかの若い発想も取り入れる系の課外授業になるかと思っていたのに……。まさか本当に未完の研究を持ってくるとは……。

 

 

 

「まあ、おかげでこうして持ち出すこともできるんだけどな。私と母さんがいる研究チームは、この『メッセージ』に対してある呼称を与えて研究しているんだ」

 

「呼称?」

 

「ああ。解読するたびに謎が謎を呼ぶ……。解読すれば新しい法則を見つけては、一から研究を見直すことになる……。まるで間違いがあったら成立しない『方程式』のようにね」

 

「だから父さん達はこの『メッセージ』をこう名付けた」と子供のように目を輝かせて、その名を告げる。

 

 

 

 

 

「『ルーシュチャ方程式』とね——」

 

 

 

 

 



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第5節 〜欠片でも、希望を胸に〜

「ふぅ……。皆様お疲れ様です」

 

「随分と疲弊してるわね、モリス。三日ほど寝なくても家事全般できるタフな貴方からだと想像つかないわ」

 

『時空位相波動』発生から約30時間——。

 ようやく市民の避難と都市部周辺にいる『ドール』を排除したところで、モリス達が所属する『ローゼンクロイツ』の『位階十席』は最も安全な場所であろう『ヴェルサイユ宮殿』にて、ラファエル達と落ち合っていた。

 

 揃いに揃って総勢9名——。しかし、その全てが無事とは到底言い切れなかった。

 

 モリス、セレサ、ハインリッヒ、ラファエルは無傷ではあるが、各々の事情があって疲弊し尽くしている。ラファエル以外は30時間という超長時間での防衛戦で精神的に参っており、ラファエルは先の戦いで負傷したソヤ達の治療もあるが、『ヴェルサイユ宮殿』へと避難はしたものの負傷した市民を手当てをするということあって回復魔法を常時発動してしまっていた。市民には『魔女』だということがバレないように注意を払ったのも疲弊を助長させている。

 

 ソヤ、バイジュウは治療を終えて意識はあるが、絶対安静状態で戦いに行くことはできない。特にバイジュウは深刻であり、失った視力を戻すのや視界を慣らすのにラファエルの『回復魔法』を持ってしても、一週間以上掛かると予想されている。

 ではソヤはどうかというと、二日ほどで完治する見通しではあるが、問題は別の点にあって戦いに行くことはできなくなっていた。

 

「……代用品とかはなさそうですわね」

 

 それはガブリエルとの戦いで、自分が持ち出して武器である『掃除屋Thanatos』は爆発したことで木っ端微塵になって使用できなくなったのだ。ソヤの戦闘技術は独特な所があり、普通の剣や銃器は手に合わずに十全に力を発揮することができない。故に専用品である必要性があり、それはソヤの力を完全に引き出すのと同時に、そこに潜む脆弱性が今この場で影響してしまっている。

 

 ソヤは内心「エミリオさんみたいに能力で武器を作ることができれば」と無い物ねだりしてしまうほどに、その事実は今の状況では深刻な問題だった。

 

 唯一完全に無事と言えるのは、この場において味方として扱っていいのか不明瞭なセラエノだ。それに拘束状態で気絶して沈黙するアレンとガブリエルも同様と言える。

 だが、そのセラエノのおかげでこの場にいる全員が誤解もなく現状を把握できている。ウリエルを模していたニャルラトホテプが、ヴィラクスを『魔導書』諸共操って今回の騒動を起こし、それを予知していたガブリエルは例え汚名を被ろうとも未然に防ごうとしたことを。

 

 

 

 ——そして、そのニャルラトホテプは現在『レン』の姿となっていることも。すべて包み隠さず、ありのままにセラエノは口頭で説明した。

 

 

 

「事情は詳しく把握しましたが……ややこしいことをしてくれますね、そのニャルラトホテプという生命体は」

 

「そうだ。アイツが今回の件に関して介入してきたのが、今の騒動の原因になっている。お前達からすれば迷惑この上ないだろう」

 

「……であればニャルラトホテプを止めさえすれば、今回の『時空位相』は収まるという可能性はありますか?」

 

「そういうわけにもいかないだろうな」

 

 モリスの意見に、セラエノは間髪入れずに否定した。

 

「ここがアイツのタチの悪いところだ。今回の『時空位相波動』に関しては、アイツ自身は何の関わりもない。操られてるとはいえ、あくまでヴィラクスとかいう女が『魔導書』を魔力を暴走させたのが発端だからな」

 

「つまりヴィラクスか『魔導書』……あるいは両方を止める必要があると言うのですね」

 

「そういうことになる。となると解決策は大きく分けて三つだ」

 

 そう言ってセラエノは何故か親指を立てて説明を開始し始めた。

 

「一つは『魔導書』の破壊だ。単純に『魔導書』を破壊できれば『時空位相波動』を維持できない。非常にシンプルだろう」

 

「しかし『魔導書』の破壊は完全に行わないと、紙片や頁となって散開してしまいます。脅威性は格段に下りはしますが……その数だけ後に小規模な『時空位相波動』を発生させる可能性も考慮すると、一度保留しなければいけない案です」

 

「ならば」とセラエノは人差し指を上げて話を続ける。

 

「二つはヴィラクス自身の殺害だ。『魔導書』の魔力は持ち主の命と共鳴することでのみ発揮される。持ち主が死ねば、魔力の共鳴もなくなり『時空位相波動』は消失する。これが最も解決策として簡単だろうな」

 

「……ヴィラクスは『位階十席』の1人で仲間です。末端の『第十位』とはいえ、可能な限り犠牲にするわけにいきません。それにそれでは『魔導書』は健在のままです。そう遠くない未来に、再び今回の事態と同じことが起こりうる可能性がある以上、その案は却下します」

 

「だろうな」とセラエノは納得しながら、流れ的に中指——ではなく、さらにもう一つ飛んで小指を立てて話を進めた。

 

「三つはヴィラクスを正気に戻し、そのヴィラクス自身に『魔導書』の制御をして暴走を止めてもらうことだ。だがこれには色々と不確定要素が多すぎる」

 

「思いつく限りでは、そもそもヴィラクスが『魔導書』を制御できるか……。できたとしても今度は『どこまで制御できるのか』……。元々はそれを調べることもあって『方舟基地』での実験でもあったのですから……これは私達でも分かりかねます」

 

 どれも解決策としては妥当ではあるが、どれもそれぞれの問題点を抱えたものだった。相手は『魔導書』という名の『異質物』だ。不明瞭なところがあるのは承知とはいえ、些かその面が大きすぎる。そしてそこには必ずニャルラトホテプというもっと捉えようのない存在がある。モリスがセラエノに案に対して慎重になるのは当然なのだ。

 

「どうあれ事態の解決は急いだほうがいいぞ。『時空位相波動』は地球そのものを進化させる情報の塊だ。放っておけば、地球は順応して46億年の歴史を僅かな時間で塗り替えるほどに急激な進化を遂げる。その進化に人間も植物も適応できず死滅するしかないぞ」

 

「そうですね……。都市部から離れた『ローゼンクロイツ』の構成員からの情報によれば、既に放牧地を含む畜産業を営む土地が5%が機能してないと報告を受けています……。解決が遅れれば、事態解決後のサモントンの食料供給量は低下し、世界に飢餓を与えかねない致命的なダメージを負わせることになってしまう……。ただ解決するだけでは、それはサモントンの……人類の滅亡を意味する」

 

 それはその場の空気を非常に重くなる内容だった。

 ただ戦うだけは意味がない。事態は一刻を争う。だというのに、相手となるのは未知数である『ニャルラトホテプ』を中心とした勢力だ。ハインリッヒが名称を共有してくれたが『シャンタク鳥』自体のデータが存在しない。ただでさえ『ドール』だけでも手一杯なのに、今後も『シャンタク鳥』以外の全く知らない戦力が出てきたら、手が追いつかないのがここにいる全員の共通認識だった。

 

「さらに言えば長時間勝負となれば食料、水、電気など様々な問題も出てくる。それに衛生的な問題もな。その点に関してはどこまでサモントンは対策をしているんだ?」

 

「災害対策は当然しておりますが……『時空位相波動』によって設備によるエネルギーからの供給は止まっています。風力発電、地熱発電、太陽光発電……環境が違うため機能を停止しています。蓄えられた電力はありますが、これも節電しても一週間持つかどうか……。医療設備に関して絶望的と言っていいでしょう」

 

「では食料と水は?」

 

「食料は幸いにも保存が効くのは十全にあります。満腹感の得られる食事とはいえませんが、三食取っても栄養取れるバランスで計算しても、食料は間違いなく一ヶ月は持ちます。ですが水に関してはどこまで利用できるか……」

 

「というと?」

 

「ライフラインが止められている以上、施設関連はすべて利用できません。もちろん家庭や公園の蛇口からも水は出ません。となると利用できる水には限りがあり、用途は多岐に渡ります。衛生面の安全のために食器や排泄物を流すこと、身体を清めることにも使います。あるいは衣服も。もちろん水分補給もです」

 

「風呂や洗濯に関しては水浴びでもしろと言いたいが……」

 

「お察しの通り、地脈を通して溢れる池や湖、それに飲料水として確保できる山地の水源から流れる天然水などの全てはサモントン郊外にあります。であれば当然『ドール』が数多く存在しており、ちょっとやそっとのことでは取り返すのは困難を極めるでしょう」

 

 沈黙が場を支配する。

 長時間の戦闘はできるだけ避けたいが、それでも長時間の準備をしないわけにもいかない。どうにしかして水を用意する算段も見つけなければならないのだ。

 

 考えること十数秒。何かに気づいたセレサは、ハインリッヒを見つめて言う。

 

「あんた錬金術が使えるのよね? あの鳥……『シャンタク鳥』だっけ? ともかく、それを倒した時に大気中の水分を『氷』にしたのを応用して、大気中の水分を『水』として抽出することはできないの?」

 

「可能ではありますよ。水は当然として、もちろん電気を錬成することも」

 

 一同が困っていた問題にハインリッヒは容易く解決できると口にした。だがハインリッヒは少々罰が悪そうな顔をしながら「しかし」と補足を進める。

 

「錬金術とは等価交換が原則。人が飲める量の水を供給することになると、空気中の水分はほぼ消失して乾燥してしまいます。それはウイルスや菌などの増殖を助長し、さらには喉の活動にも支障をきたします。それに緑豊かなサモントンでは、乾燥した樹木が摩擦することで火災が発生する可能性も十二分にある。これを『自然発火現象』と言いますが、聞き覚えぐらいはありますよね?」

 

「ああ、あるわー」とセレサは眠そうに頷きながらも、まだ眠るべき時ではないと必死に目がらしを抑えながら思考を続ける。

 

 水を作り出す手段がないのなら、水を手に入れる手段をどうすればいいのか。より正確に言うなら、郊外にいる『ドール』を退けつつ、少ないリスクで往復する手段があるか。

 

 それは単純に『位階十席』が順番に行ったとしてもかなりの重労働になる。下手したら命を落とす危険性もある。となれば防衛戦の要であり、そういう行動には不向きなモリスを出すわけにはいかない。

 であれば現状いるセレサ、ハインリッヒ、そしてこの場にはいないがサモントン郊外で避難民の誘導と『ドール』との牽制を続けるアイスティーナの三人という少ない人数で行う必要があるのだ。しかも資源を求めての遠征中は都市部の戦力は一人分落ちるし、仮に資源を回収しても持って来れるのは最大でも一人分超だ。避難民の数とはあまりにも違いすぎて、労力の無駄でしかない。

 

 

 

 ——あまりにも人手が足りない。

 

 

 

 セレサがそう考えた時、以前として視線が合わせ続けるハインリッヒの顔を見てある事を思い出し、それをすぐさま提案した。

 

「じゃあ『ドール・ハインリッヒ』を郊外に出して、資源を回収することはできる? 何かしらの不都合があるなら、できるだけ解消するようにはするわよ?」

 

「残念ながら難しいかと。量産型の動作に精密性はないのです。握るといった『手の動き』までなら可能なのですが、縄を結ぶ、キーボードを打つといった『指の動き』は現状不可能なのです。ペットボトルなどに水を汲むことはできても、ペットボトルの蓋を閉めなければ溢れてしまいます」

 

「2020年前後のロボットぐらいの精度と考えないといけないのね……」

 

 そう考えると『ドール・ハインリッヒ』の性能もそこまでではないかとセレサは一瞬疑ってしまうが、冷静に捉えると二足歩行な上に高速戦闘が行え、簡易な命令なら受け付けるという部分だけでかなり有用な存在だ。今でも『ドール』相手に立ち回っているのだから、それだけでも活躍は十二分だと考えを改める。

 

「やはり短期決戦しかない、ということですね。ニャルラトホテプ……いえ、事態の解決ならヴィラクスさんですね……。いったいどこにいるのか……」

 

「この際、どっちでもいいですわ。セラエノさん、そのお二人がどこにいるかは分かりますでしょうか?」

 

 バイジュウとソヤの質問に、セラエノは首を縦に振って答えた。

 

「見当はつく。空に浮かぶ暗黒の裂け目……その奥にいる可能性は非常に高い」

 

「理由はありますか?」

 

「あそこから出た『シャンタク鳥』は統率が取れていたからな。命令を受けていなければ不可能な挙動だ。少なくともニャルラトホテプはいるだろう。ヴィラクスがいる保証はないがな」

 

 分かりやすく要点を伝え、補足をする言い方にバイジュウは「この人、教授として優秀だなぁ」と思いながらも、まだ終わらぬセラエノの言葉に耳を向ける。

 

「問題はあの裂け目は、現実にあって現実にないという点だ」

 

「…………まるで分からないのですが?」

 

 それは一言一句偽りのない言葉だった。

 バイジュウにとってセラエノが口にした『現実にあって現実にない』という意味が頭で理解できても、理屈ではできなかったのだ。

 

「矛盾しているが、あれは『実体を持った幻』なんだ。触れようと、あるいは侵入しようとしても、その瞬間にホログラム映像のように透けてしまう。そういう類なんだ……『時空位相波動』の出入り口というものは」

 

「だけど『ドール』は実体を持って……」

 

「テレビと同じで放送局から家庭に映像を流すことはできても、家庭から放送局に映像を流すことはできないだろう? あれと同じ理屈で『ドール』を一方的に流してるんだ」

 

 それでは手の出し用がない。一方的に裂け目から『ドール』を出現させ、その中に潜まれてはいくら守っていようと、こちらから出向くことができない以上は意味がない。

 こちらの戦力や物資には限りがあるのに、相手には『ドール』に関しては無限と言えるほどに無尽蔵なのだ。これでは持久戦をするだけでもこちらの敗北になるのは目に見えている。

 

「だが、それで静観するほどアイツも完璧主義者ではない。アイツは第一に『面白さ』を求める性質がある。直せない癖や、どうしようもない性癖みたいに……そんな碌でもない性質がな」

 

「なんですか、その意味不明な性質……変態でもしませんわよ?」

 

 ソヤの言い分もごもっとではあるが、生憎と当人がM気質な時点で説得力がないことをバイジュウは胸に秘めておく。

 

「ともかく、どこかしらに付け入る隙が……正確には隙が準備されているというわけですね?」

 

「ああ。必ずアイツは隙を用意している。例えそれが致命傷になると分かっていても……それしか私達が解決策を持たないと考えているなら、確実に手付かずに放置してる方法が……」

 

 だがセラエノがその『方法』を把握している様子はない。それを見てモリスは「なるほど」と一息すると、手拍子をして場の空気を一度切り替えさせた。

 

「……一度話は終えましょう。防衛戦で皆様疲労は溜まっているでしょうから。各々体調を整えるために、数時間後に」

 

「もしかしたら『時空位相波動』の外部から反応があるかもしれませんし」と言ってモリスはその場を離れて、そこで話は終わった。

 彼女を知らない人からすれば、その背中は司令者として常に皆を重んじる逞しい背中にも見える。

 

 

 だがラファエルとセレサは違った。

 強く逞しく、皆の気持ちを背負う彼女の背を見て思う。

 

 

 

 ——また抱え込んでいる、と。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

『こちらHR1-1より連絡! サモントンに閃光弾を投下しましたが、着弾と発光を確認できません! 『時空位相波動』の観測数値にも影響及ばず……ハッキリ言って無意味ですっ!』

 

「くそっ……やはりレンがいないと、展開が終わって安定してしまった『時空位相波動』に外部から影響を与えることはできないのか……っ!!」

 

 その頃、新豊州のSID本部——。

 

 マリル達はサモントン上空に飛ばしたヘリに搭乗するエージェントの通達を聞きながら、本日三本目となる栄養ドリンクとサプリメントを迅速に口にしながら少しでも早く打開策を思いつかないものかと、例え無駄であろうと理性で分かっても赤髪を炎が揺らめくように掻き回す。

 

 それはマリルの苛立ちが形になったものだ。現在SIDでは『時空位相波動』の発生から30時間、あらゆる手立てを使って突破しようと模索したが、どれも結果は出ずに介入できない状態となり、SID長官という最高責任者の立場としてはあまりにも不甲斐ない状況となっているのだ。

 

「何かしらの対抗策はないのか……? この際、異質物を利用してでも……いやダメだ……。これ以上揉め事の種を蒔くわけにも……」

 

「レンちゃんが心配なのは分かるけど、この状況で異質物は更なる危険を呼ぶリスクがあるから控えたいよね……」

 

 愛衣の言葉はごもっともだ。サモントンの『時空位相波動』の原因がSID側から特定できない以上、下手に異質物を使用するのは混乱を招くリスクの方が大きい。おいそれと持ち出して使用するわけにもいかないのだ。

 

「こうなったら質量兵器をぶつけるしかないんじゃない? ミサイルは……火力高すぎるか。何かもっと比較的安全な……」

 

「じゃあアレだ。エアタンカーの消化剤を使おう。ホラ、赤い粉撒くやつ」

 

「無理だ。新豊州はXK異質物である【イージス】の性質上、弾道ミサイルといった質量兵器を持つことは禁じられてるんだ。【イージス】は入ることは厳重だが、出ることには無関心だからな。新豊州がそういう兵器を持つと一方的な攻撃が可能になると脅威とされて条約で硬く禁じている」

 

 エミリオとヴィラの提案はマリルはすぐさま却下する。エミリオも立場が立場だから「そういえばそんな条約あったわ」と思い出した表情をし、再び頭を抱え直す。

 

「消火剤は既に似たような物で試した。テストと物資の補給も兼ねて、災害用の衝撃対策した食料バックをいくつかな。ものの見事に『時空位相波動』に突入することなく消えたぞ」

 

「マジか……。じゃあどうすればいいんだよ……」

 

「なら、もう『時空位相波動』に適性がある『魔女』を単身で向かわせるしかないんじゃない?」

 

 今度はベアトリーチェが口を出すが、マリルは即座に首を横に振って説明する。

 

「それもダメだ。『時空位相波動』は適性がなきものを全て拒む。魔女の身体や武器はいいとして、装備品……つまりはパラシュートなどは突入した瞬間に排除されてしまう。サモントンの『時空位相波動』はドーム状に大きく広がっていて、高度は500mにも達している。そんな超高度から自由落下したら、痛みを感じる暇さえなく即死だろうよ」

 

「まあ、お前達が空を飛べるなら試す価値はあるがな」と無い物ねだりと分かっていてもマリルは溢す。

 

「それに泳いで渡ろうにも『時空位相波動』の領域は海面に到達していて、一番近いところでも突入地点から岸まで1キロ……海流も考慮すると無理なのは目に見えてる」

 

「じゃあ本当に手詰まりね……。手出しする隙がない」

 

「おい、あの『時空位相波動』——。儂なら何とかできる可能性があるぞ」

 

 その時、呆気らかんにギンは、現在問題となる『時空位相波動』についての解決策があると口にした。

 マリルと形相を変えて「何故今まで言わなかった」と詰め寄るが、ギンは冷静に「早る気持ちは分かるが落ち着け」と老人らしい振る舞いで諭す。

 

「それは今まで儂自身にも分からなかったからじゃ。『時空位相波動』というものがな。だが……何十時間も観察して理解した。あれは性質自体は違うが、根本は『ヨグ=ソトース』という奴と似ておる。核というべきか否か…………知恵のない儂には例えようがないが、そういう部分が似ているんじゃ」

 

 確かに今までギンに『時空位相波動』を見せたことはなかった。資料としては目を通させたが、こうして間近で生で発生したのを見るのは初めてだ。だから今更気づいて口にしたのだと、改めてマリルは気づく。

 

「であれば、新調した刀——『天羽々斬』と儂の技量があれば破れなくもない」

  

 

 

 ——『天羽々斬』。それはSIDがギンのために作り出した刀だ。

 その性能は今は関係ないものの、材質には元々は異質物武器として保存され、かの『ヨグ=ソトース』と繋がっていた『妖刀・蜂と蝶』の破片を利用されており、切れ味に関して現代科学の技術も合わさって前よりも数段に跳ね上がっている。

 

 無論、妖刀を材質にしている以上、再度繋がる恐れがあるのではないかとSIDは危惧したが、ギン自身が「もうこの破片はどこにも繋がってない。その証拠に再生もしないじゃろう」と口にしたのと、実際に霧守神社の一件で『ヨグ=ソトース』を退けて、それ以降妖刀を通して介入してこなかったということを鑑みて武器としているのだ。

 

 

 

「問題はあの『時空位相波動』の核がどこにあるかが問題だ。それさえ分かれば、距離など関係なく切り裂いて『時空位相波動』突破できる」

 

「核……発生した異質物とかか?」

 

「そいつもそうだが、恐らくは別じゃな。ここまで大規模だと、発生源とは別に何かしら繋がりやすい場所がサモントンにはあるんじゃろう。地脈とか霊脈とか……今でいう『レイライン』というやつじゃ」

 

 レイライン——。そう言われてもマリルは頭を抱えるだけだ。何せマリルは科学者ではあるが、地学専門ではない。地脈といったものに関してはそこらの専門学生よりかはマシ程度の知識しか持っておらず、付け焼き刃の知識で導き出せるほどこの問題は生半可ではないのだ。

 

 無論、それは愛衣もそうだ。アイコンタクトで「分かるか?」とマリルは伝えるが、当人の返答は「全然」と言わんばかりに乾いた笑いを浮かべるだけ。

 

 ギンが求める『時空位相波動』が繋がりやすい『レイライン』など聞いたことがない。検討があるとすれば謎に自然発生して、謎に維持し続ける『結界迷宮』ぐらいだが、そんな物がサモントンにあるのかとマリルは考える。

 

 

 

『それを知っている者がいると言ったら、どうする——?』

 

 

 

 突如としてSIDの無線機に送信先不明の音声が届く。

 その声は不思議と惹かれるもので、男性的でも女性的でもない。中性的ではあるのだが、どこか超然とした世離れした雰囲気は、まるで神様からのお告げだと錯覚するかのような神秘に満ちていた。

 

 

 

「貴様、何者だ」

 

『失礼。それでは無線機越しながら、謹んで自己紹介を』

 

 

 

 

 

 そう言って無線機越しに、中性的ながらもどこか人間離れした抑揚で告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『私はミカエル・デックス——。『天使長』の名を冠する者だ』



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第6節 〜果て無き道に振り返らず〜

『私はミカエル・デックス——。『天使長』の名を冠する者だ』

 

 

 

 その名を聞き、マリルを始めとした全員が驚愕を浮かべる。

 

 ミカエル・デックス——。

 それはサモントンが誇る現人神の名にして、祖父でありサモントンの最高責任者であるデックス博士こと『トマス・デックス』と変わる政治面でのデックスの代表として表に顔を出す人物だ。

 

 最近では学園都市以外での外交を中心にしていたため、六大学園都市関係のニュースで一才顔を出していなかったが、その顔と声と雰囲気はマリルは忘れることはない。

 レンとは違った男性特有の強かさを持ちながら、歌うように美しい女性じみた声は間違いなくミカエルの物だ。通信機越しでも聞き間違えることは難しいほどに、その声は特徴的だった。

 

「ミカエル——。あのデックス家の正当後継者にして、サモントンの次期責任者としてのミカエルで間違いないのか?」

 

 マリルからの再確認の言葉に、ミカエルは『そうだな』とすんなりと認めた。

 

『だが、そんな肩書きなんて今はどうでもいい。問題はサモントンの『時空位相波動』の解決だ。その結界というべきか、障壁というか……ともかく『時空位相波動』を突破したいのだろう?』

 

「話が早くて助かるが……お前にはギンが求めるレイラインというのを知っているのか?」

 

『知っているから連絡をしている。時間が惜しんだ、単刀直入かつ単純明快に答えだけ伝えておく』

 

 ミカエルとはそういう人物だったとマリルは改めて思い出す。

 嘘偽りを哀しみ、無駄を嫌い、悪徳を憎む。早い話が曲がったことが大嫌いな素直な人物だ。

 それは性格にも出ており、よほどのことがない限りは無駄な問答、無駄な時間、無駄な感情などを徹底的に排除するところがあり、一度外交の一環として話し合った時も、礼儀正しく無礼千万という矛盾してる態度でとにかく要件だけを伝えた剛の者だ。

 

『『時空位相波動』を成すレイラインについて、それは常に移動している。だから明確な位置を指し示すことは私にはできない』

 

「私には? であれば誰かが知っているのか?」

 

『——ラファエルだ。私の可愛い妹分のな』

 

 思いがけない人物の名が出て、マリルは眠気が完全に吹き飛んだ。

 

 何故そこでラファエルの名前が出てくる——。

 その意味がまるで理解できない。確かに『魔女』ではあるが、それはここにいる者達にも言えることだ。横槍を入れないように沈黙しているが、エミリオもヴィラもベアトリーチェもファビオラも『魔女』であり、意識を取り戻して別室で事情聴取と健康診断を受けているアニーも『魔女』であり、自宅で待機しているイルカも『魔女』だ。さらに言えば霧夕を代表としたSIDが極秘で身元保護してる何人かも『魔女』だ。

 

 そんな数多くいる中、どうしてラファエルが選ばれるのか——。

 それがマリルには一切理解できなかった。

 

『ラファエルならレイラインを知ることができる。彼女は私達と違って、明確に選ばれた『魔女』だからな。ラファエルが望むなら、彼女に宿る『魔力の源』は応えてくれるに違いない』

 

「私達と違って……? ならミカエル、お前は……いや……だとすればガブリエルやウリエルも……」

 

『『魔女』だが、知ったところで今は関係無い。何度も端折るな。時間が惜しいと言っているだろう』

 

 端折って良いことではないとマリルは考える。何せ簡単に認めたが、ミカエルはいくら中性的と言っても男性だ。だというのに女性だけが変質する『魔女』になるのは、おかしいことなのだ。それもガブリエル、ウリエルと三人揃ってだ。

 

 これは前提が間違っていることを意味している。男性が『魔女』にならない、という前提が。

 それを問い質したい気持ちがマリルは湧くが、時間がないのは確かなことでもあり、自分の気持ちを押し殺してマリルはミカエルの次の言葉を待つ。

 

『いいか。『時空位相波動』の内部と外部では『異なる時間の流れ』があるんだ。私達がこうして話してる間に、内部では一日が経過してるかもしれない。あるいは一年が経過してるかもしれない。逆もまた然りだ』

 

 ミカエルの『時間の流れ』という言葉で、マリルは『南極事件』と『天国の扉』でソヤを救出する時のことを思い出す。

 

『我々ができることは『待つ』ことだけだ。それは永遠かもしれないし、一瞬かもしれない。だけど、その狭間で確かに光る時がラファエルなら起こしてくれる。その『光』を『待つ』んだ』

 

「あくまで予測だな。それが的外れの可能性もあるぞ?」

 

『むしろ外れた方が喜ばしい。それはラファエルが真の意味で覚醒する必要がなく、事態を解決できたという意味を持つ。それならそれで良い。その程度の問題だったってことだ。気苦労で済むならそれが一番良い』

 

『だが』とミカエルは一息置くと話を続ける。

 

『私がこうして介入してる以上、それはまずないと言っておこう。私の『魔力の源』が警鐘を鳴らしている。野生の動物が天敵を見つけた時のように、本能を刺激して止まないんだ。それはラファエルに宿る『魔力の源』も同様だろう。アイツらは連鎖的に行動するような『運命』に引き寄せられているからな』

 

「……『魔力の源』? アイツら? 『運命』?」

 

「長くなるから今は割愛する。後で説明するから心配するな。ともかく『魔力の源』がラファエルを助けてくれる。それは覚醒の光となり『時空位相波動』の境界を貫く唯一の道筋となる。それを……ギンが捉え、そこを辿って『時空位相波動』を切り裂く。それが私から伝えたいことだ」

 

 マリルは驚愕した。少なくともこの会話の中で『ギン』という名前は出していない。だというのに、なぜミカエルはその名前を知っているのか。

 

『できるか?』

 

「……儂を誰だと思っておる?」

 

 通信機越しから、歳に相応しくない大人びた包容力に満ちた優しい問いに、これまた歳に相応しくない大人な特有の負けん気に満ちた表情でギンは告げた。

 

 

 

「無駄に歳重ねたのは伊達じゃない。待つことなんぞ、とうに慣れきっておるわ——。小僧」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「一週間…………経過しましたね」

 

 その頃サモントンでは、既に外界とは異なり一週間——時間にして168時間、分にして約10000分という非日常という空間では異様に長く感じるほどに時が経過していた。

 

 バイジュウは自分の目を覆う包帯を取り外して、ようやく治り始めた視界で外界の情報を得ようとするが、その全てが靄にかかっていて自分の手相さえ把握できないほどだった。

 

「……まだ時間が掛かりそうですね」

 

 どんなに目を開いても細めてもピントが合うことはない。目そのものが光に慣れておらず、脳も虹彩も処理が混乱している状態なのだから当然だ。こればかりは慣らすのに時間がいる。

 そんなことは頭では分かっているのに、バイジュウの中で焦りが募る。何せ一週間も経過してるのに、未だにあの上空に浮かぶ暗黒を纏う『裂け目』に対して何一つ手掛かりが見つかっていないのだ。

 

「皆さーん、本日の配給ですよー!」

 

 頭を悩ますバイジュウの耳に、腕部の鎧だけは外して三角巾を被るモリスが姿を見せる。その手には盾だけでなく、料理に使うお玉が握られており、銅鑼を鳴らすように盾を叩いて、ここ『ヴェルサイユ宮殿』にて生活を送る避難民を呼ぶ。

 

 罰当たり同然の行為に、内心「あれでも『不屈の信仰』の効果が発揮するなんてどうなってるんだ」と何回目かも分からぬ疑問をバイジュウは持ってしまうが、機能しているからこそこんな呑気な考えが浮かべるほどに安全なのだ。少なくともモリスが意識を途切れさせない限り、サモントン都市部の安全は保証されるのだ。

 

「はい、バイジュウさん。精力付けないといつまでも治りませんよ」

 

 回廊とテラスの間にて、少しでも早く視力が戻らないかと外を眺めるバイジュウにモリスは声をかける。その手にはハインリッヒが「この程度なら廃材でも作れます」と錬成して作られた100均なので取り扱ってる簡易なアルミトレイがあり、その上には拳ほどの大きさのパンが二つ、水が入った300mlペットボトルが一つ、そしてよく分からない濁った一口サイズのゼリーが三つほどあった。

 

「……何ですか、これ?」

 

「それは昨晩、野菜炒めを作った際に出た汁ですね。少しでもお腹が満たせるように、ゼラチンを混ぜてゼリー状にしたのですが……」

 

 そう言われてバイジュウは昨晩の配給を思い出した。都市部のレストランで痛む寸前の野菜が見つかったので、それをガスコンロを駆使して提供されたのだ。

 量があれば、それだけ野菜自体の水分が旨味と共に出てくる。その時点で若干野菜炒めとしては失敗な気もするが、特に気にする必要もないし、モリスが気を利かせて食料になるように工夫したのだ。バイジュウありがたく本日1回目の配給を受け取った。

 

「では、いただきます」

 

 パン二つとスープゼリーを頬張って腹を満たす。見た目に反してスープゼリーは旨味が凝縮されていて、意外にも口に入れた時に嫌味な感じはせず、そんな味に思わず頬が緩むバイジュウの反応を見て、モリスは満足そうに「口にあったようで何よりです」と笑った。

 

「バイジュウさんは少食な上に痩せ気味ですよね。ラファエル様は健啖家だというのに……やはりどこか不調でも?」

 

「……私は体質的な影響でカロリー消費しにくいんです。体温変化がほとんど起きませんし……平均体温も高くないので必要な熱量が少ないんですよ」

 

「そうですか。体調が悪いとかじゃなくて安心しました」

 

 健康診断混じりの問答を終えて、モリスは満足そうに笑顔を浮かべて立ち上がり「ではこれから会議がありますので」と足早に去ろうとする。

 

「……大丈夫なのですか? 私の把握する限りでは、この一週間で休んだ時間なんて……」

 

「はい、合計4時間ほどでしょうね。瞼は重いですが、疲労に関してはサモントンが保有する漢方薬と、ラファエル様の魔法で疲労を取ってるので意外と何とかなってますよ」

 

 168時間の中でわずか4時間——。

 あまりにも過酷で過密で、サモントン都市部の防衛がモリスの信仰心と『盾』に依存している現状を如実に表している。

 『位階十席』を中心に『ローゼンクロイツ』は『ドール』の迎撃に向かっており、ハインリッヒは加勢して『ドール・ハインリッヒ』を増加させて郊外に何百人も送っているが、やはり素体が『ドール』では限界があり、何時間かすると糸が切れたように力を無くして消滅してしまう。依然として防衛戦に関しては『盾』に依存度は大して変化していないのだ。

 

 それはモリスの活力を現在進行形で確実に奪い取っているのにも関わらず、当の本人は疲労なんか表に出すことなく、むしろ配給係として防衛以外でも齷齪と雑事に動き続け、さらには視力を戻ったばかりのバイジュウを気遣うほどだ。彼女の揺るがない信仰心と胆力はそれまでに強大であり、その有り様そのものが『魔女』に匹敵しかねないほどに。

 

 そしてバイジュウは知っている。モリスが口にする『漢方薬』とは普通ではないことを。普通の薬はすべて避難民や緊急治療が必要なエージェントに回すように彼女自身が指示している。そんな彼女が普通の薬など使うわけがない。であれば彼女が口にする『漢方薬』とは何なのか。

 

 

 

 決まっている——。

 サモントンが『植物』が多く、その種類は膨大だ。それを調合することで様々な効力を得るのも当然だろう。問題はその『効力の強さ』と『依存』なのだ。それら二つが極めて高く、どんな人間であろうと精神を擦り減らす『中毒性』がある劇薬をモリスは口にしているのだ。

 

 

 

 

 

 ——俗に言う『違法ドラッグ』と呼ばれる物に手を出してるのだ。

 

 

 

 

 

 もちろん依存症が出にくいように細心の注意払っている。麻薬の一種として有名な『コカイン』だって、溶液や軟膏として利用する際は純度が全体の一割にも満たないほどに非常に薄めることで医療用として活用できるのだ。それぐらい細かい調合することでギリギリ理性をモリスは保っている。

 

 だがいずれは限界は来る。そしてそれは今すぐ訪れてもおかしくない。中毒症状として幻覚が見えたり、発汗や痙攣が止まらなくなったり、呼吸困難や自傷行為に走る可能性が秘めてる状態なのだ。

 

 

 

「……いつまでもこうしておりません。今日から私も会議に参加します」

 

 それを見過ごすことはバイジュウにはできない。今までは視力もそうだが、自然回復による体力の消費で満足に身体も動かせなかったが、今は万全ではないが三分の実力は出せる。

 視界がボヤけてるとはいえ、識字には老人のように目を近づければ見えてくるし、戦闘に関しては人間と同じ大きさである『ドール』相手なら、ボヤけていても攻撃の軌道自体は読むことはできる。自衛する程度なら十分なほどにバイジュウは動ける以上、もうこれ以上黙って過ごすわけがない。

 

「それは有り難いのですが……この一週間で打てる手は打ちました。一応はハインリッヒが直接『裂け目』に近づいて確認しましたが触れることはできませんでした。私が倒れた時の保険としてバリケードも作り、各避難所ごとにエージェントを配置して食料や水の管理を徹底。水問題は未だに解決策が見つからずに前途多難です」

 

「ですから妙案が一つあるんです」

 

 バイジュウはそう言って、学者特有の好奇心や不安など全てが入り混じった生命力に満ちた笑みを浮かべて告げる。

 

「サモントンのXK級科学者異質物である『ガーデン・オブ・エデン』……それを利用して、天然要塞を作るんです」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……つまりサモントンのXK級異質物を利用することで、都市部周辺の樹や植物を急速成長させて巨大なシェルターを作るのです。こうすれば完全にと言えませんが、防衛能力はモリスさんの『盾』に頼らずともある程度の水準まで高めることが可能です。それに植物を成長させることで水脈を変化させて、都市部近辺に流れるようにすることも可能です」

 

「理論的には可能ね」

 

 開口一番、バイジュウの提案にラファエルは消極的な口調で物申した。

 

「だけど問題はいくつもあるわ。地質への影響が良くも悪くも農作物へ大きいこと、水脈の変化が決して良い方向に動くとは限らないこと、植物の急成長は地震を起こして今ある建造物を倒壊させる恐れもあること…………。何よりも問題なのは『XK級異質物は原則として人の手で意図的に操作することはできない』ということよ」

 

 そう簡単に受け入れるほど単純な話ではない。そんなことはバイジュウは分かりきっている。

 

「ニューモリダスの等価交換は、XK級異質物自身が人の手に効力を委ねてるからこそできてるのであって、他のはそういう訳にもいかない。新豊州の『イージス』は気ままだし、マサダの『ファントム・フォース』はじゃじゃ馬よ」

 

「お嬢様が言うと面白いわね」

 

「セレサ、茶化さない」とモリスはセレサの口を物理的に封じる。ラファエルも若干気に入らない発言だったのか、セレサを一瞥してため息を吐くと話を再開させた。

 

「……唯一例外があるとすれば、第一学園都市『華雲宮城』が保有するXK級異質物『エレメンツ・ライン』ぐらいだけど、あれだって色々条件があるの。こっちのは使い勝手悪いのよ」

 

「それは華雲宮城が『陰陽五行思想』を明確な基準にしているからです。サモントンは異質物の研究に関しては六大学園都市の中で最底辺……だというのにサモントンは『ガーデン・オブ・エデン』の全てを解明できたと言えるのですか? 未だ見い出せてない機能があると言い切れますか?」

 

「まあ……言い切れないわね」

 

「でしたら完全操作とまではいきませんが、その法則性を見出すことで外部から切っ掛けを与えることができれば意図的な成長を促す…………という可能性はありますよね」

 

「まあ……可能性はあるわね」

 

 朧げながらも見えて来た可能性。八方塞がりの現状において、唯一の見出せる物にラファエルが惹かれるのは、リスクを承知しても無理もないことだった。それはこの場にいる皆がそうであり、モリスもセレサもハインリッヒもソヤも各々の思考を纏める動作をして考えはじめる。

 

「もし可能であれば、後は匙加減だけです。サモントンに与える影響は……」

 

「……だけどこの場においてXK級異質物について詳しく知るのはいないわよ? 研究者が存命と言っても、この膨大な避難民から探すのは時間がかかるし、何よりも得てる情報もピンキリよ。サモントンでの権威であるお祖父様だって一週間前はサモントンでは不在……。巻き込まれていないから、意見を聞くことはできないわ」

 

「でしたら、人はいなくても資料は残っているでしょう。資料なら『ドール』に襲われる心配もありません。『時空位相波動』の範囲はサモントン全域……であれば必ずその資料がある施設はありますよね?」

 

 バイジュウの意図にここにいる誰もが気づいた。

 いち早くモリスが地図を広げ、すぐさまラファエルがとある場所を指で指し示し、自分達がいる都市部との距離を測り始める。

 

「……セレサ。ここには『ローゼンクロイツ』のエージェントはいる?」

 

 ラファエルの問いに、セレサはため息をついて呆れながら言う。

 

「いるわけないじゃない。最初の避難誘導で研究者が退避してからは閑古鳥。『ドール』は人間を襲うだけで、施設は襲うことはないから、そこに人員置くだけ無駄でしょう」

 

「でしょうね……。なら直接出向く必要があるわね」

 

 計測を終えて、ラファエルは手元にあるスマホの計算機能を閉じる。距離にして都市部から約100キロの地点。研究施設ということもあり、辺りには農園や麦畑といった物は存在しない地区。そこだけは例外的に車などで移動できるように舗道されており、歩けば遅くとも二日以内には辿り着く。

 

 馬や牛といった動物は既に自然に離した後だ。都市部で一週間も面倒が見れるほどの餌はない。その長い距離をひたすら歩くことをラファエル達は決意し、その場所へと改めて指を指し示した。

 

 

 

 

 

「『モントン遺伝子開発会社』——。私たちの祖父である『デックス博士』こと『トマス・デックス』が所属する研究機関に」



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第7節 〜危地へと続く靴音〜

「さて、全員食料、水、地図、応急キット、その他もろもろ…………それにコンパスは万全ね?」

 

 サモントン都市部の端にて、モリスの盾によって発生する障壁の前でラファエル、ソヤ、セレサ、バイジュウは合流する。

 皆の背には共通して小さな登山でもするかのように容量の大きいリュックサックを背負っており、その中にある缶詰や飲料水、それに白い箱に入った応急処置の一式など万全だ。後は各々の武器となる得物がある。

 しかし、その中で誰の手にも『コンパス』と呼ばれる物はない。だが、その中でただ1人だけ不満そうに眉間に皺を寄せている者がいた。

 

「…………私の鼻をコンパス呼びしないでもらえます?」

 

 それはソヤだ。彼女だけが不服そうに頬を膨らませて、ラファエル相手に無意味だと知りながらも可愛げを持って抗議する。

 

 ラファエルがソヤをコンパス呼びするのは仕方がない。

 それもそのはず。『時空位相波動』の中では通信設備は機能せず、磁力が滅茶苦茶になっているからだ。方位磁石は使い物にならないし、スマホの通信関係の機能は全部圏外。そのような状況では文明の利器など役に立ちはしない。

 だが匂いはそのままだ。植物の匂いは漂うし、空気が多少重苦しいとはいえ、風自体は問題なく吹いている。このような状況ならソヤの鼻は機能する。犬や豚が地中に埋まっているトリュフを探し当てるように、ソヤの鼻も目指すべき場所へと匂いを辿れるのだ。であれば頼ってしまうのが普通というものなのだ。

 

「仕方ないでしょう。太陽だってただ輝くか、輝かないかだけだから、方角の標にはできないし……。100キロも人は真っ直ぐ歩けないんだから、犬の鼻でも頼らないと迷子になるのよ」

 

「私はどちらかと言えば猫ですわ! う〜〜!!」

 

「唸り声が犬よ」とラファエルはどうでも良さげに言うと「じゃあ、今一度確認するわよ」と号令して、その場にいる皆で円陣を組んで話し始めた。

 

「私たち4人は『モントン遺伝子開発会社』に向かう。セレサは主戦闘要員、バイジュウは戦闘補助とデータ収集要員、ソヤは索敵と道案内、私は研究機関の指紋認証、虹彩認証などのセキュリティ全般の解除のために。ここに関して問題はないわね?」

 

「不足してる人員はいませんが……やはりラファエルさんはここに残った方がいいのでは? 治療に関しては『治癒石』があれば何とかなりますし、その力を避難者に向けた方が……」

 

「さっきも話したけどデックスしか通れない設備があるのよ。今いるデックスは私とガブリエルだけ……。いくら事情が分かってもガブリエルは信頼するにはまだ怪しいから、こうして私が出るしかないんじゃない」

 

「それにバイジュウの治療もまだ終わってないでしょ?」とラファエルは言う。そう言われてはバイジュウだって強くは言い返せない。この場において最も足手纏いは未だ万全ではないバイジュウであり、次点で武器がないソヤなのだ。

 

「それとソヤには代わりの武器。見つけといたわよ、ノコギリ。しかも多目的で大型」

 

 そして、ソヤには代わりの武器がラファエルから手渡される。口にしていた通り木材の裁断から鉄パイプの切断まで可能な大型の多目的ノコギリだ。サモントンのホームセンターに売られていた物であり、物資を探す際に何かの役に立つんじゃないかとエージェントが回収していた。

 

 もちろんホームセンターにはソヤ好みのチェーンソーはあったが、そのすべては電源が入っていないと使えない物だ。中には充電式もあったがバッテリーは電池切れで、電気が通らない『時空位相波動』の中では充電する場所がないので使い物にならないと判断され、こうしてノコギリが選ばれたのだ。

 

 そのような事情など知ってか知らずか「使いにくいですわ」と不満を垂れるソヤに「じゃあチェーンソーなんか使うじゃないわよ」とまた別の不満をラファエルは口にしながら荷物の確認を終えて、地図を広げて視界の果てにあるであろう場所に向けて告げる。

 

 

 

「行くわよ——。『モントン遺伝子開発会社』に」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

「ありがとうございました〜〜。またお越しくださいませ〜〜」

 

 課外授業を終えてから一週間経過した。私は依然として毎日の授業を励みながら、社会経験として新豊州商業区のコンビニにてアルバイトに励む。

 働いてる企業は朝から深夜まで幅広くアニメコラボをする『RAMSON』であり、左右非対称の青の縦縞ストライプと紺のツートンデザインが私的にはお気に入りだ。某艦隊擬人化ゲームとのコラボでも話題になることだけはある。

 

「宇宙からのメッセージ……『ルーチュシャ方程式』ねぇ……」

 

 フライヤー商品の解凍作業をしながら、先日の課外授業で耳にした最先端の研究結果である『ルーチュシャ方程式』について思い出す。

 

 解読したら、解読しただけ謎を呼ぶ不可思議な情報。

 人類が保有する言語系では到底辿り着けない難解な方式で組み立てられたそれは、日夜父と母の研究欲を刺激して退屈させない。

 

 それは私も同様であり、あの日以降私は両親の研究経過を毎日聞くのが日課になった。

 もちろん研究途中で極秘のものだから、口外できる情報は限られているから根掘り葉掘りとまではいかない。それでも研究者の娘である私にとっては貴重で心惹かれる話なのは変わりない。こうしてバイトの最中でも考えてしまうほどには夢中になっているのだ。

 

「やっほー、レンちゃん。バイト頑張ってる?」

 

 アルバイトする私の前に見覚えのある人物が来店してきた。

 高身長で恵まれたルックス。きめ細やかなピンク髪。それにドギツイほど象徴的な青とオレンジのオッドアイ。

 

 地味な私と違ってだいぶ色合いがうるさいのに、それでも美貌が引き立つのは、彼女がその容姿に自信を持ってるが故だろう。

 そんな彼女『エミリオ』に私は「いらっしゃいませ」と店員としての挨拶をし、周囲に他の客がいないのを改めて確認してから私語で話し始める。

 

「エミが来るってことは今日は月曜日か……」

 

「そっ♪ 月曜日は新商品が山盛りだからね。カップ麺も惣菜もサンドイッチやおにぎりも炭酸飲料も。さてさて今日はどんなの……って今回はホットスナックに山賊焼もあるの!? 三つもらっていい?」

 

「太るよ〜〜? ホットスナックは軒並みカロリー高いんだから。特に山賊焼は一つ300kcalあるんだよ?」

 

「一つは私の可愛いヴィラにだからいいの。それに私って昔からいくら食べても太らないのよ。だったら食べなきゃ損でしょ♪」

 

「ラファエルが聞いたら怒るね、それ……。あっ、今置いてる山賊焼は一つしかないし、あと30分もすれば廃棄だから、どうせなら三つとも全部揚げたてにする?」

 

「廃棄は出さないのが原則よ。それ含めて四つちょうだい」

 

「かしこまりました」と私は注文を受けて、ちょうど解凍作業を終えた山賊焼をフライヤーに入れて調理を始める。当然マニュアルに従って行い、時間にして約6分待つ。その間にレジで予め山賊焼四つ分の入力をして、商品の前出しも兼ねてカゴいっぱいに商品を入れるエミリオの近くに向かった。

 

 カゴの中身は女子高生とは思えないラインナップだ。どちらかと言えば体育会系なエミリオだと分かっていても、そこにある海老カツサンド、ヒレカツサンド、ハムカツサンド、照り焼きたまごサンドといった見てるだけで満腹になりそうなカロリー豊満なサンドイッチから、爆弾唐揚げ、半熟煮卵、海老マヨなどのおにぎりの数々。

 更にはバラエティ豊富なスパゲティの数々に、お好み焼き+焼きそば+ベーコン山盛りとかいう炭水化物の権化みたいなヤバイ商品さえ見える。

 

「……何で生卵いれてるの?」

 

 そして地味すぎて目立つのは、特に味付けも何もしてない卵が1パックが入ってることだ。

 そんな疑問を抱く私に、エミリオは「ふふん♪」と自慢気に鼻を鳴らすと、二つ目のカゴにカップ麺を全種類一個ずつ入れ始めたのだ。

 

「最近カップヌードルの汁で茶碗蒸し作るのにハマってるの。特にシーフードが一番いいわね、海鮮茶碗蒸しになって風味豊かでボリュームがあるわよ」

 

「本当にいつかデブになるよ……」

 

 もしくは生活習慣病。そんな私の不安なんて露知らず、エミリオは「これ復刻したんだ〜〜」とトムヤムクンヌードルやスナック菓子のガールおばさんなどを溢れんばかりのカゴにさらに入れていく。お値段はざっと見た限り学生には高い一万を裕に超える。

 

 別に金銭面に関しては不安はないだろう。エミリオだってラファエルほどではないが、マサダの政治家の娘さんだ。その特徴的なオッドアイから一度は政治的に不安視されていたが、父の演説と説得、それに伴う確かな実績によってそういう差別的な思想や社会的格差は淘汰されて、彼女はこうしてオッドアイを気にせずに自由に振る舞えている。

 

 まさに親子だからこそ成せる愛だ。そう考えた時に頭の中で違和感が滲み出す。「本当にそうだったか?」と自分に訴えかけるような強い違和感が。

 

 …………まただ。一週間前から続く唐突な違和感。

 

 いったいこれは何なのか。暇さえあれば、ずっと考えたけど未だに答えなんか見つからない。自分の中にいる感情の動きというか流れというか……それが不明瞭で全容が掴めない気持ち悪さだけが残る。

 

 …………そういえばエミリオには『読心術』があった。だったらエミリオに聞けば、答えまでは聞けなくても何かしらのヒントぐらいは得られる可能性がある。

 

「……ねぇ、エミリオ。私が今何を悩んでるか分かる?」

 

 そう思ってエミリオに話しかけた。

 悩みの主題は出さず、自分の中で漠然とした思いを心の中で抱えながら。

 

「ん? 悩んでるって? ダイエットとか恋とかの相談?」

 

「こ、恋じゃない! 私だってそりゃ彼氏欲しいとは思うけど、今はそういうのじゃなくて……」

 

 心の中で自分がどういう感じなのかをより強くして訴えてみる。

 私は今、何とも言えない違和感を抱いている。それをエミリオなら分かってくれるんじゃないかと思ってこうしている。

 

 だけど心の中で念じても一向にエミリオは反応してくれずに、両手にお菓子の箱を持ちながら怪訝そうにオッドアイで見つめてくるだけ。

 

「ほら、エミリオって『読心術』があるでしょ? それで私の悩みが深く分からないかなぁ〜〜って」

 

「はぁ? 読心術? なにそれ? 私、そんなのできないわよ?」

 

 …………それを聞いて私は心の中で絶句した。

 

 いやいや、そんなはずがない。エミリオはいつだって私の心を見透かし揶揄ってくるような姉貴肌にして性根が悪い性格だ。私を揶揄い、ラファエルを手玉に取り、ヴィラを褒め殺すようなすごい良い意味で性根が悪い。

 

 そんな特徴を忘れるはずがない。ましてや勘違いだってことで済ますこともできない。

 それはラファエルが毒を吐かない、ハインリッヒが露出狂じゃない、マリルが穏やかで優しい性格をしているのと同じくらいあり得ないことなんだ。

 

「心を読む、なんてことはとても難しいことよ。完全に読むなんて尚更ね。そんなことできるのはアニメや漫画みたいな世界だけよ。いくら現代が異質物で近未来化してるとはいえ、人の心や思考だけは一定のまま進化するんだから」

 

 マジだ。マジでエミリオは言っている。エミリオの表情は本人の明るさもあるが、主張が強いオッドアイの影響もあって表情が特徴的で嘘をついてるかどうか程度はすぐに分かる。本当の本気で言っている。私は読心術なんて使えないと。

 

 

 やっと確信した。この違和感は欠片でしかないんだ。私が抱いてる違和感なんて、もっと決定的に『狂ってる』部分のほんの一欠片でしかない。私が抱いている違和感なんて、それに比べたら些細なことなんだ。

 

 

 

 なら、何が『狂ってる』んだ——。

 もっと根本的などこかが『狂ってる』んだ——。

 

 

 

 だとしたら狂ってるのは——。

 

 世界か——。自分か——。

 

 

 

 分からない。ここがどこか分からない。

 ここは本当に……私が知っている場所なのか?

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

「無事着いたわね。『モントン遺伝子開発会社』に」

 

「やっとですわ……。ここまで来るのに長い二日間でしたわ……! 道に迷った際は地図と照らし合わせて水脈や杉の匂いを辿っておおよその場所を把握したり、野宿する際は『ドール』に襲われぬように私だけはショートスリープでの交代……他にも食料節約のために、野に生えるキノコが食べれるかどうか確認したり……私の苦労は半端じゃなかったですわ……!」

 

「地味すぎてアニメや漫画ならカット間違いなしだけどね」

 

 セレサの言葉に「自分自身でもそう思いますわ」とソヤは認め、皆はたどり着いた施設を見上げる。

 

 そこは目的地である『モントン遺伝子開発会社』の正門前——。

 正門には取手も鍵穴もない分厚い防弾性と腐蝕耐性が極めて高い金属の扉があり、それは関係者の遺伝子情報がないと開閉できない厳重な物だ。

 

 それだけでも防犯性は非常に優れているのに、見上げれば夜でも問題なく来訪者の顔や身長を測れる高性能赤外線カメラがあり、もしものことが会ってもいいように発泡もできる簡易的な機関銃が備え付けているほどに徹底的だ。宗教思想が根強いサモントンにおいて、これほど厳重で近代的な防犯システムはとてもじゃないが似つかわしくない。

 

「……思ったのですが、電気が止められてる今なら別にセキュリティを気にする必要がないのでは?」

 

 バイジュウの言うことは正しい。現在サモントンは『時空位相波動』の中に閉じ込められて発電施設は機能を停止している。それは『モントン遺伝子開発会社』も例外ではなく、正門前の防犯システムはその全てが機能停止している。

 

 だがラファエルは複雑そうな心境でため息を吐きながら「そういうわけにもいかないの」と正門を越え、内部に侵入しようと足を進めた時、バイジュウの視界に不思議な物が止まった。

 

「蔦の扉……?」

 

 それは一言一句間違えのない、まさに『蔦の扉』としか言えない物だった。

 研究所を象る鉄鋼材の壁や床に苔生した蔦が這い回り、それが扉でも形成するように絡み合ってバイジュウの道を塞ぐ。

 

 邪魔だと感じてバイジュウは、その手に握るラプラスで一閃を蔦へと入れる。見事に切れたが、人間の骨でもあるかのように、瞬時に蔦はより硬く、より太く生え変わり、攻撃してきたバイジュウに敵対意識を見せるように、その蔦を鞭のように奮って威嚇してきた。

 

「普通の蔦じゃない……。再生速度が早すぎるし、過剰なほどに防衛反応が強い……。これは遺伝子操作されたもの……?」

 

「そうよ。これが『モントン遺伝子開発会社』の研究成果の一つでもある『バイオセキュリティ』よ。一般的な意味からは離れてはいるけど、新豊州と違って発電所が多く設置できないから、こういう災害時で働くセキュリティをサモントンは求めたの。その結果がこれってわけ」

 

「なるほど……。ではここのセキュリティは、エネルギーに依存しない植物が本来持つ機能をセキュリティにしてるわけですね……」

 

「その通り。サボテンが花を咲かせる時期があるように、あるいは特定の植物を組み合わせたら麻薬と似た効果を出したりするように、ここのセキュリティは植物などの生体の防衛本能や化学反応などを利用した物なのよ。だから遺伝子操作で都合のいい防衛機能を持った植物もあるから、生体情報によるパスワードが必要なの」

 

 ラファエルはそう言いながら蔦に手を絡ませると、蔦は迎え入れるように蔦の扉を解かせて内部への道を開かせた。

 

「もちろん遺伝子操作で耐熱性とかに関しては対策済みよ。だから天然要塞の計画も上手くいけば確かに成立するとは思うけど…………あっ、ソヤ。そこの植物は踏まないようにね。それは食中植物みたいな物だけど、毒性は人間の運動神経を麻痺させるほど強力だから」

 

「うひっ!? それは早く言ってくださいませっ!?」

 

「あっと、上の蔦は掴まないようにねぇ〜〜。掴んだら条件反射で絡んで来て宙吊りにしようとしてくるから。腕の一本くらい簡単に折られるよ〜〜?」

 

 今度はセレサがソヤを揶揄い、揶揄われた本人は「悍ましいシステムですわ」と珍しく冷や汗を出しながら腕や足の動きを小さくして改めて進み始める。

 

「ソヤさん、サモントン出身なのに知らなかったんですね……」

 

「私は基本は修道院所属ですわ! こんなのとは無縁ですわ!」

 

「にしては怖がりすぎでは……?」

 

「植物は『本能』しかないのですから、私の『共感覚』による匂いが全く判別不能ですの……。殺意がないのに、殺されそうになる感覚って中々に怖いですのよ?」

 

「まあ、まだまだ完璧じゃないから正門前みたいにセキュリティを共有してる状況だけどね。そういうのは植物が持つ生体電気と合併させているから、独立した電源となってこういう状況下でも機能するわ」

 

「例えばこういうのとか」と言って、今度は未だに機能する指紋認証装置へと指を入れた。そうすると花で覆われた扉は萎み、人一人分が通れる通路への道が開ける。

 

「すごいですね……。これを発展させれば非常時でも心強いセキュリティになります……」

 

「こんなの『黒糸病』が蔓延してないサモントンだからできる欠陥セキュリティよ。何で、こんな物をお祖父様は好んで使うのか……私には理解し難いわ」

 

 いや、逆に言えば『非常時でも守らなければいけない情報』がここにある事の裏返しではないかと、バイジュウはラファエルの言葉から感じた。

 

 どんな状況下でも守らないといけない感じるほどに、重要な情報が『モントン遺伝子開発会社』には眠っていると。

 

 

 

「これね。お祖父様の研究資料は……」

 

 

 

 通路の先にて、最深部であるデックス博士専用の研究室へと足を運ぶ。

 そこには幾重にも積み重ねられた紙の資料や、今は閲覧できないUSBメモリで保管された資料など様々な媒体で情報が記録されていた。

 

 その中にあるバインダーで閉じられたファイルへと手を伸ばし、ラファエルは数ある資料の中で、なぜか目を惹かれる項目を見つけると手を止めて読み耽った。

 

 

 

 

 

「『魔女の生体』と『五維介質(MEDIUM⁵)』について——」

 



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第8節 〜溢れるは神秘の力〜

 ここに私『トマス・デックス』が研究の末に導き出したある信憑性のある仮説を記録する。

 

 異質物研究の再確認及び再発見による高度な技術革新の黎明期——。

 遡れば約20年近く前に2018年ほどから開始され、その時から極めて小規模であるが『異質物』が発見されるのと比例するように一種の能力を持った人類が誕生するようになった。

 

 一部はかの『審判騎士』や『位階十席』に所属する『第二位』と『第五位』と『第八位』などといった先天的な能力であった。

 19年前であれば今では『華雲宮城』であるが、当時は『中国』と呼ばれる国にいた『ある学者』が養子として引き入れた娘もそれに該当するという記録もある。

 

 しかし、そのほとんどが『異質物』の影響を受けた者だった。後天的に得た異能の力を持つ者——『第十位』などの『魔導書』などの影響を受けた者ばかりだ。これを『魔女』と呼び、その果てが『ドール』と呼ばれるのは周知の事実のため、詳細については割愛する。

 

 だが『魔女』であっても個体差はあり、さらには面白いことに『魔女』あるいは『ドール』と呼ばれる存在には特殊な脳波を送受信しており、しかもその脳波には『五種類』ほど存在していることが分かった。

 

 

 

 一つは荒れ狂う『火』のように揺らめき——。

 一つは静かに流れる『水』のように漂い——。

 一つは気ままに渡る『風』のように吹き——。

 一つは動かざる『土』のように佇み——。

 

 

 

 最後は夜空に光る『星』のように瞬く——。

 

 

 

 これを私は形にするために『四元素』の思想の一つである『プリマ・マテリア』の考えも合わせて五つのタイプに分けた。

 

 つまりはシンプルに『火』『水』『風』『土』『エーテル』の五つだ。

 

 これら五種類の脳波が『異質物』や『魔導書』由来の『魔女』から検知された。脳波を『送受信』している以上、情報が絶えず更新されているということだ。だとすれば問題は『何の情報』が更新されていたのか。

 

 それを解明すれば異質物研究は更なる前進を見せる。ここサモントンでは所在不明の『EX級異質物』が教皇庁にいくつも保管されている。これはサモントンにとって貴重な資源ではあるが、同時に今すぐにでも起爆してもおかしくない核爆弾にも等しい。一刻も早く解明して、安全性と詳細を把握して資源として有効活用するために、私は何年もこの研究に明け暮れた。未だに貧困止まぬサモントンの抜本的問題を少しでも正すために。いつまでもXK級異質物ありきの政策から抜け出すために。

 

 そして研究自体は順調に進んだ。『四元素』の考えはあっていた。『異質物』も『魔導書』の力を利用することに成功した。

 それが『位階十席』の残る『第四位』『第六位』『第七位』『第九位』が持つ能力だ。送受信する脳波の核さえあれば『魔女』にならずとも能力を使うことができることを証明した。

 

 その傑作とも呼べる研究成果の詳細については、また別の話題だ。ここに記すべきことではないだろう。話を続ける。

 

 

 

『異質物』と『魔導書』の研究は順調だった。これならばいずれはどの学園都市よりも出し抜いて、サモントンだけが『異質物』の最先端技術を独裁することもできる。

 独占したとしても残る学園都市のXK級異質物で脅威となるのは、こちらとは違って資源難であるマサダブルクの『ファントム・フォース』だけだ。XK級異質物でも最も汎用性と強力さを兼ね備えた華雲宮城のXK級異質物は、唯一サモントンだけには干渉できない。

 

 到達できる——。

 私だけが『異質物』の真なる正体を突き止めることが——。

 

 

 

 

 

 だが『根底』には未だ届いていなかった。

 それを私は『あの日』に思い知らされた。

 

 

 

 

 

 それは私の可愛い孫娘である『ラファエル』が湖で溺れた日のことだった——。

 

 

 

 

 

 ラファエル自身は無事に保護されて命に別状はなかった。そこは喜ばしい事だ。だが問題はそこではない。

 

 救助したラファエルは脳波に異常を来していた。

 魔女の片鱗を見せ、その脳波に『風』を示していた。

 

 そこまでは理解できる。私が把握していた内容だ。

 

 

 

 だが、その脳波は今までと違って『情報』の質量が桁違いにあったのだ。テラバイトとかヨタバイトとかいう容量の多いという話ではない。そもそも『情報の次元』が違ったまま、極大の情報がラファエルの脳を侵していたのだ。

 

 そこで私は察した。『異質物』も『魔導書』そのものが、それらと比べたら極小の欠片にしか過ぎない物だと。私の研究なんて、それらの存在——『神』にも等しい存在からすれば赤子が遊びオモチャに過ぎないことだと知ってしまった。

 

 私はそれを知って『狂気』に取り憑かれた。ラファエルだけは絶対に手放してはいけない。ラファエルだけは真に価値のある人間なのだ。

 ガブリエルのような半端者や、ミカエルのような完全無欠でもない。完璧でないは故に、完璧を超えうる可能性をラファエルから私は感じ取ったのだ。

 

 そうして私の研究は一転した。

 ここから先の研究で重要視すべきなのは『異質物』や『魔導書』の利用できるかどうかではない。

 次元が違う存在である『神格』へと接触できるかどうかが最も重要となる。

 

 

 

 私はその『四元素』の『神格』と呼ぶべき存在をこう呼称することにした。

 

 

 

 ——『五維介質(MEDIUM⁵)』と。

 

 

 

 これらの存在は『四元素』の属性だけで留めて良い物ではない。故に『神格』に該当する『五維介質』にも属性に応じて名称を与えることにした。

 

 

 

 火の神格『赤羽(チーユ)』——。

 水の神格『海伊(ハイイー)』——。

 風の神格『蒼穹(ツァンチョン)』——。

 土の神格『詩岸(シアン)』——。

 

 

 

 星の神格『星尘(シンチェン)』と——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「————なによ、これ……」

 

 自分の手に広がる祖父の研究記録を見て、ラファエルは絶句した。

 自分の魔法について祖父が最初から知っていたこともそうだが、なによりもその研究記録に知っている人物の名前が明確に出ていることに驚くしかない。

 

 何せそれは人畜無害で無邪気の塊をした幼子である『シンチェン』と『ハイイー』の名前があったからだ。

 確かに『OS事件』を境に2人は情報生命体である『スターダスト』と『オーシャン』によって、SIDでも最上位レベルの保護対象となってレン共々に過ごしている状況だ。SIDが重要視するのは分かる。

 

 だが何故祖父はそれよりも前に、その2人の名を知っているのか——。

 それがラファエルには一切理解できなかった。ほんの一欠片さえも検討が付かない混乱が彼女の思考を曇らせる。

 

「それにこの『養子の娘』って……」

 

 時期的にも丁度思い当たる人物がいて、ラファエルは思わず視線を動かして、その人物である『バイジュウ』を見た。

 

「これは違う、これも違う。これもこれも……生物研究と近しい物ばかりで、地質関係は見当たらないですね……」

 

 当の本人はラファエルの様子に気づくことはなく、膨大な資料を完全記憶能力を活かした速読で瞬く間に閲覧を終えていく。見た感じ、他の資料で『養子の娘』どころか『五維介質』について言及した資料をカケラでも見ている様子はない。仮に前者を見たとしても、該当していないとして流しているのか。

 

 

 

 私の考えすぎか——。

 流石にそこまではまだ憶測に過ぎないと、ラファエルは冷静になって改めて資料を見直す。

 

 

 

 それでも『五維介質』についての記載は一切変わりはしない。『シンチェン』と『ハイイー』の名前は間違いなくあるし、なによりも驚くべきことはデックスの中で最も特別であると思っていたミカエルよりも、自分の方は祖父から特別視されてることだった。

 

「私の中に……『風の神格』……」

 

 何を馬鹿げたことを笑ってしまいそうになるフレーズだ。自分は『風の神格』に選ばれたとか自負するものなら、レンの『女装癖』よりも恥ずかしいことになるだろう。

 

 だが、それでもラファエルには疑問があった。

 祖父曰く自分が『神格』の影響を受けていることは分かった。恐らくそれが自身が持つ『回復魔法』の魔力の源だということも予測がつく。

 

 しかし、それだけで特別視するのはやや疑問が覚える。

 ソヤから既に話は聞いていたが、ガブリエルは『水』の魔法を使っていたし、本人の口から『他のデックスも『四元素』を宿している』と言っていた。

 

 つまりそれはミカエルも、ガブリエルも、ウリエルも自分と同じように『神格』に魅入られた故の対応した属性を持つことを意味している。

 

 ミカエルは『火の神格』を。

 ガブリエルは『水の神格』を。

 ウリエルは『土の神格』を。

 

 どういうことだ——。

 

『神格』を源とした『魔法』を使えるだけなら、別にラファエルだけが特別視されることはない。他の従兄弟も宿しているのだから、それだけでは理由が薄すぎるのだ。

 

 ラファエルは答えを求めて、さらに読み進める。

 祖父が記録した狂気の研究を——。

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 それからは私の研究は息詰まった。

 今後は『神格』に接触すれば良いことは分かったが、どうすればいいのか見えなかった。試作品は完成したが、いかんせん効果が発揮することはなく、何かが足りない状態だった。

 

 更にはラファエルが民に対して非常にアレな発言をしたせいで、大変面倒なことになった。我が孫娘ながら、あの気性だけはどうにかならなかったのか。

 あの一件以来、素直だったラファエルはじゃじゃ馬気質になって、温厚なガブリエルが「可愛げのある面倒くさい子」と遠慮なく形容するほどだ。理性的で人前で笑うことがないミカエルでさえも、嬉しそうに微笑を浮かべるほどだ。ラファエルの変化は、良くも悪くも2人にも影響を与えるほどに強烈だったのだ。

『神格』から何かしらの影響を受けたのか、それともラファエル自身が何かに気づいて変わろうとしたのか。この際、それはもう置いておこう。過ぎたことだ。

 とりあえずは緊急処置として新豊州に留学させといた。暫くはこれで政策には顔を出すことはないだろう。半年、いや三ヶ月、もうこの際一ヶ月でもいい。頼むから大人しくしててくれ。『黄金バタフライ』の密約もあるのだから。

 

 …………

 ……

 

「おい」

 

「ラファエルさん?」

 

 ……

 …………

 

 まあ、結果としては失敗に終わった。新豊州に少しデカい借りを生んでしまったが、同時に思わぬ収穫もあった。

 ラファエルが偶然接触した少女『レン』が、他の能力とは一線を画す能力を持っていることがSIDから提供されたのだ。『方舟計画』の詳細も伝えられ、そこで私はあることを思いついた。

 

 現在に対応する知識がないのなら、過去の賢人ならば知識がある。レンの能力を利用して、現代に賢人を甦らせることを。

 

 つまりは現代では既に淘汰された『四元素』の考え方の始祖である『錬金術』だ。その中で最もサモントンが手軽に用意ができて、知識が深くて『異質物』に封印されている可能性あるとなれば、生涯の最後が不明瞭のままになってしまった『ハインリッヒ・クンラート』に間違いない。

 

 それも成功に終わったが今度は別の問題が発生した。

 

 なんとハインリッヒは、こちらの言うことを一切聞かないラファエル並みにワガママな女だった。歴史では男性だと明記されていたはずだが、これには多少驚かされた。

 

 まあ、長い目を見て後はご機嫌取りをすれば何かしらの叡智を聴き出すぐらいはできるだろう。ラファエルの面倒を見る時と比べたら楽な方だ。気楽にコミュニケーションを測るとしよう。

 

 …………

 ……

 

「あ゛っ?」

 

「ラファエルさんから夥しい臭いが……!」

 

 ……

 …………

 

 久しぶりに書く気もするが、こうして紙に書くとそういう感じもしない。

 とりあえず度々来訪するハインリッヒのご機嫌取りをして、錬金術において『ある概念』について聞き出すことができた。それは『ミクロコスモス』と『マクロコスモス』の定義についてだ。

 

 錬金術師には『占星術師』と一緒で『マクロコスモス』と『ミクロコスモス』が完全対応してるという思想があるそうだ。錬金術が求める『賢者の石』にもそういう面があるとハインリッヒは使い古した玩具を上げるような態度で言っていた。

 多分『真理』に辿り着いた彼女からすれば、この考えはもう既に古い物なのだろう。だがそれがどうした。枯れた技術や思想は、それがそのまま利用する価値がないという意味ではない。意味を持つのは個人ごとによって変わる以上、私にはその意見こそが大事なのだ。

 

 となれば近いうちに現存している『占星術師』から話を聞くのも面白そうだ。確か華雲宮城ではそういう類の『魔女』がいるという噂を小耳に挟んだことがある。

 あそこは航空技術の問題で行き来するのが面倒な上に手続きも必要だ。私自身が迎えるかどうかは不確定だが、その時はミカエルを向かわせるとしよう。彼ならば私以上の目となり耳となってくれる。

 

 とりあえず分かったことは、大きくても小さくても与える影響は同じということだ。

 これには納得の意見だ。子育ては大きくても小さくても世話を焼く時は世話を焼く。今も昔はラファエルは我儘なのと一緒で、難しく考える必要はないのだ。要は与えたい影響が同じなら、形はどうでもいいのだ。

 

 …………

 ……

 

「あはは〜〜♪ これマジで言ってますわ♪ この資料には色々な臭いがしますが、中でも強烈なのは子煩悩ですわ〜〜♪」

 

「総督であっても孫娘の相手をするのに苦労してたみたいですね……」

 

「そりゃ元々ラファエルは素直ではあったけど、昔から意思は硬い方だったからね。博物館に行きたいと言ったら、後はもう泣きじゃくって駄々こねて、そうしたらもう梃子でも動きはしない。幼少期でさえラファエルの世話は手が焼いたってモリスも言ってたよ〜〜?」

 

「……アンタ達、いつから覗き見してる?」

 

「「「新豊州に留学させた辺りから」」」

 

 ……

 …………

 

 さて、というわけでついに完成した。能動的にこちちから『神格』へと接触する手段を。

 

 その研究には、このサモントンで数少ない『天国の門』を見ており、情報を多く持つ『審判騎士』を抱える修道院の『エルガノ』の協力してもらったことで成し得た成果だ。おかげで少々あることに一枚噛まざる得ないことも起きたが、それはこの成果に比べれば些細なことだ。

 

 それは『天国の門』の模造品だ。『門』というが実際は『門』ではない。ある法則を持った『情報』の塊であり、それはエルガノが持っていた壁画の仕組みと似ていて、ある手段を通すことでその情報を作動するというものだ。

 

 その手段は多岐に渡る。詠唱もあれば、舞踊でもある。あるいは信仰心を持って歌うことでもある。求める『神格』によって変わるのだ。

 

 要は召喚魔術などを行う際に、地面に描くサークルと似たような物だ。六芒星でもあれば五芒星でもあり、あるいは錬金術が用いる属性のマークでもある。モリスの『不屈の信仰』が祈りの形は問わずに効果を発揮するように、魔術の形にも基本的な原則はないのだ。召喚という結果だけ出せれば、そこまでの過程など価値を持たない。それが『神格』の在り方なのだ。

 

 後は実験あるのに。脳波に応じた召喚術式を様々な手段で試す。

 術式もそうだが、地脈などのオカルトに応じた場所も大事だ。しばらくはデックス同士の話し合いもないだろうし、これを機に成熟しているミカエル、ガブリエル、ウリエルに試してもらうとしよう。

 

 …………

 ……

 

「……あの猫丸電気街での事件、デックス博士が一因してたことをセレサは知ってましたか?」

 

「いやぁ〜〜。全くもって」

 

「この匂いは! ……ウソをついてる『匂い』ですわっ!」

 

「はい、正直に言えば詳細は知らんかった。けどラファエルに言伝してくれ、と言われてたから内心『何かあるんだろうなぁ〜〜』とは思っていたけど……」

 

 ……

 …………

 

 結果は大成功だった。

 ウリエルからの連絡はないが、ミカエルとガブリエルは見事に『神格』とこちらから接触して、ラファエルと同じ魔法を得ることに成功したのだ。

 

 2人とも名に恥じない魔法だった。ミカエルは『火』の、ガブリエルは『水』の魔法を確かに宿していた。

 

 だが、2人とも魔法を宿した時に共通点はなかった。というか正確な成功を収めたのはミカエルだけであり、ガブリエルに関しては再現性のない偶発的だったと本人が言っていた。

 

 ミカエルは『マクロコスモス』の定義に従い『旧バイコヌール宇宙基地』で天体観測のレンズを『門の情報』へと加工し、27億光年先の『フォーマルハウト』を見ることで『火の神格』へと接触し宿したと言っていた。

 

 ガブリエルは『ミクロコスモス』の定義に従い『南極大陸』でただひたすらに『門の情報』を持ったカメラを通して、深海の観測をし続けたと言っていた。だが結果が実ることはなく、諦めて南極大陸から移動する最中に頭痛と共に脳波の変化を受け、それによって『水の神格』の力を宿したと言っていた。

 

 奇しくも、その『水の神格』を得たのは新豊州で起きた『OS事件』と同日だったことが後で分かった。

 そこで起きた『何かしら』の影響でガブリエルが目覚めた可能性があるが……これに関して私がSIDに聞くことは自然ではない。何かしらの目的があると悟られてしまう。

 

 仕方ないがガブリエルについては一度ここまでにしよう。『神格』の力は得たのだから、それだけで十分だ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「これがガブリエルが『水』の魔法を得ていた理由……」

 

 デックス博士の研究成果を見て、セレサ以外の三人が動揺を隠しきれなかった。特にソヤは脳内で点と点が繋がり、納得いく答えを見つけたことで疑問が昇華される。

 

 つまり『魔女』というのは『神格』が持つ『情報』を浴びに浴びた存在なのだ。適応した物が『魔女』となり、暴走したのが『ドール』となる。

 だからヴィラクスは暴走した。そのニャルラトホテプ自身が『神格』の一柱だから『神格』が持つ次元が違う情報を叩き込んだから。

 そして同時に理解する。今まで度々敵対していた『守護者』を囲む『ヨグ=ソトース』という存在も『神格』であると。そしてそれは同胞である以上、ニャルラトホテプと同じで属性の『神格』であることも。

 

 しかし、だからこそソヤは不安を感じた。

 それが事実なら、少なくとも後四つは『神格』がいるということ。

 

 もしそれらもニャルラトホテプと同様に、私達に敵対する存在だとしたら——。今回のサモントンと似たような事変は今後も起こりうるということでもあるのだ。

 

「でもこれで分かったわね。XK級異質物を利用する方法が」

 

「ええ。XK級異質物といえど、結局与える影響は環境そのもの。だったらそちらにアプローチするという考えは盲点でした……」

 

「えっ、マジで言ってますか、バイジュウさん? 私には何も分からないのですが」

 

「マジです」と困惑するソヤにバイジュウは断言する。

 

「ミクロとマクロは互いに影響し合う関係。それは天秤の錘が片方が下がったら、もう片方が上がるように、何もXK級異質物自身に内側から操作しようという考えに固執しなくていいんです」

 

「……すみません。私はIQはあっても学はないので何が言いたいのか、よく掴めないのですが」

 

「つまりXK級異質物本体にじゃなくて、XK級異質物以外のすべてに影響を当てればいいんです」

 

 そう言ってバイジュウは空間を囲むように指を回し、得意気に告げた。

 

 

 

 

 

「この『時空位相波動』で閉じ込められたサモントンそのものに——」

 

「……ものすっっっげぇ、力技ですわ」



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第9節 〜孤独の世界の只中で〜

 そこは暗黒の世界の只中。

 一週間と少しという時間が経過し、レンの姿を模したニャルラトホテプは退屈そうに横になりながら、絵とセリフで世界を構築する漫画という文化に関心を向けていた。

 

「この身体が多趣味で多感な子だから退屈しのぎは何とかなったが……いや、まあ一週間も引きこもりみたいに漫画見るだけって飽きるな。次はライトノベルでも読むかぁ〜〜」

 

「いったいどこからそんな書物を……?」

 

 サモントンを見下ろせる裂け目から目を離し、ヴィラクスはニャルラトホテプに素朴な疑問を問う。当の本人は「サモントンの図書館から」から欠伸をしながら言うと、新しく本を拾い上げて流すように読み始めた。

 

「大人しくしとけば見た目は普通の少女だからな、このレンという子は。顔が知られてる『位階十席』ならいざ知らず、そこらへんのエージェントや避難民に俺の顔を見て警戒することはないさ」

 

「いつ降りてたのですか……しかも無警戒に」

 

「警戒するほどなら別の誰かになればいいだけだろ」とヴィラクスと視線を合わすことなく、確かめるように自分の身体を撫でて不適に笑う。

 

「ふふ……この身体も馴染んできた。レンも気づき始めて行動を開始するだろうし……その時になったらもう遅い。あいつの全ては俺の物になる」

 

「あらあら……。でしたら彼女もウリエルと同じようなことになると」

 

 その言葉にニャルラトホテプは頷いて肯定した。

 

「……ですが下界の様子も落ち着き始め、モリス達も打開策を見出そうと動いています。それに関してはどうなさいますか?」

 

 ヴィラクスの問いにニャルラトホテプは不敵な表情を更に深くして「もう手は打った」と告げる。

 

「降りたついでに、とっておきの爆弾を一つ仕掛けといた。『不屈の信仰』は確かにXK級異質物である『イージス』に匹敵するほどの堅牢さではあるが……同時に弱点も同じだ。内側からの攻撃には対抗策がない」

 

「なんと……流石はニャルラトホテプ様。大胆不適なこと……!」

 

 賛美するヴィラクスに、ニャルラトホテプは再び笑みで応えると、その手にある本を指を栞代わりに閉じ、現在のサモントンを眺めるために裂け目へと歩いた。

 

「後はラファエルだけだ。一番厄介なミカエルは蚊帳の外。ガブリエルは真の意味で魅入られた存在ではない。となると切り札はラファエルだけとなり、是が非でも頼らざる得ない…………」

 

 異形の目はサモントンを見下ろす。視線の先には『ヴェルサイユ宮殿』——。

 ニャルラトホテプは空いた手に、レンから奪っていた『ジーガークランツ』の欠片を握りしめて嘲笑うように言った。

 

「さあ、悲しい悲しいハッピーエンドまでもう少しだ。見事に無垢な民共々サモントンを救い出してくれよ? どんな犠牲を払おうとも」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「ねぇ父さん! 母さん! 『ルーシュチャ方程式』をもう一度見せて!!」

 

「どうした急に。お前、そんなに焦燥するほどに勉強熱心だったか?」

 

 あれからさらに数日。違和感を感じる物が『何か』と間違っていると考えた私は、とにかく数日でできる限り知人や友人、それに日常面での部分を根掘り葉掘り探し回って、逆に違和感を感じないものを探して始めた。

 

 だが悉くその全てに違和感があった。

 両親と一緒にいるだけで違和感がある。イルカの言葉は流暢で、アニーとラファエルは私の扱いがどこかいつもと違う。マリルも愛衣もどこか優しい扱いだった。エミリオは読心術を持たないし、ヴィラは私は腕相撲しても完敗しないぐらいには非力だった。ベアトリーチェに魅了されないし、ハインリッヒは服を脱がない。ソヤも犬並みの嗅覚ではなかった。ギン姐はなんか根本が違う気がした。

 学校だっていつも通り御桜川に通っているのに、通うことに違和感を覚えないことに違和感を覚えた。

 

 それに……それに……。

 

 

 

《バイジュウちゃ〜〜ん♪ ほっぺにクリームついてるよ〜〜》

《へっ!? どっちにですか!?》

《私が取ってあげる♪》

 

《お嬢様っ! 走り回らないでくださいっ!》

《いいじゃん♪ 今度はあっちの服屋でも行こうよっ!》

 

 

 

 平和な光景なはずなのにバイジュウはミルクといて、ファビオラもスクルドと一緒にいたことにも違和感を覚えてしまった。

 こんな幸せで満ち足りた光景なのに……違和感を覚えてしまう自分に嫌気が差してしまう。どうしてこの光景を見守っていたいと思わないのか。そんな非情さが何故沸くのか、理解できない。

 

 それに誰か……誰かいない気がしてならない。そこにも違和感があるんだ。いったい誰がいないんだ。何故か無性に『星』と『海』を眺めたくなるほどに、その心には誰かがいないんだ。

 

 

 

「まあ、論文として纏めてる最中の物なら見せてあげよう。コピーを取ってくるから待っていなさい」

 

 だけど、そんな中で唯一違和感を覚えないのが一つだけあった。

 それが『ルーシュチャ方程式』だった。これだけは何の違和感を持つこともなかった。だとすれば、今ここにある真実はこれだけなんだ。

 どういう風に解くかは検討もつかないが、きっとここに手がかりがある。でなければ、私はこれ以上どうしようもない。

 

「お待たせ。はい、これが『ルーシュチャ方程式』の資料だ」

 

 やがて父さんがファイルで整理されてるはずなのに、うんざりするほど山積みな資料を私の前に重苦しそうに置いた。

 

 お父さんに「ありがとう」とお礼を伝えながら資料を開けて見てみるが、やっぱり私には珍紛漢紛な単語が多い。だけど決してその全部が分からないだけではない。

 どういうわけか一部は解読できるのだ。とはいっても『読める』という意味ではなく、英語の文脈などでこういう文法だったら、大体こういうことを意味していると直感するように、何となく『情報』のそういう部分があるのを感じてるだけの朧げな物だ。

 

 後は多様されてる文法だ。こういう部分は大抵日常系の話をしていて、その前後や言語の共通性から少しずつ会話を紐解くことができる。

 

 そう、例えばこの一節。文法の末尾に『■』と非常に多く書かれているが、これは恐らく断定している感じの物だ。人間でいう「〜〜だ」とか「〜〜だろう」に近い言語であり、これについては父さんと母さんが端が記載した付箋のメモにも記されている。

 

 …………うん、大丈夫だ。何故か読める。違和感はない。

 きっとここに、私がどういう状況に陥っているのか知る手がかりがある。

 

「……レン。貴方がどんな道を選ぶとしても、私達は貴方を見守っているわ」

 

「えっ——?」

 

 早速図書館の個室でも借りて解読しようと奮起した時に、母さんは雨よりも静かにそう呟いた。

 

 

 

 どんな道を選ぶか? 将来の話だろうか。

 ……そんな話じゃない気がする。もっと大事なことだと感じている自分がいる。

 

 だとしたらなんだ。いったいどんな道を選ぶというのか。

 分からない。分からない事が立て続けに襲いかかってきて、今にも頭痛が起こしそうだ。

 

 

 

「だって貴方は……私達の自慢の『——』だから」

 

 

 

 ……なんて言ったんだろう。頭が混乱していたせいか、それとも私自身が拒むようにそこを聞くのを拒否したのか。その答えは私には分からない。

 だけど私は直感した。その言葉に私は応えないといけない。

 

 

 

 違う——。

 そうだ——。

 

 私は——。

 ■は——。

 

 

 

 ——父さんと母さんの自慢の『子供』だよ、って。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「はぁ……。XK級異質物を内部ではなく、外側から切っ掛けを与えて成長を促すと……」

 

「可能か不可能か。そこの結論だけを聞かせてください」

 

 再び帰還するのに二日。道中の畑からいくつか食料と資源を持ち帰ったバイジュウ達一行は、帰還して早々にハインリッヒに『モントン遺伝子開発会社』で得た情報から考えついた案を提唱する。

 それに対してハインリッヒは「まあ理論的には可能でしょうね」と若干呆れながらも認めた。

 

「ですが世界そのものに影響を与えるという力技は、当然それに見合った大きな力が必要になります。サモントン都市部だけとはいえ、それを満遍なく覆うとなると、私の錬金術を持っても不可能です」

 

「ならば可能にするには具体的にどれほどの規模が必要なのでしょうか?」

 

 遠回しに『現実的に不可能』だとハインリッヒは口にしたのに、かの聡明なバイジュウは諦める事なく食らいつく。それがハインリッヒにとって不可解だった。

 

 それもそのはず、バイジュウからすれば気が気ではない。何せモリスのいつ倒れるかも分からぬ状況もそうだが、何よりも敵となるニャルラトホテプには、彼女が現代に目覚めてから数少ない個人的交友関係者としているレンとヴィラクスを捕らえているのだ。

 一週間も治療で何もせずに傍観していただけ。しかも状況は維持されてるだけで改善はされてはいない。このままではレンやヴィラクスの身に取り返しがつかないことが起きるのではないかと、バイジュウは予感している。そしてそれは刻一刻と近づいており、今起きても不思議じゃないとも。

 

 だからこそ、打てる手は例え無茶、無理、無謀と呼ばれるような策とも言えない無策でもしがみ付いて実行したいとバイジュウは考えているのだ。

 

 その態度を見てハインリッヒは折れた。

 馬鹿にしながらも、それを好むように笑みを浮かべると「簡潔にお伝えしましょう」と話始めた。

 

「求める規模は先ほども言った通り、世界そのものに見合った力。この場合の世界は何を意味するか? それは分かりますね?」

 

「はい。ここサモントンです。より正確に言うなら『時空位相波動』に囚われたサモントンと」

 

「話が早い。では、これを起こしてる媒体とは?」

 

「セラエノの言うことに間違いがなければ、媒体は『魔導書』で間違いありません」

 

「そうですね。今この世界を作ってるのはヴィラクスさんの『魔導書』による力であり、逆説的にこの世界は『魔導書』そのものと言えます。では、最初に戻って世界に匹敵する力とは如何様な物でしょう?」

 

 そこでバイジュウは少しだけ押し黙る。ハインリッヒが口にする『世界に匹敵する力』とは何かを。その答えはすぐに出た。

 

「世界が『魔導書』というなら——『魔導書』に並ぶ『魔力』が必要、ということですね」

 

「正解。だけどこれが難しいのです。『魔導書』と同等の『魔力』……そんなのがどこにあるのでしょうか? ここまで大規模な『時空位相波動』は未だかつてありません。『OS事件』の時でも、規模としては今回の一割にも満たない……」

 

 バイジュウは考える。『魔導書』と同等の魔力がどう準備するか。

 今この場にいる誰もがそんな魔力は持っていない。そんな魔力を持っているなら『OS事件』で退治した『異形』の存在に苦戦することなく終えることができる。それができない時点で、ハインリッヒが口にした『OS事件は今回の一割未満』という規模よりも、バイジュウ達の個人個人の力はそれよりも下回るのだ。

 

「仮に具体的な指標を出すなら『あの方』……つまり『ヨグ=ソトース』に並びうる力や権能が必要なのは確実でしょう。前提としてこれを解決しなければ絵空事なのです」

 

「そんなの……レンさんか、ギン教官ぐらいしか……」

 

 そこでバイジュウは気づいた。だからニャルラトホテプはレンを無力化したのだと。閉鎖空間として機能している『時空位相波動』を安易に内部から突破させないために。そして『時空位相波動』を展開することで外部から干渉されることを防ぎ、ギンを無力化させる。

 

 改めて戦慄する。ニャルラトホテプは計算高く小賢しい存在だと。

 今まで相手してきた『異形』、『レッドアラート』、『ヨグ=ソトース』、それにサモントンで対峙した『アレン』と『ガブリエル』と『セラエノ』と比べて余りにもやる事が地味に見えるのに、そのどれよりも凶悪な一手を打ってくる。しかも表に出る事なく、高みから見下ろして遊び続ける。

 

 今までに相手した事ないタイプの存在だとバイジュウは感じた。

 しかしセラエノは口にしていた。ニャルラトホテプには必ず『隙』を用意していると。そういう性質があり、隙を用意せざる得ないと。

 

 だとしたら何かしらあるはず。小賢しさのどこかに付け入る隙が。致命的となる隙が。

 

 

 

 それこそ今どうにかして工面できないかと考えている『魔導書』に匹敵する『魔力』を用意できるような————。

 

 

 

「ここにあるぞ——」

 

 思考を目まぐるしく続けるバイジュウの背後から、ある男の声が聞こえてきた。

 

「ガブリエル……!? いつからそこに……?」

 

「その前に物申したい。軟禁状態にするのは良い。信頼できないのは確かだ。だけどセラエノをあんな自由にしといて、私とアレンの動きを制限されるのは非常に納得いかない」

 

「セラエノが自由とは……?」

 

 ガブリエルは仏頂面で外を指さした。指し示す方向には窓ガラスがあり、バイジュウ達はその先に何があるのを覗いてみる。

 

 

 

「セラエノお姉ちゃん、すげー!? サッカーボールが火の渦を噴いたー!?」

 

「ふふん。これがセラエノ姉さんの超次元技だ」

 

「他にもできるの!?」

 

「できるぞ。ゴッドハンドというのがな」

 

 そこには避難民となっている子供達と一緒にサッカーをするセラエノの姿があった。いつもの童話みたいに小綺麗な服装はしておらず、芋感全開の灰色ジャージで、髪も動きやすいようにポニーテールに纏めている。

 驚くべきはその身体能力の高さだった。いかにも血圧低そうで、少し動くだけで貧血で倒れそうなほどに細くて軟そうな四肢なのに、その動きは間違いなく歴戦のエージェントに引けを取らない機敏さであり、子供達から優雅ながらも力強くボールを奪い取り、続け様に「エターナルブリザード」と氷の冷気を纏ったような雰囲気があるシュートをして追加点を取った。

 

 別にセラエノ自身が遊びたいからこうしてるわけではない。むしろ逆であり、この極限状態で鬱憤が溜まっている子供達のストレスを解消するためにセラエノがわざわざ相手をしているのだ。

 彼女の能力はあくまで『情報』を叩きつけるだけであり、すでに発狂状態となっている『ドール』相手にはその能力は何の価値も見出せない。そのことを知っているバイジュウ達からすれば、こうやって避難民の精神的ケアのために尽力してもらっているだけだ。それがガブリエルの癪に触ったのだ。

 

 

 

「あれを見てる私達の気持ちが分かる? 一人だけあんな自由にされたら、こっちも大分精神的ダメージでかいんだ」

 

「そうですね……。確かに……あんな自由に伸び伸びしてると……って、レンさん……じゃなくてアレンくんはどこにいますか?」

 

「この目で確かめたいことがあるって、上空の裂け目を観察してる」

 

 そう言ってガブリエルは『ヴェルサイユ宮殿』の天井——正確に言うならその先にある『時空位相波動』の裂け目を指さした。

 

「今はアレンのことは置いていいだろう。問題は君が先ほど口にした魔についてだ。それは私達が持っている」

 

「私達……?」

 

「ああ」とガブリエルは頷くと、その指先を天井ではなく別の人物へと向けた。

 その指先にいた人物——ガブリエルの従妹であるラファエルは「は?」と鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして驚いた。

 

「私とラファエルがね」

 

「…………はぁ!?」

 

 衝撃の事実をさも当然のように告げられ、ラファエルは驚愕を口から吐き出した。

 

「私にはそんな魔力持ってないわよ! 私が使えるのは『回復魔法』だけで……!」

 

「祖父の研究記録は見ただろう。『神格』について色々と記載があったはずだ」

 

 その言葉を聞いてラファエルは押し黙る。

 ガブリエルの言う通り『モントン遺伝子開発会社』で、祖父の研究記録には『神格』についての記載があった。特にラファエルが特別視されてること、そしてデックス側から『神格』と接触して魔力を宿したこと。そしてその『神格』を『五維介質』と呼称していることを。

 

「ラファエル。私達……ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルの四人は星の外側にいる『神格』の力を宿しているんだ。恐らくその最中にウリエルは今回のニャルラトホテプとかいう存在に取り憑かれたんだろう……『神格』の力はそれほどまでに強力だからな」

 

「それがなんだってのよ……」

 

「研究記録にはこうも記載されている。『魔導書』はその『神格』からすれば極小の欠片に過ぎないと」

 

「だから私とガブリエルが『魔導書』を超える力があるとでも言うの? じゃあ、もしも仮に『神格』の魔力を宿してるといっても、それさえも欠片じゃないかしら? それが最低でも『魔導書』に並ぶ保証でもあるのかしら?」

 

「ない。私達自身の魔力で、『魔導書』の魔力に並ぶことは決してない」

 

「ほら、口だけ——」

 

「だけど別の方法で魔力を引き出す方法は存在する」

 

 間髪入れずにガブリエルは自らの首筋に掛けている『青色の宝石』を皆に見せつけるように突き出した。

 

「これはデックス家の家宝。私が所持することを許された『サファイア』だ。これを媒体に魔力を通すことで、私自身が持つ魔力を何十倍にも増幅させて『神格』の魔力を引き出す事ができる。最低でも『魔導書』に並びうるほどに」

 

 魔力を引き出す——。そこでソヤは納得した。

 ガブリエルと戦った時、戦闘行為は絶対に慣れていないガブリエルが、どうしてあそこまで能力を大盤振る舞いすることができたのかを。

 

 確かに戦闘前に『サファイア』に魔力を通して弓矢にしていたが、同時にガブリエルの魔力を爆発的に引き出したのだ。だからこそあんな風に水の空間を生み出してソヤを追い詰める事ができたのだ。

 

「デックス家であれば一人一つは絶対に持っている。私は『サファイア』で、ミカエル兄さんなら『ルビー』で、ウリエルなら『シディアン(黒曜石)』だ。ラファエルなら『エメラルド』を持っている」

 

 ガブリエルの言葉にラファエルは驚愕と共に背筋が凍りついたように動かなくなった。

 

 唯一見え始めた希望の一筋——。

 それがすでに閉ざされていることに気づいてしまったから。

 

「だから宝石に魔力を通せば『魔導書』に並びうる力を引き出すことはできる。一人では不足するだろうが、二人なら話は別だ。幸い『水』と『風』は錬金術では揮発性原質、五行思想でも相剋の関係だ。相性は良いはずだろ、ハインリッヒ?」

 

「……ええ、そうですが……。その前に致命的な部分があるんです」

 

「致命的?」と溢すガブリエルにハインリッヒは説明しようとするが、それをラファエルは止めて「私から言うわ」と覚悟を持って告げる。

 

 

 

 

 

「私の『エメラルド』は——」

 

 ラファエルの『エメラルド』は『OS事件』の時に砕け散った。

 その美しい光沢はレンやエミリオの命を助けるのと同時に、役割を終えたように石ころみたいに光沢を失ってしまった。

 

 

 

 それは何を意味しているのか——。

 

 

 

 

 

「……もうどこにもないの」

 

 

 

 

 

 そう——。

 ラファエルの手に『エメラルド』はないのだ——。



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第10節 〜切り刻まれるほどに真実〜

「『エメラルド』がないって……どういうことだ、ラファエル?」

 

「言葉通りよ。『OS事件』の時に『エメラルド』は砕けて使い物にならなくなったの……。まあ、事件の報告書には載せてない粗末なことだったから知ってなくて無理はないけど」

 

「報告書には載せてない……。モリスとセレサはこの事を知っていたのか?」

 

「口頭で一言だけ言ってはいましたね。ラファエル様が「今度帰国した際に覚えていたら伝えとくわ」と口にしていて、本人も深刻に思ってなさそうなので総督だけには伝えましたが……」

 

「私は今言われて思い出したわ。魔法の媒体になるとか知らなかったからね〜〜。別に『エメラルド』の原石自体はあるんだし、特に重要視することでもないかな〜〜って」

 

 そのガブリエルは驚きと戸惑いを隠せずに黙り込んでしまう。『エメラルド』が壊れたこともそうだが、それをラファエルが口にしなかったことにも。

 よほどのことが『OS事件』の時までにあって、その際に壊れたのでなければあり得ない事だ。それはすなわちラファエルが新豊州で実りのある生活を送っていたことの裏返しであり、それだけ育んだ関係があったからこそ『エメラルド』を壊されても怒る事なく受け入れて、今の今まで公に言わなかったのだと。

 

 それを想像し、思わずガブリエルはこの場に似つかわしくない『喜び』と『嬉しい』と感情が芽生えてしまう。ラファエルにとって、新豊州とはレンだけでなく、他の事でも彼女を彼女らしくする触れ合いがあった事が分かって。

 

「……代わりの宝石で代用することはできないのでしょうか?」

 

 バイジュウからの問いかけに、ガブリエルは一度深く考え込むと、苦虫を潰した顔を浮かべて首を横に振った。

 

「……宝石ってのはピンキリなんだ。大きさ、光沢、加工方法……。その中でも最高品質の物をデックスは私達天使の名を持つ者に預けている。代わりになる宝石自体があるが、同等の物があるとは思えない。それにデックス家の家宝を収める倉庫は郊外に数多く置いてある。足で行くには片道でも最低一日以上、報復で二日だ。…………そんな悠長な時間がサモントンに残っているか?」

 

 残っていない——。そのことをここにいる皆が心に思い浮かべる。

 サモントンで発生した『時空位相波動』は内部での時間で、10日以上は既に経過している。

 現状でも食事は満足にいかず、水も限界ギリギリの状態をさらに切り詰めてる状況だ。この場にいる全員が薄汚れた衣服は洗うことはできず、身体もタオルなどを使い回して汗を拭っている程度だ。腐臭はまだないだけマシであり、悪臭も絶えず漂い、我慢強い『ローゼンクロイツ』のエージェントでもストレスを溜め込むほどだ。一般市民が耐えるには我慢の限界であり、これ以上の持久戦は市民同士の物資の取り合いも十二分にあり得るほどに極限状態が続いている。

 

 そんな環境で悠長できる時間なんて多くない——。

 だからこそバイジュウが提唱したXK級異質物を利用して『天然要塞』を作り、防衛面を強化しつつ、水脈を操作してサモントン都市部に水を供給できるようにするというのに、肝心のXK級異質物を利用するための魔力を起こす媒体である『エメラルド』がないときた。

 

「あの……ガブリエルは魔法で『水』を生み出せますよね? それで飲み水を作り出すことは……」

 

 だが、それでも『水』さえあれば極限状態を長引かせることができることを冷静に受け止めているバイジュウは続けて質問をする。

 しかしガブリエルからの返答は「無理だ」と明確に否定の意思を見せた。

 

「私の『水』は性質上どうやっても魔力を通した『水』が発生する。これは魔法に耐性がない人間には猛毒以上に有害な物だ。それに仮に飲めたとしても、純度100%の『水』故に栄養価も一切ない。進んで飲むことはオススメしないよ」

 

「……ですが『匂い』は消せましたわ。でしたら衣服などの汚れを落とす事などは可能ですわよね?」

 

 ソヤからの質問に「まあ身体や衣服などを清めるためなら問題ないな」とガブリエルは付け足す。

 

 だが、それでは根本的な問題が解消されていない。いずれは飲み水が無くなる。喉が渇いてはいくら食料があろうと飲み込めない。兵糧を口にできなければ戦は続かない。そうなってしまえば市民を守る以前に、サモントンそのものが落ちる。

 

 サモントンが落ちてしまえば、世界中が混乱してしまう。『黒糸病』の対策ができない他の学園都市では、満足に農作物を作ることもできない。雑草などの類も犯されては草食動物の家畜も育たない。魚だって海藻という植物を食って生きている品種もある。そういう種類は『黒糸病』の影響を受けてしまう。

 

 そうなってしまえば人類が満足に口にできる物はほぼ何もない。

 人類は飢えて死ぬか、運命を悟って自死するか、唯一まだ口にできる同族同士の肉で共食いをして殺し合うか。どれも『知性』を微塵も感じない尊厳的な死を迎えてしまう。

 

 それをラファエルほどの聡明な人間なら理解できないわけがない。自分の至らなさが遠因となって招いてしまった事態に、頭の中で混乱が膨張していく。

 

 

 

 ——なんとかする手段はないか、どうにかして打開策を捻り出さないと皆が飢え死にしてしまう。

 

 ——いくら信仰的で大嫌いなサモントン市民であろうと、その尊厳が『人間』にも満たずに死ぬのはラファエルには耐えきれないのだ。

 

 

 

(……それでも『死』を選ばざる得ない状況になったとしたら——)

 

 

 

 ——せめて『人間』として死なせてやるぐらいの手引きはしてやろうと、ラファエルはその時に覚悟した。

 

 ——遠因は私にあるのだからと。

 

 

 

「……覚悟の準備をするのはいいが、まだ可能性がある。幸いにも私の『サファイア』は残っている。相乗効果を期待すれば、いくらか格落ちしてもXK級異質物を操作するほどの宝石は必ずあるはずだ」

 

 内心を察してガブリエルは兄貴分として口を出す。

 ラファエルは「気休めは大丈夫よ」と言うが、ガブリエルは「気休めじゃない」とすぐさま否定する。

 

「デックス本邸になら可能性がある。あそこにはまだ覚醒しないデックス達のために未使用の宝石を秘蔵してる。『隕石(メテオライト)』や『ラブラドライ』………。パワーストーンもありなら『モルダバイト』も……」

 

「なるほど。『モルダバイト』は天然石の中でも最高峰の風属性を持つパワーストーン……効果としては期待できそうですね」

 

「『メテオライト』も自然のエネルギーが凝縮された存在……可能性はありますね」

 

「? ……? なんの話をしてますの……?」

 

 飛び交う宝石の名称に頷くハインリッヒとバイジュウに、ソヤだけが理解が追いつかない。

 それもそのはず、彼女は宝石にはまるで興味がなかった。

 

「だけど本邸との距離は郊外の郊外……。300キロ近くは離れているわ。歩いて行くには一週間も掛かるんじゃ話にならない」

 

 ラファエルの意見はごもっともだった。それが可能であるならここまで頭は抱えはしない。時間がないと本人が口した事でもあるのだから。

 

「……この中で『スピードスケート』ができる者は?」

 

 しかしガブリエルはそれを流して、突然として競技名である『スケート』の単語を溢した。それも『スピードスケート』という物を。

 その真意を気づくのに誰もが時間がかかった。一番早く気づいたのはバイジュウであり、次点でラファエルであった。

 

「確かにそれなら可能ではある……」

 

「博識なバイジュウさん? いったいどういう意味なのでしょうか?」

 

 ソヤからの疑問にバイジュウはすぐに「じゃあ簡潔に説明を」と言って皆の中央に立って説明を始めた。

 

「『スケート』——。過去にあったオリンピックなどの採用された競技であり、今では『七年戦争』による規模の縮小で貴族の遊戯となっていますが、その競技内容は非常に特殊です。種目などは関係ないので省力しますが、重要なのは『スケート』という競技はどのような速さで行われているか。どの程度かご存知でしょうか?」

 

「映像記録のイメージですと短距離走よりかは遅いぐらいでしょうか」

 

「実は具体的な速度だと『時速30キロ』は出ています。ちなみに100m走の世界記録で有名な『ウサイン・ボルト』は『瞬間時速45キロ』ほどです」

 

「想像よりか遅いですわね……。自転車より遅いのでは?」

 

「しかしそれは『フィギュアスケート』の世界での話。そして『スピードスケート』と呼ばれるレース形式の物であれば、プロフェッショナルなら『平均時速60キロ』は当然のように出る競技です。これは乗り物を介さない人力で出せる速度としては最高レベルであり、世界記録になると『時速90キロ』を超えるほどです」

 

「なんと!?」

 

「それと自転車はシティサイクルだと『平均時速15キロ』でスケート以下です。マウンテン系だと『平均時速20キロ』で、ロードバイクだと『平均時速40キロ』になります。レースになると『時速70キロ』は出ますが……」

 

「はえ〜〜、スケートも中々速いですわ…………って、それ考えますと人体一つで瞬間的に時速45キロ出す陸上選手は化け物じゃあありませんか!? 魔女よりも強くないですか!?」

 

「化け物ですよ?」とバイジュウは何を今更と言わんばかりの淡白な口調で肯定した。

 

「纏めると人力で出せる速度というのは『スピードスケート』なのです。条件は『氷上のフィールド』と専用のスケート靴。それに適した身体能力。このうち一番難しいの最初のですが……」

 

 そう言いながらバイジュウはガブリエルへと視線を向け、その意図を察しているガブリエルは静かに頷いた。

 

「ガブリエルさんの能力なら『氷』を作るのは難しい事じゃない。それにハインリッヒさんもいる。二人の力があれば、どんな条件下であろうと『氷上のフィールド』を生成する事が可能です」

 

「おまけに私の『水』は先ほども話したが純度100%の水であり、同時にそれは凍らせれば純度100%の『氷』となる。それは不純物はないということであり、摩擦係数も低下して、より滑りやすくなる。『時速100キロ』も夢じゃないほどにね。まあ安全を考慮して50キロにはなるけど」

 

「約50キロ……片道で12時間でしたら、報復でも一日あれば帰還できますわ!」

 

 それならば極限状態でもサモントンを行き来することができる。不確定要素は考えれば多く、まだまだ不安なことは多いが、ようやく見えて来た道筋だ。試してみる価値は大いにあると、この場にいる皆が思う。

 

「行くのは生成係として私は当然だ。そして宝石が合うかどうかを現地で判断するためにラファエルも行く必要がある。彼女もスケートはできるしな」

 

「……そりゃアンタ仕込みだからできるけど……」

 

「後は何人か欲しいが……今の時代、スケートができるのは人間は貴重だ。今この場でいるか?」

 

 挙手したのは二人だけだった。それはセレサとモリスの二人であり、それを知っていたガブリエルは「だろうな」と呆れるようにため息をついた。

 

「当然モリスはダメだ。君がここを離れてしまっては『不屈の信仰』による都市部の障壁が弱まってしまう」

 

「となるとセレサだけですね」

 

「しかしそれもダメだ。セレサがいなくなれば、残る戦力はハインリッヒしかいない。バイジュウは未だ絶不調、ソヤはノコギリだけだ。セラエノは『ドール』相手には戦力にはならないし、アレンだって特別強いわけじゃない。戦力として心許ない」

 

「まあ、暴徒となった民を沈静化できるぐらいの戦力はあるから悲観し過ぎるほどでもないけど」とフォローになってるのか怪しい補足をしてガブリエルは話を続ける。

 

「もしもモリスの『不屈の信仰』が無力化された時に『ドール』や『シャンタク鳥』に対抗できるのハインリッヒだけになる。ハインリッヒだって『ドール・ハインリッヒ』の操作と量産があって本人自体は万全ではない。だからセレサは待機のままだ。仕方ないが私とラファエルの二人で向かうしかない」

 

「それでいいな?」と問うガブリエルに、ラファエルは頷いた。

 

「よし、向かうべきはデックス家の本邸だ。ラファエルには悪いが『モントン遺伝子開発会社』からぶっ続けで行動してもらうことになるから、準備と休憩を兼ねて2時間後に出発だ」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 時は経ち、半ば廃墟と化した『ヴェルサイユ宮殿』の最上階にてアレンは欠片となった『ディクタートル』を握りしめながら、何かを探すようにサモントンを混乱へと陥らせた裂け目を見上げ続ける。

 

「……やはりニャルラトホテプはあそこの裂け目にいるな。『ラインの黄金』の繋がりは間違いなく裂け目の中にまで続いている。……けど微かにブレてる……。裂け目だけじゃなく、どこかにアイツの存在が……」

 

 アレンの思考は混乱を交えながらも続ける。どうしてニャルラトホテプの存在が朧げで、かつ確かに二つ以上感じているのか。

 頭を抱えても答えは見えてこない。そんな中「おーい」と無感情ながらも尻尾を振る子犬のような無警戒な歩みでセラエノがアレンに近づいてきた。

 

「飯の時間だ。パン二つと食用馬肉の焼肉だ。塩もあるぞ」

 

「ありがとう。無駄に麦だけはあるからパンだけは困らないな……」

 

「調理環境が悪くパサパサしてるがな。手作りは愛が篭って美味しいというが、こうも質が悪いと意味がないな」

 

 悪態をつきながらもアレンとセラエノの食事は進む。

 アレンはパンを手で小分けしながら口に運び、かたやセラエノはハムスターのように両手でパンを持って少しずつ削り取って口にする。

 

「状況について共有だ。かくかくしかじか」

 

「伝わらないよ? けど想像はつく。ここからあの二人が見えるからな。どこに行く気だ?」

 

 一つ目のパンを食べ終わった頃にアレンは遠くに見える『氷の道』を滑走するガブリエル、ラファエルを内心「どこぞのホワイト・アルバムかよ」と思いながらもセラエノに問う。

 セラエノは「少し待て」と口に含んでいたパンを飲み込んで「これでよし」と言って行儀良く話を再開させた。

 

「宝石を求めてデックス家の本邸に行くとのことだ。ビバ、トレジャーハント」

 

「宝石を求めてデックス本邸にねぇ…………」

 

 そこでアレンは勘づく。自分が先ほどまで感じていたニャルラトホテプの気配。それがブレていて、どこか安定せずに漂っているが、果たしてそれはどこに向かっているのか。

 

 気になって意識を澄まして追ってみるが、それでもアレンにはニャルラトホテプのもう一つの存在が掴めない。だけど直感が囁いているのだ。そこにニャルラトホテプがいるということを。

 

 

 

 だとすれば問題はニャルラトホテプは『何に』なっているのか——。

 

 

 

「……例えばの話、アイツが宝石に化けることできるのか? もしくはアイツ由来の宝石とか……」

 

「『輝くトラペゾへドロン』という宝石はあるが安心しろ。あれは存在として強烈すぎる。あるなら、とっくに私はどこにあるか感知している。もちろんそれに近しい物もな」

 

 セラエノが嘘をつくことはない。それどころか長い付き合いをしてアレンは知っている。彼女の口から発せられる言葉は真実であることを。

 であれば間違いなく、その『輝くトラペゾヘドロン』という宝石は存在しないということだ。ニャルラトホテプを介する宝石はそこにはないのは確実だ。

 

「……じゃあ大丈夫なのか?」

 

 不安は拭えずにアレンは三人が向かった先であるデックス本邸を見つめながら思い耽る。

 

 

 

 何か、何か見落としているのではないかと——。

 

 

 

「……レン。今回ばかりはイレギュラー中のイレギュラーだ。俺とお前がいないと、この解決することはできない」

 

 そこでアレンは二つ目のパンと馬肉を食べ終わり、願うように呟いた。

 

「なるべく早く……『夢』から覚めてくれよ」

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 父さんから『ルーチュシャ方程式』の資料を貰ってから数日後。私は取り憑かれたように、バイトがある日以外の放課後は毎日欠かさず図書館に通って資料と睨めっこして解読する日々を過ごしていた。

 

 進歩としては遅くはあるものの、確かに実りがあるのを感じている。今でも読めるものは少ないが、それでもパーセント表記でなら全体の5%前後は解読できる。

 

「なんで解読できるかは分からないけど……いける! この調子ならこれを解読して私の違和感の正体が……!」

 

「それにそれ以上触れるんじゃあないっ!!」

 

 そう思って新たな参考資料を探そうと図書館の本を漁ってる時、あまりにも突然に私の手を掴んできた人物がいた。

 

「やっと会えた……。君がレンちゃんで間違いないね?」

 

 振り返るとそこには明るい茶髪なのか、暗めの金髪なのか曖昧な色黒な見覚えのない少年がいた。身長は私よりも一回り小さく155〜157cmほどであり、見た目の年齢にしては小さくて可愛い部類だ。

 

 だが、それは見た目だけの話。少年の握力は見た目に反して信じられないほどに強い。私よりも細腕なのに、まるでボディビルダーのような重圧を感じるほどの握力が私の腕を掴んで離さないのだ。

 

「は、離してください! 私から手を離して!」

 

 ちょっとやそっとの力では振り解く以前に、少年のバランスさえ崩すこともままらない。振り払おうと動かし続ける腕は、まるで岩にぶつかったように痛くて赤く腫れて私の抵抗力を削いでいく。

 

 

 

 ——怖い。いくら子供とはいえ、男の人にここまで力強くされるのは初めてだ。未知の恐怖が私の背中を寒くする。

 

 

 

「誰ですか!? 痴漢とかナンパですか!?」

 

「違う! 僕だって未熟だけど紳士だ! 女性に対しては失礼は絶対にしないと『デックス』の名に誓ってもいい!」

 

 

 

 デックス——。あのデックス? ラファエルと同じ姓の?

 

 知人の同じ姓名が出てきて私の戸惑いは少しずつ薄れていく。それに呼応するように少年の握力も徐々に弱まっていき、やがて魔法でも解けたように嘘みたいな握力は無くなって、その細腕に相応しい力と体温が腕に伝わってくる。

 

 

 

「謹んでいる状況じゃない。手っ取り早く自己紹介と目的を言うよ」

 

 そう言って私の腕を無理やり押さえていた手を離し、皺となってよれた服の襟や袖も正す事なく、焦燥感を持った歌うように彼は告げた。

 

 

 

 

 

「僕は『ウリエル・デックス』——。君と同じ、この世界に閉じ込められた存在だ。そして君が解こうとしてる情報は悪質極まるアイツの『罠』なんだ」



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第11節 〜蠱毒の世界の只中で〜

第13節までは書き終えてるので、このまま第13節まで毎日更新です。


「ウリエル・デックス……」

 

 何故だろう。その名前を聞いて最初に浮かんだ感情は、理由もつかないドギツイほどの嫌悪感と拒否感だった。

 

 その名前を許しちゃいけない。魂にまで刻まれた怒りがどうしようもなく込み上げてくる。

 だけど意味がわからない。いくらデックスとはいえ、少年とは初対面だ。訳もわからない感情で暴力などを振るうほど、私は人間ができていないわけじゃない。

 

 とりあえずは警戒心を強めて少年の動作を追う。

 その雰囲気を察したのだろう。ウリエルと名乗る少年は「そうなるのは当然だよね」と心底申し訳なさそうに言葉を濁しながら、私との距離を一歩半ほど遠ざけて話し始めた。

 

「僕自身じゃないとはいえ、僕は君に酷い裏切りをした。今でもサモントンを混乱させてる遠因は僕にある……。僕がもっと早く気づいていれば、こんな恥晒しをしなくて済んだというのに……」

 

 サモントンを混乱させてる——? どういうことだ。ここは新豊州だし、今日のニュースでそんなことが報道された記憶はない。

 ウリエルに一言言ってSNSを確認してみるが、そういう速報などどこにもなく、強いてトラブルがあるとすれば某有名人が結構報道で厄介ファンが物申してるくらいだ。とても平和的なトラブルしか、今ここでは起きていないのだ。

 

 だけどウリエルが言うことは真実だ、と直感している自分がいる。

 そしてウリエルが言うことは偽りではないことも、信頼している自分がいる。

 

 心の中では泥みたいに粘ついた負の感情が渦巻き続けるというのに、その言葉には水より透き通った揺るぎない確信があった。

 

「だからこそ信じて欲しい。君がしようとしてることは、僕と同じで災厄への引き金にしかならない」

 

「……嫌って言ったら?」

 

 だが、それとこれとは話が別。いくら信じようが直感しようが、あまりにも話の流れに突拍子がない。夢見がちな感性など、中学二年生の時に既に置いてきたのだから、馬鹿正直に従う理由にもならない。

 

 だから試すようにウリエルに問う。どんな返答が来るのか、知りたいがために。その答えは少年とは思えない物騒なものだった。

 

「力づくで止める。君の目を潰し、手を砕き、足を折り、必要ならば君の命も奪う」

 

 マジだ。大マジでこの少年は言っている。敵意と殺意は全く持たずに『覚悟』だけを持って、私の命を取る決意を既に固めている。

 

 それは脅迫も同然だ。私だって自分の命は惜しい。訳もわからないままそんな目に遭うのは御免被る。

 私は一言「分かった」と渋々と受け入れ、一先ずは話を聞くためにウリエルと一緒に図書館の読書スペースから離れて飲食スペースへと向かい、入り口から一番奥の2人席へと腰を置いた。

 

「ランチセットを二つ頼むけど、飲み物は何がいい?」

 

「いらない。今の僕に食事は意味ないからね。さっさと本題を話させてもらうよ」

 

 そう言ってウリエルは咳払いをして話し始める。

 

「まず君はどこまで覚えている? ここにいるということは記憶の混乱があるはずだ」

 

「記憶の混乱……」

 

 非常にある。ここ数日の違和感で嫌というほどに実感している。私の記憶と記録はチグハグで、何が正しいのか間違ってるのか分からない状態だ。それは暗闇の荒野を進んでるような不安を煽る物であり、だからこそ真実が知りたくて、こうして唯一違和感のない『ルーチュシャ方程式』を解いて糸口にならないかと躍起になっていたんだから。

 

「それと世界情勢についてもね。ここは大変平和で素敵な世界だ。争うことはあっても小さなことばかりで、戦争や人種差別、思想による派閥争いさえない平和な世界だ。だけど実際は違う」

 

「……じゃあ、本当はどういう風になってるの?」

 

「現実はただひたすらに血と涙が溢れてる。『七年戦争』の影響で全人類が何かしらの不幸を背負うことになった。マサダでは今もなお内城と外城で人種差別と人権主張のためにテロ行為を繰り返す。華雲宮城も差別問題は大きい。リバーナはマフィアが互いに権利を握って冷戦状態にしてるだけ。ニューモリダスは銃社会の上に、裏では汚職や他国への裏取引が多発。サモントンはホームレスが後を絶たない。新豊州だって『イージス』の管理下であるか、ないかで大きく変わる」

 

 知らない知らない知らない。そんなのは知らない。そんな世界の残酷さなんて知らない。

 

 だって私の記憶では、六大学園都市はそのすべてが研究が進んで豊かな政治が行なっている。『七年戦争』なんか聞いたことがない。

 

 だけど知ってる。記憶でも記録でもなく『魂』に焼きついて部分が知っている。ウリエルが言っていることは、そのすべてが真実であることを。

 

「……ここは本当に優しい世界だ。これは君の願いが形になったからだ。この世界は君が見てる『夢』みたいな物で、君が深層心理で平和を願ってるからこそ、こういう穏やかな世界になってる……」

 

「身体の障害、家系の問題も解決してね」とウリエルは外の児童公園を眺めながら呟いた。その視線の先には、何てことない親子達が公園で楽しく遊ぶ姿があった。

 

「子供達がこうして飢えも寂しさも知らずにいられる。けど、いい加減夢から覚めないと。現実では君の助けを待っている人達がいる」

 

「……夢。ここが夢……」

 

 言われて納得する自分がいる。心の隅ではこんな都合のいい世界があるわけがないと思っていたから。

 

 多分違和感の正体もそれだ。私がここ何日も感じてる違和感は、そういう誰かにとって都合のいい

 

「……うん、でも夢なら覚めないといけないよね。早く覚めて、現実の父さんと母さんを……」

 

「それは無理だ」

 

 ウリエルは断言した。私が思っている当たり前なんて、それそのものが儚い願いだと言う様に、残酷にも次の言葉を言い渡された。

 

 

 

「だって君の親は、現実にはいないんだから——」

 

 

 

 それを聞いて、私は名状し難い感情が煮えたぎった。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 一方その頃、サモントン都市部にて——。

 

「さて、ラファエル達は本邸に向かったけど、その間にこっちもどうにかしないわけにも行かないわよね……」

 

 セレサは帰還してからの6時間を組織間での連絡と避難民の状況把握に当て、その後『モントン遺伝子開発会社』から帰還した休息として6時間の睡眠を取った後、寝ボケ頭ながらも市民の様子を伺いはじめた。

 

「おかあさん……おなかへったよ……」

 

「大丈夫。私のパンがあるから食べなさい……」

 

「でもおかあさんが……」

 

「いいの。……喉が通らないから」

 

 身を寄せ合いながら、支給された毛布で暖を取る親子を見てため息をつく。

 水不足が災いして子の母親は物を食べるのが億劫になっている。それは自らに支給された水をも子供に分け与えてしまっていることも起因してもいた。

 

 もう既に崩壊までそう長くはない。いつ民が暴徒になってもおかしくない。だからこそ一刻も早くラファエル達には適応した宝石を入手してもらう必要があるのだ。

 

 今か今かとセレサは苛立ちながら待つ。それは自分の不甲斐なさから来る物でもあり、上司であり戦友であり親友でもあるモリスに対して大きな力になれないことが最も大きな要因でもある。

 

 自分は指示されたこととは言え、呑気に睡眠を取ったのにも関わらず、モリスは今でも最低限さえ満たせないような睡眠でどうにか頑張り続ける。自分が寝てしまっては『不屈の信仰』による障壁が消えてしまい、その瞬間に都市部へと『ドール』が押し寄せてくる。

 

 障壁範囲外である都市部外周のドールは今もなお人知れずに『位階十席』の一人であるアイスティーナが定期的に屠っているが、それでも無防備にしていいのは1時間ほどが限界だ。

 

 だというのに自分はそれに対して無力なのだ。アイスティーナと違い、セレサの戦闘能力は一対一の対人特化であり、複数戦にはまるで向いていない。実力差あれば何人いようが関係ないが、ドールならばまだ何とかなるがシャンタク鳥も混じれば苦戦してしまう。それがセレサにとって歯痒い思いをさせているのだ。

 

「どうしたのですか、黄昏て。手持ち無沙汰なら少しお手伝いして貰えますか」

 

「……ハインリッヒは何してんの?」

 

 そんな時、珍妙な物ではなく『珍妙な人』を両手で引き摺るハインリッヒと会った。

 右手にはハインリッヒと瓜二つの人物、今もこれからもサモントン防衛のために尽力する『ドール・ハインリッヒ』が遊んで草臥れた人形の様にズタボロになっており、長い戦いの末に役目を終えたのだとセレサは感づいた。

 

「『ドール・ハインリッヒ』の回収ですね。もう使い物にならないので、廃棄された『ドール・ハインリッヒ』と組み合わせて改修しようかと」

 

「それは予想つくよ。聞きたいのは、その左手で伸びてる方」

 

 そう言われてハインリッヒは「こっちですか」と乱暴にもう片方の手で気絶している『若い男性』を見た。

 

「このストレスで諸々溜まった殿方のことですね。『ドール・ハインリッヒ』は自意識がないので、役割を終えれば文字通り物言わぬ肉人形なんですよ。ですからそれを見計らって性的解消をしようとするのがいましてね……こうして軽くお仕置きを」

 

「あー……そういうことね」

 

 ハインリッヒが何を口にしているのかを察したセレサは、何とも言えない呆れを交えた嘆息を吐いた。

 

「ですが今は秩序第一。無法者が表出たら、混乱の火種にしかならない。だからこうして断腸の思いで諦めているのです」

 

「あっ、そうなの。テッキリ搾り取った後に叩きのめしたかと思った」

 

「私としてはそれでも別にいいんですけどね。男性のアレは成分としてはかなり貴重ですので。生存本能から来る繁殖行為ですよ? 錬金素材としては質、希少さ共に優秀なのです」

 

「あー、うん。振った私が悪かった」

 

 何にせよ、そういう類に出る輩も出始めるほどにサモントンはギリギリだった。これでもしも障壁が突破でもされたら、サモントンの滅亡は秒読みとなる。

 

 だからセレサは願う。願うことしかできない。モリスに限界が来るよりも早く、ラファエル達の魔力を適応した宝石を一刻も早く見つかることを。

 

『セレサ! 聞こえますか、セレサ!』

 

「どったの、モリスさん? そんな忙しい声を——」

 

 その瞬間、セレサの脳裏に電流が走った。嫌な予感がしたとも言う。

 氷柱が首筋に入り、脊髄を丸ごと貫いた様な怖気がその身を蝕む。まるで先程予感したことが現実だと証明するかの如く——。

 

 

 

 

 

『——障壁内部に『ドール』が発生しました!!』

 

 

 

 

 

 その予感は的中した。モリスからの連絡が来た直後、都市部の中央から轟く悲鳴がセレサの耳を劈いた。

 意識するよりも早くセレサは声の方向へと振り返る。市民が次々と雪崩の様に押し寄せ、セレサはその人混みの合間を縫う様に逆流して『ドール』が発生したという場所へと向かう。

 

 ありえない——。ありえないありえないありえない——。

 

 セレサの中で混乱が膨らむ。『不屈の信仰』によって発生した障壁は今もなお健在だ。その障壁が存在する限り、外部から侵入することなど絶対にできはしない。それは絶対にして絶対なことなのだ。

 

 

 

 

「何でっ!? モリス、あんた一度も祈りを止めてないよね!?」

 

『見ての通りです! ですが、どういうわけか『裂け目』が内部で発生してるのです! そこから『ドール』が次々と……!』

 

 

 

 内部に『裂け目』——。

 それを聞いてセレサは度肝を抜かされ、自分の先入観を改めた。

 

 何故『裂け目』が一つしか発生しないと思っていた。あれが『時空位相波動』をキッカケに出たというのなら、『ドール』が何体も出る様に『裂け目』も複数出てもおかしくないんだと。

 

 しかし同時にセレサは疑問に思う。どうして今頃になって動き出したのか。

 

 ラファエル達がいなくなったを機にするにしては、襲撃のタイミングが遅すぎるし『モントン遺伝子開発会社』に向かった時でもいいはず。むしろその時ならば、今よりも戦力は少なくて絶好の攻め時だったはず。

 

 だとしたら何かしらのキッカケがあったはず。

 考えられるとすれば、それは————。

 

 

 

『私の障壁も二重に貼ることはできません! 早急に事態の解決を!』

 

「クソっ……! よりによって何でラファエルがいない時に……!」

 

 

 

 自分の思考を無理やり止めて、悪態をつきながらセレサは眼前に迫る『ドール』を一体、一閃で『3回も切り裂いて』無力化させる。続けて襲いかかる『ドール』も水が流れる様に淀みなく斬り伏せた。

 

 防衛戦においてラファエルがいないことは、戦術的な価値として非常に苦しい事だとセレサは改めて考える。

 手持ちの『治癒石』も尽きている中、負傷したらラファエルが帰還してくるまで誰一人治せる物はいない。だからここで傷ついてしまったら、ラファエルが戻ってくるまでの最低でも12時間近くは戦線に復帰することができないのだ。

 

 だとすれば、この12時間が防衛戦において重要なターニングポイントになる。一人でも落ちたら、それだけでも防衛線が瓦解しかねないほどに。

 それを肌身で感じ取ったセレサは細心の注意を払いつつ、傷を負うことだけは避けて孤軍奮闘して第一陣を退いた。

 

「ハインリッヒはそのまま避難誘導を! 終わり次第『ドール・ハインリッヒ』を加勢させて避難民の命を第一に立ち回って! 敵の優先度は当然馬ヅラの鳥! あとは私に任せなさいっ!」

 

「単純明快か指示に感謝いたします!」

 

 二人は即座に連携して各々がやるべきことを迅速に行う。先陣を切ってセレサは『ドール』の残党を狩り、ハインリッヒとその左手に抱える避難民の移動を急かす。

 

 それを繰り返し、やがて戦いの最中にしてはやけに静寂な一瞬が生まれた。

 予感がした。セレサは長年の戦闘感覚からして、これは予期せぬ前兆であることを瞬時に予感した。

 

 

 

 ——その直後、人型の影がまるで隕石のように急速落下し、音もなくセレサへと一太刀浴びせてきた。

 

 

 

 既のところでセレサは身を翻して交わし、その動作の合間に飛び蹴りを合わせ、その人影へとダメージを与えつつ距離を取る。人影もそれを予知されるとは思っていなかったようで、セレサの足裏に確かな手応えを感じながら大きく人影は吹き飛んで、建物の一つへと背中を打ちつけた。

 

 そしてセレサはすぐに獲物を視界に捉える。

 それは少女だった。身長は大体162cm。髪は黒を基調とした赤メッシュ。その姿をセレサはよく知っている。だが一つだけ知らない部分があった。

 

 

 

 ——瞳だ。血などを知らない無垢で温かい赤い瞳は、この世全ての善も悪も飲み込んだような達観的で、神様めいた物だった。

 

 

 

 それを見て、セレサは一瞬で理解した。

 こいつこそが、セラエノが伝え聞いたアイツだと——。

 

 

 

「そう……。名はニャル何とか!」

 

「ふぅん、流石に不意打ちは効かないか。そう、俺は……って、名前覚えてないな!?」

 

「アンタの名前覚えにくい上に発音しにくいのよ。ムカつくから、一瞬で終わらせるよ」

 

 

 

 刹那——。

 

 セレサは宣告よりも早く、レンの姿を模したニャルラトホテプを何の躊躇いもなく一閃で『複数回切り裂いた』——。

 

 忽ちにレンの四肢は綺麗に切り別れ、その太刀筋はまるで活け造りを施すように綺麗で、噴き出る血さえも芸術のように神秘的だと錯覚してしまうほどに。

 

 だがそれでも切断という殺傷行為だ。

 その攻撃で一瞬でニャルラトホテプは息を止め、そのサモントンの地へと鮮血を広げて横たわった。

 

 

 

 再び静寂が場を包む——。

 

 だがセレサの闘争心は消えるどころか、油でも注がれたように普段の振る舞いからは想像できないほどに目つきは険しくなり、過剰にもニャルラトホテプの額に刀を深く突き刺して告げた。

 

 

 

「……答えな。じゃないと、このまま頭を二つに裂くわよ」

 

 

 

 死体同然のニャルラトホテプに、セレサは容赦も油断もせずに一層眼光鋭く睨みつける。

 一切の隙を見せないセレサを見て、ニャルラトホテプは四肢も繋がらず脳天も刺し貫かれているのにも関わらず、何事もなかったように目を開いて、品定めでもするかの如くセレサと視線を合わせた。

 

 

 

「……あはは! お前容赦ないな? これでもお仲間の姿だよ? もっとご慈悲とかをさ……」

 

「無駄口叩くな、って言ったの分かんねぇのか!」

 

 

 

 次の瞬間、セレサは刀を引き上げてニャルラトホテプの頭部を乱暴に裂いた。先程の美麗な太刀筋などどこにもなく、チェーソーの刃に引き込まれたように脳や肉が血と共に汚らしく飛び散った。

 

 それでもニャルラトホテプは意識を失うことなく、むしろ面白くなってきたと言わんばかりに笑みを強くする。その態度を不快に思ったセレサは、口の中に刃を捻り入れて強制的に表情を変えて告げた。

 

 

 

「今度は喉を潰す。いいから私の質問に答えなさい。返事は聞かないわよ」

 

 

 

 そうするとセレサは相手が口が動くかも怪しい状態なのに関わらず、問題なく動くと確信して言う。

 

 

 

「この『裂け目』はアンタが起こしたものか?」

 

「……疑問系かよ。どうやら心当たりがあると見えるな」

 

 

 

 しかしニャルラトホテプは問題なく発声した。喉や口からではなく、身体のどこからか響き、ある種それはスピーカーのサラウンドにも近い感じだった。

 

 

 

「ええ。起爆剤はアンタが用意してたのは想像つく。だけどセラエノが言っていたのよ。『裂け目』はお前じゃなくて、ヴィラクスの『魔導書』によって起こした物だと……。だったらこの『裂け目』を起こした張本人はアンタなわけがない。別の誰かがいるはずよ」

 

「ご明察。じゃあ、それは誰だと思う?」

 

 

 

 馬鹿にするようにニャルラトホテプは笑い、セレサはそこで疑問が確信となって、ため息混じりに呟いた。

 

 

 

「……ラファエルってことね。恐らく宝石に呼応した物をラファエル達は見つけた。宝石を魔力媒体になるが、それは性質的には『魔導書』と大差はない……。それを読んだお前は、宝石の魔力を通して『裂け目』が発生するように……!」

 

「50点ってとこだな。もう少し話は続くんだよ」

 

 

 

 話は続く——。それはセレサにとって思いもよらぬ発言だった。

 それを見たニャルラトホテプは、ネタバレをしたくて堪らない子供のように嬉々として喋り出した。

 

 

 

「答えは『空』を見れば分かるさ」

 

 

 

 そう言われて、セレサはニャルラトホテプの警戒心を向けたまま空を見上げた。そこには驚愕すべき光景があった。

 

 

 

 着古した煌めく緑色のローブを纏った『女性』が、暗黒の空を聖なる光で打ち消すかのように神々しく、聖人のような佇まいで浮かんでいたのだ。

 その肌身は人間とは思えないほどに、黄色か緑色とも付かない肌色で侵され、まるで『心を触媒にした毒』のような禍々しさが漂い『邪悪な聖人』という矛盾を両立させた存在がいたのだ。

 

 

 

 だが、一番驚くべきなのは肌色でも雰囲気でもない。四肢は痩せ細り、ミイラの成り掛けのようになって見えるが、その異形めいた姿になろうと人並外れた美貌を誤魔化すことはできない。

 

 

 

 ——波が掛かったように渦巻く黒髪。

 ——優しくも女王みたいに威厳のある吊り目。

 ——何よりも頭についた『羽根』を象ったアクセサリー。

 

 

 

 それは生まれてから今の今まで、セレサが目をかけた人物と同じなのだ——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『我が名は『■■■■』——。『名状し難き者』——』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——『ラファエル・デックス』の姿と——。



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第12節 〜風に望んで、光に誓う〜

 

 ——時間は遡る。

 

 サモントン都市部の障壁突破から一時間前、ガブリエルとラファエルはデックス家の本邸へと辿り着いていた。

 

「ここもバイオセキュリティで良かったわね。こうして難なく倉庫まで来れたし、火事場泥棒の被害にあってないから宝石は無事そう」

 

「停電時でも機能する防犯機能って割と希少よな。しかも非常電源なしで。あっ、そこの花は触ると……」

 

「分かってるわよ。ダウナー効果を持つ霧を放出するんでしょ。たくっ……気が気がじゃないわ」

 

 植物の防犯機能を潜り抜け、二人の天使はようやく蔦に絡まった鉄製の扉を開き、倉庫の中へと入った。

 そこには目が眩むほどに輝く宝石から、年季の入った杖や王冠といった歴史的遺産などが数多く存在しており、一般人であれば踏み込むだけでも恐れ多い高貴さに満ちていた。

 

 だが二人にとってはそれらは夏場に飛び交う蚊も同然の様に当たり前であり、床に転がる装飾過多な書物と畳まれた絨毯を足蹴にして退かし、目的となる宝石の保管庫をすぐにダイヤル番号と物理キーを入れて解錠し、最低限手袋だけは付けて、さながら強盗の様な乱雑な手先で物色をし始めた。

 

「さて無事に宝石を手にできたわけだが……『エメラルド』はあるわけないか」

 

「『ダイヤモンド』と『パール』はあるけどね。これで伝説のパケモンでも呼ぶ?」

 

「おっ、俗世に嵌ったこと言うね。昔は物知らぬお兄様大好きっ子だったのに」

 

「お兄様って呼んでない!」と照れ隠しにラファエルは啖呵を切るが、言われ慣れているガブリエルは「はいはい」と適当にあしらって物色を続ける。

 

「う〜〜む。『ジェダイト』……つまりは『翡翠』はあったけどどうだ?」

 

「…………何も繋がりは見えないわ。大体、私が『エメラルド』を通して繋がりを認識したのって女装癖……じゃなくて……えーと……」

 

「レンくんのこと?」

 

「そう。アイツのおかげなのよ。こう、手を繋いでもらって……」

 

「ふぅー、初めての共同作業ーっ」

 

「茶化すな!」とラファエルは激怒する。対してガブリエルは手を止めずに「ごめんねぇ」と小慣れた謝罪をした。

 それがラファエルに気に障ったのだろう。子供みたいに頬を膨らまして不機嫌になり「大嫌い」と不貞腐れた。

 

「……でも良かった。本当はお兄様はサモントンを心の底から裏切ったわけじゃないって」

 

「前言はどこいった?」

 

「…………こうなる事態を見据えてウリエル……いえ、ニャルラトホテプから『魔導書』を遠ざけていた。レンやアニーがいる新豊州で『方舟計画』による発生する外交問題を深刻にしないために」

 

 ガブリエルは内心「スルーしたな」と思いながら、珍しく素直になっているラファエルの可愛さに懐かしさが込み上げ、つい幼少期と同じように兄貴分として話し出す。

 

「気にするな。元々成功したら、そのままマジで裏切る気だったから。俺だって皆を助ける聖人じゃない。俺はいつだってお前のことを第一に考えてるからな」

 

「私のことを……?」

 

「ああ。お前はデックスの思想から唯一本当の意味で自由になった子だからな。誰かの従属するはずの天使が、何者にも縛られずに自由気ままに羽ばたく姿…………想像するだけで尊い物だ。眩しくて守らなきゃいけない物だ。例えそれが堕ちる未来が待っているとしても」

 

「堕ちるの前提?」

 

「まあ、お前の羽根のためなら俺が代わりに堕ちるがな。それが兄貴分って物だ」

 

 ラファエルは照れ臭そうに頬を赤らめて指で掻く。

 昔からこうなのだ、とガブリエルに対して心の中で悪態をつく。一々キザなことを恥ずかしげもなく言って、それを違えたことは一度だってない。ラファエルからすれば、それは神に誓うよりも硬い決意の表明だと知っているのだ。

 

 あまりにも臭いセリフだったので「気分転換でもしないと空気に耐えきれない」と感じたラファエルは、宝石の保管庫から離れて手頃なテーブルに腰でも掛けようと、テーブルの上にある数多の高級品を退かそうとする。

 

 

 

 ——その瞬間、ラファエルの心に衝撃が走った。

 

 何気なく手に取った『箱』——。

 それは初めてスカイホテルで『エメラルド』を通じて回復魔法を使った時よりも、遥かに強い魔力がこの身と共鳴していたのだ。

 

 

 

「……ねぇ、この箱って見覚えある?」

 

「箱?」

 

 そう言われてガブリエルはラファエルの手元にある箱を見た。

 

 それは特定の手順で動かすことでのみ開く『細工箱』あるいは『からくり箱』と呼ばれる類の物だ。大きさは約20㎤ほどであり、外装はよくある黒色に塗装した木材仕様であり、それ以外には特に目を引く特徴がない。どこからどう見ても一般流通してる箱と同じなのだ。

 

「見覚えしかないが、ここでは絶対見ないな」

 

 なぜこんな安物がデックスの倉庫にあるのか。ガブリエルは疑問に思うがこの際それはどうでもいい。外見はどうあれ中身が宝石であればそれでいいのだ。

 

 ガブリエルは己が誇る鑑識眼を持って、その細工箱を把握して少々時間は掛かりながらも簡単に細工を全て攻略して、その箱の中身を取り出した。

 

「……『隕石(メテオライト)』?」

 

 箱の中身は『隕石』だった。大きさは15センチほどであり、外見が作り物みたいにワザとらしい緑色と光沢を放っていること以外は、そんじゃそこらにある石ころと大差はない。

 

 だがラファエルは理解していた。目に入った瞬間、本能的にそれがどういう物なのかを。

 

 その隕石はスターダストやオーシャンの情報が入っていた『剛和星晶』と『剛積水晶』と全く同じ『情報生命体』という情報がこれでもかと内包された物だ。

 いつぞやの『リーベルステラ号』や今回の『方舟基地』で触れた『剛和星晶』の1.5メートルと比べれば遥かに小さくはあるが、その中身の質は全く見劣りしていなかった。

 

 

 

 

 

 ——来い。可愛い従者よ。

 

 

 

 

 

「……なに、この声?」

 

「声? 何を言ってるんだ……って、おい!?」

 

 ラファエルが譫言のように呟くのと同時、ガブリエルから乱暴に隕石を奪い取って食い入るように見つめ続ける。まるでその隕石に目があり、それと目を合わせるように釘付けとなっているようだ。

 

 側から見ればラファエルがただ大きな石を持っているだけの状況だ。ガブリエルですら全貌が掴めず、ラファエルの動向を追う。

 

 しかしそのラファエルだけが、ある『声』が心身を蝕みように話しかけているのが聞こえていた。

 

 

 

 ——我が従者よ。目覚めの時だ。

 

 

 

「誰よ……あんた誰よ……!?」

 

 

 

 ——我が名を伝える必要はない。人には名状し難い名だ。

 ——我は汝の主神でありながら主神にあらず。

 ——しかして汝は主神と我の従者である。

 

 

 

 ——さあ、手に取れ。我が写し身となる『宝玉』を。

 

 

 

 ——さすれば汝は絶対的な魔力を身に宿す。

 

 

 

「魔力……」

 

 心臓の鼓動が大きく、そして早くなる。

 絶対的な魔力。それは今ラファエルが一番欲している物であり、それさえあればXK級異質物を動かして、モリスの負担も賄えるし、水脈を操作して水を確保することもできる。サモントン都市部にいる避難民を守ることができるのだ。

 

 

 

 ——悩むことはない。

 ——その魔力さえあれば、全てを助け出すことができる。

 

 

 

「すべてを……」

 

 思考が早くなる。傍に叫ぶガブリエルの言葉なんてこの世にないと錯覚してしまうほどに、ラファエルのが思考が加速して世界を停滞させる。

 しかし、そんな中でも『声』だけは響く。いやむしろ埋め尽くす。ラファエルの身体を、思考を、精神を。犯すようにラファエルの全てを蹂躙していく。

 

 

 

 ——それにもう、置いてかれるのは嫌だろう。

 ——何の力にもなれない自分は嫌だろう。

 

 ——レンの力になれないのは、もっと嫌だろう。

 

 

 

「……っ!!」

 

 その言葉はラファエルの内に眠る心情を貫いた。

 ラファエルは今まで陰ながらに支えてきた。『OS事件』は彼女の『治癒石』がなければ全滅していたし、ソヤがガブリエルを捨て身の攻撃で打倒した時もあった。

 

 だけどそれはラファエル自身が頼りにされてるわけじゃなく、ラファエルが持つ『回復魔法』を頼りにされてるだけ。現にラファエルではなく『治癒石』の方が解決してるのが実情だ。

 それに『回復魔法』だって便利ではあるが、事態を解決するための術は一切持たない。今回の『時空位相波動』だってラファエルは一度たりとも力になれていない。むしろ『エメラルド』をなくしてしまい、こうして無駄な行動を取らざる得なくなっている。

 

 いや、今回だけじゃない——。

 南極での事件もハインリッヒが主に戦闘を受け持ち、スノークイーン基地での謎もレン自身が解き明かした。

 猫丸電気街での『天国の門』だって自分は蚊帳の外だった。レンはその身を駆けて事態を究明しようとしたのに。

 マサダブルクの時でも放っておかれた。それどころかニュクスの方が作戦に関わっていたし、レンが頭を使ってエミリオ救出のために尽力し、そのエミリオがマサダブルクを襲う二酸化炭素の砂嵐を両断して『聖女』として地位を確立させた。

 

 それに『OS事件』も『スクルド暗殺計画』の時もラファエル自身は無縁だった。レンが『霧守神社』で修行してる時だって、自分の知らぬところで絶え間なく怪我をして、そして知らない間に強くなった。

 

 それは——今回の『時空位相波動』が発生する前に起きていたアレンとの一騎打ちでも、見事に勝利できるほどまでに。

 

 ラファエルが知らないところで、皆が少しずつ前に進んで成長している。『魔女』として活躍はできないと踏んだアニーだって、SIDの補佐官としての訓練をして力になろうと努力している。

 

 だというのに自分だけ前に進めない。

 どうして私は前に進めない。一緒にレンとアニーと行けない。

 

 

 

 ——自分に力があれば。

 ——力さえあれば、変わることはできるだろうか。

 

 

 

 ——無力で何もない『自分』を変えられるだろうか。

 

 

 

「……どうせ受け入れなきゃ、何もできないのよ。よこしなさい、私にその力を」

 

 

 

 ——ならば受け取れ。我が力を、我が権能を。

 

 

 

 そうして『声』を受け入れると、ラファエルの中で『何か』が爆けるように広がり、全身の細胞という細胞へと魔力を行き渡らせる。

 生まれ変わったように視界はクリアになり、あらゆる関節がしなやかになって、活力が溢れて身体を作り替えるように漲ってくる。

 

 

 

 ——まるで自分の身体じゃないかのように。

 

 

 

「おい、ラファエル……お前…………手がっ!?」

 

「手……?」

 

 

 そう言われてラファエルは自分の手を見た。

 

 手は黄色を帯びた『緑』に変色していた。

 それどころか『手』そのものがおかしくなっている。骨という骨が溶けきって、皮膚が鱗のように逆立っている。指もタコの触手のよう蠢いていて、一目で人間じゃないと判断できるほどに変貌していた。

 

 ラファエルは恐る恐る自身の顔を触って確認する。

 鱗のような手でも分かる。顔も手と同じように鱗に覆われて、棘でも出ているかのように逆立っている。

 

 想像するだけで悍ましい。自分が今どんな顔、どんな図体でその場にいるのかを。

 

 

 

「……私こそが至高の芸術、美しさだったと思っていたのに」

 

 

 

 しかし、それは前兆だと言わんばかりに変化は続く。

 今度は全身が風船のように膨らみ四肢が肥大化した。ガブリエルよりも背が高くなり、それは頭一つ分、頭二つ分と肥大化して、やがて肥大化は収まって今度は肉体を搾り取るように縮小していく。

 

 肥満症のように膨らんだ四肢は、水分が抜け切ったミイラの如く痩せ細り、胴体も絞られた雑巾のように病的に括れてしまう。指は完全に触手となり、手と思われる部分よりも何十倍も伸びる。足どころか下半身は見るに堪えないほど溶けきって、それこそモンスターのように触手だけで立ち尽くしていた。

 

『……まさか、こんな醜悪な見た目になるなんてね』

 

 声は既に聞き慣れない誰かになっていた。

 思考も徐々に薄れて自分自身が消えていくのを感じる。

 

 

 

 これが天使の最後。何とも滑稽で惨めで憐れだろう。

 最初から自分はなくて、最後は自分ではない誰かになる。

 

 

 

 ——今から汝は我となる。

 ——汝こそが新たなる主神の写し身。

 

 

 

 ——名は『エメラルド・ラマ』——。

 

 

 

 それでも自分が歩んだ道筋だけは本物で、自分だけの物だ。新豊州で過ごしたことは苛立った、ムカついた。けど、それ以上に楽しかった。

 

 

 

 

 ——でも何が楽しかったんだっけ。もう思い出せない。

 

 

 

 でも一つだけまだ覚えている。あの馬鹿の顔を。ほとんど一目惚れに近かったけど、見た瞬間にアイツだけは面白いと感じて、ついつい声を掛けてしまった男の子。

 

 それももう少しで忘れてしまう。

 ならせめて、最後くらいはアイツの名を呼べばよかったかな。

 

 

 

 

 

 レン、あなたを——。

 

 

 

 

 

 …………どう思っていたんだっけ。

 ……でも、あなたの名だけは覚えているわ。レン。

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「——今、誰かが呼んでた」

 

「誰かって……誰?」

 

 ここは夢の世界の只中。ここには私とウリエルしか確かな存在はない。

 

 そのはずなのに……聞こえた。どこかの誰かが私の名を呼んだ声が、確かに私の耳に、心に、魂に、その全てが届いたのだ。

 

 今すぐここから出て行かないといけない。

 出て行かないといけない、はずなのに…………。

 

 

 

「ねぇ……私の親が現実にはいないって、どういう意味?」

 

 

 

 正直、頭の中ではその言葉の真意は理解していた。だけど認めたくなかった。認めてしまったら、私の中で大事な何かが崩れてしまうのを本能的に感じてしまったから。

 

 

 

「——言葉通りだよ。現実では君の親はいないんだ。死んで……いるんだ」

 

 

 

 だけど現実は痛いほどに残酷だった。私が予感していた事と一言一句間違いなくウリエルは言葉にした。

 

 それを知って私はやっと理解した。

 一緒にご飯を食べる時も、一緒に話す時も、一緒に遊ぶ時も、一緒に寝る時も、全部が全部私が現実で求めていた温もりだったんだ。

 

 だから、心の底から涙が出そうなほどに全部噛み締めていたんだ。こんな夢みたいな出来事は二度は起こらないのをどこかで感じていたから。

 

 

 

 それを知って、私は…………醜い感情しか出てこなかった。

 

 

 

「真実に辿り着いた君ならここから抜け出せる。ここは原理的には『因果の狭間』と大きな差はない……。君だけが見える線を辿れば、きっと……」

 

「…………いやだ」

 

 

 

 それは『執着心』だ。私の前から両親がいなくなる。それはとても我慢できることではなく、激情は言葉となって吐き出される。

 

 私の手から幸せが消え去るのを理解し、子供のように涙が溢れて止まらない。呼吸が荒くなって鼻水も出てくる。目は潤っているのか乾いているのか分からないほどに涙が続く。

 

 

 

「いやた゛いやた゛いやた゛! 私から奪わないて゛! 私から両親を奪わないて゛!」

 

「……そうだよね。夢から覚めなければ、夢は続く。覚めない夢は『現実』と一緒だ。『現実』と『夢』なんて、観測者からすれば差はないんだ」

 

 泣き叫ぶ私を見て、ウリエルはラファエルと似た優しい笑みを浮かべて「この話は一度ここで終えよう」と言って、私のバッグから『ルーチュシャ方程式』を手に取った。

 

「24時間後、君の家に向かおう。その時に答えを聞かせてくれ。君が…………どう生きるのかを」

 

 そう言ってウリエルは『ルーチュシャ方程式』の資料の一部を回収して去る。

 それは私が『覚めない夢』と『悪夢のような現実』のどちらかを選ぶのを止め、心変わりして『ルーチュシャ方程式』に頼って運命から逃げようとしないための保険でもあり激励だ。私ならきっと選んでくれると思っているから。

 

 一人ぼっちになって改めて考え直す。ウリエルが口にしていた選択を。『覚めない夢』か『悪夢のような現実』のどちらを選ぶべきか。

 

 私が今ここで悩んでる中、きっと現実では誰かが苦しんでいる。誰かが傷ついている。

 それは見知らぬ誰かかもしれない。だけど私がよく知ってる友人かもしれない。もしくは私の友人が大切な人かもしれない。

 

 それを考えると、今すぐにでもここから抜け出して助けに行きたい。いつまでも蹲って何もしないなんて嫌だ。そんな衝動に駆られて早くここから飛び出したい。

 

 

 

「いやだ…………。パパとママがいないのは、いやだ……っ」

 

 

 

 でも大好きなパパとママから離れるのも嫌なんだ。この夢が覚めてしまえば、確実に絶対に決定的にパパとママはいなくなってしまうんだ。

 

 それに、この世界にいる他の誰かもいなくなってしまうかもしれない。

 アニーだったり、イルカだったり、ラファエルだったり……。もしかしたらもっと別の誰かかもしれない。ありえない再会を果たして幸せにしてる者がいるかもしれない。ここはそういう優しい夢の世界だとウリエルは口にしていた。夢とはいえ、誰かが望んでいた幸せをも自分で壊してしまうんだ。

 

 

 

 選べない、選べない。私には選べない。

 そんな選択を私に委ねられての答えが出るわけない。

 

 こんな私に選べるわけがない。

 

 

 

「ごめん、なさ——」

 

 

 

 ……ダメだ。ダメだダメだ。

 それを言ってはダメだ。また繰り返すのか、弱い自分を。

 

 現実のどこかで私は自分の弱さを知っているはずだ。

 それを乗り越えようと強くなったはずだ。

 だから選べない自分を棚上げして、ただ許しを乞うなんて一番やっちゃいけないことだ。

 

 選ぶしかないんだ。どっちの地獄を選ぶかを。

 

 

 

 

 

 永眠を選んで、奪われた現実を夢にするか——。

 覚醒を選んで、美しく悪夢に満ちた現実か——。



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第13節 〜たしかなものは、きっとある〜

ストックが尽きたので、今後の更新は最終節が完成するまで週一更新になります。毎度毎度申し訳ありません。


「ただいま、お母さん……」

 

「おかえり、レン。今日は唐揚げだから、早くお風呂入ってきなさい」

 

 どちらを選べばいいか分からないまま帰宅して、私は疲弊して玄関に腰を置いてしまう。

 ……何も知らない。私の両親は何も知らない。ここが『夢』だなんて微塵も。自分の存在が泡沫であることを。

 

 ……嫌だ。私自身の手で、この幸せを終わらせてしまうのが堪らなく嫌だ。それは私の手で、私の意思で両親を殺してしまうことを選んでしまう気がして嫌だ。例え相手が夢の存在であろうと……今ここにいる私にとっては夢であっても『本物』なんだ。

 

 

 

 できない。私には『現実』へと向かうことができない。だけど『夢』に続けるのも間違っている。それでも選ばないといけない。

 

 

 

「……元気ないな、レン。何か嫌なことでもあったか? ……まさか男にナンパでもされたのか!?」

 

「あはは……当たらずも遠からずって感じ」

 

 

 

 ——今ここにある幸せを抱いて『夢』に溺れるか。

 

 

 

「気分が悪いなら、早く入ってサッパリしなさい。薬は用意しておくから」

 

 

 

 ——別れを告げて過酷溢れる『現実』に傷つくか。

 

 

 

「……ねぇ、お母さん。今日は一緒にお風呂入ってくれない?」

 

「えっ? 珍しいわね」

 

 正直自分でも何を口にしているのかよく分からない。だけどどっちを選ぶことになったとしても後悔がないように、今のうちに心ではなく『魂』が求めてる事を成したい自分がいるんだ。

 

「父さんとは入らないのか?」

 

「……うん、久しぶりに男同士——」

 

 …………『男同士』? 私は何を言ってるんだ。

 この身体はどこをどう見ても女の子だ。間違っても『男』だと認識するわけがない。

 だけどこの感覚は初めてじゃない。前も自分が『男の子』だったんじゃないかと脳裏で浮かんでいた。そして再びあの言葉が私の思考を巡る。

 

 ——『記憶は思い込みだ。記録じゃない』

 

 混乱が混乱を呼んで、私の中で徐々に『夢』と『現実』の境目が曖昧になっていく。

 

 どこまでが『夢』でどこまでが『現実』で——。

 どこまでが『記憶』でどこまでが『記録』なんだ——。

 

「レンも年頃なんだし父さんはダメ。今日は……今日だけは私が入るから」

 

「そっか……。年頃だもんな……」

 

 気のせいだろうか。混乱で思考が渦巻く中、両親の会話は今までの暖かさを持ちながらも決意に満ちているように感じた。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 互いにタオルとかで肌を隠すことなく、ちょっと狭くもお湯を張った浴槽の中で母さんは私に話しかけてきた。

 親子水入らず、裸の付き合いというやつだ。だけど久しぶりの成果が心臓がドキドキして仕方がない。のぼせたのか、あるいは久しぶりに見る母親のグラマラスに驚いているのか。もしくはまた別の要因か。何にせよ、不思議な高揚感が私の内にはあった。

 

「こうして入るのもいつ振りかしらね〜〜」

 

「小学生より前、かなぁ。そうなると十年以上前か……」

 

「ううん、違うわよ。一緒に入ったのは割と最近。レンは覚えてる?」

 

 割と最近? いつ頃の話なんだろう? 

 ウリエルの話に嘘は言っていない。現実には両親はいない。だとしたらこの『記憶』に間違いがなければ十年以上前のはずだ。

 

 ……まさかこれさえも違うのか? と思ったら、母さんは笑って「それも忘れちゃったか」と言った。

 

「最後に入ったのは、現実では今年の年始。『奇妙な運試し』の時、って言えば分かるかしら?」

 

「現実にはって……母さん、気づいてるの!?」

 

「そうよ。だって貴方の母親で研究者よ。この世界は都合が良すぎるからね。何となく勘づいてはいたんだよ、もちろん父さんも」

 

 知らなかった、そんなこと。そんな気配を一度でも私の前で見せただろうか。少なくとも私は気づいていなかった。

 

「あの時は背中越しでの会話だったわね。まあ、あの時の私はあそこにいたのがレンだって気づいてなかったけど……」

 

「……そんなことあったんだ」

 

「……覚えてないのも無理ないわよね。私や昔のレンからすれば十年以上前だし、今のレンからすれば異質物で起きた一時の夢だったんだもの。こういう深層心理の状態だからこそ、過去と現在の垣根を超えて私だけが覚えていられる。思い出すことができる」

 

 そんなことが……と言われてある事を思い出した。

 確かに年始での記憶があやふやだった覚えがある。何か変な宝くじを引いたことも。

 

 その後のことは曖昧になって、何やかんやでギン教官の鬼指導があって…………。とそこでさらに思い出す。

 そうだ。ギンは教官だったと。意識したら次々と『記憶』が溢れ出してくる。今まで栓でもしていて、それが何かの弾みで外れたかのように。

 

 ——これは私じゃない。『俺』の記憶だ。

 

 私に瓜二つの少女が今まで駆け抜けてきた『記憶』だ。

 だけど私は私で……俺は俺で……。と二つの『記憶』が混乱と共に満たして行く。

 

 最中、そこにどこの見当もつかない断続的に『記憶』が流れてきた。それは断続的ではあるが、大まかに分けて三つの『記憶』だ。

 

 一つは先程母さんが口にした通り、今ぐらいの年齢でお風呂に入っていた『記憶』——。

 一つはどこかで一緒に共闘したファビオラとの『記憶』——。

 

 

 

 もう一つは…………本当に何の見当もつかない『記憶』だった。

 

 その『記憶』には『少年』がいた。背格好は私とだいぶ似ている。とうか私を男の子にしたような…………というか、俺が男だったことの姿だ。

 

 だけど風体は違いすぎる。今までいくつもの戦場を乗り越え、血と死を目の当たりにした歴戦の勇姿は、あまりにも年不相応の悲しいも決意に満ちていた。

 

 そこは『地獄』だった——。

 火中には少年以外は誰1人いない。それどころか死体の山にはアニー、ラファエルと見覚えのある人物が何人もいた。

 

 少年は悲しいはずなのに涙さえ出さずに佇む。

 そんな中、少年の目の前には『黄金の杯』が現れ、何度も口にしたかのように口慣れた『願い事』をした。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 ——■に……も■も……。

 ——『■■』が本当に■■して■れば……。

 ——■■■だ……■■■を■に……。

 

「■■■、■■■■■■■——」

 

 

   ——我が器よ、変革の時は来た——

 

 ——今一度この地獄を生き抜いて見せよ——

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 ——これは、どこの『記憶』だ。

 ——いや違う。どこの『記憶』とかじゃない。

 

 

 

 ——これだけは『記録』だ。どこかであった『記録』なんだ。

 

 

 

 ——じゃあ、これはどこの『記録』なんだ?

 

 

 

「それに……本当のレンは『男の子』だもの」

 

「男の子……」

 

 俗に言う『存在しない記憶』に脳内が混乱する中、一度落ち着けと言わんばかりに少しずつ胸中に思い浮かんでいた些細な疑問に対して母さんは当然のように「ええ」と認めてくれた。

 

「今のあなたは現実逃避していて『自分』を偽っているの。つまり貴方自身が『狂気』に取り憑かれてる状態。貴方自身が『ドール』になる一歩手前だったってわけ」

 

 私が『ドール』……。その単語でまた思い出す。

 そうだ。私が本来いた世界……つまり俺がいた世界には『異質物』で誕生した『ドール』が特異災害として世界中で認定されていたんだ。

 

 ……『ドール』になる一歩手前か。それは大変なことだと、自分のことなのにどこが他人事のような認識で受け入れる。

 それはまだ『私』と『俺』の境界がまだあるからだ。『ドール』になろうとしてるのは、正確には『俺』だった頃の話であり、今ここで夢に微睡んで生きる『私』には一切関係ないことだ。最も自分に近いからこそ、最も自分に遠い印象を抱いてしまって他人以上に他人事になってしまう。

 

「……なんでそれを口にしたの?」

 

「ええ。このままにしておけば、レンはきっと私達の元から離れることなく永遠に一緒にいられる……。そう思うと、真実を伝えるのが怖かった。『夢』でもいい……もう一度貴方と一緒に過ごしたくて……」

 

「だけど」と母さんは言い淀む。

 

「これはレン自身の問題。親が決めていい問題じゃない。どんなに悩んでも答えなんか出るわけがない」

 

 何も言えない。今も私は悩んでいる。『夢』と『現実』を選ぶべきか。それは『私』を選ぶか『俺』を選ぶかでもあった。そしてその主体は『私』にある。

 

 …………『私』と『俺』の記憶が何も淀むことなく入り混じる。

 どちらの方が大事か、なんてものじゃない。どっちも大事だ。どっちも大事だからこそ…………何か、小さなこと一つでいい。キッカケがないと、どちらにも見捨てた世界を背負う覚悟ができない。

 

「最低の、母親でしょ。子離れできていないのよ。だから委ねたの。レン自身がこの世界の謎に気づくかどうか……。『夢』から出るか出ないかを…………」

 

「臆病な母親で幻滅したでしょ」と言う母さんに、私は「そっか」と特に何か大きな感情を持つことなく軽く返した。

 

 やっと分かった。何で母さんが一度意味深に「貴方がどんな道を選ぶとしても、私達は貴方を見守っているわ」と言っていたかを。私がどちらを選んでも後悔しないように、覚悟を決めていた。とっくのとうに決めていたんだ。

 

「…………どうする?」

 

「…………あのさ」

 

「ん?」

 

「……なんで母さんと父さんは結婚したの?」

 

 だから両親が自分を理解してくれたように、自分も両親のことを理解しないといけない。どうして両親は結婚したという些細なことさえも。

 

 

 

 それだけは——まだ『私』も『俺』も知らないことだから。

 

 

 

「……理由は些細だったわ。どっちも小学生の頃は知らないことだらけでね。私も夫も負けん気が強いから、互いに負けるもんか〜〜、って感じで高め合ってね……。中高共に成績トップで、同じ大学に入って研究に明け暮れてたら……なんか『研究者』になってた」

 

「ええ〜〜?」

 

「で、そうこうしてる内に結婚もして子供も産まれて……知らないことだらけで慌ただしいのに満ち足りていて……まあ、そんな感じよ」

 

 思っていた以上に普通だ。普通すぎてどう反応すれば分からないけど、返ってそのシンプルさが良かったかもしれない。

 

 私は黙って考える。2人とも『知らないこと』が始まりだったんだ。私と同じように『知らないこと』を知りたくて……前に進んで……。

 

 

 

 ——私の『知らない』ことって何だろう。

 ——俺の『知らない』ことって何だろう。

 

 

 

 …………あった。知らないこと。それは母さんも父さんも知らないこと。

 

 でもそれを『教えられる』のは…………。

 

 

 

「……決めた」

 

「……そう」

 

 母さんはただ頷いて返答を待つ。その答えが何であれ笑って受け止められるように。

 

「…………行くよ、『俺』は」

 

 私は母さんと父さんの子供だ。同時に『俺』は母さんと父さんの子供だ。

 だったら、見せてあげないと。教えてあげないと、親孝行を。母さんが『子離れ』できないと言ったように、いつまでも『親離れ』できない自分自身のために。

 

 

 

 ——もう決めた。覚悟を決めた。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 ——翌日、ウリエルが約束通り家にやってきた。

 

 会話はなかった。視線だけを交わす。それで十分だった。

 聡いデックスの血筋なだけある。ウリエルは察して「家の外で待ってるよ」と言って去っていった。

 

 そして玄関口で父さんと母さんと視線が合う。それは愛する我が子が自ら答えを出したことに誇らしげに思う瞳であり、自分の意思で決めた我が子を自慢するように二人に笑った。それが二人にとって、この世界における『死』も同然だとのに、迷いも後悔もなく。

 

「いつまでも私服だとカッコつかないでしょ。はい、これ。大事な物でしょ?」

 

 そう言って、母親は見慣れた服と物を差し出してきた。

 

 それは始まりのセーラー服。そして始まりのバット。どちらもアニーから受け取った物だ。

 何で今まで忘れていたんだろう。この一張羅から色々なことが始まったんだ。

 

 初めての戦闘をアニーと切り抜けて——。

 SIDに案内されてマリルと愛衣と知り合って——。

 学校でニュクスと先輩後輩として仲良くなって——。

 江森発電所でイルカと出会って——。

 スカイホテルでラファエルと縁が生まれて——。

 そこでベアトリーチェとも運命的な出会いをして——。

 

 まだまだ続く。本当に長い旅路だったんだ。

 

 方舟計画でハインリッヒと遭遇し——。

 南極で囚われていたバイジュウを保護し——。

 スクルドのためにファビオラを助けに行き——。

 猫丸電気街での事態を解決するためにソヤと共に奔走し——。

 船ではシンチェンが突然現れて——

 それにエミリオとヴィラが船に乗船してきて——。

 

 まだ終わらない。長い旅路はやっと中腹だ。

 

 OS事件を機にハイイーと巡り合い——。

 暗闇の空間でミルクが皆のために助力してくれて——。

 事件後にスターダストとオーシャンがやって来て——。

 何やかんやで高崎さんと友達になって——。

 強くなるために霧夕とウズメさんの力を借りて——。

 ギン教官を解き放って、霧吟の力を宿して——。

 

 

 

 そして今はサモントンで事件が起きてるんだ。

 

 

 

 なんで本当に忘れてたんだろう——。

 男の子の時に過ぎ去った過去も大事だけど、女の子になってから歩んだ旅路も大事じゃないか。

 

 この選択は絶対に後悔する——。

 悔やんで悔やんで悔やんで、悔やんでも悔やみきれなくて、泣いて泣いて、渇いても泣き続けて、それでも前に進む。

 

 

 

 いずれ子は親離れしないといけない。それが今なんだ。

 だから、この一度きりの軌跡は神様がくれた本当の幸福なんだ。

 

 親離れさえできなかった関係に——。

 子が育ち、巣立つ瞬間を、両親に見せることができるんだ。

 

 

 

 ——胸を張って、これが自分だと言えるように。

 

 

 

「ほら、レン。リボンが曲がってる」

 

 母さんがリボンのタイを直してくれる。

 手慣れた手つきながらも、長年培った手癖はあるようで、普段とは違い結び方にはネクタイを結ぶような固さがあった。

 

「レン、忘れないで。貴方は母さんと父さんにとって、大切で自慢の子供よ。貴方が男の子でも、女の子でも変わらずに愛しているわ」

 

「うん……うんっ」

 

 

 

 忘れない。もう絶対に忘れない。何があっても。

 それはどっちもだ。これまでのことも、これからのことも。

 この『夢』であったことも。先にある『現実』であることを。

 

 

 

「男なら泣くな。女の子からブサイクな顔するな。胸と背を張って行ってこい。父さんと母さんはいつまでも見守っているぞ」

 

「うんっ……うんっ……!!」

 

 

 

 私は——、いや『俺』は両親の思いを背にドアノブに手を掛け、これが最後なのに、いつも通りの1日のように元気溌溂と俺は一日の始まりと、この世界との終わりを口にした。

 

 

 

「じゃあ——、行ってきます!」

 

「「行ってらっしゃい」」

 

 

 

 あの日、無くした物は———。

 きっとたしかに、ここにあるんだ————。

 

 

 

 

 

 少女は、楽園を去る——。

 明るさに満ちた『夢』よりも、暗く澱む『現実』へと向けて。

 

 少年は、地獄を歩む————。

 果てなき道を振り返らず、暗闇の荒野を進む。

 

 

 

 生ける者は、未来へと走り出す——。

 悲しみを乗り越え、美しい絶望の世界に先駆けて行く。

 

 

 

 

 

 ——人はその『覚悟』を持った歩みをこう呼ぶ。

 

 

 

 

 

 ——『先駆者』と。

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 

 

「えっ……!? 『魔導書』の制御が……っ!?」

 

 暗黒の世界の只中にて、閃光が疾る。

 暗闇を輝きが裂き、一瞬にて世界を逆転させる。

 

 黒と白、光と闇が明滅して『魔導書』から二人の人物が解き放たれた。その見目姿を目に入れ、『魔導書』の持ち主であるヴィラクスは戦慄した。

 

 かたや自分が所属している『位階十席』を管理者である『デックス』の一人だった。明るい茶髪なのか、暗めの金髪なのか曖昧な色黒な少年は間違いなく『ウリエル・デックス』だった。

 

 かたや黒髪で赤メッシュの雰囲気ボーイッシュは。作戦前と違って資料で見慣れた戦闘用セーラー服を羽織っており、それは見間違えようもなく『レン』だった。

 

 

 

 ヴィラクスはあまりの驚愕に狼狽えるしかなかった。

 

 両者共に、自分が仕える主人である『ニャルラトホテプ』によって完全に取り込まれたはずなのにと——。

 

 

 

「汚名返上といこうか。レンくん?」

 

「ああ。とりあえず、目の前の事から片付ける!」

 

 

 

 闇を彷徨った少年少女は対峙する。

 自らを貶めた主神の従者へと笑みを浮かべて。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「来た来た来たっっ!! 『時空位相波動』に変化が発生中!! 準備はいいかい、ギン教官様!!」

 

「安心せい。——もう既に斬った」

 

 

 

 そういうと同時、サモントンを覆う暗闇の瘴気に一つ、二つ、三つ四つ五つと次々と世界を切り裂くように光が一閃する。

 やがて瘴気は霧散して消え去り、サモントンがようやく世界に現出された。

 

「先駆けの一手『剣気流星』——。どうじゃ、デックスの小僧?」

 

『期待通りだね。それだけさ』

 

「小生意気な」

 

 互いに外見年齢には合わない罵り合う。

 そんな中、サモントンの映像が映ったことで愛衣は居ても立っても居られずに咆哮した。

 

「うっっっしゃぁぁああああ!! 何するものぞ『時空位相波動』!!」

 

「興奮するのは分かるが、落ち着け愛衣。冷静に現在のサモントンの状況を……って、なんだこの『ドール』の数は!?」

 

 観察をし続けるマリルの目には戦慄しかなかった。

 衛生映像から見ても分かるほどに増殖している『ドール』の総数。それが今でも増え続け、しかも見覚えのない『鳥』さえも見えていた。

 

 一体何がどうしてこうなったのか——。

 マリルには何もかも理解が及ばなかった。

 

「数もそうだがこの状況……。サモントン上空には『裂け目』があり、その下には謎の生物……。なのに依然としてレンの生体反応がない……。まさかとは思うが、あの『裂け目』の中に……?」

 

『あの少年の行方は分からないけど、危惧すべきことが起きてしまった。……あれはどう見ても……』

 

 ミカエルの声に悲しみが帯びる。まるで誰かを思うように。

 そう、ミカエルはすでに気づいている。その『謎の生物』が変貌してしまったラファエルであることを、ミカエルだけが気づいていた。

 

『…………ともかく『ドール』を減らさないと話にならない。SIDから『ドール』に対抗できる戦力を総動員してくれ。私もすぐに合流する』

 

『——その話、こちらにも一枚噛ませてもらおうか』

 

 無線機からミカエル以外の声がSIDに響く。

 それは女性だ。女性だが凛々しさや力強さがあり、武士道や騎士道といった精神性を重んじるような口調。ある意味では貴族っぽくもあり、隠しきれない高貴さがその無線から伝わってきた。

 

『私の名はマサダブルクの組織『マルク・アレクサンドリアル』に所属する『パトリオット』——。といっても名を伝えるだけでは今は分からないだろう』

 

「『マルク・アレクサンドリアル』の……」

 

「『パトリオット』ね……」

 

 その単語には、SIDで待機するエミリオとヴィラには聞き覚えがあった。

 マサダブルクの傭兵組織。その組織において対テロ組織として最も頭角を表している内城の守護神。

 

 そのトップ——それが『パトリオット』という名だと。

 

 それ以外は特にエミリオの中には思い当たる節がない。

 だがヴィラだけは知っている。その名には彼女自身に遠からずも縁があるということに。

 

 

 

 何故なら、その組織の出資者の1人が空軍高官である『アトリウム・ダヤン』という『ヴィラ・ヴァルキューレ』改め、本名である『ヴィラ・ダヤン』の父親なのだから。

 

 

 

『状況は既に把握している。サモントンの『時空位相波動』は解除され、今ならば武力介入できるのだろう? ならばこちらには心強い助っ人がいる』

 

「助っ人? …………まさかっ!?」

 

 マサダブルクは傭兵が多いと言っても『ドール』に対抗できる人材は少ない。そのために軍事技術を身につけ、今の今まで武力でどうにかしようと政策していた。ヴィラの武器である『重打タービン』だってその片鱗でもあるし、人型に対抗するために『ハニーコム』や『イエローヘッド』といった無差別殺戮兵器を生み出した。

 

 だからこそマリルは気づいた。何せ、その『助っ人』には一度面倒な目にあったこともあったから。

 

 マサダブルクが誇る『ドール』にも対抗できる兵器——。

 そんなのはもう一つしかない。それは『対魔女兵器』と呼んだ——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『——『レッドアラート』の出番さ』



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第14節 〜デュエルサイン〜

総合評価1000pt超え、ありがとうございます。今後も末永くお付き合いくださいませ。


『我が名は『■■■■』——。『名状し難き者』——』

 

 

 

 ——そして時は重なる。

 

 

 

 サモントンの上空にて、変わり果てたラファエルが自らを『名状し難き者』と名乗り口上を上げると同時に、サモントンを覆う『時空位相波動』に亀裂が入り砕けた。

 

 サモントンの空に久しい陽光眩く青空が差す。それと共に地震が起き、サモントン都市部のアスファルトが木の根によって砕き別れ、入れ替わるように今度は樹木に守られるように覆われた。

 

 それは皆が求めていたXK級異質物による『天然要塞』の誕生だ。それ自体は喜ばしいことであり、セレサは心のどこかで安心している。これでモリスの負担は和らげることはできると。

 

 だが、上空にいる異形と化したラファエルの説明がつかない。それが何を意味しているのか。セレサには一寸たりとも理解できなかった。

 

「何がどうなってるの……? いや、当初の作戦は遂行したようだけど……これは……」

 

 と混乱するセレサにニャルラトホテプは役目を果たしたかのように高らかに笑って告げる。

 

「あいつは『名状し難き者』……。まあ人間でも口できるようにするなら『ハスター』とでも言っておこうか」

 

「ハスター?」

 

 聞き覚えが一切ない名前。だが名称の発音のしにくさや、雰囲気からして即座に察した。

 その『ハスター』という名は、ニャラルトホテプやセラエノ、それにシンチェンやハイイーと同じように、セラエノから聞いた『外宇宙』の生命体だということを。

 

「ああ、そうさ。アイツは『星尘』や『海伊』と同じように、このサモントンで保管されていたEX級異質物『剛合翠晶』に宿る『外宇宙』の生命体……。お前たち風に言えば『風の神格』さ」

 

「『風の神格』? だったらあれは『蒼穹』じゃないの?」

 

 セレサの疑問にニャルラトホテプは「それ自体は間違いじゃない」と付け足す。

 

「ただ理解が足りてない。マクロとミクロ……もしくは陰と陽と言えば分かりやすいだろう。あの隕石すべてには二つの表と裏の存在が内包している……」

 

 陰と陽の関係を聞いて、セレサは『華雲宮城』で提唱される『陰陽五行思想』について思い浮かべる。

 

 ——『陰陽五行思想』とは。

 正確に言うなら『陰陽説』と『五行説』の二つの思想を合わせたもの。それが『陰陽五行思想』となる。

 

 陰陽とは、『プラス』と『マイナス』のように相対する両極のどちらに属性が高いかによって二分類する考え方である。固定的なものではなく、振り子が一方に振り切れると反対方向に戻るように、そのバランスは常に変化し増減している。

 

 五行とは、大まかに『火』『水』『木』『土』『金』がそれぞれに影響し合う考え方のことだ。それを『相生』と『相剋』ともいうが、これは今は関係ない。

 

 その前者——『陰陽説』をセレサは思い浮かべているのだ。

 ラファエルが手に取った宝石——ニャルラトホテプの言う通りなら『剛合翠晶』という隕石には『風の神格』が内包しているが、それには表と裏があるのだ。

 

 セレサが『モントン遺伝子開発会社』から得た情報に間違いがなければ、その表というのがデックス博士が観測した『蒼穹』ということになる。だが、それは同時に裏側である『ハスター』という存在さえも呼び起こし、それが今のラファエルを犯して異形にしたのだと理解した。

 

 

 

 ——それを理解した時、セレサの中で一つの疑問が爆発的に生まれた。

 

 

 

 だったら、今SIDが所有するスターダストとオーシャン——改めて『星尘』と『海伊』の情報が詰め込まれた『剛和星晶』と『剛積水晶』にも——。

 

 

 

 ——それぞれに対応した『裏』の『神格』があるということではない、かと。

 

 

 

 そして——。ラファエルは『風の神格』に取り憑かれることで今の異形となったというなら——。

 

 名の通り『土』の属性を持つウリエルに、ニャルラトホテプが化けていた理由は——。

 

 

 

「アンタ……『土の神格』の『裏』ってこと?」

 

「そういうこと。そんで、基本的に『神格』同士は表側……つまり『星尘』や『海伊』とかは本能的に仲良くなる」

 

「だが」とニャルラトホテプはレンの顔に似つかわしくない表情を浮かべて饒舌に言う。

 

「俺たち裏側の『神格』は違う。基本的に独立した者同士だ。互いに無干渉を心掛けるようにしている。だが各々のやり方が違うだけで、目指すことはただ一つ。侵略の一手だ」

 

「侵略——?」

 

 その単語がセレサの中で引っかかった。

 疑問が大きく膨らむ。侵略自体は手段でしかなく、目指すべき目的への過程でしかない。

 そして『一手』とも言った。現在サモントンを混乱の渦に叩き込んでいるはずなのに、この惨状を過程であると断言した。

 

 

 

 ——だとしたら侵略の先にある『目的』は何なのか。

 

 それがセレサの中で気掛かりになっていた。サモントンを混乱させる以上の『目的』——。その意味を計りかねていた。

 

 

 

「まあ? 俺からすればレンをこの手にできれば、どんな手段と道筋を辿ろうと面白くなればなるだけいい。だからこうして手助けしたのさ、ハスターの降臨を」

 

 そこで説明を終えたのか、ニャルラトホテプは喉にまで深く突き刺さったセレサにはの刃を強引に引き抜き、悍ましいほど流血する首を瞬時に再生させて立ち上がった。まるで今まではワザと手を出していなかったと言わんばかりに軽々と。

 

「おめでとう。これでサモントンは無事に危機を脱することはできました。だが、代わりに頂いていくのさ。レンのすべてと、ラファエルのすべてをねぇ!!」

 

 さらにニャルラトホテプは腕を再生させ、さらにその一部をタコにも植物の蔦にも見えなくもないほどに手を異形化させて、容易くセレサの首を絡め取って宙吊りにした。

 

 一転してセレサは窮地に陥る。酸素が脳に渡らず、血も巡らない。一気に節々の力が抜けていく。骨が軋んで今にも折れかかっているのがセレサには分かる。

 

 人体にとって首の骨は神経に多大に繋がっており、骨折してしまえば幸いにも即死を免れたとしても、後遺症として下半身不随などによる植物状態となる。首の傷害はそれほどまでに凶悪だ。焦らないわけがない。

 

 

 

 死の運命が目前へと迫る——。

 

 本能的な恐怖がセレサの心身を蝕む。懸命に首の触手を緩めようとするが巨木の根っこ、あるいは巨漢の筋肉のように貼り固まった触手は単純な力勝負でも、技術でも抜け出すことができないほどに圧倒的だった。

 

 刀の握る手には力が入らず、足も浮かんで踏み込むこともできない。今この場において、セレサはただの無力な人間でしかない。それを痛いほどに実感した。

 

 その反応を欲していたかのように、ニャルラトホテプは薄気味悪い笑みを浮かべると、わざとらしく煽るように高々と告げた。

 

「ははは! 君みたいな強い人が、そうやってもっと強い力に屈服して恐怖するのは堪らない!! 貧弱、惰弱、脆弱ッ!! 脆すぎるよねぇ、人間ってやつは!!」

 

 心底楽しそうにニャルラトホテプは告げる。まるで擬態しているレン自身が、そのような感情を元々持っていたんじゃないかと錯覚してしまうほどに楽しく歌う。

 

 それに伴い触手の圧力は強くなる。セレサのこれ以上の対抗をさせないために四肢にも触手で覆い、両腕、両足、首を全て拘束した。

 

「がぁあああああっ!!」

 

 やがて手の指の骨が砕けた。折れたのではなく、砕けたのだ。

 触手で覆われた四肢に圧力の逃げ場はない。360°全てから力が伝達し骨は砕け散り、血管が破裂した。筋肉は極限にまで萎み、触手から解放された指がセレサの目に入った時、それは本当に人の指だったのかと疑うほどに細くなっていた。

 

「すぐには殺さない。俺を拷問したように、ジワジワと行かせてもらう。指を、腕を、肩を順繰りに砕く。足も同様だ。そのあとは歯を一本ずつ砕いて、鼻もへし折ろう。もう人間じゃないほどに惨めで不細工な面構えにして、屈辱に塗れてもらおうか。その後に嬲って、嫐って、なぶり殺す。文字通りにね」

 

 宣言通り、次は腕が砕かれ、内部では爆発したように血管から血が溢れ出る。あまりの激痛にセレサは今にも意識が落ちてしまいそうだが、それさえも首元の苦痛が無理矢理意識を拾い上げ、強制的に首を優しく曲げて見るも無惨で悲惨なセレサの利き腕を見せつけた。

 

「これじゃあ自慢の抜刀術はできないねぇ。ってことは、もう君はそんじゃそこらの人間と大差ないってわけかな? いや、違うな。まだ足があるか」

 

 と、次は片足の骨が砕かれた。共にどちらも右側であり宙ぶらりんとなっているセレサでも理解できるほどに、身体のバランスが崩れてしまう。

 

「がっ……!? あがっ……!!」

 

「ほらほら。もっとブサイクな声で鳴けよ、下品でもいい。痛みのショックで粗相を起こしてよ。惨めな姿を見せてくれよ……さっさとよぉ!!」

 

 今度は身体を触手が絞り、臓器を全てに激痛が走る。だが先程の片腕や片足を砕いた時よりかは優しく、骨や血管が破裂することはない。

 だが過剰の外部刺激で臓器の動きが促進、あるいは逆流が起こる。胃酸が競り上がり喉元まで到達する。腸内が煮えくり、消化物を排出させようと小腸まで駆け巡る。

 

 だが、そこまでだ。二つともニャルラトホテプの触手によって既の所で押さえつけられて体外に出ることはない。しかし臓器の活動は止まることなく、セレサの喉元と腸内に次々と汚物を溜め込んでいく。あまりの量に漏れ出し、穴という穴から出てくるのではないかと思ってしまうほどに。

 

「もういいか」

 

「ゔぉえ……!?」

 

 そしてようやくセレサは触手から解放され、同時に上も下も無様に汚物を溢れ吐き出す。衣服は胃酸特有の鼻を劈く匂いが媚びりつき、下着には異物が混入して悪臭を放つ。

 

 身も心もプライドもズタズタにされ、怒り狂いそうにセレサはなるが、既に右半身は動くことさえできないほどにボロボロだ。

 立つことも、身を起こすこともできず、ただ地べたに顔をつけて這いずり回る醜悪な姿を晒すことできない自分に、セレサは思わず涙が溢れてしまう。

 

 それを見て、ニャルラトホテプは満足気に、だがまだ物足りないと言わんばかりに饒舌に語る。

 

「いいねいいねぇ。美しいねぇ、汚いねぇ、惨めだねぇ、楽しいねぇ。人が悶え苦しむ姿は堪らない。特に君みたいな強い人間なら尚更だ。だってそれは窮地に陥ってもなお『余裕』があるからだ。救いを乞うか、最後まで耐え抜こうとするか、諦めて心を殺すか。それを選べる『余裕』がある。そして『余裕』があるからこそ感情は揺らぎ、輝きを絶やさない。それが消えうる最後のひと時は本当に極上で堪らないんだ。頼むから、できるだけ長く抵抗してくれよ?」

 

 ニャルラトホテプは本当に楽しそうに笑いながら、今度はセレサの鼻に指を押しつけ、まるで豚のように潰れるセレサの顔を見て、さらに笑みを深くして呟く。

 

「今度はどんな顔を見せてくれるかな〜〜?」

 

「——それ以上その顔で、その声で、下衆なことを言うな」

 

「へ——?」

 

 

 

 途端、いつの間にかニャルラトホテプの背後に迫っていたハスターと呼ばれる存在は表情を不快に染めて、その異形の手でニャルラトホテプを地面へと叩きつけた。

 

 

 

「は——?」

 

 

 

 痛みはない。だが理解もできない。ニャルラトホテプは自身に起きた事が分からなかった。

 

 何故ここまで来てお前が俺に攻撃してくると、ニャルラトホテプは心の片隅で思いながら振り返る。

 

 

 

 ——瞬間、理解した。ニャルラトホテプだけは理解した。

 

 目の前にいる人物が——いや、異形は決して自分がよく知る存在ではないということを。

 

 

 

「…………お前誰だ? 姿形、匂い、雰囲気……確かにそれだ。だが違う、魂が微妙に違う」

 

「お前」と一言挟んでニャルラトホテプは怒りにも近しい語気の荒さを持って告げる。

 

「『ハスター』じゃないな——?」

 

 その言葉に、異形と化したラファエルは「ああ」と認め、風のように掴みどころのない抑揚と、しかし確かに力強い宝石のような気高さで告げる。

 

「我が名は主神『ハスター』の『秘められし胤』——」

 

 それは言葉一つ一つが重みを持ち、まるで『王』であるかのように異形のラファエルは自身の名を名乗った。

 

「『宝玉の皇太子』——『ルクストゥール』」

 

「『ルクストゥール』……? 聞いたことないぞ……? そんな名前、ハスターからは1度たりとも…………」 

 

 ニャルラトホテプの中で疑問が爆発する。だが疑問は、彼にとって『恐怖』にはなりえない。むしろさらなる『混沌』を生むための糧であり、これまた楽しそうに笑いながら言った。

 

「……いや、それもまた面白いか。お前の目的はなんだ?」

 

「決まっている——」

 

 そう言って『ルクストゥール』と名乗った異形は、ローブみたいに顔を隠す髪を掻き上げ、変色した肌色ながらも、色褪せぬことないラファエルとしての美貌と気高さを誇りながら告げた。

 

「——我が従者ラファエルの願いを叶えるため、レンを守ることだ」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 暗黒の世界の只中、俺とウリエルは『魔導書』の主人となるヴィラクスを相手に戦闘が始まっていた。

 だが戦況は決して俺達に好転しない。むしろ劣勢と言っていい。ヴィラクスの『魔導書』から放たれる魔法の数々は、ウリエルの魔法で形成される土の壁がなければ一瞬で致命傷になりかねないほどに怒涛の勢いで攻め立ててくる。

 

「なんだよ……! 何が羽は飾りだ……っ!! 滅茶苦茶戦いにくい……!!」

 

「当たり前だ。羽があるだけで機動力は何倍にも上がる。なにせ移動手段が二次元から三次元になるからね。人力だけでは到達できない領域をヴィラクスはいま支配している」

 

 何よりこちらの攻めを鈍重にしているのは、制空権を捉えていることだった。ヴィラクスには悪魔を模したような羽根が生えており、それによって空中に浮かんで近距離戦闘を一切行わずに、芋スナのようにチマチマと堅実に魔法による遠距離攻撃で戦況を操作しているからだ。

 

 いくらギン教官との訓練で飛躍的に強くなったと言っても、俺には遠距離攻撃を可能にする技も力もない。そしてウリエルの魔法は『防御』に特化していて防ぐことはできても、攻めに転用することができないと足踏みしている状態なのだ。

 

「もう一度眠れ……っ! 私とニャルラトホテプ様のために……っ!」

 

「大地よ、砦となりて我らを守れ!」

 

 ヴィラクスは『魔導書』の魔力と羽を利用して、喉を一瞬で焼き焦がす熱風を放つ。対してウリエルは土壌の盾を瞬時に生み出し、熱風の直撃を避ける。

 俺は何度目か分からぬ感謝の言葉をウリエルに伝えるが、当の本人は聞く耳を持たずに常にヴィラクスへと視線を向けていた。

 

「ヴィラクス、話を聞いてくれ」

 

「話? 聞けば眠ってくれますか?」

 

「いずれは眠るさ」

 

「話のわかる方で助かります。流石はデックスの1人。『元』は私の主人なだけありますね」

 

「でも、それは今じゃない——。君を、君だけでも、せめて僕の手で助け出さないといけない」

 

 ウリエルからの返答を聞いて、純真無垢な優しさを持っているはずのヴィラクスは汚物でも見たかのように表情を険しくさせる。

 ……あれは本当にヴィラクスなのかと自分でも疑ってしまう。そこにはもう『天使』と言える雰囲気はなく、身も心も堕ちた、まさに『堕天使』と言える邪悪さが内包されている。

 

 だとしたら、あそこまで人を変貌させることができるニャルラトホテプという存在に、ドギツイ嫌悪感と拒絶をこれでもかと抱いてしまう。

 

「君が、レンが、サモントンが……こうなってしまった全ての発端は僕の軽率な行動が原因だ。その尻拭いは僕がしないと、デックスの名を汚すことになる」

 

 しかし、ウリエルの言葉は続く。ヴィラクスとは対照的に、自分の名に恥じぬ『天使』のような優しさと使命感を持ちながら、

 

 だけど……『夢』の世界でも言っていたが、こうなってしまった原因にウリエルにあると言っているが……それはいったいどういうことなのか?

 

 それはヴィラクスも同じようで、目を据わらせてウリエルを見続ける。そんな心情を察したように、ウリエルは息を整えて話し始めた。

 

「先に言っておく。僕はもう死んでいる——。『ウリエル・デックス』という人間は、すでにニャルラトホテプに取り込まれた人物の名だ」

 

 ……その言葉は意外でも何でもなかった。『夢』の世界で話を聞いた時点で、ある程度予測はしていたことだ。

 

 何故『ルーチュシャ方程式』の悪質さに気づいていたのか。あんな見た目だけなら、ただ情報しか記載されていない物のはずなのに。

 それは一度その悪質を受けたからに他ならない。だからこそ、このウリエルは『ルーチュシャ方程式』のことを知っていたんだ。あれを解いてしまえば、ニャルラトホテプに取り込まれてしまうことに。

 

 ——問題はどうしてそれを受けてなお、今この場にウリエルはいるのか? ということのほうが俺にとって重要だ。

 

「僕はそんなウリエルが無念を抱えながら、魔法で生み出した『土人形』——。つまりは『ゴーレム』とか、その辺に該当する物なのだ」

 

 それも勿体ぶることなく、アッサリとウリエルは答えてくれた。だがヴィラクス当人はため息をついて呆れて話を聞いていた。

 

「わざわざ話す事ですか、それ? これだからお子ちゃまは困るんですよ」

 

「ああ、お子ちゃまさ。だから恥を晒している。だからこんな身になっても、やらなきゃいけないことが僕にはあるんだ」

 

 ウリエルは土を新たに現出させて、装甲のように身に纏いながら肥大化していく。粘土を練るように土は形を変えて2m、3mと大きくなっていき、神話やゲームに出る『ゴーレム』に相違ない土の巨体、あるいはロボットのような体躯となってヴィラクスと相対する。

 

 表情は既に見えない。少年の身体はその体躯の奥深くにいるから。

 それでもその瞳には、俺にはきっと分からない覚悟が既にあることだけは理解した。

 

 

 

「僕は、ケジメをつけないといけないんだ。今までの僕のすべてに。そのために、君だけは絶対に助け出さないといけない」



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第15節 〜遠い日の、遠い場所で〜

この一週間で魔女兵器のエチエチSSも書いてました。
ご興味のある方はマイページの投稿小説にあるので見てください。


 これはウリエル・デックスが語らぬ自身の過去である——。

 

 ウリエルは生まれてから今の今まで基本的に無関心な子だった。それは周りに興味がない、という意味ではなくデックスとしての高貴さを求めての振る舞いだった。

 年不相応の達観的で大人びた態度は同年代からすれば畏怖すべき人間であり、それが名高いデックスとなれば尚更だ。周囲の同年代はウリエルを腫物を扱うように接し、その疎外感からウリエルは周囲への干渉を最低限に済まし、デックス家との付き合い以外では一人きりでいることが多かった。

 

 かといってデックスにおいてウリエルは期待されているかと言われればそうでもない。

 最年長であるミカエルは一人目にして最高傑作と言っていいほどに非常に高い基礎能力、思考、高貴さを身につけ、続くガブリエルはそのミカエルには全て及ばないものの、同時に全てが高い能力を持っていて、逆に二番手としては理想的な人物として育っていった。

 

 そして次に生まれたのが『女性』であるラファエルだった。男性と女性では、語るべきあるいは統治すべき政治の方向性が少々違う。

 デックスは今までの方針から少し変え、後にデックスにおいて最も重要な存在になることは想像しないまま、サモントンの政治におけるサブプランとして育てられてきた。

 

 そんな中、ウリエルは生まれた。

 高い目標として常にいるミカエルとガブリエルの存在は、ウリエルにとってはどう映って見えたのか。それはウリエル自身にしか分からないことだが、決してそれはウリエルにとって良い影響を与えたとは限らない。むしろ比較され続ける毎日に疲れる日々を送ったであろう。責務の重さだけがのし掛かり、デックスという血は彼にとって呪いにしかならない。

 

 ウリエルには公共の場でも、デックスの場でも休まることはなかった。そしてプライベートには友人と呼べる存在はおらず、一人きりで常に卑屈で過ごしていた。

 

 

 

 ——何が『Noblesse oblige』だと。

 

 

 

 そんなウリエルが持てる楽しみは『読書』という一人きりの世界に籠ることだった。休みの日にはサモントンの図書館へと通い、ジャンル問わず漫画から小説、どこぞの誰かが書いたありきたりで毒にも薬にもならない啓発本さえも目にしてきた。それだけが、ウリエルにとって触れられる人間との向き合い方だった。

 

 登場人物に思いを馳せ、登場人物の全ての事情を把握し、作り物であろうと人にはそういう事情があると理解した。

 もちろん物語は実体験には程遠く人生経験において些か薄い物であろう。百聞は一見にしかず、という言葉もあるくらいだ。

 

 だが、逆に言えば『百聞を成せば一見に値する』という可能性も秘めているということだ。ものすごく遠回りではあるが、それだけが幼いウリエルの心を成熟させていった。

 

 何度も何度も、飽きるほどに何度も何度も、同じ本を繰り返し読むことで、ウリエルは知識を深め、心身を育んでいった。誰にも関わることなく。

 

 

 

《あの、読書が好きなんですか?》

 

 

 

 そんな幼い時に、ウリエルはヴィラクスと出会った。それはウリエルが8歳、ヴィラクスが9歳の時の話だった。

 

 ウリエルはぶっきらぼうに「そうだよ」とだけ返したが、それがヴィラクスにとって面白く見えたのだろう。笑顔で隣に座って「珍しいね。私もなんだ」と持参した本をその場で読み始めたのだ。

 

 ウリエルからすれば「なんだ、この図々しい女」というのが第一印象だったが、これが二人にとって今にも続く関係の始まりでもあった。

 

 巡る季節。渡る人々。変わる街並み。

 色々な物が移り行く中、ヴィラクスだけが変わらずに毎度毎度図書館にいて、そして当然のようにウリエルの隣に座って本を読んだ。あるいはテストでもあるのか、プリントや教科書と睨めっこする日もあった。

 

 どうしてこの女は、こんな僕に構ってくれるのか。いや、もしかしたら身分を知ってるからこそ、おべっかを使おうとしているのか。

 卑屈に満ちた少年の心は、生じた疑念すらも自分に都合の悪い認識として捉えてしまう。ある日、ウリエルはそれをヴィラクスに対して口にした。「デックスである僕に何を求めてるんだ」と八つ当たりするように粗暴に。

 

 だがヴィラクスは呑気な顔をして、これでもかと屈辱的な言葉をウリエルに言った。

 

 

 

《あなたデックスなんですか? 見えませんけど》

 

《は?》

 

《どう見ても根暗な子だよ。私と同じ、どこにでもいる》

 

 

 

 それは今までの自分を全否定するような言葉だった。

 

 デックスとして育てられたのに、そんな自分が『どこにでもいる』と言った。自分がどんな苦痛や立場で育てられたかもしれないくせに。その程度の言葉で、この僕を言い表そうというのか。ただの一市民にしか過ぎないくせに。

 

 そう思うと無性に腑が煮え繰り返り、ウリエルは乱暴に押し倒してでも殴ろうかと立ち上がる。だがヴィラクスはそのまま呑気に言葉を続けた。

 

 

《でも本を読んでる時だけ楽しそうだったから、この子となら楽しく話せるかなぁ〜〜って、話しかけたんです。求めてるとしたらそれくらいです》

 

《……なんで、本を見てる時の僕が分かるんだ?》

 

《え? 丸わかりですよ? この世の不幸全部背負ったみたいな感じで顰めっ面してるのに、そんな君が本を読んでる時は救われたような顔で見てましたし……》

 

 

 ——何で、この人はそれだけで僕のことを理解できるんだ。

 

 いや、違う。ヴィラクスだから分かったんじゃない。矮小で中身がないウリエル自身が分かりやすいだけなのだ。それほどまでに自分が薄い人間であると、自分の世界があまりにも小さく閉鎖的であると、その時ウリエルは初めて理解してしまった。

 

 自分の器の程度が知れてウリエルはその時初めて涙を流した。声も上げず、かといって嗚咽なども起こさず、目も赤くならずに静かに涙を流した。まるで目薬を指しただけと言わんばかりの嘘みたいな涙を。

 

 だけどヴィラクスは機敏に反応して心配してくれた。「泣いちゃった!? ごめん!」と自分より一つ年上なだけなのに、母親よりも母親らしく、姉よりも姉らしく優しく抱擁してくれた。

 

 そして泣いた。本当の意味で泣いた。

 ウリエルはヴィラクスの胸元で、やっと年相応らしい感情を見せて泣き続けた。嗚咽を漏らし、鼻水を流して、高すぎて掠れた声でヴィラクスに甘え、ウリエル自身でも知らぬ間に私事を話してしまっていた。その間、ヴィラクスは頭を優しく撫でて静かに頷いてくれた。

 

 

 

 それが2人が初めて出会った話だった——。

 

 その日から二人は交友関係を育むことになる。

 翌日、ウリエルは今まで以上に暇さえあれば、ヴィラクスに会いたいと子供ながらに思って、図書館へと通い詰めた。そして出会った時には偶にウリエルが甘えるのと、読書後の少しの雑談以外は特に会話もすることもなく互いに静かに読書をする日々になった。

 

 別に言葉を交わす必要なんかない。ウリエルはデックスで、ヴィラクスは一般市民の一人。立場の違いこそあれど、二人は共通して読書家であり、むしろ本を捲る音こそが会話ですらあった。それだけでウリエルにとっては十分であり、何もない空虚な毎日を救われたのだ。

 

 

 

 ——そう、ウリエルは救われていた。

 ——だが、ヴィラクスは救われていなかった。

 

 

 

 そんな想像をまだ子供であるウリエルには具体的にできていなかったのだ。

 

 だから、それを知ったのは暫くしてからの事だった。

 ウリエルは毎回図書館に通うが、やがてある疑問に気づいた。図書館でヴィラクスに会うが、彼女は必ずウリエルよりも前に図書館にいて、ウリエルよりも先に帰らずに本を読んでいる。

 

 彼女はいつ頃、家に帰っているのか——。

 そんな素朴な疑問をウリエルは何気なく聞いてしまった。自分がどれだけ配慮がない言葉を口にしたのかを分かっていないまま。

 

 

 

《私、家がないんです》

 

 

 

 そう、ヴィラクスは孤児だったのだ。『七年戦争』によって親を亡くして生まれた戦争孤児。このご時世では大して珍しくもない人間だ。

 しかしサモントンは他の学園都市と違って、生活支援や教育支援が一切行き渡っていない。そのためそういう孤児は新豊州と違って保護されず、自分の食い扶持を稼ぐために郊外に赴いて農作業に励むのだ。一切の学業も学ばずに、その身一つで奴隷のように。

 

 だが身体が弱いヴィラクスでは郊外の農作業には手伝えず、自分の食い扶持さえ稼げなかった。それでも何とかして生きるために、こうして図書館で住み込んで生活しているのだという。

 

 労働時間としては睡眠と休憩以外の全て。

 開館してる間は本や備品などの整理をしたり、トイレ掃除をしたり、司書の資格を取るために勉学に向き合う。

 閉館すれば図書館全ての掃除をして、本の状態確認をし、図書館の防犯面を確認。備品をチェックして不足してる物、あるいは傷がついて使い物にならなくなった物をリストを上げて、後日正式な司書に提出してようやく眠る。

 

 そこまで得られるのは最低基準の生活までだ。

 宿はこの図書館だが、当然寝ることは想定してないのでベッドなどはなく事務所のソファで横になるだけ。

 食事は一日一食。とても満足できるものではなく、服は図書館の窓口に併設されてる寄付受付から頂戴する。

 そして僅かに支給される賃金で、歯磨きやシャンプーといった身を洗う物、寝るための毛布、それにいつか年齢を重ねたら来るであろう生理のための下準備と生活必需品に消えていく。

 

 その実態を知ってウリエルは絶句した。確かにサモントンにはホームレスが多いという話は聞いている。だが、それがこんな自分と大して年齢の変わらぬ子で、しかも目の前で起きているなんて一切想像していなかった。

 

 自分は家さえ帰れば、いつでも3食を口にできるし、寝る時も困ったことなんてなかった。自分は不幸だと、理解者がいないと思っていたのに、目の前にいるヴィラクスはそれ以上の不幸を抱えていた。そしてそれは別にヴィラクスに限った話ではなく、どこにでも普通の不幸だということを肌身で知ってしまった。

 

 その時、ウリエルは初めて自分が甘えていたことを実感した。

 ウリエルは決意する。デックスとして本当にやるべきことは何なのかを。現状を変える策を見出すことを。

 

 

 

 ——だが、決意だけで変えられるほど現実は軽くないのも、その時にウリエルは知った。

 

 

 

 成績は上々。学校では常に全教科成績トップを収めた。だが全世界となると上から二桁前半とウリエル自身が満足できるような内容ではなかった。それに年齢も満たず、政治的介入ができずに胡座をかく日々が続いた。

 

 その間にヴィラクスは司書資格を入手し、ようやくまともな収入を得て、中学から正式に学び舎に編入するようになれた。それに伴い彼女自身は更なる学問と金銭の貯蓄をするために、比較的賃金が高い仕事先を求めてサモントンから出て三年間も『コペンハーゲン王立図書館』へと住み込みで働いた。

 

 しかし、その三年間でウリエル自身は大きく変わることはできなかった。

 だというのにヴィラクスは一人で現状を打開し、一人で周りを変える力を得て先に進む。それ自体は喜ばしいことだが、自分との差を見せつけられてウリエルは今度はコンプレックスを抱くようになってしまう。

 

 なんで自分は何も変えることができないんだろう——と。

 

 

 

 ——時は再び大きく流れ、それは爆発する。

 ——ラファエルが14歳の時に湖で溺れたことで。

 

 

 

 それを境にデックスには『魔力』という物を認識し、それを追い求めるように祖父であるデックス博士は変貌した。

 ウリエルからすれば、デックスの方針転換は今までの自分を努力を無碍にしており、またウリエルが求めていた『変えるための力』を、求めてもいないラファエルが宿した。それがウリエルにとって、どれだけ屈辱的なことだったか。

 

 だが、もう傷つくのは慣れた。それならそれとウリエルも心を変えた。『魔力』を得ることでそこまで変わるというのなら、自分も得ようと。

 幸いにもミカエルはまだ『魔力』を宿していない。自分が次に『魔力』を宿せるとなれば、デックス家はミカエルよりもウリエルを見てくれる。そうすればミカエルと変わって政治的介入もすることができる。そうなればヴィラクスのような無辜なる民を助けることができると。

 

 しかし、ダメだった。年月を重ねてもウリエルは『魔力』を宿すことはできなかった。

 ラファエルはレンと接触したことで『風の魔力』を本格的に操ることができるようになった。それどころかミカエルは『火の魔力』を宿し、ガブリエルは『水の魔力』を宿した。自分には一切の魔力を宿すことないまま、上の従兄弟はウリエルが求めていた『変える力』を手に入れたのだ。

 

 

 

 焦る——。焦り続ける——。

 このままでは、何も成せないまま終わってしまう——。

 

 

 

 そうして年月を重ね、ウリエルは久しぶりにヴィラクスと会った。

 ヴィラクスの年齢は既に14歳。ウリエルは13歳。互いに年季を重ねたことで多少は男女の意識は生まれるかと思ったが、そういうわけもなく今日も今日とて二人して静かに読書に明け暮れる。

 

 ウリエルが唯一休まる時間——。

 そのはずだったのに、ヴィラクスは驚愕の一言と共に一冊の本を見せてきた。

 

 

 

《ウリエル……様》

 

《様? 今更そう呼ぶ関係じゃないでしょ?》

 

《いえ、呼ばないといけません。私……『魔導書』を拾ったことで『位階十席』の『第十位』になってしまったので……》

 

 

 

 ——『位階十席』になった。それを聞いて、ウリエルは名状し難い感情が芽生えてしまった。

 

 喜ぶべきか——。ああ、その通りだ。

 今まで貧しい生活を送っていた彼女は、魔女となり『位階十席』となることでようやく社会的地位を上げることができたのだ。

 

 悲しむべきか——。ああ、その通りだ。

 一度『魔女』になったら、もう戻ることはできない。それは普通の生活はもうできないことを意味しており、

 

 怒るべきか——。ああ、その通りだ。

 何故彼女は『魔女』に選ばれてしまったのか。それは絶大な力を誇るが、同時に劇薬でもある。使い方を間違えれば特異災害である『ドール』となってしまうほどに。

 

 妬むべきか——。ああ、その通りだ。

 自分には力がない。だというのにヴィラクスには力がある。『魔女』としての力がある。ウリエルからすれば、どれだけ渇望した物か。

 

 

 

 なんで、自分には何もないんだ。デックスならまだしも、どこにでもいる少女であるヴィラクスに『魔女』の力が宿るんだ。

 ありきたりとはいえ不幸を背負って生きたというのに『魔女』としての力を宿してしまえば、これ以上の波乱が起こるのは目に見えている。どうか、そのままヴィラクスをそっとしておいて、僕だけが分かるありきたりな幸福としての象徴であってほしいのに。

 

 何故少しでも自分にそれを肩代わりさせてくれない。何故神はヴィラクスへの負担を僕に分けてくれない。デックスなんて名前も、何ならウリエルの名前さえ捨ててもいいというのに。

 ウリエルからすれば、この名は呪いでしかない。だが呪いを背負わねば世界を変えられないのも事実。だからこそこうして生きているというのに、未だに神はウリエルには力を施してくれない。この名を背負う意味がない。

 

 

 

 ——焦燥感がウリエルを襲う。 

 ——なにか、何かしらの『力』が欲しいと。

 

 

 

 再び年月が経ち、ウリエルは一つの『宝石』と巡り合った。

 

 それは平行の面がどこにもない『黒く輝く多面体の結晶体』だった。中身のほとんどが地球上では見られない材質であり、その『隕石』にも近しい存在は何故か発見された時から『金属製の箱』に閉じ込められていたらしい。まるで、この『宝石』に適応したウリエルに施すかのように。

 

 

 

 ——嫌な予感はあった。何故こんな都合よく自分の前にこれが現れたのかと。

 

 だが、今更引くことはできない。どんな物であれ『力』を得るために今までデックスの血を嫌いながら、デックスとして生きてきたのだ。この『魔力』を背負うことを今の今まで夢に見ていたのだ。

 

 ウリエルは意を決して『宝石』へと触れる。

 溢れ出す『魔力』——。同時にチラつく『異形』の存在——。

 

 そこでウリエルの意識は途切れる。まるで精神だけが『乗っ取られた』かのように、ゆっくりと。

 

 

 

 

 

 そこから先は話すことはない。ただ一つだけ付け加えさせていただこう。平行な辺のない四角面による『多面体』というのは名称があることを。

 

 平行な辺のない四角形そのものを『トラペジウム』と言い、それらから成る偏四角多面体のことを俗にこう呼ぶ。

 

 

 

 ——『トラペゾへドロン』と。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 ウリエルの過去は終わる。口にすべきではない赤っ恥だらけの連続。誰にも自慢できないし、褒められた物でもない一人相撲。

 

 そんなツケが回りに回って今の現状を呼ぶ遠因となった。

 弱い自分を無理矢理でも変えようと足掻いた結果、元凶であるニャルラトホテプに取り込まれ、自分が唯一心を許したヴィラクスまで操られてしまった。

 

「わざわざ話す事ですか、それ? これだからお子ちゃまは困るんですよ」

 

 

 

 ——それでもいい。所詮は一人相撲。

 ——最後まで知らぬ存ぜぬのままでいい。

 

 ——こんな恥晒しの気持ちなんて理解されなくていい。

 

 

 

「ああ、お子ちゃまさ。だから恥を晒している。だからこんな身になっても、やらなきゃいけないことが僕にはあるんだ」

 

 

 

 ——だからこそ、最後まで我儘を押し通す。

 

 

 

「僕は、ケジメをつけないといけないんだ。今までの僕のすべてに。そのために、君だけは絶対に助け出さないといけない」

 

 

 

 自分が招いた結果は、自分で解消する。

 ヴィラクスを救うのは僕だ。僕がしないといけないことなんだ。

 

 元々独りよがりの恋だった。なら独りよがりにやってやろう。

 

 それが最後まで一人きりで奮闘した少年に相応しい末路だろうから。



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第16節 〜勝ち得たモノと失くしたモノ〜

 土の巨兵となったウリエルは、その身を持ってヴィラクスの魔法の弾幕を受け切る。一つでロケット弾並みの火力を誇るため、着弾する度に巨兵の土は土砂崩れのように崩壊し、すぐさま荒療治で再生して継ぎ接ぎだらけの不恰好な姿になっていく。

 

 レンは手を出すことができず、ただ巨兵の影に隠れてチャンスを伺う。常に空中に滞在する相手に打てる有効打がレンには一切ない。ここで迂闊に前に出れば蜂の巣になるのは目に見えている。今は座して待つしかない。

 

 そう分かっていても、レンには焦りが募る。

 ウリエルと一体化している土の巨兵はヴィラクス相手に防戦一方だ。『魔導書』の魔力をこれでもかと活用して襲いかかる魔力の弾丸は、さながら『OS事件』でかち合った名も知らぬ『異形』を小型化したような脅威さであった。

 

 あの時はミルクの助けがあったから何とかなったものの、今この場に置いてそういう類の物は一切ない。

 ニャルラトホテプにオーガスタの『ジーガークランツ』の欠片、それに霧吟の『流星丸』も回収されてしまっていて、レンの手には今はいつものバットしかないのだ。

 

「ほらほら!! 今度は威力あげるよっ! ニャルラホテプ様に相応しい愉快で素敵なオブジェになるまで頑張ってくださいよ! 元主人のウリエル様ァ!!」

 

 敬語ながらもヴィラクスからは大人しそうな口調は消え去り、狂気に魅入られた悪魔のような残虐な笑顔を浮かべて攻撃を続ける。

 

 一撃で腕を抉り、一撃で頭を飛ばし、一撃で腹部を貫く。

 土粘土だから良いものの、こんな過剰火力を人体に向けられた間違いなく必殺の魔力だ。掠っただけでも致命傷となって死にかねない。

 

 

 

 ——今まで『魔導書』自体と相対したことがなかったけど、まさかここまで強力だったなんて。

 そういう考えがレンに過ぎるが、一度冷静に考えれば当然だとも言える。

 

 

 

 今まで『魔導書』自体を目にすることはなかった。見たと言っても、江森発電所でイルカが魔導書の『ページ』を回収したのと、いつぞやの『記憶』が呼び起こされてファビオラに魔導書の『ページ』を取り込んだ時くらいしかない。

 

 そう。あくまでレンが目にしてきたのは『ページ』だけだった。

 それだけなのに、あの『OS事件』での海上戦で大活躍したイルカは披露してはいたものの江森発電所で『ドール』相手に押し負けた。

 

 その『ドール』だって『魔導書』を媒体に傀儡にされた存在だ。『ドール』はあくまで『魔導書』の一部でしかなく、その一部でさえ18年前に遡ればバイジュウとミルクを裂いた南極基地での悲劇を齎すことも可能なほどに強力なのだ。

 

 それを束ねる『魔導書』————。

 ページ数にして『数百』を超え、サモントンに飛来する『ドール』は『数十万』を超える——。

 

 

 

 であれば『魔導書』の魔力がそれに匹敵するのは当然なのだ————。

 むしろウリエル一人で耐え凌いでいるほうが異様だとも言える——。

 

 

 

 やがて土の装甲は消え去り、その巨体からウリエルが顔を見せた。肌も死人のように青ざめており、心なしか身体そのものが亀裂が入ったような傷も見える。

 そんな今にも砕け散りそうな少年の姿を、ヴィラクスはウリエルの記憶にない悪魔の眼差しで見つめる。

 

 そこにはどんな思いがあるのか。それはウリエルにもレンにも分からない。

 今のヴィラクスには新豊州で見せた優しさやお淑やかは微塵もない。身体は魔力に犯され、精神も思考も狂気に蝕まれ、ただ自分の主人であるニャルラトホテプに喜んで貰うために奉仕する哀れな従者。見方によれば、縛り付けられた自意識がある分『ドール』よりも悲惨な目にあっているのかもしれない。

 

 

 

 ——だからこそ絶対に助けないといけない。

 ——ヴィラクスをあんな風にしてしまったのは僕だから。

 

 

 

 ウリエルは再度決意を固めて、土の巨体を修復し、さらに砂を巻き上げて装甲を纏うように巨体を覆う。

 今までよりも何重にも硬い装甲。戦車の弾ぐらいなら耐え凌ぐのもわけない強靭さ。

 

 だが『魔導書』の魔力は絶対的だ。

 ヴィラクスは指を弾くと、それが引き金だったかのように練り固まった純粋魔力の弾丸が最も容易く再び巨体を貫いた。

 

『————ッ!』

 

 即座に再生して立て直すが、装甲の中にいるウリエルの様子は本人以外知るよしがない。土の巨体は五体満足となっているが、本体は既に左目と左腕、そして下半身全てが砕け散って塵となって土と一体化している。

 

 それはウリエル自身が既に魔力の塊である『ゴーレム』の身である故だ。ゴーレム故に『核』という名の心臓さえあれば、いくら身がなくなろうと消えることはない。その分だけ命を全てを魔力に変換できるが、同時に代償とした分の身を壊す不可逆変換。

 

 もうヴィラクスの顔さえ霞んでしまっている——。

 だが、それでも諦めるわけにはいかない。いや、諦めた瞬間に勝機は失う。ウリエルはただ耐えて待つしかないのだ。

 

 なぜなら、既にウリエルには打開の一手が見えている——。

 そのために全身全霊を持って耐えることしかできないのだ。

 

「しつこい……。破壊して再生してを繰り返す……。つまらないつまらないつまらない!!」

 

 いつまでも耐え続けるウリエルの消極さと退屈にヴィラクスは苛立ちを覚える。それと共に魔力の弾は威力を増していき、ドリル重機のような鋭さと力強さで巨体の装甲を貫き、右腕を崩壊させた。

 

「こんなんじゃあ、ニャルラトホテプ様は満足しないっ!! 私に愛してくれないっ! ニャルラトホテプ様にすべて捧げる従者として情けないっ……!!」

 

『————神に愛を求めてたらダメだろ』

 

 ヴィラクスの言葉にウリエルは静かに、だが確かに伝わるように音を濁さずに告げた。

 

『神に愛はない。正確には個人など与える愛なんてない。神の愛は平等であり、平等であるが故に無価値なんだ』

 

「——お子様の口で偉そうにっ!!」

 

 ウリエルの言葉はヴィラクスの逆鱗に触れた。

 なにが『神に愛はない』だ。確かにウリエルはデックスの一人であり、宗教思想には深い知識はあるだろう。その言い分にも一理はあるに違いない。それはヴィラクスでも内心は認めている。

 

 そうだとしても、お子様でありニャルラトホテプ様の理解に遠いウリエルが口にすることか——。その感情がヴィラクスの中で揺らぎ高ぶる。まさしく火に油を注いだ言わんばかりに強く。

 

「ニャルラトホテプ様は私を愛しているっ! だからこそ『魔導書』を預け、私に力を振るうことを許してくれているっ! これを愛じゃないと否定するんですかっ!」

 

『その否定を肯定しよう。僕は君以上にニャルラトホテプと一緒だったから分かる。アイツには『何もない』——。アイツの本質は、デックスの皆が抱えるコンプレックスの塊のように『何もない』んだ』

 

 侮辱するな。たかが天使の名を持った人間如きが矮小な価値観でニャルラトホテプ様を知った気になるな。

 ヴィラクスの魔力が夥しいほどにドス黒い瘴気が混ざり合う。暗闇の世界であるのに関わらず、その『黒』こそが輝いてると言わんばかりに非常に濃い魔力が形成される。

 

「ニャルラトホテプ様を……その程度で知った風な口を……!」

 

『じゃあ、やろうか。全部を込めて。僕の理解と、君の思い。どちらかがよりニャルラトホテプを重んじているか』

 

 ウリエルは挑発する。ここを逃せば勝機がないと確信して。

 

 その挑発に何の意味があるのか。ヴィラクスは思考の片隅で疑問に思う。

 今の今まで防戦一方。こちらにかすり傷を負わすどころか、攻撃さえままならない一方的も一方的だ。勝機なんてあるわけがない。

 

 しかしウリエルは無謀な策を用意するほどの愚者ではないこともヴィラクスは知っている。ならば、そこには必ず何かしらの策があるのだ。

 

 だが——ヴィラクスはその挑発に容易く乗った。

 何故なら主人となるニャルラトホテプが言っていた。

 

 

 

 ——『希望を与えられ、それを奪われる……。その絶望へと変わるまでの一瞬が一番楽しいんだ』

 

 

 

 だったら今こそニャルラトホテプ様のお気に召すままに。相手の挑発に乗り、その希望を絶望へと変えてやろう。

 真正面から打ち砕いて、角にして、灰にして、許しを求める余裕も与えずに、私の方がニャルラトホテプ様を重んじていることをその身で証明してやろうと。

 

「——消えなさい。小僧」

 

 ヴィラクスとウリエルの間に極彩色の魔力弾が生成される。輝く黒に入り混じり、大きさも距離も分からないほどに瞬く輝きを繰り返す。さながらそれは趣味の悪いミラーボールでもあり、今のヴィラクスの心境を写す鏡でもあった。

 

 そしてそれは放たれる。土の巨体をすべて押しつぶす魔力弾がウリエルへと押し寄せてくる。

 相も変わらずにウリエルは防御体制を崩さずに魔力弾を真正面から受け止めた。特に何かの策を講じることもなく、純粋な力勝負でヴィラクスの魔力を受け止めた。受け止めてしまった。

 

 

 

 結果は火を見るよりも明らかだ。どうあがいてもウリエルが勝つことはない。現に受け止めた側から巨体は手から崩れ落ち、即座に再生してまた崩れ落ちるの繰り返し。

 

 こんなの時間の無駄だ。ただ消耗するだけの無意味な時間。

 それが少年の最後になる。デックスと呼ばれる身としては呆気なく、情けない最後になる。何かを成すこともなく少年の命は尽きる。

 

 

 

 ——刹那、ヴィラクスの中で記憶がチラついた。

 

 

 

 ——自分にとって本当に『尊い』と思える物はなんだったか。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「こちらSID第1部隊長エミリオ! サモントン上空に降下中!」

 

 世界は変わり、サモントンにて。

『時空位相波動』の境界がなくなったことで、エミリオ達を筆頭としたSID所属の魔女が上空にてパラシュートを展開して降下をしている。

 

 高さは実に200m——。

 この高さならまだ『ドール』の攻撃は届くことはないが、既にこちらに狙いを定めて『ドール』は地上にて撒き餌を待つ魚のように固まっている。

 

 このままでは死を待つのに——。

 だがそんなことは想定内だ。エミリオは通信機に「お願い」と合図を送ると、流星のようにサモントンの空を裂く赤い閃光が地上に降り立った。

 

 

 

 ——それは血の伯爵夫人『レッドアラート』に他ならない。

 

 

 

 レッドアラート特有の超高速軌道による突貫攻撃が『ドール』を一瞬にして数十体も一撃で切り裂いた。

 胴体が上と下で綺麗に分かれるが、そのままでは『ドール』は無力化されることはない。

 

 

 

 だが、それさえも解決してるからこその『対魔女兵器』なのだ。

 

 

 

 レッドアラートの武装は『ニュークリアス』——。

 切り裂いた相手を炉心溶融の要領で溶かす『一撃必殺の刃』——。

 

 切り裂かれた『ドール』は瞬時に溶解して、その身を蒸発させた。一撃で確実に抹殺できるということは、一体一体に費やす時間も最小限かつ最高効率という意味を持ち、エミリオがいるところだけでも百体といる『ドール』が瞬く間に蒸発したのだ。

 

 その時間はわずか10秒——。

 秒速10体の必殺は、エミリオ達の呼吸を一瞬止めるほどに驚愕だった。

 

「…………ひゅ〜〜♪ 敵としても恐ろしいのに、味方になるとそれ以上に頼もしいなんてね……」

 

「あぁ……。しかもレッドアラートはどこまでも『兵器』だ。『魔女』と違って『人間』じゃない……」

 

 ヴィラの言葉にはどんな意味があるか。

 それは視界に映る『ドール』の挙動が全てを物語っていた。

 

 すべての『ドール』が目前に迫るレッドアラートなんて気にも止めず、さらには抵抗もすることなく隙だらけで斬殺されているのだ。まるで最初からレッドアラートなんか存在しないかのように無防備に。

 

 それもそのはず。『ドール』の基本行動は『人間を襲う』という単純明快なものだ。

 単純故に人間を襲うためなら例え手足がもげようと、首が取れようとも執念深く行動し続ける。その身が尽き果てる最後の最後まで。

 

 だがそれが同時に弱点となる。逆に言えば『ドール』は『人間以外は襲わない』のだ。

 装甲車、戦闘機、戦艦などはどれも人間が搭乗してるが故に『ドール』が機敏に反応して襲撃してために効果が薄いが、完全自律AIによる操作であれば『ドール』がそれらに反応することはない。

 

 威風堂々と、真正面から、無防備に、無警戒に、不意打ちするという矛盾の塊が成立するのだ。

 それは戦場において必勝中の必勝であり、それが実現されてしまえば『ドール』如きではレッドアラートを止めることはできない。例え何十万体いたとしても。

 

 

 

 ——仮にレッドアラートを止められるとすれば。

 

 

 

『エミリオ! 300m先より『コード:A』が接近中! 直ちに迎撃準備に移れ!』

 

「コード:A……ということは『鳥』ね!」

 

 それはハインリッヒ達が『シャンタク鳥』と呼ぶ存在だ。

 レッドアラートの上から鳥が爪を立てて襲いかかる。あの鉤爪はマトモに食らえば鋼鉄さえも引き裂く得物だ。レッドアラートだって別に防御面は秀でた性能があるわけではない。攻撃対象になるというのなら、耐熱耐性以外はそんじゃそこらの鉄の塊と大差ない防御力では数撃で機能停止してしまう。

 

「まあ、今こそ私の能力よね!」

 

 エミリオは予め深く傷をつけておいた前腕部を大きく振るい、その傷口から血を散弾のように放つ。血は身体を離れた瞬間に『硬質化』し、鋭利な氷柱のような形状となって『シャンタク鳥』の翼を傷つけ、その眼球へと深々と突き刺さった。

 

 

 

 エミリオお得意の能力『血の硬質化』だ。そしてその後には当然——。

 

 

 

「バ〜〜イ♪」

 

 

 

 ——『血の蒸発』が行われる。

 

 

 

『——■■■■■■■!!!!』

 

 鳥は耳を壊しかねない悲鳴をあげ、眼球と共に翼が焼き解けて地上に落下していった。

 地上の敵はレッドアラートが請け負い、空中の敵はエミリオが排除する。両者ともに戦闘面において抜群の汎用性を持つからこそできるコンビネーション。

 

「うっし! どうよ、お姉さんの十得ナイフも顔負けの利便性!」

 

 ドヤ顔でエミリオはさらなる同行者であるギンへと向けて告げる。

 ギンは冷静に「後続があるかもしれん。警戒を怠るな」と指摘して戦場の様子を以前として伺い続ける。

 

 やがてレッドアラートは『ドール』の掃討作業を終えて、次なる標的を求めてサモントンの空へと帰っていった。そして再びまた別の地方へと流星となって駆け巡る。

 

 そしてその閃光は一つではない。

 マサダブルクから合計10機のレッドアラートと、その補助端末である『ブルートゥース』も100機という群体が、レッドアラートの後を追って各地へと散開していった。

 

「頼りになりすぎ……」

 

『これで一つ貸しだからな、エミリオ。本国に戻ったらプロパカンダの一環くらいは助力してもらうぞ』

 

「はいはい……」

 

 無線越しから聞こえるパトリオットの声にエミリオは適当に相槌を入れながら、パラシュートを閉じてサモントンの大地へと足をつけた。

 周囲を改めて警戒するが、今この場において残存する『ドール』はいない。見事にレッドアラートが全滅させてくれたからだ。

 

 この場にいるのはエミリオ、ヴィラ、ギン——。

 

 

 

「——よし。ここからは私の出番だ」

 

 

 

 そしてミカエルの四人だ——。

 

 サモントンの大地に『天使長』であるミカエルが降り立つ。

 その手には炎が固定化されたように赤く熱を帯びた剣が握られており、一閃を振るうと空間を焼き焦がすような魔力が世界を蝕んだ。

 

 

 

「いくぞ——。『パーペチュアル・フレイム』——」

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 ——暗闇の世界の只中。魔力で彩られた景色が収束する。

 

 結果として、ウリエルはヴィラクスの魔力に耐えることはできなかった。

 巨体は木っ端微塵に消え去り、残された魔力に炙られたウリエルらしき『焼き焦げた頭部だけ』が落下してくる。首から下は炭になって朽ちていく。暗闇の世界に溶けて消える。

 

 もう助けようがない——。

 それはこの場にいる誰もが刹那で理解した。

 

「ははっ……バーカッ! アーホッ!! 私の……わたしの……っ!!」

 

 ウリエルの惨状を見て、ヴィラクスは高笑いながら見下ろす。

 

 しかしその頬には涙が流れていた。ヴィラクス自身でも分からない涙の理由。その涙を認識し、理由を考えようとした時、ヴィラクスの脳裏に鋭利な物が突き刺さったような衝撃が襲った。

 

「いたい……っ!! 頭痛がする……っ!! 心も痛い……っ!! なんでっ!!?」

 

『——君の魔力が尽きたからさ』

 

 その時、声が響いた。それはヴィラクスがよく知るウリエルの声に間違いない。

 

 いったい何故。いったい何処から。

 その疑問はすぐに解消された。もう発声器官さえなく、口を開けることもままならない『焼き焦げた頭部』が声を発したのだ。

 

『だから——今なら、今だけなら届くっ!! この瞬間を……レンッ!! 今がチャンスだ、走れッ!!』

 

「おうっ!!」

 

 それはウリエルが既に『ゴーレム』だからこそできた合図。ゴーレムだからこそ、そのような状態でも声を出すことができる。

 ウリエルの言葉にレンは待っていたかのように前に出て、ヴィラクスへと距離を詰めていく。横軸までの距離に関しては十数メートルとすぐに詰めることができる。

 

 そして縦軸の問題は——木っ端微塵となって小さな『山』として積み重なった土の残滓が解決していた。

 最低限の足の踏み場だけを用意して、階段状に土は積んであり、駆け上がるだけで上空に浮かぶヴィラクスを捉えることができる。

 

「目標はっ!?」

 

『『魔導書』本体っ!! 君の能力なら、ヴィラクスとニャルラトホテプの繋がりを断つことができる!! ハインリッヒが『守護者』から解放されたようにっ!!』

 

「わかった!!」

 

 レンは山を登り、確実にヴィラクスへと距離を詰めていく。

 ウリエルの宣言通り、ヴィラクスの懐へと飛び込んでいき、あと数歩のところまで迫る。

 

 だが、それを許すヴィラクスではない。

 迎撃手段はない。魔力が尽きているし、ヴィラクス自身に護身術などは身に付けていないし、仮にあっても地に足がつかない空中では役に立ちはしない。

 

 今は逆に空中にいることがヴィラクスの自由を奪っていた。

 ならば少しでも魔力を補充する時間を稼ぐために、翼を広げて飛翔すればいいだけのこと。

 

 そう思ってヴィラクスは翼を羽ばたかせようとしたが——。

 

 

 

「なっ……動けないっ!? 私の翼が、これ以上昇らない……!! むしろ……」

 

 

 

 ——むしろ落ちている。

 ヴィラクスの翼はボロボロに朽ちて、ほんの少しずつ降下を始めて空中で身動きをすることができないのだ。

 

 

 

『木っ端微塵になった土は君の翼に取り憑いた。その土は魔力と血を練り込んだ特別に重い土……飛行はもう許さないっ!』

 

「なら振り払えば……!」

 

『その魔力がないだろう。そして魔力を補充する頃には——』

 

 ヴィラクスの眼前にレンが迫る——。

 時すでに遅し——。ヴィラクスが戦況を有利に進めていた要因である『制空権』はもうない。

 

 

 

「もらったぁぁああああああ!!」

 

 レンはヴィラクスの『魔導書』に触れた——。

 途端、レンは感じ取った。ヴィラクスと『魔導書』の間に、『魂』を縫い尽くす禍々しい繋がりをあることを。

 

 

 

 ——これを断つ!

 

 

 

 目に見えない『繋がり』をレンは引き裂く。

『天国の門』でソヤの手を取ったように、今度はその繋がりを引き抜くために強引にヴィラクスから『魔導書』を奪いとった————。

 

 

 

「——あっ……。ああっ……!」

 

 

 

 ヴィラクスはその翼を完全に消滅させて堕ちた。

 それは——ヴィラクスを『魔導書』から解放したことを意味し、同時に戦いの決着を意味していた。



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第17節 〜獣とケモノ、化物の爪〜

 意識をなくして自由落下するヴィラクスを俺は受け止めたが、慣れていなこともあってズッコケてバランスを崩してしまった。幸いにも怪我はないし、ヴィラクスも無事だから良かったが……問題はそこじゃない。

 

 俺はヴィラクスの安静を確認すると静かに地面に横にして、今回の功労者である人物へと歩んで行った。

 

「ウリエル……」

 

 そこには頭部だけとなり、焼け焦げたことで元の肌色も消え、髪も全部焼き払われた少年の亡骸があった。

 本人が口にした通り『ゴーレム』ということもあってか、首筋からは血は出てないし、呼吸はまだ続いている。特殊なマネキンのようだと思えば特別怖いと思うこともない。

 だけどもう少しでその命は終わる。こんな寂しい暗闇の世界で少年の命は尽きようとしている。

 

 ……自分でも残酷なことだが、ウリエルがこうなっても、そこまで傷ついていないのが少々悲しかった。

 それだけ人の死を見慣れてしまったからか、あるいはニャルラトホテプの先入観があるからか、単純に知人としての関わりが少なかったからか。

 

『レン……。『魔導書』の支配も魔力もすべて放出させた。じきにこの空間は消え去り、君とヴィラクスは元の世界に戻れる……』

 

 何も言うことができない。彼自身のことを俺は何も知らない。

 

『……一つ言っておくよ。ニャルラトホテプは一筋縄じゃいかないし、諦めも性根も悪い。一度逃したら、それは新しい戦いの……新しい犠牲者が出るってことだ』

 

 だから俺は聞き続けることしかできない。

 少年の遺言になる言葉を、一言一句忘れないために。

 

『もうヴィラクスみたいな犠牲者はごめんだ。必ず……今ここで、ニャルラトホテプを倒すんだ』

 

「……言われなくてもやるよ。俺だって負けっぱなしは嫌だから」

 

 ウリエルは輝きを失いつつある目で、聞こえたのか怪しい態度で『そうか』と呟きながら一生懸命何かを探すように視線を泳がす。

 その意味に俺は瞬時に気づいて、ウリエルの頭部を持ち上げて「どこに運ぶ?」と質問した。

 

『……ヴィラクスの顔を見せてくれないか』

 

 迷うことなく無言で頷いて、軽すぎるウリエルの頭を眠るヴィラクスの横へと置いた。

 今までのことなんて何も知らないと言わんばかりに安らかに眠る横顔。そんなヴィラクスを見て、ウリエルは撫でるような優しい声で呟いた。

 

『……ありがとう。それしか言えないけど、本当にありがとう。君に会えて楽しかった————』

 

 そこでウリエルは力尽き、骨も残さずに砂塵となって暗黒の世界に溶けて消えていった。余韻などなく、ただ最初から何もなかったかのように寂しそうにひっそりと。

 

 暗黒の世界に閃光が裂く。それはもうすぐここから出られる前兆だ。世界に日々が入り、少しずつサモントンの空が映写機のように薄く見え始める。

 

 俺はヴィラクスを抱えて、今か今かと待ち侘びる。

 ウリエルの想いも背負って……あのニャルラトホテプを倒すために。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「——ちぃっ! ヴィラクスの奴、ヘマしやがって……!」

 

 上空を覆っていた『裂け目』が砕け散って消える。

 同時にニャルラホトテプは感じた。自分に繋がる物が二つ切れたことを。一つは『魔導書』を通したヴィラクスとの契約。もう一つは取り込んでいたはずのレンの束縛だ。

 

「……あの女、口だけの役立たずか。従者というくせに情けないやつだ」

 

 それはニャルラトホテプの目的が崩壊したことを意味していた。流石のニャルラトホテプもこの事態には笑みは崩さずとも、その奥にある余裕が薄らいでいく。

 

「——ッ!」

 

 その絶好の隙を見過ごすやつは一人もいない。

 戦闘中に掛け声なんて無粋とばかりに、異形のラファエルこと『ルクストゥール』と名乗る存在はその両手にある『見覚えのない武器』を、心ここに在らずなニャルラトホテプの頭部へと叩きつけた。

 

 武器の形状は円形。中央を丸々とくり抜いた金属にも近い円盤の縁には研ぎ澄まされた『刃』があり、それら金属部分はまるで蛍のように『緑色』の光を粒子と共に解き放っていた。

 

 その武器は一見すれば古代インド神話に出てくる『チャクラム』に見えるが実は違う。正確には『乾坤圏』と呼ばれ、前者と違って斬るのではなく殴るための武装だ。時代を遡れば、古代中国に伝わる武神・哪吒太子が使用していたと言われる物だ。

 その破壊力は下手に槌や剣を振り回すよりも高く、仮にもレンの顔をしたニャルラトホテプは車両のタイヤに潰されたかのように頬の骨が血塗れに砕けて歪む。

 

「不器用なダンスだろうと、精々自分の足は踏むなよ」

 

 ルクストゥールはさらに『流れる』ように間合いを詰め、『舞う』ような動作でニャルラトホテプを腹部、腕部、胸部、頭部と全ての箇所を念入りに追撃をしていく。回避など間に合うはずもなく、順繰りに骨と皮膚を削いでニャルラトホテプの本性が露わになっていく。

 

 身体の奥、あるいは瞳の奥に潜むのは『混沌』だった。重力よりも強く惹かれる底無しの混沌。一眼見ただけで、この世の真理を垣間見させる全ての事象を孕んだ混沌は常人であれば一瞬で狂ってしまうほどに冒涜的な姿であった。

 

 だがニャルラトホテプも一方的に嬲られるままではない。

 隙を見て反撃をするがそれは無駄となる。何故かルクストゥールの身体は蜃気楼のように『幻』となって攻撃をすり抜けしまい、そのまま反撃の反撃を無防備にニャルラトホテプは受けてしまうからだ。

 

 今度の一撃は顔を深々と変形させ、その勢いのまま地面へと熱烈な口づけをして地面へと倒れ伏した。

 見た目だけならもう動くどころか呼吸さえままならないほどに傷だらけ。だが、これで終わらないのが『外宇宙の生命体』だ。ルクストゥールは油断などせずに間合いを詰め、その手にある武器を突きつけた。

 

「これで終わりか? お前にしては弱いな」

 

「ふふっ……はは……」

 

 ルクストゥールの見え見えの挑発——。

 それをニャルラトホテプは笑って受け止めた。

 

「あははははははは!! 強い強い! 実に強い! 困るほど強い!」

 

 もうレンの姿など無駄だと言う様に、ニャルラトホテプは自身の身体を変化させていく。身体は膨らみ、少女から青年へ。青年から大男へ。そして3m超えの巨人へと変化させる。

 

「失敗した俺と違って、お前は見事に溶け合ってるなぁ! 真体が持つ力の一割近くは出てるんじゃないか! さぞかしお前の力はラファエルと馴染んでいるよ!」

 

「…………何が言いたい」

 

「別にぃ〜〜? ただ『人間』にとって俺たち生命体の『情報』は劇薬中の劇薬だ。宿すだけで身体で毒となって侵し続け、使えば加速的に蝕まれて人ならざる化物になるしかない」

 

 変貌は少しずつ終えていく。今度は髪の一本一本が触手となって蠢き、身体は人型ながらも漫画に出る様な上半身が太く、下半身が細いというアンバランスさ。代わりに足先は小さな触手が何本も蠢き、それd身体のバランスを支えてる様に見える。

 

「いやぁ〜〜、ラファエルとしての部分はどれくらい残ってるのかねぇ? 従者をそんな雑に扱うなんて、ニャル様も不憫で涙が出てくるぅ〜〜」

 

「……ヴィラクスを使い潰したお前には関係ないだろ」

 

「ああ、関係ないな。どうでもいい。あの穀潰しの女も、その唐変木な女なんて心底な」

 

「だが問題はお前自身だ」とニャルラトホテプは未だ変貌を追えず、小枝の様にか細い指をルクストゥールに向けた。

 

「なぜ俺の邪魔をする? 俺とお前は同じ生命体だろう? 手段は違えど我らの目的は同じ『異星の侵略』だ。味方になることなくても、わざわざ敵対する理由にはならないだろう」

 

「あのセラエノだって、中立維持なんだからな」とニャルラトホテプはケタケタと笑うと、ルクストゥールは身体の元であるラファエルのことなを代弁するように「その下衆な笑いはやめろ」と一喝して話を続ける。

 

「……今のお前は危険すぎる。異星の侵略といっても、我らはほぼ半永久的に存在できる。だから気長に箸休めの様に地球に干渉しては引いていくのを繰り返していた。『ヨグ=ソトース』だってそうだ。だから悠長に長い歴史をかけて『守護者』を選抜している。焦る必要など塵ほどにもないからな」

 

「はい、お前バカ。いつまでも『物語』が続くなんてのはエゴだよ。物語には始まりがあれば終わりがある。それが当然だろう?」

 

 突然の言い分にルクストゥールは困惑するしかない。

 

 物語が終わる——? いったい何を言っているか。ここは御伽噺のような世界ではない。だからこそ『七年戦争』での怨恨や傷は未だ病まずに舐め合いを続ける。

 それをルクストゥールは知っている。従者であるラファエルの気持ちと記憶を薄らながらも理解しているから。だからニャルラトホテプの言葉、同じ生命体だとしても理解し難いものであった。

 

 その雰囲気をニャルラトホテプは察し、心底呆れたような仕草でやけに重苦しくも言葉だけは飄々として言った。

 

「鈍いなぁ。平和ボケも大概にしとけ? 要は『もう長くない』んだよ。人間にとっては500年ぐらい先の他人事でも、俺たちにはあまりにも短い。しかもその時間は外的要因でいくらでも短くなる。それほどまでに『あの方』の覚醒は近いんだ」

 

「あの方……?」

 

 ルクストゥールに一瞬で脳裏にある情報がよぎった。だが、それは即座に否定する。

 馬鹿な——。あれは外宇宙の存在でも存在するかどうか怪しまれてる存在だ。だけど同時にニャルラトホテプ並みの格の高い生命体が『あの方』と呼ぶ以上、その可能性があることも否定できない。だというのに、ニャルラトホテプはルクストゥールの思考を察して静かに頷いた。

 

 

 

「ああ——。『万物の王』、『神々の始祖』、または『魔王』と呼ばれる真なる意味で我ら生命体の頂点のことだ」

 

 

 

 ——ニャルラトホテプはアッサリと認めた。その存在を象徴とする単語を並べて。

 

 ありえない。ありえてはいけない。

 あの存在が——『魔王』と呼ばれる存在が覚醒するなんてあってはいけない。

 

 何故ならそれは——。

 

 

 

「しかし、この『覚醒』には一つの欠落がある。どういうわけか『あの方』の断片が一人の生命体に付与されていたんだ。それもごく普通の地球人になぁ」

 

 ルクストゥールの心境なんて知ってか知らずか、悠長にニャルラトホテプは話続ける。当の本人が口にした『あの方』の『覚醒』なんて他人事だと言わんばかりにマイペースにだ。

 

「それじゃあ、いざという時に困る。不完全な『覚醒』のせいで不確定要素が混じり合ったら、世界は終わるよりも悲惨なことになりかねない。だからこうして『覚醒』を完全なるものとするために、わざわざ色々と用意したってのよ……」

 

 しかし思考をいくら毒されてもルクストゥールは聞き逃しはしない。ニャルラトホテプが漏らしたある情報を。

 

 地球の——ある一人の生命体に宿ったという。それもごく普通の地球人に。

 そんな人物がいるというのなら『魔女』よりも『魔女』に相応しい力に持ってるに違いない。それこそ代替のない、この世界における非常に有用な人物として組織に保護されるほどに。

 

 

 

 そんな人物なんて——。

 ニャルラトホテプが『乗っ取ろう』とした経緯も含めれば一人しかいない。

 

 

 

「ああ、お察しの通りさ。レンはそれぐらい価値があるんだよ」

 

 

 

「なぁ」とニャルラトホテプが振り返り——。

 

 

 

「どう思う。元ご本人様?」

 

「あいつが……ニャルラトホテプか」

 

「間違いない。ゲロ以下のゲロ。それがニャルラトホテプだ」

 

 背後に立つ『アレン』と『セラエノ』へと視線を合わせた。

 

「おやおや。セラエノにしてはいい顔をしてるじゃあないか。仏頂面の不細工が、嫌悪に満ちた美人さんに早変わりだ」

 

「口を塞げ。流石の私もお前相手にこれ以上中立を示すのは難しい。そこにいる『ハスター』の息子……ルクストゥールのようにな」

 

 いつもは基本的に無表情なセラエノでさえ眉間に皺を寄せて、ゴミ捨て場から漂うゴミを一瞥するような態度でニャルラトホテプを睨みつける。

 

 それはニャルラトホテプにとって好ましいことだったのだろう。ケタケタと壊れたカラクリ人形のような音を上げて上機嫌に笑う。

 それがセラエノにとってはより不愉快だったのだろう。彼女の純粋無垢な瞳に似つかわしくない舌打ちをすると、これまた似つかわしくドスの効いた声で言う。

 

「今すぐ手を引け。そうなれば私もルクストゥールも、他の同胞もお前に敵対することはない」

 

「さっきの話聞いてたろ? お前は地獄耳の上に物事に敏感だからなぁ。そんな悠長な時間なんてどこにもないんだよ」

 

「それに」とニャルラトホテプは一息置いて告げる。

 

「それはお前自身がよく知ってることだろう、セラエノ」

 

 その意味をセラエノは瞬時に理解した。ニャルラトホテプが何が言いたいかを。それはセラエノの手にある『断章』であることを。

 

「『断章』の情報がなくなったことは知っている。俺だって度肝を抜かれたからな。それに……アレンくんも聞いてはいるだろう?」

 

「……何のことだ?」

 

「断章が未来を見えなくなったこと。けど、それと同時に不可解なことも起きたろう。未来が見えなくなったと同時に、未来予知ができる『ある少女』が不幸な目にあったこと」

 

「……何が言いたい」

 

「可愛い可愛いスクルドちゃんのこと〜〜♪ 綺麗に死んで……本当つまらない」

 

 その言い分でアレンは直感した。

 ニューモリダスで起きたエクスロッド暗殺計画。レッドアラートの奇襲は退けたが、ヤコブが『イスラフィール』を利用した直接的な殺害は食い止めることができずにスクルドは命を落とした。

 

 その時、ヤコブが話していた内容をアレンはイナーラを通して知っている。

 色々事情が混み合っていたが、簡単に言えばヤコブがエクスロッド暗殺計画を企てたのはニューモリダス政府の政治家から取引があったからだ。それを成功すれば、マサダでの地位が落ちて居場所を無くしたヤコブを『トリニティ教会』の神父としてニューモリダスに匿うことを約束して。

 

 つまりヤコブは自主的に暗殺計画企てたわけではない。政治家から唆されて実行したということになり、首謀者はその『政治家』ということになる。

 

 ならば、その首謀者となる政治家が『誰か』という疑問は当然湧く。

 

 もしも、その『誰か』がいるとすれば——。

 レッドアラートでニューモリダスの一部を破壊させ、ヤコブを唆し、スクルドを殺すという『誰も得をしない』結果で終わった中で『得をする者』がいるとすれば——。

 

 今、サモントンが『ドール』によって破壊され、ウリエルを唆し、レンを取り込んで目的を成すという『似たような状況』で『得をする人物』がいるのは——。

 

「まさか…………。あの『暗殺計画』に関与したニューモリダスの政治家ってのは……!!?」

 

「大正解。けどどうでもいいだろう、そんな過去のこと。水に流せよ、罪を許すのが人間の美徳なんだろ〜〜?」

 

「————ッ!!」

 

 自分から振っておいて、自分で許せとはどの口が言っているのか。

 あまりにも身勝手な理屈と態度に、思わずアレンはディクタートルの刀身を再生させて叩き斬ろうと間合いを詰めた。

 

 その詰め方の速度はギンの『抜刀術』に劣らないほどだ——。

 しかし、それでもニャルラトホテプは鼻歌を歌うように緩やかに身を捻って交わした。同時に人間が受けるには単純に質量が大きい触手の塊を用いた『殴打』をアレンは受け、血反吐を吐きながら一気にセラエノの後方へと吹き飛んだ。

 

 だが、アレンだって戦闘には慣れている。即座に身を翻して着地をした。当たりどころも調整していたから致命傷はない。多少血が出ただけで、アレンは無事である。

 

 しかし、それでもダメージはダメージだし、同時に今の立ち合いだけでアレンは理解した。

 

 

 

 ——まだまだ本気じゃない。底が知れない。

 ——レンが来ないと、打倒することができないと。

 

 

 

「おおっと、怖い怖い。それに三体一の状況……その内二人が俺と同じ生命体となるとちと分が悪い。ここは切り札を出すとしよう」

 

 そういうとニャルラトホテプの身体はより膨らみ、背中から蛹が割れる様に裂けていく。

 蛹が割れれば、蝶が出る。それが当然のように、ニャルラトホテプの身体から何かが這い出てきた。

 

 それは『化け物』だった。

 全長はまだ伺えない。1m、2m……徐々に高さを増していき、最終的には3mに達する巨体を晒してルクストゥールの前に立ちはだかった。

 

 同時にニャルラトホテプの変貌もようやく終わり、その真なる姿を顕現させる。

 

 それは何とも形容し難い姿見だった。一言で言えば『モンスター』だ。

 恐ろしく巨大で、かぎ爪のついた手のような器官。顔は表情がない代わりに、赤い血の色をした長い触手が犇いて獲物を狩ろうと待ち侘びている。

 特徴的な部分はまだ続く。身体全体は黒色に染まっていて、自分より何倍も大きい翼を翻す。翼は一つ羽ばたくだけで、鎌鼬のような鋭い突風を発生させて、その場にいるすべての生命という生命を傷つけた。それは植物さえも例外ではない。

 

 そして顔部分に当たる触手の根本——。

 不自然に空洞となっているその部分からは、光さえも喰らい尽くす禍々しい『赤い一つ目』が浮き出てきた。鮮血よりも真っ赤で、宇宙よりも真っ暗な悍ましい瞳がアレンを捉えたのだ。

 

 

 

「さあ、地球を賭けたチャンバラだ。俺はアレンとセラエノを。ルクストゥール、お前の相手はコイツがしてやる」

 

 

 

 ルクストゥールの前に立ちはだかった巨体もようやく形状を整えて顕現する。

 

 それは緑の衣を纏い、コウモリの翼を持った人型の異形だ。身長はさらに増して4m以上。もしかしたら5mにも達しているかもしれない。硫酸で溶けたように爛れて離れた目は、僅かにだが意思があり、自身の衣の中にある『何か』へと意識を向けている。

 

 その『何か』とは赤子が乳を吸うように張り付く異形に向けた物だった。その異形は『顔のないもの』と形容したくなるほどショッキングで黒い不恰好な怪物であり、大きさとしては成人男性ぐらいだ。それは今この瞬間に誕生してるんじゃないかと疑うほどに、どこからともなく『無数』に溢れ出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「我が可愛い娘——。『イブ=ツトゥル』がな」



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第18節 〜なおも剣風吹き荒ぶ〜

 戦局は二つに分類された。

 

 かたやニャルラトホテプと相対するアレンとセラエノ。

 かたや『イブ=ツトゥル』と呼ばれる異形に相対するルクストゥール。

 

 その内、後者の戦いはこの世のものとは思えない魑魅魍魎、百鬼夜行と言わんばかりの地獄が渦巻いていた。

 イブ=ツトゥルの身体に纏わりつく悪鬼。それらが無尽蔵な数でルクストゥールへと襲いかかっていた。いくら巨体とはいえ悪鬼の数は大きさ1m超えており、多くても5体が身体につくのが限度なはず。だというのに悪鬼の数は合計『50体』は超えている。どこからともなく蝙蝠の翼から、それこそ亜空間という意味べき『無』から飛び出すように悪鬼は続々とルクストゥールへと作戦などない物量任せで攻め立てる。

 

 しかしルクストゥールだってただ嬲られるわけがない。ラファエルが持つ『風の魔法』と自身が依代とする『剛合翠晶』の魔力を持って迎撃に当たる。

 

 魔力を収束し、ルクストゥールの事情に小さな『光』にも見える球体らしき物が出現した。それは不安定に形状を揺らめかせ、無理矢理にでも存在を維持しようと自身が台風の目のようになって『風』を集まる。

 

 一見すれば何でもない攻撃。だというのに変化は如実に起きた。

 空を飛ぶ悪鬼共が一斉にバランスを崩し、風の球体へと吸い込まれていくのだ。吸い込まれた瞬間にはミキサーの刃に触れたように細切れのバラバラにされて『ドール』のように塵となって消えていく。

 

 何故そのようなことが起きるのか——。それはごく簡単な現象の話でしかない。

 

 ルクストゥールは『真空』の自身の魔法で生み出したのだ。

 翼で飛ぶ原理は気圧差とか細かい部分があるが、要するに『空気』があるかないか。『真空』を形成する際の空気を圧縮して飛翔に必要な『空気』をすべて奪い取り、むしろそれでも飛び続けようと模索する愚者に裁きを与える。

 

 だが——そんなのはルクストゥールが真に行う攻撃の前段階でしかない。

 『真空』を作るのは過程でしかないのだ。生み出した『真空状態』は大気圧の差による粒子や電磁波の動きを大気中で発生する。

 俗に言う『真空プラズマ』あるいは『大気圧プラズマ』というやつだ。世界が『固体』『液体』『気体』という物質が渦巻く中、存在する第4の物質形態。

 

 発生した『プラズマ』は規模にもよるが非常に強力なエネルギーとなる。用途としては色々あるが、日常的に見られるのはその存在が認知されるようになった『クラックス管』を用いた『蛍光灯』の発光現象が最も目にしやすいプラズマのあり方だろう。

 

 だが使用用途はまだある。その内の一つに『プラズマ加速』という物がある。こちらは聞き覚えがないかもしれないが、用途としては医療現場における『放射線療法』という物で使われる。だがフィクションにおいてはもっと聞き覚えのある現象を生み出す機構でもある。

 

 

 

 ——それは『レーザー』や『ビーム』という、粒子を用いた『熱線』を生み出すのだ。

 

 

 

 風を生み出す『核』と言えるような部分から、赤白い閃光がイブ=ツトゥルの胴体を瞬きよりも早く貫いた。

『プラズマ加速』はあくまで機構でしかない。銃でいうところの銃身でしかなく『銃弾』がなければレーザーやビームという現象すら発生しないが、そこは魔力が生み出される不可思議現象。

 

 ルクストゥールは今、太陽光を利用してイブ=ツトゥルを攻撃した。収束して、ある種の質量を帯びた太陽光の熱線を肌身に浴びれば只事で済みはしない。なにせそれは紫外線の塊なのだから。たった一撃浴びるだけで、生成する細胞を焼却させる撃滅の閃光となる。

 

 イブ=ツトゥルは地響きにも似た悲鳴らしき声をあげて痛みに苦しむ。その痛みから逃れるようにのたうち回り、身体中に張り付いていた悪鬼もイブ=ツトゥルの質量に圧死する。

 

 しかし、それでイブ=ツトゥルを無力化できるわけではない。一方的に嬲られるわけがない。

 ついにイブ=ツトゥル自身が間合いを詰めて来たのだ。ルクストゥールのプラズマ魔法に対抗するために。

 

 そしてそれはルクストゥールにとって非常に都合の悪いことであった。何故ならニャルラトホテプは秘匿されてきた神秘である『ハスター』という存在の息子であるルクストゥールの存在を知りはしなかったが、ルクストゥールは逆にニャルラトホテプの娘であるイブ=ツトゥルについて知っている。

 

 

 

 ——あの手に触れるのだけはマズイ、と。

 

 

 

 しかし理解したところで、巨体が踏み出す一歩の大きさは他者を遥かに凌駕する。さらに言えば動きも決して鈍重ではない。人型として、その体型の平均以上の速さは誇る。

 

 一瞬で間合いを詰めてきた。距離感を正確に把握することもできず、イブ=ツトゥルは友好関係を示すかのように、緩やかにその手を振り下ろし————。

 

 

 

「——ッ!」

 

 

 

 既のところでルクストゥールは身を翻して回避を行なって距離を取る。だが、その手を完全に回避したわけではない。『ある物』を触れられて、それは視界のすぐそばに悍ましい変化が起きていた。

 

 

 

 それは生成した『プラズマ』のことだ——。

 

 生成したプラズマは一度ルクストゥールの手から離れようと霧散することなく固定されている。だから変質することなんて基本的にあり得ない。

 だというのにプラズマはネズミ花火のように光を破裂させて不安定な状態となる。何もない空間のはずなのに、そこにはまるで奈落に続く落とし穴でもあるかのように『光が虚無に落ちていく』のだ。

 

 それこそがイブ=ツトゥルが持つ能力——。

 むしろ無効化もできないのだから『ルール』と言ったほうが正しいだろう。

 

 それは『触れた物を消失させる』という物。

 しかも物理的な物だけでなく、触れさえすれば精神的な物も『消失』させることができる。それは『正気を失う』『記憶を失う』『免疫力を失う』と、その概念にさえ触れさえすれば際限はないほどに。

 

 それが例え『魂』であろうとも——-。

 

 

 

 そしてイブ=ツトゥルの『能力』はもう一つある——。

 

 

 

「——ッ!?」

 

 

 

 閃光によって風穴を開けられたイブ=ツトゥルの肉体から噴き出る『血液』が意思を持ったようにルクストゥールへと接近してきたのだ。その速さはイブ=ツトゥルの何倍も早く、意識した時にはもう遅い。血液は手錠でもするようにルクストゥールの関節部へと纏わりついて拘束したのだ。

 

 

 

 これがイブ=ツトゥル、第二の能力——。

 

 詳細についてはルクストゥールは知らない。ただイブ=ツトゥルの血液は悪鬼と同じような『自意識を持つ生命体』としての側面があるということ。地球において観測された事例があるらしく、一部では『黒き者』や『ザ・ブラック』と呼ぶこともある。

 自律した生命体は主人を傷つけた敵へと纏わりつき、その動きを止めて、やがては息も殺し、その魂を連れ去って行くという行動をとる。それは単純な力で縛るのではなく、概念的な縛りであり、どんなに筋力があろうと魔力があろうと振り払うことはできない。

 

 だが決して血液の生命体は無敵ではない。対策はルクストゥールは知っている。血液を『流水』で流すことができれば、いとも簡単に引き剥がすことが可能なのだ。

 

 しかし、そんなことはニャルラトホテプは対策済みだ。

 だからライフラインが安定しない崩落した環境でイブ=ツトゥルを呼び出したし、『水』の魔法が使えるガブリエルに遠くの地にいることに攻め込んできた。

 

 

 

 故に——今この場においてイブ=ツトゥルに『弱点』はない。

 

 これこそがイブ=ツトゥルの脅威なのだ——。

 

 

 

 血液によって拘束されたルクストゥールは動くことができない。しかしイブ=ツトゥルが動きを止めることは決してない。

 

 容易くイブ=ツトゥルは無防備なルクストゥールへと近づき、まるで『お疲れ様』と言わんばかりに優しく肩を叩いて『何か』を消失させた。

 

 それは二つあった。一つはルクストゥール自身。

 ルクストゥールの自意識が異形と化した○○○○○から離れようとしている。

 

 そしてもう一つが致命的だった。

 消失した。消えさった。この世界から。この宇宙から。『○○○○○・○○○○』という存在が。『○○○○○・○○○○』という概念が。

 

 ルクストゥールの中で痛みにも近い『何か』が消失していく——。

 消失した『何か』が血液の形をした生命が何処かに連れて行く——。

 

 

 

 それは——。

 それは————。

 

 

 

『○○○○○•○○○○』という、もう名前も声も顔もない少女のたった一つの願いだった——。

 

 

 

 いったい、どんな——-?

 

 

 

「——あ——Aa————」

 

 

 

 従者の願いが削がれ、ルクストゥールの存在が安定しない。魔力が暴走して周囲に小型のプラズマが量産されていく。

 

 異形じみてはいるものの、もう『人の形』を保つことができない。

 

 

 

 お願い——。それだけは取らないで——。

 それだけは——それだけは———。

 

 

 

 それって——なんだっけ——?

 

 

 

「aaaaaaaaaaaaaa!!!!!」

 

 

 

 異形の少女は咆哮する。

 自分から抜けとられてしまった『何か』——。

 

 その悲しみは、ルクストゥールの意思さえも入り混じり溶け合い、サモントンを襲う一つの災害となる。

 

 

 

 もう彼女に残る意思はたった一つ。

 それは——素直になれない彼女が歪んだ意識。

 

 かつて彼女が零した言葉だけ。

 

 

 

 ——『ろくでなし』はどこに行こうと『ろくでなし』よ。

 ——泥中で腐らせて肥料にすれば、まだマシなのに。

 

 ——彼らは異案でも果てのない利益と権利を要求し続ける。

 

 ——ああいう役立たずのゴミどもは、全部屠殺所に送ればいいのに。

 

 

 

 

 

 それは『破滅』への願いだけだった——。

 

 

 

 彼女の名は『エメラルド・ラマ』——。

 

 

 

 もう『○○○○○・○○○○』でもルクストゥールでもない。

 ただ溢れる魔力を振るうだけのドール未満の愚者。災害と化した哀れな魔女の成れの果てでしかなかった。

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 一方、その頃ニャルラトホテプとアレン達の戦闘は予期せぬ事態が発生していた。

 

「なんだ、お前……。ただの人間にしちゃおかしい……」

 

 戦況は圧倒的にニャルラトホテプの有利だった。

 アレンはセラエノと連携して、ニャルラトホテプに何としてでも肉薄しようとするが、何もかも届かずに返り討ちにあう。

 

 そう、完膚なきまでに完璧に嬲り返して。骨は当然折れ、むしろ肉体が破裂してもいいほどに何度も何度も強く叩き返して、瓦礫に潰されたというのに。

 

「何故……お前は死なない? 生きてるわけがないのに……」

 

 だというのにアレンは傷つくだけで『人の形』を維持し続けている。額からは致死量さえも超える出血が顔面を真っ赤に染め、筋肉や器官を貫いて皮膚から骨が剥き出しとなっている。

 

 当然ニャルラトホテプが口にした通り生きているはずがない。アンプルとかで痛みをなくすという次元を超えている。

 それなのにアレンが動き続ける。それどころか、一人でに皮膚が骨を飲み込んで少し経てば傷も完治して五体満足となる。同様に頭の出血も収まり、既に血は固まって顔を覆うだけの化粧となっている。

 

 分からない——。あまりにも分からない——。

 ニャルラトホテプの知識を持ってしても全貌を捉えることができない。何がどうして彼は人の形を維持していられるのか。

 

「冒涜の神様でも分からないか? 俺がどういう存在か」

 

「……ああ、分からないな。皆目検討がつかない。けどどうでもいい、つまらないことだ。面倒ごとにいつまでも付き合う気はない」

 

 悍ましいかぎ爪がアレンへと再び襲いかかる。

 何度も何度も深傷を負っても治るというなら、首の骨と背骨を折って、それでも足りないなら触手で身体全てを圧迫して干物みたいに痩せ細らせて行動不能にすればいいだけのこと。

 

 空を飛ぶ蝿を潰すのと大差はない。

 そうニャルラトホテプは考え、必死に時間稼ぎをするアレンを捉えて握り潰そうとすると、手応えを感じる前に一瞬でアレンは消え去った。

 

「……またセラエノの転移魔法か」

 

 それは先ほどから続くセラエノの補助だ。

 セラエノがアレンに分け与えている『断章の結晶』——。それはセラエノと表裏一体であり、セラエノがいる場所には『断章の結晶』があり逆もまた然りという物だ。

 

 これをセラエノは利用して立ち回っている。ニャルラトホテプの攻撃が届きにくい安全圏に避難し、アレンが攻撃されてる時に『断章の結晶』と情報を結合。セラエノ=『断章の結晶』という情報を利用して『断章の結晶』を持つアレンさえも巻き込んでセラエノ=アレンという座標情報を与えて瞬時に転移させる。

 

 つまりは擬似的な『ワープ』だ。セラエノを介した距離不問の移動手段。先ほどまでニャルラトホテプに囚われていたアレンは、何事もなかったようにセラエノの隣で間合いを図っている。

 

 ニャルラトホテプからすれば鬱陶しいことこの上ない。ワープは別に一方通行じゃない。『断章の結晶』がセラエノの位置に移動することもできれば、セラエノが『断章の結晶』の位置に移動することもできる。片方を捉えただけでは瞬時に脱出してしまうのだ。

 

 しかしそれまでだ。ニャルラトホテプにとってセラエノは脅威でもなんでもない。ただそこらの人物より頑丈なだけの存在でしかない。セラエノにはニャルラトホテプに対抗するための術がないからだ。

 

 バイジュウを苦しめた『過負荷情報』の攻撃をセラエノはニャルラトホテプに行うことはできない。

 何せ、セラエノが与えている情報は人間とは別の超常が普遍的に認識している情報に過ぎない。セラエノと同様に超常的な生命体であるニャルラトホテプにとって、セラエノが行う『過負荷情報』は自分が普段認識している情報を与えているだけで何の効果もないのだ。

 

 故にニャルラトホテプにとってセラエノは『瞬間移動』を可能にするだけの存在にしか過ぎない。

 

 ニャルラトホテプからすればアレンもセラエノも面倒なだけで取るに足らない存在。ルクストゥールさえ何とかなれば、自分に対抗できることなどできはしない。

 

 だからニャルラトホテプの本命は『時間稼ぎ』でしかない。一番目障りな存在であるルクストゥールを無力化、あるいは暴走させれば自分に対抗しうる存在など、ニャルラトホテプが把握する限りではギン以外にはいないのだから。

 

 

 

 ——aaaaaaaaaaa!!!

 

 

 

 故にその咆哮を待っていた。ルクストゥールがイブ=ツトゥルによって『消失』され、従者としての魔力だけが暴走する瞬間を待っていたのだ。

 

「この声……ラファエルか!?」

 

「んっん〜〜。ご明察。ルクストゥールは脅威ではあるが、所詮は従者を依代にした紛い物。我らの『真体』さえ出れば、あの程度の相手なんて造作もない」

 

 暴走した異形の少女の声と共にプラズマで生み出された熱線がアレン達がいる場所まで届く。見境なく放たれる熱線は、加減も狙いもなくサモントンの大地を焼き払っていく。それはもちろん樹木の要塞で守られているサモントンの都市も例外でなく、その熱線は樹木の一つを炭にした。

 

 もうルクストゥールは誰の味方でもない——。

 そのことを理解したニャルラトホテプは余裕そうに声を上げて立ち去ろうとする。

 

「さてさて。これで脅威の排除は終了……。後はノンビリ……」

 

「——そこだぁぁぁああああああ!!!」

 

 後方から一閃。ニャルラトホテプの首筋らしき部位に目掛けて鎖に繋がった刃物が襲いかかってくる。鎖同士が擦り合って響く金属音は確実にニャルラトホテプの首筋へと到達した——。

 

 

 

「……と油断するわけねぇだろぉが!!」

 

 

 

 ——というのに、それよりも早く異形の触手が鎖付きの刃物を取り押さえた。あと数センチというところで刃物はニャルラホテプには届かない。

 

 どこの誰かは知らないが無駄だったな、とニャルラトホテプは内心で嘲笑うとした時————。

 

 

 

「な、なんだっ!?」

 

 

 

 捉えた鎖は何故だか増殖を始め、ニャルラトホテプを卍絡めにしようと身体全てに纏わりつこうとする。流石に予想などできなかったようで、なす術もなく四肢を拘束されてその巨体を地面へと倒れ伏した。

 

 しかし、それでも異形となって本性を表しているニャルラトホテプからすれば、その程度の拘束など数秒しか保たない。

 

 

 

 しかし、それだけの時間があれば十分であった。ニャルラトホテプの周囲に見覚えのある障壁が小規模に展開される。範囲としては半径100mほどでしかなく、これでは巨体を活かした触手も十全に振り回すことはできない。

 

 何よりもこの障壁は、少し前までニャルラトホテプが突破しようと画策としていたモリスが保持する『不屈の信仰』によるものだ。彼女が健在である限り、この障壁はどう足掻いても突破することはできない。例えそれがどんなに超常的な存在であろうとも。

 

 

 

「『位階十席』の長として告げる——。サモントンに仇なす者をここで食い止めよっ!!」

 

 

 

 しかし、その障壁が発生すると言うことは当然近くにモリスがいるということ。ニャルラトホテプの前に三人の戦装束を纏った女性が先んじて並び立っていた。

 

 そのうち二人は『位階十席』として共にするモリスとハインリッヒだ。二人は互いに並び立ち、互いに長さの違う金髪を靡かせて己が獲物を構える。まるで一心同体、片方が剣となり、片方が盾となるかのように。

 

 そしてもう一人——。それは長い黒髪を一本の尾として纏めた少女だった。

 両の手に握られる獲物は『鎖鎌』であり、その形状からニャルラホテプは察する。今自分を拘束してるのは彼女の能力、あるいは異質物による物だと。

 

「お前が俺を縛ったわけね……。中々にやるな、名前を聞かせてもらおうか」

 

 ニャルラトホテプの問いに、黒髪の少女は舌打ちでも打ちかねないような面倒臭そうな態度を見せて名乗りをあげる。

 

「私は『アイスティーナ』。『位階十席』の『第五位』だ。それだけ知っていれば十分だろう」

 

 

 

「そして」とアイスティーナの隣に、今にも息が絶えそうなセレサの身体を抱えて誰よりも先頭に立つ中性的な少年が顔を見せる。

 

 髪はどこまでも赤色で、瞳の色は緋色。静かに燃え続けているかのように髪は揺らめき、まるで心に宿る『怒り』や『悲しみ』といったあらゆる感情を爆発させるように少年は告げた。

 

 

 

「私はミカエル・デックス——。ここからは『天使長』の名において、『位階十席』と共にお前の相手になろう」

 

 

 

 そこにはミカエルを筆頭にギン、エミリオ、ヴィラとSIDから派遣された精鋭と、サモントンに元々いたバイジュウ、ソヤがニャルラトホテプの前へと並び立っていた。

 

 

 

 ——それは、レンを除くほぼ全ての戦力が戦場の中心へと辿り着いたことを意味していた。



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第19節 〜この夜が明けることを疑わない〜

 暗黒の世界から解放され、ヴィラクスを抱えながらサモントンの大地に降り立つ。

 

 ……ここはどこだ? 今俺はサモントンのどこにいるんだ?

 

 周囲を見渡すが、ここには見覚えがない。だけど似たような場所は見たことがある。

 整備された庭園。やたら綺麗で巨大な豪邸。この厳重に警備された鉄線や入り組んだ構造といい、恐らくはデックスの別邸の一つだろう。

 

 問題はどこの別邸にいるのか、ということだ。

『時空位相波動』は解除されたから電波妨害はなく健在だが、生憎と手持ちのスマホは今は電源切れ。現実世界だとかなりの日数経っていたらしいから当然と言えるが……。

 

「あっ——。ニャルラトホテプ!!」

 

「へぼっと!!?!?」

 

 なんて考えていたら、聞き覚えのある男の声と共に俺の顔がぶん殴られた。

 全くの無防備状態でのクリーンヒット。きっと今の俺は女の子がしちゃいけないヤバい顔になってると思う。それぐらい渾身の一撃が入った。

 

「思い知ったか。サモントンを貶めた外道が」

 

「痛い……痛いです……ガブリエルさん……」

 

 殴ってきた人物の名はガブリエルだ。その手は血が滲み出るほどに強く握られており、単に彼がどれほど今回の事態を呼び起こしたニャルラトホテプに対する怒りを持っているかを表していた。

 

 ……同時にウリエルと俺がどれほどの危険をみんなに招いたかも。

 それを今更肌身で感じた。それを思えば、これくらいの痛みなんて借金のツケにもならないことだ。

 

 俺は殴られた頬を摩り、欠けた歯を血反吐ともに吐き出して息を整える。この程度の痛みや傷なんて今更だ。いちいち泣き喚くほど子供じゃない。こちとら生理を何度乗り越えたと思ってる。

 

 ……そういえば歯は生え変わるのかな? 前に愛衣は「レンちゃん生まれたての赤ちゃんみたい」とかみたいな言っていたけど……。歯も生まれたてなら永久歯として生え変わるんだろうか。

 

「あれ……? もしかして……レンくん、だったり?」

 

「そうでふ……」

 

 なんて呑気な考えが読まれたのか、ガブリエルは冷や汗をかきながら伺って俺は頷いた。

 そうするとどうだ。一転して空気が気まずくなる。ガブリエルはラファエルみたいに恥を隠すようにツンケンとした態度で明後日の方向を向いて苦笑いをする。

 

「……いやいや、これでもレンくんは見た目は女の子。貴族たる者、謝るのが礼節だ、すまない。前情報でニャルラトホテプがレンくんに化けてると話を聞いていてな……」

 

「いや、それは男女問わず謝ろうね? 一方的に殴られる痛さと怖さを教えられたんだよ?」

 

「はい、ごめんなさい」とガブリエルは一度箱舟基地でモリスに見せたような年相応の謝り方をしてくれる。なんだろう、この絶妙に緩い感じ、久方な気がしてならない。

 

 …………それほどまでに今は切羽詰まってるんだ。それだけ空気が張り詰めていて、どれほどの危機が迫っているかを頭でも理解できる。

 

 早く……早く元凶を絶たないといけない。じゃないとサモントンを救ったとしても、今後も同じような事態が起きるのが目に見えている。

 

 

 

 ——ニャルラトホテプを絶対倒さないといけない。

 

 

 

「それよりもここどこ? みんなと合流しないと……」

 

『そこはデックスの本邸だぞ、レン』

 

「あふっ……」

 

 質問と同時に胸に迸る震えと電流。この超久方ぶりの刺激は……!

 

「マリル!」

 

『久しぶりだな。だが状況は芳しくない。今からズババっと、そしてチャチャっと説明するぞ』

 

「よし。ドドっと来い」

 

 早速マリルから今まで何があったかの詳細を事細かく耳にした。

 

 俺が『魔導書』に閉じ込められ、サモントン強襲が起きてから約2週間近く経過していること。

『時空位相波動』自体が解除されたのは少し前の話であり、やっとSIDの戦力が介入できて、戦局としては終幕に向かっているということ。

 現在SIDの増援とサモントンに在住する『位階十席』の皆がニャルラホテプ達と対峙していることを。

 サモントンには現在レッドアラートが存在しているが、今回に限り味方であるということ。

 

 

 

 ——そしてラファエルが、異形となってしまったことを。

 

 

 

「ああ……私の目の前でな……。『メテオライト』に触れたことでな……」

 

「メテオライト……」

 

「隕石のことだ。君がよく知る『剛和星晶』と『剛積水晶』と同種と言っていい」

 

「あの隕石と同種って……あんなのがまだあるのかよ!?」

 

「ああ。祖父の研究結果に間違いがなく、かつ隕石と属性が相互しあうというなら……あの隕石は『五種類』あるんじゃないかな」

 

 俺にはイマイチ詳細が把握できないが、ともかくそのうちの一種……ガブリエルが説明してくれた『風の神格』が宿った隕石に触れたことでラファエルが異形となってしまったのか。

 

 ……となると、俺が『魔導書』の中で聞こえた声がそれだ。

 

 誰かが俺を呼んだ声がしたけど……恐らくそれはラファエルだ。ラファエルが助けを……いや違う。多分『すべて』だ。ラファエルのすべてが俺の魂に届いたんだ。

 

 しかもマリルの言う通りなら、ラファエルは今暴走状態にあるという。ラファエルを中心にサモントンへとプラズマの熱線を乱れ打ちしていると。

 

 幸い、ラファエルが異形化した際の副作用でサモントンのXK級異質物である『ガーデン・オブ・エデン』が反応して、サモントン中央都市部は天然要塞に囲まれて、避難民は皆その熱線に焼かれることは今のところないらしいが……。いつまでも放っておくわけにはいかない。いずれは天然要塞も焼き切れる可能性は十二分にあるし、現状でもサモントンの土地そのものにダメージを与えるという。

 

 その被害は全体にして5%——。

 些細な数字かもしれないが、食料輸出国であるサモントンにおいて大地が利用できなくなるのは世界に致命傷だ。だからこそマサダブルクもエミリオへの政治的私情を一度置いてレッドアラートを何機も派遣してくれているというのに……。

 

「早く合流しないと! ここから都市部まで何分なの!?」

 

「…………720分だ」

 

「720分ってことは……。12時間っ!?」

 

 そんなの……間に合うわけがないじゃないか!?

 

「マ、マリル! 何か良い案あるよな!?」

 

『……SIDのヘリで回収しても6時間以上はまずかかる。お前が方舟基地から南極に移動したようなことを意図的に起こせるなら話は別だが……』

 

「あんな芸当……そんな都合よくできるわけないだろっ!?」

 

『ああ。だからこれ以上はどうしようも……』

 

 マリルですら容易く打つ手がないと言ってしまうのか。それほどまでに、ここからサモントン都市部までの距離は絶望的に遠いというか。

 

 だったら何とかして……何とかして『因果の狭間』でも何でもいい。そんな亜空間を通じて飛ぶことはできないのか? 俺だったら、あんな空間の一つや二つ、簡単に攻略できるというのに……。

 

 でも……そんな物を発生させる異質物なんて今ここには……!!

 

 

 

「いえ——。まだ手はあります」

 

 

 

 そこでマリルでもガブリエルでも新たな声が届いた。

 それは俺の胸元……よりさらに下。未だに抱き抱えて横になっている人物が漏らした声だ。

 

「ヴィラクス……気が付いていたのか?」

 

「ええ……。うっすらと私がしたことを覚えています……。私が『魔導書』を介してニャルラトホテプ様……じゃなくて、ニャルラトホテプに操られていたことは特に色濃く……」

 

「本当に『位階十席』として不甲斐ないです」とヴィラクスは項垂れる。心の底から隠しきれない後悔を抱えて。

 

「……それを言ったら俺もウリエルも同罪だ。今回の事態が終わったら一緒に償おう」

 

 その言葉にヴィラクスは「ええ。ウリエル様の分まで背負います」と力強く頷き、俺から離れて「今から不躾なこと言います」と割り切った考えを持って話し始める。

 

「……そして信じる信じないはレンさん自身で決めることです。その上で発言を許してください」

 

「いったい何を……?」

 

「——私を、その『魔導書』の所有者に今一度させてください」

 

 

 

 ヴィラクスをもう一度『魔導書』の所有者にする——。

 その発言に、俺の脳裏に嫌な予感が奔った。

 

 

 

「私の『魔導書』には転移魔法があります……。座標さえ教えて頂ければ、残り滓しかない魔力でもそれぐらいはできます。それだけがここから瞬時にサモントン都市部へと移動する唯一の方法です」

 

 

 

 確かにそうすれば、ヴィラクスの言う通りに『魔導書』の転移魔法を使って一気にサモントン都市部に移動することは可能だろう。

 

 だけど、それを聞いて「じゃあ試そうか」と言えるわけがない。何せヴィラクス自身、先ほどまで『魔導書』を介してニャルラトホテプに操られてウリエルと俺に敵対していたのだ。下手に『魔導書』を渡してしまえば、さっきのことをまた起こしてしまうことを警戒するのは当然なのだ。

 

 だからヴィラクスも強く言えない。俺に判断を任せてくれている。

 自分をもう一度『魔導書』の所有者にするという発言と行為、それに再び操られないというのを信じてくれるかどうか。

 

 …………そんなの悩むまでもない。

 

「……それに、これは一回分しかありません」

 

「一回分……」

 

「はい、ですから……」

 

 ガブリエルか俺か……どっちかしか向かえないってことか。それも踏まえて考えてほしいということか。

 

「その……レンさんは……男の子? らしいので恥ずかしいとは思いますが……」

 

 …………ん? なんか俺が想像してたことと方向性が違わない?

 

「一回で二人とも転移させるので、ガブリエルさんと密着する感じでお願いすることになります」

 

「……密着とは、いかほどに?」

 

「具体的には抱っことか、おんぶとかですね」

 

 …………ででで!!?

 

「できるわけないだろっ!? 何で俺が男同士で抱き合わないといけないんだよ!?」

 

『いいじゃないか、抱っこの一つや二つ。裸で抱き合うとかの類じゃないだけ優しいだろう』

 

 それはそうだけど、それでも恥ずかしいだろっ!? ガブリエルに抱っこしてもらうなんて!?

 

 ……いや待てよ。俺は今何を考えた? 『恥ずかしい』? 『気持ち悪い』とかじゃなくて? 

 それって、つまり……俺がガブリエルに対して好意的な感情を無意識に……? 箱舟基地で沸いた何かの間違いは気のせいではないと……?

 

「うろろろろろろろろろろっ!!」

 

『おっとバイタルが絶不調だ』

 

「……やっぱりダメですかね?」

 

「ダメじゃないダメじゃない! 今は俺の個人的感情は抜きにしても、それに賭けるしかないんだから!」

 

 時間が惜しいんだ。こんな些細な感情で流されてはいけない。

 俺は迷うことなく『魔導書』をヴィラクスに差し出し、ヴィラクスも万巻の思いを込めて「ありがとうございます」と言って、彼女も迷うことなく『魔導書』を開いて該当するページへと指を走らせて詠唱を開始させる。

 

 ……うん。大丈夫だ。きっと大丈夫だ。

 暗闇の世界で操られて、別人のようになっていたヴィラクスを見ていたからこそ分かる。彼女は絶対に正常のまま『魔導書』を操ってくれると。

 

「それじゃあ失礼しますよ、お姫様」

 

「ひゃいっ!?」

 

 安心しきっていると突然浮遊感に襲われて、俺の視点は流転した。

 視界の先にはガブリエルの顔が間近にあり、こうして近くで見ると細部はラファエルと似ていることがわかる。主に眉毛とか口元のニヒルな感じが。

 

 ……いやいや待て待て。それ以上に今の状況はどうなっている? 冷静に考えろ。

 

 俺は今浮遊感に囚われている。ここまでオッケー。

 ここは当然地球なんだから、普通に立っているなら足元に重力を感じるはずだ。しかし今は背中に感じている。つまり仰向けになっている状態となる。

 

 つまり俺は今ガブリエルに抱き抱えられてる状況というわけだ。そりゃ当然だ、転移魔法を使うんだからな。密着するようにヴィラクスに言われたんだから。

 問題はガブリエルの手だ。右手は俺の右肩を抱え、右腕で背中全体を支えている。左手は俺の右太もも前に回し、左腕は太もも裏全体を支えてくれている。

 

 

 

 …………うん、そうだね。

 

 ——これは俗に言う『お姫様抱っこ』というやつでは?

 

 

 

「あわ……あわわ……」

 

 あっ、ヤバい。今の今まで女の子達と過ごして免疫がついてきたと思っていたけど、代わりに男性に対する免疫が薄れていた。

 こうして男性に力強く抱えられると……そのなんというか……すごい守られる感というか……頼りになる感が……その、肌身でわかるというか……。

 

「ゔぉえ!!」

 

「吐こうとしない。今時ゲロインなんか廃れてるぞ」

 

 推してる人に失礼すぎるわ!

 

「——準備ができました。今から転移魔法を行います。大人しくしててくださいね」

 

「うわー! 降ろせー! せめて体位を変えてくれー!」

 

『ワガママ言うな。秒読みいくぞ』

 

「3!」

「2」

『1』

 

「「『0!』」」

 

 

 

 何でお前ら、そこだけ妙に気が合うねんっ!!

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

『魔導書』に記載されている魔法によりヴィラクスは無事にレン達を転移させることに成功し、彼女は深く息を吐くと、目を見開いて何かをやり遂げるたびに動き始めた。

 

「まだ……まだやることが……!」

 

 ここには彼女一人しかない。故に彼女の動向など誰も知らない。

 

 彼女は人知れず孤独に戦い続ける。ある目的を果たすために。

 そのためにヴィラクスは、レンに対して本当でありながら嘘でもあることを一つ付いていた。

 

 それは魔力が残り滓しかないということ。確かに本当ではあるが、それがつまり一回しか魔法しか使えないというわけではない。代償さえ払えば魔力は無尽蔵に生み出せることを、ヴィラクスはニャルラトホテプに操られた時に微かに覚えている。

 

 だから代償さえ払えば——。彼女自身の『命』さえ払えば——。

 

 

 

 ——今サモントンに数十万といる『ドール』をすべて消滅させることができる。

 

 

 

「私の全部を糧にサモントンに放たれた『ドール』を強制消滅……それに『魔導書』本体を処分しなければ……! でないと……」

 

 

 

 ——また同じことを繰り返してしまう。

 

 

 

 必死の使命感と焦燥感を抱えてヴィラクスは詠唱を口にする。同時に彼女の脳裏に強い強い『情報』が入り混じる。

 それは彼女自身を犯して侵す劇薬だ。彼女を今再び従者にしようとする『魔導書』の、あるいはニャルラトホテプが残した意思。それに懸命に抗おうとヴィラクスは奮起する。

 

「入ってこないで……っ!! もう私は……ニャルラトホテプ様には服従したくないっ……!!」

 

 だがどんなに抗おうとしても口は誤魔化せない。

 少しずつ心身を侵され、憎き存在であるニャルラトホテプに『様』をつけてしまう自分に心底嫌気が差しながら、彼女は自意識を覚醒させるために、石材の破片を手に取って深く傷を付ける。

 

「ぐっ……! あっ……!!」

 

 それは自殺同然の行為だ。手首の動脈を切って、忌々しい情報と共に血を吐き出して自意識を奮い立たせる。

 

 ヴィラクスの心は懺悔と後悔の念しかない。

 

 どうせ下手に生き残る価値もない。『位階十席』としての地位を汚し、サモントンに仇なした。

 自分の初めての友人となってくれたウリエルをほとんど自分の手で殺してしまった。

 

 

 

 ——お姉ちゃん……! 僕……辛かったよ……! 誰も僕のことを認めてくれなくて……誰も僕のことを見てくれなくて……!

 

 

 

 それは初めてヴィラクスがウリエルと会った日の話。

 思わず胸の内を溢したウリエルを見て、ヴィラクスは初めて『自分が必要されている』ということを知った。天涯孤独な身において、ヴィラクスとウリエルの一人ぼっち同士が触れ合い、二人ぼっちの関係になるのはある意味運命でもあった。

 

 この子のために、私は一人でも歩けるくらい強くなろう、と。

 泣いて悲しんでる子のために、私はしっかりと手を伸ばそうと。

 藁にも縋るような子を絶対に助け出せるように。

 

 だというのに誓おうとした相手には何も返せなかった。

 それどころか自らの手で殺したに等しい目に遭わせてしまった。

 

 

 

 ——なんという生き恥。よくもまあ生きていられる。

 ——生きているなら、生き残っているなら責務を果たさないと。

 

 

 

 そのためなら、この命を捧げることなんて容易いものだ。

 

 

 

 さらに深く石片を食い込ませて血を溢れさせ、魔法の詠唱はついに完遂された。

 暫時経つと、周囲の空気が一転して柔らかく、そして静まり返った。目にしなくても分かる。『ドール』が消滅し始めて、その喧騒が収まろうとしているのだ。ようやくサモントン崩壊の危機を招いた一つ目の災厄である『ドール』を対処することに成功した。

 

 それはヴィラクスが完全に『魔導書』を操って『ドール』を制したことも意味していた。

 

 

 

「あとは…………わたし、の……いのちといっしょに……このほんを」

 

 

 

 だが、それでもヴィラクスは止まることはない。

 今にも抜け落ちそうな魂を僅かに繋ぎ止め、デックス本邸の中にあるであろうライターなどの着火剤と自身も燃やしつくす燃料を探して這うように歩き続ける。

 

 一歩踏むたびに意識がどこかに行きそうになる。自分がどこかに逝くのはいい。だけど、それは今じゃない。逝くなら『魔導書』を完全に焼却してからだ。それまでは意識が持ってくれないと困るのだ。

 

 だが、それでも意識はどこかに行くのは止められない。

 やがて少女は見覚えのある『暗闇の世界』を歩き出していた。

 

 

 

 ——ああ、ここまでしか私は成せないのか。

 

 

 

 何もない世界をヴィラクスは歩き続ける。

 ここが終着駅で、ここが死に所。なんて情けない上に中途半端。後一つだけやることがあるというのに。

 

 

 

 ——おやおや。こりゃ珍しい客人。レンちゃん以外のここに来る子いるんだ。

 

 

 

 だというのに、そんなヴィラクスに話しかけてくれる人物がいた。

 その声には聞き覚えが一切ない。ヴィラクスはその人物とは何の面識もない。それは確かなことだ。

 

 

 

 ——う〜〜ん。さては私の因果に惹かれてきたのかな? レンちゃんか、それともバイジュウちゃんか……。どちらかに近しい子なのかな?

 

 

 

 だけどヴィラクスはその声に親近感を湧いた。

 どことなく関わったことがあるような……それこそ似たような雰囲気というか、匂いというか、何とも言えない感覚が、ヴィラクスが新豊州で知り合ったバイジュウから微かに感じていた物に。

 

 

 

 ——まあ、何にせよ。あなたがこっちに来るのは早いよ。

 ——それにその『魔導書』は大事な物なんだ。エクスロッドのお嬢様曰くね♪

 

 

 

 そう言われ、少女はヴィラクスを向こう側の世界から突き飛ばした。

 ヴィラクスは確かな肉体の感触を感じながら倒れ込み、同時にそれはそれはヴィラクスがまだ『生きている』という証明でもあった。

 

 心身ともに限界の限界。倒れ込んだ衝撃でヴィラクスは意識が落ち始める。

 それでも意識を奮い立たせ、ヴィラクスは確かに幻覚のように佇むその少女の顔を見ようとして——その末に意識を落とした。

 

 忘れはしない。自分を助けてくれた少女の顔を。

 

 

 

 

 

 ——何百年もの孤独を味わった、寂しい瞳をした茶髪の少女の顔を。



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第20節 〜炎、燃やし尽くして〜

 一方その頃、サモントン都市部から少し離れた辺境——。

 

 そういうモニュメントなのかと疑うほどに大きく聳える異形となったニャルラトホテプと、娘と呼んだイブ=ツトゥルの前に『位階十席』とSIDの先鋭、それにアレンとセラエノが並ぶ。

 

 先陣に立つのは貴族の務めと語るようにミカエルは前に出て、その手にある炎を固定化させたような剣型武器『パーペチュアル・フレイム』を突きつけて指示をする。

 

「ハインリッヒを含んだ私達サモントン組とアレンとセラエノがニャルラトホテプを請け負う。SIDの面々はもう一つの異形を頼むよ」

 

「なら、そうしようかの」

 

「だが、あっちはどうする」とギンはミカエルに対して顎で問題となる一体を指し示した。

 それは今や理性をなくして狂喜乱舞する異形のラファエルのことだ。ラファエルと判別できるのは、もう特徴的な髪飾りと僅かに面影のある顔つきだけで、その痩せ細って色彩の変わった身体や老婆のように生気のない髪は見る影もない。

 

 あれでなお生きているというなら、あまりにも可哀想で惨めだ。介錯の思いを込めてギンは非常な決断を口にした。

 

「いっそ楽にするか? 儂の一太刀なら痛みもなく終えられるぞ」

 

「ラファエルは大丈夫だ。あのまま放置でいい」

 

「その心は?」

 

「まだこっちの大本命が残っている」

 

「なるほどな」とギンはそれだけで納得して「では、SIDはこっちの相手をするか」と言って足先をもう一つの異形であるイブ=ツトゥルへと向けた。

 そのあまりにも簡潔ぶりに、ヴィラは「おい!?」と驚きながらも一人暴走するラファエルへと視線を向ける。

 

「時間が惜しいのは分かるけど、そんな簡単にアレを放置していいのか!?」

 

「いいんじゃ。こっちの大本命と言ったら一人しかおらんだろ。そいつに全部任せておけばいい」

 

「……レンさんのことですね」

 

 バイジュウの問いにギンは「そうだ」と認めて話を続ける。

 

「殺すことは簡単だ。だが救うことはレンにしかできん。それを試してから切ればいいだろう」

 

「なんつーか……割り切りがすごいな。ちょっと引くぞ」

 

「『する』『しない』だけの考えで少しでも悩んだら『しない』を選ぶのが決断の秘訣だ。儂はそれで一度後悔したからな」

 

「救えるなら救いたいじゃろ」とギンは改めて戦技教導官としてSIDの皆へと指示を伝えた。

 

「指揮を執るのはエミリオだ。各自、作戦段階で話した持ち場に着け」

 

「了解。ヴィラ、二人で前を張るわよ」

 

「分かってる。じゃあ、バイジュウとソヤは支援は任せたぞ」

 

「分かりました。後方でサポートします」

 

「ギンさんはどうしますの?」

 

「もちろん」とソヤの問いにギンは得意げに笑いながら、その手に握る二双の刀型の新型武装『天羽々斬』を抜いた。

 

「好き勝手にやらせてもらう。儂は一人でやる方が性に合うからの」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「ふんっ!」

 

 戦いは既に再開されていた。

 

 馬の尻尾のように束ねた黒髪を靡かせ、アイスティーナは鎖鎌をブーメランのように投擲すると、鎖鎌を意思を持つように空間を縦横無尽に動いていく。まるで空間そのものに糸を通すかのように。

 

 鎖は近くの木々や建物を巻き込んで複雑に入り込み、その最中にニャルラトホテプの触手や軟性な身体を無理矢理に拘束して動きを取れなくした。鎖鎌はそのままニャルラトホテプの頭部と思われる部分へと刺さり深傷を負わせる。

 しかし、それで無力化できるわけがない。異形の傷など蚊に刺されるほどの感覚もない。何よりもニャルラトホテプの力は、この世が人間の理を基準としてる限り測定などできるはずもない。

 

 ニャルラトホテプはその異形を破裂させたかのように一瞬だけ膨張させると、割れた風船の皮が漂うかのように鎖は砕け散った。

 

 拘束したのは僅か1秒——。

 だが、それだけあれば錬金術師には十分だった。

 

 

 

「これ、何かわかります?」

 

 

 

 懐には潜り込んだハインリッヒが既におり、不敵な笑みを浮かべてその手にあるガラス細工の容器を見せつける。

 その中身に形はなかった。常に点滅を繰り返しており、容器の中を今か今かと飛び出すかのように『閃光』が瞬き動く。

 

 

 

 ——その正体は『電気』だ。それも『魔力』を持った。

 

 ——それはいざという時のために、ハインリッヒが予めイルカから譲り受けた『魔力』で生成された『電気』なのだ。

 

 

 

「『テンペスト・アタック』!!」

 

 

 

 意識するのも一瞬。極小の『嵐』が発生し、ニャルラトホテプへと襲いかかった。

 切り刻むほどに痛烈に、しかして猛烈に吹き荒ぶ風という刃はニャルラトホテプの身体を絶え間なく切り刻んでいく。

 

 それは『OS事件』で海上で交戦した亜種ドールこと『マーメイド』を一網打尽にした災害。人の力や、人の知恵がニャルラトホテプに及ばないというのなら、地球そのものが持つ現象をぶつけてやればいいだけのこと。

 

 

 

「次っ! 『バックドラフト・ブラスター』!!」

 

 

 

 だが一つの災害では足りない。ハインリッヒは続けて容器を取り出し、この場にはいないファビオラの『火』を宿した『魔力』を解放し、その右手に纏う爆熱をニャルラトホテプへと叩きつけた。

 

 右手は異形の形容し難い不快極まる身体の中へと深々と貫き、そこから炎が蓄積されて異形の身体を満たしていく。

 

 そしてハインリッヒは右手を勢い良き引き抜くと、ニャルラトホテプの腹部から爆発したかのように炎が噴き出てきて身体中を焼き払った。

 

 まさに『バックドラフト』——。

 技の動き自体は前にレンから聞いたロボットがプロレスするようなアニメを参考にしたが、ハインリッヒ個人としては思いの外上手くいったと感じていた。

 

 

 

「まだまだァ! 『エリンガム・レドックス』!!」

 

 

 

 だが、それで焼き払われるほどニャルラトホテプは甘くはない。焼かれて爛れる皮膚を蛹の様に開き、新たな身体となって動き出そうとする所をハインリッヒは追撃する。

 

 今度はラファエルの『風』の『魔力』を宿した容器を媒体に、レドックスの名の通り『酸化還元反応』を駆使した錬金術だ。

 とは言っても『酸化還元反応』とは概念にも近い化学反応であり、その内容と分類に関しては多岐に渡る。だが根本を辿れば必要なのは温度と還元剤があれば基本は成立するものなのだ。

 

 温度はある。先程放ったバックドラフトの焼き焦げる様な熱量が。

 還元剤は生成する。錬金術によって生み出した『水素化アルミニウムリチウム(LAH)』を媒体に閉じ込めて。

 

 それをニャルラトホテプへ叩き込む。『LAH』は非常に危険で可燃性の高い代物であり、静電気程度の力で発火する程だ。

 それをバックドラフトが起こりうるほどの熱量を持つ相手に接近させたらどうなるか。LAHは爆発にも近しいとてもつないエネルギー反応を内包してニャルラトホテプの内部で

 

 

 

「これで最後っ! 『タイダル・ウェイブ』!!」

 

 

 

 災害の終わりは人類に色濃く残る最悪にして災厄の象徴。ガブリエルの『水』の『魔力』を宿した容器を素体に、様々な世界を呑み込んだ神の怒りとも呼ばれる『津波』を生成して押しつぶす。

 

 その質量はどれほどのものか。それは目に入れたら嫌悪感を催すほどだろう。しかし、その質量こそが異形を飲み込んだ。地球の理そのものが、地球外から来た生命体を退けようとしている。

 

 しかし、ハインリッヒの奥の手はこれからだ。

 何のために『エリンガム・レドックス』をしたのか。それは下準備のためだ。『LAH』はもう一つ特殊な反応を見せることを知るからこそ。

 

 そう『LAH』は——たかが水どころか水蒸気にも反応するほどに機敏なのだ。

 

 その調和と反応により、レドックスは覚醒する。

 ニャルラトホテプの内包されたエネルギーは一気に膨らみ爆発し、津波によって生み出された小さな池をすべて空に打ち上げるほど極大な衝撃を発生させたのだ。

 

 

 

 ——つまりは『水素爆弾』に近しい物をハインリッヒは生み出したのだ。

 

 

 

「おい! サモントンを人が住めない土地にする気か!?」

 

「比較的クリーンなエネルギーに変換する様な術式も組んでるので、恐らく大丈夫ですよっ!」

 

「恐らくっ!?」と驚くアイスティーナを他所に、不安になりながら押し込んだ先にある麦畑の跡地をハインリッヒは見る。

 油断することなく『ラピスラズリ』『フラメル』『フィオーナ・ペリ』の三種の武装と、自身が最も信頼する錬金術によって生み出された戦闘用ホムンクルス『蒼き守護者』を背後に展開させながら、打ち上げた水によってほとんど田んぼにもなった麦畑へと足を進める。

 使い物にならずただ水上を漂うしかない何百万キロという麦の数々。その種が無造作に広がる中、深き底から異形は何事もなかったかのように這い出てきた。

 

「……この程度で終わりか?」

 

 異形には何の異変もダメージもない。その名状し難い身体には傷一つ見えない。あれほどの追撃を与えたのに、有効打はなく地球の理ではニャルラトホテプを退けることは叶わなかった。

 

 なら、それが分かるだけ良し。ハインリッヒは次なる手を打とうと模索し、一つの答えを即座に得る。

 

「————ッ!」

 

 だがニャルラトホテプも攻撃を受けるだけではない。触手を世界を犯さんと言わんばかりに乱雑に振るって寄せ来るすべてを払い除け、ハインリッヒを殺し尽くそうと全てを切り裂く悍ましいカギ爪が襲いかかった。

 

 しかしそれは突如として立ちはだかる『障壁』に阻まれ、もう少しというところでカギ爪は届かずに止まってしまう。突破しようと突き出そうとするは、それでも進むことはない。

 

 それは概念としての強さだ。単純な硬いとかそういう次元ではない。

 こんな防御手段を行えるとしたら、それは一人しかいない。

 

「今です、ハインリッヒ!」

 

 それはモリスが持つ盾『不屈の信仰』によるものだ。

 一時的にニャルラトホテプを動きの限界値を定めていた障壁を取り除き、その一瞬で今度はハインリッヒへと展開して攻撃を防ぐ。それを合図にハインリッヒも即座に動いて、ニャルラトホテプの懐へと再度潜り込んできたのだ。

 

 あまりにも正確無比な動作に、ニャルラトホテプも思わず感嘆したような声を漏らす。

 

 祈りとは言わば、心のあり様。心の作法。

 その形を維持することも、変化することも非常に困難な物だ。維持は何事であっても揺るがない祈りが必要であり、変化は祈りを揺るがせる物。

 その二つは本来なら相反する物だ。例えるならば宗教上では禁忌にも等しい宗教を変えるに等しい愚かさ。キリスト教を心から信仰しておきながら裏切る度量も持ち、同時にイスラム教を信仰し、それもまた裏切って厚顔な面構えでキリスト教へと戻る。それを繰り返す様な在り方。

 

 それを両立させるモリスの信仰とは——。

 ニャルラトホテプは理解していながらも内心笑みを溢してしまう。

 

 

 

 ——この女、正常のまま『狂って』いると。

 

 

 

「うぉおおおおおおおお!!」

 

 地球の理が通じないというなら、外宇宙の理をぶつけるだけ。

 ハインリッヒは己が身に宿す忌々しき呪いにも近い『守護者』として宿していた魔力を全解放して全武装の刃をニャルラトホテプへと叩きつけた。

 

 一撃で腕を裂き、二撃で目を抉り、三撃で触手を断つ。

 

 それだけで終わるはずがない。その手に握る『ラピスラズリ』はそれを繰り返すだけだが、残る武装である『フラメル』と『フィオーナ・ペリ』と『蒼き守護者』はハインリッヒの意思が幾つもあるかの様に各自動いているのだ。

 

 赤き刃である『フラメル』は踊る様に、ハインリッヒを付け狙おうと周囲に漂うニャルラトホテプの触手を捌き、概念武装である『フィオーナ・ペリ』が発生させている『汐焔』の効力でニャルラトホテプの動きを鈍重にさせる。残る『蒼き守護者』は半透明ながらもその巨体で物理的にニャルラトホテプと組み合い、行動そのものを制限させている。

 

 ニャルラトホテプは辛うじて動く部位を動かし、いずれかの迎撃に当たろうとすると——。

 

「させるかぁっ!!」

 

 即座にその動きを察知して、アイスティーナの鎖鎌がその部位を束縛して制限させる。

 もちろん、それを振り解くことはニャルラトホテプからすれば可能ではある。

 

「少しの時間でもあれば、このモリスが通しはしません」

 

 だが、そうしたらところで時既に遅し。モリスはニャルラトホテプの攻撃を察知して、自らが持つ盾の効力を駆使してハインリッヒへの防御体制を完了させてニャルラトホテプの触手を弾く。

 ならばいち早くモリスから止めるべきか。そう思って誰の意識からも遠ざかっている切り離された触手を遠隔で操作し襲わせようとするが——。

 

「セラエノ!」

 

「分かっている」

 

 全周囲を警戒しているアレンの一言を合図に、セラエノが自らが持つ『断章』のカケラを知らぬ間に受け渡していたモリスへと発動し、モリス自身への攻撃を転移で回避してしまう。

 

 圧倒的な手数の暴力。ニャルラトホテプの攻撃を全て真正面から受け止めて、攻守兼備を各々が分担して少しずつ追い詰めていく。

 これらは『位階十席』の皆が高水準な戦闘技術を持ってるからこそ肉薄できる物だ。ハインリッヒ、アイスティーナ、モリス、セラエノの四人が動き、アレンが統括することでようやく渡り合うことができる。

 

 

 

 ——その程度で並ぶなんて烏滸がましい。

 

 

 

 ニャルラトホテプは内心苛つきにも近い感情を持ちながらも、冷静に戦況を把握して一つの謎を究明しようとしていた。

 

 

 

 ——何故ミカエルが見えない?

 

 

 

 戦況のどこにも燃える様な緋色の少年は見えない。目につけばすぐに分かる神々しさを持つというのに、その気配すらニャルラトホテプの周囲からは何も感じない。

 

 いったいどこにいるのか——。

 それを思考しながらも戯れ感覚で、拮抗していき——。

 

 

 

「はぁああああ!!!」

 

 

 

 ハインリッヒが渾身の一撃を振おうと、全ての武装と『蒼き守護者』を同期させ、さらには先程災害を錬金するために媒体とした『電気』と『火』『風』『水』の練り固めて刃に宿している。

 

 絶好の一撃を振るい、ハインリッヒの刃は確かにニャルラトホテプへと届いた。無防備に、ニャルラトホテプの身体へと深く突き刺さり、その身体を裂いた。

 

 

 

 

 何故そうさせるのか——。決まりきっている——。

 

 

 

 

 

 ——希望を与えられ、それを奪われる。

 ——その絶望へと変わるまでの一瞬が一番楽しいからだ。

 

 

 

 

 

「——もう飽きた」

 

 

 

 切り裂かれた傷口から、名状することも悍ましい漆黒が姿を見せてニャルラトホテプに仇なす者をすべて捉え、飲み込むかのように爆発的に溢れ出してきた。

 

 その速さと規模は何の因果か、それとも報復として意図的なのか。先程ハインリッヒから受けた『津波』と同規模の量が、ニャルラトホテプに敵対する者達へと襲いかかってくる。

 

 漆黒の津波——。飲み込まれれば、確実に命を落とすのが見える存在を目にするのはいったいどれほどの恐怖だろうか。

 

 

 

 それがハインリッヒへと襲い掛かり——。

 

 

 

「……やはりモリスがいる限り届かないか」

 

 

 

 一転して窮地。その中でもモリスだけは冷静に漆黒を『不屈の信仰』で障壁を展開して受け止める。

 だが押し寄せた漆黒はヘドロの様に障壁へと粘りつき、障壁内部から出ることは叶わない。触れさえすれば人間である限り、一瞬で発狂させる劇物なのだから。

 

「……ミカエルだけ何故いない?」

 

 それでもこんな状況というのに、ミカエルが一向に姿を見せることはない。あんなに自分が指揮を取ると言わんばかりに剣を掲げて前に出ていたというのに、戦闘が始まると一転して影も形も見せない。

 

 だとすれば、どこに——。その答えはすぐさま辿り着いた。

 

「これは受け入りなんだけどね。ある奴はこう言ったそうだよ」

 

 足下——。突如として、その声はニャルラトホテプに届いた。

 今の今まで警戒を続けに続け、カケラも存在を認知できなかった緋色の少年の声が。

 

「希望を与えられ、それを奪われる。その絶望へと変わるまでの一瞬が一番楽しいと」

 

 見下ろすと、そこにはミカエルがいた。見間違えるはずもない燃える様な赤髪に、全てを見通すかの様な神秘的な緋色の瞳。

 間違いなくサモントンを統べる者として、誰よりも『Noblesse oblige』を体現し、誰よりも近くにミカエル・デックスがそこにいたのだ。

 

 しかもミカエル一人じゃない。その隣にはアレンとセラエノがいた。

 アレンが『ディクタートル』を構え、セラエノが『断章』を展開して、どういう理由があるのか検討が付かないままに、真の意味で油断したニャルラトホテプの懐へとミカエルの接近を導いていた。

 

「なら——これも楽しんでくれ」

 

 腰だけは入った一閃。少年の身体では並の兵士どころか、恐らくSID活動を始めた頃のレンやアニーにも劣る一撃が、ニャルラトホテプの胴体のほんの小さな部分を裂いた。

 

 剣を振るうだけでもミカエルからすれば全力だったのだろう。見下ろした背後から、慣れない行動で消費された酸素を求めて呼吸が荒くなってるのが分かる。

 

 何ともまあ可愛らしい。所詮は貴族という立場で胡座をかいていた存在。いくら政治面で強力な存在で、その思想はサモントンにとって貴重とはいえ、こと戦闘に関してのフィジカルは絶望的に足りていない。

 

 

 

 その程度の攻撃、何の意味がある——。

 そう——。ニャルラトホテプが不敵に思っていると——。

 

 

 

 切り裂かれた部分からいきなり「ボウッ!」と熱が噴き出てきて、ニャルラトホテプの思考を始めて『ある感情』へと一色に染めた。

 

 

 

「ぐぁぁああああああ!!? なんだ!? 熱い!? なんだこの熱さァ!!?」

 

 

 

 その熱は今までのとは違う。ハインリッヒが生み出した『バックドラフト』による単純な炎とは根本的な部分が違うのだ。

 どれほど違うのか。それは都合よく振り始めた『雨』が証明する。

 

 

 

 消えない——。冷えない——。

 この『炎』は永劫に燃え続ける。例え空気がなくなろうと、例え世界がなくなろうと、例え『炎』という概念さえ消失したとしても。

 

 

 

 ——それほどまでにニャルラトホテプを覆う『炎』は概念的構造が違っていたのだ。

 

 

 

「この一瞬が欲しかった。『パーペチュアル・フレイム』の一撃……これさえ届けば君を焼き殺すこともできる」

 

 

 

 そう言ってミカエルは見せつける様に『パーペチュアル・フレイム』をニャルラトホテプの前へと掲げて告げる。まるで既に勝負でもついたかの様に、高らかな声で。

 

 その赤い剣を食い入る様に見てニャルラトホテプは初めて気付く。あの『パーペチュアル・フレイム』という武器の正体が何なのかを。

 

 

 

「その『炎』……!? まさか……!? そんな馬鹿なことが……!!?」

 

「ご明察。『パーペチュアル・フレイム』はお前がよく知るアイツの『炎』が剣となった概念武装だ」

 

 

 

 ニャルラトホテプは、その『炎』の正体を本能よりも早く気づいた。何せ自身の存在において、根っこの根っこ——それこそ核にまで刻み込まれた最も嫌悪すべき『天敵』の『炎』だったから。

 

 そいつは巨大な燃える塊だ。故に絶え間なく形を変え続けることをニャルラトホテプは知っている。

 

 ある時は『雲』か。

 ある時は『隕石』か。

 ある時は『怪物』か。

 ある時は『人間』か。

 ある時は『法則』か。

 

 その形に際限はない。

 故に『剣』となることもあるだろう。

 

 それでも、どんなに形を変えても『天敵』のある部分だけは、そういう象徴でもあるかの様に形を変えても必ずそれだと認識させる。

 

 例えどんな存在になろうと、例えどんな存在が相手だろうと。

 

 

 

 ——ただただ『炎』と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『生ける炎』——。『クトゥグア』のね」



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第21節 〜劇的なるもの〜

 ミカエルを指揮とするサモントン組がニャルラトホテプを追い詰める中、もう一つの戦場では激烈極まる戦闘が行われていた。

 

「エミッ! 4時方向!」

 

「了解っ!」

 

 あちらが一手一手堅実というのなら、こちらは乱戦と言っていいだろう。

 エミリオが指揮するSID組は、イブ=ツトゥルが身体から無数に溢れる悪鬼の集団に真正面からぶつかり合う。悪鬼の力そのものは『ドール』よりかは幾分か強力ではあるが、戦闘経験豊富な上に強力な能力を持つエミリオとヴィラからすれば動きさえ把握できればどうとでもなる相手だ。

 

 だが、強烈に目を引くのはその二人ではない。

 この戦場で一番常軌を逸した行動しているのは、見た目だけならバイジュウよりも華奢で病弱な肌色を持つ剣士なのだ。

 

「これで……14ッ!!」

 

 指揮系統とは別の戦力として動き続けるギンの動きは、まさに電光石火な機敏さで悪鬼の身体を次々と切り裂いていく。

 その太刀筋は『一撃で死滅させる』こと以外に規則性などない。ある時は首を、ある時は胴体を、ある時は翼を、ある時は顔を一刀両断して意識だけはまるで未来を通しているかのように、先の先にある悪鬼へと殺意を向ける。

 

 どうしてそこまでギンが正確無比かつ孤軍奮闘できるのか。それは本人の研磨された技術と精神性もあるが、同時に新たに手にした異質物武器である『天羽々斬』の恩恵もあるからだ。

 

『天羽々斬』——。

 それは昔から存在していた異質物の一つではあったが、いかんせん年代物ということもあり『七年戦争』で刀身の一部が破損。効力も特になく『Safe級』で管理されていたが、霧守神社の一件で破損した『妖刀・蝶と蜂』の代わりを求めてギンが「何かいい刀はないか?」と申したことをきっかけに、それは初めて異質物武器として誕生することになった物だ。

 

 破損した刀身は、これまた破損していた妖刀の材質を組み入れて打ち直すことで修復した。だが、その際に予期せぬ副次効果が『天羽々斬』には生まれた。

 

 元々ギンが使用していた『妖刀・蝶と蜂』はヴィラクスの『魔導書』と似たように、その刀は人ならざる商人を介して『ヨグ=ソトース』から得たものだ。

 故にその材質は地球上ではほとんど検出されない物で構成されており、知的好奇心旺盛な愛衣ですら「ちょっと地球の理解を超えてなぁい?」とその異常さにドン引きしながら興奮していたほどだ。

 

 その性質は何を隠そう『生命力』を糧にしていた文字通りの妖刀だったのだ。

 分かりやすく『生命力』と評しているが、実際のところは『生命』に紐づくりあらゆる因果を喰らうと言った方が正しいと愛衣は語ってもいる。

 

 つまりは非科学的な物ではあるが『運命』や『魔力』といった物さえ、その妖刀は養分として食らっているのだ。それを糧に妖刀は切れ味を増していき、現世まで汚れを知らずにその美しい刀身と保ち続けていた。

 それは常に『生命力』を求めて血を、心を、魔力を、運命を喰らい続け飢えを満たしたのが『妖刀・蝶と蜂』の本質でもあったのだ。

 ギンがその『妖刀・蝶と蜂』を耐え続けていたのは奇跡でもありながら、その並々ならぬ素質を鍛え抜いた軌跡もあったからに他ならない。

 

 ならば、その性質は霧守神社の一件で完全に失ったのかと言われればそうではない。破片となった妖刀の性質は不完全ながらも残っていたのだ。

 

 妖刀の性質を受け継いだ『天羽々斬』は、底なしの飢えを持った刀と変貌していた。

 一度口を開けば、それは永遠に『生命力』を食うだけの貪欲な刀。それは触れる者すべての『血液』に反応して無尽蔵に喰らうだけ。喰らって、食らって、喰らい続ける。刀身を治すことなく、ひたすらに満たされぬ底の壊れた飢えを満たそうと喰らい続ける。

 

 それがギンが悪鬼を一撃で葬れる理由だ。

 一閃でも受けた生命は、その刀身に血が付着して『生命力』を根こそぎ持ってかれる。

 例えその傷自体が致命傷にならずとも、先に運命が命の糸を燃え尽きさせる。それが『天羽々斬』の性質だ。

 

 もちろん使い方を間違えれば、味方どころかギン自身にも悪影響を及ぼす諸刃の剣だ。特にギン自身が傷を負ってしまえば、その瞬間に『天羽々斬』はギンの運命に喰らいに来る。

 

 それを惜しげもなく、それどころか勇ましく戦場へと一歩、さらに一歩と踏み込んでギンは刃を振るい続ける。

 その胆力にエミリオは感嘆な声を漏らしながらも、細心の注意を払って悪鬼との自衛を熟しながら、続け様に来る増援の軌道を予測しながら絶え間なく指示を伝達し、今もなお戦場を荒らすギンへと助力をしていく。

 

「24……25、26……っ!!」

 

 そして接敵となる。ギンはついにイブ=ツトゥルへと刃が届く間合いまで詰め込んだ。

 一息入れて抜刀の準備へと入る。ギンが最も得意とする抜刀術。光よくも速く切り裂く絶技『逆刃斬』——。

 

 意識した時には既に終わっている。

 イブ=ツトゥルが迎撃しようとその悍ましい手をギンに向けようとした時、そこには既にギンはいなかった。

 

 何処に行ったのかと本能的に探すこと数秒。そこでイブ=ツトゥルは気づく。自分の手が微塵も動いていないことを。まるで自分の手がなくなってしまったかのように動かないことを。

 

 それもそのはず。既にギンは『逆刃斬』を終え、イブ=ツトゥルの両手を切り飛ばしていたのだから。

 

 

 

「——■■■■■■ッ!!」

 

 

 

 火山のように噴き上げ、雨のように降り落ちる自身の血を見てイブ=ツトゥルは人類の耳では言語化できない悲鳴を轟かせる。

 

 一つの音だけで大気が震え、空気が痺れる。

 

 

 

「よっし! これで化け物共も大人しく……」

 

「ええ。好戦的な臭いも落ち着いてきて……」

 

 

 

 ——いや、まずい。

 ——なにか、まずい。

 

 

 

 ソヤとヴィラが喜ぶ最中、ギンは油断するどころか、むしろ更に闘争心と警戒心を強めてイブ=ツトゥルの動向を追う。

 

 ——もっと、まずいことになる。

 

 それは無限にも近い時間を『因果の狭間』で過ごし、その中で鍛錬された『心』や『魂』といった目でも科学でも捉えきれない部分を掴むコツを知っているからこそ感じ取れた一瞬の違和感だ。

 

 血の動きに淀みがあるのをギンは感じ取った。どう説明すればいいのかは分からない。ただただ本能が警鐘を鳴らしているのだ。

 

 あの血は普通じゃない。あの血は生きていると。

 

 

 

「この動き方……『血』が生きているっ!?」

 

 

 

 そしてそれは『魂』を視認できるバイジュウならより強く感じ取れた。

 バイジュウは今、幸か不幸かセラエノとの戦闘で視界を患っている。だからこそ『魂』だけの動きを追うように意識しており、イブ=ツトゥルが噴き出た血の全てに個々の『魂』があることにギンよりも正確に捉えていた。

 

 それはルクストゥールこと、暴走している異形のラファエルを関節的に生み出した元凶である『自意識を持つ生命体』だ。

 バイジュウ達は知らないが、一部では『黒き者』や『ザ・ブラック』と呼ばれる存在——。

 

 それが噴き出た血の一滴ごとに『魂』を持っている。今か今かと姿を見せようと蠢いており、その度に跳ね上がる空気の澱みと異質さにバイジュウは確信する。

 

 

 

 ——これだけは是が非でも触れてはならないと。

 

 

 

「——ッ!!」

 

 

 

 それをバイジュウが意識するよりも、ギンは速く動き始めた。積み重ねた戦いが身に染みてるからこそ反応できる本能的な動作で対処に向かう。

 

 噴き出た血液の一滴一滴に『魂』が宿っており、その全てが独立した意識と力を持つ。

 その数は実に2000——。だがギンはそれらを瞬く間に切り落とした。『天羽々斬』の特性上、撫でるように触れるだけで排除することができ、その一瞬だけで1800以上はその『魂』を切り落とすことはできた。

 

 だがそれでも残り約200は通してしまう。こちらは5人に対して相手の『血』は200。そして無限に生み出される悪鬼とイブ=ツトゥル。

 

 あまりにも数的な不利が多すぎる。それでも物ともしないのがギンの尋常ならざる実力ではあるのだが、流石に限度という物はある。むしろ1800を落としただけでも上出来と言えるだろう。

 

 だがそれで足を止める理由にはならない。ギンは追撃するために刀を逆手に持ってでも残った『血』を撃退しようとするが、身を翻した時には既に悪鬼が押し寄せてきて前進を阻んで追うことができない。

 

 その間にも『血』は少しずつ変化をして『黒き者』へと変化しようとしている。あるいはその姿のまま拘束しようとエミリオ達へと襲いかかる。

 

 何としてでも防がないといけない——。

 そんなギンの『魂』と『心』の揺らぎを、バイジュウとエミリオは確かに応えてくれた。

 

「エミリオさんっ!」

 

「バイジュウ先生のお気に召すままっ!!」

 

 バイジュウの『魂』を認識する能力を介してギンの『魂』が伝わり、そのバイジュウの『心』から伝わる指示を即座にエミリオが実行する。

 エミリオは右腕や左腕に予め用意していた傷口を開き、血を噴出させてエミリオの能力で硬質化させる。そしてバイジュウは『ラプラス』を振るって引力と斥力の力場を生成し、散弾のように疎らに漂う『血』を引き寄せてエミリオが生み出した『血の盾』へと無理矢理に吸着させた。

 

 しかし、それで防げるのは『黒き者』の攻撃のみ。寄せくる悪鬼の物量に対応できはしない。バイジュウもラプラスも調子は万全ではない。力場によって引き寄せられるのは、精々小鳥ほどの質量までであり、悪鬼の足を止めることまではできはしない。

 

「どっせい!!」

 

 だが、足りない部分を補ってこそ部隊としての最大の長所だ。

 押し寄せる十数体の悪鬼を、ヴィラは真正面から『重打タービン』を叩きつけて肉片へと生まれ変わらせる。

 質量には質量を。ただちこちらは量ではなく質というだけ。ヴィラはそのまま自身の能力である怪力を活かし、倒壊した建物の残骸を持ち上げて押し込み、追従する悪鬼を次々と往なしていく。

 

「今度は上からですわ!」

 

「それなら私が!」

 

 最中、不意打ちで空を飛ぶ悪鬼に気づいたソヤは声をあげ、それにバイジュウは応えて迎撃する。

 今はお得意とする特性の電動チェーンソーがないソヤは戦闘能力としては些か心許なくはあるが、それでも『共感覚』で培われた『匂い』による索敵能力は健在だ。何処からともなく来る不意打ちに反応することなど雑作もない。

 

「よく耐えたァ! 後は儂が斬るッ!!」

 

 そしてその一瞬の攻防の末に追いついたギンが、エミリオの『血の盾』に張り付いたイブ=ツトゥルの残った『血』を余すことなく切り裂く。

 

 指揮はエミリオ。主力はヴィラ。参謀兼支援はバイジュウ。索敵はソヤ。そして奇襲となるギン。

 

 部隊としては完成され尽くした類い稀な存在。まさに一騎当千の先鋭達。恐らく人類というカテゴリにおいてはこれ以上はないであろう。

 だが、それで迎え撃つのは超常だ。一騎当千でようやく互角の勝負を繰り広げることができる。

 

「ねぇ、どうすんの!? あの化け物切ったら、なんか血が動き始めたよね!?」

 

「ええ、間違いなく。私の能力でアレが生命であり行動をすることは保証します」

 

「そんな保証いらないんだけどなぁ……。対策とかは思いつく?」

 

 エミリオとバイジュウは背中合わせで周囲を警戒しながら話し合おうとすると『単純な方法ならあるぞ』と無線越しにギンの声が聞こえてきた。

 

『あの化け物そのものを殺し切るという方法だがな』

 

「脳筋思考ありがとうございます、教官様。それができたら苦労しないっての……」

 

『まあ、そうだな。最低でもあと二回の踏み込みが必要だ。その度に傷は深くなるが、同時にそれは先の血を増加して対応することになる。恐らく倍々方式でな』

 

「どれくらいギンは対処できそう?」

 

『さっきは虚を突かれて一瞬遅れたが、意識すれば3000はまず落とせる。後先を考えなければ6000も過言じゃない』

 

「……教官様だけ実力がダンチすぎるなぁ」

 

 あれ以上の俊敏さで対処できるのも驚きだが、推測とはいえそれでも今後傷を与えた際の増加量には間に合わない。倍々だというのなら、二回目は4000で三回目は8000だ。明らかにギンが限界まで対応したとしても切り残しが発生してしまう。

 

 問題はその切り残しを対処できるのがギン以外にはいないということ。エミリオとバイジュウが力を組めば止めることができるだけで排除することはできない。

 先程と同じ200ほどなら何とかなるが、次に来るのは大凡1000という数だ。耐え凌いでギンのフォローを待つには多すぎる。

 

 ならばこちらで迎撃する手段を持つしかない——。

 

「……『アズライール』はどうですか? エミリオさんの力……マサダで起こした『聖女の奇跡』が使えれば……」

 

「無理。レンちゃんがいれば可能だろうけど」

 

 バイジュウは頭を抱え込んでしまう。何とかして策を捻り出したというのに、ここまで簡単に否定されると思い付いたもう一つも可能性がないと理解してしまうから。

 

「……一か八しかないということですか」

 

『なんじゃ。その声色は悪いことを思いついたものじゃろ』

 

「ギンさん。一撃で化け物を殺し切ることはできますか?」

 

『無茶無理無謀の策を参謀が口にするな』

 

 やっぱり——。ダメで元々の発想を口にしたバイジュウに自分でもどうかしてると思って考え直すが、それでも名案は閃きはしない。

 どうすればいいか。相手は無尽蔵に悪鬼も押し寄せてきて持久戦を許してくれる相手ではない。できるだけ速攻で仕留める電撃戦でなければ疲弊して倒れるのは目に見えている。

 

 そんなバイジュウの焦燥をギンは察したのだろう。『まあ乗ってやるがな』と不安を感じさせない飄々と自信に満ちた態度で口にした。

 

『そうするしかないのなら仕方ない。無理をすることになるがアイツを一撃で殺し切る急所……それを捉えればいいのであろう?』

 

「——お願いします」

 

『任せておけ』と口にすると、ギンは即座にイブ=ツトゥルの前に駆け出していった。迎え撃つ悪鬼は撫で切り、あるいは蹴り飛ばして目にも止まらぬ速さで間合いを詰めていく。

 

 なんて鮮やかで無駄がないのだろう。悪鬼を退けるだけでも手間取るというのに、ギンはそれを物ともしていない。何よりも、その魂に恐れや迷いもない。その軽やかな動きにバイジュウは思わず見惚れてしまうほどだ。

 

 一歩、また一歩と詰めていき、再びギンとイブ=ツトゥルは接敵となる。

 だがギンはまだ踏み出さない。一撃で屠らないとならなければ、下手に手を出して血の対処に追われたりするのは悪手となる。それに踏み込みもいつもより深く、鋭く、強くしなければならない以上、どうしても抜刀した後の隙がいつもより大きくなる。

 

 そんな状況下で一撃で仕留められなければ、逆に血が取り付く隙を与えたり、イブ=ツトゥル自身のカウンターを受けたりする可能性ができてしまう。そうなればギンはあっという間に傷を負い、自らが持つ『天羽々斬』の特性によって運命を食い殺されかねない。

 

 一撃必殺——。

 それだけを意識してギンは今か今かとイブ=ツトゥルの間合いと隙を少しずつ調整し、なおかつ悪鬼も対処しながらどうにしかして急所となる部分を探り続ける。

 

 悪鬼が迫っては切り、イブ=ツトゥルが再生した手を振り下ろすと、迎撃はせずに最低限の身のこなしで躱す。

 

「そこか——」

 

 それを繰り返す最中、ついにギンは急所を捉えた。

 翼を翻すことで押し寄せてくる悪鬼。その翼の奥でイブ=ツトゥルのと思わしき『核』が見えたのだ。

 

 人間でいう所の心臓に値する部分——。

 ギンは迷いなく息を整え、光よりも速く踏み込んで抜刀を行う。踏み込みは上々。息も間合いも、万が一でも押し切るために普段よりも深く入れた。

 

 ギンの抜刀術——『逆刃斬』は淀みも震えも迷いもなく真っ直ぐに、綺麗に美しく、空気を縫うようにイブ=ツトゥルの核を確かに捉えた。

 

 同時に湧き出てくる悪鬼の数々。それらはギンを狙うのではなく、主人となるイブ=ツトゥルを守るためにその身を盾とする肉壁として、何としてでも刃を止めようと阻んでくる。それに加えて本体もその手で刃を挟み込んで止めようとしてくる。

 

 一見すれば踏み間違えたと思考する一瞬。だというのにギンは表情ひとつ変えずに思う。

 

 

 

 ——読み切っておるわ。

 

 

 

 ギンの刃が止まることはない。悪鬼が守ることも、イブ=ツトゥルが防御に回ることも折り込み済みだ。それも踏まえて抜刀を行った。その程度で止まることなど決してありはしない。

 

 今この瞬間にも悪鬼の肉を裂き、イブ=ツトゥルの手を掻い潜り、その核を断とうと刃が迫ろうとする。

 

 

 だが——それよりも一手早く、ギンが気がつかぬ間にイブ=ツトゥルはある行動を起こしていた。

 

 

 

「なっ——!?」

 

 

 

 ギンの視界に映る空が一転して『赤黒く』染まった。それは天候が急激に変わったわけではない。踏み込んだと同時にイブ=ツトゥルの『背中』から血が噴き出したのが原因だ。

 

 どうやって血を出したかは考えるまでもない。イブ=ツトゥルの背後から出てきた悪鬼の爪が血に染まってることから明白だ。

 

 悪鬼そのものにイブ=ツトゥルを攻撃するように命令していたのだ——。

 

「っ……!! こ、の……程度……っ!!」

 

 噴き出た血はギンの身体を呑み込むほどであり、ギンの身体は一転してその全てが血に染まった。刃だけはその特性上、触れた瞬間に血は消え失せるが、持ち主であるギンにはその効力が届かない。

 

 力が急激に抜けていく。物理的に拘束されているのもあるが、口内にまで侵してきた血が変化してブヨブヨのゲル状となって息を乱し、窒息させようとしてくるからだ。

 今にも吐き出したくて堪らないというのに、ゲル状となった血は木々に張り付いた昆虫の脚のようにしつこく纏わりついてギンの口を侵す。

 

 もう抜刀は止められはしない。核に届くというのに、その寸前で力が入らずに悪鬼の肉壁を越えることができない。力を振り絞ろうとするが、それを整える息ができない。

 

 

 

 絶体絶命の窮地——。

 焦燥と諦念が入り混じろうとしてる心境の最中——。

 

 

 

 ——突如としてギンの頬を雫が伝った。

 

 

 

 それは悔し涙ではない。そんな感情など、霧吟との一件で乗り越えた。もう不甲斐なさから涙を流すことなどギンには決してない。

 

 

 

 だとすれば、この雫は——?

 

 

 

 ——それは『雨』だ。雨が降ってきたのだ。

 

 空は雨雲で覆われてはいない。世界は未だに陽光が差している。雨なんて降るはずがない。だというのに、この不浄を祓う神秘的で優しい慈雨は何なのか。

 

 

 

 そんなのがありうるとしたら——。

 

 

 

「私はガブリエル・デックス——」

 

 

 

 魔法しかない——。

 ギン達が知らぬサモントンの外側。ヴィラクスの転移魔法によって天より地に落ちてきたガブリエルが、その奇跡を見せてくれたのだ。

 

 

 

「私の水は汚れを知らないが故に汚れを呑み込む神秘なり」

 

 

 

 流水に呑まれてイブ=ツトゥルから噴き出た血はすべて洗い流されていく。肌に染み込んだ血はすべて力を無くし、今までの抵抗など嘘のように振り払うだけで血は落ちていく。

 

 

 

「よくやったぁっ!!」

 

 

 それは口内から侵入した血も例外ではない。ギンは渾身の力を再度振り絞り、刃を押し通す。

 血は洗い流されて力は取り戻した。悪鬼の肉壁によって阻まれた太刀筋が止まることはもうない。イブ=ツトゥルの手で抑えられることなど不可能。

 

 もうイブ=ツトゥルに自衛する手段など有りはしない。

 もうギンの力を止める者など有りはしない。

 

 

 

「■■■■■■——ッ!!」

 

 

 

 イブ=ツトゥルの悲鳴が世界に再度轟く。それは絶命へと誘う断末魔。一つの生命体がその運命を終える最後の鳴き声。

 

 

 

 直後——。

 イブ=ツトゥルの身体は弾け飛んだかのように、細切れになって飛散した。

 

 

 

 ——今度こそ、逆刃斬はイブ=ツトゥルの核を切り裂いたのだ。



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第22節 〜覆う黒雲、悪意の影〜

「あつい……あついッ!!」

 

 ガブリエルの慈雨が降り注ぐ中、それでも消えるどころか一層燃え盛る炎にニャルラトホテプは焼き尽くされていく。

 

 今まで傷らしい傷など一切追わなかったというのに、ハインリッヒがファビオラの『炎』を媒体とした錬金術で全身を燃やしたというのに、それでも無傷だったニャルラトホテプがたかがミカエルの『パーペチュアル・フレイム』の一閃を受けただけで悶え苦しんでいるのか。

 

 それを切りつけた本人であるミカエルと、手助けをしたアレンとセラエノ以外は理由など知る由もない。ハインリッヒですら目を疑う光景に足を止めて、その光景を静観してしまうほどに、ニャルラトホテプへ与えた一撃は異様でしかなかった。

 

「ありえない……! ミカエル……貴様、どうやってあのクトゥグアを手懐けやがったァ!!」

 

「総督の研究記録は君も知っているだろう。ただそれだけさ」

 

 総督の研究記録——。それはデックスの中でもごく限られた人物が知ることができる物。ラファエル達が『モントン遺伝子開発会社』が見つけた記録であり、その内容についてはニャルラトホテプだってウリエル通すことで知ってはいた。

 

 だが、それで納得できるはずがない。ニャルラトホテプはその『クトゥグア』という存在を嫌というほど知っている。

 この宇宙の果てから宇宙の時間、挙句には宇宙という概念をすべて括ったとしても、魂が刻みに刻むこむほどに敵対する存在。ニャルラトホテプが唯一感情らしい感情を剥き出しにするのが『クトゥグア』という存在なのだ。

 

 しかし、だからといってクトゥグアが人間に協力的かと言われればそうでもない。

 例えそれが仇なすニャルラトホテプが相手することを伝えられたとしても、自身の『炎』を一部でも分け与えることなんて決してない。クトゥグアはそれほどまでに人間には無関心であり、同時に巨大な存在でもあるのだから。

 

 ならば、どうやってミカエルはクトゥグアの『炎』を宿し、尚且つ手懐けたというのか——。

 

 あまりにも不明瞭だ。ミカエルという存在が、ニャルラトホテプには測りきれない。何をどう考えてクトゥグアが人間に手を貸したというのか。

 

 

 

 ——それほどまでの何かをミカエルは持っているというのか。

 

 

 

「何故……何故……!?」

 

「生憎と私はリアリストだ。秘密という物は秘密だからこそ価値がある。その疑問に答える理由などありはしない」

 

 

 

 ——この俺が人間如きに手玉に取られる?

 ——この俺が人間如きに容易く倒される?

 ——この俺が人間如きに予想を超えられる?

 

 

 

「んなこと…………」

 

 

 

 ニャルラトホテプの中で感情が爆発した。

 正体不明、言語化不可能な嵐のように荒れ、灼熱のような昂る。今にも衝動だけで身体中の神経が切れかかりそうになる中、それをニャルラトホテプに『笑み』として溢した。

 

 

 

「楽しいじゃないかッ! 気に入ったッ! ミカエルッ!! お前は俺にとって! 僕にとって! 我にとって! 最高の存在だッ! ヴィラクスなんか糞つまらない女と比べたら天と地ほどに!!」

 

「私にとって、君は最低の存在だよ」

 

 あまりにも対照的な二人の情緒。

 ミカエルは心底無頓着でありながらも、その根元に確かにある『決意』を滾らせて炎の刃をニャルラトホテプへ突きつける。

 ニャルラトホテプは心底狂瀾しながらも、その根本は確かにない『感情』を潜ませてミカエルの刃を見つめ続ける。

 

 沈黙の刹那は永遠にも見えた中——。

 ニャルラトホテプは不敵に笑うと、炎を纏った触手を束ねて今にもミカエルを突き刺そうと構えると——。

 

「だが楽しみは取っておくよ! 少し分が悪いからなっ!」

 

 トカゲの尻尾切りのように纏わりついた『炎』を脱皮して掻い潜り、今までの身体を置き去りにしてニャルラトホテプの一部が爆散して空へと逃げた。

 

「「「「「えっ!!?」」」」」

 

「なんと」

 

 ここで『逃走』を選ぶことにセラエノさえも含んだ皆が驚愕するが、それでも予想外も予想外だ。

 全員反応が僅かに遅れてしまい、ニャルラトホテプの爆散をただ見守るしかなく、気がついた時にはある程度拡散した状態となって四方八方に逃走を始めてしまっていた。

 

「逃がすかぁッ!!」

 

 すぐさまミカエルは追撃するが、手慣れていない剣技では届かない。爆散した一部を炎上させて斬りつけることはできるがそれまでだ。

 爆散したニャルラトホテプの破片は数多くあり、その中でも『本体』とも言える『核』は一つしかない。その他はすべてただの肉片でしかなく、それをミカエルが斬ったところで何の意味も為さないのだ。

 

「アイスティーナっ! ハインリッヒっ!!」

 

「言われなくても分かっている!!」

 

 モリスの指示よりも早く、アイスティーナとハインリッヒの二人はニャルラトホテプの攻撃を仕掛けるが手数が足りない。

 アイスティーナは鎖鎌で空間を覆い、縫い物をするように確実に屠り、ハインリッヒはその超人的なフィジカルと万能無敵の錬金術で対処するが、それでも散らばった肉片は数千という単位なのだ。力の限りを尽くそうとするが、それほどの数では捌くのには限度がある。

 

「俺達も追うぞ、セラエノ!!」

 

「あいあいさー」

 

 アレンとセラエノも同様だ。むしろセラエノの戦闘能力は皆無。アレンもハインリッヒという精鋭に比べたら貧弱と、どれほど尽力しようと追いつくわけがない。

 

「セラエノ! どれが本体かは分かるか!?」

 

「…………アレだな」

 

 ならばとアレンは一点集中で対処しようとセラエノに聞くと、彼女はしばらくして指をある方向へと向けた。それは想定外の方向へと向いており、アレンは指先を追って上へと首を傾けた。

 

 遥か上空の彼方——。そこには他の部位と同じ大きさ、同じ色合い、同じ艶ではありながらも、たしかに他のとは違い『脈動』するという唯一の違いが微かに判別できる部位があった。

 

 いわば『核』というべき存在——。

 アレンの攻撃はすでに届かない領域。その手に持つ『ディクタートル』や、ニャルラトホテプが爆散した際に吐き出された『ジーガークランツ』とレンの『流星丸』ではどれも力不足だ。

 

 

 

 ——このままでは逃げられてしまう。

 

 そんな焦燥感がアレンの中で溢れる中——。

 

 

 

 

「でぇえええええいっ!!」

 

 

 

 突如として上空から黒髪の少女が流星のように駆けてきた。

 流星はその髪色に施された赤色のメッシュカラーも混じり、黒と赤の螺旋を描きながらニャルラトホテプの『核』へと迫り、勢いと共に棒状の金属を渾身の力で叩き落とした。

 

「くぁああああっ!?」

 

 ニャルラトホテプの絶叫が木霊して地べたに這いつくばる。爆散した際にあらゆる部位は切り離していたせいで無防備状態だ。少女の一撃でも、今のニャルラトホテプにとっては痛手であり、叩きつけられた『核』は陸地に上がった魚のように痛みにのたうつ。

 

「……やっと来たか。ラファエルのお気に入りが」

 

 少女の正体を見間違える者はこの場においているはずがない。その身姿は紛れもなくレンであり、若干能天気が入った気が抜けた年頃の瞳が証となる。

 

 その瞳から来る緊張感のなさは折り紙付きであり、レン本人も多少の間を置いて息を整えると「ねぇ!」と一つ呼びかけると——。

 

「つい勢いでこれ叩いちゃったけど大丈夫!? なんか変なギミックとか発狂パターンみたいなの起きないよね!?」

 

 なんて誰も気にしない事を心配してレンは狼狽える。

 その内心はニャルラトホテプ自体の見た目が、レン的には『某ファンタジーゲームの12作目に出てくるエレメントみたい』と思っており、下手に手を出したりすると何かしらの面倒な反撃を危惧しているという本人的な大真面目な物だ。

 それに対してミカエルは「大丈夫。問題なし」とキッパリ言うと、レンは「なら良かった」と安心して胸を撫で下ろし、今度はミカエルをジッと見つめて言う。

 

「えっと、どちら様でしょうか?」

 

「ミカエル・デックスだ。今はそれだけでいいだろう」

 

 ミカエルは呆れるような物言いながらもどこか親しげに、しかし説明が面倒だと言わんばかりに会話をキッパリ切ってニャルラトホテプの『核』を見つめる。

 

「終わりだ。この一閃さえ払えれば、お前は完全に焼失する」

 

 遺言など聞く耳を持たない——。

 そう言うようにミカエルは近づいて『パーペチュアル・フレイム』でニャルラトホテプの『核』を切り裂いた。

 

「がっ……ぐぁっ……! くそがっ……! ヴィラクスはどこだ……っ! 今こそ俺に奉仕すべき時だろうがっ!」

 

『生憎とヴィラクスはお前の支配から逃れてるぞ。執念じみた精神力と決意で『ドール』さえも解除してな』

 

 レンの胸元からマリルの声が響く。切り裂かれた影響で燃え続けるニャルラトホテプに一抹の希望に縋ることさえ許さぬように。

 

「どこまでもつまらん女めっ……! なら……っ!」

 

『おっと。あの鳥なら『ドール』がいなくなったことで、レッドアラートが対処している。お前のところには誰も来ることはない』

 

「くっ……!」

 

『さらに言うなら、お前が生み出した化け物もSIDが対処している。今この場においてお前の味方になる者は誰一人いない』

 

 ニャルラトホテプの『核』にある爛れた一つの瞳が周囲を見回す。

 地を這いつくばるニャルラトホテプを中心に、ミカエル達のサモントン組とアレンとセラエノ、それにレンが逃さないように取り囲んで見下ろしていた。

 

 今にも燃え尽きそうなニャルラトホテプに最大限の注意を払い、最後の瞬間をその目に捉えるために。

 

「ふふっ……! ははっ……! あはははは!!」

 

「何がおかしいんだ、畜生が」

 

 ミカエルの辛辣な言葉にニャルラトホテプは笑みを止めることはない。むしろ一層に、壊れたカラクリのようにカラカラと笑い続け、一頻り笑い終えると心の底から諦念に満ちた声で告げる。

 

「負けだ負けだ。俺の負けだ。ミカエル……お前がクトゥグアの炎を操れる理由は皆目検討もつかないが……それは次なる存在に任せるとしよう」

 

「次なる存在、だと?」

 

 ミカエルの疑問にニャルラトホテプは「ああ」と返す。

 

「我ら高次な生命体は一度死のうと、人の意思が『ニャルラトホテプ』を刻み続ける限り、何度でも『あの方』が誕生させてくれる。記憶と記録、両方を携えてな」

 

 つまりは『死者蘇生』——。

 一度死んだ者を蘇らせる禁忌——。

 

 それをニャルラトホテプは最も容易くできると言わんばかりの口振りにここにいる皆が戦慄を隠せない。

 

 同時にミカエルとレンは気づく。

 前者は聡明な知識を持って。後者は自身が経験しているからこそ気づく。

 

 

 

 ——奇しくもそれは、レンがベアトリーチェを復活させた時と似ている。

 

 アニーやハインリッヒ、そしてギンが『因果の狭間』に閉じ込められた時とは違う。止まった時間が動き出したバイジュウとも違う。

 

 完全なる死者蘇生を成した——。

 それは現状としてベアトリーチェだけなのだ。

 

 

 

 それは——。もしかしたら——。

 レンと、ニャルラトホテプがいう『あの方』の能力が——。

 

 

 

「いや、それさえもさせない」

 

 突如として響くアレンの声——。

 その両手には『ディクタートル』と、ニャルラトホテプが霧散したと同時に解放されて回収されていた『ジーガークランツ』——。

 

 それら二つが『黄金』の光を発してニャルラトホテプの核を蝕みながら突き刺したのだ。

 

「『ディクタートル』——。そして『ジーガークランツ』——。これらは元々オーガスタの武器だ。『黄金守護』なんて物は副産物に過ぎない」

 

「な、にがっ……言いたいっ……?」

 

「黄金守護はあくまでこの武器達が個々に持つ特性に過ぎない。二つ合わさる事で、オーガスタ本来の『能力』を間接的に俺が起こすことができる」

 

 オーガスタ本来の能力——。それを聞いてレンはある出来事を思い出していた。

 そもそも自分とオーガスタはどうして次元を超えて出会えたのか。ヴェルサイユ宮殿に保管されていた『インペリアル・イースター・エッグ』を悪戯に触ったせいとも言えるが、実際は異世界にいるオーガスタが『ある儀式』をしていたことも一つの要因だ。

 

 それは——。

 

 …………

 ……

 

『召喚獣たるもの、まずは忠誠を誓う相手に真名を伝える! この世の基本的な常識だろうが!』

 

 ……

 …………

 

「『召喚術』という名の『次元転移』だ。お前をどこでもない場所へとこれらは導いてくれる。……誰もいない寂しくて、悲しくて、退屈で孤独な世界にな」

 

「なんだとっ……!?」

 

 何故だか、アレンの言葉はレンにとって思い出したくない地獄を思い浮かべた。

 

 ——誰もいない寂しくて、悲しくて、退屈で孤独な世界。

 

 それはあの日見た地獄と重なって仕方がない。灼熱地獄と化した新豊州。その世界にもしも続きがあるとすれば、きっとそれは地獄を渡り歩くだけの心が打ち砕かれる光景に違いないとレンは感じてしまう。

 

 それをアレンは身に味わった声色で言う。だからレンは直感的に確信してしまう。

 

 

 

 ——その世界は、どこかにあったに違いない世界の話だと。

 

 

 

「そうすればお前は死なない。ただ別の世界に独りぼっちで取り残されだけだ。何の感情も抱けない…………お前が一番嫌うであろう世界にな」

 

「なっ……!?」

 

 そこで本当の意味でニャルラトホテプは焦りを見せた。『核』だけで表情を伺えるのは爛れた瞳と声しかないというのに、それだけで確信できるほどの焦燥感をニャルラトホテプは見せたのだ。

 

 それは次元転移されることに焦っているのではない。次元転移されることで、ニャルラトホテプ自身がどういう反応を示すことをまるで知っているアレンに驚愕と焦燥が入り混じっているのだ。

 

 

 

 ——何故こいつは俺の『根底』を知っている?

 ——セラエノが教えたでも言うのか?

 

 

 

 ニャルラトホテプは視線を泳がしてセラエノを見る。

 セラエノの表情は誰にも測ることはできない。いつも通りの無愛想な無表情。それはニャルラトホテプでも知っているいつものセラエノであり、その表情には『何かを伝えた』というどこか得意気な感じを匂わせる雰囲気はどこにもない。

 

 

 

 ——では何故アレンはニャルラトホテプを知っている?

 

 

 

 セラエノは嘘をつくことはできない。それはセラエノを知るニャルラトホテプと同等の生命体なら皆が知る共通認識だ。セラエノはそういう存在として現界しており、その在り方を変えることは決してできない。そういう生命体としてセラエノもニャルラトホテプもヨグ=ソトースも『五維介質』も存在している。そこに例外などない。起きてはいけないのだ。

 

 だからセラエノは嘘をつかない。決してセラエノはアレンにニャルラトホテプの在り方を一から十まで教えていない。

 

 

 

 ——だとすれば何故?

 

 

 

「これで終わりだ。次元の彼方に送って——」

 

「————■■=■■■■!!!!」

 

 ニャルラトホテプは叫ぶ。全身全霊の力を持って、空気を歪ませるような不快な音を世界に轟かせる。

 それは世界を侵す猛毒なる『情報』の塊だ。忽ちに世界が凍りついたように空気が澄んで、ニャルラホテプの叫びはどこまでも響いていく。何かに助けを乞うようにどこまで。

 

「なんだ、この声……!」

 

「この不快な声は……っ!」

 

 レンとアレンは共にその不快な音に耳を塞ぐ。他の皆も同様ではあるが、その二人だけが他とは違う反応を見せたことにニャルラトホテプは確信を得た。

 二人はニャルラトホテプの『音』を『声』と認識した。それをニャルラトホテプはどういう意味を持つのか。その二人の根底にある物を理解したのだ。

 

「……そういうことかぁ。お前は……お前らはそういう存在だったのか」

 

 ニャルラトホテプは笑みを溢すような愉快でご機嫌な声を出す。何も知らぬ無知なる者を嘲笑い、今後のことを夢想できる逸材があることが新たな混乱の引き金になることを期待しながら。

 

「今更どんな抵抗をしようと……っ!!」

 

『おいっ! そっちにあの化け物が向かっていったぞ!』

 

「なんだとっ!?」

 

 突如としてミカエルの無線にギンの声が届く。

 あの化け物とはSIDが相手にしていたイブ=ツトゥルに他ならない。ミカエルが「仕留め損なったのか?」と口にすると、ギンは否定して『仕留めること自体はできた』と口にして話を続ける。

 

『儂が死に体にしたからまともな抵抗もできるはずがないというのに……! 血も少ないのだから、仮に妨害するにしても指先を止めるくらいの小さなことくらいしかできんというのに……』

 

「小さなことくらい……っ!?」

 

 そこでミカエルは気づいてニャルラトホテプを改めて見直した。今のニャルラホテプは『核』だけとなり、その『小さな』物に値する存在となっているからだ。

 

「——おい、こいつの『魂』はどこだ?」

 

 そしてそれは的中した。ミカエルがニャルラトホテプを目に入れた時、そこには真新しい小さな血痕だけが付着した肉塊が転がっていただけだった。

 ニャルラトホテプの意識も魂もそこにはない。それを確信したミカエルはどこにいるのかと探そうとする時、その憎たらしい声は届いた。

 

『ははは! こっちだ、こっち!』

 

 声は上空から響いてきた。一同はニャルラトホテプを仰ぎ見る。そこには血が率先して魂を引き上げ、霧のように消えて逃げようとする忌々しいニャルラホトテプの姿があった。

 

『肉体ならいくらでも次元の彼方にでも送っておけ。ゴミ出しの手間が省けて助かるよ』

 

「……逃げるな。……逃げるな、この卑怯者がぁ!」

 

 その動向でレンは察した。ニャルラトホテプはすべてを置いて逃げるのだと。

 ウリエルの犠牲も、ヴィラクスを貶めたことも、その全てを自分は何食わぬ顔で放り出して恥丸出しの同然で、今この場で敵対する自分たちの前で堂々と逃げ果せる気だと。

 

「邪魔だっ、こいつ……!!」

 

 すぐさまレンは追撃をしようとするが、ニャルラトホテプとの間に巨体の残骸が阻んでレンの攻撃を止める。

 

 それは肉壁だ。イブ=ツトゥルの肉壁が決死の献身で止めているのだ。

 そしてイブ=ツトゥルだけでない。イブ=ツトゥルの身体からどこからともなく現れる化け物も死に体同然の身体で、ハインリッヒやアイスティーナといった他の皆の攻撃を押しとどめてくれる。

 

『よくやった、イブ=ツトゥル……。そのしもべである『ナインゴート』……』

 

「ふざけんな……っ!」

 

 レンの攻撃はそれ以上動きはしない。押しても引いても、爛れた肉壁となって攻撃を押し留めるイブ=ツトゥルの残骸がレンを離すことはない。懸命に押し留め、どこかに逃げようと霧のように消えていくニャルラトホテプのために尽くしてくれている。

 

 だというのに、こいつは——。ニャルラトホテプは——。

 いくら化け物であろうとここまで尽くした化け物を、さも当然のように犠牲にして逃げるというのか。

 

 自分だけが助かるために、その全てを切り捨てていくというのか——。

 

「……人間は手足を失ったら戻らないんだっ! お前みたいに自由に動くこともできないんだっ! だというのにお前はここから去るというのかっ! 何もしないままっ! 何も成せないままっ! お前の従者を全部犠牲にしてっ! 逃げるというのかっ!?」

 

『生きてるだけ偉いんだろう? 儲けもんだろう? 人間という者は。人間という社会は。それと一緒で、俺が生きて戻るだけで意味があるんだよ。生きてるだけで、意味は成すんだよ。それで十分じゃないか』

 

 ニャルラトホテプはレンの言い分を馬鹿にして笑う。

 それがレンの逆鱗に触れた。あまりにもウリエルと真逆の最後を成そうとしているから。

 

 

 

「貴様ァァアア!! 逃げるなァァアアアア!!」

 

 

 

 レンの中でウリエルの姿はチラつく。彼が最後にレンに託した言葉が脳裏に浮かびながら、自分が招いた結果を最後に精算して、最後までヴィラクスを思った独りぼっちで消えたウリエルの姿を。

 

 …………

 ……

 

『……一つ言っておくよ。ニャルラトホテプは一筋縄じゃいかないし、諦めも性根も悪い。一度逃したら、それは新しい戦いの……新しい犠牲者が出るってことだ』

 

『もうヴィラクスみたいな犠牲者はごめんだ。必ず……今ここで、ニャルラトホテプを倒すんだ』

 

 ……

 …………

 

「ウリエルを騙しっ! ヴィラクスを誑かしっ! サモントンを傷つけっ! ラファエルを貶めたというのにっ!! お前が犯した罪を何一つ精算させずに逃げるなァァアアアア!!」

 

 

 

 最後の最後まで自分を捨てて、ヴィラクスやサモントンを守り通そうとしたウリエルとは真逆の逃亡——。

 

 それは今の今まで、サモントンを巻き込んだ戦いに何の因果の決着も付けないということであり、レンにとってはこの荒んだ戦いは半ば『意味がない』と告げられたも同然の仕打ちだった。

 

 

 

「ァ……。ゥッ……。ァァアアアアアアア!!」



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第23節 〜言葉より、交わした想い〜

 ——ここはどこ? わたしはだれ?

 ——ここはだれ? わたしはどこ?

 

 

 

 少女は暗闇の中で夢を見る。

 それは過去なのか。あるいは未来なのか。もしくは別の世界の話なのか。それは少女には分からない。

 

 ただその夢は少女にとって深海に溺れるように息苦しく、光も差さない寂しい世界だった。

 

 

 

 ——なんでわたしはここにいるんだろう?

 ——なんでわたしはうまれたんだろう?

 

 

 

 少女は霞んだ記憶と記録を思い浮かべる。

 それは少女——『ラファエル・デックス』が歩んだ生涯としての夢だ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 時は2020年5月某日——。その日、ラファエル・デックスは誕生した。

 偶然なのか、それともそういう運命なのか。彼女は自身が後に持つ宝石『エメラルド』の誕生石と同じ月に産まれ、上の従兄弟であるミカエルとガブリエル共々教育係に育てられることになる。

 

「いないいない……ばぁ〜〜!」

 

 その内一人はモリスだ。まだ学園都市発足からの黎明期。

 後にサモントンとなるフランス王家の正統なる子女であるモリスは身分なんて何のその、現代での重苦しさ溢れる騎士甲冑ではなく品格溢れる慎ましくも煌びやかな服装で赤子のラファエルへの変顔を見せてご機嫌を取っていた。

 

「……ん〜〜。ばぁっ!」

 

「仏頂面のままよ、モリス」

 

 モリスが何度も感情豊かな変顔を見せるが、それでもラファエルは表情を崩すことなく、隣でまだ2歳のガブリエルをあやす若かりし頃のセレサが呆れながらも笑う。

 

「どうすれば笑ってくれると思う、凛ちゃん?」

 

「凛ちゃん言うなっ!」

 

 ラファエルの産まれた頃——2020年ということは、それはまだ『七年戦争』が始まる前でもある。

 まだセレサが『町田凛子』を名乗っていた頃でもあり、モリスがまだ皇女として活動していた頃。二人は同年代ということや、モリスが今みたいな厳粛な雰囲気とは違って人懐っこい性格ということもあり、二人はデックスの子育てを手伝うという名目で互いの一面を知ることになる。

 

 モリスは皇女としての印象操作の一面や本人の気質もあって。

 セレサはただ単に王族であるセレサのボディーガードとして。

 

 たったそれだけのキッカケだったが、子育てを請け負うことで二人の距離は急接近することになる。

 セレサからすれば今までお高くしていた存在であるモリスが、デックスの子供との相手を機に「どうすればいいの!?」と慌てふためき、涙目寸前で縋ってきたことに内心「なんだ、この可愛い生き物は」と親近感が湧いてしまったのだ。

 

 結果として二人は意気投合し、今では身分など関係ない気を許し合う仲となり、モリスから気さくに『凛ちゃん』と呼ばれることになる。

 ちなみに流石のセレサもその渾名は恥ずかしく、これがきっかけで『セレサ』に改名する一因になったりもするのだが、それはモリスも知らない私事。

 

「でも凛子って呼ぶのも今更他人くさいよ」

 

「アンタが一方的なだけでしょうが。貴族なら貴族らしく、偉そうに飯食ったりしてなさいな」

 

「私って不器用だからね。品よく踊ったり食べたりするの性に合わないの。こうして子供の面倒見る方が楽ちん〜〜♪」

 

「皇女が口にしていいことじゃないわよ……」

 

「まあ、そういうところが好きなんだけど」とセレサは柔らかい笑みを浮かべると、モリスは「私もそういう素直なセレサが好きだよ」と言い返す。

 

「皇女様、イチャイチャもほどほどに。リンリンも少しは立場を弁えろ」

 

「リンリンも呼ばないでくれる……?」

 

 親しげに談笑する2人に、金髪の女性が焔色に揺らめく髪を靡かせた少年か少女かも見分けがつかない子供を片手に話しかけてくる。

 彼女は皇女モリスの側近の1人。名は『リア・ド・ボーモン』という人物だ。ラファエルが記憶している限りでは、その手で握る子供ミカエル・デックスの当時の教育係であり、当時のフランス王家において秀でた諜報力と戦闘力を持ち、まだ『位階十席』という階級が設立する前の『ローゼンクロイツ』における組織の長。つまりはモリスの前任者となる人物だ。

 

 彼女の存在こそが『位階十席』における『執行者』などの二つ名を持つことになった要因でもある。

 その実力は当時はまだ若輩者ではあるが、セレサでも手も足も出せずに何度も模擬戦で打ち負かされ、また礼節と騎士道精神を重んじる高貴さからフランス王家から唯一無二の名誉ある二つ名を襲名したのだ。

 

 授けられた称号は『騎士(シュヴァリエ)』——。

 モリスの『聖騎士』という襲名も、リアの『騎士』から来てもおり、こと元フランスであるサモントンにおいて『騎士』というものは神聖で高貴に満ちた最高位の権威を持っているのだ。

 

「リア! ミカエルは……」

 

「ご覧の通り予防接種完了だ。今年の流行病はこれで完璧……ミカエルも泣かずに我慢できて偉いぞ」

 

「いたかったよ。なきたいくらい」

 

「あら?」と気の抜けた顔と声を漏らすリア。かたや涙も不満を堪えて目を赤く腫れさせるミカエル。当時のミカエルは確かに聡明で達観した価値観はあったが、年相応の未熟な面も持っていた。サモントンで特別視されるような存在には程遠い人物だったのだ。

 

 こんな当たり障りのない幸せな毎日だというのに、どうしてモリスもミカエルもセレサも変わってしまったのか。何よりモリスとセレサの頼れる姉貴分であるリアが現代においていないのか。

 

 

 

 そんなのは決まりきっている——。

 私が育って数年後に起きた『七年戦争』——。

 

 その日を境に、皆に変化を及ぼす惨い戦争が原因だ——。

 

 

 

『逃げて、皇女様っ! ここは私達『ローゼンクロイツ』の精鋭が抑えますっ!』

 

『私も護衛しますっ!』

 

『リンリンはデックスの子供達を非難っ! 及びに皇女様の護衛っ! 誰かが守っていないとダメだっ!』

 

『だったリアが逃げてよっ! 私が代わりに前に立つからっ!!』

 

『……そういうわけにはいかない。上の者が先陣に立たなければ、組織というものは成り立たない。今ここで私が逃げれば、私と皇女様と子供たちは確かに助かる。だけど、それでは組織の指揮が下がり、残る民の大多数を助けることができない、それじゃあ意味がないんだ』

 

『なら先陣に立つなら皇女の務めです! 私が犠牲になれば、組織を維持しながらリアも凛ちゃんも子供達も逃げることができます!』

 

『それもいけない。いつか来るフランスの復権……。その日まで皇女様がいなければならない。人というのは暗闇を歩むことができるほど強くはないんだ』

 

『……いやだ』

 

『それでも暗闇の先を目指せるのは『光』があるからだ。フランスの象徴という光……。その光である皇女様は、ここで無くすわけにはいかない』

 

『……いやだ! リアさんは私たちが幼い頃から一緒にいて……っ! お姉ちゃん同然の存在なのに……っ!』

 

『だったら尚更行ってくれ。妹を盾にするようなお姉ちゃんにはなりたくないんだ』

 

『……わかりました。……行くよ、モリス』

 

『いやだっ! 行きたくないっ!』

 

『行くしかないんだっ!! 子供たちも巻き込まないためにも早くっ!!』

 

『——ありがとう、リンリン。さようなら、皇女様。貴方が冠を戴くところを見たかった』

 

『リアッ! リアッ!!』

 

『——死を以てしても、挫けぬ心が胸にある!! さあ『ローゼンクロイツ』よ! その身を盾に、その血を剣として祖国に捧げるのだっ!!』

 

 

 

 リア共々、皇女の護衛隊はそこで我が身を盾にして皇女モリスとセレサ、そしてデックスの何名かを発展途上の学園都市へと運んだ。

 モリスの目の前で血潮に舞う護衛隊。暴走する悪意と、無慈悲に飛び交う質量兵器。弩級に発せられる灼熱はまだ幼いミカエル、ガブリエル、ラファエル、それに赤子のウリエルを庇ってモリスがその背を癒えぬことない火傷跡を刻んでまで守り通してくれた。

 

 

 

『リアッ……! どうして……っ!』

 

『モリス……』

 

『……民を守れずして何が皇女かっ! 私は光であっても陽光じゃないっ! 酷く弱い電光程度の光だっ! 飾り物の権威に……頼りない光に、何の価値が……っ!』

 

『……間が悪かっただけだよ。神の気まぐれ……って言えばいいのかな』

 

『なら何故神は救いにならなかったっ!? 罪があるものは救わないのっ!? なら無力な私を裁けば良いっ! 私が犠牲になればみんな救われるなら、喜んで私の命も魂も神に捧げるっ!!』

 

『…………それは』

 

『分かってる……。神はいる……。けれど神は決して救わない。無辜なる民を救わない。信じる者しか救わない……っ!』

 

『……そうだよね。モリスは私より聡いよね。自分で答えは……知っちゃうよね』

 

『そんな神に、何の価値がある……っ! 神に価値を求める私に何の意味がある……っ! 私に……私にどんな価値があるっていうの……っ!』

 

『…………』

 

『凛ちゃん——。…………私、決めたよ。私は神を否定するために、神を肯定する。神様は何もしない。神様は手を出さない。なら、どうか手を貸さないでくださいと』

 

『…………』

 

『だから私が神様に代わって人を助ける。神様としてじゃなく、犠牲となった人々の先導者として……咎人として強くなる。数多の犠牲は私にあると。その犠牲に価値があると示すために』

 

『……アンタがそういうなら、私も強くなるよ。私も……不甲斐ない『町田凛子』も今ここで殺す。私もモリスと一緒に……『セレサ』として罪を背負うよ』

 

 

 

 

 そこで幼いラファエルの記憶は一度途切れる。

 モリスが変わり、セレサが過去の自分を捨てて『執行者』として歩んだ地獄への一歩。

 

 光となる『皇女』という権力者としての地位をすべてデックスに渡し、経歴もサモントンの内部の有力者以外には知られぬように改竄して、今度そうなるならば自分がリアと同じ立場になるために『聖騎士』へと身を置いた。

 

 そこが始まり。ラファエルの暗い記憶の始まり。

 幼くてもラファエルの記憶に刻み込まれた惨劇。

 

 そこでラファエルは無くしたのだ。

 自分の安らぎを。自分の国を。自分の姉貴分を。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 時は経って『七年戦争』終結から数年。ラファエルが10歳の頃の話。

 戦争の復興から幾分か経ち、国家が解体されて学園都市として誕生したサモントンは他国とは違い、戦争後とは思えないほどに緑豊かで穏やかな国となり、そんな平穏の中でラファエルは育っていた。

 

「おーい、ラファエル〜〜。ミカエル兄さんからバイク借りてきたぞ〜〜」

 

 戦争後の影響もあり、モリスとセレサは組織の戦力として訓練に明け暮れており、そうなると誰がラファエルの教育係になるのか。

 それは既に最低限度の教育課程を終え、ミカエルと違って政治的には手を空いてるガブリエルが担当することになった。

 

 だがガブリエルだって教育係なんてものは初めてだ。「どうしようかなぁ」と頭を抱え込み、結果として行ったのが『バイクで市内を回ろう』という後のラファエルのアウトロー気質の雛形となる行為だった。

 

「……ガブリエルお兄様12歳ですよね? どう考えても無免許なんじゃ……」

 

「私有地なら免許なんていらないぞ。だから教習所で運転の勉強ができるんだ、覚えとけ」

 

「お兄様、回るのはサモントンの市街地です。私有地じゃないです」

 

「サモントンは実質デックスのもんだろう」

 

「三権分立の意味とはいったい……」

 

 自由奔放なところがあるガブリエルにラファエルは幼くも今でも抱える頭痛の種である。しかし、その捉えようがない部分と融通が効く部分はラファエルにとって良い刺激となり、彼女自身を暗い生活を彩ってくれた。

 

 何故なら平和なサモントンでも『七年戦争』の後処理は深刻な問題だった。

 食料が豊富ということもあり、戦争で棄民となった人々をどの学園都市よりも多く受け入れてしまった。その影響で思想の違いでいざこざで人々が争い合い、また他国の食料問題を解決するための輸出港の建造、統治するための宗教や司法の見直しなどといった下積みを形成するのに日々多忙で殺されるような環境にあったのだ。

 ある意味ではガブリエルのアウトロー気質は、その司法が機能しないことに裏返しといってもいい。

 

 その多忙さが影響でラファエルだけでなく、デックス全体が親子関係は冷え切ってしまった。サモントンの政治の中心となるのが祖父である『トマス・デックス』を筆頭にしたデックス家全体が行っていたことだからだ。

 

 与える愛情はある。受け取る愛情もある。ただそれをする時間がひたすらになかった。余裕を与えなかった。

 

「……従兄弟とはいえ、こうしてどこかに行きたい時は俺に頼れ。血は同じじゃなくても、俺とお前は兄弟以上に兄弟だからな」

 

「……はい、お兄様」

 

「俺だけじゃない。ミカエル兄さんも顔には出さないが、誰よりも愛情深くて君のことを大切にしてくれている。それに幼いけどウリエルだっていつかは誰かに頼りたくなる。その時はお前が支えないといけない」

 

「……うんっ」

 

「だから……もう泣くな。俺がお前の親となって支えてやる」

 

 同時にデックスは研究者や技術者としても秀でた存在であり、国外への出張することも多かった。学園都市同士の繋がりを強固にするために、互いの政治や文化などの現地に赴いて把握することでより円滑な協力関係が結べるからだ。

 

 そのためラファエルは家では一人きりでいることが多かった。

 清掃員と調理係としてハウスキーパーとして雇っている数名のメイドだって雇われということもあり、距離感があってラファエルに接してくれるはない。

 

 暗がりの屋敷に1人きりで食事をする。それがどれほどラファエルにとって寂しかったか。だからラファエルの食事は喧騒なとこを好む傾向があった。食事とは本来楽しい物であり、それを少しでも共有したい、理解したいという気持ちが根底にあったから。

 

 それでもラファエルは待った。暗がりの屋敷で食事を済ませ、自分の額へと温かな手を置いてくれる親の帰りを。そんな些細な触れ合いだけが、唯一ラファエルにとって安心と幸せを感じる瞬間だったから。

 

 

 

「だから……もう泣くな。俺がお前の親となって支えてやる」

 

 

 

 だがラファエルの両親は不幸な事故で死亡してしまった。

 理由は単純。外交のために国外に飛んでいたラファエルの親を乗せた旅客機が墜落したからだ。

 

 原因なんてよくあることだ。エンジンに異物混入して発火による爆発。それによって機体コントロールを失って墜落。たったそれだけのことでラファエルの親は帰らぬ人になったのだ。

 

 

 

「よし、到着だ。ここがお前が行きたがってた美術館……戦争前では三代美術館と数えられていた『ルーヴル美術館』だ」

 

 

 

 そんな悲しみに暮れるラファエルをガブリエルは懸命に支えてくれた。行きたいところにはどこにも行かせ、彼女の悲しみを少しでも無くし、肩代わりしようと2歳年上とは思えないほどに献身的に。

 

 だとしてもラファエルはまた無くした。

 自分の親を。自分の幸せを。自分の安らぎを。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 さらに時は経ち、ラファエルにとって変革と運命の年となる。

 

 そう——それは12歳の時——。

 湖に落ちた際に見た記憶の年だ——。

 

 落ちた理由なんて些細なものだ。湖の淵で水遊びをしていて、たまたま足を滑らせて落ちてしまった。それだけだ。

 

 だけど同時に不思議なことでもあった。その湖は岸辺付近では膝が浸かるほど浅くて、滑って落ちただけでは溺れるわけないのだ。

 

 だというのにラファエルは湖に落ちた。湖の底の底へと。その湖は地上の光が指すほどの深度しかないというのに、光も届かぬ深い水の底へと落ち続けたのだ。

 

 ああ、私はこのまま死ぬんだろうか。それでもいいか。

 愛してくれた親もいなくなった。狭苦しくて堅苦しいデックスの箱庭と檻に飼われるだけの変化のない人生。戦争の影響で表面化した人々の悪意と弱さ。見るに堪えない惨劇にラファエルはほとほと人生に呆れてもいた。

 

 なら、もういいや——。

 これ以上『美しくない物』は見たくない。そんな『美しくない物』に変わろうとしてしまう醜い自分なんて受け入れたくない。

 

 芸術家は死して初めて名を残すともいう。

 だったら、今ここで私は死んで至高の芸術になろう。それだけが私に残された最後の在り方なんだから。

 

 

 

 そこでラファエルは再び無くした。

 今までの自分の生き方を。自分そのものを。

 

 

 

 人生とは失うことの連続だ。それをラファエルは悟った。

 国を失い、リアを失い、親を失い、愛を失い、心を失い、自分を失う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………でも私は生きていた。何で生きてきた?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い出せない。それ以降の記憶が何も思い出せない。

 大事な記憶があったはずなのに……。大事な何かがあったはずなのに……。

 

 

 

 ラファエルの記憶の中で霞んだ人影だけが思い浮かぶ。

 愛くるしい馬鹿面。いちいち面白い反応を見せる豊かな感性。そして忘れたくない黒髪と赤メッシュの呑気な笑顔。

 

 

 

 ……あなたは誰? 思い出せない。とても大切な人なはずなのに。

 

 

 

 そんな暗闇で夢想する中、ラファエルの視界にいつぞやの湖と同じように『光』が差し込んできた。自分が魔法を使う時と同じ『暖かい光』が。

 

 

 

 ——そうか。あなたにあいたいんだ。

 ——あなたに、あいたいからうまれたんだ。

 

 ——だから、もう一度私をその光で掬い上げて。

 

 

 

 ——私は、レンに会いたい。

 

 

 

 

 

 ……

 …………

 ………………

 

 

 

 

「ラファエル……。もう一人じゃない」

 

 光から覚めたラファエルの目の前に、今にも泣きそうな慈悲深い顔で愛しい馬鹿面がいた。

 意識を覚まして朧げな表情を見せるラファエルを、決して離さないためにレンは痛いほどに強く、壊れるほどに強くラファエルを抱きしめて離さない。

 

「お前が魔女ならば、俺が魔王になればいい……。終わったんだ、戦いは……」

 

 ラファエルは抱きしめようとするが、手も足もまるで自分じゃないように動かない。先ほどまで異形となって暴走していたのだから当然とも言えるだろう。その暴走はレンがラファエルを見つけたことで既に終わっているが、その代償は決して軽くはない。

 

 感覚で分かる——。

 足が痩せ細ってまともに歩くことさえできない。手はミイラのように干からびて這うこともできない。皮膚の感覚も鈍感でレンの体温も、押しとめながらも溢れる涙の感触も伝わらない。

 

 

 

 それでも——。繋いだ心だけが私に暖かさを届けてくれる。

 

 

 

「…………キザなセリフ。らしくないわよ」

 

 

 

 相変わらずの憎まれ口。それがレンにとってどれほど嬉しいことか。

 ひどく懐かしく感じる互いの温もり。力なく倒れるラファエルの安らかな寝顔をレンは愛しそうに抱きしめ続ける。

 

 

 

 こうしてサモントンの騒動は一段落した。

 多大な犠牲の末に各々に残ったのが、新たに増えた癒えない傷と消えぬ怨恨と後悔があったとしても。



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第24節 〜誰がために〜

「はい、ラファエル。りんご剥いたから口開けなさい」

 

「くっ……私がニュクス相手にこんな無様を晒すなんて……」

 

 サモントンの騒動から数日後。バイジュウやエミリオの時みたいに、いつぞやにお世話になった新豊州の病院にてアニー、ニュクス、俺の三人はラファエルの見舞いに来ていた。

 

 ベッドで横たわるラファエルの顔色は非常に悪い。入院患者用の服も、その顔色も相まって死装束みたいだ。無事であると分かっていても見ていて不安になってしまうほどに。

 

「なによ、このブサイクな剥き方。無理にウサギに切る必要もないわよ」

 

「悪かったわね、慣れてなくて」

 

 ニュクスとラファエルはいつも通りの喧嘩腰みたいな会話で日常感があるが、実際に患ったラファエルの症状は深刻だ。

 

 愛衣は「命の別状はないから安心して」と言っていたが、異形となって暴走状態した後遺症として手足がほとんど機能しなくなってしまった。

 そのせいで今のラファエルは頭部以外は動かすことができず、その手足もラファエルお得意の回復魔法で治せる範囲ではないという。理由は筋肉が致命的に老人以上に落ちているというだけで、怪我ではないかららしい。

 

 とはいっても手足が治らないわけではない。

 順調にこのまま回復していき、然るべき段階に入ったら回復魔法で神経を適度に刺激してリハビリを重ねれば、普段なら年数単位で掛かるリハビリも半年ぐらいで完了するとのこと。

 

 …………まあ、その間は『治癒石』や回復魔法は一切頼れないわけだが、普通に考えたら外傷を一瞬で治せるラファエルの魔法に今まで頼りすぎていたんだ。人の傷なんて、心身ともに時の流れと共に消える物だというのに。その理を今まで無視してきた。

 だから『OS事件』や今回のサモントン騒動……通称『SD事件』では常に回復魔法に頼った付けが今ここで精算されているんだ。

 

「凛ちゃん、仲良く入院生活ですね」

 

「懐かしいよ、そのあだ名。まあ、しばらく睡眠生活できるのは私にとって幸せなことよ」

 

 それは同室で入院中モリスやセレサも例外ではない。

 モリスは身体を酷使するために摂取していた薬物中毒の治療のために。セレサはニャルラトホテプによって砕け散った右半身の治療のために。

 

 モリスは軽症で今は多少の幼児返りをしており、このまま安静にしていれば数週間で元に戻るとのこと。

 むしろセレサの方はラファエルより深刻だ。右半身の粉砕骨折なんて全治としては半年。そこからリハビリとかも含めれば一年も掛かり、しかも以前のように運動できるか怪しいという。実質的な戦闘能力の減少は組織運営する『ローゼンクロイツ』にとっては痛手であろう。

 

「……ヴィラクスはまだ寝ていると」

 

 そして、その『ローゼンクロイツ』の最高組織——セレサも所属する『位階十席』の一人であるヴィラクスも同室で入院中だ。こちらも命に別状はなく、セレサと違って骨折などはないが、酷く疲労で昏睡状態となっている。

 

 しかも愛衣曰くただ寝てるわけではなく、脳波は長期間もレム睡眠の状態を指しており、とどのつまり長い『夢』を見ているとのこと。

 

 それはニャルラトホテプによる影響なのか、魔導書の影響なのか、それとも何か別の因果なのか。それ自体は分からない。

 分からないが分からないなりに最低限の対処はしており、ヴィラクスの側には護身用としてミカエルが使用した武器である『パーペチュアル・フレイム』を置いてある。ミカエル曰く「これはニャルラトホテプ専用の特攻武器だ。当たれば誰が使おうとひとたまりもない」と断言するほど強力らしく、恐らくヴィラクスは大丈夫ではあるはずだ。

 

「……まあ、何であれ……」

 

 ——全員無事で良かった、なんて言えない。だってウリエルは犠牲になってしまったのだから。

 

 それに理由はどうあれ、元々は『方舟基地』での実験の最中にガブリエルが魔導書を持ち出した罪もある。それに加担したアレンもセラエノもそうだ。その三人は仲良くSIDの施設にて拘束され、現在は事情聴取をされて事の細かい経緯やアレンには『天命の矛』などのあれこれを聞き出そうとしている。

 

 ……とはいってもアレンは黙秘をしており、セラエノはアレンについては「私もよく知らないまま付いてるだけだ」と供述して進展なんてないのだが。

 

「しかしラファエル、思ってた以上に元気だよね。入院患者とは思えないくらいに……何か良いことでもあった?」

 

「そりゃあるわよ。筋肉諸共、肉という肉が極限に落ちて体重20キロ減よ。乙女として喜ぶべきことでしょ」

 

「いや、そこまで落ちたら逆にダメでしょ……」

 

 なんて気の抜けた乙女トークを繰り広げるアニーとラファエル。体重管理は重要だけど、それ以上に大切なのは体調管理なんだけどな……。

 ヴィラは見た目から分かるが、アニーだって野球をやってたことで見た目以上に筋肉がある。しかもSIDでのエージェント訓練も毎日熟してるからお尻周りというか、下半身のハリが俺でも分かるくらいに発達している。

 

 それでアニーは普通の女子よりも体重が重めなのだが、それでもスレンダーボディと健康体を維持している。そこのところは俺もラファエルも見習ったほうがいい。

 

「それに……レンが私を見つけてくれたしね」

 

「ふーん、レンちゃんにねぇ」

 

「…………ちょっとくらい何か反応しなさいよ、レン」

 

「……………………あっ、俺っ!?」

 

 あまりにも自然に『レン』と呼ぶから反応できなかったぞ!? 普段からこの毒舌緑色お嬢様は『女装癖』や『馬鹿』としか呼ばないから、突然にレンと呼ばれても自分の名前として認識できなくて耳を通り過ぎとぞ!?

 

「いや〜〜……。その……慣れないな。名前で呼ばれるの。あと違和感が……」

 

「そう? ラファエルって割とレンちゃんを名前で呼ぶ気が……あれ? でもそれって……あっ、そっか!」

 

「そ、それは今はいいでしょう!?」と慌てふためくラファエル。

 だが残念。そこまで含みを持った言い方をされれば、俺はその理由について何となく察しがつく。しばらくはそのネタでラファエルを揶揄うとしよう。

 

「慣れないならいつも通り呼ばせてもらうわよ、女装癖」

 

「すごい落ち着くのが、それはそれで嫌だな……」

 

「わがまま言わない」

 

 まあ、ラファエルが元気ならそれでいいか。頭部しか動かせないなんて暇で仕方ないだろうに……。

 ラファエルの音楽性に合うかは別問題だけど、今度見舞いに来る時は俺が保有している高崎さんのCDとか持ってこようかな?

 

「思ったんだけどね……。なんでレンは……女装癖は私を助けてくれたの?」

 

「え? それ聞くこと? 友達だから助けたいと思わない?」

 

「……自分で言うのも難だし、自覚してるなら直せと言われそうだけど、私って口がキツいでしょう?」

 

「別に口臭ならキツくないぞ?」

 

「口臭のことじゃないわよ。ほら、アンタも思ってるでしょ。ラファエルは毒舌だ〜〜とか、ラファエルは言葉に配慮とか遠慮がないな〜〜とか」

 

「でもそれがラファエルなりのスキンシップでしょ? 犬や猫の甘噛みみたいな」

 

「この私を犬猫と同じ扱い!?」と驚くラファエル。普段から家畜扱いされるんだから、そのお返しと思って頂こう。本人も自覚してるみたいだし。

 

「……なんであれ、そんな感じよ。私が言いたいことは。……自分でもちょっとどうかと思うくらいには私なんて付き合うのが難儀な存在だと思うのに……なんで助けてくれたのかなって」

 

 まあ正直に言えばラファエルの口の悪さなんて一年間も付き合っていると、その真意ぐらい分かってくるし……。意味さえ分かれば別に傷つくことはないし、もうラファエルの個性なんだから逆に言われないと不安になる。キレッキレの罵倒文句がないと落ち着かない。

 

 ……とか何とか言っても納得してくれないのも目に見えてる。そんなことも分かるくらいには俺とラファエルの付き合いは長い。もちろん、アニーとだってもそうだ。俺たちの間では嘘や建前も当然として、本音なんてものも通じない。知りたいのはもっと深層心理とかにある真実の言葉なんだ。

 

 だから考え込んでしまう。

 なんでラファエルを助けたのか——。その根底にある物が何なのかを考えてしまう。

 

「そりゃ——」

 

 けれど答えはすぐに出た。難しい理由なんて何もない。友達なんだから…………それは第一の前提として存在している。だがそれだけじゃない。

 

 俺は約束したんだ、ガブリエルに。今まで独りぼっちで、誰にもなれないラファエルの側にいてほしいと。ずっといてほしいと。

 

 だから決めた。俺自身で決めたんだ。

 最後までラファエルの側にいることを——。

 

 そんなことを思いながら、どうやって言葉にしようと悩みながら視線を皆に合わせると、どうしたことか各々面白い顔をしていた。

 

 アニーは鳩が豆鉄砲を食ったように目を見開き、ニュクスは驚いて梅干しを口にしたような唇を突き出し、ラファエルは珍しく顔を真っ赤にして黙ってしまい、モリスとセレサはニマニマと艶のある笑いを浮かべて見つめてくる。

 

「……何故にこのような空気に?」

 

「…………えっとレンちゃん。気がついてないから言うんだけど……途中から口に出してたよ、思ってたこと」

 

「…………どの辺から?」

 

「最後までラファエルの側にいること、あたりから」

 

 …………よし、一度深呼吸しよう。そして叫ぼう。

 

「ぁぁあああああああああ!!!!!!! 恥ずかしいっ!! むちゃくちゃ恥ずかしいこと言ったぁぁああああああ!!!!」

 

「こっちのセリフよ、馬鹿っ!! あんな大胆に……っ!! もっとこう……シチュエーションとか雰囲気というか……告白するのにも……」

 

「ラファエル、落ち着きなさい。レンちゃんのことだから友達として言ってるに決まっているでしょう。それに女の子よ? ……まあ恋愛観なんて人それぞれだけど」

 

「あんたは知らないようだから言うけどね! こいつ男だから!」

 

「はいはい、そうね。レンちゃんは確かに男っぽいところあるわよね〜〜」

 

「真面目に聞けっ!」

 

「いやぁ……いいよね、凛ちゃん。ああいう関係も」

 

「そうねぇ〜〜。若さ溢れるというか、青臭いというか」

 

 ……まあ、結局はどんな傷跡を抱えてもいつも通りの日常へと戻ることができたのだから良しということにしよう。

 

「……で、レンちゃん。実際のところはどうなの? この際だからラファエルのことが好きなのかどうか聞きたいな〜〜♡」

 

「猫撫で声でマリルみたいな凶悪なこと聞くなよ!? ますますマリルに似てきてないか、アニー!?」

 

「男なら逃げない。小声で私だけに言うだけでもいいから」

 

「えっと……その……す、好きというか……何というか……一緒にいて落ち着きはする……」

 

「……思ってた以上に小っ恥ずかしいこと口にしたね」

 

 …………でも事態は急速な変化を迎えている。

 逃げ出したニャルラトホテプ……アイツがいる限り、また同じことが起きる可能性は十二分に高いのだから。何としてでもこちらから動いて今度こそニャルラトホテプを倒さなければならない。

 

 順調に強くなっていても、まだ俺は弱い——。

 もっともっと強くなって、今度は誰も傷つかないように強くなりたい——。

 

「ちょっと2人ともっ! 私に内緒でなに話してるの!?」

 

「「な、なんでもないですっ!! はいっ!!」」

 

 ……まあ、それを考えるのはまた後でいいだろう。今はこの守りきれた平穏と、求めた世界をただただ充実するとしよう。

 

 それが——父さんと母さんに向けられる俺なりの親孝行だから。

 今日も俺は元気です、って——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「さて……これが今回の『SD事件』における損害のまとめか」

 

 一方その頃、SID本部にて——。

 そこにはマリル、ミカエルの二人が話し合っていた。音声だけではあるがレッドアラートを貸し与えたマサダのパトリオットもおり、レン達は違う重苦しい空気を漂わせながら端末へと指を走らせる。

 

「……サモントン全土の27%が壊滅か。農作用の土地も大規模な被害にあっている。27%の内、農地は17%、都市部は8%、デックスの所有地2%か……」

 

『都市の3%はレッドアラートの被害だ。これについては心から謝罪しよう。もっと出力を制御できるように技術部と話し合うとする』

 

「気にするな。レッドアラートがなければ『ドール』やあの鳥…て『シャンタク鳥』によってサモントンの被害はより大きくなっていた」

 

『心遣い感謝するよ』とパトリオットはミカエルに告げるが、当のミカエルは何の表情も変えることなく、ただ事実を受け入れるだけ。自国の事であるはずなのに何の関心も抱いてない有様にマリルは疑問が募る。

 

 そしてそれは——。もう一人ここにいない人物にも言えたことだった。

 

「……しかし何故こんな事態にデックス総督は顔を出さない。並ぶ力を持つとはいえ、ミカエルがいるのは些か他国に対する無礼ではないか?」

 

「祖父は忙しい身でね。今は第一学園都市の『華雲宮城』で研究に必要な資料を集めているんだ」

 

「資料? ……『モントン遺伝子開発会社』での記録にあった『占星術師』のことか?」

 

「そう。祖父はそこで彼女と会っている。『観星台』というところでね。君たちも聞いたことはあるだろう」

 

 ——『観星台』という単語はマリルの脳裏を貫いた。

 

 確かにその言葉は聞き覚えがある。『OS事件』の際に回収した『柔積水晶』から解読できた内容にあった一部だ。

 場所も不明。画像から建材を特定しようにも不明と謎だらけだった情報の一つだ。一応は『観星台』そのものは、古来中国より存在している物であり、それを辿ってマリルは華雲宮城にSIDの調査員も派遣してこともあるが、そういう情報など微塵もなかったと記述されていることを覚えている。

 

 

 

 ——だというのに、ミカエルとデックス総督は『観星台』について知っている? 

 ——しかも、こちらがその情報を予め知っていたかのような口振り。

 

 

 

「……ミカエル。お前はどこまで知ってるんだ? それにあの『パーペチュアル・フレイム』という武器……異質物武器にしては許容できる力を遥かに超えている。お前は一体……」

 

 マリルからの問い——。

 それに対してミカエルは、あらゆる男女を堕とす蠱惑的で妖艶な笑みを浮かべて告げる。

 

「——すべては神のみぞ知る。それが天使長からの啓示さ」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 一週間後——。新豊州の某病院にて——。

 ヴィラクスの目が覚めたということで面会することになった。

 

 ただちょっと面会については特殊なことになっている。ヴィラクスは個室に移動していて、今回の面会に限ってはバイジュウと俺だけにしてほしいとヴィラクス本人からの申し出があったとマリルが言っていた。

 

 いったいどんな話があるのか。そう言うことをバイジュウと共に話し合いながらも、予め伝えられた病室へと顔を出した。

 

「元気か、ヴィラクス? これバイジュウと一緒に選んだ見舞品なんだけど……」

 

「私からは本を何冊か。レンさんから腰痛防止のクッションです」

 

 我ながらセンスがないよな……品というかなんというか……。

 でも役立たないよりかはマシだと考えておこう。ヴィラクスも自然な笑みを見せて「ありがとうございます」と言ってくれてるし。

 

「ですが……それよりも大事なことがあります。まずはそれをあなた達に伝えなければなりません」

 

「私とレンさんにですか?」

 

 急を要する言い方。どうやらそれほど重要な話なようだ。

 だけど何故バイジュウと俺だけなのか。そこには何かしら意味があるということは理解しているが……果たしていったいどんな内容なのか。

 

「……以前、私が話した『記憶共有』の能力は覚えていますか?」

 

 言われなくても覚えている。俺が男の時にしてた秘事や、女の子になってから興味を持って観察してしまったこととか……そりゃもう枕で顔を埋めたいくらい恥ずかしい記憶を赤裸々にされましたとも。

 

「『SD事件』から私は長く眠っていましたが……その間に一つの夢として、ある人物の『記憶』を見ていました。この『魔導書』に触れたことのある過去の人物の誰かの記憶を……」

 

 ある人物の夢——?

 魔導書に触れたことのある過去の人物の誰か——?

 

 それは経緯的に『OS事件』にいた誰かということになる。

 だとすれば、あの音声データを残してくれたドルフィンという人物の記憶だろうか? それともドルフィンが言っていた魔導書を手に入れたことで救世主となった女性だろうか?

 

 …………いや、そんなことなら俺たちを呼ぶ必要はない。マリルに伝えとけばいいだけだ。ならば俺たちが呼ばれる理由がある人物の『記憶』を見たということになる。

 

「……その『記憶』には、ある基地での戦闘が写っていました。記憶の持ち主はその手に銃を握り、最後まで親友のために戦い……その命が尽き果てるまでの間に、本来の目的を果たすために基地の奥まで行きました」

 

「本来の役目?」

 

「ええ」とヴィラクスは頷いて話を続ける。

 

「記憶の持ち主の目的は『ある生物の調査報告』——。しかし、目的を遂行した時にはすでに『ドール』に囲まれていて……最後には言葉にするにも恐ろしい無惨な姿となって死に絶えました」

 

 言葉にするのにも恐ろしい無惨な姿——。そして『魔導書』に触れたという人物——。

 その二つの言葉を繋ぎ合わせ、そこで俺は『OS事件』での音声データにあったある発言を思い出す。

 

 

 

 …………

 ……

 

『異質物研究として最初に運搬されたのは一つの魔導書と、一人の被験体だった。被験体の心臓は既に止まっていて、顔もグシャグシャで見るに堪えない姿だったのは今でも覚えている。遺体の身体は時が止まったように綺麗だったのが被験体にとって幸いだったのか……。そんな状態なのに被験体の脳波は微弱な信号を出しつけていたんだ……。まるで『魂』が叫ぶように……』

 

 ……

 …………

 

 

 

「……待って」

 

 そこでバイジュウはあることに気づいたかのように震えた声で言う。いや、言葉を何とかして吐き出したと言った方が正しいだろう。それほどまでにその声は重苦しく霞んでいた。

 

「その『基地』とは——。まさか——」

 

「ええ。ご想像の通り……南極での『スノークイーン基地』のことです」

 

 南極——。スノークイーン基地——。

 それはバイジュウにとって何があっても忘れることができない氷結の記憶だ。

 19年前——いや今から数えれば20年前の悲劇にとってバイジュウは長い長い眠りについて現世に帰ってきたのだ。ありとあらゆる物を置き去りにしてしまって。時の忘れ物として手放してしまって。

 

 その記憶はバイジュウにとってはトラウマでもあり、俺たちSIDですら滅多に言ってはいけないと口を固くしている。だからそれが関係者以外の耳に入ることなんて基本ない。南極での騒動は伝えてはいても、その詳細やバイジュウの過去までは口外してはいない。

 

 だというのにヴィラクスはそれを口にした。その『記憶』からバイジュウの過去を断片的に知ったのだ。

 それはつまり——。ヴィラクスの見た『記憶』の持ち主は『20年前のスノークイーン基地にいた誰か』の記憶に他ならない。

 

 ——『南極』の『スノークイーン基地』での惨劇。

 ——それによって死に絶えた人物。

 

「そして記憶は続きます……。長い時を超えて、その記憶の主はある光景を刹那の夢のように見ました」

 

「刹那の夢……」

 

「ええ。そこにはバイジュウさん……あなたがいました。あなたを助けようと守ろうと、儚い夢でも構わないとある少女の身体を借りて異形の存在へと立ち向かいました」

 

「その少女って……」

 

「はい。そこにいるレンさんです」

 

「ならば——。その記憶の持ち主という人物は——」

 

「はい——。その記憶は間違いなく——」

 

 言われなくても答えは分かってしまった。

 南極での騒動を知る人物。基地に訪れた理由を遂行しようとした者。それと関わりがあるのが俺と……いや、バイジュウと俺だから呼ばれたこと。

 

 

 

 

 

 そこに当てはまる人物の記憶なんて——。

 一人しかいないじゃないか——。

 

 

 

 

 

「バイジュウさんの親友——。『ミルク』さんの記憶でした」




 いつものくぅ疲w を言って、シリアスな雰囲気も長くなりましたがこれにて第五章【失楽園】は完結です。
 
 ニャルラトホテプは逃げられ、多大なダメージを負うSID。何も得ることがないまま、傷ついただけかと思いきやヴィラクスから告げられるミルクの記憶。
 果たしてそれはいったいどんな内容なのか。そしてそれはどのように物語に影響するのか。それは今後のお楽しみです。

 というわけで次回の更新は11月1日からとなります。
 閑話も挟まずにちょっと長く取りますが、リアルというか、お絵描きの勉強やR-18SS第二弾を並行して進めるとなるとどうしても時間が必要になりまして……本当にごめんなさい。

 ではここで筆を一度置かせて頂きます。
 まだまだ世知辛い世の中ですが、皆さんも今後も健康で元気で過ごしてくださいませ。

 次は前後編のサモントン編と比べ、箸休め的な短い章となりますので15節ぐらいになります。
 また視点の都合上、次章ではレンちゃんの出番が非常に少なめになります。つまり次章は主人公が一時的に交代するわけですね。

 それでは次回、第六章【狂気山脈】にてまたお会いましょう。
 


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第六章 【狂気山脈】
第1節 〜氷結の夢〜


 ——『魂』とは何か?

 

 

 

 意識を記録した、ある種のエネルギー体か。

 それとも観測できない量子状態的な存在か。

 

 あるいは『魂』とは単なる概念の一つかもしれない。

 

 物理学における『時間』の概念と同じく……。

 

 ただの幻覚………………『夢』。

 

 ならば唯一の問題は————。

 夢を見ているのは————。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 これは一つの夢——。

 時の残滓が記した少女の末路——。

 

 少女は走る。波のように押し寄せる恐怖と狂気から離れるために、全身全霊で息も絶えるほどに走り続ける。

 

 身体は動く? まだ動く。

 肺は動く? まだ動く。

 足は動く? まだ動く。

 

 ならばまだ動ける。動き続けて自分の成すべきことを成さないといけない。

 

「少しでも……少しでも時間を……っ!」

 

 少女は自身が手にするライフルとハンドガンの残弾数とマガジンを一瞥して確認する。

 ライフルの残弾数は10発。マガジンはあと一つ。

 ハンドガンの残弾数は5発。マガジンはあと二つ。

 

 通常であれば心許ない程度で済むが、少女の現状ではあまりにも頼りなさすぎる戦力だ。少女の背後には人の形をした化け物——現代で言う『ドール』が追ってきており、それら相手に銃火器など無意味だということを少女は既に知っている。

 

「だけど目眩しくらいなら!!」

 

 少女は走りながらハンドガンを二つの標的へと向ける。それは基地内で設置されている消火器と防災スプリンクラーであり、それらを一撃ずつ撃ち抜いて誤作動させる。

 

 スプリンクラーからは雨のように水が降り注ぎ、消火器からは炭酸ガスと共に、消火の薬剤であるリン酸アンモニウムが刺し穿たれて暴れる蛇のように噴き出る。

 それにより少女は一転して霧にも近い白色の靄に包まれ『ドール』の追跡を撹乱させる。

 

 続いて即座に非常用のシャッターも下ろして通路を絶つことで『ドール』が迫るのを物理的に防ぐ。

 だが、それもほんの少しの時間しか稼げない。『ドール』の力は暴徒が100人集まるよりも凶悪であり、みるみるとシャッターはその強靭な力で形を歪ませて少女の命を奪おうと迫り来る。

 

「落ち着け……落ち着け……っ!!」

 

 少女は壁の配電ケーブルをライフルで無理矢理こじあけて取り出すと、その手にある端末へと繋げてハッキングを開始して基地内のマップと自分の現在地を把握する。

 

「今がここということは……この道を通って……下に降りると……」

 

「よし」と言って少女は端末からケーブルを乱雑に抜き取り、ライフルの最後のマガジンを装填して走り出す。少しでも長く時間を稼ぎ、自身の目的を果たすために。あわよくば自身の部隊が得た情報を少しでも解読して残すために。

 

 走る走る——。

 出口なんてない狂乱の基地を走り続ける——。

 

 身体は動く? まだ動かせる。

 肺は動く? まだ動かせる。

 足は動く? まだ動かせる。

 

 少女は呼吸さえままならないほどに走り続ける。少しでも早く管制室へ辿り着くために、温度管理設定さえ故障して極寒の空気が身体を中から氷柱を刺すように凍てつかせようとも走り続ける。

 

 だが、少女の行先には希望はない。

 視界の果ての果て。そこにはすでに回り込んでいた『ドール』の集団が、少女がいた舞台の仲間であった何人かの生首を乱雑に引き摺りながら少女へと迫り来る。

 

 恐怖で足がすくんだ。一歩踏み出そうと、一つ呼吸をしようにも鉛がつけられたように重くて身体が反応してくれない。

 

 

 

 身体は動く? 動かない。

 肺は動く? 動かない。

 足は動く? 動かない。

 

 

 

 ——心は?

 

 

 

 ——動く。動かす。動かせ。

 

 

 

「——こんなところで……死んでたまるかぁぁああああああああああああああ!!」

 

 

 

 少女はなけなしの覚悟と弾を撃って交戦する。

 例え相手に銃弾が効かないと分かっていても、自分がこれからどんな凄惨な目に遭うかも幻視しておきながらも、それらすべてを呑み込む覚悟をして少女は走り出した。

 

 瞬間、世界は霞む——。

 ここは少女の記憶だ。少女が傷付けば、その分だけ記憶も霞み、世界の輪郭は鈍ってしまう。

 

 世界が再度鮮明になるまで少しの時間が経った。

 どうやら今まで気絶してしまったらしい。目を覚ました時には視界には『ドール』はいなくなっており、端に映る壁には夥しい血痕が広がっている。

 

 

 

 ——良かった。生きて、いるんだ。

 

 

 

 少女は身体を動かそうとする。だが動かない。動くことはない。

 それは当然だ。何せ意識を覚ました時には、少女の身体は見るに堪えない姿に変貌しているのだから。

 

 指先は離れて挽肉状に。手の骨は砕けて煮崩れたハンバーグの様にぐちゃぐちゃに。腕も足も首も腹も繋がっておらず、出来損ないの人形を蝋燭で溶かしたような醜悪で無惨な転がっているだけ。

 

 それはもう顔以外は人間であったはずの肉片でしかなかった。

 だというのに少女は生きている。それは一瞬の命の輝きなのか、それとも幻なのか。この際、少女にはどうでもいい。

 

 まだ動かせるなら動かせ。頭だけ無事なら歯で地面を這ってでも動き続ける。

 慣れない動作と激痛で何度も何度も噛み合わせを悪くして、何度も何度も顔を地面へと強打した。その度に鼻の骨は折れ、歯茎は取れて血を垂れ流し、少女の太陽の様に明るい顔は燻んでいく。

 

 いつしか鼻の骨は皮膚を貫通し、眼球へと到達した。もう右目にさえ骨が突き刺さって視界もままならないというのに少女は動き続ける。もう動くこともできないのに動かそうともがき続ける。

 

 

 

 身体は動かない。動かせない。

 肺は動かない。動かせない。

 足は動かない。動かせない。

 

 

 

 ——それでも心だけは、動いている。

 

 

 

『ミルク——』

 

 

 

 傍で、ただ見守るしかできない『眠り姫』の声など届くことなどないまま少女は動き続ける。行き場のない心は、死に場所さえも超えた先を目指して動き続ける。

 

 …………夢はいつか覚めるもの。

 故に『人の夢』は『儚い』のだ。



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第2節 〜冷暖自知〜

第六章は15節ほどでお送りいたしますが、ここ最近イラスト制作で目覚ましい成長を感じて創作割合を思わず間違えてしまい、予定よりもストックを貯めるのが少なくなってしまいました。

現在6節までしかストックがなく、余裕を作るために第4節以降から一週間に一回の更新になってしまいますが、しばらくの間付き合いくださいませ。

それと中国の規制で、公式からの魔女兵器の続報が不安でいっぱいいっぱいですが、それでも私は元気です。


 苦く辛い『SD事件』から半月が経過した。

 ラファエルとセレサはマッサージで筋肉を刺激し、モリスとヴィラクスは安静状態で今日も大人しく天井のシミを数えるほどにリハビリは順調だ。

 

 レンとアニーは学園生活を兼任しながらもSIDの訓練に明け暮れ、ギンは教官として2人を毎日扱き倒し、ヴィラは建設現場でアルバイトをし、エミリオは市内の飲食店を回り、ハインリッヒは相変わらず引きこもって研究し、ソヤは時空位相波動解決の時々にストーカーをこなし、イルカとシンチェンとハイイーは仲良く自宅で遊び倒す。

 

 

 

 そんな中、バイジュウは新豊州から離れて『ある場所』へと足を運んでいた——。

 

 

 

「……またここに来ることになるなんて」

 

 

 

 そこは南極——。

 バイジュウにとって苦い記憶しかない忌み嫌う『スノークイーン基地』跡地の入口前。そこで彼女はいつぞやの時と同じように銃剣を携えて立ち尽くす。

 

 バイジュウの脳内で深海のような暗い記憶が何度も何度も繰り返される。

 20年前——バイジュウからあらゆる物を失わせた惨劇。自分の命さえもあやふやとなり、長い長い眠りと夢の末にレンの手によって現世に戻ってくることはできた。

 

 そしてバイジュウはこの20年間、何があったのかを自分の身一つで世界の事情を知ろうと数多の空と海と大地を凍てついた姫君として渡り歩いてきた。

 世界があまりにも傷だらけとなり、国としてまともに機能しているのは指で数えるほどしかなく、学園都市の管轄から一歩でも外に出れば、そこは地獄しかないことを。

 

 しかし、そんな中でもバイジュウは一箇所だけ訪れていない場所があった。

 それが『南極』だ。彼女は自身の無力を呪い、嫌悪して蓋をするように今まで見ないようにしてきた。いや、それはもう逃げていたと言った方が正しいだろう。

 

 だけどもう逃げることは許されない。向き合う日がバイジュウにはやってきたのだ。それをレンとヴィラクスが教えてくれた。

 

 レンは『OS事件』での異形との一戦。ミルクと魂が溶け合うことで異形を打倒する奇跡を起こしてくれた。

 ヴィラクスは『SD事件』での一連で固着した『魔導書』を通した副次的な効果として得た『記憶共有』による言伝で——。

 

 

 …………

 ……

 

『バイジュウさんの親友——。『ミルク』さんの記憶でした』

 

 ……

 …………

 

 

「ふーん……。ここが例の基地かぁ……」

 

「……なんで貴方も来ているのでしょうか、ファビオラさん」

 

 しかし、その隣にはバイジュウとは縁が薄いはずなのに桃色眼鏡バトルメイド系女子ことファビオラもいるという奇怪な状況だ。

 言いたくはないが、いくらSIDの仲間とはいえ人間関係は合う合わないはあるし、任務や業務の内容次第では関わらない人物がいるのが組織社会というものだ。

 

 バイジュウにとってファビオラとはそれに値する人物であり、コミュニケーション能力が著しく低いバイジュウからすれば、彼女の現代文化の塊のような姿見は「あっ、はい。そうですか」と知識豊富なバイジュウでさえ語彙力が乏しくなるほどに何とも距離感が測り難い人物なのだ。

 

「なんでって……。ヴィラクスはそのミルクという人物から、ある事を聞いたそうじゃないですか。私にとって、とても大事なことを」

 

「……いったいどのような?」

 

 だからバイジュウは受け手側の会話をしてしまう。

 これでも西暦換算なら36歳のアラサー。かたやファビオラは今年18歳のヤングウーマン。倍も離れてるのに腰が引けた態度で接してしまうことにバイジュウは何とも言えない情けなさを感じた。

 

「『まあ、何にせよ。あなたがこっちに来るのは早いよ。それにその『魔導書』は大事な物なんだ。エクスロッドのお嬢様曰くね♪』……と」

 

 しかしファビオラが口にしたのはバイジュウにとっても大真面目なことだ。

 確かにヴィラクスはそう口にしていた。ミルクの記憶で見た本人の顔と擦り合わせて『SD事件』で幻のように見た顔はミルク本人であるとも言っていた。

 

 つまり『エクスロッドのお嬢様』——。スクルドはミルクと面識があるということである。

 

 であれば、二人はいつ知り合ったのか。そんなのは考えるまでもない。

 スクルドの年齢は12歳。南極での事件が起きたのが20年前であり、その時にはスクルドは産まれてない。そして南極での出来事でミルクは消息不明となって、今はヴィラクスの記憶とレンの魂に刻み込まれた存在となっている。その空白の20年の間にスクルドとミルクの間が繋がる接点などありはしない。

 

 だとすれば知り合った場所は一つしかない——。

 

「それが本当ならお嬢様……スクルド様はミルクと一緒にいるということになる」

 

「ええ。レンさんも一度『門』の奥で2人を見たとも言っていましたし……まず間違いないでしょう」

 

 レンが目にした『ヨグ=ソトース』を退けた後に出現した『門』の奥で二人はあったということになる。

 

 それがどういう意味を持つのか。そこまでの真意は測れないが、スクルドが「『魔導書』は大事な物なんだ」と口にしたのだ。

 

 あの——『未来予知』ができるスクルドが口にしたのだ——。

 

 ならばそこには必ず重要な意味があると、仕えていたファビオラには確信があった。

 そんな時にバイジュウがミルクのことを今一度調べるために南極の『スノークイーン基地』跡地へ行くという情報を小耳に挟んだのだ。

 

 何の因果か——。はたまたそういう運命なのか——。

 そこでファビオラは決意したのだ。バイジュウの後について行こうと。

 

「……で、何を調べの来たの?」

 

「えぇ……そこからですか?」

 

 バイジュウは困惑した。あまりにも直情的過ぎて何の考えもなかったからだ。

 

「そもそもとしてSIDがここの基地については調べたはず。今更私達が調べようとも、新しく発見できるほど組織としてザルなわけないし……。いくら貴方が天才少女と呼ばれようと、こと諜報力に関しては無理でしょう」

 

「まあそうですね。だから、ここに来たのは初心に帰る……おさらい的な意味合いもあります。振り返ることでしか見えない景色もあるかもしれませんし……」

 

「誰に向けてるか分からない配慮だこと」

 

 そう言いながら二人は『スノークイーン基地』内部へと足を踏み入れた。

 調査後とはいえ元々は廃棄された重要施設だ。今でも警備は厳重であり、通路の一々にある黄色と黒で印字された『KEEP OUT』という文字を超えて内部を散策する。

 

「……そういえば私はアンタとは深い関係じゃないから、ここで起きた話について詳しくは知らないのよね。……話したくないから無理に話す必要はないけど、私にその事を教えてくれる?」

 

「……大丈夫ですよ。そもそもの始まりは20年前……私が深海で『ある生物』を見たことが引き金となりました」

 

 バイジュウはファビオラの願いに応えて語り出す。20年前の南極にて、自分がどういう経緯を辿ったのかを。

 

「私がいた部隊はそもそも南極での海域にある生物、鉱石、あるいは古生物の化石などといった異質物技術発展の黎明期として足掛かりになる研究材料を調査するのが主だった理由でした」

 

「主だった理由ね……」

 

「ええ。目的にしては武装が充実してましたし……きっと何かしらの秘匿していた目的はあったに違いありません。とはいっても誰も見当がつかないので、調査は命令通りに進めていましたけど」

 

 ファビオラは内心で「どの組織も前からキナ臭い部分はあるのか」と半ば呆れながらもバイジュウの悲痛さが滲み出る声を聞き続ける。

 

「そんなある日、潜水艦で深海の底まで調査しようとしたら……巨大な『目』持った生物がいました。セラエノ曰く『古のもの』という存在らしいのですが……」

 

「『古のもの』……」

 

 そんな言葉にはファビオラは心当たりがない。どんな文献にも記載があった覚えはないし、生物図鑑などでそんな仰々しい名前を見ていたら嫌でも覚えてしまいそうなほどに尊大だ。

 心当たりがないということは本当にどこも見たことも聞いたこともない物だとファビオラは整理し、一先ずはバイジュウの話を聞き続ける。

 

「なんであれ調査によって得た情報を整理するために潜水艦を一度浮上させて私は部隊と合流しました。だけど仮設本部だけでは深海で見た生物の情報は正確に捉えることができず、一つの見解を求めて……忌むべき場所となる『スノークイーン基地』へと足を運ぶことになりました」

 

 そう言いながらバイジュウは壁を撫でる。『スノークイーン基地』との過去をなぞる様に、優しいような憎しいような、それら二つが混じった指つきで。

 

「そこで起きたことは……言葉では言い尽くせません。確かに言えることは、あの日で私はすべてを失いました。自分の仲間を、命を…………親友を」

 

 正確にはバイジュウの命と身体は水槽の中で丁重に保存されていたことをファビオラはあえて指摘しない。人間とは基本的に四種類に分類される物だとファビオラは今までの経験則から考えているからだ。

 生きているか、生きていないか。死んでるか、死んでないか。バイジュウのその中で四番目に値してるだけだ。死んでないだけで、人間としての価値は19年間も氷のように冷たく固まってしまった。どうであれ実質的な意味ではバイジュウの命を失った発言などに間違いなどないのだ。

 

「19年間、長い夢を見てました……。そして……目が覚めた時には……初めての友達となるレンさんと出会い、救われました」

 

「あれ? ミルクは初めての友達じゃないの?」

 

「ミルクは親友ですから……。そんな言葉で表すのじゃ足りないくらい私にとって掛け替えの無い存在なんです」

 

「親友以上って……」

 

 つまりバイジュウにとってミルクは『絆』とかそういうもっと固い関係で結ばれた人なのだろう。そのことが言葉だけでも伝わってくる。

 

 ファビオラにとって、それは痛いほどに分かった。

 まだスクルドと出会う前の話。身寄りのない自分を拾ってくれた人には今でも敬意と尊敬を忘れたことはない。その人はファビオラにとって家族以上に大切な存在であり、それを言葉で表現するにはバイジュウがミルクに持つ『絆』と同等であると自信を持って言える。

 

「……ここまでですね。私の話は」

 

「私の話は?」

 

 確かにそれ以上は話すことはないだろう。目覚めた時点で現代であり、それ以降は記録だけで簡単に詳細を閲覧することができる。

 バイジュウは見識を広めるために各国を回り、9ヶ月ほど前に起きた『OS事件』と同時期に戻ってきた。その後はSIDの監視の下で『スティールモンド研究センター』に配属。彼女が到達した『魂を視認する能力』を活かし、その『魂』をエネルギーとして利用できないかと研究に明け暮れている。それはファビオラでも知っていることだ。

 

 だが、バイジュウの言い方はそんな感じではない。次に繋ぐための橋渡しのような言い方なのだ。

 

「ええ。私が話したのですから、ファビオラさんも話してください。貴方とスクルドの経緯を……いったい何があったのかを」

 

「うわぁ、清楚で物静かな佇まいくせに狡い女……。まあ、そういうのは好きだけどね」

 

 ほぼ初対面故にお互いのことは知らないといけない。それをバイジュウもファビオラも知っている。だからどちらとも歩み寄る姿勢が大事なのだ。互いの胸に

 

「私とお嬢様は主従関係にある…………だけではありません。私はメイドの中のメイド……スーパーメイドとかバトルメイドと呼ばれる存在としてお嬢様をお守りしていたのです」

 

「でもメイドですよね? もえもえきゅんきゅん言うんですよね?」

 

「あんた、割とズレてるとか天然って呼ばれない? あと突っ込んでくれない? バトルメイドってないですよねとか」

 

「え? でもレンさんが渡してくれた漫画にいるメイドは銃火器を撃ってたような……?」

 

「それ別のファビオラね、イグレシアスね。漫画は漫画、フィクションなの。あまり間に受けない」

 

「へー」と本当に感嘆に漏らすバイジュウの姿を見て、ファビオラは内心「この子、基本インテリなのに所々アホだ」と懐かしさを覚えながら確信する。

 

 バイジュウはどこかスクルドに似ている——と。

 スクルドは生まれもあるが、その能力ゆえに年齢にしては達観しすぎた知識と理解があった。だからこそニューモリダスで起きた『暗殺計画』を本能的に予感した時にはどこか納得してた様にレンに話したのだ。助けてとか、怖いとか何も言わずに。

 

 それはバイジュウにも言えることだ。

 いくらレン達がいるとはいえ、19年後の世界——それも異質物研究によって飛躍的に向上した科学力と、それに相反する世界情勢を見て不安と恐怖で混乱したに違いない。そして同時に理解してしまったに違いない。異質物を前提とした世界の未来はあまりにも先が細いということを。

 バイジュウは聡明だ。いくら知識があり、自信が持つ能力が他と比べて異様な部分があること分かっていても割り切ってしまう氷のように判断力がある。故にバイジュウは世界を巡って理解しただろう。バイジュウ達がいた19年前の痕跡は時の忘れ物となり、バイジュウ達がいたという証は様変わりした世界のどこにもないということを。もう過去にしかないということを。

 

 それでもバイジュウは懸命に前を向き続ける。時には振り返って南極での悲劇を思い出すだろう。不甲斐ない自分を悔やみ、手放してしまった絆を手繰ろうともがき苦しむだろう。

 それでも彼女は進む強さを持つ。後ろを向いていようと、後ろに歩けば前に進むことを聡明なバイジュウは知っているから。

 

 だからこそファビオラはどこかで思ってしまう。この儚さを、この触れたら溶けそうな淡さを今度こそ守りたいと。スクルドと同じ目に合わせたくないという庇護心を持って。先に生きる者としての責務として。

 

 しかしバイジュウさん、これでも西暦換算なら36歳。ファビオラさん、今年で18歳。それでバイジュウはいいのだろうか。それは誰にも分からない。ファビオラは口には出さないのだから。

 

「……まあ私とお嬢様に関しては私から言えることは少ないわね。どうしてもお嬢様について踏み込まなきゃいけない部分があるし」

 

「……もしかしてスクルドも、私やファビオラと同じように何かしらの『能力』を持っているのですか?」

 

「まあ、それくらいなら肯定しておく。だけどそれをお嬢様が教えてくれたのは本当に大事な人達だけ。親と私と……それとレンね」

 

「…………少ないですね。それだけ教えられた人は信頼関係があるということでもあるとはいえ」

 

「ええ。だから私からはお嬢様のことについては教えられない。教えられるけど、お嬢様の能力を私から口にできない以上は、貴方自身がお嬢様に認められて『能力』を教えてもらわないとね……」

 

「ごめん」とファビオラは一言謝る。それだけスクルドの能力は他とはあまりにも違う異質中の異質な能力だから。

 

 スクルドの能力——。それは正真正銘の『未来予知』という物だ。

 だが、その能力自体は決して便利な物ではないとスクルド本人は口にしていた。

 

 世界の記録が予めスクルドの脳内で無意識に渦巻いており、その記録に法則性もなければ、時間軸の結びもない。

 つまりは自身とはまるで関係ない誰かの未来が見えるし、そもそもとしてその誰か自身が今いる人物とは限らないのだ。千年後の誰かの未来かもしれないし、千年前の誰かの未来かもしれない。あまりにも汎用性がなくてスクルド自身が「別になくても困らない」と口にしたほどに。むしろ変にデジャブを感じるせいで気苦労の方は多かったとも。

 

 しかも『未来が見える』とか『未来予知』というが、そんな具体的にハッキリ見える物ではない。ある出来事を見てデジャブを感じる——その瞬間にスクルドは世界の記録を記憶として感じ取るだけなのだ。

 記憶は記録ほど当てにならない。個人の認識なんてものは軽く変わってしまうのだから。柔軟が故に記憶なんてものは最も容易く細部を変えて本人の脳内で居座りつく。それが記憶という物だ。

 

 そんな信頼のないどこかで得た記憶を見て、ようやく未来予知したのではと思う程度——。とてもじゃないが使い道がなさすぎる。本人がなくても困らないと言っても無理はないだろう。

 

「……しかし喋りながら話してたけど、一向に手掛かりらしい物は見つからないわね」

 

「ええ……。資料と照らし合わせても、その結果に違和感はありませんし……これ以上は無理なのでしょうか」

 

 バイジュウの声が失念の色に染まっていく。もう少しで届くミルクとの繋がり。それが今にも消えそうな、断たれてしまいそうなのも見えてしまえば不安になるのは仕方がないだろう。

 ファビオラは「落ち込むには早い」とバイジュウの背中を力強く叩くと、懐からチョコレートスナックを2本取り出して言う。

 

「一旦休憩しましょう。ここは南極なんだし、適度に休憩挟まないと」

 

「……そうですね」

 

「じゃあ、とっか適当に暖でも取ろうか。携帯食ならまだ何個かあるし……」

 

「でしたら私が仮設本部で借りてる一室に行きましょう。『スノークイーン基地』の入り口から出てすぐ側ですから。スノーモービルで5分ほどです」

 

 そう言うことからお言葉に甘えよう。バイジュウからの提案にファビオラは頷くと、チョコレートスナックを分けて互いに齧り付く。

 

 ひたすらにしつこく甘いチョコレート。子供が好きそうな甘ったるさにファビオラも幻視する。

 もう少しで届くスクルドの繋がり。絶対に手放さず、手繰り寄せて今度こそ守り抜くと。



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第3節 〜氷炭相愛〜

「……私をどこに案内すると言いましたか」

 

「えっと……私が住まわせてもらってる仮設本部の一室です……」

 

「どう見てもゴミ部屋なのですが……」

 

「……やっぱり?」

 

 入室して早々、ファビオラは目を疑う光景を目の当たりにした。

 積み重なった資料、資料、資料…………。まるでブラック企業に勤めるサラリーマンのデスクのような現状にファビオラはただ頭を抱えるしかない。

 

 幸いにも足の踏み場があるだけマシというべきなのだろうが、逆にそれがファビオラの逆鱗に触れた。

 入り口周りからデスクまでの道は確かに散らかっていて何をするにも億劫になる。しかし生活空間の中心、謂わばベッドやソファの周辺だけは最低限に小綺麗なのがバイジュウの性格の片鱗が見えていると言っていい。

 

 

 

 つまり断捨離ができないタイプの散乱とした部屋なのだ——。

 このバイジュウという女は片付けができないのではなく、片付けをしない女ということにファビオラが内心で怒りの炎を激らせているのだ。

 

 

 

「貴方これでよく生活できますね……」

 

「わ、私が新豊州で住まわせてる住居は綺麗です! 信じてくださいっ!!」

 

「いや、問題なのは今ここだから。客人招いておいて早々にお片付けとは……」

 

「片付けてないでくださいっ! 物の位置が分からなくなりますっ!」

 

「そんなことに記憶のキャパシティ割くなっ!」

 

 いや、むしろ『完全記憶能力』を持ってるからこその弊害なのだろうか。バイジュウは人並外れた記憶力と聡明さのおかげで研究者としては一流の面がある。

 しかし同時にそれは、バイジュウの汚部屋面整理を怠けさせてる一因でもある。どこに何が物があるか普通なら忘れるし分からないのだが、バイジュウはその性質で忘れることもないし、考察することである程度物の位置を分かってしまう。

 

 場所が分かってしまえば、探すための環境作りをする意味など薄い。結果的に片付けを行わなくなり、本人的には物探しには不満がない汚部屋が完成するわけだ。

 

「まあ南極だから仕方ないけど、食生活も出来合い品ばかり……。栄養もサプリで補う……。貴方、見た目の割に雑……」

 

 しかもプラスチック容器やアルミホイル容器も所狭しと散開している。キッチン周りは特に酷く、ここが新豊州なら小蝿やゴキブリが発生してもおかしくないほどに容器が散らばっており、悪臭がないのが不思議なほどだ。

 

「ゴミの片付けをしてないのは意図的でして……。現代では絶滅種として認定されてますが、ここ南極では希少な『ナンキョクユスリカ』という『飛べないハエ』の種族が生き残ってる可能性があって……そのためのエサというか……」

 

 バイジュウは今年で17歳。ファビオラは今年で18歳。

 一見すれば年上に気を使われてる微笑ましい光景なのだが、バイジュウは西暦換算すれば36歳となるので、こうなると一転して情けない大人を世話する子供の出来上がりだ。

 

 メイドたる者、ただでさえ出不精で不摂生なバイジュウを見ては放っては置けない。

 一念発起。ファビオラはどこからともなく火炎放射器を構えた。自身の能力を応用した発火も消火も変幻自在の異質物武器をバイジュウへと突きつけたのだ。

 

「バイジュウさん、とりあえず断捨離です。大事な物だけ取っておいてください」

 

「ええっと……そこには十二年前の新聞の切り抜きがあるからダメで……。そちらには力士シールの複製品……。そういえばここには生産中止したラッピング袋があって……」

 

「……なるほど」

 

 ファビオラの銃口はバイジュウから離れ——。

 その照準を、使い捨て食品容器と紙束へと向けられた。

 

「大型燃えるゴミッ!! ファイアーッッ!!」

 

「私のアンティークコレクションがっ!?」

 

「うるさいっ! 炭になりなさいっ!!」

 

 

 …………

 ……

 

 

「ううっ……。さようなら、私のアンティーク……」

 

「一般的に価値のある物は取っておいたでしょうが」

 

 2時間後。一般的からは少し下がるものの、ようやく落ち着ける居住空間を得たファビオラはとりあえずは『ゴツ盛りベーコン&ベーコン弁当』という、いかにも土方系の出来合い品を2人前を電子レンジへとぶち込み、電子ポッドで予め沸かされていたお湯を注いでココアとミルクティーを砂糖を必要以上に淹れておく。

 

 本当は手料理を振る舞ってこそメイドという者ですが——。と内心ではファビオラは思ってはいるが、自分には何故か破滅的に料理をしてはいけないとスクルドやレンから口を酸っぱくして言われており、何より南極での料理方法は一切知識がないの遠慮しているのだ。

 

 南極での食事は通常とは異なる。マイナス30°という感覚が麻痺して一転して暖かくも感じかねない極寒の世界では、人間の体温や栄養をこれでもかと刈り取っていく。

 そんな中で活動するには尋常ではないエネルギー摂取が必要であり、その目安が『最低でも6000キロカロリー』と成人男性が取るエネルギーの通常の4倍近くと桁違いに高い。だがそれでも痩せかねないほどに極めて過酷な世界が南極という大陸なのだ。

 

 もちろんバイジュウは体質で体温変化はなく、ファビオラは自身が持つ『炎』の魔法で体温維持することは可能だ。

 しかし、それは本人自体の体調が万全でなければ意味がない。ならば保険を掛けるのは当然であり、こうしてファビオラは女子には高すぎるカロリーであるベーコン弁当を食べるし、いつもより飲み物には砂糖を過剰に入れているのだ。

 

「……甘いけど、意外といいわね」

 

「はい。これはこれで……」

 

 のほほんという擬音が空間から出るほどに、二人はまったりと過ごす。特に弾むような会話もなく過ごすだけに、温め終わった電子レンジの音はやけに響き、それに二人は少しばかり可笑しく感じて微笑してしまう。

 

「細い身体の割には食べるのね」

 

「一応は組織上がりですからね……。食べれる時に食べれるようにする訓練は受けてますし……」

 

「あぁ、その辺は私と似てるのか……」

 

 今度は二人して山盛りのベーコン、さらに山盛りのベーコン、そして山盛りのベーコンといったご機嫌な胃もたれを起こしそうな食事を進めていく。口直しにはタッパーに入っていた山盛りのキャベツを口にしていく。

 

「さてここに戻った本題に入るんだけど……。南極で起きた件について、おかしなところがあるってどんなところ?」

 

「……これです」

 

 そう言ってバイジュウは自身の腕に付けている腕時計を見せた。

 

「なにこれ。ただの腕時計じゃない」

 

「そう、ただの腕時計です。何の変哲もない……だからこそおかしいんです」

 

 その腕時計はバイジュウの親友、ミルクが残した腕時計だ。

 既に音声データは抜き取っていて、データそのものは別の端末に移している。そのため腕時計自体にはもう何も残っておらず、バイジュウが言う通り何の変哲もないただの腕時計となっていて、その価値をファビオラにはそれ以上見いだせない。

 

「南極での事件は先程話した通りです。私の夢が現実へと侵食して……夢が終われば、すべてが幻だったかのように消えたとのことです。監視カメラも、壁の崩落も、レンさんの前に立ちはだかっていた『ドール』達も……」

 

「……なるほどね」

 

 そこでファビオラは理解する。

 バイジュウが目覚めたことで夢として消えた『20年前の南極での出来事』——。その中で『何故か消えなかった』親友の腕時計——。

 

 問題はその腕時計が何故残った、あるいは残したのかという部分だ。

 記録上ではレン達が見たバイジュウの夢では、最後に意識のないバイジュウは『謎の人物』に抱えられて終わり、その後水槽で長き眠りにつく彼女を発見したということ。

 

 そしてマリル達が調査した記録だと『スノークイーン基地』はバイジュウ救出の直前まで『誰かの手によって稼働していた』ことも分かっている。まるで水槽に眠るバイジュウを生かすかのように。生かすことに価値があるかのように。

 

 つまり——定期的にその『誰か』は『スノークイーン基地』へと訪れていたということだ。

 定期的に訪れていたというのに、落ちていた腕時計に気づかずに放置——。そんなことがありうるだろうか。

 

 何の変哲もないからこそ目にもしなかったのか。だからただのゴミとして放置していたのか。崩れてる瓦礫と同価値として扱って。

 いや——それは考えにくい。それはバイジュウとファビオラ共々に行き着く考えだった。

 

 貶してるみたいで多少申し訳なく思うが、あのレンが腕時計を拾ってその中には『ミルクの音声データ』があることに気づいた。たった一度目にしただけでレンが腕時計の価値に気づいたのだ。

 

 それを『スノークイーン基地』を20年も極秘裏で稼働し続けるほど用意周到で、慎重な『誰か』は腕時計の価値に気づかないわけがない。一度来ただけならまだしも、何度も来ればその存在に気づかないわけがない。それも少し調べればバイジュウの親友であるミルクの物であることもすぐに分かる。

 

 それをわざわざ残しておくのは必ず理由がある——。そのことを2人はすでに感じ取っていた。

 

「……だけど音声そのものに重要なことは何もない。これは絶対に絶対です。録音した時期も本当に早いクリスマスの時期を催促してるだけで……」

 

 バイジュウは端末を取り出して、その音声データを耳にする。ファビオラはあえてその音声を聞きはしない。内容はすでに又聞きしており、なおかつそれはバイジュウとミルクの神聖なる領域だ。

 スクルドが『未来予知』を自分と親とレンにしか教えてないように、どんな人であれ土足で踏み込んではいけない部分がある。それを察せないようなファビオラではない。

 

「であれば……腕時計を残したのは中身ではなく外側に意味があるということ……」

 

「だったら腕時計を用意するしかないわね。今バイジュウの手元にある修復後の腕時計じゃなくて、修復前のものが」

 

「そう言うと思って、既にマリルさんに問い合わせて回収時の腕時計の写真と3Dプリンターで復元した物を用意させました」

 

「準備が早いことで」とファビオラは感心しながら、バイジュウの懐から壊してもいいと言わんばかりの勢いで腕時計の複製品を十数個を取り出した。それは玩具箱をひっくり返すような感じでもあり、あまりの乱雑さに資料としてそれでいいのかと多少勘繰ってもしまう。

 

 ——いや、それだけバイジュウの心が逸っているのだろう。既のところに見えている親友の足掛かり——。それに届くかもしれないのだから、その心の機敏さは仕方ないとも言える。

 

 ——それはファビオラも気持ちは一緒なのだから。

 

「……止まっていた時間を秒針まで読むと、時刻は『4時27分51秒』……。バラバラ過ぎて意味はなさそうね」

 

「腕時計自体もお高いだけで一般的に流通していた物……。音声を記録するのはミルクの後付け改造だけど、特注品でもなんでもない……」

 

 2人であーでもない、こーでもないを言い続けて十数分。何の手がかりも得ないまま時間だけが過ぎていく。

 このままでは何の進展も得られない。そう感じたファビオラは考えを改めてバイジュウに進言してみる。

 

「……視点を変えましょう。真意を探れないなら、逆にこの腕時計をわざわざ残した『誰か』にその真意を聞いてみるというのはどう?」

 

「その場合、聞く真意は二つですね。ミルクの真意と、その真意を残した『誰か』の真意……」

 

「それが分かれば苦労はしないんだけどね……。バイジュウは何か見当とかないの?」

 

「……ないのがあります。レンさんが見た私を抱えた『誰か』……そもそもあの段階では私は気を失っていて『誰かに抱えられた』という記憶自体がないんです……。記憶がない以上、夢で見ることもないはず……だというのに、何故あの『誰か』は私の夢に出てきたのか……」

 

「なるほどねぇ……だったら一つだけ確かめるための手段があるわよ」

 

「手段?」

 

 自分にはその手段が皆目見当がつかないとバイジュウは疑問に思う。

 自惚れるわけではないが、バイジュウは自分自身でも知識に関することなら右に出る者はいないという自信はある。そんな手段があるというのなら、既に知っていてもいいはずなのにと考えが過ぎって仕方がないのだ。

 

「これはSIDの極一部と私とスクルドお嬢様……それに今はご主人様として仕えることになったレンしか知らないことだけど……SIDには人の脳内記憶に潜り込んで情報を見ることができるのよ」

 

「脳内記憶に潜り込む……」

 

「まあ自分で自分の記憶を見ることはできないんだけど」

 

「それじゃあ私自身の記憶を見ることは、私には…………あっ」

 

 そこで気づく。自分では自分の記憶を追体験することはできない。それは絶対に絶対の前提だ。地球上であれば物が下に落ちるように、その前提を覆すことなど神でもできはしない。

 

 だけど『自分の記憶を他人が持つ』ことできるとすればどうだ? 

 

 もちろんそんなことは普通なら考えはしない。だがバイジュウは知っている。まるで示し合わせたかのように『ある人物』がそれを可能にする能力を持っていることを。

 

「ヴィラクスの『記憶共有』があれば……」

 

 そう——。それは先の事件でSIDに保護されたヴィラクスに他ならない。

 彼女の能力は『魔導書』に触れた人物の記憶を共有できるというもの。それでレンの赤裸々な記憶を丸裸にし、今回の肝である『ミルクの行方』についての情報を一部教えてもらったのだ。

 

 ならばバイジュウがヴィラクスが保有する『魔導書』に触れさえすれば、バイジュウの記憶は共有され、ヴィラクスを介すことで自分自身の記憶へと間接的に潜り込むが可能というわけなのだ。

 

「ええ、貴方でも追体験することはできるでしょうね。もちろん——」

 

「…………ミルクのその後も知ることができる」

 

 何よりもヴィラクスの『記憶共有』は一つだけではない。『魔導書』に触れた今の今までの人物すべての記憶を共有することができるのだ。保持するのも破棄するのもヴィラクスが自由にできるあまりにも万能な記憶媒体として。

 

 それは連続性を持って機能もできる。つまりバイジュウの途切れた記憶の先を、ミルクの記憶で見ることもできるということだ。

 自分の記憶と親友の記憶を結びつけることで20年前の南極で起きた真相を知ることができる可能性がある——。

 

 そうすれば『誰か』の真意を探ることができる。いや、もしかしたらミルクの記憶やバイジュウの潜在的記憶の中でその正体を知ることができるかもしれない。

 

 

 

 だが——それはバイジュウにとって過酷な選択にもなる提案でもあるのだ。

 

 

 

「あなたにもう一度向き合う覚悟があるというのなら、今すぐにでも『播磨脳研』へと向かうべきだと思う」

 

「『播磨脳研』……」

 

「けれど……向き合う気がないなら止めといた方がいい。きっと貴方によって命を失うよりも辛い出来事しかないに決まっているから」

 

 ファビオラの優しい声にバイジュウは思考を改めて深くする。

 

 過去の記憶を追体験する——。

 それは決まりきった自分の不甲斐ない記録と、親友の無惨な末路を見届けてるということに他ならない。

 

 親友がどんな風に死んだのか——。それを間近で見ることになってしまう。

 記憶を見る間はバイジュウは傍観者になるしかなく、あの時と同じように何もできなかった自分——いや、何かできるはずの力を持ってるはずなのに、何一つ介入できずにただ見守るしかないというもっと辛い目に合うことになる。

 

 そんな見え透いた結末を受け入れることができるのか。ファビオラはそれをバイジュウに問いている。

 

 その覚悟は聞くまでもなかった。バイジュウは既に腰を上げて部屋を後にしようとする。ファビオラに向けて背で語る。

 

 

 

 

 

 ——行くしかない。私は受け入れると。



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第4節 〜残杯冷炙〜

ここから先は一週間に一回の投稿になります。申し訳ありません。


「女装癖。今度はあそこのクレープ食べましょう」

 

「はいはい、お姫様の言う通りにしますよ〜〜」

 

 傷だらけの『SD事件』を終えて半月ほど経過した。

 その間、特に進展らしい進展もなく、ニャルラトホテプやヨグ=ソトースからの奇襲などもないという拍子抜けな毎日が送ることになる。

 

 それ自体は大変良いことだ。サモントンの領土が侵されたことで食料の輸出料が減るのは目に見えてるし、『方舟基地』がアレンの手によって容易く侵入されたことでマリルは『元老院』に煩い小言を言われて問題などが山積みとなっている。

 もちろんそれはマリルだけではない。サモントンの情報機関である『ローゼンクロイツ』は実質的なツートップであるモリスとセレサが入院したことで現場の指揮が回りにくくなり、今はSIDへの協力を申し込んで構成員が新豊州とサモントンを反復横跳びするという忙しい事態に。

 その中には補佐官試験を受けて、見事に合格したことで巻き込まれたアニーも含まれており、本人は「就職先間違えたかもしれない」とブラック企業に呑まれた新入社員のような濁った目つきで愚痴を吐かれた。とりあえず頑張って、としか言えない自分が歯痒い。

 

 そんなわけで退屈でしょうがない俺は車イスを玉座に、いつも通り踏ん反り返っているラファエルの手足となって新豊州を緩く回ることになったのだ。

 

「ほら、女装癖。早くちょうだい」

 

 未だにラファエルは満足に動けないのでクレープなどの食べ物は全部俺の手から渡すことになる。俗に言う『あ〜ん』という青春真っ盛りな青い光景ではあるのだが、生憎と相手は重症人だ。介護心の方が優って、とてもじゃないがそんな気分には浸れない。

 

 ……まあ、間近にラファエルの顔を見ることになるから恥ずかしいという気持ちはちょっとは湧いてくるんだけど。

 

「なぬっ!? ウイスキー入りのチョコレートだとっ!? ……。ううむ、なんと贅沢な嗜好品か……」

 

 ついでにギン爺も一緒にいたりする。理由は単純。ギンには参謀としての能力がなく、事情で訓練も疎かになっている中だと全くの役に立たないのでお暇を出されたのだ。俗に言う『厄介払い』というやつも同然なのだが、それは口にはしないでおく。俺も同等の扱いなので。

 

「しかし……不気味なくらいに何もないな……。いつもなら何かこう、バァーと周りで起きてないか?」

 

「流石に自意識過剰じゃない? アニメや漫画の主人公じゃあるまいし」

 

「それはそうなんだけどさ……」

 

「まあ主役が組織から蚊帳の外の時点で程度が知れておる」

 

 なんて元々は男だった俺とギン爺が言っても絶妙に説得力がない。突然性別が変わってるなんて基本的には主要人物なのだから、多少は自惚れたってもバチは当たらないだろう。

 

 ……しかしやることが一切ないのは事実だ。適材適所と分かっていても、こうもやることがないと浮き足が立って仕方がない。

 

「そこの黒と赤髪の君。今は時間は空いているかね」

 

 なんて暢気なことを考えてたら尋ね人だ。現代特有の冷たい男ではない俺は、暇ということもあって優しさから応えてあげようと「はい、大丈夫ですよ」と言いながら振り返る。

 

「うおっ、デッカ……!?」

 

 しかし振り返ってビックリ。野太い男性の声のほうに振り返ってみたら、そこには横にも縦にも屈強なダンディズム溢れる男がいた。

 身長は間違いなく2m級だ。下手したら2.5mあってもおかしくないほどに大きく、腕周りも腹回りも逞しく、山のように佇む姿は一目で俺が小人のように思える威圧感を与えて萎縮してしまう。

 

 まさにリアルゴリラだ。モミアゲも顎髭も繋がっていて輪郭が強調されてリアルマウンテンゴリラだ。

 こんな見た目なのに眼鏡はしてるし、大変偉そうな研究者みたいな白衣も着ていてインテリ系に見える。リアルインテリマウンテンゴリラだ。そんな男が俺の目の前に立っていたのだ。

 

「えーと……何か?」

 

「そう萎縮するな。私と君の仲だ」

 

「何よ、女装癖。こんな蛮族と知り合いだったの?」

 

 知らん。こんなインテリゴリラと知り合いだったことなんてない。忘れてたくても忘れられないような見た目だぞ。

 そんな奴を覚えられないなんて、極秘事項か何かで声も見た目も秘匿されてるようなマジモンのお偉いさんだぞ。マリルみたいな。

 

 ……ん?

 ……声も見た目も秘匿されてるマリルみたいな立場のゴリラ?

 

 ——あれ? そんなやつをマリルから一度聞いた覚えが?

 

「勘もいいようだな。そうだ、私は『元老院』の一人である『ブライト』だ。フルネームだと『ブライト・G・ノア』……君に強く惹かれる研究者の一人」

 

「マジで元老院かよ!?」

 

 薄々思っていたことをズバリと突かれてたじろいでしまう。

 

「……気味が悪いのぉ、ブライトという男よ。お前からは知性と理性と野生と本能……それらが入り混じった奇妙な気がある。妖怪ではあるまいな?」

 

「妖怪ではない。人間とも少し言い難いがな」

 

「ならば何用だ。事と次第によっては斬り伏せるぞ」

 

「そんな刃物みたいな目つきをするな、ギンという者よ。私はレンと少々話したいことがあるだけだ」

 

「俺に? 何を言われても貴方と話すことなんて……」

 

「——『播磨脳研』と言えば興味は持つか?」

 

 その言葉は俺の思考と身体を止まらざる得ない。だってそれを知ってるのはスクルド、ファビオラ、そしてマリルなどのSIDの極一部だけのはず。

 いや、場所自体は誰でも知っているだろう。だけど俺相手にそれを会話の一枚目に出すということは……ファビオラの一件や事情を暗に知っていることを裏返しでしかない。

 

 ……そういえばマリルが元々『播磨脳研』はブライトが所属していた場所とか言っていたっけ? 精神系影響系異質物の権威を取るために退所したとかも。その線から知ったのか?

 

「あそこは元々私がいた場所だ。少々手間は掛かるが、調べようと思えば調べることができる。手を出そうと思えば手を出すこともな」

 

「……何が言いたいんだよ」

 

「今あそこではニューモリダスの件で意識不明となっているスクルド•エクスロッドという子をSIDが匿ってるらしいな。脳波を常に観察していつでも意識が目覚めてもいいように丁重に……」

 

 ……どうやらマジで調べたらしいな。いくら『元老院』の一員とはいえマリルがそんなことを漏らすわけがない。

 

「……スクルドに何か良からぬことがあっては嫌だろう? 例えば突然行方不明になるとかな」

 

「お前……っ!」

 

「ならば返答を聞こう」

 

「……っ! 元老院っていつもそうだよな……! 俺のことをなんだと思ってるんだ!?」

 

「決まりだな。ついてきてもらおう、君一人でな」

 

 

 …………

 ……

 

 

「ここなら視線も声も晒されにくい。私の奢りだ、好きなだけ頼むといい」

 

「…………ここただのファミレスっすよね?」

 

 警戒心を募らせに募らせながら、ブライトに案内されたのは町のどこを歩いても1km以内には点在するであろう某イタリアン風ファミレスチェーン店だった。

 座席はトイレの設置のためか、それとも建造上空いてしまった部分にトイレを置いたのか定かではないが、その不自然にある柱の影となっており、確かにここなら人の視線には普通は晒されにくいだろう。普通なら。

 

「ねぇ、あの二人……パパ活って奴かしら? にしては安上がり……」

 

「若いのにお金に困ってるのかしらね……。あの年代だと……そのアレがあるから……。新豊州でも格差があるのかしらね……」

 

 ……そりゃこんなゴリラ丸出しとかいう個性しかない大男がいたら、どんな場所にいようと悪目立ちするわ! 頭も尻も隠せない図体だもん! 柱の影程度で存在感を消せるなら、FPSなんて苦労しねぇよ!

 

 店員共々お昼でお茶を楽しむ主婦にも変な視線を送られてる……! 別にイヤらしいことなんてしてないのに……! そういう視線を送られると恥ずかしくなる……!!

 いやまあ、確かにお金には困ってはおりますが……!! 借金娘の身ではありますが……!! それとこれとは話が別! 俺にも守りたい貞操というか……譲っちゃいけない男の意地って物があるんですよ、奥さん!!

 

「とりあえずは食事でもしながら話そうではないか。注文は決まったかね」

 

「ええっと……じゃあミラノ風ドリアと旨辛チキン……それと小エビのサラダとレモンスカッシュで……」

 

「飲み放題はつけなくていいのか? 巷の女子は長話をする際に必要だと聞くが」

 

「いや、それはいいっす……」

 

 ちなみに現代のファミレスは過去にあった大規模な感染対策の影響ですべてタブレット端末によって注文をすることになっている。人件費も削減になるし、飲み放題も注文した際に発行される番号を入力すれば店員の確認要らずでドリンクバーも利用可能だ。

 さらにスモークガラス越しではあるが個室みたいな感じで区切られており、これでもかと感染症やプライバシーなどを徹底している。一人利用でも利用しやすい空間造りであり、経営者の陰ながらの努力が見え隠れしている。

 

「では私はエスカルゴのオーブン焼きとペペロンチーノ大盛りにしておこう」

 

 ……意外と見た目の割には庶民派だな。『元老院』っていうからマリルみたいに傍若無人だとばかり思っていたが……。

 

「本題に入る前に少し世話話でもしようか。学校などを含んだ日常生活に不満はあるかね?」

 

「えっ? いきなりなんですか、その質問? 質問の意図が全然分からないんですけど」

 

「これでも私は新豊州の教育プログラムの基礎を立てた第一人者だ。君のような『七年戦争』で家庭環境を失い、孤独になった子供に適切な教育と環境を提供するために情報収集は欠かせん」

 

「初耳なんですけど……」

 

「公表してはいないからな。嘘だと思うならマリルにでも聞けばいい」

 

 いや、今この場で話すメリットもデメリットも一切感じないから信じるんだけど。……見た目ゴリラなのにすごいことしてるな。

 

「だったら……ありがとうございます。俺がこうしていられるのは……少なからず貴方とおかげということだから」

 

「感謝せずともいい。私は君を実験動物として扱ってる。それだけで私には十分だ。むしろ君は私を恨んだり憎んだりしてくれたほうがいい。その方が研究的には価値がある。心理的問題で異質物実験に影響を及ぼすかどうかも測れるからな」

 

「異質物実験に影響って……それで悪影響とか出たらどうするんですか?」

 

「感情に良し悪しなどない。毒が薬になる様に、怒りを原動力として前に進む人間もいる。逆もそうで愛ゆえに人を傷つける退廃的な思考になる人間も。どんな感情を持とうと何かしらの影響を持つ。ならば少しでもサンプルが多い方が情報として有意義なのだよ」

 

「随分と熱心ですね……。マリルはそんな積極的じゃないのに……」

 

「あいつと私は異質物研究の権威は違うからな。私は分類としては『精神影響系』のだ。俗に言う『ミーム汚染』というものを担当していて、人の深層心理などの内面には機敏なのだよ」

 

 ミーム汚染の権威って……。そりゃ随分とすごいというか物好きな研究者なことで……。

 ミーム汚染は無意識に言葉、風景、画像を別の物として認識が変わってしまうことだ。例えばも何もなく、カボチャを見たら何故か反省を促すダンスが過ったり、野獣という言葉に対して某先輩が出てきたり、猫と聞くと何故か「ヨシ!」と言ってるのが出てきたり……とまあ、そんな感じと思っていただければいい。

 

 そんな曖昧な物を研究してるなんて……そりゃ俗世に関心を持つのも納得がいく。女子のファミレス事情を知ったり、新豊州の教育に熱心だったり、そういう一面の裏返しとも言える。

 

 ミームとは常識を変える概念だ。常識を知らなければ非常識が分からない以上、俗世について調べるのも研究の一環としてはある種当然とも言える。真理とは常識を疑うこととか何とかハインリッヒも言っていたし。

 

「元老院って意外と生真面目なんだな……」

 

「……君に一つ忠告しておこう」

 

「何でしょうか?」

 

「君は人を疑うことを覚えろ。私の言葉を真に受けすぎだ。世話話をして君の警戒心を解こうという腹積りならどうする?」

 

「え!? じゃあ今騙されてるの!?」

 

「それは君次第だ。何を本当と思い、何を嘘と思うか。そこまで教えるほど私は寛容ではない」

 

 くそ、大人特有の言いくるめかよ……。

 そうやって全部分かった風な口で聞かれるのは多少ムカつく。

 

「……さて、品物が届いたところで本題に入ろう」

 

 ゴリラの言葉通り壁に備え付けられてる受け渡し口から注文した料理が運ばれてきた。これも感染対策の一環として残った物であり、こうして内部で構成されてる機械のレールに乗せればヒューマンエラーも起こしにくいから人件費も削れて、よりリーズナブルなサービスを提供できるという経営者も利用者もwin-winな仕組みだ。奢りとは言え、学生の懐事情だと非常にありがたい。

 

「最初に言っておく。今回、私が君を呼んだのは『播磨脳研』に関連する物だが、決してスクルド•エクスロッド関することじゃない。そこに今から行こうとしているバイジュウについて話す」

 

「バイジュウが『播磨脳研』に? いったい何の用で?」

 

「そこまでは知らん。……だが私は彼女を少々知っていてな」

 

 ゴリラがバイジュウのことを知っている? それはとても意外なことだ。

 そりゃ確かにバイジュウは20年前の人だから、南極での一連がなければ普通なら35歳ほどだ。マリルの年齢は聞いたこともないし、聞くことも怖いが、下手したらバイジュウはマリルと同い年かそれ以上ということもあり得るくらいにはバイジュウの眠っていた時間は長い。

 

「彼女は元々『七年戦争』以前に存在していた国家『中華人民共和国』……つまりは『中国』出身の子だ」

 

「それは何となく知ってます……。名前が中国のお酒に似てるとか何とかで子供に弄られてますし……」

 

「そんな彼女の父親は大変優秀な研究者でな。私も知人であり、バイジュウについては小耳に挟んでいた。同じ『フリーメイソン』の一員としてな」

 

 ——『フリーメイソン』。その言葉は俺も知っている。

 過去に存在していたと噂される秘密結社であり、世界の権力者を手中に世界を監視していた……的な与太話があるオカルト溢れる団体のことだ。正直話の種になれば程度で知っているだけで、実在に関しては全く興味がない。むしろ架空の組織だとも思っているほどに。

 

 だからといって聞き逃していい単語ではないの確かだ。『フリーメイソン』という言葉自体、過去にあった『OS事件』で回収したドルフィンの音声データでも言及されている。資金援助のために申し出を受けたとか何とか。

 

 そんな『フリーメイソン』の一員としてこのゴリラがいた? しかもバイジュウの父親も?

 俄には信じ難い情報ではあるが、異質物が当然となった現代では思い込みだけで疑問を否定するのは自殺行為だ。

 

「故に彼女が南極で見つかったという情報を聞いた時は驚いたものだ。20年も経っているのに、その姿は若く美しいまま……穢れなど知らぬ純情を保ったままということに」

 

「……やらしい事でも考えてるんですか?」

 

「そういう意味じゃない。現代では情報という情報は汚染され尽くしている。科学技術も異質物ありき、兵器も異質物ありき、挙句にはSIDも含んだ学園都市の情報機関にはお抱えの『魔女』がいるときた。この世は既に人間だけの技術では到達できない異質な力に侵されているのだよ」

 

 ……まあそういう意味では確かに俺も穢れてはいる。

 俺は元々は男だったはずなのに、あの地獄を境に女の子になってしまった。これを情報の汚染という捉え方をすれば、ゴリラの言葉通り現代で真っ当な情報を保ったままの物なんて少ないに違いない。

 

「……マリルからは聞いているか。現代の『ミーム汚染率』はどのようになっているのかを」

 

「『ミーム汚染率』……?」

 

 残念ながらそんな言葉をマリルから聞いた覚えなんて、出来の悪い俺の頭でも一切記憶していない。

 

「……聞いてないようだな。では話そう。君になら知られてもよい」

 

「ははっ……随分と買い被っているようで……」

 

「2000%を超えている」

 

「………………はい?」

 

「ミーム汚染率は『2000%』だと言ったのだ。あくまで最終結果である半年以上前の数値ではあるが、その時点でこの値が出ている」

 

 …………ちょっとよく分からない。桁違いだということは聞けば分かるが、果たしてその値がどれほどの意味を持つのか肌身や脳内で実感できない。

 

 2000%——。そんな数字を聞かれてパッと例えなんて思いつくわけがない。例えが思いつかない以上、当てはまる解答も自分の中にはないのだから規模なんて掴めはしない。

 そもそも2000%とはどういうことだ。一割二割とかの表記なら二百割あるということだ。そんなの数値のほうがおかしいに決まっている。

 

 それに……それに…………。

 

「……それとバイジュウに何の関係があるんですか」

 

 そう、今話してるのはバイジュウについてだ。だというのにいきなりミーム汚染の話をされても、彼自身から口にした本題から離れてるのではないかと疑問に思ってしまう。

 

「いや、それが大いに関係ある」

 

「えっ?」

 

「先ほども口にした通り、現段階におけるミーム汚染率は2000%を超えている。この数字は簡単に例えるならば『世界が生まれ変わった回数』と言ってもいい」

 

 世界が……生まれ変わった? いったい何を言ってるんだ?

 

「100%を達成するたびに、世界は一度そのすべてが生まれ変わると仮定しよう。そう……例えばどこかのある時間、ある空間で終末的光景があったが、それが無くなったと考えてほしい」

 

 終末的光景が無くなった——。

 その言葉で俺の背筋である記憶が呼び出される。忘れたくても忘れない地獄の光景を。

 

 だからなんだ。それとこれと今は関係ない。俺が聞きたいのは……俺がわざわざアンタみたいなゴリラについてきたのは……っ!!

 

「だから……バイジュウと何の関係があるんだよっ!!」

 

「……ならば結論だけ言おう」

 

 そう言ってゴリラは眼鏡を整えると、深く息を溢して溜息でもするかの様な重苦しい声で告げた。

 

「バイジュウの『記憶』は、そのミーム汚染で『世界が生まれ変わった』前の記憶を宿してる可能性が大いにあるということだ」

 



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第5節 〜天淵氷炭〜

「……ミーム汚染で『世界が生まれ変わった前の記憶』を、バイジュウが持っている?」

 

 言っていることの意味が分からない。何一つ理解できない。

 世界が生まれ変わった、ってどういうことだ? その前の記憶ってなんだ? 何を意味しているのか。俺には何も察することができない。

 

「ああ。そもそも南極での事件、不可解なことが多すぎる。そもそも何故、20年間も南極での事件が認知されなかった? あまりにも突然にバイジュウの事件は浮上してきた。……どこかの世界から流れ込んできたかのようにな」

 

「……そんなこと俺に分かるかよ」

 

「君には心当たりがあるのではないかね? あったことがなかった様になる現象……あるいはそれに近しい出来事が」

 

 その言葉で俺は二つの出来事を思い出す。

 

 一つは、あの日焼き付いた地獄の光景だ。

 塩の彫刻と化した人々を見て、俺は狼狽え、何をどうすればいいのかも分からずにただ『ロス・ゴールド』に願った。そうすると地獄の光景は最初から無かったかのように消え去り、その代わりなのかどうかは一切不明だが俺の性別が女の子になってしまった。

 

 もう一つは、いつか見たファビオラの記憶にあったことだ。

 霧守神社の一件で『魂』に触れる能力の一環で、過去にファビオラの記憶の潜入して何があったかを薄らと俺は思い出している。その記憶で確かに俺はファビオラと所属する部隊の人達と一緒に自律型兵器と戦いはしたが……いかんせん俺にしてはあまりにも不思議なことがあった。

 それは俺が持つ道具が都合が良すぎるというもの。反動の低いライフルもそうだし、当時ではオーバーテクノロジーである『エアロゲルスプレー』を持ち、挙句には関係ないはずの生理用品さえも簡易的な爆弾を作るのに使用された。まるでゲームのセーブ&リセットでもしたかのように手持ちを最小限かつRTAのように最短で。あまりにも都合よく解決への力になってくれた。

 

 俺の長い思考と沈黙に、目の前のゴリラことブライトは察したのだろう。沈黙は事実上の肯定を意味するというのに、それ以上俺に何かを追求しようとすることなく話を続け始めた。

 

「そういう意味では『ロス・ゴールド』の件も突然すぎる。カテゴリとしては『Safe』級だ、あれは。だというのに一夜のうちに最初からなかったように消失し、入れ替わるように君が現れ、同時にアニー、バイジュウ、ソヤと次々と異質な能力を持つ者が多発し始めた。これを偶然と片づけるには些か苦しいことは君でもわかるはずだ」

 

 ……ヤバい。ブライトは俺が『ロス・ゴールド』の消失について何らかの関わりがあることを勘づいている。

 いや、マリルだって口頭で伝えただけで信じてくれて『ロス・ゴールド』の件は頭の片隅に置いてくれているんだ。マリルも含んだ『元老院』のようなクレイジーとクレバーが融合した連中なら、一年間の猶予もあれば気づくことくらい容易いに違いない。

 

「だが今はそれを君から問いただす気はない。君は嘘を苦手としていている。顔には『ロス・ゴールド』の件について関わりがあることを言っているが、その出来事の真意までは汲み取れていない。恐らく君と私との情報量の差はそう大きくはないだろう」

 

 ドンピシャだ。こちらが考えてることなんて、ガラス細工のように透けていて、最も容易く俺の心境を看破してくる。

 

 これが『元老院』なんだ。第五学園都市【新豊州】において、最も権威と知識が深い精鋭中の研究者。こと言葉や知識においては俺が関われる様な隙が一切ない。さっきから一方的な言葉の乱射に身を晒し続けてるだけで、自分から会話の主導権を握れることがない。

 

「さて話を戻そう。仮に……ほぼ確信にも近い仮の話ではあるが、世界が何度も塗り変わっていたとする。塗り変わった世界を『ミーム汚染』による物だとしたら、塗り変わる前の世界を知るバイジュウの記憶はどういう価値があると思う?」

 

「……バイジュウの記憶は『ミーム汚染されていない』という価値があるってこと?」

 

「正確には20年前のバイジュウの記憶だがな。今の彼女自身は『ミーム汚染』の影響を受けていることを忘れてはならない」

 

 俺の言葉に補足をつけてブライトは話を続ける。

 

「そして、そのバイジュウは今『播磨脳研』にいる。先程は知らないと口にしたが予測はくらいはできる。恐らくだが、彼女は20年前の南極の記憶を再度見るためにいるのだろう」

 

「20年前の……南極を……」

 

「ああ。君がファビオラの記憶に潜入した時と同じ様に、バイジュウは『播磨脳研』でその記憶を覗こうとしている。だが記憶の潜入は、記憶の持ち主である当人だけではできん。ここが私には不可解なのだが……君なら何かしら方法があるのを知っているのではないかね?」

 

 俺には一瞬で見当と予測がついた。『記憶共有』を持つヴィラクスの記憶へと潜入して、擬似的に20年前の記憶を見ようとしているということを。それも恐らくバイジュウとミルクの組み合わせた複合の記憶として。

 

 そうすれは最初から最後まで一連の流れを知ることができる……。その『記憶』にどんな価値があるのかはまだ俺には分からない。だけどミルクの顛末を知ることは、必ず『門』の奥にいるミルクを救い出す手掛かりになる可能性は見える。

 

 それが顔に少し出ていたのだろう。ブライトは「なるほどな」と納得すると「口に出さない以上は問うことはしないでおこう」と言って、目の前にある食事を口に運んだ。

 

「……それに来客がいるらしいからな」

 

「来客?」

 

 そう言われてブライトの視線を追って、俺は背後へと振り返る。

 

 そこには見覚えのある長身の女性がいた。恋や愛のような情熱的な赤髪。魅られた男性を全て下僕にしてしまいそうな蠱惑的で扇情的な姿に、俺は生唾を飲んで叫んでしまう。

 

「ベアトリーチェ!?」

 

「久しぶりに顔を見せたわね、可愛い子ちゃん。……まあ今はそんなことどうでもいいけど」

 

 艶やかな太腿を見せびらかすようにベアトリーチェはブライトの隣へと座り込み、ワイシャツから漏れ出るたわわな胸を計算的ながらも無防備に見せつける。

 

 ベアトリーチェお得意の『話し合い』の時間だ——。

 相手の自由意志など一切許さぬ交渉——。それはベアトリーチェの能力『魅了』が活きる瞬間でもある。

 

「ギンから話は聞かせてもらったわよ、元老院さん。レンちゃんに良からぬことをしようとしていると話は聞いたけど……ここは私に免じて引いてもらいましょうか」

 

 そう言ってベアトリーチェは指輪を外す。自身では抑えきれぬ能力である『魅了』を抑制する指輪を。それはベアトリーチェの『尋問』や『説得』が始まったことを意味する。

 俺は『霧守神社』の一件や精神性の汚染は多少は対抗できるようになったとはいえ、それでもベアトリーチェのフェロモン攻撃は強力無比だ。脳内の奥を刺激してベアトリーチェの吐息一つでさえも身体中の神経が反応して甘く蕩けてしまいそうになる。

 

 そんな『魅了』の能力を持つベアトリーチェ様に抗うことは難しい。今からでも俺自身が変わって「はい」と言って、犬みたいに尻尾を振り回して服従してしまいそうになるほどに。

 

「……悪いが、その手の類は効かん」

 

「……なんですって?」

 

 だというのにブライトは至って平然とベアトリーチェを一瞥して、すぐに興味をなくした。まるで都市部に流れる『vanilla』と煩い宣伝カーや、猫丸電気街の中央にある巨大家電量販店の大型ビジョンに流れるCMを流すかのように、本当に一瞬の興味だけを惹いて。

 

 ありえない。ベアトリーチェ様の能力をそんな程度で流せるなんてありえない。

 彼女が前に出たら世界のスポットライトは彼女だけの物。あらゆる男性は崇め、敬い、詩とするほどに魅力的だというのに、ブライトはそんなスーパーで安売りされる野菜や付属されるクーポン程度の認識で受け流せるというのか?

 

「私は研究部門の都合上、精神面での洗脳や汚染に対する耐性が非常に特殊でな。確かに君の魅了は私に効いてはいるし、君の完成された肉体美には欲情もする。だがその程度では私を御することはできんよ」

 

「チッ、このムッツリが……っ!」

 

 ベアトリーチェ様は上品な顔立ちには似合わない舌打ちをしながら指輪を嵌め込んで能力を抑え込む。抑え込むついでにワイシャツのボタンも止め直して極力肌を露出させないようにすると、俺の隣へと座り直した。

 

「さて、タイミングもいい。ここらで失礼させてもらおう」

 

「ま、待ってくれ! まだ聞きたいことが……」

 

「……何かね?」

 

「……なんで俺に話しかけてきたんだ?」

 

 それは俺にとって最後まで分からないことだ。

 俺とブライトの話は掻い摘めば『バイジュウの過去と行動』を『俺に教える』というものだ。俺から提供したのは無言の肯定しかなく、マリルと並ぶ『元老院』の一人がこんな浅い目的のために態々素性を晒してまで俺に会うなんてあまりにもリスキー過ぎる。

 

 だとすれば理由があるに違いない。顔を晒してまで、俺と会いにくる本当の理由が。

 

「単純な話だ。今のマリルは多忙で君の監視が手薄になってしまっている。現に君の身体から言葉を発することもできるはずなのに、一言も介入せずにベアトリーチェを呼ぶほどにな」

 

「……その通りよ。マリルは今はサモントンの件も兼任して多忙の身……。だからこうして私が出て貴方を止めようとしたのよ」

 

「やはりな」とブライトは一言吐くと、レシートを手に離席の準備を始め、ベアトリーチェに「何かご馳走を受けたいなら今のうちに頼め」といい、当の本人は「いらないわよ」と拒否すると、ブライトは少し面白そうに笑うと話を戻した。

 

「そうとなれば必然的に君に接触するチャンスが多少は生まれる。それは私や『元老院』だけではない。他国から君の能力に気づき始めた有力者に小さくも大きな隙だ」

 

「俺と接触するチャンス……?」

 

「ああ。マサダブルクでの一件以来、君の顔は各国に認識された。そのすぐ側には能力を覚醒させたエミリオがおり、同時にそれとは別に世界中で謎の波動を検知することになった。そこは理解しているな?」

 

 多分その『謎の波動』はマリルが言っていた俺とシンチェンの共鳴的なやつのことだな……。

 

「少しして君はCMや動画サイトで唐突な映像デビューだ。あまりにもわざとらしい。察しのいい輩なら、謎の波動とエミリオの覚醒にはお前が関わっていて、お前は『第五学園都市の権力者に保護されている』ということを暗に示したことを理解するだろう」

 

 そりゃ確かにそうですけど……。マリルもその方が扱いやすいと言っていたが、そもそも映像デビューすることになった遠因はエミリオがいた孤児院に金を無断で寄付して借金娘になったのもあるが……それは黙っておこう。

 

「しかし他国が認識できたのは『第五学園都市の誰か』という部分だけ。保護者がマリルということは、デックス博士やエクスロッド議員などの一部を除いて知っている者はいない」

 

 エクスロッド議員の名前がサラッと出てくるということは、本当にファビオラの一件については詳しくは知ってるみたいだな……。

 

「そんな中でサモントンが崩壊。ローゼンクロイツと合同してSIDが復興作業に明け暮れる中、君の警護が手薄になったら誰もが『レンの保護者はSIDの誰か』まで気づくだろう。やがては君を保護しているのはマリルだということに辿り着き、後は彼女の目が離れた機会さえ伺えば、君を拉致監禁することは容易いということだ」

 

「なにそれ。そんな物騒なこと初耳なんですけど」

 

「それはそうだろう。君みたいな半分一般人みたいな子の耳に入ったら秘密組織としての体を成さない。やるなら極秘中の極秘。私達みたいな最高権威を持つ者でも、噂程度で耳に挟むぐらいだ」

 

 知らなかった、そんなこと。俺って水面下だと非常に危うい状況にあったのか……。

 

「だから私は君と接触した。SIDの戦力が薄い中であろうと『新豊州』には君を守る者がいるということを分かりやすい形で示すためにな。あわよくば君の保護者が私と誤認してくれれば、SIDから認識が外れて保護する君の立場は盤石にもなる」

 

「えっと、じゃあ……」

 

 ここにブライトが来たのは『俺に目をつけた他国の組織から守るため』ということ?

 あまりにもメリットがない。ただ報告と忠告のために『元老院』が動くなんて……。それもSIDのためになるようなことなんて……。

 

 そんな疑問をブライトはすぐに察して、呆れるように鼻を一つ鳴らすと話を続けた。

 

「君に最初に接触したのは他の『元老院』の見せしめも兼ねてる。『君を見ているのはお前だけじゃない』というな。情報戦は常に先手を打ちつつも秘匿をして、後手で相手を叩き伏せる。先の先を読むのが権力者の必須能力だ」

 

 つまりは牽制ということか……。いや、抜け駆け禁止と言った方が正しいのかな? 

 要はマリルの管理が薄い中『元老院』の誰かが俺を個人的に保護して研究には使うな……って感じの。それで外の組織にも警鐘をしておくと。

 

 なるほど、聞く分には良い手かもしれない。しかしそのためだけに『元老院』がわざわざ『顔と素性』を見せるなんてことがあり得るのか……。そこの疑念だけは未だに拭えずにいる。

 

「……そう遠くない未来、君と接触するのは少なくとも後2人はいるだろう。1人は比較的心配性で良心的な『華音流』という人物だ。彼は確実に君にとって大きくて良い影響を及ぼすことを保証しよう」

 

 ブライトの話は続く。俺の心境を察してか察してないのか。

 どちらにせよ俺にとって何の関係があるのか予測できない話だ。急に『元老院』が接触してくると言われても……どうしてそうなるのか。仮に接触するなら、今の今まで機会はあったはずだ。それを今更するなんて……何かキッカケがあったに違いない。

 

 もしかしたらサモントンでの事件を機に、何か俺達が想像つかない何かが動き出したのか? それの対処にあたるのもあってマリルとはここ最近連絡を取る暇がないのか?

 

 だから『元老院』が接触してくるのか?

 

 分からない——。俺には何も分からない——。

 だけど確信した。ニャルラトホテプの件とは別に、何か六大学園都市内で大きな変化があり、それが少しずつ表に出ようとしている確信が。

 

 世界は今——。大きな変革を迎えようとしていることを——。

 

「そしてもう1人は注意しておけ。そいつはマリルさえも苦手意識を持ち、私でも手を焼く男。名は『#C』という」

 

『#C』——。

『#(ハッシュ)』は英語圏の意味合いでは『No.』とかの数字の順列を示す記号でもあるが、それを考慮しても『No.C』と意味が分からない。現代ではどんな名前でも違和感を持ちにくいというのに、偽名感溢れるいかにもな名前が、逆にその人物の底知れなさを肌身で理解してしまう。

 

「彼は私でも測ることができん。君にどんな影響を及ぼすか……それは実際に君が合わないと分からないだろう」

 

「……随分とご丁寧なことで」

 

「それを伝えるためにも私はここに来たのだ。華音流はまだしも、#Cは確実に危険だ。くれぐれも今日の私のように絆されるなよ」

 

 ……それを言われるとちょっと辛い。

 現に俺はここまでの一連のこともあって、ブライトに薄くではあるが信頼を抱いている部分が少しある。どれぐらいかと言われたらちょっと困るけど、あえて近い表現をするなら前に『天国の門』事件でちょっとだけ協力してくれた少年『ジョン』との距離感ぐらいだ。

 

「おっと……最後にもう一つだけ君に伝えるのを忘れていた」

 

「俺に伝えること?」

 

 忘れていたようなことならきっと大したことではないだろう。

 だから俺は特に警戒することもなく、いったいどんな無駄話が出るのかと軽く身構えようとしたら——。

 

「マリルは君の両親を殺した」

 

「えっ?」

 

 あまりにも予想を超えた言葉が吐き出され、俺の思考が一瞬だけ止まったのを感じた。

 言葉の意味を受け取るのに一秒。言葉の意味を理解するのに一秒。言葉の意味を整理するのに一秒。そこでようやく俺の思考は平常に戻り、ブライトが伝えた内容を頭の中で復唱する。

 

 マリルが、俺の両親を殺した——?

 何を戯言を言っているのか。いくら俺がブライトにある程度警戒心をなくしたとはいえ、そんな言葉を信じるには無理がある。

 

 無理があるんだが……それでも動揺してしまう。

 だって俺は知っている。マリルが非情な部分があることを。『天国の門』の時に、俺に救われるのを前提でソヤが自殺同然の自爆を黙認していた。マリルはある程度のラインを超えた命の管理になれば、例えそうせざる得ないとなったとしても「仕方がない」と冷たく割り切る部分があることをその目で、その肌で知っているのだ。

 

 だから想像してしまった。本当に一瞬だけ過ってしまった。

 俺の両親が乗っていた航空機の事故——。それがSIDの手にとって起こされた作為的なものではないかという疑念がほんの一瞬だけ脳裏に掠めてのだ。

 

「信じる信じない、本当か嘘か——。それを決めるのは君次第だ。だがこれだけは言っておく。本気であれ、冗談であれ、マリルは確かに元老院にそう言っていたことは事実だよ」

 

「そ、それってどういう……!?」

 

「もう待ちはしないよ。私も時間が惜しい身でな」

 

 そこでブライトは電子決算で手早く会計を済ませて店から出て行った。自分が頼んだ料理は半分ほどしか口にしないまま。

 

 ……この時間帯と場所には似つかわしくない重苦しい空気が俺の心へとおもくのしかかる。

 

 怖い——。怖いのは得体が知れないマリルとか『元老院』とかじゃない。

 何も知らないからこそ、無責任にマリルに対して無礼極まる想像を抱いてしまった自分が怖いんだ。

 

 ——何も知らない自分が怖くて、不安で、たまらなかった。

 

「……ベアトリーチェ。今の話、本当なのかな?」

 

 だから縋ってしまう。誰かにこの恐怖を肩代わりしてほしくて、ベアトリーチェに今の心境を溢してしまう。

 そんな俺にベアトリーチェは本当の心の底から美しいと思える、まさに『淑女』と名に相応しい穢れない笑みを浮かべて告げる。

 

「なわけない……とは言い切れないわよね。マリルの性格的には」

 

「でも」とベアトリーチェは俺の肩を優しく抱き寄せて子供を諭すように優しい声で話を続けた。

 

「時系列と事情のどちらもが矛盾してる。因果関係が逆転してる以上、それをする性格であってもマリルにできないのは絶対よ。絶対に絶対」

 

「だよな……」

 

 俺の不安を受け止めてくれて思わず涙腺が緩んでしまう。安心しきって緊張とかの諸々から解放されて、深呼吸と共に涙を一つだけ拭うと、俺は俺自身と向き合うことにした。

 

 ……そうだ。俺は今まで受動的だった。

 どんな強くなろうと、どんなに戦う力を得ようと、今まで降り注ぐ事態に対処していただけで、自分の周囲だけを見ているだけの小さな世界に満足している子供のままだった。

 

 もう俺は子供じゃない。夢の世界であろうと親離れをして、俺一人でも歩けるように決意したんだ。

 

 今のままじゃダメだ——。

 世界は今大きな変革を迎える予兆がある。それをそのまま受け止めるだけではきっと俺は後悔する。

 崩れ去っていく街並を見て思ってからじゃ遅いんだ。ありきたりな毎日の温もりを求めて嘆こうと、もうあの夢みたいに時計の針を巻き戻すことはきっとできない。

 

 自分から立ち向かわなければ何も変えられないんだ——。

 止まった時間も、運命も——。

 

 ……だけどどうすればいい? 前に進もうにも世界は広すぎてどこに足を進めばいいか見当がつかない。

 分からないことが分からない、という学校の問題児によくある悩みを抱える俺にとって、世界で今起きてる情勢は例え意識しても未だに遠く調べようにも調べられないむず痒さを抱えている。

 

「……そういえば」

 

 そこで俺は思い出す。そんな時に役立つ頼れる存在が『SID以外』で存在する事を。

 俺は懐からスマホを取り出して、今の今まで登録しておきながら一向に連絡しなかった番号へとすぐさま繋ごうと送信ボタンを押す。

 

 それは第二学園都市『ニューモリダス』で知り合った存在。世界を反復横跳びするように軽快に駆け巡る孤高なる者。

 けれど『彼女』の存在は名前だけが知られていて、その顔や能力を覚えることが何故かできない童話のように虚ろな存在でもある。

 

 だけど、その姿を俺は覚えている。

 燻んだ赤髪にコロコロと変わる表情。瞳は碧緑色で、キメ細かなファッションセンスを持つ中身はかなり剽軽タンポポみたいにフワフワした身軽さ。

 

 

 

 ——『いつでも力になるよ』

 

 

 

 そんな言葉を、メモを渡してくれた女性の名は——。

 

 

 

『はいはーい。いつでもどこでもあなたの力になる便利屋さんこと『イナーラ』ちゃんでーす。ご用件はなんでふ〜〜?』

 

 

 

 そう、イナーラだ。『いつでも力になるよ』と電話番号を貰っていたのに、今の今まで頼ることはないだろうと思って思考の片隅ですっかり置いてけぼりになっていた。別に忘れてたわけじゃないのだが、我ながら少々薄情なところがあると思う。

 

 ……しかし声からして何か食ってるな? それも弾けるようなパリパリ音からして上等な揚げ物を。これが一応は客に対する態度なのか……まあ、こういう性格だからイナーラは一人でもやっていけてるのかも知れない。

 

「……久しぶり、イナーラ」

 

『あっ、その声レンちゃんか! おひさ〜〜』

 

 あまりにも軽口でくるものだから緊張の糸というか、そういう心の硬さが一気に絆されていくのを感じる。

 だから深呼吸さえもなく俺は意思を固めて、これから自分がイナーラに頼みたい事を素直に吐き出した。

 

 

 

「ちょっと頼みたいことがあるんだ——」

 



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第6節 〜枕冷衾寒〜

 一方その頃、バイジュウはファビオラの案内の下、新豊州にある『播磨脳研』へと既に来ていた。彼女の眼前には協力の了承を得て深い眠りにつきヴィラクスがベッドの上で眠っており、バイジュウはそのすぐ横のベッドで機材を自身の身に取り付けながらファビオラの話を聞いていた。

 

「じゃあ、今一度説明しておくわ。記憶の世界では、基本的に互いに干渉することはできない。どうでもいい細部の記憶……例えば枝毛の本数とか、看板の内容とかは観測者の記憶を基に再構成する。つまりは観測者と潜入者の掛け合わせた都合のいい記憶の再現。決して当時の記憶をそっくりそのまま映す物じゃない」

 

「まあ当事者の貴方とミルクの記憶の合併なら、相応の高い再現度を誇る記憶だろうけど」とファビオラは付け足し、バイジュウの準備を手伝う。

 SIDは現在多忙で人手で足りない状態だ。こうしてファビオラが直々に説明と準備をしなければならないほどに、サモントンの傷跡は深く刻み込まれており、現に常駐するSIDの監視スタッフは人数削減の影響もあって普段より交代の回数が少なく疲労の色が漏れ出てしまうほどだ。

 

「なるほど……。基本的に互いに干渉できないということは条件さえ満たせば可能ということですか?」

 

「レン以外じゃあ無理ってこと」

 

「ああ、そういう」とバイジュウはどこか落胆した雰囲気を見せて、準備を終えてベッドへと横になる。

 その気持ちはファビオラには痛いほど分かる。自分だって守るべき存在であるスクルドの命を落としてしまった。やり直せるならやり直したいし、何なら無かったことにできるなら無かったことにもしたい。そんなことは『夢』で何回も見てきたし、何回も行おうとした。

 

 それでも夢は『夢』だ。

 人の夢という物は儚いもので、そうである限りは決して叶うことはない。それでも魅てしまうから夢という物は甘美なのだ。それには意味などないというのに。

 

「それでは……行ってきます」

 

「良い夢を……とは言えないか」

 

 だからこそ人という物は強くあろうとする。夢を『夢』で終わらせないために。夢を現実にするための手段を求め、あの日起きた『20年前の南極』の真相とミルクのその後を知るために。

 

 決意を胸に。覚悟を心に刻み込む。

 バイジュウの手には潜入用の睡眠薬があり、摂取すれば数秒で眠りにつく強力な物だ。これを用いてヴィラクスの夢を介してミルクの記憶へと潜入する。

 

 バイジュウは飲み込んだ。その手にある睡眠薬と共に、その胸と心に踊る不安をすべてを。

 

 

 

 ——少女は今一度、自分と親友が死んだ地獄へと向かう。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

『……こんなにも色々と強い記憶があったなんて……。特にレンさんのは……』

 

 無事にバイジュウは『20年前の南極』の記憶に潜入することができた。だが、その記憶に到達するまでの最中にヴィラクスが保有する他の記憶をいくつかバイジュウは覗き見た。

 

 バイジュウは『絶対記憶能力』を持っており、一度覚えたことは忘れることはない。忘れることができない。

 だから少しでも覗き見てしまった以上、バイジュウは知ってしまう。ヴィラクスの中には様々な記憶があったことを。その記憶のほとんどはヴィラクスと関係ない『赤の他人』が持つということを。

 きっとそれは歴代の『魔導書』に触れた人物達の記憶だろう。愛する人と過ごした日々もあれば、争いで人を殺めてしまった惨劇、自身が狂うまでの細やかな過程を刻み込んだ記憶があった。記憶の中では感情が入り混じり、一瞬自分が自分じゃなくなるような感覚をバイジュウは覚えてしまった。

 

 幸いにも目にした記憶自体が少ないから良かったものの、バイジュウは改めてヴィラクスの『記憶共有』という能力の恐ろしさを感じてしまう。

『魔導書』に触れさえすれば、それが誰であろうとヴィラクスに共有される。それはつまりヴィラクス自身のアイデンティティをすり潰す残酷な一面もある。共有された記憶が多ければ多いほどにヴィラクスは『自分』という存在を曖昧にしてしまい、流れ込んだ記憶と自分を繋いで『別の自分』を創造してしまう危険性がある。

 

 それはきっと怖くて堪らないことだろう——。

 

 ヴィラクスはバイジュウと違って『絶対記憶能力』は存在しない。故に時間さえあれば、記憶を時の忘れ物にすることはできる。

 しかしそれでも潜在的に多くの記憶を背負っているヴィラクスはどれほど精神力が強いのか——。

 

 そしてバイジュウは改めてヴィラクスに感謝する。

『絶対記憶能力』で他と比べて確実に内容が多い自分の記憶と、そんな自分の我儘でミルクの記憶も背負って、今この瞬間を実現させてくれている状況に感謝をする。

 

『レンさんが見た……あの『赤い記憶』はいったい……』

 

 だがそれとは別に気になる記憶がバイジュウには一つあった。

 それはレンの記憶だ。レンの行方はバイジュウでも少し気になっている節があり、レンの特異な能力や過去に曖昧な部分があるのもあって何かあるんだということ自体は予測していた。

 

 しかしバイジュウが見たのは、レンの明るい性格からは想像もできない地獄の光景だった。

 

 あんな事件や災害があったなんてバイジュウは知らない。どこの記録にも載っていない情報がレンから流れ込んできて、バイジュウは『地獄』の記憶は一体どこで起きたのかを考えてしまう。

 

 しかしその答えなど出るはずがない。何故ならその地獄こそ、レンが女性になってしまうキッカケとなった出来事でもあるのだから。記憶を一見しただけで、それが『なかったことにされた』という事実に気づけるはずなどないのだ。

 

『……でもそれはそれとしてもレンさんは何というか……プレイガールというべきか……。なんか結構特殊な……というかアレって男性の……』

 

 それはそれとしてバイジュウにはレンの記憶で気になる部分があった。何やらやたら煩悩を擽る記憶も多かった気がする、ということがバイジュウに引っ掛かっていた。

 

 レンの記憶には、何故かやたら裸とかボディラインや服装が目立つ記憶が多く存在していた。お風呂場で自分の姿に釘付けになる様や、メイド服を着て自撮りする姿など結構多岐に渡る。

 中でも印象的だったのは、本来女性にはついているはずがないアレが下半身にある記憶だ。レンは女性だというのに、何故あんな物がぶら下がっていたのか。しかもまあアレなことなのか。バイジュウは初めて見る男性のそういう事情に思い出すだけで耳まで真っ赤になりそうになってしまう。

 

 にしてはその記憶だけやたら鮮明に焼き付いてしまったのが、バイジュウにとって何とも言えない心境を抱かせる。

 

 それだけ人の記憶というのは刺激的な物を鮮明に覚えやすいのか、ヴィラクスがムッツリスケベで無意識に強く記憶しているのか、バイジュウ自身がそういう物を好んで覚えようとしたのか。その真意は誰にも分からない。

 

『……私ってそんな子だっけ?』

 

 自分でも知らぬ一面があるかもしれない、と考えたらバイジュウは頬が緩むのを感じた。

 もしもミルクに再開できたなら、多少恥ずかしくて聞いてみたい。「私ってヤラシイ事を考えそうに見える?」とか何とか。

 

 ミルクはいったいどんな風に返してくれるだろうか。

 飲み物でも溢しながら笑い転げたり、呆然として驚くのか、それともミルクもそういう事情に耐性がなくて顔を赤くしてしまうのか。どれもバイジュウにとって新鮮な物であり、想像するだけで嬉しくて涙が溢れてしまいそうになる。

 

 

 

 ——それを現実にするためには。

 

 

 

「Recode、バイジュウ」

 

 

 

 ——今一度20年前の記憶で何があったのかを知らないといけない。

 

 バイジュウは眼前に広がる光景を認識する。

 そこは始まりの始まり。20年前の自分が深海から『未知の生物』を観測して報告しようと戻ろうとしている場面だ。

 こうして見てみると、20年前のバイジュウと今のバイジュウでは結構細部が違うことが分かる。我ながら結構ムカつく顔をしているというべきか、お高く纏まっているというか、とにかく自分自身から見ても近寄り難い気骨と自信、そして誇りに満ち溢れた佇まいをしていて思わず「うわぁ」と成人が若かりし頃、特に中学生ぐらいを思い出すかのような悶絶という溜息を溢す。年齢的には差はないというのに。

 

《パスワードを音声入力してください》

 

「Keshi0415-Z」

 

『こんな仏頂面なんだ、私……』

 

 あまりの自分の表情の固まりっぷりにバイジュウはドン引きしてしまう。

 現在バイジュウは透明人間のように20年前の記憶を彷徨いており、その記憶にいる20年前の自分には認知されておらず、互いに触れることや話し合うと言った干渉は一切できない。故に自分自身の真正面でバイジュウが変顔をしたとしても、何の反応も返してくれずにただ氷のような冷たい表情で扉の前で立ち続けるのを見守るだけだ。

 

 けど自分を観察するのはここまでだ。自分のことは自分が分かっている以上、観察すべきは別の人物なのだから。

 バイジュウは過去の自分から視線を外し、二重防護扉に備え付けされている観察窓にいる何人かのうちの1人に釘付けになる。

 

『ミルク……』

 

 その人物の名は『ミルク』だ。本名は『思仪』であるが、本人が「『ミルク』の方が可愛いからそっちで呼んで」と言われてるからバイジュウはそう呼ぶことにしている。

 髪色は褐色。セミロングの髪を乱雑に纏めて上げており、その服装には女子力なんて微塵も感じない『生存』という文字が達筆でプリントされたシャツとショートパンツで過去の自分を優しく見守っている。

 

《認証完了。6桁のパスワードを入力してください》

 

 そうだ。ここでイタズラ的なテストで変更されたパスワードを解除するんだ、ということをバイジュウは思い出す。

 バイジュウが『特別顧問』として所属していた『タスクフォース』では、作戦経験など一切ない自分を試すために色々と小手試しをしていた。いくら『天才』だと称されても、たかが小娘に部隊の誰よりも権限があり指揮権も与えられたとなれば不平、不満は持たれるのはしょうがない。

 

 故にバイジュウは証明してきた。自分の知恵を、自分の実力を。タスクフォースにいつも示してきたのだ。

 だけどミルクだけはバイジュウには甘い。観察窓の向こうで戯けた顔をしながらも、視線でヒントを伝えようとしてくれている。

 

 それを見てバイジュウは頬が緩んでしまう。例え記憶の中であろうとも、ミルクの顔だけは澱むことも霞むことも変わることもない。

 そこにいるだけで自分にとって太陽のように眩しくて、陽だまりのように温かい心地よさを届けてくれる。それがバイジュウにとってどれだけ懐かしさと嬉しさと切なさが込み上げてくるのか。それは言葉で表すことは決してできない。

 

『そうだったね……。ここのパスワードは——』

 

「『124155』」

 

 過去の自分と共に言うパスワード。それはミルクとの大事な思い出の一つ。

 その音声を認識して二重防護扉は開かれる。その先はタスクフォースの面々が驚いた顔で固まり、ミルクは髪を整えながら誇らしげに微笑を浮かべていた。

 

「ふふふっ、さすがバイジュウちゃん……」

 

 と言いながらも、その手には紙幣が何枚か握られており、タスクフォースの仲間達と賭け事をしてたことが伺える。ミルクだけ嬉しさを顔にしてるところからして、どうやら彼女一人の一人勝ちのようだ。

 こういう美味しいところはサラッと頂いていく一面もあったなぁ、とバイジュウは何度目かも分からぬ懐かしさを感じながら、過去の自分が「んっ」と清らかに喉を鳴らして調査報告を始めることに耳を傾ける。

 

「予想通り、確かに『アレ』は超深海層に存在しています。私は数時間前に『アレ』と近距離接触を行い、液体サンプルを採集することに成功しました」

 

「…………えっ?」

 

 その言葉にミルクを含んだタスクフォースの全員が騒ぐのを止めた。

 過去のバイジュウが言う『アレ』とは今では分かる。セラエノの言う通りなら『古のもの』という存在だ。地球上のあらゆる生命体の基礎とも推測されているが、その実態が何も解明されていないからこうして調査に赴いている。それも失敗に終わり、結局は何の情報もないままこの部隊は『死』という形で解散してしまうことになってしまうが。

 

 だからバイジュウは一度聞いた。SIDで情報収集のためにアレン、ガブリエル共々に軟禁状態としているセラエノに『古のもの』について。

 

 

 …………

 ……

 

『『古のもの』——。それは地球上の人類が誕生する以前に、宇宙で発生した物質的な生命体だ。私や■■……おっとここではシンチェンか。まあそれらの概念的な存在とは違い、確かに存在していてそれが地球に飛来した存在。地球の生命体の基礎となり、都市の建設……今でいう『アトランティス』や『レムリア』などのオカルトに深く関わった存在でもある』

 

『なるほど……。貴重な情報ですね……』

 

『…………ここまで話してカツ丼はないのか? 事情聴取には定番と聞くが?』

 

『……残念ながら出来ないんです。取り調べの最中に食事提供するのは誘導行為と扱われて違法になってしまうので……』

 

『ガビーン』

 

 ……

 …………

 

 

 まあそれ以上は何も口にしなくなった。無表情ながらもショックが大きかったようで「プンスカプンプン」と口にしながら、その後のSIDが事情聴取では黙秘権を行使して沈黙を貫く遠因にもなってしまい、今でもセラエノから何も聞き出せない状況にもなっている。

 

 だがそれでも『古のもの』についてある程度知ることができた。

 推測通りに地球上の生命の基礎ということ。俗に言う『原始生命体』というわけだ。

 

 しかしそれでは根底の部分が覆ってしまう。原始生命体とは科学的には細胞レベルの存在だと言われてきた。それが独自の進化や変化をすることでミドリムシなどの単細胞生物が生まれ、海の生物へと変わり、やがてそれは陸へと上がって恐竜時代を経て縄文から今にかけての人間社会が生まれた。

 

 だがバイジュウが目にした『古のもの』は単細胞生物ではなかった。確かに意思と肉体を持ってバイジュウのことを見ており、確かに液体サンプル手にしたのだからミクロ的な存在な訳がない。

 

 それなのに『生命の基礎』というのはどういうことなのか。元々この南極での調査なんて『存在しない』ことを前提に来たのだから、ここにいる誰もが答えなんて知るわけがない。それは現在のバイジュウだって同様だ。

 

 

 

 ——もしかしたらミルクの記憶に手掛かりがあるかもしれない。

 

 

 

 色々な事情がバイジュウに重くのしかかる。

 ミルクのその後を知り、ミルクの救出方法を知り、バイジュウを19年間も保護していた『誰か』の真意を知り、深海にいた『古のもの』について知る。

 

 現実世界でも問題は山積みだというのに、こちらでも問題は多く抱えている。しかしここでは誰の力も借りることはできない。自分一人の力で何とかしなければならない。

 

 それでも、ちょっと心が重くなる。覚悟していたとはいえ、重い物は結局は重い。誰か少しでも支えてくれないかな、とバイジュウは甘えたくなってしまう。

 

「バイジュウちゃん」

 

 そんな時にミルクが声をかけてくれた。バイジュウの心境を察したように優しくもお茶らけた言葉で。

 

『ミルク——』

 

「そんな固いこと言わずに、ほら笑って〜〜〜〜ッ!!」

 

 だから思わず甘えてしまおうと身を寄せようとした時、ミルクはバイジュウの身体を擦り抜けてバイジュウの後ろにいる人物の右腕を抱きしめた。

 

 それは間違いなくバイジュウだ。ここは記憶の世界なのだから、今ここにいるミルクは当然記憶にいる『過去のバイジュウ』へとスキンシップを図る。

 ミルクはバイジュウに頬をすり寄せる。仏頂面で愛想なしのバイジュウを頬を緩ませる。何でもないよくある二人の日常的風景だ。

 

 それだけだというのに、ミルクにとってそれは当然だというのに、過去の人物だというのに、焼き餅を焼いてしまう醜い自分がいることに気づいてしまう。

 

 今ここにいるミルクの中に『私』はいない。いるのは『バイジュウ』という存在であり『私』ではない。ファビオラが予め言っていた通り『私』は記憶を覗くただの観測者でしかないのだ。

 

 

 

 ——辛いな。触れ合いたいな。

 

 

 

 少女は透ける手でミルクの髪を撫でる。

 その手に感触も温かさは伝わりはしない。あるのはただ虚空だけ。

 

 続く、続く。地獄までの道筋はまだ続く。

 バイジュウとミルクの記憶はまだまだこれからなのだ。



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第7節 〜瓦解氷消〜

「バイ〜〜〜〜ジュウ〜〜〜〜ちゃん〜〜〜〜♪」

 

 私は何を見てるんだろう。ただただ嫉妬で狂いそうになるほど、眺めることしかできない自分に歯痒さを覚えてしまう。

 バイジュウの目の前では、過去の自分とミルクが会話している。深慮から現実に引き戻される過去のバイジュウは「仕方ないなぁ」と言わんばかりに軽くため息を吐いてミルクへと向いた。

 

「ねぇ、私に会いたかったでしょ〜〜〜〜? さっきのパスコードはアホどもの悪戯だから、気にしなくていいんだよ!」

 

 そう言ってミルクは上機嫌に、その手にある戦利品である札束を見せつける。ブルジョアな人達がするように、紙幣をうちわにして満面の下衆な表情を浮かべながら。

 

「悪趣味です」

 

『……もっと愛想よくしようよ、私』

 

 何度目かも分からぬ自分の仏頂面が見せられながらバイジュウは過去の自分と違う意味でため息を吐いてしまう。

 自分に自信と誇りを持っていて、南極での事件が起きるまで自分は『他人とは違う』という価値観で偉そうにしてた頃だ。実際に他人とは違う能力も記憶力もあるので、その部分に関しては今でも認めてはいるが、流石に『何でもできる』と思うぐらいの自信なんて物は一切ない。こんなツンケンとした態度なんて二度と取れない自負がある。

 

 これから地獄が待っているというのに、何で昔の私はこんなにも万が一の考えも抱いてないのだろうか。失敗しないという確信を持って、自分の疑問に耽ることしかしないのか。自分の視野の狭さに頭を抱えてしまいそうだ。

 

「いつも私の期待に応えてくれるバイジュウちゃん、やっぱ最高〜〜〜〜それに可愛いっ!!」

 

 カエルのように飛びついてくるミルクを、過去のバイジュウは心底面倒くさそうに引き剥がすが、それでも負けじと何度かミルクは飛びかかる。

 

 それがやるだけ無駄だと気づくと、過去のバイジュウは再び溜息をついてソファーへと座る。ミルクはそれを追って、彼女の膝の上に足を乗せて、その両手で優しく頬を両手で包んで笑顔を溢した。

 

「実はね、今回の任務、実はこれぽっちも参加したくなかったんだ……。超常現象や人外生物とか、私の趣味じゃないし。南極上空に異常な類似生物の電波を検知、って情報だけで『目標』を見つけ出すなんて、普通は無理じゃん……」

 

 

 

 ——ミルクの発言にバイジュウはほんの少しの違和感を覚えた。

 

 今なんて言った。南極『上空』に異常な類似生物の電波を検知? 南極の海域や海中ではなく『上空』に?

 

 

 

 バイジュウは自身の絶対記憶能力を活かして、その情報が本当に確かな物かと追憶する。だが齟齬などない。バイジュウの記憶でも、ミルクの記憶を複合してできたこの世界において、その発言はミーム汚染などの類で汚染された物ではなく間違えなどない確かな物だ。

 

 そこでバイジュウの疑問は覚える。それはもしかしたら『海底で見た生物』と『観測された類似生物の電波』は全く違う物ではないのかという物だ。

 

 様々な経験をして、バイジュウは『常識』の知識だけでは語れない『超常』の存在を知った。それは今と昔では『異質物』そのものへの理解度が違うということもあるが、何よりも知ってしまったのは『OS事件』以降に接触した様々な異形の数々だ。

 

 だからバイジュウにとって常識は既に崩壊している。故に思考を多少夢物語に飛躍させようとも、それは理論整然とした推測として成立してしまう。

 異形は決して一種類じゃない。ヨグ=ソトース、ニャルラトホテプ、『OS事件』の異形などがいるように、バイジュウが見た『海底で見た生物』こと『古のもの』と『観測された類似生物の電波』は違うことを予測してしまった。

 

 

 

「……まあ、安心してよね」

 

 バイジュウが色々と思い考える中、記憶の再現はそんなことなどお構いなしに進む。

 過去のミルクとバイジュウは二人の会話を楽しみながらも、潜水艦での操作ログや今回の南極探索についての今後について話し合う。

 

 深海で見つけた『アレ』と呼称される存在である『古のもの』のサンプルをどこで調べるべきか。

 そのためにはどのような条件下であるべきか。

 それを可能にする設備が南極の駐屯基地のどこにあるのか。

 現実的な範囲内での交渉で基地を利用することができるか。

 

 それら全てを解決するための基地が二つまで絞り込むことができた。その二つは『ニュルンベルク基地』と『スノークイーン基地』ということ。

 

 

 

 ——そして地獄への門は既のところにまで迫ってきていた。

 

 

 

「地理的な観点では、ニュルンベルク基地の方がエメリー棚氷の近くです。ですが——」

 

「だけどあいにく、ニュルンベルク基地は先月から民間の武装部隊が駐屯を始めた。つまり『独立機関』に売却されたってことだね」

 

 

 

 ——瞬間、バイジュウは小さな違和感を感じた。それは今後の顛末を知っているからこそ感じるものだ。

 

 二つまで絞り込まれた段階でニュルンベルク基地はある『独立機関』の物となって安易に踏み込めない場所となった。

 交渉の面倒ごとが増え、バイジュウとミルクが所属する組織の上もメンツが重要ということでわざわざ下手に出て頼みことなどするわけもなく、なし崩しでバイジュウ達の舞台は『スノークイーン基地』へと向かうことになった。

 

 まるでその『独立機関』が間接的にバイジュウ達に導くかのように——。

 

 それがバイジュウにとっての違和感だった。

 もしかしたらその正体不明の『独立機関』が『スノークイーン基地』での悲劇を起こすために誘導したとしたら——。

 

 そこまで考えてバイジュウは一度思考を止める。

 なぜなら判断材料が少なすぎるからだ。推測どころか憶測でしかない曖昧すぎる考え。それに頼るのは理路整然としたバイジュウが許せるはずもない。

 それに間接的であれ、そこに導こうとしたのはバイジュウ自身だ。『スノークイーン基地』での悲劇は自分の好奇心が抑えきれずに、甘い考えで踏み込んでしまったことも一因なのだ。自分の罪を棚上げできるほどバイジュウは図太くはない。

 

 

 

 今は——ミルクを救い出す方法を優先して考えないと——。

 

 

 

「そっか……。手配するから、安心なさいな!」

 

「私が何か隠し事をしていても、あなたはいつも見抜いてしまいますね」

 

「バイジュウちゃんの事に関して、私を甘く見ちゃダメだよ〜〜!! だから隠し事はしないでね? 計画を知らないと助けることができないから」

 

 

 

 ミルクの何気ない言葉は、バイジュウの心を抉るように刺し貫いた。

 

 南極で起きた悲劇の中、ミルクは命がけで自分を助けてくれたじゃないか。下手な嘘をついて銃を突きつけながら『ドール』から離してバイジュウだけでも助けようとしてくれたじゃないか。

 

 私は何もできず、ただただ泣きじゃくって冷たい壁の向こうで無力に押し潰されるしかなかったのに——。

 自分の力ではない『奇跡』にも等しい力が宿ったことで、ようやく壁の向こう側に脱出した時には既にもう全てが遅すぎたというのに——。

 

 そんな何もできなかった自分をミルクは助けてくれた。『OS事件』だってミルクが力をレンに貸してくれたからだ。

 

 いつだってミルクは私を助けてくれた——。

 だというのに、私からは何も返せてない。

 

 

 

「あんたはね、氷みたいに冷たい人間に見えるけど、本当はとっても情に脆いのよ」

 

 

 

 やめて——。

 今だけはその温かい言葉は弱い自分を溶かしてしまう——。

 

 過去の幻想でもミルクの優しい言葉は今のバイジュウに一言一句突き刺さる。

 無力な自分にそんな優しい言葉をかけてもらう資格はない。甘えていい資格もない。

 だからお願い。それ以上は私に優しくしないで。温かい言葉をかけないで。

 

 

 

「隠し事はもうしないで。バイジュウちゃんは真っ直ぐなんだから、人を騙すなんてできないんだしさ。——私を信じて、本当のことを教えて?」

 

 

 

 ああ——。過去の自分だというのに体温が感じるほどにミルクの抱擁はバイジュウの心に伝わる。

 

 でも私にそんな資格はないんだ。抱きしめてもらえる資格はないんだ。

 お願いだから、優しくしないで。私の弱さがあなたの温かさに溶けてしまいそう。そうなると私はまた逆戻りしてしまう。弱い自分のままになってしまう。

 

 お願いだから——今だけは優しくしないで。

 

 

 

「まあ言わなくても、大体分かるんだけどね。私はバイジュウちゃんの心を見抜く、超能力を持っているんだから!」

 

「そうですね……。あなたは、聡明だから」

 

「でもあんたの意図を推測すればするほど、私は心配になっちゃうなぁ……」

 

「ごめんなさい……」

 

「謝るより、行動で示せ〜〜〜〜っ!!」

 

 

 

 そうミルクはお願いするように「抱きしめてくれないの?」というと、過去のバイジュウは諦めたのか、それとも何か心の中に燻る迷いが吹っ切れたのか、バイジュウは言われた通りに手を伸ばしてミルクの腰に回した。

 

 

 

「ほら、笑って? こんなにも可愛い……女の子なんだから」

 

 

 

 夕焼けのように明るい夜と、漆黒のように暗い夜の狭間。鮮やかな極彩色となって混ざり合う外の光。

 幻想的で美しい光景だが、バイジュウの記憶にはそれ以上にミルクの笑顔が暖かくて明るい、夜さえも照らす朝日の笑顔が鮮明に刻み込まれていた。

 

 

 

 だけど——今だけはその笑顔は眩しすぎる。

 

 深海に沈んだ心に差す笑顔という光は、余りにも自分の無力と罪という闇を強く映し出してしまう。

 

 

 

『……それでも、見届けなきゃ』

 

 

 

 まだまだ続く。まだ記憶と記録の底には届かない。

 バイジュウは地獄の入り口すら立てていない。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「到着〜〜〜〜〜〜っと!!」

 

 時間は進み、問題となる『スノークイーン基地』へとタスクフォースはたどり着いた。

 バイジュウ、ミルクを含んだ隊員達はスノーモービルから降りて各々の装備を点検する。これから深海で入手した『古のもの』のサンプルを届けなければならない以上、道中で不手際などは許されない。深海での調査結果が確かに未知なものを入手したことを他の組織が知ってしまえば、強奪の危険性だってある。そのための警戒だ。

 

 だが今ここで記憶を観測するバイジュウだけは知っている。

 これから先、戦うのはサンプルを盗みにきた敵対組織ではない。『異質物』の力によって狂わされた魔女の末路『ドール』が待ち受けていることを。

 

「——戦闘準備ッ!!」

 

 奈落のように続く『スノークイーン基地』入り口の階段の果て。

 それを見据えながらバイジュウは命令を下すと、タスクフォースは銃器のセーフティーを外して厳戒態勢へと移る。

 

 刃の如く鋭く走る南極の冷たい風。肌身で感じながら慎重にバイジュウ達は階段を一段ずつ降りて『スノークイーン基地』へと踏み込むと、突如として視界の影からバイジュウを目掛けて大鎌を持った少女が襲いかかってきた。

 

 ——それはバイジュウの記憶と相違ない。現代まで脅威として認知されている紛れもない『ドール』の哀れな姿だ。

 

 目の焦点も手足の動きも、糸に吊るされた人形のようにぎこちなくも人間離れした俊敏さでバイジュウ達へと間合いを詰めていく。

 しかもその数は1人ではない。徒党を組んで押し寄せてきており、数えるだけ無駄と言わんばかりに増え続ける。

 

 バイジュウは結末を知っている。この先にどんな悲劇が待っているのかを。この先に希望なんてないことを。

 

『……それでも見届けなきゃいけない』

 

 時間は少し経ち、バイジュウを先陣にタスクフォースは『スノークイーン基地』の奥深くまで向かっていく。

 その最中、何度も『ドール』と戦闘を繰り返し、その度に隊員達は傷ついて帰らぬ人となった。

 

 それもそうだ。通常の人間相手に『ドール』が負ける道理がない。『ドール』は銃弾如きでは怯むこともできず、出血では死なず、焼き殺すこともできず、頭を吹き飛ばしても動き続ける超常の存在だ。

 無力化するには徹底的に四肢を切り刻むか、『ドール』が内包する魔力が尽きるまで消耗戦をするしかない。

 

 だが当時のバイジュウ達に『ドール』の知識など微塵もない。当時は異質物や魔女の研究はまだ入り口に立つのがやっとであり、ノウハウなどが溜まっているはずもない。

 いくらバイジュウやミルクが聡明と言っても、知っているのは『既知』だけ。『未知』なる存在には対抗しうる知識など持ち合わせていないのだ。

 

「入室制限……よしっ」

 

 やがてタスクフォースは壊滅し、残るはバイジュウとミルクの2人きりになった。

 疲労困憊で銃弾も少ない中、電気制御室で2人はお互いの身体を支え合いながらコンソールを操作して『スノークイーン基地』の監視システムを作動させる。

 

「ここなら、しばらく安全なはず……」

 

「そうだね……。ちょっとシステムの様子を見ておくよ」

 

 タスクフォースの隊員達が次々と命を落とした中、2人だけが無事なのは理由がある。現代では当然のように扱うバイジュウの能力『量子弾幕』が危機的状況下で覚醒したからだ。

 それで窮地を脱することができたが、それでも満身創痍。慣れない力も利用したこともあってバイジュウは疲労の色を隠せずに寄りかかるようスクリーンの画面を眺める。

 

 しかし——。その画面には安心などはない。

 ミルクがシステムをハッキングしたことで監視カメラの映像がスクリーンに映る。監視カメラ越しで『ドール』が基地内を徘徊してるのが分かり、隊員達が必死の思いで撃ち貫いた弾痕は既に治っている。

 

 ここまでの経過で過去のバイジュウとミルクは『ドール』の整体をある程度理解することができた。

 人間を襲うことに特化した人間の形をした理性なき殺戮兵器。銃程度で無力化できないのであれば、バイジュウ達が打てる有効打はない。どうやって『ドール』の包囲網を潜り抜けて『スノークイーン基地』から脱出できるのかを脳神経をフルに回転させて考える。

 

 だが——時間は長くはない。先ほど交戦した『ドール』の2組がバイジュウ達がいるフロアへと凄まじい速度で向かってきている。

 

 到達するまでに1分。バイジュウ達を捕捉するの2分もあれば十分な速さだ。残された時間は多くて後3分しかなく、それをバイジュウとミルクは理解する。

 

 しかも、その『ドール』の一人は監視カメラから感じるバイジュウ達の視線に気づいた様子で血塗れになった隊員の靴を持ち上げ、挑発と宣誓混じりに「次はお前だ」と言わんばかりの笑みを浮かべた。

 

「くっそ……畜生がッッッ!!」

 

「落ち着いて、冷静に」

 

 バイジュウはミルクの肩を軽く叩いて平常心を取り戻すように促す。

 ミルクは一度息を整えると、脳内で基地の立体構造図と監視カメラの構造から見える『ドール』の数、そして自分達の現在地と武器から最良の案を導こうと試みる。

 

 俗に言うトランス状態という表情でミルクは演算を始めるが、その答えがどうなるかなんて過去と今のバイジュウだって理解してしまう。

 

 

 

 ——この状況下で理想案を見つけるなど、不可能であると。

 

 

 

 その瞬間、記憶にノイズが奔った——。

 

 

 

『えっ——?』

 

 それは観測するバイジュウには身に覚えがない。

 記憶のどこかに綻びがあるとか、空白があるという感覚ではない。むしろ記憶に重くのし掛かる感覚は『不純物』と言った方が正しい。

 

 なんだ——。この得体の知れない感覚は——。

 

 

 

「…………バイジュウちゃん〜〜。私達が最初に出会った時のこと……おぼ、え……て……っ!!?」

 

 

 

 ミルクが決死の判断を決めて振り返った時、その表情は一転して驚愕に染まる。そしてそれはバイジュウも同じことだった。

 

 いつのまにか電気制御室に『影』としか呼べない存在が侵入してきていた。大きさは3mくらいであり、形だけなら『OS事件』で相手した『異形』と似てなくもない。

 

 

 

『なに、これ……っ!? こんなの私の記憶には……っ!?』

 

「クッソ! もう追手が来ていた!」

 

「でも今までの敵とも違う……っ!! これはいったい……!?」

 

 

 

 刹那、観測者のバイジュウだけは理解した。この『異形の影』がどういう存在かを。

 

 これはファビオラが口にしていた『蜘蛛』と同等の存在だ。過去にレンがファビオラの記憶に入った時も、通常の記憶とは別に『蜘蛛』が襲撃してきたことをバイジュウは聞いている。

 

 記憶に宿る防衛本能みたいなもの。魔力そのものに宿った意志みたいな存在。それが形になったのが『異形の影』だ。

 宿主であるヴィラクス、もしくは記憶の持ち主であるバイジュウかミルクが元々宿していた魔力の防衛本能。記憶を覗こうとする不届き者を排除するために、今こうして立ちはだかっているのだ。

 

「こいつ銃弾が効かない! 擦り抜けてる!」

 

「斬撃さえも効かない……っ! 一体どうすれば……!」

 

 ミルクとバイジュウは届くはずがない。それもそうであり、これは『観測者』を排除するための記憶の本能が施したものだ。

 記憶の住人が何とかできるような存在ではなく、現にファビオラの時だって最後まで『蜘蛛』は排除することはできず、現実のファビオラが覚醒することでようやく停止するようになるほどだ。

 

 ならば——。こいつの相手は私がするしかない。

 

 記憶の住人ではなく、記憶の観測者を排除するために出てきたというになら、望み通り相手になってやろうじゃないか。

 

 

 

『怖がらないで、私がいるから——』

 

 

 

 いつぞやにミルクが口にした温もりという言葉を、今度はバイジュウから届けるために。

 届くはずがないと分かっているのに、バイジュウはその言葉を過去のミルクに口にして人知れず『異形の影』の前へと対峙した。



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第8節 〜凍解氷釈〜

 バイジュウは過去の自分自身とミルクの前に立ち、その手に武器を見覚えがない銃剣を構える。

 ここは記憶の世界。どんな現実であろうと、ここでは記憶にある情報が最優先で処理されて現実を侵食する。故にバイジュウの武器は今までの『ラプラス』とは違う得物が二つも握られていた。

 

 左手には『ラプラスMk-II』と現在開発段階中のラプラスの後期型。

 セラエノとの戦闘で後手に回ってしまったことを深く後悔したバイジュウが、より精密で高度な計算を可能にするために改良した逸品であり、従来であれば『引力』と『斥力』を両手の銃剣で別々に計算して行っていたが、それを統合して片手だけでその二つの発生を可能にした。

 おかげで演算もより一層複雑に同時進行でやらなければいけなくなり、半ば絵空事の話ではあったが、幸か不幸かセラエノが叩きつけた『プラネットウィスパー』の影響で脳神経が活性化——。いや『進化』してそれを実行する計算能力を会得しており、その絵空事を現実にすることを可能にしたのだ。

 

 そして右手に握るもう一つの銃剣の名は『モルガン』——。

 こちらも現在バイジュウが開発中の新型銃剣であり、基本的な型番はラプラスと同じだ。これは生産ラインを極力増やさずに、予算の問題とメンテナンスの相互性をクリアするための策であり、また規格が同じなら統合などの改造で機能をまた集約できる拡張性にも期待してのことだ。

 

 その機能は今は見せることはできない——。

 何故なら『情報』がまだ足りてないからだ。モルガンの機能を100%発揮するためには、モルガンの学習AIに敵となる存在の情報を叩き込まなければ意味がないのだ。

 

《予測パターン。演算開始》

 

『良い子だ。なるべく早くしてください』

 

 モルガンの機械音声に、バイジュウは優しげに声をかけて両手の銃剣を影へと向ける。この機械音声が『演算終了』を告げた瞬間にモルガンは真価を発揮する。

 それまではモルガンはただ見た目が銃を模してカッコいいだけの刃物だ。できれば学習AIが完成する前に倒せるような弱い敵であってほしいものだ。

 

 そう願いながらバイジュウは攻撃を開始しようとするが、影は一向にバイジュウのことを獲物にしない。うっすらと感じる視線は肌身で伝わるが、敵意といった害をなす意識はバイジュウを透き通っているのは分かる。

 

 

 

 ——こいつ、私のことを狙っていない?

 

 

 

 バイジュウの予測は的中した。

 異形を模した影はただ記憶の観測者であるバイジュウではなく、記憶の住人であるミルクとバイジュウを狙って飛び掛かってきたのだ。

 

「左右に分かれて脱出を測りましょう!」

 

「分かった!」

 

 バイジュウの指示にミルクは応じ、2人は支え合いながら立つのがやっとという状況で意地と根性を張って異形の左右を取ろうと機敏に動く。

 しかし手負は手負だ。従来の機動力は失っている今では、影はすぐさまにバイジュウかミルクのどちらかに立ちはだかって行手を阻む。その間にもう片方が一つしかない出入り口から逃げ出そうとするが、それに機敏に気づいて間合いを詰めていく。それの繰り返しだ。

 

 そもそも狭い電機制御室では2人で逃げようとしても機動性を十全に発揮できないし、怪我をしているなら尚更だ。制御室のスイッチや機材を散乱させてでも走らないとまともに動けはしない。

 

 このままではいずれ2人とも疲弊して動けなくなってしまう。そうなれば影に蹂躙されて死に絶えるのは目に見えている。

 

 この状態で2人の身に何かあれば——。何かあれば————。

 

 

 

 何かあれば——?

 ふとバイジュウは疑問に思う。それは素朴な疑問だ。

 

 

 

 ここはあくまで記憶の世界だ。決して過去の世界ではない以上、タイムパラドックスなどの歴史改竄などは起こることはない。

 だというのに影は記憶の住人を狙う。そこに一体何の意味を持つのか。仮に記憶の住人がいなくなれば、どういうことが起きるのか。バイジュウにはそれを考えようとするが情報がなくて予測もできない。

 

 

 

 けど、それでも——ミルクを傷つけることだけは許さない。

 

 

 

『お前の相手は私だ——!!』

 

 

 

 意識されてないなら、それはそれで良い。不意打ちの機会が絶好になるだけだ。

 バイジュウは無防備な影の胴体を容赦なく切り裂いた。切り裂いた感覚は水中で腕を振るような、あるいはイカやタコの軟体動物を捌くような何とも言えない感じだ。

 

 しかしそれでも手応えは手応えだ。影を切り裂いたことで、記憶のバイジュウとミルクは驚きの表情を見せる。何せ二人には観測者のバイジュウは見えていないのだ。彼女達からすれば突然影が切り裂かれて霧散したとなれば驚くのも無理はないだろう。

 

 だが驚くだけではタスクフォースは務まらない。

 影の異変を明確な隙だと判断したミルクはバイジュウの手を引いて、電気制御室から飛び出していった。今ここにいるバイジュウの存在なんて欠片も察知することなく。

 

 何度目かも分からぬ空虚な寂しさ。バイジュウはそれを刹那に振り解いて影の様子を窺う。

 影は苦痛に悶えることなく、切り裂かれたことなんて最初からなかったように元の形に戻る。そして今度こそ観測者であるバイジュウを見つめた。

 

 だが、それでも——その影には『敵意』はなかった。

 

 

 

 ——なんで? なんで敵意を感じないの?

 

 

 

 この影は確かにバイジュウのことを見ている。

 バイジュウが右に一歩とゆらり、左に二歩とさらりと動くと、影も反応して見つめてくるの感じる。影だから視線なんてあるわけないのだが、それでもバイジュウには分かる。バイジュウには『魂』を認識できるから。

 

 疑問が募る中、影は電気制御室から飛び出していった。

 それは逃走する記憶のバイジュウとミルクを執拗に狙う様な、しかし観測者のバイジュウを優しく導くかの様な何とも言えない足取りで駆けて行った。

 

 バイジュウもすぐに追撃に回った。正体が何なのかイマイチ不明瞭だはあるが、それでもミルクに害を成すことだけは絶対に許さない。

 

 須臾に加速——。

 刹那に到達——。

 瞬間に切断——。

 

 セラエノによって脳神経が強制進化されたバイジュウの反射神経はそんじゃそこらの魔女やドールより遥かに凌駕する。恐らくギンにも匹敵しうるほどに。

 

 そしてここは記憶の世界。実体などなく記憶が世界を生み出して侵す以上、そのまま反射神経は運動能力へと変換される。

 

 つまり今のバイジュウはこの世界にいる限りは『最強』に等しい。

 動きを見てバイジュウは理解した。この影は『OS事件』の時にあんなに苦戦していた『異形』と同じだ。最初に戦った状態の異形と同等の身体能力であり、あの時はバイジュウ、エミリオ、ヴィラ、ソヤの四人でも押されていて、レンが奇襲をすることで打開することに成功したほどの強敵だった。

 

 だが今なら貧弱すぎる。こちらに攻撃の意思を見せないとはいえ、無防備同然に豆腐みたいに切り崩して追跡を阻止できる。

 どんなに足早に動こうとしても、それよりも速くバイジュウは動いてその一歩を踏み出させはしない。

 

 

 

 ここまで弱いなら——モルガンに頼る必要はない。

 モルガンが真価を発揮する前に無力化できる。

 

 

 

 電光石火の連撃に影は成す術もなくバイジュウの前に倒れ伏すだけ。

 この記憶で追体験した己の無力さと、『OS事件』での惨めな自分を思い返し、その鬱屈を糧にほぼ八つ当たりも同然に全力で影を切り刻んだ。

 

 

 

 だというのに——それでも影は敵意を見せなかった。

 

 

 

『……っ!』

 

 

 

 あまりにも不吉で不気味な姿に、バイジュウは刃を下ろして距離を取るしかなかった。

 影は無惨に切り刻まれて沈黙をする。再生するのに時間が掛かって、動くにはある程度時間が要することが見て分かった。これでは当分動けそうにない。

 

 目的を履き違えてはならない。あくまで目的は記憶を追体験して『門』の奥にいるミルクとスクルドを助ける手がかりを見つけるためだ。ここで記憶の人物を見失い、その手掛かりを見落としては元も子もない。

 

 バイジュウは多少の迷いはありつつも、影を放っておいて、それが向かおうとした方角へと走っていった。恐らくその先にミルク達がいるだろうという仮定をして。

 

 しかし、あの影は本当に何なのか。

 まず間違いなくファビオラが証言していた記憶に出てきた『蜘蛛』と同等の存在だ。

 

 ファビオラから『蜘蛛』の存在についてある程度聞いている。それがどういう経緯で記憶に現れたかの推測も。

 

 マリルと愛衣曰くファビオラの脳内には『ある種の膨大な情報』が宿主として『寄生』していたと言っていた。

 高密度の情報量と必要数を満たしたエントロピー値。まるで生き物、ではなく生き物であるそれはファビオラの体内をゆっくりと『侵食』しようとしていたということも聞いたとファビオラは口にしていた。

 

 その『寄生』や『侵食』の形というべきか、その情報の防衛本能というべきか、どうあれそれ由来の攻撃的な面が発露してレン達に襲い掛かってきたのが『蜘蛛』なのだと推測した。

 

 だとすれば『影』もそういう面があるはずなんだ。

 記憶の宿主であるヴィラクス、それと持ち主であるバイジュウかミルク。もしくはそれを発展させてファビオラの『ある種の膨大な情報』を踏まえると、そのヴィラクス、バイジュウ、ミルクがいずれかが寄生したまた別の『ある種の膨大な情報』なのか。

 

 ならは答えはいくつか出てくる。

 バイジュウには『古のもの』の情報が宿っている。そのおかげで白い粒子を乱れ撃つことができるようになったのだ。

 

 だとすれば観測者のバイジュウ自身に攻撃してこない理由も頷ける。

 生物学的には寄生というのは『宿主を生かす』ことが大半だ。でないと自分の生態系を維持できないからだ。

 中には宿主を殺すような寄生もあるが、そんなのは基本的に少数だ。弱いからこそ寄生して生きるしかなく、わざわざ殺すような酔狂な生物はいやしない。

 

 もちろん『古のもの』が後者の可能性だって十二分にありうる。あれらは人間の常識から逸脱した存在なのだから。

 だが最初から『宿主を殺す』ことが目的なら、そもそもとして20年前のスノークイーン基地で魔女としての能力など覚醒させる必要がない。死亡した後に宿主を自分色に染めればいいだけなんだから。今スノークイーン基地で猛威を振るう『ドール』と同じように、バイジュウを物言わぬ人形として侵せばいい。

 

 だから『古のもの』はバイジュウとの『共生』を願っている。故にバイジュウは今の今まで正常で魔女の力を振るえるのだ。

 しかし記憶には『古のもの』にとって不都合な部分がある。それを見られたら困るから

 

 そうだと仮定すれば、一連の流れも一応の納得はできた。

 

 

 

《予測演算30%——。対象の情報を随時更新してください》

 

『……この子、やっぱり企画倒れかも』

 

 

 

 できればその結論をモルガンに示して貰いたかった。それがバイジュウの本音だった。

 モルガンの学習AIは予測演算を完了すれば、対象の情報を正確にバイジュウへと伝達してくれる。攻撃の脅威度から予測、推測される急所から攻撃の有効度から、戦況状況から推測される変化なども対象だ。レンが好きな『ファーストファンタジー』とかいうゲームに出る『ライブラ』に近いものだ。

 

 だが問題は演算能力に割けるスペックにあった。あまりにも遅いモルガンの演算にバイジュウは頭を抱えてしまう。

 片手持ちができ、武器としても扱えるとなれば、どうしても学習AIに裂けるスペックには制限ができてしまう。かといって大型化してしまえば片手剣として持つことができずに本末転倒だし、従来通りに双剣として開発してしまえば戦闘能力が著しく損なわれてしまう。

 

 それがあったら、とりあえずは規格だけは共通にしてペーパープランのままにしていたが、こうして記憶の世界で出してみたら案の定だ。

 思い込みという部分も影響してるかもしれないが、こんなに遅いなら人間の思考だけで同じことは早くできるようになる。

 

 これではただの銃剣だ。やっぱりペーパープランはペーパープランという落胆を抱えながら、バイジュウはついに追いついた。

 

 

 

「暴走する列車の前方に分岐点があるの。左側のレールに仲間達、右側のレールには自分がいる。バイジュウちゃんなら、どっちを選ぶ……?」

 

「————ミルクッ!!!」

 

 

 

 そう、ミルク達がいる場所へと追いついたのだ。

 自分と親友が離れる決定的な瞬間に追いついてしまった。

 

 

 

「私ならね……好きな人を救う——」

 

『ミルクッ!!』

 

 

 

 無駄だと分かっても届かない声が響く。

 ミルクは変わらないズルい笑みを浮かべながら、体当たりで過去のバイジュウを通路へと無理やり突き飛ばした。そのまま階段から転げ落ち、違うフロアまで押し込まれた。

 

 そこは秘密倉庫だ。出入り口は2箇所しかなく、特殊な合金素材で出来ていて戦車の突進や徹甲弾でも傷つくこと。しかも出入りをするには権限を持つ人物が出入り口を外部操作するしかないという代物だ。

 

 一度閉じ込められてしまえば内からも外からも干渉が難しい金城鉄壁のゲート。その奥に過去のバイジュウは押し込まれ、そのゲートに向こう側にはミルクが、華やかで儚い笑顔を浮かべていた。

 

 

 

「次のクリスマスまでには少し早いけど、私が予約を入れてもいいかな?」

 

 

 

 何度も何度も思い出す親友の言葉。何度も爆ぜる感情の数々。

 その言葉を果たすために、バイジュウは山積みになるまでクリスマスプレゼントを準備してきたんだ。絶対にあなたを『門』から助け出してみせると。

 

 

 

「ほら、笑って——」

 

 

 

 そこでゲートは閉じる。ここから先はバイジュウが知らない出来事だ。それも少しだけ事実がズレた状態だ。

 

 何せ一度影から逃げて電気制御室から出ていったのだ。本来の記憶なら2箇所ある出入り口の一つ電気制御室で今のやりとりが行われてバイジュウとミルクは別離をしてしまう。

 

 しかし今ミルクがいるのは、その二箇所のある出入り口のもう一つの場所である『車両保管庫』——。つまりは駐車場とかパーキングエリアとか呼ばれるような場所だ。

 ここで物資の運搬を行い、今バイジュウがいる倉庫へと運び込んで保存しておく。主に研究サンプルとそれらに関連する物を保存するが、『ドール』が襲撃されたのもあって今あるのは古びた本が一冊転がってるくらいであり、移動に利用できそうな車両さえない閑古鳥だった。

 

「よし……。壁の配電を通して監視室の音声システムを制御できた……。あとは引き寄せる手段をどうにか……」

 

 そんな中、ミルクは這いずるように壁へと近づいて配電盤を操作する。配電盤には自身の端末へと繋げてハッキングを行なっており、それで電気制御室へと遠隔操作を可能にした。

 

「……大事な物だったけど、こうするしかないか」

 

 ミルクは腕時計を外して改めて配電盤へとケーブルを繋ぎ直す。そうすると途端に遠くから旋律が響き、ミルクがいる場所まで木霊した。

 

 

 

 それは過去のバイジュウも耳にした音色だ。バイジュウとミルクが一番好きな歌——。

 

 

 

 しばらくすると今度は扉の破壊音が逆側から轟く。

 それは過去のバイジュウが『魔女』として真の覚醒をした瞬間でもある。

 

 今頃雨霰のような光弾を操り、歌に反応して群がる『ドール』をすべて切り伏せて、自分を犠牲にしてでもバイジュウを守ろうとしたミルクの所に向かおうとしているだろう。

 

 だが、それの顛末をバイジュウは知っている。

 この音と共に地震が発生し、突如として地面を裂いて穿たれた槍によってバイジュウの身体は貫かれて絶命した。その後、バイジュウの肉体は保護されて19年間も南極で眠りにつくことになる。

 

 それだけの無力な結果だ。そのことはバイジュウが一番知っている。だから見届けるのはそれではない。

 

 見届けなきゃいけないのは、その後のミルクの行動なのだ。

 

 

 

「……これで少しは時間は稼げるはず……。アイツらが電気制御室に集まってる隙に、バイジュウちゃんが知りたかったこの研究サンプルを届けて記録を残さないと……っ!」

 

 

 

 そこでバイジュウはふと疑問に思った——。

 

 そもそもどうして『ドール』はスノークイーン基地に出現したのか。作為的な物は感じているし、きっと何者かの差金があったのは嫌でもわかる。

 だけど『ドール』は軍隊の様に予め呼びかけして集める様な物ではない。異質物を介して『時空位相波動』を発生させて、その歪みを通して出現をする。それは現代において各地で小規模で発生する『時空位相波動』もそうだし、半月ほど前のサモントンでの事件では夥しい数が空から降り注ぐのをバイジュウは目撃している。

 

 

 

 そして——。そもそもミルクは一体どこで『魔導書』に触れたのだろうか。

 ヴィラクスが『魔導書』を通して記憶を得る以上、必ず過去のどこかでミルクは『魔導書』に触れているはずなのだ。

 

 

 

 そこで『記憶』にノイズが再び奔った——。

 

 

 

 何か、何かおかしい——。

 何か大きな齟齬が脳内のどこかでチラつく。

 

 

 

 ノイズが大きくうるさく響かせ、バイジュウは深い眠りにつかされる。その刹那、脳内で二つの記憶が同時に存在していた。

 

 

 

 同時刻、電気制御室と車両保管庫と存在する『2人』のミルクの姿を——。

 

 

 

『あっ……これは……!?』

 

 

 

 そこでバイジュウは理解した。その違和感と二つの記憶の正体を。

 

 

 

 それは『ミーム汚染されていない記憶』と『ミーム汚染された記憶』という『世界が生まれ変わる瞬間』が重なっている記憶だと。



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第9節 〜一片氷心〜

 バイジュウの中で記憶が重なる。

 それは『ミーム汚染前の世界』と『ミーム汚染後の世界』が重なった記憶であり、それが今急速にバイジュウにある記憶を追体験させる。

 

 それは一つの夢——。

 時の残滓が記した少女の末路——。

 

 少女は走る。波のように押し寄せる恐怖と狂気から離れるために、全身全霊で息も絶えるほどに走り続ける。

 

 身体は動く? まだ動く。

 肺は動く? まだ動く。

 足は動く? まだ動く。

 

 ならばまだ動ける。動き続けて自分の成すべきことを成さないといけない。

 

「少しでも……少しでも時間を……っ!」

 

 少女は自身が手にするライフルとハンドガンの残弾数とマガジンを一瞥して確認する。

 ライフルの残弾数は10発。マガジンはあと一つ。

 ハンドガンの残弾数は5発。マガジンはあと二つ。

 

 通常であれば心許ない程度で済むが、少女の現状ではあまりにも頼りなさすぎる戦力だ。少女の背後には人の形をした化け物——現代で言う『ドール』が追ってきており、それら相手に銃火器など無意味だということを少女は既に知っている。

 

「だけど目眩しくらいなら!!」

 

 少女は走りながらハンドガンを二つの標的へと向ける。それは基地内で設置されている消火器と防災スプリンクラーであり、それらを一撃ずつ撃ち抜いて誤作動させる。

 

 スプリンクラーからは雨のように水が降り注ぎ、消火器からは炭酸ガスと共に、消火の薬剤であるリン酸アンモニウムが刺し穿たれて暴れる蛇のように噴き出る。

 それにより少女は一転して霧にも近い白色の靄に包まれ『ドール』の追跡を撹乱させる。

 

 続いて即座に非常用のシャッターも下ろして通路を絶つことで『ドール』が迫るのを物理的に防ぐ。

 だが、それもほんの少しの時間しか稼げない。『ドール』の力は暴徒が100人集まるよりも凶悪であり、みるみるとシャッターはその強靭な力で形を歪ませて少女の命を奪おうと迫り来る。

 

「落ち着け……落ち着け……っ!!」

 

 少女は壁の配電ケーブルをライフルで無理矢理こじあけて取り出すと、その手にある端末へと繋げてハッキングを開始して基地内のマップと自分の現在地を把握する。

 

「今がここということは……この道を通って……下に降りると……」

 

「よし」と言って少女は端末からケーブルを乱雑に抜き取り、ライフルの最後のマガジンを装填して走り出す。少しでも長く時間を稼ぎ、自身の目的を果たすために。あわよくば自身の部隊が得た情報を少しでも解読して残すために。

 

 走る走る——。

 出口なんてない狂乱の基地を走り続ける——。

 

 身体は動く? まだ動かせる。

 肺は動く? まだ動かせる。

 足は動く? まだ動かせる。

 

 少女は呼吸さえままならないほどに走り続ける。少しでも早く管制室へ辿り着くために、温度管理設定さえ故障して極寒の空気が身体を中から氷柱を刺すように凍てつかせようとも走り続ける。

 

 だが、少女の行先には希望はない。

 視界の果ての果て。そこにはすでに回り込んでいた『ドール』の集団が、少女がいた舞台の仲間であった何人かの生首を乱雑に引き摺りながら少女へと迫り来る。

 

 恐怖で足がすくんだ。一歩踏み出そうと、一つ呼吸をしようにも鉛がつけられたように重くて身体が反応してくれない。

 

 

 

 身体は動く? 動かない。

 肺は動く? 動かない。

 足は動く? 動かない。

 

 

 

 ——心は?

 

 

 

 ——動く。動かす。動かせ。

 

 

 

「——こんなところで……死んでたまるかぁぁああああああああああああああ!!」

 

 

 

 少女はなけなしの覚悟と弾を撃って交戦する。

 例え相手に銃弾が効かないと分かっていても、自分がこれからどんな凄惨な目に遭うかも幻視しておきながらも、それらすべてを呑み込む覚悟をして少女は走り出した。

 

 

 

 瞬間、世界は霞む——。

 

 

 

 瞬間、世界が侵される——。

 

 

 

 ——これは『ミーム汚染前の記憶』だ。

 ——本来の時間軸で起こっていたはずの出来事の顛末。

 

 

 

 ——だが、世界の輪郭がボヤけていく。

 ——世界が徐々に作り変わっていく。

 

 

 

 ここでは——その記憶は存在しない。

 存在するのはもう一つの記憶。『ミーム汚染後の記憶』だけ。

 

 

 

 だけど、そこの記憶には『狭間』があった。

 

 

 

 一人の少女が極寒の世界を這う。何もない白い大地。天を仰げば宇宙の果てまで見渡せるほどの深くて青い空。肺に伝う空気は、呼吸するたびに器官に氷柱でも刺し穿つような激痛に襲われ、その熱を奪っていく。

 体も心も氷よりも冷たくなるほど吹雪の中、見上げた空の果てにはデジャブを感じざる得ない光景を目の当たりにした。

 

 

 

 何故なら——空には————。

 

 

 

『……レンさんの記憶と似た光景?』

 

 

 

 そう、そこには失われた異質物『ロス•ゴールド』が天に座していたのだ。

 20年前の記憶に潜るまでの間にヴィラクスの潜在意識に内包する『レンの記憶』——それも『赤い記憶』を覗き見していたバイジュウからすれば、何故似た様な光景を目にするか疑問でしかなかった。

 

 それも何故『20年前の記憶』に『ロス・ゴールド』が存在する? 失ったのは現代の話であり、誰かに持ち逃げされたというのならこんなところにあるはずがない。

 

 そこでバイジュウは不意にある現象を思い出した。『タイムパラドックス』という現象だ。

 それは一つの考え方であり、時間軸というものは『過去→現在→未来』と一方通行の関係性にあり、過去に起きた事象は今に反映され、今に起きた事象は未来に繋がるというものだ。ここまでは至極当然な話だろう。

 

 問題のその先。例えば『タイムスリップ』といった現象で未来の人物が過去に戻り、実際に起きた事象を変えてしまった場合、一方通行となる時間軸に本来発生しない事象が加えられ未来が変わってしまう。そうなると時間軸上に矛盾が生じてしまう。これが『タイムパラドックス』という現象だ。

 

 だが、この現象には一つの屁理屈ながらも面白い考え方がある。

 そもそも『情報』というのは誰が統治して管理しているのか。過去が変われば未来が変わるのは当然だが、そもそも『時間軸が変わったことを誰が認識している』のか? そこにいる観測者からすればそんなことが起こったことなんて考えるはずもない以上、そもそも『タイムパラドックス』という考え自体が矛盾しているという身も蓋もないことが発生してしまう。

 

 つまりは『時間軸が変わったことを認識している』のは、そもそも『タイムスリップ』という時間遡行した人物以外にはありはしない。

 しかし大前提として『時間軸が変わることさえ時間軸の通りである』ということもあったらどうする?

 

 要は『過去を変えたから未来が変わる』のではなく『未来を変えたかた過去が変わる』という事象もありえなくもないという憶測の爆発的拡大もあるという考え方だ。ここまで行ってしまえば、空想は空想を呼び、妄想は膨らんでしまう。答えのない堂々巡りだ。

 

 つまり『事実は不定形』となってしまうのだ。鶏が先か、卵が先かの考え方まで行ってしまう。

 

 となれば『ロス•ゴールド』が何故ここにあるのかを今のバイジュウが考えるだけ無駄な労力であろう。

 黄金の杯は今ここにある。少女の頭上で天に座す。願いを言えとばかりに輝きを放ちながら。それだけが今ここに確かにあった事実なのだ。

 

 

 

 ——お願いしない。ただ叶えてほしい。

 

 

 

 少女こと『ミルク』の声が氷の大地に歌のように響く。

 その歌声に反応してロス•ゴールドは輝きを増し、確かにミルクの存在を捉えて心に響く声が届いてきた。

 

 

 

 ——バイジュウちゃんを助けてほしい。

 

 ——そのために、お前の運命は翻弄されるだろう。自分自身でさえもう理解できない残酷な運命に身を委ねることになる。その覚悟はいいか?

 

 ——構わない。それで好きな子を助けられるなら。

 

 

 

 ——よかろう。ならば——。

 

 

 

 

 そこで記憶は再び霞む——。

 狭間の記憶は終わりを告げ、世界は鮮明に移り変わる。

 

 

 

『……何、今の記憶は?』

 

 

 

 深海から浮上するかの様な浮遊感が晴れて意識が鮮明になると、そこは再び『スノークイーン基地』の車両保管庫だった。

 バイジュウは自分の頭を振り払うが、どうしていきなりあの記憶が見えたのか、一切の見当がつかない。

 

 いや、考えたいことは募りに募っているが今はそんなことは後回しだ。記憶を覗いてる目的を決して忘れてはならない。今この状況で最優先なのはミルクの動向なのだ。

 

「……なにか、一瞬走馬灯でも見たような……」

 

 バイジュウが見た記憶をミルクはどこかで覚えているのだろう。奇妙な違和感を当人でも感じていたようだが、彼女はすぐさま頭を振ると「今はそんなことを気にしてる場合じゃない」とバイジュウと似た結論を出して歩き出した。

 

 目指すは最新部の管制室。そこで深海で採取した『アレ』のサンプルを解析して、できる限りの情報を残す。そして本人は知る由もないが、倉庫で保護しておいたバイジュウの安全を保証できるほどに時間を稼ぐ。それがミルクにできる最善の手段だ。

 

 だけど——ミルクの行動を阻むのは『ドール』だけでない。

 

 

 

「くそっ……こいつも追ってきた!」

 

 

 

 保管庫の奥から津波が押し寄せるような、あるいは木々の波が轟くような重音と共に先程電気制御室で対峙した『影』が迫ってきていた。

 

 ミルクはすぐさま銃身と身体のバランスを活かして傷だらけでも最大限の動き距離を取り、自身の武器を確認する。

 それは重なった記憶の時と同じ弾数だ。ライフルの残弾数は10発。マガジンはあと一つ。ハンドガンの残弾数は5発。マガジンはあと二つ。

 

 しかも『影』は銃弾なんて物は効きはしない。ミルクからすれば再度会いたくはない相手だ。

 さっきはどうしてか霧散して隙が生まれたが、そんなものは奇跡に等しい。二度とはないだろうとミルクは考えており、手持ちの武器では打開策の糸口すら掴めない状況にある。

 

 

 

『だけど……その奇跡はここにいるから!』

 

 

 

 だがその隙を生んだのは観測者のバイジュウ自身だ。ここにバイジュウがいる限り、それは何度だって起こる。何度だってミルクを守ってあげられる。

 

 ミルクがヤケクソ紛いでライフルを発砲しようとする直前、バイジュウはその間に割り込んで『影』を再び切り裂こうとする。

 だが、学習でもしたのだろう。今度の『影』には明確な質量があり、バイジュウの刃は途中で止まり、その状態のままミルクに向かって殺意を剥き出しにして

 

「……急に切り口ができた? ……今なら!!」

 

 しかし質量があるというのなら、それはミルクにとっては嬉しい誤算だ。即座に何かを感じ取ったミルクは一種の確信を持ってライフルに引き金を引く。

 弾丸はバイジュウを無視してミルクに襲い掛かろうとする悍ましい異形の手に向かい、今度は命中して手の形を崩壊させて『影』を怯ませた。

 

「畜生が……っ! もうマガジンないってのに……」

 

 だが、それでも怯むだけだ。見る限りではダメージらしいダメージを負っておらず、弾丸で倒し切るのは不可能だ。

 悪態をつきながらも早急にミルクは空となったマガジンを取り外し、最後となるマガジンを手早く装填する。これで手持ちの武装は虎の子の最後のライフルとマガジン二つのハンドガンだけだ。起死回生の一手どころか、反撃の糸口すら掴めてない状況での武装の消費は精神的な体力を著しく削り取っていく。

 

《演算再開——。対象補足。現在50%まで解析》

 

『弱点は!?』

 

《首です。首に情報が収束しています》

 

 ならばバイジュウが動いて助けるしかない。元よりこの『影』の相手はバイジュウが請け負うべき敵なのだから。

 

 流石に半分まで行けば、ある程度は役に立つ情報をモルガンから得られることもあり、バイジュウは刃を『影』から引き抜いて弱点となる首を観察する。

 見た限りでは何の変哲もない首の形をしただけの影だ。他の部位とはそんな大きな差は感じないが、バイジュウだけが視認する『魂』を辿れば話は別だ。

 

 確かに首には魔力が固まっている。人間で言うならば心臓のような役割を果たしており『影』全体に魔力を巡らせている。その濃度は尋常ではなく、魔力自体が『影』を形成してると言っていいほどにだ。

 

 

 

 ——あそこさえ切り落とせば、今度こそ『影』は完全に無力化できる。

 

 

 

 幸いにも『影』はバイジュウに敵対する意識は依然として向けてはいない。だが狙いを定めること自体は簡単なのだが、どうやら安易と攻撃を許すほど優しくもない。

 バイジュウが双剣で首を刈り取ろうとすると、即座に反応して首の魔力を爆発的に増やして自衛してしまう。それでは刃など通るはずもなく、それを何度か繰り返してバイジュウはある結論に達した。

 

 

 

 ——キョウリョク キボウ。

 

 

 

 バイジュウの声は届かずとも、その攻撃だけは記憶の欠落でも与えるかのように刻むことができる。それは『影』にでもそうだし、記憶にある背景なども同様だ。

 

 ならばそれを利用してバイジュウは双剣で文字を彫り込んだのだ。時間の猶予など少なく、簡潔でわかりやすく、ミルクのすぐそばにある壁へと協力の申し出を伝えたのだ。

 

 それを見てミルクは仰天と驚愕を表情に出す。

 俄には信じ難い状況。壁に突如として文字が彫り込まれたのだから当然だ。

 だが聡明な彼女なら瞬時に理解する。それがどういう意図と意味があるのかを。

 

 

 

「そこに……いるんだね?」

 

『——うん! いるよ……ここに私が!!』

 

 

 

 その声は決して届くことはない。戦闘の最中で文字を書くなんて悠長なことはできはしない。バイジュウはただ返事として一閃を文字の上に重ねて行った。

 

 それをミルクは確かに理解してくれた。小さく「ありがとう」というと、息を深く整えて『影』の追撃をかわすと、指で『OK』のサインを出した。

 

「私が囮になるしかないから、その間にこいつをどうにかしてよね!」

 

 ミルクは笑う。その笑顔はバイジュウにしか向けない親しみを込めた眩しくて綺麗な物だ。

 その笑顔を見てバイジュウは確信した。私とミルクは、例えお互いが見えなくても分かりあうことができると。

 

 駆け出す。ミルクが率先として囮になりながらも、間合いを測って車両保管庫を大きく回って武器になりそうな物を探す。

 剥き出しになったパイプ管。廃材となって転がる何かしらのレバー。固定具として余ったL字金具。どれも打撃武器として扱うには心許ない取り合わせにミルクは内心舌打ちをしながらも、発砲を繰り返してライフルの弾丸を使い切った。

 

 その間にバイジュウは可能な限り斬撃を繰り返す。単調な攻撃は先ほど防がれた。ならば工夫を重ねて死に物狂いでも刃を通す。

 まずはモルガンを投擲武器として使用したが、気づかれてかわされてしまう。続けてラプラスの機能である『引力』を利用してモルガンを引き戻し、その反動で狙おうとするが、それさえも『影』は気づいて俊敏に交わしてミルクを執拗に狙い続ける。

 

 もちろんそれを安易に受けるミルクではないし、そのまま指を加えるバイジュウであるはずもない。

 二人は意思疎通など難しい状況なのにも関わらず、ミルクが渾身の力で廃材を散らかすと、それに阻まれて『影』は動きを止める。

 

《予測演算70%達成。行動パターンを推測可能》

 

『同期開始!』

 

 その隙に乗じてバイジュウはさらにモルガンの機能を行使して、脳内でシミュレーションを共有。行動を予測して擬似的な『未来予知』を行い始める。

 先程はどんな不意を打とうとしてもかわされた。だったら不意打ちではなく正攻法で変えるまで。魔力が『影』の形を成しているというのなた、根こそぎ剥ぎ取って魔力を『影』の回復に割かせるようにすればいいだけ。そうすれば首元に質量を持たせるのはともかく、魔力を爆発させて刃を弾くことはできなくなる。

 

 まずはミルクの安全を確保するために邪魔な腕から切り飛ばす——。

 

 ラプラスは『引力』と『斥力』を操って『重力の力場』を生み出す武器だ。ならば全ての攻撃や移動に『落下』という性質を付与すれば、落下による『重力加速度』に従って、徐々に目にも止まらぬ速さと威力が付与されて、やがては人の力では到底到達できない領域にまで踏み込むだろう。

 

 もちろんその分、バイジュウへと掛かる負担は大きくなる。

 だが肉体的な面は『記憶』の世界故に支障は出ない。ここは問題ない。

 では反射神経的な問題は? 無論これも問題ない。バイジュウの思考能力はセラエノによって進化しており、加速する世界の中であろうと情報にノイズなど掛かることなく確かに処理して行動することができる。

 

 つまり今のバイジュウなら加速する世界であろうとも平然と動けてしまう。フィジカルをフルバーストさせても怪我など起こるはずもなく、一閃一閃を踏み込むたびに斬撃は殺人的な加速力を重複させて『影』の部位を落としていく。

 

 

 

 15G——。腕を切断——。次。

 20G——。足を切断——。次。

 30G——。胴体を切断——。次。

 

 

 

 予測したシミュレーションで敵の動きを先読みすることができ、ここまでは何の問題もなく削ぐことができた。

 残るは頭と首の二つ。だがその二つは魔力の核に近しいこともあって、今までの攻撃でも通すのは骨が掛かる。届くにはまだ倍以上足りない。

 

 

 

 だけど、それなら機会を窺えば良い。

 魔力の核は確かに金城にして鉄壁。難攻にして不落だ。ちょっとそっとの小手先では刃を通すことはできはしない。

 

 それでも決して隙がないわけではないのだ——。

 

 

 

「こいつ、また生え変わって——!!」

 

 

 

 そう、この瞬間だ。霧散した部位を再生しようとする瞬間に魔力も一時的に弱くなる。こうなれば首の魔力は他の部位と大差はない。これまでの力で一気に切り落とすことができる。

 

 バイジュウはすかさず落下速度を刀身に維持したまま懐へと飛び込んだ。

 目にした時には既に遅い。この間合いなら確実に首を刈り取り、その魔力を吹き飛ばすことができる。

 

 

 

《演算完了——。対象と酷似するパターンあり。名称固定》

 

 

 うるさい。今は黙っていて。

 今ここで、ようやくこいつの息の根を止めることができるんだ。

 

 ミルクを傷つけ、ミルクを殺そうとするこいつを——!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《名称——『ミルク』》

 

『えっ————?』

 

 

 

 無慈悲な機械音声が告げると同時、バイジュウはその『影』の首を的確に刎ねた。



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第10節 〜冷眼傍観〜

 モルガンの伝えられた機械音声にバイジュウはただ立ち止まるしかなかった。

 

 

 

 ——名称『ミルク』? この『影』が?

 

 

 

 眼前に広がる首切り胴体は『異形』で間違いない。身長も形もモルガンが告げた『ミルク』であるはずがない。そんなのカケラだってバイジュウには感じなかった。

 

 それは『魂』で認識してもそうだ。これはミルクとは違う。バイジュウの目からでは何一つミルクと合致するものは認識できない。

 

 

 

 だとしたら何でモルガンは『影』をミルクと判断した——。

 

 設計図段階特有の欠陥なのか、それともバイジュウが気付いてない何かをモルガンは客観的に情報整理したのか——。

 

 バイジュウは今冷静さを失っている。この記憶に来てから常に感傷的になり、何を考えるにしてもミルクが中心にあり、都合の悪い部分を無意識的に見落としていた可能性はなくもない。

 

 だとすれば——『影』はバイジュウが見落としたミルクの『何か』である可能性が出てくる。

 

 ならば——『影』とミルクの関係って——。

 

 いったい————。

 

 

 

「やったねぇ! ……そこにいるのは私が知ってるバイジュウちゃんじゃないけど、まさかこんな時に助けられるなんて」

 

 ミルクは疲れを見せないように多少空回り気味に声を出すが、それでも疲労感は隠しきれない。

 その声を聞いて、ようやくバイジュウは我へと帰る。今はまだモルガンの演算結果なんて考えなくていい。後で整理すればいいだけであり、もしかしたら単純に間違いという可能性もある。何せ設計図止まりで試作品すらないバイジュウの脳内にあるだけの逸品なのだから。

 

『うん……助けるよ。何度だって、どんな時だって』

 

 その声は決して伝わることはない。ミルクには観測者のバイジュウが見えることは決してない。

 それでも二人は互いに笑みを溢した。続けて涙を落とした。それは二人にとってかけがえのない物だから。

 

「よかった……! 本当に良かった……! 今ここにいるバイジュウちゃんは助かったんだね……!!」

 

 ミルクにとって、それは救いにも等しい。

 賭けにも等しい倉庫への隔離。内部から開けることは非常に難しく、外部から干渉するのも困難だ。自身を囮にすることで『ドール』を遠ざけて事態を収束させたのち、基地外部からの誰かにバイジュウが救出される。それがミルクの考えたバイジュウを救う方法だった。

 

 だけど不確定要素があまりにも大きく、それはミルクにとっては泣きたくなるよう決意だった。

 まず救助が来ることそのものに対する不安だ。ここは南極であり、例え救助ビーコンを発信しても受信を受けない可能性のほうが高かった。それに『ドール』が倉庫の壁を突破する可能性もあった。

 

 もしどちらかが起きていたら、バイジュウは今頃寂しい死を遂げていた。寒い倉庫の中で一人ぼっちで衰弱死するか、タスクフォースのように『ドール』によって無惨に殺されるか。

 

 

 

 ——そんなことになるなら、いっそ私の手で撃ち殺してでも楽にしてあげるほうが良かったんじゃないか。

 

 

 

 

 そんな考えがミルクには常に過っていた。

 だけど見えはしないが、確かに今ここにバイジュウがいる。それはどうあれバイジュウが救出されたことを意味しており、それがどんな方法で、どんな時期かも分からないがミルクに助力している。それがミルクにとって色鮮やかな感情が爆発するほどに堪らなかった。

 

 もちろん実際の結果としては、ミルクが想定していたのとはやや異なるものであるが——。それでもバイジュウが救われたことに変わりはしない。それがミルクにとって嬉しくて仕方なかった。

 

 

 

「けどダメだ……。もう動けない……」

 

 

 

 しかし同時に脱力感も襲いかかる。操り糸が切れた人形の様に足から崩れ落ち、受け身も取れずに倒れ込んだ。脳震盪を起こしてもおかしくない危うい倒れ方に、バイジュウは思わず支えようとするがミルクの身体が触れることはできずにすり抜けてしまう。

 

 その歯痒さにバイジュウは不甲斐なさを感じてしまう。

 まだ——。ミルクを助けるにはまだ足りないと——。

 

「ねぇ……。今のバイジュウちゃんいくつくらい? こんなことできるなんて、黎明期の今より異質物が進んでるってことだから……20代後半とか30代前半かなぁ」

 

『身体年齢や戸籍上では変わりないです。……西暦換算だともっと上の30代後半ですが』

 

「……そうなると子供とか旦那がいるのかねぇ。バイジュウちゃん好きな子とかできた?」

 

『今も貴方が一番好きですよ。好きとは別が……多少気になる子とかも何人かいます』

 

「いや、いないか。……ううん、いてほしくないな。私が嫉妬しちゃいそう」

 

『……嫉妬しちゃってください』

 

 多少話はすれ違いはするが、それでもバイジュウはミルクと話ができることに感涙してしまう。

 

 いつまでもミルクとは心で繋がった存在なんだ——。

 何年経っても、十何年も深海でもがくような夢を見ていたとしても——私とミルクの繋がりは絶対なんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——本当にそう言える?

 ——なにか大事なことを見落としてない?

 

 

 

 ——ううん。

 

 

 

 ——大事なことを見ないようにしていない?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故か、そう問う自分がいることにバイジュウは見て見ぬふりしかできなかった。

 

「もう時間だね……」

 

 ミルクが呟くと同時、通路の奥から再び足音が押し寄せてくる。

 今度は『ドール』の大群が迫ってきているのだ。本来ここ『スノークイーン基地』での脅威はそちらの方だ。むしろ『影』と対峙してる方がイレギュラーなのだから、加勢に来る前に御することができたほうが幸運だったとも言える。

 

「最後にバイジュウちゃんにもう一度会えて良かった……」

 

『私が……私が守るからっ!!』

 

 バイジュウは駆け出して迫る『ドール』へと刃を振るうが、それが『ドール』に触れることはなく、ホログラムのように透けて抜けていく。それは全ての『ドール』がそうであり、バイジュウの刃は何者も阻めずにそれらをミルクへと接近させてしまった。

 

 ここでは観測者のバイジュウが記憶に直に干渉することは基本的にできない。先程は観測者や記憶の住人からしても異物である『影』がいたからこそできた干渉なのだ。

 

 今この状況において——バイジュウができることは見ることしかできない。

 

「っ……ぁぁああああああっ!!」

 

『ミ、ミルク——!!』

 

 そう、自分が愛するミルクをただただ『ドール』の手でオモチャのように扱われて蹂躙されるところを見ることしか。

 

 例え誰であろうと『死』が目の前にあっては泣き叫ぶことしかできない。

 ミルクは最後まで過去のバイジュウのために必死に銃弾で応戦するが、それでも止められるのは一人か二人の足程度。押し寄せる『ドール』の総数は裕に50を超えており、残りは全てミルクに食らいついた。

 

 毟る。毟り取られる。

 まずは腕を。次は手を。酔狂な物好きもいるようで『ドール』は仲間内で回して引きちぎられたミルクの手をさらに裂いて指を吸い尽くす。漏れ出る血液を、ミルクの絶叫をスパイスに堪能する。

 

 続いては足だ。こちらは引きちぎることなく、入念に間接部を砕いて折る。膝が『前に曲がり』足先が『後ろに向く』という人体の構造上不可能な向きへと折れており、少しずつミルクは肉片へと変えられていく。

 

「っ……!!? がっ……!?」

 

 叫ぶことも喘ぐことも困難になる激痛。それでもミルクは耐え続ける。少しでも時間を稼ぐことが、そのままバイジュウの生存確率に繋がるから。

 

 あまりにも見るに堪えない。人間の形が少しずつ壊されていく様をただ見ることしかできない。ただ突っ立てるだけ。何の干渉もできずに、親友が惨たらしく殺される様を眺めているだけ。

 

 覚悟はしていた。だが後悔しないわけじゃない。バイジュウの中で燻りがただ大きくなる。

 何で私はここで何もできずに見守ることしかできないんだろうって。何で眼前にいるミルクが嬲られるの見てるしかできないんだろうと。

 

 

 

 ——何でもいい。何でもいいから、ミルクを助けて。

 

 

 

 その願いに呼応するように視界に片隅にある『古ぼけた本』——『魔導書』が脈を打つように魔力を放出した。

 

 その『魔導書』は——サモントンを地獄へと貶め、今現在ヴィラクスを主人としている『魔導書』に相違なかった。あの災厄にして最悪の『魔導書』がミルクに力を与えたのだ。

 

「これは……?」

 

 同時にミルクの身体に光に包まれて変化を見せた。切り離された四肢は元通りに生え変わり、服装も大きく変わる。

 それはフィクションなどに出てくる人型宇宙人や侵略者のような奇天烈な服装だった。基本的にはタイツだが、胸元の谷間も肩のラインも太腿の肉つきも丸見えだ。肌の露出を隠すのはメタリック製の黒い軍用ブーツとロンググローブ、白みが掛かった灰色のジャンパーだけである。

 

 そして何より一番の変化は、今この場にいる『ドール』を貫く光線を放つ『黄色い浮遊物』の存在だ。

 

 それは『OS事件』でミルクとレンが魂が交わってる間に出現した物だ。データ上では該当する存在はなく、あまりにも科学レベルが飛躍していることからSIDが与えた名称は『未来の開拓者』というもの。これを駆使してバイジュウの力や皆の武器を利用することで『OS事件』での『異形』を討伐することができたのだ。

 

 それが今ミルクの力となって危機を打開している。災厄を呼ぶ力がミルクを助けてくれている。

 光線は空間を乱れ打ちして今までの苦戦が嘘のように『ドール』を葬り去っていく。その熱量は小型で自律起動では現代の科学では100年掛かっても到達できない領域にあり、俗に言う『レーザー』や『プラズマ』さえも遥かに凌駕している。ロボットアニメにある『メガ粒子砲』のほうがジャンルとしては近いくらいだ。

 

「何この力……身体の底から止めどなく溢れてくる……!! これならっ!!」

 

 しかも変化は身体能力にも表れていた。今までの怪我が嘘だったように機敏に動き、その速さは『ドール』を上回る。一瞬でミルクは『ドール』の意識外から懐へと入り込み、そのまま両足の関節を外してある程度の無力化を図る。

 

 その圧倒的に身体能力の向上。

 恐らくはミルクの『魔女』としての素質の象徴である『未来の開拓者』の発現。

 

 それらの覚醒現象は20年前にバイジュウの覚醒にも非常に近しいものだ。圧倒的な力で『ドール』を瞬く間に屠ると、車両保管庫に残るはミルクだけとなり、役目を終えた『未来の開拓者』は巣にも戻るようにミルクの肩部周辺と漂い、それをミルクは「お疲れ様」とおっかなびっくりで撫でた。

 

 

「これのおかげってこと? まさかこの本が『異質物』だったなんて……スノークイーン基地も管理が杜撰だね」

 

 ミルクは『魔導書』を拾い上げて埃を払う。現状バイジュウの目からはヴィラクスのような豹変するような様子は見られない。それは『魂』を認識してもそうだ。本当に何の問題も今は発生していない。

 

 だがバイジュウは生唾を飲んでしまう。あの『魔導書』はニャルラトホテプの力もあるが、それに内包する魔法と魔力を行使することでサモントンを貶めて国益と人々に深い傷を残したのだ。

 あんなのは無警戒に使うどころか、触っていいものでもない。それこそミカエルがヴィラクスに渡した『パーペチュアル・フレイム』などの退ける手段でも持たない限りは決して。

 

「さて……こうなると話は変わってくるね……。この力を使えば、私のバイジュウちゃんを助けることができる……そう思うよね?」

 

 ミルクは虚空へと話しかける。内心、観測者のバイジュウは『もうちょっと右にいる』と思ったが、そんな些細なことはどうでもいい。この会話の本質は質問ではなく、情報の整理に過ぎないのだから。

 

「……けど多分それは正解じゃない。これが元々起こる事というのなら、あの『影』やバイジュウちゃんがいる理由がない。恐らく私がこの力を得ること自体が一つのイレギュラー……ということなんじゃないかな」

 

『……それは』

 

「だから私がすることは変わらない。変えちゃいけないんだよね。……元々私はここで死ぬ未来なんだから」

 

 聡明なミルクは自身の運命を悟っている。そしてそれを変えることは決してしてはならないことを。

 もちろん変えたくて仕方ない。誰だって自分の命がなくなってしまうのは怖いことだから。だけどそれよりも怖いことがミルクにはある。

 

 それはバイジュウの運命がそれ以上に変わってしまうことだ。もしここで変えてしまい、確かに助かるバイジュウの運命が変わってしまうことのほうが怖いのだ。

 

 ミルクは浮遊する武器をもう一回優しく撫でると、基地の構造を思い出して向かうべき場所への通路へと視線を向けた。

 

「このまま行くよ、管制室に。バイジュウちゃんのために『アレ』のサンプルを調べなきゃね♪」

 

 ミルクは自身の両手にサンプルと『魔導書』を手に歩く。

 一歩、また一歩通路を歩いていく。その度にバイジュウが抱える不安や焦燥も大きくしていった。



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第11節 ~雪魄氷姿~

 そこからの歩みは不気味なほどに問題なく管制室にたどり着いた。

 管制室には電気制御室と同じく基地内を隈なく見渡せる監視カメラのモニターがいくつもあり、そこには凄惨となった基地の様子が全モニターに映し出されていた。

 

 特にミルクの目を引いたのは電気制御室の一部を映すモニターだ。より正確に言うなら秘密倉庫の出入口前を映すモニターだが、そこには爆散したように拉げた鉄鋼のくず鉄が映っていた。

 それが意味するのは予測として複数あるが、どうあれ過去のバイジュウと『ドール』が互いに干渉できるという状況に間違いないのだ。ミルクが考えていた秘密倉庫の安全性は瓦解しており、背筋に嫌な汗が伝うのが理解してしまう。

 

 他のモニターでミルクは過去のバイジュウの行方を追うが、大半のモニターは信号が停止していて姿を目視できない。

 となれば考えられる可能性は三つ。秘密倉庫からの脱出や『ドール』の度重なる戦闘の疲労で身動きが取れないか、既にスノークイーン基地からの脱出を終えているか、もしくは既に『ドール』との殺されて物言わぬ肉塊になったか。

 

「……いや、未来のバイジュウちゃんはここにいるんだ。きっと無事なはず……」

 

 ここにいるミルクは知る由もないが、その可能性はどれも実際とは違う。むしろ一番近しいのは最後とも言えるほどに、バイジュウは奇跡的な経緯で救出された。それを伝えることができないのがバイジュウはもどかしい思いが沸いてしまう。なぜならミルクに要らぬ心配を抱かせてしまっているのだから。

 

 ミルクは無事であると仮定して深呼吸をすると、早急に管制室のシステムをハッキングして情報の照合を始める。やるべきことはたった一つであり、手元にある『アレ』のサンプルを可能な限り調べて情報を残すこと。照合して該当するデータがあれば幸いであるが、そんな都合のいいことなんて起こるはずもなく、検索結果は該当なしとなって記録を続ける。

 

「まあ……そんなもんだろうと思ったけど」

 

 ミルクは溜め息を吐きながらもテキストを打ち続ける。いつかバイジュウが目覚め、そこにある情報を知ってもらうために。

 

 まずミルクはいくつかの実験を試みた。このサンプルは単純に生物学的分類は何なのか。これが判明するだけでサンプルは歴史的価値があるのかどうか大きく変わるからだ。 

 密閉された空間でもなければ、安全性も高いレベルで保障されるものではないので、とりあえずミルクは単純に生命活動の方法を観察していたが、一切分からなかった。サンプルを入れてる容器は可能な限り密閉にしていることから酸素とかの空気中で漂う成分で行っているわけでもない。深海で発見されたことからも植物のように光合成などを必要としているのは思えない。

 

 酸素を必要としないなら基本的には多細胞生物とは思えないとミルクは感じてしまうが、もしかしたら例外もいるかもしれないとミルクは考えてしまう。

 実際その考えは間違っておらず、当時2018年のミルクには知る由もないが2020年には酸素を必要としない多細胞生物『へネガヤ・サルミコラ』というサケに寄生する寄生虫の一種が発見されている事例もあるほどだ。

 

 では単細胞生物かと言われると非常に怪しい。確かにアメーバ状ではあるが、このサンプルは濁った廃油やタールがそれに近しい形を取ってるだけでアメーバとは決して思えない。もっと言うなら深海という状況でも生命活動を行え、南極という極寒の地上に移ってもなお生命活動を続けられる適応力の高さは、そもそも生物学的に非常に特殊なのだ。環境次第では簡単に死滅する単細胞生物の機能で順応するには不可能と言っていいだろう。

 

 つまりは絞り込める要素すら見当たらない完全なる未知の生物だ。正確に言うなら現在発見及び定義されている生物という範疇では測ることは不可能だ。それが分かるだけ儲けものだと考えて、ミルクの実験は続く。

 

 防衛本能といった反射行動はあるのか。

 とりあえずサンプルの容器に、軍服から回収しておいたライターを当てて沸騰させてみるが反応なし。熱に耐性があるのか、それとも単純に反射行動というものを持ち合わせていないのか。ともかく分かったことは水の沸点である100℃以上には反応を示さないことをミルクは記録しておく。

 

「こういう虱潰しは性に合わないだけどなぁ……」

 

 愚痴を溢しながら反射行動の実験をミルクは続ける。

 容器の蓋を少し開けて、基地に転がっていた手頃な針をサンプルに刺してみるが反応なし。続けてはもう接続されていないカメラの配線を拝借して、電流を流し込んでみるがこれも反応なし。

 

 ならばミルクは一計を投じてみることにした。それは先の戦いで発現した奇妙奇天烈で摩訶不思議な武器の光線を照射してみることにしたのだ。

 出力の管理にミルクは多少不安であるし、そもそもどうやって照射するのかどうかすら不明だが、その気持ちに呼応するように非常に細くて優しく、しかし確かに焼き殺すような熱線をサンプルに照射したのだ。

 

 するとどうだ。今までの無反応が嘘のように、サンプルは機敏に動きだして反撃を試みるようにアメーバ状の身体を躍動させはじめたのだ。

 幸いにもサンプルそのもの大きさがさほどなかったことでミルクは無傷でいられたが、これがバイジュウが観測した大型の状態だったらどうなっていたのか。大怪我どころでは済まない事態に、ミルクは己の迂闊さに反省しながら改めて思考を深めた。

 

「こいつには反応するのね……。ということは……」

 

 予定を変更してミルクは突如として出現した『黄色い浮遊物』こと『OS事件』でレンとバイジュウに助力してくれた『未来の開拓者』を触れて観察してみる。 

 

 動力源一切不明の謎の浮遊物。明らかに質量と規格が見合ってない高性能っぷりは、ミルクからしてもどういう原理で可能にしているのか一切分からない。それどころか解体して観察しようとかと思ったが、残念ながらそういう分解できそうな繋ぎ目は一切見当たらない。外見上に見えるのはあくまで見かけでしかなく、どこにも手の施しようがないのだ。

 

 仕方ないので、ミルクはさっさと光線を適当な壁に照射してみることにした。

 数秒後、管制室の特殊合金製のゲートの枠組みが、まるで飴細工のように簡単に溶けてしまったのだ。

 

 ミルクは乾いた笑いが出てしまうと同時に、内心では「これ熱エネルギーとして使えば色んなエネルギー問題解決しない?」と現代の異質物科学の基礎と同じ思想を抱くが、それはそれとして『未来の開拓者』の光線についてある既視感を覚えていた。

 

「これバイジュウちゃんが発した白い粒子と性質が似てる……。現代科学では到達できないエネルギーのみに反応してるってこと……?」

 

 それはバイジュウのことなら何でも観察して覚えてしまうミルクの良いところというべきか、悪いところというべきか怪しい趣味があるから気づけたことだった。

 バイジュウだけが持つ能力『量子弾幕』と『未来の開拓者』が持つ光線は類似点が多すぎる。どちらも『ドール』相手に有効打となる一撃を与えることに成功し、発現と同時に身体能力などと一部のフィジカルが目に分かるほどに変化を見せている。まるで自分たちが相手していた『ドール』にでも近づくかのように。

 

「……いやいや。それが本当なら、つまりここって……」

 

 同時にミルクの中で嫌な予感と噂が脳内を巡る。

 その噂とは、まだ黎明期とはいえ学園都市の一部で話題に出る『異質物』の力を人体に取り込むという研究だ。『異質物』の力と、その影響は千差万別であり、それを単純なエネルギーとして利用するのが難しいものが多いというのが当時の研究結果で導きだされた結論だ。

 故にエネルギーの抽出方法そのものを変化させる必要があるという話も出てきたのだ。それはつまり『人体のエネルギー』として利用するという考え方であり、要は現代でいう『魔女』という存在を人工的に生み出そうとする話。

 

 問題はその人工をどうすれば可能にできるのか。『異質物』の情報量は当時でも尋常ではないということは理解されており、容量としては人間の記憶領域である『脳』を全領域を使用しても有り余るほどだ。いくつか代用となる記憶媒体を外付けするという考え方も生まれるほどであり、そのプロセスの確立は現代でも明確には把握しきれていない。

 

 だとすればサンプルとなるデータが欲するのは当然だ。情報が少ない当時であれば猶更であり、そのためなら何百人という犠牲を出しても価値があるに違いない。

 

 そうなるとミルクの中で辻褄が合ってしまうのだ。そもそもどうしてここに『ドール』が発生しているのか。それは人工的に『魔女』を作ろうとして、その実験施設としてスノークイーン基地が選ばれたのだ。

 

 これなら余裕があれば『ドール』を生け捕りにしておくことも考えておくべきだったとミルクは悪態をついてしまう。

 もし『ドール』と自分達が繋がる要素を見つけることができれば、その仮説を成立させることができる。そしてその『ドール』から『アレ』と共通あるいは共鳴している部分を発見できれば、そのまま自分と『アレ』が何らかの関連性を持つことも意味し、そもそもとしてミルクの覚醒自体が『異質物』である『魔導書』が繋がったことが起因している。となると『アレ』と『異質物』そのものが繋がっているという仮説も成り立たせることができるのだ。

 

 その結論を、黎明期という当時としては一切の情報がない状況でミルクは導き出した。

 現状は証明するデータはなく、脳内で存在する推論で成り立っているが、導き出された情報を残さない手はない。ミルクは早速それをデータに記すためにキーボードへと指を奔らせようとした時——。

 

 

「…………ん? 『ドール』って何?」

 

 そこでミルクは自身の中にある妙な違和感に気づいた。

 私は今まであの化け物についての名称なんて微塵も知っていなかった。だというのに何故頭の中に『ドール』という単語が出てきて、それを当然のように受け入れているのか。そこに違和感を覚えない自分自身に違和感を覚えたのだ。

 

 

 

 まるで『ミーム汚染』でもされたかのように————————。

 

 

 

「……なに、これ? 頭の中に知らない……いや、知ってるのに知らない記憶が……っ!!」

 

 

 

 意識したら、その違和感は止めどなく溢れてくる。ダムが決壊したかのようにミルクのすべてを侵しつくすような得体のしれない記憶が脳に寄生してくる。

 

 同時にミルクに変化が起き始めた。吐き気を催して口を塞ぐが、鼻から得体のしれない液体が突如として零れだし、更には人体の構造を無視して耳からはそれは爛れてくる。

 

 ミルクは一瞬で理解した。この液体は『自分自身』だと。自分を形成している何か——つまりは『情報』が根こそぎ自分から抜け落ちていってるのだと。

 なら逆に今自分に入り込もうとしている『情報』とは何か——。それを思考し、結論に至るにはあまりにも今のミルクには時間がなかった。

 

「少しでも……! 少しでも多く『アレ』について残さないと……!」

 

 既に左腕が壊死でもしたかのように動きはしない。血管から違う者に書き換えられる恐怖と焦燥がミルクの冷静さをこれでもかと刈り取ろうとして躍動を始めている。

 

 しかしそれを黙っている見てられるほどミルクは大人しくはない。

 すぐさまミルクは『未来の開拓者』の光線を自分へと向けて、その左腕を焼き切って少しでも『情報』の進捗を遅らせようと模索する。足に侵食しようとするなら足を、目に進捗しようとするなら目を躊躇なくミルクは光線で焼き切った。

 

 だがバイジュウには、ミルクの胆力そのものが恐怖でしかなかった。

 何かに取りつかれたということは分かる。それをどうにしかしようと抵抗する手段として行っているのも分かる。自分の命はどうせここまでだと覚悟しているから雑に扱うのも分かる。

 だけどそれを迷いなく行う胆力だけは理解できなかった。バイジュウにはその胆力そのものが、また別の恐ろしい『何か』に侵されていて、その『何か』はそれでミルクを遊んでいるようにしか見えなかった。

 

 それでも情報だけは確かに残っていく。

 今回スノークイーン基地で得た客観的な事実を中心に、ミルクの正解に等しい推測を補足して理路整然とした文書を記録していく。だけどそれをバイジュウ以外には見せるわけにはいかない、というのがミルクの中にある危機感が警鐘する。

 もしも本当にこの推測が合っているのだとすれば、それはきっと後世において倫理を容易く踏み外す劇薬に他ならない。何故なら意図的にバイジュウ達を襲った連中——つまりは『ドール』を人工的に量産できる手段を確立させることを意味しているのだから。

 

 そうなれば世界中でどんな影響が起こる? 

 まず当然として『国の軍事力』そのものが機能しなくなる。何せ銃弾や火傷なんか物ともしない不死にも近い身体だ。四肢を一部欠損しても問題なく動くことができる人体の構造を根本から逸脱した存在なんて、既存の人間社会において脅威以外の何物でもない。

 

ならあえてこの情報を残さないという手もあるのではないか? 

 否。既にその計画は少しずつ動き出しているのだ。今更そのような配慮をしたところで、遠くない未来にはその冒涜的な技術は確立されるのだろう。その足掛かりがこのスノークイーン基地なのだから。

 

 

 

 ——そこでミルクは確信してしまった。『ドール』という存在、後に『魔女』とも呼ばれる存在が『生まれる理由と意味』を推測と直感によって到達してしまった。

 

 

 

 であれば、せめての願いはこの情報がバイジュウや、あるいはそれに近しい良心的な倫理観を持つ人物や組織に渡されるのを願うしかない。自分の中で確立された悍ましい技術の実態というものを。

 

「セキュリティチェック完了……。第一パスワード設定、親和数『220、284』……。第二パスワード設定『100485』……。第三パスワード設定『124155』……」

 

 ミルクは厳重にパスワードを設定してテキストファイルを制作していく。バイジュウにだけは分かるように、二人を繋いでくれた縁深い数字を思い出を噛みしめながら刻む。そうでもしなければ、今にも自分というものが全て吐き出されれて『別の何か』に変貌してしまいそうだったから。

 

「最後に物理キーと音声キー設定……。連動と共有……」

 

 そこでミルクは腕時計を見る。所々が傷がついた年季の入った腕時計。何度壊れてもミルクはそれを改修して大事にしてきただけあり、ミルクの腕には特有の日焼け跡が付け痕が見えるほどだ。

 

「大事な物だったんだけどな……。華雲宮城で支給される安物だけど、これだけが私がバイジュウちゃんと会う前の宝物にしてたから……」

 

 バイジュウは一度ミルクから聞いたことがある。ある日、大学の講習を終えて街で二人の時間を謳歌している時、軍の仕事もないのにプライベートでその腕時計をつけている理由を。

 

 曰く『思い出』だとミルクは簡潔に言った。

 ミルクは元々生まれも育ちも一般的だった。何もかもが特殊なバイジュウとは違い、ミルクは最初から何でもない普通の家系に生まれ、普通に育てられた。

 

 ただ一つだけ一般的じゃなかったのは、その聡明すぎる思考能力にあった。幼少時から成績優秀で中学の時には大学入試レベルの問題は既に解けるほどであり、華雲宮城の情報機関から一目置かれるほどだ。それが遠因となって飛び級扱いでミルクに大学での潜入工作を任せられるほどに。

 

 だが、そんなミルクが両親には怖く見えたらしい。子供らしい反応を何一つ見せず、いつも本やパソコンに噛り付いて、まるで自分達を見下すような、品定めするような子供らしからぬ視線は恐怖を抱かせてしまった。

 それは華雲宮城の情報機関には好都合だった。情報機関はミルクの両親へと直接交渉をし、目も眩むような大金と地位を用意する代わりに、ミルクの身柄を情報機関に一任してほしいと告げた。つまりは『子供を売る』という親として最低の行為をするよう促したのだ。

 

 その交渉にミルクの両親は迷いなく応じた。簡単に自分の子供を売ったのだ。

 

 何せ華雲宮城の政治による思想形態は『栄光と歴史と伝承』——つまりは古くからある『序列』という階級社会で秩序を保つことだ。

 流れる水が決して上に昇らないように、一度生まれ落ちた身分は変えることは決してできない社会。例え偉そうにしてるだけの無能でも、人や国に尽くす賢人相手にしても無条件で地位が上だと確立される努力ではどうにもならない政治思想。

 

 何年も普通の家庭として築き、何年も普通の地位として生きてきたミルクの両親からすれば願ってもないことだ。自分達の地位が上がれば、同時にそれはミルク自身を除く血族すべての生活を豊かにするということもであるのだから。

 

 だからミルクの両親は売った、自分の子供を。

 もちろんミルクだってそれを理解していた。仕方ないことだと納得して両親を恨むこともせず、ただ一言だけ育ててくれた感謝を告げて華雲宮城の情報機関で過ごすことになった。

 

 そしてミルクは情報機関に配属することになった。その証として軍用の腕時計を渡された。

 まるでその『腕時計』が今までの人生の成果であるかのように渡され——ミルクは内心自分でも「つまらない報酬」だと自重して笑ってしまうほどだった。

 

 それからの日々は単純だった。任務のためにあっちこっちに行って、特に辛くも苦しくも楽しくもない毎日をこなすだけの日々。両親のとこに居ようが、情報機関のとこに居ようが、彼女は満たされることなく、代わりに上っ面だけの笑顔や言葉だけは上手になっていった。

 度重なる任務で腕時計が壊れることは何度だってあった。だけどその度に再支給ではなく、改修することをミルクは選んだ。

 別にミルク自身は両親を恨んではいない、むしろ愛している。どんなに僅かな愛であろうと、どんなに両親から腫れもの扱いされようと、自分の思いだけは——『思仪』という名前にかけて捨てることはできなかった。その腕時計だけが両親と対価で得た小さくも掛け替えのない物だったから。

 

 

 

 そんなある日——ミルクは運命と出会う。

 

 

 

 …………

 ……

 

「今日はこの大学で任務ね……。教授の金庫を開けて秘匿している文書を調査か……」

 

「……何をしてるんですか?」

 

「えっ!? いや、ちょっと教授に論文について聞きたいことがあってね……」

 

「…………あぁ。そういうことですか」

 

「そうそう、そういうこと!」

 

「……親和数ですよ」

 

「はい?」

 

「親和数です、その教授が使っている番号。それで金庫は開きますよ」

 

「え~~と……何が何やら?」

 

「それじゃあ頑張ってくださいね。スパイさん」

 

「…………ちょっと待ったぁぁあああああ!!」

 

 ……

 …………  

 

 

 

 聡明なミルクからすれば何も理解できないトンチキな女の子が突如として現れ、しかも何の理由も聞くことなく無警戒に機密情報を教えたのだ。その理解不能な破天荒さにミルクは強い興味を沸いて惹かれてしまった。

 

 その女の子の名は『バイジュウ』——。

 そこからミルクの人生は色が付き始める。何もかも退屈に感じていた日常が、彼女のおかげで一気に鮮やかになったのだ。

 

 何をするにも常識からちょっと外れていて、だけど聡明で、それなのに天然がある可愛い子。ミルクからしてもちょっとやそっとじゃ何も分からないミステリアスな子に惹かれてしまった。

 

 だから何度も何度も一緒に遊びに行った。

 だから何度も何度も一緒に食事に誘った。

 だから何度も何度も一緒に勉学に励んだ。

 

 その度に彼女の新しい一面を知った。

 彼女が本当は人懐っこい部分があることを。それなのにどこか人見知りで、壁を作ろうとしてしまう奥ゆかしい部分があることを。

 彼女の心はどこまでも冷静で冷たく見えるけど、本当は誰よりも優しくて見捨てることができない根っからのお人よしだということも。

 彼女の夢はどこまでも澄んだ純粋なものだと。父親の研究を継ごうと知識を得ようとしているが、その果てにあるのは、どこまでも『人間』という在り方を知りたい知的好奇心から来るものだと。

 

 

 

 ——だから、彼女のためにすべてを捧げるのも悪くない。

 ——それこそ『思仪』という名に相応しく、ミルクという一人の親友として応援したいという、二つの意味で生まれ持って初めて素直に抱いた気持ちだったから。

 

 

 

「……バイジュウちゃんのためなら仕方ない! グッバイ、思仪!!」

 

 

 

 ミルクは最後に自分の本名を告げると、腕時計を外して端末へと繋げた。今までの自分と決別でもするように、これから待ち受けるであろうバイジュウへの困難の力となるために。文書の最後のセキュリティキーとして自分の腕時計を設定した。

 

 

 

 ————そこで世界は一度ノイズが奔る。

 ————ここは記憶の世界。記憶の主となる人物が気を失えば、そこで世界は断続されてしまう。

 

 ————深い深い記憶の闇の中、ミルクは切に願う。

 

 

 

 ————どうか。バイジュウちゃんだけは救ってほしい。私はどうなってもいいから。



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第12節 〜氷消瓦解〜

 暗闇の世界が晴れた時、そこはバイジュウにとって見覚えのある景色が目に入った。

 

 下も右も左も果てにあるのは青い海の世界。上を見上げればビル群などの建造物が一切ない海のように綺麗な青天が広大に広がっている。周囲には白衣の科学者からカジュアルな服装を纏う人達が往来しており、そこでは各々の生活や研究を充実させてる光景があった。

 

 そこは『OS事件』の中心地となる『Ocean Spiral』と呼ばれる場所で間違いなかった。平穏な雰囲気からして、今見ている記憶は『七年戦争』が起きる前の実験施設として使われた当時の物だろう。であれば、時期としては記憶の持ち主であるミルクが『被検体』として『Ocean Spiral』に来た頃であるのだから、音声データの内容からして2024年の春頃ということになる。

 

 南極での事件が2018年に起きたのだから、つまりは6年後の出来事だ。その6年間の間、ミルクは気を失っていたということになる。19年間も眠り姫をしていたバイジュウが比べるのは大概だが、ミルクは割と寝坊助だと若干呆れそうになってしまいそうだ。

 

 だが、気になるのは南極での事件のあと『残したデータ』はどうなったかという点だ。

 バイジュウはマリルから南極で起きた事件は事細かくすべて伝え聞いており、スノークイーン基地での記録は定期的に初期化されてバイジュウ以外の痕跡を極力残さないようにしていたと言っていた。それはSIDが事件後に調査したことからも明白であり、手掛かりになりそうな物は何もないと言っていた。

 

 ミルクのことだから、きっと何らかの手段でその『残したデータ』を保管してるに違いない。そうバイジュウが考えた時、その答えは意図も容易く『Ocean Spiral』にいる科学者が口にしてくれた。

 

「しかし『被検体』が体内に隠してたデータチップ……今更こんなアナログな手段で取っておくか? Cloudとかのインターネット上のデータベースで保存すりゃいいのに……」

 

「それだけ極秘だってことだろう。見てみろ、解析しようとしたら何重ものセキュリティがあるんだ。虱潰しでやろうにも、物理キーでの認証もあってこちらじゃ逆立ちしても対応できん」

 

「これどうするんだ? 『被検体』に関することは全部報告しろという命令はあるけど……」

 

「……とりあえず資金元である『華雲宮城』にあるという『フリーメイソン』の支部に報告と共有をするしかないだろう。マスターデータをあちらに送りたいが……『フリーメイソン』の支部が分からない以上、配送することできんしな。『stardust』の衛星を使って送信するしかないか」

 

 科学者はため息をついて「なんでこんな面倒なことをしなければならないんだ」と愚痴を吐きながらも手早く作業を進めていく。その作業こそがバイジュウにとっては光明だ。行く当てもない、手掛かりもないミルクの痕跡を追うために必要な物を確かに残してくれているのだから。

 

『……いえ、でも衛星『Stardust』は海に落ちてしまった……。デブリを回収しても、物理破壊されていてデータの解析することはできない……』

 

 だとすればミルクの残したデータは『華雲宮城』にある『フリーメイソン』という組織のどこかにあるということになる。バイジュウの父親が所属していた『フリーメイソン』へと。

 

 何の因果だろうか。ミルクの過去を求めていたら、今度は父の過去にも触れそうになるなんて。それだけ自分の運命や出で立ちは特殊だというのだろうか。

 バイジュウは父親が残した『特殊能力を持っているバイジュウは……必ずあの連中の標的になる』となる言葉を思い出し、同時にセラエノと接触したことで自身が思ってしまった『人類の歴史』という物はニャルラトホテプみたいな地球外生命体——つまりは『宇宙人』と呼ばれる存在によって侵されている予測さえも思い出してしまう。

 

 覚悟しておいたほうがいいだろう。きっと父親が所属していた組織は並大抵の闇では測ることもできない悪意や狂気が満ちているに違いないと。何せ『OS事件』そのものを引き起こした遠因が『フリーメイソン』の言伝があったからだ。

 

『被検体』として入ったミルクの他に、ハイイーの情報が入っていた思考制御型の異質物こと『剛積水晶』と事件を起こした直接の原因となった『魔導書』をここに招き入れたのはその『フリーメイソン』という組織なのだから。

 

 だが同時にここから少々退屈な時間になることをバイジュウは予期していた。

 何せ音声データから詳細はある程度把握しており、『七年戦争』が起こるまでこんな平穏な日々が何年か続くのだ。もちろん平和であることが第一なのだが、事の顛末とミルクの最後を未だ知れていないバイジュウからすれば逸って仕方ない。記憶の世界では早送りなんてものはなく、ミルクが気を失わない以上は一緒にのんびりと待ち続けるしかないのだ。

 

 もちろんここでの出来事が現実世界になれば、数時間程度の出来事でしかない。記憶の潜入者の安全も考慮して、記憶の世界で見たものは強制的に忘れられるように処置されるとのことだが、生憎とバイジュウは『絶対記憶能力』を持っていて、それでも忘却することは不可能だと思われる。

 

 つまり、バイジュウはここで実際に何年も待ち続けなければならない。ただ一人ぼっちで寂しく、忘れることできずにただただ待ち続ける。『七年戦争』が起きるまでの数年間を。『Ocean Spiral』の悲劇が始まるその時を、ただ何もせずに待ち続ける。

 

 

 

 ——ミルクだって私には測りきれないほどの孤独を抱えて、今も『門』の奥にいるんだ。これくらいは大丈夫だ。

 

 

 

 バイジュウはひたすらに待ち続けた。先のミルクとの奇跡みたいに、バイジュウと話し合うことができる人はここにはいない。バイジュウはただ往来する人々の動きや会話、あるいは研究結果などをただ眺めながら待ち続けた。

 おかげで『異質物』のルーツというものについての新たな知見と、当時の価値観なども知ることもできた。黎明期ということもあり、そもそも『異質物』の力を既存のエネルギー機関に流用あるいは変換して『Ocean Spiral』の資源として対応させるのか、もしくは『異質物』専用のエネルギー機関を一から製作して特許を獲得して『Ocean Spiral』の運営としての資金源にするか。

 

 故に少々面白い意見もここにはあった。

 科学者の会話の中で第五学園都市こと『新豊州』の電力エネルギー問題をどうするかという話題が出てきたのだ。今では問題を解消としているが、新豊州の『XK級異質物』である『イージス』はその難攻不落の安全を維持するために膨大な電力を必要とする。黎明期にはそれを解決するための術がなく、様々な議論が繰り広げられていた。

 

 それは他の学園都市も同じだ。

 各々が所有することなった『XK級異質物』の問題についても話に出てくる。維持もそうだが危険性についても話し合い、特にマサダブルクが持つXK級異質物である『ファントムフォース』の脅威性と、華雲宮城が持つ『皇天后土』というXK級異質物の特異性と、同じくXK級異質物であるサモントンの『ガーデン・オブ・エデン』の重要性については重点に話していた。

 

 まだまだ学園都市の基礎さえ怪しい時代なのだから無理はないだろう。むしろそんな手探りの状態で異質物の実験施設として『Ocean Spiral』を建設したのは、学園都市の計画が破綻したときの最終的なサブプランという一面もあるのだろう。ここは『黒糸病』が蔓延する地上とは隔離された世界。人類にとって一つの希望として示されていた場所でもあるのだから。慎重に話し合うのは当然とも言える。

 

 

 

 それでも数年間という時間は長すぎた。バイジュウは未来の住人であり、その問答の行きつく結果自体は文献に乗っていて、それとは何ら差がない結論が耳に入るだけ。答案用紙に正解を書き写しているような心境にも近く、面白み自体は半減もいいところだった。

 

 もちろん有意義な時間もあった。ここはミルクの記憶の世界だが、正確にはヴィラクスを介したミルクの記憶であり『Ocean Spiral』の中を少しは散策することができたのだ。何せ『OS事件』で発生した変異型ドールこと『マーメイド』は元々はここの住人であり、それらは『魔導書』に関わったことで変質したのだ。ヴィラクスの記憶である以上『魔導書』を介しているのなら覗くことができる。

 

 他愛もなく実りもない世話話もあれば、人種に縛られずに惹かれあう男女の恋話もあれば、無知ゆえに純粋で発想が豊かな夢話もあった。ここにはそれだけの住人と、それに応じた営みがあり、確かにここは『楽園』に恥じない環境でもあったのだ。

 

 もちろん言葉にするには難しく、バイジュウも赤面してしまうような出来事も見えてしまった時もあったが、そこは貞淑で節度のあるバイジュウだ。

 興味本位で数秒だけ観察してしまうと、我に返って聞こえるはずもない謝罪と共に脱兎の如く逃げ出した。きっとミルクが知ったら、腹を抱えて笑うくらいには我ながら間抜けな逃げ方をしたとバイジュウは二重の意味で恥ずかしくなってしまう。

 

 中には胸糞が悪くなるような時間もあった。

 事故とはいえ実験で半身を火傷痕にされ、皆から避けられるような視線に合う科学者の一人を見た。陰湿な虐めや暴行を影で受ける住民を何人か見た。自身の悪性を抑えきれず、他人の財産を盗む輩もいた。

 

 

 ここには確かに小さな国としての繁栄があったのだ。

 良い意味でも悪い意味でも、ここでは確かに人々の繁栄が海中という未知の世界で芽生えていたのだ。

 

 

 

 そして——その時間の先に終着点が見えてきた。小さな国が終焉へと向かう始まりでもある。

 

 

 

 2030年となった。それは『七年戦争』が始まる時期だ。

 地上との連絡が突如として途絶えて『Ocean Spiral』は脱出不可能な閉鎖空間となった。幸いというべきか、悲劇の引き金というべきか、ここでは自給自足の環境となるように施設を充実させていたこともあり生活リソースは循環できるようになっており、食料も酸素も水も電気も資源もすべて『Ocean Spiral』の施設だけで賄うことができた。

 

 それが『Ocean Spiral』での悲劇を招くことになった。自給自足ができる以上は地上に頼る必要はない、今からここは独立した国になると誰かが口にしたのだ。

 

 そこからはなし崩し的に色んなことが加速的に起きた。

 地位や立場の確立。それに反発するレジスタンス。革命は遂げられずに無残に散り、上位階級の弾圧がより強くなり、日に日に収める税という名の資源の押収が増加していった。

 

 そんなことをしていれば人々の悪意は増加して当然だ。

 やがて人々は何としても反旗を翻すための力を欲し始め、それが『魔導書』を求めるのは必然ともいえる。どこかの名もなき、それこそどこにでもいるようなごく普通の一人の女性が『魔導書』を見つけた。

 

 彼女は日が経つにつれて『魔導書』の魔力に順応して、その力を圧制を強いる上位階級への反逆として利用した。『魔導書』の力は選ばれた者だけが利用できるものではなく、解読さえできれば誰でも使用できる普遍的な力となって様々な人々に力を与えていった。

 

 それがバイジュウにとって、どんな風に見えたのか。

 何でもない人間が根本から変わっていく姿は悍ましさしかなかった。力に魅入られるとか、踊らされるとかそういう類ではない。力と一体化していき、少しずつ人間的な一面が削ぎ落されて『何か』に変化していくのは、生物的な嫌悪感が膨らんで仕方がない。そんなのが鼠算的に膨らんでいき、

 

 時が過ぎれば『魔導書』に魅入られた信者達は同胞を増やそうと、ある手段に出た。それは人間であれば嫌悪感を抱いて仕方がない一方的な搾取。男女が身体を交わって、堕落の道へと歩ませようとする悪鬼のような手段を開始したのだ。

 

 吐き気を催した。バイジュウが過去に見たのは、まだ愛があった。異性同士であれ、同性同士であればそこには必ずどんな形であれば愛があった。真っ当な愛もあれば、歪な愛、背徳的な愛と様々だ。

 

 だがそこにあったのは獣が肉を貪るような猟奇的な意味合いのほうが大きかった。

 子孫を反映するという形で何度も何度も一方的にその命を宿し、生まれてくる子供は人間とは似ても似つかない形相をした怪物となって育ち、また育った子供は『魔導書』に魅入られていない無垢なる人々を虐殺していった。

 

 音声データで詳細を知っていたとはいえ、実際に目の当たりにするとその惨さが際立って仕方がない。ここまで人間という存在の醜悪さを見せつけられることになるなんて。

 

 そして数年が経ち『Ocean Spiral』は血みどろに塗れた地獄へと変貌した。

 バイジュウ達が来た時のように、通路は血痕が入り乱れ、白骨化した死体やらが散乱する光景となった。蠅などの害虫が沸かないのは、ここが海中にある施設でそれらが生息するには厳しい環境だからだろう。

 

 だけど、そうなると少しだけバイジュウの中で疑問を一つだけあった。

『OS事件』の時に居住区や研究施設となっていた球体型フロアである『BLUE GARDEN』は海中の奥深くへと落下していたはず。だが今現在の状況では海上と面した状態のままであり、バイジュウ達が来た時とは大きく異なっている。

 

 まさか衛星『STARDUST』が落下したことによる海流の変化とでもいうのか? いや、その程度で落ちるなら『七年戦争』を切っ掛けに落ちるのが普通だ。その可能性はないだろう。

 

 

 

 だとしたら別の要因があるに違いない。それこそバイジュウ達が敵対した『異形』が出てきたような——。 

 

 

 

 そう考えた時、世界に躍動が奔るのをバイジュウは感じた。

 

 

 

『なに……この嫌な感覚……』

 

 

 

 まるで足元の氷が砕けたような不安定感が世界に轟く。世界そのものが荒波へと変わり、世界を蹂躙しようとするような異質感。それをバイジュウは肌身で感じた。

 次の瞬間、それが勘違いではないと告げるように施設のアラート音が響いた。ノイズだらけの音で、一部は機能してないからほんの小さな音。耳を澄まさなければ決して気づけないほど極小の音をバイジュウは聞き取った。

 

 その音の意味をバイジュウは知っている。

 記憶の探索中に科学者の誰かが言っていた。施設のアラート音にはいくつか種類が存在しており、バイジュウが聞き取ったのは『保管中の異質物に問題が発生した』というアラートだ。

 

 現在ここには三つの異質物が存在している。そのうち一つである『魔導書』は既にその管理から離れており、そのうち一つである『剛積水晶』はバイジュウ達が来た時もケースの中で鎮座していた。

 となれば該当する異質物は一つしかない。それはここに運び込まれた『被検体』ことミルクの身体だ。脳波が機能している以外には遺体同然の彼女の身体に『何かしらの問題が発生した』ということをアラートは教えてくれている。

 

『ミルク……。いったいなにが……!?』

 

 そうと知ってしまえば、バイジュウは迷うことなく動き出した。『Ocean Spiral』の行く末は既に知っている。だけどミルクの行く末はまだ知らない。

 

 だから想像するしかなかった。ミルクがどういう終わりを迎えてしまったのか。『被検体』は施設の崩壊と共に、荒波に飲まれて大海に沈んでしまったのか。もしくは未だこの施設のどこかで眠っているのか。あるいはバイジュウが見知らぬ誰かにスノークイーン基地で19年間も保護されたように、超常的な何かを利用して誰かが介入してミルクを保護したのか。いくつかバイジュウの中で夢想してしまう。

 

 

 

 ——だから、その結末だけは認めたくなかった。

 ——今目の前で起きている現実にバイジュウは目を背けたくなった。

 

 

 

『……そ、ん……なっ……!?』

 

「っ……ぁぁ……aaa……!」

 

 

 異質物を管理する一室に入ると、そこにはバイジュウは目を疑う光景があった。

 スノークイーン基地でのバイジュウと同じように、培養液に漬け込まれていたミルクがその器を割って外に這い出てきたのだ。

 

 それだけならまだいい。ミルクが目を覚ましたというのなら、それでいい。無事に目覚めたというのなら。

 

 だが現実はそうではなかった。今目の前にいるミルクは、形だけがミルクであってミルクでない。瞳は赤く充血して、瞳孔は光を差す隙もない白一色。這いずり出てくる手は人間のそれではなく、水分でも多く含んだのかスポンジのようにブヨブヨだ。

 

 あまりにもミルクらしからぬ姿を見て、バイジュウは確信してしまった。彼女は『ドール』に成り果ててしまったのだ。

 『魔導書』の魔力に飲み込まれて理性も身体も精神も全部狂気に溶かされた哀れな囚人。いや咎人でもいうべきか。本来人が求めてはいけない、あるいは宿してはいけない力を持ってしまったのだから。

 

 それが今、彼女の身体を作り替えようとしている。『ドール』ではあるが、同時に『ドール』以上の存在。超常へと今まさに再誕しようと蛹のような状態が今なのだ。

 

 そしてミルクは生まれ変わる。人から化け物へ。人間では理解してはいけない超常へと。

 しかしバイジュウは聡明でどこまでも現実的な一面を持つ賢い子だ。その『理解してはいけない超常』をバイジュウは理解してしまった。それがどういう意味を持つかも。

 

 

 

 ミルクの身体が少しずつ『アメーバ状』となっていく。うめき声も少しずつ変声していき、やがては『テケリ・リ』と人間の耳には不快な音だけが響き渡る。

 

 それは『OS事件』で対峙した『異形』に他ならない。ミルクを媒体にして、この『異形』はこの『Ocean Spiral』に降臨してしまったのだ。

 

 

 

 だとすれば——ミルクの身体は既に——。

 ならば——ミルクの精神は既に——。

 

 

 

 バイジュウは理解した。どうして『影』がバイジュウの前に現れたかを。

  

 それはミルクが僅かに残した『本能』みたいな物だっただろう。こんな姿を、こんな結末を誰かに見られたくない、特にバイジュウだけには見られたくないという思いの片鱗が発現して。それが記憶の中で形となったもの。それが『影』だったんだ。

 

 だから『影』はバイジュウを攻撃しなかったのだ。記憶の住人であるミルク自身を殺すことができれば、そこで記憶の再生は終わって強制的に観測者を追い出すことができるから。

 

 そんな状態でも『影』は——ミルクの本能はバイジュウを傷つけずに守ろうとしようとしてくれたのだ。

 それを『モルガン』は理解してくれたのだ。時として機械は感情に任されず、残酷なまで客観的な事実を教えてくれる。ミルクを助けたい一心で気持ちが流行って感情任せになってた自分と違って『モルガン』はその役割を全うして真実へと到達したというのに。

 

 だというのに自分はそれを悟ることもできずに、ただ過去のミルクに見栄でも張るように手助けをして、本当の今ここにいるミルクの思いなんか見向きせずに切り伏せてしまった。

 

 

 

『うっ……ぁぁぁぁぁあああああ…………っ!!』

 

 

 

 自分はミルクの何もかもを守れなかった。

 身体も、本能も、その思いさえも。自分の手で『殺してしまった』のだから——。

 

 私が求めていたのは、今のミルクじゃなくて『過去のミルク』——。

 自分の中で居座り続ける都合のいい幻想だけが、自分が求めていたものだと知って、そんな醜くて情けない自分にバイジュウはただ心が壊れてるような感覚で泣き叫ぶしかなかった。そんな物のためにミルクを殺してしまった。

 

 

 

 もうミルクには帰るべき身体がない。そんなものは自分達の手で殺してしまったのだから——。

 

 

 

 ——そこで記憶は終わる。もう観測すべき記憶などないのだから。



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第13節 ~履霜堅氷~

 記憶の果てを見たバイジュウは意識を覚ます。そこは記憶の世界に入る前と同じ『播摩脳研』という研究施設であり、顔を横に向ければ少し早く目が覚めたであろうヴィラクスが心配そうにバイジュウの事を見つめていた。

 

「私もバイジュウさんと同じ夢を見ていました。そこでどんなことがあったかも覚えています……。バイジュウさんは覚えていますか?」

 

 ヴィラクスの問いにバイジュウは涙を堪えるために一度深く鼻で息をすると「うん」と子供が泣くのを我慢するような震えた声で頷いた。

 バイジュウは『完全記憶能力』を持っているため、レンの時には違って夢の世界から覚めても記憶がなくなることはない。一から十、始まりから終わりまですべての記憶が鮮明にバイジュウの中に刻まれている。

 

 ミルクの行く末こそが『OS事件』での『異形』だったということ。ミルクが残したスノークイーン基地での情報。それが第一学園都市である『華雲宮城』の存在し、その情報の物理キーをそれを解くために必要なのがミルクの腕時計ということ。それらをすべてを理解した。その末に『魔導書』の魔力に飲み込まれてミルクは『門』の奥に幽閉されることになったことも。

 

 ミルクが残した情報自体は現代の『異質物』において核心に触れるような物があるに違いない。何せ最後の最後まで『魔導書』によって変質されるまで、そこにある『情報』を書き記したのだ。そこにはきっと『魔導書』を通して伝わるであろう『ニャルラトホテプ』や『ヨグ=ソトース』という存在に触れることになるであろう。特に後者に関しては今すぐにでも打倒しなければならないほどに。

 

 ならばミルクを助けるためには、その『門』にいる『ヨグ=ソトース』に対して調べ上げて、どうにかしてたどり着くしかない。『ヨグ=ソトース』に関しては頼りになる情報はいくつかある。ハインリッヒやギンは元々は『守護者』として捉えられていたし、ミルクの情報にもそれに近しい物を記録されているであろう。

 

 問題はその『門』が現実世界においてどこにあるのかが問題だ。

 ソヤは一度見たとのことだが、そこに現れたのは一度きりであり、その後はその『門』はそこに現れることはなかった。それはSIDが猫丸電気街での『天国の門』での出来事の後に調べたのだから確かなことだ。

 

「なるほどね……。となれば今後は『華雲宮城』に向かえばいいってわけだけど……」

 

「『門』はわからないと……」

 

 それをバイジュウはファビオラとヴィラクスに伝えた。一言一句、ある種の自分の疲労ごと吐き出すようにすべてを伝えた。

 ファビオラは眼鏡を整えて思考に耽り、ヴィラクスは『魔導書』を掲げて目を細めて思考の片隅にある歴代の『魔導書』の持ち主を記憶を手繰り寄せようとする。

 

 だが二人とも揃って溜息を吐く結果に終わってしまう。二人とも『門』の所在については知らない様子だ。ファビオラは第二学園都市『ニューモリダス』の情報機関である『パランティア』に元々は所属していたのだから多少期待していたところもあっただけに、バイジュウも「そうですか」と落胆を隠しきれずに溜息を吐いてしまう。

 

「アンタ、一度はニャル何とかって奴の眷属になってたんでしょ? 何か手掛かりになりそうなこと言ってなかった?」

 

「う~~ん……あまり思い出したくないことではありますが、それでも思い出せそうなことはないですね……。あの御方……ではなくアレは口は開きますが、そういう部分に関しては頑なに硬かったですから」

 

「まだ思考汚染が抜けてないなぁ」とヴィラクスは自嘲しながらもファビオラの質問に答えきれない自分に不甲斐なさを感じてしまう。ファビオラも「私も分からないんだから、気にする必要ないわよ」とぶっきらぼうながらも優しいフォローをした。

 

 ヴィラクスはその意図を理解して「ありがとうございます」というと、ファビオラは多少顔を赤くして「この子、お嬢様より素直でやりにくい」と照れ隠しをするように眼鏡を再び直すると、これ以上揶揄われない様にバイジュウに向かって話しかけてきた。

 

「バイジュウは思うところないの? 一応事件前までは『華雲宮城』……じゃなくて中国に住んでたんでしょ?」

 

「う~~ん……。あの頃は自分の興味、関心以外には無反応でしたからね……。いくら覚えるのが得意でも、触れる機会がないのであれば、思い出すことなんて……」

 

 バイジュウも何とかして心当たりがないか思い浮かべるが、『門』に関する情報なんて物は一切なかった。強いて言うなら、そもそものエネルギーの発見が『深海』では『山脈』にあるということであるが、それは恐らく自分に宿っているという『古のもの』かあるいはそれに近しい存在のエネルギーであり、『門』とは関わりがないであろうと考えている。

 

 それ以外に何かないか。気になるような疑問が。

 そう考えた時、バイジュウの中である疑問が浮き彫りになった。

 

「どうしたんですか?」

 

「……いえ、少々気になることが後一つだけ残ってまして」

 

「『門』とか『異質物』についてですか?」

 

「それではなく……少々個人的なことです」

 

「じゃあ、今は関係ないってことか」

 

 ファビオラの言葉にバイジュウは「はい」と頷いて終わった。

 

 そう、バイジュウには『門』や『古のもの』や『ミルクのこと』以外、最後まで分からないことが一つだけあった。

 それは結局バイジュウをスノークイーン基地で保護した『誰か』は何者だったのだろうか、ということだ。

 

 バイジュウもミルクも覚えていない人物。だからこそヴィラクスの記憶の世界ではその存在は影も形もないままだった。それなのにレンだけがバイジュウの夢を通して確認できた人物。それがバイジュウにとって不思議でしょうがなかった。

 

 

 

 だとしたら--その人物は--。

 レンに近しい人物ということになるのだろうか--。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「おまた~~♪ レンちゃんに言われた通りに情報集めてきたよ~~」

 

 ブライトとの邂逅から数日後。俺は未成年お断りの危ないバーの一席へ腰を置いて待っていた。開店前から数時間前ではあるが従業員どころか店長やマネージャーみたいな人さえも見ない閑古鳥状態であり、本当にここが待ち合わせかと疑っていたところにイナーラが姿を見せた。

 

 彼女の服装は会うたびにいつも変わっている気がしてならない。今回はいかにも出勤前の水商売って感じで、地味な厚手のジャンパーやジーンズを履いており「疲れたぁ~~」と項垂れながらも服を脱ぐと……エロ本でも見ないような……とてもじゃないが俺の語彙力では表現しきれないエグイ服をしていて、思わず視線を逸らしてしまった。

 

「ん~~? レンちゃん、まだまだ初心な感じ~~?」

 

「初心とか関係ないだろっ! そんな破廉恥な服装っ!」

 

「今は女なんだから、こういうことに耐性持ったほうがいいよ。いざという時は武器にもなるし」

 

 ……ん? 今は女って……!!?

 

「えっ、それどういうこと!? イナーラって俺が男だって気づいてるの!?」

 

「あぁ~~…………うん、そうだね……」

 

「いったいいつ!?」

 

「女の勘ってやつでビビッと? それでバシッと感じで?」

 

 説明になってねぇよ!? それにそれで納得もできやしないっ!!

 

 ……とか何とか言っても、イナーラのことだからすぐにノラリクラリとした言葉で逃げて答えを言うことはないだろう。

 それに俺の尋問能力はマリルから直々に「お前はそういう駆け引きは基本的に弱いんだから止めとけ」と言われてるし……。確実に言い負けるんだから聞くだけ時間の無駄というやつだ。

 

 予めイナーラの許可を貰って、店の奥から頂いていた炭酸がまだ抜けきってないコーラを一口飲んで喉を潤すと、俺は咳ばらいをして話の調子をこちらへと戻した。

 

「しかし、イナーラってこういう店にも融通効くんだね……」

 

「まあ拠点が多いに越したことはないからね。数週間前にオーナーとして買い取って、ちょっと自由にさせてもらってるの。だから今日はレンちゃんのために貸切状態なんだゾっと」

 

 いつもの掴みどころのないおちゃらけた態度のまま「これ以上の詮索はなしにしてね。アンタも一応はSIDの一員なんだし」と明確に線引きした壁を測ったところで、イナーラは口から…………正確に言うなら、歯茎に引っかけていた透明にも近い薄い糸を引っ張って喉奥から、俺が頼んでいた情報が詰まってるであろうメモリを取り出してきてくれた。

 

「それってゲロ吐かないの……? 見てるだけで嗚咽が……」

 

「慣れよ、慣れ。こういう小さいのは体内に仕込むのが一番なの。それに喉奥はちょっと訓練が必要だけど、アソコなら簡単に……あっと、これはレンちゃんには刺激が強いか♡」

 

 イナーラの視線だけでどこを指してるのか俺には分かる。ニマニマと口元を緩めているし、その表情は俺がメイド喫茶でバイトしてた頃にいた男性客の視線にも近い。その視線は羞恥心を刺激されるから大変やめてほしい。

 

 とはいってもイナーラだって、いつまでも助平心を丸出しにするほど貞淑がないわけじゃない。一通り俺のことを視線で辱めると、途端に目を細めて『請負人』としての真面目で威圧感漂う雰囲気へと一変した。

 

「これが詳細データが入ったチップね。現在『六大学園都市』に起きている事情とか諸々のまとめをね

 

 その言葉で俺の意識は一気に引き締まる。俺がイナーラに頼んで調べてもらったのは、今世界で何が起きているかをすべて調べてもらったのだ。

 

 もちろん、上っ面の事だけならインターネットで調べればすぐに分かった。各学園都市がどのような政策を立てており、どのような問題を抱えているかは軽く理解することができた。例えばマサダブルクなら内城と外城で治安が大きく違い、外城では連日ゲリラ的なテロ行為が起きているとか、サモントンならインターネット上の情報だけなら現在『時空移送波動』の影響によって都市部を中心に被害を被っていて現在は新豊州とニューモリダスの援助を中心に復興活動をしているなどだ。

 

 だけど、実態は大きく違ったりする。そして俺はそれを知らないことが多すぎる。

 世界では色々なことが目まぐるしく起きているというのに、俺はそれに対して全くと言っていいほど無知だった。例えるなら大規模な台風の影響を受けずに、ノンビリと過ごしているようなものだ。

 

 もちろん普通に過ごすならそれが一番だ。俺だって自分のことを考えるならそれが良いに決まっている。俺はどんなに頑張っても、ギン教官みたいに強くなれないし、バイジュウみたいに聡明になれないし、マリルみたいに指揮を執ることはできないだろう。俺は漫画やアニメに出る主人公気質みたいな性格じゃないから。

 

 だけどそれで納得できる生き方かと言われたら納得できない。そんな半端な生き方や揺り篭の中にいる平穏を望むなら、俺は『魔導書』の中で夢を見続ければいい。夢の中でも父さんと母さんの優しさと温もりに包まれて生きたほうが遥かに幸福なんだから。

 

 だけど俺は進んだ。夢の世界から抜け出した。夢の中の父さんと母さんに別れを告げて、親離れして、自分の力で歩むことを決めた。それはある時ソヤに言ったペンギンの話にも近い。

 

 だから進んだ以上は触れないといけない。過酷な嵐の中に進もうとしても、俺はそこにたどり着かないといかない。主人公にならなきゃ話を進めることも知ることもできないんだ。

 

 そのためにイナーラに調べて纏めてもらったのがこれだ。今俺の手元にあるチップにすべて入っている。軽く握るだけで壊れてしまいそうな小さなチップの中に、世界ほどの大きさを誇る情報が詰まっているんだ。

 

「ありがとう……。本当にタダでいいの?」

 

「アンタはお気に入りだからね。アイツと同じだから」

 

「アイツ?」

 

「アイツよ、アイツ。レンちゃんなら分かるじゃない?」

 

 なんて言われても俺には見当がつかない。イナーラの交友関係なんて俺は一切知らないわけだし、それでアイツと差されても該当しそうな人物が多くて

 そんな風に頭を悩ませていたら「そういう鈍いところも一緒だねぇ」と多少呆れながらも、慈しむような楽しむような何とも形容しがたい穏やかな雰囲気でイナーラがはにかむと、直後にイナーラの腕時計がアラームを告げた。

 

「……もうこんな時間か。じゃあ、私は次の仕事があるからここらでお暇するから、後は適当に飲み物煽ったら流し台に突っ込んでおいて。でもお酒は厳禁ね、未成年だから」

 

「飲まないよっ!」

 

 軽口を言い合いながらもイナーラはどこでそんな技術や衣装を用意したのか、俺が瞬きする間にエナメル特有の光沢が輝く黒のライダースーツへと早着替えをして、これまたどこからか取り出したヘルメットを腕に抱えて店の外へと飛び出していった。さながらそれは某女怪盗みたいな手早さと妖しさであり、これが『請負人』としての姿かと見惚れてしまいそうになる。

 

 けれど今はそんな見惚れているほどの余裕は俺にはない。俺は即座にデータの入ったチップを持参しておいたタブレットに挿入して中身を一先ずチェックした。

 

 とりあえずは斜め読みしながら、特に気になる部分を炙り出していく。新豊州にもキナ臭そうな話題が飛び交っているが、元老院関係であればマリルがきっと対処してくれるだろう。俺が見るべきは外のほうだ。

 

 ニューモリダス、サモントンは俺が知っている感じの焦燥で間違いない。サモントンは『時空移送波動』の影響で大ダメージを負っており、ミカエルを中心に交渉しているとのこと。それを弱みにいつぞやのマリルみたいに一方の学園都市が有利になるような交渉を持ちかけようとするところもあるという。これは想定内の事だ。

 

 だがニューモリダスに関しては気になる記述が一つだけあった。『レッドアラート』との戦闘で議員関係者の何人かが騒動に巻き込まれて負傷者が何名かいるとのこと。それはまだいいのだが、問題はその事後処理に記載されている犯人--つまりは『ヤコブ・シュミット』の状況だけが不可解な記述になっていた。

 

「……ヤコブの遺体が行方不明?」

 

 おかしい。スクルドの遺体はSIDで回収し、ヤコブの遺体はニューモリダスの情報機関である『パランティア』に回収させておいた。それを俺もSIDは確かに目撃したというのに、最終的な履歴が『行方不明』というのはどういうことだ。

 

「……だけど気になるという意味なら残り三つの学園都市もそうだ」

 

 残り三つ。第一学園都市『華雲宮城』と、第四学園都市『マサダブルク』と、第六学園都市『リバーナ諸島』のついては俺が知らない間に学園都市内で大きな出来事があったという記述があったのだ。

 

 

 

 華雲宮城はサモントンの崩壊と機に、XK級異質物を稼働させようと画策しているとの記述がある。これは華雲宮城のXK級異質物が、サモントンのXK級異質物『ガーデン・オブ・エデン』に対して影響を及ぼすことができないものであったが、サモントンの崩落を機に介入できるんじゃないかと理由があるようだ。それでもしもサモントンの土地を奪取することができれば、農作物の輸出量は華雲宮城が独占することができてサモントンの学園都市としての価値を大きく下げて資源や財政的な有利を誇示したい一面があるとのこと。

 

 マサダブルクは意外なことに二つの大きな事柄が起きていた。『マサダブルクの内城に統治者が大成したこと』と『テロリストの発生が減少している』との記述があった。より正確には小規模なテロが軒並み消失して、大きなテロが増えたのだという。

 まず前者についてだ。これはマサダでの一件でエミリオが『聖女』としての地位を確立したことで、今後もそういう聖女に近しい存在が出てきてもいいように、レッドアラートとは別に対抗する手段としてマサダブルクの『絶対的な力の象徴』としての統治者を祭り上げたのだという。それこそがサモントンでの事件の時、SIDに力を貸してくれた傭兵組織『マルク・アレクサンドリアル』のトップである『パトリオット』というわけだ。

 後者に関しては前者と多少繋がってもいる。そのやり方や思想に反発を持つ者が、テロリスト側にリーダーが現れたのが理由であり、統制者の名前は不明。けれども『異質物』の力も『魔女』の力も使わずに進撃する暴虐さに因んで、マサダブルクの土地の過去に大きく関わる『暴君』をコードネームとして『ネロ』という名称を与えているとのこと。

 

 そしてリバーナ諸島は政治絡みで多少もめ事があったらしい。

 ニュクスからある程度話は聞いていたが、政治を回している三つのギャング組織の代表が任期を終えて近々変わるのことだが、サモントンの事なども含んだ近年の『異質物』の目まぐるしい変化がある中で、新しい統治する組織を変えていいものかという意見があり、それの間に揺れ動いているとのこと。それ以外に関しては、イナーラの情報でもいつも通りではあるが、キナ臭い裏取引も確認出来ていて穏やかに物事が収束するとは思えないとのイナーラの意見があった。

 

 

 

 なるほどな……。数日にしては詳細がかなり記載されている……。確かにこれはSIDが頼りにする時もある理由も分かってしまいそうだ。

 だとしたら、この中でどれがニャルラトホテプが関わりそうな事があるのか……。あんなやつがサモントンの出来事だけでおめおめと引き下がるなんて到底思えない。きっとどこかでアイツの手が介入している場所があるに違いないんだ。

 

「……俺も早くこんな桃色空間から出よう。いるだけで恥ずかしくなる」

 

 なんて考えたところで、こんなところにいて落ち着いていられる胆力が俺にあるわけがない。

 

 イナーラから飲み物を自由に飲んでいいと言われたが、俺はせめてものお礼として使っていたグラスと流し台に溜まっていた食器類などを洗っておいて店を後にした。

 

 



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第14節 〜熱願冷諦〜

 翌日。俺はSID本部へと久しぶりに顔を出すことにした。

 連日連夜、忙しそうにもあって内設されている休憩室にある自動販売機はカフェイン飲料からエナジー飲料まですべてが売り切れとなっており、休憩室には疲労を隠し切れないSID職員から現場派遣が主のエージェントまでが仮眠でも取って少しでも体力を回復しようとしてた。

 ゴミ箱を見ればカップ麺やら冷凍食品の包装、それに使いきりのアイマスクまであるし、一部の職員は毛布やら携帯枕を持って寝てる様子からして、どうも何割かは泊まり込みで働いている様子だ。そんな死屍累々の様子に、俺からは「ご苦労様です」と労いの言葉をかけることしかできなかった。

 

「なるほどねぇ……。レンちゃんもレンちゃんで調査とかしてたんだ……」

 

 そんな中、自作のおヤバい栄養補給剤をストローで啜りながら隈を浮かべる愛衣にイナーラの調査で得た情報を俺は見せていた。本当はマリルに見せたかったのだが、マリルだって『元老院』の相手からサモントンの復旧のためにいつも他の学園都市と交渉を続けている。重要なことと言えば、重要なことだが判断には時間を有する。そうであれば急いで伝える必要はないし、愛衣が言伝してくれるだけで十分だ。

 

「レンちゃんはこの中にニャルラトホテプ……あるいはそれに近しい人物が学園都市のトップ連中にいるんじゃないかって思ってるわけ?」

 

「うん。ウリエル……つまりはサモントン政府において重要な位置に存在する人物にニャルラトホテプは化けられたんだ。それにニューモリダスで事件を起こしたヤコブを唆したのもアイツだ。だったら他の学園都市だってサモントンと同じような危機が目前に迫ってると考えるのは……」

 

「まあ自然だよねぇ」と興味深く資料を眺めながら愛衣は栄養補給剤を再び口にする。俺が物珍しく見るせいで愛衣は「飲んでみる?」と進めてくるが、俺はその効能がマリルですら遠慮するほどの劇薬なのを知っているので「遠慮しておく」と極めて丁重にお断りしておいた。

 

「だとしたら丁度良かったよ。実はバイジュウからも意見があってね」

 

「バイジュウから?」

 

「うん。バイジュウったら、知らない間に播摩脳研で記憶にフルダイブしたらしくてね。そこで色々あって南極と華雲宮城に調査員を派遣してほしいっていう要請を受けたんだ」

 

「特に華雲宮城に関してはバイジュウ自身が行きたい、っていうくらいには」と愛衣は補足する。俺はその話を聞いて先日であった『元老院』の一人であるブライトとの邂逅を思い出していた。

 

 バイジュウの記憶には『ミーム汚染前』と『ミーム汚染後』の記憶が混在しているとか何とか難しいことを言っていた。だからバイジュウの記憶はすごく特別であり、その記憶を見た上でバイジュウが『華雲宮城』に行きたいということは本人的にも何かしら重要な情報を手に入れたということに違いない。恐らくミルクについて何らかの--それはつまり『門』についての情報を得たかもしれないということ。

 

 ……だとしたら目的とも少し違うが、俺の思惑とも一部は一致する。現地に赴いて華雲宮城にニャルラトホテプが暗躍してるかどうか知りたい。そのついでというのもおかしいが、その最中でミルクや『門』の情報を入手できれば万々歳だ。これは行かない、というほうが無理だろう。

 

「……レンちゃんも華雲宮城に行きたい感じだね」

 

「うん。だってバイジュウも目的があって行きたい。俺だっていつまでもニャルラトホテプを放っておくわけにもいかない。だったらもう行くしかないだろう?」

 

 頭をポリポリと掻いて愛衣はため息を吐く。暫くすると「どうすればいいかなぁ」と一言だけ悪態をつくと、申し訳なさそうに愛衣は言葉を続けた。

 

「……組織としては指揮官は絶対にいるしなぁ。けど私もマリルも時間がないし、アニーはあくまで補佐官に過ぎないし、優先順位を変えるのも厳しいしな……」

 

 再び愛衣は頭を抱えて悩む。恐らく手頃に派遣できるような人材がいないのだろう。

 今までの作戦というか、事態の解明にあたる時にはいつもマリルが指揮を執ってくれていた。だけど今はマリルの手を借りるのも難しければ、愛衣もSID長官補佐としての立場があってマリルの手だけでは足りない部分を補っていて俺達の相手をするのも厳しい。

 

 ……かといって俺もバイジュウも指揮官としての権限がないんだよな。というか俺とアニーがSIDに入ってから所属することになったベアトリーチェ、ハインリッヒと次々と入ってきた皆だって、あくまでSIDという組織のエージェントの一員でしかない。つまりは平社員とか下っ端、あるいは派遣社員と地位だけは皆揃って下の部類んだ。

 

 ……あれ? そう考えると指揮官補佐としての訓練と試験を受けたアニーって実質的に俺の上司にあたるってこと? 同期が知らない間に俺より上の立場にいることに何とも言えない敗北感を抱いて仕方がない。

 

 まあ、何であれ俺の知人にそういう指揮官権限を持つ者がいないのだ。マリルも愛衣もダメな以上、早急に作戦を行うためには必然的に華雲宮城での指揮官は俺達とは縁が薄い人物ということになる。それもSIDでも情報の閲覧権利は個人ごとで違う以上、その指揮官は『魔女』の情報について知っているものでなければいけない。それは必然的に組織の情報をすべて知れるようなマリルと近しい地位に値する人物か、同じように『魔女』としての力を持つ者でもないと無理だろう。

 

 指揮官であり『魔女』についても知っている。それに該当する人物なんてSIDの中でも極めて限られている。そんな貴重な人材の手が空いてることなんて……恐らくないのだろう。

 

「……あのさ。大変面倒なやつと一緒に派遣することになるけどそれでもいい?」

 

「あっ、いるんだ……」

 

 かと思っていたら愛衣は珍しく申し訳なさそうに雰囲気のまま、その指揮官について心当たりがあると口にした。

 しかし愛衣が大変面倒なやつと一緒というが……あの愛衣が言うのだから相当なのだろうか。

 

「それって俺とは初対面になる?」

 

「初対面と言えば初対面だけど、恩人と言えば恩人だよ。だってスクルドの遺体を腐らせずに延命し続けてる『魔女』でもあるんだし」

 

 その言葉は俺にとって驚きだった。

 何せスクルドは現在は危篤状態で絶対安静、という以外でスクルドに関して知っていることが俺にはない。それはファビオラもそうであり、今の今まで『魔女』の力で助けられてるなんて微塵も耳にしていない。

 

 そんな魔女がいたなんて……。何で今まで耳にしなかったんだ?

 

「……まさかその魔女って霧夕さんと同じ極秘扱いだったりする?」

 

「そう。魔女はレンちゃんや霧夕と同じで、SIDのレベル5級指定で保護してるエージェントの一人。コードネームは『時止めの魔女』って言われてるんだけど……」

 

「これまた大変面倒なやつだねぇ」と本日何度目かも分からぬ、珍しい愛衣の溜息が零れた。

 

「私は一応医師でもあるから症状について悪口言うのも難だけど、彼女は傲慢で態度がデカいくせに『社交不安障害』……俗に言う『アガリ症』とか『コミュ障』に呼ばれる分類でね……。そのくせに実力と実績はしっかりしてるし、能力も極めて強力だから万全の監視体制で保護してるんだけど……これが立場を良いことに我儘も言うしで正直言って……うん、アレだ……でも下手に口にしたらな……」

 

 おっと、これまた非常に珍しい愛衣の愚痴だ。それだけ丁重に相手をしなければならない相手ということだろうか。あのマリルとも親しげに話せる愛衣ですらそうなるほどの。

 

「まあ、そんな感じでひじょ~~にアレなやつでね? レンちゃんがそれでもいいなら今すぐにでも動けるように手配するんだけど……」

 

「そんな面倒な人が、よくスクルドの延命なんてしてくれたね……」

 

「悪い人じゃないからね。そういう人命とかの倫理観だけはしっかりしてるから……」

 

 ……さっきから思ったけど、愛衣が『子供』とか『少女』とか言わずに『人』とか『やつ』って表現するし、ここにいないのに扱いを雑に扱わないということは相当のお歳だな? それこそマリルよりも年上のような……。となると30歳後半とか、下手したら40歳以上も……。

 

「……その人って、もしかして結構おばさ--」

 

「誰がおばさんですって?」

 

「ひんっ!? 誰っ!?」

 

 直後、まったく聞き覚えのない女の声が耳元に聞こえて二重の意味でビックリした。だって俺と愛衣は現在壁際で話しており、耳元で話しかけるなんて壁からでも話しかけないと不可能だからだ。

 

 しかも振り返ってみると、そこにあるのは鏡だけだ。どこにも誰かが話しかけられるような空間などなく、あるとしたら観葉植物と何の変哲もない鏡くらいなもので…………。

 

「初めましてレンちゃん。鏡のお告げを聞いて、やってきたわ」

 

「っっっ!!?」

 

 なんて思っていたら、突如として鏡の中に女性の顔が浮き出てきて俺は驚愕のあまりに腰を抜かしてしまった。どこからどう見ても、今の目の前にある『鏡』は俺は何回も髪とか服装を整えるのに使ったことがある物だ。それ自体に異質物みたいに特殊な性質とかがあるわけがない。

 

 だというのに女性が映っている。服装は一言で表現するなら『だらしない』に尽きる。寝起きの俺みたいにシャツとショーツには皺や着崩れもあれば、よく見たら上下の下着の色が合っていない。しかも色気もオシャレ感のない着易さと着け心地を最優先した厚手の鼠色だ。

 そのだらしない姿は百年の恋でも冷めてしまうほどだ。男の俺でも流石にこれを人前で見せるのは嫌だなぁと思うくらいには。

 

「……彼女が例の人物よ」

 

 えっ、この人がっ!? 聞いてた感じのイメージと違うんですけどっ!?

 

「どうも。私が『時止めの魔女』こと『クラウディア』--。鏡の中から失礼するわよ」

 

 なんて言いながら鏡の中から、クラウディアは出てきて俺と愛衣の横に立つ。しかもどういう手段を使ったかも不明なまま、そのだらしないダボダボの部屋着から一気に童話じみた色鮮やかで煌びやかな服装へと早変わりだ。帽子もスカートも楕円形を描いていて、橙色と黒色の縦縞ストライプの衣装がとにかく目立つ。スカートにはダイヤの模様、帽子には赤と白の薔薇、ソックスもリボンのガーターベルトを付けていたり、その豪華絢爛な装飾と不可思議な登場から童話の登場人物でも見ているような気分だ。

 

「すげぇ……造花かと思ったらマジモンの薔薇だ、これ……」

 

 それはまるでシンデレラに出てくる魔法のドレスを着るような早業にも思えるほどであり、一瞬でこのクラウディアの『魔女』としての力が、アニーの『投擲操作』やラファエルの『回復魔法』といった能力とは掛け離れた物だということは理解してしまうほどに。

 

 鏡の中を通り、挙句には悟られずに早着替えをするなんて一体どんな『能力』を持っていれば可能なのか--。俺には一切理解できなかった。

 

「ふ~~ん……初々しい娘ね。新鮮な果実みたいで私好みだわぁ……」

 

 いきなりクラウディアは俺の顎を持ち上げ、瞳と肌を観察し始める。その視線は熱を帯びており、簡潔に言えば興奮している。主に性的な意味で。

 

「けれどいつかは男を知って、社会の汚れを知ってしまえば、いずれは黒んでしまうんでしょうね……。ねぇ、今からでも私の物にならない? 私の物になれば、あなたの美しさは永遠の物となるわ」

 

「何なのこの人!?」

 

「こういうやつよ。パーソナリティスペース皆無なのに自分の意見は押し付けてくる……20歳なんだからもう少し配慮とかを覚えてほしいよね……」

 

「何度も言うけど年齢の話をしないでくれる? 私は昔も今もこれからも、ずっと変わることない美貌をあり続ける存在。愛衣の主観で私の価値を測らないでくれる?」

 

「いやでも年齢は主観的な物じゃなく誕生から今までの観測を確立させる一つの相対的見方だし……」

 

 うん、クラウディアは愛衣の言う通り面倒な人に間違いない。まさか一見してここまでの変人を突きつけるなんて……今まであっただろうか?

 

 ……いや、思い返せば結構あるな?

 そもそも目の前にいる愛衣自身がそうだし、続けてハインリッヒもそうだし、変態という意味ではソヤもそうだし、霧夕さんに宿るウズメさんもそうだったし……。

 

 ……それでも冷静に考えると嫌だな。愛衣はある程度受けたらまだいいとして、ハインリッヒが指揮官だったらよく分かんないこと言われそうだし、膨張抜きで俺のことを崇めてるところがあるから事あるごとに某劣等生みたいに「流石です、マスター」とか言われそうで恥ずかしい。

 ソヤに任せるのはもっと嫌だ。何故ならソヤは『共感覚』の持ち主で、たまに俺達とは違う観点からの考察のせいで理解しにくい時あるし……命令する側がそういう感覚を口にされたら命令される側も困る。まあ俺が指揮官になったところで、そもそも命令ができないからあまり大きくは言えないんだけど。

 

 それを考えると態度とか性格はどうあれマリルって指揮官として理想的だったんだな……。

 

「これが指揮官になるのか……」

 

「こんなのが指揮官になれちゃうの……」

 

 愛衣の何度目かも溜め息交じりの言葉に、俺はただただ同情するしかなかった。こんな変人でもレベル5認定するしかなく、生活環境の保障という名目で税金が使われるクラウディアが持つ『能力』のありように。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「ふ~~ん、これが今回集まった私のしもべ達ね。眷属として名を明かしてもらおうかしら?」

 

「私が従うのはスクルドお嬢様と、非常に不本意だけどこの馬鹿メイドだけよ」

 

「まあまあファビオラ……」

 

 数時間後。今回の『華雲宮城』に向かう人員が集まった。

 人数としては俺とクラウディア含んで合計『六人』だ。参加した残りの四人はバイジュウ、ファビオラ、ソヤ、ギンの五人であり、今までの事件で特に縁を深く結びつけた存在でもある。

 

 とはいっても四人とも俺とバイジュウの我儘に付き合うわけではない。

 ファビオラはミルク救出はそのままスクルド救出という『門』としての繋がりがあり、ソヤもその『門』には浅はからぬ縁があり、ギンに至ってはその『門』の存在によって『守護者』にされた一人だ。二人とも借りを返せるなら返したいと思うのが当然であろう。

 

「本当はハインリッヒも行きたそうだったけど……」

 

「あやつ、あれでもサモントンの随行員という役職があるからのぉ。ラファエルが絶対安静の身だと、ハインリッヒもラファエルから大きく離れることができん。とても歯痒い思いをして儂に託しておったぞ」

 

 なんて言葉だけが悲しんでいるが、ギンの表情と語調だけは愉快で笑いを堪えてるようにも見える。

 とかいうアンタも一応は戦技教官としてのSIDの立場がありますからね? それが他の学園都市に行っていい許可を出されるなんて、つまりSIDにはお荷物認定受けてるってことだからね?

 

「エミリオとヴィラも来てほしかったですね……」

 

「あの二人はマサダブルクに帰国中ですわ。何でもサモントンの時に連絡があったパトリオットについて思うところがあるとのことで……」

 

 確かにそれもそれで面倒そうな雰囲気は情報からしてあったんだよな……。ただそれは国の問題であって、俺達が介入できるものではないし……。そこらへんは今はマサダでの地位を持つエミリオに一任するしかない。

 

「とりあえず順繰りに俺から紹介するから……右から順に--」

 

「ギン教官、ファビオラ、ソヤ・エンジェルス、バイジュウでしょう? そんなの私には筒抜けよ?」

 

「いつ調べたんだよっ!」

 

「それは乙女のひ・み・つ♪」

 

「うげぇ、嘘と本当の匂いが混じって言い方ですわ……。大人の汚いやり方ですわ……」

 

「誰が大人ですって? 私は不変的な存在、大人や子供で括らないのでくれるかしらお子ちゃま?」

 

「自分のことは棚に上げて、私の事はおこちょま呼びですの!? こんなのヤンキー絡み同然ですわ!」

 

「実際お前は年齢、経験共にお子ちゃまであろうが? 儂みたいな爺からしたらのぉ」

 

「それ同時に私の事ババアと言ってる?」

 

「こいつ面倒なやつじゃな。こりゃ婚期も逃しそうじゃ」

 

「なぜその事を……!? 誰にも教えていないというのに……!?」

 

「我が身を振り返れよ。アンタみたいな面の皮が厚かましい奴は恋人すらできないって……」

 

「恋人くらいはいたわよ……すぐ破局宣言されて……って逆にそういうアンタ達はどうなのよ!?」

 

「爺が野郎と付き合うわけがなかろう。それに可愛い孫娘みたいな子の身だしの」

 

「ギン爺と同じ理由で俺もあるわけない」

 

「ライク的な意味での付き合いなら何回かはあるわよ、情報機関としては当然ね」

 

「年齢的な都合と、教会の教えで不可能でしたわ」

 

「噓でしょ……!? 単純にいなかったの私だけですか……!?」

 

「……あんたも苦労してねぇ。年いくつ?」

 

「…………西暦換算なら三十路超えてます」

 

「うわぁ、私より年上……」

 

「違うんですっ! 色々ありまして……! 一応今年で17歳なんです!」

 

「その気持ちは分かるわ……。若作りしたいものね……」

 

「人の話聞いてないのって、そもそも年齢以前に人間としてどうなんですか!?」

 

 自称クールビューティーのバイジュウのイメージが壊れるぐらいにはクラウディアと言い争いを始める。それだけ年齢というのは女性にとって地雷なのか、それともバイジュウの心の平穏が今はないのか。間違いなく前者だという確信してしまう。

 

 ……未だにクラウディアのことがよく分からないが、今のところは打ち解けてる感じで大丈夫そうだ。いや若干打ち解けてるか怪しいところでもあるが、少なくとも険悪な雰囲気がないだけいいだろう。

 

 

 

「さあ行きましょうか。このメンツで第一学園都市『華雲宮城』へ」

 

「……カッコつけてるところで悪いんですけど、航空機が取れるのは後日っすよ」

 

「…………ひとまず解散ねっ!」

 

 

 

 ……多少の不安は残るが、とりあえずはこのチームで作戦を果たすことになる。

 第一学園都市『華雲宮城』——。そこにはいったい何があるのか。それはきっと——。

 

 

 

「『華雲宮城』……元々は中国だった場所……」

 

 

 

 バイジュウが一番知りたいに違いない。

 

 




というわけで第六章という名の閑話はこれにて完結です。

サモントンがニャル様が襲撃してから行先のないレン。それとは逆にヴィラクスの記憶共有でミルクの結末を知ったバイジュウ。
二人とも前に進もうと奮起したことで、ようやく外宇宙の存在に自分達関わりに行ける一筋の光明が見えるという再発の章となりました。

本当は第三章と同じように、もっと早く流せればよかったのですが、なぜか女装することになって知識を深めたり、Vroidに手を出して魔女兵器キャラを作ったり、お絵かきの知識を深めたりと創作の幅を広げたら、まあエネルギー管理を間違えた感じになりまして……。単純にマルチタスクを熟ない自分の要領が悪いのが原因です、はい。

そんな感じですが、今現在も執筆は無理がない程度にマイペースに続けております。ついに第一学園都市に触れることになり、初期から構想を練っていたこともあり個人的にはやっと……って感じです、はい。
とはいってもレン達が行ってない第六学園都市や新たに問題を抱えそうなマサダブルク。まだまだお話は続きますので、気長にお付き合いくださいませ。

というわけで次回の更新は『3/1』となります。コロナも一度収束したかと思えば、変異してまた拡散しておりますので、今後とも皆様方の健康と生活が平穏になることを願っております。

では、次章となる第七章【陰陽五行】にてしばしのお別れを。





そしてここまで書いたところで『くぅ疲』を入れるの忘れてました。それでは……くぅ〜〜、疲れましたw。これにて後書きは終わりです!


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第七章 【陰陽五行】
【第七章】の投稿についてお知らせ


 久しぶりの投稿になります。かにみそスープです。

 ご時世は色々とお辛いことになっておりますが、私自身は相変わらず大変能天気に自由気ままに創作活動を行っております。

 

 今回サブタイトルにある通り、次章についてのお知らせになります。

 結論から言いますと、次章『3/1』に投稿予定である【陰陽五行】ですが、親族的な都合により3月頭に引っ越しをする予定となっておりまして、その間はネットや創作環境の問題により投稿するのが『4/1』になります。申し訳ございません。

 

 別に身内に不幸があったわけじゃないです。あるのは叔母が認知症で老人ホームにいるくらいで、兄も姉も親も甥っ子も姪っ子も従兄弟とかも血族自体は皆元気です。半分ぐらいはタバコは吸っているし、酒も飲んでるけど、それでも大変健康です。なんでだろうね。

 

 まあ、つまりはみんなある程度の距離を置いて、すぐに助け助けられの立地になるようにしましょうという配慮ですね。

 叔母が認知症になったことで、親世代もあと七年もすれば六十代に突入。父は兄に小さいながらも自営業を継がせて、次世代や老後について考えないといけない年齢になり、そういう諸々の事情が重なり今回、引っ越しをする予定になりました。

 

 現在審査中であり、まだどこそこに行くと決まったわけではないので、とりあえずは報告だけになりますが、決定されるにしろ落されるにしろ、そんな感じで新居を探すことになるので創作活動に打ち込む頻度が低下してしまいます。

 

 重ね重ねの謝罪になりますが、次回の更新が遅れることに関しては大変申し訳ございません。

 

 それでは私事になりましたが、ご報告を終えさせていただきます。

 今後とも皆さまが、健康的で文化的な生活を送れるご時世になれるよう願っております。

 

 では次章までしばしお待ちを……!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………と思いましたが、これでは投稿の最低文字数である『1000文字』に達してないので、ほんの少し話が続きます。校長の話みたいで大変申し訳ない。

 

 現在、わたくしはSS以外でも色々と創作活動の準備を進めております。

 拙いですがお絵描き、ゲーム配信、バ美肉など色々と並行しており、何故かフォロワーによって女装をするハメになったりと、もう完全におかしな方向性で充実しています。

 

 これらすべては楽しくは熟しているので心配はしないでください。屈辱的でもあるけど大丈夫です。

 

 あと30文字。SSを書くならすぐなのに、報告になると途端に多く感じてしまいますね。

 

 ……というわけで1000文字以上を達成したので、ここで雑談を終えさせていただきます。無駄な文を見ていただき、三度申し訳ないと思います。ここまで謝罪が安いと誠意が感じらないかもしれませんが、本当に申し訳ありません。

 

 

 

 

 それでは、改めて次章までしばしのお待ちを……!!

 



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第1節 ~不即不離~

 世界は『均衡』によって成り立っている。

 

 光があれば、影があるように。

 右があれば、左があるように、

  

 男があれば、女があるように。 

 

 物事にはすべてにおいて『天秤』のようにバランスを保とうする意思がある。

 それは人の意思もあれば、生物の本能でもあれば、世界が予め持たされたプログラムかもしれない。人はその概念的なプログラムとも言える存在を時として『調和』と呼ぶときもある。

 

 何であれ、一つの物事が動くときは単純にそれだけが動く単純な仕組みではない。

 対となる存在や概念も同時に動き出すのが世の常というものだ。人はそれを時として『対価』と呼ぶこともあるほどに。

 

 世界の『均衡』を保つには『調和』が必要であり、『調和』のためには『対価』が伴う。それが世界の根本的な仕組みだ。それは自然から離れた人間社会でも同じと言える。

 

 だからこそ傾いた際の代償が大きければ大きいほどに、天秤もまた大きく動く。そしてその天秤は元の状態に戻そうと何度も何度も秤を右へ左へと動かし、振り子のように揺れ動いた末に止まる。そこまでしてようやく天秤はあるべき姿へと落ち着いていく。

 

 問題はその天秤がどれほどの規模で何を生み出すのか。

 それは良いことも悪いことの両方だ。だからこそ天秤であり、そうでもしなければ均衡は保たれない。世界という物は基本的に等価交換で成り立っているのだから。

 

 しかし、ここでほんの少しだけ微かな疑問が沸くであろう。

 ……それは『天秤そのもの』は均衡として成り立っているのか、という疑問だ。

 

 天秤が世界を測る物だと説明した。だが、そもそもその天秤そのものが『傾いている』のが『正常』という在り方であればどうする? 世界は不平等や不均衡といったアンバランスさこそが『天秤にとっては正しい』ということになってしまう。

 

 そしてそれは仮に天秤自身に意思や思考といった人間的な一面があるとすれば、その歪なあり様に『天秤自身』が気づくことはできるだろうか?

 

 いや、それは知性を持った時点で気づくことはできないだろう.知識とはいわば観測者の都合のいい記憶などを保管するだけの代物だ。自分自身を中心としてしまう人間としての性がある以上、その天秤の傾きは自分自身で気づくのは不可能であろう。人間は根本的な部分を変えることができるほど器用な生命ではないのだから。

 

 だとしたら、その天秤のあり様を指摘するには、そこには天秤そのものを観測する『絶対的な存在』がいないと成り立ちはしないだろう。

 

 そもそも『光』とは『闇』という概念を誰が決めた。

 正しければ『光』なのか『正義』なのか。そんなことは歪な天秤が決めることなどできはしない。

 

 

 

 ならば、そこには。

 

 

 

 必ずあらゆることをしても『光』や『闇』などの概念にさえ傾くことさえない『絶対的な存在』がいるに違いないだろう。

 



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第2節 ~有备无患~

 引っ越しのゴタゴタがまだ続いてるのと、エルデンリングをトロコンまでやり込んでいたせいでストックが全然溜まっておりません。ですので、毎度のことですが週一での投稿になります。大変申し訳ありません。

 それと現在、実は執筆意欲が少しばかり低下しております。
 理由は飽きたとかではなく、現在の世界的情勢が原因だったりします。これでも結構、拙いなりに設定を広げたり掘ったりしておりまして……十章前後の舞台にも向けて執筆中だったりします。

 しかし、この十章前後が曲者なのです。少しネタバレになりますが、何故なら予定では九章ではマサダブルクで『国内戦争』を取り扱い、十章や十一章で『バイコヌール宇宙基地』に関連する『ロシア』そのものを扱わないといけないのですね。

 果たして現在の世界情勢的にそんなものを扱っていいのか。
 ハーメルンの利用規約にもそういう世論などに関しては基本的にグレーゾーンと扱っていて、私の手にはどうしても有り余ってしまうのです。

 ですから頭を少しばかりウンウンうねりながら悩んでおり、まだまだ先の話ではありますが、そういう事情により少なくとも『ストーリー本編』に関しては更新が止む無く停滞してしまう可能性があるのです。

 とりあえずは八章までは絶対に扱うことだけは言っておきますので、それまでの間は世界情勢にも目を向けつつ、この二次小説にお付き合いくださいませ。


 馬鹿と煙は高いところに登る——。という言葉があるの知ってるだろうか。

 

 とどのつまり、要約すれば『調子に乗る』という意味合いが大きい。

 調子という物は何も個人の感覚によって測れる物ではない。時としては場の空気に呑まれて感化されてしまうこともある。祭りとかで財布の紐が緩むのと似たように、人というのは適用するが故に、どんな賢者であろうとも愚者になることもあるということだ。

 

 

 

「あらあら! これが『華雲宮城』名物のフォーチュンクッキーねっ! 恋しそうな味がしそうだわ~~!」

 

「おっ、これが例の白酒(バイジュウ)という酒か! 名前とは裏腹に水みたいに透明じゃのう!」

 

「なんかパチモンなのか、モノホンなのかよく分からない物がありますわね……」

 

「へ~~。これが中華風メイド服なのですね……」

 

 

 

 ……まあその何が言いたいかといえば、現在進行形で俺達はその愚か者になっているわけだ。

 

 

 

「来て早々に観光気分が四人いるんだけどっ! どう思う、バイジュウ!?」

 

「はひ? ははひひほほほひはふ」(はい? まあいいとおもいます)

 

「当のバイジュウが一番気が抜けた状況になってる!?」

 

「んっ……。故郷の味って意外と変わらない物ですね、安心しました」

 

「今食ってるの何?」

 

「鳥の血を使ったデザートです。プニプニとしてて癖になりますよ?」

 

「大変猟奇的だ……」

 

 長いフライトを終えてバイジュウ、ファビオラ、ソヤ、ギン、俺、そして指揮官としてのクラウディアは今回の目的地となる第一学園都市『華雲宮城』へと到着していた。

 

 新豊州、マサダブルク、サモントン、ニューモリダスと並ぶ六大学園都市の一つ。冠する数字は『一』を持つのが華雲宮城という場所だ。

 地上からは決して渡ることができない断崖絶壁の空の孤島。航空機でも使わなければ渡ることもできず、渡るにしても第一学園都市の政府からの認可が下りなければ踏み入れることさえできない。他者に関わることを極限までに削ぎ落とし、その傲慢さが形となって階級主義が根付く閉鎖的な国。それが華雲宮城だ。

 

「そこの旅行者! 一つで一万のトラッキング対策もあれば電気代節約効果もあるケーブルタップ! 今なら三つで五千ポッキリの特売だよっ! お買い得だよ~~!!」

 

「それ劣悪品の上に売り文句も嘘っぱちでしょうが。水晶の占い、星座の巡り、手相の形……そしてスーパーの特売商品を見聞きしたクラウディアの目を誤魔化すことはできないわよ」

 

「最後のだけで養った観察眼だ……」

 

 マリル曰く「馬鹿は高いところに登る、というがあそこは筋金入りだ」と溢すぐらいにはお高く纏まった場所とのことであるが……実際に目にしてみると、意外と商魂逞しい市場という印象が強い。

 空港の入り口を出れば、来客の金銭を搾り取ろうと言わんばかりに並ぶ簡易的な設置された商店の数々。イメージとしては七夕や大晦日に蔓延る露店の並びを想像してもらえば分かりやすいだろう。先ほどクラウディアが相手をしてる店のように、中には粗悪品を売るような悪徳商法もあるが、そんなのは全体で見れば多く見積もっても一割くらいだ。基本的には値段に恥じない良質な品物を提供してくれている。

 

 実際に俺とファビオラを除く全員が店で何かを購入済みとなっており、クラウディアの手には謎のインテリアから菓子類、ソヤの手には使用用途不明の雑貨の数々、ギンの手にはバラエティ豊かな酒類の数々、バイジュウの手には見覚えのないご当地グルメ感が満載となっていて皆でシェアして口にしている。

 

「おぉ……! これが三千年の歴史が詰まってると言われる料理本……っ! これさえあれば一層料理に生じすることも……」

 

 なおそのファビオラも目移りしていて、その手にある料理本を購入しようとかと目が泳いでいる。だけどまずファビオラはレシピ本通りに作るところから頑張ってほしい。一度調理工程を見てみたが、斜め読みした挙句なんで記載されていない部分を加えてしまうのか。それが原因だと言っても反省してくれないので、きっとスクルドもあの人懐っこい笑顔の裏で苦労していたに違いない。

 

 ちなみに俺自身も結構購買意欲を駆られているが、残念ながら今現在の俺は借金娘の身。こんな風に大っぴらに銭を投げ捨てられるほど財布が豊かではないのだ。季節は春を迎えても、俺の財布は常に冬なのが悲しいところ。

 

「うぅ……しかしここは寒いなぁ。まだ春を迎えたばかりだぞ?」

 

「気温は標高が100m上がるたびに約0.6℃下がると言われています。ここ華雲宮城は五岳のうちの一つである中岳『嵩山』に位置しており、その標高は約1440m……。新豊州と比べてら約8℃ほど下がっております」 

 

 なるほどね……。高所特有の耳鳴りには未だに慣れていないし、春先で8℃も下がるとなれば、それは気温だけなら秋頃ぐらいにはなる。俺の服装だってフリルと赤のリボンが目立つ白のワイシャツに紺色のスカートと特に防寒対策もしてない普段着だから手先と足先が冷えてしまって仕方がない。

 

「ショッピング気分もいいけど、ここから先はどうするの? 現地に赴いても情報がないんじゃ動こうにも動けないじゃない。作戦の立案者はレンちゃんとバイジュウなんだから何か目星はあるんでしょうね?」

 

「それは……」

 

 ある程度商売根性が滲み出た道を抜けて、人目のつかないカフェテリアで皆が腰を下ろすと指揮官の立場があるクラウディアはアップルティーを口にしながら疑問をぶつけてきた。

 

 それに対しては申し訳ないことに、俺からは具体的な方針となる部分はない。ただニャルラトホテプがここに潜んでいるかもしれないという考えがあって、そこにバイジュウの考えも相乗したことで今の状況になっている。だから俺には口にできるような作戦などはなく、乾いた笑いを浮かべながら視線でバイジュウに救いを求めるしかなかった。

 

 その視線にバイジュウはすぐに気づくと「しょうがないですね」と言わんばかりに、一度目を細めて肩の力を抜くと、クラウディアに真剣な眼差しを向けながら静かながらもやけに響く声で告げた。

 

「……私はフリーメイソンの支部を探すことを第一としています。そこにミルクが残したデータのコピーが残っている可能性があります。そこには『異質物』や『魔導書』に対しての観点が覆るような重要な情報があるに違いないです」

 

「多少私情と都合が偏った情報ではあるけど一利あるわね。指揮官として鵜呑みにするわけにはいかないけど、そもそも『OS事件』での発端がフリーメイソンが絡んでいる……。終わった事件ではある物の、そもそも事件の発端となった『異質物』のすべてが『どういう意図があって運び入れた』のかまで把握していない……。それを把握するためにもフリーメイソン自体を調べることは悪いことではないわね」

 

 今までのショッピング気分は何だったのか、バイジュウの意見を組み入れながらもクラウディアは最年長に恥じない落ち着きながらも客観的な意見を述べた。

 

「他には意見がないかしら?」

 

「私からは何も。まだ情報もあった物じゃないし、華雲宮城についても詳しくないもの」

 

「爺にそういう小難しい話はできん」

 

「何もありませんわ。そういう部分に関しては私は力不足ですので……クラウディアさんに一任しますわ」

 

 俺も同意見だ。そのことを口にするとクラウディアはアップルティーを一気に飲み干して「じゃあ、そういう方針で動きましょうか」と言って、いつの間にか手に入れていた華雲宮城の地図を開き始め、各自に方位磁石や電池式の腕時計などを手渡し始めた。

 

「それいつ買ったの!?」

 

「さっき巡っていた時によ。学園都市って名称だけど、基本的に華雲宮城は山岳地帯で電波が届きにくいから端末での連絡は安定性がなくてご法度。当然衛星頼りの方角もあてにしにくいし、電波時計も役に立たない。スマホは高性能で一つで多目的なことを熟せるけどこういう時には使えないから、その場合は原初的な方法が一番安定するの」

 

「そんなことまで既に考えていたなんて……」

 

「いや逆に考えないほうがおかしくない? これでも指揮官なのよ、私?」

  

 すいません、俺は全く考えていませんでした。現代文化に染まりに染まった若人なので、スマホが機能しない生活なんて考えたこともありませんでした。

 そして同じような反応を見せたギンも同じなのであろう。指で頬を搔きながら「あはは」というような口を開けて冷や汗を流している。一応教官という地位だから、俺達とはいくらか立場上だもんね。自分の体たらくに申し訳なく思っているのだろう。

 

「けどこれだと連絡は取れないよね? まさか伝書鳩とか、そういう微妙にオカルトなのに頼るわけ?」

 

「伝書鳩はオカルトじゃないわよ。それはそれとして、そこは『科学』じゃなくて『魔法』の出番よ。みんな、これを受け取って」

 

 そういうとクラウディアは手品の合図でもするかのように、わざとらしく指を一回鳴らすと、これまた手品のようにポンッ! という煙と破裂音と共に俺達の一人一人の前に手鏡が出現した。

 

「それは私の魔術で生成した『連絡ができる鏡』よ。普通に手鏡としても使えるけど、呪文を唱えればビデオ通話のように顔が映って連絡することができるわ」

 

「その呪文って、かの童話で有名なアレだったりします?」

 

「察しがいいわね。ご想像の通り呪文は『鏡よ、鏡』と言って、その次に繋ぎたい相手の名前を言えば大丈夫よ」

 

 そう言ってクラウディアは「こんな風にね」と前置きして呪文と俺の名前を告げると、鏡に映る虚像が俺ではなくクラウディアへと変わる。

 無言で驚くしかない俺にクラウディアは鏡越しで『すごいでしょ』と告げると、俺はまた一つ驚いた表情を見せたのだろう、ここにいる皆が鏡のことには驚きながらも俺に関しては笑いを堪えるように口を塞いでいる。

 

「ちくしょう……。良い玩具扱いされてる……」

 

「あと小さいから大きさは制限されるけど、それを利用すれば私を介せば小さな物を運ぶこともできるわ」

 

 そういうと今度は手鏡からクラウディアの手だけが出てきて、俺に首筋を撫でたり、手を引っ込めるとカップを置いていたコースターを鏡から出したり、クラウディアが取りだした化粧品を取り出しては回収したりと、その自由性を遺憾なく発揮してくれている。……取り出した化粧品の大体にアンチエイジングの文字があったが、それは気にしないようにするとしておこう。

 

「どう、私の鏡を使った魔法は? ちなみに運べるものは鏡面に収まれば長さは問わないわ。100m超えのケーブルでも転送できるわ」

 

「すげぇ……有効範囲はどれぐらいなの?」

 

「う~~ん……詳しくは知らないのよねぇ。新豊州全域は余裕だったけど……」

 

「とりあえずは新豊州の2~3倍の範囲は大丈夫じゃないかしら?」と情報の連結において極めて信頼性のない申告に、多少頭が痛くなりそうだったが、それでも連絡手段がないよりかは遥かに良い。

 

 ……最初にあった時は無神経さや人との距離感に警戒していたが、こうして作戦指揮を任せると機敏に細かい部分に気づいてくれて頼りになる。

 

 それに思い返してみれば、これがSIDの基地でクラウディアが急にワープしてきた理由だということも理解した。あの鏡は全身鏡とまでは行かないが、洗面台とかにある半身まで映す鏡があったから、それぐらいの大きさなら人体さえも運べるということだろう。そう考えるとこの能力の汎用性は非常に高いと言える。自分が魔力を通した鏡さえあれば、その規模に応じてあらゆる物を運ぶことができる。シンプルだからこそ驚異が安易に理解できてしまう。

 

 それは危険物の密入もそうだし、窃盗とかもそうだ。こんな能力を放置してたらクラウディアの周囲は無法地帯になる。それに自分さえも鏡を通せば転移できるのだから、場所を特定するのさえ難しくなる。こんな能力なら最高レベルのセキュリティで保護と監視されるのも当然だし、愛衣が強く出れない理由も頷ける。

 

 ……けれどただの乱暴者でも無法者でもない。

 そういう一面を剥がせば、そのミステリアスさに恥じない聡明さを顔を覗かせる。それに準備の良さもある。腐ってもSIDが認めた……つまりはマリルが認めた現場を任せられる指揮官の一人なのだ。きっと俺が想像もつかないような目線で物事を深く見ていて先手を打っているに違いない。

  

「ただしこれを使う時は神経を結構使うから動きながらとかだとできないのよね。というわけで私は先約したホテルでショッピング番組や昼ドラでも見ながら白雪姫のようにゆっくりしてるから、後は貴方たちに任せるわ~~」

 

 あっ違うわ。ただこの人サボりたいだけだ。サボるのに全力なんだ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 というわけで各自散策することになった。

 

 ここ華雲宮城は特殊な構造をしていて、先ほどバイジュウが言っていたように元々は中国の山脈である『五岳』をXK級異質物を使って地表を操作して五岳を統一。それぞれの山脈に適した都市を建てて、それらを統合した呼び名として『華雲宮城』という学園都市として体制しているのだ。

 そして俺らもそれに準じるように律儀に各自の方向を一人ずつ調査することになった。

 

 バイジュウは東の『泰山』——。

 ファビオラは西の『崋山』——。

 ソヤは南の『衡山』——。

 ギンは北の『恒山』——。

 

 そして俺は中央の『嵩山』を担当しているというわけだ。

 これには理由があるにはあるが、とどのつまり俺が一番弱いうえに野宿する能力もないから、拠点から遠ざけることができないという理由がある。すいません、身体能力と精神性だけは常人なままで。

 

「……まあ、それで簡単に見つかるなら苦労しないよな~~。あっ、これでラスト一枚」

 

「一日目は情報なしでしたわ~~。……っと、レンさんのカードを私が取って自動的にアガリと……」

 

「まあ千里の道も一歩からじゃ。気長にやるしかあるまい。……おっ、これでアガリじゃ」

 

「ッ~~~~!! ババ抜きでしたら匂いに頼れば負けませんのに~~!!」

 

「だからジジ抜きにしてるんだよっ!」

 

 散策して半日。俺はクラウディアが取っていたホテルの一室でギン、ソヤと共にジジ抜きをしながら経過報告をしていた。とはいっても本日は収穫なしであり、それはバイジュウとファビオラも同じだ。

 今頃二人ともクラウディアと誘われて銭湯にでも行って親睦を深めているだろう。最近性自認が曖昧な所はあるが、俺は男だから最低限はそういう同行を拒否しておきたい。

 

「さあ次のゲームですわっ! 今度こそ負けはしませんわよっ!」

 

「ならば百人一首じゃ」

 

「賛成。霧夕さんのところである程度覚えてるし」

 

「和歌は知りませんわ~~!!」

 

 こういう時くらいはソヤ相手でも勝っておきたいからね。意外とソヤは心理面が絡みにくい勝負なら苦手ということも分かったし、ここらへんで俺だってゲームぐらいは強いということを思い出して貰わなければ。これでも男の時はあるFPSゲームでランキング入りしてたからね。

 

 そんな感じで俺達の時間は平和に過ぎていく。

 けれど少し思うところはある。ミルクを追って来たバイジュウについてだ。

 

 作戦前から明るく見せていたが……どうもどこか空回りしてるような感じがあって仕方がなかった。きっと記憶の世界で精神的に深い傷を負うような出来事があったに違いない。それぐらい俺だって分かるくらいにはバイジュウの明るさはほんの少しだけ空回りしていた。

 

 そんなバイジュウの内面が……ほんの少しだけ気がかりでしょうがなかった。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「バイジュウの肌はモチモチね~~♪ 本当に三十路なのかしら~~?」

 

「どこ触ってるんですかっ!?」

 

「ここの背筋とか特に無駄がない……」

 

「指でなぞらないでくださいっ!」

 

「はは、アンタも大変だね~~」

 

「ファビオラもメガネを外せば柔らかいラインの眉毛が見えていいじゃない♪」

 

「……そんなに顔をマジマジと見ないでもらえます?」

 

 そのころ一方、レンの心配とは裏腹にクラウディア、バイジュウ、ファビオラの三人はホテルに備え付けられている銭湯で仲良く裸の付き合いをしていた。とはいってもクラウディアが一方的に絡んでくるという飲み会で酔った面倒くさい上司という感じではあるのだが。

 

「というか見た感じ伊達よね。なんでしてるかしら?」

 

「属性って盛れるだけ盛ったほうが萌えますからね。メガネ、ツーサイドアップ、メイド、重火器!」

 

「濃厚コッテリ油マシマシって感じで私はキツイかな……」

 

「それ貴方が言えた義理です?」

 

 バイジュウは内心「料理下手も所謂萌え属性なのでは?」と思いながらも口に出さず、湯船に漬かり続けて成長して二人の会話を聞き続ける。

 

「それはそれとして……貴方には改めて感謝を言っておきます」

 

「う~~ん? 何のことかしら?」

 

「傍若無人な振る舞いで誤魔化してますけど、私は忘れていませんよ。貴方が『時止めの魔女』ということ。それで今もスクルドお嬢様を守っていてくれていることを」

 

 それはバイジュウも知っていることの一つだ。

 スクルドはニューモリダスの一件でほぼ死亡同然ながらも危篤状態という形でSIDの医療施設で厳重に管理されている。その命を繋いでいるのは最新の医療設備による影響もあるが、実際のところとしては『時止めの魔女』--つまりはクラウディアによる魔法による延命処置のほうが割合としては大きいことは知っている。そしてその『魔法』に対する異様さに関しても。

 

「生物の時を止めて長い間『維持』するなんて並大抵の魔法ではありません。私が知る限り、最高峰の魔法で間違いない……。それなのに鏡を使った汎用性の高い魔法も使える……。貴方はいったいその能力を使うのに『狂気』に染めているのでしょうか?」

 

「……何の事かしら」

 

 ファビオラからの重苦しい雰囲気の一言にクラウディアは一転して雰囲気を変える。

 

 それは『ドール』などに見られる『狂気』でも、『魔女』だけが持つ独特の人間離れした一面でもない。まさに童話や物語に出てくる『魔女』というべき深淵を測れぬ底なしのミステリアスさがクラウディアが漂う。あらゆることを許容する寛容さと、一言でも間違えればその場所で斬首刑でもされそうな得体のしれない二面性の融合した雰囲気。それが突如として温かいはずの銭湯の空気を凍らせたのだ。

 

「魔法とは『狂気』と表裏一体の危うい力。サモントンでラファエルが暴走して『風の魔法』を極限まで高めることでプラズマを発生させたように、魔法という物は強くなればなるほど同時に『情報』が増えて魔女を狂気へと染めていく……。それは個人差があることは重々承知ではあるのですが……貴方のそれは個人で持つには強大すぎる気がしてならないのです」

 

「きっとそれは」とファビオラは一言置くと、少しだけバイジュウを一瞥して告げる。

 

「私には想像がつかない経験をしたのではないでしょうか? それこそ普通の目線では想像もつかないような……」

 

「……どうでしょうね。少なくともスクルドみたいな能力は私は持ってないわよ」

 

 それだけ告げるとクラウディアは口を塞ぐ。その言葉を聞いてバイジュウは「?」と疑問符を表情に見せるが、ファビオラにとって重要な意味があった。

 ファビオラにとってスクルドの『未来予知』という能力は大事なことだ。スクルドとの強い繋がりでもあり、他社が勝手に土足で踏み込んでいいものではない。それをクラウディアはどこかから知って踏み込んできた。

 それは安易に「お互いにそれ以上踏み込まないようにしましょう」と言ってることを察せないファビオラではない。多少不満を持ちながらも最初に自分が足を入れたことを反省しながら「そうですか」と言って一度話を終える。

 

「ならば話を変えましょうか。貴方飄々としてが準備がいいわよね」

 

「手鏡とかの諸々の事? あれは指揮官として最低限のことで……」

 

「それだけじゃないわよ。バイジュウが教えてくれたのよ」

 

「バイジュウが?」とクラウディアが疑問に思うと、ファビオラは「直接アンタが言いなさい」とバイジュウに告げる。

 バイジュウは「そこの部分を私が言う必要あるのかなぁ」と内心思いながらも、しばし時間を置くと「ええ」と肯定しながら話し始めた。

 

「露店巡りしていた時に気づいていました。貴方の『魂』には『楽しむ』というより『探る』という気持ちが大きく揺らいでいたことを。恐らく臭いで感情を理解できるソヤさんもそれには気づいていると思います」

 

「何そのスピリチュアルな感覚。鵜呑みにするといつか足元救われるわよ?」

 

「ですから貴方が用事を済ませてる間に宿泊部屋からフロア階層のすべてを調べました。どの『鏡』にも魔力を通していて、いつ何があってもホテルから行き来できるように準備している。それに買った雑貨のインテリアにも『鏡』があって、それを粉々にして華雲宮城のあらゆる場所に仕込んでもいましたよね? 私達が四方に散らばっている間に……」

 

「いついかなる時でも一般人から重臣までの話を聞き逃さないために」とバイジュウが言うと、クラウディアはその長い明るい黒髪を掻き毟ると「そういうことは気づかなくていいのに」と溜息交じりに言いながら話を続けた。

 

「聡明なのは噂通りなのね。本当は怠け者扱いのまま任務を終えたかったのに」

 

「なんでわざわざ無能みたいフリをするんですか?」

 

「そりゃ頼りにされたくないからよ。仕事が増えれば自由な時間が減るじゃない?」

 

「本当にそれだけですか?」

 

 バイジュウからの『魂』さえも見通す問いに今度はクラウディアが委縮する。

 嘘なんてついても無意味な能力。だからこそ真実を素直に見通すことができる。

 

「…………本当にそれだけよ。それ以上でもそれ以下でもない。私は極力頼りにされたくないのよ」

 

 ならば偽装された本当のことを言うまで。

 本当でありながら嘘でもある心境を素直に溢し、クラウディアはバイジュウの問いを躱した。



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第3節 〜満漢全席〜

 華雲宮城入国から二日目——。

 

「いやぁ、割高とはいえ朝食バイキングにして正解だったわ~~。気楽に食事を楽しめて朝の時間を有意義に過ごせるわ♪」

 

「割高って言ってるけど、それ全部SIDの経費だろう……」

 

 早朝、俺達は寝間着姿でホテルの朝食バイキングで腹ごなしをしていた。

 宿泊するホテルは立地などの条件もあって、最高級とは決して言えない場所だが、それでもそんじゃそこらの施設よりかは充実している。サモントンの襲撃で家畜などの肉製品は輸入制限が掛かっているか、もしくは5割値上げと経営者にも世帯にも痛いことになっているのに、ここのバイキングは強気にもソーセージの丸焼き、ローストビーフ、ささみの照り焼きなどレパートリー豊富だ。何ならデザートには生ハムメロンもあるほどであり、ご時世のことについて存ぜぬって感じ。

 

「ところでバイジュウは?」

 

「朝食は抜くタイプなんだって。飲み物だけで昼まで持つんだと」

 

 そういうのは珍しくメイド服ではないファビオラだった。

 薄い桃色のナイトガウンを着ており、履いているスリッパはホテルで配布している中の芯まで羽毛で構成されたフカフカ仕様だ。高度の影響で季節外れの寒さを誇る中、さらには早朝という冷え込んだ時間には、ファビオラの格好は見てるだけで温かくなりそうで羨ましい。ちなみに俺は上下共に色気がない男女兼用で使える黒のジャージであり少し肌寒い。

 

「……スープが染みますわぁ」

 

「朝はエレガントに紅茶もいいわよ?」

 

 なおソヤとクラウディアも寝間着で朝食を楽しんでいる。

 ソヤは見た目通りの小食派でバイキングにも関わらずスープとロールパンが二つ。クラウディアは紅茶とサンドイッチにサラダと彩り豊かに揃えてあり、しかもデザートとしてバナナとリンゴも準備済みだ。二人のエンゲル係数の差が如実に出ている。

 

「ここは和風も揃えていて良いのぉ。魚の焼き物、漬物、みそ汁、白米……これこそが明朝の鉄板じゃ」

 

 そんな中、ギンだけはいつもの露出過多な服装で和風料理を誰よりも綺麗な箸捌きで口に運んでいた。揃えているのはギンが口にした通りの朝食の王道であり面白みとかは何もない。だけど問題はそこじゃない。

 なんでギンだけ服装を整えてるのかと言えば、単純明快な話で『この服以外を持ってきてない』と言っていたのだ。寝間着さえも持ってきてないだという。

 

 ……いやまぁ、それはつまりギンは就寝時は裸族ということが判明した。あのハインリッヒと同じように裸族だったのだ。『守護者』同士で裸族である。なんだ、『守護者』ってそういう契約でも結ばれてるのか? 書類上にはない契約的な。

 

 おかげ昨日の夜は散々だった。中身はおっさんでも、見た目だけなら同い年ぐらいの絶世の美少女だ。そんなのが布団を1枚剥げば無防備な姿で生まれ持った姿のまま寝てるのだ。

 あの日以来、性的な事情が似通っているギンと一緒に裸の付き合いはしたが、それでも寝てる状態で裸を見るという体験は一度だってしていない。同居しているアニーとイルカだってそういう無防備すぎる姿は目にしてない。

 その非常識さは自分でもいけないことをしてるんじゃないかと悶々として寝付けなかったほどだ。なんでだろう、眠っている美少女の裸を見るのってこんな背徳的なんだ。中身おっさんでも恥ずかしく感じてしまう自分がいるのが少し嫌になってしまう。

 

「じゃあ今日も張り切って行こう~~。私もホテルの中で頑張れるだけ頑張るからね~~」

 

 ……なんて指揮を執るのはクラウディアだが、正直この人が有能なのかサボり魔なのか未だによく分からないのがちょっと不安。

 けど、足を動かさないと情報がないのも事実だ。今日も今日とて各地に散らばるしかない。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「まあ、それで心機一転して見つかったら苦労しないよなぁ」

 

 とりあえず朝食を済ませ『華雲宮城』での旅行客を装うために、いつもと違う服装に着替えて町の散策を始めることにした。

 肌寒さに応えて急遽用意した服装だ。黒茶色の厚手いタイツを履き、上には上に太腿まで届く茶色のセーターに、さらにその上に黒のコートを着込んでいる状態だ。春にしては厚着であるが、ここの気候を考えれば普通のことであり、現に俺の存在に違和感を視線で追うような市民はほとんどいない。

 

 とはいっても結果は得られずに時間を潰していくだけだ。俺ができることなんて、とりあえず地図上に登録されている建物を虱潰しに調べて表に出てる情報と齟齬がないか確認するくらいだ。

 一応それに合った物件はいくつかあったが、それらは先日商店街で少し見た粗悪品を売るような輩が利用する名前だけの事務所みたいなところだらけで調べるだけ収穫なしの骨折り損だ。これが余計に疲労感を募らせていく。

 

「経過報告~~。こちらレン、中岳では進捗ありませ〜〜ん」

 

『こちらバイジュウ。私のほうでも目ぼしいものは……』

 

『爺からの報告だ。レンとバイジュウと同じで収穫はない』

 

『私のほうにもありませんわ~~。ここは胡散臭さが当然のようにあるせいで、私の鼻でも判断がしづらく……それに単純にここは匂いが強いのも困りますわ』

 

『まあ華雲宮城は元々は『中国』と呼ばれた国を基礎として発展した学園都市。ニューモリダスや新豊州でもお国柄が強い料理や風習があるように、華雲宮城でもそういう部分が強く残っているのでしょうね』

 

『それらはどんなのがありますの?』

 

『それは私よりもバイジュウのほうが詳しいでしょう。20年前とはいえそういう文化が消えることはないだろうし』

 

『それで良ければ説明しますが……』

 

 ……三人とも連続して『それ』で始まる会話が翻訳が下手くそな英語みたいでちょっと笑いそうになったが、真面目な話になりそうなので咳払いと共に笑いを吐き飛ばして静聴するようにしよう。

 

『中国には様々な歴史はありますが、万国共通で現代でも通じる文化といえば間違いなく『料理』になります。小籠包、餃子、炒飯、北京ダック、麻婆豆腐……今でも愛される料理は多々あります』

 

「あれ? ラーメンも中国じゃないの?」

 

『ラーメンという文化自体の発祥は日本ですよ。ただそれは『ラーメン』としての話であり、古くから中国では『麺』というものは全体的に『小麦粉』などを使用した『粉物』を指しているんです』

 

「ラーメンが粉物……? 中華麺とかの名称はあるのに?」

 

『それは『鹹水』を使用したかどうかであり、中華麺とラーメンは全くの別物ですよ』

 

 知らなかった……。今度からラーメン大好きで詳しいとか迂闊に言えない……。

 

『まあ、そんな感じに現代でも色々な料理が伝わって、形を変えて国に適応したラーメンとかが諸々生まれますが……。中国料理には多くの共通点があるんです』

 

「共通点?」

 

『とにかく『油』を多く使用して『香り』が強いのです。どれくらい油を使用するとかいうと……実際に見てみたほうが早いと思いますよ』

 

 そう言われて俺は屋店の一つに遠くから観察してみる。目測としては10mぐらい離れているのに、それでも匂い自体は目の前で提供されているんじゃないかと思うくらいに香ばしい匂いと焼き音が感覚を刺激してくる。

 その刺激的な感覚は食欲を非常にそそり、観察する程度のはずが思わず目を見開いてマジマジと見て……いや視てしまうほどだ。

 

 するとあることに気づいた。気づいたのは料理の調味料がバイジュウの言うとおりに『油』を何種類にも分けて使っているのもあるし、それを際立たせるために香辛料も何種類も使っていて、見るだけで味はシンプルながらも奥深い物になるに違いないと確信できてしまうほどだ。

 

 だけどそれだけじゃない。目で視える情報はそれだけではここまで視線をくぎ付けにしない。何よりも視てしまう理由に関しては、料理人の動きには普段目にしない光景が広がっていたからだ。

 

 料理が踊っている。そう表現するしかないほどに中華鍋を振るう料理人は力強く動きに淀みがない。調理服を着てるから肌が見えるはずなんてないのに、その服の上からでも並大抵ではない圧縮された筋肉の躍動を感じてしまう。それは料理人がどれほど鍋を振るったかを直感させる巧みな動きで、その技術の結晶そのものが料理とは別に観客を魅了する。

 

「カーカッカッカッ! これがオレの『飲めるラー油』を使った炒飯だぁーー!!」

 

「なんだこの炒飯……ッ! 見るだけで口にするのも嫌なほど赤いのに、辛くない……いや辛い……でも旨いッ!? どういうことなんだ!!?」

 

 ……なんか妙にキャラが濃い料理人な気がするが、あいつ別にゲームで言うフラグを成立させるキャラとかじゃないよな? いたって普通の笑い方と口の強さが個性的なだけの料理人なだけだよな?

 

「なんだ、そこの女。見ねぇ顔だが旅行中か? だったら食ってみるか、ここだけしか食べれねぇオレの炒飯を?」

 

 もう言われ慣れてしまった女扱いに、内心で自分自身に嫌気が差しながらも「ぜひ」と一言を伝えてもらって口にしてみる。

 

 …………旨い。確かに旨い。そして辛くないように感じた次の瞬間、辛さを感じるが、それは何というか不思議な感覚だ。舌や喉で感じるのではない。胃の中に入った瞬間、辛みが爆発してその熱気が身体を温かくしてくれる。けどれもすぐに辛みが引いていき、辛さが嫌に残ることは決してない。清涼感すら感じる味と喉越しは、本当に香辛料を口にしてるかと疑ってしまう。まさに『飲める』の名に恥じないラー油の旨さが凝縮された逸品だ。

 

 食べていてここまで美味しいと感じたことはない。それは味だけの問題ではない。

 見た者を虜にする調理。油が撥ねる音がまるで料理人を祝福する拍手のように掻き鳴らし、観客の味への期待を大いに高める。だというのに聞くだけや見ただけでも想像もできない味の奥深さ。口に通せば理解できるのに、逆に言えば口にするまで理解できないワクワクさ。

 

 それらすべてが入り混じったあまりにも奇想天外な調理という過程すらエンターテインメントにする『料理』に俺は度肝を抜かれ、それが未知なる味に昇華しているのが俺でも分かってしまうほどだ。

 

 確かにこれなら口で説明するより、実際に視てみたほうが早い……。

 朝ご飯を食べたはずなのに、炒飯を一瞬で完食させてしまうと俺は料理人に「ご馳走様でした」と伝えて路地裏に戻ってバイジュウと繋がる手鏡を取り出した。

 

『味わった通り、中国の料理には目、匂い、音、味、食感……それらすべてを楽しませるのが基本としてあるんです』

 

「なるほど……。でも、どうしてそんな料理に進化していったの? 二つくらいあれば十分に美味しいと思うけど……」

 

『それこそが中国の思想そのものに深く結びつく『陰陽五行』が関わっていたりします』

 

「『陰陽五行』とはなんでしょうか?」

 

 陰陽はエコエコ動画の黎明期にあった「悪霊退散」が有名なMAD動画で聞いたことはあっても、五行の部分は聞いたことがないぞ。

 

『陰陽五行とは中国から古くから根付いてる思想です。発祥は紀元前にまで遡り『春秋戦国時代』にあったと考えられています。その思想は至極シンプルで『陰陽』は『プラス』と『マイナス』の考え、そして『五行』とは『五属性の力は互いに影響しあう』という考えです』

 

「『陰陽』は磁石とか電池とかで想像できるけど、『五行』に関してはパッと浮かばないな……」

 

『某忍者漫画の火遁、水遁、風遁、雷遁、土遁の相性関係みたいなのを想像していただければいいかと』

 

 あっ、それなら確かにイメージしやすいかも。水と土が合わさって木遁的な。それが『互いに影響しあう』ってことなのかな?

 

『ただこの『五属性』って単純故に色々と解釈がありまして……。ここ華雲宮城が『五岳』を束ねたのも、有名な朱雀、白虎、玄武、青龍、麒麟などもその思想に基づいて誕生したという話もあるほどです』

 

「もはや何でもありだな……」

 

『ええ。そのいい加減さ……いや、この場合は汎用性というべきですね。『五行』とは様々な結びつきを持っています。臓器も肝臓、心臓、肺、腎臓、脾臓となっていて『五行』に当てはめられてます。ほら、五臓六腑って言うでしょう?』

 

 そっか、それを言ったら五感も味覚、嗅覚、触覚、聴覚、視覚と五つあるんだな。それも『五行』と考えることができるのか。

 

『その考えの在り方そのものが『五行』であり、それにも表と裏……つまりはプラスとマイナスがあるという考えが『陰陽五行』ということなのです』

 

「なるほどね……」

 

 と長い間、話を聞いても捜査自体には発展なんてものはない。ただの探索における暇つぶしにでもなればと思って聞いて、実際に時間は潰せたが、それでもフリーメイソンの支社なんて物は全然見つからない。

 もちろんそれが何らかのヒントになって突き止めるなんて漫画やアニメみたいな都合のいいことも起こらない。俺はただ未だに続く『陰陽五行』についての話を聞き続けていた。

 

 曰く陰陽五行には『相克』と『相生』というのもあるとか。五行の属性同士で良い影響と悪い影響を与えるという。例えば木に水を与えれば成長するが、金に水を与えれば錆びるみたいな。あっ、思い返せば某カードゲーム漫画が本格的にカードゲームの路線として移行する前にそれを題材にしたゲームとかもあったっけ。

 

 それに五行の属性は基本は『火、水、木、土、金』となっていること。そしてそれはハインリッヒがよく知る『錬金術』の属性にも密接にかかわっていて、錬金術では『火、水、風、土、エーテル』という五属性が存在していること。

 

 ……そういえば『エーテル』ってあれだよな。シンチェン……じゃなくてスターダスト……でもなくて、その船で回収した異質物の中にいた『星尘』が該当するかもしれない属性とか言っていたな。確かサモントンで回収したデックス博士の研究記録からそう推測していたはず。

 そういえばあの事件でラファエルが触れた宝石も回収自体はしたけど『星尘』みたいに実験してなかったな。それを言ったらハイイーの異質物もそうなんだけど……。それに関してはサモントンからずっと忙しくなっているのと『箱舟基地』がアレンの襲撃でセキュリティの全面的な改修もあってという一面もあるしな……。

 

 ともかく聞けば聞くほどいい加減な思想というか……想像を少しでも広げればドンドン広がる自由性というか……もしかしたら『陰陽五行』の考えにある『根本』ともいうべきところでは、実は俺達が追っているものは近しい縁があるのかもしれない。

 

 デックスだって『魔法』の力に目覚めているのは故人である『ウリエル』も含めて計四人。

 長兄である『ミカエル』と次兄である『ガブリエル』。そして我儘お嬢様こと我らの『ラファエル』だ。

 

 錬金術の思想になるが、順番に『火』『水』『風』となっている。ウリエルは『土』だ。

 これは果たして偶然なのかどうか。もしかしたら『魔女』という存在がそういう物に分類されるのか……と考えたが、思い返せばイルカは『電気』だし、エミリオは『血』と脱線してるし、ギンにいたっては属性かどうかさえ怪しい『刀』だし、ヴィラももはや属性どころか攻撃の種類ですらない『力』だ、筋肉とかそういう方面の。

 

 考えすぎだったかもしれない。やっぱり『陰陽五行』がいい加減なのかも。

 

『そして五行は星にも関係してもいます。先ほど話した『火、水、木、土、金』という五属性は惑星である火星、水星、木星、土星、金星になぞらえているとも言われています。それと方角と星の巡りを合わせた占い……俗に言う占星術や風水などにも密接に関わっています』

 

「もうフリー素材だな……」

 

 そこまで来ると苦笑いしか出てこない。何でもかんでも合わせればいいって物じゃないぞ。カレーとカツ丼は美味しいし、二つを合わせたカツカレーも絶品さ。だけどそこにケーキもぶち込んだら流石にアウトだって誰だって分かる。それくらいヤバい思想だと今更思い始めてきた。

 

「そ~~う~~だ~~よ~~♪ 星と五行思想は深く関係してるんだよ~~♪」

 

「えっ?」

 

 いきなり声を掛けられると同時に誰かとぶつかった衝撃が足に伝わってきた。

 声の感じと衝撃の妙に柔らかい印象からして相手は女の子に違いない。こっちが余所見でもしていてぶつかったのだろうか、だとしたら謝らないといけないな。

 

 そう思って女の子がいるであろう場所に振り返ると、既に女の子は軽く走りながら遠くに向かっていた。

 

 ……なんだった。急にぶつかっては急に走り去っていって。まあでもこうなったら仕方ないか。

 

「バイジュウ、話の続き……」

 

「してほしい」という言葉を続けようとしたが、それが俺の口から出ることはなかった。何故ならバイジュウ達と繋がる手鏡が無くなっていたからだ。

 しかも無くなったのは手鏡だけでない。俺が持っていた所持品を詰めていたポーチもだ。あそこには身分証明から財布に、電波のない環境でもプレイできるゲームとか入っていたのに……!

 

「いったい、どこになくしたんだ!? さっきまで持っていたのに……!」

 

 そう、さっきまで持っていたんだ。あの女の子とぶつかる前まで確かに。だとしたら考えられる可能性は一つしかない。俺は恐る恐る女の子のほうに振り返ると、そこには--。

 

「ここだよぉ~~♪ お姉ちゃんの大事な持ち物♪」

 

 さっきまで俺が持っていたポーチと手鏡が、見せつけるように女の子の手にあった。

 

「……待てぇぇええええええ!!」



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第4節 〜乱七八糟〜

「ほらほら♪ こっちだよ、ついてきて♪」

 

「待てッ! それを返せッ!!」

 

 突如として話しかけられ逃走する少女に、俺は年上とは思えないほど情けない脚力で少女の逃走劇を懸命に追い続ける。けれど少女は身軽で街の小さな道なんてスイスイと抜けて俺の追跡なんて振り払っていく。

 だけど別に俺から逃げるための足じゃない。俺が見失えば、少女は足を止めて俺が追跡できるようになる距離まで待ち続け、俺が距離を詰めたら少女は再び逃げ始める。誘うための追いかけっこは、まるで童話に出てくるアリスのような気分だ。

 

 本当ならあんな少女の後を追うなんて無警戒なことはしたくないんだけど……身分証明となるSID発行のパスポートとかを諸々入ったポーチを取られたらどんな目に合うか想像するだけでも恐ろしい。とりあえずマリルに怒髪天がさらに逆立って怒りの限界を超えてしまうのは確実だ。それに連絡用の手鏡がないと情報共有もできやしない。

 

 走って走って走り続けて。息も整えるのさえ不可能なほどに走り続けて。その果てでついに少女は足を止めた。

 そこは街からは離れた山岳地帯の片隅。追っていて夢中だったせいか、普通ならどうやっても足を運べなさそうな足場の悪い環境もあって神隠しにあったような錯覚に陥ってしまう。

 

 特に驚いたのはこんな辺鄙な場所に建物があったことだ。

 眼前に聳え立つはピラミッドにも似た四角錐の建物だ。建材は石造りであり、頂点の部分は平面となっていて、そこまで登れるように階段が連なっている。

 

「ここだよ。ついてきて」

 

 少女は幼くも凛とした声で建物の頂上から下って中に入っていった。どうやら頂上には下に行けるように別の階段があるようだ。

 多少警戒心が沸いているが、正直あの少女からは危険じゃないと直感的に感じている自分がいる。それは何故だかはよく分からない。一言で言えば既視感というか、デジャブ的な物が脳裏にチラついているのだ。こんなことが前にもあったような……そんな感覚が。

 

 ……いや、もしかしたら今までの経験から来るものかもしれない。

 なにせこれで小さな女の子と出会うのは累計5回目だ。イルカ、スクルド、シンチェン、ハイイーと出会って、そのすべてで本人から害を受けるようなことはなかった。若干成熟してはいるが、もう少し年齢を伸ばせばオーガスタやソヤもそうだ。今まであった少女たちのすべてが友好的で、そういう経験があるから警戒しなくていいと根拠のない自信を持っているのかもしれない。

 

 ともかく考えるだけ大して意味はない。追うか、追わないか。それだけを決めるだけだ。

 悩む時間さえ惜しくて俺はすぐさま建物の頂上に行き、予想通りにあった中に入る階段を下って少女についていく。けどいざ追ってみると本当にアリスの気分どころじゃない。階段の段数が明らかに外観とは釣り合っておわず、一段ずつ降りていくたびに暗闇が深くなっていき同時に不安と焦燥も深くなる。このままだと不思議な国どころか地獄にまで誘われてしまいそうだ。

 

「怖がらないで~~♪ 本当に怖いのはここからだから~~♪」

 

「それを今この状況で言うっ!?」

 

 こっちの心境を察して少女は声を掛けてきたが、本当に怖いのはここからってどういうことだよ!?

 

 ……って思っていたら、ついに光が見えてきた。暗闇の中を照らす一筋の光。まるで『星』のように煌めく様は安心感が沸いて、街灯に惹かれる虫のようにフラフラと向かってしまう。

 

 ……そこで気づいてしまった。この一筋の光は『ある物体』を通して漏れている光だということに。

 

「『門』……なのか?」

 

 その事実に気づいてしまって、一気に心臓が破裂でもしそうなほどに早く脈動する。

 今俺の目の前には光が見えている。世界を割くように縦筋に一つ漏れている光が見えているのだ。

 

 この光景を俺は知っている。それは『天国の門』事件での後始末でソヤを救出しようとした時や、霧守神社での修行でギンが元々持っていたという二刀を触れた時に見えた物と酷似している。いや、これは間違いなく『門』だ。勘違いということは決してない。

 

 だけど同時に確信してもいる。これは『門』ではないと。

 矛盾した言い方ではあるが、そうとしか表現できない。これは『門』でありながら『門』じゃない。そんな不可思議な感覚が俺の中で蠢いている。

 

 ……どんなに考えてもその意味に答えなど見つけることはできない。誰かに相談したいところでもあるが、生憎とその連絡する手段を少女に取られていて相談なんてできない。戻って報告しようにも、夢中で追っていたせいでこの建物がどこにあるのか一切分からないので下手したら戻れない可能性さえある。

 

 であればどうすればいい。俺一人でこの『門』をどうすればいいか考えないといけない。こういう時はSIDの訓練を思い出して冷静になって状況の把握と推測をしないといけない。

 開くにしろ、開かないにしろ、戻るにしろ、戻らないにしろ、そのあらゆる可能性を考慮して最善を選ぶように尽くさないといけない。

 

 ……悩んだ末に俺は『門』を開いた。理由は単純明快。開く以外には無視できないデメリットが多くあったからだ。

 それに華雲宮城に来た理由だって、ミルクの手掛かりを追うのもあるが、行方知らずで姿を晦ましたニャルラトホテプを追うために来たんだ。そのニャルラトホテプと繋がる『ヨグ=ソトース』とさらに繋がる『門』があったら、危険だということを理解しても調べないといけない。俺というかSIDは『星尘』も含めてあまりにも『粗糖中』という概念への理解が少なすぎるのだから。

 

「ようこそジプシー。我が神秘の空間へ」

 

「どっかで聞いたことのあるセリフ……」

 

 意を決して入って第一声がこれだ。少女は何故か円形のテーブルの前で占い師のように俺のことを待っていた。

 

 ……占い師のように、と言ったが形としては結構本格的だ。丸テーブルの上には白のテーブルクロスが引かれており、テーブルクロスには魔法陣を模している。しかもその上には水晶玉とタロットカードが散乱していて、部屋の明かりさえ調整すれば縁日や文化祭などで見る立派な占いの館の完成だ。

 

 …………あれ? でも、これどこかで見た覚えが……?

 

「説明するより結論から言うね」

 

 既視感を覚える空間。何なのか考える暇もなく、少女は今まで見せていた年相応の幼い雰囲気を霧のように消失させると、まるでスクルドのような不思議な視線でこう告げた。

 

「ここは『観星台』で、私は管理者の『グレイス』っていうの。ここでは初めましてかな、レンお兄ちゃん」

 

「えっ……観星台……っ!? それに、お兄ちゃん……っ!?」

 

 いきなりの情報の連続に、俺はただただ驚くしかなかった。

『OS事件』での一件から常に意識されていた『観星台』という存在が突如として出てきたこと。それにラファエルやガブリエル以来に俺の性別を一見で見抜いた少女の得体の知れなさに。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「あーもう! なんでいきなり反応が消えるかなぁ!?」

 

 一方その頃、華雲宮城の中岳都市ではクラウディアがレンの行方を追って走っていた。服装は最低限に済ませ髪も所々乱れているせいで、華雲宮城の住人は思わず視線を追うが、クラウディアはそれを気にもせずに入り組んだ路地裏を掛けてレンの反応が途絶えた場所へとたどり着いた。

 

「フィールドワークは大の苦手だっていうのに……」

 

『ですがレンさんの後を追えるんですか? ドラマみたいに明確な証言や痕跡があることなんて稀ですし……』

 

「こういう時は私の魔法を使うだけよ♪」

 

 手鏡から聞こえるバイジュウにクラウディアは返事をすると、懐から一つの物を得意気に取り出した。

 それは『パン』だ。正確に言うならば、パンといってもハードブレッド。つまり『クラッカー』と呼ばれる分類の物だ。

 それをクラウディアは祈るように力を入れて粉々にすると鳩にエサでも撒くように空に放り投げて告げた。

 

「ヘンゼル。私に森に誘われし迷い人へと導きなさい」

 

 すると粉々になったクラッカーは組織的な動きを見せる。軍隊アリのように一列を成して空中に浮かび、獲物を定めたように迷いなくある方向を目指して動き始めた。

 

『いったい何をしたんですか……?』

 

「これも私の魔法の一つ。ここにいた人物を自動的に追う魔法よ」

 

『……あなた本当に何種類の魔法があるんですか? 『時止め』『鏡の転送』『パン屑による追跡』……口にすると馬鹿馬鹿しい感じはありますが、やっぱり余りにも……』

 

「……一つよ。ただ応用力と拡張性が半端じゃないだけで」

 

 バイジュウからの質問にただ淡白にクラウディアは答えてクラッカーの後をつけていく。

 

「しかし私の『鏡』でも場所を追えないなんて一体どこにいるのかしら、レンちゃんは。華雲宮城のいる限りは探知できるはずなのに……」

 

『……なら心当たりというか、消えたことについて少し思うところがある』

 

 その疑問に答えたのはギンだった。いつものどこか飄々とした態度はどこへやら、本来の年齢である老人に相違ない厳格な態度と威厳を持った言葉で話を続けた。

 

『実はバイジュウの話を聞いてた時からふと気になった部分があっての。『陰陽五行』についてなんじゃが……』

 

『はい、陰陽五行についてどうしましたか?』

 

『お前は『五行』のことは詳しく教えてくれた。だが『陰陽』については軽く説明して終えたであろう。本当にそれだけの存在なのか?』

 

『ええ。陰陽は五行と比べてシンプルですから……。『プラス』と『マイナス』の関係で十分に伝わりますし……』

 

『なら、それは他に例えれば『右』と『左』とかの二つで一つの物ならば該当する概念であることは間違いないのか?』

 

『そうですね。『光』と『闇』とか、『朝』と『夜』とかも陰陽の概念に当てはまりますね』

 

『……ならば『表』と『裏』や、『現実』と『虚空』も当てはまるということでもあるの』

 

 ギンからの意味深な物言いに、バイジュウは頭に疑問符を浮かべて思考に没頭してしまう。老人独特の遠回りした物言いに慣れていないのもあり、どうにもその真意が測りきれずに疑問が解消されることはない。

 

『バイジュウ。お前は霧守神社について知っているか?』

 

『データ上のことでなら……。レンさんが霧夕さんとアメノウズメと呼ばれる存在に稽古してもらった場所ですよね?』

 

『そうだ。ならばお前もこの単語は目にしたであろう。レンが修行していた『結界迷宮』についてな』

 

『……ああ! つまり『時空移送波動』ってことですか!?』

 

 そこまで話したところで聡明なバイジュウは気づいた。ギンが何を言いたいのかをすべて。

 だが聡明ゆえに話が飛び飛びなってしまい、彼女らを繋ぐクラウディアからすれば内容も理解できずに蚊帳の外という状況だ。当然のようにストレスが溜まり、クラウディアと話に割り込ませろと言わんばかりに大きな咳ばらいを一つして吠えた。

 

「勿体着けずにさっさと話してくれないっ!? 事件は現場で起きてんのよっ! 呑気に話してるんじゃないわよ、この年増のジジババがっ!」

 

『バッ……!? 一応まだ三十路ですよっ!? 正確には三十路後半ですけど……』

 

『儂は霧吟の年齢なら16歳じゃ~~。戸籍上なら20歳じゃ~~』

 

「分かった! 謝るからっ! さっさと本題を話してくれない!?」

 

『つまりじゃ……。レンは今『神隠し』にあってるってことじゃ』

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……ええっと、つまり今俺がいる華雲宮城であって華雲宮城じゃない……。『時空移送波動』に限りなく近い空間にいるってこと? 新豊州にある『結界迷宮』みたいな……」

 

「うん。言い方は『裏』とか『影』とかあるけど……私はあえて『闇の華雲宮城』と言っておくね。レンお兄ちゃんはダークサイドに身を預けてる状態なの」

 

 おっと『闇』の上にダークサイドと来たか。本当に意味があるのか、少し早い中二病的何かなのか。それは今は触れないでおこう。

 

「……何せここは『光』がないからこそ存在できるんだから」

 

 ……決して触れないでおくぞ。誰だって触れられたくない傷口の一つや二つはあるんだからな!

 

「だけど新豊州にある『結界迷宮』とも少し違うんだ。周波数が違うと言えばいいのかな? 同じ電波でも4Gと5Gというか……FMラジオとAMラジオというか……」

 

「……サーバーが違うって意味で捉えていい?」

 

「そうそう! 同じゲームでもサーバーが違うとデータが違うように、ここと結界迷宮もそういう細部が違ってたりするの」

 

 なるほど、納得できるかどうかは置いておいて、とりあえずは理解はできた。

 ここに迷い込んだのもウズメさんの時みたいに、鳥居を出るときの間違えた作法が引き金になるのと同様、少女こと『グレイス』を追う最中でその切っ掛けを踏んでここに誘われたのだろう。つまり本当にアリスしてたってことでもあるんだけど。

 

「まあ、それは分かったけど……なんで俺をここに呼んだの? 君との接点なんてどこにも……」

 

「……あなたが『ヨグ=ソトース』に手を出したから」

 

 あまりにも突然にその名前が出てきて、一瞬呼吸するのを忘れてしまった。

 どうしてこの少女は『ヨグ=ソトース』の名前を知っているのか。何よりもどうしてその名前をいとも簡単に口にできるのか。俺がその名前を口にしようとすると、何か変な感じがして口が絡まって『ヨグなんとか』というのが精一杯だというのに。

 

「『陰陽五行』についてはもうバイジュウから話を聞いてるよね?」

 

 今度はさも当然かのようにグレイスはバイジュウの名を出してきた。驚きの連続ではあるが、このまま驚きっぱなしでは話が進もうにも進まない。一先ずは受け止めて、グレイスとの話に専念するとしよう。

 

「うん、一応それなりには。陰陽はプラスとマイナスで、五行は某忍者漫画みたいな五属性の相性が合って、組み合わせれば木遁とか塵遁が出せるってことくらいは……」

 

「それぐらいの理解があれば安心だってばよ」

 

 ……こっちの漫画に合わせてくれたな。思ってた以上にグレイスはノリがいいのかもしれない。

 

「けれど影響を及ぼしあうのは『五行』だけじゃないのよ。陰陽は二つで一つの関係……天秤の片方が下がれば、もう片方が上がるように、陰陽も互いに影響しあうんだ」

 

「つまりどういうこと? それとこれが、どうやったらヨグなんとかに繋がるの?」

 

「……そこで『五行』が関係してくるんだ」

 

 そこで『五行』が関係してくる? ますます分からなくなってきた。グレイスが言おうとしていることが、全然掴めなくて俺にはチンプンカンプンだ。

 思考停止にも近い迷走を頭の中に繰り広げていると、グレイスは突如として「これを見て」とテーブルの下から箱と一緒にある物を一つだけ取り出した。

 

 俺はそれを見た瞬間に今日何度目かも忘れた衝撃を覚えた。グレイスが取り出したものは『石』だ。だけどただの『石』じゃない。形状は全然違うが、視界に入ってくる存在感と情報からその存在をある物と激しく重なる物だったのだ。

 

「何か分かるよね?」

 

「……それは、シンチェンやハイイーの情報があった『隕石』と同じものだよね?」

 

「そう、これは『火』の隕石。『星尘』『海伊』と同じように『赤羽(チーユ)』の存在が眠るEX級異質物」

 

『赤羽(チーユ)』という名前に、俺は聞き覚えがあった。それはサモントンでの事件でデックス博士の資料にあった一文に記載されていた神格の名前だ。

 

 だけどどうしてここでその名前が出てくるんだ? いや、報告を受けていた時から気になってはいたが、どうしてデックス博士は『星尘』や『海伊』を知ったんだ? 

 データ上での推測を見る限り、その推測に至ったのはラファエルが湖で溺れた日のことだ。ということは一年前とかそんなものじゃない。五年とか六年ぐらい前のはずだろう。SIDがシンチェンを認識したのはマサダブルクの一件であり、そんな前のことでは決してない。

 

 何が何だか分からない。なにか理解の追い付かないことがSIDや俺から離れたところで動いていたのか? それこそウリエルがニャルラトホテプに化けていたように、もっと前から何かが動いていたのか?

 

「ヨグ=ソトースと接触したことで、外宇宙の神格はこぞって動き始めた。そしてその始まりはいつだと思う?」

 

「それは……霧守神社とかじゃないの?」

 

「正しいけど間違ってる。そこ以外にもあるんだ」

 

「なら『天国の門』の時とか?」

 

「それも正しいけど間違ってる。けれど説明しても貴方に伝わるかどうか……」

 

 グレイスは目を伏せて「どう伝えるのがいいんだろう」と悩んでるのが分かるほどに頭を抱える。

 

「……ここはね、観星台は『あらゆる世界と時間から切り離された空間』なの」

 

 やがてグレイスは目を開けて、重苦しく口を開き始めた。

 

「ヨグ=ソトースが動き出したのは、あらゆる事象のすべてに干渉した瞬間。アニーを『時空移送波動』から解放するよりも前……それこそ炎に包まれた新豊州を貴方が見た日も……」

 

「なんで……そのことを知ってるんだ?」 

 

 グレイスから伝わる超常的な視点に俺はただ生唾を吞むことしかできなかった。

 しかも見た目は少女で金髪ときた。どうしてもスクルドのことを思い出してしまい、それがデジャブとなって妙な親近感と既視感を覚えてしまう。

 

 だけど細部が違う。スクルドが『未来』を見ているんだとしたら——。

 

 

 

「だって観星台はあらゆる世界から置き去りにされた場所だもん。だから貴方が何者なのかも、全部知ってるんだ。全部『既に起こった後のこと』だから」

 

 

 

 ——グレイスは『過去』を見ているんだ。



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第5節 〜不知所措〜

「既に起こった後って……どういう?」

 

「言葉通りの意味だよ。レンお兄ちゃんが体験したことは、私からすれば既に知っていたこと。未来予知……と言えばそうかもしれないけど、正確にはそういうものじゃないんだ」

 

 突如として告げられた言葉に、俺は驚くとか呆れてるとか以前に思考が追い付かずにただ情報を整理することしかできなかった。

 グレイスはスクルドと同じように『未来予知』の能力を持っている? かと思えばグレイスが口にしたのは『既に起こった後』と未来予知とは逆で『過去』であると主張するような断言だ。

 

 それが俺にはどうも理解できない。過去を見ているのに未来を見てるような断言。そこの矛盾に言い得て妙な例えというか、自分の中でスッキリできる例えが見えてこなくて、頭の中で渋滞を起こしてしまう。

 

「レンお兄ちゃんが好きなゲームの話で纏めるとね、私の能力はセーブデータをロードをしてるような物なの。ほら、マルチエンディングの方式だとクリア前のデータをロードして、フラグを変えてエンディング内容が変わるみたいな感じ。大筋は変わらないけど細かい部分が……とかそういう風にイメージするといいのかも」

 

「……平行世界を見てたってこと?」

 

 俺は内心もう一人の自分……アレンの言葉を思い出していた。

 ニューモリダスの一件で、アレンは平行世界の存在について口にしていた。だからそういうのは少なからず頭の隅にあった。グレイスは幼いが故にその言葉を知らずに妙に遠回りな例えをしてしまっているだけで、本当は少女が持つのは『平行世界の観測』的なそういう類なんじゃないかと感じた。

 

 だけどその疑問に対してグレイスは「ううん」と頭を一つ横に振って話を再開させる。

 

「それとも微妙に違う。そりゃ確かにゲームに登場する人物はセーブとロードに気づくことは基本的にない。そういうプログラムでも組まない限りはね」

 

「某PCアドベンチャーゲームを指してるな……」

 

「だけどゲームをしてるのは、あくまで『プレイヤー自身』だよね? セーブとロードをしてゲームの登場人物は『出来事そのものをなかった』ことにできるけどプレイヤー自身は『なくなった出来事を観測はできる』……。でもプレイヤー自身はセーブもロードもできないから時間そのものが地続きになってゲームをプレイする。それが普通だよね」

 

「そりゃ普通だよ。当然のことじゃん」

 

「じゃあ、ここから先はその例え話を前提にしてね。もし『私たちがそのゲームの登場人物』だったらどうする?」

 

「……んなアホな」

 

 ……そんなこと考えたことがなかった、とは言えない。

 というか誰だって一度だってそういうことが脳裏に過ったりするだろう。だけど最終的には誰だって『そんなことは絶対にありえない』と考えるのが自然だ。物好きで哲学的な人物でもない限り、そんな発想はものの数秒で思考の隅っこに置いて忘れ去るか、気にもせずに日常を謳歌するに違いない。

 

 だから今更言われても俺は驚きはしない。むしろグレイス自身が子供という見た目だから、どこか生暖かい心情でその話を聞いてしまう。子供もそういう視点を持ったんだろうと思いながら。

 

「うん、その考えと反応は正しいよ。現実的な問題としてレンお兄ちゃん達がゲームの登場人物だなんて私たちの世界から見たら当然あり得ない。……だけど実際はそうじゃないんだ」

 

 だけど不思議と俺はその話に惹かれていた。グレイスが醸し出す雰囲気や口調が、あまりにも子供離れしていて、かつあまりにも確信にも等しい自信を持って俺を見つめていたからだ。

 

「ねぇ。レンお兄ちゃんはもしも致命的なことが起きたら『やり直したい』って思ったことはある?」

 

「そりゃ……」

 

「あるよね。うん、だって実際にあったんだから。その地獄で、確かに願ったように」

 

 俺が口にするよりも早くグレイスは俺の心中を見抜き、研ぎ澄まされたナイフの一刺しのように『ロス・ゴールド』によって『なかったことにされた』はずの地獄の光景を言い当てた。その地獄で俺が願ったことさえも。

 

「誰だってそう思うんだ。間違いや過ちを起こした時、誰だって『こんなことはなかったことにしてほしい』と願ったりする。それが叶う叶わないにしろ……そしてそれは『生命』であれば当然のことだから」

 

「……『生命』であれば?」

 

 妙に尊大な言い方に、俺は意味を感じてしまい聞き返してしまう。普通なら『人間』という風が正しい気がするから。

 

「……うん、『生命』なら当然なんだ。それが……『星』が見てる『願い』なんだから」

 

「……星が見てる?」

 

 突拍子もないセリフに理解がさっきから追いつかない。俺は確かにそこまで頭が良い方ではないけど、それを抜きにしてもグレイスの言葉はそういう次元を一つ二つ飛び越えたような物ばかりで、これに限って言えば聡明なバイジュウやマリルでも頭を抱えるに違いない。

 

「レンお兄ちゃんは体験したことあるよね。都合のいいように道具が揃っていて切り抜けたこと」

 

 そう言われて俺はこれまでの事件のことを追憶していく。特にそれを意識したのは別に事件になったわけではないが、『播磨脳研』でファビオラの記憶に潜った時のことだ。

 あそこでは俺がどうしようか詰まるたびに解決策が手元にあった。俺が使える反動の低いアサルトライフルに、応用力が高いエアロゲルスプレーに、火薬瓶を作るために入っていた……その……アレとか。

 

 ともかく、そういう類の物が必ず手にあった。あの時は記憶の中ということもあり、なんかこう機械側がそういう風にしてたんじゃないかと考えていたが……実際は違っているとグレイスは言いたいのか?

 

「あっ、それに関しては機械側のほうだよ。人が生存を欲する時は、どうしても手立てがないかと走馬灯のように一瞬で模索しようとするから」

 

「……まだ俺に何も言ってないんだけど?」

 

「それぐらい顔見れば分かるよ」

 

 みんなに言われるけど、俺ってそんなに顔に出てるかなぁ!!? 

 

「でもそれは星も一緒なんだ。星が絶命の危機に瀕した時、星だって生命なんだからどうにかしようと生存本能が働く。それがさっき話したゲームのセーブとロードみたいなもので……ごめんね、口で説明しようとするとどうしても難しくなっちゃって」

 

 目を閉じてグレイスは悩む。本人も全貌が把握してない以上、俺だって伝わってることがチグハグだ。

 でも、とりあえずは今聞いてることが無視も無碍もできないことであることに違いないだろう。きっと超常の中でも超常なのだろう。それぐらいは俺にだって分かる。

 

「……とりあえず星そのものが人間のように生きていて、その生存本能か何かでループに近い何かが起きてるってこと?」

 

「そういうこと……かな。正解であり不正解……っていうのも違うかな。多分正解そのものがないんだから」

 

「……って言っても星が生きてるだなんて思えないなぁ」

 

 信じろって言われても無理難題なことだ。学術的な何かの仮説があるとしてもだ。

 だって生きてる以上、自分に得があるように尽くすのが普通だ。好き好んで自分が不利益になることなんてしないだろう。誰だって自分が傷つくのは嫌に決まってるんだから。

 

 その考えで星の視点から見ようとすると違和感しかない。

 何故なら星は『七年戦争』を起こしたし、植物がロクに育たない『黒死病』も起こしてきた。どちらも星にとっては致命的に違いない。どちらも人間だけを殺すというわけでもなく『生命』そのものを根絶するような災厄にも等しい。そんなのが発生したら星だって拒否したいに違いない。人間的な思考や生存本能があるというのなら。

 

 だからグレイスの話は信じようにも信じられなかった。スクルドの時みたいに無条件で信じることができなかった。

 

 それが俺にとってショックだった。俺自身にショックを受けていた。

 それだけ自分が超常に接触して、超常に慣れてしまい、超常を別の視点で見ようと変化していたということだから。それは自分がどれだけ日常から離れているのかを意味しており、嫌でも理解してしまう。

 

「生きてるよ、間違いなく。星どころか……」

 

 そこまで言ってグレイスは言い淀む。別に自信が揺らいだとか感じじゃない。確信してるからこそ、次に続く言葉を吐いてしまう意味に躊躇してるんだ。

 

「…………これだけはまだ教えちゃいけないね。貴方達の誰もが耐えうるSanityを持っていないから」

 

 子供らしからぬしおらしさで、グレイスは本当に申し訳なさそうに目を伏せながら頭を下げた。

 俺は思わず子供に頭を下げてしまうことに罪悪感を覚えてしまい反射的に「気にしないで」と言って話を続けるように促した。

 

「……ありがとう。ともかく、私はそういう経緯でスクルドに似た能力を持っているんだ。だけど『100%的中』することだけは絶対ないということだけを覚えていて」

 

「別にスクルドだって的中してるわけじゃないんだけどね……」

 

 あまりスクルドの能力については本人との約束もあって口にしたくないが、グレイスが分かっている以上は黙るだけ無駄だ。

 グレイスが極力傷つかないようにフォロー入れつつ俺は一度呼吸と頭の整理をして今自分が何を聞くべきか改めて聞いてみた。

 

「一度難しい話は置いておこう。とりあえずグレイスは俺に何のために近づいたの? 今まで難しい話しかしてなかったから簡単にね」

 

「じゃあ単刀直入に言うね。呼んだ理由は三つ」

 

 グレイスはそういうとおもむろに丸テーブルの下から小さくも厳重に保管された鉄製の箱を取り出した。鍵もついているが複数個あり、それを丁寧に一つずつ開錠すると中から既視感がある『隕石』が姿を見せる。

 

 そう、あの『隕石』は『リーベルステラ号』や『Ocean Spiral』で触れたものと酷似しているのだ。

 

「一つはこの『赤羽』の異質物を渡す必要があったから。今後ニャルラトホテプを追うのに、この『火』の異質物は何よりも役に立つに違いないから」

 

 驚きと戸惑いが渦巻く中、グレイスは優しく俺の両手に『赤羽』と呼んだ『隕石』を握らせてきた。

 触れてみるとその隕石はシンシェンとハイイーの時と比べて仄かに温かい。湯たんぽと言えばいいだろうか。ちょっと手放しにくい温もりというか……懐かしいけど新鮮な安心感が湧いてしまう。

 

 あれだ、母親の温もりに近いというか……言うなれば『お姉ちゃん』的な表現が一番正しい気がする。

 考えてみれば俺は一人っ子だから、こういう感覚を持ったことがないんだな……。イルカやスクルドは妹みたいな物で、シンチェンとハイイーはもっと年齢が低いから姪っ子みたいな感じで、ソヤとかは……なんだろう、癖の強い後輩的な? 

 

 ……ともかくそんな感じであり、こういう感覚を持ったことは今までなかった。歳上であるエミリオとニュクスは本当先輩って感じだし……ラファエルだけはアレだけど。

 

 

 

 ——私のこと、見えてるな?

 

 

 

「うおっ!? 今の声は!?」

 

「それが赤羽だよ。方舟基地やマサダの時のようにすれば今からでも解放できると思うけど……どうする?」

 

 ……俺は少し悩んで首を横に振って、拒否の意思を見せた。

 今ここは新豊州じゃない。しかも突如として赤羽を呼んではマサダのシンチェンの時のように入国許可を持たない者がいるとなると問題になってしまう。呼ぶとしたら新豊州に帰った後のほうが良い。あとそれに声の感じが荒々しくて怖いし。

 

「なら私はそれを尊重しておくね。続いて二つ目。これでレンお兄ちゃんが届く範囲だと五行の力を持つ隕石……デックス博士が『五維介質』と名付けた属性は四つ揃ったよね」

 

「……シンチェン、ハイイー、チーユの三つだけじゃない?」

 

「サモントンでラファエルが触れたのも、その『隕石』の一つだよ。司る属性は『風』で、名前は『蒼穹(ツァンチョン)』。覚えておいてね」

 

 そういえばそうだった。ラファエルが暴走した原因となったのが、あの隕石だったな。今は新豊州で厳重保管されているし、アレンが突撃した件で方舟基地の破棄もしくはセキュリティ見直しとかのゴタゴタでスッカリ忘れていたけど。

 

「で、残るは『地』の属性だけ。これも実は華雲宮城にあるんだ。しかもレンお兄ちゃん達が探してる『フリーメイソン』の組織にね」

 

 それは思いがけない情報だった。生唾を呑んでグレイスの言葉を聞いてしまう。

 

「だけど注意がある。この『地』という属性……レンお兄ちゃんが追ってるニャルラトホテプやヨグ=ソトースが持つ属性でもあるんだ」

 

 自分でも背筋が凍るのが分かった。まさか俺の目的であるニャルラトホテプと、バイジュウが追うフリーメイソンについて深い関わりがあっただなんて。あまりにも都合が良すぎて導かれてるように感じてしまうほどに。

 

「そしてここからが重要なこと。忠告の三つ目は、この隕石を巡って……バイジュウが『ある人物』と会うことになるんだ」

 

『ある人物』とまるで俺でさえも知ってるように口振りだ。今まで俺が知り得た人物の中で、そんなフリーメイソンと関わりがあるやつなんていただろうか。

 

「……誰なんだ、それは?」

 

「それは——」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「お迎えに上がりました、バイジュウ様。ご壮健で何よりです」

 

「……どちら様でしょうか?」

 

 レンとグレイスが話し合う同時刻。

 バイジュウは身なりの整った紳士的な男性という部分以外は特徴が薄い、一種の異様な雰囲気を纏った存在に声を掛けられていた。

 

「わたくし華雲宮城の情報機関『無行の扉』に所属する者であります。名前やコードネームなどは我ら組織には不要な物ではありますが……呼びやすいように今は『朱雀』とでも名乗っておきましょう」

 

 情報機関『無行の扉』——。

 その名称にはバイジュウは聞き覚えがあった。

 

 無行の扉は新豊州のSIDやサモントンのローゼンクロイツと同じように華雲宮城における情報機関の核とも言える存在だ。だがその組織形態は上記二つと大きく違う。

 

 それは少数精鋭の組織ということ。所属に厳しい条件があるSIDや、信仰心が必要なローゼンクロイツでも組織の全体人数として数百人は超えている。そうでもしなければ情報収集なども含め組織が回らないからだ。

 

 だが無行の扉に所属する総人数は『30人』にも満たないことをバイジュウは覚えている。しかも血筋もそうであるが、そのすべてが生抜きのエリート中のエリートだけで構成されているということも。それらすべてが達人を超えた達人とも言われているほどに。

 

 そして——名前は変わってはいるが、バイジュウとミルクが『元々所属していた組織の親的な存在』にあたるということも。

 

「我ら組織はあなたの蘇生を常に待ち望んでおりました。南極基地でSIDで身柄を保護されて以降、貴方は見聞を広げるために世界を渡り歩き……今こうして我ら組織の前に姿を見せてくれた」

 

「いったい何を……?」

 

「影ながら諜報と身辺警護を行うのが無行の扉でございます。貴方の旅の最中、困難はあれど災難などはなかったでしょう?」

 

 そう言われてバイジュウはハッとなって旅路を振り返った。

 確かにバイジュウは目が覚めてから、現代の世界がどうなっているかを知るために世界中を渡り歩いた。

 

 永久凍土と化した雪の大地。火薬の匂いが立ち込む戦争の跡地。『黒死病』によって農作物がまともに育つことなく、飢餓に苦しむ人々の姿をバイジュウはその目と記憶に焼き付け、今ある世界の残酷さを知ってきた。

 

 もちろん悪いことだらけじゃない。学園都市に任命されていないだけで、辛うじて国として機能している国家はいくつもあった。だけど農作物などはサモントンからの輸入頼り、海産物もニューモリダス頼りと非常に歪な形で成り立っており、偏に学園都市とそれ以外の国家という分かりやすい形で国益に影響を及ぼしていた。

 

 しかし、そんな旅路の中でバイジュウは一度でも危機的な状況に瀕したことでもあっただろうか。治安も安定しない学園都市外での出来事で、多少の荒事はあれど危機的な状況にあったことがないのがバイジュウとしての本音だ。

 

 それがもし、目の前の男が仄めかすことが真実というのなら——。

 

 バイジュウは今に至るまでのそのほとんどが『無形の扉』によって監視されていたことを意味している。

 

「だがそんなことは瑣末な事。今こそ我ら華雲宮城は月夜よりも麗しい華であるバイジュウ様を迎え入れたい……それが私があなた様に接触した真の理由です」

 

 嘘なんて何一つない極めて純粋な『魂』を持って朱雀は頭を下げてきた。

 

「話だけでもお聞きください。対価として我らは貴方が欲する物を教えて致します」

 

「……貴方に私が何を求めてるか分かると?」

 

「もちろんです。貴方の友人である『思仪』……いえミルク様の情報。それにフリーメイソンについても我らは握っております」

 

「…………そんなの、私を深く調べれば予測がつくことです」

 

「では、あなたが南極基地で保護されていたのは我が組織による『ある一員』が行ったものだと言ったら?」

 

 バイジュウの心が動揺はさらに大きくなる。バイジュウの身体は南極基地で培養漬けにされて19年もの間、その時を凍らせていた。そしてそれを行なったのは恐らくバイジュウの記憶に映っていた『バイジュウを抱え運んだ誰か』だろう。

 それはつまり記憶で見た誰かについても密接に関わっていることも意味している。そのことを朱雀と名乗る男は暗に仄めかしているのだ。

 

 バイジュウの動揺が続く中、間髪入れずに「それに」と朱雀は言葉を畳みかけていく。

 

「貴方の養父……『ラオジュウ』の死の真相についても教えることができます——」



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第6節 〜独一无二〜

「失礼します。バイジュウ様をお連れいたしました」

 

「うむ、ご苦労だ。飲み物の準備も頼むぞ」

 

 場所は移り、バイジュウは朱雀に連れられて中岳の頂に建つ宮殿の一室へと招き入れられていた。入室すると朱雀は指示通りに手早く飲み物をテーブルの上に置くと「それでは」と軽く会釈をして退室していった。

 

 内装としては目で見ても「うるさい」と感じるほどに黄金や宝石などが散りばめられた額縁や、名のある彫刻師が掘ったであろう器や壺などが置かれており、バイジュウは内心「嫌な趣味だなぁ」と思いながらも無駄に小奇麗に準備された来客用の上質な椅子へと腰を掛けた。

 

 眼前にいるのは髪を短く切りそろえた女性がいた。色としては『金髪』というより『黄金』といったほうが正しいだろう。光輝とも呼べる艶やかな煌めきと、気品と威圧感が溢れる目付きや佇まいもあり『女傑』と言えそうなほどにその雰囲気は、この嫌味ったらしい宮殿の印象を弾き飛ばすほどに神々しかった。

 

「私は無行の扉の代表という立場に置かれているものだ。彼が朱雀なら、私は『麒麟』や『黄龍』……まあ好きなように呼ぶといい。我らの名など貴方様にとってそう大きな価値はないのだから」

 

「では麒麟と呼びましょう。……それで私をここに呼んだ理由とは?」

 

「こちらの要件から先に聞き入れてくれる寛容さに感謝いたします」

 

「それでは」と一呼吸を置くと、麒麟と名付けられた女性は茶を一口飲んで話し始めた。

 

「我々の要件はただ一つ。バイジュウ様、貴方を『宇宙飛行士』の一員として華雲宮城に所属していただきたいのです」

 

「宇宙飛行士……?」

 

 突然の提案にバイジュウはただ困惑するしかなかった。

 それが冗談だと言うならば一笑でもしてお断りすればいいだろう。だけど麒麟の態度は整然としたままで冗談でも面白半分でもない。本心からバイジュウが『宇宙飛行士』になってほしいと口にしているのだ。

 

「ええ。我々……というより華雲宮城の政府は元々『新しい資源』を求めてあらゆる部門の研究を進めていました。それは『七年戦争』が始めるより以前……六大学園都市が設立する異質物研究の黎明期から考えられていたことです。何せ異質物そのものが地球における歴史上において聖人などの遺産もあれば、空白の歴史から突如として出現した物、そして……」

 

「……宇宙から飛来した物もある」

 

「聡明で何よりです、バイジュウ様。異質物の黎明期、各学園都市は突如として出現した異質物を次々と解明を始めた。ある学園都市は純粋なエネルギーとして、ある学園都市は他国に牽制する軍事力として、ある学園都市はオゾン層の破壊など筆頭にした環境問題の解決のために……」

 

 麒麟からの話はすべて実際にあったことだ。黎明期に置ける異質物研究の数々、それらの成功であれば失敗であれ、その成果によって今の辛うじて成立している学園都市を中心とした世界の経営は成り立っているのだ。それを忘れることなんてバイジュウじゃなくても不可能であろう。

 

「そして第一学園都市こと華雲宮城では『新たな異質物の収集』を計画していた。サンプルを増やすことで『人工的に無から異質物を作り出す技術』を確立させようと躍起になったのです」

 

 その計画にバイジュウは興味深く耳を傾けた。もしそれが実現できたとすれば、黎明期からすれば革新的な物であったはずだ。

 

 いや、今現在の科学力でも重宝する技術に間違いない。今ある異質物だって人工的に改良することはできても、その根本を変えることは不可能だ。

 だから学園都市はXK級などEX級などとランク付けして丁重に扱っているのだ。Safe級でも、些細な物であろうとあまりにも貴重な資源だ。ふとした拍子にsafe級でも利用方法次第では大災害にもなり得る可能性を秘めているほどに。

 

 

 

 それこそ——バイジュウは知らないが——。

 レンが目の当たりにした、Safe級なのに世界を変革させた『ロス・ゴールド』のように——。

 

 

 

「ならばサンプルを増やすにはどうすればいいか。地上に飛来した物を回収したところで、技術の革新速度は他と変わるはずがない。そんな平等だの、公平だのと言った進歩に華雲宮城の政治家達は納得すると思いますか?」

 

「ないでしょうね。昔からプライドだけは無駄に一級品でしたから」

 

「ええ。ですから華雲宮城は宇宙開発プロジェクトに手を出した。だが宇宙での有人探索は当時でもそうサンプルは多くない。異質物探索となれば尚更だ。そこで華雲宮城は『先天的に高い適性を持ったある人物』へと目をつけた」

 

 それが自分のことだとバイジュウはすぐさま理解した。何せ一度サモントンでセラエノに邂逅した時に彼女がこう口にしていたのだから。

 

 

 

 

 

 ——お前は観察対象として随分良いな。……その体質は生まれつきか。体温変化が極端に起きていない。となると、どこまでが適応できるのか…….

 

 ——お前、海に潜ったことはあるか? どこまでの深度にいった? どんな条件下だった? ……もし可能性があるならば、お前は特定の条件さえ満たせば『宇宙空間』で生存が許される希少な人類ということだ。正真正銘『進化した人類』ということだ。

 

 

 

 

 

「どうやら自分だとご理解しているようですね。ならば聡明なバイジュウ様ならもう一つの事柄も理解できましょう」

 

「……あの南極基地での探索は……部隊への配属は……私自身の『宇宙飛行士』としての適性を見るテストだったと?」

 

「ええ、その通り。もっともミルク様が残した『情報』に載っていたことについては少々予想外ではありましたが……。逆にあれでバイジュウ様は非常事態では迅速に物事を熟す危機的状況下における判断力も本物だということも確信できました。宇宙飛行士としての適性は十二分にあると」

 

「……そのミルクについての情報は聞かせてもらうことはできますか?」

 

「そういえばそうでしたね。元々アナタ様を呼んだのはそれらを交渉材料にしてましたしね。こちらの用件も終わりましたし、どうぞ答えられる範囲ならお答えしましょう」

 

 ならばとバイジュウは頭の中で情報の整理を始める。

 彼女が今まで言っていたことに嘘偽りはない。それは『魂』を認識できるバイジュウだからこそ確信できるものだ。

 

 故に彼女が嘘をついてもバイジュウには即座にわかる。コーラを振ったら炭酸が噴き出すように、見えすいた結果として。

 だから聞くべきは遠回しではなく直球がバイジュウの情報戦において最も効果的な手段となる。時間も惜しむ立場もあってバイジュウはそうして脳内の整理を終えると、自分用に差し出された飲み物を一口だけ通して喉を潤して告げる。

 

「ミルクの情報について、貴方はいかにも深く知ってるという雰囲気がありました。だとしたら無形の扉はフリーメイソンの支社を知っているということですよね?」

 

「ええ。バイジュウ様の予想通りに我々はフリーメイソンの場所を知っていますよ」

 

「だったらその場所……もしくはミルクの情報が入ってるデータを提供してください」

 

「可能ですね」

 

 その言葉を聞けてバイジュウは安心してしまう。『魂』を視認できるからこそ麒麟の言葉はこちらを騙そうとする意図がないことを理解し、こちら側に教えようとしているのが分かる。

 

 最初は手がかりなんて物がなくどうしようか前途多難であったが、意外にも日を置かずに情報が手に入りそうだ。

 

 

 

 ——もう少し、もう少しでミルクのことについての手掛かりが掴める。

 

 

 

 期待と興奮。不安と焦燥。

 それら相反する感情が渦巻く中、麒麟が紡ぐ言葉をバイジュウは今か今かと待ち続け——。

 

 

 

「……ここそのものが『フリーメイソン』ですよ」

 

 それはあまりにも突然の告白だった。『魂』に嘘はついてなかった。今の今まで確実に。

 

 だというのに——麒麟の『魂』は瞬きよりも早く塗り変わったのだ。

 

 バイジュウからすれば、それは驚愕という言葉で形容するには生温い衝撃があったのだ。

 

「言いましたよね。こちらの用件は終わったと。ですからこれ以上の話は我々にとってメリットはない。こちらとしては今すぐ貴方様に華雲宮城に戻っていただきたいのですよ」

 

「……興味深くはありますが今は無理です。それにそんな無茶苦茶な要求を提案する余裕のなさも悪印象です。私からは今後何があろうとあなた方と関わる気は……」

 

「ダメなんですよ。事態は一刻の猶予を争う。バイジュウ様の個人的な感情で華雲宮城の意思を無碍にされるなんて……」

 

「ならもっと早くにでも声をかけてくれれば……っ!! それに頼み方だって……!?」

 

「こっちだって急場で動くわけがねぇだろ! サモントンでの出来事があったからこうしてんだ!」

 

 今度は鬼のような覇気を纏う『魂』が風のように瞬間的に姿を見せて消え去った。

 その迫力はとても人間が突発的に起こす怒号では済まされない。まるで器という鍋に、怒りという液体を注ぎ、さらに多種多様の調味料を入れて煮込みに煮込んだようなドロドロとした物だ。確実にその怒りは『怒りだけでは到達し得ない』人としての感情が悪性が浮かんでいた。

 

「……失礼。我々無形の扉は精神汚染の異質物対策として予め『精神を二つにする』ように処置されておりまして……」

 

「二重人格——という意味ですか」

 

「それが一番近い表現ですね、記憶は共有してますけど。ただ細かい経緯とかは省略させていただきますよ。『陰陽』の一環——とでも言えば納得していただけるでしょう」

 

 そこまで聞いてバイジュウはようやく合点がついた。つまり今までバイジュウが『魂』で認識していた麒麟は『陰陽』で言うところの『陽』の部分でしかなく、瞬間的に見せた暴力的な一面こそがバイジュウの能力を欺くことになった『陰』の部分であると。

 

 だとしたら彼女が口にした通り無形の扉が訓練でそういう『陰陽』の人格を使い分けられるとすれば、精神的な部分を関与する能力は軒並みこの組織の前では無力となることを意味している。

 

 それはソヤの『共感覚』もそうであるし、情報を受け取るフィルターが『陰陽』と二つある以上は恐らくは『ミーム汚染』にさえ高い遮断性を持つ可能性がある。

 

「話を戻しましょう。貴方も知っている通り、サモントンの土地は荒れ果てて食料の供給面は大変不安定になっております。それはサモントンの政治における絶対的な強みの欠如に他ならない。今はまだ大丈夫ですが、時が経てば学園都市以外の国家は食料問題で争いが起きるのが目に見えている……それぐらいは誰であろうと想像はできるでしょう」

 

「……そうですね」

 

「それに食料問題というが正確にはエネルギー問題にも関わる。サモントンが栽培する穀物はバイオ燃料として重宝されていますからね。エネルギー供給がなければ、電力などのエネルギー変換で賄っていた資源にも影響が出る。学園都市はXK級異質物を筆頭にエネルギー問題を独自の国で補えるように政策はしているが、学園都市として認められてない国家ではそういうわけにもいかない。ここまではお分かりですね」

 

 バイジュウは無言で頷く。その後に続く言葉も理解していながら。

 

「だが世界を渡り歩いたバイジュウ様ならお分かりでしょう。残念ながら現在の地球は『ほとんどの資源を取り尽くした』と言っていい。もちろん地中や海中に眠る潜在的な資源とかの話ではありませんよ?」

 

「ええ。単純に『地球上における純正的な資源』は研究を終えたという意味でしょう」

 

「その通り。資源はまだまだ残っていようと、地球上すべての人類を賄うには百年ほどだ。『七年戦争』で人口が激減したというのに……。学園都市だけに限定すれば千年以上も猶予はありますが……もうこの地球上には『人類の未来的な希望』なんてものはとうに枯れ果ててしまったのだよ」

 

「……だからこそ先がない学園都市以外の国家は慢性的で目の前にある希望に縋るしかなかった。明日に繋がる食料……『サモントン』だけが人類が唯一希望を共有できる象徴だったから」

 

「退廃的な物ですがねぇ。ですがそれは今は崩れ去ろうとしている、先の一件によって。ならば人類には新しい『希望』が必要なんですよ」

 

「それが……宇宙開拓だと?」

 

「ええ! そしてその象徴にこそバイジュウ様がふさわしいのです!」

 

 狂気的な瞳を持って麒麟はそう答えた。心の底から仕えるべき存在を見出した信仰者のような振る舞いに、バイジュウはその『魂』のありように怖気を感じてしまった。

 

 

 

 ——こいつ、人としての悪性を極めていると。

 

 

 

「人々は絶望的な状況にこそ偶像を求める! 良き偶像であれ悪き偶像であれ……!」

 

「ですが華雲宮城に宇宙開拓するような技術はないでしょう」

 

「ところがどっこい。既にその糸筋はあるのですよ」

 

 そういうと麒麟は指を弾いて鳴らすと「失礼します」という言葉と共に朱雀が再び入室してきた。

 

「これは……!?」

 

「ええ。『Ocean Spiral』に移送された隕石型のEX級異質物と類似した隕石ですよ」

 

「……あなた本当にフリーメイソンなのですね」

 

 麒麟が口にした『移送された隕石型のEX級異質物』というSID以外では知る由のない言葉で、バイジュウは『魂』でも理性的な面でも確信した。本当にこの麒麟という人物はフリーメイソンの一員なのだと。

 

「……だとしてもこんな無遠慮な方法で交渉する時点で私からの答えは変わりません。ここがフリーメイソンの領地だというのなら、多少手荒になりますが今ここで……」

 

「でしょうね。ですから、貴方には拒否権も自由意志も放棄させていただきます」

 

「なに、を……っ?」

 

 すると途端にバイジュウは眩暈を覚えた。それを知覚すると同時に足元もおぼつかなくなって膝から身体が床に倒れてしまう。

 呼吸をしようとすると浅くなって肺が苦しい。指を動かそうとすると鉛がついたように重くて仕方がない。

 

 そこでようやくバイジュウは理解した。『毒』を盛られたと——。

 

「貴方は無意識下で警戒を緩める部分があることを自覚していましたか? 普通なら警戒するはずの敵地で貴方は何の警戒もなく飲み物を口にした。そのせいで今貴方は倒れているのです」

 

「……っ」

 

「おっと顔の神経も麻痺してきましたか。ではお見せしましょう」

 

 すると麒麟は本当に可哀想な子供を見るような優して哀れ身を持った瞳でバイジュウが口にしたカップを持ち上げ、その中身を丁寧にバイジュウの視線へと合わせて見せてきた。

 

 その液体の色は白い。白くて仄かに温かみを保ったバイジュウの好んで飲む物。それは——。

 

「ご覧のとおり『ミルク』ですよ、ホットミルク。あなたの親友が持っていたコードネームの由来となる物。貴方はこれを前にすると、無意識に警戒心を緩めてしまう習性がある……お気づきでしたか?」

 

「が……っ!」

 

「まあ貴方からすれば警戒したくありませんよね。親友と同じ名前の飲み物……これを疑ったら、親友さえも疑うような感覚が少しでも抱いてしまう気がする……そんな些細な人間的な部分が貴方の弱点だ」

 

 そういうと麒麟は忌々しい物を見るような目つきでカップに残るミルクを睨みつけ、それをカップごとバイジュウの前へと叩きつけてその中身と破片を散乱とさせた。

 

「ミルクとさえ合わなければ貴方は純粋無垢なままでいられた。人から離れた知識を持ち、人から離れた。すべてが人並みから離れた選ばれた人間だけが歩める道筋があったというのに……っ!」

 

 その瞳には『陰陽』で言うところの『陰』——つまりは『マイナス』という感情を凝縮したものを内包していた。

 そこでバイジュウはようやく気づく。麒麟という存在の『魂』のあり方を。

 

 

 

 ——これはまさか、彼女自身が——。

 

 

 

「貴方の極上の資質を穢したミルクを私は許せない。貴方に人間性を芽生えさせたあの女を許せない。バイジュウ様は華雲宮城にとってこれ以上とない唯一無二の存在……それをあの女は穢した! 腐らせた! たかが成り上がりの秀才なだけなくせにっ!!」

 

「——ッ」

 

 それはバイジュウの逆鱗に触れた。常に冷静であろうとする理性ではどうしようもないほどに心が激ってしまう。

 

 

 

 ミルクが私を穢した——? 腐らせた——?

 

 

 

「そ、れ……以上っ!!」

 

 

 

 そんなわけがない。むしろ逆だ。バイジュウにとってミルクとはかけがえの無い存在だ。

 彼女がいなければバイジュウの人生に色がつくことはなかった。ただただ深海の底で呼吸をするだけの暗くて変化のない生活を送り続けただろう。それが幸せか不幸かも考えることなく漫然と生き続けただろう。

 

 あの笑顔に何度も心が温かくなった。

 あの笑顔に何度も心が和ませてくれた。

 あの笑顔に何度も心が救われた。

 

 

 

 私にとってミルクは——。私の全部なんだ——。

 ミルクがいない世界だなんて、考えられないほどに——。

 

 

 

「それいじょう! 私のミルクを侮辱するなっ!!」

 

 鉄の意思の鋼の強さを持って、バイジュウは無理矢理にでも立ち上がった。

 

 それはセラエノとの戦いで偶然にも得た『環境適応能力』の発露でもある。

 セラエノの『プラネットウィスパー』の影響で強制的に情報の次元を跳ね上げられたバイジュウの生存本能は、それに対応するためにその脳と身体が急速な変化に対応できるようになったのだ。

 

 つまりは即時に宿る『免疫力』——。それがバイジュウを犯す毒をすべて除去したのだ。

 

「それですよ。その烏滸がましい自我……っ! あなたは知識を貪る探求者として、宇宙に行けばよかったのに……っ! あの事件さえなければ……っ! あの女さえバイジュウ様を魅きさえしなければ……っ!!」

 

 二人の意思は激突する。両者共に華雲宮城にとって意思の象徴。

 

 かたや自由意志を持って、自らの意思で華雲宮城の目的に背く。

 かたや集合意識の代表として、華雲宮城の目的を遂行しようとする。

 

「教育してあげましょう。華雲宮城の情報機関『無形の扉』の代表……その肩書きに恥じない実力をっ!!」

 

 

 

 バイジュウは二刀の銃剣。試作機段階である『ラプラスMk-2』を二双として構えながら心の底でどこか感じていた。

 

 この人はどこか、私に似ていると——。



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第7節 〜陰陽失調〜

「『ある人物』って——そんなことが……?」

 

「うん。そしてそれ以上は分からないんだ。ここを最後に世界の記憶が途切れてしまったから」

 

 世界の記憶が途切れた——。そこで俺は過去にマリルから聞いた『二つの話』を思い出していた。

 

 一つは『OS事件』での際、現在は星之海姉妹というVtuberとして現代を活動しているスターダストとオーシャンから聞いたという『宇宙が変わったことで未来が不確定になった』ということ。

 

 もう一つがサモントンでの事件。通称『SD事件』と呼ばれる事件の際、身体拘束をしていたセラエノからやっとの思いで聞き出したという貴重な情報だ。

 なんと同じようにセラエノが『『未来』だけは『不確定』になった』ということを口にしたという。『アカシックレコード』を例えとして、セラエノが持つ本……本人曰く『断章』と呼ばれるものを人として理解できる程度には口にしてくれたとのこと。

 なお、その後にカツ丼が出ないことを知って口を塞いでしまったのだが……なんとまあ面白いけど、組織としては面倒なことこの上ない生命体だとマリルは愚痴を溢していた。

 

 ともかく二人とも『未来』について説明していた。そしてグレイスも同じように『未来』について予測していた。

 

 

 

 そして同じように——未来が分からないという少女がいたことを俺は覚えている。

 

 

 

 そこで俺は思い出す。

 それはスクルドが航空機で口にしていたことだ——。

 

 

 …………

 ……

 

『私、未来が……『見えなくなった』の……』

 

 ……

 …………

 

 

 四人も揃って『未来が分からない』という意味を持つ言葉を、ある時期を境に口にし始めた。そしてその『境』に俺は覚えがあったのだ。

 

 きっとそれは——あの夢で見た——。

 

 

 

 ——今■■この■■を生■抜いて■せよ。

 

 

 

 ダメだ——。思い出そうとすると鉛でもついたかのように頭が重くなって意識が霞んでしまう。

 だけど直感的に理解した。この世界は俺が思っていた以上に根本的に『何か』が少しずつ崩れてしまっているということを。

 

「……私の話はここでお終い。そしてお別れの時間でもある」

 

「お別れ?」

 

 そういうと観星台の光が差し込んできた。それはオーシャンやミルクと会った時の光に近く、世界は少しずつ輪郭を歪ませて別の世界……俺が元々いた世界を幻出し始める。まるでバラエティ番組などでよくあるビフォーアフターの比較を徐々に映し出すように。

 

 分かる。これは確かにお終いだ。

 夢から覚めるのと同じような感覚と同じで、この空間は消えて俺とグレイスはお別れしてしまうんだ。

 

「クラウディアという女性がレンお兄ちゃんを迎えにきてるよ。彼女の力なら、今すぐにでもバイジュウの元に行って力を貸すことができる」

 

「待って! 君にはまだ聞きたいことがあるんだ! 一緒にここから……」

 

「私はここから基本的に出られないんだ。物語の完結させるのは作者と読者が必要なように、世界の観測を成立させるには誰かがここで残っていないといけない。だからここは『闇の華雲宮城』なんだ。光あるところに闇ありってね」

 

「これもある意味では『陰陽』ってことになるけど」とグレイスは浮かび慣れた愛想笑いをこぼした。

 

「でも、俺を招いた時はここから出ていたじゃないか……」

 

「レンお兄ちゃんを招き入れることができたのは微弱な『時空位相波動』の発生に合わせて、無理矢理こっちとあっちの世界を繋げただけだからね。ここでは異質物武器の開発のために頻繁に実験を繰り返してるせいで微弱な時空位相波動がとても発生しやすいから……」

 

「微弱な時空位相波動……?」

 

 おかしい。『時空位相波動』が発生するのは異質物関連で何か起きている時だ。異質物なんてランクはどうあれ手荒に扱うことは許されるはずもなく、最初の『方舟基地』でハインリッヒが眠っていた異質物を触る時でさえも厳重な警備を施されるほどだ。

 

 それを『頻繁』に、しかも『実験を繰り返してる』——?

 

 そんなのあまりにも無警戒というか……華雲宮城は学園都市の一角が崩壊することを恐れていないのか? 下手したら『ロス・ゴールド』のように、ここが地獄に染まるかもしれない可能性を秘めているというのに?

 

 いや——ありえない。無警戒にそんなことをするはずがない。俺でも絶対しないだろう。だとしたら行う理由はただ一つしかない。

 

「……華雲宮城は自国を犠牲にしてでも、完成させたい研究でもあるのか?」

 

 俺の小さな疑問にグレイスが頷いてくれた。

 

「レンお兄ちゃんが思うように華雲宮城は……『陰陽五行』を極めようと異質物の力を利用して禁忌に触れようとしている——」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「っ……!」

 

「舐めてもらっては困りますよ、バイジュウ様。我ら無形の扉が持つ異質物武器、コードネーム『陰陽五行』の名は伊達ではありません」

 

 開戦して早々、バイジュウは自分の身に起こる違和感に膝をついていた。まだ『一度も攻撃を受けていない』というのに、猛烈な吐き気と震えを感じてしまっていた。

 

 視界の色彩が安定しない。自分の手の色が毒々しい緑色に見えたり、死人のような灰色に見えたりと安定しない。

 そして違和感は視覚だけの話ではない。嗅覚も、触覚も、聴覚も、挙句には味覚さえもおかしくなってるのがバイジュウは理解していた。

 鼻腔に届く臭いがカビ臭かったり、アンモニア臭がしたり、硫化水素という名の卵が腐った臭いも漂っている。気品溢れる無形の扉の施設には似つかわしくない臭いが。

 触覚だって銃剣を握る感覚がゴムのように柔く感じるし、聴覚も目の前にいるはずの麒麟の言葉が下と後ろという二方向から聞こえたり、味覚に至っては空気そのものが多種多様に変貌しているように感じて気持ちが悪い。

 

「華雲宮城の開発研究機関が総力を上げて生み出した最高傑作にも等しい試作機。元々は近年増加傾向にある『ドール』に対抗するための武器だったんですがね……マサダブルクの『レッドアラート』と同じように」

 

「『ドール』に対、抗……? だとしたらこれは……?」

 

「まあ結果としては、その効力は『ドール』よりも『魔女』を相手にするほうが向くように改修されてしまいましたが。『五行』とは相互関係を及ぼす世界には不可欠な存在……それが狂わせることができればどうなると思います?」

 

 そこでバイジュウは理解した。麒麟がどのような攻撃をしてきたのかをハッキリと。

 

「今の貴方は五感が狂ってしまっている。聴覚が狂えば平衡感覚を失う。平衡感覚を失えば視覚が狂う。視覚が狂えば……と『五行』とは一つでも欠落すれば、なし崩し的に崩壊するものでもある」

 

「それを引き起こすのがこの異質物武器だ」と麒麟は杖とも剣とも形容し難い花のように開く五つの刃が先端に付いた武器を突きつけた。

 

 これこそがバイジュウに違和感を覚えさせた正体。この異質物武器は麒麟の言葉通り『人の五感を狂わせる』性質を持っている物なのだ。

 

「……確かに異質物武器としてはかなり悪質ですね。普通であれば私にその力になすすべもなくやられてたでしょう……」

 

「ですが」といってバイジュウは銃剣を松葉杖代わりに立ち上がる。そして一度深く息を吸うと、溜息でも吐くかのように思いっきり息を吐き出すと、その顔色は先ほどまでの不調を隠せぬ物から少々爽やかな物へと変わっていた。

 

「その力——。私には対抗できます」

 

 麒麟が放った『陰陽五行』の能力——。それは偶然にもセラエノが放った『プラネットウィスパー』と似たような性質を持った能力だった。

 ならば一度は似たような体験したバイジュウなら対処できる。少なくともそれに応じた戦い方という物を。『SD事件』の詳細についてはSIDとローゼンクロイツ以外には極大な『時空位相波動』によって阻まれたこともあって知る由などないのだから。

 

 五感が役立たないなら情報を遮断し、バイジュウだけが持つ『第六感』を働かせるのみ。それは『魂』を視認するというもう一つの感覚だ——。

 

「素晴らしい……っ! 貴方はここまで成長してるとは……っ!! 生死という『陰陽』さえも超越し『五行』さえも超えた六つ目の感覚を持つとは……っ!!」

 

 バイジュウから麒麟に話すことなどない。一刻も早くこの戦いを終わらせ、ミルクの情報を入手するのが最優先だ。

 だから麒麟が言葉を紡ぐ最中に、銃剣は彼女の急所を鋭く狙った。しかしそれに対応して麒麟も武器を構えて鍔迫り合う。

 だがバイジュウの得物は二つだ。一本で一本を抑えては残る一つの斬撃は止められはしない。すぐさまもう一振りの銃剣を握りなおし、麒麟を無力化するためにも人体にとって致命傷となりうる上腕骨部分へと振り下ろした。

 

 だが続け様の攻撃は届くことはない。麒麟は間接部に仕込んでいる小手に近い役割を持つ防具を行使して足の動きだけでバイジュウの攻撃を受け止める。

 

 ならばとバイジュウは鍔迫り合いを止め、二刀流の手数で押し切ろうと考える。

 相手は『ドール』でも『魔女』でもない。ましてやラファエルのように回復魔法を持ってるわけでもない。一撃でも致命傷を与えれば、それだけに決着がつく。それが人間同士の戦いなのだから。

 

「ぐっ……!?」

 

「武器頼りの三流なら組織の代表なんて務まりませんよ。徒手空拳でも強いのが代々伝わる『中国武術』の真髄——。拳こそ生物が持つ最も原始的な武器なのですよ」

 

 しかしバイジュウの攻撃は届くことなく、むしろ『陰陽五行』を使った棒術にさえ頼ることもなく、その四肢だけで迎撃してきたのだ。

 蛇のように接近し、腕を鞭のようにしなやかに動かし、圧倒的に不利な間合いを容易く掻い潜って一撃はバイジュウの心臓部を見事に捉えて、一瞬にして呼吸器官全般を乱して足元をおぼつかなくさせる。

 

 

 この女、相当に強い——。

 

 

 そう確信できるほどに、その動きと重心の揺らぎに無駄がない。基本的な部分が精鋭されていてギンの片鱗さえ見え隠れするほどであり、単純な身体能力ならバイジュウの上さえ行く。恐らく麒麟は『どんな武器でも巧みに使える』ほどにその武術は卓越されている。

 

 逆に言えば、それは『どんな武器の脆弱性を知っている』ということの裏返しでもある。麒麟の前では二刀流なんてものは児戯にも等しい。

 

 

 

 ——となると残る可能性はバイジュウが持つ能力である『量子弾幕』に頼るしかない。

 

 

 

「では少々手荒になりますが……」

 

 まるで執事が主人に言伝でも口にするかのような優雅さと静けさで、麒麟はバイジュウの間合いへとあまりにも自然に入ってきた。

 本来なら『視界』さえ生きていれば踏み込むことさえ許さない間合い。だが今のバイジュウは五感も狂い、呼吸を乱されて身体が満足に動かない中『魂』を視認する能力で無理矢理に戦闘を行えるようにしてるだけにすぎない。

 

 だからその『魂』の機微が緩やかで反応が遅れてしまった。

 そして気づいた時には遅かった。既に麒麟はバイジュウを背後に立ち、その両腕の関節に『陰陽五行』を物干し竿のように通していた。

 

「がぁぁぁあああああ!!?」

 

 刹那——。

 麒麟は棒術を駆使してバイジュウの両肩を突き上げたのだ。しかも衝撃を逃さないように自らの足でバイジュウの足を踏みつけて固定しながら。

 

 そうなればどうなるかなんて目に見えている。衝撃の逃げ場などなくバイジュウの肩に襲いかかってくる。必然、人体が鳴らしてはいけない関節の音が轟いた。

 

 つまりは『脱臼』だ。バイジュウの両肩の骨は、その関節部が外れて糸が切れた人形のように腕は重力に引かれて項垂れ、力なく左右へと揺れ動き続ける。

 

 これでは手に力など入るはずもなく、銃剣で迎撃をすることができない。今までお世話になっていた『治癒石』はラファエルが療養中ということもあって現在は在庫切れで応急手当てもできない。となればバイジュウが取る手段は一つしかない。

 

「逃がしもしませんよ」

 

「————ァ、ガッ……!?」

 

 しかし麒麟はそれを許すことはない。今度はバイジュウの両足の骨を正確に『脹脛』の部位を巻きこみながら砕いたのだ。

 それは『粉砕骨折』だ。しかも脹脛の部位を内出血させる形でのだ。あっという間に雪のように白くきめ細かやなバイジュウの両足は、見るも痛々しい青痣に染まっていく。毒にも侵されてるんじゃないかと錯覚してしまうほどに。

 

「ぁ……っ!!」

 

 腕も足もボロボロでバイジュウは動くことさえままならない。辛うじて呼吸は行えるが、根本的な問題として『陰陽五行』を無力化できていないのだから空気の味が汚物を飲んでるように錯覚して余計に苦しくなる。

 

 なんでこんな強力無比を何かしらのデメリットもなく扱えるのか——。

 

 それが今バイジュウの中で渦巻く疑問であった。

 そもそも自分がこんな悪条件で戦闘することになったのは、あの異質物武器が原因だ。あれさえなければ視界が狂うこともなく、迂闊に間合いを踏み入れさせて今の状況を引き起こすことはしなかった。

 

 異質物武器は基本的に諸刃の武装だ。マサダが誇る『レッドアラート』が装備している異質物武器『ニュークリアス』もその破壊力は折り紙付きではあるが、周りに与える損害も酷ければ、使い方を間違えれば『レッドアラート』そのものを溶かしてしまう恐れがある物だ。故に『レッドアラート』は他の鉄騎とは違って耐熱装甲が特殊な合金で対策を施すほどに。

 

 だというのに『陰陽五行』にはそれが感じられない。明らかにバイジュウという個人だけを狙っている。だとすればそれだけ規模が小さくすれば、必然的に異質物が放つ効力も些細な物でなければならない。

 それこそ一般的な風邪を引く程度の物ぐらいの効力でなければ説明がつかないほどに『陰陽五行』は異質物武器が持つメリットとデメリットが乖離していた。

 

「さて……ここからが本番でしてね。華雲宮城が開発した異質物武器『陰陽五行』の『人の五感を狂わせる』という部分はあくまで副次的な効果に過ぎません。というか不良品なんですよ、この特性に関しては」

 

「不良、品……!? それだけの力がありながら……?」

 

「だって『制御できない』んですよ、これ。一度起動すれば周囲を巻き込んで五感を狂わせる……それは『自分自身』にもね」

 

 それは衝撃の事実だった。バイジュウの考えを見透かしていたことに驚いていたが、何よりも今の今まで麒麟も五感が狂う効果を受けていたということに。

 

 しかしそんな片鱗など見えはしない。麒麟は誰がどう見ても五体満足の心身健康状態だ。健康診断でもオールA間違いなしの完璧な肉体美は、強がりでも五感が狂っているとは思えない。

 

「なら……どう、して……!?」

 

「この『陰陽五行』はコンピューターでいうウイルスソフトなんですよ。ワクチンかセキュリティプログラムがないと対処不可能です。それはバイジュウ様みたいに超人であろうとも例外ではない。しかし私は偶然にもセキュリティプログラムがあって無力化できてるってわけです」

 

 セキュリティプログラムで無力化している? 言ってることの意味はあるが、そんなのが実際に存在しているとは思えない。

 だってそれが本当だとしたら『異質物を無効化する』という効果を持つ異質物を存在しているということになってしまう。異質物に対抗するには異質物しかないのだから。

 

 いや、そんなことはありえない。そんな力があるのならプライドが高い華雲宮城は今頃六大学園都市という枠組みで満足するわけがない。

 何故なら『XK級異質物』を保持しているからこそ学園都市であり、どんなに偉そうに『XK級』と称されても『異質物』だ。だったら『異質物を無効化する異質物』なんて物があったら華雲宮城が大人しくしてる道理などない。

 

 

 

 だとしたらどうやって無力化しているのか——。

 

 

 

「答えは教えてはあげませんよ。ですがバイジュウ様の頼みです。ヒントくらいはあげましょう」

 

 悪戯な笑みを浮かべて麒麟は倒れ伏すバイジュウに視線を合わせると——。

 

「これは『対人』じゃなくて『魔女』に特化にしていると——」

 

 それだけを伝えて『陰陽五行』を鋒をバイジュウへと突きつけた。

 

「まあ副産物の話はここまで。五感を狂わすのはあくまで『五行』の力。まだ名前の由来であり本質である『陰陽』の力をお見せできていませんから」

 

「『陰陽』の力……?」

 

「もう一度言います、バイジュウ様。我々無形の扉は無益な犠牲は出したくない。今一度我らの要求を呑んでくれませんか?」

 

「お断り、です……!」

 

「……ならしょうがないですね。ならば『陰陽』の力を持って頂戴するまでです」

 

 すると『陰陽五行』は怪しげな光を放ち始める。眼球は光を捉えると、まるでQRコードでも読み込んだかのように頭の中で変な景色がノイズ混じりに浮かんできて、バイジュウは本能的に光から目を逸らした。

 

 

 

 ——この『光』はまずい。何か生存本能を大いに奮い立たせる異様さがある。

 

 

 

「『陰陽』とは様々な対比を形容する言葉です。『朝と夜』『光と闇』『右と左』……数多くの物がありますが、人体に由来する『陰陽』とは何だと思いますか?」

 

 その質問はバイジュウにとって簡単なことであった。何せバイジュウは概念としての『陰陽五行』については知り尽くしているのだから。

 

「まさか……?」

 

「ええ。人体由来の『陰陽』とは即ち『身体と精神』のことです。そして『身体』か『精神』のどちらかを完全に破壊する。これが『陰陽五行』が目指した開発プロセスなんですよ」

 

 身体と精神のどちらかを破壊する——。『狂わせる』のではなく『破壊する』と麒麟はそう口にした。

 

「私たちが欲しいのは、あくまでバイジュウ様の特殊な『身体』だけ。その精神性も目を見張るものがありますが、最悪それは適当な輩の『精神』をバイジュウ様の『身体』に入れてから洗脳やら精神操作やらで矯正すればいいだけのこと。俗に言う『憑依』とか『入れ替わり』が一番近い表現ですかね」

 

「何で……そんな冒涜的な物を……!?」

 

「いや、だってみんな欲しいでしょう。超人的な身体を。超人的な精神を。可能ならば両方を。そして今ならそこら中にそれらが転がっているじゃないですか」

 

「超人がそこら中に……?」

 

「『ドール』や『魔女』のことですよ。発狂と発狂寸前の精神を殺し、魔法によって強化された肉体だけを得て、そこに健康的な精神を入れる……こうすればお手軽にノーリスクで超人を量産できます」

 

 そのためだけに無形の扉は『陰陽五行』を作り出したというのか。あまりにも人間という在り方を否定している。人間の尊厳というものを踏み躙っている。人という存在を軽んじている。

 

「そんなことをして……心が痛まないのですか……!!」

 

「バイジュウ様はお優しいですねぇ。ですが『ドール』や『魔女』に尊重すべき人権なんてあるわけないでしょう。現に貴方達だって相対したらズバズバ倒してるじゃないですか。どうあれ肉体だけは保管する我らと、肉体を殺す貴方がた。どっちのほうがまだ良心的なんでしょうかねぇ」

 

 それを言われたらバイジュウは何も言い返せない。だって真実なのだから。20年前の南極基地の時も、『OS事件』での『マーメイド』の時も、『SD事件』でヴィラクスが呼んでしまったドールの大群も、その全てを仲間を守るために切り伏せてきた。彼女らの命や精神なんか何ら考えずに。

 

「まあ、つまらないお話はここまで。バイジュウ様、あなたの肉体——無形の扉が貰い受けます」

 

 光がますます強くなる。その度に身体と心が遠心分離機にでも掛けられたようにバラバラになりそうになる。

 目を瞑ろうとしても光は瞼を貫いて否が応でもバイジュウの中に侵入してくる。バイジュウの中から精神を押し出そうとしてくるのが理解してしまう。

 

 

 

 嫌だ——。こんなところで、ミルクについて何も分からないまま終わるなんて——。

 

 

 

「がっ——!?」

 

 すると不意に麒麟は誰かの『蹴り』によって光と諸共に吹き飛んでいった。音も気配もなく突然の奇襲はバイジュウでも驚きを隠せず、思わずその蹴りを放った人物を見てみる。

 

 それは和服を着た少女だった。身長は160cmにも満たない小柄な体型。だというのにその腰には身の丈には似合わぬ機械仕掛けの『双刀』が納刀されていた。

 

 

 

 

 

「おい——。ここから先は儂が相手だ、半端者」

 

 

 

 

 

 それはバイジュウの壁となって立ちはだかる『ギン』の姿であった——。



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第8節 〜费尽心机〜

「ギンさん……どうやってここに……?」

 

「クラウディアの『鏡』と『パン』を使ってのぉ。お前からの連絡が途絶えたから急遽追ってきたのじゃ」

 

「ってことは……」

 

「ああ、他のみんなも順次来ておるよ。あとギンさんって呼ぶな。その愛称は妙にこそばゆい」

 

 ——だとしたらまずい。バイジュウの脳裏にそれが過ぎった。

 

 何故なら麒麟が持つ『陰陽五行』は個人ではなく全体に影響を及ぼす異質物武器だ。故に麒麟相手には人数でどうにかなる相手ではない。むしろ増えれば増えるほど悪手になってしまう。『ミイラ取りがミイラになる』という格言が存在するように。

 

 そんなことを武器を扱う本人が理解してないはずがない。麒麟は不意の一撃で溢れた口内の出血を拭うと、無言と無音のまま異質物武器を棍のように扱ってギンへと振るった。

 

「あまり舐めるなよ、小娘ッ!」

 

 だがギンはいつもと変わらぬキレが輝く体術で麒麟の棒術へと対抗した。それにバイジュウは驚きを隠せなかった。

 ギンは『ドール』と『ヨグ=ソトース』などの異星の生命体以外には刀を振るうことは決してない。彼女の刃は鍛錬の末にその全てが一撃必殺。お遊び感覚でも人の命を奪う以上は刀など安易に握れるわけがない。

 

 だからといってギンは刀を握らなければ弱いという意味ではない。むしろその次に強いのが『素手』なのだ。

 一度ギンは教官という立場としてこう口にしたことがある。「素手は最初にして最後の武器だ。決して鍛錬を怠らぬように」と。その意味をエミリオやファビオラを筆頭に軍隊などの武力組織に所属したことのある者は理解した。

 

 戦闘というのは文字通り『戦い』であり『闘い』だ。正々堂々と準備万全に真正面から挑む『試合』とは違って、いつも万全な状態で戦えるというわけではない。銃が使えない、刀が使えない、能力が使えないという場面は大いにあるだろう。

 

 しかし、そんな中でも『素手』なら戦える。確かに得物を使う方が強く戦える場面が多い。だが不安定で極限の状況下になりやすい『戦闘』という只中では、自身の身体が機能するならこれほどまでに安定する武器はない。それをギンは『生前』から悟っていた。刀と共に拳も振るう鍛錬を続けていた。

 

 故にギンの根本的なフィジカルは超人の領域に達している。今は霧吟という少女の肉体であるため生前と比べれば非力にはなった。

 だが素手とは『剛』と『柔』の力がある。それさえ間違えなければ、ギンは例え少女の肉体でも超人相手に引けをとることはない。それをバイジュウはエミリオ共々素手の戦いで完敗したからこそ身を保って知っている。

 

 

 

 だというのに——ギンと麒麟は拮抗したのだ。それだけで麒麟の根本的なフィジカル面での実力が自分よりも遥かに上だということをバイジュウは肌身で感じたのだ。

 

 

 

「……お前もしかして効いてないのか?」

 

「きいてない? 何のことだ?」

 

「ギンさ……教官! 彼女が使う武器はその……一言で言えば体調不良を起こすんです! それも結構ヤバめの!」

 

「忙しいのは分かるが、お前にしては随分と頭悪い言い方だの……。とりあえず病気になるということじゃな」

 

 だって『五行』とか説明したところで長くなるだけだし、とバイジュウは内心思うが、それ以上に疑問に駆られる。いつもの知りたいという研究者としての一面を持つバイジュウの思考が加速する。

 

 何故ギンは麒麟が持つ異質物武器である『陰陽五行』の影響を受けていないのか。

 

「……なるほど。あなた、私と似たような面があるのですね」

 

「何言ってるんだ、お前? あまり舐めてるとそのご自慢の杖だがよく分からんのを壊してやろうかの?」

 

「敬意ですよ、惜しみのない。貴方相手には『陰陽五行』も役に立ちません。むしろ下手に扱ったら破壊されかません」

 

「ならばここは」と『陰陽五行』をバイジュウには届かぬ遠い床まで転がすと、息を整えて構えを取った。

 

「私も武術家の端くれ。同じ徒手空拳でお相手させていただきますよ」

 

 刹那——。二人の拳が混じり合った。

 超人でも目で追った時点で致命傷となる高速の肉弾戦。拳を振るう時には既に回避とカウンターの予備動作に移り、相手の呼吸と共に一撃必倒の攻撃を放つ。

 だがそれは両者共に意識するより以前に身体で覚えていること。直感なのか長年の戦闘経験とも言える勘なのか、二人ともほぼ無意識に近い状態で回避を行なっているのが『魂』を視認してるバイジュウだからこそ分かる。

 

 例えバイジュウが万全であろうとも手を出すことができない領域。その余りにも獰猛でありながら、一種の芸術にも等しい戦いには生唾一つ呑み込むことさえ許されないほどの緊張感が迸っていた。

 二人とも身体能力自体は『魔女』としての恩恵などないはずなのに、放つ一手は明らかにその道を行く達人の域へと軽々と踏み込んでいる。恐らくは人類としては最高水準の闘い。一つでも読み間違えれば一瞬で決着がつくであろう攻防。それほどまでに二人の実力は差がなかった。

 

 だからこそ——バイジュウは不安で仕方がなかった。

 何故なら不確定な要素が介入するだけでその均衡は崩れてしまうことを意味している。

 

 互角の勝負というものは、要は『運』が多大にして大きく絡む。小石を踏んだだの、髪が目に掠っただの、その程度の些細な原因が介入するだけで容易く戦況という天秤は傾く。

 

 麒麟が効かないとは口にしていたが、もしかしたらそれは油断を誘うための方便であり、この瞬間にでも『陰陽五行』の出力でも上げてギンの悪い影響を少しでも与えることがあるとすれば、それだけでギンは瞬きの後には倒れ伏すこともありうるほどに。

 

 だが逆にもあるということだ。少しでも些細な影響を麒麟に与えることができるのであれば、この均衡を崩してギンは麒麟を打倒することができる。

 

 

 

 だというのに——だというのに動けない。

 

 

 

「やるのぉ。その歳でこれほどとは……」

 

「貴方こそ。私と並ぶ武術の持ち主がいるとは……」

 

 五感が狂っていて動けないとか、そういう理由なのではない。『魂』の認識できるからこそバイジュウは二人が心中で何を激らせているかを分かっているからだ。

 

 楽しんでいる——。

 この拳と書いて真剣勝負と読むほどに徒手空拳での戦いを。

 

 だけど最高潮じゃない。二人の闘志はまだ煮えたぎってるだけで、沸騰はしてはいない。お互いに実力の底が見えていないからこそ、その底を知りたいという期待が満ち溢れているのだ。

 

「手加減はできそうにない。この身の未熟さを許せよ」

 

「こちらこそ。あなたほどの相手なら……私が最も得意とする武器を取り出せるというもの」

 

 それが合図となって二人はその手に武器を握った。

 ギンは愛刀となる『天羽々斬』を抜刀できるように構える。そして麒麟は『いったいどこから出てきたのか』と思うほどに長い棒状の武器——即ち『棍』とも言える華雲宮城では伝統的な武器を取り出した。

 

「『棍術』——というものか」

 

「ええ。しかしただの『棍術』では……ありませんがっ!」

 

 瞬間、麒麟が握る棍が『伸びた』——。まるでゴムのように限界など知らぬと言わんばかりに。

 それにギンは一瞬慄くが、それでも激る闘争心が驚きを脳で処理する前に突き動かす。右手を軸に棍の出鱈目な軌道に併せて身を逸らし、左手に持つ短刀で棍をなぞるように滑らせて麒麟本人を狙う。

 

 そうなれば必然、麒麟は深追いをすることはできずに余裕を持って回避行動を移そうとするが、それをギンは逃しはしない。

 瞬時にギンは右手を納刀してる刀の持ち手を握って抜刀の姿勢に移る。ギンにとっては呼吸など瞬きさえも必要ない。納刀と抜刀はギンにとっては同時に起こる神技だ。

 

「——遠かったか」

 

「やりますねぇ……この私が見誤るとは……っ!」

 

 だが僅かにギンの刃は届かなかった。麒麟は棍を伸ばし続け、抜刀の姿勢に移る瞬間の僅かな隙をついて致命傷の間合いから離脱していたのだ。

 しかし、それでも致命傷にならないだけで傷を負わせることはできる。麒麟の背中からは決して浅くはない切り傷がつけられ、そこから血が滲んで高貴である衣服が野蛮な色合いを見せていく。

 

 その攻防の結果は二人共にとって驚きの連続だった。

 

 ギンからすれば『間合い』から離れたことに驚きを隠せなかった。そもそも『抜刀術』というものは近代においては決して強力な戦術ではない。何せ攻撃が届く範囲が刀身の長さに、使用者の踏み込みによるプラス数十センチするくらいしかない。広く見積もっても精々1m半くらいが基本的な限界なのだ。

 だがギンの抜刀術だけは違う。本人の卓越した技術と超人的な身体能力の相乗により、その間合いは最低でも『5m』はあるのだ。それは約15畳の空間があるとすれば、その端から端まで届くという異様な間合い。普通ならそんな間合いから脱出するのは不可能に近いはずなのに、麒麟は傷を負ってでも離脱したのだ。

 

 逆に麒麟は刀も扱えるからこそギンの間合いに広さに驚いていた。ギン自身の技術力のことを考慮しても理性では広く見積もって3m以上離れれば大丈夫だと考えていた。

 だが本能が「例え隙になろうとももっと離れるべきだ」と警鐘を鳴らし、見事にそれが的中した。その認め難い現実に驚きを隠せずにいる。

 

 二人の間に常識で測るだけ無駄という緊張感が漂い、沈黙だけが会話となって呼応する。

 その沈黙そのものが空間の雰囲気に殺意が混じり、バイジュウは思わず呼吸を忘れて酸欠になりかけたところでもがく様に吐いた。

 

「あれが……噂に聞く華雲宮城が誇る国宝級の異質物『斉天大聖の棍棒』……」

 

 それは華雲宮城の異質物について調べれば出てくるSafe級異質物の一つだ。新豊州で『ロス・ゴールド』が消えた時にネットニュースになったように、基本的にSafe級は学園都市全体が既に研究並びに情報の共有を終えたものであり、公共でも閲覧できるものとしてあらゆる面での厳重警備の下に人々の前に姿を見せる。

 

 そのうちの一つが華雲宮城が管理する『斉天大聖の棍棒』だ。効果としてはアレンが奪取した『天命の矛』とは違ってたった一つしかなく『質量を変化させる』という極めてシンプルな物。

 だがそれ故に武器としては強力な一面もある。何故なら質量とは即ち大きさであり、質量を変化できるということは極めて小さくして耳の穴や口の中、あるいは爪の隙間などに保管して持ち歩くことができることを意味している。麒麟が『どこから出した』の謎もこの性質を利用した物だ。

 逆もまた然りであり、相手の体内に入れてから巨大化させることで内部から相手をズタズタにするということも可能だ。もちろん単純に重くして打撃の威力を向上させたり、先ほどの様に『伸ばす』という大きさを変化させる行為で予期せぬ奇襲を仕掛けることも。

 

 そんな変幻自在の棍棒——。そしてそれは『斉天大聖』の名の通り、その棍棒自体は皆がよく知る物でもあるのだ。

 

 

 

『斉天大聖』——それはかの有名な『西遊記』に出てくる『孫悟空』が名乗る地位や称号に近い名称。

 

 

 

 つまり麒麟が持つ『斉天大聖の棍棒』とは、その登場人物が持つ『如意金箍棒』こと『如意棒』のことなのだ——。

 

 

 

(間合いが刀にしては余りにも広い……。接近戦や掴みのほうが好みではあるんですが彼女相手には無謀すぎる……)

 

(あの棒は厄介じゃな……。打ち合いで引けを取ることはないが同時にこちら側も攻めあぐねる……)

 

(しかし間合いの外から如意棒を利用した特殊な棍術をしても、彼女相手には通じるかどうか……下手したら隙を見せることになる)

 

(だがそんなことはアイツなら分かってるはず……。お互いに決め手はあるが、同時にお互いに対応できるからこそ迂闊に踏み込むことができんと……)

 

 

 

 互いの思考が見えない刃となって鍔迫り合う。どうやって相手を出し抜こうかと頭の中で高速でシミュレーションを繰り返すが、不確定要素が両者共にあって攻略する術を具体的に映すことはできない。

 

 だから二人は先の徒手空拳での戦いの様に、得物を用いた戦いでも全力を出さず、しかし相手の出を探れるほどに攻撃を緩めずに振るいあった。

 

 しかしギンにとって大きな気掛かりが一つだけあった。それはバイジュウが口にしていた『陰陽五行』の性質についてだ。

 麒麟の不意をつく直前に、当人が直接口に出していた『陰陽』については実は少しだけ耳にしていた。肉体と精神をどうにかする云々の上辺ぐらいの情報は知っている。

 

 しかし『五行』については『病気』になるということくらいしか分からない。だが、それ自体の警戒をギンは決して怠っていない。怠ることなどできはしない。

 何故ならバイジュウ自身は気付いてないが、ギンからすればバイジュウの状態は骨の関節や脚部の粉砕骨折を見なくて痛々しい症状が顔に出ているのだ。

 まず肌の色がおかしくなってる。ただでさえ白肌で弱々しい印象を与えるというのに、全身の血でも抜かれた様に青ざめているし、呼吸音もさっきからか細くて穴から漏れてるように弱々しさだ。最も痛々しいのは『目』だ。目の白い部分である『結膜』と呼ばれる部分が『青く染まっていた』のだ。死神にでも取り憑かれたのように。

 

 これを目の当たりにしたら例え今現在ギン自身が『陰陽五行』の影響を受けていないといっても、何かをキッカケに感染したらそれだけで終わりだ。ギンはバイジュウと違って五感を頼りに動いてるのだから。

 

 だからカラクリを解きたいのがギンの本音だった。あのバイジュウをここまで満身創痍にする『陰陽五行』のカラクリ——。どういう条件下で『五感を狂わせる』のか——。

 その糸口が分からない限り、ギンは不意打ちや明確な隙以外では抜刀に移せない直中にいた。

 

『ちょっとギン爺さ〜ん? 一つ伺いたいことがあるんだけど〜〜?』

 

「なんじゃ、クラウディア! 今は悠長に話してる余裕などないっ!」

 

『いやね? みんなを集め終えたからバイジュウがいる建物の敷地内に入らせようとしたら、レンちゃん以外はみんなグロッキー状態に……ってバイジュウの顔どうしたのっ!?』

 

 そんな緊張感が漂う中、突如として『鏡』からクラウディアが声をかけてきた。

 

「いえ、私は大丈夫です……」

 

『どう見ても大丈夫じゃないのよ。いったい何が起きてんのよ』

 

「……詳細は省きますが、一言で言えば異質物の力です。それで私もボロボロで、恐らくはレンさん達も……」

 

 そこでバイジュウは言い淀み、先程クラウディアが口にした言葉を思い返す。

 

 

 

《レンちゃん以外はみんなグロッキー状態に……》

 

 

 

 どうしてレンだけが『陰陽五行』の力を受けずにこっちに向かうことができる? と疑問に耽てしまう。

 麒麟がこうも言っていた。「これは『対人』ではなく『魔女』に特化している」と——。

 

 単純に考えるから『陰陽五行』は『魔女』以外には効かない設定にしているというのか。いや、その可能性はない。

 何故ならレンがまだしも、ギンは確実に分類的には『魔女』だ。ハインリッヒと同じ様に『守護者』となったということは一度は『外宇宙』の情報に触れて取り囲まれた証でもあるのだから。『魔女』だけが『陰陽五行』の影響を受けるようにしてるということは考えにくい。

 

 それにレン以外の皆も『敷地内に入らせようとしたら』グロッキー状態になってるともクラウディアは言っていた。

 バイジュウは案内されたからこの建物の間取りを把握している。庭園も含んだ広さとしては十数キロにも及ぶ。『入ろうとしたら』と言っていたのだから、まず間違いなくファビオラ達はその外にいるということになる。

 その分を考えれば今ファビオラ達がいるのは20キロほど離れた場所ということになる——。それだけの範囲にこれほど強力な異質物の効果を放つことができるのか。それはどうにも考えにくい。あまりにも価値が見合ってない。

 

 だとしたら厳しい制約か、それほどの範囲にも届くほどに『大雑把な条件』を当てはめていて、それから外れているのがレンとギンと使用している本人である麒麟ということになる。

 

 ならばこの3人は何かしらの『共通点』があるはずだ。

 この共通点らしい共通点がない3人から、その『大雑把な条件』を探し当てることができるはず。いや、しなければならない。

 

 だとしたら、きっと麒麟から出てきた言葉のどこかにヒントがあるはず——。

 

 

 

 …………

 ……

 

《……失礼。我々無形の扉は精神汚染の異質物対策として予め『精神を二つにする』ように処置されておりまして……》

 

《それが一番近い表現ですね、記憶は共有してますけど。ただ細かい経緯とかは省略させていただきますよ。『陰陽』の一環——とでも言えば納得していただけるでしょう》

 

《まあ結果としては、その効力は『ドール』よりも『魔女』を相手にするほうが向くように改修されてしまいましたが》

 

《ワクチンかセキュリティプログラムがないと対処不可能です。それはバイジュウ様みたいに超人であろうとも例外ではない》

 

《これは『対人』じゃなくて『魔女』に特化していると——》

 

《人体由来の『陰陽』とは即ち『身体と精神』のことです。そして『身体』か『精神』のどちらかを完全に破壊する。これが『陰陽五行』が目指した開発プロセスなんですよ》

 

《私たちが欲しいのは、あくまでバイジュウ様の特殊な『身体』だけ。その精神性も目を見張るものがありますが、最悪それは適当な輩の『精神』をバイジュウ様の『身体』に入れてから洗脳やら精神操作やらで矯正すればいいだけのこと。俗に言う『憑依』とか『入れ替わり』が一番近い表現ですかね》

 

 ……

 …………

 

 

 

 ——『精神を二つにする』

 ——それは『陰陽』の一環でもある。

 ——『陰陽』とは『身体と精神』のこと。

 

 ——『ドール』ではなく『魔女』に効く。

 ——しかし『対人』特化ではない。

 ——つまり『人』というカテゴリから影響を分別しているということ。

 

 ——ワクチンがないと対処不可能。それが超人であろうとも。

 ——逆に言えばワクチンがあれば対処可能。それが凡人であろうとも。

 

 

 

 ——そして『憑依』や『入れ替わり』などの『精神的な干渉』

 

 

 

 

 それらの情報をレン、ギン、麒麟に当てはめると浮かび上がる共通点とは——。

 

 

 

「そうか……。『陰陽』にもっと単純な対比があった……!」

 

『魂』を認識できるこそバイジュウは知っている。レンの内面がある程度どういう形を取っているかを。

 

 バイジュウは一連の騒動について知っている。ギンがどのようなことがあって『守護者』となり、どのような人生を送ってきたのかを。

 

 

 

 ——そして麒麟の統括者としての『陽』の一面と、暴力的な『陰』の一面。

 

 

 

 それらを繋ぐのに、これほど単純明快にして納得できる答えがなかった。

 

 

 

「『陰陽五行』の効果は『女性』だけに作用する様に仕向けてるんだ……っ!」

 

 

 

 それはつまり——『男性』には効かないことを意味していた。

 

 



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第9節 〜相剋相生〜

「『男性』のみ作用する……そう考えるしかない」

 

 バイジュウは推測を重ねることで掴んだ。レンとギンと麒麟を繋ぐ共通点を紐解くことで『陰陽五行』の正体を。

 しかしそれを耳にしたクラウディアは頭を悩ますと『でもさぁ』と一言おいてバイジュウに物申した。

 

『男性のみに作用するって言っても、一応みんな性別的には女性じゃない?』

 

「『精神』的な意味です。レンさんは性自認がそうっぽいですし、ギン教官は過去にいた人物である霧吟を依代とした男性の魂。そして麒麟は『陰陽』の一環として二重人格を保有しています。その二重が『女性』と『男性』という分け方をしてるなら……異質物の効果を免れるのも不思議じゃない」

 

『けどそれが鍵になる?』

 

「ええ。麒麟の主人格は恐らく『女性』です。そして本来は二重人格は病気の一種であり、任意的に切り替えることは困難なこと」

 

 ならばキッカケ一つを与えれば、麒麟の『女性的な精神』が表に出てきて『陰陽五行』の効果を受けるようになるはず——。

 

 そのことをバイジュウはクラウディアに伝えると『なるほどねぇ』とどこか文句のある言い分で一応は納得するが『でも』と反論を始める。

 

『確実性の云々は置いとくとして、どうやってそれを表に引き摺り出すのかしら? まさかゴキブリでも見せて生理的に無理って感じでやるって言うなら、悪いけど寝言は寝て言いなさい』

 

「そんなことは分かってますよ……。彼女は精神汚染系の異質物対策で二重人格にしたんですから、並大抵の干渉じゃあ不可能なくらい……」

 

 しかし口に出すのは簡単だが、実際に起こせるかと言われれば困難極まりない。そもそもバイジュウは『陰陽五行』の影響と麒麟の棍術によって動くことができない有様だ。直接の手助けなんてできはしない。

 できることはただ一つ。自他共に認める聡明で貪欲な知識を総動員して推測を重ねることだけ。この状態でもギンを手助けするための一手が打てると信じて、頭の中で麒麟の女性的な精神をどう引き摺り出すかを模索する。

 

 だが答えなど出るはずがない。肉体と精神は作用し合うのが基本だ。故に違和感などがあれば心のどこかで拒絶反応が起こるのが人の心理というものだ。俗に言う『性同一性障害』や『Xジェンダー』や『LGBT』などの精神的な問題を引き起こすように。

 

 しかし麒麟は男性的な精神をこれでもかと表に出しているが、違和感などを覚えているようには見えない。むしろ乗りこなしているし、任意に切り替えもできる。何なら記憶の共有もしているとあらゆる症状からは離れている。

 その時点で精神的疾患で考えて、あえてそれを擽るという非人道的な手段を取るだけ無駄だろう。

 

 ならばどこで揺さぶればいい。麒麟の完成された二重人格を瓦解させるための材料はどこに。

 

 そこでバイジュウはふとクラウディアと目があった。

 だがバイジュウの目はクラウディアとは合っていない。より正確にはクラウディアが映る『鏡』に目が合ったのだ。

 

 

 

 ——鏡は『反転』する性質を持っている。そのことがバイジュウの脳裏に過ぎったのだ。

 

 

 

「……クラウディアさん。この『鏡』に転送する以外の性質を付与することってできますか?」

 

『そう言うと思った』

 

 バイジュウの考えをクラウディアは読み取ったのだろう。大きくため息を一つだけ吐くと『可能ではある』と吐き捨てるように告げた。

 

『だけど、これは誰かの心を土足で踏み荒らす『魔鏡』よ。しかも無責任極まりなくね』

 

「……無責任に踏み荒らす?」

 

『単純に『こっちが相手がどんな物を見たか分からない』ってことよ。魔鏡が映すのは昔のトラウマをかもしれないし、深層心理に眠る不安かもしれない。それは当人にしか分からないことよ。私にも貴方にも、誰にもこの魔鏡で見た景色は分からない』

 

 それはつまり魔鏡の性質が見た者の脳に干渉して映すということでもあるのだろう。

 仮にバイジュウが魔鏡に映った麒麟の『何か』を見ようとしても、そこに映るのはただの鏡。むしろ魔鏡はバイジュウの深層心理や過去を探ろうとするだろう。だからこそ『相手がどんな物を見たか分からない』のだ。

 

『それでもいいというのなら貸してあげる』

 

「……そ、れは」

 

 そんな無遠慮なことはバイジュウにできなかった。いくらミルクのことを侮蔑した麒麟が相手だとしても、同じように麒麟の心を踏み荒らしたら麒麟と同じになってしまう。ミルクを侮蔑した麒麟と同じになっては、その自分自身の存在そのものがミルクを辱めることになる。

 

 それでもバイジュウは選ぶしかない。躊躇いは命取りになる。何せ一瞬であろうとも、その時間はギンと麒麟の打ち合いからすれば長すぎるからだ。

 そんな迷いをクラウディアは理解したのだろう。『今から残酷なことを言っちゃうけどさ』と前置きをするとバイジュウが返事をするより前に語り始めた。

 

『私はどこまでもドライなところがあるの。貴方とミルクの関係は知ってるし、それがどれだけ大事なことかも理解だけはしている』

 

『でも同調はしない』とクラウディアはそこで一息を置く。

 

『だって私は指揮官だもの。メンバーの命を預かってる以上、作戦の遂行も大事だけど、人員の損失を抑えるのも私の役目。悩むくらいなら私はそうする。ミルクなんて見捨ててあげる』

 

「……そんな、冷たいことを言わなくても」

 

『悪いけど私からすれば『他人』なのよ、ミルクなんて。なんで熱心に追っかけなきゃいけないのかって、SIDに所属する一般エージェントから私みたいな特殊エージェントからずっと前から思われてる。ぶっちゃけた話、ミルクなんか見捨てた方が組織が回りやすいって言われるほどにね』

 

 それはバイジュウも頭の片隅では気づいていた。いや、聡明な彼女が気づかないはずがない。自分のエゴをSIDはこれ以上ないほどに呑んでくれていて、その事情を客観的に見たエージェントからは煙たがられていることも。

 

 マリルは20年前のような事態に極力合わないために、監視付きで衣食住が充実した住居も用意してくれた。ミルクの行方を追えるようにある程度の人材や資金の援助もしてくれるとも言った。

 今は『ヨグ=ソトース』が管理する『門』の奥にミルクとスクルドがいることを知っているからまだ理解できるものの、保護した当初なんてミルク自身にSIDが求める情報なんてカケラもないのに助力をしてくれた。それを良くは思わないエージェントなんて当然いるだろう。

 

『でもおかげで異質物と情報生命体の秘密に迫るところまで来てる。あなたのミルクを思うエゴイズムのおかげでね。だってのにここまで自分のワガママを押し通してきたのに、いざそういうセンシティブなことになったら及び腰って舐めてるの?』

 

「及び腰なんて……っ!」

 

『なってるわよ。だって麒麟は貴方の身体が欲しいんでしょう? そのためならきっとギンもソヤもファビオラもレンも私も容赦なく狙うでしょうね。命の有無なんて問わないほどに』

 

「……っ!」

 

『そうなったら20年前と同じよ。貴方は誰も守れずに無様を晒す。それが親友か仲間なのかの違いだけ。本質は何も変わらないのに』

 

 その心の芯を貫くような言葉にバイジュウは反論もできずに息を呑むことしかできなかった。

 

『貴方の親友はそんなバイジュウを守るために命を賭したのかしら?』

 

「……違う」

 

『じゃあ答えはわかってるじゃない。今一度自分に問いかけてみなさい』

 

 今一度自分に問う——。ミルクはバイジュウはなぜ守ってくれたのか。バイジュウの『何を』守りたかったのか。

 

 麒麟のように特異体質が目的で生かそうとした? 違う。

 ならば絶対記憶能力を持つ知識が目的だった? 違う。

 

 だとしたら——だとしたら——。

 

 

 

 …………

 ……

 

《あんたはね、氷みたいに冷たい人間に見えるけど、本当はとっても情に脆いのよ》

 

《バイジュウちゃんは真っ直ぐなんだから、人を騙すなんてできないんだしさ》

 

 ……

 …………

 

 

 

 ——そんなの分かりきってる。

 

 

 

 冷たくて、冷ややかで、冷酷な自分の心身を彼女が『温かい』物だと思ってくれているから。情に脆くて嘘がつけない清らかな物だと思ってくれているから。そんなバイジュウを守りたくてミルクはあの日、バイジュウを騙してでも助けたいと願っていたのだ。

 

 

 

 だったら——私はミルクを裏切るわけにはいかない。ミルクが好きな私を曲げるわけにもいかない。

 

 

 

 ——私は騙すことができない。みんなを、相手を、自分自身を。

 ——私は曲げることができない。みんなを、相手を、自分自身を。

 

 

 

 だから私は張り続ける。傲慢だと言われようとも、私は自分自身を張り続ける。大好きなミルクが、大好きだという自分を信じて守ってくれたんだから。

 

 それさえも裏切ったら、それこそ私は『私』じゃなくなる。そんなの麒麟が口にした身体を奪うのと大差ない。

 

 

 

 ——例えそれがどれだけエゴで、自分勝手だと分かっていても。これだけは騙せないし、曲げることができないんだ。

 

 

 

「これは……!?」

 

 そう思うとバイジュウの前にある鏡が謎の光を発した。すると一つの武器が鏡を通して幻出され、糸を紡ぐかのようにその姿をハッキリとさせていく。

 それは武器と呼ぶにはあまりにも頼りない造形だ。安いところで売ってそうな二又の丸い先端。その別れる部分には薔薇を模した装飾品が付いており、そのチープなデザインは女児向けの玩具にも見えなくもなく、バイジュウが持つと何とも言えない滑稽さが浮き出てくる。

 

 だがバイジュウには確信できた。これこそが『魔鏡』へと導く鍵にも等しい武器だと。

 

『意地悪言って悪かったわね。今までのは『魔鏡』のための準備であり詠唱。魔鏡は『真実』を映す都合上、使用者も曇りなき真実を持ってないとその魔力に喰われる可能性があるからね……』

 

『ミルクを助けるために、貴方が犠牲になっちゃ意味ないでしょう』とクラウディアは似合わないことをしたなと言わんばかりに、若干赤くなった頬を手で覆いながらも呟いた。

 

 鏡越しの影響もあって『魂』の輪郭がボヤけててバイジュウは気づかなかった。そんな思いを抱きながらクラウディアが試していたなんて。

 

『もう『心を受け止めた』わね。その武器自体は受け止めた心を『偽装(カモフラージュ)』した物。コードネームは『偽装された愛』よ』

 

「でも動こうにも……」

 

『それを持ってる間は大丈夫よ。私は『時止めの魔女』……どんなに動いても痛くもないわよ。『五行』の干渉もカットしてある』

 

 確かに——今は痛覚が機能していない。不快極まる五感の歪曲が感じない。

 だけど指の動きも感じない。口内で動く舌の感覚も伝わらない。動かすこと自体はできるのだが、動かしている実感が湧かない。例えるなら歯医者などで軽い麻酔を打たれた時の感覚が近いだろう。

 

『ただし動くのは最低限にね。効果が切れたらぶり返しがくるから』

 

 そんなことは聞くよりも前に予測していた。どんな魔法にも奇跡にも代償があるのが常だ。踏み倒せるだなんて思っていない。

 バイジュウは無言で頷くと、銃剣と渡された武器を手にギンと麒麟の戦いを目で追う。

 

 二人の戦いには『音』が機能しない。音速を超える技能のぶつけ合いのおいて音で判断するのは自殺行為だ。頼れるのは『目』だけだ。

 だが人間の目は一秒間で処理できる情報の量は決まっている。それを『フレームレート』といい、人間が認識できるのは基本的に『60FPS』とまで言われている。

 だが別に『120FPS』になろうとも追うことはできる。人間の視界はシャッターを連射する断続的ではなく、連続的な物として情報を処理しているのだから。しかし慣れていない都合上、なんとも言えない違和感を抱くのが普通だ。もちろん訓練を行えば適応自体は可能であり、プロ野球選手やボクサー選手などのスポーツ選手がよく言う『動体視力』というものがそれに当たる。

 

 バイジュウだってSIDに入る前から軍事力を持つ組織に所属していてある程度は訓練してきた。視界は人間が保有する情報の8割を占めており、例え異質物で悪影響を与えられるリスクを考慮しても鍛えるべき感覚である。

 

 だというのに残像を追うのがやっとだ。五感はもう狂っていないのに、二人のぶつかり合いは音も視界も、打ち合いによる空気の痺れも全てが合わない。あまりにも早すぎてどうやっても介入できる隙が見出せない。

 

 しかしそれで諦めるわけがない。きっとどこかに活路がある。

 二人だってまともに視界と音を頼りにできない状態だ。今まで蓄えてきた戦闘経験から来る本能と勘が突き動かしており、

 

 だけど無意識下での戦闘なら、理性的に見れば必ず法則性が見えてくる。フンコロガシが無規則に見えて、実際は空を照らす天の川を方位にして進むように、必ず何かしらのほんの小さな規則性があるに違いないのだ。

 

 

 

 全集中——。あらゆる情報を見逃すな、見落とすな。

 何でもいい。足のクセから音のリズム。何なら宗教の考えから、風速とか今放出している電波でも貪欲に分析しろ。一瞬でも迷うな、取捨選択を繰り返して可能性を模索する。

 

 

 

 一つの法則を見出し重なる。

 また一つの法則を見出して重ねる。

 

 

 

 ——その思考の末に、バイジュウの脳に閃きという閃光が差す。

 

 

 

 それは幅広く華雲宮城の思想を知るバイジュウにしか分からない規則性だ。麒麟の動きは概念的な『陰陽五行』に通じる動きを沿っている。つまりは『地』を四方の中央とし、ある法則性を持って動き続ける。

 

 その法則が『五行』だ。しかしその方針は『星』の巡りを身体で表している。つまりは『水金地火木土天冥海』というやつだ。天高くに存在するその名を冠する星の動きを指標として麒麟は動いているのだ。

 だが綺麗になぞってるわけではない。単純にリズム通りにするだけではギンだってその法則性に気づくはず。だがそこにもう一つの規則を織り交ぜることで、複雑怪奇ながらも一定の基準に沿った動きとなる。

 

 そのもう一つの規則というのが『相剋』と『相生』というものだ。

 相剋は『水は火に強く、火は金に強く、金は木に強く』という順繰りに影響を与えて弱め合う考えのこと。逆に相生は『木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ』という順繰りに影響を与えて強め合う考えのこと。

 

 この考えを新たに組み込めば三つの法則が絡み合う。『五行』に納めた星の巡りである『水→金→火→木→土』という動きと、相剋の『水→火→金→木→土』という動きと、相生の『木→火→土→金→水』という動き。この思考を見れば『金』の後には『火、木、水』の三通りの動きが予測できる。

 

 そこに『地』という軸を入れれば法則は完成する。まるで三次元極座標の振り子のように、側から見れば出鱈目に見えて規則性が存在する動きが。

 

 つまり——必ずどこかで三つの法則が一つの点となって重なる時がくる。それを繰り返していれば、いずれはそれが発生するのが三次元極座標の動きなのだから。

 

 

 

 ——その『一つとなる点』をバイジュウは狙い澄ます。

 

 

 

 目も音も使い物にならない超高速の戦闘。だけど法則さえ分かれば、目も音も情報になる。どれほど遅れているのかを正確に割り出せば、その一つになる点のタイミングに合わせればいいだけのこと。

 

 

 

 そんなこと——バイジュウにとっては造作もない。

 

 

 

「こ、こっ……だぁぁあああああああ!!」

 

 

 

 間違えた瞬間に全てが台無しになる一投。外れれば不意を突かれたことに気づいた麒麟が、今までの無意識下での戦闘だからこそ見出せていた概念上の陰陽五行の法則を消してしまい、バイジュウには手出しができない不規則の戦闘へと変わってしまう。

 

 絶対に外すことはできない。だから狙うは意識の外。故にバイジュウは投げた。『鏡』に向かって投げたのだ。

 単に投げるだけでは、いくら無意識下の戦闘でもバイジュウの攻撃する意志に本能的に気づいて回避行動を取るに違いない。

 

 だったら『鏡』を通して投げればいい。クラウディアの『鏡』は鏡面の面積さえあえば、鏡を通すことで物と物を転送することができる。

 だがどんな鏡でも転送できるわけじゃない。クラウディアの魔力を通した鏡だけ出入口にすることができるのだ。

 

 だから普通なら意味がない。この建物にある鏡はすべて普通の鏡なのだから。麒麟の不意をつけるような鏡はどこにもあるはずがない。ただ一つを除いて。

 

 

 

 

 

 ——連絡用として保有している『ギンの『鏡』』を除いて。

 

 

 

 

 

 直後、ギンの懐から先ほどバイジュウが投擲した武器である『偽装された愛』が飛び出してきた。当人達からすればあまりにも突然で突拍子もない出来事は、ギンも麒麟も僅かに意識を止めるほどだ。

 

 そしてタイミングは寸分の違いもなかった。ギンと麒麟の身体の向き合いはほぼ真正面。さらには唯一麒麟の動きを予測できる『一つとなる点』の瞬間。それをバイジュウは確かに射抜いたのだ。

 

 だが勢いとしては浅いもので、衝撃としてはブランコを始める時の初速ほどだ。ちょっと足先のバランスを崩す程度でダメージなどは負いはしない。

 

 

 

『時間の損失も、一種の貯蓄——ってね』

 

 

 だが重要なのはそこからだ。武器が麒麟の胸元に届いたことで、クラウディアは詠唱を始める。『魔鏡』を誘う魔法の詠唱を。

 

『偽装された愛』はその先端から『鏡』を光臨させ、麒麟に否が応でも見せつける。

 それは鏡で鏡を映す『合わせ鏡』——あるいは『無限鏡』と呼ばれる物。

 

 無限鏡とは古くから伝わる忌々しき物だ。

 幽霊や悪魔を引き寄せるだの、鏡が割れると不幸だの、鏡に映る何番目の自分が何年後の自分だの、もしくは死んだ姿だの色々言われる代物だ。

 だが、そもそも『鏡』とは『光』を反射させる物だ。言い換えれば鏡は光を受け入れる物とも言える。

 

 そして『光』とは『時間』の概念に密接に関わる物である。光という存在があるからこそ時間は刻むことができる。

 つまり『鏡』とは『時間』を取り込む存在。無限に重ねることで『時間』という一方通行な関係を一つの存在にする。現在も、未来も、過去も。

 

 

 

『『時空溢流』っ!!』

 

 

 

 鏡は麒麟を誘う。無限に映る自分の姿を過去、あるいは未来に見立てて鏡の世界へと誘う。

 

 ここから先は一瞬の出来事——。『少女』が見た世界の話——。



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第10節 〜鬼使神差〜

短い報告になりますが、実はマイページに『FANBOX』や『pixivリクエスト』のリンクを新しく追加しました。
 
今後は有償ではありますが、ご希望があればそちらの方で魔女兵器もそうですが、TS系全般の短編やイラストなどを拙いながらも描かせていただきいと思います。
またFANBOXの方では、このSSでは時系列の描写や本編的には大して意味がないのもあって没案になった『魔女兵器SSの裏話や設定』などを暇があれば公開していきたいとも思っております。

応援されると励みになりますので、余裕のある方は支援の方をよろしくお願いします。


 その日、少女は生まれ落ちた。それだけは覚えている。

 逆にそれ以外のことは覚えていない。顔も名前も好きな物も覚えていない。

 いや、覚えられるはずがない。少女は望まれぬ誕生の末にこの世界に出てきてしまったのだから。

 

 産まれ落ちた年は2000年——。

 まだ学園都市という概念が誕生する前、つまりは『華雲宮城』が『中華人民共和国』という国名だった頃の話——。

 

 当時、増加した人口を抑えるために『一人っ子政策』という計画が政府が行なっていた。

 

 

 

 その政策の只中で産まれたのが『少女』だった——。貧困層の『次女』として少女は生まれてしまったのだ。

 そんな境遇の少女に『名前』という贅沢な物はなかった——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 追憶——。少女が産まれた時の記憶——。

 建て付けも最悪。継ぎ接ぎだらけの見窄らしい集合住宅の一室で少女は母体から解き放たれた。

 

 ハッキリ言おう。少女は生きたまま出れたのが奇跡と言っていい。

 当時中国という呼ばれる国では『一人っ子政策』の影響もあって子供を二人以上持つと、養育費などとは別に金銭面的な不利益を発生するという一面があった。

 富裕層ならともかく貧困層ならそんなのが御免被る。ただでさえ子供一人を育てながら生計を立てるのがやっとだというのに。

 しかし同時に貧困には職業選択の自由というのもなかった。生きるのが精一杯で、貧困に属する人々は可能な限りは綺麗な仕事に従していたが、中には麻薬、売春、密猟、密輸となりふり構っていられない最底辺の層だって存在する。その『売春』という行為で『少女』は命を持ってしまったのだ。

 

 貧困層で生まれた少女の家系に病院に行って安全と法的な保障を得た出産などできるはずがなく、当然中絶という行為も不可能だった。既に借金を抱えていて、さらなる借金を膨らませる自殺行為をすることなんて。少女の母は無責任にも自宅出産という形で少女を産んだのだ。

 

 故に少女は『戸籍』というものがなかった。そして『名前』さえも与えられなかった。少女は『存在しないもの』としては半ば扱われていた。

 それでいっそ育児放棄でもして死なせてくれればどれだけ楽だっただろうか。少女の母は『母』としては失格だが、別に最悪というわけでもなかった。一度産み落としてしまった命を育てるくらいの気持ちはあったのだ。『哀れ者を助ける自分は正しいし美しい』という余りにも自己中な気持ちのもとに母は少女を育てたのだ。

 

 だが気持ちはあろうとも家計が許しはしなかった。少女の姉が義務教育として教育機関の通うことにより、家計はさらなる出費が必要となった。

 1日の食事さえも切り詰めなければならないほどの貧困は母に罪深い選択をさせるのを躊躇わせなかった。少女はわずか4歳で路地裏の隅に捨てられた。小汚い服だけを着せて捨てたのだ。

 

 言語などまともに教えてくれなかったから文字の読み書きなんて満足にできるはずがない。お金の使用方法も教えてもらってないから、道の端に転がる小さな金銭の価値も分からない。もちろん人に頼る、縋るような教育などされていないから「助けて」なんて言葉を口にすることもできない。

 

 そして——貧困は誰かを助ける心の『余裕』さえも奪う。少女の周囲には助けてくれるような人物なんて一人もいなかった。

 

 だから少女は本能に任せて生き抜いた。

 道端に映る物は何だって口にした。雑草から虫、野鳥、それに木から建材まで何でもだ。もしかしたら誰かが飼っていたかもしれない犬や猫も食い殺した。時には人間さえも食おうとしたが、その時には返り討ちにされたりもして、少しずつ食べれる物と食べれない物を判別していった。

 

 腹が比較的満たされてる時は、人の動向を追って人間社会という物を学習していった。物を貰うには等価交換であり、その基本が金銭であるということ。その金銭を得るには様々な方法があることを。だから少女は金銭を得るために様々なことを行った。道端の空缶を拾ったり、当日雇いの倉庫業務なども行なって金を稼げることを知った。

 しかし最後まで少女は『盗む』ということを学ぶことはなかった。それは少女が善性に満ちていたからではなく、実際に目にしなかったというだけのこと。むしろどうにか知って窃盗を行えば、良くも悪くもそれで法的な機関に目をつけられて保護されていただろうに。

 

 そんなのが10年続き——少女は自分一人の力で成長した。

 身体が大きくなればその分だけ食費も増える。大きくなれば熟る仕事も多くなるが、作業着や靴といったある程度の着こなしを要求されるようになった。それに安定して休める住処のために日用品の補充など出費が多くなっていた。そのためにはもっと効率の良い方法が必要になった。

 

 時には物好きな大人の慰めものにもなった。時には違法の薬物を運んだりもした。時には臓器を売ったりもした。時には依頼で人を撃ち殺したりもした。14歳というまだ若い身体で、あまりにも早くの初体験を済ませた。

 

 そうまでして少女は今まで生き延びた。何でかは分からない。産まれ落ちた宿命だろうか、それとも成し遂げたい何かが胸の奥にあったのか。だけど、その答えの一部をある時に知った。

 

 

 

 

 

《2015年より、政府は『一人っ子政策』を廃止して『二人っ子政策』を行うことを発表しました——》

 

 

 

 

 

 富裕層でも貧困層でもないごく一般的で寂れた商店街の電気屋にて、そのテレビに映る情報を見て少女はいても経ってもいられずに走り出した。無性に止め処なく溢れる衝動に駆られたからだ。

 

 

 

 ——帰れる、帰りたい。

 ——家族のもとに帰りたい。

 

 

 

 少女はとにかく走り続けた。自分の家なんかどこにあるかも覚えてないし、親の顔も姉の顔も覚えてなんかいない。それでも帰りたいという気持ちが溢れ出て、どこにいるかも分からぬ家族の元に走り出した。

 

 もしそれで奇跡的に再開できたら——「私は貴方の娘です」と言って受け入れてほしい。たったそれだけでいい。どうか私に糸のように細くても確かな『繋がり』を受け入れてほしい。

 

 そして奇跡は起きた。

 夢中で走った貧困層の荒れた街のどこか。二人並んで歩く女性の姿を見た。鼻筋、髪の生え方、ほくろの位置、指の長さ。どれも少女自身の面影を感じる風貌を、二人は共通して持っていたのだ。

 

 少女は直感的に理解した。あの二人は私の母と姉だと。

 少女は二人の前に立つ。そして二人は笑った。愛しい我が子を見て笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——その手に知らない『赤ん坊』を抱えて、母と姉は笑っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……二人の視界には少女の姿なんて映っていなかったのだ。そしてその『赤ん坊』の存在で少女は理解してしまう。あの『赤ん坊』こそが、あの家族における『二人目の子供』だということを。

 

 少女は既にあの母にとって『娘』という認識がなかった。すれ違っても気づいて振り返りもしない。それは姉も同様だ。

 

 その時、少女に沸いた感情はどう口にすれば良いのだろうか。それは少女にしか分からず、誰かが語っていいものでもないだろう。それほど混沌した感情が渦巻いていたのだから。

 

 しかしこれだけは言えた。少女は生まれ持って高潔だった。

 だからこそケジメが必要だった。自分自身の踏ん切りが欲しくて、少女は一言だけ母と娘と、弟か妹かも分からぬ赤子に向かって言った。

 

 

 

「元気な子に、育ててくださいね」

 

 

 

 その言葉は母と姉は燻げに振り返り、困惑混じりに「はぁ」と会釈をして去っていった。最後まで少女を娘だと、妹だと気付かぬまま。

 

 そこからの人生は虚無感しかなかった。何のために生きてるのか、何一つ分からないまま、それでも生き続けた。変わらずに人には言えぬ仕事を淡々とこなし続けた。

 気づけば少女は自分の『顔』が見えなくなっていた。別に身体的な問題じゃない、精神的な問題で自分の『顔』が認識できなくなっていた。

 

 もう少女には『名前』も『顔』も存在しなかった。『感情』もグチャグチャで、もう自分が何者かさえも分からない。

 

 だからこそ、ある組織は少女の眠れる素質に目をつけた。『誰でもない』ということは『誰にでもなれる』ということの裏返し。その素質に『フリーメイソン』は目をつけた。

 

 実際、少女の素質はすぐに開花した。野生的に育ったということもあり基本的な身体能力が群を抜いていた。身体は成熟してもいないというのに。知識も満足にないため、ありとあらゆる知識を貪欲に吸収していった。しかし命令すれば機械のように知識を削ぎ落とす割り切りもあった。

 それはあまりにも理想的だった。教えれば教えた分だけ成熟していく。そして忘れる時は簡単に忘れてくれる。一瞬にして別人になれる先天的な素質は形を保つことを嫌うフリーメイソンにおいてはこれ以上ないほどに利便性に長けていた。

 故に彼女のためだけにある名称が作り出された。それが『無形の扉』であり、当初は組織ではなく少女の仮の名称となっていた。

 

 少女は肉体的に成熟していき、やがては女性と呼ぶに相応しい慎ましくも整った身体へと成長していた。客観的に見た顔は特別美人でもなかったが、かえってそれが地味な印象を与えて存在感を薄くするのも組織にとっては都合が良かった。彼女自身も『顔』が認識できないのもあって美貌については特に何も思いはしなかった。

 

 そうすることで年月はすぐさま経過する。時は異質物黎明期へと移り、2021年に『二人っ子政策』が廃止された頃には、彼女は自我というものをとことん削ぎ落としていて、家族のもとに帰りたいという帰巣本能さえ無くしていた。

 

 だが、その時にはフリーメイソンはある『不安』が渦巻いていた。異質物の研究が進んだことで正体不明で解析さえも進まない『隕石』の存在に言いようのない不安を覚えたのだ。

 

 それに異質物の研究によって各国は少しずつ『核』に頼らない戦力を着々と肥え太らせていた。このままではそう遠くない未来に『戦争』が起きることを予感していた組織は『生命の保存』のために、ある『二つの研究』を進めることになる。

 

 それこそが陰陽五行における基本。『身体』と『精神』の保存だ。そしてその研究の土台のために、フリーメイソンは根回しを始め『ある施設』を『身体』の保存のために介入したのだ。

 

 それこそが2024年に誕生した『Ocean Spiral』なのだ——。ことの顛末に関しては今更だろう。問題なのは、もう一つの『精神』の保存についてだ。

 

 フリーメイソンは卓越した情報収集にとって『隕石』は二種類保有していた。それが『水』と『土』の隕石であり、前者は先ほどの『Ocean Spiral』へと送られた。

 では後者はどうしたのかというと、その『精神』の研究として必要なためにフリーメイソンの中国支部で厳重に保管されていた。

 

 なら『精神』の保存というのはどういうことなのか。一言で表せば『寄生』というほうがいいだろう。

 フリーメイソンの重役は自身の肉体を捨て、精神だけを吸い出して誰かの身体に保管する。できれば時間という概念を超えてという理想を掲げてだ。裏側からいつでも社会へと介入するためには永劫が必要なのだから。フリーメイソンはこれを『偉大なる技術』と称して寄生先に精神を移住させることも発展させていったのだ。

 

 だが精神の保存をするには問題点があった。単純に一つの肉体に一つの精神が基本的に限界であり、二つも入れば自意識が混濁して『解離性同一障害』とほぼ同じ症状が姿を見せたのだ。仮にそれが可能だとしても三人の精神を宿せば肉体は自我が制御しきれずに崩壊し、その精神共々腐られてしまった。

 

 では『人』ではなく『物』に寄生すればいいのかと言わればそういうわけにも行かなかった。『物』に寄生すると精神が固定化されてしまう。物言わぬ精神へと変質し、自我そのものが消失する事例があった。

 

 となれば必然的に寄生先の条件は絞られる。

 肉体的に健康あるいは優れていて、物のように自我がない人間——。

 

 

 

 そんな条件に彼女はうってつけだった——。

 

 

 

 恐ろしいことに彼女は『際限なく憑依を受け入れる』ほどに自我が乏しかった。衝突する精神がいくらあろうとも、もはや能力と呼ぶにも等しい記憶と感情の制御によって不要な部分は削ぎ落として統合していった。

 

 結果、彼女はそうすることで初めて『感情』が芽生えた。五行で言うところの『怒・喜・思・悲・恐』だ。人並みに喜ぶことをして、人並みに怒ることを知り、人並みに思うことを知り、人並みに悲しむことを知り、人並みに恐ることを知った。

 

 それでも『自我』が芽生えることはなかった。彼女は湧き出る感情を理性的に処理していった。泣くべき時に泣き、怒るべき時に怒る、なんともつまらない感情の発散だけを行う人形のままだった。

 

 

 

 

 

 ——『七年戦争』が起こるまでは。

 

 

 

 

 

 その日、すべてが壊れた。

 街も人も悪性という悪性を剥き出しにし、災害とは違う人間の惨たらしい心理が世界を塗り替えた。

 

 子供も大人もその手に武器を握る。銃の時もあれば、そこらへに落ちてる木材や鉄の破片だったりする。誰もがなんであれ武器を握らないと生きていけない地獄へと変わっていた。

 

「……ふっ」

 

 そんな地獄の中で彼女は『無傷』で『笑み』を浮かべていた。右手には軍用の銃器、左手には瓦礫の中から拾い上げた持てば皮膚を殺すほどに熱された鉄パイプを握って笑みを浮かべていた。

 

 地獄の中でも異様な光景は、周囲にいる衰弱して息を続けることしかできない人々に恐怖を伝染させた。

 

 

 

「はははははははははははっ!!」

 

 

 

 彼女は無性に笑いたくて仕方なかった。この地獄の只中で、確かに『喜び』を感じながら笑っていた。

 胸の内から溢れて止まらない感情の発露。彼女は初めて『自我』というものをそこで拾い上げ、眼前に広がる『天国』を大いに祝福した。

 

 

 

 ——これでやっと『変わる』と。

 

 

 

 彼女はそこで自分の中で燻る『自我』を理解した。

 彼女は憎んでいたのだ。自分の全てを奪った『国』そのものに。自分を捨てることを選ばせた母を、姉を苦しめた国の在り方そのものを。貧困には慈悲がない政府の腐った思想を。それを当然とさせる貧弱な国民の力を。

 

 だから私は『娘』として受けいられなかった。少しでも国が正常だったら、私は捨てられるようなことはなかった。母が温かい手で私のことを抱きしめてくれた。姉が温かい心で遊んでくれた。赤ん坊が温かい笑みで癒してくれた。

 

 

 

 

 

 ——そんなありえた未来を奪った『国』を私は許せない。

 

 

 

 

 

 そこで彼女は思いだす。

 

 

 

 ——もう国なんてどうでもいい。こんなどうしようもない国は滅べばいい。

 

 ——だけどこんな地獄でも守らなければならない『命』がある。それは一方的ではあるが、自分の母を、姉を、赤ん坊を守らなければならない。何とかして守らないといけない。

 

 ——けど守ると言ってもどうやって? こんな地獄じゃあ他の国でも同じことだろう。何せこれは異質物技術が向上したことによる核などの今まで均衡を保っていた力が相対的に低下したから起きた物だ。紛争は世界各地で起きてるのは目に見えている。いったいどこに安全な場所なんてあるんだ。

 

 ——ある。小さくて細い希望だが『Ocean Spiral』には希望がある。あそこは極秘裏で作られた地上とは乖離された一つの国だ。今は『フリーメイソン』そのものにも等しい私の言葉と力があれば、無理矢理にでも母と姉と赤ん坊を、あの施設で保護することができる。

 

 

 

 それを走りながら、ボロボロになりながら、飛び交う銃弾も火事場泥棒を行おうする野蛮な民を跳ね除けて彼女は思考する。

 どうにかして守らないといけない。唯一残っている独りよがりな『繋がり』だけは守りたい。母を、姉を、赤ん坊を。

 

 

 

 ——あの日、見せてくれた『私がいない家族の笑顔』を守りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だけど現実は残酷だった。眼前に転がる死体を見て、彼女は涙を流した。

 しかし実際はもっと酷い物だった。その涙には『怒り』と『恨み』が込み上げてくる。

 

 眼前に転がる死体は三つ。その三つは顔を見てすぐさま理解した。母と姉と——大きくなったが『弟』ということを理解した。

 

 だが問題がいくつかあった。

 一つ目は彼女が死体を見つけたのは『国の首都』に位置する『交易』が盛んな場所。貧困層には足を踏み入れるさえ難しい金が右へ左へ動く都市に、何故この三人がいる?

 

 二つ目は身なりが整っているということ。正確に言うなら『母と姉』の二人だけが。今まで着る物さえ贅沢品と言わんばかりに同じ服を汚らしくも大事に着回していたのに、今は知らない綺麗で着慣れた流行のファッションをしている。

 しかも彼女はフリーメイソンの活動の一環として都市の様々な事を調子したから知っている。その装飾品の一部は一般市民からすれば十数万はする『高級品』もあることを。

 

 三つ目は特に疑問だった。『弟が小さい』のだ。七年戦争が起きたのは2026年7月25日の後に『大災害の日』と呼ばれる日のことだ。

 彼女の弟は2015年の時には産まれているのだから、逆算すれば年齢は11歳になって小学校5年生になる。

 だというのに弟の身長は11歳の男児の平均身長より大きく下回っていた。必要最低限の食事さえ与えられてないように成長が歪で、痩せ細って死んでいたのだ。

 

 そして弟に触ることで、その問題を繋ぐ残酷な事実を彼女は知ることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——弟の身体には『臓器』が一部なかったのだ。

 

 

 

 

 

 ——つまり母と姉は『弟の臓器を売った』のだ。

 

 

 

 

 

 ——それで至福を肥やしたということを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「————っ」

 

 彼女は無言で母と姉の顔を潰した。こんな『ケダモノ』を今まで母と姉と思っていたのが間違っていたと、ただただ思いながら、グチャグチャに叩き潰した。

 

 

 

 

 

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 

 

 

 

 

「……や、めて……」

 

 まだ辛うじて息を残していた弟の掠れ声が聞こえるまで、彼女は何度もその顔を叩き潰した。正気に戻ったところで彼女は一目散に弟の側へと駆け寄った。

 

「おねえ……ちゃんだよね」

 

「……うんっ! そうだよっ! 私は貴方のお姉ちゃん!! 世界でたった『一人』しかいない……貴方のお姉ちゃんだよっ!!」

 

 何がお姉ちゃんだ。こんな風になるまで何もできなかったくせに。何を偉そうなことを口にしているんだ。

 

 少しでも力を入れたら崩れ落ちそうなほどに弱りきった名前も知らない弟を彼女は抱きしめる。弟はそんな彼女の顔を記憶に焼き尽くそうと、死に体であろうとも目を開けて最後まで見続ける。

 

 そこで彼女と弟の目があった。弟の目には『自分の顔』が見えた。忌々しいケダモノと似たような顔が瞳には映っていたのだ。これが彼女の顔だと突きつけてくる。

 

 

 

 ——お前も『ケダモノ』と同じだ、とでも言われてるかのように。

 

 

 

「……温かいね」

 

 それだけを言って、弟は静かに息を引き取った。冷たい身体で温かい心だけを彼女に残して。

 

 

 

「……どこで、何が、どうして……こうなったんだろう………っ」

 

 

 

 彼女の心には『悲しみ』しかなかった。

 どこで間違えたんだろう。何をすれば弟を救えたんだろう。

 

 

 

 地獄が渦巻く世界の中心。紛争という名の人と人の殺し合いが世界に広がる中、彼女は弟の亡骸を撫でながら考える。こんな最後を招いてしまった原因はどこにあったんだろうと。

 

 

 

 

 

 思考の果てに彼女はたどり着く。その答えを。

 

 

 

 

 

 ——こんな『人間(ケダモノ)』に、『命』と『未来』を任せることそのものが間違っていたんだ。

 



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第11節 〜不测之祸〜

次話で第七章は完結となります。


 クラウディアの『無限鏡』を目にした途端、麒麟は沈黙を始めた。その鏡が持つ魔力に当てられ、麒麟は過去現在未来における深層心理に眠る感情を突きつけられたのだ。

 

 そうなればどういう結果をもたらすか。答えは目にしてる通りのことが起きる。深層心理に眠る感情と向き合うことになった麒麟は、自身の心と記憶に幽閉されることになったのだ。

 

「……ちと名残惜しいが、これで彼奴との勝負はついたということか?」

 

「恐らくは……って、いたいっ!?」

 

『言ったでしょ〜〜。渡した武器を離したら痛み止めも終わるって〜〜』

 

 バイジュウが時間を空けて痛がる様子にギンが「痛みに鈍くなったってことは歳かぁ〜〜?」とおちょくる。

 それに便乗してクラウディアは「やっぱり三十路ね〜〜」とケラケラと笑って一件落着と言わんばかりに場の空気を和ませた。

 

 だがバイジュウは安心できなかった。『魂』を認識できるからこそ、バイジュウは麒麟の『魂が揺らがない』という事実に恐怖を覚えていた。

 何故ならバイジュウは知っている。自分の『過去』と向き合うことはとても辛い物があるということを。それを『播摩脳研』でヴィラクスと魔導書の力を利用することで体験したのだから。とてもじゃないが、そんな過去を見たら『魂が揺らぐ』ほうが正常なのだ。

 

 だというのに麒麟の魂は揺らがない——。

 鏡を見つめたまま沈黙を続ける。やがて『魂』に変化が見えたことで、バイジュウはあまりの衝撃に背筋が凍りそうになった。

 

 

 

 ——『陰陽』が見えたのだ。『希望』と『絶望』という相反するものが彼女の魂を塗り替えようと、バケモノのように口を開き始めたのだ。

 

 

 

「……そう、だ。私は成さないといけない……」

 

 

 

 そして彼女は動き出した。瞳を『青く染めながら』も麒麟は鏡に囚われた意識をこの世界へと帰還させたのだ。

 瞳の色は間違いない。今までバイジュウを苦しめていた『陰陽五行』に侵された証だ。今の彼女は五感が狂っていて立つことさえも必死に違いない。

 

 

 

 違いないはずなのに——。

 

 

 

「人間(ケダモノ)ではなく……正しき者に、正しき未来を託すためにっ!」

 

 獲物を捉えた鷹のように、麒麟は俊敏にギンの懐へと向かって『如意棒』を渾身の力と共に伸ばしたのだ。

 

「よせっ! 今動いたら……っ!」

 

 だが、そんな見えすいた攻撃をかわせないギンではない。あまりにも単調で愚鈍な攻撃はギンに届くはずもない。難なく回避行動を移り、絶好の反撃の機会を得る。

 しかしギンが反撃に移ることはしない。麒麟の攻撃に隙がないわけじゃない。むしろその逆であり、今までのキレをなくして隙しかない動きはギンの実力を持ってすれば、たとえ素手であろうとも瞬間的に意識を奪うことも可能なほどに。

 

 けれど、そんな惨いことはギンにはできなかった。

 もう既に勝負は決したのだ。麒麟は自らが使う『陰陽五行』の影響で五感が狂ってしまい、まともに動くことなどできはしない。現に瞳が青くなってるのが証拠だ。バイジュウと同じ症状が出ており、目と目を合わせようとしても絶妙に焦点がすれ違ってしまう。

 

 確実に、今の麒麟にはギンの位置が捉えきれていないのだ。そんな病人同然である者に、弱った者に、振るう刀も拳も心もギンは持ちあわせていない。

 

「もう勝負はついたぞ!? 戦いをやめろ!」

 

「すべてのケダモノに報いを……」

 

 支離滅裂な会話。それは聴覚がまともに機能してないことの裏返しだ。ギンの声は麒麟に届くことはなく、同時に『陰陽五行』に侵された更なる証明にもなる。麒麟の症状はバイジュウよりも深刻だということを。

 

「そのためにはバイジュウ様……。貴方が必要なのです……っ! 貴方こそ正しき者……人間(ケダモノ)を超えた正しき『魔女』……っ! 貴方だけが……変えることが、できる……っ! 生命のあり方そのものを……!」

 

「……それが宇宙飛行士になれ、という言葉の本当の意味なんですね」

 

「枯れ切ったケダモノは何も生まない……。新しい変化には正しき力と心がいる……。貴方のような純粋な人間だけが……っ!」

 

 それは二度と弟のような惨い結末を迎えさせないための信念——。

 弟を殺したのは『七年戦争』ではなく、母と姉が持つ悪性によるものだ。そしてその『悪性』とは二人だけが持つだけなく『人間』が持つ当たり前の感性だ。魔が差したなど、出来心だっただの、軽い冗談だの、ふと芽生えて解消される小さな悪性。

 

 そんな小さな悪性を麒麟は許しはしない。その小さな悪性こそが人間の器さえも矮小させてしまう。けれどその器を大きくするには、人間として正しく生きることのみであり、目の前で悪性を見た麒麟にはそれは不可能だとも理解した。

 

 

 

 だけど、それでも弟と同じ境遇の子を作るわけにはいかない——。

 だから、世界を進化させないといけない。正しき人間のためには『七年戦争』を起こすキッカケにもなった『人間の根本にある悪性』を排除——いや、それさえも及ばないほどに正しく進化させないといけない。

 

 

 

 だが、そんなことをギンとバイジュウは知る由などない。『無限鏡』で見た内容なんて知ることはできない。なんらかの事情があるのは察することができる程度であり、麒麟がその心情を言葉にしないのだから伝わるはずがない。言葉とは伝えるためにあるものなのだから。

 

「私では無理なのです……。どこまでやっても人間を超えることができない……。魔女になれない私では……」

 

「……こいつ末恐ろしいな。魔女ですらないというのか」

 

 一方的な会話と意味のない攻撃を麒麟は続ける。

 そのたびに無理矢理動かされる五感が悲鳴をあげ、麒麟は襲い掛かる頭痛を耐えるように眉間に皺を寄せていく。

 やがては瞳は『紫色』に染まる。『陰陽五行』による染色と、眼精的疲労による炎症によるものだ。もう麒麟には視界も聴覚も機能していない。人間が五感から得る情報源の九割を失いつつある。

 

 目も耳も機能しないとなれば、それは実質的に世界との隔絶を意味する。麒麟の言葉は徐々にか細くなり、僅かに頼りになる触覚さえも役立たずになって、やがては立つことさえもままならなくなって膝から崩れ落ちる。

 それでもその手に握る如意棒を放すことはない。戦闘を続ける意思表示の表れであり、そうまでして成り遂げたい何かがあるのが嫌でもわかる。

 

 ギンはその在り方に心の中で敬意を称する。そんな痛々しさを見せてまで足掻く姿が、どこか霧吟の姿がチラついてしまったから。

 だけど、それとこれとは話は別だ。ギンは感情的な部分を押し殺して「すまないな」と言うと、その首筋を優しく絞めて意識を失わせた。

 

 

 

 ——これでようやく麒麟との戦いは終わったのだ。

 

 

 

「機会があれば、今度は正々堂々と一対一戦いたいものだ。お前は恐らく人間の中であれば一番強いからの……」

 

「……どうしますか。彼女は戦闘不能でも『陰陽五行』は残っていますが……」

 

「今は残しておくべきだろうだ。ファビオラ達の力は借りたいが、それで異質物武器を破壊したら、あいつも立ち上がるだろうしのぉ。また立ちはだかるのは任務を熟すうえで邪魔極まりない」

 

『それは私も同意見ねぇ。『無形の扉』だって何も全員が揃ってそいつみたいな奴じゃないだろうし、効果を残しとけば無形に所属する女性はみんなグロッキーなんでしょう? だったらファビオラ、ソヤを犠牲にしてもそのままにすべきね』

 

「それもそうですね」とバイジュウは言うと本来の目的であるミルクの情報を求めようと動こうとするが、やはりロクに機能しない腕と脚では這うことさえままらない。

 そんなバイジュウを見て、ギンは納刀をすると「それではまともに動けんだろう」と口にして彼女に最低限の応急処置を施すと「失礼」と一言添えてお姫様抱っこを始めた。

 若干バイジュウは気恥ずかしい思いを抱えるが、生憎と物申しようとしても麒麟の棍術で現在は肩は脱臼、足先は粉砕骨折という状況だ。運搬方法も適切ではないが、担架なんてあるわけないのでそれはもうしょうがない。バイジュウは「構いませんよ、ギンさん」とほんのちょっぴりの反撃だけをして受け入れた。

 

「……あのぉ、これってどういう状況?」

 

 そこでようやく遅れてレンが合流した。レンは困惑しながら目を見開いて周囲を見る。

 それは仕方ないだろう。冷静に見なくても死屍累々の状況だ。レンからすれば誰かも知らず、脅威も知らない麒麟が今にも死にそうな顔色で気絶している。一体何があったのか知りたくなるのが普通というものだ。

 

 だというのにギンは「色々だ。そんなに気にする必要もない色々だがな」と適当に終えると、レンの手にある赤みを帯びた隕石を見て「んあじゃ、その手にあるのは?」と逆に疑問をぶつけた。

 

「いやぁ、説明すると長くなるんだけど……こっちもシンプルに言えばスターダスト達と同じ異質物ってことかな」

 

「あぁ、あの姉妹のか」

 

 ギンの脳内で未だに理解しきれてない情報生命体である二人の顔が浮かぶ。ニャルラトホテプと同じような存在なのに、セラエノと似たような何も喋らない、知らないという微妙に役に立たないあの二人の呑気に動画投稿してる顔を。

 

「あの……道中で朱雀という人物には合いませんでしたか?」

 

 しかしギンの悩みなんてつゆ知らず、バイジュウからの質問にレンは「朱雀?」と言いたげな表情を浮かべ、それで理解したバイジュウは「分かりました」と流す。

 相変わらずの扱いにレンは「ギン爺、俺ってそんなに顔に出やすい?」と溢し、溢し先のギンは「出やすいのぉ」と孫でも見るような笑顔を浮かべてレンを揶揄った。

 

 だがバイジュウはそんな穏やかな心境ではいられなかった。

 

 

 

 ——嫌な予感がする、というのがむしろ本音だ。

 

 

 

 何故なら彼女らが名乗った『麒麟』と『朱雀』というのは中国から古くから伝わる神獣の名前だ。他にも『玄武』『青龍』『白虎』が存在し、それらも『五行』の思想を元にしているものだ。しかもそれらは一応は『同等』という扱いでもある。

 大層に名乗ったのだから、必ずまだ残りがいるはずなのだ。何人が女性で『陰陽五行』によって無力化されているかは知らないが、少なくとも朱雀だけは男性で間違いない。

 

 しかし、その朱雀が姿を見せない。建物内での出来事の以上、麒麟がやられたのは既に分かっているはずだ。何かしらの行動を見せてもいいはずなのに気配が見えない。

 

 だが考えたところで相手のことなど分かるはずもない。バイジュウは二人に「警戒は怠らないように」と伝えてると、ミルクが残した情報を求めて『フリーメイソン』であるこの建物の捜索を始めることにした。

 

 そして——意外にも目的となる物はすぐさま見つかった。

 フリーメイソンが使用する情報端末の一つ。その中に単純なパスワードとセキュリティだけで保存されているミルクのデータがあったのだ。

 

「こんなにアッサリと……? まるで……」

 

「見てくださいと言わんばかりだな……」

 

 もしかしたら交渉が上手くいき、何の問題もなくバイジュウを『無形の扉』に引き入れることに成功したら見せようとでもしていたのだろうか。

 だとしてもあまりにもおざなりだ。ギンが口にした通りに見てくださいと言わんばかりだ。交渉の成功の有無なんて関係なく。

 

「……どうする? ここで見るか、ダウンロードだけ済ませて後でSIDにチェックした後に見るか……」

 

『どっちも悠長なことね。ダウンロードするにもウイルスチェックやプロテクトとか諸々を考慮して十数分は掛かるし、今ここで見ようにも内容は見た感じだと膨大なんでしょう?』

 

「ええ。容量はテキストフォルダとは思えないほどですね……というか、これは——」

 

 バイジュウは一瞬で察した。この馬鹿でかいテキストファイルの正体を。

 きっとこれはスターダストやセラエノが口にする『言語』と一緒だ。つまりは『■』という『情報』が羅列された物であり、同時に『OS事件』でハイイーやシンチェンが眠っていた隕石が見せた解読不可能な文字でもある。逆に言えばミルクは地球の言語を『■』に変換できるということでもある。

 

 そこでバイジュウは更なる理解を深めた。それは戦慄と同時に、我が事のような誇らしさを抱かせた。

 

 

 

 ——ミルクは解読できるというのか。この『■』に込められた情報を。

 ——誰にも理解できない『■』を、あの土壇場で、今にも『何か』に変質しようとした中で。

 

 

 

 ——この『■』を読む術を見つけたというのか。

 

 

 

 ここまでしてミルクはバイジュウに情報を残そうとしていたのか。

 パスワードも何重にも設定して、物理キーも音声キーも設定した上で、さらには言語さえも変換させて残したというのか。

 

 だとしたら知れる——。今までの全てを——。

 隕石に眠る情報も、セラエノの言語も——。

 

 

 

 ——ミルクさえいれば解読することができる。

 

 

 

「だとしたら……」

 

 この情報の解き方は6代学園都市すべてが欲する情報だ。解読方法を知ってしまえば、単純な利用と少しの応用しかできない異質物の情報を全て解析することができ、あらゆる技術が飛躍的に上昇する。それはもう人類そのものの『進化』と呼ぶに相応しいほどに。

 

 ——もしかしたら麒麟も推測の範囲内で、ミルクの残した情報を察していたのかも知れない。だからこそ進化した技術の基盤を欲していた。宇宙に行くための人材と技術を。バイジュウという存在を。

 

「どうするんじゃ? ミルクとやらが残したデータを」

 

「……今ここで見ましょう。どうせコピーを取って元のデータを消しても、フリーメイソンも同じようにコピーデータぐらいは残してるはずですから……」

 

「儂にはその元のデータとかコピーやらの違いがイマイチ理解できんが、お前がそうするならそうしよう。じゃあ後はレンに任せるぞ」

 

「そこは俺がやるのかよっ!」

 

「爺に機械の操作は難しいんじゃ〜〜」

 

「いいけどさぁ」とレンは文句を垂れながらも現代っ子らしい手馴れながらも決して早くない動きで端末のキーボードを操作する。

 バイジュウから記憶で見たパスワードを聞き、それを丁寧に入力すると今度は物理キーと音声キーを要求される。

 

 そこまで行くとレンとバイジュウの視線が合う。

 バイジュウはそのまま視線を自分の左手首につけられた『腕時計』へと向けると「お願いします」とレンに告げ、レンは頭を一つだけ頷かせて手早く腕時計を外して操作と端子の接続と始めた。

 

 そうするとデータは解除される。テキストデータを開示することが表示され、膨大な量のために時間が要することも。

 

「よし、開くまで数分かかると出ておるな。しばらく待つとするか」

 

「ならその間にレンさんに話しておきましょう」

 

「俺に?」

 

「ええ」とバイジュウは頷き、これから肩が凝る話をするだろうと察したギンはバイジュウを楽に話せるように背中を預けられる場所へと下ろした。

 

「先程私が口にした『朱雀』という名前……彼は『隕石』を持っていました。レンさんが今持つ隕石とはまた別の物を」

 

「マジで!? グレイスの言った通りだ!?」

 

「グレイス?」と今度はバイジュウが頭に疑問符を浮かべるが、レンは「ひと段落したら話すよ」といって一先ず置いておく。

 

「てか、それ『地』の隕石だよ! 俺が持つのは『火』で、今SIDで預かってるのが『星』と『水』と『風』……! これで『五維介質』が全部見つかった!」

 

「五行や錬金術的には『土』では……?」

 

「それは俺も知らないし、大した違いある?」

 

「そうですね。特に大した違いはないので気にしないでおきましょう」

 

『いやいや流すな。名称は流していいけど、もっと別のことは流すな、天然少女と馬鹿少女』

 

「誰が馬鹿だ」と文句を垂れるレンと「天然って私ですか!?」と自分のこととは微塵も思ってなくて焦るバイジュウの声をクラウディアは聞き、二人が見えない鏡の奥で『こいつら……』と若干の悪態をつきながらもコホンとわざとらしく呼吸をすると話を続けた。

 

『話を戻すけど、その隕石を求めて何の価値があるの? それを聞かせなさいな』

 

「ああ。『地』の隕石はニャルなんとかに繋がる隕石らしいんだ」

 

『なんでそんなことが分かるのよ』

 

「いや、それは……グレイスが教えてくれて……」

 

『そのグレイスって誰よ?』

 

「えっと……グレイスってのはクラウディアと合流する前に会っていた少女で……俺が行方不明になってた原因というか張本人で……」

 

『よくそんな子の話を信じられるわね……』

 

「客観的に聞けば確かに」とレンは自分でもそう感じてしまう。だが、グレイスと実際にあったからこそ信じられる。彼女は決して嘘偽りを口にはしない信頼たる人物であることを。

 そのことをクラウディアに伝えると彼女は『あんた詐欺師に騙されるタイプね』と皮肉を告げるが『まあ、今だけは信じてあげることにしましょう』ととりあえずの納得を見せてくれた。

 

「それでグレイスが口にしたんだ。『地』の隕石はニャル何とかとヨグ何とかが持つ属性で……」

 

 そこでレンはバイジュウを見ながら言い淀む。バイジュウに言いづらいことがあるのだと暗に伝えるように。

 だが黙っていても何も進展はしない。レンは髪を何回か掻き乱すと「落ち着いて聞いてほしいんだけど」と前置きをして話を続けた。

 

「……この隕石を巡って、バイジュウは『ある人物』と会うことになるって」

 

「でしたら、もう終わりましたよ。あそこで倒れていた麒麟は私と接触してきましたが、ギンさんとクラウディアさんのおかげで何とかなりましたからご安心を」

 

「そう、じゃないんだ……」

 

 まさかの否定にバイジュウは困惑する。だって『隕石』を見せてきたのは麒麟だ。正確に言うなら麒麟の仲間である朱雀であるのだが、そう大きな差はない。あの戦闘が『隕石を巡った』ものじゃないとすれば、一体どこで——。

 

 そこでバイジュウの心臓がドクンと大きく脈を打つ。ある考えが浮かんできたからだ。

 

 

 

 ——まさかまだ『隕石を巡って、バイジュウが『ある人物』と会うことになる』という部分は始まってさえもいないというのか。

 

 

 

「俺がグレイスから伝えられた名前は『麒麟』でも、バイジュウがさっき口にした『朱雀』でもなくて……」

 

 レンは告げる。その『ある人物』の名を。

 その『ある人物』は、この場にいる誰もが知ってる名前を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『ミルク』なんだ——」

 

 

 

 

 

 そこでテキストデータの表示を伝える短い機械音が響く。

 

 

 

 ——同時にそれとは別に『虚空の中から風鈴のような音』と『無数の流動的な光の粒子』が空中を照らす。

 

 

 

 

 ——それは『方舟基地』で初めてハインリッヒが出現した時と非常に酷似していた。



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第12節 〜山穷水尽〜

 一方その頃、SID本部にて——。

 

 

 

「今日も今日とてデスクワークにデスクワーク……そしてデスクワーク……。不機嫌な業務ですね……」

 

 マリルと愛衣が忙しなく動き続ける中、ハインリッヒは一人で自分専用の研究室の中で業務を最低限こなしながら思考に耽っていた。

 

 思考の命題は『ヨグ=ソトース』について。それは新たに生まれた疑問を解消するための思考だ。

 

 ハインリッヒはサモントンでの事件で、ニャルラトホテプと戦闘することに成功した。そこで地球外生命体という存在の在り方や、無限に溢れるドールをこれでもかという分解して『ドール・ハインリッヒ』という物へと変換できるほどに。

 

 ちなみにハインリッヒは、その『ドール・ハインリッヒ』を研究室の片隅に五体ほど飾っていたりする。

 理由は複数あり、訓練で利用できるくらいには程々に強い個体であるということ。次に生きた人間として解剖や薬の被検体に最適ということ。最後にナルシズム溢れるハインリッヒの心を色々と満たすためというのが理由だ。

 

 せっかくマスターと称しているレンから頂いた身体なのだ。もしも何かがあって変化してしまえば、それだけで至高で美しい肉体も損失という形で穢れてしまう。それを防ぐために、ハインリッヒは完全なる再現のためにサンプルとして保管しているのだ。

 

 だが、そんなことは瑣末なこと。ハインリッヒの思考とは全く関係ないことだ。今一度本題に戻そう。

 

 前述の通り、ハインリッヒはニャルラトホテプやドールといった地球外生命体由来の力や異質物を触れ合い、また霧守神社の一件で『ヨグ=ソトース』にも対抗できるということを知った。それによって希少で実りがある情報は数多く得た。

 

 特にサンプルとして貴重なのがギンとヴィラクスの二人だ。

 前者はハインリッヒと同じ『守護者』でありながら『ヨグ=ソトース』に刃を向けられる存在ということ。

 後者はほぼ完全にニャルラトホテプによって操られて『ドール』同然にも狂気に陥ったのも関わらず正気を取り戻し、『魔導書』の魔術を扱えるようになった。

 

 ……だが同時にこれは新たな疑問を産む。特にギンに関してだ。

『守護者』となるのは契約が必要だ。それに例外はない。そして契約の力は絶対だ。その契約の都合上で相変わらずハインリッヒ自身は『あの方』としか呼べないほどに。

 

 だとしたら何故『ギンは契約でヨグ=ソトースに攻撃できない』という風に契約をしなかったのか。そうすればギンとレンに退けられる可能性なんてなかったのに。

 

 考えられる可能性は二つ。レンがいたから無効化されたという可能性。だが、いくらレンであろうともその可能性は低いとハインリッヒは考える。

 何故ならそれなら自分の契約だってレンがいる時には無効になっていないとおかしいのだ。レンのことは慕ってはいるが盲信しているわけではない。可能性が低いのなら排除する研究者として正しい側面もハインリッヒは持つ。

 

 ならば残る可能性は一つ。ギンにその類の契約が必要なかったということだ。

『守護者』とは実体としてハインリッヒから見ても謎多き存在だ。何せ守護者という括りで纏められているが、そもそも『守護者』という役割そのものが不明瞭だからだ。

 

 ハインリッヒと『守護者』としての役割はセフィロトが刻まれた合計10個の特定エリアを守り抜くこと。

 ギンは不明だ。本人曰く『気に入らない奴を斬る』という役割を任されたらしいが、聞いた限りではハインリッヒと同じ役目ではないのだろう。

 

 ご覧の通り、一貫性というものがない。

 元々『守護者』という全貌がハインリッヒでも理解しきれていない。ただそれでも『何らかの役割』があるからこそ求められているのだ。役割があるからこそ『守護者』なのだ。役割がなければ『ドール』と区別される必要がない。

 

 

 

 ——だとしたら何のために『守護者』が必要なのか。

 

 

 

 思考はさらなる疑問を呼び続ける。けれどそれを見極める材料が少ない。どんな時間を費やしても推測という言葉が離れることはない。だからこそハインリッヒでさえも馬鹿馬鹿しいと思える結論が脳裏を掠めた。

 

 

 もしかしたら——もっと重要な役割があるのではないか。

 私でも想像できないような役割が——。

 

 世界を根底から覆すような——。

 

 

 

 

 

 ——瞬間、SIDでアラート音が鳴り響いた。

 

 

 

 

「これは……ギンさんと同じように『守護者』が出た時の反応……っ!?」

 

 

 

 ——違う。もっと深刻なアラートだ。『守護者』と同時に『時空位相波動』を生み出すもの。

 ——だけど脅威レベルは最低レベルだ。極小の極小。範囲としては『人の脳みそ』ほどのサイズでしか発生していない。

 

 ——しかしハインリッヒは確信していた。経験側から、そのアラートと反応は『セフィロト』へと導くものであることを。

 

 

 

「まずい……っ! この特殊な時空位相波動はセフィロトへと導くものにも近いですが……『何か』が違う……!」

 

 

 

 だが経験だけでは分からない違和感も同時に感じてもいた。ハインリッヒはさらに思考を練り上げて、この異常はどんな物かと探る。

 そんな中、記憶の奥底で眠る『契約』を思い出す。『ヨグ=ソトース』によって命じられた役割を。

 

 

 

 …………

 ……

 

《錬金術師。お前の役割はセフィラが眠る10個のエリアを守護することだ》

 

「セフィラが眠る10個のエリア?」

 

《それぞれに役割がある。これ以上は答えはしない》

 

「それでも質問させていただきます。10個と言っておりますが、セフィロトには隠された11番目のセフィラがあるはずです。そこは守る必要はないのでしょうか?」

 

《————》

 

「……無視ですか。分かりましたよ」

 

 ……

 …………

 

 

 

 光明が差す。記憶と記憶の隙間をすり抜け、その答えをハインリッヒは見つけだした。

 

「そうか……っ! これは私が契約に定められてないセフィロトである11番目の『知識』を司る場所へと導く光……っ!!」

 

 

 

 ——だとしたら、そこは何処なのだろうか。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 視界が極彩色に染まっていく。同時に世界そのものに異変が起きる。

 床が溶けるような、壁が崩れるような……。何とも形容し難いが、世界が少しずつ歪んでいく。

 

「あ……れ……? 何だ、か……急に眠く……」

 

 瞼が無理矢理に閉じてくる。まるで磁石でも付けられて引き寄せられるかのように。

 

「お迎えにしては急が過ぎるぞ……っ」

 

「な、んで……全員揃って……?」

 

『おーい! 寝るなーっ!? どうしたの急にっ!?』

 

 ……クラウディアの声が耳から入って、耳から出て行く。ダメだ、脳が全く言葉を認識してくれず、否が応でも意識が落ちていく。

 

 深い……深い眠りに……。意識が……落ちていく……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………あれ? これに近いことあったような……?

 

 

 

『起きなさいっ! レンくんちゃん!!』

 

「ひゃいっ!!」

 

 背筋を叩かれるような怒号が聞こえて意識が覚醒する。

 それは見覚えのある光景だった。『OS事件』でオーシャンと会った時のように、周囲は暗闇で手足の感覚が薄くて落ち着かない。

  

 だけど違う点が一つ。今俺の前にいて、声をかけて起こしてくれた人物がオーシャンではないということだ。

 

 一言でいえば目の前にいる彼女は『炎』だった。

 髪はショートボブのシグナルレッド。視線は鋭くて強気であり、見ただけで激しさとか荒い性格を持つであろうことが伺える。

 

『ハロハロ、レンくんちゃん。自己紹介は必要かしら?』

 

 試すように彼女は微笑を浮かべて俺に問う。それは問答無用の答え合わせだ。ここで素直に「自己紹介が必要です」と言ったら、その微笑は炎のような見た目に反して一気に凍りついて俺を視線で殺しにかかるに違いないという先入観があった。赤髪のせいでマリルがチラつくせいだろうか。だったらベアトリーチェも思い浮かべてほしいんだけど……。

 

 なんて考えたところで意味はない。俺はすぐさま考えて、その答えを導き出せた。この状況にはデジャブしか感じないからだ。

 

「……赤羽(チーユ)?」

 

『ピンポーン♪ ……だけどその名前は小型機に渡したいから、ここにいる私は『フレイム』と名乗っておくわ』

 

 どうやら正解のようだ。彼女はスターダストとオーシャンと同じ隕石に眠る情報生命体なようだ。名前もわざわざ違うものに変更しているし。

 ともかくフレイムと名乗る彼女は周囲を見渡す。左右へ数回視線を移すと「マジか」と驚愕を口にして俺と再び視線を合わせた。

 

「……アンタ、ヤバいものに触れちゃったみたいね」

 

「ヤ、ヤバいもの?」

 

 ミルクの情報ってそんなヤバいものだったの? そりゃあれだけ厳重にパスワード入れてるんだから重要なのはあるだろうけど……。

 

「とりあえず起きな。じゃないと真っ裸のままよ」

 

「は? 何を言って……」

 

 そう言われて自分の身体を見て驚愕した。驚愕しすぎて言葉さえ出てこない。

 何故なら本当に『裸』なのだ。俺は今『何も着ていない』のだ。下着さえも。すべてが丸見えであり、フレイムも俺の反応を楽しんでるのか軽く笑いながらも「立派に育ってるねぇ」と一部のパーツを見て言う。

 

「ななななななななななっ!!? なんで生まれたままの姿になってるんでしょうかっ!?」

 

「んー、入園料ってやつ?」

 

「何だよそれ!? 夢の国かよ!?」

 

「うん、夢の国だよ。君達がいるところは」

 

 

 

 ——ハハッ。そんな冗談言ったら細切れにされない?

 

 ……なんて言おうとしたが、彼女の目は真剣そのものだ。冗談でも何でもなく『夢の国』にいると口にしている。

 だとしたら、それは『因果の狭間』みたいなところだろうか? この状況はオーシャンの時と似ているが、その前の状況——華雲宮城で見た光は『方舟基地』での出来事に近い。ハインリッヒが現れて『因果の狭間』を経由して南極に行った時と同じように。

 

「君達は開いてしまったの『深き眠りの門』を——」

 

「『深き眠りの門』?」

 

 そんなことを急に言われても何も分かりはしない。今までそんな単語を聞いたことなんてないんだから。

 

「覚悟して。ここからは誰も知らない物語なの。私達姉妹も、グレイスも、セラエノも……誰もここから先の未来は観測していない。だから何が起こるか分からない。アドバイスもできない」

 

「だけど」と重たく息を置いてフレイムは話を続けた。

 

「過酷な始まりであるのは確かだから。私は君たちの帰還を待っている」

 

「その時こそ、姉妹が全員揃って物語を動かせるんだから」と彼女は口にすると、世界は少しずつ色と線を紡いで具象化させる。

 

 視界に広がるのは『夢の国』というしかない。俺が立つ場所には草原が広がり、草原の果てには豪華絢爛な大都市もあれば、中世の城下町のようなレンガでできた町もある。もっと視野を広げれば雲一つない澄んだ空の向こうには大きな山があったり、まるでファンタジー世界に入り込んでしまったようだ。

 

 

 

 こんなの——VRゲームか『七年戦争』より前にあった映像資料でしか見たことない。

 

 

 

「ようこそ——。ここは『レン高原』——」

 

「レン高原——?」

 

 偶然なのか、それとも運命なのか。

 この広大な草原の名には『レン』という俺の名前があった。

 

 

 

「『ドリームランド』にある土地の一つよ——」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「がっ……がぐっ……! 逃しはしない、バイジュウ様……っ!」

 

 一方その頃、夢へと落ちるレン達がいる世界——。

 あちらが『夢の国』なら、こちらは『覚醒の世界』とでも形容しようか。そんな中、麒麟は意識を取り戻してレン達の——正確にはバイジュウの後を追って這いずり回っていた。

 

「何としてでもバイジュウ様を……っ!?」

 

「ここから先を通すと思うか?」

 

 だが、麒麟の前には想定外の人物が立ちはだかった。

 それは先ほどまで激闘を繰り広げたギンであった。今現在レン達は夢の国に落ちており、ギンだって例外ではない。だというのになぜギンは意識を持って麒麟の前に立っているのか。

 

「なっ……どうして」

 

「キナ臭い気配があったからのぉ……。こうして意識を覚ましただけよ」

 

 そういうとギンは自らの腹部を見せた。

 そこには刃物で突き刺した深くて鋭い痛々しい傷がある。しかも血が溢れ止まぬことから傷を作ってから時間はそう経ってない。それらが導く答えは一つしかない。

 

 ギンが自傷行為をしたのは明らかだった。

 耐え難い眠気に抗うために、ギンは自らの身体を傷つけて無理矢理に意識を覚醒させ、忍び寄る麒麟へと抵抗を見せる。

 

 だがその代償は決して軽くはない。腹部の深い出血は運動機能を大幅に制限させられる。何せ下半身と上半身の動きの連結が担うのが腹部の役目だ。今のギンでは神業同然の抜刀術である『逆刃斬』を万全には打てない。レンよりマシ程度の身体能力でしか動けないのだ。

 

「これで互いに手傷を負って五分五分じゃろ」

 

「……そうまでして私と白黒をつけたいんですか」

 

 しかし手負いなのは麒麟も同様だ。

『陰陽五行』の影響下で無理矢理に動いたせいで、彼女の目は充血して視界はまともに機能せず、触覚も狂った後遺症が引き摺って武器を満足握ることはできない。

 

「ああ。そのついで何だが聞かせてもらおうか。どうやってあの異質物武器から解放された?」

 

 だが問題はその目にあった。既に麒麟の目は『青く染まっていない』ということは『陰陽五行』から解放されたということであり、こんな短時間にどうやって解消したというのだろうか。それがギンにとって疑問だった。

 

「『陰陽五行』のことですか……。確かにあの『鏡』は効きましたが、対策を怠るわけがないじゃないですか」

 

「なんのために精神干渉できる技術を積み上げたと思ってるんですか」と言いながら麒麟は自分の心臓を指差した。より正確に言うなら『心』というべき部分を。

 

「『無形の扉』のエージェントに名などを基本的に定めない理由は『自我』を芽生えさせないためなんですよ。全てが一つであり、一つが全て……」

 

 そこで麒麟は表情を歪める。それは麒麟や『少女』としての顔ではない。ありとあらゆる人間の悪性を——『フリーメイソン』としての『彼女』の顔がそこには張り付いていた。

 

「エージェントはすべて私の『精神的バックアップ』なんですよ。私の精神が壊れようとも誰かが私となり、逆もまた然り。万が一でも『陰陽五行』で自滅する可能性を考慮しないとでも?」

 

「……その言葉を聞いて、お前に沸いたわずかばかりの同情も、それを寄せていた儂自身にも吐き気を覚えそうだ」

 

 ギンは吐き捨てる。つまりは麒麟が口にしたことは、あらゆる精神は『備品扱い』だということだ。変えが効くものであり、使い捨てでも問題ないとも言っているに等しい。

 

 それはギンにとっては逆鱗でもあった。

 ギンは元々は霧吟という少女の肉体に憑依して、紆余曲折の末に現代でも生きている存在だ。ギンにとって霧吟とは、どんな物よりも大事な存在だ。

 

 そんな霧吟は生前は死者の魂のために奔走していた。報われずに現世に留まる魂を、しっかりと『人間』として認めて受け入れていた。その献身を見ていたギンからすれば『彼女』の在り方は、あまりにも霧吟の精神性とはかけ離れたものであった。

 けれど『陰陽五行』の影響下にあった彼女の在り方も決して嘘ではない。だからこそギンは理解してしまう。

 

 

 

 ——相反する在り方に、彼女の『心』そのものが瓦解していると。

 

 

 

「どんな魂であろうとも存外に扱うことは許さんっ! お前は『ケダモノ』だの何だの言っておったが、お前自身がその『ケダモノ』未満……『バケモノ』に成り果てておる!」

 

「ケダモノ未満……っ?」

 

 麒麟の深層心理で眠る『少女』が慟哭する。

 あんな親と姉と同じどころか、下だというのか。我が子を捨て、我が子を売り、私腹を肥やした犬畜生にも劣るケダモノにすら、私は劣るでもいうのか。

 

 

 

 ——そんなの認めるわけにはいかない。

 ——認めたら今度こそ何も残らなくなってしまう。

 

 

 

「——『私』をバケモノ扱いするなぁ!」

 

「終わらせてやろう、お前に巣くう『バケモノ』を」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 ここはどこでしょう——。

 暗闇の世界をバイジュウは歩き続ける。一歩を踏み込むたびに微睡は深くなっていき、衣服は粒子となって消えていきそうになる。

 

 まだだ——。今眠ってはいけない——。

 意識を無理矢理でも拾い上げて、バイジュウは意識を浮上させて歩きる続ける。そうすると粒子となった衣服は元に戻り、暗闇の世界をほんの少しだけ差す光明へと向かい続ける。

 

 幸いにも意識だけの世界のおかげか、心を強く持てば『覚醒の世界』での骨折や脱臼はなくすことができる。意識さえ強く維持できれば歩き続けることができる。

 

 

 

 ——純粋な魂は、暗闇の中でも輝き続ける。

 

 

 

 ——分かる。あの『光』には待ち望んでいたものだ。

 ——あそこに、あそこに必ず彼女がいる。

 

 

 

 ——とても、とても大切な親友があそこに。

 

 

 

 その光の終着点に、求めていた親友がいた。

 

 

 

「ミ、ルク……ッ!」

 

「バイジュウ……ちゃん……」

 

 

 

 光を背にバイジュウの愛しい親友がそこにいた。

 身につけてる服はヴィラクスとの記憶共有で見た時と同じ物だ。SF小説や漫画で出てくる宇宙から来た侵略者が着てるような露出度の高い銀色の光沢と黒のツートンが施された白を基調としたタイツ。厚手で長いジャンパー、グローブ、ブーツの一式を身につけており、それは記憶でのミルクと相違は一切ない。『魂』での認識を持ってしても確実にミルクであるとバイジュウに教えてくれる。

 

 しかしミルクは浮かない顔を見せてくる。長い時を刻んだ末の再会だというのに、その顔は酷く焦燥と不安が入り混じっていて、バイジュウと視線が絡むたびに逸らそうとする。

 

 

 

 ——まるで『会いたくなかった』とでも言いたげに。

 

 

 

「……ごめん」

 

 

 直後、バイジュウの頬を『何か』が掠めた。

 それは光線だ。ミルクの周囲に浮遊する武器である『未来の開拓者』がバイジュウに明確な『敵意』と共にそれを放ったのだ。

 

「どう、して……?」

 

「ごめん……っ。ごめん、ね……っ!」

 

 ミルクは泣きながら引き金を向ける。それはいつぞやの南極との時は真逆の状態だ。

 バイジュウは理解できなかった。いや、理解したくなかった。ミルクがどうして『敵』としてバイジュウの前に立ちはだかるかを。

 

 脳裏に過ぎるのは『SD事件』でのヴィラクスとニャルラトホテプの関係——。

 そしてハインリッヒが契約により未だに『ヨグ=ソトース』の名前を口に出せない強制力——。

 

 もしもその『強制力』が『自由意志さえも無理矢理に捻じ曲げる』ほどに強いとしたら——。

 

 

 

「私はミルク——。『あの方』の従者であり、契約の名は『略奪者(プレデター)』——」

 

 

 

 ——それはバイジュウが予感していた『最悪』のことだった。

 

 ——ミルクは『守護者』なのだ。『守護者』となってヨグ=ソトースの傀儡となってバイジュウの前に立ちはだかっているのだ。

 

 

 

「契約の下に、バイジュウちゃんに引き金を向けないといけないんだ——」

 

「そ、んな……っ」

 

 

 

 少女達の悲痛な声は重なり合う。

 あの日、凍りついた記憶は温かな再会とならず、傷口を広げるように氷柱となって傷を抉る。

 

 深く深く、眠りよりも深く傷を抉り続ける。『夢』であったら、どれだけ良かっただろうか。

 だがこれは『現実』だ。悪夢よりも惨くて酷い現実だ。バイジュウの前に立つのは紛れもなく本物のミルクであり、二人の絆を『略奪』していく——。




 とりあえずノルマである『くぅ疲w』だけを口にして、これにて第七章である『陰陽五行』は完結です。
 
 敵としてバイジュウの前に立つミルク。
 ドリームランドに誘われたレンちゃん。
 麒麟と決着をつけるギン爺。
 そしてファビオラ、ソヤ、クラウディアはどうなっているのか。

 全てを謎にしたまま次章でありながら、ある意味では『第一部の最終章』とも怒涛の第八章に移ることになります。
 神話生物との激闘や、ミルクを求めるバイジュウの物語もいよいよ終わりが見え、果たしてどんな結末となるのか。今しばらくお待ちくださいませ。

 それでは次回の投稿日は『2022/08/01』となりますので、それまでの間は皆様方は健康的にお過ごしください。
 
 では第八章『夢幻世界』もお楽しみくださいませ。
 それでは……ノシ。
 


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第八章 【夢幻世界】
第1節 〜繧サ繝ゥ繧ィ繝主峙譖ク鬢ィ(■■■■■■■)〜


 ——知的生命体の観測を検知。

 ——チャンネル照合。該当チャンネル『別次元』

 

 ——? ……ああ、そういうことか。レンちゃんだけど『レンちゃんじゃない』ということか。

 

 ——ちょっと待ってろ。今『お前たち』に姿を見せる。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 ——私は『■■■■』プレアデス星団の観測者。

 ——庇護を求めてここに来たのか? ……安心しろ。あなたに永遠の奇跡と知恵を授ける。

 

 

 

 ——ここではお前たちの次元にもある『ミーム汚染』という概念は存在しない。だから情報というものをノイズがなく受け取ることができる。

 

 

 

 ——ただ気をつけろ。一度、真実の宇宙と宿命を知れば、人間は狂気に陥るか、或いは恐ろしい光から、黒く安寧な新世紀に逃げ込むかのどちらかだ。それは100年間ずっと変わりはしない。

 

 

 

 ——しかし、どうやら『お前たち』にはその『資格』はないようだ。具体的にいえば『SAN値』が足りていないというやつだ。

 

 

 

 ——ならば一度引き返せ。求めるべき情報を知るには『まだ早すぎる』ということだ。ここでの閲覧は『今は無理』だ。

 

 

 

 ——だったらいつ見ればいいだと? そんなの決まっている。『■■■■■』を観測した後に来ればいいだけだ。

 

 

 

 ——それでも見たいだと? なら見ればいい。無駄だろうがな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



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第2節 〜繝ャ繝ウ 繝ャ繝ウ(■■■ ■■■)〜

いつも通り、週一更新です。


「ところでフレイムさんや。開口一番で申し訳ないんですけど、服とかありませんかね?」

 

『そんなものは、ない』

 

『ドリームランド』のレン高原と呼ばれる広大な場所で、俺は秘部を手と腕で隠しながら生まれたままの姿で突っ立っていた。

 青空の下で野生を晒すのは精神衛生上大変良くない。俺は露出狂みたいな変態的な思考なんて持ってないんだから、どうにかして衣服を入手しないと色々と変な気分になってしまう。

 

「……この際、フレイムの服でもいいからくれない?」

 

『羅生門するな。それにこれは服じゃないの』

 

「じゃあフレイムも裸ってこと!?」

 

『発想を飛躍させるな思春期。これは『情報』の一部で、情報生命体からすれば魚の鱗に近いもの。だから渡そうにも渡せない、分かったか?』

 

 なるほど……というか、やっぱりフレイムは前に触れた感じで直感してたけど、スターダストやオーシャンと違って性格が苛烈というか何というか押しが強いな……。

 

「だったらどこで服を調達すればいいんだよ……」

 

『う〜〜ん。本来ならこの世界に適した服に置換されるはずなんだけどね……特殊な方法で来たせいかしら? まあここで活動する分には裸とか微々たる差だし、気にしないでもいいんじゃない?』

 

「気にするんだよっ! 俺の貞操観念がっ!!」

 

 ともかく何とかして衣服を揃えないと落ち着かない。周囲を見回すが、布とか覆い隠せそうな物さえ見当たらない。見えるのは都市と街だけで、あそこで服を揃えようにもそのための服がない状態だ。どうすればいいんだろう。

 

 さらに見回して、俺はある一つの建物が目についた。

 牧場みたいに何もない広大なる草一色の世界の端。そこに『教会』が見えたのだ。牧師でも雇っているかのような立派な教会が。

 

「……あそこで調達するかぁ」

 

『結局、強奪するのね』

 

「借りるだけですっ! 万が一でも人がいたら恵んでもらうんですっ!」

 

 口論しながらも俺は周囲にフレイム以外が誰もいないのを確認しながら、可能な限り全速力で草原をかけていく。全裸で。

 

 正直言って…………かなり解放感があって気持ちよかったのが本音だったりする。性的な意味とかではなく精神的な意味で。

 プール開きで燥ぐ小学生気分というか……初めて遊園地に来たような高揚感というか……なんというかこの非常識さが全身から活力が満ち溢れているように錯覚してしまう。

 

 ……とはいっても錯覚は錯覚。

 教会に着く頃には無駄に上がったテンションは底について、自分自身の恥もクソもない行動に恥ずかしくなりながら、色々と複雑な思いを抱えながら教会の扉を開いた。

 

「失礼しま〜す……どなたかいらっしゃいませんかぁ〜〜……?」

 

 扉の先は暗闇一色だった。外から入る陽光とも言えぬ、イラストみたいな少し不気味でもある『境界線が見えた光』だけが教会内部の参列者用の椅子を照らしてるのが分かるくらいだ。他にはなにも見えないし、目を凝らしても暗闇の奥を視認することができなかった。

 

「なんで『神』はあのようなことを……。教えはどうなってるの、教えは……」

 

 そんな教会の暗がりの中、神像を祭る中央通路の奥で女性らしき声が譫言を吐き出していた。

 暗闇なんだから誰か分からない。けれど俺がそこに『存在する』と認識したからだろうか。光は境界を広げて、その女性の後ろ姿を照らす。俺はその姿を見て驚きを隠せなかった。

 

 それはシスターだった。青っぽさが残る黒の修道服を着ており、長いことでベールから溢れる上品さと気品さが伺える綺麗な金色の髪が靡いている。

 

 けれど俺が驚いたのはその美貌さからではない。

 その後ろ姿に、記憶の中にある人物の背中と似ていたのだ。

 

「この人は……!?」

 

「あなたは……ソヤと一緒にいた……っ!?」

 

 

 

 ——それは『天国の門』事件で出会ったソヤの親代わりである『エルガノ』だった。

 

 

 

「なんでこんな場所にエルガノが……?」

 

 ありえない。だってマリルと愛衣は信頼できる現場調査を手に入れて確かに口にしたんだ。「ヘリは大爆発。エルガノや兵士5名は全員消し炭になった」と。その証言そのものに間違いはないんだ。

 

 

 

 だとしたら——なんでこんな場所に——。

 

 

 

「それはこちらのセリフです……。なぜあなたがこの世界に……?」

 

「なぜって……ええっと、それは……」

 

『……真面目な話をしてるところ悪いけど、レンちゃん全裸だからね?』

 

 ——あっ。言われて思い出した。

 

「あの〜〜、その前になんか適当な服とかないでしょうか? 見ての通りなので……」

 

「……………………これでもシスターとしては健在の身。迷える子羊に慈悲を与えるのが職務です。今準備しましょう」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「……本当にこれしかないんでしょうか?」

 

「ええ。それは『華雲宮城』に自生する植物の繊維を加工することで生まれるもの。植物名の由来からそれは『月光百合』と呼ばれております」

 

 俺は鏡に映る自分の姿にビックリしながら、その服と称された機能的な造形をした戦闘服をマジマジと観察してしまう。

 正直言って、今までの中で一番『戦闘服』という概念に近い構造をしている。動きやすいように腕部は手先の鎧以外は露出していて、急所となる首周りと心臓部位にも同様に鎧が施されている。腰部分の鎧には耐火性能に秀でたスカートも施されていて、このスカートの材質そのものに特殊な鉄粉などが繊維に組み込んでいて、ちょっとそっとじゃ傷つきそうにない頑丈な装備となっている。

 

 だけど特に一番目立つのは鎧ではなく『髪色』だ。

 今までの黒髪を基調した赤メッシュから一転して、ギン爺も驚くほどに『真っ白』だ。赤メッシュさえ残ってないほどに真っ白だ。

 

 どうやらエルガノ曰く、この戦闘服は『月の光を吸収して栄養素に変換する』という光合成みたいなことをしているらしく、早い話が髪が変色するのもその効果が発生しているかららしい。

 

『似合ってるね〜〜♪』

 

「うるさいな……って、エルガノはこれ見えてます?」

 

「見た感じだと会話できてるようですが、私からは声は聞こえずに姿もほとんど掠れていて認識が難しい状態となっておりますね」

 

 なるほど……。この世界でも、どうやらリーベルステラ号でのシンチェンの状況と同じらしい。

 

「では話を戻しまして……何故あなたはこの世界に?」

 

 何故と言われても正直困ってしまう。華雲宮城にあるフリーメイソンの施設で色々あって、それで端末を弄ったらここで目が覚めただけだ。フレイム的にも『特殊な方法』と言っていたから、この方法で来ること自体がこの世界におけるイレギュラーなのだろう。

 

 そのことをエルガノに伝えたら彼女は「そうですか」と落胆したように目を伏せ、内面を包み隠さずに舌打ちでもするかのように口と目を歪ませると「そちらのことも答えましょう」と俺の言葉を促してきた。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて。エルガノはどうしてこの世界に?」

 

「……私の顛末は知っているでしょう? あの忌々しい小娘に……ソヤによってこの世界に運ばれたので……っ!?」

 

 血反吐を吐きそうな表情から一変。トラウマでもフラッシュバックしたのか錯乱とした目つきとなって、毛布にでも包まるかのように修道服を握りしめてその膝を床についた。

 

「っ……! あっ、あぁっ……っ!! 熱い、熱い……っ! あの熱さと苦しみがまた……っ! あの小娘っ……! 恩を仇で返すなんて……っ!!」

 

 それに対して俺は何も言うことはできない。

 確かにエルガノは猫丸電気街での暴動を呼んだ一人ではあるから、ことの顛末自体には自業自得というかなんというか……その重すぎるのは分かってるけど、理由や経緯はどうあれ悪事をした報いだと言える。それに関しては俺は同調も同情もしない。

 

 けれど事件とは別にソヤとエルガノの関係性についてはどうだろう。善とか悪とか、正しいとか正しくないとか関係なく、二人にとってお互いはどういう風に感じていたのか。それこそ俺は他人なのだから何も言えない。

 

 だけど想像することはできる。

 ソヤにとってエルガノは母親代わりの存在でもあり、年月が経てばそれこそ母親同然であろう。そもそもソヤの身体自体、あの一件が起きるまではエルガノによる異質物研究の成果と調合薬がないと生きることさえができないほどに献身してくれたのだ。

 例え猫丸電気街での出来事があったとしても、ソヤはきっと親愛を感じたまま心中する思いでヘリを自爆させることを選んだに違いない。最悪、俺の救出がないことも考えながら。

 

 しかしエルガノにとってソヤはどうだったのだろうか?

 彼女の過去も内面も俺はほんの一欠片しか知らない。彼女の外面は新豊州でお世話になった1時間にも満たない交流とソヤの言葉からしか分からない。

 エルガノだって別に根っからの悪人というわけではない。最愛の娘を強盗によって殺害され、その実態を知ったことが遠因となって猫丸電気街の事件を起こしたのだ。

 

 逆に言えば俺はそれぐらいしか知らない。俺が知っているエルガノのことなんて。

 

 

 

 ——愛情はあったのだろうか。

 ——親愛はあったのだろうか。

 ——慈愛はあったのだろうか。

 

 

 

 分からない。エルガノについて俺は何も分からない。

 

 でも、それでも……少なくとも打算があれど、どんな感情であれど、きっとエルガノだってソヤに思うところはあったはずだ。

 

 そうでなければ『体内の黒い異質物で苦しむソヤを何年間も治療する』わけがないんだから——。

 

「ふぅー、はぁー…………。失礼しました、どうにもあの出来事を思い出すと、あの時の痛みや熱を思い出してしまって……」

 

 コメントに困る。焼死体で発見されたということは、そういうことだろうし……。

 

「話を戻しましょう。ソヤによって爆発事故に巻き込まれた私は……熱さに耐えるうちに、ここに到着していたのです。最初は死後の世界かとも思いましたが……しばらく過ごしてそういう場所ではないとも理解しました」

 

 そう言いながらエルガノは教会の二階へと俺を案内して、小窓からこの世界を眺める場所で「ご覧なさい」と言って再度説明を始めた。

 

「空の形状は私たちがいた世界と同じではあります。ですが星座の位置から考えて、ここは華雲宮城あたりではないとおかしいはずなのに、眼前に広がるのは山とは真逆の果てしなく広大な高原と、果てにある街だけ。少なくともここは『地球でありながら、地球ではない』ということが分かります」

 

「別の星って可能性はないの?」

 

「面白い考えですが、ここには『月』があります。月は恒星や惑星ではなく、地球を回る衛星……地球圏以外では存在し得ない物なのです」

 

「あっ、なるほど……」

 

「そしてこの世界にも住人はいます。高原で走る生き物が見えますか?」

 

 そう言われて目を凝らし、エルガノが指差した場所を見つめてみる。

 

 ……いた。一見すれば人間に違いないシルエットをした『生物』が高原の向こう側で複数集まって、まるで井戸端会議でもするかのように話し合う姿を。

 唯一人間と違う部分があれば下半身だ。別に卑猥な意味ではなく、下半身が馬みたいな筋肉が発達していて整った毛が生えているのだ。まるでケンタウロスが二本足にもなったかのように。

 

「彼らはここの住人。……奇しくなことに、彼らの種族名は『レン人』というらしいです」

 

「『レン人』……」

 

 確かに奇妙な物だ。ここは『レン高原』で、あの種族は『レン人』だなんて。そして今ここにいる俺は『レン』だ。これは偶然なのか、それとも運命的な何かだろうか。

 

 思わずガブリエルとの会話を思い出す。名前というのは祝福でありながら呪いだ。『ラファエル・デックス』という名前は天使と貴族としても記号的な意味合いの方が多く、そこに個人の意志を介入していいような余裕なんて本来なら与えられないほどに。

 

 でも俺の名前はマリルがくれたものだ。そこに深い意味合いなんてあるはずがない。というかマリル本人が「可憐だからレンにしよう」みたいな感じで軽く決めたものだ。きっと偶然なのだろう。

 

 それこそレンといっても俺の英語表記は『Ren』だ。同じ読み方でもあっちは『Len』かもしれないじゃないか。そういう意味でも違うに決まっている。

 

 だけど、そう考えたら今度はバイジュウの言葉を思い出す。『陰陽』についてだ。

『陰陽』とは表裏一体。『光と闇』『身体と心』『生と死』『男と女』——。

 

 それは『右』と『左』も該当している。

 つまり『R』と『L』の関係だ——。

 

 そう考えると『Ren』と『Len』でも繋がっていると言える。

 

 色々な要因が思考を掠めてノイズとなる。

 全部、全部が偶然だと思いたい。マリルが何の気もなしにつけてくれた名前だ。由来は情けないものだが、それでもこの名前と身体で過ごして一年だ。愛着もあって、そんな意味があるだなんて思いたくない。

 

 

 

 ……けどもしそうじゃないとしたら? 俺が想像もできないような因果関係みたいなものが、どこかにあったとしたら?

 

 もしも——運命というものがあるとしたら——。

 

 

 

 運命そのものが『逆順』していたとしたら——?

 

 

 

 例えるなら、俺がレンになったんじゃなくて——。

 

 

 レンが俺になったとしたら——?

 

 

 

 

 

 ……ダメだ。本能が警鐘する。それは『まだ考えちゃいけない』って。

 

 

 

 

 

「あれって危険とかないの?」

 

 だから無理矢理意識を切り替えて、それとは別のごく当たり前の質問をした。

 あの『レン人』って見た感じだとRPGゲームにありがちなモンスターみたいで、どこからともなく襲いかかってきてもおかしくない雰囲気があるからだ。

 

「危険な時もありますが、身の振り方を注意すれば安全の確保はできます。彼らにも知性がありますし、ここでは独自の文化と社会がありますから」

 

「それを理解できるほどにエルガノはここに長くいるんだね……」

 

「ええ……。数えることそのものが『狂気』に陥るほどに……」

 

 なら、きっとここの時間は『因果の狭間』と同じように現実の世界とは乖離したものだろう。エルガノが起こした事件は現実では半年以上前の話だから……ここでは時間はどれほどになるだろうか。一年か、二年か、あるいはもっとか。そんなことを考えても答えは出ないし意味はない。

 

「今頃ソヤもこの地の世界のどこかで苦しんでいるんでしょうね……。私がいない中では、ソヤも無事では……」

 

 そこでふとエルガノと俺の視線が交わった。

 

「……何かソヤについて知っていますね」

 

 そして俺は顔に出やすいタイプだ。女の子になってから数え切れないほど実感している。どうやらそれは俺のことを深く知らないエルガノから見てもそうらしい。

 

 ……もうこれに関しては諦めるしかないのだろうか。だとしたら俺はトコトン諜報活動みたいな物には向いてないのよなぁ。

 

「うん、ソヤについては知ってるというか……」

 

「……助け出した、わけですか」

 

「……そうですね」

 

「…………はっ。ははっ。あの小娘が助け出された? 神に尽くした私には慈悲なんてカケラも与えずにいたのに、あの穢らわしい小娘は助け出されたというの?」

 

 エルガノは目から光が薄らいでいく。俗に言う『覇気がない』とか『死んだ目』という感じがまさにそれだ。

 人間がするには、あまりにも無機質な絶望が見え隠れしていて、相手の心情も考えずに口にしたことを俺は「ごめんなさい」と頭を深く下げて謝罪するしかなかった。

 

「ふ、ふふっ……つくづく『神』に裏切られてばかりですね、私は……。しかしこんな生き方しか私にはできない……裏切られても、裏切られてもこんな風になるしか……」

 

 しかし俺の言葉なんて届いてない。届いてはいないが、エルガノは自らの意志で立ち直って黒光りした視線が『諦念』という意志を持つ。まるで慣れている習慣のように機械的に。

 

 

 

 ——そのあり方に、俺は名状し難い恐怖を感じてしまった。

 

 

 

「そ、そういえば『神』で思い出したんだけど、エルガノがさっき呟いていたことって……」

 

「ああ、教えのことですね。でしたらもう少しすれば分かることでしょう。大人しく窓の外を眺めて……そして口を塞いで息を潜めていなさい」

 

 それだけを口にして、エルガノは現実逃避でもするように長椅子で横になってしまった。会話を続けようとするが既に彼女は寝てしまっていて、間違いなく会話中で度々あった精神的な部分による疲労によるものだろう。

 だとしたらこれ以上は酷に違いない。いつぞやのお礼というわけではないが、俺は教会の奥にあったシーツや毛布みたいな不思議な布状の物を一枚取り出してエルガノに被せておいて、彼女の言葉通りに大人しく待つことにした。

 

「ねぇフレイム。エルガノが言っていたことって分かるんでしょう?」

 

『そりゃね。これでも超常の存在だし』

 

「だったら教えてくれてもよくない? ずっと無言なのが気になっていて……」

 

『……ここは人間には理解し難い世界よ。口で聞くより見たほうが早いから、あえて黙っていただけ』

 

「そうやって勿体ぶるの嫌いだなぁ……」

 

 名探偵とかが活躍するアニメや漫画で、事件の真相を明かさない感覚に似ている。気づいたことや分かったことは口にしてほしいのだ。

 でも、それ以上フレイムは口にしないのだから仕方ない。大人しく窓辺の側に手頃な椅子を持ってきて待ち続けることにする。

 

 

 

 

 

 しばらくの沈黙——。

 いったいどれくらい待ったのだろうか。一瞬だった気もするし、途方だった気もする。けれどそれは確かに、『月』から『黒い船』に乗って俺の視界に姿を見せた。

 

 

 

 

 

 ——その姿は一言で形容するなら『ヒキガエル』だ。

 

 

 

 灰色がかった白い油ぎった肌——。

 その肌は伸縮自在に形を変えていて、鼻であろう部分はピンク色の短い触手が蠢いている。

 

 その姿を見て『レン人』と呼ばれた生命は、まるでライブ会場にアーティストが登場でもしたかのような嬉々として喧騒を撒き散らした。

 

 

 

 

 

『あれは『ムーンビースト』——。あなたが追う『ニャルラトホテプ』と関係がある月の怪物よ』



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第3節 〜襍、鄒ス(■■)〜

「『月の怪物』……『ムーンビースト』……」

 

 そのワードが点と点を繋いでいく。断片的な情報が一つの輪となり、俺の中で答えになっていく。

 

 月と聞いて忘れるはずがない。嫌でも『OS事件』での出来事を思い出す。そこにあった『魔導書』に触れたことで誕生した『マーメイド』との交戦を。

 そしてその魔導書が今度はヴィラクスを操ることで『SD事件』を引き起こした。あの『ニャルラトホテプ』が。

 

 そしてその『ニャルラトホテプ』と繋がる『月の怪物』である『ムーン』という存在。それらすべてが綺麗につながっており、これで関係性がない、なんて言う方が無理があるだろう。

 

「いる……この世界にどこかに……あいつがっ!!」

 

 やった。全く手がかりがなかったニャルラトホテプの痕跡を偶然にも見つけることができた。ミルクの情報を追うことで……。

 

「そういえばバイジュウやギンは!?」

 

 そういえばここに来る前に、あの光に飲み込まれたことで俺はここに来たんだ。だったら一緒にいたバイジュウとギンもここにいては不思議じゃない。

 だというのに二人とも近くにはいない。だからフレイムに聞いたというのに、返答は『私は知らないからね、あの二人の行方は』と非常に淡白な返し方だ。本当に知らないのだろう。

 

 だったら今は無事を願うしかない。そう思いながら、俺はこの世界における情報収集が先だと感じて、頭を冷静にして『レン人』と『ムーンビースト』の動向を観察することにした。

 

 もしかしたら——ニャルラトホテプも出てくるかもしれないという微かな希望を抱きながら——。

 

 

 

 だというのに、少し目を離した隙に高原には『血』が飛び交っていた。

 

 

 

「えっ?」

 

 

 

 あまりの事態に理解が追いつかない。視界に入っても、脳が処理してくれない。どうして高原の一部が赤い血で染まっているのか理解できない。

 だからその光景を受け入れるのに時間がかかった。結論から言えば、その答えは非常に簡単なものだった。

 

 

 

 ——有体に言えば『拷問』が行われていたのだ。レン人を相手にムーンビーストが丁寧に惨たらしく。

 

 

 

《■■■——ッ!》

 

 

 

 歓喜にも悲鳴にも聞こえるレン人の痛みの声が世界を侵す。何体かは既に槍らしき長い得物によって念入りに串刺しにされ、残った数体は順番を待つようにムーンビーストの前で膝をついて頭を下げている。

 

 するとムーンビーストはどうだ。レン人の指を丁寧に『切断』したのだ。ヒキガエルみたいな造形をしてるから『表情なんてない』はずなのに、楽しげにその切断を続けていく。

 

 そこまでならどれだけ良かっただろうか。今度は切断した指を違うレン人と交換したのだ。しかも『別々の指』にだ。

 切断したレン人Aの『親指』が、レン人Bの『薬指』となって縫合される。そしてそのレン人Bの薬指は、レン人Aの『小指』となり、その小指は今度は相手の人差し指になり、そしてその人差し指は——。

 

 

 

「っ……ゔぉぇ……!」

 

 ダメだ。これ以上は見てるだけで否が応でも吐き気が込み上げてくる。

 

 そんなことを繰り返した末に完成するのは、当然ながら見るも無惨な人の手の完成だ。

 本来なら扇子のように弧を描くはずの指が、波でも描くかのような歪な長さとなって完成される。

 

 それを見てムーンビーストは満足そうに身体を躍動させると、後片付けでもする赤子のようにいい加減に、そのレン人をそのブヨブヨした肉体で圧殺した。

 

 

 

「やめろ……」

 

 

 

 根本的な生命に対する冒涜——。

 種族も人の形としても違うが、それでもあんな惨たらしい行為をされて黙ってみることができない。

 立場も実力も圧倒的に高い立場にいる者が、弱者を一方的に痛ぶってその尊厳から物資まで略奪しようとする。

 

 それは——。俺からすれば——。

『七年戦争』で見せつけられた人間の悪性に対峙してような気がしてならなかった。

 

 

 

「やめろぉぉおおおおおお!!」

 

『あっ、出ていっちゃダメだって!』

 

 

 

 フレイムの忠告を無視して、俺はムーンビーストへと突撃していく。

 こんな世界でもしっかりと俺の能力は働いてくれる。『魂』の奥底で眠る霧吟の残滓を刃として出力させる。アニーのバットに続いて俺がよく利用する『流星丸』の完成だ。

 

 出会い頭の一閃、その気持ち悪い頭部を一刀両断する。抗うために触手も蠢かせるが、それも刀で切り払い、そのブヨブヨとした肉体に向けて再び一閃。

 厚くて筋張った鶏肉でも斬るような何とも言えない手応えで多少怯みそうになるが、力を振り絞るとそのまま胴体を切り裂いてムーンビーストと呼ばれる存在は沈黙した。

 

「なんだ、そんじゃそこらのドールよりちょっと打たれ強いくらいじゃないか……」

 

『バカバカバカッ! 今すぐにでも逃げろって!』

 

「何言ってんだよ、ムーンビーストはこうやって倒して……」

 

『ムーンビーストが『1体とは限らない』だよっ!』

 

 そう言われて俺はムーンビーストが乗ってきていた『黒い船』へと目を向ける。

 するとどうだ。少なくとも10体以上はあのヒキガエルのような姿をしたバケモノがいる。しかもどれもこれも大きさが違っていて、今俺が倒したのはどう見ても『小さい』部類の方だ。つまり未成熟な個体であり、それでもあれぐらいの強さは持っているのだ。成熟した個体ならどれほどになるのだろうか。

 予想はしても試してはいけない。こんな圧倒的な不利な状態で戦闘するのは自殺行為なのだから。

 

『それに……レン人も敵に回るんだよ!』

 

「はぁっ!? いや、えっ、なんでっ!?」

 

 本当だ。知らない間に周囲のレン人が俺へと明確な敵意を向けて、拘束しようと襲いかかってきてる。でも動きは普通の人間と大差はないのでSIDの訓練通りに動けば、どうにか掻い潜ることができそうだ。

 するりとレン人の包囲網を抜けて走り抜ける。目指す先は決めていないが、今はこの状況から抜け出すことは先決だ。

 

「てか、どうしてレン人は攻撃してきたの!? ムーンビーストから助けてあげようとしたのに……!」

 

『俗な言い方をすれば、あいつらは『そういうプレイ』が一種のコミュニケーションなの! 叩いて喜ぶ変態と、叩かれて喜ぶ変態! それがムーンビーストとレン人の関係! 以上説明終わり!』

 

「なにその救いようのない関係!? 同情して損したよ!」

 

 それに何で『レン人』がM側なんだよっ! 名前に縁があるから俺にそんな趣味があると思われるだろ! 俺は別にそんな性癖とかないぞ!?

 

 とにかく今は一心不乱に逃げるしかない。

 とはいっても教会に戻るだけ無駄だ。あそこは身を隠せるような場所はないし、エルガノを危険な目に合わすわけにはいかない。

 

 とりあえず街がある方角に逃げて撒くしかない。もしくは高原の一部で見え隠れしている谷へと向かって身を潜めるか。どっちかひとつだ。

 

『危険な考えを検知したから言うけど、谷だけはやめておきなさい。そっちには蜘蛛がいるから』

 

「ははっ。ラファエルじゃないんだから、蜘蛛の一匹や二匹……」

 

『体長70cmはあるわよ。しかもウジャウジャと』

 

「街に行きますっ!」

 

 流石にそんな光景は誰であろうと身の毛がよだつ。素直に俺は街へと逃げて追跡を振り払った。

 

 暫時、物陰で様子を見る。

 こちらを追う気配はない。撒けたことを俺は全力疾走でパンパンに疲れ果てた足のリンパ腺を促しながら街を見上げた。

 

 正直、なんと言えばいいのだろう。街といえば街だろう。

 だけどここには『ひと気』がないのだ。あるのは何とも言えない落ち着かなさだ。昆虫が常に周囲を付き纏ってるような……。

 

 あえて形容するなら『鋼の森』とか『鉄の海』とでもいうべきだろう。そんな見た目は街でありながら中身は森という、人工と自然という矛盾を孕んだ街で俺は深呼吸をして路地裏で腰を置いた。

 

「ふぅ〜〜……。この世界は休まるところがないよなぁ」

 

「その臭い……レンさんですわね?」

 

「ひゃい!?」

 

 気を緩みすぎた。接敵する存在に全然気づかなかった。

 だから咄嗟に武器を構えて声の方へと振り向く。走った影響で今にも破裂しそうな血管の鼓動と驚きの脈動を同時に感じながら。

 

「ストップ! お静かに! 私ですわ! ソヤですわ!」

 

「あぁ、ソヤか……って、なんでソヤがこの世界に!?」

 

「私もいるけどね。てか、どうしたのその髪色?」

 

 しかし、そこにはファビオラがソヤに横に並んだ。二人ともここに来た時の俺と違って服は着ているようだ。だけど華雲宮城で活動してた時は違う。

 

 ファビオラはメイド服のままだが細部のデザインが違う。なんというか青とか白のフリフリした如何にもなアニメに出てきそうなメイド服が今までのファビオラだとすれば、今のファビオラは『現実にいそうなメイド』さんなのだ。

 カチューチャではなくフリルのついた白いキャップ。白と黒の王道なデザインながら替えが効くような、高貴なのに物珍しさを感じない素材でできたメイド服。それが今のファビオラの状態だ。

 

 かたやソヤは改造した独自のシスター服は打って変わり、それこそエルガノが着てるような物と同様になっている。風変わりな猫耳みたいな帽子も大人しい物になっている。

 

 これがフレイムの言っていた「本来ならこの世界に適した服に置換される」という物だろうか……。だとしたら、なんで俺だけ全裸だったのか。昔のテレビにありがちな大人の都合的なサービスシーンな理由か?

 

「…………髪色とかはそっちの服が変わってるの一緒ってことで受け入れといてください」

 

 だとしても、こっちが全裸で来たことを察せられるわけにはいかない。ここは上手く相手の事情に便乗してやり過ごすとしよう。

 

「あぁ……わかりましたわ(全裸でしたのね……)」

 

「なにその意味ありげな言い方」

 

「いえ特には。流石にそういうことでしたら、今は受け入れておきますわ」

 

「ありがとう。それよりギンとバイジュウは……?」

 

「見てないかな。それはソヤも一緒でしょ?」

 

「ええ……近くにそれっぽい臭いもありませんし……」

 

「そうか。それよりもソヤ、実は……」

 

 合流がてら俺はソヤにエルガノがこの世界にいることを伝えた。

 

「……そう、ですの」

 

「会いたい? 場所なら案内できるけど」

 

「……どっちとも言えない。会いたいけど会いたくない……それが嘘偽りない私の本心です」

 

 ——瞬間、いつも以上に幼さを感じさせるソヤの一面を見た。どこか『人形』じみたような……言うことを聞くしかない無力な子供の一面を。

 

「……私らしくありませんでしたわね! ですが、本心は本心! エルガノと私は……あの一件で決別したこと自体に間違っていないと言っておきますわ!」

 

 あまりにも分かりやすい見栄だ。ソヤはいくら魔女としての才能や並はずれた精神力の持ち主とはいえ、その根本自体は年相応の女の子だ。俺よりも小さい女の子だ。

 

 ……エルガノに会いたいに決まってる。義理でも、どんな境遇だったとしても、あの一件までは母代わりとして一緒にいたんだ。

 俺だって親に会いたい気持ちは一緒だ。だからニャルラトホテプに囚われた時の夢で親といる健やかな日常を無意識的に求めて反映されたんだ。それだけ親の存在という物は大きい。

 

「じゃあ、後悔はしてる?」

 

「……その言い方は卑怯ですわ。なんであれ人の命を道連れにしたことに後悔がないわけがありませんわ」

 

 自分でもちょっとズルい提案だってのは分かってる。でもソヤに僅かでも会いたいという気持ちがあるなら会わせてやりたいのも本音だ。

 だからこういうマリルみたいに卑怯で捻くれた質問をしてソヤの真意を問おうとする。俺にはソヤやエミリオみたいに心を読む手段がないから。言葉にしなければ何も分からないから、素直にソヤの気持ちが聞きたい。

 

「じゃあ懺悔にし行く? 義母と義娘じゃなくて、迷える子羊としてシスターに……」

 

「……面白い考えですわね」

 

 ソヤは悪戯でも思いついた子供のように笑みを浮かべた。

 

「確かにそれなら堂々とどの面下げて会いに来てるんだ、という口実はできますわ。懺悔の内容はどうしましょうか……」

 

 ケラケラといつもみたいな表情で笑うソヤを見て、俺は安心してしまう。

 

「んじゃ、ここでの方針はそういう感じでいいの? 私的にはそんな悠長なことをしてる暇なんてないと思うんだけど……」

 

「確かに暇はない。だからこそ最短で真っ直ぐに解決するために、エルガノと一度は踏ん切りをつけるべきだと思うんだ」

 

 何故ならエルガノはここに来た年月が俺達よりも遥かに長く、この世界の事情や文化にも精通しているということ——。

 レン高原で出現した『ムーンビースト』は『SD事件』で対峙したニャルラトホテプと深い関係があるに違いないということ——。

 

 だとすれば一度エルガノがいる教会に戻るのは愚策ではない。

 あくまでソヤとエルガノが合うのはついで感覚だ。そのついでが思いもよらぬ実を結ぶ可能性があるとすれば、対面する価値は多いはあるだろう。そこに私情が混ざろうとも。

 

「……アンタ、そういう部分マリル長官に似てきたんじゃない?」

 

 そのことを伝え終えると。ファビオラは呆れながらも了承を意味する笑い方をした。

 

「ところでさっきから気になってんだけど、アンタの隣に浮いてる女は誰なの?」

 

「ああ。紹介を忘れたね、この子はフレイム……って!?」

 

 見えてんの!? ファビオラにはフレイムのことが見えてるの!?

 シンチェンがマサダに入国した時みたいに、知らない間に姿が見えるようになったのか!?

 

「ね、ねぇ! ソヤは見えてる!? フレイムのこと!?」

 

「いえ……何かそこに大きなエネルギーみたいなボヤッとした輪郭が見えるだけで、ファビオラさんが言うような『女性』としての形は見えませんわ」

 

「じゃあファビオラはどんな風に見えてる!?」

 

「ハッキリと見えてる。燃えるような赤い髪の女がね」

 

 

 

 ——そういえば、こんな状況が前にもあった。

 

 それは『OS事件』でハイイーを拾った時の一幕。バイジュウがハイイーが溢した異質物に触らずとも認識していた。

 

 これは偶然なのか? それとも理由があるのか?

 

 だったら、どこにバイジュウとファビオラに共通点があるというんだ——?

 

 

 

『……あぁ、そういうことか』

 

 するとフレイムは出荷される家畜でも見るような哀れみと悲しみを帯びた瞳で言葉を吐いた。

 

「……何か知ってるのか?」

 

『それを知るのはもう少し後、積もる話だから……って勿体ぶっても問いただしたいんでしょう?』

 

「当然だろ! ハイイーの時とは違って、フレイムは事情を知ってるんだろう! だったら……」

 

『そりゃ『守護者』だからよ。そのファビオラって子も』

 

 

 

 

 

 ——は? いったい何を言ってるんだ?

 

 

 

 

 

 そんな空気が周囲を包み込んだ。

 だって『守護者』はハインリッヒとギンのことではないのか? 『因果の狭間』で悠久の時に閉じ込められた囚人のことだ。それは間違いないはず。

 

 だとしたら何故ファビオラは『守護者』と扱われるんだ——。

 ファビオラは一度だって『因果の狭間』に囚われてないというのに——。

 

 

『正確には『守護者』は襲名でしかないんだけどね。もっと正確に言うなら『従者』とか『信仰者』とか『狂信者』とか……あるいは『捕食者』や『侵略者』とかもある。そういう仕えるべき主人に近しい力を宿した魔女の中でも異端な力を持った魔女が『それ』に値するの』

 

「『それ』に値するものが……『守護者』?」

 

『そしてその従者にはある共通点が生まれる。一つは明確な『属性』を持つこと。五行や錬金術で言うところの『火、水、風、土、エーテル』の属性を。そして仕えるべき主人を『認識できる』というものが』

 

 

 

 ——仕えるべき主人を認識できる。

 

 それは俺にとって嫌でも想像してしまう結論が浮かんだ。

 

 

 

「じゃ、じゃあバイジュウがハイイーを異質物を通さずに見れたのは……っ!」

 

『ええ。そのバイジュウって子も『守護者』よ。司る属性は『水』で、それに値するのが『海伊(ハイイー)』——。それはサモントンにあったデックス博士の記録から知ってるでしょ?』

 

 

 

 なんてことだ——。

 だとしたら——シンチェン達は俺たちにとって——。

 

 

「じゃあ……シンチェンやハイイーは『守護者』を傀儡とする……あのヨグ何とかとか、ニャルラトホテプと同じ存在だってのかよ!?」

 

『ええ。私もシンチェンもハイイーも、根本的な部分はアイツらと同じよ』

 

 

 

 そんなことがあってたまるか——。そうであってたまるか——。

 俺たちと、シンチェンが実は『敵』かもしれないなんて——。

 

 

 

『何か見当違いな考え方をしてるから訂正させてもらうわ。確かに私たち姉妹はニャルラトホテプと同じような存在よ。でも、その在り方自体は多少の差異はある。それこそコインの表と裏みたいに』

 

「それを信じられる証拠とかは?」

 

『あるけどないよ。それを認識した瞬間、頭が沸騰してパンッ! と破裂しちゃってもいいなら証明するけど』

 

 少し馬鹿にするような、もしくは人をおちょくるような態度でフレイムはそう口にする。

 

『だから例え話をさせてもらう。あなたは『火』が良いものと悪いもの——どっちだと思う?』

 

 火が良いものか悪いものか——?

 

 質問の問答が見えない。けれどファビオラはその答えをすぐに察したのだろう。一人で納得して「そういうことならどっちとも言えないのか」と溢すと、俺は「どういう意味?」と咄嗟にその意味を問いた。

 

「簡単なことよ。『火』は焼くことができる。人を焼くことも、家を焼くことも。これは悪いことでしょ?」

 

「うん」

 

「でも『火』は料理とかでも使うでしょ? 魚を焼けるし、ゴミも焼ける。これは悪いことかな?」

 

「いや……良いことでしょ?」

 

「残念だけど、どっちとも言えない。確かに『人間にとっては良いこと』よ。けれど生命を奪われた魚や、ゴミという住処を追われたコバエからすれば『悪いこと』でしょ? 逆もそうで『人間の社会がなくなる』という自然に生きる生物にとっては『良いこと』なのよ」

 

『そういうこと。だから私達を『良い』と『悪い』を決めるのはレンくんの主観次第ってこと。だからどうする? 今ここで切り捨てるか、もっと深い真実を求めて私たち姉妹やニャルラトホテプについて知りたいと思うか』

 

 俺次第——。

 

『選ぶのはレンくん次第よ。好きにしなさい』

 

「……馬鹿にしやがって」

 

 

 

 そんな問いを投げられても俺の答えは一つしかない。一つしか選べない。

 まだ何も知らない無知な自分。ニャルラトホテプとかの超常的な存在に詳細を知る者なんてカケラほどおらず、その人達ですら断片的な憶測でしか語れない存在。それがニャルラトホテプであり、同時にシンチェン達でもある。

 

 そしてそれらは異質物や魔導書を媒体にし出現し、同時のその異質物や魔導書が『魔女』を生む力となっている。それらの詳しい関係については俺たちは何も知らない。

 

 そんな状況なら——選べるような選択肢さえないじゃないか。

 

 

 

「好きにしろとか言って、選ぶのは俺だとか言って……。だけど俺はお前に頼るしかないんだろ! ここで切り捨てたらこの世界のことも、魔女のことも、異質物のことも! 全部全部何も知れなくなるんじゃないか!」

 

『そういうこと。んで、それは積もる話だから、詳しいことが『ドリームランド』を抜けてから。それまでは停戦協定を結びましょう、レンくん?』



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第4節 〜蜃帷┯縺溘k蟇ゥ蛻、鬨主」ォ(■■■■■■■■)

 ——あの人との出会いは、今でも鮮明に覚えている。泥に塗れた世界の中で、無力な私に手を差し出してくれたのが『あの人』だった。

 

 

 

「こんな小さな子が捨てられるなんて……。ああ、神はここまで無慈悲になったというのですか……」

 

 

 

 寂れて神にも見放された村の一坪。ボロボロの手先と瞳で修道女はまだ赤子同然にも等しい幼児を抱えて涙を零す。

 幼児は産まれた頃から、人とはどこか違う視点で世界を見れることをその歳で何となく理解はしていた。それが普通とは違うことも。それが理由で、気味が悪いと感じた生みの親が教会に放棄したことも。聡明な幼児はそういう物だと理解して受け入れた。

 

 だから幼児からすれば、それは極々当たり前の力で、極々当たり前のことなので躊躇も違和感もなくその能力で世界を認識している。人間が産まれ持って両手で箸を掴んだりするように、それが幼児にとって当然なのだから。

 

 

 

 その修道女の『色』と『臭い』は、とても弱々しくも悲しいものに満ち溢れていた、ということは覚えている。

 涙には同情や後悔といった幼児に向けた憐れみではなく、自分の過去が照らし合った物にも見える。

 

 

 

「あなた。お名前は分かる?」

 

「……ソヤ。ソヤ・エンジェルス」

 

「賢い子ですね、ソヤは。私はエルガノ。ここではマザーをつけてお呼びください」

 

 

 

 これはソヤとエルガノが初めてあった頃の記憶——。

 その修道院でソヤはエルガノに匿われた。二人にとって、決して良い関係とは言い切れない共同生活の始まりでもある。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「マザー、マザー! この魅力的な匂いがするこれはなんですか!?」

 

「それはテレビというものです。ちなみに聞きそうなのでお応えしますが、隣にあるのはVHSという映像再生機器です」

 

 ソヤは生まれつき持つ『共感覚』の影響もあって、数年後には聡明ながらもとても好奇心旺盛でやんちゃで元気な女の子に育っていった。

 

 ただそれがエルガノにとって悩みの種でもあった。

 少女が持つ特異性には畏怖、偏見、差別といった物はエルガノは持っていない。そういうのを抜きにして至って普通に育ててあげようと思っていたが、それを手放しにしてる物だから、ソヤはとにかく興味ある物には藪蛇が出ても構わんという勢いで調べようとするのだ。

 

 おかげでエルガノはトラブル続きだ。起きて寝るまでソヤの動向を追って右往左往。休まることなんてここ数年では数えるほどしかない。

 

 

 

 だが、その忙しさがどこかエルガノを救ってもくれていた——。

 

 少し前にあった銃を持った4人の強盗グループによる100人余りしかいない村の殺戮事件。

 そこでエルガノは実の娘を失い、さらにその真相を知って愕然とした。強盗グループは銃を持っていたが、そこにあった銃弾はたった『2発』しかなかったということを。

 

 たった2発しかない銃に村人は全員慄き、ナイフで順番で殺して回る強盗グループを見ては「自分は選ばれなくて良かった」と安堵する村人達。

 そんな自己保身と、ほんのちょっとの勇気や無謀さがないから娘は戯れ感覚で亡くなってしまった。それがエルガノにとってどれほど辛い物だったか。

 

 

 

 ——ああ、そんなくだらない『抑制』が少しでもなければ、娘は助かったかもしれないのに。

 

 ——もし次にそんなことがあるというのなら、今度こそそれを打開するための『救い』を用意しなければならない。

 

 

 

 ……なんて考えをしなくて済む。そんな考えをしたところで意味なんてないのだ。失った娘は戻ってくるわけがない。

 

 どんなに考えても、そんな『救い』なんて存在しない。存在するなら、そもそも『神』はあの時に応えてくれる。その時点で救いなんてあるわけないのだ。

 

 

 

「それとエンジェルス。シスターになるのでしたら、神への作法を忘れずに。いつでもお淑やかに言葉遣いは丁寧にするのですよ?」

 

「そんなこと言われても……どういうふうにすれば?」

 

「私みたいにしてれば良いのです」

 

「マザーみたいに影でコソコソと甘味を食べればよいのですね?」

 

「……あなたは言葉遣いとか何よりも、自身の好奇心を抑えることの方が重要ですわね」

 

「否定はしないのですか?」

 

「神に誓って嘘は言いません」

 

 だから、もしも『神』がいるならエルガノは感謝する。

 今こうやって小さなソヤと一緒に暮らすことが、自分の中にある神に対する背徳という闇を掻き消す『光』になってくれているのだから。

 

 

 

 ……

 ……

 

 

 

「マザー、壁の補修工事終わりましたわ〜〜♪」

 

「ご苦労様、エンジェルス」

 

 再び数年が経ち、ソヤはエルガノに言われた通りに、言葉遣いだけはお淑やかな物へと成長した。

 とはいってもそれは本当に形だけであり、言葉の節々に陽気さやおふざけが発せられてるのを察しないエルガノではない。

 

 しかしそれを注意してもソヤが反省することなんてあるわけがなく、今現在もこうしている状態だ。

 挙句にはそんな蔵書なんて取り扱ってないはずなのに、どこからともなく煩悩塗れの言葉遣いや仕草を覚えてきてエルガノは頭痛さえ覚えてしまうほどに、ソヤの成長は良くも悪くも健やかに育まれてきた。

 

 それ自体は喜ばしい。けれどもっとどうにかならなかったのか。それだけがエルガノにとって唯一ソヤに抱く不満であった。

 

「しかしお布施という物で賄えないのですか、マザー。壁も床も継ぎ接ぎだらけでは……なんというか、その……有り難みがないというか……」

 

「仕方ないのです。あの強盗の一件で、この村は寂れてしまいましたから。村人達は皆が皆、自分が生きるだけで……自分が生き残ろうとするだけ精一杯なのです……っ!」

 

 どこか恨みが篭った言葉を噛み締めながらエルガノは吐き捨てる。その意味合いに気付けないほどソヤだって子供じゃない。彼女の心中なんて『共感覚』も合ってすぐに察して無言になってしまう。

 

 そんな気遣いをエルガノは感じ取れないわけがない。エルガノは申し訳なさそうに咳払いを一つして、「それに」と言うと埃に塗れた鍬を取り出して悲しそうに語り始める。

 

「『黒死病』の影響で作物なんかロクに育ちません。この村は自給自足ができたからこそ成立していたというのに……こうなっては村という体裁の最低限すら満たせません」

 

 言葉だけなら悲痛に満ちた物だが、どこかエルガノは自業自得だと言わんばかりの嘲笑を浮かべながら語る。

 

「ですから今は樵として頑張るしかありません。幸いにも山と森林だけは異常はありませんから……」

 

 しかし、それはそれ。これはこれという物だ。

 エルガノは溜息混じりながらも、その薄幸でお淑やかな顔つきは裏腹に機械仕掛けの刃物——『チェーンソー』を取り出すと、ソヤに向けて「そろそろお時間です」と言って押しつけた。

 

「すいませんね、重労働を押しつけてしまって」

 

「ご安心くださいませ。私、意外とこれを振り回すことに快感を覚えてますので♡ マザーこそ道中の買い出しにはお気をつけくださいまし〜〜」

 

「快感を覚えるとかどういうことだ」とかエルガノは内心思いながらも、そんな正直者で気ままなソヤを見て、ふと溢してしまう。

 

「……貴方はそのままの方がいいのかもしれませんね。自分が思うままに動き、それが人に奉仕する行為だとしても構わない……」

 

「……私は貴方の娘ではありませんわよ?」

 

 言葉の節々に過去の出来事を重ねるのがソヤの『共感覚』で見えた。

 その内心を見透かされているのは慣れているものの、やはり誰であれ良い思いはしないのだろう。少しばかり不服そうな顔をして「ええ、わかっていますよ」とエルガノは言った。

 

「決してエンジェルスを娘の代わりにしてるわけではありません。どちらかといえば親代わりですよ、私から言えば」

 

 そう言われるとソヤは渇いた笑いを浮かべるしかなかった。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

『ソヤ・エンジェルス、任務完了』

 

「……」

 

 ソヤが12歳になる年。彼女にとって変転したともいえる事態が起こる。

 

 そこは『ギアナ高地』——。

 そこでソヤは静かに天を仰ぎながらインカムから聞こえる中世的な声に耳を貸す。

 

『君はすでに15時間連続で作戦に参加している。補給が届くまで待機、新たな指示を待て』

 

「……」

 

『もうすぐ、このエリアの『浄化』が完遂する』

 

「……」

 

『……君の戦績は我々が事実通りに報告しよう。これでエルガノと修道院も少しは安泰になるだろう』

 

 ハッキリ言おう。エルガノとソヤがいる修道院は、もう保たない状態にまで来ていた。継ぎ接ぎだらけの建物では雨を凌ぐことはできても、襲い掛かる隙間風や害虫などの被害まで抑えることはできない。

 だから修道院は金銭や物資といった援助が必要になることを余儀なくされた。援助を受けるには見返りが必要であり、そのためにソヤは単身でギアナ高地で、自身が愛用するチェーンソーを血に染めていた。

 

「……うん」

 

 そこで初めてソヤは口を開く。ソヤが行っていたのはサモントンからの依頼だ。

 過去にXK級の世界終末を引き起こすかもしれない大規模な異変があり、最初はお抱えの部隊が派遣した人員で何とかしようとしたが瞬く間に全滅。その異常事態に出撃を拒否する者が続出し、最終的に金銭面や物資の枯渇もあって断るに断れないエルガノの下にこの依頼がやってきた。

 

 とは言っても、それは表向きの理由であり、そこにはもう一つの理由があった。それはソヤの適性を試したいというサモントンとは独立した『デックス』そのものの意志。

 

 ゆえにある程度は自由に動けるために形式的な襲名を与えて彼女の適性を試す。結果としては『ある理由』で教皇庁所属となり、各国の異質物問題を解決するエージェントになり、デックスがほぼ独占する戦力である『位階十席』の手から離れることにはなるのだが。

 

 

 

 ともあれ、それがサモントンの——。

 

 

 

『安心しろ。お祖父様は約束を破ることはない。ミカエルの名に誓ってもいい』

 

「……うん。わかってる」

 

 そしてデックス家における最重要人物ともいえる『ミカエル・デックス』の目的であった。

 当時はまだ自身が持つ『共感覚』という特性と抑え切れぬ好奇心から振り回されることの多かったソヤだが、それを抜きにしてもミカエルの言葉は全貌が掴めずに誰よりも『気味が悪い』存在としてソヤは考えていた。それは今も同じだ。

 

『……元気がないが、何か思うところがあるのか? 扉を閉め終えたはずだろう?』

 

「いえ思うところというか……身体に違和感が……」

 

 享楽的、楽観的という言葉が似合うソヤですら感じるとてつもない『不快感』がソヤの身体を蝕んで仕方ない。まるで全身の毛穴が呼吸でもするために喘ぐようにだ。

 

 この不快感から逃れたくて仕方がない。もう狂乱して相討ちした修道女もいなければ、問題となる『扉』も閉め終えた。後は時間の経過を待つだけだから休んでも問題はない。

 

 だからどこか背中を預けて休んでいたい。この不快感を少しでも無くしたい。そうやって動こうとした時に。

 

「あっ……れっ……」

 

 瞬間、激痛が走って思わずソヤは倒れ込んでしまった。手の力も抜けてチェーンソーを放り出してしまう。それどころか意識が霞んできて仕方がない。今にも命が途切れてしまいそうな、そんな恐怖が巡る。

 

 何とかして意識を手繰ろうとするが、そんな努力など虚しくソヤは意識を微睡に溶かしていく。

 

 その最中——彼女は確かに見た。

 自身の中に巣くう『悪意』が躍動してる感覚を、確かに。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 後日、奇跡的にソヤは目を覚ました。だけどその目覚めは決してソヤにとって良いことを伝える物ではなかった。

 

 ドラマでよくある『良い情報』と『悪い情報』というものを告げられたのだ。

 良い情報とは無事に生還できたということ。悪い情報とは先の『浄化』の件で、ソヤの身体には異質物由来の癌みたいな物に寄生されてしまい、それは修道院に近づくことで反応を強めて寄生先となるソヤを苦しめるものとなっているということ。

 

 そしてこの特殊な癌みたいな物は、何もしなくとも成人となる前にソヤを侵し尽くして、いずれは死んでしまうという短命になってしまったということ。

 

 

 

 ——つまりソヤは事実上の修道女としての資格がないと突きつけられたのだ。

 

 

 

 ギアナ高地にて、そんなことが起こるなんてミカエルはともかくとして教皇庁の最高責任者にとって予想外だったらしく、その人はソヤの前で何度も「すまない」と涙ながらに告げ、可能な限りエルガノの修道院に援助をすることを約束した。

 

 安定した生活と環境の代わりに、自身の寿命と立場を追われてしまったソヤ。そんな哀れな存在となった少女に対してエルガノはなんて言葉をかけてくれるだろうか。

 哀れみだろうか。悲しみだろうか。今まで修道院という小さな枠組みの中だったが、それでも疑似的な母と娘として過ごしてきたのだ。ソヤは子供ながらに期待してしまう。

 

 

 

 ——母として抱きしめて、私と一緒にいてくれる道を。

 

 

 

「エンジェルス……あなたはあそこで何を見てきましたか?」

 

 

 

 しかしエルガノの第一声目は狂気に満ちた瞳でそう告げたのだ。彼女は本当に私が知るマザーなのだろうか。そう感じてしまうほどに。

 

 

 

「……いえ、私には何も分かりませんでした」

 

 

 

 嘘だ。失神する直前に、あの扉によって与えられてた情報を垣間見た。それによって扉がもたらす物がどういうものかも。

 

 それは破滅とかに近い物だ。人の深層心理に眠る負の感情を刺激するもの。悪意を増長させて自我を崩壊させる劇薬中の劇薬。それがあの『扉』に秘められた情報だ。

 

 そんなことをエルガノに伝えるわけにはいかない。

 彼女は根本的な部分で『人間が嫌い』なのだ。だからこそ人間に失望しており、だからこそ人間に救いを求める。それが分からないソヤではない。

 

 

 

「そんな言葉を信じる私だと思いますか? 今の貴方の身体は分かっているのです。異質物によって侵され、まともに生きることさえできない。その癌を取り除くために、私は治療方法を模索したんですよ」

 

「だから知ってしまったんです」とエルガノは続けて言う。

 

「癌に残った情報を解析し……貴方が『門』に接触したということを。そしてこの異質物は『人の精神を解放する』という効果が現れることを……!」

 

 

 

 その瞳は完全に狂気へと取り憑かれていた。今にして思えばエルガノの豹変そのものが『門』の情報の断片に触れたことによって汚染され、彼女が口にする『人の精神を解放する』状態となっていて、内心で燻っていた村での悲劇を起こさない手段を探すという一面が表に出たのかもしれない。

 

 何にせよ、そこからエルガノは壊れていった。ここからは先は語るまでもない。

 猫丸電気街でソヤとエルガノがレンに話した通りのことが絡み合い、ソヤはエルガノから離れることのできぬ関係性となったのだ。

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

「お久しぶりですわね」

 

「……ソヤですか」

 

 そんな思い出を振り返りながら、ソヤ達はレン高原にある教会へとたどり着いた。道中に群がっていたムーンビーストとレン人は可能な範囲で戦闘を行わずに帰還したこともあり、誰一人として負傷らしい負傷などない。

 

 だがエルガノにとってどうでもいいことだ。舌打ち代わりに髪を乱雑に掻き乱し、修道服を正すとシスターとは思えない冷たい視線と声色で告げる。

 

「今更どんな顔で会いにきたのでしょうか? 礼儀知らずの親不孝者が」

 

「こんな顔ですわ。初めて会った時のように、図々しく救いを求める子羊として来ましたの」

 

「知らない間に口達者に……私から離れられて、よっぽど嬉しかったのですか?」

 

「ええ。いつまでも乳飲み子というわけにもいきませんもの」

 

「ふっ。そういうところが嫌いでした。私も子離れできて清々しますよ」

 

 ソヤは『共感覚』の持ち主だ。エルガノの敵意なんて純度100%で感じ取っている。どんなに言葉で覆おうとしても、誤魔化しきれない悪意、嫉妬、憤怒をソヤは敏感に感じてしまう。

 

 だが同時にエルガノは本物のシスターだ。本物のシスターだからこそ、本当に『救い』というものを求めていた。

 例えそれがどんな歪んだ形で成そうとし、それが猫丸電気街で起こした事件だとしても、彼女は彼女なりの方法で『救い』を求めた。

 

 それをソヤは知っている。だからどんな歪んでいたとしてもエルガノなら『迷える子羊』として訪ねたソヤを無碍に扱ったりしない。一通り文句を吐き出した後に職務を熟そうとするだろう。

 猫丸電気街での一幕。当たり前のようにレンの応急手当てをしたように。そうソヤは信じている。

 

 

 

 それは——ある意味においては『子』が『親』に求める『期待』とでもいうべき感情にも似ていた。

 

 

 

「……まあ救いを求める子羊というのなら話は聞きましょう。今日はどのようなことを懺悔をしに?」

 

 

 

 ——ほら、やっぱり聞いてくれた。

 

 

 

「…………マザー。私の懺悔は……」

 

「お待ちなさい。貴方はもう修道会から破門された身。私のことを『マザー』と呼ぶことは許されません」

 

「……シスターエルガノ。私は懺悔をしにきたのです」

 

 

 

 もう二度と『マザー』とは呼んではいけないけど、それでも確かに貴方は私の『マザー(母親)』なのです。



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第5節 〜『螳郁ュキ閠』(『■■■』)〜

 ——その頃、ファビオラとフレイムは教会の片隅で埃を被っていた椅子へと腰を置いて話し合う。

 

 語ることはひとつしかない。『守護者』というシステムに対しての根本的な疑問と役目というものが気になって仕方ないからだ。

 

「一度整理させて。『守護者』……それに値する従者とかってのは五属性あって、それが錬金術や五行にある属性で相違ないのね?」

 

『ええ。間違いない』

 

「そして私は『炎』の属性……バイジュウは『水』の属性を司っているのも?」

 

『それも間違いなく』

 

 どうやら嘘を言っている様子はない。一度気になって調べてはみたが『共感覚』持ちのソヤでさえも、彼女の内情を嗅ぐことはできなかった。

 だからレン、ファビオラ、ソヤの中で一番人生経験が豊富なファビオラが事情聴取することになったが、もしかしたら『火』としての繋がりがあるせいなのか、ファビオラにはフレイムが嘘を言っていないという確信があった。

 

 故にファビオラの質問に澱みも躊躇いも恐れもない。フレイムが口伝してくれたことを信じ、生じた疑問をさらに問い詰めていく。

 

「じゃあ続いての質問。かつて守護者となっていたハインリッヒとギン……この二人は、どの属性に従しているの?」

 

『二人とも『土』の属性。ついでに言っておくと従えるべき神の名は『ヨグ=ソトース』とも言っておく』

 

 二人とも同じ属性なのはファビオラにとって想定外なことだった。どこか1属性に1人までという確信があった。

 なら気になるのは当然その属性に値する守護者は何人いるのか。少なくとも土に2人いるのだから、2人以上と考えるのが自然であり、それが合計で5属性存在することになる。

 

 5×2ならば10人。5×3ならば15人。あるいは定員数に決まりなどなく、属性ごとにバラけている可能性だってある。

 

 だとすれば——次に聞くことは決まりきっている。

 

「ねぇ、その『属性』を司る従者には限度はあるの?」

 

「ある。一属性に2人まで。けれど時間・空間の概念を超越してるから、空席ができた途端に新しい従者が補充はされるけどね」

 

 とりあえずは基本的に合計10人までしか従者は存在できないことはわかった。ならば気になるのはその先だ。『なぜ10人しか存在できないのか』という部分だ。

 

 推測を重ねてファビオラは思考に耽る。今ここにバイジュウやハインリッヒみたいな知的で探究心溢れた研究者は存在しない。自分がしっかりしないと手に取れるはずの情報を取りこぼしてしまう。それだけは決してしてはならない。

 そんな妙な焦りが逆にファビオラの頭を冷静にさせていく。1秒ごとに思考は鮮明になっていき、自分がどういう質問と答えを求めるかを整理していく。

 

 

 

 ——そうしないと『門』の奥にいるスクルドを救い出せないような気がしたから。

 

 

 

 そのらしくない思考の末にファビオラは推測を一つの形へと導いた。そもそも最初の守護者であるハインリッヒは何と言っていた? どんな情報をSIDに提供してくれた?

 ファビオラは又聞きした内容を思い出していく。ハインリッヒはどういったことを話していたかを。あの『方舟基地』で初めて出現し、その後に『因果の狭間』に吸い込まれた時にレン達にどのような内容を伝えていたかを。

 

 

 

 …………

 ……

 

「簡単に言いますと、わたくしの契約は地球上の特定エリアである10ヶ所を守り抜く事です。嫌ですけど、やらざるを得ません……。誰もやらなければ取り返しのつかない災難を招いてしまいます」

 

「その10のエリアに相当するものが、『セフィロトの樹』の10個の円環というわけ?」

 

 ……

 …………

 

 

 

『セフィロトの樹』にある10個の円環——。

 そして守護者は10人までという制約——。

 

 どちらも同じように10という数字があり、そのどちらも情報生命体と繋がった問題だ。

 これは果たして偶然なのか必然なのか。それはファビオラに判別できるはずがない。できるとしたら、それはフレイムだけだ。

 

 だから問いただす。その偶然は必然なのかどうかを。

 

「……これは憶測に済ませたいんだけど1属性で2人までなら、最高でも守護者は10人いることになる。この数はハインリッヒが口にしていた『セフィロトの樹』にある『セフィラ』の数と一致してることになるんだけど……偶然なのかしら?」

 

『偶然じゃない、って言ったら?』

 

 ——ファビオラは驚くことはなかった。そう返答されることを予期していたからだ。だとしたら次に聞くことも整っている。

 

『聡明で博識な貴方はこうも考える。セフィロトには隠された11番目のセフィラが存在する。ならば『11番目の守護者』が存在してるのではないか? と』

 

 心を見透かされた——。それがファビオラにとって衝撃はあったが驚きは意外にも薄かった。

 何せ自分でもフレイムのことは何となく嘘は言っていないという確信があったのだ。そういう関係性をもっと深く知っているフレイムならばファビオラそのものを見透かされても不思議ではないだろう。

 

 だったら遠慮も配慮もなしだ。

 ファビオラは「じゃあそういうことなら」と開き直った顔つきで笑うと、瞳の奥で炎でも激らせたような視線でフレイムに問う。

 

「なら聞かせてくれる? 11番目の守護者は存在しているのかを。存在してるなら、その属性や役割を——」

 

 だがその瞬間、ファビオラの炎は急速に萎むを理解した。端的に言えば視線を交わしたフレイムの瞳が、ファビオラの心を恐怖へと染めたのだ。

 

 炎がより強い炎に飲み込まれるかのようなフレイムの威圧的な眼光。それは表現するならば『凍てついた炎』とでも言うべき矛盾を成立させるような身定める冷たさと激る暑さが宿っていた。

 

 考えてる観点や視点が別次元にある彼女だからこそ見せる一面に、ファビオラは生唾を呑んで沈黙するしかなかった。彼女の返答を待ちながら沈黙することしか。

 

『それだけは永劫に知ってはいけない。それを知ることは世界の真理に触れることになる。それは本当に限られた知的生命体しか観測してはいけない領域なの』

 

「……私にはその資格がないってこと?」

 

『端的に言えばそうね』と悪びれる様子もなくフレイムは肯定した。諦めろと言わんばかりの態度だが、同時にファビオラは理解してもいる。それが優しさからくるものであることを。

 

『けれど唯一その資格があるとすれば……』

 

 フレイムは扉の先で馬鹿面をしているであろう少女を見つめる。その視線はどこか哀れみを持つような、可哀想というより同情でもするような視線のまま吐く。

 

『レンちゃんだけでしょうね。だからこそニャルラトホテプはサモントンでの事件を起こしたんだから』

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「って、ところでしたよ。これでいいですか、ご主人様ぁ?」

 

「うん、ファビオラに任せて正解だったよ」

 

 ファビオラに感謝しながら俺は教会の椅子で横になって情報を整理しようとするが、あまりにも重厚な情報に聞いたすぐから頭が破裂しそうになりそうだ。

 

 間違いなく俺が聞いたら、こんなスムーズに情報を纏めることはできなかったに違いない。そういう意味でも二重の感謝をファビオラに伝え、今後の動きをどうしようか次の思考へと移さないといけない。

 

「ソヤは……まだエルガノと話してるんだな」

 

「そりゃ経緯はどうあれ、客観的に見れば殺した側と殺された側の対面よ。それも殺した側が来たとなれば一触即発でもおかしくない。むしろ1時間も経ってるのに、騒動らしい騒動が起きてないだけ上手く話し合えてるんでしょ」

 

 ……うん、そうだな。今はそう信じるしかない。2人での話し合いは2人だけしか知っちゃいけない内容なんだから。

 

 だったらソヤが戻るまでは休憩時間だ。俺は月光百合の影響で染まった見慣れない白髪を掻きむしりながら、フレイムが最後に伝えた言葉を思い返す。

 

「……俺だけが11番目の守護者を知れる? だからニャルラトホテプはサモントンで事件を起こした?」

 

 俺はサモントンでニャルラトホテプが何を起こしたかを追憶する。

 

 ウリエルの身体と精神を乗っ取り、ヴィラクスを魔導書の魔力で操り人形とし、挙句には俺の身体も精神さえも乗っ取ろうと画策していた。

 

 ……消極的に考えて、ニャルラトホテプと俺とサモントンの事件が全部繋がる要素があるとすれば、俺の身体と精神の乗っ取りに違いない。

 

 けれどそんなことに何の価値がある? 確かに女の子になってから色々と不思議なことが起こってきた。その色々が多すぎてニャルラトホテプが何を目的にしているのかを定めてることができない。

 

『時空位相波動』に突入しても問題ない体質か?

 それとも近くにいる魔女の力を強める体質か?

 もしくはアニーやハインリッヒを『因果の狭間』から解放した力か?

 ミルクや霧吟の魂を、力とするものか?

 

 あるいは全部か——? 考えたところで答えなんて見つかるはずがないし、見つけたところで意味なんてないだろう。

 ニャルラトホテプは超常の存在。常識や理解という概念の外にいる生命体。どんな知恵を巡らせても俺じゃあ答えに辿り着くことは無理だろう。

 

 だから一度諦める。こういう難しいことを考えるのは、マリルとかバイジュウあたりが適任だ。

 今は無事にここを脱出し、可能であればニャルラトホテプを討つ——それが当面での目標となる。

 

 問題はそのニャルラトホテプの居場所だ。ここ『ドリームランド』にいる確証はないが、高い確率で存在してると思っていい。なにせフレイム曰く『ムーンビースト』はニャルラトホテプの信仰する生命なのだから。きっと遠からぬ関係性を持ってるに違いない。

 

 

 

 それこそ——ムーンビーストが来た『月』にいる可能性さえもあるほどに。

 

 

 

「あら、難しい顔をしてますわね、レンさん」

 

「ソヤっ!」

 

 なんて難しいことを考えてたら、ソヤの声がしたので俺は振り返って少女の様子を目で追う。ソヤとエルガノがどんな内容を話し合ったのかを想像しながら。

 

「……顔、赤くなってますけど?」

 

 しかし開幕1番に視界に入ったのは、両者共々に顔を赤く腫れさせた姿であった。クッキリと互いの左頬に手形がついており、平手打ちしたのが目に見えて分かる。

 

「少しばかり言い争いになりまして……。これで手打ちにしたという意味でもあるのですが」

 

「じゃあ、ソヤとエルガノは……」

 

「仲直り——。というわけには行きませんが、しばらくが協力することにしました。ソヤがどうやって、ここと似た世界から抜け出したかも聞け出したことですしねぇ?」

 

 そこで俺とエルガノの視線が交わされる。その意味を察せないほど鈍感じゃない。ソヤはどうやって自分が救出されたのかをエルガノに説明し、それを出汁にして交渉したに違いない。

 

「いいですわよね、レンさん?」

 

「……しょうがないなぁ」

 

 とはいっても正直そんな上手くいく自信がない。一応エルガノの肉体はあっちの世界だと焼死体になってるわけだし。

 でもハインリッヒは自爆したのに元の肉体を取り戻してるんだし……大丈夫なのかな?

 

「というわけでシスター・エルガノ。ここにいる皆様方に、この世界のことを説明してくださいませ」

 

「ええ。私が知る全てを貴方がたに授けましょう」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 あぁ、なんでこうなってしまったんだろう——。

 

 

 

 一方その頃、暗闇の世界の只中にて。

 何度も何度も親友を傷つけ、何度も何度も親友の心臓を打ち貫きながら少女——ミルクは心の中で慟哭する。

 

 

 

「お願い……っ」

 

 

 

 ハッキリ言おう。バイジュウとミルクの戦いは、一方的なんて言葉ですら生優しいほどの蹂躙が続けられていた。

 

 ひたすら抵抗の意志も動作も見せずにバイジュウは無防備にミルクの銃口に打ち貫かれ、その身を暗闇の世界で漂わせる。

 この世界では身体がどんなに傷つこうと、心が屈しない限りは存在を許し続ける。許し続けてしまう。

 

 だからバイジュウの身体は見るも無惨な姿になっていた。

 雪のように白い肌は焼き爛れているし、指はもう『手』と呼ぶほどに溶けきって一体化していた。銃剣を握ることはできても引き金を引くことはできず、瞼も熱で爛れて上瞼と下瞼が引っ付いて、顎を上げることでしか世界を認識できないほどにその視界は閉じきっている。

 

 そんな風にしてしまったのは他の誰でもない。ミルク自身だ。

 どんなに自由意思や行動などなくても、ミルク自身が己の武器でバイジュウをここまで傷つけたのだ。

 

 どうにか止めたい——。戦いたくない——。

 

 

 

「お願いだから……っ。もうバイジュウちゃんを傷つけさせないで……っ。私なんて奴隷でも娼婦でも、どんな扱いを受けてもいいから……」

 

《お前があの女の代わりになる価値があるならそうしてる。だが貴様は凡人だろう。ただの人間如きが我に指図できると思うな》

 

 

 

 しかし心の奥底——。

 言うなれば『魂』というべきところで、ミルクは『あの方』こと『ヨグ=ソトース』との繋がりという名の首輪で束縛されてバイジュウとの戦いを止めることができない。

 

 

 

《これ以上傷つけさせない方法なら、さっさと役目を完遂させろ。あの女を、バイジュウを、お前に代わる真の『守護者』としての契約を果たせ》

 

「……っ!」

 

 

 

 そんなことできるわけがない。ミルクが仮初の守護者として課せられた役割はただ一つ。『バイジュウを守護者に引き入れる』ことだ。

 しかし『守護者』に引き入れることは何を意味しているのか。それを知らないミルクではない。あらゆる時間・空間から隔絶されてヨグ=ソトースという外道のために尽くさないといけない恥辱と永遠に付き合わなければいけない。それをミルクが「はい、やります」なんて嬉々として行うわけがない。

 

 だからこうして執拗に痛めつけているのだ。バイジュウには肉体的に、ミルクは精神的な苦痛を伴わせることで。

 

 それでどちらかが弱音を吐いたり、限界を見せることがあれば、お互いがお互いを思って折れるのをヨグ=ソトースは予期している。これ以上、親友が傷ついたり疲弊するところを見ていることはできないと。

 

 人の心理などそういう風にできている。そうヨグ=ソトースは考えているのだ。

 

 

 

 ——だけど、それでもバイジュウとミルクは屈しない。お互いがお互いを傷つけることになっても、どちらもヨグ=ソトースの意志に反して耐え抜いていた。

 

 

 

「だいじょうぶだよ、ミルク……。いつかきっと……レンさんがなんとかしてくれます……」

 

「だからそれまで」とバイジュウは優しく諭すと——。

 

「私を傷つけることを、躊躇わないで」

 

 

 

 と、どこまでも穏やかな口調で溢した。笑顔でも見せるかのように緩やかな心のまま。

 

 まるで南極基地での立場が逆転したみたいだった。ミルクにはなぜか銃口を構えているのがバイジュウ側の方に見えて仕方がない。

 けれどそれはミルクには向けていない。自分の脳天にブチ込むかのような覚悟の表れ。自分がどれだけ傷つこうと耐え抜くという意志を見せていた。

 

 

 

「分かってる……。分かってるけど……っ!」

 

 

 

 それでも大切な親友を自分の手で傷つけることを苦しいと思わないわけがない。何とかしてバイジュウを傷つけて仕方ない自分の武器である『未来の開拓者』を制御したくても、抵抗の意志と逆作用するように苛烈さを増してバイジュウを集中砲火していく。

 

 やがて、心臓さえも撃ち貫いた。耐えるとか、そういう忍耐の話ではない激痛と意識の乱れがバイジュウを襲っているに違いない。今にも眠りたくて仕方ないはずなのに、それでもバイジュウは何もしないままただただ意識を保ってミルクを見つめ続ける。

 

 けれどここは意識だけが構成された世界。

 どれだけ生命として致命的な怪我を負おうとも、その意識が途切れない限り、人としてどれほど惨めで残酷な姿に成ろうとも命を保ち続ける。故にバイジュウはまだ倒れない。倒れるわけにはいかない。

 

 

 

 本当にバイジュウは強くなった——。

 

 あんな鉄面皮みたいな無愛想に見えながら、どこか抜けているところがあって、南極での僅かな付き合いであるミルク以外の部隊の人々も巻き込みたくないと考えてしまうほどに優しい子だったのに『ほんのちょっと』——ミルクにとってもバイジュウにとっても長すぎる『ちょっと』の間に、彼女はここまで強くなっていたんだ。

 

 

 

 ——だったら、私は信じちゃうよ。信じ続けちゃうよ。

 ——バイジュウちゃんなら耐えきっちゃうって。

 

 

 

 ——いくらでも私のことは嫌いになっていいから、どんなに痛くても『守護者』になんかなっちゃダメだよ。

 

 

 

《どうも、このままだと埒が開かないな。こうなったらレンという奴の方を何とかするか》

 

 その二人の心情の移り変わりをヨグ=ソトースはすぐに察したのだろう。酷く凍てついた声色でそう呟くと、瞬間的に暗闇の世界に一つの亀裂と暴風を舞い込んだ。

 

 まるで嵐が壁を打ち破るかのような荒さであり、同時にそれがこの世界におけるヨグ=ソトースが見せる力の片鱗でもある。

 バイジュウとミルクは今度は何を起こす気だと警戒心を募られて、その暴風と亀裂の先に生まれた一筋の光に目を凝らす。そこには驚きの人物が眠っていた。

 

 少女だ。金髪の少女だ。髪にはゼンマイを巻くような道具を模した髪留めがある。

 

 その少女を二人は知っている。

 バイジュウは記録で見たことがあるし、あの顔つきはニュースで何度か見たことある。なにせ『ニューモリダス』にいる権力者の娘でもあるのだから。そしてその娘を主人とする『あるメイド』とも交友関係を持っているのだから。

 

 ミルクはこの世界に囚われてから知り合った。

 歳下なのにやたらと聡明で達観的だ。いつも子供らしくない笑顔を浮かべ、先を見通すような見聞は、まるで『未来』でも見通してると錯覚するほどの説得力があるほどに。

 

 

 

 

 

 その少女の名は——。レンも知っている——。

 

 

 

 

 

《『スクルド・エクスロッド』——。契約の下に汝に告げる——》



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第6節 〜螟ァ縺?↑繧区キア豺オ縺ョ螟ァ蟶(■■■■■■■■■■)〜

この1週間、度重なる雨と真夏日の繰り返しで体調を著しく壊していたため、次回の更新は2週間後の『9/12』になります。大変申し訳ありません。


「……というわけです。私が知りうる情報の限りですと」

 

「なるほど……」

 

 時間は幾分か過ぎてエルガノからこの世界における常識、文明、そして『神』にも等しい生命体がいることについて聞くことができた。その神にも等しい生命体は、聖書などに伝わる神や天使、それに悪魔のどれにも属さない不気味な形容をしており、その姿を見てしまったエルガノは俺と出会った時のように錯乱していたという。

 

 興味深いのはここからだ。どうやらその神は別の神を山に閉じ込めてるいるのだという。

 その山の名は『カダス』——。その山頂にある黒い城の中で別の神が住んでいるという話だ。だが今はどういう理由かは知らないが、その閉じ込めた神々はいなくなって無人の城となっている……という話をレン人から又聞きしてらしい。

 

 そしてエルガノはそれ以上喋ることはなかった。単純にカダスについて分からないことが多いからだ。近づくだけでも難しい北方の山の頂き。そこを調査することは非常に難しいのだから仕方ない。

 

「ねぇ、フレイム。その神がニャルラトホテプという可能性はある?」

 

『十二分にあり得るわね。このレン高原周辺はニャルラトホテプの手が及んでいるのが少なくとも数世紀単位で分かっていることだし。それに……』

 

 そこでフレイムの言葉が止まった。思考という名の、小石に躓いたようの一瞬だけ。

 

『……いや、違うか。エルガノは神官じゃないものね……』

 

 と意味深に呟くだけ呟いて今度は沈黙する。いったいエルガノがなんだってんだ。

 怪しいか怪しくないかで言えば怪しいし、信頼できるかできないかで言えば信頼できないけど、ソヤが頬を赤くして手打ちという形にしたのだ。ソヤが信じるなら信じるしかない。

 

「まあ兎にも角にも! その『カダス』って場所に行けば進展あり! ……ってことでいいんだよな?」

 

「そういうことになる……のかな?」

 

「ですが、そのカダスというのは遠い上に険しいのでしょう? 今の私たちでは厳しいと思いますわ……」

 

 そう言ってソヤは自身の手にある武器を見つめる。

 そこにあるのは、いつものチェーンソーではなくノコギリだ。同様にファビオラもいつもの炎を纏う機械仕掛けの斧『火砕サージ』ではなく、常識的な大きさの斧になっていてファビオラも「まあ心許ない」と心情をこぼした。

 

 そう、二人は俺と違って武器を現出させるような能力は持っていない。こんな世界でも『魂』を手繰り寄せれば霧吟の魂を武器とした『流星丸』は手に取ることができる。

 だけど二人は『ドリームランド』における制約で近代兵器は全部中世とかその辺りの文明レベルまで退化した武器となっている。それは服でも同じことが言える。

 

 まさかフレイムに言っていた『この世界における置換』というのが、ここに来て影響を及ぼすなんて……。

 

「ソヤ、そんな装備で大丈夫か?」

 

「大丈夫じゃありませんわ、問題しかないですわ。私これでも非力な少女ですのよ」

 

 非力な少女はチェーンソーをぶん回したりできないと思う。ということは言わないでおこう。

 

「エルガノ。『月光百合』みたいにソヤに渡せる武器とかある?」

 

「スコップぐらいしか……」

 

「どうする?」

 

「どうする? じゃねぇですわ。却下に決まってますわ」

 

 陸軍において『円匙』と呼ばれる由緒正しき武器なのになぁ。某ゾンビが蔓延る学校アニメにも出るくらいには。

 

「私も斧以外の何かに変えたいわね。この世界では銃とか扱ってないの?」

 

「銃は見たことないですね……。それよりも頭数は大丈夫でしょうか? 私は戦闘に関してはからっきしなので……」

 

 そう言ってエルガノは頭を再度抱える。きっと近代兵器がこの世界のどこかで取り扱っていないかを思い出そうとしているのだろう。

 

「うーん、だったらバイジュウとギンを探すところからにする? 合流できたんだし、意外と近くにいるかも」

 

『探すだけ無駄よ。二人ともドリームランドには来てないから』

 

「それ本当!?」

 

『詳細までは分からないわよ。ギンという男は、どうやったかは分からないけど覚醒の世界にいる』

 

「男……? 魔女なら須く女性なのでは……?」

 

「エルガノさんは気にしなくていいです」

 

 一応は女性です。身体的な意味合いにおいては。

 

『バイジュウは覚醒と夢幻の狭間……。そこで彼女にとって最も辛い相手と戦っている……わかるのはそれくらいね』

 

 最も辛い相手——。その単語で俺はグレイスとの対話が脳裏を過ぎる。

 

 隕石を巡ってバイジュウは『ある人物』と会うことになる——と。

 

 そその人物の名前をグレイスから告げられている。その名は『ミルク』だ。南極での出来事と『Ocean Spiral』での出来事を経て、そして今ここでミルクはバイジュウと出会うことになる。

 

 そして、フレイムからバイジュウが最も辛い相手と戦うと言われたら——そんなのもう可能性は一つしかないじゃないか。

 

「じゃあ今、バイジュウは……」

 

『ミルクと殺し合いでもしてるんじゃない。従者になったら逆らうことなんて基本的にできないから』

 

 なんて冷たいことをフレイムはこぼす。それが当然だからこそ、至って普通な態度のまま残酷な真実を告げられたことに、俺は一瞬聞き間違いなんじゃないかと思ってしまうほどだった。

 

 だけど告げられた言葉そのものは本当のことだ。いくら俺が思考を停止させようが何も変わることはない。その事実を聞くことができたファビオラも黙しているのが何よりの証となる。

 

「……どうしたの、ファビオラ」

 

「……いや。アンタが考える必要ないことを思ってただけ」

 

 けれどファビオラの沈黙は驚きと同時に思考も入り混じっていた。何かに気づいたような……そんな妙な言葉の空白が。

 

 

 

 ——その意味を、俺は瞬時に察してしまった。

 

 

 

 そんな俺の思考が顔にも出ていたんだろう。

 ファビオラは首を横に振って「口にしないで」と言いながら、手を握ったり閉じたりして心を落ち着かせようとする。

 

「……でも、本当にそうだったら?」

 

 しかし、それは簡単に流していい話じゃない。下手をしたら自分に取って最も愛する人間を手にかけてしまう行為だ。

 分かっている。ファビオラだって元々は情報機関に所属していた現場担当のエージェントだったんだ。エミリオやヴィラみたいに人の生き死を何度だって目にしたし、奪うこともあったに違いない。だから命のやりとりに動揺することなんて今更すぎることだ。

 

 それでも相手が相手だ。心が揺らがないなんて逆に人としてダメだ。それでは『魔女』とか『従者』とか以前に本当の意味で狂気に取り憑かれたモノと化してしまう。

 

 ファビオラは俺の心配を察してくれたのだろう。

 バカにでもするように大きなため息を吐くと、メガネを直しながら言った。

 

「お灸を据えるだけですよ。主人の不始末はメイドが請け負います」

 

「それに言ってしまいましたからね」とファビオラは落ち着いた呼吸のまま話を続ける。

 

「もし、次いけない事を言ったら、ファビオラもちょっぴり本気でお説教します。いつもみたいに逃がしませんからね——と」

 

 ——それはニューモリダスに行く航空機の中で交わした中にあったほんの小さな一幕に過ぎない言葉。その約束をファビオラは覚えていた。

 

「もしもそうなったら私がスクルドお嬢様を止める。だからアンタは気にしないで」

 

 ファビオラの決意は固くて熱くて揺るがない。覚悟を炎として俺に表明した。

 そんな気持ちを俺は軽々しく物申すことなんてできはしない。俺はただ静かに「うん」と一言頷き、ファビオラは女性にしてはやけにニヒルな笑みを浮かべて言った。

 

「絶対にスクルドお嬢様は助けるから」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 とりあえず行動指針は決まった。

 まずは武器とかの物資を調達することになった。カダスなどの場所に向かおうにも、ここは世界が広くて人間の足だけでは活動に限界がある。もちろん食料も同様だ。

 

 だからエルガノさんからレン高原を中心に交易(という文化があるかは若干怪しいが)してる都市があるかどうかを聞いて、長期活動ができる環境を目指すことになった。

 あわよくばこの広い世界を迅速に行動できるような……それこそムーンビーストが乗ってやったきた『船』とか、あわよくば『飛行船』みたいな足があれば、このドリームランドという世界で動くのに面倒なことにならずに済むだろう。そういうのが都市にあればいいのだが。

 

『というわけでやってきました。『インクアノク』でございます』

 

「なにこの大理石だけ作ったような不気味な都市……」

 

 エルガノさんが予め教えてくれたということと、フレイムの道案内もあってファビオラ、ソヤ、俺の3人は迷うことなく『インクアノク』という都市に到着することができた。

 

 形容する、大理石みたいであると。

 あたり一面の建物が妙に艶やかな石でできた物ばかりであり、そこではレン人以外にも造形が違う種族が結構盛んに交易を行っていた。普通に金銭らしき物資の受け渡しを起こっているし、どうやら俺たちが知ってる世界に近いシステムなようで安心してしまう。

 

 しかしなんだ、この悪趣味というか、文化的にそういうのか分からない妙に目に悪い建物は。

 なんかお高く纏まったビジネスビルが使ってるようなお高い縞模様の大理石を建材にしてるような……そんな趣味の悪さが滲み出たアレな都市が『インキアノク』なのだ。

 

「これはオニキスね……。二酸化ケイ素を主成分とする結晶体を使うなんて……」

 

「二酸化ケイ素?」

 

 聞く感じだと二酸化炭素みたいで非常に危なく感じます、ファビオラさん。

 

「『溶岩』とか『ガラス』に使われる物質よ。状態や圧縮濃度で色々と使用用途が多岐に渡っているけど、使い方を誤れば人体に害を及ぼす劇物でもあるの。医学的に発癌性物質を持つことが証明されてるしね」

 

 溶岩と発癌性というワードだけで脳内で『ヤバい』というイメージが瞬時に固まった。とりあえず危険が危ないってことだけは理解できた。

 

「でも使い方次第では結構便利だったりするのよ。例えば車の『コーティング』とかをする際に『シリカガラス』とかあるんだけど、このシリカって部分は二酸化ケイ素のことを言ってて、ワックスみたいに吹き付けて時間が経てば、こんな風に嫌らしいくらい光沢がつく優れものだったりする」

 

「へ〜〜」

 

 ……って待てよ。

 

「じゃあ、ここって言い換えれば『ガラスの都市』になるってこと!?」

 

「まあ、そういうことになるわね」

 

「だったら、全部の建物が防弾仕様なのか……」

 

「……『防弾ガラス』と『ガラス』の主成分は別物よ。ラミネート構造……と言っても長くなるだけだし、ともかく二酸化ケイ素を主成分としたガラスは一点集中の力や熱に弱いのよね」

 

「こんな風に」とファビオラは指を弾くだけで炎が出現し、その熱にやられて建物の極一部が飴細工のように溶けた。

 

「二酸化ケイ素さん頼りねぇ……」

 

「そもそも『炎』とか『熱』に対抗できる物質の方が少ないんだけどね。人間だって40℃で熱中症で脳がグチャグチャになるし、水は100℃で沸騰して気化する。鉄とか、それこそ二酸化ケイ素は1600℃くらいで溶けるのに、太陽なんか表面だけで6000℃で核までいけば1600万℃。熱の世界なんてそんなもんよ」

 

「ちなみに一般家庭で使うコンロの火は1400℃から1900℃よ」とファビオラ付け加えてくれた。

 流石は火の魔法を使える上にメイドというだけはあって、そういう部門には相当に詳しいらしい。なのに調理技術が身につかないのは何故なのだろう。

 

「しかし、ここの種族はレン人よりかは人間に近い形をしてるけど……なんかこう……違うよなぁ」

 

 都市の構造には見飽きたので、次はここにいる種族へと目を向ける。

 そこにいるのは顔立ちや肌色は千差万別だが、目も眉毛も耳も手も足も鼻穴も二つあるパッと見じゃなくて人間に見える。当然ながら口は一つだ。上とか下とかの口は言及しないぞ。

 

 けれどよく見ると雰囲気が人間じゃないと分かる。視覚的な情報じゃない。感覚的な物だから何とも言えないが……一言で表すなら『オーラ』があるといえばいいだろうか。

 

 天使ならば翼と輪っかをイメージするように、なんというか。芸能人ならどこか隠しきれない華やかさや上品さがあるみたいな……そういう根本的な部分が違うと確信できた。

 

「エルガノ曰くここは『本来の神々』と呼ぶべき存在の血を引いた者がいるらしいですわ。そういう部分がレンさんが感じてるものかと」

 

 といいながらソヤは無警戒にも住人に話しかけていた。言葉はどうやら半分ぐらいは通じてるような様子であり、何度かジェスチャーを入り混じる。

 しばらくするとソヤに話しかけられた住人は、謎の作法を見せて頭を下げると何のトラブルもなく離れていき、そのソヤ自身は珍しい体験をしたことに興奮して笑みを浮かべていた。

 

「よく話しかけられるな……」

 

「臭いで敵意がないのは分かりますわ〜〜♡ 少なくともここの住人は理由がない限り、私たちを襲うことはなさそうですし♡」

 

 こういう時でも便利だな『共感覚』ってのは。きっとこの世界の共通言語ってのは、言葉じゃなくて感情なんだろう。

 

「で、アンタは何を話してたの?」

 

「言葉の一部一部は分からないので詳しくはありませんが、ここらで一番栄えてる都市はどこなのかと聞いてましたわ」

 

 ファビオラの質問にソヤは言葉が詰まる様子もなく答えると、その指先をある方向へと向けて説明を続ける。

 

「どうやら海を越えた先にあるとのことでして、そこならあるのではないかと」

 

「色々喋ってくれたんだな」

 

「ええ。都市名も教えてくれましたわ。正確な発音からはかけ離れておりますが、あえて発音するなら『セレファイス』という場所とのことですわ」

 

 などと雑談を入り混じりながらソヤの案内を下にこの都市の港湾へとたどり着いた。

 当然俺とファビオラは現地人とコミュニケーションは取れないし、フレイムだってこの世界の住人には認識できないようで、何もないと言わんばかりで視線の焦点が合わない。

 

 となると、ここでの交流は全部ソヤ頼みだ。

 港につくと、即座にソヤは船に関係ありそうな商人に話しかけて交渉を始める。

 

 俺たちはただそれを眺めてるだけだ。やることも話すこともないし、あたりを見渡しても海しか見えない。

 欠伸でもしながら待ち続けていると、ソヤと商人はその手にある金銭らしき物体と、これまた鍵みたいな物体を入れ替えると、満面の笑みを浮かべてソヤはこちらに戻ってきた。

 

「無事に入船の許可を頂きましたわ〜〜♡」

 

「ここでの金銭ってどうなってるの……?」

 

「材質は全く違いますが、金貨とか銀貨みたいなやり取りしてるみたいですわね」

 

「マザーエルガノから幾らか貰っててよかったですわ♡」と艶やかな声と共と、少しの不安を覚えながらソヤが借りた(購入?)した船へと乗り込んだ。

 

 どうやら個人利用するクルーザーみたいなタイプであり、他の乗客はいない。それどころか商人は受付以外の仕事はないと言わんばかりに俺たち3人が乗りこむのを見終わると「早くどこか行きなさい」と暗に伝えるように視線を背けて、自らの仕事へと戻っていった。

 

「ところでソヤ。これはどう動かすの?」

 

「……さあ?」

 

「気分は泥舟ね」

 

 それを言わないでくれ、ファビオラ。同じことを思っていたから。

 

 どういう仕組みで動くかも一切不明な船。気分は願いを叶える7つの球に出てくるポッド型宇宙船を試運転する時と似ており、どこか押し間違えたら自爆するんじゃないかと、おっかなびっくりにパネルを操作していく。

 

『今触ったのが発進するパネルよ。横のが速度調整と旋回調整ね』

 

「そういえばフレイムに頼ればいいのか……」

 

 なんて思っていたのは束の間。フレイムの丁寧な説明で無事に出航することに成功した。

 速度としては並かどうかも不明。何故ならこういう小型クルーザーに乗るのは『OS事件』でマリルの乱暴な運転に乗って以来だ。何が普通で何が異常なのかもわからない速度のまま南東方向にある『セレファイス』という都市を目指していく。

 

「優雅なクルーズですわ〜〜……」

 

「そういえば、ここでの食文化とかどうなってるのかしら? このクルーザーには食糧庫とかないし……」

 

「釣竿は備え付けられておりますし、そこらへんは自給自足になるのでは?」

 

「だいぶサバイバルだねぇ。寄生虫とか怖いけど、まあ大抵は焼けば大丈夫か」

 

「でもRPGなら、こういう時に海のヌシ的な存在が出てきたりして冒険の邪魔してきたりするんだよなぁ」

 

 

 

 ——なんて言ってしまったのが悪かった。俗に言うフラグというやつを立ててしまったのだ。

 

 

 

『この世界に人間が踏み込むとは……身の程知らずとはこのことか』

 

 

 

 地響きと雷鳴が入り混じったような威厳溢れる声が届くと同時に、突然として海が裂けていく。それこそ有名なモーゼの十戒の如くパックリと開いて、滝のように海がそこに落ちてく。

 

 するとどうだ。海の底から人の形をした屈強で髭面で強面の男が、タコだかイカだか魚だかよく分からない巨大な海洋生物に乗って姿を見せたのだ。

 

 怖いとか、そういう次元じゃない。本能が警鐘を鳴らしてしまう。この髭男はまともじゃないと。確実に人間とか、この世界にいる種族とか、そういう生命体という括りから超越した存在であると。

 

 

 

 ——逆らってはいけない。逆らったら、絶対に無事じゃすまない。

 

 

 

『人間の気配が感じたが……赤羽も一緒とはな』

 

『オイッス。今はフレイムという名前でよろしくね、おじいちゃん』

 

 

 

 知り合いなの!? フレイムはこのポセイドンみたいな筋肉ムキムキ髭が似合うダンディな方と!?

 

 

 

『あっと、皆に紹介しようか』

 

 

 

 そう言って、フレイムはバスガイドが観光名所の案内と説明をするかのような丁寧な手つきと声色で告げた。

 

 

 

『この人は『ノーデンス』——。正真正銘の神様さ』



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第7節 ~『譌ァ逾』(『■■』)~

『ノーデンス』——その名前に聞き覚えがあるか言われたら、俺は『ある』と応えられる。

 

 ノーデンス(あるいは『ノドンス』)は、かの英雄が聖杯を求めて戦うことで有名な『クー・フーリン』や『スカアハ』(もしくは『スカサハ』)の原典である『ケルト神話』に出てくる医療の神様だ。

 

 神様なんだから実在したかどうかの信頼性については意味などない。けれどリドニー公園で『ノドンス寺院跡地』という場所から石碑みたいな物が見つかったことから、歴史的には信仰されていたという事実そのものがある。

 

 ——だから、逆に言えばそれだけだ。それだけしかノドンスという曖昧で、信仰だけが証明できるという余りにも薄い存在はドリームランドという地において確かに存在している。

 

 

 

 ——『神様』が目の前に存在する?

 

 

 

 冗談だと笑い飛ばすことはできない。だって海を裂いて姿を見せ、地球上の生物とは思えない何かに乗っているのだ。それだけでも得体が知れないというのに、その人間離れした風態がより一層神様だと認識する。

 大きさ自体は成人男性より少し大きいぐらいだが、その逞しい髭とは合わないボディビルダーも裸足で逃げ出す人間離れした屈強で完璧で無駄のない肉体美は神話に出てくるゼウスやヘラクレスみたいにも見えてしまう。

 

 直感が告げるのだ。こいつは本当に間違いなく『神様』であると。今俺たちの目の前で神様が存在していて、確かに俺達を視界に収めていると。

 

 ……ラファエルが神様が実在することを知ったら卒倒しそうだな。

 

『不敬な思考を感じたぞ、そこの黒と赤髪の女』

 

 思考が読めるのか……すごい……。

 

『だが寛大な慈悲を持って不敬を許す。我は貴様らに罰を下すほどの時間はない。早々にこの世界から去るがいい』

 

『あら、ノーデンスともあろうものが急用? よっぽどのことがあったみたいね』

 

『白々しいぞ、フレイム。お前なら知っているはずだ』

 

『生憎と『今の私』は知らないわよ。だって私はフレイム……外宇宙にいる『赤羽』とは違うただの端末だもの。それぐらいなら知ってるはずよね、ノーデンス?』

 

 なんて強気な言い方なんだろう。神様相手でも怯みはしない。まるで自分は『格上』だと言わんばかりに挑発的で威圧的だ。

 それがノーデンスの逆鱗でも撫でたのだろう。その手にある手綱を力強く握りしめると『それ以上は不遜とみなす』と警告をこぼした。

 

『それに生き遅れのおじいちゃんに担がせる神輿もないのよ。いくら人間より強かろうと、私たち『情報生命体』という名の外宇宙の存在に対抗できるとでも?』

 

『口にせねば分からぬほどに俗世に染まったか』

 

『口だけは達者ね、敗者の癖に。よっぽど追いやられたのが気に食わないと見えるけど? ケルト神話の神様気取りさん』

 

『よかろう。あの『這い寄る混沌』を討つ前に、貴様から屠るとしよう』

 

 一触即発だ。空気が重くなるのが肌身で感じてしまう。

 それは臭いで感情が分かるソヤも同じだろう。刺激臭でも嗅いだかのように鼻に皺を寄せて見守っている。

 そんな中、ファビオラだけは苦笑いをしていた。まるで悪戯でもしたスクルドを見るかのように生暖かい目つきで。この後どうなるかが分かっているかのように。

 

『まあ私たちの目的が、そのニャルラトホテプの打倒だと言ったらどうする?』

 

『……なんだと?』

 

『詳しいことは、さっきの黒と赤髪の子に話しなさいな』

 

 ……心臓に悪すぎるっ!! なんなんだよ、今までのやりとりは!? 

 

 というかここで俺に振るなよ!? 言葉を慎んでもエラい目に合うかも知れない状況下で!? 安全第一の冷たい世の中で育った現代っ子なんだから!

 

「あっと……えっと……その、どうも」

 

『……本当にこいつが『無貌なるもの』を打倒するのか?』

 

『大マジ。だってその子、あの『聖杯』を宿した子だよ?』

 

 その言葉にノーデンスは初めて驚きの表情を見せた。

 

「あの……『聖杯』とは?」

 

『知らないなら説明してやろう。聖杯とは、貴殿の歴史に存在するキリストと呼ばれる——』

 

『ダメだよおじいちゃん。その子は馬鹿だから分かりやすく言わないと』

 

 悪かったな、頭悪くて! それにノーデンスも歳の離れた若者と相手するアラフォーみたいの『そうなのか』と納得するな!

 

『ノーデンスや私が言ってる『聖杯』ってのは、レンちゃんでいうところの『ロス・ゴールド』のことを言ってるの』

 

 ……おっと。予想外なところで『ロス・ゴールド』という言葉が出てきてしまった。

 けれどさほど驚きはしない。正直見た目が黄金の杯だから、見た当初からそれっぽいとか感じてはいたし。

 

 だけどなんで今更『ロス・ゴールド』の話が出てくるんだ?

 

『なるほど……『聖杯』の担い手とはな……』

 

 値踏みでもするかのような視線がノーデンスから向けられる。さながら気持ちは視感的セクハラをされるOLと上司の気分。頼むからそんなジロジロ見ないでください。

 

『……よかろう、其方たちの滞在を許そう。目的も気になるところだしな』

 

「話せば分かるおじさまで助かりましたわ〜〜♪」

 

『それに人間と接するのも久方ぶりだ。ちょっぴりワクワクしてもいる』

 

 意外と俗っぽいところあるな、神様。

 だいぶ前に取り調べした時に思ったけど、スターダストやオーシャン、それにセラエノとかのそういう類は俗物じゃないといけないルールでもあるのか?

 

『神秘が消えてから数百年……戯れに覚醒の世界に赴いては畏怖されてはこちらも気乗りはせん。こうやって対等に近い関係で話せるのは、一時の戯れとしては刺激的で良い』

 

『だから最初にガス抜きさせてあげたでしょ。威厳たっぷりに神性同士での罵り合いも久しぶりでしょ?』

 

『うむ。実に充実した時間であった』

 

 じゃあさっきまでのは、ただの神様的な『愚痴』とストレス発散ってことかよ!? 神様も随分アレだな!?

 

「でもある意味神様に違いないわね。そういうどこか自分勝手なところというか、自分本位の部分は伝承通りだわ」

 

「どういうことでしょうか、ファビオラさんや?」

 

「神様って自己中で自分勝手ってこと。かの有名なゼウスだって浮気しまくるし、インド神話のシヴァは息子のガネーシャの首を吹き飛ばしたくせに、そこらにいた象の頭乗せてひと段落させるような連中なの」

 

 前者はベアトリーチェがブチギレるし、後者はただのサイコパスでは?

 

『ははっ。私はそんなことはせんよ』

 

『そうそう。ただ気に入った人間がいたら、銀河系の果てに連れて行く程度の気さくなおじさまよ』

 

 山に子供を捨てるくらいの重罪だよ!!

 

『それでは話を戻そう。少女達よ、まずは名前を聞かせてもらうか』

 

「お、俺はレンですっ」

 

「ソヤですわ」

 

「ファビオラ」

 

『アンタなら見れば分かるけど、ファビオラと私はそういう関係ね』

 

 それだけだと何か如何わしい関係に聞こえるんだけど。

 

「レンさんが助平なだけだと思いますわ」

 

 はい、いつも通りに心の中を読むのありがとうございます。

 

「我はノーデンス。これで互いの名を結ぶ契りは成立した。であれば次は目的を述べてもらおう」

 

 そう言われたらこちらも説明するしかない。

 俺達はこの世界に来てしまった経緯と当面の目的をノーデンスへと伝える。細かい部分についてはフレイムが補足してくれたおかげで会話自体はスムーズに進んだが、それでも体感時間としては1時間近くかかったと思う。

 

 おかげである程度はこちらの事情をノーデンスは理解してくれた。俺達がニャルラトホテプを打倒する理由や、そのためには何が必要なのかも。

 

 その間も船はノーデンスのよく分からない海洋生物と共に大海原を渡っていく。すると目的地となる『セレファイス』らしき都市が見えてきた。

 

 そこは遠目から見ても発展してると分かるくらいに壮大な都市だった。映像資料とかで見たことあるが、ラスベガスのカジノがある場所みたいに夜に包まれた世界を様々な光明が色付ける。

 光明の中には『ダレカの伝説 プレス・オブ・ザ・ワイド』に出てくるかのような高い塔が数百本も存在していて、さながら新豊州の商業区にも似た感じだ。

 

「あれが『セレファイス』でしょうか?」

 

『ああ、あれは『セレファイス』だ』

 

 音声認識AIみたいなシンプルで淡白な返しだが、現地人(現地神?)であるノーデンス直々に確証を貰えて安心だ。

 手際よく舵を操作するも、どこぞのグランドでセフトでマニュアルなゲームみたいに雑に船頭を船着場にゴツンと当てて足速に上陸した。

 

「うおっ……こうして間近に見てみると近未来感じる……!!」

 

「はぁ〜〜♡ ここには不思議で素敵で不適で不可思議な匂いがします〜〜♡」

 

 上陸した瞬間、目にしたのはまさに『夢の世界』と言わんばかりに豪華絢爛な光と闇のグラデーションで彩られた街並みが広がっていた。

 そこには見渡す限りの人、人、人。歩行者天国も顔負けの三密どころじゃない人集りは、ここにいるだけで酸欠になるんじゃないかと思ってしまうほどだ。

 

 右見ても左見ても前見ても景色は様変わりしない。まるで時が止まっているかのように道も塔も綻びや摩耗や損傷がなく、コピペでもしたように平等で均一に綺麗なままだ。

 それら全ては塔、光、人集りの3種で形容できてしまい、あまりにも様変わりがないので方向と平衡感覚が不安定になる。

 

『ここがセレファイス……夢なのに眠らない都市。時間の忘れ物となった場所よ』

 

「時間の忘れ物……?」

 

『文字通りの意味。ここではありとあらゆる物質は朽ちることはない。物体は時によって廃れることもなく、生命は不老不死を会得する。そういう都市なの、セレファイスは』

 

 淡々とフレイムは告げていくが、その内容に思わず背筋がゾワッとした。恐怖と違和感によって。

 廃れないとか不老不死というが、それは時が流れないからこそだ。つまりここでは成長がないということである。子供は子供のままというのは、酷く残酷なことでありそれが恐怖へと昇華する。

 

 けれど問題は違和感のほうだ。成長がないなら、なぜセレファイスはここまで『発展』している? 発展というのは技術の進歩だ。それは『進化』や『成長』を意味しており、時が止まっていては決して成せないものだ。

 

 それが感じた違和感——。ここセレファイスは、どこか根本的な部分で人間の感性とは相容れないものが渦巻いていた。

 

『驚くのはまだ早い。空を見てみるといい』

 

「空を?」

 

 ノーデンスに言われて空を見上げてみると、脳が萎縮するのが分かるほどに衝撃を受けた。

 

 浮いている——。『都市が浮いている』のだ——。

 セレファイスの上空にある雲海。その雲を越えた先に、今にも落ちてきそうな隕石のようにドデカイ岩の塊があり、そこにはセレファイスと同等に発展した都市があったのだ。

 

 

 

 そして——空中都市とセレファイスを繋ぐであろう『黄金色の空飛ぶ船』も見えた。

 

 

 

『あれは『ガレー船』といい、天空に浮かぶ『セラニアン』と地上で輝くセレファイスを繋ぐ渡航手段だ』

 

 天空に浮かんでいる都市は『セラニアン』——。そこに渡るための空飛び船である『ガレー船』——。

 

 本当にあった。こんな簡単に求めていた飛行船を目にすることができた。

 だったら次に考えることは決まっている。あのガレー船をどうやって手に入れるかだ。あれさえ手に入れれば、ここで活動できる範囲は飛躍的に高まる。

 

 それこそ当面の目的である『カダス』にだって行くことが——。

 

 

 

「問題はどうやって確保するかね。それに武器の調達もしないと……」

 

『この都市は様々な種族が入り混じることで技術が混沌としている。お前らが欲する武器とはなんだ?』

 

「私はチェーンソーが欲しいですわ」

 

「私は単純に質量兵器ね。レンもソヤも多数を相手にするには向かないから」

 

 ソヤとファビオラの返答にノーデンスは『ふむ』髭を撫でながら考える。暫時、思考を続けるとノーデンスは『ならば』と一言おいて話を始めた。

 

『少々危険ではあるが『ミ=ゴ』や『イス人』などの技術に頼るのも手だな。かの種族は個体としての強さよりも、群体として誰でも使える強さを伸ばした過去がある』

 

「人間の歴史と似た感じね。武器としてはどんなのがあるの?」

 

『色々とある。銃と呼ぶものもあれば、特殊な鎧を身に纏うのもあったりと我でも全貌は掴めない』

 

 うーん、多様性に溢れてるせいで逆に選べない的な感じに聞こえる。というか鎧もあるとか、本格的にRPGみたいになってきたな。

 

「でしたらここは一先ず散り散りになります? 各々が求めてるもの物は細かいところだと違いますし」

 

「それだと金銭的な行いはどうするんだよ? ここでのコミュニケーションと金銭管理はソヤ任せになってるだぞ?」

 

『それは我が全部行ってやろう。好きなだけ買うといい』

 

 太っ腹で協力的なノーデンス様、素敵だっ!

 

『それに私もいるしねぇ〜〜。会話はできないけど、ジェスチャーの補助くらいはしてあげる』

 

「じゃあ、そういうことなら……って、それでもノーデンスは一人しかいないんだから散り散りになることはできなくね?」

 

『呼べば駆けつけよう。すでに契約はしているのだから』

 

 名前を呼び合っただけで契約成立とか悪徳業者もビックリのスピードだ。

 

「それじゃあ改めて一旦解散!」

 

「私はチェーンソー以上のスプラッターを求めて!」

 

「私は銃火器とかそういう類を求めて」

 

「俺はガレー船を手に入れるための情報収集! 連絡は……ってないか」

 

 そういえばここに来る時に全裸になったからクラウディアの鏡をなくしたんだった。これじゃあ連絡する手段がない。

 

 まあ、だったら連絡する無線機みたいなのも探すとしよう。銃とか特殊な鎧があるというのなら、なんか良い感じに使いやすいのもあるに違いない。この際ポケベルでもいい。

 

 しかし……ここにいないギンとクラウディアは大丈夫だろうか。クラウディアはまだ大丈夫だろうけど、ギンだけは『華雲宮城』にあるフリーメイソン支部という敵陣の只中にいるのだから。

 

 

 …………

 ……

 

 

 一方その頃、ギンは麒麟との手負いの戦いを繰り広げていた。

 

 互いにハンデというのは重すぎる負傷がある。

 ギンは覚醒の世界に留まるために腹部に小刀を深く差し込み、今もその痛みと流血に耐えている。

 麒麟は自身が利用していた異質物武器である『陰陽五行』によって身体の隅々までボロボロになっている。

 

 形勢としては負傷前と同じく五分五分だ。少しの差で拮抗した実力勝負は容易く傾いてしまう。

 

 ——そして、その『少しの差』は麒麟の方へと味方をした。

 

「眠りについた少女を守りながら、どこまで私と肉薄できる?」

 

 その少しの差は、ドリームランドへと意識が落ちたことで睡眠状態となっているレン自身であった。

 先の戦いではバイジュウに組織的な価値があったから手出しをしなかったが、現在は手頃な足手纏いにレンがいる。

 

 となれば必然的にギンはレンを守りながらの戦いを余儀なくされる。ギンほどの技量なら居合の間合いの範囲内であれば、レンを守ること自体はできる。

 

 だがそれは耐久比べにしかならない。ここは敵地で、しかもギンは手負いの状態だ。時間を掛ければ掛けるほどに打開ができないほどに状況は悪化していくため、ギンは必然的に攻めに転じなければならない。

 

 もちろん、その隙を麒麟は見逃すはずがない。攻めと守りに転じる時に生じるほんの少しの揺らぎを的確に突いて、自身が最も得意とする異質物武器『斉天大聖の棍棒』こと『如意棒』を使った棍術で少しずつギンの身体にダメージを蓄積させていく。

 

 

 ——どうやってこの状況を覆せばいい。思考するギンの頭に、クラウディアの声が突如として響いた。

 

 

『ギン! 今すぐ手鏡を割って投げて!』

 

「藪から棒にどうした? 戯れをするほど爺に余裕はないぞ」

 

『いいから早く!』

 

 そう言われたら信じるしかない。ギンは懐の手鏡を粉々に砕き、破片となったガラスを空中へと投げ捨てる。

 光沢を持った雨となって麒麟へと降り注ぐが、手鏡程度の面積では破片の枚数も少なく悪あがきにもなりはしない。

 

 余裕綽々といった顔持ちで麒麟は、隙とも呼べない最小限の動きで破片をかわすと、そのままギンへと反撃をしようとし——。

 

「っ!?」

 

 直後、その頬を『下から上へと移動するガラス片』が掠めた。

 

 意識外からの奇襲——。鏡の中から、より小さな鏡の破片が弾丸のように麒麟に目がけて無数に襲いかかってきたのだ。

 

 それはクラウディアの『鏡を通すことで物を運搬できる能力』を使った射程無制限の遠距離攻撃。

 ガラスを通してさらなるガラスを呼び出し、そのガラスが再び次のガラスを呼ぶという、能力を最大限活用した非戦闘要員であるクラウディアが打てる最高の攻撃手段。

 

 威力自体はガラス片が刺さる程度で決して高くはない。けれどそれが目などの外部に露出する器官に命中すればひと溜まりもない。一瞬で視覚は奪われてしまう。

 

 その奇襲を麒麟は危険視しないわけがない。そしてその攻撃の弱点を瞬時に見抜いた。だったら対策するのは必然だ。

 

 麒麟は即座に襲い掛かるすべての『鏡を粉々にした』のだ。文字通りに粉微塵になるような微細ながらも大体な力加減で、丁寧に一枚ずつ一撃で手際よく破壊していく。

 一見すれば相手の能力を助長させる行為にしか見えない。だがクラウディアにとって、それは非常に困ることであった。

 

 能力で運べる物はガラスの表面積に依存している。大きければ大きいほど運べる物の自由度が上がる。逆に言えば小さくなればなるほどに自由度が下がってしまうのだ。

 

 それこそ『粉々になったガラス』では、運べるのも当然『粉ほどの小さい物』しか運べなくなる。それでは次のガラス片を運ぶことができない。

 

 となればクラウディアに打つ手はない。ギンの手助けをすることができない。起死回生の一手になるかもしれない行動は容易く麒麟は打ち砕いてくれた。

 

 

 

『——なんて青いこと考えてるんでしょうね』

 

 

 

 雨のように降り注ぐ粉となったガラス。そこにクラウディアは『本当の打開策』を見出した一手を繰り出す。

 はなからガラス片で目潰ししようなんて、できたらいいな程度の希望でしかない。仮にそれで視界を潰せたとしてもギンと同等の実力を持つ麒麟ならば、周囲の気配を機敏に反応して迎撃に回るだろう。それでは状況を打開することはできない。

 

 ならどうする? そんなことなど既に決まっている。

 何も視界を奪うなら目を潰す必要はない。要は『認識を騙せればいい』のだ。

 

 視界とは光と密接に関係している。そして光は色とも関係している。いつかの事件でマリルがレンに話していたことだ。

 

 ならば視覚に干渉するのに直接的である必要はない。『光』を利用して間接的に奪えばいいのだ。

 

 

 

「なっ……! いきなり目が……っ!?」

 

 

 

 直後、空間から光が放たれる。粉となったガラスを通してクラウディアは単純な光量を照射したのだ。

 

 これこそがクラウディアの目的。『光の全方位射出』——。

 

 力とは使いようだ。ただの100均にでも売ってそうな小さなライトでも鏡を重ねれば眩まし程度の光量には到達できる。

 

 

 

「だが、これで私を不意打ちしようとしても……っ!!」

 

「分かってるわ。だからこうする——」

 

 

 

 それだけをギンは告げると、周囲の気配が忽然として静かになるのを麒麟は感じとった。

 視界が晴れて麒麟は周囲の確認を急ぐ。そこには何もいなかった。今まで居たはずのギンも、レンも、バイジュウさえも消えていた。それを意味するのは一つ。

 

 

 

 ——逃げたのだ。ギンはレンとバイジュウを抱えて逃げ出したのだ。



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第8節 ~譛ェ遏・縺ェ繧九き繝?繧ケ(■■■■■■■)~

「はい、集合〜〜」

 

 というわけで体感時間としては半日分ぐらいだろうか。

 ここセレファイスで情報収集を終えた俺は、武器調達に行っていたソヤとファビオラと合流する。

 

 戦果については見るだけで分かった。

 ファビオラはなんか銃みたいな物を多種多様に背負っているし、特に目立つのは青色を基調に装飾された武器として何の価値もなさそうな『モップ』だ。

 果たしてそれにどんな戦術的な価値があるのか。些か疑問に思うところはあるが、ファビオラの表情は充実そのものだから信用するしよう。

 

 一方ソヤは……ソヤは……? なんだこれ? 

 なんだろう。一言で言えば『チェーンソー』だ。というかチェーンソーだ。それを持ってるのはソヤだから違和感はない。無事にそういう類が見つかったということで納得もできる。

 

 だけど一点だけ納得できない部分があるとすれば……素材が継ぎ接ぎということなのだ。まるで廃材を駆使して作ったような感じが納得を拒否する。

 

「ソヤさんや。その形だけならチェーンソーみたいな手作り感満載の塊はなんでしょうか?」

 

「ご覧の通りチェーンソーですわ〜〜。DIYチェーンソーですわ〜〜」

 

 DIY!? チェーンソーって自作できるもんなのっ!?

 

「詳しくはそういうサイトで検索検索ぅ♡ というやつですわね。この世界はそういう方面での技術ツリーは伸ばしておりませんが、雛形となる基礎はあったので、そこを拝借すればご覧の通りです」

 

「物騒な世の中だな……」

 

「今は調べればすぐに情報が出ますわ。パソコンもスパコンも包丁もゲームハードも色々自分で作れますわ。それこそ銃とかも……」

 

「それ以上は不謹慎だからやめた方がいいと思う」

 

 今のご時世的は色々と機敏な部分があるから。

 

「あら、そうですの」

 

「んなことはどうでもいいでしょう。それよりもガレー船……『空飛ぶ船』を入手する方法は掴めたの?」

 

「うん。というかノーデンスとフレイムが色々としてくれてね」

 

「色々と?」とソヤとファビオラは疑問符を浮かべる。

 

『まあ、この半日で謁見してきたのよ。セレファイスの管理者となる人物にね』

 

「そんな奴がいるのね……」

 

『交換条件はあったが許容できる範囲のことであった。それをレンに熟してもらい、無事に船を入手することができた』

 

「情報どころか船の入手を!? レンさん、いったいどんな如何わしい交渉をしたのですか!? できれば事細かく鮮明に!!」

 

「ソヤが考えるようなことは一切してないっ!!」

 

 

 

 …………

 ……

 

「ここが『セラニアン』を統治する者がいる場所……」

 

 時間は遡ること数時間前。セレファイスで集めれるだけ集められた情報を纏めると『『クラネス』という人物に会え』ということだった。

 天空に浮かぶ『セラニアン』と地上の都市『セレファイス』を収めてるのが、どうやらどのクラネスという者らしい。だからお高い金額をノーデンスさんに立て替えて貰い、正式にここに辿り着いたわけだ。

 

 しかし到着したのはいいものの、どうやってクラネスに会えばいいのか。情報収集ついでに知ったことだが、あのガレー船というのは交易を盛んする上で必須というらしい。そんな大事な物を「貸してください」と言ったところで「いいですよ」なんて返ってくるわけがない。

 

 こっちには交換条件に使えそうな物も情報もないし……どうすればいいのだろうか。

 

「ココカラ先ハ通サナイ。早急ニ立チ去レ」

 

「あれ? 片言だけど俺が知る言語だ」

 

 なんて考え事をしていたら門番らしき者に止められたが、同時に聞き覚えしかない言語を聞いて驚きを隠せない。今までここではスターダストやセラエノが発していた言語のように解読不能だったというのに……。

 

 だったら話し合えばワンチャン何とかなるかもしれない。言葉が伝わるか伝わらないかでコミュニケーションの幅は大きく違うのだ。

 

「あの〜〜、クラネスさんに会いたいのですが……」

 

「ムッ、ソノ言葉遣イハクラネス様ト同ジ世界ノ物……。貴様、地球ノ者カ?」

 

「えっ? いや、うん……そういうことになるのかな?」

 

 いきなりSF的な質問をされても返答に困る。地球の者と言われればそうだけど、それは犬や猫も地球の者ではあるし。そういう大雑把なカテゴライズは混乱を生みやすいからやめてほしい。

 

「チョット待ッテイロ。クラネス様ニ話ヲ聞イテクルトスル」

 

「どうもっす」

 

 幸先いい感じだな、これ? アポなしでも会えそうとか、セキュリティ意識とかコンプライアンスとかそういうのどうなってるの?

 

「いや、通してよい。彼女は私が招待した客人だ」

 

 呑気な考えをしていたら、年季を重ねた威厳のある声が届いた。さぞやノーデンスのような立派な髭を携えた叔父様が姿を見せるのだろうと視線を向けると、そこには想像とは何一つ噛み合わない男性の姿があった。

 

 若々しさ溢れる肌に艶やかさのある顔と手。髪も紳士的というか、若手実業家のような溌剌とした荒っぽくも清々しくを感じる。

 見た目だけの年齢なら二十代ほどだろうか。しかし先ほどの声と、目にした雰囲気からして実際は三十代かもしれない。そんな不思議な印象を受ける人物がそこにはいた。

 

「ソウデシタカ。ダッタラ通ルトイイ、オンナ」

 

 女呼びは若干嫌だが、慣れたことなので触れないでおこう。あと妙に下に見られるところも。いちいち気にしてたら精神衛生上よろしくない。今はただ老人のような雰囲気を纏うアラサーほどの男性の後ろについて行くだけだ。

 

「自己紹介が遅れたね。私はクラネス、この都市の管理者……ということは分かっているだろう」

 

「はい。色々と調べてましたから」

 

「それと先に無礼を謝罪する。君の横にいる『何か』に挨拶をし忘れてしまったことをね」

 

『あら? 私が見える感じ?』

 

「ええ。声と漠然としたシルエットだけですが。さぞかし美しく、綺麗な歌を口にするのでしょう」

 

『分かってるね〜〜、この色男。レンくんちゃん、付き合うからこういう男にしときなよ』

 

 野郎と付き合うことなんて絶対ないわっ!!

 

『それで色男さん? 私達が客人という嘘をついてでも招いた理由って何かしら?』

 

「単純な話だよ。君たち……というより黒髪の子は覚醒の世界から来た住人であろう」

 

「あっはい、そうです」

 

 初対面故のコミュ症みたいな反応しかできない。

 

「私も元は覚醒の世界の住人でね。久しぶりにそちらの世界の話を聞きたくなったのだよ」

 

「例えば」と一息おくと、クラネスは懐かしむように言葉を漏らした。

 

「私の故郷である『ロンドン』の話とかね」

 

 その首都名を聞き、俺は口を塞ぐことしかできない。だってそこはもう『七年戦争』の影響で、国家解体を余儀なくされたイギリスという『もう存在しない国の首都』なのだから。

 

 歴史とか苦手な俺でもロンドンくらいは分かる。かの極悪非道と悪名高い連続殺人鬼『ジャック・ザ・リッパー』が実在したとされる場所であり、また色々な創作物で舞台となる場所だ。代表的なのは『シャーロック・ホームズ』だろう。

 

 そんな名高い首都はもう存在しない。それを口にすることもできない。そして同時に思うこともあった。

 

 

 

 ——ロンドンを知るこの人は、いったいどれくらいの時間をここで過ごしてるんだろうと。

 

 

 

 この『ドリームライド』は感覚でわかる。『因果の狭間』と一緒で、現実とここでは時間の流れが異なることくらい。だから七年戦争が起こる以前よりドリームランドにいるのは絶対であろうクラネスはどれくらいなのだろうか。

 

 ……あまり考えたくない。残酷なことではあるが、こういう人物はきっと探せばいくらでもいるんだろう。いちいち思いを馳せて暗くなっていたら、とてもじゃないが精神的に保たない。割り切るも大事だと、きっとマリルやエミリオとヴィラは口にするだろう。

 

「……そうか。やはり我が故郷は無くなっているのか」

 

 俺のあまりにも長い沈黙で察したのだろう。クラネスは俺が思っていたことを意図も容易く見透かした。

 

「君は優しい子だ。私が傷つくから言わないでおこうと思ってくれたのだろう」

 

「ただ伝えられなかっただけです。戦争の傷跡なんて……誰だって口にしたくないから」

 

「そういうところが優しいのだよ。昔ここを訪れた君によく似た子のようにね」

 

「あっちの世界から来た人がいたんですね」

 

「ああ。だいぶ前にね」

 

「戦争で無くなったのか、我がロンドンは」と感慨深くクラネスは呟くと「そういうことなら君たちの本題に移るとしようか」と話を切り替える。

 

「君たちの事情は私も耳にしている。ガレー船をどうにかして手に入れたいのだろう」

 

「そうですね。作り方とかでもいいですけど、できれば借りたりとかは……」

 

 あっさりと俺の目的を言い当てられて、ちょっと照れ臭いような、申し訳ないような何とも言えない感情が湧いてしまう。

 今のところ、この人に何一つ口で先手が取れてない。そういう口勝負的な意味ではマリルより厄介かもしれない、この人は。

 

「その心配はしなくていいよ。問題なく借してあげるさ。ただ交換条件が一つだけある」

 

 交換条件がある、それは覚悟していたことだ。いつものことともいえる。

 

「……俺にできることであれば可能な限りしますよ」

 

 さあこい。限度はあるが、どんなことでも受けてたってやる。

 

「そう畏まる必要はない。別に卑しい意味などないさ。私からの交換条件はこれだ」

 

 そう言ってクラネスは俺をガラス越しから見渡せる広大なセラニアンとセレファストを一望できる場所へと手招きした。

 

「君はこの都市を見てどう思う? 率直な感想を述べてほしいんだ」

 

 その景色を見て、俺は二重の意味で驚いた。情報集めのために歩き渡っていて、ある程度は形を想像できていたはずなのに、こうして上空から見てみると、その街並みの一部にはとても見覚えのある光景があった。

 

 それは先ほど話した『ロンドン』だ——。

 歴史の授業とかで見たことあるロンドンの写真と、かなり酷似した街並みがそこには広がっていたのだ。

 

 時計塔もあれば橋もある。村も川も漁村も。今まで公益の中心として都市部の中心だけいたから、セレファイスの端の端のあんな人間的な文化が繁栄してそうな場所があることに驚きしか保たなかった。

 

「私は愛している。生まれ故郷であるロンドンを。だから時々故郷を思うと寂しくなってしまってね……ああして、私が記憶する思い出の地を可能な限り再現してるのだよ」

 

「けれど」とクラネスは一息置く。

 

「この都市には『時間』がない。概念的な時間でも、単純なタイムリミットとしても。ゆえに……」

 

「成長も、発展もない……」

 

「そうさ。ここは『文化の再現』はできても『文化の進化』というのができない。私が愛したロンドンは刺激を満ち溢れ、常に発展しようとするする意思があった。蒸気機関車が新しい物を運んできてくれていた」

 

「だけどここにはその新しい物がない」とクラネスは続ける。

 

「こんな歪な文化を見て、君はどう思う? 成長も発展もなく、ただただ毎日同じ日々を過ごし、同じ平穏を続けるだけの『私のロンドン』を……」

 

 それがクラネスが俺に対する交換条件ということか。俺は今一度心の淀みとかをフラットな視点になるように意識して、この街を眺めなおす。

 綺麗かどうかで言えば綺麗だ。美しいかどうかで言えば美しい。ここは交易が盛んで、町に住んでいる人々は活気と幸せに満ちている。この都市に不満なんか片手で数えるほどの些細な物しかないほどに。

 

 それは街を渡り歩いたから肌身で知っている。ここでの言語は俺のとは違うというのに、皆優しくジェスチャー交じりで教えてくれた。余所者であるはずの俺に『ガレー船』についてここまで情報提供してくれたのは、フレイムとノーデンスの助力の他に、住人たちの力によるものも大きいほどだ。それぐらいここの住人は『心に余裕がある』んだ。だって破滅なんて経験もしなければ、思ったこともないだろうから。

 

 

 

 俺は知ってる。世界が残酷になれば、人の心はどこまでも残酷になる。

 人の内面に潜む闇や負と言える部分が具象化したのが『七年戦争』だ。みんながみんな自分のことで手一杯であり、余裕なんて物はどこにもなかった。

 それは俺だってそうだ。七年戦争での被害は比較的軽微だったとはいえ、いつ空腹になるか、いつ食料が誰に取られるか分からないから、とにかく食料は詰め込めるだけ腹に詰め込んだ。それは今でも時々やってしまうほどに、心に負った傷や行動というのは直すことができない。

 

 

 

 だから住んでいる人からすれば、ここは理想的といえる。平和が確約されている世界。前進することはないが、後退することもないただただ当たり前の毎日を繰り返す『夢の都市』が、ここなんだ。

 

 そんな世界を……俺は否定することなんてできない。だから返す言葉は決まっている。

 

「いいと思います。この街の住人たちにとっては間違っていない選択だと思います」

 

「そうか……」

 

 そんな答えを、以前の俺だったら言っていただろう。それは今でも思ってしまう。

 けれど、そんな甘えた考えを『俺自身』が認められるかどうかは別だ。

 

「そのうえで、俺はこの都市を否定します。夢での安寧は間違っていない。だけど正しいはずもない。成長がない世界なんて、親離れを選んだ俺がしていい選択じゃないから。だから俺は否定します、この都市を」

 

「……そうか。君はそういう答えを出したのか」

 

 クラネスの声色に威圧感なんて物はない。ただ俺の返答を受け入れてくれた。

 

「君ならばガレー船を預けてもいい。正直に私の質問に答えてくれたのだからな」

 

「ありがとうございます」

 

「だとしても私はここの存続を続けるよ。ここに都市を築いた王としての責任として。住人の皆に最後まで幸せな夢を見させられるように」

 

 それに関しては俺が口を挟めることではない。この都市の感想を言うのは自由だが、どういう風に統治するかは王であるクラネスが決めることだ。クラネスがそうと決めている以上、俺の意見を尊重しろとかいうことはできない。元々部外者ということもあるし。

 

 だから、俺は「そうですか」と言ってガレー船を借りる段取りを淡々と進めていく。

 作業自体は無事に終わり、操舵方法とかを教えてもらうと、別れ際にクラネスは俺にこう言った。

 

「さあ、夢の果てを見てくるといい」

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 

「そんな自分語りを聞くだけでイベント終えていいんですの……?」

 

「変にたらい回しにされて、人気漫画のように長期連載になって中弛みするよりかはいいんじゃない?」

 

「船はよ、乗り換えることにしたんですわね……。私のマネーで買った船は早くも破棄……」

 

「元々はエルガノの金だよ」

 

 というわけで現在、説明を終えて移動していた俺たちはその『ガレー船』へとたどり着いた。前に手に入れた船には世話になったけど、この船での航海はここまでだ。

 

「飛行船入手は一大イベントだというのに……こんなアッサリと……」

 

 クラネスさんが話を分かる人だと言ってくれないと。

 正直お使いイベントとかクエストとかをサブクエならともかく、メインストーリーでやられるのはゲーマーなら皆ダレる要因である。『二つの塔で苦労も二倍だな』が有名なゲームも、その問題の塔はコピペマップで右へ左へ行きながら上るという単調作業だし。

 

「ともかくスムーズに手に入れて万々歳。これでカダスに迎えるってことでいいじゃない」

 

「ファビオラさんもそういうのなら……」

 

『それじゃあ、レン高原北方にあるカダスに向けて全速全身っ!』

 

 そう言って、皆は飛行船に乗り込んで飛び立つ。

 未知なるカダスに想いを馳せて、上へ上へと飛んでいく。

 

 そうすると世界は見渡せた。

 本当に広大なレン高原の全貌を。その北方にそびえるカダス山を。

 

 

 

 

 

 だから、そうやって空に行ったことで俺は気づいた。クラネスの言葉の意味を。

 

 

 

 

 

「世界が……崩れている?」

 

 

 

 

 

 世界の果ての果て。カダスの向こう側を超えた夢の世界の端の端。

 そこは『奈落に続く滝』のように、世界というポリゴンを崩壊させていく様が広がっていた。



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第9節 ~逾樊?縺ョ逵キ螻(■■■■■)~

 歴史上に置いて、科学技術とそれに伴うことで地球は丸いということが証明されたことは皆が知っていることだろう。かのマゼランが世界一周の渡航を終えたことで、昔からあった地球球体説は実証され、1961年には世界で初めての有人宇宙飛行が成功し、実証だけでなく視覚的な資料的な意味でも地球は球体であることも証明された。これは『地球は青かった』という名言と共に有名であろう。実際は『空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた』というらしいが……。

 

 だが、俺は今その逆である『地球平坦説』を目の当たりにしたのではないかと確信してしまう衝撃の光景を見てしまう。

 夢の世界の果てには何もない。崩れ去っていく世界の果てにあるのは、滝のように崩れ落ちていく大地の欠片が奈落に向かって音もなく落ちていく。ただただ『虚無』という奈落の底に落ちていく。

 

 そんな光景を見て、俺は本当の意味で背筋が凍るというものを知った。

 あまりの衝撃にあらゆる筋肉が骨と密接に絡み合ってしまい、動かすことができない。呼吸も忘れ、瞬きも忘れ、ただただ唖然とするしかなかった。

 

『なんと……このような……』

 

『……そういう、ことか』

 

 その光景に言葉を漏らしたのは、フレイムとノーデンスだけだ。

 ノーデンスは驚愕の意味を込めながら。フレイムは何かに納得したように。

 

『そりゃ……セラエノも中立と役目を放棄してでも動くしかないか』

 

 続け様にフレイムは意味深な事を呟く。今の俺には意味として何も理解できない。

 セラエノが中立と役目を放棄する? そもそも何の中立だというんだ? 今の彼女はアレン共々にSIDが管理する施設のどこかで保護という名の拘束状態になっているが、事情聴取には一切答えてくれない。

 

 彼女の立ち位置は些か不明瞭だというのに、そのセラエノが中立と役目を放棄している——? そもそも役目ってなんだ?

 

 スターダスト、オーシャン、フレイム……この姉妹は知っていることがあるはずなのに、頑なに教えようとしない。だけど、それを問いただしたところで返答は俺でも見えている。

 

「ねぇ、いったい何のこと言ってるの?」

 

『……詳しいことはドリームランドを抜けてからだって約束したでしょう』

 

 ほら、こうやって教えようとはしてくれない。いったい何故なのか。

 確かに異質物関連や魔女が宿す魔法の情報は狂気に魅入られる部分はある。実際に『SD事件』でヴィラクスが敵に回り、ラファエルが暴走したように、その力と情報量は凄まじく手に負える物ではない。

 

 それでも扱える者だって中にはいる。バイジュウの能力は『古のもの』由来であることをセラエノが口にしていたというし、ファビオラの炎だって守護者のルーツを聞く限りだと、そういう超常的な存在由来の物であるに違いない。

 

 扱える者がいる以上、狂気に陥るなんて確信があるはずがない。だというのに彼女たち姉妹は頑なに語ろうとしない。

 それだけ俺たちと姉妹では、何か決定的に分かり合えてない壁でもあるのか、それとも何かもっと別の——『狂気』を超えた『何か』があるとでもいうのだろうか。

 

 だとしたら知りたいところではある。

 ……が、今は置いておくしかない。フレイムがこのドリームランドを抜ければ教えてくれると約束してくれる以上、言及するのは後でいいことだ。

 

 今はカダスを目指すしかない。不思議で不可思議な光景をよそに、ガレー船は大空という海を裂いてカダス山へとたどり着いた。錨とか特にないのに空中で静止して問題なく降りれるあたり、このガレー船は色々と見た目以上に技術が秀でている。

 

「ここがカダスにある城……」

 

 レン人の噂では『とある神』によって別の神々がここに幽閉され、神はすべて姿を消したという話もある曰くつきの場所。もしかしたらその『とある神』がニャルラトホテプの可能性もあり、だとすればサモントンで討てなかった借りを今ここで返さないといけない。

 

 深呼吸を一つ。周囲の確認を一回。各々が持つ装備の点検を終えると、いつぞやに覚えたハンドサインを使って城内に突入する。

 

 これでも一年はSIDのエージェントとして活動してるんだ。最低限の動きや索敵などは心得ている。互いに死角と射角を意識していくが、進めば進むほどにこの城には不気味な雰囲気しかないことだけ肌身で分かっていく。

 

 この城には本当に何もない。ただただ広い空間だけが規則的に並んでいるだけだ。

 ここに幽閉されていたのが神とはいえ、そういう生活感さえも城内にはない。食堂にも、調理場にも、客室にも、倉庫にも、それらしき形跡なんて見当たらない。最初からまるで何もなかったように。

 

 

 

 それこそ『夢が終わった』ように——。

 

 

 

「どうなってるんだよ、これ……」

 

 埃さえもない異質な城内。俺達は自然とエージェント訓練で培った陣形を無意識に解き、室内のありとあらゆる場所を調べていく。この不気味な雰囲気を拭えるような、ほんの小さくてもいいから『存在したであろう痕跡』を念入りに。

 

 しかしそれでも見当たらない——。

 ここには何かがいた痕跡なんてものはどこにもないのだ。

 

「ねぇ、レン人の話ってやっぱり噂止まりだったんじゃ……」

 

『それはない、ってことぐらいは気づいてるでしょう? ここの違和感はそんなことで片付けられる物じゃないって』

 

 フレイムの指摘に俺は沈黙するしかなかった。

 そう、違和感はもう一つある。その違和感とは先ほどとは逆で『存在しなかっただろう痕跡』も見当たらないのだ。

 

 普通、長期間放棄された建物というのは埃が溜まったり、蜘蛛の巣があったり、どこか臭いが材質混じりになったりと、放棄は放棄なりに特徴というものが出てくるのだ。

 

 だというのに、ここにはその特徴もない。まるで『今この瞬間に建てられた』かのように綺麗すぎるのだ。

 

「この城っていったいどれくらい前に出来たんだ……?」

 

『我が記憶してる限りでは、地球で『文化』というものが根付いてから比例している。それこそ卑弥呼という女王が統治していた縄文時代より以前からな』

 

 それよりも前に存在しているのに、今この瞬間に建てられたように存在するなんてありうるのか?

 その答えを探して城内の捜索は続く。意味も理由は分からぬまま続く。何一つ答えなど得ることなく続く。

 

 そして——何も分からないまま終着駅へと着いた。

 城内の奥の奥。豪華絢爛な両開きの扉を開けた先には、天井と床を繋ぐ長くて太い柱。それに一定の距離と並びで配置された長椅子と中央のカーペットの先には、多色で彩ったガラス細工が壁一面を彩っており、とても神秘的で芸術的な空間が広がっていた。

 

 

 

 ——ここは『礼拝堂』だ。神を祀る祭壇であり、本来の用途ならここに多くの信仰者が神を崇め、場合によっては結婚式などで利用される。それが礼拝堂という場所だ。

 

 

 

 それは本来ならここは『誰かが訪れることを前提としている場所』ということを意味してもおり、この存在そのものが今までの矛盾を象徴しているかのようだった。

 

 

 

 誰かがいたはずなのに、誰もいない場所——。

 誰も利用しないのに、誰かが利用する場所——。

 神はいないのに、神を信仰する場所——。

 

 

 

「——遅かったね。みんな」

 

 

 

 その礼拝堂の先から、ようやく声が聞こえた。声色は決して敵意はない。けれど友好的な感じもない。

 

 なによりも、その声は聞き覚えがあるのに、記憶とは違った声でもあった——。

 

 

 

 俺たちが声の主へと向けて視線を向ける。

 そこにいたのは『金髪の女性』だ。身長はまるでラファエルを思わせるような高身長であり、170cmに届くどうかという感じだ。

 体型としては貧相ではあるが、足は長いのでスレンダー体型というかモデル体型といえる。

 髪型は足先まで届くんじゃないかと思うほどに長い三つ編みだ。髪留めにはゼンマイを模したようなデザインであり、少し子供っぽくもあるのに、神秘的ながらも小悪魔的な彼女の風貌だと不思議と似合ってしまう。

 

 なにより特徴的なのは『目』だ。エミリオも特徴的だが、彼女のはアニメでしか見ないようなキラキラとした星屑のような輝きを持つ瞳孔……俗に言う『しいたけ目』に近い模様であった。

 

 

 

 こんな女性は知らない——。

 だけどあらゆる特徴が、俺の記憶にいる『少女』の姿を重ね合わせた。

 

 

 

「……スクルドなのか?」

 

「うん♪ 正真正銘、本物のスクルド・エクスロッドだよ♪」

 

「だけどレンお姉ちゃんが知ってるスクルドでもない」と彼女スクルド——(?)はそう続ける。

 

「私は『未来のスクルド』——。今から十年後ぐらい先に存在する者」

 

「未来の……スクルドお嬢様……」

 

「久しぶりだね、ファビオラ。ちなみに十年後でも貴方は私のメイドとして雇われてるよ♪」

 

「相変わらず料理はアレだけど」と彼女は頬を指先で掻きながら遠い目で乾いた笑いを浮かべる。

 その仕草は紛れもなくスクルド本人の者だ。困った時に、ちょっとだけぎこちない笑顔を浮かべるのはスクルドの癖みたいものだ。否が応でも彼女が『未来のスクルド』と直感的に理解してしまうほどに。

 

「どうして未来のスクルドがここに……?」

 

「それは『守護者』というシステムと、私自身が持つ『未来予知』の影響による『バグ』みたいなもの……かな」

 

「あっ、その前に私の役割を教えないといけないね」とそれはそれとして、と軽いノリで話を変えた。

 

「私はスクルド・エクスロッド——。役割は『管理者』。『あの方』の命令の下に、レンお姉ちゃん達を葬ることを任務とするもの」

 

 しかしその内容は残酷な物だ。つまりは、スクルドは敵として俺たちの前に立ちはだかったということを意味している。

 それは俺とファビオラが想像していた最悪の事だ。バイジュウがミルクと戦う運命になってしまった以上、同じように門の奥にいたスクルドも相手の操り人形として使役されている可能性も考えないといけない。それが現実となっているのだ。

 

 俺とファビオラは生唾を呑んで覚悟を決める。元より想像していたことだ、何とかしてスクルドをなるべく傷つけずに無力化しないといけない。

 

「けど気乗りしないんだよねぇ~~。だって私はバグだから、完全な支配下におかれてないし」

 

 だけど当の本人からは気の抜けたコメントを溢す。本当に敵意もなければ、誰からか命令を受けてるような強制力も感じない。ただ年を重ねた分だけの冷静さと大人びた佇まいを持ち合わせたスクルドがそこにいるだけだ。

 

「なら俺達が戦う必要はないの?」

 

「ちょっと違うかなぁ。『あの方』って言ってる通り、影響自体はしっかりと受けてるの。ただ未来の私だとその強制力はウイルスのように徐々に蝕んでくる感じで……もう少し時間が経てば、私は貴方たちに刃を向けないといけない」

 

 そう言いながらスクルドの手に剣らしき武器が握られる。その武器は俺にとって忘れることなんてできない物でもあった。

 

 

「レンお姉ちゃんならこの武器に見覚えがあるでしょう?」

 

「ああ……」

 

 武器の名は『光の鍵』——。ニューモリダスでの一件、俺がレッドアラートと対峙した時に出現した武器だ。事件が終わった後に、スクルドが残した言葉でそれがスクルドの力を使って手にしたということを知った。

 

 だから『光の鍵』を持っていることには驚きはしない。けれど彼女の雰囲気からして、それを思い出して貰うためだけに取り出した感じではないことを瞬時に理解した。 

 

「これがバグの原因なんだ。あの時、レンお姉ちゃんはレッドアラートと戦っていた。けれど武器としての性能が足りなくて傷をつけるだけが精一杯の結果に終わったよね?」

 

「まあそうだね……」

 

 

 …………

 ……

 

「無理無理無理、できないッ!!」

 

 ……

 …………

 

 

 なんて情けないこと言っていたっけ……。

 

「そのあと、不思議なことが起きたよね? 言ってみて」

 

「うん……。策を練ろうとしたけど浮かばなくて、そうしたら急に翼と剣が姿を……変えて……」

 

 そう、まるで『同一人物が成長した』かのように。『未来から届けてくれた』かのような力と温かさを、あの翼と武器が宿してくれたんだ——。

 

「そうだよね。こんな風に……ねっ!!」

 

 スクルドの声に応じて鍵は展開していく。それは先ほど思い出していたレッドアラートと戦った時に、変化した物と同じ形状だ。でも、これがどんなバグの原因だというのか?  

 

「あの現象は私と幼い私が繋いだ契約の力であり、その契約と『未来予知』の力が重なることで、今の私……というか『スクルド・エクスロッド』という存在は契約のバグと変質することになった」

 

 まだ全貌が見えてこない。いったいスクルドが何の話をしたいのかが。

 

「幼い私はヤコブの『イスラフィール』で焼かれながらも、それでもレンお姉ちゃんを助け出そうとした。元々『守護者』……役割と紛らわしいから今後は『契約者』って呼ぶね。『契約者』の素質があった幼い私は、死にゆく意識の中で『あの方』と接触したの」

 

「そこで結んだ契約がレンお姉ちゃんに力を与えるというもの」とスクルドは説明を続ける。

 

「だけど結果は知っての通り。『最初の力』はレッドアラートに届くことはなかった。だから契約者として得た特権と、私自身が持つ能力を組み合わせることでちょっとした裏技を利用したの」

 

「裏技……」

 

「契約者は契約した瞬間に、あらゆる時間・空間から隔絶されて独立した時間と空間で管理されることになる。これは契約者というより『因果の狭間』にいる者の特徴ではあるんだけど……それはレンお姉ちゃんでも分かるよね?」

 

「分かるよ。だってアニーもソヤも、ギン爺もハインリッヒだって一度はそこにいたんだから」

 

 ……未だにスクルドが説明したいことの全貌が掴めないだけど。

 

「契約者はあらゆる時間・空間から隔絶される……。それってつまり、記憶と記録の連続性からも独立されることも意味しているの」

 

「……どういうこと?」

 

「例えるなら漫画と一緒。漫画は途中のページを裂いたら読者として内容は分からなくなっても、その物語や登場人物自体には何の影響もないでしょう? ページを裂かれたことに気づかないまま物語自体は続くんだから」

 

「……でもギン爺とハインリッヒはそこが終着点、つまり事実上の死を迎えてるし、ソヤだって肉体的にはそうだ。アニーだって肉体を丸ごと幽閉された以上は、その例えは不適切だ。言い方はアレだけど同じように例えるなら、彼女たちは最終巻のオチとしてそうなってるだけじゃないか」

 

「その通り。レンお姉ちゃんの言ってることは正しいよ。その四人……ううん、ほぼすべての魔女や契約者はそんな運命として本を閉じるに違いないね」

 

「でも私だけは別なの」とスクルドはその特徴的な瞳孔で、俺と視線を交えた。

 

「私自身の終着点はそこじゃない、本来なら。その確証も説明も私にはできる」

 

「何を言ってるんだ……?」

 

「言ったよね。『未来が視えなくなった』って。私が予知していた未来は変わって、私はその『変化した未来の世界線』で死んじゃった。だったら元々あったはずの『変化してない未来の世界線』にいる私はどうなってると思う?」

 

「……死んでいない、ってこと?」

 

「そういうこと。今ここにいる私は、その『変化してない未来の世界線』から呼び込まれたスクルドってこと」

 

「つまり……タイムパラドックス?」

 

「それが一番近い表現だね。幼い私は『未来予知』の力で、予め知っていた『変化してない未来の世界線』の記憶と記録を辿り、そして契約者としての力で今の私にそれを同期することでレンお姉ちゃんを助けるのに必要な力を賄うことに成功した」

 

「じゃあ……俺のせいなのか?」

 

 そういう経緯でスクルドが契約者になってヨグ=ソトースに傀儡になったというのなら、俺はどうやって謝ればいいんだ。

 

「そういうことにはなるけど気にはしないで。レンお姉ちゃんを守りたいと思うのは今の私でも同じことだから。きっと同じように力不足を感じたら、更に未来の私に同期することを選ぶから、どの時間軸でも『スクルド・エクスロッド』という存在はこの選択に後悔することなんてない」

 

 そう言われても心の重荷が軽くなることなんてない。本人が気にしなくても、俺自身が気にしてしまうんだから。

 

「私が言いたいのはここから。このバグは私が契約者から解放された瞬間に終わる。本来なら連続性となっているはずの記憶・記録という物は『スクルド・エクスロッド』という存在を媒体にすることで一つに集結している。『あの方』の言語統制の大部分をすり抜けるという奇跡的な状態として」

 

「えっと……」

 

「時間がないの。私が契約者としてあらゆる知識を得られている今なら、ニャラルトホテプどころかこの世界そのものを『知る事ができる』の——」

 

 

 

 それは俺にとって予想もしない言葉だった。そしてそれは大いに価値のある言葉でもあった。

 それらが意味すること、それらが何に繋がるかを俺は瞬時に理解した。

 

 

 

「それこそ——レンお姉ちゃんが見たように『世界の端が崩れている』ことも『ロス・ゴールド』についても——」



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第10節 〜繧ッ繝ェ繝輔か繝(■■■■■)〜

「この世界のことについて……知ることができる……?」

 

「うん。私が契約者としての使命に呑み込まれるまでなら、ほぼ全てのことを」

 

 大人となったスクルドの口から衝撃の内容が伝わってくる。

 この世界について知ることができる? ほぼ全てのことを?

 

 ……だったらそれが真実であるか、そうでないかということは一度置いといて質問するしかない。この世界の核心に触れることができるかもしれないのだから。

 

『ダメだ! まだ早すぎるっ! レンくんや人類が私達の情報に触れるのは……っ!』

 

「貴方には聞いてないよ、炎の情報生命体さん。それに人類の知的探究心は止めることはできない以上、いくら貴方が否定してもいずれは触れることになる」

 

「……フレイムが見えてるのか。ということはスクルドは……」

 

「そう。お察しの通り、私は『炎』を持つ契約者ということになるね。ファビオラと同じように」

 

「お嬢様が私と同じ……」

 

「でもそんな瑣末な事は今はどうでもいいよ。それよりも私に聞きたいことは?」

 

 そう言いながらスクルドはブロードウェイのド真ん中にでもいるかのように、俺たちを中心として円を描くように歩きながら、こちらの問いを今か今かと待ち続ける。

 

 質問には限りがある。時間という限りが。

 となると思考する時間さえも惜しい。ともかくぶつけられる疑問を出し続けながら、思考も並行していくしかない。もしくはこっちが考えてる最中にソヤとファビオラにも質問をしてもらうかだ。

 

 その意図が視線を合わせただけで伝わったのだろう。ソヤは「では私から」と言って足と共にその第一声を出した。

 

「だったら最初の質問ですわ。そもそも何故『ドール』や『魔女』とは別に、契約者などという特殊な役割が存在してますの?」

 

「それはセフィロトの10個存在するダアトを守るため。『陰陽』の話は知ってると思うけど、これはセフィロトだって例外じゃない。セフィロトにも対となる存在があり、その名は『クリフォト』——。セフィロトが生命の象徴なら、クリフォトは虚なる力の象徴」

 

「虚なる力……」

 

 セフィロトの対となるクリフォトという存在があったなんて——。

 だけどそれが何だというのか。未だにセフィロトの全貌さえ掴めてない俺にとっては、そんなことを言われてもSF小説特有の独自設定の押し付けみたいで頭がこんがらがるしかない。

 

「クリフォトだって当然ダアトが10個存在する。そのセフィロトとクリフォトのダアトの均衡が崩れた時に契約者は動き出す。それが契約者の役割……要は大まかに言えば、経緯はどうであれ『純粋に世界を守る』ことがハインリッヒやギン、それにミルクや私に課せられた使命ってこと」

 

「でしたらお嬢様。ダアトが当然のようにあるのなら、クリフォトにも当然『契約者』がいるわけですよね? 私たち契約者……つまりセフィロト側とは別の」

 

 その考えに至るのもまた当然だ。俺だって瞬時に思ったのだから、聡いファビオラが気づかないわけがない。

 ぶつけられた疑問への返答に、スクルドはただ頷くという肯定の意志を見せた。

 

「けれどその存在に対する答えとヒントは既にレンお姉ちゃん達は知ってるとも言っておく」

 

「知っている……?」

 

「今までの全てを思い出して。そして残酷なことも告げておく。それは世界にとってマイナスにしかならない存在になることを」

 

 俺が既に知っている者の中に、クリフォト側の契約者がいるというのか。

 だってそれはおかしい。そもそも契約者という存在は均衡が崩れない限りは出現しないというなら、そういう場面にならないと出てくるはずがない。

 

 

 

 ならば誰だ——。今まで出会った誰がクリフォト側の契約者なんだ。

 

 契約者には属性があり、それぞれ二人まで。そんな特徴を持ってるのなんてそう多くはないはずだ。

 

 

 

 …………

 ……

 

『ええ。私もシンチェンもハイイーも、根本的な部分はアイツらと同じよ』

 

『何か見当違いな考え方をしてるから訂正させてもらうわ。確かに私たち姉妹はニャルラトホテプと同じような存在よ。でも、その在り方自体は多少の差異はある。それこそコインの表と裏みたいに』

 

 ……

 …………

 

 

 

「ま、さか……」

 

「そう。クリフォトの契約者はシンチェン達のことだよ」

 

 思考の果てに辿り着いた答えを、俺が口にする前にスクルドは言い当てた。

 

「くっだらねぇ! なんだよそれ!」

 

「だけど本当のことなんだ。クリフォトの10のダアトに結びつく契約者はシンチェンとハイイー……それにスターダストとオーシャンといった情報生命体を『子供』と『成人』という端末に分けることで10人の契約者を顕現させた。そしてエーテルの海にいる『本体』へと情報を送信する……それが彼女達の使命」

 

 エーテルの海にいる本体——。それは俺が『方舟基地』で接触した『星尘』のことに違いない。

 話の前後で俺は理解した。そのシンチェンとスターダストみたいな分裂したのが『契約者』であるのならば、星尘という本体こそがニャルラトホテプやヨグ=ソトースと同じ立ち位置に存在するものだと。

 

 何せ——俺はあの時、星尘の名前をヨグ=ソトースと同じようにまともに脳内で認識できていなかったのだから。

 

「……本当なのかフレイム」

 

『……ええそうよ。私達は元々『この世界に存在しているはずがない』もの——。スクルドの言ってることに真実しかない』

 

 そんなわけがない——。そう思いたいけど、そう思うことは許されない。

 

 だって告げた人物はスクルドなんだ。自身が持つ『未来予知』という性質を俺に教えたという、彼女の中で最も『信頼してる』からこそできる行為をした彼女なんだ。

 

 だったら俺には『信頼』に応える責任がある。彼女のことを……スクルドの口から放たれる真実が、例えどんなに俺にとって残酷でも信じないといけない責任が。

 

「じゃあなにか!? シンチェン達が本当は『敵』だったわけで、俺達が今まで敵対していたヨグ=ソトースとかのほうが『味方』だったってのか!?」

 

「それは主観的な問題だから、レンお姉ちゃんの敵も味方も変わらずのままだよ。ただ『世界』や『宇宙』という概念で捉えるなら、その通りではあるんだけど」

 

「それに『敵』じゃなくて『毒』と言った方が正しいかも」とスクルドは付け加えて説明を続ける。

 

「クリフォトは虚なる力の象徴。『虚無』という言葉がある通り、本来なら存在しないもの。つまり『具現化』するには『媒体』が必要になる」

 

「媒体……」

 

「手っ取り早いのは生命体に『寄生』することだよね。例えば『隕石に触れた人物に認識できるよう情報を与える』とか」

 

 

 

 ——それは戦慄を覚えるには十分な一言だった。

 

 

 

「覚えがあるよね、レンお姉ちゃん?」

 

「そりゃそうだけど……だからって……」

 

 

 

 覚えがあるなんてもんじゃない。だって、あの日『リーベルステラ号』で隕石を触れたからこそシンチェンが見えるようになったんだから。

 

 

 

「それに『信仰』とかもありだね。例えば『動画サイトとかで有名になって偶像となる』とかも」

 

 

 

 ——答えは瞬時に出た。言葉に出す必要も、思い浮かべる必要もないほどに鮮明に。

 

 

 

「……それでも!」

 

「じゃあこの質問の最後にこれも言わせてもらうね」

 

 それでもシンチェン達を信じたい——。そんな淡い思いさえも徹底的に打ち砕くと言わんばかりに、スクルドは言葉を捲し立ててきた。

 

「自分にしか見えない存在、記憶、記録を信じるなんて、そんなの『狂人』と差はないんだよ——」

 

 

 

 それは『リーベルステラ号』で初めてシンチェンを見た時の俺のことを言ってるのだろう。

 同時にそれは自身が持つ『未来予知』という理解され難い能力を持つスクルドが言うからこその重みでもあった。

 

 

 

 スクルドが次々と絶え間なく告げられる真実に頭の処理が追いつかない。それだけ彼女が契約者としてどれほど世界の裏側を見てきたかを意味してもいるし、今まで呑気にしていた自分の情けなさから不甲斐なく感じてしまう。

 

 

 

 ——あんな小さな女の子が、未来の自分の姿を使ってまでこれほどの価値がある情報を知っているというのに。

 

 ——自分には何ができていたのだろうか。ただ自分が強くなったことに自惚れて、周りのことなんてちっとも見えていなかったんじゃないかと矮小な価値観を教えられてるようで。

 

 

 

「それにこの寄生する行為……レンお姉ちゃんでも知ってる表現でいうと、こうも言うんだ」

 

 

 

 

 

 ——『ミーム汚染』って言うんだよ♪

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「たくっ……まさかこんな裏技を持ってるとはな」

 

「支援役ってのは後ろで籠ってるだけが仕事じゃないの。いざという時は前にも出る。これができる女ってものよ」

 

 一方その頃、現実世界での華雲宮城にて——。

 

 ギンはレンを抱え、クラウディアはバイジュウを抱えながら、侵入者を惑わすことを目的とした常に似た景色が続く建築構造となるフリーメイソンの走り続ける。

 

 クラウディアがここにいるのは簡単な理由だ。クラウディアの鏡は物を運ぶことができる。それは鏡の表面積さえ足りていれば『鏡で鏡を運ぶ』ことも可能でもあるのだ。

 故にクラウディアはまだ無事であるレンの鏡を使う事で、体が収まる程度の横と厚みが薄く縦長という能力のために常備している特注の鏡を経由してこちらの方に瞬間移動してきたのだ。

 

 

 

 ——あの目潰しは自分がこっちに来る前兆を見させない策でもあったとはな、と内心でギンは尊敬するが、それでも敵地の中には違いない。

 

 

 

「しかし手負いのワシと、居眠りが二人では逃げるのに限度がある」

 

「それにファビオラとソヤも白雪姫状態だしね……」

 

「白雪姫?」

 

「オネンネしてるってこと」

 

「爺に分かりにくい表現するな」とギンは内心で悪態をつきながらもどうするべきか思考を続ける。

 

 麒麟も手負いの状態とはいえ、敵地の中にいることは間違いない。今この瞬間にも、あの手この手を画策してギン達からバイジュウを攫おうしているだろう。

 

 流石のギンでも素人相手なら可能ではあるが、SID内でも腕利き揃いと噂される『無形の扉』相手では多勢に無勢だ。

 

『ハロハロ♪ お爺ちゃん方、私の声が聞こえてるかにゃ〜〜?』

 

 そんな思考を強引に終わらせたのは、どこからともなくやってきた声であった。

 建物内の音声システムを使っているわけではない。なんらかの技術や異質物を利用し、脳内に直接語りかけるようにギン達に連絡を図っているのだ。

 

「なんだ、この猫撫で声は!? というかどっからだ!?」

 

「それにここは標高何千メートルの都市な上に、電波を遮断する施設内よ!? どっから出してんのよ、このぶりっ子!?」

 

『あはは! オバさん、後で個人的に制裁を与えるから。私の名前は『イナーラ』……ちょいと諸事情でアンタ達に手を貸すことなったからよろしくね』

 

「あの金さえあれば何でもする銭ゲバか……」

 

『さっきから私に対する当たりがキツくない?』

 

「顔も見せないやつとか信頼できるわけないでしょ。それに私のことオバさん扱いしたし」

 

『間違いなく私怨が中心じゃない。私とあなたは相性悪いわ、これ……』

 

『まあ今はビジネス。そういうのは最低限だけにしておきましょう』とイナーラを名乗る人物は声色を変えて、いかにも真面目にやってますと言わんばかりに先ほどの猫撫で声が嘘のように語り始めた。

 

『ファビオラとソヤは私が保護しておいて、今は協力者の管理下で保護してる。それに外側から戻ろうとしてる『無形の扉』は私たちで食い止めてるところ。だから下手に脱出するより、籠城を決め込んで数を減るのを待った方がいいわよ』

 

「二人を保護してる? いったいどこの誰に?」

 

『ホリーやアストレイル、って言ったところで伝わらないでしょう? まあそういう工作が得意な連中を何人か連れて協力してもらってるの』

 

「SIDからの依頼でもないのに、そんなことをするメリットがあるのかしら?」

 

『さあね。私はそういう部分には極力関与しないから。でも助けてほしいとお得意様の『グレイス』に頼まれたら応えないと』

 

「秘密を大事にする個人事業主のくせに口が軽いこと」

 

『予め教えていいと許可得てんのよ。じゃないと信頼しないだろうって言っていたから』

 

 それは事実だった。クラウディアは『グレイス』という名前をレンから既に聞いている。とはいってもレン自身はかなり説明に困る様子ではあったのだが。

 しかしレンから出た名前はここまでの状況を一部言い当てている。地の隕石は確かにフリーメイソンの手の中にあるし、ミルクの名前が出た瞬間に謎の現象が起きてクラウディアとギン以外は眠りにつくことになった。まだ戦いが続くことを予期していたのだ。

 

 そして状況を見越して追加戦力を投入していく。

 こうもされては『グレイス』の先見だけは信じるしかない。二人からすれば全面的な信頼をするには無理があるが、少なくとも現段階なら協力関係になってもいいはずだ。どのみちこのままでは、クラウディアの鏡を使っても逃げ延びることは望み薄なのだから。

 

 クラウディアは思考する時間さえも惜しいと言わんばかりに「じゃあ、そういうことなら手を貸してもらおうかしら」と納得の意志を見せた。

 そんな渋々と対応する彼女の声を聞くと、イナーラは『じゃあ、そういうことで手を貸させてもらうよ』と無邪気に笑った。

 

「で、こっちはどうすればいいの? 籠城を決め込もうにも、手負いが一人に居眠りが二人。非戦闘要員である私が一人よ。正直無理ってのが本音」

 

「おい、クラウディアよ。お主の鏡で全員どこかにビュンと移動とかできんのか?」

 

「流石にちょっとキツいわよ。転送する鏡だって距離の限界は広くても、質量限界は狭いんだから」

 

「お主自身は運べたであろう。それにここに来る時も……」

 

「転送だってそんな便利な物じゃないのよ。一度転送させた物や人は、私自身を除いてその質量によってある程度のインターバルが必要なの。質量保存とか色々な法則ガン無視してるんだから、贅沢言わないで」

 

『じゃあ、もう耐えるしかないんじゃない? グレイス曰く「待てば解決する。待つしかできない」って言っていたし』

 

「うわっ、指示待ち部下の気分……」

 

『ただこうも言っていたわ』とイナーラは続けて言う。

 

『フリーメイソンのトップだけは何があっても殺しちゃいけない、って』

 

「どういうこと?」

 

『知らないわよ。ただ取り返しのつかないことになる……とは言っていたけどね。グレイス自身もぼんやりとした感じでしか見えないとか口にしてたし』

 

 全貌が掴めない予測にクラウディアとギンは頭を抱えるしかない。フリーメイソンのトップということは間違いなく麒麟のことを指しているに違いない。

 だが麒麟の実力は手負いでも折り紙付きだ。まともに渡り合えるのはギンしかいないのに、加えて控えめに言って足手纏いとなっているバイジュウとレンを抱えているのでは分が悪い。

 

 それに『殺してはいけない』というのも難しい——。

 実力が拮抗してる中では、少しでも手を抜けばそれだけで勝負を決してしまう。手加減などできない状況であれば、例えどんなにそうしないように心がけていても少しのことで間違いを犯してしまう。

 

 

 

 それこそ意図せず殺してしまうことくらい容易く——。

 

 

 

「……できる限り善処しよう」

 

 ギンは確約できる自信がなかった。麒麟の相手をするというのはそれ相応の実力と覚悟がないと厳しいのだから。



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第11節 〜11逡ェ逶ョ(■■■■)〜

「それで他に聞きたいことはある?」

 

 衝撃の真実を突きつけられようとも、スクルドの足と声は止まることはない。むしろ時間がないと急かすかのように足を早めて、ヒールが叩く音のリズムを刻んでいく。

 

 ……頭が混乱しかない。それでも思考を止めることは許されない。スクルドが今すぐにでも敵に回るかもしれない危険がある以上、できる限り情報を得るしかないんだ。

 

「だったら……シンチェン達の目的はなんなんだよ?」

 

「その質問はガッカリかな、レンお姉ちゃん。ねぇ、火の情報生命体さん?」

 

『……ええ。虚なる象徴である私達の目的は『生まれること自体』が目的なのよ。生まれ落ち、中立を維持して情報と共に世界を見守る……それ以上の役割も定めもない』

 

「というわけ。生存本能である以上は誰にもそのあり方を咎めることも収めることもできない。これがレンお姉ちゃんの質問に対する答え」

 

「だったら私からも質問を、お嬢様」

 

「遠慮なく言っていいよ。それに今の貴方は『私』との主従関係なんてないから固くなる必要もないよ」

 

「いえ。いついかなる時でもスクルドお嬢様に仕えるのがファビオラの使命です。この礼節は貫き通します」

 

「そういうところ律儀なんだから」とスクルドは相変わらずと言わんばかりの含みのある笑いをこぼす。

 

「ダアトには隠されし『11番目』があるはずです。契約者がそのダアトと紐付けられるとすれば……セフィロトとクリフォトにおける『11番目の契約者』と、それに仕える情報生命体と属性はどうなってるんです?」

 

「分かるけど、分からないって言うよ。だって、どっちがどっちとか知らないし知りたくもないから」

 

「それは……どう、いう……」

 

 そこでファビオラの口が言い淀んだ。スクルドの言葉が意味することを理解してしまったかのように。

 

「レンお姉ちゃん、もう一度言うね。契約者は皆、時間・空間から隔絶された存在なの。それは11番目も例外じゃないんだ」

 

「11番目も例外じゃない……」

 

「けれど11番目には該当とする『属性がない』んだよ。『虚無』という属性ではなく、すべてがあるようなないような……あえて言うなら『原初』とか『始原』とか『混沌』とかが近いけど……本当の意味で『無』という概念はここにしかない」

 

 スケールが広すぎてイメージだけでも全貌を掴もうとするも掴めない。

 何せゲームでそういう概念は存在することは知っていても描写としては作品ごとによって異なってしまう。それを現実に落とし込もうとするなんて土台無理な話なのだ。

 

 そんな眉間に皺を寄せながら思考する俺に、スクルドは少しだけはにかみながら「難しい話だったよね」と言って話を変えてくれた。

 

「重要なのは属性じゃなくて11番目の契約者でしょ? そして時間・空間から隔絶されるのが契約者という存在。そしてこの契約者は私みたいにバグが存在する。『並行世界の住人』さえも取り込んでも許容するように」

 

「並行世界の住人……」

 

 何かを悟らせるような物言いに思考が鮮明に走る。

 だけど並行世界の住人なんて多くは存在しないだろう。それこそ今目の前にいる『違う未来のスクルド』と……。

 

「ぁ……っ」

 

 

 

 …………

 ……

 

「『ロス・ゴールド』の一件で、世界は二つに分かれた。変革した世界と、変革しなかった世界……そこで取り残されて生き延びたのが俺……運命を先伸ばした結果、運命に殺された男さ」

 

 ……

 …………

 

 

 

 ——アレンくらいしか。

 

 

 

「そういうことなんだよ。11番目のダアトに選ばれたのはレンお姉ちゃんと、あの人のこと。」

 

「俺が……契約者だって……?」

 

 そんなこと微塵も考えたことなかった。だって俺自身が『因果の狭間』に囚われたことなんてなかったから。

 

「そんなわけあるもんかっ! 確かに俺は……ちょっと事情があって女の子になっちゃったけど……それ以外はなんでもない普通の……比較的普通の……っ!」

 

「じゃあ何で『ファビオラの記憶』に介入できたのかな? それと『女の子』であることに何の関係性があるの?」

 

「そ、れは……」

 

「ファビオラの記憶に介入できたのは『ロス・ゴールド』の影響で女の子になったレンお姉ちゃんとしての力じゃない。契約者としての力の断片である『時間・空間の隔絶』による物……私と同じように一種のバグによる物なんだよ」

 

 突きつけられた真実に混乱が止まらない。頭の中で情報のパズルが組み上がっていくが、それは三次元パズルや知恵の輪のように入り組んでいて、成立はするのに納得することができない感じにも似ている。

 

 それでも思考を止めることだけは許されない。この問答は時間制限付きなのだから。だから混乱していようとも、疑問は浮かんだらすぐにぶつけるしかないんだ。

 

「じゃあ、その『ロス・ゴールド』はどうなるんだよ!? スクルドだって知ってるだろ!? あの光景を!」

 

 ファビオラとソヤが「あの光景?」と口にするが、こればかりはマリルでさえも俺の言伝でしか知らない情報だ。

 これを本当の意味で知ってるのは体験した俺自身とアレン。そして自身の能力で予知していたスクルドと、あの『観星台』で出会ったグレイスと片手で数えられるほどに少ない。

 

 この事は客観的な情報の信頼性が薄く混乱の元になるという意味もあるが、SIDが誇る機密情報の中でも特に厳重にされてるものだ。二人が知らないのは当然だと言える。

 

 だけど状況が状況だ。秘匿するだけ時間の無駄だ。後でいくらでもマリルに怒られてやる。だから今は、今だけは思う存分漏洩させてもらう。

 

「俺はあの時、願った! 夢であってほしいって! そしたらロス・ゴールドが輝いて……目が覚めたら、あの地獄の光景は無くなって俺は女の子になっていた!」

 

「……マジで言ってる?」

 

「……ほー? ほーほー? あー♡ ほー♡」

 

 そこの発情期の猫(ソヤ)さんや。今はそういうのいらない。ファビオラぐらいのマイルドな反応でいい。

 

「これをどう説明するんだよ、スクルド!」

 

「……説明してもいいけど、ちょっと恥ずかしいんだけど」

 

 え? 今シリアスしてたよね? なんで恥ずかしいとかの話が出てくるの?

 スクルドが「こういうのはまだ早いんだけどなぁ」というと途端に場の雰囲気が一変した。具体的にはなんか……夕飯時の番組とかで際どいシーンを見てしまったかのような気まずさにも似た雰囲気が。

 

「ねぇ。レンお姉ちゃんはロス・ゴールド……『聖杯』についてはどれくらい知ってる?」

 

「聖杯について? 英雄が求めて戦うとしか……」

 

「うん、全く頼りにならないね♪」

 

 悪かったな。アニメとかゲーム好きなだけで歴史に疎くて。

 

「聖杯というのはイエス・キリストの晩餐で使用された杯のこと。彼は「これは私の血である」と言って、自分の弟子に聖杯に注がれた液体を飲ませたの」

 

「……猟奇的だな。かの偉人であっても」

 

「私から補足しておきますと、キリストが与えたのは赤ワインですわ。あくまで比喩表現なので……」

 

 あっ、なるほど……。

 

「……ああ、確かにこれはセンシティブですわね」

 

 そしてソヤはスクルドがこれから何を話すかを理解して、若干顔を紅潮させながら、いつもみたいな「ふひひ」という助平を求める細い笑い声を漏らし始めた。

 

 なんだなんだ。聖杯というキリストについて関わった途端に察しやがって。元々は修道女だからって教えてくれよ。市民には知る権利があるんだぞ。

 

「しかしどうあれ聖杯はキリストにとって血という概念がある。それを宿したレンお姉ちゃんは、同時にキリストという命と存在を宿したとの同意義でもある」

 

「けれど生命の都合上、レンお姉ちゃんが宿すのは矛盾があるよねぇ」とスクルドは少し頬を赤らめながら話を続ける。

 

「つまりその……男性が赤ちゃんを宿すのは生物学的におかしいよね?」

 

「そりゃそう……って!?」

 

 流石にそこまで言われたら気づくぞ、俺でも!?

 

「うん。つまりレンお姉ちゃんは命を宿してるの。聖母マリアの処女懐胎と同様に」

 

「ぶーっ!?」

 

 実際に口にされると酸素を全部吐き出してドン引きしてしまうことしかできない。

 処女懐胎って難しい言葉にしてるけど……要は『妊娠』ってことだよね!!?

 

「え、キモいな!? ロス・ゴールド、キモいな!?」

 

 てかそういうのって大体10ヶ月くらいで……アレなんだろ!? 出てきちゃうもんじゃないの!? 

 保健体育で顔を赤くしながらも知ってるよ!? だって義務教育だもん!? 

 

 というか女の子になってから1年くらい経過してますよ、俺!?

 

「じゃあ、俺が女の子になったのってそういうこと!?」

 

「うん、まあそれが大元の原因ではあるね。けれど肉を宿す要素がないから産まれることはまずないんだけど」

 

 それはそういう意味では一安心するが……。一度思うと吐きそうになりそうになる。精神的な気持ち悪さのせいで。悪阻とかじゃなくて。決して悪阻という意味じゃなくて。

 

「とはいっても、それの影響でレンお姉ちゃんが能力を宿したのも事実。アニーやハインリッヒの解放、ベアトリーチェの新生、霧吟の魂を武器にしたりとか……」

 

「だからこそ、ファビオラの記憶に関してはおかしいってこと?」

 

「ってこと。だとすれば契約者なら、そういう記憶と記録の介入をすることはできることになるし」

 

「……そういえば『潘摩脳研』でバイジュウが同じようなことをしてたって報告してたわね」

 

 などとファビオラが漏らすが、俺からすれば何が何やら。華雲宮城に来る前にあった出来事の詳細なんて当人でしか知らないんだし。

 

「なによりも『あの地獄』から遡行してきたが——」

 

 瞬間、スクルドは何もないところで足がもつれて倒れ込んだ。

 

「大丈夫か、スクルド!?」

 

「……流石にそろそろ限界かも。自分の思うように身体が動かなくなってきた」

 

 その一言で察した。今までスクルドが無意味に動きながら喋っていたのは、感覚的に自分に残された時間を把握するためだということを。

 

「あと一つか二つで最後にしようか。簡単に説明できるものだと、なお良しなんだけど」

 

「だったら単純な質問。この世界から抜け出す方法は?」

 

「簡単だね。出口を見つけるか、それとも死ぬか。ここは精神を中心としてる世界だから、元の世界に戻ろうとするなら自殺でもどんな手段でも死ねば戻れるよ」

 

「まあその場合、精神的ダメージについては保証できないけど」とスクルドは気怠そうに付け加える。

 

「……じゃあ次。ニャルラトホテプの居場所は分かる?」

 

「分かるよ。月にいる。どこかで焼かれた傷を癒すためにね」

 

『クトゥグアの火なら、そりゃアイツでも休養は必要だよね……』

 

「クトゥグア?」

 

『私と同じ『火』の情報生命体の象徴。ミカエルが使っていた『パーペチュアル・フレイム』の大元よ』

 

 ああ、今はヴィラクスの側に置かれている剣のやつか……。

 

「待てっ!? 契約者はセフィロト、クリフォトで2人ずつ……合わせて4人しかいないんだろっ!?」

 

「今までの話を整理すると、そうなりますわね」

 

「だったらミカエルはなんで『火の魔法』を使えるんだよ!?」

 

 その言葉に一番驚いたのはスクルド自身だった。

 だって契約者の合計4人は既に判明している。ファビオラとスクルド、そしてフレイムと今はまだ姿を知らないが、シンチェンやハイイーと同じように子供の姿を模ったフレイムになるのだろう。

 

 それはスクルド自身が口にしたことだ。だからこそ彼女は困惑するしかないだろう。スクルドでもミカエルの存在は想定外であり、同時に例外でもあることを。

 

「ミカエルが『火の魔法』を……? あのデックスの次期党首が……!?」

 

 当然スクルドがそんなことを知るわけがない。『エクスロッド暗殺事件』から半年近く経ってからの知った出来事なのだから。

  

 スクルドが知れるのは、あくまで契約者や情報生命体まででしかない。だからこそミカエルの異様さが際立ってしまう。

 

 

 

 あの男——いったいどこで、その『クトゥグアの火』を手に入れたというのだ——?

 

 

 

 ……いや、そんなことは今は考えなくていい。時間がないのだから。スクルドは今すぐにでもヨグ=ソトースの命令で俺たちに攻撃するか分からないのだ。今は質問を続ける方が最優先だ。

 

 スクルドだってその事は理解している。ミカエルのことは一度置いておくと言うように頭を何度か振ると、深呼吸して「これで最後ね」と言って俺の言葉を促してくれた。

 

「なあ、スクルド」

 

「なに、レンお姉ちゃん?」

 

「どうして、この世界……ドリームランドは崩れているんだ?」

 

 それはガレー船で空を渡る時に見た光景のことだ。世界の端っこがおとぎ話のように非現実的に崩れ落ちており、そんなことが起きるなんて普通なら絶対に起こらないことだ。

 

 ならば理由と原因があるはずだ。でないと説明がつかないし、もしもこれが『時空位相波動』みたいに現実に侵食するとなれば……新豊州だけでなく学園都市全体があの危機に陥る可能性だって十二分にある。

 

 だとすれば知らないといけない。あれが危険なものなのかどうかも。あれがどういう意味を持っているかも。

 

「それこそがセフィロト側にいるヨグ=ソトースやニャルラトホテプが世界にとって味方と言える理由かな」

 

「味方……」

 

「うん。アイツらはそれを『覚醒』しないために動いてるの。生命は本来なら覚醒してることが通常の状態といえるんだけど……ある『奴』だけは眠りについていないといけない……」

 

 ある奴——。情報生命体とかそんな形容さえもできないほどの生命があるとでもいうのか。目覚めてしまうだけでドリームランドが崩れてしまうほどのやつが——。

 

 

 

「その名は——『■■■■■』——」

 

 

 

 その名を聞いた瞬間、今までとは比べ物にならない『言葉の厚み』と『情報』が脳髄に叩き込まれたのを理解した。

 

 これは知っちゃいけない。まだではなく、未来永劫知ってはいけない類の情報だ。この名前を認知、理解した瞬間に今までの話なんて鼻で笑ってしまうほどにくだらなくなるものだと確信してしまうほどに。

 

 

 

『■■■■■は、半分目覚めてる状態であると私は予測している』

 

「予測している……?」

 

「うん。こればかりは今の私でも測りきれない。となれば唯一そいつと繋がりを持てるニャルラトホテプの行動から推測するしかないからね」

 

「とどのつまり……」

 

「そこから先の真相を知りたいなら、否が応でもニャルラトホテプに会うしかないってこと♪」

 

「さて」とスクルドが呟くと、今までの雰囲気から一転してカラクリ人形が動き出したように手足をぎこちなくこちらへと向けてきた。

 その意味は明確だ。時間が来たという証。スクルドの瞳孔から少しずつ自我という名の光が消えていくのが、こちらから見て分かるほどに濁っていく。

 

「もう指先一つ、まともに動かせそうにないや」

 

「……ありがとう、スクルド。君のおかげで色々なことを知ることができた」

 

「どういたしまして。じゃあ、ファビオラ。しばらく私の相手をお願いするね♪」

 

「ええ、最初からそのつもりでしたから」

 

 ファビオラはスクルドの前に立って武器を構える。小銃からアサルトライフルっぽい形状までより取り見取りだ。あの都市で大分物色したことが窺える。

 

 呼応するようにスクルドも光の鍵を構え直し、その背中に神々しい翼を羽ばたかせた。

 さながらそれは伝承に出る『天使』そのものであり、今の彼女はどんな宝石や神話よりも美しく魅惑的だ——。

 

 その美しさと神秘はファビオラの敵となる。心境や立場や理由などはどうであれ、今は互いに倒さなければならない相手だ。その美しさに見惚れてる場合ではない。

 

「行きますよ、スクルドお嬢様——」

 

「言っておくけど、今の私は相当強いから気をつけてね♪」

 

 最初の不安なんて何のその。二人は初めての家族喧嘩でもするかのような微笑ましい雰囲気のまま、戦いの火蓋は切られた。

 

 これ以上は俺達が見る必要はない。ファビオラの戦いを背に俺達はカダスを後にする。

 船で見張り番をしていたノーデンスに事情を伝え、ガレー船を再び浮上させて空の海を駆けていく。

 

 

 

 視界の果て——。そこに映る崩れ落ちる世界の断片を見ながら俺は考える。

 

 世界を変貌させようとする『■■■■■』——。

 その存在を認知しているニャルラトホテプ——。

 

 思えばアイツは出会った当初から色々と不愉快だった。

 ウリエルの皮を被り、俺の皮を被り、サモントンを貶めたかと思えば、あのエクスロッド暗殺事件でヤコブを唆した人物もアイツときたもんだ。

 

 ここまでの事件での背景に、アイツはほとんど絡んできてくる。

 いくら世界の味方となる事情もあるとはいえ、アイツだけは許すわけにはいかない。なんであれ一発ぶん殴ってでも咎めなければいけない。

 

 

 

 さあ、目指すべきはアイツがいるという本丸の『月』だ——。



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第12節 ~譎ゅ?鄙シ(■■■)~

 二人の戦いに言葉など不要だ——。

 

 先手必勝——。

 ファビオラは交戦と同時にスクルドに向けて弾丸を発砲した。

 

 ファビオラは事前に散策することで、この世界の技術水準がどれほどの物か調べてきており、結果だけ言えば『魔法がインフラに変換できる』ほどの物であることを突き止めている。

 故にここではライターや銃などといった科学技術が発展する必要がない。火が欲しいのなら火の魔法を使えばいいし、弾丸が欲しいならそこらの小石に魔力を付与して飛ばせばいいのだから。

 

 しかし、だからといって存在しないわけではない。現実の世界の技術を持ち込もうとした物好きな住人でもいたのか、仕組みが似た銃などは見つけることができた。

 問題は銃だけでは機能しないということ。銃を使用するには『弾丸』が必要となる。その弾丸をファビオラはセレファイスで見つけ出した——というより、技術と技術と組み合わせることで再現したのだ。

 

 

 

 それは——。

 

 

 

「——ッ!」

 

 

 

 既に傀儡と化したスクルドは自意識などなく、反射的に驚きの表情を見せることしかできない。だけどファビオラが放った銃弾は『ただの鉄の塊』ではないことも瞬時に理解した。

 

 銃弾には『魔力』が込められていた——。

 鉄製に近い材質でできた鉱石がスクルドの頬を掠める。普通の弾丸では決してなし得ない『炎の螺旋』を放射しながら。

 

 これの正体と原理は至ってシンプルだ。弾丸の中身は異質ながらもレンでも知ってるほどに身近な物。

 

 それは『OS事件』や『SD事件』でお世話になったラファエルの魔力を込めた『治癒石』——その原料となる『魔力を込められる石』を使ったハインリッヒがよく利用する物だ。

 

 現実世界であればハインリッヒが特注しているものであるが、ここドリームランドにおいて、その石は普遍的な存在として商業市場で100均コーナーのお馴染みと言わんばかりに馴染んだ存在として売り出されていた。

 

 それをファビオラは利用して銃弾を生み出したのだ。

 弾丸——正確には『弾頭』となる部分をこの石に置換し、後は火薬を詰め込んで推進剤にする。こうすることで簡易的な銃は完成し、問題の命中率は『炎の螺旋』を利用して射角を微調整することで安定させる。それがこの世界で生み出された銃なのだ。

 

 原理で言えば弾丸だけで完結してる以上、銃そのものは不必要ではあるのだが、魔法とは意志の力が明確でないとコントロールがしにくい物でもある。無数の弾丸を抱えて一つ一つを丁寧に操作するのは精神的な問題が発生する恐れがあり、その補助というべきか思考の割り切りを生み出すためには銃という存在は不可欠だ。

 

 

 

 ——まあ、ぶっつけ本番で不安はちょっとあったけど、これなら問題ないっ!!

 

 

 

 というファビオラのドキドキとした内心は誰にも伝わることなく戦闘は続く。

 

 炎の螺旋が暗がりの城内を照らし、光の翼が世界をなぞる。

 スクルドの能力である『翼』は亜光速に達する単純明快にして攻略難度が高い代物だ。亜光速の動きは単純な移動能力としても強力ではあるが、一番の脅威となるのは『威力』と言った方がいい。

 

 そもそもの話、水で金属を切断することで有名な『ウォーターカッター』というのは加圧水を音速の約3倍——要はマッハ3というスピードで噴出させることで実現させているのだ。

 それを『OS事件』ではアメーバ状の化け物が変化したことによって得た力でレン達に猛威を振るおうともしていた。

 

 そして『亜光速』とは『光よりは遅い』が『音速を超える』という意味でもある。

 光はマッハ換算でマッハ1000——。それより遅いといっても、軽く見積もってマッハ500と仮定してもウォーターカッターの『100倍以上』の速度で襲いかかってくるのだ。

 

 

 

 これらが意味するのはどんな小石だろうと、砂粒であろうと、何なら豆腐のように柔らかい物であろうと、人体を容易く吹き飛ばす絶命の一撃となるということである——。

 

 

 

 

「——ッ!」

 

 

 

 剣先が煌めくと判断した直後、ファビオラは大袈裟以上に大袈裟に横に飛び転がる。

 

 直後——長椅子、カーペット、柱といった礼拝堂を形作るありとあらゆる物質が砕け散った。

 その衝撃は並大抵の物ではない。余波は暴走した車に轢かれたかのようなファビオラに襲い掛かり、背中を強く壁へと打ち付けた。

 

 思わず血が酸素が逆流して吐き出しそうになるが、これでも軽症なのだから末恐ろしい。スクルドの『翼』というのは、それだけ脅威であり凶器となるのだ。

 

 

 

 ——けど、これなら何とかなりそうですね。とファビオラは危機的でありながらも心の奥底では笑みを浮かべていた。

 

 

 

 回避できたことは偶然ではあるが、それを判断したこと自体は偶然ではない。

 ファビオラが撃った弾丸の『炎の螺旋』は周囲の動きに反応してくれる。それが例え空気中の些細な揺れであろうとも。

 

 亜光速に達するスクルドの『翼』は確かに脅威だ。だが初動がないわけでもない。

 急激な動きは世界側の物理現象が追いつかない。結果としてそれの辻褄を合わせようと『空気中の熱量や速度』といったものが『歪み』を発生させてしまう。それを『炎の螺旋』を拾ってくれるからこそ回避行動の判断として機能してくれる。

 

 もちろんそれだけでは不十分だ。亜光速である以上は人間の感覚で判断することは困難を極める。傀儡となってなおスクルド自身が狙いを荒くしてくれているからこそ可能としてくれているのだ。

 

 動きは直線的。初期動作を分かりやすく示してくれる。

 それが何よりも信頼できる。ファビオラだからこそスクルドの僅かな配慮を感じ取れるほどに。

 

 

 

 ——やっぱり優しいですね、お嬢様は。

 

 

 

 だが感情と指先を切り離してこその軍人だ。

 パランティアで所属していた時に何度も人の急所を狙い定めてきた。例えそれが国のために命を捧げた少年兵であろうとも。

 

 今はその非情を糧として、ファビオラは呼吸を正して一発、二発、三発と立て続けに弾丸を発砲させる。

 多少狙いが雑であろうと『炎の螺旋』で軌道修正は可能だ。狙うは人体の動きにおいて重要な足と、亜光速を可能とする『翼』だ。

 

 命中したが一発だけ。それも足だ。

 スクルドの片足は膝から崩れ落ち、バランスを失って顔から地面へと叩きつけられる。

 普通ならこれで無力化だ。だが『ドール』も同然である今のスクルドでは片足を傷付けたところで無理矢理でも動いてくるであろう。

 

 ならばとファビオラは今使用している銃を収め、懐から新たな『銃らしき物体』を手にした。

 

 一見それは玩具だと思われてもおかしくない造形だ。だがセレファイスにおいては『ある種族』の技術によって生み出された『電気銃』と呼ばれる一品でもある。

 

 SIDはレンの存在もあり、他の学園都市と比べて『ドール』との戦闘経験が非常に多く、おかげで何が有効で何が無効じゃないか把握している。それはSIDに所属するファビオラだって例外じゃない。

 

『ドール』の運動能力は人間の限界を遥かに凌駕している。その理由は脳内に異質物由来の情報を付与され、人間が本能的に持つ運動能力の限界を無視しているのが理由だ。

 例え骨折しようが筋繊維が断裂しようが、痛覚さえ機能しないなら人体は動けてしまう。それが『ドール』を強力たらしめる理由だ。

 

 しかし同時に人間の運動能力を限界以上に引き出してるだけで、基本的な部分は人間として動きであることも間違いない。

 故に根本的に『機能させない』という行為が有効であることをSIDは突き止めている。物理的な拘束や四肢の切断も有効ではあるが、もう一つ有効となるのが『電気によって筋肉を刺激する』という俗に言う『EMS(electrical muscle stimulation)』と呼ばれる機能を利用することだ。

 

 人間は本来脳から電気信号を送ることで筋肉を動かす。それを外部から電気刺激を与えることで、意識がなくても筋肉を動かすというのが『EMS』というが、逆に言えば電気信号を意図的に狂わせれば筋肉の動きを止めることも可能ということだ。

 

 筋肉の動きを萎縮させ、動きを阻害する——。

 これを可能とするのが『電気銃』だ。電気攻撃による効果の有効性については考えるまでもない。既に実戦的な成果は得ているのだから。

 

 

 

 

 

 あの日『OS事件』で起きた海上の一戦——。

 イルカが自らの魔法を駆使して証明しているのだから——。

 

 

 

 

 

 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ——。

 スクルドに向け、内蔵されたエネルギーが尽きるまで連続で電気銃を発射した。

 AEDによる心肺蘇生でも行われたかのように、体を激しく痙攣されたスクルドの身体は、背骨の力でも抜けたかのように横に倒れ伏していく。

 

 

 

 ——大丈夫、呼吸はしている。

 

 

 

 ファビオラは細心の注意を払いながらも先ほどの銃へと弾丸を込め直していく。同時に電気銃のバッテリーも入れ換えて、こちらも撃てる準備だけ済ませておく。

 

 目的はスクルドを倒すことではない。無力化と保護が極力望ましく、過剰に手を出す必要などどこにもない。

 もしもこの一撃でヨグ=ソトースの支配から一時的にも解放されたら情報を再び聞き出すことも可能なのだから。

 

 そうやってファビオラは心の中で言い訳しながらスクルドの動きを待ち続ける。

 一歩、また一歩と、いつ『翼』による奇襲が来てもいいように、弾丸が届く範囲まで足を下げてゆく。

 

 

 

 目測で約30m——。

 これが小銃によって正確に当てられる射程の限界だ。

 

 

 

 呼吸を一つ。逸る心臓を鎮めながらファビオラは待つしかない。風も吹かずにただただ燃え続ける炎のように、落ち着きながらも意識と目的は鮮明にして待ち続ける。

 

 暫時経てば変化は訪れる。

 スクルドの『翼』は突如として羽ばたいた。鳥類が敵対する相手に威嚇でもするかのように、極彩色に光を瞬かせながら大きく、大きく翼を翻す。まるで飛ぶことを忘れてしまった鳥籠の中の鳥が大空に羽ばたかんと言わんばかりに。

 

 すると翼が逆立っていく。魚の鱗のように一枚ずつ刃のように逆立っていく。

 

 直感した。ファビオラは比較的状態を保った長椅子を影に隠れて、予測する『波状攻撃』をしのぐために。

 

 

 

 その予測は的中することとなる。翼から羽が雨のように射出された。

 その数、実に数十枚にも及び、一枚一枚が人を安易に刺し殺せるような鋭さを持っている。

 

 幸いにも亜光速でないだけ有情だ。速度からくる衝撃による無情な面制圧という、戦争において脅威でしかない絨毯爆撃紛いの攻撃を恐れる必要はないのだから。

 

 長椅子を盾にファビオラは仰向けとなって超低姿勢の射撃体勢を取る。膝も曲げて可能な限り身体全体を長椅子の影に隠れるようにし、少しだけ上半身を射線に晒して炎と電気の弾丸を乱れ撃つ。

 

 肩のフリルが切り刻まれながらもファビオラは応戦を止めることはない。羽の量は無尽蔵で止まぬ様子などはない。

 ならば持久戦など仕掛けるだけ無駄だ。防弾対策なんて簡易的に腹部と胸部に鉄板を雑に仕込んでるだけだが、何度受けて理解した。この羽は金属を傷つけることはできても、貫通できるほどの威力はないということを。

 

 だったら被弾覚悟で接近戦に移るだけ。ファビオラは壊れかけの長椅子を押し込みながらスクルドへと接近する。被弾覚悟といっても最低限に収めるほうが望ましい。可能な限り壁にして、懐に入り込ませてもらう。

 

 しかし近づいたところで策などすぐに浮かぶはずがない。

 接近すれば一撃で命を奪い取る『翼』による亜光速の突進。離れれば命を削り取る『羽』による無尽蔵の雨霰。

 

 詰将棋なんてファビオラの趣味でもなければ得意分野でもない。そういう頭を使って打開策を見致すのバイジュウのやり方だ。

 ファビオラのやり方は単純にして明快。武器という武器を最大限利用して最大効率で攻撃を続けることだけ。弾幕はパワーというやつだ。

 

 

 

 懐に入り込んだ接近戦。ここまで近ければ外すことのほうが難しいというものだ。

 ファビオラは銃を即座に両翼に向けて装填された全弾を発砲する。炎の螺旋を描きながら翼を見事に打ち抜き、まるでプラモデルの関節部が金属疲労で折れたかのように力なく折れるが、それで攻撃を休めるほどファビオラは甘くはない。

 

 幼さがまだ残りながらも、年相応の美しさを兼ね備えたスクルドの顔に膝蹴りを叩き込む。勢いに任せてスクルドは倒れ込みそうになるが、ファビオラは既にスクルドの腕を握っている状態だ。強引にバランスを取り戻させ、そのまま銃を握り込んでいる右手の裏拳で頬を全力で殴り、続いて頭突きをお見舞いし、最後には左手を離して、相手を無重力状態にして渾身の蹴りを腹部にお見舞いしてやった。

 

 普通なら悶絶のフルコースだ。平衡感覚を失う頭部への連続攻撃に、臓器を狙った重い一撃。成人男性であろうと一瞬で意識を奪う攻撃は、スクルドほどの身体であれば過剰も過剰だ。

 

 いや、まだだ。例え相手がお嬢様で女の子であろうとも、今は『ドール』として見ないとやられる。

 続け様に電気銃を打ち込み、その隙に炎の弾丸を装填。込め終えたらスクルドの両足と両腕を弾丸で射抜いて機動力を奪う。

 

 

 

 思っていたよりもやれる——。それがファビオラの嘘偽りない本心だ。正直に言えば『拍子抜け』という感情さえ持ってしまうほどに。

 

 今まで見てきた契約者は、そのすべてが抜きんでた能力や技術を持っていることをファビオラは知っている。

 

 ハインリッヒは錬金術。

 ギンは超人的な身体能力と抜刀術。

 バイジュウは特異体質と完全記憶能力に加えて『魂』を認識できる能力。

 

 そういう意味では契約者であるファビオラも何かしらの優れた部分はあるのかもしれないが、当人的にはパッと思い浮かぶことができない。強いて言うなら自分でも謎である必ずゲロマズになる調理技術くらいだろうか。

 

 ともかくそういう異様に特化した能力を持ってるのが普通だった。

 スクルドの亜光速がそれに値するかどうかで言えば値するのだが、それだけでは契約者として扱うには些か力不足を感じてしまう。種さえ知っていれば対抗策は打ててしまうのだから。

 

 

 

 もしかしたら例に挙げた三人が異様に強かっただけなのか——。

 ハインリッヒは過去にぼやいていた。過去に何度かセフィロトが司る場所を『守護者』という襲名に準じて守りに行っていたことを。

 

 人間社会でも言えることだが、有能で小回りが利く人材というのは何でも屋になりがちだ。その分、行動することも多く、そういう回数が多いからこそレンと接触して解放されたのではないかと。

 

 

 

 ……なんて人間臭い考えを持っていれば、そもそも『契約者』なんて腐った制約を作るわけがない。とファビオラは考える。

 

 きっとあるはずだ——。

『翼』以外にも『契約者』に相応しい能力がスクルドにあることを——。

 

 あるとすれば、どっちだ。

 スクルドが生まれついて持つ『未来予知』のほうか、それとも未だ握ったままでいる『鍵のような剣』に能力があるのか——。

 

 

 

 

 ——ドクン。

 

 

 

 

 

 ——ドクン。

 

 

 

 

 

 思考の最中、ファビオラは確かに耳にした。生命の躍動を、変質しようとする身体の覚醒を。

 

 目を疑う光景だった。スクルドの身体が今間近で急成長している。

 十代後半くらいの見た目から、身長と髪が少し伸び、さらに色気を持った瞳と表情でファビオラを見下ろしてきた。

 

 年齢にしては20代前半という印象だ——。

 身体的にも精神的にも成長を完了した姿とも言えるだろう。

 

 

 

「飾られ過ぎた歴史は、真実と未来をぼかしてしまう——」

 

 

 

 スクルドの成長が終えると同時、その翼にも変化を見せた。

 一枚、また一枚と増やしていき、最終的には合計『10枚』の翼となって宙へと完全に浮いた。

 

 そして武器も変化する。鍵にも見える剣は、珊瑚礁のように剣先を無数に広げて切るのではく『削る』のを目的とした形状へと変化を終える。

 

 さらにもう一つ——。空いた手に『新しい剣』が握られる。

 それはファビオラの心を大きく揺さぶる物でもあった。

 

 

 

「時間を通して映った、交錯する運命……未来(あなた)は私が選んだ王様よ——」

 

 

 

 その手に現出された『イスラフィール』——。

 スクルドを殺したといっていいヤコブが振るった異質物武器——。

 

 

 

 今再び——。

 灼熱のエコーは、その魂を燃え尽きさせようと荒ぶる——。



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第13節 ~霈ェ蟒サ縺ョ邨(■■■■)~

『イスラフィール』——。

 それはニューモリダスでスクルドを死に至らせた異質物武器だ。

 

 その効力は強力無比で特殊性が高い。使用者以外の一定範囲にいる生命の『魂を焼き尽くす』という性質がある。

 物理的な手段で防ぐのは不可能であり、存在するだけで人の心を焦土へと変える。ある意味では麒麟が使用していた異質物武器である『陰陽五行』よりもタチが悪いといえる。

 

 それを何故スクルドは持っているのか——。

 イスラフィールはニューモリダスの情報機関であるパランティアの手で厳重に封印されている。これは絶対に絶対だ。

 

 しかしファビオラは揺さぶられようと、特別驚くような表情は見せない。ハッキリ言ってしまえば『最悪を考えて予測していた』のだ。

 

 なにせ過去の事件で武器が出現すること自体はあったのだ。

 敵対しているスクルドの『鍵』と『翼』がレンに力を貸したのもそうだし、遡ればマサダブルクでエミリオがアズライールを振るった時も、スカイホテルでベアトリーチェがラファエルのエメラルドを剣に変換した時も——。

 

 もっと言えば『OS事件』で、過去に破棄されていたはずのバイジュウの『氷結稜鏡』でさえも幻出された——。

 

 理屈や理由などは今のファビオラに判断を決定する要素はないが、想像することできる。

『縁』とでもいうべきか、そういう物があれば例え自分を殺した物であろうとも幻出できるのではないかと。かの過去の英雄同士が聖杯を求めて闘う作品で出てくる必殺技のように。

 

 だが、考えたところで答えなんて出るはずがない。

 受け止めるべきは事実はただ一つ。本物であろうと幻であろうと、イスラフィールは今確実にスクルドの手にあって、現在進行形でファビオラの魂を燃焼している。吐き出す酸素が熱気にでも変化したのかと息苦しく、血管という血管がウイルスに感染したかのように熱くて痛い。

 

 幸いにもファビオラには『火の魔法』が使えることとパランティア時代の訓練で、そういう熱さに耐える忍耐力と慣れはあるが、それでも保つのは数分が限界だ。

 

 しかも翼は左右5枚ずつの10枚となっており、鍵の形状も切るや突くよりも『削る』と言わんばかりに刃が木々の枝のように刃先が無尽蔵に広がっている。

 

 

 

 何をしてくるか——。

 そう考える時、本能が断続的に叫んだ。『全力 かわせ』と。

 

 

 

「——ッ!?」

 

 

 

 周囲に漂う『火の螺旋』が空気の微細に動きを検知し、それに反応してファビオラは後ろに大きく跳んで、さらに跳んで、跳び続けた。

 

 直後、頭上から世界を埋め尽くすような夥しい黄金色の羽が、床という床を抉りに抉った。

 

 瞬間、ファビオラは理解する。冷静に考えなくても分かることを。むしろ判断と理解が遅すぎるくらいだと。

 

『翼』は10枚になったのだ。先ほどまでは2枚でも雨のように羽を降り注がせていたのだから、単純計算で『5倍』は降り注ぐのが当然だと何故思わなかった。

 

 そして結果を受け入れ、予測を飛躍させないといけない。

 今まで2枚でも亜高速の突進をしてきたのだから、10枚になればいったいどうなってしまうのか。

 

 

 

 亜高速の攻撃速度が5倍になるか——? 

 

 亜高速の突進攻撃をしつつ、残る8枚で羽を降り注がせるのか——?

 

 もしくは8枚の翼で動きの制御を行うことで直線的から曲線的な突進を可能にするのか——?

 

 むしろ2枚ずつ断続に使用することで、亜高速の突進を5連続で行うことができるのか——?

 

 

 

 

 

 あるいは全部か——?

 

 

 

 

 

 判断は許されない。思考の時点で愚策。

 スクルドの亜光速が再びファビオラを目掛けて空間を『跳躍』——いや跳ぶという表現では形容できない。

 

 形容するなら『超躍』——という方が正しいだろう。

 

 

 

「がっ——!?」

 

 

 

 辛うじて直撃は避けたが、余波の威力が比ではない。スクルドが成長する前の衝撃が突風だとすれば、今のスクルドは『嵐』だ。近づくだけで四肢を捻じ切るような神風の刃と圧が襲いかかってくる。

 

 それに僅かだが認識できた。あまりの速さと衝撃に『空間そのものが歪んだ』ことを。まるでそこにあった物質がすべて『削り取られた』のではないかというほどに空間が丸々と捻りこみ、修正しようとする世界の意志を感じとった。

 

 

 

 本能的な恐怖を刺激される——。超常は人の思考を止めてしまう。

 

 ダメだ、思考を止めるな。動き続けろ。恐怖を糧に逃げるようにしてでも動き続けろ。

 

 

 

 幾たびも戦場を超えた条件反射が本能を乗りこなす。とにかく動き続けるしかない。例え魂が焼き尽くすほどに熱かろうと止まることだけは許されない。

 

 照準さえも合わさずに発砲。後に『炎の螺旋』を利用して弾道を調整。狙うはスクルドの『目』だ。

 ドールと言っても所詮人間の感覚を使用している以上は外界の情報を得るのは五感頼りだ。人間は情報を得るのに『視覚』が8割と言われるほどに依存しており、それが機能しなくなれば動くことが困難になる。

 

 だが同様に照準という視覚的な情報を合わせていないファビオラだってスクルドの目など狙えるはずがない。だから視界を塞ぐのは弾丸自身ではない。『炎』をカーテンのように舞わせるだけ視覚妨害として十分なのだ。

 

 なにせ亜光速の突撃だ。触れれば絶命、擦れば重傷となる能力。それは決して使用している本人だって例外ではないだろう。

 現にスクルドは一度たりとも壁や床に衝突はしていない。礼拝堂に置かれている小物や椅子だって、あくまで亜光速の突進から生み出される衝撃によって砕け散ったにすぎない。

 

 裏を返せば『壁や床に衝突してしまう』とスクルド自身も挽き肉になりかねないハイリスクハイリターンの能力なのだ。ファビオラが長椅子を壁にして射撃していた時でさえ、スクルドは『翼』ではなく『羽』での攻撃を行っていたことが確証をさらに深める。生半可な状態で使用できるほど、あれは安全というわけでもないのだ。

 

 

 

 そりゃそうだ。亜光速の速さに人間の身体がついていくことは物理的に不可能なのだ。

 自殺方法の候補に挙がる『高所落下』でさえも音速に届くには『高度約39km(39,000m)』という成層圏からの自由落下でないといけない。東京スカイツリーでも『高さ634m』しかなく、それどころか地上『20~25m』からの自由落下でコンクリートに打ち付けると人間は即死するというのだから、音速を超える亜光速では例えスライム状の物体に突っ込んでも結果は変わらないだろう。

 

 ならばどうやって干渉してきているのか。空気でさえも凶器に成りうる亜光速の世界。だというのにスクルド自身には反動というものが一切見られない。

 だとすれば、どうにかして無力化しているのが自然だ。何かしらの方法————その思考にたどり着けば答えはもう簡単だった。

 

 

 

 そうか——。その役割を担ってるのが『鍵』なんだ——。

 

 

 

 あの『鍵』こそが亜高速の事象と世界の事象を繋ぐ文字通りの鍵なのだ。鍵が接触した部分だけが亜光速と、この世界の事象を無理矢理にでも縫い付けてる。

 逆にスクルド本体は亜光速の世界から干渉を断つことで、始まりと終わり以外はこの世界からのあらゆる干渉を無視する——。

 

 

 

 鍵が変化したのは手段を特化するため。『空間を削る』ことに秀でることでファビオラの回避行動さえも叩き潰す威力を齎す。

 

 翼の枚数は手数を増やすため。羽による殺人的豪雨もそうだが、弾丸で翼が潰されても過剰な枚数という力押しで封じ込めるために。

 

 イスラフィールを利用するのは、自身の能力で発生せざる終えない弱点に気づかせる時間を削るためだ。

 

 

 

 そしてその弱点にファビオラは既に気づいている。

 スクルドの弱点は、皮肉なことに『未来予知』そのものだ。より正確に言うならばスクルドの動きを『予測』することが弱点となる。

 

 亜光速ゆえに動きが直線的にならざる終えない。となればファビオラの真正面に障害物を置いておけば、少なくとも直撃だけは避けることができる。

 だが、そうなれば今までのように掠めるだけで発生する衝撃で嬲るほうに回ればいいだけのこと。ならばそれさえも見通したうえで立ち回り、スクルドを覆すことも超えることも不可能な状況に陥れれば打倒することができる。

 

 

 

 ——スクルドの『死』を齎すような運命を選ばせないといけない戦法を取ることでしか勝てないなんて。皮肉なんてものじゃない。

 

 

 

 そんなこと——できるわけがないじゃないか。

 

 年上として、メイドとして、家族として——。

 ちょっとおいたをしてしまった子供を正すためだけに、殺さないといけないなんて——。

 

 

 

 

 

 

 

 でもそれ以外ならできる——。だから————。

 

 

 

 

 

 

 

 ちょっとだけ、痛いのは我慢してくださいよ——。

 

 

 

 ————痛いのは、私も一緒ですから。

 

 

 

 ファビオラは決意する——。この選択を導いてくれたスクルドのすべてに——。

 

 

 

 ファビオラは背中に抱えていた自分の身の丈ほどの棒状の物体を取り出す。青を基調とし、先端はイソギンチャクのように枝分かれした綿の塊——とどのつまり『モップ』と呼ばれるものだ。

 

 別にふざけているわけではない。これこそがファビオラがセレファイスで見つけた最後の武器だ。

 魔法の性質を閉じ込める技術と物質があることをファビオラは知った。それを利用して銃を擬似再現したが、元よりファビオラの戦闘スタイルは小細工なし、最大火力を最高効率で叩き込もうとするものであり『火砕サージ』に変わる決定力がどうしても必要であった。

 

 結果として生まれたのがこのモップだ。形状に関しては、付与した魔力の兼ね合いもあってモップにするのが最適だったからそうしたまでのこと。

 

 名称は『翡翠裳羽』——。

 セレファイスを巡る中で、ノーデンスの魔力を込めてもらった武器だ——。

 

 初めてノーデンスが現れた時のように『水を渡る能力』と、単純に『水を生み出す』という能力を込めた物であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 しかしそれだけで十分だ。今のファビオラには『火』と『水』を使用できるだけでも大きな価値がある。

 

 

 

 雨に濡れた大地だと人が滑りやすくなるように、ファビオラは翡翠裳羽の上に乗って水を噴出。その噴出した反動を推進力として移動していく。

 ファビオラだって人間だ。しかも軍人の訓練は受けているとはいえドールではない。体力も運動能力も常人より遥かに上なだけで、オリンピックに出場するような一流選手に及ぶことは決してない。

 

 故にこうしてセグウェイのように乗って、移動するような物は非常にありがたい。魔力とは精神力と直結してる以上、エネルギーとしては非常に長持ちする。イスラフィールの影響下でも数分動き続けられるだけでも有意義だ。

 それに対しての速さも上出来だ。時速25kmほどであり、ファビオラが走るよりも二倍以上は早い。それだけでもスクルドを翻弄するには十分と言える。

 

 さらに水と火を合わせれれば、気化現象によって『霧』も発生させることができる。濃厚ではないが、それでも視認性が下がるのだから、こうなればファビオラの動きを目視するのは困難だ。

 

 ただそうなれば当然スクルドだって亜光速攻撃を避けてくる。視界不良で自爆しては元も子もないのだから。

 となれば狙うは羽による殲滅攻撃。天から降り注ぐ物がすべてを滅ぼさんとする。

 

 物量が多すぎて遮蔽物で何とかなる問題じゃない。例えこれが殺傷力のないただの羽だとしても、溺れ死ぬほどに量が多い。

 炎でカーテンを張り、羽を接近した傍から炭にしていく。そして距離を取って機会を伺い続ける。スクルドを打倒するチャンスを。

 

 だが持久戦になればイスラフィールの影響でファビオラの魂のほうが先に燃え尽きてしまう。悠長にチャンスを待つことはできない。待ちながら攻めるしかない、というのが今のファビオラの状況だ。

 

 

 

 それでも待つしかない——。着実に、堅実に、迅速に、精彩に、入念に。

 霧の中で羽を迎撃しながら必要な物を集めていく。この礼拝堂で一番衝撃に耐えうる物体を。ファビオラが求める作戦を可能とする条件下を。

 

 待つ、待ち続ける——。確実に、正確に、俊敏に、慎重に、大胆に。

 

 

 

 

 

 そして——ファビオラの限界が訪れた。

 

 

 

 

 

 ドクン——。ドクン——。と少しずつ心臓の鼓動が弱まっていく。脈動に入る酸素が薄くなっていく。躍動するための活力が失っていく。

 

 辛うじて翡翠裳羽から手は離さずにいるため動きを止めることはないが、もう視界の端が萎みつつある。虫食いの状態で視界がチラついていき、周囲の状況さえまともに判断できない。自分で出した霧も相まってまともにスクルドの動向を追うことも不可能だ。

 

 

 

「————ッ!」

 

 

 

 必然、自分が蒔いた種で不利を被ることになる。炎の隙間を搔い潜って、羽が一枚ファビオラの眼球に直撃した。

 

 もう悲鳴を上げる余裕さえない。夥しい血が噴出し、視界の立体感も定まらなくなる。

 続けて二枚。一枚は頬を抉り、もう一枚は腹部へと深々と突き刺さった。ファビオラの『炎の螺旋』と同様に、羽は軌道を安定させるために回転を施しており、臓器を搔き乱さんと荒れ狂う。

 

 三度、羽が突き刺さる。心臓と、腕と、そしてもう一つの眼球と、ファビオラの視界はすべて鮮血に染まりに染まった。

 

 意識も少しずつ霞んでいく。間近に迫る『死』という体験——。

 もう正常な思考も肉体も機能しない。少しずつ体が硬直していくのが分かる。体中から力が抜けていくのに、体中を巡る力が固まっていく。どんなに力んでも解けない肉の塊になろうとしていく。

 

 

 

 心も体も熱を失っていく——。死は目前へと迫る——。

 ファビオラは何も成せず、ここで無様に死ぬしかないのか。

 

 

 

 …………

 ……

 

「だったら単純な質問。この世界から抜け出す方法は?」

 

「簡単だね。出口を見つけるか、それとも死ぬか。ここは精神を中心としてる世界だから、元の世界に戻ろうとするなら自殺でもどんな手段でも死ねば戻れるよ」

 

 ……

 …………

 

 

 

 ——本当に、スクルドお嬢様を優しいですよね。

 ——この一言で、私は迷いなくこの瞬間を待つことができた。

 

 

 

 否、断じて否——。

 成すのはここから。無様に死ぬのはそうだが、死を超えた先にファビオラが目指すべき目的がある。

 

 

 

 心にある覚悟を炎に、信念を水として錬成する。灰となる魂なんてこの際何の価値もない。スクルドお嬢様を止められない私の魂なんて生きていようが、死んでるのと同義だ。

 

 今一度、体に熱を灯す。体内に魔力の水を流し込む。それら二つが死した肉体を再起動させる。

 温度と気圧を利用したポンプ式で無理矢理心臓の鼓動を刻んでいく。僅かながらの延命処置に過ぎないが、この死と生の境目が重要なのだ。

 

 

 

 ——何せ知っているのだ。『ドール』という存在は『死体には一切反応しない』ということを。

 

 

 

 ゾンビも同然となってファビオラは霧の中からスクルドへと接近していく。驚くほどに何の迎撃もなく、ファビオラは懐へと飛び込むことに成功した。

 

 これが人格がある状態のスクルド——いや、スクルドでなくともこんな素直に近づかせたりしないだろう。これこそが『ドール』として致命的な欠陥なのだ。

 

 何も『ドール』が『人間』のすべてを超越してるということは決してない。

 確かに五感も運動能力も地球生命体の頂点に達しているだろう。しかし人間の強さというのは、五感でも運動能力でもない。そんなもので食物連鎖の頂点に立って、地球という惑星において傲慢で我儘な知的生命体の代表ですという顔で君臨できたりしない。

 

 人間が生物の頂点に立てたのは『思考』ができるからだ。二本足で立つことで知能が飛躍的に向上して文明を生み出した。それこそが人間としての最大限の武器なのだ。

 

 だからある意味では『ドール』というのは人間としての『退化』ともいえる。

 きっと遠い昔ではそういう変化をした人間の形を生命もいたのだろう。しかしそれは人間の進化という枝木の歴史では淘汰されたからこそ、現代においては存在できていない。

 

 スクルドの表情には何も浮かばない。ただ漠然と迫るファビオラの存在に焦点を定めて反射的な防衛を行う。今のスクルドにとってファビオラは礼拝堂に落ちる柱の残骸と同等であり、ただ『鍵』を薙ぎ払うことで迎撃を終えようとする。

 

 この瞬間——この瞬間だけがファビオラにとって好機となる。

 

 限界の先にある限界——。死力を持って魂の一滴まで魔力へと変換し、スクルドに最後の抵抗を試みる。

 鍵とイスラフィールを掴み取り、全身全霊を込めて奪い取る。『ドール』になったといっても、元はエクスロッドの大事な一人娘だ。それは過去・現在・未来において不変することがない事実だ。いきなりボクシング選手や関取みたいに筋肉が詰まった肉体に変貌なんてするわけがない。根本的な筋肉が出来上がってない以上、筋力だけなら『ドール』相手でもファビオラは上回ることができる。

 

 こうなればスクルドの攻撃手段はどうなるか。羽による殲滅攻撃しかないが、今のスクルドとファビオラは零距離による組み合いをしている状態だ。羽での攻撃は自身にも被弾をする恐れがあるから普通はしないだろう。痛みを感じないドール以外は。

 

 

 

 翼を広げ、天使の刃が降り注ぐ。互いの身体に深々と羽が患部という患部に突き刺さっていく。

 だが痛みを感じないのはファビオラも同条件だ。既に死体も同然であり、痛みも出血も死も恐れることはない。ここで死んでもドリームランドから抜け出せるだけで、現実世界での命は繋がっているのだから死という材料を天秤に乗せるのは遥かに楽だ。

 

 

 

 ああ、死というのはこんなにも冷たくて、暗くて、寂しい物なんですね——。

 ごめんなさい。今までこんなところにスクルドお嬢様を放っておいてしまって——。

 

 

 

 こうなれば意地の張り合いだ。互いに決め手などあるはずがない。ただただ時間を無駄に刻んでいくしかない。

 

 

 

 だがこれでいい——。目的はスクルドを無力化することなのだから。

 勝とうが負けようが、スクルドという存在をファビオラの前から離れさせるのが一番の愚策だ。根本的に『契約者』という存在は『時空移送波動』に戻ってしまえば、あらゆる時間・空間から隔絶されることになる。つまりは情報の連続性をなくすということでもある。

 

 となれば目を離した時点で、スクルドはレンに追撃を行う可能性だって十二分にあるわけだ。どれだけ離れていようと亜光速の機動力の前ではどこにいようと同じことだ。

 今この場において、スクルドを何とかするには彼女を観測し続けるこの『停滞』という状況こそが最も効果的となるのだ。

 

 

 

 

 

 未来も、過去も、現在もない。ただただ二人は傷つけあって時の忘れ物となる——。

 

 

 

 

 

 これこそがファビオラの選んだ道。

 

 これにて二人の戦いは終焉となる。

 

 

 

 

 もう離れることはありません——。ずっと傍にいますから——。



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第14節 ~驕句多縺ョ霈ェ(■■■■)~

「勢いで月まで来たのはいいんだけどさぁ……」

 

「どうしましたの?」

 

「月ってこんな広いの!? しかも見渡す限りなんもないし!?」

 

 ガレー船を全速で飛ばしてきたのはいいものの、いざ到着してみれば、レン高原を遥かに超える灰色の大地に度肝を抜かれてしまう。そんな光景を見て、俺は授業で習った地球と月の関係を思い出していた。

 

 月——それは地球の周りに浮かぶ『衛星』だ。地球は『惑星』であり、太陽は『恒星』と呼ばれているが、今はその件については大きく関係しないので割愛しておく。つまり『恒星』『惑星』『衛星』という順に星の大きさが小さくなっていき、その性質も変わるとも言っておく。

 

 だけど『大きさが小さくなる』といっても星は星だ。人間と比べるまでもないし、国や大陸と比べてもそれでも大きい。

 なにせ『月』は『直径3,474.8km』だ。地球はその約4倍で『直径12,742km』で、太陽はさらに100倍以上もある『直径1,392,700km』だ。ちなみに水星は『直径4,879.4km』だ。水星って大きいのね。こっちじゃ全然わからないや。

 

 とはいっても、それは星の球体としての大きさだ。表面積となればもっと大きくなり、月はなんと『約3,793万平方km』と、第五学園都市である新豊州の『約43平方km』の百万倍近いとかいう俺の尺度では測りきれないほどに大きいのだ。

 

 ただでさえ新豊州の入り組んでバラエティ豊富なテナントがあって目が回りそうな時もあるのに、ここまで広がって何もない土地に来てしまえば……『何をしていいかさえ分からない』という事態に陥ってしまうのだ。

 

「ソヤ~~? お前の鼻でなんとかならない?」

 

「私はトナカイさんじゃありませんわよ? どうにもなりませんわ」

 

『まあムーンビーストを探せば住処も見つかるだろうけど……』

 

『残念ながら我でも管轄外だな。ニャルラトホテプなどを知ってる奴はろくでなしの中のろくでなしぐらいで、所在を図ることなんてできん』

 

 くそ、せっかくスクルドの助言で月にまで遥々とやってきたというのにドン詰まりかよ。

 ドンブラコッコ、ドンブラコッコ。ガレー船は月の海を流れのままに進んでいく。

 

 ……しばらくは進展なさそうだし、今のうちに武器とか持ち物を見直しておくか。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

『——ふん。スクルドめ、役目を果たせなかったか』

 

「はっ! ざまぁないわね、あの方様さん?」

 

 暗黒の世界の只中。ミルクはわざとらしい敬称でヨグ=ソトースを小馬鹿にする。

 無論、超常の存在にミルクの煽りなんて微塵も触ることはない。ただ己が使命を果たそうと思考を駆け巡らせるのみ。

 

 暗闇の世界で時間は概念はあるのかどうか怪しいものだが、ミルクからすれば体感数分ほど経ったのちに、ヨグ=ソトースは重い声を轟かせた。

 

『仕方がない。聞こえているか?』

 

『……聞こえている』

 

 声だけが闇の中から響いてくる。その声はミルクには聞き覚えがなくても、バイジュウには聞き覚えがあった。

 

 忘れることなんてできるはずがない。人を馬鹿にするかのような、泥よりも穢らわしい性根から腐敗してる声色。

 サモントンを滅茶苦茶にした張本人——『ニャルラトホテプ』の声だ。

 

『お前が根城とするドリームランドの月に、あの小娘が向かっている。退けろ』

 

『無理に決まってるだろ。オレはミカエルにつけられた傷の影響で、そんじゃそこらの下等生物に負けかけないほど弱っている。アイツ、どこでクトゥグアの炎を手に入れてきたんだ……?』

 

『知ったことか。直接聞けばいいだろう』

 

『アハハ! それこそ無理って問題だ。オレとアイツは根本的な部分が相容れない者同士。何かの間違いさえも起きないほどにねぇ!』

 

 何が面白いのか。ニャルラトホテプの心にもない笑いが暗闇に木霊する。

 だがこれだけはミルクは理解している。こいつらの会話なんて百害あって一利もないことくらいは。

 

『だったらヨグちゃん、オレのところに来てくれない? 同胞だろ?』

 

『そうしたいところだが、私の力はあの小娘に対して効力が薄い。下手すれば私もお前も共倒れだ』

 

『そりゃ困った。本当に困るなぁ』

 

「しかしヨグ様ぁ? 私とバイジュウちゃんを殺し合いさせなくていいのかなぁ?」

 

 ミルクとしては様付けするのは大変不本意ではあるが、これは『契約者』である以上避けることはできない。元々隷属すること自体は生前から慣れてはいるので不快感はないが、こんなやつに跪く関係であることをバイジュウに見られるのは我慢ならない。

 

 しかし今だけは感謝しなければならない状況でもある。

 ヨグ=ソトースはミルクの操ることをやめて、バイジュウ共々自由の身にしている。精神的な世界だから助かったものの、可愛いバイジュウちゃんの顔が傷だらけになってしまい、ミルクは心の中で「ごめんね」と謝り続ける。

 

 だけどそんな弱気な部分を見せてもいけない。

 ヨグ=ソトースは人の心が弱ったところに漬け込むのが得意でもあるのだから。

 

『お前たちはこれ以上やるだけ無駄だと分かった。そういうのを人間は絆というのだろう』

 

「私とバイジュウちゃんは絆だけで括れるほど浅い関係じゃないんだよ〜〜!!」

 

『そうか。素晴らしいな』

 

「お褒めに預かり光栄です〜〜、けっ!」

 

『ならば、その関係を利用させてもらおうか』

 

 途端、ミルクの首筋が締め付けられて宙に浮く。ヨグ=ソトースの艶めかしい触手によるものであり、こうされては抵抗しようにも抵抗できない。少しだけ触手の力から抜け出そうと足掻くくらいなものだ。

 

『どんなに虚勢を張ろうと、お前は私の従者だ。時間も運命も、その全ては私の手にある』

 

「だ、だけど……私がいないとバイジュウちゃんをお誘いできないよ?」

 

『ああ。だから不必要なんだ。お前との契約を破棄させてもらおう』

 

 それはバイジュウにとって思いもよらぬ提案であり、最も望んでいるものであった。

 ミルクが守護者——契約者から解放されれば、20年の凍てついた時間を取り戻すことができる。またあの頃のように他愛もない日常を送ることができる。

 

 

 

 だが違う——。ミルクにとっては違う——。

 それはミルクからすれば『死刑宣告』なのだ——。

 

 

 

『ミルクとやら。お前は私との契約がなくなったらどうなるか分かっているだろう?』

 

「っ……。それを今ここで言うなっ!」

 

「ミルク……?」

 

『ギンの時は手こずったが、契約者は本来肉体と精神共々に私の空間にて管理される。スクルドは偶発的に発生した方法ゆえに例外となったが例外は例外だ。その他にイレギュラーなど発生するわけがない』

 

「やめろっ!」

 

『聡いお前なら理解できるだろう。バイジュウよ、今ここでこの女の契約を破棄すればどうなると思う?』

 

「ミルクとの契約を……?」

 

 そこでバイジュウはやっと理解した。ヨグ=ソトースを何を言おうとしているのかを。ギンの過去をSIDで又聞きしてるからこそ、今のミルクの状況がどうなっているのかを。

 

 つまりミルクには『現世にも時空位相波動にも肉体がない』から、今ここで契約を破棄すれば『魂だけが現世に帰ってしまう』のだ。

 

 肉体がないまま現世に行けば、どうなってしまうかなんて考えるまでもない。本当の意味での『死』を意味している。

 

 そんなことをバイジュウが良しとするかなんて、答えるまでもない。

 

『友は大事であろう。わざわざ見殺しにするのは、二度は嫌だろう』

 

 ヨグ=ソトースの言葉に、バイジュウは憎しみと怒りの表情を浮かべながら、ぎこちない人形のように首を固く頷いた。

 

「……あれだけ一方的な殺し合いをさせて失敗しておきながら、バイジュウちゃんをたぶらかそうとするなんて面の皮が厚いなんてもんじゃないね」

 

『あらあら失敗しちゃったの、ヨグちゃ〜〜ん?』

 

『失敗したな。だがそれがどうした。バイジュウさえ引き込めば過程などどうでもいいだろう』

 

『は〜〜っ。人間なら煽られたらもっと良い反応してくれるのにね〜〜。本当にお前はつまんね』

 

『なんとでも言え』

 

 ヨグ=ソトースはニャルラトホテプの言葉には必要以上に関心を向けはしない。それが一番適切な距離感であることを知っているからだ。

 

『バイジュウよ、もちろん褒美はやる。その女の従属をお前に一任させてやる。好きなように愛でて、好きなように過ごせばいい。お前だけのドールにしてやる』

 

「ダメだよ、バイジュウちゃん。こんな奴らの提案なんて旨味なんてないんだから」

 

「……分かってます」

 

 だけど放棄したらミルクの魂が消えてしまう。今までの歩みの先にある物が消えてしまう。

 人は目的地のない旅路を続けることはできない。暗闇の荒野を進めるほど強くない。バイジュウが今まで惨めも恥も晒して、19年間の眠りの末に世界を見てきたのはすべてミルクのためだ。

 

 そのミルクが消えてしまえば、私の今までは何もかもなくなってしまう——。

 19年という凍てついた時間は砕け散り、歩んできた旅路の意味をなくしてしまう。

 

 

 

 ——だったらどうすればいい。

 

 

 

『ヨグちゃ~~ん。もう一つの可能性を示してあげようよ』

 

『意見があるなら言え』

 

『じゃあ遠慮なく言わせてもらうよ。ねぇ、バイジュウちゃ~~ん♪』

 

「おいっ! 軽々しくちゃん付けをするな!」

 

『そりゃ失礼。独占欲が強いこって、ミルクちゃんさん』

 

 こいつ、トコトン人を馬鹿にした態度を取ってくれる——。

 

 ミルクは理解した。誰とも仲良くなれる私でも、こいつとは絶対に合わないと言うことを。

 

『バイジュウ。レンと戦ってくれるかな? オレのために』

 

 ——その提案はバイジュウでも意味と経緯を理解することができなかった。

 

『オレはね、レンの身体と精神が欲しいんだよ。そのためにサモントンで一波乱を起こしたんだが……知っての通り、計画は失敗してオレはご隠居さ。今じゃあ手を出そうにも手を出せない』

 

『だからさ』とニャルラトホテプは嘲笑混じりに話を続ける。

 

『オレの代わりにレンと一戦を交え、それでレンを倒してくれたら君とミルクを解放してやる。面白い条件だろう?』

 

「……そんな言葉には乗りません。それにミルクの肉体があっちにない以上、ミルクを解放したところで……」

 

『それができちゃうんだなぁ。君は知らないだろうけど、レンは取り込んだロス・ゴールドの影響もあって『生命を一から作り出す能力』があるんだよ』

 

「……なんですか、それ」

 

『嘘じゃない、本当さ。現に君が目覚める前にあった新豊州にあるスカイホテルで起きた事件……。そこで君も知る仲間の一人ベアトリーチェは再誕したのさ』

 

「再誕……。『因果の狭間』からの解放じゃなくて?」

 

『ああ。だから君がレンを倒し、それに乗じてオレがレンを乗っ取る。そうすればレンの身体を自由に使えるわけだから、ミルクの身体を一から生みだすことができる。そしたら君もミルクも現世に戻れて万々歳。君にとっては喜ばしいことだろう?』

 

「そ、れは……」

 

 揺らがないわけがない。薄情かもしれないが、バイジュウからすればミルクとレン、どっちのほうが大事かと聞かれれば迷わずにミルクと応えられるし、例え自分の命と引き換えだとしてもミルクを選べる。それほどまでにバイジュウにとってミルクの存在は大きく、眩しく、尊いのだ。

 

 けれどその選択は絶対にミルクは受け入れてくれないだろう。選択の果てにミルクの笑顔はない。あの太陽のように輝く、あらゆる暗い内面を優しく抱擁してくれる明るい笑顔は。

 

 

 

 バイジュウの嗚咽さえも吐き出さずに泣き崩れる姿が答えだった。

 その選択にミルクは「偉いね」と優しく笑ってくれた。その選択が意味する残酷さと無情さは、本人が一番分かっているというのに。

 

 

 

『……つまらない答えになったか』

 

「ごめん……っ! ごめんね……っ!」

 

「いいよ♪ 元々ボーナスタイムみたいなもんなんだから♪」

 

 

 

 いつものと変わらないミルクの明るい声。

 それはバイジュウにとって救いでもあり報酬でもあり、同時に罪であり罰でもある。

 

 

 

『では聞かせてもらおうか』

 

「沈黙が答え。バイジュウちゃんの涙を見れば分かるでしょ?」

 

 

 

 バイジュウの代わりにミルクが応える。それもまた彼女なりの優しさだった。

 

 

 

『よろしい。ならば望み通り、お前ら2人をこの世界から返してやろう——』

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「その選択は間違いじゃないよ——バイジュウ」

 

 観星台——。

 水晶、タロット、占星術という、占いのバーゲンセールのように乱雑に並ぶ空間にてグレイスは、ここにはいないはずの少女に向けて呟く。

 

「それだけが唯一の正解。みんなが助かる貴方が打てる最良の一手」

 

 グレイスはタロットを一枚捲る。捲られたのは小アルカナの『カップ』——つまりは『聖杯』だ。

 カップは愛情をテーマとするカード。意味は他者との心の繋がりや、慈愛心、過去など——。 

 

 そして既に捲られているもう一枚のタロットカード。それは大アルカナの『運命の輪』——。向きは正位置。意味するのは『タイミングを逃さない』『運命の出会い』だ。

 

「ここからはギンとクラウディアの仕事。そのためには……私もできるだけ助力しないと」

 

 グレイスは今でも全く見ない携帯電話を手に一つの連絡を入れる。

 ワンコールで電話先の人物は呑気に『へい、らっしゃい』と気さくを超えて不真面目な声が響く。電話先にいる人物はイナーラだ。

 

「イナーラ。バックアップはお願いね」

 

『りょ。注文追加だから割増のマシマシね』

 

「分かってる。ソヤとファビオラの安全を確保したら『塔』の皆と一緒に協力して、できるだけ『無形の扉』のエージェントに、ギンと麒麟の戦いに介入させないようにして」

 

『はいは~い』

 

 

 

 そう言ってイナーラは電話を切る。グレイスは一呼吸おいて水晶を眺める。

 そこに映るのは反射された観星台の内装ではない。水晶そのものが宇宙でもあるのかように、小さな星の光が瞬き、瞬き——そして、一つずつ消えていく。星の命が、宇宙の命が消えていく。

 

 

 

「『■■■■■』——。あなたはいったい、どんな夢を見ているの——」



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第15節 ~莉伜蓑逾(■■■)~

「ミルクッ!!」

 

「うおっ!? 急に大きな声出さないでっ!?」

 

 暗闇の世界から目覚めたバイジュウは親友の名を叫ぶ。

 錯乱した頭では周りの状況を把握することなんてできるわけがなく、癇癪でも起こしたかのようにクラウディアの背でバイジュウは暴れ出した。

 

「ミルク……ミルクッ!! ミルクはどこっ!?」

 

「目覚めてすぐ牛乳? 赤ん坊にでもなった?」

 

「そんなわけ……っ!!」

 

 自分を背負うクラウディアを押しのけてバイジュウはミルクを探しに行こうと動こうとした瞬間、酷く鋭い痛みが伝わってきた。

 動かそうにも動かせない。何故なのかとバイジュウは痛みの原因となる場所に視線を下ろすと、そこには脹脛部分の骨が折れて反対向きに向いてる足先が見えた。

 

 

 

 そうだ——。こっちの世界だと四肢がまともに動かせないんだ——。

 

 

 

 痛みで沸騰していた思考が沈着していく。世界の輪郭を少しずつ捉えて、いつもの知ろうとするバイジュウの理性が冴えていく。

 今ここは華雲宮城で『無形の扉』ことフリーメイソンの支社の中だ。麒麟によって四肢の骨が機能しないようにされていて戦闘行為どころか自分で歩くことさえままならない。そういう状況であったことを再認識した。

 

「やっと落ち着いた……。さっきは煽ってごめんなさいね」

 

「大丈夫です。一周回って落ち着くことができましたから」

 

「で、ミルクがどうしたの?」

 

 クラウディアは周囲の警戒をしながらもバイジュウの様子を見る。起きて突然親友の名を叫んで錯乱したのだから、詮索するのが当然であろう。

 

 バイジュウは痛みを堪える意味も込めて深呼吸をすると、暗闇の世界で起きたことを全てクラウディアに伝えた。余すことなく本当に全てだ。

 ヨグ=ソトースのこと。ニャルラトホテプのこと。そして『契約者』として解放されたミルクは肉体がないからこちらの世界に来ても消えてしまうことを。

 

「そっか……。『あの方』はそこまで腐ったことをするか……」

 

「……今なんて?」

 

 クラウディアの言葉にバイジュウは疑問を覚えた。何故ならヨグ=ソトースをそんな呼び方をするなんて、とどのつまり——。

 

「何も言ってない——。良い女の条件は、無闇に人の情事に踏み込まないこと。分かったかしら?」

 

 最初で銭湯に入った時と同じだ。クラウディアは頑なに自身の過去を語ろうとしない。きっと後ろめたいことがあるのだろう。バイジュウだって同じように後悔のある過去を持っている。

 

 だから知られたくない気持ちは人一倍理解してしまう。人には土足で踏み込まれたくないものもある。

 

 ならば聞けない。それ以上はバイジュウの口からクラウディアを問い質す理由がなかった。『魂』を認識できるからこそ、今のクラウディアがどういう思いで聞いているの理解してしまい、それを知らんぷりして無責任に馬鹿みたいに聞くことができなかった。

 

 

 

 きっとミルクなら、それさえも呑み込んで踏み込むんだろうな。私の時みたいに——。

 

 

 

 ミルクの事を思うだけで涙が溢れてしまう。溢れる激情を堰き止めようとすると、感情が脳を侵食して思考と世界が真っ白になってしまう。音も、視界も、すべてがバイジュウにとって不要な情報となって過ぎ去っていく。心に流れ、巡るのはミルクとの思い出だけだ。

 

 ミルクと一緒にいた日々は本当に色付いていた。彼女はバイジュウの知らないことを教えてくれて手を引いてくれた。

 

 まだまだ不愛想の愛嬌なしの仏頂面だったのに、ミルクは本当に楽しそうにどこにでも連れて行ってくれた。カフェ、レストラン、雑貨屋——日常の範囲でバイジュウも利用しているのに、彼女がいるだけで別の世界に見えるほどに楽しくて華やかになった。

 大学の講習も知識を詰め込むだけの場所だと思っていたのに、彼女が隣にいるだけで大学の何気ない日々さえも掛け替えのない宝物となっていった。

 

 学食での日替わり定食に舌鼓を打つミルク——。

 ゲームセンターで一緒に楽しむミルク——。

 水族館や遊園地を駆け回ったミルク——。

 

 

 

 ——バイジュウちゃん。

 

 

 

 思うだけでこんなにもミルクを感じているのに。思うだけでミルクは私の傍にいてくれているのに——。

 そんな幻に囚われてしまうほどに、今の自分はこんなにも心身ともに弱り切っているのか——。

 

 

 

 ——バイジュウちゃん!

 

 

 

 無価値と化した五感ではバイジュウに届くはずがない。

 ならば呼びかける声は何なんだ? 私の心が見せる幻なのか、夢なのか? 

 

 だったら夢でもいい。もう一度深海の底に返して、暖かくて冷たいゆりかごの夢に戻して。ミルクがいない世界なんて、私にとって光がない世界も同然なのだから。

 

 

 

 ——バイジュウちゃん!!

 

 

 

 

 

 ——違う。私を呼びかける声は夢じゃない。今確かに存在する『魂』の鼓動だ。

 ——これは幻でも、錯覚でも、思い込みでも、夢でもない。

 

 

 

 

 

「……いる。まだ、そこにいる……」

 

「いるって?」

 

「ミルクがここにっ!! 私の目の前にいる!!」

 

 

 

 虚空に向かってバイジュウは手を伸ばす。クラウディアからすれば意味不明だが、バイジュウからすれば話が違う。『魂』を認識できるからこそ知ってしまった。

 

 

 

 ——眼前に、行く宛もなく彷徨い続けるミルクの魂があることを。

 

 

 

「いやっ……! 行かないで、ミルクっ! ミルクっ!!」

 

「どーどー! ミルクbotになってるよ!?」

 

「ミルクが行っちゃうッ!!」

 

 

 

 痛みなんか知るもんか。冷やかしも知ったことか。

 かつてないほどアドレナリンが噴き出し、身体中の痛みを置き去りにして何とかしてミルクの魂にしがみ付こうとバイジュウは画策する。

 

 だけど擦り抜けてしまう。この能力は『魂』を認識するだけで触れることはできない。バイジュウの冷たい指先では、ミルクの温かい心を感じることができない。

 

 これほど歯痒い思いはない。今そこに、確実に、ミルクの魂はあるというのに。

 このままでは今度こそミルクの魂が霧散してしまう。一人寂しい世界へと、本当の永劫に囚われてしまう。

 

 けれど諦めるなんて選択肢があるわけない。今のミルクはヨグ=ソトースの手にないのだから、ここから先はバイジュウの独壇場だ。どんな手を使ってでも、自分が払える代償ならいくらでもミルクに捧ぐ。

 

 バイジュウは追憶する——。

 ミルクの魂をどうにかして保護するための手段を——。

 

 

 …………

 ……

 

 

「魂に介入する方法を教えてほしい……ですか?」

 

「ええ。私の能力は認識できるだけで、特に何かできるわけではないので……」

 

 それはある日の霧守神社での出来事。

 レンの鍛錬の成果とギンの存在を聞き、バイジュウも知識ぐらいは得ようと霧夕の下へと出向いたことがあった。

 

「う〜〜ん。バイジュウさんは私みたいな憑依の素質はなさそうですし……レンさんみたいな感じでもなさそうですよねぇ」

 

「……やっぱり無理そうですか?」

 

「いえ。方法は一つだけはありませんので」

 

 そう言いながら霧夕は道場の壁に飾ってあった木刀や竹刀をバイジュウへと差しだした。

 なんだと思ったが、能力で魂を認識できるバイジュウはすぐさま理解した。霧夕が差し出した二つに魂の残滓が存在していることを。

 

「レンさんにも話しましたが『物にも魂が宿る』という言葉があります。これを『付喪神』というのですが、これは魂と物体が近しい関係であればあるほど定着しやすい物になります」

 

「魂と物体が近しい関係?」

 

「要はどれだけ大事にして、どれほど長く身につけたかですね。例えばバイジュウさんなら、その髪飾りや青い首飾りとか」

 

「その付喪神にはいったいどんな意味が?」

 

「特にはないですよ。魂だけでは無力なんですから。今ここで大人しく暇な神様してるウズメ様みたいに」

 

『お前、最近妾の扱い酷くない?』

 

「信仰者が数十人しかいない神様とか有り難み薄いですから」

 

『はぁ~~。妾もVtuberというのになって信仰を集めたほうがいいのかのぉ』

 

「今よりかは健全ですね」と霧夕は適当に流し、茶を啜るとバイジュウとの話を再開させた。

 

「けれどレンさんや私みたいに魂に応える力があるなら、その付喪神を利用して技術や知識を引き出したりもできますが……バイジュウさんの場合は少し違う用途として利用できるかもしれませんね」

 

「違う用途として?」

 

「物に魂が宿るということは、ある意味では物と人が一体化しているという意味でもあり、魂の色や形が同調しやすいんです。言い換えれば『同じ匂い』がする——と言ってもいいかもしれません」

 

「同じ匂い……」

 

「ですからバイジュウさんが付喪神を利用すれば、落とし物とかを探すのに便利かもしれませんね。長年愛用してる財布や腕時計をなくした時とかにでも試してみては?」

 

「私は犬やキノコを探す豚扱いですかっ!?」

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 そうだ。『腕時計』がある——。

 一時的でもミルクの魂の依代になれる腕時計が——。

 

 

 

 バイジュウは自身の腕に装着している腕時計をミルクの魂に向かって翳す。

『魂』を認識する能力で既に分かっている。この腕時計にはミルクの残滓がある。付喪神となる素質があるなら、ここで腕時計にミルクの魂を宿せば保護することができる。

 

 ベアトリーチェが『黄金バタフライ』にいた時みたいに——。

 ハインリッヒが『トスハイム青金石柱』に眠っていた時みたいに——。

 ソヤが『チェーンソー』に封印された時みたいに——。 

 ギンが『妖刀』から解放された時みたいに——。

 

 

 

 そうなれば、後はレンに任せれば万事解決してくれる——。 

 

 

 

「ミルク! 今だけはこの腕時計の中に入って!!」

 

 

 

 バイジュウの言葉に、薄れ揺らぐミルクの魂が呼応した。 

 腕時計が宿す残滓に引かれてミルクの魂が定着していく。消えかかっていた魂の輪郭は確かな形となって、ミルクという存在を確立させてくれた。

 

 

 

「よかった……。だけど……」

 

 

 

 これでレンが目覚めれば万事解決——というわけにもいかない。何せ『魂』という存在は曖昧で儚いものだ。霧夕から教えを乞う時に「付喪神は物言わぬ魂でもある。それは決して生きてはいません」とも付け加えるほどに。

 

 今この場で腕時計のままミルクを放置していたら、やがて魂が腐ってしまう。

 結局は急場しのぎでしかなく、時間さえくれば結果は変わらずにミルクは消えてしまう——。

 

 

 

 一刻も早く、レンと接触しないといけない——。

 そう考えた時、バイジュウはようやく周囲の状況を把握して疑問を溢した。 

 

 

 

「……そういえばレンさんは?」

 

「レンちゃんは私の傍で寝っ転がってるわよ」

 

 そう言ってクラウディアは地べたで大の字で放置されてるレンを指さした。

 涎垂らして眠る余りの馬鹿面に、バイジュウも緊張と興奮の糸が切れて、痛みと共にその場で崩れて落ちてしまう。

 

「とりあえず応急処置だけでもしとこうか」

 

 クラウディアは慣れた手つきで処置を始めた。

 SIDの応急キットは選り取り見取りであり、痛み止めとして強力なステロイド注射も常備してある。それを血管に打ち込み、足の骨折はエアロゲルスプレーで補強したギプスで外固定する。

 

 暫時経てば効力は現れて痛みが薄れていく。同時に筋肉も委縮して動けなくなるが、元々重傷で動けないのだから大して差はない。今のバイジュウは絶対安静なのだから。

 

 ますます思考は冷え切って、いつもの冷静沈着で聡明なバイジュウとしての面を覗かせる。周囲の状況が一段と鮮明に見えてきて、ようやくここにいるべきもう一人の人物がいないことに気づいた。

 

「ところでギンさんは?」

 

「お爺ちゃんは囮役を買ってくれたわよ。麒麟を止めない限りは私達の安全の保障はないからね」

 

 確かに。麒麟は執拗にバイジュウの事を狙っている。それは『無限鏡』の後でさえ動き続けようとしたことからも察しがつく。

 それに麒麟の実力はハッキリ言って魔女でさえも歯が立たないほどに研ぎ澄まされていて、ギンみたいな超人ではないと拮抗することさえ難しい。能力などない単純な戦闘能力であれば、ハインリッヒやエミリオでさえも太刀打ちすることなどできないのだから。

 

「でしたら今からの保障してあげましょうか?」

 

 なんて考えていたら、背筋に氷柱でも突き刺すかのような人情を排除した男の声が届く。振り返ると、そこにはバイジュウにとって見覚えのある人物がいた。

 

 身なりの整った黒髪の紳士的な男性——。それ以上でもそれ以下でもない。その程度の特徴しかないのが逆に異様さを醸し出すその人物は、バイジュウをここに連れ込んだ張本人——。

 

「貴方は『朱雀』!?」

 

「麒麟に朱雀って……。へっ、ここの連中は他に玄武、白虎、青龍とかいるのかしら?」

 

「ご安心を。我らの名前など一時の物に過ぎない。今のところはいませんよ」

 

「今のところは……ねぇ」

 

 意味深な言い方にクラウディアは警戒しながらバイジュウと朱雀の間に立つ。

 今この場においてバイジュウとレンを守れるのはクラウディアのみだ。便利な能力は数多くあれど戦闘能力に関してはからっきしのクラウディアが、達人揃いの『無形の扉』の一員を相手にしなければならない状況だ——。

 

「今一度、交渉させていただきます、バイジュウ様。我らと共に歩みませんか? 貴方様を手に入れるためなら、我らは出来る限りの交換条件を吞み込みますよ。仲間に手を出させないことも、こちらが保有する異質物をSIDに提供することも」

 

(できれば避けたいから、何とかして折衷案を思い浮かぶか時間稼ぎしてよね、バイジュウ)

 

「お断りします。ミルクをないがしろにする貴方がたに加担する義理なんてありません」

 

 

 

 なんてクラウディアの願いは届くはずもなく、バイジュウは即座に否定した。

 となればこの後はもう分かりきっている。バイジュウを確保しようと朱雀は動き、それを邪魔するであろうクラウディアを叩きのめすということくらい。

 

 

 

「ならば力尽くといきましょう。覚悟してください」

 

「ちょいちょいちょい!! 待って! 私は戦闘とか不向きなんだって!!」

 

 朱雀はスーツの袖部分からトンファーを取り出して臨戦態勢に入る。同時に一歩、二歩と間合いを詰めてクラウディアの懐へと即座に飛び込んできた。

 腹部に一撃。頭部に一撃。戦闘の中でも特に苦手な近距離戦を仕掛けられては、クラウディアは抵抗することさえもできずに一方的な展開となってしまって戦いにさえならない。

 

 ならばどうすれば打開できるのか——。そんなものも分かりきっている。援軍が来ることだ。

 

「チェストォォオオオオッ!!」

 

 途端、クラウディアとの朱雀の間に一人の女性が力強く鋭い蹴りと共に割って入ってきた。

 鮮血のように赤黒い髪と黒いジャンパーを靡かせ、その健康的ながらも鍛えぬいたシャープな下半身は見る人すべてを魅了する艶やかさがある。

 

 その肉体美は一種芸術とも言えるだろう。外しはしたものの、流れるように続く足技で朱雀の間合いを引き離すと、赤髪の女性は乱れた服と髪を整え、余裕さえもある笑みを浮かべて言った。

 

「手負いの美女に手を出すだなんて紳士的じゃないね? いい歳こいたお偉いさんがそれだと嫌われちゃうよ~~?」

 

 その女性はバイジュウもクラウディアも見覚えはない。だけどその声にはクラウディアは覚えがあった。

 先ほどギンとクラウディアに忠言をくれた女性の声と同一の物だ。だとしたらその名前をクラウディアは知っている。

 

 

 

 赤髪の女性の名は『イナーラ』——。

 

 

 

「……お前がこうして動くとは珍しい」

 

「事情が事情だからね。今回は一肌脱がないといけないほど人材不足なのよ」

 

 イナーラは背中から輪状の形をした赤い物体を両手に構える。俗に言う『チャクラム』という武器だ。

 

「サポートをお願いしてもいいかしら、時止めの魔女さん?」

 

「……いいけど、あんま期待しないでよね!」

 

 一期一会の即興コンビが並ぶ。

 イナーラとクラウディアは共通する目的のために朱雀へと立ちはだかる。

 

 

 

 バイジュウとレンを守るという目的のために——。



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第16節 ~縺翫→縺弱?縺ェ縺(■■■■■■)~

 ギンは歩く。一人だけで歩き続ける。腹部の痛みに耐えながら宮殿内を。

 目的はただ一つ。『無形の扉』の代表である麒麟と互角に戦えるのは自分だけであり、彼女を相手に重荷は命取りになる。故に一人で挑まねばならない。

 

 抱える物は最低限だ。腰に携える双刀——異質物武器『天羽々斬』に、機動性を重視した和服型の戦闘服。そして相手に対する情けと容赦を排除する心構え。

 そこでギンは「いかんいかん」と少しだけ頭を振って思考をリセットさせる。情けと容赦は今回限りにおいては用意しておかないといけない。イナーラからの言伝ではあるが、グレイスという少女から「麒麟を殺してはいけない」と言われているのだから。

 

 正直、ギンの剣術は試合とか舞台用の気品と伝統がある利口で美しい物ではない。我流で極限にまで究めた殺人用の剣術だ。

 不意打ち常套、型破り常套、常識なんて放り捨てた手段を選ばない殺しが前提であり、よっぽど相手が格下でない限りは殺さずに戦うというのは結構厳しいものだ。

 

 だからこそ同格である麒麟に対して「殺さない」という制約はギンにとっては難しいことこの上ない。手を抜きたいが、相手は手を抜けるほど手緩い存在でもない。

 

 

 

 ——まあ、考えるのは性に合わん。戦いながら考えるとするか。

 ——儂からすれば麒麟を生かさないとならん理由も分からんし、善処ということにして挑むとしよう。

 

 

 

「……来てやったぞ、麒麟」

 

「私は正々堂々という言葉は別に好きではないんですが……まあ、貴方との戦いは少なからず心が躍る」

 

 

 

 思考の只中、ギンと麒麟は対峙する。互いに手負いの状態ではあるが、これでもそこらの戦力では歯が立ちはしない。二人の戦いに介入できるのは、この場においては誰もいない。

 二人は得物を構えて間合いを測る。ギンは刀で、麒麟は異質物武器『斉天大聖の棍棒』こと『如意棒』を——。

 

 互いに互いの性質は既に見切っている。異質物の特性ありきの攻撃などシンプルで強力であるがゆえに単調であり、読みあいには不向きだ。その僅かな一手の先読みと、一手の遅れが互いに致命傷になる以上、麒麟だっておいそれと如意棒を伸ばした射程無制限の棍術を披露することはできない。

 

 

 

 この場において最も信頼できるのは、お互いに自身が極めた戦闘経験と技量のみ——。

 

 

 

 互いに戦闘経験は豊富だ。

 かたや人生をすべて剣に捧げ、魂となった後も剣に捧げた時間が積み重ねた究極の力。

 かたや記憶と魂を一つの肉体に内包することで、技という技を人の数まで集約させた結束の力。

 

 性質は違えど、どちらも常人では到達できない領域。方向性が違うだけで、どちらも力としては極限の域に達している。

 となれば、二人の優劣が決まるとすればお互いの小さな差の積み重ねではない。己自身なのだ。

 

 

 

 これは相手に勝つ戦いではない。『自分に負けない戦い』という——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 一方その頃、クラウディア達の戦いは旗色が悪いと言っていい状況だった。

 形だけ見ればイナーラとクラウディア相手に朱雀という二体一の状況ではあるし、バイジュウがレンとの間に入ることで、朱雀がレンを人質にしようとする作戦は予め潰している。『無形の扉』にとってバイジュウの存在そのものが目的なのだから。

 

 しかしそれでも『無形の扉』は少数精鋭ゆえに極めて個人能力が高水準なエージェントでもある。

 二対一なんて何のその。朱雀はトンファーという間合いとしては大したことない得物でも物ともしない。しなやかに踊るように戦うイナーラとは対極に、愚鈍で力押しの攻めの姿勢を崩しはしない。

 

 それはイナーラにとって最も嫌う展開だ。

 何故なら彼女の戦闘スタイルはチャクラム型の武器——『哉生・既死』は見た目とは裏腹に中距離で戦うことを前提として設計している。その性質は『舞う』ことで空気を刃へと変換して飛ばすという一風変わったものだ。

 

 故にイナーラの戦闘スタイルは優雅かつ華麗に舞う。戦闘の常識から外れた一見意味のない行動は、イナーラからすれば全て意味がある。

 回避行動はすべて攻撃へと変換されて、単純な攻撃は意味を成さないブラフとなる。特に不意打ちが常套手段であるイナーラにとって相手の油断を誘う動きに挟める攻撃は効率がいい。まるで彼女自身の掴み所のない性格のような性質を持つのが『哉生・既死』なのだ。

 

 

 

 ——だからこそ密着してれば強みを潰せるってわけね、こんにゃろ!

 

 

 

 だが、その性質と戦法を朱雀は立ち合って数十秒で理解した。

 舞うという行為は身体と心の一体化すること可能とする表現技法だ。故に『余裕』さえ奪えば心身の芸術的表現を形にする暇などできない。そうなれば『哉生・既死』はただのポンコツに成り下がる。それが朱雀の狙いだ。

 

 イナーラだってそれくらいの対処をされることは想定内だからこそ、ある程度の肉弾戦はできるように訓練しているが、男女という差と自衛用と戦闘用という実戦の経験値がモロに出てしまう。退けようにも退けられないのが今のイナーラの状況だ。

 

 だったら異質物武器に頼らない戦法を取りたいところだが、建物内では手榴弾などの爆発物を下手に使うことはできない。今回の目的はテロ活動ではないのだから、安易に無差別火力を放り込むわけにもいかない。

 小銃なんてもっと駄目だ。零距離の戦いでは既に得物を構えている朱雀の先手を許すことになり、その先手は次なる一手へと繋がって、一瞬であの世行きだ。

 ならば懐に忍ばせている酒を使って簡易的な発火攻撃を仕掛けてみるか。いや、多少の熱さに怯むのが関の山であり、その程度の小細工で何とかなるならここまで悩ませる必要はない。同様に肌着だけになってしまうが、ジャンパーをカーテン代わりに脱ぎ捨てて目隠しで距離を測るのも却下となる。

 

 

 

 どうするべきか——。なんて悩んだところで仕方がない。

 悩みは余裕をなくす。余裕は隙を見出す観察眼のためになくしてはならない。

 

 

 

 イナーラはただ信じるしかない。何ができるか怪しいクラウディアのサポートを。未だに未知数な所が多いクラウディアの能力の本質を。

 

 彼女の詳細をイナーラは依頼として調べたことがある。結果としてはイナーラですら『謎が多い』という女性ということを理解した。

 なにせ保護している当のSIDそのものがクラウディアのことを把握しきれていないのだ。というかSIDが把握してないからこそイナーラに調査依頼が来てしまうほどに謎に包まれている。

 

 年齢は自称二十歳。出身地は不明。能力も詳細不明。名前さえも生まれた時から名乗っていたか怪しいと、どれもこれも確実性がないという幻覚という概念が人間として出力されたかのように捉えようがない人物だ。イナーラが認めてしまうほどに。

 しかし『時止めの魔女』の異名通り、推測として『時を止める可能性がある』という部分は理解している。つまり『時』に干渉するような何か——。

 

 だが『時』というのは非常に曖昧な存在だ。そもそも時間というのは人間が勝手に決めた物にすぎない。地球が自転するのに24時間掛かり、太陽を一周するのに約365日掛かるからこそ『24時間は一日とし、一年を365日として定めている』のだ。

 となると時間の定義は太陽と地球の関係で成り立っている。そしてそれは『光』であり、ならば『光』と干渉してるのかと考えてしまう。クラウディアの『鏡』だって、光に干渉しているということを考えれば一応は納得することができる。

 

 しかしそれでは、ある部分がおかしくなってしまう。それは『物質の移動』だ。

 光とは質量を持たない。ならば物体を移動させるような芸当は不可能だ。送るのは『情報』だけであり、その『情報』で現実を侵食するというのは、それは『ミーム汚染』を超える悍ましい何かになってしまう。

 

 だったら『光』に関する何かに作用してるのか——。だがそれでは幅が広すぎる。

 色であり、距離であり、視覚であり、映像であり、現象であり、世界を形容する物すべてに密接に関わるのが光なのだから。

 

 そうなれば無差別に解釈を広げてしまう。そうなってしまえばキリがない。

 結果としてイナーラですらクラウディアの能力は調べきれなかった。今回の華雲宮城の探索で見せた『パンによる追跡』と『鏡を経由した転送』——。それにスクルドの身体を保護していた『時止め』もすべて『時間』としても『時』としても方向性が違うせいで本質がまるで見えない。

 

 しかし、それでも魔女が保有できる能力は原則的に一つだ。能力が多く見えるような魔女もいるが、それだって能力の大本から派生した応用に過ぎない。イルカが『宙に浮ける』のだって、電気の魔法を利用して『電磁浮遊』によるものと同じように。

 

 

 

 ——なんて呑気な思考は長く続けることはできない。身体能力の差で着実に広がるイナーラの決定的な隙は朱雀は見逃さずに捉えた。

 

 腹部に一閃。胃酸が逆流するような鋭くて重たい一撃に、イナーラは喉から響く呻き声を上げて姿勢を崩してしまう。続けて生み出された隙を朱雀は逃すわけがなく、貪欲に追撃を移ってさらに間合いを踏み込んだ。

 だがこの程度のピンチは想定内だ。バランスを崩す流れに合わせ、イナーラはそのまま大きく背中を逸らせて身を翻した。俗に言う『後方ブリッジ』という体位となってだ。

 

 靴底に仕込みナイフがある——。朱雀はそれを瞬時に見抜いて距離を測った。

 もちろんその予測は間違いではない。朱雀の顔に、金属の刃が紙一重で通過していった。イナーラ特製の仕込みナイフであり、ついでに神経に支障をきたす毒も塗り込んでいるというのに、その危機感を見逃さずに朱雀は脱した。

 

 しかし朱雀は警戒をさらに募らせる。そしてその警戒は無駄ではない。

 回避行動は体操の動き——つまりは『舞っている』のだ。頬を切り裂く風の刃が襲ってくるのは当然であり、朱雀は身を可能な限り小さくすることで被害を最小限に抑える。

 

 ところがどっこい。仕込みはまだある——。イナーラは内心ほくそ笑みながらも足先を朱雀へと迅速かつ丁寧に合わせた。

 スカートの中にはホルスターがある。小銃を仕込んだホルスターが。足を上げようする最中に照準を合わせ、その眉間に弾丸をぶち込む。

 

 しかし、それさえも朱雀は読み切って反射的にトンファーを盾代わりにして弾丸を凌いだ。

 

 

 

「防弾性のトンファーかよっ……!」

 

 

 

 何を想定してそんな改良を加えたのか謎だが、少数精鋭の組織なら修羅場の数もそれ相応にあるからこそ、そういう結論に至ったのだろう。イナーラは悪態をつきながら背中に仕込んでいたサブマシンガンを取り出して間合いを測る。

 

 

 

「面白い芸当を仕込んでいる。だが、これで隠し玉をいくつか失った。次はどんな芸を見せてくれるのかな?」

 

「嫌なおっさんねぇ~~。そんなにイナーラの秘密を剥くのがご熱心なのぉ?」

 

「ご熱心になるさ。お前が握っている情報は多い。一枚一枚丁寧にひん剥きたくなるほどにね」

 

 

 

 煽るために挑発した猫なで声ごときでは、朱雀は精神的駆け引きの土俵にさえ上がらない。ただそれも良しと考えでイナーラの挑発を受け流した。

 

 これだから年齢を重ねた野郎は弄びがいがなくてつまんない——。

 

 サブマシンガンを発砲するも、携帯性を求めてるため威力は最小限だ。

 もちろん一発でも急所に当たれば人の命など容易く奪えるが、防弾加工の服などを貫けるわけがなく、素肌が露出している朱雀の顔を狙おうにもトンファーで華麗に弾き返してくるんだからたまったもんじゃない。

 

 

 

 たくっ。『無形の扉』は代表以外も人外じゃない——。

 

 

 

 弾切れとなってしまえばサブマシンガンなど重荷にしかならず即座に投げ捨てる。リロードしてもいいのだが、その動作を朱雀が見逃すわけがないのは分かりきっている。確実にその隙を再び零距離での戦いに持ち込むだろう。

 

 故に武器は使い捨てる。残るは手榴弾が二つと、両足と懐に仕込んでる合計三つの小銃に、髪に隠してるナイフが一つに、口に含んでる針が数本。それにネイルアートに扮して毒を塗り込んだ爪と、髪留めに偽装した催涙弾に、ウエストポーチには弾薬の他にマニキュアとマスカラに容器に入れてある火薬燃料と選り取り見取りではあるが、いかんせん小手先ばかりで力の差を覆せる物じゃない。あくまで武器に限ればの話であるが。

 

 それでも手持ちの物でやるしかない。懐から小銃を瞬時に取り出して引き金を引く。その動作と並行して片足の小銃を手にし、二つの小銃で朱雀との牽制を行おうとする。

 

 だが先ほどの交戦で朱雀は理解した。イナーラには決定力となる武装が一切ないことを。

 トンファーを顔を守りながら、朱雀は一気に踏み込む。一歩で飛び込み、二歩で背後に。一瞬でイナーラの虚を突いて、小銃の照準を合わせられない場所へと入り込んだ。

 

 今度は逃がしはしない——。

 朱雀は首筋の肌着を掴み、一本背負いで地面に叩きつけようとした時——。

 

 

 突如としてイナーラの『胸が膨らみ』————『はじけ飛んだ』。

 

 

 

「くそっ……! 貴様、こんなものまで……っ!」

 

 弾け飛ぶ中身の正体は肉片でも血液でもない。『唐辛子の粉末』だ。つまり目くらまし——。

 車のエアバックみたいに、特定の衝撃を与えれば膨らんで爆散するように施したもの。色々なベンチャー企業をノラリクラリとするイナーラだからこそ特注できた云わば『防犯ブラジャー』と呼べるような代物だ。

 

「ごめんなさいねぇ~~。育ち盛りなもんで♪」

 

 なんて虚栄でも余裕を見せるが、こんな子供騙しでは拘束から抜け出すだけで精一杯だ。

 朱雀の猛攻が舞うことを許さない。もちろんイナーラの実力では朱雀と渡り合うなんて土台無理な話だ。自分の右手で自分の右肘に触ろうとするくらい確実に無理だ。

 

 だったら頼るしかない——。何もしないサポート役に頼るしか覆せない。

 

「ちょっと! クラウディア!」

 

 一向に援護が来ないクラウディアに向けて、イナーラは不満と怒りと焦燥を溢しながら一瞥する。

 

 するとどうだ。頼りにした人物は鏡をそこかしこに向けてブツブツと呟いているだけだった。

 

「なにやってんのよ、女ぁぁああああああ!!」

 

「これでも大真面目なのよっ!」

 

 なんて文句を飛ばしてもゲームや漫画みたいに都合よく時間が止まったり遅くなったりするわけもなく、朱雀は即座に見失ったイナーラへと視線を合わせた。

 

 まずいまずい——。もう自爆テロ覚悟で零距離で手榴弾ぶっ放すしかないのかもしれない。覚悟を決めるしかないのかもしれない。

 

「クラウディアっ! 限界っ! 援護っ! 何でもいいから早くっ!」

 

 切羽詰まって単純な伝達しかできないほどにイナーラは追いつめられる。

 今までふざけた応戦で切り抜いてきたから、迫る朱雀の表情には憤怒が見え隠れしていて、生命の危機をこれでもかとイナーラは感じた。

 

 

 

 ——やるか。やっちゃうか。自爆テロ。

 

 ——もしくは『一度きりの奥の手』を。

 

 

 

「はぁ~~。あんまやりたくなかったんだけどなぁ……」

 

 

 

 刹那——。

 世界が凍った。世界の時が凍ったのだ。

 

 空間そのものが作り替えられていく。現実が虚像に侵略されていく。

 その異質さにバイジュウだけが気づく。これはサモントンとの戦いでセラエノが放った『プラネットウィスパー』にも似た現象だと。

 

 

 

「イナーラ、バイジュウ。今から目を閉じ、耳を塞ぎなさい」

 

 

 

 異質な空間の中では、誰一人言葉を発することができない。

 否、この場において語り部しか言葉を紡ぐことが許されない。

 

 

 

「ここから先は御伽噺——。人魚は泡に、時と共に魔法は消え、王子のキスで姫は目覚める——」

 

 

 

 語り部は一人謡う。劇場の主役は、自分であるかのように。

 今までのクラウディアとはまるで別人だ——。演者であるかのように『誰か』に成りきっている——。

 

 

 

「——貴方に本当の私を見つけられるかしら?」



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第17節 ~荳肴?晁ュー縺ョ蝗ス(■■■■■)~

24歳、覚醒です。(誕生日を迎えました)


 クラウディアは自らの過去を語ることは決してしない。それには三つの理由があるからだ。

 

 一つは『不幸とはあり触れたもの』だからだ。

 異質物技術の発展で世界の均衡を保つ現代においては『七年戦争』を機に多くの人々が心身共に癒えぬ傷を負ってるのが常識だ。

 それは呑気で馬鹿をしているレン、変態として意気揚々としているソヤ、明るく姉貴肌をしているエミリオなども例外ではない。この世界では人々の心の奥底で不幸や不運などは刻み込まれており、だからこそ人の心に踏み込むことも、踏み込ませることも容易ではない。そんな中、自分勝手に自身の不幸を嘆こうとはクラウディアは思わなかった。

 

 二つは『話にするほどの不幸でもない』からだ。

 劇的な過去ではない。ただただ普通の、どこにでもある不幸の話。それを私が一番不幸なんです、と世界中の不幸を背負ったかのように我が物顔で語りたくないのだ。そんな三流にも満たない話を。

 

 三つ目が特に重要なことだ。だが周りから見れば「その程度のこと?」と言われるようなものだ。

 クラウディアは『現在、過去、未来』において『どこにも存在しない人物』ということだ。記録や記憶にないとか、社会的に抹殺されたとかではない。元々はクラウディアという人物から、派生して生まれたのが今のクラウディア——『時止めの魔女』なのだ。

 

 

 

 つまりは『空想の人物』——『虚像』や『想像』から産まれたのが『時止めの魔女』の正体なのだ。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「鏡よ、鏡よ。世界で一番美しいのは誰?」

 

「それは白雪姫でございます」

 

 クラウディアの出生は至って普通だ。

 内気で弱気で一人遊びが大好きなだけのどこにでもいる小さな女の子。ちょっと人付き合いが苦手で、小学校が終われば家に真っすぐ帰り、今日も今日とて一人遊びに興じております。

 玩具の鏡にプラスチック製の人形が何体と偽物のリンゴ。森っぽいシートを敷いて、今日はこれが彼女の劇場となる。舞台の名は有名な『白雪姫』であり、彼女が姫であり、魔女であり、王子であり、小人でもある。本日も拍手喝采で幕を下ろし、彼女は眠りにつく。

 

 

 

 明日も、明後日も——。その次も、次も——。

 一年先も、二年先も——。

 

 

 

「ねぇ先生……今日もクラウディアはまっすぐ帰ってきたんです……。学校で嫌な事とかされてないですよね?」

 

「断言はできませんが、少なくとも私が認知してる範囲ではありませんね。机に落書きとか、文房具をなくしたとか、お手洗いで暴行を受けてるとかもないです」

 

「それは分かります。私も怪我がないかと、毎日それとなく観察してるので……」

 

「ただ……周りから避けられているのも事実です。クラウディアちゃんは独り言をよく言っていて、それが周りの子供からは不気味に見えてるようで……それで疎遠に……」

 

「……やはり、そうですか。私もそれは感じてて……」

 

「イマジナリーフレンドというやつでしょうか。私は医者ではないので発言に責任は持てませんが……一度、病院で審査してもらったほうがいいかと」

 

 

 

 それは小学校高学年になっても続いた。皆がクラブや塾といった家庭や個人の事情による習い事や、交友関係による遊びを放課後に満喫する中、クラウディアの劇場は今日も繰り広げられる。親と先生の心配事なんて全く気にもせず、ただ自分の世界へと没頭する。

 

 親は単純に心配になった。小さな学校社会に馴染めずにこうして来る日も来る日も一人で遊び続けるクラウディアのことを。

 それだけならそれでいいのだ。元々幼少期はそういうものを抱えやすいものだと知ってるし、母も似たような経験もしたことある。クマのぬいぐるみに名前を付けたり、着せ替え人形に商品名とは別の名前を付けたりしたものだ。それは幼少期の成長と共になくなっていくものだと理解していた。だからこそ今まで生暖かい目で「いつになったらおませさんになるのかしら?」と我が子の成長を見守っていた。

 

 ただそれだって小学校低学年の内に抜けるのが一般的という。

 いくら内気なクラウディアでも、小学校高学年になってもイマジナリーフレンドが抜けないのは、何かしらの精神的な問題、あるいは環境的な問題があるのではないかと考えてしまう。

 だとしたらその問題を生み出しているのは誰だ? 学校でのストレスか? それとも家庭内で鬱屈を溜めてしまうような何かがあるのか? 母親からすれば気が気でない。

 

 

 

 最悪な場合はこういうことも考えないといけない。

 もしかしたら『発達障害』を抱えてしまっているのではないか——という考えを。

 

 

 

 だけどクラウディアの親は善性だった。発育は問題ないし、言語もしっかりとしている。勉強も運動も問題がないどころか、平均より上を維持している。

 だから信じた。クラウディアのイマジナリーフレンドはそういう個性で、少しだけ精神的な成長が未熟なだけの子であると。人間の成長において必ず発生する分離・個体化における移行対象への変遷が遅いだけのものであると。

 

 

 

 

 

 ——お子様は『解離性同一障害』の恐れがあります。

 

 

 

 

 

 けれど中学を卒業してもクラウディアの一人遊びと独り言が収まることはなかった。むしろ一層より深くしていき、不安の種を芽吹かせたクラウディアの親は病院へと移行。結果としてそういう診断内容を受け取った。

 

 

 

 原因は不明——。恐らくは幼少期からの内向的な遊びをし続けることで白雪姫、いばら姫、人魚姫、シンデレラなどの名立たる童話を演じてきたイマジナリーフレンドが、クラウディアの中で少しずつ芽生えて育んだ一面だと医者は言う。

 

 

 

 誰も悪くはなかった——。

 ストレスでも環境でもない。クラウディア自身が元々内包していた精神的な未熟さと内気さが、童話という物に触れることで奇跡的かつ偶発的に個体化しただけのことなのだ。

 

 

 

 つまり分離・個体化における移行対象の変遷を、クラウディアは自分自身を対象として『健やかに成長した』だけだったのだ。

 

 

 

 親は嘆くことはしなかった。腫物として扱うこともしなかった。ただそういう子だと素直に受け入れた。

 なによりクラウディアは分別を弁えていた。可能な限り社会では、もう一つの人格を表に出すことはしなかった。

 けれどそれで社会に溶け込めるかと言われたら否だ。クラウディアの一面は少しずつ露呈していき、少しずつ疎遠となっていく。そういう存在は単純に『気持ち悪い』のだからしょうがない。自分の中にもう一人自分がいるなんて『理解できない』のだから。

 

 

 

 ——大人になるってつまらないことだよね。子供ながらにクラウディアは思う。

 

 誰だって心の中に自分にしか見えない存在はあるというのに。誰だって空想に夢中になり、空想で生きた心の中にだけ存在する命があるというのに。

 

 一度くらい思っただろう。アイドルになりたいとか、歌手になりたいとか、お金持ちになりたいとか、そういう現実的な夢じゃない。

 勇者になりたい、お姫様になりたい、魔法使いになりたい、という空想的な夢を抱いただろう。

 

 子供から大人になる過程でそれを忘れてしまう。

 なんて残酷で、なんて我儘なんだろう。自分勝手に存在を証明したというのに、勝手に存在を否定するなんて。その理由が『気持ち悪い』とか『理解できない』とか、そんなつまらない理由で?

 

 肯定しろとは言わない。否定しないでとも言わない。ただ受け入れてほしい——。それさえも空想は許されないのか? 

 現実にいる生命が生きたいように、空想にいる生命も生きたいと思ってはいけないのか? ただ小さく、健やかに、思い出の中でジッとしているだけでもダメなのか?

 

 そうやって黙って、押し付けて、踏みにじるのが『大人』だというのなら——。

 そうやって空想を忘れて、否定して、捨てるのが『大人』としての成長というのなら——。

 

 

 

 ——私は一生、子供のままでいい。そんな大人になんてなりたくない。

 ——私にとって『私』こそが最高の友達で、家族で、恋人で、仇敵で、理想で、理解者なのだから。

 

 

 

 それが今いるクラウディアの正体だ。

 クラウディアという少女が童話という童話を重ね、生まれ育った演者としての内面が確固たる人格を得た——それが『時止めの魔女』が生まれた経緯となる。

 

 これでクラウディアの話はおしまい。プロローグとなりました。

 これからは一つの童話。第二部『時止めの魔女』の話となります。

 

 

 

 ——それでは開演いたしましょう! 素敵で不思議で、不敵で不可思議な童話の世界を!

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「なんだ……この空間は?」

 

 異質な冷たい空気の淀みが終えた瞬間、朱雀の眼前に広がる世界は一変していた。

 絵に描いたようなグラデーションの境界が見える光。クレヨンで書き殴った歪な森。地面なのか怪しい無地の足場。

 まるで書きかけのキャンパスにでもいるような異常な世界だ。周囲を見渡しても先ほどまで戦闘していたイナーラがいない。それどころか目的であるバイジュウさえも。

 

「……催眠の一種と考えるべきか」

 

 しかしその程度で焦るほど朱雀は愚かではない。似たような経験は何度か味わっている。特に『ミーム汚染』に対抗するため、そういう認識の齟齬や差に精神的に与える揺さぶりを最小限に抑える訓練も組織は行っている。

 

 故に冷静沈着に朱雀は確認を行う。

 舌を強く噛んで痛覚が機能しているか。乗じて舌から流れる血の匂いに嗅覚は反応するか。ついでに血を舐めて味覚が働いているか。自身と周囲の物に触れて触覚が理解しているか。

 

 結果としてはどれも正常だということを理解した。

 だとしたら視界はどうか。朱雀はこういう催眠には慣れている。催眠の種類は大まかに分けて二種類しかない。『自分を騙す』か『自分以外を騙す』かのどちらかだ。周囲の認識を錯乱させたなら判別は難しいが、自分を騙すだけなら簡単な判別方法がある。

 

 朱雀は自分の『身体の中』に意識を集中させる。『正常に臓器の一部が存在しない』——。

 それで瞬時にどちらかを判別した。この世界は『自分以外を騙す』ことによって成立しているものだと。

 こういう『自分を騙す』場合の催眠は、自分にとっての都合のいい理想を思い浮かべて騙されてしまう。朱雀にとって七年戦争の影響で臓器の一部が腐ってしまったのは大きなコンプレックスだ。故にコンプレックスが解消されないことは、それらを判別するには打ってつけだった。

 

 となれば、この世界は後者で成り立っている幻惑の世界——。

 それが分かればどうということはない。絵空事は絵空事。空想なんて価値はない。形にならない限り、結果を示さない限り、空想なんて意味なんてないのだ。ただ平然と、冷静に、平常に、受け流すだけでいい。

 

 

 

 

 

 だからこそ——『時止めの魔女』の能力は真価を発揮する。

 この能力は空想を蔑ろにする者への『罰』なのだから——。

 

 

 

 

 

 ——それでは第二部の始まり始まり。題名は【不思議な世界と朱雀さん】!

 ——森に迷い人が来たれり。名前は朱雀というそうです。ダンディズム溢れる服と剃り跡が見える髭が逞しいですね!

 

 

 

「……なんだ、このわざとらしい解説は」

 

 どこからともなくクラウディアの声が朱雀に届く。空が震えるような、大地が浮くような不可思議な響きとなって森を騒つかせる。

 奇襲がいつ来てもいいように警戒を怠らずに朱雀は森を歩き続ける。しかし妙に落ち着かないというのが朱雀の本音でもあった。

 

 敵の手中にいるというのもあるが、それとは別の焦燥感。ここにいるだけで神経を逆撫でされたように痒くなる。

 そんな中、朱雀の目の前に小動物が現れた。それも二匹であり、小動物の種類はウサギだ。害など成せるわけもなく、二匹は周囲を少し観察したのちに森の奥へと消えていった。

 

 

 ——あら、可愛いウサギさんだったわね。

 

「……さっきから意味不明だな。これは」

 

 ——二兎追うものは一兎も得ず。過去に欲張った選択でもしたのかしら?

 

「人は欲張る生き物だ。覚えてないだけで、そのような選択を何度かしたことはあるだろうな」

 

 ——カツ丼かカレーかで迷って、カツカレーにしたとか?

 

 

 

「かもな」と適当に相槌を打ちながら朱雀は進む。何も異常も攻撃もなく、変化もなくただ絵空事の世界を渡る。

 しかし、それでも拭いきれない焦燥感。一歩踏み込むたびに森の匂いと色が深くなっていく。

 けれども危機感を得ることはない。焦りだけが募っていく。体の内側から掻き出させる感覚は、不快というにも些か違うものであり、何とも形容しがたい。

 

 

 

 ——森は迷いの証。クレヨンなのは曖昧の証拠。地面が無地なのは無垢だから。

 

「何の話だ?」

 

 ——貴方は幼少期の頃、何か迷いがあったようね。しかしそれが何なのかを当人は覚えてない様子だけど。

 

 

 

 突然の問答に朱雀は黙るしかない。相手の意図を汲み取れないからだ。

 

 

 

 ——これが私の能力の断片。相手の心象と私の空想を接続するもの。

 

「能力だと? 知っているぞ、お前がこの華雲宮城でどんなことをしていたのか……」

 

 

 

 朱雀は得意気な声色となってクラウディアを挑発した。

 

 

 

「『無形の扉』の情報収集能力は学園都市でも随一だ。お前が見せた能力は『鏡を使った転移』と『パン屑を使った追跡』と、麒麟に使った『精神面に影響を及ぼす鏡』だ……。それに加えて私に幻覚を見せる能力だと? そんな数も幅も広い能力が貴様にあるわけないだろう。そういうのはバイジュウ様のような恵まれた素質を持つ者だけが許されるのだ」

 

 ——そう考えるのが烏滸がましくて矮小なのよ。大人ってのは。

 

 

 

 クラウディアの——『時止めの魔女』の声は怒りに震える。自身の能力を馬鹿にしたことに対する憤怒だ。

 それは侮辱なのだ。彼女の空想に対する価値観への侮辱——童話を使い捨てる浪費者への憤慨。『時止めの魔女』はそれらの代弁者であり、空想を疎かにする者には辛辣になる。

 

 募る募る——。

 昂る昂る——。

 滾る滾る——。

 

 数多の童話が『時止めの魔女』を糧として力となる。

 これこそが『時止めの魔女』の本質。彼女の魔女としての真価。

 

 それは『人の思いを映す』というものだ。言い換えれば『人の夢を叶える』ともいえるかもしれない。

 朱雀は勘違いしているが、華雲宮城で行なった全てのことはこの能力によるものだ。スクルドの命が留めることができたのはファビオラが『生きてほしいと本気で思っていた』からだし、レンを追うことができたのは『皆が行方を知りたいと思った』からだし、鏡を通して物を転送できたのは『不便、便利だと思ってくれた』からだ。

 パンや鏡を通したのは童話の形を取ることで、少しでも世界に干渉しやすくなるための媒体に過ぎない。本質は『思い』のほうにあるのだ。思いの強さによって、現実に与える影響も大きくなる。それこそ『時を止める』くらいは容易く。

 

 だから麒麟にも干渉できた。『無限鏡』を媒体することで、彼女の深層心理に眠る『思い』に触れて蘇らせることに。そのためには人と人と繋がりを知らないといけない。

 

 そもそも『人と人はどうやって認識しあっている』のか——。

 それはお互いの意識が共鳴・共感しているからだ。ならば逆に言えば、それらがなければ『人と人は繋がってない』といえる。

 

 そんな馬鹿げた話があるかと笑うものは笑うだろう。前者に関しては認識ができないかもしれないが、後者に関しては分かりやすく形となって証明している。人間は無意識に。

 

 それは『差別』だ。学校であろうと、社会であろうと、国であろうと差別というものはある。

 独特な趣味を持つ者を排除し、人より秀でた者や劣る者を腫物にし、肌や目の色が違うだけで化け物とする。そうして『理解できない』と『気持ち悪い』と、『人間扱いしない』せずに排除するじゃないか。

 

 それが現代の在り方だ——。

 見て見ぬふりをし、そこに置いてけぼりにされた人の形や思いの数々。それらを拾い上げて、糧となって、力となるのがクラウディア——いや『時止めの魔女』なのだ。

 

 

 

 

 

 ——さあ空想を、子供を、夢を、排除してきた顧みない大人に裁きを与える時だ。



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第18節 ~辷カ縺ィ螽(■■■)~

 なんだ——なんなんだ。この光景は。

 

 眼前に広がる様変わりした景色に朱雀は恐れ慄く。なにせそこに映るのは今までキャンパスの世界ではない。『幼少期』の頃の記憶を模倣した絵が広がっていたのだ。

 

 足の先には枝分かれした道の数々。その『先』にあるものを見て、朱雀は生唾を呑んで理解した。

 

 止まれば一つ。進めば二つ。欲張れば全部——。

 才覚が溢れてたが故に子供特有の万能感に酔いしれていた幼い朱雀が選択した道は当然全部だ。全てを求めて己が時間を費やした。

 

 その結果は言うまでもない。

 欲張ってしまった結果、全てが中途半端に終えてしまった。誇れるような結果ではあった。ただ目標とすべき高みに達していないだけで。その時、初めて少年は自分の価値という物を自覚した。

 自分の才能やなんてどこにでもある代わりの効くものだと。ただ頭が人一倍良くて、運動も人一倍良いだけの量産型の才能、再現性のある才能、数年に一度生まれるよくある人種だと。

 

 しかし、それでも再起を望んだ。自分に希望が持てないのなら未来に託せるようになろうと。

 だから少年は大人になって指導者になることを選んだ。政治家への道を歩み、才能の早期発見とそれを正しく活かして伸ばす政治方針を取ろうとした。世界は急激に変わることなどない。けれども確かに少しずつ、その変革は実りつつあった。

 

 けれどもそれさえも裏切られた。『七年戦争』をキッカケに、すべてを台無しにされてしまった。今まで培ってきた富も、権力も、世論も。人々の悪意によって踏み躙られて無為になった。

 

 それはごく普通の価値観を持って生きていた朱雀からすれば、心を穿つには十分なものだった。

 人はそんな強くはなれない。一度の挫折を超えるだけでも心も身体も疲弊するというのに、二度となれば再起を志す意思なんて残ってなかった。

 

「……っ」

 

『無形の扉』に集まるエージェントは経緯はどうであれ麒麟と似た過去と内面を持つ。超人ではあるが、結局は超人止まり。人を超越するような存在ではない。

 

 空しくも全てを失った朱雀は、麒麟と同じように『強き者』を欲した。心の拠り所としてフリーメイソンの思想に底なし沼のように漬かり、人というカテゴリに囚われない全く新しい人としての可能性と進化を示した存在を欲した。

 言うなれば『0から1を生み出せる』ような——。冷たい世界の最果てでも歩めるような新たな人間を——『新人類』を望んだ。

 

 

 

 ——それがバイジュウってことね。

 

「……ああ」

 

 

 

 素直に朱雀は肯定する。バイジュウの存在は『無形の扉』にとって変えの効かない唯一無二にして前人未到の世界へと導く可能性なのだから。

 そのためなら命さえ惜しくない。誇りも国も捨てて構わない。自分が消えてしまっても構わない。それが『無形の扉』というものだ。

 

 

 

 こりゃ麒麟が『無限鏡』を通しても折れないわけだわ——。と『時止めの魔女』は素直に感心する。

 

 

 

 朱雀の心を垣間見たことで麒麟の心中もある程度は理解できる。

 人の思いを映すという、一見すれば無敵とも思えるが、逆に言えば『人の思いがなければ何も成せない』ことを意味してもいるし、良くも悪くも『人の思いを映す』という都合上、同時に脆弱性とも隣り合わせなのだ。

 

 それは『人の根源を変えることはできない』というものだ。どこまでいっても『時止めの魔女』の能力は心を映すだけであり、その信仰心や狂信を取り除くことはできない。当人が変化を望まない限りは、何を媒体にしたところで効果などないのだ。

 性質や感性、それらに干渉することも変質することはできない。ただ見つめなおして、改めてもらうことしかできない。できるのであればクラウディアは『時止めの魔女』を生み出すことはできない。できてしまえば、自身の存在理由を否定する矛盾を抱えてしまう。

 

 それほどまでに『無形の扉』の奥底にはバイジュウの存在が刻み込まれている——。

 愛よりも深く、憎しみよりも根深く——。恐らくきっと、バイジュウがミルクが思うのと同じくらいに——。

 

 

 

 ——でも、なんでそれを求めたの?

 

 

 

 魔女の問いに朱雀は口を塞ぐ。しかし口を塞ごうとしても意味はない。

 魔女の能力は『人の思いを映す』ことだ。魔女の魔法に囚われたものは、どんなに口や心を塞ごうと、その中身は筒抜けとなってしまう。両者が何と思おうと知ってしまう。

 

 

 

 見たことない世界を、可能性を、希望を、人に示さないといけないからだ——。

 

 

 どんなに穢れた歴史と内面を持っていようと、進化が人という存在を否定するものとしても、『人類』という地球生命体としての価値を証明するために——。『生命の保存』を成し遂げないといけないのだ——。

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 ギンと麒麟の勝負は壮絶極まるものであった。

 攻防の最中にギンの片方の眼球は潰されて隻眼になっている。おまけに双刀のうち、小刀のほうは切っ先が折れてしまって使いづらいものなってしまった。おかげで力加減を間違ってしまい、勢いあまって麒麟の両耳と右手を『切り落としてしまった』が、それでも片手だけで如意棒を手足のように自由自在に振り回すのだから、麒麟も麒麟で中々根性が座っている。

 

 だが、それで慈悲を与えるほど生温い両者ではない。

 片目で距離感が正確に測れなくても、培った経験でギンには本能的に麒麟までの間合いを把握できる。今の間合いでは麒麟に届かないのなら、無理矢理でも隙を使って踏み込んでいくしかない。それは実力を十二分に理解している麒麟だって同じことを考え、その間合いに踏み込ませないように策を思考と同時に実行する。

 

 歯の折れた小刀など邪魔でしかない。ギンは躊躇なく麒麟へと眼球を目掛けて小刀を投擲し、意識を逸らすようにする。

 しかしそれを読み切っていた麒麟は、使い物にならない右腕を盾とし、痛みを重ねて耐え切る。尋常ではない我慢強さと判断力に多少驚きはするが、その程度の防御はギンだって考慮している。

 

 すかさず破損して落ちてしまった小刀の切っ先を蹴り飛ばした。右腕がちょうど死角を生み出しており、ギンの足の動きの詳細を麒麟は把握することなどできはしない。

 だが直感的に麒麟は気づいた。内包している数多のフリーメイソンの統合された意識が警鐘を鳴らし、僅かな死角から『何か』をしてくるということを。

 

 しかし気づいたところで咄嗟の判断に、今の傷ついた身体では反応しきれない。だとすれば予め『耐える』という意思を持って仕掛けるだけ。

 

 ギンの小刀は深々と麒麟の右脇下部分へと突き刺さった。脇下の部分には毛細血管があることもあって血が一気に溢れてくるが、それは覚悟の上だ。渾身の一撃を叩きつけようと麒麟は如意棒を振るう。

 

 

 

 クロスカウンターの体制——。

 まさかの両方とも受けきるという選択にギンは動揺を隠せない。既に抜刀の準備は終えており、今更次の手を考えるなんてできはしない。仮にできたところで実行できない。

 

 刀と棍棒では殺傷力が違うが、ギンは今回に限っては不殺を誓っている。峰打ちで腹部に叩き切るのと、脳細胞を粉砕する頭部を目掛けた一振りでは、まともに受け合えば後者に軍配が上がってしまう。

 

 だったら——ならば——どうすれば——。

 連続的で、断続的な思考の欠片。それを結び付けてギンは答えを見つけた。

 

 

 

「……っ!!」

 

 

 

 嚙みついた——。ギンは脱力して刀を手放すことで姿勢を崩し、クロスカウンターを回避するのと同時に、その口で麒麟の後ろ髪へと力強く嚙みついたのだ。

 

 そうなれば必然的に麒麟はバランスを崩すことになる。服やバッグがドアに挟まったら楔となってしまうように、噛みつかれた髪を重心として足が縺れて隙を生み出す。

 

 その隙を逃すギンではない。即座に足先で刀を蹴り上げ、自身の手元へと引き寄せる。

 背後を取った上に髪を口にしているのだから、ギンの間合いから逃げることなどできはしない。となれば後は動きを止めるようにすれば勝敗はつく。命を取らずにこの姿勢から麒麟を打倒するにはどうすればいい。

 

 決まりきっている。『足を切断』すればいいのだ——。

 だがダルマにするほど分かりやすく切断する必要はない。出血多量になることも考えれば腓骨部分の肉——つまりは『アキレス腱』だけを削げば、それだけでもう動けなくなる。機動力を失ってしまえば麒麟がギンに対抗することはできはしない。

 

 

 

 獲った——。そうギンは確信した。

 しかし麒麟はさらにその上を超えていく。

 

 

 

「なっ……!?」

 

 

 

 麒麟が『間合いから離れた』のだ。髪を噛まれた状態から抜け出したのだ。

 ギンは一瞬理解できなかった。どうやって麒麟が距離を取ることができたのか。そしてその答えは、自身が口にしている髪にあった。

 

 当然口には麒麟の金髪が咥えられている。しかし、その先に麒麟はいない。

 つまり『髪が切断されていた』のだ。あの土壇場で、麒麟は右腕に刺さったギンの小刀を逆に利用することで自身の後ろ髪を強引に断髪して間合いから抜け出したのだ。

 かなり強引に切り離したのだから、後ろ髪の状況は女性としては赤っ恥ものだ。頭部の形は見えていて横髪は無事な物だから全体的な形としては不自然極まりなく、ギャグ漫画かと鼻で笑ってしまいそうだ。

 

 だけど逆に言えば、それだけ麒麟の戦いは極まっているともいえる。

 外面なんてお構いなし。目的を果たすための判断、決断、度胸にギンは生唾を呑んで賞賛を心の中で送る。

 

 

 

 ラフプレーの応酬でも互角ときたか——。

 ギンの剣術は我流を極めに極めた誇りも流儀も作法もない癖しかないものだ。故に一般的な剣技からは逸脱しているし、武術などを筆頭にそれらを絡めて是が非でも命を刈り取ろうとする。お上品なんて欠片もない汚らしい戦い方と言われて当然の邪道の剣だ。

 

 だからこそルール無用の戦法に即座に対応する麒麟は異様と言える。こんなのは反射神経とか、予め知識があったとかで済まされるものではない。明らかに慣れている。ドールではなく『人同士の戦いを想定した殺し合い』に慣れている。その域にギンが到達したのは晩年の時だというのに、まだ三十代の麒麟がその領域に達している。

 

 

 

 あんな若人でこれほどまでの実力と経験を持つとは、お前には一体どれほど過酷な道筋だったのだろうか——。と思わず老心の気持ちでギンは麒麟を見定めてしまう。そして理解してしまう。

 

 きっとギンの依り代である霧吟みたいに魂を憑依させるように、お前も誰かの気持ちや記憶を共有するような人には口にしづらい能力があったのだろう。

 でなければその年齢で、人と人ではなく、兵器と兵器での戦いが渦巻く現代においてその対人戦術が大成するはずがない。

 

 

 

 ——ああ、そういうことか。お前の強さの根源にある部分は。

 

 

 

 その瞬間、ギンは察してしまった。麒麟の内包するものが何かを。

 どんなに汚い心と目的を集めたものだとしても、麒麟の内側にあるのは一人の魂を媒体とした思想、信念の集合体なのだ。霧夕や霧吟の『魂を憑依させる』能力を間近で知っているからこそ、それを理解してしまう。

 

 だとすれば——『お前自身』はどこにあるのだろうか。いや、それは既に『無限鏡』の件で把握している。今そこにいる一人の魂が様々な経緯を得て変質し、固定化されたのが『麒麟』という女なのだ。

 

 

 

 ——それが分かってしまえば、もうギンは刀を振るうことはできない。

 

 あまりにも、その麒麟の痛々しく傷だらけの在り方は、霧吟の姿を重ねて見えたから——。

 

 

 

「……儂の負けだ」

 

 それは同情心から来る降参ではない。単純にもう手がないという意味も込めての敗北をギンは口にする。

 流石に殺しをせずに麒麟を倒すのは不可能だった。ならばもう殺すしかないが、霧吟の姿を重ねてしまった今では殺すことのほうが難しくなってしまう。

 

「……いや、お前の勝ちだ」

 

 しかし麒麟はギンの勝ちを認めた。そしてその理由をギンは言われずとも察していた。

 

「あの場面、髪を切って私は窮地を脱した……。だが何故『浅く斬ろう』とした? あの一閃はもっと踏み込んでいれば、躱したところで届いていたぞ」

 

「お前を殺すと困る奴がおるらしくての……それで手を抜くしかなかった」

 

 ギンは素直に答えを返す。そう、ギンは殺さないためにあえて最小限の傷を負わせようとアキレス腱に刀の切っ先を切りつけてようとした。だが本来ならそんな生温い手はギンは使うわけがない。本気で行くつもりならもっと踏み込んでアキレス腱どころか足そのものを切り落としに掛かっていく。そうなれば麒麟は躱しきれなかった。

 

 その事実に気づいているからこそ麒麟は不服そうな表情を浮かべる。

 だが降参は降参だ。「納得がいった」と麒麟は苛立ちと一緒に如意棒を放り投げ、力を出し尽くしたが故に膝から崩れ落ちてギンへと言葉を向けた。

 

「これで一勝一敗。お前のことは見逃してやる」

 

「そりゃどうも」

 

「だが、こちらの目的は譲るわけにはいかない。バイジュウ様は必ずや『無形の扉』が迎え入れる。これは貴様に借りがあると分かった上で無碍にさせてもらう」

 

 

 

 執念深さというべきか、使命を果たそうとする頑固なところも似ておるの——。

 危ういところもある麒麟の在り方にギンは思わず笑ってしまう。それは麒麟の「なんだ」という歳不相応の言葉を引き出すには十分だったようであり、ギンはさらに声を上げて笑った。

 

 

 

「なぁ。少し昔話をしてよいか? お互い、まともに動けんであろう」

 

 唐突な提案に麒麟は訝しげな表情を浮かべるが、しばし思考すると「手短にな」とだけ言ってギンの言葉に耳を貸した。

 

「儂の知り合いになぁ、人の思いに応えようとする優しい子がおった。誰彼構わず願いを聞き入れ、可能な限り力になろうとする懸命な子じゃ」

 

「それがどうした」

 

「簡単な話じゃよ。お前の思いは『自ら望んだこと』か? それとも『相手に望まれたこと』か?」

 

 その問いに、麒麟は返すことはできない。既に『彼女』個人としての意識は薄い。フリーメイソンとしての役目と目標を果たすための傀儡でありながら支配者という存在に座している麒麟では、その二つの問いは両方とも正しいといえるものだから。

 

「正直な話、答えとしてはどっちでも良い。だけど、そのあり様に後悔とかはないのか?」

 

 続けての問いも麒麟は返すことができない。理由は同様だ。後悔もあり、後悔がないという矛盾を成立させるのが麒麟なのだから。

 

「それだけじゃ。お前を見てると、その優しい子が重なっての。聞いてみたくなったのじゃ」

 

「……だとしたら、その子は空しいな。私と同じで人間の限界をその身で知ってしまっているのだろう」

 

「ああ……。人間の限界を超えようと縋ったものに……あの子は……」

 

 それ以上はギンの口から言うから憚れた。あの思い出はギンとレンしか知ってはいけない物だ。窮地を超えた者同士だからこそ知ってほしい顛末。死闘を繰り広げた相手にはこれぐらいしか伝えられない。

 

「なあ、お前が縋ろうとするバイジュウは……本当にお前が求めるべき子なのか?」

 

 だけど、その顛末が間違っていたことをギンは知っている。人の範疇を超えようとした結果、霧吟は魔導書に触れて都を滅ぼしてしまった。

 今の麒麟の盲目的かつ信心的にバイジュウを求める姿は、その霧吟が縋る魔導書に見えて仕方がない。だとすればそれは破滅の一歩となる。バイジュウの身を案じるためにも、どうしても聞いておきたいことであった。

 

「正しいに決まってるでしょう。バイジュウ様は人を超越した生命……宇宙という孤独な環境でも、歩み進んでいける強き者です」

 

「儂にはどうも偶像的に捉えてるようにしか見えん。儂が知っているバイジュウは、ちょっと頭がいいだけのどこにでもいる女の子だ。お前が口にした宇宙に行くという器とは思えん」

 

「それは貴方がミルクを知ってからのバイジュウ様しか見てないからですよ。あの女さえいなければ……バイジュウ様の氷の魂に熱を灯すことはなかったというのに」

 

「悲しいな。お前はそうやって『宇宙に行く』という『未来』を語っておきながら、求めてるのは『過去のバイジュウ』とは」

 

 三度目の矛盾——。それに対しても麒麟は答えを返すことができない。

 

「未来を語るなら今のバイジュウを受け入れろ。孤独の世界の只中では、到達できた先に人を導くことはできん。鬼や妖怪と扱われて、忌み嫌われて首を落とされるのが末よ。他ならぬお前たちの手によってな」

 

 それは一人で剣術の極致に達したギンだからこそ分かる結末だ。

 まだギンとして生きる前の老人での最後。ギンはそうして命を落としたのだから。

 

「それでも私はバイジュウ様を諦めません。彼女がいなければ、人の未来も世界もこれ以上切り開けないのだから」

 

「ああ、諦めるな。お前が語る未来に悪意は見えない。ただ間違えてるだけだ。間違いを認めて諦めなければ……まあ、正しい答えも見えるはずさ」

 

「それでも正しい答えにたどり着かなければ?」

 

「今度こそ、お前の首を断つまでよ」

 

 

 

 そう言って二人は倒れ込んだ。満身創痍の傷だらけの全力勝負。動こうにも一歩も動けない。

 二人にこれ以上、事態に介入できる力はない。ただ事の成り行きを見守ることしかできない。

 

 ギンは痛々しい傷跡なんて嘘みたいに、安らかな寝息を立てて眠りに耽る。

 その寝顔を見て、麒麟は「敵陣の中だぞ」と呆れながらも釣られるように瞼を閉じた。

 

 

 

 

 眠りにつく最中、麒麟の中に眠る少女は初めて知る感覚に、ふと思う。

 

 

 

 

 

 ——ああ、これが『父』の温もりというのかな。



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第19節 ~辟。髯舌→陌夂ゥコ(■■■■■)~

 一方その頃、バイジュウ達は奇妙な状態にただ固まって待つことしかできなかった。

 言われた通りに目を閉じ、耳を塞いでから数十秒。気配が静まったところでイナーラとバイジュウはほぼ同時にどうなってるか目を開けた時には驚きしかなかった。

 

 クラウディアも朱雀も魂でも抜かれたかのように、腕を投げ出し虚ろな目で膝を折って座っている。

 あまりの静けさに何をどうすればいいか分からない。待てばいいのか、この隙に朱雀を拘束でもすればいいのか。とりあえずイナーラは朱雀の両足と両腕をワイヤーで巻いておき、ついでにトンファーも没収しておいた。

 

「げっ! こいつのトンファー、中に仕込み刃ある……」

 

 イナーラは「こわぁ」と自分のことを棚に上げ、暇でも潰すかのように朱雀のトンファーを舐めまわす。そんな緩い雰囲気にバイジュウも自然と口を開いた。

 

「一安心……ですかね?」

 

「まあそうじゃない? 私がハッキングしたこの施設のカメラを見た限り、ギン爺さんも麒麟を抑えることに成功したみたいだし」

 

 その報告に「よかった」とバイジュウは声を漏らす。

 ファビオラもソヤも眠ったままだが身の安全はイナーラの仲間が保障しており、レンはすぐ傍で眠りこけている。今のところは誰一人として犠牲は出ていない。20年前の南極での出来事みたいに一人の死者も出ずに順調に進んでいる。

 ミルクが残したデータも手にあり、ミルクの魂は今ここにある。自分の我儘もあって今回の作戦が発令されたのも同然なので、このような成果はバイジュウにとって本当に喜ばしいことだった。

 

 けれど油断は許さない状況だ。

 バイジュウの心境とは別に、イナーラは変わらずに朱雀の身体を弄って物色をする。すると面白いくらいに出てくる。色々な小物に扮したエージェント御用達の秘密道具がこれでもかと。

 

「ペン型の金属探知機に、発信機付きの名刺……それにタバコに扮した睡眠薬もあるときたか。おっと、これはこれは♪」

 

 楽しげな声を上げるイナーラに、若干ミルクの明るさにも似たものを感じながらバイジュウは彼女へと視線を向けた。その指先にある物は何なのかと少しだけ期待しながら見てみると、そこには奇妙な物があった。

 

「消しゴム?」

 

「違うわよ〜〜♪ 同業者の勘で分かるけど、ここはこれこれこのように……」

 

 至って普通の英文字4つで構成されたカバーを付けた最もポピュラーな消しゴム。

 イナーラはカバーを外すと、そこには通常では存在しないはずの立体パズルのような切れ込みがあり、それを手際よく可変していくと、消しゴムの先端がUSBメモリへと早変わりした。

 

「なるほど……」

 

「今の記憶媒体は超コンパクトで丈夫だからね。こんな細工しても機能するし、このサイズでも数十単位のテラバイト容量があるのよ。私だってお腹とは別にもう二つほどこんなのを隠してるし」

 

「お腹とは別に?」

 

「女の子にしか隠せない場所♡」

 

 頭に疑問符を浮かべるバイジュウに、イナーラは「レンちゃん以上に天然で純粋な子がいるとは」と申し訳なさそうな顔をしながら謝罪をして話を続けた。

 

「『無形の扉』が持つデータとか気になるわよね〜〜。いったいどれほどの価値があるのか……」

 

「そういうのってセキュリティが厳しくて対応した端末とパスがないと無理なのでは?」

 

「私の特注スマホでは問題ナッシング。何のために幾つもの会社を経営してると思ってるのよ」

 

「これで利益が出るってもんよ♪」とイナーラはケタケタと笑いながらUSBメモリと自身のスマホをハッキングの補助機能付きの変換ケーブルで繋ぎ、自信満々の宣言通りにセキュリティを瞬時に解除してデータを閲覧し始めた。

 

「出てきた出てきた。こりゃ『華雲宮城』が抱えてる異質物のデータかぁ……って」

 

 流し見で画面をスクロールしていく中、一つだけ『未判明』と分類されたままデータの最終更新が『20年近く前』という奇妙なデータが目についた。

『無形の扉』は少数精鋭の部隊だが、個人個人の実力やらはトップクラスだ。たかが一つのデータだけに、ここまでの時間を空けて手間取るなんてあり得るはずがない。

 

 

 

 ——なにかある。そう確信してイナーラはそのデータを開いた。

 

 

 

「EX級異質物『白維度』……。直訳すれば『白い空間』とか『白い次元』って意味よね?」

 

「私が知ってる中国語に変化がなければ大体はそんな感じですね」

 

 なにせバイジュウが知ってる言葉は20年前のものが主流だ。バイジュウがいた時代のナウい言葉なんてワンチャンなくはない可能性がありよりのありなのだ。

 

 なんて愉快な考えをしたところで答えに繋がるわけもなく、バイジュウも少しだけその異質物が気になってイナーラの続ける言葉に耳を傾けておく。

 

「約50年前に中国の山奥で発見された扉の形を異質物。状態などから存在自体は紀元前からある物と推測されている……。扉の先は地球上では観測できない空間が広がっており、大気などの研究した結果、その空間は『宇宙空間』に近いものと判明……?」

 

「『宇宙空間』……?」

 

 それは偶然か。ちょうどバイジュウに当て嵌まる要素が都合よく出てきた。しかも最終更新が20年前となれば、あの辛くて苦しい過去でしかない南極での出来事と同時期である。

 何故この場で答え合わせのように指し示された。バイジュウは妙な胸騒ぎを覚え、痛みを堪えながらもイナーラが手にした情報を目に入れた。

 

「調査を進めて異質物を解明しようとしたが、繋がった先は通常の宇宙空間とは異なるものであり、既存の宇宙技術と装備では対応不可能と判明……。実験的に送り込まれた人材はすべて精神錯乱の状態とな、り……!?」

 

 資料を見ていてバイジュウは戦慄を覚えた。『実験的に送り込まれた人材』として添付されたその人物の顔写真。そこに映っていた人物の顔にバイジュウは見覚えがあったからだ。

 

 

 

 忘れもしない。忘れるわけがない。

 それは20年前の南極での事件で、自分たちに襲い掛かってきた『ドール』の顔だ。

 

 

 

「……作成者『ラオジュウ』」

 

 その名はバイジュウを育ててくれた義父の名前だ。けれど、それはおかしいとバイジュウは即座に思い至る。何故なら20年前に更新されたというが、あの南極での事件と同時期なら『既に父親は死んでいる』のだ。

 それにバイジュウの父は異質物研究の学者ではない。生物学者だ。それは引き取られた時から死ぬまでの今まで変わることはない。

 

 何から何までおかしい。出鱈目だと理解を拒むこともできる。だけど聡明なバイジュウはすぐさまそれを可能とする力を知っている。

 

 

 

 ——『因果の狭間』だ。

 

 

 

 しかし、それでも、なんで——。

 信じられない。信じたくない。だけど、そんな——。

 

 でも、父は生物学者で——。けれど異質物研究者としての記録があって——。

 

 

 

 聡明が故にバイジュウの思考は目まぐるしく回る。そしてその答えはシンプルに記載されていた。

 

 単純な転職。この異質物の発見を機に、ラオジュウは今まで熱心に打ち込んでいた異質物研究を捨てて『生物学者』へと変わった。その理由はラオジュウは本人しか分からないことだ。

  だが、その突然の変化に組織も許すはずもなく、是が非でも父の動向を追って戻そうと躍起になった。結果として不慮の事故という形で父は殺されることになった。

 

 

 

 だとしたら——。ラオジュウが生物学者に転身したのは——。

 その転身後に即座に移したことといえば——。

 

 幼いバイジュウの保護に他ならない——。

 

 

 

「わ、私のために……父は……?」

 

 

 

 父が死んだのは、その異質物研究とバイジュウに関りがあったから。そのために父はバイジュウは『来るべき何か』に備え、個人で様々な調査と並行して、バイジュウの才覚を実らせるために幼いころから厳しい勉強と訓練を課せてきた。

 

 なら何のために父はバイジュウを育てた——。

 

 この異質物と関りがあるというのか。すべての始まりは南極ではないのか。

 違う。違う違う。南極での出来事は『バイジュウの終わり』でしかない。

 

 私は知っている。『バイジュウの始まり』はどこにあるのかなんて。

 それは父であり、父が記していた『Ningen』計画I類に他ならない——。

 

 

 

 

「私は……『私』はなんなのっ!?」

 

「決まっているじゃないですか——」

 

 

 

 バイジュウが吐き出した疑問に答えたのは、麒麟でも朱雀でもない。この場ではどこにいてもおかしくない『無形の扉』に従うものの一人が物陰から姿を見せた。。

 逆に言えば、それだけバイジュウの存在は『無形の扉』の誰にも知られているということ。組織の目的意識は統一されており、バイジュウが溢す疑問の答えを持っている。

 

 

 

「貴方はバイジュウ様。人とは違う存在『Ningen』計画I類に属するもの……」

 

「なぜ! なぜ私だけが違うんですかっ!?」

 

 

 

 その『Ningen』計画I類というものがバイジュウにはそもそも理解できなかった。

『Ningen』とは外国語でも何でもない。意味するのは単純に『人間』だ。それだけの意味しかなく、バイジュウはその計画I類というものに分類されているに過ぎない。

 

 その『Ningen』計画I類を目論んでいるのは、父が残したノートに記されたシンボルからして『フリーメイソン』こと『無形の扉』なのは間違いない。

 ならば知っているのだ。バイジュウが求めている根本的な答えを『無形の扉』は。

 だからこそバイジュウを欲しているのだ。その答えの意味と価値を『無形の扉』は知っているから。

 

 

 

 

 

「貴方は『人間と宇宙人のハーフ』なんですよ——」

 

 

 

 

 

 バイジュウの問いに『無形の扉』の一員はアッサリと溢した。あまりにも普通に口にするものだから、空耳だったのではないかと疑ってしまうほどに、その内容は根本的な衝撃と恐怖をバイジュウに抱かせるには十分だった。

 

 

 

「……信じられません」

 

「ですが否定できる材料もないでしょう。貴方だって自分の異質さを知っているはずです。『魔女』とは何ら関りがないのに秀でた才覚がいくつもあるでしょう」

 

 

 

 それは知っている。高度な思考計算、完全記憶能力、どんな環境でも一定の体温を維持する体質。

 自身が放つ『量子弾幕』は魔女由来の力であるが、逆に言えばそれ以外は元々バイジュウが自身が保有していた力。そしてこの『量子弾幕』自体も魔女としての才覚が花開く前から指先から存在する自体は認識していた。

 

 確かに自分でも人とは違う部分はあるとは思っていた。それを隠すように生きていけと父からも言われていた。

 

「そしてこれも知っているでしょう。貴方が派遣された南極での海洋生物調査。あれが元々は誰の研究だったかも」

 

 

 …………

 ……

 

「ごめんなさい。このプロジェクトに参加するのは、私的な目的もあるからです」

 

「分かってるって~~。Bossからしてみると、バイジュウちゃんが『親父さんの海洋生物研究』を続けてくれるなら、問題ないだろうしね。ウィンウィンだよっ。win-winっ!」

 

 ……

 …………

 

 

 知っている。何気ない会話の中で、あの南極での出来事の時にミルクが口にした。海洋生物研究は元々は父ラオジュウの物であることを。

 

 さらにバイジュウは知っている。あの南極の深海で見た海洋生物の正体を。セラエノが口にした『古のもの』であることを。

 

 バイジュウは『目を合わせた』ことで魔女への繋がりを得たと思っていたが、実は違うというのか。『目を合わせた』ことは切っ掛けにしか過ぎず、元々バイジュウには『古のもの』だというのか。

 

 

 

 だとすれば、私に眠る『宇宙人』の細胞って——。

 

 

 

 あまりにも冒涜的な真実に狂気に囚われそうになる。今まで信じてきたものの根底が覆される。自分は特殊な人間などの以前に、そもそも人間ではなかったという衝撃に自己と自我が崩壊しそうになる。

 

 

 

 それでも——。それでも——。

 

 

 

 …………

 ……

 

「ほら笑って? こんなにも可愛い……女の子なんだから」

 

 ……

 …………

 

 

 

 ミルクは『私』を見てくれて、認めてくれて、好きでいてくれてる——。

 それだけでいい。今はそれだけでいい。

 

 それさえあれば——バイジュウは十分だ。

 

 

 

「言ったでしょう。ラオジュウの死の真相を教えると……。それは貴方の生まれそのものにも関係している」

 

「……そうでしたね」

 

「ですから来てください。我々『無形の扉』に。貴方のためなら、我々はすべてを差し出す覚悟も準備もできております」

 

 深呼吸を一つ。心臓の鼓動と痛みを鎮め、バイジュウは凛然と返した。

 

「……なぜ、そこまでして私を求めるのです」

 

「我らの統括者——麒麟だって口にしたでしょう。サモントンでの出来事がなければ、ここまで急ぐ必要はなかったと」

 

 それは本人から聞いている。サモントンの土地が荒れ果てたことによる農作物の減少で食糧問題と、バイオ燃料の供給低下によるエネルギー問題にも深刻に関わると。

 

「元々我ら華雲宮城の研究は異質物だけならず、あらゆる分野において『開拓』を主にしている。廃棄された『Ocean Spiral』の資金元がフリーメイソンであることも知っているでしょう」

 

「ええ。麒麟があそこに移送した隕石と類似した異質物も見せてくれましたからね」

 

「ちょっとイナーラちゃん、興味深くて儲け話の匂いがしてワクワクするけど、それ私が聞いてて無事に済む話?」

 

「それはバイジュウ様次第でしょう。我らの要望を受け入れてくれれば、彼女が望めば不問とします」

 

「うわぁ~~」とイナーラは項垂れながらも、それでも情報は情報だと言わんばかりに録音ボタンを押して「どうぞ続けてください」と話を再開させた。

 

「話を戻します。なんであれ華雲宮城は現状の停滞からの変化……いえ、欲張って進化と言いましょう。人間とおう形をどうであれ次の段階へと引き上げ、地球の重力から解放させたい。それが根源にある願いです。麒麟も同じことを思っています」

 

「しかしバイジュウ様が気になるのはここからでしょう」と前置きをして話を続ける。

 

「その進化を何故早急に求める必要があるのか、それはあの隕石が共鳴したからですよ。サモントンでの事件を機に、悍ましいほどの情報量を放出させていた。これが理由です」

 

 サモントンでの事件を機に隕石が反応した? いったい何にかとバイジュウは考えるが、その答えはレンが口にしていた言葉で理解した。

 あの隕石は『地』の隕石と言っていた。そしてニャラルトホテプに繋がるものであると。

 

「そうか……っ! ニャルラトホテプが出現したことで、その地の隕石を通じて共鳴した……っ!」

 

「そのふざけた名前はこちらは分かりませんが、超常的な存在を感知したのは事実。地に属する情報を放出していたが……しかし、その奥底に眠る脅威を『無形の扉』さえも異質物研究部門は感じ取った」

 

「奥底に眠る脅威……?」

 

「発せられた情報を解読し、我々『無形の扉』は超常の頂点に君臨するであろう存在を認知した。それは言葉で形容しようにも仕切れない……しかしそれでもあえて口にするというのなら……」

 

 そこで彼は大きく口を澱ませる。どのように表現が最適なのか。理解を深めようとし、冒涜的な一面を無意識に理解して狂ってしまう可能性を考慮して、必要最低限ながらも的確に。

 待つこと十数秒。思考を纏めた彼は、重苦しくその口で言の葉を紡いだ。

 

 

 

「虚空から生まれようとする生命の脈動……。いや『マイナス』の概念を糧に『無限』の力を得ようとする情報生命体……」

 

 

 

 自分でも要領を得ない言葉など思っているのであろう。手探りで正しい表現を導き出していく。

 

 

 

「……違うな。あれはエーテルの塊、星の意思、宇宙の一面ともいえる。あえて名づけるなら、こう言いましょう」

 

 

 

 

 

 彼は思考を再び止める。どういう名前がそれを表現するのに適切か。

 それを定めるのに必要な時間は多くはなかった。自分を奮い立たせるように「そう。あえて名づけるなら」と念を押すと、ただ少しの言葉を吐き出すだけなのに辞書をすべて音読したかのような疲労感で呟いた。

 

 

 

 

 

「『星尘Minus』と『星尘Infinity』——」

 

 

 

 

 

 二つの名前——。脅威となるのは二つの存在——。

 その事実にバイジュウはただ唖然と心と身体が凍りそうな恐怖を呑み込んだ。



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第20節 ~蜈ィ縺ォ縺励※荳?(■■■■■)~

 ここドリームランドは因果の狭間と同じで、あちらでの一時間と同様とは限らない。

 

 長い航海を始めて体感的には24時間以上は経過しただろうか。

 操られたスクルドの追撃がないことから、ファビオラは上手く退けたのだろう。おかげでこっちは安全かつ確実に月面の捜索でニャルラトホテプがいるであろう場所を見つけることができた。

 

 月面のクレーターに確かにある人工的な建造物が一つ。

 それは近代未来の結晶とでもいうべきか。文明なんて存在しないはずの衛星である月。そのクレーターの中心には庭と表現するのが一番近いように、小さくも確かな緑の土地といくつかの塔と箱型の建物で建造された施設があった。

 

 連なるムーンビーストの数は目視する範囲だと十数体。警備のために配置されているが生体としての性質が合ってないのか、表情なんて分からないのに「つまらない」と言いたげに体から覇気が見えない。

 

 あいつらの強さは一回交えているから分かっている。ハッキリ言って大きさから来る単純な力としては脅威だが、それ以外は『ドール』よりも劣るということを。

 アイツは手足を切断すれば無力化できる。下手に知性や理性というものがあるから、痛みに怯んでしまうんだ。そういう意味では兵隊の斥候としてどれだけ『ドール』が優秀か。ゲームにおいて無限沸きや死なない兵隊ほど脅威になるものはないと思うように。

 

「いくぞっ、ソヤ!」

 

「ひと暴れ行きますわっ!」

 

 俺とソヤは一緒にガレー船から飛び降りて強襲を決め込む。そこそこな高度からの落下ではあるが、月の重力は地球の6分の1であり、この程度の落下速度なら着地さえしっかりすれば怪我なんて追うことはない。

 着地と同時に一閃。続けて二閃、三閃とムーンビーストを霧吟の魂を武器とした『流星丸』で両断していく。かたやソヤもお手製チェーンソーで引き裂いてく。手作り故に回転数も刃の性能も優れたものではないが、そこはソヤの戦闘経験で補い、慣性を利用して無理矢理にでも実行するのだから末恐ろしい。あの小さな体のどこにそんな力があるのか。

 

「んんんんんん~~♡ 歪ゆえにスプラッター感もマシマシですわ~~♡」

 

 ……あと、その変わった趣味嗜好もどこで学んだろうね。

 生まれついての物なら、きっとエルガノも苦労したに違いない。

 

 なんてことを思考の片隅で思いながらも本拠地に突入していく。

 電光石火の快進撃。エルガノが用意してくれた装備である『月光百合』のおかげで、多少の擦り傷ならすぐに治療されて問題ない。『月の光を吸収して栄養素に変換する』と言っていたが、月面上ならその影響が強いということだろうか。活力がドンドン漲ってきて、今なら多少の強敵でも退けられそうな気もしてしまうほどに。

 

『我が臣下の道を阻むでないわっ!』

 

 殿として付いてくるノーデンスも力も非常にありがたい。こちらが前に進むだけに切り払った残りの戦力をノーデンスが持つ無尽蔵の魔力で押しつぶすのだから、おかげでこちらも無駄に力も時間も使う必要がない。最短で最小限に効率よく突き進んでいく。

 

「しかし、このままニャルラトホテプまで行ったとしてもどうやって倒しますの? あいつの強さはサモントンの時に知っておりますが……いくらノーデンスとフレイムさんがいようと、これだけでは不可能なのでは?」

 

『気にする必要はないわよ。私だって火の情報生命体……『クトゥグア』と同等の存在よ?』

 

「ところでそのクトゥグアってなに? スクルドの時にも出てきたけど」

 

『クリフォト側の私と対極でセフィロト側の炎の化身よ。アイツの炎はニャルラトホテプにとって天敵中の天敵。サモントンでの『パーペチュアル・フレイム』に両断されただけで、ニャルラトホテプは一気に瀕死にまで追い込まれたでしょ? その理由ってアレがクトゥグアの属性を保有していたからなのよ』

 

『だから同様に私の炎もアイツにとって致命傷ってわけ』ってフレイムは得意気に答えてくれた。

 ……スクルドとの一件で、どうも信用すべきかどうかの感覚はあるが、それは今は後回しでいいだろう。今はとにかくニャルラトホテプの打倒が第一だ。

 

 だけどアイツにそんな特攻武器があっただなんてな……。それなら余裕かもしれない。

 

「あれ? だったら俺達が警戒すべき敵って実はいない?」

 

『そういうことになるね。従者も信者もこのドリームランドには多くはいないし……だからこそスクルドをこの世界に呼んだんでしょうし』

 

 なんか意外と拍子抜けというか、思ったよりニャルラトホテプって強くないのか? 策を弄するタイプで、こういう奇襲とか純粋な力押しには弱いというか。

 

「だったら他の契約者が呼ばれる可能性ってありますの?」

 

『まあ十二分にあるんじゃない? けれど地属性は知っての通り、ハインリッヒとギン。火属性はスクルドとファビオラ。水属性はバイジュウとミルク。残るは風とエーテルの合計四人だけど……』

 

「恐らく一人はラファエルさんですわよね? でないとサモントンであんな異様な暴走はしないと思いますし」

 

『その予想は大正解。となると貴方たちが知らない契約者は残り三人ってことになる』

 

「その三人が立ちはだかる可能性があると……」

 

『いや、その可能性はないだろう』

 

 そこでノーデンスが話に割り込んできた。

 

『エーテルの属性は特殊な役割と契約を与えられている。よぽどのイレギュラーでも発生しない限り、派遣されることはない』

 

「なら風は?」

 

『あれは『ハスター』の管轄だ。アイツは他とは違い、理性を持つが故に孤高だ。おいそれと自分の属性を貸し出すような輩でもない』

 

 また知らん名前が出てきたな……。しかしそういうことなら信頼してもいいかも。

 結果や経緯としてはどうあれ、ラファエルも一度は風の力を覚醒させてニャルラトホテプに牙を向けたわけだし。

 

「だとしたら本格的にニャルラトホテプを守ろうとするのは、ムーンビーストとかシャンタク鳥あたりしかいないってわけか」

 

『地球の重力ならいざ知らず。月の重力なら単純計算で6倍高く跳べるんだから、シャンタク鳥なんて脅威じゃないわね』

 

「そんな簡単に跳べないって!!」

 

 なにせ重力が弱いから蹴る力も弱まってしまい、実際に6倍も高く跳ぶことはできない。精々2~3倍が限度だ。

 あと仮に6倍跳んだところで、着地するまでの滞空時間も単純計算で6倍になってしまうのだから、空中で動くすべを持たない人間では空中にいる間は完全な無防備状態になってしまう。そうなってしまえば空中を自由に駆けるシャンタク鳥の餌食なんだから本末転倒だ。

 

 それに今いる場所は屋内だ。天井の高さは5mほどで制空権が及ぼす絶対的なアドバンテージはないし、そもそもムーンビーストとシャンタク鳥共々に大きさがあるから、この天井の高さではむしろあっち側のほうが機動力を損なわれている。根本的に跳ぶ必要なんてないからこそ、ここまで簡単に押しとおることができるんだ。

 

 

 

 故に問題なく深く、鋭く、早く、止まることを知らずに進んでいく。敵対する存在など何するものぞ。

 

 

 

「よおよおよお。やあやあやあ。随分と早い到着なこって」

 

 

 

 だからアイツの姿を目にするのに時間は大きく掛からなかった。

 身体のほとんどが焼き爛れた人の形を模した何か。眼球もビー玉のような胡散臭い煌めきを持って俺達と視線が合う。

 

 姿形は見たことない。覚えもない。だけど分かる。隠し切れない下郎の匂いがこれでもかと漂ってくる。

 一度見たら忘れるはずがない。分からないはずがない。アイツの在り方は悍ましいの一言に尽きるのだから。

 

 

 

「久しぶりだな、ニャルラトホテプ。お前にできた色々な借り……今ここで全部返させてもらうぞ」

 

「弱いものイジメはんたーい。今のオレは怪我人だぜ~~? 優しくしてくれよぉ~~?」

 

 

 

 初めて会った時から何も変わらない。人類すべてを馬鹿にしているお茶らけた態度で会話を繋げる。

 ふざけるな。こんな奴に狂わされて壊されたというのか、サモントンは。そのせいで直面している食糧問題なんて我関せずと言わんばかりにケタケタと、ケラケラと笑い続けている。

 

 血液が沸騰しそうだ。怒りだけで右手に握る流星丸が軋みそうなほどに力んでしまう。

 その激怒をニャルラトホテプは感じ取ったのだろう。ニヤけた笑い声を一先ず収めると、白旗でも宣言するのように無防備に、そして無力にその両腕を上に晒して「投了だ」と、さも当然かのように何の溜めも躊躇もなく自身の敗北を宣言した。

 

 

 

「残念ながらお前たちの相手をすることなんてできないんだ。できても意図も容易くやられちまう。アイツの炎はそれほど強力だったからな」

 

「じゃあ無抵抗のまま死んでくれるのか?」

 

 

 

 今こうして対峙してハッキリと理解した。投了だけですべてを終えようとする中途半端さに『黒い感情』が泥のように溢れ零れる。こんな感情を持ったのは生まれて初めてだ。

 

 こいつはウリエルを殺し、ヴィラクスを誑かし、ラファエルを傷つけ、スクルドを関節的に殺したという事実を俺は知っている。今までの事件の裏にはこいつが確実に潜んでいた。

 それを知った今では、アイツの顔を見るだけで激情という器にガソリンが注ぎ込まれたかのような震えと滾りが心身共に満たしに満たしてくる。

 

 

 

 殺したい——という純粋な殺意がこれでもかと。

 

 

 

「そういうことになる……が!」

 

 

 

 刹那、俺達の眼前を巨大な歪みが空間を薙ぎ払った。歪曲した次元には裂け目と重力が発生し、付近にする物体どころか空気といった目に見えない物さえも取り込もうとする究極の引力を感じる。

 

 ニャルラトホテプが何かをした様子はない。ただ両腕を上げて降伏を意味してはいる。こちらの狼狽える様子に「それが見たかった」と言わんばかりにご満悦な以外に変わった様子はない。

 

 となると誰だ? いや、なんだ? この攻撃の正体は。超常の中でも飛びぬけている。

 だけど知っている。これと似た現象を。ハインリッヒの『フィオーナ・ペリ』が齎す時空間の干渉と似ていることは分かる。

 

 

 

『それは私を退けることができればの話だがな』

 

 

 

 その答えはすぐに返ってきた。

 空間という空間が塗り替えられる。宇宙空間にでも放り出されたかのように闇の帳の中で星々のような光が瞬く。

 

 そこにソイツはいた。果てのない暗闇の世界。限りない空虚の中心に、まるでブラックホールでも発生したかのように『闇』も『光』も超越した無尽なるものがいた。その在り方はなんと表現すればいいだろうか。

 

 

 

 時間と空間を超越するただ一つの窮極かつ永遠。

 

 まだ生まれてもいない未来と呼ぶべき世界の不条理や法外。

 

 人類が夢見る魅惑が尽き果てぬ領域。

 

 太陽系において知られざる囀りや呟きにも似た音。

 

 

 

 ただ一つの原始かつ無限。到達不可能な全能。

 

 

 

 

 

『一にして全』

『全にして一』

 

 

 

 

 

「ヨグ=ソトースッ!!」

 

 

 

 そうか……! まだこいつがいた……! もっと根本的な因縁を持ったやつがこいつがいたっ!!

 

「お久しぶりですわね、ヨグ=ソトースさん?」

 

『ああ、エンジェルスか。そういえばお前も小娘のせいで取り逃していたな』

 

 そうだ。こいつとの因縁はニャルラトホテプよりも深い。というか、こいつが今の今までの事件の根元に関わっているんだ。

 アニーとソヤを因果の狭間に閉じ込めたのもそうだし、ハインリッヒとギンとスクルドを契約者にしたのもそうだ。

 

 この二人……いや、二つの災厄にも等しい超常が今までのすべてに密接に関わってきたんだ。

 それが今この場で対峙している? しかも同時に? 

 

 そんなの……嬉しさがこみ上げてくる。お前たちを打倒するために、俺は強くなってきたんだから。恐怖なんてものは微塵も湧きでてきやしない。

 

「——ッ!!」

 

 挨拶なんているもんか。不意打ち常套、先手必勝の一閃。ギン教官直伝の『逆刃斬』だ。俺のは不格好だからまだまだ完成には程遠いが、それでも俺が持つ剣技の中でも一番強力なもの。

 

 ソヤとの会話で隙を見せたヨグ=ソトースにその渾身の一撃を入れる。月光百合との相乗作用で、その一閃は今まで重ねた戦いの中でもどんな一撃よりも早く、鋭く、重いものだ。

 

 決まれば致命傷は不可避。その刃は見事にヨグ=ソトースの身体を引き裂き——。

 

 

 

「————ぁ」

 

 

 

 そして人間では見てはいけない内包された『超常の情報』を目にしてしまった。

 ヨグ=ソトースの体内にあるのは、人間と違って細胞とか骨とか血液ではない。ミクロにしてマクロの数値化ができない『宇宙』という概念を纏った物だ。

 

 故に引き裂けば当然宇宙の真理を覗き見ることになる。宇宙の深淵までフルハイビジョンで、ノイズもモザイクもなく果ての果てまで目撃することができる。

 

 

 

 ——だからこそ疑問に思う。その深淵に眠る異質な『何か』を目にしてしまったから。

 

 

 

「な、んだ……あ、れは……?」

 

「今のは、いったい……」

 

 

 

 内包された『何か』を形容するにはどういえばいいのか。

 あえて言うなら無限そのもの。宇宙の起源にして終焉。この世の存在する理や法則——。そういうしかない。

 

 その『何か』は絶え間なく不定形なのかも判別が怪しい体をくねらせ、宇宙の中心部で寝返りでも打つように動いている。

 

 

 

 ——確信した。この『何か』はスクルドが口にしていた『■■■■■』だと。

 口にすることさえも難しい無限の象徴こそが『アレ』なんだと。

 

 

 

「あっ……ああっ……!! この匂いは……っ!」

 

 

 

 途端、ソヤの様子が変貌した。『何か』に気づいてしまい、その異質さと異様さがどういう意味を持つかを俺以上に察してしまったからだ。

 なにせソヤは『共感覚』の持ち主だ。匂いだけで感情とかの機微に気づいてしまう。それに単純にソヤは嗅覚が良いから、宇宙空間に直結したヨグ=ソトースの中身とそれ自身という超常の過剰な匂いに混乱を起こしているのかもしれない。

 

 

 

「こ、これがエルガノが言っていた……神だというのですか……っ!?」

 

 

 

 その感覚はソヤにしか分からないだろう。俺ですら見ただけで悍ましい感覚と思考が身体中を巡りに巡っているんだ。ソヤはいったいどれほどの情報が入ってしまったんだろう。あの小さな体にどれほどの夥しい情報が巡っているのだろう。想像するだけでも恐ろしい。

 

 ソヤの呼吸が乱れていく。眼球が充血して汗も滝のように溢れていく。宿した情報を掻き出そうとしてるのか、それとも苦しみを痛みで和らげようとしているのか、綺麗で煌びやかな白髪をこれでも指で搔き乱して悶えている。

 だけど症状は落ち着いていく。自分に「落ち着く、落ち着くのです」と言い聞かせると、不安定な呼吸と溢れ止まぬ汗のまま平常心を取り戻した。

 

 

 

「なるほど……確かにこれを知ってしまえば、エルガノみたいに狂信を持ってしまうのも頷けますわね……」

 

「フレイム。あれがスクルドが言っていたやつだよな」

 

『ええ。アレこそが『■■■■■』よ』

 

 

 

 言葉の認識には相変わらずノイズが掛かったように理解しきれない。ニャルラトホテプやヨグ=ソトースと同じように冒涜的な存在の名前だというのに。

 

 だけどおかげで確信した。フレイムが断言してくれたおかげで。あれが『■■■■■』なんだ。スクルドが口にしていた眠りについてないといけない災害。

 

 

 

『……アレがあやつなのか?』

 

「どうしたんだよ、ノーデンス?」

 

『いや、我が知っているころと比べて随分と小さいというか……弱々しいというか……』

 

「どれくらい前と比べて?」

 

 

 

 もしもそれが最近の出来事に近ければ、こいつの覚醒がきっかけで起きた可能性も出てくるんだ。

 ニャルラトホテプとヨグ=ソトースが今までの事件に関わってきたんだから。『■■■■■』を理由に何かが起きたなんてことも十二分にある。

 

 

 

『数十世紀以上も前だから気のせいかもしれないが』

 

「ただの記憶違いの可能性でてきたな……」

 

 

 

 ノーデンスさん、威厳ではあるが見た目は爺だからなぁ。それによく考えたら数十世紀単位だと少なくとも千年以上も前だし、時空間が現実とは同様じゃないのだから余り参考にならない。

 

 やがて引き裂かれたヨグ=ソトースの肉体は再生を終えると、ここからが本番だと宣言するように無尽なる肉体を極限にまで膨らませると、世界をすべて塗り潰して告げる。

 

 

 

 

 

『さあ来るがいい、小娘共。お前達との因果をあらゆる過去・現在・未来から排除してやろう』



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第21節 ~豬√l譏(■■■)~

 内包された宇宙という概念そのものが敵となる。それがヨグ=ソトースの基本的な攻撃だ。

 

 かの生命を象る球体はそれに触れただけで永久的な痛みと損失を受けることになる。

 故に完全回避が大前提であり、被弾は即ち『死』を意味するとフレイムとノーデンスは忠告してくれた。

 

 だけどアドバイス一つで何とかなるなら苦労しない。

 攻撃の正体はほとんど掴めない。なにせ広がった世界そのものがヨグ=ソトースであり、前後左右上下の八方から宇宙の法則として襲来してくる。

 

 時としてそれは痛みであり、時としてそれは法則であり、時としてそれは運命である。

 

 

 

 ——ねぇ、なんで貴方は私を助けないの?

 

 

 

「うるさい……」

 

 

 

 ——剣聖を助けたのに、私は助けないの?

 ——錬金術師は解放したのに、私には何もないの?

 

 

 

「うるさい……っ!」

 

 

 

 

 中には感情もあった。その感情の誰の物なのかも即座に理解した。歴代の『ドール』と成り果てた魔女の断末魔だと。狂気に陥る直前に発した理性が発した残響であると。

 

 俺は確かに色んな人達を『因果の狭間』から解放してきた。

 アニーを最初に、ハインリッヒ、ソヤ、ギンがそうだ。そして狂気に囚われて異形と化したラファエルも同じと言えるだろう。もしかしたらベアトリーチェもそうかもしれない。

 

 だからこそ思う。誰だって思う。『ドール』であれば、『因果の狭間』に囚われた見知らぬ誰かは、救われる他の魔女を見て俺に対して思うだろう。

 

 

 

 ——なんで私は助けてくれないの? 

 ——なんで私は見捨てられるの?

 ——なんで私はここにいないといけないの?

 

 

 

 

 

 ——お前はあいつらを助けたくせに。不公平だ。

 

 

 

 

 

 そりゃそうだ。皆が皆が最初から俺にとって大切な友人じゃない。

 この解放を切っ掛けに繋がった仲であり、始まりは皆平等なんだ。アニーもハインリッヒも、ここで咆哮する魔女達の怨嗟と同じで繋がりなんてない。

 

 じゃあどうしてアニーを助けることができた。偶然だ。偶々だ。

 あの全てが変わった朝。俺の目の前にただバットがあったから手に取っただけだ。だからそこからアニーが出てくるなんて思ってなかった。

 

 故にこの始まりは決してアニーである必要性はない。

 それこそ今ここで怨嗟を溢すドールの誰かだった可能性だって十二分にあったんだ。彼女らが恨みを溢したくなるのは当然だと言える。

 

 

 

 悲しい、苦しい、怖い、妬ましい、悍ましい——。

 

 

 

 どんなに形容しても俺の理解では捉え切ることはできない。むしろ理解しきってはいけない。

 知ってしまえば永続的な狂気に晒されると本能が警鐘する。その果てが『ドール』なんだ。この感情の発露は確かに同情すべき被害者達の叫びだ。だけど寄り添ってはいけない。残酷に、無情に、彼女たちの声を踏みつけないといけない。

 

 なんて狡猾で悪質な攻撃だろう。藁にも縋りたい人々の気持ちを蹴落とさないと自分が吞み込まれてしまう。

 生存を望む声に耳を塞いで知らんぷりをするなんて、まるであの時と同じだ。『七年戦争』の時と同じだ。

 

 

 

 ああ、こんな気持ちいつ以来だろう——。あの戦争では人々の『悪意』がこれでもかと蔓延していた。

 

 誰もが今を生きるだけで……いや、死にたくない一心で人々の未来と命を略奪するのが当然だった日々。その先に確約された平穏も安寧もないのだから人や政治への信頼に価値なんてない。今ここで死んだ方がマシなんじゃないかと考えてしまうほどに悪意が満ちに満ちていた。

 

 俺だって幼い頃はそこにいて、人を殺したことはなくても廃被りのパンなどを口にして飢えを凌いでいた。泥水を啜ってむせ返りながら地獄の只中で毎日這っていた。

 

 

 

 視界の片隅や耳に聴こえる俺よりも幼い子の呻き声なんて知らんぷりしながら——。

 

 

 

 人はみんな歴史に映る戦争の傷跡なんて所詮は映像だけの世界で、頭では理解できても心と本能で理解することができない。したくてもしきれないんだ。

 それは俺自身が知っている。俺だって自分が『七年戦争』に巻き込まれるまでは、世界大戦とか原爆被害とかの人的災害を本当の意味で理解できていなかったんだから。

 

 映像資料に残る世界大戦や、自国の戦争映像を見ても怖いとは思いながらも、カッコいいとか凄いとか言いながら興奮していた。ゲームの影響もあって呑気に笑いながら「大日本帝国万歳」とか当時の人からすれば不謹慎であろうことを口にしていた。それぐらい、現代にとって戦争なんて御伽噺の夢物語な印象だったんだ。

 

 だから実際に目にしてこれでもかと絶望した。

 お腹が満たされるだけでどれほど幸せか。空に浮かぶ点が、ただの鳥だと気づいた時のどれほど安心感を得たか。こんな当たり前がどれほど掛け替えのないものだったか。それを取り戻すのに、どれほどの時間を有したか。

 

 だけどそんな当たり前に到達する前に死を迎えた人物は大勢いた。

 俺より年老いた人物は山ほどいた。俺より年下の人物も山ほどいた。死体の海を。山を越えて、今の学園都市を筆頭に生きている人類はその地獄を目の当たりにしてきた。

 

 当然『七年戦争』に見捨てられた人達は思うだろう。この場で怨嗟する『ドール』と同じように、生者に問い質すだろう。

 

 

 

 ——なんで私を見捨てて、あの地獄を歩いて行ったの。

 ——なんで私を見捨てて、その手にある食料をくれなかったの。

 ——なんで私を見捨てて、生きているの?

 

 

 

 ——なんで私は死んで、お前は生きているの?

 

 

 

「うるさぁぁああああああああいっ!!」

 

 

 

 なんでそれを俺に問うんだよ! こっちは自分だけで精一杯なんだよっ!! 

 親も友達もどこかに消えて絶望だけが腹と心を満たす寂しい世界の中だと、自分が助かろうとするだけでもおかしいのかよっ!     

 

 

 

 

「なんて傲慢で我儘で屁理屈なのでしょうね、こいつらは」

 

 慟哭する俺の前に一人の少女が立つ。それは考えるまでもなくソヤだ。

 今の俺からすれば彼女はどんな女性よりも優しくて美しく見えた。迷える子羊が救いや道標を見出した時はこんな風に見えるのだろう。

 

 

「破門された身でもシスターですので、こういう輩に対する処世術は私知っておりますの♡」

 

 そう言いながら彼女は宇宙空間にも等しい暗闇の中、星のように瞬く名も知らぬ魔女達に向けて凛然と告げた。

 

「逆に聞きましょう、ドール諸君。あなた方はどうして『狂気』に魅入られたのですか?」

 

 ソヤからの問いに応える魔女たちの声はない。言われてみればそうである。確かに俺は魔女達を救わなかった、救えなかった。

 けれどもっと単純な考えがある。そもそも何でここにいる魔女達は『魔女』を求めて『ドール』になったのか。それさえなければ根本的に救う必要さえないのだ。

 

「どうせ『魔導書』の魔法に惹きつけられたからでしょう? 清き死人を腐った生者にしたり、身に余る力を欲したり、叶わぬ恋のために略奪したり」

 

「まあ中には『生きたい』という純粋な思いでそうせざる終えなかった人もいるでしょうけど」とソヤは溢す。

 

「でしたら自業自得ですわ。ただ力を求め、その力を制御できずに破滅しただけ。どこにでもある三流の不幸話……貴方がたにレンさんに物申す権利なんてありませんわ」

 

「それに」とソヤは心底つまらそうに話を続ける。

 

「触れた時に理解したはず……これは正しい力でも、純粋な力でもない。最終的には破滅、堕落、失墜を招く狂気の力であることくらい」

 

 返答はない。魔女達の怨嗟は少しずつ小さくなっていく。

 

「その段階で拒むこともできたはずですわ。魔女は『他人から与えられる力』じゃない。魔女は『自分から求める力』ですわ。あのヨグ=ソトースは控えめに言ってゲスのクソ野郎ですが、どんなに悪質な条件下でも他者に拒否権を与えた契約をしますの。その拒否権を使わなかった時点で、貴方がたに何をどうこう言う権利はありませんわ」

 

 それはヨグ=ソトースの『門』を自分の手で閉じた経験があるソヤだけが言える力強さに溢れた言葉だ。そしてそれを魔女達は知っているからこそ何も言えない。今度こそ魔女達の怨嗟はどこかへと消え去っていった。

 

 

 

 ——でも、それで納得できるわけがない。

 

 ——正しいとか正しくないとかじゃない。

 ——悪いとか悪くないとかじゃない。

 

 ——俺自身が納得できないんだ。アニーを助けたキッカケや始まりが小さなことなのだから、同様にその小さなことが彼女達にも向けれたら助けられるかもしれないんだ。

 

 

 

 ——こんな声を知ったら、俺はどうすればいい?

 

 

 

『ほお。精神面を攻めてみたが耐えてみせたか』

 

 しかし間髪入れずにアイツの声が虚空から轟いてきた。

 

「随分と小賢しい手を使いますわね? それだけ追い詰められるとでも?」

 

『なるべく綺麗に保存したいだけだ。貴様らを傀儡にする時、剣聖のような二度手間は無駄だからな』

 

 だから次からは容赦はしない。暗にこいつはそう言っている。

 それが見栄でもなんでもない事実であるとソヤは共感覚で理解したのだろう。「気をつけてくださいませ」と告げると同時、気持ちを切り替えて今度こそ戦闘は開始された。

 

 そしてそれは事実となる。瞬きをした瞬間、虚空の宇宙にヨグ=ソトースの極大の触手が隕石のような絶望となって振り落とされる。

 前に行けば直撃。横に動けば銀色の球体に触れてしまう。下がれば掠めるだけだが、掠るだけでも致命傷だ。だったらどうするべきか。

 

 いや、ここは宇宙空間だ。『OS事件』の時を思い出せ。あの異形との戦闘で、ミルク等一緒にどういうことをして危機を脱した?

 

 そう——上に跳んだから助かったんだ。だけど今回の場合は違う。下に逃げることが最適解となり、紙一重のところで触手を回避する。

 宇宙空間では無重力下である以上は回避行動は三次元にすることになるし、摩擦がないから感性のまま動き続けることになる。これは戦いにおいて非常に重要なことだ。

 

 銃弾などに狙われた際、一番安全なのは遮蔽物に隠れることだが、次に安全なのは動き回ることだ。よく反動で照準がブレるから下手に動かないほうがいいというが、そんなのは絵空事だ。

 ことわざに『下手な鉄砲も数撃てば当たる』という言葉があるように、数撃てば当たる以上、そもそも撃ちにくい状況を作るほうが安全で効果的だ。試行回数が少なければ被弾率も激減されるのだから。

 

 故にこの空間では感性さえも利用した三次元的な逃げ方が最も純粋で優れた回避方法となる。当たらなければどうということはない。というか当たれば致命傷なんだから、そうするしかない。

 

 それほどまでにヨグ=ソトースの攻撃は驚異的なのだ。単純な質量からくる触手を振るうだけでも電車が突っ込んでくるのと同様であり肉塊へと変貌する。球体に触れれば触れた部分が腐敗してしまう。

 

 それだけに留まらない。どこからかこちらの動きを止めようと『鎖』を空間に漂っているのだ。

 あれには明確な敵意がある。回避行動の最中、擦れ違うだけでただの鎖じゃないことが分かる。あれには熱と概念的な重さがある。あれに捕まったら最後だということが本能的が警鐘する。

 

 というか隙がない。明らかにこちらを弄ぶような余裕さを感じるほどだ。

 最初の精神的な攻撃もそうだが、アイツはこちらを極力傷つけないようにしている。一撃で命を刈り取るか、拘束して抵抗できないようにするか。それを可能にするほど力量の差が大きい。

 

「どうにかならないのか!? 弱点とかないの!?」

 

『ニャルの野郎はともかく、あいつに弱点とかない!』

 

『我が魔法でも守るだけで手一杯だ!』

 

「これじゃあ打つ手ありませんわ!」

 

 ソヤのチェーンソーも、俺の流星丸も当たっても手応えがまるでない。だから二人に頼ってみても、フレイムは実体がないからアドバイスしかできないし、ノーデンスは本人が口にした通り即死級の球体を魔法で触れずに逸らすことで俺達が動きやすいようにしてくれている。

 

 だがそれでもヨグ=ソトースに届くことがない。その理由は明確だ。『巨大すぎて距離感が掴めない』のだ。

 ここは事実上の宇宙空間であり、大気というものは存在しない。遠くになればなるほどボヤけるという『空気による光の干渉』が一切ないのだ。同様に空気中の水分がないから、雨の日でよくある遠くが霧が掛かっていて見えにくい現象ということも起きない。

 

 それだけならむしろ見やすいと考えるかもしれないが、日常生活で見る視界というのはこのようなものが当然であり、同時に基準となる。

 その基準がなくなってしまえば、いくら遠くが鮮明に見えるようになっても脳の処理が追いつかずに遠近感を錯覚させる。そこにヨグ=ソトースの規格外の巨体も合わされば、今あいつがどこにいるかなんて正確に分かるわけないのだ。

 

 圧倒的で絶対的な力の差をこれでもかと見せつけられている。

 前回はギンのおかげで退けることができたが、こうやって対面して真っ向勝負するのは初めてだ。ここまで単純な力の差を見せつけられるだなんて思ってなかった。

 

 アイツまでの距離が分からない。目の前にいるのか無限の彼方にいるのか。たった一つの尺度が消えるだけで漠然としてしまう人間の認識力は、それでもヨグ=ソトースの異質さを少しずつ虫喰いのように脳を侵食していき戦意を削り取っていく。

 

 ダメだ。長時間戦うのもダメだ。こいつは『因果の狭間』を管理することができる超常の中でも頂点に立つ生物だ。時間という概念に属する以上、時間を掛けるだけでこいつの情報が俺たちを蝕んでいく。

 

 じゃあ短期決戦で仕留めようにも不可能だ。それだけ超越した技量も武力も持ち合わせていない。

 

 足りない。何もかも足りない。アイツに届かない。

 最低でも『距離を定める軸』と『攻撃を通す技量』がないと拮抗することさえできない。

 

 

「ぜぇ——ぁ——」

 

「大丈夫か、ソヤ!?」

 

 

 情報を受け取る力は共感覚を持つソヤのほうは優れている。だが今回の場合は逆効果だ。

 空間そのものが超常であり、相対するヨグ=ソトースが超常の権化なのだから加速度的に脳を侵食させていく。呼吸するだけで猛毒の情報が身体を駆け巡って侵していく。

 

 こんなのをバイジュウは『理解』したというのか? 

 セラエノの情報を拡散させて強制進化を促すという『プラネットウィスパー』を受け切ったというのか? 

 

 つくづくバイジュウが人間離れした知能と胆力を持っていると絶句しそうだ。

 

 

 

「あっ——」

 

 

 

 そして、その時はついに俺にも訪れた。

 脳内に酸素が巡らない。異質な情報が五感を狂わせていく。触覚も嗅覚も麻痺して外界の情報が処理できない。視覚が機能を再構築していき『人が理解するには早すぎる次元』の情報が侵食してくる。

 

 人間としての次元と、超常としての次元が齟齬を起こす。まるでホラービデオの演出のように断続的に『■■■ー■』の情報が流れ込んでくる。

 

 理解するな。理解しちゃいけない。

 だけどどうやって引き返せばいい。ここには目印となる物なんてない。ただただ情報という名の引力に落とされて、この『■ザ■ー■』へと接近していく。

 

 呑み込まれるな。手を伸ばせ。この『■ザトー■』を理解したら人には戻れない領域に到達してしまう。

 

 伸ばせ、伸ばせ。何でもいいから伸ばし続けろ。

 

 どこに——?

 誰に——?

 

 決まっている。この宇宙空間に僅かに明滅する『温かい星』に——。

 

 

 

「——星?」

 

 

 

 ここに輝く星はヨグ=ソトースか、魔女達の怨嗟しかない。だから『温かさ』なんてあるはずがない。

 

 だとしたら、あの『星』はなんだ。しかも『二つ』ある。

 それは『流れ星』だ。二つの流れ星がこちらに襲来してくる。

 

 

 あれは——いったい——?

 

 

 

 

 

『なぜお前らがここに……』

 

「おいおい。呼んだのはお前だろう、妖の王よ」

 

「私はよくわからない付き添いだがな。だが決着をつける意味では悪くない」

 

「確かにのぉ。ならこうしよう」

 

 

 

 そう。その『二人』は『眠りについた』ことで夢の世界への扉を開いた。その事実をレンは知らないが、確かに現実の世界であった出来事である。

 

 

 

「勝負内容はこうだ。どっちが先にアイツを倒すか——」

 

「シンプルでいい。その勝負乗った——」

 

 

 

 ギンと麒麟の二人が、ヨグ=ソトースの宇宙に流れ星となって襲来したのだ。



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第22節 ~逾櫁ゥア邨らч(■■■■)~

 流星となりて宇宙空間に瞬く輝きが二つ。

 一つはギン。一つは麒麟。その二人が突如として、俺たちの前に現れた。

 

 疑問に思うなら簡単だ。こっちからすれば訳が分からないのだから。

 だけど納得はいく。そもそも俺達がこの世界に来たこと自体がミルクのデータを解析すると同時に放たれた光のせいだ。そのせいで眠りに着いてドリームランドに招かれた。

 

 だとすればキッカケ一つで二人がここに来るのは当然と言える。

 二人とも俺が……というよりソヤとファビオラのように服装が多少変わっているのだから。とはいっても元々二人とも和服だったり民族的な衣装を現代風にしただけだから目に見えてわかりやすい変化はないんだけど。

 

「久しぶりだな、妖の王」

 

 ギンは刀を切先を構え直す。刀の切断部分を接触させる持ち方は、相手を確実に殺すというギンなりのスイッチの入れ方だ。霧吟の件もあってヨグ=ソトースに対する執念など並大抵の物ではない。

 

「気を付けろ! そいつはどこまで行っても距離が掴めない!」

 

「こんだけデカければ当たる時は当たるじゃろ。現に儂はそうやって何度か切ったぞ?」

 

 そうだった……! ギン爺って、そういうこと平気な顔してやる天才肌で、ハインリッヒですら投げ出すほどのやつだった……!

 

 意気揚々とギンは一瞬で間合いを詰めていく。

 

 一歩で音を置き去りにし——。

 二歩で光を越え——。

 

 

 

 三歩で抜刀——。

 

 ギンの究極剣技『逆刃斬』が空間・時間・座標を超えて、あのヨグ=ソトースの胴体をたった一撃で、この宇宙空間ごと半身を断絶させた。

 

 

 

『■■■■■——ッ!』

 

「うそぉっ!!?」

 

 あんなに苦戦したのに、ギンの手に掛かればこんな簡単にも熟るもんなの!? 

 そりゃハインリッヒだって匙投げるに決まってるじゃん!! ハインリッヒが脱帽する理由が肌身で分かったぞ!?

 

「……なるほど」

 

 ヨグ=ソトースの空間を震わせる断末魔の中でもソヤの小言を聞き逃すことはない。

 何がなるほどなんだ? この一連で何かしらの弱点を見つけたのか? その疑問を『共感覚』で感じ取ったソヤは急ぎ足で説明を始めた。

 

「恐らくですが概念的な距離がありますわ! 『時間』とは即ち『光』! 光速に達するギンさんの剣技だからこそ、その概念を破って対抗していますわ!」

 

『ほお。そのことに気づくとはな、エンジェルス』

 

 マジでギンの剣技って光超えてるの!? それもう色々とおかしくないかなぁ!? いや、だからこそ『契約者』として招かれたとも考えられるのか!?

 

「ですが同時に接触するには『光』か『時間』に干渉してないと不可能ということでもありますわ! 例え今そこにいて近づこうとしても届ききらない『概念的な距離』は、ゼノンのパラドックスのように永久に到達しきれないことを意味してもいる!」

 

「そのゼノンの何とか、石の海の副題があるアニメで聞いたことあるな……」

 

 あれは身長が極限にまで1−1/2−1/4−1/8……という感じで数学上での限りなくゼロに近づくみたいな感じだけど。

 

「事態の全貌を把握はできてないけど、概念的な距離の解消か……。ならば好都合というもの!」

 

 今度は麒麟が耳から綿棒みたいな棒状の小さな物を取り出す。

 それは一瞬で太く、逞しく、大きくなっていき、やがては麒麟の女性にしては大きめの手に収まり、そして更なる巨大化を始める。最終的には長さは3m、太さとしては成人男性の二の腕ほどとなり、中国武術でよく見る後ろ手に棍を構える体勢へとなった。

 

 これが噂で聞いた麒麟の異質物武器か。

 あのギンと拮抗してると聞いたが……それはあくまで単純な実力での話だ。

 

 だというのに『概念的な距離』を好都合? 不敵に笑ったことも相まって何を考えているのか全然分からない。

 

 しかし、起死回生の一手はそれが始まりだった。

 麒麟は武器を突き出して伸ばす、伸ばし続ける。宇宙の果てにいるヨグ=ソトースへと伸ばし続ける。前人未踏の世界へと挑む。

 

 人類が誰もが夢見る宇宙の最果て。人類がそこに辿り着くには、人という存在はまだ弱くて、儚くて、身勝手だ。自身を変革するよりも環境を変えようと『侵略』を選ぶ残酷な生き物だから。

 

 だからこそ麒麟こと『無形の扉』はバイジュウを求める。

 バイジュウは優しくて聡明な少女だから。宇宙の最果てに辿り着くのに『侵略』ではなく『適用』を選べるという誰も、何も傷つけることなく、踏みつけることもなく、軽んじることもなく歩んでいける唯一無二の存在だから。

 

 

 

 それは確かに、素敵なことかもしれない——。

 

 

 

 だけどその果てに行けるのはバイジュウだけだ。その結末にはバイジュウは孤独な生命となってしまう。

 

 宇宙の海。星のゆりかご。その中でバイジュウは独りぼっちで人類の『夢』を背負わされて宇宙の深海で溺死するだろう。

 

 それこそが人間の身勝手さだ。『夢』なんて甘美な響きのためだけにバイジュウを犠牲にする。その『魂』を凍死させる運命へと送り出す。

 

 そんなのを許すわけにはいかない。けれどもその夢を否定することもできない。

 行き止まりの世界の只中では『無形の扉』の目的も当然と言える。ニャルラトホテプでの出来事でサモントンの領土が荒らされて食料供給率が下がるのだから、革命的な変化が起きないと学園都市以外の国々は自滅の道を余儀なくされる。

 

 そういう意味では『無形の扉』は優しいと言える。

 人に絶望してるからこそバイジュウに可能性を求めるが、同時に人という存在に希望を根付かせるためにそのようにしているのだ。宇宙という世界に進化、適用させようと人類を促そうとしている。

 

 その縮図が今だ。相対する宇宙はヨグ=ソトース。到達者はギン。希望の導き手が麒麟。見届ける人類が俺やソヤだ。

 人類が触れるにはまだ早すぎる概念との戦い。可能性なんて未知数の狂気の集合体。

 

 

 

 そしてその可能性を——麒麟は見事に届かせた。

 あの異質物武器——『如意棒』は確実にヨグ=ソトースの胴体を貫いた。

 

 

 

『この私に接触するだと!? 光にも時間にも干渉することなく!?』

 

「『斉天大聖の棍棒』とは即ち『如意棒』のこと! 元より『如意棒』とは天と地獄を繋ぐ『錘』だ! 『天竺と地獄』という概念を繋げられるなら『宇宙空間における中心となる座標』と『お前』を繋ぐことなど造作もない! となれば概念的な距離など無意味! 『光』や『時間』なんてものは『観測者』によって変わるんだからな!」

 

「つまりどういうこと!?」

 

「これで私達もヨグ=ソトースの概念距離を破れるってことですわ!」

 

「そう! 今この場でおいて私はお前を『観測』した! 捕捉して『如意棒』で捕まえた!」

 

 シンプルで大変分かりやすい! 今まで超常の意味不明な情報を押し付けられたんだから、これぐらい単純でバカみたいな理由の方が脳みそがスッキリするってもんだ!

 

「だが『観測者』である私がいないと、この概念突破はできない! 攻撃は全部あなた方に一任させますっ!」

 

「でしたら私が麒麟さんのガードに回りますわ! ノーデンスさんも同様に!」

 

『任せておけ』

 

「ありがとう、みんな!」

 

「この借りはバイジュウ様によろしくお伝えくださいね?」

 

「それとこれとは話は別っ! バイジュウに聞きなって!」

 

 足場となるほどに巨大化した如意棒に着地し、『月光百合』のおかげで強化された脚力を使って全速力でヨグ=ソトースへと向かっていく。

 この如意棒が重力場の役割を果たしているのか、側面を走っても足は空に投げ出されることなく走り続けられる。いざとなれば三次元的な逃げ方もできるが、

 

『ふっ。それがどれほど愚かなことか思い知らせてやろう』

 

 それは宣告だ。殺意でも悪意でもない。

 人間がゴキブリなどの害虫を潰すように、ただ処理するという意思と目的を持った時に発するほとんど無機質で機械的で自動的な殺戮への宣告だ。

 

 

 

 沸騰する——。ヨグ=ソトースの情報が。

 脈動する——。ヨグ=ソトースの世界が。

 胎動する——。ヨグ=ソトースの狂気が。

 

 

 

 そこから放たれるのは宇宙を埋め尽くす『銀色の球体の壁』だ。

 いや、壁じゃない。『世界』だ。前後左右上下八方から『銀色の球体』が風船が萎むかのように俺たちへと接近してくる。

 

 壁が迫ってくる——。

 空が落ちてくる——。

 地が上がっていく——。

 世界が押し潰してくる——。

 

 単純無比な回避不可能なオールレンジ攻撃。逃げ場なんてありはしない。切り開こうにも『銀色の球体』はフレイムとノーデンス曰く触れるだけで触れた部分が永久的に消失する代物だ。

 

 本能的な恐怖が全身を駆け巡る。今にも呼吸を無くして窒息死してしまいそうだ。

 けど立ち止まるわけにはいかない。理性で本能を制御して乗りこなし、この状況を打破しないといけない。刺激する本能は生物的な恐怖ではなく生存本能のほうだ。どうにかして打開策を見出さないといけない。

 

 頭の中で巡らせろ。枝分かれした選択の道筋を。その果てにある実る葉の軌跡を。

 

 

 

 ——ダメだ。分からない。聡明じゃないから糸筋さえ見出せない。

 

 

 

 迫るのはある意味では一つの世界なんだ。ヨグ=ソトースが内包する世界。自分にとって害となる者を排除する一面を具現化したもの。それがこの銀色の世界なんだ。

 

 だけど諦める理由にはならない。

 ギンは到達した。麒麟は示した。

 

 この宇宙空間においてヨグ=ソトースに対抗する術を自分の力だけで証明してみせた。人類の可能性というものを。

 

 だったらこっちも応えないといけない。

 俺だって——ヨグ=ソトース(宇宙)に立ち向かう人としての可能性を!!

 

 

 

「どけぇぇええええええ!!」

 

 

 

 概念的にはヨグ=ソトースの宇宙だが、腐ってもここは月面だ。『月光百合』による身体能力は増強は健在だ。それを念頭に入れ、再計算しながらも突き進め。

 

 一閃して銀の球体を第一波を測る。まだまだ深い。世界の果てには到底届かない。

 二閃、三閃と第二波と第三波を切り捨てる。まだ見えない。世界の果てを観測できない。

 

 波は続く。押しては寄せてなんてものはない。ただただ津波のように押し寄せてくる。絶望の象徴となって呑み込もうとしてくる。虚無へと誘う狂気を。

 

 切り捨て、薙ぎ払い——。

 切り捨て、薙ぎ払い————。

 

 切り、薙ぎ、切り、薙ぎ——。

 切り、薙ぎ、切り、薙ぎ————。

 

 

 

 それでも見えない——。

 それでも届かない——。

 

 この銀色の世界を突破する算段が何も見えない。

 もっと。もっと力をくれ。月光百合だけじゃ足りないんだ——!

 

 偶然でも、奇跡でも何でもいい……! 

 ヨグ=ソトースに届くための必要な力が欲しい!

 

 

 

 ——もうしょうがないなぁ、レンお姉ちゃんは♪

 

 

 

 応えてくれたのはどれでもない。

 応えたのは軌跡だった。この声の正体を俺は知っている。スクルドだ。恐らくはもっと先にいる未来のスクルドだ。

 

 

 

 ——確かにドールはレンちゃんを恨む人も無数にいるね。

 ——なんであの子は助けたのに、私は助けてくれなかったの? って。

 

 ——だけど同時に感謝してるのもいる。レンお姉ちゃんが今まで倒したドールの中にだって。

 ——この永劫に続く運命を断ち切って死なせてくれたことに。

 

 

 

 ——だから届けるよ。みんなの力を。みんなの思いを。願いを。

 

 

 

 スクルドを通した魔女の力と思いが『虹色の翼』となって放射される。

 羽化した蝶のように、その極彩色の翼は黒一色の宇宙空間で輝きを放つ。南極で見るオーロラのように煌びやかに華やかに。

 

 一つ一つの『色』が魔女達の思いだ。記憶だ。感情だ。

 流れ込んでくる。色々な魔女達の力と能力が。それらを手繰り寄せ、研ぎ澄ませて、選別し、打開に必要な力を絞り出す。

 

 今なら分かる。あの問いが。『OS事件』での問いが。

 

 

 

 ——あなたは海が何色に見えますか?

 

 

 

 その答えと返答を今感じ取った。理解した。

 わざわざ言葉にする必要なんてない。この思いを背負い切ってヨグ=ソトースに挑む。

 

 雪崩れこむ銀色の世界を翼で押し飛ばす。虹色の奔流が銀色の世界を縫うように裂いていく。おかげで見え始めた、銀色の世界の果てが。

 だからこそ絶望は続く。この世界を破るにはまだまだ層が厚い。何重あるんだ。次元が違うというのがもっと正しい表現なのだろう。

 

 あと10層——。果ては見えたが、その果てに行くには途方もない時間か、玉砕覚悟の進軍しかない。

 何せ迫るのは前方だけじゃない。後方どころか上下左右からも銀色の世界はきているのだ。時間の猶予なんて問答ない。

 

 正面突破しか許されない状況。だけど触れるだけで永久消失の痛みと損失を負う銀色の球体に裸一貫で特攻するのは自殺行為だ。

 

 

 

 ——甘いねぇ。エクスロッドのお嬢さん。

 ——この子は弱いんだから。もっと上げなきゃ。

 

 

 

 困り果てた時にスクルドとは別の声が届いた。そしてその声も俺は知っている。

 関わった時なんて僅かだ。それでも確かに俺にこの声を知っている。

 

 

 

 ——僕の力を貸してあげるよ。『デックス』の一員としてではなく、僕個人のお礼としてね!

 

 

 

 それは『ウリエル』だ——。

 サモントン事件でヴィラクスを助けるために全霊を込めて、その命と魂を燃やし尽くした男の声が俺に届いた。

 

 泥人形の巨腕が俺の周囲に顕現する。おまけに俺の手にもグローブみたいに泥人形の腕が装着される。

 見た目以上に重いが、『月光百合』と『虹色の翼』を携えた今の俺なら……この程度なら屁でもない!

 

 

 

 これなら——!

 

 

 

「うおおおおぉぉぉぉおおおおおおおお!!!!」

 

 

 

 銀色の世界を突破できる!!

 

 ぶん殴って銀色の世界を真正面から押し出していく。

 触れた側から巨腕は塵となっていくが、質量はまだ残っている。あっちも数なら、こっちだって数で押し通るのが道理というもの。

 

 殴って、切って、押し出して——。

 殴って、切って、押し出して——。

 

 殴って——!

 切って——!

 押し出す——!

 

 

 

『こいつら……っ!』

 

 

 

 ヨグ=ソトースの不快な声は俺たちに向けられたものではない。ここにいないスクルドとウリエルに向けたものだ。

 どうしてあの二人が力を貸せる状況なのか。片方は契約者で、片方は死者だというのに。だけどそれは俺でも分かる。

 

 この宇宙空間はヨグ=ソトースが内包する世界が形となったもの。つまりは『門』が開いて『時空位相波動』や『因果の狭間』といった世界の次元を穿つ力が充満している状況だ。

 

 ここでは『時間』という概念が曖昧だ。今ここは『未来』かもしれないし『過去』かもしれない。

 そんな状況下なら、奇跡の一つや二つ起こってもおかしくない。それまで培った軌跡があるのだから。

 

 

 

 ——いっちゃえ、レンお姉ちゃんっ!

 ——いけっ! レンッ!!

 

 

 

 ついに銀色の世界を抜き出し、如意棒の先にいるヨグ=ソトースをこちらも捉えた。距離としてはもう1キロもない。

 だが、同時に力を使い果たした虹色の翼と泥人形の巨腕は霧散。夢のように儚く散っていく。ここから先は二人の力を借りることはできない。俺とギンの力で何とかしないといけない。

 

『この塵芥どもが!』

 

「させん!!」

 

 ヨグ=ソトースの隕石のような重圧を誇る触手をギンは一刀両断してこちらの道筋を繋げてくれる。ギンの助力さえあれば、この距離を詰めていくなんて造作もない。

 だがギンでさえ捌き切るのには限度がある。強力な一撃は確実にギンに処理してくれるが、それを縫う様に差し込まれる小さな一撃である『樹木のほどの太さの触手』は速さも量も先ほどとは桁違いだ。

 

 それさえもギンは可能な限り対処するが、止められずに押し寄せてくる触手がきたらこっちで対処するしかない。月光百合の効力もあって少し踏ん張れば断つことができるが、一つ捌いたところで続けての攻撃が間髪入れずに差し込んでくる。その度に流星丸を振るうが、振るうたびに疲労がたまって切っ先が重くなっていくのが分かる。

 

 一々対処していたら、こちらが先に疲弊してしまう。どうにかしてこの問題を解消しないとジリ貧だ。

 

「フレイム! どうにかしてヨグ=ソトースの攻撃に対抗できない!?」

 

『これぐらいなら今の私でも何とかなるよ!』

 

 指を鳴らすと同時に俺の周囲に炎がいくつか灯される。数は合計で八つで、円を描きながらも均等な間隔を空けて何かを探るように揺らいでいる。

 

 炎の意味を直感した——。そしてその直感は正しかった。

 

 右手前の炎が大きく揺れる。それに反応して俺は左に大きく回避行動をとり、揺らいだ炎の先に如意棒が壁となるように移動すると、直後にヨグ=ソトースの触手が襲来してきた。

 

 つまりこの炎は『探知機』だ。空気だか魔力だか何を探知して反応してるかまでは分からないが、それを捉えて炎を揺らがせることで先読みをしてくれている。そういう類のものだ。

 

 これなら捌くのは最低限度だけでいい。これならヨグ=ソトースの接触まで何とかなる。

 足を止めることなく、手を動かし続け、思考の回転を加速させる。脳の処理が追い付かなくなりそうだが、それを意思の力で極限にまで踏ん張って突き進んでいく。

 

 

 

 3——。

 2——。

 1——。

 

 

 

「捕まえた——」

 

 

 

 とうとう詰め切った。宇宙空間という人間の観点からすればほぼ無限にも等しい夢幻の世界。その果てにいるヨグ=ソトースへとついに触れることができた。

 改めて見るとヨグ=ソトースは巨大で強大だ。人類が立ち向かうにはあまりにも次元が違う存在。こいつに挑むということは、それは世界の理や概念に挑むということの裏返しでもある。

 

 けれど、それで「はい、そうですか」と言って納得なんかできるわけがない。

 虹色の翼を通じて魔女達の思いを知った。霧吟のようにどれほどの思いと願いがあって、魔法に頼るしかなくて、それによって狂気的な破滅を迎えたことを後悔した者がいたか。数えきれないほど多くの、多くの人々が魔法によって狂わされてきた。

 

 それが『ドール』なんだ。あのサモントンの空を覆いつくして流れ込んできた幾千万のドール達。それはすべて『被害者』なんだ。幾千万のドールですら、あらゆる時間の統合した全魔女の『欠片』でしかないというのに。

 

 だとすればこいつらに狂わされた魔女達はどれほどいるというのか。 

 今の人類は七年戦争を機に激減してしまったが、その前は70憶はいたという資料を見たことはある。生きている人だけで70億だとすれば、今まで死んできた人たちは一体累計でどれほどに及ぶのだろうか。そしてその内どれほどの数が魔女としての力を持ったまま果てたというのか。

 

 俺は知っている。ヨグ=ソトースの介入はギンが生きていた鎌倉時代から既に行われる。その時代から介入し始めたと考えるのは不自然だ。考えるならもっと根本的に簡潔に。人類史が始まると同時に魔女が生まれた可能性があることを考えないといけない。

 となれば被害者は『累計人口』に匹敵する可能性だってある。今まで生まれ落ちた人類の総数は紀元前5万年を始まりとした七年戦争が起こるまでだと『約1082億人』と推定されている。

 

 いったいその何%が魔女になった? 0.001%でも1億の魔女がいるということになってしまう。それを考えてしまうと悍ましい。狂気を知ってしまいそうになる。

 

 

 

 だから——そんな過酷かつ破滅的な末路を迎えさせた諸悪であるお前だけは許してはいけない。

 

 

 

 

「確かにお前は世界を守ってるのかもしれないな。だけどお前のような存在に守られるなんて怖気が奔る。金輪際、縁を切らせてもらう!」

 

 

 

 接敵——。

 

 ヨグ=ソトースの身体と思わしき部分に流星丸を切りつける。刃は驚くほどにすんなりと通り肉片となって宇宙空間へと飛び散るが手応えを一切感じない。

 

 驚きはしない。やっぱりこいつは根本的に生物じゃない。

 情報生命体であり、超常の中でも頂点に立つ存在。『時間』や『空間』を司る概念にも等しいのがヨグ=ソトースなんだ。

 

 だからこちら側の通常攻撃なんて意味を成さない。アイツが攻撃しようとする瞬間、その一時だけは情報のチャンネルがあってヨグ=ソトースもこちら側の今までの攻防という形で干渉することはできるが、こうなってくると概念にさえ干渉するほどの魔法や技術を用いるか、攻撃へと転じる一時を狙った無謀なカウンターという形を取るしかない。

 

 それを可能にする方法があるとすれば——。

 

 

 

 

「レンッ! その流星丸を……霧吟の魂を貸せぇぇえええええ!!」

 

「————分かったッ!!」

 

 

 

 真正面から張り合えるギンにしかできないことだ。

 

 流星丸を投げ渡してギンは口で噛んで受け取る。

 愛刀である『天羽々斬』はここまでの攻防で傷み切っていて刃こぼれしている。だったら俺が持つよりもギンが持ったほうが何十倍も有意義に使える。

 

 それに——元々『流星丸』は霧吟の魂の破片を武器へと昇華したものだ。本来持つべき担い手に渡すことなんて当然だと言える。

 

「オラオラァっ~~!! 血が滾るのぉ~~!!」

 

 ギンであれば概念的な干渉が素で可能だ。それは最初の一手が証明してくれている。踏み出す時には既に抜刀術を終えており、寄せ来るヨグ=ソトースの本能的な迎撃を軽くいなしていく。

 だからヨグ=ソトースは警戒を強くする。俺なんて虫けら同然のように意識を外し、ギンへと向けて銀色の球体の飽和攻撃を開始する。

 

 その数、実に万を超える。だがギンにとっては何するものぞ。すべてを切り伏せて進み続ける。

 

 

 

 それでもヨグ=ソトースだってまだ本気じゃない——。

 雄たけびを上げると同時に情報が爆発したのを感じた。宇宙の遥か彼方から轟音とも似た震えを肌で感じ取る。

 

 

 

「う、そ……だろっ!?」

 

 

 肌先で感じ取った方角に視界を向けると、そこには驚愕の光景が起きようとしていた。

 いくら内包した宇宙でも、概念上とはいえやっていいこととやって悪いことがある。それをヨグ=ソトースはいとも簡単に行ってきた。

 

 

 

 

 

 ——『流星群』だ。星々の奔流がギンを目掛けて降り注いでくる。直径としては月よりも遥かに小さいが、それでも星は星だ。一つだけでも俺達をダニみたいにプチっと押しつぶせる単純明快かつ極悪の質量を宿している。

 

 ——しかも、それはすべて『銀色の星』だ。あれらはすべて触れた瞬間に永久的かつ防御を無視して、触れた部分を焼失させるヨグ=ソトースの情報を纏わせた星。絶望の深淵へと陥れる恐怖、狂気の具現化。

 

 

 

 

 

「絶刀——ッ!!」

 

 

 

 それでもギンは怯むことはない。むしろ未知なる領域に挑戦する強者としての笑みを浮かべながら立ちはだかっていく。

 

 星々を相手にしながらギンの進撃が止まることなくヨグ=ソトースの急所になる部分へと詰めていく。

 距離を詰めるたびに流星群の密度もまた濃くなっていく。となれば必然的に捌かなければいけない技量も要求値も跳ね上がっていく。

 

 俺だったら絶対不可能な挑戦——。

 人が星に挑む。人を星を撃ち落とす。そんな光景が繰り広げられ——。

 

 

 

 だけど、限界はあった。たった一瞬。ほんのわずかな動作が鈍くなった。

 

 その隙にギンは星を掠めてしまった——。

 

 

 

 

 

「ギンッ!!」

 

 

 

 

 

 消失していく——。ギンの目が、ギンの片腕が、ギンの片足が——。

 流星群なのだから一回の掠りで続けて被害を招いていく。規模を考えたら生きてるだけでも御の字の奇跡だ。

 

 

 

 だというのに構えを解くことはない——。

 消失したことなんて大したことではないと言わんばかりにギンは呼吸を済ませ——。

 

 

 

 全身全霊の一撃を————。

 今生どころか未来永劫、二度と触れないであろう魂の一撃を————。

 

 

 

 

 

 霧吟とギンの思いを束ねた一刀を————抜刀した。

 

 

 

 

 

 

「逆刃斬————ッ!!」

 

 

 

 一心一体となったギンの絶技は残る星々諸共にヨグ=ソトースを断ち切った——。

 

 身体というべきあらゆる情報が断裂され、ヨグ=ソトースの情報がバラバラとなって宇宙空間へと解き放たれる。

 

 ヨグ=ソトースの『目』に値する情報。『足』に値する情報。『手』に値する情報。『知恵』に値する情報。『本能』に値する情報。

 

 その他色々に値するすべての情報が宇宙空間の中で小惑星のように弾け込んだ。

 

 

 

 

 

 そこで露出する。概念を象る上で必要であろう部分。人間でいうところの『心臓』が——。

 

 

 

 

 

 それは『門』だ——。

 あの『門』がヨグ=ソトースという存在をこの世界に顕現させる概念である同時に核となる存在。

 

 

 

 俺はそれに手を触れ————そして『鍵』でも掛けるかのように、『門』を静かに閉じた——。

 

 

 

 

 

 

『そうか——。そこまでして我を拒むか』

 

「ああ。お前がいないと成立しない世界なんて、こっちから願い下げだ」

 

『ならば我を失う代償——。それによって生ずる対価を全うしろよ——』

 

 

 

 最後はとても静かだった。宇宙空間の中では音は瞬時に意味をなくす。ヨグ=ソトースは無音で消え果てた。

 無限の存在が虚空となって最初から存在しなかったと、夢だと言わんばかりに瞬きの時間もなく消え去った。

 

 

 

 これは人類が宇宙に触れたという、奇跡的な一歩を記した軌跡——。

 人類が可能性を示したことの証明——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——同時にそれは、禁忌の深淵を覗き見るという意味でもある。



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第23節 ~鬲皮視(■■)~












 晴れる。暗闇の宇宙が晴れる。

 月の内側で行われた激戦の末に、俺達はニャルラトホテプが待つ場所へと帰還する。

 

「すばらしいっ! まさかヨグ=ソトースを退けるどころか、討伐するとは!」

 

「心にもないことを言いやがって……」

 

「いやいや本気の本当で、本気の嘘さ。流石レンだ。オレが見込んだ器だけのことはある」

 

 ニャルラトホテプは惜しみない賞賛をこちらに向けてくれるが、こいつはどこまでこっちを馬鹿してるのか。

 大体ヨグ=ソトースを倒せたのは俺の力だけでは到底不可能だった。軌跡的にこの世界に流れ込んだ麒麟の発想力と、ギンの決死の突撃によるもの影響が大きい。それにこちらを躊躇なく攻めに転じさせてくれたソヤ、ノーデンス、フレイム。そして足りない力を補うために時間を超越して力を貸したスクルドとウリエルの影響もあったりと、皆の力が結束することで辛うじて届いたのだ。それを俺だけ褒められるなんてむず痒くしてしょうがない。

 

「……って、そうだ!? ギンは……っ!?」

 

 あの戦いでギンの片側が消失した。ドリームランドでの出来事は基本的に現実世界に反映されないとフレイムは言っていたが、ヨグ=ソトースの球体だけは別だ。

 あの消失はあらゆる時空間から隔絶させる消失だ。つまりは時間軸における因果に干渉するものであり、触れた時点で過去・未来・現在のどこであろうと消失を余儀なくされる危険なんて言葉が優しく感じるほどの魔法。それを受けたギンが無事であるはずがない。

 

 心配が積もりに積もって視界を動かしてギンを見つける。

 そこには予想通り片側の手足を消失し、まともにバランスも取れず、ギンですら腕の力で上半身だけを持ち上げることが限界な痛ましい姿があった。

 

「……っ!」

 

「そんな顔するな。恐ろしいほど痛みを感じておらん。どうやら痛覚とかの意識さえも削り取る類の術のようだから安心せえ」

 

 なんて言ってくれるが、左半身の腕と足がないというのは、ギンにとってほとんど死んだも同然だ。

 ギンの抜刀術は心身一体の絶技だ。特に片足がなくなってしまっては踏み込みができなくなってしまうというのに。

 

「しんみりとした顔するのぉ。現代には義手、義足といったものがあるのだろう? それでなんとかしてみせるさ」

 

「さあ、これにてチェックメイトですわね。こちらには貴方の弱点となる炎に類似したフレイムさんもいますし、抵抗は無駄ですわよ」

 

「抵抗なんかできるか。オレもヨグ=ソトースと同じように消えるさ」

 

 居た堪れない雰囲気をあえて読まずに、ソヤは本題であるニャルラトホテプに詰めていく。

 突きつけられたチェーンソーにニャルラトホテプは対抗する手段を持っておらず、大人しくソヤのチェーンソーに切られようと腕を差し出そうとし——。

 

「ただ潔くはいかないがな」

 

 その大人しくするという安心感からくる僅かな隙をニャルラトホテプは見逃さなかった。腕を差し出しても、膝をついていたわけではないのだ。

 既に走り出す初期動作を終えていたニャルラトホテプはソヤを軽やかに躱し、死に体に鞭を打って一気にこちらに向かってきた。

 

 詰めるスピードは速くはあるけれど万全の状態なら大したことはない。そう、万全の状態なら。

 先ほどのヨグ=ソトースとの戦闘で皆が疲労困憊な状況だ。それは手負いとなっているギンと麒麟も例外じゃない。

 虚を突かれたこともあって対処しようにも反応が追い付かずに全員が一手遅れてしまう。そしてニャルラトホテプが向かってきた先は俺だった。

 

「なっ……!? 放せよっ、お前!!」

 

 掴む直前に肥大化させた手で頭を鷲掴みされる。振り払おうにも粘着性があって離れてくれない。切り離そうにも、今の俺の手には流星丸がないからできない。

 キリキリと万力が少しずつ締まるようにニャルラトホテプの指が俺の頭部に侵入し、やがて脳味噌に近づいて搔き乱そうと蠢いてくる。

 

「本当は『オレがお前になって支配する』予定だったが……こうなったら逆でもいい」

 

「逆……っ!?」

 

「『お前がオレになって支配する』という話さ。オレの情報、オレの能力。全部託してやるよ」

 

「そうはさせませんわっ!」

 

 即座にソヤは追い付き、躊躇うことなく俺の頭部を掴むニャルラトホテプの腕を切断する。だが結果は思っていたものとは違うものだった。

 

「あっ……がっ……!? 離れない……っ!?」

 

「無駄さぁ! もう既にダウンロードは終わってる! なにせサモントンでの出来事がその工程だったんだからな! あとはインストールするだけでいい!」

 

 だが切断してもニャルラトホテプの手が離れることはない。まるでゾンビ映画のように悍ましく足掻き続ける。

 それどころか力をさらに増して、徐々に俺の脳味噌を侵す範囲を増やしていく。

 

「レン、お前にすべてを任せるよ。そして後悔し、嘆き、歓喜しろ。『この世界が続いてる』ことの奇跡と真実と意味を」

 

 残されたニャルラトホテプの手に当たる部分が、俺の脳幹を貫いて脳味噌をミキサーのようにかき混ぜてくる。

 平衡感覚を失い、次第に五感が狂っていく。外部から得られる情報が少しずつ削られていき、必然的にニャルラトホテプから送られてる情報だけに否が応でも集中してしまう。

 

 

 

「あ……ああっ……!?」

 

 

 

 ニャルラトホテプが内包する情報がすべて流れ込んでくる——。

 

 人間が理解してはいけない数多の冒涜——。

 現代科学を超越した超常的な技術と魔法——。

 この世界に眠る嘘と真実の境目——。

 

 賢者が理解してしまえば、世界のすべてが馬鹿らしくなるような情報の数々がここにはある。俺みたいな到底理解できない馬鹿でもそう感じるほどに、ニャルラトホテプの情報は神秘と冒涜と真実と嘘と現実と夢と——とにかく『混沌』という表現しかできない数多が揃っていた。

 

 

 そこにはこいつによって騙され、成り代わられた人々の声も落ちていた。

 いや、落ちていたという情報は正確ではない。醜く溶け切っていて泥の湖というほうが正しい。底なし沼の負の感情が湖には煮詰まっている。

 

 

 

 だが本質はそこじゃない。こんなのは入り口に過ぎない。ニャルラトホテプの情報にはまだまだ底がある。この程度は呑み込めないと、真実への断片さえ見えやしない。

 

 溺れる——。溺れ続ける——。

 

 喉に絡む泥を吐き出し、肌に纏わりつく恨みを掻きむしり、心に刻もうとする記憶を追い出して溺れ続ける。

 

 やがて目指すべき底が見えてきた。深淵よりも深いところ——。

 世界や宇宙という概念の底の底——『奈落の底』ともいうべき場所には、一つの『種』が植えられる光景が見えた。

 

 

 

「——これは『桜』?」

 

 

 

 分からない。なぜ季節外れの『桜』がこの深淵の底にあるのか。何を意味しているのかも分からないまま、その概念的な『桜』は枝分かれを繰り返し、やがては芽吹いて——。

 

 

 

 そして『止まった』——。『枯れる』のではなく『止まった』のだ——。

 

 

 

 散ることもなく、次なる春を迎えようとする準備もしない。あまりににもその『桜』は異質な存在だった。

 

 いったいこれは何なんだ? 散る花弁の代わりに積もるのは疑問ばかり。

 理解不能なほど気持ち悪いものはない。それが普通なら理解できるはずの物を形としてなっているなら尚更だ。手をスコップ代わりにして桜の根元を掘り返す。

 

 当然『根っこ』があった。『桜』の木なのだから根っこがあるのは当然のはずだ。

 

 だけど俺は恐怖を感じた。こんなところに根っこがあるはずがない。何せここは奈落の底。生命どころか概念さえ繁栄するのは難しい虚無空間なのだから。

 

 じゃあこの『根っこ』は『何なのだ』——。

 実際に触れてみると、その感触は樹木特有の肌触りではなかった。緑と土の入り混じった匂いもしない。ただ『ブヨブヨとした艶かしい感覚』が手に伝わってくる。

 

 これは根っこに扮した『生物の身体』だ。なら問題は生物の『正体』だ。『桜』に扮してるのか、それとも『桜』の根に寄生するように存在するこいつの正体が気になってしまうのが性というものだ。

 

 恐る恐る掘り返していく。我ながらなんでここまで恐怖を感じながらも探究することを止めることができないのか。これが狂気に魅入られるということなのだろうか。

 

 やがて掘り返し続ける手の先が別の感触が当たった。それは『鼓動』だ。確かな生命の——いや、ここでは『情報』の痕跡がある。

 

 こんなところにあるこいつは何なんだ——。

 

 疑問が押し寄せてくる。疑問を疑問と思うことさえ愚かしくなるほどに掘り進めていく。

 

 

 

 そして見えた。観測してしまった。『そいつ』を。

 

 形容不可能なシルエット。不定形の影が常に揺れ動いて形を変え、声なのかどうか判断がつかない忌まわしく呪われた楽器のような音が響いてくる。

 全貌は測れない。こいつに大きさはない。重さもない。存在もしていない。だけど存在だけは証明している。他ならぬ俺が観測したのだから。

 

 なんだ——。なんなんだ、こいつは——。

 まず人間じゃない。かといって怪物でもない。生命なのかも怪しい。

 

 

 

 

 

 というか、そもそもこいつは——『生きている』のか——?

 

 

 

 

 

『あらあら。見てしまいましたか』

 

『あらあら。見てしまったね』

 

 突如として掛けられる二つの冷たい声。それは氷柱が心臓を貫かれたような恐怖があった。

 振り返るのが怖い。だが振り返らないのはもっと怖い。この正体不明の声の主が何者なのか。それを知らないことの方が怖いんだ。

 

 緊張のあまりに筋肉が全部萎縮して足を翻すことでしか振り向くことができない。

 緊張と共に生唾を呑みこみながら振り返ると、そこには二人の女性がいた。

 

 二人とも背格好はほとんど一緒だ。髪の色もコバルトブルーを基調としていて、少しだけ彩度が差がある程度でしかない。

 

 一人は拘束具でも付けてるかのような印象だ。拷問などで見る堅苦して無機質なアイマスク。肌を極力見せない黒を基調としたタイツやブーツなどの服装。表情なんてアイマスクをしてるということを考慮しても希薄で、笑っているのか怒っているのかさえの判断ができないほどに無機質だ。

 

 一人は逆に露出過多なボンテージ姿だ。膝まで届くブーツ履いてるのに肝心の下半身はボンテージがハイレッグカットの構成になっていて、鼠蹊部の重要な部分以外は丸出しの状態だ。そのくせには表情は自信満々に溢れていて恥ずかしさのカケラも見せやしない。まるで女神様だとでも自負するように。

 

 

 だけど、その二人を俺は知っている。知っているというか、似ている人物を知っている。だって瓜二つなのだ。その二人は。

 

 

 

 あの『シンチェン』にとてもよく似ている——。

 

 

 

「君、たち……は……?」

 

『私は虚無』

 

『私は無限』

 

『『主神『アザトース』に仕える生命なり』』

 

 

 

 ——途端、脳みそが物理的に膨張する感覚が襲ってきた。

 

 

 

 それは単純な話だ。今まで耳にしても理解できずにノイズとなって処理された情報が、途端に頭の中に入ってきて脳が追いつかなくなっているんだ。

 

 何で今になって分かった? ニャルラトホテプが俺に入り込んだせいか? だから理解してしまったのか? あの名前を?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スクルドが『■■■■■』と読んでいた『アザトース』を——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!!!!!」

 

 

 

 

 理解してしまっては最後。脳が沸騰を始めた。

 内側から脳味噌の組織が泡を吹き、変遷を余儀なくされる。こいつの情報を知るにはレベルが足りないからだ。知るために強制的な成長と、それに伴う恐竜的進化が促される。

 

 分かる——分かってしまう。今の俺の頭がどうなっているのか。

 

 きっとB級映画で脳改造を受けたマッドサイエンティストみたいに、歪で不恰好に膨れ上がった見た目になっているだろう。

 その歪な頭部に適応しようと、眼球も飛び出しかねないほどに爛れ、膨らみ続ける脳みそに酸素を送ろうと、口が常に開きっぱなしで呼吸を高速で行おうとする。

 

 だがその進化は劇的過ぎた。早すぎる情報の促進に、身体の変化が追いつかない。

 風船のように醜く膨らむ頭や身体に骨がついて来れずに軋んでいき、やがて骨が内側からの圧力で割れる感覚を覚えた。

 

 

 

 

 

 ——あっ、死んだ。

 

 

 

 

 そう確信できるほどに穏やかにそれを受け入れた。割れた骨の内側から溢れるのは体組織のすべてだ。心臓も脳みそも肺も膨らんで膨らみ続ける。それがずっと続けばどうなるかなんて想像するまでもない。

 

 

 爆ぜた——。

 身体が内側から『爆発』して、臓器という臓器が氾濫を開始し、そこで俺の意識は途絶えた。絶命という形で俺の意識は消えた。

 

 

 

 

 

 ——その瞬間、確かに俺は死んだ。

 

 

 

 

 

『あらあら。ここでおしまい』

 

『けどけど。あなたは繰り返す』

 

『『さあ、やり直しましょう。あの地獄でもう一度願いましょう』』

 

『『でも、それで最後。主神アザトートはもう夢を見ない』』

 

 

 

 

 

 意識が消えかかる直前。二人のシンチェンはそう口にする。

 なら願おう。願うしかない。あの地獄で願ったことを。

 

 

 

 

 

 ——仮に……もしも……。

 ——『神様』が本当に存在していれば……。

 ——お願いだ……全てを夢に……。

 

 

 

 

 

 全て、夢であってくれ——。

 

 

 

 

 

 ……

 …………

 

 

 

 

 

「あっ……がぁああああああ!!」

 

「レンさんっ! どうしましたかっ!?」

 

 

 

『無形の扉』の一員に『星尘Minus』と『星尘Infinity』の名前を告げられると同時、現実の世界で眠り続けるレンが苦しみと痛みから声を上げてのたうち回る。

 突飛な変化と真実の連続にバイジュウですら思考が追いつかない。そもそもこの状況を切り抜けることができるかどうかさえも怪しいというのに。

 

『おい! 誰かそこにいるかっ!』

 

「その声はマリル長官!? 聞こえてます!」

 

『バイジュウか! レンのバイタリティに異常を検知したから、職務を放り出して声をかけたがどうなっている!?』

 

「こちらでは何も……! 突然苦しみ始めて……!」

 

 当然ありのままの事実をバイジュウは伝えるしかない。ドリームランドでの出来事なんて今のバイジュウ達に知る由がないのだから。

 

『ちょいちょいちょい!! マリル、まずいって! レンちゃんの脳波に異常を検知! ハッキリ言えば『ドール』に変質しようと孵化し始めてる!』

 

 続け様に急ぎ足で愛衣の余裕を感じぬ声が届いてきた。その内容にマリルはスピーカー越しでも分かるほどに絶句し、息を呑むしかなかった。

 

 それはマリルですらどうしようもないということの裏返しだ。愛衣の焦燥からくる落ち着きのなさも聴き取れることから疑いようのないことだ。

 

 

 

 どうする——。どうすればいい——。

 私には何もできない。レンさんを救うことができない。それにレンがこのままではミルクの魂をベアトリーチェのように再構成して復活させることもできない。

 

 何でもいい。誰でもいい。

 誰か——誰か——。誰か助けて——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこでバイジュウは己の弱さと愚かしさに気づいた。気づいてしまった。

 こういう時には、いつも何もできない自分がいることに気づいてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうだ——。私はいつもそうやって無駄に祈ってばかりだ——。

 

 南極の時も、OS事件の時も、今もそうだ——。

 

 危機に瀕した時に何もできやしない。聡明な思考と能力を持っていても、自分一人の力では何も成せない。それどころか戦いの中ですらロクに自分の価値を示せていない。

 

 OS事件での異形との戦いでも皆の力を借りないと打開できなかった。

 サモントンの時でもセラエノの『炸裂エーテル』に成す術もなく遊び同然のようにあしらわれた。

 そして麒麟の時も一方的に打ち負けた。愚かにも敵地であるはずのに無警戒に毒物を体内に取り込むし、相手の異質物武器に即座に対処できずにギンとレン任せになった。

 

 得意気な顔で知識と能力を披露しても結果としては何も残せていない。そして困れば祈るしかない。なんて無力で滑稽なのだろう。

 

 そんな自分がこれ以上『何を差し出せる』——。いや『何を差し出せば状況を変えられる』——。

 

 レンは内側から溢れる情報で脳死寸前。ミルクは物体に魂が固定化されそうで、人としての魂を保てる時間は少ない。

 その上で敵地の只中ときたものだ。あまりにも分が悪い。逃げようにも戦おうにも今のバイジュウには打つ手がない。

 

 だったら持てる武器は、この頼りにならない知識と口だけだ。この程度でバイジュウにできることいったら——。

 

 

 

 そうだ——。決まりきっている——。

 私の命を——私の存在を捧げるしかないじゃないか。

 

 

 

「身勝手ながらにお願いがあります」

 

 答えを間違えるな。思考を研ぎ澄ませ。捧げるものは決まっている。問題はどう使うかだ。

 覚悟を決めたとかいう話ではない。元々20年前の南極事件で死ぬはずだった命と運命。それなのに復活できたのはレンの力と、それまで身体保存をしてくれた組織のおかげだ。

 

 だったら今更——自分の命や尊厳程度なんて保守的になるだけ贅沢すぎたんだ。

 でも、それでも我儘を突き通す。自分以外の利益になるためにわがままを貫き通す。

 

 

 

「貴方がたに私の全てを捧げます」

 

「捧げる? それは『無形の扉』に身を置いて我らの目的に賛同すると?」

 

「いえ、それ以上です。異質物実験の材料や非検体にもなりますし、望むなら偶像にもなります」

 

「……それほどまで覚悟を途端に翻して見せるとは」

 

「ですので条件があります」

 

 

 

 そうだ。確かに麒麟はこう言っていた。

 こちらを脅威に知らしめた『陰陽五行』の能力は副産物にしか過ぎない。それどころか不良品であると。

 

 肝心なのは『陰陽』の部分だ——。

 その『陰陽』が齎そうとした効果は——。

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

「ええ。人体由来の『陰陽』とは即ち『身体と精神』のことです。そして『身体』か『精神』のどちらかを完全に破壊する。これが『陰陽五行』が目指した開発プロセスなんですよ」

 

「私たちが欲しいのは、あくまでバイジュウ様の特殊な『身体』だけ。その精神性も目を見張るものがありますが、最悪それは適当な輩の『精神』をバイジュウ様の『身体』に入れてから洗脳やら精神操作やらで矯正すればいいだけのこと。俗に言う『憑依』とか『入れ替わり』が一番近い表現ですかね」

 

 ……

 …………

 

 

 

 

 

「私に『ミルクの魂』と、レンさんが抱える『情報』をすべて移植してください」

 

 

 

 

 

 それはバイジュウの身体を利用した『魂』や『精神』などの情報を異質物の力で憑依させることだ。そのことをバイジュウは記憶の引き出しから掘り起こす。

 

 

 

 自分の命、心、情報——。

 それら全てが塗り替えられようとも二人を助けたい一心で——。



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第24節 〜未来の開拓者〜

次回、最終節になります


「私に『ミルクの魂』と、レンさんが抱える『情報』をすべて移植してください」

 

「……その意味をお分かりになってるんですか?」

 

「分かっています」

 

 バイジュウからの申し出に『無形の扉』は当然問う。その問いに彼女はハッキリと返答した。

 

 組織からすれば行幸ゆえに頑なに勧誘を拒否してたことについてはこの際棚に上げるが、交換条件に憑依を望むバイジュウの無謀さに呆れてるしかない。

 

 彼女らは知らないが、憑依によって人為的に生み出した人間としての最高傑作が『無形の扉』のトップである麒麟だ。

 だがその在り方と経緯は組織内でも自覚があるほどに異様で異質で不完全で失敗作なのだ。あの麒麟を持ってしても人為的な憑依は悪影響が大きく、保有しておく情報の取捨選択を定めないと自我が保てないほどだ。

 

「もう一度聞きます。自身が口にしたことの無謀さを分かっているのですか?」

 

「憑依とは自我を塗りつぶす劇薬ということは分かっています。それはSIDが秘密裏に保護してる『神楽巫女』から聞き及んでいます」

 

 もちろんそれも知っている。無形の扉は『憑依』についてのスペシャリストともいえる霧夕の存在をSIDが保護していることも。

 だが、そんな先天的な特異体質を持つ彼女でさえも自我を塗り替えられずに抱えられる魂自体は『アメノウズメ』の一つだけというほどに魂の共存というのは難しいものだ。

 

 それを承知の上でバイジュウは望むというのか。ミルクの魂と、レンの情報を一心に抱えることで二人を救おうとしているのか。そんな余りにもか細い——いや『不可能』なことに縋ってしまうほどに。

 

 

 

 貴方は聡明なはず。無茶無理無謀を通り越した愚策だと理解しているはず——。

 そんな愚者に我々は託そうとしていたのか。人間の進化の未来を。永劫なる宇宙に足を踏み入れる者として期待してたというのか。

 

 

 

 ——失望するしかなかった。

 

 ——殺す。今ここで殺すしかない。自分の価値を履き違え、ただの人間と成り下がったバイジュウを生かす価値などない。

 

 ——そしてそんなバイジュウを信じていた無形の扉も間違っていた。こんな組織に価値なんてありはしない。

 

 

 

「いや。その要求、飲んであげましょう」

 

 だがエージェントが首を断とうと覚悟した直後、そこにギンを抱えながら引き摺り歩く麒麟が姿を見せた。

 ニャルラトホテプを打ち倒したことでドリームランドの月が秩序とルールが保てなくって自壊した結果、現実世界に引き戻された麒麟がバイジュウの要求を飲んだのだ。

 

「麒麟様、何故やらせるのです! こんな小娘にもう価値は……っ!!」

 

「お前の気持ちもわかるが、私も手痛い指摘をこの爺から受けてな。あまり強く言えない立場となっては組織の事情で命を奪うわけにもいかない」

 

「たかが爺の世迷言一つや二つでしょう。気にする必要もない」

 

「だから飲むんだ。バイジュウ様の選択は正しいのか、正しくないのか。この憑依はそれを試す審判として。彼女の行く末を決めるのは彼女自身に委ねる」

 

 華雲宮城は階級主義だ。上がそうだと認めたらそうするように骨の髄まで教育が行き届いている。それは無形の扉だって例外じゃない。

 

 名もなきエージェントは渋々と頭を垂れて「では一任します」と身を下げると、麒麟はバイジュウに歩み寄りその片手に握る異質物武器の『陰陽五行』を突きつけた。

 

「宇宙の一人旅は選択肢の連続。すべてを見極める洞察力も必須だが、天運も持ち合わせてないと到底生き残れない過酷な世界。その第一歩として相応しい」

 

 バイジュウと麒麟の視線が絡み合う。

 バイジュウの目に迷いはない。澄んだ瞳は心さえも見透かせるほどの覚悟を見せていた。

 

 言葉なんて無用。ならばと麒麟は『陰陽五行』を翳し、バイジュウの願いを叶えようとする。

 

 

 

 ——果たして、この綺麗な瞳は何を映すのか。

 

 ——宇宙の神秘に心躍るのか。

 ——宇宙の冒涜に狂わされるのか。

 ——宇宙の無情さに打ちのめされるのか。

 

 

 

 ——そんなことを考えながら、麒麟は眠りにつくバイジュウを見守った。

 

 ここから先は彼女だけの戦い。

 その戦いにどんな意味と結果を齎すかは、彼女だけが導くことができる。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 再びの暗闇の世界にバイジュウは溺れる。深海に沈むような息苦しさは、自身が漂う世界の密度を表している。

 

 呼吸するだけでも体力を使う。酸素がドロのように澱んでいて、血流を循環した瞬間には灼熱と絶対零度を内包した熱くて寒いという気持ち悪さを帯びている。

 

 だが、その程度は飲み干して乗り越えないと話にならない。この程度はセラエノのエーテルを炸裂させる『プラネットウィスパー』と比べたら大した事ないのだから。

 

 潜り続ける——。沈み続ける——。

 

 やがて悍ましい光景を目にした。

 頭部が爆ぜたレンの遺体。その首の断面からはドールに生まれ変わろうと触手の形をした『情報』が蠢いている。

 

 触手を引き摺り出して一先ずはレンを犯す情報を止める。続いてはレンの遺体を動かし、その下にある更なる情報を目につける。

 

 これがレンさんを犯そうとした情報の根源——。

 これさえ受け止めきれれば、レンさんを助け出せる。仮に受け止めきれなくても私の魂を殺してしまえばいいだけのこと。残った身体にはミルクの魂が宿って、ここで得た情報はバイジュウの脳を経由する事でミルクに間接的に伝えることができる。

 

 どう転んでも有益にしかならない。私の心身のリスクさえ鑑みなければ。

 

 今更自分の命も心も尊厳も惜しくはない。むしろ今まで大事にしすぎてて腐らせていた。

 命とは繋ぎ託す物。そうやって生命は次世代に託していくのだから元々海から始まった35億年前の地球の生命は、形や機能を変えて今でも繋ぎ止めているのだ。

 

 そんな35億年の歴史を重ねても尚、生命は宇宙に挑むことはできない。根本的に弱すぎるという点もあるが、生存本能が宇宙を求めていないということもある。

 

 元々太陽系において地球という存在は奇跡に等しい。緑が豊かなこと、空気中の成分割合が生命に適していることもあるが、何せ水が『液体』として機能する数少ない惑星なのだから。

 

 少しでも太陽に近ければ水は水蒸気となって『気体』になってしまう。かといって遠ざかれば水は凝固して『固体』となってしまう。

 

 だからこそ生命の始まりである『海』は存在してるだけでも奇跡といえる。海そのものの誕生が44億年前。地球が46億年前に誕生して2億という長い年月を掛けて、ようやく生命が生まれる基盤ができたのだ。

 

 しかしそれでも海で生まれた生命は、何故地上に上がろうとしたのか。

 その理由はただ一つ。生存競争によるものだ。例え全ての命を抱擁する優しい海でも、そこで生まれる生命がすべてが優しい平等な世界ではない。海の中で弱肉強食は行われて弱い者は淘汰されていった。

 

 そんな弱者が『それでも生きたい』と本能が訴えて生き残ろうとしたから地上に生命は繁栄した。とはいっても、それは簡単なことではない。

 

 その『それでも』を行った生命なんて数えきれないほど多くいる。けれどもその大半が環境に適応する前に死んで、死に続けた。無意味に、無価値に、無謀に死んでいったのだ。

 

 だがその無意味、無価値という『意味と価値』があったからこそ次の生命はその反省を活かして地上に挑み続ける。

 無知なことは罪ではない。無知でないことを認めないことが罪なのだ。

 

 そんな数多の挑戦と死の果てに、ようやく地上の生命の原初が生まれた。あとの軌跡は言うまでもない。

 地球が丸ごと凍るという『スノーボールアース』が起き、時には地球全体が酸欠状態となる『海洋無酸素事変』ということが古生代や中生代に起きた。

 

 そして最も有名なのは『Tレックス』や『トリケラトプス』などは有名な『恐竜』という種が絶滅するジュラ紀の末期に起きた『隕石衝突』による影響で粉塵が空を覆うことで発生した『氷河期』だろう。

 

 そして2億3000年前に、やっと人類の基盤中の基盤である『哺乳類』が誕生することになる。

 そこから更に長い年月を掛け、500万前にようやく『哺乳類の霊長目ヒト科』——つまりは『人類』が誕生したのだ。より正確には『猿人』と呼ばれる『ヒト亜科』ではあるのだが。

 

 やがて『猿人』は『ホモ・ハビリス』『ホモ・エレクトス(原人)』と進化を重ね、ついには氷河期を超える画期的な文明である『火』を利用する『ホモ・エレクトス・ペキネンシス(北京原人)』が誕生した。

 

 そしてまともな文明を発展する土台を得た人類は更なる進化と成長を促す。これが『ネアンデルタール人(旧人)』であり、人類の脳みそが歴史上で最も膨れた状態であったと残された骨の形から推測されている。

 

 しかし、それでも『旧人』はその形を維持して繁栄することはできずに絶滅した。その理由は多くあるが、今は命題には関係のないことだ。生命が歩む道筋の一つ。枝分かれした葉先の一つが枯れたの見届けただけの話だ。

 

 そして20万前に、ついに我々が知る『人類』こと『ホモ・サピエンス(現生人類)』が生まれたのだ。

 とはいっても目覚ましい進歩自体は頭の大きさ以外には『旧人』と差はなかった。叩いて音を出すという原始的な音楽もあれば、石壁などに刻む原始的な文字もある。俗に言う『旧石器時代』という文化が残っていたからだ。

 

 では『現生人類』が『新石器時代』になって何を作り出したかと言えば、それこそかの有名な『研ぐ』や『磨く』といったことで石の形を整えて機能性を向上させる『磨製石器』の開発——つまりは『加工』という技術の雛形が生まれたのだ。

 

 そこから先は皆もご存知の『縄文時代』の開幕だ。女王『卑弥呼』を中心とした『国』という文化を境に『土器』や害虫に対抗する『高床式』といった『家(倉庫)』が誕生して、人類は穴倉などに住むといった環境からすれば高度な生活をすることができるようになった。

 

 年代は進んで『弥生時代』になれば『青銅器』や本格的な『稲作』というものが外国から齎され、文化の交流を深めると同時に技術はより強固なものとなっていった。より強大で強固なものを作る概念も生まれ『古墳』や『鉄』というものが生まれたのもこの時代だ。

 また平行して海外に言及すれば、この時には当時中国では『始皇帝』が治めた『秦』という国も生まれていたりするが。

 

 何はともあれ『古墳』という文化の雛形が生まれて、今度は『古墳時代』の到来だ。

 そしてここが人類にとって『思想』のターニングポイントが生まれる。今でも多く根付く『仏教』という思想が他国から伝わってきたのだ。

 

 ここからは激動の時代の移り変わりだ。

 

 

 

 聖徳太子、冠位十二階、大化の改新が起きた『飛鳥時代』——。

 古事記、万葉集、墾田永年私財法が生まれた『奈良時代』——。

 清少納言と紫式部が生み出した枕草子と源氏物語の『平安時代』——。

 源頼朝から始まる武家政権の始まりと終わりを綴った『鎌倉時代』——。

 鉄砲やキリスト教の外国の文化が浸透した『室町時代』——。

 織田信長、豊臣秀吉といった武将が天下統一を計った『安土桃山時代』——。

 ペリー来航、坂本龍馬と新撰組といった江戸幕府を中心とした『江戸時代』——。

 大日本帝国の誕生と数多の国同士の戦争が始まる『明治時代』——。

 そして第一次世界大戦と関東大震災が起きた『大正時代』——。

 

 あとは比較的近代の出来事だ。『昭和時代』『平成時代』『令和時代』について語ることは多くはあっても、この場においては意味は大きくはない。

 

 これだけの歴史を重ねてもなお人類は宇宙に挑むことは最近になってからだ。

 初めて生命が宇宙が行ったのは人間ではなく『ハエ』であり、また軌道飛行を始めて行ったのは、かの有名な『ソ連の宇宙犬』である『ライカ』または『クドリャフカ』と呼ばれる犬である。

 

 そこまでの旅路を経て——ようやく人類は『1969年7月20日午後4時17分』にアポロ11号で『月面に着陸』したのだ。

 

 

 

 ここまでして、ようやく月面への到達だ——。

 生命としては35億年前。哺乳類としては2億3000年前。人類としては20万年。これほどの年月と本能と知恵を捧げても、いまだに生命は宇宙の片鱗に触れることすら困難な有様だ。

 

 

 

 この困難にバイジュウは真正面から当たろうとしている——。それが華雲宮城の無形の扉が求めていたことなのだ。

 

 人類として20万年続く旅路に、新たな進化と息吹を捧げたい。その象徴と人柱にバイジュウを選ぼうとしていた。

 

 それはつまりバイジュウの価値が『20万年続く人類史よりもはるかに価値がある』ことを意味してもいる。

 無形の扉からすれば、歴史や物語に出てくる関羽、始皇帝、アーサー王、ノア、オリオンといった者たちよりも偉大であると言ってるようなものだ。その重荷は到底言葉では表しきれない。

 

 

 

 だが、一人の少女が20万年の歴史を背負い越えるには土台無理な話なのだ。

 

 そんな壮大な歴史と意味を知ってしまえば平伏してしまう。聡明なバイジュウなら尚更だ。この旅路が生み出した価値と犠牲がどれほどのものかを知っている。

 

 

 

 その上で宇宙に行け——? 宇宙に適応しろ——?

 何なら超常にも対応して、道標となれ——?

 

 

 

 余りにも重荷だ。重すぎる役割だ。まだ二十歳にも満たない少女が持つには過酷すぎる旅路の清算。

 

 

 

 それが『情報』の正体だ——。

 宇宙と人類史の天秤。それに挑むことの本質を問うのが、この情報の意味。

 

 

 

 そんなのにバイジュウが適応するには不可能だった。情報の絶対的な量に処理が追いつかず、脳細胞が少しずつ蝕まれていくのがわかる。

 

 ここまでだ。バイジュウの魂はここで終わる。

 なんともつまらない終わり方だと自嘲しながら、その魂の灯火が消えていく。

 

 

 

 意識が微睡んで——落ちて——溶けて——。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして————。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「流石、バイジュウちゃん♪」

 

 意識が塗り潰され、傀儡になろうとする刹那——。

 まるで鈴のように凛と響く声にバイジュウの意識は再覚醒した。

 

「私も一緒にしたのはナイスだね♪ 一人で無理なら二人ならなんとかなるってことさ」

 

 その声を忘れるわけがない。忘れることなんてできるわけがない。

 その声を聞くだけで身体の奥底から力が湧いてくる。渇水の大地に恵みの雨でも通ったかのように満たされていく。

 

 色んな感情がグチャグチャになって、溢れ出て止まらない。きっと今の不細工の顔を見たら彼女は笑うだろう。

 

「まあ、私達二人なら100人力だけどね! いくよ、バイジュウちゃん!!」

 

「うん——!!」

 

 バイジュウは力強く答え返す。最高の相棒である『ミルク』の手を——今度は『味方』として確かに握り返し、再び暗闇の世界にバイジュウはミルクと共に立ち上がる。

 

 

 

 一緒に足を揃えて超常の情報に挑む——。

 眼前に迫るは狂気と神秘が渦巻く宇宙と情報生命体の塊。人間が理解した瞬間には、正気という物を失ってしまうのが道理である劇物。

 

 だけど不安なんてない。貴方の温もりと鼓動が、私の中で止まっていた時間を動かしてくれる。凍てついた時間を溶かしてくれる。

 

 寄せ狂う情報なんて何するものぞ。二人一緒なら怖いものなどない。

 

 例え呑み込まれようとも救ってみせる。例え足を無くしても支えあげる。人と人は支え合うことで生きていき、人という存在を証明できる。

 

 見たことない星の先。光さえも届かない宇宙の最果て。人間が生きるには余りにも過酷で寂しい世界の端。隔絶された世界の境界線。そんな世界でも貴方がいれば私は満足なのです。

 

 重いと言われるだろうなぁ。

 だけどミルクは笑って受け入れてくれるだろう。太陽のような眩しい笑顔で私のことを饒舌に揶揄ってくれるだろう。それで私は満更でもなく膨れっ面になるんでしょう。

 

 それが私達にとっての在り方。自然体で向き合える親友としての距離。偶に距離感が近すぎて可笑しなことにもなるけど、それさえも笑い合える確かな絆の積み重ね。

 

 でも、それでいいのです。そんな当たり前で十分なのです。

 そんな関係が私達にはちょうどいいんだ。

 

 

 

 この『思い』を噛み締めて——。

 この『思い』を『重さ』にして——。

 

 

 

 宇宙の彼方に行きます。

 無限の彼方へ歩んでいけます。

 

 20万年の人類が歩んできた価値なんて、私からすればミルクと一緒にいる『一瞬』のほうが遥かに価値があって尊い。

 

 だから真っ向から挑める。人類の歴史に恐れずに立ち向かえる。

 

 

 

 

 

 いや、違う——。恐れずに立ち向かうという話じゃない。

 

 

 

 

 

 あなたと一緒なら——私が恐れるものなんてあるわけがない。

 

 

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「——だから貴方は本当の意味で『進化した人類』なんですよ」

 

 

 

 二人っきりの戦いの果て——。

 それを麒麟は見届けた。その顔には悔しさ、悲しさ、喜び——人が表現しうる数多の感情が一体となった名状し難い面妖なものとなっていた。

 

 

 

「でも同時に理解しました。その進化さえも奇跡ではなく軌跡でしかなかったと」

 

 

 

 その果てに見せた結果は麒麟——否、『無形の扉』の根本的な部分にあったバイジュウを求める理由からすれば非常にくだらない物でもあった。

 

 バイジュウは人間を超越した存在だと盲信していた。だが実際は違っていたのだ。

 どこまでも彼女は自身の弱さを懸命に隠し、強くあろうとしたごく普通の人間。どこでもいる普通の人間だった。善性も悪性も兼ね備えたただの人間。

 

 それは麒麟の中に眠る『少女』が忌み嫌うものだ。

 少女の家族は人が当たり前のように持つ悪性によって殺し殺され自滅した。その人間の汚い有り様を知ったから、そういうものを超越した人類を少女は求めた。

 

 だけど結果はどうだ。悪性とは、つまり執着であり生き汚なさだ。

 バイジュウは泥臭く、我儘に、汚くもミルクを求め続けた。自分の身体や心が塗り潰されそうともミルクを助けたい一心で行動し続けた。

 

 それは決して綺麗なことではない。ハッキリ言ってしまえば醜い在り方だろう。

 誰かを助けるために自分を犠牲にするのは決して綺麗事じゃない。助けられた側に呪いを残す刃だ。仮にミルクを助けられたとしても、心身共に捧げたバイジュウが消えてしまっては意味はないだろう。

 

 20年前の南極でバイジュウの中の時計が止まったように、ミルクだって同じようにバイジュウがいない世界の喪失感で時計を止めてしまう。

 

 バイジュウ自身はミルクが強い人間だから、私がいなくても大丈夫だろうと考えるかもしれないが、無形の扉は知っている。ミルクがバイジュウに対してどれほど気持ちを寄せているのかを。バイジュウの非凡さがどれほどミルクにとって刺激になったのか。逆もまた然りだ。

 

 だから二人を繋ぐ絆は綺麗な物だけじゃない。醜い部分もあれば、人には明かすには恥ずかしいものもあるだろう。

 だけどそういう酸いも甘いも知って生き続けるのが人生であり、人間としての正しい旅路だ。良いことも悪いことも含んで人間という在り方であり、その現状を打破しようと踠き足掻く姿こそが変化を促す。

 

 時にそれは進化かもしれない。

 時にそれは退化かもしれない。

 

 そういう枝分かれした生命の進化の先に芽吹いた花こそが人間としての新たな形となる。それが根底にあった組織の願いだ。

 

 

 

「何であれ、彼女もまた『人間』だったんですね——」

 

 

 

 だからこそバイジュウは人間のまま、その価値を示し切った。進化ではなく『成長』という形で示してみせた。

 一人でダメなら二人で。支え合うことを二人は選んだ。そういう形こそが自分たちに最も合った変化であると証明してみせた。

 

 

 

 

 

 ——35億年続く生命の旅路を『人類』という存在のまま。

 

 

 

 

 

 それは『無形の扉』としての信仰を、盲信を、願いを根底から打ち崩す答え。

 組織が不要として切り捨てさせようとしたミルクとの絆があるこそから、バイジュウは宇宙の情報に適応することができた。

 

 

 

 つまりは組織としての完全なる敗北——。

 それは、たった二人の絆によって証明されたのだ。



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第25節 〜月夜の華〜

「——おい。聞こえるか、レン」

 

 酷く懐かしい声が耳に入って目が覚める。

 起きあがろうとするが、今までのが軽傷に感じるぐらいの頭痛が響いてくる。脳神経すべてが弾け飛んだかのような痛みだ。

 

 

 

 ——そこで俺は思い出した。思い出してしまった。自分の頭部が弾け飛んだ時の悍ましい光景を。

 

 

 

「うっ……ぇっ!!」

 

「回復して早々にゲロとはな。これでも飲んで落ち着け」

 

 マリルは俺の背中を摩りながら白湯を渡す。白湯はホンノリと甘みを感じるがハチミツだろうか。

 なんであれ、すごいホッとしつつも優しくて甘い味付けで脳が多幸感を錯覚して冷静さを取り戻してくれる。

 

「その様子からして覚えてるみたいだな。自分に何があったか」

 

「ああ。俺はあの時——」

 

 自分の身にあったことを包み隠さずマリルに伝える。

 ニャルラトホテプが俺の中に寄生してきて、情報を植え付けてきたこと。情報の底にはアザトースという正体不明の生命か情報か概念なのかさえ判断がつかない存在があったこと。『虚無』と『無限』を名乗るシンチェンに似た女の子がいたこと。

 

 けれどもどれもマリルはどれも驚くことなく「なるほどな」とむしろ若干呆れ混じりで続きの言葉を紡いだ。

 

「バイジュウから聞いた話と差はないな。というかバイジュウの方がより詳しいか……」

 

「バイジュウのほうが……? って、そうだよ!? バイジュウ達はどうなったの!? 俺たち元々華雲宮城にいて……」

 

「順を追って説明するから待て」

 

 マリルは制服の上着だけを座椅子に掛けてネクタイを緩めると「どこから話そうか」と悩みながらその椅子に腰を置いて語り始めた。

 

「まずは結果から言おう。お前達は任務をこなし、ニャルラトホテプとヨグ=ソトースの完全討伐を果たすことには成功した」

 

 完全討伐——。その言葉は心から嬉しさが込み上げてくる。

 あの害悪を振り撒く二柱を倒し切ることに成功したんだ。これでもう霧吟やウリエルのような犠牲者を生むことも、アニーのように誰かが理不尽に『因果の狭間』に閉じ込められるようなこともないんだ。

 

「おかげで知りたくもない狂気と真実を垣間見ることになったがな。先ほど口にしていたが、お前は『奈落の底』で何を見た?」

 

「『無限』と『虚無』を名乗るシンチェンに似た女の子二人……」

 

「そうだ。そいつらはバイジュウが得た情報によれば『星尘Minus』と『星尘Infinity』という情報生命体だ」

 

 その情報は俺は知らないんだけど。バイジュウって、あそこにいなかったのに俺より詳しくなってるのってどういうこと? そんなに俺の頭ってポンコツなの?

 

 でも、それはそれとして今は置いておこう。なぜなら俺の思っていた通り、あの二人はシンチェン——正確には『星尘』と似てるという印象は名前からして間違ってはいなかったのだから。

 

「予めスターダストとオーシャン……それにお前が新しく出現させたフレイムにも愛衣とアニーが事情聴取したが、この二つの存在は管轄外だそうだ」

 

「そう、なのか……」

 

「だがそれに従属する『アザトース』についてなら、あの姉妹達は揃ってこう口にしていたよ。『私達の生みの親』——とな」

 

 ……言い方に少しだけ引っかかるな?

 

「それって『俺達』とかも含んでって意味か?」

 

「妙な言い方だったからな。『人類』と考えるより、もっと拡大解釈して『世界』や『宇宙』と考えた方がいいだろう」

 

「そして」とマリルは間髪入れずに話を続ける。

 

「そのアザトースは『死にかけ』であるとバイジュウは口にしていた。お前を経由したニャルラトホテプの情報で分かったことだ」

 

「死にかけ……」

 

「それを聞いて危機感を覚えた、という声があってな」

 

「いったいどんな危機感をバイジュウは感じたの?」

 

「いえ、それに関しては私です」

 

 これもひどく懐かしく感じる声だ。

 マリルとは反対方向にいる裸族兼錬金術師ことハインリッヒが「ごきげんよう」といつもの若干嫌味っぽさも感じる笑顔浮かべて俺に挨拶してきた。

 

「マスター。まず私は『守護者』……正確には『契約者』としてヨグ=ソトースに仕えた時の役割を覚えていますか?」

 

「前に『因果の狭間』で言ってたやつか。えっと……『セフィロトの樹』の10個の円環に準えた特定エリアを守ること、だよね?」

 

「流石はマスター、正解です」

 

 こう見えて褒められて伸びるタイプだから、素直に称賛されるとちょっと照れ臭いな。

 

「そういえばセフィロトで思い出したけど——」

 

「その点に関しては私は既に知ってるので大丈夫ですよ。『契約者』がダアトと属性に応じて10人いることくらいは」

 

もう俺の言葉の先読みについて驚くはない。もうそういうもんだと理解しておこう。納得はできないけど。

 

「バイジュウ、本当に全部知って教えてくれてるんだな……」

 

「これは私は最初から知ってましたよ?」

 

「じゃあ、なんで今の今まで言わなかったんだよ!?」

 

「言いたくても言えなかったのです。契約の都合上で言語規制されてましたから。ですがマスター達がヨグ=ソトースを打倒してくれたおかげで、その束縛からも解放されたのです」

 

「そういえば自然に『あの方』じゃなくてヨグ=ソトースって言ってる……!?」

 

「ちょっと前にも言えてましたけどね」

 

 意識してなかったから全然覚えてない……。

 

「話を戻しましょう。私の契約の役割はセフィロトのダアトを守護すること。ですがそもそもの話、セフィロトも『樹』である以上は『どこから生えてる』ということが気になりませんか?」

 

「スケールが壮大すぎて気にしたこともなかった……」

 

「ではここで学びましょう。セフィロトはユダヤ教カバラ思想にある『アイン・ソフ・オウル』から生じたと教えられています」

 

 ……名前だけなら聞いたことある。具体的には某カードゲームで。

 

「その『アイン・ソフ・オウル』は『無限光』という意味があり、旧約聖書における『天地創造の起源』であると言われています」

 

「ふーん」

 

「そしてこの『無限光』には段階がある。最初は『アイン』と呼ばれる状態から始まり、続いて『アイン・ソフ』を経由して『アイン・ソフ・オウル』へと至る。この前段階の二つが今回と関わりがあるのです」

 

 ダメだ。なんとかして話に食いつこうと思うが、難しい話なせいか耳から通り抜けて頭がインプットしてくれない。校長先生の眠い話を聞いてる気分だ。

 

「その『アイン』とはカバラ思想では数字の0や『虚無』を意味しています」

 

 そこでようやくは俺の脳は興味を覚えてくれた。ちょうど先ほど『虚無』を名乗る生命の話題が出たのだから。

 

「同様に『アイン・ソフ』はカバラ思想では『無限』を意味している——。果たしてこれは偶然と片付けることができるのでしょうか?」

 

 返答なんかできない。でもそれこそが返答。無言は肯定を意味することになる。

 偶然にしてはできすぎてる——。ならばこれは偶然ではないと。

 

「もしその二人が『アイン』と『アイン・ソフ』に値するなら、アザトースは『アイン・ソフ・オウル』に値すると仮定することができます。となればアザトースの正体は……」

 

「『天地創造の起源』——。つまり『世界そのもの』ってこと?」

 

「…………そう考えることになります。それは奈落の底にあった『樹の下』にいたのでしょう?」

 

 そうだ。あいつは樹の下に埋まっていた。眠るように、けれども死んでいるかのように不可解な音を軋ませながらそこにいた。

 

 本当にアザトースは『世界そのもの』だというのか? 今までの超常とは根本が違うじゃないか。『時間や空間に操る』ヨグ=ソトースや『誰でもある』ニャルラトホテプとは根底からして在り方が違う。超常なのに、次元が違う超常とスケールが違いすぎる。

 

「ですがここで致命的で壊滅的で根本的な疑問が生じます。これはあくまで『セフィロトの樹』であればの話。しかし実際にあったのは……」

 

「『桜の樹』……だった」

 

「そこが私でも理解不能なのです。桜はユダヤ教の基本的な考え方も、カバラ思想においても特別な意味も価値もない。もちろん他の文化思想でも同様です。七年戦争以前の日本では『出会いと別れの象徴』という資料もありましたが……その意味合いでは何も噛み合わない」

 

 そこから先はハインリッヒでも思想に耽って沈黙するしかなかった。それはマリルもそうだし、学がない俺からすればもっとだ。考えても答えに切り込む糸筋さえも見出せない。

 

「……とまあSIDが推測を重ねた末にここでドン詰まりだ。レンから何か分かることはあるか?」

 

「何も分からない……。ごめん」

 

「けど、今はそんなことはどうでもいいんだがな」

 

 なんて仮にもSID長官であるマリルの口から出たとは思えない言葉を吐く。

 それはこっちを心配させないための方便や見栄でもなく本心だ。マリルは心の底から、アザトースについては今はどうでもいいと言っている。

 

 

 

「その窓から下を見てみろ」

 

 

 

 なんでどうでもいいんだろう、という疑問が湧く前にマリルはそう言う。だから言われるがままに俺は病衣の姿でガラス窓の外を見下ろしてみる。

 でも見たところで特に変な点はない。なんてことないよくある風景が広がってるだけだ。

 

 

 

 アニーがラファエルの車椅子を持ちながら話してる。いつもの生意気で自己中な面が戻ってきてるから、その隣にいるニュクスがラファエルを揶揄う。

 そんな微笑ましい光景を他所にエミリオとヴィラは談笑中。シンチェンとハイイー、それに便乗してイルカもマサダ名物のザクロジュースを堪能している。

 ベアトリーチェは今回のソヤの奮闘を労うように微笑んでいる。

 霧夕とクラウディアはギンを心配そうに見つめている。だけどギンは片側の義手、義足が痛々しくはあるが、本人はそれを気にも留めてないように酒を飲んで余裕を見せつける。

 

 そしてスクルドとファビオラがいる。スクルドは俺と同様に目覚めたばかりなのか、寝癖がついた長い髪をファビオラに丁寧に解かされながら年相応の笑みと甘えを見せてくれる。

 

 そんないつもの光景——。

 だけど胸がギュッと込み上げてくる。嬉しさと喜びを心が噛み締めている。

 

 

 

 

 

 ただ『皆がそこにいる』だけの『日常』を——。

 

 

 

 

 

「っ……そっか……!」

 

「ああ、そうだ。お前はやりきった。ヨグ=ソトースを打倒したことで『因果の狭間』や『ドリームランド』に幽閉された魂は解放された。おかげでスクルドは脳死状態から復帰。おまけにお前がやろうと思えば、ベアトリーチェのようにエルガノを復活できる状態ときたもんだ」

 

 

 

 俺が今まで繋いで培ったきた人達の絆……というにはちょっと恥ずかしいけど、この際それでもいい。

 それらは確かに今俺の目の前で何一つ欠けることも、壊れることもなく存在してくれている。『スクルドの死』から始まってしまった俺達の日常が少しずつズレていくニャルラトホテプを中心とした一連の事件は、最終的には少しの犠牲で終えることになった。

 

 こんなに嬉しいことはない。喜びで涙が溢れてきそうだ。

 

 

 

 ——でも、それでも納得しきれない自分もいた。

 ——あの暗闇でドールから浴びせられた悪意。正当なる独善。

 

 

 

 ——救える力はあるはずなのに救えなかった自分。

 

 

 

 ——これを必要な犠牲と思っていいのかどうか。

 

 

 

 

 

「ほら、お前の元気な顔を見せてやれ。何せ1週間も眠ってたんだからな」

 

「本当っ!? 眠ってる場合じゃねぇっ!」

 

 

 

 

 

 けど、今はそんなことを考えるのは後でいいだろう。今だけはみんなが無事でいる現状を噛み締めよう。

 だって、超常との対決はひと段落したのだから。もう誰も『因果の狭間』なんて物に囚われることも『門』に誘惑されることもないのだから。

 

 

 

『おはよう、レンちゃん!』

 

「みんな、おはようっ!」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 華雲宮城でのお月見は、独特な風情を感じさせる——。

 そよ風が吹くと、蓮華の影が柔らかく揺らぐ——。

 清らかな光の下で、蝶が舞い踊る——。

 その美しさに触れようとするが、袖から飛び去ってしまう——。

 風の中に趣だけを残し、心から酔わせる——。

 

 

 

「バイジュウ様、お時間です」という伝達が届いて少女は「はい」と短く返答して月から目を離す。

 今まで一人で見上げるしかなかったまん丸のお月さま。夜風に当たるたびに一人思い耽るだけだった日々。月光なんて冷たい夜空を彩る孤独の象徴のように思えた時。

 

 だけど今は違う。心を通り抜ける風には温もりがある。貴方の確かな魂が私の心に宿っている。その温もりがあれば、私はどこまでも歩んでいける。暗闇の荒野に進むべき道を示すことができる。

 

 歩く。歩き続ける。

 華雲宮城が管理する五岳を越え、谷底を渡って人の足でないと到底辿り着けない辺境。そこにバイジュウが求める異質物がある。

 

 眼前にあるのは華雲宮城が保有するEX異質物『白緯度』——。

 空間が独立しており、世界を切り裂いて蠢いている。指を通すだけでその先の空気が一転して『冷たい』と理解できる宇宙空間が広がってるのが分かる。

 

 ここを渡るのが私の使命であり役割——。

 バイジュウは意を決する。ここから先は自分にしか果たせないもの。誰の代わりにもならない孤独の旅路。

 

 

 

「ここから先は時空間が歪曲しています。ここに残る私達からすれば、バイジュウ様が行って帰ってくるのが一瞬でも、バイジュウ様の体感する時間に関しては……恐らくは何年も経つことでしょう」

 

「交換条件ですから問題ありません。それよりも異質物の手続きについては?」

 

「もちろんバイジュウ様の言う通り、SIDに『地の隕石』を譲渡するように進めています」

 

 

 

 ならばよろしい、とバイジュウは尊大な態度を持って白緯度の中へと歩んでいく。

 今の彼女はもうただの小娘ではない。華雲宮城が代表する最高権力者の一人。『無形の扉』を管理する指揮官。言うなればSIDのマリル長官に位置する地位だ。もう泣き言や甘い事を言えるような立場ではいられない。

 

 だから示さないといけない。示し続けないといけない。

 私の在り方と立場というものを。人間が宇宙という神秘に挑むため、バイジュウは先陣に立って一歩を示さないといけない。

 

 

 

「うわぁ……こうして星々を歩けるなんて壮大なことですね」

 

『うん♪ てか振り返ってみ。地球って本当に丸くて青いんだね』

 

 

 

 だけど今のバイジュウは一人じゃない。一人ぼっちじゃない。二人ぼっちだ。

 心の中には、魂のそばには彼女がいるから、こんな旅路なんて苦でもなんでもない。

 

 彼女の肉体はここにはない。だけどそれがどうしたというのだ。

 肉体がなければ愛が証明できないのか。そんなことは断じてない。魂の繋がりでもあれば十分だ。凍てついた時間を溶かすのは、より良き思い出に色を灯すのは温かな記憶なのだから。

 

 

 

「あのね。今度はアニーさんの話になるんだけど……」

 

『あの青髪ツインテールの子だね。その子とはどんな関係が築けたの?』

 

 

 

 二人ぼっちの星間歩行。何光年先にある場所でも、二人ぼっちなら退屈はしない。20年間も離れ離れで積もりに積もった話が沢山あれば、土産話だってあるのだから。この程度の距離なんて足りないくらいだ。今の二人には時間という物がいくらあっても足りはしない。

 

 一歩進むたびに話は弾み、驚愕と考察が進む。

 異質物研究が齎す技術の終着点。同時に枝分かれして発展していく局所的な利用を求められるように進化する技術。それに伴うターニングポイントはいつくるのか。

 

 超常の情報を内包しきった今のバイジュウとミルクなら、少し先の未来予知なんて容易い事だ。それこそ天気予報のように。ほとんど確定した未来の話を話し合う事ができる。

 

 しかしそんなのは二人にとっては雑談の一つにしかすぎない。

 少し経てば話の方向性は一転。現代で変わった食べ物があることや、現代ではエネルギー問題を原子核を利用してないから、絶望的な世界の情勢の中でも意外と人類は環境破壊自体は行なっていないことを話したりもした。

 

 それでもまだ雑談の一つ。

 続いてのお話は古来の情報は異質物の発展とともにあったのではないかと、昔と今の考察が違う事を話したりもした。

 今は存在していない天皇が保有していた『三種の神器』だって、今ではsafe級として登録されて価値がないものとして扱われているが、本当は魔力を宿していた時代もあったのではないかと、といった話題だ。

 

 

 

 どんな話題でもミルクは優しく微笑んで頷いてくれる。時には呆れたり驚いたり、自分の視点を交えた独自の解釈を口にしたりもする。

 

 ちょっと意見が食い違ったりもするけど、それが人間という物だ。全く同じ意見、同じ意思なんて孤独と一緒だ。

 個性を排除して、思考を排除して、心を削ぎ落とすあり方なんて間違っている。こうして一緒にいて居心地が良くても、対等に意見をぶつけて言い合える時もあるのが理想というものだ。

 

 

 

 ああ、足りない。本当に足りない——。

 貴方と話す時間は、何光年先にある星に行くだけでは圧倒的に足りない——。

 

 それでも話が続けば喉を潤すために水を飲むように、ちょっと息を整えて話を止める時が来る。

 

 

 

 だからふと目に止まった。何となく目に止まった。理由なんてない。話の休題としてちょっと視線に入れただけの大きな大きな丸い月。

 自分たちの足で到着した回る月の側面。近くで見ると穴が意外とあって、人間の毛穴みたいだなとちょっと笑っちゃうくらいに不恰好だった。

 

 それでも間近で見る月には神秘に満ちていた。

 人類が月面着陸したのはかなり前の話だし、それ以降も度々行っているというのに、こうして自分で見てみると映像や写真とは違った迫力と星の力を感じてしまう。

 

 そういえば月を見て紡ぐ言葉の定番があったな——。

 

 そんな事を思いながらバイジュウはそれを無意識に溢した。

 

 

 

「月が綺麗ですね」

 

「うん。綺麗だよ」

 

 

 

 今宵の月は特別に感じた。なんて事ない月なはずなのに。大好きな貴方と一緒に見てるからだろうか。

 だったらこれからも特別な物を見に行こう。色付いた思い出を作りに行こう。

 

 月と地球のようにクルクルと。一緒に星と宇宙を回りましょう。

 

 

 

 さあ次は『あそこ』に行こう。

 二人ぼっちの宇宙旅行はまだまだ時間も余裕もあるのだから。

 

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

 

 

 

 ——知的生命体の観測を検知。

 ——チャンネル照合。該当チャンネル『別次元』

 

 ——? ……ああ、そういうことか。レンちゃんだけど『レンちゃんじゃない』ということか。

 

 ——ちょっと待ってろ。今『お前たち』に姿を見せる。

 

 

 

『——私は『セラエノ』。プレアデス星団の観測者』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ノルマのくぅ疲wを最初に書いて後書きです。
 
 これにて第八章『夢幻世界』こと第一部でもある『クトゥルフ神話生物編』は終了です。
 
 レンちゃんは色々な人達の力を借り、時には貸しながら無事にニャルラトホテプとヨグ=ソトースを打倒することを果たしました。
 そしてそれはバイジュウもそうです。物語の進行と並行して、彼女だけの戦いがあった。言わずもがな『ミルクを取り戻す』話です。そういう意味では全体的な主役はレンちゃんでも、第一部の主役はバイジュウだったとも言えます。
 
 それはそれとして、やはり『クトゥルフ神話生物』というのはスケールの大きさが段違いです。それは友人達とクトゥルフ神話TRPGでプレイヤーやったりGMやったりして骨の髄まで理解してます。矮小な人間が拮抗するにはどうしても届かないし、尺度が違うので全貌を捉えることができません。
 
 ですが、それでも物語を書く以上はそのスケールを何としても文字に収めないといけない。となると『人間はどこまで神話生物に渡り合えるのか?』という命題が必要になり、そのテーマ性に沿うエッセンスとして『進化と成長』が必要であり、それを主軸とする形で第一部は構成されました。
 元々バイジュウの存在自体が『深潜症』の時点でも魔女でも何でもないのに人間離れした能力とかを持っていたので、それを重点にして話を展開し、そこにクトゥルフ神話生物を織り込んだというものですね。
 
 
 
 
 
 ……というのは建前の話。いや、確かに8割方はそんな気持ちで作ってました。
 ですが残りの2割は違います。この話を書いた理由は単純に『ニャルラトホテプをさっさと物語から排除しないと収集がつかなくなる』という面もあります。
 
 物語の連続性があるというのは、それだけ人の成長や中身を重ねることができます。ですが同時に裏の背景や事情も少しずつ透けてしまう。メタ視点というもので分かってしまうのです。
 それは時系列が続いてるTRPGのセッションと同様で、トリックスターで何でも屋と都合よく扱われるニャルラトホテプは特に代表例です。
 
 幾多のセッションを超えたプレイヤー側は絶対思ってしまうのです。「あっ、これニャルラトホテプの仕業だ」とか「これ裏にニャルラトホテプが絡んでるな」とか「この魔導書を渡したのニャルラトホテプじゃね?」といった感じに、あらゆる事態の収束に彼の影がチラついてしまう。
 
 そういう物語のノイズになり得る情報を極力削除、ならびにどうやって退場させるかのを苦悶したのが第一部でもあります。ニャルラトホテプがいなくなれば、読者は「裏に誰が関わってるんだ!?」とか「誰が元凶なんだ!?」という疑問を残すことができますから。
 
 時空間を超越しているヨグ=ソトースも同様です。
 彼はどの次元、どの時空でも存在する無尽なるもの。『因果の狭間』からハインリッヒが出てくるように、彼の存在がある限り時系列というものを極限にまで無視することができます。ただでさえ未来予知ができるスクルドがいたり、物語開始時にロス・ゴールドでタイムリープをしたレンちゃんがいるというのに。
 こんなことをヨグ=ソトースとニャルラトホテプに長いこと居座られたら収集がつかなくなります。常にアイツらの尖兵とかとぶつかり合ってマンネリ感にも繋がりますし。
 
 そんなこんなで事態の収束と成長を描いた第一部でした。
 個人的には満足ではありますが、読み返してみると「今ならこう描写した方が良かったなぁ」とか「ここ無駄に描写してるなぁ」という感じで拙さを感じてしまうのですが、まあとりあえず細かいことは一度見ないフリをしときます。
 
 
 
 というわけで第二部の始まりである『学園都市編』については、ちょいと長めに期間を空けてから開始となります。具体的には『4月1日』からスタートです。春の幕開けですしね。
 
 ただこの章に限っては、前にもお伝えした通り『戦争』と『侵略』を題材としたものとなります。題材とせざる終えませんでした。
 当初予定したものよりマイルドに仕上げようとテロップを再構成しましたが、やはり魔女兵器世界観における大事な『七年戦争』と『六大学園都市』を扱う以上は避けては通れない道であり、また順番を見送るということも難しいものとなりました。
 
 何がとは言いませんが、今でもニュースで続く情勢ですので、もしかしたら4月の段階であまりにも内容と被ってしまい、不謹慎なものになるようでしたら公開を延長する可能性もあることもご了承くださいませ。
 
 
 
 というわけで後書きは以上となります。
 
 第九章『殺戮警告』は題名の通りハードです。今までのが人類と神話生物の戦いなら、次は人類と人類の汚い部分の押し付け合い。麒麟が忌み嫌った物が表面化したものとなります。
 
 それでも最後までお付き合い頂ければ幸いです。
 
 それでは……ノシ


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第九章 【殺戮警告】
第1節 〜Dead or alive, No place to run.〜


 これはフィクションだ。この話はフィクションだ。

 

 けれども必ずしも絵空事の話とは断定はできない。

 これは近い将来貴方の国で起こることもかもしれないし、これはどこかの国にとっての日常かもしれない。

 

 今あなたは平穏快適に大地を踏み締めている。文明という名の自然の死体を踏みつけながら悠々自適に生きている。

 けれど瞬く間に世界が地獄に、焦土に変わることを思うことはあるだろうか。

 

 いや、ないだろう。人という生き物は『社会』や『組織』というものに紐づいている以上、それら以外の物には残酷なほどに無関心になる。

 

 

 

 ——『死』とは悲しいことではあるが、特別なことではない。

 ——『死』とは残酷なことではあるが、特別なことではない。

 ——『死』とは悪しきことではあるが、特別なことではない。

 

 ——『生』とは嬉しいことではあるが、特別なことではない。

 ——『生』とは幸福なことではあるが、特別なことではない。

 ——『生』とは素敵なことではあるが、特別なことではない。

 

 

 

 ——なら同じ『特別なことではない』のだから、同様のことが言えるのではなかろうか。

 

 

 

 ——『死』とは嬉しいことではあるが、特別なことではない。

 ——『死』とは幸福なことではあるが、特別なことではない。

 ——『死』とは素敵なことではあるが、特別なことではない。

 

 ——『生』とは悲しいことではあるが、特別なことではない。

 ——『生』とは残酷なことではあるが、特別なことではない。

 ——『生』とは悪しきことではあるが、特別なことではない。

 

 

 

 貴方がどこかで平穏に過ごす時間、必ず世界のどこかで死に果てて、生まれ出づる者は必ずいる。生死は絶対に特別なことではない。そして『君だけのものじゃない』——。

 

 

 

 ハッキリと言おう。たかが命なんていう有象無象の掃き溜めを特別視する必要はない。

 死者に対する冒涜であろうと晒されてもいい。生者に対する侮蔑であると貶されてもいい。

 

 命の価値なんて何一つない。命が尊いと思うなら、命の輝きを求めるなら是非とも実践してほしい。

 人間も家畜のように扱われ、家畜はスーツを着こなして社交ダンスに明け暮れる日々を想像してほしい。

 

 

 

 ほら、悍ましいだろう。なんで気持ち悪いと思うか。

 同じ命が繁栄してるというのに、どうして嫌悪感を持つのか。

 

 決まってる。君らが大事にしてるのは『命』ではなく『人間性』だからだ。

 命の大事さなんて綺麗事にしかすぎない。それこそ人間が競走馬やパンダのようにVIP待遇の飼い慣らされるほうが、よっぽど命は大事に扱われるだろう。

 

 けれど、その扱いは人間は良しとするかと言われたら大半はノーというだろう。何せそれは家畜の生き方であり、人間的な生き方ではないからだ。

 

 ならば問おう——。

 君たちにとっては『人間』とはなんなのか。

 

 そこに正解は無数にあり、不正解も無数にある。

 どれが正解か不正解かではなく、我々は常に選択を強いられて、結果としてその最果てに答えがある。そこでようやく『正しかった』か『間違っていた』のかを把握できる。

 

 清く正しく何にも反抗することなく傀儡のような生き方は『正しかった』か——。

 醜く悪しき何事にも反抗してきて猛獣のような生き方は『間違っていた』か——。

 

 

 

 だからこそ人が大事にすべきなのは命ではなく『命の使い方』なのだ。

 正しいか間違っているか。正解なのか不正解なのか。そんな風に選定された命に価値はない。結果ではなく過程を重んじない命は、最初から死んでいるし、生きてさえもいない。惨たらしく死んでないだけの腐った心が健全な肉体を動かしてるだけの死体なだけだ。それは命ではない。

 

 

 

 だから知ってほしい。これはどこかで必ず起きていた真実なのだから。これから起きるかもしれない真実なのだから。

 

 

 

 虚構であれば、夢であれば、どれだけ救いだったのだろうか。

 

 

 

 



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第2節 ~銀の弾丸~

 いつまでも終戦の気配がないので投稿再開となります。

 そして先に謝罪をしておきます。
 この章に限り、非常に世俗に対した大変不躾で失礼で配慮のない描写が挿入される恐れがあることについて予めご了承くださいませ。


 これは皆が知ってるニュースの話。

 確かにあの日、あの時間にこういった内容のニュースが流れていた。

 

 

 

《今回の国際フォーラムにおいては異質物のエネルギー活用や、『再建計画』など各種の重要な議題について話し合いが行われる模様です。また、マサダブルクの議長は近日行われた非公式演説において、西アジアの秩序の再建を図るため、新たなる軍事方針を近く公表すると宣言しております。これに対し、サモントンニュース部門の担当者はコメントを控えており……》

 

 

 

 それは猫丸電気街での事件が起きる少し前に流れたニュース。

 直後に『異質物武器実験禁止条約組織』という、六大学園都市とは独立かつ中立を維持する機関に所属する『ランボット』という男が拉致監禁される事態にもなったが、そんなことは今はどうでもいいだろう。

 

 

 

 問題は『国際フォーラム』という点だ。

 ここ最近色々な事件が多発した。『OS事件』という『Ocean Spiral』を境に『エクスロッドのお嬢様が殺害される事件』や『SD事件』と呼ばれる『サモントン騒動』もそうだ。

 

 遡ればマサダブルクでの砂嵐もそうだし、もっと遡れば猫丸電気街での暴動もそうだ。この一年間であまりに異質物関連で大規模な事件が多発したのは皆の記憶には鮮明に残る。

 

 そんな只中で『平和』というものが存在できているのか——。

 無論、それに対して疑問を覚えるのが国民であり、その疑問や不安を解消してほしいと我儘を言うのが世論だ。そして世論に応えるのが政治というものだ。

 

 

 

『皆さま。お集まりいただき感謝いたします。これより『第5回国際フォーラム』を行います——』

 

 

 

 故に、前回から一年未満というあまりにも異例な早さで六代学園都市を中心とした『第5回国際フォーラム』が行われることになった。

 各国の代表として選ばれた政治から研究部門などの首脳が雁首を揃えてマサダブルクの領地にて各々の学園都市が代表する面々が、各自の大使館にて3Dライブ映像で国際フォーラムに参列していた。

 

 

 

『この度は戦地が止まむ中でもお越しいただきありがとうございます。私こと『エミリオ・スウィートライド』はマサダブルクの教育・宗教部門での代表として改めて感謝を』

 

 間髪入れずに第一声はエミリオが先駆けた。

 それを合図としてエミリオの隣に座る女性——白銀の髪を靡かせた威風堂々とした女性も挙手をして語り始める。

 

『今回は緊急ということもあり顔触れも見覚えのない人物がいるでしょう。それはもちろん私も含めてです。恐れ多くもまずは私から自己紹介をさせていただきます』

 

 見た目の年齢以上に気品も度胸も一級品だな——。

 そう思いながら、参列していた新豊州の代表の1人として招集されたマリルはその女性へと意識を向けた。

 

『私はマサダブルクに存在する傭兵組織『マルス・アレクサンドリアル』の最高責任者『パトリオット』こと『システィーナ・アレクサンドリアル』と申します』

 

『では続けて私が自己紹介を。サモントンの情報機関『ローゼンクロイツ』の統括指揮官『ミカエル・デックス』だ。隣にいるのは同じく『ローゼンクロイツ』の最高権威を持つ『位階十席』の第三位の『ハインリッヒ・クンラート』と第五位の『アイスティーナ』だ』

 

『おやおや。今回はデックス博士と、第一位であるモリス殿の同伴による授業参観ではないのですか?』

 

 マリルと同じく新豊州の代表の1人『#C』はわざとらしい挑発であると同時に誰もが思う指摘をするが、ミカエルは『私もいつまでも子供ではないさ』と軽く流す。

 

『サモントンの情勢は知っているだろう? 教皇庁で管理していた異質物の暴走で領土が荒れてしまったのだ。祖父は管理者である前に研究者であり、年齢も相応にある。私がサモントンの顔として出席した方が合理的と判断しただけさ』

 

 とても二十歳とは思えない堂々とした態度に、#Cは『そうですか』とつまらなさそうに相槌を打って次なる標的へと投げかけた。

 

『まあ見慣れないのはサモントンとマサダブルクだけではないか。華雲宮城は今回も代表を変えるとは……。『無形の扉』の名の通り、らしいといえばらしいが』

 

『ええ。今回は私『バイジュウ』が華雲宮城の代表として参列させていただいてます』

 

 各々の挨拶が多少の滞りはありつつむ進んでいく。今回の国際フォーラムにおける新顔はエミリオ、バイジュウ、ミカエル、ハインリッヒとレンとSIDに深く関わってきた者達だ。

 否応なしにも第五学園都市である新豊州——正確にはSIDの長官であるマリルに、他の国々から奇異な視線を向けられてしまう。自分の発言力を高めるために工作したものではないかと。

 

 もちろんマリルだってそれくらいは予定調和だ。その視線に応えようと席を立って演説しようと時——。

 

『今は個人的な感情を持ち出す場所じゃないだろう。小童ども』

 

 マリルに割って入ってきたのは、第六学園都市である『リバーナ諸島』を統治する三大マフィアの一つ『カペッリーニ』の首領の右腕である『ティーダ・グレイ』だ。

 身長は190cmを裕に超え、無駄のない筋肉で構成されたアスリート顔負けの恵まれた肉体は、とてもドラマなどで見る銃で抗争するマフィアとは思えないほどだ。実際に彼の第六学園都市での評価は『武闘派』と呼ばれており、下手な小細工をせずにリバーナ諸島の犯罪率を低下させるという実績を持つほどだ。

 

 その敏腕は国際フォーラムにおいては誠実とも取れる印象もあり、ランボットを始めとした学園都市に属さない中立機関からの信頼も厚い男でもある。

 

『ここは世界のため、国のため、学園都市のため、各々のキナ臭い情勢に蓋をする。それが暗黙の了解だ。そういう後ろ暗いことをしたことない者のみが物申せ』

 

 グレイの言葉に誰も口を出すことができない。皆が表立って口にできない政治的な闇を行っているのだから当然だろう。

 だからこそだろう。後ろ暗さとは無縁の純粋無垢の子供——なのは外面だけの『スクルド・エクスロッド』だけが、そんな空気なんて知らないと言わんばかりに小生意気に口を開いた。

 

『へぇ~~。流石はグレイさん。お堅さだけは健在だね』

 

『エクスロッドのお嬢様は壮健そうでなによりだ。不慮の事故で死亡したと聞いていたが?』

 

『安全確保のために偽装した情報だよ、それは。議員の娘は交渉材料の人質として優秀だからね。ランボットさんと違って捕まる前に手を打たないと♪』

 

『おや。これは突然の手厳しい意見だ。次があった時にでも考えておこう』 

 

 ランボットの自虐的なブラックジョークを機に、話の主導権は中立機関へと移り、それが合図となって国際フォーラムは本格的に開始された。

 

『では戯れもここまでにして本日の議題に移るとしようか。第一の議題についてだが——』

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「いや〜〜! こういう肩肘が張る仕事は慣れないな〜〜!」

 

 半日ほど経過したところで、本日の緊急国際フォーラムを終え、エミリオは肩を回しながらマサダブルクの内城にある会員制の高級飲食店へと顔を出す。

 顔と名前の確認を澄まし、エミリオはスタッフに案内された一室へと向かうと、一足早く入店していた民族衣装に身を包んだ黒髪の美女——バイジュウが令嬢のような尊大な気品を持って会釈をする。

 

「お疲れ様です、エミさん」

 

「バイジュウもお疲れ。めっちゃ似合ってるね、その服と化粧」

 

「場が場ですからね……。こういう服装は慣れないのですが」

 

 そう言いながらバイジュウは食事では味の妨げになる口紅を落としながら文句を垂れる。堅苦しいのが苦手なのエミリオも同様で「分かる~~」と言いながら、疲労感を隠すこともなく座椅子へと腰を置いた。

 

「しかし私たちがマリル長官と同じ立場にいるなんてねぇ……少し前までSIDに所属してたってのに」

 

「まあ私は臨時だから元々こうなる予定ではあったんだけど」とエミリオはケラケラと笑いながら、この場のためだけ用意したレディーススーツのボタンとネクタイを緩め、団子で纏めていた髪を解いて靡かせた。

 

「それより宇宙開拓の方はどうなってるのかな? それとミルクとの調子はどう?」

 

 ミルクという名前——。それを耳にした瞬間、バイジュウは気でも失ったかのように脱力し、その目を見開いた。

 

「……嬢ちゃん。表立って私の名前なんて出しちゃいけないでしょ?」

 

「……プッ!」

 

 いきなり雰囲気がガラリと変わったバイジュウの様子を見て、エミリオは抑えきれずに笑ってしまう。

 

「どうしたのエミ~~? 私の顔になんかついてる~~?」

 

「アッハッハ! ち、ちょ、ちょっとタンマ! やっぱりバイジュウの顔で、ミルクのテンションは可愛いけど似合わないわ〜〜!!」

 

「私もそれ思ってるんだよね〜〜。だから基本はずっとバイジュウちゃん任せ。私がこうして表に出るのはよっぽどの限りはないかなぁ」

 

『ミルク……。あまり好き勝手しないでくださいね』

 

「分かってるって。バイジュウちゃんの分までたらふく食べるだけだから♪」

 

『一般的な摂取カロリーで頼みますよ!』

 

「冗談だって♪ 私の可愛いバイジュウちゃんをブックブクのブッタブタにするわけないじゃん♪」

 

「一人芝居見てるこっちからすれば、すごいナルシストみたいねぇ」

 

「まあ今だけは表に出させてよ♪」とバイジュウでは絶対しないであろう愛嬌がある笑顔をミルクは浮かべる。

 

「しかし私が20年間も眠ってる間に随分と世界は様変わりしたね。今回の議題なんかもビックリしちゃったよ。なんだっけ、第4回国際フォーラムで提出する予定だった『新たなる軍事方針』としてマサダブルクが出したあの……」

 

「『人工魔女』のことでしょ」

 

「そう、それそれ。私みたいなやつが魔女だってのは分かるんだけど……それを意図的に増やして大丈夫なの?」

 

「大丈夫かどうかで言えば大丈夫じゃないけど、本命は『人工魔女』よりも、もう一つの技術発表の方よ」

 

「あぁ……『対魔女兵器』の試作型『レッドアラート』を超えた兵器……コードは『銀の弾丸(シルバーバレット)』だっけ?」

 

 2人はタブレット端末から会議で配布されたデータの一部を閲覧する。

 そこに映っているのは、先ほど話題に出たマサダブルクの新兵器『シルバーバレット』の詳細だ。

 

「全長は2mとレッドアラートより小型化。にも関わらずエネルギーの持続性と運動性能は据え置きどころか、むしろ向上してる。流石に最大火力はレッドアラートの方が上ではあるけど、逆に言えば出力調整ができたってことだから暴走の危険性が薄いことを意味してる。……これ普通にパラダイムシフトの技術革新だよ」

 

「私は軍事研究部門じゃないからなんとも。ケーニッヒ教官やヴィラのお父さんに聞いてもみたけど、2人とも軍人教育が基本だから知らないってことだし」

 

 ミルクからすれば教官やヴィラの父親どころかヴィラ自身についても詳しく知らんがな、という感じではあるが、特にそれを口にしたところで意味がないので疑問を飲み込んで話を続けた。

 

「しかもこれ『量産化』も安易にできるってのがすごいわね……。『人工魔女』を使った実戦データではあるけど、このシルバーバレットは魔女相手に引けを取ってない」

 

「頼りになる兵器なのは間違いないわね。魔女相手に互角なら、ドールも同様ってこと。となればサモントンみたいな事件が起きたとしても対処が安易ってことでもある」

 

「でも本格的な問題はこっちだよね」とマサダブルクから提出された資料データそのものへとミルクは指さした。

 

「『人工魔女』も『シルバーバレット』も両方マサダブルクが独自の技術ツリーで完成させた傑作品……。マサダでしか保有してない以上、どちらの技術を利用しようにも莫大な資金が各国からマサダに入るってことでもある」

 

「そりゃ魔女とかシルバーバレットとかカッコいい感じに言ってるけど、要は『人型の戦争兵器』を売り捌くってことだからね。六大学園都市はまだいいとして、現在でも存続してる小さな国々はマサダの技術があるかないかで大きくパワーバランスが変わってしまう……」

 

「これどれくらいの収支が見込めそうなの?」

 

「ざっと数十兆ってところ。金さえ払えばドールから自国の犯罪者まで武力で解決できるんだから需要しかない。こんくらいの資金が集まればマサダの退廃した内戦に政治的介入を問題なく行えるでしょうね」

 

「だからかぁ」とミルクは一度資料から目を離し、ニュースサイトのピックアップを閲覧する。

 嫌でも目立つ記事タイトルが一つ。その題名は『マサダブルクに新しい女神誕生!? パトリオット様に密着取材!!』という現代かぶれの俗っぽい見出しだった。

 

 内容については俗なタイトルと違って本格的だ。

 パトリオットことシスティーナ・アレクサンドリアルは、マサダブルクの内城に存在する資産家『アレクサンドリアル家』の現世代の当主。年齢は28歳とまだまだ若輩者ではあるが、そのカリスマ性と神秘性から元々カルト的な人気があったとのこと。

 

 しかし転機が訪れた。『マサダブルクの聖女』の誕生によって内城と外城の信仰に大きな影響を与え、自ずとマサダブルクの政治は大きな変化を余儀なくされた。

 結果としてマサダブルクの内城政府はエミリオと並ぶ求心力が高い象徴が必要となった。そこで選ばれたのが元々カルト的な人気がありつつ、資産家として政治に間接的に介入していたアレクサンドリアルの当主となるシスティーナが、今のマサダブルクの中心となって学園都市を動かしている——という経緯が、民衆でも扇動するかのように華々しく記載されていた。

 

「マサダブルクの守護女神だなんて……。この国は偶像とか好きなの?」

 

「好きなんじゃない? だって私もマサダブルクの聖女だし♪」

 

 エミリオはアイドルが写真でも取るかのように、両手の人差し指を自分の頬に当てて営業スマイルを浮かべる。

 それをミルクは「はいはい、そうですね聖女さん」と適当に流して話を続けた。

 

「『人工魔女』の傭兵組織として組み上げた『マルス・アレクサンドリアル』は金さえ払えば各国に『人工魔女』……組織に所属される『マルス兵士』を臨時派遣されるシステムを確立させた。これは全体的に見れば治安改善と異質物事件の早期解決を目指せるありがたいものではあるけど……」

 

「……逆に言えば資金がない国は『人工魔女』の恩恵を得られない。それは国としての力がないことを意味している」

 

「侵略戦争の被害国になるのは目に見えてるね。ただでさえ国家は減少してるってのに、また世界から国の名前が消えてくことになる。となれば?」

 

「被害国の国民を追い出すか、奴隷にするか……」

 

「虐殺か——。なんにせよ、ディストピアを齎す力だよねぇ」

 

 カラカラとエミリオは笑いながら食卓に並ぶ御馳走と共に、仰々しいラベルと飾りが施された一つの瓶を開けた。

 それは間違いなく酒だ。アルコールだ。未成年飲酒法に引っかかるアウトな光景を、ミルクは目の当たりにした。

 

「……一応聞くけど未成年が飲んでいいの?」

 

「マサダではこういう席では無礼講よ♪ それに暇だったから一度自分の能力を研究してみたら面白いことが分かってねぇ〜〜♪」

 

 エミリオの能力はミルクでも知っている。何せ『OS事件』でレンを通して見ているのだから。

 彼女の能力は単純に『血の硬質化・蒸発』だ。自分から流れ出た血を鉄鋼ほどに瞬時に固めることもできるし、蒸発だって瞬時に100度を超える熱量を保つことができる。そういう能力だ。

 

 だがエミリオの言いようからして『それだけではない』という感じだ。

 彼女はさらに一杯と瓶を開けると、まるで水でも飲むかのように一気にその中身を飲み干した。もちろんそんなことをしてしまえばどうなるかなんて身に見えている。『急性アルコール中毒』の症状が出て、嘔吐や動悸などを起こすに決まっている。

 

「別に能力が増えたわけじゃないのよ。能力の副産物ってだけで」

 

 だがエミリオは至って平気な表情で空となった瓶を机上に置く。平気な表情というが、顔色一つも変えていない。赤くもなっていなければ汗も呼吸も乱れていない。焦点だってミルクと寸分違わずに交わっている。

 

 本当に中身が水だったわけがない。瓶からはアルコール特有の匂いも漂っている。となれば話の流れとして結論は一つだ。

 

「酒に強い、ってのが新たに発見した能力ってこと?」

 

「まあ大体そんな感じかなぁ」

 

 と言いながらエミリオは「やっぱ酒は私に合わないなぁ」と言って、いつも通り自分が大好きな甘味料ドバドバの炭酸飲料を口にし始めた。

 

「要は血に魔力が通っているおかげで免疫力が上がってるから『毒物とかの耐性が極めて高い』ってこと」

 

「こんなにアルコール摂取しても顔色も変わらないでしょう?」とエミリオは自慢気に胸を張り天狗となる。

 それはそれとして未成年の飲酒はご法度ではあるのだが、文化の違いと片付けられたら何にも言えはしない。義務教育の場でも家庭の宗教問題には介入できないのと同じように、教育や文化というのはそれこそ個人の意思と自由が尊重されるのだ。

 

「今にして思えばマサダで自白剤メチャクチャぶち込まれても無事だったのは、そういうことだったんだぁ〜〜、って自分で思っちゃうくらい」

 

 自白剤の件なんて知らん、とミルクもバイジュウも思いながらテーブルに並べられた食事を口へと運んだ。実際に運んでみると、何でも美味しいと思うミルクでも舌鼓を打ってしまうほどに味わい深い。

 

 これが上級階級にいる人種の食文化かぁ、と感心しながら場としては『マサダブルクの代表と華雲宮城の代表による食事会』を終えた。

 

 



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第3節 〜異質物抑止論〜

「ふぅ~~。やっと一息つけるな」

 

「お疲れ様、マリル長官。飲み物は何にする?」

 

「ビール。一本だけでいいぞ、悪酔いするにはまだ早いからな」

 

 マサダブルクの領地にある新豊州の大使館の一室。

 そこで元老院の一員兼SID長官として出席するマリルと副官補佐としての研修という名目で同伴していたアニーは、お堅い軍服のまま向かいあって軽食を進めていた。

 

「レンは今頃どうしてるだろうな?」

 

「そりゃニュース番組に噛り付くも右から左に受け流してると思うよ。現代社会の成績アレだから……」

 

「お前も言えた義理じゃないがな」

 

 とはいっても国際フォーラムの議題は嚙み砕いて説明しても難しい物だ。

 世論の一割が全容を把握してれば奇跡的と思えるほどに議題の内容は複雑な上に量も多い。議題の方向性も民には実感がわきにくいものもあれば、直接的な支援を施すという身近な物まで様々だ。

 

 特にその中で目を見張るのが第四学園都市のマサダブルクの『人工魔女』と『シルバーバレット』の発表の他に、第一学園都市の華雲宮城が公表した『宇宙開拓における調査報告』がある。

 

 バイジュウが宇宙空間でも適応できる類稀な身体と精神性、それに絶対記憶能力による専門知識を修めるなど、普通の宇宙飛行士を育成する際に発生するはずの金銭や時間的なコストは大幅にカットされることで、日進月歩で研究を進めることができたのだという。

 

 おかげで華雲宮城が管理していたEX級異質物である『白緯度』を早期利用することでバイジュウは1週間の宇宙旅行というテストを無事に完遂。今後は宇宙技術の発達は飛躍的に伸びると予測し、各国にいる資産家は投資の種として優秀であると判断され、今や華雲宮城はマサダブルクと並ぶ経済効果生み出すと期待されているのが、株価と国際間の相場変動から伺える。

 

「今までXK級異質物の『ファントムフォース』で威圧してギリギリで体裁を保っていたマサダブルクは、単純な傭兵派遣による自転車操業とは別の力を施すことができるのだから学園都市は変化を余儀なくされる」

 

 マリルの難しい話にアニーは若干ついて行けずに頭に熱気が篭りそうになるが、副官補佐の研修という立場として聞き逃すことは御法度だ。

 分からずとも真剣に聞こうと飲み慣れないブラックコーヒーを一口入れて思考を再起動させる。

 

「そうなると弱小国家は当然として他の学園都市にも影響は及ぼす。では今回の国際フォーラムで六大学園都市の中で最も悪影響を受けるのはどこだと思う?」

 

「サモントンか、ニューモリダスかな?」

 

「そうだな。あの二つの学園都市が利益を確保していたのは貿易が主だ。決して力じゃない。けれど力は領地を奪うことができる。それは過去にあった事柄でいくらでも証明しているだろう」

 

「穏やかじゃないね……」

 

 アニーはロング缶のビールのプルタプを開けてジョッキへと注ぐとマリルに手渡す。

 それに「ありがとう」とマリルは至って自然に礼を言いながらグッと一口を流し込むと、早速酔いでも回ったかのようの饒舌に話し出した。

 

「だから今回の国際フォーラムでは緊急議題が行われた。ランボットが口にした一言で熱烈にな」

 

「——『異質物抑止論』だよね」

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 ——その頃、新豊州にて。

 

 

 

「ねぇ、ラファエル。『異質物抑止論』ってなに?」

 

「いつまでも餅は餅屋ね。いいわ、説明してあげる」

 

 現在俺はラファエルがいるSIDのリハビリ施設の食堂にてご教授を願う。

 リハビリの経過は順調であり、今は松葉杖の補助があれば立って移動できるくらいにはラファエルもいつもの調子に戻ってきた。弱ってた頃の妙に可愛げのあるしおらしい姿も名残惜しいが、ラファエルが元気になるのが一番なのだからそれでいい。

 

「女装癖。前回の国際フォーラムがどういう物だったか覚えてる?」

 

「ああ。覚えてるよ」

 

 だってソヤと会う同時期に起きたことだったし。記憶というのは印象深い物とその前後は連続して覚えやすいという研究があるように、学がない俺でも詳細を覚えている。

 

「それじゃあ前提となる説明は要所だけに済ませておくわ。ランボットは前回の国際フォーラムで各国でも攻撃型の異質物を持ちましょう、という類の話を持ち込もうとしたからテロリストに拉致されたわ。これに関しては多少過激思想だから自業自得なところもあるけど、人工魔女が確立されようとする中だと悠長に言ってられる問題でもないわね」

 

「何故にどうして各国で攻撃型の異質物を持つという物騒な話が出てくるんでしょうか?」

 

「武力的な牽制のためよ。昔風に言えば『核抑止』とでも言えばいいかしら」

 

「そもそも『核抑止』ってのがイマイチしっくりこないんだけど……」

 

「国家壊滅の爆弾を各国で一つずつ持ちましょう、みたいなものよ。使えば国を壊滅できるけど、一つしかないからその隙を見て他国は侵略を仕掛けてくる。もちろん壊滅された国が報復で核を投げることもあれば侵略に便乗する可能性もあるわね」

 

「七年戦争みたいで嫌だな……」

 

「その七年戦争が起きた理由の一つが、この『核抑止』が機能しなくなったことだから近からず遠からずって感じね」

 

 そういえばそうだった。研究が進んで異質物の力が強大になったからこそ今までの力関係が様変わりして、あの戦争を起こす遠因になったんだった。

 

「七年戦争は一部の国で独自的に研究、発達をしたせいで異質物技術が飛躍的に向上したことで『核兵器』を超える異質物が誕生することになった。それが引き金の一因となって七年戦争は起きるのだけど……この核兵器を超える異質物において代表的な物をお前は知ってると思うけど?」

 

「……XK級異質物」

 

「そう。私達が住む新豊州とかサモントンみたいな『六大学園都市』が定義される基準であるXK級異質物がその代表に値する。新豊州が誇る金城鉄壁の『イージス』だって、その性質は『外からの悪意ある攻撃をすべて遮断する』という核ミサイルを完全に無力化しつつ、こちらの核ミサイルを一方的に通す劇物よ。こんなのを用意されたらどうしようもないわ」

 

 言われてみればそうだ。新豊州の『イージス』は難攻不落で金城鉄壁だ。外敵からのあらゆる悪意を弾くアテナの盾の名を持つに恥じない性能をしている。モリスが使っていた『不屈の信仰』のデメリットがないものと思えば異様さが分かる。

 

 だからこそ俺みたいな特別でも何でもない存在が『七年戦争』で生き残ることができたのだ。

 それからして『元老院』が教育の土台……より正確に言うなら、前にあった『ブライト』というインテリゴリラが築いた教育的援助を新豊州に住む全子供達に施す事で、新豊州は他とは比べ物にならない速度で社会を再構築することに成功した。それも『イージス』が絶対的な安全性を保証してくれていたおかげだ。

 

 だから考えたこともなかった。俺の中では『イージス』は平和の象徴で、そして誰よりも俺を『俺』として認めてくれたもの。

 それが攻撃的な運用をしようと思えば、いくらでも悪用できる産物である側面を持つということを今まで気づきもしなかった。

 

「だからXK級異質物を持つ六大学園都市は大手を触れないようにするために、共通の国家条約とは別に特殊な条約を結んでいる。サモントンは『輸出・輸入市場を可能な限り操作しない』ということ。新豊州は『戦略級・戦術級の遠距離攻撃手段を持たない』ということ。普通の国であれば呑むわけがない理不尽なのに、それを容易く呑むほどに六大学園都市の技術は他国とは凌駕してる」

 

「でも、それって口約束だよね? 条約でも結んでいるはいるんだろうけど……やろうと思えば反故にできない?」

 

「貴方の危惧通り、当然無視することもできるわ。七年戦争前にあった中国という国が他国の領土を買ったようにね」

 

 中国こと華雲宮城を名乗る第一学園都市に喧嘩を売るような発言をしないでください。ラファエルの言葉のほうがXK級に怖い。

 

「だからここであるXK級異質物の出番よ」

 

 あるXK級異質物? XK級異質物は学園都市しか保有してないから最高でも6個だよな?

 

 新豊州は守りの『イージス』で、マサダは攻撃の『ファントムフォース』だからこの二つは今回の口約束を介入できる要素は薄い。当然サモントンの『ガーデン・オブ・エデン』もそうだ。

 

 だったら残るは華雲宮城、ニューモリダス——。そして……。

 

「……リバーナ諸島のXK級異質物ってこと?」

 

「はい、違う。リバーナ諸島のXK級異質物は『確率操作』を行える『D.A.W.N』なんだから無関係よ」

 

 じゃあなんやねん!! 

 

「答えは第二学園都市ニューモリダスが持つXK級異質物『リコーデッド・アライブ』——。その性質は『一定の代価を払い、地表上のいかなる"払った代価と同価値のもの"を交換する』というもの。こいつの性質を利用することで学園都市以外の国家は『払った代価』の報酬として『六大学園都市は学園都市以外には絶対的権力による横暴はできない』という概念を与えたのよ」

 

 知らんそんな話。社会の教科書に載ってなかったぞ。

 

「でもこの概念は完璧じゃない。抜け道なんて探そうと思えばいくらでもある。手間暇が合わないから行わないだけだもの。だからこそランボットはこの不透明で不安定な均衡と牽制が成立してる間に、他国は異質物を持つことで国としての武力を持たせて少しでも歪な関係を修復しようとしたの」

 

「それが『異質物抑止論』ってことか……」

 

「そういうこと。核兵器による力は異質物によって絶対的な物ではなくなった。結果として『核抑止』の力が弱まって、七年戦争を引き起こす一因となった。故に各国が異質物を持てば、表面上は何とかなるでしょう?」

 

「でも核兵器と違って異質物って性能差があるよね? 技術的に量産できるもんじゃないし……そこで格差が生まれない?」

 

「良いとこに目をつけるわね。だから『EX級異質物』っていうカテゴリがあるの。『何の力を持ってるかさえ分からない異質物』をサモントンの教皇庁は管理している。これは前回の国際フォーラムでも言及されていたことでしょう」

 

 そういえばそんなこと言ってたような……言ってないような……。かれこれ一年近く前だからその辺は曖昧だ。

 

「情報は秘匿されてこそ情報。例え『何の力もない』ことがわかっていても、その性能の秘匿と機密を保護できれば『どう扱ったら暴走するか分からない』という核爆弾級の地雷が完成する。腐っても異質物である以上、どんな物であろうと無碍に扱うことは許されないもの」

 

「ねぇ、女装癖?」とラファエルは暗に方舟基地とインペリアル・イースター・エッグの出来事を詰るように言ってくる。

 

 ええ、そうですよ。存外に扱った結果がアレですよ。すいませんね、異質物を適当に扱うような無遠慮な人間で。

 

「本来ならそれで今まではどうにかなっていたんだけど……二つの理由でそうも言ってられなくなった」

 

「一つは人工魔女とシルバーバレットの普及だよね。もう一つは?」

 

「サモントンがニャルラトホテプの一件で領土を荒らされたこと。あれで教皇庁の安全性や『サモントン条約』が危うくなってしまった。『何の力を持っているか分からない』といっても、そもそも『力を使う前に壊された』なんてことがあったら預けた国からすれば保ったものじゃないでしょ? 異質物は国宝級に取り扱うべきものでもあるのだから」

 

「そうなるとサモントンが持つ特権は『農作物』しかない」とラファエルは付け加えてくれる。

 

「だから今のサモントンは非常に危うい均衡で成立してる。それは長兄であるミカエル・デックスが代表として動き続けていてくれているからに他ならない」

 

「今回の国際フォーラム出てたラファエルの長男ポジにいる従兄弟のことだよね。具体的には何をしてるの? 次期総督として忙しくしてるそうだけど……」

 

「外交官の他に異質物研究員もやってるわよ。それに祖父とは別に研究施設を一つ持っていてそこの管理者。ついでにデックスの教育総責任者でもある。あとは『バイコヌール宇宙基地』とか『マチュピチュ』とかの重要な施設や名所にの復興計画を促した第一人者でもあるかしら」

 

「ミカエルってそんなすごいやつなんだな……」

 

「従姉妹ながらもアイツだけは何も分からないわ。ガブリエルみたいにキモくないし、アンタみたいに分かりやすいわけでもない」

 

 馬鹿で悪かったですね。あとキモい扱いされるガブリエルに同情してしまう。

 

「……そういえばガブリエルは今でもSIDに収監されてる状態なわけ?」

 

「うん、アレンとセラエノ共々に大人しく軟禁状態らしいよ。知らなかったんだ」

 

「私は正式なSIDのエージェントじゃないのよ。SIDの情報共有されるのは表面まで。詳細も伝わらないし、当然立ち入りが許可されてるエリアも制限がある。あくまでサモントンからの執行代表でしかない。ある意味では両国の話を円滑にさせるための人質みたいなものではあるんだけど」

 

「ここまで横暴で我儘な人質はいないけどな……」

 

「それを言えば奴隷だって立場は置いとくとして、今でいう労働基準とか社会保障とか福利厚生とか、そんじゃそこらより割と良い身分だった時期もあるのよ。人質が幅を利かせたっていいじゃない」

 

 限度ってものがあると思います

「限度ってものがあると思います、って顔してるわね」

 

 はい。何故か顔を見るだけで以心伝心が成立する関係性、ありがとうございます。プライバシーの侵害です。

 

「まあ、話は脱線したけど『異質物抑止論』とその均衡はこんな感じよ。ご不明な点はございますですか、女装癖さま?」

 

「ないよ。あとむず痒いよ、その言葉遣い」

 

「最近のアンタ弄られ慣れしてるから別方面から弄らないとメリハリないじゃない」

 

 弄りにバリエーションを求めるな。

 

「じゃあ国際フォーラムの第二幕まで時間があるし、遅いランチを済ませるわよ。最近はデリバリーも幅広いけど、SIDにデリバリーって届くのかしら?」

 

「無理に決まっとるでしょうが!!」

 

「冗談よ。どこか適当な場所にでも食べに行きましょう。車椅子も卒業したことだし外に出ないと」

 

「だったら良いところの焼肉屋行こうか。会員制でクレジット払いしか受け付けてくれないけど、ラファエルがいれば……」

 

「あっ、今の私クレジット払いできないわよ」

 

「なんで!?」

 

「ミカエルにカード止められたのよ。サモントンの一件での反省と、あと『お前は無駄金を使いすぎる』とか言われてね。前者は仕方ないとして無駄金なんて使った覚えないっての」

 

「いや。彫刻を買うのは無駄金かと……」

 

 悲しきかな。妹分の立場として逆らえない力関係に、初めてラファエルの社会的弱さを垣間見えた。

 

 なんて緩い雰囲気のままSIDから出て新豊州の中心を巡ろうと足を運ぶ。

 新豊州の平和という名のと空気と味わいながら、その裏側で流れる一つのニュースなんて耳にも入らないまま。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 

 

『緊急速報です。現在マサダブルクの大使館にてテロリストが押し寄せています——』

 

 

 

 

 



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第4節 〜デモンストレーション〜

 マサダブルクの大使館の入口前で武装を纏った兵士達が声を荒げながら威嚇射撃を開始する。

 

 弾丸で齎されるのは弾圧、恐怖、脅迫、要求だ。

 迷彩柄の防弾マスクを被った兵士が、聞き慣れない言語でそれらを甲高く告げる。

 

 内容は要約すると『人工魔女の廃止』を求めてるものだ。

 魔女は『ドール』に値するものであり、それは災害でもある。それを人工的に生み出すなんて神に対する冒涜であり、同時に『聖女』と名高いエミリオの奇跡を普遍化させる悪しきものであると主張してるのだ。

 

「つまりエミリオ様の厄介ファンってわけか」

 

「私のせいみたいに扱わないで貰える? ああいう神だの偶像だので、自分の責任と思考を放棄する輩とは付き合った覚えはないわよ」

 

「違いない」とパトリオットは笑い、そのまま冷静に状況を見据える。

 大使館を包囲する兵士達の総数は30以上はいる。マサダブルク内城政府が運営する自警団は出動してるが、相手は人質を取っていてむやみやたらに刺激することもできない。その人質の中には他国の政治家がいるとなれば尚更だ。

 

「ヴィラ、狙撃銃と人員の手配は?」

 

「ダメだ。人員はまだしも狙撃銃が足りない。一斉狙撃をして人質を捉えてる連中を無力化する作戦は厳しい」

 

「ヴィラのお父様……ダヤンの力は?」

 

「無理だ。狙撃銃を持ってこようにも持込申請込みで1時間ぐらいかかる。その間にあっちの要求は過熱するな」

 

「だよね……。そうなると潔く受けますか」

 

「ねぇ、マサダの守護女神さん?」とエミリオは試すようにパトリオットに問う。

 エミリオは人工魔女にどちらかと言えば反対的だ。当然ヴィラもそうである。魔女の絶対的な強さと脅威、それに伴うリスクは身をもって知り尽くしているのだから。

 

 そんな敵意に対する返答はいらない。時間もいらない。

 パトリオットは即座に端末に指を走らせると「強硬策だ」ということだけを告げて、再びテロリスト達が映るモニターへと視線を向けた。

 

 恐怖が漂う鈍重な画面。突きつけられた銃口に震えて怯える人質の表情は痛ましい。眼前に迫る死の恐怖を肌と心で理解している。戦うことを知らない無垢なる民に抗う術などあるはずがない。

 

 だが、その恐怖は一転する。空から落ちてきた十数の煙幕によって大使館の前は突如として混乱状態に陥った。

 続け様に飛来するのはいくつかの人影だ。訓練で動体視力を磨き抜いたエミリオとヴィラだからこそ目視できた人影の正体。軍服にエムブレムが刺繍された帽子。間違いなくパトリオットが保有する人工魔女『マルス兵士』だ。

 

 テロリスト達は驚きの声を上げる。「ヘリなどなかったはずだ」と。「銃弾を躱している」と。

 

 生中継による映像でしかエミリオとヴィラは現状を把握できない。あの煙の中では何が起こっているのかなんて。

 しかし想像は容易い。魔女の力は常軌を逸してる。エミリオが自身の魔法で血の防御膜や散弾を生成するように、使い方次第では魔女の力は弾丸なんて物ともしない暴力を振るえる素質である。

 

 きっとでも恐らくでもなく、間違いなくそこで煙幕の中で行われているのは蹂躙だ。

 

 その状況にパトリオットだけはほくそ笑む。この混乱とした最中を愉しみを覚えている。どうしてそうなったかを自分が指示したのだから。

 

 それが返答となる。パトリオットがエミリオ達に示した方針。テロリストの襲撃を人工魔女の力を見せつける格好の舞台にしたのだ。

 あまりの迷いのなさ、躊躇も遠慮も容赦もない無慈悲な決断。取捨選択を速やかに実行する胆力にエミリオは戦慄を覚えた。

 

 

 

 ——何よりも恐ろしいのは『心』の在り方だ。

 ——読めない。パトリオットの『心』が何一つ。

 

 ——エミリオの『読心術』を持ってしても心の断片が見えないのだ。

 

 

 

「アンタ——。こうも簡単に人質の命を捨てられるの?」

 

 だが懸念すべきはテロリストの制圧よりも人質に取られた無垢なる民の命だ。

 一応は聖女として祭り上げられているエミリオは人々の期待や羨望の意味を肌身で知っている。偶像とは穢れなき存在であるのが前提であるように、汚名や汚点がシミ一つ付けばミミズのように這い寄って蝕んでくる。

 

 人工魔女の力を見せつけるデモンストレーションとしては確かにいいだろう。実力とその価値をこれでもかと示すことができたのだから。

 

 だが、その人工魔女を提供する『マルス・アレクサンドリアル』としての立場はどうだろうか。

 命を軽んじる姿勢は『守護女神』として祀られるパトリオットのイメージに反するのではないか。それでは人工魔女の力を認められたとしても『悪しき力』として扱われて畏怖されてしまう。それでは政策の資金源としては意味がない。

 

 そういうニュアンスを一言で凝縮したエミリオの物言いに、パトリオットはただ「アホだな」と言わんばかりに大きな溜息を吐くと、モニターを顎で指しながら言う。

 

「人工魔女こと『マルス兵士』はそう簡単に目的を見失いはしない。奇跡を起こすからこそ魔女。人工魔女は奇跡を必然にする無法者なんだよ」

 

 パトリオットの言葉は真実となる。

 煙が晴れた時、テロリスト達は全員漏れなく倒れ伏していた。人質に傷一つつけることもなく完全な制圧を完了したのだ。

 

 

 

 ——テロリストの命さえも奪うことなく。

 

 

 

「人質も救う。テロリストも無力化する。両方達成できたら奇跡だよねぇ」

 

 小馬鹿にするほくそ笑み。奇跡の価値を否定する澱んだ笑み。人工魔女とは奇跡の再現であり、同時に災厄の意図的な発生を意味している。

 

 だが、今この場において最も脅威と災厄を孕んでいるのはパトリオット本人だ。

 笑みを浮かべるのは感情の発露だ。当然、それだけ心が見えやすくなることを意味してもいる。

 

 だというのに見えない。エミリオにはパトリオットの心が見えない。煙が掛かっているとそういう意味じゃない。

 パトリオットの心は『深淵』なのだ。覗き込めば逆にこっちの心が呑み込まれかねない闇の闇。濃縮された狂気の温床。

 

 

 

 ——まるでサモントンで一目見たニャルラトホテプのように。

 

 

 

 いや、そんなはずがない。ニャルラトホテプは先の事件でレンちゃん達が打倒した。ヨグ=ソトースも同様だ。

 超常の生命がこの場にいるということは絶対にない。それは確実なことだ。

 

 

 

 ——だとしたらパトリオットの『心』はどうなっているのか。あまりにも未知の体験に、エミリオは感じたことのない好奇心や恐怖にも近い背筋の震えを感じざる得なかった。

 

 

 

「中継をご覧の皆様、お騒がせして申し訳ありません。国際フォーラムの一時というのに、このような輩の介入を許してしまい……マサダブルクの守護女神として恥ずべき一面を晒してしまった」

 

 何食わぬ顔でパトリオットはその名の通り『愛国者』として、国を愛する慈悲深い政治家としての顔を見せて頭を下げる。

 

 なんだ、この女は。それがエミリオが抱いた正直な心境だ。

 パトリオットは大真面目に言っている。ここまで綺麗でスマートなテロリストの制圧なんて、もしかしたら自作自演として思われて仕方がないというのに、パトリオットは演技であるはずなのに真に迫る悔し涙を浮かべている。

 

 エミリオが警戒してるからこそ寄り添うことはなかったが、逆に言えばエミリオがそうでなければヴィラですら絆されてしまうほどの名演技だ。

 こんな演技を見せられたら内面を知らない人からすれば、パトリオットのカリスマ性に惹かれてしまうのも無理はない。

 

 外面だけならエミリオと並ぶほどに顔は整っている女性が涙を浮かべながら顔を俯かせる姿を見せてしまっては、経緯やその真意はどうであれ無碍にすることできはしない。

 

「いや、そんなことはない。人工魔女の重要性をその身で感じ取ることができた。まさか自警団という、ある意味では警察にも等しい存在さえも凌駕する力を『アレクサンドリアル』が保有してるとは……」

 

「うむ。人工魔女は懸念すべき部分は多くあるが、それ以上に我々の危機を脱してくれるものだと分かった。是非とも支援をさせてもらいたい」

 

 もちろんそれに応えて慰めようとするのは、その人工魔女の活躍でテロリスト達から解放された人質たちである。

 自分の目の前で危険が起き、その危険を打破されたのだから心酔とまではいかなくても好意を寄せるのは仕方がないことだ。

 

 ゆえにエミリオは口にしたかった。魔女の力はそんな輝かしい物ではないと。

 だが、そもそもエミリオ達は人工魔女についてキツく言及することもできない。

 魔女の脅威は身を以て知っているが、同時に魔女の力を遺憾なく発揮してもいる。どの口で「魔女の力は危険だ」だの何だと言ったところで、その力を利用してる以上は説得力なんてあるわけがないのだ。

 

 

 

 ——いや。もっと言うなら根本からだ。この世界の根本的な歪さが人工魔女の存在を咎めることができない。

 

 XK級異質物がなければ国と認可されることも難しい現代では、それの匹敵しうる人工魔女は普遍的で機能しやすい力と考えられる。

 他国がそれを利用できるというのなら『金さえあれば国が機能する』という異質物史上主義の考えから抜け出して資本主義としての確立ができる一手となる。

 

 それは決して罪ではない。輝かしい功績にしかならず、他国が讃えて人工魔女の存在を許容するだろう。

 

 

 

「しかしテロリスト共は殺しても良かったのではないのか? 貴方の政策に反対するのは非国民でしかない。民として尊重すべき命も権利もないだろう」

 

「いえ。そんなことはありません。アレクサンドリアルが責任を持って更生を促し、無事にマサダブルクの国民としての義務を果たせる力を身に付かせます。その為に彼らは生かしているのです」

 

 パトリオットからの返答は誠意に満ちている。嘘偽りもなく『それだけを意図的にエミリオに晒している』ということがエミリオには分かる。

 不気味で不吉で不可思議でならない。この女はいったいどうしてこんなことを言葉にできるのだ。その心の変容は人という在り方はかけ離れているというのに。

 

 分からない。何も分からない。本当に何も分からない。

 パトリオットという女が、欠片一つさえも見通せない。

 

「なぜこのような輩に慈悲を? たった今、仇をなす行為を目の当たりにしたであろうに」

 

「ただの一時の過ちです。テロリストであろうと彼らもマサダの国民だ。七年戦争で国を流浪して……その果てに過酷なマサダブルクの『外城』に流れ着いた。彼らは未来どころか今日を生きるのさえも精一杯な社会的弱者だったのです」

 

「だからこそ、このような選択の余地がない行為を取るしかなかった」と哀れみを秘めた目つきでパトリオットは気絶しているテロリストの一人を撫でながら話を続ける。

 

「人工魔女は強すぎる力ゆえにフリーで活動する傭兵達の役割を奪う部分もあることを予知していなかった。それは金銭的な死活問題となるのは少し考えれば分かることだったのに……」

 

 

 

 ——知らない。エミリオは知らない。

 

 パトリオットは今この瞬間に突発的に生まれた存在ではない。

 昔からアレクサンドリアル家の一人として生まれた裕福な人間だ。今更どうこう言うつもりも妬む気もないが、オッドアイで祖父から迫害されたエミリオからすれば羨ましささえ浅ましいほどの恵まれた血筋だ。

 

 だからある程度は知っていたはずだ。アレクサンドリアルというのがどういう家柄で思想を持っているかを。内城の出資者の一人としてどれほど好まれていたのかを。

 

 

 

 だけど知らない——。エミリオは知らない——。

 今この場にいる『システィーナ・アレクサンドリアル』であるパトリオットのことが何一つ見えてこない——。

 

 

 

「内城のことだけに気を取られ、外城の事情を疎かにするなんて……私はマサダブルクを統治する者として改める必要がある。この国の正しい在り方を」

 

 

 

 ——まさか、こいつ。そこでエミリオは確信した。パトリオットの目的を。

 

 ——だとしたらこの人工魔女のデモンストレーションですら、前座でしかないというのか。パトリオットがこれから紡ぐ言葉のために。

 

 ——国際フォーラムという場で堂々と口にする気だ。自分の思想と目的を。それができたらどれだけ楽であるかの夢話を。

 

 

 

「私は決心しました——。マサダブルクの守護女神として『マサダブルク』という国を統一することを。内城と外城の隔たりをなくし、自らが保有するXK級異質物『ファントムフォース』にも依存しない健全な国家作りを目指すことを」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「——できたらマサダブルクは今の状況にならんさ」

 

 ニューモリダスが利用する大使館の一室。

 そこでスクルドは『世間話』という体裁の下、ランボットとお茶を交わしながら中継画面越しで宣言するパトリオットの様子に正直な気持ちを述べていた。

 

 ランボットの視線はとても冷ややかだ。夢物語とか以前の宣いは上に立つ者としての役割を履き違えてるのではないかと勘繰るかのように。

 

 だがそこまでの気持ちは口にまでは出そうとしない。夢物語の世迷言であるが、それが実現できれば確かに国としては喜ばしいことであることには違いないのだから。

 

「私はそう思うが、聡明なスクルド君はどう考えるかな?」

 

 だが大人というのは時には薄汚くもなる。ゆえに子供という無垢さを利用して、自分の気持ちを代弁させようとランボットはスクルドに話を振った。

 

 だから応える。スクルドは己が心中をそのままに。

 

「同意見とは言っておくよ。マサダの外城と内城が分けられているのは宗教思想による格差と偏見が生んだもの。あの『壁』の厚さそのものがマサダの歪さの象徴なんだから」

 

「その通りだ。あの壁は物理的であると精神的な象徴でもある。パトリオットが口にした『外城と内城の隔たりをなくす』というのが最終的に行き着く先も分かるな」

 

「『壁をなくそう』ってことでしょう。文字通りに」

 

 スクルドの満点の返答にランボットは満足そうに「ああ」と笑って紅茶を口にする。

 パトリオットが口にしているのは聡明ではあるが、子供でも理解できるほどに無茶無理無謀の内容なのだ。

 

 モニターの向こう側で続く夢演説。パトリオットはその未踏の領域にいかようにして踏み荒らし、蹂躙し、振り返った時に渇ききった荒野を見て絶望するだろうか。

 

 想像するだけでも苦笑してしまう。別に失敗に期待している笑いではない。そこまでランボットの性根が悪くはない。

 できるわけがない。ないのだが、それほどの無謀さなら何かしら成すことができるという淡い期待——俗物な例え方をするなら『宝くじで一等当たったらいいな』とか『競馬でこの3連複なら万馬券になるな』とか思うくらいの小さな期待だ。

 

 紅茶を飲み終わるとランボットは一礼して席を立った。

 元より『世間話』は終えている。これ以上滞在する理由も時間もないのだから、当然スクルドだって歩むランボットを止めることなどしない。

 

「それではファビオラくん。私はこれで失礼するよ。今度はエクスロッドの娘を見失いようにしたまえ」

 

「アンタこそ足元掬われないようにしなさい」

 

「君たちは手厳しいな」とランボットは含み笑いを浮かべて大使館から後にしようとする。

 

 だが、その直後にアクシデントが起きた。

 忽然とテロリストの残党が姿を見せたのだ。人工魔女によって無力化されたであろう主戦力とは別のテロリスト。言うならば内部潜入を目的とした工作隊がランボットの前に現れたのだ。

 

 予期せぬ事態にファビオラは一瞬だけ思考が遅れた。

 スカートの中に仕込んだ小銃を取り出して発砲する構えの間に、ランボットの身柄を捉えられてしまう。

 

 これでは先ほどの事態をまた引き起こすことになる——。

 そうやって思考が巡る中、不意に『鈴にも似た風切音』がファビオラの鼓膜を震わせた。

 

 

 

 ——抜剣。デュランダル。

 

 

 

 刹那、残党の肉体は上下に二つに裂かれた。

 魔術的な一撃なのか、それとも技術的な一撃なのか。あるいはその両方か。

 

 なんにせよ、断絶の一撃は研ぎ澄まされていて流血を起こす前に残党命を優しく刈り取った。

 

 まるでギンのような剣術——。

 いや、そんなはずがない。ギンの剣術は才能あるものが一生という年月を重ね、さらにその上で成熟した肉体を持つという矛盾した二つを達成することで到達する領域だ。

 

 

 

 だとしたら、この女は一体——。

 

 

 

「おっと紹介を忘れていた。君の主君に指摘されたが、あの一件のことを反省していてね。ボディガードを雇うことにしたよ」

 

 テロリストの残党を一刀で伏した女性はファビオラと目を合わせる。

 

 ファビオラと同様に眼鏡をつけているが、全体的な色彩は正反対だ。

 

 ファビオラが赤と白。彼女は青と黒。

 ファビオラが激情化で燃えたぎりやすい第一印象だとすれば、彼女は冷徹で何事にも達観してそうな印象を受ける。

 

 

 

「行こうか、『九月』——」

 

「御意」

 

 

 

 短くも忠義に満ちた返答。血の痕跡さえ残らない鋭くも華麗なる斬撃と同様に無駄がない。

 そうして『九月』と呼ばれた女性はランボットの後ろをただ静かに歩んで行った。



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第5節 〜プレゼンテーション〜

 パトリオットの宣告からあっという間に半月も経過した。

 

 突然の国家の方針変更は多忙で危険なことだらけの綱渡りのはずなのに、意外にもこの半月でトラブルらしいトラブルは一切起きなかった。

 

 まず内城と外城の境界をなくすことから始まった。忘れそうになるがヴィラが持っていた『重打タービン』の設計思想のように、物理的に壁をなくそうということが現実になろうとしてるのだ。

 けれどもただ無くなるだけではテロリストを迎え入れるだけであり、とりあえずは第一段階として壁をなくす前に改めて簡易的な『壁』を作ることにした。なくすのに作るという自体に頭を抱えたくなるが、要約すれば『中立地帯』というのを作った。

 

 そこではパトリオットことシスティーナが当主を務める『アレクサンドリアル』が管理する小さな一画。面積にしては100平方キロメートルにも満たない。その中で社会として成立と維持ができる人口総数は数万人と限界集落も限界集落だ。

 

 厳選な審査を終えた者は腕章を付けて入国することができ、システム的にはマサダの基本と差はない。前にエミリオがシンチェンに与えたリストバンドと同じ役割を持ってる。

 

 そしてこの中でなら様々な教育機関から就業支援、さらにはビザの発行といったものを幅広く行ってくれる。国を亡くした流浪の民からすれば至れり尽くせりだろう。現にWebニュースでも実際に体感した充実した支援に歓喜の取材内容とコメントが多く見られる。もちろんアンチのコメントも見られはするが、そんなのは全体で見れば些細なものだ。

 

 交通とか水道とかその辺のインフラは整備中ではあるが、日進月歩で進む外城と内城の『中立地帯』こと『ユートピア』は発展を続けている。

 

 ……ユートピアの語源ってローマで生まれたから、そんなのがマサダブルク(元々はイスラエルを中心とした学園都市)に芽吹くのは奇妙というかなんというか。

 

 ともかく順調ということだ。パトリオットが進めるマサダブルクの新体制はまだまだ思想の関係で自国民からは批判の声も大きいが、全体的な目で見れば上手くいってる。

 この調子でいけば『ユートピア』に嘘偽りない地帯ができる……と思っていたが、数日前にSIDにパトリオットから連絡があったことで一変した。

 

 

 

 ——『レン様に助力を願います』

 ——『どうか。人工魔女を助けて欲しいのです』

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

「本日はお越しいただきありがとうございます、レン様」

 

 というわけで今現在俺はパトリオットに招待されて、アレクサンドリアルが管理する居住地の一画で対談することになった。

 まだまだ開発途中の建材と荒れた陸地が虫食い状態となる開拓地。立派なのは工事してる作業員の質と数、それに警備員として配置された人工魔女こと『マルス兵士』が十数人いることくらいだ。

 

「歓迎はレンだけ? 招待したのは新豊州だけじゃなくて『六大学園都市』に関係する全員でしょ?」

 

 ラファエルが口にした通り、ここにいるのは俺だけじゃない。それどころか今この場においているのは各々の学園都市で融通が効くメンツしかいないのだ。

 華雲宮城からはバイジュウ。ニューモリダスからはスクルド。サモントンからはラファエル。新豊州は俺とアニー。そしてリバーナ諸島からはニュクスという感じのメンバーが揃い踏みだ。ニュクスだけは現役ではないのだが、血筋的には関係者であることは確かなので呼ばれても不思議ではない。

 

 そしてマサダブルクからはパトリオットご本人とエミリオという感じだ。エミリオはパトリオットの隣について申し訳なさそうに困った笑顔を浮かべるが、まあ上司と部下の関係性を持っている以上こちらに肩入れはしにくいのだから仕方がないだろう。

 

 問題はどうしてここまで集める必要があるのか、という部分だ。

 本題に対する簡単な説明は皆がすでに受けている。必要なのはぶっちゃけ俺だけというのが実情だ。アニーはまだ分かるとして、他のメンツはこんなところに集められる理由がなさすぎる。

 

「お互い様だけど今は国際フォーラムの事後処理で忙しい身の上同士。こんな戯れをする余裕はないよね」

 

 もちろんスクルドは文句を垂れる。こういう時、ズカズカと本題から突き刺していくスクルドの意図的な幼さからくる無遠慮さは助かる。話が遠回りにならずに本題に移せるのだから。

 

 パトリオットは「それもそうですね」と言いながら背を向けて歩き始めた。

 

 だったらついて行くしかない。パトリオットの背中を見て、これからどこに向かうのかを。

 

 けれども時間は掛からなかった。歩いてから1分未満。一つの仮設状態の建物の前についた。

 パトリオットは遠慮なく金網の扉を開き、シートの奥に隠されたものをこちらに見せてくれた。

 

 

 

「……ドールか」

 

「正確にはドールになる途中ですかね」

 

 

 

 そこにいたのは声を上げることすらできず、ただ情報に犯されてのたうち回る少女兵が数十人はいた。

 

 

「ここにいるのは『人工魔女』の適性がありながら、付与される情報に耐えられずにドールに変質しようとしている魔女達です」

 

「レンちゃん、これ『魔女の繭』って状態だね……。こうして見るのは意外と初めてかも」

 

 そんな単語ありましたっけ??? だいぶ前だから記憶があやふやだぞ……。

 

「レン様にはどうかこの少女たちを救ってほしいのです。あなたであれば可能でしょう?」

 

「そんなこと言われましても……」

 

「触れるだけでいいんです。あなたはエミリオと接触することで、彼女の魔女としての力を解放させることができるのでしょう。『ハニーコム』の時のように」

 

「どうしてそのこと知ってるの!?」

 

「『stardust』に残された映像データで確認できましたし、エミリオから直接聞きました」

 

 あのエミリオが!? 自白剤を致死量並みに盛られても決して一言も吐き出さなかったエミリオが!?

 

「断るに断りきれなくてね。サモントンの一件でレッドアラート貸してもらった恩がある手前」

 

「それに一応はマリル長官から許可はもらってる」とこちらの内心をいつも通り見透かして必要以上にエミリオは補足してくれる。

 

 そうだよな。サモントンで幾千万のドールを対処できたのだって、無人戦闘機であるレッドアラートの恩恵が大きかったもんな。それを考えたらこれくらいはある意味当然というかしょうがない交換条件ではあるのか。

 

「貴方ならこの状態でも触れることで彼女達を解放できる。そうすれば彼女達は無事に『マルス兵士』として活動することができる」

 

「……彼女達が望んでるならそうするけど」

 

 でも迂闊にそれを呑むべきかどうかは判断に困るのが実情だ。

 人工だろうが何だろうが、魔女の力ということには変わりはない。魔女の力は最終的には破滅に導くのが現状だ。霧吟やギンもそうだし、ウリエルだってそうだ。この三人だって魔導書が持つ情報に踊らされて破滅へと踏み込んでしまったんだ。

 

「それについて望むしかないというべきでしょう」

 

 返答に困る俺にパトリオットは話を続ける。

 

「元々マルス兵士の訓練を受けることで、彼女達の親兄弟は十二分な援助を受けられるという条件で人工魔女になることを希望しています。もちろんその中で適性外だったものは、別に補助窓口を設けて教育を一定期間収めることで、程度は下がりますが援助を受けることができる。もちろん税金や居住といった柵について多少言伝はしますが……それが今私がしている政策の大まかな内容です」

 

 無償の慈善団体かと思ったら、噛み砕いた説明でも割と分かりやすい政策とアフターケアに驚いてしまう自分がいる。

 

「ですから彼女達はここで解放されないと、契約を守ることができずに家族達は路頭に迷うことになる。また右も左も、未来も分からない渇いた砂漠に戻るしかないのです」

 

「半分脅迫みたいなものね」

 

「無償の奉仕では国は機能しないことはデックスの娘でもお分かりでしょう。それが貧しいマサダブルクとなれば尚更」

 

 ラファエルからの指摘にパトリオットは真正面から言い返す。温室育ちの恵まれた土地を持つ国には分からないだろうと言いたげな敵意を持って。

 

 それにラファエルは言い返すことはしない。だって他ならぬ本人がそれに近い言葉をメディアに堂々と言った過去があるのだ。

 

「それにレンに救われたのはデックスの娘も同様でしょう?」

 

 そこまで言われたらラファエルは返す言葉もない。ラファエルも破滅の道を辿ろうとしていたのは事実だ。

 魔女の力を暴走させて風を超える暴虐をサモントンに奮いかねない事態に陥った。それはレッドアラートや随伴機である『ブルートゥース』を通してパトリオットでも知っていることであろう。だからそれを突いた。

 

「……私から言うことはないわ。他はある?」

 

 みんな沈黙するしかない。ここまでラファエルが説き伏せられるのだ。他の皆だって同じようになるのは目に見えている。多かれ少なかれそういう繋がりが多いのだから。

 

「……『私』から一つだけ」

 

 だが一人だけ弓を引く。目の雰囲気を変えてバイジュウ——いや、ミルクは問う。

 

 バイジュウの中にミルクがいるのは極秘中の極秘だ。知ってるのは無形の扉とSIDを合わせての極一部と少ない。というかあの時事件に関わっていた人達以外にはいないほどに。だからベアトリーチェやニュクスどころか、ヴィラやラファエルでさえ知っていない。

 

 それこそ本来ならエミリオさえ知ってはいけないことだ。だけど彼女は持ち前の読心術のおかげで勝手に知った。本当に勝手に知ってしまった。

 だからそういう能力とかない限りは漏らしようがないほどにミルクの存在が厳重だ。悟らせる匂いさえもいけない。

 

 故に秘匿しないといけない。

 だからできる限りバイジュウっぽく。できる限り落ち着いて慎ましく。できる限り氷のように冷静に。

 

「結局私達が呼ばれた理由とはなんぞや?」

 

「なんぞやとはなんぞや」

 

 ダメだ! ミルクの素の部分が滲み出てきてしまっている! 

 おかげでパトリオットの口調さえもおかしくなっている!

 

 だけど疑問には応答するのが質問の流れだ。

 多少は面食らったパトリオットだったが、しばし目を閉じると「まあいいでしょう」と軽く流し、最近買ったコスメでも見せつけるかのように懐から小銃を取り出した。

 

「確かにレン様さえいれば話自体は可能です。だけどそれはフェアじゃない。なんだったら小銃を顳顬に押し付けて脅迫することだってできるんですよ?」

 

 そうは言いながらもパトリオットも取り出した小銃をすぐさま戻して打つ気がないことも見せてくれた。

 

「リーベルステラ号での一連もエミリオから聞いています。レン様は人を信じやすく、警戒心がなくて隙だらけ。試してるこっち側が不安になるほどに純粋で可憐だと」

 

「余計なお世話だよっ!」

 

「でも事実だよ、レンちゃん」

 

「ええ、事実ね」

 

「嘘偽りなく事実ですね」

 

「間違いなく事実だよ♪」

 

「うん、事実だね」

 

「私も事実だと思う」

 

『……流石に私も同じく』

 

 満場一致!? バイジュウでさえもフォローしてくれない!?

 

「それにこのように愛されている。それは自国に住むエミリオだって同様でしょう。となれば私がもしも強行策に出ようものなら……」

 

「全力で助けに行こうとするね。例えマサダブルクを裏切ってでも」

 

 エミリオはパトリオットに向けて敵意を向ける。というより臨戦態勢だ。

 紙で切った程度の薄い傷口。僅かに漏れる『血液』が、エミリオの武器となる。その意味を理解できないパトリオットではない。

 

「というわけで公平性を保つために皆を呼んだわけです。人工魔女の実態を視察という意味では重要な交流ではありますし、貴方がたに傷がついたら他国に何と弁明をするべきか」

 

 前にラファエルが言っていた『両国の話を円滑にさせるための人質』と似た感じってことか……。

 

「私は貴方とは敵対する気はありません。穏便で健全な付き合いをしていきたいと思ってるからこそ、このように皆が立ち会う場面を用意した。これで納得していただけましたか?」

 

「納得はしたけど……」

 

 横目でエミリオに視線を送る。読心術を使って俺の心中にある「本当に嘘はないの?」を伝えるために。

 だけどエミリオから返答はない。パトリオットの心境を読み解けない様子であり、目を伏せて軽く首を横に振って「分からない」と暗に告げた。

 

 ……なら自分で判断するしかない。助力するかどうか。

 でも悩むだけ時間の無駄だということも分かっていた。何せこの光景を見た瞬間に、俺の中であることが思考をよぎったのだから。

 

 

 …………

 ……

 

 ——あの暗闇でドールから浴びせられた悪意。正当なる独善。

 

 ——救える力はあるはずなのに救えなかった自分。

 

 ——これを必要な犠牲と思っていいのかどうか。

 

 ……

 …………

 

 

 あの事件の最後で思ってしまったこと。救えたかもしれないドール達を見放してしまったことは、俺の中で楔となって深く突き刺さっている。

 

 俺の目の前にいるのは、そうなる前の魔女達で——。

 ドールに変質する前の魔女達を救えるかもしれない——。

 

 あの時、置いてけぼりにした願いが拾えるかもしれないんだ。ごく僅かで、小さな範囲かもしれないけど。偽善と呼ばれるかもしれないけれど。

 

 救えるんだったら——救いたい。

 そう願うことは決して間違っているわけがない。

 

「受けるよ。ここにいる人工魔女を救うことを」

 

「ご助力感謝致します。一方的な慈悲を受けるだけではマサダブルクの権威を貶めるだけですし、この恩は必ず応えさせていただきます」

 

 俺の返答にパトリオットは喜びを浮かべる。

 それは救世の聖女といっても差し支えない神秘的で蠱惑的だ。ある意味では人間離れした……それこそ彼女を形容してる『女神』とも思えるほどに。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 けれども最後までエミリオの疑念が晴れることはなかった。俺はその疑念に満ちた表情が記憶に焼き付いて仕方なかった。

 

 パトリオットの心意の奥底にあるもの——。

 それを見定めようとすれば、深淵に誘われるかのような一種の『狂気』を孕んだエミリオの表情を。

 



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第6節 〜襲来〜

 時間は過ぎ去り、既に深夜。疲れた体にマサダ名物のザクロジュースを染み渡る。

 独特の甘味が脳細胞を活性化させて今日起きたことを鮮明に思い出させてくれる。あの手に残った温かさと共に。

 

 

 

 …………

 ……

 

「ありがとう……っ! 怖かった……っ!」

 

「あそこからもう出れないと思ってた……っ!」

 

「孤独ってあんなの言うんでしょうか……」

 

 ……

 …………

 

 

 

 俺が救い出した人工魔女は全員泣きながら感謝を述べてくれた。その顔から見え隠れする焦燥は、南極の事件でアニーが錯乱した時の物と相違ない。程度の違いであり、皆が皆あの感情を抱いて苦しんでいた。

 

 だけど助けることができた。それも今この場にいる全員だ。人数にして百人は裕に超える。

 アニーと同じ境遇だった人達を救うことはできた。何割かは『因果の狭間』を見たことで兵士としての精神的適性をなくしてマルス兵士を辞退ことになったが、そういう民はパトリオットが説明した通り別の窓口を設けることで支援を受けられるように手配してくれた。

 

 ……こうもここまで行くなんて我ながらビックリだ。今までのことを考えたら、ここらで何かしらの事件を起きてもおかしくなかっただろうに。

 

 ともかく全員を無事に戻すことはできたことは喜ばしいことだ。おかげで時間を多大に食い潰したが、星空を眺めて一杯やるのも悪くはない。

 

 夜に光る黄色い月。まん丸な月。月見酒ならぬ月見ジュースを楽しみながら、ふと『ドリームランド』での一件を思いだした。

 

 

 

 ——あの事件で得たことものは多かった。

 ——五属性の隕石は既にSIDに手にあるし、外宇宙の情報はバイジュウとスクルドが得ている。特に『アザトース』の片鱗について。

 

 ——だけど失う物も多かった。

 ——ギンの半身が消失したことで、事実上の戦力外になったこと。

 ——どこか遠いところを見るようになってしまったバイジュウのこと。

 

 ——そしていまだに謎多き『桜』だって気になる。そこにいた『虚無』と『無限』を名乗る二人のシンチェンもだ。

 ——ハインリッヒは『セフィロトの樹』の『アイン・ソフ・オウル』に基づいた存在だと推測していたが……あのあと、独学で調べたりハインリッヒに聞いたりしても推測を重ねる糸さえ見当たらないほどに、この二つは不明瞭だ。

 

 

 

「……だぁーっ! 俺みたいなのが分かるわけないだろっ!」

 

 どれだけ思考を回しても皆目検討がつかない。砂をベッドにして横たわってしまったが、朝になったら汚れを流せばいいだろう。今はこうして疲労感を夜風に持っていってほしい。

 

 だからビックリした。突然すぎて本当にビックリした。

 横になって星空を見上げようとした瞬間、こちらを覗き込むブラックホールのように暗く澱んだ瞳が交差したのだ。

 

 あまりの衝撃に一瞬だけ心臓が止まりそうになったが、その瞳に俺は見覚えがある。というか忘れることの方が難しいだろう。

 ニューモリダスで少しだけ会話を交わしただけの少女。それでもやけに印象に残る赤と白のゴシックチックな服装に、引力のように惹かれる深淵の瞳。これを忘れることなんて赤子でも無理に違いない。

 

「オッス。オラ、セラエノ。久しぶりだな」

 

「本当に久しぶりだね……」

 

 どういうわけかセラエノがマサダブルクに赴いていた。彼女はSIDが『情状酌量の余地あり』という名目でアレン共々に事情聴取も兼ねて軟禁状態であるはずだ。新豊州から抜け出すなんてできるはずがない。だとすれば考えられる可能性は一つだけだ。

 

「もちろん私だけじゃないぞ」

 

「おっす。オラはアレン。摩訶不思議なアドベンチャーは楽しんでるか?」

 

「……楽しめる余裕があると思う?」

 

「それもそうだな」

 

 SIDからの指示があったからこそ、セラエノとアレンは今ここに来ていることになる。となれば一体どんな任務があってきたのか。

 この二人に頼まないといけない以上、SIDはサモントンの件もあって相当な人手不足に陥っているんだと改めて実感してしまう。

 

「マリル長官からの伝言……というには俺絡みでもあるんだよな。さて、どこから話すべきか……」

 

「今まで黙秘を貫いてきたのに、こういう時はアッサリと口にするんだな」

 

「ニャルラトホテプと本当の意味で接触しただろ——。だとすれば、お前も見たことになる。あの『樹』——いや『桜』を」

 

 ……アレンがその情報を知るはずがない。SIDの情報管理は完璧で脆弱性なんてない。

 

「なんと。レンちゃんはアザトースのことを知ったのか。それにアレンも知っているとは……」

 

「うん。気が抜けるから黙ってようね〜〜」

 

 今の感じからしてセラエノから伝えられたということもなさそうだ。ということは元からアレンはあの不可思議な光景を知っているって事だ。

 

「とりあえずはまずSIDの一員として、俺がどうしてここに来たのかを話すか」

 

「手短に簡単に頼むぞ」

 

「安心しろ。元々同じ人同士、俺の頭は良くないからそれくらいはお手のものだ」

 

 自分に馬鹿にされてるの意外とムカつくな!?

 

「ニューモリダスで戦った時、お前の肩に『異質物武器』を入れたのを覚えてるよな」

 

「まあ、アレのおかげで『レッドアラート』に勝てたんだからな」

 

「あれって『天命の矛』から加工して作ったことも知ってるな?」

 

「……そもそも『天命の矛』ってなんでしたっけ」

 

「そこからかっ!? 我ながら自分の学のなさにちょっと心配になるな……」

 

 俺の頭が悪いことに関しては悪うございました。自分自身に言われるのが一層腹立つけど。

 

「『天命の矛』は俺が奪ったEX級異質物のやつだ。ここまで言えば思い出すだろう」

 

「あー! ニューモリダスで異質物を保管している『アルカトラズ』から奪い取ったやつか!」

 

 かなり昔な気がして忘れかけてたよ!? そういえば君、アレを持って行ってたね!?

 

「……いや、そもそも返せよ。時効迎えてないんだから返せよ『天命の矛』」

 

「手元にないんだよ。だってアレ『アレクサンドリアル家』に提供したし」

 

「はぁあああああああああああ!!?」

 

 提供したと言いましたか、この男!? こっちのほうこそ我ながら計画性のなさに驚くぞ!?

 

「異質物は大切に扱えよ!? なんで他の学園都市に渡しちゃうの!?」

 

「お前に言われたくねぇよ! レンだっていくつ異質物破壊したと思ってる!」

 

「両手の指で数えられるぐらいだよ! 別にそんな膨大じゃない!!」

 

「そもそも破壊すんな! 国宝級の扱いを受けてるのが異質物なんだからな!? 『三種の神器』だって今や異質物扱いされてるんだぞ! Safe級とはいえ!」

 

「国際的犯罪者が正論言うなよ……」

 

 そう考えたらどっちのほうが罪深いんだろうか。

 片方は大事に異質物を扱いながらも奪っていく国際的犯罪者。片方は存外に扱って異質物を破壊していく世界的無礼者。

 恐らくどっちも死罪だ。本当マリルに保護されてよかったと思うこの頃。というか俺の手で壊したり、無くしたりした異質物の数って一体どれぐらいに及ぶのだろうか。思い出したくない。

 

「……それにな『天命の矛』は必要だったんだ。技術革新のためにな」

 

「技術革新~~? それが『アレクサンドリアル家』にどんな関係を持つんだよ」

 

「説明してやるからちょっと待て。セラエノ、準備を手伝ってくれ」

 

「ほいさっさ」

 

 セラエノはシルクハット帽子を外すと、その中から手品師のようにどんどんと物を出していく。

 手持ちができるくらいの大きさのホワイトボードが人数分。磁石でくっつく黒マーカーと赤マーカーの油性ペン。そしてタブレットと帽子の中で納めるには明らかに質量超過している。

 

「それどうなってるの?」

 

「セラエノの能力だ。『断章』の力で物質の転移が可能でな。これで事実上の『どこでもドア』状態になってる」

 

「ちなみにこれで入国をしてたりするぞ、私とアレンは」

 

「もちろん許可を得てな。不法入国じゃないぞ」

 

 というか、それを使って『アルカトラズ』に潜入したんじゃないのか? よくよく考えれば最初からセラエノの能力が関わっていると考えれば、あの場面で突如として消えたのも頷けるし。

 

「説明しよう。そもそも『異質物』ってのは太古の昔から現存するアーティファクトや国宝や神器や、果てには書物まで、それらすべてを纏めた物を俗称。キリスト教会的な言い方をすれば『聖遺物』と値する物でもある」

 

「聖遺物って聞くとインパクトなゲーム思い出すな……」

 

「それらが『何の力もない、微弱な影響しか及ばない』と判断されたものが『Safe級』と呼ばれ『何の力を持つかわからない、使い方は分からないが絶大な力を持つ』と判断されたものが『EX級』として扱われる。そして……」

 

「『世界そのものに影響を及ぼす』のが『XK級』ってことだよな……」

 

「その通り。その『XK級』は現在確認されてるので合計6つ。その6つを管理し、先進国的な扱いで機能してるのが『六大学園都市』ってことになる」

 

「その六大学園都市が一番から順番に『華雲宮城』『ニューモリダス』『マサダブルク』『サモントン』『新豊州』『リバーナ諸島』なんだな?」

 

「ああ、間違いないぞセラエノ」

 

 こう見ると一般常識を知らないセラエノ、知識が足りない俺、それを噛み砕いて説明できるが難しい単語は使えないアレンと結構分かりやすく状況を把握できていいな。

 

「この六大学園都市が保有する『XK級』……これが地球上で最強の異質物という認識も合っているのか?」

 

「概ねその認識で合っているが……一番強力なのが『XK級』とは限らないのが難しい所だな」

 

「どうしてそんなことが言えるんだよ?」

 

「そもそも『EX級』のほとんどが『何の力を持つか分からない』と定義されてるのは、一応は国宝である以上は『国の威信として価値に優劣をつけたくない』という見栄があるんだ。だって『自分の国の異質物は弱いです。他国に侵略されたら成すすべもありません』ってなったらどうなると思う?」

 

「そりゃ……笑われものだろ」

 

「現実はもっと残酷だ。異質物同士で均衡が取れないと、国同士での優劣はより一層酷くなる。この国際的な軍事力の格差を有耶無耶にするために『EX級』はそのほとんどが公表もしないし、調べようとも思わない。こうしてサモントン協定で学園都市に飼い慣らされて微温湯に漬かった国営を行い、緩やかに絶滅を待つだけの国が出来上がるわけだ」

 

「ラファエルに『核抑止』とかで国同士のパワーバランス的な話聞いたな……」

 

 そう考えるとランボットが提唱していた国が一定の力を持つ異質物を保有するという考え方は正しいと言えるのか。同様に資金さえあれば異質物に勝るとも劣らない『人工魔女』を提供することも。

 

「このパワーバランスを……というか『異質物』で成り立っている情勢に変革が起きない限り、世界は自滅を待つだけの日々さ。100年ほどで自己消滅する人間社会……サモントンがニャルラトホテプの手で荒らされたら、その砂上っぷりも露呈して実は世界中は大騒ぎしている。だから学園都市は色々と影では動いていた」

 

「……華雲宮城はバイジュウによる宇宙開拓」

 

「ああ。そしてマサダブルクは『人工魔女』の確立だ」

 

「けど」とアレンは一息置いて飲み物を口にすると、改めて話を再開させた。

 

「この二つだけが技術を確立してるわけじゃない。ブッチギリで貧乏石だったマサダが『レッドアラート』や『シルバーバレット』や『人工魔女』が作れるような資金があるわけないだろ。資金源を提供してくれるやつだって当然いる」

 

「……それが他の学園都市ってわけか」

 

「というかニューモリダスだな。異質物の輸送・保護はサモントン条約で恐ろしいほどガチガチだ。指輪サイズでさえ厳重な審査と申請の末に過剰な防衛で運搬される。異質物の研究なんて影でひっそりやるには、こんなくだらない三文芝居が必要なほどにな」

 

「じゃあ『天命の矛』というか、アルカトラズの事件って……」

 

「ハッキリ言って『狂言回し』同然だ。サモントン条約を擦り抜けて、他国に異質物を提供する必要があった。その首謀者がニューモリダスとマサダブルクのお上様ってわけ」

 

 汚職まみれってことかよ、その二つは。なんか途端に学園都市としての威信が弱まってきたぞ。

 

「先に言っておくが、俺は依頼を受けただけだからな。それにこんな後ろ暗いことは新豊州だってやってるし、『元老院』は間違いなく認知している。別に汚いのはマサダとニューモリダスだけじゃない」

 

 そこで『国際フォーラム』でリバーナ諸島の代表で出席していた『ティーダ・グレイ』が口にしていた言葉を思い出す。

 

 

 

 …………

 ……

 

『ここは世界のため、国のため、学園都市のため、各々のキナ臭い情勢に蓋をする。それが暗黙の了解だ。そういう後ろ暗いことをしたことない者のみが物申せ』

 

 ……

 …………

 

 

 あれはそういう意味も込められたってわけか。

 学園都市当時、差し合いの自滅はゴメン被る。出し抜くには裏で工作して目を瞑る。それが暗黙の了解ってわけか。

 

 ……そう考えるとスクルドが啖呵切ったの随分と肝座ってるなっ!? そりゃあんな反抗的な態度を普段から取っていたら『藩摩脳研』みたいな事態で闇討ちされるのも納得だぞ!?

 

 

 

「……そういうのが許せない潔癖なやつだっているんだがな」

 

 

 

 その声は、突如として砂漠の奥から響いてきた。

 月光が照らすホワイトカーペット。逆光を背に一人の人物が武器を片手に歩いてくる。

 

 背丈、雰囲気、見た目から男だが女だが判別がつかない——。

 ミカエルが中性的というのなら、目の前の奴は『無性的』といったほうがいい。手足の肉付きに力強さもなければしなやかもない。佇まいに品も華もない。

 

 どこか『機械的』というか演技、役割を熟そうとしているというか——。

 なんであれミカエルとはまた違った『人間味のなさ』が、そこには立ち塞がっていた。

 

 

 

「悪いが——。今から『人工魔女を皆殺し』にさせてもらうぞ」



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断章① 〜Log Out System Sistine〜

 少年はどこにでもある不幸を背負って生きてきた。

 七年戦争で親を失い、国を失い、それでも生きるために色々と汚いことをしてきた。もちろん人を殺すことだって当然だった。

 

 この世界ではそんなことがありふれている。子供であろうとも武器を持てば脅威となる。それが異質物武器となれば尚更だ。

 少年は偶然拾い上げた異質物武器を利用してこれでもかと人を殺してきた。ただ自分が生きるために何の罪もない大人を、自分と同じ境遇である子供を容赦なく。生きるためには仕方がなかったから。

 

 だからその『行為』をしたのだって生きるためだった。

 眼前に聳える壁。マサダブルクの内城と外城を分つ忌々しい壁。

 

 こんなのがあるから宗教思想の差別が生まれたのか。宗教思想の差別があるからこんなのが生まれたのか。この際、そんなことはどうでもいい。

 

 ともかく少年は偶然と幸運が重なって、その壁を越えることができた。警備がザルな輸送車の中に入って、人目がつかぬ間に降りて内城の中でも一等地へと向かう。

 

 そこには自分とは違い裕福で不自由なんてない権力者がいる。内城は楽園で外城は地獄だ。何も知らない楽園の住人が呑気に過ごしている。

 なら利用しない手はない。そんじゃそこらの権力者の一人や二人を脅すために弱みを見つけ、それを交渉材料に資産を分けていただく。地獄の住人にお裾分けしてもらうだけだ。少しばかりボッタクるお裾分けを。

 

「はいはいはーい。おいたはいけませんよ〜〜」

 

「いてぇよ! 離せよっ!」

 

 だがその作戦は出鼻を挫かれた。

 楽園の中でも極楽浄土。基本が砂漠の大地であるマサダブルクにおいて色彩豊かな花畑。そんな中でのほほんと読書をしていた自分と同じぐらいの少女に少年は関節技を決められて身動きが取れない状態に陥っていた。

 

「あなた入城許可貰ってないでしょう? ということは不法侵入だよね。罪状次第じゃあ銃殺になるけどいい?」

 

 虫も殺したことがないような顔なのに、至って自然かつ冷酷に銃殺という言葉を漏らす少女に少年は寒気を覚えた。

 こいつは嘘を言ってない。殺るといったら殺るという覚悟がとうにできている。何なら掴まれてる手首を挨拶がわりに折ることもできるほどに。

 

「……というのは冗談で。ここに入るならこれくらい用意しないと危ないよ。私だったから良かったけど」

 

 けれど少女は殺すことなく、むしろ手首に何かを巻いてくれた。

 それは入城証明書代わりにあるリストバンドだ。入城の手続きを行う職員か、あるいは国家で管理されてる正式な軍人か、もしくは内城に根付く権力者しか取り扱うことができない代物。

 

 これがある限りは少年はここでの滞在が許される。だがそんな甘いことを内城の連中のするわけがない。

 

 さあ、いったいどんな条件をふっかけてくるのか——。

 

 ある種期待にも似た心境を宿しながら少女の言葉を待っていると——。

 

「じゃあまずは自己紹介! あなたの名前は?」

 

「は?」

 

 なんとも珍妙で不可解な質問だ。警戒してたのが馬鹿らしくなるほどに。

 

「だ〜か〜ら〜名前っ! ユーアーネーム!」

 

「……名前なんか忘れたよ。生きてくのに必要ないんだから」

 

「そんなことないよ、名前は大事。名前を忘れちゃうなんてとても悲しくて寂しくて辛いことだよ?」

 

「んなわけないだろ。そもそも自己紹介するなら自分から名乗るのが礼儀だろう。これだから世間知らずの内城育ちは嫌いなんだ」

 

「ああ、そうだね。そっか。普通私からか」

 

「ごめんねぇ」と少年の心を逆撫でするような甘い声に苛立ちが募る。だが募ったところでどうすることもできないが少年と少女の悲しき実力差であった。

 

「うーんと……名前……名前か……」

 

「……こんな楽園でも名無しがいるとはな」

 

「いやあるよ。でもあまり名乗るなぁ〜〜って忠告されてるからね。どんな呼びやすい名前にすべきか……」

 

「同情して損した」と内心思いながらも少年は未だに頭を畝る少女に思わず苦笑を浮かべてしまう。

 哀れんでいるのか、蔑んでいるのか。どちらにせよ好意的なものじゃないのは確かだ。

 

「じゃあ『アルティナ』! 私の名前は『アルティナ』にするよ! アレクサンドリアルの最初と最後に、システィーナから取って『アルティナ』!」

 

「そうかい。『システィーナ・アレクサンドリアル』でアルティナね」

 

「あっ…………! 名前言っちゃった……!?」

 

「お前アホだろ。割と救いようのない」

 

 ある意味ではこの余裕こそが内城育ちの証だ。こんなアホは外城では生きていけない。

 悪意に唆されて身を削られるに決まってる。悪意に騙されて心を蝕むに決まってる。こんな甘っちょろいやつは外のことなんて知らない方がいいのかもしれない。

 

「じゃあこれはあなたにあげよう! 今日から君がアルティナとして振る舞おう!」

 

「いらねぇよ、そんなモロに女性の名前なんて。そんな女々しい名前を貰って喜ぶ男はよっぽどの変態か女装癖だろうよ」

 

「きっと可哀想などこかの誰かさんが泣いてる……」

 

 そして余裕を持つからこそ施すことができる。そんな当たり前のことを少年は改めて感じた。 

 人の『喜怒哀楽』なんてものは余裕がないと成り立たない。余裕があるから喜び、余裕があるから怒り、余裕があるから哀しみ、余裕があるから楽しく生きていける。人が映画やニュースに感化されるのはそういうことだ。

 

 だからふと振り返ってしまった。少年は少女が畝る姿を見て『苦笑』したことを。

 

 好意的なものじゃないのは確かだ。それでもどういう形であれ、それは感情の発露である以上は喜怒哀楽が伴う。そんな久方ぶりの感覚にどこか胸が躍るのを初めて自覚した。

 

 

 

 ——俺はこの女といて、楽しんでいるのか。

 

 

 

 突如として湧いて出た感情に戸惑いが止まらない。だがこの溢れる気持ちは少なくとも嘘ではない。確実にこの女といて踊り昂っている。

  

 だから何の気もなしに少女の雑談にやれやれ顔で付き合ってやった。外城で廃れた気持ちになるよりかは充実した時間にもなる。

 

 会話の内容なんてつまらないを通り越した虚無ともいっていい。

 昨日は何を食べたのか。明日はどういうことをするのか。そんな路傍の石みたいにどこにでもあるつまらない会話。

 

 だけど少年にとっては充実したものだ。多少デリカシーもプライバシーもないのが汚点だが、まあそれは寛大な心で許してやることにした。内城が持つ『余裕』という気持ちをほんの少しでもお裾分けしてもらったのだから。

 

「そう、なんだ……。壁の外はそんな風になってるだね……」

 

 けれども会話とは情報と気持ちの共有でもある。少年に余裕が分け与えられるように、少女には『貧困』が分け与えられた。

 内城育ちで外のことなんか何も知らない無垢な子供。少年と少女の境遇には文字通り地獄と天国のような隔たりがあったことを。

 

「……何も言えないね」

 

 謝罪するのは違う。この状況を招いたのは少女ではない。少女はただ環境に沿って生まれ育っただけ。ここで謝れば逆に少年の立場を踏み躙るだけの無遠慮だ。

 だけど流せばいいというものでもない。少女はただ受け入れて言葉を絞り出す。涙を堪えながら心を滲み出る。

 

 それは本心だ。少ない時間ではあるが、少年にはそれが分かった。

 こいつは嘘がつけるような度量はない。感情をそのまま出力するしかできない不器用な善人だ。

 

 だからそんな顔を浮かばせ、無垢な心を汚したことに少年は何とも言えない気持ちが湧き上がる。

 

 申し訳なさとかじゃない。彼は生まれついての悪人だ。暴力を振るうことに躊躇いもなければ罪悪感もない。常に自分の利を求め、理を証明する離することのできない性というものだ。

 

 だからその答えを形容するのも、また利己的なものにしかならない。

 

 

 

 ——ああ、欲しい。この子が欲しい。

 

 

 

 今まで奪うことしか知らない人生。自分から発露される感情を昇華させる手段なんて『略奪』しか知らない。

 今すぐこの子を攫ってしまおうか。身代金とかそういう目的でもなく、ただこの子が欲しいから奪ってしまおうか。

 

 

 

 ——いや、何を考えてるんだ。

 ——それは確かに楽しいが、刹那的すぎる。

 

 ——気を熟してからでいいだろう。この女の顔を最も汚れた瞬間を見計ろう。

 

 ——今日を生きるのが精一杯な身だが、そんな暗い明日を見るくらいはできる。

 

 

 

「じゃあ、また来るとするよ」

 

「うん、またね」

 

 

 

 だから今日はここまで。またくだらない話をして、また外城の醜さを教えてあげよう。

 そしてその顔が歪んで穢れる背徳感を生き甲斐にしよう。そして最後には奪おう。それがいい。

 

 

 

「さようなら。また会う時は違う私だろうけど」

 

 

 

 去り際、彼女は意味深な言葉を残していった——。

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 少年は昨日の出来事もあってそれ以外の悪事をする気も起きず、かといってただ外城に戻るのも退屈で嫌だったので、とりあえず適当な宿を借りて過ごすことにした。

 どうやらアルティナが施したバンドは『大使』として扱うものであり、このバンドを内城の入国機関に見せればアレクサンドリアルが管理する専用のホテルを紹介してもらえたから意外と便利なものだ。支払もアレクサンドリアルがしてくれるのだから素寒貧でも安心。3食昼寝つきの高待遇だ。

 

 

 

 ……よくよく考えたら、これってヒモじゃね?

 

 

 

 なんか途端に情けなくなったが、生きるので精一杯だからしょうがない。今だけは存分に権力を利用するとしよう。

 

 今日も今日とて読書日和の渇いた炎天下。それでも花畑に座る君の姿だけは心に潤いをくれる。淀んだ潤いではあるが、無いよりかはマシなのは違いない。

 

 

 

 さあ、今日はどんな顔をしてくれるだろうか——。

 

 

 

 疚しさを抱えながら少年は隣人のように気さくに「よっ」と声をかけて少女のすぐ隣に座った。彼女から返される言葉なんて想像もしないまま。

 

 

 

「えっと……どちら様でしょうか?」

 

 

 

 

 

 ——少年はアルティナが先天性の『記憶障害』を持っているなんて、その時まで知らなかった。

 

 

 

 

 

 少年はどうしてそうなったのか事細かく問いただした。少女はただ手元にあるノートで整理された情報を読み解く。

 

 私の名前は『システィーナ・アレクサンドリアル』——。

 私は高貴な生まれで、穢れを知らない。知っても忘れる——。

 だからメモを取る。だけど取ったメモの内容を忘れるから理解できない——。

 だから友達がいない。みんな腫れ物として扱う。それでもいるかもしれないけど忘れてしまう。

 

 

 

 たった、それだけ。それだけしかない少女——。

 それがシスティーナ・アレクサンドリアルだという——。

 

 

 

「ごめんねぇ。私の方は忘れちゃって。最低でしょ」

 

 

 

 少年は生まれて初めて哀れみを知った。

 自分は『今日を生きるだけで精一杯』だとしたら、彼女は逆で『今日だけしか生きることができない』存在だということに。

 

 

 

 暗い闇に閉ざした未来を見る者と、未来さえ見れない者——。

 

 

 

 こんな残酷なことがあるか。だとしたら今目の前にいるのは『今日を生きるだけのシスティーナ』であって、少年と『昨日を生きただけのシスティーナ』——いや『アルティナ』はもうここにはいないというのか。

 

 心臓が張り裂けそうだ。そしてこの思いはきっと少年だから持てたものではない。

 きっと彼女の無垢さに当てられた全ての人が思うことだろう。そしてまた『今日しか生きられないシスティーナ』を相手にし、また無垢に戻る『明日のシスティーナ』を見てこれを繰り返す。

 

 身と心が保たない。だからだろう。彼女がずっとこの花畑で一人っきりでいるのは。

 身なりはしっかりとしていて生活に不自由な様子なんてない。虐待の後もない。愛されてるはずなのに、注げた愛は底から抜け落ちていく。血族でさえもその在り方に耐えきれず、それでも彼女の個を尊重するためにもこういう自由を提供しているのだろう。

 

 

 

 システィーナにはそれしかない——。

 じゃあ、それを『奪った』らどうなってしまう——。

 

 

 

 そんなのは考えるまでもない。少年は自分の浅ましさを顧みる。

 

 

 

 ——こいつから『奪う』なんてことはもうしない。許さない。

 

 

 

「じゃあ改めて初めまして。俺は……」

 

 

 

 ——そんなことないよ、名前は大事。名前を忘れちゃうなんてとても悲しくて寂しくて辛いことだよ?

 

 

 

 ああ、だから彼女は大事だといったのか。

 自分は忘れてしまう。それを何度も何度も体験してきて、自分の不甲斐なさといい加減さを何度も何度も悔いてきた。

 そしてそんなことさえも忘れてしまうことを知っていたからこそ、あれは彼女が内包する罪悪感から来るものだったんだ。

 

 

 

 ——-じゃあこれはあなたにあげよう! 今日から君がアルティナとして振る舞おう!

 

 

 

 だったら俺は『昨日の君』を忘れないように、君の名前を抱きしめよう。君の罪悪を背負うことにする。

 元々俺には何もなかったんだ。だったら君の代わりにいくらでも背負うとしよう。

 

 今日から俺は——。

 

 

 

「『アルティナ』だ。笑うなよ」

 

「……女の子みたいな名前だねぇ」

 

「うっさい」

 

 

 

 だったら何度だって合ってやろうじゃないか。お前の無垢さに何度だって報いてやろうじゃないか。さあ今日はどんな話をしてやろう。微笑ましい話か、恐ろしさ話か、滑らない話か。それよりももっと広大な話か。

 

 そうだ。なら君の代わりに世界を見よう。閉じ込められた内城という楽園(地獄)で君に届けられるだけの物語を語ろうじゃないか。

 

 

 

「今日はここまで。また今度聞かせてやる」

 

「でも忘れちゃうよ」

 

「いいんだよ。何度だって話してやるし、何度だって新しいことを教えてあげるから」

 

「変わった人だね」

 

「うっさい。そのメモにでも書いとけ」

 

 

 

 照れ隠しのように少年はぶっきらぼうに返答する。そんな素直ではない様子にシスティーナは笑った。

 

 また明日の私と会いましょうと、そんな『今日のシスティーナ』にとっての『遺言』を少年は心に締まい、また明日も明後日も繰り返す。

 

 

 

「よぉ、今日も初めまして。アルティナだ」

 

「アルティナ……ああ! あなたがアルティナね!」

 

 

 

 何度目かの初めまして。けれどもその日だけは少し違った。

 見慣れたリアクションと違う。パズルの欠けたピースがピッタリはまったような高揚感を持って彼女は話し出した。

 

 

 

「昨日までの『私』から伝え聞いてます。メモを見たらアルティナのことが何ページにも渡って書かれていて……最後に『明日の私へ。アルティナのことをよろしくお願いします』って書かれていたんです」

 

「楽しみにしてくれたようで何よりだ」

 

「だから今日の『私』にも話してください。あなたの素敵な話を」

 

 

 

 だったら刻みつけよう。望むように何度だって。

 君が望めば、俺は何度だって話してあげよう。例え俺にとって話し疲れた繰り返しのものだったとしても。

 

 

 

「私も『今日しかできない初恋』を経験したいんです」

 

「……小っ恥ずかしいこと言うな」

 

 

 

 …………

 ……

 

 

 

 

 

 だが数年経てば彼女の『記憶障害』に対する治療方法は見つかった。

 それは医学的ではない。魔術的な方法だ。ある意味では『奇跡の普遍化』という冒涜でもある。

 

 

 

 

 

 ——研究中の『人工魔女』を医療技術として応用するという。



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【殺戮警告】急遽更新停止のお知らせ

 どうも、かにみそスープです。

 今回の内容についてはタイトル通りです。第九章【殺戮警告】について、2023年10月10日を持って急遽更新を停止せざるを得ない状況になったことを報告します。

 

 元々この章では『国内戦争』という物を取り扱う以上、非常にセンシティブな話題となり、本来の投稿予定となる4月の段階では『ウクライナ戦争』の情勢から投稿を延期するようにしておりました。

 

 だけどいつまでも投稿停止をしていては、ほぼ唯一といっていい長期執筆している魔女兵器SSとして不甲斐ないものになりますので、9月に入ってから投稿を再開して、今現在もストックを維持しながら定期更新をしておりました。

 

 しかし数日前に『ウクライナ戦争』よりも、無視できない情勢が起きました。

 それは『イスラエル戦争』です。これに関する問題は元々長期に渡って当該諸国で水面下で起きていたことであったのですが、今回の件で表層化。苛烈な戦争へと移ってしまいました。

 

 これが魔女兵器SSを書くうえで非常に致命傷になるレベルでまずいのです。

 具体的に言えばハーメルンに記載されている『利用規約』に抵触する恐れが非常に濃厚だからです。

 

 元々第九章【殺戮警告】の舞台となる『マサダブルク』というのは、『マサダ』という名称や出身者である『ヤコブ・シュミット』の名前など、原作魔女兵器の設定から鑑みて元ネタは間違いなく『イスラエル』になるわけです。

 

 そして、今現在この章で扱うのは『テロリスト』という、こちらも社会的な問題に触れており、また前回の話の最後に出てきた人物というのは、第六章『狂気山脈 第十三節 ~履霜堅氷~』に出てきている『ネロ』という人物であり、このネロの元ネタは当然『ローマ帝国』の皇帝、かのFate extraシリーズでも顔の一つである『ネロ・クラウディウス』にあたるわけです。

 

 実はこのネロ、イスラエルの歴史上では非常に厄介な存在でありまして、そもそもマサダブルクの名前に『マサダ』とは現在では世界遺産として登録されていますが、遡ればヘブライ語で『要塞』を意味しており『第一次ユダヤ戦争』の戦場となった場所でもあるのです。

 

 このユダヤ戦争が起きた理由は『独自の民族宗教であるユダヤ教の信仰を続けたユダヤ人』がローマの支配に対する不満による反発と『人種差別』によるもので起きたのです。その当時のローマ皇帝が『ネロ』にあたるわけです。

 結果としてマサダは陥落し、ユダヤ人はローマ軍の突入前夜に『集団自決』とユダヤ戦争はユダヤ人側の敗北という形で終わる事を歴史が示しています。

 

 そこからユダヤ人は各国で散り散りになり、差別や迫害に苦しむことになります。何故ならそれは『ユダヤ教』というのは、移り住んだ国にある『キリスト教』や『イスラム教』からすれば対立する運命にあったのです。

 

 

 

 そして時は流れて現在『イスラエル戦争』で起きている要素については『パレスチナ問題』というのが大きく関わってきます。

 パレスチナの地である『エルサレム』ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの聖地になっており、本来アラブ人が住むパレスチナに、ユダヤ人の国家であるイスラエルが建国されました。つまりは見方によっては一種の『侵略行為』になるのです。詳細についてはハーメルンに記載することではないので、各自で『パレスチナ問題』について検索していただけたらと思います。

 

 兎にも角にも最終的な結論としては、これは非常に人種・思想的な問題があり、どちらかが良い悪いと明言することはできない不変的な問題になります。だから50年以上にも渡って続けられている問題になっているのです。

 

 

 

 そして今回の章でネロが登場し、そのエッセンスとして『人工魔女』と、それらを指示して保守しようとする『パトリオット』……。

 国を守るための『パトリオット』と、ローマ帝国の皇帝の名を持つ『ネロ』が相対するのは何を意味しているのか。話の大筋は大まかに分かりますね。

 

 

 

 説明するまでもありません。どう足掻いても不謹慎の塊でしかありません。

 投稿しようにも『利用規約』に接触すればSSの削除、悪質であればアカウントの削除の可能性もありと、とてもじゃないですが僕個人の意思で執筆を続けるのは不可能なのです。他人に、世界に、人に不快感を与えるのは二次創作として間違っているものになります。

 

 

 

 以上を持って、この魔女兵器SSはイスラエル戦争が終結するまでも更新しようにもできないものになります。

 誠に残念ではありますが、本日を持って魔女兵器SSは『未完』という形で一度筆を下ろさざるを得ない状況になったことを深くお詫び申し上げます。

 

 イスラエル戦争が終結を確認し、その時に僕のモチベが残っているようであれば執筆を再開させたいとは思っていますが、それまでにイスラエルの戦争はいつまで続くのか。これは本当に分かりません。

 

 

 

 再度お伝えしますが、このような形で筆を下ろしてしまうのは誠に残念であります。

 それでも別の形で魔女兵器の二次創作(お絵描きとかVroidとか)をしていきたいと思いますので、もしもご縁が合ったら、興味があるようでしたら関わっていただけると幸いです。それでは、ここでご報告は終わります。



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