しあわせハンター (ぽぽりんご)
しおりを挟む

第1話 馬鹿は強い

「8-4-2、騎馬」

 

 私は、恐れず前に出た。

 軍儀の代表選考会、決勝戦。

 この国の棋士なら誰もが夢見る舞台、それに向けての最後の戦い。

 

 相対するは、対照的な二人。

 

 片や、齢十四の小娘。くすんだ金髪に、小さな体。足が不自由なため労役にもつけず、ろくな食料すらもらえず、骨と皮だけが残っている。貫禄もへったくれもない。

 

 その対局者は、老人と呼んで差し支えない年齢の男性。でっぷりと太り、散々に贅沢な生活をしてきたであろうことが窺える。彼は、現役の世界王者らしい。なんでも、今まで開催された世界大会で全て優勝しているのだとか。つまり、最強の打ち手ということになっている。

 今日までは。

 

 

 ぽたり、と汗が落ちる。

 世界王者の彼が、先ほどからダラダラと垂れ流しているのだ。

 対する私は、涼しい顔をしているというのに。

 これでは、どちらが王者か分かったものではない。

 

「──盤面に集中してないよね。なぜ生きている、って顔に書いてあるけど。まずは目の前の騎馬に対処すべきじゃない?」

 

 いつまでも打ってこない彼に痺れを切らし、私は声を掛けた。

 まだ中盤。いくらでも打つ手はある。騎馬を弓で迎え撃っても良いし、左辺を捨てて中央を取っても良い。それすら、見えないのか。

 

「どうしてこんなことに? それも、どうでもいいんじゃない? もう始まっちゃったんだから、考えても無駄だと思う」

 

 打開策を考えているのであればいつまで待ってもいいが、相手の考えているのは至極どうでもいい事ばかり。待っても意味が無い。さっさと次の手を打てと、相手を急かす。

 

「なぜ、考えが読めるのかって? 見れば分かるよ。鏡でも用意しようか? 打つ気が無いのなら、死ねばいいと思う」

 

 敵は、あたふたと汗を拭いながら、盤面に目を落とした。

 

 私は、相手の呼吸音に耳を傾ける。

 乱れが激しい。混乱が三割。

 

 心臓の鼓動が聞こえる。

 不必要なほどに早い。恐怖と不安が五割。

 

 相手の顔を見る。

 発汗。目が泳いでいる。焦りが二割。

 

 

 これは、駄目かもしれない。

 こいつは、逃げることしか考えていない。

 互いの命を懸けた一局。()()から、逃れられるはずもないのに。

 

 彼は、どうしようもないほどの小物だった。

 この程度の愚物に、あの子は殺されたのか。

 自分の命すら懸けられない奴に。許せない。許せるはずがない。

 

 

「……7-3-1、(ヒョウ)

 

 散々に時間を使って打った手は、平凡と言えるものだった。

 苦し紛れの一手。苦しみを先送りするだけの一手。その手を打てなかったからこそ、悩んでいたのではないのか。

 

「7-2-1、忍」

 

 即座に私は手を返す。

 盤上に残った、わずかな駒の繋がり。それを容赦なく断ち切る。

 これで左辺は死んだ。それどころか、中央も崩壊寸前だ。

 もう、王は守れない。守れないのなら、死ぬ前に私を殺すしかない。

 こいつが生き残るには、私に向かってくるしかないのだ。

 

 

 だというのに。

 

「7-1-1、砦」

 

 

 ──ああ、こいつは駄目だ。

 

 私は、呆れて物も言えなくなった。

 この後に及んで、無駄な時間稼ぎ。いたずらに兵の命を散らすばかり。

 これでは、私の王……(スイ)に、手が届くはずもない。

 

 こいつには、私の前に立つ資格がない。

 私を殺す力がない。

 

 まがりなりにも、世界王者だろう? 

 なら、その力を見せろ。

 私を殺してみせろ。

 

 

 それが出来ないというのなら。

 

 

 ──お前が死ね。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 東ゴルトー共和国は、ヨルビアン大陸南東、バルサ諸島の東端に位置する国だ。

 一言で表現するなら、究極のクソ国家である。

 

 国民の平等を(うた)っているのだが、この国の平等という概念は、他国のそれとは(いささ)か意味合いが異なるらしい。

 従順に労働に勤しむ者には、奴隷として生きる権利を。

 そうでない者は、権力者のおもちゃとして弄ばれる権利を。

 そして権力者の子として生まれた者は、贅沢三昧で成人病にかかり早死にする権利が総統閣下より与えられる。

 山よりも起伏に富んだ、素晴らしい平等である。

 

 

 そんなウンコ オブ ウンコな汚物国家ではあるが、外面は多少気にするらしく、国威の発揚に力を入れている。世界大会などで好成績を収めれば、そこそこのお金と、ちょっとした地位が貰えるのだ。奴隷やおもちゃが人権を得られる、貴重な機会である。

 私のように世界大会四連覇なんて偉業を達成してしまうと、もはや国の英雄だ。軍儀というマイナーイメージのある競技だが、実は野球よりも競技人口が多く、注目度もそれなりらしい。世界大会で優勝する前は、暗くて狭い部屋に監禁されていたが、今では召使い付きの広い家に住んでいる。

 正直広さは要らないのだが、召使い付きというのは良い。諸般の事情により私は足が動かないので、一人暮らしは厳しいものがあった。召使いが一人いるだけで、生活がずいぶんと楽になる。

 

 

 コンコン、と。

 

 ドアをノックする音が響き、私はそちらに意識を向けた。

 噂をすれば、なんとやら。その召使いさんがきたようだ。最初はメイドさんを期待していたのだが、あいにくと初老の男性だ。召使いというより執事といった雰囲気である。私も一応うら若き女性なのでこの采配はどうかと思ったが、彼は有能だったので今は満足している。

 

「スイ様、お客様がいらっしゃいました」

「──ああ、やっとか。ずいぶん遅い登場だな? 日付を間違えたかと思ったぞ」

 

 召使いの言葉に、私はやや呆れた声を返した。

 客人を迎えるのが本日唯一の用事だったのだが、予定の時間から大きくずれている。午前中に着くはずが、窓から差し込む光は夕日の赤。寝坊とか、そういうレベルではない。どういうことなの。

 

「申し訳ありません。盲目の方なので、誘導に手間取ったようで」

「……まさか、歩いて来たのか? 車は?」

「途中でガソリンが切れたため、置いてきました。長官の視察に燃料を回した結果、こちらへの配給に遅れが生じているのだとか」

「なんだそれは。完璧な計画配給が聞いて呆れるぞ」

「体制への批判は御法度ですよ。失敗はなかったことになるので、完璧な計画なのです」

「それは批判ではないのか?」

「滅相もない」

 

 無駄のない配給がされているはずだが、どうやら私の客人の輸送は「無駄」というカテゴリに含められてしまったらしい。

 少々腹は立ったが、怒っても仕方がない。私は人気取りのパンダであって、権力者ではない。体制を批判する権利など与えられていないのだ。

 私は、この件を無かったことにした。

 

 

 何のトラブルもなく我が家にお招きしたお客様は、これから私の弟子となる予定の少女だ。

 齢は十三。まだ子供だが、こと軍儀においては比類なき発想を見せる。

 盲目というハンデを背負いながらも、既に腕前は高段者クラス。天才と呼ぶに相応しい。

 名を、コムギという。

 

 段位認定試験すらすっとばしてプロリーグに参戦させて良いレベルなのだが、彼女は軍儀の伝統とやらに(つまず)き、いまだアマチュア大会での入賞経験すらなかった。

 この国で軍儀の公式大会に出場するためには、四段以上のプロ棋士に弟子入りしなければならないのだ。まったくもって意味不明な制度だが、我が国の伝統は人命よりも重いのでどうにもならない。

 コムギは師匠を探し続けたが、盲目の子供を弟子に取ろうなどという奇特な人間はいなかった。だから私の目に留まるまで、彼女は誰にも認められずに燻っている。

 

 度し難い愚かさだ。

 危うく、天才が日の目を見ないまま消えていくところだった。人類にとって、大きな損失である。まだ子供だが、この子は間違いなく天才……天才……? 天才、のはず……。

 

「いや~~~もう、本当にありがとうございます! ワダす、軍儀しか取り柄が無いのに大会にも出られず、本当に、どうすたものかと!」

 

 目の前に連れられてきたコムギを見て、私の考えが揺らいだ。

 棋譜を見る限り、冷静で広い視野を持つ天才のはずだが。

 鼻水を垂らしながらあたふたするその姿は、なんというか。率直に言えば。

 

「……馬鹿っぽい、な?」

「よく言われるます」

 

 ええー? なんかの間違いじゃないの。

 そう思ったが、丸一日掛けて歩いてきた客人に対して「勘違いだったのでお引き取りください」とは言いづらい。弟子になる予定だったとはいえ、まだ彼女は弟子ではなく、客人である。

 

「……とりあえず、一局打とうか」

 

 私は、問題を先送りにした。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 どうやら、彼女は天才で間違いなかったらしい。

 馬鹿っぽい雰囲気も、軍儀を打ち始めると一変した。盤上に全神経を集中させる様子は、歴戦の猛者を思わせる。

 そういえば、私に軍儀を教えてくれた天才少女も、普段の言動は馬鹿っぽかった。

 天才となんとかは紙一重、という奴だろうか。

 

「ん、問題ないな。君なら、すぐにでもプロリーグで活躍できるだろう。とはいえ色々と手続きは必要だから、参加は来期からになるだろうが」

 

 私は、彼女に太鼓判を押す。

 対局後の検討にも、十分ついて来られる。

 悪手と思えた手も意図があって打ったもので、経験不足から来る失敗にすぎないことがわかった。

 経験さえ積めば、プロリーグで活躍どころか、タイトル戦で上位も狙えるのではないだろうか。恐ろしいまでの天才である。

 

「あの」

「うん?」

 

 コムギに声を掛けられ、私は顔を上げる。

 急に雰囲気が変わったと思ったら、彼女は盤面から目を離していた。

 盤を見る時と、そうでない時。コムギは別人のようになる。

 

「スイ様、ですよね?」

「そうだが。名乗っていなかったか?」

「ずいぶんお変わりになられたな、と思いますて。昔、テレビで見ていた……や、この場合聞いていたんだすけど。その頃と、雰囲気がちがくて……」

「周りがうるさいのさ、王者らしく振る舞えとな。注文が多くて嫌になる」

 

 目下の者にへりくだった喋りをすると、権威が保てないとか言われるのである。

 その程度で保てなくなる権威など、ケツを拭いた後の紙より役に立たないと思うのだが、彼らにとっては大事なものらしい。

 

「ほんでも。国内王者になる前とは、やっぱり違うなと」

「──ああ、そういう」

 

 彼女の言葉を聞いて、私は納得した。

 それは、確かに違うだろう。

 

「ずいぶん前の話だな? そんな昔だと、録画記録も残っていないだろう」

「テレビの生中継を聞いていますた。いやー、この方お強いなと! スイ様の対局は全部聞くようにしていたんです。本当に、尊敬出来る方だなと思って、中継された対戦は全部!」

 

 コムギが、やや興奮した様子で詰め寄ってくる。

 そう言われて、悪い気はしない。

 尊敬。そうだ。スイは、とても素晴らしい人だった。

 

「そうだろう? 私も、本当にそう思うよ」

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 コムギの指導は、楽だった。

 どう指導したものかと頭を悩ませていたのが馬鹿みたいだ。

 私が三手も示せば、それだけで裏に隠された意図に気づいてくれる。

 

「なるほど。いや~~~、凄いですますな! 気づいた頃にはもう間に合いません。や、最初から対処するにしてもこれは……?」

 

 コムギが、ブツブツと呟き始める。

 集中モードだ。こうなった彼女に、外部の声は届かない。

 

 いくらかの時間を掛けて、コムギは答えを出せたらしい。

 持ち駒の表面を指でなぞりながら、彼女は次の一手を示した。

 

「7-4-1、大筒」

 

 素晴らしい答えだ。

 右辺の半分を切り捨てて、中央への橋頭堡を確保する。この短い時間で活路を開くとは驚かされる。

 彼女の視野の広さは、私よりも上だった。コムギと戦う時には、注意しなければならない。

 

「それだと右辺が死んでしまうが、大丈夫か?」

「大丈夫です。どれだけ右辺が乱れても、中央に浸食してくる前に敵の王を詰めます。右辺に切れ込まれる一手目で、敵の狙いに気づけさえすれば」

「対応を見た敵が、右辺への攻めを止めたらどうする?」

「2-5-2、中将。睨み合いの形になりますが、砲を打てた分こちらが一手得なので、悪くないかと」

「確かに、優勢を保てたな」

 

 

 歓喜のあまり、私は思わず笑みをこぼした。

 やはり、コムギは天才だ。

 ようやく出会えた、二人目の天才。甲乙付けがたい。

 

 コムギなら、きっと私を──

 

「……ん」

 

 興奮したのがいけなかったのか。

 くらり、と。世界が反転した。

 

 思わず床に手を突き、地面の方向を確認する。

 目眩だ。最近多い。

 足が不自由な私は「転ぶ」という分かりやすい失敗をしないため、今まで隠し通せていたが。

 さすがに、もう無理かもしれない。

 

「あ、申し訳ありません! 疲れただすか? お休みになられてくだしい」

「……ああ、すまない。そうさせて貰う」

 

 私の状態は、盲目のコムギですら察せられるレベルで悪いらしい。

 大人しく、彼女の言うことを聞くことにする。

 

 

 召使いにお願いして部屋まで運んでもらい、ベッドに横たわった。

 目眩は、まだ続いている。頭痛が酷い。自分の心臓の音がうるさい。無理矢理動かされて、悲鳴を上げているのだろうか。

 

 私の体は、もう限界だった。

 とうの昔に活動限界を迎えているのを、欺し欺しやってきただけだ。長くは持たない。

 八年もったと考えると、予想より長生き出来た方ではあるが。

 

 だが、まだ死ねない。

 まだ私は、負けていない。

 このまま死んでは、今まで生きた意味がない。

 彼女に合わせる顔がない。

 

 

 コムギは、間に合うだろうか? 

 私を倒せるとしたら、彼女を置いて他はない。

 ()()()()なら、あいつがいい。

 

 だが、まだ足りない。足りないのだ。

 今のコムギでは、私は満足できない。

 私を、私たちを殺す者は、最強の打ち手でなければならない。

 

 だから、早く。

 最強の打ち手を、育てないと。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 コムギが、王位のタイトルを獲得した。

 プロになってから、わずか半年での出来事だ。

 

 ようやく家族に仕送りできたコムギは、感動のあまり泣き出してしまった。

 タイトルを取った時にも泣かなかったのに、送金手続きをしたら泣き出すなんてどうしたのかと困惑してしまった。

 

「弟子が栄誉を得たんだ。師匠として、何かお祝いしないといけないな……ん? これで一気に七段まで上がるから、もう弟子ではなくなるのか?」

 

 とすると、もう教育できなくなるが。

 まぁいい。コムギの成長は目を見張る物がある。既に私の手助けなど不要だろう。

 むしろ、私が師匠のままだと、コムギと戦っても手の内を読めてしまう。ここらが潮時だ。

 

「タイトル獲得……兼、卒業祝いだ。何か、欲しいものはあるか?」

 

 私の言葉に、コムギは言葉を詰まらせる。

 今考えている、という風ではない。事前に考えてはいたけれど、言い出しにくいことなのだろうか? 

 

 私は、コムギの言葉を待つ。

 たっぷり十秒ほど迷った末に、コムギはこう切り出してきた。

 

 

「──師匠との、本気の対局を」

「……そうか」

 

 それは、ある意味私の望み通りではあるのだけれど。

 まだ駄目だ。早すぎる。今戦ったら、きっとコムギは孤孤狸固(ココリコ)を仕掛けてくるだろう。王位戦で見せた新戦法。たしかに面白い手だが、結果は見えていた。事前の検討通りに手を打ち、相手を死路に追いやって終了だ。戦いにすらならない。

 

「それは、駄目だな」

 

 私は、言葉を選びながら続けた。

 

「軍儀王、一度負ければただの人、という言葉がある……だが、お互いこんな体だ。お前も私も、ただの人になんてなれない」

 

 だから、負ければ死ぬしかない。

 

「お互いの命を懸けた一局だ、それなりに、ふさわしい場所でないとな」

「命なんて、そんな」

「お前は、命を懸けていないのか?」

 

 私の言葉に、彼女は息を詰まらせた。

 ある意味、コムギは私の同類だ。彼女の持つ覚悟なんて、私には透けて見える。

 

「わかるさ。一応、弟子のことだしな。そも、この業界で生きている人間は、多かれ少なかれ己の魂を懸けて打っている。中には、相手を暗殺してでも……なんて奴すらいる。これは冗談じゃないぞ? 実際にあった出来事だ。みんな、自分の命が惜しい。卑怯な手を使う奴だっているさ」

 

 コムギは無言のまま、ただ私の言葉を聞いていた。

 返答を待つ間に、私は彼女に渡すものを見繕う。プレゼントを渡すまでが、今日のタイムリミット。

 

「……お祝いの品は、これでいいかな? 前回の世界大会で優勝した時、副賞としてもらった盤だ。私はあと六つ同じ物を持っているから、使わない。お前が使え。自分で同じ物を手に入れるまでは」

 

 返答は、なかった。

 まだ考えているようだが、時間切れ。

 対局は、また今度。次の機会に。

 

 

 私は、テーブルの上にある呼び鈴を鳴らした。

 コムギの送迎だ。弟子でなくなった以上、私の家に置いておくわけにはいかない。

 とはいえ、彼女の生家に返す事も出来ない。ここ、首都ペイジンとコムギの家は、100km以上離れている。車も無しに、対局のたび往復できる距離ではない。劣悪な環境に身を置いては、いかに彼女といえど強くはなれない。彼女には、家と召使いが必要だ。車は無理だが、それぐらいであればすぐに用意できる。

 

「弟子でなくなった以上、試合でお前と当たることもあるだろう。当たるとしたら、最速で来年の名人戦……いや。年末の、代表選考会かな?」

「年末……」

「家族を養いたいのなら。家族と共に過ごす権利を得るためには、ここで優勝して世界大会に出るのが一番てっとり早い。お前にとって、喉から手が出るほど欲しい星のはずだ」

 

 戦いの舞台としては相応しい。

 そして、コムギには時間が必要だ。己の牙を磨くための時間が。

 でなければ、コムギの全身全霊を味わえない。

 私の体も、あと数ヶ月程度であればもつだろう。

 

 だから。

 

 その時こそ──

 

 

「全力で、戦おう」

 

 

 全力で、殺し合おう。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話 過去の思い出は強い

 私が生まれたのは、今から十年ほど昔。

 スイと名乗る少女によって生み出された。

 自意識が出来た瞬間から矢継ぎ早に話しかけられ、非常に混乱したのを覚えている。

 

「──? あれ、何ですかこれ。どういう状況ですか」

「あっ、喋れるようになったんだ」

「え、誰ですかあなた不審者ですか怖い……ちかっ!? 顔が近い」

「初めまして、わたしはスイ! ずっと一人ぼっちで寂しかったから、お友達が欲しいって神様にお願いしたの。そしたら、貴方が来た。きっと貴方は、神様の使いなのね!」

「それはたぶん違うと思いますねそれは……あと、撫でるの止めて貰っていいですか。愛玩動物ですか私は。ってか動けないんですけど、私の体ってどうなってるんです?」

「貴方の体? とりあえず、パソコンの中に入れてみたよ! めっちゃ硬い」

「……えっ」

 

 スイとの最初の会話は、こんな感じだったかと思う。

 当初の彼女は、私が神様の使いだと信じていた。

 実際は彼女が生み出した、妄想の産物みたいなものだが。

 いわゆる、イマジナリ・フレンドという奴だ。

 明るく振る舞っていた彼女だが、やはり心は壊れかけていたのだろう。

 ずっと一人で過ごしてきた彼女が、自分の心を守るために作り出した存在。それが私だ。

 私は、彼女を守るために生み出された。

 

 

 彼女は、孤独だった。

 生まれつき足が不自由で、両親にも見捨てられ、孤児院に送り込まれた。

 院内での自由は無く、()()()の時以外は、部屋の外に出ることも許されない監禁生活。

 

 孤児院なんて名前は付いているが、その実態は見世物小屋だ。

 子供達に剣闘士まがいのことをやらせたり、自身の体の一部……時には、命すらをもチップにしたギャンブルをさせたり。足が不自由なスイは戦えないため、必然的に後者の役割を担うことになった。

 

 とは言っても、彼女の体に欠損は無い。

 元々不自由だった足を除けば、スイの体は綺麗なものだった。

 馬鹿っぽい言動に反して、彼女は強かった。遊戯において、最強と呼ぶにふさわしい。

 相手の思考を読み、誘導し、罠を仕掛けて完膚なきまでに叩きのめす。誰も彼女に追いつけない。生涯不敗の絶対王者。最後の時まで、彼女は誰にも負けなかった。

 

「わたし、強いのよ? 軍儀じゃ負けたことないし、きっとこれからも負けない……あっ、そうだ軍儀! ねぇ一緒にやろう? きっと楽しいから面白いのよ軍儀は。具体的には、盤上の動きから相手の思考を丸裸にして罠にはめて『お前の考えなどまるっとお見通しだ!』ってやるのが面白くて」

「分かりましたから、ちょっと離れて貰っていいですか。なんでいちいち抱きつくんですか。ってか、パソコンに抱きつくとか、痛くないです?」

「女の子は、親友がいたら抱きつきたくなるものなのよ」

「たぶん嘘ですよねそれ。あと、私と貴方は初対面なので。親友と名乗るには、いささか時間の積み重ねが足りないかと」

「時間なんて些細(ささい)な問題よ。え、些細じゃない? じゃあ、今日は友達でいいわ。明日から親友になりましょう。積み重ねた時間の分だけ親密になれるのね! 明後日には家族になっているかも」

「展開が早い」

 

 彼女のウザ……ハイテンションは、非常に面倒……合わせるのが難しかったが、すぐに慣れた。私とて一人は寂しいし、話し相手となるのはスイだけだ。まことに遺憾ながら、私と彼女は親友になった。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

「あのハンデは理不尽では? 怒って良いですよ貴方は。私も怒り心頭ですので」

「いやぁ、あれぐらい無いと勝負にならないと思うのよね。お客さんが喜ばないと、お金も貰えないし」

 

 見世物が終わってからも、私は心のざわつきを抑えられなかった。

 一番腹立たしいのはスイのはずだったのに。冷静に考えてみれば、私は彼女を笑って迎えてやるべきだったと思う。けれども、当時の私はどうしようもない子供で、そんなことすら分からなかった。

 

「怒ってもしょうがないよ。もっと前向きに行こう? 一度やって、戦い方は掴んだから。だから、次はもっと楽に勝てると思う」

 

 そう言って笑うスイ。

 あまりにも強すぎる彼女が対等に戦える勝負など、ほとんど無い。

 いつだって、彼女は理不尽な状況を強いられていた。

 誰も彼女を守らない。彼女をおもちゃにして遊んでいる。

 許しがたい愚行だ。誰かがスイを守らなければならない。

 誰かって誰だ? そう、私だ。

 私はその時、自らの使命を確信した。

 

「決めました。貴方は私が守ります」

「え、ほんとに? 期待して良いの?」

「任せてください。おはようからお休みまで、万全のサポートライフですよ。なんなら、睡眠中も添い寝してあげます」

「完璧ね! これはもはや、一心同体といっても過言ではないわ」

 

 手を合わせて、わーいとはしゃぐ彼女。

 でも、添い寝は断られた。さすがに、無機物を抱きかかえて寝るのは痛いらしい。

 

「現実問題として、スイを守るためには物理的なパワーが必要ですねこれは……どうしたものか」

 

 守ると口にはしたが、それが難しいことは分かっていた。

 その時の私にできることなど、彼女の話し相手ぐらいのものだ。

 

 でも、言わずにはいられなかった。

 夢も希望も無いこんな場所だ。願望の一つでも語らないと、心が折れそうになる。

 

「電子機器に侵入はできるので、コントロール奪えたりしませんかね? 電子制御の戦車とかあると嬉しいんですけど。あ、この施設って自爆装置とか無いです?」

「貴方は、どこを目指しているの?」

「分かりませんが、スイが望むなら私は悪魔にでもなりましょう。スイは、私にどうして欲しいですか?」

「こうしてお話できるだけで、私の願いは叶ってるんだけど」

「欲がないですね。やりたいことを言ってみてください。全力でサポートしますよ。ほら、たとえばこの国の総統になって、国の腐敗を全て粛正したいとかあるでしょう?」

「考え方が物騒ね」

 

 私の猛攻を受けても、なかなか願望を口にしようとしないスイ。

 夢の一つを語るぐらい、いいと思うのだが。

 それとも、夢などもう捨ててしまったのだろうか。それは、とても悲しいことだ。

 

「夢の共有って、大事だと思うんですよ。ほら、方向性の違いとかで解散しないためにも」

「解散……? 将来の夢、ねぇ。あんまり、考えたことなかったなぁ」

 

 首をコテンと傾け、うーんと考え込むスイ。

 いちいち仕草が可愛らしい。なんだこの最強生物は。私が守らねば。

 

「とりあえず、軍儀でチャンピオンになること? そしたら、ここから出られるかもしれないし。もっと、色んな事だってできるかも」

「なるほど……では、貴方が軍儀の王になれるよう裏工作しましょう」

「いや、ダメでしょそんなことしたら」

「なぜですか。私は貴方を王にしたい。裏工作したい」

「裏……? なぜって、そりゃ」

 

 彼女は、さも当然のように、こう言った。

 

「こういうのは、自分で叶えるから楽しいの。だから、手伝って貰うのは、ちょっと違うかな」

 

 私は言葉を返せなかった。

 そう言われたら、何も出来ない。

 

 しかしながら、スイが外に出たがっているという事は聞き出せた。

 ならば、私がすべきことは、そのための力を蓄えることだ。

 いずれ彼女を自由にしてやりたい。

 

 そのために出来ること……出来ること……? 

 何があるだろうか。考えてもわからない。

 

「わからな……わからない……ワカラ……ワカカカカカカ」

「えっ、ちょっと待って。そんな考えなくいいから! ひとまず、お話を続けましょ? ていっ」

「ぐべっ」

 

 スイにどつかれて、私は正気を取り戻した。

 私は一体なにを……スイのことを考えていた気がするのだが。

 

 

「目が覚めた?」

 

 こつん、と何かを押し当てられる感触がした。

 スイが目を閉じ、私に額を押しつけている。

 私に物事を言い聞かせようとする際の仕草だ。

 こうすると、お互いの心が通じあうような気がするらしい。

 

「さっきも言ったけど。わたし、貴方といると幸せよ」

 

 私も目を閉じ、大人しくスイの言うことに耳を傾けた。

 彼女の声は、心地よい。いつまでも聞いていたくなる。

 

「昔は、ずっと一人だったから。だから、貴方と一緒にいられるだけで、とても幸せなの」

 

 貴方は幸せじゃ無いの? と問われ、私は思わず「幸せです!」と返した。

 こんな可愛いご主人様を持った私が、不幸なはずがない。ご主人様を世界大統領にしたい。世界中の人々は、スイの可憐さにひれ伏すべきである、と私は主張した。

 

「さすがに、それは無いと思うの」

「そうですか……残念です」

「え、なんでそんなに気落ちしてるの? もしかして、本気で言ってた?」

「私はいつだって本気ですが? マジモード全開節です」

「全開節って何?」

 

 

 こんな感じで、私とスイは話を続けた。

 エネルギー切れで私が活動休止するまで、およそ一時間。

 結局、彼女は自分の欲望を曝け出さなかった。

 少し寂しいが、私が頼りないせいかもしれない。

 いずれ、彼女に頼りにされる自分になりたい。

 

「……今日は、ここまでみたいです。先ほども言いましたが、願いができたら言ってください。その時は」

 

 私の全身全霊をもって、その願いを叶えると誓いましょう。

 

 私は、スイにそう告げて眠りについた。

 次に目が覚めるのは、いつも通りなら数日後。

 それまで、お別れだ。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 悪寒と共に、目が覚めた。

 心臓に冷たい刃を押し当てられたような感覚。

 息が苦しい。力が急速に失われていく。

 

「……ス、イ?」

 

 意識を強引に覚醒させる。

 耐えがたいほどの眠気を感じるが、このまま眠ってしまったら、私は()()()()後悔する。自分を決して許せない。そう思った。

 

 

 視界は暗いが、狭い部屋だ。

 彼女を見つけられないことなんて、ありえない。

 ありえない、はず。

 

 

 赤い。

 彼女の体が、赤く染まっていた。

 

「は──?」

 

 鮮血。細い彼女の体から溢れたとはとても思えないほどの量。

 間違いなく、致命傷だった。

 

 何故。どうして。

 いや、そんなことよりも。

 

 

「スイ!」

 

 私は、彼女に呼びかける。

 私には、呼びかけることしかできない。

 肉体を持たない自分では、彼女の手を握ることすら、できやしない。

 

 

 わずかだが、彼女が身じろぎしたような気がした。

 生きている! まだ息がある。なにか、手はないか? なんでもいい! 

 

 そう思うが、どうにもならない。多少コンピュータを操作することは出来るが、棋譜の整理専用で使われているスイのパソコンは、ネットワークにすら繋がっていなかった。出来ることは、せいぜいスピーカーを鳴らすぐらい。この小さなスピーカーでは、部屋の外に声を届かせる事すら不可能だ。

 私には、何も出来なかった。

 

 

「……泣かないで」

 

 私の様子に気づいたスイが、こちらに顔を向けた。

 そして、精一杯の力で声を絞り出す。

 痛いはずなのに、苦しいはずなのに。私を安心させようとしている。

 

「泣い……泣いてなんて……」

「泣いてるよ。初めて見た。ごめんね、悲しい思いをさせちゃって」

 

 痛みをこらえて、笑顔を作ろうとする彼女。

 そんなこと、しなくていいのに。

 

「仕方ないよ……正直、諦めてたんだ。私は、ここから出ることすら出来ずに、意味も無く死ぬんだって……いつか、些細な事で(つまず)いて殺されるんだって。そう、思ってたから。それが、今日だっただけ」

 

 彼女の本音。

 いつも明るい彼女の、弱気な言葉。

 私はその時、彼女の気持ちを初めて聞かされた。

 

 彼女は、淡々と言葉を綴った。

 小さいころの思い出。

 お別れの時、兄や姉から花飾りを貰ったこと。

 孤児院に来てすぐに、取り上げられたこと。

 孤児院に来てからは、死ぬことばかり考えていたこと。

 

 その時、私はようやく気づいた。

 彼女が、将来の夢を語ろうとしなかった理由。

 命を懸けた、誰しもが恐怖に踊らされる舞台で、彼女だけが華やかに舞えた理由。

 それは。

 

「どうやって死ぬのが、一番いいかなって……いつも考えてた。命をかけた勝負を強制されるのなら……どうせだったら、最高の舞台で、最強の相手に挑んで死ぬのなら。ゴミみたいな私の人生も、少しは華やかになるのかもって」

 

 熱に浮かされたように、彼女は呟き続ける。

 彼女は、死に魅入られていた。どうしようもないほどに、心を囚われている。

 いつも楽しそうに笑っていたスイ。それは、嘘で塗り固めた人形でしかなかった。

 

「駄目、です。駄目ですよ。まだ、貴方は負けていない。誰にも負けていない! だから、こんな所で死んでは、いけないんです」

「……ああ、確かに。悔しいなぁ」

 

 スイが、空中に手を伸ばす。

 何をつかもうというのか。私には、何も見えなかった。

 

「そうだね。私より強い奴に負けて死ぬなら、納得できるのに」

 

 彼女には、何が見えているのだろうか。

 きっと、未来ではない。

 過去の思い出にでも、すがり付いているのか。

 

「……こんな、あっけなく。いきなり殺されるなんて。そんなの寂しすぎる」

 

 彼女の頬から、一筋の涙が流れた。

 

 熱い。

 私の体が、破裂しそうなほどに熱を持っている。

 今すぐにでも、この不自由な体を捨てて、スイのもとに行こうと手を伸ばす。

 

「……こんなのって、ないよ。あんまりだ。死にきれない。まだ、死にたくない」

 

 そうだ。まだ死んではいけない。

 彼女は、死にたくないと願った。

 約束したのだ。彼女の願いを、叶えると。

 だから、私は。彼女を死なせてはいけない。

 

「私を殺すなら、私に、勝って……から……」

 

 天に伸ばした、スイの腕。

 それが、パタリと地に落ちる。

 

 静寂があたりを包み込む。

 もう、彼女はいない。私に微笑みかけてくれるスイは、消えてしまった。

 

「あ」

 

 ビキリ、と音が響く。

 暴れる私の力に耐えかねたのか、無機物の体が砕けて爆ぜる。

 

「あああああ」

 

 ついに、私は外に出た。

 そして、彼女に手を伸ばす。

 もう、何もかも遅いというのに。

 

「ああああああああああああああああああ!!!」

 

 冷たい。

 わずかに残った彼女の残り火も、消えようとしている。

 

 私は、必死にスイの体へと力を送り込んだ。

 体の表面を光の膜で覆い、出血を止める。

 心臓と肺をつかんで無理やり動かし、全身に酸素を送る。

 冷たくなった体を熱し、温かさを取り戻そうとする。

 

 だが、駄目だった。

 スイの体は、もう動かない。

 私の大好きだった彼女は、もういない。

 

 

 

 

 どれほどの時間、そうしていただろうか。

 彼女の体にへばりついた血は固まり、死後硬直が始まっていた。

 

 私は、彼女との思い出に浸る。

 彼女と過ごした時間は、二年ほど。決して、長い年月とは言えないかもしれない。

 けれどもスイは、私のすべてだった。

 私の思い出の中に、彼女の姿がない場面など無い。

 

 

 

 ──私より強い奴に負けて死ぬなら、納得できるのに。

 

 

 彼女の、最後の言葉が脳裏をよぎる。

 ずっと、死ぬべき舞台へ思いを馳せていた彼女。

 それが、彼女の願いだというのならば。

 

 

 ──こんなのって、ないよ。あんまりだ。死にきれない。

 

 

 そうだ。

 私が、叶えてあげないといけない。

 約束したのだ。必ず、彼女の願いを叶えると。

 それが、私が生まれた理由。私の存在意義。

 彼女を生かすことのできなかった無能な自分でも、せめて。それぐらいは。

 

 

 私は、スイの体に目を向けた。

 命の灯火は、すでに無い。

 だが、燃えカスは残っている。

 ほんのわずかでも、彼女の残滓が残っている。

 

 私は彼女の体の中へと入りこみ、その残滓に手を伸ばす。

 小さい。まだ、少しだけ温かい。ずっと私と一緒にいてくれた、私の宝物。

 

 

 私は、それを。

 

 

 ──ぱくりと、平らげた。

 

 

 

 

 空気の冷たさを感じる。

 ツンと鼻につくのは、血の臭いか。

 喉に違和感を感じる。おそらくは、水を求めている。乾きと呼ばれる感覚。

 初めて味わう感触だ。これが、スイの感じていた世界。

 

 口を開き、呼吸を行う。

 肺も心臓も動く。なかば無理やりではあるが、動くのなら問題ない。

 

 腕を上げてみる。

 重い。血が足りないのだろう。今すぐ辺りを駆け巡って、彼女を殺した誰かを探すのは難しい。

 いや、そもそもスイは足が不自由だった。私が操作したところで、自由に動き回るのは不可能かもしれない。

 

 私の体を構成している光の粒を、彼女の体の隅々にまで行き渡らせる。

 光の正体が何なのかは不明だが、きっと生命エネルギーの類だろう。心を生き返らせることは不可能でも、彼女の死体を動かすことぐらいは、十分にできた。

 

 

「スイ」

 

 自分の胸に、手を当てる。

 心臓の鼓動が聞こえる。彼女はもういないけれど、彼女の代わりは残っている。

 私の中で眠る彼女。その願いを、叶えてやりたい。

 たとえ、二度と目を覚まさないのだとしても。手向けには、なるだろうから。

 

「貴方の願い、聞き届けました」

 

 彼女と過ごした記憶を呼び起こす。

 私は、そのすべてを覚えている。

 最後に、彼女の本音を聞き出すことができた。

 今なら、彼女のすべてを理解できる。

 彼女の思考も、感情も。すべて。

 

 

 模倣。再現。

 彼女を蘇らせる。

 私は、()()()()()

 

 

「まずは、貴方が最強だとこの世に知らしめましょう」

 

 彼女は、間違いなく怪物だった。

 自らの死を望み研鑽を重ねる姿は、数多の物語に登場する化け物と比べても遜色無い。

 彼女が、最強でないはずがない。

 

 

「そして、いつか」

 

 この世の誰しもが、貴方という怪物を恐れるようになったのなら。

 

「貴方を超える怪物に、無残に食い殺されましょう」

 

 それで、貴方が安らかに眠れるというのなら。

 私は、それでいい。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

「どうしたの? 死人でも見たような顔をして」

「お、お前……なんで」

「なんで? それは、何に対しての疑問?」

 

 私が彼女に成りかわってから、三日後。

 迎えた国家代表選考会の決勝戦。

 体を動かすのにはまだ慣れないが、軍儀を打つだけなら問題はない。

 

 私を見て驚愕の顔を浮かべたのは、対戦相手の前回大会優勝者。

 まさか、こんなに表情に出すとは思わなかった。事前に背後関係を調べて回ったのが、馬鹿みたいだ。これでは、見ただけで分かるではないか。お前が犯人だと。

 

 

 と、彼の体がうっすらと光り始めた。

 はて、何のつもりだろうか。よくわからない。なにやら、輝くオーラで私を包み込もうとしているようだが。

 

「……え、なに? 邪魔なんだけど」

「は?」

 

 鬱陶しいので、私は光に手を掛け、引き千切った。

 すると、彼は再び驚愕の表情を浮かべる。

 意味が分からない。スイの体に謎の光を被せようとしてくるなんて、失礼な奴だ。

 

 だが、許そう。

 この程度の事は、どうだっていい。

 もうこの男は、殺すと決めたので。

 

「お、お前も……能力者なのか?」

「能力? 何を言っているのかわからないけど……まぁいいや。私が言いたいのは、一つだけ」

 

 彼の目を見据える。

 恐怖に澱んだ、醜い眼だ。

 蛇に睨まれた蛙とは、彼のことを言うのだろう。

 

「この一局は」

 

 言葉とともに、私は自分の胸に手を押し当てた。

 そして。心臓に、()()()を突き刺す仕草をする。

 

「──互いの、命を懸けた戦いにしましょう?」

 

 呻き声。

 目の前の蛙が、胸を押さえて膝をついた。

 息が荒い。何が起きたのかわからないといった表情だ。

 なるほど。心臓に刃物を突き刺すのは、初めての経験らしい。

 

「……嘘だ。なんのリスクもなく、こんな能力……リスク、が?」

「約束だよ? 負けたら死ぬの。私は、絶対に約束を破らないから。あなたもそうだよね?」

「お前、自分の命を……!?」

 

 私は笑顔で、ゲームのルール説明を行った。

 何も知らずに死ぬのは、可哀そうだし。

 たっぷりの恐怖を与えて殺せないのは、私の気が晴れなかった。

 

 ゲームで負ければ、心臓に突き刺さった刃が破裂して死ぬ。単純極まりないルールだ。誰にでも理解できる。蛙にだって、理解できる。

 

 

「どうしてそんなに不安そうな顔をしているの? あなた、世界王者なんでしょう? 強いんでしょう? 私みたいな小娘、簡単に蹴散らせるはずだと思うんだけれど」

「そ、ん……私は……」

「あなたが私よりも強かったのなら、私はあなたを許すよ。そして、潔く死ぬ……でも、もし。あなたが、私よりも弱かったのだとしたら──」

 

 

 ──お前は、無様に死ね。

 

 

 私は、そう宣言した。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3話 コムギ強い

 コムギが弟子でなくなってから、四ヶ月。

 あれから彼女とは、一度も会っていない。

 だから、今日は久しぶりの再会ということになる。

 

「元気そうじゃないか。すこし、大きくなったか?」

「はい。大きくなりますた」

 

 東ゴルトー代表選考トーナメント、その決勝戦。

 彼女は、当然のように勝ち上がってきた。

 

 互いに、国内戦全勝。

 この一局は、必然といえる。

 

 

「じゃあ、始めようか」

「はい」

 

 交わした言葉は、これだけ。

 近況など報告する必要も無い。打てば分かる。

 互いに、この一局のため奥の手を山ほど用意してきたはずだ。

 

 意識を盤上へと向ける。

 敵の初期配置は、槍が三本。弓も砲も分散している。守りは薄い。守備より速度を優先した、変幻自在の構え。彼女が持つ読みの深さを活かした陣形だ。

 

 対するこちらは、変則的な片矢倉。守りに重点は置いていない。陣を固めると攻めに集中できる利点はあるが、陣形の変更に時間がかかるというデメリットも存在する。変幻自在に攻めてくるであろうコムギを相手に、そのデメリットは致命的。ゆえに選択した戦法。

 

「6-6-1、忍」

 

 まずは、コムギの先手。彼女は時間を使わずに打ってきた。

 軍儀は、最初の一手に最も時間を掛けるのがセオリーだ。自陣内であれば自由な配置で始められる軍儀においては、初手こそが最重要。最初に敵の陣営を見て戦略を練る所から始まる。

 それが無かったと言うことは。

 

「3-4-1、兵」

 

 こちらも、時間を使わずに初手を打つ。

 初期配置は、互いに予想通りのものだという事。

 それをどう攻略するかは、既に検討済みだ。

 

 

 序盤は、淡々と進んだ。

 答え合わせをするかのように、次々と手を打つのみ。

 予想を超える一手が飛び出すまで、この状況は変わらない。

 

 こうして打ってみて、ひしひしと感じる。

 この数ヶ月で、コムギは見違えるほどに成長した。

 先が読めすぎるからこその弱点を抱えていた彼女だが、今はもうその穴もない。プロになってたった一年足らずで、王者の風格すら漂わせている。王者は、まだ私だが。

 

 

 

 やがて勝負は、中盤に差し掛かった。

 私は気を引き締める。小競り合いが盤面全てに広がり、駒の行き場が無い。陣取り合戦は終わりだ。ここから、本格的な衝突が始まる。

 先に仕掛けてくるのはコムギだろう。陣容が軽い分、彼女の方が早い。

 

「……5-4-2。中将(あらた)、だす」

 

 そら来た。

 一見、無謀にも思える手。

 中将が移動したことにより、弓の陣地が丸裸となる。

 さてさて? せっかく作った陣地を差し出して得られる利益とは、いったい何だ? 

 

 私は、この先の展開を脳内でシミュレートする。

 陣を差し出して、コムギが得られる利益。それは。

 

「──そうか。この大筒が邪魔か、コムギ」

 

 砲の前に兵を置く。これで、砲を排除するのに余分な一手が必要となった。それで十分。敵の方が早いが、それでも相手が連続で二手打てるわけでは無い。最速で攻められなかった場合、打ち負けるのはコムギだ。コムギより厚い陣を敷いた私とまともにぶつかれば、敗北は必定。

 

「……やっぱり強いですね、師匠」

「私はもう、師匠じゃないぞ」

「いえ、あなたはワダすの師匠です」

「そうか。勝手にしろ」

「はい、勝手にするます──6-4-1、大筒」

 

 さらに踏み込む一手。

 二連続で予想外の手を打つとは。

 

「楽をさせてはくれないな」

「普通に戦ってしまっては、勝てません」

「それもそうか! ……ん?」

 

 意図せず声が弾んで、私は少し驚いた。

 自覚はなかったが、もしかするとこれは。

 

(──少し、楽しい?)

 

 久しぶりに味わう感情だ。

 私はずっと、私たちの強さを証明するために打ってきた。

 彼女の居場所を失わないために打ってきた。

 打つのが楽しいだなんて、思っていなかったはずなのに。

 

 

『──ねぇ、一緒にやろう?』

 

 

 幻聴。

 かつて聞いた、スイの言葉。それが私の頭に響いてくる。

 

 

『──きっと楽しいから。面白いのよ、軍儀は』

 

 

 ああ、確かに。

 スイと打つのは、楽しかった。

 

 懐かしい。

 スイは、強かった。コムギも、スイと同じ領域にまで達している。

 ここにいるのが、私ではなくスイだったらよかったのに。

 二人だったら、きっと──

 

 

 電子音が聞こえて、私はビクリと体を震わせた。

 対局時計のカウント音。五分に一度、鳴るように設定してある。

 おかしい。私は今、何をしていた? 意識が微睡む。時計の音が無ければ、そのまま眠っていたのではないかと思えるほどの隙。異常だ。今まで、こんな油断をすることなど無かった。

 集中できていない。これでは、最高の勝負にならない。

 

 

 私は気を引き締めて、盤面に目を向けた。

 次は、弓が前進してくるはずだ。騎馬で踏み潰すか、それとも横に回り込むか。

 

 呼吸を整える。

 集中しろ。かつてない程の強敵。全力を出さねば失礼だ。盤面の全てを読み取れ。

 私なら、見えるはずだ。コムギの狙いが。

 私の得意とするのは、相手の駒同士の連携を断ち切り、陣地まるごと息の根を止める戦い方。

 圧殺。一度喰らえば、相手は恐怖で戦意喪失することすらあった。

 

 コムギの駒を見る。

 一見、完璧な連携が取れているように見える。が、そんなはずはない。一手ずつ駒を動かす以上、綻びは避けられない。特に今は、大胆な仕掛けを見せた直後だ。弱点は、必ずある。

 私なら、見つけられるはず──

 

 

 考える前に、未来が見えた。

 いや、未来というより、光だろうか? 

 盤上の駒が、光で繋がっている。まるで、手を繋いでいるような。

 そしてその光が、新しく伸びようとしている箇所がある。

 そこに道を作ろうというのか。

 それは……駄目だろう? 

 

「──邪魔だな、この(みち)は」

 

 次の手を打つ。

 光を断ち切る一手。一気に複数の輝きが失われ、右辺に闇が侵食していく。

 

 コムギが息を呑むのが聞こえた。たった五分の持ち時間消費で、痛恨の一手を打たれたのだ。自分の戦術が、早々に読み切られたと考えるのが普通だろう。実のところ、考えるまでもなく"見えた"だけなのだが。

 

 意識が冴え渡っている。余計な情報は削ぎ落とされ、認識すらできない。思考の海に落ちてしまいそうになる感覚。時間の感覚がおかしい。考える前に、考えた結果が溢れてくるかのような。先ほど眠りかけたと勘違いしたのも、この状態の副作用か。

 余計なことを考えないよう、私は盤面に視線を固定する。

 

 今の一手で、右辺の形勢は傾いた。

 何の対処もしなければ、次の一手で完全に闇へと落ちるだろう。

 

「8-4-1、騎馬!」

 

 コムギの一手で、右辺の輝きが蘇った。

 なるほど、いい手だ。

 だが、予想通りでもある。

 

「8-3-3、砦」

 

 再び、闇が右辺を覆う。

 

 コムギが打てば、光が。

 私が打てば、闇が増す。

 まるで溺れた者が必死に水面へ顔を出そうとするかのように、盤上の駒が生きようと足掻いている。

 

「7-6-2、侍」

 

 だが、無駄だ。

 沈め。

 沈め、沈め、沈め。そのまま沈んでしまえ。

 お前に生きる道などない。

 

 盤面はもう終盤に差し掛かろうとしている。ここで押し切れば、右辺は私のもの。そうなれば、逆転はほぼ不可能。仮に右辺が生き残ったとしても、それは多大な犠牲を払った上での事。圧倒的に、私が有利だ。

 

 

 コムギは手を止め、長考の構えに入った。

 ここが分水嶺。運命の分かれ目。次の一手が勝負だ。

 

 

 さぁ。どうする、コムギ。

 持ち時間は、あと三十分。

 その時間で、この状況を打破できるか? 

 

 ──砲で守りを固める? いいや、砲では遅すぎる。

 ──忍を差し出して、その隙に騎馬で固める? いいや、後ろに回り込まれるだけだ。

 ──守りを捨てて、少将を上げる? いいや、後ろが死ねば将が孤立するのみ。攻めるにも早さが足りない。

 ──兵も将も捨てて、王を逃がす? いいや、王一人逃がしたところで意味は無い。(スイ)は、兵がいてこその王。敗残の王は死ぬだけだ。

 

 逆転の目は無い。

 この状況を覆すには、神にも迫る一手が必要だろう。

 

 逆転は、不可能──

 

 

 私が、そう判断した瞬間。

 コムギの体が、輝き始めた。

 触れてすらいないのに、盤上の駒へと光が伸びる。

 

 それを見た私は、どういうわけか恐怖を感じた。

 軍儀中、光を見ることはあった。それは自分の体に現れることもあったし、対戦相手から溢れることもあった。今日も、コムギの駒の輝きを見ている。だが、これほどの圧を感じたのは初めてだ。

 息を呑む。汗が噴き出る。恐ろしい。何故? わからない。腕で体を抱きしめるが、震えが止まらない。

 

 

 コムギ。お前は一体、どこまで。

 

 

「──4-3-2、忍」

 

 

 盤上に光が溢れる。

 盤上の駒の全てが、輝きを放っていた。

 圧力を感じて、思わず私は気圧される。

 死んだはずの将も、戦場が移動し働きを失っていた兵も。途切れたはずの路が、すべて繋がった。

 それどころか、私の駒にまで光の路が浸食してくる。

 敵の動きを阻害するために置いたはずの砦は、むしろこちらの自由を縛る置物となっていた。

 砦を移動させようにも、周りの兵が邪魔となる。

 

 

 盤上の全てを支配する一手。

 最初に中将で攻め込んだのも。弓の陣地を崩したのも。左辺で死んだ侍も、中央に食い込んだ騎馬も。初手からの全てが、この局面へと繋げるための布石。

 これまでの盤面。その攻防は、すべて。

 この、一手を完成させるためにあった──! 

 

 

(……このままでは、私の(スイ)が死ぬ!)

 

「3-2-1、兵!」

 

 私の(スイ)は、取らせない。

 代わりに、(ヒョウ)の命を差し出した。

 苦し紛れの一手だ。(ヒョウ)を差し出したところで、楽にはならない。相手の攻めを一手遅らせるために、こちらも一手消費しているのだ。多少マシになった所で、状況は覆せない。

 

 コムギは、兵を踏み潰して前進してきた。

 自陣の守りを崩しての攻め。詰みは無いと読み切っているのか。それとも、自分が死ぬ前に私を殺せると判断したのか。

 

「3-2-1、忍」

 

 忍がコムギの中将と差し違える。

 直後、再び敵が前進。また、互いの守りが薄くなった。これで、敵の(スイ)に詰み筋ができる。

 つまり。コムギは、このまま私を押し潰すつもりらしい。

 

 もう止まらない。

 私が死ぬのが先か、殺しきれずにコムギが死ぬか。その二択。

 

 ただで死んでやるつもりは無い。

 攻守は逆転したが、敵陣の守りは無いに等しい。

 一手。たった一手でも敵の攻めが途切れれば、即座に私の刃がコムギの急所に届く。

 

 

「3-4-2、少将」

「3-2-2、侍」

「2-3-1、謀」

「1-1-3、帥」

 

 次々と迫る敵の進軍を、私は必死に防ぐ。

 両者ともに、もはや持ち時間はなく。息を()く暇もない。互いの喉に刃を突きつけ合って、既に十四手。盤面は滅茶苦茶だ。

 

 互いに、たった一手。相手より早く打てれば、詰ませることができる。

 だが、それがあまりにも遠い。

 コムギが、苦しそうに胸を押さえている。

 気づけば、私も同じように胸を押さえていた。

 呼吸が苦しい。酸素が足りない。

 

 思えば、私は最初から最強だった。

 最強のあの子を模倣し、対戦相手をすべてひねり潰してきた。

 だから、知らなかった。全力を尽くすというのが、こんなに苦しいことだったなんて。

 

 

 コムギの体に、再び光が集う。

 またか。何をする気だ。

 また。私の想像の、はるか上を行く一手を打つのか……? 

 

 

「──6-3-1、弓」

 

 

 光が、私の(スイ)に突き刺さる。

 コムギの一手は、主戦場からやや離れたところの弓兵を、たった一歩横にずらしただけ。

 忍の道が空いたため王手が途切れたわけではないが、防ぐのも容易。一見すると、ぬるい一手。

 だが、これは──

 

「……終わりだな」

「はい。次の3-4-2騎馬から、十九手で詰むです」

 

 

 息を吐く。

 体から熱が抜けていく。

 

 これは、私とあの子が望んだことだ。

 ようやく叶ったか、という思いと。そして、まだやれるという思い。その両方がある。

 あの子が最強であると、示し続けたかった。

 だが、思いだけで生きていけるほど、人間の体は強くない。

 

 

 周囲に目を向ける。

 今まで、気にもしていなかった。だが、これで最後だと思うと、急に名残惜しくなった。

 畳を撫で、その感触を楽しむ。冷たい。火照った体を、預けてしまいたくなる。

 

 幾度となく、相手を屠ってきた対局部屋。

 重要な手合いでのみ使われる部屋だが、私の対局はいつだって重要だった。ここで戦ったのは、百? それとも、二百か? 

 

 

 続いて、コムギに目を向ける。

 やはり、大きくなった。強くなった。

 もう、私の手には負えないだろう。

 彼女は、私を超えたのだ。

 

 だから、言わないと。

 

「──」

 

 声を出すのに失敗した。

 言えば、終わる。もう終わっているのだけれど、それでも口に出すのは、怖い。

 

 息を吸う。

 先ほどよりも、体に力を込めた。

 今度こそ、失敗しないように。

 

「──負けました」

 

 その一言を発した瞬間、体から力が抜けていく。

 長くは持たない。私は、私たちは。元々、死んでいたのだ。

 八年。夢というには、あまりに長い時間だった。

 

 私が取り込んだスイの欠片が、溶けて消えていく。

 

 

 ──スイ。

 

 

 私は、彼女に声を掛ける。

 

 ようやく、終わりました。

 貴方より強い打ち手。最強の怪物が、ここにいます。

 

 と、いっても。貴方があのまま成長していたのなら。きっと、コムギですら完膚無きまでに叩きのめしていたと、信じていますが。

 でも、そうはなりませんでした。私も貴方も、あそこで止まってしまった。

 いつか来る敗北。それが、ようやく。

 

 

 コムギに手を伸ばす。

 彼女は、動かない。

 

 頬に手を添える。

 やけに静かだと思ったら、気を失っていた。私の敗北宣言を聞いて、気が抜けたのか。

 全身全霊を絞り出してしまったらしい。これでは、最後の挨拶もできないが。

 

 まぁ、いい。

 別れの言葉なんて、恥ずかしいだけだ。

 私の(スイ)を殺したコムギ。彼女に贈る言葉は、たった一つだけ。

 

 

「……私たちに勝ったんだ。誰にも負けるなよ、コムギ」

 

 それだけ言って。

 

 私は、その場から姿を消した。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話 死は救いだって、偉い人が言ってた

 

 静寂が、辺りを包み込む。

 聞こえるのは、私が動かす車椅子の軋みだけ。

 キコキコと、寂しげな音だけが耳に入る。

 

 かつて、私たちが過ごした孤児院。

 誰もいない。既に廃墟と化している。あんなに広大に思えた監獄が、今は酷くちっぽけに感じた。

 

 

 廊下の突き当たりに辿り着く。

 地面に廃材が転がっていたため、車椅子で進むのは少々骨だった。私は息を切らせながらも、部屋の扉に手を掛ける。

 

 扉が倒れた。轟音が静寂を切り裂く。どうやら、蝶番が錆び付いていたらしい。

 少し、ビックリしてしまった。心臓が止まってしまうのでは、と思えるぐらいには。

 

 

 部屋へと入る。

 ろくな家具も無かった部屋。いま部屋の中に見えるのは、ベッド。砕け散ったコンピュータの残骸。それと、床に僅かに残った血の跡のみ。私と、彼女の痕跡だ。

 

 私に残されたのは、僅かな時間。

 少々不安だったが、間に合った。

 最後を迎えるなら、ここが良いと思った。

 私と彼女。二人が過ごした、この部屋が。

 

 

「……スイ」

 

 車椅子から降りて、床を撫でる。

 あの日、あの時。あの瞬間。そこから私の時間は、止まってしまった。

 

 もし、私がもっと早く、力を手に入れていれば。

 スイを守れたかも知れない。

 

 いや、力なんて無くてもいい。

 もし、私があの時目覚めていたのなら。無作法者の存在を感知し、スイに警告できていたのなら。

 たったそれだけで、彼女は死ななかったのではないか。

 あの男の(ちから)は、大して強くなかった。きっと、スイの生命力の方が強かった。不意を突かれなければ、抵抗ぐらいはできたように思う。

 

 後悔ばかりだ。

 後悔ばかりで、せめてもの手向けをと思って、今まで生きてきた。

 

 私の八年は、彼女の慰めになっただろうか? 

 わからない。あの時喰らった彼女の残り火は、ずっと沈黙を続けている。

 

 

「よい、しょっと……」

 

 車椅子に取り付けられた革袋から、盤を取り出す。

 携帯用の簡素なものだが、ずっしりとした重みを感じた。

 

 駒の配置は、今日の一局。

 コムギと打った、私の最後の一戦。

 スイに、ぜひとも見せたかった戦い。

 

「本来、軍儀は陣を固めるのがセオリーなんですけどね」

 

 並べ終えてから、苦笑する。

 私もスイも。そしてコムギも、セオリーなどガン無視だ。

 駒を重ねられる軍儀は、将棋やチェスなどと違って、陣を徹底的に固めることができる。が、逆に言えば、移動に手数が掛かるということ。戦場と離れた場所に戦力を集中させても意味が無いし、いかに陣を固めても、うまく動けなければ徐々に削られる。私とコムギの一戦は、いかに有利な場所で相手に戦いを強要できるか、というものだった。

 

「ここの場面とか、陣地を何度入れ替えるんだって話ですよ。即席の一夜城だらけです」

 

 私はスイに話しかけながら、ゆっくりと、一手ずつ。

 彼女に伝えるために、駒を進めていく。

 

 相手の退路を断つため、あちこちに小規模の陣地ができている。

 弓で牽制しつつ、騎馬でこじ開け、中将を置く。戦いになると見れば、忍で攪乱し砲で圧殺する。

 

「……貴方が得意とした戦法です。コムギも、この攻勢には手を焼いていました」

 

 思い出す。

 初めての軍儀。スイと私の初対戦で、私の陣地は全て彼女に占領されてしまった。初心者相手に何をしているんだと思ったが、今ではいい思い出だ。

 彼女の本気を幾度となく見てきた自分だから、ここまで強くなれた。スイなら、どう打つか。どう打たれるのが嫌か。手加減されていたら、一生わからないままだっただろう。

 

「ここです。コムギの打った一手。4-3-2、忍。これはヤバいですね痺れますねこれは……この手から、押し切られてしまいました。貴方なら、どう返しますか?」

 

 兵で防ぐしかない。

 そう思うが、実際の所はどうだろう。

 

 あの時の私には、焦りがあった。

 完璧に彼女を模倣したつもりだったが、それは冷静でいられる間だけのことではないのか。

 彼女は、どんな舞台でも華やかに舞うことを選んだ。コムギの手を見せられた彼女が、はたしてこんな平凡な手を打つだろうか。

 

「──そうですか。貴方なら、こう打つのですね。なるほど、面白い」

 

 こちらと相手。二人の王の中間に、砦。

 これは、壁だ。相手を圧殺するための城壁。

 進めば相手の王を殺し、戻ればこちらの王を救うことができる。

 盤面は決して有利とは言えないが、戦場が一気に広がり、予想の出来ない戦局へと突入していく。

 

「貴方は、あくまで派手な戦いを選ぶのですね」

 

 読みの深さは、コムギの方が上。

 コムギの舞台に踏み込めば、おそらくは負ける。

 だが、スイが敗北を恐れることなど、ありえない。

 私は、最後の最後で自分の弱さを見せた。少しだけ、悔いが残る。

 

 

 

 駒を握る手を止めて。

 手持ち無沙汰になった私は、昔話を始めた。

 

 

 自分が生まれたときのこと。

 初めてスイと遊戯で戦い、負け続けたこと。

 ムキになった私が、何度も戦いを挑んだこと。

 

 あの頃の私が、どれだけ楽しかったか。

 私がどれだけ、スイのことを愛していたか。

 スイを失った私が、どれだけ悲しかったか。

 

 スイを模倣してから、どのように生きたか。

 世界中を探しても強者が見つからず、どれだけ落胆したか。

 コムギを見つけたときの感動と、実際のコムギを見た瞬間の落差に驚いたこと。

 最後の一局。そこで初めて、恐怖という感情を知ったこと。

 

「まぁ、おおむね良くやったと言えるんじゃないですかねこれは……」

 

 

 最後まで話を終えて、満足してしまったのか。

 体から、急速に力が抜けていくのを感じる。

 もう、腕を上げることすらできない。

 

 とくん、とくんと。

 心臓の鼓動を感じる。

 あまりに弱い。甘い物が食べたい。脳に、糖も酸素も足りていない。

 

 寒い。体温が下がっているのか。

 体が凍り付いたように動かない。

 

 動かない、が。

 

「……少しだけ、暖かい」

 

 私が胸に抱いた、スイの残り火。

 それが、まだ消えていない。

 最後まで守ると誓った思い出だ。

 この灯火だけは。私が死ぬまで、決して消えることがない。

 

 

 温もりが、ほんの少しだけ広がる。

 凍り付いた体を溶かして、私の腕を動かした。

 

 私が無意識に動かしたのか。

 それとも、スイの意識でも残っているのか。

 わからない。わからないが、きっと彼女だ。

 朦朧とする意識の中で、私はそう願った。

 

 

 床に広げた盤へと、指が伸びる。

 いったい、何をしようというのか。

 もう、終わったはずの局面。

 たしかに砦を打つのは面白かったが、これでは勝てない──

 

 

「──ああ、なるほど。こんな手が」

 

 

 敵陣の中央。

 そこに、弓を配置する。

 敵が動けば、一瞬で討ち取られるのは間違いない。

 だが、弓を取りに移動すれば、砦への対処が難しくなる。

 かといって、放置もできない。

 相手は、不利な選択を強いられる。弓を殺して砦に押し潰されるか、砦を防いで背後から射殺されるか。

 (いくさ)の主導権を握り返す一手。神懸かりとも言える妙案。

 

「これなら。まだ、戦える」

 

 ああ、もう一度打ちたい。

 こんな風に思うなんて、思っていなかった。

 彼女への土産話さえ出来たのなら、いつ死んでもいいと思っていたはずなのに。

 

 

 だが、もう終わりだ。

 望む望まざるに関わらず、スイの体はもう限界。

 必死に繋ぎ止めているが、少しでも気を抜けば臓器が死に、肉体の維持に際限なく力を吸い取られる。

 よくもまぁ、これだけ持ったものだと褒めて貰ってもいいぐらいだ。

 

 

 とくん、とくんと。

 徐々に弱く、ゆっくりとしたものへと変わっていくが。耳を傾ければ、まだ心臓の鼓動が聞こえる。

 

 ──そうだ。あの世にいったら、スイに褒めて貰おう。

 うん、それがいい。それぐらい、許されるはず。

 

 

 耳を傾ける。

 とくん、と。

 一つだけ、心音が聞こえた。

 続くはずの、次の音は聞こえない。

 

 

 ──しまった。あの世でスイに会った時の事を考えていなかった。

 とっておきの話を、残しておくべきだった。

 

 

 とくん、と。

 また、一つだけ鼓動が聞こえた。

 だがそれは、いままでの物とは少し違う。

 

 

 ──ああ、これは。もう。

 

 

 目の前が暗くなる。

 血が回りきっていないのだろう。

 もう、上下の感覚すらもわからない。

 

 

 やがて、視界が閉じ。体の感覚も無くなって。

 

 心臓が止まり。

 呼吸が止まり。

 思考が止まり。

 記憶が千切れて、バラバラになる。

 

 

 

 こうして。

 私は、死を迎えた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5話 さよなら、私の大親友

 光り輝くオーラを見たり放出したり出来る私ではあったが(念とか言われてもわからぬ)、基本的な性質は闇の者である。

 家に引きこもって、盤面と睨めっこをしながら悩み続ける。日の当たる場所を歩かされることもあるが、それは年に一度の世界大会ぐらいのもので、大体は部屋の隅とか思考の底でウンウン唸っている。

 それが私だ。

 

 だから。光に照らされた時、私は思わず悲鳴をあげた。

 

「ひぇっ! まぶたを閉じていても貫通するとか、ちょっと眩しすぎますね殺意が湧きますねこれは……」

 

 せっかく良い気分で眠れそうだったのに。

 あと少し、目を閉じていれば。きっと、二度と目を覚まさなかったのに。

 

「太陽ですか? やはり滅ぼしておくべき存在……これは、間違いなく私を溶かすつもりです」

 

 固く目を閉じたまま、軽い気持ちで口にする。

 どうせ消えるのだからと、脳みそをプーにして舌を回す。

 

 何を言ってもいいと思っていた。

 返答があるだなんて、思ってもいなかった。

 

 

「溶けてしまうの? アイスクリームのように? なら。貴方の体は、きっと甘いのね」

 

 懐かしい声。

 ずっと、聞きたかった声。

 ずっと、待ち望んでいた声。

 

「──スイ?」

 

 私は、目を見開いた。

 ずっと夢に見ていた彼女の姿が、そこにはあった。

 

 くすんだ金の髪。お手入れさえすれば、きっと光り輝くであろう彼女の金髪。

 悪戯っぽい、まるで猫を思わせるような瞳。

 痩せて青白い肌をしているが、栄養をとって日の当たる場所に出られれば、誰よりも人の目を引くであろう体。

 

 八年前の、あの日の彼女。

 ずっと、再会を夢見ていた彼女。

 スイが、目の前に居る。

 

 

 なぜ。どうして。

 これは、夢か? 

 

 ぐるぐると思考が回る。ついでに、どうしていいか分からず、腕もウロウロと辺りを彷徨った。

 回って、回って、思考と腕を回し続けて。

 そうしてようやく、答えに辿り着いた。

 

 夢だろうが幻覚だろうが、そんなことはどうでもいい。

 彼女が、目の前に居る。

 全力で向かい合わなくて、どうするのか。

 

 

「スイ」

 

「なに?」

 

「スイ」

 

「うん、スイだよ」

 

「スイ……会いたかった、です」

 

「うん。私もずっと、会いたかった」

 

 

 ゆっくりと近づいてくる彼女を、ただ呆然と眺める。

 腕を回され、ぎゅっと抱きしめられた。

 私も、スイの背中に腕を回して抱きしめ返す。

 温かい。久しぶりの感覚。八年ぶりの温もりだ。

 

 

 ここは死後の世界なのか、など。気になることはあったが、そんなものは後回しだ。

 私は全力でスイの体を味わいつつ、彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「ありがとね。全部を見ていたわけじゃないけど、貴方の声は聞こえてたよ」

 

 おつかれさま、と。

 彼女は私の耳元で、そう囁いた。

 

 

 私は、涙を流した。

 堰を切ったように、ひたすらに溢れ出す。

 止まらない。止まるはずがない。

 想いが、感情が膨れ上がって暴走する。

 

 彼女の背中に回した腕に、思わず力がはいった。

 どうにもならない。感情だけでなく、体の制御も壊れてしまっている。

 優しく扱いたいのに、それが出来ない。

 

「最後の一局、見たよ。強くなったのね。私よりも強くなるなんて、びっくりしちゃった」

「いえ、そんなことは! あれは、十四の頃の貴方を模倣しただけです。貴方が生きていれば、もっともっと強くなったはずです。私なんかよりも、コムギよりも。もっと」

「うーん、それはどうかな……私は、あまり長く生きるつもりはなかったから。成長も、止まってたような?」

 

 笑いながら、私の言葉を聞いてくれる彼女。

 

 あまりに、リアルで。

 夢とは思えなかった。

 幻とは思えなかった。

 初めて会った時の、スイの言葉を思い出す。神の使いか、なんて勘違いをされたけれど。その気持ちが、今ならわかる。神だろうが何だろうが信じてしまう。この奇跡を目の当たりにしたら。

 私は、彼女に感情をぶつけた。

 

「寂しかった」

「うん」

「悲しかった」

「うん」

「後悔ばかりでした。私がもっと強かったのなら、スイを守れた」

「私はずっと、貴方に守られていたよ」

 

 私の懺悔を、スイは優しく受け止める。

 涙と一緒に、気持ちのすべてを吐き出した。

 私の八年分の想いを、すべて。

 ただひたすらに、吐き出し続けた。

 

 焦って、口がうまく回らない。

 予感していたのかもしれない。

 この幸せな時間は、長くは続かないと。

 奇跡は一瞬。ずっと続くなんてことは、無い。

 

 

 

 

 どれだけ話しただろうか。

 八年間の出来事をすべて話すには、全然足りない時間。

 ずっと、話していたいのに。けれども、あれだけ眩しかった光が次第に陰りを見せてきて、スイの体も徐々に薄くなっていく。

 

 ああ、時間か、と。

 彼女は言った。

 

 

「──消えてしまうのですか」

「うん。でも、悲しむ必要はないのよ。ほんとは、ずっと前に消えていたんだもの。こうして、最後にお話ができただけ、良かった」

「最後、なんて」

 

 言葉が出ない。

 先ほどは、あれだけ溢れていたのに。

 まだまだ、話したいことは沢山あったはずなのに。

 

「私は、貴方の中に残った燃えカスみたいなものだから。ほんの少ししか、生きられない。楽しい時間は、もうおしまい」

 

 彼女の手を握る。

 ぜったいに離さない、と思って力を込めているのに。

 その手は、徐々に離れていく。

 

 

「──ああ、そうそう。大事なことを言い忘れるところだった」

 

 と、彼女の方から手を握り返してきた。

 そして、私の体を強引に引き寄せる。

 無茶な真似だったのか、わずかに彼女が苦悶の声を上げた。

 

「ん……今日は、やり残したことがあったから来たの」

「やり、のこしたこと……?」

「うん。前に貴方、言ってたでしょ。私のお願いなら、全身全霊で叶えてくれるって」

 

 私は涙を拭い、これ以上ないほどの真剣な表情で答えを返す。

 私は、約束を絶対に破らない。

 だから。彼女の願いも、絶対に叶える。あの時、そう誓った。

 

「はい。貴方の望みなら、なんだって叶えましょう」

「うん。今日は、そのお願いを言いに来たの」

 

 私は、続く彼女の言葉に耳を傾ける。

 一字一句、聞き漏らさないように。全身全霊で。

 

 

「私の望みは」

 

 

 彼女の望み。それは。

 

 

 

 

 

「……貴方が、幸せになること」

 

 

 

 

 

「──え」

 

 

 その言葉を聞いて、私は息を漏らす。

 彼女の願い。彼女を少しでも幸せにするために、叶えないといけないもの。

 なのに。彼女が願ったものは、彼女のためのものではなかった。

 

 

 「それは」と口に出そうとして、指で口を塞がれる。

 そして、ゆっくりとした動作で、私の頬に手を添えた。

 

「だって貴方。私のために、こんなに頑張ってきたんだもの。幸せにならないと嘘よ」

 

 私が力を尽くすのは、当然のことだった。

 彼女を守れなかった報いを受けなければならない私にとって。自分が報われるなんて事は、受け入れがたい。

 

「私は祈るわ。貴方が、幸せになりますようにって」

 

 満面の笑顔を見せるスイ。

 どうして、そんなに笑えるのか。

 誰よりも報われるべきで、報われないまま死んだのは、貴方の方ではないのか。

 

「なんで、ですか。スイの、幸せではなく……?」

「だって、私はもう幸せだったもの。だから、私はもういいの。あとは、貴方が幸せになったら、二人ともハッピーでしょ?」

 

 腕を引っ張られる。

 スイは私の手を、祈るように組み合わせた。

 そして、その上から包み込むように手を重ねる。

 

「こうして、手を重ねて。二人で一緒に、時を重ねて行けたのなら。それは確かに幸せで、とっても素敵なのだろうけれど……でも、それは出来ないから」

 

 だって、私はもう死んでいるからと。

 寂しそうに、彼女は笑う。

 

「けれど、貴方は違う。貴方一人なら、生きられる。私が消えて、私の体を生かすために無茶をしなければ、生き続けられる」

 

 彼女の笑顔は、寂しそうだった。

 彼女にそんな顔をさせてしまった私に、怒りすら覚える。

 涙が一筋。スイの頬を伝って、ぽたりと落ちた。

 

「だから……私の分まで、幸せになって」

 

 そう、彼女は願った。

 彼女の願い。私はそれを、叶えなければならない……はず。

 だけど。

 

 

「……わかりません」

 

 私は、彼女の手を握り返してそう言った。

 

「幸せが、わかりません」

 

 そして、スイにすがりつく。

 ずっと、彼女にすがりついて生きてきた。

 そうやって、自分の中に眠る彼女を信じて、生き続けてきた。

 

「スイのいない世界では、見つかりません。そこに貴方はいない。スイがいないと、幸せじゃありません……!」

 

 慟哭と共に、思いの丈を吐き出す。

 口に出すべきではないと思った。が、止まらない。

 壊れた感情の堰が、私の頭をぐちゃぐちゃに掻き乱す。

 

 『涙も涸れ果てる』なんて言葉があるが、どうやら嘘らしい。いつまでたっても、涸れる様子はなかった。前が見えない。彼女の顔が、見えない。彼女の居ない未来が、見えない。

 

 

「駄目よ。悲しみばかり抱えたって、しょうがないもの」

 

 こつん、と。

 額に、温もりを感じた。

 

 見えなくてもわかる。これは、私に物を言い聞かせる時にする仕草だ。

 私をあやすように。額と額を合わせて、彼女は優しい声色で語りかけてくる。

 

「悲しみに押し潰されて、泣きながら生きる? そんなの寂しすぎるわ。私たちの腕に抱えられるものは、そんなに多くない。だから、抱え込むのはやめて……幸せを、掴まないと」

 

 思い通りにならない呼吸を落ち着けながら、目を閉じる。

 彼女の言葉を、聞かないといけない。

 彼女との約束を、守らないといけない。

 目尻を震わせながら、そう自分に言い聞かせる。

 

「私の願い、叶えてくれるって約束でしょ?」

 

 そう。

 私は約束した。彼女の願いを叶えると。

 約束は、守らなければならない。

 

 

 息を吸う。

 先ほどよりも、落ち着いた。

 今なら、なんとか話せそうだった。

 私は声を震わせながら、言葉を発する。

 

「……貴方は、酷い人です」

「そうよ、私は酷いの。知らなかった? ずっと、我儘(わがまま)ばっかり言ってきたでしょ」

「そう、でしたね。私はいつも、振り回されてばかりでした」

 

 決意を胸に、目を開ける。

 同時に、スイもゆっくりと目を開けた。

 間近で視線が交錯する。

 

 もう時間がない。

 私は決めた。あとは、それを口に出すだけ。

 

 私の決意を感じ取ったのか、彼女は少しだけ口元を緩めた。

 彼女に隠し事など、できようはずもない。私の心などお見通しなのだ。

 

 

「──」

 

 言葉に詰まる。

 これを言えば、終わる。

 夢の篝火(かがりび)が、消えてしまう。

 

 だけど、言わなければならない。

 彼女に、別れの言葉を。告げなければならない。

 

「──は、い。私は、ぜったいに約束を破りません。そう、誓いました。私は……幸せを、探します。だから」

 

 安心して、お休みくださいと。

 私は彼女に、言葉を残した。

 これを言わないと、スイが安心して眠れない。スイのために、万感の思いを込めて、そう口にする。

 

 

 私の言葉を聞いたスイは、再び満面の笑みを浮かべた。

 無邪気で、いかにも脳天気そうで。そんなはずはないのに、彼女はそうやって笑い続ける。それが私の知る、スイという女の子だった。

 

「いい答えね! ほら、笑って。貴方、笑顔が足りないのよ。そんなんじゃ、幸せも逃げていくわ」

 

 私は、彼女の言うとおりに、頬に力を入れてみた。

 お世辞にも、笑顔とはいえないかも知れないけれど。

 涙も止まらなかったけれど。精一杯の笑顔を、彼女に。

 

「うーん、ぎこちない……けど、いい顔よ。合格点をあげるわ! とっても可愛い。これなら、幸せも簡単にゲットできそうね。むぎゅー!」

 

 愛玩動物を愛でるように抱き寄せられる。

 そして、背中をポンポンと叩かれた。

 

「いい? 貴方はこれから、色んなことを知って、色んな人に出会って、笑顔で時を過ごして……そして、幸せになるの」

 

 声が遠い。

 目の前にいるはずの彼女の姿が、陽炎のようにゆらめく。

 抱きしめられているのに、彼女の温もりが失われていく。

 

「約束よ? 破ったら、許さないんだから」

 

 手を伸ばして掴もうとするが、もう届かなかった。

 私の腕は、ただ空中を掻き回すばかり。

 夢のような時間は、もうおしまい。

 夢の終わりは、いつだって名残惜しい。

 

「……バイバイ、私の一番のお友達」

 

 大好きよ、と。

 その一言を最後に、彼女は。

 満面の笑顔をうかべたまま、私の中から、消えた。

 

 

 

 

 周囲の世界が、溶けていく。

 夢の時間はおしまい。夢は終わったのだから、目を覚まさないといけない。

 彼女との約束を守るために、行かないと。

 

 いったい、どこへ?

 その疑問はあるが、まずは歩かないと話にならない。

 目的地を見つけるのが、私が最初にすべきことか。

 

 背中を向けて、歩き出す。

 一歩。二歩。三歩。

 足取りは重い。自分一人だけで歩くのは、不安で不安でたまらないけれど。

 でも、進んでいけそうだ。

 

 

 最後に。

 私は少しだけ後ろを振り返って、こう呟いた。

 

「……さよなら。私の、大親友」

 

 

 答えは、返ってこなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

しあわせハンター

 

 ネット将棋、というものがある。

 目の前に相手がいないのに指すなんて邪道中の邪道と思っていたが、今の私には肉体がないのでしょうがない。

 いざ対局してみると、これが意外と面白い物で、ついついハマってしまった。

 というか、公平を期すためにはこの方式の方がいいのかもしれない。なにしろ私は、相手の顔を見るだけで、おおよその感情が読み取れてしまうので。対戦相手からしてみれば、ふざけるなと言いたくなるであろう。

 

「ま、それも実力のうちですが。今はこれでいいです」

 

 十七連勝。これでレートが上位1%内に食い込んだ。次からは、対戦相手のレベルも一段上昇する。

 少々やりすぎたかもしれない。二十時間連続でアクセスしているため、ネット廃人と思われてしまう。

 

 いや、事実なのだが。今の私は、ネットワーク上を泳いで空いているネカフェのPCに憑依し、ネトゲに勤しむ者。そんな生活を、もう半年も続けている。まごうことなきネット廃人である。自分のあり方に少し疑問を持ってしまった。これって幸せだろうか? よくわからない。私には何も分からない。

 

 それもこれも、ネット対戦が面白すぎるのがいけない。ネット最高。対局場にわざわざ移動するとか面倒臭い。現実世界はクソである。

 というか、それ以外のことをやろうとしても出来ないし。自由に動き回れる体でもあればいいのだが……

 まぁ、今後のことはゆっくり考えていこうと思う。幸か不幸か、時間はたっぷりあるのだ。

 そんなこんなで既に半年が経過してしまい、思うところもあるが……もうしばらくの間は緩い感じで生きてもいい。そんな気がする。

 

 

「ん……対戦要請? 考えるのは後回しにして、もう一戦だけやりますか」

 

 相手のレートに目を向ける。

 ランクが上がったので、今までより高レートの打ち手と戦えるはず……と思いきや、相手のレートは1000。初期値からまったく変動していない。つまり相手は、アカウントを作ったばかりの者ということになる。

 

「おかしいですね。このゲームは、近しいレートの者としかマッチングしないはずですが」

 

 私のレートは15000ほど。通常なら、対戦が弾かれるはず。

 つまり、この相手は。新規のアカウントを作り、かつ何らかの権限を使って無理矢理私と対戦した、ということになる。

 

「まぁいいです。やればわかります。さっさとやりましょう」

 

 考えるのは止めた。面倒くさい。さっさと始めよう。

 対局開始と共に、互いが歩を進める。対戦相手の名前は、Netero。打ち筋はしっかりとしていた。何のつもりで私に挑んできたのかは不明だが、打てるのならば問題は無い。

 

「2四、歩」

「同歩」

「同飛車」

 

 互いの角の目の前に、飛車が居座る。

 攻めが性急だ。本来はどっしり腰を構える打ち手のように感じるが、それに反した手を指すのは、私の反応を見るためか。どうにも、対局が本命ではないらしい。

 

 少しだけ落胆しつつも、私は次の手を打つ。

 囲っている暇はない。すぐにでも戦いが始まる。

 角道が空いているので、角交換を仕掛けてくるか。それとも横歩取りか。

 

 両方、か。互いに角の持ち駒を打ち、今度は互いの飛車が死ぬ。

 まぁ、こういう大味な戦いも悪くない。

 

 

 

 そうして、しばらく互いの駒を取り合って。

 対局も終盤に差し掛かろうかという頃に、画面の右上にあるアイコンが点滅を始めた。

 

 電話のマーク。相手からの通話申請。

 いつもの私なら受けないが……今回ばかりは、受けた方が良いだろうか? 

 わざわざ労力をかけてまで私に対局を持ちかけた以上、何か思惑があるはず。

 相手の狙いもわからないまま、悶々とするのは嫌いなのだ。私は。

 

 なお、声はネット上にフリー公開されている合成音声データを使用させて貰った。

 バ美肉にどうぞ、と書かれてあったが……バ美肉が何のことかは不明だ。今度調べておこう。

 

 

「荒稼ぎしておるようじゃな」

 

 通話を開始すると、わずかなノイズと共に、そんな声が聞こえてきた。

 相手は男性。声質からするとかなりの高齢だが、大地に根ざした大樹のような力強さを感じる。

 かなり鍛えている御仁のようだ。

 

「はて、何のことでしょう」

「賞金首狩りをしたじゃろう? ヨークシンで悪さをしていたハッカー連中、そのアジトを通報した。ご丁寧にも、全ドアに電子ロックを掛けて監禁した状態で」

「ああ」

 

 そういえば、そんなこともしたような。

 ふと思い立ってやっただけなので、とっさに連想できなかった。

 たしか、某掲示板で幸せになる方法を尋ねたら「健康、時間、金、女!」という意見が多かったので、お金稼ぎに走ったのだ。

 肉体のない私に健康は関係ないし、時間は山ほどある。女に関しては、私自身が女性なので既に得ている。となると、残りは金。というわけで、賞金首を何人か捕まえたのだった。

 

「運悪くトイレの中に閉じ込められた奴は、かなり衰弱しておった。何しろ、この陽気じゃからの。警察に確保されるのがあと数時間遅かったら、熱中症で危なかったぞい? 場所が場所じゃから、幸か不幸か脱水症状にはならんかったが」

 

 そんな奴もいたような気がする。

 というか、トイレに電子ロックって必要なのだろうか? 

 ハッカーってアホなのでは? 

 

「で、お前さんがやったという事でいいかの? もしそうでないなら、賞金は授与対象者不在で処理させてもらうが」

「私ですね、その善意の通報者は。賞金はありがたく頂きます……っと」

 

 相手が次の手を指してきたので、私も次の手に意識を向ける。

 桂が跳ねてきた。ここは、頭銀の一択だろう。

 

 駒を打ちながらも、会話は続けた。

 この御老人が言うには、なんでも賞金を渡す前に、私の為人(ひととなり)を確認したかったのだとか。

 

「つまりは、面談というわけですか」

「ま、そういうことになるかの。()()()()特に問題なかったが、念のためじゃ」

 

 戸籍上で問題ない、とは。

 私に戸籍があるとしたら、それは彼女のものということになる。

 手段は不明だが、この老人はそこまで調査済みらしい。

 

「今まで賞金稼ぎなどしていなかった者が、唐突に活動を始められるとな。何か裏があるのでは、と疑う者がおるのじゃよ」

「ははぁ、なるほど」

「で。お前さんが唐突に賞金稼ぎなど始めた理由なんかを、聞かせて貰えんかの?」

 

 理由。

 率直に言って、それほど深い理由はないのだが。

 某掲示板で、意見だの安価だのを求めた結果でしかない。

 

 ネット上で悪名高いハッカーの居場所を特定・通報したのも。そいつのアジトの扉を全ロック状態にして、警察が踏み込むまでの経緯をネット配信したのも。やれと言われたからやっただけである。

 傲慢な態度の賞金首が右往左往する様子。それがあまりに滑稽だったので、爆笑しつつノリノリでやってしまった感はあるが、私は悪くない。悪くはないのだが。

 はたして、それを正直に言ってしまっていいものだろうか? 

 

 

 少しだけ考えて。

 面倒になった私は、重要な所だけを話すことにした。

 

「……幸せになるためには、お金があったほうがいいと聞きましたので」

「ふむ」

 

 影のある雰囲気を帯びつつ適当に答えてみる。すると、相手からも神妙な態度の相づちが返ってきた。

 なぜだか笑いそうになるが、堪える。いま笑うのは失礼だろう。

 いや、だがしかし。一度ハッカー達の様子を思い出してしまうと、どうにも笑いがこみ上げてきて止まらない。トイレの中に居た奴は熱中症寸前の状態だったが、逆に外にいた男はトイレに入れず、ドアをバンバン叩きながら「も、漏れるゥゥゥーーー!」と絶叫していたのだった。あんなん笑う。

 

 

「おぬしは、幸せになりたいのか?」

 

 ……ふぅ、堪えた。

 危なかった。長年鍛えた鉄仮面がなければ即死だった。

 

 気を取り直して、会話に戻る。

 ええと、なんだっけ。幸せになりたいのか、と聞かれたのか? 

 わざわざ聞くようなことだろうか。人は誰しも、幸せになりたいと願っているのでは。

 

「はい。私の大切な人の願いです。私は、彼女の願いを叶えると誓いましたので」

 

 普通に返答してみる。

 特に取り繕うようなことは無い、と思ったのだが。なぜだか私の回答に、相手は少しだけ警戒を強めた。隠してはいたが、呼吸でわかる。なにか、地雷を掠めてしまったような。

 

「その大切な人、というのは。スイという少女のことか?」

「ええ、まぁ」

 

 私の声は、平静そのもの。

 さすがに、いきなり彼女の名前を出されたのなら、少しは狼狽えたかもしれないが。

 戸籍うんぬんの話が先にあったので、心の準備ができた。そのあたりの事情は完全に筒抜けなのだろう。どうやって調べたのか、聞いてもいいだろうか? いや、情報収集で後塵を拝するなど私のプライドが許さない。ここは自分で調べるべきだろうか。そう思いながら、色んな調査が後回しになっている気もするが。

 時間が足りない。一日が四十八時間あったのなら、一日二十時間ネット将棋を指しつつ情報収集もできるのに。

 

「すまんの。他者のプライベートに足を踏み入れるような無粋な真似はしたくないが、これも仕事でな」

「いえ、そんな。お仕事お疲れ様です」

 

 軽い言葉とは裏腹に、相手の警戒が消えない。

 そんな身構えるような事は言っていないと思うのだが。理由が全然わからない。

 直接会って話をしているなら、すぐ推測できただろうに。これだからネット将棋はクソである。現実世界での直接対局こそが至高。

 

 

 その後、いくつかの質疑応答を繰り返した。

 そのほとんどが、大した事の無い質問だった。

 

 今までどうしていたのか、とか。

 これからどうしたいのか、とか。

 

 あとは、自分の生まれた場所について知っているか、なんて質問もされた。

 戸籍について調べたのなら、当然知っているはずの情報。私は東ゴルトー共和国出身だ。事務手続きか何かのために確認しているのだろうか。それにしては、やけに食いついて聞かれたような。外の世界について知っているか、とか聞かれても。いま私がいる場所が、東ゴルトー共和国の外の世界ではないのか。質問の意図が謎である。

 

 

「ま、ええじゃろ。賞金はおぬしの口座に振り込んでおく」

「ありがとうございます」

「それで、次の話なんじゃが。6三歩」

「まだあるんですか? ってか、まだ打ちます? 同金」

「まだ勝負は決まっておらんじゃろう?」

「無駄にしぶといですねこれは……」

 

 正直に言えば勝負は決まったようなものだが、確かにまだ詰み筋は無い。

 追い詰めつつはあるが、のらりくらりと枯れ葉のように逃げ回る敵の王に寄せきれない。もうしばらく攻める必要があるか。面倒な相手だった。

 

「今日は、もう一つ話があっての。おぬしを勧誘に来た」

「勧誘、ですか」

「そう……おぬし、ハンターになる気はないか?」

 

 彼の言葉を受けて、少し考える。

 突拍子も無い話だったので、返答に困ってしまった。

 

 ハンター? ハンターというと、アレだ。

 世界中を飛び回って、賞金首を狩ったり未確認生物を狩ったりする野蛮人の総称である。

 

 私が? ハンターに? なぜ? Why? 

 

「私は、ハンターには向かないと思うのですが」

 

 ああいうのは、無駄な生命力に溢れる野生児どもに任せておけば良いと思うのだ。知的な私には向かない。

 

「既に賞金首を狩っておるじゃろうに」

「気まぐれで働いただけです。ある程度の蓄えはできましたし、労働に勤しむ必要性を感じません。私は気楽に幸せを探したり寝たりしたい」

「ハンターという立場は、おぬしにとってメリットが大きいと思うが。協会に所属すれば、アマチュアとて多くの恩恵が受けられる」

 

 意外としつこい。

 宗教の勧誘よりはマシかもしれないが、爺さんの長話というのも中々に面倒だ。

 

 だが。続く彼の言葉は、確かに魅力的な提案ではあった。

 

「たとえば、自由に動き回れる肉体。欲しくはないか?」

 

 少し、欲が刺激される。

 自分の体。自由な体。確かに欲しい。

 

「おぬしのように、能力者の死後に取り残された念獣は過去にもおった。主人の死後、念で肉体を維持した者も、他者の死体に寄生して生きた者もな。だが、いずれも長生きはせんなんだ。消耗が激しすぎるからの」

 

 たしかに。今の私には、消費した力を補充する(すべ)が無い。ほんの少しネットワークの外に出ただけで、数日の休息が必要になるほどだ。

 

「だが逆に言えば、消耗さえ抑えられればどうとでもなる。ロボットに憑依してもいいし、いっそのこと誰かの念獣の体を借りるという手もある」

「なるほど」

 

 念とやらについては、既に情報収集済みだ。

 彼の言う手法がとれるならば、たしかに私も肉体を持てるかも知れない。

 そして、自分の体があるほうが活動はしやすい。今の私はネットワークに繋がったコンピュータに憑依する事しか出来ないし、そこにカメラ等が接続されていなければ、外の様子を窺うことすら出来ない。

 

「それは、確かに良いお話ですね」

 

 私は、率直な意見を述べた。

 自由に動き回れる肉体。幸せを探すためには、是が非でも欲しい。

 欲しい、が。

 

「しかし、ハンターと言われましても……私、特にハントしたい相手なんていませんけど」

「幸せ探し。それでいいと思うがの。さしずめ、幸せハンターということになるか」

「幸せハンター、ですか。良いかもしれませんねそれは……7三、銀。私の勝ちです」

「ありゃ。なるほど、噂通りに強い」

 

 受ける手は九通りしかないが、いずれも詰みだ。

 終盤の逃げは目を見張るものがあったが、これで終わり。

 

 

 相手が投了したので、画面の右上に数字が表示される。

 自動でロビーに戻るまでのカウントダウンだ。時間は60秒。

 ロビーに戻れば、通話が終了する。

 

 話を続けたいなら、最後の一手を指さなければ良かった。だが、私は指した。一人で考えたかったのだ。その意図は相手にも伝わったはず。つまり、話はここでおしまい。

 

「ま、今すぐにとは言わんわい。考えておいてくれるか」

「分かりました、考えておきます。また来て頂くのも手間なので、近いうちに私の方からそちらに伺います。回答はその際に……それと」

 

 これは、興味本位だが。

 彼の全力を見てみたい。少しだけ、そう思った。

 

「見たところ、相当に打てるご様子。次は、本気で相手をして欲しいですね」

「ああ。考えておく」

 

 

 通信を遮断する。

 周囲は暗闇に包まれた。華やかなゲームの舞台が終われば、私の周囲には何も残らない。

 

 

 私は、先ほどの会話を思い返した。

 彼……ユーザーネームNetero氏の勧誘を、素直に受けてしまって良いものだろうか? 

 

 通話中に、相手の素性は調査済みだ。

 発信元は、ハンター協会本部の会長室。つまり彼は、ハンター協会会長のアイザック=ネテロ氏ご本人。大物から直々の勧誘とは恐れ入る。

 

 声だけでは感情を読み切れなかったが、それでもある程度はわかった。興味と、ほんの少しの警戒。少しとはいえ、ネテロ会長ほどの強者が私ごときに向ける物としては、少々妙だ。

 おそらく勧誘だけでなく、私を監視したいという思惑もあったのではないか。

 理由は……考えても、まったくわからないが。

 

 

「ま、いいです。そんなことは」

 

 何にせよ、相手がその気になれば、私など吹けば飛ぶ程度の存在だ。電脳ネットの支配権、その多くにハンター協会の息が掛かっているはず。抵抗もできないのだから、相手に害意があった時の事なんて考えてもリソーセスの無駄でしかない。

 

 考えるべきは、私が享受できる利益。

 

 

 ネットの海に潜り、ただひたすらに情報を食い散らかしてみる。

 ハンター。狩りを生業とする者。この世の不思議を探り、解明し、既知へと変える者達の総称。

 活動内容は多岐にわたる。美食ハンター、なんて分類もあるぐらいだ。その実態は……人による、としか言いようがない。

 

 ルールを無視する野蛮人のイメージがあったが、よくよく調べてみると、そうでもなかった。

 いや、ルールを守っていないのは事実なのだが。この世界のルールは、その多くが「普通の人が、安全に過ごす」という目的のために作られている。つまり、普通でない人が危険を(かえり)みず活動するためには、既存のルールが邪魔なのだ。

 ハンター協会の主業務は、ハンター活動の自由を担保すること。自由がなければ、ハンターとして活動することはルール違反……ものによっては刑事罰付き。つまり、犯罪者となってしまう。それを回避するために運営されているのが、ハンター協会だ。

 

 

 調べ初めて数時間。調査した結果、ハンターという立場自体については、私にとって非常に都合が良いように思える。アマチュアという立場でさえ、恩恵は大きい。

 

 そもそも、今の私はネットワークを不法占拠している存在。特に悪用はしていないが、やろうと思えばなんだってできる状態だ。既存ルールに当てはめれば、犯罪者として追われてもおかしくない。だがハンターともなれば、事前にガバガバ申請を出しておくだけである程度が許される。緊急性が認められれば、事後申請すらOKだ。むろん悪用はNGだが。

 それに、入国ビザが取得しやすくなるのも良い。通常の観光ビザなら一ヶ月しか滞在できないところが、期間も時期も無制限。ネテロ氏の言うとおり自分の肉体を持てるのだとしたら、それは大きなメリットだと言える。

 

 いろんな場所で、いろんな体験をして、いろんな人と出会う。これは、私がやりたいと思っていたことだ。

 意外と、悪くないのでは? 

 

 

「……スイ。私、ハンターになってみても良いですか?」

 

 静かに呟く。

 答えは返ってこない。答えは、自分で決めなければならない。

 

 スイは、外の世界を知らなかった。あの狭い世界で、短い生涯を終えてしまった。

 だから。いつか私があの世に行って、もしスイと再会できた時のために。沢山の土産話を用意しておきたいとも思う。

 世界中を旅して回る。ネットでグダグダするより疲れるが、思いもよらない発見だってあるかもしれない。

 

「どうせなら、世界で一番の幸せとか。見つけてみたいですし」

 

 そうだ。それが私の存在意義。

 私は、幸せにならないといけない。

 

 なら。世界中を駆け巡って幸せを探すのも、悪くないではないか? 

 

 沢山の人と出会えば、それだけ様々な幸せの形を見ることが出来る。

 それらは私の幸せを考える上で、大いに参考になるはずだ。

 ただ漠然と生きるより、きっとその方が早く幸せになれる……と、思う。

 

 

 うん。やはり悪い話ではない。

 ならば、答えは一つ。

 

「……決めました、スイ。私、ハンターになります」

 

 彼女に語りかける。

 

 半年もぐだぐだしていたのに、こんなにあっさり決めてしまっていいのか、とも思うが。

 悩んだって前に進まないのも、この半年で既に学習済みだ。

 とにかく一歩踏み出さないと、状況は変わらない。

 

 

 彼女の言葉を思い出す。

 

 色々なことを知って。

 色々な人と出会って。

 笑顔で時を過ごして。

 そして、幸せになる。

 

 これが、彼女の願い。

 私がいつか朽ち果てるまでに、必ず手に入れなければならないもの。

 

 

 今はまだ、自分の幸せが何か自覚すらできていないけれど。

 世界中を駆け回ってみれば、幸せの一つや二つぐらいは見つかるだろう。

 

 小さなことでもいい。

 美味しいものを食べた、とか。

 綺麗な風景を目にしただとか。

 駄目人間の私は、仕事をほっぽり出してネットゲームに勤しむ事を、至上の喜びと感じるようになるかもしれない。

 それはそれで良いと思う。要は、自分が納得できればいいのだ。

 

 一つだけ言えることは。

 

「やってみないと、わからないですよね」

 

 私は、決意を固めた。

 天国できっと、彼女が見ている。

 だから私は、当たって砕けろの精神を発揮することとする。

 

 本音を言えば、面倒に思う気持ちもあるけれど。

 それでもやはり、チャレンジはしてみるべきだろう。

 自分の言葉は曲げられない。

 

 私は、必ず幸せになってみせると。

 彼女に、誓ったのだから。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。