貴方の命はキスの味。 (夜桜さくら)
しおりを挟む

「血がほしい」

「起立、礼。さようならー」

 

 先生のその一言で、その日の学校生活が終わる。

 一定の静けさを保っていた教室は途端に喧噪に満ち溢れていた。もちろん君尋もその一部だった。彼は鞄を開けて、忘れ物がないかのチェックをしている。

 そんな彼のもとに、一人近付いてきて、彼の前の席にどかっと座る。

 

君尋(きみひろ)、今日も図書館?」

「うん。そのつもりだったけど……何で?」

「いや、今日クラスのみんなで──―って言ってもみんなではないけど、十人くらい? 十五人? 正確にはわからないけど、カラオケ行こうって話があってさ。君尋行くのかなと思って」

「うーん。まずお声がかかってないですね」

「まぁ、だと思った」

 

 最近本ばっかり読んでて若干話しかけづらいもんなぁ、と佐藤が苦笑して言う。

 

「え、それは知らなかった。気を付ける」

「いやあいいんじゃん? 休み時間にニマニマと本読んでるのは、楽しそうでいいなぁって俺は思いますけどね」

「……そう、かなぁ?」

 

 友人が好意的に見てくれていたのは非常に有難いことだが、今度から気を付けようと静かに決意を固める。人間関係というのは大事なものだ。

 

「それで、カラオケだっけ? 何時から? 俺も行っていいのかな」

「さぁ? たぶん今からカラオケ行って、到着したらって流れだと思うけど……君尋はいいんじゃないかな」

「え。俺もハブられるのはちょっと寂しいんだけど」

「んー。俺の知ってる限りだと面子がなぁ。別に君尋と仲良いわけじゃない連中だからなぁ、別にわざわざ参加する必要ねーと思うけど」

「うーん」

「カラオケくらいなら今度俺と二人で行こうぜ」

「……うーん。うん。わかった」

「君尋は図書館で本読んでるほうが様になるっつーか、まぁ俺のちょっとした願望だな」

 

 じゃあな、と佐藤が軽く手を振って教室から出ていく。

 君尋はそれを見送って、さて、と立ち上がる。

 友達がたくさんほしいと思ったことはなかったけれど、こうもわかりやすく輪から外されるとちょっと寂しいなと思いながら、君尋も教室から出ていった。

 

 

 

 

 聖祥大付属高校には大きな図書館がある。

 正確には高校の、ではなく大学の、という扱いになるのだが、使用者としてはどちらでもよかった。

 高校の校舎自体には図書室がない。

 理由は知らないが、まぁ、蔵書は同じところに固めておいたほうがいいとかそんな理由なのだろうと思っているし実際そうなのだろうと思う。

 高校の校舎から少し離れた図書館にわざわざ行く生徒は、あまり多くない。だから主な利用者は大学に通っている学生たちで、そこに少し気後れしてしまうのだが、それはそれとしてたくさんの本に囲まれている環境というのはなんだか良いものだ。

 借りた本は鞄の中に入っているし、別に図書館に行く必要なんてどこにもないのだが、それでも足を運んでしまうのはやっぱり雰囲気が好きなんだろう。

 

 空気というものは、不思議なもので。

 

 透明なのに、色がある。

 わかりやすいのは感情だろうか。明るい気持ちだとすべてが明るく見えるし、逆も然り。

 自分の感情の形だけでもその場の空気というのは違って見えるし、それ以外の要素でも変わって見える。

 例えば、本とか。

 本がたくさんある場所はセピア色になる。

 モノクロの、世界から鮮やかな色が消えたような、そんな色になる。

 落ち着くような、寂しいような、切り取られているような。

 だけど本の中には色がある。

 鮮やかな感情が描かれている。

 

 それが、君尋は、好きだった。

 

 ぺラリ、と。

 ページをめくる。

 

 言葉が、世界になる。

 

 

 ◆

 

 

 涙を流すというのは、どういうことだろうか。

 感情の決壊。

 処理しきれない想いが、涙になる。

 

 だから涙には、その人本来の心が滲むのだろうと彼女は思った。

 

 でなければ、こんなに、ただ誰かが泣いているというただそれだけで、心揺れることなんてないに違いない。

 

 透明な涙に、彼の心の色を見たような気がして──彼女はそっと、本を読みながら泣いている彼にひっそりと近付いていった。

 

 

 ◆

 

 

「〜〜〜〜っ」

 

 声にならない声でのどを震わせて、君尋は感嘆の息をもらす。

 良い、面白い。

 誰かに感想を話したいような、頭の中に渦巻く感情を吐き出したいような……そういう気持ちで、また一つ、君尋は深いため息を吐いた。

 

「……ぁ」

 

 そうして、興奮で軽く身悶えして、彼は気付いた。

 見られてる、と。

 しかも可愛い女の子に。

 確かに、蔵書をまとめる関係上、男子校と女子校に分かれているものの聖祥大付属図書館には女子も来る。

 だけどまぁ、だからといって神聖な図書館でそんな色めき立つようなことがあるわけもなく、あまりそういうことを意識したことはなかった。

 

「……えぇと」

 

 口を開いたのは彼女のほうだった。

 そう、普段他者が近くを通ろうと別に意識はしないが、今この瞬間凄く目が合っているのだ。

 可愛い子だな、と彼は思った。

 何度見ても、どの角度から見ても、綺麗で可愛い女の子だった。

 夜空。

 彼女を言い表すなら──陳腐ながら、それが似合う。

 夜空のような黒に近い藍髪、瞳。

 明るい月のように、立っているだけで輝いている気すらする。

 図書館がセピア色だとするなら、彼女は夜空色の雰囲気を纏っていた。

 綺麗だ、と素直に思う。

 

「あの……」

「え、あ、はいなんでしょうっ」

 

 反射的に大きな声が出てしまって、あわてて口を抑える。

 そんな彼の姿を見て、彼女は柔らかく笑んでいた。

 

「読書の邪魔をしてしまってごめんなさい。その、何を読んでいるのかなと思って」

「え、あぁ」

 

 これ、と表紙を見せる。

 『夜の君へ』

 そう記されたタイトル。

 ベストセラーになったこともあるし、比較的有名な本だった。

 

「……面白い、ですか?」

「うん? うーん……」

 

 面白いかと聞かれると──どうなのだろう、と彼は思案する。

 そして、自分の頬が涙で濡れていることを思い出して、あわててぬぐう。

 

「……泣くほど、なんですね?」

「いやまぁ……俺は好きですけどね……? というか、同じ一年だし、敬語じゃなくても、いいと、思うんですけど……どうでしょう」

「……そうなの?」

「うん」

 

 彼は、彼女のことを知っていた。

 有名人だったからだ。

 聖祥がいわゆるエスカレーター式の学校というのもあって、小・中学時代から有名な人のことはどうしたって耳にする。

 美人。

 彼女──月村すずかが有名な理由はそれだった。

 顔がいい、スタイル抜群。

 女が有名になるのにそれ以上の理由はいらないだろう。

 

「まぁあれだよ。俺は凄く好きだけど……本って、ほら、よほど雑食でもなければ好みっていうのは絶対にあるし……俺はめちゃめちゃ好きだけどね。とても好きだ」

「……そうなんだ」

「うん」

 

 少年漫画の人気作を少女に見せて楽しんでくれるか、少女漫画の人気作を少年に見せて楽しんでくれるか。

 そりゃもちろん、趣味嗜好は様々なので少女漫画が好きな少年や少年漫画が好きな少女もいるだろうが、ある程度傾向というのは出るものだ。

 君尋が言いたいのは、自分にとって面白くても君にとってはどうだろうと、そういう話。

 

「どういう話なの?」

「ええとね……」

 

 とはいえ、自分の好きなものを聞かれて悪い気はしない。

 むしろ語れる相手が都合よく現れて、彼としては喜ばしいことだった。

 

「吸血鬼の、話なんだよな」

「────」

「あ、ていうか、座りなよ」

「……うん」

 

 わずかに息を呑んだ彼女のそぶりには気付かず、彼は手振りで着席をうながす。

 

「これは、愛の話なんだ」

「愛……」

「吸血鬼が……つまり、化け物が、人の温もりを求めて生きる話なんだよ。主人公は、人を餌にする吸血鬼でありながら、人を愛した鬼だったんだ」

「……」

「人の命を吸ってしか生きられない彼を、人間たちはどうしようもなく受け入れられなくて──みたいな? 基本的にはそういう方向のやつ。人間が好きな吸血鬼と、吸血鬼を憎む人間の話なんだけど。まぁこれだけ聞いたら暗い話に聞こえるんだけど、展開は明るいんだよね。夜の王が光に向かう感じが好きでさ」

「……」

「えーと、まあそんな感じ」

「うん。……ありがとう」

 

 少し引かれてない? と思いながら、彼は口ごもる。

 いやまあでも、聞いてきたのは向こうなのだしセーフではないか、と考えながら、でもやっぱり美人の反応には一喜一憂してしまう。

 

「……明るい話? なんだ」

「うーん……」

 

 そしてまた首をひねってしまう。

 

「明るい……うん明るい。でも暗いところもあって。綺麗だけど醜いような、可憐だけど気持ち悪いような……?」

 

 自分の感じていることをきちんと解説できる人間というのは、意外と少ない。

 何故そのような行動をしたのかと人に聞いた場合、大抵「したかったから」というような答えになる。

 その欲望の源泉までを知覚している人間というのはほんの一握り。

 彼も例に漏れず、自分が感じた魅力を、解説することはできなかった。

 

「……私、その作品昔少し読んでやめちゃったんだよね」

「あ、そうなの」

 

 てことは合わなかったのかな、と彼はバツの悪そうな顔をする。

 何か考えるような面持ちをしていた彼女は、ふと、頬をほころばせる。

 

「でも、また読んでみようかな」

「おすすめです」

「ふふっ」

 

 少し食い気味に言うと、彼女が鈴を転がすように笑う。

 耳心地のいい、軽やかな声だった。

 セピア色の光景に、夜空が映える。

 

「……えと」

「? ……どうかした?」

「なんでもないっ」

 

 また図書館で出すには少し大きな声が出てしまって、慌てて口を押さえると共に、周囲を見渡した。

 非難の目は特に感じなかったが、落ち着いたセピア色を乱してしまったような気がして、少し落ち込む。

 

「……」

「……」

 

 彼らは、共に寡黙なほうであった。

 話さないわけではないし、話せないわけでもない。

 けれど場における話題提供の役割を担う人種ではなく、だから彼らの会話には必然沈黙が生まれる。

 話すことがないけれど、別に解散する理由もない。

 今彼らが浸っているのは、そういう停滞だった。

 

「…………」

「…………」

 

 対面で、無言の会話をする。

 目元、口元、仕草。この三つだけで意思の疎通というのはある程度できるものだ。

 彼女の目尻はやわらかく、口角もわずかに上がっていて、笑んでいる。

 表情なんてものはいくらでも作れる、ということを度外視すると、悪い気ではいないように見えた。

 対して自分は──と、君尋は自分の頬に触れる。

 こわばっていた。

 これは彼女にどう見えているのか、とそんな思考がさらに緊張を生んで、悪循環が生まれる。

 色々考えた結果、そういえば、ともともとの話題を思い出す。

 

「えと、たぶん一巻ここにも置いてると思うけど……借りる?」

「え、あ、はい。……借りようかな?」

 

 彼は緊張でそんなありふれた言葉を絞るのにも時間を要していたが、彼女もそんなありふれた言葉を予想していなかったようにあわてているように見える。

 何故だろう、と彼は思いながら、あまりにも自分との会話がつまらなくて考え事でもしてたのかなと少し自嘲する。

 

「……本棚、あっちだから」

「うん」

 

 月に照らされた本棚と、その側を歩く彼ら。

 まるで、ここが世界の中心になったかのようだった。

 浮ついた気分に当てられて、足も宙に浮いてしまいそうになる。

 

「……確か、このあたり」

 

 宙を指先でなぞり、目当てのタイトルの場所まで動かす。

 指を止めて、自分が先程まだ読んでいたシリーズの第一巻に触れて、抜き出す。

 

「はい、これ」

「ありがとう」

 

 彼女は受け取った本の表紙を、白魚のような指でそっと撫でる。

 愛おしそうに、優しく。

 本を愛しているのが、どんな人でもわかる所作だった。

 

「……あの」

「はい」

「名前って……」

「…………えぇと」

 

 本の、名前、なわけはない。

 簡単な日本語で書いてある。

 彼女の眼は、しっかりと彼自身の方に向いていて、つまりはそういうことだった。

 

小出(こいで)小出君尋(こいできみひろ)

「私はすずか。月村すずか」

 

 ふわり、と彼女は花のようにやわらかい笑みを浮かべる。

 

「またね」

 

 ててて、と彼女はカウンターのほうへと向かっていった。

 

「…………なにこれ」

 

 なんだか夢のような心地で、彼は自分の頬をつねった。

 ……痛い。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 いつも通り、彼は聖祥大付属高校から図書館までの、短い道のりを歩いていた。

 見上げるとどこまでも秋空の透明が広がっている。風も涼やかで心地よく、光も穏やかで、とても良い日だなと君尋は思った。

 高揚した気分のまま、好きな音楽を小さく口ずさむ。

 

 昨日のことは気にしないでおこう、と思った。

 変に期待しすぎても良いことというのはあまりないし、それならもう何も考えずいつも通り過ごそうとしたほうがいい。

 またね、という言葉が頭に残っていた。

 まぁ……可愛い女の子に「またね」と言われるというそれだけで意識してしまうのはもう仕方ないことというか、なんというか。

 君尋は自分で自分に言い訳染みたことを頭の中で言いながら、図書館に向かっていたのだった。

 

『あの、面白かったです。あの本』

『えっ昨日の今日でもう読んだの?!』

『うん……面白かったから』

 

 なんて、ちょこっとこんな会話ができたらいいなとかいう会話の妄想をしたりしてしまう。

 期待しないとはなんだったのか、という話であるが、イマジナリー美少女と会話をするなんてこと誰だってやるだろうしセーフだ。

 友人の佐藤も最近イマジナリー彼女にご執心である。

 そんな君尋に、とててっと近付く影があった。

 聖祥大学付属高校の女子制服に身を包んだ彼女は、君尋の一メートルほど後ろに位置どった。どうしよう、と彼女が逡巡していると、君尋が振り返って、二人の視線が絡まる。

 足音の主は、月村すずかその人だった。

 

「……」

「……」

 

 無言の応酬。

 君尋が振り向いたのは、ただ自分の後ろで足音が止んだから気になったということで、その時点では足音の主が自分に用があるなどとは思っていなかった。

 だけど振り向いて、あ、となったのであった。思考停止、とも言うかもしれない。

 

「ま……また会いました……ね?」

「えとはい。後ろ姿が見えて、もしかして小出くんかな……と思ったので」

「そうなんだ」

「はい」

 

 彼女は自然と隣に並んできて、女の子の香りがして、心臓が跳ねる。

 

「図書館?」

「うん。昨日一巻読んだから、続き借りようと思って」

「おお」

 

 緊張でこわばっていた体から、力が抜ける。

 

「どうだった?」

「うん。面白かった」

「それはよかった。ところで、前に読むのやめたって言ってたけど、それは何? やっぱり冒頭がちょっとグロテスクだったから?」

「うん。ちょっと……うん」

「あはは。冒頭……というか前半か。きついよなぁ。絶望感が凄い。積み上げてきたもの全部なくなってる」

「でも後半は……確かに、希望──って感じがした」

「そう! ……わかってるね……希望なんだよ……」

 

 全十二巻の、一巻。

 絶望からのスタート。

 まあ吸血鬼とは言っても主人公。主人公に感情移入するタイプのひとは読んでて辛いものがあるかもしれない。

 かくいう彼もめっちゃ泣いたものだった。

 

「まぁまだ俺も途中だからどういう結末迎えるのかわかんないんだけど……楽しみだ……」

「いま三……だったっけ?」

「三」

「そっか。じゃあすぐ追いつけるかな」

「一瞬で抜かされそう。……なんていうか、一晩で一気に読むのも楽しいんだけど、小休止はさみながらゆーっくり読んでいくのが好きで……」

 

 あんまり理解されないけど、とぼやく。

 

「ふふ。でもわかる。あんまりすぐ読んじゃうと、もったいないよね」

「うん。いや一気読みっていうのも楽しいんだけどね? スピード感というか、駆け抜ける感じ」

「うん。わかるよ。なんだろう、その作品による……かな? 作風によって、楽しみ方がそれぞれ違う気がする」

「あー……」

 

 一拍おいて、少し考える。

 

「それだ。確かにそうかも」

「ふふ」

 

 そんな会話をしていると図書館に到着したので、マナーの範囲内に声量を落とす。

 学生証で改札を通り抜けて、ちらりと後ろに着いている彼女に目をやる。

 ……行動を共にした方がいいのか、どうか。

 彼の図書館に来たのは、のんびり読書がしたいというだけだったが、彼女は本を借りるのが目的で、少し目的が違っている。

 だから目的別でわかれてもいいよな──と思いつつ、いつも通り、奥の方の人気のないお気に入りの場所に歩みを進めていた。

 彼女は変わらず着いてきており、目当ての物が置いてある本棚は逆方向ですよと思いつつ、所定の位置についた。

 この学校は、わりとコモンスペースが充実しているので、少し遠い図書館にわざわざ足を運ぶひとは少ない。

 そりゃもちろん本を借りたり、文献を調べに来るひとはたくさんいるのだけれど、それを踏まえても図書館自体がそれなりの広さを誇っているので、奥の方は基本的に空いている。

 だから特に周りを気にすることなく使用できて、物音もあまりしなくて、彼はそれが好きだった。

 

「本、返してくるね」

「うん」

 

 向かいに荷物をおいて、席を外した彼女の背中を見届けて、彼は読書をはじめた。

 この場所は、話をする為の場所ではないから。

 本を読んだり勉強をするための場所だから、それに則るのが正だろう。

 ハードカバーの本を、机に置く。開く。言葉の世界が、広がる。

 

 

 

 

 ──血というのは、命だ。

 

 

 

 

「……むぅん」

 

 少しキリのいいところまで読んで、ふと我にかえる。

 そういえば、と顔を上げて向かいを見る。

 彼女もまた、言葉の世界に浸っているようだった。

 物語に没入しすぎて、ないがしろにしてしまったかと思ってしまったが、この調子なら特に問題はなさそうだなと安心する。

 

「……」

 

 静かだった。

 もちろん、衣擦れの音やページをめくる音、あるいは何処かの誰かのヒソヒソ話が耳を打つことはある。

 だけど無音ではない静寂を感じていた。

 

「……」

 

 まばたきすらも、波紋のような静けさを伴っていて美しい。

 顔、吐息、まばたき。

 それらを眺めているだけで、飽きない。

 そして文章に落とされていた彼女の視線が不意にあがり、目が合う。

 

「…………」

「…………こんにちは」

「こ、こんにちは?」

 

 挨拶は大事だ、という気持ちを込めながら言うと、少し戸惑ったような返事があった。

 やましい気持ちは少ししかないのだから、別にわざわざそらす意味もないよね……と自分に言い訳しながら、目を合わせ続ける。

 まつげが凄く長い、目が大きい、瞳の色が綺麗。

 少し意識すると、ダメだった。

 あまりの可愛さに、目をそらす。

 

「今回は、君の勝ちだな……」

「……そうなんだ」

「うん」

 

 間が持たないので適当なことを並べ立てているというのが正直なところだった。

 しかし、言葉を交わしてさえいれば気まずい空気というのは発生しづらいし、ベターな選択だと彼は判断した。

 

「勝ったら、何かあるの?」

「ふむ……」

 

 確かに勝ち負けを決めるのは、何か獲得するためだ。

 なにも考えていなかったが、何かあって然るべきかもしれない。

 

「逆に何がほしい?」

「うーん……」

 

 月村すずかは、考えていた。

 ほしいものがどうというより、なんて返答すれば最もらしいかな、と。

 適当な雑談で言うのだから、いやいやそれは無理──となるようなことでもいいよね、と。

 まあこういうものは会話のテンポが大事で、とりあえずなんでもいいから答えるのが吉。

 

「あ」

 

 彼女は、悪戯を思いついたかのように無邪気に笑った。

 

「血がほしい」

「なるほどね」

「ごめん今のなし」

「え?」

「冗談です」

 

 いやまあ冗談なんてのは言われなくてもわかるけど、と君尋はきょとんとする。

 変な冗談を言ったからか、笑顔が苦笑いに急転換している。

 それがなんともおかしくて、彼もまた「ぷっ」と吹き出してしまうのだった。

 

「いやごめん」

「笑いながら言わないで」

 

 ぷく、と頬を膨らませる彼女は、今までの清香を感じさせる雰囲気とは打って変わって、幼さを感じさせる可愛らしさだった。

 彼は「はー」と一息吐いて、言う。

 

「……帰りますか?」

「うん」

 

 図書館は雑談をする場所ではない。

 複数人で勉強しに来てときおり発生するようなことはある程度仕方のないことだとは思うけれど、本を読むわけでもなく勉強をするわけでもないなら立ち去るのがいいだろう。

 多少脈絡はなかったかもしれないが、話題的にも一つの区切りだった。

 

「…………」

「…………」

 

 図書館を出て空を見上げると、青に朱が混じりはじめていた。

 まだ真っ赤ではないものの、夜に向かわんとする秋空は、あっという間にその顔色を変えるだろう。

 

「この時間帯の空好きなんだよなー」

「どんなところが?」

「なんていうのかな、どんな色してるんだろう……って思いながら図書館を出るのが好きなんだよな。秋冬は日が沈むの早いからさ、夏と違って青空で固定にはならないじゃん。パッと見上げた空が綺麗だと、その日一日、『幸せだったな』って思えて好きなんだ」

「じゃあ、いま幸せ感じてる?」

「感じてる」

 

 ふふ、と彼女が笑い──彼は「あれっ、これ変な意味に聞こえない?」と動揺していた。

 迂遠な告白に聞こえなくもないよな、と。

 

「あ、そ、そうだ! 賞品!」

「賞品……? あぁ」

 

 顔にほんの少し朱を混ぜながら、彼は先程雑談の中にのぼった一つの話題を引っ張り上げる。

 

「えーと……」

 

 口にしたはいいものの、何も思いついておらず、しどろもどろに視線をさまよわせる。

 

「……ジュース奢る」

「わ、やった」

 

 あからさまなその場しのぎの言葉であったが、彼女は小さくガッツポーズし、わかりやすく乗ってくれた。

 彼は目に付いた自動販売機まで小走りでかけていき、ラインナップをじーっと見る。

 てこてこ、とゆっくりやってくる彼女を横目で見ながら、ちゃりんちゃりんと小銭を投入。

 すべてのドリンクのランプが灯る。

 

「……どうぞ」

「ありがとう」

 

 彼女が押したのは、ストレートの温かい紅茶だった。

 肌寒さをつよく感じはしないが、確かに最近冷えてきた。

 彼女に習って、彼も温かい飲み物にする。

 せっかくなので、普段飲まないミルクセーキ。

 

「わ。ミルクセーキだ。いいな」

「わかりやすく甘くて、たまに飲むと美味しいやつ」

「ふふ、わかる。自動販売機の飲み物って、ストレートでも凄く甘いよね」

 

 彼女はミニサイズボトルの紅茶を手の中で転がし、もてあそぶ。

 

「いつも思うんだけど、珈琲の微糖って全然“微”じゃないよなー」

「確かにね?」

「まぁでも甘いのも好きなので飲むんですけどね……」

 

 そのままキャップを開けようとして、気付く。

 これは帰宅ルートから逸れたな、と。

 立ち話にしろ、どこかに腰を据えるにしろ、なんにせよ飲みながら歩くというのはちょっと違うかなと思う。

 

「どこか座る?」

「えーと、学校の近くに公園あったと思うけど、そことか……?」

「じゃあそこ行こう」

 

 手の中でミルクセーキをもてあそびながら、彼女の一歩先をゆく。

 なんだか、思いのほか長い時間を共にしていて、どう思われているんだろうということを考えてしまう。

 今日限りなら、もうずーっと拘束して、彼女が「帰りたい」と言うまであの可愛い顔を脳細胞に刻ませてもらおうかな、とか。

 そうしようかな、とか。

 そんなことを思いながら、背後にちらりと目をやる。

 彼女は紅茶に目を落としていて、彼と目が合うと足を早めて、横に並ぶ。

 

「月村って──……」

「なに?」

 

 彼氏いるの、とあまりの可愛さに聞きそうになって、ぐっとこらえる。

 

「ご、ご趣味は……?」

「読書、かなぁ……」

「そっかー」

 

 そっかそっかー、あははー、と笑う。

 不自然な彼の所作に、彼女は怪訝な顔をして首をひねる。

 

「最近面白かった本とかある?」

「えーとね……────」

 

 そうして好きな本の話などの会話を挟みつつ、公園に到着した。

 

「ふー」

 

 少し大げさに息をついて、どっこらしょとベンチに腰掛ける。

 その隣、人ひとり分空けて、彼女が座った。

 ひとまず買った飲み物を開けて、一口のどに流し込む。

 倣うように、彼女も飲み口を開けて、一口飲んでいた。

 

「んー甘い」

「あったかいね」

「あったかいねぇ」

 

 冷たすぎない風が、頬を撫でる。

 ミルクセーキの甘みが、のどにからむ。

 熱を入れて、冷まして、心地よい温度になってゆく。

 

「そういえば、紅茶好きなの?」

「どうして?」

「選ぶとき迷いなく、びゅんっ、て指がボタンに刺さってたから」

「そ、そんなに?」

「嘘だけど」

 

 もう、と言いながらその顔はほころんでいる。

 

「まぁでも……うーん。そうなのかも。別にジュースを飲まないわけじゃないんだけど、珈琲とか紅茶を選ぶことが多いかな」

「へぇ、何か理由あったりするの?」

「家でよく飲むし、友達の家でもよく出てくるから、かな?」

 

 彼女は空を見上げて、記憶の欠片を思い浮かべる。

 

「私、そこそこのお家柄というか、お金持ちなんだけど、何も言わなくてもお茶とか差し入れてくれたりとかして、だから家では紅茶をよく飲む……っていうのはあるよね。甘いものはよくないです! なんてことも言われたことあるし」

「あー」

「友達の家でも似たようなものかな。私みたいなお嬢様だったり、喫茶店やってたりとかで、結局お茶とか珈琲飲んでたり」

「あー」

 

 凄い想像つくな、と彼は頷く。

 

「喫茶店ってあれ? 翠屋? 高町の家だったよな」

「うんそう。行ったことある?」

「んー。ケーキ買うだけなら」

「そっか。翠屋ご飯も美味しいし、一回寄ってみてほしいなぁ」

「じゃあ、今度行こうかな」

「ぜひぜひ」

 

 他愛のない話題に、花を咲かせる。

 

「そういえば、本読むときに飲食オーケーなタイプ?」

「……んー。私は嫌かな。本汚したりしたらって思うとできない」

「なんだ同士じゃん。いやさ、友達に聞くとあんまり理解されないんだよな」

「そうなんだ」

「そうなんだよ」

 

 んー、と彼女は顎に指を当てて考える。

 

「あんまり本を読まないひとならそうなのかもね」

「あぁうん……あんまり読むタイプではないな……」

「『類は友を呼ぶ』って言うじゃない? 私はあんまりそれ該当しないんだけど、小出くんもそう?」

「……かも?」

「やっぱりそのときの縁次第なのかな」

「まぁ、偶然って運命みたいなもんだしね」

 

 何気なく言うと、彼女は目をぱちくりさせて、「あー……」と声をもらす。

 そんな彼女の反応に、彼はそんなに変なこと言ったかな、言ったかも、と落ち着かない様子だった。

 

「そうかも」

 

 一拍したあとに彼女はそう続けた。

 その表情は何故だか少し穏やかで、安らかで、嬉しそうだった。

 両の手でボトルを持ちながら微笑む彼女は、見惚れるほど美しかった。

 きっと、こんな表情ができるような“運命”が彼女にはあったのだろう。

 それが少し、羨ましいと彼は思った。

 

 

「──なんかいいな、そういうの」

 

 

 だからつい口に出てしまって、だけど会話の脈絡はなってなくて、何か誤魔化しの台詞を継ぎ足そうかと脳細胞を働かせていると、

 

「でしょ?」

 

 彼女が微笑み、それに当てられて彼はもう何も言えなくなっていた。

 気を紛らわせるように、胸焼けしそうな甘さを喉の奥に流し込む。

 

 ごく、ごく。

 ぷは。

 

 飲み干して、一息吐いていると、彼女が目を丸くしてこちらを見ていた。

 まあいきなり一気飲みなんてことをする人がいたら、どうしたんだろう、とは思うだろう。

 

「……甘い」

「あはは。いい飲みっぷりだったね」

 

 むぅ、と眉をひそめ、彼は「そういえば」と彼女に問いかける。

 

「時間大丈夫? それなりに時間経ってるけど」

「ん。私は大丈夫だけど、小出くんは?」

「問題なし」

 

 赤く染まった秋雲が、時間の経過を示している。

 これからどんどん、藍色に染まっていくのだろう。

 彼女のような、夜空が来る。

 

「ちょっと捨ててくる」

「いってらっしゃい」

 

 おもむろに彼は立ち上がり、空のボトルをひらひらと揺らしながら、彼女に背を向けて、公園の隅にあるゴミ箱へと向かう。

 意外と、彼女はこの時間を苦には思っていないのかもしれない。

 帰るタイミングを作るために、時間について言及したのになぁ、と彼は思う。

 

 かこん、とボトルをゴミ箱に入れる。

 

 まぁ、構わないというならもうしばらく、話に付き合ってもらおうかな、とベンチに座って待っている彼女のもとへと戻っていく。

 

 夕焼けの中、ただ座っているだけ。

 だけど、彼女は綺麗だった。

 まるで一枚の絵画のような、月のような、妖精のような、花のような、言葉のような、異次元の美しさを持っていた。

 彼は知らない。

 

 彼女が、本当に特別なことを。

 彼女が、彼を喰らう鬼であることを。

 そして吸血鬼(すずか)にとっての極上は、彼自身であることを。

 

 まだ、彼は知らなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

「名前を呼んで」

「そろそろテスト勉強も頑張るように。それでは──」

 

 起立、礼。さようなら。

 先生の号令で、学校が終わる。

 途端に騒がしくなる波に身をゆだねながら、君尋はいつも通りのんびりと帰り支度を進めていく。

 

「君尋~」

 

 彼の名前を呼びながら、だらけた様子で佐藤が君尋の前の傍にやってきた。

 

「今度勉強おしえちくり~」

「テストまでまだ一週間はあるだろうに」 

「一人だと捗らないじゃん」

「二人でも絶対捗らない人の台詞の典型……」

「まぁまぁそう言わずに。一人だとどうにも身が入らないんだよなー」

 

 赤点とって補習とかは勘弁、と佐藤はぼやく。

 夏休みに補習を受けていた奴の台詞は重いなぁなどと君尋は思った。

 

「まぁいいけど。いつやるの?」

「どっかそのうち」

「まじで勉強せずにテスト迎えそうだな……」

「いやいや流石に前日にはやるって」

「……あー。今日これから図書館で勉強しようと思ってたけど、来る?」

「…………パス」

「やっぱやる気なくない?」

「いやーそれほどでもある」

「あるんかーい」

 

 軽口を叩きながらかばんを持って、君尋は立って歩き出す。

 向かう先は下駄箱だった。彼らは二人とも部活というものには所属していない帰宅部である。

 

「そいや、月村っているじゃん。女子の」

「あーうん」

 

 一瞬ドキッとしつつ、平静を装って君尋は受け答えする。

 

「最近図書館によくいるらしいんだよな」

「はぁ……それで?」

「別にどうってわけじゃねぇんだけど、まぁ、美人のことを調べると楽しいじゃん」

「変態か?」

「おう、なんかわかったら教えてくれよ」

「……お、おう」

 

 そんな会話をしながら、二人は帰路につく。

 君尋は図書館へ、佐藤は自宅へと。

 

 

 

 

 テスト前だということもあって、普段より図書館の人口密度は高かった。しかし普段通りの位置は都合よく空いていたので座り、いつもと違って読書ではなく勉強を始めた。

 カリカリ、と紙にペンを走らせる。

 参考書を開いて、ノートを開いて、読んで書いてを繰り返していく。

 今君尋がやっているのは数学の問題集だった。

 数学というのは、高度なものでなければ解法の暗記をするものである。頭をひねってどう解き明かすかなどという閃きはいらない。“こういう問題はこう解く”ということをひたすら覚えていくもので、だから解いた問題の数が数学の点数に直結する。

 しかしながら数学というものは多くの人間が苦手とするものだ。それは何故か。解答を見ても何故そのような解答になっているかが理解できないからだ。短くまとめる必要性から、問題集の解答にはこと細かな解説は記載されていない。だからなんとなく解答を見て終わってしまって、何故、というところを学べない。

 かくいう君尋も、詰まった問題の解答を見て、悩んでいるところだった。

 

(……なにをどうすればこんな答えが導き出せるんだ?)

 

 むむむ、と眉間にしわを寄せながら、君尋は手を止める。

 解答を眺めて、頭の中で数字をかけ合わせたり割ったりしながら“何故”を考えていく。

 しかしすぐ解決するならはじめから悩んでいないわけで、少しの間、悩み続ける。

 

(うーん……)

 

 でも考えてもやっぱりわからなくて、ただ時間が過ぎていく。

 飛ばして次の問題に行くか、と一つの問題を捨てることを考えていると、君尋は一つのことに気付いた。

 自分に向く視線があるな、と。

 そうして君尋は、近くの本棚の前に立っていた女の子──月村と視線を絡ませる。

 

「…………」

「…………」

 

 無言で会釈すると、会釈が返ってくる。

 少しの間をおいて、すすす、とすずかがこちらへとやってきた。

 あの日、放課後、少し長い時間を共有してからというもの、会えば挨拶にはじまりちょっとした会話をすることが増えている。

 

「……勉強?」

「うん。ほら、もうすぐテストだから」

 

 彼女の視線は机の上に注がれていた。

 

「月村は? 今日はどうしたの?」

「えと。特にすることはないんだけど、なんとなく来ちゃって」

「あーあるある」

 

 図書館のマナーを意識して、二人とも自然と小さな声で話をする。

 

「小出くんは勉強、だよね?」

「うん。家より、集中できるから」

「そっか」

 

 わかるよ、とすずかは頷く。

 

「数学、難しいよね」

「そうなんだよねぇ。……月村は勉強大丈夫?」

「たぶん、大丈夫だと思う」

「さすが」

「数学苦手なの? なんだか、ずいぶん考えてたみたいだったから」

「あーうん」

 

 どうしてもこればかりはね、と君尋は苦笑を浮かべてペンをもてあそぶ。

 すずかは口元に手を当て、思案する。

 

「よかったら、私が教えられるところがあったら教えようか?」

「……」

「えと、もちろん。上手く教えられるかもわかんないんだけど──」

「いやうん。月村がいいなら、だけど」

「うん。いいよ」

 

 自然と少し、声が大きくなっていた。周りからの視線を感じて、二人して居たたまれない気持ちになる。

 

「……外行く?」

「……うん」

 

 そさくさと荷物をまとめて、二人して図書館を出ていく。

 じゃあ今から勉強しましょうか、なんて流れになるはずもなく、ひとまず彼らは連絡先だけ交換して別れるのだった。

 

 

 

 

 君尋は家に帰ってからずっと、悩んでいた。悩んで悩んで、悩みながら食事をして、お風呂に入って、それでもまだ悩んでいた。

 今は、スマートフォンを眺めながらベッドに横になっている。

 現在時刻は二十一時半。

 ベッドの上でごろごろしてから、もう三十分は経過していた。

 

(……連絡したほうがいいのかな。しないほうがいいのかな)

 

 悩みの種は連絡先に追加された月村の連絡先だった。実のところ、連絡先を交換しよう、という話を切り出したのは月村すずかその人からだった。だけど催促気味な言動を君尋がしたことは否めないし、そもそも社交辞令ということも考えられる。

 

(よし。とりあえず連絡するだけしてみよう)

 

 そもそも社交辞令だろうとなんだろうと、連絡しないほうが失礼にあたるだろうと彼は判断した。

 あたりさわりのない内容をおくって、そこから次考えることにしたのだ。

 

(とりあえず、二十二時は跨がないようにしたいな)

 

 時計を見ながら、君尋はおくるメッセージの内容を考え始めた。夜遅い時間、というのは感覚的なものでひとによるだろうが、一般的に言って二十二時以降は常識的には駄目な範囲でないかと彼は思う。

 もちろんひとによっては、二十一時には寝るということもあるだろうが、そこはなんとなく大丈夫だろうと決めつけた。

 

(……ええと)

 

 ぽちぽち、とメッセージの文章を打ち込んでいく。

 読書をして築いた文章センスを発揮するときがきた、という気持ちで、さささっと文章を書きあげる。

 なるべく煙たがられないことを、意識しながら。

 

こんばんは、小出です。

今日はありがとう。

そのうちわからないことがあれば、連絡するかもしれないです(*´°`*)

 

 

(送信、と)

 

 スマートフォンをベッドに叩きつけるように置いて、君尋は枕にうつ伏す。

 そうしてから一分経ったか経っていないかという具合の間隔で、彼のスマートフォンが震えた。

 びくっ、と撥ねるように彼は体を起こして、通知画面を見る。月村からの返信だった。

 

 

すずかです。

こちらこそありがとう。

なんでも聞いてね! 

というか、わからないことがあったら私も聞いちゃうかも……。

 

 

 そんな文章と共に笑顔の可愛らしいスタンプがおくられてきた。

 

(あーそっかスタンプかー。そうだよねー。スタンプだよねーそうだよねー)

 

 内容よりも、まず思ったことはそれだった。

 可愛らしめの顔文字を使ったりしてみたが、まぁ確かに顔文字を使うより普通スタンプを使うものだ。

 なんで普段使わない顔文字を使ったのかもよくわからない。

 それに少し身もだえしつつ、こちらも無難な可愛めのスタンプをおくり返して──またスタンプが返ってきた。

 

(…………これ、返したほうが……いや見なかったことに……いやもう既読つけちゃったし……いやでもあんまり続けたらうざいって思われるかも……そもそも返してきたの向こうだし別にいいのか……? うーん…………)

 

 だいたい五秒くらい考えて、ちょっと面白い感じのスタンプをおくる。

 そしてまた返ってくる。

 彼はあんまりそういう意識を持っていなかったが、すずかもまた花の女子高生なのである。電話やらなんやら、こういうコミュニケーションは好きだった。

 とりあえずまたいくつかスタンプによる会話のような会話でない応酬をして、彼は少し開き直った。

 

(なんかどんな内容のおくろうとか必死に考えてたの馬鹿らしくなってきたな!)

 

 スタンプをやめて文字によるコミュニケーションを図りにいって、文字とスタンプをまじえた会話がはじまる。

 いつも何時ごろ寝てる? というような当たり障りのないことから、クッキーとビスケットの差というようなどうでもいいようなことまで、話をした。

 日付が変わる時間まで、そんなことをしていた。

 最後にした会話は、寝る前にする、ごく普通のやり取り。

 おやすみなさい、というもの。

 その言葉の響きに、頬をゆるませて彼は眠った。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 翌日、君尋は月村とした昨晩の会話ログを眺めることを何度もした。

 楽しかったという歓び、もうちょっとマシな話題はなかったのかという後悔、これから先もこんなことができるだろうかという期待。

 色んな想いを混ぜて、彼は彼女をスマートフォン越しに思っていた。

 しかし、当たり前のように自分から連絡しようとはしなかった。だって別に友達じゃないしな、と君尋は思う。

 そうして放課後になって、いつも通り図書室に向かって、これまたいつも通り、所定の位置に座った。

 

(さて、がんばろ)

 

 開いたのは、昨日に引き続き数学の問題集だった。

 他の科目をやってもよかったのだが、これを選んでしまった。数学が苦手だという話もしたし、勉強のことで何か質問するならこの科目だという、下心からの選択だった。

 昨日はなんだかんだ勉強に関する話題は一切出さなかったが、普通に考えて連絡先を交換した理由なのだから一度は何がしか聞くべきだろうと君尋は思った。

 

(まぁ、昨日詰まってた問題でいいかなぁ)

 

 絶妙に解答を見てもよくわからなかった問題について、君尋はすずかに問いを投げる。

 

(うん。とりあえず、これで返信があるまでこの問題は放置でいいや)

 

 そうして別の問題にとりかかっているうちに、送ったメッセージには既読がついた。

 返信はまだない。

 問題集を進めて、数学以外の教科も勉強を進めて、そうして日が暮れたころに帰ることにした。

 返信はまだない。

 家に帰って夕食を食べてお風呂に入る。

 返信は…………きていた。

 

 

返事遅くなってごめんなさい~。

こんな感じです。……わかるかな? 

 

 

 メッセージと共に、ノートに式と解説が記されている写真が送信されてきた。

 字が綺麗だと君尋は思った。そして凄く丁寧だとも思った。

 ひとまず、ありがとう、と手早く返信する。

 解説をじっと見て、頭の中でかみ砕いて、自分のものにして、理解する。

 そうして、理解したあとに、もう一度メッセージを送る。

 

 

凄くわかりやすかった、ありがとう。

 

 

 感謝の気持ちと同時に、もどかしいような軋むような感情を彼は抱いた。

 嫉妬か羨望か、諦めか。

 自分でもなんと呼んでいいのかわからない。だけど少し苦しい気持ち。

 

(月村は……たぶん誰にでもこうなんだろうなぁ……。優しいなぁ……)

 

 それは高嶺の花を見上げるような心境だった。

 手を伸ばしたところで絶対に手を触れることができないことがわかりきっている。だから期待より先に諦めがあったものの……高嶺から花が自分から降りてきたのだから始末に負えない。

 手が届いてしまいそうだなという期待を押し殺して、君尋はそっとため息を吐いた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 カリカリ、と黒鉛が紙の上を滑る音がする。身じろぎによる、衣擦れの音がする。吐息の音がする。どこかの誰かがひそひそと話す声が聞こえる。本をめくる音が聞こえる。

 紙の匂いがする。どこか静かで、寂しくて、だけど暖かいようなそんな空気の匂い。優しい匂い。

 やっぱり君尋は、図書館という空間が好きだった。

 ぽん、と無音でスマートフォンに通知がやってくる。

 月村から君尋に向けたメッセージ。

 

 

今日もいるんだね。

 

 

 君尋は思わずあたりを見渡すが、本棚がたくさん並べられているこの図書館は死角が多く、同じ空間にいるであろう彼女の姿は見当たらなかった。

「月村が言うのか」

 短くそう返して、またペンを執る。

 そうしてまた、メッセージがやってくる。

 

 

昨日聞かれてたとこ、わかったよ~。

 

ほんと? ありがとう。

 

 

 あんまり聞きすぎるのもよくないとは思いつつ、わかりやすい解説が返ってきてしまうのでついつい頼ってしまう。

 基本的に一人でしか勉強をしたことがない君尋は、誰かとするこの勉強の形を、少し楽しんでいた。

 だからその気持ちをそのままに、彼女に伝えようと君尋は思った。

 文章には感情を乗せることができる。

 文字でできた世界を見ることが好きな彼にとってそうなのだから、きっと文学少女として知られている彼女にとってもそうだろうと。

 だから、ありがとうを自分なりに綴る。

 

 

月村には負担かけてるかもしれないけど、今ちょっと楽しい。

こうして、顔を合わせずやり取りをするのは、少し特別な感じがして楽しい。

だからありがとう。

声をかけてくれてありがとう。

俺はそんなに言うほど頭も良くないから、勉強だと何も伝えられないんだけど、君が困ったときには助けるから、何かあったら言ってほしい。

感謝してる。

 

 

 ちょっとキザかなと思いつつ、君尋はすずかへとメッセージを送った。

 そして、彼はおくった文面を見直して、思った。

 

(うわはっず! なんだこれ。なんで送ったんだ数分前の俺! ドン引き……! え。恥ずかしい。凄いな……恥ずかしい……こんな文章真顔で書くひと、何……? 何……? 正気か……?)

 

 走り出して叫びたいような衝動にかられる。

 羞恥。

 すずかの返信があるまで約一分。たった一分だったが、既読がついてからの短い沈黙だけで、彼の羞恥と後悔は相当なものになっていた。

 

 

あの

 

 

 すずかからの、言葉。

 

 

こちらこそ、ありがとう。 

嬉しいです。

 

 

 そして、メッセージが途切れる。

 君尋は少しの安堵と、やはり強い後悔を抱いていた。

 そして、彼が頭を抱えていると、少し遅れて、またメッセージが飛んできた。

 

 

もし良かったらでいいんだけど

これからも仲良くしてくれると嬉しいな

 

 

 思考が止まる。

 一体彼女はどんな心境でこんなことを送っているのだろうか、と。

 それだけを思って、思考が止まる。

 何かを考えようとして考えられなかったから、彼は一言、『はい』と返信をした。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 テストが終わるまでの数週間は、あっという間に過ぎていった。

 放課後、君尋は前に月村と会話した公園へとやってきていた。

 彼はベンチに座って公園を眺めていた。奥にある砂場では、幼い子供とその母親が何かを作っている。子供のはしゃぐ声が聞こえ、道脇から車の走る音も聞こえる。風の流れを感じる。

 今日は穏やかな天候だった。

 雲が悠々と空に在って、空気は透明で、柔らかい光が降り注いでいる。

 

「小出くん」

 

 砂利と靴底がすれる音、彼の名前を呼ぶすずかの声。

 それに、彼はやんわり微笑んで会釈を返した。

 

「待った?」

「いや別に。大丈夫」

 

 今来たところ、と返す自分のイメージが一瞬頭によぎったが、それを振り払って君尋は無難に返答をした。

 まるでデートみたいだ、と。

 あんまり舞い上がりすぎても気持ちが悪いよな、と彼は思った。

 

「呼び出したりなんかして、ごめんね」

「ううん。私も暇だったし」

 

 呼んだのは、君尋だった。

 理由はお礼を言うためと、ちょっとした……下心。

 

「でまぁ、用件的な話になるんだけど」

 

 彼は、傍に置いていた紙袋を目の前に持ち上げる。

 

「なんというか……やり過ぎかなとは思ったんだけど、お礼です」

「わ、別にいいのに」

「施されたままだと落ち着かないという俺のわがままなので、普通に受け取ってくれると嬉しい」

「……ありがとう」

 

 わぁこれ美味しいやつだ、と受け取りながら彼女が紙袋を受け取る。

 紙袋には《翠屋》と可愛らしいロゴと共に書かれていて、高町と懇意にしている彼女は当然知っている名前だった。

 変に穿ちすぎても仕方ないし、翠屋は普通に有名店だし、美味しいし──というのが選定理由。

 

「……じゃあ、これで」

 

 またね、と言いながら立ち去ろうとすると、「ちょっと待って」と袖をつままれる。

 なんだこいつ袖つまむとか可愛いかよ、と思いながら振り向くと、彼女が柔らかな笑みを浮かべていた。

 

「……ちょっと待っててね」

 

 これ持ってて、と先ほど渡したばかりの紙袋が返される。

 ぽかん、としていると彼女はそのまま背を向けてどこかに行ってしまった。

 

「………………え?」

 

 どこ行ったんだろう、とただ唖然とするしか彼にはできなかった。

 数分後、彼女は両の手に何やら飲み物を持って、ぱたぱたと駆けてきた。

 

「どっちがいい?」

 

 少し息切れている月村が持っているのは、以前彼が購入したラインナップと同じものだった。

 すなわち、紅茶のストレート(甘い)とミルクセーキ(甘い)のホット。

 

「えっと、じゃあこっちで」

「はいっ」

 

 ありがとう、と戸惑いながら紅茶を受け取る。

 ふふふ、と軽やかに笑って、これまた以前のようにベンチに腰掛ける。

 

「座って座って」

「え、あ、うん」

 

 促されるままに、人ひとり分の隙間を開けて、座る。

 すると彼女が、紙袋の中から簡易包装された──彼の買った焼き菓子セットを取り出す。

 

「私一人だと、持って帰ってもちょっとね。量が多いかなって思うんだよね」

「え、お? うん」

「だから、ちょっと一緒に減らしてくれないかなーって……」

 

 どうですか、とおそるおそるこちらを覗き込む彼女の言葉に、ただただポカンとするしかなかった。

 何が言っているのかはわかる。

 けれど耳を通って頭を通り抜けて、どこかに出ていって、理解ができていなかった。

 つまるところ、彼女は一緒に話すための口実を作ってくれている。彼が贈ったものはファミリーサイズというわけではないし、ひとりで厳しいというような量というわけでもない。

 

「ふんふふーん」

 

 丁寧に、ぺりぺりと包装が剥がされていく。

 こういうとこも性格が出るよな、と彼は思った。

 なんだかんだ綺麗にテープを剥がすのは難しくて、だからもう、乱雑にベリっと剥がしたほうが早い。

 けれど、白魚のような指先が、ぴりりと裂いているのは、なんとも艶かしい。

 

「あ、そういえば……月村はテストどうだった?」

「んー……まぁぼちぼち? かな。返却されないとわかんないけど……うん、いつも通りって感じだった」

「そっか」

 

 箱を開けている彼女に、軽く話を投げる。

 テストの話は、このシチュエーションだと限りなくベターな話題だと言えるだろう。

 

「小出くん何食べたい?」

「んー。月村からとっていいよ」

「私全部食べたことあるし、いいよ」

「んー……」

 

 そしてとうとう開いた焼き菓子セットの中身が開帳される。

 マドレーヌ、ラングドシャ、クッキーといくつかのものが入っている。全部二個ずつ入っているわけでもないので、どれか一つ食べてしまうとなくなってしまうのが悩ましいところだった。

 まぁけれど、押し問答をするのも面倒だったため、ひとまず彼は「じゃあ」とプレーンのクッキーを一つ手に取った。

 続けて彼女がブラウニーを一つ手にとって、「いただきます」と二人揃って手をつけ始める。

 クッキーを口に咥えて、彼はそのまま傍に置いていた自分の鞄からビニール袋を取り出す。

 自分のゴミを入れて、そのまま彼女に開き口を向ける。

 

「ありがとう」

「ひゃひお」

「ふふ」

 

 やってから思ったがあまりにも下品だ、と羞恥に身を縮こませる。

 まぁ笑ってくれたからセーフかな、と思うも、隣にいるひとが上品だと倣わないといけないかなと思うのが人というものだろう。

 

「むぐ。……うまいな」

「美味しいよね」

 

 食感がよく、香ばしい。

 彼の陳腐な語彙ではあらわせない、お洒落な味わい。

 そして失われた水分を補うように、紅茶を一口。

 おどろきのあまさ。

 

「んー、やっぱり甘いもの食べてるときは甘い飲み物じゃないほうがいいな」

「あ、だよね」

「……あー、別に飲み物のチョイスを責めてるわけじゃないからね? 自動販売機はだいたい全部甘いからな……」

 

 水とか緑茶というのもそれはそれでどうなんだって話だしな、とぼやくと、そうなんだよねぇ、と相槌が入る。

 

「私も、単品で飲むぶんには結構好きなんだけどね。すごくわかりやすい甘さが、癖になる感じ」

「あまりにもわかる」

「──って言っても、普段から家で焼き菓子食べるときも癖の強いもの飲んでるんだけどね?」

「そうなのか」

「ハーブティとか? けっこー好きかな」

「へぇ……」

「飲んだことある?」

「ないなぁ」

「結構色んな種類あるけど、どれも個性あって楽しいよ」

「そうなのか……」

 

 飲んでみたいな、とつぶやく。

 ぜひ、と彼女が言う。

 そして目の前の、子供が公園内を走り回っている光景を見て、思い出したように彼がぽつりと話し始める。

 

「そういえば、昔はよく公園で遊んだ気がするなぁ」

「へぇ」

「よく覚えてないけど、よく土まみれになってた気がする。水道から水汲んできて、それで砂固めて、山を作ってトンネル開通してみたり」

「楽しそう」

「うん。あれはあれで、楽しかったかな」

 

 彼が微笑み、彼女も笑う。

 笑顔の共有は心に安らぎをもたらす。

 

「トンネルといえば、『トンネルを抜けると雪国であった』っていうの思い出しちゃう」

「うん」

「別に小説の内容は関係ないんだけど、ふっと、長い暗闇を抜けて光を見たときの感動っていうのは形容しがたいものがあるよね」

「わかる。こう、その上手く表せない言葉の光を集めるために、生きてるんじゃないかなってときどき思う」

「言葉の光……?」

「あぁごめん。話が飛躍しすぎた。感動ってさ上手く言葉にできないんだよな。少なくとも俺の場合は。だから、それを表す言葉を探すために小説を読んでるところっていうのはあるかなぁってちょっと思ってさ」

 

 彼女は彼を見て、小さく「へー」と声をもらす。

 それに対して彼は、恥ずかしいことを言ったな、と身を縮こまらせる。

 

「…………」

 

 彼女は、空を仰ぎ見る。

 言葉。光。涙。

 彼女の頭に思い浮かんでは消えていく、言葉の形。

 そして彼女は、彼を見て、柔らかく笑みを浮かべる。

 

「ちょっと違うかもしれないけど、私、そういうの一つ知ってるなぁ」

「えと……なにが?」

「言葉の光、っていうの。一つ、思い浮かんだのがあるんだ」

「へぇ……」

 

 月村すずかは、星の光を思い出す。

 あの子の言葉は、光だと。

 

「“名前を呼んで”」

 

 それはきっと、一つの魔法。

 

「私の友達が言ってたことなんだけどね。名前で呼び合ったらもう友達なんだって。そうじゃないパターンも当然あると私は思っちゃうんだけど……でもこの考え方素敵だなぁって思ってるの」

「へー。いい友達だね」

「うん。凄くいい子なの」

 

 だから、と彼女は続けて言う。

 

「名前を呼んで? 友達になろう。えっと……君尋くん」

 

 照れたように名前を呼ぶすずかの姿を見て、君尋も頬が赤くなるほど照れてしまう。

 

「すずか……さん?」

「呼び捨てでいいよ?」

「……すずか」

「うん。君尋くん」

 

 苦味の混ざっていた空気はとろけるほど甘く加工され、ふわふわと二人の間に漂っていた。

 

「なんかちょっと恥ずかしいな」

「私も」

 

 照れくさくて、だけどそれが嬉しい。

 そんな甘酸っぱい声の色。

 

「…………」

「…………」

 

 つい先ほどと同じように、沈黙が降りる。

 同じ沈黙でも二人が抱く気持ちは先ほどとは真逆だった。

 

「…………めっちゃ恥ずかしい」

「わかる……」

 

 二人して顔を覆いながら、たどたどしく言葉を交わす。

 以前そうだったように、青い空に朱がにじむまで二人は穏やかに同じ時間を過ごした。

 いつの間にか、公園で遊んでいた子供も砂場から消えている。もう、相応に遅い時間だった。

 

「──そろそろ帰ろうか」

「うん」

 

 そうして公園から去るとき、甘い香りが君尋の鼻をくすぐった。

 鮮烈な香りが特徴的な秋の花、金木犀。近くを通るだけで誰しも振り返る強い香りは、花の名前を知らないひとも嗅いでみれば知っていると答えるほど。

 

 あれ、金木犀まだ咲いてたんだ。

 

 十月の末にはほとんど散っているはずのその香りがしたことに君尋は少し驚きつつ、まぁそんなこともあるのかなと首を傾げていた。

 公園に入るときには気付かなかったのになぁ、と彼はそんなことを思いながら、「どうかした?」と尋ねるすずかに「なんでもない」と微笑むのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

乙女の純情

「起立、礼。さようならー」

 

 先生の一言で、その日の学校生活が終わりを迎える。

 足早に教室を去るひと、友達と駄弁り始めるひと、席に座ったままスマートフォンを触っているひと。

 教室の中には様々なひとがいた。

 君尋は、いつものんびりと帰り支度をしている。すると必ずと言っていいほど、佐藤が席に寄ってくるのだ。

 

「よぅ」

 

 そして佐藤は、二言三言話して、去っていくのが通例だった。

 今日も、いつもと変わらないいつものパターン。

 佐藤は空いた君尋の前の席にどかっと座り、ぺらぺらと話し始めた。

 

「しかし今日も最高の日だったな。社会の授業聞いてたか?」

「まぁ同じクラスだし。そりゃお前が聞いてるなら聞いてる」

「つまり俺が聞いてないなら聞いてないと。そりゃ奇遇だな。俺も今日社会の授業聞いてねえんだよな」

「なるほど?」

 

 本日の三限目は社会科目だったと君尋は記憶している。

 ノートを見ればおそらく、板書した内容が書いてあるだろう。

 

「聞いてないものを最高って言ったのか」

「話聞いてたか。“今日最高”とは言ったが社会が最高とは一言も言ってないぞ」

「なるほど?」

 

 じゃあ何が最高だったんだ? と君尋は問う。

 すると佐藤は、よくぞ聞いてくれました、とばかりに不敵な笑みを浮かべるのだった。

 

「今日実は休み時間にハッピーターンを食べたんだよ」

「なるほど?」

「ハッピーターン美味いよなぁ……!」

「確かに」

「この世で一番美味い調味料はハッピーターンの粉だってそのっちが言ってた」

「誰だよ」

「お前そのっち知らねえの?」

「そんな常識みたいに語られても……」

 

 説明しよう! そのっちとは乃木園子は勇者であるシリーズの主人公である!

 乃木園子は勇者であるなんてシリーズは存在しないので注意してほしいしそもそもそのっちが「ハッピーターンが好き」なんて語ったシーンはないのだがそのっちは可愛い。

 そのっち~。

 

「そういやそのっちといえば、月村男できたらしいな。なんかそんな噂聞くわ」

「……へー」

 

 凄い勢いでターンを決めた話題に、思わず心臓が跳ね上がる。

 月村。

 月村、すずか。

 君尋にとっては最近のトレンドワードである。

 

「…………ていうか、最近月村の話題多いよね」

「いやだってお前月村好きじゃん?」

「ングフュ」

「何語?」

「に、日本語……」

「へー」

 

 特に誰にも語ったことのないことを言われて、君尋はごほごほとむせる。

 そんな彼をぼけーっと見つめて、佐藤は続ける。

 

「まぁ別に深い意味はないんだけどな。なんとなくだよなんとなく」

「……なるほど」

「鉄は熱いうちに打て。そのっちは可愛い。千里の道も一歩より。って言うしな」

「そのっち……」

「そのっちだからな。覚えとけよ。そのっちはすべてを解決する」

 

 そのっち。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 君尋はいつも通り、放課後図書室で本を読んでいた。

 テスト期間に入る前から読んでいた、吸血鬼と一つの命の物語。

 好きな本のはずなのに、目線が文字の上を滑っていく。

 

 読書をする集中力すら失われている原因は、わかっていた。

 

『そういえば、月村男できたらしいな』

 

 佐藤も言っていたことだが、月村すずかに彼氏ができたらしい。

 もちろんそんなことはない、はずだ。

 時期、状況、彼女の人となりを考えるとこの“彼氏”というのは自分のことだろうと君尋は考えている。

 傍から見れば、恋人と見まがうようなことをしていた自覚はあったのだ。

 

 ───名前を呼んで。

 

 なんて、そんなこっぱずかしいことをよく言えるなぁ、と彼は上気した顔を隠すように頬杖をついた。

 思い出すだけで……苛々するような、どきどきするような、熱に浮かされているような、もやもやするような、掻きむしりたくなるような衝動に襲われる。

 まぁ、変な気のせいでなければこれが恋というものなのだろう。

 でも同時に、『そもそも恋ってなんだ?』と思ったりもする。

 

 恋愛物語をいくつか見たことのある人ならわかるだろうが、恋の定義という奴は物語ごとに結構違う。その物語上で都合のいいように描かれている。

 

 だから、初恋を迎える前にそういったものに親しんでいると一体何が本物なのかがわからない、なんて状態になるのだ。

 

 喜怒哀楽。

 

 喜びというものがどういうものかなんてことは誰にも教えられなくたって自然と理解している。怒りも哀しみも楽しみだってそう。だけど恋心だけは、自然と理解する前に様々な定義を植え付けられているから。

 

 苦しいのが恋? 楽しいのが恋? 自然と目で追っていれば恋? 苛々するのが恋? どきどきするのが恋?

 

 知ったことではない、という感じだ。

 

 考えれば考えるほど、ドツボにはまる。

 

「……はぁぁあ」

 

 自然と、自分でも驚くほど大きいため息が出た。

 水がたまったように肺が重く、岩が乗ったように頭が軋み、霧の中にいるように目の前が曇っている。

 こんな状態で文字を追っても仕方がないな、と思って、彼はパタンと本を閉じた。

 

「……ふぅ」

 

 小さく息を吐いて、君尋はスマートフォンを取り出した。

 見るのは、すずかと交わした言葉の履歴。

 つらーっと流していくと、言葉を交わしていたその時の感情が頭をよぎる。だから自然と、笑顔になる。

 ふふ、と自然と笑みをこぼしていた。

 

 

見て。

 

 

 そうしていたら不意に、通知がきた。

 ぴこん、と開いていたメッセージに新しい文章がやってきていた。

 向こうからすれば、送った瞬間に既読がついてしまったのではないだろうか、と君尋は羞恥で顔を覆う。

 

 

コスモス、咲いてたの。

綺麗だったから、おすそ分け。

 

 

 そうして添付されていたのは、ガードレール沿いに咲いていたコスモスたちだった。

 秋桜、とも言われる秋の風物詩。

 それが、やや赤みを帯びた空と一緒に映って、とても綺麗だった。

 

 

かわいいね。

 

 

 一風景としても、綺麗だと思う。

 だけどそれ以上に。

 

『おすそ分け』

 

 その言葉に、その言葉が、かわいいと思った。

 追加して何かまたコメントでも送ろうかとも思ったが、やめた。

 上手く説明はできないけど、ごちゃごちゃ考えてメッセージを送るのは“友達らしくないな”と思ったからだった。

 

 すずかと友達になってから、おおよそ一週間が過ぎた。

 友達になる前と後で、言うほど変わったことはなかった。

 ときどきメッセージを送り合って、図書館で会ったらちょこっと挨拶して、それ以外で会うことはない。

 まぁ、友達というには希薄な関係性かもしれないけれど、日中過ごしている校舎が違って共通の友人もいないとなれば、こんなものだろうと彼はちょびっとがっかりしつつも仕方がないとかぶりを振る。

 

 が、しかし。

 

 友達ならば、別に、外で一緒に遊んだりすることも普通だろうと思う。

 一緒にゲームしたり、カラオケ行ったり、ボウリングしたり、なんでもないようなことをどこかしらで自由に話したり。

 そんなことを、思って。

 考えて。

 悩んで。

 

 メッセージを端的に、送った。

 

 

 

 

 

 

 一方そのころ、月村すずかは高町なのはやアリサ・バニングスの両名と一緒に下校しているところだった。

 下校とはいっても、バスから降りたあとに寄り道を繰り返していたので、もう下校途中というには語弊があったかもしれない。

 適当にぶらついて買い食いをしてみたり、道中ですずかがコスモスを見つけて写真に撮ってみたり、なのはも触発されたのか写真を撮り始めたり、なんとなくアリサも混ざり始めたり。

 今はそれに飽きて三人で喫茶店に行って、とりとめのない会話を始めていた。

 

「んですずか何してんの?」

「コスモスの花言葉なんだったかな、と思ってちょっと検索してるの」

「なんで急にコスモス?」

「馬鹿ね。なのはアンタ自分で写真に撮ってたじゃない。あれ、コスモス」

「ほえー。そうなんだ」

 

 のほほんとスマホをさわるすずかに、肩ひじついて尋ねるアリサ、アイスティーをストローでかき混ぜるなのは。

 

「あ、『乙女の純情』だって」

「じゅんじょう」

「……一応聞くけど、なのは、“純情”って言葉の意味知ってる?」

「アリサちゃん私のこと馬鹿にしすぎじゃない?! 純情って、ほら。……純粋な感じ……?」

「うーん間違ってはないわね」

「あ、だよね。そんな感じだよねっ」

 

 そうねぇ、とアリサが頷く。

 

「純情───純真で邪心のない心。また、その心をもっているさま。───つまりはフェイトみたいな奴のことね」

「あーなんとなくわかるような……っていうか何?! 辞書の内容覚えてるの?!」

「このくらいよゆーよゆー」

「アリサちゃん写真記憶とか当たり前のようにするもんね」

 

 ふふんと胸を張るアリサに、すずかが苦笑する。

 

「アリサちゃんの記憶力が羨ましいよー」

「私より理数できる癖に何言ってんの」

「国語~」

 

 ついこの間にあったテストのことを思い出したのか、なのははうへーっと項垂れている。

 

「数学も理科もだいたい暗記みたいなもんだけどねぇ」

「あはは。それが言えるのはアリサちゃんくらいだよ」

「そうだよー」

「一芸に通ずるものは万芸に通ず――ともいうし、ある程度はできそうなもんだけどねぇ」

「……すずかちゃーん。アリサちゃんがいじめるよぅ」

「できないことは仕方ないもんねー」

「ねー」

 

 ねー、となのはとすずかが笑い合って、アリサが「こいつら……」と嘆息を吐く。

 

「今回はすずかもなんか数学頑張ってたわよね」

「ん。そうだね。たまには苦手克服しようかなと思って」

「うわすずかちゃんえらーい」

 

 ちなみにアリサは全教科常に満点級に成績が良く、なのはは理数系ならアリサを凌駕するが国語が壊滅的であり、すずかは理数文系共に中の中から上の下といった塩梅だ。

 

「そういえばすずかって最近彼氏できたとか聞くけど」

「え? そうなの?」

「うーんとね。彼氏ではないかな」

 

 男子の側に噂が流れているように、女子側でも噂が流れている。

 その真偽についての何気ないアリサの問いに、すずかは淡々と答える。

 

「最近ちょっと仲良くなった男の子がいて──」

 

 と、そのとき、卓上のすずかのスマートフォンが振動し、画面に一つのメッセージ通知を示した。

 それは、君尋からのものだった。

 誰から来たとか、そんなことは大きな問題ではなかった。問題なのは、その内容。

 

 

見たい映画があるんだけど、今後の休日一緒にどうですか。

 

 

 どこからどう見てもデートの誘い文句だった。

 驚いて、すずかは一瞬言葉に詰まる。

 

「……もしかして、件の彼氏から?」

「へー! どんな子なの?」

 

 アリサもなのはも、花の女子高生。コイバナには相応に興味があった。まして、付き合いの長い幼馴染の恋沙汰となるとなおさらだ。

 二人とも、すずかのほうへわずかに身を乗り出している。

 

「いや、えと。まだ彼氏じゃないよ?」

「『まだ』」

 

 テンプレートのような言い回しをしたすずかに、アリサがにやにやと揚げ足を取る。

 そうして、頬を染めてあわてたように弁解するすずかを見て、なのはは思った。

 

(……なるほど)

 

 乙女の純情ってこういうことか、と。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 のどが渇いていた。

 朝からずーっと水を飲んでいないくらいに乾いていて、だけど水分を取っていないからのどが渇いているわけではなかった。

 今は喫茶店にいて、君尋の目の前には注文したドリンクが置いてある。だがこれを口に含んでも、乾きが癒えることはない。

 原因は精神的なもので、その原因が目の前にいることが理由だった。

 

「アリサ・バニングスよ。よろしく」

「……えーと、高町なのはです。なんていうかごめんなさい……」

「……小出君尋です。どうも……?」

 

 なんだこの状況、というのが正直な君尋の想いだった。

 映画を見に行くことに、すずかからオーケーをもらった日から今の今まで、時間が過ぎるのは一瞬だった。毎日毎日、来たるその時のことを思うとどきどきして不安で夜も眠れないくらいだったのに。

 二人きりだと思っていたのに、なんだこれ、という感じである。

 その疑問を代弁するように、すずかが口を開く。

 

「ええと。結局二人ともなんでいるの?」

 

 だいたいの予想はつくけど、とすずかがぼやく。

 確かにだいたいの予想はつく、と君尋も心中で頷く。

 アリサはあたかもモデルのようにサングラスと帽子を、なのはは髪を下ろして眼鏡をかけていた。

 変装。

 そういうものを、二人はしていた。

 もともとアリサとなのはは、すずかと一緒に来ていたわけではなかった。

 待ち合わせの段階では二人きりで、待ち合わせ場所の喫茶店内に変装した二人をすずかが発見して、そこから席を合わせて、今に至っている。

 

「ええと……」

 

 なのはがしどろもどろと口を開いて、それに被せるようにアリサが話し出す。

 

「どんなデートするのか気になったから尾行しようと思ったのよ。邪魔をしたのは、うん、ごめんなさい」

「私は別にいいけど」

 

 窺うようにすずかが君尋のほうを見てくるので、彼は何を言おうかと困ってしまった。

 これは困ったな、と君尋は頬をぽりぽりと掻く。

 

 

 

 

「でさぁ、すずか凄いのよね。美由希さん──なのはのお姉さんなんだけど、その美由希さんめちゃめちゃに運動神経いいんだけど、小学生なのに高校生の中でも運動神経のいい美由希さんと張り合えるくらいにすずかすっごくて」

「へぇ~」

 

 数分前の懸念は一体どこに、というぐらいに話が弾んでいた。

 これは単純にアリサ・バニングスと小出君尋の相性が良かったことに起因する。と、いうよりもそれぞれが仲のいい相手と、それぞれが似通っていたことが理由だろうか。

 小出君尋はアリサの友人のすずかに少し似ているところがある。アリサ・バニングスは君尋の友人の佐藤に少し似ているところがある。

 まぁ、もっと単純に、それぞれが良い子だったから、というのも大きいのだけれどそれはそれである。

 

「あの、アリサちゃん。そろそろやめない……?」

「えー。だって君尋だって聞きたいわよね」

 

 ぼそぼそと反抗の意を示すすずかを、アリサがにやにやしながら応対する。

 

「でもすずかの話、もっと聞きたいな」

 

 恥ずかしそうにしているすずかが若干可哀想だという想いがなくもなかったが、でも話を聞きたいというのも彼の強い想いだった。

 

「そういえば、君尋くんは? 小学生のときどうだった?」

「うーんと。どうと聞かれるとなんと言ったものか悩むな」

「小学生のころって何組だっけ? 私、四年のときは一緒だったのよね」

「あぁ。アリサ……とはうん。四年のとき一緒だったかな。あとはたぶん君らと一緒だったことはなかった気がするけど」

 

 一年生のころから何組に配属されてたのか、思い出してぽつぽつと話していく。

 

「あー。うん、そうね。それだと一緒になったことあるのこの中だと私くらいね」

 

 実のところ、はやてやフェイトとは同じクラスになったことのある君尋だったが、この場においてはアリサ一人が君尋の小学生時代を知る者だった。

 

「ゆーて、話したこととかなかったし大して知らないけど。まあすずかみたいな奴だなって思ってたかな。休み時間に本読んで、一人の世界にこもってる感じ」

「へー。そうなんだ。君尋くん本好きなんだ」

「あーうん。というか、物語全般好きかな」

「あ、映画とか?」

「そうそう」

 

 へー、と感嘆としているなのはを眺めつつ、君尋は目をしばたたかせる。

 同年代の女の子に向けるには少し不躾な感想かもしれないが、良い子たちだな、と思った。

 相手に踏み込むアリサと、ささくれが残らないように整えるすずか。そしてにこにこと話を聞いてくれるなのは。

 ほとんど初対面だから間違った感想を抱いているかもしれないが、彼女らは凄くバランスがいいなぁと思ったのだった。

 

「映画といえば、もうすぐ上映時間かな。二人はどうするの?」

「んー。まぁ適当にショッピングでもして帰るわ」

 

 そうして、四人から二人と二人に分かれた。

 ようやく二人きりになった。

 別れてみると、話し役としてのアリサの存在は非常に有難いものだった。黙っていてもその場をトークでつないでくれる存在というのは、どんなグループにでもいるもので、往々にしてそういう人が中心になる。

 それがなくなるというのは、不安もあるし、単純にちょっと仲良くなれてきたのに寂しいなという気持ちもあって。

 なんだかなぁ、という感じだったのだ。

 

「類は友を呼ぶって言うけど」

「うん」

「みんな良い子だったなぁ」

「その理屈でいくと、新しく呼ばれて入ってきた君尋くんも良い子だね」

「……なるほど?」

 

 そんなこんな雑談をしながら、映画のチケットを手に映画館内に入っていった。

 

 

 

 

 館内に闇が満ちて、代わりに物語の幕が上がる。

 映画館という場所には特有の空気がある。

 ポップコーンの臭いだとかそういうものではなく、映画館を維持しているスタッフや映画館に訪れる客が作り上げる空気感。

 “さぁこれから映画を見るぞ”

 という映像を見るための空気がそこにはある。

 だからか、自然と意識をしなくとも物語に集中ができる。

 音と、光と、その熱と。

 画面の中で織りなす物語に、惹き込まれてゆく。

 音の響きに合わせて心を揺らし、光のまばゆさに目を細め、熱の入りように胸を高鳴らせる。

 けれど、その感情の揺れを自分で自覚することはない。

 集中している、というのが一番適した表現だろうか。

 ただ見ている。感じている。だから、「あ、ここ面白い!」なんて言葉にして考えることをしない。

 見て、聞いて、感じて。

 色々な想いを飲み込んで、そうして、最後にエンドロールを迎える。

 

「────……」

 

 無意識に、涙をこぼしていた。

 感動的な話だったとかそういう次元ではなく、なんとなく、エンドロールというのは感情を揺らすものがある。

 キャストの名前が音楽と共に流れていくその様は、なんとも美しい。

 だから想いが溢れるのは、いつもこの瞬間だった。

 自分が涙を流したということを自覚するより先に、何かが頬に触れて、そうしてそれから君尋は自分が泣いていたことを知った。

 指。

 彼の頬に触れたのは、隣に座るすずかの指先だった。

 

「───っ」

 

 何かを言おうとして、まだエンドロールが終わっていないことを思い出して、口をつぐむ。

 まだ映画の上映中だ。

 ここで口を開くのはマナー違反以外の何物でもない。

 だけど彼女に対して何のリアクションもしないのもそれはそれでいただけないと、彼は目を泳がせて悩んだ。

 すずかはというと、じぃ、と君尋のことを見つめていた。

 暗がりにいるから、その表情はよく見えない。

 血が透けるように、彼女の瞳が赤く見えた気がして。

 

(……あぁ、綺麗だな)

 

 水面の月を、思い出した。

 涙のような雫が水面に落ちて、月が揺れる。その時見た月を思い出した。

 彼女の笑みが、その時に見た月のように揺れていた。

 

(この子は本当に、綺麗だな)

 

 ずぐん、と君尋は自分の胸が痛んだような気がした。

 

 

 

 

「私は……やっぱり導入が良かったかな。あのシーンなくても話としては成立するけど、ないと話が引き締まらないよね」

 

 映画を見終わった二人は、映画館の近くにあったパンケーキ屋さんでお茶をしていた。

 メニューを見て、注文をして、いまは水を口にしながら注文品が届くのを待っている。

 

「わかる。あそこよかった」

 

 暗い映画館とは打って変わって、このお店はずいぶんと明るかった。

 優しく明るい雰囲気で、甘い色をしている。加えて、客層も若い女性客やカップルが大半を占めている。

 男女二人で訪れている彼らがこの場で浮いているなどということはないが、二人はのぼせたように頬を染めていた。

 口達者というわけでもない二人だったが、“映画の感想”という話題レールがあったため、そこまで話に困ることはなかった。

 まぁそれも最初だけだったのだが。

 誰もが自然とやっていることだが、会話というのは連想ゲームのそれに近い。一つの話題があり、「そういえば―――」などと言葉をはさんで別の話に移り変わっていくものだ。

 一つの話題だけで話し続ける場合もないではないが、それはよほどそれについて語る余地があるか語り続けるだけの熱意をそれに抱いている場合に限る。

 彼らは、つい先ほど初めて見ただけの映画にそこまでの熱量も語る余地も持っておらず、注文した品物が届くころには、話の流れは低調になっていた。

 

「これがパンケーキかぁ」

「あぁ。こういうの食べるのはじめて?」

「うん」

「そっかぁ。まぁ男の子はこういうところあんまり来ないよね」

 

 当たり障りのない、会話。

 エンドロールにしていたことへの羞恥。慣れない“二人きりでのお出かけ”に対する緊張。

 そういった諸々が心の壁を作っていた。

 

「……」

「……」

 

 二人ともが居心地の悪さを、感じていた。

 静かな空間が苦手なわけではなくそれはむしろ彼らが好むものだったが、今この場に満ちているのは互いが互いを肯定している静寂ではなく、相手に一線を引いたがゆえの沈黙だった。

 だから少し、空気が澱んでいた。

 

「…………そういえば、また泣いちゃったなぁ」

 

 はは、と自嘲するように彼が笑う。

 困ったときは自分をさらけ出すのがいい、というのは彼の持論だったが。

 

「やっぱすぐ泣くのはかっこ悪いよなぁ」

 

 否定待ち。

 自分を貶めるような、あるいはその逆か。

 なんでもいいが、そのような自分が求める言葉を相手に求めるような言い回しは、会話をする姿勢ではない。

 無論言ってほしい言葉をもらうために、やってほしいことを伝えるために、遠回しに表現することが悪いことではない。だが、そういうものは時と場合と相手によるものだ。

 そしてこの時と場合では、あまりいい選択ではない。

 だから、あぁしまったなと彼は思って、目を伏せる。

 

「そんなことは、ないと思うけど」

 

 すずかがどんな顔をしているのか、俯く彼にはわからず。

 その声色も、雲で隠れたように、何を思っているのか読み取れず。

 

「私は、いいと思うけどな」

 

 おそるおそると目を上げると、泣いているような寂しいような、そんな彼女の表情が目に映った。

 うす雲のような寂しさが胸に広がって、彼は、もう何も言うことはできなかったのだった。

 

 

 

 

 そのあとは、ぽつぽつ世間話をしたりしなかったりして、時間を過ごした。

 心を覆ったうす雲をはらうことは終ぞできなかった。

 

 

またね。

 

 

 家に帰ってから、すずかから君尋へ、そんなメッセージが届いていた。

 

 

うん、また。

 

 

 そう返信したものの、次、誘うことはできないだろうなぁと。

 胃の中に重石をいれたようにため息を吐いて、君尋は眠った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

「今夜は月が綺麗ですね。なんて」

 夜に出歩くということを久しぶりにして思ったのは、秋が深まったな、ということだった。

 気温は低く、湿度は下がり、街路樹は秋色に染まっている。

 雲一つない夜闇の透明。

 黒でもなく、藍でもなく、深紫でもない。

 それらすべてが混ざり、さらに白や黄すらも足した不思議な空模様。

 まさしく夜空だった。

 

「……はぁ」

 

 立ち止まって、ため息を一つこぼす。

 なんだかなぁ、と自分の心中に思いを馳せる。

 数日前のすずかとのデートのこと。

 あんなもんだとも思うし、別に失敗というほど失敗でもないと思っている。

 だけどまぁ、そんなことは理屈でわかっていてもなんの慰めにもならないのだ。

 

 ふぅ、と少しずつ、胸の吹き溜まりを空気に溶かす。

 

「そういえば……」

 

 心を誤魔化すためには何か別のことに集中するのがいい。

 だからわざわざ口に出して呟くのだ。

 

「なんでもみじって、漢字で書くと紅葉(もみじ)なんだろう……」

 

 ひらり、と夜色を横切る紅を目で追う。

 色鮮やかなはずの紅葉は夜闇に染まって見えづらい。

 街灯が照らしているけれども、それでも昼間に見るものと比べると鮮やかさとは言い難いものだった。

 

「……黄色いのもまとめて、紅葉(こうよう)って言うよな」

 

 アスファルトの上に紅の葉が落ちていた。

 膝を曲げて、腰を折って、手を伸ばして、その中の一つを手に取る。

 至近距離でまじまじ観察しようとして、ふと、気付く。

 自分の正面方向に、誰かがいることに。

 そしてそれが、見知った顔であることに、気が付いた。

 

「──こんばんは。いい夜だね」

 

 彼は、彼女に次会ったときなんと言えばいいのか、と悩んでいたが、なんということはない。

 実際に会ってしまえば、特に思い悩むこともなく、するりと言葉が出てきていた。

 

「素敵な夜になりそうね」

 

 くすりと微笑む、月村すずかがそこにいた。

 

 

 

 

 衣擦れの音、家屋の奥の生活音、遠くに響くエンジン音。

 決して大きくはないはずのそれらの音が、どうにも大きく感じるような静寂。

 それを破ったのは、すずかだった。

 

「……それ、どうしたの?」

「あぁこれ。さっき拾ったんだ」

 

 先ほど拾い上げた葉の根本を、君尋はくるくると回している。

 すずかはそれを見て、そっかぁ、と相槌を打つ。

 

「私も、なんで紅葉(もみじ)紅葉(こうよう)と同じ字なのか知らないなぁ」

「……聞いてたんだ」

「うん」

「まぁ、別になんてことはない疑問なんだけど。なんとなくふと疑問に思って…………と、いうか、すずか……は、何してたの?」

「私? 私は習い事の帰り」

「あ。そうなんだ。……もしかしてすぐそこ?」

「うん。郵便局の隣の……あそこ。……わかる?」

「あーうんわかるわかる」

 

 君尋は記憶を辿るように虚空に視線を向け、すずかはそんな君尋を下からのぞくように小さく見上げる。

 ふと視線が交わり、互いに静かに目線を切って、再び言葉を投げかけ合う。

 

「君尋くんは? どうしたの?」

「ん。あぁ、散歩……かな? いや正確には買い出しに来たんだけど、なんとなく乗り気じゃなくなったから、散歩になった」

「あー。でもわかるかも。なんとなく、ただ歩きたい気分のときってあるよね」

「そんな感じ」

 

 立ち止まったまま彼らは言葉を交わしていく。

 そして自然と会話は帰り道についてのことになった。

 

「すずか、は帰りどうするんだ? 帰り道とか。迎えとか来るの?」

「んー。そうだね。呼んだら来ると思うけど、だいたいはタクシーで帰ってるかな」

 

 昔はよく送り迎えしてもらってたんだけど、とすずかは言う。

 

「ふうん……? それでまた、なんでこんなところに」

 

 彼らがいまいるのは、大通りから脇にそれた小道だった。

 普通に考えれば、家に帰るだけなら、こんなところに来る理由はない。大通りで、タクシーを呼んで乗って帰ればいい話だ。

 

「君尋くんと似たような感じかなあ。ちょっと歩きたい気分だったの」

「ふうん。そっか」

「そうなの」

 

 つかみどころがなく、透明で、涼しげに。

 ふふ、とすずかは柔らかな風のように笑う。

 

「そういえば、君尋くん家このあたりなの? 散歩って言ってたけど」

「あーうんそう。すぐそこのマンション」

「へぇ。どれ?」

 

 あそこの──と、君尋が指で自分の住居を指し示そうとした、そのときだった。

 闇の帳がおりる。

 光が消える。

 視界が、黒に染まる。

 つまるところ停電していた。町を照らしていた光が失われて、本当の夜に包まれていた。

 

「────っ」

「きゃっ」

 

 そのときの彼らにとっては、突然目が見えなくなったに等しい衝撃だった。

 停電したなどということを瞬時に察知できるような経験もなく、思考の瞬発力もなかった。

 だからそのときただ彼らは驚いて、手を、伸ばした。

 隣にいた君に。

 隣にいた貴方に。

 手をのばして、触れ合って。

 手の当たった場所は、都合よく互いの手なんてことはなかったけれど、確かに隣の君(あなた)を捕まえていて。

 ぎゅぅ、と。

 君尋はすずかの肩を抱いていて、すずかは君尋の胸元の服を掴んでいた。

 

「…………」

「…………」

 

 吐息が、聞こえる。

 心音が聞こえる。

 互いの存在をそれぞれが感じ取っていた。

 

「……大丈夫?」

「えと。うん。大丈夫」

 

 ところで、人の目が暗闇に適応するにはおおよそ五分必要である。

 それだけ経過しなければ暗闇に順応することはできず、ゆえに、闇に包まれてから一分は経とうとしていたがなおも見えない。

 けれども、それでも、触れている部分や声の位置、僅かに見える視界などさまざまな情報で隣にいる人のことくらいはわかっていた。

 

「……停電、かな」

「あぁなるほど。停電か」

 

 停電なんてはじめて経験した、なんてことを話しながら、君尋はじっとすずかの目を見ていた。

 どうせ、この暗がりだ。

 どこを注視していても正確なところわからないだろうと高をくくっていたのである。

 

「…………」

 

 けれど。

 普通の人間よりはるかに多くの光を集めるすずかの瞳は。

 夜目の利く彼女の瞳は。

 君尋が思うよりもはるかに、彼が見ている世界よりもはるかに鮮やかに世界を視ていた。

 闇に紛れて、彼と彼女の視線が熱く交わる。

 一秒、二秒、三秒と。

 時間を重ねて、想いを募らせて、そしてそれを夜にとかして。

 彼らはずっと、見つめあっていた。

 

「そういえば……」

 

 君尋は不意に、空を見上げて呟いた。

 

「今日って、新月なんだよね」

「……確かに、浮かんでないね」

 

 空に集う小さな光たち。

 しかしそこに、大きなまんまる、あるいは欠けたまるは浮かんではいなかった。

 

「空、綺麗だな……」

「暗いもんね」

「暗いからか」

「うん」

 

 星空を見るならば、都会よりも田舎だというのはよく言う話だ。

 その理由は、排気ガス量による空気の純度もあるが、最も大きな要因として明かりの有無が大きい。

 街灯は常についているし、夜更かしをする家ならば家の明かりも点いているだろう。

 日中に星が見えない理由が明るすぎるからだということを思えば、夜で、停電によって明かりがなくなった今のこの場所で星々がよく見えるというのは当然の話だ。

 美しい夜空が見られると評判の場所と比肩するものがある。

 加えて、今宵は新月。

 空を見上げればわかるように、夜空で最も大きく輝くのは月である。

 それが隠れているということは、より小さな光が目立つということ。

 星が、美しくなるということ。

 

「…………」

 

 息を呑む、というのはきっとこういうこと。

 身近な美しさに気付いた瞬間。

 今までそこにあったはずの世界の煌めきをはじめて知った驚きに、いま、彼らは包まれていた。

 

「……綺麗だね」

 

 先ほどの彼の言葉に同調するように、すずかが言う。

 

「……こんなに、空って綺麗だったんだな。知らなかった」

「停電とかびっくりしちゃったけど、ちょっと、素敵だよね、こういうの」

「わかる……」

 

 互いの温度と、澄み渡る美しい夜空がそこにあった。

 君尋は内心、いつまでくっついていていいんだろ、なんていうドキドキを心中に抱えていたりしたのだが、すずかもすずかで似たようなことを考えていて。

 二人は近距離で、ささやくように話していた。

 

「……そういえば習い事って、何してるの? 郵便局の隣って、まぁ塾だよね」

「うん。数学とか国語とか、勉強してるだけ」

「週何日?」

「二日かな」

「へー大変そう」

「そうでもないよ? 君尋くんは、何か習い事とかしてないの?」

「俺は───」

 

 他愛のない話。

 だけどそれが澱みなくできるということがどれだけ幸福かというのは、心拍数が示していた。

 どくどく、と。

 全身に送られる命の水を、彼の熱を、すずかも感じていた。

 

「……あ」

 

 ふと、振動音が聞こえて、すずかが声をあげる。

 

「家から?」

「うん。ちょっとごめんね」

 

 はいもしもし、と電話に出て、それに伴い離れていくすずかに寂しいようなほっとしたような想いを抱いて、君尋も思い出したように自分の端末を取り出した。

 画面には家族からの通知がきていて、あちゃー、と思いながら、すずかがそうするように電話をかける。

 

「あ、もしもし。母さん?」

 

 友達と外で会ったこと。

 友達の迎えが来るまで一緒にいるということ。

 連絡が遅くなってごめん、と。

 

「……うん。とりあえず無事だから、大丈夫。じゃあね」

 

 君尋が電話を切ると、すずかも通話を終えていたようだった。

 

「家のひとどうだって?」

「うん。迎えに来るって」

「信号とかないけど、大丈夫なのかな……車?」

「たぶんそう、かな……?」

 

 どこに迎えに来るか、ということを聞いて、彼らはその場所まで歩くことにした。

 

「そういえば、停電中って通話できるんだね」

「えーと。確かこういう非常時に備えて発電機とか置いてあるはずだよ」

「へー。そうなんだ」

 

 また他愛のない会話をはじめて、時間を過ごした。

 お嬢様なすずかのことだから奇想天外な迎えが来るのでは、とちょっと思っていたりもした君尋だったが、普通に車がやってきたり、しかし車の中にいたのがメイドさんだったり、挨拶をしたり、なんやかんやと月村家のことにまた少し詳しくなったりした。

 

「またね」

「うん、また」

 

 車に乗り、遠ざかっていくすずかの姿が見えなくなったころ、ため息のような安堵の息のようなよくわからない感情を吐き出した。

 空を仰いで、ひとり呟く。

 

「……今夜は月が綺麗ですね。なんて」

 

 天には地上に届かないほどかすかな光しか発しない新月。

 地には彼女が去って、少しどぎまぎした自分が一人。

 月に叢雲、すずやかな風が吹く夜のことだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『今夜は月が綺麗ですね』

 時に、デートという言葉の意味を調べたことがあるだろうか。

 

『異性の友人と会うこと』

『あらかじめ時間や場所を決めた男女が会うこと』

『恋い慕う相手と日時を定めて会うこと』

 

 細かな表現はものによって異なるだろうが、デートというのは大抵の場合会うだけで成立するような感じに記されている。

 では、と。

 これも一種のデートなんだろうな、と思うと胸が弾み──痛む。

 貴女を想うと胸が痛む、なんてそんな台詞ありふれたものだが、彼は同時に頭も少し痛むものなんだなと知った。

 まぁ、そんなものはすぐに優しい月明かりで癒えてしまうのだけれど。

 

「……いた」

 

 やぁ、と十歩ほど先の場所にいるすずかに手を振る。

 すると、物陰に潜んでいた夜空のような髪がふわりと揺れて、すずかが顔を出した。

 彼女ははにかむように笑い、彼に小さく手を振り返す。

 君尋からすれば、もうそれだけで幸せと呼ぶべきやり取りだった。

 

「や。ごめんね、呼び出したりなんかして」

「ううん。全然」

 

 風で揺れる草木のように笑う姿が綺麗で、君尋は思わず笑みをこぼす。

 

「停電したときはびっくりしたけど、もうあんなのなかったみたいだよなぁ」

「そうだねー」

 

 停電事故から約一週間が経った。

 原因は工事中の事故だとかどうとかいうことを耳にした。

 電線が誤って切れてしまったらしい。

 

「もうあっという間に冬だね」

「そうだね。もうこのくらいの時間には冷えちゃう」

「制服って着こむのに限界あるよなぁ。セーターを装備するので精一杯」

「ねー」

「女子はしかもスカートだもんなぁ。やっぱ寒い?」

「んー。まぁ多少。でもタイツ穿いてればそんなだよ」

「へー」

 

 すずかはスカートをちょこんとつまみ上げ、黒いタイツを眺めている。

 スカートの奥に視線が吸い寄せられてしまうのは男の性だろう。

 すずかの仕草にどきっとしながら、君尋は目を泳がせていた。

 

「そういえば紅葉(こうよう)紅葉(もみじ)の違い、調べてみたんだけど」

「ほんと?」

「うん。ちょっと暇だったから。なんだったかな……」

 

 思い出すからちょっと待ってね、とすずかは明後日の方向へと視線を送る。

 

「確かね。ええと、そもそももみじって木は存在しないらしいんだけど……知ってた?」

「え。そうなんだ。もみじもみじってよく言うし、もみじ饅頭とかあるのに」

「私も調べるまで知らなくて、ちょっとびっくりしちゃった」

「……へー」

 

 君尋のすずかに抱いている印象としては、「可愛い」「賢そう」「優しい」などがある。

 まあ本を読んでいるから頭が良いなんてことはない、というのは当たり前の話で、彼自身も本を読む以上わかっている。

 でも憧れの彼女は、理屈抜きで、なんとなく凄そうだという風に思っていて、だけどいま目の前にいるのはそんな大層なひとではなくて。

 君尋は、凄いひとではない等身大の少女と、話していた。

 

「楓の木の中でも特に色づいたものをもみじって言うんだって。紅葉(こうよう)ともみじはほとんど同じ意味みたいな」

「あー。……あー、だから同じ字なんだ?」

「たぶんそう」

「賢くなった」

「やったねっ」

「やった」

 

 そんな他愛のないやりとりをしていた。

 そもそも今彼らが会っているのは、必然という名の偶然に近い。

 先週と同じ時間であれば、習い事をしているというすずかに出逢えるのではないかと、下心をこめて散歩をしていた君尋は「もう習い事って終わったの?」とメッセージを飛ばして、それからなんだかんだやり取りをしてじゃあ会いましょうとなったわけである。

 とはいえ、会って何をすると言っても、何もすることはない。

 会うことが目的で、話すことが目的だった。

 

 だからこれで正解。

 

 なんでもないような会話をして、なんでもないように別れる。

 そういう時間を、彼らは過ごした。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 りん、と。

 そんな音とともにお店に入る。

 雑誌に掲載されたこともあるというその名店の名は翠屋。

 どちらかというと、女性人気が高い女性向けのお店ということもあって、存在を知っていても足を踏み入れたことはなかった。

 そもそも高校生に喫茶店などという贅沢をするほど財布に余裕があるはずもなく、だから喫茶店というものに入ること自体が数えるほどしかなかった。

 そんな様々な理由から彼は緊張をしていた。

 

「おはようございますっ。……てあれ、君尋くんだ。一人?」

「おはよう。うん、一人」

「煙草は……まぁ吸うわけないよね。こっちどうぞー」

 

 すたすたと歩くなのはの後を追うと、四人がけのテーブル席に案内された。

 一人で座るには少し広めだがここでいいのか、と困惑の目を向けると、「いいよいいよ」となのはが笑う。

 

「まだ朝だし、そんなに混んでるわけでもないし。注文決まったら教えてね」

「えと。おススメとかある?」

 

 去ろうとするなのはを間をおかずに呼び止める。

 

「んー。朝ごはんって、まだ?」

 

 無言でうなずくと、「それなら」とメニューのモーニングの載った場所をなのはは示す。

 とりあえず席に座りながら、ふんふんとなのはの言葉に耳を傾ける。

 

「うちはABC三通りのモーニングあるけど、このへんがオススメかな? 私はAセットが好き」

「んー。じゃあAで」

「はいはい。セットのドリンク何がいい?」

「ちょっと待ってね……」

「いいよいいよ」

 

 お冷やとかおしぼり後でいいかな、と言いながらなのはは彼の対面に腰掛ける。

 

「お店いいの?」

「ふふ。ほんとは良くないんだけど、お母さんもお父さんも怒らないと思うし。忙しくなってきたら戻るから」

「ふうん」

 

 まあ店長の娘というポジションだとそういうこともあるのかな、と君尋は思った。

 

「とりあえずブレンドコーヒー、ホットで」

「はいはい。待っててね」

「うん」

 

 そうしてパタパタと歩き去ってゆくなのはの後ろ姿を見届けてから、君尋はぐるりと店内を見回す。

 確か聞いた話だと、お店の経営は基本的に高町家で回しているとかどうとか。

 バイトは雇っているが、それも多くはないとかどうとか。

 聞いた話なので正しくはないかもしれないが、その話を踏まえると、なかなか広々としたお店だなあと感じる。

 店のところどころに緑が置かれ、店内は明るく清潔で、珈琲の香りが漂っている。

 

 そんな風にしていたら、なのはがお待たせ、とお冷やとおしぼりを持ってきた。

 もうちょっと待っててね、というなのはを見送り、メニューを眺めたりぼーっとしていたり携帯端末を触ったりして、君尋は時間を過ごした。

 

(いいお店だな)

 

 空気感、といえばいいのだろうか。

 そのお店の持つ雰囲気。

 それがとても柔らかくて、何もしていなくてもなんとなく居心地が良い。

 

「お待たせしましたー」

 

 のほほんとした声で、なのはがトレイを持ってやってきた。

 美味しそうなサンドイッチと、ドリンクが二つ。

 

「あれ?」

「相席よろしいですか? お客様」

 

 ふふ、と悪戯っぽく笑うなのはに、なるほど、と思いながら頷いた。

 

「それ何?」

「豆乳ラテ。最近豆乳ハマってるんだよね」

「へー豆乳。飲んだことないや。美味しいのか」

「うん。……一口飲む?」

「……もらう」

 

 少し逡巡したもののの、普通に味が気になったので一口もらうことにした。

 

「あー。……なんといえばいいのか。すごく口の中に大豆の風味広がるね」

「うん。美味しいでしょ」

「美味しいな」

 

 それはさておき、君尋は自分が注文したものに手をつけ始める。

 手始めに珈琲の香りを吸い込んで、その後に一口。

 珈琲というのはものによってはただ苦いだけだが、彼にとって、このお店のブレンドは凄く飲みやすいものだった。

 すっきりとした苦みが、苦に感じない。

 

「……美味しいな」

「おとーさんに言ったら喜ぶね」

「お父さん……ってあのカウンターのひと?」

「そうそう」

 

 なのはがカウンターに向かって軽く手を振ると、若々しい男性がにっこりと会釈をする。

 

「……え、若くない?」

「ねー。お父さんとお母さん見てると、若作りに関しては不安感じないや」

「……すげー」

「ねー?」

 

 頬杖をついているなのはは、可愛いという言葉を当てはまるのがとても似合う女の子だった。

 綺麗や美しいという形容よりも、可憐という言葉が似合うような、柔らかい雰囲気の女の子。

 

「すずかちゃんに怒られちゃうかも」

「え、なんで」

 

 唐突に出てきた名前に、ドキッとして問い返す。

 なのはは、揶揄うような悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 

「間接キスしちゃったし」

「いや」

「それにいま二人きりでおしゃべりしてるし」

「…………」

「すずかちゃんって結構ほら、寂しがりやというか羨ましがりやというか、嫉妬深いとこあるから」

「……そうなの?」

「たぶんね。そんな気がする」

 

 アリサちゃんがそんなこと言ってた、となのはは言う。

 

「まあ私も思い当たるとこはあるし、だからそうなんだろうなーとかは思うかな」

「へー」

「でさ」

「何」

「君尋くんて、すずかちゃんのどういうとこが好きなの?」

「え」

「好きでしょ?」

「いや……」

 

 君尋は、即答できずに口ごもる。

 

「……あれ、違うの?」

 

 なのはが意外だとばかりに、目を瞬かせる。

 

「なんていうか。あんまり好きっていうのもよくわからなくて。友達の好きと恋愛の好きって何が違うんだろとか」

「あぁ。なんとなくわかるかも。私も男の子の友達は何人かいるし」

 

 でも、となのはは続ける。

 

「君尋くんのは、恋だと思うよ」

「そうかな」

 

 繰り返しになるが、感情というものは酷く主観的で、曖昧なものだ。

 だから自分が怒っていると思っていても、周りから見れば悲しんでいるようにしか見えないなどということは往々にして起こりうる。

 

「まあでもどこが好きって聞かれると……」

 

 恋愛だの友愛だの言っても、それが愛には変わりなく好意であることには変わりない。

 だから“好き”を語ることくらいはできた。

 

「目、かなぁ」

「へぇ」

「なんか、吸い込まれそうな色をしてるというか。夜空みたいだなあって思ったことがある。なんていうかさ、良くも悪くも夜が似合うなって思うんだよ。だからなんとなく、そばにいてあげられる人で在りたいとは、思う……いやごめん忘れて」

「恥ずかしがらなくてもいいのに」

 

 くすくすと笑うなのはの顔も見えず、君尋は顔を覆う。

 顔が少し熱かった。

 

「あ、ごめんね。食べて食べて。美味しいよ」

 

 君尋がサンドイッチに手をつけていないことに気付いたなのはが、どうぞと手振りをして食事を促す。

 君尋は「お言葉に甘えて」と、美味しそうなサンドイッチを手にする。

 なかなか分厚いそれを大きく口を開けてかぶりつくと、じゅわぁぁと口の中が水分で満たされるようだった。

 トマトの旨味と、レタスのシャキシャキ、ベーコンの香り。

 王道ゆえに、シンプルな美味しさだった。

 

「……美味しいな」

「でしょでしょ」

 

 我が事のように喜ぶなのはを見ていると、なんだか見ている側も嬉しくなるなぁと彼は頬をほころばせる。

 

「なのはは、将来お店継ぐとかそういう感じなの?」

「……んー。そういう風に見える?」

「えーと、まあうん。別に深い理由はないんだけど、楽しそうだったし……。何か他に夢でもあるの?」

 

 何気ない一言だったが、しかして正鵠を射る一言だった。

 

「まーあるのかなぁ。なやみちゅー」

 

 にゃはは、と子供っぽくなのはは笑う。

 

「君尋くんは? 何かあるの?」

「んー……」

「まぁ、将来とか難しいよねぇ」

「そうだなぁ……」

「ちなみにすずかちゃんは機械工学系らしいよ」

「ほー」

 

 機械工学という単語を頭のノートにメモしておく。

 別にそこを目指すというわけではないが、自分の将来の方向性を定めるときの考えの一助にはなるだろう。

 

「将来ねぇ……」

「難しいよねー」

「難しいなぁ……」

 

 サンドイッチに舌鼓をうち、珈琲の香りを楽しんで一息をつく。

 

「……仕事、戻らなくて大丈夫なの?」

「いいよいいよ。さっきオーダー通すときにお母さんに聞いたけどいいって言ってたし」

「ほー」

 

 なのはは、カラカラとグラスの中の氷をストローでかき回して、嘆息をつく。

 

「……私も彼氏ほしいなー」

「いや別にまだ付き合ってないんだけど」

「時間の問題じゃん」

「……」

「そういうのはちょびっと諦めてたけど、別にそんなこともないのかなぁ」

「諦め……って彼氏? なんで?」

「んー。まあ私もすずかちゃんも、“普通”じゃないからさ。すずかちゃんは特にね。だからかな」

「普通じゃない……?」

「そそ」

 

 ちゅー、とラテを飲んで一拍おいてから、なのはは少し悩むように話す。

 

「どういう方向に“普通”じゃないかは、とりあえず私の口からは言わないけど……心構えだけは、しておいてほしいかな」

「心構え……」

「うん」

 

 野花が咲くように、柔らかく、控えめに。

 なのはは微笑む。

 

「私の親友のこと、よろしくね」

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「最近、寒くなったよねぇ」

『うん。朝家出たとき、吐く息が白くなってきちゃった』

「お布団に帰りたくなるやつ」

『ふふ。そうだね、帰りたくなっちゃう』

 

 ありふれた世間話を、電話でしていた。

 夜。

 寝る前の、短い時間。

 ドキドキしながら、はじめての通話ボタンを押して、かけた。

 ひとたび話し始めると胸の苦しみが治り、むしろ心穏やかになるのだから不思議なものだった。

 

『ところで、今日はどうかしたの?』

 

 別に用はなかった。

 すずかの質問にあえて答えるなら、「声が聴きたくなったから」となる。

 しかしそうストレートに言うのも、日本人的じゃないよなぁと思ったりもして。

 

「月が綺麗だったから」

 

 君尋は、婉曲な言い回しを選んだ。

 

『……月?』

「うん。こう、月に叢雲って言葉あるけどさ。まさにそんな感じで、月の周りにだけ凄く雲が集まっててさ」

『…………』

「雲の向こうに透けてみえる月が、なんだか凄く綺麗に見えてさ」

『へー』

 

 かた、と通話の先で物音が聞こえた。

 もしかして空を見るために立ち上がったのかな、と彼は思って、あわてて言葉を付け足した。

 

「あー。ちょっと前のことだからもう空模様変わってるかも」

『……そうなんだ』

 

 少し気落ちしたような声色をしている……ような気がする。

 声のトーンで相手の感情を把握するなんてとはどだい無理な話で、だから推測でしか語れない。

 ひとの心、とりわけ乙女心というのは難解だ。

 女心と秋の空、なんて言葉もある。

 もう秋が終わり、冬が訪れんとする感じではあるが、冬のように澄んだ心境には未だになれない。

 

『あぁ、でも綺麗だね』

「ん?」

『空。窓開けてみたの』

「さむそう」

『さむいよ〜』

 

 ふふ、と笑い合う。

 

『ところで君尋くんって──』

「何?」

『…………んー』

「え、何」

『今夜は月が綺麗ですね』

「──」

『……の意味知ってるのかな、と思って』

「え」

 

 ぐるぐる、と思考がまわる。

 そういえばさっき俺はなんて言った? 

 

「いやちが──」

『違うんだ?』

「あのですね」

『ふふっ』

 

 悪戯っぽい声に、思わずこちらも笑ってしまう。

 

「別にそういう意図があったわけじゃなくて。いやほんと……不快にさせたらごめん」

『気にしてないよ────って言ったら嘘になるけど』

「えっ」

 

 彼女のその言葉に一安心して、次の一言でまた惑わされる。

 

『だってちょっとドキっとしたもん』

「……ええと」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

「魔法ってね、本当にあるんだよ」

 月村すずかは、夢を見る。

 夢と言ってもなんてことはない。妄想と言い換えてもいい。

 ただの普通の女の子として、ごく普通に恋をして男のひとと付き合って、キスをして。

 そんな他愛のない、どこにでもある光景を、夢に見る。

 すずかは容姿端麗で、人柄もよく、本来恋愛相手には困らない。だからそんな“普通”を夢に見る必要などないはずだった。

 

「のど、かわいたな……」

 

 だけど月村すずかは普通ではないから。

 普通でない者が普通の恋などできる道理はない。

 少なくとも彼女自身はそう思っていた。

 この乾きが、飢えが、それを証明していた。

 

 喉の渇き。それすなわち、

 

「血……。血が、ほしい」

 

 彼女が吸血鬼(特別)であることを示す、絶対的な衝動。

 

 

 

 

 

 

 夕暮れの後にやってくる、濃い青。

 そんな色合いの髪と瞳をした彼女は、手鏡で自分の髪を整えていた。

 はじめから乱れていたようには見えないし、彼女が「よし」と頷いた後でも特段変わった風には見えない。

 だけれど些細なことでも気になるのが人情というものだ。

 

 特に、好いたひととこれから逢うとなればなおさらだろう。

 

 月村すずかは、小出君尋という男の子が好きだった。

 なんで、と言われるとよくはわからないがたぶん────いややめよう。すずかはかぶりを振って、思考を消し去る。

 まぁともかく、これから逢うのだ。

 特別約束をしたわけではなかったが、なんとなくすずかが塾に行った帰りに、少し夜道を一緒に歩いておしゃべりするのが慣例になっていた。

 下心があるのはわかっている。

 だけど別に嫌じゃなかったからそのまま受け入れた。

 

「──こんばんは」

「やぁ」

 

 だけど、うん。

 最初に目が合ったすぐあと、胸元に目がいくのにはまだ慣れないなと彼女は思う。

 

(……えっちなことしたいとか、やっぱり思うのかな?)

 

 体のほてりを隠しながら、すずかはふんわりと笑う。

 女は男の視線のいく先などわかっているものだ。

 彼はバツが悪いと思うのか極力視線を向けないようにしているけれど、逆に意識しているのがわかりやすいと彼女は思う。

 そしてそんなところも可愛いな、と。

 

 そんなことを裏で考えながら、他愛のない会話をする。

 

 コンビニで買い食いをして帰るのはたまにすると凄く美味しい、とかそんな話。

 すずかはあまりそういうことをしないが、確かにたまに口にするあの雑感はきらいじゃないなぁ、と共感の頷きをする。

 人の話を聞くのが好きだった。

 誰かが笑っているのが好きだった。

 

「……そういえばそろそろクリスマスだな」

 

 上ずった声で、彼が言う。

 そんなことで緊張しなくてもいいのに、と嬉しくなる。

 だってそれは私をそういう相手として見てくれているってことだから。

 

「そうだね。もう一週間もないや。一年ってはやいね」

「だよなぁ。……えと。あー……」

「? どうかした?」

 

 彼が知っているのかどうかは知らないが、すずかはクリスマスの当日予定はない。

 なのはやアリサとクリスマスを過ごす予定はあるのだが、翠屋がイブと当日忙しいというのもあってだいたい例年二十六日にパーティをしている。

 

(……でもたぶん、知ってるんだろうなぁ)

 

 彼が翠屋に行ったといったそのときから、ちょこちょこなのはの話題がのぼる。

 どういう会話をしているとか、そんなところも教えてくれるのだけれど、結構気が合うらしい。

 

(なのはちゃんにとられるのはヤだなぁ……)

 

 大事な親友がそんなことをするわけがないと、理性でわかっていても感情はその通りには動かない。

 だから澱んだ思考が混ざって、黒に。

 苛立ちが、募っていく。

 

(お腹空いたな)

 

 ちょこっと雑談の中で食べ物の話をしたせいか、空腹をやけに強く感じる。

 

「…………クリスマスって、その、空いてたりする?」

「……」

「…………」

「……」

「……起きてる?」

「えっあ、え? ごめんねちょっとぼーっとしてた」

 

 耳は正常に機能し、だから言われた台詞は認識していた。

 ただ頭が麻痺をしていて、反応できなかった。

 

「いやごめん。なんでもな──」

「──空いてるよ」

 

 無言の否定だと思われたくなくて、あわてて返事を差し込む。

 私だって君尋くんと遊びたい。

 

「クリスマス、空いてる。ごめんね。ほんとにぼーっとしてただけなの」

「……あ、そう」

 

 呆けた顔で彼は頷いて、一拍置いた後に「え? いま空いてるって言った?」と顔を丸くして問いかけなおしてきた。

 私はもう一度口にするのも恥ずかしくて、無言でうなずく。

 

「…………」

「…………」

 

 沈黙が、恥ずかしく嬉しかった。

 どきどきと胸が高鳴る。

 ちらちらと横に並ぶ彼に視線をおくると、視線が絡んだりして、それにびっくりしてそらして少ししたあとにもう一度見るとまた絡んだりして。

 優しい、空気の色をしていた。

 

「えっと……じゃあ、クリスマスぼくとお出かけしてくれませんか」

「いいですよ。……私も行きたい」

 

 なんとなく敬語でやりとりして。

 小さく彼がガッツポーズしているのが食べちゃいたいほど可愛くて。

 

 おなかすいた。

 

 より黒く、昏く。

 感情の色が、変わっていく。

 

「…………大丈夫?」

「えと、なにが?」

 

 気付けば彼が険しい表情でこちらを覗き込んでいた。

 

「いや調子悪そうだったから」

「え……」

 

 顔がこわばっている。

 楽しい話をしていたはずなのに、どうしてか笑えていなかった。

 なんでだろう。

 気付けば、のどが異常なほど乾いていた。

 

「…………ぅ」

「っ! 大丈夫?!」

 

 脳が、震える。

 血がほしい血がほしい血がほしい血がほしい血が血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血────ッ! 

 

「うぇ……」

 

 赤い衝動が喉元までせり上がり、道端でしゃがみこんだ。

 黒く昏い心を、どんどん赤が占めていく。

 

「大丈夫。大丈夫だから……」

 

 背中をさする彼の手に涙が出そうになった。

 気持ち悪い。

 あぁ本当に。

 

 ──どうして私はこんなに汚いんだろう。

 

 普通に恋ができていると思ってたのに。

 やっぱり私は。

 無理なんだ。

 哀しくてみじめで辛かった。

 線を一本足せば《辛》いは《幸》せになるとはよく言う話で、しかしそれは逆も然り。

《幸》せは、線を一本抜くだけで《辛》いに変わるのだ。

 

「────」

 

 反射的に、彼を引き寄せて首筋に顔を埋めていた。

 彼の匂いがする、とすずかは思った。

 もう少しこの欲望が抑えられるような何かがあればいいのに、と頭の片隅でおもっていた。

 

「だ、大丈夫……?」

 

 おそるおそると、彼の手がすずかの背にまわる。

 傍から見れば、熱い抱擁をしているようであった。

 

「……」

 

 君尋は、何がどうなっているのかわかっていなかった。

 いつも通り会話をしていると思いきや、デートに誘えたと思いきや、なんだか相手の体調が悪そうで、なんだか情緒も不安定そうで。

 すべてが突発で、ついていけていなかった。

 だから彼は、優しくただ抱きしめる。大丈夫だよ、と。

 

「大丈夫だから」

 

 何が大丈夫だとかそんなの彼にもわかっていなかったが、ただ安心を相手に与えたかった。

 功を成したのかそうでないのか、彼らの距離はぎゅうぅと、ほんの少しまた縮まった。

 熱く、強く、大切に。

 抱きしめる。

 

「………………」

「………………」

 

 どくん、どくん。

 彼の心臓の音が、聞こえる。

 血が巡る音。命の音。興奮を誘って、同時にどこか落ち着く音。

 

「……もう少し、このまま」

「うん。大丈夫だよ」

 

 二人の体温が同じになったころ、すずかがそっと力を緩めた。

 顔を俯かせたまま、無言で身体を離す。

 密着して火照った部分を冷たい風が撫でていく。

 

 すずかは、笑う。

 可憐に、嫣然に、蠱惑的に。

 作った表情で、笑う。

 

「ごめんね。やっぱり駄目みたい」

 

 さよなら、と言い残して彼女が走り去っていく。

 彼は一拍遅れて追いかけるが、追い付くことができなかった。

 角を曲がった先に、もうすでにいなかった。どこかへ飛び立っていってしまったように、瞬間移動したように。

 

 彼の胸の中に、困惑と焦燥、そして罪悪を残して──月村すずかは姿を消した。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 放課後、人気のないところで通話をしている。

 

「それで、学校に来なかったってことだったけど」

『うん。今日は休みだったよ』

「……心配だな……」

『えぇと、もう一回聞きたいんだけど昨日の夜何があったの?』

「……」

 

 あまりにもすずかの様子はおかしかった。

 だけど彼一人では何が何だかわからなかった。だからすずかと親交が深く、かつ君尋が話しかけやすいなのはに相談をした。

 なのはにはすでにある程度好きだとかどうだとかいうぶっちゃけた恥ずかしい話をしていたので、彼にとってはすずかのことを相談しやすい相手になっているのだ。

 

「いやうん。昨日あったことって言っても、よくわからないんだけど……──」

 

 ぽつぽつ、と彼は昨日あったことを一つ一つ思い出しながら語っていく。

 とりあえず時系列順に、全部。

 君尋にはちんぷんかんぷんでも、なのはにならわかるかもしれないと期待を込めて。

 

 まずいつも通り逢って、他愛のない会話をしたこと。

 デートに誘ったこと。

 了承を得たと思ったら、すずかが気分悪そうにしてうずくまったこと。

 抱きしめられたこと。

 そのあとに走り去っていってしまったこと。

 

 電話越しに、なのはに全部話した。

 

「って感じだったんだけど……よくわかんなくて。俺が何かしちゃったのかなって……」

『女の子の日だったんじゃない?』

「……」

『ま、まぁ冗談はさておき……でも実際、あながち的外れでもないと思うんだよねぇ』

「……女の子の日?」

『そうそう。……で、このあたりは、私だけじゃなくてアリサちゃんもいたほうが絶対いいんだよねぇ』

 

 私に頼ってくれたのは嬉しかったけど、となのはは言う。

 

『とりあえず、私とアリサちゃんと君尋くんの三人で会ってみよう?』

「今から? いいのか?」

『うんアリサちゃんもまだ教室いるし────……いないし……?』

「いない」

『いなくなってる』

 

 あはは、と電話の向こうでなのはは苦笑していた。

 

 

 

 

 

 

 高町なのはは、情に厚い優しい女の子である。

 しかし同時に自主性というものを一般のそれより深く重んじるところがある。

 ゆえになのはは、二人の間で問題が起きたのなら二人が解決するべきだと考えるし、深くそこに手出し口出しをするべきではないと考える。無論、相談には乗るだろうが。

 

 アリサ・バニングスは、情に()い優しい女の子である。

 バーニング・アリサ。

 そんな揶揄をされるくらいには、アリサ・バニングスという女は情熱的である。

 例え当事者ではなくとも、自分が関与していい方向にまわると思うならばガンガンに口出しするし、そもそも友達の問題は自分の問題に等しい。

 

 その些細な思考の差が、なのはとアリサの行動を分けた。

 なのはは君尋の話を腰を据えて聴こうとし、アリサはまずすずかに会おうとした。

 どちらが正しいとかそういう話ではなく、二人のちょっとしたスタンスの話。

 

「すーずーかー」 

 

 月村邸、上品な装飾が施された廊下、その一つの扉の前でアリサは室内にいるすずかへ呼びかけていた。

 こんこんこん、とノックを三回。

 そしてまた「すずかー?」と呼ぶ。

 ガンガン叩いてやろうかとアリサが思案し、手を振り上げたあたりで、中からぱたぱたと足音が聞こえた。

 

「そんなに何度も呼ばなくても聞こえてるよ」

 

 ふふ、と柔らかい笑みを浮かべたすずかは、いつも通りに「入って」とアリサを招いた。

 

「ふーん。なんか軽く耳にした話だと彼氏とモメたとかどうとかだったけど、意外と元気そうね」

「モメたって……どこから聞いたの、それ」

「なんかなのはが君尋と電話してたの横で聞いてたの。内容は知らないけど」

「えぇ……」

 

 主に君尋が話し、それになのはが相槌を打つ形式の電話だったから、本当にアリサが知っていることは何もないと言っていい。

 ただ、“何かあったらしい”とそれだけがわかっていることだった。

 すずかはそんなアリサに、ちょっと引きつつ、アリサちゃんらしいなぁと苦笑する。

 あとついでにまだ彼氏じゃない。

 

「それで、何があったの? なんかされたならしばき倒してやりましょうか」

「……んー。何があったって言われると正直何もなかったんだけどね」

「ふうん?」

「……なーんて言ったらいいのかなぁ」

「下手に虚飾で塗り固められても困るんだけど。思ったことをストレートに言いなさいよ」

「わかってるけどー……」

 

 すずかは照れたように、悲しむように、微笑む。

 アリサは真剣に、けれど近所に散歩へ行くような気楽さで話を聴いていた。

 

「私って……その、体質がちょっと変わっているでしょ?」

 

 月村すずかが自分を“夜の一族”であると堂々と語ることはない。

 自身なさげに、忌避するように、逃避するように。

 目を泳がせて、自分は少し変わっている、としか言うことができない。

 

「血が吸いたいって、思っちゃったんだよね」

「ふうん。そっか」

 

 なんだそんなことか、とは言わない。

 すずかにとっては大事なこと。

 アリサにとっては「なんだそんなことか」ということではあっても、親友にとってはそうではないから、言わない。

 あるいは十年前のガキだったころのアリサなら口にしたかもしれないが、今のアリサがそのようなことを軽率に口にすることはない。

 

「それで?」

「それで、って……」

「なんでそんなに、暗い顔をしてるのってこと。大事なのは、そこでしょう?」

「それは……」

 

 すずかは、心中を吐露したら怒られそうだなと思った。

 そして同時に、言わなくても怒られそうだなと思った。

 ならいいか、と思って全部素直に話すことにした。

 

 

 

 

「────────」

 

 

 

 

 一人の男の子を好きになったこと。

 なんとなくむずがゆかったけど、嬉しかったこと。

 好きになることが怖かったこと。

 吸血衝動が、日に日に強くなっていったこと。

 昨日、抑えが利かなくなったこと。

 すずかはゆったりと語った。

 

「怖いのね」

 

 すずかの話を聴き終えたアリサは、端的にまとめた。

 

「……うん」

 

 月村すずかはマイノリティである。

 永遠にマイノリティである。

 彼女は人間ではないからだ。

 彼女は本質的な意味で多数派になることはない。

 それが心のどこかで怖かった。

 月村すずかが読んでいた本では、人間でないくせに人間社会に混じっていた人外は、周りにバレたら『多数派の人間達』に殺されていたからだ。

 ぼっちだとか、引っ込み思案だとか、そういう改善可能な人間の悩みとは違う。

 自分の中に流れる血は、どうやっても変えられない。

 彼女は人外のまま。

 それが怖くて、恐ろしかった。

 

「私は、嫌われるのが怖いの。傷つきたくない」

「馬鹿ね」

「なにが」

 

 すずかは、ややむっとした表情で尋ねる。

 

「別にいいっちゃいいけど。どうせ私たちの周り全員行き遅れる気がするし」

「え、何の話?」

「誰が一番はじめに結婚するかみたいな話?」

「なんでそうなったの?」

 

 急な話題の方向転換に、すずかはぽけっとした顔になる。

 

「いやほら、嫌われるのが怖いとか言ってたら新しい関係作れなくなるじゃない? 一生独身になるじゃない? まぁ結婚できない女は不幸せだなんてそんな論理あたしはどうでもいいと思ってるけどさ、すずかは割とメルヘンだし結婚したいでしょ?」

「メルヘン……」

「脳内お花畑でもいいけど」

「えぇ……」

 

 リアリストとロマンチスト、どちらに分類すると言われたら月村すずかは満場一致でロマンチストだろう。

 

「背中なら押してあげる」

 

 ぎゅ、っと。

 アリサは距離を詰め、すずかを優しく抱擁した。自分の胸元に、相手の頭部を包むように。

 

「つらいことがあったら駆けつける。抱きしめる。そのときはまたお茶をしましょう。別にすずかだって、もう今更、あたしに嫌われるだなんてそんな馬鹿なこと思ってはいないでしょう?」

「……うん」

 

 似たようなことを、昔アリサに吐露したことがあったことを思い出す。

 自分を月とすれば太陽のような少女。

 彼女の近くにいれば、多くの人達が話しているところに混ざれた。

 マイノリティな私が、マジョリティな輪の中にいるように感じられた。

 活動的でも積極的でもない自分が、多数派の一員であるように感じられた。

 月村すずかがアリサ・バニングスにすり寄ったのは、打算が理由にないと言えば嘘になる。

 それがずっと、後ろめたくて。

 一緒に居れば居るほど。

 楽しいと思えば思うほど。

 優しくされれればされるほど。

 笑顔を見れば見るほど。

 月村すずかの胸の内には、罪悪感が降り積もって、耐えられなくなっていって。

 中学に上がった頃に、すずかは自分の身の上をアリサに打ち明けた。

 嫌われるのも覚悟で。

 怒られるのも覚悟で。

 ここで関係が終わるのも覚悟で。

 言わずにはいられなかったから。

 親友に隠し事をしていることも、本当の自分を親友に分かってもらえていないことも、耐えられなくなったから。

 

 けれどもアリサは、なんてこともないように受け止めてくれて。

 

 ──じゃあ、私の一番の親友っていう素晴らしい席には、人間ごときじゃ座れなかったってことね。よかったじゃない。

 

 そう言ってくれたから。

 アリサ・バニングスと月村すずかは、今日も互いに対して、一番の親友で居られている。

 

「そうだね。そうだった」

「あのときと同じでしょう? まぁ、あの男にあたしほどの器があるかどうかは疑問だけどね」

「ふふ」

 

 彼ならどうだろう。

 君尋くんは、本当の私を知って、どう思うんだろう。

 そう考えて、いまだいぶ前向きになってるな、と自覚する。

 

「ありがとう、アリサちゃん」

「いいってことよ」

 

 

 

 

 

 

 そして同刻、喫茶翠屋にて。

 

「うーん……」

「どうしたの?」

「いやうん。アリサちゃんがすずかちゃんのほう行ってるってなると、あんまり私が動く必要もうないかなーって気がしてきたんだよね」

「えぇ……?」

 

 ふぅ、と憂いを帯びた目で、なのははカフェオレをちゅーちゅー吸っている。

 

「あの二人はひときわ仲が良いからね」

 

 彼女たちは、全員が全員、善人である。

 だから致命的なものにはなっていないし、そもそも問題として意識している子もいないが。

 なのは、フェイト、はやてという魔法の世界へ旅立った者たち。

 アリサ、すずかという日常に居続けた者たち。

 その二種にはやはり決定的な違いがあって、分かり合えない部分が種々存在していた。

 日常に帰ってきたなのはとて、やっぱり少しアリサやすずかとはすんでいる世界が違うと言える。

 

「まぁ、とりあえずさ、君尋くんはすずかちゃんの情緒不安定さの原因が気になっているんだよね」

「情緒──いやうんまぁそうなるのか」

 

 あまりに直球な言い方にたじろいでしまったが、そう、君尋が知りたいのはそこだった。

 普通に会話をしていただけなのに、どうしてすずかは「ごめんね」などと言ったのか。

 それが気になっていた。

 

「で、なんだけど……とりあえず原因には心当たりあるんだけど、ただの推測だし、当たってても私の口から言うことじゃないって話になるんだよね」

「うん」

「だから、私から言っておくのは一つだけ」

「……」

「君尋くんって、魔法とか信じる?」

「え?」

 

 あまりにも想定外な問いに、呆けてしまう。

 

「魔法?」

「そう、魔法。異世界とか、幽霊とか、妖怪とか、死後の世界とか? なんでもいいけど、ファンタジーなこと。この世界にあるって思う?」

「えぇ……? わからないけど、あったほうが、楽しいと思う、かな?」

「そ」

 

 魔法を見せるわけではない。ただの他愛のない問い。

 だけどこれで、君尋の脳に空想的なものに対して思考する余地が生まれるだろう。

 

 

「魔法ってね、本当にあるんだよ」

 

 

 それを覚えておいてほしいと、なのはは思った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ひとつ、私の秘密を教えてあげる。

 彼女と逢うのは夜が多い、と君尋は思った。

 統計的に見るなら、割合的に頭抜けて多いわけではない。

 最近そういう機会が少し続いていたから、そんな風に感じただけだった。

 

 だけれど、夜の一族と呼ばれる彼女と対話をするならば、夜以外にはあり得ないのもまた事実。

 だからいまこうして、夜という時間に逢っているのは、偶然ではなく必然だった。

 

「お、お邪魔してます……」

「いらっしゃい」

 

 君尋の視線は、泳いでいた。

 まず同年代の女子の部屋に入るとか何年振りだ? という話で、そこに好いている相手という条件を足すと生まれて初めてという話になる。

 

「…………」

「……? どうかした?」

「いやっ、猫、いたなーって」

「あぁうん。言ったことなかったっけ。うち猫飼ってるんだ。……アレルギーとか、もしかしてある?」

「ないです……」

 

 まず敷地の広さに驚いて、メイドという存在にこれまた驚いて、屋敷の豪華さに驚いて、女の子の部屋着とか部屋の感じにときめいていた。

 いやもうなんていうか、それ以外にもいろいろ緊張があったのに加えて、その破壊力。

 君尋の精神はもう限界に近かった。

 

「とりあえず座って座って」

「あ、うん」

 

 ぼーっと突っ立っていたところを、ソファへ座るように促される。

 もふん、と。

 お尻が沈み込む感覚に、感動の声をあげそうになる。

 やわらかい。

 細かなことにちくいち動揺しつつ、挙動不審なのは格好が悪いので、君尋は表に出ないように無表情を心掛けていた。

 まぁ、表情をごまかすのは笑顔がベストだというのはよく言う話で、つまり無表情なんてのは感情を隠すのにあまり効果はないのだが。

 

「お茶、もらってくるね」

「あ、うん」

 

 放っておいたらメイドさんがこの部屋に持ってきてくれそうなもんだけどな、と思いつつすずかの背中を見送って、君尋は部屋の中に一人になった。

 柔らかなソファ、向かいにローテーブルがあり延長線上にテレビが置いてある。

 ぐるりと視線を回すと、壁一面の本棚が見える。シンプルながら洒落た木製のそれが部屋の雰囲気をぐっと大人っぽくし、本棚の上に飾られたぬいぐるみたちが部屋の雰囲気をぐっと少女的にしている。

 とりあえず本当に、でかい。

 ここは本当に同年代の女の子の部屋か? というほどにでかい。俺の部屋の倍くらいだなと思いながら、カチコチになって座して待つしかできなかった。

 

「お待たせー」

「あ、はい。いえ、全然」

「そんなに緊張しなくていいよ」

「いや……うん。はい」

 

 ふふ、と柔らかな笑みを浮かべるすずかは余裕そうで、それがどうにも情けなかった。

 

「あ、今更だけどハーブティー平気? ローズヒップ淹れてきちゃったんだけど」

「……飲んだことがないから何とも。たぶん平気」

「ごめんね。最近よく飲むから無意識で淹れちゃってて。一応蜂蜜も持ってきたから、酸っぱかったら足してみてね」

「酸っぱいんだ」

「うん。結構酸っぱい。なんだろ……うーん、まぁレモンとかの系統の酸っぱさ、かなぁ……?」

「へぇ」

 

 カチャ、とトレイを対面のローテーブルに置き、そのまますずかが君尋の隣に座る。

 ぎゅむ、と。

 ソファが沈み、その振動がこそばゆく、彼女から甘い香りがした。

 いつもすずかは可憐で、いい匂いがするのだけど、今日はやけに意識をしてしまう。

 だって月村さん、部屋着が結構ゆったりめ。改めて見ると、改めて見なくても知っていたがこの女胸がめちゃめちゃでかい。

 意味がわからんな……と彼は思っていた。

 

「男の子は自分で買ったりしないイメージだけど、お母さんが買ったりしない? 結構美容によかったりとかで人気あるけど」

「……あーっと。なんか母さんが昔飲んでたような気もしなくもないような……」

「ハーブティー?」

「…………あぁ、ルイボスティーかな」

「ルイボスかぁ。あれもおいしいよね」

「すぐに飲まなくなっちゃったな。なんでかは知らないけど」

「そうなんだ」

 

 すずかが淹れてきたローズヒップは、赤いことが一目見たときの特徴だろうか。

 赤く、紅い。

 紅茶のそれより鮮やかな“赤”は、見るだけで綺麗だという印象を受ける。

 カップがお洒落なのも相まって、これだけでお高いお店でお茶をしているような特別感だった。

 

「いただきます……」

「どうぞ」

「あ」

 

 酸っぱ、と君尋は思った。

 

「どう?」

「いや、おいしい。想像以上にほんとに酸っぱくて、びっくりした。なんか、お茶って感じしないね」

「まぁハーブティーってそういうものだしね。私は結構気に入ってるんだ」

 

 自家栽培もしてるんだよ、と笑うすずかに、それは凄い、と相槌を打つ。

 

「たぶんはじめてだとやっぱり酸味に慣れないとは思うんだよね。酸っぱいのが苦手じゃないなら大丈夫だとは思うんだけど……」

「へぇ」

 

 そう言いながら、すずかはハニーポットから自分のカップに蜂蜜を加える。

 お茶と蜂蜜を混ぜ合わせるその姿も、どこか麗しい。

 よかったら試してみて、というすずかの声に従って、蜂蜜をいれてくるくるとかき混ぜる。

 

「…………あーなるほど」

「柔らかくなるよね」

「なるね」

 

 暖かいお茶で体が温まって、頭の中も、リラックスしてきたようだった。

 そうして、自然と思考を切り替える。

 すなわちどう話を切り出すのがいいのかな、と。

 

 そもそも、ここに来たのは、なのはと話をしてそのままの流れで、だ。

 つまるところ「何がごめんねだったの?」という話をしに来たのだが、それは相手の心に踏み入る行為に等しい。

 繊細で、驚くほど複雑な人の心。

 どうしたって、慎重にならざるを得なかった。

 

「…………」

「…………」

 

 少しの間、お茶を飲むだけの時間が流れる。

 そういえば、と君尋は考える。

 魔法とはなんだろうか、と。

 なのはが言っていた、「私もすずかちゃんも、“普通”じゃないからさ」と言っていた言葉の意味。

 そして、「魔法って本当にあるんだよ」という言葉の意味。

 

 もしかして、魔法使い?! 

 

 という思考をして、そんなわけないか、と即座に自分で否定しようとして……「いや、そういうこともあり得るのかな」と再び思い直す。

 世の中の怪奇現象というのは、未だに解明されていないことも多い。

 数ある幻想の理屈を、科学で説明することができてしまう現代だから忘れてしまいがちだが、科学は全知ではなく、まだまだ途上だということを知らなければならない。

 だからそう、魔法という科学もあるいはあるのかもしれない、と君尋は思った。

 それは的を射た思考で、なのはが願った通りの思想の拡張だった。

 だけれど、彼の隣にいるのはそれとはまた別のもので、そこまでは思い至らない。

 

「……ねぇ」

「ん?」

 

 沈黙を破ったのは、すずかだった。

 

「なのはちゃんと会ってたって聞いたけど、何話してたの?」

「あー、えー。……魔法ってあると思う? とかそんな話」

「そうなんだ」

 

 へぇ、とつぶやくすずかの声色は意外そうだった。

 

「それで、それだけ?」

 

 君尋は、言うべきかどうか迷ったが、ここで嘘を吐くことに意味はないと思った。

 

「……ええと。“私とすずかちゃんはちょっと特別だから”……的なことを言ってた」

「へぇ」

「俺のいまんところの他愛ない妄想だと、なんか二人とも魔法使いなんじゃないかなとか思ってるんだけど……」

「……んー」

 

 なんと言ったものか、とすずかは困っていた。

 半分正解半分不正解。

 だけどまぁ、自分はそんな上等なものじゃない、という自己否定的な思いがやっぱりあった。

 

「…………私の秘密、知りたい?」

「……知りたい」

「そっか」

 

 すずかはローズヒップティーを口に含みながら、視線を明後日のほうへと向けていた。

 実のところ、彼女は酔っていた。

 無論お茶にお酒が入っているとかそういうことではなく、場の空気に、隣にいる相手に、酔っていた。

 微笑みの下にどくどく高鳴る興奮を隠しながら、すずかはお茶を飲んでいた。

 

 秘密にしておきたいという思いと、自分の全部を知ってほしいという思いがせめぎ合う。

 

 冷静に考えるなら、理想を思うなら、これからを願うなら、自分のことを打ち明けるという選択肢以外はあり得ない。

 黙っておいて関係を続ける、というのは、つい先日衝動が激しくなったことを思うといささか難しい点がある。

 

 だけど。

 

 感情というものは、頭の中に描いていた理想通りには動かない。

 理性を超えた感情を止めることなんて誰にもできないのだ。

 

「……あのさ」

 

 逡巡しているすずかを見かねて、君尋が口を開く。

 

「別に俺は、君の秘密がどうしても知りたいってわけじゃないんだよな」

「……」

「正直まだ会って日も浅いし、秘密を教えてもらうとかいう関係かと言われるとどうなんだというのも思う。いやまぁ、仲良くなりたいという気持ちに嘘はないんだけど、別に一足飛びでそうなりたいわけじゃないし、だからつまり、そう……」

 

 なんていえばいいかな、と君尋も明後日の方向を眺め始める。

 天井にはシミもなく、綺麗だ。

 

「つまり、俺は君のことが好きなんだ」

「はえ」

 

 色々考えこんだ末に出てきた、本音の言葉。

 

「好きなんだ」

 

 なんで、とか、どこが、とか。

 そんな装飾の言葉はなかなか出てこなかった。

 

「……付き合ってください」

 

 すずかは放心していた。

 一拍遅れて、迷いが生まれて、迷って、迷って、迷った結果。

 

「…………はい」

 

 頷いて、そして、思い出したかのように、溢れるように、ずっと言いたかったことを口にする。

 

「あの、昨日はごめんなさい。別に貴方に何かあったわけじゃないの。私の、私の感情の問題で。貴方のことは私も、好きです。……ただ」

「別に言いたくないならいいんだ」

「知ってほしいとは思ってるの。でも怖くて」

「……」

「私は貴方に嫌われたくない」

 

 嫌われたくないという心の底からの本音の言葉は、重かった。

 小さい声であったのに、ずん、と空気を震わせる。

 

「あまり俺は、無責任なことを言うのは好きじゃない」

 

 真面目な言葉だったから、真摯に対応するべきだと思った。

 情けないし口にすべきでもないことかもしれないが、それが本音だったから。

 

「自分の好きなひとが何をしてても好きで在り続ける自信はない。殺人癖があるとか言われたら素直に引く自信があるし、放火が趣味とか言われても困るし……そう、俺は君のことをまだ全然知らないんだよな」

 

 だから、と言葉を続ける。

 

「これからもっともっと好きになっていきたいので、君のことを教えてください」

「はい」

 

 じゃあ、とすずかが口を開く。

 

 

 ──ひとつ、私の秘密を教えてあげる。

 

 

 なんだろう、と君尋が思う間もなく、甘く重さが体に乗って、気付けば唇が合わさっていた。

 月下美人が花開くように、穏やかで芳潤なやさしい時間。

 やがて、花が閉じるように、二人は唇を離した。

 

「私、こういうことばっかり考えてるの」

 

 先ほど口にしていたローズヒップのように顔を赤くしながら、すずかが言った。

 どく、どく。

 二人の心臓が早鐘を打って、そして、手が絡む。

 二人ぶんの体重が一点に集まり、ソファが一層沈み、言葉を交わす代わりに二人はまた唇を重ねるのだった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 十二月二十五日、クリスマス。

 十四時過ぎ、月村邸にて。

 

「二匹くらいなら乗るかなあ」

「ぐえー」

 

 君尋とすずかは、猫と戯れていた。

 ソファで横になっている彼の上に、彼女は次々に猫を乗せていっている。

 乗せたそばから降りていく子、居座る子、リアクションは猫によって様々だった。

 

「でも本当によかったの? クリスマスにこれで」

「それはこっちの台詞なんだよな」

「私は楽しい」

「ですよね」

 

 きゃー、と無邪気に笑うすずかを見ているだけで嬉しくて、君尋としてはそれ以上はなかった。

 先日、クリスマスイヴにもイルミネーションを見に行ってタピオカ飲んでプレゼント交換をして──というようなデートをした。そして、二日連続そういうことするのもなぁ、ということで室内でゆっくりすることになった、というのが簡単な経緯になる。

 

「……? どうかした?」

「……いや」

 

 すずかは今日も可愛いな、ということを思っていただけだった。

 

「まあなんというか……その髪型、なんとなくむず痒いなぁって」

「いやならやめるけど」

「そのままでいてください」

 

 そっかぁ、とすずかは笑いを含んだ声で答えた。

 サイド編み込み、ローポニー。

 君尋は女性の髪型について多くは知らないが、彼女いわくそういうものだった。

 普段すずかが好んでするカチューシャスタイルを、今はしていない。

 先日、彼がヘアゴムをプレゼントとして送ったときに「好きなヘアスタイルとかあるの?」と聞かれて、しどろもどろに答えると今のようになったのだった。

 まあなんともこっ恥ずかしいものだが、可愛いので可愛い。

 

「ところで君尋くんって、アメジストの石言葉とかって知ってるの?」

「え」

「このゴムについてるの、アメジストだよね。たぶん合ってると思うんだけど」

「あ、はい」

「やっぱり」

 

 すずかは自分の結んだ髪に触れて、ふふ、と笑っている。

 

「アメジストの石言葉、知ってる?」

「…………」

「知らないなら、教えてあげるね」

 

 パクパクと口を開閉していると、すずかが続けてそう言った。

 無論、彼が知らないわけがないのだが。

 

「愛の守護石──だって。素敵だね?」

 

 横になった彼の耳元で、脳をとかすように彼女がささやく。

 びくりと彼が震えて、拍子に上に乗っていた猫さんが鳴きながら床に降りる。

 

「…………」

「…………」

「ささやき声やばい……」

「そうなの?」

 

 重石もなくなったし、と君尋は上体を起こして、あらためてすずかと向き直る。

 

「ぞわぞわーってする」

「いやだった?」

「もっとやってほしいくらいですはい」

「……」

 

 へぇ、とすずかが相槌を打ちながら考えこみ、それならやってみたいことがあるんだけど、と微笑みを浮かべる。

 

「なに?」

「耳かき、してみたいなぁーって」

「……」

「いや?」

「……いえ、あの、ぜひ。積極的にやっていただけるとこちらとしても助かります……」

 

 じゃあ耳かきとってくるから待ってて、と彼女はみーみーにゃーにゃーと鳴き声が満ちる部屋から出て行った。

 後ろ姿、髪には紫色の石がついていた。

 愛の守護石とも呼ばれる、愛と慈しみを誠実に守る、誓いの石。

 

「恋人が可愛すぎてつらい……」

 

 彼は、扉が閉まるのを見届けてからそう一人ごちたのであった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

恋出づる日々に君を尋ねる

 一番寒い時期って、いつだろう。

 その答えはその人の判断基準にもよるだろうし、住んでいる場所にもよるだろうし、年度にもよるだろう。

 ただ。

 寒い、というのは、体だけの問題ではないと思える。

 いやまぁもちろん、基本的には体の問題であるし、生物としての活動における感覚の話でがあるのだが。

 心がさむい、と。そんな言い回しをすることがある。あるいは、財布がさむい。

 小出君尋はいま、いろんな意味でさむかった。

 

「うぅ、さっむ……」

「それなオブそれな」

「こんな早く起きるの久しぶりだったけど、めちゃくちゃ寒いな……?! 夜より朝のほうが寒いんじゃないの……」

「あーまぁそうだろうなぁ」

「歯がカチカチ鳴ってるんだけど……」

「それ」

 

 早朝、朝五時。

 君尋と佐藤は、人気の少ない駅のホームに並んで立っていた。

 年末の短期バイト。

 懐がさむい学生は、やはり年末年始も遊んではいられない。

 彼らは共に同じバイトに申し込んで、これから現場に向かわんとしているところだった。

 閑寂なホームで吐く息は白く、彼らはふたりとも、肩をすくめたりポケットに手を入れたりと身を縮こまらせていた。

 

「……寒い」

「だな」

「おうち帰ってこたつの中でお蜜柑が食べたい……」

「地球温暖化作戦を決行に移すときがきたな」

「やりましょう、佐藤さん」

「ああ!」

 

 他愛のない話。

 地球温暖化を進めるためにはどうすればいいか、なんていうことを空想スケールで話していた。

 まず屋外に冷暖房を設置することで寒暖差をなくすところから、とか。

 宇宙服のような身体を包むようなハイテク服で、ベストな状態を保てるようにすればいいんじゃないか、とか。

 半分以上地球温暖化が関係なくなってきているが、話題というのは常に移り変わっていくものだ。

 思っていること、その場で感じたこと。聞きたかったこと。

 

「ていうか、彼女と年末過ごすとかそういうのはいいのか?」

「……は」

「いや、お金がほしいとか……まぁそれ以外もだけど、そういうの聞いてたらわかる……っていうかいました質問で確定させたんだけど、やっぱできたんだな」

「……まぁ」

「月村?」

「……」

「わかりやすいなぁ、君尋」

 

 佐藤が何を見て、どこからどう判断したのかは君尋には見当もつかなかった。

 そんなにわかりやすいか、と彼は自分の頬をぺたぺた触れて、そして「そういうところだよ」と苦笑される。

 

「デート費用目的?」

「恋愛って、何かと物入りだから」

「まぁなぁ」

 

 交通費や食費……場所によっては入館料も必要になってきて、そもそもその前に服飾費なんかも発生する。

 君尋は読書や散歩など、比較的お金のかからないことを趣味としていたからこれまでなんとかなっていたが、やっぱり今後のことも考えると定期的な金銭の調達は必要だった。

 

「君尋だけならお金なくてもいくらでも遊べるのにな」

「んー。まぁす──月村もお金かけなくても遊べるタイプには見えるけど」

「ふうん?」

「付き合う前だけど歩くだけとか電話するだけでデートとかほとんどなかったし……」

「んじゃあ無理せずバイトなんてせずに年末一緒に過ごせばよかったんじゃねえの?」

「あー。家族旅行で海外いくんだって。お姉さんがドイツにいるから会いに行くとかどうとか」

「ほーん。……海外に家族いるって、すげぇな」

「よね」

 

 寂寥感のにじむ声色で、君尋はうなずく。

 空気の冷たさは肺となじんで、もう吐く息も透明になっていた。目に見えない、というのは少し寂しい。

 

「てなると年末は俺とパーリーってことか」

「パー……? え?」

「バイトもちょっとは楽しいほうが嬉しいもんなぁ。嬉しいよ」

「あぁそれね。俺もだいぶ安心してる」

 

 ぱーりーってなんだろう、などと思いつつ、頬を緩ませてうなずく。

 お金がほしい、と君尋が思ったのははじめてのことだった。

 お年玉、お小遣い。

 親からもらえるささやかな額で、彼には十分だった。図書室で本を借りればお金はいらないからだ。

 

「勤務予定時間と時給からもらえるお給料計算とかしてるんだけど、やっぱり働くとお金ってもらえるんだなと思うとちょっと感慨深いよね」

「あー。初任給何に使うとか決めてる?」

「ん? あぁ……ケーキ買って帰ろうかなとかは思ってるけど」

「うわ……」

「え、なに」

 

 佐藤の眉根をひそめた表情に、君尋も眉をひそめる。

 いい子ぶってるとか思ってるんだろうな、と。

 

「お金がほしい理由が他人っていうの、なんていうか“らしい”よな」

「いや別に……ほら、親の機嫌ってとっといて損はないし。遊ぶ金ほしさでバイトしてるのをそういう風に言われるのはちょっと」

「でもお前本人はお金なんてなくても平気なタイプじゃん? 他人に合わせてお金を用意するのを遊ぶ金ほしさって言うのはなぁ」

「……」

 

 なんだか、無性に癇にさわって、口を閉じてしまう。

 

「怒るなよ」

「……別に」

 

 なぜ苛立っているのかわからないのが、苛立ちを呼び込む。

 

「別に他人本意に生きてるつもりはないし、自分のためにやってるつもりなんだけどな」

「まぁ君尋がそう言うならそうなのかもしれないけどなー」

「……そんな無理してるように見える?」

 

 無理してる、と自分の口から出た言葉で、苛立ちの理由がすとんと胸に落ちたような気がした。

 

「無理……? 無理なぁ」

「たぶん。無理をするのってあんまりよくないとは思うんだよ。無理をしてる状態って長くは続かないし。だからつまり、いまの俺が無理をしているように見えるっていうなら、ちょっと破綻してるのかなぁとか」

「え?」

「え?」

 

 苛立ちの理由は、それを指摘されたように感じたからだった。

 それを言語化して口にすると、佐藤はびっくりしたように目を丸くしていて、こっちも困惑してしまう。

 

「いや……そこまでのことを言ったつもりはなかったんだけど……君尋そういうところあるよな……。めっちゃ考えるじゃん。ごめん」

「え……ごめん……」

 

 若干気まずい感じの沈黙が下りて、一拍したあとに、二人して笑いはじめる。

 

「まぁでも俺が感じた不安ってのもそういうことなのかもな。ほらよく言うだろ、初恋は実らないみたいな奴。たぶん君尋が言ったようなことなんだろうな。相手に合わせてちょっと無理をして、そこから破綻していくみたいな」

「あーうん……」

 

 どうすればいいのかなぁ、とぼやくと、佐藤は「そうだなぁ……」と言葉を続ける。

 

「まー、まずリラックスして話せるかどうかとかじゃないの? どうなんだ? 月村って超絶お嬢様だし話が合わないみたいな気はしなくもないんだけど。ポテチとか食べなさそう」

「あー食べなさそう」

「やっぱ?」

「そんな気はするなぁ」

 

 まぁでも、と。

 

「話が合わないっていうようなとこまでは思ったことないけど、なんとなく波長? は合う気がするし。ただまぁ、やっぱ何話せばいいかとかはたまに迷う」

「ほーん」

「何が好きで何が嫌いとかいまいちよくわかってないもんなぁ」

「はーん」

「……」

「……一個思ったこと言っていい?」

「どうぞ」

「……ふむ。君尋(きみひろ)って(きみ)(たず)ねるだよな?」

「? うん。そう書くね」

「…………」

「……?」

 

 あごに手を当て、熟考する佐藤を横目に『電車もうすぐ来るな……』と君尋は思っていた。

 

「……やっぱり、大事なのは相手を知ることじゃないか? 君を尋ねる。君尋。お前はお前の名に込められた意味の通り、行動すればいいんじゃないかな」

「……っ」

 

 君尋は驚いて、目を丸くした。

 

「そんな綺麗などや顔、生まれて初めてみた……」

「どや」

「でも一理あるな」

「だろ」

「言いたかっただけだろという言葉は呑み込むことにします」

「そうしてくれ」

 

 電車が来て、彼らは電車に乗って、「暖房ってすばらしい」と車内環境を褒めたたえた。

 地球温暖化作戦はいったん中止になり、世界の平和は守られたのだった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 初詣に行こう、と彼女から連絡がきたのは一昨日のことだった。

 連絡がきたのは十二月三十一日。

 一月二日。新年をむかえた次の日に、一緒に行こうと。

 すずかがドイツにいたのは二十八日から三十一日までのこと。フライト時間等も考慮すると、かなりタイトなスケジュールだった、らしい。メッセージアプリで、『疲れた~』とこぼしていた。

 なんにせよ、彼女と会うのはクリスマス以来だ。日にちにして八日。なんだかんだ年末というのは忙しくて、体感としては二日三日ぶりくらいのことに感じる。そしてだからこそ、彼にとってもっとも長く感じるのは、彼女を待っているいまこの瞬間だった。

 

 一月二日当日、彼はとある公園の噴水のふちに腰掛けて、彼女を待っている。

 

 月村すずかと並んでも見劣りしないようにと、少し背伸びをして買ったグレーのロングコート。

 クリスマスに彼女からもらった、夜空に少し似た青色の、上品なマフラー。

 なんだか少し大人になったような気がして、でも大人になった気分になるのは子どもだけなんだなぁ、なんて。

 

 自分よりずっと大人びた少女に、つり合う気がまるでしなくって。

 

 時間が経つのが、ただただ、遅い。

 

「ごめん。待った?」

「いや、うん。さっき来たとこ」

 

 待ち合わせ時刻は、午前九時。

 現在時刻は八時を少し過ぎたところで、待ち合わせ時刻まで約一時間もある。

 すずかは、袖口にファーのついた白のコートに落ち着いた緑のロングスカートを着ていた。髪は、以前彼が好きだと言ったそれになっている。サイドを編み込んだローポニー。

 大人っぽさと可愛さが調和していて……きれいだな、と思う。

 

「……」

 

 そういえばこういうときって服装褒めたほうがいいのかな、とまじまじと彼女を見つめながら思っていると、彼女が照れたように前髪に触れて、はにかむ。

 

「えーと、あのね、その。着物きてこようかなーとかもちょっと思ったんだけど、私だけ背伸びしてる感じになってあれかなーって……変かな?」

「え、いや。かわいいよ」

「……ありがとう」

 

 変なのはこっちの服装じゃないかな、という言葉を呑み込んで曖昧に笑みを浮かべる。

 

「少し早いけど、行く?」

「うん」

 

 二人ならんで、歩き出す。

 冬の風は冷たく、耳と耳はわずかに赤らんでいた。

 空はうす暗く曇っていて、太陽の光はにぶくうすい。

 

「今日さむいね」

「そうだね。……マフラーつけてくれてて嬉しい」

「…………こっちも髪留めつけてくれて、嬉しいよ」

 

 気恥ずかしくなって、双方黙り込む。

 

「そういえば昨日初詣いかなかったの? 『なのはちゃんたちと行く予定あるんだけど来る?』みたいなこと言ってたよね」

「んー。うん」

「やっぱり今日ふたりで行こ、みたいな」

「うん。アリサちゃんたちがね、二人で行ってきたら? って言うから」

「あぁそういう感じだったんだ」

 

 うん、とすずかがうなずく。

 気を遣ってもらったのかな、と君尋は思った。

 彼女たちと一緒なら別に苦痛ではないと……なのはやアリサと会話した経験から思うが、それでもすずかと出会ってからまだ数か月程度。

 家族ぐるみの初詣に混ざっても気まずいだろうと、そういう心遣いをしてもらったのだろう。

 

「そういえば月村さん。春夏秋冬ってあるじゃないですか」

「なんで急に敬語なの……?」

「なんとなくです」

「それで、うん」

「すずかってどれが一番好きとかあるの?」

「あー」

 

 彼女は視線を宙へと流し、そうだね、と少し思案して言葉を続ける。

 

「春かな」

「へぇ。その心は?」

「一番あったかいし、風が気持ちいいから」

「……春風」

「うん」

「君尋くんは?」

「冬かな」

 

 彼は、特に迷うことなく淡々と答えた。

 すずかに質問をした時点で自分だったら、という回答があったというのもあるし、春風が彼の心象世界に通ったからというのもある。

 

「春と冬の境界にある、やさしさを帯びた冷たい風が好きなんだよな。わかるかな……あの、冷たいんだけど不快じゃない感じ。……三月くらいの、春をおびた風?」

「うん。わかる」

「つまりあれ、冬の中でも晩冬好きだな」

「それだと、私は初春が好きかも」

 

 とりとめのない会話。

 こんな質問をしたのは、少し前に言われた言葉が胸に残っていたからだ。

 

 ──君を尋ねる

 

 君尋は、すずかのことをまだ全然知らない。

 

「晩冬と初春は、ちょっと似てるね」

「そうだね。私たち仲良しだ」

「やったね」

 

 晩冬が好きだという彼と、初春が好きだという彼女。

 果たしてふたりの相性はいいのか、悪いのか。

 春を纏う風が吹く、晩冬。

 冬のなごりを感じる、初春。

 はじまりとおわりは、とても近しいが……同時に、とても遠いもの。

 反対側の駅のホームのように、直線だと近しいが、本質的には遠いもの。

 

「そういえばね、君尋くん。この前うちの猫が──……」

 

 ざり、と靴底と砂利がこすりながら、靴紐をゆらしながら、彼らは歩みを進めていく。

 

 

 

 

 長い階段を、のぼっていた。

 神社の境内へと続く石階段は、重く固く、足の裏にしっかりとした存在を感じるものだった。

 少しだけ息を乱しながらのぼりながら「こういうのって中央歩いたらだめなんだよね?」などと作法についての話をしている。

 

「足、大丈夫?」

「うん。ありがとう」

「ローヒール? っていうの? どんなもんかはわかんないけど、やっぱ歩きづらい?」

「んー。まぁ多少は、そうかな? でもそこまでだよ」

「ならいいけど」

 

 君尋は、手水舎にくるたびにやらなきゃいけないのか……ってなる、とぼやき。

 すずかは、あははわかる、と相槌を打ち。

 ふたりして、つめた~と小さな悲鳴を上げるのだった。

 

「とりあえず参拝かなあ……とは思うものの、ひとが多くてちょっと気圧されますね」

「二日にくるひとも多いもんね」

「単純に人混みを避けるだけなら、四日以降がいいんだろうけどな。初詣って別に三日までにって決まってるわけじゃないし」

「確か七日までだったかな? でも三が日のうちには行っておきたいよね」

「ね」

 

 境内までくると、たくさんのひとがいた。

 元旦に比べたらずっと少ないのであろうが、やはり人が多い。

 列の最後尾にふたりで並んで、とりとめのない会話を続けていく。

 

「すずかってお願いごと、決めてる?」

「うん。君尋くんは?」

「若干願いごとの中身がふわふわしてるけど、決めてるかな。こういうのってたぶん、明確なほうがいいよなぁ」

「あー、それはそうだろうね。神さまに聞いてもらうわけだし」

「だよねぇ」

 

 家族の健康、自分の成長。

 あるいは──……

 

「こういうのって、どっちだと思う? 自分が努力して実現可能なことの補助として願いごとをするのか。それか、自分じゃ手の届かないこと……病気平癒とか交通安全とかのお願いごとをするのか」

「ん。んー、神さまに、だしやっぱり自分じゃ手の届かないこと、じゃないかな。自分の努力で達成できることは、自分の中の誓いとして立てるみたいな」

「やっぱりそっか。うん。お願いごと決まった」

「なににするの?」

「家族と身の回りのひとの健康と安全かな」

「ふふ。いいね。君尋くんらしい」

「そう?」

「うん」

 

 彼女の思う“俺らしい”ってなんだろう、と君尋は思った。

 俺は、“すずからしい”ってことが、未だにちょっとよくわからない、と。

 健康と安全が神さまに願うことだとするなら、自分に立てる誓いとしては、彼女を知りたいというところになるのだろう、と。

 

 前に、前に。

 じょじょに列は前に進んでいって、やがて彼らの番になった。

 礼、拍手。

 

 

 ────……。───。

 

 

 祈りの言葉を、心中でなぞるように唱える。

 家族の健康と安全、幸運。それから親しい友人、恋人にも同じく健康と安全、幸運を。

 後ろに差し支えない程度にたっぷり時間をかけて、目を開ける。

 彼が終えたころには彼女もすでに目を開けていて、一緒にその場を去る。礼を忘れていたので、あわてて振り返って、ぺこり。

 

「おみくじいこう」

「うん。何が出るか楽しみだね」

「……そういえばおみくじって複数回引いてもいいらしいね」

「え、そうなの? 私はじめて聞いたかも」

「まぁ基本は一回だけど、結果に不満があれば二回目オッケーとかどうとか。詳しい話は知らないけど」

「へ~」

 

 今度はおみくじのために列に並びはじめた。

 人が多いこともあって、寒さは特に感じない。

 

「おみくじ引いたら、次どうしよっか。お昼にはちょっと早い感じになりそうな気がするね」

「そうだねー。君尋くんは何かある?」

「したいこと? んー」

 

 何かあるかな、と隣を見下ろす。

 いや、正直に言えばある。

 あるのだが、したいことといっても──……。

 

「……?」

 

 彼女が首をかしげると、髪が揺れて。まばたきをすると、まつ毛の長さに圧倒されて。桜色の唇に、目が奪われる。

 率直に言って、触れたい、と。

 でもそんなこと口にするのは憚れる。

 

「……」

 

 何か言わないと、何か無難なやりたいこと、と思っていると。

 

「ん、もうすぐだね」

「……うん、何が出るかな」

 

 がらがら、とおみくじの入った筒を振って、番号をみて、もらっていく。

 君尋は、大吉だった。

 おお、と思いながら頬をほころばせて、唇ときゅっと結んで誤魔化して、隣に「どうだった?」と移動しながら問いを投げる。

 

「んー。末吉。君尋くんは?」

「……大吉です」

「わ、すごい。おめでとう!」

 

 結果があまりにも離れていると、どちらかが優れていると、往々にしてそれがいさかいのもとになったりする。

 だからあまり、胸を張っていい結果だったとは言えなかったのだが、素直に“おめでとう”と、恥ずかしくなってくる。

 胸を張れなかったことが、恥ずかしい。

 

「引くくらい万事うまくいくって書いてあるや」

「私は……私も……意外といいかな」

 

 すずかはじーっとおみくじの文面を見ていた。

 倣って君尋も、再びくじに目を落として、中身を読む。

 やっぱり、気になるのは恋愛運。

 恋人ときていて、ここが気にならないと言えば嘘になる。

 

 でもやっぱり、何度見てもさっきさっと読んだのと中身は変わらない。

 万事うまくいく、と。

 本当かなぁ、という気持ちと、そうだといいなぁ、という気持ちがそこにあった。

 

 占いというのは、何を信じたいか。

 例えその占いが正しくても間違っていても、占われて、それを受け止めるひとが結局どう思うのかが一番大事で。

 彼がいま信じたいのは、

 

「恋愛のところ、悪いことは書いてなくて安心しちゃった」

 

 ふにゃりと表情を崩す、彼女との関係性を続けたいという気持ち。

 

「……悪いこと、書いてないんだ?」

「もうちょっと素直になれば、うまくいくって。逆に言うと、そうしないとだめだよみたいな感じなのかな」

「そっか」

 

 なんとなく勇気がもらえたような気がした。

 気がしただけ。

 でもきっかけとしては十分で。

 

「…………あー。えっと……」

「?」

「階段って、まぁ段差あるじゃないですか」

「うん」

「歩きづらいじゃないですか」

「うん」

「ちょっとヒール入ってるじゃないですか」

「……? うん」

「………………あー……えと。手をつなぎま、せんか?」

 

 ぽかん、とすずかが口を開いていた。

 あわてて君尋は「ごめんいまのなしーー」と言おうとして、

 

「え、うん。えとじゃあ……」

 

 しずしずと差し出された彼女の手に、黙らされてしまった。

 彼らはちょっと順序がおかしくて、唇は重ねたのにまだちゃんと手をつないだことがなかった。

 心理的なハードルは厚く、高く。

 彼は目を泳がせながら、彼女の手にふれた。

 

 手袋ごしに。

 

 彼女はいつの間にか身に着けていた手袋をとっていて、彼は生の彼女の手に手袋ごしにふれていた。

 

「……」

「……ふふっ」

「ごめ──」

「なにが?」

 

 引っ込めようとした手は、予想外の力でしっかりと彼女に固定されていて抜け出せない。

 そのまま、するっと手袋がとられて、ぎゅ、と生の手同士で触れあう。

 

「冷たい……」

「冬だもんね」

「冬だもんなぁ」

 

 思っていたより手をつなぎながら歩くのは難しくて、逆に彼女により負荷をかけただけなんじゃないかと思いつつ……彼らはゆっくりと、階段をおりていっていた。

 

「ところで、結局このあとどうしよっか。君尋くん何かある?」

「あー……そうねぇ」

 

 君を尋ねる。

 素直に。

 恋愛。万事うまくいく。

 

「うん、まぁ曖昧だけど、なんか声出して走り出したい気分かな……」

「……カラオケでもいく?」

「あーいいかも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 年始のカラオケは、予想通りおどろくほど混んでいた。

 まずほんとにカラオケで遊ぶか別の場所を探すかという話にはじまり、でもカラオケに心惹かれていたのは事実なので行くことにし、カウンターの近くに座り待っていた。 

 

「君尋くんってどんな曲が好き」

「んー。アーティスト単位で聞くことが多いんだけど、最近だと……────って女性アーティストが好きでよく聞くかな」

「……へー」

 

 正直、だいぶ、居心地が悪かった。

 いままで彼女と一緒にいたときは、そう、人目がなかったり人気がなかったり……いまのように彼女が注目を浴びることはなかった。

 

(あの子、超可愛くねえ?)

(な。っべーな)

(つか隣のやつ冴え……)

(馬鹿聞こえるぞ)

 

 少し離れたところにいる、男性二人組のささやき声が耳に入る。

 おそらくすずかの耳にも入っているはずだが、彼女はごく普通に、笑っている。

 その笑顔がやっぱりとても綺麗で可愛くて、少し惨めさを感じつつ逃げだしたい気持ちを抱いていた。

 すると、

 

「えい」

「ふむぬぐ」

 

 不意に鼻がつままれて、目を丸くする。

 意識の空白に邪気のない笑みが飛び込んできて、つられて笑ってしまう。

 お返しにほっぺをつまむと……びっくりするほどやわらかくて、君尋はさらに目を丸くした。

 思わず空いている手で自分の頬にふれて、すずかの頬とやわらかさを比較して……気のせいじゃなくめちゃくちゃやわらかいな、と感心する。

 

「ふぁの」

「あ、ごめん」

 

 さっきまで落ちくぼんでた気分が明るくなっているのが自分でもわかって、君尋は笑みを浮かべる。

 優しい子だなぁ、と改めて思った。

 

「あ──」

 

 りがとう、と口にしようとして、 

 

「コイデ様~。彼女さんと幸せそうなところ申し訳ありませんが、お部屋が空きましたのでご案内します~」

「あっはい」

 

 店員さんに遮られて、パッとすずかから顔を背ける。

 

「なんて言おうとしたの?」

「……さぁ?」

 

 彼女に背中を軽くこづかれながら、渡された案内板を手に個室へと向かっていった。

 ふたりであるため、個室は広くなく、暗い。

 ここで大事なのは、やはり座る位置ではないだろうか。

 隣に座るか離れて座るか。自分の手荷物をそばに置くなら離れて、ふたりぶんの荷物をまとめて並んで座るのもいい。

 なんてことを思いつつ、そんな思考を一瞬で展開できるはずもなく、荷物を持ったままとりあえず奥に進んで、あー隣に座るコースから外れたなあと彼は思った。

 

「エアコンつけよっか。すずか何℃がいい?」

「ん。んー。二十二とか? 寒かったり暑かったら都度調整しよ」

「電気つける?」

「え、つけないの?」

「友達とくるときは、なんかつけないことが多いかな? 理由は知らないけど、なんかつけようとしないからずっと暗いままで歌ってる」

「へー……。雰囲気出るのかな。じゃあつけないでおく?」

「ん」

 

 奥のソファに荷物をぽん、と置いてそのままエアコンのリモコンを操作する。

 そうしていると彼女は荷物をおいて、コートを脱ぎはじめていた。際立つ体のラインにどきっとした。

 やっぱり、驚くほどスタイルがいい。

 電気をつけないで、なんていうのを変な意味に捉えられていないかと今更ながら不安に思う君尋だった。

 

「君尋くん。コート。かけるよ」

「え、あ、うん。……ありがとう」

 

 上品だな、と思った。

 佐藤とかとカラオケに来たりしたら、上着も脱いで荷物とまとめてくるくるっと放り投げるのが通例だった。

 ハンガーにコートを通している彼女をみて、価値観の差異にため息を吐く。

 

「飲み物とってくるよ。何がいい?」

「ん。んー。……じゃあお茶で」

「わかった。氷いる?」

「ううん。いらない」

「了解」

 

 部屋を出て、ドリンクバーに向かう。

 そして考える。このあとどうしようかな、と。

 とりあえず昼までのつなぎ、という形でここに来た。けれど待ち時間が多少生じていたこともあって、せいぜい一時間といったところ。

 今日の予定は、実のところ初詣に行くこと以外はほぼ未定だった。

 その場その場で、適当に。

 それが昨日決めたことで、今のところここから先はぜんぶ曖昧だった。

 考え事をしながらドリンクをふたり分いれて、部屋に戻る。

 ふたり分の荷物が一か所に寄せられていて、すずかの隣がぽっかりと空いているような配置になっていた。

 隣に座るんだなぁ、と思いながら近寄っていく。

 

「……」

 

 薄暗い部屋、ディスプレイを見つめる君だけがぼんやりと明るい。

 それはカラオケルームにいる以上、特別な光景ではないはずだったが、特別だった。

 暗いところにきれいなものがあるだけで、ため息が出てしまう。

 

「……はいこれ。お茶」

「わ、ありがとう。……君尋くんのは、それ何?」

「え、あぁ」

 

 問われて、しまった、と思った。

 考えごとをしていたのでほとんど無意識だったが、いつも通りメロンソーダとコーラをブレンドしたものを生み出してしまっていた。

 ドリンクバーというのは、遊び心を刺激してしまうものだと思う。それで普段口にしないものを、と思っていたらいつも飲み物を混ぜたくなって……その癖が、今日も出てしまったようだった。

 

「あー。つい癖で。いつも遊んじゃうんだよな」

「緑と黒ってことは、メロンソーダとコーラ?」

「そうそう。これのいいところはさ──……」

「? いいところは?」

「うん。見ての通りグラデーションになってるじゃない? メロンソーダの翠が下にあって、黒が上にあって。で、味は最初から混ざってるのは混ざってるんだけど、やっぱりそのまま飲んでいくと途中で味が変わるんだよね。それが楽しくてついついやっちゃうっていう」

「へー楽しそう。いいな。私もジュース飲みたくなっちゃった」

「……こういうのやってみたいとか思うんだ」

「うふふ。お茶しか飲まないとか思ってたとかたまに言われるけど、私もジュースくらい飲むよ~」

 

 そうなんだ、とつぶやく。

 

「そういうの、他にもやるの? ドリンク混ぜるの」

「ん。あー。あんまりやらない、かな……? コーラとカルピスとかやったことあるけど……味はまぁ無難な感じにまとまるんだけど……なんだかメロンソーダとコーラが好きなんだよね。なんでかな……」

「あー」

「たぶん、色だろうなぁ。カルピスとかは色がにごっててあんまり綺麗じゃないけど、メロンソーダってすごく綺麗な翠じゃない? くどいくらいの甘さと、びっくりするほど綺麗な翠がさぁ……。あ、で、それが黒に沈んでるのがまた──……」

 

 恥ずかしくなって、口を閉じる。

 なんでメロンソーダとコーラを混ぜることに対してこんなに熱く語っているんだろう。

 

「……ねぇ、ひとつ聞いていい?」

「はい」

「なんとなくメロンソーダのところはわかるの。確かにあの翠って類を見ないし、特別な感じ。でもなんでコーラなの?」

「え? なんでって……明るすぎるから?」

「……そうなんだ」

 

 逆は違うのだ、と。

 宝石のようなきれいな翠を、黒で閉じるから全体としてまとまっていて。表に翠を出すと、なんだか違う。

 そんな彼のこだわりを、彼女は感心するようにうなずいて聞いていた。

 

「面白いね、君尋くん」

「えっ」

「いいね、そういうの」

「左様でございますか……」

「うん」

 

 何がどう琴線にふれたのか知らないが、彼女はやわらかく頬を緩めていた。

 

「……まぁいいや。何か曲入れた?」

「ううん。いろいろ見てただけ。君尋くん先いれる?」

「いやいいよ」

「そ。じゃあ先いれちゃうね?」

「うん」

 

 彼女が歌うのは、CMでよく耳にするアイドルソングだった。

 アップテンポな盛り上がる曲。

 

『──♪』

 

 すずやかな声で、マイクを両手で持って、リズムにのるように体を揺らしている。

 こんな風に、こんな顔で歌うんだな、と思いながら聞いていた。

 声に聴き惚れていると時間というのはあっという間で、すぐに君尋の番がきた。

 あわてて一曲いれて歌い始める。

 曲名には月という文字が入っている恋の歌。

 まぁ、多少意識していないこともない。

 

『──……♪』

 

 恋人に見られていると思うと、少し気恥ずかしいなと思った。

 羞恥をごまかすために目をつむって、無心で歌いきる。歌詞は見なくてもノリでなんとかなるのが音楽というものだ。

 

 なんとか最後まで歌いきって、ふはぁ、と息を吐く。

 カラオケ特有の採点の軽妙な音を聞きながら、横に目をやると、じーっと視線が注がれているのがわかる。

 

「恥ずかしいんだけど……」

「いや?」

「いやでは、ないかな」

「そ」

 

 そ、の言い方が可愛い。

 そのあとも、普通に交互に歌をうたっていった。

 彼女の曲のラインナップは心なしかラブソングが多いなぁと思わなくもないが、そこに関しては彼自身もラブソングばっかりうたっているので何とも言えないところがあった。

 恋の曲は、ときに悲しみをまとうこともある。けれどやっぱり原初の想いはきれいなもので、だから悲しみを乗り越えていける。

 彼は恋愛のそういうところが、好きだった。

 最初は照れ臭く歌っていたものの、いくらか重ねていくと羞恥をこえて堂々と歌っていた。

 しまいには、互いに目を見つめ合いながら歌い合う始末。

 

「……もうすぐ出る時間だけど、どうしよっか」

「んー」

「正直いまかなり楽しくなってきてしまっているのでもうちょっといたい気持ちがあります」

「じゃあ延長しよっか」

「大丈夫? ほかにしたいこととかない?」

「ううん。……その。なんかこういうことするのカップルみたいでいいなぁって思うし、私も楽しいし」

「カップルみたいかぁ。そうだなぁ」

「ね」

 

 他愛のない言葉のやりとりが、嬉しくて楽しかった。

 これが恋人らしいというならそうなんだろうな、と恋愛初心者の君尋は思った。

 

 お昼どうしよっか。

 何か適当に頼む?

 そうしよ。

 

 そんな会話をして、食べ物を注文して、延長の連絡もして、ドリンクを補充したりした。

 山盛りポテト、一つにわさびの入ったロシアンたこ焼き、君尋は変わらずメロンソーダコーラ、すずかも倣うようにメロンソーダコーラ。

 

「ロシアンたこ焼きとかはじめて食べるな……」

「そうなんだ」

「え、逆にあるの?」

「私はいつも口から火を噴いてるひとを見てるだけだったから食べたことはないけど」「やっぱ辛いのかな……」

「想像以上にわさび入ってるとは聞くかな」

「こわ……」

「ふふ」

 

 高嶺の花、だと思っていた。

 お洒落で可愛くて、清廉な優しいひと。

 だけどこうして、等身大の、罰ゲームご飯を一緒につつくようなそんな他愛のないことをして一緒に笑っていると、月村すずかも普通の女の子なのだと思えた。

 それがなんだか嬉しくて、楽しかった。

 

「わさび入ってるのどれかな……ちょっと食べてみたいんだよね」

「あ、これだよ」

「えっなんでわかるの」

「……臭い?」

「すごい」

「……私もちょっとだけ味興味あるし、半分こしませんか?」

「いいね」

『──ん゛ッッッ』

 

 げほげほ、と二人してせき込む。

 涙目になるくらいだと思っていたら、普通にのどが受け付けないほどのものだった。

 二十秒ほど本気でせき込みんで、涙目で「これはひどい」と笑うしかなかった。

 

「あ、最後の方ほんとに普通のメロンソーダだね」

「そうなんだよ……一度で二度おいしい。メロンソーダって普段はまったく飲まないんだけど、こういうところではつい飲んでしまうんだよな」

「わかるわかる。ときどきね、このわかりやすーい甘さがほしくなったり」

「そうそれ。……あー、他のだとあれが近いかもね。かき氷。シロップの鮮やかさには心惹かれてしまう」

「うんうん」

 

 翡翠がしずむ夜の海。

 あちこちには空気の島が点在していて、とても綺麗だ。

 

「実は俺、この前友達に、背伸びしすぎてない? みたいなこと言われたんだよね」

「そうなんだ」

「そうかなぁ? とは思ったんだけど、まぁ……恋人とかできたのは初めてなので、緊張してるのはそうなのかなとか」

「でも私もアリサちゃんについこの間似たようなこと言われた」

「へぇ、そうなの?」

「まぁ私も恋人とかできたのはじめてだから……」

「……なんとなく恥ずかしいな」

「だねぇ」

 

 彼らはちょっと、背伸びしすぎなきらいがあった。

 会話の仕方。距離感。

 まぁ、それは彼らのもともとの気質がそういうところにあったというのはあるのだけれど。

 それでも彼らの中にある、普遍的な少年性や少女性というのはあまり表に出ていなかった。

 

 年相応な、遊び方。

 

 年始早々、カラオケでのどをつぶすような楽しみ方。

 

 それもきっと、彼らの一側面には違いなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

「空、飛んでみる?」

 冬の空はまるで、魔法でもかかったかのように暗く沈んでいた。

 なんてことはない、ただの明度の話。

 夏と比べるとどうしたって、冬は全体的に淡く、霞む。

 だから少し暗がりを帯びているような気がして、それがますます寒さに拍車をかける。

 そんな紅がかった寒空の下、彼らは二人、歩いていた。

 

「さむ……。あり得ないくらい寒いな」

「ね。天気予報だと、今週は気温下がるとか」

「あー、だっけ」

 

 さむいさむいと言いながらも、彼らの手はむき出しだった。恋人の体温を感じていたい、なんていう理由のためだった。彼らは素の手と手を絡めあっている。

 当然のようにびっくりするほど冷たくもあるのだが、苦痛を感じないと言えば嘘になるのだが……それでもこそばゆい嬉しさがそこにはあった。

 

「冬は、乾燥するよなぁ」

「そうだね。やっぱりハンドクリームとかリップとか欠かせないや」

「メーカーってこだわりあったりするの?」

「私は──」

 

 すずかは、花咲くようなやわらかい笑みを浮かべながら話していた。

 それを聞きながら君尋も頬をほころばせて、ぎゅっと、手を握っていた。

 力を込めていないと不安だった。

 彼女の手にはおどろくほど力が入っていなかった。まるで、砂糖でできた羽を崩さないようふれるような……そんな程度の力しか。

 彼が力をゆるめれば、途端に、彼らの手はほどけるであろうということは容易に想像できた。

 

 一緒に初詣に行った日から、もう一か月が過ぎている。

 

 月日は流れとともに、彼らの関係性も少しずつ進展していっていた。外を出歩くときには手を当然のようにつなぐようになっていて、一緒に下校するなんてことも普通になっていた。

 ときどきではあるが、唇を重ねるようなこともあった。

 関係は、じょじょに深まっているはずだった。

 

 あぁ、でも。

 

 関係が深まるのと反比例するように、彼女が彼の手を握る力は、弱くなっていた。 

 もともと頻度が多かったわけでもないから気のせいかもしれないが、抱擁やキスも、なんだか避けられている気がした。

 

 だけど嫌われているわけではないというのはなんとなく確信できていて。

 

 だから絶対に離したくはない、と。ぎゅっと強く、けれど宝物にふれるように優しく愛をこめて手にふれている。

 

「そういえば、一番最初にちゃんとお話をしたのって公園だったよね。帰り道の。ね、ちょっと寄っていかない?」

 

 下校の途中、すずかは不意にそんなことを口にした。

 落ち着いた声量なのに、何故だかくらくらするほどあでやかな声色だった。

 甘く、赤く、熟成した葡萄のような香り。

 君尋に反対する理由は特になく、「そうだね。俺も行きたいかな」と答えた。

 

 

 

 

 

 

 公園に足を踏み入れると、靴底と砂利がこすれる音がした。

 じゃり、じゃり。

 真っすぐ、迷うことなく、歩いていく。

 公園にはひとっこひとりいなかった。

 はじめて話したときには、公園ではしゃぐ子どもがいたように思う。

 けれど秋と冬では様子が全然違っていて、木々にはまるで葉がついていないし、どこか乾いているようだった。

 

「静かだねー」

「ね。俺たち以外誰もいないや」

「ね」

「なんかあったかいものでも買ってくるよ。寒いよね」

「ううん。いいよ。ありがとう。でも今日はいいかな」

 

 言葉を交わしながら歩く先は、どこにでもある木製のベンチ。

 

「……ほんとに、ひさしぶり」

 

 すずかはベンチを見下ろしていた。

 彼らが、一番最初、会話をした場所。

 

 彼女の手から、座ろうという気持ちを感じて、彼もそれに同意して、二人並んで座った。

 

 あのころより、ずいぶんと近くなった。

 前に座ったときは、体ひとつぶんの距離を空けて。

 いまは、身じろぎをすれば膝がふれあいそうなくらいに、近く。

 物理的な話だけじゃなく、これは心の近さを示すもの。

 

「あのときは、君尋くんとこんな関係になるとは思ってなかったなぁ」

「それはまぁそう」

「会ってから、何か月だろ」

「…………何月だっけ。はじめて会ったのは、確か、十月? ……四か月くらい?」

「そうだね。四か月」

 

 たった、四か月。

 

「わかんないものだよね。私、実はさ、こういう恋人になったりーーみたいなの、知り合ってから半年くらいは経ってからだとなんとなく思ってて。付き合い始めたのは十二月だから、そこは二か月くらいだよね。早かったなぁ」

「……そうだね」

 

 穏やかな口調だった。

 それがどうにも、君尋には少し不気味に感じられた。

 なぜなのかはわからない。

 だけど、呼吸がしづらいような、なにか圧迫されているような、妙な感覚。まるで、とてもおそろしい怪物が目の前にいるような感覚。

 それなのに、凪いでいるような空気感。

 

 

「…………私、君尋くんが好き」

 

 

 ぽつり、と彼女がつぶやく。

 彼が何かを言おうと思って口を開こうとして、閉じる。

 彼女が言葉を続けるのがわかったからだ。

 

「なんで好きなんだろって、ずっと、思ってた。君尋くんは優しいし、素敵なひとだけど、ほんとにそれだけなのかなって……」

 

 彼女は、空を見上げていた。

 藍色に紅がかかった、夕方の空。これから黒に染まっていくだろう。

 

「私ね、吸血鬼なの」

「……」

「冗談じゃないよ。ほんとの話。私は、あなたの血が、血に、惹かれてたんじゃないかなって……ずっとずっと、思ってた」

 

 驚くほど、淡々とした告白だった。

 

「今更なんだけど、私の話、聞いてくれる?」

「うん」

「あのね────……」

 

 月村すずかは、自分の話をしはじめる。

 厳密には『夜の一族』と呼ばれる存在であること。生きていくために、異性の血が必要であること。伴侶をとにかく求める“衝動”があること。

 ヒトよりもずっと力が強くて、少し“普通ではない”ということ。

 普通には、生きられないということ。

 

「──なんでいきなり……って思ったんじゃないかなって思うんだけど」

「うん」

「どうにかならないかな、ってずっと思ってたの。我慢できないかなって。でも、やっぱりどうにもならないんだろうなぁって最近すごく思うようになって……」

 

 何が言いたいのか、不鮮明だった。

 浮ついたような口調で、視線もぼんやりと宙に向けられていた。

 

「血がほしい」

 

 不意に降ろされた視線は、真っすぐ君尋に向けられていた。

 夜を思わせる藍を帯びた黒の瞳は、いつの間にか、変わっていた。

 夕暮れの紅より、血の赤よりも濃い“赤”へ。

 

「ぎゅーって抱きしめて、逃げられないようにして、首筋にかぶりついて、あなたの命を飲み干してしまいたいって……」

 

 君尋は、すずかの赤に、目を奪われていた。

 底のない沼にしずむように、果てしなく広い空に放り出されたように、ただ心が奪われていた。

 重ねていた手はするりとほどかれて、流れるように両の手首が掴まれて、

 

「私のこと、こわいって思う?」

 

 くるりと彼の正面に立った彼女は、嫣然さをまとう笑みを浮かべて、ささやく。

 距離が近くて、甘い香りがして、脳がとろけるような気がして。

 

「きれいだ」

「へ?」

 

 素直な気持ちと伝えると、驚いたようにぽかん、とすずかは口を開けていた。

 別にこわいなんて思わない、と口にしようとして、

 

「──いぎっ」

 

 みし、と。

 握られていた手に強い力がかかって、君尋は小さな悲鳴をあげてしまう。

 万力で締めあげられたようなおそろしい力。白魚のような、小さな手に出せるものでは決してないように思えた。

 

「! ごめんなさい。大丈夫? 痛かった? ごめんね?」

 

 パっと、彼女の手は彼から離れて、彼の手は解放された。

 そのあわただしい所作から、わざとではないことは明らかだった。

 

「……いや、大丈夫。ありがとう」

「なら、いいけど」

 

 潤んだ紅玉には不安が宿っていて、それが彼の後悔を呼び起こした。

 きっとたぶんおそらく、彼女と当分手はつなげないんだろうな、と彼女の固く握られた手をみて理解してしまった。

 痛みなんてどうでもいいことに、気をとられたことがかなしかった。

 

「……」

「……」

「……年末ね、ドイツに行ったって言ったでしょ。お姉ちゃんもね、私と同じ、夜の一族だから……。いろいろね、言われちゃった。区切りはつけなさいって」

「区切り……?」

「ちゃんとほんとのことを伝えて、ちゃんと関係をつくりなさいって」

「ちゃんとした、関係……」

「血の契りを、ちゃんと」

 

 異性の血を吸わないと、生きていけない夜の一族。

 人生の伴侶。

 多くの夜は、生涯を共にする月の命で、生きていくという。

 

「ねぇ、私の血袋(エサ)になってくれる?」

 

 つつつ、と白魚のような指で首筋を撫でられて、息を呑む。

 

「俺は──」

「ごめん。今はあんまり聞きたくない」

 

 今度は指で唇にふれられる。

 話さないで、と。

 

「急なことを言ってると思うんだ。だから、これはほんとに私のわがままなんだけど、真剣に考えてくれると、嬉しいな。付き合って半年も経ってないのに、ほんとにわけがわからないとは思うんだけど……結婚まで視野にいれてくれると、嬉しい。……次に逢うときに、ちゃんと応えてくれたら、嬉しい」

 

 有無を言わせぬ言動だった。

 口調こそ優しいものの、いまお前の意見を聞く気はないという確固たる意思表示がそこにはあった。

 きっとそこには、真剣に考えてほしいという乙女の純情が根底にあるのだろう。

 それがわかったから、君尋は、唇を結んだまま……こくり、とうなずいた。

 

「──じゃあ、またね」

 

 そうして、すずかは背を向けて去っていった。

 あまりにも突然で、急で、そして必然的な出来事だった。

 

 空虚。

 空白。

 空想。

 

 色々と、考えようとして、考えがまとまらなかった。

 本当に突然だったのだ。

 いや、彼がきちんと理解していなかっただけで、前兆はあったのだろうけど。

 ただ、気づけていなかったなら、それは存在しなかったのと同じこと。

 

 吸血衝動なんて、そんなものに気付くことのほうが難しい。

 

 けれど、苦しみと悲しみを、理解してあげられなかったのが悔しくて。

 またね、とすずかは言っていた。

 次に会うときに、聞かせてほしいと言っていた。

 何を言えばいいんだろう、と彼は思っていたのだ。

 上っ面の言葉でいいのか。

 彼だってすずかのことは好きだった。だからと言って、吸血鬼の恋人になるだなんてことについて、ごく普通の価値観の好きを向けるだけでいいのか、なんてことに頭がまわるはずがなかった。

 “特別”なひとに、なんて声をかければ、苦しみを喜びに変えてあげられるのか。

 

 そこまで考えて、ひとり、この悩みへの解決策をくれそうなひとに心当たりがあることに気づいた。

 月村すずかと同じ、“特別”の側にいる少女。

 高町、なのは。

 君尋は、なのはに連絡を送った。今から話ができないか、と。

 

 

 

 

 

 

 冬の空は、魔法でも掛かったかのように暗く沈んでいる。

 夜がきた。紅掛かった空は夜にのまれて消えて、明度の低い、夜の冬空がやってきた。

 今日は気分が少し落ち窪んでいることにも理由はあるのだろう。すごく、あたりが暗いように感じていた。

 すると、光がやってきた。

 

 桜。

 

 桜の花びらが舞い降りるように、夜の公園に、淡く光る桜色の羽が降りてきた。

 続けて、人も空から舞い降りてきた。

 桜の燐光をまとうそのひとは、細く長い棒……ステッキを手にして、なんでもないことのように空からやってきて、地に足をつけて、立った。

 君尋の姿を認めるやいなや、「やっほー」とでも言うように片手をあげて、こちらにすたすたと歩いてくる。

 

「ごめん。待った~?」

「いや、え、え……?」

「すずかちゃんからはもう聞いたってことだったよね? うん。私はなんと魔法使いなんだよね」

「へ、へー……」

 

 なんでもない口調で、微笑みながら挨拶をはじめるなのはにびっくりしていた。

 あぁ、これが特別か、と。

 

「ちょっと驚かせちゃったかな? 私が魔法使いだって説明とか、手間が省けていいかなーとか思ってたんだけど。それに、単純にこっちのほうが来るの早いし」

「色々と言いたいことはあるんだけど、人目は?」

「そこは大丈夫、町に結界張ってるから。位相がずれてるって言えばいいかな? 町に出て、人の家に入っても誰もいないよ。私たちだけ。だから人目とか気にしなくていいんだー」

 

 えへへ、となのはは無邪気に笑う。

 いつも通りのサイドテール。纏う衣装は、まだ着替えていなかったのだろう、学校の制服のままで。

 手に持っているファンシーなステッキと、言動以外はごくごく普通で、だから驚いて仕方がない。

 

「それ、いわゆる魔法の杖的な?」

「うん、そうだよ。レイジングハートっていうの」

「へー。すごい」

「小学生のときに決めたデザインわりとそのままだからちょっと恥ずかしいんだけどね。でも、やっぱりちょっと愛着があって。私がはじめて魔法を使ったの、小学生のときなんだよね」

「そうなんだ……いや、可愛くていいと思うけど、それ」

「そう? ありがとう」

 

 色々と質問攻めしたいのをぐっとこらえて、君尋は、はー、と深い息を吐いた。

 

「……もう夜なのに、来てくれてありがとう」

「いいよ。すずかちゃんには私も幸せになってほしいし、頼ってくれてうれしいし」

 

 なのはには、すずかのことを相談したいというただそれだけのことしか言っていない。

 すずかの秘密のことを聞いた、と。

 たったそれだけで、家からこんなところに来てくれることが、彼にはとてもありがたかった。

 

「じゃあ、ちょっとお話しよっか」

「何から話せばいいかな……」

「いいよ。なんでも。ゆっくりで」

 

 なのはは軽やかに、とんっとベンチに腰掛けた。彼女の手の中でステッキが桜色の燐光に包まれ、小さな赤い玉に変化したのには、これまた目をむいた。

 

「……あのさ」

「うん」

「薄々気付いてた──って言うと半分くらいは嘘になるんだけど。でも、『秘密がある』とは聞いてたし、なのはも魔法とか不思議ものはこの世にほんとにあるとかって言ってくれてたけど……ちょっと、吸血鬼っていうのは予想外だったというか」

「うん」

「超能力者とかそんなとこかな? って思ってたのがあって、まさか種族差とかそんな話だとは思わないじゃん。子どもとかちゃんとできるのかな……」

「あ、そこは大丈夫だと思うよ。私のお兄ちゃんとすずかちゃんのお姉ちゃん、結婚して子どもいるし」

「え、まずなのはのお兄さんがすずかのお姉さんの旦那さんなんだ?!」

「あれ? 知らなかったの?」

 

 目を瞬いて、あらためてなのはを上から下までを見てしまった。

 え、なに、と身じろぎをするなのはは、恋人の友達ーーひいては、彼自身の友人でもあるのだが、言い方を変えれば他人だった。

 

「じゃあなのはって、俺とも親類になるのか……」

「ん? まぁ……そうなるのかな?」

「すごいな……」

「ねー」

 

 はじめて耳にすることがおおくて、本当に、君尋の頭はオーバーヒート寸前だった。

 天を仰いで、手のひらで顔を覆う。

 指の隙間からのぞく空には、月と、月を覆う秋雲があって、雲越しにぼんやりとした光が見える。

 普段ならきっと純粋に「きれいだ」と思えたはずのその光景が、どうにも無性に腹立たしかった。

 

「あー……」

 

 何が、言いたいんだっけ。

 

「ごめん。ちょっと。話したいこと整理できてないや。ちょっとだけ待ってくれる? ごめん」

「ん。いいよ。何時間でも待つから」

「……ありがとう」

 

 何時間でも、とさらっと言えるのは、なのはの善性がにじみ出ているよなぁ、と君尋は思った。

 すずかの周りには、みんな、いい人ばかりがそろっている。

 これが恋以外の話であるなら、優れた友人である彼女たちがすべて解決してくれるのだろう。

 月を覆う雲を、すぐに払ってくれるのだろう。

 だけどいまそれをしなければならないのは、他の誰でもない、自分自身だったから。どうすればいいのか、わからなかった。

 

「……」

「……」

 

 少しの間、沈黙が続いた。

 君尋は相も変わらず考えをまとめようとしていて、なのははなのはで、空を見て考えごとをしていた。

 沈黙をやぶったのは、なのはだった。

 ねぇ、と。

 なのはは、君尋に一つの提案をした。

 

 

 

 

 

 

「空、飛んでみる?」

 

 

 

 

 

 

 大地から離れ、空に浮かぶ月と距離を縮める。

 彼らは、空を飛んでいた。

 なのはは白と青を基調としたジャケットを纏い、足元に桜色の羽をはやして。

 君尋はそれに追従するような形で……さながら、なのはと君尋を透明なひもで結んだように、つかず離れず飛んでいた。

 

「うわぁぁぁぁああああ!!」

 

 こわい。ほんとにこわい。

 スカイダイビングというものをしたことはないが、このような気分なのだろうか。

 重力のくさびから解き放たれて、空に、堕ち続けている。

 

「お、落ちる落ちる!」

「あはは。大丈夫だよ〜」

 

 鬼気迫る、というより危機が迫った表情で君尋は目をむいていた。

 世の中の高校生のほとんどがバンジージャンプやスカイダイビングというものを経験したことはないだろう。雰囲気としては、あれが近い。恐怖感。自分の足が地面についていない、という浮遊からくる恐怖感。

 絶叫マシン、というのも言い得て妙かもしれない。

 が、それらと今の状況を固定する物が何もない。

 

 しかし固定する“物”はなくても“力”は生じている。

 目に見えない何かが、いや、光は目に見える。淡い燐光を纏う“力”が、彼を飛行たらしめている。

 

「大丈夫ー? もしほんとに無理なら降りるー?」

「いや! 大丈夫!」

 

 君尋は男の意地で、見栄を張って叫ぶ。

 自意識で飛ぶのと、連れられるのとでは恐怖の度合いが異なる。なのはは笑顔で、君尋は顔を引きつらせていた。

 もちろん“空”への適性の差もあるだろう。高町なのはは誇張抜きで世界級であり、君尋はただの凡愚。

 

「じゃあ、もうちょっといこうか!」

「──ヒュッ」

 

 先ほどまでは飛行といっても、地表から四十メートル程度。

 たかが四十メートル。されど四十メートル。

 物語に出てくる怪獣の全長並みのスケールだ。もっと身近にいうのであれば、学校の最上階から地面を見下ろした高さが近いだろうか。

 当たり前だが、高いし怖い。地に足がつかないなら尚更だ。

 

 そこからさらに上へ。

 

 海鳴にある山よりも、高い位置へ。

 ぐんぐんと、彼らはあがっていった。

 上も左も右も下も、すべてが空。広々とした、空。

 なのはは幾ばくかしたころに静止して、「ほら」と君尋に手を広げて紹介する。空を、空から見下ろす景色を、まるで自分の友人であるかのように誇らしく。

 

 

「わぁ……」

「きれいでしょ? 私、空飛ぶの好きなんだあ」

 

 

 眼下には海が、ひろがっていた。

 闇に包まれようとしている、海。だけど完全な黒じゃない。

 月が海を飾っていた。ひたすら優しい月の光に照らされて、海は、清廉な青をまとっている。

 

「今日、満月だっけ……」

「確か明日だよ。うん。そうカレンダーに書いてあった気がする」

「そっか。そうなんだ」

 

 一見するとまんまるな、お月様。

 だけどどうやら、まだ満ちてはいないらしい。

 今夜は月が──と想って、まだ死ねないなぁ……と、彼は思った。

 

「……──」

 

 月。海。光る街並み。

 見慣れているはずのものを、見慣れない視点で見ていた。

 月が近くて、街は遠くて。海はいつも広々としている。

 

「……なぁ」

「ん?」

「めちゃくちゃ今更なんだけど、なんで空?」

「考えがまとまらなかったり、気分が落ち込んだら空が一番なんだよ。悩みの根本的な解決にはならないだろうけど、気分転換って大事だと思うから」

「そっかぁ」

 

 君尋は、深く息を吸って、吐いた。

 体の力を抜いて、何もかもを空にゆだねた。

 足元ではなく遠くを見ているぶんにはそこまで恐怖を感じないことにも気付いた。

 

「……ふー。ちょっと落ち着いてきた」

「それはよかった。悩みとか考えてること、話したくなったら話してみて? まとまったらね」

「ありがとう。……あー、もうちょっとかな? 言いたいこと言葉にできるの」

「そう?」

「…………うーん」

 

 場の静寂を夜風が撫でる。

 彼が考えをまとめる間、思考の一助になれば──と、なのはは自分の思っていることを少し口にし始める。

 

「前も少し言ったかもだけど、私とすずかちゃんって少し似てるんだよね。……他の誰も持ってない特別を持ってて、気軽にひとに話せもしない。そういう意味で、この日本で、誰かと仲良くなるって難しいなって」

「うん」

「すずかちゃんもだいぶ勇気を出して言っただろうから、そこは受け止めてあげてほしいな」

「うん」

 

 君尋は深く息を吸って、吐いて……ぽつりぽつりと話しはじめる。

 

「まぁ、まずさ、嬉しかったんだよ。『ちょっと急すぎない?』とは正直思ったけど、なのはも言ってるみたいに色々思うところはあったんだろうし。むしろだからこそ、ほんとのことを話してくれたのはうれしかったかな」

「うん」

「こういうのって結構本当にどうしようもない状況までいって、突然明かされるみたいなのが多いじゃないか。本当に本当のギリギリの限界までためにためて……爆発する、みたいなの」

「あはは。そうかもね」

 

 なのはは、心の中で『……耳が痛い』と思いながら、笑顔で相槌を打つ。

 君尋は知らないが、高町なのはという少女は限界まで自分を追い込んで自分の体を壊した経験を持っている。

 

「だから……うーん」

「……」

「思ってること、言いたいことの言語化って難しいな……」

「あぁ、すっごいわかる。……うん。ちゃんと言葉にできるようには、したほうがいいと思うな。それができないまますずかちゃんと逢ってもどうにもならないと思う」

「やっぱそう?」

「たぶんね。私も似たような経験あるけど、うん。なんにも言えなくてずっとそのままのこと、あるなぁ……」

「そうなんだ」

「うん」

 

 すいー、となのはは髪をたなびかせながら、水平移動をはじめる。

 自動で君尋もついていって、並ぶように街並みを見下ろしながら会話をしていた。

 

「私、魔法世界の警察官みたいなのになりたくてずっと頑張ってたんだよ。だけどちょっと事故でね、死にかけちゃって」

「え」

「お母さんが泣いてたの。そこからかな。私が、“こっち”に戻ってきたの」

「……」

「あのときお母さんになんて言えばいいかわかんなくって……まだ何が言いたいのか、よくわかってなくて……。て、ごめんね。こういう話するつもりじゃなかったんだけど」

 

 あはは、と笑うなのはに君尋はかける言葉が見つけられず、唇を結んだ。

 魔法使い──そういうものに、綺麗なイメージを持っていた。だからいきなり死にかけた、と言われて驚いたのだ。

 だって空はこんなに広くて、自由で、なのはは飛び回ることができるのに。

 

「大変、だったんだな?」

「まあねぇ。もう魔法使えないかもってお医者さんに言われたときはしんどかった。でもまた飛べるようにもなったし」

「ふうん……? 空、やっぱ好きなんだ?」

「うん」

「理由とかあるの?」

「理由……」

 

 なのははうーん、と首を傾げる。

 

「…………理由?」

 

 なんだろう、となのはが悩みはじめた。

 そんななのはを見ていて、言葉を交わしていて、君尋もなんとなく自分の言いたいことがまとまってきたように感じていた。

 誰かと会話をするだけで安心感というものは覚えるものだし、誰かに悩みがあると打ち明けることだけで悩みの一部が解消される。

 

「……俺のほうは、たぶんあれだ。なんとなく何に悩んでるのかわかった」

「え、なに?」

「吸血鬼って告白されたのがやっぱり印象的で、そっちに意識割いてたけど、そこじゃないんだなって思った」

 

 そう、そこじゃない。

 どうでもいいとは言わないけど、重要じゃない。

 

「結婚まで考えてほしい──って、そういう言い方をしてたんだよな。そこだ。次逢うときまでにって。……なんて言えばいいんだろうって、そこだ」

「そこまでは考えられないってこと?」

「んー……。まだ学生だし、ちょっと、想像ができないっていうのは正直ある。けど感情論だけで言うなら、別に構わないと思ってるんだよ。……あーうん、だからつまり。幸せにできる自信がないんだな」

「……結婚自体は、いいんだ?」

「あんな器量のいい女性に不満なんてあるわけない」

 

 なのはは目を丸くして、直後に目尻をさげて微笑む。

 相談がしたい、と彼から連絡をもらったときは吸血鬼との付き合い方だとか、そういう、少し不躾なことを色々聞かれたりするのではないかと、思っていた。

 だけど問題はそこにはなくて、ただひとりの女の子と結婚するというところを気にしている。それがなのははうれしかった。

 

「やっぱり、色々気にしてるのかなとかは思うんだよ。いままでずっと言ってなかったってことは──まぁ、うん。そりゃ困惑もしたけどさ。すずかと付き合って、それで、吸血鬼だからって俺がそれだけの理由で不幸になる未来なんて見えないし、そこはいいんだよ。ただすずかが気にしてるなら、俺はどうしてあげれば、その不安を解消してあげられるのかなって……」

「それが、相談?」

「うん。そう……かなぁ? ちゃんと思ってることちゃんと言えてるかは怪しいけど、おおむねそんな感じかな……」

「うーん……」

 

 高い高い空の中、なのはは風で髪をなびかせながら首を傾げた。

 

「それ、気にする必要あるかな?」

「え?」

 

 なのはは、心底不思議そうに、言葉を続ける。

 

「好きってだけじゃだめなの?」

「……」

「好きって想いを、まず伝えるところからじゃないかな。まっすぐ、一直線!」

「おぉ……」

 

 単純明快な、アンサー。

 

「なるほど」

「じゃない?」

「そうかも」

「でしょ」

 

 悩みというのは往々にして、本人にとっては複雑でも他人から見れば単純なことがある。

 恋愛ごとにおいて、確かに色々と面倒なことや複雑なことは多い。けれどそれを解決する根幹たるものは、相手への想いだろう。

 

「あぁ……なるほど。そっか。じゃあ俺のさっきの質問も無粋なところがあるかな。空。ちょっとまた違う話かもしれないけど、似たようなもんな気がする」

「え?」

「空。好きなのなんで? って聞いたけど……好きなものは、その根本を探れば探るほど、“好きだから”って単純な答えになる気がするなって」

「……はえ〜」

 

 今度はなのはがうなる番だった。

 実際のところ高町なのはが空を好きになった理由は、もう少し複雑ではある。

 フェイト・テスタロッサと出会い必要に迫られ飛行技術を学んだのが、高町なのはの飛行のはじまり。

 だから楽しいとか好きとか、そういうものではなく、ただの手段だった。

 けれど、飛ぶ必要がなくなっても、海鳴でただの女子高生として過ごしていても空にいるのは──やっぱり、好きだから。

 

「そっか。私、空飛ぶの好きなんだ」

 

 なのはは、顔を綻ばせてそう言った。

 

「そういえば、私……お母さんに空が好きだってちゃんと言ったことなかったなぁ……」

「そうなんだ」

「うん。……また空が飛びたいって、言ってみようかな」

「……あー。怪我とかには気をつけてね」

「あはは。そうだね」

 

 よーし、となのはは声に気持ちを込めて、

 

「いくよ!」

「──えっ?」

 

 全速力で、空を舞う。

 視界はまわり、いまどこにいるのかもわからない。

 

 空に堕ちる。

 

 なのはは菜の花のように笑っていて、君尋は頬を引きつらせている。

 

 天には月、空に花。

 

 大地から離れ、悩みも何もかも空にとかして、彼らは空を楽しんでいた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

貴方の命はキスの味。

 夜の静寂に、足音をつけていた。

 ざり、と。

 靴底とアスファルトが擦れる音がする。

 

 一歩、一歩と足を進めていた。

 

 なのはと空を飛んだ翌日の、夜。彼はすずかに逢うことを決めて、彼女の家へと向かっていた。

 空を見上げると満月がきらめいていて、優しい光を感じさせてくれる。

 家を訪れるのははじめてではないが、やはり門は大きくて、庭も含めるとその全容が視界にはおさまりきらないのだから何度見てもびっくりする。

 そうして、正門の前まで訪れて、彼は門が開いていることに気付いた。

 

「……これ、チャイムとか鳴らさずに入ってこいってことなのかな……」

 

 実は事前に行くということは連絡していた。

 今日の夜行くから待ってて、と。

 その上でわざわざこうなんだから、これは黙って入ってこいということなんだろうか、と彼は考えていた。

 

「……」

 

 考えて、考えて、どうしよう……とひたすら悩んでいた。

 まだ待ち合わせには時間があった。

 待ち合わせ、と言うのにも語弊があるかもしれないが、『午前二時には着く』という連絡をしている。何故こんな深夜なのかと言われれば、昨日なのはと遅くまで空で遊泳していて、帰りが遅くなって、普通に親に怒られたからである。夜に出歩くんじゃない、と。

 普通に夕方や昼という選択肢はあるにはあった、が。

 

 ──彼女と逢うのは夜がいい、と思った。

 

 だから、深夜のこの時間、ひっそりと家を抜け出してきて……こうして、彼女の家までやってきている。

 もうやっていることがただの夜這いだし、色々とアウトラインを越えそうな気はしているのだが、それでも、すぐにでも彼女に逢いたいと思ってしまったのだ。

 この感情を、衝動を、止めることは難しい。いや、止めたくないと思ってしまったから、こうしてここにいる。

 

 まぁ、それはそれとして。

 

 現在時刻は午前一時と十五分。

 一般的に言えばもう寝静まっている頃合いだろう。つまり彼は今更になって、「これすごく迷惑じゃないか?」と怖気づいていた。

 待ち合わせ(仮)の二時にまだゆとりがあるということもあって、少しばかり、立ち往生してしまう。

 すると、

 

 

「……中入ったら? 寒いでしょ?」

 

 

 キィイ、と大きな門が開いて、ひょこりと赤い目をした彼女があらわれた。

 

 

 

 

 

 

「はい。お茶」

「あ、ありがとう……」

 

 暖房の入ったあたたかな自室に通されて、やわらかなソファーに身をしずめて、両手でちんまりとカップを持つ。

 ずず、と一口だけ口にするも、まだ熱すぎて一度に胃にいれるのは難しそうだった。ちびちび、と少しずつ嚥下していく。

 

「今日、寒いね」

「そうだなあ」

「深夜だしね」

「うん」

「あ、別に責めてるわけじゃないよ。うん。ただちょっと、背徳感? うん。どきどきするね」

「いやほんとごめん。家族が寝静まったあとじゃないと、ちょっとね……」

「いいよ」

 

 暖房はあたたかく、だけど、少し冷たい空気があった。

 ぴり、と張り詰めたものがある。柔らかな口調の芯には、硬さがある。でも、拒絶は感じない。

 なんというか、なんとも言えないのだが、すごく普通だなと感じていた。

 もっと劇的なことがあるのではないかと思っていた。けれどやっぱりどこまでも普通の延長線の出来事だと感じていて、それが彼に安心をくれていた。

 

 こんなシチュエーションで、緊張しないほうがおかしい。

 だからいま、心臓が高鳴っているのも、普通だ。

 

「……」

「……」

 

 そしてカップを傾けながら、ひっそりとうかがうように、君尋はすずかのことを見ていた。

 足は綺麗に揃えられていて、背筋はぴんとしていて、座り姿が美しい。

 細く長い足を覆うタイツは光沢をまとっていて、ちょっと丈の短いモノトーンチェックのスカート、体のラインが出るワインレッドのハイゲージセーター。……つまりは外着用の、ちゃんとした服を着ていて、「待っていてくれたんだ」ということが容易に想像できる。それが彼の表情に、喜色を与えてくれる。

 

「……──」

 

 そうして、視線が交わる。

 すずかの赤と、君尋の黒がまじわる。

 

「そういえば」

 

 沈黙をやぶったのは、君尋だった。

 

「今日、満月らしいね」

「……そうなんだ」

「そうなんだよ。もうバスもないからさぁ、この家着くまで結構傾斜もあるし、途中からずっと自転車じゃなくて歩いて来てたんだけど……いや、空見上げたら、きれいでさ。雲一つない月の空だよ。見た?」

「ううん」

 

 カチャ、とカップを置いて、窓際へ。

 軽く手招きをしながら、群青色のカーテンを開ける。大きな窓の向こうに、雲一つない空。満ちた月。

 しずしずと彼女はそばまでやってきていて、小さく「開けていい?」と聞くと首肯で返ってきて、鍵をかちゃん。

 

「さっむ」

「……」

 

 ほんのつい先ほどまでこんな寒い場所にいたなんて信じられないくらい、外は寒かった。

 暖かな空気と冷たい空気が混ざって……肺に、冬の夜の、冷たい清廉な空気が流れていく。

 

「ほら。見て、空」

「……うん」

 

 淡い光を帯びた、月。

 熱を持たない優しい光。どこまでも静かなで、きれいなお月さま。

 

「……」

「……?」

 

 心臓が痛い。ばくばくする。つい先ほどのどを潤していたのにカラカラで、つばを呑むのも一苦労。

 

 

「今夜は、月がきれいですね」

 

 

 赤い瞳をしっかりと見据えて、負けないくらい赤い顔で、告白する。

 時間が停まったかのように、刹那を永遠に感じていた。

 ぽかん、と空のお月さまのように口をまあるく開けて、君は驚いていて、

 

「ふふっ」

 

 堰を切ったように、破顔した。

 くすくす、くすくす──……口もとに手を当てて、こんなときにも上品で、やわらかい笑顔で。

 

 

「私、死んでもいいわ」

 

 

 とっても華やかに、君は応えた。

 アイラブユーを夏目漱石は『月が綺麗ですね』と訳し、二葉亭四迷は『死んでもいいわ』と訳したという。

 これは、そういう受け答え。

 

「……顔ちょうあっつい……」

「私もちょっと、心臓、だめかも」

「あぁ、おんなじだね」

「そっか」

 

 手を伸ばす。

 すずかの頬にふれると、彼女はくすぐったそうに目をほそめて、直後にぎゅーっと抱き着いてきた。

 火照りを夜風で鎮めながら、ぎゅうう、としばらく抱きしめ合う。

 どく、どく、どく。

 心臓が爆発しそうなほど、速くて、熱くて。

 

 唇を重ねる。

 

 髪の香り。身体のやわらかさ。そういうもので、君尋の思考はとろけていた。

 すずかもすずかで、しびれるものを、頭の奥に感じていた。

 ここがどこでいまがいつなのか、思考にもやがかかって、曖昧になる。

 

 ちゅ、ちゅる。

 

 いつしか自然と、口中の粘膜を味わい合っていた。花のつぼみを慈しむように、月の雫を飲み干すように。

 

「……っ」

 

 音を立てずに唇を離して、すずかは赤い目をとろけさせたまま、首筋をちろちろと舐める。

 

「ん。いいよ」

 

 つぷり、と針を刺したような痛みがした。

 奇妙な脱力感、酩酊感。血の流れがより早くなる感覚。

 愛しい君に、血を吸われる感覚。

 

「愛されてるって思いたいから、もっと痛くしてほしいな」

 

 控えめなのがわかった。

 この前、手首を掴まれて痛がったからだろうなぁというのは想像できた。

 だからもっと、強く、痛みを。

 そういう気持ちを込めて、彼女の頭を愛おしく包み込む。

 

 みしり、と骨がきしむほど強く、彼女はすがるように愛を返してくれて、君尋はそれが嬉しくて頬をほころばせる。

 

「俺はさ、君のことが好きなんだよね」

 

 命の雫を流しながら、彼は語る。

 

「正直今日もめちゃくちゃ緊張して来たし、どうなるんだろうって不安がすごくてさ。でも、門のところで、めちゃくちゃ普通に『中入ったら?』って。……あぁいう普通なところが好きなんだよな。すっごい安心した」

「……」

「……あぁ、そうそう。結婚も視野にいれて考えてほしいってやつだけど。……あー、俺と結婚してください。て、まだ結婚できる年齢ではないんだけど、一緒になれたら、嬉しい、な」

 

 ちろ、と唇を外して、超近距離で彼女は彼を見上げながら「ほんとに?」とつぶやく。

 いつの間にか瞳の色は、赤から藍色へと変わっていた。

 

「三か月ぶん……ってほどバイトもしてないんだけど、指輪も用意しました。受け取ってもらえると、嬉しいです……」

「なんで敬語なの」

 

 くすり、とすずかが笑う。

 少し体を離して、手だけは離さず握って、壁にかけていたコートのほうへと向かった。

 手を引かれるままに彼女はついてきて、コートのポケットから一つの包みを取り出すと……わぁ、と声をあげる。

 

「……嬉しい」

「ほんとは一緒に選べればいいなとか思ってたんだけど……指のサイズわかんなかったから、うん。えっと、指出して」

「……うん」

「指、綺麗だね」

「ありがとう……」

 

 アルファベットのCのような、片側が開いているようなタイプのシンプルなリング。

 それを、うやうやしく、左手の薬指へ。

 

「サイズがちょっとわかんなくて、オープンリング? フォークリング? って言うらしいんだけど。これなら多少の誤差は無視できるって……あぁうん。ぴったりだね」

「だね。うん。嬉しいな」

「保険かけなくてもよかったかも」

「サイズ、どうしてわかったの?」

「手つないでるときの感覚とか。自分の指と比べた感じとか。……まぁなんとなくかな」

「そっかぁ」

 

 すずかは、照明に手をかざして、可愛く目尻を下げて喜んでいた。

 

「すーっごい嬉しい!」

「……それはよかった」

 

 君尋は照れたように頭を掻いて、すずかは手をくるくるさせて色んな角度で指輪を見ていた。

 

「さっきね。普通な感じがすごい安心するって言ってたでしょ。あれ、私もすごくわかる。すごく、等身大に、私のこと見てくれてるんだなっていつも思えて……だからあなたが好き」

「……ありがとう」

「ちょっと恥ずかしいね?」

「めちゃくちゃ恥ずかしい」

「ふふ」

 

 顔をつき合わせて無邪気に笑って、そのまま、再び唇を交わした。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

「あ。そうだ。聞いたわよ。いやー、純朴そうな顔して、臭い台詞言うわね」

「えっ。何。怖い。何聞いたの」

「色々。のろけとか」

「えぇ……何聞いたの。めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど」

「『今夜は月が──』」

「助けてください」

「……あぁ、ほんとに言ったんだ。若干カマかけだったんだけど……へぇ……やるわね……」

「?! コワ……」

「ふふ。まぁとりあえず、私の親友、よろしくね」

 

 

 

 

 

 

「おめでとう! なんかいい感じに話まとまったってすずかちゃんに聞いた──っていうか婚約したんだって?」

「いやほんと……この年で婚約までいったのは我ながらびっくりだな……」

「だね。……あー、せっかく面白いところなのに、間近で見れないのが残念だな~」

「人の恋路を面白がらないでほしい……。て、なんで?」

「私、空に行くから」

 

 

 

 

 

 

「よぉ君尋。お前まじ? 婚約とかマ?」

「マ」

「はえ~。ヤリチンじゃん~」

「ぶっ飛ばすぞ」

「月村すずかを射止めた今の心境をあらためて、どうぞ」

「……?! え、急にハードル高いこと言ってくるなお前……」

「……」

「……」

「……明けない夜はないとか、そういう言葉あんまり好きじゃないんだよね」

「草」

「キレそう」

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 闇の帳が下り、昼頃と比べ静けさが増した夜の中、二人はベランダで空を見上げていた。まんまるなお月さまが、今日も空に輝いている。

 それだけでもうどうしようもなく嬉しくて、胸の中に幸せが満ち溢れている。彼女も、同じように思っていてくれればいいのにな、なんて馬鹿みたいな幻想を抱いてしまう。

 

「ん……」

 

 ネクタイをぎゅっと引っ張られ、身体が前に傾いた。それと同時に、吐息が首筋にかかって、心臓が跳ねる。必死に声を堪えようとするが、這わされた舌に思わず反応してしまう。

 

「──っ」

「……可愛い」

 

 息に、声に、匂いに、温もりに、その瞳に。

 すべてにどきどきして、ぞくぞくしてしまう。

 

「いただきます」

「……んぁ」

 

 そしてそのまま、牙が突き立てられる。

 甘噛みとは違う、皮膚を突き破る感触。瞬間走る痛みは、苦痛であるはずなのに、何故だか心地よくて身体から力が抜けていく。いや、抜けているのは血液か。どくり、どくりと首筋が脈動していることがわかって、それと同時に彼女の体内に、自分の血液が入っていることを想うと愛おしくて。垂れ下がっていた腕を彼女の背に回して、ぎゅっと抱きしめる。

 ぼぅっと、焦点の合わない目のまま、髪を梳く。彼女の甘い香りと相まって、天国みたいで。

 

「……俺、ここで死んでもいいわ」

 

 そこで、首筋からふっと口が離れる。

 

「だぁめ」

 

 そう囁かれて、二、三度傷穴を舐められる。湿った首筋にはその声がくすぐったくて、愛おしくて、腰に回した手をぐっと引き寄せる。

 

「あなたは、私と一緒に死ぬんだから」

 

 あと、六百年は生きてくれないと。

 そんなことを言うもんだから、彼女の顔が見たくなって、力を緩め少し距離を空ける。それでも、傍目には十分密着しているだろうけど、表情がよくわかるようになった。予想通り──いや、予想以上に綺麗な笑みを浮かべていて、思わず、

 

「──んっ」

 

 無言で唇を奪っていた。

 抱き寄せた肩に力が入ったのがわかって、そしてその力がすぐに抜けていったのもわかって、より深く、唇を重ね合わせる。

 

「ん、ちゅ……ん……ふ……んん……」

 

 頬を撫でて、薄らと開いた瞳をじっと見つめる。

 

「ちゅ……んん、ちゅ……」

 

 舌を絡めて、吸って、彼女の唇を味わう。

 どうしてこんなに美味しいんだろう。甘味のわかりやすい甘さとは違う、女の子の、甘さ。そして仄かな血の臭い。

 

「……ぷはぁ」

 

 透明な橋が唇と唇にかかって、不意に千切れる。

 

「ねぇ」

「んー?」

「今夜は、月が綺麗だね」

 

 頭上で輝いている月を見上げて、そうだね、と笑う。

 そして唇の端に、小さく赤がついているのに気づいて、ふと、思ったことがあった。

 

「あのさ」

「うん?」

「血って、どんな味がするの?」

「あぁ」

 

 そんなことかぁ、とすずかは頬をほころばせて────もう一度、そっと、触れるだけの口付けを交わして。

 

 

 

 

 

 ────貴方の命はキスの味。

 

 

 

 

 なんてね、と君は優しい月のような笑みを浮かべた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。