再会した女の子が放っておいてくれない話 (黒樹)
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灰色の世界

あらすじも適当の見切り発車です。



季節は春、桜舞う色鮮やかな季節だというのに世界は灰色で満ちている。新しく袖を通した制服も、瞳に映る景色の全てが灰色だ。舞い散る桜は火山灰のように、白い雲が浮かぶ晴天も曇天が広がった空のように、道路も、景色も、そして人さえも全てが灰色である。

 

そう見せているのは自分の心が薄暗いからか、世界の色はまるで絵具の溶けた灰色の水をぶちまけたみたいに見事な灰色なのだ。

 

新しく始まる高校生活に浮き足立っている奴らの制服に着せられている感と言ったらもう口に出せたものではない、と僕は達観した感想を胸の内に吐きながら憂鬱そうな瞳を外へ向けた。

 

奴らはどんな心境でこの季節を、この日を、迎えたのだろうか。

 

僕が色で表すなら間違いなく『灰色』だ。憂鬱で、先が思いやられる、煩わしく、つまらない通過点。僕は高校生活をそのように考えている。

 

奴らの期待や希望に満ちた顔を見れば、共感できない感情故に僕は首を傾げた。何故そうまでして人生を楽しめるのかと?

 

 

「……はぁ、何が楽しいんだか」

 

 

頬杖をつき、興味なさげに窓の外を見る。

相変わらず嫌になる光景から目を逸らしていると–––。

 

 

「……さ、榊原君?」

 

 

不意に声が掛かった。

 

入学式を終えた、今日この日に。

態々、僕に声を掛ける希少な人種がいたのだ。

 

まず初めに確認したことだが、あ行から始まるクラス名簿を見るに『榊原』という苗字を持つのは他におらず、自分だけというのが判っている。同じ中学から入った奴が入学時の不安から声を掛けてきたのかと思いつい声に反応して一瞥すると、それは知らない顔だった。普通に初対面の女子生徒で僕は一瞬言葉を失う。

 

「……誰?」

 

名前も知らない女子生徒。まず、初めに足先に視線を戻して順繰りに見ていく。引き締まった美脚、細い腰、それから薄くはない胸が制服を押し上げて自己主張をしている。全体的にはスレンダーだが造形美は完璧で類稀な美少女という奴だった。顔も目鼻が整っていて、小顔で、綺麗と可愛いが半分半分といったところか。鴉の濡羽色の黒髪で、艶があってより一層美しく見える。

 

まず、中学の知り合いではないし、名前も知らない。そんな相手にそう投げかけてしまうのは至極当然のことで、中学の時の誰かが高校デビューしたと言ったらまぁそれで説明がつくのだが、生憎こんな美少女は知らない。

 

「え、えっと……覚えてないよね?」

 

いや、名乗れよ。

残念ながら顔の照合には失敗しているのだ。

それに顔なんて中学の時のやつを覚えているのでギリギリ。

それ以外を探せと言われても迷子になってしまう。

 

と、突然のことに思考を割いていると妙に周りの視線が気になった。他の視線が全集中しているのだ、その原因は言わずもがな目の前の美少女と自分に集まっている。

それは一種の偶像的崇拝からであり、彼女が美人だからなのだが……。

 

「知らん。友人は数少ないが、その中に女はいないからな」

 

僕は美人だからと媚を売ることはしない。

不遜な態度で切って捨てた。

 

「まぁ、そんな都合のいい話もあるはずがないか……君は私を忘れて当然だ」

 

落胆したような、安心したような、何処か歪で混じり気のある妙な顔をして、女子生徒はそう落ち込み気味に言ってみせると肩を落とす。

 

「名前を言えば判るかもしれない」

 

自分と仲良くしていた相手なら、と条件はつくが。

そう言うと彼女はそれもそっかと自己紹介をする。

 

「私の名前は鹿島湊月、っていうんだけど……?」

 

確認するように、鹿島湊月と名乗った少女は不安そうに此方の顔を覗き込む。その顔には不安と、怯え、そんなものが混じっていて、次に彼女が口にしたのはこの言葉だった。

 

「ごめん、人違いだったみたい……!」

 

そう言い捨てて、彼女は逃げるように走り去った。

 

 

 

 

 

 

結論から言えば、『鹿島湊月』という少女の名は覚えている。小学生の頃、僕が転校する前までは仲良くしていた女の子の名前だった。だが高校生になった彼女の姿は見違えて綺麗になっており、昔の地味な印象と比較するとがらりと変わっているのだ。こういう女が一番怖いと僕の爺さんが言っていた。

 

それはさておき。

 

高校に進学してから一ヶ月、僕には深刻でありながら、小さな問題が発生していた。

 

「おはよう、圭」

 

僕が彼女のことを思い出し、それを伝えるタイミングを逃し放棄したにも関わらず、彼女は毎日絡んでくるようになったのだ。もう既に彼女は第一学年のヒロインであり、一番人気を掻っ攫っているにも関わらず、そんなカースト上位の人間が人間関係であぶれた男子生徒に関わっているのだから当然の如く、彼女に一目惚れした男子生徒どもは面白くないと感じているはずで、その不快そうな雰囲気と人を殺せそうな視線が背中に刺さる。

 

旧知の仲であることを僕が思い出していない体とはいえ、彼女の積極性は昔はなかったもので僕は狼狽えるばかり打開策さえ浮かばない。

 

「……あぁ、鹿島か。おはよう」

 

なんとか朝から挨拶するだけの勇気と体力を消費すると、今日の分の労力が根こそぎ失われる。帰って寝たい。

 

そんな僕とは対照的に、挨拶を返された彼女は満面の笑みを浮かべると満足げな表情で此方を見る。僕が教科書等を机の中に放り込む間、ずっとその視線を投げていた。

 

「……僕の顔に何かついてるか?」

 

「強いて言うなら、寝癖が酷いね。圭がしっかりすればカッコいいのに、そうだ私がやってあげよっか」

 

僕の跳ねた髪を見て彼女、湊月が提案するがはっきり言おう。

 

「要らん。無駄だ」

 

「私が断言する。間違いない」

 

「それに何の意味がある?」

 

「モテる」

 

「生憎、一度もモテたいと思ったことはない。これからも、この先もな」

 

一蹴するとそっかそっかと湊月は頷き、ニコニコとした表情を浮かべ、

 

「……私はカッコいい君が見たい」

 

そう堂々と言い切る。

 

「意味が判らない」

 

「ダメか?」

 

「勝手にしろ」

 

上目遣いで懇願されるまでもなく、適当に返事をする。髪の毛に干渉されたところで不満はないのでやりたければやれと伝えると、湊月は自前の櫛やスプレーを使い僕の髪を整え始めた。何故か、そこにはメンズ用のまである。用意周到すぎるだろうに。

 

「ふふっ、どうだ?」

 

それから数分して、湊月は手鏡を使い僕の姿を鏡に写す。

そこにはやる気なさげな死んだ魚の目をした男がいた。

 

「どうと言われてもな……」

 

客観的に見て、自分をカッコいいと思えないので良くなったとは思えず、湊月の腕を評価するならさすが女子というか身嗜みに関しては完璧で寝癖もなくなり、髪型も少し弄られて普段は鬱陶しいほどの前髪で顔を隠した僕の瞳が、僕を鏡越しに見つめていたといえばいいだろか。相変わらず酷い顔と言ったところか。

 

「戻していいか?前髪」

 

「……気に入らなかったか?」

 

卑屈な人間ほど下を向いて歩き、猫背になり、顔を隠すものだ。だから、前髪を掻き分けて瞳がノーガードなのは自分の精神衛生上よろしくない。

 

「おまえはどうして僕なんかに構うんだ」

 

正直、僕に関わったところで鹿島湊月という女子生徒には何の得もないはずで、言外に鬱陶しいと告げると彼女は寂しそうな笑顔を見せる。無理やり笑っているようなそんな表情。その内側にあるのは何だろうか。

 

「……昔、君は私を助けてくれただろう。だから恩返しがしたいんだ」

 

それが理由の全てではないように思えるが湊月はそう言って、気丈に笑う。

 

「助けた、か……残念ながら心当たりはないな」

 

僕は思い当たる節があるにはあったが、忌まわしい記憶なので封印する。もう蓋は開けたくないとばかりに気づかないフリをして、ただぼーっと黒板を見つめた。湊月の目を見ることが出来なかった。

 

忌まわしいことにそんな自分の感情を抑えつけ、脳は思考を放棄してくれない。

 

『心当たりがあります。話してみますか?』

 

–––『YES』or『NO』

 

自分の前にあるのは二つの選択肢だ。

ゲーム風に表現するなら、そんな感じの。

誰にでもある、何処にでもある、分岐点。

だけど、確かに未来というものを左右する大事な場面。

 

 

 

「私は君に感謝しているし、また昔みたいに君と仲良くしたいと思っている」

 

 

 

そんなことを美少女から告げられても、僕の心境に変化は訪れない。

 

「そんな大層なことをした覚えはないな」

 

だから僕はもう一度突き放すように言った。




あらすじは多分そのうちちゃんと考える。


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鹿島湊月と愉快な仲間達

鹿島湊月の髪色を黒髪に修正しました。


 

 

 

新入生特有の騒がしくも緊張感のある時期も過ぎ去った頃、学校内は新たな熱に包まれ始めていた。

 

「えー、では今日から一週間、部活見学が実施されるので興味のある者は各々見に行くように。入部届の提出は今週中、金曜日までに提出してくれ」

 

女教師は号令をすると教室から足早に去って行く。担任も顧問をしている部活があるのだろう、それだけ告げ退出したかと思えば生徒達は開放感から一気に気を抜いた。

部活見学に行く者、帰宅する者、散り散りに散開する中で僕は一人さっさと帰り支度を始めていた。この学校は部活動は強制参加ではないので、入部しない人種も微かに存在するのだ。その筆頭が僕である。

 

「圭」

 

そんな時、僕を呼ぶ声が隣から。振り返らずとも判る、鹿島湊月だ。彼女は既に帰宅準備を終えたようで手荷物を手にして僕の横に立っていた。

 

「なんだ?」

 

「何処に入るか決めた?」

 

なんだそんなことかと僕は嘆息する。

 

「何処にも所属する気はないよ。バイト探さなきゃいけないし」

 

まず高校に入って目標としていたのが金だ。故にバイトは必須。ゲームを買うにも漫画を買うにもお金がいる。今までまともな金銭を親から貰えなかった僕としては、最大級の重要事項なのだ。

 

「せっかくの高校生活だろう。部活動に興じてみるのもいいじゃないか」

 

そんな枯れた青春を送ろうとしている僕に対して、説教じみた説得を試みる湊月。彼女は僕の腕を掴むと逃さないと言わんばかりで、さらには上目遣いで見つめてくる。しかも美少女が様になっていて余計に腹立たしい。不覚にも少しドキッとしてしまった。

 

「はぁ……。何故そう拘る」

 

部活がやりたければ勝手にすればいい。そう伝えれば、当然とばかりに彼女は言う。

 

「私が圭と楽しい学校生活を送りたいんだ。だから、せめて見学だけでも……」

 

強気に誘いにきたくせに、最後はどうも締まらない。そういうところがどうも琴線に触れたようで、僕が妥協してしまうまでがお決まりのパターンだ。

 

「わかったわかった。部活見学くらい一緒に行ってやる」

 

「本当か?」

 

嬉しそうに笑みを浮かべて湊月は僕の手を引く。

 

「じゃあ、取り敢えず私の友達を紹介しよう」

 

「は?」

 

そんなことを言われて、首を傾げた。

僕は人が苦手なのだ。

みるみるうちに引っ張られて教室の隅に移動すると、そこには二人の男と一人の女がいた。茶髪の男、金髪の男、それと生意気そうな亜麻色の髪の女の三人。

 

よし、回れ右だ。

 

「ちょっと待つんだ、何処に行く?」

 

慌てたように僕の腕を掴んで抵抗の意思を見せる湊月に対して、僕は引っ張られたままにぴたりと止まった。

 

「じゃあお友達と楽しんできてください。それではまた明日」

 

「今更逃すとでも?」

 

掴んだ腕を離さないように湊月が腕を掻き抱く。そうすれば必然的に、湊月の小さくない胸が当たるわけで、上腕二頭筋が幸せの絶頂に至り始めた。

早い話が腕が硬直してしまうわけだ。

そのままお仲間の元まで引き摺られて行った。

 

「緋奈、連れて来たよ」

 

「ふーん。あんたがあの榊原ね」

 

顔を合わせるなり睨みつけるように下から覗き込んでくる女子生徒、身長差もあって仕方ないことだがずいっと顔を近づけて、じっと見つめてくるもんだから僕は慌てて顔を逸らす。緩く開けた胸元から胸の谷間が見えてしまった。

 

「久しぶり、元気だった?」

 

倉橋緋奈、昔の顔を覚えてはいないが確かに知っている。特に湊月と緋奈の二人は色々とあったからか、忘れたくても忘れられないわけで、名前を言われれば薄らと記憶が蘇る。凍りついて溶けて消えそうだった記憶の一部、まるで今まで忘れていたことが嘘かのように鮮明に。

 

「元気に見えるか?」

 

「そうね、濁りきった腐った目をしているわ。昔のあんたと比べたら、今のあんたってまるで別人だから驚いちゃった」

 

会うなりそんな賛辞とも取れないことを言って、僕の心臓のあたりを突いてくる。指先は嫋やかに突き立てられたが、悪意のようなものは感じられず友好的なのが判る。昔から、こいつは言いたいことをはっきり言う裏表のないやつだった。

 

「で、あいつらは?」

 

四人のうちの二人は知り合い。じゃあ、残りの二人はと視線を向けると困ったことに二人からは敵意に近い感情を読み取ってしまう。十中八九綺麗な友達関係とかではなく、少なからずどちらかの二人に恋心を抱いているのだろう。突然、横から出て来た僕という存在が気に食わないらしい。

 

「この二人はまぁ……なんだ、腐れ縁というやつか?」

 

「ちょっ、そりゃないでしょー鹿島ちゃん」

 

「中学の頃からの付き合いだ。今は友達、と言っておこうか」

 

自分達は長い付き合いだと言わんばかりに主張し始めたが、どうやら二人とも恋人とかそういう関係ではないらしい。そんな関係性なら正直、このグループに入ることは絶対に嫌だったのだが少し気持ちが軽くなる。

 

「オレは泉健吾、よろしくな榊原君?」

 

「俺は西宮直人、是非とも仲良くしてくれ」

 

茶髪が泉健吾、金髪が西宮直人、二人が差し出して来た手を仕方なく握ると思いっきり握り潰された。敵意剥き出しな時点でもう既に仲良くする気なんて全くないのだろう。裏表がない分まだマシだが。

 

「短い付き合いになることを祈るよ」

 

皮肉を隠さず、僕はそう言って握り潰し返した。

 




キリがいいところで切りたかったので今回は短め。


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部活見学

現在公開可能な主人公の情報。
『榊原圭』
黒髪黒目の十五歳。身長は175㎝。
鹿島湊月曰く、顔は悪くない。
ただし普段の姿から、周りからは隠キャだと思われている。


 

 

 

鞄を片手にグラウンドへ出る。放課後のグラウンドは野球部とサッカー部、それから他の部活までもがフィールド内で色々なスポーツをしており、その傍には新入生であろう他一年生の姿も窺えた。何処か懐かしい光景に目を細めて突っ立っていると、ぽんと手を合わせて湊月が皆の意識を集めた。

 

「さて、今日は何処から行く?」

 

希望を問うているのは僕に対してらしく、間違いなく双眸が僕を見つめていた。

 

「そりゃ野球部っしょ」

 

「サッカーだ」

 

別のところで意見が分かれる。泉と西宮の二人が睨み合うようにして対立していた。それを嘆息して額に手を当て、文字通り落胆を示す湊月は隠しもせずこう言う。

 

「君達には聞いていないんだが……」

 

恐ろしくばっさりと切り捨てた言葉に二人は気付いていないらしく、なおも睨み合ったままだ。それでと僕に向き直り、改めて聞いて来た。二人の意見は聞く気がないらしい。

 

「どっちでもいいんじゃないか?遅いか早いかの問題だろ?」

 

単純にそれだけだったのでどっちでもいいと言うと、話は並行して進まない。正直、どっちにも興味がないので好きにして欲しいのだが、何がそんなに二人を急き立てるのか睨み合ったままだった。

 

「はぁ、榊原が決めなさいよ」

 

緋奈も僕に全部投げてしまったようで投げやりにそう言う。

 

「じゃあ、野球部でいいんじゃないかな」

 

僕は適当に言い放ち、興味なさげにグラウンド向こうを見やった。

 

 

 

こうして最初の見学先を決めた僕達はグラウンドの隅の方へ来た。今は新入生向けに軽い試合を見せているようで、観客には多くの一年生がいたようだがその中には別の学年の女子生徒の姿も確認できる。既に入部した者もいるようで、練習にはジャージ姿のまだ幼い顔立ちの者達もいた。

 

そして、女子生徒達だがその多くの目的がマウンドに立っているあの男だろう。見るからに好青年そうな男がピッチングをする度、きゃあきゃあと歓声が上がる。ズバン、というキャッチャーミットの音が綺麗に響いた。

 

「ふーん、誰?」

 

「なんだよ。榊原君、東堂先輩のこと知らないの?」

 

泉が自分自身の自慢をするかのように語り始めた。この学校の野球部のエースらしく、その実力は全国でも指折りだとかなんだとか説明されても野球については知りもしないし、興味もないのだ。まして野球部に入るわけでもあるまいし。

 

「鹿島ちゃんは知ってるよな?」

 

「いや、知らないな」

 

「同じ中学出身だよ!?」

 

どうやら湊月達は同じ中学校の卒業生らしいが、湊月本人は然程興味が沸かなかったらしく、冷淡に考える素振りも見せず断じた。

 

そんな噂話をしながら野球部の試合を見学していると、終わったようで真ん中で選手達がお互いに号令をして試合を終えるところだった。そうして解散したと思いきや一人の選手が走ってくる。東堂先輩と呼ばれた人だった。

 

「よお、泉。久しぶりだなぁ」

 

ちらっと女子陣に視線を向けた東堂先輩だが、順に巡っていきその視線はやがて僕で止まった。

 

「ん?そっちのやつは初めて見る顔だ」

 

「鹿島ちゃんの友達らしいっす」

 

「友達、ねぇ……?」

 

値踏みするかのように視線を彷徨わせた後、何やらひそひそと泉に耳打ちし始めた。それから黙々と二人は会話を続け、二言くらい言葉を交わすと突然ある提案をする。

 

「そうだ。久しぶりだし投げてくか泉?」

 

「いいっすね。オレ昔より上手くなりましたよ」

 

「じゃあ、俺が監督に口添えしてやるからちょっとした余興も兼ねて、ミニゲームといこうか」

 

まるで予定調和のように二人は滑らかに会話を進めると東堂先輩だけが他の練習を始めた者達のところへ戻り、監督らしき人物と会話するとすぐに戻ってくる。

 

「オーケーってさ」

 

「よっしゃ。見ててよ鹿島ちゃん、倉橋ちゃん」

 

 

 

その十数分後、泉はジャージに着替えてマウンドに立っていた。軽く肩慣らしに投球やキャッチボールをしている姿が目に入る。それを促した東堂先輩といえば、僕達のもとから去ることはなく此方に残ったままだ。

 

「何が始まるんですか?」

 

別段興味もないがただ見ているのも退屈なのでそう問い掛けると、待ってましたと言わんばかりに彼が楽しげに口を開く。

 

「ちょっとした余興というか新入生歓迎かな。入部希望とレギュラー集めて、実力の測りあいってやつよ」

 

それに東堂先輩は出なくていいのかと思う。口に出すのも無意味かと思ったので、胸の内に留めておいた代わりに僕は適当な推論を持ち上げることにした。

 

「ふーん、そうですか。僕は女子生徒にいいとこ見せたくて見せ場を無理やり作ったように感じますけど?」

 

「おお、案外キレるな。その通りだよ」

 

「女子マネでも募集してるんですか?」

 

「いたらやる気でるだろ?」

 

泉はそれに便乗して緋奈か湊月のどちらかに良いところを見せたくて参加したのだろう。つい裏を掻くあまり、そういった魂胆が透けて見えてしまう。

 

ほどなくしてバッターボックスに一人、ユニフォームを着た選手が立った。金属バットを片手にヘルメットを被っている。その立ち姿もさることながら慣れているように感じた。

 

「お、始まるぞ」

 

バッターが構えると泉は大きく振りかぶる。綺麗に洗練されたフォーム、オーバースローで投げられた球は投手から捕手へ真っ直ぐ正確に飛んでいく。初球は見送ったようで打者は微動だにせず球を眺めていた。

 

「ほー、随分球速が上がってるな」

 

先輩の見立てでは中学の頃から成長しているらしく誰に説明するでもなくそう呟く。というか、泉の凄さを説明するために態々残ったのではなかろうか。

 

続く二投目、泉が投げた球に合わせて打者はバットを振った。キンッ、と掠めた音がしてボールが捕手の背後に飛ぶ。

流石に入学したての高校生と現役の高校球児では分が悪かったのか、はたまた泉が凄いのかファールとなってあと一つでアウトを取れるだろう状況になる。

 

そして、三投目。

ズバン、と乾いた音が鳴った。

ミットが球を捕球した音だ。

打者は空振り、驚いているようだった。

 

「変化球ですか」

 

「あぁ、使ったみたいだな」

 

「む、あれが見えたのか圭は?」

 

「この距離だから、少しブレたように見えただけだ」

 

バッターボックスから一塁ほどの距離で観戦しているため、感覚的なことに過ぎずそう言うと湊月はうんうんと頷いた。

 

「さすがは圭だな」

 

買い被りすぎだ。何処か誇らしげにしている彼女に僕は何も言えない。

 

一人討ち取り、調子が上がった泉の前に新しい打者が現れる。その打者は先程の打者よりもガタイがよくパワータイプのようだ。見るからに長打者というのが判る。

 

続く二人目の打者は強そうに見えたもののストレートで三振になる。

 

「次で最後だな。って、次はあいつかよ……」

 

入れ替わるようにバッターボックスに立った選手を見て、東堂先輩は額に手を当てた。泉の応援をしている先輩としては勝って欲しい、というよりも後輩が女子に良いところを見せる手助けをしたいのだろうか。憎々しげに溜息を吐いた彼は、帽子を深く被り直した。

 

「あいつはうちの四番打者だ。泉も相手が悪かったな」

 

打ち取れずとも仕方ない、といった風に装ってフォローするあたり、上手い言い訳だ。まず中学校を上がってすぐの一年がレギュラーと勝負できるあたり、十分な成果であると言えるが。

 

一投目を泉が投げる。渾身のストレートはミットを穿ち、スパンと小気味いい音を響かせた。相変わらず一投目を打者は見送る傾向にあるらしい。慎重なのか花を持たせようとしているのか、まるでわからないが二投目の前に打者は構えた。

続いた二投目。泉が投げた球に合わせて打者が振ると、キンッと音が鳴ってボールはあらぬ方向へ飛んでいった。

三投目、打者は振らず見送った。

 

「あいつ焦ったな」

 

ボールだったらしい。続いて四投目、五投目も。

最後の渾身の一撃、とばかりに全力の六投目。

 

キンッ、と甲高い音がなった。

当たった–––そう認識した時、誰かが叫んだ。

 

「危ないッ!?」

 

誰の声かは判らない。それでも打球は飛んできた。観戦している僕達の方に、空を切って地面に落ちることもなく、バットから跳ね返ったボールがそのままに。そして、運が悪く直線上にいたのは湊月だ。

 

「……え?」

 

気づいた時にはもう遅い。僅か数メートル先まで打球が飛んできていて、彼女は驚き反射的に目を閉じた。




『泉健吾』
茶髪。中学時代は野球部に所属していた。身長は170㎝。
倉橋緋奈曰く、軽薄そうなやつ。
榊原のことを警戒しているが、恋敵になるとは思っていない。


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憧れの君

都合上、『鹿島湊月』視点。


 

 

 

物凄い速さでボールが私に迫る。驚いた私は避けることすら頭から抜け落ちて、間抜けにもただ襲ってくる痛みに備えるかのように目を閉じた。嫌なこと、痛いこと、怖いことがあるといつもそうだ。私は目を逸らす。それが終わるまでひたすらに。まるで時間の進みが遅くなったかのような瞬間を、ただ怯えながら……。

 

–––バチッ。

 

そうやって今が過ぎることを待っていると、鈍い音と衝撃が私の身体を駆け巡った。でも、不思議なことに痛みはない。代わりに私を包み込むかのような……そう、抱き締められている感覚があった。

 

「……?」

 

私はおそるおそる目蓋を開ける。すると、まず初めに目に入ったのが男子生徒の服。ゆっくりと視線を上げると圭の顔が間近にあって、少しドキッとしながら目を逸らした。どうやら私は圭に抱き締められているらしい。そう思うと、嬉しくて、恥ずかしい思いで顔から火が吹き出そうになる。

 

「け、け、圭……?」

 

「怪我はないか?」

 

「えっ、あ、うん……私は大丈夫だ」

 

「そうか。ならいい」

 

圭は私の無事を確認すると、私を抱き締める右手とは反対の手、左手から何かをぽいと投げ捨てた。それはさっきまで私に向かって飛んでいた野球ボールだ。まさかあれを受け止めたのだろうか?

 

「た、大変だ、冷やさないと!」

 

きっと怪我をしているかもしれない。腫れているか、罅が入っているか、最悪の場合骨折もありえる。慌てて圭の左手を握ってみると少し赤いばかりで異常は何処にも見られない。

 

「あの程度で怪我なんてするかよ。あんなの誰だってできる」

 

いや、少なくとも私はできない。とばかりに西宮と東堂先輩の方を見てみると、しっかりと首を横に振られてしまった。

 

「あー、グローブがあるなら余裕だけど。怪我もせずにとなると結構難しいからな、三回に一回くらいなら多分野球部員ならできると思うぞ。まぁ、普通はやらないけど」

 

野球部員の威信にかけてか、そんな補足説明が入る。

 

「なんでそんな無理をしたんだ」

 

無謀なことだと判るや私は圭に詰め寄った。その反面、圭が守ってくれたことが嬉しくて口角が上がらないよう頰を張るので精一杯だった。私の頭にポンと手が乗せられる。

 

「おまえが避けないからだろ」

 

それはつまり、守ってくれたという証明に他ならず、私はつい嬉しさと喜びを抑えきれなくなった。

 

「何を呑気に笑ってやがる」

 

「ふふっ、嬉しかったんだ。君は昔と変わらない、それがわかったから」

 

感激のあまり圭に抱き着くと、少しだけ涙が溢れた。

そんな私の頭を、圭は優しく撫でてくれた。

 

 

 

 

 

 

「何か冷たい飲み物を買って来るから、圭は此処で待っていて。緋奈は何がいい?」

 

「私は紅茶で」

 

保健室に行くことを渋った圭をベンチに座らせて、私は飲み物を買いに走った。圭の手を冷やすためだ。無理をしないようにと緋奈を監視につけて、走ること数分で生徒玄関横に置いてある自販機に辿り着く。

走ったからか息が荒い。身体も熱いし、頰も赤い。でも、きっとこれは走ったことだけが原因じゃないはずだ。つい嬉しすぎて圭に抱き着いたことと、ちょっと泣いたこと、と色々ある。

思ったよりも圭の手も、身体も硬くて、男の子なんだなって思うとなおさら恥ずかしくて。それが好きな相手で、ベンチに座るまでずっと寄り添うように腕を組んで歩いたのだから。胸を押し付けてみたり、他にも色々試した、その恥ずかしさが重なって全部が纏めて私に襲い掛かってきている。

 

「……頭を冷やすべきは私かもしれないな」

 

圭の手を冷やす前に私の頭を冷やすべき。そう思い立って、少しだけ圭から離れた。でもそれだけでちょっと切ないような寂しい気分だ。よほど私は圭が好きらしい。

 

「平常心、平常心……」

 

自販機に硬貨を入れて、ボタンを押す。二つ選んだところで私は悩む。

 

「圭は何がいいかな?」

 

手を冷やすためという口実があるとはいえ、好みを聞いておくべきだった。好きな食べ物、好きな飲み物、圭が好きなものについて私はあまりにも知らなさ過ぎる。スマホを使って緋奈に連絡を取ろうかと思って、ふと視界の隅に嫌なものが目に入った。牛乳をパックで売っている自販機だ。私は牛乳が飲めないほどではないが、嫌いなのだ。

 

「……そうだ、圭は気付いてくれるかな?」

 

妙案が思い浮かんだ私は牛乳を買える自販機に寄って、硬貨を投入すると迷いなく牛乳を購入した。カコン、と落ちてきた牛乳を取り出し口から受け取り、思わず笑みを浮かべる。嫌いな飲み物を手にしながら笑みを浮かべる私って、実は気持ち悪いのではないだろうか。

 

「鹿島ちゃーん」

 

「鹿島さん」

 

そんな私の元に泉と西宮の二人がやってきた。

 

「いやー、さっきはごめん。大丈夫だった?」

 

「私は大丈夫だよ。圭が守ってくれたから。だから、気にしないで」

 

そもそも原因は避けれなかった私にあるわけで、謝罪を受け容れると泉はホッとしたような顔をする。

 

「それならよかったんだけど……榊原君って何者?」

 

不意に泉が漏らしたのは圭に対する疑問だった。

 

「悔しいが俺には無理だった。いや、正直自分のことで精一杯だったからな。実は元野球部だったんじゃないかと俺は思っているんだが」

 

西宮が苦々しげにそう語り、圭について探るように私に聞いてきた。でも、昔から圭はあんな感じで運動は得意だったし、なんら不思議な感じはしない。

 

「さぁ、私はまだそういった話をしてないからな。再会してから約一ヶ月、話すことに夢中で私の知らない中学時代の話はしてこなかったから。小学生の時の話くらいしか、な」

 

まるで思い出を振り返るように彼との過去を語らい、そうすることでお互いに足りていなかった時間を埋めてきた。私が一方的に話すとそうだったなと返すんだ。それが嬉しくて、どうでもいい話ばかりしている。

相槌を打ってくれるけど、あまり覚えていないようだった。それに私が彼に思い出して欲しくない記憶を触発しないように接していることもあってか、とてもぎこちないものだった。

 

だがそれはそうと私の知らない榊原圭という存在は気になる。彼は小学校四年の時に転校してしまったし、中学時代はどんな生活を送っていたのか。

 

……私の毎日は、彼がいなくなってからとても寂しいものだったから。

 

「……中学生時代の圭、か……」

 

冷たい飲料缶を頰に当てて、頰が緩みそうになるのを慌てて引き締めたのだった。




次回は視点が戻ります。


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残された二人

 

中庭に植えられた木、その前に設置されたベンチに座りながら僕は左手の感触を確かめる。最初は打球を受けた衝撃で少し痺れはしていたものの、感覚はだいぶ戻って来ており握るくらいの動作なら簡単に行える。握力的な問題であれば少し弱まっている程度で時間が解決してくれるはずだ。それに骨には何のダメージもない。

 

「本当に大丈夫なの?あんた」

 

「問題ない」

 

同じベンチに腰掛けた倉橋緋奈が横から手を伸ばし僕の腕を掴む。自分の方に引き寄せるとぐいぐいと掌を押して、何かを確かめるような動作をする。

僕が感じるのは緋奈の手の柔らかな感触だけだ。

 

「腫れてないわね。痛くない?」

 

「何をしてるんだ?」

 

「あんたなんでも大丈夫って言って我慢するタイプの人間じゃない」

 

「言い返せないな」

 

実際、痛くても放置しただろうし気にもしなかっただろう。ただ、自分よりも僕の身体を労る人間が珍しく、手を解放されるまで僕はされるがままになっていた。やがて満足した緋奈はそっと手を離した。

 

「……」

 

「……」

 

話すことがなくなり互いに無言になる。

グラウンドから響く、バットの金属音だけが届いていた。

それが数分、いや数十分続いたような気がして。

うがーっと唸るように静寂を緋奈が破った。

 

「あーもうあんたってばなんなのよ!?」

 

突然、キレだす緋奈に意味がわからず目を白黒とさせ、ぎょっと見ると睨みつけるような視線と指先を突きつけてきた。

 

「あんた昔はうざいくらいに明るいやつだったでしょ!それがどうしてこんな根暗になるの!?」

 

「……人間変わるんだよ」

 

「変わるにしてもビフォーアフターの差が激しすぎるのよ!」

 

「何も変わったのは僕だけじゃないだろ。緋奈も、湊月も……」

 

そこまで言って気づく。

昔のように名前を呼んでしまったことに……。

 

「ねぇ、なんで今みたいに湊月を呼んであげないの?」

 

「それは……」

 

どうしてだろうと考える。昔は名前で呼んでいた。なら今もそうすればいいだろう。そのはずなのに、どうも抵抗感というか慣れない感覚があるわけで、躊躇ってしまうのだ。

 

–––答えはすぐに出た。

 

「私達のこと避けてない?」

 

緋奈の言葉が核心を突いていた。

押し黙る。すると怒ったように頬を膨らませる。

 

「言いたくないことがあるとすぐそうやって黙る。誤魔化したりする癖、本当に昔から変わらないのね」

 

呆れたような懐かしむような優しい表情で、緋奈は脚を組んだ。喋るまで威圧するのをやめないだろう、ジッと此方から視線を外さない。

 

「……言っても笑わないか?」

 

観念した僕は目を逸らしながら確認を取る。

緋奈はこくりと頷いた。僕もようやく覚悟を決めた。

絶対に言いたくなかったことを口に出すのだ。

質問に質問で返すようで悪いが、僕はそれ以上の言葉を持ち合わせていない。

 

「……なぁ、緋奈。僕は必要な人間だったか?」

 

吐露した気持ちに彼女は首を傾げた。

こいつ、何言ってるんだと–––。

 

「当たり前でしょ」

 

さも当然と言わんばかりの返答に今度は僕が困惑した。

 

「あんたが何を思ってるかは知らないけど。湊月もあたしもあんたのこと忘れたことなんて一度もないわよ。薄情なあんたと違ってね」

 

皮肉げにそう言われれば返す言葉もない。何かを言い返そうとして、言葉が見つからなくて、結局は言いくるめられるような形で終わってしまう。口先で女に勝とうと思わない方がいいとは爺さんの弁だったか。

 

「……それが聞けただけで十分だ」

 

胸の支えが取れた気分でベンチに凭れる。木漏れ日の合間に見える空を見上げて、腕を投げ出すようにぶら下げる。

 

 

 

そんな僕の額の上に冷えた飲料缶が置かれた。

 

「何の話をしていたんだ?」

 

自販機から帰って来た湊月が不満そうに頬を膨らませる。除け者にされていたのがかなりショックだったみたいで、ご立腹な様子が目に見えて不機嫌さを表現していた。

 

「別にくだらない話よ」

 

会話内容についてあまり言及されたくないのか、他愛無い話として処理したか、緋奈は湊月が買ってきた飲料を受け取りながら切って捨てた。

 

「本当か圭?」

 

訝しむような視線が突く。額の上の飲料缶を退けながら、ベンチに座り直していると不意に湊月が持っている飲料が目に入った。紙パックに入った牛乳だ。

 

「……そんなことはどうでもいいだろう。それよりおまえ、それ飲めるようになったのか?」

 

僕の知る鹿島湊月という人間は牛乳が嫌いだったはずで、予想外の方法で給食の時間は残さず牛乳を飲んでいた。そんな少女が牛乳を持っているのだ。違和感半端ない。

 

「あー、その、これは……間違えて買って来てしまったんだ」

 

「ならそっち寄越せ」

 

最初に渡して貰った飲料缶を差し出し、代わりに牛乳を捥ぎ取る。すると何故か湊月はにやにやと喜色を浮かべては、笑みを漏らしてくすくす笑っていた。

 

「何がおかしいんだ?」

 

「圭が私の嫌いな飲み物を覚えていてくれたのが嬉しいんだ」

 

逆に言えば僕は湊月が好きなものを知らない。

 

「はぁ、なんか考えんのも馬鹿らしくなってきたな」

 

紙パックに付属しているストローを刺して、一口飲む。牛乳の甘さとドロドロした感じが何かを洗い流してくれるような気がした。だが、疑問は尽きない。何故こんな美少女達とお近づきになっているのか。人生で一番の奇跡ではなかろうか。

 

「えいっ」

 

そんなことを考えていると、湊月がベンチに手をついて牛乳パックのストローに食いついた。口に牛乳が入った途端に嫌な顔をして、複雑な葛藤を経て飲み込む。

 

「一応、飲めるようにはなったんだぞ」

 

赤い顔をして、口元を拭う。耳まで赤くなった彼女を見ているとなんだかこっちまで笑えてしまう。色々と考えていたことが馬鹿みたいだ。

 

「確かにな」

 

湊月が口をつけたストローに思うところがあったものの、気にすることはやめて残り全部を飲み干すように吸い尽くした。すると余計に湊月の顔が赤く染まっていく。

 

「は、あ、あぅ……!」

 




圭「そういえばあの二人はどうした?」
湊月「喧嘩を始めたから置いて来た」


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ジャージ

 

 

二日間続けての部活見学、運動部もあと僅か。野球、サッカー、バスケと馴染みのあるものから始まり、湊月と緋奈が所属していたというテニス部も回った後のこと。湊月がジャージ姿のまま手を引きながら振り返った。

 

「そういえば圭は中学時代は何か部活をやってた?」

 

泉健吾は野球、西宮直人はサッカー、湊月と緋奈はテニス。と、明かしたところで不意に疑問に思った湊月が純粋に顔を覗き込む。運動した後の汗も光って、少し眩しい彼女から視線を逸らす。

 

「榊原君ってさぁ、最初は運動できない隠キャだと思ってたけど、割とできるよね?」

 

「運動部に所属していたのか?」

 

すると幾度か対抗心を燃やしていた二人が探るように質問して、僕は言い辛くも答えを口にした。

 

「……あぁ、やってたよ。途中で辞めたけど」

 

あまり掘り返したくないことだったので言葉に嫌悪感を持たしたのだが、妙に食いつく女が一人。

 

「圭は昔から運動が得意だったからな。それで何をしていたんだ?」

 

湊月が誇らしげに胸を張って、それでと問い詰めてくる。

僕は小さく返した。

 

「……ハンドボール」

 

「……はんどぼうる?」

 

専門用語がわからないおばあちゃんみたいな感じで湊月は反芻する。もちろん、そんなことを言えば不機嫌になりそうだったので口には出さない。自分も中学生になるまで知らない競技だったので、無理もないが。

 

「どんな競技なんだ?」

 

「バスケに似てる球技だよ」

 

「そういえばこの学校にもあるらしいわね」

 

「どこでやってるんだろ?」

 

一つ答えれば勝手に話が進んでいく。

僕は無抵抗なまま引き摺られて行った。

 

 

 

湊月に口を破らされて渋々出した情報を元に体育館へと移動する。日替わりで練習する部活が変わる体育館には運が悪いことに、見慣れた球を手に暴れ回る選手達の姿があった。バスケとも、バレーとも違う、黄色い球が飛び交う光景に僕は嘆息する。今日に限ってハンドボール部は体育館を占有していた。

 

二階の立ち見できるスペースへと邪魔にならないように上がり、しばらくその光景を見つめていた。

 

「圭、どういうスポーツなんだ?」

 

「GKが一人、他フィールド六人でワンチーム。二つのチームで点の取り合いをするんだよ。他は見ればわかる」

 

「圭は何処のポジションだったんだ?」

 

「……キーパー」

 

一番地味で目立たず、動かなくてもいい。そのうえチームプレイをあまり必要とせず、守るだけというのは自分の性格的にも合っていた。

 

「ふふっ、ゴールを守る圭か。実に君らしいな」

 

素直に褒めているのか湊月はクスッと笑う。僕がゴール前に立っている姿を想像したのか、その瞳には僕がコートに立つ姿がまるで写っているかのようで、なんとなく気分が悪くなる。あまり良い思い出じゃなかったせいか、さっさとこの場を立ち去ってしまいたい気分だった。

 

「もう運動部の方はいいな、行くぞ」

 

「えー、圭がコートに立つ姿を見たかったな」

 

駄々を捏ねる湊月に僕は無反応を決め込む。階段を降りて、すぐ近くにあった扉から帰ろうとした時だった。

 

「あれ?……おまえもしかして榊原か?」

 

不意にそんな声が聞こえたかと思うと駆けて来る足音がした。シューズの擦れるキュッという音が響き、次第に足音が近づく。ゆっくりと振り向いた時、そこにいたのは見知った顔。つい二年前までは顔を合わせていた同じ中学の先輩だった。

 

「人違いです、さようなら」

 

まさかこの高校にその人物がいるとは知らず、一瞬驚いた顔をしたものの平静を装って脇を抜けようとする。そんな僕の腕を誰かが掴んだ。

 

「もう、そんな急ぐことないじゃないか」

 

追い着いた湊月が捕まえたと言わんばかりに手を握る。恋人繋ぎと呼ばれる、逃がさない意思を全力で感じられる握り方をしてまで、僕の横に立って歩きたいらしい。

 

「やっぱり榊原圭じゃないか。……もしかして、そっちは彼女か?」

 

手櫛で髪を整えている隣の彼女、湊月を指して言っているのだろう。ボールを腰と腕で挟み、反対側の指は僕と湊月の間を右往左往していることから、確定だと思われる。

 

「ふ、ふふっ、私と圭が恋人……」

 

「違います」

 

広められると厄介なのでそこだけは否定しておく。そうこうしている間にも後続が追い着き、緋奈が怒鳴った。

 

「いきなり走り出さないでよ榊原!」

 

「女が一人増えた。……マジかよ」

 

何やら驚愕した様子の先輩に向かって、僕は更なる訂正をすることになる。

 

「誤解を生むような発言をしないでください。古村先輩」

 

「なるほど、おまえがいきなり部活を辞めたのは女絡みか」

 

「人の話聞いてました?」

 

もっともこの人の場合は揶揄っているだけなので、まともに相手をするだけ無駄だ。それを理解できる時点でもう既に手遅れなほどこの先輩とは関わりが深いことにはなるのだろう。

 

「圭、知り合いか?」

 

「中学の時の同じ部活の先輩だ」

 

もう会うこともないと思っていた人物の登場に動揺を捨て去り、努めて冷静に振る舞う。どうもこの人は苦手なタイプでならない。熱血というか真面目というか、部活に熱心に取り組む姿勢が僕は嫌いなのだ。相容れない存在だからだろう、僕はこの人が嫌いだ。

 

「いやー、懐かしいなぁ。おまえが部活を辞めてからだから二年くらいか?」

 

「そうですね」

 

「また勝負しようぜ、今回は負けねぇ!」

 

「嫌です」

 

こうやって勝手に盛り上がってぐいぐいくるこの性格が苦手だ。はっきりと断ったのに、古村先輩は諦めが悪いようで更に捲し立てる。

 

「おいおい、勝ち逃げは許さねぇぞ」

 

「僕の負けでいいですよ」

 

「それは俺が断じて認めねぇ」

 

とても厚かましい。

だから、僕は逃げの策を切る。

 

「そもそもジャージ持って来てないですし、無理ですよ」

 

部活に入る気は微塵もないのだ。部活見学で体験をする場合は制服ではなくジャージの着用を原則としており、そのルールに則ったならば僕はどう足掻いても勝負することはない。

 

「なら私が貸そうか?」

 

そう思っていたのだが、横合いから妙な提案がなされる。湊月が貸し出すと言ったのだ。これには泉と西宮が猛反発、なんなら自分達のを貸すとまで言っている。そして、それは僕ではなく、湊月がお断りした。

 

「まぁ、今私が着ているものだけど。サイズ的には大きめのを買ったからぴったりだと思うし」

 

女子的にそれはどうなのだろうか。

 

「要らない」

 

「むぅ、私のじゃ不満か?」

 

「勝負を受ける気はないって言ってるだろう」

 

面倒も厄介も御免とばかりに切り捨てる。何を思ったのか知らないが、クンクンと袖を嗅いで臭くないよな?と緋奈に確認していた。緋奈は呆れ顔で首肯する。

 

「いいじゃないか少しくらい私のために頑張ってくれても」

 

一度でいい。

そんな甘言に惑わされて、僕は嘆息した。

 

 

 

 

 

 

汗と、匂い、女の子の良い匂いというやつが僕の脳内を駆け巡る。仕方なく袖を通した湊月のジャージは直前にあったテニス部での体験入部もあってか、少し湿っぽい。制服に着替えた彼女も一応の羞恥心はあったのか「絶対に匂いは嗅がないでくれ」と念を押して、僕にジャージを赤い顔で差し出した。

 

……なんでこんなことになったんだろう。

 

ただ普通に部活見学をしていたはずなのに、女子が使った後のジャージに袖を通すという意味の判らない状況に、冷静になって考えればかなりおかしいことに気づく。まるで好きな人のリコーダーを舐めるような、妙な背徳感が沸き上がった。まぁもっともそんなことをしたことは一度たりともないが。

 

「へへ、随分と久しぶりだなおまえと勝負するのも」

 

そんな自分の心情を知らず、今から始まる戦いに古村先輩は楽しげだった。

練習の合間、休憩時間だけの使用となっている。できて勝負は一回、やり直しの効かない十本勝負だ。水分補給も半分に観戦する腹積りの先輩が多く、コート外に人が集まっている。随分と其方も楽しげだ。

完全にアウェイな状況だが、それを物ともせず緋奈と湊月は声援を送った。

 

「頑張んなさいよ榊原。湊月のジャージ借りて負けたらしばくから」

 

「圭、頑張れー!」

 

他の二人は睨むような視線を送っている。羨ましいのか、恨めしいのか、とにかく湊月からジャージを借りたのが気に食わないようだ。

最初に検討したのはジャージの使用をなしにすることだったが、勝負をする条件としてジャージの着用を義務付けられては仕方がない。あの二人から借りるという手もあったが、あの二人が着た後は生理的に無理だ。結果、湊月の使用済みというわけのわからない選択肢になった。

 

「女の前でボコボコにしてやれー!」

 

「あの生意気な後輩に目に物見せてやれ!」

 

「破局しろぉぉぉ!!!!」

 

湊月と緋奈の声援に負けじと野次が飛んでくるが、僕はまったくもって気にする素振りを見せない。脳はクラクラするほど湊月の匂いに侵されていて、少し気分が高揚しているようで……言ってしまえば興奮状態に近い。身体は好調のようでかなりいい具合だ。

 

「じゃあまぁ……おまえの調子が上がる前に決めさせてもらうぜ!」

 

野次も声援も最高潮に達した時、古村先輩が動いた。一度、ボールを床につくとラインギリギリまで走る。

ハンドボールはGKが一人だけ入れるゴールエリアラインが六メートル。そのサイドの一定の位置に置いたコーンが今回の勝負で決められた古村先輩が侵入できるラインだ。

ゴール前はGKのみが入ることができて、敵はその外からボールを投げなければいけない。それもサイドは射角が狭くゴールが小さくなることで一番難しい場所だ。

 

つまり、僕に有利な勝負だ。

 

古村先輩はギリギリから跳ぶとエリア内に入ってくる。そうしてボールを思い切り投げた。それは空いた奥側の角上を狙い、放たれた物で真っ直ぐ飛び込んでいく。

 

それを僕は軽く跳んで叩き落とした。

 

「そうこなくっちゃなぁ!」

 

ボールを返すと楽しそうに笑う。いっそ適当にやって終わらせたいが、なんとなく湊月の前で負けることは許されない気がした。彼女の期待に背くことになるし、借りた意味もない。彼女が望むのは本気の僕、だがやる気というのは一向に上がらない。

 

「やれやれ……どうするかな」

 

本気と言っても僕の調子は山の天気くらい崩れ易い。自分の意思に反して身体の調子は変わる。逆に身体の調子は良くても気分が乗らない時もある。今回はどっちだろうか。

 

思考する間にも古村先輩が跳び、ボールを投げる。すると放たれた瞬間ぶれて見えなくなり、気がつけばもうすぐそこまで迫り……脇を通り抜けようとしたところを肘鉄で打ち落とした。

 

「まったく厄介な球を……」

 

どんな球技にも用いられる放った瞬間に急に消えて見える球。どういう原理かは判らないが急激に伸びたように見えるその球は、誰でも使えるような代物でもある。そして、この球の長所はタイミングを図りづらいことにある。

 

次いで、三球、四球、五球と止める。六球目は何を焦ったかゴールの枠外に飛んでいった。野次が古村先輩にも飛んでいたが、此処までくると静かになった。

七球、八球、九球。また二球ほど逸れた。

 

「最後の一球ですね」

 

「くっそぉ……!」

 

負けが確定しているからか悔しげに呻く。それでも諦めが悪いのが古村先輩だ。

 

「このままで終われるか!」

 

一矢報いてやると踏み込んで、跳んで、放つ。そのボールはゴールから逸れているようだが、妙なことに急速も半分以下だし、妙な手の振り方をした。回転が掛かっている。

 

「そういうことか」

 

慌てずに後ろに下がると、ボールは床につくと跳ねてゴールに向かって曲がった。それも軽く叩き落とした。

 

「はぁ、くそ……二個目と最後のはいけると思ったんだけどなぁ」

 

体育館の床に倒れるように大の字になった古村先輩は悔しそうに呻き、ひとしきり暴れて満足したかと思うと上体を起こした。

 

「ハンド部にまた入る気はねぇのか?」

 

「僕はチームプレイも暑苦しいのも苦手なんですよ。先輩後輩の上下関係も」

 

勧誘されても僕の心は動かない。

 

「そっか。そりゃ仕方ないな」

 

ひらひらと手を振る古村先輩から離れて僕は湊月達の元へ向かう。すると湊月は興奮した様子で駆け寄り、勢いのままにぶつかると肩に手を掛けてくる。

 

「ふふっ、本当に圭は凄いな」

 

「……別に。運が良かっただけだ」

 

いきなり急接近してきた湊月から顔を逸らす。彼女の瞳が自分を写すとどうも自分が滑稽に見える。綺麗で、可愛くて、そんな美少女に笑顔を向けられれば……。

 

「そ、それで……その……変な匂いとかしなかったか?」

 

「変な匂い?」

 

顔を赤らめて不安そうに確かめる湊月は目を伏せるように顔を逸らす。あぁ、ジャージのことだろうか。

 

「別に……いい匂いだと思うが」

 

「なっ、嗅ぐな!今すぐ脱いでくれ!」

 

湊月は耳まで真っ赤になって、僕からジャージを引っ剥がそうとした。

 




湊月は圭の匂い付きジャージをゲットした。


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不思議な先輩

キャラ設定。
『西宮直人』
金髪のイケメン。身長はギリギリ170。
部活は中高共にサッカー部。
モテるためにサッカーを始めたが、それなりに実力はあるらしい。


 

 

 

部活見学期間が終了、明けた月曜日。休み明け特有の気怠い日はいつものように灰色だった。無駄に遠い距離を自転車で通学するのは慣れたものの、休み明けの身体には少し酷である。道中無心になって自転車を漕ぎ、裏門を通って自転車置き場に自転車を置くと、鞄を背負い校舎へと向かう生徒の集団に紛れた。

 

「ふぁ…眠い…」

 

盛大に大口を開けて欠伸を一つ。人の流れに身を任せれば周りは喧騒に包まれる。

最近、流行りの音楽とか、服とか、喫茶店の話。何処の小物がいいだの、可愛いだの、話題が尽きることはなく。

 

「よく飽きもせずに喋れるもんだな……」

 

入ってくる不要な情報に嘆息して、僕は足を早めた。

 

多分、それが原因だったのか。僕の不注意であったのか。ドン、と何かにぶつかり僕の足は止められる。対してぶつかった人は盛大に跳ね飛ばされたらしく、「きゃっ」と悲鳴を上げて地面に尻餅を着いた。

それはとても小さな少女だった。持っていたであろう紙束がバラバラと音を立てて散らばり、それに気づいた少女が悲しそうな顔をする。確かに此方にも非はあったが、それもあってか余計に罪悪感が芽生えた。

 

「ご、ごめんなさい……」

 

少女は咄嗟に謝った。ぶつかった相手を見ることもせず、怖がるように、懸命に。そう早口に謝罪を述べるとすぐに紙を拾い集め始める。その姿を黙って見ているほど僕も腐ってはいない。

 

「いえ、此方こそすみませんでした。先輩」

 

この学校は学年で身につけるリボンやネクタイの色が違う。深紅、藍、深緑の三種類があって、僕は藍色のネクタイを着けている。と、くれば目の前の深緑のリボンを着けた少女は学年が上であることの証左に他ならず。でも、身長は小学生か中学生で通ってしまうくらい小さかった故に、少し可愛らしさを感じていた。

 

取り敢えず、謝罪だけして僕も散らばった紙を拾い集める。すると少女は驚いたように顔を上げて、途端に目を大きく見開いた。

 

「っ。……灰色」

 

僕の顔を見た少女は確かにそう言った。『灰色』と。それは僕の心の内側にある色であり、まず他人が知り得ない情報だった。現時点で僕を灰色の人生を送っているなんて揶揄する奴はいない。だって、僕には湊月や緋奈といった美人が絡んでいるのだ。それを羨ましがる男子生徒達は人生は『薔薇色』だと、そう言うに違いないだろう。

 

しかし、それは僕の表層に過ぎず、他人に対して本音をぶつけたことのない僕にとっては表層の一部分であり、それもまた表面の一部でしかないことには他ならないのだが、初対面の相手に言い当てられたのは少し驚いた。

 

「なら、先輩は何色ですか?」

 

「あ……ご、ごめんなさい……!」

 

「え、あ、ちょっ……!?」

 

失言だっただろうか。紙を拾い集めている最中に少女はまた謝ると逃げるように走り去って行った。その背中を追い掛けようとしたが、まだ紙は残っており拾い集めるという選択肢しかなく、僕はまたしゃがんで紙を拾い始めた。

 

 

 

 

 

 

「ふぅ、さて、と……」

 

待ちに待った放課後だというのに僕の気分はあまり良くなかった。休みのうちにバイトも決まった。来月には携帯も買う。それなのに僕は少しばかり難しい顔をして、机を睨むようにして見ていた。

件の机の上には今朝、生徒玄関前で会った少女が落として行った紙束がある。それを届けに行くかどうか迷っているのだ。つい拾い集めてしまったが、そもそも落とした相手の名前すら知らない現状では、下手に動くと時間の浪費ということになる。労力もただではないし、だが無視できる話でもない。

 

「でも、なぁ……」

 

僕は紙を一枚手に取って眺める。そこにはただ優しい文字でこう書かれていた。

 

『あなたの悩み聞きます』

 

『一人で悩まないで』

 

『苦しいことも、辛いことも、共有できます』

 

『もし、誰かに話したいことがあって、誰にも言えない悩みなら–––』

 

そんな謳い文句があって、終いにはこの文字だ。

 

『寄る辺なき子に救済を』

 

なんというか怪しい宗教団体のような気配がする。もっと言えばあの先輩、小さくて少女然としていたが割とやばい人なのかもしれない。そう思わずにいられない内容の広報紙であった。

そして、この団体の名も妙な……というか、かなり変だ。

 

『寄る部(ヨルベ)』そう読むらしい。

 

ただ調べてみたところ。パンフレットには部活として活動しているわけでもないし名前すらなかった。そんな怪しい団体が学校内にあるのである。実は外部から怪しい宗教団体が介入しているのではないかと思うほどで、非行少女達を売買しているのではないかと勘ぐったりもしたがもちろん妄想の範囲だ。想像の域を出ない。

更に怪しいところと言えば、団体の教祖の名もなければ連絡役の名前すらない。ただ、場所だけが記されている。北校舎の三階、角の部屋に来いと。

 

「面倒だな……」

 

チリチリと肌を刺すような感覚がする。『行かないの?』と誰かの声が囁く。いつものことだ。僕は優柔不断故に考えすぎるあまり、客観的な僕と感情的な僕がいつも対立するのだ。意見が合う時もある。でも、大抵はこうやって思い悩む。

 

「圭、何を見ているんだ?」

 

悩み熟考する僕の側に湊月が寄ってきた。

 

「一緒に帰ろう」

 

美少女からのお誘いだというのに僕は易々と頷けない。嘆息して、僕も覚悟を決めた。行けというなら言ってやるさ、僕がそう望んでいるのなら。

 

「悪い。用事があるんだ」

 

「校門で待っていても私は構わないが」

 

「いや、時間が掛かる」

 

「な、なら、明日はどうだ?」

 

「明日はバイトがあるが、家までなら送って行ってやるぞ」

 

「そ、そうか。明日、か。わかった」

 

教室を出て行く湊月の背中を見送りながら、別のことを考えていた。『灰色』とはどういう意味で言ったのかと。

 

 

 

北校舎の三階、その廊下にはまるで誰の気配もなかった。文化部ですら、北校舎の三階には寄り付かないのかもしれない。角の部屋は更に魔境のようでより一層、喧騒とは別の空間になった。日常から切り離されたようなそんな感覚、でもそれが心地良いのか随分と心は軽く、さっきまでの緊張が解れるかのようだった。

 

「この部屋だな」

 

東側の角、その部屋から人の気配がする。扉には『寄る部』と書かれており、中の様子は特殊なスモークガラスで覗き込まない仕様になっていた。因みに『第三資料室』とも書かれている。

 

ドアを礼儀作法もない適当なノックで打ち鳴らし、僕は来訪を告げた。

 

「失礼します」

 

ドアのノック、一つで資料室の中の気配はぴたりと止まった。どうやら突然の来客に驚いているようだ。そんなこと構うもんかと扉を開け放つ。

 

「あ……」

 

やっぱり中には人がいたようで今朝方会った少女と目が合った。

それだけなら、よかったのだが–––。

 

「……すまん、出直す」

 

資料室の中にいた彼女は何故か服を着替えている最中で、一矢纏わぬ幼女体系を目撃した僕は密かに脳内フィルムに焼き付く工程を終えて、扉を静かに閉めるのだった。



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幼女先輩

幼女先輩のプロフィールは次話で公開する予定。


 

 

 

–––『第三資料室』

 

資料室とは名ばかりのその部屋には本棚の類はなく、床には畳が敷き詰められていた。奥には色々なものが雑多に積み上げられ、整頓された棚があり、申し訳程度に設置された一組の机と椅子があり、その上にはパソコンが一つ。並べられた可愛いぬいぐるみの類は所々に鎮座しており、そのボスとも呼ぶべき存在がドンと隅にいた。

 

「–––っ!」

 

大の男サイズの巨大なクマのぬいぐるみ、その後ろに少女が隠れ此方の様子を窺っている。悲鳴こそ上げられなかったものの、警戒した様子の少女先輩に僕は一定の距離を置いていた。

 

「先程は失礼しました。許してくれとは言いません。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ」

 

ノックをしても返事を待たなかった僕の失態だ。甘んじて罰は受ける覚悟である。

 

「そう警戒しなくても、何もしませんから……」

 

「……」

 

じーっと無言で見つめてくる少女先輩。

まだ名前も知らないが、裸を知ってるとはこれいかに。

 

「どうやら先輩は話すのが苦手なタイプらしいので用件だけ伝えます。これを返しに来ました」

 

話すのが苦手なんだろうなー、と勝手に結論づけて僕は鞄から紙束を取り出して置く。今朝、先輩が持っていたあの怪しい勧誘が綴られた紙だ。さっさと置いて退出した方が彼女のためだろう。

 

「では、これで……」

 

特に深い意味はなく正座していた膝を立て、足をつき、立ち上がる。

 

「ま、待って……!」

 

そんな僕の腰に向かってタックルをかます少女先輩、小柄なのと体重が軽いのもあるが、不運にも体勢が妙なことになっている僕では受け止めきれず、彼女もろとも畳の上に巻き込み倒れる。

 

「……初めて喋ってくれましたね」

 

「…あ、あぅ…ごめんなさい…」

 

また謝った。まともに言葉を交わした回数より、謝罪された回数の方が多いのではないだろうか。そんなくだらないことを考えながら、腰が引けている彼女を一瞥すると、何やら必死な様子で僕を見下ろして、

 

「な、何か悩みがあるなら、お姉ちゃんが相談にのる、よ……?」

 

–––そう来たか。

 

お姉さん。あくまでお姉ちゃんのつもりらしい。先輩としての威厳か、歳上としての矜恃か、精一杯頑張ろうとしている姿勢はよく伝わるものである。

 

「取り敢えず、この体勢はいかがなものかと……」

 

「わっ、ごめんなさっ……ふにゃっ!」

 

謝罪しながら慌てて立ち上がった彼女は盛大にすっ転び、捲れ上がったスカートの下のちょっと背伸びしたパンツを白日の下に晒した。

 

僕は無言で目を逸らした。

 

 

 

また痴態を見られたことに少女が取り乱したが、時間を掛けてろくに構築されていない関係を修復すると、もう一度資料室の中心で向き合うと少女はゆっくりと用意した紅茶を飲んだ。この部屋には電気ケトルが常備してあるらしく、持参した茶菓子と合わせて提供した少女はずっと食べるまで此方を見てきて、さぁ食べろと言わんばかりに心配そうに見つめるものだから、一枚のクッキーを手に咀嚼して、待ち侘びた感想を一言『美味しい』と口にすれば彼女はほっとしたように胸を撫で下ろした。

 

–––此処までがあれからの一幕だ。

 

なんか無性に疲れた。

 

「取り敢えず、自己紹介をしましょう。短い付き合いでしょうが」

 

「えっ……?」

 

少女先輩が悲しげに顔を歪ませた。

なんというか、彼女の反応を見ていると心が抉られる。

幼い少女に酷いことをしているみたいで。

その理由に思い当たるあたり、余計に。

 

「僕は一年の榊原圭です」

 

「わ、わたしは二年の……藤宮小鳥……です」

 

少女先輩の名前は藤宮先輩らしい。そのうち幼女先輩と呼んでやろうかと思っていたが残念だ。

 

「じゃあ、藤宮先輩–––」

 

「ことりちゃん」

 

「藤宮先輩–––」

 

「ことりちゃん。仲の良い人はそう呼ぶの」

 

榊原圭はことりちゃん呼びを強要された。

これが上下関係というやつか。先輩後輩とは面倒な。

 

「では、小鳥先輩で」

 

「うん!よろしくねけーちゃん」

 

何が嬉しいのか花の咲いたような満開の笑みを浮かべる小鳥先輩は、ほっとしたように紅茶に手を伸ばした。子供のようにマグカップを両手で挟んで飲む様は、堂に入っていて違和感がない。

 

「……」

 

「……」

 

それから互いに言葉を交わすでもなく、ただ静かに紅茶の温かさと小鳥先輩手作りクッキーを楽しんだところで、僕は本来の目的を思い出したように問う。

 

「そういえば寄る部ってなんなんですか?」

 

滞在を長引かせられた理由を問おうかとも思ったが、資料室というにはあまりにもお粗末なこの部屋に対して物申す。すると小鳥先輩は急に話題を振られてあたふたと慌てた。喉にクッキーを詰まらせて、紅茶で慌てて流し込み、小さく咳き込む。そうしてようやく落ち着いて話ができるまで数十秒掛けて、マグカップを口に持っていったまま恥ずかしそうに視線を斜め下に泳がす。

 

「……此処はね、居場所のない人達が集まる桃源郷、なの……」

 

「桃源郷……」

 

「うん。友達のいない人とか、家に居場所がない人、学校に居場所がない人。そんなみんなが集まって楽しく過ごす場所、なの」

 

縁がなさそうだな、とは思ったものの口には出さなかった。代わりに紅茶を飲み干すことで口を塞ぐ。その割には楽しそうじゃない小鳥先輩の姿を見るに、彼女もその一人なのだろう。

 

「今日は小鳥先輩だけですか?」

 

「……ううん。もう、わたし一人……去年は先輩がいたけど卒業しちゃった、から」

 

去年までは先輩三人と後輩の小鳥先輩一人。それで仲良くやっていたらしい。彼女は次々と溢れ出すように思い出を語っていく。あの頃は楽しかった、でも今は不安だと言わんばかりで、

 

「–––先輩友達いないんですか?」

 

つい、そんな辛辣な言葉が漏れた。

小鳥先輩は悲しそうに視線を下げる。

 

「……友達いないもん」

 

ぐすっ、と涙声で小鳥先輩は肯定した。

 

「わたしは変な子だから友達がいない。でもね、助け合わなきゃ生きていけない弱い自分だけど、だからこそこの場所が必要な子達のためにわたしも先輩みたいにこの場所を守っていきたいから。だから、此処はみんなの『寄る辺』なの」

 

目尻に涙を溜めながらも小さな手を握りしめて力説する小鳥先輩の必死さは、胸に浸透していくように広がっていく。女の涙そのものが染み渡っていくようで、その感情に感化されている自分がいて、情けなくも笑えてきた。意地悪な自分も顔を出す。

 

「でも、これから誰も此処を必要としなかったら?」

 

「ふぇぇ……!」

 

ど、どうしよう、と小鳥先輩は一人狼狽る。

そうすれば彼女は必然一人だ。

 

「だ、大丈夫だもん……!けーちゃんがいるし……」

 

「僕、入るなんて一言も言ってないですよ」

 

「ふぇぇ!?」

 

小鳥先輩の目尻に溜まった涙がポロリと溢れる。

プリントを返しに来ただけなのに、どうして勘違いしてしまったのか。

 

「あ、あぅぅ……ぐすん」

 

「……わかりました。入りますよ。バイトあるんで毎日は来れないですけど」

 

「ほ、ほんとう……?」

 

「はい、本当です」

 

「と、友達になってくれる……?」

 

「それは小鳥先輩次第です」

 

小首を傾げて顔を覗き込んで懇願してくる幼女、こんな場面を他の誰かに見られたら誤解を招きかねない。僕は仕方なしに頷くと小鳥先輩は萎れた花のようだった顔を、涙の滴を浮かべながらも満開の笑みに変えた。

 




圭「あっ、もう一つ聞きたいことがあったの忘れてた……」


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藤宮小鳥の姉

『藤宮小鳥』
圭と同じ高校の二年生。
身長は147㎝。
髪型は濃緑にも見える黒髪のショートボブ。
本人は自分の幼い容姿を多少なりとも気にしている。
迷子になることがあり、小学生や中学生と間違われることもある。



 

 

「そういえば小鳥先輩、今まで一人で何をしてたんですか?」

 

この活動に従事してから一週間ほどのこと、初めての後輩に張り切った小鳥先輩に振り回されるように校内を案内されて過ごした先で、不意にそんなことが気になった。問われた本人はきょとんと首を傾げて、質問の意図がわかるやのんびりと応える。

 

「えっとね……オセロとか、チェスとか、囲碁とか、トランプとか、あとはテレビゲームもあるんだよ」

 

にぱっと笑顔を浮かべた小鳥先輩の表情はまさに可憐な花の如しであるが、内容は伴っていない。

 

「一人でですか?」

 

「うん、一人で!」

 

確認の為に聞き直したが返答は変わらず、その答えになんとなく居た堪れなくなってしまう。バイトに慣れるまでは構ってやる暇もなかったのだが、一人でパーティーゲームをしている様を想像すると、なんだか熱いものが込み上げてくる。

 

「……わかりました。もういいです。一緒にゲームをしましょう」

 

「ほんとう?なにする?」

 

「小鳥先輩の好きなゲームでいいですよ」

 

何やっても一緒だし、勝負に拘らないならそれも一興だろう。元から小鳥先輩が楽しければなんでもいいというスタンスである。そういう提案であったのだが、最初から決まっていたとばかりに彼女は棚の方へ駆けるとその中から一つの大きな箱を取り出した。

 

「これ他の人とやりたかったの!」

 

嬉しそうに尻尾を振る仔犬を幻視して、手に持ったものは何か。

双六のような、盤上の遊戯。

名は–––、

 

「人生占いゲーム?」

 

なんとも不吉であった。

 

「他の人、ってことは誰かとやったことあるんですか?」

 

「うん。卒業した先輩とか、お姉ちゃんと」

 

「姉がいるんですか?」

 

「この学校にね、あとで紹介してあげる」

 

驚愕の事実、先輩には姉がいるそうな。

小鳥先輩は嬉しそうにボードを畳の上に広げると、テキパキと駒をセットする。駒を進めるのは賽子ではなくルーレットのようで、盤の上に山のような形で設置されている。駒は定番の車型、穴の数人が増える。

スタートは生を受けたところから、ゴールは死亡するまで。

因みにだが、スタートに戻るということはない。

その代わり、転生ゾーンというやつがあった。

それを始めたらこのゲーム終わらない気がするのだが、マスは見ただけでも三百を超えていて中々帰らせてくれそうにない。

 

「今日はこのゲームが終わるまで帰さないからね」

 

–––小鳥先輩も帰してくれそうにない。

 

 

 

「–––さぁ、ゲームを始めよう」

 

ついノリで漫画に出てくるような台詞を吐き、ルーレットを廻す。カラカラと音を立てて目まぐるしく廻る様を見ていると、やがて減速し停止する。

 

「4ですね」

 

ひー、ふー、みー、と駒を進める。

 

「えっと、これは……っ!?」

 

学生ゾーン『好きな人のリコーダーを舐める。バレて登校拒否、引き篭もりになる。二回休み』

僕の駒が止まったマスには、そう書かれていた。

いきなり酷い。

 

「……そんなことしたの?」

 

「してないです」

 

因果応報とはまさにこのこと、だがゲームとはいえ少し心にくる。特に先輩の追い討ちが。

 

「次は小鳥先輩ですよ」

 

「そ、それじゃあ、廻すね」

 

カラカラと音が鳴って、出た目が決まると駒を進める。

それから黙々とゲームを進めること数十分、ようやく学生ゾーンを抜けた。

不幸ポイントという妙な設定もあるらしく僕はマイナス、因みにだが小鳥先輩は凄いラッキーなのか事あるごとに幸福ポイントを稼いでいるのだが、後々これがゲームに響いてくるらしい。

 

「社会人ルート、ですか……」

 

次に進むのは社会人ルート、このステージが本番でゴールまでとても長い区間となっている。職種を得ることに始まり、金を稼ぎ、結婚をして、老後を目指す。そんなルートであるのだが、学生ルートの時点で稀にだが就職マスや結婚マスも存在していた。僕は無職で小鳥先輩は学生ゾーンにて多数の資格を取得し、内定までしている。

 

幸運値からして、勝てる気がしないのだが。

 

「こういう運が絡むゲームって苦手なんですよね」

 

「や、やめる……?」

 

ちょっと寂しそうな声色で顔色を窺い、小鳥先輩はギュッと僕からかつあげしたゲーム内紙幣を握り締める。

 

「やめないですが。ここまできたら意地でやり通します」

 

それから黙々とルーレットを廻す。僕が先行してはいるが、圧倒的有利は小鳥先輩の方だろう。勝ちは諦めた、もうどれだけ変なマスを踏もうと愉しむスタンスだ。

何回も順番にルーレットを廻して、辿り着いた先は–––、

 

「あ、結婚マス」

 

「……あ、私も止まっちゃった」

 

『結婚マス』と呼ばれる特殊マス。

もし同じ順で止まったプレイヤーがいるのなら、その相手と結婚するというマスである。もし該当者が存在しない場合はNPCと結婚して駒に相方を増やすのだとか。

因みに、扶養家族が増えると払出も増える。

 

「じーっ……えへへ、なんだか恥ずかしいね」

 

「ゲームの話ですよ。そう照れなくてもいいでしょう」

 

同じ駒の穴に棒をぶっ刺せばいいんだろう?と自分の人型棒を小鳥先輩の駒の空いた穴にぶっこむ。この時点で自分の駒はお役御免だ。

 

「……でも、こうすると人生ゲームとしてはどうなんですかね?」

 

「それもまた一興、って言ってた」

 

ゲームは続行されるらしい。

そんな時–––

 

 

 

「小鳥、入るわよ?」

 

 

 

ガラッと扉を開けて、大人の女性が入って来た。

スーツを思わせる黒の上着、黒のタイトなミニスカート、そしてそのスカートから伸びた脚は黒のタイツに包まれていて、より美しく際立っている。

凛とした雰囲気は人を寄せ付けず、黒の中にある白のシャツがより一層助長して。

顔立ちは、凛として美人や綺麗という言葉が似合う。

夜を思わせる長い黒髪が一纏めにされ、胸元に垂れさせている。でも、纏めているそれは簡素なゴムなどではなく、可愛らしいシュシュ。そのアンバランスさが、好まれているのだ。

その姿を、知らない男子生徒はいないだろう。

彼女は、この学校の教師なのだから。

 

「お姉ちゃん」

 

小鳥先輩は何を思ってかそう呼んだ–––つまりは、そういうこと。

 

「えっと、藤宮先生……でしたよね?」

 

藤宮詩織、男子生徒人気ナンバーワンの女教師。

ああ、なるほど……。

藤宮という時点で気付くべきだった。

そうさせなかったのは、小鳥先輩の姉というのが同じ学校の生徒だと勝手に誤認していたからだろう。

教師というのは、盲点であった。

 

「あなたが……。榊原君ね」

 

スッと細められる瞳、冷徹な視線に背筋が張る。

ヒールを脱ぎ捨て、スタスタと歩み寄ると確認するように僕を眺めた。

値踏みするかのような視線に思わずたじろぐ、その一瞬の隙に圧が増した。

 

「まさか邪な思いで此処に入ったわけじゃないわよね?」

 

「邪推にも程がありますよ先生、僕は……」

 

「ガールフレンドがいるのに小鳥にも手を出そうというの」

 

とんでもない濡れ衣だ。ガールフレンド、という部分に思いたる人物がいたものの、そういう関係ではないと頭を振り。小鳥先輩に手を出そうというのも違う。無実である。

 

「……まぁ、あなたにどういう意図があろうと小鳥の人を見る目は確かだからね。信用はしてあげる」

 

数分、睨まれ続けたかと思うと藤宮先生はふっと圧を解いた。

 

「取り敢えず、よろしく榊原君。私は一応、この活動の顧問をしているから何かあれば言ってね。もし小鳥を泣かせるようなことがあれば容赦なく退学に追い込むから」

 

笑顔で怖いことを平然と藤宮先生は宣言する。

 

「お姉ちゃんも人生占いゲームやろう」

 

「私そのゲーム嫌いなんだけど……まぁいいわ」

 

小鳥先輩の前ではただ妹を愛する姉のようで、僅かに緩んだ空気に僕は緊張を解いた。



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人生占いゲーム

 

 

 

「……だから、このゲームは嫌いなのよ」

 

急遽、参戦が決まった藤宮先生は死んだような目で呟いた。時間もないということで僕達と同じ社会人ルートまで到達するために延々とルーレットを廻していたのだが、ようやく辿り着いた台詞が絶望に満ちている。

それもそのはず、社会人ルートに至るまで、学生ゾーンからの度重なる突然死と転生ルートを通った上で、さらに浪人ルートという僕達が進んでいないマスまで体験して来たのだ。その顔色は疲労が色濃く浮き出ており、深窓の令嬢のような雰囲気さえ放っている。ルーレットを廻した数なら僕達の倍で、事あるごとに不幸マスを踏むものだから、積み重なった不幸ポイントも大きい。

 

「……どうして私ばっかり不幸なのかしら」

 

深い溜息には別の含みもあり、薄幸な様子がありありと浮かんだ。

 

「ゲームですから気にしないでいいと思いますよ」

 

「せめてゲームくらい幸せになっていいと思わない?」

 

言外に現実世界での不幸を認めた藤宮先生の愚痴に付き合うつもりはない。苦笑いをして、さっさとルーレットを廻した。

 

「えーっと、子供ができる……扶養家族一人追加」

 

「……けーちゃんのえっち」

 

「ゲームの話です。小鳥先輩」

 

小鳥先輩の恥ずかしげな抗議を無視して駒に棒人間を増やす。

人を殺せそうな視線を放つ藤宮先生の視線も無視だ。

僕と小鳥先輩は今や運命共同体。次は藤宮先生の番だ。

カラカラと廻る音だけが資料室に響く。動くマスを確認すると駒を動かした藤宮先生は、止まる予定のマスを見て微妙に顔を痙攣らせた。

 

「あぁ全く嫌になるわね」

 

『ストーカーの被害に遭う。一回休み』また不幸なマスを引いたようだ。なんなら、幸運なマスの一つ踏んでいないかもしれない。

 

「きっといつかいいことありますよ」

 

「本当にあると思う?そんなこと」

 

「僕の信条からすればないですね」

 

慰めに言ったつもりで、本心ではそう思っていない。藤宮先生はそんなくだらないことでさえ見通していたのだろう、隠しても無駄だと思った僕は取り繕うことをしなかった。

藤宮先生は一回休みなので今度は小鳥先輩がルーレットを廻す。出た目だけ駒を進めて、止まったマスを読んでいる小鳥先輩の顔が薄らと赤くなり……。

 

「けーちゃんのえっち」

 

二度目の罵倒ともいえない、非難がましい目。

『双子が産まれる。家族が二人増える』のマスに止まったようだ。

黙々と棒人間を刺すと、駒は一杯になった。

五人、十分な大家族ではないだろうか。

 

「少なくともさっきルーレット廻したの先輩ですよね?それはつまり、僕からではなく小鳥先輩から誘ったということになると思うんですけど」

 

「ち、違うもん!けーちゃんが勝手に発情したんだもん!」

 

「ねぇ妹に何したの?場合によっては訴訟するわ」

 

「誰がこんな幼児体型……」

 

現実的に考えて、僕はある程度ある方が嬉しい。と誰に告白するでもなく反論する。つい条件反射だったとはいえ、ちょっと言い過ぎかなと言葉を止めて、そこで気づいた。

 

「……いつか、わたしもお姉ちゃんと同じ大人の色気ある女になるんだもん」

 

涙目で、小鳥先輩が震えている。怒りか、悲しみか、ふつふつと罪悪感が沸いてしまうのは確かなことで。

 

「……でも、先輩は可愛いと思いますよ」

 

小鳥先輩を見ていると、何か熱いものが……端的に言うと何かに目覚めそうだった。頭をぶんぶんと振って思考から振り払う。僕としては理想は理想であり、小鳥先輩は範囲対象外ではない。あくまで好みではないだけで。

 

「うぅ〜、けーちゃんのばーか」

 

ぷいっ、とそっぽを向いた小鳥先輩は頬を赤らめる。どうやら照れているようだ。

 

それからもゲームは進み、終盤に差し掛かった頃。事態は急変する。藤宮先生にターンが廻った、そのルーレットでのことであった。もう何を踏んでも驚かないというスタンスでプレイしていた彼女の駒が止まった先は、結婚マス。借金や不幸マスを踏み荒らし続けた末の割と良心的なイベントだ。

因みにだが、結婚マスはNPCをパートナーにすると収入が倍になる。そのシステムさえあれば、あとは時間が人生ゲームで手に入れた教師という職種が輝くことだろう。

 

「このタイミングで……でもまぁいいわ、結婚なんてくだらないもの」

 

そうは言っても気にはなるようで、熱心にマスを読み進め……その顔が青褪めた。

 

「ごめんなさい、小鳥……お姉ちゃんばかな女で」

 

急にしおらしくなった藤宮先生の読んでいたマスを見る。

すると、そこには–––『略奪婚』

そんな不吉な文字が書かれていた。

『結婚を誓い合ったパートナーが実は既婚者だった。慰謝料を払い、結婚しているプレイヤーからパートナーを奪う』

マス目にはそんな解説。

 

「つまり先生は妹の夫を……」

 

「屈辱だわ、どうしてこんな男を……」

 

「それ生徒に言っていいセリフじゃないですよ?」

 

少なくとも子供の頃にやった人生ゲームはもっとこうバラエティ性のあるゲームであって、こんな生々しいマス目などなかったはずだと僕は一人呟いた。

小鳥先輩の駒から棒人間を一本引っこ抜き、今度は藤宮先生の駒にお邪魔する。

 

「けーちゃんの裏切者」

 

「それ僕のせいじゃないと思うんだけど……」

 

慰謝料を払えとある、僕は黙ってゲーム内紙幣を差し出した。

 

「無職ですがよろしくお願いします」

 

「ヒモだったと思うと引き取って良かったわね」

 

妹の脅威は極力排除するスタンスらしい、これでは校内の害虫共は小鳥先輩に近づくことすらできないだろう。ロリコンとかロリコンとか

ロリコンとか。

 

そこから大きなイベントは殆どなかったと言ってもいい。

ただ、僕が……。

 

「ねぇ、どうしてあなたがルーレットを廻す順番になるといつも子供が増えるマスに止まるの?」

 

–––毎ターン子供を増やすマスに止まっているくらいか。

 

このゲームで子供の数というのも重要で、最終的に一人につき幸福ポイントとゲーム内紙幣が増える仕組みだ。損はないが批難がましい視線が痛い。

 

「それだけ先生が魅力的ということでは?」

 

「子供が一人増えるごとにあなたの課題を倍にするわ」

 

「ゲームの話を現実に持ち込まないでください!」

 

職権乱用にも程がある、と抗議する。

勿論、冗談であるのだろうが。

次はまた小鳥先輩が強運を発揮して、金を増やし、次は藤宮先生の番だ。

廻したルーレット、これで運命が決まる。

もう既にゴールは目前だった。

 

「あら、残念……」

 

残念ながらゴールマスには止まらなかった。そして、読み進める藤宮先輩。無表情で何を考えているか判らないが、どちらにしても終わりだと先生は呟く。

『パートナーが事故死、多額の保険金が手に入る』というマス。

その、パートナーとは。

 

「……僕じゃないか」

 

なんか死んだことになった。しかも、今回のパターンは転生ゾーンに行けないらしい。それほど魂をズタボロにされたのか僕、いやまぁゴール直前で放り出されても困るけど。

このゲームは一人がゴール、つまりは死を迎えるとゲームは強制的にクリアしたことになるらしい。小鳥先輩と藤宮先輩の二人は既に金勘定を始めていた。

 

「まぁわかっていたことだけど、小鳥の圧勝ね」

 

財産も幸福ポイントも幸運も呼び寄せた小鳥先輩の圧勝、まるでわかり切っていたゲームを締め括るかのように藤宮先生が結果を発表して、パンパンと手を打ち鳴らした。

 

「さぁ、ゲームはもう終わり。片付けて帰るわよ」

 

時刻は既に、夕方の六時を過ぎていた–––。

 

 




一方、その頃。
湊月「圭が他の女と仲良くしている気がする」
緋奈「あいつに女友達とかほかにいないでしょ」
不機嫌そうな美少女の姿があったらしい。


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ガラスの世界

 

 

 

「圭、お昼……」

 

「悪い。先輩に呼ばれてるんだ」

 

授業終わりの昼休み、いつものように湊月から声を掛けられた。

それに対して僕は小銭だけを引っ掴み、足早に教室から出ようとする。

もう、何度も繰り返された光景。

少し寂しそうな顔で湊月は見送る……いつもならその筈だった。

 

「湊月?」

 

上着の裾を引っ張るような感覚が僕を止めた。何が引っ掛かったのかと振り返ると、僕の制服に手を引っ掛けて引き止める湊月の姿がある。顔色は窺えない、視線を少し落としていた。

 

「……毎日じゃないか。そんなに私といるのが嫌か?」

 

私と先輩どっちが大事なんだ、そう問い掛けられている気がした。

 

「嫌じゃないけど……」

 

「嫌じゃないならなんで……放課後は先輩のところに行くか、バイトに行くって言って、一緒に帰ってくれない。昼休みも全部先輩で」

 

捨てられた子供のような、泣きそうな声で湊月は吐露する。その胸の内に秘めた薄暗い感情を、全部全部真正面から。それは昔の彼女ができなかった、正直な気持ちを伝えるということ。

まだ幼い鹿島湊月の姿を幻視したような気がした。だからだろうか、彼女の成長を喜ぶ父親のような、あるいは兄のようなそんな気持ちになってしまうのは。でも、それと似て異なる感情だ。

これが感慨深いというやつか。

 

胸を締め付けられる–––僕は相変わらず、弱い。

 

「なら、湊月も来るか?」

 

小鳥先輩が他人に対して苦手意識を持っているとはいえ、そのままではダメなんじゃないかと思う。斯くいう僕も他人の事は苦手で、人のこと言えた義理でもないが。

 

「ほ、本当か?」

 

「ただ他の連中は連れて行けないけどな。緋奈みたいなクラスの中心にいるような陽キャは刺激が強過ぎる。男を連れて行くと藤宮先生が人を射殺す目つきで見てくるからな。だから、まぁ慣れるまでは湊月だけだな。きっとあそこの波長に合うだろう」

 

先手を打って、他の連中がついてこないように気を回す。案の定、湊月は緋奈に報告しに行くと「え、あぁそう」と受け答えをして湊月を送り出した。

 

 

 

購買でパンを買い第三資料室がある北校舎へやってきた。一週間ほどで見慣れてしまった扉をノックして、ドタバタと暴れる気配を室内に感じると扉が音を立てて開かれる。その隙間から顔だけを覗かせた小鳥先輩は僕の姿を確認すると隠しもしない喜色を表して、次いで見た湊月の姿にびっくりして奥に逃げた。

 

「さ、さっきのは……?」

 

随分と可愛らしい小動物じみた小鳥先輩の姿を目に焼き付けた湊月、その答えとして僕は扉を開け放ち彼女を伴って資料室の中へと足を踏み入れた。

畳の上では既に藤宮先生がお茶とお弁当を広げており、その奥のクマのぬいぐるみの背後には熊に捕食されそうな小動物が小刻みに震えていた。それが小鳥先輩である。

 

「だ、だれ……? その人……」

 

すっかり怯えてしまった小鳥先輩の姿に嗜虐心を煽られながらも、自制心を保つ。今日問題がなかったら緋奈を連れて来よう、そう思った。

 

「鹿島湊月、僕のクラスメイトです先輩」

 

「幼馴染」

 

被せるように訂正した湊月の声に、幼馴染の定義とは?と問答を繰り広げようとしてやめる。彼女が幼馴染と言ったら幼馴染なんだろう。ただ友達というには少し奇妙でもある。

 

「で、クマのぬいぐるみの背後に隠れているのが藤宮小鳥先輩で二年生。そっちはわかるよな」

 

「藤宮詩織先生のことか、それはまぁうちのクラスの副担任だから当然だと言えば当然だが……」

 

「え、副担任だったのか?」

 

「なんで圭が知らないんだ……?」

 

思わぬ驚愕の事実に戦慄していると、そのことに呆れたと言わんばかりに批難がましい視線が差す。それも三人分。これ以上、会話を広げるとまずい気がした。

 

「小鳥先輩、クマのぬいぐるみに隠れてないで出てきてくださいよ。お昼食べましょう」

 

場の空気を紛らすために隠れている小鳥先輩に焦点を合わせたが、どうも小鳥先輩は隠れ場所から出てくる気配がない。突然現れた湊月を警戒したように見つめている。

 

「……海より深い青」

 

そして、ぼそりと確かに呟いた。

また、色だ–––。

一番近くにいるはずの藤宮先生は気にした様子もない。

僕の背後にいる湊月は言わずもがな。

 

「小鳥先輩、前も言ってましたけどそれどういう意味ですか?」

 

僕の『灰色』は想像がつく。

湊月の『海より深い青』それの意味。

それだけがわからない。

どうして色を口にするのか。

品定めするような、そんな視線と何か関係が?

 

そんな疑問を表に出したことで、ビクッと肩を震わせて小鳥先輩はより一層警戒した様子で、少し哀しげに顔を顰めた。

 

「小鳥、別に言ってもいいんじゃない?」

 

「でも、お姉ちゃん……」

 

「今更、そんなこと言われて尻尾を巻いて逃げ出すような人間じゃないってあなたもわかっているでしょう」

 

まるで妹を諭すような藤宮先生の物言いに不思議に思っていると、小鳥先輩は唇をギュッと引き結んだ。

 

「……笑ったり、怒ったり、しない?」

 

「よっぽどのことがないと怒りませんよ僕は」

 

–––憤怒に身を委ねられるほどの熱が残っていない、僕は燃え尽きた灰だ。何を言われようと並大抵のことでは驚きはしないし、怒りに身を任せるのも、感情を動かすこともない。

 

でも、それが小鳥先輩を安心させる言葉だったとして。

彼女は堅く結んだ唇を緩めた。

 

「……わたしね、わかるの。人の心が」

 

それは突拍子もない、不思議な話。などではなく。

ありきたりで、特別でもなんでもない話。

 

「はぁ、なるほど……?」

 

それがどうしたのか判らず顎に手を摩り、言葉の意味を咀嚼して飲み込もうとする。そんな僕の姿を「信じてない」と思ったのだろう、さらに言葉を続けた。

 

「わたしには人の心がガラス玉の形になって見えるの」

 

「ガラス玉、ですか……」

 

ガラスのメンタルとはよく言ったものだ。

きっと人間の心はガラスみたいに脆い。

それはありえない話ではないな、と僕は思う。

耐熱、防弾、どんなガラスも存在するだろう。

それこそ人の数だけ。

 

「そのガラス玉はね、誰もが持っている自分の世界なんだよ」

 

そこにガラス玉があるのだろうか、胸の中心を両手で覆い隠し小鳥先輩は続ける。

 

「わたしにはそのガラス玉の世界が、人の心象風景が見えるの」

 

「なるほど、だから灰色か……」

 

僕が思い描いた心の中の世界。

間違いなく、『灰色』で覆い尽くされていることだろう。

 

「えっと、まだ信じてない……?」

 

「実際どんな風に見えてるんだ?」

 

「……いいの?」

 

小鳥先輩は、湊月の方を見た。

僕の心が露見するのを恐れているのか。

多分、それとは別の理由。

要らぬ気遣いだと言っておこう。

 

「榊原圭。けーちゃんのは……」

 

意を決した小鳥先輩は僕の瞳を見つめる。まるで覗き込むように、深層を探るように彼女の瞳は僕を見透かす。その瞳に写るのは空虚な僕という自分自身で、心臓を掴まれたような感覚。

やがて、ぽつりと小鳥先輩は呟く。

 

「–––まるで干涸らびた荒野みたいな大地が広がっているの。その世界を曇天が覆い尽くしてる。その中に大きな枯れた木があって、でも少しだけ温かい感じがする……そこだけ、光が射してるの」

 

抽象的な解り難い表現であった。具体的には何なのか伝わって来ない。表層的な部分を風景として並べているだけで、何処か遠慮している節があるようだった。

 

「はぁ、それで……?」

 

「本当にいいの?感じたままを言って」

 

最後の忠告を小鳥先輩はする。

僕は静かに頷き返した。

その続きを聴きたかったのかもしれないし、知りたかったのかもしれない。

僕でさえ知らない本当の自分を。

 

「干涸らびた荒野はきっとバラバラになったけーちゃんの心。見えているのはそれだけじゃない。曇天と荒野の狭間にある地平線は、誰かとの間に設けたバリケード。けーちゃん本当は……誰のことも信じてない、よね?その人のことも」

 

小鳥先輩は背後を指差した。そこにいるのは湊月だ。制服に皺ができるほど強く握って、過剰に反応した。表情には翳りがあって、その理由に思い当たらんとばかりに声を荒げる。

 

「け、けい……?」

 

捨てられた子供のような声。

泣きそうな、震えた声で。

 

「やっぱり……」

 

何かを言おうとして、小鳥先輩に視線を向ける。

 

「う、嘘だ。出任せもいいところだ。人の心がわかるなんて、あるわけがない。そんなものがわかるなら、私は……」

 

「鹿島湊月。みーちゃんのもわかる、よ?でも、けーちゃんの前で言うのはおすすめしないよ?」

 

証明してみせると言わんばかりに、小鳥先輩は強く言う。

信じても信じなくてもどちらでもいいようで一応忠告はしてくれるが。

 

「出会ったばかりのあなたにわかるはずがない……!」

 

今の湊月は、何処かおかしかった。

呼吸は荒いし、目の焦点も朧げで、何かを恐れている。

何かを否定しようとして、その材料を得ようとしている。

だけど、小鳥先輩は容赦がなかった。

 

「……みーちゃんのガラス玉は巨大な海なの。底のない海。そこには止まない雨が降っていて、絶えず焦がすような太陽があなたを照らしてる。多分、焦がすような感情は『愛』で、それでも蒸発させきれない『哀しみの』の雨が……これは、『後悔』なの、かな?」

 

感じたままを、信じたままを、言葉にする小鳥先輩を前にして。言葉を失った湊月はただ呆然と立ち尽くし、小鳥先輩の次の句で意識を引き戻す。

 

「–––果てしない海と雨降らす雨雲の間は境界線が曖昧になった水平線が見えるの。多分、それは誰かに対しての遠慮と距離感という壁なのかな?」

 

「だっ…それは…しかたなくて…ちがっ…」

 

ただ呆然と聞いていた湊月の瞳には涙が溜まり、頬には溢れた滴が伝い落ちる。溢れ出した湖のような瞳で僕に視線を向けると、無言で扉を出て駆け出してしまった。

 

 

 

「……わたしね、人の心が見えるから。友達できないの。他人の汚い部分ばかり見えるから、上部だけしか接することができなくて、人よりもただ他人の本質が見えるから、接する人間は選んでるの。そうしたら怖い人ばかりで、友達できなくて……つい踏み込みすぎて、みんなわたしから遠ざかっていくんだよ」

 

湊月が出て行った扉を見たまま寂しそうに告白する小鳥先輩は『追いかけなくていいの?』と問う。その言葉の裏には、どうして君はわたしと一緒にいてくれるの?と疑問が浮かんでいる。

他人に土足で心を踏み荒らされて冷静になれる人間なんていない。あれが正しい例だ。だとしたら、僕はかなり異常なのかもしれないと初めて客観的に思った。

 

「別に困ることはないのでは?」

 

「お姉ちゃん、けーちゃんおかしいよ……」

 

嬉しそうな怯えたような微妙な表情で、驚愕する小鳥先輩は姉である藤宮先生に助けを求める。その先生は今まで紅茶を楽しんでいて、事の成り行きをただ見守っていただけだ。

 

「榊原君。姉である私ですら、妹とは何度も衝突したのよ。気味が悪いと思ったのは一度や二度じゃないわ。避けていた時期だってある。それなのにその反応は薄過ぎるわ。魂は合金とかじゃないでしょうね?」

 

「さぁ、ただ僕のは開き直ってるだけですから。今更知られて困るようなことなんてないですよ」

 

心を踏み荒らされても僕の心は揺らがない。その揺さぶる対象である感情は、とうの昔に燃え尽きている。今の僕は燃えカスみたいなものだ。どうやったって燃えないものが燃える道理はないだろう。

 

「小鳥先輩、そこまでわかってるなら隠す必要もないんで言いますけど、小鳥先輩は友達の定義ってなんだと思います?」

 

「どうして?」

 

「先輩の友達になると宣言しましたが、友達って何なのかなと再定義しなければならない状況ですので。僕には友達が何なのか未だにわからないんですよ」

 

「確かにけーちゃんわたしのこと友達と思いきれてないけど、友達になろーって思ってはくれてるみたいだよ?」

 

そんなことまでわかるのか、便利な能力だ。と、考えていると小鳥先輩は首を横に振った。

 

「これは特殊な力じゃない。誰でも持ってるもの。わたしはちょっとだけ誰よりも人の顔を窺って生きてきただけで、少し臆病なだけなんだよ。けーちゃんも似たようなのある、よね?」

 

僕の優柔不断な面を言っているのだろうか。つい深く考え込んでしまう僕の悪癖を。疑り深い僕の性格を。それは確かに特別な力などではなくて、なるほど誰でも持っているものだと納得できる。

 

「でもまぁ、今更先輩にあれこれ詮索されても困ることないんで」

 

嫌な過去とか、思い出とか、穿り返されても僕は淡々と答えるだろう。知りたいなら教えてやると。それで先輩が友達を失い続けた故、友達を作ることに億劫になってしまったのも納得できるものだが、あまり僕には意味のない話だ。

 

「榊原君がエッチなことを考えていたら、すぐに小鳥にバレるわよ」

 

「えっ、なにそれ恥ずかしい」

 

–––過去を探られるより、一番の問題が目の前にあった。

 

「ふにゃぁっ!?」

 

もし小鳥先輩や藤宮先生であんなことやそんなことを考えると筒抜けになってしまうのかと驚愕していると、小鳥先輩が突然腑抜けた猫の鳴き声で顔を真っ赤にして飛び上がる。

ちょっとタイムリー過ぎないだろうか。

 

「お、おお、お姉ちゃんと…二人で…ふぇぇ……」

 

「ちょっと榊原君。私と小鳥に何をさせる妄想したの?」

 

黙秘してもいいのだが、小鳥先輩だけがそれを知るのはいいのだろうか。口に出すのも憚れる内容だったので口に出したくはないのだが、小鳥先輩には十全に伝わっている。姉である藤宮先生にも共有すべきか。でも、やっぱり口に出すのは……。

 

「言っていいんですか?」

 

「怒らないわ。言いなさい」

 

「セクハラになりません?」

 

「大丈夫、あなたもう既に歩くセクハラだから」

 

「あとついでに言っておきますけど、藤宮先生を好きな男子生徒は大体考えてますからね?僕だけじゃありませんよ」

 

前科一般だったらしい。仕方ないので全男子生徒も巻き添えにして藤宮先生にだけ聞こえるように耳打ちする。そのまま何行にも渡る説明をして、終わった後に離れてみれば顔面に握り拳が飛んできた。

 

直前に見えたのは、耳まで顔を真っ赤にしている藤宮先生の恥ずかしそうな顔だった。



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魔法の言葉

 

 

 

「ん、あれ?もう戻って来たの湊月?」

 

教室から出てまだ半分も休憩時間は終わっていない。だというのに、教室に再び舞い戻った私に一早く気づいた緋奈が声を掛ける。衝動的になってどうしていいかわからなかった私は顔を向けた。それで、言葉も出ず無言で立ち尽くす。

 

「ちょっ、どうしたのよ?」

 

泣いている私に気づいた緋奈が食べていたお弁当の箸を置いて駆け寄って来た。それに釣られて、金魚の糞のように同席していた泉と西宮の二人も寄ってくる。

 

「え、もしかして榊原君と何かあった……?」

 

「可能性としてはそのくらいか?」

 

「ちょっとあんたらいるとややこしいことになるからあっち行ってなさい」

 

「へーい」

 

「もし榊原が原因なら、許しておけんな」

 

「だから勝手にヒートアップすんな」

 

二人は緋奈に追い払われる。渋々といった感じで二人は引き下がったが、やはり納得はいかないようで遠目に私達の方を見ている。それを確認した後でまぁあれくらいなら問題はないと判断したのか、緋奈が私に向き直った。

 

「まぁ、事情が事情なだけに私も人のこと言えないんだけど……。ここで話せそう?」

 

周囲の目を配慮してか緋奈はそう問う。

それに私は首を横に振った。

声を出せなかった。

思いの外、ショックだったらしい。

覚悟はしていたはずなのに、面と向かって突き付けられると……。

私はダメだ、弱いままだ。

今も緋奈に甘えてしまっている。

それですら歯痒い思いをしてしまう。

 

「そう。……湊月、あんたその顔で榊原に会える?」

 

二度目の質問、私はもう一度首を横に振った。

今は圭と話をするどころか、顔を突き合わせるのは少し戸惑う。

 

「じゃあ、場所を移すかー。あの喫茶店に行きましょう」

 

「で、でも、授業が……」

 

午後の授業が残っていることを伝えると、緋奈は悪戯っぽく笑った。

 

「そんなのサボっちゃえばいいのよ。真面目なのはいいことだけど融通が効かないのは考えものよ。それにあんたそんな状態で授業受けても内容の半分も頭に入らないでしょ。受けるだけ無駄」

 

瞬く間に耳障りのいい正論に諭されて、私は決意を固める。適当な教材を鞄を突っ込んで、教室を出て行く。早退すると知り合いに告げて。私は初めて授業をさぼった。

 

 

 

 

 

 

喫茶店『Walker』

 

その店は私達の住む街の裏路地にひっそりと佇む。小洒落た洋風の外観とテラス、看板には散歩する猫のシルエット。内装もまた美しく、木製のテーブルや椅子で整えられており、落ち着いた雰囲気が心を落ち着かせる。ただその店名は散歩に訪れた旅人を誘う意味が込められており、偶然立ち寄りでもしなければ見つけられないような隠れた名店だ。

 

此処を見つけたのは偶然だった。ちょっと路地裏に迷い込むと見つけた外観に引き込まれて、次の瞬間には入店し、今では常連客の一人になっていた。

 

そんな店に私と緋奈は逃げ込むように来た。誰かからとかではなく、過去から。一時的な措置。明日にも圭と顔を合わせないといけないと思うと、少し憂鬱で泣きそうになる。

 

「–––アイスコーヒーです」

 

そんな状態で滞在すること暫くして、緋奈はアイスコーヒーを置いて行った喫茶店のマスターを一瞥して口を開いた。

 

「で、何がどうして泣いてるの?」

 

涙の理由を知るべきか、取り敢えずといった風に聞いてきた緋奈がアイスコーヒーを啜る。タイミングを見計らってくれていた緋奈に感謝しながら、私もようやく落ち着いた心を取り戻すことができ、口を開いた。

 

「実は–––」

 

圭に連れて行って貰った場所での会話内容を全部話す。藤宮先輩のこと、不思議な話、圭の話、その全てを。意外にも多かった情報量だが随分と簡単に話せるようで、すらすらと出てきたことに驚きながら全部吐露した。話し終えた頃には涙も止まり、喉が渇いてアイスコーヒーを口に含みゆっくりと飲み干した。

 

「ふーん、そう……」

 

聴き終えた緋奈は思案顔、それでわからないといった風で確認する。

 

「で、湊月は榊原に信頼?されてないって突きつけられて泣いちゃったと」

 

概ねその通りだ。私の要領を得ない説明でも大分理解が進んだらしく、そう言うと考える時の仕草、髪を指でくるくると巻きながら何度か頷いて虚空を見る。

 

「……当然、圭が私のことをよく思っていないのはわかっていた。けど……やっぱり、突きつけられると」

 

「でも、それって藤宮先輩?って人が言っただけなんでしょ」

 

圭の口からは聞いていない。聞いていない、のだが……。

 

「圭は否定しなかった」

 

その事実は判断材料としては十分に思う。私の心の奥底に隠していたことを言い当てられたこともあって、まるで圭本人にそう言われたように私は藤宮先輩の言うことを重く受け止めていた。

 

「でも、まぁそれも当然よね……私達がしたことに比べたら」

 

緋奈の言葉が私の心を鋭利な刃物で抉る。

 

「信頼って言い方も変だけど、よく思っていないのも当然ね。あいつ昔はかなりの正義漢だったでしょ」

 

その言葉に私は俯く。再会してから、頑張ってきた。信頼を、あの頃を、取り戻そうとした。あの日に戻りたかった。幸せだったあの頃を夢見ていて、上手くいっていたと思っていた。……でもそれは自分の独りよがり。

 

そんな不安はあった。それが現実になった。

あっけらかんと宣う緋奈に、私は口を噤む。

 

「なに落ち込んでるのよ?」

 

だけど、それを許さないとばかりに緋奈は私を責めるような口調で叱咤した。

 

「そんなの最初から計算の上でしょ。やること変わらないんだから落ち込んでる暇なんてないわよ」

 

「それはそう、だけど……」

 

思いの外、傷ついた。圭は私に興味がない。そう言われているようで、少しだけそれが不満で心に刺さる。あの圭の態度を見ていると余計にそう感じたのだ。もう、私は折れそうだ。

 

「そんなにどう思われてるか気になるんなら、本人に直接聞いちゃえば?」

 

緋奈は私の心情を知ってもなお、そんな戯言を口にする。

私にそんな勇気あるはずないというのに。

 

「他人事だと思って」

 

「あんたが気にしすぎなだけよ」

 

一度、ネガティブに考え始めた私の思考は落ちていくばかり。もう二度と圭に顔を合わせられないんじゃないかと思うと涙目になる。悩んでも答えが出ず、緋奈がもう一杯とアイスコーヒーを追加注文した。

 

「はい、アイスコーヒー」

 

程なくしてアイスコーヒーが配られる。ティーカップの横に、頼んでいないフルーツタルトが乗った皿まで置かれて……。

 

「……あの、マスター。あたしたちフルーツタルトなんて頼んでませんけど……ていうか、フルーツタルトなんてメニューにありました?」

 

「そう遠慮せずに。実はこれ、最近入ったバイト君が厨房で作ってね。二人とも今日はなんだか落ち込んでるみたいだったから特別サービスだよ。疲れた時は甘いものが一番だ。コーヒーとも相性はいい」

 

「そう。ありがと、マスター」

 

「でも、お金は……」

 

「いいんだよ。試作品らしいし」

 

初老を迎えたマスターは白い顎髭を撫でつけながら、無料だと言う。

 

私はただ無表情にフルーツタルトを見つめて、フォークを突き刺した。綺麗に一口サイズに切り取って、口に運ぶ。すると広がったのは素人が作ったとは思えない、優しい甘さだった。サクサクした生地、フルーツの甘酸っぱさが重なり合って、私の脳内を駆け巡る。可能なら毎日食べたいと思うくらい、美味しかった。

マスターの淹れるコーヒーとの相性も抜群で、口の中の甘さをコーヒーでリセットするたびにフルーツタルトの味はより一層二つの味を楽しませてくれた。

 

「おいしー、なにこれ!?これ売り物になったら毎日食べる!」

 

「いや、太るよ?」

 

私もカロリーが怖い。圭がいる手前、あまり太りたくもない。それに春が過ぎれば夏が来て、言わずと知れたあのシーズンがやってくる。今太ると後悔することは目に見えていた。

 

戦慄していると、マスターが顎髭を撫でつけながら言う。

 

「まぁ、この時期色々とあるんだろうから学校のことについては何も言わないけど……あまりご両親には心配を掛けないようにね」

 

「今日は早く終わったの」

 

呼吸をするように、緋奈が嘘を吐いた。

 

「はて、それならもう少し街が賑やかでもおかしくないと思うがねぇ」

 

恐るべき慧眼で、マスターは緋奈の嘘を見抜いた。

 

「うー、相変わらず鋭いなぁ」

 

「君のとこの学校の情報はそれなりに入ってくるからね。バイト君も君達と同じ学校だし」

 

「え、嘘、これ作ったの同級生かもしれないの?」

 

「あぁ、男の子だよ。気になるんなら、今日もシフトが入っているから四時まで待ってみるといい」

 

マスターのご好意もあって、私達は課題を済ませながら時間を潰すことにした。

 

 

 

それから何杯かコーヒーをおかわりして放課後の時間。何度目かわからない空になったカップを掲げて、喫茶店のマスターにおかわりを要求した。緋奈は働かせた頭に糖分を補給するべく、角砂糖を二つほど投入している。シロップも付け加えて、緋奈は美味しそうにそれを飲んでいた。

 

「あ、そだ。あとBLTサンド一つ」

 

「はい、BLTサンドですね。畏まりました」

 

–––耳障りのいい、聴き慣れた声。

 

注文を復唱する店員の声に耳を傾けて、それがいつものマスターの声ではないことに気づく。あまりにも自然な態度で受け答えをしていたため気にしていなかったが、マスターはいつの間にか奥に引っ込んでいた。代わりに私達くらいの歳の男の子がバーテンダーのような服を着て受け答えをしている。

 

その顔に驚いていると、彼はくるりと踵を返すと厨房に引っ込もうとして–––、

 

「いや、あんた何やってんの?」

 

–––緋奈に引き止められた。

 

「職務中だ、話しかけるな」

 

「言うに事欠いてそれ?」

 

バイトを真面目にこなそうとしているだけなのか、或いは私達を無視したのか、喫茶店の店員に扮した榊原圭が緋奈にそう言い返して不機嫌そうな顔をする。周りにマスターがいないことを確認するように首を回すと、小声で告げた。

 

「バイトだ。見ればわかるだろう」

 

あぁ、確かに制服らしいものは着ている。圭がバーテンダーのようなきっちりした服を着ていると格好良さが増して不機嫌そうな面も相まって凄くいい。と、脳内が変なことを思い始めたので思考を緊急停止する。

 

私は大慌てで顔を隠すようにメニュー表を持った。その上から覗き込むように瞳を向ける。すると圭と目が合って、数秒見つめ合ったかと思うと私から恥ずかしくなって逸らした。

 

「ってことは、フルーツタルトってあんたが作ったの?」

 

なおも会話は続く。

途端に、吃驚したような声。

 

「何故、知っている。……まさかマスター、客に出したのか?」

 

「美味しかったわよ。湊月の誕生日のケーキは期待できそうね」

 

「ちょっと何を言ってるんだ緋奈!?」

 

さすがの私も会話に割り込まざるを得ない状況になって、親友の凶行に声を荒げる。

 

「あー、八月の二十だったか?別に作ってもいいが味の保証はしないぞ」

 

「いいわよ、フルーツタルト美味しかったし期待してる」

 

私が会話に入るまでもなく、誕生日に圭の手作りケーキが食べられることが決まってしまった。そんなことよりも、圭が私の誕生日を覚えてくれていたのもあって、そっちに驚いてしまって話に割り込めなかったのだ。

 

興味がなかったのではないのか。

不安が、少しだけ薄らいだのを感じた。

誕生日を覚えてくれていただけで、なんて単純なんだろう。

私は恥いるように俯いた。

 

「湊月、おまえもそれでいいか?」

 

「え、あぁ……そうだな……」

 

いざとなれば話す言葉が思いつかない。

圭との距離感を測りかねる。

私にはまだ遠いような気がして、言葉が出なくなって。

今度こそ、圭が離れていく足音が聞こえて……。

 

「あと、いきなり何も言わずに帰るなよ。心配するだろ。……まぁ、緋奈がいるってわかったからそれほど心配はしていなかったけど」

 

最後に呟かれた言葉に私の心臓は大きく跳ねた。



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梅雨の一幕

 

 

 

それはある日の放課後。

 

「はぁ、テスト勉強?」

 

死の宣告を持ってきたのは、野球部に所属している泉健吾だった。

 

「なんで僕が?」

 

「お願いだよ榊原君、オレを助けると思って」

 

あまり仲良くもない彼が僕に頼み事を持ってきたのはテスト期間に入り、部活動が休止している最中のことであった。放課後の教室から足早に帰ろうとした僕を引き止め、がっちりと制服を掴んで離さない。彼がこうなってしまったのも教室の隅の方で帰り支度をしているあの二人にあるようで、ちらちらと此方の様子を窺っているのは緋奈と湊月の二人だ。

 

「いや、そもそも僕は頭良くないぞ」

 

自慢じゃないがテストは全教科合わせて平均五十点、赤点だけは奇跡的に回避している。そんな危ない綱渡りを続けている僕に対して、試験勉強の手伝いを頼むのはどうも間違っているだろう。

 

それを理由に突っぱねようとしたら、泉はそんなこと最初から期待していないというように、

 

「違うんだって。期待してるのはそこじゃない。あの二人が榊原君も一緒じゃなきゃ勉強教えてくれないっていうからさ!」

 

そう宣った。

それこそ、僕には関係のない話だ。

 

「じゃあ、運がなかったと諦めるんだな」

 

この学校は割と学業には厳しく、赤点が続き、再試も合格できないと留年どころか退学の可能性もある。どれだけスポーツが上手かろうが、学業優先を掲げる学校では別に珍しくもない話だった。

 

「いやほんとマジやばいんだって、今回のテスト赤点なんて取って再試なったら夏の大会のレギュラーすら危うくなるし、監督もそれだと使ってくれないから」

 

なおも追い縋る泉が引き摺られながらも、僕を教室から逃すまいと抵抗を試みる。既に攻防は教室の出入り口まで及んでおり、足を扉に引っ掛ける形で泉は最終防衛ラインを張った。

 

「それこそ僕に関係ないじゃないか」

 

藤宮先輩からの呼び出しも、バイトもないのだ。

のんびりする時間くらい、自由を持つ権利が僕にはある。

だから、僕の抵抗も正しいことで。

薄情でもなければ、正しい選択である筈だ。

現に僕の頭の中では誰も争っていないのだから。

良心の呵責は、放っておいていいとある。

 

「あの二人、オレや西宮と一緒だと凄い警戒すんだよね」

 

「それはおまえの日頃の行いが悪いからじゃないか」

 

「え、オレなんもしてないけど」

 

「……好意と下心がだだ漏れだっての」

 

本人の名誉のため、あえて小声で苦言を漏らした。

 

泉を異性として意識していないあの二人の様子からすれば、多少は鬱陶しさもあるのだろう。そういう警戒の意味では男として意識していると捉えなくもないが、詮ないことだろう。

 

「–––というわけだ、圭」

 

説明の大凡を省くためか、泉の真剣味を図るためか、今まで見守っていた湊月と緋奈、西宮が近寄って来る。まるで逃げ場を塞ぐかのような登場に僕は最初からそのつもりだったことを悟った。

 

「それに圭もあまりテストの点数はよくないんじゃないか?」

 

「何を言うんだ。大丈夫だっての」

 

「ん、でも舞ちゃんに聞いた話では–––」

 

不意を突くように、僕の妹の名前が湊月の口から出てきた。

彼女は僕の妹の存在など知らない筈である。

昔に言っていたなら、その限りではないが–––。

家族の話をしたことなど、一度だってないと思う。

 

「……なんで妹のこと知ってんだ」

 

「この前、圭の家に電話をしたら圭の妹が出たんだ。仲良くなった」

 

「いや、それにしたって連絡先なんて–––」

 

「連絡網用の連絡先があるだろう」

 

そう言われてみれば……と、僕は嘆息する。妹と仲良くなっていたことは別にいい。が、僕の行動の一部始終が筒抜けというのはどうも落ち着かない。

 

いや、もうこの際それもどうでもいい。

僕の平穏だけは守らなければいけないだろう。

 

「とにかく、僕は参加しないからな。勉強会だなんて無駄なこと」

 

第一、勉強は一人でやるものだ。他の人がいても気が散る。

まぁ、他の人がいなくてもゲームや漫画に手を伸ばしがちだが。

 

「退学も留年も自分の責任だろう。別に構う必要もないだろう」

 

「で、でも、圭が留年や退学になったら私が困る」

 

早々に切って捨てようと今度こそ教室を出て行くと、制服の袖をぐっと握られる。振り向けば、湊月が僕の制服の袖を掴んでいた。

 

「あぁ、くそ、勉強嫌いなんだけどなぁ……」

 

諦め混じりに呟いた言葉は、窓を打つ雨の音に消えていった。

 

 

 

 

 

 

その十分後、放課後の図書室には五人の影があった。僕とあの四人だ。泉は不得意な英語の教科書や参考書、辞書を並べて必死に問題を解いていた。僕もまた同じように英単語をただひたすらに覚えている。

 

「でも、意外だったわね。泉だけじゃなくあんたまで勉強苦手だったなんて」

 

面白い玩具を見つけたと言わんばかりに無邪気な悪戯っけを含ませた瞳の煌きで、緋奈は此方を見つめて来る。そこ単語の綴り間違ってるとの指摘も頂いた。

 

「しかも、泉と同じで英語が一番の苦手教科だなんて」

 

「「日本人に英語は必要ない」」

 

泉と僕の主張が重なる。真似すんな、とばかりに睨みつけたがあっちからは別の思惑があるようで、その視線には熱意のようなものが感じられた。馴れ合うつもりはないぞ。

 

「うちのお爺ちゃんみたいなこと言うのね」

 

幸か不幸か、僕の考えは緋奈曰く前時代的らしい。

 

「でも、そう言う割に現代文とか国語系統苦手じゃない」

 

「じゃあ、僕は日本人ではないのかもな」

 

「逆にあんた何処の人間なのよ」

 

「異世界?」

 

「は?」

 

異世界の言語なら死ぬ気で習得とかしただろう。漫画やアニメの世界ではないんだし、そんな夢みたいなこと考えるだけバカな話であるのだが、ちょっとしたボケを真面目に受け取られて僕は内心傷ついた。美人な女子高生からの冷たい「は?」は流石に心にくるものがある。

 

「歴史とか得意じゃないの?」

 

「おまえオタクが皆歴史得意だとか思うなよ」

 

とんだ偏見である。

 

「じゃあ、何が好きなのよ?」

 

「別にジャンルはそこまで拘ってないが。恋愛系とか、ファンタジーとか、バトルものとか、スポーツ系とか、本当に色々見るな。色恋が絡んでいるとなお嬉しい」

 

「ふーん、恋愛系ね。やっぱり読むんだ」

 

「少女漫画も好きなものがあれば読むな」

 

元よりそちらの方が恋愛系の漫画に関しては種類が多く、未知の世界であったがためにどっぷり嵌まり込んだこともある。尤もこれは妹から借り受けた漫画が原因であるし、その一端は緋奈にもある。小学生の頃、漫画ならなんでも読んだが緋奈の家に行くと何冊も置いてあり、片っ端から読破したものだ。

 

「ねぇ、じゃあこれ知ってる?幼馴染との恋愛ものなんだけど」

 

「あぁ、『夜に咲く花』か。泣けるシーンが多くて、あれはいいな」

 

「例えばどの辺が良かった!?」

 

「幼馴染が初恋の人にふられた時の–––」

 

「あそこもいいわよね。でも、私は–––」

 

妙に食いついてくる緋奈の様子になんだか懐かしいものを感じつつ、話していると妙な視線が三つほど。嫉妬深い女の視線と、二人の男の軽蔑したような目だ。

 

「榊原君、少女漫画なんて読むんだ」

 

「漫画なんて子供っぽくないか」

 

批難がましいというか、泉と西宮の意見はそんなものだった。

聞き捨てならない台詞もいくつかある。

 

「おまえら漫画家全員に謝れ」

 

「あんた達も一回くらい見てみなよ、人生変わるわよ」

 

さっきまで僕を嗜めていた緋奈も援護に回っていることもあって、湊月の視線が酷く淀んだものになる。

 

「緋奈の少女趣味は知っていたけど、まさかそんなところで圭と馬が合うなんて……」

 

ぶつぶつと独り言を呟き始めた湊月だが、あまり内容は耳に入ってこない。そんな湊月の様子に緋奈は酷く狼狽えた様子だ。

 

「別に湊月が懸念するようなことは何もないわよ。ね?」

 

「あぁ、そうだな」

 

いったい何を勘繰っているのかと聞かれれば、答えに窮するが僕はそう流されるままに応えた。

 

「一度泣ける作品の一つや二つ見てみろよ。それで泣けなきゃおまえら心が枯れてる」

 

「「なんだろう、こいつにだけは言われちゃいけない言葉を言われたような気がする」」

 

その日の勉強会はこうして捗っていた。

 

 

 

翌日もまた次の日もと勉強会をするために図書室に集まった時のことだ。自覚はあったが、どうやら自分は理数系ばかりに特化していて他がてんでダメらしいということが判明した。

 

「ふむ、どうやら圭は理数系が得意らしいな」

 

得意教科の一つもなければどうしようか、と思っていたらしい湊月が安堵に胸を撫で下ろす。何処か自慢げなその顔は他人事のはずなのに何処か嬉しそうで、見ていると調子が狂いそうになる。

 

「まぁ、自覚はあったが……」

 

歴史とか英語とか眠たくなる授業に比べて、それなりにできていたし理解はできる方だと思う。興味があるものに関してはやる気は出るし、そういう姿勢の問題だろう。

例えば、歴史を漫画やアニメの展開に置き換えてみる。

好きなアニメなら大体のところは勉強しなくても記憶している。

一度記憶をリセットして見直したい、とはよく言ったものだ。

 

「でも、泉あんたやばいわね。得意教科の一つもないの?」

 

それに比べて、と緋奈が呆れたような諦めの含まれた視線を隣の泉に向ける。向けられた本人は顔を逸らした。

 

「ほら、オレ榊原君と違って体育会系だから……」

 

確かに陽キャ特有の雰囲気というか、僕の嫌いなタイプの人間のオーラをしている。僕が彼を好きになれない理由の多くは此処に起因しているのだろう。

緋奈もギャルっぽい似たような雰囲気があるが、昔から知っているからか既知の存在に対してはそれほど抵抗というものがなかった。彼女の少女思考も相まって懐かしさがあるからかもしれない。

 

「そうは言っても、榊原も運動得意だよね」

 

外見や普段の無口な姿勢が偏見を生んでいるのか、インドア派と判別されているらしい僕を見て、緋奈は思い出したように言う。男女で体育の授業は別だが目にする機会はあったのかもしれない。とはいえ、クラスの中心は決まって目立ちたがり屋でそれに比べたら埋もれて僕は何もしていないが。団体競技ともなると、それこそ仲の良いやつで群れあって僕のような人間があぶれるのだから。

 

「昔は圭の方が私よりクラスに馴染んでいたからな」

 

「うっそ、マジかよ……?」

 

湊月が昔の僕を思い出したのか何故か誇らしげに告げると、まるで珍獣を見たかのように仰天した泉の反応は世界の神秘に驚いているように見える。

 

「悪かったな。あの頃は若かったんだよ」

 

「年寄りくさいよ榊原ー」

 

確かにジジ臭かったと思うつい出てしまった反応に、緋奈は楽しそうに笑って揶揄う。悪い気はしない。

 

「思うんだが、よく二十歳くらいの男性や女性をおばさんやおじさんとか言う子供がいるだろう。なんで言われたその人達は過剰に反応するんだろうな」

 

「んー、嬉しくないからじゃない?」

 

僕の疑問に、間髪入れず緋奈が答えた。

 

「あたしはお姉ちゃんって言われた方が嬉しいけど」

 

「別にどうでもよくないか?」

 

「よくなーい。ねぇ、湊月」

 

「うーん。私も緋奈と同意見だな。おばさんとか言われるのはちょっと……」

 

言われたことがあるのか、影を落とした顔で俯きながら湊月は沈んだ表情をした。何がそんなに嫌だったのかとか、あまり詮索しない方がいいのだろう。

 

「それより四人とも、勉強に戻らなくていいのか?」

 

頃合いを見計らってか、黙々と一人で勉強をしていた西宮が苦言を呈する。あ、と思い出したように呟いたのは僕以外の三人だった。

 

「西宮、人がせっかく話題を勉強から遠ざけたのに……」

 

「あんたやっぱり悪知恵だけは一級品ね」

 

こんな日々が、週末まで続いたのだった。

僕に似つかわしくない、青春の一幕が。



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とある日の休日

前回のあらすじ。
試験勉強をすることになった。


 

 

 

ドタバタと階段を駆け上がる音が聞こえた。地面を打つ雨の音よりも大きな音だ。その音が過ぎ去るのを微睡の中で待っていると、その嵐は突然僕の部屋のドアを叩き破る。妹の舞だ。

 

「ちょっと馬鹿兄貴!いつまで寝てるんだよ!」

 

まるで暴風と豪雨のように大音量で叫び散らすと、部屋の中にズカズカと入り僕の被っていた布団を剥ぎ取る。悪天候による気温の低さに呻いた僕は、身を縮めるように丸くなった。

 

「今日は休日、それにまだ九時にもなってないだろう」

 

土曜日の朝、壁に掛けられた時計を見て僕は言う。そこで目蓋の重さに限界を感じて閉じた。

 

「馬鹿兄貴、まさか昨日朝までゲームしてたのかよ?」

 

「当たり前だろ、休みだぞ。それに夜通しゲームしていなくてもわかるだろ?」

 

耳から入って体の芯に溶ける、雨の音を聞きながら微睡に身を任せる。

 

「雨の日はこの心地良い気分に任せて、好きな時に眠るって決めてるんだ」

 

ただ一言、そう告げて僕は二度寝を開始した。

前日に考えた、丸一日ゲームをする企画は既に破棄した。

 

「寝るなっての、おーきーろー!」

 

「……なんだよ、パシリに使われる気はないぞ。雨降ってるし」

 

それでも急がせたい理由があるようで睡眠の妨害をする妹に背を向けると、横になった脇を無造作に掴まれて転がされた。再度、抵抗するように壁の方を向く。

 

「違うんだって、兄貴に客!それもすっごい美人!」

 

「おまえ寝言は寝てから言え、な?」

 

なおも掴んで離さない妹の腕を掴み、ベッドに引き摺り込むと「うなっ!?」と悲鳴が上がった。何処かに出掛ける予定だったのかミニスカートの裾が大変けしからんことになっており、魅惑の生足が顔を出した。

 

「あーもう変態馬鹿兄貴、そうじゃないんだって」

 

「画面の向こうから美少女でも飛び出してきたのか?」

 

「そう、兄貴の好きそうな美少女だよ。それも二人、清楚っぽいのとギャルっぽいやつ。兄貴何処であんな美人引っ掛けてきたんだよ、今ママが下で出迎えてる!」

 

どうやら妹には画面の向こうから飛び出した美少女達が現実に世界に現れた話をしているらしい。中学二年生にもなって……いや、だからこそ目覚めてしまったのか?そこから先は破滅の道だぞ。

 

「愚妹よ、画面の向こうから美少女が飛び出すなんて非現実的なこと、否オタク達の夢を先に叶えるとは恐れ入った。取り敢えず、まずは精神科と脳外科あたりに通院することをお勧めしておく。おやすみ」

 

「あぁもうまったく信じてないな!」

 

僕の腕から逃れた妹がベッドに飛び乗り、最終手段を講じる。即ち、兄を蹴るというまったくもって敬いの一つもない、一部の人間にとってはご褒美の手段を実行に移したのだ。

 

「ちょっ、いたっ、痛いって、寝覚め最悪にも程があるだろ!」

 

「やめて欲しかったら起きろ!」

 

顔面に振り下ろされようとしていた足の裏を掴む。

そうすると、振り上げていた足の隙間から上が見えるわけで。

 

「–––白と水のストライプか」

 

「ちょっ、変態、離せっ、て見るな!」

 

それに気づいた妹が顔を真っ赤にして暴れ出し、バランスを崩して鳩尾に膝が突撃するまでが通過儀礼だ。

 

 

 

 

 

 

「あー、完全に目が冴えちまった」

 

下着を見られて不機嫌な妹の舞に小突かれながら階段を降りる。洗面所で顔を洗って、差し出されるタオルで顔を拭き、キッチンが併設されたリビングに行くとパチパチと油の弾ける音が聞こえた。扉を開けるとベーコンの焼ける良い匂いが鼻腔を擽り、珈琲の目の覚めるような匂いが鼻をついた。

 

「おはよう、圭」

 

「あぁ、おはよ……ぉ?」

 

霞んでいた視界が一気に覚醒する。

キッチンには、料理をしている湊月がいた。

青いフレアスカートに、白のカットソー、その上にエプロンを纏い、髪をポニーテールに。

その姿に見惚れること暫し、僕は思考が停止する感覚というのを今初めて本当の意味で知った。

 

「舞ちゃんお疲れー、ドタバタしてたけど大丈夫?」

 

「大丈夫じゃない。緋奈さんも気をつけた方がいいよ。パンツ見られるから」

 

その側では珈琲メーカーを使用して、三人分の珈琲を用意している緋奈がいた。

ホットパンツ、黒のニーハイソックス、白パーカー、チラチラとホットパンツがパーカーの裾から覗いて、一瞬下は履いていないかと思ってしまった。

二人とも似たようなシュシュで髪を纏めている。

緋奈はサイドテールだ。

 

「うっわ、あんた妹のパンツ見て興奮してんの?」

 

「妹のでは興奮しないな」

 

流れるように変態認定され掛けて、僕は嘆息した。

 

「……なんで二人が此処にいるんだ?」

 

「ん?兄貴が呼んだんだろ?」

 

「妹よ、僕が女子を家に招くような性格だと思うか?」

 

「まぁ兄貴にそんな度胸も勇気もねぇーか〜。知ってた」

 

じゃあ、何故?と僕は思考する。

答えは緋奈が呆れた様子で口にした。

 

「どうせあんたのことだから休みの日もだらだらしてると思って来てやったのよ」

 

こくこくと頷く湊月、その手は胸の前でギュッと握られている。

何故か必死だ。

有難迷惑、とは正面切って言えず。

僕は口を噤む。

 

「で、舞に家の住所を聞いてやって来たと」

 

今も昔も湊月達を家に招いたことなどない。

だから、それは当然の結論だ。

妹様は甘やかされる傾向にあるようで、スマホを持っている。

その妹様の連絡先を手に入れた湊月なら、聞いていると推測したのだ。

 

「え、あたし教えてないぞ?兄貴じゃないの?」

 

その推測は外れた。湊月を見ると、目を逸らされた。その先には緋奈がいた。

 

「あたしも知らないわよ。っていうか、湊月にあんたが教えたんじゃないの?」

 

「聞かれた覚えはないが」

 

疑問は謎のまま、真相を知る湊月へと向けられる。

彼女は気まずそうに目を逸らしたまま、目を伏せた。

 

「……その、バイト終わりの圭を尾行したんだ」

 

罪悪感はあったのか、声が何処となく暗い。

叱られることに怯えるような目で僕を見上げた。

ふるふると睫毛が震える。

泣きそうな顔で、唇を噛み締める。

 

「……おまえなぁ、女子高生がそんな時間に一人で彷徨くなよ」

 

「いや、馬鹿兄貴……注意するとこそこじゃない」

 

お仕置きとばかりに頭に手を置いて、乱暴に撫で回す。掻き乱された髪に顔が隠されて、ちょっと不機嫌そうに湊月が唸った。

 

「夜に一人で出歩くな。怖ーい奴に襲われても助けられないんだからな」

 

パチパチ、と瞬きが繰り返される。

 

「怒らないのか?」

 

「何を?」

 

「いや、だって……まるでストーカーみたいなこと…」

 

どうやら湊月はそんなことを気にしていたみたいだ。

僕にはまるで理解できないが。

逃げるような湊月の頰を両手で捕まえて、瞳を見つめる。

彼女の目が泳いでいるのがよくわかる。

 

「…っ、圭……?」

 

彼女の頰が熱を帯びていく。

焦点の定まっていなかった瞳が僕を見た。

 

「言いたいことはちゃんと言え。おまえ本当に昔から変わらないな」

 

思えば、昔からの悪癖だ。湊月は言いたいことを言わない。控えめに言って自己主張が苦手だった少女は、社交的にはなったものの根本の部分では変わらないようだ。

 

「……」

 

「……わ、わかったから。その、もう離してくれ、限界だ」

 

「ん、おう悪い。ちょっと見惚れてた」

 

「……へっ!?」

 

「……んん〜?ダメだ、睡眠不足で何考えてたか思い出せない」

 

何かおかしなことを口走った気がしたが、大したことではないだろう。そう結論付けて僕は席についた。




圭「そういや母さんは?」
湊月「…その、今夜はお赤飯だって…」

お赤飯並みに顔を真っ赤にした湊月だった。


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圭の部屋

前回のあらすじ。
美少女二人が遊びにきた。


 

 

ベーコン、目玉焼き、レタス、トースト、珈琲の軽い朝食を提供されるままに口にして、ご馳走様と口にしたところで僕は放棄していた違和感を思い出していた。危うく流され掛けたが此処は僕の家だ。湊月が朝食の準備をしている理由もわからないし、そもそも何故いるのかも不明である。

 

「……いや、なんでおまえらが僕の家にいるんだよ?」

 

当たり前のように朝食を出されて流され掛けたが、休日にまで顔を合わせるとは思っていなかった人物の登場に僕は再度疑問を浮上させてしまった。

 

「……暇だったから?」

 

質問を疑問で返され、僕は湊月を見た。

何処となく焦っているというか、慌てているようにも見える。

 

「いや、暇にしても決断早いだろ。まだ朝の八時だぞ」

 

適当につけたテレビの端には八時少し過ぎの表示、これが嘘でなければ僕の睡眠時間は三時間ほどだ。道理で眠いわけである。そんな眠気すら覚ますような美少女の美貌はあまりにも刺激的過ぎて、どうにかなってしまうのは健全な男子高校生ならなおのことだろう。さっき自然に湊月に触れてしまった自分を殴りたい。

 

何故、僕はあんなことをしたのか。

 

寝起きで脳が働いていなかったか、ちょっとした欲望が顔を出した。

僕と湊月はそういう関係でもないのに。

頰に易々と触れるなどと、普通の男女友人関係ならないだろう。

あまりにも迂闊すぎる。湊月も僕も。

 

「いや、特に理由はないけれど」

 

「ないのかよ」

 

それがなかったことのように、僕達は会話を始めていた。

 

「……でも、会いたくなったんだ」

 

だが、初っ端から挫かれる。

湊月の迂闊にも大胆な告白によって。

 

思わず僕は頬杖をついていた手から、ずれて机に突っ伏しそうになった。いきなりの不意打ちに一度だけ、心臓が大きく跳ねたような気がした。

 

「緋奈は?」

 

乙女な反応を見せた湊月を見ていられず、その隣に座る緋奈を見ると珈琲カップを口元にニヤッと笑って、

 

「あたしは湊月の付き添い。榊原が湊月に変なことしないか見張り役」

 

と、ありがたいのかありがたくないのか判らない揶揄い混じりの説明を施される。まぁ実際、歳頃の少女と二人きりにされるのも困ったものなので、邪魔ではないが少しイラっとした。この娘、この状況を楽しんでやがる。

 

「……だけど、僕の家に来ても暇なことには変化はないぞ。おまえらが楽しめるようなものなんて一切ないからな」

 

ゲーム機や漫画の類はあるが、湊月はそれほど漫画やゲームには興味を示さないだろうし、緋奈だけなら漫画の一冊でも読み漁るのだろうが手持ち無沙汰になるのは目に見えている。そう忠告すれば、湊月が何やら固い決意を秘めた顔を上げた。

 

「け、圭の部屋、とか……その少し気になる」

 

「まぁ、別にいいが……」

 

何故、そこまで部屋に興味を示すのかは判らないが僕は適当に軽はずみに返事をした。

 

 

 

食器等を片付けて数分ほど、僕と湊月、緋奈の三人は僕の部屋に。そして、そんな僕達に引っ付いて妹の舞までがついてきた。

 

「なぁ妹よ、おまえ出掛ける予定じゃなかったのかよ」

 

「雨降ってるし面倒だからパスしたの。それにこんな面白い状況で遊びに出掛けるとか勿体無いし」

 

異性の部屋に同級生が訪れるイベントは確かに重要なイベントだろう。だが、僕の人生は見世物ではないし、娯楽の一つでもなければ寧ろこれは災難に近い。高校生になって青春っぽい何かが起こるとは思わなかったし、どちらかと言えば心労の方でストレスが溜まりそうなんだがきっと他の男子は羨ましがるような光景なんだろう。

湊月と緋奈はクラス、いや学年の中でもトップクラスの美少女だ。そんな二人が遊びに来るのだから、ある男子生徒は興奮し、ある男子生徒は狂喜乱舞するだろう。

 

その気持ちがわからなくもない。休日に美少女の顔を見るのは悪いことではない、そう思えるのだから。

 

「此処が僕の部屋だ」

 

二階の一角についた僕は扉を開けて中に入る。すると今朝と変わらない、物が整頓されて綺麗な部屋がそこにはあった。乱れているものといえば今朝起きただけのベッドのみだ。

 

「へー、意外。男子の部屋って汚いかと思った」

 

開口一番に言ってくれるのは緋奈だ。この様子だと男の部屋に入ったことはないらしい。

 

「泉と西宮の家に行ったことはないのか?」

 

「そんな不用意に男の部屋に行くわけないでしょ」

 

まるで当たり前のように言ってしまうあたり、それなりに警戒心はあるようだが、なら何故こいつは僕の部屋に来ているんだろうか。とても矛盾している気がする。

 

「多分、妹の部屋の方が汚いぞ」

 

「はぁ?そんなわけないじゃん!」

 

「いや、おまえ下着とかパジャマとかベッドの上に脱ぎ捨てたりしてるだろ。他にも本を散らばらせたり、プリントを地面に散らばったままにしたり」

 

「うぐっ、いやでもすぐに片付けるし……」

 

「母さんに言われてからな」

 

これ以上は喋るなと言わんばかりに脹脛を蹴られる。ゲシゲシ、と何度も繰り返して、不満そうに唇を尖らせる様は可愛い以外のなにものでもない。小憎たらしいが、許容範囲だ。

 

「いっぱい漫画があるな。こっちはラノベというやつか?」

 

目についた本棚や机に引き寄せられ、物色していく湊月の顔は真剣そのものだ。そこで一つ漫画を手に取って湊月は振り返った。

 

「例えば、圭は好きなキャラとかいるのか?」

 

「三ヶ月に一度は増えるな」

 

三ヶ月に一度の恋とはよく言ったもので、気に入ったキャラがいれば内容の好き嫌い関係なく最終話まで観た上で漫画やグッズを買い漁るだろう。その中でも生涯を捧げようと誓ったものは少ないが。

 

「参考までに教えてほしい」

 

「参考?」

 

「圭が好きなものを知りたいんだ」

 

参考とはいったい何のことやらと思ったものの、気にせず答える。その大半が清楚系の大人しいタイプのキャラであったり、人の寿命を超えるほどの年月を生きていたりと、タイプは様々だった。

 

「そうか、圭はそういう女の子が好み……」

 

実際、聞かれたキャラの大半は女性である。そこに何か思うところがあったのか、ぶつぶつと念仏のように唱え始める湊月は思考の海に深く潜っているようで、中々戻ってきてはくれなかった。

 

「他にも見ていいかな?」

 

ふと、意識を戻した湊月が再び部屋を捜索する。

今度はベッドの下に頭を突っ込んだ。

 

「な、ない……此処に大抵は隠してあると、ネットに……」

 

ベッドの奥を覗き見ているせいで突き出した形になってしまったお尻がふりふりと揺れる。目にして判る目のやり場のない扇情的な誘惑に、僕は思わず唾を飲み込んだ。

 

「なぁーに見てるの榊原」

 

「別に何も。……というかあれ、もしかしなくてもあれ探してるよな?」

 

「みたいねー。教えてあげれば、隠し場所」

 

「一応、言っておくが僕はエロ本なんて持ってないぞ」

 

男子高校生の何人が目にしている、もしくは所持しているのかは知らないが世間一般的にエロ本と呼ばれる書物は一切所持していない。だから家中探したって、一冊も見つかるはずがない。僕の持ち物でないのなら例外だが。

 

「湊月さん、うちの兄貴はエロ本も確かに読むけど、メインは……」

 

ごそごそと妹が人の部屋の棚を漁る。

綺麗に整頓された、棚の一角から大きな箱を取り出した。

 

「エロゲーだし」

 

ご丁寧にも十八禁とシールが貼られた妙に如何わしい箱だ。表紙の女の子はとても可愛らしく可憐ではあるが、裏返せばあら不思議、とても淫らな光景へと様変わりする。

そんな箱を高々と掲げて、悪戯げに笑う妹の姿は逞しいというかなんというか……それでいいのか女子中学生、とツッコミを入れたくなってしまうものであった。

舞もピュアな時はあったのだ。初めてあれを見た時は取り落として顔を真っ赤にして本気で僕を罵倒した。『変態』『すけべ』等々思いつく限りの言葉を武器にして。

まぁ、つまり何が言いたいのかというと妹がこんな逞しくなってしまったのは僕のせいかもしれないということだ。

 

「ふ、ふわぁっ、な、ななっ」

 

その被害者がまた一人増えようとしている。

湊月は頰を真っ赤にして、その箱を凝視した。

 

「け、圭は、やっぱりそういう願望があるんだな!?」

 

「答えづらいことをまたはっきりと。まぁ、ないわけじゃないな」

 

取り繕っても仕方がないので肯定すると、湊月の頰が更に赤く染まる。

 

「こ、こういう不埒なのは没収だ!」

 

そして、何故か僕のエロゲが没収される。

次から次へと、僕の棚のコレクションが……。

 

「ちょっ、おまえ何の権限があって……!」

 

「十八禁。つまり、十八歳未満が持っていていい品ではないだろう!タバコやお酒と一緒だ。法に触れるなら没収する!」

 

「あぁ、それバイト代が入ったから買った新作ぅ!?」

 

無造作に積み上げられていくタワーを前に、僕は決意する。

徹底抗戦(土下座)を開始した。

 



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接近注意報

あーるじゅうご?


 

 

 

「……ん。しまった、今何時だ……?」

 

曇天の薄暗さなんて目じゃないほど、室内は真っ暗闇に包まれていた。

19:45。

蛍光を放つ時計は夜を指し示している。

柔らかなベッドの上で身動いだ僕は、起き上がろうとして……。

 

「あいつらは帰ったか……な?」

 

「…ぁっ…んんっ……」

 

何か柔っこいものを掴んだ。丸みを帯びていて、指が動くと沈み込むように反応する、触っていて気持ちのいいもの。人肌ほどの温もりがあって、ニットっぽい布の手触りがした。

 

「なんだこれ?」

 

「…ん…やっ…ぁ…」

 

僕の部屋にこんな質のいい枕を置いた覚えはない。妹の持ち物だろうか、そんな風に考えながら感触を楽しんでいると艶かしい女性の声が耳朶を打つ。

 

「…………」

 

もしかして……いや、もしかしなくてもだが。

眠っていた脳が一気に覚めるような感覚を僕は味わっていた。

僕が揉みしだいているのは、母性の象徴。

女性の胸であり、おっぱいと呼ばれるもの。

経験はないが、多分触ったらこんな感じ……いや想像以上だ。

 

「おーい兄貴ー、いつまで寝てんのーご飯できたよー」

 

そこにタイミング悪く扉を開けて、妹の舞が入ってくる。

『スイッチを押させるな!』と、脳が警鐘を鳴らす。

警告も虚しく、扉の横にある部屋の明かりのスイッチが押されてしまった。

 

「雨の日は眠くなるからって、いつまで……いつまで……」

 

点灯。して、兄の部屋の惨状を見た舞の言葉が途切れる。

果たして、そこにはどんな光景があったか。

今、ベッドの上には二人分の重量がある。女性の胸を揉みしだいている僕と、横になって胸を揉みしだかれ赤い顔をしている湊月がただひたすら堪えるように顔を背けて、つい先程部屋に入って来た舞を見ていた。

眠っていたのか、少し髪は乱れ服は不自然に折り目がついている。今起きたばかりのようだ。

 

「……ママには上手く言っとくから」

 

ようやく現状を把握した僕と湊月を見て、何を思ったのか舞はそっと扉を閉めた。その間際、「避妊はしなよ」といらん気遣いまでしてくる始末、どう考えても誤解を招いている。

 

「いや、誤解だ。待て妹よ!」

 

「……圭、誤解、なのか?」

 

潤んだ瞳を向けてくる湊月に胸を打たれ、舞を追いかけて誤解を解くタイミングは完全に見失ってしまった。

 

 

 

 

 

 

朝食を摂り、部屋を漁り、昼食を摂り、やることもなくなって勉強を開始する。雨の音を聞いていると次第に眠くなって、どうやら寝てしまった結果があれだ。何故、同じベッドで湊月が寝ていたのかがわからないが、妹が去った後で僕と湊月は教材を広げていた机の上に一通の手紙が置いてあることに気づいた。

もちろん、僕に文通相手がいるはずもない。だとすれば、緋奈の置き手紙だろう。そう結論づけて、開いた手紙には彼女らしい丸文字でこう書かれていた。

 

『なんか二人とも寝ちゃって暇だから帰る。湊月は私の家に泊まるって上手く言っとくから、もし湊月を放り出したりなんてしたら月曜日覚えてなさいよ。着替えは明日の朝、私が届けるから』

 

–––意味不明である。

 

まるで夜まで寝過ごす事を見越していたかのような文面に、湊月は赤面してわなわなと震えていた。要らぬ気遣いに打ち震えている様子で、手紙がくしゃりと潰され皺を作る。

 

「え、あ、私は帰る……!」

 

「まぁ女泊めるなんて言ったら、僕もなんて言われるか……」

 

想像したくない。そもそも赤飯とか用意するって言ってたから、そんな事を考えても後の祭りかもしれないが。

 

「え、外、台風で暴風警報出てるよ?」

 

なんてバッドタイミング。神様の悪戯か。

妹様のリアルタイム情報は正確無比に退路を塞いだ。

 

「諦めなよ、もう湊月さんの分もご飯できてるし。泊まるって言っちゃったし」

 

こともあろうにそっちの方までフォローがなされている。いったい誰が仕組んだのかとか、考えても無駄なことなので早々に考える事を放棄した。

 

「さ、さすがにそこまでされて無碍にするのも悪い、か……?」

 

湊月まで諦めモードだ。

ただ少し、その顔は嬉しそうに頰が緩んでいる。

 

 

 

神様の悪戯、と云う名の地獄はそこから始まった。

いつもの食卓は少し賑やかに、少し下世話な母親の介入があった。

「二人は付き合ってるの?」「キスした?」「どこまでいったの?」「お泊まりするくらい深い仲なのよね?」「部屋は圭ちゃんと同じでいい?」「馴れ初めは?」

矢継ぎ早に繰り出される質問攻めに対して、湊月は顔を真っ赤にして狼狽えるばかりで答えることなど出来るはずもなく。終始玩具にされていたように思う。これが明日からも続くと思うと憂鬱にもなろう。一人暮らし始めるいいきっかけだ。親の脛かじってる今の間は無理な話だが。

 

一番堪えたのがこれだ。

 

「はい、ゴム」

 

食事を終えて、妹と風呂に入りに行った湊月を見送った後で、母が取り出したのは長方形の箱であった。

 

「ゴム?」

 

思わず訊き返した。

 

「なにこれ、風船?」

 

「……嘘よね?舞ですらこれ見た時、顔真っ赤にしたのよ?それを風船?逆に笑っちゃうんだけど。ほら、エロゲーとか持ってるんだからわかるでしょ?」

 

僕の反応が信じられないといった様子で驚愕に身を打ち震える母の言動に、それが何であるか察した僕は一瞬頭が真っ白になる錯覚を覚えたが、錯覚は錯覚だ。すぐに思考が戻る。

 

「はぁ!?なんてもん渡してんだよッ!?」

 

「お母さん孫の顔は早く見たいけど、学生ではちょっとねぇ……」

 

他にも色々と言われていたがもう殆ど耳には残らない。押し付けられた箱を隠すため、湊月が風呂に入っている間に部屋に隠しに急いだ。

 

 

 

「はぁ、疲れた……」

 

余計に疲れた元凶に僕は呪詛を吐きながら湯船に浸かった。もちろんそんなことで精神的な疲労がどうにかなるはずもなく、風呂の暑さに削られていく体力を考え早めに風呂を出る。

なんだか余計に疲れた気分になりながらラフなシャツと寝巻きのズボンを履いて、階段を上がって部屋に帰ると妹と湊月が楽しそうに話していた。もういっそ二人とも妹の部屋に帰ってくれないかと願う。

 

「あ、兄貴お帰り。じゃあ、ごゆっくり」

 

そんな願いを蹴り飛ばすように、舞は早々に退散して行った。

 

「……あまり見ないでくれ。恥ずかしい」

 

残された湊月は着替える服がなく、僕のシャツに身体を通しただけの姿だった。もちろん下着などあるはずもなく、裾を伸ばして見えないように労力を割いている姿は何処か艶めかしい。

 

「じゃあ、電気消すぞ」

 

「……あ、あぁ。頼む」

 

風呂に入る前の事前の取り決めにより、湊月は同衾することが決定している。うちには客用の布団がないのが一つとして挙げられるが、もう一つの理由が二度目であるからだ。

ついうたた寝をしてしまった身ではあるが、昼間のこともあって二人の中でそれほど気にすることでもないのではという認識が広がり、どうにか二人で寝ることが確定してしまっている。

一階のソファーで僕が寝ることも提案したが、それすら却下された後だ。残された策はこれしかなかった。というか、頑なに母と妹が同衾させたがったせいだ。

 

背中合わせにシングルベッドに押し込まれて暗闇の中にいると、湊月の息遣いや心臓の音がより鮮明に伝わる。生温かい体温と風呂上がりの匂いがして、妙に照れ臭くなった。

 

「……なぁ、今更なんだけど、これ湊月の両親にバレたらやばくね?」

 

主に僕の命が危ない。緋奈が裏切る可能性はないとは思うが、何処から露見するか判らない。ちょっとした恐怖に身震いする。死ぬまで墓に持っていく秘密が増えた。

 

「多分、圭なら大丈夫だ」

 

しかし、湊月はそれを否定する。

 

「いやいや、大事な娘さんをこんな格好で同衾させるとか頭いかれてるか変態しかないだろう。そうじゃなくても、男の家に何の断りもなく泊まらせてる時点で……」

 

「圭は見ず知らずの人じゃないし、きっと許してくれる」

 

「ねぇどっからその評価来たの?」

 

確かに湊月の親とは面識がある。だが、それは子供の頃の話だ。今は忘れているかもしれない。そうであっても年頃の男女が泊まり合うってワードが既にアウトなわけだが。

 

「圭は……昔、虐められていた私を助けてくれただろう?」

 

湊月の声が嫌に静かで、何処か悲しげだった。

 

「それとこれとは別だろう」

 

どんな事情があるにせよ、何処ぞの馬の骨が娘を誑かしたか親は気にするところだろう。まず了承なしにこんなことになっている時点で打たれそうなんだけど。

 

「だけど、私の両親はきっと私の応援をしてくれる」

 

「僕にそんなつもりはなかったとか言ったら、余計に裁かれそうなんだが」

 

湊月は僕を好いている。そう仮定したとして、僕にその気がなく同衾したなんて話になったら「おまえうちの娘なんだと思ってんの?」とか言って殴られる。そんなビジョンが見えた。

 

「……あのな湊月、僕も男だ。さすがにこんな状況で冷静ではいられないんだが」

 

背中越しには艶姿の女の子がいて、勘違いしてしまうような言葉を吐く。

それはもう告白ではないだろうか。

 

「……圭になら、何をされてもいい」

 

–––告白ではないだろうか。

 

背中合わせにされた、湊月の感触が消えた。

身動ぎをして、僕の背中に抱き着く。

体勢を変えたらしく、豊満な胸が押し付けられた。

耳朶をそよぐ風のように、甘い声が囁く。

 

「……多分、こんな日じゃなきゃ言えないから言っておく。私は圭が好きだ」




一方その頃、隣の部屋では。
舞「これは何かあると思ったのに、何も聞こえない……」


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遠い過去の僕達は

 

 

 

何時からか僕はその女の子が気になり始めていた。

昼食の時間が準備時間を含めて三十分、その後に休憩時間が三十分。合計一時間の昼休憩が小学生である生徒達の待ち望んだ時間だった。勉強から解放される解放感と、給食は何よりの楽しみである。

早食いかつ大食いであった僕は、好きな給食があれば毎日のようにおかわりをしていた。そのおかわりをする顔ぶれも毎回同じで誰が多く食べれるかと競い合う仲の奴もいた。そして、毎日のように給食用の大鍋が空になる。

いつものように給食の時間内に食べ終えた僕は、早々に遊びたいのも我慢して、月に一週間は回ってくる給食当番の片付けをしていた。いくら誰かが大鍋を空にしても、給食を残す奴がいて少量の残飯が戻される。給食用の大鍋等が入ったワゴンを片付けて、それで仕事は終了だが生憎そんなことをやっていると遊ぶ時間はない。それに当時は図書委員をしていて、その当番でもあった。

 

「あー、早く行かないと」

 

幸い、他の図書委員が仕事をしてくれているだろうから急ぐ必要はないのだが、次の授業は図書室の横にある音楽室で一度教室に教材を取りに行かなければならない。

戻った教室で、またいつもの光景を見た。

自分の席に座って牛乳と睨めっこをしている地味な少女。

彼女は給食袋からコップを取り出すと、牛乳とお茶を混ぜ始めた。

そして、出来上がった飲み物を口に運んで飲み始める。

 

「…ぅ……」

 

呻いたのは少女と他の生徒達。

牛乳とお茶を混ぜた未知の味がどんなものかはわからないが、見ただけの感想を言うと不味そうだ。

はっきり言って僕ならやらない。

 

「うわ、きも」

 

「よくあんなの飲めるね」

 

「またやってるよあいつ」

 

周りからも酷評なようで、見ているだけで顔を歪めている生徒が多数。いや、見ている全員が気味悪いと距離を取っていた。ゲラゲラと笑っているのはいつも少女を揶揄う女子のグループだ。

 

僕はその様子に未だ名前をつけられない嫌悪感を覚えていて、少し不快だった。ただ少女の方が気になっていたので僕は牛乳とお茶の混合物と格闘する少女の方へ歩く。誰の椅子かは知らないが前の席のやつの椅子を拝借して、少女の前に座る。

 

「湊月、それ美味いの?」

 

「……え?」

 

突然、目の前に現れた僕に鹿島湊月は顔を上げた。

初めて話す相手だ。びっくりさせてしまったのかもしれない。

 

「…………」

 

湊月は無言でコップを握っている。顔を下げて、ただコップだけを見つめた。

 

彼女が喋るのを待つ。

 

「……ぐすっ」

 

何故か湊月は泣き始めた。

 

「お、おい、どうした?」

 

え?僕なんかした?とおろおろして宥めても湊月は泣くばかりで会話すらままならない。そうやってどうしたら泣き止むか考えること数分、外野が妙に煩かった。「榊原が女泣かした」等の喧しいクレーム、自分としても不本意なのだが周りはそう理解してくれない。

 

「そうだ、なんでそれ混ぜてんの?」

 

美味いかどうかを聞いてるのだから、聞き方を変えてみる。

すると泣きながらも湊月は答えてくれた。

 

「……牛乳、嫌いだから」

 

聞くまでは予想していなかった回答に少し感心する。

 

「え、美味いの?」

 

もう一度、聞くと今度はふるふると首を横に振った。

嫌いなものを混ぜて美味いと言う奴はいないだろう。

 

「へー、飲んでみたいな」

 

「……飲む?」

 

「おう」

 

即決するや湊月の手からコップを奪って、一口飲んでみる。するとなんとも言えない微妙な味が広がった。何かに似ているのだが牛乳と麦茶の風味とイメージが強過ぎてお世辞にも美味いとは言えなかった。

 

「うわ、間接キス!」

 

「榊原と鹿島がキスしたー!」

 

何やら外野が騒がしい。後になって思えば、かなりデリカシーというものに欠けた行為だったように思う。湊月の顔は耳に至るまで赤くなっていて、僕は登ってくる熱を発散するように怒鳴り散らした。

 

「うるせぇ馬鹿!」

 

「馬鹿って言った方が馬鹿なんですー」

 

「つーか鹿島なんかとよく間接キスなんてできたわね」

 

「別に狙ってやったわけじゃねぇよ!」

 

この日の休憩時間は周りの言葉に噛みつくことに費やした。

 

 

 

しかし、噂は広まり何故か『榊原圭は鹿島湊月が好き』という噂が流布された。伝達速度も見事なもので翌日には教室の全員がその噂を鵜呑みにしていたし、友達にはそのことで揶揄われた。

なんでもかんでも恋愛にこじつけるのはガキだからか、「湊月なんて好きじゃない」と言っても本気にする奴はいなくて、むしろ過剰に反応するもんだから余計な誤解を生んでいる。

その被害者は当然、僕だけではない。

 

「またあいつら間接キスする気だー」

 

給食終わりの休憩時間、また牛乳と激戦を繰り広げている湊月のところに行くとそんな風に言われた。会話をしようとするとこれである。もう何度繰り返したか、無視するのに二週間の時間を要した。

 

「ごめんな湊月、僕のせいで」

 

「う、ううん。謝ることないよ。こうして圭君といると私にもいいことはあるし」

 

この二週間で警戒心は僅かに解けたのか、湊月は言葉に詰まりながらも話してくれるようになった。当時の彼女は引っ込み思案で暗い性格だからか、友達は少なかった。

 

「……最初はびっくりしたけど、嬉しかった。圭君は私を見ても笑わないから」

 

はて、笑う要素なんてあっただろうか?

 

「だから、圭君は好き」

 

顔を赤くして言う湊月に僕も照れる。

 

「な、何言ってんだよ!」

 

「べ、別に変な意味じゃないよ?」

 

彼女はこのやりとりの間もお茶牛乳と格闘していた。口に運んでは嫌そうな顔をして飲む。ちびちびと口に運んで、ようやく最初の一杯が飲み終わった。あと何回で飲み終わるのだろうか。

繰り返すこと三杯目、僕と湊月の元にはいつも揶揄う女子三人組が来た。

 

「また気持ち悪いもの飲んでるー」

 

「榊原君、よくそんな子と間接キスできたね」

 

「本当、気持ち悪いから他でやってくれない?」

 

そんな気分の悪くなるような言葉を並べ立てて、ケラケラと笑う。三人が近寄ると湊月は妙に怯えてコップを握り締めた。コップの中身が振動で揺れている。その発生源は湊月だ。彼女は震えていた。

 

「何を笑ってんの?」

 

つい、頭がカッとなって立ち塞がる。

僕は男子の中でも背が高かったから、三人を見下ろす形になった。

その凄みに負けたからか、三人は後退る。

青山、伊藤、佐藤だったか。

クラスメイトの名前は大体覚えている。

同じクラスにいるんだし。

 

「笑うなよ。湊月は苦手なものを一生懸命克服しようとして頑張ってるんだ。それを努力もしないような奴が笑うなよ」

 

給食ばかりが楽しみな僕は全部知っている。

 

「青山はピーマンが苦手だったな。伊藤は人参、佐藤はレバーだったか?」

 

「はぁ?それがどうしたって言うのよ?」

 

「おまえら全員、残してるじゃないか。食おうともせず避けて残して、そんな奴らが湊月を笑うなって言ってんだよ」

 

彼女達が嫌いな食べ物を残していることを。

 

「はぁ、残して何が悪いわけ?食べれないんだから仕方ないじゃない」

 

「嫌いな食べ物がないあんたにはわかんないのよ!」

 

「ふ、二人とも流石にそれは言い過ぎじゃ……」

 

二人は依然高圧的な態度で、もう慣れた身としては挑発には乗らない。

 

「僕にだって嫌いな食べ物はある。南瓜と里芋。本当、南瓜の煮付けが出た日は地獄で……」

 

つらつらと南瓜の煮付けの恐ろしさを語っていると、青山と伊藤の二人は僕の言葉を遮る。

 

「あんたが南瓜嫌いなことはわかったわよ!」

 

給食の献立表に嫌いな食べ物が書かれていると、気持ちが沈む。その気持ちがわかる奴は多いだろう。

 

「そうか。ならいいんだが……別に僕も残すことが悪いとは言ってない。嫌いなものを克服しようと努力しているやつを笑うなって言ってるんだよ」

 

二度同じ事を言った気がするが、言わせられたんだから仕方がない。

 

「うわっ、私が残したもの覚えてるとかキモいんだけど」

 

「……えへへっ、榊原君が私の嫌いなものを知ってくれてるってなんかいいよね」

 

「いや、なんでよ」

 

三者三様、酷い言い分である。しかし、効果はあったのか三人は何も言わずに去って行った。追い払ったあとで席に座り直すと何故かまた泣かれていた。大きな声にびっくりしたのだろうか。感情が抑えられずに吠えてしまったから。

 

「急に大きな声出して悪かったな」

 

「……ううん。違うの。その、嬉しくて……」

 

涙を拭う彼女に戸惑うばかりだった。

 

 

 

鹿島湊月との交流は続く。放課後は毎日のように一緒に帰って、毎日のように彼女の家で遊んだ。僕が笑えば彼女もたまに笑顔を見せてくれるようになった。

だけど、それと同じくらい泣いている顔を見た。

たとえば、湊月がトイレに行った時、びしょ濡れで出てくることがあった。朝会うと泣いていることがあった。どうしてか彼女は持ち物をよく無くした。その度に聞くが、誤魔化されるばかりだった。

僕は馬鹿だったから、その理由にさえ辿り着かなかった。

 

ある時の席替えで湊月と僕は隣の席へ。彼女は凄く喜んでくれた。僕も嬉しかった。

 

小学生の僕はお調子者で忘れ物も多々あって、教科書を忘れてしまい隣の人に見せてもらうことになった。仲が良い隣の席の人といえば湊月だったので、教科書を見せて貰うことになる。運が悪いことに教科書の朗読に指名されてしまった。

 

「悪い、湊月教科書見せて」

 

「……え、ええっと。あ、だめ」

 

頑なに湊月は教科書を開きたがらなかった。

もう一つ隣のやつに見せて貰えば良かったのだが、生憎其方とは話したこともない。

 

「なんで教科書開かないの?」

 

教師が教科書を開くようにと指示を出しているのに、何故か湊月は開かない。根が真面目な彼女らしくないとそう思った。

 

「鹿島さん、榊原君に教科書を見せてあげなさい」

 

教師に言われてようやく湊月は教科書を渡してきた。どうやら自分では開きたくないらしい。と、不思議に思って教科書を開くと飛び込んできたのは、油性ペンで赤く大きく書かれた文字。

 

『死ね』『学校やめろ』『牛乳女』等の罵詈雑言。

それがまるで寄せ書きのように、落書きされていた。

 

「なんだよ……これ……」

 

「そ、その……自分で書いたの……」

 

いくら馬鹿な自分でも、湊月が自分で書いたわけではないことはわかった。僕だってやらないし、やるなら教科書の隅に落書きをしてパラパラ漫画を作る程度だ。あとやるとしたら、教科書じゃなくてノートにやる。

 

「榊原君、五十六頁の四行目『ルロイは〜』からですよ」

 

教師の催促に僕は立ち上がった。

頭には完全に血が上っていた。

犯人の心当たりはある。あったのに気づかなかった。

半分は、気づいてやれなかった自分への怒り。

相談してくれなかった、湊月への怒り。

そして、残りが湊月を“いじめ”てる奴らへの怒り。

 

「『死ね』『バカ』『学校来るな』–––」

 

「あ、あの、榊原君?ふざけてないで朗読を」

 

「え、だって書いてあるんですよ?」

 

「いいからちゃんと読みなさい」

 

「ふざけてないですよ先生。書いてあるんですもん」

 

「鹿島さんが書いた落書きを読まなくて結構です」

 

教師までもがそう言う。

馬鹿な僕が気づいたんだ。教師が気づかないはずがない。

もう、我慢なんてできなかった。

冷静ではいられなかった。

 

「自分で書くわけないだろ!」

 

「友達と悪ふざけでもしてたんでしょう」

 

「大人のくせにそんなこともわからないのかよ!!」

 

気づけば吠えるように、大声を出して叫んでいた。悲しみと怒りが溢れ出してしまう。どうにも自分は祖父譲りで短気らしく、暴走を始めたら止まることなどないとは、よく言われたもので。

 

「もういいです。座ってください榊原君」

 

面倒臭そうに言う教師に腹が立って、更に言葉で噛みつこうとしたけれど。

 

「……圭君。いいから、座って」

 

目を潤ませている湊月に制されると、感情が冷えていった。

 

 

 

僕は何か間違った事をしただろうか。湊月は帰り道、何も話してくれなかった。お互いに無言で通学路を歩いて、先に口を開いたのは僕の方からだった。

 

「湊月、このことおまえの両親は知ってるのか?」

 

「……ううん。だから、言わないで」

 

「なんでだよ」

 

僕は無力だから、大人に頼るのが一番だと思った。

担任はだめだ。見て見ぬ振りをしてる。

だから、時点で信頼できそうな人間といえば湊月の両親。

そう提案すれば、彼女はこう言う。

 

「お父さんとお母さんを心配させたくないから」

 

きっと自分の両親であれば力になってくれることがわかっているのだろう。でも、いじめられていることを知られることが嫌らしい彼女は頑なに拒む。

 

でも、僕は他に方法が思いつかないわけで。

 

 

 

「圭君のバカ、だいっきらい!!」

 

僕は湊月を“いじめ”から救う代償に、彼女と喧嘩別れしてしまった。



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君のいなくなった日

 

 

 

「圭君のバカ、だいっきらい!!」

 

そんな言葉を投げ掛けた理由はよく覚えている。

前日、母が泣きながら私を抱き締めた。「気づけなくてごめんね」「辛かったね」って私を慰めて、明日学校で色々と話をしてくるからと言ったのだ。問い詰めると圭が“私が虐められていること”を相談したらしく、それで母がPTA会議の折に学校側に問い詰めることにしたらしい。

約束したのに圭が嘘をついて私の母に喋ったものだから、私はそれが嫌で彼に酷い言葉を投げつけた。本当はそんなこと一度も思ったことないのに、言いたいことだけ言うと私は一人帰り道を走った。

 

その翌日には、私への“いじめ”はめっきりと止んだ。

 

直接的なのも、間接的なのも、陰湿なのも全部。不思議に思っていると私を虐めていた一人、佐藤さんに呼び出されて謝罪された。どうやら三人とも親にこっ酷く怒られたらしく、伊藤さんと青山さんの二人はそれが原因で私に突っ掛からなくなったらしい。

 

本当にその日から、私の日常は変化した。

いじめがなくなって、友達が増えて、佐藤さんとも仲良くなった。

毎日が騒がしくて、楽しい日々。

だけど、私は大切なものを失っていた。

 

 

 

–––圭だ。

 

 

 

彼はいつも私に話しかけてくれた。他愛無い話をして、バカやって、私を笑わせる。そんな君がいなくて私の心はぽっかりと穴が空いたように寂しくて。

 

私は、圭を探した。

すると彼は一人、机で本を読んでいた。

彼はどちらかと言えば、周りに人が多い印象があった。

それが今や、彼の周りには人がいない。

まるで時間に置き去りにされたかのように、彼の周りには誰もいない。

 

その原因は私だった。

 

元々、彼はクラスで割と人気者な立ち位置で友達が多かったのだけど、めっきり減ったのには理由があった。私を虐めていた三人を好きな男子は多くて、その三人と敵対してしまった圭の周りからは人が離れていったらしい。過半数離れれば、周りもすぐに空気に触れて伝播する。そんな甲斐あって、彼は友達を失くしていた。

 

私は声を掛けようとした。でも、出来なかった。いつも圭から話し掛けてくれたから、どう話し掛けていいかわからなかったのだ。立ち竦んだ私は待った。彼が話し掛けてくれるのを、私を見てくれるのを。きっと君が話をしてくれれば、今からでも仲直りが出来るのに、私から話し掛けるのが怖くて簡単なことすら出来なくて。

 

そんな日々が続いた、ある日。彼を取り巻く環境は悪化した。

 

 

 

“佐藤さんが圭を好き”なのは有名な話だ。もちろん、私も知っていたし、佐藤さんが一時期、私に当たりが強くなったこともあったのをよく覚えている。それは彼が絡んでいたからで、佐藤さんが手を引く理由にもなったことだ。忘れるわけがない。

その“佐藤さんを好きな男の子”と“青山さんと伊藤さんを好きな男の子達”が徒党を組んで、圭に報復する事を決意したのだ。発端は“佐藤さんが好きな男の子”にとって、未だ圭が邪魔だったからだ。

誰が流布したのか、“圭を倒すとあの三人にモテる”という風潮まで出てきてしまった。

 

露骨なら無視から始まり、段々と男子達はエスカレートしていった。筆箱を隠したり、上履きを隠したり、机に落書き、上履きに画鋲、教科書に落書き。と、私が受けた内容ばかり。

 

誰もが見て見ぬ振りをした。

きっと圭なら自分でなんとかする。

そんな風潮があって、私もそう思っていた。

でも、そんなのは言い訳だ。

 

私は我が身可愛さに“また虐められるのが怖い”と思って何も出来なかったのだ。見て見ぬ振りをされる痛みを知りながら、私は自分のことばかりを優先した。

 

圭はある朝、行動を起こした。

不機嫌そうに椅子に座って、突然机を蹴り飛ばした。

皆が教室に集まる時間だから、皆びっくりしていた。

随分と鬱憤が溜まっているらしい。

短気な圭らしくて、そして何処かいつも以上に尖っている。

 

「どいつもこいつも根性なしばっかだな!」

 

大声で教室中に響き渡る、挑発。

 

「直接喧嘩売る勇気もねぇのかよ。ダッセェ!!」

 

態と挑発してるんだと私にはわかった。こんな手には普通、引っかからないだろう。でも、想い人の前でバカにされた男子達は例外だった。特に“佐藤さんを好きな男の子”とかは特に。

 

「誰が根性なしだもういっぺん言ってみろ!」

 

「おまえだよ、坂田」

 

のこのこと出て来た坂田という男子生徒に対して、更に圭は挑発する。

 

「ビビってるから小細工しか出来ねぇんだろ」

 

ニヤニヤと挑発するような笑みを浮かべる圭は、何処かその生徒を嘲笑っているかのように見える。その顔はまるで圭の本質が歪められているようで、私は酷く驚いた。

 

「舐めんなよこの野郎!」

 

先に動いたのは坂田と呼ばれた男子生徒。彼は圭に距離を詰めると、その右手で思いっきり殴りつける。それに直撃した圭は半歩下がって打たれた顔を正面に睨みつけた。

 

「はぁ、よっわ。それで全力かよ」

 

今度は圭が殴りつける。すると坂田という男子生徒はよろめいて、机や椅子に足を引っ掛けて転んでしまう。

 

「榊原ぁ!」

 

あと二人ほど、遅れて圭に殴り掛かった。

そこから先は暴力の嵐だ。

殴り、殴り返され、蹴り、蹴られ。

圭は三人相手に力任せに暴れた。

相手が三人だというのに一歩も退かず、ただ暴れる。

先生を呼びに行くことも忘れて、私達はただその光景を眺めた。

 

「–––これはどういうことですか!」

 

教師が来る頃にはもう既に決着はついており、ただ一人立っていたのは圭だった。切れた唇を拭って見下ろす。

 

「次なんかやったら文句なしに潰すぞ」

 

その脅しに圭を虐めようとしていた男子達は震えるばかりだった。

 

 

 

いつからか圭は喧嘩に明け暮れた。売られた喧嘩を買い、複数人相手に傷だらけになって戦う日々、それを私は眺めているだけの日々。朝も夜も彼は怒っているような気がする。どうにも彼にとってはいじめの範疇にはならないらしく、売られた喧嘩は買えとばかりに全て跳ね除けていた。

また虐められるのが怖くて行動できない私は、ただ遠巻きにその姿を見つめていた。

喧嘩が終わると圭は傷だらけで、そんな彼を毎日のように手当てしているのはあの佐藤さんだ。

私は見ているだけのくせに、それが何処か妬ましく恨めしかった。

 

私に勇気があれば、どんなに良かったか。

そう思っていた矢先、チャンスが訪れる。

 

もう季節は夏、既に出会って一年以上。夏休みの前日。終業式を終えた後、雨が降る空を見上げて生徒玄関に圭が立っていた。それに気づかなかった私は彼に接近していた。最後のチャンスだと思った。

 

「け、圭君……」

 

「湊月か。……何の用だよ」

 

勇気を持って話し掛けたけど、何を話せばいいかわからない。喧嘩したのはだいぶ前のことだし、謝るタイミングというのを完璧に見誤っていた。

 

「その……元気?」

 

「……今更、何の用だよ」

 

「い、一緒に帰ろ?」

 

勇気を振り絞った。私が言えるのはそれだけだった。

たった一言に全ての思いを乗せて、圭に伝える。

すると彼は棘のある声で答える。

 

「おまえまた虐められるぞ。僕なんかと一緒にいたら」

 

その言葉に怯んだせいで、私は出遅れた。

圭は雨の中を傘も刺さずに走り出した。

その背中を追い掛けようと思えば、追えた筈なのに。

私はまた立ち止まっていた。

 

 

 

 

 

夏休みが明けた。今度こそ謝ろうと思う。そんな思いを胸に、登校した私を待っていたのは予想もしない出来事。

 

「あの……先生?圭君は休みですか?」

 

「あぁ、彼なら転校したわよ。夏休み中に」

 

榊原圭は転校した、と教師が言う。

予想もしていなかった現実に、私は聞き返した。

すると告げられたのは、もう夏休みに入る前から転校することは決まっていたこと。

終業式が最後の日だったということだ。

 

それを後から知った私は、大いに嘆いた。

 

どうしてもっと早く仲直りしようとしなかったんだろうとか。

どうして圭は転校する事を教えてくれなかったんだろうとか。

今までの後悔を全部吐き出して、泣いて。

 

 

–––私は失ってから、本当に大切な人に気づいた。

 

 



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不器用な愛

超短め。


 

 

ぬくもりだけが湊月がそこにいることの証明だった。暗闇の中では、背中に感じる彼女の体温だけが教えてくれている。今が夢や幻ではないことを。

 

懐かしい話をした後で、

 

「……僕だって一度も忘れたことはない」

 

どんな言葉を掛けるべきか迷って出したのは慰めの言葉なんかじゃない。否応のない事実。僅かに触れた肌から緊張が伝わり、湊月が息を呑む音がはっきりと聞こえた。

 

「喜ぶべきかな、悲しむべきかな、圭は私を恨んだだろう?」

 

私なら、そうする。

それが湊月の答えなんだろう。

僕だって、それは否定しない。

湊月が心の内を晒しているのに、隠すのは卑怯だ。

向き合うには、今しかないのだから。

今を逃せばきっと後悔する。

 

「あの頃の僕は子供だったからな。確かに腹が立った」

 

「……嫌いになっただろう」

 

「そうしたら、楽になれたのかもな」

 

すれ違いを正そう。

 

「そもそも期待するのが間違いだったんだ。おまえには何も出来なかった。じゃなきゃ、僕が手を貸す必要なんてなかっただろう」

 

「慰めるふりして痛いことを言うな」

 

僕に言葉を選ぶ暇などない。だけど、はっきり言わせてもらおう。間違っていたのは僕だと。それで傷つくのはお互い様だとしても、僕は思っていることを全部伝えなくちゃいけない。

 

「本当のことだろ」

 

「そんな私が私は嫌いだった」

 

僕は遠く離れた後でも湊月のことばかりが心に浮かんでいた。上手くやれてるかとか、僕がいなくて大丈夫かとか。どうやらそれは僕だけではなかったようだ。湊月も僕のことを考えていたらしい。

 

「……だから、変わろうと思った。圭に会った時、今度はちゃんと好きって言うために。会える確証なんてないのに、それを心の支えにしてきたんだ」

 

恋愛感情なんてものを、僕に持ってくれていたらしい。

あの頃、燃え尽きた僕の中に、燻っている火は確かにここにあって。

蘇ろうとしている。

灰の中にまだ、燃え尽きていない何かが……。

なんだろう。上手く言葉にできない。

 

「もういいだろ。あの頃のことなんて」

 

本当にどうでもいい話なんだ。その気持ちを言葉にすれば、湊月が涙声で反論する。

 

「……圭はきっと優しくそう言うと思った。だから、私は私を許せないんだ」

 

湊月にとって、あの頃の失敗はそれほど重要だったのだろう。

見て見ぬ振りをされたことが辛いのは、僕も少なからず理解している。

何が正解で、何が間違っていたのか。

あぁ、そんなことすらどうだっていい。

 

「……っ」

 

寝返りを打てば、透き通った瞳が此方を見つめていた。数秒間、視線が交わると湊月の方から顔を逸らされてしまう。俯き気味な彼女に手を伸ばすと一瞬、触れることに躊躇したが僕は欲求に素直になることにした。

 

–––君に触れたい。

 

肩を抱くとそのまま引き寄せる。

思った以上に柔らかい身体と、伝わる体温に胸が熱くなる。

指先から伝わった熱が、まるで麻酔のように僕を痺れさせた。

その理由を僕は知らない。

 

「……っ」

 

僕も言葉が出なかった。掛けるべき言葉は何か考えてみたが、いざとなると頭の中がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたみたいに思考が上手くまとまらなくて、言葉にならない。

抱き寄せたままの腕を上へと動かして髪に触れる。そのまま掻き分けるように指を差し入れて頰に手を添えた。理由を考えても何がしたかったのかわからないが、起こした行動から発生する別の何かが胸に湧き上がるのがわかった。

もどかしい気持ちが胸の中にあって、燻っている。熱くて、苦しくて、どうにも落ち着かない。

 

「……そういえば、僕は湊月に告白されたんだったな」

 

言い逃れることなどできるはずもない。

口にして事実を再確認したところで、この感情に名前をつけたくなった。

もしこれが一種の『愛』だと云うならば、僕は湊月のことが好きなんだろうか。

そんな理由で子供の頃の僕は彼女を助けたわけではないが、今となっては笑い話にもなりはしない。あいつらは恋だ愛だと声高々に叫んでいたが、どうも馬鹿に出来ない話になってきた。言い得て妙だな、と納得する始末だ。

僕は正義のヒーローとか、そんなものに憧れていたわけじゃない。恋愛感情だってあったはずもない。ただ、湊月に笑って欲しくて過去のことを起こしたのだ。そこに明確な理由はない。ただ、理不尽を許せなかっただけだ。

 

–––答えが出ない。

–––僕は湊月が好きなのだろうか?

–––わからないから、僕は問い続ける。

–––いまなんて答えるべきか、苦悩する。

–––本当はわからないのではなく、認めるのが怖いだけかもしれないが。

 

「僕の偏見だと思うが、“恋人”というのは男女が両想いの場合に発生する関係だと思う」

 

それ以外にも“恋人”になる条件があるらしいが、僕の価値観の話だから、そういうことは横に置いておく。

 

「僕は湊月に触れたいと思うし、キスだってしたい、独り占めしたい、そう思う」

 

素直な気持ちを吐露したが、明確な答えはやはり出なかった。その原因として挙げられるのが、僕が人を信じることさえできなくなってしまったが故だろう。

 

僕の言葉に反応した湊月が顔を僅かに上げた。

 

「僕は誰かを信じることはできない」

 

でも、湊月になら騙されてもいいと思ってしまう。

告白を全て鵜呑みにできるほど、僕はできた人間じゃない。

捻くれた感情を持った異端分子だ。

僕はこんな話をしている今も君を疑っている。

本当に僕のことが好きなのか、とか。

 

「湊月のことだって例外じゃない」

 

まだマシな方だが、どうも彼女相手でも僕は壁を作ってしまう。

本音を言うなら逃したくないけれど、僕は最終確認のために不器用な返事をした。

 

「……それでもいいか?」

 

『好き』という言葉の代わりに放った言葉、その返答は勢い余った甘い女神の口付けだった。



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変化する日常・朝

 

 

 

週明けの月曜日は憂鬱だ。学校に行きたくないと身体が拒絶反応を起こす。暖かいベッドから抜け出すことも億劫なまま、微睡に意識を委ねていると朝から珍しく家の呼び鈴が鳴る。ドタバタと忙しない音が聞こえて、その数分後にはガチャリと僕の部屋の扉が開けられた。起こしに来た誰かに抵抗するようにベッドに深く潜ると、やって来た人物はそっとベッドの淵に腰掛けた。

 

「圭、朝だぞ。起きろ」

 

普段、僕を起こす手段は強引なものが多い。それなのに今日は妙に優しい起こし方だ。毛布越しに肩を揺すって覚醒を促す。乱暴な妹でも、喧しい母でもない、別の誰か。

 

「あと五分……」

 

お決まりの台詞を言って、僕は二度寝に興じる。

そんな僕に声の主は仕方ないなぁといった雰囲気で、

 

「起きないなら、悪戯でもしようか?」

 

悪戯っぽく笑う。その声には艶っぽさもあって、中々に刺激的だ。

 

「起きないとキスするぞー」

 

「……」

 

声の主は待ってくれない。僕が無反応で微睡の中に戻ると、声の主は強引な手段に切り替えて頭まで被った毛布を一部剥ぎ取り、頬にそっと口付けを落としてきた。

目が覚めるような行為に脳が活性化した。オキシトシンの大量分泌に引き摺られて、薄く瞼を開く。すると僕の前にいたのは制服姿の湊月だった。頰を朱に染めて、優しげな眼で僕を見つめている。しかし、僕から反応がないことが判るとすぐに不機嫌そうに頰を膨らませた。

 

「彼女が起こしに来たんだから、もう少し嬉しそうにしてもいいじゃないか」

 

日曜の朝ぶりだった。あの日、湊月はシャワーを浴びたあと、緋奈から着替えを受け取ってすぐに着替えると帰って行ったのだ。今の発言がなければ、僕は彼女が恋人だということを夢で片付けていたかもしれない。

 

「……そうか、彼女か」

 

「さては、昨日の今日で忘れたとか言うんじゃないだろうな。私にあんなことをしておいて、いまさら恋人じゃないなんてなしだぞ」

 

「もし言ったらどうなるんだ?」

 

「ショックで死ぬ」

 

随分と重い恋人だ。だが、それくらいでないと僕も簡単には信用できないだろう。正直な話、今でも“恋人”という関係性に半信半疑でいるのだから。

 

「安心しろ、湊月が僕を嫌いにならない限りは一緒にいてやる」

 

「いいのか?私は絶対に圭を手放したりしないよ」

 

それはつまり、絶対に別れることはないということだろうか。二人の言い分を合わせれば、婚約じみたことを言っているのがわかって、湊月が照れたように俯いた。

 

「それでこんな朝早くにどうしたんだ?」

 

プロポーズくさくなってしまったために話題をすり替えると、湊月の顔がさらに赤くなった。

 

「……だって、圭と一緒に登校したかったし。恋人らしいこと、してみたかったし……」

 

そんな理由で僕の眠りを妨げたらしい。怒るに怒れなくて、僕は脱力した。

 

それから朝の支度をして、湊月と一緒に家を出た。学校までの通学路は割と距離がある。普段は自転車だが、今日ばかりは電車を使い通学することにした。三駅ほどの距離を電車で十五分ほど、そこから歩いて学校に向かう。既に周囲は同じ学校の制服のやつらばかりで、人の流れができていた。それに沿って歩いていると湊月がきゅっと手を握った。

 

「どうした?」

 

「……別になんでもない」

 

手を握りたかったのだろう。それくらい僕でも判る。だから、それ以上のことは何も言わずに僕は指を絡めた。湊月は驚いた様子だったがすぐに嬉しそうに応えて指を絡ませる。

そのまま校門を潜り、自転車置き場を抜けると生徒玄関へ。靴を履き替えて、階段を上がると教室を目指した。

 

「あ、鹿島さんおはよー」

 

「おはよう鹿島さん……あれ?」

 

教室に入ると湊月の友達らしきクラスメイトが挨拶をする。男子は友人達との会話を中止して、湊月へと視線を向けた。さっきまで口論をしていた連中も揃って争いをやめている。それだけ湊月には人気があるのだ。異性としても、人としても、この教室……いや同学年どころか先輩達に至るまで、湊月を知っているものは多い。

さて、それでは学内で有名な湊月が男を手を繋いで教室に現れたらどうなるだろうか。まず違和感に気づいた女子生徒が湊月の指先に絡まった手を見ると、その視線を繋いでいた僕の方に向ける。そうしてまた視線を戻して、手を繋いでいるところを再確認し、今度は全体を眺め見てみる。結論は出た。

 

「……え、え、どういうこと?」

 

結論を出すのは早計だと思ったのか、困惑しながらも女子生徒は理解しようとした。隣にいるのが僕だったからか、これがあの二人なら違ったのだろうかと思っていると、湊月は友人達に拉致されていった。

取り残された僕は、一人自分の席へと進む。

普段は浴びせられない注目を浴びながら席に座り、悪足掻きの暗記をしていると不意に近寄って来る気配があった。目の端で捉えていたし、こっちに来るんだろうなとは思っていたが、その人物は隣に立つと声を掛けてきた。

 

「おはよう榊原。朝から随分と大胆ね」

 

「それは湊月に言ってくれ」

 

幼馴染?の片割れは、朝から揶揄いに来たのだろうか。

視界の隅には友人達に取り囲まれている湊月の姿がある。朝とは思えぬくらい異常に盛り上がっており、時折、僕に視線が向くことからさっきの言及をされているのだろう。

その“恋人”の湊月さんはどうやら隠す気どころか、彼氏を見せびらかしたいようで自慢げに話していた。僕が自慢になるかは甚だ疑問だが、あの笑みに嘘はないと思いたい。

 

「……ねぇ、湊月の何処を好きになったの?」

 

そんな風に戯れる湊月達を眺めていると、緋奈がストレートに答えづらい質問をしてくる。何処を好きかと問われても好きかどうかすら曖昧で、答えに窮するのが現状だ。容姿だとか適当なことを言ったら『カラダ目当てなの?』ってキレるんだろうな、と思いつつ答えを探す。質問自体が来ることはなんとなくわかっていたから、それなりに回答は用意していた。

好きかどうかは答えられずとも、確かに判ることが一つだけある。

僕が鹿島湊月という女性を大切に思っていることだ。

 

「わからん」

 

「はぁ?どういうことよ?」

 

呆れたような、怒っているような声だで問い詰めてくる。

もし湊月が誰かと付き合ったとして、その答えを聞いたなら僕だって怒ったかもしれない。

そう考えれば、緋奈の批難がましい視線も当然のことだろう。

だから、誤解しないように訂正しておく。

 

「勘違いするな。別に嫌いってわけじゃない」

 

「それ、捉え方によっては断り文句よ」

 

緋奈はそう感じたのだろうか、益々視線が鋭くなる。

 

「もし湊月を傷つけるつもりなら、あたしが許さないわよ」

 

「だから、そんなつもりはないって。……仮にも恋人だ。大切にするさ。湊月が裏切らない限りは」

 

いつか僕を嫌いになって湊月に他に好きな人ができた時、それが終わりの合図だ。その覚悟が伝わったようで緋奈が驚いたように目を見開くと、僅かに唇を振るわせた。

 

「……あんた湊月が裏切ると思ってんの?」

 

「湊月に他に好きな人ができて、僕と別れたいだなんて言うかもしれないだろ。詩的な表現だが、僕なんかより良いやつは星の数ほどいるだろう」

 

「もし、そうなった時、あんたは……」

 

「潔く退くつもりだが」

 

たとえば僕が本当に湊月を好きに言えるようになったとしても、その相手の幸せを考えるなら僕は潔く退いてしまうだろう。そんな予感にも似た、断言をしてしまうあたり僕も末期だ。

今も湊月を疑い続ける僕を見て、緋奈が詰め寄るように手を伸ばしたが、その手は空を切って下された。

 

「……あたし達のせい?あんたがそんな風になったのは」

 

「あの頃の僕が馬鹿だっただけだ」

 

誰かを疑うことを知らなかった僕が、誰かを信じる心を失う代わりに、誰かを疑う心を手に入れた。そう、ただそれだけの話なのだ。そういう人間は探せばいくらでもいる。僕がその一人なだけだ。

 

「そう。……あんたはやっぱりそう言うわよね」

 

誰も悪くないはずなのに、緋奈の表情は何処か暗い。

どう言えば彼女は納得してくれるか考えたが、簡単に答えが出るなら苦労はしなかった。

僕が納得しているのに、緋奈は納得していないまま自分を責めているようにも感じた。

 

「おまえ本当に面倒なやつだな」

 

「なによ……」

 

「そうやって勝手に責任感じてるところ、鬱陶しい」

 

「なによそれ、あたしは……!」

 

「何もしないのが正解だったんだろ」

 

当時、倉橋緋奈は隣のクラスだった。

湊月がいじめられ始めたのも、ちょうど緋奈と湊月のクラスが別になったところだ。

その時に緋奈は行動を起こしたらしいが、それが原因で虐めが悪化した。

自分のせいで。そんな自責の念が纏わりつき、緋奈は湊月を見守ることを選んだ。

 

–––僕の時もそうだ。

 

湊月の時にそれを学習した彼女が、僕を助けようとしなかった理由はそれだ。

それを今更ながらに言い訳と思ったのか、勝手にまた自分を責めている。

自分が裏切ったと、思い込んでいる。

 

「圭、緋奈、二人で何を話してるんだ?」

 

女子生徒達に拘束され、質問攻めにあっていた湊月が帰って来ると、「なんでもない」と言って緋奈は席に戻っていった。

 



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変化する日常・放課後

 

 

 

長い戦いが終わった。その報せを受けた生徒達は我先にと机に突っ伏して、回収されていく答案用紙には目も暮れない。死屍累々の姿を壇上から凛とした眼差しで見守るのは我らが副担任、藤宮先生だ。少し苛立って見えるのは、また、ものぐさ教師の担任が仕事を放棄して何処かに行ってしまったがためだろう。仕事を押し付けられた藤宮先生の不機嫌な理由は周知の事実であり、触らぬ神に祟りなしと態々災いに触れるものはいない。

「解散」と一言命じて、藤宮先生は教室から出て行った。

 

「さて、と……帰るか」

 

今日から解禁される部活動に従事する者、バイトする者、帰宅する者、寄り道する者に分かれるであろうその中で、僕も用事があって帰り支度をするとさっさと教室を出ようと鞄を持った。そんな矢先、僕を呼び止める声があった。

 

「圭、帰るのか?」

 

湊月だ。この数日、一緒に帰っていたため慌ててやって来たらしい。手に持った鞄のファスナーが空いている。

 

「あぁ–––」

 

「じゃあ、一緒に帰ろう」

 

僕が何かを言う前に湊月はそんなことを言った。嬉しそうな笑みを浮かべては、頰を染める姿は何処か色っぽくて魅力的だが、生憎とそんな愛らしい顔をされても僕は了承することが出来なかった。

 

「悪い、バイトが入ってるんだ」

 

「そ、そうか……それは仕方ないな」

 

しょぼんと萎れた花のように落ち込む湊月は、視線を下げたがすぐに僕を見上げた。

 

「な、なら、明日は?」

 

「明日は……」

 

小鳥先輩のところに顔を出さなければいけない。テスト期間が終わって活動が再開したのを理由に僕を待っている可能性もある。下手したら毎日、僕を待ちぼうけているかもしれない。それは可哀想だ。良心が痛まれる。

 

「……私よりその幼女先輩の方が大事なのか」

 

と、説明すれば湊月は不機嫌そうに頰を膨らませた。拗ねてしまったのか、ぷいっとそっぽを向いた。僕の注意を引こうとしているのかチラチラとこちらを盗み見る。僕と視線が合うと逸らす。

何度かそのやりとりを繰り返したが、状況は変わらず膠着状態に。

 

「そうは言ってないだろう」

 

否定もしていないけれど。

 

「……まぁ、圭のそういうところ好きだけど。でも、やっぱり彼女としては、一番に大切にしてほしいというか……」

 

僕の性質を理解してくれているのか、湊月は諦めたように言ったその後でボソボソと何かを呟いた。はっきりとは聞こえなかったが、ニュアンス的には嫉妬しているらしい。醜いところを見せたくなくて、小声になってしまったというところか。

 

「なら明日、先輩のところについてくるか?」

 

「……うぅ。私、あの先輩苦手なんだよな……」

 

妥協案を出せば、湊月はさらに苦々しい顔をした。出会い頭に心の中を土足で踏み荒らされた過去は重いようで、それが全て小鳥先輩への苦手意識に変わったらしい。全部ひっくるめて「図星」と言うのだが、普通は気分の良いものではないのだろう。まったく気にしない僕が異常だと言われるほどだ。

 

「さて、どうするか……」

 

出来るだけ湊月のことは大切にしているつもりだ。優先順位を考えれば“恋人”の一択なのだろうがそう簡単にはいかないのが世の常だ。全人類の大半を悩ませてきた『仕事と私どっちが大事なの?』問題が、今、僕に襲い掛かっている。

改めて、思い悩んでいると湊月が慌てて手を横に振る。忙しない焦燥の見える表情に変わると、彼女は慌てて言い繕った。

 

「こ、困らせるつもりはなかったんだ。ただ、圭と一緒にいたくて……」

 

ぎゅっと胸を押さえ、苦しそうにする彼女の姿に思うところがあるものの、決断には至らない。言外に四六時中一緒にいたいという想いが伝わってきたが、それもまた不可能だ。朝昼は学校で会えど、夜は離れてしまう。

 

「どうする?行くのか?行かないのか?」

 

定期的に顔を出さないと拗ねたり悲しんだりとする小鳥先輩は、正直それでも足りないくらいだ。毎日でも通ってやらないと寂しくて死ぬ、とは藤宮先生の談。そんな先輩を放って置けるわけも無い。

 

「……行く。圭とあの先輩を二人きりにしたくない」

 

苦手意識と独占欲を天秤に掛けた結果、湊月は小鳥先輩と会う道を選んだ。

 

 

 

 

 

 

翌日の放課後、寄る部の門を叩く。引き戸に手を掛けると開いているようだったので、勝手にお邪魔することにした。

 

「あ、おかえりけーちゃん!」

 

校内なのにアットホームな雰囲気を醸し出し、後輩を出迎える先輩の姿に違和感がない。むしろ兄の帰宅を喜ぶ妹だ。どうやら僕も小鳥先輩の魔力に惑わされてしまったようだ。

 

「ただいま帰りました。小鳥先輩」

 

「……」

 

「あれ、そっちの女の子は……」

 

僕の背中に隠れる湊月を見つけた小鳥先輩は、今度こそ隠れなかった。

むしろあの時とは、立場が逆転している。

きょとんとした顔を一瞬だけ見せて、その顔を満面の笑みに変える。

あどけない笑顔は、湊月の警戒心を僅かに緩めた。

 

「また来てくれたんだ。もう来ないかと思ったよ」

 

それだけの自覚はあったらしいが謝る気もないらしい。それだけ言った小鳥先輩の顔は、屈託のない笑顔で純粋な喜びを感じられる辺り、相当嬉しいようだ。

 

「小鳥先輩、藤宮先生は?」

 

いつもいる姉の姿がない理由を問うと、小鳥先輩は悲しそうな顔をする。

 

「お姉ちゃん、テストの採点で来れないんだって」

 

テストはある意味で生徒に地獄を与える。それは逆も然りで、作るも地獄、採点も地獄なのだろう。過去に百問の問題をテストに出した教師がいたが、単純計算で一人百問。学年に百人いれば一万問の採点を行わなければならない。考えただけで気の遠くなる作業だ。それを今回、藤宮先生はやらかした。

『百点崩し』は生徒と教師、共通の呼び名。

『教師殺し』は教師だけの呼び名だ。

僕は今のうちに職員室に向けて、黙祷を捧げておく。

 

「……ねぇ、けーちゃん、みーちゃん」

 

静かに祈る僕の姿を見上げて、小鳥先輩が小首を傾げる。

 

「二人とも何かあったの?」

 

どうやら僕らの内心にも変化があったらしい。

それを読み取るとは、さすがは小鳥先輩と言うべきか。

 

「今の僕はどう見えますか?」

 

「荒野に一つ花が咲いたの。とっても可愛いお花」

 

尋ねたら、そんな言葉で返ってきて、僕は解釈し切れずに小首を傾げた。

 

「それはどういう意味で?」

 

「多分、愛でたいものができたんじゃないかな」

 

思い当たる節があるといえばある。

湊月を大切にしたいとは、思っているが……。

そんな事を考えながら本人を見ると、湊月は顔を真っ赤にして逸らした。

どうやら相当嬉しかったようで、耳まで赤い。

僕はすかさず話題をすり替える。

 

「湊月はどうですか?」

 

「雨が止んで、太陽の光が強くなったの。……海が枯れそうなの」

 

恋焦がれるとは言うが、むしろ蒸発しそうなくらい激しいらしい。取り扱いには注意が必要だと言われた。

 

「まぁ、確かに……それくらい圭のことは好きだ」

 

そんな客観的な意見を述べられても、どれくらい激しいか分からない。もっとも説明されたとしても理解できないのが現状だ。

 

「やっぱり二人とも、付き合うことになったんだね。おめでとう」

 

「……ありがとうございます?」

 

湊月がお礼を言う。

でも、小鳥先輩は首を傾げたままだ。

僕達を観察し続けるような視線を向けてくる。

 

「じ〜……普通はそんな心境で恋人になんてなるはずないんだけどな」

 

最後に余計な一言を小鳥先輩は添えたが、抗議するように湊月が僕の腕に抱き着く。

 

「やっぱり私、この先輩は苦手だ」

 

「言いたい事をはっきりと言えるのは悪い事じゃないと思うけどな……」

 

普通の人からしたら度が過ぎるだけで、言い換えれば自重しないのが小鳥先輩の良いところだ。逆に小鳥先輩がはっきりと言いたい事を言ってくれるおかげで、僕は楽に人付き合いが出来ているのだ。そうでもなければ、先輩のことなんて早々に忘れてこんな場所に通わなかったと思う。

 

「えへへ、そういうけーちゃん大好き。わたしもけーちゃんみたいな彼氏欲しいなー」

 

「なっ、圭は私のだ!」

 

小鳥先輩は素直な気持ちを言っただけなのだろうが、湊月は過剰に反応して更にぎゅっと腕を締め付けてきた。ただ触れている大半は柔らかくて年相応に大きな胸なので、痛くも痒くもないが。

先着一名の豪華景品と言いたいところだが、僕が景品とは貧乏くじではないだろうか。

そんな景品を取り合っている構図が、目の前にある。

 

「それでそれでみーちゃんはこの部に入ってくれるの?」

 

僕のことはどうでもよかったらしい小鳥先輩は、新しい仲間が増えるとあってハイテンションだ。期待に満ちた純粋無垢な(他人の汚い部分を見過ぎで若干疑わしい)瞳を向けられて、同性である湊月ですらたじろいだ。同性かどうかは関係なく、真の武器は幼さである。

 

「……」

 

入るべきか、入らないべきか、湊月は悩んでいるようだ。

その答えはすぐに出た。

 

「……圭をこんな先輩の隣に置いておいたら、いつ性癖が歪むかわからないからな」

 

藤宮先生といい、湊月といい、酷い事を言ったものである。

少なくとも僕はロリコンなどではない。

 

 

 

その後、小鳥先輩と様々なゲームをして遊んだ僕達は日が暮れる頃に学校を出た。夕焼けに染まった坂を下りながら、湊月は疲れた様子でこう呟く。

 

「なんていうか……子供みたいな先輩だな」

 

幼女先輩と渾名をつけるくらいだから、容姿は幼い。その上、言動も幼ければ小学生くらいと勘違いしてしまうくらいには、小鳥先輩は立派な幼女だった。

小鳥先輩が提案した遊びに疲れてしまったのか、湊月の足取りはやや重い。

 

帰路を歩いて、駅で電車に乗り湊月が住んでいる街までやってくる。

朝は湊月が起こしに来てくれるが、帰りに送るのは僕の役目だ。

流石に、こんな時間に女の子を一人で夜道を歩かせるわけにはいかない。

 

もう既に道は暗い。太陽が沈んで、月が昇っていた。

最後の曲がり角を曲がって、湊月の家の前に着く。

 

「じゃあ、また明日」

 

毎朝、起こしに来るため別れの言葉はいつもそれだ。

僕は湊月が家に入るまで見送ろうとするけれど、湊月はいつまで経っても家に中に入ろうとはしなかった。

いくら家の前とはいえ、危険がないとは限らない。だから早く帰って欲しいのだが、湊月は少しも動くことがなかった。それどころか僕の制服の袖を掴んで離さない。

 

「……明日は学校休みだ」

 

今日は金曜日、二日会えない。僕としては問題はないのだが、湊月には死活問題らしい。

 

「それに夜だって、圭は携帯持ってないから電話できないし……」

 

因みに、僕の家に固定電話はないし、あったとしても長電話なんてしたら何を言われるか。妹様から借りてもいいのだが、妙な条件をつけられても困る。例えば、妹の目の前でスピーカーオンで会話するようにとか。

 

「なら、泊まりに来るか?」

 

「そうしたいけど、男の家に泊まったことがバレて外泊は当分禁止になった。解除して欲しかったら、その男を連れて来いって」

 

湊月の親父殿と鉢合わせる前に帰った方が良さそうだ。

挨拶したいのは山々だが、かえって怒らせそうな気がする。

 

「なら、これで我慢しろ」

 

どうあっても動こうとしない湊月の唇を塞ぎ、小鳥が啄むような軽いキスをするとそのまま家の方に向かって押し返す。何が起きたか一瞬理解しなかった彼女は、夜の闇の中でもわかるくらいに顔を真っ赤に染めて、こくりと頷いた。

 

「……わかった。帰る」

 

よほど恥ずかしかったのか家の中に逃げ込むような背中を見送って、僕は踵を返した。

 



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友人と元カノと携帯電話

 

 

 

「……はぁ。スマホを買ったのは早計だったか」

 

昼休みにポケットが振動して何かと思えば、最近買ったスマホがメールを受信した通知が来ていた。差出人は妹、画面に表示されている内容を見るにお使いの連絡だ。

 

『帰りにプリン買って来て』

 

否応なしの命令文。妹様はお姫様などではなく、立派な女王様。ならば、僕はしもべと言ったところだろうか。此処でノーと言えないのが僕の悪いところ。

 

「そんで代金は僕持ちなんだろうなぁ」

 

うちの妹、可愛くない。可愛いけど、可愛くない。

満面の笑みでお礼を言ってくれるならまだしも、利用するだけ利用してぽいだ。性質が悪い。

それに従ってる僕も僕だが。

 

「……なぁ、圭」

 

スマホの画面に映る妹様からの指令を遠い目で見つめていると、横でわなわなと震える湊月が視界の端に映った。

昼食はほぼ毎日のように湊月が隣にいる。惣菜パンを片手に妹への返信をする僕の隣で、弁当を黙々と食べている。

 

「どうした?」

 

「携帯買ったのか?」

 

「あぁ、まぁな」

 

「いつ?」

 

「二日前くらいか?」

 

正確には覚えていないが、それくらい前だったと思う。

妙に食いついてくると思ったら、湊月が頰を膨らませた。ご機嫌斜めのポーズだ。

 

「なんで言ってくれなかったんだ」

 

「いや、言う必要ないと思って」

 

携帯電話を買ったからといって報告する義務はないだろう。現時点で僕のスマホは携帯電話としての機能を全うしてはいない。使用率の半分以上がソシャゲで埋まっており、連絡先なんて妹とバイト先のマスター、それと数少ない友人を合わせて両手で数えるほど。ちなみに親の連絡先はまだ登録されていない。電話番号だけなら、記憶しているから、改めて携帯に記録させるのはその時が来たらでいいと思っている。

 

「……それがわかってたら、毎日夜話せたのに」

 

そう言われても、態々電話をしてまで会話するメリットについて考え始めれば、あまり魅力的なものではないと判断したまでだ。

 

「別に次の日に会って話せばいいだろう」

 

「圭は乙女心がわかってない」

 

僕の恋愛バイブルでは、恋人同士が夜電話して楽しんでいるシーンがある。そこに心が追いつかないのは僕の冷たさが原因か、頭では理解できても納得はできない。声を聞きたいだとか、話がしたいだとか、結局は偽りの行為だ。

 

「言っておくが湊月、携帯電話は本来その人の声を聴かせるのではなく、類似した音を発生させて似せているだけで本人の声ではないからな」

 

「あんたはそういうところ妙に現実的よね」

 

夢も希望もロマンスもない話をすると、同じく昼食に同席していた緋奈に咎められる。夢見る乙女としては、そういうシチュエーションを否定されるのは嫌なのだろう。僕も根っこから否定しているわけではない。どちらかというとそういうシチュエーションは好きだ。恋愛系の漫画でよく見る。でも、それとこれとは別であまりやりたいとは思わない。

 

「会話は全般的に苦手だからな」

 

人と話すという行為において苦手意識を持っている自分としては、電話も会話も最小限にしている。恋人である湊月が相手でも、それは変わらない。ちなみに筆談も無理。言葉を使った伝達方法全て苦手だ。コミュニケーション能力が僕には欠如しているのが原因だろう。

 

「それとだ。どうせ聞くなら、湊月の綺麗な声がいい。機械越しだとどうもな……」

 

「っ!?」

 

電話から聞こえる声は、あくまで偽物だ。

湊月であって、湊月の声ではない。

言葉は湊月のものでも、声は彼女のものではない。

そう伝えただけのはずが、湊月の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

 

「いちゃつくなら帰っていい?」

 

胸焼けがすると緋奈は文句を言って、僕の缶コーヒーを奪った。しかし、止める間も無く未開封の缶コーヒーは開封され緋奈の胃袋に流し込まれていく。

 

「べ、別にいちゃついてなんか……そ、それより圭。携帯があるなら連絡先を交換しよう。ほら、緋奈も」

 

目下の目的は僕の連絡先の入手のようで、湊月もスマホを取り出した。仕方ないといった様子で緋奈もスマホを取り出して、三人で連絡先を交換する。

ただ湊月はじっと僕のスマホの画面を見つめるばかりでもたもたとしていた。何が気になるのか、画面から目を離そうとしない。

 

「ところで圭、ホーム画面とか壁紙は何に設定してるんだ?」

 

「ん」

 

そんなことを気にしていたようだ。

僕は趣味全開なアニメの壁紙の貼り付けられたホーム画面を見せた。

すると、湊月はまた不機嫌そうに顔を歪める。

 

「言っておくが湊月、趣味についてとやかく言われる筋合いはないからな」

 

もし、オタク趣味が嫌なら、別れてもらう他ない。

だが、湊月はそうではないようで首を横に振って否定した。

そうではないなら、なんだと言うのか。

 

「それは別にいいんだ。そういうところも全部好きだし。……そうじゃなくて、やっぱり恋人なんだからその……壁紙を……」

 

しかし、話題は壁紙から離れない。

歯切れの悪い湊月に代わって、緋奈が割って入った。

 

「つまり湊月はこう言ってるのよ。私の写真を使って欲しいって」

 

「嫌だ」

 

「即答!?」

 

きっぱりと断ったら、悲しそうな顔をして湊月が見てくる。

緋奈からは批難がましい視線を頂くことになった。

 

「揶揄われるから面倒くさい」

 

「誰に?」

 

「友人A、B」

 

理由はただ一つ。僕の知り合いがこういった事に関しては口煩いので漬け込まれるような隙を作りたくないのが本音だ。スマホの画面を恋人の写真にしてみろ、絶対に揶揄われる未来が見える。

 

「あんた友達いたの?」

 

「おまえ僕をなんだと思ってたんだ?」

 

普段、一人でいることが多いからか緋奈には友達がいない可哀想なやつだと思われていたらしい。心外と言いたいところだが、友達の数はそれほど多くないのであまり大きく否定はできない。

 

「男か?女か?」

 

湊月にとって大切なのはその部分なようで、真剣な眼差しで問いただそうとする。

 

「男だよ。女友達なんて、緋奈と湊月……と、あとはもう一人いたくらいだ」

 

転校してからも殆ど友達は出来なかったし、女子とまともな会話をしたのもある時期が最後で、思春期か何かそれが最後でまともに女子には話しかけていない。

振り返ってみれば、小学生の頃の僕はとんだプレイボーイだ。

ある意味、これは前科ありと判断すべきだろうか。

 

「そんなに疑うなら確認してみるか?」

 

「どうやって?」

 

「隣のクラスにいるぞ」

 

小中と付き合いのある友人の一人や二人いるが、その中でも同じ学校に進学したのは一人だけだ。あとは散り散りで好きな道に進んでいるため、容易には会うことはないが、それでも一人くらいなら都合がつく。

 

「面白そうねそれ」

 

そうして、隣のクラスの友人に会いにいくことが決まった。

 

 

 

 

 

 

弁当箱を片付けた僕達は隣のクラスに移動する。入口から見知った顔を探すと、目的の人物は机で眠りこけていた。食後の睡眠に興じているところ悪いが僕は叩き起こした。

 

「起きろ、新田」

 

「む……あれ、カッキーじゃんどうしたの」

 

「カッキー……」「カッキーだって」「カッキー?あぁ、榊原だからか」と背後で変な声が聞こえたが、無視をして寝ぼけ眼で此方を見上げる友人を見下ろす。

起きた友人は上半身を起こして欠伸をしながら、僕の背後にいる二人を見て首を傾げた。

 

「え、なにこれ、どういう状況?どういう集まり?」

 

美少女二人を見て目が覚めたのか、それとも幻の中に囚われたままなのか、首を捻っては困惑した様子で僕達を見比べて……なお納得のいかない表情で説明を求めた。

 

「前に話したろ。“前の”小学校の時の友人だ」

 

そう説明したのは、彼が転校した後に出来た友人だからだ。

 

「え、マジ?隣のクラスの倉橋さんと鹿島さんじゃん。よりにもよってその二人?」

 

奴が驚く理由もわからないわけではない。緋奈と湊月は同学年ならば美人として有名で、知らない者は少ないほど話題の的になっている人物達だ。それに他二人もイケメンだとかなんだとか、話題性のある奴らだ。今更だが僕にあの空気は重い。

 

「友人……友人……友人……」

 

ぞんざいな紹介をしたら、ショックを受けたような反応をして湊月は腕に抱きついてきた。何がお気に召さなかったのかある一部分を訂正する。

 

「圭の彼女です。初めまして」

 

「えぇっ!?じゃあそっちも!?」

 

「おまえは馬鹿か?」

 

湊月の方を仰天した表情で見るや、今度は緋奈に視線を向けた。

 

「ち、違うわよ、あんた頭おかしいんじゃない!?」

 

僕と変な噂を立てられるのが嫌らしい緋奈は全力で否定した。

思いの外、ぐさりとくる言葉だった。

 

「なぁんだ残念。面白い話が聞けると思ったのに」

 

本気でつまらなさそうなのが何より腹が立つ。

 

「取り敢えず、湊月達のことを知ってるなら紹介はいらないよな」

 

溜飲を下げて、話を進めると新田は顔を上げた。二人を見て戯けた感じに自己紹介をする。

 

「ボクは新田幸助。よろしく、倉橋さん、鹿島さん」

 

ひらひらと手を振ってアピールする新田に、緋奈と湊月も挨拶を返す。一通りの紹介が終わったところで改めて本題に移る。新田はのんびりしているが、かなり頭が良いというか、勘がいいというか、キレる人間だ。

 

「それで何しにきたの?」

 

態々、隣のクラスまで来た僕のことを不審に思ったのだろう。新田が疑問に思うのは早かった。

 

「大した理由じゃない。僕の交友関係を知りたいってこいつらがな」

 

此処で“彼女”と言えば、面倒な反応が返ってくる気がした。

 

「早速、浮気を疑われてるんだ」

 

訂正、どう言い繕おうが手遅れだった。

からからと新田は笑う。そして、不思議な表情に。

 

「でも、中学の時の彼女とはまた違ったタイプなんだね」

 

新田の一言にぴたりと空気が凍る。

そう錯覚したのは、息を呑む音が左右から聞こえたからだ。

 

「……待て、圭。中学時代に彼女がいたのか?」

 

「あの子も凄く可愛いかったよね。確か名前は……」

 

僕は何も言ってないのに会話が進んでいく。

止める間も無く、新田はそいつの名を口にした。

 

「佐藤さんだっけ?」

 

……懐かしい名前だ。

 

「えっ、佐藤って……桃華か!?」

 

「あんたら同じ中学だったの!?」

 

驚愕に満ちた甲高い声が鼓膜に響いて、慌てて耳を塞ぐ。と言っても完全に聞こえないわけではなく、ちょうどいい音量になったくらいだが間に合わない奴もいた。新田の耳が御臨終だ。

 

「あれ、知り合い?」

 

「言ったろ。小学校が同じだったって」

 

所々記憶が抜け落ちてるのが新田らしいが、そんな要素は今は要らない。

 

「な、そんなの一言も聞いてないぞ!?」

 

湊月が糾弾するように大声をあげるが、いったい何に関して言及しようとしているのだろうか。こんな場面でも新田は暖気に口を挟む。

 

「佐藤さんからのアタックが激しくて、カッキーが折れる事になったんだよね。最初の告白から一ヶ月後くらいに。最初は面倒臭いとか言ってたのにいつの間にかくっついてるし」

 

「仕方ないだろう。あぁやって付き纏われるのも面倒だったし」

 

一度、振ったのにどうしてか佐藤は諦めなかった。そんなところに絆されたことは覚えている。ただ、その関係も佐藤がまた転校をする事になって解消されてしまったが。

 

「け、圭は桃華のこと好きだったのか?」

 

「さてな。僕にもよくわからん」

 

好きか嫌いかはともかく、悪い奴じゃなかったのは確かだ。

 



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倉橋緋奈の災難

緋奈視点。前編。


 

 

 

衣替えの季節に予報外れの雨が降り始めた。

 

「はあ、最悪……」

 

学校の帰り道、一人で立ち寄った喫茶店で外を眺めていたあたしはそう呟く。

いつも一緒に登下校していた湊月は最近出来た恋人にぞっこんで今頃、相合い傘でもしながら帰路に着いている頃だろう。榊原圭は折り畳み傘の一つも持って来ていないと言っていたし、あたしもそうだ。

喫茶店に立ち寄ったのも雨宿りのためで、一人ならこんなところには来ないし、いつもなら湊月と行動している。その幼馴染が恋人と下校デートなのだからあたしがおひとり様なのは当然の摂理だ。

 

「全然やまないなぁ……」

 

降り始めて三十分ほど、様子を見ていたが片手間にスマホを弄るのも飽きてしまい、愚痴っぽく呟けば誰かがカップを置いた音に掻き消されてしまった。

カップの中の珈琲も空になって、更にもう一杯という気分にもならず、通りにある店を眺めた。すると中学の頃に通っていたゲームセンターが目に入った。

 

「久しぶりに行くかな」

 

思い立ったら吉日とは言わないが、無駄に時間を潰していても暇なので伝票を持って立ち上がり、レジで会計を済ませると店を出て、反対側にあったゲームセンターに足を運ぶ。

 

店内に入ると騒音が耳を劈く。

思わず、耳を塞いでしまった。

 

「うわっ、音やば!」

 

相変わらず、騒音の酷いゲームセンターの中を見回す。目的はないけど適当に歩いて何かを探した。クレーンゲームのプライズ商品を物色していると可愛いぬいぐるみが目に入った。不機嫌そうな目つきの黒猫のぬいぐるみだ。

 

「んー、久しぶりだし取れるかな?」

 

両替機を探して、千円札を一枚両替する。小銭を握り締めて目当ての台に行って迷わず五百円を突っ込んだ。五百円を入れるとワンプレイ追加されるのだ。まぁ、上手い人には必要ないのだろうが。

 

「んー、そこそこ取れそうなんだけど」

 

ボタンを押して操作するとアームが商品を掴む。そのまま持ち上げる動作に入った。しかし、途中まで持ち上がったものの右のアームが弱いようで右側から商品が落ちる。

 

「……お、取れた」

 

それからなんとか五百円以内に商品を落として、景品をゲットした。取り出し口から景品を受け取って、ぬいぐるみを正面から見つめていると何故か既視感があることに気づく。

 

「誰かに似ているような……あぁ、榊原か」

 

この仏頂面、まさしく湊月の彼だ。

太々しくて、目付き悪いのが、特に似ている。

あれはまぁ可愛くないけど。

そんな黒猫のぬいぐるみを鞄にしまって、新たな標的を探した。

 

「さて、次は何にしようかな」

 

クレーンゲームは泥沼だし、取れたのも奇跡みたいなものだ。クレーンゲームのコーナーから離れて音楽系のゲームが置いてあるコーナーに移動する。中学時代にやっていたダンスの筐体とか、リズム系のゲームとか、最新バージョンが沢山出ていた。受験の際に離れてから一度も来ていないため、目新しいものもある。

その日のあたしは身体を動かしたい気分だったから、ダンスの筐体に向かった。百円を入れて最近流行りの音楽を選択して、難易度はハードくらいを選択する。

 

曲が始まると画面に合わせてステップを踏み、のってきたら上半身も動かす。ウォーミングアップとしてはまずまずかミスはないものの無難には踊れたと思う。

 

「次はもっと激しいのいってみようかな」

 

過去作からもある好きな曲の譜面を選んで、難易度は最高のやつを選んだ。曲の始まりからアップテンポで激しく、考えていたら追いつかない身体も、画面を見るより先に動き出す。

 

「〜〜〜♪♪」

 

鼻歌を口遊みながら、最後まで踊りきると結果はパーフェクト。我ながら体は覚えているものだ。その結果に満足しながら筐体から退こうとすると、背後には沢山の人集りが出来ていた。

同じ筐体をプレイするために並んでいたのか、ギャラリーか、あたしは気恥ずかしくなって逃げるように群衆を掻き分けて筐体から離れる。するとその先には見知った顔がいた。

 

「あれ?泉と西宮?」

 

銃で敵を撃つアクションゲーム筐体の前、無表情で敵を倒しまくる泉と、苦笑いで銃を構えている西宮がいたのだ。西宮の方があたしに気づいて銃を下ろす。あ、残機一つ減った。

 

「倉橋?君がこんなところに来るなんて珍しいな」

 

「まーね。まぁ、中学の頃はバリバリ通ってたけど。受験の時にやめちゃったからさ」

 

「あぁ、なるほど」

 

「そっちは何してんの?」

 

そう聞いたら、視線で泉を示された。

がむしゃらに銃を乱射している泉をだ。

 

「見ての通り、告白するまでもなく失恋した馬鹿のストレス発散に付き合っているところだ」

 

「……それはご愁傷様」

 

返す言葉がなくてあたしは心のこもっていない言葉を投げ掛けた。あたしは湊月の恋を応援していたから、泉にとってあたしは敵も同然で同情なんてして欲しくないだろう。その役目は西宮がいるわけだし。

 

「おら死ねヤァー!おっしボス撃破ぁ!」

 

ゲームの方もひと段落がついたのか、ちょうど巨大な敵のライフを削りきるところだった。終わったところであたしがいることに気づいたのか、顔が此方に向く。

 

「……あれ?倉橋ちゃん?」

 

今更あたしに気づいたみたいで、呆けた顔をしていた。

直後にキョロキョロと辺りを見回して、誰かを探すような仕草をする。

 

「湊月ならいないわよ。榊原とデート」

 

「ぐふっ!?」

 

「おい、わざわざ傷口に塩を塗らなくてもいいだろう!?」

 

「こういうのはっきり言った方がいいのよ」

 

追い討ちになろうとも、それで諦めがつくはずだから。

変な気を起こされても困るし。

そう結論づけたところで、自販機で飲み物を買って、適当な椅子に座る。

何故か、流れであたしも長居することになった。

 

「……オレさ、野球部でレギュラーになって、甲子園に出場して、優勝して鹿島ちゃんに告白するつもりだったんだ」

 

突然、長くなりそうな人生設計が泉の口から語られて、あたしの頬が引き攣る。

そういうシチュエーションはよくある話だが、まさか実行に移そうとする奴がいるとは思わなかった。

泉は意気消沈した様子で、しかしその瞳には多少の嫉妬を宿している。

哀しげな雰囲気で缶ジュースを持って、プルタブを見つめていた。

 

「それがいつの間にか二人が急接近しててさ。……ちょっと鹿島ちゃんの覚悟ってやつを甘くみてたわ。榊原君は何もしないと思ってたんだよね。まさか、鹿島ちゃんの方からアプローチするのは想定外というか……」

 

後悔するかのように、泉はポツポツと吐露していく。しかし、心には未だ整理のついていない何かがあって、言葉にするのもどうにかといった雰囲気だ。

 

「でも、知ってたでしょ。湊月の初恋の相手が誰かくらい」

 

あたしは忠告した筈だった。湊月には好きな人がいるから諦めなさいと。中学の頃にそう言って泉を突き放そうとしたことがある。それでも諦めずに突っかかってきたのが、この泉だ。結果はこの様で目も当てられない状況だが、流石にその恋が実ったとあってはどうしようもないのかもしれない。

 

「……告白しておけばよかったかな」

 

後悔を口にして、泉はなんとも言えない表情をした。

その言葉が、どうにもあたしの耳に残った。

 

 

 

 

 

 

まだストレス発散を続ける二人と別れてあたしは一人帰路を歩く。曇天のままだが、雨は一度上がって今が家に帰るチャンスだった。

 

「告白しておけばよかった、か……」

 

残響する泉の言葉は妙にあたしの耳にこびりついたままで、凄く気になる言葉だった。心に響くようで、でも何処か他人事な、そんな感じで胸を擽るのだ。意味がわからない。

 

「余計なこと考えてないでさっさと帰ろ」

 

また、ポツポツと雨が降り始める。

小雨が薄いシャツに染み渡って肌寒かった。

急ごうと曲がり角を曲がった時、ふと誰かにぶつかりそうになった。

咄嗟に避けてぶつかることはなかったものの、相手もびっくりしたように此方を見た。

……柄の悪そうな三人の男だ。

 

「っと、危ねぇなどこ見て歩いて……おぉ?」

 

怒鳴り散らすその最中、あたしを睨みつけた男達の表情が変わる。ニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべて、足の先から頭の先まで品定めするように順繰りに見られていく。その視線を一言で表すなら『気持ち悪い』で、生理的な悪寒がしてぎゅっと身体を隠すように搔き抱く。

 

「すげぇ上玉じゃね?」

 

「いや、切り替え早すぎでしょ。窪っち」

 

「実際、やばいって」

 

こういう輩とは関わりあいたくはない。

あたしは一度頭を下げて、横を通り抜けようとした。

 

「ちょっと待てよ」

 

「今暇?暇なら少し雨宿りしていかない?」

 

「可愛いねー、彼氏いるの?」

 

しかし、逃げようとしたあたしの進路を塞ぐように彼らは動く。

こういう輩があたしは嫌いだ。

 

「急いでるんで」

 

「そう言わずにさー」

 

雨が冷たくて、不満が焦燥感と不安に繋がる。

嫌悪感もちょっとした恐怖に変わって、あたしは震える声で叫んだ。

 

「邪魔だって言ってるでしょ!」

 

どうにか切り抜けなければ、という思いで振り絞った声だが思いの外小さかった。今にも竦んでしまいそうな足を動かして必死に逃げようとしたけれど、横を通り抜ける寸前で腕を掴まれた。

 

「は、離して!」

 

「いいじゃんちょっとくらい。君、隣のクラスの子でしょ」

 

ふと、彼らの姿に注視してみれば、あたしと同じ学校の男子制服が目に入る。だけど、あたしは相手のことなんて知らない。顔に見覚えはあるかもしれないが知らない生徒達だ。

 

「な、なによ。別に関係ないでしょ」

 

「同じ学校の生徒だろ。少しくらい会話してくれてもいいじゃない」

 

雨に濡れて最悪な気分がさらに最悪な気分に。

あたしは早く帰りたいのに、それを彼らは許さない。

 

「話すことなんてないんで」

 

ばっさりと切り捨てて手を振り解こうとしたけれど、男性の力に女のあたしの力じゃ敵うはずもなくて、余計な体力ばかりが奪われていく。必死に抵抗するも拘束から抜け出せなくて、あたしは頭が真っ白になった。

 

「離してよ!」

 

怖くて、泣きそうで、必死にもがく。

そんなあたしの様子を見て、何が楽しいのか奴らは笑っていた。

あたしは全然楽しくもない。

 

誰か助けて–––。

 

そう願った時だった。

 

「あれ、倉橋ちゃんまだこんなとこにいたの?」

 

「……おまえら、隣のクラスの有名な札付き」

 

雨の中、傘も差さないで泉と西宮の二人が路地を歩いて来た。

途端、状況を見るや怖い顔だ。

 

「隣のクラスの窪田だっけ。倉橋ちゃんに何してんの?」

 

「事と場合によっては裁き倒すぞ」

 

ピリピリとした一触即発の状況に、二人が吐き捨てるように言う。

 

「何って口説いてんだよ。邪魔すんなよな」

 

「喧嘩なら買うぞ?」

 

「上等だやってやるよ」

 

「気をつけた方がいいぜ泉、窪っちは女に振られて手がつけられないくらい機嫌悪いから」

 

「それはこっちの台詞だ。今、泉は失恋中で機嫌が悪いからな」

 

何故か、本人ではなく外野の二人が競い始めた。

一触即発の雰囲気が、衝突寸前になる。

あたしは二人を止めようと手を伸ばしたけれど、それは遅かった。

もう既に泉の頬に拳が突き刺さっていたのだ。

 

「おらどうした弱えなおい!」

 

三対二の喧嘩は、ものの数秒で決着がついた。

泉と西宮が蹲って、腹を抑えている。

 

「ちょっとあんたら何しに来たのよ!?」

 

「咄嗟に出ちゃったけど……よく考えたらオレら喧嘩強くなかったわ。ってか、無理じゃね?人数的に」

 

「くっ……痛っ!」

 

二、三発でKOした二人はそんなセリフを吐いて、膝をついた。

 

「あーもう馬鹿なんだから」

 

傷ついた二人の側に駆け寄って怪我を見る。

大したことはない、ただの打撲だ。

でも、こんな二人に心を救われたのも事実で。

拭えない不安が別の何かで塗り固められた。

 

「俺に歯向かうからこうなるんだよ」

 

蹲っている二人の頭を小突くように軽く蹴って、窪田って不良は嘲笑っている。そんな姿をあたしは見ていることしか出来ない。足が竦んで動けなかった。

 

「や、やめてよ……」

 

やっとのことで絞り出した声も届かない。

あたしのせいで誰かが傷つくのは嫌だ。

それすらも、はっきりとは口に出来なくて。

 

「聞こえねぇなぁ。許して欲しいなら誠心誠意お願いしてみろよ」

 

威圧する声にまた、あたしは萎縮する。

 

「やめてよ……二人は関係ないでしょ」

 

小さいながらも紡いだ言葉は頼りなく、雨に溶ける。

小雨にすら負けるような声で、情けなさに涙が出そうになった。

靴音が鳴る。

また、不良が二人を蹴ったのだろうか。

それよりも硬質な、地面を叩くような音だった。

 

あたしの隣に誰かが立つ。

 

雨が遮られる。

何者かが傘を差しているみたいだ。

その人は一言も喋らないで、ただ立っていた。

不良が不機嫌そうに喉を鳴らす。

 

「あ?おまえも仲間か?」

 

「だったらどうする?」

 

ふと見上げれば、あたしを庇うように立った広い背中が目に入った。

その背中を見ると……どうしてか、安心感が胸を満たす。

普段は頼りなさそうな暗い雰囲気をしている男だが、この時ばかりは妙に頼もしくて、どうにか追い払ってくれるんじゃないかと思った。

あたしを一瞥するとまた視線を戻して、ただ前を見据える。

堂々とした立ち姿に見蕩れていると、いつもの無気力で眠たげな声をあげた。

 

「状況を察するに、無理なナンパでも仕掛けたのか?他人の意思を尊重しない行為は脅迫だぞ」

 

いったい何処から見ていたのかそう宣告すると、あたしに傘を手渡した。荷物も全部押し付けるように預けられて咄嗟に受け取ったものの圭が何をするつもりなのかあたしには全く予想も出来なかった。

 

「なんだとこの野郎」

 

今度は三人の不良が圭を囲む。

 

「……おっと、悪いが暴力は無しにしよう。喧嘩は苦手なんだ」

 

圭は感情の篭っていない声で、そう告げた。



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倉橋緋奈の災難2

 

 

 

圭を囲んだ三人の不良達、その不良のリーダー格である窪田という男は圭の胸ぐらを掴みあげる。

 

「皺になるだろ。離せよ」

 

対して、圭は意にも介していない様子で逆に不良の腕を掴んだ。指を一本ずつ剥がすと腕を解かせ、離れるやすぐに自分も腕を離す。不機嫌そうに服装を正す彼を見て、不良達は更に怒りを募らせた。

 

「この野郎……なめやがって……!」

 

「おまえ達がどう受け取るかは知らんが、バカにしたつもりはない。相手にする気もないが」

 

相手にするだけ無駄だとでも言うかのように溜息を吐き、ぼやくと面倒臭そうな顔。代わり映えのしない表情が更に怒りを募らせる要因になっていることをわかっていないのか、それともわかっていて直す気がないのか態度は変わらず一歩も退こうとしない。

 

「上等だその喧嘩買ってやるよ!オラァ!」

 

そんな態度を続ける圭に対して不良のリーダーは切れて拳を振り上げる。

ゴン、とも、ガッ、ともいえない鈍い音を立てて圭の頬を打った。

 

その光景からあたしは思わず目を逸らした。

あいつが傷つくのを見ていられなくて、胸が痛くなって。

 

だけど、あいつは倒れることもせずよろめいて一歩下がると、打たれた頬を触ってぐにぐにと押す。

 

「……気は済んだか?」

 

不良達を睨みつけるように見て、全く意に介していない様子の圭は呆れたように言う。なおも相手にしない。

 

「……っ、だったらその気にさせてやるよ」

 

「やれやれ、面倒な」

 

「くたばれ!」

 

「圭、危ない!」

 

リーダーと対峙してる最中、圭の背後にいた不良が彼に殴りかかる。

あたしの声に振り返った圭の頬に拳が突き刺さった。

 

「っ、……」

 

ちょっとよろめいて頬を摩る。

不機嫌そうに眉を歪めて、眉間に皺を作っていた。

 

「一人に対して三人で喧嘩を売るのは構わないが。おまえ達は一人相手に三人じゃないと戦えないほど腰抜けなのか?」

 

……うわ、凄く不機嫌だ。

 

穏便に済ませようとしていた圭の口調も荒っぽくなり、挑発するような言葉が不良達の神経を逆撫でする。そして、その馬鹿みたいにあからさまな挑発に引っ掛かる馬鹿が一人。

 

「人をどれだけバカにしたら気が済むんだ。いいぜ、おまえらは手を出すなよ!」

 

顔を真っ赤にして、他二人を牽制するや圭に殴りかかってしまった。

 

「オラァ!どうした!威勢がいいのは口だけかぁ!?」

 

一方的に窪田が殴りつけ、それに応じて圭は拳を受け止める。

反撃には出ず、ただひたすら耐えて、堪えて……。

防戦一方で上手く躱し切れない拳や蹴りが打つ。

その度に私の心も軋み、傷ついていくようだった。

 

「もういいよ……やめよ……お願いだから……」

 

あたしなんかのために彼が傷つく必要はない。

そんな思いで溢れた言葉が雨に溶けて消える。

だから、あたしは祈った。

祈りながら、目の前の光景を目に焼き付けた。

 

 

 

–––それは決着するまで永遠に続くかと思われたが、不意に終わりを告げる。

 

 

 

「はぁ…はぁ…くそっ、なんつータフさだよ」

 

一方的に攻撃していたはずの不良が肩で息をしていた。疲れたように肩を下げるそいつを警戒したまま、圭は頬を摩ったり首を揉んだりと身体の調子を確かめるように触れていく。まるで能天気な様子だが、圭の方もボロボロで顔には擦り傷ができていた。

 

「……気は済んだか?」

 

「……テメェ、なんで反撃してきやがらねぇ」

 

「妙な逆恨みされても困るんでな」

 

「……チッ。行くぞ」

 

「え、いいんですか?」

 

「いいから行くぞ」

 

喧嘩にも飽きたのか不良達のリーダーは仲間を連れて去って行く。

残された圭は不良達が視界から消えたのを確認すると、服の泥を払いながら此方に歩いて来た。それも今、喧嘩して来た様子を見せることのない何食わぬ顔で、あたしの前に立つと手を差し出す。

 

「なに水溜まりの中に座り込んでんだ。ほら、立てよ」

 

「あ、ありがと……」

 

あたしが圭の手を握ると、一瞬顔を顰めた。

その僅かな変化をあたしは見逃さない。

 

「ちょっと怪我大丈夫?」

 

「これくらい問題ない。うちの爺さんの拳骨に比べたらまだマシだ」

 

「あんたのおじいちゃんどんな怪力してんのよ」

 

圭に引っ張られて、あたしも立ち上がろうとして……気づく。

 

「あれ……ちょっと待って……立ち上がれない」

 

「……」

 

「あはは……腰が抜けちゃったみたい」

 

「座っているわけにもいかないだろう。文句は言うなよ」

 

一言述べたすぐ後で圭は思い切り手を引くと同時に、あたしの腰を抱いて立ち上がらせた。無理矢理立ち上がらされた状態のあたしはされるがままに圭に抱き着いてしまって、数秒の間フリーズしていた。

熱い。胸が焦がされるように。だけど、それはきっと圭の身体の熱が雨に冷えたあたしの身体に伝播したせいだろう。触れた箇所からあたしの身体は温められて、なんだかそれが嬉しくて。

あたしは彼にしがみついて、一言だけ文句を言った。

 

「馬鹿。……無茶しないでよ」

 

「無理無謀はしていない」

 

それは嘘だ。見るからに頬は傷だらけだし、何度かふらついていることもあった。顔を顰めているのは不機嫌などではなく、痛みを堪えているからなのだろう。

 

「僕のことはいい。それよりもだ」

 

圭の怪我の状態を確認していると鞄を要求される。返すとすぐにファスナーを開いてジャージを取り出した。そして、今度はそのジャージをあたしに押し付けてくる。

 

「羽織るのでもいいから隠せ。透けて見える」

 

「……え?」

 

何が飛び出してくるのかと思えば、圭の言葉を反芻して理解するのに数秒の時を要する。次いで自分の視線を下に下ろせばシャツが透けて下着が見えているのがわかった。

 

「あ、ありがと」

 

傘や鞄を持ってもらってジャージを着るとほのかに彼の匂いがした。

……嫌いではないけれど、酷く悪いことをした気分になる。

 

「匂いが気になっても気にしないでくれると助かるんだが」

 

「か、嗅いでないし。それよりなんであんたがここにいるのよ……湊月は?」

 

慌てて言い繕った先に、親友の事が思い浮かんだ。

すると彼はまた鞄を漁って、ピンクの可愛らしい折り畳み傘を取り出す。

 

「湊月は家に送った。だが、湊月の家にはおまえの母親がいてな。傘持って行ってないだろうから見つけたら渡してくれと押し付けられた」

 

駅から家まであたしと湊月が通る道は当然、圭も知っているわけで可能性ならある。けれど、それはいつも通りの道を歩いていたならの話で今日みたいなのは例外だ。寄り道が多くて、普段の道からは少し逸れている。

 

「態々探してくれたんだ」

 

「偶然見つけただけだ」

 

誤魔化すように圭は「さて」と言って、他二人に目を向ける。

 

「おまえらも無事みたいだな」

 

「あー、なんとか……無事っぽい」

 

「気分は最悪だがな」

 

「ならいい。さっさと帰れ」

 

「いや、また倉橋ちゃんが襲われるかもしれないし……此処は誰かが送って行った方がいいと思うんだけど」

 

「同感だな」

 

泉の提案に西宮が同意する。

しかし、あたしにも予想外の一言が圭の口から放たれた。

 

「僕が家まで送るから問題はない」

 

「なら……」

 

「いや、榊原。おまえはボロボロなんだし軽傷な俺に任せてくれ」

 

納得しかけた泉を制して、西宮がそう提案した。だが、そう言われることも想定内だったのか圭は数秒の沈黙を経て、呆れたように二人にダメ出しする。

 

「一瞬でボコボコにされてた奴が何言ってやがる」

 

「ぐっ!」

 

「……いや、オレら頑張ったよな。倉橋ちゃん」

 

「んー、まぁ……それなりには」

 

はっきりと「圭の方が安心だ」とは言えなかった。感謝しているのは本当だ。

 

「というか何時から観てたんだよ榊原君」

 

「緋奈があの不良どもに絡まれて……すぐだな。おまえ達が割り込むのも見ていた」

 

どうやらだいぶ最初から見ていたらしい。それなら早く助けて欲しかった。と、贅沢は言わないけれど、不必要な犠牲は出なかったと思う。

 

「で、いいとこだけ持って行ったと」

 

「先におまえ達が助けに入って、おまえ達が解決するかと思って見ていたんだよ。まさか一分ももたずにやられるとは思ってもみなかったけど」

 

「それを言われると痛い」

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、本当に大丈夫?」

 

雨の中を二人並んで歩きあたしの家まで帰って来た。別れる前にどうしても気になってしまったのが彼の怪我だ。榊原はなんともなさそうにしているが、道中でふらついていることがあった。

 

「大丈夫だ。これくらいなんともない」

 

「大丈夫」「平気」「問題ない」のような言葉は彼の常套句だ。それにおそらく家に帰っても傷の処置すらしないのだろう。そんな未来が見えてしまい、あたしは圭の腕を掴んだ。

 

「家に帰ったらちゃんと傷の手当てする?」

 

「……あぁ」

 

「絆創膏も消毒液も何処にあるかわかる?」

 

「……多分」

 

妙に歯切れの悪い返しにあたしは確信した。

 

「傷の手当てする気ないでしょ」

 

「しなくても問題はないだろう」

 

問い詰めると開き直って圭はそう言った。そんな彼の腕を更に強く握ると顔を顰める。どうやら打撲のある箇所みたいだ。ちょっと反省しながら、代わりに腕を絡めた。

 

「怪我の手当てするから寄って行きなさい」

 

「……断る」

 

「ダメ。逃がさないから」

 

有無を言わさず無理矢理手を引くとあっさりと釣れた。渋々といった表情で玄関に連れ込まれた圭はリードに繋がれた犬みたいにあたしの後をついて二階へと上がる。あたしの部屋に通すと懐かしそうにキョロキョロと辺りを見回した。

 

「相変わらず、少女趣味な部屋だな」

 

本棚には漫画が並び、ベッドにはぬいぐるみが置いてある。勉強机にも小さなぬいぐるみが飾ってあり、多少の変更はあるものの幼い頃に来た時とほぼ同じのはずだ。

 

「適当に座ってて」

 

圭にそう勧めながらあたしはクローゼットを開ける。中には服が掛けられているが、用があるのはその下にある救急箱だ。持ち出すとベッドの上に置く。

 

「ほら、ここ座って」

 

ベッドに座って隣を指定すると、やや緊張した様子で圭も座った。その仏頂面にあたしは脱脂綿に消毒液を垂らしてピンセットで掴むとゆっくりと当てていく。時折、染みる消毒液に顔を顰めて不機嫌そうに呻く。

 

「はい、終わったわよ」

 

あとは絆創膏を貼って終了。数分経たずに終わってしまった。

 

「そうか。なら、僕は帰るぞ」

 

「うん。また明日ね」

 

立ち上がる圭はすぐに部屋を出て行く。

パタン、と閉められた扉を見ながらなんだか寂しい気持ちになる。

なんでだろう。

あいつともう少し一緒にいたかったのだろうか。

それとも、他人行儀なあいつの態度が気になるとか。

考えても分からず、あたしは冷たい身体を震わせた。

 

「取り敢えず、あたしも着替えよ」

 

雨に濡れたシャツが張り付いて酷く肌寒い。借りたジャージを脱ぎ、肌に張り付いたシャツを手早く剥がす。悪戦苦闘しながら脱ぐとスカートも下ろして下着のみを残した。

 

「うぅ、下着も濡れてるし最悪……もういっそ着替える前にお風呂入ろうかな」

 

そうと決まれば話は早い。

服を用意しようと部屋を見回した時、不意に気付く。

 

「あれ、あの鞄……」

 

部屋には見慣れない鞄が一つ増えている。見慣れないというのは自分のものの中でという意味で正しくはない。しかし、最近見た鞄なのもまた事実なのだ。

 

「あ、これ、榊原の……」

 

誰の鞄か理解した時、ガチャッとドアノブを回す音がした。

その音に反射的に振り向くと扉から半身を覗かせた榊原圭がいた。

 

「鞄を忘れて取りに来たんだが……出直した方が良さそうだな」

 

「今すぐ帰れバカーーッ!!!!」

 

彼の鞄を掴むと、思いっきりそれを顔面に投げつけた。

 



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夏季休暇の予定

 

 

 

夏季休暇前、最後のテスト結果が掲示板に張り出された。上位五十名までの成績優秀者の順位と名前、そして合計点数が書かれている。今のところは僕には関係のないものなのでスルーしていた。そして、問題はその隣にある。A4サイズの小さな紙のタイトルにはこう書かれていた。

 

『補習・追試対象者』

 

そこに名を連ねるのは約五名ほどの赤点を取った者達。今回は平均点が高かったらしく赤点のラインも繰り上げられており、普段の赤点のラインを下回ったものは容赦なく呼び出される。そしてもう一つ条件があるとすれば、教師が設置した簡単な罠のような問題を解けなかった者達は点数が高くても例外として補習対象者となってしまうのだ。

 

念のための確認をすれば自分の名前は見当たらない。しかし、見知った名前を見つけてしまった。

『泉健吾』の名前が載っていたのである。赤点のラインは回避したと喜んでいたが、簡単な問題に引っ掛かってしまった男の命運は夏季休暇が削られることとなった。

そうして時間を潰している僕のところに、湊月と緋奈の二人が戻ってくる。

僕は彼女達の付き添いで廊下に出て来たのだ。

 

「何見てんの榊原?」

 

「補習対象者の連絡。一応、念のためな」

 

補習があると夏季休暇が潰れる。そのため少し全力を出さなければならなかったのだが、それは杞憂に終わったようだ。あってもサボるつもりだったが。しかし、僕の返答に湊月は首を傾げる。

 

「圭が補習対象者なはずないじゃないか。赤点のラインだって余裕で超えてるし」

 

「それにあんたも上位五十名の中じゃない。端っこの方だけど」

 

掲示板の学年順位表を見てみれば、ギリギリ四十九位に名前が挙がっていた。しかし、上位五十名といえど学年には二百名ほどしかいないので順位が良いとはいえないわけだ。

 

「じゃあ、おまえらは何位だったんだ?」

 

「あたしは八位」

 

「ふふっ、私は十五位だ」

 

緋奈が八位、湊月が十五位。これを聞いて四十九位で威張れる奴がいるのなら見てみたいものだ。

 

「……それで圭、あの約束は……?」

 

妙に得意げだった湊月がもじもじとしながら僕に催促する。

『約束』といえば浮かんだのはテスト期間に入る前のことだ。もし湊月が期末テストで二十位以内に入ったら『なんでもいうことを一つ叶える』という賭けをしたのだ。

当然、受けるメリットなんて無かったのだが、適当に流した結果がこれだ。

因果応報とはまさにこのことである。

 

「……いったい僕に何をさせる気だ?」

 

「その……夏季休暇はずっと一緒にいたいというか……」

 

あまりに普通なお願いに拍子抜けする。とはいえ、そう簡単なことでもない。夏季休暇は絶好の稼ぎ時である。夏季休暇を利用してバイトに励む生徒は多数存在するだろう。僕もその一人だ。

 

「バイト以外の時間帯であれば、好きにしろよ」

 

「と、泊まりに行きたい」

 

「まぁ、別に構わないが……」

 

「毎日でも?」

 

「それは親御さんが許さないだろう」

 

現実問題として許可されないだろう。一日のみならず毎日とくれば娘を送り出す親御さんもいい顔をしない。その前に現実的な問題があったはずなのだが、なんだったか……。

 

「そういえば湊月、あんた外泊禁止にされてるんじゃないの?」

 

緋奈の指摘に空気が凍る。湊月はスーッと顔を逸らした。指で髪先をくるくると弄び必死に言葉を探している。

 

「えっと……その……」

 

「確か、僕が湊月の御両親に会わないと解除されないんだったか」

 

「……うん」

 

「わかった。近いうちに行く」

 

夏季休暇の前から、死刑宣告を受けた気分だった。

 

 

 

夏季休暇の予定は大半が埋まってしまった。一日中、惰眠を謳歌する休日というものも体験してみたかったがバイト以外の殆どの時間を恋人に割くことになってしまったのである。それもそれで一興と諦めてしまっている辺り、もう既に恋人に毒されているのかもしれないが。

 

「問題はバイトにいつ入るかだな」

 

正直に言って働きたくないが、働かなければ金がないというジレンマに悩まされるわけで、働かないという選択肢はない。湊月とのデートも金が入り用で出費も嵩む。

 

「ねぇ、ちょっと……」

 

今後の金策を考えていると横から声が掛かる。

緋奈が顔を寄せて来た。

 

「あんたちゃんと湊月の誕生日覚えてるんでしょうね」

 

こそこそと耳打ちするが耳打ちしたこと自体は湊月の目に入っている。しかし、自分が除け者にされていることが判ったのか近づいてこなかった。

 

「……あぁ、オボエテルヨ」

 

一瞬忘れていたとか言えない。

 

「誕生日プレゼント何あげるの?」

 

「……」

 

困ったことにそれが思い浮かばないのである。恋人に贈る誕生日プレゼントとして適当なものを検索してみたはいいが、そもそも湊月の欲しいものを知らない。

 

「直接聞くか」

 

「少しは考えなさい」

 

サプライズを仕掛けるという行為はあまりにもハードルが高すぎるためそう提案してみたら、緋奈に全力で制止された。腕を掴まれて椅子から立ち上がれない。

 

「なら、選ぶの手伝ってくれないか?」

 

「はぁ……!?」

 

素っ頓狂な叫び声が上がった。

視界の端で、湊月が首を傾げる。

 

「何をそんなに驚いてる?」

 

「……もうわかったわよ。一緒に行けばいいのね」

 

流石に我慢の限界だったのか、湊月が此方に近づいて来ていた。これで話は終わりとばかりに諦めた緋奈が「詳細は後で」と言ったところで湊月が声をかける。

 

「二人で何の話をしていたんだ?」

 

「えっと、ほら、夏だから海とか祭りとかプールとかいいんじゃないかって話してたのよ!」

 

「……僕はあまり外に出たくないんだが」

 

机の下でガンッ、と足を蹴られる。

話を合わせろとのことらしい。

 

「なになに海行くの!?オレも行く!」

 

「当然、参加させてもらおう」

 

外野から話を盗み聞いていた泉と西宮まで話に加わる。

段々と話が大きくなり、もう後にも退けない状態になった。

何より厄介なのは、湊月本人がいい笑顔ということ。

もう既に緋奈と水着を買いに行く話をしている。

 

「……そうだ。先輩も誘ってみるか」

 

死なば諸共、先輩も道連れにしよう。そう決めた僕は早速、スマホにて連絡を取ると速攻で返信が返って来た。凄く食い気味で「行く!」と一言。

今更ながらに大丈夫か心配になる。

一応、他にも人が来ることは伝えたつもりだが、あの対人弱々の先輩が何処まで耐えられるか……もしかしたらそのことは頭に入っていないかもしれない。

 

「騒がしい夏になりそうだな」

 

諦めたように口に出してみたが、思いの外、嫌でないことに自分でも気づいていた。



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母は強し

 

 

 

夏季休暇前日、一学期最後の登校日。

終業式が終わった直後、僕は湊月の家へと招かれていた。

 

「……気が重いな」

 

目と鼻の先にある湊月の家を見上げてぼやくが今さら逃げるわけにもいかない。既に今日会うことは決定づけられているのだ。正当な理由もなしに此処で逃げれば、次の機会はないだろう。

 

「観念するんだ圭。そして、私の両親を説得してくれ。私の夏休みは圭にかかっているんだから」

 

そんな僕の背中を押して、湊月が玄関のドアを開けてしまった。すぐに靴を脱ぐや僕を先導してリビングへと向かう。ご丁寧にも手は僕を掴んだまま離さないでいた。

 

「お母さん、連れて来たよ」

 

「あらまぁいらっしゃい」

 

リビングに入るとまずキッチンが目に入った。そこにはまだ若々しい湊月の母親らしい女性が立っており、此方の姿を見るやにこやかに反応を返した。

それと比べて、リビングの方からは並々ならぬ殺気のようなものが漂ってくる。発生源は若々しくも優しげな顔を強張らせた仏頂面の男性からだ。おそらくは湊月の父にあたる人だろう。新聞を持ったまま顔を上げようともしない。チラッと視線を寄越したかと思うと、深呼吸なさった。

 

「ほら、二人とも座って座って」

 

鹿島母に促されるまま鹿島父が座るソファーの対面へ。僕の隣に湊月が、鹿島父の隣には鹿島母が座った。できるならこの威圧感を放つ男の前はご勘弁願いたいが、今更動くこともできないだろう。

 

「確か榊原圭くん、よね……?」

 

鹿島母は僕のことを覚えていたのか懐かしげな表情。こんなに大きくなって〜、と言われてもどう反応を返していいのか判らない。というか覚えられていたのがどうにも気恥ずかしい。

 

「ほう、君が榊原圭、か……話は聞いているよ」

 

ここで初めて鹿島父が新聞を置いた。声には凄みが混じっており、気圧されそうになるがなんとか堪える。精神衛生上非常によろしくない状況だ。因みにだが、タイミングが合わず鹿島父と会ったのは今日が初めてだ。小学生の頃には何度も湊月の家に来たのだが、タイミングが悪かったらしい。

 

「彼が私の恋人の……」

 

「榊原圭です。湊月さんとお付き合いさせてもらってます」

 

湊月に紹介されるがまま、漫画で見た定型文で自己紹介をした。改めて名乗ってみたものの初対面は鹿島父だけなので少し異様な光景にも見える。緊張感が三者面談の比ではない。

ついでとばかりに用意していた御菓子を献上し、礼儀正しさをアピールしてみる。礼儀とは……と辞書で索引したいところだがスマホを弄る隙もないのは勿論のこと、身動きひとつ取れない。

そんな僕に距離を詰める湊月はとても上機嫌な様子だ。助け舟はあまり期待できそうにない。

 

「まずは礼を言おう。小学生の頃は本当に娘が世話になったね」

 

「いえ、別に自分のエゴでやったことですから」

 

「とはいえ、それとこれとは話が別だがね」

 

さすが父親、きっちり分別はしてしまうらしい。

感謝の言葉もあっさり流した。

物言わず席を立った鹿島母がお茶の用意をしてくる。

数分ほどで、四つ湯呑みが用意された。

その間、両者の間に会話はない。

 

張り詰めた空気を壊したのは鹿島母だ。

 

「それで二人とも付き合っているのよね。榊原くんはうちの娘の何処を好きになったの?」

 

–––それも最悪な形で。

 

そういう質問がくるのは予想していた。しかし、予想していたのと対策ができるかの問題は別でその問いに対しての答えは未だに出ていないのだ。せめて問題が『気になったところは?』であれば誤魔化しようがあったのだが、僕は極力嘘が吐けないタイプで嘘をでっち上げるのは苦手だったりする。

 

–––誤解のないように言うが苦手なだけだ。

 

むしろ、嘘は得意な方だ。口八丁なら腐るほど出てくる。しかし、僕の性格上嘘は苦手であり、苦手だが得意とは矛盾しているんではなかろうかとも思うが、考えても仕方がない。

 

僕は爆弾を投下する覚悟を持って挑む。

 

「正直、わかりません」

 

「「……えっ?」」

 

当然、湊月の両親は固まった。

ここまで馬鹿正直に答える奴もいないだろう。

僕が親なら殴ってるところだ。

 

「ほう、つまりあれだ。君はうちの娘を弄んでいるというわけかい?」

 

鹿島父は既に殴りかかる数秒前、一歩間違えばボコボコ待ったなしだ。

 

「そういうつもりはありません」

 

しかし、あの発言をした手前もはや修正は不可能。あとは自分の主張を通すしかない。出来れば話の腰を物理的に折る前に全て話し終えたいのだが、沸点を超えないことを祈るばかりだ。

 

「僕にとって湊月さんは大切な存在です。でも、それが恋愛感情なのかまた別のものなのかは自分でも理解できていないんです。だから、無責任なことは言うつもりもありません。正直言って、保証もできません」

 

僕の嫌いなワードが簡単に思いつくだけで三つある。

『綺麗事』『嘘』『裏切り』以上、三つだ。

だから、簡単には嘘になるようなことや綺麗事は吐きたくないのだ。

嘘が吐けないとは不便極まりないが。

 

これから先どうなるかは判らない。湊月のことは恋人であれ友人であれ大切にするつもりだ。それこそ命を賭けたっていいだろう。困っているなら手を差し伸べるし力にだってなろう。僕に出来ることならなんだってやる。そういう覚悟。

 

「自分でも正直、何を言っていいのかわかりませんが……えっと、その……」

 

言葉に詰まる。元から口下手で話すのが苦手な僕はもう既に行き詰まった。あとは結果を見るだけ。すると、先に動いたのはなんと鹿島母。クスクスと笑っている。

 

「正直な良い子ね」

 

「……少々不誠実ではないかい」

 

「あらそう?絶対に幸せにします〜とか言って浮気されるよりはマシだと思うけど」

 

「…………まぁ、そうだね」

 

僕の曖昧な態度を見て複雑そうな心境の鹿島父だったが、妻の一言で折れてしまった。あれには触れてはいけない何かがありそうだ。触らぬ神に祟りなしともいうので、スルーした方がいいだろう。

 

「それで……あの、お父さん、お母さん、お泊まりの件なんだけど……」

 

今まで沈黙を保っていた湊月がお窺いを立てる。

間髪入れずに鹿島母、軽い感じでこう言った。

 

「うん。別にいいんじゃない?あ、でも、二日に一回くらいね。お母さん寂しいから」

 

「……毎日」

 

「それならもう片方の日は榊原くんに来て貰えばいいんじゃない?」

 

「え、本当!?」

 

僕の了承も得ずに話が勝手に進行していく。

湊月が毎日来るのはともかくとして、それは流石に僕が嫌だ。

 

「湊月、それはさすがに……」

 

「つまり君はうちの娘と一緒にいたくないということかね」

 

賛成派なのか反対派なのか湊月の親父さん、面倒臭い手のひら返しをなさる。

 

「あら遠慮しなくていいのよ?いつも通りイチャイチャしてくれれば」

 

鹿島母はお茶を一口、微笑ましそうな顔で湊月を一瞥し、見たいと言わんばかりだ。むしろそれが目的ではなかろうかと言わんばかりの笑顔にたじろぐ。

 

……もうやだ帰りたい。

 

 

 

 

 

 

「疲れた……」

 

昼食後、一時的避難先として湊月の部屋に逃げるとベッドを背もたれに座り込む。僕の隣では何食わぬ顔で座り、人目がなくなって抱きついてくる湊月がいた。

こっちは我慢の限界だったようで、腕を組みべったりとくっついている。

 

「これで夏休み中はずっと一緒だな」

 

「そうだな」

 

決して嫌なわけではないが、諦めたように呟いた。

 

「だけど、僕は二日に一回は泊まりに来ないからな」

 

「えっ……?」

 

無慈悲な宣告をするとさっきまでの幸せそうな表情とは一転、哀しそうな表情。湊月は俯き、

 

「やだ」

 

駄々を捏ねた。

子供のように拗ねているところを見るに、本気だったらしい。

 

「湊月さん湊月さん社交辞令って知ってる?」

 

さすがに毎日泊まって行っていいとか本気で言う親はいないだろう。うちの両親がおかしいだけで。

 

「圭はそんなに私の家に泊まるのが嫌か?」

 

「まぁ、落ち着かないからな」

 

子供の頃ならばいざ知らず、今の僕に異性の家はハードルが高過ぎる。

 

「そういえば湊月の部屋に入るのは初めてじゃないか?」

 

改めて湊月の部屋を観察してみる。窓際にベッドが置かれ、壁の方には勉強机が一つ、クローゼットという簡素な部屋だが、全体的に壁紙からピンクでコーディネートされており女の子らしい部屋、というのが最初に得た感想だ。

 

「……私が一番じゃないんだ。誰の部屋に入ったんだ」

 

「最初に入ったのは緋奈の部屋だったな」

 

小学生の頃、よく入り浸っていたのは覚えている。

思えばあれが初めて異性の部屋に入った瞬間であった。

当時の僕に男女の性差などあるはずもなく、無神経なところが目立っていたように思う。

振り返ってみれば、子供の頃の僕の神経はなんと図太いことか。

 

「私は二番目の女なんだな」

 

拗ね始めた湊月は腕のホールドを解いて、甘えるように抱きついて来た。それを優しく受け止めて抱き締めると彼女は嬉しそうにくぐもった声を漏らす。

本気で拗ねてはいなかったのだろうが、あまりの扱い易さに心配になって来た。

 

「圭から抱きしめてくれるなんて珍しいな」

 

嬉しそうに微笑み手を回して来たところで、顔が近くなり直視できなくなる。肩越しに背景を見て無心を貫いているとドアの隙間から覗く目が二つ。ニヤニヤと笑って、鹿島母がドアをゆっくりと閉めた。

「どうぞごゆっくり」と幻聴が聞こえたところで、僕は全てを見なかったことにしたのだった。

 

–––今日のことは全て忘れよう。

 

 



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夏のバイト

 

 

 

「あ、そうだ一つ忘れてたよ榊原君。明日、新しいバイトが来るから教育よろしく」

 

夏季休暇のバイト初日、帰ろうとした僕にマスターは思い出したように告げた。この時期、珍しいことではないが厄介な案件が回って来たことに嘆息して、『何故僕が……』という言葉を飲み込む。

 

「わかりました」

 

「この時期、少し忙しくなるからね。私としては大助かりだよ」

 

夏季休暇の間、バイトに励む学生というのはそう珍しくはない。そして、休みとなれば客も増えるのは道理であり、店側が人手を求めるのもまた道理、学生もまたバイトを求める。需要と供給が完全に一致した効果と言っても過言ではないだろう。客が増えるのも、バイトが増えるのも、店にとっては嬉しいことだろう。

 

何故か、僕に新人教育という仕事が回って来たことだけが解せないが。

 

「何をやらせるつもりなんですか?」

 

「基本、レジと注文の受付と清掃。榊原君くらい珈琲を淹れるのが上手ければそっちも任せるんだけどね。まだ新人だから技能を見て判断するよ」

 

そうなると僕が教えるのはホールでの仕事か。

 

「わかりました。では、お先に失礼します」

 

明日からのバイトが憂鬱になり、今日は早く帰って寝ることを決意した。

明日は湊月が泊まりに来るのだ。

 

 

 

 

 

 

翌日、出勤して掃除して開店の準備を行う。倉庫にある豆を出したりと暑い中、仕事をいつも通りにこなしていればマスターに呼び止められた。掃除していた手がピタリと止まる。

 

「榊原君、働き者なのはいいけどね。一つ忘れてないかい?」

 

「……タイムカード押し忘れました?」

 

「いや、そういうことではなく」

 

忘れていることは何もないはずだ。掃除してるし、在庫の確認も行ったし、材料が切れているわけでもないし、この店だってマスターの個人経営で趣味の延長線上にあるようなもので……。と、余計な情報まで思い出したが自分に落ち度が見当たらない。疑問顔で呆けている僕を見てマスターは言うのだ。

 

「ほら、新しいバイトが来るって昨日説明しただろう。二人」

 

『二人』というのは初耳だが、確かにそれは覚えている。その新人教育を何故かバイト歴三ヶ月ほどの僕が教えないといけないという異例の事態が発生しているのだ。忘れるわけがない。というか忘れたかった。

ただそんな経験の浅い僕が新人に教えなければいけない理由は、従業員が少ないからなのだが……実際のところ僕とマスターとあと一人の大学生で成り立っているのだ。しかも、大学生の先輩は基本、出勤時間が合わないので今日もいない。必然的に僕が教えなければいけないらしい。

 

「もちろん覚えてますよ。二人なのは初耳ですが」

 

「じゃあ、なおさら一人で掃除するのはダメじゃないか。教えてもらわないといけないんだし」

 

「あ……」

 

覚えていたが、教えるべき仕事を片付けてしまうという痛恨のミス。だがやってしまったものは仕方ない。諦めて次に実践して覚えさせることにする。

 

「まぁ、やってしまったものは仕方がない。そろそろ彼女達も着替えが終わった頃だろう。噂をすれば、ほら」

 

マスターの言う通り、奥の方からは姦しい女性の声が二人分。何やら聞き覚えがありそうな声に首を傾げていると、奥から出て来た女性二人と目が合う。–––そして、その顔を見て驚いた。

 

「へー、あんたでも驚くことあるんだ」

 

なんと一人は緋奈だったのだ。思わず表情が崩れてしまったのは情けないが、いきなり知人がバイトで来るのだから驚くと思う。さらに驚くべきはその緋奈の後ろに隠れている彼女。

 

「ほら、湊月もあたしの背中に隠れてないで前に出る。可愛いんだから」

 

「でも……」

 

「そういうの聞き飽きたから」

 

湊月までここにいるのだ。いったい何の冗談かと思えば、二人は黒と白のクラシカルな落ち着いた感じのメイド姿である。特に制服の類は決められていなかったはずだが、マスターの趣味でもないはず……。

 

「言いたいことはわかる。私の趣味じゃないよ。どんな服を着たいか聞いたら、これがいいって言うもんだからちょっと知り合いに貰って来ただけだよ」

 

疑いの目でマスターを見てみれば、メイド服は彼の趣味ではないらしい。初老の男が女子高生にメイド服を着せたとあれば事件性ありと判断していたがそんなことはなかったようだ。

 

「その……どうだ、圭」

 

気がつけば目と鼻の先に湊月がいる。メイド服をひらひらと翻し華麗にターンを決めて一回転、全身を隈なく見せると照れたように微笑むものだから、つい見惚れてしまった。

 

「……あぁ、二人とも似合ってるぞ」

 

再起動を果たして、誤魔化すように二人とも褒めておく。すると不意打ちを喰らった緋奈がクーラーが効いた店内で暑くもないのに顔を真っ赤にしていた。

 

「ん。いや待て、そうじゃない。何で二人ともここにいるんだ?」

 

「バイトよ文句ある!?」

 

「何でお前はキレてんだよ」

 

緋奈のキレのいい切り返しに店内の温度が僅か一度上昇した気がしたが、あいにくと面倒な返しに構ってやる余裕はない。そんな緋奈を放置して湊月が言う。

 

「偶然だ」

 

とても白々しく、清々しいほどの嘘だ。

 

「マスターどうしてこの二人を採用したんですか」

 

「いやぁ、君と一緒に働きたいというからね。老骨が若い者の熱気に当てられたのさ」

 

このドッキリにはマスターも一枚噛んでいたようだ。

 

「縁故採用っていうやつですか」

 

「若人の背中を押すのも立派な老人の務めだよ」

 

物は言いようである。

 

 

 

それから一週間、僕のシフトに二人がいないことはなかった。しかし、湊月の思惑がどうであれ僕は真面目に仕事を片付けていく。彼女が構って欲しそうに此方を見てくるが全力で無視。鋼の意志を貫いた。すると彼女は構って欲しくて勤務中にもイチャイチャしようとしてくるので、ペシっとデコピンで停止させる。凄く泣きそうな顔だ。

 

「……なんか思ってたのと違う」

 

休憩時間にぐったりとした様子で机に突っ伏する湊月、それを見て同情めいた視線を送る緋奈、そして非難がましい視線が僕に炸裂するのはもはやいつもの光景と言っていいだろう。

休憩室で三十分の昼休憩、ぼやいた湊月はむくれていた。

 

「あんた流石にあれは湊月が可愛そうよ」

 

不貞腐れた幼馴染の姿を見て、擁護する緋奈は非難がましい目を向けてくるが美少女がやると可愛い以外のなにものでもない。

 

「休憩中ならともかく、バイト中に手を握ったりくっつきたがる湊月が悪い」

 

「いや、まぁそれもそうだけど……」

 

客がいないならまだしも客がいる時にもスキンシップを求めてくるのだ。それを咎めるのは恋人の務めであろう。

 

「それに休憩時間なら構ってやってるだろう。それで我慢しろ」

 

今は心が折れかけて項垂れてるだけで、しばらく僕が構わないのを確認すると普通に甘えてきた。思いっ切り抱き着いてはすりすりと頬擦りをする。

 

「うー、少しくらいいいじゃないか」

 

「そうかそうか。なら、勤務中にスカートの中に悪戯してもいいんだな」

 

「限度ってものがあるでしょうに」

 

本気でやるわけではないが、案として出せば緋奈に叱られた。

ツッコミで済んでいるのは、冗談だと判っているからか。

 

「で、そろそろ慣れたか?」

 

「まぁね。私も湊月もなんとかやってるわよ。あんたがフォローしてくれるし、そのおかげであんまり気負う必要もないし」

 

最初は失敗してパニックを起こしていた二人だが、今では慣れたように仕事をこなしている。緊張感は未だ抜けないものの徐々に仕事に慣れており今ではフォローする事が減った。

 

「そろそろ時間だな。行くぞ」

 

「ん〜、もうちょっと補給するぅ」

 

ぎゅ〜っと抱き着いてくる湊月を抱き締め返すこと数秒、ガッチリとホールドされる。

 

「私はもう圭がいないと満足できない身体になってしまった」

 

「馬鹿なこと言ってないで離れなさい」

 

無理矢理引き剥がされた湊月は、名残惜しそうな顔をして引き摺られていった。

 

 

 

「それにしても客多いわね。いつもよりちょっと多くない?」

 

気がつけば店内は満席。客として利用していた緋奈としては珍しい光景に見えたのだろう。いつも来た時には空いているからか物珍しそうな反応である。

 

「いや、長期休暇くらいらしい。あとはゴールデンウィークとか。それにしたって多いがな」

 

多いのは男性客だ。普段は女子高生とか、カップルとか、あとは社会人のOLとか女性客が多かったのだが明らかに多い。そして、その視線はうちのメイド二人に向いている。

 

「うちはメイド喫茶じゃないんだがな」

 

喫茶店『Walker』は普通の店である。いかがわしいサービスもなければ、メイドのご奉仕もない、美味しくなる魔法もない。当然のことながらお触りも禁止だ。

 

「すみませーん。注文良いですかー」

 

「あ、じゃあ、行ってくる」

 

湊月に続いて緋奈も出てしまう。その間にもレジに客が。そっちは僕が対応することになった。

 

「またのご来店を」

 

さて、次の客を捌こうかという時–––

 

「きゃっ!」

 

小さな悲鳴が店内に響く。視線を巡らせると声は湊月が対応していた方から、その湊月はとある客の相手をしていたようだが、腕を男性客に掴まれている模様、それもとてもチャラそうな奴に。

 

「ねぇ、バイト何時に終わるの?一緒に遊ぼうよ」

 

「いえ、私には彼氏がいますので」

 

「遊ぶだけだって」

 

なおも言い募るチャラ男、気がついた時にはレジの番という任務を放棄して僕はそこにいた。

 

「お客様、店員にちょっかいを出すのはおやめいただけますかっ?」

 

注意勧告ついでに湊月にちょっかいを出した客の腕を捻り上げて、ようやく拘束から逃れた湊月は僕の背中に隠れた。

 

「なっ、テメェ何しやがる俺は客だぞッ!」

 

「お客様は神様とは言いますが、客としての最低限のマナーを守れない奴を客とは呼びませんから」

 

一度、忠告はした。手を離すと捻った男は此方を睨む。

 

「おいおいおいおい、ここの店員は客に暴力を振るうのか?」

 

「おや、さっきの話聞いてました?注意を守られないのであれば強制退店も視野に入れているんですが。あと、警察を呼んでもいいんですよ」

 

あくまで丁寧に。心掛けても声から漏れる怒気。

そっと迷惑客の耳元に顔を寄せ、本人以外に聞こえないよう声を張る。

 

「–––次、俺の女に手を出したら殺すぞ」

 

至近距離で睨むと、相手は怯んだように椅子から崩れ落ちた。

 

「こ、こんな店二度と来るか!」

 

「二度と来なくて結構です」

 

慌てて逃げるように立ち去って行く迷惑客の背中を見送る、その前に。

 

「お客様、そのまま退店すると無銭飲食で通報させていただきますが」

 

きっちりと釘を刺した。

迷惑客は財布から千円札を引っ掴むと叩きつけるように出して帰って行ったのだ。

 

「マスター、迷惑客の対応はこれでいいでしょうか」

 

「場合によっては実力行使でも良かったがね。それより、ちょっと鹿島さんを休憩させてあげたらどうだい?」

 

「ありがとうございます。マスター」

 

呆けている湊月の手を引いてバックヤードに引っ込む。

休憩室まで引っ張ってくると椅子に座らせた。

当人は急展開に思考がついていかず、呆けた顔で見上げてくる。

「俺の女……」と呟いては、顔が真っ赤になった。

どうやらあの一言が背後にいた湊月には聞こえていたらしく、壊れた録音機のように何度も反芻しては顔の赤みを増していく。

 

「じゃあ、僕は戻るから少し休憩してろ。それとも一緒にいたほうがいいか?」

 

「……うん」

 

相手がちょっと強面系の男だったからか湊月は微かに震えていた。瞳が濡れていて、今にも泣き出しそうで、僕を引き止めようと伸ばした手が僕の腕を掴んでいる。

そんな恋人の可愛らしい仕草に対する幸福な気持ちと、あの迷惑客に対するドス黒い感情が綯い交ぜになって、少し乱暴に彼女を抱き寄せると驚いた表情。

普段の僕ならしない行為だし、当然かもしれない。

 

「ど、どうしたんだ圭?」

 

「確か、今日はうちに来るんだったな」

 

「え、あ、うん……着替えとか持って来てるしこのまま圭の家に行くつもりだったけど」

 

「ならいい」

 

「……なんか怒ってないか?」

 

それは当然だろう。仮にも自分の恋人に手を出されたんだ。自分で言うのもなんだが僕は物を大切にするタイプだ。他人に触られるのは嫌だし、無許可に借りられるのも腹が立つ。狭量と言われるかもしれないがこの性格はどうにもなりそうにない。

 

「帰ったらすぐに風呂に入るぞ」

 

「圭が珍しく怒ってる。……って、え、風呂に入る?一緒に?」

 

さっきまでとは比べ物にならないほど赤面した湊月を置いて、仕事に戻るのだった。



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恋人とお風呂

 

 

 

鹿島湊月という少女は客観的に見て美しい女性だ。くびれて引き締まった腰は抱き締めれば折れそうなほど細くて、全体的に細身であるのに対して胸やお尻は大きく、その胴体から伸びた手脚はまるで芸術品のような滑らかな曲線を描く。そのどれか一つでもバランスが崩れれば、きっとそれは違和感になるだろう。それくらい完成された美を持った少女なのだ。

 

「その……あまり見ないでくれ。恥ずかしいから」

 

世界の男が羨むような美少女が、今目の前で服を脱いでいるという状況に僕の思考は一旦停止し冷静になる。

 

–––何故、こんな美少女が僕の彼女なのかと。

 

バイトから帰った直後、否応なく脱衣所に押し込めた湊月と二人きり。そんな状況であるにも関わらず、頬を恥ずかしげに染めた彼女は意を決すると服を脱ぎ始める。その動作一つ取っても見るだけの価値があり、そこはかとなく男心を擽ってくる言動に、僕の中の理性も決壊寸前だった。

 

「……」

 

一枚の服を脱ぎ終えた湊月と目が合う。

ワンピースだったので一枚脱げば黒の下着姿に。

顔を赤らめて硬直した様子。

次に手を伸ばさず、心許なくも腕で身体を隠した。

 

「み、見るなって言ったのに……」

 

口では否定してもそれほど嫌がっている様子はない。

 

「……せめて、無言で見詰めるのはやめてくれないか」

 

「あぁ、なんていうか……エロいな」

 

ド直球の感想に頰は更に赤くなる。耳まで真っ赤な湊月はその場で蹲ってしまった。感想をくれ、と言ったように聞こえたが違ったのだろうか。

 

「圭はなんでそんなに冷静なんだっ」

 

「いや、今更だし」

 

「エッチなことするのと一緒にお風呂入るのは違う!」

 

どうもそういうこととは別種の恥ずかしさがあるらしい。

色々と誘惑してくるくせに。

 

「それに急に一緒にお風呂に入ろうなんて圭らしくもない」

 

普段の僕ならばむしろ湊月に構ってやっているようなスタンスだったため、不可思議に思えてしまったのだろう。常に甘えるのは湊月ばかりで殆ど湊月に投げやりだった。訝しむような視線が投げ掛けられている。

 

「普段は湊月から来るからたまにはと思っただけだ。それに恋人らしいことでしていないことといえば、こんなことくらいしか思いつかなくてな」

 

尤もらしい理由を並べ立ててみたがどうもしっくりこない。

しかし、当の湊月は納得して嬉しそうに頬を緩ませた。

そんな笑顔を見てしまえば、もうどうでも良くなってくる。

なんでこんなことになっているのか。

思い出せそうにない–––。

喉元過ぎれば熱さを忘れるとは、このことだろう。

 

「さて、時間がない。早く脱げ」

 

だが、忘れてはいけないのはこの家に二人きりではないということ。妹も母親も在宅中だ。

 

「急に扱いが雑になった!?」

 

「文句を言ってないで早くした方がいいぞ」

 

「せめて、あと少しくらい心の準備を……」

 

「そうしている間にうちの妹と母の妄想が酷いことになるが」

 

きっと風呂に一緒に入ったことは筒抜けだろう。問題は長引けば長引くだけ妄想の幅が広がるということ。この密室で長時間男女が二人きりになったのだ、あらぬ誤解を生むことになり……この夏季休暇、ただでさえ暑苦しいのに生暖かい目で見られることになって湊月が耐えられるだろうか。

まぁ、母は多少は気付かないふりをしてくれるだろうが。

妹は質問攻めにする未来が見える。

 

「……わかった」

 

意を決して湊月は下着に手を掛ける。ブラのホックに手を伸ばし……止まること数十秒が経過。

 

「……圭が脱がして」

 

俯いた恋人の頰は尋常じゃない熱を帯びていた。

 

 

 

服を脱いだ湊月は局部を隠しながら浴場に入った。髪を洗って、次に身体を洗うボディタオルを探し始める。もう何度かうちの風呂場を使っているので勝手知ったるなんとやら……であったのだが、目的のボディタオルが見つからず指先が宙を彷徨う。

 

「あぁ、なんだ圭が持っていたのか」

 

僕の手からボディタオルを受け取ろうと手を伸ばしたところ、その指先は空を切った。次いでチャレンジするが相変わらず空振り。

 

「……」

 

「……」

 

「……圭、どうして意地悪するんだ」

 

それもそのはず僕がボディタオルを渡さなかったのだ。湊月の目が悪いわけでも、片目に眼帯をして距離感を掴めないわけでもない。そして弁明をするならば意地悪でもない。

 

「大丈夫だ。僕に任せろ」

 

「!?」

 

古今東西、あらゆる恋愛要素の入った漫画を読破した僕にはわかる。

これではただ二人で風呂に入っているだけだと。

ラブコメだと多少のハプニングは付き物だがそれはそれ。

僕と湊月は恋人同士、であるならば一部条件は適用されない。

 

「恋人同士ならお互いの身体を洗い合うものだと相場は決まっている」

 

僕が読んだ漫画から統計的なデータを得た結果、『恋人が入浴した際に身体を洗い合う』というシーンはとても多かった。偏った知識かもしれないがそんなことは知ったことではない。

 

「た、確かに……いやでも待って、こういう場合って女の子が男の子の身体を洗うパターンの方が多いんじゃないか?」

 

物申す湊月は怯えたように後退ったが、僕は左手に持ったシャワーで頭からお湯を被せた。怯んで目を瞑った隙に確保して再度椅子に座らせる。

 

「おとなしくしろ」

 

「私は犬猫じゃないんだぞ。扱いが雑過ぎる!」

 

–––ちょっと水場を嫌がる猫をお風呂に入れている気持ちになった、とは言えない。

 

「うぅ〜……」

 

ゴロゴロと唸る湊月だったが……。

 

「……ん……」

 

最終的には機嫌がすぐに回復した。首元を洗い、腕に伸ばし、指先を磨き、背中を摩ると満足げな表情。そこでちょっとした悪戯を思いつきお腹を摘んでみた。……が、泡で滑って上手く掴めない。というか掴めるほど脂肪はついていないようだ。

 

「圭〜、私のお腹がそんなに気になるか。残念でした太ってません」

 

「夏になると女子は大変だな」

 

「見せたい相手がいるからそれほど苦労した、とは思わないけど」

 

「そういえば海だっけ?プールだっけ?行くの」

 

「あぁ、それならプールになったよ。海は潮の流れが怖いから」

 

そんな雑談を交えながら、僕はそっと腕を上に動かした。乳房に手の甲が当たり柔らかに形を変える。そのまま手のひらで包むように掴むと僅かに肩を跳ねさせ、湊月はそっと僕の腕を掴んで制止させる。

 

「……圭のエッチ。そんなところまで洗わなくていい」

 

「ダメならやめるけど」

 

泡でぬるぬると滑るおっぱいを弄んでも湊月は何も言わない。

ただ俯いてジッとしていた。頰は赤く染まっている。

 

それから洗い終えるまで抵抗はなかった。

泡を洗い流して自分の身体を洗おうとした時だ。

 

「……ふふふっ、まさかここまで好き勝手やって自分で洗うとか言わないよな圭?」

 

思わぬ反撃にあった。

 

 

 

「はぁ、疲れた……」

 

それからまた二人して泡だらけになった後、泡を流して一緒に湯船に浸かる。僕の足の間に湊月が腰を下ろして背中をぴたりと僕の胸板にくっつけた。不意に体制を崩さないよう湊月のお腹に腕を回して、抱え込むように彼女を抱き締めた。試行錯誤の末に辿り着いたポジションに湊月も気に入ったようですっかりご満悦の表情だ。

 

「あれだな。やっぱり風呂は一人で入るべきだな」

 

「むぅ〜。圭は楽しくなかったのか」

 

僕の導き出した結論に湊月は納得がいかなかったらしい。確かに得るものはあったように思うが、それ以上に疲れて一日の疲れを取るという目的は達成されていないように思うのだ。夏場の風呂は体力の消耗が激しいため長風呂しないタイプの僕では、夏場に彼女と風呂場でいちゃつくのは難易度が高かった。–––という、答えを得てしまった。

 

「また一緒に入る気か」

 

「……たまにはこういうのも悪くないと思うし」

 

どうやら湊月はそれほど嫌でもなかった様子で、また次回もそう遠くなさそうなことに僕は嘆息した。できれば夏の間はやめて欲しいところだ。自分で誘っておきながらそう思う。しかし、泊まりに来るたびに何か恋人らしいことを要求されても困るため選択肢の一つには入れておいてもいいだろう。

 

「別れるのが先か、また一緒にお風呂に入るのが先か、だな」

 

「あぁまたそうやって意地悪を言う。私は圭と別れる気はないからな」

 

揶揄うと湊月はちょっと怒ったようにそう言って全体重を押し付けてきた。

 



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