この手を離さない (八銀はジャスティス)
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特別編
記念対局 空銀子☆生誕祭 vol.2


銀子ちゃんお誕生日おめでとう!
時間軸としては、前生で八一20歳、つまり銀子ちゃん18歳の誕生日となっております
合い言葉は、八銀はジャスティス


九月九日。

同じ数字が二つ続いていること以外、特に特徴の無い月日。別に何かの祝日というわけでもない。だけど、この日は俺にとって一年で最も大切な日に挙げられる。

さて、皆はこの日が何の日だかわかるだろうか?

まぁ、もったいぶらず正解を言うと、俺の嫁……いやまだ嫁じゃなかった。彼女の空銀子の誕生日だ。

この日、俺は大阪駅で銀子ちゃんと待ち合わせしていた。今日が楽しみすぎて、禄に寝られなかった俺は、待ち合わせ時刻より一時間も早く来てここでボーっとしていた。

 

ボーっとしていたのはいいんだけれども、俺はここにきて、既に二時間ぐらいボーっとしている。まぁつまりだ。銀子ちゃんがこないのだ。俺が早く来ていたとは言っても、それでも既に待ち合わせ時刻を一時間近くオーバーしている。さっきから、(しき)りにスマホでメッセージを送ってはいるけれども、返ってくる返事はもう着くの一点張り。そんな状態がずっと続いていた。

 

「お、お、おまた、せ……」

 

「ぎ、銀子ちゃん大丈夫!?」

 

そしてようやく姿を現した銀子ちゃんは、息も絶え絶えの瀕死の状態だった。やばい!?早くポケ●ンセンターに連れて行かないと!?と考えてるあたり、俺も寝不足でかなり頭が参っているのだろう。いや、銀子ちゃんにやっと会えた嬉しさに舞い上がってるだけかもしれないけど。

 

「ちょ、ちょっと待って……今、息を整えるから……」

 

「大丈夫?ほら、お茶だよ」

 

そう言って、俺はさっきまで自分が飲んでたお茶を手渡す。間接キス、なんてことは言わない。銀子ちゃんと付き合い始めて二年以上が経ち、俺はもうそういうのには耐性がかなり付いた。だけど、銀子ちゃんは違う。この子、いつまで経っても、色々と反応がウブなんだよね。今、仮に間接キスだね!なんて言ったらこの子、絶対お茶を噴いて、噎せて余計状態を悪化させてしまう。照れた銀子ちゃんは見たいけど、今は我慢我慢。どうせ、この後いくらでも見れるんだから我慢我慢。

 

にしても、銀子ちゃん、かなり走ってきたようだ。九月に入ったとはいえ、まだまだ暑い日は続いている。今日だってもちろん例外ではない。そんな茹だるような暑さの中、日傘を差しながら猛ダッシュで来てくれたらしい。体の弱い彼女には辛かっただろう。それが今の状態に現れている。日傘を差しながら猛ダッシュする銀子ちゃんを想像したら、なんかシュールだなと思ってしまった俺を誰か全力で殴って欲しい。

 

「ふぅ、ありがとう。少し落ち着いたわ」

 

「それは良かった。でも、銀子ちゃんがこんなに遅刻してくるなんて珍しいね。心配したんだよ?何かあったの?」

 

「うっ、そ、それは……」

 

俺が質問すると、少し気恥ずかしそうに顔を背ける銀子ちゃん。そして、ポツポツと遅刻の理由を話してくれた。

 

「だって、八一とのデートが楽しみすぎて、昨日全然眠れなくて、気づいたら朝になってて、それでも、少しは寝た方がいいかな?と思って横になってたら、気づいたら時間が過ぎてて」

 

「うん、つまり?」

 

「寝坊したのよ。悪い?」

 

「そこで開き直るんすか……」

 

悪いか悪くないで言ったら間違いなく悪いだろう。銀子ちゃんもそれはわかっているのだろう。未だに気恥ずかしそうに、かつ気まずそうに目を背けている。だけど、俺が思ったのは、悪いか悪くないかとか、そういうことじゃなかった。

 

「良かった」

 

「え?」

 

「実は、俺も今日が楽しみすぎて、昨日全然眠れなかったんだよね」

 

「そうなんだ。いっしょだね」

 

銀子ちゃんは、想いを重ねたあの日から、些細な事でも俺と共通点があると、喜ぶようになった。確か、あの封じ手を開いた日。あの日も、同じだ。お互いに一睡もできなかったと知ったら、いっしょだねと喜んでいた。そんな銀子ちゃんが、可愛くて可愛くて仕方がないわけです。

 

「それで気づいたら朝になってて、でも今から寝たら、起きれないかもなって思って早めに家をでたんだよね。銀子ちゃんを待たせるわけにはいかないと思って。ほら、俺って、銀子ちゃんの気持ちに全然気づかなくて、散々待たせてきたでしょ?だから、これからは、何があっても俺が待つようにしようって決めたんだ」

 

「っ!」

 

「一時間や二時間待ったところで、俺は気にしないよ。それよりも、銀子ちゃんに何かあったんじゃないかって心配してたんだ。無事で良かったよ」

 

「そ、そう。ありがとう。それじゃ、これからも、待ってもらおうかな」

 

そう言って、頻りに指で自身の髪を弄る銀子ちゃん。嬉しがってる時の彼女の癖だ。だけど、その髪は、本来の姿から逸脱した姿になっていた。

 

「銀子ちゃん、髪凄く乱れてるよ」

 

「え!?嘘!?」

 

走ってきた影響だろう。彼女の髪は右へ左へ乱れていた。恥ずかしそうに自身の髪を抑えて、(うずくま)ってしまった。

 

「ほら、直してあげるから立ち上がって」

 

「ううっ、やいちぃ、見ないでぇ……」

 

「見ないと流石に直せないよ」

 

涙目になってこちらを見上げてくる銀子ちゃん。なんだこの可愛い生き物。今すぐお持ち帰りしたいんだけど?テイクアウトする前に、俺の理性が天国にテイクオフしそうになっちゃったよ。うん。自分で言ってて何を言ってるのかさっぱりわからない。だけどかのブルー●・リーもこう言っている。考えるな。感じろ、と。さぁ、皆も俺の感動を感じてくれ。Don't think! Feel.

 

「ふみゃぁ♡」

 

優しく銀子ちゃんの髪を手で梳いてあげると、喉をさすられた猫のように蕩けた顔で、甘ったるい声を上げてくれる。負けるな!俺の理性!今日という日はまだ始まったばかりだ!

 

「ほら、直ったよ」

 

「あ……」

 

手を離すと、名残惜しそうに俺の右手を見つめる銀子ちゃん。そして、急いでカバンからスマホを取り出す。

 

「八一。そのまま右手動かさないで」

 

「このまま?」

 

「そうそのまま。よし、いいわ」

 

パシャッと俺の右手をカメラで撮る銀子ちゃん。はい。この子俺の右手フェチなんです。俺の右手フォルダーなんて誰得なフォルダーを作成するちょと危ないフェチの持ち主なんです。まぁ、そんなところも含めて可愛いんだけど。え?さっきから惚気すぎだって?のろけたっていいじゃないか。にんげんだもの。やいち

 

「八一?どうしたの?」

 

と、そんな他愛も無いことを考えてると、銀子ちゃんが不思議そうに首を傾げてくる。まぁ、俺がなんかボーっとしていたからだろう。別に、右手云々(うんぬん)のことを考えてボーっとしていたわけではない。ただ、銀子ちゃんの服装を眺めていただけだ。

 

「いや、その、なんていうか、今日の服装、すげー似合ってて、可愛くて、思わず見とれてた」

 

「ふぇっ!?あ、その、ありがとう……」

 

今日の彼女の服装は、至ってシンプルなものだった。純白のワンピース。それに、同じく純白のサンダルタイプのシューズを履いている。一見、幼さも感じさせる服装。だがそれが、非常によく似合っていた。シンプルだからこそ、素材の良さが際立っていた。嬉しそうに髪を弄る銀子ちゃん。別に八一にそんなこと言われても、嬉しくないし。とでも言いたげな雰囲気を作っているけど、その口元が弧を描いているのを隠しきれていない。つまり、凄く嬉しそうだった。

 

「さて、いつまでもここにいても仕方ないし、そろそろ行こっか」

 

「そうね」

 

今日の目的は何も大阪で遊ぶことでは無い。ここから電車で移動となる。そろそろ電車の時刻も来そうだったので、俺は銀子ちゃんに向けて、右手を差し出した。

 

「お誕生日、おめでとう。銀子ちゃん」

 

「うん。ありがとう、八一」

 

銀子ちゃんの左手が俺の右手を握る。そして、そこからお互いの指を絡めていく。まるで、この手を絶対離さないとでも言うかのように、その指は固く固く、絡まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

場所は変わって、やってきたのは神戸元町だ。今からここでお昼を食べる。予定時刻よりも一時間遅れてることもあって、俺達のお腹はペコペコだ。銀子ちゃんに至っては、朝から何も食べていない。既に空腹も限界だろう。

さて今から俺達が向かう場所なんだけど、元町といえば、皆わかるだろうか?それは、中華街だ。横浜、長崎と並んで三大中華街と呼ばれる場所がある。その名も、南京町。ここが、今日の昼食スポットだ。

 

「うわ。凄い人」

 

「そうね。噂には聞いてたけど、予想以上だわ」

 

そんな神戸中華街。その中でも、一際行列ができる店として有名な店がある。そこが今日昼食を頂くお店だ。このお店、なんと豚饅(ぶたまん)の元祖らしい。元祖豚饅を謳い文句に、この場所で経営している。

 

「行列はものすごかったけど、回転は早いね」

 

「そうね。もう言ってる間に私達の番ね」

 

二人で他愛も無い会話をしたり、目隠し将棋をしたりしながら順番を待ってると、あっという間に俺達の番がやってくる。まぁ、あっという間にって表現はしたけれども、時計を見れば思っていたよりも時間が経っていて驚く。ほんと、銀子ちゃんといると時間が経つのがあっという間に感じてしまう。そして、俺達の順番がやってきた。

 

「銀子ちゃん何個食べる?」

 

「20個」

 

「そんなに!?食べれるの!?」

 

「余裕」

 

銀子ちゃん、こう見えて健啖家だからな。20個ぐらい平気なんだろう。まぁ、このお店の豚饅は、別にコンビニや551で売られてるようなサイズのものじゃない。大きさでいったら、小籠包より少し大きいぐらいだろうか?まぁ、そんなに大きいわけではない。とは言っても、20個は多い気がするけど。

 

「じゃあ俺は10個でいいや。すいません30個ください!」

 

「30個ですね!ありがとうございます!店内で食べますか?お持ち帰りされますか?」

 

店員さんにそう言われ、店内を見回してみる。15席ほどの小さな店内スペース。そこには、丁度二人分の空席があった。

 

「じゃあ、店内で」

 

「畏まりました!お持ちしますので、お掛けになってお待ち下さい!」

 

店員さんに促されるまま、座席に座って待つ。隣ではお腹を空かせた子猫ちゃんが、お茶で空腹をごまかしていた。

 

「銀子ちゃん、大丈夫?」

 

「ダメ。もう無理。八一、先立つ不孝をお許し下さい」

 

「それは流石に大袈裟だから!?」

 

冗談でもそんなこと言うもんじゃない。俺、銀子ちゃんに先立たれたら、本気で一秒でも早く後を追う自信があるからね?まぁ、たぶんこう考えてるのは銀子ちゃんも一緒だと思うけど。

 

「お待たせしました!」

 

そして、遂に待望の瞬間がやってきた。皿一杯に積まれた白い塊。豚饅の山のおでましだ。

 

「ほら、銀子ちゃん。お待ちかねの時間だよ」

 

「ソースが欲しい……」

 

「そんなもの置いてないよ……」

 

流石ソース狂。この豚饅にもソースをかけて食べたいらしい。ここの豚饅は、味が濃いことで有名だ。そのまま何も付けなくても美味しく食べれる。好みに合わせて、醤油や辛子を使うのがポピュラーな食べ方だ。ソースは残念ながら無い。と、それよりも、だ。さぁ、食事の時間だ。

 

「銀子ちゃん」

 

「ん?」

 

「はい、あーん」

 

「あーん♡」

 

俺のあーんに対して、何の躊躇も見せずに食いついてくる銀子ちゃん。いつもは恥ずかしがったり、照れたりするのに、今日に限ってそんな素振りも見せない。よっぽどお腹が空いてたんだろう。

 

「んー♡」

 

ほっぺたを抑えて、幸せそうにしている。その顔には、銀子ちゃんが滅多に見せない満面の笑みが浮かべられている。あかん、この子は正に天使や。将棋界の天使やわ。

 

「ほら、八一も。あーん」

 

「あーん」

 

銀子ちゃんにあ-んしてもらい、俺も豚饅を口にする。噛んだ瞬間、濃厚な肉汁が口いっぱいに広がり、一瞬で口内が幸せな洪水を起こしてしまった。めちゃくちゃ美味しい。……え?店内で何あーん合戦なんかしてるんだ。人の目を気にしろって?

言いたいことは良くわかる。だけど、俺も銀子ちゃんも、もう世間の目は、人の目は気にしないって決めている。

 

付き合い始めてから直ぐのことだった。俺と銀子ちゃんは、月光会長にお願いして、将棋連盟経由で真剣に交際をしていることを公表していただいた。最初は、皆のアイドル白雪姫が相手ということもあって、世間からの批判の嵐を覚悟していた。だけど、蓋を空けてみればそうでも無かった。確かに、そのような批判もあるにはあったのだけれど、それはほんのごく一部のことで、その他大勢の意見はほぼほぼ一致していた。はよ結婚しろと。

 

ま、あれだ。要するに俺と銀子ちゃんの交際は、世間一般から認められたということだ。だから、俺たちは世間の目をあまり気にする必要は無くなったというわけだ。デート中にファンの人に出会っても、温かい言葉を良くいただく。で、必ずといっていいほど、式はいつ挙げるの?と言われる。

 

いやいや、世間の皆さん少し考えて下さい。俺は良いとしても、銀子ちゃんはまだ高校に通ってる、歴とした学生さんですよ?なのに、態々学校を辞めて、結婚しますなんて言うわけ無いじゃ無いですか。例え銀子ちゃんが望んだとしても、俺はそれを許さないだろう。高校に行ってる間は。

 

「はい銀子ちゃん、もう一個あーん」

 

「あーん♡」

 

豚饅を口にして、またも満面の笑みを浮かべる銀子ちゃん。そんな彼女に向けて、俺はスマホのカメラを向けていた。良い一枚が取れた。

 

「ちょっと、何撮ってるのよ」

 

「ごめんごめん。美味しそうに食べてる銀子ちゃんが可愛すぎて、つい」

 

「っ!そんにゃ可愛いだにゃんて♡やいちのばかぁ♡」

 

えぇ、めちゃくちゃ可愛いです。その絵も頂きます。両頬を手で抑えて、身悶える銀子ちゃん。その姿に向けてもう一度シャッター音が鳴る。これは大変貴重なコレクションが増えました。さぁ、この写真は重要だぞ。なんとしてでも、あいに消されないように守り抜かないと……って痛い痛い痛い痛い!太ももグイって抓られてるぅ!

 

「あの、銀子ちゃん、なんで太もも抓ってらっしゃるので?」

 

「今、小童のこと考えてた」

 

アイエエエエエエ!?ドウシテワカッタノデスカ!?あなたはエスパーか何かでいらっしゃいますか!?

 

「だってさ。折角俺が銀子ちゃんコレクションフォルダー作っても、あいって勝手に俺のスマホ開いて消しちゃうんだよ?バックアップはしっかり取ってるとはいえ、流石にひどすぎる……」

 

「はぁ、それは八一も八一よ。いつまであの小童と一緒に生活してるわけ?小童ももう中学生になったんだから、そろそろ離れるべきだと思う」

 

そう。あいはこの春で中学生になった。女流タイトルも既に獲得し、亜希奈さんとの契約も無事履行できた。俺は、晴れて自由の身だ。まぁ、亜希奈さんからは中学卒業まではあいを側に置いておいてほしいと言われている。俺も特に困っていなかったから、許可したわけだけど、確かに世間の目はそろそろ良くない。付き合ってる彼女がいるのに、弟子とはいえ女子中学生と二人暮らし。何も起きていないとはいえ、世間がそれを信じてくれるとは限らない。

 

「それに……じゃない」

 

「ん?銀子ちゃんなんか言った?」

 

その声は小さく、一度じゃ聞き取れなかった。もう一度、銀子ちゃんは同じ内容をそのまま言ってくれる。その言葉は、俺の理性の奥深くまで貫通していった。

 

「それに、このままじゃ一緒に住めないじゃない」

 

一緒に住めない?住めない?誰と誰が?俺と銀子ちゃんが?一緒に住む?俺と銀子ちゃんが?え?それってつまり?あれってこと?同棲ってこと?誰と誰が?俺と銀子ちゃんが?俺と?自分で言っておきながら恥ずかしくなってきて顔を真っ赤にしてるこの銀子ちゃんが?その後、俺の脳内は急速に計算を始めた。あいを説得する方法を導き出すために、今の俺は対局中よりも更に頭を働かせている。

 

「よし!今から帰ってあいを説得してくる!」

 

「ちょっと八一!今日の予定はまだあるから!せめて明日にして!」

 

銀子ちゃんの必死の説得もあり、俺はなんとか自身を落ち着かせることができた。残りの豚饅を食べている間も、俺の脳内は計算を止めなかった。まぁ、近い内に、そういう日は来ると思うけどね。そういう日ってなんの日かって?決まってるじゃん。

一緒に暮らす日だよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

大阪は、別名くいだおれの街とも呼ばれる。京都は、別名きだおれの街とも呼ばれる。それと同じような別名が、この神戸にもあるのをご存知だろうか?それは、はきだおれの街。吐きではない。履きだ。つまり、この街は靴の街というわけだ。俺と銀子ちゃんは、食事を終えた後、商店街でショッピングを満喫していた。今品定めをしているのは、もちろん靴屋だ。

 

「こう種類が多いと迷うわね」

 

銀子ちゃんの言う通り、流石靴の街というべきか、品揃えは非常に豊富だった。色取り取りの靴が店内に所狭しと並べられている。その内の一つを手に取り、銀子ちゃんは俺に渡してくる。

 

「八一、履かせて」

 

「え?それぐらい一人で」

 

「履かせて」

 

「はい」

 

銀子ちゃんの圧に負けて、俺は椅子に座る銀子ちゃんの前に跪く。靴を履かせるって、舞踏会にガラスの靴を忘れてきたシンデレラかな?確か、あの物語では、忘れていったガラスの靴が合う女性を求めて、王子様自らが靴を履かせてまわるんだったかな。あれ?王子様自ら手にとって履かせたんだっけ?自分で女性に履いてもらったんだっけ?うろ覚えでよく覚えてないや。そういえば、この街には実際にシンデレラが住んでるんだった。天衣のやつ、今頃一人で将棋の勉強でもしてるのかな?……って痛い痛い痛い痛い!脛をガシガシ蹴られてるぅ!

 

「あの、銀子ちゃん、なんで脛蹴っていらっしゃるので?」

 

「今、黒い小童のこと考えてた」

 

アイエエエエエエ!?ドウシテワカッタノデスカ!?あなたはエスパーか何かでいらっしゃいますか!?……ってこのやり取りさっきもやったよ。どうやら俺は、銀子ちゃんの前で他の女の子のことを考えることが一切できないらしい。

 

「で、あの黒い小童にはちゃんと説明してるわけ?」

 

「もちろん!ちゃんと、俺は銀子ちゃん以外に振り向くことは絶対に無いっていつも言ってるんだけどね……」

 

「そ、そう。ならいいのだけれど」

 

そう言って、頻りに髪を弄る銀子ちゃん。緩みきった頬が隠せてないよ。因みに天衣に関してだけど、約2年前、奇襲戦法による封じ手を受けてから今に至るまで、ことあるごとに猛アタックを受けている。まだ、銀子ちゃんから俺を奪い取るつもりらしい。それは、あいも同様だった。

 

確か、澪ちゃんが海外に行ってしまった後からだっただろうか?やたらと、あいが積極的になってきたのは。あいには、中学生にもなったのだからそろそろ理解してほしい。自分が抱いてる感情は、恋愛感情ではなく只の尊敬の念なんだってことを。まぁ、そのせいで、銀子ちゃんにはいつも呆れられてるわけです。只それも……

 

「もうすぐ終わると思うけどね」

 

「ん?八一、なんか言った?」

 

「いや、なんでも。それより、お足をどうぞ。お姫様」

 

「うむ。くるしゅうない」

 

俺の呟いた声は、どうやら銀子ちゃんには聞こえなかったらしい。気持ちを切り替えて、俺は銀子ちゃんの足を手に取る。普段はタイツを履いてることが多い銀子ちゃん。だけど今日は、サンダルタイプの靴を履いてることもあって素足だ。スベスベの脹ら脛の感触が手に直に伝わってくる。あぁ、この手触り癖になっちゃう。

 

「八一、手つきがいやらしい」

 

「な、何もいやらしいことなんて考えてませんよ!?」

 

「どうだか」

 

「本当だってば!」

 

「変態」

 

「違います!」

 

「ケダモノ」

 

「男がケダモノで何が悪い!」

 

「開き直るんじゃない」

 

男は皆ケダモノなのさ!

まぁ、銀子ちゃんの素足を直に触ってたら無性にムラムラしてきてしまったのも事実だ。銀子ちゃんの足が綺麗すぎるのがいけない。こんなもの不可抗力だ。なんてことを考えていると、銀子ちゃんは「それに……」と前置きして次のように宣ってくれた。

 

「そういうことをするには、まだ時間が早いから、ね?」

 

やめて!理性のライフはもう0よ!

何顔を真っ赤にしながら、しおらしくも爆弾発言してくれちゃってるんですか!?

俺のドラゴンが覚醒しちゃうからやめてください!

え?今何時?夜はまだですか!?

あー!夜のことを考えると余計ヤバい!

無になるんだ!無になれ八一!

と、必死にライフ0の状態で俺は闘い続けた。ライフなんて飾りなんです!まぁ、お陰様でしばらく放心状態にはなっていたわけだけど。

 

「八一?ちょっと八一。聞いてる?」

 

「はっ!?あ、何?銀子ちゃん?」

 

「だから、そろそろ次のお店行くわよ」

 

そういう銀子ちゃんの手には、いつの間に購入したのか、さっきまで俺が手に取っていた靴が綺麗に包装されていた。てか、たぶん俺の分なんだろう。男物の靴も一緒に手にしてる。あ、はい。俺の分勝手に決めていただいたんですね。ありがとうございます。靴のサイズもピッタリです。ありがとうございます。てか、え?俺そんなに放心してたの?

 

「ああ、うん。わかった。それじゃ、行こうか」

 

そう言って、俺は銀子ちゃんに右手を差し出す。その手をご満悦といった表情で握る銀子ちゃん。まぁ、態々手を繋いだけど、向かう先はお隣なんですけどね。俺たちが次にやってきたのは、服屋だ。店に入るなり、着せ替え大会が始まる。

 

「どうかな?」

 

「60点。次」

 

「これは?」

 

「57点。次」

 

とまあ、こんな感じで俺が服を次々着ていって、銀子ちゃんが採点してくれてるわけだ。え?銀子ちゃんの着せ替えが見たいって?見せないよ。それを見るのは、俺だけの特権だからね。

 

「これならどう?」

 

「そうね。それが一番良いと思う。八一に凄く似合ってる」

 

やっとだ。やっと銀子ちゃんのお墨付きをいただいた。ここまで試着した服装は全部で30着。長かった……

 

「俺と違って銀子ちゃんはすんなり決まったのにな」

 

「だって、八一、私が何来ても可愛い、似合ってるとしか言わないから」

 

「えー?だって事実だし。銀子ちゃんっていう素材が可愛すぎるから、何を着ても似合っちゃうんだよ」

 

「可愛すぎるなんて、そんな、もうやいちったらぁ♡」

 

こういう反応を見せてくれるようになったあたり、銀子ちゃんも随分丸くなったというか、棘が抜けたように感じる。付き合う前だったら、同じことを言ったら照れつつも、最終的には絶対「ぶちころすぞわれ」とか「頓死しろ」とかで終わるもんな。桂香さんに相談したらいつも、八一君が悪い、一言多すぎる、って言われちゃうんだよなぁ。解せぬ。

 

その後、お互いに買う服が決まったので、しばらくは店内を眺めてまわっていた。神戸って、何かとオシャレな街なんだよね。置いてある服のセンスも、なんだかオシャレに見える。まぁ、俺はそっち方面には疎いから、あんましわからないけど。

 

「お、帽子コーナーか」

 

店内を巡回してると、帽子を取り扱うコーナーにやってきた。まだまだ厳しい残暑は続く。だったら、帽子の一つでもあれば助かるだろう。そういえば……

 

「銀子ちゃんって、滅多に帽子被らないよね?」

 

日光に弱い銀子ちゃんのことだ。いつも日傘で防いでるけど、帽子を被った方が体への負担は少ないんじゃないだろうか?

 

「帽子は、いらない」

 

「なんで?その方が体にも良いと思うんだけど」

 

「隠れちゃうから」

 

「え?何が?」

 

「髪飾り」

 

そう言って、愛おしそうな顔で頭につけている髪飾りに手を重ねる銀子ちゃん。その髪飾りは、俺がプレゼントした物なわけで。あかん。こんなこと言われたら、口元が勝手に弧を描いてまう。にやつく顔が隠せへんがな。

 

「うん!なら帽子は大丈夫だね!」

 

「うん、これがあれば、いい」

 

愛おしそうに髪飾りを撫でる銀子ちゃん。その様子を見て、俺の顔が真っ赤になっていくのがわかる。ダメだ。嬉しい。凄く嬉しいんだけど、なんだか恥ずかしくなってきた。帽子があれば俺が被りたい。何か顔を隠せる物が欲しい。まぁ、そんな都合の良い物は手元に無く、終始愛おしそうにしている銀子ちゃんの手を握り、その店を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街を離れ、俺たちは本日の最終目的地に向かっていた。最終目的地は、ディナー会場になっている。

その場所の名は『サン・アンジェリークKOBE』

以前、女王戦で銀子ちゃんと天衣が激突した場所で、俺が天衣に封じ手を喰らった場所だ。

 

「また黒い小童のこと考えてる」

 

「し、仕方ないじゃん。場所が場所なんだから」

 

「なら、こんなところ予約しなければいいのに」

 

「きょ、今日はここに行きたい気分だったんです!」

 

そう言う俺たちは、正装に着替えていた。家から持ってきていたわけではない。現地調達だ。銀子ちゃんは、今日着てきていた純白のワンピースと同じく、純白のドレスに身を包んでいる。究極の可愛さと究極の美しさが交わって最強に見える!

というよりも、だ。

 

「なんかさ」

 

「ん?」

 

「そのドレス見てると、ウェディングドレスみたいだな、って」

 

「ふぇっ!?きゅ、急に何言い出すのよ!ばかぁ♡」

 

場所が場所だけに、そう見えて仕方ない。結婚式場に、純白のドレスなんて、ねぇ?そういえば、一昨年の竜王就位式で銀子ちゃんが来てたウェディングドレスっぽい衣装、あれも凄く可愛かったな。でも、今日のドレスもめちゃくちゃ可愛い。どっちの方が可愛いかって言われると、甲乙付けがたいな。結論、銀子ちゃんは何着ても可愛い。

 

「それじゃ、行きますか」

 

「……うん」

 

俺たちは、手を繋ぐのではなく、腕を組んで店内へと入場した。そこには、他のお客さんは一人もいない。

 

「誰もいないね」

 

「そらそうさ。貸し切りにしてもらったから」

 

「こんな所を貸し切りに?結構な額したんじゃないの?」

 

「まぁね。でも、今日は特別な日だからさ」

 

「……うん。ありがとう」

 

確かに高かったけど、俺には棋界でも有数の収入がある。昨年は、あの名人をも凌いで賞金ランキングのトップに立った。だから、そこまでお金には困っていないし、

たまには贅沢をしてもいいだろう。

それに、昼間は人の目を気にしないと言っておいてあれだけど、やっぱりそういうのは無いにこしたことはない。特に、俺が今から行うことは、人の目に付かない方が良い。つけたくない。

 

ディナーは滞り無く進んでいき、最後のデザートを平らげ、俺たちは美味しい料理を頂いた幸福感に包まれていた。

 

「ふぅ。美味しかった」

 

「ほんと、ここって料理の味も一流ね。女王戦の時も、本当に美味しかったな」

 

「ほんと満足だわ。また絶対来ようね」

 

「うん。あ、八一。ほっぺにアイス付いてるわよ」

 

「え!?どこ!?」

 

「取ってあげるからジッとしてなさい。よいしょ。はい取れた。ほんと、いつまで経ってもお子様なんだから」

 

俺のほっぺたに付いてたアイスを自分の指で取ってくれる銀子ちゃん。そのまま、その指を自分の口に持っていき、「美味しい♡」と言って舐め取っている。なんかすげー照れる。まぁ、照れてばっかもいられない。今から俺が切り出すのが、今日の本題なんだから。

 

「さてと、改めて銀子ちゃん、お誕生日おめでとう」

 

「うん。ありがとう」

 

「これ、俺からのプレゼント」

 

「ありがとう!開けていい?」

 

「うん。どうぞ」

 

銀子ちゃんが袋の包装を開け、中身を取り出す。その中身は、雪の結晶をモチーフにしたイヤリングだ。因みに、オーダーメイドだったりする。銀子ちゃんに絶対似合うと思って、実は去年の内から業者さんと念入りな打ち合わせを何度も行って、作っていただいた。そのイヤリングを、銀子ちゃんは今、宝物を扱うかのように、優しく両手で包み、満面の笑みを浮かべてくれている。

 

「ありがとう!一生大事にする!」

 

「うん。大事にしてね。さてと……」

 

「八一?どうしたの?」

 

「うん。実は今から俺が行うことが、今日の最大の目的なんだ」

 

「最大の目的?」

 

銀子ちゃんは、なんのことだかわからず、可愛らしく首を傾げている。さて、俺がこれを切り出したら、銀子ちゃんはどんな反応を見せてくれるだろうか?ちょっとドキドキしてきた。さて、行こうか。今から放つのは、九頭竜八一人生最大の勝負手だ。

 

「まず始めに、これは銀子ちゃんが高校を卒業してからのことだからね」

 

「だから、何が?」

 

まだ何のことだかわかっていない銀子ちゃん。俺はポケットからとあるケースを取り出して、続きを語り始める。

 

「空銀子さん」

 

「え?あ、はい」

 

「これからも未来永劫、君だけを愛し続けると誓います。だから、俺と結婚して下さい」

 

そして、ケースの蓋を空ける。そこに収納されていたのは、ダイヤモンドの指輪だった。まるで雪の結晶の様に光り輝く、綺麗な指輪だった。

銀子ちゃんの反応は無い。おそらく今、自分が何を言われているのかも理解できていないのだろう。だが、その時間も永遠ではない。やがて、彼女の身が動くよりも先に、その両眼から大粒の雫が零れ始めた。

 

「う……そ……」

 

「嘘じゃないよ」

 

全部、本当のことさ。

 

「私、こんなに幸せで、いいの?」

 

「いいんだよ」

 

もう、苦しまなくてもいいんだよ。

 

「私、やいちのお嫁さんになっても、いいの?」

 

「いいんだよ」

 

むしろ、こっちからお願いしてるんだからさ。

 

「私、幸せすぎて、おかしくなりそう……」

 

「いいんだよ!」

 

おかしくなっても、いいんだよ!むしろ、上等じゃないか!おかしくなるぐらい幸せになってやろうじゃないか!

俺は徐に立ち上がり、彼女の対面の席から、その隣へと移動し、静かに小さなその肩を抱き寄せた。

 

「幸せになって、何が悪いの?銀子ちゃんは、今まで十分苦しんだじゃないか。病気のことだって、奨励会の件だって、プロになってからも十分苦しんできたじゃないか。もう、苦しまなくてもいいんだよ。これからは、ずっと俺が側にいる。直ぐ隣にいる。だから、これからは幸せな人生ばかり思い描いて、生きていこう?」

 

「うっ、ううっ、や、やいちぃ!」

 

泣き喚く銀子ちゃんの肩を優しく、且つ力強く抱きしめる。壊れ物を扱うよりも丁重に、優しく、優しく、抱きしめる。

 

「失礼します」

 

そうやって、泣き続ける銀子ちゃんを抱きしめていると、一人の女性が俺らの元へとやってきた。

 

「えっと……?」

 

「この人は、この式場で働くウェディングプランナーさん」

 

「ウェディング……プランナー……?」

 

「そう。無理を言って、これから式のプラン設計をお願いしてあるんだ」

 

「初めまして奥様。素敵な式を作っていきましょうね」

 

「さ、サプライズが過ぎるよぉ……」

 

その後も、余計に泣き出してしまった銀子ちゃんをあやすのに一時間近くも時間がかかってしまった。その間、ウェディングプランナーさんは嫌な顔一つせず、俺たちのことを温かく見守ってくれていたのだった。

そして、泣き止んだ銀子ちゃんとウェディングプランナーさんと三人で、式の計画を次々と建てていく。その間も、銀子ちゃんの顔は終始幸せそうだった。きっと、俺も似たような顔をしていたことだろう。

 

斯くして、俺、九頭竜八一と、俺の嫁、九頭竜銀子は、永遠の愛を誓い合ったのだった。そう、まさに永遠だ。きっとこの愛は、例え生まれ変わろうとも不変なことだろう。

ウェディングプランナーさんと相談している間も、俺と銀子ちゃん……いや、銀子の手は繋がったままだった。まるで、互いの幸せを共有しているかのように。

あぁ、幸せすぎておかしくなりそうなのは俺の方もだよ。だけど、かまうものか。だってそうだろ?幸せすぎて頭がおかしくなってしまいましたなんて、そんなの贅沢な話だと思わないか?

だったら、その贅沢を享受すればいいじゃないか。何も恐れることはない。

今ここでまた誓おう。もう二度と、この(しあわせ)を離さないと。離してたまるものか。

そう誓い、固く握った銀子の左手を見る。その左手薬指には、静かに輝く指輪が填められていた。まるで、俺たちの幸せを象徴するかのように。その指輪は優しく輝くのだった。いつまでも、優しく。




改めまして、銀子ちゃんお誕生日おめでとう!
次の投稿は、明日、20時1分です

以下、自分が銀子ちゃんへの想いを語ってるだけですので、興味無い方はブラウザを閉じることを推奨します。








まず始めに、自分は『りゅうおうのおしごと!』という作品が大好きです
愛しています。心酔していると言ってもいい。
出会った切欠は、SNSで出回ってきた一枚の公式画像でした。まぁ、原作2巻の表紙だったんですけどね。
それを初めて見たとき、「へー。キャラデザ可愛いな」「二人ともあいちゃんって言うのか。可愛いな」「将棋をテーマにしてるのか。俺も将棋好きだし、面白そうだな」といった感想を抱き、とりあえず読んでみるかと思い、書店で購入しました。当時はまだ2巻までしか出ておらず、まぁ、それでも面白いなと思って新刊が出る度に購入してきました。ただ、当初は面白いとは思っても、心酔と表現するまでの感情は抱いておりませんでした。

いつからでしょう?自分がこの作品に心酔するまでに至ったのは。
いつからでしょう?自分が空銀子というキャラクターに惹かれていったのは。
ただ、これだけはわかります。自分が、空銀子というキャラクターに惹かれたのと、この作品に心酔するまでに至ったのは同時であると。
本当に、自分が空銀子に惹かれ始めた時期って覚えてないんですよね。恋に、将棋に、不器用ながらも、藻掻きながら必死に生きている、この子を追っていると、自然と空銀子というキャラクターに、りゅうおうのおしごと!という作品に引きこまれていました。
言い換えれば、自分は空銀子がいなければ、この作品を面白いな。好きだな。とは思っても心酔とまではいかなかったに違いありません。
それほどまでに、自分は空銀子というキャラクターが大好きです。
全二次元コンテンツのキャラクター全てを引っくるめても、自分は空銀子というキャラクターが一番好きです。
愛しています。
これを言ったら引かれるかもしれませんが、ガチ恋と言っても差し支えないほどの強い情念を抱いております。
かと言って、別に俺の嫁とか、嫁キャラとか、そう表現する気は一切ありません。
なぜなら、空銀子は、九頭竜八一の嫁なのですから。
本編第4局にて、自分はこのような一文を作中に入れました。
「僕が九頭竜八一で、彼女は空銀子なのだから」と。
これは、銀子が今生でも八一のことを好きになるとは限らないと少しばかり考えていた八一が、そんな考えは杞憂でしかないと思い直した際に、その理由として述べている一文です。
これは、作中だけにとどまらず、自分自身の本心となっています。
九頭竜八一以外を好きになる空銀子はいないし、空銀子以外を好きになる九頭竜八一はいない。
そう自分は思っています。
Wあいや、感想戦コンビ等々には申し訳無いですが、自分は銀子以外とゴールする八一は見たくありません。
その他八一カップリングを望む片には申し訳無いですが、これが自分の本音です。
この心は、これから先もずっと変わらないと思います。
原作も次巻から最終章に入り、展開もまだまだ慌ただしくなるかと思います。
不穏な伏線もまだまだ残っております。
師匠が銀子を内弟子に取った理由。八一に、あいを内弟子に取らせた理由。桂香さんが語ろうとしてる、銀子の病気に関わる真実。決意したあい。等々、まだまだ二人にとって不穏な伏線は多く残っております。
ですが、自分は信じております。
この二人の未来が、二人にとって最高の形になるということを。
以上が、自分の空銀子に対する想いでした。
折角の銀子ちゃんの誕生日ということで、少しばかり語らせていただきました。
ここまで、長々とお付き合いいただきありがとうございました。
最後にもう一度だけ言わせて下さい。
銀子ちゃん、お誕生日おめでとう!

八銀はジャスティス


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記念対局 Trick or Ginko

ハッピーハロウィン!
時間軸は、前生での八銀が付き合ってから初めてのハロウィンとなっております
次巻、次々巻あたりに原作で触れられそう(白眼
pixiv様にも単体作品として同時投稿しております

合い言葉は、八銀はジャスティス


10月31日。

別に、祭日でも何でもないこの日。しかし、世界はこの日、お祭りムードに包まれる。ハロウィン。欧米で最も盛んなお祭りだ。昔は、日本にはあまり馴染みの無いお祭りだったのが、近年は若者を中心に日本でも爆発的な人気を誇るお祭りへと変化している。その分、毎年問題行動を起こす人間も多いのだが。そんなハロウィンムードに包まれた日に私、空銀子は関西将棋会館へと足を運んでいた。猫の仮装をして。

 

仮装と言っても、いつも着ている学校指定のセーラー服のスカートに尻尾を付けて、カチューシャに猫耳を付けただけの簡易的なものだ。以前桜ノ宮で着たような、あんな過激なコスプレは絶対にしない。八一と二人きりでも頓死しそうなほど恥ずかしかったのに、人目があるようなこんな場所で着るなんて、想像しただけで恥ずかしすぎて頓死しそうだ。

 

「銀子ちゃん、ハッピーハロウィン!」

 

将棋会館に着いた私を、八一が出迎えてくれる。どうやら、態々外で待ってくれていたらしい。その格好も、私と同じように簡易的な仮装をしている。おそらくドラキュアだろう。付け牙をして、歩夢君みたいなマントを着ている。歩夢君とは違って、色は黒いが。そんな八一の姿を見て、不覚にも少しカッコイイと思ってしまった。

 

「ハッピーハロウィン。だけど、ここでは姉弟子と呼びなさい」

 

「え?だけどここ外だよ?」

 

「坂梨さん」

 

「それじゃ姉弟子、中に入りましょうか」

 

私は、棋士としての礼節を弁えるために、八一には会館内や将棋に関わる場では今まで通り姉弟子と呼ぶように言いつけてある。だけど、それ以外では、なるべく銀子ちゃんと名前で呼んで欲しいと思ってる。ここは会館の目の前とは言え、八一の言う通り外ではある。普通なら名前で呼んでも良さそうな場所だけど、私達は以前に一度この場所で名前の件に関して頓死するほど恥ずかしい目にあっている。その渦中の人物が、坂梨さんだ。あの出来事は、思い出したくもない。八一もそう思っているのだろう。坂梨さんの名前を出すと直ぐにいつも通りの姉弟子呼びモードに切り替わった。

 

「八一さん、銀子さん、ハッピーハロウィン!」

 

会館に入った私達を最初に出迎えてくれたのは、史上初の小学生プロ棋士である椚創多だ。当然彼も今日は仮装をしている。今日は、関西棋士による仮装パーティーがこの会館で行われる。仮装対局なんてイベントも催されるものだから、面白がった報道陣も相当数が入るらしい。

 

「創多、ハッピーハロウィン」

 

「ハッピーハロウィン創多。その仮装は……」

 

創多の仮装は、黒で統一されていた。杖を持ち、特徴的な帽子を被ったその仮装は……

 

「魔女?」

 

「銀子さん、魔法使いって言って下さい。女、じゃないです」

 

だ、そうだ。私服を着てると女の子とよく間違われるらしいけど、本当に今の創多は魔女っ子に見えてしまった。中性的なその容姿は、本当に女の子と言われても違和感が無い。

 

「あらあら皆さんお揃いで。こないな所で何をしてはるんどす?」

 

そして、入り口からまた一人新たな仮装者が現れた。供御飯万智だ。声は供御飯万智だ。しかしその顔は狐面によって隠れていた。狐耳に尻尾まで付けて、狐尽くしだ。

 

「供御飯さん、今日は記者モードじゃないんですね」

 

「今回は棋士として参加するように会長さんから仰せつかったんどす。こなたは、良い機会やから取材したかったでおざるに、残念やわぁ」

 

「関西棋士は全員参加するように言ってましたからね。僕も、本当ならこんな格好したくなかったんですけど」

 

それは私だってそうだ。なんで好き好んでこんな格好を人前でしなければいけないのか。ハロウィンなんて、日本には必要無いと思う。

 

「最近、ハロウィンに対する国民の関心の増加は著しいですからね。ハロウィンイベントは、例年その数、勢いを増してきています。将棋界としても、この流れに乗らない手は無いでしょう」

 

私達が今回の催しに対する愚痴を言っていると、会館の奥から一組の男女が現れた。私達は、その姿を見て、思わず顔を強ばらせる。まるで見計らったかのように、嫌なタイミングでの登場だった。月光会長と、その秘書の男鹿さんだ。おそらく男鹿さん

が見繕ったのだろう。会長は、神父服を身に纏っていた。恐ろしいほどに似合っている。その横にいる男鹿さんはシスター服を着ていた。デザインまで似せて、会長とペアルックと言ったところだろうか。ちゃっかりしている。

 

「皆さん、丁度良いところに集まって下さってました。皆さんを探してたのですよ。男鹿さん、全員集まってますね?」

 

「はい会長。男鹿の見間違いで無ければ、会場にまだ集まってない九頭竜龍王、椚四段、空四段、供御飯山城桜花、全員集まっております」

 

「よろしい。では男鹿さん、説明を頼みます」

 

「はい。先ほど、本日行う対局の対戦カードを発表致しました」

 

「あれ?俺たちもしかして遅刻しました?」

 

「いえ、記者陣から早く対戦カードだけでも発表して欲しいという催促があったもので、その発表だけ前倒しにしました。遅刻では無いのでご安心下さい。それと対戦カードですが、九頭竜龍王は生石充九段と、供御飯山城桜花は杓子巴女流二段とお願いします」

 

八一の相手は生石さん。今の関西棋士で、八一の相手が勤まるのは生石さんか会長ぐらいだろう。流石に、今は師匠でも無理だと思う。また八一に負けて、こんな大々的な場で粗相(そそう)をされたら堪った物では無い。供御飯さんの相手は、確か高知出身の女流棋士だっただろうか。私としても、そこまで面識は無い。只、仮にも女流タイトル保持者である供御飯さんの対戦相手としては心許ない気がする。それだったら、まだ小童や黒い小童の方が……あぁ、なるほど。きっとあの二人が対局するのだろう。それで、仕方なく関西の女流棋士でも強い人を選んだけど、杓子さんしかいなかったということだろう。と、そこで私は気づく。そう言えば、私の対戦相手は?供御飯さんの対戦相手は、それなら私でも良かっただろう。

 

「会長。私と椚四段の対局相手は?」

 

「空四段と椚四段は、今回の対局は見送りました。お二人がプロ入り後、公の場で初対局をするならば、それは公式戦の場が良い。そう考え、今回の非公式戦は不参加です」

 

なるほど。そういう理由なら納得した。……ん?だったら、私達が来る意味は無かったのでは。

 

「それとは別に、お二人にはメディアへのサービスはしっかりしていただきたい。お二人とも、世間受けは非常に良いですからね。節度を守った範囲で、しっかりと世間の皆さんにアピールしていただきます。将棋界の為に、よろしくお願いします」

 

私の考えていることを読み取ったのだろう。会長がそのように理由を説明してくれる。要するに、客寄せ目的ということだろう。そう考えると良い気はしないが、私としても将棋への関心は増えて欲しいと思っているので、ここは我慢することにする。

 

「それでは皆さん、引き留めてしまってすいません。もうすぐお食事会が始まりますので、会場までお急ぎ下さい」

 

そう言って、会長は男鹿さんと共に会館の奥へと去って行った。おそらく先に会場へと向かったのだろう。この後は、会長の挨拶を皮切りに報道陣も巻き込んだお食事会が始まる予定だったはずだ。その為の準備をするために、先に向かったのだろう。

 

「それじゃ、俺たちも会場に向かいますか」

 

八一の言葉に従い、私達は会場へと向かった。会場内に入るとそこには、既に多くの関西棋士が集まり、それに混ざりちらほらと記者と思われる方々の姿も見える。私達が会場に入ると、会場内の視線が全てこちらに集まる。それも、このメンバーなら当然だろう。

 

現在防衛戦の真っ只中にある、言わずと知れた棋界最高位タイトル、竜王の保持者、わ、私のか、か、かぇちでもある九頭竜八一。今年4月に行われた防衛戦を見事に制し、女流史上二人目となる女流永世位、クイーン山城桜花の称号を獲得した供御飯万智。史上初となる小学生プロ棋士となった椚創多。そして、史上初となる女性プロ棋士となった私、空銀子。このメンバーが同時に会場に入ってきたのだ。今日の参加者の中でも最後に入場したこともあって、嫌でも注目されてしまう。

 

「なんだ。最後に登場するとは、流石竜王。偉くなったな、八一」

 

入場した私達に、最初に話しかけてきたのは生石充九段。何故か季節外れのサンタの仮装をしている。隣で、八一が必死に笑いを堪えてる。私も苦しい……

生石さんが、あの生石さんがあんな付けヒゲまで付けて、真っ赤な服と帽子で……

 

「ちゃ、茶化さないで下さいよ、生石さん。お、生石さんこそ、め、珍しいですね。ふ、普段からあまり会館に来ないのに、こ、こんな催し物の時に、そ、そんなか、仮装まで、仮装、も、もうダメ……ククク、ぶっひゃひゃひゃひゃ!」

 

「おいこら八一お前何笑ってやがる!銀子ちゃんまで笑うんじゃねぇ!クソッ……会長に絶対に来るように厳命されちまってな。仮装もして来るように言われてたんだが、そんなことできるか、って普段通りの服装で会館に来たら、入り口で黒い服の連中に取り押さえられてよ。気づいたらこの格好させられてた訳だ。あの会長、次の対局覚えてろよ」

 

珍しく取り乱す生石さんは、見ていて面白かった。確か、生石さんの次の順位戦の相手が会長だったはずだ。これは、会長に冥福を祈っておいた方が良いのだろうか?

 

「八一、お前もだ。聞いただろ?今日のお前の対局相手は俺だ。帝位リーグでの分も纏めて捌いてやる。覚悟しておけ」

 

「く、くくく、も、勿論です、俺はま、負けないですよ……ぶひゃひゃひゃひゃ!」

 

「お前流石に笑いすぎだろ!」

 

生石さんの言うことは尤もだ。だけど、私は敢えて八一を庇う。これは、ふ、不可抗力だ。

 

「銀子ちゃんも笑いすぎだ!」

 

「いやー、一年分くらい笑った気がします」

 

「そうか。わかった。後で笑う余裕も無くしてやるから、覚悟しておけ」

 

生石さんはそう言い残すと、不機嫌な様子を隠すことも無く、私達の元から離れていった。生石さんには正直、悪いことをしたと思っている。だけど、これは無理。抑えられるわけが無い。

 

「お二人とも、流石に生石先生が可哀想ですよ」

 

「そうどす。せやけど、こなたもあれは不可抗力やと思うでおざるよ」

 

供御飯さんが、私達のことを庇ってくれる。私は見逃していなかった。私達の後ろで、背中を向けて肩をひくつかせていた彼女の姿を。つまり、彼女も私達と同罪なのだ。平気な顔をしてた、創多が異常なのだ。

 

「ししょー!」

 

私がジトっと供御飯さんのことを見つめて、それを供御飯さんにスルーされていると、私達に向かって駆けてくる小さな姿があった。八一の1番弟子である、雛鶴あいこと、小童だ。小童は、白い羽を付けて、黄色い輪が、頭上に配置されるように作った、特殊なカチューシャを付けていた。どうやら、天使の仮装らしい。

 

「あい、待たせて悪かったね」

 

「全然気にしてないですよ!私も今来たところですから!えへへー♡」

 

なんて、デートの定番文句みたいなことを言っている。だけど、私は気にもとめない。小童が、八一にいくら詰め寄ろうが関係無い。だって八一は既に私のか、か、かぇちなんだから。私は、八一を信じてどっしりと構えていればいい。後で、この分も含めて八一にお返しを貰おう。お返しポイント1点だ。

 

「く、九頭竜先生!お久しぶり、です!」

 

そして、小童と同じ天使の仮装をした少女が話しかけてくる。確か、貞任綾乃という名前だっただろうか。小童が所属している研究会の一員で、研修会員だったはずだ。

 

「綾乃も来てたんやなぁ。その仮装、良う似おうとるわぁ」

 

「万智姉様!ありがとうございます、です!」

 

「ちちょー!」

 

そして、3人目の登場だ。確か、この研究会は4人所属していたはずだけど、その内の一人はこの夏海外に引っ越してしまったらしい。なので、この最年少の少女が研究会メンバーの最後の一人だ。確かフランス人で、名前はシャルロット・イゾアールと言っただろうか。八一のお嫁さんを自称する、最重要危険人物だ。そもそも、今も隣で鼻を伸ばしてるこのロリコンが何を思ったのかお嫁さんにしてあげると言ったのが発端らしいが。

 

「天使って、実在したんだな……」

 

今も金髪幼女の天使姿を見て、何やら戯れ言をほざいている。どうやら小学生三人は、天使の仮装で統一したらしい。これは、ロリコンには堪らない仮装なのだろう。現に、横に突っ立っているロリコンは、心底幸せそうな顔で三人、主に金髪幼女のことを見ている。私は、そんな八一の姿を見て、無性にイライラしてきたので、八一の足の甲を思いっきり踏み抜いた。

 

「いったぁ!?あ、姉弟子、いきなり何するんですか!?」

 

「べっつに。八一がロリコンなのは、今に始まったことじゃないし?私は気にしてないし?」

 

「思いっきり気にしてるじゃないですか!そもそも俺はロリコンじゃないです!」

 

「はいはい。わかったからロリコンさん」

 

「全然わかってない!そもそも、俺はもう姉弟子と」

 

「師匠!お腹空いてないですか?もうすぐお食事会が始まりますよ!私とあっちに行きましょう!」

 

八一が最後まで言葉を紡ぐ前に、小童が私達の間に割って入る。度々、小童はこうやって私達の間に入ってきては八一の気を引こうとする。私が東京で入院して、八一と大阪に帰ってきた頃からだろうか。小童の積極性が以前よりも更に増したのは。八一はもう既に私のものとはいえ、八一がロリコンなのは紛れもない事実。こうも積極的に来られると、八一が流されてしまわないか少し不安になってしまう。八一の手綱は、私がしっかり握っていないと。

 

「どこにいっても一緒でしょ。ここで大人しく始まるのを待ってなさい」

 

「おばさんは関係ありませーん。私は師匠とあっちで待機するんですー」

 

「八一はここで私と一緒にいたいよね?」

 

「師匠、そんなことないですよね?私とあっちで待機してましょう!」

 

「え?えー」

 

「ちちょー?おかお、あおいよ?だいじょーぶ?」

 

「あ、あぁ、大丈夫だよ、シャルちゃん、あ、あははは」

 

「ま、万智姉様、しゅ、修羅場が発動してるです……」

 

「これは、良いネタになりそうどすなー」

 

「えっと、僕達は離れた方がいいんでしょうか?」

 

何やら外野がうるさいけど、今はそんなのどうでもいい。今重要なのは、八一の意思だけだ。私を選ぶのか。小童を選ぶのか。

 

「師匠!早くあっちに行きましょう!」

 

「待ちなさい。八一、冷静に考えてみなさい。態々あっちに行く必要がある?私とここで待機してなさい。それが今の最善手よ」

 

「確かに、言われてみれば態々あっちに行く必要も無いかな。わかりました。ここで待機してます」

 

「えー!?そ、そんな……」

 

「ふっ、私の勝ちね」

 

「……だらぶち」

 

「何?負け犬が何を言っても聞こえないわ」

 

私は、余裕の笑みを浮かべて小童のことを見下ろした。これが、正妻の余裕というやつ?小童が何を言おうが、もう私には届かない。後日、桂香さんにこの話をすると、自分のことを正妻と表現するのは側室が八一に着くのを認めるようなものだと言われた。もう二度とこんな表現は使わないと強く心に誓った。

 

「はぁ、こんなところであんた達は何馬鹿騒ぎしてるのよ」

 

私が小童を、余裕を持って見下ろしているとまた一人新たな人物が現れた。八一の2番弟子である夜叉神天衣こと黒い小童だ。いつもの黒い服に、少しギザギザした黒い羽を付けて、頭に赤い角を付けている。悪魔の仮装のようだ。

 

「お嬢様ああああ!あぁ、お嬢様ああああああ!」

 

何やら、変態じみた女性がカメラを黒い小童に向けて、鼻血を噴出しながらシャッターを凄い勢いで切り続けている。確か、池田晶という名前だっただろうか。正真正銘のお嬢様である黒い小童の付き人だったはずだ。そんな彼女を、黒い小童は慣れた様子でスルーしている。きっと、黒い小童も苦労しているんだろうなと、私は少しばかり彼女に同情をした。

 

「あら?先生、またネクタイが歪んでるわよ。直してあげるから、少ししゃがんでくださる?」

 

「ん?あぁ、悪い」

 

黒い小童が、八一のネクタイを直す。八一は今日、マントをしているが、その中は只のスーツだ。マントの中のネクタイが歪んでいたのを、黒い小童は見逃さなかったらしい。

 

「こうしてると、なんだか新婚になった気分ですわね」

 

「んな!?」

 

黒い小童の放った言葉に、八一が驚いて声を上げる。当の黒い小童は、挑発するような視線で、私のことを見てきていた。やっぱり、さっきの同情は取り消すことにした。黒い小童も、ここ最近どうも八一に対して積極的になっている節がある。八一も八一で、黒い小童との間に何やら隠し事をしているような雰囲気がある。確か夏頃に、黒い小童に誘われて二人神戸でディナーを取ったという話は八一に聞いたことがある。だけど、その内容に関しては一切八一は話そうとしない。何度聞いても、いつも顔を赤くして逃げられる。流石に、浮気では無いとは思うが、あの二人の間に何かがあったのは間違いない。今度、ジックリと八一の体に教えて貰おうと思う。痛みを代償に。

 

「いい加減、八一から離れたら?人目に着く場所でそんなことして、竜王の威厳に関わるでしょ」

 

「歪んだネクタイでいる方が竜王の威厳に関わると思わなくて?だーれも気にもかけていなかったみたいだから私が直してあげただけよ。それとも、おばさんの目はそんな些細な事にも気づかないほど節穴なのかしら?」

 

「ぶちころすぞわれ」

 

八一との隠し事のこともあって、小童以上にこの黒い小童の挑発には過敏に反応してしまう。こうして、私と八一の弟子との第2ラウンドは始まった。

 

「ま、万智姉様、これは流石にマズイと思いますです……」

 

「こなたも、そんな気がしてきたどすな。」

 

「八一さんの人気も困りますねぇ。一層のこと、僕も加わっちゃおうかな」

 

「創多、冗談でもそんなこと言うんじゃない!あぁもう、誰でも良いから止めてくれよ!」

 

「竜王さんの蒔いた種どすからなぁ。自分でなんとかしてくださいなぁ」

 

「無理だよ!だ、誰か、助けてください!」

 

「お集まりの皆様、長らくお待たせしました。これより日本将棋連盟主催、ハロウィン将棋パーティー関西版を開催致します」

 

八一が会場の中心で、瞳を閉じて叫んでいると、月光会長の声が会場中に響き渡った。因みに、パーティー名に関西版と付いているのは、関東は関東で集まって、全く同じ催しをしているかららしい。これは後から聞いた話なのだが、今回の催しが成功した場合、来年からは関東、関西合同で、一般客も招き入れてもっと大規模に行う予定らしい。そして、見事に世間から高評価を得たため、来年からの大々的な開催が決定したらしい。迷惑な話だ。

 

「か、会長……今日ほど、あなたに感謝した日はありません……」

 

「八一?何言ってるの?」

 

何やら八一がよくわからないことを呟いている。尋ねても返事が無いので無視することにした。きっと、下らないことに違いない。そして、会長の挨拶もそこそこに、お食事会が始まる。メニューも豊富な料理達が、ズラリとテーブル上に並べられている。その料理を、バイキング形式で皆が順番に取っていく。

 

「うにゅー、ちちょー、とどかにゃいー」

 

「シャルちゃんの分は俺が取ってあげるよ。何が食べたい?」

 

八一が器用に二人分の料理を盛っていく。だけど、トレーを二つ持ちながら、料理を入れていくのは大変そうだ。一々、トレーを置いて、持ってを繰り返している。仕方ないわね。

 

「ほら、私が盛ってあげるから、トレーを持ってて」

 

「姉弟子……ありがとうございます!」

 

私が、トングを使って八一が持ったトレーに次々と指示された料理を盛っていく。私自身の分も含めて、三人分盛っているので、流石に少し面倒くさくなってくる。さっさと取る分取って、席に着きたい。

 

「あらー?なんだか我が子の分まで共同作業で盛り付けるご夫婦みたいじゃなーい!」

 

「ッ!ゴホッ、ゴホッ!」

 

思わぬ不意打ちに、思わず咳き込んでしまう。危ない。料理に向けて咳をかけてしまうところだった。直前で顔を背けるのが間に合って良かった。八一も、思わずトレーを落としてしまいそうになっている。私は、そんな不意打ちを食らわせてくれた張本人に向けて、文句を言い放つ。

 

「ちょっと桂香さん!いきなりそんなこと言わな、い……で……?」

 

文句を言い放ったのだが、桂香さんの方に目を向けるなり、私の言葉は尻すぼみになってしまった。そこには、立派なお山を強調したバニーがいた。……え?なんで桂香さんがこんな格好を?

 

「け、桂香さん……?その格好は……?」

 

「わ、私だって好きでこんな格好しているわけじゃないのよ!ただ、朝から用事があって、その用事を終わらせてから、仮装もしないまま会館に直行したら、入り口で黒い服の人達に止められて、こんな格好させられたのよ……」

 

どうやら、生石さんと似たようなパターンらしい。黒い服の人達、一体何者なの?

 

「我々夜叉神家が、本イベントのメインスポンサーとして協力しております」

 

どうやら、黒い小童の家が関わっているらしい。付き人の女性がそう説明してくれた。なるほど。今回の催しは、一般人の参加は認められていないのだけれども、どうしてこの付き人がここまで入れてるのかが疑問だったのだが、これで謎が解けた。……ん?そういえば、メガネ幼女は研修会生だからセーフだとして、金髪幼女の方は研修会にも入っていないから、参加資格は無いはず。なのに、どうしてここに?……きっと、考えても無駄だろう。八一補正だとでも考えておこう。本当に、このロリ製造器は。

 

「お、俺……今まで生きてて良かった……」

 

隣で、鼻血を垂れ流しながらバカが呟く。早く拭き取らないと、料理に垂れ落ちてしまう。本当に、我がか、かぇちながら、女に見境が無い。私の心労は、また今日も増すことだろう。

 

「ちちょー?おはなから、ちがでてりゅよー?だいじょーぶー?」

 

「しゃ、シャルちゃん、今はそんな下から覗かないで。悪化しちゃうから」

 

金髪幼女の上目遣いに、バカの鼻から噴出する血の勢いが増した気がする。前門の巨乳、後門のロリと言ったところだろうか。今もなお、八一は顔を赤くして、鼻から血を吹き出して立ち尽くしている。これは、お仕置きが必要みたいね。

 

「やいちぃ?」

 

「あ、姉弟子、これは違うんです。これは、そう、条件反射なんです!男だったら誰でもこうなっちゃうんですよ!だから俺は悪くない!」

 

「ほう?言いたいことはそれだけ?」

 

「……はいぃ」

 

言い訳を終えた八一に向かって、私は拳を握りしめる。優しい私は、八一にトレーを置く時間だけは与えてあげる。トレーを置き終えた八一に向かって、私は拳を振りかぶった。

 

「今すぐ頓死しろ!」

 

綺麗な放物線を描いて、八一は床に倒れ伏して気を失ったのだった。全面的に八一が悪い。

 

 

 

 

 

 

 

 

「うっ、ここは?」

 

あれから2時間ほどが経っただろうか?八一が眼を覚ました。自分に何が起こったかわかっていないようで、目の焦点も定まっていない。

 

「起きた?」

 

「あれ?銀子ちゃん、ここは一体……」

 

「ここは会館。会館内なんだから、姉弟子と呼ぶように」

 

八一が私のことを寝ぼけて名前で呼んできたので、釘を刺しておく。少しずつ、八一は記憶が定まってきたのか、目の焦点も定まってきた。

 

「あ、すいません姉弟子。そうか、今はハロウィンパーティー中なんでしたね。……あれ?俺はなんでこんなところで寝てたんです?」

 

「バナナの皮で滑って、頭を床に打ち付けて気を失ってたの」

 

どうやら、気を失う直前のことはすっかり忘れてしまっているようなので、私は新しい記憶を八一に植え付けておくことにした。完璧な判断だ。

 

「バナナの皮で?そんな古典的な理由で気を失ってたんですか……ってそうだ。飯の時間だったんですよね。思い出したら腹が減ってきました」

 

「残念。お食事会は終わってもう対局の時間よ」

 

「え!?」

 

そう。たった今、お食事会の時間は終わったのだ。今からは、今日のメインイベント仮装対局の時間だ。既に、対局者は対局の準備に取りかかり始めている。

 

「早くしないと、生石さん怒ってるわよ」

 

「えぇ!?只でさえ、さっき怒らせてるのに、これはマズイですね……姉弟子、行ってきます」

 

「ん。頑張って」

 

「あ、でも、空腹で力が出ないな-。このままだと、いつも通りに指せないかもしれないなー」

 

八一が、態とらしい口調で、私のことをチラ見しながらそんなことを言ってくる。その目は、何かを期待するかのように煌めいていた。

 

「……何が言いたいわけ?」

 

「いえね、姉弟子が、俺が勝てば何でも言うことを聞いてくれるって約束してくれれば、いつも通りに、いえ、いつも以上の将棋が指せそうだと思いまして」

 

「はぁ!?なんで私がそんな約束しないといけないの!?」

 

「あぁ、空腹で目眩がしてきた……ほら、ここはお腹をすかせた憐れな弟弟子を救うつもりで、どうか一つ」

 

「くっ……わかった」

 

私は、八一との約束を了承してしまう。さっきのことに、ほんの少しの罪悪感があったのも、その選択に拍車をかけた。あれは八一が悪いのだけれども。

 

「マジですか!?よっしゃ!俄然やる気が出てきましたよ!巨匠がなんぼのもんじゃい!」

 

「八一、キャラが壊れてる」

 

お前は誰なんだと言いたくなるほどテンションが高くなっている八一。今の八一なら、名人と於鬼頭二冠と会長相手に三面指しをしても圧勝してしまうかもしれない。そう思わせるほどに、手が付けられないような雰囲気を持っていた。

 

「それじゃ姉弟子、改めて行ってきます」

 

「はいはい。いってらっしゃい」

 

八一は、意気揚々と生石さんが待つ対局スペースへと向かっていった。私も、その後に続いて八一の対局の見学へと向かう。対局スペースに着くと、早速生石さんが八一に声をかける。

 

「遅かったじゃねーか。俺の怒りを恐れて逃げ出したかと思ったぜ」

 

「逃げるなんてとんでもないですよ。ふっふっふっ、生石さん、今の俺は絶好調ですよ。生石さんが相手でも、一切負ける気がしません」

 

「なんだ?まるで、銀子ちゃんにこの対局で勝ったら何でも言うことを聞いてあげるって約束してもらえたようなテンションの上げ方しやがって」

 

「何で知ってるんですか!?」

 

「マジだったのかよ……」

 

私は、その会話を聞いて思わず頭を手で押さえる。頭が痛くなってきた。この対局スペースには、報道陣も多数詰めかけているのだ。しかも、八一と生石さんの対局は今日のメイン対局。詰めかけた報道陣の数もかなりの数になっている。今の会話を聞いて、報道陣がスクープだ!と言ってざわついている。この場に留まっていてはマズイ。私は、逃げるように他の対局スペースへと離れていった。

 

「今日のワシは絶好調や!どこからでもかかってき!」

 

次に向かった対局スペースでは、私と八一、桂香さんの師匠、清滝鋼介九段が対局を行っていた。といっても、一見それが師匠には見えない。声が聞こえたから師匠だとわかっただけだ。そこにいたのは、タヌキだったのだ。タヌキの着ぐるみが、対局を行っていた。

 

「あ!?しもうた!?この格好やと駒が持てん!?」

 

どうやら、開局早々勝敗が付きそうだ。あれが私の師匠だと思いたくない。さっさとこの場所を離れよう。

 

「ん。この格好だと、どうも空気が悪く感じますね。誰か、私のカバンから空気清浄機を取ってくれませんか」

 

次の対局スペースには、もっと不気味な者が対局を行っていた。お地蔵さんだ。お地蔵さんが対局を行っていた。その声で、中にいる人が久留野七段だということはわかった。なんで、こんな仮装のチョイスをしたんだろうか。師匠と違って、久留野先生は手の部分が取り外せるように着ぐるみを改良していた。流石久留野先生。師匠とは違う。師匠とは。私は、久留野先生が求めている物を取り出そうと、久留野先生のカバンに手を伸ばした。しかし、その手は途中で止まってしまった。カバンが、3つあったのだ。

 

「久留野先生、どのカバンですか?」

 

「ん?その声は空四段ですか。ありがとうございます。真ん中のカバンです」

 

私は久留野先生に言われた通り、真ん中のカバンから空気清浄機を取り出して、久留野先生に渡した。

 

「ん。ありがとうございます。空四段の御陰で、快適に対局ができそうです」

 

「それは良かったです」

 

久留野先生は、その後対局に集中し始めたので、私は静かにその場を離れて、次の対局スペースへと向かった。次の対局スペースで行われていたのは、女流二段と女流初段の対局だった。

 

「来なさい。踊ってあげる」

 

黒い小童が、挑発するかのように対局者へ声をかける。声をかけられた対局者は、極度の集中状態に入っているようで、その声が聞こえていないようだ。盤面に顔を近づけて、小刻みに前後に揺れている。

 

「こう……こう……こう、こう、こうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこう……こうっ!」

 

小童が、果敢に黒い小童の陣地へ切り込む。それを、黒い小童は余裕の表情で受けていく。黒い小童は、受けの技術に優れている。対する小童は、認めるのは癪だが、終盤力に関しては私よりも上だ。認めるのは癪だが。対局は早くも終盤の様相。超急戦でも仕掛けたのだろうか。開局してまだ時間は余り経っていないはずなのだが。まぁ、天使と悪魔の対局も見所ではあるけど、他の対局スペースも見て回りたい。私は、他の対局スペースに向かうことにした。

 

そしてその後、私は数カ所の対局スペースを回って、八一の対局に戻る。そろそろ中盤には突入してるかと思い、その場所を訪れたのだけど、そこには、驚きの光景が広がっていた。

 

「誰も、いない……?」

 

そう。そこには誰もいなかったのだ。対局者二人はおろか、報道陣でさえも。これはどういうことなのだろうか?

 

「あ、銀子さん。遅かったですね」

 

私が状況を理解できずに立ち尽くしていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、そこには創多が立っていた。

 

「創多、これはどういうこと?」

 

「もう、対局が終わったんですよ。八一さんの完勝です」

 

「え?」

 

早すぎる。いくら何でも早すぎる。確かに、今回のルールは持ち時間10分の早指しルールだったけれども、それを踏まえてもいくらなんでも早すぎる。相手があの生石さんだということを考えると、尚のことその異様さが際立つ。生石さん相手に、そんなあっさりと短時間で終わらせてしまうなんて。そんなに、あの約束は効果覿面だったということだろうか?

 

「そういえば銀子さん。八一さんが探してましたよ。僕も聞いてましたけど、あんな約束して良かったんですか?」

 

「……良くなかったかもしれない」

 

私は今になって、あの約束を後悔していた。一体八一は、私にどんな要求をしてくるのだろう?私は身震いする体を抑えながら、イベントが終わるその時を待つのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

イベントが終わると、私と八一は会館近くにあるワンルームマンションの801号室へとやってきていた。ここは、私が研究用に購入したマンションだ。将棋の研究に集中できるように、家具の類いはほとんど置いていない。

 

「それで、ここに連れてきて、八一は私に何をさせる気?」

 

「ふっふっふっ、よくぞ聞いてくれました!」

 

八一はもったいぶって、中々本題に入ろうとしない。その顔はニヤニヤしていて、思わず手が出そうになってしまう。

 

「今日って、ハロウィンだよね?」

 

「そうね。で、それがどうしたの?」

 

「ハロウィンといえば仮装だよね?」

 

「そうね。さっきまで私達もしていたわけだし」

 

私達は、イベントを終えて、既に服を着替えている。八一は至って普通の私服に、私はいつもの高校指定のセーラー服に。着替えたと言っても、私の場合は耳と尻尾を外しただけだが。

 

「今日俺が着てたマントって、実は歩夢に送ってもらった物なんだよね」

 

へぇ、どうりで似てると思った。歩夢君がいつも身につけているのは白いマントで、八一が今日着ていたのは黒いマント。色は違うけど、デザインは似通っている。確か以前に、歩夢君に黒のマントも発注できるという話を聞いたことがある。おそらく、八一用に黒のマントを発注してくれたのだろう。

 

「で、それがどうしたの?」

 

「歩夢といえば、歩夢の師匠の釈迦堂さんのお店に行った時のこと覚えてる?」

 

「えぇ、まぁ、覚えてるけど」

 

あれは本当に恥ずかしい思い出だった。釈迦堂さんに負けた私は、八一の目の前でゴスロリチックなドレスを着させられて、しかもそのまま大阪まで帰らされたのだ。思い出しただけで、思わず頓死したくなってしまう。ま、まぁ、八一に似合ってるとか、可愛いとか言ってもらえたのは、凄く嬉しかったけど。

 

「で、結局何が言いたい」

 

「実はですね」

 

八一は、そう言うと部屋にある押し入れを勢いよく開ける。そこには、私の見覚えの無いものが詰め込まれていた。巨大な段ボール箱だ。

 

「……その箱は?」

 

私は、この時それはもう、もの凄く嫌な予感がしていた。原宿の話から入って、この箱。これは、まさか……

 

「釈迦堂さんに、銀子ちゃん用のコスプレ衣装を大量に送って頂きました!」

 

「うひゃ!?」

 

私の嫌な予感は、見事に的中してしまった。思わず、変な声が出てしまう。この後の展開も読めてしまってる私は、段々と顔色が悪くなってるのを自覚している。

 

「というわけで、俺からのお願いは……銀子ちゃんのコスプレ撮影会がしたい!」

 

「む、無理に決まってるでしょ!ば、バカじゃないの!?そもそも、私の知らない間にこんなの部屋に持ち込んで、さては八一、こうなることを最初から計画してたわね!?」

 

八一にはこの部屋の合い鍵を渡してある。私が三段リーグを闘ってる間は、ある出来事を切欠に取り上げていたのだけれども、四段に昇段した今、再び八一に預けるようにしている。それが、災いした。私の居ない間に、八一はあらかじめ、あの大きな荷物をこの部屋に運び込んでいたらしい。

 

「計画?はて、何のことやらわからないね」

 

「くっ、白々しい……」

 

「そんなことよりも、早速始めようか」

 

「だから、できるわけ……」

 

「あれー?銀子ちゃん、まさか一度した約束を破っちゃうの?まさか、そんなことしないよね?棋士に、二言は無いよね?」

 

「くっ、……わかった。やればいいんでしょ」

 

私は半ば投げやりになりながら、八一の挑発じみた発言に応える。私だって歴とした棋士だ。一度指した手には、最後まで責任を持つ。

 

「流石銀子ちゃん!というわけで早速、この衣装からいこうか!」

 

「はぁ、わかったわ」

 

私は八一から衣装を受け取ると、脱衣所に入って着替える。その衣装は、非常に見覚えのある衣装だった。て、この衣装は……

 

「……着替えたわ」

 

「おおおおおおおおおお!!!!!!!!」

 

私が脱衣所から出ると、八一が凄い勢いでシャッターを切ってくる。いつの間にカメラなんて用意してたんだろうと考えて、きっと衣装と一緒にあらかじめ部屋の中に置いてあったのだろうと自己完結する。八一のその姿には既視感があった。そうだ。あの黒い小童の付き人の女性に似てるのだ。今なら、黒い小童の気持ちもわかるかもしれない。

 

「すげー、すげーよ……」

 

八一は、鼻息を荒くして私のことを只管に撮影し続けている。今私が着ているのは、原宿でも着たあのゴシックドレスだ。あの時の記憶が鮮明に蘇ってきて、恥ずかしさに身悶えそうになる。

 

「うぅ、やいちぃ、あまり撮らないでぇ……」

 

「ぐはぁ、その表情、ダメだよ銀子ちゃん……俺、可愛すぎておかしくなっちゃう……」

 

「ひょわ!?か、可愛い?」

 

「うん!すげー可愛い!正に天使!」

 

「て、天使だなんて、そんなぁ♡」

 

「あぁ、その表情も堪らない!銀子ちゃん、もっと!」

 

「しょうがないなぁ、もう、やいちってばぁ♡」

 

私は、八一に煽てられ、調子に乗ってポーズまで取り始めた。なんだか、八一に可愛いと言われると、頭が蕩けちゃって、もっと言って欲しくて八一の要求にどんどん応えていってしまう。これは、麻薬の一種なのかもしれない。八一の可愛い発言には、危険な効果がある。その後も私は、かなり際どいサキュバス衣装や、マニアックなブルマ、挙げ句の果てにはスク水まで着させられてしまう。けど、八一が可愛いと言ってくれるから、私はどんな要求にでも二つ返事で頷いていた。

 

「これで、最後だね」

 

「最後はどんなコスプレ?」

 

「なんでも、雪女みたいだね。銀子ちゃんに凄く似合いそうじゃない?」

 

「さぁ?それじゃ、着替えてくる。衣装は?」

 

「この箱に入ってるみたい。見るのは楽しみに取っておきたいから、このまま銀子ちゃんに渡すね」

 

「わかった」

 

私は、八一から箱を受け取ると、何度目かもわからない脱衣所への入室を果たした。そこで、箱の蓋を開ける。

 

「これって……」

 

こんなもの、着慣れてる人じゃないと一人で着れないじゃない。釈迦堂先生は何考えてこんなもの送ってきたんだろう。まぁ、私は着慣れてる人間だから、別に問題は無いけれども。私は()()()を終えると、脱衣所から外へと出た。

 

「お待たせ」

 

「……え?」

 

私が外に出ると、八一は呆気にとられたような表情を浮かべて固まってしまった。どうしたのだろうか?因みに、私が着ているのは白い着物だ。白い着物に、青と白を織り交ぜた帯を巻いている。

 

「か……」

 

固まっていた八一の口が開く。しかし、その口は中々言葉を紡げない。

 

「か、か、か」

 

「八一、何言ってるの?」

 

「か、完璧なかわいさだ……」

 

「ひゃう!?」

 

八一の言葉に、私はまた思わず変な声を出してしまう。完璧なかわいさ。その表現は以前にも一度聞いたことがある。あれは、三段リーグ最終戦を終え、東京で入院していた時だ。八一が病室で眠る私に向かって、そんなことを言っていた。……まぁ、あの時の私は寝ていたため、言っていた気がしたというだけだが。

 

「……ダメだ、俺、もう耐えられそうにないや……」

 

「八一、どうかした?」

 

「銀子ちゃん、今日ってハロウィンだったよね?」

 

「そうね。って、さっきもそれ確認したじゃない」

 

「ハロウィンといえば、お約束の言葉があるよね」

 

「えぇ、まぁ、確かにあるけど」

 

「じゃあ、今から俺がその言葉を言うね」

 

「まぁ、いいけど。急にどうしたの?」

 

「Trick or Ginko」

 

「……え?」

 

Trick or Ginko?それを言うなら、Trick or Treatじゃないの?それってどういう意味?

 

「銀子ちゃん、Trick or Ginko」

 

「ちょ、ちょっと、八一……」

 

そう言いながら、八一は徐々に私との距離を詰めてくる。だから、Trick or Ginkoってどういう意味?元の、Trick or Treatはお菓子をくれなきゃ悪戯しちゃうぞって意味よね。Treatは、もてなしという意味で、Trickは悪戯という意味。直訳すると悪戯かもてなしとなる。で、子供達にとってのもてなしというのがお菓子だから、お菓子をくれなきゃ悪戯しちゃうぞ、という意味で使われている。

 

じゃあ、Trick or Ginkoは?直訳すると、悪戯か銀子、つまり私。まぁ、八一にとってのもてなしが私だとしたら、ありえない表現でもないのかもしれない。つまり八一はきっと、銀子ちゃんをくれなきゃ悪戯しちゃうぞ、と言いたいのだ。きっと。誰に向かって?他でも無い私に向かって。それってつまり……

 

「や、八一?」

 

「Trick or Ginko」

 

「ちょ、ちょっと八一待って!」

 

きっと八一は、私のコスプレ姿を見続けて、自分の中のナニかが抑えられなくなってしまったのだ。今も、焦点の合っていない目で。私に向かって徐々に距離を詰めてきて、更には唇を私の口元に近づけてくる。ちょ、ちょっと八一!こういうことには、雰囲気とか。シチュエーションとか、色々と重要なことがあるでしょうが!何いきなり脈絡も無く始めようとしてるのよ!ばか!ばか!ばかやいち!ばかばかばかばかばか……ん……♡

 

その後、私達がどうなったのかはご想像にお任せする。ただ一つ言えることは、私達にとって生涯忘れられないハロウィンになったということだ。これはそんな、とある10月31日の一幕なのだった。




銀子ちゃんの白い着物といえば、10巻特装版!
今回の銀子ちゃんの着物は、10巻特装版の表紙をイメージしております
ふつくしい……
内容は、前半八銀with関西棋士オールスター
後半、八銀がイチャツクだけ、って感じのお話でした
関西所属のメインキャラ(棋士、女流棋士)は全員出たはず。出し忘れてる方いたら申し訳無い!
次回特別編は、11月22日、良い夫婦の日に投稿します
本編の方は、明日の20時1分投稿予定です

八銀はジャスティス


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記念対局 趣味の今昔

良い夫婦の日ということでね

pixiv様にも単体作品として同時投稿しております

合い言葉は、八銀はジャスティス


空気が冷たくなり始めた11月、私達は新幹線に乗り旅行に出かけていた。茹だるような暑さも身を引き、私にとっては過ごしやすくなったこの季節、そしてこの日に旅行に出かけるのは、私達にとっての恒例行事となっていた。そして、新幹線での移動中となれば、やることは当然決まっている。

 

「7六歩」

 

「8四歩」

 

目隠し将棋だ。私が符号を言うと、隣の彼も符号で返してくれる。これが、私達の行う移動中の定番だった。昔から変わらない、定番だった。私の名前は九頭竜銀子。隣に座る彼、九頭竜八一の妻だ。今日の日付は、11月22日。世間一般では、良い夫婦の日と呼ばれている。世間のご夫婦の方々は、仲良くお出かけに興じているのではないだろうか。私達も例に漏れず、毎年この日は旅行に出かけていた。今年は二人とも対局予定と被らず、無事に予定通りに旅行することができた。対局が被ってしまった場合は、仕方なく日を改めている。私達棋士にとって、対局は何よりも優先しなければいけない神聖なものなのだ。

 

新幹線で移動すること数時間、在来線などを乗り継ぎ、私達はお昼過ぎに、今日の目的地となる地へと到着した。そこは、とある温泉街だ。今回の私達の目的は、温泉旅行だった。私達が旅行に行く際は、温泉街が目的地になることが多い。これは、私の趣味が関係していたりするのだが。温泉は二人とも好きだし、一切の異議が出ないからいいのだ。勿論、それ以外の場所が目的地になることもあると付け加えておく。

 

「距離としては長かったけど、時間としてはあっという間だったね」

 

「そうね。もう着いちゃったのか、って感じだわ」

 

八一と目隠し将棋をしていると、時間はあっという間に過ぎていく。昔からずっとそうだった。長い移動だって、八一がいれば全く苦痛では無かった。むしろ、長い移動距離を自分から望んでいたくらいだ。

 

「こんにちは。予約していた九頭竜です」

 

「あら、どうも九頭竜先生!その節はお世話になりました!」

 

「こちらこそ、ありがとうございました。お陰様で良い将棋が指せました」

 

私達は、今回お世話になる旅館へのチェックインを行っていた。今回宿泊する旅館は、八一が以前にタイトル戦で対局を行ったことがある場所だ。その際に、八一がとても気に入ったらしく、プライベートでもう一度来たいと考えていたらしい。因みに、私はここに来たことは無い。八一と顔見知りの女将さんが、将棋の話を中心に、八一と和気藹々と談話をしている。どうやら、将棋にも詳しい方のようだ。

 

「奥様とは、初めましてですね。いつも活躍は拝見しております。日々の疲れを存分に癒やしていってくださいね」

 

「はい。ありがとうございます」

 

女将さんはそう言って、私達を部屋へと案内してくれた。館内をしばらく進み、女将さんが目的の部屋の前で止まる。

 

「着きました。ここが本日のお部屋、銀龍の間となります」

 

「なっ!?」

 

思わず、驚き声が漏れてしまう。銀龍の間なんて、そんな狙ったかのようなネーミング、普通あるだろうか?これは、冗談というわけでは無いのだろうか?だけど確かに、部屋の横に掛けられている表札には銀龍と記載されている。だとしたら、本当にそんなネーミングなの?

 

「あはは、驚いた?この旅館は、創始者の方が将棋好きだったらしくてね、旅館の部屋名が将棋の駒に関するものになっているんだよ」

 

なるほど。それなら納得した。八一が言うには、他にも金龍の間、飛車角の間、と金の間、桂香の間等があるらしい。今度桂香さんにも紹介してあげよう。

 

「以前タイトル戦で来てた時に、偶然この部屋を見かけてね。この旅館に泊まるならこの部屋がいいと思ってて、今回女将さんに無理言って抑えてもらってたんだ」

 

「お二人の活躍は本当に素晴らしいですからね。お二人の名前に縁があるこちらのお部屋は、お二人に(あやか)ろうと考えていらっしゃるお客様方から大変な人気を博しております。抑えるのは大変でしたよ」

 

「本当にありがとうございます」

 

「あ、ありがとうございます」

 

どうやら、苦労して八一の我が儘に応えてくれたらしい。私としても、こんな部屋があると知っていれば、きっと八一と同じお願いをしていたと思うから、これは私の我が儘でもある。しっかりと女将さんには、お礼を言っておいた。

 

「うわぁ……!」

 

部屋の中に入った私は、まず外の風景を見て感嘆の声を漏らす。そこに広がっていたのは、一面の青だった。青い空、青い海、そこに白い雲がアクセントを加えている。惚れ惚れするような、雄大な風景だった。

 

「ご覧の通り、当宿は海に面しております。夕食には、特産の新鮮な海の幸をご堪能頂きます」

 

「これがまた絶品なんだよ。以前お世話になった時、虜になっちゃったんだ。きっと、銀子も気に入ってくれると思うよ」

 

それはまた、楽しみが一つ増えた。これだけ海が近いのだから、さぞ新鮮な料理が頂けることだろう。今から夜が楽しみだ。

 

「それでは、私はこれで。ごゆるりとなさってください」

 

そう言い残し、女将さんは部屋から出て行った。当然のことながら、これで部屋には私と八一、二人きりとなった。

 

「これから、どうしよっか」

 

「そうだね。早速温泉に行ってもいいけど、それよりもまずは……」

 

そこで八一のお腹から鳴き声が聞こえてくる。そういえば、お昼御飯をまだ食べていなかった。八一は、気恥ずかしそうに顔を少し赤らめて、頭を掻いている。私はそんな八一を見て、思わずクスッと軽く笑ってしまった。

 

「わ、笑わなくたっていいじゃん」

 

「だって、面白かったんだもーん。さてと、それじゃお昼食べにいこ?」

 

八一も私がそう言うと、何も言い返さずに素直に私に右手を差し出してきてくれた。私はその手を握り、指を絡めていく。恋人から夫婦になっても、この右手が好きなことには変わらない。こうやって、手を繋いでいるといつだって安心できる。私達はそのまま手を繋ぎ、土地勘の一切無い街中へと繰り出していった。外に出ると、海が近いこともあり、仄かに磯の香りが鼻に届く。大阪ではまず、嗅ぐことのできない匂いだ。

 

「さて、何を食べよっか」

 

「夕食のことも考えたら、軽食程度で抑えたいね」

 

私達は、とりあえず適当に付近を歩いて回ることにした。適当に歩いて回って、適当に買い食いでもしよう。そう考え、旅館付近を散策する。温泉街ということもあり、付近は大変な賑わいを見せていた。私達の宿泊先以外にも、複数の旅館があり、飲食

店も盛んだ。

 

「これなら、食べるところには困らなさそうね」

 

「そうだね。だけど、何を食べるか迷っちゃうな」

 

確かにその通りだ。これだけ盛んだと、選択肢も多くなってくる。どのお店にしようか悩む。尤も、その悩みも旅の醍醐味と言えるかもしれないが。悩んだ末に私達は、地元でも有名らしいコロッケを頂くことにした。軽食で済ませようとしていたので、良い選択だっただろう。

 

「うわ、このコロッケすっげーうまい!」

 

「ほんと、ジャガイモがすっごく濃厚ね」

 

地元の名産ジャガイモを使ったそのコロッケは、文句無しの逸品だった。これなら、何個でも食べれそうだと思ってしまうような絶品コロッケだった。だけど、夕食のこともあるからここは我慢。その後私達は、少し辺りを散策してから、宿に戻ることにした。折角だからと、砂浜にまで出てみる。時期が時期なだけに、砂浜には人が全くと言っていいほどいなかった。

 

「流石にこれだけ寒いと、誰も海には近づかないね」

 

「夏は海水浴客で賑わうんだけどね。ここは海も綺麗だし、絶好の海水浴スポットだからね」

 

確かに、海が透き通っていて綺麗だ。私は、夏場の海には昼間から出ることはできないけど、夜になったら泳いでみたいなと思う。八一も、私に付き合ってくれるだろう。今度の夏は、またここに来るのもありかもしれない。

 

「流石に冷えてきたね。そろそろ戻ろっか」

 

「そうね。戻って早く温泉に入りたいな」

 

私達は、付近の散策を終えて宿に戻ることにした。すっかり体が冷え切ってしまった。早く温泉に入って温まりたい。そう思い、二人早足になりながら宿を目指す。最後の方は、少し競争みたいになってしまった。尤も、ずっと手を繋いでいたので距離が広がることは無いのだが。部屋に戻った私達は、早速準備をして、温泉へと向かう。

 

「それじゃ、また後でね」

 

「うん、楽しんできて」

 

温泉の手前で別れた私達は、男湯と女湯に別れて別々の入り口に入る。中は時間的理由なのかはわからないが、誰もおらず貸し切り状態だった。脱衣所は(もぬけ)の殻で、温泉内に入っても従業員の人がせっせと仕事を熟しているだけだった。もしかしたら、ベストタイミングで来たのかもしれない。私は体を洗うと、早速露天風呂へと向かった。外に出ると、冷たい外気が素肌に襲いかかってくるが、そんなもの、この絶景の前ではどうでもよくなる。広大な青が視界一面に広がる。部屋からも見たけれど、この景色は本当に引き込まれる。いつまでだって見ていたくなる。私は景色を眺めながら、温泉に足を入れていく。

 

「気持ちいい……」

 

「その声は、もしかして銀子?」

 

肩まで浸かり、思わず声が漏れてしまうと、その声に反応して仕切りの向こう側から八一の声が聞こえてきた。どうやら、八一も丁度露天風呂に来ていたらしい。また後でと言って別れてから、早すぎる再会となった。

 

「そうよ。こっちは今他のお客さんがいないみたいなんだけど、そっちはどう?」

 

「こっちも同じだよ。タイミングが良かったのかな。利用者は俺だけだよ」

 

どうやら、男湯も貸し切り状態らしい。片方だけでも珍しいのに、両方とも貸し切り状態だなんて、こんな経験初めてだ。

 

「それにしても、良い眺めだね」

 

「そうね。本当に、良い眺め」

 

雄大なこの景色を眺めていると、私はこの星にとって、本当にちっぽけな存在でしかないんだなと思い知らされる。だけど、それと同時に私は感謝していた。こんな馬鹿らしいほど大きな大きな、巨大な世界の中で、八一という存在に出会えた奇跡に。80億分の1という奇跡に。

 

「本当に、よく巡り会えたな……」

 

「え?」

 

「あ、うん、こっちの話。気にしないで」

 

そう言って八一ははぐらかしたが、今の呟きで私は八一が考えていたことがわかった。私と同じ事を考えていたのだ。この一期一会の奇跡に、感謝していたのだ。

 

「ふふっ」

 

そう考えると、嬉しくて嬉しくて、つい笑みがこぼれてしまう。私と同じ事を考えてくれていることが、嬉しかった。私と出会えたことに感謝してくれていることが、嬉しかった。

 

「何?急に笑って、どうしたの?」

 

「なんでもないですよーだ」

 

「えー?そう言われると余計に気になるんだけど」

 

「気にしない気にしない」

 

「うーん、まぁいいや。そういえば、女将さんに聞いたんだけど、この旅館露天風呂が付いた家族風呂があるんだって。明日の朝にでも行ってみない?」

 

「ほんと?行く行く!」

 

こうやって一人で絶景を眺めるのもいいけど、やっぱり八一と二人で眺めながら露天風呂に浸かれたらより一層素晴らしい経験になるだろう。八一とは結婚して数年が経つのだ。今更一緒に温泉に入ることなんて、恥ずかしくもなんともない。……本当はまだ少し恥ずかしいけど。

 

「おや?もしかして将棋の九頭竜先生じゃないですか?私あなたのファンなんですよ。まさかこんなところで会えるなんて」

 

「こんにちは。いつも応援ありがとうございます」

 

どうやら、男湯の方に他のお客さんが入ってきたらしい。他のお客さんがいるのに、仕切りを跨いで会話をするわけにもいかず、そこからはお互いの会話は無くなった。八一も、ファンの方と楽しそうに話している。その声を聞きながら、私は一足早く温泉を後にした。私は八一と違って、ファンサービスは苦手なのだ。他のお客さんに見つかる前に、さっさと退散しよう。ゆっくりと露天風呂に浸かるのは、家族風呂の時でいい。私はさっさと脱衣所に戻ると、直ぐに着替え、部屋へと一人で戻るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

夜になり、夕食の時間となった。時間になると、女将さんが部屋まで食事を運んでくれる。海鮮料理がズッシリ並べられたテーブル。見ただけで美味しいとつい言ってしまいそうになるほどに素晴らしい料理の数々だった。

 

「どうぞ。当宿自慢の海鮮フルコース、ご堪能ください」

 

「ありがとうございます。それじゃ早速」

 

「そうね。もう待てそうにないわ」

 

「うん、いただきます」

 

「いただきます」

 

私達は挨拶もそこそこに、料理へと手を伸ばした。まずは、見ただけで鮮度がわかるほどツヤツヤしたお刺身から。マグロ、ハマチ、タイ、甘エビなど、刺身のバラエティも豊かだ。私はその中から、タイを箸で掴み、わさび醤油を少し付け、口に運ぶ。

 

「ッ!?」

 

言葉も出なかった。まるで、口の中でタイが跳ねてるのではないかと錯覚するほどの鮮度。コリコリとした、噛んでて楽しい歯ごたえ。そして、口の中に幸せをいつまでも残してくれる後味。言葉を失う美味とは、実際に経験したのは初めてだ。

 

「あはは、美味しすぎて言葉も出ないみたいだね」

 

コクコクと、八一の言葉に頷くことしかできない。これは、八一が絶賛するのも納得だ。こんな海鮮料理食べてしまったら、普通の海鮮料理なんて食べれなくなってしまう。私はその後も、海鮮料理を夢中で食べ進めていく。どれもこれも、言葉も出ない美味しさ。私の箸は、完食まで止まることは無かった。

 

「も、もう食べれない……でも、幸せ……」

 

「本当に幸せそうに食べてたもんね。ね?絶品だったでしょ?」

 

「絶品なんてものじゃないわ……もう、普通の海鮮じゃ満足できないかも……」

 

「あらあら、お気に入り頂けたようでありがとうございます。また海鮮が食べたくなったら、いつでもお越しくださいね」

 

女将さんがそう言ってくる。絶対にまた来よう。私はこの海鮮を食べて、そう決断した。

 

「それにしても、ふふっ」

 

私が幸せに打ちのめされていると、女将さんが思わずといった風に笑う。何かおかしな事でもあっただろうか?

 

「ごめんなさいね。奥様の一連の反応が、九頭竜先生が初めて当宿の海鮮料理を食べた時の反応と全く一緒だったものだから、ついおかしくて、ふふっ」

 

「ちょ、ちょっと女将さん!そんな余計な事は言わなくていいから!」

 

……へぇ?さっきから自分は私と違って、なんとも思ってませんよ、みたいな余裕な態度を取ってたのに、最初は私と同じだったんだ。へぇ。同じか。ふーん。

 

「へぇー、そうなんだ。ふーん」

 

「そ、その反応は何かな?」

 

「べっつにー。何でも無いですよー」

 

同じ、か。だとしたら、嬉しいな。八一との共通点がまた一つ見つかった。些細な事でも、八一との共通点があると、嬉しく感じてしまう。ダメ、このままだと、顔が勝手ににやけてきちゃう。早く話題を変えないと。

 

「そ、そういえば八一、お酒飲まなかったの?」

 

私は、話題を変えるために八一に質問した。話題を変えるためと言っても、そんなこと関係無しにその質問は、私が気になっていたことでもある。八一は、酒飲みの師匠に育てられたこともあってか、割と酒好きだ。だけど、どうやら今日は全く飲んでいなかったらしい。これは珍しい。旅行に来たらいつも飲んでるのに。まぁ、旅行に来ずともいつも飲んでいるが。

 

「うん。今日はまだこれから出かけようと思ってね」

 

「出かける?」

 

「女将さんに、夜行くに最適な絶景ポイントがあるって聞いてね」

 

「あの場所は素敵ですよ。奥様もきっと、気に入ってくださるはずです」

 

絶景ポイント?凄く気になる。食後の運動に、ちょっとお散歩するのも悪くない。

 

「夜は一段と冷え込みますから、厚着をしていって下さいね」

 

「はい。ありがとうございます」

 

女将さんからのアドバイスを受け、私達は浴衣の上から何枚か重ね着することにした。重装備を整えてから、女将さんにお礼を告げて外へと出る。外へと出ると、八一に手を引かれて、温泉街を歩く。少し歩いただけで、栄えた場所から外れ、緑の多く生い茂った場所へと入っていく。車は通れないような場所だけど、歩行者が歩きやすいように道は整えられていた。そのまま、山道のような場所を歩いて行く。目的地まで、そんな長い距離を歩いたわけではない。旅館から15分ほどだろうか。

 

「着いたよ」

 

私達は、目的地へと辿り着いた。

 

「ッ!?」

 

そこは、切り立った崖の先端だった。海がよく見える。それはもう見えすぎる。その場所からは、視界の全方向が海を捉えることができた。どこまでも、海。先の見えない水平線の向こうまで、海が続いている。それだけならそこまでおかしなこともない。本当に凄いのは、下ではなく上だった。どこまでも続く水平線に平行して、同じくどこまでも満点の星空が続いていた。果てなくどこまでも、海と空が続いていく。異論を唱える余地もなく、正しくこれは絶景だった。

 

私は今、先ほどの海鮮料理を食べた時と同じような現象に陥っていた。言葉が、出ない。そのあまりにも雄大な美しさに目を奪われ、言葉が何も出てこない。人は、自分の許容量を超える感動に出会った時、言葉を失ってしまうんだと、今日一日で存分に知ることができた。

 

「銀子、座ろ?」

 

気づいたら、八一が座っていて、私に座るのを促すように自分の右隣の地面を軽く叩いていた。どうやら、繋いでいた手をいつの間にか離していたらしい。そんな大事なことにも気づかないほど、私はその絶景に全てを奪われていたらしい。私は慌てて八一の右隣に座り、またその右手を握る。そこからは、お互いに無言の時間が続いた。二人して、ただ景色を眺めているだけの時間。とてもとても心地良い、無言の時間だった。

 

こうして八一と手を繋いで、星空を眺めていると、あの福井での時間を思い出す。私と八一が、封じ手を交わしたあの日、あの夜。私と八一の想いが繋がった、あの瞬間。私の人生において、最も忘れられない、特別な思い出。

 

「こうしてると、あの日を思い出すね」

 

「……うん」

 

どうやら、八一も同じ事を考えてくれていたらしい。私達にとって星空とは、特別な存在なのだ。この空を見れば、いつだって鮮明にあの日のことを思い出すことができる。色々遠回りをしてしまった。一度は離れもした。だけど、あの日を境に、私達の道はまた繋がった。この手もまた、繋がった。

 

「綺麗だ」

 

「うん、本当に綺麗な景色」

 

「それもあるけど、銀子がだよ」

 

「ふぇっ!?き、急に何言い出すのよ!ばかやいち!バカ!頓死しろ!」

 

「あはは、相変わらずこういうのに弱いよね」

 

こんなの、慣れろっていうのが無理な話だ。きっと私の顔は今、暗い中でもわかるほどに、真っ赤になっていることだろう。本当に、あの日以降八一はこういうことに遠慮が無い。きっと、私の反応を見て楽しんでるだけだろうが。けど、私も決して嫌というわけではない。むしろ、ありがたく思っている。こういうことを八一が言ってくれるのは、私だけだってわかってるから。これは、私の特権。私の幸せ。あの日を境に、私達の関係は大きく変わった。それは本当に、幸せな変化だった。幸せすぎて、おかしくなってしまいそうなくらいの。そしてこれからもきっと、幸せな時間は続いていくことだろう。どちらかの時間が終わる、その時まで。人生に永遠は無い。終わりは必ずやってくる。今はまだ、想像もしたくないけど、その時はきっとやってくる。だけど、その時までは絶対、この右手(しあわせ)を離さない。私はこの時、密かに誓ったのだった。あの日以来何度目になるかわからないが、密かに誓ったのだった。

 

もう、この手を離さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、私達は家族風呂での朝風呂を済ませると、お土産屋さんへと来ていた。目的はもちろん、お土産を買うためだ。帰り支度は既に終えて、後はチェックアウトを済ませるだけ。時間にはまだ余裕があったため、旅館内のお土産屋さんに立ち寄っていた。

 

「とりあえず師匠の所と、桂香さんのところにもいるだろ。ひな鶴には持っていかないとだし、夜叉神家に、シャルちゃん、綾乃ちゃんにもだな。歩夢と釈迦堂さんにも必要だし、生石さんとこも持っていった方が良いな。会長も、渡さないと遠回しにネチネチされそうだ。供御飯さんと月夜御坂さんも渡さないと後が怖い。創多にもあげないとだな。後、明石先生。そんなものかな。銀子は?」

 

「私の交友関係、聞きたい?」

 

「ごめん、俺が悪かった」

 

八一と共通でない知り合いなんて、私にはいない。友達?別に作れないわけではない。興味が無いから作ってないだけだ。友達付き合いなんて、面倒くさいだけだと思う。

 

「将棋の神様にも、お供えを持っていった方がいいのかな?」

 

「あの人なら気にしなさそうだけど。でも、持っていったら喜びそうね」

 

後、奥さんにSNSで拡散されそう。このお土産、九頭竜ご夫妻からいただきました。これだけで、何RTされるだろうか?ある意味棋界で一番のインフルエンサーはあの人の奥さんかもしれない。

 

「さてと、こんなものかな。他に買う物はない?」

 

「あ、ちょっと待って」

 

八一がレジに向かおうとするのを、私は止めた。まだもう一つ、購入したい物があったからだ。

 

「これも一緒にお願い」

 

私は購入したい物を八一に渡す。それは、温泉街のペナントだった。これを集めるのが、私の趣味だった。

 

「また買うの?」

 

「いいでしょ?趣味なんだから」

 

「はいはい。じゃ、買ってくるからちょっと待ってて」

 

そう言って、八一はレジの列へと並びに行った。私はそれを、少し離れたところで待つ。大体5分ほどだろうか。それほど待つことなく、八一はレジを抜けて戻ってきた。

 

「おまたせ。それじゃ、行こっか」

 

「うん」

 

これで、楽しかった旅行は終わりを迎える。寂しいけど、またいつでも来ればいい。私達は、チェックアウトをするために旅館のフロントへとやってきた。

 

「女将さん、お世話になりました。お陰様で素晴らしい思い出が作れました」

 

「ありがとうございました」

 

「それは良かったです!またいつでもお越しくださいね!奥様も、また新鮮な海鮮用意して待ってますから、いつでも来て下さいね」

 

「絶対来ます」

 

来年の夏にでも来ようか。あの海鮮のためなら、何度でも足を運びたくなる。八一の都合が合わなくても、最悪一人旅で来ようかと考えてしまう。

 

「あらあら、よほど気に入って頂けたようで、ありがとうございます。それでは、九頭竜先生、奥様共に、次の対局も頑張って下さいね」

 

「はい、ありがとうございます」

 

私達は、この二日間でかなりの英気を養うことができた。その恩恵大きく、私達二人とも、次の対局では完勝したことをお知らせしておく。そして、帰路に着いた私達は、帰りの電車に揺られ、大阪を目指していた。移動の電車内、となればすることは決まっている。

 

「5八飛」

 

「……初手中飛車明示なんて、大胆じゃない。3四歩」

 

「たまにはこういうのも面白いでしょ?5六歩」

 

「まぁ、そうかもしれないけど。4二銀」

 

その後も私達は、大阪に着くまで何局も、何局も目隠し将棋を続けていく。旅行は、家に帰るまでが旅行だ。帰るまでの間、存分に、まだまだ楽しませてもらおう。私達は電車に揺られながら、帰るまでずっと頭をフル回転させ続けていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

旅行から帰宅し翌日。私は、自宅のとある部屋でコレクションの飾り付けを行っていた。結婚してから私達は、大阪市内に一軒家を購入していた。今はこの家で、二人で暮らしている。そして家の一室、この部屋は私のコレクションルームと化している。壁に飾られた、温泉街のペナントの数々。全て、私が実際に訪れて、趣味で購入したものだ。昔はタイトル戦で訪れた際にだけ購入していたが、八一と付き合い始めてからは、八一と旅行で訪れた場所のものも購入している。

 

私にとって、今と昔でこの趣味に込められた色合いが変わっていた。集め始めた当初は、私と八一の手が離れていた時だった。いつもなら、必ず二人で行くような距離の移動も、私は一人だった。孤独だった。寂しかった。だけど、行かないわけにはいかなかった。私は、タイトル保持者だったのだから。そして、その寂しさを少しでも紛らわせるために始めたのが、このペナント集めだった。その頃に集めたものは、少し離して飾ってある。

 

そして今、私達の手が再び繋がってからは、八一との思い出を形に残すために集めるようになっていた。昔集めていたものよりも、明らかに数の多いペナント。これは全て、八一と二人で訪れた地のペナントだ。このペナント一つ一つを見れば思い出す。その地での、八一との思い出を。そしてまた一つ、新たなペナント(思い出)が加わった。私は、昨日購入したペナントを、壁に飾り付けた。大事に大事に、飾り付けた。

 

「ふふっ」

 

それを見て、自然と笑みが溢れてしまう。思い出し笑いだ。楽しかった思い出を思い出して、笑みが溢れる。こうして見ると、随分と思い出が増えたものだ。そして、これからも増え続けることだろう。何年も、何十年も、増え続けることだろう。この手が繋がっている限り、増え続けることだろう。

 

私は一通りペナントを眺め、部屋を後にした。リビングに入る。そこでは、八一がソファに腰掛け、将棋雑誌を読んでいた。私はその姿を確認して、キッチンに行き熱いお茶を用意する。お茶汲みは、奨励会時代から鍛え上げている。記録係として、お茶汲みをした際には、いつも先生方に好評をいただいていた。八一も、私の煎れるお茶を気に入ってくれている。

 

「ありがとう」

 

私がお茶を八一の前のテーブルに置くと、八一がお礼を言ってくれる。それと同時に、私が腰掛けやすいように、右に体を寄せてくれる。私は、その優しさに甘え、八一の左隣に腰を下ろした。そして、八一の左肩に頭を預ける。その私の頭を、八一が右手で優しく撫でてくれる。私が好きな時間だ。

 

「ねぇ、次はドコに行く?」

 

「帰ってきたばかりなのに、もう次の話?」

 

「だって行きたいんだもーん。悪い?」

 

「悪いなんて言ってないだろ?それに、ドコだっていいさ」

 

八一はそこで、言葉を切った。だけど、私には八一がその後に言葉を続けようとしていたのがわかった。その内容も。それは、私と同意見だったから。結局の所、旅行先なんてドコでもいいのだ。趣味の影響で温泉に行くことが多いが、ドコだっていいのだ。お互いがいれば。大事なのはドコに行くかでは無い。ダレと行くかなのだから。これからも、八一とは数え切れないほどの思い出を作っていく。今この時間も、私にとっては掛け替えのない思い出へと変わっていく。これから先も、ずっと八一と思い出を作っていく。私の人生は、今も昔も八一と将棋で彩られているのだから。それは間違いなく、これから先、いつまでも変わらないことだろう。これはそんな、私にとって何気ない、いつも通りな日常の1ページなのだった。




特別編投稿前に、本編投稿間に合わず申し訳無い
単純に執筆時間があまり取れなかった……
3連休ですが、日、月と自分用事が入ってて執筆時間取れそうに無いので、本編の更新まだ時間かかるかもしれません
予定としては、来週の平日の内のどこかってことでお知らせしておきます
進捗状況等は、ツイッターでお知らせします

八銀はジャスティス


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八銀異譜 聖なる後夜に祝福を

メリークリスマス!(遅い
本当は26日に投稿する予定だったのですが、間に合いませんでした。
遅くなって申し訳ございません
あ、25じゃなくて26予定だったのは態となので、ツッコまないでください

今回のお話ですが、前生のお話でも今生のお話でもありません
全く本作とも原作とも別のお話、IFのお話となります
本作に掲載するか、別に短編を作るか悩んだのですが、本作内に掲載することにしました
場合によっては、今後別作品として、掲載し直すかもしれませんのでご了承ください

今話は、pixiv様にも投稿しております
よろしければ、そちらの方もよろしくお願い致します

合い言葉は、八銀はジャスティス


その日俺は、棋界の頂点に立った。

 

竜王。

将棋において7つあるタイトルの内一つ。名人と肩を並べる、棋界最高タイトル。その竜王というタイトルを、16歳である俺、九頭竜八一は獲得した。歴代最年少でのタイトル獲得。しかも、最高位。身内が集まった打上の場は、それはもう飲めや食えやのお祭り騒ぎだった。挙げ句の果てには、師匠である清滝鋼介が酔った勢いで発案した全裸人間将棋なる謎の催しに巻き込まれる始末。棋界は上下関係が徹底しており、上からの命令は絶対だ。師匠に命令されれば、参加しないわけにはいかない。そして酔いつぶれた師匠達を部屋に押し込んで、やっと一息付けたのが午前3時。激闘のタイトル戦を終えてから、既に日付が変わっている。俺も早く布団に潜り込みたいという気持ちもあったのだが、その選択肢を俺は選ばなかった。眠気が全く無い。タイトルを獲得できた興奮で、眠気が一切湧いてこないのだ。なので、眠気が湧くまで外の空気でも吸おうかなと思いロビーに移動している。それが現在の俺というわけだ。

 

ロビーまでの通路を歩く。通路の途中で、見慣れた姿を発見した。幼い頃から、見慣れた少女。宿据え置きの浴衣に身を包んだ少女。その姿は、とても儚く、幻想的に見えた。俺は幼い頃、初めて彼女に会った時、そのあまりにも浮き世離れした美しい容姿を見て、お化けか妖精の類いだと思った。出会って第一声に、お化けなの?なんてことを尋ねるなんて、今思えば失礼にも程があるだろう。あの時にぶちころされてなくて良かったとしみじみ思う。そんな彼女は、ただジッと窓の外を眺めていた。その視線は、空へと向けられている。暗く何も見えない、空へと向けられている。空と言うよりも、更に遠い場所を眺めているような気がするのは何故だろうか。何故だかわからないが、俺には彼女の姿がそのように見えた。

 

「置いて……いかないで……」

 

「姉弟子?」

 

彼女が何かを呟いた気がしたが、その声はか細く、俺の耳まで届くことは無かった。俺は特にそのことを気にすることも無く、彼女に声をかける。彼女の名前は、空銀子。俺の姉弟子だ。姉弟子は、俺の声に反応すると、顔をこちらに向ける。そこで、俺は初めて彼女の目を真正面から見た。その目から、雫が滴っている。

 

「えぇ!?ちょ、ちょっと姉弟子!?な、なんで泣いてるんですか!?」

 

「え……?え、えぇ!?」

 

俺が指摘して初めて気付いたのだろう。自身の目を指で擦り、濡れた指を見て慌てふためいている。珍しくあたふたする姉弟子は、なんだか新鮮で可愛かった。

 

「こ、これは……そう!目にゴミが入っただけ!今取れたからもう大丈夫よ」

 

「あ、ゴミですか。なら良かったです。そうですよね。姉弟子がそんな簡単に泣くわけありませんもんね」

 

「……なんだかその言い方はムカッとくるんだけど」

 

「気のせいです」

 

何はともあれ、大丈夫そうで安心した。ゴミもちゃんと取れたみたいだし、もう心配無いだろう。

 

「それで、師匠達は?」

 

「皆部屋に押し込んできました。たぶん明日のお昼までは誰も起きてきませんよ」

 

「よし。ご苦労」

 

「姉弟子はさっさと逃亡しちゃうし、少しは手伝ってくれてもいいじゃないですか」

 

「い・や・だ♡」

 

「無駄に良い笑顔で言わないでください」

 

師匠の相手は全部俺に任せて、姉弟子は一人でさっさとどこかに逃亡してしまっていた。まさか、あれからずっとここに突っ立っているわけもないだろう。今までドコで何をしていたのだか。お陰で酔っ払い相手に苦労をした。

 

「そういえば、遅くなったけど、メリークリスマス」

 

「あ、そうですね。メリークリスマス。本当に遅いですけど」

 

今回の竜王戦第七局は、12月24日、25日のクリスマスイブからクリスマス当日にかけての二日間で行われた。タイトル戦を終えてから、日付はとっくに変わってしまっている。今はもう26日だ。少し遅いが、俺たちはほんのささやかなクリスマス気分をそうやって味わった。

 

「それで、八一はこんなところで何してるのよ?」

 

「どうも寝付けなくて、夜風に当たりに外に出ようかと」

 

「そう」

 

姉弟子は、そこで小考に入った。時間にしてはほんの10秒足らずだったが、その答えを弾き出す時間にしては、長く感じた。

 

「私も行く」

 

つまり、着いてくるかここに留まるかの二択だ。姉弟子が導き出した答えは前者。即決しても良さそうな二択だが、姉弟子はそれなりの時間を答えるのに要した。そして答えを導き出したのはいいのだが、その選択は悪手だろう。

 

「それはいいですけど、そんな格好で?」

 

悪手である原因は、彼女の服装だ。彼女は今、浴衣の上に上着を一枚羽織っているだけだ。流石にそれでこの寒空の下に出るのは自殺行為だろう。対して俺は、師匠達を部屋に放り込んだ後、一度部屋に戻り私服に着替えてきていた。外に出る準備は、万全だ。

 

「私も一度部屋に戻って着替えてくる。先に行ったらぶちころす」

 

「えぇ……」

 

俺の返事を待たずに、姉弟子はそそくさと部屋へと戻っていった。俺はこの場で待ちぼうけを喰らうことになってしまった。特にすることも無く、俺も姉弟子のように外を眺めてみることにする。しかし、窓の外は暗く、やはり何も観ることができない。雲が出ているのだろう。空には、星や月の姿を眺めることもできなかった。姉弟子は、一体この先の見えない窓の向こうに何を見ていたのだろう。いくら考えてもわかりそうになかった。

 

「お、おまたせ」

 

十分ほどが経っただろうか。姉弟子が戻ってきた。窓から目を逸らし、姉弟子へと目を向ける。そして、俺はまるで雷に打たれたような衝撃を受けた。姉弟子が、私服を着ていたのだ。姉弟子のことをよく知らない人からすれば、そんなの当たり前じゃね?と思うかも知れないが、これは本当にレアなことなのだ。姉弟子は普段、季節を問わず、タイトル戦等の例外を除いて、常に学校指定のセーラー服を着ている。私服を着ている姉弟子なんて、ポ○モンの色違い並に遭遇率が低いかもしれない。しかも、やけにオシャレな服装をしているのだ。そっち方面に疎い俺でもそれがオシャレなことぐらいはわかる。というか、可愛すぎてヤバイ。思わずマジマジと姉弟子のことを眺めてしまう。

 

「な、なに?どこか変?」

 

「あ、い、いや!なんというか、その、そ、そんな服、持ってきてたんだな、って」

 

「まぁ、こんなこともあるかもな、って」

 

「こんなこと?」

 

「なんでもない!それより行くわよ!」

 

「あ、ちょっと姉弟子!」

 

姉弟子は、そう言うと早足にロビーへと向けて歩いていってしまった。俺は、慌ててその後を追いかける。ロビーから外に出る。

 

「さむっ!」

 

外に出た瞬間、思わず声に出てしまう。道には、高く雪も積もっており、嫌でも気温の低さを教えてくれる。ここ、温泉旅館ひな鶴は、石川県にある。石川は、全国でもトップ10に入るほど積雪量の多い県だ。12月末、しかも深夜。震えるほど寒いに決まっている。

 

「寒い。なんでこんな時に夜風に当たろうなんて考えたのよ」

 

「さぁ?」

 

「さぁ?ってねぇ……」

 

何故俺は外に出ようなんて考えたんだろう?もちろん、眠れないながらも自室に引きこもっているという選択肢はあった。だけど、何故だろうか。何故だか、外に出なければいけない、そんな予感がした。自分でも意味がわからないけど、ただ、そんな気がした。理由は一切わからないけど。

 

「八一、手」

 

少し前を歩いていた姉弟子が、左手を差し出してくる。その手の意味が、俺にはすぐにわかった。俺はその左手を、右手で握りしめることによって応える。繋がった右手から、姉弟子の体温が伝わってくる。身も凍るほど寒い世界で、そのほんの僅かな一部分だけが暖かかった。

 

思えば昔から、よくこうやって、二人手を繋ぎ、色々な場所に出かけたものだ。武者修行として、強い人がいると聞けば、北から南へ、東から西へ、色んな場所に二人手を繋ぎ駆けつけた。見知らぬ土地を訪れては、迷いながらも目的地へと向かう。泣きたいほど怖かったことだって、何度もあった。もう帰れないかもしれないと思ってしまうような場所に迷い込んでしまったこともあった。だけど、その経験が決して嫌ではなく、むしろ楽しかったのだ。俺たちは昔からそうだ。二人一緒なら、どこへでも行けた。こうやって手を繋いでいると、いつだって無限の勇気が湧いてきた。姉弟子と二人なら、きっと何があっても大丈夫だと、根拠の全く無い安心感があった。

 

「なんだか、懐かしいね」

 

「……そうですね」

 

姉弟子も、俺と同じ事を思いだしていたのだろう。街灯の仄かな明かりが照らし出した姉弟子の横顔は、どこか嬉しそうに見えた。昔のように、土地勘の一切無い道を、姉弟子と手を繋ぎ歩く。昼間は活気溢れる温泉街も、この朝も迫った深夜帯となると、人っ子一人見当たらない。まるで、俺と姉弟子だけが世界に取り残されたかのようだ。

 

「誰もいませんね」

 

「流石にこんな時間じゃ当然でしょ」

 

「それもそうですね。あ、姉弟子、自販機で何か買いましょう」

 

俺は、側にあった自販機に駆け寄る。こう寒いと、無性に暖かい物が飲みたくなってしまう。

 

「姉弟子、何にします?」

 

「ホットレモンティーで」

 

「了解」

 

俺は財布から小銭を取り出し、ホットレモンティーとホットコーヒーを購入した。ガシャンという音を響かせて、熱を持った飲み物が落ちてくる。俺は二つの飲み物を取り出し、ホットレモンティーを姉弟子に渡した。

 

「はい、姉弟子」

 

「ありがと」

 

近くに、丁度良くベンチがあった。俺たちは、そのベンチに腰掛けて、飲み物に口を付ける。温かい液体が胃に染み渡り、体を温めてくれる。その感覚が、心地良かった。

 

「……前から気になってたんだけど」

 

「何がです?」

 

「それよ」

 

「それって?」

 

「だから、なんで敬語を使うようになったの?」

 

思わず、噎せそうになってしまった。飲んでたコーヒーを吹き出す寸前で、なんとか留めることに成功する。俺の動揺は、姉弟子に悟られなかっただろうか?見たところ、悟られた様子は無い。どうやら上手く隠せたらしい。

 

「どうして、とは?」

 

「八一、私がタイトルを獲った時から敬語で喋るようになったでしょ?名前も呼ばなくなったし」

 

「だってそこは、姉弟子も俺が名前で呼んだら怒ったし」

 

「それは、だって八一が先によそよそしくしたから……」

 

しかし、これはどうしたものか。俺が彼女の名前を呼ばなくなった理由。それは、彼女がタイトルを取った際に、名前で呼んだらその場にいる将棋関係者に咎められたからだ。その時俺は、もう彼女とは身分が違う存在になってしまったんだと思い知らされた。だけど、正直こんな理由は、彼女に知られたくない。

 

「姉弟子と呼ぶようになった理由、ですか」

 

だから俺は、少し嘘を交えて語ることにした。

 

「姉弟子が初めてタイトルを獲った時、俺はまだ奨励会の初段でした。姉弟子は、タイトル戦の対局者。俺はそのタイトル戦で、大盤解説会の駒操作係。誰にも名前すら聞いてもらえないような、ちっぽけな存在でした。凄い数の報道陣や、テレビでしか見たことがないような偉い人達がいっぱいいて、そんな人達がみんな、俺と同じ部屋に住んでる女の子のことを話してる。それが、俺には本当にショックで、悔しくて、それで意地を張ったんです」

 

「八一……」

 

姉弟子が、複雑な表情で俺のことを見てくる。悲しんでいるのか、怒っているのか、喜んでいるのか、よくわからないような、複雑そうな表情で。

 

「はぁ、こんな話、今するようなことじゃないですね。もう少し歩きましょうか」

 

「……うん」

 

俺が立ち上がると、姉弟子も弱々しく立ち上がった。今俺が話した内容を、どう受け止めるべきか、まだ迷ってるらしい。そんな姉弟子の手を、今度は俺から握りしめる。最初は驚いた表情を見せた姉弟子も、すぐに俺の手を握り返してくれた。本当に、どうしてこんな話をしないといけないんだ。これからもずっと、隠しておくつもりだったのに。話すにしても、せめて彼女の名前を取り戻してからが良かった。なんで、このタイミングなんだ。確かに、最年少タイトルホルダー、しかも竜王になることはできた。だけど、まだ浪速の白雪姫の名声に追いついたとは到底思えない。最高位のタイトルを獲得しても、姉弟子がいる場所はまだ遠く感じた。手を伸ばせば届きそうで、全く届かない距離。ここまで上がってきても届かないなら、どこまで上がれば手が届くのか皆目見当も着かない。だけど、それでも足掻くしかない。彼女の名前を取り戻すためにも、足掻き続けるしかない。

 

と考えていると、俺の中にふと、一つの疑問が生まれた。俺は、どうしてここまでして彼女の名前を取り戻したいと考えているんだ?中学生プロ棋士になろうと決意したのも、最年少タイトル保持者になろうと決意したのも、全ては彼女の名前を取り戻すためだった。突き詰めて言えば、俺が棋界においてこの高みまで登ってこれたのは彼女のお陰とも言える。だけど、どうして俺はそこまでして、彼女の名前を取り戻そうとしているのだろうか?

 

思えば、彼女が女王になったあの日、あの日から俺の棋士としての道は定まったとも言える。目指す目標が、明確になった。その目標に向けて、一直線に駆け上がってきた。道の途中、挫折もあった。心が折れそうになった時もあった。それでも、彼女のお陰で俺は立ち上がることができた。また、前に進むことができた。そして目標に到達した今、俺の目標はまた不明確になった。それでも、俺は前を目指す。彼女の名前を取り戻すために。では、何故彼女の名前を取り戻そうと、ここまで必死になっているのか?今まで全く気にしていなかった疑問。だが、いざ気になってみるとこの答えが全くわからない。

 

彼女の名前が奪われたのが悔しいから?それもあるかもしれない。だけど、答えとしては(いささ)か不十分な気がする。大事な姉弟(きょうだい)弟子だから?それもあるかもしれない。だけど、それでもまだ答えとしては不十分な気がする。何か、答えの核心には至らないような、そんな予感がする。では、何が真の答えなのか?

 

「ち……いち……」

 

考えても、中々答えが出てこない。しかし、一度疑問に思ってしまうとまるで奥歯に小骨が刺さったかのように気持ち悪い。答えを導き出そうと、思考がより深くへと潜り込んでいく。自分のより深い部分を知ろうと潜り込んでいく。

 

「やいち……八一!」

 

「うぇっ!?あ、姉弟子?急にどうしました?」

 

「急にどうしました?じゃないわよ。さっきから声を掛けてるのに反応がないから」

 

「え?そうだったんですか?すいません。それで、どうしました?」

 

「別に。深刻そうな顔をしてたから、どうかしたのか気になっただけ」

 

「あ、すいません。考え事をしてて」

 

どうやら、考え事に耽るあまり、姉弟子の声も耳に届いていなかったらしい。顔にも出てしまっていたようだ。これはやってしまった。

 

「考え事?あれだけ激しい将棋を指した後なんだから、少しは頭を休めたら?」

 

「それも、そうですね」

 

確かに姉弟子の言う通りだ。昨日あれだけの激闘を繰り広げたというのに、俺は何こんなことに頭を使っているのだろう。休めれる時に頭を休めることも、棋士としての努めだ。今は思考を止めて、頭を休めよう、と思っていた時だった。

 

「あ……雪……」

 

そう、雪だ。雪が降ってきたのだ。白く美しい粒が、空から舞い降りてきた。

 

「あ、ちょっと姉弟子……」

 

姉弟子が、繋いだ手を離して少し先に進む。軽く鼻歌のようなものも聞こえてくる。どうやら、大変機嫌がよろしいようだ。

 

「何してるの八一?早くいきましょ」

 

姉弟子が、こちらを振り返り、早く来なさいと言わんばかりに、俺に左手を伸ばしてくる。距離にして10メートルほど。歩けば直ぐに追いつけそうな距離。だが俺は、最初の一歩を中々踏み出すことができなかった。

 

「八一?」

 

首を傾げて、不思議そうに姉弟子がこちらのことを見てくる。だが、俺は動けなかった。その理由は単純だ。彼女に、見取れていたのだ。彼女に出会って早十年。この十年間、俺は誰よりも一番近くで、彼女のことを見てきた。見続けてきた。誰よりも彼女のことをよく知っている。そんな俺だが、いつまで経っても彼女について慣れないものが一つあった。それが、彼女の容姿だ。あまりにも美しく、あまりにも可愛く、あまりにも幻想的なその容姿を見ることがいつまで経っても慣れなかった。いつまで経っても、いつだって、見取れてしまう。

 

初めて彼女に会った時に見取れて以来、俺は何度も、何十度も、何百度も彼女に見取れてきたのだ。今だってそうだ。それは美しく、可愛らしく、そして幻想的な光景だった。静かに雪が降る中、半身で振り向き、左手を伸ばす彼女。そんな彼女を、街灯の仄かな灯りだけが照らしていた。まるで、一枚の絵画かのような幻想的光景。そのあまりにもの美しさに見取れて、俺は一歩を踏み出すことができなかった。

 

「八一?どうかした?」

 

「え?あ、あぁ……」

 

数度目の彼女の呼びかけに漸く反応し、俺は足を前に踏み出すことができた。そして彼女の元へと近づき、俺はその左手を掴むことなく立ち止まった。

 

「八一?」

 

そんな俺を、彼女が不思議そうに見てくる。その不思議そうに小首を傾げる姿が、また可愛らしい。そんな一連の彼女の姿を見ていて、今まで思いもしなかった一つの仮説が俺の中に思い浮かんだ。彼女に幾度も見取れてしまうのは、本当に彼女の容姿だけが原因なのか?それこそ実は、もっと別の原因があるのでは?例えば、彼女に特別な感情を俺が抱いているとか。そこまで考えて、俺の中で何かが氷解したかのような、そんなスッキリとした感情が湧いてくる。そう考えると、先ほどの疑問への答えにも説明が付く。あぁ、そうなのかもしれない。きっとそうなのかもしれない。確信はない。だけど、きっとそうなんだろうとは思っている。俺は、世界で一番雪が似合う彼女を見て、そう感じた。

 

「姉弟子。俺、姉弟子のことが……」

 

もしかしたら、俺は……

 

「好きなのかもしれない」

 

「ふぇっ?」

 

そう思うと、何故か口に出さずにはいられなかった。

 

「ふぇっ……?ふぇっ?ふ、ふぇっ!?ふぇえええ!?」

 

可愛らしくふぇふぇと動揺する彼女。顔を赤くして、慌てふためいている。こんなことを聞いて、彼女は俺のことをどう思うだろうか?拒絶されるだろうか?怖かった。震えるほど怖かった。だけど、何故だろう。何故だか、言わなければいけないような、そんな気がしたのだ。

 

「え……どういうことなの……?今まで、そんな素振り、一度も……」

 

「本当に、自分の気持ちに気がついたのは今さっきなんです。と言いましても、あくまでも気がするだけで、本当にこれがそういう感情なのか確信はないんです。だけど……」

 

「だ、だけど……?」

 

「ほぼほぼ、間違いないんじゃないかとも、思っています」

 

「ッ!や、やいち……」

 

「あ、姉弟子!?」

 

その俺の言葉を聞いて、姉弟子の両眼から大粒の雫が溢れ出した。留まること無く、次々と溢れ出す雫。その雫が、地面にこぼれ落ち、積もった雪を少しずつ溶かしていく。泣くほど、嫌だったのか。そう感じ、気落ちしそうになっていたが、どうやらそういう訳ではなかったらしいい。

 

「う、嬉しい……」

 

「え?」

 

「わ、私も……ずっと好きだったから、う、嬉しい……」

 

「え?……えぇえええええ!?」

 

今度は俺が驚く番だった。その可能性は、微塵も考慮していなかった。予測もしていなかった返答に、思わず叫んでしまう。

 

「え?嘘?えぇ!?だって、今までそんな素振り全く見せなかったじゃないですか!?」

 

「み、見せてたわよ!わ、私が勇気を振り絞ってアピールしてたのに、八一はいつも全く気がつかなくて……私がどれだけ苦労してたと思ってるのよ!ばか!ばかやいち!」

 

「そんなこと言われましても……でも、そうか。そうだったんですね」

 

つまり、俺たちは両想いだったのだ。正確には、まだ俺の気持ちに答えが見つけられていないため、両想いと言うには語弊があるが、それでも似たようなものだろう。

 

「すいません姉弟子。俺自身、まだ自分の気持ちには確信が持てていません。だから、そういうことを言うのは自分の気持ちに答えが出るまで、待っててください」

 

「わ、私が今まで、どれだけ待ってきたと思ってるのよ。何年だって待ってあげるわ。だ、だから……早く答えを見つけなさい」

 

「姉弟子……ありがとうございます」

 

姉弟子の優しさが胸に染みる。姉弟子は今も、大粒の雫を溢し続けている。それはまるで、雪解け水かのように、雪原のような美しい肌を滑り落ちていく。幻想的で、美しい光景だった。

 

俺の気持ちにはまだ答えが出ていない。だから、正式に想いを伝えるのはまだ先の話だ。俺の気持ちに確信を持てた時、その時に俺から正式に気持ちを伝えよう。そして、彼女の名前も、まだ呼ぶわけにはいかない。俺は、まだ彼女に追いついたわけではないのだから。俺が彼女に追いつけたと思える、そんな日まで彼女の名前を、口にすることはできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

だけど神様、今夜だけは、一度だけなら、許してくれるよね?

 

「さぁ行こうか……銀子ちゃん」

 

「ッ!?……うん」

 

そう言うと、俺は銀子ちゃんと手を繋ぎ、聖なる後夜の街並みを二人並んで歩き始めた。街灯も照らさない場所に出る。そんな俺たちの姿は、寄り添う二人のシルエットとして映し出される。どちらからともなくくっつき合う、幸せな二人のシルエット。きっとこれからも、俺たちが歩む街並みには、同じシルエットが幾度も見られることだろう。こうして、聖なる後夜は明けていく。幸せな二人の、シルエットを残して。これは、そんな俺たちの、掛け替えのない、聖なる後夜の光景だった。




あったかもしれないし、無かったかもしれないIFのお話
今までに無かった形式の特別編でした
地獄の連勤を切り抜けると、そこはりゅうおうパラダイスでした
14巻特装版の表紙は公開され、14巻あらすじは公開され、しらび先生が14巻表紙絵の作成風景を配信してくれたので、14巻表紙もほぼほぼ確認することができました
正にりゅうおうパラダイスな一日……!
14巻、あらすじから内容に対する期待感ビンビンですね
ヤバイ(語彙力
八銀、そこまでいっちゃうの!?な14巻楽しみです
そして自分は今から、今まで我慢してたゲーム版を起動しますね
楽しみ!
次の本編投稿は、一応年内中を予定しております
間に合わなかったら、きっとゲームのせい(白眼
進捗状況等はツイッターまで
「#八銀はジャスティス」で検索して頂くと見つかるのでよろしくお願いします

八銀はジャスティス


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八銀異譜 Sweet Time Forever

バレンタイン特別編
本来書くつもり無かったのですが、14巻を読んだら甘い八銀を書かずにはいられなかった
とびきり甘い八銀を
1時間で考えたプロットなので、内容にはあまり期待しないで下さい
あくまで、自分に対する心の洗浄が目的なので

今話、銀子ちゃんの料理描写があります
銀子ちゃんの料理描写に関しては、原作とゲーム版で大きく乖離していたので迷っていたのですが、原作準拠ということにさせていただいてます
ご了承下さい

今話は、pixivにも単体作品として投稿しております

合い言葉は、八銀はジャスティス


その日俺は、自宅であるボロアパートの一室で、一人盤と向き合っていた。

二月半ばとなり、順位戦も佳境に差し掛かっている。C級1組に在籍する俺は、ここまで全勝。B級2組昇級に最も近い位置にいる。このまま、A級まで一気に駆け上がれたらいいな。しかしその日、盤の前に座る俺は終始落ち着かず、ソワソワしていた。その原因は、今日という日にある。

 

2月14日。世間一般では、この日のことをこう呼ぶ。バレンタインデーと。

海外ではまた異なるが、日本では、女の子が男の子にチョコを贈るのが一般的なバレンタインとなっている。チョコの意味合いにも色々ある。義理チョコや、友チョコなどがよく聞く意味合いだろうか?最近では、男が男に贈るホモチョコなんていうのも流行ってるらしい。ホモォ……

 

そして、男なら誰もが欲しがる、バレンタインにおけるチョコの種類、そのトップカーストに位置するものが存在する。その名もズバリ、本命チョコ。女の子が、好きな男の子に贈る、正しく本命の相手に贈るチョコレートだ。男は、誰もが欲しくて、貰ってる奴がいたら血の涙を流して拳を握りしめるほどに重い意味のこもったチョコレートなのだ。

 

……俺が本命チョコを貰ったことがあるかだって?俺にそんなものくれる女の子なんていないよ。なんか義理にしてはやけに気合の入ったチョコを渡してきた子は何人かいたけど、あくまで義理にしては、だ。俺にそんなものをくれるような子なんているわけが無い。去年までは。

 

そう、去年まではだ。去年と今年ではバレンタインの意味合いが大きく変わってくる!なんと!……なんとなんと!……な、なんと!……俺に彼女ができたのだ!どんどんぱふぱふ!というわけで、だ。確定で本命チョコがもらえちゃうわけです!やったぜ

 

「ん?」

 

なんて浮かれていると、俺のスマホが鳴った。誰かからメッセージが来たようだ。もしかして!と思いつつ送り主の名前を見る。その相手は桂香さんだった。送られてきたメッセージはたった一文。

 

『頑張って漢を見せるのよ!』

 

……どういうこと?桂香さん、意味がわからないです。

 

ピンポーン

 

俺が桂香さんから送られてきたメッセージの意味を考えていると、我が家のチャイムが来客を報せる。今家に来る客なんて、俺には一人しか心当たりが無かった。

 

「はーい。どちらさんですかー?」

 

「私」

 

きたー!銀子きたー!というわけで、俺の彼女、未来の嫁、空銀子の登場だ。俺は慌ただしく立ち上がり、大急ぎで玄関のドアを開ける。開けた先には、俺が今日会いたいとずっと待ち焦がれていた愛しい彼女の姿があった。

 

「来たわよ、八一」

 

「いらっしゃい、銀子ちゃん」

 

俺は我が家に銀子ちゃんを招き入れる。銀子ちゃんは家に入るなり、テーブルの上に持ってきていた荷物を置いた。スーパーのビニール袋。その中に食材と思われるものが大量に入っていた。これ、何に使うの?

 

「さてと、まずは……八一、出せ」

 

「出すって、何を?」

 

「他の女から貰ったチョコ」

 

「誰からも貰ってないよ!」

 

貰うも何も、今日人に会ったのは銀子ちゃんが初めてなのだ。出す物なんてどこにもない。

 

「本当に?」

 

「だって銀子ちゃん以外に今日会ってないんだよ?貰いたくても貰えないよ」

 

「じゃあ、今日私以外に会うの禁止」

 

「まぁそれは、元々会う予定も無いからいいけど、義理もダメなの?」

 

「八一ならどうせ、義理と本命の区別も付かないでしょ?だから禁止」

 

「それぐらいわかるわ!そもそも、本命なんて過去に一度も受け取ったことないし!」

 

「……ばかやいち」

 

えぇ?なんで本命受け取ったことが無かったらバカって言われるんですか?おかしくない?

 

「まぁいいわ。八一、キッチン貸して」

 

「キッチン?銀子ちゃん、何するの?」

 

「何って、今日はバレンタインでしょ?今からチョコレートケーキを作ってあげるから待ってなさい」

 

そうか!銀子ちゃんが俺のためにチョコレートケーキを作ってくれるのか!やった嬉しい!流石俺の彼女!これは、完成が楽しみだなー!……ってちょい待てやぁ!

 

「銀子ちゃんが……ケーキを作る……?」

 

「なによ?その顔は」

 

銀子ちゃんに怪訝な顔を向けられる。いや、俺じゃ無くても銀子ちゃんの料理を知ってたらこんな顔するって。こんな青ざめた顔を。銀子ちゃんの料理はまるで魔法だ。驚くことにこの子、無(害)から有(害)を作り出せるのだ。イッツエンターテイナー!つまり、料理が全く、からっきし、これっぽっちもダメなわけです。それはもう、命に関わるような料理、物体Xを作り出してしまうほどに。

 

「えっと……因みに、銀子ちゃん、作り方わかるの?」

 

「桂香さんに教えて貰ってきたから大丈夫」

 

桂香さああああああああああああああん!何してくれちゃってるんですかああああああああああああああ!さっきのメッセージそういう意味かよおおおおおおおおおおおおおおお!つまり桂香さんは俺にこう言いたかったのだ。好きな子の料理なら、どんなにマズくても笑顔で美味しいといって食べるのが漢でしょ?と。

 

なるほど、確かにそうだ。桂香さんの言いたいことはよく伝わった。俺も漢だ。覚悟を決めないといけない。

 

「銀子ちゃん」

 

俺は桂香さんに言われた通りの未来へ進むため、覚悟を決める……

 

「それよりも先に、研究しませんか?」

 

時間を稼ぐことにした。やっぱり今すぐには無理!

 

「研究?そんなの後でいいじゃない。それに、私が料理してる間だってできるし」

 

「凄く難しい研究で、中々思うように進まなくって!この研究が進まないと銀子ちゃんがケーキを折角作ってくれても、美味しく味わえなさそうだし、一人の力だと行き詰まってたんで銀子ちゃんの力を借りたかったところなんだ!」

 

「……そこまで言うなら」

 

俺の鬼気迫る説得に銀子ちゃんが折れてくれた。良かった。延命成功だ……

とは言え、研究がしたかったのは事実だ。それは、嘘偽り無い。今後の棋戦において、重要になってくるであろう研究だ。この研究は銀子ちゃんにも共有したかったし、丁度良かった。

 

「それじゃ、こっち来て」

 

「うん」

 

「それじゃ、よいしょっと」

 

「え?ひゃわっ!」

 

可愛い悲鳴を上げながら、銀子ちゃんが俺の膝の上に乗っかる。俺たちの研究部屋でもやったことのある、あのスタイルだ。

 

「ちょ、ちょっと八一!きゅ、急にこんな体勢……」

 

「こんな体勢って、研究部屋では銀子ちゃんが俺に強制してきたよね?」

 

「……したけど……」

 

「だったら良いじゃん。それに、この体勢の方が盤面の意識を共有できて、研究に最適なんです」

 

「……本音は?」

 

「この体勢だと銀子ちゃん触り放題だからテンション上がるぅ!」

 

「やっぱりそれが目的だったのね!」

 

研究したかったのは事実だけど、折角のバレンタインに銀子ちゃんと二人きり!こんなの、イチャつかずにはいられないよね!

 

「あぁ、銀子ちゃんのほっぺの感触気持ちいい……息を吸い込むと銀子ちゃんの匂いがする……すげー良い匂い……最高……」

 

「ちょ、ちょっとやいち……ダメだよこんなの……」

 

「あ、ごめん、銀子ちゃん、嫌だった?」

 

「まぁ……嫌じゃない……けど……♡」

 

そう言って銀子ちゃんは自分の髪を弄っている。顔は見えないけど、その雰囲気はそこはかとなく嬉しそうだ。

 

「けど……」

 

「けど?」

 

そう言うと、銀子ちゃんは一度立ち上がり、180度回転してから俺の膝の上に戻ってきた。つまり、俺たちが超密着して向かい合う姿勢になったのだ。

 

「こっちの方が、お互いの顔も見れるし、いいかも♡」

 

うぉおおおおおおおおおおお!なんちゅう甘いこと言ってくれるんや!あやうく俺の理性が砕け散りそうになってしまった。

 

「ん……やいちの匂い……♡」

 

そう言いながら、銀子ちゃんは俺の胸に頬擦りをしてくる。やだ、可愛い。あぁ、これはあれだ、あれだな。もう、お互いスイッチが入っちゃった奴だ。もう、お互い抑え切れそうにない。

 

「銀子ちゃん……」

 

俺はそこで一度、優しく、強く、銀子ちゃんのことを抱きしめた。銀子ちゃんも同じように、抱きしめ返してくれる。お互いの温もりを味わうように、強く、優しく。そして、どちらからともなく腕をほどくと、これまたどちらからともなく、唇を重ねた。

 

「んっ……♡」

 

銀子ちゃんの甘い声が聞こえる。世界でただ一人、俺だけが聞くことのできる銀子ちゃんの甘い声。そんな優越感に浸りながら、俺達は長い時間、お互いの唇を重ね続けた。お互いに息をすることも忘れて、ただ、お互いの温もりだけを求めて、長い時間、唇を重ね続けた。

 

「ぷはぁ」

 

そしてやがて、流石に限界がきてお互いの唇が離れる。

 

「やいち……」

 

名残惜しそうに、自身の唇を撫でながら、銀子ちゃんは俺の名前を呟く。そして、トロンとした瞳で、上目遣いをしながら、こう言ってきた。

 

「いいよ……」

 

何がいいのかなんて野暮なことは聞かない。つまり銀子ちゃんは、あの日病院でしようとした続きをしてもいいと言っているのだ。好きな子からそんなことを言われて、俺の理性が保てるわけがない。俺はもう一度、銀子ちゃんの唇を奪う。

 

「んっ……♡」

 

そしてそのまま、俺の手は銀子ちゃんの胸へと伸ばす。小さくも柔らかい、その場所へと触れる。

 

「んっ、んー♡」

 

唇を塞いでしまっているので、銀子ちゃんが何を言っているのかはわからない。だけど、拒否はされていない。むしろ、悦んでいるように感じる。俺は銀子ちゃんの唇から唇を離すと、そのまま唇を耳へと持っていった。あの日病院で発見した、銀子ちゃんの急所へと。

 

「ひゃっ……♡んんっ……♡あぁっ……♡やいち、だめだよ……♡」

 

言葉では拒否しているように聞こえるが、実際には逆だ。銀子ちゃんがもっとして欲しいと求めていることがわかる。俺は銀子ちゃんが求めるままに、唇、そして手の動きを激しくしていく。

 

「ひゃん……♡ダメだってやいち……♡そんな激しいの……♡」

 

銀子ちゃんの反応も良好だ。良い感じに仕上がってきた。俺は、このまま一気に詰めろをかけようと、銀子ちゃんの服を脱がしにかかった。

 

ピンポーン

 

……脱がしにかかろうとしたところで、来客を報せる音が鳴る。これは、詰めろ逃れの詰めろ?

 

「……はぁ、どちら様ですか?」

 

「九頭竜さんに、お荷物が届いています」

 

どうやら、来客は宅配業者だったらしい。なんちゅうタイミングの悪さ。だけど、出ないわけにはいかない。俺は印鑑を手にして、玄関のドアを開けた。そして、荷物を受け取る。その荷物は、冷蔵便で送られてきていた。俺は宅配業者さんにお礼を言うと、家の中へと戻った。

 

「荷物?誰から?」

 

「あぁ、あいからだよ。たぶん、バレンタインのチョコレート」

 

そう。送り主は関東に籍を移したあいだった。家は出て行っても、こうやってバレンタインにチョコを送ってきてくれる。なんて良い弟子なんだ……!

 

「八一、この家、トンカチ置いてたっけ?」

 

「あるけど、そんなの何に使うの?」

 

「その荷物を叩き割る」

 

「なんで!?」

 

折角あいが送ってきてくれたのに、そんなのってあんまりだよ!

 

「いくら銀子ちゃんだからと言って、流石にそんなことさせないよ!これは俺がちゃんと責任を持って食べるから!」

 

「いいわ。だったら選ばせてあげる」

 

「選ぶ?何を?」

 

「トンカチを取ってきてチョコを割られるか、今すぐここでぶちころされるか、どっちが良い?」

 

「今すぐトンカチ取ってきます」

 

すまんあい。やっぱり銀子ちゃんには敵わなかったよ。上下関係っていうのはな、棋界では絶対なんだ。お前も、大きくなったらきっとわかるよ。俺は、目の前で包装状態のまま砕け散っていくチョコを眺めながら、静かに心の中であいに謝罪した。後でちゃんと、粉々になっても食べるからね。

 

「さてと、それじゃそろそろ始めるわ」

 

「始めるって何を?」

 

「決まってるでしょ?ケーキ作り」

 

そうでしたあああああああああ!それが本来の目的なんでしたあああああああああ!

銀子ちゃんとイチャつくことに夢中で、すっかり忘れてた!ヤバイ。覚悟どころか記憶から抹消しちゃってたよ。今の来客のせいで、ムードも完全に壊れてしまった。研究を理由に引き留めることはもうできないだろう。もう、銀子ちゃんを止める手段は無い。……仕方ない。ここは最終手段だ。

 

「銀子ちゃん、俺も一緒に作っていい?」

 

銀子ちゃん一人だと、何をしでかすかわからない。だったら、直ぐ側で俺が見てればいいのだ。

 

「八一が?別に私一人でいいわよ。八一はできあがりを待ってて」

 

「でもさ!流石に銀子ちゃん一人に作ってもらうのは悪いよ!それに、来月のホワイトデー、俺対局入ってるし、当日にお返しできそうに無いからさ!そのお返しも兼ねてってことでさ!」

 

「……まぁ、そこまで言うなら」

 

よっしゃああああああ!俺の鬼気迫る説得第二弾に折れて、銀子ちゃんが一緒に作る許可をくれた!これで最悪の事態は免れる……はず……?

 

「それで、最初は何をするの?」

 

「まずは下準備」

 

下準備。つまり序盤戦術か。ここで戦型を決めるわけだな。それで、今回の戦型はチョコレートケーキというわけだ。後は、定石を辿っていくだけ。

 

「けど、八一って料理したことあったっけ?」

 

「無いけど、覚えないといけないよね」

 

「なんで?」

 

「だって、銀子ちゃんに任せっきりじゃいられないでしょ?俺もできるようになっておかないと。……俺たち、結婚するんだからさ」

 

「ッ!……もう、やいちのばかぁ♡」

 

俺たちは結婚することを誓い合った。……まぁ実際には俺が一方的に誓っただけで、返事はもらえていないわけだけど。とは言っても、銀子ちゃんも拒否してるわけじゃないし、反応も満更でも無さそうだ。たぶん、答えを返すのを恥ずかしがってるだけなんだと思う。だから、実質誓い合ったようなものなのだ。

 

「それじゃ、さっそく作っていくわよ」

 

「わかった俺は何をすればいい?」

 

「八一はこのチョコレートをピーラーで削っておいて」

 

銀子ちゃんはそう言って、ピーラーと市販されている板チョコを手渡してきた。それぐらいなら、俺にもできそうだ。俺は言われたとおりに、板チョコを少しずつ削っていく。削っていきながらも、銀子ちゃんの様子を逃すこと無く観察している。銀子ちゃんは、板チョコを細かく刻んだり、卵を卵黄と卵白に分けたりと、(せわ)しなく手を動かしている。その手は淀みなく、手際が良い。あれ?意外と銀子ちゃん、料理できてるぞ?その後も淀みなく進み、下準備は終了する。あれ?銀子ちゃんもしかして、料理できるようになった?

 

「次はスポンジを作っていくわ」

 

スポンジ作り、ここから中盤戦というわけだ。戦型(ケーキ)の土台作り。ここを優勢に進めることによって、終盤の闘いが楽になってくる。序盤で稼いだポイントを、より一層稼いでいくとしよう。

 

「わかった。俺はどうしようか?」

 

「八一は泡立て器……はコツがいるから初めての八一には難しいかな。ハンドミキサーでこの卵白を、全体が白くなるまで泡立てて」

 

銀子ちゃんが、俺にボウルに入った卵白とハンドミキサーを手渡してくる。これで混ぜるだけでいいのか。だったら余裕だね!俺はハンドミキサーのスイッチを入れ、盤面全体を隈無く攻めていく。攻めていきながらも、銀子ちゃんの様子を観察するのは忘れない。この様子だと大丈夫そうだけど、何があるかわからない。俺は、銀子ちゃんの(料理の)味を知ってしまっているのだから。

銀子ちゃんは俺と別のボウル、卵黄の入ったボウルを泡立て器で混ぜようとしている。卵黄と一緒に、溶かしたチョコレートとそして、特濃ソースを一緒に加えて……ってちょっと待てい!

 

「銀子ちゃん何入れようとしてるの!?」

 

「何って、チョコレートだけど」

 

「そっちじゃない!もう片方!」

 

「隠し味の特濃ソース」

 

「なんでソースをケーキに入れるの!?」

 

「これを入れたらより一層色がどす黒くなるから」

 

どす黒くって何!?なんで普通の黒じゃダメなんですか!?

 

「それに、ソースをかけたら何でも美味しくなるから」

 

何でもは美味しくならないよ!そう思うのは銀子ちゃんだけだから!誰かこの子の味覚を調べてあげて!絶対異常アリだよ!そもそも隠し味って、隠す気もないでしょ!

 

「とにかくソースは禁止!銀子ちゃんの料理なら、隠し味なんて無くても普通に作ってくれたら、それだけで美味しいから!あ、だけど……」

 

「だけど?」

 

「愛情を隠し味に加えてくれたら、嬉しいかな」

 

「ッ!……もう、やいちったらしょうがないなぁ♡……だけど……」

 

「だけど?」

 

「八一もいっぱい……愛情加えなさいよ……?」

 

はい!もう喜んで加えます!え?いいの?本当にこんな可愛い生き物が俺の彼女でいいの?俺、恵まれすぎてない?夜道で刺されない?大丈夫?あぁもう、こんなこと言われたらいっぱい加えるしか無いじゃん!もう、隠す気も無いぐらい加えちゃう!

 

その後も和気藹々とケーキ作りを行っていく。銀子ちゃんはその後、普通にケーキ作りを行ってくれた。銀子ちゃん、意外と料理できたのね?あれかな?今まで散々な料理を作ってたのは余計な隠し味を入れてたせいだったのかな?だったら、今後は隠し味を入れないように見張ってたら、美味しい銀子ちゃんの料理を食べれるかな?……まぁ、隠し味に愛情だけは毎回入れてほしいけどね。

 

そしてスポンジとチョコホイップクリームも完成し、遂にケーキ作りも終盤である仕上げ工程に突入だ。ここから一気に、寄せに入る。

 

「次はどうするの?」

 

「まずはこのスポンジを横切りで三等分する」

 

銀子ちゃんは言った通りに、ケーキを切り分けていく。そして、ハケを二つ取り出した。

 

「八一、このハケを使って切り分けたスポンジにシロップを塗っていって」

 

「塗るって、こう?」

 

「そう。そんな感じで、余すところなくお願い」

 

俺は銀子ちゃんに指示された通り、ハケでスポンジにシロップを塗っていく。銀子ちゃんも俺と同じように、別のスポンジにシロップを塗っている。お互いに、一つずつ、スポンジにシロップを塗っていく。そして、お互い同時に、一つのスポンジにシロップを塗り終え、最後のスポンジに同時に手が伸びる。お互いの手が、一つのスポンジを掴む。

 

「……一緒に塗ろっか」

 

「そうね」

 

そして俺たちは二人一緒に、一つのスポンジにシロップを塗っていく。テーブルとスポンジを挟んで、お互いに向かい合って、シロップを塗っていく。

 

「よく考えるとさ……」

 

「何?」

 

「これ、俺たちの、初めての共同作業なんじゃないかなって」

 

「ふぇっ!?」

 

研究等の将棋関係のことは抜きにして、今まで銀子ちゃんと何か共同で作業した記憶が全く無い。あったとしても、清滝家の手伝いや、会館の仕事を手伝ったり、俺たち二人以外の誰かが介入している時だけだ。完全に二人だけで、しかもお互いのための作業となると、これが初めてだと思う。

 

「……言われてみれば、そうかも」

 

「初めての共同作業がケーキ作りなんてね」

 

初めての共同作業と言えば、結婚式で行うケーキ入刀が有名だ。だけど、俺たちはその土台となるケーキから共同で作ってしまったというわけだ。もうこれ、実質夫婦だよね?そしてその後、シロップを塗り終えたスポンジに、チョコホイップクリームを塗りながら重ねていく。重ね終えたスポンジの側面に、残りのチョコホイップクリームを塗って、俺がピーラーで削ったチョコをたっぷり振りかけ、フルーツで飾り付けをすれば完成だ。俺たちの初めての共同作業はこうして終了した。

 

「できた」

 

「うん!完璧なチョコレートケーキだ!美味しそう!」

 

俺たちは完成したチョコレートケーキを早速食べることにした。銀子ちゃんが包丁を手にして、ケーキを切り分けようとしてくれている。

 

「はい、八一」

 

しかし、その持ち手を俺に差し出してきた。

 

「え?俺が切るの?」

 

「そうじゃなくて……これはホワイトデーのお返しでもあるんでしょ?だから……どうせなら二人で一緒に切りたいなって……」

 

なんだよその可愛い提案!!そんなの答えは一つしか無いじゃん!

 

「うん!切ろっか!何回でも切ろう!」

 

「流石に何回もは切らないけど……」

 

俺は銀子ちゃんに誘われるままに、右手で包丁の柄を銀子ちゃんの左手ごと握る。そして、その刃の照準をケーキに合わせる。

 

「それじゃ、いくわよ」

 

「うん!」

 

そして、包丁で少しずつケーキを切り進めていく。ケーキ入刀だ。右手に、銀子ちゃんの温もりが伝わってくる。チラッと隣の銀子ちゃんに目を向けると、口元が嬉しそうに、笑みを浮かべていた。きっと今、俺たちの思いは重なっていることだろう。この時間が、永遠に続けばいいのに。そういう想いを込めて、少しでも長い時間続けようと、ゆっくり、ゆっくりとケーキを切り分けていく。だけど、当然そんな時間が永遠に続くわけがない。そう時間もかからずに、ケーキは綺麗に六等分されてしまった。

 

「……終わっちゃったね」

 

「また作ればいいさ。いつだって、何回だって。俺たちにはこれから先、いくらでも、時間があるんだから」

 

「そうね……そうよね」

 

そう呟いてから銀子ちゃんは、コーヒーを煎れてくれた。そして、コーヒーと一緒に、皿に取り分けたケーキを渡してくれる。これで、準備は完成だ。

 

「それじゃ、食べるわよ」

 

「うん……頂きます!」

 

俺は、そのチョコレートケーキを迷わず口に入れた。銀子ちゃんの料理を食べる覚悟?そんなもの、今となっては必要無いとわかっている。俺は、口の中を駆け巡る甘味を堪能してから、苦いコーヒーと一緒に胃の中に流し込んだ。

 

「美味しい!」

 

「ほんと、美味しい……これは大成功ね」

 

銀子ちゃんの言うとおり、間違いなく大成功だ。まさか、こんなに美味しく仕上がるとは。正直驚いた。そして何よりも、このケーキからは……

 

「「愛情の味がする」」

 

俺たちの声が重なった。その声を聞いて、俺たちは互いに見つめ合い、そして

 

「あはは」

 

「うふふ」

 

どちらからともなく笑い出した。どうやら、隠し味で入れたつもりが、全く隠せてなかったらしい。愛情の味ってなんだよ?って思われるかもしれないけど、本当にそんな味がするんだからしょうがない。

 

「はい、八一。バレンタインのプレゼント。あーん♡」

 

「あーん♡」

 

そして、それに気を良くしたのか、銀子ちゃんは普段なら自分からは絶対やらないような、『あーん♡』までしてくれた。これはあれだ。追愛情というやつだ。

 

「はい銀子ちゃんも、ホワイトデーのお返し、あーん♡」

 

「あーん♡」

 

そして、俺からも銀子ちゃんにホワイトデーのお返しを送る。けど、このケーキを作ったのは、ほとんど銀子ちゃん一人だ。実際には、俺はほんのちょっと手伝っただけで、メインとなる工程は銀子ちゃん一人でほとんど終わらせてしまった。お返しがこれだけだと、流石に申し訳無くなってしまう。……そうだ。確か冷蔵庫にあれがあった。

 

「銀子ちゃん、ちょっと待っててね」

 

俺は椅子から立ち上がると、冷蔵庫へと向かった。その冷蔵庫から、俺はとある物を取り出す。

 

「はい、銀子ちゃん。これが俺からの、本格的なホワイトデーのプレゼント」

 

そして俺は、それを銀子ちゃんに渡した。それは、マカロンだった。昨日偶々買ったものだ。とあるお店の前を通りかかった時このマカロンの店外試食をしていて、美味しかったからつい買ってしまったのだ。普段はあまり買わないのだけれど、何故か昨日は、買って帰らないといけないという衝動に駆られてしまった。でも今思えば、この時のために買ったのだと思えている。

 

「これは……マカロン……?」

 

「うん。俺からの感謝の気持ち。銀子ちゃん、これからもよろしくね。ずっと、ずっと」

 

「八一……うん、私こそ、よろしく……ずっと、いつまでも……」

 

銀子ちゃんはそう言って、優しく微笑んだ。その瞳には、薄らと涙が浮かんでいた。そういえば、ホワイトデーのお返しには、送る物の種類によって異なる意味合いが込められているんだった。マカロンの意味はなんだったかな?全然覚えてないや。銀子ちゃんは、そのことを知っているのだろうか?……まぁ、知ってたとしても、きっと悪い意味合いでは無かったのだろう。それは、銀子ちゃんの顔を見ればわかる。こんなにも嬉しそうに、微笑んでいるのだから。

 

その後も俺たちは、一日を通してお互いの愛情を確かめ合った。これからもきっと、ずっと、ずっとずっと、こんな幸せな時間が続くのだろう。それこそ、永遠に。そう思わずにはいられない、バレンタインの甘い一時だった。




14巻を読んで、衝動に駆られて書いていた
過去ずっとりゅうおうを追いかけてきて、こんなに読むのが辛かった巻は初めてです
そして、本作なのですが、14巻の内容を考慮すると、プロットが完全に崩壊してしまい、作品そのものが変わってしまう事態になっています
しばらくは大丈夫なのですが、後の展開がもはや全滅です
その結果を受けて、考慮した結果、修正は最低限に留めて、従来のプロットのままで進めていこうと思います
要するに、本編における前生の話そのものが、原作とは異なる話になるということです
完結最優先に考えて、そのような処置を取らせていただくことにしました
申し訳ございませんが、ご容赦頂くようにお願いします
以下、14巻を読んで、本作も交えた自分の想いを語らせて頂きます
14巻に関するネタバレも含みます
まだ読まれてない方や、自分の語りに興味が無い方はここでブラウザバックすることを推奨します


















まず初めに、14巻を読んで自分は、軽い鬱のような症状になっています
禄に睡眠も取れず、食欲も湧いてこない
それほどまでに、自分にとって14巻の内容は衝撃的でした
以前に空銀子生誕祭特別編のあとがきでも語らせて頂いたのですが、自分は空銀子というキャラに強い情念を抱いています
だからこそ、ここまで苦しむ銀子ちゃんを見て、あまりにも辛かった
それが、銀子ちゃんの望んだことだというのはわかっています
わかっているのですが、傷つき苦しむ銀子ちゃんを見ているのが、本当に辛かった
そして、望む夢のために八一から離れる選択をした銀子ちゃんを見て、本当に胸が張り裂けそうになりました
あまりにも、あまりにも一途で、悲愴な想い
どうして神様は、こんなに彼女のことを苦しめるのか
そう思わずにはいられません
本作の目的は、二人の過去を変えることです
それが主人公八一の掲げている目標でもあります
ですが、自分が本作を書いた切欠は、決して二人の過去を変えたいという理由ではありません
この作品は、未来がこうあって欲しいという自分の想いから生まれました
本編第1局は、銀子ちゃんが八一を看取る場面から始まります
この場面は、銀子ちゃんが八一よりも長生きしてほしいという自分の想いから生まれました
いえ、決して八一よりも、というのを望んでいるわけでは無いので、その言い方には語弊がありますね
とにかく、長生きして欲しい
銀子ちゃんにはとにかく、長生きして欲しいという自分の想いから生まれました
他にも、様々な場面で、自分は前生の話、今では異なってしまいましたが、以前通りに呼ぶならば原作の未来の話を取り入れてきました
その内容はほぼ全て、自分の、このキャラは未来でこうなっていてほしいという想いから生まれました
一部、未来ではこうなってそう、と言う予想から生まれたものもありますが、それは今は置いておきます
つまり自分は、過去よりも未来に想いを馳せてこの作品のプロットを作り、ここまで執筆してきました
今更、そのスタンスを変えるつもりはありません
この先も、原作と異なる道を歩んだとしても、自分は最初に自分が描いたプロットから大筋を変えずに、完結まで走っていこうと思います
完結まではまだまだ長い道のりになりますが、これからもどうか、お付き合い頂けたらなと思います
どうか、よろしくお願いします
そして最後に、今後の原作八銀について少し触れさせて下さい
14巻で、まぁ、銀子ちゃんが一方的にではありますが、八銀はしばらく離れて生活する道を選びました
何年かかるかわからないですが、プロとして八一と公式戦を闘える道を銀子ちゃんが選んだわけですね
その選択は、辛く苦しいものだったに違いありません
本当は、銀子ちゃんだって、八一と一緒にいたいに決まっています
それでも、銀子ちゃんは未来では無く夢を選んだ
その選択を俺は尊重します
どんな結末が待っているにしても、二人が選んだ道なら俺はその選択を尊重しようと思います
例え、二人が結ばれない道だったとしても
ただ、これは自分の単なる我が儘でしか無いのですが、二人が例え結ばれない道を選んだとしても、その後八一には、誰とも結ばれてほしくないのです
自分は本当に、銀子ちゃん以外の子と結ばれる八一を見たくない
絶対に、見たくないのです
それだけを今は、切に願っております
最終章開幕から、激動という言葉すら生温く見えるほどの、大波乱が巻き起こっておりますが、自分は今後も、変わらぬ愛で、りゅうおうのおしごと!を応援し続けていきます
願わくば、八銀の未来が幸福に包まれていますように
そう、切に願っております
ここまで長々とありがとうございました
今後も当作品「この手を離さない」を、末永くよろしくお願い致します

八銀はジャスティス


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八銀異譜 最高のプレゼント

八一お誕生日おめでとう!

今作はpixiv様にも単体作品として投稿しております

合い言葉は、八銀はジャスティス


「えっと……」

 

戸惑うような俺の声が、つい漏れてしまう。どうして、こんなことになっているのかわからない。俺の目の前には異質な雰囲気を放つ何かが置かれている。本当に、どうしてこんなことになっているんだ?わからない。目の前のこの存在が、ここにある理由がわからない。俺は、この物体に関して何か忘れてしまっているのだろうか?もしかしたら、そうなのかもしれない。俺は、忘れている記憶を呼び起こそうと、記憶の海へとダイブしていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日俺は、朝から桂香さんに呼ばれ、師匠の家に行っていた。急に呼び出すからどんな面倒事かと思えば、ただ重たい荷物を運ぶのを手伝って欲しいだけらしい。それならばお安いご用だと、パッパと片付けて、桂香さんと談笑に耽っていた。今日という日が重大な日だったため、俺は少しの期待を込めて、桂香さんとの時間を過ごしていた。今日この日、俺は年を一つ重ねた。つまり、今日は俺の誕生日だ。別に催促するつもりは無いけど、それでも何かを期待してしまう。だけど、桂香さんからは一切、それに関する話題は出てこなかった。

 

あまり自分から言いたくは無かったけど、忘れられてるなら忘れられてるで嫌だったので、「桂香さん、今日何の日か忘れてない?」と踏み込んで聞いてみた。すると、桂香さんはどうやら思い出してくれたらしい。何かを思い出したように、手を胸の前で叩き合わせる。そして、今日という日が何の日なのかを口にした。

 

「そうだわ!今日は洗濯機の日だったわ!」

 

そう。今日は洗濯機の日だ。今日はお洗濯するには最高の良いお天気……ってナニソレ!?初めて聞いたんですけど!?いやいや、俺が聞きたいのはそんなことじゃない。もっと大事なことを忘れてない?俺は更に踏み込んで、「そうじゃなくて、誰かの誕生日じゃなかったっけ?」と桂香さんに聞いてみた。すると桂香さんは、またも何かを思い出したかのように、胸の前で手を叩き合わせた。その様子を見て、なんだか○の錬金術師みたいだなと思ってしまう。きっと桂香さんは胸の錬金術師だ。それはともかく、ついに思い出したようで、桂香さんが、誰の誕生日なのかを口にした。

 

「そうだわ!今日はき○さん○んさんの誕生日だわ!」

 

そう。今日は○んさんぎ○さんの誕生日だ。昔CMを切っ掛けに一躍有名になったご長寿双子。残念だけど、俺が物心つく頃にはもう亡くなられてたんだよなー……ってちっがーう!え!?俺あの双子さんと同じ誕生日だったの!?初めて知ったんだけど!?……それにしても、桂香さん、俺の誕生日よりも先にその方達の誕生日が出てくるって、どうなってるの?割とショックなんですけど……

 

「あ!いっけない!私これからお出かけしないといけないんだったわ!」

 

「あ、じゃあ俺も帰るよ。……そうだな。今日は帰ってもやることないし、今から会館にでも顔出そうかな」

 

会館になら、俺の誕生日を憶えてくれてる人がいるかもしれない。今日は師匠も会館に用事があって行ってるらしいし、最悪師匠にでもいいから祝ってもらおう。……こんな日に限って、なんでか銀子ちゃんとは朝から連絡がつかないんだよなー。まさか、銀子ちゃんも俺の誕生日を忘れてるなんて言わないよね?まさか、彼氏の誕生日忘れてるなんて……考えてたら悲しくなってきた。銀子ちゃんに会いたいな。会館に来てるかな?

 

「ダメダメ!八一君は絶対に真っ直ぐ家に帰って!」

 

会館に寄り道しようかと思っていたのだけれど、そう口にすると桂香さんに凄い勢いで詰め寄られた。え?なんで?家に帰っても何もすることないのに。

 

「え?なんで?」

 

「えっと……そう!八一君宛に昨日宅配便を送ったの!それが今日届くはずだから、家に居て受け取って!」

 

え?桂香さんが俺に宅配便?……なんだちゃんとプレゼント用意してくれてたのかー。もしかしたらサプライズだったのかな?俺を驚かせるために、荷物が届くまで黙ってるつもりだったのかな?そうだったのかー。だとしたら、俺のミスだな。桂香さんに忘れられてるかもと思って躍起になっちゃってたよ。気が利かなくてごめんね。だとしたら、ここで俺が取る選択肢は一つだ。

 

「わかった!直ぐに帰るよ」

 

「えぇ!楽しんできてね!」

 

そう言って俺は、急ぎ足で清滝家を後にした。……でも桂香さん、楽しんできてって、どういう意味なの?

 

 

 

 

 

 

 

 

清滝家を出た俺は、一目散に家に帰ってきた。桂香さんが俺に何を贈ってくれたのかと、楽しく想像しながらアパートの階段を駆け上がり、2階にある我が部屋へと辿り着く。イソイソと部屋の鍵を取り出し、鍵を開ける。……開けようとした。しかし、俺は結局鍵を開けなかった。

 

「……開いてる?」

 

そう。何故か朝家を出たときにはちゃんと閉めたはずの鍵が開いていたのだ。実は閉め忘れていたのかと思い、朝家を出たときの記憶を辿る。けど確かに、俺には朝鍵を閉めた記憶があった。まさか、空き巣でも入った?その可能性もあるかもしれない。俺は警戒しながら、徐に扉を開いた。玄関から見る限りは、誰の姿も見えない。荒らされた形跡も見当たらない。空き巣では無かったのだろうか?

 

「よかった……空き巣ならどうしようかと思ったよ……」

 

俺は安心して、思わずそう口にする。すると、だ。奥の部屋から、ガタッと物音が聞こえてきたのだ。やっぱり、誰かいた!俺の声に反応したらしい。音の発信源は和室のようだ。ここは、警察を呼ぶべきだろうか?でも奥の和室には、俺の大事な大事な七寸盤が保管してある。あれに何かあってからじゃ遅い!警察が来るのなんて待ってられない。そう判断し、俺は恐る恐る和室へと向かう。和室の前まで着いた。今は全く物音はしていない。しかし、確実に誰かがいるのだろう。先ほどの物音は、決して幻聴などでは無いはずだ。正直、怖い。だけど、いつまでもジッとしているわけにはいかない。俺は、気を落ち着かせるために、三回ほど深呼吸を繰り返す。そして、意を決して一息に和室内へと飛び込んだ!

 

「……え?」

 

しかし、そこには誰の姿も無かった。少なくとも、人の姿は無かった。人の姿は。代わりにあったのは、巨大な箱だ。部屋の中央に、巨大な箱が置かれている。俺でも中にスッポリ入れそうなぐらい、巨大な箱だ。箱の姿形からして、おそらくプレゼント箱だろう。そんな、何故こんなところにあるのかもわからないような物体が、和室の中央に鎮座していた。

 

「えっと……」

 

思わず、戸惑うような声が漏れてしまう。それが、冒頭の、つまり今現在の状況だ。朝からの記憶を呼び戻して、もしかしてこれが桂香さんからの贈り物?と思ったが、流石にそれは無いだろう。こんなもの、桂香さんが贈ってくるとは思えないし、連絡も無く勝手に部屋の中に置かれてるのも不自然だ。じゃあ、一体誰が?あい……は関東に籍を移して帰ってきていない。今日も確か関東で対局が入っているはずだし、その線は無いだろう。この前関東に対局で行った際に、前もってプレゼントを貰っていた。ありがとうあい!じゃあ天衣……いや、天衣も今は会えないんだった。なんでも、夜叉神家総出で海外旅行に行ってるらしい。夏といえばマイナビ女子オープンの予選があるが、天衣はシードで本戦トーナメントからだし、対局予定はしばらく無いらしい。だからこそ長期の旅行に行くことにしたらしい。気楽な物だ。天衣も、旅行に行く前日に、態々家まで来てプレゼントをくれた。ありがとう天衣お嬢様!……じゃあ残るは銀子ちゃん?銀子ちゃんとは結局、朝から全く連絡を取れていない。電話には出ないし、送ったメッセージには既読も付かない。本当に何をしてるんだろう?この箱を持ち込んだ犯人が銀子ちゃんとは限らない。だけど、正直他に心当たりが無い。……供御飯さんとか、祭神とか、いるにはいるけど、この際割愛させていただく。特に祭神が持ち込んだとか、考えたくも無い。それはともかく、とりあえずもう一度銀子ちゃんに連絡を取ってみよう。そう思い立ち、俺は無料通話アプリで、銀子ちゃんに通話をかけた。

 

ブー、ブー、ブー、ブー

 

通話をかけると、なんとすぐ近くからマナーモードにしていたと思われる、スマホの振動音が聞こえてきたのだ。その音に驚いたのか、振動音に続いてガタッ、という物音までもが聞こえた。俺も驚きすぎて、ついポカンとなってしまった。この音が意味することは、だ。つまり、つまりだ。この部屋に銀子ちゃんがいる。そういうことだ。だけど、部屋中どこを見渡しても、銀子ちゃんは見当たらない。目に見える場所には。問題は、この音が聞こえる場所だ。中だ。この箱の中から音が聞こえているのだ。……つまりそういうことなのだろう。まさかとは思うし、嘘だろとも思う。だけどきっと、俺の推測は正しいのだろう。それを、今から証明しよう。俺は、箱を開けるために、行動を開始した。だけど開けようにも、どうやって開けるか悩む。普通は上から開けるだろうけど、箱が大きくて、上から開けるのは中々に難しい。箱の高さが、俺の身長ぐらいあるんだから。何か他に開ける方法は無いのだろうか?そう思い、箱の周りを歩きながら探ってみる。すると一面だけ、箱の横から開閉できる部分を見つけた。そこの面が、取り外せるようになっているのだ。俺は早速、その面を取り外しにかかる。俺が今しようとしていることに気づいたのだろう。箱の中から聞こえる物音は段々激しく、慌ただしくなってきた。だけど俺はそんなことに構わず、その面を一気に取り外す。取り外して、遂に中の様子が露わになった。そこには、俺の推測通りに、銀子ちゃんがいたのだ。銀子ちゃんは、箱の中で縮こまって、座り込んでいた。その手には、、未だに振動を続けるスマホと、もう片方の手には今話題のハンディファンが握られていて、銀子ちゃんに風を送り続けている。そして銀子ちゃんの服装は、いつもと変わらないセーラー服なのだけれど、明らかにおかしい部分がある。赤いリボンが巻かれているのだ。銀子ちゃんが動きにくくならない程度に、体に赤いリボンが巻かれているのだ。そして、若干涙目になりながら、俺のことを見つめていた。……いや、睨み付けていた。迫力は無いけど。

 

「えっと……銀子ちゃん、何してるの?」

 

「……ぶちこりょしゅじょ……われぇ……!」

 

理不尽だ。耳まで真っ赤にして涙目でそう言う銀子ちゃんは、それはもう広辞苑で調べても形容できる言葉が見つからないであろうほどに可愛いけど、理不尽だった。俺、何か悪いことしたかな?してないと思うんだけど、なんでぶちこりょしゃれないといけないんだ。理不尽でしょ。

 

「えっと、それで本当に何してるの?」

 

「……プレゼント」

 

「え?」

 

「八一、今日誕生日でしょ?だから、その、プレゼント……」

 

銀子ちゃんはそう言うと、耳まで真っ赤にして、目も合わせられないぐらい恥ずかしがりながらも、両手を広げて、まるで俺を迎え入れるかのようなポーズをしてくる。つまり、あれか?これが、俺に贈る誕生日プレゼントだということか?状況からして、銀子ちゃん自身が誕生日プレゼントだということか?いや、それはもうね、本当に本当に最高のプレゼントなんだけどさ、嬉しくてテンションが振り切れちゃいそうなほど最高のプレゼントなんだけどさ、なんで?

 

「……もちろん銀子ちゃんがプレゼントとしてもらえたら、本当に最高だと思うんだけどさ、急にどうしたの?」

 

「……八一に、今までずっと、毎年誕生日プレゼント贈ってきてたでしょ?」

 

「うんそうだね。毎年ありがとう」

 

「どういたしまして。……それで、毎年色々と考えて、選んで贈ってたけど、その、贈るもののネタが切れたというか、今年は何を贈るか全然決まらなくて……」

 

「そんなの、気にせずなんでも贈ってくれたらいいのに」

 

「だ、だけど!今年は、その、八一が、か、かかか、か、かれちになってからの初めての誕生日だし、い、今までよりも更に良い贈り物をしないとって思って……」

 

そういえばそうだった。俺と銀子ちゃんが付き合い始めたのは去年の九月。あれからもうすぐ一年になるのかと、少し感慨深くなってきた。付き合って一年記念に、何か特別な思い出に残るようなことしてみたいね。来月は銀子ちゃんの誕生日もあるし。

 

「それで、桂香さんに相談してみたら、自分を贈ってみたら?って。男は皆それで悦ぶ生き物だからって」

 

桂香さん何を言ってくれてやがりますのおおおおおおおおおおおおおおおおお!

確かに嬉しい!嬉しいよ!だけど、だからって銀子ちゃんになんてことやらせてるの!グッジョブだよ!

……何故だろうか。何故か、お前の惚気になんか付き合ってられるかよ!相談とか良いながら彼氏自慢を惚気全開で聞かされてるだけじゃねーか!適当にイチャコラやっとけや!とか言いながら缶チューハイを自棄飲みしてる桂香さんの姿が思い浮かんだ。何故だろうか。

 

「それはもちろん、嬉しいけどさ、でも無理をしてそんなことしなくていいんだよ?」

 

「……別に無理なんかしてない」

 

相変わらず耳まで真っ赤にした状態で何を言うか。そんな状態で言われても、全く説得力が無いよ。

 

「……じゃあこうしよっか?今から俺へのプレゼントを探しに行かない?商店街とか行けば、良い物に出会えるかもしれないし」

 

俺へのプレゼントを、俺が一緒に選ぶのはおかしいかもしれないけど、この際そんなことは気にしない。このままだと、銀子ちゃんがなんか変な方向に暴走しかねない気がしてきたし、どこかに連れ出す方が良いかもしれない。……暴走したならしてくれたで良いかもしれないけど。

 

「外は……」

 

しかし、俺の提案に銀子ちゃんが愚図る。外の気温が原因だろう。今日はとにかく暑い。猛暑日だ。清滝家からここまで帰ってくるのも大変だった。……それは走って帰ってきた俺も悪いけど。今はシャワーを浴びたい気分だ。俺、汗臭くないかな?大丈夫?銀子ちゃんの前なんだけど?……まぁそれは今は置いといて、とにかく暑い。さっきまでは箱に気を取られてて気づかなかったけど、エアコンが起動していた。おそらく、銀子ちゃんがあらかじめ付けていたのだろう。それに加えて、ハンディファンで相変わらず風を浴びている。よっぽど暑いらしい。銀子ちゃんは元々暑さに弱いから、仕方が無い。雪のように白い肌が溶けちゃったら大変だ。外に出るのは諦めよう。

 

「それじゃ、今日は家で過ごそうか。……そうだ銀子ちゃん、お昼はもう食べた?」

 

時間は既に二時に迫っている。昼食を食べるのにも、少し遅い時間だ。俺はまだ、昼食を食べれずにいた。朝から清滝家に呼び出されて、清滝家を出たときには既に昼を回っていた。途中で食べてきても良かったんだけど、桂香さんからの贈り物が気になって、一目散に家に帰ってきたんだから仕方ない。俺は悪くねぇ!

 

「まだだけど」

 

「そっか。俺もまだなんだよね」

 

「……じゃあ、私が何か作って」

 

「さぁて!それじゃあ出前でも頼もうかなぁ!何がいいかなぁ!」

 

危ない危ない。銀子ちゃんに料理を作らせるわけにはいかない。銀子ちゃんには不服そうな顔をされたけど、それは仕方ない。命には代えられないのだから。

その後俺は銀子ちゃんと相談して、冷やし中華を出前で頼むことにした。暑い夏には無性に食べたくなるよね。注文をすると、直ぐに配達員が家まで届けてくれる。暑い夏はやっぱり出前がありがたい。配達員の皆様、こんな暑い中ご苦労様です。

 

「それじゃ、食べようか」

 

そして俺たちは少し遅い昼飯を頂いた。ここのお店の冷やし中華は本当に美味しい。夏になると、毎年頼んでいる。酢もしっかり利いていて、夏ばて予防にも最適だ。俺と銀子ちゃんは、黙々と冷やし中華を食べ進める。……食べ進めているのだけれど、どうにも銀子ちゃんのことが気になってしまう。少しずつ麺を啜って食べてるんだけど、その、その麺を啜る唇が、なんというか、くるものがある。妙な色気を発してるというか、どうも気になって仕方ない。そして、封じ手のことを俺に思い出させて仕方ない。そして銀子ちゃんもおそらく俺の目線に気づいたのだろう。食べるのを一旦中断して、口元を手で隠してきた。そして、こう言ってきた。

 

「何見てるのよ……………………えっち」

 

うおおおおおおおおおおおおおい!

頬を赤らめて、口元を隠しながら恥ずかしそうにそう言う銀子ちゃん、そっちの方がえっちですけどおおおおおお!

思わず理性を投げ捨てそうになってしまった。銀子エッロぉぉぉぉぉ!!

 

「ううん!さて、さっさと食べちゃわないとな!」

 

俺は、あからさまに咳払いをして、食事に戻る。本当にこのままだと、俺が暴走してしまうところだった。危ない危ない。なんだか銀子ちゃんが不服そうな顔をしてる気もするけど、気にしない。今は銀子ちゃんを気に掛けている余裕が無い。今銀子ちゃんのことを意識してしまうと、本当に今度こそ理性がおさらばしてしまいそうだ。

 

そして俺たちは、その後静かに冷やし中華を食べ終える。さて、これからどうするか。相変わらず外は猛暑日だ。このままだと、今日は銀子ちゃんを連れて外に出ることはできないだろう。だったら、家の中でできることをやればいい。そして、俺たちがそのやることに困ることは絶対にない。

 

「じゃ、指そうか」

 

「……そうね」

 

そして俺たちは、和室から巨大な箱を放り出し、盤と駒を用意した。……でもこんなに大きな箱、銀子ちゃんどうやって運んできたんだろう?まぁ、それは今はいいや。とにかく将棋だ!俺たちは、準備を終えると、直ぐに将棋を指し始めた。もう、過去に何万局指したかも、正確な数字までは思い出せない。それほどまでに膨大な時間、俺は銀子ちゃんとこうやって、盤を挟んで向かい合ってきた。時には新幹線の中で、時にはバスの中で、盤を挟まず脳内の情報を共有して指してもきた。俺たちにとって、将棋は人生そのものだったから、そんな時間が当たり前の物になっていた。俺たちにとって、本当に大事な、最高の時間。

 

「……一日遅くなっちゃうけど、明日は絶対良い物見つけて、贈るから」

 

「え?何が?

 

「だから、その、プレゼント……」

 

あぁ、そうか。そういえばそんな話だったんだ。この時間が楽しすぎて忘れてたよ。だけど、プレゼントか。そうだな。

 

「……そんなのもういいよ。もう、貰っちゃったから」

 

「え?私が八一に?」

 

「そう。銀子ちゃんが俺に……とびきり最高のプレゼントをね」

 

本当に、最高のプレゼントだ。これ以上の贅沢は言えない最高のプレゼントだ。こうやって、銀子ちゃんと二人で過ごして、二人で将棋を指す時間、これこそが、俺にとっても、最高のプレゼントだった。俺にとっても。

 

「……八一、お誕生日おめでとう」

 

「うん、ありがとう」

 

銀子ちゃんも、そのことを察してくれたのだろう。それだけ言うと、対局に集中しはじめた。ここからは気が抜けないな。俺も意識を盤へと落とし込んでいく。銀子ちゃんとこうやって将棋を指す時間が、本当に愛おしい。俺にとっても、本当に幸せな時間だ。いつまでも、幾つになっても、ずっとこうやって、二人で将棋を指して生きたい。そう心から思う、静かな誕生日だった。

静かな室内に、二人が奏でる駒音だけが鳴り響くのだった。強く、優しく、いつまでも末永く鳴り響くのだった。




あのご長寿双子様の誕生日が八一と同じって知ってた人いますかね?
因みに、お姉さんが亡くなられたのが八一の生年と同じ2000年
妹さんが亡くなられたのが、2001年2月で、年度換算だと八一の生年度と同じ2000年度になります
将棋を連想させるような二人の名前も合わさって、何か運命的な物を感じるのは俺だけでしょうか?

次回から本編に戻ります
銀子ちゃんの誕生日までに三段リーグ編終わらせるぞ!
……終わるのかな?(白目

八銀はジャスティス


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八銀異譜 定められた運命

銀子ちゃんお誕生日おめでとう!

0時投稿したかったけど、ギリギリ間に合いませんでした

今話はpixiv様にも単体作品として同時投稿しております

合い言葉は、八銀はジャスティス


「八一~飲んどるか~?もっとお前も飲まんか~い!」

 

「師匠、俺は十分飲んでますって」

 

「よう八一。今日は特別に、お前に飛鳥の秘蔵写真を見せてやるよ。お前の勝利を祝して特別にだからな」

 

「いや、生石さん、別に見せなくてもいいですよ」

 

「お前飛鳥の秘蔵写真が見れねーってのか!?」

 

「あんたもめんどくさい酔っ払いだな!?」

 

その会場は、盛大な盛り上がりを見せていた。名だたる棋士や、記者達が集まり、飲めや食えやの大騒ぎだ。そして、この大騒ぎ、その主役は俺、九頭竜八一だ。

今日この会場では、帝位戦、その開幕局二日目が行われていた。十八歳で帝位を獲得した俺は、二十二歳になった今年まで、連続で帝位を防衛し続けている。今年防衛に成功すれば、5期連続帝位となる。

5期連続。それには大きな意味合いが含まれている。その意味合いとは、永世位だ。タイトルには、棋界に永久に名前を残す証、永世位というものが定められている。棋士にとって最上級の誉れであり、そこに至れる棋士は、タイトルを獲得できる棋士の中でも、ほんの一握りだ。長い将棋の歴史の中で、ほんの数人しかその栄光に至っていないことが、その凄みを如実に語っている。

タイトル戦により、獲得条件の異なるこの称号。永世帝位の獲得条件は、通算10期獲得か、連続5期獲得の(いず)れかだ。つまり、今年帝位を防衛できれば、俺は連続5期獲得の条件を達成し、永世位に至るのだ。

 

その開幕局は、文句なしの俺の快勝譜で終局を迎えた。振り駒の結果、後手番を引き当てた俺は、この対局のために用意してきたであろう相手の研究を、更に上の研究でねじ伏せた。序盤から終始圧倒し、二日目の、3時のおやつを注文する前に、相手の投了宣言を聞くことになった。おやつを食べたかっただけに、少し残念だ。感想戦をするような局面も少なく、手短に終わらせ、そして夕方からはもう、この大騒ぎが始まっていた。地元大阪での開幕局、しかも永世位の懸かった重大な開幕局での完勝ということもあり、まるでもう既に防衛を果たしたかのような盛り上がり方だった。既に何時間も騒いでいるというのに、全く勢いが衰えるところを知らない。

 

「それにしても、珍しいですね。生石さん、あまり人の対局に顔出さないでしょ?」

 

「そうだな。だが、お前は一応だが、ほんの少しの間でも俺の弟子だったんだ。弟子の晴れ舞台を拝みにくる甲斐性ぐらいあってもいいだろう?」

 

「なんやてぇ?生石くんに八一はやらへんからな!?」

 

「清滝さん、あんた飲み過ぎじゃないか?」

 

「なんのこれしき!まだまだ若いもんには負けへんで!」

 

「はいはい。お父さんはあっちでお酒飲んでましょうね」

 

そう言って、桂香さんは師匠を引きずっていった。師匠にお酒と言ってコップを渡しているが、その中身が只の水であることを俺は知っている。それを、師匠は気にせずに飲む。その姿は、どこからどう見ても、只の酔っ払いだった。

 

「フハハハハハハ!流石は我が永遠のライバル、ドラゲキンだ!その首、我が獲りにいくからな!今のうちに、洗っておくがよい!」

 

そして、次に俺の所にやってきたのは歩夢だ。俺の永遠のライバル。歩夢は、今期の竜王戦挑戦者に既に決まっている。竜王戦も、俺はずっと防衛し続けている。16歳で初獲得してから、今期で7期連続が懸かってる。竜王戦の永世位獲得条件は、通算7期か、連続5期。連続5期を達成している俺は、既に永世竜王であるわけだ。つまり、この帝位戦で防衛を成功すれば、永世二冠となるわけだ。

 

「歩夢、お前とのタイトル戦も近いって言うのに、お前は相変わらずなんだな」

 

普通、棋士というのは、対局が近づけば、親しい間柄の人間であっても、話そうともしないものなのだ。しかし、歩夢はこうやって俺のタイトル戦にまで駆けつけ、祝勝会にまで参加してくれている。

……尤も、昔から歩夢はこういう奴だっていうのは知っているのだが。急に話さなくなる歩夢とか、想像ができない。こいつは、対局中だって賑やかな奴なんだから。

 

「気にするな。我達の仲だろう?尤も、お前がこの程度のことで対局に支障が出るというのであれば、距離を置くが?」

 

「それはやめてくれ。逆に調子が狂う」

 

「フッ、ではいつも通り行かせてもらおう。我らしくな」

 

「あぁ。俺も、俺らしく受けるよ」

 

歩夢が言ういつも通り。それは間違いなく、俺に接する態度だけを指した言葉では無い。対局のことも指しているはずだ。歩夢は、変わらずに自分の棋風を貫き、俺の首を取ると告げているのだ。だから、俺も俺らしい将棋で受けて立つ。最後に笑っているのは、俺であると信じて。

 

「八一君、そろそろ行った方がいいんじゃない?」

 

歩夢とそうやって互いの戦意を高め合っている時だった。桂香さんが、そう俺に告げてきた。桂香さんにそう言われ、時計を見る。

……確かに、そろそろ出ないとマズイ時間だ。桂香さんに言われるまで、時間を全く気にしていなかった。俺も、酔いが回ってしまってるのかもしれない。

 

「そうだね。俺そろそろ行くよ。ありがとう桂香さん」

 

「なんや、八一。どこにいくねん?夜はまだまだこれからやろがい!まだまだ飲むで!」

 

「すいません師匠。家で銀子が待ってるんで」

 

「銀子ぉ?そんなん待たしといたらええやろ!今日は目出度い日なんや!もっと飲むで!」

 

「……師匠、今日は何月何日でしたっけ?」

 

「なんや?まさかワシが酔うてるとでも思うてるんか?今日は九月八日やろ!どや?まだワシは酔うとらんで!」

 

「じゃあ、明日は何月何日ですか?」

 

「なんやねんさっきから。そんなん、九月八日の翌日なんやから、九月九……日……」

 

その日付を口にして、師匠は固まってしまった。どうやら、俺が伝えたいことが伝わったらしい。もしかしたら、本当にそこまで酔っていないのかもしれない。

……酒と思い込んで水をガブガブ飲んでる時点で泥酔してるのは間違いないだろうが。

ともかく、九月九日だ。その九月九日というのが重要なのだ。何故ならその日は……

 

「確か、銀子ちゃんの誕生日だったな」

 

そう、生石さんの言うとおり、俺の妻銀子の誕生日だ。銀子も会場まで来ていたのだけれど、先に帰ってお祝いの準備をしてもらっている。主役に準備をさせるのもどうかと思うけど、流石にこの場を俺が離れるのはマズイ。事情を言って早めに切り上げるつもりだけれど、それでもギリギリまでは付き合っておかないといけない。大人って辛い。銀子ちゃんも事情はちゃんと理解してくれているため、酔っ払いに絡まれる前に早めに切り上げてもらっている。

 

「フッ、女を待たせるのは騎士道に反するぞ?早く行ってやれ」

 

「そうだな。流石に銀子ちゃんを一人にはできないからな」

 

「わかったわ。それならしゃーない。はよ行ったり」

 

「フフッ、八一君、楽しんできてね」

 

「はい、また明日の夜、銀子と師匠の家に顔出しますね」

 

そして俺は、会場を後にした。銀子ちゃんをあまり待たせるわけにはいかない。俺は急ぎ、タクシーを捕まえ飛び乗る。そして目的地を告げると、タクシーは直ぐに動き出した。俺はそのタクシーが目的地である自宅に着くまで、まだかまだかと、ソワソワしていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

本当にギリギリだった。現在時刻は23時55分。日付が変わるまで、後五分しかない。だけど、間に合った。俺は急ぎ運転手に運賃を支払うと、これまた急ぎ家へ飛び込んだ。結婚を機に購入した一軒家。鍵はやはり開いていた。先に帰っている住人がいるのだから当然だ。その住人を求めて、急ぎリビングへと向かう。そこに、目的の人物はちゃんと居た。明かりの付いていない部屋。机に置かれたケーキに刺さったロウソクの仄かな灯りが、椅子に腰掛けた銀子の存在を俺に報せてくれていた。

 

「遅い」

 

「ごめんごめん。中々解放してもらえなくて」

 

本当は嘘だ。実際には、桂香さんに言われるまで時間のことを忘れていたなんて言えない。もし口にしたらぶちころされてしまう。

 

「ふ-ん、てっきり、時間のことなんて忘れてるのかと思ってたんだけど」

 

「……」

 

鋭い。図星だった。おそらく、表情にも出てしまっていただろう。銀子が、準備万端に電気を消してくれててよかった。御陰で、銀子に俺の顔はハッキリと見えていないだろう。きっと、表情の変化まではわからなかったはずだ。

……わからなかったよね?流石にロウソクの灯りだと、そこまではわからないと思うんだけど、大丈夫だよね?場合によっては俺の命に関わるからね?

 

「ま、まぁ遅くなったのは悪かったよ。準備もしてもらってありがとう。本当なら、俺がするべきなのにね」

 

「そんなのいいわよ。事情が事情だし。私は、こうやって二人きりでお祝いしてもらえるだけでいいから」

 

銀子の様子を見るに、どうやら本当に見えていなかったようだ。良かった良かった。俺は安堵した内心を悟られないように努め、そして丁度良い時間であることを銀子に伝えた。

 

「さぁ、後十数秒だよ」

 

「……うん」

 

「後10秒、9,8,7,6,5,4,3,2,1……ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデーディアギンコ-、ハッピバースデートゥーユー!」

 

俺がお決まりの誕生日ソングを歌い終わると、銀子が息を吹きかけ、ロウソクを吹き消す……しかし、勢いが足らずに、数本が火の灯ったまま残ってしまった。銀子は、残りのロウソクを消そうと息を吹きかけようとして、しかし途中で止めた。

 

「どうしたの?」

 

「やっぱり、残りは八一が消して」

 

「え?俺が?」

 

「うん、幸せのお裾分け」

 

つまり銀子は、自分に向けられた祝福を、俺と共有したいらしい。なんとも可愛らしい提案だった。俺としては、主役である銀子に全てを吹き消してもらうのが一番良いとは思う。でも、他でも無い銀子(しゅやく)自身がそう提案しているのだ。ならば、俺に断る理由は無い。

 

「わかったよ。それじゃ、消すよ」

 

そう言って、俺は残りのロウソクを、一息で消しきった。

 

「……お誕生日おめでとう、銀子」

 

ロウソクの火を消しきってから、消した者がそのまま祝辞を告げる。なんとも、滑稽に映る一幕になってしまった。銀子からもそう見えたのだろう。

 

「ぷっ、フフフ、あ、ありがとう……」

 

笑うのを堪えながら、俺にお礼を言ってきた。自分でやらせておきながら、酷い話だ。

 

「やらせておきながら、笑うのってひどくない?」

 

「ふ、フフフ……ご、ごめん、でも八一が、気恥ずかしそうに言うから、つい……」

 

確かに、気恥ずかしく感じてしまったことは否定しない。

想像してみてほしい。誕生日会で、祝われる人ではなく、祝う人がロウソクを消し、そして顔を上げて祝辞を述べる姿を。明らかにおかしくないだろうか?そんな姿を想像して、実際に行動に移して、気恥ずかしくなってしまっても、仕方がないと思う。そして、そんな姿が端から見て、面白いであろうことも認めざるを得ない。俺はそんな気恥ずかしさを誤魔化すかのように、急ぎ部屋の電気を付けに向かい、この際気にせず、次の段階へと話を持っていくことにした。

 

「銀子、はいこれ、プレゼント」

 

それは、小さな箱だった。包装こそ綺麗にラッピングされているが、本当に小さな箱だった。このプレゼントを俺は、帝位戦のずっと前から用意していた。会場にも持ち込んでいた。流石に、ずっと割り振られた自室に保管してあったが。

 

「ありがとう。空けていい?」

 

「うん、どうぞ」

 

銀子が、箱の中身を確認する。それは、髪飾りだった。雪の結晶を象った髪飾りだった。

 

「八一……ありがとう」

 

「うん、どういたしまして」

 

三度目だ。俺がその形状の髪飾りを彼女に贈ったのは、これで三度目だ。一度目は、彼女が初めて女流タイトルを取った時。ただあれは、俺達にとって苦い記憶でもあった。二人の手が、一度離れた時のことだ。そして二度目は、銀子の15歳の誕生日の時。しかしこれも、まぁ、苦い思い出になっていたりする。あの時の俺よ。どうしてあんな失敗をしてしまったんだ。因みにあの時、銀子にはあの後ちゃんと髪飾りを渡し、パンツはちゃんとシャルちゃんにあげた。その時の、皆の冷ややかな視線は忘れない。だけど同時に、シャルちゃんの嬉しそうな笑顔も忘れない。いくら冷ややかな視線を重ねたって、シャルちゃんの笑顔一つに勝てないのだ。シャルちゃんマジ天使。……それはさておき。

 

「あの、銀子。なんで俺の足を踏んでグリグリしてるの?」

 

「今、他の女、もといJSのこと考えてた」

 

鋭い。なんだか、銀子の鋭さが日に日に増していく気がする。だけど成長しているのは銀子だけではない。俺だって成長しているのだ。

 

「うん。確かに他の女の子のことを考えてたのは事実だけど……」

 

「事実だけど?」

 

「他のどんな女の子も、やっぱり誰も銀子の魅力には勝てないな、って考えてた」

 

「ふにゃっ!?そ、そんなこと言っても、わ、私は誤魔化せないわよ」

 

そう言う銀子の耳元に、俺は口を近づけ、止めの一撃を囁いた。

 

「本当だよ。誰も銀子には勝てない。俺が世界で唯一愛してるのは……銀子だけだよ」

 

「ひゃっ!?え?えぇ!?ふ、ふみゃ、ふ、ふ、ふみゅぅ……」

 

俺の囁きを聞いて、銀子は煙が出そうな程に顔を真っ赤にして、目を回していた。ちょろい。

銀子は、結婚してからも初心(ウブ)なのは変わっていない。対して俺は、流石に色々と慣れて、耐性も付いた。この程度のことを耳元で囁くぐらいで恥ずかしがったりなんかしない。さっきのおめでとうの時とは話が違うのだ。まぁ、この手段を使った場合、銀子は最低でも再起動に10分程かかる。その間に、ケーキを切り分けてしまおう。俺は、キッチンから包丁を取ってきて、ケーキを綺麗に六等分に切り分けた。切り分けて数分が経つと、銀子は無事再起動が終わったらしい。目覚めた銀子の前に、切り分けたケーキを一欠片、皿に取り分けてフォークと一緒に差し出した。

 

「あ、ありがとう。あれ?私、何してたんだっけ?」

 

「疲れてたんじゃない?十分ほどだけど寝ちゃってたよ」

 

どうやら、銀子はさっきまでの記憶があまり無いらしい。これをチャンスと、俺は嘘の記憶を銀子に植え付けておいた。

 

「え?私寝ちゃってた?ごめん」

 

「いいよ。気にしないで」

 

「……あ、髪飾り」

 

そして銀子は、軽く気を失ってる間もずっと握りしめていた髪飾りに気付いた。それに気がつくと、銀子は今付けている髪飾りを外し、新しい髪飾りを手に取った。そして、暫しの間その髪飾りを見つめた後、新たに自身の髪にその飾りを装着した。

 

「どう?」

 

「凄く似合ってるよ」

 

実際には、同じデザインのものを選んで買っているため、以前との違いが俺にはあまりわからない。まぁ、以前の物も、言わずもがな、とても似合っていたので、今の物が似合ってるというのも、間違ってはいないだろう。結論、古いのも新しいのもどちらも似合っているのだ。

これで三度目の贈り物になる髪飾り。だけど、これほど甘い記憶に残りそうなのは、初めてだった。過去の二度がある意味失敗だったこともあり、今回の髪飾りは、俺たちの思い出の1ページに深く刻まれそうだった。

その後も俺たちは、二人の時間を甘受し、享受した。幸せな時間に酔いしれていた。これは、そんな幸せの中の一幕だった。その話になった切欠はなんだっただろうか?本当に大したことのない、些細な切欠だったと思う。

 

「……ねぇ八一。私、凄いことに気付いたかもしれない」

 

「どうしたの急に?」

 

「私の誕生日って九月九日でしょ?」

 

「そうだね。今日は九月九日だね」

 

「九月九日。つまり9と9」

 

「うん。9と9だね。それがどうかした?」

 

「八一、9×9っていくつだっけ?」

 

「9×9?そんなの決まってるじゃん。答えは……あ」

 

そこで俺は、銀子の言おうとしていることに気付いた。9×9、その答えは、81。つまり八一になるのだ。単なる偶然にすぎないだろう。それでも、俺たちにはその偶然が、必然に思えて仕方がなかった。

 

「あはは!凄いねこれ!これってもしかして、俺たちって最初から結ばれる運命だったってことじゃないかな?」

 

「もしかしたらそうだったのかも!何で今まで気付かなかったんだろう?本当に凄い発見よ!」

 

その後も俺たちは、この偶然を発見したことを喜び、運命だと決めつけて笑いあった。あぁそうだ。きっと俺たちは、最初から運命づけられていたのだ。この世に生を受けたその時から、俺たちが出会い、そして結ばれるということは、きっと定められた運命だったのだ。

 

「いやー、笑った笑った」

 

「本当よ。私も笑いすぎて喉が渇いたわ」

 

「あ、だったら何か飲み物取ってくるよ。……そうだ!銀子も今日から二十歳になったんだし、お酒に挑戦してみない?」

 

「……そうね。折角だし、挑戦してみようかな」

 

「そうこなくっちゃ!」

 

俺は急ぎ冷蔵庫に向かった。俺は、師匠の影響か、血筋なのかはわからないが、酒好きに育った。冷蔵庫には、いつもストックを切らさずに酒が入っている。その中から俺は、自分の分のビールと、銀子用に酎ハイを取り出し、急ぎリビングへと戻った。

 

「おまたせ!」

 

「……うん」

 

「さ、銀子、飲んでみて。飲みやすいように、果実系の酎ハイにしたから。度数も低いし、飲みやすいよ」

 

「……わかったわ。それじゃ、いただきます」

 

そして銀子は、お酒デビューを果たした。まず一口飲み、口の中で転がしてジックリ味わっている。そして、一気に飲み込んだ。

 

「あ、意外と美味しい……か……も……」

 

「銀子?」

 

銀子はお酒を一口飲むと、椅子に座ったまま俯いてしまった。心配になり、立ち上がり銀子に近づく。すると、静かに寝息が聞こえてくる。どうやら、一口飲んだだけで酔いが回り、寝てしまったようだ。ただ寝ているだけだとわかり、俺はホッと息を吐く。そして、いつまでもそのまま寝かせておくわけにもいかないので、抱き上げて、近くのソファに寝かせてあげる。そして、丁度ソファに掛けてあった毛布を、そのまま銀子に掛けてあげた。銀子の寝顔は穏やかで、幸せそうだった。何か、良い夢でも見ているのだろうか?その夢の中に、俺もいたらいいのにな、なんて考えてしまう。俺は、椅子に腰掛け、一人晩酌を始める。つまみはとくに無い。だけど代わりに、最高の肴が目の前にあった。俺は、銀子の寝顔(しあわせ)を肴に、ビールを味わっていた。

 

「美味い」

 

夕方からあれほど飲んでいたというのに、そのビールの味はとにかく美味かった。単に俺が酒好きなだけなのか。それとも、極上の肴を目の前にしているからなのかはわからない。しかし本当に、そのビールの味は、普段飲んでいるものと同じはずなのに、格段に美味く感じた。そんなビールを味わいながら、俺は銀子に告げるのだった。極上の肴の提供者に告げるのだった。俺の、運命の人に、心からの愛を乗せて告げたのだった。

 

「銀子……お誕生日おめでとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




銀子ちゃんお誕生日おめでとう!
実は、過去に本編内でこんなこともあったって触れてるお話です
ぶっちゃけ、9日に間に合わないと思ってた(白眼
えぇ、頑張りましたよ
次回は本編に戻ります
たぶん、しばらく特別編は無いです

八銀はジャスティス


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本編
第1局 プロローグ?


有りそうで無い八一逆行小説
合い言葉は、八銀はジャスティス


その日、棋界における一つの伝説が、幕を閉じようとしていた。

史上4人目の中学生プロ棋士、史上最年少タイトル保持者(ホルダー)、永世七冠、通算タイトル120期等々、挙げれば切りの無い快挙の数々。

まさに棋界の生ける伝説。

 

なんて、自分で言ってると恥ずかしくなってくるが、どれも(まぎ)れもない事実なのでいいだろう。最期の時ぐらい、自分のことをカッコ良くみせたい。そういう男の見栄というものだ。

俺の名前は九頭竜八一。前述の通り、棋界における生ける伝説だ。だがそんな俺も、今は病室のベッドの上、最期の時を迎えるだけとなっていた。いくら将棋が強かろうとも、人間である以上年には勝てない。

そう俺の死因は、人間である以上皆に平等に訪れる寿命というやつだ。唐突に病気や事故でポックリ逝くこともなく、天命を全うできたことには、有り難く感謝したい。

 

こうして静かに寝転がっていると、今までの人生の描写が次々と思い浮かんでくる。これが噂に聞く走馬燈という奴だろうか?とは言っても、俺の人生なんて所詮将棋に(まみ)れた物だ。将棋以外の記憶なんて、ロリコンと罵られていた時期の騒がしい記憶ぐらいだろう。と、いうわけでもない。俺は、ベッドの脇に目を向ける。そこには、俺の右手を握りしめながら、果てることの無い涙を流し続ける最愛の人がいた。

 

彼女の名前は空銀子。女性初のプロ棋士にして、女性初のタイトル保持者にまで上り詰めた歴代最強の女性棋士だ。その強さと可憐な容姿から、『浪速の白雪姫』の愛称で親しまれた、棋界のスーパーアイドルだ。そして、俺の人生のパートナーでもある。

 

「今思い返せば、いつも君を泣かせてばかりだったね」

 

そう言って、彼女の涙を拭い取ろうとするが、どうやら俺の体は既に限界が近いようだ。手が全く動いてくれない。彼女に右手を強く握りしめられているはずなのに、その感覚ももう無い。その瞬間が近づいていることを、否が応にも教えられる。

 

「バカっ!バカ……っ!ばかやいち……っ!」

 

いつもの調子で、彼女が俺のことを罵ってくる。想いを分かち合ったあの日からその頻度は少し減ったものの、それでも最期まで、彼女の口の悪さは直らなかった。まぁ、今となればそれも彼女のチャームポイントとして受け止められてるあたり、俺は心身の隅まで、彼女に魅了されてしまったのだろう。

 

「なんで、私を、置いていっちゃうの……」

 

「こればかりは、俺の一存で決められるようなことじゃないからな」

 

震えた彼女の問いに、俺は返答に迷う。寿命なんてものは、自身の意思で決めれるようなものじゃない。それこそ、将棋の神様でも決めることはできないだろう。無理難題というものだ。

 

「だけど、それが無理難題だとわかっていても、きっと俺も逆の立場だったならば、同じ事を言うんだろうな……」

 

「っ!」

 

彼女の涙が、激しさを増した。堪らず、下を向いてしまう彼女。しかし、直ぐにまた、顔を上げ、俺の目を見つめてくる。まるで、俺の顔を瞼に焼き付けるかのように、真剣な目つきで。そんな彼女に向けて、俺は唐突に言葉を飛ばす。

 

「2六歩」

 

「っ!……8四歩」

 

俺と彼女の、最期の対局だ。過去数万、いや数十万、いいや数百万局を指してきた俺と彼女。その最期の対局。朦朧(もうろう)とする意識の中で、必死に脳内将棋盤を形取り、彼女と対峙する。

 

「2五歩」

 

「8五歩っ!」

 

戦型は俺の得意戦法の一つ、相掛かり。残された時間も少ないため、このまま急戦を仕掛けていくつもりだ。だが、それは彼女も同じ事を考えていたらしい。

 

「7八金」

 

「8九飛成」

 

「3七玉」

 

「4四桂っ!」

 

40手目を過ぎたあたりから、彼女の猛攻が俺の玉に襲いかかった。息もつかせぬ猛攻だった。(もや)のかかった思考の中で、必死に逃げ道を探すが、そんなものは見つからなかった。

 

「負けました」

 

俺は潔く投了をする。まだ粘ろうと思えば粘れたかもしれないが、その前にお迎えが来そうだったのでやめておいた。徐々に感覚が無くなっていく体から、遂に視界までもが奪われたのだ。最愛の人の顔までもが、見えなくなってしまった。

 

「強く、なったね……」

 

「私が強くなったんじゃないっ!八一が弱くなったのっ!」

 

「最期まで、手厳しいな……」

 

朧気な意識の中、俺は彼女の声を聞いていた。皆気を利かせてくれたのだろう。この病室には今は俺と彼女しかいない。聞こえる音も、止まりかけの心電図の音と、未だに泣き止まない彼女の声だけ。そのお陰で、なんとか彼女の声を未だに、聞き取ることができていた。だが、その声も徐々に聞こえなくなってきた。遂に、その時が来たのだろう。

 

「今から言うのが、俺から君に贈る、最期の言葉だ」

 

「っ!」

 

彼女が息を飲んだのが、僅かに残った意識でも感じ取ることができた。きっと、そんな言葉聞きたくないとでも思ってるのだろう。だけど、聞かないわけにもいかず、必死に耳を傾けてくれているはずだ。必死に、涙を堪えて。

 

「俺は先に行ってるが、できるだけゆっくり、お前のペースで歩いておいで。昔からお前は体が弱いんだから、絶対無理するんじゃないぞ?」

 

「っ!ううっ……っ!やい……ち……っ!」

 

涙に負けないように、必死に俺の名前を絞り出す我が妻。彼女には本当に、今まで苦労をかけた。迷惑をかけた。だけど、それもこれでお終いだ。

 

「今まで本当に、世話になったね。本当に、ありがとう。愛してるよ、銀子……」

 

銀子と、彼女の名前を口にすると同時に、遂に俺は口を開くことさえもできなくなってしまった。

 

「ううっ、お世話になったのは、私の方だよ……私も、愛してるよ……ねぇ、置いてかないでよ、やいち……ねぇ……やいちッッ!!」

 

消えてゆく意識の中、最期に聞こえたのは0を示す心電図の音と、銀子の泣き叫ぶ声だった。どうやら俺は、最期の最期まで、彼女を泣かせ、傷つけてしまったらしい。いつまで経っても俺は、クズ竜王のままだ。銀子の名前も中々取り戻せず、その想いにも気づかず、傷つけてばかり。

 

傷つけてしまったといえば、あの日のことは未だに後悔している。銀子の手を、離してしまったあの日。銀子の名前を失ったあの日。俺も銀子も、後に幸せを手に入れたとはいえ、あの日のことは最期の時までお互い後悔しっぱなしだった。あの日、あの手を離さなければ、お互い傷つかず、ずっと笑顔でいられたはずだ。

 

全体的に良い人生だとは思っていたが、その中に落ちた一つの汚点、後悔。その一点が、最期に残った僅かな意識の中で俺の心を蝕む。あぁ、もしもう一度、人生をやり直せるならば、今度こそは、あの手を離してたまるものか。もし、もう一度やり直せるならば……

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっ!?」

 

そして、意識が覚醒する。

 

「え?なんで俺……ここは、もしかして?」

 

天国、そう続けようとした言葉は途中で引っ込んだ。そもそも、銀子を傷つけ続けた俺が行き着く先は、地獄かもしれないが。まぁそんな話は置いておいて、目を開け、最初に視界に飛び込んできたのは天井だった。その時点で俺はどこかの建物の中にいるのがわかる。そして、視界を徐々に下に向けていくと、俺が布団を被っているのがわかった。周りを見渡すと、どこかの部屋の中で、布団を被って寝ていることがわかった。しかもこの部屋、俺は知っている。もう忘れかけていた、懐かしい匂い。ここは、もしかすると。その俺の疑問は、次の瞬間確信に変わった。

 

「あらあら?起きたのね」

 

部屋に一人の女性が入ってくる。俺の良く知った人物だ。懐かしき人物だ。俺がこの人を見間違うはずがない。何故ならその人物は……

 

「か、母さん……」

 

俺の母さんだったのだから。これは、一体どういうことなんだ?何故母さんがここにいる?いや、だが母さんがいるならばこの部屋に見覚えがあるのにも納得がいく。ここは俺の実家なのだ。福井の山奥にある実家なのだ。だけど、俺は死んだはずでは?どうして、こんな場所に?しかも目の前にいる母さん、これが実に若いのだ。若々しすぎる。おかしい。何もかもが異常だ。異常事態だ。

 

「どうしたの八一?そんなにキョロキョロして。まだ寝ぼけてるのかしら」

 

寝ぼけているわけでは無い。いや、それともやはり寝ぼけているのだろうか?全く状況が掴めないまま、俺は立ち上がった。

 

「え?あれ?」

 

そしてそこで俺は気づいたのだ。自身の視点が非常に低くなっていることに。まるで、子供にでもなったかのような視点の低さ。母さんのことを、見上げないと目が合わせれない。驚き、目をパチクリさせ、恐る恐る自身の手を見てみる。小さい。小さすぎる。年によってできた皺も無い。これではまるで、子供の手だ。

 

あぁ、わかった。わかってしまった。低い視点、小さな手、若々しい母さん。これだけヒントをもらえれば流石にわかる。まぁ、わかっても理解できるかは別だが。要するに『まるで』では無いのだ。事実、子供になっているのだ。いや、おそらく戻っていると表現するべきだろうか?幼き頃の、自分に。

 

「さぁ、早く来なさいな。準備はもうできてるわよ」

 

「準備?」

 

準備とはなんだ?と疑問に思いつつも、俺は母さんに着いていく。案内されたのは、懐かしき実家の食卓だった。そして、そこに集う面々も懐かしい。

 

「お、来たな!」

 

俺の登場に反応し、声をかけてきたのは若かりし親父だった。その隣には懐かしき祖父もいる。更には幼き兄貴に、揺り籠に揺られている弟までいる。あぁ、これは間違いない。つまり、そういうことなのだろう。

 

「よし始めるぞ!八一、三歳のお誕生日おめでとう!」

 

その親父の声で、俺は状況を全て理解し、感動に打ちひしがれた。これは現実なのか?あぁ、間違いなく現実なのだろう。嘘のような現実だ。まさか、まさか人生を指し直すことになるなんて。

 

未だに状況を飲み込みきれない俺だったが、一つ、本当に将棋の神様に感謝したいことがあった。それは、あの日の後悔を無くすチャンスが与えられたこと。これが嬉しくて、嬉しすぎて、俺はその場で年甲斐も無く号泣してしまった。まぁ、実際には三歳に戻ったので、年相応かもしれないが。それに驚いた家族が心配し、誕生会どころでは無くなってしまったことだけここに追記しておく。

 

()くして、俺、九頭竜八一の将棋(じんせい)は終わりを迎え、また始まるのだった。




エピローグのようなプロローグ
流石に、結婚後もちゃん呼びはしてないだろうと思い、銀子ちゃんの呼び方は銀子と呼び捨てに変わっております
次話の投稿はおそらくあさって
投稿ある日は必ず20時1分に予約投稿します
ストックも無い中投稿していくので、投稿ペースは期待しないで下さい
八銀はジャスティス


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第2局 天才幼稚園児

銀子の再登場はもうちっとだけお待ち下さい
合い言葉は、八銀はジャスティス


俺が今生で意識を取り戻し、早くも3年を迎えていた。

 

「八一!6歳の誕生日おめでとう!」

 

あの日と同じように、お父さんがお祝いの音頭を取る。この日、俺は6歳の誕生日を迎えていた。そう、6歳の誕生日だ。その年齢が意味するところは、俺にとっての運命の日が近づいてきているのだ。最愛の人との、出会いの日が。

 

「八一!今日は父さん、とことんお前の好きなことに付き合うぞ?」

 

「ほんと!?」

 

「あぁ、本当だ!何がやりたい?」

 

「将棋が指したい!」

 

「あはは!お前ならそう言うと思ったよ!よーし!父さんとことん将棋に付き合うぞ!」

 

将棋は、前生と同じく5歳の頃に()()()()()()()()()()()

まぁ、将棋のルールなんてものは今更教わるようなことでもない。そんなもの、頭でわからなかったとしても、体が覚えている。例え、100年間将棋に一切関わらなかったとしても、きっと覚えていることだろう。

まぁ、人生が巻き戻った拍子に、将棋のルールも忘れてたらどうしようかと考えてはいたが、それは杞憂だったようだ。駒の動かし方どころか、細かいルールまでの全てを頭が覚えていた。少しホッとした。

 

だが、棋力に関してはそうもいかなかったらしい。明らかに、棋力が落ちている。いや、これも戻っていると言った方がいいだろう。当時の俺の棋力に戻っているのだ。今までと明らかに駒の、盤面の見え方が違う。今までは見えてた道筋が、全く見えない。とはいえ、それこそ当然とも感じるが。

永世七冠の棋力をそのまま持った幼稚園児とか、そんなもの怖すぎる。まず人間かどうかから疑うべき様な存在だろう。

 

とは言っても、俺には他者を圧倒的に上回る経験値があった。前生の棋譜までも全て覚えている。道筋が見えなければ、経験でカバーすればいいのだ。見えない分、考えて考えて、考え抜いて指す。そうして、俺は今生の棋力の底上げを図っていた。

 

「ま、負けました……」

 

その結果、できあがるのは白星の山だった。今日だけでも、十を軽く超える白星を、お父さんから稼いでいた。勿論、黒星は一つも無い。

 

「もう一回!」

 

「ま、待て八一!そうだ!今度将棋の大会が県内で開かれるんだ!それに連れていってあげるから、今日は勘弁してくれないか?な?」

 

来た。遂にこの時が、最初のターニングポイントが来た。この将棋大会に、あの人も来るはずだ。俺のもう一人の父親とでも言うべきあの人が。

 

「将棋の大会!?行きたい!」

 

「よーっし、じゃあ今日はこのぐらいにしとこうな?な?」

 

「うん!わかった!」

 

「はぁ、まさかウチの息子が、天才だとは思わなかったな」

 

天才。お父さんは俺のことをそう評価した。まぁ、その評価も当然だろう。何せ、将棋を始めてこの方、未だに負けたことが無いのだ。家族内でしかまだ対局したことが無いとはいえ、その戦績は異常だろう。

 

「これなら今度の大会も優勝しちゃうかもな!お父さんは下のランクのB級で出るけど、八一は上のランクのA級で出てみるか?」

 

「うん!そうする!」

 

「よしわかった!それで申し込んでみよう!今から楽しみだな!」

 

「楽しみ!」

 

こうして、俺の大会デビューは決定した。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして大会当日。俺……いや、もう僕に変えよう。精神年齢は流石に戻せないが、言葉遣いや一人称、他人称は当時のものになるべく近づけよう。僕は、お父さんの申し込んだとおり、前生のとおり、A級で大会に参加した。

 

「なんだあの幼稚園児!?」

 

「つ、つえー!」

 

「前回準優勝者が一方的にやられたぞ!」

 

そして当然のように、勝ち進んでいった。お父さんは、B級で早々に敗退してしまったけど、僕は無事に決勝まで駒を進める。

 

「ほんなら、決勝を始めるで!」

 

審判長の声に誘われ、席に着く。審判長。その姿を目にして思わず涙腺が緩みそうになってしまった。今日審判長としてこの会場に来て下さったのは、清滝鋼介八段。前生の僕の師匠だ。

 

前生で師匠は、僕、いや今だけは俺と言わせて欲しい。俺に実の息子の様に接してくれた。師匠がいたからこそ、前生における数々の偉業は達成できたと言っても過言では無い。前生において、師匠が亡くなられたのは俺が永世名人を獲得した直後のことだった。

おそらく、俺が永世名人になるのを待っててくれたのでは無いだろうか?俺が初めて名人になった際は、「わしの代わりに夢を叶えてくれた!」「流石わしの息子や!」「一生の自慢ができたわ!」等々、数々の褒め言葉で称えてくれた。と同時に、今度は永世名人になってみたいという注文まで下さった。

 

それから4年後、チャンスは早くもやってきた。連続4期名人タイトルを維持した後の防衛戦。ここで防衛すれば、ストレートでの永世称号が決まる大一番。しかし、その大一番を前にして、師匠は床に伏した。もう長くない。一週間生きれれば良い状態と医者に言われ、永世称号を見せることは叶わなかったかと俺は涙を流した。涙を流すと同時に、決意した。師匠に永世名人になった俺を見せるには、少しでも早くタイトルを獲得するしか無い。ストレートで勝とうと。そして宣言通り、俺はストレートで防衛に成功した。

 

永世名人を獲得した足で、銀子ちゃんと共に病院まで急ぐ。病室の扉を開けると、師匠はまだ生きていた。ストレートで防衛に成功したとはいえ、それでもタイトル戦の期間は2ヶ月近くあった。その間、余命1週間と言われた師匠が、生きて見せたのだ。まさに粘り強さに定評がある、関西棋士の鑑の様な人だと感じ、思わずその場で泣き崩れてしまう俺。だが直ぐに気持ちを切り替え、銀子ちゃんに支えられながら、師匠に永世名人獲得の報告をした。その瞬間、もはや口を動かすこともできないはずの、師匠の口が、確かに弧を描いたように見えたのだ。僅かに、本当に僅かにだが、笑ったように見えたのだ。まるで、「お前なら取れると信じてたで」「流石わしの自慢の息子や」とでも言うかのように。それを見た瞬間、俺はまた泣き崩れてしまった。今度は銀子ちゃん共々、泣き崩れてしまったのだった。

 

師匠が息を引き取ったのは、その翌日のことだった。悲しみに暮れる間もなく、師匠の娘の桂香さんと、銀子ちゃんと一緒に通夜の準備に明け暮れる。準備も一段落着き、休憩を挟んでいる時のことだった。桂香さんが、一枚の手紙を持ってきた。どうやら、自身の死期を悟った師匠が床に伏す直前に書いた物らしい。桂香さんが言うには、俺のタイトル戦が終わった後に、俺に渡すように言われていたらしい。

 

その手紙を読んで、俺は年柄にも無く声を出して泣いてしまった。そこには、俺が永世名人を獲得したことに対する祝福の言葉がずらりと並べられていた。この手紙を桂香さんは、師匠から()()()()()()()()()()() ()に渡すように言われたらしい。勝った場合とかでは無く、終わった後になのだ。それが意味するところは、師匠は、

俺が必ず勝つと信じていたのだ。タイトル戦の俺の相手、俺の永遠のライバル神鍋歩夢に必ず勝つと信じていたのだ。

 

手紙の最後はこう締められていた。「夢を叶えてくれて、ありがとう」と。ありがとうと言いたいのは俺の方だ!一人前の棋士に育ててくれて、ありがとう!将棋の楽しさを教えてくれて、ありがとう!息子として育ててくれて、ありがとう!

 

その時感じた色々な感情が、飛び出てきそうになって、僕は思わず口を押さえた。涙を堪えるのがしんどい。目を手で覆い、俯いてしまった。

 

「ぼく大丈夫か?具合でも悪いんか?」

 

師匠……いや、今はまだ師匠では無いから清滝先生と呼ぼう。清滝先生が心配して声をかけてくださる。だけど、今はこっちを見ないでほしい。声をかけないでほしい。余計に泣きそうになってしまうから。

 

「だ、大丈夫。少し緊張してるだけです」

 

「ならええねん。緊張することは悪いことやない。緊張も、自分の力にしてがんばりや!」

 

「はい!」

 

そして、対局が始まる。相手は前回大会の優勝者。棋力はそこそこあるのだろう。だけど、その雰囲気からこちらが子供だと舐めてるのがわかる。まぁいい。舐めてくるなら、盤上で後悔させるだけだ。振り駒の結果、僕は後手を引いた。相手の初手はオーソドックスに7六歩。角道を開けるスタートとなった。対する僕の初手。その手を見た瞬間、会場がざわつく。

 

「はぁ!?2四歩!?」

 

「おいおい、緊張のあまり指し間違えたんじゃないか?」

 

「ま、まぁいくら強くてもまだ子供ということだな」

 

会場の大半は、僕の初手を見て動かす歩を間違えたとでも思ってるらしい。まぁ、知識が無ければそう見えてもおかしくないだろう。この会場でも、この戦法を理解しているのは僕を除いて一人しかいないようだ。

 

「か、角頭歩やって!?しかも後手番でとか、幼稚園児が指すような手とちゃうで……」

 

思わずといった感じで叫ぶ清滝先生。そう、僕が使った戦法は後手番角頭歩だ。前生における僕の二番弟子、夜叉神天衣の得意戦法だ。乱戦になりやすいこの戦法、実に挑発行為としても優秀なのだ。舐めてかかってくるような相手は……

 

「舐めやがって!」

 

実に簡単に乗ってくれる。本来ならここからゴキゲン三間飛車を併用するのだが、この対局では使うまでも無いだろう。そもそも、あんな戦法この時代には存在しない。幼稚園児が未知の戦法を披露したなんて、目立って仕方ない。今は使わない方がいい。まぁ、後手番角頭歩だけでも十分目立つ気もするが。

 

盤面は、予定通り乱戦状態になっている。駒が縦横無尽に行き交う大味な展開。だが、どちらが優勢なのかは目に見えて明らかだった。

 

「しょ、勝負になっとらん……」

 

清滝先生の呟きが、僅かに聞こえてくる。清滝先生の言う通り、この対局はもはや勝負にすらなっていなかった。明らかな、僕の勝勢。後はどう締めるかといった様相を呈していた。

 

「クソ!なんで、俺がこんなガキに!こんなの何かの間違いだ!」

 

まだ目の前の現実を受け入れられない対局相手。どうやら、まだこちらのことを舐めているらしい。だったらいい。最後は自分の手で終わらさせてあげよう。僕は一枚の駒を手に取り盤上に打ち付ける。

 

「え!?」

 

「ひ、飛車のタダ捨て!?」

 

そう。僕が手に取った駒は飛車だった。飛車をただ、敵玉の近くに打ちつけただけ。簡単に玉で取ることができてしまう無駄な一手。

 

「はっ!勝負を焦ったなガキが!」

 

こちらのことを舐めている相手は、簡単に玉で取ってくれる。それが罠だとも気づかずに。

 

「……ん?あ、あれ?う、嘘だろ?こ、これってまさか……!」

 

そして遅れて自身の失態に気づく。先ほどの手は、逃げればまだ粘れて、取ってしまえば頓死する一手だったのだ。こちらのことを未だに舐めてる相手は、短慮に僕が悪手を指したと考え取ってしまう。それが敗北への最短距離だとも気づかずに。そして僕は、次の手を指さずに相手に考える時間を与える。自身の犯した過ちを考える時間を。

 

「あ、ありません……」

 

そうすると、相手は簡単に投了してくれる。考える時間を与えた分、自身に勝ち目が全く無くなったことが、次に指す手が無くなったことが理解できたのだ。相手の精神に問いかける勝負術。前生では、盤外戦術も含めてよく銀子ちゃんと研究したものだ。

 

「おいおい、幼稚園児が優勝しちまったぞ!」

 

「こんなの前代未聞だ!」

 

「て、天才幼稚園児だ……」

 

そして歓声に沸く会場内。天才天才と、僕を褒め称える言葉が後を絶たない。まぁ、褒められて悪い気はしないよね。調子に乗ってしまいそうだ。そして、遂にだ。待ち望んでいたあの声も挙がってきた。

 

「これは福井県初のプロ棋士になるぞ!」

 

「先生!是非この子に指導対局をお願いします!」

 

清滝先生に、指導対局をお願いする声。僕と清滝先生、師匠の初対局の時。その時が遂にやってくる。

 

「よっしゃ!それならぼく、2枚落ちでどうや?」

 

色々な感情が爆発しそうだが、それはひとまず置いておこう。今は、この対局に集中したい。僕は緩む涙腺を必死に絞り、清滝先生の提案に応えるのだった。




原作の未来の話を勝手に作っていくスタイル
ザ・独自設定
次話もたぶんあさって投稿です
八銀はジャスティス


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第3局 もう一人の父親

早速の感想、評価、お気に入り登録ありがとうございます
すいませんが、銀子ちゃんは次話までお待ち下さい
合い言葉は、八銀はジャスティス


「よっしゃ!それならぼく、2枚落ちでどうや?」

 

清滝先生が、そう声をかけて下さる。僕はその言葉に、丁寧に返事を返した。

 

「いいえ、是非、平手でお願いします!」

 

プロに対して、幼稚園児が駒落ちの誘いを断って平手で打ちたいと言う。明らかに、失礼な言動だ。そうだとわかっていても、僕は頭を下げた。

 

「こ、こら八一!プロの先生に失礼だろ!」

 

お父さんがそう言う。確か、前生ではここでお父さんに対して、優勝して天狗になっていた僕はひどい言葉を言ったんだったかな。そして、清滝先生に咎められた記憶がある。だけど今生は違う。真摯に頭を下げる。自分の本気度を相手に伝えるため、頭を下げ続ける。

 

「ほう、何か考えがあるみたいやな。差し詰め、平手で指して、自分の今の棋力をなるべく正確に計りたいっちゅうところか。ほんまかしこい子やな」

 

どうやら、清滝先生は僕の考えていることを見抜いてくれたようだ。そう。僕は、棋力のまだまだ低い今の状態で、経験だけを頼りに、プロにどこまで通用するかを試してみたかった。僕の今後の目標を果たすためには、なるべく早い段階で是非とも試してみたい手合いだった。

 

「まぁええやろ。わかったわぼく。平手で指そか」

 

そして清滝先生は、僕の願いを聞き入れてくれた。平手に駒を並べていく僕達。流石に先手は譲って下さり、僕の手から対局は始まる。さて、何を指すかなんて考えるまでも無い。この対局で指す戦型は、大会が始まるよりも前から決めていた。初手で7六歩と、角道を開ける。

 

「今回は基本に忠実に来たか」

 

そう言って、清滝先生も3四歩と指して角道を開ける。さっきの後手番角頭歩を見ているからだろう。一般的な初手を見て、逆に驚いている。続いて僕は、6六歩と指して、開いた角道をまた閉じる。

 

「ほう?ぼく、そう来るか。おもろい子やな」

 

清滝先生は、どうやら早くも僕の意思を悟ったらしい。同じように4四歩と指しながら、面白そうに笑う。その後もお互いの指し手は同じように続いていき、盤面には同じ形が顔を現す。相矢倉だ。清滝先生の代名詞とも言うべき戦型、矢倉。それを僕は敢えてこの対局で使った。

 

清滝先生の代名詞とは言ったが、矢倉とは多くの棋士が愛用する、将棋において最もベタな戦型の一つだ。将棋の純文学とも称されるこの戦型。ただ単に矢倉と言っても、その種類は多岐に渡る。カニ囲い、片矢倉、矢倉穴熊等様々だ。そんな中でも今回僕が使用したのは最もオーソドックスな矢倉、矢倉囲いだ。清滝先生も、同じように矢倉囲いを使用している。お互い陣形が整って、さぁ開戦といこうかというところ。僕は、まず手始めに飛車先の歩を動かした。清滝先生も当然僕の意図を理解し、指す手を選ぶ。

 

「綺麗な矢倉や。定石をしっかり勉強しとるな。ほんまかしこい子や」

 

正確には勉強したわけでは無いけれど、そんなこと言っても仕方ないこと。勉強もしてないのに矢倉の定石を違わず指せるなんて、天才を通り越して気味悪がられるに決まっている。そして、その後しばらく指し進めると、清滝先生が自陣の矢倉の形を少し変える。パッと見ただけでは、より固くなったように見える変化だが、よく見ると明確な隙が見えてくる。僕を試しているのだ。この手を咎めることができるかと。その意思をしっかりと汲み取った僕は、次の一手を指す。清滝先生が作った隙とは、全く別のポイントに。

 

「なんや。この隙は見逃すんか。わしの見込み違いやったかな?……ん?いやまさか、この手は……」

 

そしてその手を見た清滝先生の表情が、徐々に驚愕の色に染まっていく。盤面の隅々まで目を動かし、この先の未来を読み解いていく。

 

「ま、まさかこの一手から、こんな変化があるなんてな。こら確かに隙を突くより大きい手やわ。ぼく、こんな手が指せるなんて、ほんまに幼稚園児なんか?」

 

幼稚園児です。人生2週目ですけど。なんて口が裂けても言えるわけがない。まぁ、これで僕の指した手の価値が大体わかっただろう。師匠が作った隙。その隙を突く攻撃は、謂わば(ひび)の入ったアスファルトをトンカチで叩いて穴を広げていくようなものだ。対して、僕の放った一手は、傷一つ無いアスファルトを、電動工具で掘っていくような感じだ。労力的にも威力的にも、どちらの方が良いかは(おの)ずとわかるだろう。

 

この一手を見れば、僕の棋力が実はやっぱり高いんじゃないか?と思えるかもしれない。だけど、この手は別に何かが見えたからこう指したとか、そういった要素は一切無い。この手は、あくまで()()()なのだ。

前生、僕は一度調子に乗っていたとはいえ、『矢倉は終わった』と豪語したことがある。あの時は、矢倉相手に研究していた新手が気持ちいいぐらいに決まり、連勝を重ねていたこともあって、少し天狗になっていたこともある。しかし、その後蔵王達雄九段相手に僕は天狗の鼻を折るどころか、根こそぎ引っこ抜かれるような敗北を喫した。

それが悔しくて、僕はそれまでよりも一層、矢倉の研究に力を入れるようになる。別に自分が指すためにではない。()()()()()()()()研究していたのだ。ありとあらゆる変化を研究し、その変化に有効な研究手を次々と編み出していった。その研究を活かし、矢倉相手に無類の強さを見せつけていった僕。そのような将棋を続けているうちに、いつの間にか僕相手に矢倉で挑んでくる相手はいなくなっていた。宣言通り、矢倉を終わらせて見せたのだ。少なくとも、僕の対局に置いては。

 

そしてこの一手も、その研究中に見つけた研究手の一つだ。相手の守兵を力ずくでなぎ払う一撃。前生、この一手には技名が付けられていた。別に僕が付けたわけではない。歩夢の奴が勝手に付けて、それが世間に浸透してしまっただけだ。さぁ、清滝先生、この手をどう受ける?この、無慈悲なる竜王の薙ぎ払い、デッドエンド・ドラゴンテイルを。だからこの名前は僕が付けたわけではない。歩夢の奴が勝手に以下略。

 

「あかん。これは厳しいわ。気を抜いたら一瞬で持っていかれてまう。これは、気ぃ入れてかんなあかんな」

 

そう言って、清滝先生は自陣の守りを更に固める手を指した。それは間違いなく最善手と言える一手。きっと、ソフトの示す次の一手とも一致していたことだろう。その後も清滝先生は、歯を食いしばりながらも、最善手で僕の猛攻を回避し続け、中々詰ませにいくことができない。流石鋼鉄流と呼ばれる鉄壁の受け将棋を棋風とする清滝先生だ。流石にここから詰ませるのは、棋力が低い今の僕では無理かもしれない。研究手が決まり、優勢に立ったと思ったら、攻撃の手段を全て止められ、逆にピンチになってしまう。

 

「危ない危ない。紙一重やわ。わしの陣形もボロボロやで」

 

そう、清滝先生の陣形はもう既にボロボロなのだ。あれだけ綺麗に組まれていた矢倉囲いも、今は見る影も無い。後一手、後一手何かがあれば勝てていた対局だった。だけど、その一手が僕には無かった。その結果……

 

「負けました」

 

僕は逆転負けを喫していた。

 

「な、なんて対局だ!」

 

「プロ棋士相手に途中まで完璧に押してたぞ!」

 

「もう既にプロ級の実力なんじゃないか!?」

 

沸き起こる、僕を賞賛する観衆の声。まぁ、こんな対局を幼稚園児がしたのだから、当然かもしれない。前生でも、確か翌日の新聞に天才幼稚園児と取り上げられていたはずだ。今回は、その比じゃないかもな。

 

「ぼく、ええ対局やったで。わしも久々に熱くならせてもうたわ」

 

そう言って、清滝先生が頭を撫でてくださる。あぁ、ダメだ。直に触れられると、頭を撫でられるとダメだ。僕の視線に合わせて、しゃがんで笑顔を向けてくる清滝先生。至近に見えるその顔を見てると、もうダメだ。対局中だからと押し込めていた感情が、堰を切って押し寄せてくる。涙として。

 

「なんやぼく、泣くほど悔しかったか。悔しいと思えるのはええことや。負けて悔しさを感じれへん子は成長せーへん。ぼく、きっとすぐに強くなれるわ」

 

「いいえ、悔しいのはもちろんあるんですけれども、それよりも、あの、僕、凄く嬉しくて……」

 

「負けて嬉しいんかいな。そんな子は初めて見たわ。ぼく、おもろい子やな」

 

負けて嬉しいわけが無い。といっても、何が嬉しいのかなんて、理由を話すわけにもいかない。だから、俺は万感の思いを込めてこの言葉を贈る。前生で、最期に伝えることができなかったこの言葉を。

 

「ありがとう、ございました!」

 

その言葉を聞いて、師匠は優しく微笑み、頷き返してくれた。俺は、その姿に思いが伝わったような気がし、あの時のように思わず泣き崩れてしまった。会場内には、みっともなく泣き喚く、俺の声が木霊するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日、僕はお父さんの呼ぶ声で起こされた。

 

「八一起きろ!お前のことが新聞で取り上げられてるぞ!」

 

けたたましい声に叩き起こされた僕は新聞に目を通す。そこには、地方紙の一面に載った僕と清滝先生の姿があった。確か前生では、ここまで大々的に取り上げられていなかったはずだ。やはり、昨日の清滝先生との対局で放った一手が注目を集めたのだろう。あの対局の棋譜までもが掲載されている。更には、急遽取材でもしたのだろう。月光聖市九段……いや、今はまだ名人か。月光名人のコメントまでもが掲載されていた。

 

「まず始めに、棋譜を聞いて驚きました。彼が指したこの一手は、将棋の歴史に名を残しかねない一手です。矢倉の歴史を終わらせる可能性も内包した驚愕の一手です。この指し手が、まだ幼稚園児だと聞いて更に驚きました。彼なら、よほど曲がりくねった道を進まない限りは中学生プロ棋士になれるでしょう」

 

月光名人のコメント全文だ。名人にこう言わしめたとあって、既に福井県初のプロ棋士が誕生したかのように記事内では書かれていた。なんでプロデビュー戦の相手予想まで既にしてるんだ……

そしてそんな記事の隅の方には、清滝先生の紹介記事も小さく掲載されていた。ご丁寧にも、次に清滝先生が審判長を務める大会のことまで紹介してくれている。

 

「お父さん、この大会に行きたい!」

 

「大会?なるほど、来週に隣の県でやるのか。わかった!行こうか!」

 

そして僕は、前生と同じく清滝先生を求めて大会に押しかける日々を始めるのだった。清滝先生が来ると聞けば、お父さんに我が儘を言って連れていってもらう。そこで清滝先生に指導対局……まぁ、指導の域を超えてガチの対局になってきているが、清滝先生が頑なに指導対局と言い張っているので指導対局と言おう。指導対局を受ける日々を過ごしていた。

 

「なんや、ぼく、この前の子やんか。態々こんな所まで来たんか。よっしゃ、ほなまた指導してあげようか」

 

「お、ぼく、また来たな。今日も負けへんで」

 

「おー、ぼく、また来たか。今日のわしは調子ええで。軽く揉んだるわ」

 

と、清滝先生と対局を繰り返す日々。そんな日々が、僕は懐かしくて懐かしくて、嬉しかった。またこんな日々が過ごせるなんて夢みたいで、対局の後はいつもボロ泣きしてしまった。そして夏休みが終わり、幼稚園が2学期を迎えても、そんな日々は続いた。だがある日、そんな日々に終わりをもたらす提案が清滝先生から飛んでくる。

 

「ぼく、そんなにわしと将棋が指したいなら、わしの弟子になってうちにくるか?」

 

待ちに待った提案。この提案が清滝先生の口から出て来たということは、遂にこの時が来たのだ。あの子との、愛するあの子との再会の時が。僕は何も迷うこと無く、清滝先生の提案に元気よく応えた。

 

「はい!」

 

こうして、僕と師匠は、また師弟(おやこ)の絆で結ばれたのだった。




清滝師匠が大好きです
アニメ版で、師匠の放尿シーンが描かれなかったのはショックでした
次の投稿もあさって
もうすぐあの日ですね
特別編も用意しとくかな
八銀はジャスティス


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第4局 そして僕達はまた出会う

お待たせしました
当作品の始まりです
合い言葉は、八銀はジャスティス


「着いたで。ここが今日から住む家や」

 

僕は、師匠に連れられて大阪にある清滝家に来ていた。今日から僕はここに住むことになる。こうして今体験してみて思う。前生において僕は、大胆な決断をしたものだ。僕はまだ幼稚園児だ。中身こそあれだが、体は正真正銘の幼稚園児だ。

 

前生においては、中身まで幼稚園児だ。そんな幼稚園児の僕が、親元まで離れて見知らぬ土地、見知らぬ家庭の元に引っ越す。大胆極まりない行動だ。当時の僕の心境までは流石に覚えていないが、不安は無かったのだろうか?それ以上に、好きなだけ将棋に取り組めるという環境が魅力的に映ったのだろうか?今となっては知りようも無い。

 

それよりも、だ。清滝家だ。ここは間違いなく清滝家だ。僕の記憶が間違いなければ、前生における弟子入りの日取りと今生におけるそれは完全に一致している。と、いうことはだ。この家には既に、あの子が住んでいるはずなのだ。僕が心の底から愛する、あの子が。

 

「桂香、帰ったで」

 

師匠が玄関の戸を開け、家内に声をかける。ほどなくして、一人の女性が姿を現す。この女性こそ、師匠の娘にして前生における僕の妹弟子、清滝桂香さんだ。この時まだ高校一年生でありながら、既に完成された体を持つ悪魔的魅力のある女性。

 

僕は前生において、桂香さんのことが好きだった。僕はそれを当初は、恋愛感情だと感じていたが、後からそれはただの家族愛だったんだと気づいた。逆に、ただの家族愛だと思っていた感情が、蓋を空けてみれば重度の恋愛感情だったんだから、人間の感情というのはわからないものだ。自分の感情に対しても全くわからないのだから、人の感情に対して理解ができるわけがない。だから、鈍感と呼ばれてもそれは僕のせいじゃない。僕は全く悪くないんだ。きっと。

 

そんな桂香さん。前生においては、幸せな家庭を築いていた。お相手は鏡洲飛馬さん。

プロ棋士だ。確か、僕が付き合い始めた一年後ぐらいに付き合い始めて、更に一年ぐらいで結婚していた。付き合ってる期間中には、ダブルデートなんかもしたことがある。棋士として遅咲きだった二人。お互いの気持ちも良く理解できていたことだろう。端から見ていても、お似合いのカップリングだった。

 

そして桂香さん、棋士として本当に遅咲きだった。だけど、咲かせた花は色褪せない輝きを放っていた。女流史上最年長で初のタイトル、女流名跡を獲得したかと思うと、そのままストレートでクイーン女流名跡を獲得してみせたのだ。

 

女流名跡というタイトルは、元々女流名人と名付けられる予定だった。しかし、女流棋士が名人という称号を名乗るのは畏れ多いという理由から、この名前が付いた。

 

何が言いたいかというと、つまりこのタイトルは、女流における名人なのだ。序列こそ女王や女流玉座に負けるが、それでも名人なのだ。清滝鋼介の夢見た、名人なのだ。女流とプロの違いこそあれど、桂香さんは、父の夢を代わりに叶えたことになる。

 

その頃は、既に師匠はこの世を去っていた。だけど、きっと師匠がもし存命だったならば、こう言っていたことだろう。「さすがわしの娘や!」「夢がまた叶ったわ!」と。

 

そして鏡洲飛馬さんだが、彼については今は語らなくてもいいだろう。またの機会に取っておこう。

 

「おかえりなさい、ってその子は?」

 

「この子も、今日から一緒に暮らすからな」

 

「は?」

 

一瞬ポカンと呆けた後に、何言ってるんだこのおっさんとでも言いたげに師匠のことを睨み付ける桂香さん。師匠は、その視線から逃げるように僕の紹介へと入った。

 

「福井から来た九頭竜八一くんや。この子は強い。中学生プロ棋士も夢やないで」

 

「初めまして。九頭竜八一です!今日からお世話になります!」

 

「あら。ご丁寧にどうも。私は清滝桂香。このおじさんの娘よ。早速で悪いんだけど、私はこれからこのおじさんをせっきょ……このおじさんとお話があるから、八一君は二階で待っててくれる?」

 

今桂香さん、絶対説教って言いかけてたよ。そう言い残すと、桂香さんはこちらの返事も聞かずに師匠の耳を引っ張って奥に引きずっていってしまった。その際の師匠の目が、僕に助けを求めていたように見えたが、僕は師匠のことを思い無視することにした。これは師匠の名誉のための行動だ。師匠が、6歳の弟子に助けてもらっただなんてことがあれば、師匠のあるかどうかもわからないブランド力がきっと低下してしまうことだろう。それを避けたわけだ。決して、桂香さんが怖かったとか、師匠を見捨てた言い訳をしているわけではない。

 

さて、それよりも2階だ。僕が、前生において、運命の出会いを果たした場所。または、運命が決定づけられたと言ってもいいかもしれない。僕の人生における、最大のターニングポイント。その時がいよいよ近づいていた。

 

階段を使い、2階へ上がる。そこには、部屋が2つだけあった。手前の部屋は、桂香さんの部屋だ。正直、めちゃくちゃ入りたい。前生で僕は、知らなかったとはいえここで桂香さんの部屋に入ってしまう。そこで目にしたのは、いや手に取ったのは、綺麗に片付けられた部屋の中で、何故か無造作に置かれていた桂香さんのブラジャーだった。

 

きっと、また置いているんだろう。入りたい。めちゃくちゃ入りたい。また手に取りたい。え?精神年齢ジジイの僕がなに盛ってるんだって?そりゃ当然だろ?男はいくつになってもケダモノなのさ。

 

まぁ、非常に残念ながら、本当に残念ながら、僕はその部屋に入らず進む。名残惜しそうに5回ぐらい後ろを振り返ってしまったことは許して欲しい。さぁ、それよりも本命だ。僕が今から入る部屋、そこに彼女はいるはずだ。僕は高鳴る鼓動を必死に押さえつけ、その部屋へと足を踏み入れる。

 

いた。いてくれた。安心した。今だから言おう。正直僕は、この部屋に入るまで、それこそ僕が今生にて自我を持ったあの日からこの部屋に入るまでの間、ずっと不安で仕方がなかった。もし、彼女がここにいなければどうしよう。彼女と出会えなければどうしようと。そんなの、こうしてまた生を受けた意味が無いじゃないか。僕の人生は、将棋と彼女がいなければ成り立たないのだから。だから、心から今の状況に安心した。

 

部屋の真ん中に佇む少女。前生と全く同じシチュエーション。僕は、最初彼女のあまりにも人間離れした容姿と雰囲気から、お化けと勘違いをした。流石に、第一声で「お化けですか?」は無いだろう。それは、彼女に晩年までイジられるネタにされていた。

 

だけど今改めて目にして思う。あぁ、これはお化けと勘違いしても仕方ないかもしれない。それほどまでに、現実離れした美しさを彼女は擁していた。賞賛する言葉はいくらあっても足りない。まぁ、きっとこの世界に、彼女の美しさ、可愛さを一語で形容する言葉なんて存在しないのだろうから、仕方ない。

 

僕は前生において、最期の時まで答えがわからない難問が一つあった。それは、僕が一体いつ、どの時点から彼女のことが好きだったのかという問題。どんな詰め将棋よりも難解なその答え。だけど今ならわかる気がする。きっと、この瞬間からだったのだ。初めて彼女に出会った、この瞬間から既に僕は惹かれていたのだ。自身でも気づかぬ内に。

 

紹介しよう。彼女の名前は空銀子。今更説明は不要だろう。

 

 

 

僕の………最愛の(ひと)

 

 

 

「初めまして。僕の名前は九頭竜八一。今日から、ここに住むことになったんだ」

 

彼女に会えたことによって、溢れ出しそうになる涙を必死に抑えながら、僕は改めて自己紹介を行う。僕は銀子ちゃんのことを良く知っている。なんでも知っていると言っていい。だけど、銀子ちゃんは違う。この銀子ちゃんは僕のことをまだ何も知らない。だから、まずは僕のことを知ってもらおう。丁度おあつらえ向きに、僕達は為人(ひととなり)を知る最も簡単な方法を知っている。それは……

 

「将棋盤を持ってるってことは、君も将棋を指すの?だったら一局指そうよ!」

 

もちろん、将棋だ。僕の言葉に同意するかのように、銀子ちゃんは幼少時代いつも肌身離さず持ち歩いていたマグネット式の将棋盤を広げてくれる。駒を並べて、じゃんけんで先手後手を決める。結果、先手は僕となった。

 

「さて、何を指そうかな」

 

と言っても、銀子ちゃんとの初対局で何を指すかなんてものは、師匠との初対局時のように、以前から決めてあった。僕は、そんな素振りを見せずに、あたかも今決めましたと言わんばかりに(ため)を作って2六歩と、飛車先の歩を突いていく。それに合わせて銀子ちゃんも8四歩と飛車先の歩を突いてくる。その後お互いに歩をもう一つ先に進める。相掛かりだ。

 

前生においての、僕と銀子ちゃんの初対局の戦型は相矢倉だった。だけど、今回は相掛かり。前生における、僕と銀子ちゃん最期の対局の戦型だ。あの時は全く良いところなく、僕の負けとなってしまった。これは、あの時のリベンジだ。相掛かりは僕の得意戦法だ。そう何度も負けるわけにはいかない。

 

お互い歩交換を果たし、それぞれ2六飛、8四飛と浮き飛車の形を取る。その後、お互いに棒銀を試みるが、いとも簡単に防がれ、陣形を固めにかかる。いちご囲いと呼ばれる陣形だ。相掛かりの盤面では、良く出現するこの陣形で、相手の出方をお互い窺う。しばらく小競り合いを続けながら、戦力を確保していくうちに、突然銀子ちゃんが異様な仕掛けを見せてきた。

 

「え!?飛車を!?」

 

どうぞ取って下さいと言わんばかりの一手。飛車を切ってきたのだ。だが、この手が実に妙手だった。取らなければ、詰めろがかかる。だが取ってしまえば……

 

「くっ、飛車が……」

 

角による王手飛車がかけられてしまう。実質の飛車交換。更には、銀子ちゃんは敵陣奥深くに馬まで作れてしまうおまけ付き。その後も銀子ちゃんは、作った馬を起点にしてこちらの囲いを次々と食い破ってくる。僕は、いつの間にか防戦一方となっていた。

 

「つ、強い……!」

 

確かにこの当時は、棋力で言えば銀子ちゃんの方が確実に上だった。だけど、まさか経験という武器を持っている僕をしても、埋められない棋力だとは思いもしなかった。まぁ、正直に話せば(おご)りもあったのだろう。今の僕なら、この時の銀子ちゃんに負けるわけがない。プロや奨励会員にでもなければ、負けるはずがないと。きっとそういう驕りもあったのだろう。

 

というのは建前で、本音を言うなら、ただ浮ついていただけだ。久しぶりの銀子ちゃんとの出会い、対局。それらの状況に、ただ浮ついていたのだ。目の前の盤面よりも、目の前の少女のことが気になって仕方がなかった。微かに靡く美しい髪、綺麗な色をした瞳。考えに耽る仕草。そんな、彼女を形作る要素全てに僕は釘付けになっていたのだ。

 

「負けました」

 

その結果がこの敗局だ。まぁ、今更何を言っても言い訳にしかならない。今は負けた事実を受け入れ、銀子ちゃんとまた巡り会えたことを将棋の神様に感謝しよう。

 

「ん」

 

銀子ちゃんが、僕に向かって左手を伸ばしてくる。確か、前生でも初対局の時は、終わった後にこうやって銀子ちゃんの手を握ったんだっけ。

 

「熱い……」

 

その手は、確かな熱を僕に伝えてくれた。熱くたぎる、銀子ちゃんの熱を。銀子ちゃんは、本気で対局をすると発熱をする。この熱は、彼女がいかにこの対局に本気で取りかかってくれていたかを教えてくれている。浮ついた気持ちで指してしまって申し訳無い。

 

「ぎんこ」

 

そして、彼女はそこで初めて自身の名を口にする。そういえば、僕はこの時まだ彼女の名前も知らなかったんだった。対局よりも前に、することがあっただろうと自省する。そして彼女は、可愛らしく勝利宣言するのだった。

 

「私の勝ちよ……ばかやいち」

 

斯くして、僕と空銀子はまた出会った。出会ったとはいえ、今生が前生と同じように、僕達が結ばれるとは限らない。この頃の彼女は、おそらく僕に対してまだ恋愛感情は一切持ち合わせていない。彼女が他の男を好きになってしまうことだって、十分考えられる。想像しただけで、死にたくなってしまうようなことだが。

 

だけど、僕と彼女のことだ。きっと、いや間違いなくこんなものは杞憂に終わることだろう。え?どうしてそう言いきれるのかって?そりゃ当然だろ?だって、僕は九頭竜八一で、彼女は空銀子なのだから。これ以上の理由が必要だろうか?これ以上に説得力のある理由があるだろうか?きっとそんなもの、この世の何処にも存在しないだろう。

 

そう。僕は九頭竜八一なのだ。憐れな白雪姫に恋をした王子様なのだ。彼女が困っていたら真っ先にかけつけ、この手を伸ばそう。溢れる涙を、この手で受け止めよう。だってそれが、恋する王子のおしごとなのだから!

なんて格好つけてみたが、結局前生における僕は、彼女の手を一度離してしまい、大きな痛みを与えてしまっている。そんな情けないクズ竜王が、どの(つら)下げて自分のことを王子様だなんて言ってるんだか。自分で言ってて反吐が出る。

 

だけど、僕だって男だ。女の子がお姫様になりたいと憧れるように、男が王子様に憧れて何が悪い。僕だって、いつまでもクズでいたくないんだ。そしてクズを捨てるチャンスが、今巡ってきたんだ。このチャンス、逃してなるものか。

だから僕は、未だに繋がった彼女の小さな手に、こう誓った。

 

 

 

もう二度と、この手を離さない

 

 

 




(再登場を)待たせてごめん。銀子ちゃん

遅いよ。ばかさくしゃ

というわけで銀子ちゃん再登場でした
ここからイチャラブが加速するかもしれないし、しないかもしれない
次の投稿もあさって……と言いたいけれど、明日は何の日か当然皆さんご存知ですよね?
日付が変わったタイミングで特別編投稿しますので、ケーキとブラックコーヒーを用意してお待ち下さい

追記:皆様のおかげで、評価バーに赤い色が付きました。
これからも頂いた評価に恥じない作品を目指して邁進していきますので、完結までお付き合い頂けるとありがたいです。
本当に、ありがとうございます!


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第5局 天国と地獄

今朝しらび先生が投稿された銀子ちゃんお誕生日イラストが、昨日自分が投稿した誕生日記念回の内容と、ビックリするぐらいリンクしてて、運命的なものを感じテンションがウルトラハイになってました
合い言葉は、八銀はジャスティス


銀子ちゃんと無事にまた出会うことができた僕は、その後桂香さんに呼ばれ、銀子ちゃんと共に1階に降りてきていた。そこには、にこやかな笑顔を浮かべている桂香さんと、同じく笑顔を浮かべながらも若干、いやかなり顔が引きつってる師匠が座って待っていた。

何があったのかは怖くて聞けない。まぁ、聞かなくても大体わかるけど。

 

「なんや。手まで繋いで、もう仲良うなったんか」

 

師匠に言われるまで忘れていた。そういえば、あれからずっと銀子ちゃんの手を握ったままだった。久しぶりに握れたこの手の感覚が嬉しすぎて、うっかりしてた。

 

「あ、ごめん」

 

慌てて僕は手を離す。銀子ちゃんの反応は一切無い。この頃の銀子ちゃんは、無表情がデフォルトだ。表情から、感情の変化を読み解くのは難しい。まぁ、成長するにつれて、段々とわかりやすい子にはなっていくのだが。それでも、僕は銀子ちゃんの想いを知るまでは、全くわからなかったけどね。

 

「なるほど。八一には女誑しの才能がありそうやな。桂香、お前も気をつけとけよ」

 

「流石に6歳の子とは何も起こらないわよ……起こらないわよね?」

 

なんでそこで疑問系になるんですか。起こりません。桂香さんには悪いけど、僕には銀子ちゃんが既にいてるんです。起こりません。後師匠。女誑しなんて不名誉なこと言ってくれてますけど、僕は銀子ちゃんに一途なんです。他の女性には食いつきません。

 

「まぁその様子やと、自己紹介は大丈夫そうやな。2週間だけやが、弟子入りしたんは銀子の方が先や。やから、銀子が姉弟子、八一が弟弟子になる」

 

姉弟子。実に懐かしい響きだ。前生では、そう、あの一度手を離してしまったあの日から、しばらく僕は銀子ちゃんのことを姉弟子と呼んでいた時期があった。銀子ちゃんの、名前を失ってしまっていた期間。その期間、約5年。僕は、5年という長い期間、銀子ちゃんを苦しめ続けたのだ。僕にとって、消えない後悔の記憶。その後悔を消すために、僕は今生きているんだ。今生では、絶対あの手を離さない。離してなるものか。

 

「さてと、それじゃ夕飯の支度をするわね。八一君、好きな食べ物は?」

 

「ぎ……餃子」

 

「餃子が好きとか、将来酒飲みになりそうやな」

 

危ない。危うく銀子ちゃんが作る手料理ならなんでも、なんてとんでもないことを口走りかけた。でも、銀子ちゃんの手料理が恋しい。銀子ちゃん、中学の頃は料理が得意だって自分で言ってたが、実際にはそんなことはなく、自信満々に隠し味を投入しては、いつも失敗するような子だった。だけど、高校時代に僕の実家に行って以来、母さんの教えもあってメキメキと料理の腕が上達していった。そして気づいたら、僕の胃袋は完璧に掴まれていた。あの味が恋しい。

 

なんだか、今日はさっきからずっと銀子ちゃんのことばっか考えてる気がする。久しぶりに会えて、やっぱり僕の心は舞い上がってるのだろう。今も僕の隣には銀子ちゃんがいる。そのせいか、余計に僕の心は銀子ちゃんで埋め尽くされている。

 

「じゃあ嫌いな食べ物は?」

 

「ありません!」

 

「ほう、嫌いな食べ物は無いんか。銀子と一緒やな。こら二人とも大成するわ」

 

あんた達のお陰で無くなったんだよ!と言いたいが、ここはグッと堪える。未だに、前生の椎茸の恨みは忘れていない。まぁ、お陰で普通に食べれるようにはなったけど。

 

「それじゃ、今日は餃子にしましょうか」

 

「せやな。こらビールが進んでたまらんわ」

 

そして、今日の晩飯は僕の大好物ということで餃子に決まった。本当はカレーの方がもっと好きだが。そういえば、前生においてあいの作ってくれた金沢カレー、あれは絶品だった。思い出すと無性に金沢に行きたくなってきた。

 

その後は、桂香さんが作ってくれた実に美味しい餃子をいただいた。師匠は弟子もいる中で実に美味しそうにビールを飲んでいる。僕も飲みたいが、そんなこと言えるわけがない。今生の年齢よ、早く20歳になってくれ。

 

そして銀子ちゃんは、餃子にも相変わらずソースをドバドバとかけていた。それを桂香さんに咎められるという、懐かしいやり取りも見れて、無性に嬉しくなってしまった。

 

そして美味しい晩飯をいただいたら、次は風呂の時間だ。さて、パッパと入って、また銀子ちゃんと将棋を指そう。次は絶対に負けない。と、思っていたのだが、僕は一つ、とんでもなく重大なことを忘れていた。本当に重要なことだ。僕の今生の過ごし方にも影響しかねない重要なことだ。あぁ、なんで僕はこんなことを忘れていたんだろう。

 

「それじゃ、八一君、今日はお姉ちゃんと一緒にお風呂入ろうね?」

 

初めてのお風呂といえば、桂香さんと入ったんじゃないか!これはまずい。非常事態だ。何がまずいって、僕のドラゴンが目覚めかねない。前生では、マセガキながらも、幼さ故に性に目覚めていなかった僕のドラゴンは、眠ったままだった。

だが今はまずい。ジジイになってもケダモノ並の性欲を持ってる僕の精神と、若返った僕のドラゴンが融合してしまえばまずい。目覚め、巨大化してしまう恐れがある。そうなってしまえば、僕の今生における、清滝家での生活は終わる。銀子ちゃんとの今生における生活が終わる。それは、ダメだ。だからといって、断るわけにもいかない。ええい、九頭竜八一、覚悟を決めろ!お前は男だろ!男なら潔く死地に飛び込んで見せろ!ま、男だから困ってるんだけどね!

 

「どうしたの八一君?早く行きましょう」

 

「あ、は、はい!」

 

桂香さんに催促され、僕は天国のような地獄へと向かって歩を進める。その後ろからは、銀子ちゃんも着いてくる。前門の桂香さん、後門の銀子ちゃん。後門の銀子ちゃんはまだいい。いくら最愛の人とはいえ、まだ今は4歳の幼女だ。流石に発情することはない。僕は決してロリコンでは無いのだ。決して、ロリコンでは無いのだ。

 

というわけで、問題は前門の桂香さんだ。いくら考えても、回避する方法が全く思いつかない。どうやら、信じるしかないようだ。僕のドラゴンに秘められた耐性を。さぁ桂香さん、勝負と行こう。僕は覚悟を決め、桂香さんに続き脱衣所に入る。

 

「よいしょ」

 

何も気にせず服を脱ぎ出す桂香さん。露わになった二つの双丘。正に飛車角級。ええ、大変な大駒です。あんな大駒乱舞に勝てるわけない。その証拠に、今この瞬間も少しずつ僕のドラゴンは、覚醒を始めていた。ここは潔く、投了いたします。

 

「ぼ、僕先におトイレ行ってくるね!」

 

敵前逃亡だ。永世七冠にまで上り詰めた僕が、まさかの敵前逃亡だ。初めから、こんな闘い無謀だったんだ。近しい戦力差で言うならこれは、人間対ソフトの対決だ。人間である僕が、AIならぬPIに勝てる訳がない。完敗だ。

 

だけどな、九頭竜八一。お前、こんなところで諦めていいのか?こんなところで諦めるようなやつに、未来を変えることができると思ってるのか?できるわけないだろ。立ち上がれ、九頭竜八一。あの手を掴むために、何度でも。

 

そうだ。こんなの所詮、番勝負の初戦を落としただけにすぎない。闘いはまだまだ続くんだ。さぁ、第2局といこうか!僕は、再び覚悟を決めた。衣服を脱ぎ捨て、天国とも地獄とも判断が付かない浴室へと足を踏み入れる。

 

「あら?やっと来たわね」

 

「う、うん、晩ご飯食べ過ぎちゃったかな?お腹が痛くて」

 

「大丈夫?無理しちゃダメよ?」

 

「うん。ありがとう」

 

よし。会話は滞り無くできている。僕は、シャワーを浴びてる桂香さんの方を見ないように、かけ湯を済ませると銀子ちゃんが先に浸かってる浴槽へと入った。しかし桂香さん、本当にデカい。高一でこのプロポーション。これは他の男が放っておかないだろう。銀子ちゃんとは大違いだ。銀子ちゃんは、結局何歳になっても成長することが無かった。無だった。いや、銀子ちゃんの名誉のために、ここは微と言っておこう。まぁ、桂香さんと比べると雲泥の差だ。月とすっぽんだ。同じ盤上にすら立てていない。……って、なんか足が痛いんですけど!

 

「あの、銀子ちゃん、どうして僕の足を蹴ってるの?」

 

浴槽の反対側に座る銀子ちゃんが、僕の足をガシガシと蹴っていた。割と本気で痛いんだけど。

 

「蹴らないといけない気がした」

 

そうか。なら仕方ない。なんて言うわけない。まさか、僕の考えてることが見抜かれたわけでもないだろうし、もし仮に見抜かれたとしても、4歳の子が気にするだろうか?しないだろう。まぁ、銀子ちゃんの考えてることは気にしても仕方のないことだろう。僕にはわからない。だけど、あえてこのタイミングで言わせてほしい。僕は、銀子ちゃんのPIの方が、もっと好きだよ。なんて考えると、銀子ちゃんの攻撃は止まった。やっぱり、バレてるんじゃないよね?

 

「さぁ、八一君。おいで、洗ってあげるわ」

 

「え?」

 

思わず声が裏返りそうになってしまった。あぁ、そういえばそんなこともありましたね。前生でも洗っていただきましたね。忘れてたよこんちくしょう。さて、間違いなくここからが今日の最大の山場だろう。洗ってもらう側はもちろんマズいが、さらにマズいのは、洗う側だ。洗うってことはつまりあれだ。桂香さんのあんなところやこんなところに触れてしまうということだ。こんなもの、僕のドラゴンが燃えよドラゴン状態になってしまう。非常にマズい。だが、断ることもできないし、どうすることもできない。もう、僕のドラゴンを信じるしかないのか?

 

まぁ、考えても解決策が浮かぶわけでも無いし、僕は意を決して敵の懐に飛び込む。まぁ、桂香さんは敵じゃないけど。浴槽から出て、桂香さんを見ないようにして風呂椅子に座る。背中から桂香さんの圧を感じる。

 

「それじゃ、ゴシゴシするわね」

 

「っ、はい!」

 

スポンジ越しにだが、桂香さんの手が背中に当たる。あぁ、凄いゾクゾクきちゃう。銀子ちゃんにも背中を流して貰ったことはあるけど、それとも背中に感じる感触が違う。なんだか、こそばゆい。だけど、視覚情報も特にないし、まだ、まだ今は耐えられる。

 

「はい、背中は大丈夫!じゃあ、反対向いて」

 

「え?」

 

そちら側はマズいです。ダメです。耐えられる自信がありません。

 

「ま、前は大丈夫だよ」

 

「遠慮しなくていいのよ。お姉さんが洗ってあげる!」

 

遠慮してるわけではないんです。本音言うと是非とも洗っていただきたいのです。何のしがらみもなければ、是非とも洗って頂きたいのです。何のしがらみもなければ。だけどしがらみだらけの今の状況では、それは悪魔の所行だ。あぁ、なるほど。やっぱりそうか。僕は、今の今まで、自分が天国にいるのか地獄にいるのかをわかっていなかった。だけど今ハッキリとわかった。悪鬼羅刹が住まう、地獄だったのだ。地獄の鬼に、生身の人間が勝てる訳が無い。マトモな勝負がしたければ、金棒なんて捨てて駒で勝負しろ。まぁ、つまりそういうわけなのだ。僕は諦めたのだ。後は、もう流れに身を任せよう。さらば、今生の僕。ごめんね、銀子ちゃん。

 

「じー」

 

……なんてことを考えてたら、何故か浴槽に浸かる銀子ちゃんから凄い視線を喰らう。その視線が凄く痛い。僕の良心にグサグサくる。良心が一瞬で剣山状態になってしまった。あぁ、そうだよな。僕には銀子ちゃんがいるんだもんな。こんなところで、いくら桂香さんとはいえ、他の女性に(とりこ)にされてるわけにはいかないよな。

 

僕はもう一度、覚悟を決めた。今胸の内にあるのは、銀子ちゃんへの想いだけ。さぁ、桂香さん。どこからでもかかってきなさい。僕はもう、逃げも隠れもしない。真っ向から勝負しよう。そして僕と、地獄の鬼との番勝負第2局が開幕した。

 

今回は、序盤から僕の優勢で手が進んだ。定石も何も無い局面を、己の内に宿る熱い想いだけで切り抜けていく。途中、桂香さんの手が僕の龍王に触れる危険な局面もあったけど、最後まで優勢を保った僕が、勝利を手にした。これで一勝一敗の指し分けとなった。

 

「じゃあ今度は、八一君が洗ってくれる?」

 

そして、休む間もなく3番勝負の第3局が始まる。まるで、2局目3局目が連日で行われる山城桜花戦を彷彿とさせる連戦。だけど、もう僕に恐れるものは何も無かった。今の僕は、銀子ちゃんへの想いという最強の囲いで玉を守っている。いくら桂香さんでも、この囲いは崩せないだろう。この勝負もらった。僕は勝利を確信し、桂香さんのPIに触れ……

 

「ごめん桂香さん!僕やっぱりお腹の調子悪いから先に出るね!」

 

「え?ちょっと八一君!?」

 

そして僕は2度目の敵前逃亡を成し遂げた。あぁ、鬼には勝ててもPIには勝てなかったよ。ごめん銀子ちゃん。僕は銀子ちゃんの夫である以前に、一人の男だったんだ。浴室を後にする頃には、僕のドラゴンは完璧に目覚めていたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

風呂を出た僕は、トイレに立てこもっていた。別に、本当に用を足している訳ではない。ただ、気持ちを落ち着かせているだけだ。幾分か時間が経ち、僕のドラゴンも再び眠りに着いた。もう、しばらく目覚めることはないだろう。

外から話し声が聞こえてくる。どうやら、桂香さん達が出てきたようだ。僕は、桂香さん達がトイレの手前に来るのを見計らって、外に出た。

 

「あら?八一君。もうお腹は大丈夫なの?」

 

「うん!もう大丈夫!」

 

桂香さんが、僕のことを心配して声をかけてくれる。その優しさに、僕の良心にまたもグサリと棘が刺さる。

 

「そう。なら良かったわ。八一君、明日からはお風呂銀子ちゃんと二人で入れる?」

 

「うん!大丈夫だよ!」

 

明日もってなったら、僕は絶対に耐えられない。是非とも、こんなことは今回限りにしていただきたい。それにしても、本当に天国のような地獄のような体験だった。正直に言うと、もう二度と体験したくないと思ってしまった。桂香さんとのお風呂、昔の、それこそ銀子ちゃんと付き合う前の俺だったら喜んで飛び込んでいっただろう。だけど、今は違う。どうも、銀子ちゃんに申し訳ない気持ちになってくる。だから、残念、非常に残念だが、桂香さんとのお風呂は今回限りだ。あのPIの感触だけはこの手に保存しておこう。そう密かに決めた、清滝家初日の風呂事情であった。

 

 

 

と、今日の出来事を締めようとしたら、後ろから服の袖をクイクイと引っ張られる。振り返るとそこにいたのは、銀子ちゃんだった。

 

「銀子ちゃん?どうしたの?」

 

「ケダモノ」

 

おい幼女。なんでそんな言葉を知っている。




ギャグ回もとい下ネタ回
りゅうおう(いみしん)のおしごと!

昨晩しらび先生のツベ配信見てたら、見事に寝不足になってしまいました。
しらび先生の銀子ちゃん誕生日イラスト、可愛すぎて悶えました。

次の投稿もあさって予定

八銀はジャスティス


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第6局 凍る棋士室

先日投稿した空銀子☆生誕祭 vol.2なのですが、単体作品としてpixiv様の方にも同時投稿しております
今後も、特別編を投稿する際は、同時投稿をしようかと考えております
次はたぶんハロウィンかな?
まだ先だけど
よろしければ、そちらの方も覗いてみて下さい
合い言葉は、八銀はジャスティス


師匠の家でお世話になってから、数日が経った。

その日、僕は起きてからずっと銀子ちゃんと子供部屋で将棋を指していた。銀子ちゃんとの対局は、初戦こそ僕の敗局となったが、それ以降は僕の方が勝率は高くなっている。この頃の銀子ちゃんは、とにかく負けず嫌いだ。負けた復讐をするために、師匠の家に転がり込んだのだから、筋金入りの負けず嫌いと言えるだろう。

 

何が言いたいかというと、銀子ちゃん、勝つまで僕に対局を挑み続けるから中々終わらないのだ。銀子ちゃんは体が弱い。場合によってはドクターストップがかかる場合もある。だけど、今日は体調も良いらしく、朝食後からぶっ通しで指している。まぁ要するに、僕が勝ち続けているわけだが。だけど、連戦も漸く終わるときがきた。

 

「負けました」

 

僕の投了宣言。もちろん、僕が負ける時もあるのだ。銀子ちゃんは本当に強い。僕が勝つことが多いとは言え、勝利した対局の中でも、ヒヤッとする局面は多い。流石、史上最強の女性棋士だ。

 

「私の勝ち」

 

「うん。負けたよ」

 

「私の勝ち」

 

「そうだね。銀子ちゃんは強いね」

 

自分の勝利を何度も宣言する銀子ちゃん。それほど嬉しかったというのもあるだろうが、銀子ちゃんは僕にこう伝えたいのだ。私の方がお姉ちゃんなんだから、上なんだと。僕としては、それでもいいんだけどね。

 

「おー、銀子が勝ったか。ええ対局やったな」

 

師匠が声をかけてくる。いつの間にか、子供部屋に入ってきていたようだ。対局に夢中で、全く気づかなかった。

 

「丁度ええタイミングやったな。二人を呼びにきたんや」

 

どうやら、師匠は僕達に用事があったらしい。まぁ、そうでもない限り態々子供部屋に入ってきたりしないだろう。

 

「今日は連盟に連れて行ってやるで」

 

あ、そうか。今日だったのか。僕と銀子ちゃんの棋士室デビュー。棋士室デビューということは、あの人にも会う訳だ。え?てことは、銀子ちゃんのあれもきちゃう?まぁ、あれがきたらきたで、師匠に対して良いエールにもなるから、ありなのかな?

 

「昼飯は、レストランで好きなの食わせたる」

 

関西将棋会館のレストランといえばトゥエルブ。僕も銀子ちゃんも、よく通ったものだ。あの味が恋しい。今日のランチが楽しみになってきた。

 

「ほな、いこか」

 

そして僕と銀子ちゃんは、師匠に連れられて、家の外へと出た。そういえば、ここに来てからずっと引きこもって銀子ちゃんと将棋を指してたから、外に出るのは来た時以来かもしれない。なんて不健康な幼稚園児だろう。さて、それでは久しぶりに外の世界へ赴くとしよう。僕と銀子ちゃんは、師匠に手を繋がれながら清滝家を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清滝家は野田という地にある。関西将棋会館があるのは福島。その距離は、環状線でわずか一駅だ。電車に乗り、そしてまた直ぐに降り、僕達は懐かしき関西将棋会館へとやってきた。

 

「着いたで。ここや」

 

師匠に連れられ、敷地内に入る。僕にとっても、銀子ちゃんにとっても、いや全ての関西棋士にとって忘れられない思い出の場所。数え切れない笑顔と、涙に彩られた場所。本当に、懐かしい。

 

「ほな、まずは昼飯にしようか」

 

そして、師匠に連れられて、僕達は1階にあるレストランへと向かう。言わずと知れた、トゥエルブだ。珍豚美人が食べたい。だけど、今日は師匠がお金を出してくれる。ここは、師匠の財布事情も考えて、なるべく安いメニューを選ぶべきだ。僕は以上の理由から、泣く泣く一番安いサービスランチを選ぶことにした。

 

「遠慮せず、好きなもんを選んでええからな。銀子は何にする?」

 

「タンシチュー」

 

「あ、じゃあ僕も」

 

……ん?あれ?僕は今なんて言った?しまった。やってしまった。ついうっかり、銀子ちゃんと同じ物を頼みたいなと考え、反射的に口から言葉が出ていた。なんてことをしてしまったんだ……

 

「た、タンシチューが二つ……ま、マスター、わしはお冷やだけでええわ」

 

冷や汗を垂らしながらマスターにそう告げる師匠。その姿を見ていると、大変申し訳ない気持ちになってくる。僕の口よ。なんであんなことを言ってしまったんだ。そしてほどなくして、見ただけで美味しいと思えるような、絶品シチューが二つ運ばれてくる。

 

「うまい」

 

それを銀子ちゃんは、遠慮無く口に運んでいく。普段は無表情な銀子ちゃんだが、その顔には、確かに笑顔が浮かんでいた。かわいい。

 

「くっ、わしもまだ食べたことがないタンシチューを……」

 

「あ、あの、師匠、僕の少し食べますか?」

 

「おー、八一は優しい子やな。気を使わんでええで。わしはダイエット中なんや。遠慮せず食べや」

 

嘘だ。普段から一緒に食卓を囲んでいるのだから、その人がダイエットしてるのかどうかなんて直ぐにわかる。今も、師匠のお腹からは空腹を報せるアラートが鳴り続けている。その様子を見て僕は、今後師匠には必要以上に優しくしようと静かに決意したのだった。

 

それはそうと、タンシチューは大変美味でした。また食べたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

食事を終えた僕達は、会館の3階にある事務室へと足を運んでいた。そこには、懐かしい人もちらほらといる。その中でも、一際前生においてお世話になったのは、この人だろう。

 

「おや、清滝先生じゃないですか。そちらのお子さん達は?」

 

峰さんだ。僕と銀子ちゃんが、前生において校長先生と呼んで慕っていた人。前生では、本当によくお世話になった。僕や銀子ちゃんがプロ棋士になれたのも、この人がいてくれたからこそ、と言ってもいいかもしれない。

 

「紹介するわ。わしの1番弟子の空銀子と、2番弟子の九頭竜八一や。二人とも内弟子に取った。よーしたってな」

 

「内弟子ですか!懐かしい響きですね。銀子ちゃんも八一君も、清滝先生みたいな立派なお師匠様と暮らせるんだ。絶対に強くなれるよ!」

 

峰さんは、そう太鼓判を押してくれる。その言葉に、僕は胸を張って応える。

 

「はい!僕もそう思います!」

 

「ほんまに、八一はええ子やな。師匠冥利に尽きるわ」

 

そう、師匠も喜んでくれる。これで、タンシチューの件はチャラにしていただきたい。

 

「ついでに、棋士室にも顔出そか」

 

そして、僕と銀子ちゃんは棋士室デビューを飾る。事務室から壁1枚隔たれた先に棋士室はある。その壁を越え、師匠に連れられ中に入る。すると、棋士室独特の、ピリッとした空気が僕達に突き刺さる。その空気さえもが、懐かしい。

 

「皆、少しええか。わしの弟子を紹介するわ。1番弟子の空銀子と2番弟子の九頭竜八一や。二人とも内弟子に取った。鍛えてやってくれ」

 

師匠がそう、僕達を奨励会員と思われる棋士室利用者に紹介してくれる。その瞬間、先ほどまで張り詰めていた棋士室の空気が、一瞬で凍り付いた。

 

「く、九頭竜八一って、あの矢倉殺しの?」

 

「噂の天才幼稚園児かよ」

 

「近い将来、確実に奨励会入りするだろうな」

 

「くそ、厄介な奴が出てきたもんだぜ」

 

どうやら、僕のことは奨励会でもかなり噂になっていたらしい。ただの、地方のアマチュア大会だというのに、よっぽどあの一手が棋界に与えた影響が大きかったということだろう。皆、既に自身のライバルを睨むかのような目つきで、僕のことを見てくる。

 

「清滝さんが内弟子を?それは鍛えがいがありそうだ」

 

そして、僕達に話しかけてくるその声。間違いない。生石充さんだ。前生では、タイトルも獲得していた強者。そんな彼の将棋スタイルを、一言で表現できる別名がある。振り飛車党総裁。そう、彼は生粋の振り飛車党なのだ。振り飛車党にとってはカリスマのような存在。振り飛車党の王と言っても過言では無いだろう。

 

そしてそんな彼の将棋を語る上で、もう一つ外せない要素がある。なんと言ってもその華麗なる捌きだ。大胆且つ繊細なその捌きの数々。その捌きを称えて、人々は彼のことをこうとも呼ぶ。捌きの巨匠(マエストロ)と。

 

そんな彼にも、前生では大変お世話になった。銀子ちゃんと三人で、研究会を設けたこともあった。振り飛車を師事したこともあった。そういう意味では、僕のもう一人の師匠と呼べるかもしれない。

 

「おぉ、生石君。連盟に顔を出すとは珍しいな」

 

「娘が連盟道場に行ってみたいと言い出しましてね」

 

生石さんがそう説明する。生石さんの娘さんと言えば飛鳥ちゃんだ。引っ込み思案だけど、料理が得意で、凄く優しい、良い子だ。後おっぱいが大きい。生石さんは、当初飛鳥ちゃんの名前を付ける時、飛車と名付けようとしたらしい。それを奥さんに反対されて飛鳥という名前になったらしい。どれだけ飛車が好きなんだ。

 

と、それよりもだ。生石さんと前生で初めて会った時のことは、僕も忘れられない記憶としてよく覚えている。あんなの、忘れられるわけがない。おそらく、あの時棋士室にいた人は全員が忘れられない記憶として心の内に残しているだろう。それは、銀子ちゃんの発した一言に始まる。

 

「おまえ、生石か?」

 

そう、あの時もこんな感じの銀子ちゃんの発声から始まったのだ。……ってあれ?銀子ちゃん、それやっぱり言っちゃうんですか?銀子ちゃんがその一言を発した瞬間、棋士室は再び凍り付いた。

 

「うちの師匠をいじめるな!おまえなんか、うちの八一に負かされろ!」

 

あれ?僕が記憶してる前生の発言と少し変わっているのだが。具体的には、後半部分がまるっと。生石さんに連敗を喫している師匠のことを思っての銀子ちゃんの発言。それが今の発言の前半部分だ。そこは前生と完全に一致している。

 

問題は後半部分だ。前生では、振り飛車嫌いだった銀子ちゃんが、根っからの振り飛車党である生石さんを憎んで、振り飛車なんて消えろといった内容の発言をしたはずだ。なのに、なんで僕が生石さんに喧嘩を吹っかけてるみたいな内容になってるの?

誰か、銀子ちゃんの心の内を僕に教えてくれ。

 

「こ、こら銀子!生石君になんてこと言うんや!」

 

そして慌てる師匠。慌てたいのは僕の方です。なんでか、奨励会員のみなさんも、発言した銀子ちゃんじゃなくて僕の方を凄い目で見てくるんですけど。どうにかしてください。

 

「ふっ、師匠想いだな。銀子ちゃんだったか。八一は俺よりも強いと思うか?」

 

「強い。絶対負けない」

 

いや、無理です。いくら銀子ちゃんに勝ち越してるとはいえ、流石に巨匠は無理です。手合い違いです。

 

「なるほど。師匠想いな上に兄想いだな」

 

「兄じゃない。弟」

 

「弟?」

 

どういうことだ?といった疑問の目で生石さんがこちらを見てくる。まぁ、見た目的にも、どう見ても僕の方が年上だし、そう思うのも仕方ない。

 

「弟子入りしたのが、2週間だけですけど僕の方が後だったんです。だから銀子ちゃんが姉弟子で、僕が弟弟子」

 

「なるほど、そういうことか。それは失礼したな。訂正しよう。銀子ちゃんは、弟想いなんだな」

 

それを聞いて、銀子ちゃんはわかればよろしいと言わんばかりに、頷いて見せた。そして、それを見た生石さんの興味の対象が今度はこっちに向く。

 

「さてと、八一だったな。銀子ちゃんはこう言っているが、お前は俺に勝てると思うか?」

 

まるで生石さんが、僕を試すかのように問いかけてくる。その質問を投げかけられた僕の答えは、既に決めてある。

 

「無理ですね」

 

「なんだ。えらいあっさりと認めるんだな」

 

生石さんが、拍子抜けしたとでも言いたげな口調で応える。先も述べた通り、流石に巨匠を相手にするのは無理だ。捌きの前に跪くしかないだろう。だが……

 

「だって、無理なものは無理ですから。今はまだ」

 

「今は、ねぇ」

 

「えぇ、今は無理ですけど、10年後、いや5年後はわからないと思いますよ?」

 

「ほぅ」

 

僕の発言を聞き、三度棋士室が凍る。だって、そうだろ?好きな子に、あぁまで言ってもらったんだ。男だったら、少しでもその気持ちに応えたいと思うものだろ?僕が無理と言った瞬間、銀子ちゃんは若干ながら悲しそうな表情に変わっていた。だけど、今の僕の発言を聞き、その表情は、これまた若干ながら、笑みを浮かべているように見える。

 

「こ、こら八一まで!生石君、すまんな」

 

「いや、俺は気にしてないから大丈夫ですよ。しかし、本当に面白いお弟子さんを取られたもんだ。これは、俺もうかうかしていられないな」

 

そう言うと、生石さんは娘を迎えにいくからと棋士室を後にした。去り際に、僕と銀子ちゃんに今度自身が経営している銭湯に来て欲しいと、それだけを言い残して去って行った。近いうちに遊びに行くとしよう。

 

生石さんが去った棋士室は、さっきまでの凍り付いた空気が嘘かのように、駒音が高く鳴り響いていた。そこに居座る棋士達は、皆一様に、僕達のことを意識しないように努めていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り道、師匠はため息を吐きながら、僕達のことを先導していた。ため息の原因は、言わずもがなだろう。

 

「全く、生石君相手にあんなことを言うなんて。わしは肝が冷えたで」

 

まぁ、原因は僕達の発言だ。生石さんといえば、今や誰もが憧れるトップ棋士の一角。そんな人に弟子が喧嘩を吹っかけたとなれば、師匠の責任問題にも繋がるだろう。弟子だけの問題では、決して終わらない。

 

「けど、わしも二人の意気に負けてられへんな。わし、絶対A級に戻って、名人になるわ」

 

師匠は、順位戦において前期、A級からB級1組に降格してしまっている。そこから、A級に戻るのは決して簡単なことではない。それを、師匠は成し遂げると言った。そして実際に、前生において師匠はそれを成し遂げている。ここからの数年間が、まさに師匠にとっての全盛期なのだ。

 

「せや、二人に今から師匠命令を言う」

 

そして、師匠は唐突にそう切り出した。これから伝えられる師匠命令。それは、僕と銀子ちゃんにとって、とても大切な命令となった。

 

「会館の外では、絶対に手を繋いどき。絶対離したらあかんで。離したら破門や」

 

そう師匠に言われ、僕と銀子ちゃんは、どちらからともなく、相手の手を掴むのだった。銀子ちゃんの確かな熱が、伝わってくる。この命令は、僕達にとって、かけがえのないものだ。これから先も、ずっと守っていく命令。一度、破ってしまった命令。だけど、もう、二度と破らない。破ってなるものか。絶対に。僕は、静かにそう決意し、離してなるものかとその小さな手を、強く握るのだった。




皆大好き巨匠。
生石(さんかっけー)
自分は、リアルで指すときゴキゲン中飛車を使うことも多いので、シンパシーのようなものまで感じますね
まぁ、最近は居飛車指す割合の方が高かったりしますが。
次の投稿もたぶんあさってです

八銀はジャスティス


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第7局 明石先生

先日、白鳥先生がツイッターに投稿した原作14巻の一部を拝見し、思わず身悶えてました
銀子ちゃん可愛すぎ問題
あなた、なんてセリフ言っちゃってるの……
14巻が待ち遠しすぎます
合い言葉は、八銀はジャスティス


関西将棋会館から帰ってきた夜の話だ。

その日の子供部屋には、革新が起きていた。

 

「どや?奮発して、こんな物買ってみたで?」

 

「おー!」

 

師匠が、僕達のために二段ベッドを買ってくれたのだ。今まで僕と銀子ちゃんは、床に布団を並べて敷いて寝ていたのだけれど、僕は布団よりも断然ベッドで寝る方が好きだ。このプレゼントは、非常に有り難い物だった。

 

「銀子が上で寝るのは危ないから、上は八一が使いや」

 

師匠が言うとおり、体が弱く、そして小さい銀子ちゃんが上を使うのは危ないだろう。だから、僕が上を使うのは必然だと思う。だけど、だからと言って銀子ちゃんがそれに納得するわけがないだろう。

 

「私がお姉ちゃんなんだから、上は私」

 

やっぱりだ。前生でもこんな展開だったな、と懐かしく感じる。確か、この後前生なら、お互い上を譲らずに、毎日寝る前に将棋を指して勝った方が上になるというルールを決めたはずだ。だけど、僕はもう子供じゃない。いや、見た目は子供だが中身はもう子供じゃない。ここは、僕が譲るのが最良だろう。

 

「銀子ちゃんが上でいいよ。僕は下で寝るから」

 

「八一がそれでええんやったら、別に反対せーへんけど、しっかり銀子のこと見といたってや?」

 

「うん!もちろん!」

 

と、これで解決だろう。さて、少し早いけど僕はそろそろ寝るかな。と考えていたのだけれども、どうやらこの問題はこれで解決とはいかなかったらしい。

 

「でも、私はお姉ちゃんなんだから、我慢して弟に上を譲ってあげるべきだとも思う」

 

と、銀子お姉ちゃんが言い出したのだ。えぇ?なんとなくだけど、長くなりそうな気がしてきたんだけど?

 

 

「じゃ、じゃあわかったよ。僕が上でいいんだね?」

 

「でも、やっぱり私はお姉ちゃんだから、上で寝るべきだとも思う」

 

「えっと、銀子ちゃん、結局どっちが良いの?」

 

そう僕が訪ねると、銀子ちゃんは何も言わず、いそいそと愛用しているマグネット式将棋盤を準備し始めた。つまり、そういうことなのだ。銀子ちゃんは、ベッドの場所決めを口実に、僕と将棋が指したかったのだ。そんな口実なんて作らなくても、僕ならいくらでも相手するのに。

 

「はぁ、まぁええけどな。あんま遅くならんようにな」

 

「「はーい」」

 

師匠はそう言うと、部屋から出て行った。そして、僕と銀子ちゃんの対局が始まる。清滝家に来てまだほんの数日ながらも、僕と銀子ちゃんの対局数は既に100は超えている。これからも、これまでも数え切れないほど指してきた銀子ちゃんとの対局。この対局も、そんな中のほんの1局に過ぎない。

 

「負けました」

 

銀子ちゃんが敗局を認める。手加減したら手加減したで、銀子ちゃんは絶対に怒るから、僕はいつだって全力で指す。その結果、僕の方が勝率は高くなっている。前生とは逆の立場になっているわけだ。それも、今日の銀子ちゃんの生石さんに対する発言の変化に繋がっているのだろう。

 

「もう一回」

 

「うん」

 

そして、2局目が始まる。寝る場所を決めるためだけの対局だったのに、結局銀子ちゃんが勝つまで終わらない、いつもの展開になってしまっている。だけど、僕は気にしない。なぜなら、僕も銀子ちゃんと将棋を指すのが大好きなのだから。そして、僕は勝ち続ける。その結果、今生に前生と違う変化をもたらしてもいい。きっと、それでも僕と銀子ちゃんの関係は、大して変わらないだろうから。確証は無いけど、それでも、確信はしている。だから、僕はこれからも勝ちを重ね続けよう。

 

「いい加減に寝なさい!」

 

僕と銀子ちゃんの対局は、桂香さんが乱入してくるまで続いたのだった。結局その日は、決着が着かなかったということで一緒に上で寝ることになった。あれ?僕が勝ってたはずなんだけど?

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日、僕と師匠は銀子ちゃんに付き添って、とある病院を訪れていた。この日は、体が弱い銀子ちゃんの、定期検診の日となっていた。僕は前生において、銀子ちゃんと付き合い出すまで知らなかったことなのだが、銀子ちゃんは心臓に難病を抱えている。過去には、その病気が原因で心停止を起こしたこともあるほどに、重い病だ。そして、そんな難病を抱えている銀子ちゃんをずっと診てくれているお医者さんがいる。

 

「やぁ、銀子ちゃん。調子はどうかな?」

 

明石先生だ。元奨励会員で、三段にまで上り詰めたことがある強者。実力的には、プロ棋士レベルと言ってもいいだろう。しかし、彼はプロ棋士になる道を諦めた。結局、三段に上がって直ぐに奨励会を辞めてしまったのだ。僕が指したいのは、こんな将棋じゃないと言って。

 

結局先生は、棋力は高くても、勝負師には向いていなかったのだ。上に上がるために、人を蹴落とす世界が嫌になり、人を救う世界を求めて、外の世界へと飛び立った。そして今、こうして医者として、真に人を救う存在となってみせている。本当に、素晴らしい人だ。

 

「順調」

 

「そうかい?それは良かった」

 

「もうすぐ復讐できそう」

 

「そっちの調子かい!」

 

師匠が思わずツッコミを入れる。師匠がツッコまなければ、たぶん僕がツッコんでいただろう。明石先生が、そんな僕達を見て静かに笑う。

 

「あはは、いやいや、楽しくやれているようで何よりです。えっと、そちらの男の子は初めましてだね?」

 

「はい!初めまして!清滝鋼介八段門下、九頭竜八一です!」

 

「これはご丁寧にどうも。お弟子さんもう一人取られたんですか」

 

「おう!この子は強い。プロになるのは確実や」

 

「ほう、そこまでですか」

 

「せや、明石君、この子と1局指したってくれへんか?君と指すのもええ勉強になるやろ」

 

「僕がですか?それは構いませんが、その前にやることがありますから」

 

「やること?」

 

「銀子ちゃんの検診、初(始)めてもいいですか?」

 

そう明石先生に言われるまで、僕達は今日ここに来た目的をすっかり忘れていた。将棋の話になると、ついつい物事の優先度が変わってしまう。棋士あるあるだ。その後は、滞り無く銀子ちゃんの検診が進んでいく。どうやら、異常も特に無いようだ。安心安心。そして全ての検診が終わり、僕と明石先生が対局することになった。

 

「それじゃ、始めようか」

 

「はい!お願いします!」

 

先手は譲って下さり、僕の手から対局は始まる。まずは角道を開けての開幕。それを見て、明石先生も角道を開けてくる。そして僕は、6六歩と動かしまた角道を閉める。ここは、清滝門下らしく矢倉を組もう。明石先生は、そんな僕の手を見て飛車先の歩を突いてくる。囲われる前に仕掛けようということだろう。

 

僕は、明石先生の攻めを躱しつつ、矢倉を組んでいく。そこからしばらく手が進んでいき、盤面には綺麗な矢倉囲いが姿を現していた。

 

「うん、綺麗な矢倉だね。しっかり定石も学んで、相手の攻めにも冷静に対処をできている。6歳でこれなら、確かにプロになれるかもしれませんね」

 

「明石君。この子の凄いところはこんなもんやないで。もっと驚くことになるわ」

 

「へぇ?それは楽しみですね」

 

そして対局は進んでいき、中盤に突入した頃合いで、明石先生の囲いに隙が生まれた。いや、明石先生自らが作ったと言うべきだろう。以前の師匠と同じだ。僕のことを試そうとしているのだ。だったら、その期待に応えるとしよう。丁度都合良く、明石先生が今組んでいる囲いも、僕の前生における研究範囲だ。その囲いも、残念ながら僕は知り尽くしている。僕は、以前の師匠との対局時のように、明石先生が作った隙とは違うポイントに駒を打ち付けた。

 

「おや?そっちに打つのか。これは意外だったな」

 

「明石君。良くその先を読んでみ」

 

「先を?……こ、これはまさか……」

 

しばし考え込んだ後、明石先生の表情が驚愕に染まる。その先の展開に気づいてしまったのだろう。自身も気づかなかった、驚愕の崩しに。

 

「こ、こんな一手を、この子が読み切って指したと言うのですか?偶然ではなく」

 

「せや。この子はわかって指しとる。ただ、まだ棋力が足りへんのか、終盤で失速することも多いねんけどな」

 

「な、なんて子だ……」

 

まぁ、正確には読んで指してる訳ではないのだけれども。あくまで研究手なんだけれども。それは言っても仕方のないことだ。こんなに研究範囲の広い幼稚園児がいてたまるか。

 

「しかし、これは困ったな。どう対処したものか……よし、これで行こう」

 

しばし考えてから、明石先生は手を進めた。それは実に妙手だった。自身の囲いの強化も図りつつ、攻めに繋げることも可能な妙手。この短時間でよくそんな手を指せたものだ。流石明石先生。やはり、その実力はプロ級と言えるだろう。僕の指した手に対する定石からはかけ離れた妙手。なるほど、そう来たか。あぁ、その変化は……知っている。

 

「くっ、この一手も読んでいたのかい?」

 

読んだんじゃない。知っていただけだ。対処法を。伊達に人生1週(周)分経験している訳ではない。僕の研究範囲は、今生きとし生ける棋士の中でも、最も広いに違いない。

 

「これは、参ったな。挽回できる手が思いつかないや。うん、負けました」

 

そして、その後数手進め、明石先生が投了する。まだ粘れば勝てた可能性もあっただろうに、勝ち負けに拘れない明石先生らしいタイミングでの投了だ。

 

「どうや?八一は強いやろ?」

 

「えぇ、正直驚きました。確かにこれは、プロ棋士は間違いないですね」

 

「せやろ?中学生プロ棋士にだってなれると思うわ」

 

「そうですね。僕も同感です。八一君、プロになりたいかい?」

 

「はい!なります!」

 

「あはは、なりたいかどうか聞いただけなのに、なりますって断言されちゃったか。プロの道は険しいからね。頑張ってね」

 

「はい!ありがとうございます!」

 

「うん、良い返事だ。銀子ちゃんのこと、よろしく頼むよ?」

 

「はい!任せて下さい!」

 

「むっ、よろしく頼まれるのは私の方」

 

その銀子ちゃんの発言に、僕達は皆大笑いをしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

対局が終わってから数分後、僕達は病院を後にすることにした。あまり病院に長居するわけにもいかない。そう思い、僕達は急ぎ帰宅の準備をする。

 

「それじゃ、明石君、また来るわ」

 

「えぇ、いつでもお待ちしてますよ」

 

そして、僕達は病院を出る。明石先生は、態々外にまで見送りに来てくれていた。

 

「あ、そうだ。八一君。ちょっとだけいいかい?」

 

帰ろうとしていたのだが、僕は明石先生に呼び止められる。あまり誰にも聞かれたくないことなのかはわからないが、僕は一人、明石先生と、師匠達とは少し離れた場所まで移動していた。

 

「銀子ちゃんのこと、よろしく頼むよ」

 

そして、明石先生が切り出したのは、ついさっきも僕に告げた願いだった。そんなもの、当然僕の答えは決まっている。

 

「はい!もちろんです!」

 

「うん、よろしくね。もう知ってるかと思うけど、銀子ちゃんはね、人に懐くことなんてまず無いんだ。だけど僕が見る限り、君にはどうにも懐いているように見える。君が僕に勝った時の、銀子ちゃんの顔は印象的だったな。久しぶりにあの子が喜んでる姿を見た気がするよ」

 

え?銀子ちゃん僕の勝利を喜んでくれてたの?それは気づかなかった。だけど、喜んでくれていたのなら、それは僕としても嬉しい限りだ。

 

「君になら、あの子を託せる、僕はそんな気がするんだ。これからも、よろしく頼むよ」

 

明石先生は、最後にまたその願いを僕に投げかけてくる。何度言われたって、僕の答えは変わらない。

 

「はい!任せて下さい!」

 

明石先生は、そんな僕の応えに満足したみたいで、僕を伴って師匠達の元へと戻る。今度こそ、帰宅の時だ。

 

「それじゃ、今度こそ帰るわ」

 

「えぇ、引き留めてしまってすいません。お気を付けて」

 

そして帰途に着く僕達。帰り道で、銀子ちゃんが僕に尋ねてくる。

 

「何を話してたの?」

 

「銀子ちゃんの面倒を見てあげてね、だって」

 

「むっ、面倒を見るのは私」

 

「そうだね。ちゃんと面倒を見てね」

 

「うん、任せなさい」

 

そう言って、僕達は笑い合った。銀子ちゃんが普段見せることのめったにない、大笑いだった。その様子を師匠も、珍しい物を見るような目で見てくる。一通り笑い終わると、銀子ちゃんは僕に手を差し出してきた。僕もその手をしっかりと握り返す。正直に言おう。そんなこと、明石先生に言われるまでもないのだ。僕はこれからもずっと、永遠に、この子の隣に居続ける。だから、お願いされるまでもなく、よろしくするのは当然なのだ。その逆もまた然りだけど。

 

まぁ、今生でもきっとそうなるだろう。前生でもそうだったように、これから何年、何十年経っても、僕の隣を彼女は歩いているのだろう。未来永劫、変わらずに。そんなまだ見ぬ未来を想像しながら、僕は銀子ちゃんと、歩幅を並べて歩いていくのだった。




14巻まだですか……?
二月待てない……
誰か、濃厚なる八銀の供給を……
そうだ、だったら自分で書けばいいじゃん
と思い始めたのが今作です
14巻待ち遠しい
次の投稿もあさってなんじゃないかと思います

八銀はジャスティス


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第8局 捌き

14巻は既に、銀子ちゃんの抱き枕カバー付き特装版を予約してあります
早く、銀子ちゃんの添い寝CDを聞いて、眠れない夜を過ごしたい
あ、今回から作中時間が結構飛んだりしますのでご了承下さい
合い言葉は、八銀はジャスティス


師匠の家にお世話になってから、数ヶ月が経過した。

季節も秋から冬に変わり、外に出るのも厚着が必須な日々が続いている。とは言っても、大阪の冬なんて、福井の冬に比べたら全然問題にならない。降雪量からまず違う。福井は、全国でも有数の降雪量を誇るのだ。それに比べたら、大阪なんてまだまだマシな方だ。

 

さて、そんな僕だが、今は師匠の家を離れて、電車に揺られている。今日は師匠は同伴していない。隣にいるのは、銀子ちゃんただ一人だ。幼稚園児二人だけで電車に乗せるのは危ないんじゃないか?と普通は思うだろう。だが師匠曰く、僕は子供と思えないぐらいにしっかりしてるから大丈夫だろう、との判断らしい。僕としてはそれでも問題無いんだけれども、師匠よ、本当にそれでいいのか?

 

まぁ師匠のことは置いといて、僕達がどこに向かっているかだ。と、丁度電車が着いたようだ。降りた駅は、野田駅から環状線で5駅の京橋だ。電車を降り、北口改札を抜ける。そして右側を向くと、そこには商店街が広がっている。

 

「おー」

 

銀子ちゃんが、僅かに感嘆の声を漏らす。駅直結の商店街、その雰囲気に少し驚いたのだろう。この商店街、大人のお店も数多く入っており、正にディープな大阪といった趣がある。よくこんな場所に幼稚園児二人で行かせたな、師匠。

 

その商店街を、銀子ちゃんと手を繋ぎ進む。目指す場所は、この商店街の中にあった。アーケードの中を少し進む。程なくして、目的の場所は姿を現した。その名も、『ゴキゲンの湯』。どこにでもありそうな銭湯だ。その銭湯に、僕達は足を踏み入れる。

 

「来たか」

 

銭湯内に入った僕達を出迎えてくれた人物がいた。その方が、僕達を今日ここに招待して下さった人物、生石充さんだ。この銭湯を経営している、トップ棋士の一人だ。因みにこの銭湯、2階では将棋道場を経営していたりする。生石さんの道場らしく、振り飛車党の巣窟と化している。

 

「態々ここまで来てくれたんだ。寒かったろ?先に風呂に入ってくるといい。サービスしとくぜ?」

 

生石さんからの提案は有り難いものだった。福井よりはマシと言っても、冬なのだから寒いものは寒い。風呂にでも入って、暖を取りたいと思っていた所だったのだ。銀子ちゃんも同じことを考えていたのだろう。手を繋いだまま、どちらからともなく、脱衣所へと駆け出した。駆け出して、そして、繋いだ手がピンと張った状態で僕達の動きは固まった。二人して、違う方向へ向かおうとしたのだ。

 

「銀子ちゃん?こっちにしよ?」

 

「や、こっち」

 

僕達が何を争っているのかと言うと、まぁあれだ。男湯に入るのか女湯に入るのかということだ。二人別々に入るという選択肢は、僕達の中には無い。あるのは男湯に一緒に入るか、女湯に一緒に入るかの二択だ。だけど、女湯はダメだ。前回の桂香さんとのお風呂で確信した。僕のドラゴンの耐久力は皆無だ。何かがあってからじゃ遅い。未然にそのような事態は防がなければならない。なので、もしもが起こりうる女湯はダメだ。

 

「銀子ちゃんこっちだって」

 

「だめ、こっち」

 

両者譲らず、火花が散る展開。だけど、こればっかりは銀子ちゃんにも譲れない。何故なら、僕は男なのだから!

 

「何を気にしてるのかは知らねーけど、今は開店準備中で客はいやしない。どっちでも好きな方に入りな」

 

あ、そうですか。そういうことは先に言っておいてほしいです。なら、僕も意地を張る必要は無くなった。銀子ちゃんに従って女湯へと入っていく。

 

「あ、そういや客は入ってないが、一人……」

 

巨匠が何かを言ってるが、それを聞き取るよりも先に、銀子ちゃんに手を引っ張られて女湯へと入っていた。巨匠が何を言っていたのかはわからない。まぁけど、たぶん気にするようなことでもないだろう。僕は、そう決めつけ、服を脱ぐと、銀子ちゃんと二人浴室へと入っていく。

 

「え?」

 

そこには、先客がいた。誰も入ってくる訳が無いと思っていたのだろう。驚いて固まっている。女の子だった。歳は僕と同じぐらいだろう。彼女は僕のことを知らないだろうが、僕は彼女のことを知っている。生石飛鳥ちゃん。生石さんの娘さんだ。

 

前生において最も印象的な飛鳥ちゃんのエピソードといえば、真っ先に浮かぶのは僕の1番弟子、あいとの対局だろう。あの時の飛鳥ちゃんは、見ていて感動するぐらいに熱かった。普段は引っ込み思案な彼女が、あそこまで感情を露わにするなんて、思いもしなかった。それほど、彼女も将棋が好きだということだ。

 

そして彼女は、結局その後、普及指導員を目指しながら、研修会にも入会を果たした。残念ながら、年齢制限までに女流棋士になることは叶わなかったが、それでも後悔はしていないらしい。後に飛鳥ちゃんは語ってくれた。私は、将棋が指せるだけで幸せなんだと。その後、結婚をしても、子供を産んでも、彼女はこのゴキゲンの湯で、普及指導員としてお客さんと将棋を指し続けた。いつまでも、幸せそうに。

 

「えっと、あの……」

 

「あ、ごめん!誰かが入ってるって思わなかったから!えっと、僕は九頭竜八一。この子は空銀子ちゃん。えっと、君は?」

 

「生石……飛鳥……」

 

「生石?ってことは生石充さんの?」

 

「うん……私のお父さん……」

 

「そうなんだ!今日は生石さんに誘われて来たんだ!よろしくね!」

 

初対面を装って飛鳥ちゃんに挨拶をする。していると、横から銀子ちゃんにペチペチと腕を叩かれた。そちらに目を向けてみると、銀子ちゃんは寒そうに震えていた。おっと、思ったより長くなっちゃったかな?いつまでも突っ立ってないで早く湯船に浸かろう。

 

「あ、ごめん銀子ちゃん!早く入ろっか」

 

「ん」

 

かけ湯を済ませて、僕達は湯船へと入る。冷えた体に、お湯が染み渡る。極楽極楽。湯船に浸かる僕の右隣には銀子ちゃんが、左隣には、少し離れているけど飛鳥ちゃんも入っている。飛鳥ちゃん、今はまだ僕と同じ幼稚園児だからツルペタだけど、将来的にはかなりの胸の持ち主になる。今はまだ銀子ちゃんと変わらないのにな。どこであんなに差が付いたんだろう?ちょっとは銀子ちゃんにも分けて……ってなんか太ももが痛いんですけど!

 

「あの、銀子ちゃん?なんで僕の太もも抓ってるの?」

 

「なんとなく」

 

なるほど、なんとなくなら仕方ない。なんて言うわけない。まさか僕の考えてることが読まれてるとは思わないけど、まぁ一応言っておくとしよう。それでも僕は、銀子ちゃんの胸が一番好きだよ。と、心の中で唱えると、銀子ちゃんは抓るのを止めてくれた。やっぱり読まれてるんじゃないよね?

 

「あ、あの……」

 

銀子ちゃんとそんな他愛も無いやりとりをしていると、飛鳥ちゃんが怖ず怖ずといった声色で話しかけてくる。引っ込み思案な彼女は、当然自分から話しかけるのが苦手なのだ。

 

「なにかな?」

 

「えっと、あの……二人は、将棋を、指せるの……?」

 

(たしな)む程度です」

 

なんて少しふざけて答えたら、横から銀子ちゃんに頭を(はた)かれた。痛い。

 

「そうだね。僕も銀子ちゃんも、将棋は指すよ。今日ここにきたのも、それが目的だし」

 

「そうなんだ……羨ましいな……」

 

「飛鳥ちゃんは指さないの?」

 

「私も、指してみたい……だけど、お父さんにそう言えなくて……」

 

飛鳥ちゃんの性格上、人に物事をお願いするのは難しい。確か前生でも、飛鳥ちゃん自身から生石さんにお願いしたのではなく、飛鳥ちゃんが将棋に興味を持ってるのに気づいた生石さん自らが飛鳥ちゃんに教え始めたはずだ。まぁ、結局才能が無いから諦めるように言われたわけだけど。でも、そうだな。それなら、僕も少しだけ協力しようかな。

 

「それなら、僕から生石さんにお願いしてあげるよ」

 

「え……?いいの……?」

 

「うん!とは言っても、お願いするだけだからね。その後のことは、飛鳥ちゃん次第だよ」

 

「うん……!ありがとう……!」

 

僕はあくまで切欠を作るだけに過ぎない。全ては、飛鳥ちゃん次第だ。才能が無いと突きつけられ、諦めるのか、足掻くのか。そこから先は、僕の管轄外だ。まぁ、前生でも彼女と将棋の事情には関わっていたのだ。今生も、もし彼女が助けを求めてきたとしたら、僕は手を差しだそう。そうでないなら、僕はただ見守っているだけだ。決断するのはあくまでも、飛鳥ちゃん自身なのだから。……それよりも問題なのは、僕の右隣の幼女だ。

 

「えっと、銀子ちゃん?何かあった?」

 

「べっつに」

 

私凄く不機嫌ですオーラをガンガン出しているのだ。え?何があったの?理由もわからないままに、タジタジになる僕。結局銀子ちゃんの機嫌は、お風呂上がりのフルーツ牛乳を奢ってあげるまで直らなかったのであった。僕のお小遣いが……

 

 

 

 

 

 

 

 

「飛鳥が将棋を?」

 

お風呂を上がった僕達は、銭湯の2階にある将棋道場へと足を踏み入れていた。そこで僕は、真っ先に生石さんに飛鳥ちゃんのことを伝える。伝えた瞬間、また銀子ちゃんの機嫌が少し悪くなった気がするけど、今は気にしない。

 

「飛鳥、将棋を覚えたいか?」

 

「うん……!お願いします……!」

 

「そうか。わかった。そう言うなら、教えてやろう」

 

「ありがとう……!」

 

「だが、今日は客が来てる。教えるのは、また今度な」

 

そう言って、生石さんは視線を僕に向けてくる。その目が僕に語りかけてくる。盤の前に座れと。僕は言われるがままに、盤を挟んだ生石さんの対面に腰を下ろした。

 

「初めて会った棋士室。あの時からずっと八一、お前に聞きたいことがあったんだ」

 

生石さんが改まってそう話しかけてくる。その表情には、何かを探っているような、思慮しているような、そのような情報が見て取れる。

 

「聞きたいって、何をです?」

 

「そうだな。どう聞いたもんか迷ってたが、良い聞き方が思い浮かばねーから、単刀直入に聞くわ。……お前、何者だ?」

 

生石さんの質問に、僕の心臓が大きく跳ねる。正に、角による奇襲を死角から喰らった気分だった。僕が何者か。そんなもの、答えられるわけがないじゃないか。

 

「あの棋士室で、俺はお前から得体の知れない威圧感を感じ取った。その時に悟ったのさ。こいつは只者じゃ無い、ってな」

 

威圧感、か。僕は前生において、まぁ、この異名はあまり好きではないのだが、『西の魔王』と呼ばれていた。その当時に、周りの棋士達に囁かれていた、謎の現象がある。曰く、魔王は威を発していると言うのだ。僕としては、当然そんな自覚は無い。だけど、僕に関わる棋士達は皆一様に、大なり小なりその威を感じるらしい。それは、高い棋力を有する棋士ほど感じ取るとも言われていた。おそらく、生石さんが感じ取った威圧感とは、それのことなのだろう。まさか、今生にまで引き継がれているとは思わなかったが。

 

「似たような威圧感は、月光さんや名人……いや、今は名人じゃねーが、まぁいいだろ?名人からも感じたことはある。だけどな、お前ほどの威圧感は未だかつて感じたことが無い。お前、一体何者なんだ?」

 

「……只の幼稚園児ですよ。少し将棋が強いだけの、ね」

 

「只の幼稚園児、か」

 

そう呟くと、生石さんは駒箱に手を伸ばした。それはつまり、開戦の合図だ。

 

「まどろっこしいのはもういいわ。結局俺たちにとって一番わかりやすく相手を判断する手段なんて、これしかないだろ?」

 

「同歩ですね」

 

「お師匠さんとは手合いどうしてるんだ?」

 

「いつも平手で指してもらってます」

 

「清滝さん相手に平手かよ。熟々(つくづく)規格外な幼稚園児だな」

 

「只の、幼稚園児です」

 

「まぁどっちでもいいさ。そんなもの指せばわかるんだからな。俺も平手でいいな?先手は譲ってやる。……こい」

 

そして、僕と生石さんの対局は幕を開けた。僕は真っ先に角道を開ける。それに合わせて角道を生石さんも開けてくる。スタンダードな初手。だが、都合三手目、僕の二手目を見て、観戦していたお客さんはおろか、生石さんも驚愕することになる。

 

「5、5六歩!?」

 

玉上、ど真ん中の歩を突き上げる僕。その意味がわからない者は、この場にはきっと一人もいないだろう。(なん)せ、この場所には、この戦法を愛する者しか訪れないのだから。

ゴキゲン中飛車。振り飛車の中でも、最も攻撃的な戦法。全ての振り飛車党から愛されるこの戦法を、僕は振り飛車党総裁相手に仕掛けた。

 

「お前は、生粋の居飛車党だと聞いてるんだが、お前、飛車を振った経験は?」

 

「無いですね」

 

今生では。そんな言葉は飲み込んで、僕は盤面に集中する。前生では、オールラウンダーとして僕はいくらでも飛車を振ってきた。だけど、僕が振り飛車を指せるようになったのも、生石さんの教えがあったからこそだ。これは、僕にとっての恩返し。振り飛車の師匠である生石さんに対する、恩返しだ。

 

「俺相手に初めて飛車を振るか。舐められたもんだな」

 

生石さんが手を進める。指した手は、5四歩。ゴキゲン中飛車だ。生石さんも、自身のエース戦法であるゴキゲン中飛車を使用してきた。これで、戦型は決まった。先後同型、相中飛車だ。

 

「いいんですか?先後同型、先手優勢ですよ?」

 

「舐めるなよ小僧。飛車を振ってきた年季が違うんだ。その程度、問題にもならねーさ」

 

生石さんの言うことは間違っていない。実際にそうなのだ。この程度、生石さんにとってはなんの問題にもならないのだ。だけど、僕だってそう易々と負けるわけにはいかない。僕は先行の利を活かし、果敢に生石さんに攻め込む。飛車で、角で、生石さんの玉を(おびや)かす。金で、銀で、責め立てる。桂で、香で、追い詰める。

そして僕は、遂に生石さんの玉を追い詰めることに成功していた。

 

「……なるほど。流石に強いな。だが、俺に勝つにはまだ足りないぜ?」

 

「そうは言いますけど、生石さんの玉はもう不安定な状態ですよ?ここからどう挽回するって言うんです?」

 

「喰らわせてやるのさ」

 

だけど、ここからが生石さんの本領が発揮される局面だ。まだこれで、やっと五分なのだ。ここで詰ませないと、僕の勝ちは無い。だがそんな僕の目の前に、大きな、大きすぎる壁が立ち塞がっている。

 

「捌きを」

 

捌きの巨匠(マエストロ)という、あまりにも巨大な壁が。

その壁は、ただ突っ立てるだけではなく、僕に向かって迫ってくる。確かに盤面は僕の優勢だったのだ。勝勢に近かったのだ。だがそこから、生石さんは僕の攻撃を捌き続ける。捌きは打ち、捌きは打ち、気づけば僕の攻撃の手は、全て止められていた。打つ手無しだ。

 

「どうした?もう終いか?だったら、そろそろ攻めさせてもらうぜ?」

 

そこからは、生石さんの反撃が始まった。繊細且つ大胆な指し手の数々。僕の囲いは、初めから存在しなかったかのように、崩されていく。

 

「初めて飛車を振ったにしては、頑張ったな。だが、もう終わりだ」

 

「ダメ、か……」

 

盤面は、一瞬で僕の敗勢へと傾いていた。ここから挽回する手は、流石に思いつかない。まぁ、相手はあの生石さんだったのだ。当然の結果と言えば当然の結果だ。むしろ、良く頑張った方だろう。僕は自身にそう言い聞かせ、投了を宣言するために駒台に手を置く。……置こうとしたのだが、その手に僅かな重みを感じ、宣言を中断する。手だ。僕の右手に、小さな手が置かれていたのだ。誰なのかは顔を見るまでもなく僕にはわかる。その手の感触だけで、僕にはわかる。

 

「銀子ちゃん……?」

 

そう、銀子ちゃんだ。銀子ちゃんの手が、僕の右手に重ねられていたのだ。その顔に目を向ける。銀子ちゃんは、未だに真剣な顔つきで、僕の敗勢となった盤面を見つめている。あぁ、彼女はまだ、諦めていないのだ。指し手である僕ですら諦めたというのに、彼女はまだ諦めていないのだ。必ず勝利への道筋はあるはずだと。……だったら、僕が諦めるわけにはいかないじゃないか。僕はいつだって、どんな時だって、彼女の気持ちには応えたいのだ。いつかの棋士室で、銀子ちゃんは生石さんに向かってこう吠えた。おまえなんか、うちの八一に負かされろ、と。その気持ちに、応えようじゃないか。5年後、10年後にではない。今、この場で応えて見せようじゃないか。そう覚悟を決め、僕は盤上にある一枚の駒を手に取る。

 

「なんだ?まだ続けるのか?ここからどうしようって言うんだ」

 

「喰らわせてやるんですよ」

 

僕は高く、高くその駒を掲げ、そして盤面に一気に打ち付ける。自身の気持ちを奮い立たせるための、会心の強打だ。

 

「捌きを」

 

「小僧……!」

 

「か……」

 

その手を見て、観戦している人々は、驚愕の声を上げる。そんな中で僕は見逃さなかった。隣に座る銀子ちゃんだけが、静かに微笑んだのを。まるで、安心したとでも言うかのように。

 

「角を切った!?」

 

角を切る。この追い込まれた状況では躊躇われるような一手だ。大駒を切るということは、それは攻める手段を一つ失うということだ。形勢が不利な状況では、逆転の手を失うことに繋がる。だけど、今はこれしかない。これ以外の道が見つからなかった。

 

「面白い。俺の攻めを捌ききれるもんならな……捌ききって見せろ!」

 

「言われなくても!」

 

そこからはお互い譲らず、攻防が目まぐるしく入れ替わる乱戦模様となった。生石さんが攻めれば、僕が捌き、僕が攻めれば、生石さんが捌く。延々とその繰り返しだ。お互い、攻めきれない。攻めきれない感覚に、モヤモヤとした気持ち悪さを覚える。だけど、今の僕はそれ以上に、この対局が楽しくて仕方がなかった。

 

「熱い……!」

 

そう言ったのは誰だろうか。道場のお客さんだったかもしれない。飛鳥ちゃんだったかもしれない。銀子ちゃんだったかもしれない。生石さんだったかもしれない。はたまた、僕だったかもしれない。まぁ、それを口にしたのが誰だったかなんて、そんなことは些細な問題だ。この場にいる誰もが、口にせずとも同じことを感じているのだから。

 

「……お前、本当に今日初めて飛車を振ったんだよな?」

 

「さっきからずっと、そう言ってますよ」

 

「なるほどな。だとしたら……天才ってのは、お前のためにあるような言葉じゃねーか」

 

その後も、僕と生石さんの捌き合戦は続いていく。まるで永遠に続くかのように終わらない対局。だけど、物事には、必ず終わりがやってくるものだ。この対局にも、その瞬間が遂に訪れる。

 

「……負けました」

 

僕の投了宣言が道場内に響き渡る。そう、僕は負けたのだ。銀子ちゃんの気持ちに、応えられなかったのだ。

 

「……ごめん銀子ちゃん。僕、負けちゃったよ」

 

「ううん、凄く、良い対局だった」

 

気にするなという風に、首を振る銀子ちゃん。その顔は、仄かに熱っぽい。銀子ちゃんも、最後まで一緒に闘ってくれていた証拠だ。銀子ちゃんも、熱が出るまでこの対局に、真剣になってくれていたのだ。

 

「な、なんて対局だ……」

 

「これがプロの公式戦だったら、名局賞候補だろ!」

 

「あの子、本当に幼稚園児なのか?」

 

道場内のお客さんは、皆一様にざわついている。今の対局が衝撃的すぎたのだ。余韻に浸って、目を瞑りボーっとしているお客さんもいる。

 

「……最初にした質問なんだがな。内容を変えるわ」

 

生石さんがそう切り出してくる。まぁ、僕が何者かなんて聞かれて、答えられるわけがないのだから、質問を変えてくれるのはありがたい。

 

「お前は一体、何を目指してるんだ?」

 

何を目指してる。つまり、将来の目標か。答えるか僕は暫し悩む。結論から言うと、僕はその程度なら答えてもいいと判断した。何か不都合があるわけでもない。まぁ、言ったところで信じるかどうかは別だが。

 

「……です」

 

僕はその目標を口にする。すると、それまでざわついていた道場内が、一気に静まり返る。まぁ、こんな目標をいきなり言われても、誰も信じないだろう。それほどまでに、現実離れした目標なのだから。

 

「……冗談、ってわけじゃなさそうだな」

 

「えぇ、至って真面目です」

 

「普通なら、不可能だ、無理だって突っぱねるところなんだろうがな。なんでだろうな」

 

そこで生石さんは、一拍を置く。自分の目で見て、頭で考えて、今から自分が言う言葉を吟味しているのだろう。

 

「お前なら、なれる気がするわ」

 

そう言うと、生石さんは僕の頭に手を置き、優しく撫でてくれる。それはきっと、生石さんなりのエールなのだろう。不思議と僕は、勇気が湧いてくるような感覚を覚えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

その後僕と銀子ちゃんはゴキゲンの湯を後にし、環状線へと飛び乗った。電車に揺られて、師匠の家へと帰る。

 

「さっきの話」

 

電車に乗ると、直ぐに銀子ちゃんが話を切り出してきた。話題は、さっき僕が告白した目標についてだ。

 

「本気なの?」

 

「もちろん、本気だよ」

 

「ふーん、そうなんだ」

 

銀子ちゃんはそこで、何かを考え込むような仕草を見せる。だが、また直ぐに僕へと彼女なりの最大限のエールを送ってくれた。

 

「八一ならなれる。私が保証してあげる」

 

「あはは、ありがとう!すっごく心強いよ!」

 

僕の目標は、人に言えば間違いなくバカにされるような、無理、無謀も甚だしいような、そんな荒唐無稽な話だ。だけど、僕はなるって決めているのだ。ならないとダメなのだ。例え誰にバカにされようとも構わない。結局の所、結果で証明するしか道は無いのだから。その道は、どう足掻いても険しいものになるだろう。だけど、避けるなんて選択肢は存在しない。その道が、将来の幸せに直結するに違いないのだから。だから僕は今、改めて、絶対になってやると決意したのだった。

 

 

 

 

 

小学生タイトル所持者(ホルダー)に。




切りどころがわからず、凄く長くなってしまった。
本編最長文字数3000字オーバーだって。
許してクレメンス
次もあさって……
と言いたいところですけど、この水木金と仕事が超勤の予定ドッサリ詰まってるんですよね
連休前だからちかたないね
なるべくあさって投稿できるようにがんばりますが、もし投稿無かった場合その次、土曜日だと思っておいてください
間に合わなかったらすいません

八銀はジャスティス


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第9局 未来への第一歩

11月発売のゲームは、限定版をゲーマーズさんで予約してあります
元々、早々に違うところで予約してたのですが、ゲーマーズさんの店舗特典に射貫かれたので、店舗特典公表後直ぐに予約先を変えました
あの銀子ちゃんタオルはヤバイ
でも、楽天ブックスさんの銀子ちゃんアクキーも欲しい
いっそのこと二つ予約しちゃおうかな?
合い言葉は、八銀はジャスティス


歳を越した一月のことだ。

この日、僕は朝から関西将棋会館にやってきていた。ここに来た理由はもちろん、将棋を指すためなのだが、普段の対局とは大きく違う点がある。

今日は、大会なのだ。清滝家にお世話になってから初めて参加する大会なのだ。

 

その大会の名は……小学生名人戦。

前生において、僕が小学三年生で優勝した大会だ。その記録は、当時の最年少記録だった。翌年に銀子ちゃんに更新されたわけだが。その大会に僕は、幼稚園児として出場する。とは言っても、今日はあくまで、都道府県予選に過ぎない。この大会の本大会は4月なのだ。大会規定としては、4月からの新年度に小学生になっていれば参加することができるのだ。なので、4月から小学生になる僕にも参加資格はある。前生において三年生で優勝した大会で、一年生での優勝を目指す。

 

目指す理由は、奨励会入りのためだ。小学生名人になれた場合、入会試験の一次試験が免除される。まぁ、免除されなくても別に問題は無いのだが、楽できるならそれに越したことはない。

 

「ほな、そろそろ始めるで」

 

師匠がそう言う。師匠は今日の大会の審判長を務めている。師匠が見ている前で無様な将棋は指せない。それに……

 

「それじゃ、そろそろ行ってくるよ」

 

僕は、隣で佇んでいる銀子ちゃんに声をかける。今日は銀子ちゃんも応援に来てくれているのだ。余計に無様な姿は見せられない。

 

「負けたらぶちころすぞわれ」

 

「あはは、そうならないように気をつけるよ」

 

銀子ちゃんなりの応援を受けて、僕は指定された席に移動する。盤を挟み対面には、既に対戦相手が座っていた。

 

「なんだぁ?ガキじゃねーかよ。出るクラス間違えてんじゃねーか?」

 

お前もガキだろ。という言葉を、大人な僕は心の中に留めることができた。僕は大人なのだから、これしきのことで怒ったりしない。これしきのことで。一応説明しておくが、この大会にはA級からD級までの4つのクラスがある。僕が参加しているのは、本大会となるA級だ。B級からD級までの3つのクラスは、交流戦となっている。そして、A級の優勝者は、後日開催される西日本大会に参加する資格を得る。

 

そして僕が今から行う対局は、謂わば大阪予選の予選となっている。今から2勝すれば決勝トーナメントに進み、2敗すれば予選敗退となる。その初戦の相手は、当然のことながら僕のことを舐めきっていた。

 

「俺としては楽ができてありがたいけどな。準備運動ぐらいにはなってくれよ。ガキンチョ」

 

……僕は大人だ。大人だからこれしきのことで怒ったりはしない。これしきのことで。だけど、大人として……

 

ビシッッッ!!!!!

 

「うっ!?」

 

子供を躾けるのも大事だよな?

 

「な、なんだ駒音だけは一丁前だな。けど、駒音だけじゃ、俺には勝てないぜ?」

 

ビシッッッ!!!!!

 

「ひっ!?」

 

「口はいいからさ、駒を動かしてよ」

 

「て、めぇ……!」

 

そこからの対局は、お互いノーガードでの殴り合いとなった。自玉の囲いを固めるよりも、相手の玉を詰ませることだけを考えたノーガードでの乱打戦。そしてお互い全く同じ戦法になってしまえば、小学生で僕に勝てる相手はまずいないだろう。せめて、創多を連れてこい。その対局は、今大会での最小手数での決着となった。僕が45手目で相手玉を完詰みに討ち取る。相手の子は、自身が詰んでいると気づくのに、それから数十秒の時間を要した。

 

「ま、負けました……」

 

相手は、信じられないものを見たかのような目で、呆然と盤面を眺めながら投了宣言をした。そして、漸く現実を受け入れられたのだろう。

 

「ま、ま、ママああああああああ!!!!!!!」

 

泣き喚きながら部屋から出て行った。僕は大人だ。大人だからこそ、時には心を鬼にして、子供を厳しく躾ける必要があるのだ。そう、大人なのだから。別に怒りに身を任せたわけではないので、勘違いしないように。

 

「今の対局は何?」

 

そして、銀子ちゃんに勝利報告をして、頂いた第一声がこれだ。

 

「囲いも無しに敵玉に突っ込むとか正気?相手も守りを無視して突っ込んできたからいいものの、もし囲われてたらどうしてたわけ?バカなの?ばかやいちなの?」

 

「返す言葉もありません……」

 

いつもは言葉少ない銀子ちゃんが、饒舌に説教をしてくれる。全くもって銀子ちゃんの言う通りなので、僕は反撃もできない。お姉ちゃん強し。

 

「八一は、将来尻に敷かれてそうやな」

 

おい師匠。聞こえてるぞ。僕が尻に敷かれるとか、そんなわけないだろ。何故か前生では、結婚してから晩年まで、尻に敷かれていそうな芸能人ランキングとかいう不名誉なランキングでトップを維持し続けていたけど、そんなの大きな間違いだからな。僕と銀子ちゃんはラブラブなんだから。その証拠に、芸能人おしどり夫婦ランキングでも常に上位をキープし続けていた。この二つのランキングに同時入賞できるのって、過去にも未来にも僕ぐらいじゃないだろうか?

 

「全く、こんな大会で負けるなんて、姉である私も恥ずかしいからやめて」

 

「肝に銘じておきます……」

 

「まぁ、八一なら負けないって信じてるけど」

 

あれ?なんか急にデレだした。これはもう、怒っていないということだろうか?でも、銀子ちゃんにそんなこと言われたら、俄然やる気が出ちゃうな。よし、次も頑張ろう。

 

そこからの僕は、怒濤の勢いで勝ち進んでいった。次戦も60手という短手数で勝ち、トーナメント進出を決めると、トーナメントに入っても勢いは止まらない。

 

「な、なんだあの幼稚園児!?」

 

「つ、強すぎる……」

 

「高学年の子が相手にすらなってないぞ!?」

 

怒濤の勢いで勝ち進んでいく僕は、気がつけば周りの注目を集める存在になっていた。最初は誰もが、背伸びをしてA級に参加してる幼稚園児程度にしか僕のことを見ていなかった。だけど、勝ち進んで行くにつれて、その見方も変わってくる。さらに、僕の対局内容がどれもこれも圧倒的なのだから、より一層の興味へと変わっていく。そして僕の快進撃は止まらない。止まらずに僕は、準決勝へと駒を進めた。

 

「君が噂になってる天才君か」

 

そして準決勝の相手は、小学四年生の子だ。聞いた話によると、去年は小学三年生でありながら、決勝大会で準優勝になったらしい。もう少しで僕の記録に並ばれるところだ。危ない。

 

「正直、大阪大会は僕にとって通過点でしかないと思っていたんだけどね。だけど、君は油断できない相手みたいだ。本気で勝ちにいかせてもらうよ」

 

先手は相手だった。その相手の取る戦法は、直ぐに盤面に現れた。ゴキゲン中飛車だ。

 

「生石先生に憧れて勉強した僕のゴキゲン中飛車、君に止めれるかな?」

 

生石さんに憧れて、か。確かに、生石さんに憧れる棋士は多い。自身が使う戦法まで変えるほどに憧れる人も中にはいる。生粋の居飛車党が振り飛車党に変わったなんて話もあるほどだ。だけど、ゴキゲン中飛車か。面白いじゃないか。その勝負、受けて立とう。

 

「な!?後手もゴキゲン中飛車!?」

 

「あの子、今日居飛車しか指してなかったぞ!?」

 

「振り飛車も指せたのか!?」

 

周りがざわつく。観客が言うとおり、僕は今日居飛車しか指していなかった。だけど、振り飛車が指せないと言った覚えはない。

 

「……まさか、同型先手有利の基本を知らないなんて言わないよね?」

 

「もちろん」

 

「まぁいいさ。何を考えているのかはわからないけど、有利に立ったのは事実。このまま押し切らせてもらうよ」

 

そう言って、相手は果敢に僕の陣に攻め込んでくる。かといって、決して無理攻めというわけでもない。絶妙なバランスで、自陣の守りが手薄にならないように調整している。なるほど。確かに小学生ではトップクラスの実力と言えるだろう。

 

「どうかな?僕のゴキゲン中飛車は。君も中々強いけど、僕には敵わないよ」

 

「それはどうかな」

 

「……なに?」

 

確かに実力は高い。だけど、それはあくまで小学生にしては、だ。相手は果敢に攻めてきているが、しかしその攻めには怖さが無かった。攻防のバランスを気にしすぎなのだ。気にしすぎるあまり、攻めが単調且つ迫力不足になっている。これなら、いつまでやっても僕は詰まないだろう。その前に、僕が終わらせてあげよう。

 

「そろそろ、こっちから行きますよ」

 

「何を言ってるんだ。君はさっきから攻められてる一方じゃないか。どうやって反撃に出ようと言うんだい?」

 

「喰らわせてやるんですよ」

 

僕は、自陣の銀を手に取り、自玉に王手をかけていた桂を取る。銀は、好きな駒だ。あの子の存在を感じられるから。僕は、自分から仕掛けを作る際は、可能な限り銀を使うようにしていた。さぁ、反撃といこうか。

 

「捌きを」

 

相手はその後も王手を狙ってくるが、その全てを捌ききる。見る見るうちに、相手の攻撃の手は無くなっていった。

 

「ば、バカな……」

 

相手の攻撃が止まったと見るや、僕は直ぐさま反撃に出る。ここを攻め時と見て、自陣の守りを度外視した攻めを敢行する。これを耐え抜かれたら、まず間違いなく僕の負けとなるだろう。耐え抜かれたらの話だが。

 

「くっ……!」

 

相手が苦悶の声を上げる。僕の攻めが鋭すぎるのだ。僕の盤面を見る力は、未だに前生の足下にも及ばない。だけど、僕には膨大な経験則がある。瞬時に数十手先を読むことはできないが、相手が今されると嫌なことは手に取るようにわかる。

 

「ひっ……!」

 

その結果が、この有様だ。相手は僕が手を進める度に、小さく悲鳴を上げている。相当に利いている証拠だ。

 

「そ、そんな、僕のゴキゲン中飛車が……」

 

憧れは大事だ。憧れは、人を強くするし、脆くもする。僕は師匠に憧れて、弟子入りをした。だが憧れたと言っても、棋風まで真似ようとは思わなかった。師匠の真似をせず、自分に合った棋風を伸ばした結果、僕は棋界の頂点に立つことができた。

 

彼は、生石先生に憧れてゴキゲン中飛車を覚えた。だが果たして、それは彼の棋風に合っていたのだろうか?僕にはそう思えない。攻めも守りも、自分に合わない戦法を使っているせいで、中途半端になっている気しかしない。これは対局後に小耳に挟んだのだが、彼は去年まで生粋の居飛車党だったらしい。居飛車穴熊を得意戦法とした、受け棋風の棋士だったらしい。それを聞いて、僕は納得した。あぁ、やっぱりかと。

 

それにだ。そもそもの話だ。彼は生石さんに憧れてゴキゲン中飛車を勉強したと言っていた。これはあくまで僕の予想だが、その学習というのは自主学習だろう。ただ、生石さんの対局を見て、棋譜を並べて、勉強しただけ。そんなゴキゲン中飛車が、生石さんに直接鍛えられた僕のゴキゲン中飛車に勝てるわけがない。

 

「ま、負けました……」

 

だから、この結果は必然だったのだ。最初から、わかりきっていたことだったのだ。何も驚くことではない。だけど、その事情を知らない観客は、湧きに沸きまくった。

 

「昨年全国準優勝者にも勝っちゃったぞ!」

 

「て、天才だ……」

 

「これは、全国優勝もあるんじゃないか?」

 

ざわめく会場。まぁ、それも当然だろう。絶対的優勝候補を、幼稚園児が倒してしまったのだ。これで、騒ぐなと言う方が無理な話だ。

 

「あー静粛に静粛に。これから、決勝戦を始めるで」

 

だがそのざわめきも、師匠のその声によって静まった。新たなる興味へと塗り替えられたのだ。決勝戦という、新たな興味へと。そしてその決勝の相手、これがなんとも意外な相手だった。

 

「お前なら勝ち上がってくると思ってたぜ」

 

なんと、初戦で僕が倒した相手だったのだ。どうやら僕に負けた後、残り2戦をきっちり勝って、トーナメントもここまで上がってきたらしい。正直、かなり驚いた。

 

「お前に負けて、俺は目が覚めたんだ。正直俺はな、小学校じゃ敵無しで、調子に乗ってたんだよ。だけどお前にボロ負けしてさ、目が覚めたんだ。上には上がいるって。ありがとよ。お前には感謝してる。だけどな、今度は負けないぜ。今度は、きっちりと俺らしい将棋を指す。それで俺が勝つ。リベンジさせてもらうぜ」

 

なるほど。どうやら僕の躾けがよっぽど利いたらしい。まぁ、僕は大人として当然のことをしただけだ。感謝されるようなことでもない。だけど、これなら少しは良い将棋が指せそうだろう。僕は、気合を入れ直して、対局に臨む。

 

相手の先手で対局は始まった。最初の対局は、お互いノーガードでの殴り合いとなったが、今回は相手もきっちり囲いを形成してきた。しばらく手が進み、やがて相手の戦型が盤面に顔を出す。相手の戦型は……矢倉囲いだった。

 

「「「あ」」」

 

三人の声が重なる。誰の声かは言わなくてもわかるだろうが、一応言っておくと僕と師匠と銀子ちゃんの声だ。まぁ、思わず声が出てしまうのも仕方ないだろう。この対局の勝敗が決してしまったのだから。その数分後には、ママと叫びながら部屋を出て行く人影が目撃されたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「優勝は九頭竜八一君。おめでとう」

 

大会は全日程を終え、表彰式が行われていた。師匠が、僕にお祝いの言葉を授けてくれる。今は審判長と参加者に過ぎないが、その言葉には、同時に師弟としての言葉も乗せられているような気がする。

 

「西日本大会も頑張ってや。期待してるで」

 

「はい!ありがとうございます!」

 

次は西日本大会だ。まだ、大会は終わったわけじゃない。まだ、続きがあるのだ。大会だけじゃない。未来を変える闘いも、まだ始まったばかりだ。

 

ここで、僕の将来的目標を説明しようと思う。最終目標は、小学生タイトル所持者だ。目指す理由は単純。銀子ちゃんが女王になった時、僕が手を離してしまったのは、僕が彼女に相応しい存在にその時点でなれてなかったからだ。だったら、彼女が女王になる前にタイトルを取って、その時点で既に相応しい存在になっていればいい。

 

銀子ちゃんが女王を獲得するのは小6の春。僕が中2の時だ。だったら、中1でもセーフなんじゃないか?と思うだろう。全くもってその通りだ。なのになんであえて小学生に拘っているかというと、それは僕の見栄だ。銀子ちゃんは、女流とはいえ、小学生でタイトル保持者になった。だったら、僕も同じく小学生でタイトル保持者になってやる。そういう見栄によるものだ。

 

その目標を叶えるためには、なるべく早くプロになる必要がある。そのために、この時点での小学生名人戦への参加を決めた。少しでも確実に、奨励会入りを果たすために。

 

目指すタイトルも決めている。前生と同じく竜王だ。女王は、女流最高位のタイトル。だったらこっちも最高位のタイトルで合わせる。そう決めている。目指す目標はまだまだ遠い。だけど僕は、その目標へと歩み始めたのだ。この予選通過はその第一歩だ。

この日僕は、望む未来への第一歩を、力強く踏み出したのだった。




なんとか書けた
睡眠時間かなり削ったから辛い
明日からの連休、寝溜めしようかな?
次もあさって

八銀はジャスティス


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第10局 狩人

アニメ2期が早く見たいです
2期来たら、八銀推しは皆天に召されると思ってます
えぇ、自分は間違いなく即死ですね
じっくり2クールで作って欲しい
まぁ1クールだろうけど
合い言葉は、八銀はジャスティス


徐々に気候が過ごしやすくなってきた三月。

あの大阪予選から約二ヶ月が経ち、遂に小学生名人戦西日本大会の日がやってきた。場所は前回と同じく関西将棋会館。今日から二日間に渡って、熾烈な熱戦が繰り広げられる。

 

「負けたら頓死しろ」

 

「あはは、そうならないように頑張るよ」

 

今日も銀子ちゃんは応援に駆けつけてくれている。今回もまた、エールなのかどうかよくわからないエールを送ってくれる。そして、師匠は今日も審判長を務めている。大阪が地元だから、任されやすいのだ。

 

「それじゃ、行ってくるよ」

 

「ん」

 

そして僕は、颯爽と自身の対戦相手の元へと向かう。西日本大会は、まず全員が4人のリーグにわかれ、予選リーグを行う。そこで2勝できれば、二日目に行われる決勝トーナメントに進むことができる。2勝0敗となればその時点でリーグ終了。もし1勝1敗になった場合は、別リーグの1勝1敗の出場者と闘ったりする変則リーグだ。

 

そして僕は抽選の結果、広島、京都、鹿児島の代表と同組になった。初戦は広島代表の子とだ。お好み焼きダービーと言ったところだろうか。誰も聞いてないからぶっちゃけるが、僕は広島風派だ。これ大阪人に聞かれてたら、絶対怒られるな。

 

 

「広島代表として、大阪代表には絶対に負けられない!」

 

あ、これ絶対相手もお好み焼きを連想してるね。間違いない。もし仮に今ここで、僕が広島風派だとぶっちゃけたらどうなるだろう?この子と仲良くなれそうかな?まぁ、その後が怖いから絶対言わないけど。師匠、僕は立派な大阪人です。福井出身だけど。まぁそんな小話はさておき、対局は静かな幕開けとなった。相手の子は、僕の様子を見るかのように、慎重に駒を動かしている。その様子を見るに、どうやら僕の噂は他県にまで広まっているようだ。やたらと警戒されている。自陣に閉じこもって、自分から攻めてこようとは一切してこない。穴熊のようにガチガチに固めているわけではないが、柔軟な対応ができるように慎重に駒の配置を決めている。なるほど、中々やりにくい。流石に県予選を勝ち抜いてきただけのことはあって、棋力はそこそこ高いようだ。だけど、僕の相手ではない。

 

「うぇっ!?」

 

相手の子が驚愕する。妙手が飛び出したわけでは無い。僕は、相手陣のど真ん中にどうぞ取って下さいと言わんばかりに龍を放り込んだのだ。

 

「うっ?え?うぇっ?……へっ?」

 

相手の子が、混乱に陥る。この手の意図が読めないのだ。一見すると、とんでもない大悪手……いや、そもそも悪手と呼ぶのも馬鹿馬鹿しいような一手。どうしてこんな手を?何か意味があるのか?と大混乱に陥っている。

 

「ふふっ」

 

「っ!」

 

そして、追い打ちをかけるように僕は静かに笑ってみせる。そんな僕の様子を見て、相手の子は絶対何かあると感じ取ったのだろう。龍を取らずに逃げの一手を選択した。実際には、本当に何もないのに。そして僕は、その龍を(くさび)にして、次々と自駒を相手陣内に送り込み、瞬く間に敵陣を制圧してしまう。

 

相手の敗因は、僕を警戒しすぎたことだ。警戒しすぎるあまり、普通なら迷い無く取ってもいいような僕の大駒を、何かがあると勝手に思い込み、自滅へと追いやられていった。投了後も相手の子は、龍を見つめたまま、何も語ろうとしない。まだ、あの龍の意図を考えているのだ。感想戦において、僕があの龍の真相を明かすと、その子は思わず泣き崩れてしまった。周りから僕へと視線が集まる。えっと、これは僕のせいなの?

 

 

 

 

 

 

 

 

「今の対局は何?」

 

そして、銀子ちゃんに勝利報告をした僕に彼女はそのような言葉を投げかけてくれた。あれ?前もこんなこと言われたような。

 

「もし、龍を取られてたらどうしてたわけ?」

 

「確かに危なかったけど、取られない自信はあったし、あれが一番短手数で勝てる手だったからさ」

 

「自信はあったとしても、絶対では無い。成功したと言ってもそれは結果論」

 

結果論なんて言葉知ってる幼女って銀子ちゃんぐらいじゃないだろうか?難しい本をバンバン読破してるだけあって、銀子ちゃんはこの年齢で知識量が尋常じゃ無い。語彙力に関しては、既に僕よりあるんじゃないだろうか?

 

「いい?あんな対局は二度としないで。龍が取られたらどうしようって気が気じゃ無かった。心臓に悪い」

 

「ご、ごめん!」

 

銀子ちゃんに心臓に悪いなんて言われたら、それはシャレにならない。僕はこの時、あんな手は二度と指さないと決意した。次は京都代表との対局。銀子ちゃんを安心させるためにも、全力で挑もう。とは言っても、次の相手なのだが、実は僕の知っている相手なのだ。まさか、小学3年生の今の時点で出てくるとは思ってもいなかった。いや、まだ進級していないから実質2年生か。僕が言えたことじゃないが、この年齢で西日本大会に進んでくるのは驚愕だ。

 

「こなたは供御飯万智言うのどす。よろしゅうなぁ」

 

そう僕の相手、供御飯さんは気軽に声をかけてくる。供御飯万智さん。前生では山城桜花という女流タイトルを獲得していた、女流の強豪だ。小学生名人戦においても、対戦こそしなかったが、僕が優勝した年の決勝大会まで残っていた。その大会が縁で、それからも屡々(しばしば)(つる)むようになった。まぁ、幼なじみみたいな人だ。

 

そんな供御飯さんだが、実は僕は、前生において彼女に告白されたことがある。その時は既に銀子ちゃんと付き合っていたどころか、婚約までしていたので僕は、当然のことながら断った。その時の供御飯さんは、涙を流しながらも、これで、やっと自分の気持ちをリセットできると言って立ち去っていった。それから数年後のことだった。彼女が突然婚約を発表したのは。聞いた話によると、見合い婚だったらしい。彼女は京都にある由緒正しき旧家の一人娘だ。血を残すのは使命とも言える。彼女は結婚するにあたって、辛くは無かったのだろうか?その僕の質問に、彼女は答えてくれたことがある。

 

一番良い人とは結ばれなかったが、それでも十分良い人には巡り会えた。今の自分は、十分幸せなのだと。それを聞いて、僕は救われた気がした。彼女を振ってしまった身として、僕はずっと気にしていたのだ。後悔していたわけではない。僕には、銀子ちゃんがいたのだから。彼女の想いには何があっても応えることはできない。ただそれでも、心配だったのだ。供御飯さんは、望まぬ結婚を強要されたのではないかと。だけど、それは僕の杞憂だったらしい。その証拠に、その後の彼女は、見ていて本当に幸せそうだったのだ。私生活が充実すれば将棋が強くなるという話がある。それを実証するかのように、その後の彼女は、山城桜花のタイトルをいつまでも防衛し続けたのだ。いくら期待の若手が台頭してきても、山城桜花のタイトルは誰にも譲らない。ずっと、彼女は山城桜花で在り続けたのだ。ずっと、ずっと。

 

「僕は九頭竜八一!良い対局にしようね!」

 

「八一くんのことは京都でも話題になっとるわぁ。大阪に凄い幼稚園児がいてはるってなぁ」

 

「それは光栄だね」

 

「こなたやと力不足やろうけど、お相手頼みますわぁ」

 

何が力不足か。供御飯さんは、前生において嬲り殺しの万智の異名で恐れられた女流最強クラスの棋士だ。決して弱いわけが無い。

 

対局が始まるや早々に、供御飯さんは最も得意とする型に駒を移動させていく。穴熊だ。堅牢な守りが売りの囲い。穴熊を完成させれば一本取ったとも言われるほどに、この型は固い。完成されれば厄介極まりないが、僕はあえて供御飯さんが陣形を完成させるのを、自身も囲いを形成しながら待つ。

 

「そんな悠長にしててええんどす?」

 

供御飯さんは、そう声をかけてくるが、僕はあえて応えない。無言で供御飯さんが型を完成させるのを待つ。

 

「つれへんわぁ。せやけど、これで一本頂いたどす」

 

その言葉通り、供御飯さんの場には綺麗な穴熊が姿を現した。特異なところは何一つ無い、ノーマルな穴熊だ。ならその城塞、今から崩させていただこう。

 

「……え?」

 

供御飯さんの目が、まるで信じられない物を見たかのように見開かれる。僕が穴熊崩しの第一段階に選んだ手は、龍で金を取るという一手だった。どうぞ取って下さいと言わんばかりの位置に龍が置かれている。飛車金交換だ。常識的に考えてありえない一手。当然、僕の方がデメリットは多い。

 

そもそも、穴熊を崩すには、歩、香、桂の小駒を使って攻めるのが普通だ。穴熊を崩そうとすると、必ずこちらの攻め駒を相手に取られてしまう。下手に金銀や大駒で攻めると、相手に囲いを固くされたり、攻め駒として逆に利用されるため、それ単体では攻めにも受けにも使いにくい小駒で攻めるのが普通だ。だけど僕は、龍を切った。決して、先の対局のように、ブラフを仕掛けているわけでもない。いや何かがあるとと相手が感じてくれるなら、それはそれで有り難いが、今回のこれは、またも僕の研究手だ。

 

穴熊対策。それは多くの棋士が頭を悩ませる問題だろう。それは僕も同様だった。単純に小駒で攻めるのが、時間はかかるがベストなんじゃないか?そう結論づけたこともあった。だが、答えは確かにあったのだ。長年、ソフトも活用して研究を続けた僕は、穴熊を即詰みに討ち取る手順をついに発見したのだ。

 

ただ穴熊と言っても、多種多様の種類がある。当然、その全てに適応しているわけでは無い。だが、今回供御飯さんが採用している型は、この手の適応範囲内だ。

 

「ッ……!」

 

供御飯さんが苦しそうに唇を噛みしめる。僕は穴熊に対してお構いなしに、金銀大駒を放り込んでいく。即詰みまでの手順は、当然全て記憶している。その手順を間違えなければ僕の勝ちだ。この対局は、既に終わっていると言ってもいい。

 

「あ、あっ……」

 

徐々に、供御飯さんの顔色が悪くなっていく。自分に待ち受けている未来に気づいてしまったのだ。それでも、僕は攻めの手を緩めない。前生において、僕が穴熊相手にこの手を初披露した際、人々はこの手をこう評価した。穴蔵に潜った熊を追い詰め仕留める、まるで狩猟のようだと。そのことから、僕は一時期、狩人という異名で呼ばれたこともある。直ぐにまた魔王に戻ったけど。僕としては、狩人の方が有り難いのだけど。

 

「ま、負けました……」

 

供御飯さんが、力なく投了する。結局、何一つ良いところ無く負けてしまったのだ。その気持ちは理解できる。

 

「八一くん、ほんま強いわぁ。こなた、穴熊使ってこないな負け方したの初めてやわぁ」

 

供御飯さんははんなりとした表情で、そう言う。もう、気持ちの切り替えは済んだらしい。まぁ、無理にでも切り替えないといけないというのもあるだろう。供御飯さんは、これで1勝1敗だ。まだ、次に勝てば明日の決勝トーナメントに残れるのだ。こんな所で落ち込んでもいられない。

 

「こなたも、絶対次の対局に勝って、明日に駒を進めるわぁ。次は東京で当たれるように、お互い頑張ろうなぁ」

 

「うん!」

 

決勝トーナメントは、二つのグループに別れて行われる。そして、それぞれのグループで優勝した1名ずつ、計2名が、東京で行われる決勝大会、全国のベスト4に進むことができる。決勝トーナメントは全3戦、決勝大会が全2戦、全国の頂点まで残り5勝。油断せずに、最後まで勝ち進もう。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、翌日。決勝トーナメントが行われた。まぁ、結果だけを伝えるとしよう。僕は無事に優勝することができた。3戦とも、危なげなく勝利し、決勝大会への切符を手に入れた。1年生での決勝大会進出は、史上初の快挙だ。報道陣も詰めかけ、関西将棋会館は大変な賑わいを見せていた。一通り、取材も終え、漸く一息()いていると、僕に供御飯さんが話しかけてきた。

 

「八一くん、決勝大会進出おめでとうどす」

 

「うん、ありがとう!万智ちゃんもおめでとう!」

 

供御飯さんは……まぁ、この頃の僕は万智ちゃんって呼んでたし、万智ちゃんでいいかな。万智ちゃんは、昨日の最終局を無事に勝ち、今日のトーナメントへと駒を進めていた。そして僕と反対側のブロックで、見事に優勝を果たし、決勝大会への進出を決めたのだ。小学三年生の女子が決勝大会に進出するのも史上初の快挙。関西は、史上初コンビでの決勝大会への殴り込みとなった。

 

「こなた、また八一くんと対局したいわぁ、決勝大会でもお互い頑張ろうなぁ」

 

そう言って、万智ちゃんは僕の手を握ってくる。女の子特有の、柔らかい感触が僕の手に伝わってくる。だけど僕はこれしきのことで動じない。僕は、ロリコンでは無いのだから。ロリコンでは、無いのだから。

 

「これからも仲良うしてな」

 

そう言い残して、万智ちゃんは帰っていった。その後ろ姿に手を振っていると、お尻に痛みが走る。

 

「あ、あの、銀子ちゃん?なんで僕のお尻抓ってるの?」

 

「自分の胸に聞いてみれば?」

 

教えてくれ僕の胸。どうして銀子ちゃんはこんなジトっとした目で僕のお尻を抓っているんだい?なんて聞いても応えが返ってくる訳が無いじゃないか。え?これって万智ちゃんが原因なの?銀子ちゃんって、この年齢の頃から既に他の子に嫉妬なんてしてたっけ?僕が忘れてるだけなのかな?あ、そもそもこの頃って、銀子ちゃん以外の女の子って、桂香さん除いてほとんど面識が無かったから、比較対象が無いや。

 

「八一は女の子を狩るのが上手いな」

 

おい師匠。不名誉なことを言うんじゃない。僕の狩人という異名はそういう意味では無い。え?無いよね?なんだか不安になってきたんだけど。その後も、銀子ちゃんの機嫌は中々直らなかった。帰りにお菓子を買ってあげるまで、そのままなのだった。あぁ、また僕のお小遣いが……




供御飯さんの口調が難しいどす。
自分も関西人だけど、京言葉はわからんのどす。
口調に違和感があったら、申し訳無いどす。
次もたぶんあさってどす。

八銀はジャスティス


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第11局 はじめての真剣

前書きで話す内容が早くも無くなってきた
もう、無いときはこれだけでもいいかな?
合い言葉は、八銀はジャスティス


4月に入り、遂に僕は小学校へと入学した。ピカピカの一年生だ。春の気候も後押しして、なんだか陽気な気分になってくる。そう僕は陽気になっていたのだ。大抵のことは、二つ返事で許可を出してしまうほど浮かれていたのだ。

 

「こなた、八一くんといっしょに東京行けてうれしいわぁ」

 

「うちの弟に気安く触るな。ぶちころすぞわれ」

 

その結果がこれである。

今僕達がいるのは、新幹線の中だ。僕達は小学生名人戦決勝大会に参加するために、開催地東京へと向かっていた。決勝大会が行われるのは明日だが、どうせなら前日入りしておこうというわけだ。そんな僕は、銀子ちゃんと万智ちゃんに挟まれて、揉みくちゃにされている。どうしてここに供御飯さんも一緒にいるのかというとだ、それは僕の冒頭の語りに戻る。まぁ要するに、万智ちゃんから一緒に東京に行こうと誘われて、僕は二つ返事で許可を出したのだ。こうなると考えもせずに。これは僕の大悪手だ。

 

「そんなこと言うても、八一くんは誰のものでもないどす。こなたはもっと八一くんと仲良うなりたいわぁ」

 

「そんなこと、姉である私が許さない。いいから離れろ。ぶちころすぞわれ」

 

「痛い痛い!痛いから腕を引っ張らないで!」

 

腕が!僕の腕が(ちぢ)れちゃう!あぁ、通路を歩く方々!そんな、青春してるなぁとでも言いたげな目で僕を見ないで!今、命の危機を感じてますから!僕の二回目の人生が早くも終わっちゃうよ!

 

こうなったのは、僕のせい……僕のせいなのかな?わからないけど、僕のせいでいいや。僕のせいとは言え、ひどい仕打ちだ。そもそも、銀子ちゃんと万智ちゃんがここまで折り合いが合わないとは思わなかった。前生でも、銀子ちゃんが言うには供御飯さんとの仲は良い方だったらしい。判断基準が、物理で殴ったことが無いからというぶっ飛んだものだったが。

 

「とにかく、うちの弟に近づくな。次に近づいたら頓死しろ」

 

「まぁ銀子ちゃん怖いわぁ。八一くんも大変やねぇ。過保護なお姉ちゃんに守られて、普段から息苦しいんとちゃう?」

 

「え?そんなこと、無いよね、八一?」

 

おい銀子ちゃんよ、どうしてそこで、そんな心配そうな目で僕を見てくるんだい?万智ちゃんも悪戯っ子みたいなその含み笑いを止めなさい。あれ?銀子ちゃん、なんだか目が潤んできてない?これは一大事だ。返答次第では銀子ちゃんを泣かせてしまう。起死回生の一手を放たなければ。

 

「銀子ちゃんはいつも僕のことを心配して言ってくれてるってわかってるから、息苦しくなんてないよ。むしろ、感謝してるぐらい。銀子ちゃん、いつもありがとう」

 

「そ、そう。まぁ、姉として当然のことをしてるだけだから感謝なんていらない。でも一応、受け取ってあげる」

 

そう言う銀子ちゃんの頬は赤く染まっていた。これはあれかな?パーフェクトコミュニケーションってことでいいのかな?無事に起死回生の一手を放てたようだ。良かった良かった。

 

「なんやおもんないわぁ。もっと熱い抱擁から感謝の言葉を囁いてもらわんと」

 

「しないよ!万智ちゃんも銀子ちゃんに意地悪言わないで!」

 

「は-い」

 

はぁ、この東京遠征、先行き不安だ。僕は大阪に帰る頃には、五体満足で過ごせてるのだろうか?

 

「八一くん、もっと一杯おしゃべりしよ?こなた、もっともっと八一くんと仲良うなりたいねん」

 

「だから弟から離れろ。何回も言わせるな。ぶちころすぞわれ」

 

「痛い痛い!だから腕を引っ張らないでって!」

 

僕の腕よ。大阪に帰るまで持ち堪えてくれるよな?不安でしかない。そんな僕達の様子を見て、同伴している師匠が言う。

 

「青春やな」

 

やかましいわ!

 

 

 

 

 

 

 

 

とりあえず、東京には無事到着した。今生では初めての東京だ。一昔前の懐かしい東京。スカイツリーなんて物も、まだ完成していない。オリンピックが開催されるなんて、全く想像もしていない。前生では数え切れないほど訪れたことのある地だけれども、なんだか新鮮に感じてしまう。

 

そんな東京で、今は僕と銀子ちゃんの二人きりだ。万智ちゃんは、これから東京の知り合いに会いに行くと言って別れ、師匠は関東将棋会館に顔を出しに行くからと言って、僕達は自由にしてていいと言い残して去って行った。師匠よ。僕達にとって未知の土地東京に、子供二人だけで自由にさせるって大丈夫なのか?色々と、体裁的にも問題がありそうなんだが。

え?僕はしっかりしてるから大丈夫だって?あ、はい。そうですか。

 

そして僕達は今、銀子ちゃんが行きたいところがあると言って、その場所に向かっている。東京駅から丸ノ内線に乗り換え、新宿三丁目駅で降りる。ここからは徒歩だ。駅を出て、しばらく歩くと、目的の場所に到着する。

 

「おー」

 

銀子ちゃんが感嘆の声を漏らす。着いた場所は、日本最大の歓楽街、歌舞伎町だ。眠らない街とも称される、大人の東京を体現するかのような町。昼間から、活気溢れる街中の光景。大阪でもめったに見ることのできない人波。その光景に、思わず圧倒されそうになる。こんな場所、子供だけで来る場所じゃ無いだろう。実際に、来てるけど。

 

「銀子ちゃん、なんでここに来たかったの?」

 

「師匠が言ってた。ここにある道場には、強い人が集まるって」

 

つまり、武者修行に来たわけだ。前生でも、銀子ちゃんとこうやって、二人手を繋ぎながら色々な道場に武者修行に行ったものだ。強い人がいると聞けば、西から東へ、僕は片手にお小遣いを、銀子ちゃんはマグネット式の将棋盤を持ち、もう片方の手でお互いの手を握りしめ、日本全国色んな場所に赴いた。

 

僕達は、一人だけならどこにでもいるような、か弱い子供でしかない。だけど、二人一緒なら、どこへでも行けた。こうやってお互いの手を握りしめていると、不思議と無限の勇気が湧いてきた。どんな強敵にだって、挑むことができた。

 

この歌舞伎町も、前生において銀子ちゃんと武者修行に来たことがある場所だ。あれは、初めて東京に行った時だった。この町のド真ん中には、将棋道場がある。その場所で、真剣師相手に、有り金全部を賭けた大勝負をやってのけたこともある。おそらく、いや、間違いなく銀子ちゃんが言っているのはその道場だろう。

 

「ここ」

 

そして、銀子ちゃんに連れられてやってきた場所は、やはり前生で訪れたあの場所だった。僕達は、お互いの手を握る力を強くし、道場内へと入る。

 

「いらっしゃい。ってなんだ子供じゃねーか」

 

出迎えてくれた店員が、明らかに歓迎していませんとでも言いたげな口調で、僕達に声をかけてくる。

 

「僕達、二人で何しに来たの?」

 

「将棋を指しに来た」

 

「将棋をだ?ここには、ガキと指そうって奴は一人もいねーぞ」

 

「一番強い人は誰?」

 

「おいガキ、てめー舐めてると痛い目合うぞ?」

 

銀子ちゃんの返しに、店員さんはあからさまに怒気を発する。こんな喧嘩腰の店員置いといていいのかな?銀子ちゃんの言い方も悪いかもしれないけど、明らかに店員さんの態度もおかしいでしょ。

 

「おいおい何事だ?」

 

入り口の騒ぎが気になったのだろう。奥から、客と思われる人物が姿を現す。ここの常連なのだろう。店員さんの態度もその人には親しげだ。僕は、そのお客さんのことを知っていた。間違いない。前生において、僕がこの道場で対局した真剣師さんだ。あの時は、最後まで一切気が抜けない激戦となった。最終的に勝つことはできたけど、最後までどちらが勝ってもおかしくない接戦だった。

 

「カズさん。それがこの女の子がね、いきなり一番強い人は誰かって聞いてくるもんで」

 

「へぇ、面白れーじゃねーか。嬢ちゃん、一番強い奴を知って、どうするつもりだい?」

 

「倒す」

 

「おうおう、えらく強気な嬢ちゃんだな。気に入った。今道場内に居る中で一番強いのは俺だ。着いてきな」

 

その言葉に従い、僕達は店の奥へと入っていく。案内されたのは、個室だった。賭け将棋は違法だ。他人の目を避けるために、こうやって個室を用意しているんだろう。席に着くと、カズと呼ばれていた男性が話しかけてくる。

 

「早速だが、俺は真剣師だ。真剣師って嬢ちゃん、知ってるかい?」

 

「知ってる」

 

銀子ちゃんが淡々と応える。真剣師とは、賭け将棋を生業とする人のことだ。今では、賭け事は違法となっているため、真剣師の数は激減してしまっているが、こうやって、コソコソと活動を続けている人も中にはいる。

 

「知ってるなら話は早い。俺は金にならない勝負はしない。嬢ちゃん、いくら出せる?」

 

そう言われると、銀子ちゃんは僕に視線を向けてくる。銀子ちゃんのお小遣いも、今は僕が持っている。その額を僕は確認し、相手に提示する。

 

「ふーん、そんなもんか。まぁいいわ。俺も同額を賭けよう。真剣が成立した以上、俺たちは同等の存在だ。手合いは平手だが、いいな?」

 

「当然」

 

銀子ちゃんが同意し、真剣が成立した。店員さんが振り駒を行ってくれる。その結果、銀子ちゃんは先手となった。

 

「八一、手」

 

銀子ちゃんに言われて思い出す。そういえば、お小遣いを確認するのに手を離してたんだった。僕は、銀子ちゃんの左手を再び握りしめる。その銀子ちゃんの手は、震えていた。いくら強気な態度を取っていても、これは銀子ちゃんにとって初めての真剣だ。負ければお小遣いを失う。怖いのだ。怖くて当然だ。だけど、その震えは、僕が銀子ちゃんの手を握ると、直ぐに治まった。銀子ちゃんにも、無限の勇気が湧いているのだ。今の銀子ちゃんは、負ける気が一切していない。

 

「かーっ、真剣の場でイチャイチャしやがって、独り身の俺に対する当てつけか?」

 

そんなつもりは一切無かったのだけれども、その行動は相手にとっての挑発行為になっていたらしい。なんだか申し訳無い。

 

「まぁいいわ。さっさと始めようぜ。どこからでもかかってきな」

 

「ん」

 

そして、銀子ちゃんと真剣師さんの対局の火蓋が切って落とされた。戦型は、相掛かりとなった。僕と銀子ちゃんの対局では、相掛かりになることが多い。僕と銀子ちゃんが、今生で一番最初に指した戦型。だからこそ、僕達にとっては思い入れの強い戦型となっている。それからも、僕達は頻繁にこの戦型を指してきた。だからこそ、銀子ちゃんの相掛かりの経験値は非常に高い。

 

「ぐっ、嬢ちゃん、言うだけあって強えーじゃねぇか」

 

銀子ちゃんが押し込む時間が続く。相手の真剣師さんの表情は苦しい。攻め込まれっぱなしなうえに、自分が攻める足がかりも掴めていないのだ。銀子ちゃんの、攻防のバランスが絶妙なのだ。必要最低限の駒で相手を追い詰め、残りの駒で玉の囲いを形成する。その囲いは強固なものになっている。真剣師さんは、今守りに駒を集中させている。残りの駒だけでは、到底この囲いに挑戦することもできないだろう。

 

「くっ、ここで来たか……!」

 

そして、銀子ちゃんの猛攻が始まる。温存していた持ち駒を次々攻め駒として投入していったのだ。一気に敵玉を詰ませるつもりだ。

 

「嬢ちゃん、本当に強えーな。だけどな、俺だって真剣師の端くれだ。簡単に終わるわけにはいかねーんだよ!」

 

ここで真剣師さんも勝負に出た。持ち駒を温存していたのは銀子ちゃんだけでは無い。受けに回っている最中に得た銀子ちゃんの攻め駒を、真剣師さんは次々と銀子ちゃんの囲いに当てていく。更には、受けに回していた飛車角までをも投入してきた。この局面で、守りを捨てて攻めに転じようと言うのだ。大胆極まりない決断だった。

 

「くっ」

 

今度は逆に、銀子ちゃんの表情が苦しくなる。真剣師さんの攻めが鋭いのだ。

 

「はっ、俺は元々攻めの方が得意なんだよ!攻めに回った以上、この勝負貰ったぜ!」

 

真剣師さんの攻撃の手は緩まない。次々と銀子ちゃんの囲いは突破されていく。終いには、真剣師さんから大胆な一手まで飛び出した。

 

「ここで角を!?」

 

「ここまで追い詰めたら角なんていらねーよ!」

 

角を切って、無理矢理銀子ちゃんの囲いを突破して見せたのだ。妙手だった。たった一手で、銀子ちゃんの囲いに入ったヒビは、全体に広がり、終いにはパリンと音を立てて砕け散ってしまったのだ。後は真剣師さんにとって、詰ませるのは容易いことだろう。そのための、最初の一手が放たれる。

 

「さぁ、こいつをどう受けるんだい?」

 

龍による遠距離法が、玉の土手っ腹に照準を合わせる。逃げるのか、合駒を投入するのか。しばらく考えて、銀子ちゃんが下した判断は、合駒の投入だった。

 

「合駒か。まぁ、そうくるだろうな」

 

真剣師さんも、その手は読んでいたようだ。それもそうだ。そもそもの話だ。すでに銀子ちゃんの玉には、逃げる場所なんて存在しなかったのだ。全ての道が、既に真剣師さんによって塞がれている。だったら、合駒を使うしか他に方法は無い。これは必然の選択だったのだ。ほどなくして、銀子ちゃんが盤面に駒を打ち付ける。その駒を見て、真剣師さんの目は大きく見開かれることとなる。

 

「……は?ん?……はぁ!?角ぅ!?」

 

そう、銀子ちゃんが合駒に選択したのは角だったのだ。合駒に大駒を選択するというとんでもない選択。だが、この状況ではその合駒は大正解だった。

 

「こ、これはまさか……!」

 

注目は角の対角線上だ。離れた位置に、真剣師さんの玉がいた。そう、この角は、逆大手を演じていたのだ。この局面では、これ以外にない選択肢。他の駒を合駒に使っていた場合、銀子ちゃんは間違いなく詰んでいた。そうこれは、限定合駒だったのだ。

 

だがこれだけだと、角を龍で取ればいいだけなんじゃないかと思うだろう。だが、その選択肢こそが落とし穴だった。真剣師さんがこの後詰ませに入るには、どうしても龍が重要になってくる。だが、龍でもし角を取ってしまうと、そのまま玉に龍を取られてしまう。すると、途端に玉は追い込まれはしても、詰みまでは届かなくなってしまうのだ。

 

「ば、馬鹿な……ありえねぇ……」

 

真剣師さんの表情が青ざめていく。彼にとってこの勝負は、九割方既に勝っていたようなものだったのだ。それが、たった一度の奇手によって覆されてしまった。彼に敗着があるとすれば、それは銀子ちゃんに角を渡してしまったことだろう。妙手は、時に振り返ると、途端に悪手へと変わることもあるのだ。

 

その後真剣師さんは、一手受けの手を挟まざるをえなくなった。それを銀子ちゃんは逃さない。受けから一転攻勢へと切り替えていく。王手ラッシュにより、真剣師さんに反撃の隙を一手も与えることなく、勝ちきって見せたのだ。

 

「参ったぜ。お手上げだ。まさか、この局面から負けちまうなんてな」

 

「……私の勝ち?」

 

銀子ちゃんは、まだ自分が勝ったという自覚が無いのだろう。不安そうな目で、僕のことを見てくる。

 

「うん、銀子ちゃんの勝ちだよ。本当に、良い対局だった!おめでとう!」

 

そう僕が言うと、銀子ちゃんは安心したのか、僕に(もた)れるように倒れてきた。その体は、かなりの熱を発している。その状態が、この対局が如何に熱戦だったかを証明している。

 

「かーっ、最後まで見せつけてくれるねぇ。独り身の俺には見ててつれーよ。……だがまぁ負けちまったものはしょうが無い。これも罰だと思って受け入れるさ。それと俺の賭け金だ。受け取りな」

 

そう言って、真剣師さんが現金を差し出してくる。銀子ちゃんは今、それを受け取る気力も無い。なので、僕が代わりにそれを受け取った。

 

「良い対局だったじゃねーか。カズ」

 

受け取った瞬間だった。部屋に一人の男性が、拍手をしながら入ってきた。見るからに恰幅の良い、相当に鍛えていることがわかる男性だった。その男性の登場が、今日の激戦はまだ終わらないと物語っている。僕は、更なる激戦に備えて、神経を研ぎ澄ませるのだった。




長くなりすぎたから、分割します。
二人一緒なら、どこへでも行けた。
原作4巻と11巻で2度登場し、11巻では帯にも使われている1文。
自分が作中で最も好きな1文でもあります。
もうなんというか、八銀を集約したような1文だと思う。
どこへでも行けた。
それはきっと、武者修行の話だけではなく、棋力の話にも繋がってるんだと思います。
二人一緒なら、どんな高みにだって行ける。
そういう、想いも込められた1文だと思っています。
次の投稿もあさってです。

八銀はジャスティス


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第12局 はじめての真剣 2局目

前話の続きです
前話の対局描写が、自分の描写不足により、わかりにくい部分があったので描写を追加してあります
ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした
今後とも、当作品をよろしくお願いいたします

合い言葉は、八銀はジャスティス


「マサさん、来てたのかい」

 

「今来たとこだ。終盤からだったが、良い対局見せてもらったぜ」

 

「でも俺、負けちまったよ」

 

「あぁ、そうだな。ま、しっかり反省して、次に繋げることだな」

 

そう言って、マサさんと呼ばれた男性は、カズさんの肩に手を置いた。見ていてわかるが、どうやらカズさんよりも、マサさんの方が目上らしい。おそらく、棋力もそうなのだろう。

 

「聞いたぜ。この道場で一番強いやつを探してるんだってな。そいつは俺だ」

 

そうだとは思っていた。カズさんは、マサさんが不在だったために、道場内に残ってる人の中では一番強いと言っただけだ。道場を訪れるお客さん全ての中で一番強い人は他にいたのだ。それが、このマサさんというわけだ。この人は、前生において会った記憶が無い。おそらく、前生で訪れた際は、不在だったのだろう。それが、今生では道場にやってきたらしい。まぁ、前生とは訪れたタイミングが全く違うから、そういうこともあるだろう。

 

「マサさんは俺なんか比べものにならないぐらいに強えーぜ。なんたって、かつてはアマ名人に数度輝いたこともあるアマ将棋界の強豪だったんだからな」

 

なるほど。それは確かに強敵だ。下手したら、プロクラスの実力は備えているかもしれない。僕だって、勝てるかどうか怪しいかもしれない。

 

「それでも、やるかい?」

 

「やります」

 

だけど、逃げるなんて選択肢は僕には存在していなかった。だって、銀子ちゃんがあんなに頑張って、勝利を手にしたんだ。明らかに格上の相手に、勝利して見せたんだ。だったら、僕が逃げるわけにはいかないじゃないか。姉が切り開いた勝利という道を、弟である僕が更に広げてみせる。僕達姉弟で、勝利を手にしてみせる。

 

「それで坊主、今いくら持ってるんだ?」

 

そう問われ、僕は自身が持っているお小遣いの額を提示する。

 

「なんだ、そんなもんか。悪いな坊主。俺を引きずり出すにはその程度じゃ足りねーな」

 

どうやら、僕は闘うことさえ許されなかったらしい。銀子ちゃんごめん。勝利の道、広げることができなかったよ。

 

「だったら、さっきの勝ち分も含めた私のお小遣いも全部賭ける」

 

「銀子ちゃん!?」

 

そこで、銀子ちゃんから驚きの提案が出される。僕の対局に、銀子ちゃんも全財産を賭けると言うのだ。

 

「なるほどな。それだったら受けてやってもいいぜ」

 

そうマサさんは言う。これでもし負けてしまったら、僕だけじゃなくて銀子ちゃんにまで迷惑をかけてしまうことになる。それだけは許されない。

 

「銀子ちゃん、本当に良いの?」

 

「大丈夫。八一なら絶対勝つって信じてるから」

 

「そっか、ありがとう。でももし負けちゃったら、帰りどうしよっか?」

 

「その時は、歩いて帰ればいい」

 

「そんな無茶、銀子ちゃんにはさせられないね。絶対負けられないじゃん」

 

そう言って、僕と銀子ちゃんは笑い合った。こんなことを銀子ちゃんは言っているが、僕が負けた時の想定なんて、一切していないのだ。きっと、彼女が今想定しているのは、帰りの電車で行う目隠し将棋の戦法だろう。つまり、勝った後の想定だ。それなのに、僕が負けることを考えてるわけにはいかないじゃないか。僕は覚悟を決めて、席に着いた。

 

「羨ましくなるぐらいの信頼だな。良いパートナーじゃねーか。だがこれで、真剣は無事成立だな」

 

手番はカズさんが振り駒を行って決まった。先手は、マサさんだ。

 

「坊主のことは知ってるぜ。あれだろ?小学生名人戦の決勝大会に史上最年少で進出したっていう坊主だろ?」

 

「え?この子が?」

 

「なんだカズ、気づいてなかったのか。まぁそれはいい。俺も、昔あの大会には出たことがあるんだ。準優勝に終わったがな。というわけでだ、大会参加者の先輩として、一丁揉んでやるよ。いくぜ」

 

そして、僕とマサさんの対局は始まった。マサさんは、初手で無難に角道を開いてくる。僕もそれに合わせて、角道を開く。続いて、マサさんは、飛車先の歩を進めてきた。横歩取りの構えだ。そして、四手目。僕がその手を放った瞬間、その場が一瞬で凍り付いた。

 

「はぁ!?このタイミングで角交換だぁ!?」

 

カズさんの絶叫が響き渡る。そう、僕は四手目にして角交換を行ったのだ。後手から行う角交換。この戦法には、歴とした名前が付けられている。一手損角換わりという名前が。名前の通り、これは一手損をして行う戦法だ。普通なら、そんな戦法機能するのか?と思うだろう。だがこれが不思議と、機能するのだ。将棋にはして良い手損とダメな手損が存在する。この一手損角換わりは、して良い手損の代表例だ。最も、この一手損角換わり戦法が発見されたことにより、して良い手損の存在が明らかになった訳だが。とは言っても、この戦法は、スペシャリスト向けの超高難易度の戦法だ。スペシャリストが、完璧に指してみせて、やっと後手が若干優勢になる程度でしかないのだ。

 

そしてこの戦法は、前生における僕のエース戦法の一つだった。一時期、この戦法は先手が優勢になる手が見つかり、廃れていったこともある。だが、将棋の研究は日々進化する物。後に、僕は更に後手優勢になる手を発見し、見事にこの戦法は復権を取り戻した。晩年まで、僕のエース戦法であり続けてくれたのだ。そんな僕の伝家の宝刀を、今生において初めて僕は抜いた。これまで封印してきた剣を引き抜いたのだ。

この対局はなんとしても勝つという、僕の決意表明だ。

 

「一手損角換わりとは、とんでもねーことをしてくれるじゃねーか。関東だと一角獣か神様しか指し熟せるやつぁいねーぞ。坊主、そんな戦法使って、本当に大丈夫なんだろうな?」

 

「今から証明してみせるよ」

 

「ふっ、おもしれーじゃねーか。受けて立つぜ」

 

マサさんは、一手損角換わりに怯むこと無く、次々と手を伸ばしていく。途中、有効な攻め手が無くなる、一手損角換わり特有の局面が訪れたが、その局面では無理せず、自身の囲いの形成に手を回すことで、回避してみせた。上手い立ち回りだ。おそらく、一手損角換わりを相手にするのは初めてだろう。相手にした場合の知識も持ち合わせていないはずだ。それでも、その場での発想で、見事に手を広げて見せている。流石に手強い。

 

だけど、一手損角換わりという戦型は、謂わば僕のホームのようなものだ。この戦型は、誰よりも研究してきた自信がある。相手がどんな手を指してきても、僕は直ぐに対応してみせる。

 

「くっ、居玉のまま手を進めてくるたぁ、舐められたもんだな」

 

マサさんの言う通り、僕は初形から玉を動かしていない。それどころか、4枚の金銀すらも初形から動かしていないのだ。そして僕は、前生において角換わり革命とまで言わしめたもう一つの宝刀を抜く。

 

「っ!桂単騎だと!?」

 

桂単騎攻め。これが、角換わり革命とまで言われた僕の攻めだ。将棋の格言に、桂の高飛び歩の餌食というものがある。だが、そんなこと知るか、と言うかのように、僕は桂の特攻を仕掛けて見せた。

 

「くっ、なるほどな。無理攻めに見せて、実際には理にかなった攻めじゃねーか。恐ろしい坊主だぜ」

 

どうやら、マサさんはこの桂単騎の意図が読めたらしい。初見でこの意図に気づくとは、恐ろしい読みだ。だが、読まれたところで止められるかどうかは別の問題だ。

 

「ちっ、ここは受けに回るしかねーな」

 

マサさんが囲いを更に固めに入る。それは、望むところだ。僕は、間髪入れずに、その囲いを崩しにかかった。

 

「この、中々重厚な攻めじゃねーか。だがな、歌舞伎町の要塞とまで呼ばれる俺の受けを崩すには足りねーな」

 

その言葉の通り、その囲いは非常に固かった。崩しに入ったはいいが、攻めきれない。ある程度崩したところで、堰き止められてしまう。一気に勝ちきりたかったけど、流石に一筋縄では終わらせてくれないらしい。

 

「今度はこっちから行くぜ。その不安定な陣形でどこまで受けれる?」

 

そして、マサさんの猛攻が始まる。次々と、攻め駒を投入して僕の玉を脅かしてくる。しかし、マサさんの顔色は徐々に悪くなっていく。攻めれば攻めるほど、その顔色は悪くなっていく。

 

「ど、どうして攻めきれない……どうしてそんな囲いとも言えないような囲いで受けきれるんだ!?」

 

そう、僕の陣形を崩しきれないのだ。いくら攻め駒を使っても、居玉のまま動いていない僕の玉に届かない。金銀、4人の忠臣達が王を守る壁となり、潜んでいた持ち駒という伏兵が敵の侵入を阻む。王はそれを、一歩も動かずに見守り続けている。まるで、自身の臣下を信頼しきっているかのように。

 

「くっ、だがこれならどうだ!」

 

マサさんが勝負に出る。角を打ってきたのだ。位置も絶妙だ。どちらの対角線を塞ごうが、必ず僕の懐深くで馬を作れる位置。なるほど、これは上手い。しかし僕は、マサさんのその手に対して、瞬時に策を講じる。

 

「なっ!?無視だと!?」

 

そう、僕は角を放置して見せたのだ。どうぞ、馬を作って下さいと言わんばかりの大胆極まりない策略。常識では考えられないような策略。だが、それが上手く嵌まる。

 

「ば、バカな……」

 

マサさんが驚愕に震える。馬を敵陣深くに作って、盤面上はマサさんの優勢に見える。しかし、盤面を見れば見るほど、不思議なことにこの馬が全く機能していないのだ。僕は、前生において角換わりのスペシャリストと呼ばれていた。当然、自分が角を使うのも得意だが、相手が角を打ってきた際の対策にも抜かりは無い。いつ、どこで打ってきてもいいように、対策はきっちりと研究してきている。その僕の研究がこの局面での角打ちは全く恐れる必要が無いと導き出したのだ。その研究通りに、マサさんの馬は身動きも取れずにいる。

 

「こ、こんなはずじゃ……」

 

マサさんの顔色がまた一段と悪くなる。馬をなんの策も講じずに封じられたうえに、いくら攻めても僕の囲いを崩すことが全くできないのだ。

 

「く、崩せねー……ありえねー……こんな受け、デタラメだぜ……」

 

僕の得意とする将棋は、変則的な受け将棋だ。得意になった原因は、銀子ちゃんにあるんだけど、今はそれはいい。要するに、攻めより受けの方が得意なのだ。僕は、居玉のままでも十分に受けれると判断した。そして、その判断は間違っていなかった。それが、今のこの局面に現れている。

 

「もう終わり?だったら……次はまたこっちの番だね!」

 

そして、僕の攻撃が再び始まる。先ほど半壊させていた要塞を、受けに回ることで得た持ち駒を投入して蹂躙していく。そしてある程度蹂躙した所で、僕はここまで温存していた銃弾を解き放つ。

 

「ぐっ!ここに来て角だと!?」

 

相手の急所に的確に狙いを定めた(じゅうだん)は、(たが)うこと無く相手の急所を抉り抜いていく。これで、勝負ありだ。

 

「ぐっ、ま、負けたぜ……」

 

「な!?ま、マサさんが負けた!?」

 

勝った。なんとか勝つことができた。終わってみれば、完勝譜だったけれども、不安な物は不安だった。僕は、安堵に息を吐く。

 

「銀子ちゃん、勝ったよ」

 

「当然」

 

銀子ちゃんは、当たり前でしょ?とでも言いたそうに胸を張って見せる。その顔は、自分が勝ったわけでも無いのに得意気だった。

 

「はぁ、完敗だぜ。これが賭け金だ」

 

僕はマサさんから賭け金を受け取る。それを半分は僕の財布に仕舞い、残りの半分を銀子ちゃんの財布に仕舞った。

 

「勝ったのは八一なんだから、全部八一が貰えばいい」

 

「けど、銀子ちゃんも賭け金出してくれたでしょ?銀子ちゃんが出してくれなきゃ、僕は対局すらできてなかったんだから。だから、これは僕達二人での勝利だよ。だから、銀子ちゃんも受け取って」

 

「……八一がそう言うなら、受け取ってあげる」

 

銀子ちゃんは、頬を赤くしながら僕の提案を受け入れてくれた。その表情も、どこか嬉しそうだ。

 

「かーっ、最後の最後まで見せつけてくれるねー!独り身の俺に対する遠慮は無いのかよ!」

 

「おめーも早く見つけりゃいいだろ」

 

「簡単に言わねーでくれよ!いいよなーマサさんは。わけー嫁さんもらってよ」

 

「おう、幸せだ」

 

「かーっ、独り身の俺にはつれーよ!」

 

カズさんとマサさんの談笑を聞きながら、僕と銀子ちゃんは帰り支度をする。僕が対局してる間に、銀子ちゃんの体調もすっかり回復したらしい。これなら、駅までは歩けそうだ。

 

「しっかし、坊主。本当に強えーな。坊主なら、小学生名人にぐらい簡単になれるだろうさ。坊主達ならいつでも歓迎だ。また来いよ」

 

「はい!ありがとうございました!」

 

そして、僕達はカズさんとマサさん、そして店員さんに見送られて、道場を後にした。最初は態度が悪かった店員さんも、帰る頃にはすっかり僕達のことを認めてくれて、謝ってもくれた。総合的に見て、良い経験ができたと思う。きっとこれからも、前生のように銀子ちゃんとは、日本全国色んな場所へ武者修行に行くのだろう。それはきっと、僕達にとって掛け替えのない経験になっていくはずだ。

 

「次はどこの道場に行ってみようか?」

 

「強い人がいれば、どこでもいい」

 

どこでもいい。銀子ちゃんはそう言う。僕もそう思う。どこだっていい。だけど、条件は銀子ちゃんと少し違うが。銀子ちゃんと一緒だったらどこだっていい。全国の知らない土地に行くのは、不安だって色々あるだろう。時には恐怖だって湧いてくるだろう。だけど僕達は、二人一緒なら、どこへだって行ける。不安や恐怖なんてものは、一切合切湧いてこない。僕達は、二人一緒なら無敵なのだから。だから僕達は、これからも、誰にだって挑んでみせよう。この手を繋いで、挑み続けよう。僕達は、まだ見ぬ強敵に想いを馳せながら、二人手を繋ぎ電車に揺られるのだった。




というわけで、4巻で一文だけ説明がある、歌舞伎町での真剣師戦でした。
4巻はぁ、良いぞう。
ゴスロリ銀子ちゃんはぁ、もはや凶器だぞう。
アニメ版で無事俺は天に召されたぞう。
しらび先生のイラストも可愛さの暴力だけど、アニメで動きまで取り入れられて、金元さんボイスまで付けられたらね、銀子ちゃん推しには耐えられないよね。
てか、釈迦堂さんとの研究会で、毎回負けたらあんなモデルを引き受けてるってことは、歩夢きゅんも、ゴスロリ銀子ちゃんを直に見る機会何度かあったのでは?
歩夢きゅん許すまじ。
後ゴスロリ銀子ちゃんは、フィギュアにもなってますので、是非ゲットしてみてください。
次回もあさって

八銀はジャスティス


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第13局 ライバル

ほえる はねる そらをとぶ トライアタック メガトンパンチ
これの意味がわかる人は同世代だと思います
合い言葉は、八銀はジャスティス


小学生名人戦、決勝大会当日となった。

泣いても笑っても残り2局。三ヶ月に渡り闘ってきた激戦も、今日で全てが終わる。

 

「ほんなら八一、頑張ってくるんやで」

 

今日の対局は、全て渋谷のテレビスタジオ内での対局となる。師匠と銀子ちゃんは、僕が闘ってる間、東京観光をしてるらしい。僕も行きたいのだが。

 

「負けたら、帰ってくんな」

 

銀子ちゃんが発破をかけてくれる。銀子ちゃんの言葉から察するに、どうやら僕は負けたら破門にされるらしい。それだけは絶対に嫌だ。なんとしても優勝して見せよう。

 

「それと、これあげる。おまもり」

 

そう言うと、銀子ちゃんは僕に小さな何かを差し出してきた。きっと、昨日稼いだお金で買ってくれたのだろう。僕はそれを、ズボンのポケットにしまい込んだ。

 

「ありがとう!大事にするよ!」

 

「よっしゃ、ほんなら銀子行こうか。お昼、食べたいもんあるか?」

 

「回らないお寿司」

 

「んん!?ま、回ってたらあかんのか……?」

 

「銀座に行きたい」

 

「なんでお前はそんな高い場所知ってるんや!?お、おい銀子、待って、待って下さい銀子ちゃん!」

 

師匠は、先を行く銀子ちゃんを必死に説得しながら追いかける。師匠の低姿勢な姿は最後まで変わることなく、二人の姿は僕から見えなくなってしまった。とりあえず、師匠の財布には黙祷を捧げておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の対局は、2局目だ。現在、1局目の対局が行われている。万智ちゃんの対局だ。万智ちゃんは、得意の穴熊を形成し、相手の猛攻に耐えている。穴熊で耐えつつ、隙を見つけては果敢に攻める。上手い。素直にそう思った。万智ちゃんの攻防のバランスは完璧だった。決して無理をせず、相手が痺れを切らして無理攻めしてくるのを耐えて待つ。万智ちゃんの指し回しは完璧だった。悪手と言えるような悪手も見せず、無駄のない将棋だった。万智ちゃんも、勝てると、そう思っていたことだろう。だけど、万智ちゃんは負けた。万智ちゃんに、敗着と呼べるような手は一切無かった。ただ、相手の、彼女の攻めのセンスが万智ちゃんを上回っていただけ。それだけだ。

 

万智ちゃんの表情は暗い。負けたのだから当然だ。彼女はこの対局前に、僕と決勝で指したいと言っていた。その思いは、盤面にもしっかり現れていた。彼女の勝ちたい、決勝に進みたいという思いが。その思いは、間違いなく相手をも上回っていただろう。だが将棋は、いや勝負と言うものは、必ずしも思いの強い方が勝つとは限らない。将棋の神様は気まぐれだ。思いに応えてくれるとは限らない。万智ちゃんは、席から離れると、僕の横を素通りして、スタジオの外へと出て行ってしまった。

 

僕は見逃さなかった。彼女の頬を伝う一筋の雫を。きっと、涙は人前で見せない。そう思い必死に堪えていたのだろう。だがそれは、決して堪えきれるものでは無かった。それをあの一滴の雫が証明している。彼女は悔しかっただろう。悲しかっただろう。だがそれ以上に、負けてしまった自分が、決勝に残れなかった自分が(ゆる)せなかったのだろう。

 

あぁ、あんな物見せられたら……余計に負けられなくなってしまうじゃないか。負けられない理由が、また一つ増えてしまった。僕の相手は、強敵だ。未だ幼いとはいえ、前生における僕の永遠のライバルなのだから。元から負けるつもりは無い。たださっきまでと少し違うのは、背負う物が一つ増えた、それだけだ。それだけで、こんなにも思いが溢れてくる。勝ちたいという思いが。僕は席に着き、既に席に着いていた対局相手に話しかける。

 

「僕は九頭竜八一。よろしく」

 

「うむ。我は神鍋歩夢。よろしく頼む」

 

神鍋歩夢。前述の通り、前生における僕の永遠のライバルだ。前生では『次世代の名人』とまで呼ばれ、その強さを称えられていた歩夢。その期待通りに、歩夢は永世名人にまで上り詰めて見せた。僕が初めて名人戦に挑んだ際の対局相手、つまり当時の名人も歩夢だった。その対局で勝ち、5期連続で名人位を防衛し永世名人に僕がなった翌年に、僕はあっさりと歩夢に名人位を奪われてしまうことになる。その後も、歩夢とは名人位を賭けて何度もぶつかった。僕と歩夢の名人戦は、もはや毎年の恒例行事と化していた。何せ、僕が歩夢と名人戦で初めて対戦した年から、挑戦者側を変わりつつ、15年連続名人戦同一カードというアンタッチャブルレコードを二人で叩き出したのだ。僕達の対局で、名局賞も数度獲得したり、妙手を称える賞も僕達の対局から数度生まれた。正に僕にとっての、生涯のライバルなのだ。

 

前生における歩夢との初対局、出会いも小学生名人戦準決勝だった。あの時は、どちらに転んでもおかしくない接戦の末に、僕が勝利を収めた。あの時よりも、この対局は2年早い。僕達は、2年早く出会ったのだ。この結果が、僕と歩夢の関係にどのような影響を及ぼすかはわからない。だけど、そんなことは今はどうだっていいことだ。今はただ、目の前の対局に集中しよう。絶対にこの対局は、負けるわけにはいかないのだから。

 

歩夢の先手で対局は始まる。歩夢の得意戦法は矢倉系統だ。序盤の手を見るに、この対局も矢倉に持って行くらしい。なら僕も合わせよう。僕は場を相矢倉に持っていく。矢倉で来るなら、望むところだ。僕の矢倉殺しが刺さる。この対局は、僕が勝つ。歩夢はその後も囲いを形成していき、終いには綺麗な矢倉……いや、この形は。

 

「雁木か」

 

雁木囲いだ。矢倉とは似ているが、異なる。その特徴として、角が8八の位置に留まったままだということが挙げられる。この雁木、実は今の時代にプロで指す棋士はまずいない。その最大の理由として、矢倉よりも強度に劣るという点がある。雁木に持って行くなら、矢倉に組むよね。と言うのが、今の時代のプロなのだ。アマ棋界では、中々人気の高い戦法だが、プロ棋界では、1990年代から2000年代の間でほんの数局しか指された記録が無い。まぁ、2010年代後半になると、ソフトの普及に伴い、雁木の新戦法が確立され、矢倉の衰退も背を押し、新型雁木として頭角を現し始めるのだが、そんなのはまだまだ先の話だ。今はまだ2007年。そんなのまだ10年ほど経ってからのことだ。

 

だが、歩夢は雁木を選んだ。おそらくだが、矢倉を避けたのだ。きっと知っているのだろう。僕の矢倉殺しを。だけど僕の矢倉殺しは、雁木にも通じる。矢倉に対するよりも効力は確かに落ちるが、それでも十分な威力はある。歩夢には、何か対策でもあるのだろうか?と、考えているときだった。

 

「な!?」

 

歩夢が飛車を横に動かしてきた。これは、右四間飛車だ。飛車を横に移動させてはいるが、立派な居飛車戦法の一つだ。盤面の半分から右側で飛車を振る分には、それは居飛車と扱われるのだ。今の歩夢の飛車は4列にいる。だから居飛車というわけだ。しかし、これは少し厄介になってきた。雁木と右四間飛車を組み合わせる戦法は、確かに以前から存在する。アマチュア間では、良く指される戦法だ。そして歩夢は、角道を塞いでいた6筋の歩を突き出し、再び角道を開く。これが歩夢の狙いだ。4筋の飛車とこの角によって、僕の矢倉をこじ開けようというのだ。だが、歩夢の攻めはそれだけで終わらなかった。

 

「くっ!」

 

1筋の端歩を突き上げてくる。その後ろにいる香車を活かすためだ。歩夢は、前生において香車を使わせたら右に出る者はいないとまで言われていた。香車を使用した新手も次々と編み出した、正に香車のスペシャリストなのだ。そんな歩夢に、香車を使う隙を与えるのはまずい。だが、歩夢の攻めの手はまだ終わらない。桂馬までをも跳ねさせ、僕の矢倉を全力で壊すという意思が見て取れる。だがそれだけでは終わらなかった。驚くのはまだ早いと言わんばかりの手が歩夢から飛び出す。

 

「ここだな」

 

「なっ……!?」

 

デッドエンド・ドラゴンテイル。前生において、歩夢はこの手にそんな技名を付けてくれた。つまり、歩夢は僕の矢倉殺しを使ってきたのだ。おそらく研究はしてきているのだろうとは思っていたが、まさか自分で使うほどにまで落とし込んでくるとは。我がライバルながら、感心する他無い。だがこれは、相当まずい事態になった。角、飛車、香車、桂馬、矢倉殺しによる、正に矢倉包囲網。その包囲網が、じわりじわりと(にじ)り寄ってくる。そして、矢倉防衛戦の幕が上がる。

 

次々と襲ってくる歩夢の波状攻撃に、僕の矢倉はあっという間に食い破られていく。取っては取られ、守っては攻められの大乱戦。しかし、明らかに優勢なのは歩夢だ。原因は明らか。矢倉殺しの存在だ。まさか、自分の披露した手でここまで苦しめられるとは思わなかった。いつか誰かに使われる日は来るだろうとは思ってはいたが、その最初の人物が歩夢で、対局者が僕だなんて、なんて因果だろうか?これはあれだな。きっと、今まで僕が負かしてきた矢倉使いからの報復なんだろうな。そんなことを考えているあたり、僕はもう目の前の現実を受け入れてしまっているのだろう。

 

「終わりだな」

 

歩夢がそう言う。盤上は、明らかな僕の敗勢となっていた。見るも無惨な形になった。囲い。まだ綺麗な状態で残っている歩夢の雁木囲い。持ち駒にこそ余裕はあるが、それも慰めにしかならない。このまま押し込まれれば、結果がどうなるかは自明の理だ。僕は、ズボンを右手で強く握りしめる。清滝一門は皆、ズボンの右側に皺がつく。対局中に、軽率な手を指さないために、右手で強く握りしめるからだ。だけど今握りしめた意味は違う。ただ、悔しいだけだ。負けられないと意気込みながら、結局負けてしまっている自分が情けなくて、仕方がなかった。勝負とは、必ずしも思いが強い方が勝つとは限らない。だけど、こんな結果、あんまりじゃないか……

万智ちゃんの(かたき)も取れないなんて、こんなのあんまりじゃないか……

だけど、負けは負けだ。正直、ここから巻き返せるビジョンが見えてこない。悔しさに、涙が今にも溢れそうだった。だけど、それは必死に堪える。必死に堪え、僕は投了しようと駒台に手を伸ばそうとした。そんな時だった。ズボンを握っていた右手が何かを掴んだ。正確には、ポケットの中に入っている何かをだ。僕は、ポケットに手を突っ込み、それを出す。それは、将棋駒のストラップだった。銀将のストラップだった。これは、銀子ちゃんがおまもりとしてくれたものだ。銀将。その駒の選択が、僕に銀子ちゃんが伝えたいメッセージを教えてくれる。『私がついてる。だから八一は負けない』と。

なんとも姉弟子らしいメッセージじゃないか。お姉ちゃんらしいメッセージじゃないか。あぁそうだ。僕には、こんなにも頼もしい、僕よりもより一層頑張っている姉がいるんだった。銀子ちゃんだったら、この苦境で諦めただろうか?おそらく、諦めただろう。一人だったならば。だけどきっと、僕が側についていたならば、きっと諦めないことだろう。僕だって同じだ。銀子ちゃんがいれば、僕はどんな逆境にだって立ち向かえる。無限の勇気が湧いてくる。これぐらいの苦境がなんだっていうんだ。確かに敗色濃厚だろう。だが、まだ負けると決まったわけではない。本当に僅かな、1000局指して1局あるかどうかの厳しすぎる勝ち筋。その勝ち筋を、絶対に見つけてみせる。

 

僕は、銀将のストラップを力強く握りしめる。その駒から、彼女から勇気を分けてもらうかのように力強く握りしめる。そして、そのストラップを再びポケットにしまい、今度は強くズボンを右手で握りしめた。先ほどとは意味合いが違う。軽率な手を指さないために握りしめた。今からは、一つでも軽率な手を指せば即負けに繋がる。僕は、覚悟を決めて、一つの駒を動かした。

 

「な!?」

 

王将を、囲いから逃がす。僕はここにきて、矢倉を放棄した。目指すは、総攻撃で手薄になっている歩夢の右側の陣地。そこに王を進める。入玉、それが僕の狙いだ。目指すは最奥。そこまで、王を持って行く。

 

「入玉が狙いか!そうはさせぬ!」

 

させまいと、歩夢の猛追が迫る。飛車が、角が、金が、銀が、王の進軍を阻まんと押し迫ってくる。僕は時に持ち駒で受けつつ、時に王を一旦下げつつ、慎重に、少しずつ王を前へと進める。一歩一歩慎重に、確実に前へと進める。そして、王が入玉を目指して実に50手。遂に悲願の入玉は達成された。そのころには、ズボンの右側は、しわくちゃになっていた。今日用意したばかりの新品だったのだが、この皺はもう戻らないだろう。

 

「くっ、防げぬか!」

 

「遂にこまで来た……さぁ、歩夢!ここからは僕のターンだ!」

 

「ふん!よかろう!受けて立つ!」

 

そして、僕の反撃が始まった。元々、持ち駒自体は潤沢だったのだ。その持ち駒を惜しみも無く投入し、歩夢の囲いを次々と崩していく。元々、矢倉ほどには耐久性の無い雁木囲いなのだ。その囲いは、瞬く間に崩れていった。

 

「くっ、もはやこれまでか!かくなる上は!」

 

そして追い込まれた歩夢が次に取った手は、入玉狙いだった。僕に達成できたのだ。自分にだってできると歩夢は意気込んでいることだろう。だが、それは甘い。

 

「なっ!?バカな!?」

 

歩夢の進軍はすぐに止まることとなった。入玉を成し遂げた僕と、阻まれた歩夢の違いは、入玉に対する対策をしていたかどうかだ。歩夢は、囲いの中で僕を詰ませるつもりで、王が逃げたときのことを念頭に置かず、駒組みを行っていた。一方僕は、歩夢が入玉に移行するのを念頭に置いた上で、あえて王が逃げれるスペースを一カ所残し、駒組みを行っていた。そして歩夢は、迷うこともなくそのスペースへと王を進める。それこそが、罠だとも気づかずに。罠に落ちた歩夢には、もう為す術は無かった。

 

「参りました」

 

歩夢は堂々とした佇まいで、投了を宣言する。その顔には、一切の負の感情は見て取れず、まるで、この対局を誇りに思うとでも言いたげな、実に満足そうな表情だった。

 

「熱い対局だった。ここまで心躍る対局は、産まれて初めてだ。今回は我の負けだが、次は負けぬぞ?」

 

「あぁ、望むところだ」

 

この時歩夢は僕のことを初めて、僕は改めて歩夢のことを、自身の最大のライバルだと認めた。僕達の関係に、もしかしたら変化が起きるんじゃないかと対局前には心配もしていたが、どうやらそれは余計な心配だったらしい。きっと、僕たちのこの関係は、今生でも生涯変わらないことだろう。斯くして神鍋歩夢、誇り高き棋士と僕との対局は、僕の大逆転勝利で幕を閉じたのだった。後にこの対局は、小学生名人戦史上最高の名局として、末永く語られることになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

テレビスタジオの隅にポツンとあった長椅子。そこに、彼女は座っていた。あれから、どれだけの時間が経っただろう?僕と歩夢の対局は、小学生名人戦史上最長手数を記録し、終局までにかなりの時間を要した。だと言うのに、彼女は、万智ちゃんはまだ涙を流していた。

 

「万智ちゃん、泣かないで」

 

「うっ、うっ、だって、だって、こなた、八一くんと、決勝で指したくて……」

 

きっと銀子ちゃんに知られたら、他の女の子に優しくするなと怒られるかもしれない。だけど僕には、目の前で泣いてる女の子を見て見ぬ振りするなんてことは、到底できそうにない。だから、彼女を見つけた瞬間、僕は反射的に彼女に話しかけていた。

 

「将棋なら、いつだって指せるさ。それよりも、今は僕の決勝戦を見ててよ。万智ちゃんの敵を取ってみせるし、万智ちゃんが泣くことも忘れちゃうぐらいに凄い将棋指してみせるから!」

 

「凄い将棋?」

 

「うん!だから、もう泣かないで。涙は、万智ちゃんには似合わないよ」

 

「八一くん……」

 

万智ちゃんは、漸く泣くのをやめてくれた。良かった。誰であろうと、女の子の涙は見ていて辛い。これで僕も、安心して決勝に挑むことができる。

 

「それじゃ、行ってくるね」

 

「うん。八一くん、頑張ってなぁ。応援してるどす」

 

「うん!ありがとう!」

 

そして僕は、彼女が待つ決勝大会の舞台へと向かった。すぐに、決勝戦は開局を迎える。僕は開局前に、対局相手の彼女と挨拶を行う。

 

「僕は九頭竜八一!よろしくね!」

 

「私は岳滅鬼翼。よろしく」

 

そして僕、九頭竜八一と、不滅の翼、岳滅鬼翼さんの対局の幕は上がるのっだった。




お燎だと思った?
残念!彼女でした!
お燎の出番は、もうしばらくお待ち下さい

流石に人名入った賞は使うのまずいかなと思い、妙手に関する賞は名前を伏せてます
原作内ではまだでてきてないけど、この賞原作用の名前用意されてるのかな?
原作では、今の所人名入った戦法とかも原作キャラの名前付いたのぐらいしか使われてないし、使わない方がいいですよね
いつか名前原作で出てきたら、追記するかもしれません
次もあさってだと思います

八銀はジャスティス


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第14局 小学生名人

奨励会の洗礼を受けて、将棋が変わった岳滅鬼さん
性格も当時より変わってるんじゃね?
ってことで、原作よりアグレッシブな方向に性格少し変えてます
合い言葉は、八銀はジャスティス


岳滅鬼翼。

歩夢や万智ちゃんの2つ上の世代にして、僕の4つ上の世代。現在小学5年生だ。前生において、僕が3年生で優勝した小学生名人戦の、2年前の優勝者。つまり僕が1年時、前生における今大会の優勝者なのだ。そして、女子初の小学生名人でもある。そして、それを期に奨励会入りも果たした、女性棋士屈指の傑物だ。彼女が打ち立てた数々の記録は、後に銀子ちゃんによって(ことごと)く破られてしまうのだが、それでもその実力は疑う余地も無いだろう。そんな彼女を称えて、人々は『不滅の翼』と彼女のことを呼ぶようになった。

 

そんな彼女も、しかし奨励会の壁は破ることができなかった。いつまでも2級で燻り、初段に入品することもできず、年齢制限により、退会してしまうことになる。最も、その後女流棋士として活躍をするようになるわけだが。

 

兎にも角にも、強敵なのは間違いない。歩夢との激戦を経て、多少疲労感もある。だけど、これが最後だ。この対局で、全てが決まる。本来なら、優勝を手にするはずだった岳滅鬼さん。だが、今回は僕というイレギュラーが混ざり込んでしまった。将棋の神様が微笑むのは、岳滅鬼さん(正史)か、それとも九頭竜八一(イレギュラー)か。運命の大一番が始まる。

 

先手は、岳滅鬼さんとなった。飛車先の歩を突きだしてくる。僕が知っている岳滅鬼さんの将棋は、先手でも後手でもとにかく千日手を狙いに行く、将棋というゲームのルールを履き違えたかのような異質な将棋だった。奨励会の洗礼を受けて、岳滅鬼さんの将棋は、勝つための将棋から、いつしか負けないための将棋に変わってしまったのだ。

 

だが、今の彼女は違う。奨励会入り前、この時の彼女は超正統派の居飛車党だ。前生において攻める大天使の異名で知られた、攻め将棋が売りの女流タイトル保持者、月夜見坂さんに、攻めのセンスがずば抜けているとまで言わしめたのだ。この頃の岳滅鬼さんの将棋は、先ほどの万智ちゃんとの1局で初めて見たが、月夜御坂さんの(げん)は何も間違っていないということは見てわかった。今回の対局も、きっと攻撃的にくるのだろう。それを、突き上げられた飛車先の歩が物語っている。

 

このまま、相掛かりに付き合うのも面白いだろう。それは僕も望むところだ。だけど、今回の僕は既に何を指すかは決めている。僕は、突き上げられた歩を無視して、自身の囲いの形成に取りかかった。

 

「なんだ。連れないっちゃ」

 

岳滅鬼さんが、独特な方言を使う。確か、彼女の出身は大分だっただろうか。関東には随分長く住んでいるそうだが、未だに方言や訛りが消えないらしい。岳滅鬼さんはその後、歩交換を済ませて、飛車を下げる。その飛車は、2五に置き、こちらの隙を窺っている。僕はそんな岳滅鬼さんの放つプレッシャーを無視し、淡々と囲いを形成していく。しばらく手が進み、漸くその囲いは完成する。

 

「関西では、穴熊が流行ってるっちゃ?」

 

そう、穴熊だ。その囲いを見て、岳滅鬼さんの表情がゲンナリとする。立て続けに穴熊と指すのだ。流石に何度も穴熊を崩すのは嫌になるだろう。しかし、その表情を見せたのもほんの僅かな時間だけだった。岳滅鬼さんは、すぐに覚悟を決めて僕の穴熊に挑みかかってくる。だが、その攻めは上手くいかない。

 

「固い……!」

 

僕が作った穴熊は、ビッグ4と呼ばれる種類のものだ。金銀4枚を大胆に使用した、穴熊の中でも最も固いと称されるものだ。その最大の特徴として、横からの攻撃にも強いという点が挙げられる。基本穴熊は、横からの攻撃に対して弱い。まぁ、それでも十二分に固いわけだが。だが、このビッグ4は、その横からの攻撃に対しても強いのだ。小駒を使って果敢に挑みかかってきてる岳滅鬼さんだけど、流石の彼女でも攻めあぐねている。

 

この対局、僕は万智ちゃんの対局を見たあの時から、穴熊で挑むと決めていた。万智ちゃんの将棋は、岳滅鬼さんにしっかり通用するんだよ。万智ちゃんも、もっと強くなれるんだよと、そういう意味を込めて僕は穴熊で挑むと決めていた。万智ちゃんへのエールを込めて。

 

「流石に強いっちゃね。けど、私も負けられん。全力で崩すちゃ!」

 

そして、岳滅鬼さんが勝負に出てくる。今まで小駒でチマチマと攻めてきていたのだが、ここにきて金銀大駒を投入してきた。本気で崩しにきたようだ。

 

「くっ!鋭い……!」

 

その攻めは、寒気がするほど鋭かった。頑強な穴熊を、削り取るかのように崩されていく。月夜見坂さんに、才能なら銀子ちゃんに劣らないと言わしめただけのことはある。もしかしたら、攻めのセンスに関しては女性棋士の中でも歴代最高峰かもしれない。そう感じるほどに、彼女の攻めは鋭かった。

 

「これで、穴熊の存在価値は無くなったけん!」

 

岳滅鬼さんの言う通り、既に僕の穴熊は見るも無惨な形に、砕け散ってしまっていた。今や、散乱的に駒が置かれているだけの、到底囲いとは呼べないような状態で王を守っている。

 

「後は、詰まさせてもらうちゃ!」

 

そう意気込み岳滅鬼さんは、僕の王将に向けて次々と駒を投入してくる。駒を投入して、攻めて、王手をかけて、そして段々と顔色を悪くしていく。

 

「な、なんでその状態で受けれるちゃ!?」

 

そう。僕は、こんな無残な状態で岳滅鬼さんの攻めを受け続けているのだ。岳滅鬼さんの攻めは鋭い。僕も実際に何度もヒヤッとさせられている。だけど、僕の得意とする将棋は変則的な受け将棋だ。囲いの有無は、正直関係無いのだ。むしろ、この状態になることを僕は望んでいたのだ。穴から抜け出した熊を捕らえることは容易ではない。ここからは、追い詰められた獣の反撃が、待ち構えている。

 

「そろそろ、攻めさせてもらうよ!」

 

「面白い!受けて立つっちゃ!」

 

僕は、受けながら得た持ち駒を中心に、未だ手つかずだった岳滅鬼さんの陣地へと切り込む。しかし、その守りは強固なものだった。

 

「まだまだ終わらないちゃ!」

 

岳滅鬼さんは、受けのセンスも高かった。正直、上手いのは攻め将棋だけなんじゃないかと思っていたのだが、それは大きな思い違いだったらしい。岳滅鬼さんの攻めは、強固な受けの元に成り立っていたのだ。歩夢や、僕の二番弟子だった天衣に近い。あの二人も、攻め将棋が得意だと思われがちだが、実は二人とも得意とするのは受け将棋の方だ。二人の大胆な攻めは、強固な受けがあるからこそ成立しているのだ。岳滅鬼さんも、どうやらそのタイプだったらしい。

 

「くっ!攻めきれない!」

 

「もうお終い?だったら、次はまた私の番ちゃ!一気に行くけん!」

 

そして、また攻守が入れ替わる。強い。流石、前生での優勝者だ。そう簡単には勝たせてくれそうにない。僕は、またも見るも無惨な陣形で岳滅鬼さんの猛攻を受け続ける。あれだけ綺麗に形成されていた穴熊は、もうその存在を一欠片も残していない。本当は、万智ちゃんのためにも穴熊の状態で勝ちきりたかった。だけど、それを許してくれるほど甘い相手では無かった。万智ちゃんには申し訳無いと感じている。だけど、それ以上に今の僕はこの対局が楽しいと感じていた。楽しいし、何よりも

 

「熱い……!」

 

熱い……!

 

「熱いっちゃ……!」

 

熱い……!

とにかく熱かった。一瞬も気が抜けない息も詰まるような攻防。盤面から、目が離せない。考えることを、止められない。右手は常にズボンを強く握りしめている。その全ての要素が、僕を、岳滅鬼さんを熱くする。噎せ返りそうなほどに熱い。だけどその熱さが、堪らなく心地よかった。あぁ、これが将棋だ。将棋なんだ。僕達が愛してやまない、将棋なんだ。胸を焦がす熱に導かれるかのように、僕と岳滅鬼さんは手を進めていく。何度攻防が入れ替わっただろうか?お互い既に持ち時間は使い切っている。一手にかけられる時間は30秒。その、刹那に過ぎゆく30秒の中で、お互いに最善手を探していく。

 

「これで、終りっちゃ!」

 

岳滅鬼さんが、盤上に駒を打ち付ける。力強い、渾身の決意の篭もった一手だった。その手は、確実に僕の玉の喉元に刃を突きつけてくる。僕はその刃から逃れるように、玉を逃がす。だが、それは急場しのぎにしかならない。今の僕の配置、この配置なら、岳滅鬼さんが玉頭に何か持ち駒を打ち付ければ詰んでしまう。つまり、僕の負けだ。岳滅鬼さんもそれはわかっている。何も迷うこと無く、駒台に右手を持って行き、その手が止まった。その駒台には、歩しか置かれていなかったのだ。

 

打ち歩詰め。将棋における反則の一種だ。王を詰ませる際、詰ませる側は、玉頭に持ち駒の歩を打ち付けて詰ませてはいけない。要するに、今の状態では、岳滅鬼さんは僕のことを詰ませることができないのだ。僕は、最終的にそうなるであろうことを見越して、この局面にまで持ってきた。それを読み切れずに、岳滅鬼さんはこの局面に誘導されてしまったのだ。

 

「あ、う、あぁ……」

 

時間に追われた岳滅鬼さんは、王の逃げ道を塞ぐ位置に歩を打ち付けてきた。だが、王手では無い。僕に、攻める隙を与えてしまうことになったのだ。ここからは、僕の最後の攻撃だ。ここで詰ませれば、僕の勝ち。詰まなければ、岳滅鬼さんの勝ちとなる。

 

「僕は、勝つ!」

 

「っ!負けない……絶対に負けないけん!かかってこい!」

 

そして、最後の攻防が始まる。果敢に王手をかける僕。それから、逃げ続ける岳滅鬼さん。少ない時間の中で、岳滅鬼さんを最も追い込む手を必死に考える。追い込み、追い込みそして遂に追い詰めた。後は、玉頭に何か持ち駒を打ち付けたら詰みだ。僕は駒台に右手を伸ばす。そこには歩……と香車が残っていた。僕はその香車を、力強く盤面に叩きつけた。

 

「……負けました」

 

終わった。遂に終わった。長く熱い死闘は、遂にその幕を閉じた。僕は、終わった瞬間、正座の姿勢から思わず後ろに倒れ込んでしまった。そして、そのまま両腕を天に突き上げる。嬉しかった。心の底から嬉しかった。最後まで気の抜けない対局だっただけに、その嬉しさは一入(ひとしお)だ。

 

「ありがとう、凄く良い対局だったよ。楽しかった!」

 

僕は姿勢をまた正し、岳滅鬼さんにお礼を言う。岳滅鬼さんは、本当に、本当に強かった。どうしてこれで奨励会2級で燻っていたのかわからない。少なくとも、入品できるだけの実力はあるように感じた。おそらく、奨励会に入って直ぐに連敗が続いてしまったのだろうか?岳滅鬼さんの実力なら、そう簡単に連敗するとは思えない。きっと、本当にたまたま、負けが続いてしまったのが、彼女は自分の将棋が弱いせいだと思ってしまったのだろう。それで、自分の将棋を変えてしまった。変えずに、この将棋を続けていたら、きっと入品を成し遂げていたのではないかと思う。

 

「私も……楽しかった!だけど、負けは負けっちゃ。悔しい……」

 

「そんなに落ち込まないで!今回はたまたま僕に運があっただけだから!次はどうなるかわからないよ!良い将棋だった!自分の将棋を信じて!これからもお互い、上を目指して頑張っていこうね!」

 

彼女には、本当に自分の将棋を信じて突き進んで欲しい。きっと、その先には素晴らしい未来が待っていると思うから。彼女にも、前生とは違う未来(みち)を歩んで欲しい。そう思わずにはいられない、激闘の後の一幕だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「八一くん!」

 

取材を一通り受けた僕は、スタジオの外まで出てきていた。そんな僕の元に万智ちゃんが駆け寄ってくる。その目にもう涙は見られない。華やかな笑顔が戻っていた。

 

「万智ちゃん、ごめん。本当は穴熊で勝ちきりたかったんだけど、上手くいかなかったよ」

 

「ううん、別にええどす。八一くんの言うた通り、凄い将棋やった!こなた、感動したわぁ!」

 

そう言って、興奮したように捲し立てる万智ちゃん。その顔は、どこか熱っぽい。どうやら、この対局を熱いと感じていたのは僕と岳滅鬼さんだけでは無かったらしい。それは、万智ちゃんの横にいる彼もそうだ。

 

「うむ。実に熱い1局だった。我も思わず拳を握りしめてしまった」

 

歩夢だ。歩夢の表情は、まるで甘美な絵画を眺めた後かのようだ。どうやらさっきの対局の余韻に浸っているらしい。

 

「惜しむべきは、あの場に居たのが我では無かったことだな。……奨励会に入るのだろう?」

 

「うん。この夏に入会試験を受けるよ」

 

「ふっ、だろうと思っていた。もう少しアマチュアで経験を積もうかと考えていたのだが、今日の対局を経て考えを改めた。我もこの夏に受けよう。願わくば、三段リーグで相見えたいものだ」

 

「僕も、歩夢と三段リーグで指したい!」

 

前生においても、僕と歩夢は関西と関東の違いはあれど同期で奨励会入りを果たした。その時は、歩夢の方が一足先に三段リーグに入り、そして抜けていった。結局、僕と歩夢は三段リーグで対局することは叶わなかった。その後、プロに入り嫌と言うほど公式戦で指すことになるわけだが、それでも、願わくば今生では三段リーグで当たりたいものだ。

 

「それでは、我は行く。達者でな」

 

「うん!歩夢も元気でね!」

 

歩夢は、颯爽と帰路に着いていった。おそらく、次に会うときはまた一段と強くなっていることだろう。僕も負けていられない。

 

「これで八一くん、二人きりやね」

 

「そうだね」

 

「こなた、もっと八一くんと仲良うなりたいわぁ。やから今から二人でお出か」

 

「八一」

 

万智ちゃんが何かを言いかけた時だった。僕に誰かが話しかけてきた。それが誰かなんて、声を聞けばわかる。銀子ちゃんだ。どうやら、師匠との東京観光を終えて帰ってきたらしい。

 

「どうだった?」

 

「銀子ちゃんに貰ったお守りのおかげで優勝できたよ!ありがとう!」

 

「当然」

 

銀子ちゃんは、えへんとでも言いたそうに腰に手を当てて胸を張る。今回は本当に、銀子ちゃんに助けられた部分は大きい。銀子ちゃんに貰ったお守りが無ければ、きっと僕は歩夢との対局で心が折れていたことだろう。本当に、銀子ちゃんには助けられた。心からの感謝を伝えたい。

 

「ゆ、優勝したんか……流石八一やな……おめでとう……」

 

銀子ちゃんの後ろから、師匠が姿を現す。その姿は、どこか弱々しく、眼が虚ろになっている。何やらブツブツ、今日は冷え込むなぁとか呟いている。あぁ、師匠に何があったのか察してしまったよ。ご愁傷様です。師匠の財布。

 

「そう言えば、万智ちゃん。何か言おうとしてた?」

 

「え?あぁ、大したことやないからいいどす」

 

「そう?」

 

「ほなら、もう帰ろうか。お嬢ちゃんもご一緒にどうや?」

 

「嬉しいわぁ。ご一緒するどす」

 

そして僕達関西組一同も歩夢に遅れて、帰路に着く。そんな僕の右手を、銀子ちゃんが握ってくる。銀子ちゃんの定位置だ。そしてその反対側を、万智ちゃんが握ってくる。

 

「……何してるの?」

 

「いややわぁ。銀子ちゃん眼が怖いわぁ」

 

「そんなことはいいから、うちの弟から離れろ。ぶちころすぞわれ」

 

「そんなこと言うたかて、こなたはもっと八一くんと仲良うなりたいわぁ。やから嫌どす」

 

「痛い痛い!痛いから離して!?」

 

最初は手を握っていた二人は、いつの間にか僕の腕を取り、左右に引っ張り始めた。腕が取れちゃうから!銀子ちゃん右腕はやめて!将棋が弱くなっちゃうから!奨励会で闘えなくなっちゃう!

……そうだ。奨励会だ。僕は無事、小学生名人に輝いた。次に僕が挑むステージは、奨励会だ。やっと僕は、未来への入り口の前に立ったに過ぎない。ここから、真の闘いは始まる。

翌朝の朝刊には、大々的に僕のことが掲載された。史上最年少小学生名人、九頭竜八一君誕生!出るか!史上初の小学生プロ棋士!と。

あぁ、なってみせるさ。最初から、僕の目標への通過点に、その道は続いているんだ。ここから、僕の新たな、本格的な闘いは始まる。

僕はそう意気込み、次の一歩を強く踏み出したのだった。強く。強く。

 

 

 

 

 

 

 

 

それはそうと、両腕の感覚が無くなってきたんだけど、この二人を誰かなんとかしてくれません?




長かった(?)小学生名人編も終わり。
次から一気に奨励会編に入っていきます。
次もあさってかもしれない。
ただ、スットク全く無いからねぇ。
平日の更新はちゅらい。
まぁ、頑張りますけど、間に合わなかったら申し訳無い。

八銀はジャスティス


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第15局 入会試験

新章突入のような何か

りゅうおうのおしごと!ゲーム版op拝見いたしました
あの、動画内1:10~1:20秒までの展開、つまりゲーム版でも八銀はジャスティスどころか、ビクトリーって解釈でよろしいですかね?
八銀推しを殺しに来てやがる(褒め言葉
早く銀子ちゃんと将棋が指したい今日この頃です
合い言葉は、八銀はジャスティス


年を取るにつれて、時間の経過は早く感じるようになってくる。

あっという間に、季節は夏に突入していた。年とは取りたくないものだ。まぁ、今の俺は小学生なわけだが、総年齢は還暦を優に超えている。今は年寄り気分を嘆かせていただきたい。あの激戦を繰り広げた小学生名人戦から早四ヶ月。世間はお盆の時期に差し掛かっていた。

 

「八一君、はいこれお弁当。八一君の大好物の餃子も入れておいたから、頑張ってね!」

 

そう言って桂香さんがお弁当を渡してくれる。今日は遂に、俺の奨励会入会試験の日だ。俺も、嫌でも気合が入るというもの。桂香さんも、そんな俺のために今日は、俺の大好物ということになっている餃子をお弁当に入れてくれた。大好物ということになっている理由は、まぁ、色々あったのだ。過去の俺に聞いてくれ。でも、お弁当に餃子というチョイスはどうなのだろうか?昼間から、口臭が気になって仕方ないのだけれども。今日はブレスケアも一緒に持って行くことにしよう。

 

それと一人称なのだが、小学生名人戦の優勝を機に俺に変更した。前生でも、確か小学生名人戦を機に、俺に変更したのでタイミングとしては同様だ。実際には、2年早いわけだが、そんなもの誤差だろう。

 

「八一、ちゃんと持った?」

 

「うん!しっかりポケットに入れてるよ!」

 

銀子ちゃんが俺に尋ねてくる。ポケットに何を入れているかというと、小学生名人戦の際に銀子ちゃんに貰ったお守りだ。俺は対局に赴く際、必ずこのお守りを肌身離さず持つようにしていた。最も、持っていないと銀子ちゃんが不機嫌になるのが理由なわけだが。俺としても、このお守りには実際に助けられているわけだし、満更でも無いのだけれども。

 

それと、お礼として俺も銀子ちゃんに、同じ将棋駒のストラップをプレゼントしてある。ただし、駒の種類は違う。銀子ちゃんは俺に、銀子ちゃんをいつも側に感じられるようにと銀将の駒のストラップをくれた。それならと俺も、銀子ちゃんがいつも俺を側に感じられるようにと龍王の駒のストラップをプレゼントしてある。

 

それともう一つ。これはお互い共通で同じ駒のストラップを所持している。左馬というものをご存知だろうか?馬という漢字を、鏡映し、つまり反転した書体の、飾り駒の一種だ。(うま)という字を、逆から読むと、まう、つまり舞うとなる。古来から、舞いというのはめでたい席で催されてきた。そのことから由来し、縁起の良い招福の駒として、人気を博している飾り駒だ。そのストラップを、二人身につけている。

 

銀子ちゃんが、お互いを感じられるものもいいけど、どうせなら全く同じものも欲しいと言い出して、購入するに至った。俺としても銀子ちゃんの意見には賛成だったので、折角なら縁起の良いこの駒にしようとなったわけだ。駒を選んだのは俺だ。中々良いセンスしてると思わない?

 

「それじゃ、行こうか」

 

「ん」

 

「桂香さん行ってきます!」

 

「行ってくる」

 

「はーい!気をつけてね!」

 

そして、俺達はいつも通り手を繋ぎ関西将棋会館を目指す。今日銀子ちゃんは、棋士室で俺のことを待っててくれるらしい。銀子ちゃんも見守ってくれているんだ。絶対に落ちるわけにはいかない。因みに師匠は、今日は対局で関東将棋会館に行っているので不在だ。俺と銀子ちゃんの二人だけで行くことになる。最後の最後まで行かない、八一の応援に行くんやとグズっていたけど、最終的に一緒に関東に行く約束をしていた月光名人の手によって連れて行かれた。月光名人に、『目の見えない私を一人で関東に行かせるつもりですか?』と言われたら、流石に反論することもできずに連れて行かれてしまった。流石は月光流と呼ばれる高速の寄せを武器としている月光名人だ。超高速の一手詰めだった。

 

さて、こんなことを振り返っている内に、早くも関西将棋会館まで辿り着いた。ここまで電車で一駅だけなのだ。大して時間もかからない。俺は、試験会場である対局室に向かう前に、銀子ちゃんを棋士室へと送っていった。

 

「やぁ八一くん、銀子ちゃん、おはよう」

 

「校長先生!おはようございます!」

 

「おはようございます」

 

棋士室に向かった俺達を出迎えてくれたのは、校長先生こと峰さんだ。棋士室デビューを飾ったあの日から、俺達は度々この棋士室を訪れていた。その際はいつも、峰さんがこうやって事務局で出迎えてくれている。

 

「八一くんは今日が試験だったね!八一くんならきっと大丈夫だ!頑張ってね!」

 

「はい!ありがとうございます!」

 

峰さんのエールが有り難い。峰さんも、昔は奨励会員としてプロ棋士を目指していた方だ。奨励会の厳しさは、人一倍知ってらっしゃる。何せ、その環境に耐えきれず自ら命を絶とうとした過去を持つ方なのだから。その辛さは、誰よりもわかっているだろう。そんな環境に、小学生になったばかりの俺が挑もうとしてるんだ。それは心配にもなるだろう。峰さんの顔には、明らかな憂いが見えていた。その憂いを無くすには、きっと俺が結果を出す以外に方法は無いだろう。奨励会を少しでも早く抜けて、早くプロになってみせる。それ以外に方法は無いだろう。

 

「それじゃ、俺はそろそろ行きますね。銀子ちゃん、終わったらまた来るよ」

 

「負けたら来なくていい」

 

「あはは、うん、1局でも早く来るね!」

 

いつもながらな銀子ちゃんなりのエールを受けて、俺は対局室へと向かう。入会試験は、全部で3日間行われる。1日目と2日目は、筆記試験や受験者同士の対局が行われ、これが1次試験となる。そして1次試験を合格した者だけが、3日目に行う2次試験に進むことができる。そして今日は試験3日目だ。

 

前年度の試験から1年間の間に行われた日本将棋連盟主催の小・中学生全国大会優勝者は一次試験が免除されるのだ。よって、小学生名人戦で優勝を果たした俺は、今日の3日目だけの参加となる。試験内容は、奨励会4級から6級の会員との対局を3局。その内、1局でも勝つことができれば試験合格となる。

 

「ん。受験生の皆さん、おはようございます」

 

対局室に入り席に着くと、幹事を務めている久留野四段が挨拶をしてくれる。久留野さんとは前生でもそれなりに親交はあった。長年幹事を務めて下さっていただけに、弟子達のことでもかなりお世話になった。俺の3人目の弟子、シャルロット・イゾアールちゃんは長いこと研修会でお世話になっていたので、それはそれは長い間久留野さんにはお世話になったものだ。シャルちゃんのことを考えたら、なんだか寂しくなってきた。シャルちゃんに会いたい。シャルちゃんを膝の上に乗せたい。誰かシャルちゃんを今すぐください。もはやシャルちゃん中毒になってるけど、別にいいよね。だってシャルちゃんは天使なんだし。え?お前には銀子ちゃんがいるだろって?そら、銀子ちゃんが一番大好きさ。だけどね、シャルちゃんは別腹なんだよ。この気持ちわかってくれ。

 

と、シャルちゃんへの想いを馳せている内に、どうやら対局ルールの説明と手合いが発表されていたらしい。俺の対局相手は、4級の中学3年生だった。この子とは前生で会った記憶が無い。俺が入会する前に辞めてしまっていたのだろうか?相手が4級ということで、香落ちでの対局となる。

 

香落ちでの対局は、以外と厄介だ。普通は駒が1枚多い分、下手が有利なんじゃないかと思うだろう。それがそうでもないのだ。まず、駒を落とす上手側は、ルール上必ず先手が与えられる。将棋というのは、基本的に先手の方が有利になるゲームだ。プロ公式戦の年間勝率でも、一部例外を除いてほぼ毎年先手側の方が勝率は高くなっている。そして、減った左側の香車の分は、飛車を振ることによって補える。そう、香落ち側は基本振り飛車を指すのだ。これは、居飛車党の人でも同じだ。香落ちの時だけ振り飛車を指すという棋士は多い。棋士によっては、香落ちの下手を指すなら、平手の方が良いという棋士もいるほど、香落ちの下手とは辛いのだ。

 

対局が始まり、相手は早速飛車を振ってくる。それに対して、俺は飛車先の歩を進めつつ、9列、つまり相手の香車が存在しない側の端歩も突いてプレッシャーをかけていく。更には挑発も兼ねて、角道は常にオープンしてある。相手が焦れて角交換を選択してきてもよし。このままジリジリと右翼から攻めてもよし。相手の出方によって、俺は選択を変えるだけだ。そして相手が選んだ選択は、囲いの強化だった。金銀4枚、更には大駒を2枚とも使用し、攻めを放棄したかのように、唯々王を守る。正直に言おう。面倒くさい。相手の狙いはわかる。俺が焦れて無理攻めを敢行し、こちらの攻め駒を尽きさせて、一気にカウンターを狙おうと言うのだ。相手にするのはかなり面倒くさい。しかし、相手は一切攻め気を見せてこない。どうやら、こちらから攻めない限りは何十手、何百手進めても攻めてくる気は一切無いらしい。

 

「どうした噂の天才君?矢倉みたいにパッパと殺して見せろよ」

 

おまけに挑発までしてくる。別にそんな安い挑発に乗る気は一切無いのだけれども、こちらから攻めない限りはこの対局は始まらない。仕方ない。俺は一つため息を吐くと、飛車先の歩を相手の歩に接敵させた。

 

「来たな!さぁ、対局を始めようぜ!」

 

相手はすかさず同歩と指してくる。そして俺は同飛と持って行き、相手は歩を飛車先に打ち付けてくる。そして俺は、飛車を一旦下げると8列の桂馬を跳ねさせ、8五の地点まで一気に跳ねさせる。こうなれば穴熊攻略と同様だ。先鋒として小駒を次々と投入していく。桂馬に香車、歩を中心に、相手の金銀大駒をチマチマ攻める。相手も冷静に、最小限の損失で済むように受けてくる。その受け方は手慣れていた。どうやらこの戦法は今日のために用意してきたわけではなく、常日頃から指している将棋のようだ。思っていたよりも、崩すのは大変そうだ。

 

「どうした?まだこっちの囲いはピンピンしてるぜ?」

 

その言葉通り、相手の囲いはまだまだ固い。両大駒は健在だし、金と銀もまだ1枚ずつ残っている。こちらの損失は小駒しか無いとはいえ、まだまだ崩すには時間がかかりそうだ。仕方ない。ここはこちらも次の段階に進めよう。

 

「お、やっとお出ましか」

 

俺は、前線に金銀を送り込んだ。本当なら、投入したくは無かった。相手に、金銀を与えたくは無かった。相手は奨励会員。その奨励会員に金銀を与えるという意味。その意味を俺は、嫌と言うほど知っている。金銀大駒を投入し、相手の金銀大駒とぶつけあう。激しい攻防が繰り広げられる。相手も、俺から獲った小駒も投入して、必死に王を守る。目まぐるしく入れ替わる盤面。取っては打ち、打ちは取られの繰り返し。その繰り返しで、少しずつ相手の囲いを削り取っていく。外から内へと、徐々に入りこんでいく。そして遂に俺の手は、王に届く位置まで伸びていた。

 

俺の飛車が、野晒しになった王の首を狙う。王手だ。この攻防で俺は、相手の大駒全てと、多くの小駒を獲得した。この終盤も終盤な盤面で、後は相手の王を詰ませるだけ。さぁ、詰ませにかかろう。相手の囲いは小駒程度。その程度なら問題無い。そして相手の持ち駒は……金銀6枚があった。

 

「教えてやるよ天才君。奨励会の終盤はな、二度あるんだよ!」

 

相手が、力強く盤面に金を打ち付ける。合駒に金を使うという大胆な一手。だが、彼の金による狙いは合駒に使うことではない。合駒になったのは、偶々でしかない。その後も相手は、王の周りを囲うように、金銀6枚全てを投入してくる。奨励会の終盤は二度ある。その意味がこれだ。これで、攻防は仕切り直しに戻った。

 

奨励会には、『辛香理論』と呼ばれる理論が浸透している。どういった理論かと言うと、『金銀6枚持てば優勢、7枚持てば勝勢』という、はっきり言って謎理論だ。まぁ、その理論が言いたいことは、つまりこの盤面のことなのだ。只、粘ることだけを考えた将棋。勝つことよりも、負けないことを考えた将棋。奨励会で生き残るための手段だ。

 

そして、二度目の終盤が始まる。小駒を小駒で牽制し合い、大駒と金銀で激しくぶつかり合う。そこに、美しさは一切存在しない。只管(ひたすら)に、泥臭い。はっきり言おう。このまま行けば、どう足掻いても勝つのは俺だ。それは相手もわかっていることだろう。それでも、相手は粘る。辛香理論の提唱者、辛香将司元奨励会員にはこのような伝説がある。粘りに粘っても、最後に頭金を打たれれば負けるという状況になってしまった辛香さん。しかし彼は投了をせずに、最終的には時間切れによって負けた対局があった。その時に、辛香さんが投了しなかった理由こそが伝説だ。その理由は、『相手が心臓発作で死ぬかもしれないから』だと言う。

 

奨励会同士の対局は、勝つか負けるかのゲームでは無い。生きるか殺されるかのサバイバルなのだ。それは、上に行けば行くほど顕著(けんちょ)になり、三段リーグは、地獄と称されるまでになる。それは、前生で俺も嫌と言うほど体験している。もう二度と戻りたくないと思っていたあの場所。あの場所に、俺は今から戻ろうとしている。そう考えると、腕が震えそうになる。俺は震えそうな腕を必死に抑えつけ、ポケットに入れてあるストラップを握り混んだ。その銀将のストラップを握ると、俺は勇気が湧いてくる。一人じゃ無いんだと感じられる。あの歩夢との対局以降、何かとこのストラップを握ることが多くなった。今ではすっかり、俺の宝物だ。

 

相手は粘ることをやめようとしない。俺が折れて投了するのを待っているというわけでもない。きっと、辛香さんと同じなのだ。俺が心臓発作になるかもしれないと考えているのだろう。こんな子供にそんなことを望んでいる時点で、彼も奨励会に入り、心を折られてきたのだろう。おそらく、彼のこの将棋も奨励会で折られた末に辿り着いたもので、本来の将棋では無いはずだ。きっと、前生における岳滅鬼さんと同じなのだ。心が折れても、将棋を捨てられない。そういう人も、この奨励会には多く在籍している。上に上がるも地獄。上がらぬも地獄。そういう場所なのだ。

 

そして対局は、その後粘りに粘る相手を、再三にわたり追い詰め、遂に頭金を打ち込めば詰みという状況まで持っていき、相手は投了せず、時間切れになるまで待ってから決着となった。苦しい対局だった。持ち時間互い一時間、切れれば一手30秒の対局で、総時間3時間超えとなったのだ。どれだけ苦しい対局だったかは自ずとわかることだろう。これが、奨励会なのだ。こんな対局を、級位の間は1日3局も指さなければならない。流石に今日みたいな相手は特例だろうが、それでも似たような粘り方をする会員が多く在籍している。ここから、長い道のりが始まる。俺の顔は、勝ったというのに浮かないものになっていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「銀子ちゃん、ただいま」

 

「ん」

 

俺は無事に試験を終えると、棋士室で待ってくれている銀子ちゃんの元へと来ていた。もちろん帰るためだ。

 

「で、結果は?」

 

銀子ちゃんがいきなり本題を切り出してくる。口調は、興味無いけど、一応聞いておくとでも言いたげな素振りで聞いているが、ソワソワしている様相が隠せていない。つまり、凄く気になっているらしい。

 

「無事、1局目で勝てたよ」

 

「そう。おめでとう」

 

「うん、ありがとう」

 

銀子ちゃんは素っ気ない様子で返してくれるが、その口角が僅かに上がったのを俺は見逃さなかった。やはり、銀子ちゃんも心配してくれていたのだろう。銀子ちゃんは、どうも前生の同時期よりも、俺に対して心を開いてくれている気がする。俺が、普段の対局で彼女に勝ちすぎたせいだろうか?前生では、俺たちの立場は逆だった。銀子ちゃんがずっと勝ち越し、俺が負け越す。そんな日々が続く内に、俺は銀子ちゃんが天才なんだと思うようになった。銀子ちゃんという存在を、崇拝するようになっていたのだ。そして、そんな天才である銀子ちゃんの、特別な存在でいれることで、俺もまた特別な存在なんだと思うようになっていった。幼い頃の俺には、それが快感だったのだ。もしかすると、今の銀子ちゃんはあの時の俺と同じとまでは言わなくても、似たような感情を抱いているのかもしれない。

 

「八一、どうかした?」

 

と、そういう風に銀子ちゃんのことを考えていると、当の本人が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。つい考え事に耽ってしまっていたようだ。

 

「ううん、なんでもないよ」

 

「嘘」

 

「え?」

 

「八一、元気無い」

 

「っ!」

 

鋭い。俺は思わず声に出しそうになってしまった。確かに、今の俺は元気があるとは到底言えない。それでも空元気で頑張っていたつもりだったのだが。自分では、普段通りに振る舞っていたつもりだったけど、どうやら見る人が見ればわかるものらしい。理由は、奨励会のことだ。入会試験は無事合格した。合格したからこそ、現実味を帯びてきた。二度目だからこそ、その過酷さに身震いがする。つまり、俺は怖いのだ。奨励会が。奨励会員との対局が。

 

奨励会に入ってやってみたいことも確かにある。歩夢と三段リーグで対局もしたい。だけど、怖いものは怖いのだ。だけど、挑まないわけにはいかない。俺たちの未来は、この先にしか存在しないのだから。だから、怖くても、足が竦んでも、立ち止まるわけにはいかない。

 

「大丈夫だよ。今日の対局が凄かったから、疲れてるだけだよ」

 

「……だったらいい。早く帰ろ」

 

「うん」

 

そして俺達は棋士室を後にする。こんな胸中、銀子ちゃんに言えるわけがない。怖い。助けて。なんてこんな小さな女の子に言えるものか。この気持ちはずっと内に隠し、闘っていかなければならない。過酷な日々が始まる。だがこれも、望む未来のために、進まなければいけない道なのだ。だから進もう。一歩ずつ、確実に。俺は帰り道を、いつも通り銀子ちゃんと手を繋ぎ、歩く。その足取りは、いつもよりも重く感じたのだった。




久留野さん。
この頃既に幹事努めてるかわからないですが、一応務めてるってことにしました。この三年後の銀子ちゃん入会試験時には幹事を務めてらっしゃって、段位は四段です。昇段ペース考えたら、まだ奨励会闘ってそうだけど、気にしないで下さい(懇願
後、今話から八一の一人称変えてます。見直しはしてるんですけど、ついつい無意識に「僕」って書いちゃってるところ数カ所あったんですよね。
ずっと僕だったから、癖付いちゃってるな
もし、今話に限らず、本編内にて、一人称変わってるところを発見して頂いた場合は、誤字報告していただけると助かります。
よろしくお願いいたします。
あ、本編3話にて、一部故意で一人称を変えてる部分がありますので、そこだけはノータッチでいただけると有り難いです。
我が儘言って申し訳ございません。
次もあさってだといいな。
今話書くのに睡眠時間削ったから眠い。
ほどほどに次も頑張ります。
間に合わなかったら申し訳無い。

八銀はジャスティス


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第16局 5年

最近もう一つ八銀作品のプロット考えてたりします
八一が弟子を取る前に八銀が既に付き合ってる原作再構成作品です
これは絶対糖分過多になる(確信
今作完結したら投稿してみようかな
合い言葉は、八銀はジャスティス


「負けました」

 

俺の投了宣言が二人きりの子供部屋に静かに浸透していく。朝起きて、朝食を食べれば直ぐ将棋。それが俺と銀子ちゃんの休日のルーティーンだった。今日は日曜日。例外に漏れず、その日も俺と銀子ちゃんは朝からずっと将棋を指していた。大体10局を指しただろうか。その対局で俺は今日初の投了宣言を行った。その俺の宣言を聞き、銀子ちゃんは満足気に笑みを浮かべた。

 

「私の勝ち」

 

「うん、俺の負けだよ」

 

「私の、勝ち」

 

「銀子ちゃん、強くなったね」

 

そして俺に勝った時の銀子ちゃんのルーティーンが始まる。執拗な勝利宣言だ。前にも説明したとおり、これは銀子ちゃんが私の方が姉で上なんだと暗に俺に伝えてきてるのだ。そんなお姉ちゃんぶりたがるところも可愛い。幼女の頃から、銀子ちゃんは天使だったのだ。幼女だから、天使なわけではない。幼女の時も、天使なんだ。別に俺はロリコンでは無いのだから、幼女銀子ちゃんだけが好きなわけでは無い。ロリコンでは無いのだから。

 

「八一、銀子。そろそろ行くで」

 

師匠が子供部屋に入ってくる。今日俺たちは、桂香さんを含めた清滝家総出でお出かけをすることになっている。どこに出かけるかは知っている。というのも、俺たちは前生でもそうだったが、家族総出でその場所にはよく行っていたからだ。今生においても、既に何度か訪れている。俺もその場所は好きだけど、俺よりも更に銀子ちゃんがその場所を気に入っている。前生では、自身の趣味にするほどなのだから。さて、それでは赴くとしよう。俺たちは、四人並び、目的の場所へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

着いたのは、とあるサッカースタジアムだ。ここに来た目的、それは一つしか無いだろう。そう、サッカー観戦だ。今日ここでは、プロの公式戦が昼間から行われる。俺たちはそれを見に来たと言うわけだ。銀子ちゃんなんか、贔屓チームのユニフォームにまで着替えて気合十分だ。ユニフォーム姿の銀子ちゃん、可愛すぎる。これはフィールドに降り立った天使ですわ。

 

俺たちは、前生においてもそうだったのだが、家族交流の場として、サッカー観戦によく参加していた。内弟子に僕達がなったばかりのころから、本当によく訪れていた。こうやって、俺たち家族は少しずつ打ち解けていったのだ。銀子ちゃんはその影響もあって、前生における趣味がサッカー観戦になっていた。後は温泉地のペナント集めなんてものも趣味としてあったけど。最初はタイトル戦で行った場所のだけだったのに、いつしか温泉旅行に行った場所のも全部集めるようになっていた。むしろ、温泉旅行に行くのが趣味になっていた。ペナント集めは、そのおまけだろう。御陰で部屋が一つペナントで埋まってしまっていた。え?なんでお前が銀子ちゃんの家にある部屋の状態を知っているのかって?そりゃ、銀子ちゃんの家は俺の家なんだから当然だろ?だって俺たちは、夫婦なんだから。銀子ちゃんが一人で温泉旅行に行くとでも思っただろうか。温泉旅行が趣味になったのも結婚後、いや付き合いはじめてからの話だ。つまり、全て夫婦旅行もしくはカップル旅行だったというわけだ。

 

話が逸れた。サッカー観戦の話だ。銀子ちゃんの趣味はサッカー観戦だ。付き合い始めた後も、デートで何度も行ったことはある。ただ、銀子ちゃんの観戦における注目ポイントは少し変わっている。銀子ちゃんはいつも、監督の指示、キーパーのコーチング、サポーターの応援といった要素が、選手達のメンタル面に与える影響に注目して観戦している。正直、俺には何が良いのかよくわからない。一緒に観戦しているときも、銀子ちゃんは、「今あの選手は、監督の指示を受けてプレイに迷いが無くなった」とか、「あの選手は、キーパーのコーチングが気に入らなくてイライラしている」とか教えてくれるのだけれど、正直そんな所に注目してて楽しいのかな?と思ってしまった。まぁ、そういったことを楽しそうに教えてくれる銀子ちゃんの横顔を見てると、そんなことはどうでもよく思えてくる。正直に言おう。銀子ちゃんとサッカー観戦に行ったとき、俺はサッカーを見てる時間よりも銀子ちゃんを眺めてる時間の方が長い。だって、サッカーを観戦しながら、一喜一憂する銀子ちゃんは、最高に可愛いのだから、仕方ないだろう。一度銀子ちゃんにずっと眺めていることを指摘された際に、馬鹿正直に理由を言ったら、顔を真っ赤にさせてあわあわしていた。最強に可愛かったです。

 

「さぁ、始まったで」

 

キックオフ。試合が始まる。今日の試合は、銀子ちゃんの贔屓チームである、優勝争いを繰り広げている地元大阪のクラブが、現在首位に立つ鹿島のクラブをホームに迎えて行っている。勝ち点差は現在5。この試合に勝てば、勝ち点差は2。一試合で順位が動く差にまで縮まる。逆に負ければ、優勝が厳しくなってくる。鹿島のチームとの直接対決はこれが2試合目、つまり、最後の直接対決となる。ここで勝って、鹿島のチームにプレッシャーをかけたい。サポーターもそれは皆わかっているので、応援にも熱が入っている。熱い。

 

「熱い応援が力になってる。皆動きが良い」

 

銀子ちゃんが言う。どうやら、選手の精神面への作用を見る趣味は、既に芽生えつつあるのかもしれない。俺の目から見ても、大阪の選手達の動きは良いように見える。相手チームがボールを持てば果敢に前線からプレスを仕掛け、自チームがボールを持てば、前線の選手は相手の裏を狙おうと巧妙な駆け引きを繰り広げる。パススピードも、今日はいつもよりも早く感じ、尚且つトラップミスなどの細かいミスも少なく見える。相手チームも、そのパススピードに着いていくのがやっとのように見える。リスクを背負ってパススピードを更に上げていく大阪のチーム。その攻撃が実を結ぶ時が訪れた。

 

前半20分。ゴールキックをキーパーがディフェンスの選手に短く出す。それに果敢に前線からプレスをかけてくる相手チーム。それを嘲笑うかのように、華麗なパスサッカーが展開される。ディフェンスの選手がボールを受け取りに降りてきたボランチの選手に早足のパスを送る。そのトラップ際を狙おうと選手が二人がかりでプレッシャーをかけにいくが、なんとボランチの選手はこのボールをスルー。その後ろには、もう一人のボランチの選手が待っていた。

 

慌てて一人がプレスをかけるが、その選手はこのボールをダイレクトで左サイドへと送った。そこには、相手の右サイドの選手の裏を取った左サイドの選手が走り込んでいた。そのスルーパスを前に強く押し出すようにトラップする。もう間もなくアタッキングサードだ。だが、そこに相手ディフェンダーが詰め寄ってくる。左サイドの選手は、それを見ると前に押しだしたボールに追いつくやいきなり、右へとパスを送る。そこには、フォローに来ていたトップ下の選手がいた。

 

左サイドの選手に対応していた選手が、そちらの対応に変えようかと考えた瞬間、鋭いダイレクトパスが再び左サイドの前のスペースへと繰り出される。そこには、再び走り込んだ左サイドの選手がいた。ワンツーパスだ。そのパスに追いつくや直ぐに、これまたダイレクトで左サイドの選手は、ゴール前へグラウンダーのクロスを送った。それに反応したのは、トップの選手だ。ニアへと入り、ボールに合わせようとする。しかし、相手ディフェンダーも懸命に足を出し、シュートコースを塞ぎにかかる。僅かに開いたシュートコースも、キーパーがカバーしている。これでは、得点は難しい。しかしそのトップの選手は、そんなディフェンダーの対応を馬鹿にするかのように、このボールをスルーして見せる。その後ろには、中に走り込んできた右サイドの選手がいた。キーパーが慌てて、その選手に対応しようとするが、時既に遅し。完璧に崩された鹿島陣営は、アウェーで手痛い先制点を許すこととなった。

 

「す、凄い……!」

 

俺は、思わず興奮して身を乗り出す。凄いパスサッカーを見た。ゴールキックから始まり、全てのプレーが2タッチ以内。脱帽するしか他無い速攻だ。全ての選手の動きに意味があり、全員が同じイメージの元にゴールを目指した結果がこのスーパーゴールだ。鳥肌が立った。

 

「わーい」

 

銀子ちゃんは、贔屓のチームが得点したことにより、嬉しそうにバンザイをしている。声に抑揚は乏しいが、それでも体全体で喜びを表現している。可愛いの暴力だ。

しかし、そんな喜びも、長くは続かなかった。前半終了間際のことだ。

 

大阪のシュートが、キーパーの正面に飛んでしまい、無難にキャッチされてしまう。そこから一閃。相手チームの見事なカウンターが炸裂する。キーパーがキャッチするや間髪入れずに前線へとボールを勢いよく蹴る。それがなんと、ディフェンスの最終ラインの頭を越えていったのだ。ここまで大阪は、押し込む展開が続いていた。ほぼ全ての時間が大阪のターンとなっており、所謂半面ゲームの様相を呈していた。それが、徒になった。ディフェンダーまでもが前のめりになりすぎていたのだ。それを逃さす、キーパーの放った一閃に俊足FWが反応する。オフサイドは無い。最後はキーパーとの1対1を冷静に躱し、ゴールへとボールを流し込んだ。大阪が速攻のパスサッカーで得点を演出すれば、こちらは速攻のカウンターサッカーで得点を演出する。どちらも、もの凄いゴールだ。

 

「そんな……」

 

銀子ちゃんは、見るからに落ち込んでいる。一気に天国から地獄に落とされた気分を味わっているのだろう。見てる俺も悲しくなってきた。大阪にはなんとしてでも勝ち越しゴールを挙げてほしい。試合は、そこで前半戦を終えた。

 

「ええ試合やな。流石首位争いしてるチームの直接対決やわ」

 

「さっきのカウンターも凄かったわね。大阪が油断してるのを見越してたのかしら?」

 

「大阪が油断してたんじゃない。鹿島が大阪の隙を作った」

 

「作った?」

 

「大阪が先制した後、鹿島は態と大阪に攻めさせて大阪のディフェンスラインが前のめりになるように誘導してた。たぶん、監督からの指示。相手チームにバレないように、予め用意してあったサインをベンチから出したんだと思う。このプレーは全部、今日のために鹿島が用意してきた作戦。そのために、いつものレギュラーFWではなく、あの俊足FWをスタメンに起用してきた」

 

銀子ちゃんが饒舌に語る。こんなに長々と語る銀子ちゃん、今生で初めて見たかもしれない。て、そこまで試合のこと読めちゃうんですか。俺には全くわからなかった。そもそも、相手FWがレギュラーの選手じゃないことも知らなかった。もしかして銀子ちゃん、サッカーの解説者もできるんじゃない?

 

そしてそのまま、後半が始まる。後半は一転、相手チームのペースで時間が進んでいく。ディンフェンダーが必死に得点は防いでいるが、相手チームの攻勢は一向に終わらない。

 

「ダメ。前半のラストプレーでの失点がディフェンスの脳裏に焼き付いていて、ディフェンスラインが下がりすぎてる。その上で勝ち越しゴールを決めたいオフェンス陣が前のめりになりすぎてる。ディフェンスとオフェンスの間が開きすぎて、中盤に広大なスペースを鹿島に与えてしまってる。ハーフタイムでも修正できてない。となると後は……」

 

銀子ちゃんがまたも饒舌に解説してくれている時だった。レフリーが笛を鳴らす。

 

「選手交代で流れを変えるしかない」

 

そう銀子ちゃんが言う通り、大阪が選手交代を行ったのだ。入ってきたのは、今年引退することが発表されている、大ベテランの選手だ。ボランチの選手と変わり、そのままボランチに入る。その選手交代が、大阪に落ち着きを取り戻した。オフェンスの選手が少し下がり始める。

 

「信頼の厚い大ベテランの選手が、まずはディフェンスをしっかりしようと、前線の選手に合図を送ってる。自分も積極的に相手選手にプレスをかけることで、より一層周りの選手に守備の意識を植え付けてる」

 

銀子ちゃんの言うとおり、その後大阪は少しずつ落ち着きを取り戻していった。ディフェンスが安定し、中盤のスペースも埋まったことで、余裕を持って相手の攻撃に対応できている。段々と、攻撃に移れる時間も増えてきた。しかし、得点には中々結びつかない。両チーム後半無得点のまま、試合時間は残り少なくなっていく。そして迎えるラストプレー。大阪のコーナーキックだ。

 

大阪は、この攻撃に賭けるしかない。キーパーまでもがゴール前に押しかけている。相手チームも、勝ちは無いと察しているのだろう。せめて引き分けにと、11人全員がゴール前に集結している。11対11の最後の攻防が始まる。ボールがゴール前に蹴り込まれる。そのボールに最初に触れたのは……相手キーパーだった。キーパーがパンチングで、ボールを弾き出す。そのボールは、ペナルティエリア外へと転がっていく。終わりだ。試合は決した。レフリーもそれを確認し、時計を見ると、ホイッスルを口にくわえる。そして……

 

ゴウン!!

 

轟音が鳴り響いた。シュートだ。シュートが放たれたのだ。途中出場の大ベテランの選手。その選手はエリア外で待機していたのだ。もしかしたら、こうなることを予期していたのかもしれない。エリア外に転がってきたボールを、そのままダイレクトで撃つ。そのシュートは、エリア内に密集していた選手全員をすり抜け、ゴール上隅へと突き刺さった。

 

「や、やった!」

 

銀子ちゃんが堪らずに飛び跳ねる。なんて、凄いシュートだ。思わず、言葉を失ってしまった。これが、本当に引退を宣言している選手なのか?あのシュートを見た後だけに、まだまだやれそうな気がして仕方がない。

 

「す、凄い……」

 

桂香さんが思わず感嘆の声を漏らす。その手は興奮によって、強く握りしめられていた。

 

「こ、こんな日に限ってなんちゅう試合見せてくれるんや……」

 

師匠が興奮に声を震わせながら言う。こんな日。そうこんな日だ。実は今日は、特別な日なのだ。そんな特別な日に、こんな試合をを見せてくれるなんて、これは神様からのプレゼントかもしれない。その後も、俺たちは興奮に包まれながら、思い思いに今日の試合の感想を言い合う。そこには、どこにでもいるような家族の姿があったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

場所は変わり、ここは関西将棋会館内にあるレストラン、トゥエルブだ。サッカー観戦を終えた俺たちは、この場所へと直行していた。今日は、ここトゥエルブを貸し切りにしてある。今から行うイベントのためだ。

 

「銀子ちゃん!お誕生日おめでとう!」

 

そう、今日は九月九日。銀子ちゃんの誕生日なのだ。因みにこの九月九日という月日、9と9。これをかけ算すると81、八一になる。凄い偶然だと思わない?前生で銀子ちゃんと二人気づいた時、凄く興奮したっけな。確かあれは、銀子ちゃんの20歳の誕生日の時だったはずだ。その時は俺と銀子ちゃんはもう結婚しており、二人きりの時間を大事にしたかったから二人でお祝いをしていた時だった。本当に気づいたのは偶然だった。今となっては切欠も覚えてない。だけど、気づいて二人で、俺たちは最初から結ばれる運命だったんだと愛を語り合っていたのは良く覚えている。懐かしい前生の記憶だ。今生でもあの時のように、いやあの時以上にお互いのことを愛し合いたいものだ。

 

「銀子が去年家に来たときは、もう誕生日は過ぎ取ったからな。これが、家に来て初めての誕生日やな」

 

「これで銀子ちゃんも5歳ね。おめでとう」

 

5歳。その言葉に俺の心臓が強く跳ねる。5歳。つまり銀子ちゃんは、産まれてから5年が経過したのだ。銀子ちゃんは、産まれながらに体が弱い。その中でも、最も深刻だったのが、心臓だった。いつ止まるかもわからない心臓。そんな爆弾を抱えている銀子ちゃん。そして、この病気は……5年間生存できる確率が50パーセントなのだ。

 

「銀子ちゃん」

 

「八一?」

 

俺は、思わず銀子ちゃんを強く抱きしめていた。あの時、前生において、初めて桂香さんから病気の詳細を聞かされたあの日も、俺は隣で一緒に話を聞いていた銀子ちゃんを思わず抱きしめていた。そして、あの時も俺はこう言ったのだ。

 

「産まれてきてくれて、ありがとう。生きててくれて、ありがとう」

 

思わず、涙が溢れてくる。今日彼女は、無事に50パーセントを突破したのだ。しかし、今後がどうなるかはわからない。前生で大丈夫だったからといって、今生も大丈夫とは限らない。この病気は、長く生きれば生きるほど自然治癒する場合がある。とにかく銀子ちゃんは、生き続けるしか他に無いのだ。

 

「八一、苦しい」

 

思わず、強く抱きしめすぎていたらしい。銀子ちゃんが、僕の背中を軽く叩いてアピールしてくる。

 

「あ、ごめん!苦しかった?」

 

「ううん、大丈夫。それよりも、ありがとう」

 

「八一、お前まさか……」

 

師匠が驚き呟く。おそらく、俺が銀子ちゃんの病気を知っていることがバレたのだろう。つい、衝動的に体と口が動いてしまった。だけど、それも仕方のないことだろう。それほどまでに、これは喜ぶべき事項なのだから。銀子ちゃんは、ここまで生きてくれた。頑張って、これからも生きて欲しい。ずっとずっと、生きていてほしい。彼女のいない人生なんて、俺は間違いなく、耐えられないから。だからこれからも、切に願う。いつまでも、末永く、彼女と共に生きれるようにと。俺は、切に願う。彼女の幸せに満ちた人生を。俺は、いつまでも、いつまでも切に願うのだった。




コミックス3巻小ネタのサッカー話。
ぶっ込むならここしかないと思った。
銀子ちゃんの趣味ペナント集め。
前生におけるその趣味の意味が昔と今で大幅に変わってたりします。
そのお話をまとめた特別編を、11月には投稿する予定。
正確には11月22日、良い夫婦の日記念ということで、投稿予定。
まだ先だけど宣伝。
次もあさって。
皆さんの応援に支えられ、今日で丁度丸一ヶ月、変わらぬ投稿ペースで駆け抜けてくることができました。
ありがとうございます!
今後も、なるべく今のペースを維持できるように頑張って参りますので、引き続きお付き合いよろしくお願いいたします!
ただ、来週所用で水曜から土曜の夕方にかけて執筆全くできないんですよね。それまでにストック貯めれなかったら、更新少しだけ止まります。
その時は申し訳無い。


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第17局 鏡洲飛馬

最近……ってほど最近からってわけでもないですけど、りゅうおう公式さんってやたらと銀子ちゃん推してくれますよね
12巻特装版や、14巻抱き枕カバー付き特装版や、ゲーム限定生産版等々
どれもこれも銀子ちゃん銀子ちゃんしてますよね
それほど銀子ちゃんの人気が高いってことでしょうけど、この推しっぷりはねぇ、えぇ、本当に……ありがとうございます
合い言葉は、八銀はジャスティス


年が明けて、一月のことだった。

その日、俺と銀子ちゃんは関西将棋会館へとやってきていた。今日ここに着た目的は、もちろん対局するためではあるのだが、メインの目的は研究会を開くためとなっている。今日の研究会に参加するメンバーは俺と銀子ちゃんを含めて4人。

 

「よう八一。その子が例の姉弟子か?」

 

まず一人は、鏡洲飛馬三段だ。

鏡洲さんは、前生で最もお世話になった人の一人だ。奨励会に入り、右も左もわからないような状況の時から、よくお世話になっていた。研究会もよく開いていたものだ。創多が入会してからは、三人泊まりがけで研究会をすることもあった。中々に親密な仲だったのだ。

 

そんな鏡洲さんは、以前に話した通り桂香さんと結ばれることになる。鏡洲さんは、奨励会三段リーグを長く、本当に長く闘っていた。しかし、最終的に年齢制限により退会してしまうことになる。プロになる道を諦め、社会に出ることを決めた鏡洲さん。そんな鏡洲さんに待ったをかけたのが桂香さんだった。

 

桂香さんは言う。本当に諦めていいのかと。鏡洲さんは言う。これでいいんだと。そう言って、鏡洲さんは社会の闇に揉まれていった。そんな中でも、やはり彼は将棋を捨てることはできなかった。暇があれば、実際に将棋を指したり、プロ棋戦を観戦したりしていたのだ。

 

そんな鏡洲さんは、ある日東京に赴いた際に、偶々開催していた女流棋戦の公開予選を気まぐれに観戦してみることにした。マイナビ女子オープンの一斉予選だ。その予選に参加していたのは、桂香さんと俺の1番弟子、あいだ。二人は、一斉予選にてぶつかることになった。鏡洲さんも、あいの実力は当然知っている。桂香さんに、勝ち目が無いであろうことも。

 

しかし、対局は意外な様相を見せ始める。序盤から、桂香さんが押す展開が続く。桂香さんの並々ならぬ気力に、あいが押されてしまっているのだ。桂香さんの時間は続く。しかし、あいを知ってる人は、このままこの対局は終わらないであろうことを知っていた。あいの、驚異的なまでの終盤力の存在を。

 

あいの時間が始まる。勝勢と言ってもいいほど、圧倒的に盤面を支配していた桂香さんの将棋が、一瞬の内に崩されていく。震えるほどに凄まじい終盤力だった。その対局を実際に見ていた俺も、思わず身震いがしてしまった。そう、この時俺は実際に対局を観戦していたのだ。弟子の対局なのだから、当然だろう。

 

俺の隣には、鏡洲さんがいた。俺は会場で鏡洲さんを発見し、そのまま一緒に観戦していたのだ。鏡洲さんは呟く。決まったな、と。確かに、誰の目から見ても、この対局は既にあいの勝ちパターンに入っている。ここから、桂香さんが勝つのは、まず不可能だ。しかし、勝ったのは桂香さんだった。

 

最後まで、桂香さんは自分の将棋を信じ、あいに食らいついていった。それは決して綺麗な将棋では無い。関西棋士らしい、泥臭く粘り強い、それこそ俺たちの師匠清滝鋼介のような将棋だった。

かかってこんかーい!と、桂香さんの雄叫びが会場内に響き渡る。その雄叫びを聞いたのは、それが二度目だった。一度目は、研修会の例会で。年齢制限による退会が迫っていた桂香さん。自身の進退を賭した大一番でのことだった。その時の相手も、あいだった。あの時は接戦の末に桂香さんはあいに負けている。だが、今回は違った。

 

あいの、僅かな、本当に僅かな隙を逃さず、桂香さんはあいを即詰めに討ち取ってみせたのだ。あいも見落としてしまっていた自玉の詰み、それを桂香さんは読んでいた。普段のあいなら、見落とすわけがない詰み。確かに複雑な詰み工程ではあるが、それでもあいらしくない。気迫に負けたのだ。桂香さんの、尋常ではない気迫に。確かに、棋力なら圧倒的にあいの方が上だろう。だが桂香さんは、そんなあいを圧倒的に上回る気力で、あいのことを怯ませてしまったのだ。元々精神面には課題のあったあいは、研修会の時のようにはいかず、桂香さんに負けてしまうことになった。

 

あいの投了宣言を聞いた桂香さんは、その場で人目を気にせず、大いに泣き喚いた。桂香さんはこの時女流3級。そして、3級になったマイナビから、今回は2年目の大会だ。女流3級というのは、女流棋士にとっての仮免許でしかない。この級位にいる女流棋士は、2年以内に昇級を果たせないと強制引退させられてしまうのだ。つまり、桂香さんにとってこの大会が女流棋士を続けるためのラストチャンスだったのだ。

 

昇級するための条件の一つに、マイナビ女子オープンの本戦に出場するというものがある。ここで桂香さんは、あいに勝ったことにより本戦への出場が確定した。つまり、この瞬間桂香さんは、晴れて正式な女流棋士へとなったのだ。その事情を知る者は皆、桂香さんと共に涙を流していた。俺や、桂香さんに負けたあいも含めて。そして、隣にいる鏡洲さんも。鏡洲さんの目は、光っていた。俺がこの会場で最初に会った鏡洲さんは、目が濁っていた。久しぶりに会った彼は、本当にあの鏡洲さんなのか?と疑うほどに濁っていた。しかし、その時の彼の目は確かに、光を取り戻していた。明るく輝く、光を取り戻していたのだ。煌めく涙が、濁りを洗い流すかのように零れていく。ここからは、後に鏡洲さんから聞いた話だ。

 

あの時鏡洲さんは、桂香さんの姿を見て、強く心を打たれたらしい。鏡洲さんは、ずっと桂香さんが苦しんできたことを知っていた。研修会でもずっと苦しみ、女流棋士になれてからもずっと苦しんできていたことを知っていた。それでも、必死に前へ、前へと藻掻きながら進んできたことを知っていた。夢へと向かって。

 

なのに、自分は何をやってるんだろう、と鏡洲さんは考えた。幾つになっても、三段リーグで自分が藻掻いてきたのは、社会に出るのが怖かったからだ。将棋しか無い自分が、社会に出ればどうなるのかなんて、考えるまでもなくわかるし、実際に体験してきた。それは、前進では無く、停滞でしか無かったのだ。

 

後ろに下がるのも怖い。前に進むのも怖い。だからここに留まるという、逃げの選択でしか無かったのだ。あの日の桂香さんを見て、鏡洲さんはそのことに気づかされた。藻掻きながら夢へと向かう桂香さん。そんな時分が、自分にもあったのだと。後日、鏡洲さんは桂香さんに会い、お礼と共に宣言をする。もう一度、夢に向かって藻掻いてみると。二人が付き合い始めたのは、その数ヶ月後のことだった。

 

その後の鏡洲さんは、アマ棋戦で大活躍を見せ始める。アマ龍王、アマ名人、アマ玉将とアマ三冠を達成し、編入試験を経てまた三段リーグへと舞い戻る。すると今度は、見事に一期で抜けて見せたのだ。制度制定後初となる、編入試験からの四段昇段者となったのだ。プロになった後も、鏡洲さんは活躍を続ける。結局最後まで、タイトルに届くことは無かったが、それでもタイトル戦への登場は何度も果たしていた。俺も数度、タイトル戦で対戦したことがある。何度もヒヤッとさせられたものだ。これが、俺が尊敬する棋士の一人、鏡洲さんの前生における活躍だ。

 

「はい!姉弟子の、空銀子ちゃんです!銀子ちゃん、この人は鏡洲飛馬三段。今日一緒に研究会をしてくれるんだ」

 

「ぎんこ。よろしく」

 

「あぁ、銀子ちゃん、よろしくな」

 

銀子ちゃんも、前生のころは飛馬お兄ちゃんと呼んで、鏡洲さんのことを幼少の頃から慕っていた。銀子ちゃんだけではない。奨励会員なら誰もが、鏡洲さんのことを慕っていた。面倒見が良い、この奨励会員の兄貴分のことを。そして今日はもう一人、参加者がいる。

 

「我は神鍋歩夢。よろしく頼む」

 

歩夢だ。何故関東棋士の歩夢が関西将棋会館にいるかと言うと、歩夢の師匠の都合だ。歩夢の師匠は釈迦堂里奈女流名跡だ。エターナルクイーンの愛称を持つ、女流最強クラスの一人だ。その釈迦堂さんは、今日タイトル戦のため関西に来ている。女流名跡のタイトル戦は、毎年1月から2月にかけて行われる。今日はその開幕局が行われている。とは言っても、別に将棋会館で行われているわけではない。歩夢は、釈迦堂さんから預かったのだ。女流のタイトル戦を見るよりも、関西の若い力に揉まれた方が為になるだろうと。それで歩夢は、ここで研究会に参加することになったと言うわけだ。

 

「歩夢だな。よろしくな」

 

「それじゃ、早速初めて行きましょうか」

 

研究会には様々な形がある。研究テーマを決めて、そのテーマについて棋譜並べをしたりしながら討論する形や、実際に対局をして、その対局内容について研究したりする形等々、多岐に渡る。今回は、実際に対局をしながら研究していく形を採用している。早速、俺と歩夢が対局をしていく。俺は、その対局の中で惜しげも無く、未だ披露したことない前生における研究手を披露した。

 

「な!?なんだよその手!?」

 

鏡洲さんが、驚愕を露わにする。現時点での将棋界では、まずお目にかかることのない手だろう。見た目、只の悪手でしかないこの手は。

 

「悪手……いや、これは……この変化は……!」

 

歩夢がその手に隠された変化に気づく。流石歩夢だ。もうこの変化に気づくとは。

 

「恐ろしい手だ。この手を、今思いついたのか?」

 

「ううん、前から研究はしていたんです。面白い変化でしょ」

 

「見る分には面白そうだが、喰らう分には堪らんな。だが、わかってしまえば対処もできる」

 

歩夢がそう言って、次の手を放つ。そう来るのは、最初からわかっていた。だが、その先も俺の研究範囲内だ。

 

「な!?これにも対処するのか!?」

 

「その変化は、研究範囲内だよ。さぁ歩夢、次はどう変化させる?」

 

「むむっ、ならば、これでどうだ!」

 

そして、歩夢はまた手を進める。だがそれも、研究範囲から脱することはできない。その後も次々と手を進めるが、歩夢は終ぞ研究範囲から逃れることはできなかった。

 

「くっ……参りました」

 

「凄い手だな。ここまで全部研究だったのか?」

 

「うん!最後まで研究範囲!」

 

「詰ませるまで研究範囲か。恐ろしい手だな」

 

「良かったら、この後鏡洲さんにも教えますよ?」

 

「良いのか?是非頼む」

 

「その前に、私と」

 

「あぁ、そうだな。銀子ちゃん、指そうか」

 

俺と歩夢の対局が終われば、次は鏡洲さんと銀子ちゃんの対局だ。奨励会三段、その中でも鏡洲さんは、新人王戦で優勝したりと、実力自体はプロに匹敵する実力を持っている。そんな強者である鏡洲さんと銀子ちゃんの対局。流石に、銀子ちゃんも相手が悪いだろう。

 

「手合いは2枚落ちでいいか?」

 

「む、平手で十分」

 

「いやだが……」

 

「平手」

 

「あはは、鏡洲さん、こうなったら銀子ちゃんは折れないですよ。平手でお願いします」

 

「はぁ、わかった」

 

そして銀子ちゃんの先手で対局は始まる。戦型は、相掛かりとなった。俺との初対局以降、すっかり銀子ちゃんのお気に入りの戦型となっている。まぁ、俺に一番最初に勝った戦型でもあるから、使ってて気分が良いのかもしれないけど。対局は、順調に進んでいく。実力通り、鏡洲さんが常に優勢に展開していく。銀子ちゃんも必死に食らいついてはいるけど、流石に分が悪い。このまま順調に鏡洲さんが勝つだろう。そう思っていたのだが、銀子ちゃんの次の一手が状況を変える。

 

「何?この手は……」

 

「……この手もまた、とんでもない変化を……!」

 

「銀子ちゃん……!」

 

銀子ちゃんのその一手。それは、俺が銀子ちゃん相手に使ったことのある研究手だった。その、俺の使った研究手を、銀子ちゃんはこの対局で指してみせたのだ。一度しか指したことのない、俺の研究手を。

 

「……八一。これも、お前の研究手か?」

 

「そうですね。銀子ちゃんとの対局中に一度だけ使ったことはあったんですけど、まさかこの対局で銀子ちゃんが使うなんて、思いもしなかったですね」

 

「この兄にしてこの姉ありだな。誠に、恐ろしい姉弟だ」

 

普通、一度だけ見た手を対局の中で使用しようとは思わない。将棋は、一手指してしまえば後戻りが利かないのだ。その手が失敗すれば、それは自分の首を絞めることになる。だからこそ、信頼のできる手を探し出して、研究して、十全な備えをした作戦を持って、棋士は対局に臨むのだ。だからこそ、銀子ちゃんが指した手はより一層の驚愕を俺たちにもたらす。しかも、このタイミング、完璧だ。この研究手を放つタイミングを完璧に掴んでいる。銀子ちゃんの棋力は、もしかしたら前生における現時点の棋力よりも高くなっているのかもしれない。

 

「こいつは厳しい手だな。少しでも対応を誤れば、一気に決着が着くか。全く、恐ろしい。けど、俺もそう簡単には負けられないな」

 

そこからは、息を吐く暇も無い攻防が繰り広げられた。研究手を活かし、果敢に攻め込む銀子ちゃんと、的確な判断でそれを受け止める鏡洲さんの攻防。激しい攻防が繰り広げられ、そしてやがて決着が着く。

 

「負けました」

 

銀子ちゃんの投了宣言が放たれる。勝ったのは鏡洲さんだ。銀子ちゃんの研究手を放つタイミングは完璧だった。だけど、目まぐるしく変化する盤面の状況に、銀子ちゃんは最後まで対応することができなかった。だけど、一度しか見たことがない手を使って、ここまで指せるのなら十分すぎるだろう。銀子ちゃんにも、この手をじっくり教えてあげよう。

 

「なんとか勝てたか。本当に恐ろしい手だった」

 

「この手も、良かったら教えましょうか?」

 

「良いのか?助かる」

 

「我にも是非」

 

「歩夢はダメ」

 

「何故だ!?」

 

「あはは、冗談だって。それじゃ、研究しましょうか」

 

そこからは、俺の研究手に関するレクチャーとなった。俺は、勿体ぶることも無く皆に研究手を授けていく。最も、一番授けたいと思っているのは鏡洲さんにだ。前生では、一度年齢制限による追い出しを喰らってしまった鏡洲さん。マイナビ女子オープンで再会した際の、鏡洲さんのあの目は忘れられない。

 

今生では、鏡洲さんにあんな目をして欲しくない。だから、なんとしても鏡洲さんには三段リーグを抜けて頂く。そのために、俺も協力は惜しまない。例えライバルになる相手だとしても、俺は協力を惜しまない。将棋とは、互いが研鑽しあって、上へ上へと突き上がっていくゲームだ。相手を強くすることは、自身を強くすることにも繋がる。俺の目標を達成するためには、今のままの棋力じゃダメだ。もっと、俺自身が強くなる必要がある。そのために、鏡洲さんも、歩夢も、銀子ちゃんにも、今以上に強くなって頂く。俺自身の成長の為に。鏡洲さんのことを考えているように見えて、実は自分勝手な理由でしかないのだ。まぁ、鏡洲さんに関する理由も事実なのだが。だからこれからも、俺は皆に対して惜しげもなく俺の知識を伝授していこう。その後も三人は、俺の研究に関する説明を、一心不乱に聞き続けたのだった。




鏡洲さんはまだまだ活躍あるみたいなこと、白鳥先生も触れられてましたよね。
やっぱり、原作でも編入試験ルート辿るのかな?
桂香さんも、まだ苦難が続きそう。
なんだかんだ未だに3級なんですよね。
3級になってから約1年。
タイムリミットは後1年。
桂香さんも原作で、まだまだドラマありそうですね。
次の投稿もあさって
ストックが、ストックが堪らないんじゃ……
平行してハロウィン特別編もちょっとずつ執筆してるんでつらひ……
今週隔日投稿たぶん止まりますね
申し訳無い


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第18局 師匠の挑戦

頑張れ師匠!それいけ師匠!
合い言葉は、八銀はジャスティス


3月上旬。

その日は、棋界において最も重要な1日と言っても過言では無いほど、重要な対局が行われていた。順位戦A級最終戦。この日、A級在位者総計10人は、一同に対局を行う。計5局が同時に行われ、その日の内に現名人への挑戦者と降級者2名が決定する。一部のタイトル戦よりも順位戦は持ち時間が長いため、対局は朝から始まり、深夜まで行われることも珍しくない。挑戦者が誰なのか、降級者は誰なのか、見る者も指す者もハラハラして、落ち着かない一日となる。以上のことから、この日は、将棋界の1番長い日と称される。

 

そして、今日の対局にて名人戦挑戦権を獲得する可能性がある棋士が、この関西将棋会館において今正に対局を行っていた。清滝鋼介、俺たちの師匠だ。師匠はここまで7勝1敗。名人挑戦へと、十分な戦績を挙げている。現在師匠と名人挑戦権を賭けて争っているのは、神様の方の名人だ。師匠に唯一の黒星を付けた相手でもある。その名人は、既に今日の対局を終えている。最終戦績は、7勝2敗。

 

もし仮に、師匠が今日の対局に負ければ、7勝2敗となり名人と戦績が並ぶ。すると、挑戦者に選ばれるのは名人だ。昇級組である師匠は、A級内での順位が最下位だ。同戦績の場合は、級内順位が優先されるため、名人が選ばれることになってしまう。師匠が名人戦挑戦者になるためには、今日の対局で勝つしか他に道は無いのだ。今日の対局相手、あの天敵とも言える生石さんに。

 

その対局を、俺と銀子ちゃんは棋士室で観戦していた。既に時刻は深夜帯に差し掛かっている。俺たちはまだ子供だ。普段なら既に寝ている時間。だけど、俺たちは、閉じそうになる目を擦りながら、必死の形相で対局室が映されているモニターを見つめていた。

 

「清滝先生に、詰めろがかかった」

 

盤に向かって対局の検討をしていた鏡洲さんが言う。詰めろ。それは、何も対策をしなければ詰んでしまう状態のこと。王手自体はまだかかっていないが、ここからの師匠の選択次第では、一気に決着まで持って行かれてしまう。

 

「清滝先生の腕の見せ所だな」

 

師匠の持ち味は、鋼鉄流と呼ばれる鋼鉄のように固い受け将棋だ。だが、何も固いのは守りだけではない。精神力が何よりも固いのだ。鋼鉄のような精神力で、幾度となく苦境を打開してきた。今の師匠の状況は厳しい。生石さんは飛車を2枚保持し、縦と横の2カ所から師匠の玉に迫ってきている。ほどなくして、師匠は盤上に1枚の駒を叩きつけた。角だ。

 

「っ!この角は……!」

 

その角が絶妙だった。生石さんが次に師匠を詰ませようと思えば、飛車を動かす必要があった。その飛車の移動地点を見事にカバーしている。それだけでは無い。更には相手玉に対する圧力にもなっているのだ。このまま、生石さんが何も対策を講じなければ、生石さんの玉は詰んでしまう。つまり、この角は詰めろ逃れの詰めろになっていたのだ。

 

生石さんは苦し紛れに自陣に金を打ち込み粘りの姿勢を見せる。が、それだけでは反撃に出た師匠の攻勢を止めるには心許なかった。生石さん得意の捌きで粘るが、それも長くは続かない。生石さんの投了宣言を聞くと、よっしゃぁ!という師匠の雄叫びが、遠く離れたこの棋士室にも聞こえてくる。これで師匠は8勝1敗。文句無しに名人への挑戦権を獲得した。

 

「今終局を迎えました!勝ったのは清滝鋼介八段!そうです!名人戦挑戦者は清滝八段です!」

 

「清滝八段は初のタイトル挑戦!それが名人戦となりました!」

 

「A級返り咲き後即名人挑戦だ!記事の見出しはその部分を強調するように頼む!なるべくドラマがあるように見せるんだ!」

 

棋士室に詰めかけていた記者の方達が慌ただしく動き出す。将棋界の1番長い日はまだ終わらない。これから師匠は、まだ取材などを受けて、激戦の後だというのに休むことを許されない。その取材を受けて、師匠が俺たちの前に現れたのは、朝方のことだった。俺は寝そうになる自分を必死に抑えつけて、なんとかそれまで起きていることができた。因みに、銀子ちゃんは対局が終わったのを見届けると、直ぐに寝息を立て始めてしまった。むしろ、よくそれまで起きてたよ。

 

「師匠!」

 

「八一か。こんな時間まで起きとるなんて、悪い子やな」

 

「えー……」

 

「がっはっは!冗談や冗談。ずっと待っとってくれてんな。おおきにな」

 

師匠は機嫌良さそうに豪快に笑うと、俺の頭を撫でてくる。その顔には、当然疲労の色が窺える。あれだけの熾烈な対局を演じたのだ。それも、当然のことだろう。

 

「ほな、帰ろか」

 

師匠が銀子ちゃんを背負い、俺の手を引いてくれる。その姿は、正に父親そのものだった。頼れる父の手は大きかった。偉大な父の手は温かかった。その手に連れられ、俺は帰り道を歩く。もうすぐ、始発がやってくる時間だ。俺たちは始発を迎える福島駅まで、親子仲良く歩くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日のことだった。

朝帰りをした俺と師匠に銀子ちゃん……はずっと寝てたわけだけど、とにかく俺たちは朝食も取らずにお昼過ぎまでずっと寝ていた。睡眠を取ることを体が求めていた。精神は大人でも、体は子供のそれなのだ。寝ることも仕事の一つだ。そんな俺たちを起こしたのは、桂香さんの悲鳴じみた声だった。

 

「お父さん!八一くん!銀子ちゃん!助けて!」

 

何事かと思い、俺と師匠、そして銀子ちゃんは飛び起きて、桂香さんの声がした方へ向かう。声がしたのは、清滝家が経営している将棋道場、野田将棋センターの方からだった。俺たちは恐る恐る道場の中へと入る。するとそこにあった光景は……

 

「おー!清滝八段の登場だ!」

 

「あの子達が噂の内弟子さん達かい?」

 

「あぁ、間違いない!あの男の子は新聞で見たことあるよ!最年少小学生名人の九頭竜八一君だ!」

 

「確かまだ小学1年生で、もう奨励会にも入ってるんだろ?小学生プロ棋士も夢じゃないな!」

 

人、人、人、この道場ではお目にかかれないような多数のお客さんが道場の中を埋め尽くしていた。これが、名人挑戦効果なのだ。挑戦者に選ばれただけで、これなのだ。昨日の今日だというのに、良くもまぁこれだけのお客さんが集まったものだ。

 

「清滝八段!是非指導対局をお願いします!」

 

「あ、私とも頼みます!」

 

「ワシも頼むよ!」

 

お客さんから次々と、師匠に対して指導対局の依頼が飛んでくる。今日ここに集まっているお客さんは、皆それが目的なのだろう。まぁ、中にはそんなこと関係無しに集まって下さってる常連のお客さんもおられるが。

 

「よっしゃ!ほな5人ずつ指そか!」

 

そして、師匠は五面指しを始める。それでも、全員を捌ききるにはかなりの対局数になるだろう。昨日あれだけ激しい対局を繰り広げたというのに、名人挑戦者とは、大変なポジションにあるみたいだ。前生における俺は、名人挑戦者に選ばれた際には、既にタイトルを保持していたため、ここまでの騒ぎにはならなかった。タイトル保持者は、積極的な指導対局を禁止されているのだ。とはいえ、位的には名人より格上の龍王挑戦者に選ばれた際も、ここまで騒がれることは無かった。最年少タイトル挑戦者だったのに。あれ?これってもしかして、俺の人気が無いだけ、ってことは無いよね?流石に浪速の白雪姫の人気には勝てっこないけど、まさか師匠よりも人気が無いってことはないよね?……ないよね?

 

「それじゃ、清滝先生が空くまでの間、俺は未来のプロ棋士の八一君にお相手願おうかな」

 

 

「あ、僕も頼むよぉ」

 

「あっしもお願いします!」

 

そう言って、俺にも数人お客さんが寄ってくる。ほら、やっぱり俺の人気が無いわけではないんだ!俺にだってちゃんと、人気はあるんだよ!

 

「僕、ショタって大好きなんだよねぇ。ロリもいいけどぉ、ショタってどうしてこうも魅力に溢れてるんだろうねぇ。ねぇ?八一くんもそう思わなぁい?」

 

あ、この人絶対ヤバイ人だ。山刀伐さんと同じ匂いがする。これは、俺に務められる相手じゃない。こういう人からは人気じゃ無くてもいいです。

 

「ねぇ、そこの可憐なお嬢さぁん。あなたも僕と同じ穴の(むじな)でしょぉ?ショタってぇ、良いわよねぇ」

 

この人が問いかけているのは、桂香さんに対してだ。確かに、桂香さんは前生でもショタコン疑惑はあったけど、まさか、そのことを見抜くなんて。ショタコン、恐るべし。

 

「え?た、確かに小さい男の子は可愛いと思うけど、八一くんは、ちょっと……」

 

え?桂香さんそれどういう意味ですか?俺のことはそういう対象で見れないってことですか?別に俺には銀子ちゃんがいるからいいとは言え、面と向かって言われると流石に傷つく。だけど、桂香さんが言いたかったのはそういうことでは無かったらしい。次に桂香さんはその理由を説明してくれた。

 

「だって、八一くんには、怖いお姉ちゃんが付いてるから」

 

ビッシィィィィィ!!!!!!

 

桂香さんがそう言い終わった途端だった。耳を(つんざ)くような、凄まじい駒音が道場内に鳴り響いた。静まり返る道場内。道場内に居る者の視線は、全て音の発生源である一人の少女へと向けられていた。俺の姉弟子、空銀子へと。その当の本人は、集まった視線など一切気にせず、駒を一枚一枚丁寧に初期配置に並べている。その手には、一切の淀みが無い。

 

「そんなに八一と指したいなら、まず私と指しなさい」

 

「な、なぁにお嬢ちゃぁん。このぉ、アマ名人候補と囁かれているぅ、僕と指そうって言うのぉ?」

 

「私を怯ませたいなら、アマ名人になってから出直してきて」

 

「くっ、流石にぃ、ロリも大好きな僕だけどぉ、今のはちょっと許せないかなぁ?多少見た目が良いからってぇ、粋がるなよぉ?」

 

「口で吠えずに、盤で吠えたら?」

 

「このアマぁ……!」

 

正に売り言葉に買い言葉。銀子ちゃんの発言に青筋を立てたロリショタコンさんは、勢いよく銀子ちゃんの対面に正座すると、苛立ちを隠しもせずに乱暴に駒を並べていく。その光景を、師匠は何も言わずに見守っていた。だけど、銀子ちゃんの様子を見て、おそらく心配無いと判断したのだろう。直ぐに自分の相手へと向き直っていった。師匠の読みは、正に正しかった。その数十分後には、盤上は無残な物になっていた。

 

「ば、バカなぁ!こ、こんなはずじゃぁ……」

 

圧倒的、銀子ちゃんの勝勢。大駒を全て保持し、囲いも堅持。一方、ロリショタコンさんの方は、見るも無惨な惨状。なけなしの金銀4枚で自玉は守っているが、そんなものあって無いような物だろう。

 

「まだやる?」

 

「あ、当たり前じゃなぁい!これぐらぁい、丁度良いハンデよぉ!」

 

「そ」

 

そう言って、銀子ちゃんは相手玉とは全く関係無い位置にある相手の歩を取り始めた。銀子ちゃんのやろうとしていることは、その対局を見ていた者は全員瞬時にわかった。

 

「ぜ、全駒だ!」

 

そう。全駒だ。相手玉を除いた、全ての駒を自身の手駒に加えようと言うのだ。ロリショタコンさんも、そのことは当然察している。必死に、その企てを阻止しようと動くが、そんなもの、今の銀子ちゃん相手じゃ無意味だった。次々と、ロリショタコンさんの駒は減っていく。そして

 

「私の駒台に駒を置ききれなくなったから、あなたの駒台使っていい?どうせ使わないからいいでしょ?」

 

「っ!」

 

銀子ちゃんのその発言を聞き、遂にロリショタコンさんの心は折れた。静かに駒台に手を置き、投了宣言すると、そのまま覚束ない足取りで道場の外へと出て行ってしまった。彼、もう将棋辞めちゃうんじゃないかな?

 

「す、凄いねお嬢ちゃん!あいつにこんな勝ち方しちゃうなんて!」

 

「あいつはここらじゃ有名な道場荒らしだったんだよ!実力は言ってた通りアマ名人を狙えるぐらい強いから、誰も何も言えなかったんだよね!」

 

「いやースッキリしたよ!おじさんもあいつには煮え湯を飲まされたことがあったんでね!ありがとうよ!」

 

なるほど、それでか。最初から、周りのお客さんのロリショタコンさんを見る目が嫌悪に満ちてるとは思っていたのだ。てっきり、あの性癖に対してかと思っていたんだけど、そういう事情があったらしい。それなら、銀子ちゃんのした行動は何も間違っていなかったということだ。今もなお、お客さん達からの銀子ちゃんへの賞賛の声は鳴り止まない。それを聞きながら、俺は密かに心に誓ったのだった。前生でも誓ったことのある、この決意を。……絶対銀子ちゃんのことは怒らせないようにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜、夕食の席でのことだった。俺と師匠と銀子ちゃんの三人は、朝飯も食べずに寝て、昼飯も食べずに道場に引っ張り出されていたのでこれが本日最初の食事となる。空腹でぶっ倒れそうだった。銀子ちゃんも、気持ちいつもより多めにソースをかけている気がする。

 

「そう言えばお父さん、祝電がこんなに届いてるんだけど」

 

そう言って桂香さんが取り出したのは、山のように詰まれた電報の数々だった。その一つ一つが、著名な方々からの物だ。

 

「大阪市長に、大阪府知事から、そ、総理からのまで来てるわよ!他にも各大臣の方々やら、愛棋家として知られてるような芸能人の方々から、色々と有名な人ばっかり!」

 

「そ、そんなにか!ある程度は予想してたけど、これは流石に予想以上やな……」

 

「他にも、協会を通じてお祝いの品も山ほど届いてるそうよ。昨日の今日だからまだ届いてない分もあるみたいだけど、それでも驚異的な量みたいよ」

 

「わ、ワシ、もし名人になってもうたら、どうなるんやろ?」

 

挑戦者に選ばれただけでこれなのだ。これでもし、名人に実際になろうものなら、これを更に上回る大騒ぎになるのは間違いない。

 

「わ、ワシ、なんか怖ぁなってきたわ……」

 

「お、お父さんしっかりして!」

 

師匠は、顔を青くして震えていた。そんな師匠を、桂香さんは横から支えている。そんな二人を見て、銀子ちゃんはまだまだソースをかけているのだった。あ、ソース一本使い切っちゃったよ。師匠は、更に顔を青くしていっているように見える。だけど、これはまだ師匠の挑戦の始まりでしかないのだ。真の挑戦は、来月始まる。俺たちの師匠の、晴れ舞台が。俺は来月、和服を着た師匠を想像してみる。俺たちが憧れた師匠の姿。俺と銀子ちゃんは師匠の和服姿に憧れて、俺たちも着てみたいと二人して語り合っていた。二人で、着る和服のデザインを考えて、絵に描いたこともあった。そう、俺たちが心から憧れた、師匠の晴れ舞台なのだ。その憧れの姿に、また会える。俺は、来月見れる、師匠の和服姿に想いを馳せつつ、更に青くなり続けている師匠の現状から、現実逃避をしたのだった。




割とコメディ寄りな回
師匠は果たして名人になれるのか!?
後半へー続くー(某国民的アニメナレーション風
次は、流石にあさって厳しいかも知れない
以前話した通り、自分水曜から土曜の夕方までお出かけするので、全く執筆できないんですよね
そして、今話書き上げた現時点で月曜夜0時付近、火曜になる直前ぐらい。
次話執筆する時間足りない気がするな……
明日仕事早く帰れればいいんですけど
もし、間に合わなければすいません
あさって投稿無かった場合、次回投稿は日曜日となります
ご了承下さい


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第19局 師匠の挑戦2

お待たせしました
無事帰還しましたので、通常通り更新を再開します
合い言葉は、八銀はジャスティス。


月は進み、4月。

名人戦開幕局前々日。検分を翌日に控え、その日師匠は、自宅で対局時に着る和服の試着を行っていた。今生で初めて目にする師匠の和服姿は、神々しかった。俺と銀子ちゃんが憧れた、師匠の和服姿。その姿をまた拝見することができて、俺は感慨に耽っていた。

 

「師匠、カッコいいね」

 

「うん」

 

俺の言葉に、銀子ちゃんも同意を返してくる。銀子ちゃんは、師匠の和服姿をずっと見つめていた。

 

「……カッコいい」

 

しばらく見つめ、おそらく無意識にだったのだろう。銀子ちゃんの口から言葉が飛び出す。その目は依然師匠の和服姿を見つめていた。

 

「私も、着てみたい」

 

「うん。俺も早く着てみたい」

 

「八一より私の方が先に着るから」

 

「えー?絶対俺の方が先だと思うけどな」

 

「ここは姉に譲りなさい」

 

「これだけは、銀子ちゃんでも譲れないね」

 

銀子ちゃんに先に着物を着られるということは、銀子ちゃんに先にタイトルに挑戦されるということだ。それだと、俺の目標が達成できなかったということになる。だから絶対に、これだけは譲るわけにはいかない。

 

「どうや?銀子、八一。中々様になっとるやろ?」

 

「はい!凄くカッコいいです!」

 

「カッコいい」

 

「そうかそうか!二人ともよーわかっとるわ!桂香!今日の晩飯は豪勢に頼むで!」

 

「はいはい。明日は大事な対局なんだから、お酒は無しね」」

 

「わかっとるわ」

 

その日の夕飯は、師匠の希望通り桂香さんが腕によりをかけた豪勢なものになった。余談だが、俺は食い過ぎのあまり、その晩何度もトイレに駆け込んでしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌々日、名人戦の開幕局は予定に(たが)うことなく、無事に開局された。今日の対局は、場所が遠かったために、俺と銀子ちゃんは家でテレビ越しでの観戦をしている。日程や開催場所は、俺の記憶通りなら前生のそれと一致している。第5局に大阪対局があるのも一緒だ。師匠も、その対局に俺たちを連れて行ってくれると言っていた。

 

対局は、矢倉に構えた師匠に対し、月光名人が急戦を仕掛ける形で開戦を迎えた。兄弟弟子対決となった今回の名人戦。輝かしい棋歴を残してきた月光名人と、藻掻き苦しみ棋歴を積み重ねてきた清滝師匠の対局。それを盤上で表現するかのように、対局は進んでいく。

 

惚れ惚れするような無駄の無い綺麗な将棋を見せつける月光名人に対して、師匠からは早くも泥臭く粘って勝ちきるといった意思がその指し手から伝わってくる。だけど、月光名人は師匠のそんな意思表示にお構いなく、目が見えていないにもかかわらず、ロープの上を走る軽業師かのように、狭く細い攻め手を軽やかに、鮮やかに決めていく。その一手一手に、思わず苦い顔で返してしまう師匠。その攻め手に苦しんでいるのは間違いない。

 

一日目は、師匠が長考してからの封じ手となった。封じ手する側は、封じ手時刻になってからも長考することはできる。師匠は、封じ手時刻の18時30分になってからも長考を続け、結局封じ手に応じたのは20時を回った頃になった。苦しんだ上に選んだ封じ手。しかし、見ている者にはその盤上の形勢はよく、よくわかっていた。万が一にも、師匠がここから勝つことは無いであろうことを。それこそ、月光名人が数度大悪手を繰り返さない限りは。そして、それも見ている者にはよく、よくわかっていた。あの月光名人が、そんなヘマをするわけがないと。それを証明するかのように、開幕局は、二日目のお昼休憩を迎えるでも無く、師匠の投了により終局を迎えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー!流石月光さんや!完敗やわ!」

 

その日の夜、師匠は機嫌良さそうに酒を呷り、今日の名人戦の感想を俺たちに話してくれた。あまり負けたことを気にしていないのか、師匠の表情は明るい。

 

「まだ1局負けただけやからな!後3局負ける前に、4局勝てばええねん!」

 

師匠はそう言って、機嫌良さそうに笑う。今日負けたのは、たかが開幕局。たかが1局に過ぎない。さして、気にすることでも無い。そう考えているのだろう。だけど、前生において数多くのタイトル戦を経験してきた俺は知っている。その開幕局での勝敗というのが、如何に重要であるかということを。師匠は、果たして知っているのだろうか?勝敗で先を行かれる、重圧というものを。俺は、その後も機嫌良さそうに酒を呷る師匠を見ていると、怖くて聞くことができなかった。師匠の、開幕局への理解度について。

 

その夜のことだった。俺は、深夜にトイレに行きたくなり眼を覚ました。トイレで眼が覚めるなんて、実に年寄り臭いと思う。俺は、寝ている銀子ちゃんを起こさないように、静かにベッドから抜け出した。因みに、今日は別々のベッドで寝ている。銀子ちゃんが上で、俺が下だ。つまり、ベッド争奪対局は俺の負けだった。師匠のことが気になって、対局に集中しきれなかったのだ。決して、負けた言い訳をしているわけではない。

 

トイレを済ませて部屋に戻ろうとする俺。その俺の耳に、パチン、パチンという聞き慣れた音が微かに聞こえてくる。俺は、その音に釣られて、発生源へと足を進める。音の発生源は居間だった。普段から、師匠に指導対局をよくして頂いている場所。その居間に、誰かが正座している。その前には、七寸盤が置かれ、誰かのシルエットは、その盤に向けて指を動かしている。おそらく駒を打ち付けているのだろう。シルエットの動きに合わせて、パチン、パチンという音が聞こえてくる。明かりも付けずに、そのシルエットは一心不乱に指を動かしていた。そのシルエットが、誰のものなのかは、俺にはわかっていた。師匠だ。師匠が、暗い部屋の中で、只管指を動かし続けていた。

 

俺は、少しずつ師匠に近づいていく。師匠は、俺が近づいても一切気づかずに、盤だけを見つめていた。俺は、師匠まで2メートルほどの位置まで近づく。それでも、師匠は気づかない。盤と駒以外に意識が向いていないようだ。この距離まで近づいたことによって、暗くてわからなかった師匠の表情が見えるようになった。その表情は、悲痛という字を絵に描いたかのようだった。眉間に皺を寄せて、まるで、何かを堪えているかのように見える。

 

「なんで、なんでわしは……わしは……あんな手を、あんな手を……」

 

師匠が呟く。あんな手と言われて、思い浮かぶ手が一つあった。昨日の封じ手前だ。封じ手の一つ前に師匠が指した手。それは、満場一致で大悪手と認定されるような、最悪な一手だった。只でさえ形勢を悪くしていた師匠は、その一手により逆転の可能性を無くしてしまったとも言える。直ぐさまその悪手を月光名人に咎められ、師匠の封じ手の大長考に繋がった。

 

俺は、師匠が指している盤上に目を向ける。師匠は、駒を一手ずつ進めて行っていた。棋譜をなぞっているのだ。今日の対局の棋譜を。月光名人側の駒も自身で動かし、棋譜通りに盤面を進めていく。そして、大悪手の局面に来ると、師匠は棋譜を外し、違う手を指し始めた。それは、驚嘆するべき、完璧な一手だった。大悪手とは、まるで違う。ここからの展開次第では、逆転も可能であろう完璧な一手。おそらく、対局後に気づいたのだろう。この手を指せていれば、全く違う結果になっていたかもしれない。その手を指し、しばらくすると、師匠は駒を初期配置に戻し始めた。そして、また棋譜通りに駒を進め始める。駒を進める師匠の手は、小刻みに震えていた。

 

あぁ、そうだ。当然だ。師匠だって、悔しいに決まっているのだ。怖いに決まっているのだ。不安に決まっているのだ。それを俺たちに悟られないために、あぁやって上機嫌に見せかけていたのだ。あれは只の空元気だったのだ。師匠は、震える手で駒を進めていく。そしてまた、最終地点まで駒を進めると、また師匠は初期配置に駒を戻し始める。戻し終えたところで、俺は師匠の対面へと正座した。

 

「やい……ち……?」

 

そこで俺の存在に初めて気づいた師匠は、俺の名前を声に出す。その声は、本当にこれは師匠の声なのか?と疑いたくなるほどに、弱々しいものだった。震えも混じっている。

 

「こんな時間に起きてて、悪い子やな。何しとるんや?」

 

「将棋は、一人じゃ指せないでしょ?」

 

その俺の言葉を聞いて、師匠は目を見開いた。そして、眼を手で抑えて、絞り出すように声を出す。

 

「ほんまに、悪い子や。悪い……子や……!」

 

俺は師匠の手の隙間から零れる雫を見ないようにしながら、最初の一手を進めた。師匠は悔しかったのだろう。怖かったのだろう。今日の一手をよっぽど後悔していたのだろう。その全てを、今は俺にぶつけて欲しい。その全てが、次の対局には必要無いものだから、師匠にはここで捨ててもらわないといけない。師匠は、一手一手に力を込めて指していく。何かを盤上に吐き捨てるかのように、一手一手を指していく。俺と師匠は、そのまま朝まで将棋を指し続けた。日が昇る頃には、師匠の手から震えは消えて無くなっていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

その後行われた第2局も、師匠は接戦の末に月光名人に敗れてしまった。だけど、目立った悪手もなく、師匠も手応えは感じたらしい。その夜、俺は師匠とまた朝まで将棋を指した。開幕局の時よりも、師匠の震えが消えるのは早かった。

 

第3局。師匠はこの日も、月光名人に敗れてしまった。一手差で。その対局内容は、実に素晴らしいものだった。関係各所から、名局賞候補に名前が挙げられるほどの素晴らしい対局だった。番数を重ねるごとに対局内容を向上させていく師匠に、周囲の反応も比例するように上がっていった。次は勝てるんじゃないか?ここから逆転もあるんじゃないか?と。将棋の歴史において、七番勝負のタイトル戦で開幕3連敗した側がタイトルを手にしたことは無い。前生においても、俺が名人相手に逆転防衛を果たしたあの対局が唯一だったのだ。その偉業を、周囲は師匠に期待する。その対局の夜も俺は、師匠と朝まで将棋を指した。師匠の手は、その日は最初から震えていなかった。その師匠の状態を見て、俺も思わず期待してしまう。前生では叶わなかった、師匠の夢が叶うのではないかと。そして、5月末。運命の第4局が、行われる。舞台は俺の地元、福井だ。福井のとある温泉街にある旅館が対局の舞台となる。

 

「それじゃ桂香さん、行ってきます!」

 

「行ってきます」

 

「桂香、留守は任せたで」

 

「はーい!お父さんも、頑張ってね!八一くん、銀子ちゃん、お父さんのことお願いね」

 

その日、俺と銀子ちゃんは福井へと師匠と共に行くことになった。俺が師匠に無理を言ってお願いしたからだ。前生では、まぁあれだ。俺たちが色々と問題を起こしてしまった福井対局。今回は、最初から同行することが許された。しかも、検分まで見学させてくれるらしい。なんて太っ腹なんだ。福井の旅館に着き、一息吐くと、俺たちに話しかけてくる人物がいた。

 

「八一君、銀子さん、遠路はるばるお疲れ様です」

 

17世名人、月光聖市。盲目の天才棋士。師匠と同い年とは思えないほどに若々しい容姿をしている、現名人。俺も、今生で既に何度か会ったことがある。師匠と兄弟弟子の関係にあるので、顔を合わせる機会が多いのだ。

 

「月光名人、お疲れ様です!」

 

「お疲れ様です」

 

「お二人とも、今日は検分も見学されるということで、疑問などがありましたら、なんでもお尋ね下さいね。おっと、では私はこれで」

 

月光名人が離れていくと、直ぐに師匠が俺たちの元へとやってきた。足音で師匠の接近を察したのだろうか?どうやって師匠の接近に気づいたのかまではよくわからなかった。

 

「なんや、気を使わせてもうたかな」

 

明日、師匠と月光名人は対局をする。対局者同士、対局前日に顔を突き合わせるのは気まずい物だ。不必要なそれを避けるために、月光名人は場を去ったのだろう。月光名人が気まずいと感じているわけではない。師匠がそう感じないようにするための配慮だ。

 

「八一、銀子。今から検分や。行くで」

 

師匠に案内され、俺たちは対局室へと入っていく。見覚えのある対局室。前生で、俺たちはこの部屋の庭から、この対局室に侵入してしまったことがある。その時は、俺もまだ奨励会員にすらなっていなかったこともあり、更には月光名人の気遣いによって不問とされたが、今の俺は奨励会員だ。前生と同じ結果になるとは限らない。今日師匠と一緒に現地入りさせてもらったのは、その未来を避けるためでもあった。

 

「鋼介、その子らがお前の弟子か」

 

「そうです。1番弟子の空銀子と、2番弟子の九頭竜八一です」

 

師匠が俺たちのことを紹介してくれる。その相手は、今回の対局で立会人を務める蔵王達雄九段。ナニワの帝王の異名を持つ、関西を代表する棋界の重鎮だ。

 

「九頭竜八一です!よろしくお願いします!」

 

「空銀子。よろしくお願いします」

 

「ほう。幼いのにしっかりした子らやな」

 

「二人とも、将来は関西を代表する棋士になります。八一は、小学生プロ棋士も狙える才能かと」

 

「それはおもろいな。楽しみにしとくわ」

 

蔵王先生は、そう言うと検分の進行へと入っていった。明日使用する盤と、駒の説明が進められていく。そして、月光名人と師匠が実際に駒を並べて、感触を確かめていく。

 

「二人とも、何か要望はあるかの?」

 

「そうですね。私は、少し空調を上げていただきたいです」

 

「空調じゃな。わかった」

 

「清滝さんはどうですか?照明などに関しては、私にはわからないので、清滝さんの自由に決めていただいていいですよ」

 

「そうですな。少し照明を暗くしていただいてよろしいかな?」

 

「暗くじゃな。わかった」

 

その後も、二人が要望を言い合って、検分は滞り無く進んでいく。検分が終わると、今度は合同記者会見だ。会見も、二人は無難な受け応えで終えていく。そして夜は、前夜祭が待っている。ファンも交えての前夜祭。立食形式で行われる前夜祭。地元福井の名産が惜しみなく使われた料理の数々。俺は、久しぶりの地元の味に、舌鼓を打っていた。隣では、銀子ちゃんが持参したと思われるソースを大量に料理にぶっかけていた。あの銀子ちゃん、我が故郷の味を堪能していただきたいのですが……

 

「ようお二人さん。楽しんでるみたいだな」

 

食事を進めていた俺たちに、話しかけてくる人物がいた。鏡洲さんだ。鏡洲さんは今回、大盤解説会の駒操作係として現地入りしている。鏡洲さんとは、1月に歩夢と4人で開いた研究会を機に、頻繁に研究会を行うようになっている。銀子ちゃんも交えて、3人で開くことが多い。

 

「鏡洲さん!お疲れ様です!」

 

「お疲れ様です」

 

「おう、お疲れ様。二人とも、明日は会場で応援か?」

 

「はい!蔵王先生と一緒に別室でモニター観戦させてくれるそうです!」

 

「それは貴重な体験だな。清滝さん、勝てるといいな」

 

「師匠は勝つもん」

 

「銀子ちゃんがそう言うんなら、勝てそうだな」

 

そう言って笑うと、鏡洲さんは俺たちの元から離れていった。それからしばらく時間が経ち、師匠達、両対局者が退場する時間となった。前夜祭において、対局者は翌日の対局に備え、閉会前に退場するのだ。その後は、ゲスト棋士達によるトークショー等が行われるけど、俺と銀子ちゃんは、師匠が退場したのを見届けると、会場を後にした。今から俺たちは、今日の宿泊場所へと移動する。今日俺たちは、この旅館に泊まるわけではないのだ。ここから電車を乗り継ぎ、今日の宿泊場所へと移動する。福井の山奥に、その場所はあった。

 

「ただいま!」

 

「お邪魔します」

 

「はいはいおかえりなさい」

 

母さんが出迎えてくれる。何を隠そう、今日の宿泊場所とは俺の実家だ。俺と銀子ちゃんは、今日から2泊、ここで過ごす。

 

「まさか、八一が早くも彼女を連れてくるなんてねぇ。明日はお赤飯を炊こうかしらね?」

 

「彼女じゃないよ!姉弟子だよ!」

 

今はまだ彼女ではないのだ。母さんは昔から変わらず、いつもこの調子だから困る。その後俺たちは、風呂を済ませると、日課となっている就寝前の対局を行った。戦型は、示し合わせたかのように相矢倉となったのだった。一局を終えると、流石に疲れていたのか、俺たちは直ぐに寝ることにした。いつもならこの後も数局指すのだけど、今日は眠気に負けてしまった。

 

そして翌日、師匠の運命を左右する対局日を迎えたのだった。




もうちょっとだけ続くのじゃ。
知ってる方いるかな?
この前、ツイッターで流れてきた二次創作の根元チェックチャートなるものをやってみました。
結果は、「喜」でした。
結果の説明を見て、あまりにも自分と一致していたために大爆笑してしまいました。
あのチャート、恐ろしい。
今後も、推し事のために執筆がんばっていきます。
次の投稿はあさってです。

八銀はジャスティス


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第20局 師匠の挑戦3

今話、本作にて初めての三人称視点が入ります
今後も本作は、八一視点メインに希に三人称視点が入る構図になっていきますのでご了承下さい

追記:前話、日時の記載ミスがあったためほんの少しだけ修正しております。
前話及び今後の展開には一切影響はありません。
なので、一度閲覧頂いた方は、改めて修正箇所を閲覧し直して頂く必要はございません。
この度はご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした。
今後とも、当作品をよろしくお願い致します。

合い言葉は、八銀はジャスティス


対局の朝。

清滝鋼介は、心地良い目覚めを迎えていた。快眠だった。これほど、寝起きが気持ちいいと感じたのはいつ以来だろうか?少なくとも、名人戦のシーズンに突入してからは無かったはずだ。ここのところ、禄に眠れない日々が続いていた。寝ようと思い目を閉じても、次の対局のことばかりが、月光名人との名人戦のことばかりが頭に浮かぶ。次はどんな戦法で行けば勝てるんだ?何を研究していけばいい?そのことばかりが、頭に過ぎっては眠れない。眠れずに、深夜にもかかわらず盤に向かい合う日々。そして盤と睨み合って、駒を打ち付けていると、いつも2番弟子である九頭竜八一が深夜にもかかわらず対局を願い出てくれるのだ。それは実に良い気晴らしになっていた。

 

開幕局で月光名人に敗れたあの夜、鋼介は震えて眠ることができなかった。後悔、不安、そして恐怖が震えの原因だ。開幕局での大悪手に後悔した。今後の対局が不安だった。月光名人が、怖かった。震える手で、後悔混じりの棋譜並べをしていると、八一が対面に座り、声をかけてきた。将棋は一人じゃ指せないでしょ?と。その言葉に、清滝鋼介はおもわず眼を見開く。自分は今まで、一人で月光名人と対局しているつもりでいた。だが、実はそうでは無かったのだ。自分には、共に闘ってくれる、恐怖や不安を共有してくれる家族がいたのだ。そう思うと、自然と涙がこぼれ落ちてしまった。その後朝まで八一と将棋を指し、最後に鋼介は見苦しいところを見せたと八一に謝罪すると、八一は何のことですか?盤面に集中しててわからなかったです。と、(とぼ)けて見せた。本当に、自分にはできすぎた弟子だと鋼介は改めて実感した。

 

今日はその八一と、1番弟子である空銀子も応援に来てくれている。そう考えただけで、福井に入ってからの鋼介には、不安や恐怖は一切無かった。心強い家族が側に付いているのだ。

 

「カッコ悪いところ、見せられへんな」

 

弟子達は、自身に憧れを抱いてくれている。こんな、40を過ぎてやっとタイトルに挑戦できるような無才な自分に。そんな未来明るい弟子達を失望させるわけにはいかない。恥ずかしい対局は見せられない。そう考えると、普通は対局に臨むのが、弟子達に自身の対局を見せるのが怖いと感じるだろう。だが、そんな感情は鋼介には一切湧いてこなかった。むしろ、早く対局がしたいとすら考えていた。対局が、楽しみで仕方が無かった。それほどまでに、今の鋼介には自信が溢れていたのだ。対局が待ち遠しいと感じたのは、一体いつ以来だろうか。非常に充実した目覚めだった。

 

「おはようございます」

 

朝食を済ませて、早くも対局室へと入場する。そこに月光名人の姿はまだ無い。対局の準備を進める記録係と、自分の準備を進める観戦記者、集まった報道陣に立会人の蔵王達雄の姿は既にある。まだ来ていないのは月光名人只一人だけだ。

 

「おー、鋼介。早いな」

 

「なんや、対局が楽しみで楽しみで仕方なかったもので。こんな気持ち随分と久しぶりですわ」

 

「それはええことや。今日はええ対局が見れそうやな」

 

「期待しとって下さい。それと先生、今日と明日は弟子達のことよろしく頼みます。二人ともしっかりした子やから、ご迷惑お掛けすることは無いと思いますが」

 

「おー、あの子らなら今朝早くに挨拶にやってきたわ。ほんまに幼いのにしっかりした子らや。師匠の教えがええねんやろな」

 

「そんなそんな。ワシなんか何も教えてません。むしろ、ワシが教わってるぐらいですわ」

 

「謙遜せんでええ。あの子らのことは心配せんでええ。鋼介は今日の対局だけに集中しとき。聖市と二人、最高の対局を頼むで」

 

「ありがとうございます。任せといて下さい」

 

「おはようございます」

 

鋼介と達雄が会話を終えると、見計らったかのように月光名人が対局室に姿を現す。盲目なのを感じさせない優雅な立ち姿。鋼介と同い年とは思えない若々しい姿。しかし彼からは、鋼介をも上回る威厳が、覇気が感じられた。棋界屈指の天才棋士。その実力は、昔から嫌と言うほど知っている。自身の勝ち目は、低いのかもしれない。だが、それでも今日は、今日からの4連戦は勝たせてもらう。鋼介は、一歩も引かないつもりだ。

 

「もう皆さんお揃いですか?」

 

「おう。聖市が最後や」

 

「それは、お待たせしてしまい申し訳ございません。早速、初めて行きましょう」

 

月光名人は、一言謝罪すると、上座に腰を下ろし、駒袋の封を開け始めた。その手つきは、本当に見えていないのかと疑うほどに手慣れた物だった。駒袋から駒を取り出すと、お互い交互に駒を取り、初期配置に並べていく。ものの5分足らずで全ての行程を終え、後は開局の時を待つだけだ。

 

「時間やな。初めてくれ」

 

達雄が合図を出し、対局が開始される。開幕局の振り駒にて、月光名人が先手を獲得していたため、第4局となる今回は鋼介の先手となる。鋼介はゆっくりと大きく深呼吸をすると、最初の一手を動かした。この一手は、福井に入る以前から決めていた。

 

「7六歩」

 

駒を動かすと、凄まじい数のフラッシュが鋼介の手元に向けて放たれる。鋼介はその光にアピールするかのように、動かした歩をグリグリと指で盤に押しつける。月光名人が盲目であるため、彼と対局する際は、対局者は符号を口頭で言う必要がある。彼の為の特別ルールだ。

 

「ほなら、報道陣は退室願えるかのう」

 

達雄のその言葉に従い、集った報道陣は対局室を後にする。それに続いて、達雄も部屋を出て行く。出ていこうとした達雄と、鋼介の目が合った。達雄はその鋼介の視線を受け止めると、静かに頷いたのだった。弟子達は任せとけとのことだ。その達雄の反応を見て、鋼介は静かに微笑んだ。

 

「3四歩」

 

足音で部屋から全員退室したのを確認してから、月光名人は駒を静かに動かした。お互いに角道を開く展開。特に変わり映えもしない、至って普通の初手の展開だ。

 

「6六歩」

 

その月光名人の手を見て、鋼介は角道を閉じた。月光名人には、鋼介が角道を開いた時点で、いや、対局前から鋼介が何を指してくるのかはわかっていた。矢倉。鋼介が最も信頼し、最も愛着を持っている戦法だ。この後が無くなった第4局。鋼介なら必ず矢倉で来るだろうと確信していた。開幕局も鋼介は矢倉で挑んできた。その際は、急戦を仕掛けて鋼介の矢倉が機能する前に勝負を終わらせてみせた。だが、流石に今回は上手く行かないだろう。鋼介からは、急戦で来るなら急戦で来いと言うような、誘われているような雰囲気すら感じる。目には見えないが、何かを自分に訴えかけてくるように一手一手強く打ち付けられる駒から、聴覚にそのように挑発されているように感じる。

 

罠。そのような考えが思わず浮かんできてしまう。月光名人は、早くも長考し、自身が指す戦法を考える。ここまで開幕3連勝と来ているのだ。この局は落としてもいいから、罠かもしれない道を選ぼう。なんて考えることは月光名人にはできなかった。その原因は、鋼介の調子だ。鋼介は、この番勝負が始まってから対局を重ねるごとに調子を格段に上げていっている。前回の第3局では何度か負けを覚悟した局面があったほどだ。おそらくそれが原因なのだろう。月光名人の脳信号はさっきからずっと警鐘を鳴らしていた。この局で負けると、マズイと。たっぷりと時間をかけて、月光名人は手を動かした。そして直ぐさま鋼介が手を進める。その後しばらくは、お互いに小考程度に抑えて、手を進めていく。しばらくして、今局の戦型が姿を現してきた。相矢倉。月光名人は、様子見も込めて鋼介に合わせる道を選択したのだ。今の鋼介に正面から挑むのは危険。鋼介が月光名人を警戒させた結果と言えるだろう。

 

お互いの矢倉が完成する少し前に、昼休憩を挟む。昼休憩の間も、鋼介は思考を止めない。相矢倉。この戦型は、実は鋼介の狙い通りの戦型だった。鋼介は、決して急戦なんてものは求めていなかった。確かに、自分は月光名人にそのように取られてもおかしくないような挑発紛いのことはした。だが、それは逆に急戦を警戒させて、じっくりと構えさせるための、望むならば相矢倉へ仕向けるための誘導、急戦を仕掛けさせないために、急戦を誘ったのだ。鋼介は、月光名人が自身を必要以上に警戒していることを感じ取っていた。あの第3局の時から、ずっと。だからこそ、彼ならこの局面で慎重策を取るであろうことをわかっていた。だからこその挑発。相手を矢倉に押し込めるための、挑発だったのだ。同じ矢倉なら、自分は月光名人よりも数を熟してきた自身がある。この土俵なら、勝ちきってみせる。そう意気込んで、鋼介は昼休憩を終え対局室へと戻っていった。

 

昼休憩後は、お互いに矢倉を完成させ、小競り合いを始めようかという展開。しかし、お互いに開戦まではいかない。お互いに長考が増えてきた。だが、まだ開戦まではいかない。時刻にして17時半を回った頃。ここにきて、月光名人が鋼介に開戦を申し込むかのような一手を放つ。これを受けるか、受けないか。開戦するか、まだしないのか。その選択が、鋼介に委ねられた形になる。鋼介はここで長考に入る。たっぷりと一時間ほどを長考に使う。そして、18時半。鋼介が手を封じ、1日目が終わりを迎える。結局、1日目は開戦を迎えることなく、静かに終わりを迎えた。しかし、この対局を見ていた者は、全員が感じ取っていた。この封じ手が開かれた直後から、この対局は一気に動くと。

 

「考えるんや。脳みそ全部使って考えるんや」

 

鋼介は、夕飯を取り自室に戻ると、床に胡座をかき、目を閉じて思考を始めた。正確には、夕飯時から、いや、先の対局中から1日目が終わった後もずっと思考を続けていた。勝つためには、考えるしかない。相手よりもより多く、より深く考えるしかない。幸い、次の一手は()()()()自分が封じた。次の一手は、対局中には既に決めてあった。だが、それを指さずに持ち時間を犠牲にして封じ手まで持って行った。そのアドバンテージ、次の手を知っているというアドバンテージを全力で活かす。

 

「考えることを止めたら負ける。考えろ。朝まで、いや明日の終局時まで考え続けるんや」

 

おそらく、いや間違いなく今頃月光名人も自室で思考を続けている。だが、月光名人は次の手を知らない。その分、自分より考えるパターンは多いうえに、深くまで考えることもできないはずだ。有利なのは間違いなく自分。自分のはずなのだ。

 

「この対局、絶対勝たなあかんねん。負けは許されへんのや。だから考えろ。考え続けるんや」

 

この対局は、弟子達が見ている。あの子達にみっともない師匠は見せられない。だから、鋼介は考え続ける。自分のためにも、弟子達のためにも、応援してくれている全ての人達のためにも。鋼介は考え続ける。鋼介はそのまま、朝を迎えるまで身動き一つせずに思考の海を泳ぎ続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはようございます」

 

朝になり、対局室に関係者が全て集まった。最後に入ってきた月光名人は、報道陣がざわついているのを感じ取った。何故、報道陣はこんな反応をしているのだ。目が見えない月光名人にはわからない。そのざわつきの原因は、挑戦者、清滝鋼介だった。この鋼介、なんと報道陣や記録係、この場に居る誰よりも早く入室を果たしていたのだ。そして、ずっと正座の姿勢で、目を閉じている。次に入ってきた記録係や報道陣が見た姿から、一切変化は見られない。ずっと同じ姿勢を維持したまま目を閉じているのだ。寝ているのか、と思った報道陣もいたが、どうやらそうでもないらしい。何やら、時々ブツブツと呟く小さな声が聞こえてくる。どうやら、その声を発しているのは鋼介だ。小さすぎて何を言っているのかまでは聞き取れないが、相当集中をしていることだけはわかる。

 

「これは、また私が最後でしたか?」

 

「せやな。聖市で最後や」

 

「これは、連日お待たせして申し訳ございません」

 

月光名人が連日の謝罪を終えると、早速駒袋から駒を取り出す。鋼介も、その開封する音に反応したのだろうか。月光が駒を取り出すと徐に眼を開いた。そして、昨日に引き続き初期配置に駒を並べていく。

 

「先手、清滝八段、7六歩」

 

駒を並べ終えると、記録係が棋譜を読み始める。それに合わせて、対局者二人が駒を進めていく。対局室に、記録係の読む符号と対局者が打ち付ける駒音だけが響き渡る。そして、遂に1日目の最後の手まで盤面が進められた。

 

「では、開くかのう」

 

立会人の蔵王達雄九段が封じ手の入った封筒を鋏で切っていく。そして中身を取り出し、確認する。

 

「封じ手は……ほう」

 

その封じ手を見て、達雄は思わず口元を緩めてしまった。それは、達雄には未知の手だった。だが、噂程度には耳にしたことがある。達雄が口にした封じ手を聞いて、報道陣が思わずざわつく。将棋を見はするが、戦法などの新情報については疎い報道陣は、その見たこともない手に驚きを露わにする。だが、一部の、戦法面の新情報にも精通している報道陣達は、その鋼介の手に思わず立ち上がってしまう者までいたほどだ。プロの対局で使用された例は未だかつて無い。だが、その手は今最も研究が盛んな手とも噂されている。それは、矢倉に対する最終兵器にもなりかねない、矢倉の歴史を終わらせかねない恐怖の一手だった。棋界では今、この手を畏怖を込めてこう呼んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

矢倉殺しと。




長くなりすぎたので分割。
次回で師匠の挑戦シリーズは終わります。
おかしい。プロットの段階では1話で終わる予定だったのに(白眼
筆が乗ったら何故か4話分になってるよ……
それと、今作で初めて八一も銀子ちゃんも出てこない回でしたね。
初めてというか、このままプロットの通りに行くと完結までで唯一の回となります。
プロット通りいけば(白眼
次もあさってのはず。
分割するとは言ったけど、分割した後半部分はまだ書けてないんですよねぇ。
平日はあまり予定通りの更新を期待しないで下さい。
まぁ、投稿できるようにがんばります。

八銀はジャスティス


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第21局 師匠の挑戦4

師匠の闘いはこれからだ!
清滝鋼介先生の次回作にご期待下さい。
合い言葉は、八銀はジャスティス


矢倉殺し。

それは、今最も棋界で騒がれている戦法だった。読んで字の如く、矢倉相手に特化した戦法。殺し等という物騒な表現が使われているが、何もこれは誇大表現というわけでもない。研究が進めば進むほど、その戦法に秘められた恐ろしさが浮き出てくる。この戦法なら、矢倉という存在を棋界から消しかねない。研究に携わっている棋士達は、誰もがその事実を認めてしまった。

 

だが、未だにプロ棋戦でこの戦法が使用された事例は存在しない。世にこの戦法が出てきて、もうすぐ2年になるというのにだ。それは何故か?誰も使いこなせなかったからだ。この戦法は確かに恐ろしい潜在能力を秘めている。だが、指し熟すためにはプロでも頭を抱えるほどに繊細な指し回しを要求される。一手のミスも許されないうえに、その一手を導き出すのでさえ恐ろしいほどに難しい。

 

プロ棋戦では用いられた記録の無いこの戦法も、過去にアマチュアの、しかも小学生の大会で使用された記録がある。しかも、2度だ。1度目は昨年の小学生名人戦大阪予選決勝。使用者はこの戦法を世に出した張本人、九頭竜八一。恐ろしいことに、この戦法を世に出したのは当時幼稚園児だった子供だというのだ。だが、プロの見解ではその本人でさえ未だにこの手を指し熟せていないと言う。この手を真に指し熟せた人は、この世にまだ現れていないのだ。

 

そして2度目は、同じく小学生名人戦。その準決勝でのことだ。指し手は神鍋歩夢。当時小学3年生。歩夢は、見事な指し回しを見せた。これは、指し熟したと認めてもいいのではないか?という意見もプロの中から挙がってきていた。だが、歩夢は奇策の中にこの戦法を織り交ぜて使用しただけで、これ単体で指したわけではない。この戦法は、これ単体で矢倉を殺せる。そういう意味では、矢倉殺しを使いこなせているとは言えない、というのがプロ棋士大半の意見となった。とは言え、ここまで矢倉殺しを指せた棋士も未だ片手の指で数えられるほどしかいない。そう見ると、歩夢の才能は疑いの余地も無く将来有望、トップ棋士、それも名人に手が届くであろう才能を秘めているのは間違いなかった。現在誰の弟子にもなっていなかった歩夢。彼を弟子に取ろうと裏で熾烈な争いが行われていたという話もある。軍配は釈迦堂里奈女流名跡に上がったわけだが。

 

そして、今回の名人戦第4局。遂に、この戦法がプロ棋戦で用いられる時が来た。だが、誰が予想しただろうか。その、最初の使用者が清滝鋼介になることを。清滝鋼介は、最新研究とは縁遠い棋士と周りの棋士はイメージしている。それは、間違ってはいない。だが、その清滝鋼介が矢倉殺し、最新研究をこの大一番とも言うべき対局で使用してきた。それは何故なのか?

 

誰もが一つの答えに行き当たる。弟子だ。彼の弟子は、この戦法の開発者、九頭竜八一なのだ。弟子と研究していたのだ。この戦法を。誰もが、そう考えた。確かに、その考えは間違いでは無い。

 

だが正確には、鋼介は八一に指導対局を行っていただけなのだ。毎日のように行われていた指導対局。その戦型はいつも決まって矢倉殺しとなった。八一の矢倉殺しを、鋼介が受ける形で対局はいつも行われている。何度も歯を食いしばり、矢倉殺しを受け続けてきた鋼介。間違いなく、対矢倉殺しの経験は、全棋士トップだ。そして受け続ける内に、鋼介は自然と察することになる。この戦法に八一の棋力が追いついた時、自分は絶対に矢倉で八一に勝てなくなると。

 

そう考えた鋼介は、矢倉殺しの研究を独自に進めた。元々、受け続けていたために、知識としてはそれなりのものを持っていた。どこをどう対策すれば受けれるのか。負けずに済むのか。八一が矢倉に負けないために矢倉の研究をしたように、鋼介も矢倉殺しに負けないために矢倉殺しの研究を進めたのだ。その結果鋼介は、矢倉殺しに対する知識、経験を急速に高めていった。その結果が、この名人戦第4局だ。

 

「ま、まさか矢倉殺しがこの対局で、プロ棋界に姿を現すとは……」

 

観戦記者が驚きのあまり、呟く。それは、この戦法を知る者全員の総意だった。鋼介は、思考を研ぎ澄ませ続ける。ここから先は、繊細な盤面になる。思考を止めるわけにはいかない。考えて、考えて、考え続ける。鋼介とて、まだこの戦法を指し熟せるわけではないのだ。それでも、この戦法をこの第4局に採用した。弟子に、八一に自分のカッコいい姿を見せるために。八一への、恩返しのために。

 

「八一のおかげで、ワシはここまで充実した名人戦を送れてるんや。その恩に、少しでも応えやんとな」

 

鋼介が呟く。その呟きは、フラッシュ音に掻き消され、誰の耳にも届かない。

 

「この手は、流石に予想外でした。そうですか。私は矢倉に誘い込まれたわけですか」

 

フラッシュ音が鳴り止むと、月光名人が話しかけてくる。その様子には、珍しく動揺が見て取れる。だが、それも一瞬のことだった。直ぐに、その動揺は鳴りを潜める。

 

「それでは、初めてくれ」

 

達雄の声を聞くと、月光名人は報道陣の退室を確認することも無く、次の手を指し進めた。その手に、室内はこの日二度目の驚愕に包まれる。

 

「あ、相矢倉殺し……!」

 

そう、月光名人が放った手は鋼介と同じ矢倉殺しだったのだ。報道陣が、思わず声を出してしまう。報道陣が、ざわつき始める。矢倉殺しを月光名人が指すだけならまだいい。まぁ、それも異常ではあるのだが。月光名人は、鋼介の矢倉殺しを受けるよりも先に、自身の矢倉殺しを指して見せたのだ。これは、鋼介よりも自身の方がこの戦法を指し熟せるという意思表示にも見て取れる。

 

「報道陣の方々は、速やかに退出するようにお願いする」

 

達雄の声に我に返った報道陣は、急ぎ退室していく。それに続き、達雄も部屋を出て行く。それを足音で確認し、月光名人は口を開いた。

 

「この手をずっと研究していたのが、あなただけとは思わないことです」

 

月光名人が矢倉殺しを知ったのは、とある地方新聞社の取材でのことだった。偶々仕事の予定も無く、時間が空いていた時に舞い込んだ当日の取材オファー。普段なら日程を調整して後日に改めて席を設けるところだが、上の命令で態々福井から大阪まで急ぎやってきたというその記者に同情し、取材を受けたのが切欠だった。

 

その記者が、福井のとあるアマチュア大会で、清滝鋼介八段と、大会優勝者が行った指導対局の棋譜を読み始める。手合いが平手と聞いて、あの人はアマチュア相手に何をやってるんだという疑問も湧いたが、その疑問は、その棋譜の内容を聞き進める内に消えて無くなってしまう。あまりにも衝撃的な棋譜だった。鋼介の対戦相手は、将棋の歴史に革命を起こしかねない衝撃的な戦法を指していたのだ。そして記者に、その指し手がまだ幼稚園児であることを聞いて更に驚く。この手は、未熟な子供が偶々指したような、そんな偶然の産物などでは決して無い。その後の展開からも、この戦法に対する明確な意思が見て取れる。月光名人は確信する。10年、いや、5年もすればこの少年は棋界にその名を深く刻み込むであろうことを。それが、月光名人と矢倉殺しの出会いだった。

 

これは、矢倉殺しを八一が初めて指したあの大会当日の出来事だ。つまり、月光名人は、清滝鋼介の次に、プロ棋士で2番目にこの戦法の存在を知ったのだ。尤も、その後直ぐにプロアマ問わず世に広がっていったわけだが。あの日以来、月光名人は密かにこの戦法を研究し続けていた。月光名人という人物は、自身が残す棋譜に対する美意識が非常に高い。最短の詰みを逃してしまったなどという理由で、必勝の局面にもかかわらず投了するほどに、異常な美意識を持っている。

 

月光名人は、この戦法に出会ったときに感じたのだ。この戦法なら、後世に残すに相応しい、美しい棋譜が残せるかもしれないと。

 

「おもろいやないか。ここからは、研究勝負ということやな?」

 

「そのようですね。どちらがより深く、より広くこの戦法を研究できているか、指し熟せているか。これは本当に、おもしろい」

 

月光名人のその言葉を聞き終えると、鋼介は目を閉じ、深く、深く一度息を吸い込み、そして吐き出した。そして一気に目を見開くと、次の一手を直ぐさま指し込む。攻めの一手だ。鋼介もまた、月光名人の矢倉殺しに受けに回らず、自身の矢倉殺しを指し進めて見せたのだ。

 

「おもしろい」

 

月光名人が呟き、微笑む。そして鋼介に続いて自身も攻めの一手を返す。お互いに、ギリギリのラインまで攻めに徹するつもりだ。繊細な、限り無く繊細な指し回しが求められるこの戦法。どちらかがミスをすれば、直ぐさま主導権を相手に与えてしまう展開。極限の集中状態の中で、お互いに駒を進めていく。このまま行くと、有利なのは先手である鋼介だ。だが、このまま行くほど、この対局は甘いものではない。

 

「それは不正解です」

 

「むっ!」

 

鋼介に、最初のミスが出てしまう。直ぐさま、月光名人に咎められ、主導権を渡してしまうことになる。鋼介は、受けに回らざるをえなくなった。月光名人の、細い攻めが繋げられていく。月光流。その繊細且つ美しい攻めを賞賛して、人々はそう名付けた。その月光流が、矢倉殺しという極上の武器を備えて鋼介に襲いかかる。これは、もうお終いかもしれない。その対局を見ている者は、誰もがそう考え始めていた。だが、そうではなかった。

 

「く、崩れない……!」

 

観戦記者が思わず声を出す。鋼介は、崩れない。鉄壁の受けで、月光流の攻撃を受け続ける。その固さに、思わず月光名人も苦い顔をしてしまう。鋼鉄流。名の通り、鋼鉄のように固い鋼介の受けを賞賛して人々はそう名付けた。元々固い鋼介の受けは、この2年ほどで更に磨きがかかった。原因は八一だ。

 

八一の矢倉殺しを受け続けたことによって、鋼介の受け技術は磨かれていった。更に対矢倉殺しとあっては、間違いなく鋼介は全棋士の中で最も固い存在だ。矢倉殺しに対する経験値が、違いすぎる。月光名人とて、驚愕すべきレベルで矢倉殺しを指し熟して見せている。だが、まだ完璧には届いていない。だとしたら、鋼介ならば受けられる。磨かれた鋼鉄は、月の光を一切通さなかった。そしてここまで完璧に受け続けると、流石の月光名人にもミスが出てしまう。

 

「それは不正解や」

 

「くっ」

 

月光名人が、思わず苦悶の声を漏らす。これで攻守逆転だ。月光名人が受けに回る番がやってきた。だがここで、昼食休憩の時間となる。月光名人としては、気持ちの切り替えをする時間が設けられて、助かった部分も多い。一方の鋼介としては、このまま勢いに乗って攻め込みたかっただけに、少し残念なタイミングとなってしまった。

 

昼休憩が開けると、直ぐさま鋼介は怒濤の攻勢に打って出た。攻める、攻める、攻める。ここで決めるという意思がはっきりと見て取れる。しかし、月光名人もその鋼介の猛攻を冷静に受けきって見せる。矢倉殺しは、完璧に指し熟せれば矢倉相手に必勝の戦法となる。しかし、トップ棋士である二人をもってしても、この戦法を完璧には指し熟せていない。だからこそ、ギリギリで受けることができる。

 

「んな!?」

 

そして、自身でも気づかない隙を作ってしまう。それを、月光名人にしっかりと捉えられ、手痛い反撃が飛んでくる。そこからは、またも月光流が牙を剥く。鋭く繊細な攻撃が、鋼鉄の隙間を縫うように襲いかかってくる。鋼鉄流でも、受けきれない。ここにきて、月光流の鋭さが増しているのだ。それは月の光なんて優しいものではなかった。まるで、鋼鉄をも溶かすレーザー光線だ。鋼鉄流の受けに、徐々に穴が空いていく。そして遂に、鋼介は追い詰められてしまった。

 

「必至だ……!」

 

観戦記者が呟いた通り鋼介に、必至がかけられてしまったのだ。必至とは、次の一手から確実に即詰みにされてしまう状態のことだ。今はまだ王手がかかっていない。だが、次の相手の一手で、確実な死が鋼介に待っている。鋼介もそれは当然わかっている。鋼介に残された選択は二つ。投了か、悪足掻きか。長考に入る鋼介。とここで、幸か不幸か夕食休憩の時間がやってきた。全二日制タイトル戦の中でもこの名人戦だけ、2日目の夕方に夕食休憩が設けられるのだ。休憩時間は三十分。この三十分で、鋼介はこの後の展開を必死に考慮する。

 

「勝ち目は、ないんかな……」

 

夕食をいただきながら、脳内で勝つ道筋を模索する。だが、見つからない。いくら探しても、見つからない。頭でいくら考えても、導き出される答えは一つだけ。投了という選択だった。それは、この対局を見ている者の大半も同じ考えだった。この休憩は無駄なんじゃないか?どうせ、再開されたら直ぐに投了して終わりなんじゃないか?ほぼ全ての者がそう考えていた。そして、休憩が終わり対局が再開される。再開されると、鋼介は静かに駒を動かした。王手だ。その手を見て、ほぼ全ての観戦者が察した。形作りだと。それは、月光名人も同じ考えだった。鋼介の王手を、小考して躱す。それを、2度3度と繰り返していく。4度5度と続けていく。6度7度と終わらない。そしていつしか、10度目の王手を迎えていた。ここまで来ると、皆察した。これは、形作りなんかではないと。

 

「この程度で諦めとったらなぁ」

 

鋼介が、一際高く持ち駒を上げる。その眼は閉じられていて、何を考えているのかまでわからない。そして、一気に眼を見開くと、上げていた駒を力強く盤上に叩きつけた。

 

「あいつらの師匠は勤まらんのや!」

 

決意の篭もった瞳で、鋼介は吠える。その心は、まだ折れてなどいなかった。鋼鉄流。鋼介の棋風を称えるこの異名は、何も鋼介の受けの固さだけを称えたものではない。強靱な精神力。鋼鉄のような、強い心こそがこの異名の真の正体だ。決して折れない心で、鋼介は王手をかけ続ける。王手が止まれば、その時点で鋼介の負けが確定する。鋼介が勝つためには、王手をかけ続けるしかないのだ。このまま即詰みまで持って行くしかないのだ。あるかもわからない、詰みまで。

 

「ワシは諦めへんで。王手が途切れるその時まで、何手先まででも付き合ってもらうで」

 

「……望むところです」

 

鋼介の王手ラッシュは続いていく。途切れない王手。そして、徐々に、徐々にその対局の結果に気づき始める者も現れ始めた。

 

「……月光さん、いつから気づいとった?」

 

そして鋼介も、その一人だった。思わず、自身より先に気づいていたであろう月光名人に尋ねてしまう。

 

「何の話ですか?」

 

「とぼけてもあかんで。気づいとったんやろ?即詰みの存在に」

 

そう。月光名人には、即詰みが確かにあったのだ。遙か先、75手詰めという即詰めの手段が。最初は気づいていなかった者達も、手が進むにつれて見えてくる者も現れ始めた。鋼介がその存在に気づいたのは、40手目を超えてからのことだった。

 

「……最初の一手目の時です。少し考えて、存在には気づいていました。しかし、まだ清滝さんも気づいていない様子でしたので、バレないように指し回していました。ですが、2度3度と正解手順を進まれる度に、流石に焦りが出てきましたね。気づかれたのならば、これ以上は続けても意味が無いですね。私の負けです」

 

月光名人が投了をする。感想戦を経てわかったことなのだが、この局面での即詰みの方法は、なんと一通りしかなかったのだ。少しでも、別の道から王手をかけていると即詰みにはできなかったのだ。鋼介は、気づかぬままに、20度連続で正解手順を踏み続けていたことになる。正に、奇跡的勝利だ。その奇跡は、ニュースでも大々的に取り上げられ、平成史に残る名局として人々の胸に刻みつけられることになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「八一!師匠が、師匠が……!」

 

「うん、師匠が、勝ったんだ……!」

 

俺と銀子ちゃんは、別室で待機しながらこの二日間、片時も離れずに師匠の応援を続けていた。蔵王先生は立会人として対局室に向かったためここにはいない。他の棋士の人達も、対局室に向かったため今この部屋には俺たち二人だけだ。喜びを露わにする銀子ちゃんの眼からは、雫がこぼれ落ちている。そして、俺の眼からも。正に、奇跡としか言い様がない勝利だった。師匠は、前生では乗り越えられなかった壁を一つ乗り越えたのだ。

 

前生との違いは、矢倉殺しの存在。まさか、この対局で両者が矢倉殺しを使用するとは思いもしなかった。流石に完璧に指し熟せてはいなかったけれども、それは仕方の無いことだろう。そもそも、前生においても矢倉殺しを完璧に指し熟せていたのは全棋士の中でも俺だけだったのだ。ソフトを頼って開発したこの戦法。指し熟すことは、あの人間コンピューターの於鬼頭さんや、棋界が誇る天才の創多でもできなかったのだ。だからこそ、この戦法は俺のオンリーワンと言われていた。結局、俺との対局以外では、矢倉は終わらなかったわけだ。

 

だが、今日の対局で二人は、十分すぎるレベルで矢倉殺しを指し進めていた。今生における皆の棋力が、どうも前生におけるそれよりも上がっている気がする。今後、俺が使用した前生の研究手は、もしかしたら高いレベルで周りの人にも使われるかもしれない。かといって、研究手を使わずに勝てるほど周りのレベルは甘くない。これは、俺も新しい戦法をまたどんどん開発していく必要があるかもしれないな。今後も、研究あるのみだ。

 

「八一、銀子」

 

俺たちの名前を呼ぶ声がした。師匠だ。師匠が戻ってきたのだ。その顔は、酷く疲れていた。あれだけの熱戦を演じた後なのだ。それも当然だろう。和服の右足の部分は、握りしめた後でしわくちゃになっていた。それが、師匠がどれだけこの対局で悩んだのかを教えてくれている。

 

「師匠!俺、俺、感動しました!」

 

「師匠、カッコよかった!」

 

「おう!ワシは、ワシはやったで!勝ったんや!まだ、名人への望みは残されたんやで!」

 

これで、名人戦は師匠の1勝3敗。後3回連続で勝てば、師匠は名人になれる。まだ、師匠の夢は終わっていない。限りなく低い可能性だが、それでも師匠は望みを繋いで見せたのだ。

 

続く第5局は、予定通り大阪で開催された。応援に行った俺たちの前で、師匠は月光名人を圧倒。2日目の昼食前に勝利して見せたのだ。第6局も、師匠の勢いは止まらない。月光名人も調子を取り戻し、一進一退の攻防を見せるが、最後は師匠の前に敗れ去った。これで、3勝3敗の指し分けとなり、名人戦は最終局へともつれ込むことになる。

 

最終局は、第4局に負けず劣らずの大激戦となった。両者全く譲らず、対局は2日目の深夜にまで及んだ。総手数300手を超える死闘。その対局を制し、最後に笑ったのは……月光名人だった。大激闘の7番勝負を制し、月光名人は見事に防衛を果たしたのだった。

 

「悔しい!ワシは、悔しい!」

 

最終局の翌日……いや、終局時には日付を変わっていたから当日というべきだろうか?判断に困るところだ。まぁともかく翌日、師匠は自棄酒を呷りながら、悔しさを露わにしていた。まぁ、勝っててもおかしくないような対局だったし、仕方ないね。

 

「師匠!元気出して下さい!次がありますよ!」

 

「八一……せやな!また、来年絶対挑戦するわ!絶対挑戦者になったるで!」

 

師匠は、俺の言葉に少し元気が出たのか、酔ってフラフラした足取りで立ち上がると、決意を込めて叫んだ。

 

「ワシは、絶対に名人になるで!」

 

師匠の今回の挑戦は残念な結果に終わった。だけど、師匠は確かな手応えを感じたことだろう。その後の棋戦も絶好調を維持し続け、各タイトル予選でも好成績を収め続けたのだ。残念ながら、あと一歩のところで挑戦者には届かなかったけれど。だけど、俺たちもその結果を見て、師匠への期待感が上がっていく。もしかしたら、今生の師匠なら、本当に前生で叶えられなかった夢を叶えられるかもしれない。思わず、そんな期待をしてしまう。だけどそれも仕方の無いことだろう。だって、今の師匠は本当に輝いて見えたのだから。これからも、輝く師匠を見続けたい。カッコいい師匠を見続けたい。いつまでもいつまでも、見続けたい。そう思わずにはいられない、名人戦後の一幕だった。




おめでとう!師匠のレベルが上がった!
師匠名人になれるといいですね(他人事
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次はまた一気に時間飛びます


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第22局 入学

銀子ちゃんのご両親って原作登場しないのかな?
八一が、娘さんを下さいって言う場面で初登場するなんて邪推していいですかね?
原作ではそこまで描かれないだろうけど(白眼
合い言葉は、八銀はジャスティス


時は過ぎゆき、早くも年を跨ぎ4月となっていた。

桜が咲き誇るこの季節。今日、我らが清滝家には超ビッグイベントが待っていた。

 

「おー銀子、よー似おうとるな」

 

「本当、今日は一杯お祝いしなくちゃね!」

 

真っ赤なランドセルを背負っている銀子ちゃん。そう、今日は我が姉弟子、銀子ちゃんの入学式なのだ。嬉しそうに、クルリと一回転して俺たちにランドセル姿を見せびらかしてくれる銀子ちゃん。

 

「八一、どう?」

 

「うん、凄く似合ってて可愛いよ!」

 

「そう?えへへ、ありがとう」

 

俺がそう言うと、銀子ちゃんは頬を赤く染めて、嬉しそうにはにかんだ。天使って、実在したんだな。

 

「ほんなら八一、銀子のことは任せたで」

 

「はい、任せて下さい!」

 

今日、師匠は名人戦に向けての研究に専念するらしい。よっぽど昨年の敗戦が悔しかったのだろう。今年に入ってからずっと、盤に向き合っている。ここまで、研究に専念する師匠は前生も含めて初めて見た。師匠は、昨年の名人戦を経験してからここまで絶好調だ。タイトル挑戦こそ、名人戦以降まだ無いものの、A級順位戦はここまで全勝中。最終日を残して既に名人挑戦権を獲得した。まぁ、最終日の相手が神様だから、全勝継続は厳しいと思うけど。

 

そして桂香さんも、師匠と同じように研究に没頭するらしい。この一年で、桂香さんは俺の妹弟子になった。今は、女流棋士目指して鋭意勉強中だ。高校を卒業したことによって、将棋を指せる時間も増えた。今生における桂香さんが、前生よりもスムーズに、女流棋士になれることを、応援している。

 

と言うわけで、今日は俺と銀子ちゃん二人での通学だ。入学式には、銀子ちゃんのご両親も出席されるそうだけど、学校までの道は俺たち二人だけだ。

 

「それじゃ、いってきます!」

 

「いってきます!」

 

俺は、銀子ちゃんと手を繋いで通い慣れた道を歩き始めた。俺にとっては慣れた道だけど、銀子ちゃんにとっては新鮮な道。運動会の応援とかで、年に数回来てくれてはいるけど、これからは毎日のように通うことになる。まぁ、体の弱い銀子ちゃんは休むことも多いと思うけど。けど、俺にとっても銀子ちゃんと一緒に学校に通うのは久しぶりだから、これからの学校生活はかなり楽しみだ。前生での小学校生活以来だから、人生丁度一週回ってきたようなものだ。俺は、通い慣れたようで新鮮な、銀子ちゃんと一緒に歩く通学路を満喫しながら、学校への長いようで短い距離を歩んでいくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

校門前に着くと、そこには銀子ちゃんのご両親が待っていた。新入生と親御さんでごった返した校門前。中に入るのも一苦労しそうだ。俺は、銀子ちゃんをご両親に預け、挨拶をすると、人混みに揉まれながら校内へと入っていった。そして、新年度になって新しく変わったクラスの教室へと入る。

 

「あ、八一君!おはよう!」

 

「八一様!おはようございます!」

 

「やっちーおはよー!」

 

教室に入ると、俺の女友達数人が挨拶をしてくれる。そして、俺の元に集まってきた。

 

「あ、八一君今度のお休み暇?暇だったら私とデー……遊びに行かない?」

 

「抜け駆けはよくありませんよ?八一様、今度のお休みわたくしの別荘にいらっしゃいませんか?極上のおもてなしを致します!」

 

「あんたもでしょ。それよりやっちー、今日終わったらカラオケでもいかない?あたしの新曲、聞かせてあげるよ!」

 

「結局あなたもでしょうが!」

 

なんだか良くわからないけど、彼女達の間で見えない火花が飛び交ってるように見える。良くわからないけど。それにしても……小学校っていいな。合法的に、こんな可愛い女の子達と共同生活ができて。これは、人生をやり直した上での最大の恩恵かもしれない。和気藹々と、彼女達は無邪気にあぁだこうだと言い合っている。それを見て、なんだか俺は癒されていた。小学校って、最高の癒し空間だな。全く、小学生は最高だぜ!……別にやましい気持ちは一切無いですよ?

 

そして彼女達のやり取りを眺めていると、チャイムが鳴る。鳴ると同時に、担任の先生が入ってきた。この先生は超の前に超が10個ぐらい付くほどに超真面目な人で、時間には厳しいのだ。チャイムが鳴る十分前から扉の前で腕時計をジッと見つめながら待機している。付けられたあだ名がタイムキーパー。その姿を見て、生徒達が慌ただしく自分の席に着く。時間を守れなかったら、この先生は怖いのだ。チャイムが鳴り終わるまでに、自分の席に着いてる必要がある。

 

全員席に着いてることを確認し、先生が今日のスケジュールを説明していく。まずこの後は、なんと言っても入学式だ。これから体育館に移動して、入学式が行われる。今日のメインイベント。と言うよりも、今日はこれだけだ。式が終われば、教室でホームルームをして解散。その後は自由だ。

 

と言うわけで、俺たちのクラスは早速体育館へと移動を始めた。超真面目な先生に先導されて体育館へと向かう。移動中の私語は一切禁止だ。体育館に着くと、用意されている座席に直ぐさま着席する。後は、新入生の入場を待つだけだ。そして、その時が来た。一斉に入場してくる新一年生達。その中には当然、銀子ちゃんの姿もあった。皆と並んで、体育館の中を席まで歩いていく。なんだか、そう、今の俺は銀子ちゃんの姉弟というよりも、保護者の気分だ。元気に入学してくれた銀子ちゃんを見て、胸に込み上げてくるものがある。眼が洪水を起こしそうだ。誰か、俺にバスタオルを渡してくれないか?

 

その後は、校長先生の話や、PTA会長の話等々、変わり映えしない祝辞を聞き、校歌斉唱をして、式は滞り無く終わっていった。新入生退場の時間となり、新入生が一斉に退場していく。銀子ちゃんも、皆と一緒に退場していく。退場していく銀子ちゃんが、キョロキョロと辺りを見渡す。そして、俺と目が合った。俺と目が合うと、ヒラヒラと軽く手を振ってくる。それに合わせて、俺も軽く手を振り返した。それを最後に、新入生達は体育館から姿を消した。在校生も、その後順々に退場をしていった。これで、入学式も終わりだ。後は、ホームルームが終われば今日の日程は全て終了だ。俺たちは、超真面目な担任に先導されて、無言で教室に戻っていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

教室に戻り、しばらくしてから、ホームルームが始まる。ホームルームも超真面目に行われ、私語を挟むと眉間に寸分違わずチョークが飛んでくる。この担任、おっかない。そして、予定終了時刻に一切の狂い無く、ホームルームは終了した。これで解散だ。ホームルームが終わると、先生はそそくさと教室から出て行く。これで、私語も解禁だ。

 

「八一君八一君!それで朝の話なんだけど、今度のお休みどうかな?」

 

「八一様はわたくしと別荘でゆったりとした時間を過ごすのです。あなたとはお出かけになられませんわ」

 

「そんなことよりやっちー、カラオケ行こ?あたし、もう予約入れちゃったんだ。二人で!」

 

そして、終わると直ぐさま駆け寄ってくる女友達連中。これが、騒がしくも楽しい俺の小学校生活だ。小学校って、いいな。

 

「八一」

 

そんな日常を過ごしていた俺に、聞き慣れた、もう一つの日常におけるパートナーが声をかけてくる。銀子ちゃんだ。銀子ちゃんには、俺のクラスのことは説明してあった。それを頼りに、態々ここまでやってきたのだろう。銀子ちゃんが教室に入ってくると、男子連中が騒がしくなる。何あの美少女、八一の知り合い?とか、すげー可愛い。お嫁さんにしたいとか、そんな声が飛び交ってる。とりあえず、銀子ちゃんにちょっかいをかけたら、全員八つ裂きだからな。

 

「銀子ちゃん?おじさんおばさんは?」

 

「八一と一緒に帰るって言ったら、先に帰ってるって。八一と一緒なら安心だって言ってた」

 

おじさん、おばさん。あの、俺に対する信頼度高すぎませんかね?前生でも、一悶着あることを覚悟して娘さんをくださいってお願いしたら、二つ返事で許可されたからな。俺たちの両親よりも、師匠を説得するのに苦労したぐらいだ。

 

「八一君、その子は誰?」

 

「新入生ですよね?もしかして、八一様の妹様ですか?」

 

「それにしては似てないような」

 

「む。妹じゃなくて、姉」

 

「姉?」

 

銀子ちゃんの言葉に、三者三様の疑問が聞こえてくる。まぁ、事情を知らなければ、何言ってるんだこいつ、と思われても仕方ないだろう。俺は、そんな疑問を抱いている彼女達に、俺たちの関係をわかりやすく説明した。

 

「なるほど!そういうことだったんだ!八一君のお姉さんか。私は、どっちかというと妹になってみたいかな。でも、一番なってみたいのは、お、およ、お嫁さ……」

 

「ですから、抜け駆けは許しませんよ?その役目は、私が一番相応しいに決まっております」

 

「はぁ?あんたも冗談言ってるんじゃないの。そんなの、あたしが一番に決まってるでしょ」

 

「ちょっと、私に決まってるじゃない!八一君だって、きっと私に夢中なんだから!」

 

「いいえ、わたくしに夢中に決まっています」

 

「あたしに決まってるでしょ?ねぇやっちー?」

 

「えー……」

 

これ、一体なんの話なの?夢中か夢中じゃないかって、一体なんの話?え?小学生に夢中になってるだろって話?そんな、俺はロリコンじゃないんだから、小学生に夢中になるわけないじゃないか。……なってないからね?

 

「……ほう?」

 

そんな三人を見て、銀子ちゃんは何かを察したように呟く。え?なんだか銀子ちゃんの雰囲気が怖いんだけど。

 

「八一、私は今からやるべきことを思い出したから、先行ってて」

 

「え?でも」

 

「先、行ってて」

 

「あ、うん。校門で待ってるね」

 

俺は、銀子ちゃんの圧に押されて頷くしかなかった。俺はそのまま、銀子ちゃんを教室に残して、校門まで一人で向かった。校門に着いて、十分ほどが経っただろうか?銀子ちゃんが校門までやってくる。

 

「おまたせ」

 

「ううん、そんなに待ってないけど。銀子ちゃん、何してたの?」

 

「お掃除」

 

お掃除?入学初日にボランティア活動でもしてたのかな?それは殊勲な心掛けだ。

 

「へー、銀子ちゃん偉いね」

 

「そう?えへへ、じゃあ、これからも一杯お掃除しないとね」

 

「うん!がんばってね!」

 

でも、銀子ちゃんってこんなにボランティア精神旺盛な子だったかな?前生でも、そんなにボランティア活動をしてた覚えないんだけどな。もしかしたら、今生での変化の一つなのかもしれない。そんな銀子ちゃんも、健気で可愛いけどね。その後俺たちは、いつものように手を繋ぎ、師匠と桂香さんが待つ家へと帰っていったのだった。帰ったら、銀子ちゃんのご両親も交えて入学パーティーだ。桂香さんがご馳走を用意して待ってくれてる。お腹も空いたし、早く帰りたいな。俺は、待っているご馳走を想像しながら、銀子ちゃんと二人帰路に着いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日のことだ。

 

「八一君、今までごめんなさい」

 

「……え?」

 

「八一様、たくさんご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした」

 

「……え?」

 

「やっちー本当に、ごめん。お姉さんを大切にしてあげてね?」

 

「……え?」

 

……なんで?

その後、今まで俺と仲良くしてくれていた女友達は、日を追うごとに俺の元を離れていき、最終的には銀子ちゃん以外の女の子は俺に近づきもしなくなっていたのだった。

……なんで?




ロリコンを小学校に放ってはいけない(戒め
銀子ちゃんには、しっかりロリコンの首に縄繋いどいてもらいましょうね
次もあさって予定

八銀はジャスティス


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第23局 師匠の挑戦 終

師匠の挑戦は、まだ終わってはいなかった!
みたいなお話かもしれない
合い言葉は、八銀はジャスティス


身を焦がす気温が段々と鬱陶しくなってきた七月。

この日、今年度の棋界における最も重要な一局が行われようとしていた。名人戦最終局。月光名人と、我らが師匠清滝八段による対局。2年連続同一カードとなった名人戦。そして、2年連続で最終局までもつれ込む大激戦となっていた。ここまで、お互いの勝敗が交互に続いている。互いに、先手番を確実に取り合う展開。最終局は、先手後手を振り駒によって決める。ここまでの展開通りにいくなら、振り駒の結果は対局の行方を左右する上で、かなり重要な役割を果たすことだろう。

 

「師匠、勝てるよね?」

 

「あれだけ努力してきたんだ。きっと、大丈夫だよ」

 

心配そうにしている銀子ちゃんを安心させるように言う。今俺たちは、旅館に設けられた待機室からモニター観戦している。今日の対局は、昨年第4局が行われたのと同じ福井のとある温泉旅館で行われる。俺と銀子ちゃんは、昨年に引き続き、対局期間中俺の実家からこの旅館に通うことにしていた。銀子ちゃんも、すっかり俺の家族に気に入られちゃって、母さんにはずっとこの家に住んでほしいとお願いされるほどだ。流石に断ったけど。

 

「さて、振り駒だ」

 

今日態々ここまで足を運んでいる生石さんが言う。生石さんが、こんな場所に出向くなんて珍しい。娘さんの飛鳥ちゃんは、今日はいない。どうやら、ゴキゲンの湯での生石さんとの対局後、飛鳥ちゃんは本格的に生石さんに将棋を習い始めたらしい。だけど、やっぱり才能が無いと言って、生石さんは将棋をきっぱり諦めるよう飛鳥ちゃんに言ったらしい。結局こうなってしまった。ここからは、飛鳥ちゃん次第だ。自分の非才を認めて、将棋の道を諦めるのか、それとも抗ってみせるのか。俺は、求められたら手助けぐらいはする。だけど、最終的に決断するのは飛鳥ちゃんだ。彼女には、悔いの無い選択をしてほしい。

 

「振り駒の結果は、月光名人の先手。これで、月光名人有利になったね」

 

山刀伐尽七段だ。生石さんや山刀伐さんだけではなく、この会場には多くの著名な棋士達が姿を現していた。あの、神様までもが駆けつけている。それほどまでに、この対局に対する注目度が高いのだ。

 

「ここまでの6局を見ると、この対局の戦型も決まってるようなもんだろ」

 

「そうだね。それは、この場にいる皆が知ってる事じゃないかな」

 

前生において、師匠の2回目の名人挑戦は全局戦型が相矢倉となり、相矢倉シリーズと呼ばれるようになった。その相矢倉シリーズを切欠に、それまで落ち目にあった矢倉が再び見直され、主流戦術にまで復興したほどに注目された対局となった。

 

そして今生のこの名人戦においても、1局から6局まで、全く同じ戦型となっている。誰もが、今局もそうなることを察している。そして、それは外れることもなく、その通りの戦型が姿を現した。

 

開局して早々、両者は自陣の囲いを形成していく。互いに矢倉を組んでいく。相矢倉だ。時間をかけることもなく、囲いを組み終えると、直ぐさま先手の月光名人が仕掛ける。その手は、この一年で将棋界に広く知れ渡った戦法、矢倉殺しだ。それに負けじと、師匠も直ぐさま矢倉殺しで応じる。相矢倉殺しだ。これまでの全6局と同じ展開。今生におけるこの名人戦は、相矢倉殺しシリーズと名付けられた。互いに一歩も引かない、真っ向からの殺し合い。流石に、あれから一年経とうが、両者指し熟すには至れていない。そう簡単に指し熟せたら、前生で矢倉は絶滅していたことだろう。

 

一年前のあの対局以降、矢倉殺しはプロ棋戦でも指す棋士が少しずつ現れるようになってきた。だが、当然のように指し熟せている棋士は一人もいない。今この対局を見に来ている山刀伐さんでも指し熟せなかった。山刀伐さんがこの対局を態々見に来ているのは、きっと矢倉殺しの研究のためだろう。あの神様だってきっとそうだ。これほど、矢倉殺しを研究するのに打って付けな対局はそうあるものではない。良い研究材料だとでも思っているのだろう。

 

「ここまでの番勝負を見て、矢倉殺しの産みの親である八一君はどう感じているのかな?」

 

「そうですね、俺としても、まさかここまで将棋界に浸透するとは思ってもいなかったので、不思議な気持ちですね。ただ、矢倉殺しに関しては、俺自身もまだ満足に指し熟せていないので、そんな未知数の戦法をこの番勝負で使い続けるのは、両対局者ともに、思い切った、勇気のいる選択をしていると思います」

 

「なるほど。面白い意見をありがとう。八一君、今度ボクと一緒に研究してみないかい?ボク一度小さい男の子と研究してみたかったんだよねぇ。二人きりで」

 

「ごめんなさい遠慮します」

 

この人、ショタもいける口だったのか!前生の頃から両刀使いと言われ恐れられてきた山刀伐さん。俺も、この人のことが恐ろしくて仕方ない。貞操的な意味で。

 

そんなことよりも対局の方だが、二人が矢倉殺しの第一手を指した直後に、月光名人が長考に入り、お昼休憩となる。控え室にも、出前の弁当が届けられる。それを食しながら、プロ棋士の方々と対局についての構想や、最近の研究についての将棋談義を交える。前生で交流のあった方や、あまり無かった方とも意見を交換でき、有意義な時間が過ごせた。特に、一角獣の異名を持つ白石さんとは、互いに角換わりのスペシャリストとして、貴重な交流が持てた。白石さんとは、前生でも交流を持ちたかったのだが、その機会が無かった方だ。こうして、今生では繋がりを持てて良かった。機会があれば、研究会を設ける約束もできて、満足だ。それを聞いて、山刀伐さんがボクも参加したいと言ってきたけど、二人で一蹴しておいた。いや、山刀伐さんが参加してくれたら、意見の幅も格段に広がって、有り難いんだけど、本人の中身が中身だからね。残念ながら、お断りします。

 

そして1日目の午後が始まった。昼休憩の間に次の手を決めたのか、休憩前に長考をしていた月光名人は、休憩が明けると直ぐに着手した。この7番勝負で幾度も師匠を苦しめた鋭い攻めが解き放たれる。しかしそれを、この7番勝負で幾度も月光名人を悩ませた師匠の鋼鉄の受けが阻む。一進一退。お互いに譲らない展開。両者互角の展開が続く中、1日目は月光名人の封じ手によって終わりを迎えた。

 

「さて、1日目は互角と言っていい展開なんじゃないかな?」

 

「そうだな。だが、お互い見たところまだ真面目に仕掛けちゃいない」

 

「そうですね。様子見程度に抑えていたように見えました」

 

「勝負は明日。封じ手が開かれた直後から……動く」

 

銀子ちゃんのその言葉に、全員が頷く。皆の意見は同じだ。勝負は明日の朝一番から。そのことを確信し、皆で夕飯を取りつつ将棋の話題に興じた。生石さんに、小学生がこの話題に付いてこれるのは異常だって言われたけど気にしない。俺は、至って普通の小学3年生ですよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、朝食を取り終えると鋼介は対局室へと向かっていた。名人戦最終局、二日目。持将棋による持ち越しが発生しない限り、今日で決着が着く。今日の対局が終わる頃には、名人の座に着いている人物が決定する。

 

「この一年、いや、もっと、うんと前からや。棋士を目指していたあの頃から、ずっとあの席を目指してたんや」

 

その席に座れるのは、年に一人だけ。難易度のあまりにも高い椅子取りゲーム。その椅子を目指して、この一年間、鋼介は自身でも驚くほど真摯に将棋に向き合ってきた。その成果を、これから全て出し切る。相手の力は強大だ。だが、鋼介には恐れなど無かった。

 

「負けようが、ワシには失うもんなんて無いんや。恐れる必要は無いわ」

 

負けたところで、今まで通りの日常が戻ってくるだけだ。今までと何一つ変わり映えのしない日常が。

 

「どうせなら、勝ってあの椅子に座ってみたい。あの椅子を夢見て、ずっとワシは闘ってきたんや」

 

そう意気込み、鋼介は対局室の扉を開けた。そこには、既に月光名人の姿があった。

 

「おはようございます。待たせてもうたかな?」

 

「おはようございます。いいえ。ほんの少しだけの差でしたよ」

 

「さよですか。ほんなら、早速始めて行きましょうか」

 

駒を並べ、記録係が読み上げる棋譜通りに動かしていく。この名人戦で7度目となるその行程を二人は進めていく。そして並べ終えると、立会人が封じ手を開く。立会人が読み上げた封じ手は……頭金を打ち鋼介玉にいきなり王手をかける手だった。

 

「むっ!」

 

鋼介は、その手を見るなりいきなり身構える。その手を予想していなかった訳ではない。むしろ、月光名人なら一番指してくる可能性が高い手だとさえ感じていた。それと同時に、一番指されたくない手だとも感じていた。その手を、予想に違わず月光名人は選んできた。ここから、一気に攻め立てるつもりだ。

 

「おもろいやん。受けて立つわ!」

 

鋼介は気合と共に、力強く玉を動かし、金を取る。

 

「顔面受け!?」

 

観戦記者が思わず声を上げる。まさか、この局面でいきなり顔面受けをするとは思いもしなかったのだ。顔面受けは、王が上部から攻めてきてる駒を自ら取り、上がる行為だ。王が相手に晒される格好になり、王手がかけられやすくなるリスクがある。矢倉殺しによって削られ、既にお互いの矢倉は見る影も無い無残な物になっている。それならばと、鋼介は矢倉を放棄し、玉を上部に逃がしたのだ。しかし、それこそが月光名人の罠だった。

 

「清滝さんなら、そう来ると思っていましたよ」

 

鋼介玉に向けて、月光名人の鋭い王手ラッシュがかけられる。一手でも受け損なえば、即座に詰みまで誘導されてしまうような、死の光線。まるで、赤外線の警報装置だ。その張り巡らされた線を、鋼介玉はスイスイと潜り抜けていく。

 

「ワシも、月光さんならそう来ると思ってたで」

 

いくら王手をかけても、鋼介の玉は意にも介さずスイスイと潜り抜けていく。まるで、掴むことのできない鰻のような動きだった。スイスイと盤面という川を泳ぎ、時には持ち駒という岩を投擲し、その影に隠れさせる。連続王手によってプレッシャーをかけ、鋼介のミスを誘おうと考えていた月光名人の思惑は、鋼介の受け技術の前に崩れ去ってしまった。だが、月光名人も、只では終わらない。

 

「さぁ、捉えましたよ」

 

「むっ!?」

 

張り巡らされた赤外線は、幾重にも重なり、鰻を捕らえる網を形成していた。月光名人の策略は、二段構えだったのだ。王手ラッシュで相手のミスを誘えなかった場合は、張り巡らせた罠によって、相手玉の逃げ場を消してしまおうという、隙の無い二段構え。その作戦は、見事に鋼介玉を追い詰めていた。

 

「その策も読めてたで」

 

「……くっ!?」

 

追い詰めた、ようにも見えた。鋼介は、逃げながらも持ち駒を盤に投入し、時には移動合いも駆使して月光名人の王手ラッシュを、岩に隠れるかの如く躱していた。その岩が、気がつけば実に強固な囲いを形成していたのだ。鋼介は、月光名人の第一の作戦を躱しながら、第二の作戦を受ける準備まで進めていたのだ。お見事としか言いようのない受け技術だ。

 

「攻める手立てがもう無いみたいやな。それやったら、次はワシから行かせてもらうで」

 

そして、鋼介の攻撃が始まった。徐々に月光名人玉を追い詰めていく鋼介。月光名人のように、鋭さは無い。そんな攻めのセンスは、鋼介には無い。だが、今まで培ってきた経験を武器に、鋭い、センスに溢れた攻撃を幾度も防いできた経験を武器に、月光名人玉を攻めていく。受け将棋を生業とする鋼介だからこそ、受ける側は、何をされるのが一番嫌かが手に取るようにわかるのだ。その一番嫌な手を、躊躇いも無く打っていく。月光名人の顔が、苦悶に歪む。月光名人が苦しんでいる。後一歩で、鋼介は名人になれる。しかし、その一歩が届かない。先ほど受けに回した分、攻め駒に使える持ち駒が不足しているのだ。このままでは、攻めきることができない。あと一歩なのだ。ここは無理をしてでも、攻めに行く。鋼介は、やむを得ず、受けに回していた駒を攻めに使うべく押し上げた。だが、その隙を逃すほど、目の前の名人は甘くない。

 

「ぐっ!?」

 

鋼介が開けた僅かな穴を、的確に突いてくる。恐ろしく正確な攻め判断。精密な攻撃。針の糸に穴を通すかのような攻撃が、ほんの僅かな鋼介の隙を貫く。そして、その小さな、本当に小さな穴をこじ開けて、巨大なものへと変えていく。本当に僅かだった隙は、いつの間にか明確な隙へと変異していた。

 

「今度こそ、追い詰めましたよ」

 

「……これは、流石に厳しいな」

 

弱音を吐く鋼介。しかし、この状況では、如何(いかん)せん厳しいのも事実。投了。その二文字が鋼介の脳裏に過ぎる。ここまで、指せたのだから十分だろう。自分は、十分頑張っただろう。良い対局だったじゃないか。そう、鋼介は自身に言い聞かせた。

 

元々、ここまでこれたのは自分にとってできすぎだったのだ。A級順位戦だって、最終日にまさかの、あの神様に勝っての全勝達成。この名人戦でも、月光名人と互角以上に渡り合って、最終局までもつれ込む大熱戦。できすぎだったのだ。

 

元々、自分には負けても失う物なんて無かったのだ。ここで負けても、元の、いつも通りの日常に戻るだけだ。あの、関西の皆がいて、道場の常連さんがいて、桂香がいて、二人の弟子がいるあの日常……

 

そこまで思考して、鋼介は思わずハッとする。そうだ。弟子だ。この対局前も、いや、去年のあの名人戦の時からずっと、弟子達は自分が名人になると信じてくれていた。自分は、将来名人の弟子になるんだと二人して言い合っていたのも記憶に新しい。

 

そうだ。自分には、確かに負けて失う物は無いのかもしれない。だが、何かを失うよりも、もっと重要なことがあったのだ。負けてしまったら、愛弟子達からの期待を裏切ってしまうことになる。それは、それだけは絶対に避けたいことだった。

 

「なら、勝つしかあらへんやん」

 

そう。そうならないためにも、鋼介は、勝つしかないのだ。こんな自分に期待してくれている、幼い弟子達を悲しませない為にも。

 

「銀子、八一、お前らを、したるからな」

 

そして鋼介は、深く息を吐くと、覚悟を決めて一枚の駒を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「名人の、弟子に!」

 

鋼介が動かした駒。それは玉だった。上から攻めてきていた駒に対して、再びの顔面受けを披露してみせたのだ。鋼介は、再び囲いを放棄する選択を取ったのだ。そして、敵陣めがけて玉が駆け上がる。入玉の構えだ。

 

「そうは行きません!」

 

それを阻まんと、月光名人の猛攻が攻め寄せてくる。その猛攻を必死に潜り抜け、鋼介は敵陣を目指した。相手の攻め駒を躱し、時には奪って敵陣を目指す。しかし、月光名人はそう簡単には入玉を許してくれなかった。

 

「これで、終わりですね」

 

必至だ。鋼介に、必至がかけられてしまったのだ。次の月光名人の一手が、確実な死を自身に与えてくれる。鋼介は、それに抗うことができない。

 

「ほんまに、終わってもうたな」

 

「えぇ、本当に、良い対局でした」

 

「ほんまにええ対局やった。月光さん、おおきにな。この対局……ワシの勝ちや」

 

「……何?」

 

鋼介のその言葉に、キョトンとする月光名人。それもそうだろう。既にこの対局は、自身の必勝の形が完成しているのだ。負けるはずがない。

 

「月光さん、勝ちを確信してたんやろうけど、勝負を急ぎすぎたな。あるいは、もし、月光さんの眼が見えてる状態やったら、気づけたかもしれへんけど」

 

「……何が言いたいのですか?」

 

「ワシは、月光さんの攻撃を避けながら、月光さんの駒を数枚取ってたわけやけど……そこから、見えてくるもんは無いか?」

 

「?……ッ!?」

 

鋼介のその言葉を聞き、数秒考えると、月光名人は、思わずといった様子で、盤に張り付くほどに顔を近づけ、凝視をしていた。見えるわけも無いのに、見ざるをえなかった。自分としたことが、見落としてしまっていたのだ。自玉の詰み筋を。

 

鋼介に渡した駒は4枚。その4枚があれば、自玉は詰まされてしまう。なんということだ。自分は、なんであの駒達を鋼介に渡してしまったんだ。と考え、そこで月光名人は一つの可能性に気づく。

 

「まさか、清滝さん、これを狙って……」

 

鋼介からの返事は無い。それが、月光名人に、自身の考えが正しかったことを教えてくれる。月光名人が、鋼介に必至をかけられるルートはいくつかあった。鋼介がどのような逃げ方をしても、自身は詰ませることができる自信があった。そして、確かに自身は鋼介を必至に追い込んだのだ。その複数合ったルートの一つを辿って。そのルートの中で、この4枚の駒を鋼介に渡してしまうルートは一つだけだった。月光名人は、自身が鋼介を追い詰めているように見えて、実は鋼介に誘導されてしまっていたのだ。自身が、このルートで鋼介を必至に追い込むように。

 

「月光さんなら、正確にこの道を選んでくれるって信じとった。ワシの眼に、曇りは無かったわ」

 

そして、早速王手をかける。まずは、一枚目。持ち駒から、桂馬を手に取り、4六に打ち付ける。桂馬の懐には、聖市自身の桂馬がいて飛び込むことができない。他にも、聖市自身の駒がいて、実質動ける先は1カ所だけだった。6八に玉をずらす。

 

その玉の目の前、6七に、香車が打ち付けられる。取るわけにはいかない。香車の直ぐ後ろには、合駒として打ち付けられた歩が香車を守っている。聖市は、自玉をさらに横、7八にずらした。その頭、7七に、今度は飛車が打ち付けられる。これまた、取るわけにはいかない。その飛車を守るように、追い詰めた相手玉が控えているのだから。聖市は、さらに横、8八に、自玉を逃がす。

 

その玉を、飛車が追ってくる。再び頭である8七に打ち付けられる飛車。その姿は、反転して、龍王へと姿を変えていた。当然まだ相手玉の加護範囲内なので、取るわけにはいかない。聖市は玉を、斜め後方に移動させた。そこは、9九の地点。もう、聖市の玉に逃げ場はない。その玉の頭、9八に銀が打ち付けられる。これで、完全な詰みだ。

 

「どうや月光さん?素晴らしいやろ?ワシの子供達は」

 

桂、香、龍、銀による包囲網。その包囲網が、聖市の玉を、見事に詰ませてみせたのだ。

 

「えぇ、本当に素晴らしい。素晴らしすぎて、思わず投了するのを忘れていました。あなたの勝ちです。おめでとうございます。……()()()()

 

こうして、名人戦7番勝負は、清滝名人の誕生によって幕を閉じた。2年連続同一カードとなったこの名人戦は、人々の記憶に長く残り続けることとなる。名局揃いの7番勝負として。

 

 

 

 

 

 

 

 

「師匠!」

 

俺と銀子ちゃんは、嬉しさのあまり、対局室に駆け込み師匠に飛びついていた。本当に、本当に良かった!前生でも叶えられなかった、師匠の夢が叶って!

 

「おー、銀子、八一。おおきにな。お前達の御陰で、ワシは名人まで上り詰めることができたわ。ワシは、ワシは、名人になったんや!」

 

師匠のその心のこもった叫びを聞いて、俺と銀子ちゃんは思わず涙を流す。きっと、今頃は桂香さんも家で泣き崩れていることだろう。師匠の目にも、喜びの涙が浮かんでいる。

 

「清滝名人、今から打ち上げを行いますので、別室への移動をお願いします。お弟子さん達も、どうぞこちらへ」

 

旅館の従業員さんが俺たちを先導してくれる。それに従い、師匠を先頭に、俺と銀子ちゃんは手を繋いで着いていく。前を歩く師匠の背中は、大きかった。師匠の背中って、こんなにも大きかったのか。こんなにも、広かったのか。その背中に、俺は憧れた。あぁ、やっぱり師匠は、昔から変わらず、俺の憧れの人なんだ。それは、生まれ変わった今も変わらない。俺は、この人に憧れて、強くなったのだから。俺が目指すべき存在。目指したい存在。掛け替えのない存在。師匠は、いつだって、俺にとってそういう存在だった。きっとそれは、これから先も変わらないことだろう。銀子ちゃんとはベクトルが違う、俺に取って掛け替えのない、唯一無二の大切な人だ。これからも俺は、この背中を目指して精進し続けよう。俺は、師匠の背中を見てそう思ったのだ。これからも、努力し続けよう。少しでも、師匠の背中に追いつけるように。努力し続けよう。目標に向かって、近づけるように。これからも、努力し続けよう。その背中に静かに、俺はそう誓ったのだった。




清滝名人!おめでとうございます!
正直、師匠を名人にするかどうか凄い悩んだけど、師匠には名人になってほしいという自分の想いが勝って、名人になっていただくことにしました。
清滝名人!おめでとう!
次は……あさって投稿できるかわからないです……
最近、仕事の方が繁忙期に入ってきまして、超勤がパラダイスしている現状です。
今週も超勤エブリデイな感じなので、あさっての投稿は期待しないでください。遅くても木曜日には投稿できるように頑張りますので。
水曜か木曜ということでどうかお願いします。

八銀はジャスティス


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第24局 関東からの来訪者

現在、本作の八一は小学三年生
本来なら、この年に小学生名人になってるんですよね
その辺りに関係するかもしれないお話……なのかな?
合い言葉は、八銀はジャスティス


感動の名人戦から数日が経過した。

学校は明日から夏休み。つまり、今日で終業日を迎えた。明日からの夏休み、また、銀子ちゃんとどこかの道場に武者修行にでも行こうかな、と考えながら俺は学校から将棋会館までの道を一人歩いていた。隣に、銀子ちゃんはいない。1年生と3年生では、終業を迎える時間が違ったのだ。終業日ぐらい、学年関係無しに終業時間統一しようよと、声を大にして言いたい。そして、銀子ちゃんは俺よりも早く学校を終え、先に将棋会館に向かったのだ。今頃は、棋士室で誰かと対局でもしていることだろう。

 

そして俺も将棋会館に着き、中へ入る。中へ入ると、自動販売機へと一目散に向かった。喉が渇いていたというのもあるけど、待たせてしまったお詫びに、銀子ちゃんに買っていこうかと思ったからだ。俺は小銭を入れて、ペットボトルのお茶を二本購入し、取り出し口から取る。

 

「だーれだ♡」

 

お茶を自販機から取り出し、立ち上がった時だった。背後から、目を手で隠される。背後から聞こえてきたのは少女の声だった。その声は、非常に聞き覚えがあった。と言うよりも、誰かは既にわかっている。突然のことに、なんでここにいるんだ?という疑問が俺の思考を占領しているだけだ。

 

「もしかして、こなたのことがわからんのどす?」

 

「いや、万智ちゃんだってことは最初からわかってるんだよ。なんでここにいるのかなって考えてただけだから、だから泣かないで!」

 

そう。俺の背後に立っていたのは供御飯万智ちゃんだ。万智ちゃんが手を離してくれたので、振り返って万智ちゃんの方を見ると、目元を手で抑えて蹲っていた。やめて!こんな場所で泣かないで!変な噂立てられるから!前生もそれでかなり苦労したんだから!主にロリコン関係で!俺は、決して、ロリコンじゃ、無い!

 

「ほんまに、こなたのこと忘れてないどす?」

 

「忘れるわけないよ!確かに直接会うのは久しぶりだけど、いつもメールや電話はしてるじゃん!」

 

「絶対、忘れないどす?」

 

「忘れるわけないって!」

 

「じゃあ、こなたのこと愛してるって言ってほしいわぁ」

 

「どうしてそうなる!?」

 

それは全くもって別の問題だろう。何故俺が万智ちゃんにそんなこと言わなければいけないのだ。今生では、まだ銀子ちゃんにも言えてないのに。冗談でも、そういうことは言うものではない。

 

「おーおー、お熱いことで」

 

万智ちゃんの後ろから、誰かの声がする。万智ちゃんに気を取られてて、最初俺は彼女の存在に気づかなかった。彼女と会うのは、初めてだ。今生では。だけど、前生ではしょっちゅう絡んでいた仲だ。万智ちゃんと三人で、よく絡んだものだ。

 

「もー、お燎。からかわんといてほしいわぁ。あ、八一君にも紹介するわぁ。この子は月夜見坂燎。関東所属の女流棋士候補どす」

 

月夜見坂燎。前生における、俺の幼なじみの一人だ。タイトル保持者経験もある、女流の強豪。彼女と万智ちゃんとは、共に小学生名人戦で初めて出会った。ここに、歩夢を加えた4人が、前生で俺が優勝した時の小学生名人戦の決勝大会出場者だ。そこで俺は歩夢に、彼女は万智ちゃんに勝って決勝戦に残っている。そこで俺が勝ったので、彼女は準優勝だったわけだ。そして彼女は、俺が参加していない今生の、今年の小学生名人戦で、()()()に輝いた。

 

前生における彼女との印象的なエピソードと言えば、彼女の結婚前日の話だろうか。態々、結婚前日に関西まで、俺の家までやってきたのだ。その時には既に俺は銀子ちゃんと結婚していて、一緒の家に住んでいたのだが、狙ったのか、丁度銀子ちゃんが不在で、俺が一人しか居ないときに、彼女はやってきた。丁度、彼女の結婚式に参加するため、関東に行く荷物を纏めているときだった。彼女は、翌日になれば会えるにも関わらず、態々関西までやってきたのだ。

 

やってきて何をしたかというと、特に何もしていない。ただ、いつも通りに和気藹々と駄弁ったぐらいだ。それで満足したのかはわからないが、彼女は直ぐに関東へと帰っていった。去り際に見せた、初めて見るような彼女の悲しそうな顔が印象的だった。その顔に込められた意味は、終ぞ俺にはわからなかった。

 

その後銀子ちゃんにそのことを話したら、だから以前にも言ったでしょ?一番良い人は私のものだって。とだけ言われた。やっぱり俺には、意味がわからなかった。

 

「お前が九頭竜八一だな?万智の憧れの棋士だって言うからどんな野郎かと思えば、案外弱っちそうだな」

 

「お燎、流石にこなたも怒るときは怒るでおざるよ?」

 

万智ちゃんが、俺の代わりに怒気をはらんだ声で燎ちゃんを咎めてくれる。俺としてはそこまで気にしてないんだけど、彼女の気持ちは有り難かった。

 

「そうカリカリすんなって。どうせ、実際に指せばわかるんだからよ」

 

「そうだね。棋士にとっては、それが一番手っ取り早いね。万智ちゃん、俺の代わりに怒ってくれてありがとう。でも、俺は気にしてないから大丈夫だよ」

 

「八一君……わかったどす」

 

「そんじゃ、道場にでも行って指そうぜ」

 

燎ちゃんの意見に従って、三人で道場へと向かう。道場に入り、適当な場所に座ると、早速燎ちゃんと駒を並べていく。彼女との、今生での初対局。前生において、攻める大天使の異名で呼ばれた、女流棋士屈指の攻め将棋の指し手、月夜見坂燎。その攻めセンスは、当然今生でも変わらない。対局が始まるなり序盤から激しく攻めかかってくる燎ちゃん。確かに良い攻めだ。だけど、如何せん単調すぎる。この程度の攻めならば、簡単に受けることができる。

 

「なるほどな。この程度じゃ楽勝ってか。そんじゃ、更にテンポ上げてくぜ!」

 

そう言うと、宣言通り燎ちゃんの攻めが速くなり、鋭さを増した。それでも、俺の受けを破るほどではない。敢えてこちらから攻めることをせず、燎ちゃんにばかり攻めさせて、それを受けていく俺。燎ちゃんは、自分の攻めが全く通らないのに焦り、無理をして攻め駒を増やしていく。こちらが全く攻めないことを良いことに、受けに割くべき駒を使いつぶしていく。それでも、俺の受けは破れない。

 

「んな!?なんなんだよその変態的な受けは!?」

 

「もう終わりかな?それじゃ、そろそろ攻めるよ」

 

その後は特に見せ場も無く、俺と燎ちゃんの今生初対局は、俺の完勝となった。対局後、呆然としている燎ちゃん。ごめん、やりすぎたかもしれない。

 

「嘘、だろ……?オレが、こうもあっさりと……?」

 

「だから言ったでおざるよ。こなたに勝てないようじゃ、八一君に勝てる訳が無いどす」

 

今年の小学生名人戦の()()()である万智ちゃんがそう言う。確かに、俺は万智ちゃんとも練習対局を何度かしてるけど、負けたことは一切無い。そもそも、年の近い相手で負けたことがあるのが、銀子ちゃんぐらいなわけだけれども。そんな万智ちゃんに勝てないようなら、俺に勝つのは到底無理だろう。

 

「クソ!八一!もう一回だ!次は負けねぇ!」

 

「お燎、次はこなたが八一君と指すでおざるよ?こなたも、八一君と指したいわぁ」

 

「だったら、二面指ししようか?俺はそれでも大丈夫だよ」

 

「オレ達相手に二面指し?はっ!おもしれー!後悔するんじゃねーぞ!」

 

「こなたは、八一君と二人っきりでじっくり指したかったどすが、八一君がそう言うなら大丈夫でおざるよ」

 

二人の許可ももらったので、俺は二面指しで二人と対局する。何気に、二面指しを行うのは今生で初めてだ。多面指しのコツは、複数を同時に相手せず、一人ずつ確実に仕留めること。俺は、受けに回って、仕留めるのに時間がかかりそうな万智ちゃんを後回しにして、激しく攻め立ててくる燎ちゃんを先に相手取る。今回は受けに回らず、敢えて乱戦に興じる。

 

「オレ相手に乱戦を挑んでくるとは良い度胸じゃねーか!望むところだ!」

 

取っては取り返しを繰り返す燎ちゃんとの対局。一方の万智ちゃんとの対局は、静かなものだった。俺は燎ちゃんとの対局に比重を傾けていて、万智ちゃんとの対局は囲いの作成を行うに留めているわけだけど、対する万智ちゃんも似たり寄ったりな進め方をしていて、全く進まない。火のように激しい燎ちゃんとの対局と、水のように静かな万智ちゃんとの対局。正に、対照的な対局となっていた。

 

「ちくしょう!攻めきれねー!」

 

そして、乱戦になりながらも攻めきれない状況に痺れを切らした燎ちゃんが、無理攻めを敢行してくる。俺は、冷静にそれを受け止め、反撃に打って出る。これで、終わりだ。そう思っていたのだけど、そう簡単にはいかないらしい。

 

「同じ失敗をするかよ!」

 

燎ちゃんは、無理攻めをしているように見せかけて、受ける準備もしていたのだ。こちらの陣地に攻めてきている大駒は、的確に自分の陣地の受けにも使える位置を保っている。金銀も、こちらの陣地を押し込みつつ、俺が攻めたいルートを確実に防いできている。無茶苦茶な攻めをしているように見えて、実は攻守のバランスが保たれている。上手い。

 

「なるほど。無理攻めってわけでも無かったんだね」

 

「さっきはそれで失敗したからな。もう、あんな真似はしねーよ!」

 

「流石は小学生名人戦準優勝者。だけど、これはどうかな?」

 

「な!?」

 

俺は、相手陣地のど真ん中に、角を放り込んだ。そこは、燎ちゃんの飛車がカバーしている位置でもあった。どこからどう見ても、その位置に角を動かすメリットが見えない。角のタダ捨てだ。

 

「な、なんだ……?」

 

燎ちゃんが、その手の意図が読めずに、長考に入る。万智ちゃんも気になるらしく、自身の手を進めずに、燎ちゃんの方を見つめている。

 

「どう考えても、タダ捨てにしか見えねー……飛車を動かしたら取られるだけだって言うのに、なんで……ん?飛車を動かす?」

 

どうやら、燎ちゃんは気づいたらしい。この手の意図に。

 

「なるほど。飛車の誘導か。危ないところだったぜ。もう少しで飛車を動かすところだった」

 

そう。俺の狙いは燎ちゃんの飛車をこの位置に誘導することだった。俺が最も攻めたいルートは、今燎ちゃんの金によってカバーされている。その金を排除できれば、俺の飛車で一気に燎ちゃんの陣地を制圧できる。そしてその金を更に、燎ちゃんの飛車がカバーしているのだ。そのカバーを剥がすのが、俺の目的だった。そのカバーを剥がしてしまえば、金を取ることは可能だったのだ。そうすれば、後は勝ったようなものだった。

 

「だが、気づいちまったからにはその手には乗らないぜ。一気に行くからな!」

 

そして燎ちゃんは、俺の角を放置する選択を選んだ。放置して、俺の陣地に更に攻め込んでくる。それは、一見正しい選択に見えるだろう。だが、それは大きな間違いだった。

 

「な!?」

 

数手進めると、燎ちゃんが再び驚愕を顔に現す。俺は、その角を起点に燎ちゃんの陣地を瞬時に制圧して見せたのだ。この角には、二段構えの意味があった。一つは、先に説明したとおり、飛車をおびき出す囮。そしてもう一つは、楔だ。この角を起点にして、俺は燎ちゃんの陣地を瞬時に制圧できる手があったのだ。燎ちゃんは、それに気づけなかった。飛車を誘き出すためだけだと考えたのだ。まさか、タダで渡してしまうような捨て駒に、そんな重要な役割がまだあるとは思わないだろう。要するにだ、燎ちゃんは角を取っても、放置してもダメだったのだ。陣地を制圧された燎ちゃんは、そのまま為す術も無く投了をした。これで、後は万智ちゃんだけだ。

 

「やっと、八一君と二人きりになれたわぁ」

 

万智ちゃんが嬉しそうに言う。万智ちゃんが受けに周り、一切攻めてこなかったのは、俺と二人きりでの対局にするためだったのだ。その意図は、序盤の内に察していたけど、敢えて乗っかるようにしていた。その方が、燎ちゃんとの対局に集中できるし、俺的にも都合が良かったからだ。

 

「それじゃ、そろそろ行くでおざるよ。八一君、ゆっくり、じっくり指そうなぁ」

 

「何、してるの?」

 

そして、俺と万智ちゃんが本格的に対局を始めようかとしていた時だった。底冷えするような、そんな声が背後から聞こえてきた。俺は、壊れたブリキ人形のように、震えながらゆっくり背後を振り返る。そこには、ジト目でこちらのことを見つめている銀子ちゃんがいた。

 

「銀、子ちゃん……」

 

「何、してるの?」

 

「えっと、対局を」

 

「何、してるの?」

 

「ま、万智ちゃん達と対局を……」

 

「何、してるの?」

 

「だ、だから対局を……」

 

「私、ずっと待ってたんだけど?」

 

「すいませんでした!」

 

怖い。今の銀子ちゃんが、凄く怖かった。そんなに待たせたことを怒っているのだろうか?待たせたことは確かに悪かったけど、そこまで怒らなくてもいいじゃないか。

 

「そうだ。待たせたお詫びにお茶買ってきてたんだよ。はい、銀子ちゃん」

 

「ありがとう。けど、それは後でいい。八一、そこ変わりなさい」

 

「え?でも今対局中……」

 

「変わりなさい」

 

「はい……」

 

俺の中で警鐘が鳴っている。今の銀子ちゃんには逆らうなと、俺の経験が教えてくれている。俺は、銀子ちゃんに対局中の席を譲った。

 

「ここからは私が代わりに指す。文句は?」

 

「はぁ、今の銀子ちゃん、何を言っても引きそうにないどすわ。銀子ちゃんとは、直接対局するのは初めてどすな。お手柔らかに頼むわぁ」

 

「そっちの赤髪も、暇なら纏めて相手してあげる」

 

「はぁ?なぁ万智、さっきからなんなんだこのガキ」

 

「空銀子ちゃん。八一君の姉弟子さんでおざるよ」

 

「八一の姉弟子?」

 

「そうどす。そして、こなたの仕入れた情報によると、八一君に唯一勝てる小学生らしいどす」

 

「はぁ!?八一に!?このガキが!?」

 

そう万智ちゃんに聞くと、燎ちゃんは不躾に銀子ちゃんのことを上から下まで観察し始めた。

 

「全くそうは見えないけどな。まぁいいぜ。おいガキ。オレに喧嘩売ったこと後悔させてやるよ」

 

「ぶちころすぞわれ」

 

そして、銀子ちゃんと万智ちゃん、燎ちゃんによる二面指しが始まった。万智ちゃんとの対局に関しては、俺が指してた引き継ぎという形だ。ただ、囲いを形成しただけなので、銀子ちゃんの対局には影響ないとは思う。だけど、その盤面は直ぐに開戦するような状態にある。燎ちゃんも、直ぐにでも仕掛けていきそうだし、多面差しの定石である各個撃破はできそうにない。だが、今の銀子ちゃんにはそんなこと関係無いらしい。なんと、燎ちゃんを50手もしない内に早指しで仕留めてしまったのだ。余りにもなできごとに呆然とする燎ちゃん。何が起こったのか、まだ状況を把握できていないらしい。

 

「もう終わり。終わったんだからさっさと帰れ」

 

「ち、ち、ちくしょー!」

 

燎ちゃんは、将棋会館から飛び出していってしまった。まさか、本当に今から関東に帰るつもりだろうか?ちょっと、気の毒になってしまう。そう言えば、ここにきて、俺は思い出したことが一つある。今日のこの対局のことだ。前生のこの日、確かに俺は万智ちゃんと燎ちゃんと、ここで対局をしていたのだ。そして俺は、銀子ちゃんに、桂香さんが呼んでたと聞いて、慌てて一人で帰ったのだ。結局、大したことない用事だったわけだけど。その時、何かを思い出すように考えてた桂香さんと、銀子ちゃん、貸し一つだからね、という桂香さんの呟いた声を覚えている。その意味までは、未だに不明だが。そして、これはそれから十年以上が経って初めて知ったことなのだが、どうやら俺が帰った後、万智ちゃんと燎ちゃんは、銀子ちゃんと二面指しをしていたらしい。結果は、両対局とも銀子ちゃんが勝ったらしい。供御飯さんが、酒の席で教えてくれた。あの時の銀子ちゃん、震えるほど怖かったわぁ、と。そして今生の銀子ちゃんと万智ちゃんの対局なのだが、これまたあっさりと終わってしまった。

 

「負けました。銀子ちゃん、ほんま強いわぁ」

 

銀子ちゃんの圧勝だった。やっぱり、銀子ちゃんは強い。俺を抜きにしたら、今の小学生で相手になるのは歩夢ぐらいじゃないだろうか?本当に強い。

 

「八一君、こなた、負けて悔しいわぁ。こなたのこと、慰めて欲しいどす」

 

「そんなこと、許すわけないじゃない!ぶちころすぞわれ」

 

「痛い痛い痛い!だからいつもいつも俺の腕を引っ張らないで!」

 

そして、いつものように俺の腕を使った綱引きが始まるのだった。将棋が弱くなっちゃう!本当に、この二人は仲が良いのか悪いのかわからない。出会えば毎回、こうやって俺を使った綱引きが始まる。今回も、例に漏れなかったようだ。まぁ、二人がそれで楽しいなら、それはそれで良いかな?なんて、優しいことを考えてる余裕なんて無い。腕の感覚が無くなってきた。本当に、誰かこの二人を止めてください。俺は心から、切実に願うのだった。誰か、助けてください。




おとといー、執筆しながらー寝落ちしてたやつはー、どこのどいつだい?
あたしだよ!(ネタが古い
御陰で、昨日の投稿間に合いませんでした
申し訳無い
次の投稿はあさってで大丈夫なはず
たぶん

八銀はジャスティス


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第25局 関東からの来訪者2

もうすぐハロウィンですね
特別編半分も書けてないです(汗
合い言葉は、八銀はジャスティス


季節はすっかり秋になっていた。

茹だるような暑さが引っ込み、涼しい空気が街に流れ込んでくるようになってきた今日この頃。ここ、清滝家は来客を迎え入れていた。

 

「よぉ来てくれたな!さぁ、中に入ってゆっくりしていってくれ!」

 

「いえ、ここで結構です。一度座ると、逆に疲れてしまうのでね」

 

そう、玄関に立った女性が言った。彼女は、釈迦堂里奈女流四冠。関東を、いや棋界を代表する女流棋士だ。女王と、今はまだ存在していない女流玉座以外の女流タイトル4つ、女流名跡、女流玉将、女流帝位、山城桜花の4つのタイトルを現在独占しており、その4つ全てで永世位、クイーンの称号を手にしている。そのことから付けられた異名が、エターナルクイーン。女流名跡のタイトルに関しては10年以上保持し続けている超トップ女流棋士だ。

 

その釈迦堂さんに手を繋がれている少年がいる。歩夢だ。釈迦堂さんは、歩夢の師匠でもあるのだ。釈迦堂さんは女流玉将の防衛戦のために宮崎まで行かないといけない。彼女が帰ってくるまでの間、歩夢を清滝家で預かることになったのだ。

 

「鋼介さん。改めて、名人就位おめでとうございます」

 

「おおきにな。長年の夢が叶って、感無量やわ!それにしても、あの里奈ちゃんが弟子を取るとはなぁ」

 

「鋼介さんこそ、内弟子を一度に二人も取った話は衝撃的でした。しかも、身震いするほどの才能の持ち主と来た。九頭竜八一君のことは、今や関東でも話題の中心ですよ。そちらのお嬢さんは、まだ話題にはなっていませんが、鋼介さんのことだ。かなりの才能の持ち主とお見受けしますが、違いますか?」

 

「せやな。ワシの知る限り、唯一八一に勝てる小学生や。その凄さは、わかるやろ?」

 

「なんと……それは、同じ女として興味を引かれますね」

 

釈迦堂さんは、銀子ちゃんのことを興味深そうに見つめる。前生でも、釈迦堂さんは銀子ちゃんを度々研究会に招待したりして、何かと気にかけてくれていた。女性として、初めてのプロ棋士になれるかもしれないとして、ずっと支えてくれていたのだ。そして実際に、銀子ちゃんは女性初のプロ棋士になってみせた。その影には、釈迦堂さんの支えもあったのだ。

 

「せやけど、里奈ちゃんの弟子も凄いやないか。神鍋歩夢君やったかな?小学生名人戦でも、八一をあと一歩のところまで追い詰めたうえに、矢倉殺しをあそこまで指せるとは、恐れ入ったわ」

 

「名人の前で言うのもどうかと思いますが、将来は名人になれる器だと考えています。八一君の、良きライバルとなることでしょう」

 

「それは将来が楽しみやな。神鍋君が挑戦しに来るまで、名人を維持できるようにがんばるわ」

 

そう言うと師匠は大笑いをする。歩夢とは実際に、前生で何度も名人の座を賭けて争った。共に、永世名人まで上り詰めたライバルだ。二人で、幾つもの伝説を棋界に作り上げてきた。今生でも、歩夢とは良きライバルでありたいと思っている。

 

「それでは、余はこれで。この子のこと、よろしくお願いします」

 

「おう、任しとき!気をつけてな!」

 

そして、釈迦堂さんは清滝家を後にした。次に彼女がここを訪れるのは、宮崎での防衛戦が終わった後。彼女の勝利報告が聞けることを、願っているとしよう。そして、歩夢を中に招き入れ、居間に入ると、桂香さんが凄い勢いで駆けてきた。普段滅多に見せないその姿に、思わず恐怖を感じてしまった。

 

「まぁかわいい!ぼく、お名前は?」

 

「か、神鍋歩夢です」

 

「歩夢君ね!良い名前!」

 

「ありがとうございます。これは、実家で作っている油揚げです」

 

歩夢の実家は、東京の下町で豆腐屋を営んでいる。そこで作っている油揚げが、実に絶品なのだ。前生でも、何度かマントを翻して油揚げをお土産に持っていく歩夢を目撃したことがあるが、超絶シュールな光景だった。

 

「なんて良い子なの!?歩夢きゅん、何日でもいてくれていいからね?もういっそ、歩夢きゅんもうちの一門になっちゃう?」

 

桂香さんのショタコンモードが暴発している。その様子に、流石の歩夢もタジタジになっている。ここは一つ、助太刀に入るとするか。

 

「歩夢、早く将棋指そうぜ!」

 

「ネットでは毎日指しているではないか」

 

確かに、俺と歩夢は小学生名人戦での初対局以降、毎日連絡を取り合って、ネット対局を行っていた。今のところは、俺の全勝中だけど、ヒヤッとする場面も多く、しかも、対局を重ねるごとにその場面も増えている。俺が初めて歩夢に負ける日も、そう遠くないかもしれない。

 

「でも、やっぱりリアルな盤を挟んで指したいじゃん?」

 

「その気持ちはわかるが、それよりも我は清滝名人にたくさん教わりたい」

 

そう言って、歩夢はキラキラした目で師匠のことを見つめる。憧れの篭もった、純粋な眼差しだった。

 

「清滝名人の矢倉、並びに矢倉殺しを体感してこいとマスターから命じられております」

 

「そうか。流石里奈ちゃん。わかっとるな」

 

「清滝名人と月光先生の名人戦が相矢倉殺しシリーズとなったことが、現在関東でも大きく注目されています。是非、清滝名人にご教授頂きたく思います」

 

「ん?そうか?神鍋君、君は中々見所があるな。君になら、ワシの最新研究を披露してやってもええで?」

 

「ありがとうございます!」

 

(おだ)てられて調子に乗った師匠は、歩夢にそんな提案までしてしまう。それで良いのか師匠。それから直ぐに、師匠の矢倉講座が始まった。歩夢は、師匠の一語一句を聞き逃さないように、前のめりな姿勢で、師匠の言葉に耳を傾けている。師匠も、そんな歩夢の様子に気を良くして、饒舌に自身の矢倉論を語っていく。それは、師匠の矢倉における核心部分まで語る勢いだった。それで良いのか、名人よ。

 

そして、矢倉の講習が終われば、次は矢倉殺しだ。散々矢倉を勉強しておいて、次はその矢倉を殺す勉強をするなんて、ユーモア溢れる講習じゃないか。師匠は、先の相矢倉殺しシリーズと名付けられた名人戦を制し、名人の座に就いた。その結果、棋界では、最も矢倉殺しを指し熟せる棋士認定を受けている。とは言っても、実際に師匠も矢倉殺しを指し熟せているわけではない。そこからは、講習会ではなく、研究会という形式で矢倉殺しに触れていくことになった。俺と銀子ちゃん、歩夢、師匠の四人で研究を進めていく。

 

「この局面は、この手の方が相手の選択肢を狭められて有効でしょうか?」

 

「ううん、こっちの手の方がいい。こうすれば、相手の選択肢を狭められるだけじゃなく、自分の選択肢を増やすこともできる」

 

「なるほど。流石銀子。ええ手やな。せやけど、こっちの手の方が、更に相手玉に対するプレッシャーを強めることもできて、ええんちゃうか?」

 

「それなら、こっちの手の方がより強いプレッシャーを相手玉にかけることができますよ。それに、こう、こう、こう、と変化していけば、一気に詰めろまでかけることができる」

 

「はぁ、なるほどな。それはええ手や。流石八一やな」

 

そうして意見を交換しあいながら、矢倉殺しに対する研究を行っていく。今の俺も、棋力がまだ追いついておらず、前生のように矢倉殺しを指し熟せない。いずれ、俺の棋力が前生のそれに追いついたら、また指し熟すことはできるだろうけど、今は研究手を使ってごまかすしかない。

 

「そういえば、清滝名人は今度、アマ名人との記念対局をされるのですよね?」

 

「せやな。中々面白い相手や。棋譜を見る限り、十分プロでもやっていけそうなものやけどな」

 

アマ名人。この年のアマ名人は、俺も知っている人物だ。俺は、その人とどうしても、今生でも縁を持ちたいと考えている。その計画を、水面下で進めているところだ。前生では、月光名人とアマ名人の記念対局で、記録係を務めることによって縁が作られたけど、今生では、俺は記録係に任命されなかった。だけど、縁を作る方法なら他にもある。まぁ、ここから先はまたの機会に語るとしよう。

 

その後も研究は、桂香さんが夕飯の準備を終えるまで続けられた。歩夢は、桂香さんが食卓に並べた、歩夢が嫌いな食べ物のフルコースを見て顔をひくつかせている。これが、内弟子に入るものへの宿命なのだ。実際に歩夢は入ったわけではないけど。そして、晩飯を食べ終え、風呂を済ませたら、子供部屋で対局三昧だ。

 

「まずは銀子ちゃんと歩夢でやってみる?」

 

「うむ。よかろう。八一に唯一勝てる小学生だと聞いた。その腕前、拝見させてもらおう」

 

「私も、八一のライバルに相応しいか、見極めてあげる」

 

そして、銀子ちゃんと歩夢の対局は始まった。先手は振り駒を行い決めて、銀子ちゃんとなった。銀子ちゃんが初手を指し進める。7六歩。歩夢も合わせて、3四歩と角道を開けていく。俺には、それだけで二人が何を指そうとしているのかが、わかった。相矢倉だ。師匠に教わったばかりの矢倉を試そうとしているのだ。そしてその予想は正しく、盤上には矢倉が二つできあがった。そして俺は、ここからの展開もある程度予想ができていた。その予想は違わず、相矢倉殺しが展開されていく。最近の棋界は、矢倉殺しのバーゲンセールだな。なんて下らないことを考えてしまったが、今は頭の片隅に押し込めておく。

 

「やはりそう来たか」

 

「歩夢君の顔に、相矢倉殺しが指したいって書いてあった」

 

「なに?それは、後で消しておかないといけないな。八一、後でタオルを貸してくれないか?」

 

「はいはい。終わってからね」

 

この頃の歩夢は、純粋無垢なうえに、少し天然が入っている。歩夢は冗談でこんな返し方をしているように思えるが、実は大真面目にこんなことを言っているのだ。銀子ちゃんの冗談を真に受けてしまっている。きっと、対局が終わってから再度タオルの要求をされることだろう。面倒くさい。

 

そして対局の方だが、お互いに譲らない好対局となっていた。互いに、矢倉殺しを活かして、矢倉を崩しつつ、互いの攻めを急所に入る寸前で防いでいる。二人共に上手い。これは、中々決着は着かないかもしれない。その俺の読みは正しく、そこから数十手進んでも、互いの急所に攻撃が届かない状態が続いた。互いの矢倉はもう完全に機能していない。囲いがほとんど意味を成していない状態で、互いの攻めを受け続けているのだ。しかし、その状態がいつまでも続くわけがない。

 

「ここ」

 

「くっ!」

 

先に、銀子ちゃんの攻めが歩夢の玉に触れる。だが、歩夢も負けていない。

 

「ここだ!」

 

「ッ!」

 

歩夢の攻めも、銀子ちゃんの玉に届き出す。だが、互いに決定打には至らない。しかし、玉を追い詰め始めたのも確かな事実。このままだと、どちらかの玉が詰まされるのは時間の問題だろう。そう考えた二人は、どちらからともなく次の作戦に移行した。互いに、玉を前に進める。入玉だ。二人して、入玉を行うつもりなのだ。互いに玉を牽制しあいながら、自身の玉を前へ前へと押し進めていく。そして、互いの妨害をすり抜け、お互いの玉は相手陣地の最奥まで到達した。ここから先は、泥仕合にしかならない。持将棋の成立だ。

 

「うむ。素晴らしい対局だった。実に心躍る、良き対局だった」

 

「私も、楽しかった。歩夢君、中々強いじゃない」

 

互いの健闘を称え合う銀子ちゃんと歩夢。この時、二人の間には確かな友情が芽生えたのだ。

 

「もう一局、やらないか?」

 

「もちろん。何局だって付き合う」

 

そして、お互いに駒を初期配置に並べ直していく。うんうん。良きライバル関係の誕生かな。……あれ?俺の順番は?

 

「あ、すまない八一。タオルを取ってきてくれないか?」

 

あーはいはい。タオルね。取ってきます取ってきます。……で、俺の順番は?

 

その後も、銀子ちゃんと歩夢は互いに譲らない好対局を、就寝時間になるまで何局も続けていったのだった。実に見ていて、素晴らしい対局の数々だった。その内容に満足したのか、二人は就寝時間になって直ぐに眠りに着いてしまった。俺の隣で眠る銀子ちゃんは、よっぽど楽しかったのか、笑みを浮かべて満足そうに眠りに着いていた。その寝顔は、本当に愛らしいものだった。その寝顔を見つめながら、俺は切実に、こう思うのだった。ねぇ、俺の順番は?




歩夢きゅん、ゴッドコルドレン状態になったのっていつからなんですかね?
プロになってからかな?
そこらへんの情報無いからわかりませーん
次の投稿なのですが、すいません
わかりません……
というのも、この土日はハロウィン特別編の執筆に使いたいんですよね
次の本編の執筆は、少なくともハロウィン特別編が完成してからになります
特別編は、どうしても書きたいんですよね
まぁ、自分が書きたいだけなのですが
次の投稿がハロウィンにならないように頑張りますので、気長にお待ち頂けると幸いです
ご理解よろしくお願い致します

八銀はジャスティス


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第26局 アマ名人

お待たせしました
ハロウィン特別編が無事に完成しましたので、投稿を再開致します

ゲーム版りゅうおうのおしごと!の発売延期が決まって、ショックを隠しきれないです……
たかが一ヶ月、されど一ヶ月
早く、銀子ちゃんと将棋が指したい
合い言葉は、八銀はジャスティス


12月上旬。

この日、俺は銀子ちゃん、そして師匠と一緒にとある将棋道場を訪れていた。訪れた理由は将棋を指すため、というのはもちろんのことだが、今日は人と会う約束をしていたのだ。

 

「お待たせしてすいません!今日は招待頂きありがとうございます!」

 

夜叉神天祐アマ名人。それが今日会う約束をしていた人物だ。俺が、前生でこの人に会ったのは一度きりだった。名人対アマ名人の記念対局に記録係として参加した際の一度だけ。それ以降は、会う機会が訪れることは永久に無かったのだ。その数年後に、彼は故人になってしまったのだから。今生では、可能ならばその未来を回避したいと考えている。天祐さん、そして共に亡くなってしまった奥さんのためというのは勿論ある。だけどそれ以上に、俺は一人の少女のために、有るべき未来を変えたいと思っている。今生では、彼女に寂しい思いをして欲しくないから。

 

「急に誘ってすまんな。天祐君」

 

「いえいえ!まさか清滝名人に研究会にお誘いいただけるなんて、光栄ですね!」

 

今日天祐さんを誘ったのは、研究会を行うためでもある。前生では、マトモに天祐さんと将棋を語り合う機会は訪れなかった。今生では、幾度も機会を設けたいものだ。因みに、前生ではこの年の名人は月光さんだったため、月光さんと天祐さんが記念対局を行ったが、今生では師匠が悲願を達成したために、師匠と天祐さんが記念対局を行っている。結果は、師匠の辛勝。棋譜を後から見せて貰ったけど、本当に最後まで、どちらに転んでもおかしくない接戦だった。その対局を機に、師匠と天祐さんは意気投合し、度々連絡も取り合っていたらしい。それを知った俺が師匠にお願いして、今日の研究会へと繋がったのだ。

 

「それに、こうやって噂の天才少年君にもお目通りできたわけですし、僕としても本当に有り難い話です!」

 

「そう言ってもらえると助かるわ。知ってると思うけど、紹介するわ。1番弟子の空銀子と、2番弟子の九頭竜八一や」

 

「空、銀子です」

 

「九頭竜八一です!よろしくお願いします!」

 

師匠に紹介され、自己紹介をする。俺は、まぁ、既に棋界どころか世間でも色々と有名になってしまっている。相矢倉殺しシリーズを切欠に、メディアがこぞって矢倉殺しについての情報を流し始めたのだ。矢倉殺しを世に送り出したのが、当時幼稚園児だった俺であることも含めて。俺は天才小学生としてテレビ等の取材も度々受けるようになっていた。そして、それを後押しするようなニュースが先月あった。

 

「アマチュア名人の夜叉神天祐です。九頭竜君、奨励会入品おめでとう!」

 

そう。俺の奨励会入品、つまり奨励会初段になったのだ。史上最年少での奨励会入品。遂に、小学生プロ棋士というものが世間の皆様にとっても現実味を帯びてきたのだ。尤も、俺としてはむしろ時間がかかりすぎたと思っているが。予想以上に、ここまで苦戦してしまった。粘りに粘る相手に、一日3局の連戦。小学生低学年の俺には、体力的にも辛かった。集中を切らせて、負けることも屡々。思うように連勝ができない日々。だけど、コツコツと、少しずつ勝ち星を先行させていって、遂に先月、ここまで到達することができた。だけど、本当の闘いはここからだ。

 

今までは、例会日に一日3局行っていた対局が、ここからは一日2局に減るとはいえ、その分1局1局の濃度が格段に上がる。昇段条件も厳しくなり、辛い闘いになることは間違いないだろう。

 

「夜叉神さん、ありがとうございます!」

 

「実はな、今日天祐君と研究会がしたい言い出したんは八一なんや」

 

「九頭竜君が?」

 

「是非、天祐さんと話し合いたい戦法がありまして」

 

それは、前生の頃では叶えられなかった願い。俺は前生において、天祐さんが研究していた戦法を、形を変えて用いたことがある。と言っても、俺の武器にするために用いたわけではない。まぁ、実際にはその戦法を何度か用いて勝利していたので、その言い方も語弊があるかもしれないが。だが、自分のメイン武器にしていたわけではない。その戦法は、弟子に贈るために用いたのだ。

 

俺としても、その戦法は実に俺の棋風に合っていたため、何度か使用させて頂いた。その経験もあり、是非この戦法について、発案者の天祐さんと語り合いたいと、ずっと思っていた。その願いが、こうして2度目の生を受けて叶ったわけだ。

 

「話し合いたい戦法?どの戦法かな?」

 

「4二銀型の角交換向かい飛車」

 

「ッ!」

 

角交換四間飛車という戦法がある。その戦法は、アマチュア棋士の間で流行っていたのだが、プロ棋界ではB級戦法だとずっと言われ続けてきた。だが、振り飛車党総裁、生石充さんを中心に、振り飛車党の若手棋士がその戦法を評価し、プロでも流行することとなった。それと似ているのだ。4二銀型の角交換向かい飛車は、別にアマチュアで流行していたわけでもない。研究していたのは天祐さんぐらいだ。そして、天祐さん自身も、この戦法で結果を出せていたわけでもない。だからだろうか。この戦法は、誰にも見向きされることもなく、ずっと膨大な棋譜の海の中に眠っていたのだ。それを、俺が拾い上げた。尤も、俺一人の力じゃ拾い上げることはできなかったので、鏡洲さんに協力してもらったが。

 

「4二銀型の角交換向かい飛車か。まさか、その戦法の名前をこの場で聞くとは思ってもいなかったな」

 

「振り飛車か。生石君が好きそうな戦法やな」

 

「確かに、僕はこの戦法をずっと研究していた。だけど、思うような結果を挙げられなかったんだよね」

 

「結果は知っています。夜叉神さんの過去の棋譜を見て、この戦法の存在を知り、面白いなと思いました。それで、俺なりに、俺に合うように形を変えてみたんです」

 

「形を?」

 

「はい。まずはそれを見て頂けませんか?」

 

俺は、そう言うと盤に駒を並べ始めた。天祐さんも、俺に続いて駒を並べていく。実際に対局をしながら披露しようということだ。

 

「4二銀型の角交換向かい飛車の形を変えた戦法って、まさか……」

 

「銀子ちゃん、それ以上は内緒だよ」

 

銀子ちゃんとの日課では、既にこの戦法は披露したことがある。けど、それ以外の場では未だにお披露目したことがない。銀子ちゃん以外に見せるのは、これが初めてとなる。先手は天祐さんだ。まずは至って普通に角道を開けてきた。俺も、同様に角道を開ける。そして続いて天祐さんは、ど真ん中5筋の歩を突いてきた。ここも俺は、合わせて5筋の歩を進める。そして天祐さんは、そのまま飛車を5筋に振り、ゴキゲン中飛車に持っていった。そしてここで俺が次に指した手。その手に天祐さんと師匠が驚きの声を上げることになる。

 

「な!?このタイミングで飛車を3筋に!?」

 

「そ、そんな戦法、見たこともないで……」

 

一見、中飛車を指そうと思って、うっかり3筋まで通り越してしまったかのような一手。十万局を超える公式戦の記録においても、前例が存在しない戦法。前生でも、この戦法に名前を付ける際、色々な意見が飛び交った物だ。歩夢なんか、勝手にドラゴニック・オーバーロードなんて名前を付けてやがった。なんでも、中飛車に向かう道を通り越して3筋に向かう戦法なので、オーバーロードという名前にしたらしい。不覚にも、それを聞いて良いネーミングだと思ってしまった。そしてこれは後から知った話だが、なんでも歩夢が良くやってるヴ○ンガードというカードゲームに同名のカードがあるらしい。つまり、歩夢の奴は既存のカード名を技名に付けただけだったのだ。歩夢のネーミングセンス良いかもしれないなんて一瞬でも考えてしまった俺の感動を返せ。

 

それはともかく実際に、矢倉殺しがデッドエンド・ドラゴンテイルだと世間に広まったように、この戦法も、ドラゴニック・オーバーロードだと世間に広まってしまったわけだが。歩夢のやつ、無駄に世間への発信力が高いから困る。まぁ、世間にその名前が広まったとはいえ、俺は頑なにゴキゲン三間飛車という名前を使用していたが。因みに、俺がこの戦法を贈った少女は、自身も使う戦法にそんな名前が付けられてしまったことに、俺への怒りを爆発させていたのだった。俺は悪くない。断じて悪くない。

 

「なるほど。名前を付けるなら、ゴキゲン三間飛車と言ったところかな。その発想は、流石に無かったかな」

 

「こんな発想普通は誰もせーへんで……八一の頭がおかしいだけや」

 

「おかしいのは頭だけじゃ無いでしょ」

 

「師匠、銀子ちゃん、流石に俺も傷つきますよ」

 

俺の家族が、めちゃくちゃ言ってくれてる。誰の頭がおかしいって言うんだ。俺の頭は至って正常だぞ。銀子ちゃん、他にどこが悪いって言うんだよ。何もおかしいとこなんてないだろ。俺は、至って普通の、小学3年生ですよ?

 

「面白いね。本当に面白いよ九頭竜君!次は、どんな手を見せてくれるんだい?」

 

そう言って、天祐さんが中筋の歩を更に進める。俺は、中筋を牽制する意味も込めて、4二銀と指す。それを気にせず、天祐さんはまた更に歩を勧めて、俺の歩を取ってくる。それを確認して、俺は角の交換を行う。これで、4二銀型の角交換三間飛車の完成だ。

 

「なるほど。これが君なりの形というわけか」

 

「えぇ。俺には、この形が合ってると思いまして。変化が多くて大変ですけど、面白いですよ。夜叉神さんもどうです?」

 

「ははは、僕には到底指せそうにないかな。流石、噂の天才少年君だね。本当に面白い!」

 

そしてその後は、攻める夜叉神さんと受ける俺という構図で対局が進んでいく。とは言っても、別に俺が押されているわけではない。夜叉神さんに攻めさせているのだ。それを、冷静に受けてカウンターチャンスを狙う。攻めても攻めても、攻めきれずに焦り始める夜叉神さん。その焦りが、ミスを生み出す。

 

「なっ!?」

 

そのミスを見逃さず、俺は温存してあった角を盤上に打ち付ける。王手飛車だ。夜叉神さんの焦りが生んだ、痛恨のミスだ。攻めきれずに焦るあまり、夜叉神さんは、飛車による特攻を敢行した。その特攻が、俺に王手飛車をかけさせるミスを生んでしまったのだ。普段なら、絶対にありえないようなミス。焦りとは、時にそのような結果を生み出してしまう。

 

「うーん、これは流石に厳しいかな。負けました」

 

そして、その直後に夜叉神さんは投了をした。まだ、いくらでも挽回はできただろう。だけど、この対局はあくまで俺のゴキゲン三間飛車のお披露目目的でしかない。そこまで、真剣に指す必要も無いのだ。キリのいいところだったので、対局を打ち切るために投了という形を取っただけだ。

 

「ほんま、どうやったらこんな戦法思いつくんや。いっぺん、八一の頭ん中覗いてみたいわ」

 

「きっと碌な物が詰まってないから、やめといた方が良いと思うよ」

 

「それどういう意味!?」

 

なんでか、今日の俺の家族は辛辣な気がする。銀子ちゃんは俺の頭の中に、一体何が詰まってると思ってるんだ。一度聞いてみたいが、やめておこう。碌な答えが返ってこないだろうから。

 

「いやー、楽しかった!本当に面白い戦法だね!」

 

「でしょ?この戦法を、天祐さんと研究したいと思ってたんです」

 

「なるほど、それはまた面白そうだ!そうだ九頭竜君!良かったら明日、我が家に来てくれないかい?うん、是非来てほしい!」

 

「え?」

 

急な誘いに、俺は戸惑う。天祐さんの家。そこにはきっと、彼女がいる。早い。前生での出会いに対して、あまりにも出会うのが早すぎる。その早すぎる出会いが俺に、彼女にもたらす変化についてどうしても考えてしまう。それが、良い方向への変化なら問題無いのだが、それがわからない。だからこそ、会うのが怖い。

 

「あー、ワシは明日対局があるんや。天祐君、すまんな」

 

「いえいえ、急にお誘いした俺が悪いんですから、気にしないでください!それで、九頭竜君と空さんはどうかな?」

 

「……銀子ちゃん、どうする?」

 

「私は、八一が行くなら……」

 

「そっか……わかりました。行きます」

 

会うのは確かに怖い。だけど、それ以上に俺は、彼女に会いたいとも思っていた。結局の所、出会いがもたらす変化なんて、起こるかどうかすらもわからないのだ。それなら、気にするだけ無駄だろう。

 

「本当かい?ありがとう!娘もきっと喜ぶよ!」

 

今はただ、彼女との再会を喜ぼう。俺の、かつての愛弟子の一人だ。そうだ。明日のためにプレゼントも用意しておかないと。明日は、彼女にとって特別な日でもあるのだから。俺は、プレゼントは何がいいかな、と考えつつ、その後も4人で最新戦術の研究を突き詰めていくのだった。これはそんな何気ない、12月9日の出来事だった。




次話への導入的なお話
次回、遂に彼女が登場!
まぁ、その前に特別編投稿しますけどね

実は、ハロウィン特別編自体は土日の間に完成してたんですよね
ですが、どうも仕事が忙しく、平日中々執筆できずに投稿が遅れてしまいました
これから年末にかけて、自分の勤め先は繁忙期に入ります
その関係で、平日の投稿は減るかもしれません
なるべく隔日投稿は目指しますが、無理な場合は最低平日1話、土日1話の週2話投稿に切り替えますのでご了承ください
明日はハロウィンです
予定通り特別編をこの後、日付が変わったタイミングで投稿しますね

八銀はジャスティス


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第27局 八一、天使と出会う

金曜日の自分
「あぁ、今日も仕事疲れたなー。とりあえず、ツイッターチェックするかなー」
「ゲーム、りゅうおうのおしごと!姉弟子尽くしセット予約開始!限定数100個!」
「!?」
見た瞬間、購入を即決しました
既に予約してた分と別ハードで、無事予約できました
即日完売したと知って、あの時即決した自分の判断を褒め称えました
既に予約してあったゲーマーズの分と合わせて、限定版が二つ
出費がががが
でも、大満足なお買い物なのでした


天祐さんと研究会を行った翌日、俺は銀子ちゃんと二人で、とある一軒家へとやってきていた。夜叉神家といえば、神戸にある豪邸が思い出される。しかし天祐さんは、あの豪邸に住んでいるわけではない。奥さんと娘さんと三人で、とある一般的な一軒家に住んでいるのだ。俺はその一軒家のインターホンを押す。すると直ぐに、インターホン越しに女性の声が返ってきた。おそらく、天祐さんの奥さんだろう。

 

「はい?」

 

「こんばんは!今日招待頂いていた九頭竜八一と空銀子です!」

 

「あ、はい!主人から聞いてるわ!ちょっと待っててね!」

 

時刻はすでに夜。外もすっかり暗くなった時間に、俺たちはこの家を訪れていた。奥さんに待つように言われて、数秒すると玄関の扉が開かれた。中から出てきたのは、天祐さんだった。

 

「やぁ九頭竜君!空さん!良く来てくれたね!さ、中に入って!」

 

天祐さんに誘われて、家内へと入る。天祐さんの案内の元、通されたのはリビングだった。そこには、俺もよく知っている人物がもう一人いた。

 

「父さん。この子達が九頭竜君と、空さんだよ」

 

「ほう。この子達がか」

 

夜叉神弘天さん。天祐さんの父親だ。前述した豪邸の家主。おそらく、今日この家で行う催しのために訪れていたのだろう。お付きの人達も今日は姿が見えない。外で待機させているのだろうか。

 

「初めまして!九頭竜八一です!」

 

「空、銀子です」

 

「ふむ。幼いのにしっかりしてるな。天祐の父親、夜叉神弘天だ。今後ともよろしく頼むよ」

 

そう言って、弘天さんは握手を求めてきたのでそれに応じる。俺に続き、銀子ちゃんもそれに応じて、こうして俺たちと弘天さんの顔合わせが完了する。

 

「おとうちゃま?」

 

弘天さんへの挨拶を済ませていた時だった。リビングに小さな影が入ってくる。俺が知っている姿よりも、更に幼い少女。本当に幼い。しかし、あの少女の面影は確かにある。当然彼女とは、今生では初めましてだ。しかし、俺は彼女のことをよく知っている。それも当然だ。彼女は、前生において、俺の2番弟子だったのだから。

 

夜叉神天衣。それが彼女の名前だ。俺にとって大切な、3人の弟子の一人だ。

 

「天衣、起きたのか!おはよう!」

 

「おひゃよう、おとうちゃま、おかあちゃま、……おじいちゃま?」

 

どうやら、さっきまで天衣はお昼寝をしていたらしい。起きてきたら、両親だけではなく、家に居ないはずの祖父までいて不思議そうに、可愛らしく小首を傾げている。そして、天衣の興味の対象は、当然見知らぬ俺と銀子ちゃんにも向けられる。

 

「おにいちゃん、おねえちゃん、だーえ?」

 

舌っ足らずに俺たちに尋ねてくる天衣。え?これ本当にあの天衣なの?あの高飛車お嬢様なの?超可愛いんですけど?純粋な眼差しでこっちを天衣は見つめてくる。その目は、とてもクリクリしていて愛らしい。わかった。この子は天衣じゃない。天使だ。俺、天使と出会っちゃったんだよ。そう考えると、何故か天衣のことが余計に可愛く思えてきてしまった。可愛い。

 

「天衣、この子達はね、将来すっごく有名になるんだよ。将棋がすっごく強いんだ!天衣が大きくなったら、九頭竜君に弟子にしてもらおうね」

 

「でぃぇし?」

 

「そう!将棋の先生になってもらうんだ!天衣の先生になるんだよ!」

 

「ちぇんちぇー?」

 

「そうよ。先生よ」

 

なんだか、とんとん拍子で話が進んでいっている。あれ?今生でも俺が天衣を弟子に取るのは確定路線になっちゃってる感じでしょうか?まぁ、別にいいけれど。

 

「ちぇんちぇー!ちぇんちぇー!」

 

天衣は、嬉しそうにその場で飛び跳ねている。これは、可愛さの暴力だ。あぁ、奨励会での激戦で消耗した心が癒やされる。言っとくけど、俺がロリコンだからこんな風になっているわけじゃない。こんなの誰だってこうなっちゃうだろ。それほどの魔力を今の天衣は放っていた。俺は決してロリコンじゃないのだ。だから銀子ちゃん、そんな不機嫌そうに俺を睨むのやめていただけないでしょうか?俺の心が悲鳴を上げております。天衣に癒やされた分が相殺されちゃってるよ。

 

「ちぇんちぇー、よろちくね?」

 

「あ、うん。よろしく」

 

「えへへー♡」

 

嬉しそうに、はにかむ天衣。その笑顔は、後光が差してるかのように眩しかった。やだ、この子本当に可愛すぎる。前生の天衣を知ってるからこそ、余計に可愛く感じてしまう。この子、本当に天衣で間違いないんだよね?同姓同名で容姿が瓜二つなだけの別人じゃないよね?衝動に駆られてお持ち帰りしたくなるぐらいに可愛い。そして、俺が天衣のことを可愛いと感じていると、それに反応するかのように隣の銀子ちゃんの機嫌が悪くなっていく。重ねて言うけど、これは俺が悪いわけじゃないからね?

 

「それじゃ、天衣も起きてきたことだし、早速始めようか」

 

「準備はもうできてるわ」

 

「うむ。それでは、パーティーの時間と行こう」

 

「ふぇ?」

 

皆が何を言ってるのかわからず、またも可愛らしく小首を傾げる天衣。か、可愛すぎる……

何回でも言うけど、可愛すぎる。語彙力?そんなものこの可愛さの前には吹っ飛んじゃうね。だけど、これは決して俺が悪いわけではない。全人類きっと、今の天衣を見たらこう感じるって。だから銀子ちゃん。俺のつま先踏んでグリグリするのやめてください。マジで痛いです。

 

それはともかく、皆の準備ができたということで、今日集まった目的でもあるイベントが今から開始される。キッチンから奥さんが、ロウソクの2本刺さったケーキを運んでくる。察しの良い人なら……いや、察しが悪くてもこれからこの場所で何が行われるのかぐらい、もうわかるだろう。天祐さんが、タイミングを見計らって室内の電気を消す。これで、室内を照らすのはロウソクの明かりだけとなった。

 

「ハッピバースデートゥーユー♪ハッピバースデートゥーユー♪ハッピバースデーディアあーいー♪ハッピバースデートゥーユー♪」

 

そして、室内に響く祝福の合唱。そう。今日12月10日は、天衣の誕生日なのだ。今日俺たちは、天衣の誕生会に招かれたのだ。何が起こったのかわからず、キョトンとしている天衣。彼女は今日で2歳になった。まだ、2歳だ。誕生日の意味もわかっていないのだろう。目をパチパチさせて、周りの様子を不思議そうに眺めている。

 

「天衣、お誕生日おめでとう」

 

「おたんじょーび?」

 

「そう。お誕生日よ。今日は、天衣が産まれた日なの。一年に一度の特別な日なのよ。天衣、おめでとう」

 

「カッカッカ!本当にめでたい。これで天衣も、2歳になったというわけだ。おめでとう」

 

「天衣ちゃんおめでとう!」

 

「おめでとう」

 

全員からの祝福の言葉を受け、ようやく、今日は自分にとって特別な日だと理解できたのだろう。天衣の顔が、満開の笑顔の花を咲かせた。まるで、真冬に咲いたヒマワリの様に、その笑顔は眩しかった。

 

「さぁ、天衣。ロウソクに息を吹きかけて、消してみて!」

 

「うん!」

 

天衣が、奥さんに言われた通りにロウソクに息を吹きかけ、火を消す。そのタイミングで、部屋の明かりを天祐さんが付け、そして、室内にパンパンという破裂音が響く。クラッカーの音だ。

 

「わぁ!?」

 

「カッカッカ!驚かせたかな」

 

「あはは。天衣ちゃん、これはクラッカーって言うんだよ」

 

「くりゃっかー?」

 

「人をお祝いするのに使う道具よ。つまりおめでとう、ってこと」

 

俺と銀子ちゃんが説明する。天衣はその説明に納得したのか、クラッカーに興味を持ちだしたみたいで、キラキラした眼差しでクラッカーのことを見ている。

 

「わたしも、なりゃしてみたい!」

 

天衣がそう言い出すのがわかっていたのだろう。弘天さんが、直ぐ天衣に新しいクラッカーを手渡す。それを受け取った天衣は、どうやって鳴らすのかわからず、クラッカーを不思議そうに色々な角度から眺めている。

 

「ここを引っ張るのよ」

 

「ここ?」

 

奥さんに言われた部分を引っ張る天衣。すると、クラッカーはパン!という音を鳴らす。その音に驚き、天衣は目をパチパチさせていた。

 

「わぁ!」

 

「ははっ。いい音が鳴ったね」

 

「よーし!それじゃ、ケーキを頂こうか!」

 

「はいはーい。ちょっと待っててねー」

 

奥さんが、手際よくケーキを切り分けてくれる。奥さんが切り分けてくれたケーキを、全員が受け取り、パーティーは本格的な幕を開けた。

 

「天衣、美味しい?」

 

「おいちい♡」

 

「あはは、そうか!それは良かった!」

 

美味しそうにケーキを頬張る天衣。夢中になって食べているせいで、口の周りにクリームがベッタリと付いている。

 

「あはは、天衣ちゃん、口の周りがクリームだらけだよ」

 

「ふぇ?」

 

「ほら、拭いてあげるからジッとしててね」

 

俺は、ティッシュを使って天衣ちゃんの口周りを拭いてあげる。クリームは、ほっぺにまで飛んでいたので、そちらの方にも手を伸ばす。あぁ、天衣のほっぺ、プニプニで凄く気持ちいい。これは、癖になっちゃうかもしれない。なんて考えてたら、横に座ってる銀子ちゃんが、またも俺のつま先を踏んでグリグリしてきた。本当に痛いです。

 

「ほら、これで取れたよ」

 

「ありがちょう!えへへー♡」

 

ぬわぁ!俺の、俺の心にその笑顔が染み渡る!ここが天国ですか?天使様が住まう天国ですか?なるほど。夜叉神家は天国の住人だったのか。神なんて名字に付いてることだし、きっとそうに違いない。

 

「やいちぃ?」

 

「ぎ、銀子ちゃん、ど、どうかした?」

 

ヤバイ。そんなことを考えてると、また一層銀子ちゃんの機嫌が悪くなってきた。えー、これ、俺にどうしろって言うの?

 

「ごちちょうちゃまでちた!」

 

「ふふっ、ちゃんと言えたわね。偉いわ」

 

「えへへー♡」

 

銀子ちゃんの機嫌をどう取るか考えていると、どうやら天衣もケーキを食べ終えたらしい。手を合わせて、ごちそうさまをしていた。

 

「よーし、天衣、何かやりたいことはあるか?今日は天衣にとって特別な日だからな。なんだってお願いしていいぞ?」

 

「ほんとぉ?」

 

「えぇ。本当よ」

 

「じゃあ、ちょうぎがちたい!」

 

「カッカッカ!将棋がしたいとは、流石は二人の子供だな」

 

そもそも、2歳児が将棋なんて指せるのか?と考えて、そう言えば銀子ちゃんは2歳で将棋のルールを全部覚えたんだったと思い出す。でも、それは銀子ちゃんが特別なだけだと思うんだけどなぁ。

 

「それじゃ、折角だし八一君に相手してもらおうか」

 

「俺がですか?」

 

「八一君には、将来天衣が女流棋士になりたいと言い出した時、師匠になってもらいたいんだ。よろしく頼むよ」

 

「でも、俺、まだプロにもなってないですし、俺なんかがそう簡単に決めれることじゃ。それに、ここはやっぱり父親である天祐さんが相手をした方が」

 

「ちぇんちぇー、ちょうぎ、ちよ?」

 

「うん!思いっきりしようか!」

 

今の天衣にお願いされたら断れるわけがないよねー。俺は天衣のお願いに応え、駒と盤の準備をしようとして、あることを思い立った。

 

「そうだ。丁度良いね。天衣ちゃん、俺と銀子ちゃんからのプレゼントがあるんだ」

 

「ぷれじぇんと?」

 

「うん、そうだよ。はい!将棋盤と駒のプレゼントだよ!」

 

それは、マグネット式の将棋盤と駒だった。銀子ちゃんがいつも持ち歩いているのと、似たタイプの物だった。これなら、幼い天衣でも簡単に将棋が指せるだろうと思って選んだ。

 

「わぁ!」

 

「これで、天衣ちゃんも、いつでも将棋が指せるね」

 

「わーい!ちぇんちぇー、おねえちゃん、ありがちょう!」

 

天衣にも喜んでもらえたみたいだ。良かった良かった。天衣は、嬉しそうに将棋盤に駒を並べている。驚くことに、天衣は駒を完璧に処置配置通りに並べて見せた。

 

「へぇ、天衣ちゃん、凄いね」

 

「いつも、僕と妻のを見てるからね。自然と覚えちゃったみたいだね」

 

「流石の才能と言ったところだな」

 

2歳児で駒の並べ方を覚えるって、才能どうこうでできることなのかな?いや、銀子ちゃんって前例もいることだし、きっとできることなんだろう。2歳児ってすげー。そして俺も、天衣ちゃんと同じように駒を並べていく。ただし、数枚少ない状態だが。とりあえず、8枚落ちでいいかな。

 

「む。ちぇんちぇーのこま、ちゅくない」

 

「うん。これでいいんだよ。さぁ、天衣ちゃん、どこからでもおいで」

 

「らめ!ちゃんとやりゅの!」

 

駒落ちで用意すると、天衣に怒られてしまった。あぁ、やっぱりこの子天衣なんだな、としみじみ感じる。けど、どうしたものか。平手だと、勝負にならないしなー。困った俺は、天祐さんに助けを求めることにした。

 

「天祐さん、どうしましょうか?」

 

「いいんじゃないかな。平手で指してあげてよ」

 

「はぁ、わかりました」

 

天祐さんからの許可が出たので、俺は残りの駒も盤上に配置していく。これで、手合は平手となった。

 

「さぁ、天衣ちゃん。今度こそ、どこからでもかかってきていいよ」

 

「うん!いっくよー!」

 

そして、天衣が第一手に取りかかる。天衣が、動かそうとして手に取った駒は、飛車だった。……え?飛車?第一手で飛車?あ、天衣の奴、初手から飛車を振る気か!?こ、これは正に天衣を象徴するかのような、相手の意表を着く序盤戦術!何で来る気だ?三間か?四間か?中飛車か?それとも右四間や袖飛車の居飛車戦法か?一体、どこから来るんだ!?

 

「とってゃー♡」

 

程なくして天衣は、腕をめい一杯伸ばして飛車を俺の玉に重ねて置いてきた。……いやー!流石にその手は俺でも読めなかったなー!まさかそんな奇手があったなんて!まさかの一手負けかー!天衣はやっぱり凄いなー!

 

「あちゃー、負けちゃったかー。天衣ちゃん強いなー」

 

「えへへー♡わーい!ちぇんちぇーにかっちゃー♡」

 

天衣は、勝利に喜び、天使の舞いを踊っている。まぁ、単純に飛び跳ねているだけだが、俺にはそう見えてしまう。天衣ちゃんぷりちー。その姿を見ていた俺の口からは、自然と言葉が飛び出ていた。

 

「俺、ここに住もうかな」

 

「ぶちころすぞわれ!」

 

「痛い痛い!銀子ちゃん痛いって!」

 

俺の言葉に反応して、銀子ちゃんがポカポカ頭を叩いてくる。やめて!必死に覚えた定石とか忘れちゃうから!

 

「むー!けんかは、め!」

 

なんて銀子ちゃんと、ケンカと呼んでいいのかわからないような、いつも通りのやり取りをしていると、天衣ちゃんに注意されてしまった。どうやら、天衣ちゃんには、俺たちがケンカをしているように見えたらしい。

 

「あはは、大丈夫だよ天衣ちゃん、別にケンカをしてるわけじゃないから」

 

「そうよ。これはお仕置きだから」

 

おいこら銀子。幼気(いたいけ)な幼女の前で何てこと言ってるんだ。

 

「ふぇ?けんかじゃないなら、いい。えへへー♡」

 

あぁ、やだ本当にこの子可愛すぎる。お持ち帰りしたい。なんてことを考えてしまったけど、また銀子ちゃんの機嫌が悪くなりそうだったので考えるのは程々にしておいた。

 

その後、俺は天衣ちゃんと何局か指したけど、全て一手で負けてしまった。どうやら、天衣が将棋で覚えていたのは初期の駒配置だけだったらしい。まぁ、普通は2歳ってそんなものだよね。駒配置覚えてるだけでも凄いよ。そして夜も遅くなっていき、天衣もおねむの時間になったため、パーティーはお開きとなった。有り難いことに、天祐さんが俺と銀子ちゃんを師匠の家まで車で送ってくださった。

 

その車中で、俺は銀子ちゃんのご機嫌取りに全力で取りかかることになってしまった。銀子ちゃん、ずっと機嫌が悪いままなんです。後部座席で必死に銀子ちゃんの機嫌を取ろうとする俺。そんな後部座席の俺たちを、天祐さんがルームミラー越しに生暖かい視線で見ていたような気がするけど、俺は銀子ちゃんの機嫌取りに夢中で確認することまではできなかった。そして結局銀子ちゃんは、毎日行ってる銀子ちゃんとの対局の回数を増やすことを条件に、機嫌を直してくれたのであった。これって、俺悪くないよね?




2歳児って、実際こんなものだよねー。というお話
天衣ちゃんぷりちー

土日の間、どうも頭痛が酷くてマトモに執筆ができませんでした。投稿が遅れて申し訳無い。
今はもう大丈夫です。おそらく、疲労が原因だと思うので、土日の間安静にしてたら治まりました。
今はもう、「きっと、今話で天衣を中心に書いて、銀子ちゃんよりも主役に置いて書いてたから、銀子ちゃんが嫉妬して、何らかの作用を俺に与えたんだな。もー、銀子ちゃん焼き餅焼きなんだからー♡」なんて考えてるぐらいには正常に戻ってますのでご安心ください
次はあさって、投稿できるといいなー
今日投稿のギリギリまで執筆してたので、残された時間はあまりありませんが、なるべくがんばります
期待せずにお待ちください

八銀はジャスティス


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第28局 激闘の序曲

最近投稿が遅れることが増えてるので、進捗状況等お知らせできるようにツイッターアカウントを新しく作りました
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合い言葉は、八銀はジャスティス


年をまたいで、1月。

この日、俺は銀子ちゃんと一緒に、関西将棋会館へとやってきていた。今日は、俺が対局を行うために来たわけではない。今日の主役は銀子ちゃんだ。今日は、この会館で小学生名人戦の大阪予選が開催される。3年前に、俺が優勝した大会だ。銀子ちゃんはその大会に、新2年生として出場する。前生において、銀子ちゃんが出場した年齢と全く一緒だ。銀子ちゃんはその大会において、俺が持っていた記録を塗り替え、最年少での大会優勝を決めている。尤も、今生においては、既に俺がアンタッチャブルレコードを叩き出してしまっているため、その記録は破られないだろうが。

 

まぁ、銀子ちゃんなら負けることは無いだろう。只問題は、銀子ちゃんの体力面だ。銀子ちゃんは病気を抱えてることもあり、体力が非常に低い。その銀子ちゃんが、果たしてこの連戦を戦い抜けるのか。それが心配だ。

 

「それじゃ、行ってくる」

 

「うん、頑張ってね」

 

そして対局の時間となり、銀子ちゃんが対局スペースへと去って行く。それを見送って、俺はポケットに入れてある駒ストラップを強く握りしめた。いつも肌身離さず持ち歩いている、俺たちのお守り。それを強く握りしめた。どうか、銀子ちゃんを守ってくださいと。

 

そして、銀子ちゃんの初戦が開局する。まずは、2勝で通過できる予選ラウンドからだ。この結果次第で、決勝トーナメントに進出できるかが決まる。その初戦、おそらく相手は銀子ちゃんのことを舐めている。女子でしかも低学年だからと、舐めて挑んでいる。勢いで攻めれば簡単に崩せると思っているのだろう。自玉の囲いを度外視して、銀子ちゃん陣を攻めてきている。通常ならありえない攻め方。大駒2枚は当然ながら、金銀4枚も全て攻めに投入するつもりらしい。更には両桂馬まで攻め上がってくる。普通の小学生相手なら、こんな無理攻めでも、十分通用するかもしれない。普通の小学生相手なら。

 

攻め続けていた相手の顔が段々と青くなっていく。いくら攻めても、銀子ちゃんの囲いがビクともしないのだ。銀子ちゃんの陣形は矢倉だ。いや、矢倉にするまでもないと考えているのだろう。矢倉の準備段階、通称矢倉の子供とも呼ばれる形、カニ囲いで陣形を留めている。それでも、相手は銀子ちゃんの守りを崩せない。銀子ちゃんの受け駒よりも、相手の攻め駒の方が圧倒的に多いというのに、それでも崩せない。

 

無駄の多い攻めに対して、無駄の一切無い受け。その差が如実に現れているのだ。そして、崩せないことに焦りを覚えた相手は、更に攻めようと躍起になる。その結果、大きな隙が生まれることになる。その隙を見逃す銀子ちゃんでは無い。

 

「な!?」

 

銀子ちゃんが、一気に攻勢に出た。無防備な玉にめがけて、飛車角が攻めかかる。更には、相手の攻めを受けてる最中に得た持ち駒まで一気に投入すれば、終局まで然程時間は要しなかった。

 

「ま、負けました……」

 

対戦相手が、信じられないものを見たとでも言いたそうな表情で投了をする。あれだけ攻めておきながら、相手玉の影すら踏むことができなかったのだ。嫌でも、実力の差を見せつけられたことだろう。対する銀子ちゃんは、熱を出した様子も無い。それが、銀子ちゃんが全く本気を出していないことを俺に教えてくれる。銀子ちゃんの圧勝だ。

 

その後も、銀子ちゃんは順当に勝利を重ねていく。予選ラウンドは、次の対局も危なげなく白星を獲得し、無事に決勝トーナメントへと駒を進める。その決勝トーナメントでも、銀子ちゃんの快進撃は止まることを知らない。圧倒的な強さを見せつけ、決勝戦へと駒を進めた。

 

「銀子ちゃん、体調は大丈夫?」

 

「うん。相手が大したことないから、かなり体力を温存できてるみたい」

 

とんでもなく辛辣なことを言ってるが、それが事実なのだから仕方ない。そもそもな話、小学生に銀子ちゃんの相手をしろと言うのが酷な話なのだが。彼女の相手が勤まる小学生なんて、そうはいないだろう。せめて歩夢か、今頃岩手にでもいるだろう祭神でも連れてこい。いや、やっぱり祭神は連れてこないでください。お願いします。歩夢も、今は奨励会で揉まれている。アマチュアの大会には、見向きもしていないことだろう。

 

「負けました……」

 

どうやら、決勝戦も危なげなく銀子ちゃんは勝利したらしい。相手の投了宣言を聞く銀子ちゃんの顔には、まだ余裕が感じられた。このままの調子でいけば、苦も無く小学生名人になれるだろう。

 

「銀子ちゃん、お疲れ様」

 

「うん、私、勝てたよ」

 

「うん、おめでとう。次も頑張ってね」

 

「うん、ありがとう」

 

次の関西予選は3月だ。大阪予選とは比べものにならない、厳しい闘いが予想される。だけど、銀子ちゃんなら大丈夫だろう。歴代最強女性棋士の実力は伊達じゃ無い。どんな困難な闘いでも、銀子ちゃんなら問題無く乗り越えられるはずだ。俺は、それを信じて、見守っていればいい。きっと銀子ちゃんなら、俺のいる場所まで上ってきてくれるだろう。決してペースを合わせる気は無い。それでも、追いついてきてくれるはずだ。前生でだって、そうだったのだから。俺は、追いかけてくる銀子ちゃんを見守っていればいい。距離は離れていても、この手はいつだって繋がっているのだから。俺は、銀子ちゃんの手の温もりを右手にしっかり感じながら、帰り道をゆっくり歩くのだった。今は、銀子ちゃんの歩幅に合わせて、ゆっくり歩くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして3月。関西予選当日となった。今日から二日間、ここ関西将棋会館で熾烈な争いが繰り広げられる。この日も俺は、銀子ちゃんの応援に駆けつけていた。銀子ちゃんと一緒に、対局室へと入る。すると、集まっていた参加者全員の視線がこちらに向けられる。え?なんか凄い警戒されてるような……

 

「おい。あの銀髪知ってるか?」

 

「あぁ。名人の弟子らしいな」

 

「しかも、あの覇王の姉貴分なんだろ?」

 

「らしいな。実際、今も一緒にいるし。大阪予選でも、全対局完勝譜だったらしい」

 

「当たったら、要注意だな」

 

どうやら、銀子ちゃんのことは既に参加者にも知れ渡っているらしい。流石に名人の弟子ということもあって、注目を嫌でも集めてしまうようだ。……それよりも待て。何だ覇王って。今の流れから言って、きっと俺のことなんだろうが、いつの間にそんな有り難くもなんともない二つ名を頂いたんだ。前生では魔王という二つ名が一人歩きしていたが、今生では覇王になっちゃったのか。しかも、二つ名できるの早いな。因みに、前生では世間一般の方々には、魔王という名前よりもロリ王という名前の方が浸透してしまっていたのだが、今は割愛しておく。そんな名前を頂くようなことをした覚えはありません。そういえば、前生で魔王と呼ばれるようになった原因には、歩夢の奴が一枚噛んでたんだよな。あいつ、いつも俺が魔王で自分はそれを討伐する騎士だとか言ってたのが、いつの間にか棋界に浸透してしまったらしい。まさか、今回もあいつが一枚噛んでるんじゃないだろうな?

 

「それじゃ八一、行ってくるね」

 

「うん。銀子ちゃんなら心配無いと思うけど、油断しないでね」

 

「うん、わかってる」

 

さて、二つ名の話は置いておいて、銀子ちゃんの初戦だ。今日は予選ラウンドだけが行われる。最大3局行い、2勝した時点で終了だ。2連勝してしまえば、3局目を行う必要は無い。明日の決勝トーナメントに体力を温存できる。銀子ちゃんの初戦は、静かな立ち上がりを迎えていた。そもそも、相手の指し回しが異常だ。総手数10手を超えても、歩が一枚も初期位置から動いていない。狭い自陣の中で、金銀玉を中心に動かし、ガチガチに囲いを固めている。その相手の目からは、強い警戒心を感じる。銀子ちゃんを警戒しすぎるあまり、手を縮こまらせているのだ。これなら、万が一にも銀子ちゃんが負けることは無いだろう。だけど、こうもガチガチに固められてしまうと、嫌でも終局に時間がかかってしまう。それは、銀子ちゃんの体力を大きく削ることにも繋がってしまう。俺が、奨励会で苦しめられたのと同じパターンだ。銀子ちゃんよりも体力で勝る俺でさえ苦しめられたのだ。もちろん、奨励会とアマチュア小学生という、棋力に大きな隔たりがあるのは間違いない。それでも、体力の総量を考慮したら、このような対局が続くと今大会の銀子ちゃんは、奨励会での俺と同等の辛苦を、嫌、それ以上のものを感じてしまうかもしれない。

 

「ま、負けました……」

 

「あ、ありが、とうござ、いまし、た……」

 

銀子ちゃんが息も絶え絶え相手の投了宣言に応える。長い対局だった。持ち時間こそ短い大会だが、その分頭をフル回転して瞬時に手を導き出さないといけないため、労力は大きい。それでいて、対局時間1時間を超えたのだ。持ち時間が切れて、30秒将棋になっても、相手は粘り続けた。その結果、銀子ちゃんの体力は想像以上に削られていた。

 

「銀子ちゃん!大丈夫!?」

 

「ま、まだ大丈夫……」

 

「無理しないで!はい、お水!」

 

「あ、ありがとう……」

 

銀子ちゃんは、水をゆっくりと飲み進めていく。その間に、俺は銀子ちゃんから流れ落ちる汗をタオルで軽く拭き取っていく。銀子ちゃんの顔は熱い。熱が出ている。さっきの対局、やはり本気で手を考えていたらしい。あれだけ固められたら、流石の銀子ちゃんでも、一筋縄では詰ませられない。

 

「次の対局が始まります!対局者の方は準備してください!」

 

そして、早くも銀子ちゃんの2局目の時間がやってきた。早い。早すぎる。銀子ちゃんの体力はまだ回復していない。このまま続けたら、銀子ちゃんの体が耐えられるかわからない。何かがあってからでは遅い。ここは、棄権も視野に入れるべきだろう。

 

「銀子ちゃん、無理しないで、ここは」

 

「大丈夫」

 

「けど……」

 

「私なら、大丈夫。こんなところで、躓いていられない。私は……追いつかないといけないんだから」

 

「ッ!?銀子ちゃん……」

 

銀子ちゃんの意思は固い。こうなったら、銀子ちゃんは絶対に折れないことはわかっている。銀子ちゃんが、ずっと俺のことを目標にしてくれていたことは知っていた。それこそ、前生のころから。だけど、それは俺だって一緒だ。俺だって、ずっと銀子ちゃんのことを目標にしていたのだから。だけど、それは前生での話だ。今生では、現在の所、俺の方が銀子ちゃんより先に進んでしまっていることは疑いの余地が無い。そんな俺に追いつこうと、銀子ちゃんは藻掻いてくれているのだ。苦しみながらも、足掻いてくれているのだ。その思いが、堪らなく嬉しかった。あぁ、やっぱり俺はクズなんだろうな。好きな女の子がこんなに苦しんでるのに、それが嬉しくて嬉しくて堪らない。俺はクズ野郎だ。クズ野郎だから、好きな子を止めることもできない。止めたくもない。

 

「わかった。銀子ちゃん……信じてるから」

 

だからせめて、俺は堂々と胸を張って、銀子ちゃんの勇姿を見守っていよう。彼女を信じて、待っていよう。それがせめてもの、俺の役目だと思うから。2局目も、銀子ちゃんの相手は、守りをガチガチに固めてきた。攻め込めば、一気に飲み込まれるとでも思っているのだろうか。(あなが)ち、間違ってるとも言い切れないのだが。

 

銀子ちゃんの顔色は悪い。手を進めるごとに、少しずつ顔色が悪くなっているような気がして仕方ない。見るからに苦しそうにしている銀子ちゃん。それに構うことなく、対局はドンドンと進んでいく。またも、1時間を超える長期戦。銀子ちゃんの体力も、限界が近そうだ。だがそれでも、勝ったのは銀子ちゃんだった。正に意地の勝利。銀子ちゃんの強い想いがたぐり寄せた勝利だった。相手の投了宣言を聞いて一息吐くと、銀子ちゃんはすぐに立ち上がろうとした。しかし、その足がふらつき、倒れそうになる。

 

「銀子ちゃん!」

 

間一髪だった。倒れる寸前で、俺の腕が間に合った。倒れそうになった銀子ちゃんを抱きしめる。俺の腕の中にいる銀子ちゃんの体は、熱かった。かなりの熱を発しているようだ。

 

「銀子ちゃん、大丈夫?」

 

「うん、ちょっと、た、立ちくらみが、した、だけだから、だ、大丈夫……」

 

嘘だ。立ちくらみだけが原因で無いことはわかりきっている。大丈夫なわけが無い。それでも、銀子ちゃんは大丈夫だと強がって見せている。本当は、苦しくて苦しくて堪らないはずなのに。

 

「銀子ちゃん、少し休んでいこっか。ここだと、落ち着けないから、休憩スペースまで行くよ」

 

俺はそう言って、銀子ちゃんを横抱きにして、対局室から外に出た。周りの視線が俺達に集まるが、そんなのに構っていられない。今は、銀子ちゃんのことだけを考える。

 

「やいち……」

 

「ん?何?」

 

「ごめんね……」

 

「気にしないで。今は、体を休めることだけ考えてて」

 

休憩スペースに着き、銀子ちゃんをベンチに寝かせてあげる。そのタイミングを見計らったように、一人の人物が休憩室に入ってきた。その手には、氷水の入ったバケツと濡れタオルが持たれていた。驚くほどの気の利きようだ。

 

「よう。必要かと思って持ってきたぞ」

 

「ありがとうございます。鏡洲さん」

 

鏡洲さんは、この大会のスタッフとして参加していた。だからこそ、銀子ちゃんの異変にも直ぐに気がついてくれたのだろう。2局目の最中には、道具を用意してくれていたらしい。鏡洲さんから道具を受け取ると、俺は慣れた手つきで銀子ちゃんの看病を始めた。

 

「へぇ、慣れたもんだな」

 

「いつもやってることですから」

 

銀子ちゃんは、体が弱い。何も、体調を崩すのは今日に始まったことではない。体調を崩し、学校を休むことも日常茶飯事なのだ。その度に、いつも俺が看病を担当していた。それは何も今生でだけの話では無い。前生の時だって、銀子ちゃんの看病は良く受け持っていたのだ。看病の経験値は絶大だ。

 

それから数十分が経過した。鏡洲さんは、自分の仕事がまだ残っているので、持ち場へと戻っていった。銀子ちゃんは、体調も少し回復してきたのだろう。顔色も、多少良くなったように感じる。

 

「八一ありがとう……もう、大丈夫……」

 

「銀子ちゃん、無理しちゃだめだよ」

 

「少し歩くだけなら、大丈夫……八一、帰ろ?」

 

「銀子ちゃん……うん、わかった。けど、絶対無理しないでね?」

 

銀子ちゃんが立ち上がる。確かに、その足取りは先ほどまでよりもしっかりしている。これなら、銀子ちゃんの言うとおり帰るぐらいなら問題無いかもしれない。

 

「念のために、今から明石先生の所に行くからね?」

 

「……うん」

 

そして俺たちは、ゆっくりと歩き出した。大会は、今日で終わりでは無い。まだ明日があるのだ。それまでに、銀子ちゃんの体調が回復するかはわからない。しかも明日は決勝トーナメント。相手の棋力も高くなることが予想される。更には、明日の対局は全3局あるのだ。負けたらその時点で終わりだが、勝ち続ければ3局対局することになる。銀子ちゃんの体が保つのか、わからない。そもそも、それ以前に、明石先生からのドクターストップがかけられる恐れもあるのだ。銀子ちゃんもそれを恐れているのだろう。明石先生の名前を出した途端に、表情が暗くなった。だけど、明石先生に診てもらわないわけにもいかない。何かがあってからでは、遅いのだから。俺たちは、ゆっくりとした足取りで、明石先生の病院までの道を歩いて行くのだった。

 

右手に感じる銀子ちゃんの力は、とてもとても、弱々しかった。




長くなりすぎたので分割

本作にとって、八銀にとって大事なお話
一語一句文章を吟味しながら、書いては消し、消しは書いてを繰り返してたら予想以上に時間がかかってしまった
次はあさって大丈夫です
きっと

八銀はジャスティス


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第29局 女流の時代

前話とセットのお話
合い言葉は、八銀はジャスティス


「棄権した方が良い」

 

明石先生が言う。俺と銀子ちゃんは、関西将棋会館を出たその足で明石先生の病院までやってきていた。そして、銀子ちゃんの検診を終えた明石先生が最初に発した一言が、それだった。ドクターストップ宣言だ。

 

「ごめん。これは、銀子ちゃんが大会に出ることを許可した僕のミスだ。まさか、ここまで銀子ちゃんへの負担が大きい大会になるとは思いもしなかった。楽観視して判断を誤る。医師としてあってはいけないことだね。謝っても許されないだろう」

 

「そんな、明石先生は悪くないわ!」

 

桂香さんが言う。俺はここに来るまでに、桂香さんには予め連絡を入れてあった。師匠は対局で関東に行ってるため不在だが、桂香さんは報せを聞くなり直ぐにここまで駆けつけてくれた。

 

「いや、いいんだ桂香ちゃん。これは、事実だから」

 

確かに、銀子ちゃんは大会に参加する前に、主治医である明石先生に、大会に出場する許可を取りに来ていた。そして、明石先生は確かに銀子ちゃんに許可を出したのだ。だけど、その時は誰も、こうなるとは予想できなかった。予想できるわけが無かったのだ。これは何も、明石先生が悪いわけでは無い。

 

「そんな医師失格の僕だけど、今は銀子ちゃんの主治医だ。主治医として、銀子ちゃんに伝えるよ。棄権するんだ」

 

明確な、ドクターストップだった。続けるべきでは無い。棄権するんだと明石先生は銀子ちゃんに明確に伝えた。

 

「嫌だ」

 

しかし、銀子ちゃんの返答は拒否だった。明確な、拒否だった。

 

「銀子ちゃん!」

 

桂香さんが、思わず声を荒げる。その気持ちも痛いほどわかる。明石先生は、本気で銀子ちゃんのことを心配して止めているのだ。それを、真正面から拒絶する。失礼にも程がある態度だった。

 

「私は、絶対に優勝する。こんなところで、止まっていられない」

 

「銀子ちゃん、これは君の命にも関わることなんだよ?取り返しの付かないことになるかもしれないんだよ?」

 

「それでも、いい」

 

「銀子ちゃん!いい加減にして!銀子ちゃんに、もしものことがあったらどうするの!小学生名人になることが、そんなに大事?自分の体よりも?そんなわけ無いでしょ!もっと冷静に考えて!」

 

「桂香さん、私は冷静だよ。冷静に考えて、判断してるの。ここでもし棄権しちゃったら、きっと私は一生追いつけなくなっちゃう。それだけは、絶対に嫌だ。そうなるぐらいなら私は……死んだって構わない」

 

「銀子ちゃん!」

 

「待って桂香さん」

 

更に声を荒げようとした桂香さんを、俺が制する。今まで静観していた俺の介入に、桂香さんも声を引っ込める。桂香さんの言うことは尤もだ。明石先生の判断は正しい。二人の言うことは、何もかも正しい。それに、従うべきなのだ。

 

「明石先生、銀子ちゃんに、続けさせてあげてください」

 

それでも俺は、銀子ちゃんの背中を押す選択をした。

 

「八一君!?何を言ってるの!?」

 

「桂香さん、こうなったら銀子ちゃんは絶対に曲げないよ」

 

そう。銀子ちゃんは絶対に意見を曲げないだろう。自分がこうと決めた道を、傷つきながらも歩いて行く。そうやって、ずっと俺と同じ道を、遅れながらも着いてきてくれたのだから。

 

「……そうだったね。銀子ちゃんは、そういう子だった。そうやって、清滝先生のところに弟子入りしていったんだからね」

 

明石先生はそう言うと、目を閉じ腕を組んだ。どうやら、考え事をしているらしい。数秒もすると、明石先生は徐に目を開けて、声を発した。

 

「当然のことながら、主治医としては強制的にでも止めるべき状況だ。だけど、銀子ちゃんの応援者としては、銀子ちゃんに優勝して欲しいと思う。わかった。出場を許可するよ」

 

「ちょっと、明石先生まで……」

 

「桂香ちゃん。八一君の言うとおりだよ。こうなったら銀子ちゃんは絶対に意見を曲げない」

 

「だからって、そんな……」

 

「大丈夫。もしもの場合なんて起こさせない。明日は僕も同行するよ。銀子ちゃんを全力でサポートしよう」

 

「明石先生……ありがとう」

 

銀子ちゃんがお礼を言うと、明石先生は銀子ちゃんの頭を優しく撫でた。その表情は、手つきと同じように優しそうな、安心感を与えるようなものだった。こうして、2日目に銀子ちゃんは出場できることが決まった。残すは3局。激闘になることは間違いない。銀子ちゃんの体が耐えられるかもわからない。だけど、俺には、信じて見守ることしかできない。俺は、力になれない自分を呪いながら、悔しさに強く手を握りしめるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日。関西将棋会館には、前日の予選から勝ち残った棋力に覚えのある小学生が集まっていた。しかし、その腕に覚えのある小学生達が、たった一人の、低学年の少女に最大限の警戒を払っていた。正直に言うと、今日は昨日に比べて周りの警戒も落ち着くんじゃないかとも考えていた。だけどそれは、楽観視が過ぎたようだ。

 

「銀子ちゃん。開局前に、軽く検診をしておくよ」

 

同行してくださってる明石先生が言う。銀子ちゃんも大人しく、その指示に従う。明石先生は続行を許可してくださったが、場合によっては明石先生の独断で銀子ちゃんを棄権させることだってできるのだ。大会運営側も、医者が止めれば銀子ちゃんの続行を認めることはできない。今は大人しく明石先生の指示に従うしかないのだ。

 

「うん。体調面は昨日に比べて、かなり回復したみたいだね。だけど、全快でも無い。……銀子ちゃん」

 

明石先生が、改まった雰囲気で銀子ちゃんの名前を呼ぶ。

 

「30分だ」

 

明石先生が言った意味を、俺と銀子ちゃんは理解ができなかった。30分。それが指す意味はなんなんだ?その答えは、直ぐに明石先生が教えてくれた。

 

「今日、銀子ちゃんが1局に費やしていい時間だ。相手の手番も含めて総時間30分。それを超えた時点で、棄権してもらう」

 

明石先生の答えを聞き、俺は衝撃を受けた。今大会のルールは、お互い持ち時間20分の、切れたら秒読み30秒のルールだ。お互いの持ち時間だけを合わせても、40分。相手の秒読み後も含めた考慮時間を考えると、銀子ちゃんには持ち時間を消費している余裕が全くと言っていいほど無い。昨日だって、2局とも対局時間は1時間を超えていたのだ。これは流石に、無理難題過ぎる。

 

「わかった」

 

だがそれでも、銀子ちゃんは明石先生からの指示に即答してみせた。その眼には、一切の迷いが見えない。

 

「それじゃ、行ってくる」

 

「うん。頑張ってね」

 

そして、銀子ちゃんは初戦へと挑みに行った。対局相手は、どうやら居飛車穴熊に組んでいるらしい。その相手に、早指しで挑む銀子ちゃん。穴熊相手に早指しで詰ませるのは流石に無謀が過ぎる。だけど、銀子ちゃんの指し手に迷いは無かった。穴熊を、いとも簡単に追い詰めていく。銀子ちゃんが指している戦法、その戦法を俺は知っている。あの戦法は……

 

「こなたが、八一君と初めて対局した時に使われた戦法どすな」

 

そう。今生では万智ちゃん相手に初めて使った戦法だ。矢倉殺しに続く俺の戦法殺しシリーズ、穴熊殺し。通称狩猟戦法。穴熊を、即詰めに討ち取るための戦法だ。銀子ちゃんにも、この戦法は伝授してあった。それが、この対局で活きた……て、それよりもだ。

 

()()()()()、どうしてここにいるんです?」

 

そう。万智ちゃんだ。何故、彼女がここにいるのだろうか。万智ちゃんは、今大会には出場していない。出場できないのだ。彼女は既に、アマチュアでは無いのだから。万智ちゃんは、つい先日研修会で規定階級に達し女流2級へと、つまり女流棋士へと昇格を果たした。小学生女流棋士となったのだ。惜しくも、女流昇格最年少記録は獲得できなかったが、それでも早すぎる女流昇格となった。

 

「そんな呼び方、他人行儀で嫌やわぁ。いつもみたいに、万智ちゃんって呼んで欲しいどす」

 

「だけど、棋士としての礼節もあるから」

 

「あーあー、聞こえないどすー」

 

「はぁ、わかったよ万智ちゃん」

 

「うん、その方がええわぁ♡」

 

「それで、どうしてここに?」

 

「敵情視察でおざるよ」

 

「敵情視察?」

 

「そうどす。銀子ちゃんとは、将来的にも、色々な面で敵になりそうどすからなぁ」

 

色々な面?色々なタイトル戦ということだろうか。だとしたら、それは遠からずも近からずだ。銀子ちゃんが出られる女流タイトル戦は、二つだけなのだから。万智ちゃんは、きっと銀子ちゃんが女流棋士になると思っているのだろう。そうに違いない。

 

「それにしても、凄い早指しどすなぁ。ほとんど持ち時間を消費してないでおざるよ」

 

「今日の銀子ちゃんには、時間制限があるからね」

 

「時間制限?」

 

「1局あたりに許された総対局時間30分。それを超えると、ドクターストップがかけられる」

 

「ッ!?……昨日銀子ちゃんが倒れたと噂に聞いたでおざるが、まさか、その噂は……」

 

「事実だよ。本当なら、対局を行うまでもなく棄権するべき状況なんだ。それでも、銀子ちゃんは出場することを選んだ。参加できないなら、死んだって構わないと言って」

 

「死……!?ぎ、銀子ちゃんはどうしてそこまでして……」

 

「……目標に追いつくためだって。ここで棄権するようなら、一生追いつけはしないと考えているそうだよ。その目標に追いつくために、銀子ちゃんは自分の身を削って対局に臨んでいる。俺はそんな銀子ちゃんを、見守ることしかできない。それが歯痒くて、悔しくて、堪らないんだ……!」

 

「八一君……」

 

万智ちゃんにこんなことを言っても仕方ないのはわかっている。それでも、俺は言わずにいられなかった。何も万智ちゃんに聞かせるためにではない。俺が想いを、抑えきれなかっただけだ。歯痒くて歯痒くてて、唇を噛みしめる。血の味がしたが、どうだっていい。悔しくて悔しくて、手を強く握りしめる。爪が食い込んで痛覚を刺激してくるが、どうだっていい。こんなの、銀子ちゃんが味わってる苦しみに比べたら、そよ風程度でしか無いのだ。気にする必要性が一切感じない。むしろ、もっと俺自身を痛めつけて欲しいとすら感じる。そうでもしないと、気が狂ってしまいそうだった。

 

「ま、負けました……」

 

銀子ちゃんの相手が投了宣言をする。それを聞き、銀子ちゃんは直ぐに立ち上がる。昨日みたいに倒れることは無かったけど、その足はやはりふらついていた。覚束ない足取りで、銀子ちゃんが俺たちの場所まで戻ってくる。

 

「お疲れ、銀子ちゃん。初戦突破おめでとう」

 

「うん。ありがとう」

 

「銀子ちゃん、早速検診するから、ちょっとこっちに来てくれる?」

 

銀子ちゃんは、明石先生に連れられていった。それを見送って、俺は一息を吐いた。これで一つ。後は2勝。まだまだ先は長い。だけど、確実に近づいている。銀子ちゃんなら、きっと大丈夫だ。そして2局目も、銀子ちゃんはなんとか30分以内に勝利することができた。これで、後1勝。いつもなら、相手の投了宣言を聞けば直ぐに立ち上がろうとする銀子ちゃん。だけど、その対局後は中々立ち上がることができずにいた。

 

「銀子ちゃん、大丈夫?」

 

どうやら自力で立てなさそうだったので、俺が肩を貸してあげてなんとか立ち上がることができた。正に、満身創痍の様相だ。

 

「だ、大丈夫……後、い、1局、だけ、だから……」

 

銀子ちゃんが弱々しく、俺の問いかけに応える。たかが1局。されど1局。今の銀子ちゃんには、その1局だけですら厳しい。本当なら、止めるべきなのだろう。だけど、止めたところで、銀子ちゃんが止まるわけがない。だったら、俺たちは少しでも銀子ちゃんの勝率が上がるように全力でサポートするべきだ。

 

「銀子ちゃん、即効性の解熱剤だ。これで、少しはマシになるはずだよ」

 

「銀子ちゃん、氷水とタオルを持ってきたよ!横になってリラックスしてて!」

 

次の対局まで時間は然程無い。それまでに、少しでも銀子ちゃんの体調が回復するように俺と明石先生が全力でサポートする。万智ちゃんや、今日もスタッフとして参加していた鏡洲さんも協力してくれて、万全の体制でサポートが行えている。その甲斐もあってか、銀子ちゃんの顔色は徐々に正常に戻っている気がする。

 

「それでは、ただいまより次の対局を行います!」

 

そして、時間となる。銀子ちゃんはそのスタッフさんの呼びかけを聞くと、徐に体を起こし、一つ深呼吸をする。これで最後の対局だ。改めて、気合を入れ直してるようだ。

 

「みんな、ありがとう」

 

「銀子ちゃんが気にすることじゃないさ。僕は医師として当然のことをしているだけだからね」

 

「こないな状況を見せられたら、流石に知らぬ存ぜぬなどと言ってられないでおざるよ」

 

「俺は、スタッフとして一人の参加者に肩入れするわけにはいかないんだけどな。けど、こんな状況で放っておけるわけないさ」

 

「銀子ちゃん。銀子ちゃんには俺たちが着いてる。だから、後のことは気にせず、全力で勝つことだけを考えて」

 

「うん、ありがとう」

 

そして銀子ちゃんが対局へと向かう。対局相手は、既に席に着いていた。おそらく、6年生だろうか。堂々とした佇まいで、ジックリと銀子ちゃんのことを観察しているようだ。

 

「あの対局者は……」

 

「万智ちゃん、知ってるの?」

 

「去年、こなたが小学生名人になった大会で、予選から通じて唯一負けた相手どす。関西大会の予選ラウンドで負けて、その後全勝で本大会には進めたでおざるが、かなりの強者どすなぁ。本大会ではあのお方、お燎に負けてなぁ、こなたはリベンジできなかったでおざる。お燎も、最後まで負けると思ってたと言って、らしくも無く弱気になってたわぁ」

 

なるほど。万智ちゃんの話を聞く限り、かなりの実力者であることは間違いないらしい。銀子ちゃんは、そんな相手に30分以内で決着を着けなければいけない。間違いなく、厳しい闘いになることだろう。

 

「将棋は、八一君によう似とるわぁ。これで受かってるのかと疑いたくなるような、変則的な受け将棋どす。実際に対局してて、八一君と対局してるみたいでやりにくかったでおざるよ」

 

俺に似ている、か。だとしたら、銀子ちゃんとしてもやりにくい相手だろう。だけど同時に、最もやり慣れた相手でもある。勝機は、十二分にあるはずだ。対局は、先手が銀子ちゃんとなった。審判長が開局の宣言をすると、銀子ちゃんは間髪入れずに飛車先の歩を突いていった。相手も合わせて飛車先の歩を突いてくる。お互いに更に歩を一つ進めて、左金を角に引っ付ける。そして歩交換まで一気に終わらせて、飛車を定位置にまで戻した。相掛かりだ。ここまで、攻撃を度外視してガチガチに守りを固めてくる相手とばかり当たっていただけに、この展開には少し驚いた。どうやら、銀子ちゃんと正面からぶつかってくるつもりらしい。それほど、自分の実力に絶対の自信があるということだろう。だけど、これは銀子ちゃんにとっても好都合だ。相手が真正面から挑んでくるなら、攻めてくる分受けにも隙が生まれるはずだ。その隙を逃さなければ、問題無い。

 

対局は、銀子ちゃんが攻める展開で進行していった。銀子ちゃんには、時間制限があるのだ。時間までに勝とうとするならば、攻めに重きを置くしかない。歩交換を済ませると、角道を開き、右銀を一気に押し上げ棒銀の構えを取る。どこまでも、攻撃的に行くつもりらしい。ノータイムで指し続ける銀子ちゃんに対して、相手は序盤からジックリと時間を使って、冷静に銀子ちゃんの攻めを受けきっていく。まるで、全て読んでいるとでもいうかのような完璧な受けだった。これは、ガチガチに固められるよりも厄介かもしれない。銀子ちゃんの攻めは、本当に受かってるのかもわからないほどの薄い囲いで、悉く受けられていく。確かに万智ちゃんの言う通りだ。あの将棋は、俺に似ている。力戦調かと言われれば疑問符を覚えるが、変則的な受け将棋という意味では俺に似ている。銀子ちゃんも、思わず苦しそうな顔を曝け出してしまう。といっても、その原因は盤面の状況によるものだけではないのだが。

 

銀子ちゃんの息が段々荒くなってきた。その額からは、止めどなく汗が流れ落ちてきている。銀子ちゃんも、限界が近いのかもしれない。早く決着を着けないと、銀子ちゃんの体が保たない。対局の方は、相手も持ち時間が秒読みに入り、終盤へと突入していた。お互いに攻め合う展開。激しく攻防が入れ替わる、一瞬の気の緩みも許されない展開。総時間のリミットも5分を切っている。そして、相手の猛攻が始まる。ここで決めるという覚悟が見て取れる。大駒を縦横無尽に移動させ、金銀で牽制し、銀子ちゃんの玉を追い詰めていく。そして、とうとう銀子ちゃんは崖っぷちに追い込まれた。詰めろが銀子ちゃん玉にかけられる。絶体絶命の状況だ。ここに来て、銀子ちゃんの手が止まった。タイムリミットまで、もう時間はほとんど残されていない。考えている時間は、全くと言っていいほど無いのに。それでも、銀子ちゃんは手を止めた。手が止まったと言っても、次に銀子ちゃんが手を進めるまでに要した時間は10秒ほど。ここまでノータイムで指し進めていただけに、それでも長く感じてしまうのだ。そして、その小考が対局の結果に直結することとなった。

 

「私の前で、その将棋を、二度と指すな……!」

 

銀子ちゃんが盤面に駒を1枚打ち付ける。王手だ。詰めろを無視して、王手をかけたのだ。この局面で、そうする理由は決まっている。即詰みがあったのだ。銀子ちゃんは、小考して即詰みを探していたのだ。俺も、盤面にしっかりと目を向ける。……なるほど。確かにあった。31手詰めの道筋が。銀子ちゃんは、その道筋を僅か10秒で見つけ出して見せたのだ。だが、時間が無い。もう残り時間は、30秒を切っていた。今から詰み行程を辿っていたのでは、どう考えても間に合わない。このままだと、銀子ちゃんの棄権負けだ。

 

「明石先生……」

 

「……約束だからね。銀子ちゃんには申し訳無いが、これ以上続けさせるわけにはいかない」

 

残り時間10秒。明石先生が、棄権を伝えるためにその足を進めようとする。

 

「……負けました」

 

そのタイミングで、相手が投了宣言を行った。相手も、即詰みの存在に気がついたのだ。正直、気がつかないんじゃないかと思っていた。この即詰みは、そう簡単にわかるものではない。体調が悪い中でも、10秒で見つけ出した銀子ちゃんが凄いだけなのだ。普通の小学生なら、少なくとも数分、いや数十分はかかるかもしれない。それでいて、詰んでいるのをわかったら、潔く投了できる勇気も必要になる。そうでないと、相手がミスをするかもしれないと、ダラダラと続けられていたら、銀子ちゃんは棄権することになっていた。即詰みを30秒で見つけ出せる棋力と、潔く投了できる勇気とプライドを持った対戦相手じゃないと、銀子ちゃんは負けていた。この勝利は、対戦相手に恵まれた結果だ。

 

「銀子ちゃん!」

 

座った姿勢で、倒れそうになっていた銀子ちゃんを、慌てて駆けよって支える。激闘を制した銀子ちゃんは、苦しみながらも、その顔は確かな笑顔を描いていた。

 

「やいち、私、勝ったよ……」

 

「うん、うん……!ちゃんと、見てたよ……!」

 

俺は、そんな銀子ちゃんの姿を見て、涙を堪えることができなかった。溢れ出した雫が、ポツポツと、腕の中の銀子ちゃんの頬に滴り落ちる。

 

「やいち、冷たいよ……」

 

「ごめん、だけど、抑えられなくて……」

 

「ううん、大丈夫……冷たくて、今は気持ちいい……」

 

「八一君。銀子ちゃんをこっちに。直ぐに治療をするよ」

 

明石先生の指示に従い、銀子ちゃんを抱きかかえて移動する。落ち着いた場所に銀子ちゃんを寝かせると、明石先生の診察が始まった。その様子を、俺と万智ちゃんは静かに見守っていた。今は、明石先生に任せるしかない。

 

「銀子ちゃん、怒ってたどすなぁ」

 

万智ちゃんが言う。確かに、先の対局中、銀子ちゃんは怒っていたように見えた。そんな将棋を指すなと言って。相手は本当に良い将棋を指していたと思うんだけど、何が銀子ちゃんの気に障ったんだろうか?

 

「こなたがあのお方と対局した時は、恐怖を覚えたどす。あまりにも似た将棋に、勝てないと心のどこかで思ってしまったのが敗因だったどす。それに対して、銀子ちゃんは怒りを覚えて、自分の力にしたでおざるわぁ。他の人が、あの将棋を指すことが許せなかったでおざるなぁ」

 

そう言うと、万智ちゃんは哀愁の篭もったような目で、銀子ちゃんのことを見つめていた。

 

「……銀子ちゃんは奨励会に?」

 

「そうみたいだね。目標に追いつくためには、避けては通れない道だと思ってるみたいだよ」

 

「……敵わんなぁ」

 

万智ちゃんが呟く。万智ちゃんは、前生でも今生でも、奨励会へ挑戦することを避けた。そのまま、女流棋士としての道を進むことを即決したのだ。それに対して、銀子ちゃんはいくら険しい道だとわかっていても、その道を選択した。そんな銀子ちゃんを見て、思うところがあるのだろう。今も、息を荒くして苦しそうにしている銀子ちゃんを見て、呟いている。

 

「ほんまに、色々と、敵わんわぁ……」

 

万智ちゃんは呟く。その眼は、一時も離さずに銀子ちゃんのことを見つめていた。万智ちゃんが、何を感じているのかはわからない。だけどその眼には、何か諦念のような感情が込められているように感じた。

 

「敵わん、わぁ……」

 

その後も万智ちゃんは、頻りに呟いていたのだった。その眼は最後まで、銀子ちゃんから離れることは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

大会が無事に閉会し、俺は銀子ちゃんと将棋会館を後にしていた。明石先生の懸命な治療の成果もあり、銀子ちゃんは、ふらつきながらも、歩ける程度には回復していた。後は、安静にしてたら数日で全快するらしい。本大会には何の支障も無いそうだ。

 

「銀子ちゃん、大丈夫?」

 

「うん、まだ足が重いけど、大丈夫」

 

銀子ちゃんが言うとおり、銀子ちゃんの足取りは重そうだ。やっぱり、まだ歩くのはしんどいらしい。しょうがないな。これは、激闘を勝ち抜いたご褒美だ。

 

「ほら、銀子ちゃん」

 

「八一?」

 

俺は、銀子ちゃんの前に足を進めると、銀子ちゃんに背中を向けて地面にしゃがみ込み、手を後ろに伸ばした。おんぶの姿勢だ。銀子ちゃんもその意図を察して、戸惑いながらも俺の背中に乗っかってきた。俺は、銀子ちゃんがちゃんと乗っかったのを確認して、立ち上がる。

 

「八一、ありがとう」

 

「いいよ。今日頑張ったご褒美ってことで」

 

「うん。そういうことにしておく」

 

そう言って、二人で笑い合った。銀子ちゃんは軽い。正直、背中に乗ってるのかわからないほどに軽い。この分なら、駅まで問題無くおんぶすることができるだろう。そして、通常なら10分ほどの距離を、俺は銀子ちゃんに負担をかけないように、ゆっくり30分かけて歩いた。駅が見えてきた。流石に、改札を抜けるのに銀子ちゃんを降ろさないわけにはいかない。

 

「ほら、銀子ちゃん。駅に着いたよ。……銀子ちゃん?」

 

銀子ちゃんからの返事は無かった。返事の変わりに、静かな寝息が聞こえてくる。どうやら、よっぽど疲れていたらしい。まぁ、それも当然だと思うけど。だけど、これは困った。流石に、改札を抜けるのに起こさないわけにはいかない。……しょうがないか。俺は、駅へと向けていた足を別の方向に向ける。清滝家まで距離は一駅分。その距離を歩いて帰ることに決めた。棋士という生き物は、皆総じてインドア派だ。部屋に引きこもって、将棋の勉強をするだけの日々。運動不足で、不健康なことこの上ない。たまには、健康のために歩くのもいいだろう。なんて、小学生の体で爺くさいことを考えながら、俺は家までの道を歩み始めた。背中で眠るお姫様に負担をかけないように、ゆっくりゆっくり歩み始めた。

 

「お疲れ様、銀子ちゃん」

 

そう呟くと、背中で銀子ちゃんが頷いたような気がした。まぁ、見えないので本当に気がしただけだが。

 

そして翌月4月に、小学生名人戦の本大会は開催された。結果だけを端的に言うと、銀子ちゃんは見事に小学生名人の座を掴んだ。2局とも、見事なまでの完勝譜だった。決勝では、あの燎ちゃん相手に殴り合いを制しての完勝。文句なしの優勝だった。そして、その優勝が世間に与えた衝撃も大きい。

 

その衝撃の原因は、俺が優勝した年まで遡る。俺の優勝した年は、ベスト4に万智ちゃん、準優勝に岳滅鬼さんと、表彰台に女性棋士が二人もいた。更には、その翌年はベスト4に燎ちゃん、準優勝に万智ちゃん、そして岳滅鬼さんが女子初の小学生名人に輝き、女子が3人も表彰台に名を連ねたのだ。更にはその翌年、つまり昨年も、準優勝の燎ちゃんと優勝の万智ちゃんで2人。そして今年は銀子ちゃんが優勝し、燎ちゃんが準優勝となり、またも2人が表彰台に。その内、万智ちゃんは既に女流棋士となり、岳滅鬼さんは奨励会で奮闘している。世間からは、女流の時代が来るという声が上がり始めた。だが当然、小学生の大会で優勝してもなんの意味も無い。そんな時代は来ないという否定的な意見も出てくる。だが、そんな否定的な意見を出す人も、認めざるを得なくなる衝撃的な対局が後に行われることとなる。そんなことになるとは、この時はあの将棋の神様だって読み切ることはできなかった。だがそれは、まだ先の話だ。今はとりあえず一言だけ言っておこう。女流の時代は来るかもしれないと。今はただ一言だけ、言っておこう。この大会は、その序曲でしかないと。まだ激闘は、始まったばかりだ。




本編最長文字数大幅更新
分割してもこれだよ
大事なお話だからね
省略できる部分も無かったから仕方ない
次もあさってかもとだけ言っておく
更新情報などはツイッターでお知らせします

八銀はジャスティス


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第30局 歩夢と雑誌

箸休め的なお話だと思うよ
合い言葉は、八銀はジャスティス


八月になった。お盆も近づいてきたこの時期、清滝家は来客を迎えていた。

 

「また是非とも、矢倉をご教授ください!」

 

「おう!神鍋君は見所があるからな。またワシの最新研究を披露したるわ!」

 

「有り難き幸せ!」

 

歩夢だ。まぁ、そんなに珍しい来客でも無い。歩夢は頻繁にってほどでも無いが、暇を見ては関東から態々遊びにきてくれていた。離れていても、連絡は毎日取り合ってるし、ネット対局も毎日のように行っている。直接会うのは冬以来だが、そこまで久しぶりという感じはしない。

 

歩夢は今回、次の例会まで清滝家に泊まっていくらしい。次の例会が行われるのは盆だ。その日は、銀子ちゃんの奨励会入会試験の日でもある。歩夢はその結果を見届けたがっていたが、流石に例会をサボるわけにはいかない。残念ながら、それまでに関東に帰ることになっている。

 

「神鍋君。今から教えてあげたいねんけど、これからワシは予定があってな、会館に顔出さなあかんのや。また、明日でええか?」

 

 

「勿論です。よろしくお願いします」

 

「よっしゃ、任しとき。ほな銀子、八一、留守番頼んだで」

 

そう言い残して、師匠は家を出て行った。因みに、桂香さんは今日研修会仲間との研究会に行っている。歩夢が来ると知って、残りたがっていたが、そちらを優先するようになんとか言いくるめた。最近、歩夢を見る桂香さんの目が怖くなってきてるような気がするんだけど、気のせいだろうか?

 

「我らだけとなったな」

 

大人二人が家を出て行ったため、今この家には子供3人だけが残る形となった。子供3人寄れば、やることは決まっている。将棋だ。今日は師匠もいないため、マグネット式の将棋盤では無く、師匠ご自慢の7寸盤を拝借している。勿論、師匠に使用許可は取ってある。傷を付けないことを条件に。銀子ちゃんが、師匠の居ない間に油性マジックでラクガキを盤にしようとしてたけど、全力で阻止しておいた。復讐の手口が(こす)いよ、銀子ちゃん。

 

「さて改めて、空さん、小学生名人獲得おめでとう」

 

「うん、ありがとう」

 

盤に向かって座っていた歩夢が、姿勢を改めて銀子ちゃんに告げる。銀子ちゃんには優勝した当日に電話で伝えていたのだけれど、直接伝えるのはこれが初めてとなる。

 

「これは、我からの祝いの品だ」

 

「そんな、気にしなくていいのに」

 

「そちらこそ気にすることは無い。通り道で買ってきただけだ。元々、土産は用意するつもりだったのでな。土産の変わりだとでも思ってくれたらいい」

 

「まぁ、そこまで言うなら……」

 

銀子ちゃんが歩夢から祝いの品を受け取る。中を確認すると、入っていたのはチーズケーキだった。綺麗な黄金色をしたチーズケーキだった。その甘美なフォルムに、銀子ちゃんの眼が奪われ、キラキラと輝く。銀子ちゃんは、甘い物に目が無いのだ。歩夢の贈り物は、銀子ちゃんにとってストライクゾーンど真ん中を射貫いていったことだろう。歩夢め、やりやがる……

 

「さて、八一」

 

そして、歩夢が今度は盤を挟んだ対面に座る俺に向き直る。その目は、真剣な眼差しで俺のことを捉えていた。

 

「奨励会二段昇段、おめでとう」

 

そう。俺は前回行われた例会の結果で、二段への昇段が決まった。マスコミにも騒がれ、世間からの注目度もより一層に高くなった。小学生プロ棋士誕生の瞬間が刻一刻と迫っていると思われてるのだ。実際には、そんな簡単なことでも無いのに、ここまで来たならなって当然だと思われてる。おそらく、これで小学生プロ棋士になれなかったら、例え中学生プロ棋士になったとしても、あいつは期待外れだったと世間様に思われることだろう。全く、自分勝手なことだ。まぁ、俺は実際になるからそんなこと言われる心配も無いが。

 

とは言っても、なれる保証があるわけでもない。まず三段に上がるのも大変なのに、その後は地獄の三段リーグが待っている。それを、俺の目標通りに行くなら、来年4月開始の三段リーグに参加し、一期抜けを達成しないといけないのだ。それで初めて、小学生竜王の可能性が見えてくる。どこまでも、厳しい条件ばかりが付きまとう。

 

「ありがとう、歩夢」

 

「正直に言うと、先を越されたことが悔しい。我も直ぐに追いつくから、待っていることだな」

 

歩夢は現在、奨励会初段だ。戦績的にも、二段に上がるのは時間の問題だろう。このままの調子で行くと、歩夢とは三段リーグの同期として挑戦することができるはずだ。そこでもしお互い一期抜けをすれば、小学生プロ棋士と中学生プロ棋士が同時に誕生することになる。これは、また世間に騒がれるな。

 

「これが我からの祝いの品だ。有り難く受け取るがいい」

 

「なんで軽く上からなんだよ」

 

言い方が少し気になりつつも、歩夢からの贈り物を受け取る。ってなんだこれ?雑誌?それはどうやら、とある将棋雑誌だった。しかも新品ですらない。何度も読み返されたような跡が残っている。これが、祝いの品?

 

「歩夢、これどういうこと?」

 

「フハハハハハ!このページを見るがいい!」

 

そう言って、俺の手から雑誌を奪い取ると、歩夢は慣れた様子でとあるページを開いて見せた。おそらく、何度もそのページを開いたことがあるのだろう。そのページには、とある奨励会員へのインタビューが掲載されていた。

 

「って、これ歩夢へのインタビュー記事じゃん」

 

そう。その奨励会員とは歩夢だ。そういえば、俺も以前この雑誌編集部から、将来有望な奨励会員へのインタビュー取材を行っていると言われて、受けたことがある。どうやら、歩夢も同じ取材を受けていたらしい。その雑誌は2月発売のものだった。その記事のとある部分を、歩夢は指差していた。何々?

 

「神鍋君は、普段意識しているライバルとかはいるかな?」

 

「そうですね。今現在ライバルと意識しているのは、二人います」

 

「ほう、二人かい?一人は、おそらく九頭竜八一君かな?」

 

「無論です」

 

「そうだよね。二人のライバル関係は有名だもんね。それじゃ、もう一人は?」

 

「空銀子さんです」

 

「空銀子さん?初めて聞く名前だね。名前からして女の子だ。紹介してもらってもいいかな?」

 

「彼女は、八一と同じ清滝名人門下です。年は八一より二つ下ですが、姉弟子という立場にあります。そして、彼女の将棋は強い。あの清滝名人と八一に鍛えられているわけですから当然ですが、強い。これを言えば、彼女の強さがわかるでしょう。彼女は、九頭竜八一に唯一勝てる小学生です。我ですらまだ勝利したことの無い、八一に」

 

「ッ!?それは、恐ろしい子だね。これは、将来的にも要注目かな」

 

「彼女は現在小学生名人戦に参加しています。嫌でも、注目の的になることでしょう」

 

「なるほど。これは、小学生の皆は警戒が必要だね」

 

なるほど。あぁ、そういうことか。おかしいと思ったんだ。大阪予選では何も警戒されていなかった銀子ちゃんが、関西予選では過剰なまでに警戒されていたのが。なるほど。二つの予選の間に、こんな雑誌が出ていたのか。なるほど。理解した。要するにだ。

 

「全部てめぇのせいじゃねえかぁ!?」

 

そういうことだ。歩夢が余計な事をペラペラしゃべったせいで、銀子ちゃんは必要以上に警戒されて、必要以上に苦しんだのだ。そう考えると、なんだか怒りが湧いてきたぞ。歩夢きゅん、なんてことしてくれてるの?

 

「フッ、初めてのインタビュー取材だったもので、舞い上がってしまってな。つい色々と口が乗ってしまった。すまなかった」

 

「すまなかったって、銀子ちゃんがどれだけ苦しんだと思って」

 

「八一、あのことならもういいよ。今となっては、良い経験ができたと思うし。奨励会に入ったら、あんな経験がきっと続くでしょ?その予行練習ができたと思えば、歩夢君には逆に感謝したいぐらいよ」

 

「そう言ってくれるのか?本当にすまなかった。後から関西予選の話を八一から聞いて、後悔していたのだ。軽はずみな言動だった。すまない」

 

「銀子ちゃんがそう言うなら、俺もいいけど、本当に気をつけてよ」

 

「あぁ、すまなかった」

 

とは言っても、歩夢が答えたことも間違っているわけではないので、一概に歩夢を責めれる問題でも無い。だから、銀子ちゃんが許すなら、俺も特に何も言うつもりはない。ただ、気になることは他にある。

 

「で、これのどこが祝いの品なの?」

 

歩夢は、この雑誌を祝いの品だと言って渡してきた。どこからどう見ても、そんな貴重な雑誌には見えない。これのどこが、祝いの品なんだ?

 

「フハハハハハ!その続きを読んでみるがよい!」

 

俺は、歩夢に促され、渋々続きを読んでみることにした。

 

「それじゃ次に、歩夢君から見た九頭竜君のことを教えてもらえるかな?」

 

「八一は、我が知る限り、最強の小学生です。現在のでは無く、全ての棋士の小学生時代と比較しても、八一ほど強い小学生はいなかった。あの神様や月光先生でさえ、小学生時代なら八一に勝つことは無理だったでしょう」

 

「なるほど。確かにそうかもしれないね。彼の実力は、小学生の枠を超えているかもしれないね」

 

「確実に超えています。このまま八一が成長し続ければ、間違いなく誰も八一には勝てなくなる。いずれは、この棋界を制覇することになるでしょう。まさに、棋界の覇王になるわけです」

 

「覇王、言い得て妙だね。確かに今の九頭竜君を見ていると、そうなってもおかしくなさそうだ。ではそうなったら、神鍋君はどうするのかな?」

 

「わかりません。我は騎士として、覇王に仕えることになるのか、反旗を翻して反乱軍に参加するのか。今はまだ、想像することもできません」

 

「なるほど。これからも、覇王様と騎士様の活躍からは目が離せないね」

 

なるほど。よくわかった。覇王様か。へー覇王様ね。あれー?どこかで聞いたことがあるな-。そういえば、関西予選で小学生達がそんなことを言っていた気がするなー。よく見れば、雑誌の表紙にもインタビュー記事の見出しとして、『騎士、神鍋歩夢と覇王、九頭竜八一、棋界の未来予想』なんて書かれてるし。なるほどね。歩夢が言いたいことはわかった。つまりだ。

 

「フハハハハハハ!喜べ!我からの祝いの品は素晴らしき二つ名だ!」

 

「そんなもんいらんわ!しかも、この雑誌出たの昇段よりもずっと前じゃねーか!」

 

と、いうわけだ。何が嬉しくてこんな二つ名もらわないといけないんだよ。それとおい、そこの銀髪幼女。背中向けてヒクヒク震えてないで、こっち向きなさい。別に笑ってるのを怒らないから、こっち向きなさい。

 

「い、いいじゃない、覇王様、か、カッコよくて」

 

「カッコいいと思うならどうして笑ってるのかな!?」

 

「わ、笑ってないし」

 

「じゃあちょっとこっち向いてみようか!?」

 

「ご、ごめん、い、今スッピンだからNG」

 

「どこでそんな言葉覚えた!?しかも普段からずっとスッピンだろうが!?」

 

まだ化粧する年齢でもないだろ!スッピンがNGなんて言う小学生低学年がいて堪るか!

 

「では、気を取り直して対局といこうではないか」

 

「誰のせいでこうなったと思ってるんだ!?」

 

全部何もかもお前のせいだよ!……フッフッフ、いいさ。歩夢がそのつもりならいいさ。今日の俺は、手加減できそうにないな。その後、俺は歩夢と銀子ちゃんと只管将棋を指した。それはもう、一方的な内容だったとだけ言っておく。その日、清滝家からは、子供の悲鳴じみた声が絶えなかった。歩夢と銀子ちゃんの、悲鳴じみた声が。それを聞いた近所の方が警察に通報し、連盟から帰ってきたばっかの師匠が幼児虐待の容疑で事情聴取を受けることになってしまったことを報告しておく。ごめんなさい師匠。




単なるコメディ回
本当は次話とセットの話だったけど、思いつきによる諸事情で分割しました
次もあさって投稿できるといいな
更新遅れる場合は、ツイッターでお知らせします

八銀はジャスティス


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第31局 試験に向けて

前話とセットの話と言いましたが、そんなに繋がりはありません
あの原作キャラが、満を持して登場
合い言葉は、八銀はジャスティス


銀子ちゃんの奨励会入会試験まで数日と迫ったとある日、俺と銀子ちゃん、そして歩夢はとある場所にやってきていた。

 

「これが大阪の街並みか。素晴らしいではないか!」

 

通天閣。大阪のシンボルとも言える展望塔だ。東京タワーほどの高さはないが、大阪人からはこよなく愛されている建築物だ。この日俺たちは、歩夢が明日東京に帰るということで、目的のついでに大阪観光をしていた。

 

「東京とは違うが、大阪も立派な都会だな」

 

「当然だよ。今でこそ神奈川に抜かれちゃったけど、5年前までは東京に次ぐ人口を誇ってた、日本第2の都市だったんだから」

 

2006年の統計で神奈川に抜かれてしまったが、それまでは、ずっと大阪府が人口数2位をキープしていた。日本第2の首都と言っても過言では無かったのだ。福井?そんなの聞かないでくれ。

 

「八一、そろそろ」

 

「うん、そうだね。歩夢、そろそろ目的地に向かうよ」

 

「うむ。承知した」

 

そして俺たちは、通天閣を離れて今日の目的地を目指す。途中でたこ焼きを買い食いしたりと、大阪らしい寄り道をしながら、着いた場所はジャンジャン横丁と呼ばれるアーケードエリアだ。通天閣の足下に広がるこの界隈は通称、新世界と呼ばれる、大阪でも最もディープな地域だとされている。そして、ここ新世界には、数年前まで西日本最大の将棋道場があった。日本全国から、腕に自信がある強豪達が集まり、日々己の棋力を磨いていたのだ。今でも、その名残はこの場所に残っている。俺たちが辿り着いたのは、双玉クラブという名の将棋道場だった。前生でも訪れたことのあるこの道場。中は、前生で訪れた時よりも賑わっていた。おそらく、件の道場が潰れてから、前生の頃よりも日が浅いからだろう。まだ、当時の名残が強く残っているようだ。

 

「よっしゃ!これでワシの勝ちやな!」

 

「かーっ!負けた!」

 

「やっぱりあんた強えーな!これで何連勝だよ?」

 

「そんなん一々覚えてへんわ。さぁ!次にワシの相手をしてくれる奴はおらへんか?」

 

賑わう店内。その中でも、一際観客が(たか)っている席がある。そこで対局を行っていたのは、実に見覚えのある人物だった。酒とタバコで焼けた声。おじさんともおばさんとも見分けが付かないその容姿。ヒョウ柄の派手な服。間違いない。前生で天衣が何度も苦汁を舐めさせられたあのパンサーだ。その手元には、タバコケースが置いてある。その中身は、これ以上入りそうにないほどビッシリと、タバコに見立てて丸められたお札が入っている。どうやら、荒稼ぎしているようだ。

 

「さぁさぁ、誰でもええから、ワシの相手してくれや!」

 

「お、おいお前行けよ」

 

「無理だ。俺じゃ勝てねーよ」

 

誰も、パンサーに対局を挑もうとしない。どうやら、道場内のお客さんは皆、自分じゃパンサーには勝てないと考えているらしい。パンサーは、どうやらこの道場内でもトップクラスの実力者らしい。

 

「私が相手よ」

 

そして、そんな猛者に挑む者が現れた。銀子ちゃんだ。さっきから大人しいなと思ってたら、どうやら真剣に用いるタバコを作っていたらしい。その数は、パンサーが所持している物と同程度だろう。相手に釣り合う数を用意したようだ。銀子ちゃんの気合が見て取れる。実は、今日この道場を訪れたのは銀子ちゃんの修行のためなのだ。昔から行っている武者修行の一環で、この道場にやってきた。そして今日は、数日後に控えた銀子ちゃんの奨励会入会試験へ向けた最後の特訓という目的もある。つまり、最初から銀子ちゃんが対局を行うのは既定路線だったのだ。

 

「なんだ?ガキじゃないか」

 

「ガキがこいつの相手になるわけないだろ」

 

「……お嬢ちゃん、見覚えがあるな。確か、この前の小学生名人戦の優勝者やったな」

 

意外にも、パンサーは銀子ちゃんのことを知っていたらしい。中々の情報通だったようだ。まぁ、世間でも相当騒がれていたので、将棋を嗜んでいるなら知ってて当然かもしれないが。

 

「ええで。中々おもろそうや。お嬢ちゃん、真剣の経験はあるか?」

 

「当然」

 

「なら話が早いわ。お嬢ちゃん、何本賭ける?」

 

「一々箱から出すのが面倒くさいわ。ケースごと賭けてあげる」

 

やだイケメン。銀子ちゃんはそう言って、ケースの中身をパンサーに見せつけるように、机の上にドンッ、と勢いよく置いた。

 

「はっ、おもろいやないか。よっしゃ、ワシもケースごと賭けたるわ。後悔するんやないで?」

 

「そっちこそ、負けた後の言い訳でも、今の内に考えといたら?」

 

「……ええやろ。そこまで言うなら、本気で叩きつぶしたるわ」

 

銀子ちゃんの挑発に、パンサーの目の色が変わった。どうやら、最初から本気で銀子ちゃんを潰しにくるつもりらしい。これは、序盤から目が離せない展開になりそうだ。

 

「お、おい八一」

 

「ん?歩夢どうしたの?」

 

「さっきからずっと気になっているのだが、あの生き物の性別はオスなのか?それともメスなのか?」

 

「せめて、男か女で言ってあげてよ。俺もわからないなー」

 

本当は知っているが、今は黙っておく。その内わかるかもしれないし、判明したときの歩夢の反応が楽しみだ。そして、対局はパンサーの先手で始まった。互いに角道を開く、スタンダードな初手。王道を行く初手の展開。だが、パンサーの二手目で、直ぐに王道からは外れた展開へと変化を見せていった。

 

「おっと」

 

「な!?」

 

パンサーが態とらしいアクションで、間違えましたと言わんばかりに8六歩と指す。8六歩、つまり角頭上の歩だ。その手を見て、歩夢が驚き声を上げる。

 

「か、角頭歩だと!?」

 

角頭歩。振り飛車で用いられる奇襲戦法だ。一見何のメリットもないこの一手。だがこの戦法が、ハマると強い。前生でも、天衣はこのパンサーとの対局から角頭歩戦法を学び取り、自身のエース戦法にまで昇華させて見せた。さて銀子ちゃんは、この戦法に対してどう対応するのか?と考えていると、銀子ちゃんは然程考慮するまでもなく、冷静に4四歩と打ち、角道を再び閉じて見せた。角交換拒否だ。

 

「なんや、連れへんな」

 

それを確認して、パンサーは7八飛と動かす。三間飛車の構えだ。本当は向かい飛車にしたかったのだろうが、銀子ちゃんの動きを見て三間飛車に移行したようだ。冷静な判断だ。そしてそれを確認して、銀子ちゃんは自陣の駒組みを進めていく。どうやら、このまま矢倉に持っていくらしい。冷静に、持久戦に構えるつもりらしい。パンサーも当然その動きを察して、果敢に駒組みを妨害しようとするが、如何せん、銀子ちゃんの対応が上手い。冷静にパンサーの妨害を躱しつつ、自陣の駒組みを進めていく。しばらくすれば、綺麗な矢倉囲いが銀子ちゃん玉を囲んでいた。

 

「綺麗な将棋やな。ワシには到底真似できんわ。しっかしこうなるとキツいなー。キツいわー。キツいけど、まだまだこっからやで」

 

「な!?」

 

パンサーの放った手に、歩夢が思わず声を漏らす。大胆な手だった。しかし、その大胆な手が、実に有効的だった。

 

「角と銀を捨てて、龍を作るか」

 

パンサーは、左翼を食い破る。角と銀、2枚の大きな損失はあったが、その甲斐もあって左翼は龍が蹂躙し、制圧して見せた。銀子ちゃんの飛車も、同じく龍になろうと試みているが、パンサーの右翼が予想以上に固く、上手くいかない。対するパンサーも、作った龍を軸に、銀子ちゃんの矢倉を横から突破しようと試みているが、これもまた銀子ちゃんの受けが固く、思うほどの結果をあげることができていない。お互いに攻めきることができない展開が続いていた。だが、その膠着も長くは続かなかった。

 

「やるやないかお嬢ちゃん、新世界の女豹と呼ばれるこのワシ相手に、ここまで指せるなんてな」

 

「女ぁ!?」

 

歩夢が思わず声を荒げる。衝撃的なカミングアウトがこのタイミングで行われたのだ。その衝撃は、銀子ちゃんにも確かに響いていた。

 

「あっ」

 

それまで静かに指していた銀子ちゃんから、思わず声が漏れる。大悪手だった。銀子ちゃんらしくない大悪手だった。なんと、桂馬の存在を失念して、飛車をタダで取られてしまったのだ。よほど、先ほどのパンサーの発言が衝撃的だったのだろう。これで、形勢は一気にパンサーへと傾いてしまった。パンサーは、手に入れた飛車を、間髪入れずに銀子ちゃん陣奥深くに投入する。直ぐさま龍へと変化させ、これで二枚の龍が銀子ちゃん玉を横から狙っている形が完成した。パンサーは、ここから一気に勝負を終わらせるつもりのようだ。銀子ちゃん陣を崩す初手として、銀を盤面に打ち付ける。その銀が、金を死角となる斜め下から狙っている。ここが、勝負の分岐路となるだろう。ここの、銀子ちゃんの次の手が、この対局の結果を決めると言っても過言ではない。ジックリと、時間をかけて銀子ちゃんは、次の一手を考える。しばらくして、銀子ちゃんが次の一手を指した。それは、実に衝撃的な一手だった。

 

「か、角を捨てた!?」

 

銀子ちゃんは、銀の横にピッタリと引っ付くように、手駒の角を打ち付けたのだ。確かに銀からは取られない位置。しかし、銀が金を取ったところで、カバーできない。唯一、飛車が攻め込んでくる際の壁になっているぐらいの役目でしかない。そもそも、そもそもな話だ。壁になってるという表現も正しい表現とは言えないのだ。その角を打ち付けた位置、そこはそもそも、龍によって取られる位置なのだから。

 

「……お嬢ちゃん、何を狙ってるんや?」

 

パンサーの声にも耳を傾けず、銀子ちゃんはずっと盤面を覗き込んでいる。凄まじい集中力だ。今の銀子ちゃんには、盤面の様子しか見えていないようだ。銀子ちゃんの新雪のように白い肌は、いつの間にか雪が夕日に照らされたかのように朱に染まっていた。その瞳も、普段の灰色からは激変し、氷のように青くなっている。銀子ちゃんが、本気を出している証拠だ。

 

「まぁええわ。くれるって言うんやったら、もらっとくわ。タダより安い買い物はあらへんねんで」

 

そう言って、パンサーは銀子ちゃんの角を素直に取った。それを確認して、銀子ちゃんは金を銀の真下に逃がす。銀の死角に入りこむ形だ。しかし、その位置も龍によって取られてしまう位置だ。

 

「……ようわからんけど、それももろうとくわ」

 

その後は、お互いに取って取られてを繰り返し、銀子ちゃんは自陣を固めるために駒を打ち付けて、展開は進んでいく。そして程なくしてだった。銀子ちゃんの指した一手に、パンサーの表情が変わることとなった。

 

「な、なんやって!?」

 

矢倉から少し離れた位置にいた、角を動かした銀子ちゃん。その動かした角が二枚の龍両方を捉えたのだ。確実に、龍一枚は取れる一手。しかも、損無しでだ。絶妙な一手だった。いや、この一手だけではない。

 

「ま、まさか、あの角打ちからずっと、この局面に来るまでワシは誘導されとったんか……?」

 

それが、真実だ。あれから十数手。銀子ちゃんはこの局面までずっと読み切っていたのだ。しかも、龍を取るだけに終わらない。

 

「そ、それによう見たら、か、囲いが更に固くなっとるやないか……」

 

そう。誘導しつつ、手に入れた手駒で囲いの更なる増強まで行っていたのだ。身震いすら覚える、完璧な指し回しだった。

 

「つ、強い……」

 

歩夢が呟く。それが、この対局を見ている全員共通の感想だった。大悪手から、見事に巻き返して見せた。ここからは、反撃の開始だ。銀子ちゃんは、そのまま龍を角で取ると、その勢いのまま角を敵陣まで高飛びさせる。だが、それは相手陣に控えていた金によって直ぐに取られてしまう。なんと、ここでまた角を切ったのだ。だがすぐに、手に入れた飛車を敵陣奥深くに打ち付ける。王手だった。しかも、角を取った金の2マス下からの王手、つまり王手金取りだった。パンサーは、仕方なく王を飛車から離れるように逃がす。それを確認して、銀子ちゃんは冷静に金を取り、龍を作った。そこからは、銀子ちゃんがただ寄せるだけの展開となっていった。桂馬や香車を使い、王の逃げ道を限定していく。龍と金銀を使い、王を徐々に追い詰めていく。その展開を見て、パンサーも勝敗を察したのだろう。

 

「あぁもうワシの負けや!もう無理やわ!」

 

パンサーが投了をする。惚れ惚れするような逆転勝利だった。よく、あの状況から持ち直したものだ。お見事としか言いようがない。

 

「マジかよ……あんな子供なのに強すぎる……」

 

「す、すげー対局だった……」

 

「あの子可愛いな。好みだわ」

 

周りからも、賞賛の声が次々と飛び交っている。誰もが銀子ちゃんの強さを認めたのだ。もう、子供だからといって銀子ちゃんを侮る客は一人もいない。後最後の一人、あんたとは少し話し合わないといけないことがあるみたいだ。覚悟しとけよ。

 

「いやー、お嬢ちゃんほんま強すぎるわ。ワシの負けや負け。これやるわ」

 

銀子ちゃんは、パンサーからタバコケースを受け取る。お札がギッシり詰まったタバコケースが二つ。これで、ちょっとしたお金持ちだ。

 

「嬢ちゃんとはもうやりたくないわ。こんなところ(ちご)うて、もっと強い奴がぎょーさんおるとこに行きや」

 

そう言って、パンサーは店から出て行った。それを確認して、他の客達も各々対局へと戻っていく。今の対局を見て、自分も対局がしたくなってきたのだろう。俺だって、そうだった。

 

「歩夢、折角だしちょっと指していこっか」

 

「うむ。我も今同じ事を提案しようとしていた」

 

どうやら、歩夢も同じ事を考えていたらしい。あんな熱い対局を見せられて、棋士として(うず)かないわけがないよね。早く対局がしたくて、仕方が無かった。

 

「八一、私は疲れたんだけど」

 

「銀子ちゃんごめん、ちょっと待ってて」

 

「直ぐに終わらせて見せよう」

 

そして俺と歩夢の対局が始まった。銀子ちゃんはそんな俺たちを、仕方ないかといった表情で眺めていた。銀子ちゃんは、本当に良く頑張った。手に汗握るような熱戦だった。だけど俺は、今の対局の結果を、開局前から察していた。どれだけ銀子ちゃんが追い込まれても、銀子ちゃんは絶対に勝つに決まってると確信していた。だってそうだろ?だって銀子ちゃんは、女流棋戦無敗の女王様なのだから。相手が女という時点で、勝敗は察していたのだ。銀子ちゃんに勝つなら、せめて釈迦堂さんでも連れてこい。銀子ちゃんに勝ったことがある女性なんて、結局あの人ぐらいだ。まぁ、あれも練習対局だったため、公式記録には残っていないのだが。とにかく、銀子ちゃんに勝てる女性棋士なんて、そうそういるわけがない。だが、男性も交えれば話は変わってくる。銀子ちゃんは、もうすぐそんな環境へと挑戦することになる。地獄のような、場所へ。きっと、辛いと思うだろう。苦しいと思うだろう。だけどそれでも、銀子ちゃんは前へと進み続けることだろう。前生で、そうだったように。俺は、そんな銀子ちゃんの支えになってあげたい。銀子ちゃんが今生でも、最高の結果に辿り着けるように、支えてあげたい。奨励会では、俺の方が先輩なのだ。俺がちゃんと、導いてあげないと。そう改めて決意し、俺は歩夢との対局を進めていった。俺は、自陣の銀を手に取る。そして、その駒を強く前へと押し出した。まるで、彼女へのエールかのように前へと強く押し出した。銀を強く、前へと押し出したのだった。




パンサーの原作再登場はありますか?
9巻で少し出てきてくれた時、異常にテンション上がっちゃいましたね
双玉クラブは、原作だと今は串カツ屋になってるらしいですけど、今も違う新世界の道場に顔出してるんですかね?
パンサーの今後の再登場をお待ちしております
次回投稿なのですが、すいませんが未定です
11月22日に特別編投稿する予定だと前々から言っていましたが、まだその特別編全然書けてないんですよね
特別編書き上げるまで、本編の更新はありません
申し訳無いです
次回投稿が特別編にならないように頑張りますので、気長にお待ち頂けると幸いです
ご理解よろしくお願い致します

八銀はジャスティス


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第32局 銀子ちゃん、試験に挑む

本編投稿久々な気がしますね
お待たせしました
合い言葉は、八銀はジャスティス


銀子ちゃんの試験を翌日に控えたその日、俺と銀子ちゃんは夕方に会館へとやってきていた。世間がお盆に入ったこの日に俺たちは、試験に向けた、最後の研究会を会館で行うことにしていた。鏡洲さんを交えて3人でだ。銀子ちゃんの試験は明日とはいえ、今日も会館では1次試験が行われていた。その参加者との接触を避けるために、試験が終わった夕方から行うことにしていた。

 

「よう、お二人さん」

 

「鏡洲さん、今日はよろしくお願いします」

 

「お願いします」

 

「おう、よろしくな」

 

鏡洲さんとは、会館の入り口でバッタリと出会った。てっきり先に来ているものだと思ったら、今来たところらしい。なんでも、会館から依頼を受けた仕事に参加してから来たらしい。仕事上がりに付き合わせてしまって、申し訳無く思う。鏡洲さんと軽く挨拶を交わし、俺たちは3階へと上がった。峰さん達に挨拶をして、事務局を抜け棋士室へと入ろうとした時だった。

 

「こんにちは。エアコン修理に来ました」

 

作業服を着た男の人が事務局を訪れた。その姿を見て、発言を聞いて、事務係の人達が一様にキョトンとした顔になる。

 

「え?この前電話したら、予約が一杯で最速でも来月になると言われてたんだけど」

 

「はぁ、なんでも、春先の時点でこの日に修理に来て欲しいと予約を頂いていたみたいなのですが」

 

「春先?エアコンが故障するよりも前じゃないか。一体誰が?……まぁいいか。修理してくれると言うんだったら、してもらおうか。案内するよ」

 

峰さんの案内の元、修理業者の人が事務局から出ていった。今、明日の試験が行われる対局室のエアコンが故障しているのだ。使えることには使えるのだが、作動中にいきなり止まってしまう。この猛暑が続く夏場に、窓が無い対局室では地獄のような暑さとなってしまう。因みに、当然のことながら業者に予約を入れておいたのは俺だ。

 

前生では、そのエアコンの故障がとある悲劇を招いてしまった。まぁ、それはあくまで一因に過ぎないのだが。今生では、あのような悲劇が起こってほしくない。あんな銀子ちゃん、見たくない。そのためにも、できる備えはなんだってしておく。銀子ちゃんには、今年奨励会員になってもらう。来年の試験は、必要ない。

 

「さてそれじゃ、何を研究する?」

 

「今日は銀子ちゃんのための研究ですからね。とりあえず、香落ちと、辛香理論の対策を」

 

「それは、必須だな」

 

「香落ちと、カラシ理論?」

 

「銀子ちゃん。カラシじゃなくて、辛香だよ」

 

カラシ理論は、前生の小学生時代、俺が間違えて覚えていた名称だ。恥ずかしいから、思い出させないでくれ。何にしても、この二つへの対策は奨励会試験において、更には奨励会で生き残っていくうえで必ず必要になってくる。前生の試験でも、銀子ちゃんはこの二つに苦しめられ、対局を長引かされた結果、あの悲劇が起こってしまった。この二つに対処することは、明日の試験の結果にも繋がるのだ。その後俺と鏡洲さんは、明日の試験に向けての対策を、銀子ちゃんに伝受していった。万全の体制で、銀子ちゃんには試験に挑んでもらう。明日の試験に響かないように、短い時間で研究会は終わる。だけど、濃密な時間になったはずだ。銀子ちゃんの試験対策も万全だ。これを、明日銀子ちゃんなら活かしてくれるだろう。俺と銀子ちゃんは、鏡洲さんにお礼を言って、帰路へと着いた。その時の俺には、翌日に対する一抹の不安も無かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、俺と銀子ちゃんは出発の準備をしていた。銀子ちゃんの奨励会入会試験当日。やれるだけの準備はしたつもりだ。銀子ちゃんは、万全の体制で試験に挑めるはず。

 

「銀子ちゃん、はいお弁当。ソースたっぷり入れておいたからね。それと、日焼け止めもしっかり塗っておくわね。今日の試験、頑張ってきてね!」

 

「うん。桂香さん、ありがとう」

 

桂香さんも、銀子ちゃんのためによくしてくれている。自分の勉強も大変だろうに、そんなの気にするなと言わんばかりに銀子ちゃんのサポートをよくしてくれていた。そのお返しと言ってはなんだが、俺からも桂香さんに色々とプレゼントしていたりするんだけど、それは今は置いておこう。

 

「それじゃ、いってきます!」

 

「いってきます」

 

「うん、二人とも、頑張ってね!」

 

そして俺と銀子ちゃんは、会館へ向けて出発した。今日は俺の例会もある。そして、俺にとって重大な例会でもあった。今日の初戦に勝てば、連勝規定により二段への昇段が決まるのだ。ここのところ俺は絶好調だ。特に危なげも無く、連勝を重ねてくることができた。今日は俺が昇段を決めて、銀子ちゃんが入会を決める。良い一日になりそうだ。

 

「やぁ」

 

会館に着いた俺たちを、明石先生が出迎えてくれた。明石先生とは、特に約束をしていなかったのだが、銀子ちゃんの応援に来てくれたのだろうか?

 

「小学生名人戦の一件を、僕はまだ気にしていてね。今日の試験に、銀子ちゃんが万全な状態で挑めるように微力ながら協力させてもらうよ」

 

微力なわけがない。明石先生がいてくれるのが、どれだけ心強いことか。これでもし仮に、初戦で銀子ちゃんが負けてしまった場合も、二戦目、三戦目と、長期戦になっても大丈夫だろう。まぁ、銀子ちゃんなら初戦で問題なく勝てるだろうが。

 

「うん、今朝の体調は良さそうだね。顔色も良好だ。これなら、問題無く試験に挑めるだろう。八一君も、例会頑張ってね」

 

「はい!ありがとうございます!」

 

明石さんの応援を受けて、俺たちは対局室へと向かう。対局室には、既に多くの奨励会員や、銀子ちゃん以外の受験者の姿があった。そして、そんな皆の前に一人のプロ棋士が立っている。

 

「久留野先生。おはようございます」

 

久留野義経四段だ。幹事として、今日の二次試験の監督を引き受けている。

 

「ん。九頭竜君、おはよう。今日は、昇段がかかった大一番だね。頑張って下さい。それと、受験者の空銀子さんだね?今日は自分の力を精一杯出し切って、試験に挑んで下さい」

 

「はい、ありがとうございます」

 

久留野先生に挨拶を済ませると、俺たちは指定された席に着いた。席に着き、数分もすれば久留野先生が話を始める。そして、手合いが次々と発表されていった。俺の手合いも、発表される。

 

「よろしくお願いします」

 

対局相手と早速向かい合い、挨拶を済ませる。先手は俺だった。この対局の初手は、以前から既に決めていた。

 

「2六歩?」

 

相手が、俺の初手を見て訝しむ。だがそれもほんの少しの時間だけ。直ぐに自身の手に着手した。8四歩と、俺の初手に合わせて飛車先の歩を突いてくる。そして、更に一つ歩を進めて、金をお互い角の横に付ける。そして直ぐさま、俺は飛車先の歩を相手の歩と交戦させた。相掛かりだ。相手は、俺の状況を知っている。この1局に、俺の昇段がかかっていることを。だからこそ、慎重策でくると思っていただろう。もっと、自身の囲いを固めてから開戦してくるだろうとでも考えていたことだろう。だけど、俺が選んだ戦型は相掛かりだった。急戦戦法だ。

 

相手が、俺の歩を取ってくる。そして俺は、飛車側の金を一つ前に進めた。歩を飛車で取ってこなかったことに、またも訝しげな顔をする相手。だが、そこまで深く気にせず、こちらも飛車先の歩を交戦させてきた。素直に歩取りを俺は行う。そして相手も、素直に飛車で歩を取る。そして次に俺が指した手に、相手は驚愕の表情を見せる。

 

「んな!?」

 

2三歩。取った歩を直ぐさま、角頭に打ち付けたのだ。定石を完璧に無視した一手。この一手を受けて、相手の手が止まる。角を動かす方法は無い。取れる手は、金で歩を取るだけ。だが、はたしてそれでいいのか。金で歩を取った場合、金が後ろに下がれなくなってしまう。取った後はどうなるんだ?と変化を延々と考えていることだろう。この手は、前生で創多が考案したものだ。それを、俺風に変えて指している。この大胆な手をこの対局に使用した理由は一つ。短手数で対局を終わらせるためだ。一手でも早く対局を終わらせて、銀子ちゃんの応援に駆けつける。そのために、この一局に相掛かりを、この戦法を採用した。超急戦で、終わらせるために。

 

その後は、俺の作戦通りに超急戦展開へと発展していく。歩を金で取った後、金と角の逃げ場を確保するために、角道を開けてきた相手を狙って角交換を行う。そして直ぐさま角を打ち付けて、こちらの陣地に踏み込む機会を狙っていた飛車を狙う。飛車取りか角成の選択を相手に迫った。そして、相手が飛車を逃がしたので直ぐさま馬を作る。それを軸に、相手陣地に攻め込んでいく。飛車も、歩と更には桂馬との連携で相手金銀に迫り、金銀の防壁を突破し龍王へと成った。左翼から馬、右翼から龍が攻め込む形だ。そうなると、終局まではそう時間を要さなかった。

 

「ま、負けました……」

 

対局相手が投了宣言をする。これで、俺は二段へと昇段を果たした。そして、喜ぶ間もなく、俺は銀子ちゃんの対局を見に行く。対局は、まだ中盤の様相だった。開戦間もないように見える。香落ち手合いということで、飛車を振っている相手。その戦法に、銀子ちゃんは冷静に対処できていた。

 

「あの銀髪の子、凄いな」

 

「例の小学生名人だろ?清滝名人の弟子で、覇王の姉貴分だっていう」

 

「なんだよそれ。将来有望すぎだろ」

 

奨励会員の皆も、銀子ちゃんの実力に舌を巻いているようだ。銀子ちゃんが褒められるのは嬉しいんだけど、覇王と呼ぶのだけはやめてもらえないだろうか?対局は、そのまま終盤戦へと突入していく。優勢なのは、どう見ても銀子ちゃんだ。このまま、銀子ちゃんなら問題無く終局まで持っていくことができるだろう。だが、奨励会は決して甘い場所ではない。

 

「教えてやるよ受験生。奨励会の終盤は、二度ある」

 

銀子ちゃんの対局相手が、自陣に金銀を打ち付け始めた。辛香理論の実践だ。奨励会では、ここからが本当の終盤となる。勝つことではなく、負けないことを考え始めた相手を、如何にして詰ませるか。その研究は、昨日既に行っている。

 

「くっ!」

 

対局相手が、苦悶の声を漏らす。銀子ちゃんの攻めが鋭く、金銀の防壁をいとも簡単に突破されてしまっているのだ。

 

「つ、強い!」

 

「あんな簡単に、あの囲いを突破するんか!?」

 

「これは、入会したら強敵になるな……」

 

銀子ちゃんへの賞賛が、周りから飛び交う。それほどまでに、完璧な崩しだった。完璧すぎて、身震いするほどの崩しだった。数手後には、もう相手に打つ手が無くなっていた。そして、終局を迎える。後は、頭に何かを打ち付けて終わりだ。銀子ちゃんが、右手で駒台から銀を掴み、その綺麗な人差し指と中指で挟む。そして、自身の勝利を宣言するかのように、その駒を高く頭上に掲げた。こうして、俺の姉弟子、空銀子は対局に勝利し、晴れて奨励会員となったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのはずだった。

 

「……え?」

 

思わず、声が漏れてしまう。銀子ちゃんの指に挟まれた銀が、こぼれ落ちて、床に音を立てて落ちる。まるで、何か未来を暗示するかのように、銀が落ちる。そしてそれから数秒が遅れてのことだった。指を頭上に掲げたまま固まっていた銀子ちゃんの体が、傾いたのは。その状況を見ても、俺は何が起きたのかを理解することができなかった。いや、したくなかっただけだ。目の前で起きている、現実から目をそらしたかっただけだ。だけど、その現実逃避を、銀子ちゃんが床に倒れる音が許してくれない。

 

「銀子ォォォ!!!」

 

悲痛な俺の叫び声が、誰もが動きを止めた対局室に、響き渡ったのだった。




久しぶりの投稿
しかも暗い終わり
次は早く投稿できるようにがんばります
たぶんあさって大丈夫です
たぶん
進捗状況はツイッターでお知らせします

八銀はジャスティス


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第33局 変わらない未来

先週発売したりゅうおうのおしごと!ソングコレクションを聞きながら執筆してました
ゲーム発売まで、これ聞いて慰めて貰ってます
もう、延期はないよね……?
合い言葉は、八銀はジャスティス


「銀子ォォォ!!!」

 

俺の叫び声が、対局室に響き渡る。直ぐさま俺は、銀子に駆け寄り、その体を起こそうとする。しかし、その俺の行動を、手を捕まえて制止する人が現れた。

 

「八一君、落ち着くんだ!無理に起こそうとするのは危険だ!僕に任せて下がっているんだ!」

 

明石先生だ。明石先生が、聞いたことも無いような、張り上げた声で、俺の行動を咎める。だけど、今の俺には、そんなことなんて、明石先生の事なんて目にも入っていなかった。誰かに腕を掴まれた。邪魔をされた。その程度の認識でしかなかった。

 

「離せ!邪魔をするな!銀子、銀子ォ!」

 

取り乱した俺には、もはや銀子ちゃんと、この頃の呼び方を保つ余裕も持てなかった。銀子と、前生で婚後から晩年まで呼んでいた、呼び慣れたその呼び名が自然と口から出てくる。それだけでも、俺がどれだけ取り乱しているかがわかるだろう。今の俺の眼には、銀子のことしか映っていなかった。

 

「銀子、銀子ォ!さっさと手を離せよ!銀子が、銀子が!」

 

「えぇかげんにせんかい!」

 

明石先生の手を全力で振り払おうとしているときだった。俺の頬に、衝撃が走ったのは。遅れて、痛いのか、熱いのかよくわからない刺激が頬に襲ってくる。そして、俺は、胸倉を掴まれる。目の前には、師匠の顔があった。そこで漸く、俺は師匠に頬を(はた)かれたのだと理解した。説教は過去にも受けたことはあったが、直接手を出されたのは、前生を含めてもこれが初めてだった。

 

「銀子が、銀子がと吠えおって、口だけで、お前はほんまに銀子のことを助けたいと思っとるんか!お前が近寄って何ができんねん!銀子が苦しむのを長引かせるだけやろ!明石君に任せて、お前は水でも被って頭冷やしてこい!」

 

師匠の怒声が、俺にとっては冷や水と同様の効果をもたらしてくれた。徐々に、思考が冷静に戻っていく。完全に元の状態に戻ったかと言われれば、首を縦に振ることは到底できないが、自分に今できることが何なのかは理解することができた。何もできないと言うことは、理解することができた。結局の所、俺には医学的知識なんて、全く無いのだ。銀子ちゃんに何かあった時のために、心臓マッサージや人工呼吸のしかたは前生で身につけたが、今この場には一般人の俺なんかよりよっぽど頼りになる、本職の明石先生がいる。この場は明石先生に任せるのが一番だということは、誰にだってわかるだろう。俺はその後も、明石先生が銀子ちゃんにこの場でできる限りの治療を行っていくのを見守っていることしかできなかった。そしてしばらくすると、会館の外からサイレンの音が聞こえてくる。どうやら、救急車が来たようだ。サイレンの音が聞こえなくなると、程なくしてタンカを担いだ人達が数人対局室に入ってくる。明石先生が事情を説明し、その人達と、銀子ちゃんを連れて部屋を出て行った。おそらく、このまま一緒に病院に行くのだろう。それに、師匠も着いていった。

 

「ワシは付き添って病院に行ってくる。八一は例会が終わったら、真っ直ぐ家に帰るんや。桂香にはもう電話で事情を伝えてあるからな。安心せい。銀子ならきっと大丈夫や。直ぐに、良くなってまた将棋が指せるようになるわ。だから、心配するんやないで?な?」

 

そう言って、師匠は部屋から出て行った。心配するななんて、そんなの無理な話だろ。前生では、銀子ちゃんは確かに助かった。だけど、今生もその通りになるとは限らないのだ。……いや、きっとその通りになるのだろうか。これだけ、万全を尽くしても、俺は未来を変えることができなかったんだ。だとしたら、この後もずっと、前生の通りに未来は続いていくのかもしれない。ずっと、変わらずに。

 

その後、俺は師匠に言われたとおりに、残り1局の例会を終えてから清滝家に帰った。例会の結果は、俺の惨敗だった。正直、どんな戦型を指したのかも全く覚えていない。俺が何を指して、相手が何を指して、第一手で何を指したのか、決まり手はどんな手だったのか、それどころか、先手がどっちだったのかも全く覚えていない。対局中も、ずっと銀子ちゃんのことが頭から離れなくて、集中なんてできるわけがなかった。二段最初の対局は、酷いものとなった。だけど不思議なことに、対局に負けたというのに、俺には、悔しさなんてものが一切湧いてこなかった。負けたというのに、どうでもいいとすら思ってしまっていた。俺は、帰り道を一人歩く。その足取りは、重かった。負けたことが理由では無い。自分の無力さが情けなかったのだ。銀子ちゃんが倒れたとき、結局俺は何もできなかった。そんな自分の無力さが、情けなくて、俺の足取りを重くしていた。俺は重い足取りで、帰り道を一人歩いた。その右手は、寂しそうにブラブラと揺れていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、俺は子供部屋に引きこもり、将棋盤を見つめていた。いつもいるはずの、対局相手がいない。負けず嫌いのあの少女が、今はいない。一人きりの子供部屋は、いつもよりも広く感じた。その広い子供部屋で、床に銀子ちゃん愛用のマグネット式将棋盤を広げて、駒も動かさずに俺はずっと盤面を見つめていた。駒は、初期位置から一切動かしていない。俺は、後手なのだ。先手が動かしてくれないことには、対局が始まらない。持ち時間無制限のその対局は、いつまで経っても始まらなかった。

 

「八一」

 

そうして、子供部屋でボーッと過ごしていると、部屋に師匠が入ってきた。俺は気だるげに、ゆったりとした動きで師匠の方に顔を向けた。目に入った師匠の顔も、心なし暗く感じた。

 

「病院に行くで。銀子の見舞いや」

 

病院には、既に桂香さんが先に行っている。師匠は、午前中用事があったので外出しており、どうやら帰宅するなり直ぐに見舞いに向かうらしい。

 

「行かない」

 

しかし、俺は見舞いに行く気にはなれなかった。銀子ちゃんに、どんな顔をして会えばいいのかわからなかったからだ。なんと声を掛ければいいのかわからなかったからだ。惜しかったね、とでも言えばいいのか?残念だったね、とでも言えばいいのか?次があるよ、とでも言えばいいのか?人生二週目、人よりも長く人生を歩んでいても、決してその答えがわからない。いや、そもそもこの問題に答えは存在するのだろうか?どれも不正解な気がして、銀子ちゃんに会うのが怖かった。

 

「いいから行くで。これは師匠命令や」

 

師匠命令。それは卑怯な言葉だ。そう言われれば、俺に拒否権は無い。従う以外に、選択肢は無かった。

 

「……行って、銀子ちゃんになんて声を掛ければいいのかな」

 

「なんや。そんな心配してたんか」

 

「そんな心配って……!」

 

その時、俺は師匠に怒りを覚えた。必死に人が悩んでいるというのに、その悩みを軽んじるかのような発言。これだけ悩んでいるのに、まるでそんなの無駄な悩みだとでも言われた気がして、俺は怒りを覚えた。

 

「実際に悩むだけ無駄や。理由は、会えばわかるわ。行くで」

 

俺は、怒りを抑えながら、渋々師匠の後に着いていった。病院に着く頃には、俺の怒りは(なり)を潜めていた。正確には怒っている余裕が無くなったというところだろうか。病院が近づくにつれて、銀子ちゃんへの第一声のことに思考が全て振られていってしまう。結局、その答えも導き出せないまま、病院へと到着してしまった。そして、院内へと入る。

 

「こんなところで、奇遇やな」

 

「ん?その声は……」

 

入ろうとしたところで、よく知っている人物と出くわした。月光聖市九段だ。月光先生は、今病院から出てきたところだった。おそらく、銀子ちゃんのお見舞いに来てくれていたのだろうか。見送りに来たと思われる、桂香さんも一緒にいる。

 

「奇遇も何も、お弟子さんのお見舞いに来たのでしょう?私も、目的は同じですよ」

 

「態々銀子の見舞いに来てくれたんか」

 

「彼女は、私の姪ですからね。親戚のお見舞いに訪れるのは、不思議なことですか?」

 

「そう言われると、普通やな」

 

「えぇ。普通のことです」

 

そう言って二人は病院の前で笑っていた。豪快に笑う師匠と、静かに笑う月光先生。笑い方に個性はあるが、仲の良い兄弟に見える。

 

「……こうして直接会うのは5月の名人戦以来ですね。お元気そうで、安心しました」

 

「お陰さんで、良い思いさせてもろうてるからな」

 

「これはこれは、短い夢に終わらないことを期待してます」

 

そして、急に二人して挑発を始める。棋士として、ライバルとしての(さが)とも言える。師匠と月光先生は、今年の名人戦でもタイトルを賭けて争うことになった。3年連続の同一カード、2年連続で最終局まで(もつ)れ込んでいただけに、今年も接戦になることが予想されていた。しかし、いざ開幕してみれば、なんと師匠が開幕4連勝で、ストレートでの防衛を決めて見せたのだ。師匠は一昨年の名人戦以来、ずっと好調を維持し続けていた。それはもう、覚醒と言ってもいいほどの変わりっぷりだった。そして、昨年名人に就位してからは、更に磨きがかかっているように見える。竜王戦でも、魔の1組トーナメントで優勝してみせたのだ。惜しくも、挑決三番勝負で、1勝2敗で負けてしまったものの、その好調っぷりは尋常では無かった。それは、今年に入っても変わらなかったというわけだ。

 

「八一君も、お久しぶりですね。お元気にしてましたか?」

 

「はい、お陰様で元気に過ごしてました」

 

「……少し声に元気が無いような気がしますね。お姉さんのことで、気落ちするのもわかります。ですが、せめて彼女には元気な顔を見せてあげて下さいね。それが、彼女にとっても良い薬になるはずです」

 

「はい、肝に銘じておきます」

 

「それでは、私はこれで失礼します」

 

「なんや、もう帰るんかいな」

 

「これから仕事が入っているもので。後は、ご家族で過ごして下さい。それでは、失礼します」

 

月光先生は、そう言って去って行った。俺たちは、月光先生の姿が見えなくなったのを確認してから、桂香さんに案内され銀子ちゃんの病室へと向かった。

 

「あぁ、お待ちしてました」

 

桂香さんに案内された病室の前で、明石先生が立っていた。どうやら俺たちのことを待っていたらしい。

 

「銀子の調子はどうや?」

 

「昨日から変わりありませんよ。僕が説明するよりは、直接会って頂いた方がわかりやすいとは思いますけどね」

 

「せやろうな。ワシは知っとるけど、八一は知らんからな。とりあえず、中に入ろか」

 

「私は……」

 

「……桂香も一緒におってくれへんか」

 

師匠にそう言われた桂香さんの表情は暗い。まるで、この病室に入るのを嫌がっているようにも見える。その桂香さんの様子を見て、俺は徐々に嫌な予感を覚えてきていた。この病室の中に、何があると言うのだ。ただ、銀子ちゃんが寝ているだけではないのか?俺は段々、悩みなど関係無しに、この病室に入るのが怖くなってきていた。

 

「ほな、入るで」

 

しかし、入らないわけにも行かない。どうせ、師匠命令を使われるに決まっているのだ。おそらく、師匠は銀子ちゃんに俺を会わせるために師匠命令を発令したのだから。俺は意を決して、師匠に続き病室の中に入る。中に入り、ベッドの上に横たわる少女を見て、

 

「な……!?」

 

言葉を失った。その、あまりにも痛ましい銀子ちゃんの姿に。どうやら、意識はあるらしい。いや、こんな状態を意識があると言っていいのかわからない。酸素マスクをして、声は出せないようだ。輸血を受けていて、常に肩で息をしている。目は虚ろで、周りの様子がわかっていないらしい。俺たちの声が聞こえているのかもわからない。だけど、その右手の指先だけが時にピクリと動くのだ。まるで、持っている駒を盤に叩きつけるかのように。銀子ちゃんの右手は、まだあの時の銀を玉頭に打ち付けようとしているのだ。銀子ちゃんはまだ、昨日の対局を闘っているのだ。その姿が、痛ましくて、思わず目を背けてしまう。

 

その姿を見て、俺は漸く師匠が悩むだけ無駄と言った意味を理解した。話しかけることも、できないのだ。それは当然無駄だろう。ここまで痛ましい銀子ちゃんは、前生を通じても初めて見た。確かに、前生でもこの時期は、銀子ちゃんは奨励会試験で倒れ、入院をしていた。だけど俺は、銀子ちゃんの容体は心配無い。しばらく念のために検査入院するだけだとずっと聞かされていたのだ。お見舞いに訪れる許可を貰ったのも、世間がすっかり秋色に染まってからのことだった。つまり、銀子ちゃんの容体が回復してからのことだったのだ。今の今まで、倒れた直後の銀子ちゃんがここまで酷い状態だったなんて、想像もしていなかった。

 

「とりあえず、命に別状は無いよ。昨日の時点では、危険な状態だったけど、峠はもう過ぎた。ここからは、時間はかかっても、徐々に回復していくよ」

 

明石先生のその言葉を聞いて、安心する。正直、この姿の銀子ちゃんを見てしまえば、命の危機なんじゃないかと心配してしまっていたのだ。本当に良かった。俺は、もう一度銀子ちゃんの方を見る。だけど、やっぱり直ぐに目を逸らしてしまいたくなる。銀子ちゃんの姿から。未来を変えれなかったという現実から。俺は、銀子ちゃんからまた目を逸らす。逸らそうとして、ふと気づいた。時折ピクリと動く銀子ちゃんの右手。その反対の左手だ。その左手が、何かを握っているように見えるのだ。俺は、それが気になって、銀子ちゃんの左手に近づいていく。握りしめた左手の、僅かな隙間から、銀子ちゃんが何を握っているのかは確認することができた。

 

「あ、あ……あぁ……!」

 

それを確認した瞬間、俺の眼からは、滝のように涙が溢れ出てきた。その溢れる涙が、銀子ちゃんの左手に流れ落ちていく。銀子ちゃんが握りしめていた物、それは駒ストラップだった。龍王の、駒ストラップだった。その駒ストラップを、ずっと握りしめていたのだ。

 

「気付いたかい?昨日から、ずっと握りしめていてね。取ろうと思っても、凄い力で抵抗されて諦めたんだ。無理に取ろうとすると、余計に容体が悪化しそうな予感もしたしね」

 

明石さんの説明に、俺の涙がまた一際強まる。もはや、銀子ちゃんの顔もハッキリと見えないようになっていた。

 

「医者が精神論を語るのもどうかと思うけど、病に一番効く薬は強い気持ちだと思うんだ。銀子ちゃんの場合、その強い気持ち、いや、銀子ちゃんの場合は絆と言うべきかな?それが、その駒ストラップだと思うんだ。以前、銀子ちゃんが検診に来た時に、嬉しそうに教えてくれたよ。八一君から貰ったんだって。あんなに嬉しそうに、他人のことを語る銀子ちゃんを、僕は見たことが無い。きっと、今の銀子ちゃんにとって八一君は、掛け替えのない心の支えになっているんだよ」

 

その明石先生の言葉を聞いて、俺はポケットからある物を取り出した。銀将の駒ストラップだ。銀子ちゃん同様、俺だっていつも肌身離さず持っている。そのストラップを、俺も力強く握りしめた。銀子ちゃんに、俺の想いが届くように。

 

「……桂香、明石君から銀子の病気のことについては聞いたな?」

 

「う、うん。……聞いたけど」

 

「なら問題無いわ。八一……お前、銀子の病気のこと、知っとったな?」

 

「……え?」

 

師匠の発言に、桂香さんが驚き息を飲む。明石先生も、声は出さなかったが、その目は驚き見開かれていた。師匠にバレていることは知っていた。俺が銀子ちゃんの5歳の誕生日会で行った、衝動的な行動と言動のせいだ。あの時はまだ桂香さんも、銀子ちゃんの病気のことを知らず、不審に思わなかったみたいだけど、師匠は違う。師匠は、銀子ちゃんの病気のことをずっと知っていたのだ。バレてもおかしくないだろうと思っていた。それでも、言わずにはいられなかったのだ。あれから3年。師匠が何も聞いてこないことが、逆に不気味ではあったけど、今ここで聞くつもりになったらしい。

 

「……うん」

 

「なんで知っとったんや?」

 

「なんとなく。銀子ちゃんの普段の様子を見て、そうなんじゃないかな、って思っただけだよ」

 

「そうか」

 

師匠は、あっさりと引き下がった。拍子抜けするほど、あっさりと引き下がった。正直、問い詰められても言い逃れできる言い訳が全く思いつかなかったので、適当にはぐらかしただけだったのだが、まさかそれで引き下がるとは思ってもいなかった。その驚きが顔に出ていたのだろう。師匠は、優しげな笑みを浮かべながら、俺に言って聞かせた。

 

「誰にだって、隠したいことの一つや二つあるわ。ワシにかって、桂香にさえ言っとらん秘密があんねん」

 

「タンスの裏のヘソクリなら、回収しておいたわよ」

 

「なんで知っとんねん!?……ん、ゴホン!とにかく、そういうことや。八一が何か隠してようと、無理矢理聞くようなことせーへんわ。せやけどな、これだけは覚えとき。ワシらは師弟であると共に、親子でもあるんや。子供の悩みなら、親はいつでも聞いたる。せやから、一人で抱え込むんやないで。辛くなったら、いつでも相談してき」

 

「師匠……」

 

師匠の優しさが、有り難かった。本当に、俺は良い父親に巡り会えた。その優しさに、甘えたくもなる。だけど、それが許されるわけがない。こんな相談、できるわけがないじゃないか。俺は未来を知ってるんです。未来を変えたいんですなんて、相談できるわけがないじゃないか。相談した瞬間、精神科医に連れて行かれかねない。

 

銀子ちゃんの想いは嬉しい。師匠の優しさは有り難い。だけど、そんなものでは未来を変えることはできないのだ。現に、こうして最善を尽くしても、未来を変えることはできなかった。辛い現実を、叩きつけられた。もしかしたら、どれだけ頑張っても、この先も未来を変える事なんて、できないのかもしれない。また、この手を離してしまうのかもしれない。俺が今までしてきた努力は、全て無駄だったのかもしれない。未来は、どう足掻いても変えれないのかもしれない。そんな考えばかりが、頭に過ぎってくる。俺の、今生での努力はなんだったんだろう?

 

精神的に不安定になってしまった俺は、その後著しく調子を落とした。降段こそ免れていたものの、負けが先行することが多くなってしまった。いくら勝っても、未来を変える事なんて、できないんじゃないか?そんな考えばかりが対局中も過ぎってしまう。俺は、一体どうすればいいんだ……

 

俺の不調は、その後もしばらく続いた。自分がするべきことに答えも出せないまま、時間ばかりが過ぎていくのだった。悪戯に時間ばかりが、過ぎていくのだった。




月曜に投稿すると言ったな?
あれは嘘だ(訳:遅れてしまい本当に申し訳ございません
年末繁忙尋常じゃないでやんす
次はたぶん土曜日かな
土曜日目標に頑張ります

八銀はジャスティス


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第34局 それでも未来は続いていく

14巻ドラマCD、一部先行公開来ましたね
聞いてとりあえず一言
桂香さん、涙拭けよ
合い言葉は、八銀はジャスティス


年が明け、1月になっていた。

その日、俺は一月二度目の例会に参加していた。月に二度ある例会の二度目、つまり今月最後の例会。その、2局目を今行っている。

 

「負けました」

 

そして、俺はその対局に負けた。今日の戦績は、2敗だった。二段に昇段して以降、全く勝てないというわけではないが、勝ちが続かない。それどころか、負けが続く方が多い有様。ギリギリの所で後段点は免れているが、それもいつまで保つかわからない。俺のスランプは、相当に酷い物だった。

 

「今日も連敗か」

 

「九頭竜の奴、どうしちまったんだ?あいつならあっさり三段に上がると思ってたのに」

 

「買いかぶりだったんじゃね?今までのがまぐれだったんだよ」

 

周りから声が聞こえてくる。例会の度に聞こえてくる声。正直に言って、もう慣れてしまった。全くと言っていいほど、俺にはその声が気にならなくなっていた。

 

「八一」

 

俺が帰り支度をしていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと、そこにいたのは鏡洲さんだった。

 

「お前、本当にどうしたんだ?」

 

「どうしたって言われましても、どうもしませんよ」

 

「そうは見えないから言ってるんだ。ハッキリ言って、今のお前の将棋からは、勝ちたいって意思が感じられない。本当に、何があったんだ?」

 

「何も、ありませんよ。何も」

 

そう言って、俺は席を立ち上がると、対局室の出口へと向けて足を進めた。あまり、この場には長居したくない。

 

「八一!何か悩んでるなら、いつでも相談してこい!一人で抱え込むんじゃないぞ!」

 

鏡洲さんの声を、背中に受ける。鏡洲さんは、当然今期も三段リーグを闘っている。リーグも折り返しを迎え、鏡洲さんも、熾烈な昇段争いを繰り広げている。自分のことで大変なはずなのに、俺の心配をする。師匠といい、銀子ちゃんといい、俺の周りには優しい人が多すぎる。だけど、今の俺にはその優しさは迷惑でしかなかった。一人で抱え込むな?こんな問題、誰と共有しろって言うんだ。未来を変えたいですなんて、誰に相談しろって言うんだ。未来は変えれないのかもしれないなんて、誰に説明しろっていうんだ。できるわけがない。できるわけが、ないじゃないか。

 

「クソッ!」

 

銀子ちゃんが入院して以来、ずっとこんな調子だ。鏡洲さんは、俺の将棋から勝ちたいという意思が感じられないと言った。俺としては、否定したいところだ。俺は、勝ちたいと思っている。だというのに、対局をしてるとどうしても、勝っても無駄なんじゃないか?今までの努力は無駄だったんじゃないか?未来を変える事なんて、やっぱり無理なんじゃ無いか?と、余計な思考に襲われて、対局どころではなくなってしまうのだ。俺の意思では、どうすることもできない。どうにもできないのは、この約半年で嫌と言うほど思い知らされた。この現象も、明日になれば治るのだろうか?頼むから、治ってほしい。俺は、トボトボとした足取りで帰り道を歩く。明日は、銀子ちゃんの退院日だ。だというのに、俺の足取りは、ドンヨリと重かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、銀子ちゃんは無事に退院を果たした。久々に清滝家に帰ってきた銀子ちゃん。その夜銀子ちゃんのために、盛大に退院祝いパーティーが催された。

 

「銀子ちゃん、退院おめでとう!」

 

桂香さんが次々と料理を運んでくる。銀子ちゃんの手元には、新品のソースが置かれていた。どうやら、今日はいくらでも使っていいらしい。入院中は流石に禁止されていたため、銀子ちゃんにとっては久々のソースまみれの食事だった。早速、キラキラした目で料理にソースをかけている。それはもう、滝のように。

 

「……医者としては、止めたいところなんだけどね」

 

「無駄や無駄。銀子のこれは、一生治らんわ」

 

今日の退院祝いには、明石先生も来ている。明石先生には銀子ちゃんのことで本当にお世話になったからと、是非持てなしをしたいと言って、師匠が誘ったのだ。つまり今日は、明石先生ありがとうの会でもあるのだ。

 

「どう銀子ちゃん、おいしい?」

 

「うん、桂香さんおいしいよ」

 

「そう?よかった!いっぱいあるから、どんどん食べてね!」

 

銀子ちゃんも、久々にソースを食べれて嬉しそうだ。機嫌良さそうに料理を次々と口へ運んでいっている。久々に、そんな銀子ちゃんの姿が見れて、俺も嬉しかった。その後も、ワイワイと思い思いに料理を皆で食し、食事会は滞り無く終わる。これからは、師匠と明石先生のお酒タイムらしい。俺と銀子ちゃんは、興味がないので子供部屋に行くことにした。

 

「これ……」

 

子供部屋には、あの日から変わらずマグネット式の将棋盤が置いてあった。駒も、初期位置から一切動かしていない。

 

「……指そっか」

 

「うん」

 

そして、長い長い沈黙の末に、ついにその対局の第一手が指された。銀子ちゃんが指した手は、2六歩。飛車先の歩。銀子ちゃんが指したい戦型は、この一手が指される前からわかっていた。俺たちの対局は、何か特別な思い入れがあるとき、いつも相掛かりとなった。今回も例に漏れず、相掛かりへと持っていきたいようだ。俺も異論はないので、素直に飛車先の歩を進める。その後は、予想通り相掛かりへと手が進行していく。序盤、中盤と若干俺が優勢な展開で終えて、対局は一気に終盤戦へと差し掛かる。差し掛かった時だった。

 

勝っても無駄なんじゃないか?

 

あぁ、まただ。まさか、例会だけではなく、銀子ちゃんとの普段の対局でも現れるとは思わなかった。ここ半年の俺を悩ませる、余計な思考。それが、また顔を覗かせた。こうなると、俺の将棋はめちゃくちゃになってしまう。自分でも、何を指しているのかわからなくなる。その対局でも、それは変わらなかった。結局俺は、終盤で銀子ちゃんに逆転を許し、負けてしまったのだった。

 

「負けました。やっぱり、銀子ちゃんは強いな」

 

「……ち」

 

「終盤、悪手の連発だったな。こんなんじゃ、いくらやっても勝てないや」

 

「……いち」

 

「どうする?もう一回指そっか?今度は俺の先手でいい?次は負けないよ」

 

「やいち!」

 

「……え?」

 

大きな声だった。銀子ちゃんがめったに発することのない、大きな声だった。思わず、俺は動きを止めてしまった。こんな大きな声を出す時は決まって銀子ちゃんが怒っている時だ。俺は、何か銀子ちゃんを怒らせるようなことをしてしまっただろうか?恐る恐る、銀子ちゃんの表情を窺う。しかしそこには、怒りという感情は見て取れなかった。変わりにあったのは、悲しみだ。

 

「八一、何を迷ってるの?悩んでるの?」

 

「き、急にどうしたの?俺はどうもしないさ。至っていつも通りだよ」

 

「嘘。将棋を指せば、相手の心境ぐらいわかる。特に八一とは、たくさん指してきたからよくわかる。何を迷ってるの?悩んでるの?」

 

銀子ちゃんが、悲しそうな表情で俺に尋ねてくる。その顔を見るのが辛くて、俺は銀子ちゃんから目を逸らした。こんな悩み、例え銀子ちゃんであっても、言えるわけがないじゃないか。

 

「本当に、大丈夫だから。銀子ちゃんは、気にしないで」

 

「気にするに決まってるよ!今の将棋は何?勝つ気あるの?最近例会で負けが先行してるって聞いたけど、まさか例会でもあんな将棋指してるの?」

 

「それは……」

 

「さっきの将棋、酷かったのは終盤だけじゃないよ。序盤中盤も、確かに私は劣勢だった。けど、思ってたよりも差は広がらなかった。半年の差があったにも関わらず。……八一、きっと八一の将棋は、半年前から止まっている。全く前に進んでいない。八一、本当に、何を迷ってるの?何を悩んでるの?」

 

将棋が止まっている。銀子ちゃんにそう言われ、俺の頭には血が上っていくのがわかった。あぁ、そんなこと自分でもわかっているんだ。自分の将棋が停滞していることぐらい、そんなの自分が一番わかってるんだ。それなのに、他人に一々指摘されるのが、堪らなく腹立たしかった。そう考えると、俺は抑えがきかなくなってしまった。

 

「……うるさいな」

 

「え?」

 

「うるさいな!そんなの一々銀子ちゃんに言われなくてもわかってるよ!自分でもなんとかしようとしてるんだから、放っておいてよ!こんなこと、銀子ちゃんには関係無いだろ!」

 

「私には関係無いって、本気で言ってるの……?」

 

「あぁ、本気だよ!銀子ちゃんは自分のことだけ考えてればいいんだ!俺だって自分のことは自分でなんとかするさ!だから、一々俺の問題に口出ししないで!放っておいてよ!」

 

「ッ!八一のバカ!クズ!私が心配して言ってるのに、なんでそんなこと言うの!?自分一人でなんとかできないから、半年もそのまんまんまんじゃないの!?このままじゃ、小学生タイトル保持者になんてなれるわけないじゃない!」

 

「もうなれなくてもいいよ!なっても、どうせ無駄なんだよ!」

 

「無駄?何を言ってるの?」

 

「銀子ちゃんには関係無い話だよ!どうせ、俺の悩みなんて、誰にもわかってもらえないんだ!もう放っておいてよ!」

 

そう言い残すと、俺は逃げるように部屋から飛び出していった。今にも泣き出しそうな、銀子ちゃんの顔を見たくなかったから。

 

「……よ……」

 

背後から、囁くような銀子ちゃんの声が聞こえたような気がした。だが、何を言っているのかまでは聞き取れなかった。俺は、駆け足で階段を下りて、玄関から外へと飛び出した。

 

「ちょっと八一君!こんな時間にどこにいくの!?」

 

背後から桂香さんの声が聞こえたが、俺は止まらない。今は、夜風に吹かれて頭を冷やしたい気分だった。夜道を駆け足で歩き、俺は近所の公園に入る。公園のベンチに腰を下ろして、俺はボーッと夜空を眺めていた。大阪の冬は、福井に比べて暖かい。しかし、夜は流石に冷える。部屋着のまま、外に飛び出してきたので、俺の服装は薄い。寒い。しかし、その寒さが今の俺には、丁度良く感じた。その寒さが、心地良い。そして、しばらくその寒さを満喫していると、不意に頬に、温かい物が押しつけられた。驚いてそちらの方に振り向くと、知っている顔があった。

 

「流石に寒いだろ?これを飲んで温まるといい」

 

明石先生だ。明石先生の服装も、薄手のものだった。俺が家を飛び出した後、直ぐに追ってきたのだろう。その手には、ホットココアが握られていた。

 

「……ありがとうございます」

 

俺は明石先生からホットココアを受け取り、プルタブを開けて一口飲む。温かく、甘いその液体が、俺の体に染み渡り、俺の心を少しばかり落ち着かせてくれた。

 

「銀子ちゃんと、何かあったのかい?」

 

「……少しケンカをしただけです」

 

銀子ちゃんとのケンカは、前生では腐るほどした。だけど、今生ではこれが初めてのことだった。

 

「原因を、聞いても?」

 

明石先生にそう言われ、俺はケンカに至った経緯を説明していく。本当は聞かれたくないようなことだが、何故か明石先生には、話さないといけないような気がしてしまう。まさか、このココアに自白剤が入ってたんじゃないよね?と思ってしまうほどに、俺の口はおしゃべりになっていた。俺が話してる間も、明石先生はブラックコーヒーを飲みながら、時々相槌を打ちつつ、真剣に聞いてくれている。その態度が嬉しくて、俺の口もつい語りたくなってしまう。そして俺は、一通りの流れを明石先生に話し終えた。

 

「……なるほどね」

 

「……すいません。俺の悩みの内容までは、どうしても言えなくて」

 

「いいよ。人には誰だって、誰にも聞かれたくないような話の一つや二つあるものだからね」

 

流石に、俺の悩みまでは明石先生であっても話すことはできない。これは、俺が一人で一生抱えていく悩みだ。

 

「そうだね。まず初めに、銀子ちゃんが何に対して一番悲しんでいるのか説明しようか」

 

「それは、俺が悩みを一人で抱えているからじゃないんですか?」

 

「違うね。そっちじゃない。銀子ちゃんは、八一君の将棋が停滞してしまっていることに一番悲しんでいるんだ」

 

「え?」

 

それは、俺にとっては予想外だった。てっきり銀子ちゃんは、俺が悩みを一人で抱え込んでいることに悲しんでいるのかと思っていた。しかし、どうやら明石先生が言うには違うらしい。

 

「銀子ちゃんは、検診に来た時、よく八一君の話をしてくれるんだよね。八一は凄い。私も負けていられないってね。そして、八一君のことを、こう言っていたよ。いつか、歴史を変えるような棋士になるってね」

 

「……え?」

 

歴史を変える。銀子ちゃんは、将棋の歴史を変えるような存在に俺がなると思って、そう言ったのだろう。だけど、俺には違う意味に聞こえてしまう。未来(れきし)を変える棋士になると、そう言っているように聞こえてしまう。もちろんそのような意図は無いに決まっているが、そう聞こえてしまう。

 

「だからこそ、銀子ちゃんは悲しんでいるんだ。いつか、そんな凄い棋士になる八一君が、停滞してしまっていることが、悲しくてしかたないんだよ。そして、銀子ちゃんが何に対して怒っているかはわかるね?」

 

「……俺が、銀子ちゃんには関係無いって言ったからですか?」

 

「そうだよ」

 

今度は、明石先生は同意を示してくれた。しかし、何故銀子ちゃんがそんなに怒っているのかまではわからない。事実、銀子ちゃんには関係の無いことのはずなのに。

 

「銀子ちゃんはね。この入院中も、安静にしてないといけないと言っても、聞かずにずっと将棋の勉強をしていたんだよ。一日中だ。なんでだかわかるかい?」

 

「次の奨励会試験に受かるためですか?」

 

「もちろん、それもあるだろう。だけど、一番の目的は違う。一番の目的、それは、八一君に置いて行かれないためだよ」

 

「俺に、置いて行かれないため?」

 

「銀子ちゃんは、入院中もずっと言っていたよ。私が入院している間も、八一はきっと今よりもずっと強くなっている。だから、私もただジッとしているわけにはいかないってね。それはもう、八一君の成長を楽しむかのように、嬉しそうにね」

 

「銀子ちゃんが、そんなことを……」

 

「だからこそ、悲しかっただろうね。自分がこんなに努力している間にも、もっと強くなっていると思っていた八一君が、停滞してしまっていたんだからね」

 

「銀子ちゃん……」

 

「僕は、少しでも銀子ちゃんの生きる希望になればと思って、銀子ちゃんに将棋を教えた。だけど銀子ちゃんにとって将棋は、今や八一君との絆そのものなんだよ。そして、八一君、君は今や、銀子ちゃんの生きる希望なんだ」

 

その明石先生の言葉に、俺は衝撃を受けた。俺が、生きる希望。銀子ちゃんは、それほどまでに、俺との間に強い絆を感じてくれている。だからこそ、俺が停滞していることが、余計に悲しかった。まるで、自分のことのように。それなのに、関係が無いわけがないじゃないか。銀子ちゃんにとって、俺の停滞は、銀子ちゃん自身の停滞のようなものなのだから。

 

「八一君。君は銀子ちゃんの病気のことを知ってるんだよね?だったら、銀子ちゃんが今までどれだけ苦しんできたかもわかるよね?だからこそ、君には悪いが、敢えてプレッシャーになることを言わせてもらうよ。銀子ちゃんのために、前に進み続けてあげてくれ。銀子ちゃんに、生きる希望を与えてあげてくれ。ほら、もう次にすることはわかるよね?」

 

「ッ!?……明石先生、ありがとうございます!」

 

俺はそう言うと、明石先生をその場に残し、駆け足で公園を後にした。

 

「若者達、がんばれよ」

 

背後から、そんな明石先生の声が聞こえたが、今は振り返っていられない。明石先生には、今度改めてお礼を言おう。そして俺は急ぎ清滝家の扉を開ける。

 

「あ、八一君!もう大丈夫なの?明石先生見なかった?」

 

「もうすぐ戻ってくると思うよ!」

 

俺はそれだけを桂香さんに告げ、階段を駆け上がる。そして、子供部屋に入るなり、頭を下げた。

 

「銀子ちゃん、本当にごめん!」

 

そして、急ぎ謝る。銀子ちゃんからの反応は無い。俺は、恐る恐る頭を上げる。そこには、マグネット式将棋盤の前に座り、盤面を見つめている銀子ちゃんがいた。その盤上には、駒が初期配置に並べられている。俺が部屋を出て行く際は、終局時のままだった。俺が出て行ってから、銀子ちゃんが並べ直したのだろう。

 

「何してるの?早く指して」

 

「え?」

 

「次は八一が先手なんでしょ?先手が指さないと、対局が始まらないじゃない」

 

「銀子ちゃん……」

 

「私には、止まっている時間がないの。私や八一が止まってしまったとしても、時間は止まってなんてくれないから」

 

「ッ!?」

 

そうだ。銀子ちゃんの言うとおりじゃないか。俺が停滞してしまったとしても、時間は止まってなんてくれない。未来は、待ってなんてくれないのだ。俺は、どれだけの時間を無駄にしてしまったんだ?その時間を無駄にしている間にも、未来は刻一刻と迫ってきている。九頭竜八一、お前は対局に一度負けただけだろ?未来相手の対局に、まだたった一度負けただけだろ?何たった一度負けただけで、今後の対局も絶対勝てないと諦めているんだ。この世に、絶対なんてものは存在しないんだ!

 

「よし、それじゃ指すよ」

 

そして俺は第一手を指す。俺の第一手なんて、そんなもの考えるまでもなく決まっている。2六歩。飛車先の歩を前に進める。俺たちの対局は、何か特別な思い入れがある時、いつも必ず戦型は相掛かりとなった。今回も、例に漏れず相掛かりとなった。俺は、飛車先の歩をまた一つ前に進める。止まった自分の時間を少しずつ進めるかのように、一つずつ前に進めるのだった。明石先生にも言われたんだ。前に進み続けるようにと。あぁ、ドコまでも前に進み続けてやる。その対局中の俺に、もう迷いは存在しなかったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

月が変わり、2月となった。今日は、2月最初の例会日だ。対局室で座りその時を待つ俺。目の前には、既に対局相手が座っていた。

 

「こりゃ今日の1局目は勝ち確定だな」

 

その顔には見覚えがあった。確か前回の例会で、俺のことを買いかぶりだと陰口を言っていた人だ。いいだろう。買いかぶりかどうかは、この対局で証明しよう。対局が始まる。お互いに序盤中盤と派手な手はなく、手堅く終盤へと突入する。形勢は、若干俺が優勢となっている。

 

「さて終盤だ。知ってるぜ?お前はここから崩れるんだろ?さっさと崩れろよ」

 

相手が囁きかけてくる。だが、俺は気にしない。しかし、これまで通り、やはり俺の脳内には余計な思考が流れ込んできた。

 

勝っても無駄なんじゃないか?

 

あぁ、無駄なのかもしれない。だけど、無駄と決まっているわけでもない。

 

「……え?」

 

ピキッ、と何かがひび割れる音が聞こえた気がした。

 

今までの努力は無駄だったんじゃないか?

 

あぁ、無駄だったのかもしれない。だけど、無駄と決まっているわけでもないんだ。

 

「なっ……」

 

ピキピキッ、とひびが広がるような音が聞こえた気がした。

 

未来を変える事なんて、やっぱり無理なんじゃ無いか?

 

あぁ、無理なのかもしれない。だけど、無理と決まったわけでもないんだ!

 

「なにっ!?」

 

パリン、と何かが割れるような音がした気がした。

 

「嘘だろ、この終盤でこんな妙手を連発するなんて、今までのお前からは考えられないだろ!?」

 

今までの俺は、その疑問を受け入れてしまっていた節があった。無駄なんだ。無理なんだと、受け入れてしまっていたのだ。だけど、今の俺はその疑問に対して否定の意思を見せた。それが、この結果に繋がった。

 

「悪いけど、俺はもう今までの俺じゃない。未来(まえ)に進むと、決めたんだ」

 

俺が立ち止まっていようが、未来から目を逸らしていようが、それでも未来(みち)は続いていく。幾通りにも枝分かれした未来(みち)。正解がどれかなんて、誰にもわからない。だけど、だからと言って、止まっているわけにもいかない。俺は、前に進むと決めたのだから。その後は終局までずっと俺のペースで進み、俺の勝利に終わった。その日の2局目も、俺は終始相手を圧倒し、勝利を手にした。九頭竜八一の完全復活となったのだ。確かに、未来は変えられない可能性だってある。だけど、決してそうなると決まっているわけではないのだ。未来の事なんて、誰にだってわかるわけがないのだから。だからこそ、人は足掻くのだ。未来がわからないからこそ、足掻くのだ。最高の未来(ゴール)に辿り着くために。足掻いた先に、その未来があると信じて。だから俺も、例に漏れず足掻くとしよう。最高の未来(ハッピーエンド)を手にするために。この手を、離さないために。俺はこの日、確かに一歩を前へと踏み出したのだった。未来への、一歩を。




創作では割と使われがちな表現
「精神が肉体に引っ張られている」
正にそんな感じの状態に、今の八一はありますね
人生二週目なのに、段々精神的に幼くなっている感じですね
次の投稿は、平日中の予定ということで
最近本当に平日執筆できる時間少ないんで、書けなかったら申し訳無い
進捗状況はツイッターへ

八銀はジャスティス


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第35局 背負う物

天ちゃんお誕生日おめでとう!(遅い
合い言葉は、八銀はジャスティス


「負けました……」

 

この日、二度目のその言葉を、俺はホッと息を吐きながら聞いていた。最後まで気の抜けない対局だった。一手間違えれば、その言葉を口にしていたのは俺だったかもしれない。思わず口から安堵の息が漏れてしまう。

今日は、2月後半の例会が行われていた。結果は、俺の2連勝。前回から合わせて、連勝記録を4に伸ばした。銀子ちゃんとの一件以来、俺の将棋は調子を取り戻した。もう、あのような余計な思考に襲われることもなくなった。目の前の対局にだけ、集中することができている。最高な状態で、対局ができている。しかし、ここまで上がってくると、流石に対局相手も強い。誰もが、プロに上がれる可能性を秘めた棋士達だ。中には、実際にプロレベルの棋力を持っている棋士もいる。今対局した相手も、実力はプロに匹敵したかもしれない。相当な実力者だった。だが、勝ったのは俺だ。勝ったからこそ、俺は望みを繋げた。

帰り支度をしていると、カバンに仕舞ってあったマナーモードのスマホが震えだした。今は2011年。世間一般には、所謂ガラケーの普及率の方がまだまだ高い時代。だが、スマホだって既に販売され、シェア率を徐々に上げていっている。俺は、一足早くスマホに手を出していた。そのスマホの画面を見る。そこには、神鍋歩夢という親友の名前が表示されていた。

 

「もしもし?」

 

「電話に出るということは、終わったのか?」

 

「うん。勝ったよ。2戦とも」

 

「そうか。それでこそ、我がライバル!そうでなくては面白くない!」

 

「紙一重だったけどね。強い相手だった。本当に危なかったよ」

 

「それでも勝ったのであれば、良いではないか。……八一、我は上がったぞ」

 

「だろうね。このタイミングで電話してくるってことは、そういうことだろうと思ってたよ」

 

「フッ、八一、上がってこい」

 

「あぁ、もちろんだ。例会も4月の開幕まで無いんだ。時間が空いただろ?今の内に、俺の対策を考えておけよ」

 

「フッフッフ、フハハハハハハ!昂ぶる。昂ぶるな八一!先に上で待ってるぞ。上がれなかった場合の言い訳は、聞かぬからな?」

 

「あぁ、俺もそんなもの用意する気ねーよ。約束だ。三段リーグで最高級の対局をしよう」

 

「あぁ、……待ってるぞ!」

 

そう言って、歩夢は電話を切った。同日、関東でも例会が行われていた。その結果、歩夢の三段リーグ入りが決定した。4月開幕のリーグから歩夢はプロ入りを賭けたリーグ戦に挑む。歩夢は現在小学6年生。4月から中学生だ。中学生プロ棋士になるチャンスが、計6度与えられた。

そして俺は、まだ三段リーグに上がれていない。段位者の昇段条件は、12勝4敗、14勝5敗、16勝6敗、18勝7敗のいずれかの戦績を記録すること。4月開幕のリーグ戦に間に合わせるためには、残りの例会2度、計4局でこの戦績を記録しないといけない。しかし、仮に全ての対局に勝ったとしても、俺は先述の戦績、どれにも届かない。なら昇段は間に合わないのか?と言われればそうでもない。もう一つだけ、昇段するための条件が存在する。それは、8連勝を記録すること。俺は今現在、例会4連勝中だ。残りの4局、全て勝つことができれば8連勝に到達し、昇段が決定する。4月からのリーグに間に合うことができる。しかし当然ながら、一つでも負けたならば、その時点で終わりだ。歩夢との約束を、破ってしまうことになる。俺は、一度交わした約束を破るようなそんなクズにはなりたくない。残りの4局、何がなんでも勝ってみせる。勝って、約束の舞台へと上がってみせる。そう決意を込めて、俺は帰路へと着いた。帰り道を歩く俺の脳内では、歩夢に対する対策が延々と思考されていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

3月に入り、俺は前半の例会を危なげなく2勝することができた。これで、連勝数を6に伸ばし、最後の例会に望みを繋いだ。そして、今日はその最終日だ。

 

「何も、態々応援にまで来なくてもいいのに」

 

「応援などではない。三段リーグは関西将棋会館でも対局を行うからな。その下見に来たのだ」

 

「下見なんてしなくても、歩夢だって何度も通ってるでしょ」

 

この最終日に、態々歩夢が関東から駆けつけてくれていた。口ではこう言ってるが、間違いなく俺の応援が目的だ。そして、もう一人。

 

「銀子ちゃんも、応援に来なくても大丈夫だよ?」

 

「応援なんかじゃない。8月の入会試験に向けて下見に行くだけ」

 

「まだ半年近くあるし、毎日のように通ってる場所に下見も何もないでしょ」

 

銀子ちゃんも、今日は俺に着いてきてくれている。口ではこう言ってるが、間違いなく俺の応援が目的だ。二人の気持ちに応えるためにも、今日は最高の結果を手に入れないといけない。

 

「それじゃ、行ってくるよ」

 

「うむ。月並みな言葉ではあるが、頑張ってこい」

 

「負けたらぶちころすぞわれ」

 

「うん。ありがとう」

 

結局応援してくれてるじゃないかという言葉は喉の奥に引っ込めて、俺は対局室へと向かう。二人は、棋士室の方で待機してくれているらしい。そして、俺は対局へと臨む。今日の初戦は、俺にとってもそうだが、対局相手にとっては、より一層特別な対局となっている。

 

「お願いします」

 

「お願い、します!」

 

淡々と挨拶を行った俺に対して、明らかに開局前から力んでいる相手。その目は怖いぐらいに血走っている。対局相手の現在の年齢は満年齢で25歳。そして、この4月で26歳を迎えるらしい。奨励会には、年齢制限がある。段位者の場合は、満26歳の誕生日を迎えた三段リーグ終了時に、四段に昇段できなかった場合、退会となってしまう。つまり、目の前の対局相手は、この4月からの三段リーグに参戦し、一期抜けしないと退会になってしまうのだ。まぁ、他にも延命措置の手段があるのだが、それも三段に昇段できなければ適用されないので、今は置いておく。そしてこの対局者は、ギリギリのところで三段昇段に望みを繋いでいた。今日の対局、2局とも勝利することができれば、ギリギリで規定戦績に到達できるのだ。つまり、条件は俺と同じだ。どちらかが次局に望みを繋ぎ、どちらかが絶望の涙を流す。天国か地獄かの大一番だ。

 

その対局は、俺の先手で始まった。俺は初手で、角道を開けるスタンダードな手を指す。対して、相手も同様に角道を開いてくる。無難な展開から、俺は飛車先の歩を突いていく。俺がこの対局で目指した戦型は横歩取りだ。しかし、相手が次に指した手が、俺の目指した戦型を嘲笑ってきた。

 

「な!?」

 

思わず、声が漏れてしまった。両隣で対局していた奨励会員も、皆一様に驚愕を顔に見せる。角交換だ。相手が角交換を仕掛けてきたのだ。後手番で、角交換を仕掛けてきたのだ。つまりだ。この対局の戦型は横歩取りでは無くなった。一手損角換わりとなったのだ。

 

「流石の天才君も、この手は想定外だったかな?」

 

「……面白い!」

 

その後も、一手損の利点を活かして、相手は展開を進めていく。その手に、ミスと呼べる物は一切無かった。なるほど。よく研究している。俺の知っている限りでは、彼が一手損角換わりを指したというデータは無い。ずっと、水面下で研究を続けていたのだろう。いつからかはわからないが、ずっと。もしかしたら、三段リーグに向けた秘密兵器として用意していたのかもしれない。確かに、いきなりここまでレベルの高い一手損角換わりを指されたら、並大抵の奨励会員では為す術が無いだろう。強い。ここまで一手損角換わりを指し熟せるとなると、相当な努力をしたことだろう。

 

そんな彼の敗因を挙げるとするならば、秘密兵器に一手損角換わりを選んでしまったことか、もしくは対局相手が俺だったことだろう。

 

「な……なんで……」

 

形勢が悪くなった盤面を見つめて、相手が震えた声で呟く。本当に完璧な指し回しだった。隙の一切無い、完璧な指し回しだった。だが、相手が悪かった。彼は知らないだろうが、今彼の目の前にいるのは、一手損角換わりのスペシャリストなのだ。はっきり言って、経験値が全く違う。いくら完璧に指し熟せたとしても、この戦法に関しては、彼の更に上を俺はいく。と言っても、彼が知らないのも無理はない。何故なら、この戦法を温存しているのは、彼だけではないのだから。俺も、今生においてこの戦法を指したのは、歌舞伎町での一局だけだ。決して、世に出回らない一局。だからこそ、誰も俺が一手損角換わりのスペシャリストだと知らない。だからこそ、この戦法に対する究極のカウンターとなる。

 

「ま……まけ、まし、た……」

 

消え入りそうな声で、彼が投了宣言を行う。盤面には、完詰み状態の彼の(いのち)がある。もうどうやっても逃げることができない状態でも、彼は投了を行うまで多大に時間をかけていた。それも当然だ。その言葉を口にした瞬間、彼の棋士人生は幕を閉じ、未知なる世界へと放り出されてしまうのだから。彼の顔は青を通り越し、白くなっており、体は冷凍庫に放り込まれたかのように震えている。そんな彼に目もくれず、俺は席を立った。

 

「首を斬ったっていうのに、あっさりとしてるな」

 

「あいつには人間としての情がないのかよ」

 

ヒソヒソとした陰口が聞こえてくる。俺に聞こえていないとでも思っているのだろうか?静かな対局室では、周りの声がよく聞こえるというのに。そもそも、勝者が敗者を慰めることは、敗者に対する侮辱でしかない。お互いに、この対局に全てを賭して、真剣に臨んだのだ。ここで声をかけないのは、俺なりの彼へのリスペクトだ。

 

そもそも、首を斬るという行為は前生でも嫌というほど行ってきた。今更、首を斬ることに躊躇いを持つような精神はしていない。それに、首を斬ることが嫌なら、初めから棋士になるなという話だ。この世界では、その行為は付きものなのだから。

 

「九頭竜君」

 

俺が無言で立ち去ろうとすると、対局相手が話しかけてきた。まさか、話しかけられるとは思っていなかったので、思わず驚いて振り返ってしまう。そこには、震える体で、白い顔で、それでも必死に、無理をして笑顔を浮かべる対局相手がいた。

 

「ありがとう。最期の対局相手が、君で良かった。俺の分も、プロで頑張ってくれ」

 

彼の口から紡がれたのは、俺に対する礼と、励ましだった。まさか、この期に及んで、首を斬った相手に対して、そんなことが言えるとは思わなかった。俺は、思わず目を見開く。しかし、俺は直ぐに前へと視線を戻し、彼から目を逸らす。

 

「……外の世界は、きっと辛いことが多く待ち受けています。けど、それと同じくらい、楽しいことも溢れてると思います。良い人生を歩めるように、祈ってます」

 

俺はそう言って、その場を後にした。もう、後ろは振り向かない。前だけを見て、俺は進む。俺は、背後から聞こえる嗚咽を、気にしないようにしながら、対局室を後にした。さぁ、次の対局で、俺の今後の運命が変わってくる。大事な、本当に大事な一局だ。精神面に変化は無い。大丈夫だ。いつも通りの将棋が指せるだろう。ただ、唯一次局に向けて変わったことがあるとするならば……背負う物が増えた。ただそれだけのことだ。

 

棋士をしていると、どうしても背負う物が増えてしまう。自分を、想ってくれている人が、応援してくれている人がいる。その人達の想いを、全て背負って対局に挑まないといけない。その分だけ、負担も大きいし、その分だけ、力がもらえる。自分は一人で闘っているわけではないと実感できる。背負う想いが一つ増えた。その分だけ、俺はまた強くなる。次局は、少し強くなった俺が対局に挑む。負けるつもりは、更々ない。だが、その前に腹ごしらえだ。昼食を頂くとしよう。俺は、空腹を訴えるお腹を擦り、応援してくれている二人のところへ向かうのだった。




次話と纏めても良かったんだけど、あえての分割
特に分割した意味は無いです
強いて言うなら、仕事の疲れで平日執筆するのしんどかったから、執筆をサボ(ry
まぁ、次話もほぼほぼできあがってるんで、確実に次はあさってに投稿します
お待ちください

八銀はジャスティス


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第36局 約束の舞台へ

ちゅらいお知らせがあります
詳しくはあとがきで
合い言葉は八銀はジャスティス


今日の1局目を終えた俺は、銀子ちゃんと歩夢が待つ棋士室へとやってきていた。棋士室に入ると、銀子ちゃんと歩夢は対局の真っ最中だった。よっぽど盤面に集中しているらしく、俺が近づいても二人からの反応は無い。盤面に目をやる。どうやら、もう終盤のようだ。形勢はほぼ互角に見える。だが若干、歩夢優勢といったところだろうか。歩夢も、小学生にして奨励会三段に到達した強者だ。その歩夢相手に互角の勝負を演じられるあたり、やっぱり銀子ちゃんは強い。俺も何度か負けているわけだし、今生の銀子ちゃんなら、意外にあっさりと奨励会を勝ち上がりそうな気がする。

 

「負けました」

 

それからしばらくして、銀子ちゃんが投了をする。最後までどちらに転んでもおかしくない良い対局だった。歩夢も、額から冷や汗を流している。その汗を手で拭うと、視線が俺へと向く。どうやら、やっと俺の存在に気付いたらしい。

 

「終わったのか」

 

「うん、なんとか勝てたよ。これで後1勝だ」

 

「そ。じゃあお昼に行きましょ」

 

銀子ちゃんが興味なさそうに言う。別に本当に興味が無いというわけでは無い。俺なら、勝って当たり前と信じてくれているからこそのこの反応だ。銀子ちゃんは、そう言ってさっさと席から立つ。そして、三人で移動を開始した。いつも例会の日は、桂香さんがお弁当を作ってくれている。だけど、今日は折角だから三人で外食をすると言って断った。歩夢きゅんにお弁当を作りたいと言ってしょぼくれた桂香さんを説得するのにそれなりの時間がかかってしまった。こんな労力がかかるなら、素直にお弁当を桂香さんに作ってもらったら良かった。そして、俺たちがやってきたのは関西棋士御用達のレストラン、トゥエルブだ。店内は、昼時ということもあって、それなりに混み合っていた。中には、奨励会員の姿も見える。

 

「三段に昇段した祝い金を師匠(マスター)に頂いたからな。今日は我の驕りだ。遠慮せず好きな物を選ぶといい」

 

「ありがとう。じゃあ私はタンシチュー」

 

「おい待て。それは確か、この店で一番高いメニューでは無かったか?」

 

「ありがとう歩夢。じゃあ俺もタンシチュー」

 

「おい!?お前達には遠慮というものが無いのか!?」

 

遠慮せず、好きな物を選べと言ったのは歩夢じゃないか。食い物を前にしたら、建前なんて言葉は誰にも通用しなくなるのだ。歩夢、覚えておくといいよ。

 

「ええい!では我もタンシチューだ!今日はめでたい日になるからな!その前祝いだ!」

 

しばらくして、テーブルの上には湯気を立てたシチューが3つ並べられた。スプーンで掬って、一口飲む。濃厚なタンが深くまで染みこんだ、上品な旨さが口の中に広がる。やっぱり、このシチューは絶品だ。一口食べただけでも、午後からの対局に向けて活力が湧いてくる。

 

「それで、実際にはどうなんだ」

 

「何が?」

 

「次の対局だ。勝てるのだろうな?」

 

「……わからない」

 

勝てるとは絶対に言い切れない。それは、どのような対局でもそうなのだが、勝率に換算すると大抵の相手には高い数字を叩き出せる自信が今の俺にはある。だが、次の対局に関しては、勝率換算にしても決して高い数字は出ない。それほどまでに、強大な相手が俺の前に立ちはだかってきた。

 

「あの者の噂は関東でも多く聞く。棋界でも、八一ほどでは無いにしても話題性の高い相手だからな。……関東におらず、良かったとも考えてしまう」

 

「だろうね。俺も、逆の立場だったら、そう言うよ」

 

「……大丈夫。それでも、きっと八一なら大丈夫だよ」

 

銀子ちゃんはそう言う。根拠なんて物は無いだろう。それでも、俺なら絶対に負けないと信じてくれているのだ。俺が、そう簡単に負けるはずが無いと。俺だって、そう簡単に負けるつもりは無い。だけど、次の相手は未知数な存在だ。前生にはいなかった、予測不可能な相手だ。自信を持って言い切ることはできない。

 

「うん、そうだね。絶対、勝つよ」

 

それでも、俺は言い切って見せた。銀子ちゃんに、そんな目をさせたくなかったから。銀子ちゃんは、口でこそこう言っているが、その目が銀子ちゃんの本音を物語っていた。銀子ちゃんの目は、不安に揺れていた。銀子ちゃんにそんな不安そうな目をさせたくない。だから、あえて言い切って見せた。自分を鼓舞するかのように、言い切って見せた。

 

「絶対勝ってみせるよ。歩夢とも、三段リーグで最高の対局をするって、約束したしね」

 

「そうだな。早く上がってこないと、我は待たんぞ?」

 

「あぁ、待つ必要なんて無いよ。待たなくても、直ぐに追いつき、追い越すさ」

 

「フッ、面白い。追い越せる物なら、追い越して見せろ」

 

「そういうセリフは、一度くらい俺に勝ってから言えよ」

 

「ぬ!ぐぬぬぬぬ!」

 

痛いところを突かれて、歩夢が言葉を紡げなくなる。そんな俺たちのやり取りを見て、銀子ちゃんが静かに笑った。その目からは、不安の色が薄らいでいた。それでも、完全に消えたわけではない。完全に消すためには、俺の勝利の色で塗りつぶすしか無いだろう。俺は午後からの対局に向けて少しでも鋭気を養うために、その後もタンシチューの美味に舌鼓を打ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

午後の対局が始まる。非常に重要な、対局が始まる。対局相手の姿は、俺が対局室に入った時には既にあった。

 

「どうも。噂の天才君と対局できるなんて、嬉しいよ。よろしくね」

 

見た目は、ただの優男。だが、油断してると痛い目にあう。95%。これが、何の数字だかわかるだろうか?答えは、対局相手の奨励会での勝率だ。目を疑いたくなるような数字だが、これが事実なのだ。彼が有名になったのは、一昨年の6月のことだ。アマ竜王というものをご存知だろうか?アマ名人、アマ玉将と並び立つアマ三大タイトルの一つだ。そのアマ竜王に、当時16歳だった彼が輝いた。史上最年少でのアマ竜王獲得だった。そのアマタイトルを引っさげ、その年の8月に、彼は奨励会に入会する。そこから、彼の快進撃は始まった。気付いてみれば、入会2年目で既にここまで来ているのだ。そして、彼はここまで、奨励会二段に昇段してから7連勝中だ。つまり、俺と同じなのだ。この対局に勝てば、8連勝で三段昇段が決まる。勝った方が、4月からの三段リーグ、最後の椅子を掴み取ることができるのだ。大注目の一戦が、始まろうとしている。

 

「それじゃ、始めようか」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

始まった。先手は、相手だ。まず手始めに、相手は7六歩と角道を開けてくる。それに合わせて、俺も角道を開く。前局に続いて、今局も互いに角道を開くスタートとなった。しかし、次の手で相手は6六歩と角道を再び閉ざしてくる。それを見て、俺は3二金と、金を角の横に付ける。そして次に相手が指した手が、相手の戦法を確たるものとした。6八飛。飛車を振ってきたのだ。四間飛車だ。アマ竜王は、振り飛車党なのだ。振り飛車ならなんでもござれの、オールラウンダーな振り飛車党だ。生石さんも、以前に彼の話題を話していた。振り飛車の次代を担う棋士になると。生石さんの後継者とも呼ばれる将来有望な振り飛車党。俺はここで、小考に入る。序盤で時間を使うのは得策では無いが、敢えて時間を使った。次に俺が指す一手が、早くもこの対局において重要な一手になる。俺の指す戦法の明示。本当にこの戦法でいくのか?怖い。そんな気持ちを落ち着かせるために、敢えて時間を使った。時間を使って、数度深呼吸をする。そして、意を決して次手を放った。

 

「な!?」

 

相手が驚愕する。俺が指した手は、5二飛。飛車を、振ったのだ。

 

「相振り飛車!?」

 

「な、なんて大胆なことを……」

 

隣で対局していた奨励会員が、思わず声を上げる。その気持ちも良くわかる。現在奨励会最強の振り飛車党に、相手の土俵とも言える振り飛車で挑んだのだから。

 

「……面白い!」

 

相手が笑みを浮かべる。そして、6五歩と歩を押し上げてきた。それに対抗して、俺は6二銀と銀で6筋をカバーする。それを見て、相手は玉の移動を始めた。このタイミングで、玉の守りを整える腹つもりらしい。飛車とは反対方向へと玉を進めていく。俺はそれを見て、5筋の歩を前に進める。更には3筋の銀を、4二、5三、4四と前に進めていく。その間にも、相手は玉の守りを固めていた。穴熊とまではいかないが、それに近いものがある。穴熊殺しを使うことを考えたが、この形状では、穴熊殺しが刺さらないと判断した。穴熊殺しが刺さる穴熊の種類は、限られているのだ。

 

「さて、天才君はこの囲いを突破できるかな?」

 

相手が挑発するように言う。それを聞き流して、俺は5筋の歩を相手の歩にぶつけた。このタイミングで、歩交換をする。相手もそれに応じ、歩をそのまま取ってくる。それに俺は、同飛で応える。そして、飛車先に歩を打たれて5二まで下げる。金がしっかり5筋をカバーしていたため、攻めることはできない。そして俺に続き、相手も6筋の歩をぶつけてくる。同歩で返すと、同飛が飛んでくる。その頭に歩を打ち付けて、飛車を追い返す。お互いに歩交換を終えると、そこからはしばらく硬直状態が続いた。小競り合い程度の衝突は数度あるが、本格的な開戦とまではいかない。保たれる均衡。このまましばらく進むかと思われたが、その均衡は突如破られた。

 

「……え?」

 

思わず、声が漏れてしまった。相手が放った手が、あまりにも不可解だった。長考の末に、ただ何も無い場所に歩を打ち付けただけ。俺の攻めに備えて打ったようにも見えない。だけど、位置的に攻め駒として打ったようにも見えない。不可解な一手。不気味だった。その歩からは、得体の知れない何かが感じ取れた。だけど、気にしても仕方ない。結果的に、相手が一手パスしたようなものだ。ここから、一気に開戦に持っていく。俺は攻め駒を次々と前に押し出していく。相手もそれに対抗して、次々と護りを固めていく。そして、本格的な開戦が始まった。俺が攻めて、相手が守る構図で開戦を迎える。飛車と4筋に待機させていた銀を中心にして攻め込む俺。その俺の攻めを、相手は冷静に、一つ一つ丁寧に受けていく。度重なる衝突を経て、形勢は俺に傾いた。このまま攻め込めば、優勢に終盤を迎えることができる。このまま一気に行く!その意気込みのままに、俺は飛車に手を伸ばす。そして、飛車を動かそうとして、動かそうとした手が止まる。絶妙な位置に、歩がいた。攻め込む最短ルートの進行上に歩がいた。歩が、邪魔をして、最短ルートで攻め込むことができない。

 

「……まさか?」

 

その歩は、あの不可解な歩だった。まさか、俺の攻めを読み切って?あの歩打ちから既に数十手進んでいる。まさか、ここまであの時から読み切っていたというのか?

 

「フフッ」

 

「ッ!?」

 

間違いない。読み切っていたのだ。だとしたら、恐怖すら覚える読みの深さだ。これが、最年少アマ竜王の実力……!

俺は飛車を別の場所に動かす。最短ルートを防がれたからには、別のルートで攻めるしかない。その下準備のために、飛車を動かした。だが、結果的にそれが悪手となる。いや、恐らくこの手も、誘導されてしまった結果なのだろう。あの歩打ちが、あまりにも妙手だった結果が、この悪手だ。

 

「な!?」

 

相手が、このタイミングで角交換を仕掛けてくる。俺は攻め込んできた相手の角を、金で取らざるを得ない。そして、直ぐさま相手は角を打ち付けてきた。

 

「あ、あ、あああ……!」

 

金飛車取り。先ほど角を取った金か飛車。どちらかを相手に渡してしまうことになる。しかも、金取りなら馬を作られるおまけ付きだ。飛車を動かす位置が悪すぎた。攻めに思考の比重を置きすぎていた。ここまでの展開が、あまりにも自分にとって優勢な方向に進んでいたので、気が抜けていた。今思えば、その展開も含めて、全て相手の術中だったのだろう。俺は、完全に掌の上で踊らされていたのだ。

 

「くっ!」

 

飛車を逃がす。ここで飛車を失うのは得策ではない。反撃の芽まで摘まれることになってしまう。その手を確認して、相手は迷うことも無く金を取り、馬を作る。そこから、俺が攻め込まれる時間が続いた。我慢の時間。必死に耐えて、反撃の機会を窺う。しかし、相手の攻撃が鋭い。俺の懐深くまで切り込んでくる。俺はここにきて、苦境に陥っていた。

 

「さて、これで終わりかな」

 

左から馬。右から攻め込んできた龍が俺の玉を狙う。絶体絶命。後が無い。おそらく、ソフトに判断させたら、80%以上相手にグラフが振れてる状態だろう。ここから勝てたら、奇跡かもしれない。あぁ、きっと奇跡だろう。

……なら、奇跡を起こして見せよう。俺は、こんなところで負けるわけにはいかないんだ。約束したんだ。歩夢と、最高の舞台で最高の対局をするって。ここで負けたら、その約束を破ってしまうことになる。それだけは、絶対に嫌だ。だから……この対局、絶対に勝ってみせる。そう決意し、俺は飛車を手に取る。

 

「飛車を?何をする気だい?」

 

「喰らわせてやるんですよ」

 

このゴキゲン中飛車は、生石さんから学んだ。この戦法を使って、振り飛車相手に負けるわけにはいかない。もし負けたら、生石さんに怒られるに決まっている。そして、この技も生石さんに教わった。生石さんに教わったこと全てを出し切って、この対局に勝つ!

 

「捌きを!」

 

「ひ、飛車を切ったぁ!?」

 

「な、なんて大胆なことを」

 

周りからも声が上がる。飛車で、王を守る。自分でも、大胆なことをしたと思う。だけど、この場ではこれが最適だと判断した。相手の手が止まる。

 

「これは、中々に厄介なことをしてくれたね……」

 

飛車を取ることは簡単だ。だけど、それは馬か龍を俺に取られることにもなる。折角作ったのに、取られてしまうことになるのだ。

 

「でも、背に腹は変えられないか」

 

そして、迷った末に相手は馬で飛車を取ってきた。それを、俺は金で取る。その後も、取っては打ち、打っては捌いてで耐え凌いでいく。耐えて、耐えて、堪え忍び、必死に反撃の機会を待つ。そして、その時は遂に訪れた。

 

「ここだぁ!」

 

「な!?」

 

起死回生の角打ち。龍取り角成の手。俺と一緒だ。相手も攻めることに意識を割きすぎて、俺からの反撃の一手を見落としてしまった。角を龍でとることはできる。だけど、それは同時に龍を失うことにもなる。持ち時間も少なくなってきた。残り少ない時間の中で、相手は選択を迫られる。程なくして、相手が答えを出す。

 

「くっ!」

 

龍を逃がしてきた。それを見て、俺は角で攻め込み、馬を作る。それを放置して、相手は攻めの手を打ってくる。馬を作られたことぐらい、どうでもいいと考えているのだろう。攻められるより先に、決めきると。だが、そうはいかない。

 

「なぁ!?」

 

二枚目の角の投入。またも龍取り角成の手。流石に二枚目の馬を作られることは許容できなかったらしく、相手が角を龍で取ってくる。それを、俺は歩で取り、龍角交換の成立だ。それでも、相手は攻めの手を止めない。それと同じように、俺も攻めの手で応える。取った飛車を直ぐさま相手陣地深くに打ち付ける。そこからは、お互いに攻めて守られの繰り返しだ。だが、徐々にお互いの玉の囲いは削られていく。持ち時間も互いに使い切り、秒読みの中で互いに攻め合っていく。そして、決着の時は遂に訪れる。

 

「ここ!」

 

俺の渾身の一手。まだ、詰めろには届かない。だが、そうなるのも時間の問題だ。相手が何も策を講じなければ、このまま俺の勝ちだ。相手が秒読みの中で考える。最後まで考えて、考えて、残り数秒で手を進めてきた。

 

「なぁ!?」

 

相手が指した手は、この局面に来て尚も攻めの一手だった。守らない。攻めてくる。しかし、その一手は確実に俺の玉を追い詰めにくる。放っておけば、間違いなく詰まされる。受けに入るべきか?攻めていいのか?どっちの方が早く詰ませることができる?秒読みの中で、必死に最適解を絞り出していく。そして程なくして俺が指した手は……攻めの一手だった。読み切ったわけでは無い。勘だ。ここで受けに入れば、負ける気がした。攻めにこそ、活路があるように感じた。相手も、同じく攻めの一手を継続してくる。受けに回らないチキンレース。そのレースに勝ったのは……

 

「……どうやら、最後に読み違えたのは僕だったみたいだね」

 

俺だった。一手差だった。一手差で、俺の方が早く相手玉に到達した。一手差で、俺が三段リーグへと駒を進めることになった。三段リーグ、約束の舞台へと、駒を進めることになった。

 

「本当に良い対局だった。悔しいけど、僕の負けだ。今度は、三段リーグで君と当たりたいな。僕が上がる頃には、君はもういないだろうけどね」

 

そう言って、対局相手は対局室から出ていった。本当に、強い相手だった。次に当たれば、勝てるかどうかわからない。恐ろしい相手だった。俺も、係の人に結果報告してから、対局室を後にした。対局室を出ると、そこには銀子ちゃんと歩夢が待ち構えていた。俺の顔を見るなり、端的に歩夢が尋ねてくる。

 

「……結果は?」

 

「うん……勝ったよ!」

 

「フッ、それでこそ我がライバルだ!」

 

「ま、当然よね」

 

銀子ちゃんが素っ気なくそう反応するが、嬉しそうに歪んだその口元が隠せていない。きっと、ずっと心配してくれていたのだろう。その目からはもう、不安の色は消えていた。

 

「勝ったよ。これで……」

 

「あぁ、これで舞台は整った。更なる高みで、最高の対局をしよう!」

 

前生では叶えられなかった、歩夢との三段リーグでの対局。それを、叶えることができる。嬉しい。二度と叶わないと思っていた夢がまた一つ叶った。三段リーグに対する恐怖も勿論ある。三段リーグは正に魔窟だ。何が潜んでいるかわからない。だけど、それと同じくらいに楽しみで仕方ない。歩夢と覇を競うのが、楽しみで仕方ない。二つという狭い椅子を、俺たちは奪い合うことになる。二人で仲良く二つの椅子を分け合おうなんてことは言わない。俺たちは、これからはもう敵でもあるのだ。敵に簡単に椅子を渡すわけがない。蹴落とすに決まっている。二人仲良く上がろうなんてことは言わない。別に相手に上がって欲しくなくてこんなことを言っているわけではない。お互いに、こいつなら蹴落としてでも上がってくるだろうと信頼しているから言っているのだ。今はただ、互いに三段リーグへの対策を考えていればいい。約束の時は、もうすぐだ。俺たちは、最高の対局にしようと、手を取り、視線を交わした。しかし、その視線からは火花が散っていたのだった。闘いは既に、始まっている。




ツイッターでは既にお知らせしたのですが、今日から25日金曜日まで、13連勤をすることになりました(白眼
自分の会社、年末繁忙時は休日出勤も割とするので、珍しいことでは無いのですが、今年はしないと言っていたのにいきなり一昨日の金曜日にそのように決まり、愕然としております
何より痛いのが、特別編です
ツイッターでは以前にお知らせしていたのですが、次の特別編を26日に投稿するつもりです
24や25じゃないのは、態となんでツッコまないでください
てへぺろ♪(キモい
まぁ冗談は置いといて、ですが、特別編、まだ一切執筆できておりません
というのも、元々投稿前の最後の土日、19,20で纏めて執筆する予定だったんですよね
それが、仕事に変わってしまったわけです
非常に困りました
正直、猶予がありません
これからしばらく、本編の更新お休みして、特別編の執筆に充てさせてください
本編の更新は、おそらく年末ギリギリまでお休みとします
本編の更新を楽しみにして頂いてる方にはご迷惑をお掛けします
どうぞ、ご理解頂けるようにお願い致します
重ね重ね申し訳ございません
次回更新は特別編
26日午前0時となります
それも、間に合うかどうかわかりませんが、頑張ります

八銀はジャスティス


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第37局 激闘開幕

新年明けましておめでとうございます
本年も、当作をよろしくお願い致します
合い言葉は、八銀はジャスティス


4月。

それは始まりの月。入学。入社。人々は様々な形で、新たな生活へと身を沈めていく。だが4月が年度初めとなるのは、日本だけの習慣だ。アメリカでは10月が年度の始まりとなるし、ヨーロッパ等は1月からが年度の始まりとなる。何故日本だけズレているのか。その理由には諸説あるが、有力なのは米作の時期に合わせたという説だ。

 

江戸時代、人々は税を米によって納めていた。それが、明治に入ると金銭で収めないといけなくなったのだ。制度が変わったからといって、直ぐにそれに対応できるわけがない。人々は、金銭を用意するのに、米を換金するという手間が増えたのだ。そして、換金した金銭を、税金として納めていた。そうなると、次に大変なのは役人だ。12月締めとなると、収穫期からほとんど間が無いのだ。その短い期間で、全ての税金を処理して、次年度の予算まで計算するというのは、流石に無理があった。だからこそ、余裕を持って処理と決算を行える、3月締め4月初めという年度設定になったらしい。米農家の一員として、昔じいちゃんに聞かされたことがある。親父はそんなの幼稚園児に聞かせてわかるわけがないだろ、と言ってたけど、すいません。中身は幼稚園児じゃ無いので理解できました。絶対口には出さないけど。

 

それはともかく、だ。4月だ。4月になったのだ。4月の中頃になったのだ。三段リーグの初戦を翌日に控え、その日俺は、一人で東京へと向かうことになっていた。前日に用意してあった荷物を手に取り、玄関で靴紐を結ぶ。そして、立ち上がった俺に三人の家族が寄ってくる。

 

「ほんまに、一人でええんか?」

 

「うん。誰かと一緒に行くと、甘えちゃいそうな気がして」

 

「甘えてもいいのよ。まだ小学生なんだから」

 

「ありがとう桂香さん。けど、この世界は小学生だからという理由で、優しくしてもっらえるような世界じゃないから。ここまで来たら、大人も子供も無いよ。皆、プロ棋士候補なんだ」

 

誰一人として、弱い人間はいない。棋力だけがではない。心もだ。心が強くなければ、奨励会をここまで駆け上がってくることはできない。その前に、皆折れてしまうから。もし、誰かに着いてきてもらったら、俺はその人に甘えてしまいそうな気がする。正直に言おう。俺は、三段リーグが怖い。魑魅魍魎が集まる、このリーグが怖い。経験者だからこそ人一倍わかる。このリーグの怖さが。もし、誰かが一緒に来てくれたなら、俺はもしかしたら、怖いと言って泣きついてしまうかもしれない。それは、俺の心が弱いからだ。だからこそ、誰かに甘えられるそんな環境を、今は切り捨てる。怖い。恐怖を吐き捨てられる場所が無い。だが、それでいい。吐き捨てられないなら、受け入れてしまおう。恐怖に飲み込まれる前に、自分で飲み込んでしまおう。俺はこの三段リーグに、甘えを全て捨てて挑む。一人で向かうのは、そんな俺の静かな決意表明だ。

 

「八一」

 

そして、最後までずっと黙っていた銀子ちゃんが声を掛けてくる。玄関の扉に手を掛けたまま、俺は振り返る。銀子ちゃんは、慎重に言葉を選んでいるのか、俺の名前を呼んだ後、悩ましげな顔で黙り込んでいた。次の言葉を発したのは、俺が振り返って5秒ほどが経ってからだった。銀子ちゃんは、穏やかな笑みを浮かべて、俺に向かってこう告げた。

 

「いってらっしゃい」

 

穏やかな、日常的言葉。精一杯絞り出した言葉が、それだった。その言葉が、俺の胸にスーッと染み渡っていく。

 

「うん……いってくるよ!」

 

そして俺は、玄関の戸を開けて、外へと足を踏み出した。もう、後ろは振り返らない。皆に対する甘えは心の中から追い出していく。心の中には今も、三段リーグに対する恐怖が渦巻いている。だけど、そんな心の中にはいつだって皆がいてくれる。師匠が、桂香さんが、そして……銀子ちゃんが。いつだって皆がいてくれる。それが凄く、心強い。俺は一人じゃないんだ。一人で闘ってるわけじゃないんだ。そう思うと、恐怖が少し和らいだように感じた。さぁ、激闘が始まる。まずは初日。大事な二局。必ず勝って、またこの家に帰ってこよう。必ず勝って、胸を張ってこう言おう。

ただいま、と。

清滝家を離れ、新幹線に乗り込む俺の内には、確かな闘志が燃えていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

東京駅に着くと、見知った顔が待っていた。俺が近づくと、手を軽く上げて挨拶をしてくる。

 

「臆さずに来たようだな」

 

「当然だろ?俺は、棋士なんだからな」

 

歩夢の軽口に、正面から応える。人混みの中で、俺たちは不敵な笑みを浮かべ合った。歩夢とは、今日東京駅で会うと以前から話し合っていた。なんでも、今日予約してあるホテルまで案内してくれるらしい。別にそんなのなくても、前生で東京には腐るほど来ているので、迷うことは無いと思うのだが、ここは歩夢の厚意を受け入れることにした。歩夢の目的が、案内だけでは無いとわかっていたのも、受け入れた要因だ。

 

「相変わらずこっちは人が多いな」

 

「大阪とて変わらぬだろ?」

 

「いやいや。大阪より絶対東京の方が圧倒的に多いって。そう言えるのは、歩夢がこの人混みに慣れてるからだよ」

 

「その言葉、そのまま返そう」

 

歩夢と雑談を交わしつつ、電車を乗り継ぎ目的の場所へと向かう。それほど時間を要さず、目的のホテルには思っていたよりも早く到着した。そのホテルは、将棋会館から程良い距離にあった。遠すぎず、近すぎない程良い距離。外観も綺麗で、内装にも期待が持てそうだ。そして、歩夢とはここでお別れとなる。あまり長い時間を共有はしない。明日からはお互い、敵同士なのだ。本来なら、この時間も避けるべき対象なのだ。だけど、敢えて俺たちは今日会った。最後の挨拶を交わすためだ。

 

「案内ありがとな、歩夢」

 

「気にすることは無い」

 

「……さて、ここまでだな」

 

「あぁ。……そうだな」

 

「俺たちが次に言葉を交わすのは、決戦の場でだ」

 

「あぁ。その際は、お互いにこの半年の成果を存分に語り合うとしよう」

 

「あぁ。……盤上でな」

 

「ふっ、達者でな……八一」

 

「お互いな」

 

歩夢は最後にこちらを一瞥(いちべつ)すると、その後は振り返ること無く人混みの中に姿を消していった。これから俺たちは互いに、三段リーグという荒波に揉まれていくこととなる。辛く険しい闘いが続くが、それは同時に、さらなる高みへ登るためのチャンスでもある。きっと、半年後には更なる力を身につけた歩夢がいることだろう。男子、三日会わざれば刮目して見よ。では、半年会わざれば?その答えは、半年後に自ずとわかることだろう。俺は、歩夢との決戦を思い浮かべて、自然と笑みを浮かべたままホテルへと入っていった。歩夢との決戦は、半年後の三段リーグ最終局だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、決戦当日の朝を迎えた。しっかりと睡眠も取れ、体調も万全だ。朝食を済ませると、俺は意気揚々と将棋会館へ向かう。

 

「あ!今九頭竜八一君がこの将棋会館へと姿を現しました!」

 

将棋会館へ到着した俺を出迎えたのは、複数の報道陣だった。史上初の小学生プロ棋士が誕生するかもしれないと、報道にもそれなりの熱が入っている。まぁ、それでも前生の銀子ちゃんほどでは無いけど。

 

「九頭竜君!三段リーグへ向けた意気込みを聞かせてもらってもいいかな?」

 

「ここまで来たら、皆プロになれる可能性を秘めた実力者ばかりです。一局一局、全ての対局が大一番のつもりで、挑んでいきます」

 

無難な受け応えで済ませ、直ぐさま会館の中へと入る。余計な事に、時間を取られたくない。今は、将棋だけに集中がしたい。

 

「ん?」

 

会館に入ると、俺は見知った顔を見つけた。歩夢だ。昨日ぶりの、お早い再会となった。会館も、そこまで広いわけではない。バッタリ出会ってもおかしくはないだろう。歩夢も、こちらに気付いたらしく、お互いに目が合う。だが直ぐに、どちらからともなく視線を切った。互いに、敵同士なのだ。今は互いに、自分の対局に集中したい時だ。一瞬見えた歩夢の表情は、いつにも増して気合が入っているように見えた。歩夢は初日から強敵と当たる。その対局に向けて、気合は十分だろう。俺も負けていられない。

 

対局室へと向かう。俺の対局相手は、既に座って待っていた。同じ関西棋士だ。俺が奨励会に入った年に三段リーグ入りしたため、例会での対戦経験は無い。高一の時に三段に昇段し、次点経験も持つ強者だ。

 

「まさか、初戦の相手が天才君やなんてな。同じ関西勢、遠慮はいらんで。全力でかかってきや」

 

「えぇ、そのつもりです」

 

「はっ!ほんま可愛げ無いな。態度も、将棋も。せやかて、俺もそう簡単に負けるつもりはないわ。ほな……始めよか」

 

そして、三段リーグその初戦が、開局を迎えた。先手は俺だ。俺は初手として、2六歩と飛車先の歩を突く。相手も合わせて、8四歩と指してくる。その後、2五歩、8五歩、更に7八金、3二金と進んでいく。そして2四歩、同歩、同飛と指せば、典型的相掛かり定石となる。

 

「初戦はお得意の相掛かりでってわけやな。ええで。その勝負乗ったるわ」

 

奨励会でも、俺が相掛かりを得意としていることは知れ渡っている。対局相手は、それを知ってて俺の土俵に上がってきたらしい。

 

「俺も相掛かりは大好物なんや。どっちの得意戦法が勝るんか、楽しみやな!」

 

そう言って、相手は飛車先に歩を打ち付けてきた。それを見て、俺は飛車を後ろに下げ、浮き飛車の形を取る。その後は、お互い様子見も兼ねて、定石を辿っていく序盤となった。この対局は大事な三段リーグの初戦だ。絶対に負けるわけにはいかない。その一心で、お互いに慎重に指し進めていく。そして定石を辿っていった結果、盤面にはとある戦型ができあがっていた。相掛かり腰掛け銀。相掛かりの戦型の一つだ。

 

「腰掛け銀か。ほんま狙ったかのように、俺の好きな方に進めてくれるな。ほんなら……この戦型を選んだこと、後悔させたるわ」

 

そして、相手は銀隣の歩を一枚前に進めてきた。それは、定石を外した一手だった。遂に来た。相手が先に仕掛けてきた。ここからは、己の力で道を切り開いていかないといけない。上等だ。そっちがそう言うなら、こっちだって言ってやる。

 

「それを言うならこっちだって……この戦型に付き合ったことを後悔させてあげますよ」

 

「へぇ……おもろいやんけ」

 

俺は桂馬を跳ねさせる。角道を塞ぐように跳ねさせる。相手の歩上げの狙いは、角と飛車の共演による、右翼の突破だ。それを防ぐために、相手の角が攻めてこれないように、道を塞ぐ。

 

「なるほど。桂馬をそう使うか。桂馬の使い方がとにかく上手いとは聞いとったけど、ほんまに上手いな。せやけど、それだけやと俺の攻めは止められへんで」

 

歩を打ってくる。角頭の歩にぶつけてくる。放置するわけにはいかない。俺は迷わず、その歩を歩で取る。そして相手も直ぐさま、飛車で歩を取ってきた。これまた放置するわけにいかず、直ぐさま歩を打ち付けて飛車の侵攻を防ぐ。すると相手は、飛車で7列の歩を取ってきた。壁として置いている桂馬の鼻先に、飛車が狙いを定めてくる。とは言っても、その先は角を初め、金と銀も護りを固めている。そう簡単に侵攻できるような配置にはなっていない。今が攻め時だ。お返しだと言わんばかりに、2列の歩に歩を打ってぶつける。相手は当然、歩で取らざるを得ない。それを見て、飛車で歩を取る。相手もすかさず、飛車先に歩を打ち付けてくる。そして更に俺は、3列の歩を飛車で取る。ここまで、相手と全く同じ動きだ。だが、ここから先は変化が生じる。俺の飛車、その目の前には何も駒が無い。一つ後ろに、金が控えていて、その背後を守るように、銀が控えているが、目の前には何も無い。さて、相手は飛車に対してどうアクションを起こすか。対処法は主に二つ。放置するか。歩で壁を作るか。俺の飛車は、縦への突破が既に防がれている。しばらく放置するのも手の一つだろう。

 

「なんて、放置するわけにいかへんよなぁ」

 

だが相手は、歩で壁を作ってきた。それが正解だろう。縦の護りは確かに固い。だが、横の護りはそうでも無いのだ。飛車の横列には、銀が一枚あるだけ。後は筒抜けだ。対してこちらは、銀の横に一枚歩がある。本来は相手の銀隣にも歩があったのだが、その歩を定石外しの一手として使ったのだ。その結果が、横列の脆弱化に繋がっている。定石外しの一手には、それだけのリスクも含まれているのだ。この後の展開で、銀が揺さぶられれば飛車がどこからでも牙を剥く。特に、飛車を攻め駒として使っている分相手の左翼は脆いのだ。桂馬と香車が定位置で留守番しているだけ。8列の歩も不在。どうぞ攻めてくださいと言わんばかりの様相だ。だが、今は攻めれない。こちらの持ち駒には歩しか無い。これではどうあがいても攻めれない。左翼は、7列以外歩が健在なのだ。打ち付けたところで2歩になってしまう。7列に打ち付けても、そこは相手の金がカバーしている。打つだけ無駄だ。俺は、仕方なく飛車を一つ下げる。

 

「ちっ、油断ならへんな。しゃーない。勿体ないけど、ここで使おか」

 

相手は、持ち駒にあった最後の歩を8列の護りに使ってきた。これで、俺の左翼への攻めを封じた形になる。だが、ここで相手は一手を護りに使った形になる。こちらに主導権が回ってきた。ここで、一気に攻める。俺は、壁に使っていた桂馬を跳ねさせ、相手が定石崩しに使った歩を取る。

 

「な!?ここで桂馬を!?」

 

驚愕する相手。壁が急に押し迫ってきたのだ。当然驚愕するだろう。飛車の縦への突破は、しっかり金銀角の三枚で防いでいるので怖くない。横の突破も、銀と歩で防いでいるので怖くない。唯一怖かった角の参戦も、しっかり布石を打ったので怖くない。

 

「ま、まさか一連の飛車の動きは……」

 

その角の道は、俺の飛車の侵攻を止めるために打たれた相手自身の歩で止められている。そう。相手の動きを真似したような、一連の動きは、全てこの桂跳ねのための布石だったのだ。銀で取ることはできる。だがしかし、直ぐに五列で待機させている俺の飛車が取り、桂銀交換という足運びになる。しかも、俺の飛車が攻め込みやすい形が残るおまけ付きだ。かといって放置すると、途端に王の目前に桂成が現れる。金の防備があるとはいえ、避けたい場面なのは間違いない。

 

「やったら、これでどうや!」

 

ここで相手が指してきた手は、角道を開けるために歩を進める手だった。それと同時に、飛車に対する圧力にもなっている。飛車先に、歩がぶつかる。なるほど。攻防一体となった一手だ。面白い手だ。だけど……良い手ではない。

 

「な!?」

 

角道を開けた相手を嘲笑うかのように、こちらから角交換を仕掛ける。堪らず相手は、銀で角を取ってくる。そうだ。そうするしかないだろう。その間に、俺は悠々と飛車先の歩を取る。そして相手は、角を取った銀をそのまま俺の飛車にぶつけてくる。そうせざるを得ないのだ。そうしないと、俺の飛車が右翼を突き破ってしまうのだから。結論から言うと、相手は角道を開けるべきでは無かった。護りを固めるべきだったのだ。居玉の隣でどっしり待ち構えてる金を上げ、桂馬の侵攻に備えるべきだった。その方が、俺は攻めあぐねたことだろう。とはいえ……その場合の対策もきっちり考えてはいたが。俺は冷静に飛車を一つ下げる。それを見て、相手は金を玉の前に上げてきた。行動が遅すぎた。今からだと、もう遅い。俺はここで、遂にずっと待機させていた銀という手札を切った。腰掛け銀の肝である銀を、相手の銀にぶつける。

 

「くっ……!」

 

ここで相手が長考に入る。相手に選択できる手は主に二つ。銀で銀を取るか。銀を退かせるか。長い沈黙の末、相手は静かに手を進める。銀を、退いてきた。ならば、遠慮無く攻める。俺は、相手の懐深く、定位置で待機していた8列の桂馬の鼻先に角を打ち付けた。

 

「な!?そんな狭い場所に角を!?」

 

確かに狭い。角が身動きをできる場所は少ない。だが、それでも相手は対処できない。相手の持ち駒は現在角一枚だけ。歩すら無い。そうなるように、盤面を動かしてきたのだから。これで、簡単に馬が作れる。

 

「ま……まさか……ここまで全部読み切って……?」

 

驚愕する相手。だが、直ぐに意識を切り替えて、少しでも被害を抑えようと5列に上げていた金を6列にずらしてくる。だが俺も、そんなの関係無いと言わんばかりに、角を7列最奥の位置に置き、馬へと変える。そして相手は、銀を更に玉の前まで下げて、護りを固めてきた。その動きに合わせて、俺も銀を一つ前、桂馬の前に進める。相手は更に、左翼の護りを固めていた3列の金を4列に動かし、王の護りを固めてきた。王の前を3枚の金銀が固める、盤石の布陣だ。だが、こちらの方が攻撃のカードは多い。俺は飛車を5列に動かし、中央突破の構えを見せる。それを見て相手は苦虫を噛みつぶしたかのような顔をすると、王を4列に逃がした。配下を見捨てて逃げる王。正に、敗戦国の末路と言える状況だ。

 

奨励会有段者の闘いには、次のような暗黙のルールのようなものがある。『最初のチャンスは見逃すこと』最初のチャンスは見逃して、より確実な次のチャンスを待つ。相手に徐々に、自分は見逃されたんだという自覚を植え付け、精神的に追い込んでいくためのルールだ。かなりタチの悪いルールだ。今が、その最初のチャンスだ。本来なら見逃すべきなのかもしれない。けど、俺はここで終わらせる選択を取った。今生の三段リーグは、真正面から全ての対局に勝ちたい。それぐらいできないと、この先の闘いは勝ち抜けない。そう俺は思っている。だから、遠回りせず、最短距離で勝ちに行く。この三段リーグ、全局で。俺はその決意を込めて、相手防壁を切り開く第一手、桂跳ねを敢行した。そこから数手進み、大駒の角を相手に明け渡すことにはなったが、相手防壁は丸裸となった。後は、相手玉を追い込むだけだ。

 

「負けました」

 

だが、相手はそこから粘らずに、潔く負けを認めてきた。正直、拍子抜けの終わり方だった。

 

「なんで粘らなかったのか、って顔してんな。そんなん、天才君が一番わかってるやろ?君、詰みまで全部読み切って……いや、全部研究しとったな?」

 

「まぁ、そうですね」

 

「はぁ、ほんまなんでこんなとこまで研究してるん?上手く定石外して攻勢に出れる手や思ったのに、結局マトモに攻めることもできへんかったやん」

 

確かに、定石を外してきたのは相手だ。だが、その一手は俺も前生で研究したことのある手だ。前生で俺は、腰掛け銀系統の戦型に関しては、かなりの研究時間を費やした。理由は至って単純。銀が名前に付く戦型では、負けたくなかったからだ。他にも、棒銀系統や銀冠といった、銀に関する戦法、戦型に関してはとにかく研究をした。それが、先の対局に如実に現れていた。なんでそんなに負けたくないのかって?そんなの、言わなくてもわかるだろ?……まぁ、要するにだ。相手は、この戦型に付き合った時点で負けていたのだ。勝ち目は無かったのだ。

 

「ほんま、天才君の名前は伊達やないなぁ。完敗やわ。同じ関西勢として、応援しとるわ。頑張りや」

 

「ありがとうございます!」

 

自分も大変な状況だろうに、自分を負かした相手を応援するなんて、良い人すぎないだろうか?なんだか俺も、この人のこと応援したくなってきた。頑張ってください。応援してます。今期は無理だろうけど。

 

相手が席を離れたのを確認して、俺も席を立つ。そして幹事の席へと向かった。勝者は、幹事に勝敗を報告する義務がある。敗者の分も、成績表に印を押すのだ。どうやら、俺が報告一番乗りだったらしい。成績表は、まっさらな状態で、誰の欄にも印が押していない。歩夢の対局結果も気になるが、今は知る由も無い。俺は、印を押し終えるとさっさとその場を離れた。さっさと昼飯を食べて、午後の対局に備えよう。俺は足早に昼飯を食べるために移動するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「連勝スタートか。流石噂の天才小学生だな。その実力は本物か」

 

幹事の人がそう言う。その発言の通り、俺は見事に午後からの対局も勝利で終えることができた。対局相手は、奨励会員らしく、粘りに粘るしつこい将棋を指す相手だった。危ない場面は特になかったが、本当に疲れた。お陰で、終わったのもどうやら一番最後だったらしい。成績表には既に俺と、俺の対戦相手以外全員に、二つ分の印が押されていた。

 

「皆終わってたのか。……ん?……なっ!?」

 

そして俺は、驚くべき物を見た。それは、歩夢の戦績だ。そこには黒い丸が二つ押されていたのだ。それが意味することはただ一つ。

 

「歩夢が……連敗スタート……!?」

 

この三段リーグ、どうやら波乱が起きそうだ。この時俺は、そんな予感を確かに抱いたのだった。




改めまして、あけましておめでとうございます
本年もどうぞ、よろしくお願いします
年末年始が想定以上にバタバタしていたというのもあるのですが、今回は少し対局シーンに苦労してました
ツイッターでは報告したのですが、従来とは違う書き方の対局描写をしてみたんですよね
そしたら予想以上に苦労したうえに、できあがりもなんだか納得いかない感じになって、結局いつも通りの描写方法で書き直したりしてました
これも、そこまで納得いくできにはなってないですが、これ以上投稿遅らせるのもどうかと思ったので、妥協しました
機会があったら書き直したいですね
まぁ、モブ相手なんで、別にこれで良い気もしますけど
次はもっと早く投稿できるように頑張りますので、気長にお待ちください

八銀はジャスティス


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第38局 棋士として、友として

ほら、今回は早い(当社比
今回久々の三人称視点描写があります
それと、長いです
合い言葉は、八銀はジャスティス


東京での連勝スタートを記録した俺は、その日のうちに清滝家まで帰ってきていた。最寄りである野田駅の改札を抜けると、そこには俺を出迎えてくれる家族達の姿があった。

 

「おかえり、八一くん」

 

「うん、ただいま」

 

桂香さんの挨拶に、俺は胸を張ってそう応えた。開幕連勝スタート。文句なしのスタートを切ることができた。だけど、決して安心はできない。まだ本当に強い相手とは当たっていない。最後の最後まで、たとえどれだけ白星を積み重ねていたとしても、安心はできない。今年の三段リーグは、類を見ない大混戦が予想されているのだから。

 

「その様子やと、勝てたみたいやな」

 

「うん。開幕連勝できたよ」

 

「そうか!流石八一や!せや、腹減ったやろ?今日は、このまま外食しよか!奮発して焼き肉や!」

 

「私、シャトーブリアン食べたい」

 

「さ、砂糖鰤餡?」

 

「お父さん、シャトーブリアンよ」

 

「なんやようわからんけど、好きなもん頼み!今日は出血大サービスや!」

 

俺はそう機嫌良さそうに笑う師匠を見て、静かに心の中で合掌した。そして案の定、会計時に店内には絶叫が響き渡ったのだった。師匠に幸あれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「負けました」

 

その日の夜、俺は毎日恒例となっている銀子ちゃんとのベッド争奪対局を行っていた。体は疲れて直ぐにでも睡眠を欲してるはずなのに、不思議と銀子ちゃんとの対局となると、体が睡眠よりもそちらを求めているのか、眠気が綺麗さっぱり吹っ飛んでいった。そして結果は、俺の勝ち。とは言っても、いつものパターンだと直ぐに銀子ちゃんが再戦を要求してくる。そして、銀子ちゃんが勝つか体調を崩すまで終わらない……はずなんだけど、中々銀子ちゃんが再戦を要求してこない。

 

「銀子ちゃん、どうかした?」

 

思わず俺は、銀子ちゃんにそう問いかけていた。銀子ちゃんは、盤上を静かに見つめていた。だがその視線を、徐に上げると、逆にこう問いかけてきた。

 

「八一、どうかした?」

 

「え?」

 

オウム返しのような問いかけ。その視線は、真っ直ぐに俺の眼を捉えている。まるで、全てを見透かされているかのような視線だった。俺の迷いや不安まで、全て見透かされているかのような。

 

「今日帰ってきてからずっと、なんだか元気が無いでしょ?なんかあったの?」

 

銀子ちゃんのその言葉に、俺は素直に敵わないなと感じた。どうやら俺は、銀子ちゃんの前で隠し事は一切できないらしい。まぁ、別に隠すつもりもなかったのだけれど。

 

「実は、歩夢が開幕連敗スタートを切ったんだ」

 

「え……?歩夢君が……?」

 

「うん。確かに、強敵が相手だったのは間違いないけど、あの歩夢が簡単に連敗するなんて思わなくて……それで、歩夢がここから立ち直せるのかが心配で……」

 

前生でも、前期次点獲得者の坂梨さんが銀子ちゃんと三段リーグ初戦で当たり、黒星スタートを切った。その後、開幕4連敗という最悪のスタートを切っている。まぁ、その後14連勝をし、見事に二度目の次点を獲得し、フリークラスでの昇段を決めたのだが。だけど、歩夢も立ち直せるとは限らない。あいつがこのまま連敗を引きずって、俺との決戦まで来てしまったら……どうしても、そんな最悪な想像が浮かんでくる。

 

「あいつとは、三段リーグで最高の対局を繰り広げるって約束したんだ。それなのに、こんなところで躓いて、もし立ち直れなかったらと思うと……」

 

対局日程も、最高の対局に相応しい、これ以上無い、完璧な形に決まったのだ。全てが決まる大一番、最終局での対局。勝っても負けても恨みっこ無し。だというのに、その前にあいつが早々脱落するようじゃ、最高の対局なんて、できるわけがない。

 

「その心配って必要ある?」

 

だが、銀子ちゃんはそんな俺の心配をバッサリと切り捨ててきた。それはもう、気持ちいいぐらいにバッサリと。

 

「必要あるって……銀子ちゃんは歩夢のこと心配じゃないの?」

 

「全然」

 

この子には、血も涙も無いんですか?

 

「はぁ、じゃあ八一、八一は、あの歩夢君が連敗をズルズル引きずって、この後も立ち直れないような弱い棋士だと思ってるの?」

 

「それは……そうは思わないけど……」

 

「だったら気にすることないでしょ?歩夢君ならきっと大丈夫。私は、この家の住人以外では歩夢君と一番将棋を指してるからよくわかる。歩夢君は強い。将棋も、心も。心配しなくても、間違いなく次の対局では立ち直ってるわ」

 

「そう、なのかな?」

 

「そうに決まってる。歩夢君は八一にとってライバルなんでしょ?そのライバルのことを信じてあげなくてどうするの」

 

「そう、だよね。俺が弱気になってたらダメだよね。俺が一番、あいつのことを信じてあげないと」

 

「そうそう。わかったらもう寝ましょ。そんな簡単なことで悩んでるなんて……はぁ、心配して損した」

 

「え?銀子ちゃん俺のこと心配してくれてたの?」

 

「当たり前でしょ?……弟弟子なんだから」

 

銀子ちゃんは、素直にそう返してきた。その返答は、少し意外だった。銀子ちゃんのことだからてっきり、『はぁ?何寝ぼけたこと言ってんの?頓死しろ、クズ』……てな感じに返してくるかと思っていたのだけれど。これは、俺が思ってる以上に今生の銀子ちゃんが俺に心を開いてくれてるって考えていいのかな?だとすると、凄く嬉しい。でも確かに、銀子ちゃんの言うとおりだ。ライバルであるはずの俺が、あいつのことを信じてやらなくてどうするんだ。どうも、前生での坂梨さんの成績が思い浮かんで、弱気になっていた。そうだ。歩夢ならきっと大丈夫だ。次の対局には、きっと持ち直してくれてるはずだ。俺はそうやって安心すると、直ぐに夢の中へと突入していったのだった。

 

それといつも通り、俺の勝利で終わったからって、引き分け扱いにして俺の布団に潜り込んできてるそこの銀髪JS。この行為も、俺が思ってる以上に心を開いてくれてるからって考えていいんだよね?

 

 

 

 

 

 

 

 

それからしばらく経ち、三段リーグ二日目を迎えた。

二日目の今回は、俺は関西での対局に割り振られていた。そして、歩夢も。三段リーグは、開幕日と最終日だけは全対局関東で一斉に行い、間の対局は、各自が関西と関東に割り振られて、別れて行う。関西に割り振られた俺は、ホームで対局できるとあって、対局日をリラックスして迎えることができた。良い状態だ。これなら今日の対局も問題無さそうだ。

 

「ん?」

 

関西将棋会館に入った俺は、開幕日と同じく見知った顔に遭遇した。あの日遭遇したのと同じ相手、歩夢だ。俺は歩夢のことを見つめる。しかし歩夢は、こちらに気づくと、直ぐに視線を下に逸らしてしまった。下に、だ。あの歩夢が、俯いたのだ。申し訳なさそうに、俯いたのだ。

 

「歩夢……」

 

歩夢の状態は、もしかしたら俺が思っている以上に深刻なのかもしれない。しかし、俺は決めたんだ。

 

「……信じてるからな、歩夢」

 

歩夢なら、それでもきっと上がってきてくれる。俺は、それを信じて進んでいく。人のペースには合わせない。自分のペースで進んでいく。俺は、その呟きを最後に、意識から歩夢を追い出した。俺には、俺の闘いがある。目の前の闘いに集中しなければ、俺も歩夢と同じ道を歩むことになるかもしれない。それだけは、避けなければ。俺は、意識を自分の対局へと持って行きつつ、対局室へと歩を進めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「不甲斐ない……」

 

はたしてその言葉を、あの日から何度呟いただろう?少なくとも今日だけで二桁は超えた。

 

「不甲斐ない……」

 

そして、また一つ。歩夢は、心底自分のことをそのように感じていた。先日行われた三段リーグ開幕局、自分は自信を持って、負けるわけがないという自信を持って対局に臨んだ。しかし結果は、惨敗だった。確かに相手は強かった。この三段リーグに参戦している棋士の中でも、屈指の実力者だっただろう。歩夢自身も最大限に警戒をしていた相手。最大限に警戒していたからこそ、惜しみなく最新の研究手を対局に投入した。だが、その研究手でさえも、全て撥ね除けられてしまった。そして逆に、相手の研究手の餌食になってしまった。見るも無惨な形に食い荒らされた矢倉。あの清滝名人に教わった矢倉がだ。その矢倉が、完敗したのだ。

 

そして心の整理も付かないまま迎えた二局目。相手は、同じ関東勢だった。奨励会でも、何度か対局したことのある相手。対局結果も勝ち越している、決して簡単に負けるような相手では無かった。しかし結果は、惨敗だった。全く良いところなく、惨敗だった。あまりにもあっけなく負けたものだから、相手は対局後、キョトンとしてしまっていた。その顔を思いだし、歩夢はまた一つ呟いた。

 

「不甲斐ない……」

 

歩夢には、尊敬しているライバルがいる。年は自分より二つ下なのだが、なんと初めて対局したあの日から、一度も勝てたことが無いのだ。一度も、だ。彼ほど天才という言葉が似合う棋士を、歩夢は知らない。古今東西あらゆる棋士と比べても、彼の才能は飛び抜けているだろう。敬愛する師匠(マスター)や、全ての棋士の憧れである神様と肩を並べるほどに尊敬している相手、それが九頭竜八一という少年に対する歩夢の嘘偽り無い評価だった。正直なところ、歩夢は自分のことを八一に相応しいライバルだとは思っていない。八一のライバルを名乗るなら、それこそあの女版八一とでも言うべき才能の持ち主、八一の姉弟子である空銀子の方がよっぽど相応しいだろう。しかし、それにも係わらず、八一は自分のことをライバルだといつも言ってくれる。そのことがいつも歩夢は嬉しく感じていた。だからこそ、自分も周りに、我は九頭竜八一のライバルなのだと言いふらしてきた。今は相応しくなくても、いつかきっと、胸を張ってライバルだと言える棋士になってみせると、そういう想いもこめて、言いふらしてきた。

 

「不甲斐ない……」

 

だというのに、自分はあっけなく負けた。完膚なきまでに負けた。そのことが歩夢は、本当に、本当に不甲斐なくて、堪らなかった。こんなことでは、八一のライバルを名乗る資格なんて、あるわけが無いではないか。

 

「何さっきからボソボソ呟いてるん?さっさと始めようや」

 

向かいに座ってる相手の声に、歩夢は俯いていた顔を上に上げる。そうだ。今日は三段リーグの二日目だった。態々対局をするために、遠路はるばる大阪までやってきたのだった。今日の一局目、対局相手は関西棋士だった。確か、八一が開幕局で対局した相手だったと記憶している。関東の将棋会館ではあの開幕局以降、今に至るまでずっと、件の対局の話がひっきりなしに聞こえてくる。曰く、天才の実力は本物だった。曰く、近い将来間違いなくタイトルに手が届く存在。曰く、覇王の関東制覇への第一歩。九頭竜八一という名前が、関東棋界にも強く刻まれた対局となった。棋譜を実際に見たわけではないが、見なくてもわかる。圧勝だったのだろう。完膚なきまでの圧勝だったのだろう。自分と違って。

 

「ほな、初めよか」

 

だが、嘆いてばかりもいられない。もう、対局が始まる時間だ。

 

「関東の天才君のお手並み拝見といかせてもらおか」

 

歩夢は先手だ。初手に角道を開ける。それに合わせて相手も角道を開けてくる。角が対角線を睨み合うが、歩夢は角交換をする気は一切無い。直ぐにもう一つ歩を上げ、角道を閉じる。

 

「聞いとるで。矢倉が得意らしいな。その自慢の矢倉、俺の攻めに耐えられるんやろうな?」

 

相手の言葉に惑わされず、歩夢は冷静に矢倉を組んでいく。果敢に攻めてくる相手の攻めを受け流し、数十手後には、綺麗な矢倉が完成していた。矢倉が完成し、歩夢はここで一度盤全体に隈無く目を通す。ジックリと盤を眺めて、歩夢は一カ所、相手の陣形に攻め入る隙があるのを見つけた。ここから攻めていけば、今後優勢に展開を進めていくことができるだろう。そう考えて、手を進めようとした。しかし、伸ばした手が途中で止まる。確かに、攻めることはできる。しかし、その隙というのも大したものでもない。攻めきれる保証も無いほどにい小さなものだ。しくじれば、痛い返しが飛んでくることだろう。ここは、無理をする場面でもない。先日も、無理に攻めようとして痛い目にあったばかりだ。今回は同じ轍を踏まないように、慎重に行こう。そう考え、歩夢は指そうとしていた手と別の手を指す。それは、矢倉を更に固める一手だった。これなら、簡単に攻め込まれることは無いだろう。そう考え、歩夢は相手の顔を見た。対戦相手の眼は、その視線だけで歩夢のことを凍死させれそうなほどに、冷たかった。

 

「……最初のチャンスやから、奨励会有段者らしく逃した、ってわけでも無さそうやな。ただ単純に失敗にビビっただけか。……なるほどな。お前のことはよくわかったわ。俺、お前のこと、嫌いやわ」

 

「え?」

 

「俺はまず、奨励会有段者の闘い方が嫌いなんや」

 

奨励会有段者の闘いは、ただただ負けないことを考え、相手の心を折りにいく闘いだ。とにかく最初に防御を固め、その後相手の手を殺すことだけを考える。そして、最初のチャンスは見逃す。見逃して、より確実な次のチャンスを待つ。遠回りをして、ジワジワと相手の心を攻める将棋、それが奨励会有段者の将棋だ。

 

「あんな将棋して何が楽しいねん。皆、将棋が好きやからこの道を選んだんやろ?将棋を楽しまんな、この道を進む意味なんてないやんけ。俺の棋風は根っからの攻め棋風や。攻めて攻めて攻めまくって、受けに回す駒まで攻めに回して、攻め勝つ。相手に詰まされる前にこっちが詰ませればいいんやろ?っちゅう話や。俺は、奨励会に入ってからも、この将棋を変えたことは一度も無い。壁にはしょっちゅうぶつかってるけどな」

 

彼は奨励会に入り、多くの壁に直面してきた。それはもう、数え切れないほど多くの壁に。しかし、そんな壁も全て、自分の将棋で破壊してきた。破壊して破壊して、しまいには三段リーグで次点を獲得できるまでに、自分の将棋を磨いてきたのだ。

 

「俺の将棋は、奨励会では異色やろうな。せやけど、俺はこの将棋を変える気は一切無い。たとえ、奨励会を退会することになってもな。最後まで、自分らしい将棋を指して死ぬ。ま、簡単に死ぬつもりは無いけどな」

 

「自分らしい将棋……」

 

「せやから、有段者らしいネチネチした将棋指すやつは嫌いやねん。せやけど俺は、そんなやつよりもっと嫌いなやつがおんねん。それはな……自分の将棋に嘘付く奴や!」

 

「ッ!?」

 

「今の手、ほんまにお前が指したかった手なんか?俺にはそうは思えん。どうせ自分の将棋にここは無理をする必要は無いなんて言い訳して、ほんまは攻めるのにビビっただけなんやろ?そんな(ぬる)い将棋指す奴がな……俺に勝てる思うとるんか!」

 

そう言って、相手は力強く手を進めた。進めた駒は、銀。

 

「ほらほらほらほら!どんどん行くで!」

 

「な!?」

 

その後も、銀で次々と攻め込んでいく。二枚の銀で。なんと、両サイドの銀を攻め駒に使ってきたのだ。

 

「まだまだこっからやで!」

 

「ッ!?」

 

そして、飛車角に桂香まで攻めに加わる。受けに回している駒は、二枚の金と歩ぐらいだ。玉も居玉のまま、金が初期位置で固めているだけの囲い。あまりにも無謀な攻め。だが、一度導火線に火が付いてしまえば、怒濤の波状攻撃が待っている。

 

「くッ!このような攻め、成立するわけが……」

 

「成立せーへん思ったら、最初からやってへんわ!」

 

そして遂に、矢倉攻防戦が開戦した。歩同士のぶつかり合いを経て、金と銀が、大駒同士が鎬を削る。

 

「ほらほら、どないしたんや天才少年!自慢の矢倉がガタガタ悲鳴上げとるぞ!」

 

「ッ……!」

 

相手の言う通り、歩夢の矢倉は瞬く間に半壊状態になってしまっていた。美しかった矢倉は、もう見る影も無い。

 

「さぁ終盤、一気に決めてまうで!」

 

その言葉通りに、相手の攻めは更に過激になる。激しく駒台を入れ替わる駒達。そして、その駒達が入れ替わるごとに様相を変えていく盤面。決着の時は近い。そう感じさせるには十分な状態となっていた。

 

「……(しま)いやな」

 

そして、相手から歩夢に声が掛けられる。それは、終戦を呼びかける声だった。もう、ここからは戦況が変わることはない。相手はそう歩夢に報せているのだ。それは、歩夢にもわかっていた。ここから自分に勝ちの目が無いであろうことを。駒台には、金2枚と銀4枚、更には香車3枚と桂馬1枚に歩が数枚置かれている。しかし、相手は大駒を全て掌握しており、こちらの陣形はボロボロ。一方相手の陣形は囲いこそ最初から頼りないものの、手つかずの状態。どうやって反撃すればいいのかもわからない状況だった。

 

「なんや、関東の天才少年は大したこと無かったんやな。こりゃ、関西(ウチ)の天才少年とは比べられへんわ」

 

歩夢は、悔しさに歯を食いしばった。ズボンを強く握りしめた。自分が(てんさい)と比べものにならない存在であることは言われなくても知っている。それこそ、初めて彼と対局をしたあの日から。いや、更に前から。あの対局、結果としては接戦だった。彼をあと一歩のところまで追い詰めた。しかし、負けた。彼の戦法を借りてまで、絶対に勝つという意思を込めて挑んだのに、負けた。あの敗戦は、歩夢にとって人生で一番悔やむ対局となっていた。同時に、人生で一番好きな対局ともなっていた。楽しく、熱い対局だった。あの対局があったからこそ、歩夢は彼と面識を持つことができた。初めて憧れた、同年代の棋士に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼のことを歩夢が知ったのは、本当に偶然だった。奇しくも歩夢は、件の彼が清滝鋼介に出会ったあの日、両親に連れられて福井旅行に来ていた。あの日を跨いでの二日間、福井を満喫していたのだ。その旅行中、二日目の朝のことだった。ふと旅館の売店に立ち寄った際、歩夢は偶々ローカル新聞の一面を目にした。そこには、自分もよく知っている将棋の大先生と、自分より年下と思われる男の子が載っていた。歩夢は、将棋が大好きな少年だった。当然、プロの先生方のこともよく知っている。自分より小さな子が、そんな将棋の大先生と一緒に掲載されているとなったら、将棋好きな歩夢の好奇心が刺激されて堪らなかった。

 

しかし、歩夢は当時まだ小学二年生。難しい漢字はまだ読めない。歩夢は、両親にお願いしてその記事を読んでもらうことにした。それならばと、両親は新聞を買って部屋に戻る。この場所で読まず、部屋でノンビリ読もうということだ。その記事を読んでもらっている間、歩夢は興奮しっぱなしだった。自分よりも年下の少年が、あの清滝鋼介八段を後一歩のところまで追い詰めた。その事実が、歩夢を興奮の坩堝へと叩き込んだ。凄い!この子は凄い!歩夢がその少年に興味を持つのは、当然のことだったのだ。

 

「父上!この漢字は何と読むのですか?」

 

「これはね、くずりゅうって読むんだよ」

 

「くずりゅう……くずりゅう、はちいち」

 

「そうとも読めるけどこの場合は、はちいちじゃ無くて、やいちかな」

 

「くずりゅう、やいち……」

 

神鍋歩夢に、九頭竜八一という存在が強く刻まれた瞬間だった。そして、その新聞には実際に九頭竜八一が清滝鋼介と指した対局の棋譜も載っていた。歩夢は、福井から帰るなり直ぐに、盤に向かって棋譜並べを行った。そして浮かび上がったのは、到底小学生にも満たない少年が指したとは思えないような、異次元な将棋だった。今の歩夢には理解することもできないような指し手の数々。その指し手の意図を理解しようと、毎日毎日棋譜を並べ、盤と睨み合った。そんな日が過ぎていく内に、歩夢は将棋のことが益々好きになり、実力もグングン上がっていった。そして、それから約半年後のことだった。父親から、ある提案が飛び出したのは。

 

「歩夢、そんなに将棋が好きなんだったら、大会に出てみないか?小学生名人戦っていう大会の予選がもうすぐ始まるんだ。もしかしたら、九頭竜君も出場するかもしれないし、勝ち進んでいけば実際に対局できるかもしれないよ」

 

その父の提案に、歩夢は二つ返事で参加する意思を伝えた。その時の歩夢は、心の底から、くずりゅうやいちに会いたいと、実際に対局してみたいと思っていた。東京予選に参加した歩夢は、順調に勝ち進み、東日本予選をも勝ち進み、決勝大会へと駒を進めた。そして、その決勝大会初戦で、遂に歩夢は相見えることになった。

 

「僕は九頭竜八一。よろしく」

 

「うむ。我は神鍋歩夢。よろしく頼む」

 

その名前は、知っている。ずっと、会いたいと思っていた相手が目の前にいる。対局したいと思っていた相手と、駒を並べている。歩夢はその対局で、自分の出せる全てを出し切った。この一年弱研究してきた、目の前の憧れの存在が考案した鬼手まで駆使して、全力で勝ちにいった。しかし、結果は負けた。歩夢にとって、人生でこんなにも熱くなったのは初めてだった。そして、歩夢はこの時確信していた。きっと、これから先も、自分が最も熱くなれる瞬間は、目の前の天才と対局をしている時なんだろうと。それから歩夢は、ネットを通じて毎日八一と将棋を指した。暇さえあれば、大阪にまで出向いて八一と盤を挟んだ。時には、歩夢のもう一人のライバルである空銀子も交えて。それは、歩夢にとって掛け替えのない、充実した毎日だった。そしてそんな日々を過ごしていく内にいつしか、歩夢にはとある目標ができていた。この生涯のライバルと、最高の舞台で最高の対局を繰り広げて、そしてあわよくば勝利を手にしたいという目標が。それは、今もなお、歩夢にとっての最大の目標になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

懐かしい思い出を振り返り、歩夢はポケットに手を入れた。そこには、いつも大事にとある紙切れを入れていた。あの、初めて八一のことを知った新聞に掲載されていた棋譜の切り抜きだ。それは、歩夢にとって掛け替えのない思い出だった。いつも、この思い出に、勇気を貰っていた。今となっては、歩夢の宝物だ。

 

「そういや、ウチの天才少年はお前のことをライバルやって言い張ってたな。あいつも、見る目無いわー。こんな弱いのをライバル認定するなんてな。負けた俺が言うのもおかしな話やけど、もしかしたらウチの天才はほんまは大したこと無いんかもしれへんな。あいつプロになっても大成できへんやろ」

 

「ッ!」

 

歩夢は、その言葉に目を剥いて怒りを露わにした。自分のことを馬鹿にされるのはいい。実際に、言い返すことができるような状況では無いのだから。だが、自分が憧れた人を馬鹿にされるのは我慢がならない。自分の体の一部、最も深い部分を直接傷つけられたかのように、途方も無い怒りが歩夢を渦巻いた。

 

「……へぇ、そんな眼できたんやな。その眼、嫌いやないで。せやけど、この状況、覆せる思うてるん?」

 

確かにこの状況から覆すのは難しいだろう。だが、まだ不可能と決まったわけでも無い。絶望的状況、だが棋士として歩夢は、目の前の対局を簡単に投げ出すわけにはいかない。そして、(ライバル)として歩夢は、目の前の友を馬鹿にした相手に

 

「負けるわけには、いかぬ!」

 

そして、歩夢は力強くズボンを握りしめた。悔しいからでは無い。軽率な手を指さないためにだ。思い出すのは、八一と初めて指したあの将棋。あの対局、歩夢は途中勝利を確信していた。しかし、負けたのは自分だった。八一は、絶望的な状況から逆転して見せたのだ。今の歩夢のように、絶望的な状況から。だったら、自分にだってできるはずだ。何か、突破口があるはずだ。盤面をジックリ眺めて、歩夢は一つの答えを導き出した。その答えは、郷に入れば郷に従えということだった。

 

「確か、金銀6枚で優勢だったな?」

 

「は?急に何言って……まさか?」

 

歩夢は、勢いよく盤に一枚の駒を叩きつけた。王を守る、銀の駒を。

 

「ここからは関西らしく、泥臭く行かせてもらう!」

 

「俺の攻めを粘って耐えようってか?おもろいやないか!受けれるもんなら……受けてみいや!」

 

そして、相手の攻めがまた激しくなる。それを受けるために、歩夢は自陣に次々と金銀を打ち付けていく。粘る歩夢。攻め立てる相手。徐々に苦しくなってきたのは、相手たっだ。

 

「くっ!なんちゅう粘り強さや……」

 

9九から一切動かない玉。その周りを囲むように、金銀が囲いを形成している。いざとなれば合駒として歩や桂馬を投入し、歩夢は粘り続けた。僅かな勝機を求めて粘り続けた。そして、その粘りが実るときが来た。

 

「ッ!決め切れへんか!しゃーない、こっちが有利なんは変わらんわ。じっくり攻めさせてもらうわ」

 

そう言って相手が指した一手、それは歩夢の囲いをゆっくりと外から削る一手だった。歩夢の金銀の壁も今は無残なことになっている。しかし、相手も攻め駒が足りなくなってきたのだ。一気に攻める方針から、ジックリ攻める方針に切り替えたらしい。だが、それが結果的に緩手になってしまった。

 

「……道は創った」

 

「なんやて?」

 

「聞こえなかったか?道を創ったのだ」

 

「道ってなんやねん?」

 

「王を討ち取る道だ」

 

「なんやと!?そんなもんどこに……」

 

「ここだ」

 

歩夢が盤に一枚の駒を叩きつける。5六香。それが歩夢の打ち付けた一手だ。

 

「5六香?なんでそんな手を……こ、これは……!?」

 

そこで、相手は気付く。その異様な盤面に。5筋に、駒が無い。初期位置から動いていない相手の歩と玉、そして今歩夢が打ち付けた香車以外に駒が無いのだ。5筋に利いてる駒すらない。異常な光景だった。

 

「ま、まさか俺はこうなるように誘導されて……」

 

歩夢が隅っこに玉を置いて動かさなかったのは、その周囲に相手の駒を集中させるためだったのだ。玉を詰まそうと視野が狭くなっていた相手は、5筋の異常な状態に気付くことができなかった。

 

「泥臭い時間は終いだ。これより……我らしく征くぞ!」

 

「ッ!?……せやけどそないな手がなんやねん!たかが香車に、何ができんねん!」

 

相手は、そう言って初期位置で王を守っていた金を上げる。これで、香車が突っ込んできても問題無い。

 

「確かに香車一枚では何もできないだろう。ならば……」

 

そして、歩夢がさらに駒を打ち付ける。その手は……5七香。

 

「2枚だ」

 

「なんやと!?」

 

香車の二枚重ね。二枚の香車が、中央を虎視眈々と狙う。

 

「せやけど、まだや!まだ俺の王を討ち取るには足らんわ!」

 

相手は、もう一枚の金を上げる。これで、金を一枚取られるが香車の突破は防げる。

 

「2枚でもまだ足りないのはわかっている。2枚で足りないならば……」

 

そして、歩夢はさらなる一手を投じる。歩夢が指した一手は……5八香。

 

「3枚だ!」

 

「んな!?ん、んなアホな攻めがあるか!?そんな攻め、成立するわけが……」

 

「成立しないと思ったら、最初からやっておらん!」

 

毛利の三本の矢という言葉がある。一本なら簡単に折れてしまう矢でも、三本重ねれば簡単には折れないという意味の言葉だ。盤面には、歩夢の折れかけた心を繋ぎとめるように、三本の槍が顕現していた。歩夢はその槍達に、自身の姿と、あの姉弟弟子の姿を幻視した。自分一人では折れそうだった心も、あの二人との、三人の絆で繋ぎとめることができた。もう、歩夢の心に迷いは無い。折れない絆で、この対局に勝利する。

 

「クッ!背に腹は変えられんか!」

 

そして相手は、2枚の金と並べてもう一枚金を打ち付ける。これで、盤石の護りを敷いた。犠牲は大きいが、防ぐことはできるだろう。

 

「……三本の槍は、真の狙いを隠すものにすぎない」

 

「なんやと?」

 

「我の真なる狙いは……これだ!」

 

歩夢は、また一枚の駒を打ち付ける。それは、この攻防の中で取り返していた一枚の大駒だった。その大駒を、歩夢は香車の最後部に打ち付けた。5九飛。最強の中央突破部隊が、ここに誕生する。

 

「ひ、飛車!?そ、それはあかん……あかんで……」

 

相手は、仕方なく王を逃がしにかかる。しかしそれを逃がすまいと、最強の槍部隊が動く。

 

「征くぞ……ファーストランス!」

 

最初の香車が歩を取り、一枚目の金に取られる。

 

「セカンドランス!」

 

一枚目の金を二枚目の香車が取り、その香車を二枚目の金が取る。

 

「サードランス!」

 

二枚目の金を三枚目の香車が取り、その香車を三枚目の金が取る。

そして、歩夢は最後の槍、飛車を手に取った。思えば、先日の開幕局から、多くの遠回りをしてきた。この対局中もそうだ。最初のチャンスを見逃し、その結果敗北寸前まで追い詰められた。もう、遠回りはしない。歩夢はこの時、静かに誓った。これから先は、この駒達のように真っ直ぐ自分の道を突き進むと。

 

「さぁ、征くぞ!我は、王を討ち取る最短ルートを進む!喰らうがいい!我が最強の槍、その切れ味を!……王殺!トライデントドライブ!」

 

三枚目の金を飛車が取り、龍王へと姿を変える。龍王の進軍を阻むものは、全て排除されている。後は、王を追い込むだけとなっていた。そして、その結末が訪れるまで、然程時間は要さなかった。

 

「かー!負けや負け!文句なく詰んどるやないかい!」

 

相手の言う通り、その玉は完全に詰んでいた。文句の付けようのない詰みだった。

 

「……一つ聞かせてほしい」

 

「なんや?」

 

「何故、我を鼓舞した?」

 

「別にそんなつもりはあらへんかってんけどな。ま、強いて言うなら、腐抜けた奴より、強い相手と対局したかった。それだけや」

 

「……ありがとう。感謝する」

 

「そんなん言われる筋合いは無いけど、まぁ受け取っとくわ。関西(ウチ)の天才はほんまにえげつないで。頑張りや」

 

「あぁ、心得ているさ。よく、心得ているとも」

 

斯くして、神鍋歩夢は完全復活を果たした。目指すは約束の舞台。その道を、歩夢は真っ直ぐ、直向きに駆け抜けていく。最高の友と誓った約束を果たすために。

 

 

 

 

 

 

 

 

俺は、今日の二局目を終えて幹事への報告に来ていた。結果は、今日も二連勝し、開幕からの連勝を4に伸ばすことができた。恐る恐る、戦績表を覗き込む。気になるのは、歩夢の戦績。そこには、今日も二つのスタンプが押されていた。白い丸が、二つ。

 

「歩夢……!」

 

どうやら歩夢は、開幕の連敗から立ち直れたらしい。本当に、良かった。俺はスタンプを押し終えると、機嫌良く部屋を退出した。部屋を出ると、そこには壁にもたれかかった見知った顔があった。歩夢だ。歩夢は腕を組み、眼を瞑っていた。今は、話しかけるわけにはいかない。俺は、歩夢の目の前を、素知らぬ顔で通り過ぎる。

 

「我は、我の道を突き進む。お前は、お前の道を突き進め」

 

しかし、通り過ぎようとした俺の背中に、声が投げかけられる。歩夢の声だ。

 

「すまない。只の独り言だ」

 

……歩夢の奴。独り言だったら何を言っても良いってわけじゃないぞ?

 

「俺は確信してるよ。俺たちの道が交わる、約束の舞台が、最高の対局になるって……悪い。只の独り言だ」

 

だから、意趣返しとして独り言で返してやった。歩夢の顔は背後にあるため見えない。けどきっと、あいつの顔は俺と同じように口角が上がってることだろう。俺はその後、一言も発さず、振り返ることも無く関西将棋会館を後にした。歩夢は今日、完全復活を遂げた。流石俺の永遠の(ライバル)だ。早く、歩夢と最高の対局が指したい。一人の棋士としても、一人の友としても、楽しみで仕方が無い。俺は、遠くない未来にやってくる約束の舞台に想いを馳せながら、帰り道をノンビリ歩いたのだった。真っ直ぐに、歩いたのだった。




書きたいこと詰め込んだら過去最長になっちゃいました
ちかたないね
もうすぐ14巻発売ですね
それまでに後一話は投稿したい
14巻出た後は、14巻の要素を取り入れてのプロットの見直しとかしますので、また投稿少し遅れるかも知れませんがご了承ください

八銀はジャスティス


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第39局 清滝一門の熱い夏

祝☆りゅうおうのおしごと!14巻発売!
この日を半年待ってたんだよ!
今話書き上げるまで読むの我慢してたんで、投稿してる頃には熟読中かと思います
合い言葉は、八銀はジャスティス


三段リーグが開幕してから早くも三ヶ月が経過し、7月を迎えていた。

俺は、ここまで順調に白星を量産していた。開幕から未だに無傷。現在無敗を守っているのは、俺だけとなっている。しかし、油断は全くできない。2敗以内を守ってるのが、現在俺を含めて5人いるのだ。今後、この5人で2つの椅子を争うことが予想されている。因みに歩夢だが、あの開幕連敗以降調子を取り戻し、未だに2敗をキープしている。もしかしたら、開幕前よりも更に調子を上げているかもしれない。いや、もしかしたら棋力そのものが上昇しているのかもしれない。ひょっとすると、何か一つ自身の殻を破ったのかもしれない。これは、対局が益々楽しみになってきた。

 

そして、三段リーグを翌日に控えたこの日、俺と銀子ちゃん、そして桂香さんは朝からテレビの前に張り付いていた。テレビの向こうには、この家のもう一人の住人、俺たちの師匠である清滝鋼介名人が盤に駒を並べていた。今日は、名人戦の最終局、その1日目が行われる。今期の名人戦、師匠は開幕局から2連勝を飾り、順調なスタートを切っていた。しかし、その後三連敗を喫してしまい、後を失ってしまう。そして、追い込まれて迎えた前局、序盤、中盤、終盤と常に形勢不利で進んでいくも、師匠らしい泥臭い粘りで耐え、なんと最終盤で神の一手とも言うべき鬼手を放ち、大逆転で指し分けに持ち込んだのだ。あの一手は、今後も語り継がれていくかもしれない。そして迎えた最終局、再度行われた振り駒の結果、師匠は先手となった。時間となり、対局が始まる。師匠が初手に指した手は、2六歩だった。

 

「師匠が、初手2六歩……」

 

「お父さんが先手で初手に飛車先の歩を進めるなんて、最後に見たのいつだったかしら?」

 

銀子ちゃんと桂香さんが驚愕を声に出す。師匠を知る人なら、誰もが驚いて当然の初手だった。そして、この事実を言えば、師匠を知る人なら更に驚くだろう。なんと師匠、この番勝負で一局も矢倉を指していないのだ。あの、師匠の代名詞とも言うべき矢倉をだ。何故指さないのか?それは、目の前の対局相手にあった。棋界の生ける伝説。将棋の神様。彼を称える名は数知れない。その強さを称え、そのタイトルを手放していたとしても、人々は彼のことをこう呼ぶ。名人と。

 

では、何故名人相手に矢倉を指せないのか?それは、名人戦の数ヶ月前に行われたとある対局が起因する。名人の対局でも、師匠の対局でも無い。山刀伐七段の対局だ。その対局の戦型は、相矢倉となった。その対局において山刀伐七段が、なんと矢倉殺しを用いて快勝してみせたのだ。当然、完璧に使いこなしたわけではない。だが、その完成度は相当なものだった。

 

では、何故山刀伐七段が矢倉殺しを使うと矢倉を指せないのか?それは、彼の研究パートナーがあの名人だからだ。俺は前生では、山刀伐さんの情報を歩夢に聞くまでその事実を知らなかったが、どうやら棋界では割と知られていたことだったらしい。師匠も、その事実を知っていた。そして、その事実を知っている全員が同じ答えに辿り着いた。名人も、矢倉殺しの研究をしているという事実に。

 

いつから研究していたのかまではわからない。だが、その事実が全員に危険信号を送っていた。名人相手に、矢倉を指してはいけないという危険信号を。もしかしたら、一日の長はこちらにあるのかもしれない。しかし、もし仮にそうだとしても、研究しているのはあの名人と、その名人がパートナーに選ぶほどの研究家、山刀伐七段なのだ。そんな優位、簡単に覆されてしまうだろう。師匠は、だからこそ、矢倉を封じられていた。師匠には、自負があった。今の棋界で、最も矢倉殺しを指し熟せているのは自分だという自負が。しかしそれでも、師匠には自信が無かったのだ。矢倉殺しの研究を進めている名人相手に、矢倉で挑んで勝てるという自信が。例え相矢倉殺しになったとして、そうなったとしても勝てるという自信が。だからこそ、この番勝負、矢倉を封印した。いくら棋界で一番矢倉殺しを指し熟せるとは言っても、それはあくまで矢倉殺しの使用経験がある棋士と比べてのこと。一方、名人の矢倉殺しは未知数だ。指し勝てるとは師匠も思っているだろうが、断言できない。指せない。名人という存在が、矢倉を指すことを師匠に躊躇させていた。

 

「お父さんは、ここから何を指すのかしら?」

 

「この初手から考えられるのは、相掛かり、横歩取り、もしくはそう見せかけての角換わり。この中からおそらく師匠が指すとしたら……」

 

お互いの手が進み、次第に今局の戦型が顔を出し始める。相掛かりだ。それは、師匠の初手から俺が予想していた戦型だった。俺と銀子ちゃんの、得意戦法だ。相掛かり、それは力戦、乱戦に最もなりやすい戦型だ。師匠は名人相手に、定石外での勝負を挑んだのだ。

 

「でも、だったら……」

 

銀子ちゃんが呟く。銀子ちゃんの言いたいことはわかる。定石を外れた勝負を挑むなら、矢倉殺しでも良かったんじゃないかと言いたいのだ。そしてそれは、俺が思っていることでもあった。何故師匠はよりにもよってこの大事な一局に相掛かりを?その疑問は、その後もずっとわからないままだった。一日目の対局は、その後あまり進展をしないまま封じ手を迎える。お互いに、まだ探り合い段階。本格的な開戦は、明日に持ち越しとなった。この対局、どう転ぶかわからない。対局は気になるが、明日は俺も三段リーグの対局がある。師匠の心配ばかりもしていられない。とは言っても、気になって仕方ないわけだが。それに、明日大事な対局が控えているのは俺と師匠だけでは無い。余計に、気になって仕方ない。その日の俺は、重なった対局の結果がどうなるのか気になって、夜もマトモに寝られなかったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日の早朝、俺と桂香さんは、銀子ちゃんの見送りのもと、玄関で出かける準備をしていた。今日は俺は三段リーグの対局、そして桂香さんは、マイナビ女子オープンチャレンジマッチに出場する。東京に向かう桂香さんに合わせて俺もこんな早朝に準備をしているが、別に俺自身は急ぐ必要が無い。俺の対局は、関西将棋会館での対局に割り振られている。急ぐ必要は無いのだが、師匠と桂香さん、二人の対局が気になって、家でジッとはしていられなかった。家に一人残る銀子ちゃんには悪いけど、早めに関西将棋会館に向かわせてもらう。

 

「銀子ちゃん、お昼御飯は冷蔵庫に入れてあるから、温めてから食べてね」

 

「うん、桂香さん頑張って」

 

「それじゃ、銀子ちゃん、いってくるよ」

 

「うん。いってらっしゃい」

 

そして俺と桂香さんは、家を出た。これから俺たちはそれぞれの闘いに向かう。まだ早朝だというのに、外は気が重くなるような暑さを俺たちに伝えてくる。今日も……熱い一日になりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

名人戦二日目の朝。鋼介はゆったりとした足取りで対局部屋へと向かっていた。一日目終了時点では、形勢は五分。しかし、鋼介には予感があった。二日目開局と同時に、形勢が一気に動くという予感が。あの名人が封じたのだ。凡庸な手を封じたとは鋼介には思えなかった。鋼介はゆったりとした足取りで対局部屋に入ると、そのままゆったりとした動きで上座に腰を下ろした。思考の大半を対局に傾けているため、体への運動信号がゆったりとしたものになってしまっている。今の鋼介には、自分が盤の前に座ったという自覚さえ無かっただろう。昨日からずっと、鋼介の意識は盤の前から一歩たりとも動いていなかったのだから。

 

そして、鋼介に少し遅れて、名人も対局部屋へと入ってくる。その姿には、貫禄があった。その名人が、上座に座る鋼介に目を向ける。いや、目を向けたのは鋼介が座る上座に向けてだろうか。数年他者に譲っている、名人戦の上座。その上座を奪還するべく、名人は下座へと腰を下ろした。今日の対局後には、来期上座に腰を据える者が決まっている。両者にとって負けられない大一番。その再開準備が始まった。駒を初期配置に並べ終え、記録係の読み上げる棋譜通りに駒を動かしていく。そして、昨日指し進めた局面へと動かし終えた。それを確認し、立会人が、封を解く。そして、封じられた手が読み上げられた。その通りに、名人が駒を指し進めた瞬間、夥しい数の閃光が盤と名人に降り注いだ。その手を確認し、鋼介は気を引き締め直す。名人が指した手は、大方の予想通り、開戦を告げる手だったのだ。

 

対局の再開が立会人に告げられると直ぐに、鋼介は手を進めた。名人の封じ手は、鋼介の予想手、その一つだった。返す手も既に決めていた。鋼介が名人の手に応じたことによって、ここに開戦の狼煙が上がる。その後はお互いに考慮時間を十分に取り、一手一手を慎重に進めていく。開戦間もない盤面だが、既に何手か、見る者が思わず唸りたくなるような妙手が飛び出している。そして、また鋼介から妙手が一つ。しかし、一体誰が思うだろう。この鋼介が指している妙手の数々が、過去に小学生によって指された手だということを。

 

鋼介には、小学生の内弟子が二人いる。二人とも、鋼介とは違い将棋の才能に溢れた天才だった。一方はもうまもなく、史上初の小学生プロ棋士になれる可能性のある棋界の歴史上、類を見ない天才。もう一方は、これまた史上初の、女性プロ棋士を目指せると周りに感じさせる、女性棋士最高峰の天才。その二人は、家でもよく将棋を指していた。そして、二人ともが相掛かりを得意として、好んで指していた。鋼介もよく、二人の相掛かりを観察していた。その盤面では、到底小学生が指しているとは思えないほどの、高度な相掛かりが展開されていた。それこそ、思わず鋼介が唸ってしまうほどの妙手も飛び出す、ハイレベルなものだった。それこそ、プロでも通用しそうなほどの。

 

その手を、鋼介はこの対局に取り入れていたのだ。その手が最大限に活かせる局面、その局面に名人を誘導してきた。一日目は、その誘導に全ての神経を集中させていた。そして勝負の二日目、鋼介は弟子の力を借り、攻勢に出る。鋼介は、この対局勝てるという自信があった。鋼介一人の力なら、厳しい対局になっていたかもしれない。しかし、自分達親子の力が合わされば、必ずあの名人にだって打ち勝てる。そう信じて、鋼介はまた一つ手を進めた。弟子から借り受けた手を。勝負の二日目はまだ始まったばかり。今日も、長く熱い一日になりそうだ。鋼介は、盤面に神経を集中させながらも、密かにそう思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「負けました……」

 

俺の声が、静かな対局室に響き渡る。負けた。これで今日の対局、2連敗だ。師匠と桂香さんのことが気になりすぎて、対局に全く集中できなかった。散々な俺の将棋を見て、対局中にも関わらず、相手から心配するような目を向けられてしまった。恥ずかしい。まぁ、俺の事情を察してくれてる人も中にはいるみたいだが。中には、師匠が勝てるといいな、と、優しく声を掛けてくれる人もいた。自分のことで一杯一杯だろうに、本当に優しい棋士だ。そういう人の将棋人生が幸多きことを祈りたい。いざ対局をするとなったら、容赦しないけどね。

 

「遅い」

 

そして、早足に関西将棋会館を出た俺を、銀子ちゃんが出迎えてくれた。なんで?

 

「銀子ちゃん、どうしたの?」

 

「今から、師匠のところに行くわよ」

 

……はい?

 

「えっと……もう一回聞いていい?」

 

「師匠のところに行く。荷物纏めてきたから、早く行くわよ」

 

よく見ると、銀子ちゃんはカバンを二つ持っていた。その内の一つを俺に渡してくる。中身を見ると、着替え等の宿泊セットが詰め込まれていた。どうやら、向こうで一泊する気満々らしい。どんだけアグレッシブやねん。

 

「うん。わかった!行こう!」

 

まぁ、アグレッシブなのは俺も一緒か。何も、今すぐ師匠のもとに駆けつけたかったのは、銀子ちゃんだけでは無いのだ。俺だって、そうなのだ。俺は、銀子ちゃんの左手を握ると、そのまま早足で駅へと向かったのだ。目指す先はただ一つ。師匠の決戦の地、京都へ。




本当は2部構成のつもりでしたが、前編が予想以上に長くなりそうだったので分割し、3部構成に変更します。
場合によっては、4部構成になる可能性も?
まぁ、たぶん3部で終わる。
というわけで、名人戦の決着は次回です。
今話は導入部ということで、内容少し薄めですけど、ご容赦ください
次話は熱くできるようにがんばる
そして、まだ書き終わってませんが、自分は14巻読んできますね
えぇそうです。
早く読みたかったっていうのも分割した理由の一つですよ?(キッパリ
次話は14巻読み終わって、直ぐに執筆して、月曜ぐらいに投稿できたらなと思います
あくまで予定ですけど

八銀はジャスティス


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第40局 清滝一門の熱い夏2

14巻の衝撃を、姉弟子添い寝ボイスCDで中和しつつ、なんとか執筆
正直、全く立ち直れる気がしてませんが、更新は頑張って続けていきます
後、前回あとがきで今話で名人戦決着だと言ったな?あれは嘘だ(おい
合い言葉は、八銀はジャスティス


京都に着いたのは、夕方18時を少し回った頃だった。対局は、今丁度夕食休憩を迎えている。俺たちは対局関係者だけが通ることを許されている待機室へと向かおうとした。向かおうとしたのだが……

 

「あ、こらこら君たち!ここは勝手に通っちゃダメだよ!」

 

対局スタッフの方に止められてしまった。まぁ、普通はそうだよね。

 

「すいません。俺たち清滝名人の弟子なんです。通してもらえないですか?」

 

「名人のお弟子さん?そうは言ってもねぇ、そんな子来るなんて聞いてないしなぁ。事実かどうかもわからないし……」

 

事前に連絡を入れなかったのはマズかっただろうか?スタッフの方も渋って入れてもらえそうにない。

 

「いいぜ。通してやりな」

 

しかし、そこに願ってもいない助け船が入った。我らが巨匠、生石さんだ。

 

「生石さん!」

 

「生石先生、いいんですか?」

 

「この子達は十二分に関係者だよ。あんたも将棋に携わる身なら、将来有望な棋士の顔ぐらい覚えたらどうだ?今話題の、小学生プロ棋士候補の顔ぐらい」

 

「え!?この子があの!?」

 

「そういうことだ。連れてくぞ」

 

そして俺たちは、なんとか中に入れてもらうことができた。巨匠様様だ。

 

「生石さん、ありがとうございます」

 

「ありがとう」

 

「いいさ、気にするな」

 

「それで、形勢は?」

 

「今のところは神様の優勢だ。流石は神様だ。清滝さんの会心の一手に、悉く会心以上の一手で応戦してやがる。身震いするほど高レベルな対局になってるぜ」

 

生石さんに先導され、俺と銀子ちゃんは待機室へと入室した。そこには、月光九段をはじめ、多くの棋士達が集まっていた。

 

「やぁ、八一くん。そろそろ来る頃だろうと思ってたよ」

 

一人の男性棋士が俺に話しかけてくる。山刀伐七段だ。

 

「俺が来るってわかってたんですか?」

 

「当然じゃないかぁ。ボクは八一くんに夢中なんだから、八一くんのことならなんでもわかるよ。今日の対局は残念だったね。師匠のことが気がかりだったかな?妹弟子さんも大事な対局が重なってたもんね。気がかりが二つで、自分のことに集中できなかったかな?あぁ、可哀想な八一くん……」

 

なんで俺が負けたこと知ってるんだ、とかなんで桂香さんの対局まで知ってるんだ、とか色々と聞いてみたいことはあったけど、その全てをグッと飲み込む。たぶん、聞くだけ無駄だと思うから。そして俺たちが部屋に入ると程なくして、待機室のモニターに対局者の二人が映る。どうやら、休憩を終えて戻ってきたらしい。ここから対局は、終盤に突入する。休憩から戻るなり、師匠が手を進める。その手を受けて、名人が長考に入る。ここから先は、一手のミスが致命傷になりかねない。より一層慎重に手を進めていく必要がある。

 

「名人は当然ながら、清滝名人の相掛かりも見事なものだね。やっぱりお弟子さんが得意だから、その影響を受けたのかな」

 

「八一くんの相掛かりは、芸術的どすからなぁ」

 

「清滝名人は、八一くん発案の矢倉殺し、その第一人者でもあるからね。弟子の影響を受けて強くなる棋士は希にいるけど、清滝名人はそんな棋士達の中でも、飛び抜けて強くなってるかな」

 

「そんな、師匠が強くなったのは俺の影響だけでは無いですよ。確かに矢倉殺しを取り入れてるのは事実なので、全く影響していないとは言わないですけど、それでもこれは師匠が努力した(たまもの)です。師匠の実力ですよ」

 

「流石八一くん。師匠想いで素敵やわぁ」

 

「……で、さっきから供御飯先生は何をされてるのですか?」

 

山刀伐さんと対局を観戦していると、俺たちの元に万智ちゃんがやってきた。別に彼女がいることは不思議じゃ無い。一介の女流棋士だし、それにここは彼女のホームタウンである京都の地だ。そこで行われるタイトル戦となれば、見に来てもおかしくはないのだけれど、なんで毎回のことながら俺の腕を抱え込んでくるのかな?そんなことをしたらどうなるかなんて、過去の経験から俺は知っている。

 

「本当にいつもいつも……八一から離れろ!」

 

万智ちゃんに対抗して、もう片方の腕を銀子ちゃんが引っ張る。俺は来たるべき痛みに備えて、身構えた。しかし、痛みは襲ってこない。万智ちゃんがあっさりと俺のことを離したのだ。しかし、離すと同時に、銀子ちゃんが俺を引っ張るのだから、その結果待っていることなんてわかりきっている。

 

「うわぁ!?」

 

「え?ひゃぅ!?」

 

俺は見事に、銀子ちゃんと一緒に倒れ込んでしまった。それはもう、俺が銀子ちゃんを押し倒してしまったような体勢で。危なかったもう少しで銀子ちゃんのおでこにおでこをぶつけてしまうところだった。なんとかギリギリの距離で留まってよかった。

 

「……え……!?ちょ、や、やぃ……ちかっ……ぃ……!?」

 

「いてて……ごめん、銀子ちゃん、大丈夫?」

 

「は、はいぃ……」

 

銀子ちゃんの顔は段々と真っ赤になっていっている。どうしたんだろう?熱でも出てしまったのだろうか?だとしたら大変だ。今すぐ安静にさせないと。

 

「お前らは何盛ってんだ」

 

「「盛ってない!」」

 

生石さんの言葉に、反射的に二人同時に言葉を返す。そんな言葉、普通小学生に使うものじゃないと思うんだけど?

 

「二人はほんま、仲ええどすなぁ。こなた、妬いてまうわぁ」

 

「誰のせいでこうなったと思ってるんだよ!」

 

元凶の狐女子は、悪びれもせず楽しそうに微笑んでいた。

 

「おいお前ら、遊んでないで対局を見た方がいいぞ。そろそろ動きそうだ」

 

生石さんに言われ、俺たちは対局に目を向ける。すると丁度、名人が次の手を放つところだった。名人の駒が動く。その手は、師匠の急所を的確に捉える妙手だった。

 

「そんな手があったのか!」

 

「流石名人、あんな手普通考えつかないぞ!」

 

「これは、名人に返り咲いたかな」

 

口々に室内の棋士が名人の手を称え、中には名人の勝利を確信したかのような発言をする人までいる。しかし俺は、その声とは別の確信を持っていた。これは……師匠の罠だ。

 

「え!?」

 

「な、なんて返し手だよ!?」

 

「か、神の手だ……」

 

正に、神の手だった。奇跡のようなカウンター。診る者が見れば、そう呼ばずにはいられない返し手。しかし、本当に称えるべきなのは、その前、師匠が休憩開けに放った先の一手だ。誰がそんなこと思うだろうか?まさか、名人に妙手を打たせることを誘導したなんて。名人の一手は、正しく妙手と呼ぶに相応しい一手だった。しかし、それは返し手を知らなければの話だ。こんな手が存在することを知っていれば、途端に妙手が悪手になり果ててしまう。

 

どうして俺が師匠の罠に気づけたのか、そういう疑問が当然湧いてくるだろう。気づいたのでは無い。知っていたんだ。だってこの手は、以前俺が銀子ちゃんとの対局で指した手だったのだから。師匠はこの局面で、俺の研究手を利用して見せたのだ。あの、名人相手に。

 

「あの将棋って……」

 

そして、銀子ちゃんも師匠が指している将棋の正体に気付く。あれは、俺と銀子ちゃんの対局、その集合体なのだ。その集合体を、師匠が舌を巻くほど絶妙なコントロールで操っているのだ。

 

「なんや、八一くんの将棋見てるみたいやわぁ」

 

「そうかな?やっぱり、親子なんだってことじゃないかな」

 

「清滝名人とそのご一門は仲が睦まじいですからね。羨ましい限りです」

 

「月光先生も家族じゃないですか」

 

「そう言って頂けると、有り難いです」

 

「さて、おしゃべりはそこまでだ。神様が次の手を指したぜ」

 

「これは……名人が、受けに回った?」

 

銀子ちゃんの言うとおりだった。名人がここで見せたのは、受けの一手だった。先の手までは攻めに攻めていた名人が、ここで受けに転じたのだ。それほどまでに、先ほどの師匠の手が利いたということだろう。

 

「これは、形勢はどうなってるどす?」

 

「若干ながら、清滝名人が優勢に立ったかな」

 

「そうだな。先の一手までは名人が若干優勢だったが、今の一手で逆転した。しかし、まだほぼ五分だ。この終盤に来て、全く先が読めない対局だ」

 

山刀伐さんと生石さんの言う通り、僅かながらに師匠が優勢としている。そして、名人が受けに回ったことによって、師匠の反撃が始まる。

 

「清滝名人が攻めの手を打ったぞ!」

 

「攻守逆転か!」

 

観戦棋士達も、その師匠の手に、思わず熱く拳を握りしめてしまっている。ここまでずっと受けに回っていた師匠が、攻めに転じたのだ。しかも、神の手とも言うべき一手を起点にして攻めに転じたのだ。熱い展開に、思わず観戦にも熱が入る。

 

「あら?八一くん?銀子ちゃん?」

 

そして、丁度師匠が攻めの手を放ったタイミングだった。待機室に桂香さんが入ってきたのは。どうやら、東京から直接京都までやってきたようだ。

 

「桂香さん!あの、どうだった?」

 

「それが……」

 

桂香さんは、そう前置いて、下を向いてしまう。その反応で、俺は結果を察した。銀子ちゃんもだろう。おもわずがっくりと項垂(うなだ)れてしまっている。

 

「勝てちゃった……」

 

だからこそ俺たちは、桂香さんが結果を告げたとき、聞き間違えたのかと思ってしまったのだ。

 

「えっと、ごめん桂香さん、もう一回聞いていい?」

 

「だから、勝てちゃったの!全勝よ!一斉予選に進めたの!」

 

「反応がどう見ても負けた反応だったんだけど?慰めの言葉考えてたんだけど?」

 

「だって、私も勝てたのが信じられなくて!私、本当に勝てたの?」

 

「聞きたいのはこっちだよ……」

 

確かに桂香さんが言いたいこともわかるけど。マイナビ女子オープンのチャレンジマッチは過酷な争いだ。数多の参加者の中から一斉予選に残れるのはほんの一握り。そんな闘いを、桂香さんは勝ち抜いたのだ。自分でも信じられなくて当然と言えば当然だ。だけど、ここから先は更に過酷な闘いが待っている。一斉予選。女流の強豪も多数出てくる。しかし、そこを切り抜ければ女流棋士への道も見えてくる。夢が、見えてきているのだ。

 

「八一くんと銀子ちゃんはどうしてここに?」

 

「師匠がどうしても気になって」

 

「京都は近かったし、八一を拾ってきた」

 

「拾ったって、俺のこと出待ちしてたのは銀子ちゃんだろ?一人で行くのが寂しかったんじゃないの?」

 

「はあ?寂しくないし。八一が一人置いて行かれたら可哀想だと思って連れてきてあげたの」

 

「はいはい。そういうことにしといてあげるよ」

 

「むっ、その反応むかつくんだけど」

 

「はいはい。痴話喧嘩しないで」

 

「「してない!」」

 

桂香さんの言葉に二人揃って反論する。痴話は余計です。

 

「おいお前ら。そんなことしてる場合じゃ無いぞ」

 

「清滝名人が寄せに入るつもりみたいだ。終局が近いかもしれないね」

 

生石さんと山刀伐さんに言われ、モニターに目を向ける。盤面はいつの間にか師匠の優勢度が上がり、勝勢と言っても差し支えない状況になっていた。後は寄せるだけ。師匠の勝利が近い。

 

「決まったな。今期も名人の座は清滝さんの物だ」

 

「強い。得意の矢倉を封印しても、名人相手に番勝負で勝ちきるなんて」

 

周りからは、師匠の勝利を確信するかのような声が上がっている。生石さんや山刀伐さんまでもが師匠の勝利を確信している。それほどまでに、揺るぎようの無い盤面だった。師匠が勝つのは時間の問題。この部屋にいる誰もがそう確信していた。

 

「……はたして本当に、このまま終わるのでしょうか?」

 

ただ一人を除いて。その声を発したのは月光さんだった。月光さんは、神妙な表情で、何か考えごとをしているようだった。

 

「月光さん、何か気がかりでも?」

 

「どうにも、この対局に違和感がありまして。私には、この対局がこのまま終わるようには思えないのです」

 

「……この対局の棋譜ってありますか?」

 

俺は、月光さんが言う違和感を確認するために、棋譜を見てみることにした。棋譜用紙に目を通していると、生石さんと山刀伐さん、そして銀子ちゃんが後ろから覗き込んできた。一枚の用紙を皆で見るのは流石に厳しかったので、俺たちは実際に盤を使い、棋譜並べをしていくことにした。

 

「これは……」

 

「確かに、何かがおかしい」

 

「あぁ。だが、何がおかしいんだ。違和感は確かにあるが、どこがおかしいのかイマイチわかんねぇ。何が、おかしいんだ?」

 

「……指すまでの時間が早くなってる?」

 

その発言をしたのは銀子ちゃんだった。皆が銀子ちゃんに顔を向けると、銀子ちゃんは棋譜用紙を眺めていた。その用紙には、一手あたりの使用時間までもが詳細に記入されていた。銀子ちゃんに棋譜用紙を見せてもらうと、月光先生の感じた違和感の正体が見えてくる。

 

「……これは、どういうことだ?」

 

「わからない。だけど、普通では無いということだけはわかる」

 

徐々に使用時間が短くなっていく対局。持ち時間が短くなってきている現状、それも当然だと思うかもしれない。だけど、持ち時間は互いに五分として、これを言えば誰もが違和感を覚えるのでは無いだろうか?一手あたりの使用時間が短くなっているのは、圧されている名人だけだという現実を言えば。

 

「……最期に長考と言える長考をしたのは受けに回る一手を指した時か」

 

「そうだね。その後は、段々と使用時間が短くなっていってるようだ」

 

「しかも、この手は……」

 

「あぁ。……全て、最善手から外れてやがる」

 

「まるで、勝利では無い何かを一直線に目指してるような……」

 

段々と、名人の手からは迷いが無くなっていっている。対して、師匠は迷いながら、時間を使いながら手を進めていっている。二人の様子を見ると、どちらが優勢に進めているのかわからなくなる。そして、その名人の様子を見て、俺たちにはある一つの答えが浮かんでいた。

 

「これは……名人が清滝さんの手を誘導しているのか?」

 

そうだ。師匠は、ここまで名人の指し手を誘導することによって自分が有利に展開できる局面に持ってきた。しかし今度は逆に、名人が師匠を誘導し始めたのだ。

 

「せやけど、一体終着点はどこでおざる?」

 

「わからない。一体この先に何が待っているのか。おそらく、現時点では名人にしかわからないだろうね」

 

「……私達は静かに見守るしかないですね。終着点の正体、そしてその結果何が待っているのかを」

 

月光さんのその言葉を最後に、全員がモニターを静観する。その時が来るのをただ静かに待つ。そしてついに、その時は訪れた。名人が、遂にその終着点、最後の一手を放った。その指す手は……震えていた。

 

「……な!?嘘……だろ……!?」

 

「……これは、驚きました。まさか……こんな変化が待っているとは……」

 

「……神の所業としか言い様がないね。まさか、あの受けに回った一手からずっと、この変化を目指していたなんて……」

 

生石さんが、月光さんが、山刀伐さんが、トップ棋士達が次々と驚愕を言葉に乗せる。名人が披露した御技は、それだけ常軌を逸していたのだ。俺もその終着点を目にして、思わず身震いしてしまう。

 

「……八一くん。これは、何が起こってるでおざる?清滝さんは手が止まってはるし、こなたにはまだ名人の手がイマイチ理解できないどす……」

 

「……千日手よ」

 

万智ちゃんの問いに、俺の変わりに銀子ちゃんが答える。そう、千日手だ。このまま師匠が名人の手に応えれば、千日手が成立するのだ。

 

「せ、千日手?清滝さんは、回避できないでおざる?」

 

「回避できる手はいくつかある。でもそれこそが名人の罠よ」

 

「うん。その手全てが悉く、師匠が自身の優勢を手放す手になっている」

 

千日手を回避すれば、それは師匠の負けに直結しかねない。それほどまでに、回避するのは危険な行為だった。千日手を選ぶ方が、まだマシに思えてくる地獄の選択。しかし、千日手を選んだ先も、地獄なのには変わらない。

 

「千日手を選べば指し直し局となる。指し直しになれば、先手後手が入れ替わり、更に持ち時間は現在の持ち時間となる。だけど今回は、師匠の持ち時間が1時間を切ってるから、師匠の持ち時間が1時間になるように持ち時間を増やして、足されたのと同じ時間を名人にも足すことになる。名人は、有利な先手を獲得できるうえに、持ち時間は名人が受けに回って以降大幅な差が開いている。あの手以降名人は、極端に使用時間が減ったのだから」

 

「ま、まさか名人さんはそこまで考慮して……?」

 

「うん。きっと全部が全部、名人の計画通りに対局が進んでいる。本当に……怖いぐらいの御技だよ……」

 

前生でも幾度となく見て、実際に相対もした名人の奇跡。人々は畏怖を込めて、その奇跡をこう呼んだ。マジック(魔術)と。俺も、プロになれば、目標を達成しようとするならば、必ず味わうことになるだろう。今の俺は、あの人に勝てるのか?怖い。あの人の将棋が、怖い。恐怖に、自然と手が震える。そんな震える俺の右手を、温かい何かが包み込んでくれた。

 

「八一……」

 

銀子ちゃんだ。銀子ちゃんの手が、俺の右手を包み込んでくれた。気が安らぐような、温かい手が。その温かさが、俺に安心をもたらしてくれる。しばらく銀子ちゃんに手を握ってもらっていると、右手の震えは治まっていた。

 

「おっと、清滝さんが決断したみたいだぜ」

 

生石さんの言葉に反応し、モニターに目をやる。そこに映し出されていた師匠の手は、名人の誘いに応じる手だった。

 

「決まったね。名人戦最終局は……指し直しだ」

 

モニターには、師匠の姿が映っている。悔しそうに歯を食いしばる師匠の姿が。指し直し局は、嫌でも不利な対局を強いられることになる。師匠ははたして、勝利を手繰り寄せることができるのか?勝利の女神はどちらに微笑むのか?その答えは、今は誰にもわからない。




またも予想以上に文字数が長くなったので分割
文字数管理ガバガバ作者です
次回指し直し局、そして決着です
師匠の活躍にご期待下さい


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第41局 清滝一門の熱い夏3

名人を名人戦挑戦者とすると、名人と名人が対局することになってややこしいですね
わかりにくかったり、違和感あったら申し訳無い
……そもそも名人が名人保持してない時、原作キャラは棋界の名前を言ってはいけないあの人のこと、なんて呼んでるんですかね?
本作では、その偉業を称えて名人保持してなくても、皆名人と呼んでいる、といった設定でやっていきます
合い言葉は、八銀はジャスティス


「「師匠!」」

 

俺と銀子ちゃん、そして桂香さんの三人は、千日手による指し直しが決まった瞬間、待機室を飛び出し、師匠の元へと向かった。指し直し局は、今から30分後に行われる。二日間の超激闘を繰り広げた後の再戦。師匠もきっと、疲労で今はグッタリしているのでは無いだろうか?そう思いつつ、師匠の部屋に飛び込む。そして俺たちが最初に見た師匠の姿は、悔しそうに拳を握りしめ、歯を噛みしめている姿だった。

 

「……銀子、八一、桂香、皆来とったんか」

 

「師匠が心配で、つい……」

 

「そうか。折角来てもうたのに、みっともない将棋見せてもうたな」

 

「そんな!みっともなくなんて……」

 

「みっともないやろ!」

 

その師匠の叫びに、俺たち3人は、思わず一歩後ずさってしまう。それは、師匠の怒りがもたらした叫びだった。そしてその怒りの対象は、おそらく俺たちでも名人でもない。師匠自身なのだろう。

 

「ワシは、ワシは今の対局勝っとったんや……そのつもりやったのに……結果はこの様や!引き分け、しかもワシが不利な状況での指し直し!ワシが下手な手指したばかりに、こんな結果に……」

 

決して、師匠は下手な手を指したわけではない。むしろ、考えられる最善の手をずっと指していたのだ。しかしそれこそが、名人の仕込んだ罠だった。身震いするほどの、高度な罠だった。仕掛ける名人も凄いが、しかしこの罠は、かかった師匠も凄いのだ。

 

「師匠は、ずっと最善手を指していましたよ」

 

「最善手を指そうが、罠にかかってもうたのは変わらんやろ!最善手どころか、大悪手やないかい!」

 

「そんなことはないです。そもそも、この罠を名人が仕掛けたのは、名人が師匠の実力を高く評価しているからです」

 

「……名人が、ワシを?」

 

「この罠は、名人の手に対して、常に最善手で応えることによって、やっと相手がかかる罠なんです。逆に言うと、最善手以外を相手が指してしまうと、効果は無くなり、名人の敗勢になっていたでしょう。名人は、師匠なら絶対に最善手で応えてくれると考えたから、この罠を仕掛けたんです。仕掛ける名人もですが、これは罠にかかった師匠も凄いんですよ」

 

「そう。師匠は凄い。もっと自信を持っていい」

 

「私もそう思うわ。お父さんは私達にとって、自慢の師匠よ」

 

「師匠、俺たちは信じてます。師匠なら絶対に、名人位を防衛できるって。……俺たちまだ、名人の弟子でいたいですよ」

 

「銀子、八一、桂香……」

 

俺たちの声を受けて、荒れていた師匠は少し落ち着きを取り戻したようだ。そう、師匠は凄いのだ。あの名人の期待に見事に応えて、この指し直し局まで辿り着いて見せた。そして何より、名人が千日手に師匠を誘導したという事実が、師匠の凄さを物語っている。名人は、より確実な勝利を手にするために千日手という選択を取ったと考えている人達が大半だろうが、それは大きな誤りだ。名人は、この選択肢に喜んで進んだわけではない。この選択肢に、逃げたのだ。このまま正面から指しても勝てないと見て、逃げたのだ。神の手は、逃げの一手だったのだ。

 

俺たちの言葉を受けた師匠の眼には、熱い炎が戻っていた。先ほどまでの師匠は、その炎が消えかけていたのだ。まさに風前の灯火という様相だった。しかし今は、その炎が、思わず側にいる俺たちを焦がしてしまいそうな程に燃えさかっている。熱い、闘志の炎が。

 

「皆、おおきにな。お陰で眼が覚めたわ。この対局、まだ終わったわけやあらへん。むしろこっからが本番なんや。ワシは絶対に……勝つで!」

 

その師匠の決意が聞けて、俺たちは安心した。この様子なら、師匠は大丈夫だ。問題無い。師匠ならきっと、また名人の座を防衛してくれる。そう信じて、俺たちは部屋を後にした。もう時間だ。指し直し局が始まる。俺たちは待機室で見届けよう。師匠の勇姿を。

 

俺たちは待機室に戻り、モニターに目を向ける。対局室には、既に名人が座して待っていた。まだ駒も並んでいない盤面をジッと見つめている。今の名人が、何を考えているのかは誰にもわからない。もしかしたら、既に脳内で終局までの対局図を描いているのかもしれない。そんな芸当誰にもできるわけがないと思っていても、あの人ならできるのかもしれない、そう思わせてしまうのが、名人の凄さだ。

 

そして、名人に遅れて師匠も対局室に姿を現した。威風堂々とした佇まいは、正しく名人位保持者として相応しい物。静かに座して待っていた挑戦者の前に、同じように静かに腰を下ろした。そして、これまた静かに、二人とも対局の準備を進めていく。二人の放つ気に圧されてか、対局室に集っている報道陣までもが静かに二人の姿を見守っていた。対局室からは、駒を並べていく、駒音だけが聞こえてくる。そして、二人とも駒を並べ終えると、対局室には静寂が訪れた。静かに、立会人の言葉を待つ。

 

「それでは、挑戦者の先手番で始めてください」

 

そして、遂に開局を告げる言葉が放たれる。この対局を見守っている全ての眼が、名人の手に注がれる。盤上に奇跡を描くその右手は、一体この局でどのような将棋を見せてくれるのか?注目を一身に受けながら、名人は静かに初手を指した。その初手は、7六歩。角道を開ける手だ。その手に向けて、カメラの放つ閃光が注がれる。その閃光を気にもとめず、師匠は名人が駒から手を離したのを確認すると、直ぐさま自分の手を進めた。師匠の持ち時間は1時間しかないのだ。少しの時間も無駄にはしたくない。そんな師匠が指した手は、3四歩。名人と同じく、角道を開ける手だった。

 

「それでは、報道陣の皆さんは退室してください」

 

立会人の声に従い、報道陣が名残惜しそうに部屋を出ていく。全員退室するのを待っているのか、名人は中々次の手を指そうとしない。

 

「さて、戦型はどうなるかな?」

 

「お互いに角道を開ける初手。居飛車同士の対局なら、角換わりか、横歩か」

 

「たぶん、そのどちらかでしょうね。これまでの番勝負を振り返ると、名人は初手の場合、横歩を二回、角換わりを一回採用しています。全て、初手に角道を開けて、師匠が飛車先の歩を突くことで応じています。師匠が角道を開けて応えたのはこの番勝負で初めて。可能性が高いのは角換わりでしょうか?」

 

その場にいる誰もが、戦型はその二択で間違いないだろうと結論を出していた。これまでの番勝負を振り返ってみても、その二択以外はありえない。誰しもがそう考えていた。だからこそ、誰もが次に名人が指す一手を予想できなかった。名人が選んだ、戦型を。

 

「え!?」

 

迷い無く指された名人の次なる一手を見て、誰かが思わず声を上げる。それは、当然の行為だ。俺に至っては、驚きのあまり声も出なかった。名人が指した手が、予想外すぎて差し間違えたかと疑ってしまったほどだ。名人が指した手。それは……

 

「ろ、6六歩……?」

 

6六歩。つまり、角道を再度塞ぐ手だ。この手から考えられる、名人が指したい戦型は、横歩でも角換わりでもない。この番勝負中、ずっと師匠が封印してきた自身の得意戦法……矢倉だ。名人は、師匠相手に矢倉で挑むと言っているのだ。この戦型を選んだ名人の意図が理解できない。まさか、これは師匠に対する……

 

「挑発?」

 

銀子ちゃんが言う。それは、俺が考えていた名人の意図と合致していた。師匠は、名人のこの手を受けて、大きく分けて二つの選択肢を選べる。相矢倉に持ち込むか。自分は矢倉を組まず進めるか。前者の場合、ほぼ間違いなくその後相矢倉殺しへと移行することだろう。そうなれば、あの名人相手に真っ向から力勝負を挑まなければいけなくなる。しかも、時間的にも手番的にも師匠が不利な展開でだ。その展開は避けたい。だけど、間違いなく師匠はその選択を取るだろう。何故なら、後者は逃げの選択なのだから。師匠の性格から見て、相手から逃げるような、そんな選択はしないだろう。師匠のプライドが、その選択を許さない。

 

「挑発、か。名人は、そんなこと全く考えてないだろうね」

 

山刀伐さんが言う。名人の研究パートナーである彼には、名人の選択に何か思うところがあったのだろう。

 

「名人は、相手の得意戦法から逃げない。なるほど。この番勝負中、名人が初手7六歩に拘っていたのは、この展開を待っていたからか。相矢倉に持っていける、この展開を」

 

モニターの向こうの師匠は、俯いていてその表情を見ることはできない。師匠は名人の手を受けて、どう感じているのだろうか?それは、今は師匠にしかわからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

鋼介は、静かに怒っていた。名人の指し手に、挑発する意図が無いことは鋼介とてわかっている。しかしそれでも、怒らずにはいられなかった。目の前で、どこか楽しそうに鋼介が指すのを待っている目の前の男を見ていると、怒らずにはいられなかった。周りの人間は、この男のことを名人と呼ぶ。名人を保持していない今でもだ。周りの連中はわかっているのだろうか?今は誰が名人なのかを。それをこの対局で、教えてやろうではないか。

 

「ワシは、ワシがなぁ、名人なんやぁ!」

 

鋼介は力強く次の手を指した。実のところ、鋼介は名人が手を進めた時点で、次に自分が指す手は決めていた。ただ、自分の心を落ち着かせるのに時間を少しばかりかけてしまった。この、堰き止めることも不可能な激流の如く溢れてくる怒りを落ち着かせるのに。とは言え、決して怒りが落ち着いたわけではない。鋼介は、怒りと共にこの対局に勝つと決めたのだ。最強の座を欲しいがままにしているこの男に、相矢倉殺しで。

 

「ええわ。そっちがその気なら、付きおうたるわ。ワシも、この戦型を指したいとずっと思っとったんや。指したくても指せへんかった鬱憤、この対局で晴らしたるわ!」

 

名人が指した次の一手に、迷い無く鋼介が早指しで応じる。この対局は、それからお互いに止まることなく突き進んでいった。そして、そう時間を要することも無く、とある戦型へと辿り着く。相矢倉へと。辿り着くと、名人は一つ小考を挟んだ。ここは、ゴールでは無い。スタートラインなのだ。ここからが、本番。この日まで重ねてきた研究を、盤上に描いていく。相手は、この研究成果を披露するのに最高の指し手。この将棋の第一人者だ。名人は今この時、ただの挑戦者でしかなかった。肩書き的にも、将棋的にも。有利な状況を手放してまで、盤上で研究成果を語り合いたい。この将棋を更に飛躍させたい。タイトル戦に出ている以上、勿論タイトルは欲しい。しかしそれ以上に彼は、棋士としての更なる高みを欲していた。だからこそ彼は、迷うこと無く茨の道へとその足を踏み入れる。

 

名人が手を進めていた。その手は、この対局を見守る全ての棋士が予想した通りの手だった。矢倉殺し。名人がその手を指すのは、この対局が初めてのことだった。相手は、この戦法をプロ棋界で最初に指し、今となっては、この戦法の第一人者とも呼ばれるまでに至ったスペシャリスト。そして、この戦法で現名人にまで上り詰めた、不屈の男。清滝鋼介名人。その現名人が、名人の指した手に即座に応える。その手も、この対局を見守る全ての棋士が予想した通りの手だった。相矢倉殺し。ここに、この対局の戦型が姿を現した。それから名人は、慎重に一手一手を進めていく。早指しが得意な彼だが、実戦でこの戦型を指すのは初めてなのだ。一手一手間違いが無いように、慎重に進めていく。対して、現名人は、徹底して早指しを心掛けていた。持ち時間に余裕が一切無いのだ。少しも、時間を無駄にしている余裕は無い。この戦型に対する経験というアドバンテージを遺憾なく発揮し、早指しに徹していた。公式戦は勿論のこと、八一への指導対局も含めると、鋼介の相矢倉殺しに対する経験値は、既に数千局。初めて公式戦で矢倉殺しを指した、相矢倉殺しを指したあの日から三年。たった三年でそれだけの数を熟してきたのだ。経験は時に才能をも凌駕する。才能(ちから)に恵まれた神に、泥まみれになって手に入れた経験(ぶき)を手にして、凡人が対峙する。

 

対局はその後も、互いに攻め合う展開が続く。相矢倉殺しは、守勢に回った方が負ける。攻めて攻めて、相手よりも最短手数で王に剣を突きつけた方が勝つ将棋だ。受けは最低限且つ、相手の攻めを遅らせるように指し、攻めに比重を置く。少しのミスが致命傷に繋がりかねない極限のチキンレース、それが相矢倉殺しだ。鋼介は、極度の緊張感から湧き出てくる冷や汗を拭いつつ、全神経を盤上へと向ける。当然のことながら、相矢倉殺しは先に仕掛ける先手の方が有利。後手番な上に、時間に余裕も無い鋼介は、名人が犯すほんの些細なミスも瞬時に見つけなければいけない。ほんの些細な気の緩みも許されない対局の中で、鋼介は静かにその時を待ち続けた。来るのかもわからない、その時を。静かに進行していく対局。一向にその時は訪れない。このままだといずれ、名人の剣が先に鋼介の王を捉えてしまう。対局は既に終盤。既にお互いの矢倉は見るも無惨な惨状になっている。ほんの僅かな残兵と、駒台から飛び出す援軍で時間を稼ぎつつ、お互いの王に向けて突き進んでいる。このまま決着の時を迎えるのか?誰もがそう思い始めていた。このまま、名人が鋼介の王に剣を突き立てるのかと。しかし鋼介は、最後まで決して諦めていなかった。最善に最善を尽くして、名人に必死に食らいついていく。最後のその時まで、決して諦めない。自分が負けを認めるのは、詰みがかかった瞬間なのだと、最後まで諦めない。そして、その想いが届いたのか、遂にその瞬間はやってきた。

 

名人が指した次なる一手。決して、何もおかしい手では無い。それどころか、思わず唸りたくなるほどの妙手だった。的確に、鋼介の急所を抉るかのような一手。対局者には知る由も無いが、この手を見て待機室に集った棋士の多くは、口々に賞賛の言葉を述べていた。これで、この対局は決したと豪語する棋士もいたほどだ。それほどまでに、名人の指した手は素晴らしい一手だった。だがこの手を見て、鋼介だけは異なる見解を示していた。それは正しく、この戦型に対して豊富な経験を積んできた鋼介だからこそ気づけた名人の隙だった。確かに一見すると素晴らしい一手だ。しかし、鋼介はこの手を見てこう感じていた。名人が、攻め急いだと。ここで鋼介は、この対局において初めての長考に入った。次の手がこの対局の勝敗を左右する。重要な一手だ。残りの持ち時間全てを使い切ってもいい。次の一手を考える。いや、正確には次の一手自体は既に決まっている。今鋼介が思考しているのは、そこから先、勝利までの道筋だ。勝てる。この時鋼介は、自身の勝利を確信していた。

 

「清滝名人。時間切れとなりましたので、これより一分将棋でお願いします」

 

記録係のその指示に、頷くことで了解の意を示す。その意識は、盤上から離れることは無い。記録係の秒読みが始まる。鋼介は、一分をたっぷり使い、残り50秒を切ったところで次手を放った。それは、受けの一手だった。しかし、ただ受けているだけでは無い。これは、謂わば助走だ。勝利というゴールへ向けた助走。相手の攻めを受けつつ、ゴールへ向けての勢いを付ける手。名人も直ぐさま、その手が持つ真意に気付く。待機室に集った棋士も、名人に遅れてその手の真意に気付き、思わず身震いする棋士まで現れるほどだった。棋士達の多くは、その手に恐怖したのだ。この極限の状態で、名人の放った妙手に対して、このような返し手を放てる清滝鋼介という棋士に恐怖したのだ。

 

名人は小考の後、受けの選択を取った。鋼介のように攻めに転じるための受けでは無い。純粋なる受け。それは、名人が自身の劣勢を認めたに他ならない。その手を受けて、鋼介は一気に攻めかかる。自身が描いた勝利への道筋そのままに手を進めていく。攻める鋼介。受ける名人。誰の目から見ても、どちらが優勢かは一目瞭然だった。これで勝敗は決した。この対局を見守る全ての人々はそう思っていた。鋼介でさえも。鋼介は手を緩めること無く、名人玉に攻めかかっていく。そして、遂に名人を追い詰める、渾身の一手を放った。まだ詰めろもかかっていない。しかし、それでも十分な一手だった。ここで、名人が長考に入る。ここで投了してもおかしくないような状況。しかし、名人は投了せずに長考に入った。長く、深く考える。やがて、記録係が時間切れを伝え、一分将棋に入ってからも考える。長く、長く考えて、そして遂に、名人が手を動かした。静かに駒を掴み、移動させる。駒を掴むその右手は……震えていた。

 

「……な!?」

 

鋼介が思わず声を出す。名人が放った手に、驚愕する。名人が放った手、それは受けの一手だった。しかし、先ほどまでのように純粋に受けるためだけに指された手ではない。これは、助走だ。鋼介と同じように、名人も攻めに向けた助走を行ったのだ。それはまるで、リレーのような対局だった。対局相手であるはずの鋼介からバトンを受け取り、今度は名人がゴールへと向けて直走(ひたはし)る。攻守交代だ。お見事としか言いようのない、これ以上の無い逆転手だった。だが、まだ対局が終わったわけではない。鋼介は、必死になって名人に食らいついていった。しかし、時間が無い。一分将棋では、流石に食らいつくにも限界があった。

 

「攻め急いでもうたんは、ワシも同じやったか」

 

後悔の言葉を口にする鋼介。対局は既に、勝敗を決し、形作りへと入っていた。一手一手を指し進めながら、鋼介は今局の反省を脳内で行っていた。あそこをあぁしておけば、ここはこう指しておけば。あぁ、あの手を指す前に戻して欲しい。しかし、棋士に待ったは許されない。無情にも、対局は着実に一手一手進んでいく。

 

「参りました」

 

そして、鋼介が投了を告げたことにより、対局は幕を閉じた。こうして、夜明け近くにまで続いた激闘の末に、新たな名人が決まった。その後感想戦を終えると鋼介は、名残惜しそうに上座から立ち上がったのだった。またいつか必ず、この座を取り戻すと誓って。

 

 

 

 

 

 

 

 

「師匠!」

 

感想戦を終えて、対局室から出てきた師匠を、俺たち弟子三人は出迎えた。本当に、名人戦の名にふさわしい、レベルの高い名局だった。だけど、師匠は負けてしまった。あと一歩の所で、勝利の女神は師匠から離れていってしまった。

 

「おぉ、銀子、八一、桂香。こんな時間まで起きとってくれたんか。すまんな。ワシ、負けてもうたわ。今日からは名人やなくて、ただの九段や。お前らも、名人の弟子やなくて、九段の弟子になってもうたわ。本当にすまん」

 

「そんなことどうでもいいわよ」

 

「うん。どうでもいい」

 

「だって俺たち名人とか九段とか関係無く、清滝鋼介の弟子なんですから!」

 

「お前達……おおきにな。ほんま、おおきに。せやけど、ワシもこのまま退くつもりはないで。後、三回名人にならんなあかんからな」

 

後三回名人になる。その意味がわからない俺たちじゃ無い。師匠はつまり、棋界の高みに名を刻むと言っているのだ。

 

「銀子、八一、桂香、ワシはな」

 

そして師匠は俺たちに、こう言ったのだった。夢見る少年のような無邪気な笑顔で、こう言ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「永世名人になりたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




投稿が遅くなってしまい本当に申し訳ございません
三月が年度末ということもあり、単純に仕事が忙しかったというのもありますが、一番の理由は別にあったりします
某競走馬擬人化ゲームにドハマリしてしまいました(白眼
もう、執筆時間や諸々犠牲にして育成に力入れてましたよ
お陰様で、因子厳選にある程度区切りをつけれたので、執筆再開です
次は、もっと早く投稿できるようにがんばります!
とはいえ、最近某狩猟ゲームもやってるわけですが(白眼
ま、まぁ完結まで頑張りますので、今後ともよろしくお願いします!


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第42局 清滝一門の熱い夏4

大変長らくお待たせしました
ツイッターでは報告したのですが、仕事の影響で、投稿が大幅に遅れてしまいました
仕事の方も、なんとか落ち着いてきたので、今日から投稿を再開いたします
今後も、完結まで頑張って投稿してまいりますので、よろしければお付き合いください
合い言葉は、八銀はジャスティス


八月上旬のとある朝。

その日俺は、東京へ向かう新幹線に乗っていた。

 

「7六歩」

 

「8四歩」

 

「6八銀」

 

「8五歩」

 

「7七銀」

 

いつものように銀子ちゃんと目隠し将棋をしながら移動する。東京へ向かう理由は当然、将棋のためだ。とは言っても、今日の主役は俺じゃない。今日の主役はなんと言ってもこの人だ。

 

「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」

 

今まさに、緊張のあまりまるで某汎用人型決戦兵器のパイロットのようになってしまっている俺と銀子ちゃんの妹弟子、桂香さんだ。今日は東京で、マイナビ女子オープンの一斉予選が行われる。チャレンジャー予選を無事勝ち抜いた桂香さんは、この一斉予選へと駒を進めていた。そして、今日生き残ることができたならば、本戦トーナメントへの出場が決定する。そして、本戦トーナメントで初戦を突破することができたならば、晴れて桂香さんは女流棋士になることができる。このマイナビ女子オープンは、女流棋士になるための近道でもあるのだ。まぁ、難易度は研修会よりも格段に高いけど。

 

「桂香さん、そろそろ駅に着くよ。早く覚悟を決めないと」

 

「だ、だけど、一斉予選にまで残れたのだって初めてなのよ……?も、もしかしたら……これが最初で最後のチャンスかもしれないって考えると……余計に緊張しちゃって……」

 

桂香さんは、女流棋士になると決心した頃から、毎年このマイナビ女子オープンには挑戦していた。今年で三度目の挑戦。そして三度目でたどり着いた、夢への扉。正確にはその扉へ続く階段と言ったところだろうか。そして、今日を生き残れば、その夢の扉に手がかかる。その扉が見えてしまってるが故に、桂香さんは必要以上に緊張してしまっているのだ。だけど、その夢の扉を開けるためには、とにかく将棋で勝つしかない。だというのに、ここまで緊張してしまっていると、勝てる将棋も勝てないだろう。どうしたものか。

 

「銀子ちゃん、どうしよう?」

 

「わ、私に言われても……」

 

今朝からずっと、幾度となく桂香さんの緊張をほぐそうと試みてはいる。しかし、未だに結果には結びついていない。銀子ちゃんと二人、あぁでもない、こーでもないと頭を悩ませる。今の俺たちは、難解な詰め将棋を解いてる時よりも悩んでる自信がある。

 

「本当に、どうしようかなぁ……」

 

「ここは、こなたに任せるでおざるよ」

 

「え?」

 

どうしようかと銀子ちゃんと二人途方に暮れていた時だった。座席に座った俺たちの奥、通路から声がかけられた。聞き覚えのある京言葉。そして、その声の主である彼女が、更にこちらに近づいたかと思うと、彼女のその両手が、通路側の席に座っていた桂香さんへと近づいていく。段々、段々と近づいていき、そして……

 

「えい♡」

 

ボヨン

 

その両手が、桂香さんの象徴である二つのお山を鷲づかみにした。……って、何やってんの!?

 

「あれまぁ、桂香サン、また大きくなったんとちゃいます?この張りといい形といい、きっと世の殿方が群がるどすなぁ」

 

「……え?え?え?……うひゃぁ!?」

 

桂香さんの絶叫が車内に木霊する。乗客の視線が、桂香さんと、この事態を起こした張本人、万智ちゃんに集まる。それでも、万智ちゃんは構わず、桂香さんの象徴を鷲づかんだ手を動かし、揉みしだきはじめた。

 

「ふむふむ、揉みごたえもええどすなぁ。ご立派やわぁ」

 

「ひゃ……あん……そ、そこは……ダメぇ……」

 

そして、次第に桂香さんの口から艶めかしい声が出始める。ちょ、ちょっと万智ちゃん!?なんて羨ましい……じゃない、けしからんことを!

 

「ちょ、ちょっと万智ちゃん!?何やってるの!?そんなこと万智ちゃんにさせられないよ!ここは俺が代わりにやるから……ふぎゅ!?」

 

万智ちゃんを止めようとした俺を、背後から銀子ちゃんが止める。銀子ちゃんは両腕を器用に使い、俺の両耳、そして両目をふさいでくる。その姿はまるで、後ろから俺の頭を抱きしめているかのようだった。

 

「あの、銀子ちゃん、何も見えないし聞こえないんだけど?」

 

「見なくていいし聞かなくていい」

 

銀子ちゃんが言う言葉は、耳を塞がれているのではっきりとは聞き取れなかった。だけど、こんな超絶レアな桂香さんの姿と声を拝める機会は、今後二度とあるとは思えない。ここは目と耳にしっかりと焼き付けておきたいというのに、それを銀子ちゃんが許してくれそうにない。なんとか振りほどこうともがくけど、体勢が不利な俺は、全く銀子ちゃんを振りほどけない。せめて、あの桂香さんの象徴が万智ちゃんの手によって歪められる様だけでも拝みたいというのに、全く拝めそうにない。仕方なく、本当に仕方なく諦めて、俺は銀子ちゃんに背を預ける。銀子ちゃんの胸が、俺の背中に当たる。何の感触も無い。桂香さんのあのお山様と比べると、天と地の差、正に月とすっぽんだ。年齢的に当然とも言えるが、俺は知っている。幾ら年齢を重ねても、銀子ちゃんの胸は無に等しかった……って痛い痛い痛い痛い!?頭が思いっきり締め付けられてる!?

 

「ぎ、銀子ちゃん痛い!本当に痛いから!締まってる!締まってるぅ!思考力が弱くなっちゃうよ!?」

 

「ぶちころすぞわれ」

 

その銀子ちゃんの声は、耳をふさがれているというのに何故かよく聞こえた。聞き慣れたフレーズ。桂香さんの象徴があのお山様ならば、銀子ちゃんの象徴はこのフレーズなのかもしれない。新幹線は、もうすぐ東京に着く。その東京に着くまでの車内で俺たちは、ずっとこの調子で騒いでいた。結局俺は駅に着くまで銀子ちゃんに開放してもらえず、ずっと頭を締め付けられたまま、痛みを訴えながら、残り短い旅路を過ごすのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぅ……」

 

その後俺たちは、無事会場までたどり着くことが出来た。できたのだが、あれからずっと桂香さんがこの調子だ。涙を流しながら歩く姿は、とても弱々しかった。

 

「うぅ、もうお嫁にいけない……」

 

「だったら、俺がお嫁さんにもらって痛い痛い痛い痛い!?」

 

そんなことを言ったら、銀子ちゃんに足の甲を思いっきり踏みつけられたうえに、グリグリされた。めちゃくちゃ痛いんだけど!?

 

「銀子ちゃん、凄く痛いんだけど!?」

 

「あん?」

 

「いえ、なんでもありません」

 

銀子ちゃんに文句を言ったら、凄い目で睨まれて、つい引き下がってしまった。こ、怖すぎる……

 

「せやけど、その様子やと緊張はほぐれたどすな」

 

「確かにほぐれたけど、その代償に大事なものを失った気がするわ……」

 

まぁ、あんあ大勢の前であんな姿を晒してしまったらそう感じるのも当然だろう。一緒に乗り合わせた男の人は皆、席を立つとき前屈みになっていた。どうしてそんな体制になっていたのかは、察してあげてほしい。

 

「けど、確かに緊張はほぐれたわ。これなら、少しは良い将棋指せるかも。それじゃ二人とも、行ってくるわね」

 

「うん!頑張ってきてね!」

 

「桂香さんなら大丈夫だよ。自信を持って、指してきて」

 

そして桂香さんは、自身の対局場所へと向かっていった。その後ろ姿は、正にいつも通りの桂香さんだった。緊張についてはもう全く心配しなくても良さそうだ。

 

「それで、万智ちゃんはなんでいるの?」

 

万智ちゃんは今日の一斉予選には参加していない。別に、マイナビ女子オープンに自体参加していないわけではない。マイナビ女子オープンは、昨期の本戦トーナメントベスト4以上、もしくはタイトル戦出場者に、本戦トーナメントへのシード権が与えられる。万智ちゃんは、昨期挑決まで勝ち進んでいるため、本戦へのシード権が与えられている。つまり、万智ちゃんの出番は今日からではなく、この次の本戦トーナメントからなのだ。だから今日はここに来る必要は無いはずなんだけど、なんでいるんだろう?

 

「今日は只の敵情視察どす。特に深い意味は無いでおざるよ。ただ、一つ心配事はあるどすが……」

 

「心配事?」

 

「それは直にわかるどす」

 

そう言ったきり、万智ちゃんは心配事の内容を教えてはくれなかった。万智ちゃんの言う心配事は気になるけど、今は桂香さんだ。もうまもなく、桂香さんの初戦が始まる。桂香さんは、組み合わせの結果今日2回勝てば本戦トーナメントに勝ち残れる組み合わせとなった。初戦の相手は、女流初段の女流棋士となった。いきなり女流棋士が相手と、かなり厳しいスタートとなってしまった。桂香さんは後手だ。対局が始まると、相手はまず角道を開けてきた。それを見て、桂香さんも角道を開け返す。

 

「万智ちゃん、桂香さんの対局相手について知ってる?」

 

「あのお方は確か、居飛車党でおざるよ。得意にしてる戦型は、矢倉か雁木。攻めよりも受けの方が得意なお方やったはずどす」

 

「居飛車党か」

 

女性棋士は、割合として振り飛車党の方が多い。居飛車を指して、尚且つ矢倉や雁木を好む女性棋士というのは珍しい。だが珍しいだけで、いないわけではない。現に、ここにもう一人。

 

「この形は……相矢倉だ!」

 

「清滝桂香って、もしかしてあの清滝九段の娘さんか?」

 

「だとしたら、元名人直伝の矢倉じゃないか!」

 

周りの観客が次々と声を上げる。そう。桂香さんも矢倉を好んで指す女性の一人なのだ。

 

「おい清滝先生の娘さんで、相手が矢倉となると……もしかしたら……」

 

「出るのか!?伝家の宝刀矢倉殺し!?」

 

その周りの声に反応してしまったのか、桂香さんの対局相手の表情が引き攣り、そして青ざめる。心なしか、手も少し震えているように見える。囲いは完成し、そろそろ開戦かといったところで、相手は少考に入る。そして程なくして、次の一手を指した。

 

「え?」

 

そう最初に声を零したのは、桂香さんだった。その桂香さんの声を聞いて、対局相手は自分が指してしまった手の意味を理解したのだろう。只でさえ青ざめていた顔が、余計に青ざめ、青を通り越して白になってしまっている。周りの観客も、段々と事態に気づき、ざわめいていく。俺や銀子ちゃん、それに万智ちゃんも、驚愕のあまり声すら出ない。対局相手の手は、真夏だというのに、まるで防寒具を着ずに南極にいるかの如く、震えている。そして、その手と同じく震えた声で、彼女はこう告げた。

 

「ま、負けました……」

 

彼女が最後に指した手。それは悪手ではなかった。大悪手でもない。彼女が最後に指した手、それは銀を真下に動かすという手だった。確かにそうすれば、囲いは更に堅くなる局面だった。例え矢倉殺しが飛んできても、簡単には崩されない手だった。指せればの話だが。この会場に態々足を運んでいる将棋通なら誰もが知っている。銀は、真下に動かすことができないということは。つまり彼女が放った一手は、悪手でも大悪手でもなく、反則手だったのだ。その手を指してしまった瞬間、彼女の敗北は決定してしまったのだった。まだ序盤にしての、初戦反則負け。その手を指してしまった彼女は、盤面を見つめて、ピクリとも動かない。顔は未だに青ざめたままだ。そしてやがて、盤面に雨が降り始めた。彼女の瞳から零れる雨が、盤面を静かにぬらしていく。その後彼女は、足をもつれさせながらも立ち上がり、駆け足で去っていった。その背中を追いかける人はいない。敗者にかける言葉なんて、誰も持ち合わせてはいない。それがありえないような反則による結果なのだとしたら、余計にかける言葉なんて見つからない。後は、彼女自身の問題でしかない。

 

「あの人、怯えてた」

 

「そうどすなぁ。桂香サンの後ろに清滝先生の姿を見てしもうたんやろなぁ。可愛そうに。矢倉殺しに怯えて、自分の将棋を指せなかったでおざるな」

 

銀子ちゃんと万智ちゃんの言うとおりだ。今の対局中彼女は、矢倉殺しという言葉が外野から聞こえたとき、明らかに様子がおかしかった。もし、桂香さんが矢倉殺しを指してきたら、というのを意識しすぎてしまったのだ。

 

「それで、ほんまに桂香サンは、矢倉殺しが指せるんどす?」

 

そう、万智ちゃんが尋ねてくる。その質問に対して、俺は……

 

「さぁ?どうだろうね?」

 

はぐらかすことにした。

 

「えー、教えてくれてもええどすやろ?」

 

「教えるわけないでしょ。本戦で対局するかもしれないんだから」

 

はぐらかした理由は、銀子ちゃんが説明してくれた。その通りだ。桂香さんが本戦まで勝ち進めば、万智ちゃんと当たる可能性は十分にある。敵に情報を教えるわけにはいかない。とは言え、万智ちゃんが矢倉を指すとは思っていない。だけど、棋界というのは意外と狭い。ここで万智ちゃんに言うことによって、どこに情報が漏れるかわからない。桂香さんを応援してる身としては、少しでも桂香さんの将棋に関する情報は、秘匿したいのだ。

 

「それはつまり、桂香サンが本戦に勝ち残れると思うてるということでおざる?」

 

「当たり前でしょ?桂香さんは勝つよ」

 

「八一クンもそう思うてるどす?」

 

「さぁ?どうだろうね?」

 

なんてことを言ったら、また銀子ちゃんに足の甲を踏みつけられた。本当に痛いです。俺、もう自分の足で歩けない体になってしまうかもしれません。それはともかく、別に今の俺は、はぐらかしたわけではない。本当にわからなかったのだ。桂香さんが勝ち残れる可能性は十分あるだろうとは思ってる。だけど、次の相手は強敵だ。先ほどのように、簡単にいく相手ではないだろう。万智ちゃんもどうやら、次の相手には流石に勝てないと思っているようだ。だけど万智ちゃんは、研修会で一時期一緒だった頃の桂香さんの将棋しか知らないはずだ。確かにあの頃の桂香さんだったら勝てなかっただろう。だけど今の桂香さんは、あの頃とは全く違う。そのことを、今から桂香さんには証明してほしい。

 

「皆、おまたせ」

 

そうやって皆で話していると、桂香さんがやってくる。これから昼休憩を挟んで最終戦だ。桂香さんにはゆっくり休んでもらって、次の一局に全力を注げるようにしてもらおう。これで女流棋士まで後2勝。また桂香さんは、夢への階段を一段上がったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

昼休憩が明け、運命の最終戦の時間がやってくる。盤の前には、既に桂香さんが座っている。先ほどから目をつぶり、頻りに深呼吸をしている。新幹線で緊張は吹き飛ばしてきたとはいえ、流石に最終局前。また少し緊張が戻ってきているらしい。だけど、様子を見る限りじゃ対局に支障はなさそうだ。

 

「アンタか。クズの妹弟子ってのは」

 

そして桂香さんが緊張をほぐそうとしていると、対局者が姿を現した。俺たちのよく知っている顔だ。前生からの腐れ縁と言ってもいい。月夜見坂燎()()()()()。燎ちゃんは、去年銀子ちゃんと同じタイミングで、奨励会入会試験を受け、そして見事に合格してみせた。6級で奨励会に入会した彼女だが、しかし、あれからほぼ一年経った今でもまだ6級に甘んじている。それどころか……

 

「お燎、次の例会次第では7級に降級するどす。前回の例会後はえらい荒れはってなぁ。こなたも朝方まで愚痴吐かれながらネット対局に付き合わされたでおざるよ。こなたが今日来た最大の理由は、お燎の様子を見るためどす」

 

そう。燎ちゃんは今、降級の危機にある。燎ちゃんがこのマイナビ女子オープンに参加したのだって、奨励会での鬱憤晴らしのためだ。奨励会では苦戦している燎ちゃんだけど、流石は未来の女流タイトル保持者。女流棋士の中では、無双モードに入っていた。

 

「お燎はチャレンジャー予選からここまで、一度の王手もかけられず、一方的な将棋で勝ち残ってきたどす。桂香サンには悪いどすが、今のお燎がアマ棋士に遅れを取るとは思えんなぁ」

 

万智ちゃんの言うことも尤もだ。だけど、それでも、俺は桂香さんならなんとかしてくれると信じてる。

 

「桂香さん……」

 

そしてそれは銀子ちゃんも同じだ。銀子ちゃんも、目の前で両手を組み、まるで祈るかのように桂香さんんのことを見守っていた。俺たちは信じている。桂香さんなら、この逆境を乗り越えて、燎ちゃんに勝ってくれると。

 

「さて、んじゃさっさと初めてさっさと終わらそうぜ」

 

そして対局が始まった。先手は桂香さんだ。桂香さんがまずは角道を開ける。燎ちゃんは飛車先の歩を突いていった。それを見て桂香さんは、6八銀と指す。更に燎ちゃんが飛車先の歩を突き進め、桂香さんが7七銀と銀を進めた。

 

「これは……矢倉どすな」

 

そう。矢倉だ。清滝一門お得意の矢倉だ。将棋の純文学とも称される戦型。この矢倉で、桂香さんは燎ちゃんとの対局に挑む。

 

「チッ、囲われたら面倒だな。完成させる前に一気に終わらせてやるよ!」

 

その宣言通り、燎ちゃんが序盤から攻勢に出る。しかし桂香さんは落ち着いていた。冷静に、燎ちゃんの手を一手一手対応し、自身の囲いを固めていく。そしてある程度矢倉が完成したところで、桂香さんが指した手に、会場内がほんの少しだけざわつく。その手は、9八香だ。

 

「矢倉穴熊?」

 

会場内の誰かが口にする。そう、桂香さんが指した9八香が意味するところは、それしかないだろう。矢倉穴熊。名前通り、矢倉と穴熊を合体させたような囲いの名称だ。当然のように堅い。桂香さんは、その後も、燎ちゃんの攻撃を受け止めつつ、囲いをより強固にしていく。強固な穴熊だ。これは流石の燎ちゃんも攻略に苦しむだろう。その証拠に、燎ちゃんの表情が引き攣っている。目の前の固い壁に嫌気がさしていることだろう。

 

「……あの穴熊、ただの穴熊と違うどすな?」

 

そう、万智ちゃんが尋ねてくる。流石穴熊使いの万智ちゃんだ。まだ、完成したわけではないのに、もう気づいてしまうとは思わなかった。

 

「さて?どうだろうね?」

 

「教えてくれへんの?八一クン意地悪やわぁ」

 

「だから、態々本戦で対局するかもしれない相手に桂香さんの手の内教えるわけないでしょ」

 

銀子ちゃんの言う通りだ。俺たちは桂香さんの味方だ。万智ちゃんには悪いけど、桂香さんの手の内を万智ちゃんに教えるわけにはいかない。そしてその後も、桂香さんはゆっくりと、慎重に囲いを組んでいく。そして、その囲いは完成した。

 

「なんだ、これ……」

 

燎ちゃんがそう呟く。隣で万智ちゃんは、その盤面をジッと見つめている。桂香さんが盤面に描いたのは穴熊囲いだ。だが、ただの穴熊囲いとは違う。俺は前生において、穴熊対策の研究を推し進めていたのは、以前にも説明したことがあるだろう。その研究の末、穴熊殺しを生み出したことも。それと同時に俺は、より強固な穴熊の研究も行っていたのだ。穴熊殺しも通じず、蟻の侵入すら許さないような無敵の穴熊の研究を。その研究の末に生み出したのが、この穴熊だ。前生では、九頭竜穴熊と呼ばれていた。俺が生み出した、最固の穴熊だ。たぶんこれが一番固いと思います。

 

「グッ!?固ぇ……!?」

 

燎ちゃんも、その固さに驚く。女流棋士には、比較的に振り飛車党が多い。穴熊と言えば、振り飛車の天敵だ。だからこそ、強固な穴熊を組めれば、対局を有利に進めることができる。だからこそ、桂香さんにこの囲いを伝授した。だけど、どんなに強固な囲いを形成しても、実力が伴わなければ勝てるとは限らない。

 

「しゃらくせぇ!」

 

「ッ!?」

 

囲いを形成して、攻勢に出ようとした桂香さんの隙を見逃さず、燎ちゃんの駒が桂香さんの穴熊に罅を入れていく。流石は、前生において攻める大天使の異名で呼ばれた燎ちゃんだ。こと攻め将棋においては、女流棋界でもトップクラスだ。その攻撃力が、桂香さんの穴熊に牙をむく。しかし、桂香さんも負けじと攻め返す。攻めに比重を置いた燎ちゃんと、受けに比重をおいた桂香さんの攻め合い。互角の攻め合い。果たして、先に相手玉に食らいついたのは……燎ちゃんだった。

 

「一気に行くぜ!」

 

燎ちゃんの怒濤の攻撃が、桂香さんに襲いかかる。桂香さんは、必死にそれを躱し、受ける。燎ちゃんの猛攻は止まらない。強固だったはずの穴熊は、既にボロボロになっている。桂香さんは、ミスをおかしたのだ。今はまだ、攻め合いに応じるべきではなかった。受けに集中するべきだったのだ。攻めに応じるタイミングを見誤ってしまったがために、ここまで追い詰められている。しかし、まだ負けている訳ではない。ここからの逆転だって十分可能だ。桂香さんは、必死に燎ちゃんの猛攻を耐えていた。堪え忍んで、反撃の機会を伺っていた。そして、その時は来た。

 

「桂香さん……!」

 

銀子ちゃんが祈るように両手を強く握り、目をつぶっている。燎ちゃんが指した手は、王手になっていなかった。まだ詰めろでもない。今は正に反撃の機会だ。桂香さんのこれからの一手で、この対局が決まると言っても過言ではない。桂香さんが、ここで長考に入る。とは言っても、持ち時間の少ない対局だ。そこまで、深く読むことはできない。しばらくして、桂香さんは自身の持ち駒を一枚手に取った。銀だ。銀将の駒を手に取り、それを盤上に打ち付けた。桂香さんが指した手は……8八銀打。

 

「なにぃ!?」

 

その手に、思わず燎ちゃんが叫び声をあげる。会場内もざわつき、万智ちゃんも驚愕を露わにしている。

 

「よし!」

 

しかし、銀子ちゃんはその手を見て、喜んでいた。それは、俺も同じだ。思わず、ガッツポーズをしてしまう。桂香さんが指した手は、自陣に銀を打ち付けるという、受けの一手だった。だが今は、それが正解だった。今、また無理して攻勢に出ていたら、今度こそ桂香さんは攻め負けていただろう。今は落ち着いて、自陣の玉を安定させる方が大事だ。

 

「銀子ちゃんの祈りが通じたのかな」

 

銀子ちゃんはずっと、桂香さんが受けに回るように祈っていた。その想いが、もしかしたら桂香さんに届いたのかもしれない。だけど、銀子ちゃんはそれを否定する。

 

「ううん。全部……桂香さんの実力だよ」

 

そして桂香さんは、立て続けに受けの手を打つ。9八香、8九桂と打つ。玉を囲むように、銀、香桂と連続で駒を打ち付けたのだ。

 

「か、固ぇ!?」

 

「また穴熊かよ!?」

 

周囲がざわつく。そう、桂香さんは今、簡易的な穴熊を形成したのだ。その囲いに、またも燎ちゃんの表情が歪む。折角穴熊を攻略したと思ったら、また穴熊が姿を現したのだ。目の前の盤面に嫌気がさすだろう。

 

「なんとも、粘り強い将棋でおざるな。これは、まるで……」

 

「鋼鉄流」

 

万智ちゃんの言葉を、銀子ちゃんが引き継ぐ。そう。これはまるで鋼鉄流だ。俺たちの師匠、清滝鋼介九段の棋風だ。棋風とは、人に教えられて身につくようなものではない。その人が、産まれながらに持っている個性によるところが大きい。現に俺や銀子ちゃんも、師匠に将棋を教わってきたが、その棋風は師匠とは全く異なる。しかしどうやら、桂香さんの棋風は師匠に近しいようだ。流石は親子と言ったところだろうか。似ていないようで、その根本はしっかりと似ている。この二人は本当の意味で、親子なんだなと実感した。

 

それからの桂香さんは、簡易穴熊を軸に、燎ちゃんの猛攻を耐え忍んでいく。見てるこっちがハラハラするほどの一方的な将棋。しかし、一方的に攻めてるはずの燎ちゃんの方が、表情は苦しそうだ。桂香さんの受けが固い。どうやら、ここにきて桂香さんの眠っていた棋風が開花したのかもしれない。粘り強く、只管に粘り強く、耐えている。奥歯を噛みしめて、必死に耐えている。桂香さんの玉は、未だに簡易穴熊に囲まれて安定していた。

 

「桂香さん……」

 

銀子ちゃんは、未だに桂香さんの勝利を祈っていた。正に姉の勝利を信じて祈る妹だ。棋界では、銀子ちゃんが姉だけど。だけど本当に、二人は仲が良い。血は繋がっていないのに、まるで本当の姉妹のように仲が良い。いや、もしかしたら血が繋がっていないからこそ仲が良いのかもしれないが。

 

「……穴熊って、銀子ちゃんと桂香さんみたいだよね」

 

「え?」

 

「ほら、玉の周りを桂香(けいきょう)、そして銀が囲ってるでしょ?まるで、桂香さんと銀子ちゃんみたいに引っ付いて仲が良いな、って思って」

 

「……じゃあ、桂香さんと私に守られてる玉は八一?」

 

玉が俺か。それはそれで嬉しいし、アリかもしれない。だけど、きっと俺ではないのだろう。俺よりももっと相応しいものを、きっとあの玉は意味している。そう、きっとあの玉は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「二人の絆じゃないかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして対局は終わりへと近づいていく。必死に攻める燎ちゃん、それを冷静に受け止める桂香さん。そして次第に、燎ちゃんの攻めが弱火になっていく。攻め駒が足りなくなってきたのだ。今の燎ちゃんにはもう、堅固な桂香さんの囲いを突き破る力は残っていなかった。そして、燎ちゃんの攻めが途切れる。そのチャンスを、今度こそ桂香さんは逃さなかった。一気に燎ちゃんに攻めかかる。燎ちゃんの最低限の囲いを直ぐさま貫き、燎ちゃんの玉へと手を伸ばした。そして、手が届いた。王手だ。燎ちゃんが、この大会で受けた初めての王手だった。そして、最後の王手だった。

 

「負け……ました……」

 

燎ちゃんの投了宣言。それも仕方ない。攻め手を無くし、桂香さんの持ち駒は潤沢。ここからどう粘ろうとも、桂香さん玉に手が届くことはもう無かっただろう。詰むのも時間の問題だ。これにて、勝敗は決した。未だに簡易穴熊に囲まれた(きずな)。正に、銀子ちゃんと桂香さんの絆の勝利と言えるだろう。

 

「やった!桂香さんが勝った!やったよ八一!」

 

「うん!完璧な……本当に完璧な桂香さんの勝ちだ!」

 

喜び飛びついてくる銀子ちゃんを受け止める。二人で桂香さんの勝利を喜び合った。

 

「まさか、ほんまにお燎が負けるやなんて……」

 

万智ちゃんも驚き、呆然としている。だが、その視線は桂香さんを強く見つめている。油断ならない強敵として、桂香さんのことを認めたようだ。盤の前で未だに座る桂香さんは、溢れ出す涙を手で抑えようとしているが、抑えきれずに手の隙間から雫がこぼれ落ちている。それにつられて、俺と銀子ちゃんも涙を流していた。これで、夢まであと1勝。桂香さんは、夢の扉の前に立ったのだ。後は、その扉をこじ開けるだけ。桂香さんならきっと開けることができる。そう俺は信じていた。桂香さんの美しい涙を眺めながら、そう信じていた。しかし、勝者がいる一方で、当然敗者もいる。

 

「ちくしょう……なんで、なんでなんだよ……お前らの家系はなんでどいつもこいつもよ……ちくしょう……」

 

燎ちゃんは、そう呟きながら、弱々しい足取りで立ち去っていった。万智ちゃんが、そんな燎ちゃんの後を追おうか迷っていたが、どうやら追わないことに決めたらしい。それが正解だろう。敗者に情けは不要。情けをかけられると、余計に惨めに感じるだけだ。今は、できるだけ一人にしてあげる方がいいだろう。余談だが、燎ちゃんはその後、次の例会にて奨励会7級への降級が決まった。それと同時に、奨励会を退会し、女流棋士へと転向することを決めた。彼女には今生でも、女流棋士として是非とも大成して欲しいと思う。そしてもちろん、桂香さんにも。俺は、未だに涙を流し続ける桂香さんを見ながら、静かにそう願うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

全ての対局が終わると、本戦トーナメントの抽選会が行われた。大事な大事な抽選だ。夢の扉を守る番人を決める抽選。果たして、どのような結果が待っているのか?

 

「次は見事アマチュアから本戦へと勝ち進んだ清滝桂香さん!どうぞ前へ!」

 

「は、はい……」

 

司会の人に呼ばれて、桂香さんがひな壇を降りて前へ進む。その動きも表情も硬くぎこちない。相当緊張しているようだ。あぁ、右手と右足が同時に前に出てるよ……

そして桂香さんは、勝ち進んだ感想を述べて、運命のクジを引く。果たして、結果は?

 

「出ました!清滝桂香さん、一回戦の相手は……供御飯万智女流初段!」

 

そのクジ結果が出た瞬間、俺の隣から、不気味な気配が膨れあがった。殺気とでも呼ぶべきだろうか?不適な笑みを浮かべる万智ちゃんは、(まばた)きもせずに桂香さんのことを見つめていた。その視線は、強く鋭い。

 

「お手柔らかにお願いするどす……桂香サン」

 

その呟きは、決して壇上の桂香さんには聞こえなかっただろう。しかし、桂香さんも万智ちゃんから何かを感じ取ったのだろう。同じように、強く鋭い視線で万智ちゃんのことを見つめ返していた。夢の扉に手をかけた桂香さんと、夢の扉を守護する最後の番人万智ちゃんの対局は、既に始まっていたのだった。

 

こうして、師匠に続き、桂香さんの熱い夏が幕を閉じた。この熱戦は、秋まで持ち越されることになる。夢への挑戦、この続きは、もう少しだけ先のお話だ。そして、清滝一門の熱い夏はまだ終わらない。もう一人……

 

 

 

 

 

 

 

「ま、負けました……」

 

関西将棋会館の対局室に、少年の投了宣言が響き渡る。この日この場所では、奨励会入会試験、その最終試験が行われていた。今投了宣言を行ったのは、現奨励会員。そして、その奨励会員の前でホッと息を吐いている銀髪の少女が、新しい奨励会員だ。

 

「銀子ちゃんおめでとう!」

 

俺は思わず、銀子ちゃんを抱きしめる。銀子ちゃんも、満更でも無さそうに俺のことを抱きしめ返してくれる。

 

「ありがとう、八一」

 

「今日はお祝いしなきゃね!」

 

「ん。九頭竜君。お祝いするのはいいですが、今はまだ対局中です。静かに退室するように」

 

そう久留野さんに言われ、周りを見渡してみる。周りで対局中の奨励会員や受験生から、もの凄く睨まれていた。つい嬉しくて、周りを気にせず部屋に飛び込んじゃったけど、当然今日対局を行っているのは、銀子ちゃんだけじゃない。

 

「は、はいぃ、すいませんでした……」

 

俺は肩身狭く、部屋から早足で出ていく。とんでもなく恥ずかしかった。穴があったら飛び降りたい。何はともあれ、これで銀子ちゃんも晴れて奨励会入りを果たした。皆頑張ったんだ。次は俺の番だ。こうして、清滝一門の熱い夏は幕を閉じ、また、俺の闘いへと繋がっていくのだった。




本当に長らくお待たせして申し訳ない
GWも返上して社畜してました(白目
これも全部人事が悪い
ただ、ようやくそれも落ち着いてきたので、これからは今度こそ投稿ペース上げれそうです
最低でも週一ペースで投稿したいな
とりあえず、遅くとも八月中には三段リーグ編終わらせたいですね
八月は八一生誕祭特別編も投稿したいし、忙しい夏になりそうだ(白目
これからもがんばって投稿していきますので、お付き合いいただけるとありがたいです
よろしくお願いします!
八銀はジャスティス


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第43局 未来のタイトル保持者

ほら、今回は早い(当作比
今回は原作キャラのあの人が初登場!
原作で、八一と対局する日はやってくるんですかね?
そもそも、今後原作に絡んでくるので(ry
合い言葉は、八銀はジャスティス


銀子ちゃんの奨励会入会試験から数日後、三段リーグの開催日がやってきた。

三段リーグも大詰め、残り二日間計4局となっている。この終盤だというのに、昇段レースは混迷を極めていた。現在、1敗勢が一人、2敗勢が俺と歩夢を含めて4人という大混戦だ。そして俺の残り4局では、その上位勢4人全員と対局することになる。まるで狙っていたかのような対局日程。夢を叶えたければ、自力でなんとかしてみせろと言われているかのようだ。手始めに今日の2局は、午前の対局が2敗勢と、そして午後から唯一の1敗勢と対局することになる。上位勢5人。この内昇段ができるのは2人、最高でも3人。ここからは、1敗が昇段を左右することになる。誰が相手でも、負ける訳にはいかない。

 

「やぁ、今日はよろしく」

 

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

そして俺の目の前には、本日1局目の対局者がいる。知っている相手だ。と言っても、今生での面識は無い。イケメンだ。思わずリア充爆発しろと言いたくなるようなイケメンだ。名前は篠窪大志。現在17歳。前生では、22歳という若さでタイトル保持者にまで上り詰めた実力者だ。そのイケメン具合から王太子の愛称で親しまれ、更には慶應大学を主席で卒業するという、天はこいつに何物与えてるんだ?と言いたくなるようなチートキャラだ。創作物で主人公ができそうだ。ズバリ、タイトルは『きていのおしごと!』とかどうだろう?これは流行りそうだ。誰か作ってもいいですよ?

 

とまぁ、そんなことはさておき、対局だ。篠窪さんは、前生では居飛車党だった。おそらく、今生でもその点は変わらないだろう。ただ俺は、この人がプロになってからの将棋しか知らない。奨励会時代の将棋は知らないのだ。果たして、プロ入り後に比べて、変わっているのか?この人が好む戦法は、奨励会員なら忌避しそうな戦法だった。今日は俺が先手だ。後手番なら、この人が指す戦法はいつも決まっていた。はたして指してくるのだろうか?俺は、少し警戒しつつも、初手で2六歩と、飛車先の歩を突いた。対して篠窪さんは、3四歩と角道を開けてくる。それに合わせて、俺も7六歩と角道を開ける。すると今度は、8四歩と、篠窪さんは飛車先の歩を進めてきた。なるほど。どうやら篠窪さんが使う戦法は、奨励会時代も変わらないらしい。

 

相居飛車には、5大戦法と呼ばれる戦法がある。相掛かり、矢倉、角換わり、一手損角換わり、そしてもう一つだ。人によっては、角換わりと一手損角換わりを一纏めにして4大戦法と呼んだり、その上で矢倉を相矢倉と急戦矢倉に分割して5大戦法と定義したりもするが、今はそれは割愛する。そして、この5大戦法の内、相掛かり、角換わり、矢倉に関しては、先手が戦法を決め、後手が応じることにより成立する。だが、一手損角換わりは当然ながら、残りもう一つの戦法も、後手から戦法を決定することができる。その残りもう一つこそが、篠窪さんの得意戦法だ。

 

お互いに飛車先の歩をもう一つ進め、角横に金を上げる。そして、俺は2四歩と歩をぶつけた。当然篠窪さんは同歩と指してくる。そしてこれまた当然、俺は同飛とする。そして篠窪さんも、同じように8六歩、同歩、同飛と指す。そして、俺の今から差す手、これがこの戦法への入り口だ。その手は、3四歩。角道を開けるために相手が上げた、飛車の横にある歩を取る手だ。横歩取り。相居飛車5大戦法最後の一つだ。篠窪さんは前生で、先手なら角換わりか横歩取り、後手なら必ず横歩取りを指す人だった。どうやらそれは今生でも、奨励会時代でも変わらないらしい。さぁ、横歩取りの入り口には入った。ここからが、横歩取りの本番だ。次に篠窪さんが指す一手、これがいきなり大きな変化となる。最もポピュラーなのは3三角とし、飛車と角をピッタリ引っ付ける3三角型空中戦法だ。他にも、桂馬を跳ねさせる、3三桂馬型なんてものもある。これは、力戦になりやすい変化だ。研究家としても有名な篠窪さんは、避けるだろうか?何で来るか俺が身構えてると、篠窪さんが少考の末に手を進める。

 

「な!?」

 

その手に、俺は思わず驚愕してしまった。篠窪さんが指した手は、4二玉。最も駒がぶつかりやすい相手飛車に態々玉を近づけるという一手だった。俺はその手を見た瞬間、数秒思考が停止してしまった。いや、その変化事態は知っている。知っているのだ。だが、ありえない。今篠窪さんが指すなんて、ありえない。そんな戸惑いを持ちながら、俺はとりあえず、これからの激戦に備えて、自陣玉を動かした。居玉のまま本格的に開戦するのは、避けたかった。そして、次に相手が指した手は、7六飛。俺と同じように、横歩を取る手だった。あぁ、やっぱりか。やっぱりそう指すのか。俺は思わず、目の前の異質な戦法に、冷や汗を流してしまいそうになる。

 

篠窪さんが用いた戦法、その名は4二玉型相横歩取りだ。前生では、使用率はそこまで高くないものの、確かに用いている棋士はいた。前生では。今生においては、未だに使用者はいない。それも当然だ。何故なら、この戦法が棋界で初めて指されるのは、今から()()()()()のことなのだから。つまり、まだ先の未来において、ソフト研究が進んだ先にようやく生まれた戦法なのだ。それを、今の時代に指す棋士がいる。正に、棋界におけるオーパーツだ。俺には、未来の知識がある。だから知っているが、篠窪さんがこの戦法を知っているのはおかしい。まさか……

 

「しの……」

 

思わず、篠窪さん、あなたも二度目の人生を歩んでるんですか?と聞きそうになって、踏みとどまる。篠窪さんが、なんだい?とでも言いたそうに見てくるが、なんでもないと言う意味を込めて、首を振って応える。そんなことを聞いて、もし違ったら、俺は頭がおかしい奴認定を受けてしまうだろう。気になるのは間違いない。だが今は、対局の方が大事だ。聞きたいことは、終わってから聞けばいい。とにかく、目の前の将棋に集中しなければ。俺は意識を切り替え、相手の角を手に取る。別に取り間違えたわけではない。今から取る駒だから、駒台に移すために手に取っただけだ。そしてその角が置かれていた位置に、自身の角をひっくり返して置く。2二角成。角交換だ。篠窪さんは、ノータイムで同銀と返してくる。ここでの選択肢は実質一択なのだから当然だ。これで、篠窪さんの陣形は、飛車と向かい合って銀、金、玉が横一列に並ぶ形となった。それに対して、俺は7七桂馬と跳ねて、相手飛車に対する壁を作る。これで俺の陣には、相手飛車、桂馬、金、銀が縦一列に無間隔で並ぶ陣容となった。更にはお互いに角も握りあい、序盤から激しすぎる展開となっていた。

 

これが横歩取りだ。横歩取りは、5大戦法の中でも最も激しい将棋になることが多い戦法だ。中盤をすっ飛ばしていきなり終盤に突入するなんてことも、珍しくない。だからこそ、負けない将棋を好んで指す奨励会員からは、避けられて当然の戦法だ。だがそれでも、篠窪さんはこの戦法を好んで使っている。よっぽど自信があるのだろうか?現に、篠窪さんの戦績はここまで2敗。かなりの好成績を残している。昇段争いに食い込むほどの好成績を、この横歩取りを主戦法にして残しているのだ。とは言っても、横歩取りは相手が同意しない限りは成立しない。この三段リーグでも、きっと避けられて、めったに指せていないのではないだろうか?それでも、この戦績を維持しているということは、横歩取りに頼り切りというわけではなく、持っている棋力そのものが高いことの証明となるだろう。そんな彼が、自身の得意戦法である横歩取りを指して襲いかかってくる。横歩取りに同意したのは俺とはいえ、恐ろしすぎる状況に冷や汗が出る。

 

篠窪さんが次の手を指した。銀を上げて、飛車とぶつけてくる。俺は、飛車を逃がすしかないわけだけど、ここで二通りの変化が生まれる。五筋に下げるか、六筋に下げるか。五筋は平和なルートだ。何の心配もなく、次の組み立てを考慮することができる。だけど、次の手をただ相手に回すだけの、受け身な一手だ。篠窪さん相手にその手はまずい。そう俺の勘が告げていた。だからこそ俺は、ハイリスクハイリターンな、六筋に飛車を逃がした。

 

「ッ!?」

 

篠窪さんが驚き、目を見開く。そして、手が止まる。六筋には、同じ平行線上に、向きの異なる飛車が二枚並んでいた。俺の指した手は単純明快な一手だ。相手への飛車交換の催促。俺の陣容は、決して飛車の打ち込みに強くはない。弱いわけでもないが、強くもない。そしてそれは、篠窪さんの陣容も同様だった。だからこそ、篠窪さんは迷う。篠窪さんにだって、飛車交換を拒否する選択肢はもちろんある。だがそれは、俺にただ手番を回すだけの、受け身の一手。受け身だが、リスクは少ない。篠窪さんは今、大きな二択に迫られていた。ローリスクローリターンか、ハイリスクハイリターンか。長考の末に、篠窪さんが出した答えは……………………後者だった。

 

俺は直ぐさま同歩と返す。これで、お互い駒台に、角と飛車を置くこととなった。恐ろしい状況だ。お互いに二丁の拳銃を腰にぶら下げて、射程距離で睨み合ってるような状況。先に銃を抜くのはどちらか?ここからは、隙を与えることが即、死に繋がる。それからは互いに慎重に駒を進めていく時間が続いた。一手指すごとに、冷や汗が吹き出る。夏真っ盛りな8月だと言うのに、寒気を憶える。駒を持つ手が、思わず震えてしまう。しかしそれは、篠窪さんも同じだった。篠窪さんの差す手が震え、その手に、冷たい汗が滴り落ちる。きっと、篠窪さんの顔は、汗まみれになっていることだろう。きっと、俺の顔も。俺は、そんな汗に塗れたイケメンの顔を一目見てやろうと、ずっと盤面に向けていた顔を上げた。少し顔を上げると、篠窪さんの口元が視界に入る。その口元は……弧を描いていた。更に顔を上げれば、篠窪さんの顔を拝むことができた。確かにその顔は、イケメンが台無しになるほどに、汗にまみれていた。だが確かに、それでも確かにその顔は……笑みを浮かべていた。楽しそうに、笑みを浮かべていた。そして、俺と目が合うと、俺の顔が視界に入ると、篠窪さんは更に笑みを深めた。なんで深めたかは、言われなくてもわかる。自分の同類を見つけたから。自身と同じように笑みを浮かべる、対戦相手の顔を見たからだろう。そうだよな。あぁ、そうだよ。この将棋は、楽しくて仕方がない。こんなギリギリの熱い綱渡りが、楽しくて仕方がない。俺はまた一手進める。その手は、未だに震えている。だが決して、恐怖による震えではなかった。所謂武者震いというやつだ。強敵を前にして、俺の心が震えている。棋士としての魂が、悦んでいる。この緊張感が堪らない。できることなら、いつまでも浸っていたいと思えるほどに。だが、終わりの時は刻一刻と迫っていた。お互いに、持ち時間が無くなり、一分将棋へと移行する。ここまで互いに隙を見せず、決定機が訪れない。強い。流石は未来のタイトル保持者。このまま正攻法で隙を探っても、いつまで経っても平行線のままかもしれない。

 

別にこのままでも、勝てる可能性はある。だけどあまり時間をかけ過ぎるのは得策ではない。小学生の俺は、篠窪さんに比べて体力が低い。それでも、この対局には勝てるかもしれない。だけど、今日の対局は決してこの対局だけではないのだ。まだ、午後からの対局が残っている。ここであまり体力を使いすぎると、午後からの対局でマトモな将棋が指せなくなる可能性だってある。実際に、奨励会に入ってからも同じ様な負け方を何度もしている。だからこそ、こちらから手を打つ必要があった。なるべく速やかに、この対局を勝利で終わらせるために。そのために俺は、再びリスクを冒す選択を取った。

 

「な……!?」

 

篠窪さんが思わず声を上げる。俺が指した一手が、その声の原因だ。この一手、何も大層な手ではない。只、隙を作っただけの一手だ。篠窪さんのではない。俺自身の隙をだ。その手を見て、いつの間にか周りに出来ていた見物人達もざわつく。どうやら、俺たち以外の対局は全て終わったらしい。今この部屋で対局を行っているのは、俺と篠窪さんだけだ。その篠窪さんは、俺の手を見て戸惑っていた。さっきまで全く隙を見せない対局を繰り広げていたのだ。そんな俺が、急にあからさまな隙を見せてきた。罠を疑い、戸惑うのも仕方ないだろう。しかし、今は互いに一分将棋。考えていられる時間はほんの僅かだ。残り10秒。迫り来る時間の中で、篠窪さんは戸惑いつつも、決意のこもった手つきで駒を打った。篠窪さんが決断した手は、角打。俺の隙に踏み込み、王手とする手だった。これで、篠窪さんは一つ目の銃を抜き放った。俺はその手を受け、玉を逃がす。そこにすかさず、篠窪さんの追撃が飛んでくる。飛車打。篠窪さんが、二つ目の銃も腰から抜いた。一気に決めるつもりのようだ。俺はその追撃を、金の移動合で受ける。その後も、篠窪さんは、角と飛車を、それぞれ馬と龍に進化させ、俺の玉に襲いかかってくる。しかし俺は、そのことごとくを移動合と玉の移動を中心にした受けで、防いでいく。

 

「こ、これは……!?」

 

そして、防いで防いで防いでる間に、俺の玉の周りには強靱な壁ができあがっていた。その壁は厚く、馬と龍二枚がかりでも、そう簡単に突破できるものではない。

 

「くっ!」

 

しかし、今更引くに引けない篠窪さんは、その壁を削るために小駒をぶつけてくる。だが、そう簡単に破れそうにはない。さぁ、こちらのターンだ。俺はまず手始めに、相手の歩に向けて、歩をぶつけるように打ち付ける。篠窪さんはまたも、俺の突然の手に戸惑っている。この歩は取った方がいいのか?取らない方がいいのか?少ない一分という時間で、篠窪さんが指した一手は、同歩だった。結論を言うと、この歩は取っても取らなくてもダメだった。つまり、俺が歩を打った時点で、既に結論は出ていたのだ。そして俺は、同歩ルートの手を進める。小駒を使い、篠窪さんの囲いに襲いかかる。篠窪さんは、俺の攻めを一つ一つ丁寧に受けていく。だが、その受けは全て、俺の計算通りのものだった。

 

「これはまさか……!?」

 

どうやら、篠窪さんも気づいたらしい。俺の仕掛けた罠の正体に。だけど、もう遅い。その後数手が進む。そのタイミングで、俺は遂に一つ目の銃を抜いた。角打だ。その角が、対角線上に佇む玉を射程に捉える。王手だ。篠窪さんが、苦い顔をして、盤面に顔を落とす。その視線は、狙われている自玉ではなく、俺の玉を睨み付ける龍に向けられていた。その龍から離れた対角線上には、俺が打ち付けた角がいた。遮蔽物は無い。逃げ場所はどこにも、ない。つまり、王手飛車だ。これこそが、俺が仕掛けた罠の正体。しかも、篠窪さんの駒で、龍の位置に利いている駒は無い。つまり、ノーリスクで飛車が取れるのだ。篠窪さんは、泣く泣く受け駒を使い、王手を防ぐ。それを見て、俺は直ぐさま飛車を取った。これで、三つ目の銃を手に入れた。こうなれば、後はもう時間の問題だった。俺は直ぐさま二枚の飛車を使い、篠窪さんの囲いを剥がしにかかる。元々、王手飛車に至る過程で、小駒を使い剥がしていたこともあり、そう時間もかからずに、篠窪さんの玉は剥き出しとなった。こうなってしまえば、玉に逃げ場所は無い。

 

「負けました……」

 

程なくして、篠窪さんが投了をする。俺の勝ちだ。なんとか二敗を維持することができた。だけど本当に厳しい対局だった。一歩間違えれば、負けていたのは俺だった。本当にギリギリの綱渡りだった。辛くて、楽しい綱渡りだった。

 

「篠窪さん、今の横歩取りは、なんだったんですか?」

 

そして俺は、対局中からずっと気になっていた質問を篠窪さんに投げかけた。このオーパーツの正体、まさか、篠窪さんも本当に未来を……

 

「この4二玉型かい?最近研究を始めた型なんだ。他に指してる人を知らないから、たぶん今のところ研究してるのは俺だけじゃないかな。だからこそ、君との対局に採用した。研究外しのためにね」

 

どうやら、本当に自身の研究で発見したらしい。その方が凄いけど。

 

「よくこんな型思いつきますね。それに、俺が横歩取りを拒否してたらどうしてたんです?」

 

「横歩取りに関しては、俺は誰よりも研究している自信がある。それこそ、プロの先生方よりも。だからだろうね。色々と、横歩取りの型から模索したくなったのは。序盤戦術から研究し直して、新たな型を模索し続けて、そして一番可能性を感じたのがこの型だった。だけど、まだ全然研究不足だし、本当に難しい型で、俺一人の力じゃ、研究するのに限界がありそうなんだよね。……そうだ!九頭竜君、今度一緒に研究会しないかい?君と一緒なら、良い研究ができそうだ」

 

「横歩取りの研究ですか?面白そうですね!是非よろしくお願いします!」

 

こうして俺は、篠窪さんと研究会を開くこととなったのだ。これは嬉しい。篠窪さんは横歩取りのスペシャリストだ。横歩取りをあまり指さない俺としても、学べることが多そうだ。是非、勉強させてもらおう。

 

「それと、君が横歩取りを拒否することは想像できなかったな。なんでだろう。君なら必ず横歩取りを指してくれる。そんな予感がしてたんだ」

 

つまり、確証は無かったと。実際に俺が逃げることは無いけど、他の人はそうでもないだろう。

 

「篠窪さんって、他の人にも横歩取りを持ちかけてるんですか?」

 

「そうだよ」

 

「なんでですか?横歩取りは確かにハマれば強いけど、リスクも大きいですよね?負けない将棋を心がける奨励会員には、指しにくい戦法だと思うんですけど」

 

「未来のためさ」

 

「未来の?」

 

「そう。プロになる前から、自分の好きな戦法も指せないような棋士が、プロになってから大成できるとは、俺は思えない。もしこれでプロになれなかったなら、俺はそこまでの人間だったってことだよ。どうせプロになるなら、好きな戦法と共にプロになりたい。好きな戦法と共に大成したい。だから俺は、横歩取りに拘る。この戦法と共に、頂点へ駆け上がるために」

 

やだ、カッコいい。この人、ルックスや将棋だけじゃなくて内面までイケメンじゃないですか。やっぱり主人公なんじゃない?実は俺が脇役だったのかもしれない。なら、俺は脇役らしく、脇役が皆モテモテイケメン主人公に向かって心の中で唱えている言葉を贈らせて頂こう。俺は、にこやかに笑みを浮かべながら、席から立ち上がると、最後にこう言ってこの対局を締めくくったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「リア充爆発しろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ほら、今回は早い(二回目
今回から三段リーグクライマックス編ってところですね
三段リーグ編残り少し、お付き合いください
次も早く投稿したい(願望
八銀はジャスティス


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第44局 喰う者、喰われる者

そろそろ、八一誕生日記念特別編の執筆に取りかからないといけないのですが、三段リーグ編が佳境なので、本編の執筆優先したい気もする
どっちも執筆できるように、体分裂したい(願望
合い言葉は、八銀はジャスティス


昼食休憩を挟み、午後の対局開始時刻が迫っていた。関西将棋会館の対局室には、既に対局者が全員席に着いていた。俺と、そして俺の対局者も含めて。

 

「今日はよろしくお願いします」

 

「あぁ、よろしく」

 

眼鏡の奥の瞳が、俺のことを油断無く捉えていた。坂梨澄人さん。前生でも、三段リーグで対局した相手だ。あの時は本当に危なかった。勝った方が昇段の大一番、その終盤に、坂梨さんは指し間違いをしてしまった。それが無ければ、俺はあの時負けていた。そうなれば、俺はそのリーグで昇段できず、俺がタイトルを獲った竜王戦にも参加できなかった。俺の棋士人生に、多大な変化が起きていたことだろう。人生のターニングポイントと言っても過言では無いほどに、大事な一局だった。

 

そして、今生の坂梨さん、というよりも今期の坂梨さんは絶好調だった。残り3局とした現時点で、喫した敗北はたったの1敗。大混戦の今期において、単独首位を走っている。午前中に俺が勝った篠窪さんも坂梨さんに負けている。更に、あの歩夢に2敗目を付けたのもこの坂梨さんだ。とにかく、今期の坂梨さんは強い。確か前生では、俺と対局した時が初めての昇段チャンスだったはずだ。だが今生では、そうでも無いらしい。

 

「俺が三段に昇段して半年。初参戦だった前期のリーグを経験して、学んだことがある」

 

対局前に、坂梨さんは急にそんな話を始めた。一拍を置いて、坂梨さんは続きを話し始める。

 

「このリーグには、サメとイワシがいる。わかるか?喰う側と喰われる側だ」

 

そう言い、坂梨さんは駒箱を手に取った。駒箱は通常上位者が扱う物だ。昨期も三段リーグに参戦している坂梨さんは、俺よりも順位が高い。それを手に取る資格は、坂梨さんにあるだろう。

 

「俺はサメだ」

 

そう言う坂梨さんの視線は鋭い。まるで獰猛な肉食魚のような双眸が、俺のことを睨み付けてくる。

 

「お前もサメだろ?棋界の覇王。なら、どちらがより優れた捕食者か、優劣を付けようじゃないか」

 

そして、俺と坂梨さんの対局の火蓋が切って落とされた。先手は坂梨さんだ。坂梨さんの初手は、7六歩。シンプルに角道を開ける初手だ。俺も合わせて、3四歩と角道を開ける。すると直ぐさま、坂梨さんは6六歩と角道を閉じてきた。この時点で、対居飛車なら矢倉だと断定できるだろう。対居飛車なら。しかし、坂梨さんが相手なら矢倉では無いだろう。俺が6二銀と右の銀を上げると、坂梨さんは自身の駒を一枚掴んだ。その駒は……飛車だ。

 

6八飛車。それが坂梨さんの指した手だった。坂梨さんは振り飛車党だ。振り飛車というのは、基本的に居飛車に比べて守りに比重を置いた戦法だ。その分、攻撃力は居飛車に比べて劣ると言われている。その主な要因として、角の位置が挙げられる。角の初期位置から見た対角線。その方向は、相手陣の右側に向けられている。そして居飛車の場合、飛車が狙う直線スペースは相手陣の右側だ。つまり、両大駒が同じエリアに狙いを定めているのだ。だからこそ、より攻撃的な戦法を組むことができる。一方振り飛車は、飛車が基本的には相手陣の左側に狙いを定めているため、狙う位置が角と分かれてしまっている。だからこそ攻撃力は居飛車に比べて劣ると言われている。

 

高梨さんが今回指したのは、6八飛。左から四列目に飛車を振る四間飛車だ。その中でも、角交換を拒否した四間飛車、ノーマル四間飛車と呼ばれる型だ。そして高梨さんは玉を右側に移動させ始めた。囲いを形成するためだ。そのまま玉はスムーズに右側に移動していく。振り飛車のメリットが、この玉の移動がスムーズに行える分、囲いが形成しやすいことだ。基本的に囲いというものは、自飛車の逆サイドに形成する。居飛車の場合は左側、振り飛車の場合は右側だ。その大きな違いは、角の位置にある。角は、初期位置として盤の左側に置かれている。居飛車の場合は、そちらに向かって玉を移動させることになるのだ。そんな居飛車が、振り飛車と同じように玉を動かそうとしても、そうはいかない。坂梨さんは最終的に、2八の地点まで玉を移動させた。居飛車が同じように玉を動かすと、その位置は丁度角がいる場所だ。これが、振り飛車のメリット、その一つだ。

 

その後坂梨さんは、玉の左側に銀、金、金と三枚を、まるでジグザグを描くかのように配置していく。美濃囲い。多くの振り飛車党が愛用する、振り飛車党御用達の囲いだ。その特徴はなんと言っても、一見穴だらけのように見えるスカスカの陣形だ。だが、この穴こそが最大のメリットにもなる。穴がある分、玉や銀金がスムーズに陣形変更できるのだ。そして、横いっぱいに広がっている分、横からの攻撃にとにかく強い。その分、縦からの攻撃に若干弱いが、坂梨さんはその弱点もカバーするらしい。歩を上げて、更に一番左の金を、他の金銀と縦にジグザグを組むように上げる。高美濃囲いだ。これで、縦にも強くなった。だが、珍しい……というよりも古い将棋だった。前生でも、この型を見たのは一度きりだった。銀子ちゃんと釈迦堂さんの練習対局で見た、一度きりだ。というのも、この将棋がプロ棋戦で指されていたのは、俺が産まれるよりも前の時代のことだ。俺が将棋を始める頃には、既にプロ棋戦で指されなくなっていた。その理由は簡単だ。より強力な対抗戦法が台頭し始めたからだ。

 

坂梨さんとて、それは当然理解しているだろう。なのに関わらず、この戦法を選んだ。その真意がわからない。俺はその囲いを見て、思わず長考に入る。一応こちらとしても、その戦法を察知し、予め対抗形が組めるように駒組みは進めてきた。しかし、本当にこのまま駒組みを進めていいのだろうか?今ならまだ、他の囲いに変化することもできる。このまま素直に駒組みをするのも、危険な気がしてならない。まるで、誘い込まれているかのような、そんな嫌な予感が拭いきれない。しばし考えた末に俺は、結局最初から目指していた囲いに持っていくことに決めた。四間飛車が消える要因となったこの囲い、居飛車穴熊に。穴熊というのは、振り飛車の天敵だ。とにかく、横からの攻撃に滅法強い。振り飛車使いにとっての最重要課題は、いつの世もこの穴熊をどう攻略するかということだった。先述した銀子ちゃんと釈迦堂さんの対局では、四間飛車を使用した釈迦堂さんが勝った。しかしあれは、銀子ちゃんの心の隙を突いた釈迦堂さんの心理的戦術と、類い希なる釈迦堂さんの技量があってこそ勝てた将棋だった。通常、ノーマル四間飛車と居飛車穴熊が対峙した場合、四間飛車の勝率は良くない。それが、四間飛車が棋界から消えた要因だ。後に、振り飛車側から角交換を積極的に仕掛ける、角交換型四間飛車の登場により、四間飛車にまた注目があつまることになるが、それでもノーマル四間飛車としては、棋界でも見かけることは滅多に無い。

 

だからこそ、俺は問題無いだろうと判断し、そのまま居飛穴に潜ることにした。流石に、九頭竜穴熊にまでは組まない。桂香さんにも伝授したあの九頭竜穴熊は、通常の居飛車穴熊よりも数段固い分、囲いを形成するために、余分に手数がかかる。相手はノーマル四間飛車だ。流石に、余分に手数をかけてまで九頭竜穴熊に持っていかなくても、通常の居飛車穴熊で十分だろう。そう方針を定め、駒組みを進めていく。予めその方向を見据え駒組みを進めていた分、そこからそう手数をかけることもなく、居飛車穴熊は完成した。現代将棋では、穴熊を組めたら一本取ったと表現されるほどに、穴熊という囲いは優秀だ。これで一本取った。さぁ、坂梨さんはこの居飛穴を前に、どう仕掛けてくるのか?何が来ても受けきってみせる。そう意気込み、坂梨さんに顔を向ける。坂梨さんの顔は、居飛車穴熊を前にしても、冷静そのものだった。

 

「……今期の俺は、昇段に最も近い位置にいる」

 

そして、坂梨さんは急におしゃべりを始めた。このしゃべっている間も持ち時間は減っていくというのに、坂梨さんはそれを気にもせずしゃべり続ける。

 

「九頭竜八一、お前の御陰だ」

 

早く指せばいいのに、そう考えていた俺の思考が一瞬止まる。そして直ぐさま坂梨さんが口にしたその意味を考え始める。俺の御陰?まるで意味がわからない。

 

「どういうことですか?」

 

「俺が九頭竜八一という棋士について知ったのは三段に上がる少し前のことだった」

 

俺の質問にも応えず、坂梨さんは語りを続ける。その目が、今は何も言わずに聞いてろと、俺に語りかけてくる。仕方なく俺は、坂梨さんの気が済むまでその語りに耳を傾けることにした。

 

「昨年の夏前、俺は神鍋との例会に臨み、そして完膚なきまでに負けた。あいつは関東が誇る天才だった。別に毎回負けてるわけでは無いが、それでも勝率はかなり悪い。あいつのせいで、三段に上がるのが遅れたと思えるほどにな」

 

坂梨さんはそう言うが、決して遅いことも無いだろう。坂梨さんが奨励会に入会してから確か約五年半だったはずだ。昨期も三段リーグに挑戦していたということは、約四年半で三段に昇段したことになる。十分すぎるほどに早い。創多のような比べてはいけない天才もいるが、あいつのことは今は置いておく。

 

「あいつは強い。三段リーグでも必ずぶつかる壁だ。だからこそ、あいつの研究をしなければいけない。そう考えた俺は、とにかくあいつの情報を集めようと様々な手段を用いた。あいつの指した棋譜を只管に並べてみたり、周りの奴らに聞き込みをしたり、多方面から情報を仕入れようとした。その中で、俺はとある将棋雑誌に巡り会った。憶えてるか?将来有望な奨励会員にインタビューを行ってた雑誌だ。お前もインタビューを受けてただろ」

 

坂梨さんに言われて思い出す。確かに、そんな雑誌があった。確か、昨年の二月頃に出た雑誌だ。歩夢が俺に、棋界の覇王なんて有り難くもなんともない称号を与えてくれた雑誌だ。

 

「その雑誌でのインタビュー記事を見て、俺は衝撃を受けた。あの神鍋が、勝利したことが無い小学生がいると書いてるんだ。驚いて、俺はその部分を二度見してしまったほどだ」

 

俺と歩夢のライバル関係と、現在の勝敗に関しては、将棋通の間では有名な話になっている。尤も、奨励会まで追ってるような相当コアな将棋通の間では、だが。俺か歩夢と深く関わってないような奨励会員にはそこまで浸透していない情報だろう。

 

「九頭竜八一。名は聞いたことがあったが、そいつに対してそこまで大した知識は持ち合わせていない。だが俺はその時、無性にその九頭竜八一という少年のことが気になってしまった。それというのも、神鍋のことを調べるよりも、こいつのことを調べた方が良いのではないかと思ったからだ。九頭竜八一。西の天才。棋界の覇王。間違いなく、こいつも三段リーグでの壁になる。調べておいて損は無い。それに、こいつを調べれば、神鍋に勝つ方法もわかるかもしれない。そう考えた俺は、その日から九頭竜八一という小学生のことを調べるようになった」

 

その坂梨さんの話を聞き、俺は驚愕した。前生において俺は、四段に昇段した期において、坂梨さんが一番手強い相手になると考え、事前に対策を研究していた。その結果、接戦の末に俺が勝ち、中学生棋士としてスポットライトを浴びることとなった。だが今生では、逆に坂梨さんが事前に俺のことを調べてきたというのだ。だとしたら、このノーマル四間飛車も、俺対策のための戦法だと言うのだろうか?でも、この戦法で一体どうやって俺対策を?そう考えていたが、どうやらまだ坂梨さんの話は続くらしい。

 

「そして運良く、俺は九頭竜八一へのインタビューが掲載されている回の、その雑誌を手に入れることができた。最初その雑誌を手にとって驚いたぞ。プロ棋士の先生方を差し置いて、小学生が表紙を飾ってるんだからな。それほど、注目度が高いということだろうが」

 

え?そうだったの?俺、その雑誌なんだか恥ずかしかったから買ってないんだよなー。自分のインタビューが掲載されてるのを読むのって、なんだか凄く恥ずかしく感じない?だから、完成したものを編集者さんがくれるって言ってくれたけど、丁重にお断りしていた。まさか、そんな表紙まで飾ってたなんて思わなかった。そういえばあのインタビューの時、やたらと写真撮られてた気がするな。あれ、表紙用だったのか。そういえば、銀子ちゃんがあの時の雑誌買ったって言ってた気がするな。何故か3冊も。今日帰ったら見せてもらおうかな。なんだか凄く気になってきた。

 

「そしてそのインタビュー内容を見て、俺はまたも衝撃を受けた。ここ数年プロ棋界で賑わってる戦法矢倉殺し。あの戦法を世に送り出したのが、まさか当時幼稚園児のお前だったとはな。プロではなく、アマチュアが産み出した戦法だとは聞いたことがあったが、まさか幼稚園児が産み出したとは思いもしなかった」

 

そういえば、矢倉殺しについてもインタビューで聞かれてた気がするな。坂梨さんは初耳だったらしい。それも仕方ないだろう。西の情報は、東に伝わりにくかったりする。その逆もまた然りだが。矢倉殺しは、プロでも研究に悩む戦法だ。アマチュアや奨励会員が研究することはまず無い。矢倉殺しに携わっていれば俺の情報も伝わるかもしれないが、そうでも無ければ、西ならまだしも、東の奨励会員ならば、俺と深く関わってる歩夢ぐらいしか知らないのではないだろうか。

 

「それからの俺は、とにかく九頭竜八一の棋譜を集め回った。些細な棋譜でもいいからと、とにかく集め回った。そして棋譜を見るたびに、衝撃を受けっぱなしだった。見たことも無いような戦法の数々。到底思いつくこともできないような一手。本当に、衝撃的な棋譜ばかりだった。そしてある時俺は、一枚の棋譜と出会う。あれは、前期の三段リーグ中のことだった。そうだ。俺は、三段リーグ参戦中にも関わらず、自分のすべき研究よりも、次期で当たるだろうお前の研究を優先していた。それが、今は必要なことだと信じて疑っていなかった。だが、それが正解だったと今は思える。その棋譜に出会えたのだから。それは、お前が出場した小学生名人戦、その西日本予選決勝の棋譜だった」

 

西日本予選決勝?確か、万智ちゃんとの初対局の時だっただろうか。万智ちゃん……との……まさ、か……?

俺はその坂梨さんの話を聞いて、顔が青ざめていくのが自分でもわかった。その俺の反応を見て、坂梨さんは俺が坂梨さんの話の意図に気付いたことを察したのだろう。上機嫌そうに、話を締めくくりにかかる。

 

「その棋譜で用いられていた戦法を見て、俺は衝撃を受けると共に、運命的な物を感じたよ。この戦法を使い熟せば、俺は四段にだってすぐになれるってな。流石に、その期中には間に合わなかったが、今期の頭には間に合った。必死に研究をしたからな」

 

そう言って坂梨さんは、一枚の駒を手に持った。漸く手を進める気になったらしい。だが俺はこのとき、指すな、指さないでくれと心の中で唱えていた。坂梨さんが話を始めたときは早く指せとか思ってたのに、今は全く真逆のことを考えている。このまま、時間が過ぎろと。だが、そんなこと、坂梨さんが許してくれるわけがない。坂梨さんの指が、駒をゆっくりと、しかし力強く盤に打ち付ける。

 

「礼を言う。九頭竜。俺がここまで腹を満たせたのは、お前の御陰だ」

 

坂梨さんが指した手、その手から繋げられる戦法を、俺は知っている。知っているからこそ、やめてくれと願った。違う手であってくれと祈った。しかし、現実はいつの世も残酷で、そんな願いは受け入れられない。坂梨さんが指した手、それを俺はよく知っている。何故なら、俺が産み出した戦法なのだから。その名も……

 

 

 

 

 

 

 

『穴熊殺し』

 

 

 

 

 

 

 

「俺はサメだ。サメをも飲み込む巨大ザメだ。九頭竜、お前は俺に飲まれるか?逆に飲み返すか?さぁ、足掻いて見せろよ」

 

そう言う坂梨さんの目は、どこまでも鋭く、油断無く俺を捉えていたのだった。




なんだか長くなりそうだったので、キリの良いとこで分割しました
次話はもう少々お待ちください
土日あたりになるかと思う
八一生誕祭、いつ執筆しましょうね
4連休丸々執筆できるといいな
まぁ、頑張ります
八銀はジャスティス


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第45局 棋界の覇王

来週はついに八一の誕生日ですね
まだ誕生日記念特別編一文字も書いてないけど……
まぁ、がんばります
それと、今回八一の対局ですが、途中から三人称書きになっております
合い言葉は、八銀はジャスティス


『穴熊殺し』

 

俺が前生で産み出した戦法の一つだ。その名の通り、穴熊を殺す戦法。矢倉殺しは多様な変化に対応できる相応の高い棋力が必要になるが、穴熊殺しは、ある程度手順を憶えてしまえば、誰でも指そうと思えば指せる。現に、小学生名人戦で、銀子ちゃんも指した経験がある。そして俺も、今生において一度だけこの戦法を人前で指したことがあった。それが坂梨さんの言った、小学生名人戦西日本予選決勝、万智ちゃんとの対局だ。その対局で俺は、穴熊殺しを使うことによって万智ちゃんを即詰みに討ち取って見せた。その対局を参考にし、坂梨さんは穴熊殺しを独自に研究し自分の武器へと昇華させた。

 

しかしだ。あの万智ちゃんとの対局と今回の一局を比べて、疑問に思う点が一つ思い浮かぶだろう。万智ちゃんとの対局では、万智ちゃんの振り飛車穴熊に対して、俺の居飛車穴熊という構図となっていた。しかし、今回の対局は、俺の居飛車穴熊に対して坂梨さんが振り飛車に構える展開となっている。居飛車振り飛車が逆になっているのだ。振り飛車側から穴熊殺しを仕掛けることは可能なのか?そんな疑問が生まれるだろう。しかし、そもそもだ、そんな疑問を持つ方々は、穴熊殺しに対する認識、その前提から間違っているのだ。穴熊殺し、この戦法は、()()()()()()()()()()()()()()()ものなのだ。穴熊攻略。それは古今東西、振り飛車を指す棋士にとっての永遠の課題となっていた。振り飛車は穴熊に弱い。それは、将棋にとっての常識となっていた。その常識を覆すために長年研究し、そして遂に完成させたのがこの穴熊殺しだったのだ。前生で初めてこの戦法を披露した時は、それはもう棋界総出での大騒ぎとなった。生石さんには連日飲みに連れ回され、振り飛車党の皆からは救世主のように扱われた。その後も俺はその穴熊殺しの研究を継続し、相振り飛車穴熊や、居飛車側からの振り飛車穴熊攻略にも、様々なシチュエーションでの穴熊攻略に応用できることを発見したのだ。そしていつしか、棋界ではこのような言葉が囁かれるようになった。穴熊は終わった、と。

 

このように色々なパターンが研究されたこの穴熊殺しだが、原点は間違いなくこの形なのだ。振り飛車対居飛車穴熊。坂梨さんは、万智ちゃんとのあの一局を見て、穴熊殺し、その原点の存在に気づいたのだろう。本当によく気づけたものだ。そして、僅か半年ほどで自分の武器にしてしまうその努力量も凄まじい。おそらく坂梨さんは、このノーマル四間飛車穴熊殺しをもって、ここまで戦い抜いてきたのだろう。ノーマル四間飛車高美濃に構えれば、大抵の居飛車党は穴熊に構える。そうなれば坂梨さんの術中だ。為す術無く白星を坂梨さんに献上することとなる。万が一居飛車で穴熊に構えない相手や、相振り飛車になったりしても、坂梨さんの実力ならそう簡単に(おく)れを取ることはない。実力で白星をもぎ取ることもできるだろう。その作戦が見事にハマり、今期の素晴らしすぎる成績へと繋がったらしい。

 

しかし、こうなってくると多少手間をかけてでも、九頭竜穴熊に構えなかったことを悔やんでしまう。九頭竜穴熊は元々、穴熊殺し対策に開発した穴熊だったのだ。穴熊殺しも通用しない最固の穴熊。今から組み直すことはできなくもない。しかし、組み直している間に坂梨さんの穴熊殺しが炸裂してしまうだろう。なので、この囲いのまま挽回するしかない。幸いなことに、坂梨さんの穴熊殺しはまだ入り口に足を踏み入れた段階だ。穴熊殺しの軸になるのは龍だ。まずはその龍を作るために、飛車を敵陣に侵入させようとしている段階だ。ここにも、俺の研究手が用いられている。万智ちゃんとの対局でも用いていた戦法だ。穴熊殺しとセットで開発した戦法、その名も『交龍(こうりゅう)』。相手に龍を作らせるかわりに、自分も龍を確実に作れる戦法だ。名前は、歩夢にまた勝手に命名されそうになったので、先手を取って俺が付けさせてもらった。開発者なんだから当然の権利だ。しかし、交龍までしっかり研究しているとは驚いた。あの対局では、穴熊殺しに注目が集まっていたので、この戦法自体は脚光を浴びず、そもそも俺の研究手だと気づいていない人も多かっただろう。なのに、この戦法の存在に気づくとは、本当に隅々まであの対局を研究したということだろう。

 

「……本当によく研究しているみたいですね」

 

「あぁ。毎日飯を食う時間も、寝る間も、他の研究をする時間も惜しんで研究していたからな。その御陰で、前期は後段点をもらいかけた程だ。だがそれも全て、今の俺に繋がっている。開発者のお前ほどではないだろうが、それでも十分すぎるほどの完成度にはなっているはずだ」

 

まだほんの少ししか手を見ていないけど、それでもおそらく坂梨さんの言うことに間違いは無いのだろう。だとすると、まだ序盤とはいえ、既に俺の敗勢になっているのかもしれない。ソフトなら、-3000とかそのぐらいの形勢判断が下ってそうだ。

 

「尤も、対策戦法があるのかどうかまでは流石に俺にはわからなかった。もしあれば、おそらくお前の勝ちだろう」

 

穴熊殺しの対策戦法。はっきり言ってそんなものは無い。あえて言うなら九頭竜穴熊ぐらいだろう。少なくとも俺の生きてる間には対策戦法は産まれていなかった。とは言っても、将棋とは日々生き物のように進化を遂げている。俺の死後もまだまだ成長し、対策戦法が産まれていた可能性だってある。とは言っても、今の俺が知る(すべ)はないが。

 

「さぁどうする?この戦法に入った時点で、お前に逃げ道は無い。それはお前が一番わかってるだろ?どう足掻く?」

 

確かに俺に逃げ道は無い。こうなった時点で、選択肢は二つに絞られる。坂梨さんの戦法に乗り、俺も龍を作るか。坂梨さんが龍を作るのを、全力で防ぐか。とは言っても、こんなもの実質選択肢は一つしか無いようなものだ。坂梨さんが龍を作る時間稼ぎならすることはできる。だが、それはあくまで時間稼ぎだ。防ぐことはできない。更にそれをすることによって、自分が龍を作るタイミングを失ってしまう。それでは、勝てる見込みが完全に無くなってしまうだろう。だからこそ俺は、前に一歩を踏み出す。活路は、前にしか無いのだ。

 

「漸く決心が付いたか。なら……行くぞ」

 

そして、坂梨さんが更に踏み込んでくる。俺も負けじと踏み込み返す。ここからは、引いてしまった時点で俺の負けだ。怖くても、前に進め。俺は遠い遠い勝利に向けて、真っ直ぐに足を進めていった。たどり着くかもわからない、勝利へ向けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

澄人は、自分が優勢から勝勢に向かっていることを自覚していた。ここまでの三段リーグ、澄人はこの戦法で白星を荒稼ぎしてきた。自分がノーマル四間を指し、相手が穴熊に構えた場合の勝率は、100%。負けが無い。今期喫した唯一の敗戦も、相手が穴熊に構えず、実力で負かされたものだ。相手が実力者だというのは知っていた。しかし、この戦法を研究してから、それに引っ張られるように自分の棋力が底上げされているのを実感していた澄人は、決して簡単に負けることは無いだろうと判断していた。実際に、最終盤まで互角の展開となり、場合によっては自分が勝っていたかもしれない。しかし、負けた。最後の最後に、相手の執念とも言うべき粘りに負かされてしまった。確かに負けはした。しかし、その敗戦は逆に、澄人の自信へと繋がっていた。穴熊殺しに頼らなくても、自分はここまで良い将棋が指せた。負けはしたが、対局内容は良い自信に繋がっていた。

 

そして今対局、相手は自分の術中にハマり穴熊に囲ってきた。この展開になって、自分は負けたことがない。しかし、決して油断はできない。目の前にいる対局者はまだ幼い少年。しかし、その少年の異常性は自分もよく知っている。この戦法を研究すればするほど、この少年の棋譜を漁れば漁るほど少年離れした、いや人間離れした、正に異常なまでの実力を秘めた棋士だということがわかる。だからこそ、この圧倒的に優勢な局面においても、決して安心も油断もしない。

 

相手がまた一手進めてくる。攻めてくる。とことん攻めてくる一手だ。それも当然だろう。前にしか活路は無いのだから。しかし、このまま進めれば、どちらにしても自分が勝つだろう。攻め合った場合、こちらの方が早い。それは相手もわかっているはずだ。どこかで一工夫入れてくるとは思うが、その時に指し違えなければ自分の勝ちだ。そう確信し、澄人は自身も攻めの一手をお返しした。その後も互いに、攻め合い、相手陣に近づいていく。互いの飛車は、既に龍へと姿を変えた。さぁ、ここからが本番だ。澄人はそう気合いを入れ直し、龍を相手囲いにぶつけた。穴熊殺しの始動だ。相手は多少の冷や汗を流しつつも、冷静に受け、そして隙あらば攻め返してくる。澄人も負けじと、攻めに重点を置きつつも、必要とあらば受けに回った。今までの相手ならば受けを気にせずとも勝てたが、今目の前にいる相手に対し、そんな緩慢な将棋を指しては一瞬で飲まれてしまう。そう澄人は指しながら感じていた。見た目只の少年、しかし澄人は今、まるで得体の知れない怪物と対峙しているかのようなプレッシャーを感じていた。澄人の額からも、冷や汗が流れ落ちる。澄人はそれを軽く手の甲で拭うと、盤面に意識を落としていった。目の前の相手を意識すると、飲まれてしまう。そう判断し、目の前の相手ではなく、盤面にだけ意識を集中させるように、更に集中力を高めていった。

 

対局は、既に終盤へと差し掛かっている。このままいけば、一手差でだが、自分が攻め勝てる。澄人は、相手と自分の陣を見比べて、冷静にそう判断を下した。それと同時に、穴熊殺しを相手にしているにも関わらず、攻め合って一手差にまで食らいついてきている相手の恐ろしさに身震いする。だが、勝つのは自分だ。ここまで来ると、この差は変わらない。それは相手もわかっているのだろう。それでも足掻こうと、必死に最後の長考へと入っている。持ち時間は互いに残り少ない。この一手で、逆転手を導き出せなければ、自分の勝利は確定するだろう。尤も、そんな手は存在しないだろうが。澄人は、そんなことを考えながら、相手が次の手を指すのを待った。中々指さない。時間がドンドン過ぎていく。そして遂に相手は持ち時間を使い果たし、一分将棋へと入った。もしかしたら、このまま指さずに投了してくるかもしれないな。そんなことを考えつつ、澄人は一分が過ぎていくのを静かに待つ。残り10秒。まだ指さない。残り5秒。右手が動いた。残り3秒。持ち駒を掴む。残り1秒。その駒を打ち付け、チェスクロックを慌てて押す。どうやら、まだ指したらしい。澄人は、何を指したのかを確認するために、盤面に意識を向け直す。

 

「……は?」

 

そして、そのありえない一手に思わず呆けたような声が出てしまう。思わず自分の目を疑い、掛けていた眼鏡を外し、レンズを拭いてからもう一度掛け直し、盤面を覗いてみる。しかし、何も変わっていない。周りで観戦していた野次馬達も、皆一様に呆けてしまっている。誰も、その手の意図を理解できていない。澄人も含めて、全員がだ。軽く一分ほど放心し、澄人は我に返る。ボッとしている場合ではない。澄人も持ち時間が無いのだ。次の手を早く考えなければいけない。しかし、一体この手の意図はなんだというのだ。この局面で、銀をタダ捨てする意図はなんだというのだ。澄人は思わず頭を抱えたくなるのを堪えて、盤面に意識を集中した。そう、相手が指した手は銀のタダ捨てだったのだ。ただ、澄人の歩に向けて持ち駒の銀を差し出しただけの一手。追い詰められて自棄(やけ)になったのかと疑いたくなるような常識外の一手。その意図を探るために、澄人は思考する。

 

澄人としては、是非とも銀は欲しい駒だった。この銀を取れば、相手との差を二手差に広げることができる、そんな駒だった。銀を取る手間を考慮しても、二手差にできるのだ。そうなれば、より一層自身の勝利は固くなる。逆に、取らなければどうなるのか?取らなかった場合の相手の指し手を考えて、澄人はまた冷や汗を流した。取らなければ、逆に自分が一手差で負ける。恐ろしい短縮手順が隠されていた。おそらく相手の狙いは、甘い罠に警戒して、自分が取らずに手を進めることを期待した、最後の悪足掻きだったのだろう。澄人はその手に対して、そう判断を下した。これはもう、取るしかない。もしかしたら、取った瞬間に投了してくるかもしれないな。そんなことを考えながら、時間を使い果たし、秒読みを始めたチェスクロックに捲し立てられるように同歩と指した。そして、投了したらどうだ?そう訴えるように、相手に目線を合わせる。しかし、相手は次の手を指し、まるで挑発するかのように澄人に目線を合わせ返してきた。まるで、そちらが投了したらどうですか?、と言わんばかりに。

 

「……まぁいいだろう」

 

澄人は、相手が最後まで指すつもりだと判断し、自身も次の手を進める。早速先ほど得た銀を使い、手を早める。これで、自分の勝ちだ。そう確信を持ちながらも、しばらく指し進めていく。

 

「……ん?」

 

そしてしばらく指し進めて、澄人は盤面に少し違和感を憶えた。しかし、はっきりとしたものでは無く、違和感の正体もわからない。気のせいかと思い、更に数手進めた。

 

「……なんだ?何かが……おかしい……?」

 

そして、手が進むごとに、徐々に違和感は強まっていく。今ははっきりと何かがおかしいと感じ取れる。しかし、まだ正体まではわからない。得体の知れない不気味さを感じつつも、澄人は更に数手進めていった。そして、遂に違和感の正体に気づいた。……気づいてしまった。

 

「こ、これは……そ、そん、な……バカ、な……!?」

 

ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。……ありえない!

そんな言葉ばかりが澄人の脳内に雪崩のように押し寄せてくる。澄人が感じていた違和感はごく単純なものだった。だが、そのありえない事実が、違和感の正体を澄人に知らせるのを遅らせていたのだ。澄人が感じていた違和感の正体、それは相手の手が早まっているというものだった。しかも、加速した自分の手が一手差で負けているほどに。澄人の手は、銀を得たことで早まった。銀を取るのに使った手も合わせると、二手分も早まった計算だったのだ。しかしそれなのに、相手は更に自分より一手も早くなっている。つまり、三手も相手は手を早めたことになる。銀を取らせたことによって。

 

「……俺は、あの時点で負けていたのか……?」

 

あの時澄人は、銀を取った。しかしそれは、取らなければ相手の手が二手早まり、自分が負けていたからだった。だからこそ取ったというのに、取った後の展開が、今のこれだ。要するに、どちらの道を選択していても、澄人は一手差で負けていたのだ。あの時、相手が銀を指した時点で。その事実に徐々に周りの観客も気づき始め、ありえないような状況に、呆然としてしまっている。声すらも出ないような者もいる。

 

「これはまるで……魔術(マジック)じゃねーか……」

 

その神の手と呼ぶに相応しいような一手を見て、澄人は棋界最強の棋士、現名人と重ね合わせてしまう。神の域とも呼ばれるその棋士と、まるで目の前の相手は同格なのではないかと。

 

「ま……まけ、まし……た……」

 

そして澄人は、為す術無しと、投了をする。その声は、恐怖のあまり震えていた。声だけではない。その体も震え、顔は青ざめ、夏場にもかかわらず、寒さに打ちひしがれていた。

 

「なんだよお前……サメどころか……怪物じゃないか……」

 

「サメでも怪物でもない」

 

澄人は、震える体で、目の前の怪物を見つめた。近い将来、棋界を蹂躙し、制覇するであろうその怪物の顔を、目に焼き付けるかのように見つめた。その怪物は、澄人と同じように震え上がっている観戦していた三段、そして、この先立ちふさがるであろう全ての棋士に向けて、静かに名乗りを上げた。

 

「俺は《棋界の覇王》。世界で一番、将棋が強い小学生」

 

そう言うと、その怪物は静かに対局室から立ち去っていった。後に残されたのは、格の違いを見せつけられ愕然とする哀れな三段達だけなのだった。




またも仕事の都合やその他所用で少し遅れました
申し訳ない
次は八一誕生日記念特別編書くので、本編はまた少しお休みです
八月一日にお会いしましょう!

八銀はジャスティス


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第46局 束の間の息抜き

やっとワクチンの打つ予定が決まりました
来月打ってきますね
銀子ちゃんの誕生日後だから、副反応気にせず誕生日記念は書けます
良かった良かった
でもりゅうおう15巻発売日前だ
……副反応無く、無事発売日に15巻を読めるのでしょうか?

今回、終盤が八一がいるにも関わらず、三人称書きになっておりますのでご了承ください
合い言葉は、八銀はジャスティス


「ガハッ!」

 

坂梨さんとの対局に無事勝利した後、俺は直ぐさま幹事に勝利を報告し、対局室を後にした。そして、その足でトイレへと駆け込んでいた。極度の緊張に耐え続けた胃が、悲鳴を上げていた。さっきから、空嘔(からえずき)が治まらない。無事対局には勝てたものの、俺の体は満身創痍だった。今日の2局は両局共本当に危なかった。ギリギリの綱渡りに1日中挑戦していた気分だ。篠窪さんとの対局は、一歩でも踏み違えた方が急降下間違いなしの、デスマッチ。そして、坂梨さんとの対局は、今にもちぎれてしまいそうな紐の上を、遙か遠いゴールまで渡りきらなければいけなかった。坂梨さんとの一局は、何度も、本当に何度も負けを覚悟した局面があった。しかし、結果的には勝利を掴み取ることができた。その要因は、坂梨さんだ。正直、坂梨さんが受ける手をもう少し減らし、攻めを重視した指し回しをされていたら、俺は間違いなく負けていた。しかし坂梨さんは、必要以上に俺の攻めを警戒しすぎ、必要以上に受けに回りすぎたのだ。坂梨さんが本当にあと少しでも、攻めに意識を傾けていたら、俺は勝因となった銀打ちを指すこともできずに、負けていただろう。

 

「ガ、ハッ!」

 

そう考えてしまうと、またも胃に不快感が襲ってくる。そう、俺は今日の対局、負けていたかもしれないのだ。今期の三段リーグは、過去に類を見ないほどの大混戦となっている。最終日のみを残した現時点で、2敗勢が4人、3敗勢が一人となっている。そして、最終日もその内二人との直接対局となる。最終日を、2敗で迎えるか3敗で迎えるかで、精神的余裕が大きく異なる。もちろん、2敗で迎えた方がまだ余裕を持てるが、それでも精神的負担は大きい。2敗勢が俺を含めて4人もいるのだ。もし、最終日に1敗でもすれば、その時点で自力昇段の夢は絶たれてしまう。要するに、2敗と3敗で大きく違うところは、そこなのだ。最終日に、自力昇段の可能性を残せるかどうか。そして俺は、残すことに成功した。その代償が、今の俺の状態な訳だが。しかし、今期の三段リーグは本当に凄い。過去に、3敗で三段リーグを終え、昇段を逃した人はいない。それが、今期はありえるかもしれないのだ。2敗勢の内、誰かはプロになることができない。もしかしたら、俺が弾かれる可能性だって……

 

「ガハッ!」

 

そう考えてしまい、またも胃が悲鳴をあげる。どうやら、俺はまだしばらくトイレに引きこもっていないといけないらしい。俺はその後も、勝利の余韻に浸ることもなく、悲鳴をあげる胃を労り続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「八一、出かけるわよ」

 

激闘明けて翌日のことだ。朝食を終え、さて今日も日課となっている銀子ちゃんとの対局を始めるかな、と思っていたら、急に銀子ちゃんがそう言い出した。

 

「出かけるって、どこに?」

 

「武者修行」

 

なるほど。今は丁度夏休み。俺たちは毎年、夏休みになると、強い人がいる将棋道場に武者修行に出かけていた。だけど今年は、俺が三段リーグを闘っているということもあって、未だにどこにも出かけることができていなかった。確かに、そろそろ夏休みも終わってしまうし、どこかに出かけるのも悪くないかもしれない。それに、良い気分転換になるかもしれないし。

 

「わかったよ。それで、どこにいくの?」

 

「難波」

 

「難波?わかった!直ぐ行こう!」

 

難波だったら直ぐに行けるし、帰ってきてからまたいくらでも銀子ちゃんと対局ができそうだ。そうだ、折角だから今回は桂香さんも誘ってみよう。桂香さんも、マイナビ女子オープンに向けて練習対局をしたいだろうし、丁度良い機会だろう。早速声をかけてみよう。俺は銀子ちゃんにそのことを提案すると、銀子ちゃんも当然了承してくれる。銀子ちゃんは、桂香さんのことが大好きだし当然だろう。前生でも、俺よりも桂香さんのことを銀子ちゃんが優先してたような場面が、何度もあった。俺よりも、桂香さんを……

……別に、桂香さんに対して嫉妬したりとかはしない。しないったらしない。でもやっぱり、なんだか銀子ちゃんと二人きりで行きたくなってきたな。そう思って再度銀子ちゃんに提案しようと思ったのだけれど、言葉にする前に、銀子ちゃんに手を引かれて桂香さんの所に連れて行かれてしまった。そして、桂香さんも良い機会だと了承し、三人で武者修行に行くことになったのだった。

……ねぇ、やっぱり今からでも二人だけでいく方向に変更できない?できないですか。そうですか……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清滝家の最寄り駅、野田駅から大阪環状線に乗り込んだ俺たちは、そこから今宮駅まで乗る。そして、JR線に乗り換えて数分、ミナミの中心とも呼ぶべき場所、難波へと到着する。因みに、ミナミという言い方を使っているけど、この難波を中心としたミナミ一帯の住所は、大阪市中央区だ。ミナミではなく、大阪の中央だ。では、何故ミナミと呼ぶのかと言うと、その理由は江戸時代まで遡る。江戸時代大阪は、天下の台所と呼ばれていた。日本の商いの中心地として、全国から様々な食材などが集められていたのが所以(ゆえん)だ。その経済や文化の中心地といえば、流通の中心、船場だ。その船場から見て、南側にあることから、この地域一帯は当時、南地(なんち)と呼ばれていた。その名残から、今もミナミと呼ばれているのだ。まぁ中央区自体、元々大阪市東区と南区が統合してできた区だから、本来の意味でのミナミでも間違ってはいないのだけれど。

 

その難波のとある将棋道場に、俺たち三人は訪れていた。店内に入ると、それなりに客がいる。思ってたよりも繁盛している場所らしい。まぁ、難波自体が人の足が関西でも有数に多いし、これぐらいの客数は普通なのかもしれない。俺たちが入ると、カウンターにいる店員さんが驚いたような顔で俺たちのことを見てくる。というよりも、俺のことを見てくる。俺、なんかしたっけ?

 

「こりゃビックリやわ。噂の天才少年がまさかこないなとこに足運んでくれるなんてな」

 

「あはは、そんなに俺って有名ですか?」

 

「有名なんてもんやないわ。将棋指してて、坊主を知らんだらモグリって言われるほどやわ。昨日も2勝したらしいやん。小学生プロ棋士誕生が現実味を帯びてきたな。頑張りや。大阪の将棋指しは皆坊主のこと応援しとるで」

 

どうやら、俺も知らない間にかなり有名になっていたらしい。まぁ、現時点で今期の四段昇段筆頭候補にあげられてるし、それも当然と言えるかもしれない。次の結果次第では、小学生プロ棋士が誕生することになる。歴史的快挙を期待して、俺の地元大阪は大盛り上がりというわけだ。

 

「嬢ちゃん達も見た顔やな。清滝先生の娘さんに、女子奨励会員の嬢ちゃんやな。清滝先生のお弟子さん勢揃いかいな。こりゃまた、えろう勉強させてもらいますわ」

 

そう言うと、店員さんは奥から三人のお客さんを呼びだした。そのお客さん達も、俺のことを見て驚いている。前生では最年少竜王になったわりに、銀子ちゃんの影に隠れてあまり目立たなかったけど、今生の俺はどうやらがっつり目立っているらしい。なんか照れるな。

 

「これはこれは九頭竜先生やないか!こないな辺鄙(へんぴ)な場所でお会いできるなんてな」

 

「おいおい。人ん店に向かってその言い草はあんまりやろ?」

 

「堅いこと言うなや。事実やろ?」

 

「ま、違えねえ!だはは!……なんて笑って許すとおもうたか!てめえ全駒にいてこますぞ!」

 

「おう、ええで。その喧嘩乗ったるわ。わてのゴキゲン中飛車が火を噴くで?」

 

急に喧嘩を始める店員さん……たぶん店長さんかな?とお客さん。まぁ、喧嘩の内容が将棋みたいだから、そこまで気にしなくていいだろうけど。

 

「な、なんか凄いところに来きゃったね」

 

「道場選び、間違えたかな?」

 

桂香さんと銀子ちゃんも不安そうな顔をしている。まぁ、この状況を見たら、流石にそう思ってしまう。そんな俺たちの様子を見て、気を利かせてくれたのだろう。後ろに控えてた二人のお客さんが言い合う二人の間に入ってくれる。

 

「おいおいやめときや。先生方も困ってるやろ」

 

「せやで。将来の大先生に失礼やろ」

 

「おっと、こりゃあかんわ。先生方に見苦しいとこお見せしてもうたわ。勘弁してな」

 

「ほんまやで。……それでや先生方。この三人が、ウチの常連三強や。良かったら、相手したってくれへんか?」

 

これは願ってもない提案だ。元々俺たちは、それが目的でここまで来たのだから。俺たちは二つ返事でその提案に応えて、それぞれ盤の前で向かい合った。他のお客さん達も、俺たちに気づき、その将棋を一目見ようと周りに集まってくる。

 

「先生の相手はわてや。言うとくけど、わてが三人の中ではいっちゃん強いで?簡単には負けへんよって、覚悟しいや?」

 

「俺だって、期待に応えるために、負けるわけにはいかないです!そっちこそ覚悟してくださいね!」

 

そして、俺たちの対局が始まる。それと同時に、銀子ちゃんと桂香さんも他の二人と対局を始めた。この道場の人たちに、清滝一門の力を見せつけよう!

 

先手は相手だ。無難に角道を開けてくる。俺も、角道を開けてそれに応える。そして相手は三手目に、5六歩と指してきた。この時点で戦型はゴキゲン中飛車で間違いないだろいう。実際に相手の人も、店長さんとの喧嘩(?)の中でゴキゲン中飛車を指すみたいな話してたし。さて、しかし俺はどうするか。超速3七銀を筆頭に、居飛車での対抗形は幾つかある。その内のどれかを指すのが無難だけど、ここは折角だし、久々に俺もこれを指そう。

 

「なんやて!?」

 

俺の指した手を見て、対局相手と観客が、驚嘆する。俺が指した手は、5二飛。相手に担ってゴキゲン中飛車明示。つまりこの対局は、相中飛車となった。

 

「……居飛車主体のオールラウンダーやとは知っとったけど、まさかわて相手に相中飛車で挑んでくるとはなぁ。舐められたもんやで……」

 

そう呟くと、対局相手は5八飛と飛車を移動させ、駒を力強く盤に打ち付けた。その駒音から、相手の心情は推し量ることができる。……流石にこの戦型を選ぶのはまずかったかな。

 

「いくら将来の大先生でも、この戦型でわてに勝てると思ったら大間違いやで。ゴキゲンの湯に通い詰めて、生石大先生に教えを請うたんや。わてのアイドル、生石大先生お墨付きのゴキゲン中飛車、舐めてかかったら……火傷程度で済まへんで?」

 

その後の俺たちの攻防は、正に猛火と業火の激突となった。激しく燃えさかる俺の猛火のような攻めが、相手を灰に返さんと襲いかかれば、相手の業火のような攻めが、俺の犯した罪ごと燃やし尽くさんと迫り来る。しかし未だに大火傷を両者負わずに済んでいるのは、互いの静水の様な受けが清めているからだ。清らかで美しい捌きだ。思わず、見とれてしまうかのような、美しい捌きを相手は見せてくれていた。なるほど。確かにこれは、生石さんお墨付きというのも頷ける。だがしかし、今俺が対局している相手は決して生石さんではない。生石さん以外のゴキゲン中飛車に、俺のゴキゲン中飛車が負けるわけにはいかない。

 

「ま、負けました……」

 

互いの意地をぶつけあった一局は、俺の勝利に終わった。生石さん以外の相手に、相中飛車で負けるわけにはいかない。俺にも、意地ってものがある。これは、俺の意地が勝った結果だ。……尤も、生石さんが相手でも、相中飛車で負けるつもりは無いけどね。

 

「かーっ!完敗や!九頭竜先生、振り飛車でもプロ級に強いんやな!プロはプロでも、生石大先生級やったで!こら勝てへんわ!」

 

「ありがとうございます。でも、まだプロになってないので、先生呼びは遠慮していいですか?」

 

「んな堅いこと気にしやんでええやん!どうせ時間の問題なんやさかいな!」

 

そんなことまだわかんないです。いや、俺としてもなれないと困るというか、折角生まれ変わった……いやこの場合産まれ直したの方が正しいかな?産まれ直した意味が無くなってしまう。もう時間的猶予は無いんだから、必ず今期で四段昇段してみせる。そして、俺達の闘いに続いて、他の二局も決着が付いたようだ。俺たちみたいに超攻撃的な殴り合いをしてたわけでもないので、俺たちより手数がかかっていた分、時間もかかっていたようだ。

 

「いやー、そらきっついわ。なんやのその穴熊?カッチカチやん」

 

「まるで凍らせたバナナみたいやな」

 

「そうそう。カッチカチに堅くて釘打てまんねん。まぁ、わてのボケはバナナの皮踏んづけたみたいにいつもだだ滑っとるけどってやかましいわい」

 

……お、大阪のノリだ。ここまでコテコテの大阪ノリは初めて見た。根は福井県民の俺にはついていけそうにない。

 

「あ、あはは、ありがとうございます」

 

純大阪府民の桂香さんですら困惑している。その横で銀子ちゃんは、若干熱っぽそうにしていた。熱っぽそうということは、銀子ちゃんも少し本気を出したのかな?だとしたら、相手も相当の実力だったんだろう。俺の相手もかなりの実力者だったし、この道場自体実力者揃いなのかもしれない。

 

「しっかし、三人とも流石の強さやな。まさかわてら三人全員まけるとは思わんだわ。……先生方、この後まだ時間あるやろか?良かったら、もう少し指していかへんか?」

 

その提案を受け、俺たち三人は、互いに目配せをしあい、意思を確認しあった。ま、当然俺たちの返答は決まってるよね。

 

「えぇ、是非お願いします」

 

こんなレベルの高い将棋を指せてるんだ。俺たちの成長のためにも、この機会を利用しない手はない。

 

「よっしゃ!そうと決まれば先生、戦後入れ替えて指しましょ!今度こそわてのゴキゲン中飛車が火を噴くで!」

 

「アホ!対局相手も変えるに決まっとるやろ!」

 

「せや!今度はわてが九頭竜先生と指すんや!」

 

「じゃかしいわい!この席は誰にも譲らんで!この盤にわてと九頭竜先生の名前書いといたるわ!」

 

「てめえ、ウチの備品に何しようとしとんねん!」

 

三人の対局者と店長、次第には集まっていた観客達も入り、ガヤガヤと漫才のようなやりとりをしながら、それぞれの対局相手を決めるための言い合いが始まった。

……これはなんだか長くなりそうだ。

 

「八一」

 

死んだような目を浮かべながら、皆のやりとりを眺めていると、隣の席に座っていた銀子ちゃんが話しかけてくる。

 

「なに?」

 

「息抜きできてる?」

 

銀子ちゃんのその言葉に、俺は思わず疑問符を浮かべてしまう。息抜き?今日は武者修行にきたんじゃなかったのだろうか。

 

「息抜きって?」

 

「最近、八一三段リーグが大変で、疲れてるみたいだったから……」

 

なるほど。それで今日は、武者修行と称して、俺の息抜き目的で一緒にでかけてくれたのか。今日のこれは、銀子ちゃんなりの優しさだったようだ。

……将棋の息抜きが将棋なあたり、実に俺たちらしい。でも、確かに特に何にも縛られず、ノビノビと指せて今日は良い息抜きになったように思う。提案してくれた銀子ちゃんには、感謝しないとな。

 

「うん。凄く良い息抜きになったよ!ありがとう!」

 

「別に、お礼を言われることでもないし」

 

そう言って顔を逸らす銀子ちゃんの頬は、まだ熱っぽいのか、若干赤くなっていた。次の対局に支障が出なければいいけど。最悪、ドクターストップをかけないといけない。なんてことを考えていると、どうやら相手の準備も漸くできたらしい。

 

「先生方、おまたせやで!さぁほな、まだまだわてらの相手してもらうで!覚悟してや!」

 

望むところだ。銀子ちゃんのことも心配だけど、銀子ちゃんにばかり意識も向けてられない。対局に集中しないと。その後も俺たちは、代わる代わるに対局を重ねていった。結局、その後銀子ちゃんの体調にも問題無く、最後まで指し続けることができたのだった。俺も、本当に良い息抜きができたと思う。銀子ちゃんには良いプレゼントをもらったな。この前も、誕生日プレゼントをもらったばかりなのに。これは、きっちりお返しをしないといけない。お返しに、俺の四段昇段という結果を贈ろう。銀子ちゃんもきっと、それを望んでくれてるだろうから。俺はそう新たに気持ちを切り替え、三段リーグ最終日への、残り数日を過ごしていくのだった。

 

 

 

そして……

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、関東の将棋会館には、多くの人々が詰めかけていた。今日この日、プロ棋界には新たな猛者が加わることが決まっている。その猛者を決する、最後の試練が今から行われるのだ。猛者同士の喰らい合い。互いを蹴落とすために、この神聖なる会館内でも最も神聖とされる一室に、猛者達が詰めかけてくる。その猛者達を待ち構えるかのように、会館外には多数の報道陣が詰めかけていた。そして、その報道陣全てが目当てにしているのは、一人の少年だ。その少年、いや猛者が今、彼らの前に姿を現す。その姿を確認するや、彼らは飛びかかるかのように、その猛者へと詰めかけた。

 

「九頭竜三段おはようございます!最終日に対する意気込みだけお願いしてよろしいですか!」

 

「必ず今日を生き抜き、新たな自分となって皆さんの前にまた姿を見せたいとおもっております」

 

「ありがとうございます!頑張ってください!」

 

報道陣達は、その一言だけを聞いて引き下がった。本当なら、もっと質問をしたかった。しかし、彼らはできなかった。その理由は、彼の気迫に押されたからだ。いや、そもそもあれは本当にただの気迫だったのだろうか?並々ならぬ何かを、彼らはあの少年の皮を被ったナニかから感じ取っていた。

 

「棋界の覇王……」

 

誰かが、少年の通り名を呟く。その言葉を聞いて、一人、また一人と今のが何だったのか、その正体に気づいていく。そんなバカなと思う人もいるかもしれない。そんな物、普通感じ取れるわけがないと思うかもしれない。しかし、そこにいた誰もが、その答えに納得してしまっていた。あれは間違いない。あれは、覇王が放った覇気だったのだと……

 

 

 

 

 

 

 

 

関東将棋会館特別対局室。そこに、多くの猛者達が放たれ、各所において二者が向かい合っていた。もうまもなく、対局が始まる。全ての対局がメインカードだ。しかしその中でも、特に注目が集まるカードが二つあった。

 

「今日は関東の天才が相手か。関西の天才には負けたけど、君にはかたせてもらうよ」

 

「我も負けるつもりは最初(はな)からありません。全力で勝たせて頂きます」

 

現在三敗、篠窪大志三段と、現在二敗、神鍋歩夢三段の対局。それと……

 

「遠慮はいらない。俺の首を取るつもりでこい」

 

「もちろんそのつもりです。覚悟してください。……………………鏡洲さん!」

 

現在二敗、九頭竜八一三段と……同じく二敗、鏡洲飛馬三段。猛者の頂点を決める闘いがまもなく始まる。最後に笑うのは、泣くのは一体誰なのか?後に識者達は語る。この結末を予想できた者は、一人もいなかっただろうと。波乱に波乱が重なる猛者達の狂宴。その最終章。舞台の幕はまもなく上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第49回三段リーグ最終日……………………開幕!




思いつきでプロットいじったり、やっぱりやーめた!で元に戻したり、やっぱり思いついた奴のここだけ取り入れよう!と更に修正したりしてたら、予定より大幅に遅れてしまった
申し訳ない
思いつきで書いてたのそのまま書いてたら、二万文字超えそうだったんだもん
今回は分割したくなかったし、ちかたないね
思いつきのプロットは、また少し改変して、特別編で投稿しようと思います
投稿予定としては、来年のGWです
そこ、先すぎだろとか言わない
次は早く投稿できる……といいなぁ

八銀はジャスティス


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第47局 激闘の予感

もうすぐ銀子ちゃんの誕生日ですね
まだ一文字も誕生日記念書けてないけど(白目
八一の時も同じ事言ってましたね
今回は、この土日が諸事情で執筆できないので、間に合わないかも……
まぁ……頑張ります
合い言葉は、八銀はジャスティス


隙が無く、強い。プロ入りしていないのが不思議な実力。プロ入りは時間の問題だろう。

鏡洲さんは、ずっと周りからそのように言われてきた。実際その言葉の数々は、何も誤ったことを言っていない。全て、正しい言葉だ。だがそれでも、鏡洲さんはずっと三段リーグの壁を突破できずにいた。前期も、最終日、最終局まで昇段争いに絡みながらも、最終局を落とし、その結果、後一歩及ばず昇段を逃している。本当に大事な対局で、勝ちきれない。それが、鏡洲さんのウィークポイントとなっていた。実力通りに指せれば勝てるはずなのに、勝ちきれない。将棋には何も問題がない。問題があるとすれば、それは精神面だろう。それは、本人が頑張って乗り越える必要があるだろう。

 

それさえ乗り超えれば、プロでもやれる実力は間違いなくあるのだ。現に、鏡洲さんは、プロ棋士達をも倒して新人王戦で優勝もしている。新人王戦で三段リーグ参加者が優勝した場合、次点が与えられる。だがしかし、それは前生での話だ。前生でも、その規定ができたのは2014年になってからのことだった。今生でもその規定ができるとして、今から数年後のことだ。なので鏡洲さんは、新人王戦優勝では次点をもらえなかった。

 

……俺としては、新人王戦で三段が優勝した場合、次点ではなく、特別規定で四段昇段させてあげてもいいのにと思う。プロも参加する大会で最高の成績を収めたのだから、別にプロと認めても問題無いと思うのだが。実際に、新人王戦で優勝した棋士のほぼ全てが、後に大先生と呼ばれたり、タイトル戦に絡むような、所謂棋界の成功者なのだから。……因みに俺は優勝したことが無い。唯一参加した時も、負けてしまったし、直ぐに竜王になったから、そもそも参加資格自体を失ってしまったのだ。前生で唯一優勝できなかったプロ参加型の棋戦だ。

 

そして鏡洲さんの今期の成績だけど、既知の通り、14勝2敗となっている。そしてこの2敗、信じられないことに現在降段争いをしている二人に負けたものだ。鏡洲さんの今期開幕局の相手は、歩夢だった。歩夢の成績を知っている人ならわかるだろう。歩夢の開幕2連敗、あれの原因は鏡洲さんと坂梨さんだ。開幕からこの二人が相手とは、歩夢の運の無さも凄い。鳩森神社でお祓いしてもらった方がいいんじゃないかな?

 

そして鏡洲さんは、歩夢に勝った次の対局、午後の対局で、あっさりと負けてしまった。歩夢との対局に全てを出し切ってしまったのだろう。それほど、歩夢が鏡洲さんを消耗させたということかもしれない。そしてその後、鏡洲さんはあの坂梨さんにも勝利してみせた。そう、俺の前に、坂梨さんが唯一負けた相手が、鏡洲さんだったのだ。そして鏡洲さんは、午前に坂梨さんに勝った後午後の対局で、またもあっさりと負けてしまった。歩夢の時と同じように、坂梨さん相手に全てを出し切ってしまったのかもしれない。

 

つまり今期の坂梨さんは、今後の昇段争いに関わる大事な対局を落とさず、その次の勝ち星換算してもいいような対局で負けているのだ。……これもまた、精神面の問題なのかもしれない。だが、全力を出せる午前の対局において鏡洲さんは、あの歩夢や坂梨さんにすら勝ってみせているのだ。午前対局無敗なのだ。因みに、昇段争いをしているもう一人、篠窪さん相手には、午後の対局で勝っていた。その篠窪さんは今日、午前に歩夢と対局し、午後からの最終局で、坂梨さんと対局する。こっちも凄い日程だ。

 

まぁそれは今は置いておいて、鏡洲さんだ。俺は今から、今期最強であろう、午前対局の鏡洲さんと対局する。絶対に勝てる、と自信を持って言える相手では決してない。しかし、絶対に勝たなければいけない。勝たなければ、俺の未来は暗雲で閉ざされてしまう。その暗雲は、自力で晴らすことができない。そんな絶望的な状況だけは避けたい。だから……絶対に勝ってみせる。

 

対局は、静かに始まった。先手は俺だ。俺は、初手で2六歩と飛車先の歩を突く。鏡洲さんも、8四歩と飛車先の歩を突いて応えてくる。更にお互い歩を一歩ずつ進める。相居飛車のスタンダードな進行で、4手が進んだ。最初に変化が訪れるのが、この5手目だ。この5手目で、この対局の戦型は決定されると言ってもいい。その一手、その大事な一手に俺が選んだのは、7六歩だった。鏡洲さんが、意外だという感想を顔に表す。最初の手を見て、きっと鏡洲さんは、俺が得意な相掛かりを選ぶと思っていたことだろう。鏡洲さんも、相掛かりを指すつもりで、合わせて指していたはずだ。

 

だがしかし、俺が選んだ戦型は、相掛かりではなかった。鏡洲さんとの練習対局では、銀子ちゃんと同じように、相掛かりを最も多く指してきた。戦績は、俺の方がかなり勝ち越している。しかし、負けたことも何度だってある。だからこそ俺は、より確実な勝利を求めて、敢えて相掛かりを選ばなかった。手の内を知られた相掛かりではなく、鏡洲さんと幾度も指したことはあるものの、相掛かりに比べれば対局数の少ないこっちの戦型を選んだ。この戦型だって、相掛かりと同じように、俺の得意な戦型だ。

 

鏡洲さんは、3二金と指してくる。そして、俺は7七角と、角を上げた。鏡洲さんは、その俺の動きを見て3四歩と、角道を開けてくる。更に俺は、8八銀と指す。そして、次の一手でこの対局の戦型が確定する。鏡洲さんの指した手は、7七角成。俺は直ぐさま、同銀と指す。角換わりだ。一括りに角換わりと言っても、その中身は千差万別だ。棒銀、早繰り銀、腰掛け銀等々、角換わりから波状する戦法は数多い。俺が何を選ぶのか、この重要な一局に何を指すのか、鏡洲さんは、緊張したような面持ちで俺の右手を見つめていた。だけど、まだ動かない。俺はまず手始めに、7八金と指し、左翼を安定させる。鏡洲さんも2二銀と指して、左翼を安定させにかかる。次の手も3三銀で間違いないだろう。

 

その前に俺は、右翼の下準備を始める。4八銀と、まずは銀を動かす。鏡洲さんが予想通り銀を定石通り動かしたのを見て、俺は3六歩と歩を進めた。ここから次に銀を3七4六と動かしていけば早繰り銀だ。鏡洲さんも、俺に遅れながらも右翼の銀を上げてくる。さぁ、ここで俺が銀を動かせばまず間違いなく早繰り銀だ。大穴で2六銀と指し、棒銀にシフトチェンジする可能性もあるが、その可能性は鏡洲さんも考えていないだろう。俺も指す気は無い。鏡洲さんが、食い入るように俺の右手を見つめてくる。まぁ、まだまだ定石の範囲内なので、俺が長考に入ることもない。ほんの少しだけ間を置き、俺は自陣の駒を手に取った。俺が持った駒は、銀では無かった。4六歩。俺は、また一つ歩を前に進めた。その俺の手を見て、鏡洲さんが少し目を細めた。もしかしたら、早繰り銀を指すと予想していたのかもしれない。しかし、俺が選んだのは早繰り銀では無かった。その後俺は、4七銀、5六銀と銀を中央に向けて上げていった。角換わり腰掛け銀。それが今回、俺が選んだ戦法だった。そして、鏡洲さんも俺と同型になるように手を進めてくる。相腰掛け銀だ。

 

そして銀を上げると俺は、3七桂と桂馬を跳ね、そして8九飛車と、飛車を下げた。底飛車、または下段飛車と呼ばれる形だ。単に、普段二列にいる飛車を、一番下の列に下げるだけの単純な形。しかし、単純だが強い。これをするだけで、自陣の安定性が大幅に上がる。そして更に、4八金と金を上に上げ、自陣を安定させる。腰掛け銀は、持久戦に優れた型だ。早繰り銀が、攻撃的な型なのに対して、腰掛け銀は受けに優れた型だ。互いに、長い対局になりそうだと覚悟を決める。三段リーグの持ち時間は90分。しかし、その90分が最終的には、両者残っていないだろうという不思議な確信があった。俺は次に、6六歩とまた歩を一枚進める。これで、腰掛け銀の基本型が完成した。ここからは、タイミングの取り合いだ。先にどちらから仕掛けるか。その仕掛けるタイミングの取り合い。最初に歩をぶつけるのはどちらか。どこから仕掛けるのか。自陣のバランスを崩さないように慎重に駒を動かす。相手が攻めてきそうだと思ったポイントの守りを上げて、自陣が攻めようと思うポイントに駒を送る。互いに、角を握り合っているので、下手な手は指せない。相手に角を打たせる隙を与えないように、慎重に、繊細に駒を動かしていく。ジリジリと、間合いを詰め合うような時間が続く。息も詰まるような緊張感。鏡洲さんと俺は、互いに踏み込むことを躊躇していた。互いに、相手の実力はよく知っている。だからこそ、返しの刃を恐れていた。踏み込めば、強烈なカウンターが飛んでくる。相手の実力に対する信頼が、そのような確信を抱かせる。だからこそ、慎重に手を進めていた。

 

一体、どれほどの時間そのようにしていただろう。手数にすれば、それほど進んでいない。しかし、持ち時間を互いに使いすぎている。一手一手に、この序盤から時間を使いすぎなのだ。慎重に手を進めすぎた結果が、この状況だ。しかし、いつまでもこの調子で進行するわけにはいかない。このままだと、開戦前に時間を使い切ってしまう。中盤から終盤までずっと一分将棋なんて展開は絶対に避けたい。だからこそ、踏み込むしかない。勇気を振り絞って、前にいくしかない。そう、鏡洲さんも考えたのだろう。手番を迎えていた鏡洲さんが、力強く自身の歩を、前に進めた。その歩が置かれた目の前のマスには、逆向きの歩が置かれている。歩がぶつかりあった。鏡洲さんからの合図だ。開戦するぞという、合図だ。その手を受け俺は、一拍置き、目を閉じ深呼吸を一つした。そして、徐に目を開けると、力強い手付きで同歩と指した。開戦だ。もう、止まることはできない。

 

そこからは、それまでの展開が嘘かのように、目まぐるしく駒が動きまくった。至る所で、駒がぶつかり合い、お互いの駒台の上に乗せられていく。互いの囲いに向けて、次々と駒が迫っていく。押し寄せる鏡洲さんの猛攻を必死に受け、直ぐさま反撃の一手をお見舞いする。しかし、鏡洲さんも流石の対応力だ。しっかり丁寧に受け、これまた鋭い一撃を返してくる。互いに仕掛けるものの、決定打には全く繋がらない。おそらく、ソフトを使っても形勢は互角と出ることだろう。中盤から終盤に差し掛かりつつあるのに、この形勢だ。勝負の行方は、どちらに転ぶか全くわからない。しかし、いつまでもこの形勢を許すわけにはいかない。早く、どうにかして優勢に持っていかないと、鏡洲さんに先に形勢を掴まれると、ひっくり返せないような展開になってしまう可能性だってある。そろそろ、何か工夫を凝らさないといけない。そう思っていた時だった。

 

「くっ!?」

 

思わず、苦しそうな声を出してしまった。先を鏡洲さんに越されたのだ。鏡洲さんが、工夫を凝らしてきた。角だ。遂に角を打ってきたのだ。上手い。思わず賞賛したくなるほどの、絶妙手だった。見事に自陣の守りに活用しつつ、激戦地への攻めにも活用できる絶妙なポイントに打ち込まれていた。もしかしたら、ずっと前からこのタイミングを狙っていたのかもしれない。しかし、これは手痛い一手だ。あの角に睨まれたんじゃ、受けるのがしんどい。何か、対策を考えなければいけない。俺はここで、残り時間全てを使った長考に入る。角への対策を必死に考える。考えれば考えるほど、その手の恐ろしさがより鮮明に見えてくる。何も対策しなければ、忽ち詰めろに繋げられてしまうような攻めの手でありながら、絶妙な位置で玉を守護する受けにも繋がっている。なので、攻勢に出ようにも出られない。どうするか、必死に考える。考えて、考えて、持ち時間を使い果たしても考えて、一分という制限時間が無くなるギリギリまで考える。考えて、考えて、そして導き出した答えが、この一手だった。

 

「なに!?」

 

鏡洲さんが思わず声を上げる。俺の指した手に、驚愕する。俺が指した手、それは、角の利いてる対角線上に飛車を配置して受けるというものだった。底飛車に構え、2列から移動させていた飛車を上に上げ、角の射程に置く。つまり、角で取れる位置に飛車を置いたのだ。別にタダ捨てでは無い。ちゃんと、飛車を置いた位置には銀が利いている。つまり、この飛車を取れば飛車角交換になるのだ。大胆な一手。だが、その手が好手かどうかと言われると、誰もが疑問を抱くような手。もしかしたら、ソフトもこの手を悪手と評価するかもしれない。しかし、次の一手が非常に難しい手だ。鏡洲さんも、頭を抱えて悩んでいる。そして、長考に入る。当然だろう。次の一手が、この対局の終局に直結しかねない、大事な一手だ。幾ら時間があっても足りないほどに、考えたい局面だ。鏡洲さんは、惜しむことなく持ち時間を全て使い切る。悩みに悩み、時間ギリギリまで粘って、運命を決める大事な指した。

 

鏡洲さんが指した一手、それは………………………………同角だった。

俺は、直ぐさま同銀と指し返す。お互い、ここからは一分将棋だ。対局は、終盤へと突入していく。絶対に負けられないこの一局。その結果は、どちらに転ぶかまだまだわからない。俺たちには、この対局が、今期の三段リーグ、現時点で最大の激闘になる予感があった。その予感を胸に秘めながら、俺たちは短い一分という時間に、自身の命運を託していくのだった。




対局の途中で終わってますが、今回は急遽分割したわけではありません
予定通りです はい
次は、間に合うかわからないけど、銀子ちゃん誕生日記念特別編です
そういえば、本作投稿開始から、昨日で丁度一年を迎えました
ここまで投稿を続けられたのも、いつも読んでくださってる皆様のおかげです
本当にありがとうございます!
これからも、スローペースではありますが、完結目指して投稿をがんばっていきますので、お付き合いしていただけるとありがたいです
よろしくお願いします

八銀はジャスティス


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