忘れじの 行く末までは 難ければ (赤沙汰那覇)
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忘れじの 行く末までは 難ければ

自己評価であるが私の性格は最悪だ。

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

学校に通う。家に帰る。「宿題」に取り組もうとする。寝る。

大きく分けるとこの4つ。

自分の人生の貧しさここに極まれり。

 

「ああ。」

 

ため息でも吐けば、まるで心配でもするみたいに私の顔を鳩がのぞき込んでくる。

 

「ううん。何でもないよ。」

 

といって柔らかくなでてあげると、気持ちよさげに首から力を抜いたように見えたのは私の勝手な思い込みだろうか。

それに少しだけ微笑ましくなる。

 

でも。

 

「ごめんね。ほんとはお前の首を切ろうとしてたんだよ。」

 

ははは、と自分を情けなく笑う。

 

黒魔術を鍛錬すること。

それは亡き父から言われた宿題だった。

あれからかれこれ8年も経つというのにろくに黒魔術は上達のそぶりをみせない。

それはきっと、こんなこともできないままでいるから。

 

(しかたない……)

 

今日も自分の腕の血管を切って代用とする。

 

 

思い出すのは8年前のお姉ちゃん。

今の私よりも年が2つも下だったっていうのに、「自分の身体みたい」というよりはそれ以上に色んな魔術を扱っていた。

あの頃の私は目を輝かせてお姉ちゃんすごい!!っていって憧れてた。

 

それでも

 

「お姉ちゃんみたいになりたい。」

 

とはついぞ言わなかったな。

子供ながらに、お姉ちゃんは特別なんだって分かってたからだと思う。

何をするにも完璧で、できないことがあるのなら誰か教えてほしいくらいだ。

 

よく完璧であることを球体に例えることがある。

どこにも角がなく磨かれたそれは確かに素晴らしいと思うけど、私に言わせればお姉ちゃんこそが完璧を体現した存在で他はまがい物だ。

 

そんなお姉ちゃんがいたからこそ、いつも思うことがある。

 

「なんで、私が生きてるんだろう。」

 

だってお姉ちゃんも、お父さんも死んだんだ。

 

私よりもずっとずっとすごかった2人が死んだのに、なんの力も持たない私はこうしてまだ生きてる。

 

別に今生きてることに不満を抱いているわけではない。

私が生きているのはすごく奇跡的なことの上に成り立っている。

そんな気がする。

 

だからこれは単純に疑問なだけ。

 

机の上に腕を枕に顔を寝かせて、ぼんやりとそんなろくでもない思考に耽っていると、いつの間にかずれた眼鏡ごしに木目が写った。

 

(なんだろ?)

 

眼鏡を直してやると机の上に置いていた木製の写真立てだった。

そこには在りし日の家族があった。

厳格そうな父さん、無表情気味のお姉ちゃん、まだその後の悲劇のことも何も知らずに馬鹿みたいな笑顔を浮かべる私。

 

あの頃に戻れたらいいな。そう思う。

小難しいことなんて考えることもできなかった私は、それでも確かに幸せだったんだ。

 

お父さん、お姉ちゃん……明日は8周忌だよ。

 

天国にいる2人は私を見守ってくれているだろうか。

そうだとしたら嬉しいな。

 

仮にこの前黒魔術の練習がてらやった占いの通りに、私が明日死んだとして。

それはそれでいいんじゃないかな。

 

(早く2人に会えたらいいな。)

 

移ろう意識の中で金色の糸束が優しく揺れたような気がした。

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

鈴の音のような綺麗な声が私を誘う。

その心地の良い音の旋律に、目が覚めかけていた私は微睡みの中に戻り始めていた。

 

しかし、そんな私を察してか一喝が放たれる。

 

「ひっ。ごめんなさい、起きます!! おn」

 

え?

 

勢いよく立ち上がると、目の前にある涎で濡れた机があるだけ。

首をぐるぐる回しても人の気配なんてまるでない。

 

でも、なんだか頭がいつもよりも重いような。

そう思って頭に左手を伸ばしてみると、もふもふとした感触が伝わってくる。

 

頭痛で重いわけじゃなくて、物理的に重くなっていたわけだ。

 

なるほどと独り合点しつつ、右手も頭上に伸ばす。

正体の不明な「対象」を鷲掴んで目の高さまで下ろす。

するとそこには昨日の「宿題」用に出して、籠にしまい忘れたと思われる白い鳩が無垢な瞳でこちらを見つめ返していた。

 

(いや、まさか鳩が怒鳴ったわけじゃないだろうし……)

 

じとーーっとした目で見つめれば

 

「くっくーー」

 

と返してくる。

その声は、さっき聞こえた気がするものとは違うように思う。シミュラクラ現象、じゃないけど、動物の声を人間のものと聴き間違えたなんてこともなさそうだと思う。

 

(幻聴、だったのかな?)

 

少しだけ懐かしいような気のするあの声は誰のものだったんだろう。

首を捻っていると、けたたましくリンリンリン!!とタイマーの音が鳴り響いた。

 

「うわ、もしかして……」

 

時計を見れば、8時5分を指している。

 

(私、気づかなかったけどもうタイマーの音を2回も無視してる!)

 

「学校、やばい!!」

 

慌てて着替えて、もう朝ご飯食べてる時間がないことに顔をしかめる。

どたどたと足音を豪快にならしつつガーデンから自室に戻り、荷物を取って、やっとの思いで玄関の扉を出る。

 

「行ってきます!」

 

不思議なことにどんなに忙しくても、もう誰も家には私も待ってくれる人なんていないはずなのに、この言葉だけは忘れなかった。

 

まるでいってらっしゃいと家が言ってるかのように、優しく風が背中を押した。

 

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

学校に着いて、授業開始ぎりぎりでの入室。

間に合ったんだからつべこべ言わないでほしい。

そうは思うんだけど、やはり教師という職業柄なのかくどくど説教を受ける。

 

早くも億劫だ。

 

いつも一人でいる私が、整然と列をなして座る同級生に見守られながらも開かれた講釈は3分もして終了した。

もうくたくただ。

 

帰りたい、切実に。

 

しかし先の一件で目をつけられたのか、今日はやたらと私を狙って教師は指名してくる。

そのときにも

 

「ぎりぎりで来るってことは余裕だってことだよな?」

 

だとか煽りを入れてくるもんだからむかむかする。

ぎりぎりだけど間に合ったじゃない!!

 

そうして地獄の1時間はようやく終わりを告げるわけだけど、その後の授業でも示し合わせたかのように私を指名してくる教師陣。

 

「はい。じゃあ、ここは……。沙条。」

 

という言葉を何度聞いただろうか。

多分5回くらい。

 

当てる教師の目を見れば、狙ったっていうよりはただの偶然そうだったから、今日はそういう偶然が重なる日だったってことだと思うけど、今日は悪いことがたくさんあるのかな。

 

さほど信じてもいなかったけど、案外私、今日死ぬんじゃないかな。自分の魔術の力量不足だと思ってたんだけど、もしかして占い上手くいってた?

 

そういえばこの日に死ぬかもよって軽い気持ちでカレンダーに書き込んでた。

もし本当に死んじゃったら、「自殺」だとか「日頃から脅迫されていた」とかそういう線から警察の捜査が始まるんだろうか。

ああ、でも神秘の秘匿のためにも教会の人が来る方が早いか。

 

とは言え死んじゃったらそんなこと関係ない。

風に身を任せ、っていうやつだ。

 

そうして鬱屈とした気持ちをさらに深くしつつ今日の授業は終わり。

途中同じクラスで、「友達」の女子生徒から言外に、お前暇だろ?代わりに日直やっといてよと言われた。

しかし「父と姉の命日なんで」といって固辞する。

 

あんまり悲しそうだったから悪いことをした気分になる。

 

いやいや私は悪くないぞ。

 

なぜか後ろ髪引かれる思いがすることに困惑しつつも、帰路を急ぐ。

 

家に着いたらまずは学校用の荷物を自室に置く。

それから一応ガーデンのほうに顔を出して、鳩たちに餌をやる。

 

なぜだかいつも一羽だけ、私の手に乗ってる餌しか食べようとしない子がいる。

最初は面倒だなあと思ってたんだけど、いつもやってるとだんだん愛着が沸いてくる。

 

ちなみにその子が朝起きたときに頭に乗ってた子だ。

 

頭をぐりぐりしてやれば、もっと触って!とでも言うみたいに頭をさらに手に擦りつけてくる。

ほれほれと数分くらいそんなことをやってると口元がほころんでいるのに気づいた。

そうやって自分を客観視して、またため息をつく。

 

生前、お父さんは私に「鳩には声をかけるな。」と口を酸っぱくして教えてくれたのに。

 

こんなことじゃお父さんに顔向けできないな。

 

この子は私の弱さの象徴なのだ。

だからこそこの子をやらなきゃと思って毎日鉈を振り上げようとするのに、その鉈を下ろせないでいる。

そんな自分がいやになる。

殺さないで良かったってほっとしてる自分にも嫌になる。

 

いつしか複雑そうな目を向けている私に相も変わらず頭を擦り付けている鳩をもう籠の中に入ってもらわないとと思って入るよう促してやる。

いつもなら物わかりが良くすぐに入ってくれるのに、今日はなぜかなかなか入ってくれない。

 

今日はどうしちゃったの?

 

と私の右腕に足を貼り付けている鳩を左手でつんつんしてやる。

ぷいっと頭を背ける鳩。

むむっ、今日は強情だな。

 

まあ、ガーデンを締め切っておけば籠からだしておいても大丈夫なはず。

そもそも昨日なんてしまうの忘れてたくらいだし、いっかな。

 

そんな私の思いを読み取ったのか鳩は右腕から飛び立っていった。

飛び立って今度は私の肩に乗っかった。

 

「えええ。どうしろっていうのよ。」

 

そんなの知らぬとばかりに目を瞑る鳩。

 

「むぅ。」

 

諦めてもう先に他の準備やっておこっか。

財布をポケットに入れて、掃除用のスポンジを小さな鞄に入れる。

 

まあこれで準備完了なわけだけど。

 

どうも肩から離れる気配がない。

 

この子私のことが相当大好きなんじゃないの?

だんだんこのまま外に行っても逃げないような気がしてきたぞ。

 

こんな楽観的で大丈夫かとは思うけど、逃げてもいい気がする。

仮に逃げられたら、もうこの子を殺そうとなんてしなくてよくなるからだ。

 

「じゃあ、来る?」

 

くっくー!!

 

「いい返事。肩に糞落とさないでね。」

 

すると翼を威嚇するように広げる。

あ、怒った。

 

「ふふっ」

 

ほんとにこの子おもしろいなあ。

 

こういう流れもあって一人と一羽は連れだって霊園まで移動することとなった。

 

まずは電車に乗ることになる。

……って鳩どうしよう?!

 

結局隣町までのそれなりの距離を電車もつかわずに歩いて向かうことになった。

家にやっぱり帰そうとする私と鳩との仁義なき戦いについては省略する。

 

一言いうことがあるとするなら、

 

「鳩、許せない。」

 

だ。

にらみ付けても鳩は目を合わせようともしない。

なんとも憎たらしいやつだ。

 

普段さほど運動するわけでもない私はひいこら言いながら隣町に辿り着き、そこからまたえんやこらとでも言いながら霊園まで歩いて行った。

ちなみに鳩はそのときも肩に乗ったままだった。

重いんだから、飛んで移動してほしい。

 

そうしてやっとの思いでついた霊園。

その入り口の水くみ場で一つ桶をとる。

備え付けの蛇口から水を注いだら目的の場所を目指して歩き出す。

何基も立ち並ぶ墓の中から大して迷うこともなく、2つ並んで設置されたお父さんとお姉ちゃんの墓の前まで移動する。

 

「ふ、ぅ。ようやくここまで来れたぁ。」

 

墓はさほど汚れておらず掃除もさほど長くはかからないだろう。

掃除は大切なことだけど今の私には致命傷になりかねないからほっとした。

ちなみに帰路はどうするのかということは、頭の隅に追いやっておきたい。

 

桶の水やら持ってきたスポンジやらで2基とも掃除する。

毎年やっているだけにスムーズに進んだ。

 

あとは道中で買った白百合をそれぞれの墓に供えるだけ、というところで背後に何者かの気配があった。

 

驚いて思いっきり身体を背後に捻ると、自分よりも顔一個か二個分くらい大きな外国人の男が立っていた。

 

「ご家族のことは、本当にお気の毒でした。」

 

と語り出す神父っぽい服を着たその男は、見た目の通りにやっぱり胡散臭げな口調だった。

そういうやつの話は面倒くさいと相場は決まっている。

 

大方、聖杯戦争関係だとは思うんだけど、要はサーヴァントを召喚しなければそれで済むはずじゃないか。

私には関係ないし、勝手にやっていてくれ。

 

ただでさえこっちは歩いてきて疲れてるんだ。無視する権利はあると思う。

 

そういうわけで相も変わらずべらべら話す男に、

「なるほど」「すごいね」「悪いのはあなたじゃない」

この3つを適当に使い分けることで乗り切った。

 

この場合の適当は、「ふさわしく」っていう意味だ。

この私が人の話を聞かないなんて、そんなことは、ねえ?

まあ、聞いてなかったんだけど。

 

なんか話が終わったような気配がしたので

 

「これで失礼します。」

 

と言って、男のせいで供えられなかった花を墓前に置いて霊園をあとにした。

 

今日は本当に疲れることだらけだなぁ。

 

そして依然として肩から離れようとしない鳩。

実はこの鳩、謎の気遣いを見せてくれる。

私が右肩疲れたなあと思った瞬間にその思いをくんで左肩に移動してくれるのだ。

 

そんな気遣い、いらないから!!

 

私のこの思いも出来ればくみ取って欲しい。

 

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

帰宅できたのは夜の10時だった。

もうへとへとだったので、コンビニで弁当を買ってきた。

 

買ったときについてきたプラスチック製のフォークでハンバーグを切り取り口に運ぶ。

 

食べながら思い出す。

 

そう言えば、今日死ぬんだっけ?

 

でも、時計をみれば残り1時間と少しで日付が変わってしまう。

ということは杞憂だったのか。

 

(タロットを使った割と初歩的な魔術だったんだけど、こんなこともうまく出来ないのか、私。)

 

道のりの果てしなさに途方にくれそうになる。

というわけではなくて、

 

(要努力ってことだよね!!)

 

外れたことを笑い飛ばすように言った。

 

 

死ななくて済む、そう思えばほっとした。

 

実は聖杯戦争が行われるのはもうそろそろだろうって、本当のところ分かってたんだ。

考えないようにはしてたけど。

 

お父さん、お姉ちゃん。

大事な人の命を奪い、そして私が天涯孤独となったあの事件が繰り返される。

 

そんなものに毛頭関わりたくなかった。

生きたいから。

 

結局のところ達観したような言葉で自分を取り繕っても、本心は生き汚い。

 

でもそれでいいじゃないか。

 

タロットで出た今日の時間が過ぎさえすれば、それはもう私が聖杯戦争に参加しなければならないという宿命から逃れることが出来た、ということじゃないのか。

 

自分の魔術の実力を疑いつつも、なんだかんだで願掛けみたいにしてる。

そんな自己矛盾に苦笑する。

 

時計をみれば、もう何事もなく一日が終わろうとしている。

 

ある意味で、私のコンプレックスの象徴だった白い鳩。

でも今日一緒に出かけてみて、改めて思った。

あの子と一緒にいると楽しいんだ。

 

それが人間じゃなくて鳩なのは変かもしれない。

 

いつまで一緒にいられるのかは分からない。

でも根拠もないくせ、ずっと一緒にいられるような気がしていた。

 

 

 

 

 

ご飯も食べ終わってお風呂にも入った。

それから寝るまでは何をしていようか考えたとき、思い浮かんだのはあの鳩だった。

 

じゃあそれまでは、鳩ぽっぽと遊ぼっかな。

 

ガーデンに入り鳥籠を開ける、待ってましたと言わんばかりに右肩に飛び乗った。

 

ふふ、かわいいやつ……

 

頭をいじいじ触ったり、鳩を頭の上に乗せたまま片足立ちしてどれだけ立っていられるか挑戦したりした。

 

そうやってバカみたいに時間が過ぎていく。

でもこんなに笑ったのは久しぶりだな。

 

これから幸せになれる。

 

そう思っていた午後11時59分。

 

 

秒針が一定のリズムで時計回りする。

 

そしてついにその針が0を指した瞬間。

 

ガーデンの隅に安置されていた柱時計が音を鳴らす。

 

ごーん。

 

という独特の響きに肩を一瞬だけ震わせる。

子供のころは怖かったこの音も今となっては恐怖も何もない。

 

というよりも今は日付が変わったことのほうが重要だ。

つまり、私は生き延びたんだ。

 

(よかったぁ。)

 

じゃあ、安心もしたし自室で寝てこようかな。

座っていた椅子から立ち上がり、鳩に別れを告げて籠にしまおうと思った、そのとき。

 

柱時計が12回目の鐘を鳴らした。

 

まるでそれが合図だったみたいに、同時に3つの出来事が起こった。

 

鳩が何もないだろう窓の方向に急に頭を向ける。

鳴り終わった柱時計が静寂を守り始める。

鳩がじっと見つめていた窓ガラスが割れ、何者か侵入してくる。

 

「きゃっ!!」

 

ガラスの破片に驚いて咄嗟に腕で顔を隠す。

バラバラとガラスの破片が散乱していく音がする。

腕をじわじわと顔から下ろしていくと、そこには男がいた。

 

綾香は目の前の光景が信じられなかった。

 

日付は変わったはずだ。

杞憂さえない平凡な日々が来るはずではなかったのか。

 

焦りから思考が同じことしか考えられなくなる。

 

そんな綾香を余所に、侵入者はその片手に槍を携えて、頭を掻きながら、飄々とこう言った。

 

「よう嬢ちゃん、あんたが沙条サンで合ってるかい?」

 

濃密な死の気配を撒き散らしながら。

 

「まぁ、合ってなくてもここまでやった以上は殺すんだが」

 

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

ランサーの沙条邸への襲撃。

 

それが聖杯戦争の初戦となった。

 

片や歴戦の勇者。

片やサーヴァントも召喚していない見習い魔術師。

 

実力の差は歴然だった。

 

それに加えて

 

(鴉の羽、今、持ってない……!!)

 

つまり対抗できずとも、時間を稼ぐことさえもできない。

 

冷や汗が止まらない。

頭が真っ白になる。

瞳孔が散大する。

 

(打つ手なし、か。)

 

目前に迫る死。

 

これは覆すことが出来ない。

 

けれど、

 

(私が、諦めていい理由にはならない!!)

 

恐怖で染め上げられた表情が変わる。

その顔には相対する敵に何かあると錯覚させるだけの気迫を持っていた。

 

戦士ではない少女にしてこの気迫はまさに驚嘆といったところ。

ここまで追い詰められた状況。

対抗のための手段は見たところ持ち合わせていない。

 

そんな少女がしていい目ではない、覚悟の決まった良い目だ。

 

その目に、ランサーは己のマスターの判断に得心する。

 

(サーヴァントを持つ前にこの嬢ちゃんを潰せるのは大きいぞ。)

 

マスターによれば、確実に目の前の魔術師も令呪を持っているはずだと言っていたが、この後に及んでサーヴァントの気配もないとすれば、クラスはアサシンか、そもそも未召喚か。

おそらくランサーによる襲撃を含めて、目の前の女にとってはハプニング以外の何物でもないことは確かだろう。

それだけに女傑としての萌芽を垣間見えさせる意思のこもった目には、神代に槍を交わし合った数々の偉丈夫たちを思い起こさせる。

 

(それだけにちと惜しいが)

 

この、修羅と呼ぶべき存在の欠けてしまった時代に、己のマスターもそうだが面白そうなやつに会えてよかった。ランサーは心の内で賞賛を送る。

 

それはそれとして

 

「殺す。」

 

さぁ、沙条サンとやら。このオレに何を見せてくれる。

槍を中段に構えた。

 

そのランサーの動きを見つめながら綾香は、素人目にも分かるその隙のなさに舌を巻いた。

 

そして自らの死期はもはや覆りようのないことを悟った。

 

絶対的な死を前にして、人は何ができるのか。

否、逆説的に死ぬことが分かっているからこそ、なんだってできる。

 

綾香にとって運がよかったのは、襲撃の直前に自室に向かおうと立ち上がっていたことだった。

もしも襲撃が数十秒でも早ければどれほどの覚悟を見せたところで座ったままの無抵抗で死んでいた。

 

舌を血が出るギリギリのところまで噛み切った。

痛い。

しかし魔術の等価交換のための対価はここになった。

 

発動する魔術は、まずは自陣を整えるためのもの。

 

まずは目の前に壁をつくった。

 

一瞬のことだった。

 

それに呆気にとられるランサー。

まるで魔術的な動作がなかったにも関わらずこのようなことが起こった。

それに驚いたのだ。

無論通常の環境では、綾香はここまでの効力をもつ魔術を発揮することは出来なかっただろう。

しかし、ここは沙条の邸宅。

半人前とはいえ魔術師の工房だ。

この場所においてのみ綾香は常識をわずかに越える程度の速さで魔術を行使できる。

 

しかし、その撹乱も2秒と続かない。

すぐに自慢の槍でもって壁をなぎ払う。

 

当然のこと壁は呆気なく崩壊した。

しかし

 

(いねえ。)

 

忽然と綾香の姿は消えていた。

 

(どこへ行った?)

 

目を閉じ耳に感覚を集中させた。気配や反響音、それから魔術的な痕跡。様々な残り香を嗅ぎ分けること2秒と少し。沈黙の後

 

(下だ!!)

 

真下に向かって槍を投擲する。

床は崩壊して、隠されていた地下室を暴き出す。

 

地下室は鬱蒼としていた。

 

(高さは8メートルくらいか。広さは襲撃直後に嬢ちゃんと相対した部屋と同程度ってところかね。)

 

そして蔓で満たされて視界は不良。なるほど隠れるにはもってこいの場所だ。

 

(着眼点はいいが、甘い!!)

 

しかしそんな小細工が通用するのは理の範疇内の存在に対してのみだ。床に突き刺さった槍を抜き、それを横に薙いで蔓を一掃。

 

しようとしたが、

 

(なにぃ?)

 

腕が後ろに引っ張られて、思うように動かない。

 

後ろを振り返れば、ランサーの左手には蔓が巻き付いて離れない。

 

(ちっ)

 

左手に力を込めてぶちぶちと無理矢理引き剥がす。

 

(これまた面倒な)

 

しかしこれまた槍を的確に振り回すことでこれに対処。

すぐに追いつくかに思われた。

 

進んでいくと、目の前には上に伸びる階段。

 

(なるほど、上に戻ったか。だとすれば、今の過程は手持ちを整えるための時間を稼ぐためってことかね。)

 

何もランサーは本気で綾香とやりあえるだなんて微塵も思っていない。

どこまであの少女が見せてくれるのか。

それに期待していた。

 

確かに大逆転など、この期に及んで起こりえない。

しかし、それこそまさに慢心と呼ぶべきものだったことに、ランサーは未だに気づいてはいなかった。

 

元の階に踏み込もうという瞬間に、黒いものがいくつも襲いかかってきた。

壁に突き刺さったそれは黒い羽。

 

(鴉、か)

 

これは黒魔術の基礎の基礎。

 

(嬢ちゃんが黒魔術の使い手であると分かれば、色々とこれからの動きを読みやすくなってくる。くるわけだが、)

 

しかし、この光の御子たるクーフーリンの目を持ってしても追い切れない速度で飛んできた。

どういうことだ。

 

前情報では、魔術に関しては半人前もいいところと聞いていた。

これではおかしいじゃないか。

 

マスターの最初の案によれば最初に犬をけしかけて綾香のサーヴァントに対応させる。その隙をついてクーフーリンが確実に綾香にとどめを刺す。そういう流れだった。

今もなおサーヴァントの存在を隠したままランサーの襲撃に耐え続ける少女を目の当たりにして、犬程度少女だけでも対応できてしまうことが判明した。

ならば、隙をつくことも能わず、双方万全の状態のサーヴァントどうしの戦いに持ち込むとすれば、もちろんクーフーリンも負けてやる気はないけれど、マスターとしては容易い展開ではなかっただろう。

 

(オレが犬に先んじて出張ってきたのは正解だったか?)

 

ランサーの考えは綾香がサーヴァントをこの危機的状況に及んでも秘匿させているという前提の上での議論である。実際のところ綾香はサーヴァントを召喚してもいないし、彼のマスターの当初考えていた、犬をけしかける必要性もなかった。

とはいえ、万全を期して1人のマスター候補を潰すという意味では悪い案ではない。犬に先んじて襲撃したのはランサーの独断専行である。理由は暇だったから、これに尽きる。

 

後日ランサーはマスターたる玲瓏館美沙夜に、このことでこっぴどくいびられる羽目になるわけだがこれは別の話。

 

これまでのやりとりでクーフーリンは前情報よりもうんと綾香の評価を上方修正した。

 

先の強襲から再び相まみえた2人。

 

豪傑の勇士は目の前の少女を見て背筋を震わせた。

恐怖ではない。

これは賞賛だった。

 

ああなるほど、確かに我がマスターの下した評価以上に渡り合ってくるはずだ。

 

目の前の少女の右手には、左手が掴まれていた。

これが真相である。

つまりは

 

(この女、自分の左腕を切って魔術の触媒にしやがった……!!)

 

血まみれの少女の表情からは先ほどのそれよりも血の気を引かせていたが、その表情に浮かぶ苛烈さは増すばかりだ。

 

このときランサーの中で、この女はオレが必ず仕留めるという思いを新たにした。

 

それだけではない。

 

ランサーはここに来るまでの過程を思い出す。

 

そう。

綾香の叫び声などただの一度も聞いていないのだ。

聞こえていればその方向に槍を投擲して、その瞬間に決着が着く。

 

しかし現実として、クーフーリンを相手にしてからこれほどまでに時間が経っているのだ。

 

つまり綾香は

 

(叫び声を押し殺した上で左腕をぶちぎったってわけか。)

 

面白い。

それだけに、本当に惜しく思う。

もしも同じ時代に生まれていたならと、この英雄をして思わせる胆力。

 

「沙条とやら、お前さんに敬意を表するよ。」

 

「だったら、ここから退いてくれる?」

 

「いいや、お前さんはオレが絶対に殺すと決めた。」

 

「はぁ……。」

 

ため息をついて、

その刹那。

 

切り取った左腕に残った全リソースを費やして、その左腕自身をランサーに向けて打ち込む。

速度はランサーが目視できないといったそれを多少上回る程度。

 

しかし、それだけではない。

ランサーの首元にぶつかった瞬間に腕は爆散した。

 

やったか?とは思わない。

 

この程度でやられるようなサーヴァントじゃない。

あれほどの濃密な殺気を纏えるやつがあれで消滅するわけがない。

 

だからすぐに逃げる。

どれくらいの時間を今の爆発で稼げるのかは分からないがさっさと逃げる。

 

出血しすぎてふらふらになる。

 

それでも走り抜ける。

 

走って走って走って。

着いた先はお父さんが昔、ここに入ればもう安全だといった部屋。

 

入ったらすぐに結界を作動。

 

(これで、だい、じょうぶ? だよね?)

 

もうあとはこの場所でゆるやかに死を待つのみ。

倒れ伏して、荒くなった息を整わせる。

 

結局死んじゃったなあ。

 

あの鳩、だいじょうぶかなあ。

 

幸せになりたかったなあ。

 

次々と浮かんでは消えていく後悔の念と、かすんでいく視界。

 

 

 

ま、弱まっていく心臓の鼓動でも感じていようか。

 

そう考えていた沙条綾香。

 

しかし、そうは問屋は下ろさない。

 

 

 

結界で封じたはずのドアが吹っ飛んで向かいの壁にぶつかる。

 

 

(う、そでしょ)

 

扉から現れるのは、やはりランサー・クーフーリン。

 

「言っただろう?お前はオレが殺すって決めてんだ。」

 

爆発の影響で埃がそれなりに付着している。

傷はかすり傷程度の軽さ。

 

「死んだとは、思わなかった、けど、いや。まさか、ここまで、とは。」

 

「お褒めの言葉をありがとよ。実際オレに矢よけの加護がなけりゃ結構いい線いってたかもな。」

 

このような死地に似つかわしくない、人好きのする笑顔だった。

 

「く、そ」

 

それは割と自信作だったのにほとんど傷を負わせられていないこともそうだけど、どちらかと言えば目の前の男にいい線いってたかもと言われて喜んでる自分がいたことに対しての言葉だった。

 

「嬢ちゃん、誇っていいぜ。嘗めてかかっていたとはいえ、サーヴァントを生身の人間がここまで追い詰めたんだ。」

 

「できれば、死にたく、ないなあ、なんて」

 

少しだけ戯けてみせると、ランサーは面白い冗談でも聞いたかのように大笑いをする。

 

「嬢ちゃん、その出血量じゃあ先は長くないだろう。おとなしくオレにとどめを刺されろ。」

 

徐々に距離が近づく。

 

歴戦の戦士にここまで認められたのなら、いい人生だって言えるんじゃないか?

 

そう思った。

そしたら張り詰めていた力が一気に抜けた。

 

死にたくないって思ってるはずなのに、槍を受け入れようとしていた。

 

ランサー曰く、

「嬢ちゃんのことは、座に帰ってもきっと覚えてるぜ。」

 

ああ、よかった。

劣等感だらけの人生だったけど、十分だ。

どこぞの英雄かはわからないが、認めてもらえたんだ。

 

心臓目がけてゆっくりと下りてくる槍を見ながら

 

(ああ、贅沢なことだな。)

 

そう思ったそのとき、横から颯爽と白い鳩が現れる。

 

槍に体当たりをすることで綾香を守った。

 

「なんで、ここに、来ちゃったの?!」

 

ようやく死を受け入れた。

そんなときに何処よりか出でし鳩ぽっぽ。

 

ここに来なければきっとただの儀式用に飼われていた鳩だろうと逃がしてもらえたかもしれないのに、なぜ?!

 

そんな綾香の不安に反して、鳩は槍を器用に避けつつ、隙あらばランサーにそのくちばしを果敢に狙おうと試みる。

しかし鳩程度に水を差されたという事実に業を煮やすランサー。

 

鳩をさきにやるか?

しかし、嬢ちゃんの意識が保つのもそうは長くあるまい。

 

(とどめを指せるのは今しかない。)

 

もはや雰囲気になぞ構わず綾香の心臓に向かって致命的な一撃を放とうとする。

 

しかしここでもやはり鳩が飛び込んでくる。

 

果たして、槍の切っ先によって鳩は貫かれた。

 

飛ぶ鮮血は綾香の頬を濡らした。

 

鳩は綾香の胸の上で絶命していた。

 

ここで些細な違和感を覚えるランサー。

 

鳩に当たるのはいい。

しかしそれも考慮した上で嬢ちゃん目がけて打った。

そのはずだ。

しかし結果的に仕留め損なうことになっている。

これはおかしい。

 

おかしい、が。

 

「なんだい、あの鳩、なかなかどうして器用なやつだ。図らずしもあれが嬢ちゃんの最後の切り札ってところかね。」

 

といいつつもう一度槍を構える。

 

些細な話は些細なまま。

ここで決めれば違和感など関係ない。

 

「さて、今度は外さねえぞ。」

 

射貫く視線。

 

その視線を晒されながら、綾香の中で8年前の光景が浮かぶ。

 

私を庇う「みたい」にして、剣に身体を貫かれる姉の姿がいやに鮮明に思い出された。

体中に姉の血を浴びた。

そんな総毛立つ状況が、鳩と重なった。

 

「だめ、そんなの、ダメだ。」

 

守られてばかりでいいのか。

ここで死ぬ命だろうが。

 

使い尽くした身体の中のさらに奥底に眠るナニカを引っ張り出せ!!

 

これはただの報復だ。

 

姉の死の八つ当たりであり、大切な鳩の死の復讐だ。

 

「こんのおおおおおお!!」

 

綾香が死力を振り絞って上体を起こすのと、ランサーが槍を繰り出すのは同時。

 

その気概空しく、綾香の心臓は貫かれるかに思えた。

 

しかし、再び奇跡は起こった。

 

綾香を起点として部屋中に広がる召喚陣。

 

英雄の登場は得てして遅いというが、これでは遅すぎるだろう。

 

綾香の身体に埋め込まれた聖遺物によって召喚されしはサーヴァント階位第1位の美丈夫。

 

ここに契約はなった。

 

いつしか貫こうとしていた槍はその黄金の剣で綾香の命を奪わんとするのを止められていた。

契約の口上も無いままに、そのままセイバーとランサーのせめぎ合いが始まる。

 

百発百中の槍の名手として名を馳せたクーフーリン。

その大英雄が今日、何度その的を外しただろうか。

 

これがクーフーリンの誇りを傷つけた。

 

しかし、サーヴァント召喚がなった今、自身の手により少女を殺すことは不可能だろう。

 

(ちっ、しょうがねえ。)

 

クーフーリンのプライドはずたずただったがそれはそれとして、こうなったら何が何でもマスターからの指示だけは全うしてみせる。

 

待機させていた犬たちをこの部屋に合図で呼び込む。

 

そうして何匹もの獣たちが3人を囲んだ。

 

「まずい、綾香!!」

 

「おっとセイバー。あんたの相手はオレだぜ!!」

 

「くそっ!!」

 

そして英雄同士の対決が始まったその裏で、綾香はやはり窮地に立たされていた。

 

セイバー現界の余波で多少の身体の回復はなったが、依然として左肩からの出血は続いている。

何もせずとも数分の内に意識を失い、そして間もなく死に至るだろう。

それに追い打ちをかけるように魔術師の使い魔に囲まれている状況だ。

 

事態は何一つとして好転していない。

 

だとしても

 

(一矢報いてやりたいんだ!)

 

この局面を乗り越えて、絶対に償わせてみせる!

 

目を鋭くして犬が飛びかかってくるのに備える。

 

 

 

 

 

 

(別に鳩一羽くらいいいじゃない?)

 

  (私に笑顔を取り戻させてくれた子なの!)

 

(犬は牽制くらいにして均衡状態をつくって、セイバーとランサーの決着が着くまで待てばいいんじゃない?)

 

  (それであの鳩の仇が取れるの?最低でも私一人でこの局面を乗り切らなきゃダメなの!セイバーがこっちを気にしてる以上、セイバーが十全に力を発揮できないでしょ!!)

 

(聞き分けのない子ね。むかしはあんなに素直だったのに……)

 

  (うるさい!! って、え??)

 

 

 

 

 

私は今、声も出していないのに誰と話していた?

最初は自分の心の声だと思っていたけど、どうにも違う。

 

しかし自分の変化に戸惑っている間に準備を済ませていた犬たちが四方八方から飛びかかってきていた。

 

(え、ちょ、やば……)

 

今度こそ死んだ。

奇跡なんて2度も3度も起きてたまるか。

 

スローモーションになる世界の中で、鈴の音のような声が頭の中に鳴り響いた。

 

(2度あることは3度あるってね。綾香、身体をちょっとだけ借りるわよ?)

 

 

 

 

「は?」

 

自分の身体のはずなのに、自分が外にはじき出されるような感覚がした。

まるでテレビを見てるみたい。

そこは水の中で歩くみたいに不自由だった。

 

しかし変化は内面にとどまらなかった。

 

無くなったはずの左手が生えてくる。

髪の色が金に染まる。

瞳が青くなる。

背丈さえも縮む。

次第に身体の何もかもが書き換わっていく。

 

そして最後に存在さえも塗り替えられる。

 

 

 

変化の後、先ほどまで綾香の立っていたところにいたのは、セイバーにとっては8年前に自らの剣によって殺したはずの少女だった。

 

「あぁ、生身の感覚ってそういえばこんな感じだったわね。」

 

聞き覚えのある声があの場所からすることに恐怖を感じた。

 

「犬は……こんな感じ?」

 

まるで指揮棒でも振るように身体の前で手を使って円を描くと、その足下には犬の亡骸が倒れていた。

セイバーもランサーも何合とも続いた剣戟をとめて驚愕の表情で「綾香」を見つめていた。

 

セイバーは復活への恐怖に。

ランサーは綾香の変貌に。

 

長い静寂。

 

きょとんとした表情の「綾香」は忘れた台詞を思い出すかのようにこう言った。

 

「綾香を傷つけたんだもの。容赦しないわよ、ランサーさん?」

 




鳩の寿命は6年。
いつもついてくる鳩は家に居着いてから8年目。


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今日を限りの 命ともがな

不本意の投稿。


もしも、愛する人への想いが明日消えてしまうのなら

 

 

【恋】(新明解国語辞典 第7版)

特定の異性に深い愛情を抱き、その存在が身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥感に駆られる心的状態。

 

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

恋をする自分を想像できるだろうか。

私には到底できない。

 

辞書で調べるところによると「恋」とは、

「他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が高揚する心的状態」らしい。

 

来る聖杯戦争で私が召喚するサーヴァント、「アーサー・ペンドラゴン」。

 

ブリテン救国の騎士王。

いつか復活せし英国の守護者。

 

そして私の初恋の相手、になる予定の人。

 

確かに顔立ちはよく整っている。「貴公子然とした」という表現が相応しい風格を備えていて、物語の中の王子様のような人だと思うし、実際にそうなのだけど。

そんな万人に愛される要素を持つ相手であったとして。やっぱり、私が恋をするだなんて想像もできなかった。

 

 

私は変な子なんだと思う。

 

生まれたときから大抵のことが分かった。

すべての事象、因果の源流たる根源の渦。私はその接続者。つまり根源の持つ端末の一つが人という種族の形をとってたまたまこの世界のこの場所に生まれ落ちた、人にあって人でない存在。

 

だから、そんなの当たり前なのかもしれない。

 

でも分からない分野が少しだけあった。

それが「感情」という分野。

とはいっても理解できないからといって、それに何か思うことがあるというわけでもなかった。

 

例えば殺人事件について報道されたとしよう。大抵が「怨恨」という感情だったり「利欲」という感情に理由は集約される。根拠のない話が噂として広がるにつれて尾ひれがついていき最終的に取り付け騒ぎによる銀行倒産の危機が起こることもある。これもまた人の「不安」や「善意」といった感情に由来している。

 

そう。

世間で時折起こる模範から外れた行いというやつは「感情」に起因しているのだ。そういったことを考えると、必要なのは「倫理」という教科書一つ。むしろ感情こそ邪魔なものではないのか。愚かなものと断じることなんて当然のことだった。

 

だから、私は「感情」なんていらなかった。

 

いらなかったはずなのに、そんな私が恋をする。

 

ひどい違和感。

それがかえって私に興味を抱かせたのかもしれない。

感情とは何か。私にとって何をもたらすものなのか。このときから私の退屈な乳児期は、専らこの命題に対して与えられた。

 

 

 

そんなときのこと。

 

一応補足として。

私だって身体自体はヒトの範疇に収められているのだ。それを上回る性能を発揮することは出来ない。だから、身体がある程度発達するまでは、色々と両親の世話になることだって多かった。例えば口元までご飯を運んでもらったり、排泄の処理をしてもらったり、絵本を母の膝の中で読み聞かせられたり。そういうことを。

 

正直、絵本は私には必要ないものだったのだけど、絵本の読み聞かせは子供の言語理解に役立つということで、しょうがないのかなと思っておく。

 

ただ一つ変だなって思うことを挙げるとすれば、そういうことの度に母がとても「嬉しそう」にしていたということ。

 

他人への奉仕とは何らかの対価の結果にしか起こりえないはず。「等価交換の原則」はすべての人の根底の中に横たわっている公理のことを言うのだから。勿論、私だって対価が極端に小さいだけであってその例外じゃない。

 

で、あるとすれば。一親等の血縁だからこうなのか。私が「娘」だから特別なのか。

でもそんな理由で納得なんて出来なかった。

 

一応の見解はあるにはある。

それは「生命の本能」。

 

当然、種の繁栄のためには子供を庇護し守ろうというのは理に適ってはいると思う。だからこそ、そう思うように遺伝子の中にプログラムされただけ。もしも種の繁栄のためには子を痛めつけることが一番だっていう生物がいるならきっと親の虐待が絶えない種になっているのだろう。

カマキリなんかを例にするとわかりやすいかもしれない。これは親子関係じゃなくて夫婦関係だけど、雄は子の栄養になるために雌に食べられるのだから。

人間社会では尊ばれる夫婦関係だって生物全体で見ればシビアなものだってたくさんある。親子関係だってそうだと思う。

 

だから人間だけがとりわけ変なのかもしれない。

 

だとして、だ。

今、テレビのニュースを見れば児童虐待、ネグレクト。破綻した親子関係が取り沙汰されている。報道されるのは珍しい事案であるからだろうけど、そういう親と私の親は何が違うのか。

 

脳内物質が関係しているとか?

ならば今まさに母の神経伝達物質やらの分泌を弄ってやれば、狂ったように私を痛めつけようとするのだろうか。お世話のときの嬉しそうな顔を途端に豹変させるのか。

 

テレビを見て痛ましい表情を浮かべつつ私を抱きしめる母を見上げながらそんなことを思った。テレビでの虐待関連の報道の時間が伸びていくたびに母の私を抱擁する力が強くなっていくのを私は

 

(痛いな……。)

 

と顔を顰めた。

 

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

なぜか幼稚園に通うことになった私は宇宙人にでも囲まれている気分になりながら日々を過ごしていた。

 

母が「愛歌は多分、いろんな人と関わったほうがいいと思うのよね。」と言ったのが幼稚園に通うことになる決め手になった。

父は当初、家で私に魔術を学ばせるつもりのようだった。けれど、どうにも母に逆らえない性分をしているようで

 

「沙条家の跡取りとして、魔術を教えるのはこの時期からにしたい。」

 

という言葉は簡単に説き伏せられ、もとい撤回させられていた。

 

項垂れる父と、指を立てて説教する母の姿を見ながら、こんなよくわからない光景が幼稚園でも見れるなら行く価値はあるんじゃないかと思えた。

 

そうして通い始めた幼稚園で特別面白いものがあるわけではなかった。

所詮乳幼児だ。複雑な情動が生じるのは10歳くらいとされる。直線的な感情はそれはそれで面白いものだけど、それなら馬が競うのでも眺めているのと何が違うのだろう。

 

 

ああ、失敗だったなあ、とちょっかいをかけてくる男の子を適当にあしらって過ごすだけ。

 

ただそれでも、おかげであることを思いついた。

ある日通っている幼稚園の同じクラスの女の子が「おなかの中のあかちゃん撫でたら、あかちゃんがおなかをキックするの」と言っていた。

まぁそういうこともあるだろうな、と思う。でもその子にとっては重大な事件だったみたい。表情を興奮させて部屋中に聞こえるように喧伝していた。

 

下らないことを言っているなといつもならそれで終わるんだろうけどそのときは気まぐれか、こう考えた。私以上に社会的に弱者とされる存在が家庭内にいれば、私にも理解できることがあるんじゃないかって。母が私を撫でる理由が分かるのではないか。

 

だから真似をしてみようと思った。

 

帰宅した私は母の部屋に駆け込んで「妹がほしい。」と言った。ちょっとだけ妹がお腹の中にいるとかいう女の子のうるさい声に似てしまったような気がするのは反省点だ。

そんな私に対して、母は少しだけ目を見開いて驚いた後「考えておくね」とはにかみつつ私の頬を一回だけ優しくつついた。

 

つついた場所に何か虫でもいたのかとその場所を私も触ってみるけどとくになにかいるわけではなかった。皮膚が赤くなっているわけでもなかった。

 

(じゃあなんで母は?)

 

やっぱり母はよくわからない人だ。

 

それから2ヶ月ほどして私は母のお腹には「妹」ができたことを知る。

焦燥感みたいなでも不快感はないようなそんな感情に引きずられるようにして母の下に赴いた。

 

「お母さん、お腹撫でさせて。」

 

無表情でお願いをした5歳の私。

 

「はい、どうぞ。」

 

と受け入れた母はどんな思いだったんだろう。今となっては知る由もない。

 

触ってみても別に赤ちゃんがお腹を蹴るなんてことはなかった。あったことといえば、ただ私が母のお腹を撫でるっていうだけ。触ってみた感想も

 

(ふぅん。こんなものか。)

 

くらいの淡泊なものしか浮かばず、これといった収穫を得ることはできなかった。けれどやっぱり母が私を見つめる目が嬉しそうだったのだけがやけにひっかかった。

 

 

胎内の赤ん坊の成長に反比例するように、母の身体は衰弱の一途をたどった。医者も「このままではお子さんを産めないかもしれません。産めたとして、奥さんの命が……」と難しい顔で父に告げた。

 

父も、母をどうにかして助けたかったようだった。それこそ子供は諦めるよう強く諭すくらいには。

 

私は、どうなんだろう。

よくわからない。

 

一人の生命が潰え、そして生まれる。どちらかを選択しろ、と言われたらどっちを選ぶんだろう。

そもそも妹がほしいといったのは私だ。この状況に関して私は責任があるのだろうな。

 

ある日病院のベッドで寝ている母に

 

「私が妹がほしいって言ったからお母さんが危なくなった。」

 

と言った。母は心底驚いた表情でこちらを見ていた。

 

「なに?」

 

とその表情を問いただせば

 

「愛歌が、そんなこと言うなんて。」

 

と返す。

 

「どういうこと?」

 

別に不思議なことなんて何もないはずだと私は思うんだけど、

 

「愛歌が観察するみたいに私を見てたことは分かってたよ。」

 

私のことをよく見ていた母にとってはそうでもないみたいで。

 

「そうなの?」

 

「うん、そうなの。」

 

お見通しなのよ、と得意げに母は笑った。

 

「じゃあ、どうして私のことを」

 

「お母さんだもん。私はね、愛歌のお母さんなのよ?」

 

「うん、知ってる。」

 

「そっか知ってるかー。」

 

「うん。」

 

「ふふ。」

 

頭をなでられる。

 

「お母さん、くすぐったい。」

 

「そう?だったら……

こうだ!!」

 

今度はぎゅっと強く抱きしめられる。

相変わらず突拍子もない行動をする人だなと思いつつ、嫌じゃないなと思った。嫌じゃないからといって、「良いわけでも悪いわけでもない」ということもない。じゃあ、私は「いいな」と感じているのだろうか。それは分からないままけど、離れがたく思っている自分がいるのは確かだった。

 

おずおずと私の両腕を動かして抱きしめ返す。

 

静かな時間だった。

母の胸のあたりに触れる耳からどくどくと鼓動を感じる。目を閉じて、この時だけはそれのみを頼りとした。

だんだんと人と人の間に横たわる境界さえも曖昧になっていくような気がしたとき。

 

「愛歌。私、絶対お腹の子産むからね。」

 

と母はまるで諭すようにこぼした。

 

「私はお母さんがいてくれればそれでいい。」

 

と出た言葉が私のものだったことに気づいたのは何秒も過ぎた後だった。

 

「ありがと。でもね私、愛歌が妹がほしいって言ったとき嬉しかったの。だって初めて親らしいことしてあげられる気がしたもの。」

 

確かに両親に何かを私に与えるよう頼むことはそのときが初めてだった。ただそれでもこれだけは言わなくちゃいけない気がする。

 

「お母さんはお母さんだったよ?」

 

母は私の前にいつも存在する最も不思議なヒトだった。私の母に抱く感情が絵本や物語に出てくるものほど純粋でないものだとしても、それでも母は私にとって特別だった。

 

「そう?だから私はね、絶対にこの子を産むの。」

 

なおも言い募ろうとする私を手で制して

 

「愛歌、心配しないで。私だって毛頭死んでやる気はないもの。」

 

と言った母の顔は凄絶なまでに美しかった。

 

 

 

 

 

 

程なくして臨月に差し掛かった母。

病室にいつものようにお見舞いに来ていた私はふと気になって

 

「お腹の子の名前は何にするの?」

 

と聞いてみた。

 

「ん?お父さんと話して決めよっかなって思ってたんだけど。どうしたの?愛歌が決めたい?」

 

「そういうわけじゃないけど。」

 

と言ったのに、思案顔になり始める母。

それから何かに納得するように、大きく2回だけ頷くと

 

「よし、愛歌に決めてもらおうかな。」

 

と言い始めた。

 

「えっと。お母さん?」

 

よくない雲行きを感じる。

 

「よし、どんな名前がいい?」

 

いきなり言われても大変困る。名前なんて記号だとは思いつつ、一生涯付き合っていくものだから嫌だと思われる名前だとよくない。幼稚園でキラキラネームを付けらたせいで嫌がらせに遭っている女の子の姿を脳裏に浮かべつつ、色々考えてみるけど

 

「お母さんが決めてよ。私じゃ無理だよ。」

 

母が決めたほうがいいと思うんだけどな。

 

「じゃあ、明日までの宿題ね。いい名前考えてきてよ、お姉ちゃん?」

 

結局押しきられる形で、ほらほら思いつかないならさっさと帰った帰った、と病室の扉を出されてしまった。

 

(ほんとに勝手な人だなあ……)

 

妙なことになったとはいえ、明日までに私が産まれてくる子の名前を決めなければいけないことに変わりはない。どうやって決めればいいんだろう。

 

画数や語感がよく、なおかつ字面が綺麗な「変じゃない」名前を選ぶのが一般的だと聞いた。

それに加えて本人に合ってる名前がいい。じゃあ、どんな子が産まれてくるんだろう。

 

(未来視を使う?)

 

でも、気が進まない。何故かそういうのではない気がする。

分からないけど、母に対して「私が未来を視たところ、こんな容姿の子が産まれるらしいからこう名前を付けた。」と言ったら怒られる気がする。

 

だから未来視は使わない。

 

母と私みたいな金の髪と碧眼を持って生まれてくるんだろうか。それとも父のような黒髪に黒目?

 

性格はどうだろう。母みたいな無茶苦茶な人になるのかな。父みたいに魔術魔術と言いつつ、結局母に逆らえないみたいな人になるのかもしれない。

 

考えても分からない。これといって正解がある問答でもないから。

そんなときに「いい名前考えてきてよ、お姉ちゃん?」という別れ際の母の言葉が浮かんだ。

 

「お姉ちゃん……」

 

私がお姉ちゃん、か。

じゃあ私の名前の「まなか」と似た感じで「○○か」ってするとか?

統一感が生まれていいかもしれない。

 

じゃあその穴の中に何の文字を入れようと考えたとき、お母さんみたいな人になってほしいなと、そんなふうに思った。無色のキャンパスを「彩る」ような色彩豊かな人。

 

彩香と書いて、あやか。

沙条彩香。

 

うん、いい気がする。

 

と、ある程度の納得ができたとき柱時計がごーんと10回鳴った。

ちょうどよく寝る時間が来たと思った。

 

「よし、寝よう。」

 

ぐっすり眠って、次の日お母さんに言いに行ったところ。

 

「いい名前だね。まなかとあやか。うん、いい感じ。」

 

好感触の様子。

よし、これで決まると思っていたのだけど

 

「でもね、愛歌。これ画数がよくないの。だからごめんだけど没です。」

 

容赦ない言葉によって私の案は切り捨てられた。思わず

 

「ええ。」

 

と愕然としてしまった。

想い、込めたのになあ。

 

「ちょっと待ってね……。」

 

と黙りこくるお母さんに

 

「私も結構考えたのよ、お母さん。「彩」って字だって、ええっと、その。」

 

「彩」を選んだ理由を言おうと思うと喉が詰まったみたいになった。なんだか言いにくい気がする。なんでか分からないけど。

そうやって口をもごもごさせていると

 

「よし。「綾」って字でいこう。これなら画数もいい!折り重なる綾みたいに色んな人と結びついて幸せにして欲しい、みたいな願いを込めて。」

 

と決定事項みたいに言い出すお母さん。意味合い的には似たところがあるから、もうそれでいいや。

 

「ああ、うん。それでいいね。」

 

と投げやりに賛同する。

 

「なによ、愛歌。私だって悪いと思ってるのよ?そんなぶすっとしないでよ。ほらにっこり笑顔。」

 

と母は両えくぼに人差し指をつけて笑いかけてくる。

 

「それに、二人で一緒に名前を考えたって考えれば悪いものじゃなく思えてこない?」

 

そう言われると、そうかもしれない。

 

「うまく言いくるめられた気がする。」

 

「気のせい気のせい。」

 

釈然としないなあ。

 

こういう流れで「妹」の名前は「沙条綾香」となったのだった。

 

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

 

綾香は無事に産まれた。お母さんも無事だ。

けれど出産による負担はお母さんの身体に残ったままで、日に日に体調はわるくなるばかりだった。

 

医者だったり魔術に頼ったりもしていたんだけど、一向に良くなる気配はなかった。

父はひどく焦っていたけれど、私はお母さんはよく保ったほうだなと思っていた。

 

だって本当なら出産のときに死んでいた。

身体の中の生命力を可視化しても、あのときに尽きていたはずだった。それなのに奇跡的に残った微かな炎だけでこの1年間命を繋いできた。

魔術だろうと何であろうと、なし得ることのない偉業だった。

 

けれど、そんな日々ももう終わりを迎える。

 

「綾香のこと頼むね?」

 

お母さんは隣ですやすやと眠る綾香を見ながらか弱い声で、私に告げた。

託されたとして、それでもこの子には「お母さん」がきっと必要だと思う。

 

「託すって言う前に、お母さんがもっと生きてほうがいいと思うのだけど。」

 

「そりゃ、できればそうしてあげたいんだけど、先は長くないって分かっちゃうからさ。」

 

「ふーん。お母さん、できれば生きてたいんだよね?」

 

言質はとった。

 

「え?どうしたの愛歌?」

 

「お母さんのこと長生きさせてあげられるよ、私なら。」

 

「いや、医者さんも広樹さんも無理だって言ってたじゃない。」

 

確かに父はそう言ってた。でもそれは魔術師の範疇に収まっているからに過ぎない。

 

「ねえ、お母さん、根源って知ってる?」

 

「え?それは分かるよ。これでも魔術師の家計に生まれたのよ。興味がなくて全然練習しなかったけど。」

 

「私は生まれたときから根源に繋がってるの。」

 

一瞬だけ呆けた顔になるお母さん。その隙をつくみたいに

 

「だから、お母さんだって。」

 

と畳みかけようとするも

 

「でも、それは真っ当な方法じゃない。」

 

と一太刀。

 

「え?」

 

「そうでしょう?」

 

青く光る双眸が私を射す。

 

「愛歌。どうやって私を生かすのか、言ってみなさい。」

 

いつもよりも真剣味を感じる。迫力があった。

 

「お母さんの身体の活力がゼロになっても動けるように、屍人みたいに……」

 

「愛歌。それはダメなのよ。」

 

「その方法がダメだっていうなら、別の方法だって。」

 

「お母さんは死ぬの。」

 

きっぱりとそう言い切った。生存への本能こそ生物たらしめる欲求ではないのか。相も変わらず私の理解の及ばない人だった。

 

「なんで……?」

 

問いかけたその声色が少しだけ弱々しい響きを持っていたことに我がことながら驚いた。

 

「私が死ぬってところをね。愛歌に見せたいの。」

 

いじわるだって思う?って、後ろめたそうな顔でそんなことを言うなら。

 

「ごめんね?」

 

ってその眦に涙の雫を溜めながら言うくらいなら。

 

最初から

 

「そんなこと、言わないでよ……。」

 

みっともない。そう自分に思った。

新生児模倣のように釣られるようにして涙が頬を伝った。ただそれだけのこと。けど、生理的な、情動を伴わない涙は初めてだった。

 

「あれ、おかしい、な。」

 

涙を思わず袖で拭う。どうしてか止まらない涙に気持ち悪さを感じた。

 

「もう、しょうがないわね。」

 

と、母がハンカチで涙を拭き取った。ハンカチで目が覆われたことによる視界不良。

解放されたとき真っ先に目に飛び込んできたのは、やっぱり泣いている、それなのにいつも私を不思議な気持ちにさせるあの笑顔だった。

 

「いつかあなたもきっと分かる日がくるわ。」

 

といって撫でられる。

 

「愛歌は多分ね誰よりも知ってることが多いけど、その分誰よりも知らないことが多いの。ある意味誰よりも純粋だって言えるかもね。愛歌はきっと、そのことに悩んでるのよ。」

 

「私が、悩んでる?」

 

自覚なんてないけど、母に言わせれば私は悩んでいるらしい。

 

「うん。もうちょっと側にいてあげたかったんだけどな。私は愛歌のことが心配で心配で。綾香のほうがまだ心配しないで済むのよ?」

 

「私のこと、そんなに心配なの?」

 

産まれてまだ一年くらいの綾香よりも心配される私って……。

 

「多分ね、何でも知った気でいるっていうのが一番不幸なことだと思うの。これはね、愛歌のことを不幸だって言ってるわけじゃないのよ?」

 

「言ってると思うけど。」

 

「あははは。でもいま愛歌は知ったでしょ?愛歌はまだ何も知らないってことを。そのことを少しずつ理解できるようにきっとなるから。」

 

「うん。」

 

なれるかな。なれるといいな。でもね、お母さん。

 

「やっぱり、お母さんと一緒にいたいの。」

 

それはダメなのかな。きっと何気ないことの連続のたびにお母さんのことを想う自分がきっといるんじゃないかってそう思う。自分で頼んだくせに、いまだに妹にさえ時折幼稚園の人が話してるみたいな感情を抱けない私が、私一人でだいじょうぶなのかな。

 

多分、人生初めての私の弱音だった。

 

「しっかりしなさい、お姉ちゃん!!」

 

でもお母さんはそんな私を一喝する。

 

「愛歌ならきっと大丈夫。なんてったってお父さんとお母さんの子なのよ。」

 

それは全能の少女としての私に向けてではなくて、娘の私に向ける感情だった。

 

あんまりに眩しくて直視できなかった。

だから顔を逸らしてしまったというのに、お母さんは両手を使って正面に向け直した。

 

「いい?お姉ちゃん。綾香のこと頼んだから、ね?」

 

「……うん。」

 

敵わないんだろうな、永遠に。今のお母さんの年齢に私がなってもこうなれてるのかな。

それに今だって、そう。

 

「綾香に……。お母さんの代わりになれるかな。」

 

これまでの人生。別に長くもない、両の手のひらで簡単に数えられちゃう年数しか生きてないこの私が。

ずっとずっとお母さんだけを見てきた私が。

お母さんの真似なんてできないって分かってたから、不安だった。

 

「愛歌はお母さんにはなれないのよ。お姉ちゃんなの。」

 

「うん。」

 

「だからね、あなたがこの子にしてあげたいことを見つけ出してみて。これがお母さんからの宿題ね?ひとまずは、お母さんがやってたこととかを真似てくれればいっかな。料理とか洗濯とか。ちょっと心配だけど愛歌ならできるわ、きっと。でも、おっぱいとかはあげなくていいからね?夜泣いてるのをあやすとかは、さすがに愛歌も子供だし大変だと思うからそれはやらなくていいからね。お父さんにやってもらうのよ?」

 

それくらいなら、できるかな。

さすがにおっぱいは分かるよ、やらなくていいことくらい。それに、綾香だってそろそろ卒乳する時期だ。

あと。

 

「別に私、寝なくてもだいじょうぶだよ。」

 

自分の身体の脳下垂体をいじって成長ホルモンを適正値まで分泌させれば問題はない気がする。

 

「愛歌、子供は寝なきゃダメよ?それが仕事なの。5歳になって愛歌はもしかすると、もう大人だって思ってるかもしれないけどね。」

 

「いや、さすがに私は子どもだよ。」

 

いまだ6歳なる身ぞ、我は。それくらいは弁えておる。

それに子供は寝なきゃダメっていうのもその必要性があるからであって、私には必要ないものなんだけども、と説明しようかと口を開け始めたところで、お母さんが手招きする。

 

「?」

 

口を結び直して、お母さんの近くにいくと今度はお母さんがベッドに空いているお母さんの横にあるスペースをぽんぽんと叩いた。

ここに座れってことかな。

 

そう思って座ると、

 

「愛歌は頭がいいから、何でもできるって思ってるでしょ?でもね、私とお父さんからすれば子どもなの。子どもでいられる間は愛歌は子ども。」

 

抱きしめられた。あまり強くはない抱擁。でもなぜかここにお母さんはいるんだなって思えてくる。

 

そんな不思議な体験だった。

 

痩せ細っていたお母さんの身体。でも服越しにも柔らかさが伝わってくる。感触だけじゃなくてじわじわと温もりも伝播してくる。

 

(なんだろ、これが気持ちいいってことなのかな?)

 

目を瞑ってみる。ああ。前にもこんなことがあったな。

 

記憶を繰り返すみたいに私も抱きしめ返した。

身体同士の接点からじわじわと広がっていくものがあって、私が溶けていくようだった。喉は苦しかった。

 

「お母さん、愛歌も綾香もずっと天国から見守ってるからね。」

 

また一つ私の頬を涙が伝った。今度はせき止められることもなくこぼれ落ちてお母さんの肩に落ちた。

 

そこからはあんまり覚えてないけど、確かに私は泣いていたんだと思う。

喉がガラガラして鼻も目もぐちゃぐちゃだったから。

 

 

気づいたときには外は暗く、部屋の中の電気も消えていて通常の視界では何にも見えない。

目をぱちくりと瞬かせると

 

「おはよう」

 

上から振ってくる声があった。声はお母さんのもの。

どうやら私はお母さんの膝を枕に眠っていたらしい。

 

「私はいつ、大人になるの?」

 

寝覚めでうまく働かない頭で反射的に返した言葉がこれだった。

どんな意図があるのかなんて私自身分からないけど、いま聞かなきゃいけない気がした。

 

 

 

 

「そのための宿題なの。頑張ってね、お姉ちゃん?」

 

その言葉にらしいなって少しだけ笑った。

 

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

お母さんは死んで3人での生活が始まった。

父は前より魔術にのめり込み、私の魔術の鍛錬も増えてきた。それ以外に変わったことといえば、私が家事を一手に引き受けるようになったことだろうか。最初のころは父も手伝ってくれていたのだけど、いまでは父は机に向かっていることが多くなった。

 

綾香は3歳になって幼稚園に行っているし、私は私で小学校に行っている。

みんながバラバラの生活リズムによって動くようになった。

特別ではない時間が流れ始めていた。

 

今日も学校。先生が黒板にチョークをカリカリと打ち付ける音。子供のざわめき。そのすべてから耳を背けて、頬杖ついてぼんやりと雲を数えるだけのような、そんな退屈な時間が増えた。算数なんてやっている意味もないし、理科もそう。道徳でさえ模範的な意見だけが評価される。

 

試しにクラス中の人心を掌握でもしてみようかと思って遊んでみたりしたこともある。結果として生徒のみならず、先生までも私の言うことを聞くようになった。

 

いじめはやめましょう、とでも言えば即刻クラスは手を取り合い、この子をいじめてとお願いすれば、昨日まで親友と言っていた子でさえ躊躇なく、疑問に思うこともなくいじめさせることができた。そんな遊びをしている私に、先生は愛歌さんは素晴らしいと何度も褒め称えた。

ばかみたい。

 

ありふれた日々の中のさらに絞りかすみたいな、そんな生活。

 

私はいったい、何をしているんだろう。

 

自室の椅子に背中を任せつつ、何を思うでもなくぼんやりと天井を見つめていた。

ただ眺めるだけの時間に少しずつ瞼が重く感じた。

 

(ああ、このまま眠ってしまおうか。)

 

目を閉じれば、自分だけの世界がやってくる。

暗い。

でも、ましな世界。

 

(このまま籠もったままでもいいかもしれないな。)

 

移ろう意識の中、

 

「まなかおねえちゃん!!」

 

と威勢のいい声とともに自室のドアが開かれた。息を荒げながら、着替えもせずスモックのままの妹の姿だった。

どうでもいいことだろうと思いつつ、体裁を整えるために目をぱちぱちと、あたかも驚いているような表情をつくる。

 

「どうしたの?綾香。」

 

親身に妹に寄り添うような姉の出す声色を努めた。

結果、餌を見つけた魚のように妹は息一ついれずに叫ぶ。

 

「ようちえんの男の子があやかのことぶすって、ぶすっていった!!」

 

うん、心底くだらないな。

けれど、口に出さない。有象無象の意見なんて聞くに値しないものだ。そんなものに気を取られている時点でこの子も凡人。興味もわかないな。

 

でも「姉」だったらこんなときどんなことを言うんだろう。

 

「綾香はかわいいわよ。」

 

当たり障りなさ過ぎてこれで合っているのかも分からない。それに対する綾香の反応はというと

 

「でもおねえちゃんのほうがかわいい……」

 

とふくれっ面になる。

 

(なんで私の話になるの?)

 

会話に論理の欠片もないな。なんだろう、返答を誤ったのかしら。

 

「もう。どうしたの綾香。男の子にいじめられたなら私が助けてあげよっか?」

 

今度はそれらしいこと言えたんじゃないかな、と思うんだけど

 

「おまえは、おまえのねーちゃんとぜんぜん似てないな。ほんとに妹なのか?って。それからおまえみたいなぶすが妹なわけないじゃねーか。って言われて……。」

 

「はぁ。」

 

詳しく聞いたところでさらにどうでもいいことだと思わされる羽目になるだけだった。じゃあどうやって綾香を追い出そうかを考えていたところで

 

「あやかっておねえちゃんの妹なんだよね?」

 

弱々しい声ですがりつく妹の姿が目の前にはあった。ちゃんとお母さんのお腹から産まれてるはずだし、病院で取り違えられたってこともないはず。それに何より

 

「綾香。」

 

ここまで母の性質を受け継いだものはないというところが綾香にはあるじゃないか。

 

「綾香の目。青いでしょう?お母さんの目も青かったの。それにほら。」

 

といって綾香に私の顔を近づける。

 

「私の目だって青いじゃない。」

 

ちょっとだけ明るい表情になり始めてきた綾香にとどめといわんばかりに

 

「私とおそろいでしょ?」

 

と微笑みかける。笑顔はお母さんの顔をイメージした。

 

「ふふっ。」

 

と綾香が笑う。私の説明に納得したからだと思ったんだけど

 

「おねえちゃん、笑顔へたっぴさんだね。ふふっ。」

 

と言い出した。

 

「へ?」

 

言ってる言葉が理解できなかった。完璧にお母さんの笑顔を模倣したはずだと思ったんだけど。

 

「私って笑顔下手なの?」

 

にっこりと笑う。

 

「おねえちゃん。それはちょっと怖いよ。」

 

ふふふと笑ってたのが、次第に膝を叩きあははははと大胆な笑いに変わっていくのを見て、私の困惑は増大されていく。

 

「え?そんなにおかしいの?」

 

「うん。学校じゃそんなふうに笑っちゃダメだよ?」

 

「学校じゃこんな笑い方しないし大丈夫だと思うけど。」

 

思うけど。

複雑だ。

とっても複雑。

 

こんなのっておかしい!!

 

むむむと唸りながら、よしと一つ思いついた。

 

「綾香。いい?笑顔の特訓よ?今から色々試してみるから、審判お願いね?」

 

「うんうん。あやかに任せて!」

 

相変わらず私を見てにへへと笑っている綾香に、なんというかこう、ぎゃふんと言わせてやりたい。

への字になっていた口の周りを手でぐりぐりとマッサージして……

準備はオッケー。

 

 

 

 

「さぁ、どう?!綾香!」

 

「ほほー。

じゃあ次おねがいしまーす」

 

「これはどう?!」

 

「うむむ。こうおつつけがたいね。」

 

「じゃあ、これ!」

 

「ふふふ。」

 

「なによ。じゃあ、こう!」

 

「いいよいいよ!」

 

「これでどう?!」

 

「おねえちゃん。」

 

「これは?!」

 

「まなかおねえちゃん。」

 

「これは……

って。なあに?」

 

「ふふ、かわいいね。」

 

「笑顔よくなった?」

 

「笑顔はさいしょの以外ぜんぶよかったよ~。」

 

「ん、え?どういうことなの?」

 

「えっとね。いつもよりおねえちゃんがやわらかい感じでかわいかったの。」

 

ぎゅっと私に抱きつく綾香。

一応頭を撫でてみる私。

 

綾香は目を細めて気持ちよさそうにしている。なんだか猫みたい。

 

「柔らかいってどういう意味?」

 

「うんとね。いつもよりもね、おねえちゃんがあそんでくれてる気がしたの。」

 

「え?今の遊びだったの?」

 

「うぇ?遊びじゃないよ。」

 

「ん?」

 

「え?」

 

どういうことなの?

 

「今のって笑顔の練習なのよね?」

 

「そうだよ!笑顔のおねえちゃんがいっぱい見れてうれしかったの。」

 

不思議そうな私に対して逆に不思議そうな顔を返してくる綾香。なにこれ。

正直いまは何の時間だったのかわからない。無駄ばっかり。でも少しだけ気になったことがあった。

 

「綾香は私が笑顔だと嬉しいの?」

 

「うん!」

 

「なんで?」

 

「おねえちゃんが笑顔だとあやかもうれしいの!」

 

答えになっていないと思うんだけど、でも私を見上げるその顔立ちが誰かに似ているような気がした。

 

「そっか。」

 

だからだろうか、納得してしまったのだ。理屈でもなんでもなくて、ただ私が笑顔だから嬉しいんだろうなって。

 

「綾香。」

 

それでなんとなく。多分気まぐれだろう。

 

「なあに?」

 

「明日ピクニックに行かない?」

 

って誘ってみたくなった。

 

「でも幼稚園行かなきゃダメだよ。」

 

「私も休むから、ね?それにいやーな男の子がいるんでしょ?」

 

「うーん。」

 

「ね?お姉ちゃんからのお願い。」

 

「えー……。そんなにあやかといたいの?……いいよ!」

 

さっぱり晴れ渡るような笑顔が花開いた。

 

 

 

 

その日は綾香がやたらと積極的に話しかけてきた。夕食後もそう。

 

それに二人でお風呂に入るのはいつも通りとしても、いつもよりも「おねえちゃん、あらって」とか要求が多かった。昨日まで一人でほとんどできてたじゃないの?

 

お風呂から出ちゃえば部屋で分かれるだろうと思ってたんだけどそのまま私の部屋に入ってきたし、「かみの毛かわかしてー」と甘えられたりもする始末。今日はどうしちゃったんだろう。

結局、いつの間にか私の部屋でぐーぐーと眠ってしまった綾香と同じベッドで寝ることになった。

 

 

次の日、私と綾香は二人とも学校・幼稚園をサボタージュした。もちろん父には内緒だ。

向かう先は公園。この時間に学校に通ってる子に出くわすはずもなし。せいぜい公園で会うのといったら幼稚園に通えなかった、もしくは通っていない小っちゃい子と親御さんくらいだろう。でも公園はがらんとしていて私たちを除いて人はいない。これは私が人除けの結界を張ったからだ。

 

そういうわけで好き勝手やっても問題の無い環境ができあがった。

何をするのかというと。

 

「おねえちゃん!火だして!」

 

「はい、どかん」

 

「わーーーーー!すごーーい!!」

 

手品ごっこをやっていた。もちろん、魔術であって手品なんてものじゃないからごっこはごっこだ。

 

「あやかもやりたい!」

 

「うーん。」

 

綾香も最近魔術の練習を始めだしたけど、できないんじゃないかな。家で練習してる魔術は黒魔術だし、火を出すための魔術ではないから。

 

「どうしたの?」

 

「ううん。じゃあまずは魔術回路にスイッチを入れてね。」

 

「うん。」

 

ここまではいつも通り。火を出すっていうなら火属性の魔術。綾香は魔術属性が火だったかな?

違ったと思う。

そうなると、どうだろう。使える魔術は、これかな?

 

 

「まずはね。今あやかの周りに何があるか言ってみて。」

 

「おねえちゃん!」

 

「そうなんだけど、それ以外は?」

 

「えっと、公園のブランコとか、ゾウさんみたいなすべりだい。」

 

「他には?」

 

「タイヤ?……おねえちゃん、これっていみあるの??」

 

「まぁまぁ、落ち着いて。ほら他にもだしてみて。」

 

「むぅ。トイレ、太陽、くも!」

 

「そうね。じゃあ次。この前習った五大元素について。5個ぜんぶ言ってみて」

 

「えっと五大げんそ……。火と空と地、水、風?」

 

「正解よ。」

 

「むふふ。」

 

合っていることに喜びつつも、何をやっているのかさっぱりといった綾香の顔。

 

「元素変換、っていう魔術があるの。それを使って火を起こすわ。」

 

「げんそへんかん? この前ならったくろまじゅつじゃダメなの?」

 

「火を起こすことだけを考えれば、あんまり向いてないの。」

 

「?」

 

「なんて言ったらいいかしら。……そうね。

絵本をたくさん読んでも、外でする鬼ごっこでうまく逃げられるようになるわけじゃないでしょう?それと似てて、黒魔術ばかり練習しててもできるようにはならないことだってあるってことよ。」

 

「うーん。ちょっとだけ、わかったかも。」

 

「そう。ならよかったわ。」

 

勿論これは嘘だ。方便と言い換えたほうがいいかもしれない。

黒魔術はなにかを供物に捧げることの対価として、自分の持っている力以上の魔術を行使するものだ。魔術の力量がほとんどない綾香にとっては火を起こす程度の簡単な魔術を使うにも黒魔術によって補う必要がある。

 

でも公園はがらんとしている。供物になるものは出来れば生物がいいし、生物の中でも複雑な構造をしているもののほうがより強力だ。あたりに鳥みたいな小生物は見当たらない。雑草を引っこ抜いて供物にするのでは雀の涙。虫も同じ。

そういうことを踏まえると、元素変換の出番だろう。

 

あと、綾香にはまだ早いんじゃないかなっていうのも一つ。でもこれくらいの頃には私は鳩の首くらい落としていたはずだから、やっぱり早いも遅いもないかもしれない。じゃあ、何だろう。心配、なのかな。

 

「おねえ、ちゃん?」

 

「え?」

 

「どうしたの?」

 

「ううん、なんでもないわ。」

 

あれやこれやを考えてる間に綾香を心配させてしまったみたい。にっこり笑いかけるとほっとしたみたいに私を見上げる綾香の顔が緩む。

 

「じゃあ続きね。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぜんぜんできないよぉ!」

 

「煙は出てるじゃない。もう少しよ。」

 

うん。お世辞抜きにもう少しだと思う。

目の前にある木の枝から火を起こそうとして1時間ちょっと。まさかここまでできるようになるとはこの愛歌の目を以てしても見抜けなかった。黒魔術よりもこっちのほうが適性があるのかもしれない。

 

「じゃあ、おねえちゃんはどれくらいでできるようになったの?」

 

「えっと……。」

 

どれくらいだっただろうか。そもそも父にもならってできるようになったわけじゃないし。それに最初から火を出すだけの魔術だったらほぼシングルアクションだ。こんなに苦労なんてしてないな。

でもそんなことを綾香にいってもへの字にしている口元がさらに傾いてしまうだろう。

 

……どうしよう。

 

「魔術には向き不向きってあるから、綾香も自分に向いてるのを探せばいいと思うわ。ね?」

 

「でもおねえちゃんのことだから、最初からできてたんだろうね。」

 

誤魔化しきれず。微妙に棘を含んだ言い方。

こういうところではやけに勘がいいわね。

 

「まぁまぁ。できるようになるまでちゃんと付き合ってあげるから。機嫌直して?」

 

「ん?ほんと?!」

 

「え?」

 

やけに嬉しそうになった。綾香もお母さんと同じでよくわからない人類なのかもしれない。そう自分の中での認識を新たにした。それでまた練習しはじめたんだけど

 

「ねえねえ、綾香。」

 

「なあに。」

 

「真剣にやってる?」

 

さっきよりも真剣味にかける気がする。モチベーション上げられたと思ったんだけど、ダメだったのかな。やる気なくさせるようなこと言ったかしら、私。

 

「し、しんけんにやってるよ。あやかがんばってるもん。」

 

露骨に焦り始めた。やっぱり真剣じゃなかったみたい。

 

「どうしちゃったの、綾香?」

 

「……。」

 

「黙ってちゃわかんないでしょ?おねえちゃん何か悪いことやっちゃった?」

 

「おねえちゃんは悪くないよ!ただ。」

 

「ただ?」

 

「えっと。おねえちゃんと一緒にいれるかなって。まじゅつできるの遅ければ。」

 

「……。」

 

不意を突かれた、ような感じがした。

でも相変わらず、分からなかった。だからお母さんの言うとおりだったんだなって。

 

 

結局すべきかどうかっていう観点でしか「理屈じゃないこと」ができない。そんな私だけど、今このとき。

 

綾香をぎゅっと自分の意思で初めて抱きしめた。

 

このことはきっと間違いなんかじゃない、はず。愛だとかなんだとかなんてさっぱりわからないけど、こうしてみたいって私が思ったんだから。

 

抱きしめた瞬間、頭がショートしたみたいに真っ白になって何も考えられなくなった。例えば、自分に生まれついて付随していたものを初めて裏切るような、そんな衝撃。

 

覚束ない意識がふわふわと浮かぶような感覚がした。

勝手に時間だけが過ぎていくような、おかしな空気がする。

多分、私は勿論のこと綾香も黙ったままで数分が過ぎた。私は抱きしめたまま。綾香は抱きしめられたまま。

 

ただこの抱擁は私が綾香を宥めようというものだというよりは、むしろ……。

 

「そんな心配を、綾香がしなくても。」

 

「私はきっと綾香の側にいるからね。」

 

「だって私は、―――。」

 

 

 

 

やっぱりすべき論でしか行動を起こせない私。それでもなんで今このときに「すべきだ」って思えたのか。不思議でならないけど、積み重なっていくナニカが確かにあったんだと思う。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 

 

 

何かを理解できるようになっていた。その自覚もあった。

ちょっとずつではあるけど綾香と姉妹らしくなったような気がする。そのことに満たされるような心地になりながら暮らしていた。

 

そんな頃。

東京で大儀式を行うためのマナが溜まりきった。ついに聖杯戦争が開催される、そんな時期に差し掛かったのだ。つまりは、コーンウォールから発掘した彼の王の失われた黄金の鞘、それを触媒にアーサー王を呼び出す。そのときが来たのだ。

 

私は感情を知るための糧を求めていた。お母さんと綾香、ちょっぴり父のおかげで何かを掴みかけていたとは思っていた。

けれど、未来視で視た景色のようにアーサー王を召喚すればもっと人間らしくなれるんじゃないかって、そう思った。なんて言ったって「恋」という強い感情に溺れる自分がいるからだ。

 

私は期待していた。聖杯戦争が終わった頃にはきっと綾香と屈託のない笑顔を向け合いながら手をつなぎ家路につく姿を。

 

でも現実は非常だった。

聖杯戦争の末期のこと。

少しだけといって見た未来の中。私は綾香を地面に引きずりながら一片の迷いもなく大聖杯に対して生贄に捧げた。

 

何のために?

 

分からない。だってそれは大聖杯に潜む獣を世に解き放ち、世界を崩壊させる行為に他ならないはずだ。そんなことを、この私が、望んでいるとでもいうの?わざわざ綾香を生け贄にくべてまでやるというの?

 

愕然とした。

数年前の私ならまだ分かる。生きながらに空っぽのまんまだったもの。でも未来視で視た通りだとすれば、今の私は綾香を殺せるのだということ。

 

結局この数年で私は変われたとかなんとかっていうのは勘違いだったの?

 

私のことを信じてると言ってくれた母。私が笑顔だと嬉しいって言ってくれた綾香。

全部、私が裏切るの?

 

「そんなの、おかしいじゃない。」

 

だって確かなものをそこに感じてた。

 

「こんなおぞましいものに私はならない。なっちゃいけないんだ。」

 

だって、きっと嘘じゃない。嘘になんてしたくない。

 

「なってたまるもんかなってたまるもんかなってたまるもんか。」

 

呪文みたいに、延々とこの言葉を繰り返してようやく冷静さを取り戻すことができた。

 

(まずはなんでそんなことを私がしようとしだしたのかをちゃんと視なきゃ……。)

 

そんな簡単なことにようやく思い至り、深呼吸して絞るみたいに目を閉じた。

 

ぎゅるぎゅると脳に情報がたたき込まれる。

 

そうして分かった。「恋」という熱病に浮かされたということこそが原因なんだってこと。

 

これから召喚する予定のアーサー王が聖杯に掲げる望みである「ブリテンの救済」。私は恋の相手であるアーサー王の望みを叶えるために、大聖杯に潜む獣の力を借りて5世紀あたりから今にいたるまでの人理を崩壊させる。

 

結果その間の歴史はなかったことになり、アーサー王は故国を救済できる、という計画みたい。

 

 

アーサー王を召喚するのをやめる。多分これが正解なんだろう。

 

しかし戦争開始まで秒読みの現状、新たに代わりのサーヴァントを見つけ出してこようだなんて到底無理な話だ。もっと早くに未来視を使っていれば万全の状況を模索出来たかもしれないのに。

 

だとすればこれは私の怠慢が原因だ。

 

別にサーヴァントなんていなくても、多少の無茶はすることになるでしょうけど私ならやってやれないことはない。それだけの自信だってある。

触媒を使わずに召喚して、適当なサーヴァントを出すのだっていいかもしれない。

 

けれど不安が拭いきれなくなってしまった。私という化け物が、私の大事なはずの人たちにいつ牙をむくのかなんてことが。

それは聖杯戦争がどうとかは関係なくて、不意に何かの切っ掛けで大切なものがガラクタに変わるような人間が他人を幸せに出来るのかとか、そういう問題。

 

「私はどうすればいいのかしら。」

 

唯一頼れるお母さんは何年も前にいなくなってしまった。こんなときに自分がどうしようもなく子どもであることを感じてしまう。

 

(お母さん……。)

 

ぼんやりと見つめる窓の向こうに広がる空には雲一つとしてかかっていない。

 

(私は物語の主人公にはなれないのね。)

 

明瞭な青こそ今の私を傷つけるものだった。

 

でもね。本当は分かってるの。本当におかしいのはこの青空でも世界でもなくて、この私だってことくらい。

 

窓を開ける。びゅうっと吹き込む風。冬の風は私には寒くない。

 

 

 

夜。

 

何の気なしに、擦り寄ってくる綾香に

 

「もしも私が幸せになれるなら、綾香は死んでくれる?」

 

と聞いた。その質問に驚いたのは私自身だった。本来なら問いかけるはずもない、そして考えたくもないはずのことだったから。自分の、人から外れているようなところを嫌になるほど感じた。

 

「死にたくないけど、お姉ちゃんが幸せになってくれるならそれもいいかもねー」

 

と言って、綾香は私にぎゅうっと抱きついて、そして聞いてくる。

 

「お姉ちゃんは、今幸せじゃないの?」

 

言葉に詰まった。

 

お母さんが死んだ。あっさりとどうでもいい日々に戻る世界にこんなものかと見限った自分。

綾香と一緒に遊んだり笑ったりした。どうでもいいと切り捨てたのは単に自分の無知をこそと思い知らされた。

 

それはきっと大切な日々の積み重ね。

でも。

 

「どうなんだろう?」

 

分からなくなる。結局新鮮さで判断が鈍っていただけで、こんな日々には何の価値も見いだせていなかったのかもしれない。だとして、幸せだなんて私には到底……。

 

黙ったままでいると綾香がいきなり手で顔の形をぐにゃりと変えて、おかしな表情をする。

 

「なあに、それ?」

 

「変顔だよ、お姉ちゃん!!今クラスで流行ってるの。笑わせたら勝ちなんだよ!!」

 

思うのは、そんなので面白いの?っていうこと。でも綾香はなんだか楽しそう。

 

「それで、なんで今私に変顔したの?」

 

「お姉ちゃんに笑顔になって欲しいから」

 

にへら~と笑う綾香。

なぜかはわからない。生まれたての頃に死んだ母から些細なことでもえらいえらいと頭を撫でられたことを、そういえばと思い出した。気づけば私の手が勝手に綾香の頭に伸びていた。そしてそのまま撫でていた。

 

綾香は気持ち良さげに目を瞑る。喜んでるみたい。こんなことで喜ぶなんて単純だなと思う。

でも、悪い気はしない。なんだろう、この気持ち?

 

「ふふ……。」

 

でもこの気持ちは初めてなんかじゃない。だって目を閉じればこれまでの記憶がたくさん浮かんでくる。

 

幸せなんてものやっぱりわからないけど、でもやっぱり。私は幸せなんだよ。

だってこんなにたくさん思い出があるもの。

だってこんなに心が温かい。

 

真似なんかじゃない。これは私がやりたいこと。

私は綾香のお姉ちゃんなんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

在りし日のこと。

 

カーテンの隙間から射す春の陽気に微睡む正午のひととき。

幼稚園の課題の作文で綾香が家族のことを書いていた。覗こうとすると、綾香がすごい勢いでそれを隠す。

 

「なんで見せてくれないの?」

 

と聞けば、幼稚園の発表会でいうから誰にも言っちゃダメってせんせーがいってた。と言い張る。

 

むむっ。

 

「私は発表会に行けないから、見せてよ。お願い、ね?」

 

と、綾香の目にかかって邪魔そうな前髪を手で横に分けてあげつつ手のひらを綾香の頬にぴたっとくっつける。今日の私はなんでかしつこい。

 

綾香は頬に触れる手に自分の手を重ねる。

触れあう手と手。冷たい私と温かい綾香。その境界では絶えず熱と熱が交換されている。

熱平衡によっていつしか温度が一緒になっていく。

 

気づけば二人の手は下ろされていたけれど、重ねられたまま。

 

「来れないならしょーがないかもね。はい、おねえちゃん。」

 

もう片方の手に握られていた作文用紙。元気いっぱいに渡してくれたそれを見ると

 

「お姉ちゃんはやさしくてかわいいです。それになんでもできてすごいかっこいいです。そんなおねえちゃんがだいすきです!!」

 

と書いてあった。

私が、やさしい?そうなんだろうか。よくわからない。

 

「私って優しいの?」

 

「しらなかったの?すっごいやさしいよ!ごはんつくってくれるしなでなでしてくれる。夜ねれないといっしょにねてくれる!!」

 

ふんすと鼻息を荒げながら力説する綾香に「え、ええ。そうなのね」と引き気味で返す。

 

でも私は優しい、らしい。私は私のことがわからないのに、私の知らない私を綾香がたくさん見つけてくれてる気がする。

特に何も言わずに綾香にぎゅうううっと抱きついた。

 

「おねえちゃんどしたの?あまえんぼさん?」

 

「うん。そうかもね。」

 

「しょうがないおねえちゃんだな〜」

 

にこにこしてる綾香。

 

 

 

そのあとどうなったんだっけ。

ああ、そうだった。そのまま一緒に綾香と眠っちゃったんだ。

 

起きたら二人して口からよだれ垂らしてたからそれがおかしくて笑っちゃった。

 

 

綾香はどんなふうに思ってたんだろう。

私にとってはね、こんな「何気ない日々」こそがすごく刺激的だった。

 

 

 

きっと知らない間にそうやって、何度も救われてたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのためにはセイバーを召喚し、狂ってしまう前に死を選ぶ。これが最良の選択。じゃあ、私が自殺した後、綾香はどうなるんだろう。ちゃんと生きてるの?

 

私が事前に死んでおいた場合の綾香の未来を視てみる。すると今回の聖杯戦争では綾香は無事に生き抜くことができるものの8年後に必ず死ぬらしい。それもまた聖杯戦争によるもの。

 

それじゃダメだ。どうすればいい?

 

 

ならばと今度は初心に戻って私が綾香を生け贄にしようとする場合の、その続きを視た。

 

引きずって綾香を大聖杯の中に落とそうと私がする、その瞬間。背後から迫りくる長剣に恋に盲目だった私は気づくことができなかった。セイバーにあっさりと背後から聖剣で刺された私は全能を自負する割にはあっさりと死んだ。そして死の瞬間にもセイバーに愛を囁いている。

 

恋とはあな恐ろしや。

私が最低なことをやってることは分かってるつもりだけど、自分を刺殺するような人に求愛し続けることほど空しいものはないと思うんだけどな。そんな人よりもよっぽど綾香のほうが……。

 

未来の私とやらに小一時間は最低でもぐちぐちと言ってやりたいところはあるけど、それはさておき。

 

私が視たことによる未来の改変が起こらない。これはどういうことかを一瞬考えて、なるほどと一つの答えを得る。ならばこれ以上の情報はもういらないでしょう。それは私の計画がうまく運ぶことの証左だと言える。

 

決行するに先立って、綾香に聞いた言葉を今度は自分に問いかけてみる。

 

「もしも綾香が幸せになれるなら、私は死んであげられる?」

 

答えなんて決まり切ってる。




このままじゃ投稿しないまま終わりそうな気がしてきたので、このまま投稿します。
自分でも気持ち悪いところはたくさんあるんですけどキリがないので……。気になったときにちょくちょく直していくスタンスで。

残り1話!(だと思う)


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1

お久しぶりです。


唖然とするセイバーをじっと見据える綾香、もとい愛歌。舐め回すように凝視され続けるセイバーからすればたまったものではない。8年前に背後から刺した女が戻ってきたのだ。それも綾香の身体を使って。

なんらかの魔術的なバックアップが綾香の身体の中に仕込まれていたのだろうか?だとすれば、前回の聖杯戦争時に綾香を完全に救い切ることができなかったのか。

そう思えば愕然としてしまう。

 

セイバーの心も知らず、じいっと愛歌はセイバーを眺め続けていた。鑑定士が美術品の瑕疵を隈なくチェックしているような面持ちだった。

それから、何に納得したのか、あぁ、なるほど……とだけ呟くと、

 

「あなたが私の、運命の人?」

 

と問うた。

セイバーの内心が穏やかではない。このセリフがいったいどういう意図を以て発せられたものなのかを図りきれていない。

ただ愛歌はイタズラを成功させてやったぞという三日月状の笑みを見せた後、

 

「さて、まずは目の前の問題に対処しましょう?」

 

すっとセイバーから顔を動かすでもなく、腕だけを動かして槍を構えて飛び掛かってくるランサーを易々と退けた。

ランサーは目を白黒させていた。別人に変貌を遂げた沙条とやらを槍で貫こうと神速の突きを繰り出したはずなのに、気づけば破れた窓ガラスと壁とを前にしていたのだから。

 

「ここは、どこだ?」

 

いや、わかっている。この邸宅を襲撃する際の侵入箇所だ。ここを突き破って、聖杯戦争の初戦は火蓋を切って落とされた。

それでもランサーがこの言葉を出したのは、理解の追いつかなさからであった。瞬間的に移動をする魔術は神代より存在している。クーフーリンもまた生前、彼の術を使う魔術師たちと相対したことはあった。

しかし、魔術行使の準備をしている素振りをほとんど見せず、ただ腕を動かすだけの詠唱さえない動作で、先ほどまで戦いの中心地であった場所から移動を余儀なくされてしまっている。こんなこと経験したことはない。

 

例えば、沙条綾香が不可思議な変貌を遂げて別人になってしまったとき、ランサーは目の前のセイバーよりもよほど異質で無視できないものを少女から感じ取った。結果、セイバーの隙をつくことさえ考えずに、少女に槍で迫った。

 

あの感覚は間違いではなかった。

 

ランサーは目を閉じた。

 

「あれほどの魔術を行使できるやつが、攻撃するでもなくただ移動させるだけっていうのは、なぁ……。」

 

槍を地面に突き刺して、占った。倒れて方向は……。

 

「ちっ。あぁ、嫌だねぇ。」

 

屋敷とは真逆の方向に倒れた槍を拾い上げると、クーフーリンは沙条家を後にした。戦士の矜持を胸に抱くクーフーリンも、バケモノとセイバー2体を相手にするのは割に合わないと、内心安堵していた。その胸中複雑であったが、どうせ帰ったらマスターにいびられて終わりだろう。

 

「しっかし、ありゃあなんだったのか。」

 

少なくとも対策を立てないと無駄死にするだけだという直感があった。戦士という在り方に殉じることこそが我が身の恃みであることは言うまでもないけれど、今のこの身はサーヴァント、仕えるものとして最大限をマスターに尽くすと決めている。

魔術師とサーヴァントに立ち向かうには、こちらも魔術師とサーヴァントとして備えが必要だろう。

 

はっきり言えばこんな己に対して憤りを隠せない。しかしそれもまた戦である。

 

だが、あの変化と召喚したサーヴァントがセイバーであること、少なくともこの戦争のための情報収集としては申し分ない働きをしたと思う。叶うなら、あの黒髪の少女のトドメを刺したかったし、セイバーとやり合いたかったと、そんな感傷を抱きながらランサーは夜の街を疾駆し、主人のもとへ帰還した。

 

 

 

 

 

「あら、帰っちゃったわ。もし戻ってくるようなら今度こそ潰してやろうって思ってたのに。戦士っていう人たちも意外に臆病なのかしら。」

 

くすくすと、鈴の音を鳴らすような笑い声に、在りし日の光景が蘇るセイバー。見定める視線の照準を愛歌に合わせるも、愛歌もまた感情の読めない瞳でセイバーを見つめていた。

 

「君は、いったい……?」

 

「ん?どういう状況か気になる?」

 

こくんと首を傾げながら笑みを深くする愛歌からは、底知れない雰囲気が漂っているのを感じる。

 

「セイバーの故国の救済のため。」

 

セイバーは顔を引き攣らせる。

 

「っていう解答をしたら、あなたはどう思うかしらね。これまでの人類史全てを焼き切ってあなたに捧げます。どうかしら、ねぇ?」

 

やはり看過できない。エクスカリバーの柄に手をかけるも、しかしここで愛歌を一刀の元に切り伏せることができたとして、綾香はどうなる?不確定すぎる。柄を握った拳が迷いを見せる。今の膠着した状態を愛歌は狙ったのかと疑心暗鬼だ。

 

「ふふ、顔が強張っちゃって可哀想ね。冗談よ冗談。背後から隙を突いて殺してくる騎士様に恋愛感情とかあり得ないと思わないかしら?それとも今でも私の狂愛はあなたに向けられてるとでも思った?自意識過剰さん。……それに。いや、この話はいらないわね。」

 

思っていた感じではなさそうだった。しかし油断ならないのは確かだろう。

 

「綾香はどうなったんだ。」

 

「綾香?」

 

「ああ。」

 

「最優の騎士様なんかよりよっぽどお姉ちゃんの方が綾香を守れるわ。心配御無用」

 

「え?」

 

「聴いてなかった?まぁ、せいぜい聖杯を壊すのに助力してくれればあなたに用はないわ。しかしよりによってなんで綾香もアーサーを呼び出しちゃうのかしらね。縁ってことなんでしょうけど、やりにくいったら……。火力としては申し分ないけどね」

 

「頭が追いつかないんだが。君は愛歌なんだよな?」

 

「はぁ。もう私眠たいの。綾香に身体を返すわね。さようなら」

 

セイバーの質問に答えようともせずに、欠伸をした口を手で押さえ目を瞑った愛歌。足元から頭へと変化が起こった。存在が再び元の形に塗り替えられていく。金の髪の毛が黒く染められて、身長が幾分か伸びたところで、まだ意識の戻っていない瞼を重く閉ざした綾香の姿が現れた。地面に膝から崩れ落ちようとするのを、セイバーは間一髪なんとか支えることができた。

 

「ほんと、どうなってるんだか」

 

腕の中ですやすやと眠りこける綾香の顔をまじまじと見つめた。その寝顔は8年前、セイバーに決意を抱かせたあの少女の姿と頭の中でぴったりと重なった。セイバーは綾香を腕に抱えると寝室まで移動しようとして、はたと地面に倒れ伏した一羽の鳩に気づいた。綾香が起きたら、一緒に弔おうと、心の中で手を合わせた。

 

 

 

先の聖杯戦争とその顛末。あれほどの悲惨な出来事が、ある意味で故国の救済という身に余る願いを抱いていたこの身にも原因があったと言うことは否めない事実だった。愛歌が狂ったのが「狂愛」からであったなら、召喚されるのがアーサーでなければ、この姉妹とその父は今も平穏に暮らしを営んでいたのではないか。

遠因の元凶である己。であるからこそ逆説的に、綾香をこの災禍から守り切りたいという思いはひとしおだった。前回の聖杯戦争で結ばれたアーサーと綾香との縁を辿って、アーサーはサーヴァントとして名乗りを上げた。上げたはいいものの、なんだか予想もつかない状況に困惑気味だった。

 

「愛歌、君はいったい?」

 

妹である綾香を惜しげもなく供物に捧げようとしていた程に、人間味のなかった愛歌という少女が嘘か本当か、妹を救おうという意思を見せている。何を企んでいるのかわかったものじゃない。

本心であればいいと思う。しかしあれほどの暗躍と大立ち回りを見せた少女である。

 

セイバーは疑心暗鬼の虜となっていた。愛歌からすれば、セイバーは誤解に端を発した推論に惑わされているに過ぎないと断じるだろうが。

 

寝室に運んだ綾香に布団を被せると、セイバーは部屋から立ち退いた。深夜の沙条邸を歩く。人1人では到底整備しきれない大きさの家であるからこそ、所々が記憶よりも古ぼけて見える。あれから8年の歳月が流れたことを加味しても、それが綾香にとってのここ数年の孤独をありありと現していた。

 

半壊した壁と窓から青白い月の光が冷たい風に囁いて、しんと静まり返った夜の匂いが流れ込んでくる。

 

満月。

この月が新月となって消え去るまでにはこの戦争を終わらせよう。

蒼銀の騎士は、腰に携えた黄金のつるぎを撫でた。

 

聖杯戦争は始まったばかりである。



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2

もう長くはないです。(色々な意味で)


「ゲイボルグを持たせないのは戦略として正しい。今更そこに不満はねぇよ。」

 

「あら、そうは見えなかったけれど。何かしら。もっと戦いを楽しみたかったのよね?」

 

「まぁな」

 

「……沙条の生き残りはどうだったの。出来のほうは」

 

「へっ、なかなかおもしろい嬢ちゃんだったよ。お前さんと同じくらいだ。」

 

「ふぅん」

 

玲瓏館美沙夜はカップに注がれたティーをそっと口に運びながら、思案げに8年前のことを思い返していた。

聖杯戦争終結の夜、姿明かさぬよう外套で顔を覆い隠した青年によって、当主を失い混沌とした玲瓏館の館に運び込まれた少女は数日の間こんこんと、ちょうどあのベッドで眠りこけていた。

そのときのことを、手のひらの感覚が覚えている。

 

お互いに全てを失った8年前のあの儀式の夜に、一瞬だけ交わった玲瓏館美沙夜と沙条綾香の関係性はそれ以降何の繋がりもない。

綾香はこの館にいる間はほとんど眠り続けていたし、目が覚めた後も美沙夜と会うことはなかったから、きっと何の印象も抱いていないだろう。美沙夜にとっても特別印象に残るような出来事ではなかった。

 

ただ、矛盾するようだが美沙夜にとっての転機はそのときだった。

瞼を下ろしたまま眠り続ける少女が、いったいどんな夢でも見ているのだろうか、苦悶の表情を浮かべつつ手を伸ばす素振りを見せ、美沙夜はその手をぎゅっと握った。触れた手の感触は柔らかく、誰かが守ってあげなければいけないと感じさせるような弱さに満ち満ちていた。

そして決別の意を込めてその手の感触をしっかりと脳に刻んだ。

 

(私は1人だけで立っていくのよ。)

 

弱さを苛烈なまでに唾棄する美沙夜の在り方が確立された。

 

 

だからこそ、ランサーの「なかなかおもしろい嬢ちゃんだったよ。お前さんと同じくらいだ。」というのを聴いて、不思議な感慨を抱いたことは否めなかった。美沙夜自身がランサーに綾香を殺すように指示をしていたのは何も聖杯戦争を勝ち抜くためだけではなかった。

前回の戦争を最後まで勝ち残った沙条の家を、無視できる人間がいるはずがないのだ。綾香の意思は関係がない。参加者によっては綾香に悪趣味な魔術をかけて非人道的な拷問を加えるかもしれない。何にせよ辿る道が真っ当な最期を向かえるはずはないだろう。

仮にサーヴァントを呼びもしないのに呑気に生活してるのであれば私が殺してあげるのがいっそ慈悲だろうと本気で美沙夜は思っていたし、サーヴァントを召喚していたとしても同様だ。

美沙夜の中で、綾香とは自身の置いてきた弱さの象徴として、心の片隅でひっそりと立ち尽くしていた未熟な木だった。けれど、思いの外強かったらしい。

 

「なるべく一突きで殺してあげなさい。」

 

どうやら、昨日の夜出立するランサーの後ろ姿にかけたこの言葉の必要のない程度には彼女は逞しく育ったらしい。しかし、やることは変わらない。綾香に対する躊躇がなくなっただけだ。格下、もとい最弱だと思っていた相手を上方修正するだけのこと。何の問題もない。

偵察のためにランサーを各陣営にあて、隙があれば殺すという方針も依然として変わらない。

 

見通しが立ったあたりで綾香を殺しにいく。

 

「でもランサー?沙条綾香はサーヴァントを召喚していなかったんでしょう。なぜトドメをさせなかったのかしらねぇ。」

 

「あん?おもしろかったからだよ。有り体に言えば……手加減した、な。まぁ」

 

「この駄犬が。クーフーリンの名が聞いて呆れるわ。戦争と言うものを理解できていないのかしら。」

 

「おっしゃる通りで。でもよぉ、一応言っておくとこれも戦場でありがちなことよ。圧倒的な才能の萌芽を前にして、敵にも関わらずそいつの力を出し切らせたいと欲を掻き、自業自得か、敗れてしまうなんてことはな。俺自身、そう言う相手方の慢心というか、手遊びのおかげでここまで成長できたといって過言ないな。」

 

「それは連帯であり個である戦士だからでしょう?あなたは私のサーヴァント。余計な無駄口を叩くのはよしなさいな。あなたは油断してみすみすセイバーを呼び出す時間まで与えてしまった。恥を知りなさい。」

 

ティーカップを口に運ぶ。喉奥に溜まった熱を逃してやるように、ふぅっと音の立たない程度に弱く息を吐いた。

 

「それで。」

 

先程までに嗜虐に歪んだ瞳が、怜悧で先鋭としたものに変貌を遂げた。

 

「沙条綾香が召喚したのはセイバー。そして最後に見せた変貌、ね。もう少し説明をなさい。」

 

「説明も何もねぇよ。セイバーの隙を見つけて嬢ちゃんに飛びかかった。確実にやったと思ったが、あの嬢ちゃんは姿を、いや存在を別のものに変えちまった。詠唱も何もなく俺は気付けばそいつの魔術で外に飛ばされていた。ある意味セイバーよりも異質なものを感じたな。いったいどんな技を隠していたんだかねえ。」

 

「存在を別のものに変えたって言うのは?異形にでもなったの?」

 

「金髪青目の幼い女に変わったんだ。ありゃあ何なんだ?」

 

「……。」

 

「?どうしたよ」

 

「……沙条、愛歌?」

 

「あん?」

 

「いや、まさかね。あり得るはずがないわ。」

 

思い当たる節を言葉に出してみる。そして情報が聴覚情報に変換され、再び脳にインプットし直すことで、やはりそれはあり得ないことだと思い直した。

 

「だって彼女は死んだのよ?」

 

むかし沙条愛歌に遊んでもらったことがある。大人たちは彼女を天才だと持て囃していたけれど、彼女はいつも無表情で何を考えているのだか幼いながらもわからなくて、遊んでもらうたび少し不安だった。天才とは人智の及ぶべくもない不可侵の存在なのだとすれば、美沙夜の抱いたその印象は、大人たちの評価とぴったり合致していた。

きっとすごい人なのねと思った。だから遊んでもらえるのがうれしかった。美沙夜自身もすごくなれたような気がして。

 

そんな彼女でさえも死んでしまった。

 

サーヴァントというまったくもって人智の超えた存在に対して、人の基準での“人智の超えた”なんて表現は何の役にも立たないのだと思い知らされた。だからこそ、さすがにひょいひょいと空間転移なんて使えてたまるかと考えてしまう。それこそサーヴァントの域に達しているだろう。

 

今さら死んだ人間が、血縁とはいえ他人の身体に降ろされるなんてこと。身体ごと変貌してしまうなんてこと。そんなことが……。

 

「不可能ではない、わね……。」

 

死を偽装していただの、置換魔術の最奥に至っていただの、無念を引き摺って沙条愛歌の強烈なまでの霊魂が現世に留まり続けていただの、理屈をつけることはできる。そう、不可能ではないのだ。

 

しかし沙条の家が置換魔術を引き継いできたなんて聞いたことがない。もちろん魔術とは秘匿するべきものという前提はあるが。

そして、いくら天才でも一代でその分野の第一人者に至れるなんてことはない。それも今の美沙夜よりも若い時分にだ。

死を偽装する必要もない。なぜ前回の聖杯戦争で、順当に勝ち上がったはずの彼女が、聖杯を手にすることもできなかったのかを考えると、サーヴァントの離反に遭って殺されたという解釈はこれ以上なく納得できた。

 

「ま、いいわ。どんな形であれ、生前よりも力は衰えているはず。仮に沙条愛歌が相手だとしてもやってやれないことはないわ。」

 

サーヴァントにやられたという情報が事実ならば、サーヴァントで倒せる程度だと言うことに違いはない。

 

それに、沙条愛歌さえも圧倒してやらなければ、私は呆気なく数日の間に死ぬのだから。

 

「ランサー?明日はアーチャーの偵察をしてきなさいな。遠距離だから難しいかもしれないけど、もしも隙をつけるならマスターを殺してしまいなさい。アーチャーの戦闘情報とマスターの特定ができればこれ以上ない成果よ。一番最悪なのはあなたが引き際を誤ったとき。いいかしら?」

 

「あいよ。了解。」

 

にっとランサーが笑うと、ランサーは霊体に戻ってその場から気配ごと消え失せた。美沙夜はカップに残されたティーを傾げて飲み切ると、ソーサーの上に置いた。立ち上がり窓際から街を見下ろした。

 

(この街に住まう者、その全て。)

 

肩にのしかかる重さがまるで違う。こんな夜更けでもポツポツと明かりがついている街の営みを、セカンドオーナーたる玲瓏館美沙夜は毅然と見通していた。

 

「ねぇ、沙条綾香。あなたにはどれほどの覚悟がある?」

 

この身体のタイムリミットは近い。なすべきことをなさなければいけない。父からの呪いに応えるために、この街に立つ責務を果たすために。何よりも、己が玲瓏館美沙夜であるから。

 

その誇りの放つ輝きが、どうしたって悲痛だった。



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