剪定者ナイン (オンドゥル大使)
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ACT1「剪定者」

 

「まぁ、とても綺麗だわ」

 

 シンデレラは感激して自分にかけられた魔法に酔いしれた。妖精のゴッドマザーはふぇっふぇっと喉の奥で笑う。

 

「しかし気をつけなければいけないよ、シンデレラ。この魔法は午前零時には解けてしまう。それまでにお城を抜け出しなさい」

 

 シンデレラはすっかり有頂天だ。ネズミとかぼちゃで設えられた馬車に乗ってお城へと向かう。その後姿を妖精のゴッドマザーはじっと眺めていた。

 

 この魔法の完成、それはつまり多くの財を自分にもたらすであろう。妖精のゴッドマザーは身体を不可視にしてシンデレラの後を追った。午前零時の鐘が鳴り、シンデレラの魔法が解ける。

 

 ガラスの靴が階段を転がっていく、その間にゴッドマザーにはしなければならないことがあった。城の宝物庫には金銀財宝が眠っている。この舞踏会の夜には誰もがシンデレラに夢中になっているはずだ。

 

 その隙をゴッドマザーは突いた。誰も頓着しない、金銀財宝を見事盗み出し、ゴッドマザーはシンデレラとの連絡も絶ってまた別の世界に渡るつもりだった。だがそれを阻んだのは静かな声音だ。

 

「――待て、妖精のゴッドマザーだな?」

 

 憲兵か、とゴッドマザーは身構える。この時間帯の憲兵など、しかし大した問題ではない。何度も繰り返し、この時間帯はシミュレートしてきた。だからどのような憲兵が現れようとも自分を止められはしない。振り返り、善良な一市民でも演じるとしよう。魔女の狡猾な頭が働きゴッドマザーは振り返った。

 

 その瞬間、目に入ってきたのは黒衣の青年である。肌が白磁のように透き通っており、長大な旅人帽に黒いコートをはためかせていた。そのいでたちが、あまりにも「この世界」からかけ離れていたために、魔女はいち早く察知する。

 

「剪定者か!」

 

 ゴッドマザーはこうなっては魔法による幻惑など無駄だと判じ、魔法攻撃を試みた。だが黒衣の青年は手を振るっただけで無効化する。

 

「妖精のゴッドマザー。お前の使命はこの時空間におけるシンデレラの擁立とその保護のはず。どうして私欲に塗れた行動をする」

 

 冷たい声音に背筋が震える。相手はこの世のものではないかのような青白い唇をしていた。

 

「私はその役目は既に果たした。何をしても何も文句は言われないはず」

 

「だが魔法使いの行動、及び使用魔術に関しては厳格な取り決めが行われている。お前の魔法は一部それに抵触した」

 

 ゴッドマザーは歯噛みする。まさか剪定者の網にかかるとは思ってもみなかった。

 

「シンデレラはきっちり舞踏会を楽しみ、ガラスの靴も予定通り、そう筋書き通り階段を転がった。これ以上の干渉は、それこそ無意味なのでは?」

 

 ゴッドマザーの弁明に対して剪定者はどこまでも無慈悲だ。

 

「お前に許された魔法は二つ。物質交換の魔法と価値観の書き換えの魔法だ。物質交換魔法はカボチャの馬車で、価値観の書き換えは舞踏会でのシンデレラの立ち振る舞いで使用された。だから今、宝物庫から盗み出すために使った不可視の魔法は本来、使われるはずがないのだが」

 

 ゴッドマザーは杖を振り翳し剪定者に向けて魔法を放つ。剪定者はするりと避けて影のように掴みどころなく動いた。

 

「攻撃魔法も許可されていない」

 

 剪定者は右手の手袋を抜く。その手の甲には「9」の文字があった。

 

「剪定者ナインの名において、物語の可能性の枝葉を切り取る役目を遂行する」

 

「やってみろ!」

 

 矢継ぎ早に攻撃魔法で剪定者を打ち取ろうとするが剪定者の素早い動きに翻弄される。まるで影と相対しているかのように剪定者の前に自慢の魔法も歯が立たない。

 

「おのれ、おのれ!」

 

 ゴッドマザーの攻撃をいなし、剪定者が懐に潜り込む。目を瞠ったその時には、剪定者の手刀が心臓へと潜り込んでいた。生身の心臓へと冷たい刃のような感触が当てられたのを覚える。剪定者の手だ。

 

「選べ、ゴッドマザー。物語の可能性をお前は広げるのか、それとも我々の範囲内に収めるのか」

 

 後者が選択されれば剪定者は自分を殺さないかもしれない。だがゴッドマザーは既に違反している。魔法使いが行っていい条項を何個も無視した自分を剪定者は罰に処すに違いない。

 

「やかましい!」

 

 攻撃に移ろうとしたゴッドマザーを剪定者の手刀が切り裂いた。心臓が引き裂かれ瞬時に息の根を止められる。ゴッドマザーは青い炎に包まれて燃え落ちた。剪定者は呟く。

 

「残念だ。また妖精のゴッドマザーの代わりを見つけねば」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シンデレラの世界への干渉は最低限に行う。それが取り決めだったのでナインはすぐさま立ち去ろうとした。だがその姿を憲兵に見咎められた。恐らくゴッドマザーとの戦闘を盗み見ていたのだろう。興奮した様子の憲兵は槍を突き出して震えていた。

 

「お、お前、何をやった? 今、魔法使いを」

 

「それ以上の詮索はお勧めしない。何故ならば、我らは影の同盟。お前たち物語の住人は感知されてはならないのだ」

 

 憲兵が歯の根の合わない様子で槍を突き出して威嚇する。どうやら冷静な話し合いが通用する相手でもなさそうだ。

 

「……どうして、いつもこうなる。俺はただ、違反者を狩りに来ただけなのに。極限まで目立たない格好をしていてもこれだ。物語の端役がどうしてだか気づく」

 

『きっと、彼らには特別な能力が備わっているんだよ』

 

 突然に聞こえてきた透き通った声音に憲兵が狼狽する。ナインは手袋に右手を収めながら中空に向けて応じた。

 

「どういう能力だ?」

 

『主役になれない代わりに、こういうバグを見つけ出せる能力さ。彼らは鼻だけは効く。でも主役にはなれない。悲しい運命だね』

 

「何だ? 女の声?」

 

 憲兵はすっかり怖気づいているようだがナインを逃がすつもりはないようだ。槍を仕舞わないのは精一杯の虚勢だろう。

 

「お前が喋るから、また新たな可能性の骨子が生まれようとしてる。三十四秒後だ」

 

 ナインが左手にはめた腕時計を確認する。剪定者の腕時計には物語の可能性、選択肢が広がった場合、それを正確に識別するための機能がついているのだ。

 

『うえ、あたしのせい? これだから剪定者は冗談が通じないんだよね。嫌いだよ』

 

「それもそうだろうな。相手からしてみればお前の声は亡霊の声で、俺はその導き手だ」

 

 憲兵は槍を突き出してがなる。

 

「そこになおれ! 舞踏会の裏側で姑息な真似を」

 

 どうやら憲兵は宝物庫から金銀財宝が盗み出されたことを知っているようだ。だがどうして今になって、と考えていると一つの結論が導き出された。

 

「お前、フェアリートリップの重篤患者だな?」

 

 憲兵が思わず口元に手をやる。やはりか、とナインは呆れた。

 

「妖精のゴッドマザーとはいえ、何者の干渉もなしに宝物庫までは辿り着けない。だが憲兵一人を中毒患者にすれば、それくらいは容易いか」

 

「よ、妖精の粉を吸って何が悪い!」

 

 開き直った憲兵に呆れ声を出したのは先ほどから憲兵を恐れさせている女の声だった。

 

『やれやれ、そんなに生の妖精がいいのかな?』

 

「見せ付けてやればいい。妖精を実際に見たことはないはずだ」

 

 その言葉にナインのコートから光の球が飛び出した。拳ほどの大きさの人魂に憲兵がたじろぐ。青白い光のそれに恐れ戦いている。

 

「化け物……、化け物の類か」

 

『失礼しちゃうなぁ。あたしは妖精だってのに』

 

「妖精は妖精だと名乗らないからだろう」

 

 声が発せられたのは人魂からだった。憲兵はたちまち失禁する。

 

「何だ? お前たち……」

 

「三十四秒経った。シンデレラの物語に新たな可能性世界が誕生してしまう。これは、……なるほど、黒衣の亡霊と女の怨霊の物語か」

 

 発した声に、『ひっどい』と非難が飛ぶ。

 

『怨霊だなんて』

 

「だが理解できない事象を前にすれば、人は勝手に物語を作る。それこそが俺の使命でもあるのだが」

 

 憲兵はすっかり恐怖の虜だ。首をふるふると振って立ち竦んでいる。

 

「物語? 何のことを」

 

「我々剪定者は、物語の滅殺者。可能性世界を滅ぼすことにこそ、我が存在価値はある。恨むなよ」

 

 ナインは左手の手袋を抜き取った。手の内側には右手と同じように「9」の文字が刻まれている。

 

「ろ、狼藉者がぁっ!」

 

 憲兵の槍が跳ね上がりナインへと突き刺さろうとする。だがナインはその軌道を読んだかのように紙一重で回避し一気に憲兵へと肉迫した。憲兵の頭部を引っ掴む。憲兵は悲鳴を上げた。

 

「やめ、やめ……」

 

「悪いがこればっかりは仕方がない。案ずるな。お前はただ記憶を失うだけ。可能性世界から滅却されるのに比べれば、やわい措置だ」

 

 赤い電流が走り憲兵は失神した。ナインは左手を見やる。手の内側に刻まれた「9」の赤い文字が脈打っていた。

 

『記憶消すの何人目? また当局から目をつけられるよ?』

 

 人魂の声にナインは手袋に左手を仕舞う。

 

「殺すのに比べれば、随分と譲歩している。なに、当局にはフェアリートリップが思わぬところで物語世界に影響を及ぼしていることを告げればお目こぼしをいただけるだろう」

 

『変なところでせこいよね、ナインは』

 

 無言で身を翻しコートのジッパーを開ける。するとジッパーの内側から影が染み出し、ナインの身体をすっぽりと包み込んだ。

 

 次の瞬間にはナインはもう「シンデレラの世界」から離脱していた。



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ACT2「観測神殿」

 

 当局は関知していない、というのが回答だった。ナインは上司に謁見しようとするもそれが数分前のアポイントだったために却下されたことを受付で知る。受付嬢はナインに対して恭しく頭を垂れた。

 

「申し訳ありませんがまた別の時間帯を指定してください」

 

「フェアリートリップの危険性に関するレポートを、君たちは読んだことがあるか?」

 

 質問に受付嬢はただ小鳥のように小首を傾げるばかりだ。彼女たちはどことも繋がっていないこの受付空間にて固定されているだけのシンボルである。当然のことながら当局の情報は関知されていない。

 

「いや、何でもない。忘れてくれ」

 

「了承しました。忘れます」

 

 忘れます、で普通は忘れられないものだが彼女たちは特別製だ。忘れる、と思えば忘れられる。それが剪定者とも、物語の登場人物とも違うところだ。

 

『案山子女の悲しみで本でも作れそうだね』

 

 それを察したのかコートから飛び出した光の球が呟く。案山子女。彼女たちを暗に馬鹿にしている発言にナインは言い返した。

 

「そうなれば俺はまた可能性を殺すだけだ」

 

『仕事人間だねぇ、ナインは』

 

 光の球は舞い遊ぶようにナインの周りを飛ぶ。鬱陶しいので手で払った。

 

「ベル。お前は人造妖精だからいいかもしれない。幾分か、俺たちよりかは気楽な身分だ」

 

『人造妖精の悲しみ、って本でもいいよね』

 

 ベルと呼ばれた光の球はナインの発言の揚げ足を取る。この人造妖精はいつもこうだ。こっちよりも気が楽だから軽率な発言もできる。

 

「剪定者は、物語の滅却を仕事にしている。だから殺し屋とそう変わらない」

 

『変わるのは殺し屋さんは人間に恐れられるけれど、あたしたちを恐れるのはみんな主役級の物語の重要人物。英雄だものね』

 

 ベルの減らず口にナインは首もとを緩めて嘆息をつく。疲れの出ている証拠だった。

 

「フェアリートリップに関する情報資料を読みたい。人造妖精ベル。情報閲覧を許可せよ」

 

『認定しました。情報を列挙します』

 

 急にシステム音声になった人造妖精にナインはようやく一息つく。いくつかのキーワードを使えば小うるさい人造妖精の相棒はこの職業に欠かせない重要な端末に変化する。

 

「フェアリートリップが検出されたのはシンデレラの世界だけではないだろう。出所を洗いたい。他の剪定者と会わなければ」

 

『真面目だよねぇ』

 

 ベルが元の性格に戻って声にする。ナインは、「真面目だと思ったことはない」と答える。

 

「これが当然の責務だ」

 

『他の剪定者のスケジュールをどう合わせるの? みんな出払っているんじゃない?』

 

 それこそ案山子女の役割だ。ナインは受付嬢へと振り返り簡潔に要件を告げた。

 

「フェアリートリップについて知っている者は剪定者ナインへと情報を寄越すように伝えて欲しい。連絡は人造妖精伝手で」

 

 言いつけると受付嬢は了解した。

 

「かしこまりました。では剪定者ナイン様。ここにサインを」

 

 書類が差し出されナインはそこにサインする。自分の名前「9」の文字を。

 

 時間が余ったのでナインは次の仕事が入っていないかをベルに確認する。ベルは退屈そうに応じた。

 

『七十二時間後の桃太郎の世界までは非番みたい。どうする?』

 

「どうするも何も、時間が空いたのならばフェアリートリップについて調べるべきだ」

 

 剪定者一人一人にあてがわれているのは、白い個室だった。滅菌されたような壁を剪定者が通過する。

 

 ナインは自分の机について手形の彫り込まれた面へと素手を押し当てる。すると情報が投射され他の剪定者のスケジュールと共に検索窓が開いた。剪定者のライブラリにアクセスする権限は剪定者の右手の甲に彫り込まれたその者の名前が証明だった。

 

「フェアリートリップ」

 

 口にすると検索窓にその言葉があらゆる言語で入力され瞬く間に情報が拡散した。物語の世界は惑星のように漂っており、それら同士を線がリンクする。一つ一つ、検索窓に入力されたキーワードに合致する報告を導き出してくれる。

 

『ナインさぁ、もうちょっと仕事以外に趣味持ちなよ』

 

 人造妖精のお節介にナインはため息を漏らす。

 

「お前がもう少しつつましいのならば、俺も趣味の一つくらいは持つだろう」

 

『……手厳しいなぁ。剪定者は何でみんなこう仕事熱心なのかね』

 

 小言を耳にしつつナインは一つの世界からキーワードに合致する情報が漏れたのを関知する。

 

「ハーメルンの笛吹き男。この物語世界でもフェアリートリップらしきものが検出されたとのことだ」

 

『行くっての?』

 

 急いたナインの挙動にベルが驚愕する。

 

「七十二時間だけ非番なのだろう。ならば、行かない理由もあるまい」

 

『うわ、どこまで仕事人間なわけ? 大体、フェアリートリップかどうかなんて、他の剪定者と実際に情報を突き合せなければ分からないことじゃん』

 

「だが他の剪定者も捕まらず、情報だけを掴めたとなれば、俺が行かなければ」

 

 気が済まない、という声音にベルは渋々従った。

 

『……はいはい。どうせあたしは人造妖精で、剪定者様の付き人ですよー、と』

 

 ベルの軽口を受け流しナインは部屋を出る。どうしてだか部屋にはあまり長居したくはない。これは直感的なもので、全く裏付けがないのだが何か制限されているような気がしてならないのだ。

 

「ハーメルンの笛吹き男の世界に行くにはどうすればいいのか、また受付で聞かなければならない」

 

『ナインさぁ、何だかんだで動きたがりだよね。いいじゃん、フェアリートリップの一つや二つくらい。いい具合に泳がせておいてその間に自分たちは他の捜査を進める。常識じゃない?』

 

「だがフェアリートリップに関しては他人事とも思えなくってな」

 

『外部世界で作られた麻薬だよ? 何でナインがそう突っかかる必要があるのさ』

 

 それは、と口ごもる。どうやらてこでも行きたくないらしい。ベルが道を阻んだ。

 

『働き過ぎ。オーバーワーク。人造妖精ベルは休みを所望しまーす』

 

 怠惰な人造妖精の言葉にナインは旅人帽越しに後頭部を掻く。一面ではベルの言う通りなのかもしれない。あまり動いたところで局面をどうこうするのは他の剪定者の仕事だ。

 

「……分かった。二十四時間の休暇を申しつける」

 

『やった』と喜ぶベルに対し、「ただし」と条件付けを行う。

 

「俺が呼べばすぐにまた待機任務だ。それまで機能の一部を停止、人造妖精ベルはアイドリング状態にはしておくこと」

 

『了解!』

 

 ベルは休息のために自分のコートの内側に入る。ナインはしかしベルの忠言を聞かずに捜査を進めることにした。何故ならば剪定者に休息は必要ないからだ。眠ることも、ましてや休むこともいらない。ナインは自分のアクセス権を持って案山子女たちの待つ受付へと言伝を頼もうとした。

 

「何でしょうか?」

 

「フェアリートリップに関して、情報の優先度を剪定者ナインにAで頼む。他の剪定者がたとえB以下の判定を下したとしても、自分の側にAでだ」

 

 情報優先度、というものが選定者間では敷かれており、その優先の有無によってたとえ自分にとっては利益のない情報でも剪定者の間では盛んに取り沙汰されることも多い。

 

「かしこまりました」

 

 案山子女の悲哀があるとすれば、彼女たちには情報優先度に関して何も口を挟めない。間違っていますよ、だとか、違いますよ、という忠言は無意味であるし何よりも案山子女には人格は存在しない。

 

「それともう一つ、次の世界に関して情報を集めておいて欲しい」

 

「分かりました。その世界とは?」

 

「ハーメルンの笛吹き男の世界だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界が跨っている、ということはその世界になかったものが次の瞬間には出来上がっているということだ。それがいかに危険なのかはその世界に住む住民には分からないだろうし理解もできない。何故ならば世界と世界を結ぶ概念は存在せず、住民たちにそれを問うても仕方がないからだ。

 

 だが世界の外側にいる観測者はそれを可能にする。世界と世界の間に密接な関係がなくとも、あるいは交流も技術も全く異なる時代の世界でも観測存在は住民たちがそれを可能にするのを過度に恐れている。

 

 例えば妖精の粉。飛翔のために必要な魔法の篭った粉だが、これがまかり間違えれば麻薬になる。魔法の概念のない世界、あるいは魔法が使えない種族にそれを施せば一種のトリップ状態を引き起こすものだ。だがその世界の人間たちが取り締まれるはずもない。彼らは魔法を知らないのだから。

 

 だから彼らを外側から監視し、客観的立場を伴って罰する存在が必要となった。それが剪定者。可能性世界の抹殺者であり、あらゆる可能性と並行世界の枝葉は彼らによって剪定される。

 

 だからピノキオの世界に銃器が持ち込まれることはないし、シンデレラの世界に発信機が持ち込まれるようなことはない。そうしないのが自分たちの役回りであり、何よりも剪定者とは冷徹に、観測存在の命令を実行する存在であるのだ。

 

 ナインはフェアリートリップについて関心を持っていた。それはフェアリートリップがどれほどの危険性をはらむのかをどこかで理解しているからかもしれない。

 

 妖精の粉がもし全くの純粋無垢の世界に持ち込まれれば、それは大きな災厄となる。剪定者としてそれは防がねばならなかった。だが世界を渡るには人造妖精の助けは不可欠だ。

 

 二十四時間の休暇を与えてしまった以上、ナインは自室で情報を待つほかない。手袋を外して両手を眺めていた。右手の甲に緑色の「9」の文字が埋め込まれ、左手の掌に赤い「9」の文字が同じように彫られている。

 

 右手は滅殺の存在意義を持ち、左手は記憶操作の能力を持つ。剪定者に与えられているのは基本的にこの二つの能力だ。右手で抹消し、左手で均衡を保つ。それこそが剪定者の務め。

 

 人造妖精ベルがコートから飛び出す。まだ二十四時間は経っていないはずだが、と感じていると無機質な表示が投射された。どうやら直属の上司から連絡がようやく寄越されたらしい。アイドリング状態にしてあるのでベル自身にその自覚はない。

 

「三分後に謁見か」

 

 ナインはコートを翻し再び受付へと向かった。受付では先ほど言付けた内容に関して説明がなされる。

 

「剪定者、ナイン様。ハーメルンの笛吹き男の世界ですが、若干のひずみがあるとのことです」

 

 ひずみ。それはつまり誰かがその世界に可能性を持ち込んでいる、という隠語だった。ナインは問う。

 

「判定は?」

 

「C以下ですが、報告の義務を感じました」

 

 義務とは、とナインは苦笑しそうになる。案山子女に感情はない。

 

「分かった。それも踏まえて後ほど話を聞く」

 

 恭しく頭を下げる受付嬢二人を置いてナインは人の乗れる籠に乗った。すると柵が閉まり、ゆっくりと上昇していく。この中間の世界には五十台ほどの籠が常時運転しており、上昇と下降を繰り返していた。

 

 ナインが乗ったのは上司の部屋への直通だ。上がり切ると扉がすぐにあり、ナインは右手の手袋を外した。真鍮製の取っ手を掴むと右手の甲の文字が反応する。

 

「失礼します」

 

 扉を開けるとすぐに待っていたのは清々しい空気だ。いつでもこの空間は清廉な空気に包まれている。

 

 部屋の奥には白装束の少女が佇んでいる。背中から機械の翅を展開させ、メンテナンス用の器具が繋がっていることを除けば、美しい少女の姿だ。

 

 この観測神殿を司る、物語の支配者。観測者たちの王。

 

 人造天使、ゼルエル。それこそが自分たち剪定者を束ねる直属の上官であった。ゼルエルは薄く瞼を開き、青空のように透き通った瞳をナインに向けた。それだけで射竦められたかのように動けなくなる。人造天使の瞳は麻痺を約束させる。

 

『剪定者ナイン。シンデレラの世界での活躍、大義であった』

 

 声は少女のものであるのに、異様に反響する。ナインはその場に傅いた。

 

「はっ。妖精のゴッドマザーに関しては作り直さなければならないと報告いたしましたが」

 

『既に受けている。妖精のゴッドマザーを作り直そう』

 

 一魔法使いを作る、作らないの議論ができるのが人造天使の特権である。妖精のゴッドマザーはまた別の人格を植え付けられてシンデレラの世界に放たれることだろう。

 

「しかし新たなる脅威も見えてきました」

 

『フェアリートリップか』

 

 その脅威に関して今さら改める必要もない。人造天使は何もかもお見通しだ。

 

「その報告が成されたのがつい数分前。ハーメルンの笛吹き男の世界です」

 

『あの世界か。だがあの世界に妖精はいなかったはず』

 

「だからこそ、不穏分子だと判じました」

 

 世界を渡るには人造天使の許可も必要である。ゼルエルは悩ましげに首を振った。

 

『どうにもいけないな。あるはずのないものがその世界にあるというのは』

 

「妖精の粉の売人を突き止め、必ず抹消してみせましょう」

 

『それはいいが、本分も忘れるな。剪定者は』

 

「常に世界のために。承知しております」

 

 復誦してナインはその場を立ち去ろうとする。その背中に声がかけられた。

 

『剪定者ナイン。君の働きに期待している』

 

 期待か、と独りごちる。そのような感情が人造天使にあるのかは分からないが。

 

「了解しました」

 

 ナインは部屋を後にした。

 

 



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ACT3「世界のひずみ」

 

 ハーメルンの笛吹き男の世界に渡る手続きをしている途中、ベルが目覚めて声にした。

 

『ふぇ? ナイン、おはよう』

 

「おはよう、じゃない。二十四時間、と俺は命じた」

 

『今、何時?』

 

「ちょうど二十八時間だ。人造妖精は時間も守れないのか」

 

 ナインの声にベルは軽く返す。

 

『ゴメンって。あたし多分疲れているんだよ。だから寝過ぎた』

 

「体内時計がきっちりセットされているはずだろうに。どうして時間が前後する」

 

『そりゃ、あたしをクリエイトした人間様に聞いてよ。こういう性格に設定したのは誰だ、ってね』

 

「目の前にいたら糾弾したいくらいだ」

 

 ナインは自室で書類数枚を書き上げようとしていた。ベルがふわりと舞い上がりそれを目にする。

 

『また世界を渡るの?』

 

「それが俺の仕事だからな。だが毎度のことながら世界を渡るたびにこうして書類を書かねばならないのは骨が折れる」

 

『渡んなきゃいいじゃん。別に給料が上がるわけでもないのに』

 

「それが俺の存在理由だからな。存在理由のない剪定者を遊ばせておくほど人造天使は甘くない」

 

 剪定者が道を外れれば、待っているのは同じ剪定者による抹殺か追放だ。だから自分はできるだけ仕事熱心に振舞おうというのもある。

 

『あたしは給料が上がりもしないのに、仕事ばっかりっての嫌だなぁ』

 

「嫌ならいつでも俺の専属妖精はやめればいい。もっと有能な人造妖精を買うまでだ」

 

 ナインの声にベルは不服そうに返す。

 

『ナインのイケズー。そうやって冷たいからもてないんだよ』

 

「剪定者は婚約する必要も、あるいは生殖の必要もない」

 

『馬鹿正直に返しちゃって。冗談だってことも分からないの?』

 

 ベルはすっかり飽き飽きしているようだがナインは職務を全うする必要があった。

 

「フェアリートリップを撒いている相手の素性さえ分かればこちらのものなのだが」

 

『相手も世界を渡る心得があるってことなんだよね? じゃあ絞るのは簡単じゃない?』

 

「いや、主役級の人間に配らず脇役だけに固めている辺り、何らかの意図があるように感じられるのだが」

 

 今までのフェアリートリップの所有者リストが上がっている。そこには物語の主役級の名前はなく全員名前もない上にそれを自覚もしていない端役ばかりだ。

 

『意図、かぁ。こっちの目を掻い潜るためかな』

 

「それにしてはずさんだ。最善は、痕跡も残さないことなのだが、どういうわけだか相手がいた、という痕跡はある。フェアリートリップを配っていたことさえもばれないようにすることは可能なのだが、それはしない。配っていた、という事実だけはどうしてだか消そうとも思わないのか」

 

『変わり者なんだよ』

 

 ベルはその一言で片付けようとしたがそれでいいのだろうか。ナインは胸の内に湧いた疑問を氷解する手立てもなく、書類へと必要事項を書き付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハーメルンの笛吹き男の世界ですね」

 

 案山子女が応じて手続きを終了させる。ナインはこれから世界を渡る段になって何らかの防衛措置は取るべきか、と考えた。

 

「この世界における必須装備を教えてもらいたい。それとこの物語の結末を」

 

 案山子女は聞かれた通りに答えるだけだ。

 

「はい。ハーメルンの笛吹き男、とはネズミ駆除のためにある街を訪れた笛吹き男に市長が懇願したところ、ネズミがその笛の音で残さず溺死した、しかし市長は報酬を出し渋り、笛吹き男は報復のために笛の音で子供たちを連れ去った、という物語です。多くの改変事例があり、剪定者も何度か訪れた記録があります。一説ではこの笛吹き男は魔法使いであったとされています」

 

 また魔法使いか。因果を感じつつもナインは聞いていた。

 

「剪定者たちは笛吹き男をどうした?」

 

「どうした、というよりも話の方向性を一本化するために笛吹き男へと交渉を試みた、というケースが多いようです。笛吹き男の能力はネズミや子供のような意識の曖昧な人間には有効ですが、意識の明瞭な大人や剪定者には無効です」

 

 つまり笛吹き男にこちらへの攻撃手段はないと考えてもいい。だがだとすればなおのこと分からないのはどうしてこの世界にフェアリートリップが出回ったかだ。

 

「今の話を聞く限りでは、フェアリートリップの入る余地はなさそうだが」

 

「被害報告レベルはC以下です。詳細までは分かりません」

 

 つまりほとんど被害は出ていない。だがフェアリートリップを追うのならば訪れないわけにもいかない。ナインは息をつき、「分かった」と頷く。

 

「事前情報はそれだけか?」

 

「誰が使っているのか、誰がこの世界にひずみをもたらしているのかも不明です。それでもやりますか?」

 

 ナインは迷いなく首肯する。

 

「ああ。それが俺の仕事だからだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワームホール、というものがある。人工的に時空を固定した入り口だ。ハーメルンの笛吹き男の世界の座標軸をパンチカードで読み込ませワームホールを固定化する際、呼びかけてきた声があった。

 

「ナインじゃないか」

 

 その声に目を向けると自分と同じように黒いコートに身を纏っている青年がいた。違うのは帽子を被っていないことと、髪の毛が赤毛に近いことだ。

 

「ファイブ」

 

 その名前を呼ぶと五番目の剪定者であるファイブは、「仕事熱心だな」とナインを冷やかした。

 

「あんまり仕事ばっかりだと、思わぬところで落とし穴があるぞ」

 

 同業者からの忠告にナインは肩を竦める。

 

「落とし穴も何も、この仕事は落とし穴しかない」

 

 ファイブが笑って、違いないな、と応じた。するとファイブのコートから人魂が飛び出す。黄色く発光するそれは人造妖精だった。

 

『剪定者ファイブ。あまり同僚を冷やかすような言葉は慎むように』

 

「これだよ、うちの妖精は」

 

 ファイブの妖精は確かスプライト、という名前だったか。スプライトはベルとは正反対の真面目腐った妖精だった。

 

『私は剪定者ファイブのためを思って言っているのだ。そんなでは世界を渡る剪定者として風上にも置けない』

 

「いいよ、別に。おれ、そんなにすごい奴になろうとか思わないし」 

 

『向上心がないのか。それだから剪定者の中でも業績が伸びないのだ』

 

 責め立てる声にファイブが眉をひそめた。

 

「……なぁ、うちの口うるさいのとベルちゃん変えね?」

 

「うちも口うるさいのは変わらんが」

 

 そうぼやくとコートから飛び出したベルがスプライトを糾弾した。

 

『こんな性悪と一緒にしないでよ! あたしはね、もっと寛容でもいいと思うな』

 

『寛容? 人造妖精ベル、間違えるな。お前はナイン殿が優秀だから存在が許されているのだ。お前のような落第妖精、人造天使ゼルエル様がお許しになるはずがない』

 

『あー! そういうこと言うんだ? もう、失礼しちゃうなぁ』

 

 スプライトは涼しげな様子で、『反抗したければするといい』と言った。

 

『だが、お前のような落ちこぼれでも人造妖精でいられるのはひとえにナイン殿の人柄のよさだと思え』

 

 人造妖精同士の言い争いは見るに堪えない。ファイブも苦笑していた。

 

「こいつら、顔合わせるたびにこれだ。仲いいな」

 

『仲がいいだと? 剪定者ファイブ。それは正気で言っているのか? 私とこの落ちこぼれ妖精の何が仲がいいと言うのだ』

 

『また落ちこぼれって言った!』

 

 愕然としてベルが喚く。ファイブは我関せずとでも言うかのように微笑んでいた。

 

「そういうところだよ。何だかんだで相手してやってるじゃん。妖精同士、どっちも口が減らなくって何よりだ」

 

『剪定者、ファイブ。貴公の目は曇っているのか? これが仲良ければ、他のほとんどが仲がいいことになる』

 

『そうだよ! あたしはこんなのと一緒の人造妖精ってだけで恥ずかしいのに』

 

『どの口が言っている』

 

 人造妖精同士の睨み合いにナインが割って入った。

 

「やめろ。みっともない」

 

『みっともない? あっちが売ってきた喧嘩じゃん!』

 

「スプライトも、だ。大人気ない」

 

『大人気ない? ファイブ、これだから貴公は』

 

 また説教の始まる予感を感じ取ったのか、ファイブは手を振った。

 

「あー、分かってるっての。剪定者としての自覚に欠けるってか」

 

 スプライトの言葉をいなし、ファイブはナインに問いかける。

 

「どの世界に行くんだ?」

 

 ナインはパンチカードを取り出した。それを読み取ってファイブは頷く。

 

「ハーメルンの笛吹き男ね。あの世界は厄介だったなぁ」

 

「知っているのか?」

 

 思わぬところで情報がやってきてナインは尋ねる。

 

「ああ、おれは最初のほうにこの世界に回された。できるだけ穏便に、物語を収束させよ、って話だったからおれは笛吹き男に懇願して子供たちを解放してやったんだが、何で、また? もうその話は終わったはずだぜ?」

 

 子供たちの解放。それは案山子女の報告と微妙に食い違っていた。

 

「そうなのか? 受付の話では、まだ笛吹き男は折れていないとのことだったが」

 

「あれ? 行き違いかなぁ。まぁ、どっちにせよ魔法使いである笛吹き男の抹消をするほどのことじゃない。おれたちのやるべきことは笛吹き男の説得だった。案外、簡単なものだったぜ? その能力の保持を約束させる代わりに子供たちを解放しろ、だけだったし」

 

『今後も笛吹き男の能力を約束した、というのは少しばかり軽率だと人造天使に叱責されたのを忘れたのか?』

 

 スプライトの声にファイブが、「言うなよぉ」と返す。

 

「そんなに相手の能力は危険なのか?」

 

「子供を盾に取られたら厄介だ、って話だよ。子供の命が第一だし、何よりもこの物語に救いがなくってな。だったら救いのある方向に行かせてやるのが剪定者の仕事だと思ったんだよ」

 

 ファイブは自分に比べて情に厚い。だから人命がかかればそちらを第一に掲げるであろう。

 

「まぁ多数解釈のある物語ってのは割と厄介だが、話せば分かるってのが大多数だ。あんましことを急ぎ過ぎるあまり、子供もみんな殺された、ってのはなしにいこうぜ」

 

 ファイブの軽い声音にナインは何も返さなかった。そろそろ行かなければ、とワームホールを指差す。

 

「ああ。気をつけてな。って言っても、検挙率の高いナイン様にこんなことは無粋か」

 

『そんなだから業績が上がらないのだ、ファイブ。ナイン殿を見習って欲しいものだよ』

 

 スプライトの苦言にファイブは手を振った。

 

「いいんだよ、おれはこれで。じゃあな」

 

 手を振って離れていく同僚の背中を眺めながらベルが呟く。

 

『あの人造妖精、いつ見ても鼻持ちならないわ』

 

「案外、お前とファイブのほうが馬が合うかもしれないな」

 

 ナインの口調にベルは、『無理よ、無理』と応じる。

 

『いくらあたしでも、ファイブほど危機感がないとちょっとね。あんたくらいがちょうどいいわ』

 

「そりゃどうも」

 

 ナインはワームホールへと向き直る。ベルが尋ねた。

 

『ねぇ、何でファイブに同調しなかったの? 子供を殺されたら元も子もないって』

 

 その質問にナインは冷徹に返す。

 

「俺に関して言えば、人命など二の次だ。物語が修復されればそれでいい」

 

 ナインはワームホールへと踏み込んだ。

 

 



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ACT4「主役抹殺」

 

 煤けた風が鼻腔をついた。

 

 目をしばたたかせてナインは左手首の時計を見やる。現時刻とハーメルンの笛吹き男の世界が瞬時に設定された。その情報が投射される。

 

「まだネズミ退治が実行される前のはずだ。その前夜に俺たちは来たことになるのだが……」

 

 濁したのは先ほどから漂っているにおいだ。焼け跡のようなにおいが空気中に充満している。ナインは影のように動き、住民たちに気取られないようににおいの元へと向かった。

 

 気配がないのは剪定者ならばお手の物だ。どうやら住民たちは協会に集まっているらしかった。人々は密集し、教会の前で何かを焼いている。十字架に磔にされた影が視界に入った。ナインは目を見開く。

 

 そこにいたのは魔法使いであるはずの笛吹き男だった。十字架にされており燃やされている。ベルが飛び出して声にする。

 

『何これ……。何で笛吹き男がもう死んでいるの?』

 

 未確認だったが磔刑で燃やされていれば死は免れないだろう。ナインは影の移動方法で十字架の直下に至る。不思議なことに笛吹き男はまだ生きていた。腐っても魔法使いか。自分の死に際くらいは自分で決めたいのだろう。ナインは声を吹き込む。

 

「笛吹き男だな?」

 

 その声音に笛吹き男が目を向ける。

 

「あんたは?」

 

「剪定者である」

 

 その一言で了承が取れたのだろう。ああ、と笛吹き男は呻いた。

 

「この物語を修復しに来たのか?」

 

「お前の死は、この物語のどの可能性にも至っていない。だから助ける」

 

 ナインは右手の手袋を外して手刀を見舞った。十字架が根元から外れ倒れ込む。人々が口々に呟く。

 

「悪魔が死んだのだ」

 

 そのごたごたに紛れ、ナインは笛吹き男を連れ去った。剪定者の影の移動方法ならば人一人くらいを抱えて移動はできる。充分に距離を取り、近くの水場で笛吹き男の煤を取ろうとしたが彼は自分の魔法で焼け爛れた皮膚を修復した。この時点で禁に触れてはいるが、ナインはそれに関しては罰しない。

 

「何で、住民たちがお前を処刑したんだ?」

 

 笛吹き男は噴水の傍にあるベンチに項垂れた。

 

「分からない。来るなり、リンチを受けて、それで気がついたら十字架にされて燃やされていた。悪魔の魔法使いだと」

 

 笛吹き男は額を拭う。どうやら彼が来ることを事前に告げた人間がいるようだった。しかもその人物は笛吹き男が何をするのかまで住民に流布したらしい。

 

「残り、十二時間後だ」

 

 ナインの言葉に笛吹き男が首を傾げる。

 

「お前が依頼を受け、ネズミ駆除をする。それがちょうど十二時間後のはずなのだ。だがお前の役目と能力を、全て教えられていた、と仮定していいのだな?」

 

 笛吹き男は困り果てている。剪定者の存在はほぼ全ての魔法使いの与り知るところではあるが、自分を助けたとは思わなかったのだろう。

 

「そうだと、思われる……。そうでなければ、どうしてぼくがいきなり殺されそうにならなきゃならない」

 

 物語の登場人物、殊に主要人物は自分の役目を知っている。知っていて何度も繰り返すのだ。妖精のゴッドマザーのように繰り返すうちに悪事を思いつく輩もいる。だが笛吹き男は悪事を行おうという様子ではない。

 

「前任者が、お前に子供の解放の物語にせよと説得したとのことだが」

 

 ファイブに言われた通りならばそのはずだ。笛吹き男は首肯する。

 

「ああ。ハッピーエンドにしろと言われてね。だからネズミを駆除した後は脅しで子供たちを連れ去るが市長や大人たちの呼びかけに応えてぼくは子供たちを解放する。それだけの簡単な話のはずなんだ。何で、ぼくが……」

 

 笛吹き男は再び項垂れた。殺されるような役回りではない。ナインは推理を働かせることにしたがこれは話を聞いて回るほかなさそうだった。

 

「とりあえずお前は剪定者の保護下に置かれる。この一回きりだけの話かもしれない。笛吹き男が現れ、ネズミを駆除する。その後に子供たちをさらって脅す。だが子供たちは解放される、という物語のはずだ」

 

 ナインの言葉に笛吹き男は、「どうするって言うんだ?」と尋ねる。ナインは帽子の鍔を目深に被る。

 

「この時間軸で何があったのかを知る。まずはそれからだ」

 

 次の瞬間、ナインの姿が変わっていた。旅人帽が縮小し、身の丈が半分ほどになる。短パンを穿いた少年の姿に早変わりしたナインに笛吹き男は瞠目する。

 

「そんなことが、剪定者はできるのか?」

 

「緊急措置である」

 

 声音だけは変わらずにナインは応じる。右手と左手の手袋もそのままだ。時計は大人に見つかると面倒なので外しておいた。

 

「影を使ってお前を隠す。窮屈かもしれないがこの物語の収束まで待っていて欲しい」

 

 ジッパーを一つ開くとそこから影が染み出して笛吹き男の姿を覆った。笛吹き男はベンチに座ったままであるが、その姿は不可視だ。ナインは歩き出す。ベルが短くなった丈の服から飛び出した。

 

『この恰好になるの久しぶりよね』

 

「そうだな。だが俺からしてみれば必要だから仕方がない」

 

『あたし、割とナインのこの恰好好きだよ。何かかわいい』

 

 ナインは立ち止まってぎょろりと睨みつける。ベルは、『ああ、そういうんじゃなくって』と誤解を解こうとする。

 

『ショタコンとかじゃないよ。何か懐かしい気がするんだよね。何でだろ』

 

「俺が知るはずがないな」

 

 ナインは教会へと立ち寄っていた。大人たちが今しがた処刑した後片付けをしている。ナインはあどけない子供の声を作って尋ねた。

 

「ねぇね、何してたの?」

 

 うわっ、と大人たちが仰天する。子供がいたことに気づかなかったのだろう。

 

「いつから、見ていた?」

 

「何かがぱちぱちって焼ける音がしたから、火事かなって」

 

 大人たちがホッと胸を撫で下ろす。どうやら私刑の場面が見られていたかもしれないと危惧していたらしい。

 

「何でもないんだ。いい子は寝る時間だよ」

 

「でも教会の前で火事なんて、神様が見たら驚くよ」

 

 口にしながら、神など、と胸中で毒づく。大人たちは人のよさそうな笑顔を作って取り成した。

 

「そうだね。だからこれは秘密なんだ。なに、ちょっとした出来事があってね。それを処理したまでさ」

 

「最近、この街、ネズミが多いよね」

 

 核心を突く言葉に大人が声を詰まらせる。笛吹き男の話題を引っ張り出すつもりだった。

 

「病気で死んでいく人も多いし、何か不安だな」

 

「何も不安がることはないぞ、坊主。何せ、その元凶である悪魔は退治されたんだ」

 

 他の大人の声に、「馬鹿」と自分に付いていた大人が声にする。ナインは首を傾げた。

 

「悪魔? 何のこと?」

 

 大人は咳払いし、「坊主には分からんだろうが」と前置きした。

 

「この街を悪魔が襲おうとしていたんだ。ネズミ駆除の対価に子供たちをさらっていくっていう悪魔がね。だがそれはみんなで駆除したんだ。だからもう何の心配もない」

 

 大抵の子供はそれで竦み上がってしまうだろう。だがナインは子供ではない。

 

「駆除って、悪魔は何で駆除されたの?」

 

「そりゃあ、神様に仇なす悪魔は駆除されるだろう」

 

「じゃあどうしてその悪魔が悪いことをするって分かったの?」

 

 その質問で大人たちが返事に窮した。ここだ、とナインは質問を重ねる。

 

「もしかしたらいいことをするかもしれなかったのに」

 

「おいおい、ガキ。いいことをする悪魔なんているもんか」

 

「大人たちがみんなで決めたことなんだ。悪魔を退治しようって」

 

 大人は詳細を語りたがらない。この上になれば仕方がないとナインは別の方法を使うことする。

 

「分かった。じゃあ家まで送って欲しいんだけれど。暗くて怖いから」

 

「はは、坊主もまだまだ子供だな。よし、おじさんが送ってあげよう」

 

 大人と手を繋いでナインは教会から離れる。大人の手には体温があった。だが自分には存在しない。剪定者と物語の登場人物を分けるのはそれだ。体温の有無。だが大人は夜だからか、あまり気にしていないようだった。その間に質問を何個かぶつけた。

 

「おじさん、最近妙な人が街に来なかった?」

 

「うん? 妙な人ってのは?」

 

「たとえば妖精の粉を売る、とかいう人とか」

 

 その言葉に大人は笑い飛ばす。

 

「おいおい、悪魔はいるが妖精はいないんじゃないか。妖精の粉だなんて、そんな」

 

「じゃあ何か粉を売りに来た人とかは? 未来の分かる粉だとか病気の治る粉とか売り文句をつけて」

 

 大人が立ち止まる。どうやら図星のようだ。真剣な面持ちになって口にする。

 

「坊主。勘繰りはいけないな。それは趣味が悪いっていうんだ」

 

「ごめんなさい。でもそういう人がいたんだね」

 

「……まぁ、いたというか通りすがったというか」

 

「どういう人だった?」

 

 ナインの質問に大人は鼻筋を掻いた。

 

「思えばあれも珍客だったと言わざるを得ないんだが、ローブを纏った女でな。大人なのか子供なのかも分からない中途半端な背丈で、だがこの街に蔓延る病を治せるとか言って粉を売りさばいていた。そう、あれは黄金の粉だった」

 

 フェアリートリップだ。ナインは確信する。だがどうして笛吹き男は殺されそうになったのか。それが氷解していない。

 

「その黄金の粉、どうしたの?」

 

「一軒に一包みずつ配ったんだ。まぁ、信心があれば治るかも、っていう期待だな。実際に治ったっていう話は聞かないが楽になった、という話は聞く」

 

 フェアリートリップに含まれる多幸感。それで病気の苦痛は軽減される。そこまでは理解できた。

 

「金色の粉はどうしたの?」

 

「全員が持っているはずだが、そうだな、もう残っていないんじゃないか。まぁそんなことはいいんだ。別にあれで治るだなんて誰も信用していないんだから」

 

 フェアリートリップにすがったわけでもない。笛吹き男の殺害に直結する証拠ではなかった。

 

「何で教会の前で火事なんて起こったのかな。危ないよね」

 

「ああ、危なかったな。坊主にだけ教えてやるか。その悪魔が来るっていう、お告げがあったんだよ」

 

「お告げ?」

 

 大人はナインの顔を覗き込んで、「絶対に秘密だぞ」と言い含めた。ナインは頷く。

 

「そうだな、名前を明かさない奇妙な奴だったが妙に迫真があってな。だからおじさんたちは待っていたんだ。するとどうだろう、そいつが示した方向と時間から一人のよそ者がやってきた。だからおじさんたちはそいつが悪魔だって分かったんだ」

 

 お告げと証して誰かがこの物語そのものを変革しようとした。その事実に打ち震える前にナインは聞いていた。

 

「名前は?」

 

「名前? そうか、そういえば適当な名前だったな。なにせテラーだなんて」

 

 ナインは大人を手招いた。大人が屈んで顔を引き寄せる。左手の手袋を外し、頭部を引っ掴んだ。赤い電流が走り大人が昏倒する。ナインは直後には元の姿に戻っていた。

 

「テラー、か。そいつが、笛吹き男がこの街に来るのだと吹き込んだ元凶」

 

 ナインの声に飛び出してきたベルが、『でもさ』と応える。

 

『おかしくない? 何で笛吹き男の厚意を邪魔しようとしたのか。だってもう笛吹き男の行動は制限されているんだよ? ファイブがもう介入しているからハッピーエンドのはず。そりゃ、もしバッドエンドになったのならばあたしたちに話が来ないのはおかしい』

 

 そのはずだ。物語に可能性という枝葉が現れた瞬間、剪定者が訪れる決まりである。

 

「笛吹き男、キーマンの喪失した物語はどうなる?」

 

 ナインの質問にベルは、『どうもこうも』と喚いた。

 

『物語そのものの変革になりかねない。だからやっちゃいけない条項の一つじゃない。剪定者以外は』

 

 そう、剪定者以外は、物語のキーマンを殺すなどもってのほかだ。

 

「剪定者の中に犯人がいるのではないか?」

 

 ナインの疑問にベルは答えない。応えるだけの言葉が見当たらないのだろう。

 

『……疑念を持つのはいいけれどさ。剪定者がわざわざ身分を偽って、それで物語のキーマンを殺す、動機は何?』

 

 ベルの言う通り。剪定者がそのようなことを命令なしに行えばそれは越権行為だ。だから露見した際、人造天使によって罰せられる。そうでなくとも人造妖精で元々監視が付いているのだ。剪定者はそのような越権行為を進んで行うとは思えない。

 

「剪定者だとは限らないが、最も可能性があるのは剪定者だ」

 

 ナインは笛吹き男の保護と、その可能性の進言を胸に留めることにした。

 



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ACT5「存在証明」

 

 戻ってくるなり案山子女が告げる。

 

「人造天使ゼルエル様から言伝です」

 

 レターパックに入った手紙を受け取りナインはゼルエルにアポイントメントを取った。

 

「報告したいことがあるので」

 

 そう言って自室へと戻る。笛吹き男はあの物語がほとぼりの冷めるまで剪定者の保護下に置かれる。拘留と何が違うのか、と問われそうな扱いだが目下この事態を知っているのは笛吹き男と自分、それにベルだけだ。後はテラーと呼ばれる存在共々慎重にならざるを得ない。

 

『人造天使様が、手紙? アナクロね』

 

 ベルの声にナインは手紙の封を開けた。文頭にはこう書かれている。「この手紙は読んだら燃やせ。そうでなくとも封を開けたら三分後には焼失するように仕掛けが施してある」と。

 

「〝君への手紙という形でこれを伝えよう。フェアリートリップについて。剪定者ナインからは捜査権を剥奪する〟」

 

 読み上げたナインの声にベルが反応する。

 

『何で? あたしたちの事件じゃん』

 

「続きを読もう」

 

 ナインはその下の文章へと視線を走らせる。

 

「〝詳細は省かせてもらう。だがフェアリートリップについて君たちが過剰に捜査をしている感は否めない。それは剪定者における客観的なポジションを逸脱している。フェアリートリップを追っても君たちが幸福だとは限らない。剪定者であり続けたいのならば、この一件からは手を引くといい。君たちには次いで新たな指令を与えよう〟」

 

『暗に、関わるなってこと?』

 

 ナインは目線だけで頷き、その続きを促した。

 

「〝それまで剪定者ナインは待機。当然のことながら人造妖精ベルを使っての独断捜査は認めない。ここまでが決定である〟」

 

 その下には人造天使ゼルエルの署名がある。ナインは肺から息を吐き出した。

 

『何それ……。人造天使様はあたしたちを蹴ったってこと?』

 

 不服そうなベルの声にナインは応じる。

 

「みたいだな。だが不自然だ。我々はフェアリートリップについてさほど精通しているわけでもなければ、過分に知ったわけでもない」

 

『だって言うのに捜査禁止は』

 

「やり過ぎに見える」

 

 ベルの後を引き継いでナインが口にする。どうしてゼルエルはこの決定をした、と聞いてもまともな返事が返ってくるとは思えない。

 

「笛吹き男の世界。そこに渡ったのが致命的だったのか?」

 

 今は剪定者の保護下にある笛吹き男。彼に話を聞くしかないのだろうか。ナインは立ち上がった。手紙はちょうど燃え上がりくずかごに捨てる。

 

『捜査権限は』

 

「フェアリートリップについては一旦置いておこう。だが俺たちには新たなる目標ができた」

 

『テラー、だよね?』

 

 ナインは首肯し地下の拘留所に繋がる籠へと飛び乗った。

 

「どうしてテラーという輩は物語を改変しようとした。その結論が必ず、俺たちの疑問を氷解する結果になる」

 

 だが笛吹き男がテラーに関して知っているとは限らないのだ。むしろ彼は被害者。どこまでが彼の関知するところなのかをまずは知ることから始めなければならない。

 

 拘留所まで降りてくると剪定者の姿に何人かの警務官が敬礼した。

 

「ご苦労様です」

 

「笛吹き男と面会がしたい。できるか?」

 

 ナインは書類へと「9」をサインして面会許可を取り付ける。笛吹き男はすっかり憔悴した様子で椅子に座っていた。警務官の見守る中、ナインは話題を切り出す。

 

「燃やされたのは、やはりいい気分はしなかったか」

 

「当たり前だろう」

 

 当たり障りのない会話から入ってナインは笛吹き男の持ち物へと言及する。

 

「お前の持ち物であった笛はどうした?」

 

「封印措置だと。ぼくも一応は魔法使いの端くれ。だから封印措置には何の疑念もない。だが焼死体にされかけたのは疑念が残る」

 

 笛吹き男はやはり自分の行動が何故予見されたのか分からないようだ。ナインも笛吹き男に余計な情報を吹き込むべきか迷った。

 

「お前の役割について検めさせてもらう。ハーメルンの笛吹き男はネズミ駆除の依頼を受けて街のネズミを溺死させる」

 

「何回もやってきたことだ。ほとんどルーティンワークさ」

 

 肩を竦めてみせる笛吹き男にナインは続ける。

 

「その後、街から謝礼が支払われないことに腹を立て、子供たちを連れ去る。本来の物語はこの後、岩戸に閉じこもって子供たちとお前は一生出てこない、で話が終わるのだがそれではあまりにも救いがないとのことで物語世界に可能性が生まれた。それが子供たちを返した、という設定とそもそも子供たちをさらわなかった、という設定」

 

「可能性世界の枝葉を切るのが剪定者の役割だろう? だから現れたよ、剪定者が。赤毛の奴だったかな」

 

 ファイブだ。やはりファイブは一度ハーメルンの笛吹き男の世界に訪れている。

 

「だけれど、結局、無難な方向に落ち着いた感はある。子供たちを返して報酬を約束通りもらうという、無難な方向にね」

 

「何度、その線で話を進めた?」

 

 物語の世界の住人はその可能性が知られれば知られるほど、つまりメジャーになればなるほどに何回も繰り返すことになる。登場人物からすれば既に筋の分かっている話をやらされるわけだ。中核を担う人物は殊にそれが顕著で記憶の継続性が見られる場合がある。

 

「何度って……。数えたことはないが百回はいっているだろう。それだけメジャーになった、ということかな」

 

 笛吹き男の物語はハッピーエンドとして人々の間に流布している。だからもう可能性の枝葉は伸びないはずなのだが、どうして今回イレギュラーが起こったのか。それに関しては笛吹き男も自分も全く関知できなかった。

 

「イレギュラーの前後で何か変わったことは?」

 

「ぼくの周辺で? いいや、何も。子供たちもいつも通りで、大人たちもいつも通りに見えた。だからいつもと同じように笛吹き男としての命を全うすればいいのだと思った。だって言うのに、教会に連れて行かれてリンチされ、さらに十字架に磔刑なんて聞いていない」

 

 笛吹き男の目には憤慨というよりも戸惑いがあった。物語の中核人物が端役によって殺される。これは物語の構築上、あってはなならない可能性の一つだ。

 

「何か、手がかりはないだろうか? 恨みを買うこととかは」

 

「ないよ。あったら言っている。そもそもぼく自体が、この物語からほとんど出たことのない登場人物だ。他の物語に招待願ったこともないし」

 

 物語の登場人物によっては他の物語に招かれることもある。シンデレラ、あるいは白雪姫などが他の物語に招かれて別の物語を構築する場合だ。

 

 クロスオーバー、あるいはスターシステムとして黙認されているその事象は実のところ人造天使の采配が関係している。ゼルエルの管理下にあってなおかつ近しい物語同士だけが許される物語の超越行為。ただし、自分の物語に戻ってきた時に彼ら彼女らは他の物語に介入したことを覚えていない、という絶対条件が存在するが。

 

「笛吹き男が他の物語にお呼びがかかることはない、か」

 

「そもそもが特殊だからね。まぁ呼ばれたところでぼくの役割は決まっていて、だからこそ、意味がないとも言えるが」

 

 笛吹き男はナンセンスだと言わんばかりに首を振る。ナインはこの笛吹き男から聞き出そうと考えていたが人造妖精はゼルエルの耳でもあり目でもある。なのでフェアリートリップ関連は聞き出せない。

 

「テラー、という存在をお前は知っているか」

 

 自然とその話題になっていた。笛吹き男は怪訝そうにする。

 

「テラー? 何だい、それは」

 

「お前の存在を予め登場人物に知らせたとされる謎の人物だ」

 

 そもそも実在するのか危うかったがナインは実在するという前提で話を進めた。笛吹き男は首を傾げる。

 

「テラー、恐怖の意か?」

 

 最初に思いつくのはそれだったが「恐怖」と銘打つには相手の存在が不明瞭である。

 

「我々も分からない。登場人物が口走っただけだ」

 

「知り合いにはいないね」

 

 ナインはこれ以上笛吹き男に詰問しても有意義な情報は得られないだろうと判断した。

 

「今日のところはこれで打ち切る。あの物語世界を修復するのには我々が善処する。お前は休んでおくといい」

 

 テラーの存在を消せばあの物語の住民たちは笛吹き男に関しての疑念はなくなるだろう。記憶操作程度で事足りるはずだ。

 

「早目にしてもらえると助かる」

 

 笛吹き男からしてみれば自分の存在意義を揺るがされかねない珍事。当然のことながら収束を願っている。

 

「最後に一つだけ。お前はあの物語に帰りたいのか?」

 

 自分でもどうしてそう思ったのか分からないが、自分の役割を歪められ、なおかつ殺されかけた世界に戻りたいか否かを聞き出したかった。笛吹き男は澱みなく返す。

 

「そりゃ当然さ。物語においてたとえ悪役であろうとも追い出されるような真似はされたくないんだ。それが物語世界に生まれた存在の本懐であり、実際の物語と異なることなんてされちゃいけないんだ」

 

 笛吹き男の模範解答にナインは一つ頷いた。

 

「そうだろうな。分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『何であんなこと聞いたの?』

 

 戻ってくるなりベルが問い詰めた。

 

「あんなこと、とは?」

 

『物語世界に戻りたいか、なんて』

 

 自分でも判然としない。だが聞いておかねばならないような気がしただけだ。ナインは、「理由はない」と応じる。

 

『嘘。ナイン、何か隠しているでしょう』

 

 人造妖精は変なところで勘が鋭い。ナインは自室の椅子に腰かけながら辺りを飛び回る忙しないベルへと声をかけた。

 

「物語世界に、やはり登場人物とは帰りたいのだろうか。それがたとえ殺されかけた世界でも」

 

『なに当たり前のこと聞いてるの? 決まっているじゃない』

 

「だが笛吹き男はリンチされ、磔刑に処された。それほどの恐怖と、痛みを味わった場所に、帰りたいと願うだろうか」

 

 ベルは嘆息を漏らし、『あのね』と説教じみた声を出す。

 

『ナインの悪い癖だよ。なんか変なところにこだわるよね。剪定者として感情論は殺している、みたいな風を装うくせに、妙なところで人間臭いっていうのかな。割り切れていないよ』

 

 そうなのだろうか。自分は剪定者として使命に忠実なつもりである。だが笛吹き男のようなあり方をどこか疑問視している。

 

「殺されかけた世界に戻って、何食わぬ顔で同じ人々に出会えるのか。それは、許せるのだろうか」

 

『でも、その物語でしか生存を許されていないんだからその物語に帰るほかない。それ以外にどこへ行くって言うの?』

 

 どこへ行くのか。ナインには見当もつかない。もし物語を追放され、物語世界が消失した登場人物はどこへ行くのか。帰る場所を失った登場人物はどうするというのか。

 

「……分からない」

 

『ファイブみたいな楽観視もどうかと思うけれど、ナインは考え過ぎだよ。フェアリートリップに関してもそう。何でそうこだわるかな。こだわりどころを間違えているよ』

 

「妖精の粉については俺にはもう捜査権限はない。忘れるとしよう」

 

 ナインは次の案件がベルを通じて転がり込んでいるのを感知した。ベルの機能をセーフモードに限定して呼び出す。

 

「桃太郎の世界、か。可能性の枝葉のひずみがB判定まで伸びている」

 

『東洋の物語かぁ。あんまり馴染みはないな』

 

 すぐさま通常モードに切り替わったベルが感想を漏らす。ナインとて東洋の物語に造詣は深くない。

 

「仕事だ。東洋だろうが西洋だろうが関係はない」

 

 ベルにそう言いつけナインは早速桃太郎という物語を検索した。

 

 筋書きは簡素なものだ。桃から生まれた子供を老夫婦が桃太郎と名付け、成長した桃太郎は悪逆の限りを尽くす鬼を退治し、懲らしめる話。典型的な勧善懲悪ものだ。

 

「この簡素な物語にひずみがB判定とは。一体どこが」

 

『実際に行ってみないと分からないのかもね』

 

 ナインは時計を確認する。笛吹き男の案件は他の剪定者が処理するだろう。記憶操作程度ならば自分が出向くほどではない。

 

「受付でパンチカードを受け取り、その後にこの物語世界へと向かう」

 

『うえ、連続で?』

 

「二十四時間の休暇は与えたはずだが?」

 

 ナインの言葉にベルは不服そうに応える。

 

『二十四時間しかもらってないよ』

 

「物は言いようだな。その間、俺はお前を頼らなかったし、お前も俺に特別の理由はなかった。休暇は与えられた」

 

『……何だか屁理屈めいているけれど』

 

「それでも事実は事実だ。人造妖精にわざわざ休暇を与えているのは俺くらいだろう」

 

『悪かったわね。あたしがサボり性のある人造妖精で』

 

 ベルの苦言をいなしながらナインは桃太郎について情報を集める。すると様々な可能性世界が広がっていることが分かった。

 

「なるほどな。この物語、簡素ゆえに可能性に関しては事欠かない。だがその程度でひずみが生まれるか?」

 

『マイナーな可能性世界なら剪定者が訪れるまでもないからね』

 

 その通りなのだ。いくら解釈の余地があろうともそれがマイナーならば別に剪定者が訪れてわざわざ可能性を狩りに行く必要もない。

 

「どうやら行ってみるほかないようだ」

 

 ナインは立ち上がって支度を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 受付で案山子女からパンチカードを受け取っていると蓬髪の剪定者が声をかけてきた。自分よりも肩幅が広く筋骨隆々である。

 

「ナイン。珍しいな、顔を見るのは何ヶ月ぶりだ?」

 

 その剪定者の名をナインは口にする。

 

「イレブン。何ヶ月、というのはこの空間では正しくないな」

 

 中間に当たるこの空間は常に時が止まっている。何時間経った、というのは常に主観でしかなく、剪定者によっては何年も同じ物語世界に入って帰ってこない者もいる。イレブンは快活に笑う。

 

「そりゃそうだ。私なんて前に入った物語が百年単位だった。そのせいでえらく久しぶりに思えたものだよ」

 

 物語によっては百年、千年が当たり前のものもある。そうした場合、剪定者はどうやって自分を管理するのかというと左手につけている腕時計だ。

 

 それによって身体機能を一部停止させ、百年千年単位での活動を可能にする。腕時計は可能性世界の発生も関知できるために剪定者からしてみれば必須だ。

 

「俺は百年単位の仕事は請けないと決めている」

 

「そいつも立派な心がけだが、仕事を選り好みしていたら人造天使の機嫌を損ねるぞ」

 

「人造天使のご機嫌を窺って仕事を何でもかんでも引き受けていればそれこそ身の破滅だ。時差ボケを食らいたくないからな」

 

 剪定者同士における時間の誤差を俗に「時差ボケ」と呼ぶ。それは空間の認識能力の低下など時に深刻な症状を引き起こすのだが大抵は人造妖精のサポートによって回復が可能である。

 

「物語によっては価値観の狂いも発生する。この職業、それを恐れていたらできないが、時差ボケは百年単位だときついぞ」

 

「俺が向かうのはそんなきついものじゃない」

 

 パンチカードを差し出す。それを見やってイレブンは、なるほど、と納得した。

 

「桃太郎の世界か。行ったことはないが、時差ボケは食らいにくそうだ」

 

「有名らしいな」

 

「東洋をメインに活動している剪定者では一度は訪れるってな。可能性世界が多岐に渡っているために素人の剪定者に経験を積ませる意味で送り込まれる場合もあるという」

 

 初耳だったが剪定者は常にあらゆる物語と対面せねばならない。その局面によっては立ち振る舞いも変わる。まずはメジャーな物語から攻めるのが定石である。

 

「それでは割と楽な任務と思っていいのか」

 

「楽だと考えていると思わぬしっぺ返しを食らう。私はできれば常に緊張感を持って仕事には望むようにしているがね」

 

 イレブンは腰に提げた得物をさすった。イレブンは剪定者には珍しく武器持ちだ。だが実際にその武器が振るわれたところは見たことがない。

 

「その刀、いつも持っているのだな」

 

 ナインが指摘するとイレブンは、「愛着があるんだ」と応える。

 

「だから手離せない。私の人造妖精もそれを理解してくれている。コジロウ」

 

 出現したのは青い光を放つ人造妖精だった。コジロウ、という名前通り声音は少年のものである。

 

『イレブンはどうしてだか手離したくないみたいでね。ナインとベルにはそういうのはないのか?』

 

 ベルがナインのコートから飛び出てコジロウの質問に答える。

 

『ある?』

 

「いいや、俺はないと思うが」

 

『案外、こういうところから分かるかもしれないけれどな。ボクらが元々は何者だったのか』

 

 コジロウの声にイレブンがいさめる。

 

「おいおい、この場でよくそういうことが言えるな。私たちは人造天使によって見出された剪定者。元は何者だったかなんて、聞くも野暮だろう」

 

 イレブンの模範解答に、『面白くないな』とコジロウが呆れる。

 

『自分が何者で、どこから来てどこへ行くのか。それは永遠のテーゼじゃないか』

 

「哲学者みたいな考え方をする人造妖精なんてそうそういない。貴重と言えば貴重だが、私からすれば考え過ぎだな」

 

 イレブンは歯を見せて笑う。コジロウは、『そんなだから』と意見を申し立てた。

 

『成長の機会を失うんだ。いいかい? 常に自分が何者で、何者になるのかを考えることこそが、人間に与えられた使命なんだよ』

 

『人造妖精がよく言うわね』

 

 ベルの差し挟んだ声にコジロウが言い返す。

 

『人造妖精ベル。君は風上にも置けないな。そうやって考えるのを放棄してただ単に剪定者の所有物と化す。一番あっちゃいけないんじゃないか?』

 

『何よ、あたしだって考えてるっての!』

 

『言ってみなよ。考え方によっちゃ評価を変えてもいい』

 

『何で偉そうなのよ!』

 

 人造妖精同士とは馬が合わないのか、ベルはしょっちゅう喧嘩を吹っかけられている。剪定者同士はほとんどぶつからないというのに。

 

「やめろ、ベル」

 

「お前もだ、コジロウ。あんまり他人の人造妖精を叱るのはよくないぞ」

 

 お互いの主人の言葉に二人の人造妖精は言葉を仕舞った。

 

『考えることは悪いことだろうか』

 

「そんなことはないが他人に意見を吹っかけるのならばもっといい言い方があるだろうと私は思うが」

 

 イレブンの言葉にコジロウは鼻を鳴らしてコートの中に入った。

 

「すまないな。人造妖精の教育が行き届いていなくって」

 

『本当よ。なに哲学者ぶってるんだか』

 

 ベルの抗弁にナインは口を差し挟む。

 

「ベル、お前もだ。戻れ」

 

 ベルは不服そうだったがコートの中に入った。

 

「お互いに道草を食ったな。任務成功を祈っている」

 

「俺もだ」

 

 互いに言い合って踵を返した。

 

 



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ACT6「桃太郎の世界」

 

 茅葺屋根の連なった村、もっと言えば集落。それが桃太郎の世界における建築基準だった。笛吹き男のいた中世に比べれば少しばかり文明レベルが低いか、とナインは判断する。

 

「現時刻、桃太郎が上流から流れてくる一時間前だ」

 

 腕時計を確認しナインは一組の老夫婦がお互いに仕事を分担しているのを目にした。手を振って老人が山へと向かっていく。それを見送った老婆は洗濯物を纏めていた。

 

『あれじゃない? おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、ってね』

 

 ベルの声にナインは影と同化して成り行きを見守る。上流から桃が流れてくる。そうすればこの物語は開幕するはずだ。

 

 その時、不意に揺れが襲った。地震か、とナインは感じ取るがそれは違う。大地が揺れているのではない。現に老婆は何も感じていないようだ。

 

 ――これは時間震だ。

 

 ナインは咄嗟に腕時計を見やる。分針が滅茶苦茶な方向を示していた。一気に時間が早められ、桃太郎の桃が上流から下流へと流れていくのを老婆は観測できていない。地面が揺れる。今度は実際の接地を揺らした振動に老婆が怯えた。村の人々が声にする。

 

「鬼だ! 鬼が現れたぞ!」

 

 ナインは目を見開く。一対の角を持つ巨大な鬼が村を襲っていた。まさか、と腕時計を確認する。腕時計の示すのは鬼の出現時間だった。だが鬼が人々を脅かし始めるのは桃太郎の誕生以降のはずだ。桃太郎の誕生を無視して鬼が出現するのは物語のルールに反している。

 

「おかしい。物事が前後している」

 

 ナインの声にベルがコートから飛び出した。

 

『まずいよ、ナイン。鬼が人々を襲っている』

 

 棍棒を振り上げた鬼が茅葺屋根を粉砕する。逃げ惑う人々の中で若い女を一人、また一人を鬼がさらっていく。これは道理に反した事象だ。ナインの身体が反射的に動いた。

 

 鬼の行く手を遮る。鬼は一つ目のものもいれば両目がついているものもいた。青黒い肌や赤い肌を持っている鬼たちがナインの姿を認めて睥睨する。

 

 鬼が咆哮しナインを威嚇した。ナインは右手の手袋を外す。

 

「こうなってしまえば消すもやむなし」

 

 明らかに事象が狂っている。このままでは桃太郎を育てるはずの役目である老夫婦が殺されかねない。ナインへと棍棒が打ち下ろされた。だがナインは影の移動方法でするりと避けて鬼の懐へと潜り込む。手刀が鬼の身体を引き裂いた。断絶された鬼の身体が吹き飛ぶ。仲間の鬼が喉の奥から威圧した。

 

『どうするの? ナイン! 物語への過度な干渉は、また可能性世界を生む結果に』

 

「そんなことは分かっている」

 

 分かっていても主役不在の物語をこれ以上継続させるわけにはいかなかった。ナインへと鬼が襲いかかる。それぞれの攻撃を紙一重で避けたナインは鬼の心臓を引っ掴み手で握り潰す。

 

 鬼たちが恐怖しそれぞれ鳴き声を発して逃げ帰ろうとしていた。その背中を追うほどナインは冷徹ではない。逃げるのならばそれでよかったが被害は甚大だった。桃太郎を育てるはずだった老夫婦のうち、老婆が重傷を負っていた。ナインはどうするべきか決めあぐねる。

 

 桃太郎を今さら呼び起こしたところでこの物語世界に救済はないだろう。桃太郎という主役を欠いたためイヌ、サル、キジの三人の従者も現れる保証はない。

 

『ナイン……』

 

「この物語世界を去る」

 

 ナインの決断にベルは押し黙っていた。人造妖精でも分かっているのだ。桃太郎の世界は破壊された。主役がいない、というだけの結果でこれだけの被害が出るのだ。だからと言って剪定者にできることはない。主役の代わりに鬼を滅すればいいというわけでもないのだ。

 

 ベルは被害に遭った人々を見やり小さくこぼす。

 

『仕方がない、そうなんだよね……』

 

 ベルとて一度や二度ではない。こういった最悪の事態を知っているはずだった。もちろん自分とて引き際は心得ている。

 

「この時点における物語世界の凍結を申請する。人造天使の命により、桃太郎の世界は完全に他とは隔離。物語を〝閉幕〟する」

 

 閉幕。それはつまり、この物語を誰の目にも留まらせる事のないように完全に排除するという意味であった。剪定者の任務において閉幕は最終手段のうちの一つである。

 

 閉幕する事によって、この物語は継続性を喪失し、自然消滅を辿る。そうでなければ、時間の止まった中間地点にこの先ずっと繋ぎ止められたまま、終わりも始まりもない、物語としての体裁を失った状態として密封される。

 

『閉幕……。随分と久しぶりだよね。あたしたちが閉幕なんて失態に出るなんて』

 

 失態なのだ。閉幕は即ち、剪定者の実力不足と言っているようなもの。ナインは、右手を掲げ、物語世界の継続性を問いかける。

 

「このまま、桃太郎の世界を放置した場合、起こりうる可能性」

 

 参照したデータがすぐさま呼び起こされ、概算値が人造妖精の声で導き出される。

 

『桃太郎の世界は多数の継続的可能性の枝葉を持っている。放置すれば、新たな物語の可能性の発生を見過ごすことになりかねない』

 

「やはり、どこかで切り落とさなければ」

 

 このまま物語を閉幕させるにせよ、密封するにせよ、どこかで折り合いをつけない限り、物語に延長の可能性が浮かび上がってくる。

 

 茅葺屋根の並び立つ集落を見やり、そこいらの破壊の痕を解析する。

 

「棍棒による攻撃だな。だが、この鬼、あまりにも……」

 

 絶句したのは一体の鬼だけがあまりにも強大な力を持っていたからである。山一つ分が吹き飛ばされ、削り取られた様は棍棒という原始武器のせいとは認めづらい。

 

『ナイン、鬼から七時間後に物語世界の発生を確認したよ。これは……泣いた赤鬼の物語だね』

 

 その事実にナインは覚えず聞き返す。物語の主役から派生するならばまだしも、悪役から物語が派生するのはイレギュラーだ。

 

「鬼から? どういう意味だ?」

 

『分かんないよ……。でも物語の発生を剪定者は』

 

「見過ごせない、か。閉幕と密封措置を一時的に解除。剪定者ナインはこのまま、桃太郎の世界にて可能性の枝葉を切り取る」

 

 ナインは集落を見て周り、負傷者を観察していた。

 

 何も干渉をしないのは剪定者のルールだ。たとえ相手が瀕死でも、物語における脇役ならば過度な介入を行ってはならない。

 

『酷いよねぇ……。鬼ってそんなに凶暴だっけ?』

 

「桃太郎の世界の基準に準拠するのならば、鬼はイヌ、サル、キジの三体で退治できるほどの強さだ。つまり、あまり強くはない」

 

 そのはずなのだが、半身を引き裂かれた者も存在するなど、明らかに鬼の破壊活動は常軌を逸している。

 

 まるで何もかもを破壊し尽くさなければ収まらないようであった。

 

『逃がしちゃったのはミスだったのかもね。全滅させれば可能性世界は……』

 

「だが全滅させれば桃太郎の世界の継続可能性を摘み取ることとなる。俺は結局、後付けの戦いをするしかない」

 

 それが剪定者の宿命だ。可能性が発生したから摘み取らなければならない。どこまでも後手に回ってしまうのは必然的なのだ。

 

「助けてくれぇ」と村民が呻く。片腕がもがれており、血が止まらない様子であった。

 

 期待の眼差しを向けてきた相手に、ナインは冷たく返す。

 

「勘違いをするな。剪定者は人を救わない」

 

 だが、とナインは左手の手袋を取っていた。負傷者の頭部を引っ掴み、そのまま赤い電磁が跳ねる。

 

「恐怖を忘れて死ぬことは許されている」

 

 鬼という存在を欠いて、ただ単に負傷して死ぬだけならば少しは安楽に近いだろう。ナインは蹂躙された集落を下っていく。

 

 本来、桃太郎が流れてくるはずであった川に辿り着いた。

 

『おばあさんは洗濯に、ってはずなんだよね?』

 

「そのはずだが、この河川は……」

 

 すくい上げた水はまるで血のように赤い。どろっと質量を持っており、臓物に近い何かが上流から流れてくるのが窺えた。

 

 ナインは上流を目指して歩み出る。いずれにせよ、鬼が来たのは山の向こう。行く先は同じだ。

 

 途中、鬼が発生させたと思われる攻撃の痕跡がいくつか散見された。木々が薙ぎ倒され、鹿や熊などが狩り尽くされている。

 

「おかしい。ここまでの凶暴性を秘めた悪性存在ならば、桃太郎の物語の悪役として相応しくない」

 

 順当なレベルというものがある。物語世界において、その世界観を破綻させない程度の悪。それが割り振られ、適切に対処されているからこそ、物語は物語たらしめられる。

 

 しかし、これではまるで桃太郎単騎での対処は不可能であった。

 

 事象の前後と桃太郎の不在。それに養父母の負傷。それら全部の事件が繋がっているとすれば、やはり帰結するのは鬼の存在である。

 

『鬼が……強すぎるってこと?』

 

「簡単に言えばそうなる。ここまでのレベルとなるとこれはバッドエンドへと接続しかねない」

 

『バッドエンド……それってまずい、よね?』

 

「問い質すまでもない。ハッピーエンドがバッドエンドに転化するなど、それは一番にあってはならないものだ」

 

 山一つを超えた場所では火の手が上がっていた。腹の肉をたぷつかせた鬼が棍棒を振るい、人々を恐怖のるつぼに落とし込んでいる。

 

『ナイン! 助けなきゃ!』

 

「急くな。この集落は物語構築上、不必要な場所だ。静観を貫く」

 

 シンデレラの物語が一転して片田舎の物語にならないように、ピノキオの舞台が別の人形師の話にならないのと同じことである。

 

 ――描かれないことはなかったことになる。

 

 ここでどれほど人が死んでも、描かれていない部分における死者はカウントされない。ゆえにナインが介入する理由も存在しないのだ。

 

『でも、人死にを見過ごせって……!』

 

「勘違いをするな、ベル。人死にを見過ごすわけではない」

 

 影の移動方で瞬時に鬼の眼前に現れたナインは存在抹消の右手を払う。

 

 棍棒が接触点から掻き消されていく。目を瞠った牛のような頭を持つ鬼へとナインは回り込み、その横腹を引き裂いた。

 

 血潮が舞う中、緑色の稲光が鬼の存在を溶かしていく。

 

「鬼よ。そのまま死にたくなければ答えろ。この世界は何だ? 何が起こっている?」

 

 鬼は獣のように吼え立てるだけで意味のある言葉を発しない。牛鬼が猛り狂って爪を立ててナインのコートを引き裂こうとした。影に埋没したナインはその一閃を退け、背後からその背筋に右手を突きつける。

 

「今一度問うぞ、鬼よ。お前らの存在理由は桃太郎との戦いだ。それ以上の介入条件は満たしていない」

 

 こちらの殺気が本物だと分かったのか、鬼は幾分か落ち着いたようであった。

 

「……桃太郎は存在しない」

 

「その真偽は我々剪定者が決定するものだ。悪役に決定権はない」

 

 だみ声で鬼は言葉を継ぐ。

 

「本当だ。ある日、桃太郎の存在に怯えなくってもいいというお触れが出された。誰が出したものなのかは不明だが、物語の登場人物として、その設定は本能で容認できた」

 

 それは随分と奇妙だ。何百回と繰り返しているはずの桃太郎とその悪役が突然の設定介入に異論を挟まないなど。

 

「それは誰だ?」

 

「分からない……。だが、破壊行為を容認できる立場の第三者であったことは明白だ。それに、その日を境にしてどうしてだか、鬼は鬼らしく振る舞うべきだとして我々の原始本能に刻み込まれた」

 

 鬼が鬼らしく振る舞い、人々を恐怖に陥れる物語。それが現状の桃太郎世界におけるひずみというわけか。

 

「ひずみを矯正する。それが剪定者の仕事だということは」

 

「承知しているとも。物語の登場人物ならば皆、想定している事実だ」

 

 ならばここで矛を交えることさえも無意味であると分かるはず。ナインは後退し、鬼へと右手を突き出す。

 

「ここで消滅するか、俺をお前らの根城に連れて行くか、二つに一つを選べ」

 

 こちらの要請に鬼は哄笑を上げる。

 

「もう一つ、選択肢があるぞ、剪定者」

 

「もう一つ? 何のことだ」

 

 牛鬼が吼え立て、その巨躯でナインを押し潰そうとする。

 

「こちらが、貴様を刈り取るという現実だ!」

 



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ACT7「秩序崩壊」

 愚かしいにもほどがある。影の移動法を用いて瞬時にナインは敵の射程を潜り抜け、鬼の首根っこを押さえつけた。

 

 鬼に比すれば遥かに矮躯であるはずのナインが、地面へと鬼を縫い付ける。陥没した地表から砂塵が舞った。

 

「さすがは剪定者……物語の暗殺専門の汚れ屋、か」

 

「首をはねる。その前に教えろ。この物語は何だ? 明らかに既知の桃太郎ではない」

 

 鬼が剪定者に抵抗するなど前代未聞だろう。牛鬼は口角を吊り上げて笑みを形作る。

 

「分からぬだろうな。剪定者、全てが狂い始めている。もう遅いのだ、この物語世界は、もう」

 

 破壊の右手が鬼の首を落とした。緑色の電磁が血潮と渾然一体となり、その存在をかき消していく。

 

「ミス、だな。物語の悪役とは言え、殺すのは最終手段だった」

 

 そう言いつつも、右手の手袋をはめ、ナインは鬼の居城を睨む。

 

 いつの間にか、曇天が広がり、紫雲が垂れ込めていた。稲妻が迸り、この物語が既にのっぴきならない場所まで来ていることを示す。

 

『ナイン……この世界』

 

「ああ、もう壊れているのか。あるいは、壊れかけているのか。その判断はつけかねるが、閉幕するのに、この狂い方は異常だ。根源を絶たなくてはならない」

 

 渦巻く雲の集積する場所は一つ。聳え立つ山であった。まるで鬼頭のように山頂が二本角を形成している。

 

 誰もが知っている桃太郎の最後の戦場――鬼ヶ島。その存在そのものが陸地へと移送されたかのような威圧。

 

『鬼ヶ島……だよね、これ』

 

「陸と繋がってはいるが、存在の近似値にあるのは鬼ヶ島だ。間違いはない」

 

 上流から流れ出る臓物の臭いが濃くなっていく。霧が発生し、その進路を試しているかのようであった。

 

『ナイン、行くの?』

 

「剪定者の任務は継続中だ。ここを破棄しろ、という命令も降りていない以上、調査を継続する」

 

 ナインは鬼ヶ島の土を踏みしめる。湿り気のある土で構築された島には巨岩が多く点在し、その陰から鬼が数体、こちらを観察しているのが伝わってくる。

 

 先ほどの戦いのせいか、無闇に仕掛けてくる雑魚はいないようであった。

 

 その時、岩場の陰から一匹の鬼が飛び出してくる。

 

 ナインが構えると、赤い前掛けの鬼が高らかに叫んだ。

 

「お前、クマ、か? だったら、オレと勝負だ!」

 

 小さいながらに額に角を生やした鬼の子供である。四股を踏んだ鬼にナインは右手を下ろした。

 

「ガキのお守をしている場合ではない」

 

「お前、失礼なヤツだな! オレは金太郎! 立派な武士だぞ!」

 

 金太郎、という固有名詞にナインはぴくりと眉を跳ねさせる。即座にベルへと該当データを参照させた。

 

「金太郎、だと? ベル、該当する物語は」

 

『検索するまでもないよ。……だって誰もが知っている金太郎の童話だとすれば、この子が?』

 

「そうだ! オレが金太郎だ!」

 

 ナインは頭痛を覚える。この世界は何だ? どうしてこうも異常な者たちを抱え込んでいる?

 

「金太郎……しかしその性質は鬼。先ほどの牛鬼もそうだが、この物語……異物が混入している。純粋な桃太郎の物語世界ではない」

 

『何かが、桃太郎の物語の構築核を壊しているとしか思えないよ。その構築核になるのは、主人公である桃太郎なんだけれど、今のところ、その存在がない』

 

 物語における最低限必要な「主人公」という求心力を失った物語世界は分裂しかけている。

 

 鬼の物語と、金太郎の物語に。

 

 このままでは桃太郎の世界は引き裂けてしまうだろう。

 

「剪定者ナインより。人造天使に繋いでくれ。この世界は半壊状態だ。これ以上、物語の破壊が進む前に、密封を提言する」

 

 繋ぎかけて、通信が阻害されていることに気づく。観測神殿との連絡が取れないのは致命的であった。

 

『密封指令が通用しない?』

 

「ベル、お前のネットワークは?」

 

『検索システムは生きているけれど、どうしてだろう? 通信だけができないみたい……』

 

 つまり一方的か。ナインはこの物語世界におけるひずみと対峙する。

 

「おっ、やる気になったか、黒いの」

 

「剪定者の存在を知らないのか?」

 

「知っているよ。知っているけれど、お前との遭遇経験はない」

 

「知っていて、無意味なことをする必要はない。可能性世界を一つでも認めてしまえば、観測犯罪に抵触する。撃滅の右手でお前を消滅させることくらいわけもない」

 

 無論、これはブラフだ。物語における主役級を破壊すれば、それだけダメージが大きい。他の物語にも影響を及ぼすことになってしまう。ゆえに、主役級を破壊するのには人造天使の承認と、観測神殿からの十三にも及ぶ許可証が必要になるのだが。

 

 観測神殿と連絡が取れない以上、ナインが独自に判断を下す必要があった。

 

「破壊の右手、か。オレのまさかりとどっちが強いか勝負するか?」

 

 金太郎が片手を掲げると、空間に粒子が密集していく。岩場から情報密度を吸い取り、その手に構築されたのは金の斧であった。

 

 まさか、とナインは瞠目する。

 

「……物理情報の操作。誰の許可でやっている」

 

「誰の許可も要らないだろ。オレが金太郎なんだから!」

 

 斧を得て金太郎が踏み込んできた。ナインは右手の手刀でいなしつつ、まさかりの軌道を読もうとする。金の斧が瞬時に位相を変えてナインの横腹へと狙いを決めた。

 

 影の移動方を用いて背後へと回り込んだナインがとどめの右手を叩き込もうとするが、その刹那、金のまさかりが照り輝いた。

 

 あまりの眩さに一瞬だけ影が晴れ、移動できなくなる。その隙を突いて金太郎が斧を薙ぎ払った。

 

「……主役級の攻撃、か。確かに強力だ。摂理を歪めるほどの」

 

 ナインは右手で斧を受け止めていた。その手から血が滴る。

 

 ――ただの金の斧ではない。この事象の曲げ方は物語の核クラスだ。

 

 弾き返して後退したナインはベルへと言葉を投げる。

 

「ベル、あの斧、ただの斧ではないと推測する。事象測定」

 

 その言葉にベルが検索を開く。瞬間、彼女は声を戦慄かせた。

 

『嘘、そんな……。あれ、物質情報が更新されただけじゃない。あの物質は、物語上のファクターになっている。あれは〝金のオノ〟の世界における事象偏向物質だよ!』

 

 やはりか。ナインは歯噛みする。有名な〝金のオノ、銀のオノ〟の物語。ヘルメースの神が人間に試した善性の審議。

 

 古めかしい斧を湖に落とした木こりは現れたヘルメースに「落としたのは金のオノか、銀のオノか」と尋ねられ、正直に答えたために、金のオノを授かるという童話。その重要な因子を司る金の斧こそが、金太郎の手にある斧と合致するというのだ。

 

「お前、その武器が何なのか分かっていて、使っているのか」

 

「分かっていなくて使うかよ! 金の斧には神様が宿っている!」

 

 これが吹聴されている適当な物語の切れ端の武器ならばまだ対抗できる。だが、金太郎の持つ武器は神の遣わした武器。容易く事象変動の右手で破壊していい物ではない。

 

 かといって左手で戦うのには金太郎は戦い慣れている。その言葉通り、彼は〝金太郎〟なのだろう。

 

 物語の主役級存在と、神話級の武器が合わされば、こうもやりづらい相手となるのか。

 

 しかし、そこで疑問が残る。どうして、金太郎は鬼の側についているのだろう。物語では、金太郎は鬼を退治する陣営のはずだ。

 

「……お前が金太郎であると仮定して、では何故、鬼になっている? 鬼と戦わなくっていいのか」

 

 その質問に金太郎は小首を傾げる。

 

「何でって、そりゃ桃太郎が命じたからだよ」

 

 意外なところで出てきた名前にナインは閉口する。どうしてここで桃太郎の名が出るのか。質問を重ねる前に金太郎が跳躍した。

 

 浴びせかけられる一撃に地表が抉れ、砂塵が舞い散る。紙一重で回避したナインは影の移動方に必要な影を消し去る金の斧の神話性に舌打ちする。

 

 ――自分の剪定者としての格では、金の斧の物語を打ち消せない。

 

 かといって主役である金太郎を破壊するのは重要な職務規定違反だ。攻撃を受け続けるわけにもいかず、ナインは後退する。

 

「おい! 逃げてばかりいないで戦え!」

 

「……冗談を言う。こちらとて、早々にこの物語から脱却したいところだ。神託兵装に物語の主人公ではこちらも戦いづらい。加えて、この物語の中心軸が今、崩壊を迎えようとしている。それを黙って見過ごせるものか」

 

「崩壊? 分からないことを言うな、この物語は壊れてなんかいない! あいつさえ倒せば、全て終わるはずなんだ」

 

「あいつ……?」

 

 誰のことを言っているのか。剪定者である自分を殺すことはたとえ高名な物語の主人公でも許されない。剪定者はあらゆる物語の楔から外れた異端者である。物語の構築者はたとえ端役であろうとも、剪定者に害を成すことは基本的にできない。

 

 その時、紫の稲妻が発し、地表を一条の光が射抜いた。

 

 その光が金の斧に反射し、持ち主である金太郎の目が一瞬だけ眩惑される。

 

 隙を見逃さなかった。稲妻が生み出した深い陰影に身を浸し、瞬間的に金太郎の背後へと回り込む。

 

 相手が斧を薙ぎ払う前にナインは滅却の右手を突き出していた。

 

 斧がナインの首を落とす手前で硬直し、緑色の電磁を引いた右手が、金太郎の眼前で止まる。

 

「……やるじゃん」

 

「王手だ。お互いにこれ以上は益がないはず」

 

「ま、オレも武士になりたいからそんなに深追いはしないけれどな。勝負が決まればそこまでってヤツだ」

 

 金太郎が斧を下ろしてようやく、この戦闘が終幕を迎えたことを関知する。ナインは金太郎の斧とその井出達をつぶさに観察した。

 

 物語の筋書き通りの姿。さらにそこに神の御業である金の斧が加わり、無双の戦士と化している。

 

「……お前を遣わしたのは、桃太郎、だと言ったな?」

 

「ああ。桃太郎なら上にいるぜ。鬼ヶ島の頂上にな」

 

「やはり、ここは鬼ヶ島なのか」

 

「桃太郎の世界なんだろ? だったらそうに決まってる」

 

 矛盾したことを言う。ここが桃太郎の世界ならば金太郎が存在しているのが不自然だ。

 

「どうして、自分がここにいるのかの記憶は」

 

「曖昧だな。ただ、あいつを倒せばどうにかなるっていうのは、何度かの戦いで分かった」

 

「あいつ、とは誰だ」

 

 金太郎は顎をしゃくる。その視線の先へとナインは吸い寄せられていた。

 

 赤紫に染まる天地の中空に佇む影であった。立体視できないほどその姿は薄く儚い。最初、雷の作り出した陰影かと疑ったほどだ。

 

「正体は分からないけれど、あいつのせいでこの世界は鬼が支配するようになった。で、鬼がどこへ行ってもうじゃうじゃいるもんだから、鬼退治の物語と鬼が主役の物語が混在した」

 

「……奴は何者だ」

 

 問いかけた途端、灰色の影が稲妻に掻き消される。一時の幻のように、その人影は消え去っていた。

 

「消えた……」

 

「多分、もうどこかに行ったんじゃないかな」

 

「では、倒す必要性も」

 

「いや、もう駄目だ。この物語は落としどころを失っている」

 



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ACT8「鬼哭世界」

 木々を踏み締める音が残響する。ナインが視線を投じた先にいたのは見上げんばかりの巨体を持つ鬼であった。

 

 三面六臂の鬼が得物を手にナインを睨み上げる。

 

『「(剪定者か)」』

 

 三つの声の相乗したものにナインは眉間に皴を寄せた。

 

「こいつは?」

 

「ただの鬼だ」

 

「嘘をつくな。この鬼は、ただの物語上の悪役にしては随分と……凝っている。子供の作り上げた悪夢の産物にしては、凶悪が過ぎる」

 

「悪夢だって。これがオレの相手になる鬼だって言うんだから」

 

「金太郎の物語の鬼……酒呑童子か」

 

 酒呑童子は金太郎と所以のある鬼だ。だがこのような異形の姿であったという記録はない。三面六臂の鬼が携えた剣を大きく振り上げた。

 

『「(死ね)」』

 

 轟音と共に大剣が山を突き破る。鬼ヶ島が両断され、地形が大きく変動した。水田が干上がり、雨空に逆さ雨が降りつける。

 

 浮かんだ水滴を足がかりにして、ナインは跳躍していた。

 

 一滴一滴を足場に、鬼へと標的をつける。

 

「物語上のイレギュラーを確認。剪定者の権限により、対象の排除を許可されたし」

 

 鬼が吼え、鎖鎌を放つ。天地を縫うように鎖が跳ね上がり、鎌が地表を焼き切った。曇天を引き裂いた鎌が手元へと戻ってくるまでの僅か五秒。

 

 剪定者にとってはそれだけでも充分な好機。

 

 雨粒一つ一つを右手で触れてやる。すると、緑色の光を帯びた光弾が一斉に鬼へと殺到した。

 

 全方位を埋めた水の榴弾が鬼を叩きのめす。着弾点からもうもうと黒煙が上がった。

 

 それでもまだ鬼は死んでいない。撲滅の光を受けながらも、鬼が空いた四本の腕でナインを掴み取る。

 

『「(取った!)」』

 

 天地を割る哄笑にナインは静かに返した。

 

「違うな。取られたのだ、お前は」

 

 手首が次々と複雑に折れ曲がり、鬼が呻く。引き裂いた雲間から太陽が覗いた。腕に落ちた影に潜り込み、ナインは瞬時に鬼の首元へと至る。

 

「――もらうぞ。その首」

 

 形作った手刀が薙ぎ払われ、鬼の首の一つが落ちた。大質量が茅葺屋根を粉砕し、田園を破壊していく。

 

 大剣が再び頭上へと掲げられた。威圧を浴びせようとした鬼に、ナインは左手の赤い光を払う。

 

 大剣の太刀筋へと忘却の赤が触れた。その途端、大剣から力が失せていく。ぐにゃぐにゃに折れ曲がった刀身は完全に殺傷性能を奪われていた。

 

「銘のない剣ならば、忘却させることが可能だ。俺は今、剣から〝武器であること〟を忘れさせた」

 

 武器の資格を剥奪された剣が飴細工のように滴り落ちる。鎖鎌を振るおうとした鬼の額へとナインは左手で触れる。

 

 トン、と叩いただけの一打。それだけで相手の表皮が裏返り、もう一つの首が瞬時に白骨化した。

 

 最後に残った鬼の首が泣き喚きながら腕を払う。涙が田園を埋め尽くし、溢れ出た洪水が集落を流しつくしていく。

 

「これが泣いた赤鬼の物語の根源か」

 

 それと同時にもう三時間も経っていたのか、という事実に驚嘆する。金太郎と鬼に時間を取り過ぎたせいなのか。あるいは、あの灰色の影が時間感覚を麻痺させたのか。

 

 イレブンの言っていた通り、時差ボケに晒されそうだ。ナインは黒衣を翻し、赤鬼へと振り仰ぐ。

 

「剪定者の権限で命じる。桃太郎の世界から泣いた赤鬼への分岐を確認。物語世界の枝葉を摘み取るために、赤鬼を成敗する」

 

 跳ね上がったナインのコートから重力が掻き消え、赤鬼の腕へと降り立つ。払われた掌を回避し、ナインは影の移動速度で瞬時に赤鬼の眼前に立ち現れた。

 

 涙する赤鬼が両手を合掌させ、ナインを叩き潰そうとする。

 

 合わせられた手の隙間からナインは影となって滲み出し、指先に顕現した。

 

「貴様は……剪定者!」

 

「ナインだ。覚える必要はない。すぐに忘れるだろうさ」

 

 忘却の赤い光が棚引き、鬼の頭蓋を激震する。不意に昏倒した鬼が足を滑らせて仰向けに倒れた。

 

 山一つ分に相当する鬼の質量に大地が震える。

 

 鬼ヶ島は鬼によって崩落した形となった。

 

 降り立ったナインへと声が投げかけられる。

 

「へぇ、剪定者って本当に強いんだなぁ」

 

 どうやって逃れたのか、金太郎が呑気に欠伸をしていた。鬼が大いびきを掻きながら眠りについている。

 

〝泣いた赤鬼〟の物語世界を完全に破壊するのは、観測神殿から通信の途絶えた今の自分の一存だけで行っていいものではない。相手も物語の主人公なのだ。

 

 ナインは鬼の巨体でほとんど潰されてしまった鬼ヶ島を振り仰ぐ。

 

「これでもまだ、上に桃太郎がいると?」

 

「ああ、いる。上まで登ろうぜ、剪定者の兄ちゃん」

 

 金太郎が先導しつつ、ほとんど崩落した山を登る。

 

 臓物と血の臭気が濃くなっていく。嫌な予感が焦燥の汗となって顎を伝い落ちた。

 

 果たして、鬼ヶ島の頂上に桃太郎は存在していた。ただし、その肉体はバラバラの状態である。

 

 小鬼がいそいそと臓物を桃に詰め込み、桃太郎を「造って」いる最中であった。

 

 周囲を押し包む血の臭いの根源にナインは眉をひそめた。

 

「何だ、これは」

 

「桃太郎を造っている。おかしいとは思わない? 神の加護でもなく、桃から生まれるなんて。桃太郎が鬼であった、とする説もある。鬼の大将が自分たちの子分を解体し、再構築し、桃から生まれさせるようにしたのが、この物語の〝桃太郎〟だよ」

 

 馬鹿な、とナインは絶句する。そのような夢のない話が存在するはずがない。物語の類型の一つとしても認められない事例だ。敵役に、主人公が造られた、など。

 

「桃太郎の話は、そのようなおぞましいものではない」

 

『でも、この観測事象は現実……。ナイン、どうするの? こんなの、放置しておけないよ』

 

 ベルの問いかけにナインは通信を確かめさせた。途絶していた通信が蘇り、案山子女が通話先に出る。

 

『どうなさいましたか? 剪定者ナイン』

 

「桃太郎の世界を封印指定に。この物語世界は継続性を失い、一度消滅させるほかない」

 

 ナインの決断にベルは言葉を返すこともない。

 

『ナインが、剪定者がそう言うんなら、それが一番……』

 

 まるで自分に言い聞かせているようだった。この物語は一度滅びるほかない。妖精のゴッドマザーを入れ換えればいい、だけのシンデレラではないのだ。

 

 物語の主要人物の不在、それによって物語そのものが瓦解する。これはしかし、あり得ない話ではない。ナインはコートを翻して村を去った。

 

 ただ胸の中にはしこりがある。

 

 あの時、時間震が起こった。それさえなければこの桃太郎の世界は壊れずに済んだのではないか。胸中に芽吹いた不信感はナインの心を占めていった。

 

「オレはどうすればいい?」

 

 金太郎の問いかけにナインは観測神殿へと判断を仰ぐ。

 

「別の物語の主人公が同時存在している。イレギュラーだ。人造天使の判断を乞う」

 

『承認。特別コード、N30378を施行。金太郎を特一級の可能性犯罪の被害者として、観測神殿へと連行を求む』

 

「……だ、そうだ。お前は俺について来い」

 

「剪定者の城にお呼ばれするってのは、嫌な予感がするけれど」

 

 ナインは金太郎の手にあるヘルメースの金の斧を見やり、嘆息と共に旅人帽を傾けた。

 

「安心しろ。俺も同じだ」

 

 



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ACT9「疑念と己と」

 時間震、とは物語の時間に介入した際に起こる一種のパラドックス現象の一つだ。

 

 たとえば不当に時間を止める、あるいは時間を歪める。それだけでも時間震の発生要因となる。剪定者はできるだけこの時間震を起こしてはならない。何故ならば時間震の発生はそれだけで物語世界を破滅へと導きかねないからだ。だから影の移動方法があり、また記憶操作の左手と存在抹消の右手の使用が許可されている。

 

 ナインはゼルエルへと桃太郎の世界がもう取り返しのつかない状態に陥ったこと。そして時間震の発生を報告した。ゼルエルは目を伏せながら口にする。

 

『では桃太郎の世界において、時間震を発生させた第三者がいる、と』

 

 ナインは傅いて考える。時間震を発生させられるのは剪定者か、あるいは物語世界を飛び越えられる特権を持つ何者かのみ。ナインは胸に湧いた疑念を打ち明けようとした。

 

「我が主、人造天使ゼルエル。時間震を発生させられる存在は」

 

『言いたいことは分かる。剪定者か、あるいはそれに類する何者か』

 

 機械の翼を持つ人造天使は悩ましげに伏せた瞼を振動させて情報を高速演算させている。今もゼルエルの脳には複雑にネットワーク化された情報網が走らされ、他の剪定者の情報と同期している。

 

「剪定者でなければ不可能な事象が多く、また逆に言えば剪定者ならばある程度は可能であると」

 

『剪定者ナイン、他の者を疑っているのか?』

 

 ナインは無言を是とした。自分以外の何者か、誰かが時間震を意図的に引き起こした。笛吹き男の世界における価値観の変動も然りだ。

 

「その可能性が高いかと」

 

『時間震、それを意図的に引き起こすのならば確かに剪定者が一番相応しいだろう。笛吹き男の世界に関してもお前はそうだと思っている』

 

 見透かされてナインは深々と頭を垂れる。だが人造天使は容易く認めなかった。

 

『だが離反者という可能性こそ、むしろ真っ先に否定されてしかるべきだ。何故ならば、剪定者にそのような反逆の感情はないのだから』

 

 造物主である人造天使の言葉だ。もちろん、そのようにデザインされていることは知っている。剪定者は物語世界を渡る貴重な存在。ともすれば全ての物語を狂わせることもできるほどの強大な力を持つ。だからこそ、その行動には人造妖精というリミッターがかかっている。人造妖精から得られる情報をゼルエルが見過ごすはずがない。

 

「では誰が」

 

『剪定者ナイン、テラーという存在を追っているな』

 

 隠し立てしても仕方がない。ナインは認めた。

 

「ええ。それが笛吹き男の世界の人間に予言したと」

 

『テラーは、機密文書1897に存在を確認できる物語世界におけるエラーの一つだ。ここでわたしが隠しても仕方あるまい。テラーに関しての閲覧の許可を行う。剪定者ナイン、好きなだけ調べるといい』

 

 驚くべきことだった。テラーは過去にも存在しているのか。ナインはしかし顔を伏せたまま、「よろしいのでしょうか」と口にする。

 

『知りたがっているのだろう?』

 

「ですが、テラーは時間震を意図的に引き起こせるほどの相手。剪定者に内通者がいないとも限らないのでは」

 

『結局、お前はテラーの実在よりも剪定者の裏切り者を信じる、というわけか』

 

 言外の意図を読み取った人造天使にナインは沈黙する。ゼルエルはだがナインをいさめるわけでもなかった。

 

『確かに合理的に考えればそちらのほうが説明しやすい。だがテラーという存在が実際のものである以上、剪定者への疑念は捨てよ。むしろ逆だ。テラーが再発生したということは剪定者は手を取り合って対抗せねばならないのだから』

 

 どういう意味なのだろうか。それ以上聞くのは憚られた。ナインはテラーという情報に閲覧可能なパスワードを受け取って、人造天使の間を後にするしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テラーは恐怖の意ではない。

 

 まず分かったのはそれだ。テラーは語り部の意だった。ナインは自室でテラーに関する検索情報を読み込み自分のアクセス権限と併せて閲覧している。テラーが出現したのは最近の話ではなく、むしろ原初の物語の発生と同時期だった。

 

『何か分かった?』

 

 ベルの声にナインは返す。

 

「思っていたよりも複雑だということが」

 

 ナインは読み取った情報を口にする。

 

「原初の物語とは何だと思う?」

 

『聖書じゃない? あるいは創世記とか、神話だとか』

 

「どれも当たっているがどの物語も剪定者の介入を拒む物語ばかりだ。剪定者の出現とテラーの出現時期は被っている。剪定者が現れたからテラーが現れた、と言ってもいい」

 

『何者なの?』

 

 ベルの質問にナインは膨大な情報を前にして目頭を揉んだ。

 

「まだ途中だよ」

 

 千年規模の情報量だ。容易く読み込めるものではなかった。だがテラーが何百年も剪定者と対抗している何者かである、という情報だけは分かった。

 

「テラーは剪定者の、言ってしまえば天敵だ」

 

『天敵? 物語をどうこうできる剪定者に敵なんて』

 

「いないと、俺も思っていた。だがテラーは剪定者の存在に対する、抗体のようなものらしい」

 

 抗体、と自分で言いながらも奇妙な響きだと感じる。物語という肉体を保護する抗体が剪定者だと言うのにさらにそれに対抗するものがいるなど。だが実在するのだから馬鹿にできない。テラーは剪定者と同質、いや同様の存在だと記されている。

 

「物語の外にいる剪定者と同じように、時間震あるいは時間という概念に縛られない存在のようだ。この存在が観測されたのは物語の黎明期と重なるらしい。だから剪定者は絶えずテラーとの争いを繰り返してきた。だが結果はいたちごっこのようだ」

 

 そもそもテラーとは個人なのかそれとも組織なのか、それがぼかされている。テラーに関しての閲覧許可はレベル1。それ以上は許されていない。

 

『ゼルエル様ももっと情報を寄越してくれればいいのに。そうすればあたしたちがとっ捕まえてくるって』

 

「そう易々といかない相手、だというのは今回で身に沁みた」

 

 全く気配を感知させず時間震を引き起こし、桃太郎の世界を要修復状態まで陥らせた。その手際が以前より変わってないのだとすれば相当なものだ。

 

「疑問も残る。何故、テラーを感知できるのが限られているのか」

 

 ファイブとイレブンはテラーの存在を報告していない。それどころか他の剪定者にも情報提供を求めたが誰一人としてテラーの異常を感知していなかった。

 

『テラーが意図的に情報を排除しているって言うの?』

 

「その可能性もありうるが、俺は別だと感じる」

 

『別って?』

 

 ナインは複雑に絡み合った情報のネットワークを解しつつベルへと言葉を継いだ。

 

「テラーの存在、それそのものが剪定者ナインへの挑戦」

 

 ナインの発した言葉にベルが、『まっさかー』と冗談にしようとする。

 

『何でナインなの? 他の剪定者はいくらでもいるのに』

 

「そうだ。だからこの可能性はあってはならない」

 

 自意識過剰かもしれない。だがテラーが自分の向かう世界をことごとく無茶苦茶にしようようとしているのならばこの先も続く、ということだ。

 

『テラーだってナインが行く世界なんて先読みできるわけがない』

 

「ゼルエル様より今度の任務をいただいている。だから今度は誰が知るわけもない。テラーも、もちろん他の剪定者も」

 

 パンチカードを懐から出す。ベルは、『疑り深いわねぇ』と呆れた。

 

『そこまでテラーと真っ向勝負するつもりだって言うの?』

 

 テラーがどのような存在なのか、まだ全くの不明だ。だが剪定者の敵であるのならばいずれ合間見えるのかもしれない。

 

「ああ。俺はいざという時、テラーを倒す心構えはできている」

 

 



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ACT10「物語修復」

 

 笛吹き男が釈放されるとの報を受けてナインは次の任務の前に彼へと会うことにした。笛吹き男はようやく仕事道具である笛を取り戻して自信を得た様子だ。

 

「だが、これでも通用しなかったらどうればいいだろう」

 

 しかしその胸中には一抹の不安もあるようでナインはそれを払拭できるような言葉もなかった。

 

 テラーのことは内密だ。だから彼に相談することもできない。

 

「今まで通りの物語の展開を、剪定者は所望している」

 

 今まで通り、か、と笛吹き男は自嘲した。何がおかしいのだろうか。

 

「笛吹き男、お前は今まで通りの物語に納得がいかないのか?」

 

 不意に湧いた疑問に笛吹き男は首を振る。

 

「いや、もちろん今まで通りに越したことはない。ぼくは街の人間には嫌われるだろうが、それでもいいんだ。今まで通り、ネズミを駆除し、子供をさらい、市長の懇願で子供たちを返し、ぼくはまた旅に出る。それも今まで通りの循環。それで、いいはずなんだが……」

 

 煮え切らない笛吹き男の声音にナインは、「心配事があるのならば」と言葉をかけた。

 

「カウンセラーの類ならば剪定者の側で用意できる。なに、何回も繰り返しているうちに、そういう迷いに陥ることは儘あるものだ。だから何も特別ではない」

 

「特別ではない。……それもまた、一面ではぼくら物語の中核人物を苦しめる言葉でもあるんだよね」

 

 ナインには理解できない。笛吹き男は修復した物語世界に帰れるのだ。どうして今さら迷いなど持つことがある。

 

「お前が帰るのは我々剪定者がきっちり記憶を操作し、今まで通りの価値観を持つ人々の中だ。もし、心配ならば一度目は剪定者の付き添いの下、繰り返せばいい。俺ならば十時間ほどは空いている。ストーリーに付き合ってもいい」

 

 唐突な提案は自分でも予期していなかった。だがこの笛吹き男の懸念ももっともだと感じたのだ。殺されかけた世界に同じ調子で戻れるのか、という疑問は正しい。

 

「お願いできるか?」

 

 ナインは受付で笛吹き男の世界のパンチカードを申請し、受理された。

 

「行こうか。お前の世界へ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 笛吹き男の物語を見守る。当初、予定になかったことに小言を並べたのはベルだ。

 

『テラーを追うんでしょう? 何で保護者みたいな真似』

 

「十時間の空きがあれば、別に一個くらいは他の物語世界を巡っても問題はない。それに気になることもある」

 

『気になる?』

 

「あれだけ殺意に塗れていた人々が、本当に笛吹き男を何の感情もなく迎えられるのか、ということだ」

 

 テラーの一言で大人たちは疑念に駆られて笛吹き男を殺そうとした。そのような明確な記憶を忘れ去って、笛吹き男をただネズミ退治のために歓迎するなど。

 

 だがナインの懸念を他所に笛吹き男は市長に招かれた。率先していた大人たちも混じっている。彼らは皆、微笑みを浮かべて笛吹き男の来訪を喜ばしく思っているようだった。

 

 ――何だこれは。

 

 胸の内にもやもやとした感覚が広がる。吐き気に似た感情だった。覚えず口元を押さえる。あれだけ笛吹き男を私刑にしておいて、今度は通常の出迎えを行うこと、それそのものが不愉快極まりなかった。

 

 だが当の笛吹き男もいつも通りの物語展開に慣れてしまっているようで違和感なく溶け込んでいる。ナインはその場で膝を折った。ベルが慌てて声をかける。

 

『どうしたの? 気分でも悪い?』

 

「いや、何でもない」

 

 何でもないはずなのだ。物語は滞りなく進行し、ハッピーエンドを迎えるまで見届ければいい。だが、それは正しいことなのだろうか。笛吹き男は殺されかけたのだぞ。そうすればこのハーメルンの笛吹き男の世界そのものの瓦解すらあり得た。だというのに、剪定者が記憶操作を少しすれば物語には何の支障もない。

 

 その事実が逆に――気分が悪い。

 

 ナインはしかし笛吹き男の頼みでこの物語を最後まで見届ける約束だった。いくら気分が悪くとも仕事なのだ。

 

 笛吹き男は見事ネズミ駆除を成し遂げたが、彼への報酬を出し渋った市長に腹を立て、彼は子供たちをさらって行ってしまう。岩戸へと篭城した笛吹き男へと市長は働きかけ、二度と嘘はつかないことを条件に子供たちは解放される。笛吹き男は報酬を受け取り、旅を再び続ける……。

 

 最後まで物語が進行し、ナインは街を出たところの笛吹き男に出くわした。彼は晴れやかな表情だった。

 

「何て気分がいいんだ。やっぱりストーリー通りは最高だよ」

 

「そう、か」

 

 ナインの返答がぎこちないのを悟ったのか笛吹き男は眉根を寄せた。

 

「ぼくは君らにだって感謝している。さすがは物語の観察者、剪定者だ。記憶操作がここまで上手くいくとは思わなかった。改めて手腕を思い知らされたよ」

 

 笛吹き男が手を差し出す。握手のつもりだろう。だがナインは顔を伏せた。

 

「いや、必要はない。俺じゃない、剪定者のお陰なんだからな」

 

「いいや、翻れば君のお陰さ。君があの時、ぼくを助けてくれなければこの物語は修復できなかった。何を躊躇する?」

 

 躊躇? 自分は躊躇しているのか。ナインは笛吹き男の手を見下ろす。どうして自分はこの笛吹き男に対して気分の悪さを感じているのだろう。

 

 これが当然なのだ。剪定者は物語を修復し、可能性の枝葉を切り、時には可能性を滅殺する。それだけの、物語の「外側」にいる存在、のはずなのだ。

 

 だがこれでは、とナインは感じる。物語の外側から干渉し、場合によっては感情そのものをなかったことにする、これでは、まるで……。

 

 ナインは耐え切れずに身を翻した。影の移動方法で笛吹き男から離れる。ベルは会釈だけしてからナインに追いついてきた。焦った声音が発せられる。

 

『どうしたって言うの? ナイン。あんたらしくない』

 

「俺は、剪定者なんだよな?」

 

『何を当たり前のことを』

 

「だがやっていることはテラーと何も変わりはしない」

 

 物語の外側からの介入。記憶どころか人命さえも置き換えられる存在。ベルはナインを慰める。

 

『考え過ぎだって。それにテラーのやったことって物語の破壊じゃない。剪定者とは正反対だよ』

 

「場合によっては剪定者も物語世界を破壊することもある。だからテラーを逆賊だと罵ることもできない」

 

 自分の苦痛は人造妖精には分からないだろう。苦痛、という部分を感じ取るものがまだ残っているとは思っていなかった。

 

『……ナイン。テラーのことを一人で背負おうとするからだよ。フェアリートリップもそう。自分一人だけが剪定者じゃないんだから』

 

 ベルの言う通りだ。自分一人が剪定者ではない。だから気に病む必要はない。ナインは旅人帽を目深に被る。

 

『……泣いているの?』

 

 泣くわけがない。涙という機能は剪定者には備わっていない。ナインはこの地を去ることに決めた。

 

「もう、この物語に用はない」

 

 ベルは何か言いたげだったが自分のために口を閉ざしてくれたようだ。そのほうがありがたい。ナインには今は自分で決めることを優先するべきだと判断してくれたのはさすが相棒の人造妖精だ。

 

 ワームホールを通って観測神殿へと戻る。もう何度、このやり取りを繰り返したことか。

 

 滅菌されたように白い観測神殿の中、異物のように行き交う旅人帽に黒衣の剪定者たち。

 

 これが当たり前の光景。そして、自分の仕事。

 

 コートを翻したナインは、もう終わった仕事への恨み言など継ぐつもりはなかった。

 

 



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ACT11「観測者たち」

 軟禁されている金太郎への面会を、とナインは案山子女に申し出ていた。金太郎は戻るべき物語世界を所望しているはずだ。ハーメルンの笛吹き男がそうであったように、主人公や悪役には戻るべき世界がある。

 

 ――世界を外側からしか見られない、剪定者とは違う。

 

 内側から変えられるのはいつだって登場人物たちだ。彼らに特別な権限はなくとも、たとえ重力やその物語の物理法則から抜け出た挙動ができなくとも、彼らが存在するだけできっと特別なのだ。

 

 祝福されている存在だとナインは感じていた。

 

 ――では、自分は?

 

 不意に浮いた疑念を消し去るように、空気圧の扉が開く。部屋の中では金太郎が胡坐を掻いて憮然としていた。

 

「遅い。剪定者の兄ちゃん」

 

「俺は兄ちゃんではない。ナインだ」

 

「どうだっていいよ。そんなことより、斧を取り上げられてさ。暇で暇でしょうがない」

 

 金太郎と自分との間にはガラスの隔壁がある。そして彼の手首には枷がはめられていた。ランプが点滅する手枷はどれほどの能力がある主人公でも無力化してしまう。

 

 これも観測神殿が生み出した剪定者の技術の一つ。

 

 強大な力を容易に振るう物語の主役級と渡り合うためには必要な措置であった。金太郎はそれを気にするでもなく、頬杖を突いて退屈だと述べた。

 

「退屈?」

 

「まさかりも担いじゃいけないし、クマにも乗れないオレなんて、意味ないって」

 

「だが元々桃太郎の世界と金太郎の世界は交わるはずのない、均衡の中にあったはずだ」

 

 ナインの口調に金太郎は面白がった。

 

「取調べ? これ」

 

「答えろ。前兆があったはずだ。あるいは、お前の言っていた倒さなければならない敵が」

 

 それはテラーなのだろう、と胸中に毒する。同じ敵を睨むことができるのならば、金太郎との交渉も可能かもしれない。

 

 金太郎はしかし、どこか上の空である。

 

「あのさ……元の世界に戻りたがっているみたいに思われてる?」

 

 ナインは目を瞠った。

 

「違うというのか?」

 

 金太郎は頬を掻き、少しばかりばつが悪そうに応じる。

 

「そりゃあ、さ。主人公じゃないなんてのは、嫌味の一つくらいは言いたくはなるけれど、でも、別に主役にこだわることもないんじゃないかって、剪定者の集まるこの観測神殿にいて思ったんだよね。だって、物語を無数に、それこそ星の数ほどに観ることができるなんて夢みたいだ」

 

 金太郎の眼差しは輝いている。冒険心に揺さぶられた少年の眼だ。

 

「……物語を外側から観るなど、いいものではない」

 

「それもそうかもしれない。でも、オレ、ちょっと思ったんだよね。剪定者に一撃食らわせられるくらい強いんなら、別に金太郎の物語じゃなくってもいいんじゃないかって」

 

「何が言いたい?」

 

 金太郎は足をぶらつかせて、「分かんないかなぁ」とぼやく。

 

「オレに、剪定者の仕事の手伝いをさせて欲しいって言ってるんだよ」

 

「剪定者になりたいのか?」

 

「そこまでは言わないけれど、面白そうじゃん。別の物語に赴いて、自分のデカさを思い知れる」

 

 どうにもナインにはその心情が分からなかった。自分の物語があるというのに他者の物語に首を突っ込むというのが。

 

「金太郎、いや、坂田金時。史実での己の役割は知っているな?」

 

 金太郎はナンセンスとでも言うように肩を竦めた。

 

「主人公には知っているヤツと知らないヤツがいる、ってのも剪定者に教わった。お喋りな剪定者もいるんだな。オレは知っている側らしい」

 

 誰かが口を滑らせたか。子供だと思って油断しているのだ。相手は腐っても物語の主人公――可能性の核である。

 

 その核に余計なことを吹き込めばそれだけで物語世界は膨張する。責任を取れもしないくせに、とナインは舌打ちする。

 

「……とんだお喋りもいたものだ」

 

「なぁ、オレ、手伝うだけでいいんだよ。他の物語世界に行かせてくれね? そうしたら、さ。大人しく自分の物語に帰るから」

 

 懇願する金太郎にナインは冷徹な言葉を振る。

 

「そんな簡単なものではない。一つの物語に完全なる他者として潜り込むということは、それだけで物語世界における可能性の枝葉を伸ばしている。その落差を最小限に留め、判別し、分別し、切り取る。それこそが」

 

「それこそが剪定者。物語世界の殺し屋、だろ?」

 

 言葉尻を継いだ金太郎に、ナインは嘆息をつく。

 

「俺も、喋り過ぎだな」

 

「頼むって! 一回でいいからさ」

 

「一回でも特例を認めれば、それこそ物語の破局だ。俺はそのようなもの、腐るほど見てきている」

 

「破局しないようにすればいいんだろ? 余計なことはしないって約束するよ」

 

 ナインは目線を振り向け、頭を下げる金太郎に呆れ返る。

 

「……破局を予期できる存在など、それこそ我らを司る人造天使しかいない。剪定者は究極的な第三者だ。物語において必要でもなければ、不必要でもない。しおり、というものを知っているか?」

 

 ナインの言葉に金太郎は、「バカにすんな」と腕を組む。

 

「本と本の間に挟むあれだろ?」

 

「基礎知識は持っているか。我々剪定者はしおりだ。しおりを挟む位置を決めるのは、しかし俺たちではない。それは完全に予知できない存在。……神と言い換えてもいい。本と本をどこで区切り、どこでその物語を終わらせるか。それを決める存在の手助けをするのが剪定者だ。つまり、剪定者はたった一枚の紙切れに過ぎず、戦闘能力を渇望されるものではない」

 

「鬼を倒してみたじゃんか」

 

「あれはいびつだからだ」

 

「そりゃ、変な形の鬼だったけれど」

 

「そういう意味ではない。いびつなのは物語の構築、構成、水を入れる花瓶の形と同じようなものだ。水はどのようにも変化するが、入れ物によっては醜悪にも歪む。いびつな存在は取り除かなくては、剪定者の役割として反している」

 

「……よく分かんないけれど、物語に変なのが出たら、倒していけばいいんだろ?」

 

 粗い認識だが合っているのが癪に障る。ナインは両手の手袋を取ってやった。

 

「いいか? これがいびつを正す剪定者の証だ」

 

「9、ってある」

 

「刻み込まれるんだ。この番号を賜った時より、剪定者の任務は始まる」

 

 右手の甲にある番号と、左手の内側にある番号。どちらも同じ、自分を表す記号だ。

 

「別に、剪定者にしてもらわなくってもいいからさ。別の世界に行けるようにそっちの口から言ってくれよ。このまま元の世界に戻されても忘れられるに忘れられないって」

 

「安心しろ。忘却の左手は絶対だ。剪定者の忘却作用から逃れた例は今のところゼロパーセント。確実に忘れられる」

 

 ナインの口振りに、金太郎は納得いっていないようであった。これほど説明しても分からない相手だとは思いもしない。

 

「ずるくないか? だってそんなの反則じゃん」

 

「反則だから、我々は物語に長居してはならない。桃太郎の世界をあそこで切ったのは正解だったはずだ。あれ以上を追及すれば、それこそ物語への過度の干渉になる」

 

「あんなナリでも、桃太郎という物語でいいって言うのか?」

 

 たとえ鬼に造られるのが桃太郎という存在でも、一つの結論には違いない。問題なのはあの物語と同一線上に位置する金太郎のほうだ。

 

「物語同士が重なってはならない。重なれば歪み、屈折し、その果てに訪れるのは破滅だ。物語の破局を生み出すのは、物語同士の過干渉。どうしてお前はあの場所にいた? ヘルメースの斧を持っていたのは何故だ?」

 

 詰問に金太郎は口笛を吹いて首をひねる。

 

「分かんないって。ヘルメース? だかなんだか知らないけれど、名ありの武器だってのは分かったけれどもさ。オレはたまたま、あの武器を使う術を知っていて、たまたま、あの場所に訪れただけで」

 

「その角は何だ? 金太郎に鬼の伝承はない」

 

 額から生えた未発達の角を示してやると、金太郎は角を弄りながら困惑した。

 

「それも分かんないんだよなぁ。何がどう作用して、オレが鬼になっちまったのか」

 

「……金太郎も山で育ったとは聞いている。だが、鬼ヶ島と金太郎伝承が合致するのはまずあり得ない。そもそも、あの場所に鬼ヶ島がどうしてあった? 物語が歪んでいるぞ」

 

「質問し過ぎだよ、兄ちゃん。オレに分かんないのに、どうして分かるって言うのさ」

 

 確かにその通りだ。金太郎に質問攻めをしたところで得られる情報はたかが知れている。今は、一つでも多くの情報を得てテラーに立ち向かうべきだ。

 

 ナインは面会を終えようと傍らの書簡に署名しようとする。

 

「そこに名前を書けば、俺との関わりは消滅する」

 

 ナインの差し出した書簡に金太郎は頑として譲らなかった。

 

「嫌だね。オレは絶対、他の世界も見て回るんだから」

 

 ここまで頑固なのも考えものだ。何に衝き動かされているのか分からない分、余計に性質が悪い。

 

「分かった。書簡は置いておく。俺が去ろう」

 

「ちょっと! こんな一方的な終わりってアリなのかよ!」

 

 いきり立った金太郎にナインは部屋を去る際、言い置いてやった。

 

「それも含めて安堵しろ。こんな終わり方であったことも、お前は忘れるだろうさ」

 

 



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ACT12「忘却の物語」

『ちょっと厳しかったんじゃない?』

 

 情報閲覧室に招かれたナインへとベルが言いやる。

 

「何がだ。あれくらい言ってやらないと聞きもしないだろう」

 

『でもさ、ナインも大人げないよ。あのままだと、金太郎、物語世界から追放されるかもよ?』

 

 帰るべき物語への帰還を拒否し、追放処分を受ける主人公の話は耳にしたことがあった。主人公の帰らぬ物語は枯れ果て「忘却の物語」と呼ばれるそうだ。

 

「名前のない物語か。そのほうがいい薬になる」

 

『ナインってば』

 

「こちらになります」

 

 案山子女が閲覧レベル5以上の武器を空中に浮かべる。ナインは仔細に観察した。

 

 ヘルメースの金の斧。神託兵装レベルの武器だ。

 

 物語の中核――ファクターとなり得る武器は枚挙に暇がないが、その中でも特別な武器の一つである。

 

「……湖に誤って落とした斧を悔やんでいた木こりを見かね、湖の精……異説にはヘルメース自身が現れ、落としたのは金の斧か、銀の斧か、と尋ねる。木こりは正直に鉄の斧だと答え、金と銀、両方の斧を得る。別の木こりはその話を聞き、故意に鉄の斧を湖に投げた。ヘルメースは問い質し、欲深い木こりは金と銀の斧だと答えるが、その嘘は神の前に見抜かれ、欲深い木こりは永遠にその機会を失う。何の変哲もない、人間の欲深さと正直さを説いた原始的な物語だ。だが、ヘルメースは特別な神でもある。錬金術などの祖であり、ギリシャ神話において、あらゆる武勲を立てた英雄の側面も持つ。そのヘルメースが作った斧に、何の神話性もないはずがない」

 

 振り向けた目線に案山子女が恭しく頭を垂れる。

 

「仰るとおり、この武器にはヘルメースの神性が宿っています」

 

『物語の主役級の人間と、主役級の物体が同時に存在するのは、別に珍しくはないんじゃない?』

 

 ベルの指摘の通りだ。同時存在自体は珍しいものではない。

 

「名のある武将や神と、文明を滅ぼした武器が同一視されることもあるように、人間と武器は同一線上にある存在と言える。だが、今回ばかりは出典が特殊だ。あの金太郎はこれを持っていなかった」

 

『持っていなかった? 確かにあれは、錬金術みたいに見えたけれど』

 

 岩場や他の地形から物質情報を借り受け、一時的に生み出しただけならば主人公レベルの人間ならば可能だ。問題なのは、この斧がただの斧ではないこと。その出典が明らかに金太郎伝承とは別の場所にあることであった。

 

「釣り合わない事象には何らかの裏がある」

 

『考え過ぎじゃないの?』

 

「他にもある。あの場にいた、灰色の影」

 

 案山子女に記録情報を同期させる。彼女が白い壁に切り取ったのはあの時の視覚映像の一部だ。

 

 ただし、通信が途絶していたため、ナインが見た幻の可能性も捨て切れない。

 

「この情報の信頼性は極めて低いと思われます」

 

 案山子女の説明を聞くまでもなく、ナインには理解できていた。

 

「かもしれないな。だが、座標軸が明らかに異質だ。鬼ヶ島ほどの大質量を物語の構成を前後させて持ってくるのには、剪定者レベルの権限が必要になる」

 

『まだ、剪定者の線を疑ってるんだ』

 

 ベルの何か言いたげな声音にナインは鼻を鳴らす。

 

「俺の勝手な推測だ。当て推量に過ぎない。誰が、とまでは言わないさ。それよりも、だ。ゼルエル様より賜った世界に行こう」

 

 ナインはパンチカードを取り出す。名称が刻まれているはずの部分には空白があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 忘却の地。あるいは名前のない物語。

 

 そう形容される物語世界は実のところ少なくはない。何故なら人々の間に流布される時代背景や時期、あるいは風化などの現象によってもう語り草にすらならない物語など数多あるのだ。

 

 星の数ほどもある物語世界の中でもさらに粒のように細かい惑星の衛星に当たるもの。それが名前のない物語だ。

 

 ナインはパンチカードを通してワームホールでその地へと赴いた。地形は不可思議だった。澱んだような水墨の海が四方八方に広がっており、陸地は小さく中央に聳え立つ断崖絶壁だけだった。その周囲を森が囲んでおりナインはあまり見ないタイプだな、と印象付けた。

 

『陸が少ないね』

 

 ベルの意見も同様のようでナインは自分の価値観を確かめる。忘却の物語はどこか色褪せていてセピアの色が周囲に漂っている。空気は煤けたようにどこか虚しい。

 

「どうしてこのような地を、人造天使は指定されたのだろう」

 

 ナインの疑問にベルは推測する。

 

『多分だけれど、ナインにあまり物語の主要人物と物理接触してもらいたくなかったんじゃない?』

 

「どうしてだ」

 

『ナインが笛吹き男の一件からおかしいってことを見抜いていたんだよ』

 

 笛吹き男の世界で感じた苦味。何者でもない剪定者はテラーと同質かあるいはそれ以上の害悪なのではないか、という疑念を見越して自分にこのような場所をあてがった、というのか。だとすれば人造天使の先見の明に感服するほかない。

 

「俺がこうなることを予期していたということか」

 

 皮肉めいている。笛吹き男を助けず静観していれば自分は何も感じなかっただろう。桃太郎の世界でテラーに出会うこともなかったかもしれない。だがテラーに行き遭い、自分は自分の存在理由を探している。

 

 剪定者ナインに、価値はあるのか。

 

 笛吹き男からは感謝された。ベルは、価値を否定するはずがない。人造天使も同様だろう。だが剪定者である自分自身は? 物語の外側から客観視できる自分は、果たして悪魔ではないと誰が言い切れる?

 

 色褪せた地もどこか愛おしく思えた。今の自分にはお似合いの風景だ。

 

『ナイン。海が広がっているね』

 

 断崖の天辺に佇み、においのない風に煽られる。水墨を落としたような黒色の海。それが水平線の果てまでも続いている。この場所はまるでおもちゃ箱の中身だ。箱庭の世界がナインの心に突き刺さる。

 

「この物語の修復、ではないだろうな。人造天使の目論見は」

 

 見たところ修復不可能なまでにもう退廃している。生きている登場人物とも会わない。この物語は忘却の彼方へと追いやられ、いつしか封印指定を受けることだろう。

 

 ナインは腕時計へと封印指定の命を吹き込もうとした。その時である。風の中に僅かだが異様な音が混じった。

 

『今の音……』

 

 ベルにも聞こえたらしい。ナインはすぐさま絶壁を影の移動方法で駆け降りる。

 

「人の足音、いいや気配だ」

 

 すぐさまそれがイコール人の物音だと断定するのは早計だった。もしかしたら人ならざる者の立てる物音かもしれない。だがこの忘却の物語にも何かの知的生命体がいるのならばこの物語を封印指定するべきではない。ナインはすぐさま森の中へと舞い降りて気配の中央に出現した。

 

 するとすっかり色をなくした人々が森の木々を切りながら行進している。ナインはその行進を眺めた。

 

「亡者の行進か」

 

 それを亡者だと判定させたのはところどころに現れるブロックノイズだ。見た目は子供の行進だが、恐ろしく動きが鈍い。かと思えば早回しのように動きの連鎖を無視したものもある。ナインはこの物語が行く当てをなくしてからも動き続けている事象の一つだと判定した。

 

『亡者は、どうするんだっけ』

 

「亡者は、物語の付随物だ。だから封印指定を揺るがすだけの根拠には――」

 

 その言葉尻を割いたのは爆音だった。どこから放たれたのか砲弾が亡者の子供たちを貫いた。子供たちは崩れ落ちるが、ルーティンワークを繰り返そうとコースへと戻ろうとする。そこへと突っ込んできた一団があった。ナインが目にしたのは海賊を思わせる筋骨隆々な海の男たちだった。

 

「こいつらは? これも亡者か?」

 

 ナインの思案を他所に海賊たちは亡者の手を縛り上げようとする。だが亡者はするりと抜け出し同じコースを周回し始めた。

 

「まただ!」

 

 呻きは確かに生者のものだった。海賊たちは苦々しく亡者の捕獲を試みようとして失敗している。

 

「どうしてだかこのガキ共、捕まらない」

 

 当然だろう。亡者なのだから。だがそのようなナインの涼しい思考を他所にして海賊たちはナインを取り囲んだ。敵意の眼差しが見られる。

 

「お前は、どっちだ?」

 

 海賊の問いにナインは応じる。

 

「どちらでもない、というのが正しいな」

 

「やれ!」

 

 海賊の号令に一気に数人が飛びかかってきた。ナインは影の移動方法ですり抜ける。それぞれ目標を失った海賊たちが見当違いの方向へと刃を突き立てていた。

 

「いませんぜ」

 

「そんなはずは……」

 

 その言葉を濁させたのはナインが一瞬にして間合いを詰めていたからだろう。海賊の隊長らしい人間が息を詰まらせる。

 

「海賊行為を、責めるつもりもない。それに何よりもお前たちは物語の登場人物だ。封印指定を、改めねばならないな」

 

「何を言ってやがる!」

 

 海賊が反りの入った剣を振るい上げる。ナインはするりと回避して右手の手袋を外した。

 

『ナイン。相手は別に脅威じゃない。左手でいいよ』

 

 ベルの声にナインは、「いや」と答えていた。

 

「右手でやる」

 

「わけの分からんことを!」

 

 薙ぎ払われようとした剣をナインは右手で受け止めた。その瞬間、緑色の電流が迸り剣を溶かす。溶断された剣を海賊は戦慄く視野に捉えていた。

 

「賢しいのならば、二度目はさせるなよ」

 

 ナインは右手を手袋に仕舞う。海賊たちは羞恥と恥辱で顔が真っ赤だった。この色を失った世界でそれは久しく見られた変化だ。

 

「覚えていろよ!」

 

 捨て台詞を吐いて海賊たちが引き上げていく。ナインは呟いていた。

 

「海賊だけの物語など、あるのか?」

 

『カリブの海賊たちとか、あるっちゃあるね』

 

「あれはカリブ海だから意味がある。この場所はどこからどう見てもカリブ海ではない」

 

 それどころかまともな広さの海もない。この場所は一体何なのだ。ナインの知覚にその時、切り込んでくる気配があった。振り返った瞬間、人影が逃げ出す。

 

「またも登場人物か。あるいは亡者か」

 

『追うの?』

 

「決まっている」

 

 ナインは影の移動方法を用い、その人影の行く手を遮った。人影が足を止める。ナインは左手の手袋を外していた。その場に居合わせたのは少女だった。ブロンドの髪に、くりくりとした大きな瞳が特徴的だった。

 

「登場人物、だな。亡者にしては瑞々しい。だがどういう物語なんだ? 少女と海賊など、まさしく分からない」

 

 ナインはしかし職務を全うしようとした。少女が物語の中心人物ならば一度昏倒させるか、状況を把握する必要がある。左手で事足りるか、と思った直後だった。

 

「……ピーター?」

 

 その声音にナインは手を止める。この少女は何と言った?

 

「ピーターだ。ピーターなんでしょう? 私、待ってた。ずっと待ってた!」

 

 少女はあろうことか自分に抱きついてきた。突然のことにナインも状況判断が追いつかない。どうして少女は自分に抱きついてきたのか。だがそれよりも少女から漂うクッキーの香りが少女がただの人間でないことを告げていた。

 

「待て。俺はピーターなどではない」

 

 ナインはようやく平静を取り戻して少女を引き剥がす。少女はしかし羨望の眼差しでナインを見つめている。深海のような濃い青の瞳。吸い込まれそうだった。

 

「ピーター。あなたがいなくなってから何もかもが変わってしまったの。だから、あなたにはこうして戻ってもらったんだから責任を」

 

「何を言っているのか、俺にはさっぱりだ。俺はピーターではない」

 

 そう告げると少女は首を振った。

 

「そんなはずないわ。だって、あんな風に海賊を倒せるのはピーターだけだもの」

 

 何か誤解をしている様子だった。ナインは言い放つ。

 

「俺の名前は剪定者ナイン。物語の可能性の滅殺者。だからピーターなどでは」

 

「でも、このネバーランドにはピーターが必要なの。だから帰ってきてくれたんじゃないの?」

 

 少女は根幹から誤解している。ナインはどう説明するべきか、と少女の持ち物に視線を巡らせてから気づく。

 

「その籠は?」

 

 少女は籠を手に提げていた。ああ、と少女は上に被さった白い布を取り去る。

 

 思わず息を詰まらせた。

 

 そこにあったのは大量の金色の粉だったからだ。ナインは確信する。

 

 ――フェアリートリップ。それも現物の。

 

 だがどうしてそのようなものを少女が所有しているのか。ナインの目線に気づいたのか、「ピーターが隠れ家に隠していたのよ」と言った。

 

「ティンクの粉を大量に。だから私、あなたを見つけるために色んな場所を旅したわ。ティンクの粉があれば、どうしてだかこのネバーランドから抜け出せる。そういう隙間みたいな時間を使って私はあなたを探していたの、ピーター」

 

 何とこの少女は自分がフェアリートリップの売人であったことを明かしていた。ナインはその籠に入っているのがフェアリートリップであることを確認しながら声にする。

 

「……これをばら撒いていたのか」

 

「だってピーター。あなたが自分を探す手がかりにしてくれって――」

 

 そこから先の声はナインが手を伸ばしたせいで遮られた。喉元を締め上げる。少女は苦痛に顔を歪めた。

 

「どういうつもりだ! この粉のせいでどれだけの人間が苦しんだと思っている!」

 

 自分にしては怒りを露にした声だった。少女が呻きその顔が青ざめる。するとコートの中からベルが飛び出した。

 

『ナイン、殺しては……!』

 

 力が緩む。

 

 咄嗟にベルがいさめなければナインはこの少女をくびり殺していただろう。咳き込む少女を見下ろしてナインは斜めになった籠にたっぷりと入っているフェアリートリップを手にした。間違いなく現物。だがどうしてこの少女が?

 

 ナインは今さらの事項を確認する。

 

「お前は誰だ?」

 

 少女は咳き込みながらもナインを誰かと重ねるように目を細めた。

 

「私はウェンディ。あなたに、ネバーランドへと連れてきてもらったウェンディよ」

 



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ACT13「物語の境界」

 亡者の行進を眺めるのが趣味なのだという少女――ウェンディは亡者の行進の行き着く先を指差した。樹をくり抜かれた基地のような場所だ。ウェンディは踊るようにその場所へと案内する。

 

「ここが、あなたのお家。そして私たちの思い出の場所」

 

 うっとりするウェンディに対してナインは冷静だった。巨木のうろを利用した秘密基地に亡者たちが入っていく。ウェンディはその亡者たちを一人一人撫でてやった。

 

「亡者だ。感情はない」

 

「彼らは亡者なんかじゃないわ。ここに住む永遠の子供たちよ」

 

「永遠の子供などいない。だからこれは亡者であり、ただの現象だ」

 

 ブロックノイズの浮いた子供たちをナインは無感情に眺める。しかしウェンディはそうではない。今にも泣きそうな顔で、「そんなことない」と呟いていた。

 

「亡者だなんて。そんな」

 

「お前だけ、どうして生きている? というよりもこの世界はどの物語世界だ? 名称を知れば詳細も分かる」

 

「ピーターパンの世界、ネバーランドじゃない」

 

 当たり前のようにウェンディは告げるがナインにはピンと来ない。

 

「そのような場所があるのか、後で検索にかける。海賊は? あれは何だ?」

 

「海賊は、フック船長はまだピーターに腕を切られたことを根に持っているのよ。だから子供たちをさらってピーターを挑発しようとしている。……どうしてだか子供たちはさらえないようになってしまったけれど」

 

 亡者だからだ、と言いたかったがウェンディは認めまい。ナインはベルへと問いかける。

 

「どうなんだ。簡易検索で見つかるか?」

 

『絞り込み検索をしてみないと。どうにも怪しい情報だね』

 

 ウェンディは顔を明るくさせてベルへと歩み寄る。

 

「ティンクじゃない! やっぱりあなた、ピーターだわ!」

 

 ウェンディの声音にベルは戸惑っている。ナインが取り成した。

 

「ティンクという名前ではない。彼女は人造妖精ベル。俺の相棒だ」

 

「ティンクよ。ティンカーベル。そういう名前なのよ」

 

 ナインとベルは顔を見合わせる。自分たちがピーターとティンクという名前など初耳だった。

 

『……あたしたち、そんな名前だっけ?』

 

「まさか。俺はナインで、お前はベルだ」

 

『そのはずよね。……この娘と話していると疲れちゃう』

 

 ベルの声音にウェンディはやけに明るく返す。

 

「ティンク、喋れるようになったんだ。でもイメージ通りね」

 

『勝手にイメージを押し付けないで。あたしはあなたなんか知らないし、それに何? ピーターとかティンクとか。そんな物語、検索に引っかからないわ』

 

「そんなはずないわ。ピーターパンは誰の下にも現れる。ただし、子供の時だけね」

 

 ウェンディの確信めいた声音に二人は翻弄されていた。物語の中核人物にしては挙動がおかしい。ナインは一度徹底的に調べてみる必要があると感じた。

 

「このうろが、ピーターとやらの家なのか?」

 

「そうよ。ここで毎日のように遊んで、毎日森を冒険するの。そうして疲れたらみんなで眠って、フック船長が襲ってきたらみんなで倒すのよ」

 

 歌うように口にするウェンディにナインは困惑する。この少女は何を言っているのだ。簡易検索にも引っかからない物語をまるでメジャーな物語のように語る。そして何よりも奇妙なのは、彼女がこの物語を外側から知っているという点だ。その情報性から中核人物に違いなのだがフェアリートリップの出所から考えてこの少女は物語世界を行ったり来たりできるらしい。

 

「ピーター云々は置いておくとしても、この粉は重要な物的証拠だ」

 

 ナインはウェンディの持っていた籠を持ち上げる。ウェンディはしかし頓着してない様子だった。

 

「いいわ、だってもう本物のピーターとティンクが帰ってきたんですもの!」

 

 ナインはベルに一つまみ手渡しベルはそれを解析に回す。これが本当にフェアリートリップの原料だとすれば大きな功績だ。

 

「どうして物語世界の人々にこれを配布した?」

 

 ナインはできるだけ冷静に、自分の中の熱を押し殺して尋ねた。ウェンディは、「飛べるからよ」と答える。

 

『飛べる? トリップ状態のことを言っているのかな?』

 

「ティンク、何言っているの? あなたが出す粉でしょう? これを狙って、フック船長が睨みを利かせているんだから」

 

『だからあたしはティンクじゃないって……』

 

 ベルは呆れ声で返す。ナインは言葉を継いだ。

 

「トリップ状態になることを知らずにこれを配っていたのか?」

 

「トリップとか、よく分からないけれど、この粉を一つまみでも頭にかければその子供は自由に空を飛べるのよ。そうやってネバーランドに着くの。ネバーランドでは常にフック船長って言う悪い海賊がピーターと争っているわ。でも大丈夫。ピーターは決して屈しないし、フック船長の好きにはさせないんだから」

 

 フック船長、という名前を即座にベルに検索させようとする。だがそれを阻むようにウェンディが声にした。

 

「あっ、ちょっと待って。寝床の整理がまだ追いついていないの」

 

 ウェンディは慣れた仕草で階段を上っていく。ナインはウェンディが相当この秘密基地で暮らしているのだと実感した。

 

「物語時間換算だと、この物語世界は何年なんだ?」

 

「おかしなことを聞くのね。あなたはピーターよ? だって言うのに、このネバーランドの年数なんて聞くなんて」

 

 ピーターであることには眉根を寄せることしかできないがネバーランドという土地で検索をかけることにした。

 

『忘却された物語だからハッキリとした年数を示すものがないね。地層も、色褪せてしまってどうも読み取れないし、そうだ、あんた手首出してよ』

 

 ベルの言葉にウェンディは素直に手首を差し出す。ベルは少しだけ手首を触れてやった。恐らくウェンディの血液から体内の年齢をはじき出そうというのだろう。正確な年数でないにせよ、この物語を何度繰り返しているのかの指標にはなる。

 

「ティンク、相変わらず温かいのね」

 

 ウェンディの声音にベルは明らかな嫌悪を示す。

 

『……あのさぁ、あたしはティンクじゃないし、彼もピーターじゃない。剪定者の存在も知らないの?』

 

「ピーターは教えてくれなかったわ」

 

 行儀よく小首を傾げるウェンディにベルは呆れたようだった。

 

『そりゃ随分と世間知らずなのね。カボチャの馬車でお城に舞踏会に向かうシンデレラよりもよっぽど過保護』

 

 ベルの苦言にもウェンディはめげる様子はない。それどころかその仔細を尋ねた。

 

「シンデレラって?」

 

『物語のルールも知らないのね……。他の物語を知らないなんてとんだ箱入り娘だこと』

 

「他の物語のヒロインだ」

 

 ナインが代わりに答えるとウェンディは、「ヒロインは分かるわ」とネグリジェに近い服装で舞い踊ってみせた。

 

「こうして王子様と踊るんでしょう?」

 

 ベルが怪訝そうな声を出す。

 

『……もう重度のフェアリートリップの常用者なんじゃない?』

 

 ナインもそれを疑わざるを得なかったがそれにしては語ることそれそのものには違和感はない。むしろこの物語を語るのに彼女以外には適任がいないように感じる。海賊では話にならないからだ。

 

「この物語、言ってしまえば君とピーターの関係を知りたい」

 

「ピーターは、子供の前だけに現れるヒーロー。ネバーランドって言う永遠の子供の国に連れて行ってくれるのよ」

 

 酔いしれたような台詞にナインは眩暈を覚えたがそれでも追及する。

 

「ピーターは? どうして不在なんだ?」

 

 するとウェンディはしゅんと肩を落とした。

 

「そうなのよ……。いつの間にかピーターは消えていってしまった。私たちを置いて。どこへ行ったのか、まるで分からなかった。だから手がかりはティンクの粉だけ。もしかしたらティンクの粉を使えばピーターはそれを知って戻ってくるかもしれない。だってフック船長も元はと言えばこれを狙って対立していたんだもの」

 

「フェアリートリップの重篤患者なのか?」

 

「ティンクの、妖精の粉でしょう? フェアリートリップというのは何なの?」

 

「麻薬の一種だ。精神に働きかけ、様々な物語世界で問題になっている物質だ。主原料は恐らく純正の妖精の放つ鱗粉。だがそれがどの妖精なのかを見極めるのは困難だった。なにせ剪定者によって魔法と妖精に関しては体系化が成され、全ての魔法と妖精の系統樹を分析にかけられた後だったからだ。その法の目を掻い潜って出現したフェアリートリップという麻薬の出所が分からずに俺たちは苦労した」

 

「……私の持っているティンクの粉が、その麻薬だって言うの」

 

「分析を詳細にすれば結果は出るが、俺はまず間違いないと踏んでいる」

 

 ウェンディはナインとベルに警戒の眼差しを注いだ。

 

「ピーターは子供に夢と希望を与える存在よ。彼が麻薬を使っていただなんて」

 

「魔法も、奇跡も、過ぎれば麻薬と同じだ。剪定者はそれらを取り締まれるから必要なんだ」

 

「知らないわ! 何よ! 剪定者って!」

 

 ヒステリックなウェンディにナインは冷徹に答える。

 

「物語の可能性の枝葉を切り取る滅殺者。可能性の殺し屋だ」

 

「殺し屋……。フック船長とかと同じ類なの?」

 

 ウェンディの目が警戒から敵意に変わった。ナインは左手の手袋を外そうとする。

 

「通常ならば記憶操作すれば全て事足りる。お前も、ピーターとやらの幻影を忘れればいい」

 

 ナインが素手を出したことで怖気づいたのかウェンディはすっと何かを掲げた。短刀である。

 

『……何それ』

 

「ピーターが残していった短刀よ。彼の短刀はフック船長と互角に渡り合える」

 

「だが、俺は剪定者。フック船長とやらがどれほどの巨悪かは知らないが、物語の登場人物ならば俺に殺せない奴はいない」

 

 ナインが本気の眼差しを向けるとウェンディは慄いた目を向けて短刀を突き出す。

 

「来ないでよ! ピーターじゃないって言うのなら」

 

「お前が勝手に俺をピーターだと判断した。俺は自分からピーターだとは言っていない」

 

 ウェンディが硬直する。ナインは左手をゆらりと掲げそのままウェンディの頭部を捉えようとした。影の移動方法を気取る手段はない。だから全てはうまくいくはずだった。

 

 その時、ベルの定時連絡ポートが開き、ナインはそちらに強制的に呼び出された。

 

『剪定者ナイン』

 

 ゼルエルの声だ。ナインは手を止める。

 

「定時連絡ポート? 何で今……」

 

『この物語世界は忘却の物語である。その少女が唯一の登場人物だと言うのならば、話は簡単だ。彼女を保護したまえ』

 

 ゼルエルに先んじてウェンディの存在を示したからの結論だろう。人造天使の命令にナインは異を唱えた。

 

「しかしながら、この物語は既に亡者とセピアに色褪せた登場人物しかいない、枯れ果てた物語です」

 

『だからこそだ。彼女には色があるのだろう?』

 

 ナインはウェンディを改めて眺める。ネグリジェに似た服飾は水色だった。

 

「海賊とやらには色がなかった」

 

『そのことに関しても調査せよ。調査抜きに彼女を裁くのは許可しない』

 

 許可されなければナインは剪定者としては動けない。左手を手袋に仕舞い、ナインは定時連絡に吹き込んだ。

 

「了承しました。ですが、フェアリートリップ。これはいかがなさいましょう?」

 

 自分には調査権限がない。剥奪されてしまったものだ。人造天使は、『命令は変わりない』と答える。

 

『フェアリートリップに関して別の剪定者を送る手はずは整えてある。君は成分分析のみに留め、それ以上の調査権限を有していない』

 

 ナインは不服だったがそれには応ずるほかない。

 

「分かりました。では剪定者ナインはこのまま忘却の物語の調査継続を」

 

『それを頼む』

 

 人造天使には服従するしかない。それは剪定者として存在したいのならばなおさらだ。ナインは攻撃の意思を緩め、ウェンディを改めて見やる。ウェンディの身体が震えていた。

 

「これでもまだ、俺がピーターだと言うか?」

 

 ナインの挑発的な声音にウェンディは否定しなかった。

 

「ピーターは人を脅かすのも得意だった。それに時には残酷なことも平気でした。だからあなたがピーターじゃない根拠もないわ」

 

 折れない少女の抗弁にナインは鼻を鳴らす。

 

「そのピーターの助けを、せいぜい待つことだ」

 

 ウェンディは答える。

 

「助けを待つだけじゃ、ピーターは多分、帰ってこない。それだけは何となく分かっている」

 

 だから薬を売ったのか? そう問おうとしたがナインには整理するべき事柄があった。この忘却の物語の行方と、そしてテラーの存在。それを抜きにしてウェンディを裁くことはできない。

 

 自分は剪定者なのだ。そう言い聞かせる。だからテラーを殺すのが運命であるし、壊れかけた物語があるのならば修復するのが自分の仕事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 潮騒の音は変わらず鳴るのだな、とナインは海岸線を歩きながら考えていた。

 

 砂浜には貝殻の類が打ち捨てられておりナインはこの水墨のような死んだ海でも生態系は存在するのだと知った。貝殻を一つ、拾って耳に当てる。

 

『何しているの?』

 

「こうしていると波の音が聞こえるのだと、昔聞いたことがある」

 

『誰から?』

 

 答えられなかった。自分でも分からないのだ。

 

「ベル。俺の過去の履歴を当たってくれ」

 

 その言葉にベルは仰天する。

 

『嘘でしょう? まさか、あの小娘のお話を信じる気になったの?』

 

「違う。俺が過去に、この物語を訪れているのだとすれば、その時に干渉が発生した場合がある。だからあの少女は俺がこの物語の主役だと思い込んでいる」

 

 一種のバグを見つけようというのだ。ベルは納得したが一つだけ含みを持たせた。

 

『あのさ、剪定者ナインとしては、ウェンディとか言う小娘に特別な感情は』

 

「ない。だがお前はどうなんだ? ティンカーベル」

 

 その名前で呼ぶとベルはたちまち不機嫌になった。

 

『やめてよね。そんな名前のつもりないんだから。大体、だとすれば余計におかしいじゃない。何で、あたしは人造妖精なの? 純正の妖精じゃないと、この話は成り立たない』

 

 フェアリートリップは純正の妖精からのみ検出される。だからベルではない。ベルは人造妖精だからだ。

 

「ティンカーベルという名前であったという、ログは」

 

『あるわけないじゃん。あったらおかしいよ』

 

 ウェンディの話はデタラメなのだろうか。薬の常用者で、だからありもしない幻影が見えているのだろうか。そう考えたほうが自分たちには都合がいい。

 

「あの少女がこの物語の中核だとすれば、繰り返しの記憶がないのも変だ。物語のキーマンとしての能力が存在しないのも」

 

『それが作用しない立場にあったんじゃ?』

 

「そんなものがいるのか?」

 

 逆に問い返すとベルは返答に困ったようだ。

 

『そりゃ……、常識的にはいないけれど……適応外だとあたしたちとか』

 

「剪定者、あるいはその関係者か」

 

 一つの可能性が思い浮かぶ。だがこれは、と自分の中で取り下げた。しかしベルは目ざとい。

 

『何か、察したんだね?』

 

「これは可能性の一論だ」

 

『いいよ、言って』

 

「お前は人造天使にいつも監視されている」

 

『あたしの前じゃ言えないことなの?』

 

 ナインはため息をついてベルに告げる。

 

「人造妖精は剪定者のよきパートナーであり、最大の情報端末であり武器である。人造妖精は剪定者のことを第一に考え、行動し、最良を検討する」

 

 聞かされてきた剪定者と人造妖精の関係をそらんじるとベルは怪訝そうにする。

 

『何さ、今さらのこと』

 

「これは俺の推論だ。だから聞かせるのは」

 

『よきパートナーなんでしょう?』

 

 その側面もある。だから一度断っておきたかったのだ。

 

「ウェンディという少女。物語の画一性を受け付けない体質に、一つ心当たりが」

 

『可能性でしょう?』

 

「彼女そのものがテラーではないだろうか」

 

 その言葉にはベルも絶句した。だがありえない話ではないと関知したのだろう。その次に発せられた言葉は慎重だった。

 

『……なるほど。今まであたしたちの裏を掻くような、言ってしまえば先回りするような行動は全てテラーだった、で説明がつくか』

 

「だがテラーだとすれば一つ問題が」

 

『何? 割とあたしは納得できるんだけれど』

 

「どうしてあんな無害な格好で俺たちの前に現れたのか」

 

『それは、油断させるため』

 

「もう、油断ならばとうに過ぎている。俺は彼女を警戒し、記憶を消そうとした。その時にテラーとしての本領を発揮することもできた」

 

 ベルはナインの言葉の意味を咀嚼するような沈黙を挟んだ。自分の行動を先回りできるのならば、あのような自由奔放な少女の姿を取る必要はない。

 

『不自然だ、って言いたいんだね』

 

「不自然、というよりも合理的じゃない。これまでのテラーのやり方は、少なくとも剪定者の上を行っていた」

 

 笛吹き男を殺傷に追い込む、あるいは桃太郎の世界の時間震。全て、こちらの予測を上回っていた。

 

「だがこの場合、後手だ。テラーらしくない」

 

 見たこともない相手にらしくないを付けるのは身勝手だがそう言うほかない。テラーならばもっとうまく立ち回っている。ベルは、『言いたいこと、分かるよ』と一度ナインの言葉を肯定する。

 

『だけれど、テラーだって万能じゃないんじゃ? あたしたちの調べは所詮、テラーという現象を後から追いかけたに過ぎない。テラーは新たな手を、それこそリアルタイムでいくつも展開していれば別におかしくは』

 

「だが剪定者、俺に勘付かれるような奴じゃないはずなんだ」

 

 ナインの声音にベルは言いよどんだ。笛吹き男の世界と桃太郎の世界を無茶苦茶にした相手にしては手緩い。

 

「どうして俺をピーターパンだと思わせる必要がある。そもそも何で、あのような姿を取った?」

 

『……テラーじゃないにして、じゃああの娘は何?』

 

 それこそ答えが出なかった。ナインは黒色の海を眺める。素描されたような海に一瞬だが気泡が浮かんだ。それを剪定者の目は見逃さない。ナインはすかさず影の移動方法で岩場に降り立った。慌てたベルが尋ねる。

 

『どうしたっての?』

 

「気泡だ。何かこの海の中にいる」

 

 ナインの言葉にベルは、『そんなの……』と眺める。

 

『見えないけれど』

 

「生物の息遣いだ。これは、物語の登場人物か、あるいは」

 

 テラーか。その予感を裏付けるようにもう一度、今度ははっきりと気泡が窺えた。どうやらナインの位置を察知して接近してくるらしい。

 

『どうするの?』

 

「海の上で、影の移動方法は使えるか?」

 

『太陽や月の光が届けば、だけれど……』

 

 濁したのはあまりにも眼前の海が黒いからだ。光が届くのか甚だ疑問ではある。

 

「テラーが海から俺たちを窺う。俺たちは手をこまねく」

 

『あり得る?』

 

「一番あってはならないことだ。四方八方を海に囲まれたこの土地では、海は確かに絶対防御の砦となる」

 

 逆に言えば攻撃の好手とも。ベルはナインに判断を仰いだ。

 

『どうする? 追って、こっちから海に潜るっての?』

 

「潜る? 冗談ではない」

 

 ナインは手を掲げる。そのまま岩場に手をついた。

 

「――こちらから引きずり出す」

 



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ACT14「亡命者」

 

 影が伸びて気泡の場所へと一瞬にして到達する。気泡の相手はその気配の分散に気取られたようだ。

 

「今だ」

 

 ナインは跳躍する。中空に躍り出た気配と、影の気配を同時に察知して攻撃することなどできまい。必ずどちらかに集中する。

 

 気泡の相手は中空の自分を優先したらしい。海原を叩いて出現したのは触手だった。

 

『海洋生物?』

 

「いいや、これは」

 

 ナインは右手の手袋を取り去っていた。こちらへと伸びてきた触手を一本断ち切ると叫びが木霊する。直後、海面に飛び出してきたのは女性だった。長く湿った髪で胸元を隠しており、しなやかな体躯の先には魚の尻尾が付いていた。

 

『人魚……』

 

 ベルの声にナインは人魚の触手を掴んで引き寄せる。人魚は牙を剥き出しにして吼えた。そこには美しさも品性も欠片もない。

 

「この人魚、野生か?」

 

 ナインは海面に叩きつけられることはない。既に先ほど伸ばしておいた影が布石であった。影の上にナインは降り立つ。さながら水鳥のように軽やかに。

 

 人魚は海面でばたついている。えら呼吸なのかもしれない。あるいは呼吸法を即座に変えられないのか、窒息寸前であった。

 

『どうするの?』

 

「話を聞く必要ぐらいはありそうだが、知性はあるのか?」

 

『あたしが試すよ』

 

 ベルが人魚へと飛んで近づき、そのこめかみに触れてやった。すると人魚は昏倒した。人造妖精には相手を無条件に眠らせる術式が組み込まれている。ただし超至近距離で、動きを封じた相手にしか通じない。

 

「眠ったか?」

 

『これで知性があるかどうかは試せそう』

 

 ベルが小さな触覚を用いて人魚の額へと接続する。人魚のニューロンへと直通回路を開いているのだ。ナインは人魚がまた目を覚ましてばたつかないように触手をしっかり掴んでいた。

 

『驚いた、この人魚、物語の登場人物だ』

 

 ベルの声にナインは、「では」と視線を振り向ける。眠っている人魚は美女の容貌だった。

 

「海賊と、ウェンディと、こいつで三つ目か」

 

『いいや、ナイン。この人魚、群れで棲息しているみたいだ』

 

 その言葉を理解する前にナインは後ろから組み付かれた。突然の膂力に抵抗する間もなく海中に引きずり込まれる。ナインは水の中で相手を見やった。それは複数の人魚だ。先ほどの人魚のような凶暴さはないが女の力ではない。

 

「こいつ……!」

 

 ナインは右手を振り上げる。その時、人魚は声を発した。

 

「怖がらないでください」

 

 うっとりするような、歌うような声だった。常人ならば正気を失っているだろう。だが自分は剪定者。ナインは強靭な精神力でそれをいなした。人魚の目を見返し、ただ応ずる。

 

「怖がるな、という相手の動きではない」

 

「あなたは剪定者ですね」

 

 人魚の声にナインは掴んでいる失神したほうの人魚を一瞥する。

 

「仲間の仇返し、というわけでは」

 

「彼女は先走ったようです。あなたが、珍しくこのネバーランドに馴染んでいない人間だから」

 

 ネバーランド。やはりこの世界の住人なのか。ナインは攻撃の意思は緩めずに相手を見据える。

 

「この世界ではこうして攻撃に出るのがまず手段としては先なのか?」

 

「攻撃することが最も望ましい防衛手段でもあるからです」

 

 自衛のため、と言われてしまえばそれまでだ。剪定者に対して自衛手段に出る相手は珍しくない。

 

「だが攻撃されれば反撃せざるを得ない。この人魚のように、失神するはめになる」

 

「ですが妖精は海には潜れないでしょう?」

 

 どうやら相手の人魚はこちらに交渉を持ちかけるらしい。それも人造妖精、ひいては人造天使ゼルエルの意思を介さない交渉を。

 

「何をするつもりだ?」

 

「剪定者と出会うのは初めてですが、こうして見えたことは僥倖というほかありません」

 

「質問の答えになっていないぞ。俺は何のつもりだと訊いた」

 

 人魚は泡を吹き出す。するとナインを覆い尽し、巨大な気泡となった。

 

「これで呼吸は問題ないでしょう」

 

「基より、剪定者は海底の奥底でも活動できるようになっている」

 

「ですがこれから話すことは漏れて欲しくないので」

 

 口止めの意味もあるわけか。ナインは海面で自分の帰りを待っているであろうベルへと目線を振り向けた。ベルの、人造妖精の眼は特別製だ。だから自分がどういう状態なのかをモニターするのは容易いはず。だがナインはあくまで追ってくるな、と命じる。ここはネバーランドという場所がどういう規律の上で成り立っているのか知る必要がある。

 

「どこへ案内する」

 

「来てくださる気になったのですか」

 

「行かない理由もあるまい」

 

 ナインは海底に降り立つ。光がほとんど差し込まず影の移動には適さない。だが人魚たちが海底でも光を灯すランタンを持っているため影は存在した。いざとなれば影の移動方法で人魚たちを出し抜けばいい。ナインはそう感じながら海底に棲む人魚の動向を眺める。人魚たちは皆、温厚だ。先ほどの人魚のように牙を剥き出しにしているものはまずいない。

 

「温厚なのだな」

 

「言ったでしょう? 彼女は先走っただけだと。我々としても、せっかくの人魚の性。殺してしまうのは嫌なのです」

 

「テンプテーション、あるいは混乱」

 

 人魚の歌に含まれる幻覚作用だ。ナインが澱みなくそう口にしたことでここまで連れて来た人魚の長らしい赤い髪の人魚は、「そう」と答えた。

 

「私たち人魚は本来、そうやって旅人をたぶらかし、餌としてきました」

 

「だがもうこの世界には人間はいない」

 

「ご存知なのですね」

 

 赤髪の人魚の声にナインは目にした亡者の行進を思い出す。

 

「全て、亡者になったのか」

 

「滅びていない種もあります。海賊、という集団」

 

 海賊。そういえばどうやってあの海賊たちは生き永らえているのだろう。物語の登場人物とはいえ、不死でもなければ空腹を感じないわけでもない。

 

「彼らは呪われているのです」

 

「呪い?」

 

「全てはピーターパンが去ったことでこのネバーランドを覆い尽してしまった呪い。いいえ、そもそもネバーランドという場所は永遠の、おとぎ話なのです。だから誰も老いないし誰も死なない。通常では」

 

 亡者の存在がその事実を否定している。ナインは言及した。

 

「誰も死なない? そのような世界はない」

 

「剪定者であるあなたからすれば、あり得ない世界の一つかもしれませんね。ですが、ネバーランドとはそういう願いに包まれた世界なのです」

 

 物語の構造上、死んでも復活する、という物語はある。だが死なない、という物語はない。死は物語に彩りを与えるエッセンスであり、人間が有史以来、不死の物語はない。聖書ですら死はある。

 

「誰も死なないように願う。願いの物語が彩ったのがネバーランド。だからなのか、腕を切り落とされる大人はいます。ワニを恐れる大人もいます。撃ち殺される大人もいます。ですが、子供にとってしてみれば、ほとんど不死のコミックショウなのです」

 

「それは子供の安全圏を守っているだけだ。不死ではない」

 

 剪定者として不死は認められない。ナインの強情さに人魚は微笑んだ。

 

「使命に忠実なのですね」

 

「俺を縛り付けるのはその使命だけだ。他には何もない」

 

 人魚が訪れたのは岩礁で作られた城だった。門扉が開くと堅牢な内観が目に入る。

 

「岩礁の城。人魚の砦か」

 

「私たちは海賊も恐れません」

 

 前を行く赤髪の人魚の声にナインは、「だろうな」と応ずる。

 

「敵と言っても、このネバーランドは願いと優しさに包まれた国。だから害する存在はいない。ただ一人を除いて」

 

 人魚は城に入るなり従者の人魚を呼びつけて服飾を整えた。羽衣を纏った人魚が階段を上り、玉座に座る。どうやら長という認識は間違っていなかったらしい。

 

「敵? 何者だ」

 

「ピーターパンです」

 

 人魚の言葉にナインはすぐさま言い返す。

 

「何を言っている。この物語の主人公だと聞いたが」

 

「ピーターパンは奔放で、遊び人の、そして〝永遠の子供〟です。このネバーランドの主でありながら彼の行動はトリックスターのように映る」

 

「人造妖精に検索させた。そのような物語はない」

 

「忘却されたのでしょう。だからこの世界はとても不均衡なのです」

 

 水墨の海。セピアの断崖。

 

「だが、お前たちはピーターパンとやらが帰ってくるのを待っている、というわけか」

 

「待っているのはあのウェンディとかいうお嬢ちゃんとフック船長でしょう。私たちはあくまでこの物語の付随物。メインではないのですから」

 

 物語の登場人物であることを既に分かっていてこのような交渉に出る。ナインは人魚の長を睨み据えた。

 

「特権、でも狙っているのか?」

 

「察しがよくって助かります」

 

 特権。つまり付随物ではなく、この物語の登場人物の一人でもなく、独立した物語をくれ、と要求している。

 

「傲慢だな。剪定者に特権をねだる輩は大勢見てきたが、俺は誰一人としていい心象はない」

 

「ですがこの滅び行く世界では付随物として終えるのはあんまりです。そこに剪定者が現れた、だとすれば私たちのするべきことは剪定者に願うことだけ」

 

「特権を俺に約束させて、どうする? この物語が忘却されても他の物語に逃げるつもりか。だがその特権は俺個人の心象でどうにかなるものではない。人造天使と、そして我ら当局の慎重なる判断の上で成り立つものだ。何故ならばそれは可能性の復活。つまり、可能性世界を閉ざそうとしている剪定者からしてみれば」

 

「真逆の行動」

 

 先んじて言い放った人魚の長にナインは首肯する。

 

「分かっているのならば、何故俺に希望を持とうとする。俺は、あくまで一剪定者に過ぎない。お前らをどうこうできるような立場でもない」

 

「どうしてでしょうかね……。恐らく、あなたが彼に似ているのもあるのでしょう」

 

 この物語に入ってから繰り返される「彼」。ナインは眉根を寄せた。

 

「ピーターパン」

 

「彼はとても自由奔放で、他者の忠告など気にも留めない、この世界を飛び回る永遠の子供」

 

「俺とは正反対のように思えるが」

 

 使命に忠実であり、なおかつもう子供ではない。人魚の長もそれは心得ているようだ。

 

「ええ、そう。全然違う。だけれど、何ていうのでしょうか、根幹が似通っている」

 

 根幹と言われてしまえば対応のしようもない。自分のことは自分が一番よく知っているつもりだが、どうしてそのピーターとやらが自分の根幹に関わっているというのか。

 

「俺はどの物語世界にも属さない、黒の剪定者だ。だからお前らがいくら俺を持ち上げようとも特権も、吟味する必要がある」

 

「あなたを殺そうとしたこと、それに関するお咎めは」

 

「あるとすれば、俺がもう執行している」

 

 ナインが振り翳した右手の殺気に人魚の長は僅かに震えた。

 

「彼女が先走っただけなのです。本当」

 

「それはもう聞いた。いくら言葉を弄そうとも事実は事実。剪定者を害そうとしたことも含めて、特権に関してだったな、人造天使にかけ合おう」

 

 ナインの言葉が意外だったのか人魚の長は、「本当に……」と口にしていた。

 

「ああ。どうせ一個忘却されて消え去るんだ。一個代わりが入っても処理は変わらない」

 

 この物語世界はもうすぐ終わる。ならば代わりの物語を予備として提言するのも悪くない。ナインの言葉に宿る冷徹さに人魚の長は口元を緩めた。

 

「本当に、剪定者は冷たい」

 

「剪定者に温情を求めようというのが間違いだ。物語の滅殺者に一感情論を当て嵌めようとするな」

 

 ナインは身を翻す。人魚の長はその背中に声を投げた。

 

「そういう立ち振る舞いも含めて、あなたはピーターパンにとてもよく似ている。彼も自由気ままで、それでいて行動力と勇気だけはあった」

 

 ナインは足を止めて肩越しに視線を向けた。

 

「その、ピーターパンに俺がいくら似てようと、俺は剪定者ナインであり、ピーターパンとは全く関係がない」

 

「ええ、そう。そうですよね」

 

 人魚の長はもう一言だけ付け加えた。

 

「あなたがピーターでないとしても、フック船長にはお気をつけください」

 

「海賊風情だろう。何を気をつける? 財産も何もない」

 

「この世界において、フック船長はただピーターパンに復讐のみを誓っている。だからあなたがもしピーターパンに似ているとなれば、彼の復讐の矛先はあなたに向く」

 

「ならば殺し返すまでだ」

 

 ナインは右手に視線を落とした。物語の登場人物程度ならば滅殺の右手が黙っていない。

 

「……そういう無鉄砲なところもピーターそっくりですね」

 

「やめろ。俺をこれ以上、見知らぬ他人で装飾するな。剪定者にラベル付けは不要だ」

 

 ナインの言葉に宿る本気さを感じ取ったのかそれ以上人魚の長は引き止めようとしなかった。ナインは岩礁の城を後にする。他の人魚に捕らえられた先ほどの凶暴な人魚が岩礁の城へと投獄されていた。彼女たちからしてみればあの人魚は異質だろう。だが滅び行く世界で正気でいられるのもどうかしている。あの人魚の野生もある一面では仕方がないことなのかもしれない。

 

『どうだった?』

 

 海面に上がってくるなりベルが尋ねる。ナインは手を払うと身体についた水滴を根こそぎ弾き飛ばした。

 

「どうもこうも、俺のことをまたしてもピーターだという奴が現れた」

 

 ベルは、『何でかなぁ』と疑問視する。

 

『全然、物語の主格って感じじゃないのに』

 

「俺もそう言ったが、そういうところも含めてピーターパンだと。……ベル、本当にピーターパンという物語は存在しないのだろうか」

 

 二人の証言者がいる。だというのにこの物語は忘却対象だ。

 

『検索窓には引っかからない。色々と試したけれどやっぱりピーターパンって言う物語はないよ』

 

「そう、か」

 

 存在しないはずの主人公。では彼は一体どこへ行ってしまったのか。物語の登場人物たちを置いて主人公が姿を消す。さらに言えば物語そのものの存続が危うくなる。ナインは首を巡らせた。

 

「朝陽だな」

 

 東の空から太陽が昇ってくる。水墨の海の表面をてらてらと照らした。

 

 



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ACT15「フック船長からの挑戦」

 

 人造天使へと報告する。ナインはこの忘却の物語で得られるものはないだろうと推測していた。だが人造天使の命はただ一つだ。

 

『テラーはその物語世界に来る可能性が高い。だから張っておけ』

 

 ナインはいちいち感情論を差し挟むわけでもない。ただただ認めるほかなかった。

 

「ゼルエル様。ピーターパン、という物語は」

 

 だからか、そのような疑問を持ってしまったのはいけないのだろう。人造天使はベルを通していさめる。

 

『よくないな、剪定者ナイン。そういう可能性の話をするのは』

 

 違いない。可能性の枝葉を切るのが剪定者の役目。だというのに自分から可能性を語り出すとは。

 

「申し訳ありません」

 

『テラーという脅威をいち早く破壊する。それこそが剪定者に与えられた使命だと思え』

 

 だがテラーは尻尾すら掴ませない。ナインは報告を終えた後ベルを使って他の剪定者と情報をリンクする。テラーの存在は情報として開示されていなかった。

 

「テラーはどこにいるのか。そもそもこの物語に来るという確信はどこからなのか」

 

『テラーが物語の種類を選んでいるとは思えないもんね』

 

 今までの傾向だと笛吹き男の世界での干渉と桃太郎の世界での時間震。悪戯で収めるには被害が大きい。だが物語そのものの根幹を揺るがす大事、というわけでもない。二つとも気づけば修復が可能だ。

 

 だが、とナインは感じる。この二つとも、気づいたのは自分だった。自分が気づかなければ物語の存続すら危うかったろう。

 

「テラーは何かしらの目的を伴って動いている?」

 

 ナインの憶測に、『それこそ分からないよ』とベルがナンセンスだと言った。

 

『テラーってのが現象だって言うんなら』

 

 現象ならば感情もないはず。だというのにこの付き纏われる感覚は何だ。剪定者ナイン、自分の道筋を先回りされているような感覚は。

 

「テラーがもし、俺の行動を予見しているとするのならば」

 

 ベルが理解不可能だという声を上げる。

 

『そんなの、あるわけない。だってテラーが、それこそナインの考え方をトレースしてでもいない限り』

 

 考えをトレース。ナインはその言葉に何かしらを感じ取った。テラーという存在が現象だとしても、もしかすると剪定者の存在こそがテラーを招き入れる温床になっているのではないかと。

 

「こうは考えられないだろうか。剪定者とテラーが出現したのはほぼ同時期だった。だから、テラーは剪定者のキャッシュが凝り固まった存在である、と」

 

 ナインの仮定にベルは不満そうに返す。

 

『それってつまり、剪定者の今までの行動こそがテラーの行動に繋がるって言いたいの?』

 

「だから俺の位置が分かる」

 

 そう考えれば剪定者は動かないほうがいいのではないか。剪定者が物語世界に過剰に介入するからテラーが出現する。言うなればテラーも剪定者の一面なのではないかと。だがベルは笑い飛ばす。

 

『面白い冗談だけれど、でもそれ、駄目だよ。そんなこと考え出したら、あたしたちの行動理由がなくなっちゃう』

 

 ベルの言う通りなのだ。剪定者は動かないほうがいい。物語を取り締まらないほうがいい、というのは諦めの理論である。

 

「……すまない。どうも弱気になっているようだ」

 

『鉄血の剪定者が、弱気って』

 

「この世界に中てられているのかもな」

 

 忘却されている世界に、自分は何を感じているのか。その物語の主人公だと言われて、何か勘違いしているのではないか。

 

「ピーター、ティンク」

 

 ウェンディの呼ぶ声にナインは目線を向ける。ウェンディは秘密基地の屋上にいる自分たちに手を振っている。

 

『だからあたしはティンクじゃ……。それに、ナイン。あの娘の言うこと、真に受けなくっていいよ』

 

「ピーターパン云々か」

 

 だが証人が二人もいれば怪しくもなってくる。ベルは、『あり得ないんだって』と否定する。

 

『剪定者が、じゃあどこから来たのかって話になる。でも剪定者は物語発生期にはもういたんだからそれは物語世界の、外側から来た存在なんだよ。決して内側からの使者じゃない』

 

 ベルの言い分は分かる。自分が本物の妖精であったことも信じられない。いや信じたくない。何故ならば既に人造妖精ベルの性根が染み付いている。

 

「物語をどうこうする立場が、物語の内側の人間であるはずがない」

 

 それは公平ではないからだ。ナインは木のうろを滑り降りていく。ウェンディはキャンピングバッグを持っていた。

 

「それは?」

 

「私がずっと持っているキャンピングバッグ。岩場の陰に隠しておいたんだけれど、何だか重いみたい。何が入っているんだろう」

 

「確認もしていないのか?」

 

 信じられない、というナインの声音にウェンディは返す。

 

「ここはネバーランド。願いの叶う国よ。だからバッグの中身はいつだっていっぱいになる。夢と希望でね」

 

「夢と希望では腹は膨れないはずだが」

 

「ところが、ネバーランドでは夢と希望が形になる。きっとハムサンドが入っているんだわ。私、ハムサンドが大好きなの」

 

 ウェンディの口調にベルが耳元で囁いた。

 

『この娘、頭がどうかしているのよ』

 

「ティンクにもハムサンドをあげるわ」

 

 聞こえているのかいないのかウェンディはその名で呼ぶ。ベルが怒り心頭とでも言うように光を強くさせた。

 

 ウェンディの手がバッグを開けようとする。その瞬間、ナインは肌が粟立った。戦闘用に研ぎ澄まされた本能が感知する。危険だと判じた身体は咄嗟にウェンディを抱いて影の移動方法で離脱していた。

 

 直後、バッグが爆発し先ほどまで自分たちがいた場所からもくもくと黒煙が上がった。ウェンディは目を丸くして爆発の痕を見やっている。ベルが苦々しげに口にした。

 

『……どこが夢と希望ですって?』

 

「違う、私はいつも通りハムサンドが入っているのだとばかり」

 

『いい加減、おつむが緩いのも大概にするのね。これじゃあたしたちが巻き込まれるわ』

 

「違うわ、ティンク! 私は何もしていない!」

 

『そんな名前じゃない! あたしは人造妖精ベル!』

 

 二人の言い合いを聞きながらナインは爆発痕に小さなメッセージカードが残っていることに気づいた。歩み寄ってそれを手に取る。

 

「ようこそ、ピーターパン」という達筆で始まっていた。

 

「〝我輩、フック船長はお前の再来を受け、指一本触れずにお前を殺すことに成功した。だからこれを読んでいるお前はもうこの世にはいない。恐怖せよ、ピーター。幾度となく、お前の道を阻んできた復讐鬼である我輩の実力に。戦慄するといい、このような非常な手段もネバーランドならば許されるのだと。〟とある」

 

 ナインが読み上げているとウェンディが顔を青ざめさせた。

 

「まぁ、フック船長? まさかそんなに早く露見するなんて」

 

 口元に手をやって大仰な仕草をするウェンディをナインは横目で見やる。

 

「フック船長、その名前は人魚たちからも聞いた。海賊と人魚と亡者がひしめいているらしいな、この物語は」

 

『なおさらそんな物語はないと思うけれど』

 

 ベルの言葉にナインはメッセージカードを懐に入れる。爆破に使われたのは小型の爆弾だ。ぜんまい仕掛けのそれほど複雑ではない爆弾である。構造を解析し、ナインは歩み出す。

 

「どこへ?」

 

「そのフック船長とやらに会いに行く」

 

 その無謀をウェンディが制した。

 

「無理よ! フック船長はピーターへの復讐心でいっぱいだわ。まともに話なんて」

 

「話じゃない。フック船長とやらの認識を聞きに行く」

 

 ナインの言葉の意図が分からないのだろう。ウェンディは首を傾げていた。ベルが追従する。

 

『フック船長はあの小娘と違って物語の登場人物としての自覚があるのかないのか、ね』

 

 ベルは心得ている。ナインは、「あることを祈りたいが」と顔を伏せた。自分のことをピーターだと言っているのだからそれも怪しい。

 

「駄目よ、ピーター! フック船長は正気じゃない!」

 

『あんたに言われたくないわ』

 

 ベルの抗弁にナインは、「正気かどうかは」と声を挟んだ。

 

「俺たちが決める。剪定者なのだからな」

 

 



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ACT16「テラー出現」

 

 断崖絶壁から望める景色の中に海賊船があった。だがほとんど座礁している状態で、航海に出られるようには見えない。

 

「あれがフック船長の居所か」

 

『メッセージカードを見せて』

 

 ベルが言うのでナインは取り出した。ベルは、ふんふんと読み取る。

 

『矛盾していない? 死んだら読めないじゃない』

 

「その辺りが、このネバーランドの住人と我々剪定者では違うのかもしれない。あるいはピーターパンへの復讐心が強く、空回りしているのか。どちらにせよ、正気かどうかを確認せねば」

 

 ナインは影の移動方法で一気に滑り降りる。船の甲板に降り立ったナインに作業をしていた海賊たちの手が止まった。一様にナインを眺め、呆然としている。

 

「剪定者である」

 

 その一言で理解した人間なのだろうか、あるいは攻撃本能か、めいめいに剣を取り出した。血の気の多い連中である。

 

「これは、話し合いの空気ではないな」

 

『そもそも海賊相手に話し合う気、ないでしょ』

 

 違いない、とナインが口元で返すと一人の海賊が突っ込んできた。ナインはすっと掲げた手で剣を受け止める。渾身の力で振り下ろされた剣が指先で止められたことに海賊は恐れ戦いた。

 

「原始武器だな。それに何らかの力も作用していない。海賊は、やはり海賊か」

 

 ナインが指を弾くと相手が吹き飛ばされた。海賊たちが一歩退く。

 

「どうした? 泣く子も黙るフック船長の率いる海賊だろう? かかって来い」

 

 ナインの挑発に乗った何人かが一斉に剣を突き出してきた。ナインは右手の手袋を外し、手を薙ぎ払う。剣先が折れ曲がり触れた部分から溶解した。海賊たちが短く悲鳴を上げる。

 

「化け物め」

 

「言われ慣れている」

 

 ナインは右手を手刀の形にする。海賊の剣を一本、また一本と無力化していく。海賊たちは実力差が分かったのか全員及び腰だった。

 

 そのうちの一人が突然、銃声に倒れた。ナインが目をやる。船内から出てきたのは赤く眩しい服を着た紳士だった。だが奇抜なのは左手首から先だ。鉤爪になっており、右手に握った銃からは煙が棚引いている。

 

「せ、船長。フック船長」

 

 海賊の声にナインはそれがフック船長なのだと認める。フック船長は鉤爪で神経質そうに髭を掻いた。

 

「おや、これは珍客だな」

 

 他の海賊に比べ落ち着いている。船長の名は伊達ではないなと感じた。

 

「剪定者である」

 

 ナインの声にフック船長は顎に手を添えて思案する。

 

「爆死したはずだが」

 

「俺は、ピーターパンではない」

 

「そんなはずはあるまい!」

 

 フック船長は芝居がかった声を発する。

 

「このネバーランドで奇抜な格好をしている奴はピーターだ。だから我輩が殺しに来たのだよ。ピーター。今度こそ引導を渡してくれる」

 

 フック船長は腰に備えたレイピアを抜き放つ。ナインは嘆息をついた。

 

「……正気ではないのか」

 

「我輩は正気さ。さぁ、短刀を出せ。決闘だ」

 

 ナインは右手に続き、左手の手袋も外した。

 

「記憶操作でこの船長の意識を正常化する。その後にこの状況に関して問い質しても遅くはないだろう」

 

「決闘の合間に! そのような戯れ言を挟む余裕があるのか! ピーター!」

 

 フック船長が間合いを詰める。レイピアの攻撃は通常ならば達人の域だが、ナインは剪定者だ。剪定者にただの達人がかなうわけがない。かわし様に右手を突き出す。手刀が振るわれかけてフック船長は飛び退った。それなりに危機回避能力はあるらしい。

 

「危ないな、ピーター。だが短刀も出さずに嘗めているのか?」

 

「俺にとってしてみればこれで完全武装だ。だがお前は、レイピア一本でいいのか?」

 

「ご心配には及ばない。我輩はこれでも鳴らしたものだ」

 

 レイピアの一突きがナインを襲う。だがナインに命中することはない。影の移動方法で瞬時に背後に回り、フック船長の癖っ気のある長髪を引っ張った。姿勢を崩したフック船長の頭部を引っ掴み、ナインが言い放つ。

 

「フック船長。お前には俺がどう見えている?」

 

「どう見えているも何も、我が怨敵、ピーターパン!」

 

「そう、か」

 

 赤い電流が発し、フック船長の記憶を焼き切る。通常ならばそれだけでいいのだがナインはフック船長の記憶からピーターパンの記録を探ろうとした。だがその姿を明瞭にする前に海賊たちが一斉に銃弾を放つ。ナインはその場から離脱していた。

 

「船長! 大丈夫で?」

 

 駆け寄ってきた海賊たちに介抱される形でフック船長が頭を抱えている。記憶の焼き切りが中途半端に終わった。まだやるつもりか、とナインは身構えるがフック船長は今しがた目を覚ましたように周囲を見渡し次いでナインを目にして目をしばたたいた。

 

「ここは……」

 

「寝ぼけてちゃ駄目ですよ、船長。あいつはピーターパンなんでしょう? 今、決闘をしたじゃないですか」

 

「決闘……。彼がピーター? だが……」

 

 濁したのは理由があるらしい。ナインはフック船長の目が先ほどまでと違っていることに気づいた。威厳を示すように咳払いし、「そうだった」と仲間たちを取り成す。

 

「だが、決闘というのは早計だったかもしれない。我輩は権謀術数にも長けている。なに、ちょっと話し合わないか?」

 

 その言葉に海賊たちが耳を疑った。

 

「何を言っているんですか? 相手はあのピーターですよ」

 

「やはり船長、おかしくなったんで?」

 

 海賊たちの声にフック船長は片手を上げて制した。

 

「いいか、よく聞け。我輩がそうすると決めたのだ。だからお前たちにどうこう言われる筋合いはない」

 

 それは、と口ごもる海賊たちにフック船長はひと息に言い放った。

 

「大人の話し合いだ。では行こうか。船内の特別室に」

 

 フック船長に促されナインは船内に入った。暖色で固められたフック船長の特別室には豪奢な調度品の数々がある。フック船長はその中でどこかの王族が使っていたと思しき椅子に座った。ナインには木の椅子を勧める。

 

「すまないね。こうして改めて話すことになるとは」

 

 ナインは椅子に座らずに応じる。

 

「正気には」

 

「これを正気、と呼ぶのかは定かではないが、我輩はどうやら長い長い夢を見ていたらしい」

 

 フック船長が目を細める。愛おしい出来事を思い出しているかのようだった。

 

「俺が誰だか、分かるか」

 

「剪定者だろう。噂には聞いているがこの世界に来たのは初めてだな」

 

 ナインはようやくフック船長が正気に戻ったことを確認した。

 

「しかし何故? 今の今まで誰も来なかった。だというのに、どうしてこの忘却の一途を辿る物語に?」

 

 フック船長は鉤爪で器用にワインのボトルを開ける。グラスに注いだワインの色は血のような赤だった。

 

「どうだね?」と勧められるがナインは断る。

 

「この忘却の物語に、主人公がいないのは」

 

 ナインの言葉にフック船長はひと息に飲み干してから応じる。

 

「ピーターパンだ。誰もが帰りを待っている。……我輩もそうであった」

 

 やはりピーターパンという物語は実在するのか。だがそれにしては検索窓に引っかからないのは奇妙だ。

 

「ピーターは奔放で、永遠の子供で、そして我輩の怨敵。この左手を切り落としてワニに食わせた」

 

 左手の鉤爪をさするフック船長にナインは尋ねる。

 

「どこに行ったんだ? そのピーターとやらは」

 

「知らない。知っていれば、我輩は長い惰眠を貪ることもなかった」

 

 この世界の住民ですらピーターパンがどこへ行ったのかを知らない。それはあり得るのだろうか、とナインは疑問に思う。

 

「剪定者であると、どうして最初は気づかなかった?」

 

 フック船長は頭を振り、「待ち焦がれていたのさ」と答えた。

 

「この世界の異端者を。それがピーターだと我輩は感じていたのだが、まさか剪定者と取り違えるとは。深く反省しよう」

 

 フック船長は自分の領分を知っているようだ。ナインは他の海賊たちについて問うことにした。

 

「海賊たちは」

 

「彼らは、我輩の付随物だ。だから我輩の認識がイコール正義なのだよ。剪定者だと認めれば彼らもそう感じるはず」

 

「何があった? どうして主人公がいない?」

 

 ナインの詰問にフック船長は顔を伏せてぽつりぽつりと語り出す。

 

「最初は、些細なものだった。いつも悪さばかりする奔放なピーターパン、奴が突然、姿を消した。だがどうせいつものことだ。現実世界に行って子供たちを連れてくるに違いない。そういう習性だった。おっと、ここで言う現実世界とは」

 

「物語世界の中の現実、つまりはメタフィクション」

 

 心得ているナインの声にフック船長は首肯する。

 

「そうだ、ピーターはいつだってそうだったから誰も疑いもしなかった。その後、ピーターパンがいなくなるなど」

 

 いなくなった、という生易しい言い方なのだろうか。ナインはそれこそ物語の消滅に関わる一大事なのではないかと感じる。

 

「ある日、突然?」

 

 フック船長は頷き、「そうだ」と答える。

 

「ある日、突然。ピーターパンは姿を消し、ゆっくりとだが、この物語は忘れ去られようとしている。海賊たちを見ただろう? あるいは子供たちの亡者を。皆、小さく馬鹿に成り果て、そして曖昧な世界の中で生きるほかなくなる。生きているのか死んでいるのかさえも分からない世界に」

 

 嘆くような口調にフック船長は今、間違いなく正気なのだとナインは感じ取った。

 

「フック船長。お前もそうだった」

 

「そうだ。我輩もピーターの不在という現実から逃避し、いつかやってくる怨敵のために牙を研いでいる……つもりだった。だが見えていなかったのは我輩もだ。ピーターがいつか帰ってくるのだと疑いもしなかった」

 

 敵を失った物語の悪役の末路ほど虚しいものはない。彼らは存在理由そのものを喪失するのだ。

 

「その後の動きは? ピーターパンは本当に、一度として帰ってこなかったのか?」

 

「帰ってくればすぐに分かる。ネバーランドは広いようで狭い。すぐさま異変を感知する輩が現れるんだ。だが誰も。誰一人として訪れなかった。その間にも物語は風化した」

 

 誰も訪れない、ということは誰の記憶からも抹消された物語だということだ。可能性の枝葉すら出現しない物語、というからにはメジャーではなかったのだろうか。項垂れたフック船長の面持ちには疲れが窺えた。

 

「我輩は、もう待ち疲れた。ピーターが帰ってこないのならば悪役の我輩はどうすればいい? 誰を頼りにして生きればいいのだ」

 

 切実な問いかけにもナインは冷徹に返す。

 

「風化する物語は存在する。いずれ消滅する物語も」

 

「だが、我輩は剪定者、貴殿がピーターに見えていた。どうしてだ?」

 

 問われてもナインには答えようがない。だがこれで三人目になった。自分のことをピーターパンだと思い込む人間は。

 

「……ウェンディ、という少女のことを知っているか」

 

 まず一つずつ、解きほぐす必要があるだろう。ナインの質問に、「あの忌々しい」とフック船長は返す。

 

「ピーターの連れて来た子供の中でも、飛び切りに最悪な部類の子供だった。このフック船長を出し抜く狡猾な子供だ」

 

「ではウェンディは存在し続けていたのか?」

 

 その問いにフック船長は苦い顔をする。

 

「いや、一時的にだが、ウェンディも行方をくらませた、らしい」

 

「らしい、というのは」

 

 剪定者の前で隠し立てはためにならない。ナインの殺気を感じ取ったのかフック船長は取り成す。

 

「本当に、分からないんだ。ウェンディもいなくなっていた。ピーターと同時期に。だがその後、また帰ってきたのはピーターではなくウェンディのほうだった。しかし、この物語は崩壊に向かおうとしている。ウェンディだけでは足りないんだ、恐らく」

 

「ピーターパン……」

 

 ナインが呟くとフック船長は尋ねていた。

 

「本当に、記録には存在しないのか?」

 

 ナインはベルへと視線を振り向ける。『何度やっても』とベルは声に疲れを滲ませた。

 

『ピーターパンという物語は存在しないし、ウェンディもヒロインとして登録されていない』

 

「それは、奇妙だ。ではこの世界は、この物語に住む人々は何なのだ?」

 

 フック船長が自身の胸元を握り締めながら問い返す。ナインとて分からない。だが忘却の運命にある物語が辿るのは苛烈の道だ。

 

「忘れ去られるのならば、それは安らかなほうがいい」

 

「それは、つまり我々に諦めろと?」

 

 ナインは冷たく頷くほかない。そうでなければピーターパンをもう一度この世界に呼び戻すしか方法はない。

 

 フック船長は項垂れて顔を覆っていたがやがてハッと気づく。

 

「物語が崩壊すれば、我々はどうなる?」

 

 特権をちらつかせた人魚のことが思い返される。だが剪定者の側から特権を提案することはできない。何故ならばそれは可能性の枝葉を自ら伸ばすことに他ならないからだ。

 

「消え去るな」

 

 そのような冷酷な運命を、眉一つ動かさず断言するのが剪定者だ。フック船長は、「そんな……」と声に憔悴を滲ませた。

 

「あんまりだ」

 

「だがそれが物語の現実だ」

 

「ピーターさえ帰って来ればなぁ。どうして我が怨敵はこうも我輩の運命を弄ぶのだ」

 

 フック船長の嘆きもナインは聞かない振りをした。このまま消え去る運命だとしても自分にできることはない。過分に相手に同情したところで剪定者としての使命を曇らせるだけだ。

 

 その時、海賊たちが表で叫び声を上げた。フック船長は、「放っておけ」と突き放す。

 

「ああやって、弱い者をいじめるほかない連中だ。きっと適当なお魚さんでも見つけて取り合っているんだろう」

 

 しかしフック船長の思っていたよりも叫び声が続く。ナインは尋ねていた。

 

「本当に、魚か?」

 

 まさか人魚が? ナインの思考を掠めた存在にフック船長は船内から飛び出して怒鳴りつけようとした。

 

「うるさいぞ!」

 

 だがその声が最後まで発せられることはなかった。何故ならばそれよりも激しい悲鳴が上がり、フック船長の声を遮ったからだ。海賊たちは中空に浮かぶ標的へと銃を放っている。ナインも飛び出してそれを視界に入れた。

 

 宙に浮かんでいるのは灰色の服飾を纏った人影だ。身の丈は子供のようだが軽々と海賊一人を持ち上げている。ナインがその人物の顔を見やる。顔の部分が黒く塗り潰されたようになっており表情は窺えない。そもそもあれは人間なのか。ナインの疑問を他所にフック船長は昂揚した声を出した。

 

「ピーター?」

 

 ナインはもう一度、人影を見やる。両手を伸ばして飛び回る影に海賊たちがめいめいに声を上げた。

 

「ありゃ、ピーターパンですぜ!」

 

「オレたちの敵だ!」

 

 喜ばしいことを見つけたように海賊たちの声が弾ける中、銃弾を手で薙ぐだけで相手は弾を止める。それは人間業ではない。

 

「問おう!」

 

 フック船長が歩み出てレイピアを抜き放つ。

 

「我が怨敵なのならば答えろ! どうして、この世界を見捨てた?」

 

 しかしピーターパンだと思われている相手は何も言わない。それどころか意思があるのかすら定かではない。ナインはその対象に似ているものを脳裏に描いた。あれは、何に似ている?

 

 ピーターパンが一気に滑り降りてくる。フック船長が口元に笑みを張り付かせてレイピアを振り上げた。それと相対するようにピーターパンの掌から短剣が飛び出す。鍔迫り合いを続ける二人はそのまま甲板を滑った。

 

「ピーター! お前が主人公ならば、何故我々から逃げたんだ!」

 

 決死の声にもピーターパンは応じない。短剣でレイピアを弾きピーターパンはフック船長を蹴って離脱する。

 

 ナインは、「待て」とその背中に呼びかけていた。影の移動方法で瞬時に背後に回る。ピーターパンは背後を取られても全く動じない。それどころか今しがたナインの存在に気づいたようだ。

 

「お前は、本当にピーターパン、この世界の主人公なのか? ならばどうして物語世界を捨てた」

 

 フック船長と同じ問いにピーターパンは片手を上げる。その掌からもう一本短剣が飛び出しナインの首筋を狙って射出された。ナインは間一髪でかわし、その首筋へと右手の手刀を見舞う。その瞬間、ピーターパンを構築していた影が霧散した。先ほどまでピーターパンの形状を伴っていたのはゲル状の影だ。それがナインの攻撃を受けて拡散する。

 

「何だ?」

 

 ナインが問いかける。影の一部が形状を成し、ピーターパンの顔を作るとその口元を吊り上げた。直後、ナインを包囲する影が全て短剣と化した。全包囲を囲んだ短剣の群れにナインは突っ込んだ形となる。

 

「嘗めるな」

 

 ナインは声を出すと共に右手を薙ぎ払う。緑色の電流が纏いつき、ナインの手が残像を引いた。残像が短剣を磨り潰していく。滅殺の右手の干渉作用によって短剣は何本かは消し去ったが何本かは体表に突き刺さった。特別製のコートを貫通し、ナインの身体を襲ったのは痛みではない。

 

 直後に突き上げてきたのは幻惑作用だ。眩暈と意識の薄らぎ。ナインは咄嗟に歯で噛んで左手の手袋を外した。左手で頭部を引っ掴み赤い電流が作用する。

 

 すると落下しかけていた自己を認識できた。咄嗟に甲板に着地する。あと少し遅ければ自分は墜落していた。ナインは左手の記憶操作を使い、脳髄に錯覚させた。今はそれで持たせるのが精一杯だ。

 

 いつの間にか荒い息をついていた。剪定者である自分が息を荒らげるなど滅多にない。だが相手はそれだけ特殊だった。どうして相手の肉体を抉ったはずの攻撃がまるで意味を成さない。それどころか相手は位相を変える。

 

 今度はファーコートを纏った男性だった。だがやはり顔は真っ黒で表情はない。影だけの生命体だ。

 

「ピーター。ピーターなのか?」

 

 フック船長の問いかけにも応じない。相手はぷくぷくと手に持ったパイプを吹かした。少なくともその容貌から少年であるとは思えない。

 

「ピーターパンではないのでは?」

 

 その疑問にでは誰だ、と自問する。この局面で現れてなおかつ自分と同質かそれ以上の権限を持つ存在など。通常は物語の主人公格しか思い浮かばない。だがこの時、ナインはあり得るかもしれない存在を想起できた。

 

「まさか、テラーか?」

 

 テラーという名前に馴染みのないフック船長は疑問を呈する。

 

「テラー? いや、あれはピーターなんじゃ」

 

 初老の男に化けた影の存在はどこからともなく杖を取り出した。何をするのかと思えばその杖を軽く振るって突き立てる。直後、空間そのものが捩れたとしか思えない振動が襲いかかってきた。これは時間震だ。

 

「ベル! 時間震だ。何分後に飛ばされる?」

 

 即座にベルを呼びつけ時間震の深さと規模を測定させる。ベルは瞬時に弾き出した。

 

『三分後。場所は変わらないけれど、でももうその時にはテラーは……』

 

 濁した言葉通り。テラーの姿はもうなかった。

 

「一体何なんだ? お前たちは何を連れて来た?」

 

 フック船長の慄いた眼差しにナインは無言を返すほかなかった。

 

 



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ACT17「対抗者たち」

 

 海賊一味を秘密基地に連れて来たせいだろう。ウェンディは目を見開いたし、その上短剣を突き出して脅した。

 

「あんたたちなんて私だけでも!」

 

「ウェンディ。違う、もう彼らは敵ではない」

 

「嘘! 海賊は敵だって、ピーターが言っていたもの!」

 

「ウェンディ嬢。今だけでも、共闘関係を結ぼうではないか」

 

 歩み出たのはフック船長本人だ。ウェンディもフック船長が矢面に出るとは思っていなかったのかうろたえた。

 

「……何で、フック船長が。ピーター! どういうこと?」

 

 ナインは、「ピーターではないが」と前置きしてから答える。

 

「この物語は間もなく忘却の淵に落ちるか、あるいはそれよりももっと悪い結末に転がる。それを回避するために同盟を結ぶのが適切だと感じた」

 

「同盟って……」

 

 ウェンディが声を詰まらせる。そこには陸地に上がってきた人魚もいたからだ。彼女たちは魔法で今は人間の足が生えている。しかし完全に騙せないのか足に鱗があった。

 

「どういうことなの……。ピーターは何をしたの?」

 

 ナインは一つずつ説明するほかないだろうと感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウェンディには理解できないはずだ。と半分は思いながらも物語世界を練り歩いてきたのならばある程度の理解はあるかもしれないと期待する自分もいた。ウェンディに説明したのは大きく二つ。

 

 自分は剪定者と呼ばれる物語の殺し屋であり、ピーターパンではない。もう一つは物語の殺し屋が追っている標的がこの物語を忘却よりもなお悪い方向に進ませようとしているかもしれないということ。

 

「テラー、って言ったわよね?」

 

 秘密基地の最下層の部屋でウェンディは聞き返す。ナインはテラーのことも教えてしまうのが一番だと感じていた。

 

「物語は通常、終わらなくってはならない。そしてまた新生し、始まりの時を迎える。だがこの物語は終わりもしなければ始まりもしていない。そのような中途半端な物語にテラーの介入を許せば、俺は致命的な間違いを犯すことになる」

 

 テラーの正体は分からない。どうして剪定者と同じような戦闘能力を有しているのか。そもそも実体は何なのか。人造天使への接続権限はどうしてだか切れており、ナインは自分で判断するしかない。

 

「その過程で、この世界の戦闘できる人間を呼び集めた、というわけ?」

 

『ナインだってやりたくってやっているわけじゃない』

 

 ベルが自分の言葉の代弁をしてくれた。本来ならば物語世界を歪める結果、つまり可能性の枝葉の出現に手を貸していることになるこの行為だが、今は一人でテラーに立ち向かうよりもこの忘却の世界で一人でも多くの援軍が欲しかった。

 

「それは分かっているわ、ティンク。だってピーターは残酷なところもあるけれど結局は優しいんだもの」

 

『だからピーターじゃ……』

 

 ベルの抗弁にナインは手を掲げて制した。言い合いをしても時間の無駄だ。

 

「テラーは危険だ。だから俺が倒さなければならない」

 

 いや、そもそも相対できるほどの実力なのか、と自身に問いかける。テラーはまだ余裕があるように見えた。

 

 それに比して自分はテラーと闘うだけでも精一杯だった。時間震と他にも能力を隠し持っている気配がある。

 

「ねぇ、ピーター。本当に、大丈夫なのかしら?」

 

 ピーターではない、といちいち否定するのも面倒でナインは聞き返す。

 

「何がだ」

 

「本当に、この世界の住人が太刀打ちできる相手なのかしら?」

 

 ナインは端から戦力は当てにしていなかった。相手は時間震と形状記憶の能力は持っているのだ。

 

「だがかく乱にはなろう」

 

 自分が背後から回って一撃。それで事が済めばどれだけいいだろうか。だがテラーは、今日相対したあの底知れぬ存在はその程度では屈しないように感じられた。

 

「テラーは何が目的なの? どうせ、ピーターのいない世界なんて滅びてしまうんでしょう?」

 

 ナインが疑問に感じたのはその声音がどこか弾んでいることだった。ウェンディはこの物語の消滅を悲しまないのだろうか。ハーメルンの笛吹き男のように。あるいは桃太郎のように、物語の消滅を危惧だと思わないのだろうか。

 

「どうして、お前は笑っている?」

 

 だからか、尋ねてしまった。ウェンディの顔に張り付いている笑みの謎を。ウェンディはそれこそ無意識だったのだろう。口元に手をやってから、はたと気づいたようだった。

 

「私、何で笑って……」

 

「無意識下か。それとも物語世界を渡る間に麻痺したのか、お前にはこの物語に頓着する意味もないのだろう」

 

 ナインの結論にウェンディは言い返す。

 

「そんなこと! だってこの世界はピーターの世界よ? だから私が守らなくっちゃいけないの! 子供たちだって」

 

 今もブロックノイズの浮かぶ亡者たちをウェンディは愛おしいそうに撫でる。だがナインにはその行動もどこか虚飾めいて見えた。

 

「フェアリートリップを撒いて、被害が出るとは全く考えていなかった。それは嘘だな?」

 

 確信めいたナインの声音にウェンディが表情を強張らせる。ナインは畳み掛けた。

 

「被害が出ると知っていて、やっていたな? それとも、他の物語世界の人間などお前からしてみれば道具なのか」

 

「そんなことない! 私だって物語世界の人間だってことくらい分かるわ!」

 

「ならば何故やった? フェアリートリップが唯一ピーターパンの手がかりであったならばそれを剪定者に早期に差し出すべきだった」

 

「……剪定者なんて私は信じていない」

 

 子供騙しの世界に生きる人間の言葉とは思えなかった。ナインは、「目の前にしても、か」と問い質していた。

 

「当然。だってあなたはピーターだし、この子はティンクよ」

 

『だからそういうんじゃないんだって。どうして分からないかな。ティンクだとかピーターだとか、夢見てる場合じゃないってことが……』

 

「いいじゃない! 夢くらい見たって!」

 

 遮って放たれた言葉の気迫にベルがおずおずと引き下がる。ナインはウェンディの顔が苦痛に歪んでいるのを目にした。

 

「夢くらい、見たって……」

 

「夢、か。ネバーランドは願いの国だと聞いた」

 

「そうよ。願いと夢でできた世界」

 

「だが、それも虚飾だ。テラーという力の前には無力だし、さらに言えば、もっと無力なのは忘却に対してだ。忘れられればどのような物語も無意味となる」

 

「物語に無意味も何もないでしょう? だって心を豊かにしてくれる」

 

「そう思える奴らばかりではないということだ」

 

 それならば忘却対象も封印措置も必要ない。それどころか剪定者さえも必要ないだろう。忘れ去られる物語の片隅で、今も可能性の枝葉を伸ばす物語がある。剪定者はそれらを摘み取り、適正な形に直す。それが仕事であり使命なのだ。

 

「どうして、そこまで悲観的になってしまったの? ピーター。まるで……」

 

 ウェンディが言葉を濁す。ナインは促した。

 

「まるで、何だ? 言ってみろ」

 

 ウェンディは少しの逡巡の後に口にした。

 

「まるで、大人になってしまったみたいに」

 

 その言葉にナインは無機質に応じた。

 

「そうだな。大人になるということは物語に悲観を持ち込むことなのだろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フック船長はレイピアを研いでいた。鉤爪は付け替えが可能らしい。いくつかのアタッチメントがあり、その中には何と砲弾さえもある。

 

「左手は武器庫か?」

 

 ナインの茶化しにフック船長は、「ピーターを倒すために我輩は日夜研究を重ねてきた」と応じる。

 

「だが、そのピーターはもう、いないようだな」

 

 ここにも大人になってしまった人間が一人。ナインはフック船長に問いかけた。

 

「ピーターの存在は、お前を豊かにしたのか?」

 

 物語の登場人物、それも悪役に自分を豊かにしてくれる存在だったのかなど聞いていいのだろうか。だがフック船長は迷いなく答える。

 

「そうさ。ピーターがいるとね、我輩は何倍にも何十倍にも強くなれた。悪として、悪徳を重ねる存在として、どこまでも狡猾に、どこまでも計算高くなれたんだ」

 

 だが、とフック船長は肩を落とす。

 

「ピーターがいなくなったあの日、我輩はようやく宿願を果たしたと感じたと同時にとてつもない虚しさを感じた。胸に穴が空いて、そこから何かが漏れ出したような感覚だよ。何日も飲まず食わずで、そのうち海賊仲間で流行っていたバカ騒ぎもしなくなった。下っ端連中は今でもたまに子供をさらおうとする。だが、もうそれが実体のない亡者なのだと、我輩は教えていないのだ」

 

 知っていて教えていないのか。ナインは目線で問う。

 

「知っていて、さ。何でって、下っ端たちからも、存在理由を奪いたくないんだよ。我輩だけで充分なのだ。この虚無感は」

 

 ナインはフック船長が思いのほか人間味のある悪役だと感じた。鬼や笛吹き男を殺そうとした住民たちとは違う。彼の目にはまだ燃え尽きようとして燃え尽きない野心があった。だがそれがピーターを倒す、という一事にのみ傾けられているのが惜しいともナインは感じる。

 

「特権、というものがある」

 

 どうしてだかナインは口を滑らせていた。ベルが制するように飛び出す。

 

『ナイン、それは……』

 

「物語の登場人物が他の物語の主人公になるように亡命することだ。忘却から逃れることができるし、ともすれば主人公になれる。そうなれば新たな物語が誕生するため我々の中では最終手段だと捉えている一派もいるが」

 

「何で、それを我輩に話す?」

 

 ナインは、「何でだろうな」と自嘲する。

 

「だが多分、お前には諦めて欲しくないんだろう。宿敵を逃した悪役の末路など、見たくないものだ」

 

 ナインの言葉にフック船長は弱々しく笑んだ後、「断るよ」と言った。

 

「何で? 断る理由がない」

 

「我輩は海賊フック船長なのだ。ピーターパンの宿敵であり、彼を追い詰めるためならば何の迷いもなく悪徳を犯す。だから彼のいない、ただの海賊など、ただのフック船長など、何の価値もない。そんな物語はいらないよ」

 

「たとえ忘却の彼方に追いやられようともか?」

 

 忘れられれば、そこには死さえもない。ただの現象として消え行くだけだ。フック船長はしかし左手の鉤爪をさすって呟く。

 

「忘れられてもいいんだ。フック船長として生きていたい。我輩は、他の何者かに成り代わるのではなく、ピーターの宿敵であり続けたいのだ」

 

 変わり者だ、とナインは結んだ。

 

「変わり者かね?」

 

「ああ。特権を剪定者からちらつかせられて断るような奴はいない」

 

「そう、か」

 

『そうだよ。ナイン、今のはネットワークが復活したら人造天使様に報告するよ』

 

 ベルの声音にナインは、「そこまで厳しくなるな」と返す。

 

『厳しくもなる。ナインは、この大人に甘過ぎ』

 

 舌鋒鋭いベルの口調にフック船長は失笑した。

 

「手厳しい。だが、この感じ、前にもあった。とても小さな、リトルレディがいてね。彼女は金色の粉を撒き散らしながら飛ぶんだ。その粉は黄金にも変えがたいものだった。なにせ、人を飛ばせられる」

 

 フック船長は思い出したのか手をひらひらと振った。ナインは冷徹に声にする。

 

「フェアリートリップの作用だ」

 

「だろうな。あれは合法麻薬だ。我輩とて分かっている。本当に飛べるのは子供だけだ」

 

 フック船長はレイピアの手入れに戻る。ナインは一つだけ尋ねていた。

 

「前にも、というのはティンカーベルか?」

 

「ウェンディから聞いたか。そうだとも。貴殿とその小さな妖精との関係は、まさしくティンカーベルとピーターパンだ」

 

「だが俺は」

 

「分かっている。だからこそ、一つだけ」

 

 フック船長は立ち上がり、レイピアを掲げる。

 

「何だ?」

 

「真剣勝負を」

 

 その眼差しは伊達や酔狂を言っている風ではなかった。

 

「もうやったが」

 

「あれは、我輩が正気ではなかった。今度は正気で戦いたい」

 

「俺はピーターではない。何度やっても、それは同じだ」

 

「分かっているさ。だがね、思い出したいんだよ」

 

 フック船長の申し出をナインは受けた。右手の手袋を取って、「悪いが」と口にする。

 

「手加減は苦手だ」

 

「構わない。我輩もだ!」

 

 宣誓のない突きがナインを見舞う。悪役の面目躍如と言ったところか、フック船長の太刀筋に迷いはない。ナインの動きを見極めようと一手ずつ詰めているのが分かる。だがナインとてそれを許すようならば剪定者ではない。ナインは右手を開いた形で突き出し指と指の間にレイピアの刀身を挟んだ。

 

 身を翻し影の移動方法は使わずに宙返りする。フック船長の真上を跳躍したナインは振り返り様に手を薙いだ。その一撃とフック船長がレイピアの切っ先を突き出したのは同時だった。ナインの手刀はいつでもフック船長の首筋を掻っ切れる。フック船長のレイピアはいつでもナインの右目を射抜けた。

 

「ここまでだな」

 

 フック船長はレイピアを仕舞う。ナインも手袋をつけた。

 

「真剣勝負なのでは?」

 

「これ以上やればどちらかが死ぬ。いや、我輩だな。退き際は潔いほうがいい」

 

 フック船長は手拭いで額の汗を拭いていた。ナインは汗を掻くこともない。今まで汗を掻くほど焦ったのはテラーを前にした時だけだ。それ以外では汗など掻かない。

 

「しかし、今の動き。ますます我輩は惜しいと感じた」

 

「何がだ」

 

「貴殿が、ピーターではないことに」

 

 そんなにも似ていたのだろうか。どうして自分は影の移動方法を使ってかく乱しなかったのだろう。その答えだけは出なかった。

 

 



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ACT18「決戦前夜」

 人魚たちは祝宴を開いていた。ナインは人魚の武器を見やる。弓矢だけだった。軽装なのではと心配したがそれは杞憂だ。彼女たちそれそのものが魔術的作用を帯びた武器である。

 

「いざとなれば歌でテラーを沈める心積もりか」

 

 ナインの声に赤髪の人魚が振り返った。

 

「剪定者様」

 

 人魚は恭しく頭を下げる。ナインは特権の手前無礼はできないのだろうと判断した。

 

「俺に媚を売っても特権の効果は上がらないと思え」

 

「それでも、売らないよりかはマシなのでは?」

 

 赤髪の人魚はウインクしてみせる。ナインは酔っ払っている人魚を見やった。

 

「大丈夫なのか」

 

「戦力には足ります。人魚は、一日も経たず酔いは醒める」

 

「常に海の底にいればな」

 

 皮肉めいた声に赤髪の人魚は笑みをやった。

 

「意外ですね。剪定者とは感情のない別の存在だと聞いておりました」

 

「そのはずだが」

 

「しかし、あなたは皮肉も言えるし相手の感情も分かる。私の聞いていた剪定者の像とはまるで異なります」

 

「それはデマだったんだろうな。剪定者にはそうでなくとも小うるさい付き人がついている」

 

『小うるさいって何よ』

 

 飛び出してきたベルに人魚が目を見開いた。

 

「妖精?」、「ティンカーベル?」という声がそこらかしこから聞こえてくる。どうやら人魚は妖精を嫌っているらしい。

 

「生憎だが、こいつはティンクとやらではない」

 

 ナインの声に赤髪の人魚は号令を出す。

 

「鎮まりなさい。申し訳ない。配慮が足りませんでしたね」

 

「こちらもだ。妖精を危険視しているのか?」

 

「魔法を使えるのは、ネバーランドですとピーターパンと妖精と人魚だけです。ほとんど利権の奪い合いですよ」

 

 赤髪の人魚は微笑んだがその言葉の意味するところはピーターパンですらある一面では敵だということだ。

 

「人魚は誰も信じないのか」

 

「ええ。ですから特権が欲しいんです。我々が主役ならば、脅かされることもない。ピーターパン程度の不在で取り乱すこともないですから」

 

 人魚はピーターパンを下に見ているらしい。ナインは、「取り乱し、か」とこぼす。

 

「ウェンディとかも、お前らからしてみれば随分な取り乱しに思えるのだろうな」

 

「いいえ。あの子は逆に特殊ですから」

 

 人魚のどこか達観した声に尋ねていた。

 

「特殊、とはやはりピーターパン不在後にもう一度ここに訪れたことか?」

 

「ご存知でしたか」

 

「フック船長からな」

 

 人魚は遠くを眺めぽつりと呟く。

 

「どうしてなのでしょうか。物語の主人公は去ってしまったのに、ヒロインだけが残されてしまったのは」

 

「そのヒロインも、常にいたわけではないようだが」

 

 フェアリートリップを撒いて物語を混乱に陥れた。ナインの口調が責めるものになっていたからだろう。人魚は、「それを彼女に?」と聞いてくる。

 

「言ったが」

 

 人魚はため息をついて、「やっぱり」と結論付けた。

 

「剪定者には血も涙もないのかもしれませんね」

 

「どういう意味だ」

 

 不遜そうにナインが問い詰めると人魚は分かったような言い草をした。

 

「あなたはピーターに似ている。みんなに言われませんでしたか?」

 

 沈黙を是としていると人魚は続ける。

 

「だからあのウェンディがあなたにピーターを重ねて、知らずあなたに頼っていることも分かりませんか?」

 

「俺に? 頼ってどうする。俺は剪定者だ」

 

「ですが、恋焦がれた人と同じ感覚のする人間に、何の感情も抱かないとお思いですか?」

 

 ナインには分からない。恋慕も、思慕も、どれも登場人物たちは感じるのだろう。だが自分は物語の外側の存在。感じているわけがない。

 

「……そうなのだろうか」

 

「ここまで来ると迂闊を通りこして呆れますね。特権は欲しいですが、これだけは言っておきましょう。あなたは乙女心を全く理解していない」

 

 人魚の言葉にベルが飛び出して反発する。

 

『ナインの目的は物語の可能性の排除、それにテラーを打倒することだよ? 何で一ヒロインの顔色まで窺わないといけないわけ?』

 

「人造妖精には分からないのでしょうね」

 

 人魚の言葉にベルは苛立ちを募らせたようだ。

 

『むっかー! 人魚に言われたくないんだけれど! 大体、あんたたちこのままじゃ忘却可能性があるんだよ? だって言うのに剪定者に喧嘩を売るなんていい度胸じゃない』

 

「だから、特権は関係なく、と言いました」

 

 人魚の抗弁にベルは、『ふざけないで』と自分よりも必死の様子だ。

 

『剪定者ナインはあなたたちの要求を呑んだ。だって言うのに糾弾されるのはあんまりだよ』

 

「ですが、彼女の心も分からないのでは、我々も安心して移住できません。それこそ、またしても忘却の世界の再現になったら?」

 

『そんなの、そっちのせいじゃん』

 

 ベルの声音に人魚は一歩も退く様子がない。

 

「人造妖精は女性の心理が埋め込まれていると思っていましたが、声音だけですね。これではただの忠実な道具と同じ」

 

『そういう言い方! あたしは頭に来るんだよね! 人を勝手にラベル付けしてさ。剪定者だからフラットな立場で? あんたたちを迎えてやると思っているの? 言っておくけれど心象を悪くすればどうなるかくらい馬鹿でも……』

 

「そこまでにしておけ」

 

 ナインは口を差し挟んだ。それでも退く様子のないベルを手で制する。

 

『でもさ、ナイン、言われっ放しは』

 

「俺は腹が立たない」

 

 ナインの言葉にベルは渋々了承した。だが解せぬことが一つある。

 

「俺がピーターの、生き写しだとして、ウェンディは俺に何を感じている? 愛か? それとも、恋慕か? だがどちらにせよ、叶わないのだ。それは、俺が剪定者である限り」

 

「剪定者をやめればいいではないですか」

 

 思わぬ言葉にナインは一瞬だけ呆気に取られた。

 

「剪定者を、やめる?」

 

 考えもしなかった。人魚はナインを指差し、「難しいのですか?」と尋ねる。ナインは頭を振った。

 

「いや、難しくはないだろう。記憶を操作する術は確立されている。それに俺という存在を抹消するくらいはわけないはず」

 

「ならば、やめることもできるのでは?」

 

「だがやめた後、俺はどうなる? そもそも俺は何だったんだ?」

 

 剪定者になる前など今の今まで思いつきさえしなかった。そして剪定者をやめるなどということも。

 

「私は知りえませんが、それこそ剪定者とは、元々は物語の主人公だったのかもしれませんね」

 

「物語の、主人公……」

 

 ナインの思考を一瞬だけ、記憶が掠めた。疼痛のように一瞬だ。だがそれでもその記憶から発せられた光に戸惑う。今のは何だった?

 

「俺は、何だ?」

 

「その答えを知っているのは人造天使でしょう?」

 

 だが人造天使とのリンクは何故だか外れ、今はナインが孤立状態だ。答えを問い質す事もできずナインはただ呟く。

 

「剪定者をやめて、俺は何になればいい?」

 

「ヒーローなんて打ってつけじゃないでしょうか? 私は保証できませんが」

 

 人魚の無責任な声に、ナインはただ顔を伏せていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『気にすることじゃないよ』

 

 ベルの声にナインは視線を振り向ける。

 

「気にしていない」

 

『でも口数少ないし。それにこのルート』

 

 足を止める。周囲は木々で囲まれており、海賊とも人魚とも距離を取っていた。

 

「何だ?」

 

『ウェンディから最も遠いルートだよ』

 

 無意識下にウェンディと顔を合わせることを避けているのか。ナインは額に手をやった。

 

「何をやっているんだ、俺は」

 

 剪定者だろう、と自らを鼓舞しようとするがうまくいかない。そもそも自分は何者なのか、どこから来てどこへ行くのかなど考えたこともない命題だった。

 

『人魚の戯言だよ。気にしないほうがいい』

 

「戯言でも、俺の思考回路にバグが生ずるのならば、それはただの戯言ではない。お前も、どうして怒っていた?」

 

 自分の代わりに。ナインの疑問にベルは、『そりゃあ』と応ずる。

 

『あれだけ言われれば悔しいじゃん。今までやってきたことを全否定だよ? それにウェンディ一人のことで、ナインの必要性まで否定されたんじゃ怒るって』

 

「怒る、のか?」

 

 その回路が分からない。どうして怒らなければならない。

 

『ナインは、そういうところ、何でか麻痺しているよね。ハーメルンの笛吹き男に関しても、桃太郎の世界にしても、テラーの横暴に、あるいはフェアリートリップの横行に、怒っていたのは他ならぬナインじゃない!』

 

 ハッとする。自分のあの正体不明のもやもやとした感情。あれは怒り、だったのか。

 

「俺は知らないうちに怒っていたのか?」

 

『無自覚? 嘘でしょう? ナイン、ウェンディをどうして問い詰めた? どうしてフック船長を正気に戻した? それは全部、この物語に、あるいはテラーに、怒っていたからでしょう? ……何で人造妖精に過ぎないあたしが、あんたの代弁を行っているのか分からないけれど』

 

 自分でも分からない。どうしてベルはここまで親身になってくれるのか。相棒、ではある。最良のパートナーであり、最も信頼できる存在でもある。だがベルは人造妖精だ。困った時の道具に過ぎない。道具に感情を持っているわけがない。だというのに、道具が自分の代わりに怒ってくれている。

 

「ベル。お前も、基があったのかもしれないな」

 

 ナインの声音にベルは怪訝そうだった。

 

『あたしの基って、オリジナルの人格ってこと? そんなの、自分の脳みそを見たことのない人間と同じで、分からないよ。あたしの基があったかどうかなんて』

 

 切り捨てたベルだが気にしていないわけではないようだ。どこかそわそわしている。

 

「俺の基も、あったのだろうか」

 

『それがたぶらかされるな、って話。みんながあんたをピーターパンだって持ち上げている』

 

「何か不都合が?」

 

『不都合って言うかさ、居心地の悪さをあたしは感じる。だって、あんたは多分、ピーターパンじゃないし、あたしもティンカーベルじゃない。だから無意識的にみんなを騙しているみたいな、そんな感じ』

 

 騙している。それは気づかなかった。だが誰もが自分をピーターだと信じて疑わない。もしかすると基がピーターパンだとしても、ナイン自身、さほどこだわっていない。

 

「俺の基は、塵であったとしても、そうか、騙していることになるのか」

 

『この世界の人々の結束は、ある種、不在のピーターパンへの羨望があるんだよ。だからみんなこの世界の留守を預かる手前、テラーになんて負けていられない。海賊も、人魚だってそう。特権にかぶりついたっていう体裁を取っているけれど、実際のところはピーターに顔向けできないって部分が強いんだと思う』

 

「そのようなこと、想像したこともなかった」

 

 言ってしまえば義理堅いのがこの世界の住人なのか。いやどの世界であれ主人公の不在時に脅かされる存在があれば一致団結するのかもしれない。

 

『テラーは物語を壊して回るガン細胞。だから白血球である剪定者が倒さなければならない』

 

「それが剪定者の役割、か」

 

 だが、と脳裏を掠めたのは先ほどの人魚との会話だ。やめてしまえばどうなのだ。やめたら、自分は解放されるのだろうか。この使命から。だがやめることなど考えもしなかった。それは自分の存在理由が剪定者ナインに集約されているからだろう。

 

「剪定者としての役目を、俺は重荷に感じたことはない」

 

『あたしも。人造妖精として、あんたの相棒であることに嫌気が差したことはない』

 

 ベルの声に胸中が凪いでいくのを感じる。ささくれ立っていた部分が落ち着いていく。そうか。自分はベルといると安心できるのだ。

 

「ありがとう」

 

 だから何のてらいもなく言えた。ベルが今までも、これから先も自分の人造妖精でいてくれることに。ベルは怪訝そうな声を出す。

 

『……いきなり何よ、気持ち悪い』

 

「どうしてだろう。俺にも分からないが、これが奇跡のように感じられた」

 

『奇跡、ね。皮肉なもんだわ。魔法も、あるいは奇跡レベルの出来事でさえも観測できる剪定者のあんたがあたしとの間柄程度に奇跡を見出すなんて』

 

 だがベルは替えがたい存在だ。他の人造妖精を買えばいい、という考えは少なくとも改められた。

 

「俺は人造妖精ベルでなければならない、理由でもあるのだろうか」

 

『それこそ追求しないほうがいいじゃない?』

 

「何故だ」

 

『……言わせないでよ』

 

 それ以降、ベルはろくに口を利こうともしなかった。仕方がないのでナインはウェンディや海賊、人魚の待つ秘密基地へと戻る。秘密基地の奥でウェンディは蹲っていた。ナインは声をかける。

 

「どうした?」

 

「……私、想像力が不足していたのかもしれない」

 

 その告白にナインは沈黙した。

 

「ピーターに会える、その一心だった。だから他の物語の人たちがティンクの粉でどうなるかなんて考えていなかった。この物語ではみんな空を飛べるのよ。ティンクの粉で」

 

「知っている」

 

「だけれど、他の物語の人たちは? そうだとは限らないし、私は大人にも売ったわ。もし、彼らがどうにかなっていたら……」

 

 そこから先の不安を摘み取るようにナインは自然とウェンディの手に自分の手を添えていた。

 

「それ以上は剪定者の役割だ。物語の登場人物が関知する部分ではない」

 

「でも! 私のせいでもある」

 

「そう思えるだけで、きっと充分なのだろう」

 

 自分にはその想像力が足りる時が来るのだろうか。テラーを倒せばあるいは、とナインは考えていた。自分の逡巡に決着をつけられるのかもしれない。

 

「もう寝るといい。海賊たちの号令を嚆矢として明日はやってくる」

 

 ウェンディはその言葉を聞いて額に手をやった。

 

「そう、ね。何日も、いいえ、何年もろくに眠っていなかった気がするわ。ピーターが近くにいてくれるのなら、私、眠れるかも」

 

 そう言っている間にウェンディは眠りについた。ナインは約束したわけではないがその場を離れなかった。剪定者に眠りは必要ない。だがこの時、ナインは短いながらも昏睡に入った。

 

 漂う夢の中でナインはいくつかの声を聞いた。

 

 ウェンディの叫ぶ声。呼んでいるのか、突き放しているのか定かではない。夢の中で瞼を上げると海面に浮かんでいた自分の影があった。手を伸ばすと相手も同期する。その姿が崩れ初老の男性の影になった。

 

 ――テラー。

 

 因縁の名をナインは紡ぐ。だが相手は口元を吊り上げて嗤うばかりだ。何がそんなにおかしいのか。ナインの無言の問いかけに相手は自分の声を使って答えた。

 

「物語のガン細胞が俺ならば、お前もガン細胞にならないとも限るまい」

 

 ナインは言い返す。口を開く必要はない。ただ思念で、お前とは違う、と。テラーの影はせせら笑う。

 

「何が違う? 健常の細胞でも一種の電気信号やあるいは変化でガン細胞に変異するんだ。白血球がガン細胞になる確率がゼロではないように、お前が俺にならない確率もゼロではない」

 

 だがお前ではない、とナインは右腕を振り上げる。テラーはナインを指差した。

 

「お前を知る時、俺も知るだろう。それが何たるかを。お互いの存在が合わせ鏡ではない可能性も、また存在しないのだと」

 

 ナインは腕を振るった。

 

 その瞬間、目が開く。

 

 夢が醒め、ナインは現実の風を感じ取った。朝陽のぬくもりが関節を温めていく。森に吹く風はやや冷たい。まだ朝になって間がないのだ。どうやら一時間ほど意識がなかったらしい。

 

「ここは……」

 

 現実なのか。確かめようとして海賊の悲鳴のような声が遮った。

 

「奴だ! テラーだ!」

 

 



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ACT19「現象の死」

 

『テラー? どこ、どこなの?』

 

 次いで起き上がったのはベルだ。ナインのコートの中に入っていたベルは慌てて飛び出す。ウェンディも目を覚ましたらしい。やぐらを一晩で作った海賊はそこから望遠鏡で位置を示した。

 

「南南西! テラーらしき敵影を発見!」

 

 下っ端の声にフック船長も身支度を整えて上がってきた。ナインと肩を並べ、「来たのだろうか」と声にする。

 

「まだ分からない。それこそ、テラーではないのかもしれない」

 

「今になってピーターの帰還か? それはそれで笑えんな」

 

 フック船長が口元を緩める。左手の鉤爪を取って銃に付け替えていた。昨日の自分との戦いで遠距離戦が有利だと感じたのだろう。

 

「しかしテラーだとすると、まさか真正面から」

 

 来るとは思っていなかった。ナインの予想を裏切るように下っ端の声が弾ける。

 

「テラー! なおも接近!」

 

 どうやらやぐらの下っ端からはよく見えるらしい。テラーは空から来るのか。ナインは影の移動方法を用いて瞬時に断崖絶壁の頂上に至った。このネバーランドで最も高い場所から望んだ風景、朝焼けに染まった海岸線だが水墨なのは相変わらずだ。その水墨の上を僅かに動く黒点がある。ナインはそれこそがテラーだと判じた。

 

『嘘でしょう? 本当に、真正面から……』

 

 息を詰まらせたベルにナインは、「総員、戦闘準備だ」と声にした。影の移動方法で降りて人魚と海賊に号令をかける。

 

「戦闘準備! 遠距離射撃用意」

 

 復唱したのは海賊の副長だった。

 

「遠距離射撃、構えー!」

 

 海賊たちは銃器を、人魚たちは弓を番える。ナインは殿でウェンディを保護するために下がっていた。フック船長は自分たちの前に展開する。

 

「しかし、まさか真正面からとは」

 

「相手の情報は持っていない。だから相手からしてみてもこちらの戦力は予想外のはずだが」

 

 こちらの情報とて昨日の即席である。すぐに対策が練れるはずはない。副長が手を振り翳した。

 

「てーっ!」

 

 その声に銃器の炸裂音が響き渡り、矢が一斉に同じ方向へと放たれた。矢の先端には人魚の魔法による炎が灯っておりそう容易くは消えないはずだ。だがやぐらで戦況を見張っている下っ端は声を荒らげた。

 

「着弾! 全弾命中! しかし相手は怯む様子なし!」

 

 まさか、と全員が息を呑んだ。矢で貫かれれば剪定者とて再生には時間がかかる。銃弾ならばなおさらだ。だが相手はそれでも向かってくるというのか。

 

「霧散! 霧になりました! 濃い、灰色の霧が広がって……」 

 

 昨日見せたのと同じ能力だ。相手は自分の存在を限りなくマイナス値に振ることができるようである。

 

「うろたえるな! 海賊の名折れだぞ!」

 

 フック船長と副長の怒号に折れかけた信念を立て直した海賊たちはめいめいに武器を取り直す。だが一人、また一人と倒れ伏していく。攻撃が成された様子はない。だが深い昏睡に誘われているようだ。

 

「この霧……! 眠りの作用があるのか」

 

 察知した海賊たちが下がろうとするも霧のほうが素早い。眠っていく海賊たちに成す術はなかった。

 

「このままでは……」

 

 全滅の二文字が浮かんだ刹那、歌声が戦場を駆け抜けた。ハッとして目を向ける。人魚たちが天を仰いで歌っている。人魚の声は幻惑の声。相手からしてみれば同じ効力の魔法をぶつけたも同義。たちまち眠りの霧は効果が薄らいだ。

 

「今だ! 撃て!」

 

 眠りの淵に誘われようとしていた海賊たちが持ち直して引き金を引く。だがどれも着弾した手応えはないようだ。今度はやぐらの下っ端も命中とは言わなかった。

 

「相手は。おい! 相手はどこだ!」

 

 副長の怒号に下っ端が困惑する。

 

「探しています! 探していますが……、速くって……」

 

「速い?」

 

「まるで影と影の合間を移動しているみたいな……。動きに連続性がないので予測できません!」

 

 その悲鳴にナインだけは状況を俯瞰していた。影の移動方法。それは剪定者が持つものだ。

 

 ――合わせ鏡でない可能性もまた存在しない。

 

 夢の中での会話が思い起こされナインは肌を粟立たせる。海賊たちは無鉄砲に突っ込んだ。もう射程に入っているのは間違いない。だがどこにいるのかまるで分からない敵を倒せるのだろうか。ナインの懸念を読み取ったように戦局は一気に黒くなっていく。

 

 一人、また一人と短く悲鳴が発せられた。森の中で無茶苦茶に銃を撃つ音が木霊したと思えばしんと水を打ったように静まり返る。

 

「前衛部隊は……」

 

 副長の声に、「全滅です」とやぐらから声が返ってきた。

 

「前衛、全滅……」

 

 信じられないのはフック船長も同じのようだ。ごろつきばかりとはいえ、それでも海賊として今までピーターパンと戦ってきた矜持があったのだろう。それが粉々に砕かれていた。

 

「後衛部隊! 装備を近接武器に変え、接近に留意! 仕留めろよ」

 

 副長の命令に銃を捨て海賊たちは鞘から銀色に輝く剣を抜き放つ。だが結果は同じであろうとナインは予想していた。恐らく近い遠いの問題ではないのだ。

 

「突っ込めー!」

 

 副長の号令で海賊たちは一斉に雪崩れ込む。その背中が見えなくなった途端、そこらかしこで呻き声が聞こえてきた。テラーが一人ずつ仕留めている。しかも相手の戦法に合わせて近接戦で。そのようなことがあり得るのか。ナインですら疑った事象をフック船長は即座に察したらしい。

 

「……恐らく後続も全滅。殺されたか、あるいは昏倒させられたか。どちらにせよ、相手が来ることに変わりはない」

 

「どうなさいます? 船長」

 

 副長の声にフック船長は後ろで待機している人魚たちへと声を響かせた。

 

「人魚の、幻惑の魔法で奴を止められる可能性は?」

 

「恐らく数秒、いいえ、もっと言うのならばコンマの世界……」

 

 赤髪の長の人魚は希望的観測をすぐさま捨て去った。何故ならばフック船長は徹底抗戦の構えでレイピアを抜いたからだ。

 

「船長? いけません!」

 

 副長が止めに入るがフック船長はそれを振り解いた。

 

「退け。我輩がゆく」

 

「ですが! 大将がいなくなれば戦局が持たないのは長年の勘で分かっていらっしゃるはずでは……」

 

「この戦、長は我輩ではない」

 

 フック船長は振り返りナインへと目配せした。この戦い、長は自分だ。だからフック船長は死ににいく覚悟なのだと目を見れば了承が取れた。

 

「来い! 全ての因果を連れて、この我輩、ジェームズ・フック船長が!」

 

 フック船長は名乗ってからレイピアを流麗にさばいて銀色の剣閃を描く。

 

「御自ら、相手をしよう!」

 

 構えたフック船長は息を詰め相手の出現に集中する。その時、森の木陰から霧が集まってきた。その霧はやがて一つの形状を伴う。少年の姿であったかと思えば、今度は壮年の男性のように杖を伸ばして会釈し、今度は騎士の姿を取る。共通しているのはどれも灰色の影だということだ。

 

「正体を現せ。この物の怪め」

 

 フック船長の声に影が一気に降り立ち、瘴気を棚引かせながら一つの形状を取った。

 

 皮肉なことにそれは紛れもなくフック船長の鏡像だった。

 

「……戯れを」

 

 フック船長は気圧されないようにか、口元に笑みを浮かべる。だがその指先が震えているのをナインは見逃さなかった。恐怖している。無理もない。自分と同じ姿を取った全く素性の掴めない相手だ。

 

「我輩と剣を交えること、光栄に思うのだな」

 

 フック船長は強がってレイピアを突き出す。テラーはレイピアを取り出すと自分の身体を突いたり切ったりした。だがその部分が突かれても血も出なければ切り離されてもすぐに吸着する。暗に物理攻撃は意味がないと告げているようだった。

 

「不死の魔物などおらんよ。どこかに弱点があるのだ」

 

 フック船長は踏み込んだ。レイピアでの突き。まさしく神業としか言いようのないほどに正確な一撃。テラーの心臓を貫こうとした一撃はしかしテラーのレイピアによって防がれた。テラーはわざとなのかギリギリでフック船長の渾身の一撃を受け止めている。

 

「遊んでいるのか!」

 

 返す刀で首を落とそうとする。だがまたしても受け止められ今度はカウンターを食らった。フック船長が後ずさる。肩を貫かれていた。息もつかせぬ攻防だったが、フック船長とテラーが違うのはその速度だ。

 

 ほとんど時間を無視したような、予備動作のないテラーの攻撃に対してフック船長は人間ならば逃れられない一撃の前の予備動作がある。恐らくはそれを突いているのだ、とナインは察知したがそれを戦闘中のフック船長に告げて何となろう。絶望を深めるだけだ。

 

 テラーが攻撃を仕掛ける。レイピアだが予備動作のない攻撃はフック船長ほどの熟練者でもさばけないのだろう。すぐさま傷を身体中に作ったフック船長がよろめく。

 

 だが倒れはしない。フック船長は背中を見せなかった。後退もせずフック船長はレイピアを突き出す。

 

「……どうした。攻撃の手が緩んだぞ」

 

 その挑発をテラーはどう受け取ったのか、さらにレイピアの攻撃を鋭くさせた。ほとんど暴風に近いレイピアの剣閃を受けてフック船長の身体が何度も打たれた。テラーがレイピアを掲げる。フック船長は膝をついた。副長が悲鳴を上げる。

 

「船長!」

 

 テラーはもうフック船長に頓着せずこちらへと向かってくる。ナインはウェンディを下がらせて前に踏み出そうとした。その時である。

 

 テラーの腹腔に穴が開いた。突然のことに誰もが戸惑う。フック船長が左手の銃を突き出してはっはっと笑っていた。

 

「命中したぞ! 我輩の勝利――」

 

 その声が響く前にテラーはレイピアを掲げフック船長の背中を何度も突いた。何度も何度も、それこそボロ雑巾のようになるまで。テラーの攻撃が止んだ頃にはフック船長の赤い服飾は血で濁っていた。テラーはナインと相対する。副長は声も出ないようだった。ナインは歩み出て呟く。

 

「今、お前は怒ったな。何故だ?」

 

 淀みのない歩調に併せてテラーも歩き出した。お互いに同心円状に相手へと歩み寄っていく。

 

「テラーとは現象なのだと聞いた。だから怒りもしないし、悲しみもない。感情がないんだ。俺たちと同じように」

 

 テラーが姿を瞬時に変える。今度はナインと同じような旅人帽にコート姿だった。違うのは灰色であること。そして顔が塗り潰されたように見えないことだった。

 

「だが俺の中に今あるのは、お前を許さない、という感情だ。こんなものが芽生えるとは思いもしなかった。お前も感じたのだろう。自分に不意打ちでも一撃を与えた物語の登場人物に対する、憤怒を」

 

 テラーは答えもしない。ナインもこの問答が意味を成すとは思っていなかった。右手の手袋を外す。テラーはナインに併せて左手を掲げる。お互いに鏡像だ。ナインは手刀の形にしてテラーを見据えた。テラーの視線は感じられないがこちらを睨んでいるのだろう。確かな殺気がある。

 

「どういうつもりで、世界を無茶苦茶にする? お前は、何なんだ」

 

 その問いはかねてよりあったものだった。テラー、語り部。何の意味があって存在しているのか。

 

 テラーは答えの代わりに跳躍した。わざわざ影の移動方法ではなく地を蹴ってナインへと距離を詰める。飛び膝蹴り、それも肉弾戦。全くの予想外の攻撃にナインは面食らった。しかし対応できないわけではない。腕で防御しすかさず右手を叩き込もうとする。テラーは心得ているようにナインの関節を手刀で薙ぎ払い攻防一体の動きを見せた。ナインの手刀はテラーの顔のすぐ脇を掠める。緑色の電流が棚引いた。

 

「滅殺の右手は許しはしない。お前を、物語の可能性の枝葉を伸ばす存在として殺さなくってはならない」

 

 返す刀だ。そのまま手刀でテラーの首筋を掻っ切ろうとするがテラーはその段になって霧状に姿を変えた。瞬時に包囲してきたのは昨日と同じく短剣。一瞬にして攻守が入れ替わる形となった。一撃でも受ければ昏倒。即座に影の移動方法で距離を取る。先ほどまで身体があった空間を無数の短剣が引き裂いた。

 

「お前は、どこまで物語を壊す」

 

 ナインは責め立てる口調を伴って短剣の集合体を目にする。再び肉体を得たテラーはコートを纏った初老の男性だった。動きに適しているとは思えない。その口元が声を伴わずに動く。

 

 ――剪定者、だと確かに紡いだ。

 

 その動きに目を奪われた直後、テラーはナインの真横へと移動してきた。影の移動方法だがナインよりも素早い。これは剪定者のロジックではない。

 

 即座に右手を払ったが距離は心得ているらしい。右手の触らぬギリギリの距離からテラーが杖を突き出す。つん、と空間を突かれた。

 

 それだけでナインは吹き飛ばされる。これは時間震だ。空間そのものが鳴動しナインをその場から引き剥がした。問答無用の攻撃にこちらは右手を地面に突き立てた。制動をかけ体勢を整える。

 

「テラー!」

 

 副長が銃を握り締めて照準を向ける。テラーは自分との戦いに夢中になっている不意を突こうとしたのだろう。だが、その瞬間、時間が凍りついた。

 

 何か大したことをしたわけではない。テラーが指を鳴らした。それだけでナインとテラー以外の時間が止まる。放たれた銃弾が空間に居残っている。ナインは突然の出来事に狼狽する。

 

「これは、時間停止……?」

 

 だがそのようなことは剪定者でさえもできないはずだ。時間停止能力など高次の命令権限があっても行使できない。しかしテラーは単体でやってのける。静止した時間の中をテラーは歩み出て銃弾をそっくりそのまま副長のほうへと弾き返した。再び指を鳴らす。

 

「やめろ!」

 

 ナインの声が放たれた瞬間、返った銃弾が副長の胸に吸い込まれた。副長がよろめく。

 

「何を……」

 

 状況が理解できないのだろう。他の登場人物たちも同様だ。ナインだけ時間停止が行使されたことを理解している。

 

「今、確かに撃ったはずじゃ……」

 

 人魚たちは完全に呆気に取られていた。歌うことさえも儘ならないようだ。テラーの恐怖に全体が支配されている。ナインは副長へと影の移動方法で接近し抱き留めた。復調は今にも息絶える寸前である。ナインは左手の記憶操作を使い副長の頭部を掴む。赤い電流が走り副長は失神する。

 

「登場人物は、死んだと思い込まなければ死なない。記憶操作で擬似的に失神させた。これで傷は進行しない」

 

 元々、亡者はいても死人がいないとされているこのネバーランドでの殺人はまた物語を歪めかねない。だがテラーはお構いなしだ。相手からしてみれば物語破壊の行為は息をするよりも容易いのだろう。

 

「物語の破壊、及びそれ以上の権限を有している。何者なんだ、お前は」

 

 ナインの声にもテラーは応じず指を鳴らす。直後、ナインの眼前にテラーの姿があった。影の移動方法かと感じたが違う。ナインは左手首につけた時計の秒針と分針が不当に歪んでいるのを目にする。これは時間加速だ。

 

「時を加速させて、俺に接近した?」

 

 右手を薙ぎ払うが今度はいつまで経ってもナインの攻撃はテラーに届かない。距離か、と判じたが距離は同じだ。いつまで経っても動かないのは自分のほうである。

 

「これは、時間の伸縮……。こんな高次の命令権がある存在などいないはずだ」

 

 いたとしてもそれは人造天使レベルである。テラーはナインの心臓へと左手を構える。まさか、と思う間にテラーの手刀がナインの左胸に吸い込まれた。

 

 息を止める。ベルもウェンディも、人魚たちも唖然としていた。

 

 剪定者の心臓は新聞紙の模様が入ったものだった。自分でも見るのは初めてだ。テラーはナインの心臓を手に取っている。通常、自分の心臓を見ることなどありえない。あるとすれば、それはただ一つ。死に際だけだ。

 

「俺の……」

 

 テラーが心臓を握り潰す。墨のような血飛沫が飛び、ナインの意識は消失点の向こう側へと追いやられた。

 

 



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ACT20「反転」

 

 死んだのだろうか。

 

 ナインには分からない。剪定者は死ねばどうなる? 今まで感じたことがなかった。その場合、人造妖精のように替えの利く存在なのだろうか。死ねば新しい剪定者を用意すればいい。

 

 人造天使ならばきっとそうするだろう。自分よりもより優れた剪定者を用意しテラーを倒すに違いない。テラー打倒は剪定者全体の悲願であり自分だけのものではないはずだ。

 

 ナインの意識は物語でも現実でもない部分を漂っていた。夢、なのだろうか。あらゆる記憶が介在しあらゆる情報が行き交っている。ナインは本を読む子供の横顔を視界に入れていた。彼ら彼女らは嬉しそうに、あるいは悲哀の混じった、あるいは涙ぐみながら物語を見聞きする。ナインは彼らのいる側こそが「現実」なのだと感じた。

 

 物語でも夢でもない「現実」。だがそこから光が溢れ出してくる。せき止めようのない光の渦、それと共に滲み込んでくるのは雑多な情報だった。それが一人の灰色のコートを身に纏った紳士を生み出す。

 

「こういう形でしか、君とは話せないのでね」

 

 紳士の声にナインは直感的に感知した。

 

「テラー」

 

「それは私を構成する上で相応しいと言えない。何故ならば物語には光と影が常にあるからだ。私は光と影の片面。君たちが光であるとは限らないが、私は影として屹立することに決めた」

 

 テラーは子供に語り聞かせるが如く指先を常に唇の前に持って来ていた。ナインは自分の状態を尋ねる。

 

「俺は、死んだのか?」

 

「物理情報ではね。だが剪定者は物理情報を無視する能力を持っている。ここに、物語を生み出す核がある」

 

 テラーが空を仰ぐと太陽が昇ってきた。そこからさんさんと日が照りつける。

 

「太陽?」

 

「物語世界における光。可能性という光だ」

 

 ナインは怪訝そうにする。その可能性を摘み取るのが剪定者。だがテラーはその仕事を邪魔する存在だ。テラーは振り返り、「可能性は止め処ない」と口にする。

 

「君も理解できるはずだ。どれだけ剪定者が可能性を摘み取ろうとしても、追いつかない、不可能が生じるということが。私はその理不尽として、形を伴っているだけだ。本来可視化すらされない情報だよ」

 

「……俺たちの行動が無駄だったと?」

 

「そうではないさ。だが君を呼ぶ声があるだろう?」

 

 ナインは一つの情報へと目線を振り向ける。忘却の途上にある世界で人魚とベルが自分を呼んでいる。

 

「剪定者」、「ナイン」、という名前で。だが自分が一番耳を傾けたのはそのうちに潜む心の声だった。

 

 ――戻ってきて、ピーターパン。

 

 それはウェンディの声だったのかもしれないし、全員の無意識の声だったのかもしれない。誰の声、という形式を伴わずその声が発せられた。ナインはテラーへと振り返る。

 

「俺はピーターなのか?」

 

 その疑問は常について回っていた。この世界についてからずっと。ウェンディという少女一人の疑問だったが世界全体が自分をピーターパンに仕立て上げたいかのようだった。

 

「この声は、ウェンディのものに聞こえたかね? あるいはフック船長? 人魚? 旧知の仲である剪定者、ファイブ、イレブン、スプライト、コジロウ。……ベル。だがどれでもない。どれでもあって、どれでもないことが、今の君には分かるはずだ」

 

 ナインは声の主を精査しようとする。

 

 それは全体であった。

 

 情報網全体が自分の名を呼んでいる。ピーターパンの物語の再起を望んでいた。

 

「どういうことなんだ?」

 

 自分がピーターパンだから呼ばれているのか。あるいは勘違いなのか。テラーは自分の胸をとんとんと指先で叩いた。

 

「ここに脈打っている私の心臓をくり抜きたまえ。その時、全ての答えが知れる」

 

「俺はお前に負けた」

 

 心臓をくり抜かれたのはこちらだ。握り潰され、自分は消滅した。しかしテラーは肩を竦める。

 

「私はあくまでテラーだ。恐怖(テラー)であり、語り部(テラー)である。語り部、という存在が何故必要なのか。それと世界の声を聞き、君は理解して舞い戻ってくる。その時にこそ、信じられるものは何か分かるはずだ」

 

 ナインには分からない。テラーは敵であった。だというのに今の相手はまるで自分の復活を望んでいるかのようだ。

 

「お前は何だ?」

 

「テラーだよ。だがね、誤解しないで欲しいのは私は究極的に中立なんだ。この【物語】のテラーでもある」

 

 テラーが指し示す。ナインは右手の甲に浮かんだ「9」の文字が光り輝くのを目にした。

 

「俺に貫けと?」

 

「それは君にしかできない」

 

 ナインは雄叫びを上げ、テラーの心臓を射抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 想像の世界で起こっていたことが現実の世界で起きた。

 

 ナインはテラーの心臓を右手に掴んでいる。羊皮紙の心臓だった。ウェンディ、人魚、それにフック船長や副長が目を瞠る。

 

「俺は……、テラー、お前の」

 

 その言葉を紡ぐ前にテラーの心臓は破裂した。墨のようになってしまった血飛沫が舞い、テラー本体がぶすぶすと消滅していく。

 

『びっくりした……。だって今、ナイン、あんたがやられたように見えたのに……』

 

 ベルの声にナインは墨で汚れた指先に視線を落とす。

 

「事象の歪曲……」

 

 ぽつりとこぼした声にベルが、『えっ?』と聞き返す。直後に割れんばかりの歓声が響き渡った。フック船長は我がことのように喜んでいる。副長の傷も無事だった。ナインの応急処置によって大事には至っていない。

 

「剪定者、テラーを……」

 

 フック船長が立ち上がりよろめきながら近づいてくる。ナインは、「ああ」と右手を手袋に仕舞った。

 

「倒せたのだな」

 

 レイピアを落としフック船長は膝から崩れ落ちる。まさか死んだのか、とナインは思ったがどうやら感極まったらしい。涙ぐんで何度も口にする。

 

「ありがとう、ありがとう……。お陰でまだピーターが戻ってくることができる、この世界を守れた」

 

 人魚たちの賛美も止まない。

 

「これで私たちの物語が生まれるわ」

 

 赤髪の人魚の涙にナインは一人だけ取り残されたように感じていた。異変を感じたベルが尋ねる。

 

『どうしたの? 嬉しくないみたい』

 

 ナインは周囲を見渡す。一人だけ、この世界から人物が消えていた。

 

「なぁ、ウェンディはどこへ?」

 

 その言葉に首を傾げたのはフック船長だった。

 

「何を言っているんだ。ウェンディなんてピーターと一緒に消えてから帰ってきていないぞ」

 

 ナインはフック船長を見やる。歓喜の瞳の内側に赤い電流の残滓が見られた。ナインは顔を伏せる。

 

「どうした? 貴殿がこの世界を守ってくれたお陰で」

 

「そうだな。俺の職務は果たした」

 

 だが、何も終わってはいない。まだ何一つ、終わっていなかった。

 

 



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ACT FINAL「星屑の物語」

 

「忘却の世界から亡命権を得たのは一名の人魚です。彼女は付随物である他の人魚と共に別の物語への特権を許すことになりました」

 

 ナインは滞りなく人造天使に報告する。人造天使は、『ご苦労』と今も同期されているであろう物語の情報網をさばくのに忙しい。

 

『その世界、新しい物語世界を〝人魚姫〟と命名。核となる主人公の名をアリエルとする』

 

 人造天使の命は絶対だ。今の一言で物語が新しく構築される。ナインは惑星のように浮き上がっている物語の一つが追加されたのを目にした。まさしくビッグバンのように光が広がり、小さな白色矮星の物語がまた一つ。

 

『剪定者ナイン。疲れているだろう。百時間の休暇を命ずる』

 

 ナインはしかし引き下がらなかった。人造天使ゼルエルは怪訝そうにする。

 

『どうした? 下がっていい』

 

「畏れ多きことながら人造天使ゼルエル様。俺は一つだけ、明確にしなければならないことがあります」

 

『何か。必要なことのみ述べよ』

 

 腹腔に響き渡る人造天使の声にナインは腹部を押さえて口にした。

 

「あの時、事象の歪曲が行われました。俺が、剪定者ナインが死んでいるはずだった事象が歪められ、瞬時にテラーの消滅へと書き換わった」

 

『確証はないだろう?』

 

「いいえ。俺のこの傷が証明です」

 

 ナインはコートを捲った。腹部に銃創がある。フック船長の銃によってつけられた傷だった。咄嗟の事象の反転だ、直前の怪我までは騙せない。ゼルエルは、『何が言いたい?』と重々しく訊く。

 

『テラーを倒せ、そう命じたはずだな。その命を果たした。それでいいではないか』

 

「何も。人造天使ゼルエル様、何も解決しておりません。テラーを倒す、でしたね。果たしてテラーは本当に倒されたのでしょうか? テラーは、〝倒す〟ということができる存在なのでしょうか?」

 

 ナインの疑問にゼルエルは沈黙を返す。ナインはそのまま捲くし立てた。

 

「もし、俺がテラーと事象の歪曲で存在を反転されたとすれば、俺もまたテラーなのではないでしょうか。そもそもテラーも剪定者も、倒すことなどできないのではないか、と思っています」

 

『根拠は?』

 

「物語の黎明期より剪定者は存在する。それと同時期にテラーの出現が確認された。これは閲覧許可の下りた情報でしたよね? 俺は最初、剪定者という白血球があるからテラーというガン細胞があるのだと、光があって闇があるのだと考えていました。ですがもし、それが逆だとするのなら? つまりテラーが光で、我々が闇であった、とするのならば?」

 

 ナインの言い草にゼルエルは罰するでもなく聞いている。この人造天使の間ではベルの権限は剥奪され聞かれることはない。だからこそ自分は話している。

 

「テラーは、俺に言い聞かせました。あの、現実でも物語でもない中間の世界で、語り部であることと、可能性という光が生み出す存在であることを。その時はピンと来なかった。でも今にして思えば、あれはテラーが自分自身のことを言っていたのではないか、と思うのです」

 

『可能性こそが自分だと?』

 

 ようやく口にしたゼルエルにナインは首肯する。

 

「可能性の枝葉を切ることが、正しいと思っていました。ですが、それは誤りだったのでは? いや、誤りというのは違う、終わりのないいたちごっこなのではないか、と感じました。何故ならば誰かが物語を見聞きした瞬間、その時から可能性は発生するのです。たった一人でもいい、物語が一つ存在すれば一つの可能性が出現する。それはきっと誰にも止められないのです」

 

 子供たちの横顔を目にした。その時の子供たちは誰一人として同じ顔をしていなかった。誰一人として同じように物語を受け止めるわけではないのだ。

 

『では剪定者ナイン。物語の可能性を摘む行為は間違っていると?』

 

「いいえ。増え過ぎた可能性はいずれ切らなければならない。無限にあった解釈は絞られなければならない。他の誰でもない、大人の手によって。永遠の子供であることなどできないのです」

 

 人造天使は機械の翅を広げて情報網を読み取っている。その姿にナインはある人物を読み取った。

 

「どうして、ウェンディは世界を渡れたのでしょう。彼女は永遠の子供ではないはずです。ピーターパンの物語だけ閲覧されなかったのはどうしてなのでしょう。あの世界には確かに、海賊も人魚もいたというのに」

 

『何が言いたい』

 

 ナインは人造天使へと目線を投げて言い放った。

 

「俺がピーターパンなら、ウェンディはどこへ行ったのでしょうか。ピーターが剪定者となり〝無慈悲な大人として〟可能性を摘み取るのならば、ウェンディは? 彼女がいるとするのならば、今はどこでしょうか。彼女もまた大人になったのでしょうか?」

 

 ナインは人造天使を見据える。人造天使は瞼を上げた。空のように澄んだ青い瞳がそこにあった。

 

「人造天使ゼルエル様。いいえ、あなたこそが、オリジナルのウェンディなんですね?」

 

 その言葉に人造天使は初めて表情を作った。笑みの形に吊り上げた口元を手で覆う。

 

『いつから分かっていたのか、聞かせてもらえる? ピーター』

 

「最初におかしいと思ったのは、体温です」

 

 体温、と人造天使――オリジナルのウェンディは繰り返す。

 

「あの世界のウェンディの手を掴んだ時、体温がなかったんですよ」

 

 体温のないのは剪定者だけだ。そうでないとすれば、さらに高次の存在ということになる。なるほど、とウェンディは納得する。

 

『あの世界で、あなたに出会う時間を合わせるために急ごしらえで創った躯体では、体温の有無まで確認する暇はなかった』

 

「もう一つは、ウェンディの存在を契機にしたように全員が俺をピーターだと言いはじめたこと。俺自身もピーターと自分の境目が曖昧になり始めていた。そもそもどうして俺がこうまでしてフェアリートリップに関心を持っていたのか。ただの妖精の粉を利用した麻薬程度に。あなたは理解していた。俺の基が、ピーターパンであるのならば彼女の」

 

 ナインは目線を振り向ける。発言権を奪われたベルが浮かんでいた。

 

「――ティンカーベルの魔法の粉が利用されることを快く思わないことに」

 

 無意識下。それも自分の素体の部分だ。ナインの声を否定するでも肯定するでもなく、『難しいと思っていた』とウェンディは応ずる。

 

『完全にフェアリートリップの関心を消すことは』

 

「妖精の粉を撒いて、どういうつもりだったんだ?」

 

『誘導しているつもりはなかったの。ただあなたの側が引き寄せたということ。消し切れないあなたの自我が、無意識に引き寄せた結果なのよ』

 

 ナインは頭を振った。

 

「……俺自身も、まさかそういうことだとは思わなかった。ウェンディ。テラーが教えてくれた。剪定者は、何かしらの物語の主人公の、成れの果てなのだな?」

 

『あなたのよく知る隣人のファイブは赤毛のアン? イレブンは宮本武蔵?』

 

 ウェンディは頭を振った。

 

『誰もその証明はできない。何故なら基の物語はもうないから。テラーが存在し続けることは物語は忘れ去られるという最悪の結末にはならないということ。今回、ピーターパンの世界を救うにはテラーの存在は必然条件だった。人魚は自分の物語を所望したが、フック船長はまだあの物語にこだわっている。テラー打倒という目的の一致があの物語をあと十年は永続させる』

 

 可能性を摘み取る側だった自分がテラーを倒すために新たな物語の可能性を開いてしまった。その皮肉にナインは歯噛みする。

 

「テラーは全てを了承していた。示し合わせていたのか?」

 

『いいえ。そのようなことは不可能。テラーは、どこにもいないしどこにでも存在する。物語の発生する以上、同じように発生する語り部の存在。誰の声でテラーが囁くのかは誰にも分からないけれど、一つだけ言えることは物語が紡がれる以上、テラーを完全に抹消することは、物理的にも現実的にも無理だということ』

 

「……俺がテラーを倒しても、あのテラーが〝倒された〟ということは一つの不幸でもあるわけだな。語り部が一人、不在になった」

 

『何てことはない。忘却の物語があるのと同じ数だけ生み出された物語はある。意外と均一なのよ。物語消滅と発生というのは。泡のように』

 

 つまり語り部の不足はあり得ない。ナインや他の剪定者がこれから先、またテラーと見えたとしても別のテラーが常に存在する。忘れ去られた物語から剪定者を生み出すのとその量は均一だ。

 

「終わりのない物語はない。エンドロールが流れるから物語は物語なのだと」

 

『でも人類が消滅でもしない限り、物語は量産される。あるいは人類が消えても、恐竜でも植物でも、蟻でも、物語はあるのかもしれない。彼らなりの手法で、彼らなりの言語で。その時、絶対に必要になるのがテラーと剪定者。どちらも欠かすことはできない。人造天使ゼルエル――またの名をウェンディ・モイラー・アンジェラ・ダーリング、という個体の命令がなくとも剪定者は本能に従って物語を狩るでしょう。テラーは原始本能があれば出現する。お互いの衝突は避けられない』

 

「だが歩み寄りはできる」

 

 ナインの声にウェンディはせせら笑う。

 

『テラーとの共生を望むの?』

 

「いいや、恐らくは無理だろう。それこそ本能だ。お互いがお互いを滅ぼすようにできている」

 

 ナインは身を翻した。ベルをコートのジッパーに入れてやり人造天使の間を後にする。

 

『ねぇ、ピーター。戻りたいのならば戻ってもいい。忘却の物語をピーターパンの物語に戻すことは可能よ』

 

「不可能だ。ヒロイン不在の物語はヒロイン不在のままだし、それにピーターパンもウェンディも随分と大人になってしまった。再演はまず無理だろう」

 

『ではあなたは何? 不完全に主人公の記憶を持ち、不完全に、今までのように冷徹な物語の殺し屋に徹することはできない』

 

「違うな、人造天使」

 

 ナインは肩越しに一瞥をくれてやった。

 

「――俺は剪定者ナイン。物語の滅殺者だ。それ以上でも以下でもない」

 

『ならば選べ、剪定者ナイン。物語の可能性をお前は広げるのか、それとも我々の範囲内に収めるのか』

 

 我々、というのは物語を殺す影の同盟。今までのように何も知らず剪定者として生きることはできる。しかし自分は知ってしまった。あのテラーの分まで背負ってしまった。手袋を外し右手の甲に視線を落とす。滅殺の右手、「9」のナンバリング。

 

「どちらでもない。俺は、物語を殺す。だが俺の物語は俺のものだ。誰にも殺させない」

 

 ナインは手袋をつけてその場を立ち去る。どこからか笑い声が聞こえてきた。少女のものであるかのようだったが、ナインにはそれが今まで出会ったどの魔女よりも邪な独占欲に塗れていることに気がついていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ふえ? ナイン、おはよう……』

 

 アクセス権限を復活されたベルが目を覚ます。ナインは相棒の遅い寝起きに叱責する。

 

「遅いぞ、人造妖精」

 

『……何だかすごく長い夢を見ていたような、そんな気がする』

 

 ベルのこぼした言葉にナインは冷たく返す。

 

「人造妖精が夢を見るのか?」

 

『失礼しちゃうなぁ。夢だって誰でも見るでしょう』

 

「ああ、そうだ。だから誰の頭の中にだって物語はある。俺はその夢さえも殺さなければならない」

 

『……ナイン?』

 

「行こう。星の数ほどに俺が殺さなければならない物語はあるのだから」

 

 黒いコートを翻し、物語の滅殺者は音もなく動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ありがとうございました。後ほどあとがきを投稿して完結します。


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あとがき

 

あとがき

 

 拙作『剪定者ナイン』をここまで読んでいただきありがとうございます。

 あるいはこのあとがきだけでしょうか。いずれにしても、ここで申しますとすれば、この作品に少しでも興味を持って下さりありがとうございます。

 この作品が結局、どういう話だったのか、を紐解きつつそもそもどういう経緯で書いたのかも話せればと思います。

 このオリジナル作品ですが、一時期賞レースに投稿していた際に書いたものの一作でして、ジャンルとしては自分ではメタフィクションファンタジーだと考えていたのですが、そもそもはナインというキャラクターから生まれた作品でして、「黒衣の旅人帽の暗殺者」というビジュアルから考え出した話です。

 やはりカッコいいキャラを書きたかったのですが、ポケモン二次創作『MEMORIA』の主人公のビジュアルに近いものを使いつつ、オリジナル作品で模索した結果ですね。

 物語を巡り歩くキャラクターというアイデアは仮面ライダーディケイドからの影響が大きいでしょうか。ディケイドの二次も昔書いていたのでまったくの無関係ではないかなと思います。

 ……ですが、結構前の作品ですので、こうして書いてみてもあんまり思い出せることはなかったり……。

 とにかく毎月のように作品を書き出していたころの作品ですので、何かとギラギラしているというか、野心のようなものは窺えるのですが、そのころと自分の考えがある意味では現状変わってしまっていますので、作品を解剖しようにも難しいですね……。

 言っておくこととすれば、オリジナルにこだわっていた頃の作品の中でも、それなりに外向きにかけていたといいますか、内向的にはならない作品だったのかなとも思います。

 ほかにもオリジナルはたくさんあるのですが、ハーメルンやピクシブで投稿する気になるかどうかはちょっと今のところはわかりません。

 ひとまず、この作品に関して言うとすれば、自分の中の伸びしろを信じて書けていたというか、何かしらを目指して書けていたのかなと感じています。いえ、別に今、創作意欲が減退しているわけではないのですが、ある意味ではこの時の感覚に戻ることは難しいかなと。

 ですが、この感覚を忘れずにこれからも創作活動に邁進したいと思いますので、またよろしくお願いします。

 剪定者ナインとベルの物語はこれにて終わりますが、新たにまた書ければ幸福かもなとも思っておりますので。

 それでは。

 

2020年12月21日 オンドゥル大使より

 



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