気づいたら幽霊が家に住み着いていたけど、ホラーは苦手なので全力でラブコメしたいと思います。 (葵 悠静)
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第一章 幽霊との遭遇
1話 霊感はありません。……多分


超不定期更新で行き当たりばったりのラブコメを書きます。 

どうなっていくのかは作者自身も分かりません。

温かい目でお読みいただけるとありがたいです。よろしくおねがいします。


 始めに言っておこう。

 俺こと九条聡独身(恋人募集中)には霊感はない。

 

 ガタッ!

 

 生まれてこの方24年、幽霊なんてものは見たことがないし、何かの視線を感じるーだとか、急に体が乗っ取られてわけわからない行動をしちゃったーなんてことはまったくない。

 

 普通に朝起きて9時に会社に出勤して事務仕事をこなし、定時には帰る。

 そんな日本中どこにでもいる普通の生活を送っている社会人だ。

 

 バタン!

 

 えー、大学に進学すると同時に一人暮らしを始めた。

 一人暮らしを始めて早6年目。もう一人で生活するのには慣れっこだ。

 もちろん一人暮らしを始めたばかりのころはあまりの解放感にいろいろと羽目を外したものだが、今はそんなこともない。

 2DK3.5万円という田舎ならではの、好物件安家賃の素晴らしいアパートに住んでいる。

 もちろん周りには何もない。コンビニまで車で15分、スーパーとなれば30分、最寄りの駅は1時間だ。

 毎日がドライブ気分だ。素晴らしいだろ?

 

 ガチャガチャガチャ

 

 ……えっと……ただ一つネックなのは一人暮らしにしてはこの家は広すぎるってことだな。

 借りた当初は恋人作って同棲するにはちょうどいいだろう!とか考えてたわけだけど……そもそも恋人ってどう作るんでしたっけ?誰か俺に教えてくれませんかね。

 

ガチャガチャガチャ……バタン!

 

「あーもううるせええ!!」

 

 現実逃避終了。

 

 俺は自室のスライド式の扉を思いっきり開けると、音がする方へと目を向ける。

 さっきまでうるさいくらいにガチャガチャなっていた扉は今は何の音もしない。

 動く気配すらない。

 

 当然だ。なぜなら俺は独り暮らしだ。

 この家で扉を開ける人間はこの俺しかいない。

 俺が触ってもいないのに、ドアノブがガチャガチャ音を鳴らすはずもないし、ましてや扉がいきなり開くはずがない。

 

 でも聞いてほしい。自室に戻りながら、今の状況の理解を拒もうとしている俺自身の心へと語りかける。

 最近明らかにおかしいだろ?

 

 自室でネットサーフィンしていたら、隣のダイニングキッチンから物音がするし、確認してみたらテーブルの上に寝かして置いていた少年雑誌がなぜか立てられてたりする。

 家に帰ってくるなり、消臭剤を振りまいた直後のにおいが玄関に漂っていたりもする。

 それにテレビゲームをしているときはやたらと、寒気がするし寝転んでると背中が重くなったりしてくる。

 

 でも俺は幽霊なんて信じない。これはきっとよくあることなのだ。

 消臭剤を振りまいたにおいも朝の出かける前に使っていたものが残っていたのかもしれないし、テーブルの上の少年雑誌も寝ぼけている間に縦向きにしたのかもしれない。

 

 きっとこれは独り暮らしを長く続けたゆえの、自由を得続けてしまったが故の代償なのだ。

 何が言いたいのかわからなくなってきたが、とにかく俺はポルターガイストとか幽霊とかそういった類のものは信じないし、俺に霊感は一切ない!

 

ガチャガチャガチャ……バタン! シュッシュッ

 

……多分。



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2話 幽霊ですか、強盗ですか。トイレに行きたいです。

「ただいまー。ふいーー、疲れたーー」

 

 一人暮らしが長くなればなるほど独り言が多くなる。

 これは案外一人暮らしあるあるなのではないだろうか。

 

ガラガラガラ……ボトン!

 

 今日はトイレかー。何の音だろう。あとで確認しとこ。

 

 あと特に返してくれる人もいないのに「ただいま」を帰るたびに言う。

 あーあ俺もアニメみたいに「おかえりなさい。ご飯にする?お風呂にする?それとも……」みたいなべたべたなセリフ言われたいなー。

 

 しょうもないこと考えてないでさっさと飯食ってyutubeでも見るか。

 

……ボトン。

 

 今日は主張が激しい日かー。ちゃんと夜寝れるかなあ。

 ……ああ、最近物音に関しては慣れてきて普通になんとも思わなくなってきた。

 何がとは言わないけど、今日もやってるねーくらいの感覚である。

 慣れってすごいよね。

 

「ん?」

 

 しかし俺はここでトイレに違和感を覚える。別にいつもと変わらず、扉は閉まっているのだが、感覚的に何かがおかしいのだ。

 

「なんだ?」

 

 音がするところには基本近づかない。これ俺の最近の家でのマイルール。

 一人暮らしでこの家は全部俺のもののはずなのに近づけないとかほんとわけわかんないよね。

 

 しかし一度気になってしまうと確かめたくなるのが、人間の性というもの。

 このままでは晩御飯もおいしく食べることができない。どうせ冷凍食品なんだけど。

 

 決心して恐る恐るトイレの方に忍び足で近寄る。

 トイレの中から聞こえていた物音は全く聞こえなくなっていた。

 

 妙な緊張感に襲われながら、トイレのドアノブに手をかける。

 

 ……ガチャ。

 

「……は?」

 

 ……ガチャガチャガチャ

 

 ……鍵、かかってるんですが。

 その事実をようやく頭が理解した瞬間に全身に寒気が走り、鳥肌が立つのを感じる。

 勢いよくドアノブから手を離すと思わず数歩後ずさりをする。

 しかしそんなに広さはない我が家すぐにダイニングキッチンへとつながる扉に背中がついてしまう。

 

 いや、おかしいでしょ。なんでトイレのカギが閉まってるの?

 俺は今帰ってきたばっかり。そしてトイレは外側から鍵は閉めれない。

 いや外側から鍵の開閉ができるトイレとか聞いたことないし、実際にあったとしてもだれも使わないだろうけど。

 何、最近の幽霊はトイレするの? トイレの時にプライバシーとか気にするの。

 恥じらいとか覚えちゃうタイプなの?

 

 ……いや、ちょっと待て。俺は最近の物音現象からそういう幽霊の類に関連付けて考えてしまう傾向にいる。

 幽霊なんて信じてないんだけどね。まあうちにはいるかもしれないね。

 でも冷静に考えてみれば、一般的な常識として幽霊は存在しないものだ。むしろ最近の現代社会では娯楽として提供されているほどだ。

 

 じゃあほかに何が考えられる? 俺が帰ってきてしまっているトイレのカギ……。

 強盗……とか?

 俺の家に盗みに入ったはいいもののろくなものは置いていないうえに、タイミング悪く家主の俺が帰ってきた。

 とっさに隠れた場所がトイレだとしたら……。

 

「どっちにしろ怖いわ!」

 

 思わず声をあげてしまった後にあわてて両手で口を押える。

 恐る恐るトイレの方に目を向けるが、特にアクションがあるわけではない。

 

 とりあえず突然トイレが開いて襲われるっていう展開はなさそうだ。

 口から手を離すとほっと一息つく。

 

 ただし問題が解決したわけじゃない。このままでは俺は家のトイレをずっと使えないわけだし、いつ襲われるかもわからないから満足に眠ることすらできない。

 

 トイレ立てこもり犯VS家主ってか。

 面白い、やってやろうじゃねえか!

 

 ちなみに今震えてるのはムネアツ展開による武者震いだからね。

 決して怖いから震えてるんじゃないからね。ほんとだよ?

 

 あーーー楽しいなあ!



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3話 ポルターガイストがエスカレートしてますよね。

 トイレの扉とにらみ合うこと数分、扉が開く様子は一切なし。

 心なしか尿意を催してきた俺にとって、現在の状況は不利であるといえるだろう。

 

 家に帰ってきたら、一人暮らしなのにトイレのカギが閉まっていた。

 そんな未知なる状況に心臓をバクバク……ドキドキワクワクさせながら今トイレに立てこもっている奴と対峙している。

 

 このままにらみ合いをしていても俺の尿意が限界を迎えて、自宅にいるのにお漏らしをするという最悪の事態を招いてしまう。

 それだけは避けなければならない。たとえ誰も見ていないとはいえ、そんなのは嫌だ。

 

 しかたない。作戦を変えよう。

 

「……あのぉ、通報したりしないので、出てきてもらえませんか?」

 

 …………。

 

 静寂。完全な静寂。トイレの中から一切の返事が返ってくることはない。

 徐々に自分の耳が熱くなっているのを感じる。というか顔が熱い。

 いや、普通に恥ずかしいよね。一人暮らしなのにトイレに向かって話しかけているとか変人じゃん。

 なんも知らない人がこの場面見たら病院案件だよ。俺なら救急車呼ぶよ。

 

 ……しぶといな。

 こうなれば作戦Bだ。

 俺は玄関に入ってすぐのところに置いたリュックから財布を取り出して、そこからあるものを取り出す。

 

「外から鍵の開閉はできないといったな。あれは嘘だ」

 

 あれ、口に出していったけな? 言ってないかもしれないけどまあいい、ここは雰囲気で乗り切ろう。どうせしゃべってるの俺一人だし。

 

 財布から取り出した丸い銅を目の前に掲げると、思わず口角が上がる。

 だんだんこわく……緊張がほぐれてきたな。

 

 手に持っているのは何の変哲もない10円玉。

 しかしこの10円玉がキーアイテムなのだ。

 

 俺はトイレの扉の前に音をたてないように近づくと、そのまましゃがみ込んで鍵穴を見る。

 うちのトイレのカギの外側は丸く縦に穴が開いている。

 そしてその穴にはピッタリ10円玉が刺さる。

 

「そしてこの鍵穴に刺した10円玉を、こうやって回すと……」

 

 ……カチャリ。

 

 鍵穴は綺麗に半回転し、鍵の開く音が廊下に響いた。

 

 勝った。

 

 俺は素早くトイレから離れて様子をうかがう。

 しかしトイレからは特に何の反応もない。

 何かが飛び出してくることがなければ、扉が開く気配すらない。

 

 立てこもり犯はさすがにあきらめたのか?

 再びトイレにゆっくりと近づき、ドアノブを掴む。

 途端に鼓動が恐ろしく早くなり、その音が耳の奥で響く。

 手はじっとりとした湿っ気を帯び、額からは嫌な汗が流れだすが、いまさら泊ることはできない。

 

「開けますよー」

 

 一応一声かけてから俺は勢いよくトイレの扉を開け放った。

 

 ……トイレの中には誰もいなかった。そう誰もいなかったのだ。

 しかし目に入る光景はやはりどこかおかしかった。

 

 トイレットペーパーが便座の中に向かってだらんと伸び、トイレ内の棚に置いていたはずの芳香剤が床に転がっている。

 

 音の正体はこれか……。

 俺はやけに冷静な頭でトイレに入ると、トイレットペーパーをちぎり流して、芳香剤を元の場所に戻した。

 

 結局俺は独りでトイレと格闘し、誰もいないトイレに向かって話しかけてどや顔で鍵を開けたっていうことだ。

 

「……俺はいったい何をしていたんだろう」

 

 トイレには流しきれなかったトイレットペーパーの端切れとむなしさだけが残っていた。

 

 フフフ。

 

 なんか誰かに笑われたような気がするけど気のせいかな。



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4話 ぷっちんできないタイプのやつなのに、プッチンした

「疲れた……」

 

 トイレ立てこもり犯もとい一人寸劇を終えた俺は自室に入るとすぐそこにあるベッドに倒れこむ。

 

ふふふふふ……

 

「おお笑え笑え。さぞかし滑稽だろうよ」

 

 そういえば最近物音のほかに新しいレパートリーが増えた。

 今のような笑い声なのかすきま風の音なのか微妙なラインの音である。

 もちろん最初のころはそれはもうビビり倒していたが、最近はこれも慣れた。

 

 むしろ物音よりも慣れるのに時間はかからなかった。

 なんでだろうね。人間の神秘だね、永遠の謎だね。

 

 ベッドに倒れこんだ瞬間一気に疲れに襲われた俺の体は動きそうにない。

 このままでは何も食べずに眠ってしまいそうだ。せめて風呂には入らないと……。

 

「……そういえば」

 

 俺はあることを思い出して重い体を無理やり起き上がらせてベッドに座り込む。

 そういえば昨日プリン買ってたな。

 晩飯で案外腹いっぱいになったから食えなかったんだった。

 

「ご褒美だ。プリン食べよ」

 

 何を隠そう俺は甘党だ。その中でもプリンは大好物の部類に入る。

 昨日の俺はテンションが高く、コンビニで新発売されていたちょっとお高めのプリンを買っていたのだ。

 

 きっと今頃冷蔵庫の中でキンキンに冷えて俺に食べられるのを待っているに違いない。

 うん、プリンのことを考えたらなんか体が軽くなってきたぞ。

 やっぱりプリンは最強だな。

 

 肩を回しながら体が軽くなったことを実感すると、ベッドから降りてすぐ隣の部屋であるダイニングキッチンにある冷蔵庫へと向かう。

 自室に向かった時とは違い足取りは軽かった。

 

 ふふふふふ……

 

「プリン、プリン」

 

 昨日の俺からの思いがけないサプライズにテンションの上がった俺はプリンの鼻歌を歌いながら、冷蔵庫を開ける。

 開けた瞬間の冷気を顔面に浴びるとともに、俺は目の前の光景にくぎ付けになった。

 というか思考停止した。

 

「え、ないじゃん……」

 

 いや、正確にはある。プリンが入っていたであろう丸い空の容器が冷蔵庫の中でキンキンに冷えて、置かれていた。

 中身は空っぽでよっぽどきれいに食べたのかカラメルの一つさえついていなかった。

 

「え、俺食べた? うそ?」

 

 頭が混乱している。

 この冷蔵庫に入っているプリンは間違いなく俺が昨日買ったやつだ。蓋の上の値札に『444円』と書かれている。このぞろ目は間違いない。

 それにプリンの容器の横には袋が開けられていない付属のプラスプーンが置かれている。

 

 俺が食べたとしたとしてもまず、空の容器を冷蔵庫に入れたりしない。

 百歩譲って俺がぼけてて空の容器を冷蔵庫に入れたとしてもだ。

 俺はスプーンを使わずにプリンを食べるなんて、そんなことは絶対にしない。これは誓って絶対だ。

 

 つまりこのプリンを食べたのは俺じゃないということになる。

 じゃあ一体誰が……?

 

 ふふふふふ……

 

 家の中に突如響く笑い声。

 それはこれまでの風の音のようなか細い音ではなく、はっきりとした人の声だった。

 

 …………そういうことか。

 物音やら声やらをあげて存在を示してくる何か。

 いつの間にか一人暮らしの俺の家に居座わっている何か。

 

 考えたくもないが、きっと俺の家には何かいる。それはもはや否定しない。

 俺の家で俺がこのプリンを食べていないのであれば、残された選択肢は一つしかない。

 

 プッチン。

 

 理解した瞬間俺の中で何かが切れる音がした。

 そして気づくと足は先ほど笑い声がした、というか最近は頻繁に物音がしている奥の部屋へと向かっていた。

 

 幽霊だろうが泥棒だろうが、ホームレスが入り込んでいようが関係ない。

 プリンを食べた報いは受けなければならない。

 そもそも夜中にがたがた物音させているのにもいい加減腹が立っていたところだ。

 いい機会だ。一言言ってやる。そこに何がいたとしても一言言ってやる。

 

 大きく足音を立てながら一切使っていない余った部屋の扉を勢いよく開け放つ。

 扉を開けた瞬間、冷房もつけていないというのに部屋から冷たい空気が流れてくる。

 当然扉の向こうは電気はついておらず、部屋の中にはだれもいなかった。

 でも確実に何か気配を、こちらを見てくる視線を感じる。

 

 しかしそんなことは関係ない。

 俺は一度大きく息を吸い込むと口を開いた。

 

「からになった容器は冷蔵庫に戻すんじゃなくて、ちゃんとごみ箱に捨てろ!!」

 

 ……あれ、俺そんなことに怒ってたんだっけ? 違うよな?

 もっと言わなきゃいけないことがあったはずだ。

 いかんいかん、怒りで頭が真っ白になっていたようだ。

 

 俺は一度深呼吸すると再度口を開く。

 

「あと俺の金で飯を食うなら皿洗いぐらいしろ!」

 

 ……ん? 違うな、これもなんか違う。

 

「深夜にがたがたすると近所迷惑だから、静かにしろよ」

 

 そこまで言い切った俺は部屋の扉を閉める。

 あれ? 俺は結局何が言いたかったんだ?

 俺が言いたかったことってこんなことだったっけ?

 

ふふふふふ……

 

 扉のすぐ向こうからまたか細い音が聞こえてくる。

 ……まあすっきりしたからいいか。



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5話 共同生活がうまくいきそうで油断したら、こういうことになる。

 ガタガタガタガタ……バタバタバタ……

 

 あー、あの感じは本棚揺らして本を落としたな。

 

「うるさいぞー。あと落とした本元に戻しとけよ」

 

 一人ベッドに寝転んでスマホをいじりながら、まるで誰かに話しかけるように独り言をしゃべる一般男性24歳。

 

 こういう言い方をすればただの完全な変人になるだろうが、俺の場合は違う。

 

 この何気ない一言がポルターガイスト現象によく効くんだよ。

 

 ぷっちんプリンの一件があってからというもの、幽霊の方にも俺の言葉が通じてるんじゃないかと思うようになってきた。

 

 現にさっきまで隣の部屋でガタガタなっていた音は止まってるし、さすがに落とした本を戻しているかどうかはわからないが、最近はいつもこんな感じだ。

 

 夜中の物音がうるさければひとこと声をかければ朝まではピタッと止まるし、この間のトイレのいたずらのようなものも数は減ったような気がする。

 

 なくなってはないけどな。

 

 案外ポルターガイストや幽霊とも話し合えば、分かち合うことができるんだよ。

 

 みんなまず怖がって敵として接するから敵対することになるのだ。

 俺のように相手のことを受け入れてだな、そして説教でもしてやれば幽霊だろうがなんだろうがイチコロですよ。

 

 最初怖がっていなかったかって? ……そんなことはもう忘れた。

終わりよければすべてよしっていうだろ、つまりそういうことだよ。

 

 幽霊なのか妖怪なのかなんなのか知らないが、俺は今家に住みついているだろう何かとうまく共同生活ができるんじゃないかと思っていた。

 

 そう思っていたんだよ……。

 

 たぶん俺は完全に調子に乗っていた。

 

 

「うわ~、なんじゃこりゃ……」

 

 次の日仕事を終えて家に帰ってきた俺はキッチンの光景を見て頭を抱えていた。

 

 シンクの中で散乱する大小よりどりみどりのボウルたち。排水溝から刃を鋭利に突き立てて飛び出している包丁。

 

 そのほかにも皿が割れていたりと、事件現場さながらシンクの上はひどいありさまだった。

 

 なんでこんなことになってるわけ?

 

 基本的に俺は朝ごはんを食べて、その時に出た洗い物はその日の夜にまとめて洗うようにしている。

 

 もちろん朝からそんな凝った料理はしない。

ボウルなんてこんなに4つも5つも使わないし、むしろ一つも使わないことがほとんど。包丁ですら朝は使わない。

 

 よし、考えを整理していたら目の前の状況にやっと頭が慣れてきたぞ。

 冷静になった頭をフル回転させながら、シンク以外の部屋の様子を確認する。

 

 それ以外は特に変わった様子はなかったが、テーブルの上に見慣れない空容器が置かれているのが目に入る。

 

「……そういうこと?」

 

 テーブルの上でご丁寧に蓋をされて置かれているプラスチック容器は、昨日俺がコンビニで買ったチーズケーキが入っていた容器にとても似ている。

 

 そして肝心のチーズケーキ本体はそこに存在していなかった。

 

 ぽつんと置かれたそんな空容器を見ながら俺は以前自分が口走ったことを思い出す。

 

「食うなら皿洗いくらいしろ……その結果がこれか?」

 

 シクシクシク……

 

 まさか本当に実行しようとしたとか?

 

 いやそもそも人が買ったものを勝手に食う時点でダメなんだけど、それはあの時俺が指摘できなかったし、仕方ない。

 

 それに今回は食べた後にちゃんと皿洗いをしようとした? 結果なぜか洗うべき皿は割れていて、他の洗い物が増えている状況になっているわけだけど。

 

「じゃあ俺が悪いかあ」

 

 まさか幽霊が約束を守ろうとするなんてなぁ。

 約束を守ろうとした結果、皿洗いのやり方がわからなかったのかあ。

それに今回は空っぽになった容器も、冷蔵庫には戻してない。

この間の俺の言葉を覚えていたようだ。

 

「ゴミ箱に捨てろって言ったら捨てるかな?」

 

と言ってもゴミ箱がどれか分からなくて、またメチャクチャになるかもしれないな。

 

 鼻歌交じりにシンクへと行き、割れた皿の破片を片付ける。

 

 やり方がわからないのに約束を守ろうとする幽霊って、約束を守らない人間よりいいやつなんじゃね? 

 

 今度またデザートでも買ってきてやろうかな。

 

 はじめ見たときはさすがに衝撃すぎて絶句だったけど、経緯がなんとなくわかればかわいく思えてくる。

 

 幽霊って不思議だな。

 



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6話 なんか見えちゃってるんですけど、これって妄想?

 洗い物という名の事件現場の後始末を終えた俺は綺麗になったシンクを見て、謎の達成感を覚えていた。

 

 こう意味もないことをやり終えたときって、こう何とも言い難い達成感があるよな。そんな感じ。

 

 まあこの洗い物は全く意味がなかったわけではない。あんな包丁が突きたてられた場所で食器を洗うなんてことはできないし、必要なことだったんだ。

 俺があんなことを言わなければこの手間はなかったんだけど、そのことはもう忘れた。

 

 そして俺は今回のことをある程度予想していた。

 いやさすがにシンクが荒らされている……洗われているなんてことまでは想像していなかったけど、そういうことじゃなくてデザートの話。

 

 同じミスを二度繰り返す俺ではない。

 これでも職場では『そこそこできる男』として評価されているのだ。

 

 濡れている手を拭きながら、何かに勝利したような勝ち誇った気分で冷蔵庫へと近づくと、二段目の段の基本的に野菜しか入れていない野菜室を開ける。

 

 そう、この冷蔵庫は三段式なのだ。

 

 一番上は開閉式の飲み物とかその他もろもろを入れられる便利室。三段目は冷凍室。

 そして二段目は主に野菜を入れるのであろう引き出し式の野菜室。

 一人暮らしをするときに実家から持ってきたお下がりの冷蔵庫。

 

 昔から見慣れたものだし、こいつを見ると実家に帰ってきたような安心感がある。

 ……まあ野菜室とか言っておきながら野菜なんてほとんど入れたことないけどな!

 

 今入っているのも2リットルの多種類のジュースがほとんどだし、そもそも男の一人暮らしでこの冷蔵庫は正直供給過多だと思うんだよな。

 一人暮らしの男なんて野菜を使った料理なんてめったに食べないだろ?

 少なくとも俺は食べない。コンビニ弁当最高。カップラーメン最強。

 

 おや、一人暮らしの味方、もやしさんがいるではないか。

 よかったな、野菜の帝王もやし様のおかげで野菜室のメンツは保たれたな。

 ……違う、俺はこんなことをしたいわけじゃないし、コンビニ弁当もカップラーメンも称えるために野菜室を開けたんじゃないんだよ。

 ましてや別にもやしの袋を掲げてにやつきたいわけじゃないんだよ。

 

 迷走する思考をリセットするために頭を掻きながら、取り出したもやしを速攻で野菜室へと戻す。

 

 本命はこれだよ、これ。

 

 俺は三個きれいに横長に並べられてラッピングされているそれを取り出す。

 底面に固定された段ボールのような質感の紙にはでっかく『プッチンプリン! あなたもプッチンしてストレス発散!』とでかでかと蛍光色で書かれていた。

 

「さすがにこれには気づけなかったようだな」

 

 ガタガタガタン! ばた……ガシャガシャ……!

 

 俺のご褒美であるデザートを狙うなにかはこの冷蔵庫の一段目に甘くおいしい何かが入っていることは、前の一件で学んでいる。

 

 一段目のチーズケーキはいわばフェイク。

 二段目に入れておいたこの三個入りプリンが俺の大本命だったってわけだ。

 

 おっと、チーズケーキも二段目の野菜室に入れとけばよかったんじゃないかって突っ込みはなしだぜ?

 

 なぜなら俺は『そこそこできる男』の称号を持つもの。チーズケーキは食われるくらいがちょうどいいのだ。

 

 ……まあほんとは、この間買って寝ぼけてたのか単純にぼけてたのか謎に野菜室に入れてしまったプリンの存在を、洗い物しているときに思い出したってだけなんだけど。

 

 そんな真実は俺しか知らないし、何ならこんな一人芝居までしてプリンもって勝った気になっていることも俺しか知らないし?

 

 ……なんかむなしくなってきた。

 むなしくなって冷静になったら、すごく寒気がしてきた。めちゃくちゃ鳥肌立ってるんですけど、なにこれ?

 

 突然襲い来るとてつもない寒気とともに背筋を震わせながら、腕に立っている鳥肌を眺める。

 

「……トイレ行ってから食べよ」

 

 机の上にプリンを置くと、食器棚から小皿と小さいスプーンをセットする。

 よし、準備は完璧。あとは自分の体調を整えるだけ。

 

 待ってろよ!プリン!全員俺がおいしく平らげてやる!今の俺は甘味不足なんだ!

 俺はいい感じに冷えているプリンを横目に見ながら、猛ダッシュでトイレへと向かった。

 

 

 

「ふいー……」

 

 すっきりしたぜ。

 いや、トイレの感想なんてどうでもいいんだ。

 

 俺にはあのプリンたちを早く食べてあげないといけないという果たさねばならない使命がある。

 気持ち足早に部屋へと戻ろうとするが、俺の家でトイレから部屋なんて徒歩三歩だ。

 

「……ん?」

 

 俺はダイイングキッチンへと続く部屋の扉に手をかけて、ふと違和感を覚える。

 なんか足元から異常なほどに冷たい風が流れてきてるし、部屋の中から気配がする……。

 

 それはいつもこの部屋とは反対側にある物音が鳴り響く部屋から感じるような、それでいていつもよりも強い何かの気配。

 

「き、気のせいだろ」 

 

 俺は早くなる鼓動をごまかすように一人でひきつったように笑うと、何も気づかなかったふりをして、部屋へ続く扉を開け放った。

 

「…………は?」

 

 とんでもない冷たさの空気を全身に浴びながら目の前で待ち構えていたのは、おいしそうに置かれたプリン——ではなく机の上で体育座りをして両手にそれぞれ一個ずつプリンを持っている女の子だった。

 

 長い前髪の間から手に持ったプリンを興味深そうに眺めるそれは、俺のことに気づく気配がない。

 

 そしてなにより、一番異常だったのは、その女の子の体が透けていることだった。

 

 

 ……え、なにこれ。俺の妄想? 

 



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7話 立場が逆だと思うんですけど、どうしてあなたがおびえてるんですか?

 よし、ちょっと今起こっている状況を整理しようか。

 俺はトイレに行った。トイレから帰ってきたらテーブルの上で透けている女の子が座っている。

 

 ……はああああ、だめだ。全く理解できない!

 

 目をこすっても頭を振っても、その場で一回転しても目の前で佇む女の子は消えない。

 

 俺はこんなに混乱しているというのに、目の前で膝を抱えて座る女の子はプリンに夢中なようで全く俺のことに気づいてないらしい。

 

 女の子って決めつけてるけど、髪が長くてパーカーで萌え袖してるから、そう判断しただけだからな。

 

 実際のところ人間なのかどうかも怪しい。というか人間ではない。

 だって透けてるんだもん。本来女の子に隠れていて見えないだろう窓際に置いている段ボールが丸見えだもん。 

 

 それよりもまじまじと手に持った?宙に浮いた?プリンを眺めているけど、それ本当に見えてるのか?実は自分の髪を必死に眺めてましたってそんなことはない?

 

 俺の頭は思いのほか冷静で、いや冷静ではないけど現状を理解しようと女の子を観察できるくらいには落ち着いていた。

 

 女の子の前髪は長くそしてパーカーをかぶっているため、ほとんど顔が見えない。

 真正面に立っている俺が顔を確認できないのだから、女の子の方は視界も自らの髪の毛とパーカーによってほとんど塞がれているのではないだろうか。

 

 そしてあなたはそのプリンを持って何をするつもりなんだい?

 

 ものすごく嫌な予感がするのは俺だけだろうか。いやまあ俺しかいないから俺だけなんだろうけど、とにかく何かとても嫌な予感がした。

 

 そういえば部屋に入った時に感じた猛烈な寒気がなくなっている。

 普通に立っていられるし鳥肌も立ってない。

 さてなんて声をかけたものか……。

 

「とりあえず机の上には座るな?」

 

 俺が声を発すると同時に目の前の子はびくっと体を震わせると、両手に掲げていたプリンを落としながら、こちらに顔を向けた。

 

 えー、今俺の存在に気づいたの?俺一応ここの家主なんですけど。

 ていうか、びっくりしたいのは俺の方なんですけど。

 

 こちらに髪の隙間から真っ白な瞳を向けてくる彼女は実に童顔だった。

 え、若くない?もっとこう痩せこけたザ・お化け的なのを想像してたのに、めちゃくちゃ可愛くない?やっぱり妄想なの?

 

 女の子は困ったように俺の顔と机の上に落とした自分の足元にあるプリンを交互に見つめる。

 俺もつられるように女の子の様子と横に転がっているプリンの様子を眺めていたが、ぺりぺりという音が聞こえたと思ったら、一瞬でプリンの蓋が開いていた。

 

 そしてその中身が消えていた。女の子が持っていた二つとも同じように中身がなくなっていた。

 

「俺のプリン……」

 

 俺は呆然としながら女の子の方に視線を戻すと、女の子は頬を目いっぱい膨らませながら、口をもきゅもきゅと必死に動かしていた。

 

「え、食べたの?今の一瞬で?」

 

 さっきは俺の言葉に反応した女の子だったが、今は口の中にあるのであろうプリンを食べるので必死なのか、俺の言葉に反応することなく頬に両手を当てながら涙目になりながら一生懸命ほおばっている。

 

 しかしその顔が若干幸せそうに見えるのは気のせいだろうか?まあ幸せだろうな、プリンを一気に二個も食べられたんだから幸せだろうけど。

 

 そりゃあ二つのプリンを一気に口に入れればそうなるわな。ていうかそんなこと俺でもしないし、何その贅沢。俺もやってみたいんだけど、今度やってみよう。

 

 そもそも今のは何?なんで手も触れてないのにプリンが口の中で一瞬で入るわけ?

 もしかして今までもそうやって俺が買ったデザートを食ってたってこと?

 

「そんなんじゃだめだ……」

 

 俺は気づけば口を開いていた。何とかプリンを飲み込めたのか女の子は再びおびえた様子で、ウルウルとした目でこちらを見つめている。

 

 いやとる態度は普通逆だと思うんだけど? いや逆だとしても俺がおびえながらプリンほおばることになるから、それはそれでおかしいけど。

 

「プッチンプリンはプッチンしてこそだろうがああ!!」

 

 気づけば俺は彼女と向き合う形で座ると、残っていたプリンを手に取って大きくそれを掲げていた。

 

 目指す場所はただ一つ! 目の前のこいつに本当のプリンの食べ方について教えてやる!!



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8話 聡のプリン講義

 いろいろと言わなきゃいけないことはあったと思うけど、そんなことよりも今は目の前のこの子にプリンの食べ方を教えてあげるのが先決だ。

 なんか前にもこんなことなかったっけ?

 

「まずお皿とスプーンを用意します」

 

 女の子はおびえながらも俺が天高く掲げているプリンにその目はくぎ付けだ。

 どうやら奴も甘いもののとりこになってしまったようだ。

 甘党の世界へようこそ。

 

「次にお皿の上にプリンをこうやって乗せます」

 

 俺は説明口調で話しながら、プリンを逆さにしながら皿にのせる。

 

「……あ、蓋開けてなかった。おっちょこちょいだなあ、俺は」

 

 …………。

 ボケに対して一切の反応を示さない女の子。もはや俺の方すら見ていない。その視線はプリンしかとらえていない。

 

 大丈夫?人に興味を示さず動かないって、それは幽霊として大丈夫?

 やっぱり妄想か?

 

 俺は部屋の中の冷たい空気にむなしさを感じつつ、蓋を開けて再度プリンをさかさまにした状態で皿の上に置く。

 

「ここからが大事だぞ。よく見とけよ」

 

 俺は一呼吸置くと、プリンの底面にある飛び出した突起に手をやる。

 カチッという小さな音とともに突起部分を折るとそこに小さな穴が入り、プリン容器の中に空気が送り込まれる。

 

 そしてゆっくりとじわあっとプリンは底面から離れて皿の上に落下する。

 

 まずプッチンプリンのいいところその一。このかちってやる瞬間がちょっと気持ちいいんだよな。

 

 皿の上に完全に着陸したプリンを確認してゆっくりと容器を離す。

 皿の上で自由になったプリンがその全身をぷるぷると震わせていた。

 

 プッチンプリンのいいところその2。このぷるぷるに愛らしさと食欲を感じるんだよね。ビジュアルも完璧とかほんと何者って感じ。

 

 ふと女の子の方に目を向けると、初めて見るプリンの姿に驚いているのか目を輝かせながら、プリンの動きにつられるように左右に揺れていた。

 

 えーなんかかわいいんだが。幽霊だとしたら完全にアウトだろうが、女の子としてなら相当可愛い。

 幽霊にかわいさを覚えてる俺はやばいかもしれない。

 

「このぷるぷるを堪能したら、スプーンを手に取ります」

 

 俺はスプーンを手に取り、プリンを崩さないようにゆっくりと端っこにスプーンを差し込む。

 そしてカラメルとその下の部分を一気にとると、そのまま口に運んだ。

 

 ……んーー、うまい!

 口の中に広がる甘みとほのかに感じるカラメルの苦み。

 カラメルと本体を別々に食べる人もいるらしいけど、俺は断然一緒に食べる派だな。

 プリンのうまみはこの濃厚な甘さの中の苦みなのだ。

 

 プリンのいいところその3。最強にうまい。

 

「プッチンプリンっていうのはこうやって食べるのが一番だと俺は断言する。わかったか? あんな食べ方は俺の前ではするな」

 

 よくよく考えたらなんで俺はこの子にプリンの食べ方で長々と説教しているのだろうか。もっと他に言うことあるんじゃない?

 まあ今はプリンを食べるのが第一だが。

 

 しかし事件は起こる。

 

 俺が二口目のプリンをスプーンに乗せようとしていた時だった。

 一瞬だった。止めることもできず、目で追うことすら不可能。

 

 またもや目の前のプリンが消えていた。代わりに皿の上に乗っていたのは、俺がプッチンした後の空のプリン容器。

 

 恐る恐る体育座りしている目の前の女の子に目を向けると、案の定彼女はとろけそうな笑顔をこちらに見せながら、口をもきゅもきゅと動かしていた。

 

「俺三個のプリンのうち、0.1割しか食べてませんけど!? 俺が買ったプリンの3分の29.9割のプリンを食べるってどういうこと!? 返しなさい!」

 

 言っていることが意味不明だし、口の中に入れられたプリンを返されても困るのだが、俺は気づけば女の子のその膨らんだ頬に向かって両手を伸ばしていた。

 

 そこに恐怖は一切なかった。なぜなら必ずかの暴虐な幽霊かイマジナリーフレンドか何者かわからない彼女を、俺は止めなければならない。

 

 さすがに女の子も驚いたのか迫ってくる俺を見て、大きく目を見開くとその体は後ろへとのけぞる。

 

「あ、危ないぞ!」

 

 しかし机の後ろに支えなどない。しかも机はそこまで大きくない。

 彼女はバランスを崩して机から頭から落下しそうになる。

 

 俺はそれを助けようとさらに前のめりになり、同じくバランスを崩す。

 俺は彼女に突っ込む形で机へと突っ伏した。



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9話 ラッキースケベ展開かと思ったら、真夏のホラー展開でした。

 机に体を乗せる形で前のめりに倒れこんだ俺は衝撃を避けるように、反射的に目を閉じていた。

 

 でも今の状況は、見なくても大体想像がつく。

 必然的に目の前の女の子に覆いかぶさる形になっているはずだった。

 

 男であればだれでも一度はあこがれるであろうラッキースケベイベント。

 柔らかい感触はしないが、それを自覚すると徐々に恥ずかしくなってきた。

 

 徐々に顔の体温が上昇し、心臓の鼓動が早くなる。

 ……あれ、寒い。寒い寒い寒い寒い!!

 

 それは外側から与えられている外気温的な寒さではなく、体の内側来るようなまるで体の芯から凍らされているような、そんな異常な寒さだった。

 全身に鳥肌が立つ。今すぐこの寒さを何とかしなければ俺の命のともしびが消える。

 

 この寒さにかき消される!

 生命の危機を感じた俺は目を見開く。

 

 目に入ったのは女の子の柔肌……ではなく、ただの見慣れたうちの床。

 

 あれ、倒れる寸前で逃げられたのか?まあ無事ならいいけど。

 ていうかあの子が幽霊だとしたら、というか見た目的に実体はないんだから別にかばわなくても、特に被害はなかったんじゃ……?

 

 暗闇から解放された俺の頭は徐々に回転し始めるがまだ鈍い。正常な思考はできていない。

 俺は頭を振りなるべく体が冷えないように動かしながら、床に手を付き机の上から横にずれるように移動し、机の横に寝転がる。

 

 この寒さはどこから来てるんだ……?

 

 俺は寒さのもとを辿るように目線で先程本来であれば女の子が倒れたであろう床の方へ目を向ける。

 

 そこには机からずれるためにバランスを取ろうとして置いた俺の手。

 そしてそこにはフードが取れて目を回している女の子の顔があった。

 ていうか俺の手が女の子の顔面に思いっきりめり込んでいた。

 

「うおおおおあああ!? ごめん!」

 

 急いで手をよけてまるで自首寸前の立てこもり犯のようになぜか両手を高く振り上げていた。

 

 直後全身に駆け巡っていた寒気は消え失せ、正常な体温が体に戻ってくる。

 

 これが原因か……。ていうかさっきまで手のちょっと下に顔を突っ伏してたってことは、彼女の胴体に俺の顔をめり込ませてたってことだよな……。

 

 尋常じゃない寒気は彼女の体に触れたことが原因で、そもそも顔が熱くなったのも机に変なふうに体を預けていたから血が頭に上って行っていただけなんじゃ……。

 

 変に回る頭で考えていると、やけに目の前から視線を感じる。

 

 そこからはさっきとはまた違った冷たい空気が流れてきている。

 ていうかまた鳥肌が立ってる。

 

 まあ見なくても何がこっちを見てるかなんて想像できるけど……見るしかないよなあ。

 

 俺はため息を噛み殺しながら、逆に息をのんで視線を感じる方へ目を向ける。

 

 ……怒ってるんだろうなあ、これ。めっちゃプルプルしてる。さっきの皿の上に載ったプリン以上にプルプルしちゃってるんだけど。

 

 目の前にはいつの間にフードをかぶったのか、フードを深くかぶり前髪の隙間から鋭い視線で睨みつけてくる女の子の姿があった。

 

 心なしか目が涙目なのは俺がよく見えていないからか、それとも本当に涙目なのかどっちなんだろう。

 

 それにしても初めて立っているところを見たけど、想像したとおりそこまで身長は高くないようだ。俺と頭一つ分くらいの身長があるから、どうしても彼女は上目づかいで俺のことを睨みつけることになる。

 

 これ人によってはご褒美なんだろうなあ。俺にはそんな趣味はないし、そんなことよりも寒気が半端ないからこの状況を何とかしたいんだけど……。

 

 見つめ合うこと数秒。俺は意を決して口を開く。

 

「えー、なんだ……? プリンおいしかったか?」

 

 うん、きっとまた俺は言うべきことを間違えたんだと思う。

 

 女の子は顔を真っ赤にすると一気に俺に迫ってくる。

 

 ちょっと待って、実力行使はきっと勝てないんじゃないかな! そんな気がする! 男として情けないけど、ものすごく生命の危機を感じる!

 

 俺はとっさの防衛反応で両手で顔をかばうようにして、全身に力を入れる。

 

 その直後俺の体を何かがすり抜ける感覚が走り、全身にこれまでとは比較にならないくらいの寒気に襲われる。

 

 あまりの体温変化に体がついていけず、気づけばその場に両膝を床につけて呆然としていた。

 

 ……バタン! ……バタタン! ハアハアハア……

 

 真後ろの扉が開く気配とともに、激しい物音が家中に響き渡る。

 

 いつもの物音が聞こえる部屋から笑い声か泣き声かよくわからないか細い声が聞こえてくる。

 

 状況を把握して全身の緊張から硬直を解かれた瞬間、緊張の代わりに凄まじい疲労感に襲われ、俺はその場で倒れこむ。

 

 俺の体はすり抜けるのに、扉は律儀にあけていくのかよ……。

 

「あと、そっちの部屋は別に君にあげたわけじゃないからな」

 

 まるで自室に戻る勢いで戻って行ったけど、そこも俺のテリトリーだからね?

 あげたつもりないからね?

 

 いつもと変わらない的外れなことを考えながら、そのまま気を失うように眠りについた。

 



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10話 なんだかんだ仲良くなってきたので、名前を付けようと思います。(前編)

 未知の遭遇、というかポルターガイストの正体?との邂逅から早数週間が経った。

 

 俺はというと、特にこれといって日常が変わるわけではなく、いつも通り会社に行って、普通に仕事をして、上司に怒られて、しょげて帰ってきて、おいしいスイーツが食べられている。

 

 そんな当たり障りない毎日を過ごしている。

 

 最後は独り暮らしなのに食べられてるっておかしくないかって?

 俺のイマジナリーフレンドか幽霊みたいなあの女の子の主食は俺がコンビニで買ってきたデザートだよ?

 

 あの子生クリームたっぷりのエクレアだろうが、ちょっと試しに買ったきなこ餅の飲み物とかすらも飲み干すんだよ?

 

 俺にとってはこれも日常の一部になっている。

 最近はもうあきらめて三個入りとか二個入りとか買ってくるようにしている。

 まあたまに全部食べられてるんだけどね!

 

「んー何がいいかなあ」

 

 最近の日常を振り返りながら、俺は今家の中でメモ帳とにらめっこしている。

 家では絶対に仕事をしない主義の俺がしていることはもちろん仕事ではない。

 プライベートで自室でメモ帳開いて頭悩ましているって、そんなことめったにないんじゃないだろうか。

 

 そういえばデザートを食べた見返りの皿洗いだが、毎回あんな惨状が生まれるのは俺としても勘弁してほしいので、普通にお断りしている。

 

 でもこのままだと俺が損しているばっかりだから、今度掃除でも教えてみようか。

 ゴミ箱にごみを捨てるくらいならあの子でもできそうだ。

 

 ……なんかすごく嫌な予感しかしないけど、今は深く考えないでおこう。

 

「ポチ?いやあ、犬っていうよりは猫っぽいよなあ。じゃあ無難にタマとか?」

 

 メモ帳にとりあえず書いては見るものの、なんだかしっくりこない。

 うーんなかなかいいのが出てこない。

 

 がたがたがた……。

 

 今日も元気に活動しているらしい。

 最近は物音の頻度はかなり落ちた。というか一日に一回あればいい方だ。

 

 たまに俺が心配していると、生存報告のように音を鳴らしてくれる。

 生存報告って生きていない何者かに向かって使うのはおかしいのかもしれないけど。

 

 そもそも心配ってどういうことだよ。

 

 物音が減った代わりに最近は帰ったり、朝出かける前に姿を見せることが格段に増えた。

 

 だいたい物陰からこっそりこちらを観察しているだけで、俺の方に近寄ってこないんだけど、ちょうど死角の位置から白いフードをのぞかせて、真ん丸な瞳でこちらを見つめている。

 

 ……なんだろう。俺の魂でも狙ってるのかしら。俺は食べてもおいしくないよ。

 

「んー……あまりペットぽいのもどうかと思うしなあ。存在が人じゃないとしても見た目は人だし?こちらとしても呼びづらいよなあ。あの子が幽霊だとしたら……レイとか?安直すぎるか」

 

 バタン! ガチャ……パタン。

 

 メモ帳に雑に書かれたポチとタマの名前を横戦で消して、思い付きで書いたレイという文字も消そうとしたとき、ものすごい勢いで自室の扉が開いて、女の子が飛び込んできた。

 

「きゃーえっち!……じゃなくてどうした?」

 

 俺は反射的に下半身を隠したが、別にやましいことはしていなかった。なんも隠すことはなかった。……ほんとだよ?

 

 そんな俺のボケを華麗に無視しながら女の子は俺が向かい合っている机の上に正座で座る。

 

 前髪から見える目はきらきらしていて、頬が若干紅潮しているように見える。

 基本透けてる白だからほんとに若干だけどね、若干。俺じゃなきゃわからない。

 というか、色の変化とかあるんだね。興奮してるのか?

 

 いやそんなに見つめられると困るんだけど。

 

 俺はついに食べられてしまうのだろうか。

 デザートでは物足りなくなった彼女に捕食されてしまうんだろうか。

 

 「えーっと……シュークリームあるけど食べるか?」



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11話 なんだかんだ仲良くなってきたので、名前を付けようと思います。(後編)

 何かしゃべらなければと強迫観念に近い何かにかられた俺は、自分自身のデザートであるはずのシュークリームを進めてみる。何やってるんだ俺は?

 

 目の前の女の子は俺の言葉に反応して一瞬首を縦にこくっと振ったものの、そのあとすぐに思い直したのか、はっとした表情を見せながら、ふるふると横に振りなおす。

 

 風呂とかはいってないだろうに、どうしてこの子はこんなに髪がサラサラなんでしょうね。

 実は俺の知らない間に風呂に入ってるとかそんなことある?

 さすがにそうなってくると水道代折半にするか考えちゃうけど。

 

 俺は頬杖をつきながら、目の前の女の子が首を振るたびにさらさらと流れに任せて揺れている髪をじっと眺める。

 

 女の子は唐突に首を振るのをやめると、思い出したかのように俺の目の前にあるメモ帳をじっと見つめていた。

 

 そうそう、俺が出かける前とか帰ってきたときとかもこうやってすごい目力で見つめてくるんだよな。

 

 メモ帳に魂はないと思うよ?多分。

 

 そういえばこの子に言いたいことがあったのを思い出した。

 

「だから机の上には座るなよ?なに?お気に入りなの?ちょこんと座っているのはかわいいけど、でもだめだよ。行儀悪いよ?」

 

 女の子は俺の話を聞いてもいないのかずっと俺がさっきまで文字を書いていたメモ帳を眺めている。

 

 会話が進まない……。まあ一日通して、休日の日は俺は終日独り言しかしゃべってないから会話なんて何一つ成立してないんだけど。

 

「なに、そんなに気になる?俺そんなに字汚い?」

 

 そんなに見つめられると嫌でも気になるじゃん。これでも社会人として最低レベルの文字の綺麗さは保っているはずだ。

 

 仕事しているときですら最低レベルだからな。今俺が書いているこの文字が読めるかどうかなんてことは知らん。

 俺が読めるからいいんだよ。

 

 女の子はいつまでたっても彼女の意図に気づかない俺に業を煮やしたのか、メモ帳にかいている文字を指さす。

 

「ん?ポチ?」

 

 フルフル。

 

「タマ?」

 

 フルフル。

 

「ポチ?」

 

 ぶんぶんぶん。

 

 あー、髪がサラサラだー。すごいなあ、触ってみたいけど触れないだろうなあ。

 女の子の髪ってみんなこんなさらさらなの?すごいね女の子って。人間の神秘だね。

 

 目の前のいる子は人間じゃないけど。

 

 どうでもよい思考をしていると、目の前から冷たい空気が流れ始める。

 冷気の先を見ると女の子がふくれっ面でこちらを見つめていた。

 残念!そんなことをしても可愛いだけだから俺には全く効果がない!!

 

 あ、寒い、寒いです。ごめんなさい。ちゃんとやります。すいません。

 

「えっと……レイ?」

 

 コクコク!

 

 まだ横線で消されていない文字『レイ』にボールペンで指さして呼ぶと、さっきまで首を横に振ってたのに、今度はヘドバン並みに激しく縦に振っている。

 

 もしかして俺がこれやってるのずっと聞かれてたってこと?

 

 そう、今日俺はこの貴重な休日の一日を使って彼女の名前を考えていた。

 まあ一日ってまだ30分くらいしか費やしてないんだけども、それでも考えていた。

 

 いや、幽霊か俺の想像なのか何者なのかわからない奴に名前を付けるなんて自分でも変だとは思う。

 

 でも出かける前とか帰ったときとか物陰から出迎えてくれて、俺が買ったデザートをおいしそうに平らげてくれやがって、俺が話しかけると物が飛んできて反応してくれる。

 

 まあそんな律義な同居人に愛着がわかないわけがないんだよな。

 それでずっとあの子とか、女の子とか、おーいとか、彼女とか呼ぶのはなんか違うなってなるじゃん?

 

 彼女って言ってたらなんか紛らわしいし、別に付き合ってないし。

 いやそんなんでからかうのは中学生までですよ、ほんとに。

 ちょっと丁寧な言い方したら女性はみんな彼女でしょ?

 いやこの言い方は語弊があるか。日本語って難しいな。

 

 ともかく俺は目の前に女の子にこっそり名前を付けることにしたのだ。

 そう、こっそりだ。

 しかし俺の作戦は見事に粉砕され、すべてこの女の子に筒抜けだったらしい。

 

 もう首を振るのやめた方がいいんじゃない?首疲れるよ、痛めるぞ。寝違えるぞ。

 

「……さすがに恥ずかしいなあ」

 

 でもこれも怪我の功名。彼女が気に入ってくれたならそれが一番かもしれない。

 

「俺が名前決めちゃっていいのか?タマ」

 

 一瞬で鳥肌とジト目が襲い掛かってきました。

 この子を前にするとついからかいたくなるんだよ。幼い少年の心を忘れてないってことで許してくれよ。

 

「レイでいいのか?名前とかめちゃくちゃ安直だぞ?」

 

 さすがに俺自身も不安になるネーミングセンスだが、目の前の女の子はよっぽど気に入ったのか必死にヘドバンを再開させている。

 

「わかった、わかった。じゃあ今日から君のことはレイって呼ぶからな」

 

 俺は新しいページを開くと一ページ丸々使って『レイに決定!!』と書いた。

 うん思った以上に達筆だ。なんて書いてあるのかまるで分らん。

 

 かくして目の前の女の子の名前がレイに決まった記念すべき日となったわけだ。

 いやあまさかこんなすぐに決まると思ってなかったな!

 

 俺は凝った肩をほぐすようにぐるぐると肩を回してリラックスモードへと移行する。

 

 しかし目の前に座るレイはまだじっとメモ帳を、ていうか『レイに決定!!』と俺が書きなぐった文字を見つめている。

 

「どうした……レイ」

 

 う、なんか名前を呼ぶと途端に女の子らしさというか人間らしさが出て、自分がつけた名前なのにちょっと呼ぶのが恥ずかしいな。

 

 なんだ、このむず痒い感触は。こんなの忘れてたぞ……。

 だって俺が女の子の名前を呼んだのなんてかれこれ3年…5年…いや8年……?

 やめよう過去を振り返るのは。むなしくなるだけだぞ、俺。

 

 しかし俺がこんなにもしょうもないことを考えているというのに、レイはそこから一歩も動こうとしない。

 いつもだったら速攻でどっか行っちゃうのに。

 

「……メモ帳が欲しいのか?別にあげるぞ?」

 

 そういった直後だった。俺の目の前においてあったメモ帳が一瞬で消え、それと同時にレイの姿もかき消える。

 

 そして数秒後にもう一つ部屋がバタンと閉まる音が聞こえてきた。

 そんなにあのメモ帳ほしかったのか。

 

「……て、レイのやつボールペンまで持っていってるじゃん! それは会社でも使ってる普通にいいやつだから!ちょっとお高いやつだから!返してくれますかね!」

 

 その後家の中からは俺の怒号と激しい物音とふふふふという楽し気な笑い声が響いていたと、後日隣人が嫌味たらしく教えてくれた。

 

 あ、ボールペンは普通に見つからなかったし取り返せなかったので、新しいのを買いました。

 

 やっぱり掃除プラス洗い物も覚えさせてやろうかな。



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12話 感情が高ぶると部屋が涼しくなるってそれどこの秘密道具?

 最近レイの特性について一つ分かったことがある。

 

 いや別にレイはポ〇モンでもなければ、ファンタジーに出てきそうなスキル付きの武器でもないんだけど。

 

 むしろ妖怪的な何かである方が可能性が高いんだけど、あの有名な妖怪のようにビジュアル的な怖さもなければ、マスコット的な可愛さがあるというわけでもない。

 

 レイはどちらかというと、人間的な可愛さといった方がしっくりとくる。

 それを真顔で考えている俺もどうかと思うんだけど。

 

 まあそんなことはどうでもよくて、ずばりレイの特性というのは彼女から放出される冷気、寒気、悪寒に関する部分についてだ。

 

 今目の前でレイは机の上で体育座りをしてこちらをじっと見つめてきている。

 日に日に俺とレイの距離は縮まっている。

 精神的な意味ではなくて物理的な意味で。

 

 俺の自室までは入ってこないものの、最近ご飯とか食べているとよく俺の目の前に現れて、こうやってずっと見つめられている。

 

 机の上に座るのはもう諦めた。たいていのことは直してくれるけど、これに関してはいくら言っても直る気配がない。というか直す気がないのかもしれない。

 

 机の上というポジションのどこにそんなお気に入りポイントがあったのかまったく理解はできないが、落ち着いてるからまあいいか、どうせ俺しか見えてないし。っていう投げやりな気持ちで最近は放置している。

 

「食べる?」

 

 俺が食べかけのカップ麺を差し出しても、彼女は首を横に振るだけ。横に振っている間も俺の方から視線は外さない。

 

 顔は動いているのに目だけ動かず固定されている、その体がいったいどういう構造になっているのか俺にも教えてほしい。

 

 レイと初めて会った初日。俺はすさまじい冷気に襲われた。

 でもそれ以降こうやって対面しているだけではレイから寒気を感じることはなくなっていた。

 

 ただし冷気を出すことが完全になくなったかと言われればそういうわけでもない。

 例えば、俺が今こうやってご飯を食べ終わった後、冷蔵庫からプリンを取り出す。

 するとたちまち背後からはものすごい圧の視線と、少なくない冷気が漏れ出してくる。

 

 もちろんその直後に俺の手にあったプリンはなくなっている。後ろを振り返ると体育座りした膝の上にすでに空になったプリンの容器を皿にのせて、幸せそうに口をもぐもぐさせている。

 

 手に持っていたプリンがなくなっていたのは想定内。

 振り返った時に皿が用意されていて、中身がすでに口の中に入っているのは想定外。

 

 いや、どういう早業? 早撃ち世界一の人もびっくりの新技だよ。

 まあ早撃ちとはジャンルが違うから世界一の人はびっくりしないかもしれないけど。

 少なくとも俺はびっくりした。

 

 俺はもう一個のプリンを取り出し自分が使っている座椅子へと戻る。

 そもそもプリンを二つ買っている時点で、一つは取られる前提で考えてるみたいでもうすでに負けているようなもんだよな。

 

 先ほど軽く鳥肌が立つほどに感じていた冷気は今は弱まっている。それでもちょっとした寒気は感じている。

 俺がレイの膝の上に乗っている皿を取ろうと、彼女に手を近づけると弱まっていた冷気は一気に勢いを取り戻す。

 

 いや冷静に考えてるけど、これ本当に寒いんだよ。寒気が半端ない。

 皿は再利用した方がいいかなと思って、手を伸ばしただけじゃん。

 ……別にダジャレを言ったわけじゃない。たまたま。本当にたまたま。

 

 俺はレイの睨むような警戒した視線と寒気に耐えながら、無事皿を確保することに成功する。

 

 そしてしばらくして俺がプリンをプッチンするのと、レイの口の中からプリンがなくなると同時くらいに、冷気も寒気も完全に部屋から消え失せる。

 

 代わりにレイの顔はしゅんとしていた。

 

 いやそんな顔してても俺のプリンはあげないよ?

 奇跡的に皿の上に落とすと同時に、ほとんど食べ終えていた俺のプリンは取られることもなく、全部俺の腹の中に納まる。

 

 ますますしょぼんとした表情のレイは諦めたのか、ゆっくりと立ち上がるととぼとぼと扉をすり抜けて隣の部屋に戻っていった。

 

 といった具合に、レイがびっくりしたとき、警戒しているとき、うれしい時、悲しい時、多分怒っているときもだろうな。レイの感情の起伏が激しくなればなるほど、それに合わせるように冷気が増えているような気がする。

 

 もしレイが何か隠しごとをしたとしても、表情がいくら無表情だろうと冷気が漏れ出せば感情が激しく揺れ動いていることがまるわかりということだ。

 

 つまり俺が何を言いたいかっていうと、レイは超絶わかりやすい子、ちょろい子だったのだ!

 

 ……まあからかいすぎたり怒らせすぎたりすると、当事者である人物、つまり俺は凍え死ぬだろうから、むやみ感情を爆発させてもいいことはないんだけど。



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第二章 幽霊の成長
13話 すごい今更な気もするけど、やっぱり妄想じゃなくて現実みたいです(前編)


 仕事から帰ってきて珍しくその日のうちにコンビニで買ってきたモンブランをほおばりながら、俺はレイについて考えていた。

 

 もちろんレイも今俺の目の前で、俺を見下ろす形で机の上で正座をして俺が買ってきたプリンを幸せそうに食べている。

 ちゃんと皿の上にプッチンしているから、レイもプッチンプリンのこの食べ方がお気に召したようだ。

 

 まあそのプリンも別にレイのために買ってきたわけではなく、夜小腹が空いたときとか明日食べようとか考えてたわけなんですけど、そんなのは甘い考えでしたね。

 スイーツだけに。

 

「……はあ。ギャグにセンスのかけらも感じられない」

 

 モンブランを食べながらため息をついている俺の姿を、レイは小首をかしげながら見つめてくる。

 

 俺のセンスのなさをレイは気づかなくてもいいんだよ。そのまま何も知らない純粋に育ってくれ。そして俺のギャグで笑ってくれていいんだよ。

 

 だから俺が食べているモンブランをかすめ取ろうとしないでね?

 モンブランはおいしくいただくから。そんな獲物を狙うような目線で冷気をこっちに飛ばしてこないで。モンブラン凍っちゃうから。

 

 このモンブラン、新発売と書いていたから買ってみたんだが、コンビニスイーツなのにこのフワフワの栗クリームが口の中でほどけるんですよ。

 ほんとにコンビニ侮るなかれ。たまに外れもあるけど、大体それは冒険心が強い商品だから許容範囲内。

 

 そんなふわふわクリームのモンブランを口の端につけているレイの様子を見て、思考を元に戻す。

 当然一瞬でものをかすめ取る技術を持ち合わせているレイさんに、俺が抗うすべなんてなかった。

 まあおいしそうに食べてるからいいんだけどね。

 

 そんなレイだが、結局何者なんだろうか。

 

 一番可能性があるのは俺の妄想、イマジナリーフレンドっていう線。

 一人暮らし生活が寂しすぎて、一人で暮らすにはあまりに広すぎるこの家で知らず知らずのうちに、架空の人物を妄想して実体化させてしまっているのだろうか。

 

 レイが食べていると思っているプリンとかモンブランとかは実はしっかり俺が食べていて、扉が勝手に開け閉めされているとか、別の部屋の物音とかも俺が無意識のうちにそういう行動をとっているとか、妄想で鳴ってる気がしているだけでレイがやっている気になってるとか……。

 

 そういう行動をとっているかもしれないって自覚しているのに、病院に行こうとしていないこの事実が一番やばいんじゃないか?

 

 まあ一つ気になることがあるとすれば、この間のボールペン争奪戦の時のレイの笑い声がお隣さんに聞こえていたらしいから、俺が裏声で笑ってない限り他人にもレイが出す物音や、笑い声は聞こえてるってこと。

 

「ほな、妄想とちゃうかー」

 

 自分にギャグセンスがないから最近有名なお笑いグランプリで優勝した漫才師のギャグを引っ張ってきてしまう始末。

 ……なんかシリアルコーン食べたくなってきたな。

 

 あとレイさん、冷蔵庫開けても今日はもうデザート入ってないからね。

 どれだけ食い意地張ってんだよ。今度普通のご飯も用意してみようか。

 

 二つ目の可能性はやっぱりこの家に住み着いた幽霊ってこと。

 幽霊やもののけの類を信じていない俺である。

 

 ただしここまで物音、物が宙に浮く、デザートの中身だけがなくなるといった定番のポルターガイストやら、体が透けてて普通に俺の体を通り抜けたり、彼女に触れたときの思わず背中が伸びてしまうそれは、ありふれた幽霊の特徴そのものだ。

 

 俺が住む前からいるのか俺が住みだしてから現れたのかはわからないが、ここにずっといて最近存在を示すようになってきた可能性。

 まあ信ぴょう性は高いが、 結局のところレイの姿を見ているのが俺しかいないから何とも言えないんだけど。

 

 あーだめだ。何度かこういうことを考えてはいるけど、いつも同じループに入ってしまって結論が出ない。

 まあなんだかんだレイが現れるようになってから生活に退屈はしてないし、別に困ってないからいいんだけど、気になるものは気になる。

 

 ちなみに食後のデザート代だけはレイが現れる前より3倍ほど増えている。

 なんでだろうね。

 

 考えをリセットするために、俺は大きくその場で伸びをする。すると机の上に置いているスマホからメッセージが来たことを知らせる着信音が鳴る。

 その音にびっくりしたのかレイは冷蔵庫を開けたままこちらに首だけ向けてびくっと震える。

 

 いや絶対に曲がらない角度まで首が曲がってるレイの姿の方がびっくりするし、そろそろ冷蔵庫閉じてもらっていいかな。冷蔵庫の冷気とレイの寒気が合わさって俺の体が凍えそう。

 

 俺がスマホを手に持つと警戒を解いたのか寒気は消えて首の向きも元に戻る。

 冷蔵庫は相変わらず空いたままだ。今は三段目に突入している。

 あれ、確か冷凍庫には保存食のアイスがあったような……。

 

『ゲームしようぜ』

 

 冷凍庫の中身を思い出しながら届いたメッセージを確認すると、そんなメッセージとともにゲームのダウンロード先URLが貼り付けられていた。



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14話 すごい今更な気もするけど、やっぱり妄想じゃなくて現実みたいです(後編)

 スマホが普及して早何年?

 詳しい年数とかはわからないけど、俺がスマホを手にしたのは高校一年生の時。

 当時15歳のころの俺は初めてちゃんとしたメカを手にして、興奮したのを覚えている。

 

 え、てことはもしかしてスマホが普及してもしかして10年以上たってる?

 時の流れの早さにびっくりして、いつもと違った種類の鳥肌が立ってるんだけど。

 

 そんなことを考えているとあっという間に友達から送られてきたアプリのダウンロードが終わって、トップ画面に3Dのよくわからないキャラクターが描かれたアイコンが出現する。

 

 スマホの進歩は著しいね。俺が高校のころなんてこんな3Dゲームなんてなかったよ。

 中学生のころにスマホを持っていた同級生なんて、スマホをもって振ったらライト〇イバーの音が鳴るアプリで大喜びしてたんだから。

 

『ダウンロードした』

 

 簡潔にそう送ると、すぐに電話がかかってくる。

 俺はイヤホンをスマホに装着するとすぐに電話に出た。

 

『ういっスー』

「今日もまた唐突だな。これどういうゲーム?」

 

 アプリのURLを送り付けてきた友達とはたまにゲームをしている仲。

 たいてい向こうからこのゲームをやろうといって、URLを送ってくる。

 それはいいんだけど、その友達は飽き性でだいたい三日後には送ってきたゲームをやめている。

 

『今日のは面白いぞー。なんか幽霊1人がパリピ4人を追いかけるっていう鬼ごっこみたいなゲームみたいだぞ』

「え、幽霊ってもしかしてホラー? 俺ホラゲーできませんけど。寝ますけど。おやすみ」

 

 幽霊という単語に反応したのか、それとも一人で話していることに引いているのかレイが肩をびくっと震わせてこちらをいぶかし気に見つめてきていた。

 多分前者だと思うだろうな。一人で話しているなんて日常茶飯事だし。

 

『いやいや結構人気あるし、やってみたらそんなに怖くないって! 多分、知らんけど』

「まあやってみるけど……明日も仕事だから1時間くらいしかできないぞ」

『OKOK!』

 

 友達も未プレイらしい。

 そもそも幽霊がパリピを追いかけるってどういう状況だよ。

 そんなホラーなのかコメディーなのかわからないゲームを勧めてこないでほしい。

 俺がホラーダメなのは知ってるはずだろ。

 

 心の中でそんな文句を言いながらもその手はアプリを起動していた。

 なになに、興味本位で幽霊が出るという噂の廃墟に訪れたパリピが様々な幽霊に追いかけられるって感じか。

 

 こんなの心霊スポットに自ら行ってるパリピの自業自得じゃねえか。

 そもそも幽霊が出ますよーっていう場所に足を運ぶっていうその思考が理解できない。

 

 こっちとらそんなところ行かなくても、いつでも家に帰れば甘いもの大好きな幽霊が待ち構えてんだぞ。なめんな。

 

「パリピ側に共感できない」

『とりあえずやろうぜ!!』

 

 友達の強い押し、というかほとんど強制といった感じでパーティを組んでゲームが始まる。

 まあプレイしてみた感想は、最近PCとかテレビゲームとかでも流行っているケイドロ的なルールだな。

 確かにやってみればそんなに難しくないし、パリピもそんなウエイウエイしていない。

 逃走している途中に急に踊りだすのはわけわからんけど。

 

 問題があるとすれば幽霊側だった。これが実にリアルなのだ。

 レイみたいに可愛い感じでもなければマスコット的要素もない。

 やけにリアルに皮膚がえぐれて肉がむき出しになっている幽霊とか、帽子で顔を隠していて、その顔を見せたら口裂け女ばりに口が裂けているとか。

 そんな幽霊ばっかりで、そんな幽霊が突然目の前に現れると実に心臓に悪い。

 

「やっぱりホラーゲームじゃねえか……」

 

 まあゲームの感想はそれくらいなんだけど、俺にはもう一つどうしても突っ込みたいことがある。

 

 さっきからレイの髪の毛で俺のスマホの画面がほとんど見えていないのだ。

 レイも俺がプレイしているゲームが気になるのか、俺の顔の前まで首を傾けてスマホの画面をガン見している。

 

 俺の視界いっぱいにレイの頭が見えるのは別に問題ない。だってレイは透けているから、それだけならスマホの画面は普通に見えるし。

 

 ただこの子、自分も同じような存在だろうに幽霊が現れるたびにひっとかキャーとか言って頭を振るからそのたびに髪の毛が俺の手とスマホにどんどんかかっていく。

 

 レイは透けているのに髪の毛の毛量が多い。毛量と透けていることに何の関係があるのかは俺にもわからんけど、しかも髪が長い。

 

 徐々にスマホの上に重なる髪の毛によって、いくら透けているって言ってもスマホの画面が見えづらくなっているのだ。

 

 しかも今はボイスチャット中だからむやみにレイに話しかけることもできない。

 だからこの状況を注意できるはずもなく、俺は初見のはずのゲームをずっと縛りプレイしている状態になっていた。

 

 あとレイの頭がほとんど俺の胸にめり込んでいるからか、手に大量の髪の毛がかかってるからかはわからないが、そろそろ俺の体が凍えてリアル死にしそうです。

 

 ほんとに俺以上に怖がってるんだよ。そのたびに冷気が漏れ出てるし、声も漏れ出ている。

 そんなに怖いなら見なければいいのに、レイの顔はどんどんスマホに近くなっていっている。

 怖いもの見たさってやつなのかね。

 本来なら幽霊の自分自身が一番怖いはずなのにね。

 

『なあ、聡。一ついいか。お前今誰かと一緒にいる?』

「……んー? どゆこと?」

『いやなんかさっきからお前の声とは違う女の子の声が聞こえるっていうか、ノイズが入ってて正確ではないんだけど……気のせいか?』

 

「あーそゆこと。今幽霊に視界塞がれてる」

 

 あまりに普通に聞かれたことと、レイとの冷気耐えバトルに集中していたせいで、普通に答えてしまった。

 

 答えた後に俺の思考はフリーズして、ゲームの操作をやめてしまう。

 あ、パリピが幽霊に食われた。寒い寒い寒い。

 

 幽霊の殺しモーションで俺にも直接ダメージが入っているが、そんなこと気にしていられない。

 ごまかさなければ!!

 

「いや、あー……今のは違くてだな。……あー!窓が開きっぱなしだったわ! その音なんじゃねえかな!」

『そ、そうか。まあ、なんだ……疲れてるんだろ。早く寝ろよ』

 

 その後友達とどういう会話をしていたか覚えていないけど、2.3分話した後に気づけば電話は切れていた。

 

 ご、ごまかせたよな!? ギリギリセーフだよな?

 まあ幽霊がいるって言っても信じられるわけがないし大丈夫だろ!

 

 全身に冷や汗をかきながら、鳥肌を立てているという人体の不思議を体験しているが、とりあえずレイを俺から離れさせないと。

 

「レイ、ゲーム中そうやって見られるとやりづらいから、見るなら隣で見ろよ」

 

 レイはがばっと顔をあげて俺の方を見つめてくるが……いや正確には顔をあげた勢いでレイの顔の半分以上が俺の顔にめり込んでいるから、レイが今見ているのは俺の背後にある風景ってことになるんだが……。

 

 レイは俺の言葉を理解したのか机から降りて、俺の隣にちょこんと座ってまたスマホを眺め始めた。

 

 ところでレイさん?その両手で持っている棒アイスはいったいどこから持ってきたんですかね?

 もしかして食べるつもりか?まさかそこまで無慈悲な奴ではあるまい。

 俺は君を信じているぞ。

 

 俺はそんな意味を込めてじっとレイの方を見つめてみたが、レイは特に反応を返すこともなくスマホの画面を見て顔を青ざめている。

 ……伝わってないな。

 

 まあいろいろとまずいことがあったような気がするが、友達にもレイの声らしきものが聞こえているってことは、やっぱりレイは俺の妄想ではなくて、現実に存在しているってことか?

 

 結局レイが俺から離れることもなければあまりにも熱心に見られるので、ゲームをやめることもできず3時間ほど俺は寒気とゲームの中の幽霊と戦い続けた。

 やっぱり最後まで逃走者側のパリピは好きになれなかった。

 

 そして無事次の日の仕事は寝不足でした。

 ついでにいうとまとめ買いしていた10本入りの棒アイスも全部きれいになくなっていました。

 

 幽霊ってお腹壊さないんだろうか。



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15話 血文字が怖くないって、それは幽霊としてどうなんですか?

「あれ、今日もあるな」

 

 最近冷蔵庫の中のスイーツがなくならない。

 いや、それは全然いいことなんだけど、最早俺が買ってきて食べてなかったらレイに食べられてるっていう流れが最近のテンプレだったからさ。

 

 なんか拍子抜けするというか、まあ食べてないんだったらありがたく俺が頂戴するだけなんだけどね。

 

「まあ本来だとこれが当たり前なんだよなあ」

 

 いつも通りリビングに置いている座椅子に座って、きな粉もちをほおばる。

 

 もちろんこれもコンビニ産である。

 すごいよね、コンビニ。本当に何でも置いてあるんだもん。

 

 そういえばみたらし団子も置いてたような気がするから今度買ってみようかな。

 最近和のスイーツが多いから、もしかしてレイのやつこれをスイーツだと認識してないとか?

 

 いやきな粉もちもみたらし団子も知らないとかそれはもったいなさすぎる。今度買ってきてやろう。

 ……だめじゃん。もうレイに食べさせる前提でスイーツ買ってこようとしてるじゃん。

 

 あくまで冷蔵庫に入っているのは俺のものだから。

 

「ん?」

 

 ふとボーっと机の方に目を向けると、小さな紙切れが置いてあるのが目に入った。

 それを手に取るとその紙切れには『たべた』と小さくかろうじて読める文字でそう書かれている。

 

 まあそこまでは別にいいんだ。いやすでに意味わからないけど、問題なのはそこではない。

 

 その紙切れにかかれている文字が真っ赤なのが問題なのだ。

 

 ……これって俗にいう血文字ってやつだよね? てことはやった人は一人しかいないわけだよね?

 

 というか書いている文字は怖くないのに、それを書くために用いている媒体が怖いってどういうこと? ほら、まだ乾ききってないから垂れてるじゃん。

 

 こういうのって普通は̪私怨の言葉とか書くんじゃないの?

 なに、たべたって。どんだけ演出怖くしてもそんなの怖くなるわけないじゃん。

 

 ん? たべた?

 

 血文字に対してばっかり気になっていたが、書いている文言にも違和感を覚える。

 きっと、いや間違いなく、これを書いたのはレイだろう。

 

 しかし最近のレイは冷蔵庫の中のスイーツを食べていない。

 それにもかかわらず『たべた』っていうってことは、俺が買った何かを食べているっていうことだ。

 

「……あいつまさか!!」

 

 一つの可能性に思い至った俺は跳躍するように一歩飛び出すと、冷蔵庫の前に降り立つ。

 勢いよく冷凍庫を開ける。

 

 まさかな。レイはここにそれがあるって知らないはず……。

 ……ない、ないな。あれおかしいなあ。ないぞー? この感覚久しぶりだな。

 

「俺のハー〇ンダッツを食べたのか!」

 

 楽しみに取っておいたマカダミアナッツ味のハー〇ンダッツがどこにも見当たらない! それどころかまとめ買いしていた箱入りの棒アイスすらなくなっている。

 いや、こっちはまだ箱があるから中身入っているのか?

 

 ……中身が空っぽじゃねえか!

 

 あれだけごみはごみ箱に捨てなさいと言ったはずなのに!

 あれ、そういえばカップアイスの空き容器と棒アイスの棒はどこに捨てたんだろう。

 ゴミ箱の中を一応見るけど、それらしきごみはなさそうだ。

 

 まあそれは後でレイに聞くとして、最近レイがなぜスイーツを食べていないのかこれで判明した。

 

 あの夜更かしゲーム凍えちゃう騒動で、アイスの味を覚えたレイはスイーツではなく、アイスへの興味にシフトしてしまっていたのだ。

 知らず知らずのうちにアイスが冷凍庫から消えていたということだ。

 

 俺はスイーツはほとんど毎日食べているが、アイスは数日に一度しか食べない。

 たいてい週末にまとめ買いをするんだけど、アイスが食べたいなーって舌が言い始めたら食べるって感じ。

 

 その頻度がスイーツよりは少ないっていうだけの話だ。

 しかしまさか今回はそれが裏目に出るとは……。

 

 ん、待てよ? もしかしてこの紙に書かれている『たべた』っていうのは状況報告だけではなく、暗に無くなったから早く次のアイスを買ってきなさいみたいな意味が込められているんじゃないのか!?

 

 おいおいレイよ、俺は君をそんなわがままな子に育てた覚えはないぞ。

 いや、決めつけはよくないな。ちゃんとどういう意図があったのか確認しないと。

 

 それに血文字もよくない。

 

 よし決めた! 今日こそレイに一言物申してやる!

 



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16話 可愛さで訴えかけてくるのは、卑怯だと思います。

「レイ、入るぞー」

 

 自分の家のはずである一室に対して、ノックをして声までかけて中をうかがいながら恐る恐る扉を開けなければならないこの理不尽さや否や……。

 

 扉の向こうは真っ暗で一瞬生暖かい空気が流れてきたかと思ったが、直後にそれは冷気に変わる。

 

 部屋に入られるっていうのはまだ慣れてないのか?

 まあ家主権限で容赦なく邪魔させてもらうけどな!

 

 電気をつけると、レイの姿が目に入る。

 部屋の隅っこの角になっている部分に小さく納まるように、体育座りでこちらを見つめてきていた。

 

「なんか、自動掃除機みたいだな」

 

 ぼそりとつぶやいた俺の言葉が気に食わなかったのか、むすっとした表情を見せたレイは、突然立ち上がりそのまま部屋の中にある丸机の上に再び体育座りをした。

 

 いや、思わず言っちゃったけど、幽霊の待機モードってあんな感じなの?

 こうなんか役目を終えた自動掃除機が充電するために角に納まっているように見えたんだけど。

 

 まあうちの子に関しては洗い物はできないし、おそらく掃除もできないだろうけどね。

 

 まあそんなことはどうでもいい。

 これ以上レイの機嫌を損ねてもいいことは何一つない。俺が凍え死んでしまうだけだ。

 

「これ書いたのってレイか?」

 

 俺は持ってきていた紙切れをレイの前に広げて、見せる。

 レイはじーっとそれを見つめていたが、一回コクっと頷くとまっすぐな瞳で俺の顔を見つめてきていた。

 

 えーっと……これは何を求められているんだ?

 

「よ、よくかけてると思うけど、貧血にならなかったか?」

 

 少量の血で血文字を書くっていうのはなかなかに難しい。

 少年時代、指を切ったときとかドラマとかアニメのまねをしてその血でダイイングメッセージを書こうとしたりしたけど、先生とか親に止められるから成功したことはなかった。

 あれ、俺の思い出だと血の量関係ないじゃん。

 

 レイは俺の顔を見ながらも首をかしげている。パッと見る感じどこも怪我をしている様子はないし、貧血にもなっていないらしい。

 

「この前ボールペン持っていっただろう?それで書けばいいんじゃないか?わざわざ血文字にしなくても」

 

 そこまで言うと、突然寒気が襲ってくると同時にレイは胸の前で両手に何かを握りしめていた。

 

 よくよく見てみると、それはこの前取られたボールペンのようだ。

 そんなに敵を見るような目でこっちを睨まなくても、別にもう取らないから。

 新しいの買ったからそれはレイにあげたつもりだし。

 

 俺はそんな意思を示すために、両手をあげながら机の前に座る。

 案外俺の意思が伝わったのかレイから放たれる冷気はなりをひそめ、素直にボールペンを握りしめてこちらに向けてきた。

 

「まずボールペンの持ち方からだな……。ボールペンはこうやって……」

 

 こうして俺によるレイのためのボールペン講座が始まった。

 

 

 5分後、俺は机に顔面を押し付けていた。

 

 何も知らない相手に文字の書き方を教えるのがむずすぎる!!

 ペンの持ち方だけでめっちゃ時間かかるし、なんか頭をぺしぺしとたたかれているんだけど……?

 

 顔を傾けてレイの方に向こうとすると、頭に当たっていた感触が頬に移動する。

 どうやらレイがボールペンを使って俺の頭に、頬に向かって攻撃しているようだ。

 

 レイは物理攻撃を覚えた!

 

「じゃなくてレイ、ボールペンはそうやって使うもんじゃないだろう?じゃあ文字書く練習するか……」

 

 俺は両手を机につけるとなんとか頭を起き上がらせる。

 レイは即座にたたくのをやめると、紙切れとペンをもってきらきらした瞳でこちらを見つめてきていた。

 

 レイって意外と好奇心旺盛というか、新しいものには目がないんだよな。

 見たことないものを見ると、怖がりながらも自分もやろうとするし、デザートに関しては新作のものは必ず消費しているしな。

 

「よーし、最初は何がいいかな……。『わたしレイは、こんごデザートをたべません』よし、これで行こう」

 

 俺はレイが必死にペンの持ち方を実践しているときに持ってきていた新しいボールペンを使って、割かし丁寧にメモ帳に文字を書く。

 

 しかしレイはなかなか書こうとしない。

 おかしいなと思ってみてみたら、すっごい勢いでこちらをにらんでいた。

 まあ冷気が来てたし、気づいてはいたんだけど勢いで行けるかなって。

 

 ちゃんと意味を理解しているのかこれを書いてしまったら自分に不都合が起きると本能的に悟ったのか、レイは全く書こうとしなかった。

 

 ……ちっ。このまま書かせて書類を盾に俺だけがスイーツを楽しもうと思ったのに。

 このままではらちが明かない。仕方ないか。

 

「じゃあこれはどうだ?『わたしのなまえはレイです』」

 

 新しく俺が文字を書くと、今度はすんなりとレイはメモ帳に向かって文字を書き始めた。

 

 おお初めてにしてはなかなかのスピード。やっぱり血文字はかけるから案外文字を書くのはいけるのかもしれない。

 そんなことを考えているとレイは突如ばっと顔をあげてメモ帳を俺の方に差し出してくる。

 

 どうやら書き終わったようだな。どれどれ……。

 

 …………うん。全く読めない。というか文字になってないよね、これ。

 

 レイがボールペンで書いたものは文字ではなく最早ただの線だ。ミミズ文字ですらない。本当になんて書いてあるのかわからない。

 

「レイ、そんな期待した目で見られても困るんだけど……読めないよ?」

 

 時には真実を伝えることも大切だからな!馬鹿正直に本当のことを言ったらレイはしょぼんとした顔をしてそのまま曲げている膝に顔を突っ伏してしまった。

 頬がつぶれている顔でこちらをじっと見つめてくるレイ……。

 

 そんな顔されたら教えきるしかないじゃんね!しっかりとした文字が書けるまでやりきるしかないだろ!

 明日も仕事だけどそんなの知ったことか!

 

 こうして俺とレイのボールペンで文字を書こう講座が始まった。



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17話 はいそこ、親ばかって言わない。

「レイ! 読めるぞ! 俺には読める!!」

 

 俺とレイの周りには机の上に乗りきらないほどの紙切れが散らばっていた。

 そんな中俺は一枚の紙切れを天高く掲げて大声で叫んでいた。 

 

 あれから3時間、俺とレイは必死にメモ帳に文字を書きなぐってきた。

 

 途中からはなんかレイとかわたしはとかですとかの文字がゲシュタルト崩壊を起こしかねてたよね!

 そしてそんな紆余曲折を経てついに、レイが読める文字を書いたのだ!

 

 もとからなんて書いてあるかわかっていれば読める程度の、内容を何も知らない人が見たら全くなんて書いてあるかわからないレベルのミミズ文字だ。

 

 だが俺にはしっかりと『私のなまえはレイです』と書かれているのがわかる!!

 しかもごらんのとおり、漢字とカタカナをちゃんと使えてるんだよ! この子天才なんじゃない!?

 

「レイ、お前すごいな!」

 

 俺は興奮のあまりレイの頭に手をやってよしよししてしまっていた。

 

 いやレイの頭をなでているつもりだったんだけど、実際には勢い余って俺の手がレイの顔にめり込んで、俺が手刀で彼女の顔を切り刻んでいるような光景になっていた。

 

 レイも達成感があるのか、そんな俺の行動にも抵抗を見せてこない。

 

 それにしても自分がやったことじゃないのに、自分のことのようにうれしいんだが! 

 こんなこと初めてだし、もしかして子供を育てるってこんな感じ?

 

 子どもどころか結婚もしていない、彼女すらいないのに俺もしかして父性に目覚めちゃったの!?

 

 でもここまで俺も超がんばったしな。時々なんでかわからんけど、レイのボールペンが俺の手の甲に当たったりして、俺の方が血文字書けそうなくらいなんだけど。

 だからこれくらい喜んでも別に文句ないだろ?

 

 そんなことを考えていると、レイの方に伸ばしている腕が何やら押し返されるような感覚があった。 

 そちらに目を向けると、何やら必死にレイがボールペンで俺の腕を押し返そうとしている。

 ついずっとやり続けちゃったからな。さすがに嫌になったのかな。

 

 みょんみょんみょんみょんみょん……。

 

 いや、これは別にレイからこういう音が出てるんじゃなくて俺が勝手に想像しているだけなんだけど。

 

 だってレイ、俺が手を離したとたんに自分の両手をこめかみ部分にあてて、顔をしかめながらメモ帳に向かって指向けてるんだもん。

 

 なんか呪文でも唱えそうな勢いじゃん。

 この場合呪文じゃなくて怨念か?

 

 そんなバカなことを考えている間に、レイは机の上に置いていたメモ帳を手にとって一ページを破り捨てて、俺に見せつけてくる。

 

 なになに?

 

『こっちの方が簡単』

 

 レイがふくれっ面で持っている紙切れには、血文字でそう書かれていた。

 ……えー、血文字ってそういう感じで書いてるの?

 なんかイメージと違うんだけど。

 

 もっとこうなんか、指を食いちぎってそこからあふれ出した血で書いてるとかじゃないの? 

 

 何その無駄にすごいハイテク技術。

 

 まあレイが突然指食いちぎりだすのも嫌だけどね。

 確かにこういうやり方なら、文字書けなくても血文字をかけるよな。

 

 レイは手が痛くなったのか、単純に飽きたのかそのまま机から降りると、元いた部屋の隅へと戻っていった。

 

 今はどこから取り出したのか何本ものアイスの棒をジェンガ風に組み立てて遊んでいる。

 結局ボールペンを使って文字を書くことはしないようだ。

 

 俺の3時間の苦労はいったい……。

 

 まあ別に本物の血を使って書いてるわけじゃないし、レイも困ってるわけじゃないから別にいいのか?

 

 あれそういえば俺って何しにわざわざレイのところに来たんだっけ?

 まあ細かいことはいいか。

 

 結局その晩、レイがやっているアイス棒ジェンガを一緒にやって、気づけば深夜になっていた。

 

 ……なんか俺最近寝不足なこと多くない?



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18話 「おかえり」の猛攻撃とか誰得ですか。う、うれしくなんかないんだからね!

 家の扉を開けるとともにひらりと足元に落ちる一枚の紙。

 

 そこには小さく赤い文字で『おかえり』と書かれている。

 

 文字が書けるようになってからのレイの日課である。

 

「はいはい」

 

 一人でおかえり、ただいまーってやり取りをするのは別に何とも思わないんだけど、いざ誰かにおかえりって言われるとただいまっていうのは途端に言いづらい言葉になるよね。

 実家で母親とかに言われるのはまた別だけど。

 

 そして何気に帰ってきた直後に、この玄関に落ちた紙を拾うためにしなければならない上下運動が何気にしんどい。 

 レイは俺のことを下半身だけ筋肉ムキムキにしたいのだろうか。

 

 軽くため息をつきながら、落ちた紙を拾って顔をあげる。

 その瞬間顔面に突風のような冷気がたたきつけてきて、それと一緒に俺の顔に一枚の紙が貼りつく。

 

「なにごと?」

『返事は?』

 

 なんだ、レイのやつただいまって言ってほしいってこと?

 

 そりゃ返事が欲しいなら俺だって意固地になって返さないとかそんな真似はしない。 

 俺は素直な人間だからね。求められたらちゃんと求められたものを返しますとも。

 そんなことを考えているとまた突風。

 

 なに、俺の家の中だけ強風注意報発令してる?

 そして廊下の角を曲がって表れたのは大量の紙切れたち。

 

「ちょ、ちょっとまてって!!」

 

 どうやら強風注意報だけじゃなくて、紙切れ警報も発令しているらしい。

 そんなことを言っている場合ではない。

 

 両手で顔をガードしなければ、俺の綺麗な顔が傷物になっちゃう!

 お嫁に行けなくなってしまう! それだけは阻止しなければ!

 いや紙の威力をなめちゃだめだからね。あいつ不意打ち同然で人の指とか平気で切り刻んでくるからね。

 

 で、いったい何が書かれてるんだ?

 俺は顔をガードしながら足元に大量に落ちている紙切れに目を向ける。

 

 その紙切れたちには先ほどよりも大きな文字で『おかえり』の文字が書きなぐられていた。

 ていうか後半きたものに関しては『お』『か』『え』『り』といった具合に一文字ずつ紙に書かれている。

 

 ……絶対これレイのやつ楽しんでやってるよね? 俺を労う気持ちとか皆無だよね。

 あとそんなもったいない紙の使い方はやめてください。地球的にも俺のお財布的にも優しくありません。

 

 そんなことを考えているとようやく風がやみ、紙切れの猛攻も終わったようだ。

 

 両手をどけて目の前を見ると……なんということでしょう。

 

 あんなにきれいさっぱり何も無かった廊下一面に、紙切れの絨毯ができているではないですか!

 これこそ幽霊にしかできない匠の芸当ですね!

 

「……よし、片付けさせよう」

 

 これを俺が全部拾う道理はないよな。

 それにデザート代の洗い物だってやってないわけだし、いや正確には俺がやらせてないだけなんだけど。

 でも三回に一回は俺が帰るとシンクの中が大惨事になってるんだけど。

 

 これを機にごみを捨てるということを覚えてもらうことも悪くない!



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19話 女の子の神秘が気にならない男の子ってどこにいるの?教えてください。

 というわけで、ごみ袋をもって紙切れの絨毯が敷き詰められている廊下を踏みしめてレイがいる部屋に入ると、なぜかレイはふくれっ面でこちらをにらみつけていた。

 

 寒くはないからそんなに怒ってはないんだろうけどなんでそんな顔してるんだろう?

 頬を膨らませたいのは俺の方だよ? 

 

 というかいつもパーカーに膝隠して体育座りをしているけども、服は伸びないんだろうか。

 というか前々から思ってたけどその服俺のお古だよね。どこから引っ張り出してきたの。

 

「レイ、今日は君にごみ捨てを覚えてもらおうと思います」

 

 俺が手に持ったごみ袋を見せつけるように前に突き出すと、レイはぽかんとした表情をして首をかしげている。

 

「とりあえず廊下に来てごらん」

 

 怒らせてもろくなことがないので優しい口調で俺は部屋の扉を開け放ち、さながらレストランのウエイトレスのように、英国の紳士のごとくレイを廊下へと案内する。

 

 レイはまるで変な人を見るようなジト目でこちらを見つめながら立ち上がると、案外素直に廊下へと足を運んでくれた。

 

 いや俺は変な人じゃないよ。俺は立派な紳士になりきっていたはずだ。むしろ毎日俺は自然に紳士的な行動ができているつもりだ。そうだろ? そうなんだよ。

 

「このレイが生み出した紙切れたちは捨てなければいけないということはわかるよな?」

『どうして?』

「どうしてって、廊下にいつまでもここにあると俺の足の裏にいつも紙切れがくっついていることになるだろ」

『わたしにはくっつかない』

 

 レイは実践するように紙切れの上でジャンプする。

 確かにレイの足の裏には紙切れなんてつく様子がないし、それは当然。だって彼女は透けてるんだから。物体がくっつくわけがないよね。

 

 てかそれ以上大きくジャンプしなくていいからね。

 見た感じ俺のお古のパーカーしかきてないでしょ? それ以上飛ぶとパーカーがめくれて中身が見えちゃうからね。

 

 そういえばレイのパーカーの中ってどうなってるんだろう。

 

 もしかして乙女の神秘どころか透けてるわけだから、内臓まで丸見えだったりする?

 

 いや別に乙女の内臓とか見たくはないけど、乙女の神秘は気になる。

 うん、なんだか考えだしたらすごく気になってきた!

 これは幽霊の実態を知るために仕方なく確認しなければいけないことだからな。

 

 よし、ちょっとしゃがんだりしてみようか。

 ……嘘です。なんでもないです。何も考えていません。

 

「まあ足にくっつかないとしてもこのごみになっちゃった紙切れたちは片付けないと。散らかったままだと嫌だろ?」

 

 俺が腕をさすりながらそういうと、レイは何やら不服そうな表情で紙に何か書いている。いや、念じている。そして俺の腕の鳥肌は全く引っ込んでくれない。

 

『ごみじゃないよ』

「ごみじゃないってお前……」

 

 そこまで言って俺も考える。確かにこの紙切れはいうなればレイの言葉を具現化したものたち。

 

 ということはこの廊下に落ちている紙切れたちはレイの言霊そのもの……?

 じゃあ俺はレイは言った言葉をごみ発言したり、踏みつけたりしてたってこと?

 

 何それ俺最低じゃん! 人の発言を、ましてや自分に向けて行ってくれた言葉をごみ発言するとか人としてどうなのさ!

 

 いやちょっとまって。ほんとに俺が悪いの? でもレイもジャンプして盛大に踏みつけたりしてたからおあいこか?

 いやでもごみ発言した俺の方が一歩リードしてるからやっぱり俺の方が最低じゃん! 

 

『片付ければいいの?』

「あ、ああ。まあ簡単に言えばそういうこと」

 

 頭を抱えて俺がうめいている中、レイはひどく冷静にそう書いた紙きれを俺に見せつけてきた。

 

 それに対して俺が頷くと、レイは床に落ちている紙切れに向かって手招きするように両手を動かし始めた。

 

 おおなんか顔の前で手招きしてるから、まねきねこみたいだな。

 ていうか足元がすごく寒いんですけど。いや寒いっていうかなんかぞわぞわするんだけど。

 

 レイはいったい何をしてるんだ?

 俺が足元に目を向けると落ちている紙切れがまるで意思を持っているかのように、レイの方に集まっていく。

 

 それをじっと見ているといつの間にか紙切れはトランプの山札のようにきれいに重なって、レイの手の中に納まっていた。

 

『これでいい?』

 

 床に落ちていた紙切れはきれいさっぱりなくなっている。

 

 もう何が何だかさっぱりわからない。

 

 最近レイのやつ遠慮がなくなってきたのか俺の前で、超常的な何かを見せてくることが増えてきた気がする。

 

 みょんみょん記法だったり、紙吹雪攻撃に、くいっく集法だったりさ。

 まあそんな原理も分からない何かを見て、怖がるんじゃなくて頭抱えてる俺もどうかと思うけどさ。

 

 レイは自分で集めた紙切れをぺらぺらめくったりして不思議そうに眺めている。

 

 ちょっと待てよ、もしかして明日からその集めた紙を使いまわすつもりじゃないよね?

 毎回書くのはめんどくさいからこれつかえばいいじゃーんとかそういうこと考えてないよね?

 

 なんてことを考えていたらレイは普通に俺が力なく広げていたごみ袋の中にバサバサっと放り込むように捨てた。

 

 あ、普通に捨てるのね。俺の悩んだ時間はいったい……。

 

「ていうか、片付け終わったな……」

『終わり?』

 

 レイはそれを聞いて満足したのかいつもの部屋へと戻っていく。 

 

 ……このままだと俺の決意が無駄になる。というかレイにごみ捨てのなんたるかを何一つ教えられないまま終わってしまう!

 




失礼します。葵悠静です。
たく産のお気に入り登録、そして感想、さらに評価と目まぐるしい変化に大変驚いております。
ここまで読んでくださり誠にありがとうございます。今後とも本作をよろしくお願いいたします。
もしいいなと思っていただけたらちょろっと評価を頂けると、泣いて喜びます。
感想はにやにやしながら読みます。


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20話 レイの大切な物、俺の大事な物。それは人それぞれ……人?

 気づけば俺はストーカーのように、レイの後ろについて一緒に部屋の中に入っていた。

 

 まあもとをただせば俺の部屋なわけだし別についていっても何も問題はないはずだ。

 最近は俺自身もレイの部屋って認識しかけているけど、そんなことはまったくもってそんなことはないはずだ。そうだよね?

 

「この部屋の片づけをしよう!そうだそれがいい!俺は相変わらず頭がいいな!」

 

 そういっては見たものの、普段全く使わない部屋だ。ごみなんて落ちているはずがない。

 

 自分の住んでいる家で使っていない部屋があるっていうのもおかしな話だが、しょせん一人暮らしだ。正直一部屋あれば十分なのだ。

 

 なのでレイがほぼ自室にしてしまっているこの部屋にあるものといえば、読み終わった本を並べている本だなとか、ネット注文したときにできた段ボールの山とかである。

 

 段ボールって捨てるタイミング難しいんだよね。そんな言い訳をして放置をしていたらいつの間にか山ができていた。

 俺の方が片付けできてないかもしれない。

 

「そうだな……。例えばこのアイスの棒とか本来ごみなわけだろ?」

 

 レイはなぜか遊び道具に昇格させてるけど。

 俺が丸机の上にジェンガ風に積まれているアイス棒を一本取ると、レイに見せるようにゆっくりとごみ袋の中に捨てる。

 

 いや、そんなつらそうな寂しそうな顔で捨てられるアイス棒を見ないでほしいんだけど。

 

 なに、そんなにこのアイス棒に愛着がわいてたの?

 なんか俺が悪いことしてるみたいじゃん。なんかごめん。

 

「アリとかつくだろ。このまま放置してたら。だから仕方なくだよ、仕方なく」

 

 なんでただごみを捨ててるだけの俺が言い訳をしてるんだろう。

 

 アリがつくとか言ってみたものの、机の上に積まれているアイス棒は一切汚れていないし、べたついてもいない。

 

 この間ジェンガもどきゲームをしてた時も思ったけど、いったいどういう食べ方をすればこんなきれいなアイス棒ができるんだろう。

 

 そもそもこの棒にアイスなんてついてなかったんじゃないかってくらいつるつるなんだよな。

 

 だから正直別に捨てなくても問題はない。というかこれ以上アイス棒を捨てるとレイが何してくるかわからないから、もう捨てたくない。

 何ならごみ袋に捨てたアイス棒も元の場所に戻した。

 

「ともかくこういう感じでいらなくなったもの……ちょっと違うか。必要ないもの?を捨てるって感じだな!」

 

 俺がひきつった笑顔を見せながらそういうと突然レイははっとしたような顔をして、本棚の方に走っていった。

 

 なにかひらめいたのか? パッと見た感じそこらへんにごみなんてなさそうだけど。

 レイは本棚に置いていた漫画を何冊か取り出すとそれを両腕に抱えて俺の方に近寄ってくる。

 

 そして何の躊躇もなくそれをごみ袋の中に入れた。

 

「……なにやってんの?」

『もう読んだから』

 

 もう読んだからいらないってこと? ていうかレイ漫画とか読んでたの?

 ……てそういうことじゃなくて!!

 

「漫画は捨てるもんじゃないだろ!そもそも本は大事にしないと!」

 

 俺はあわててレイが入れた漫画を袋から取り出す。

 よかった、折り目とかはついてないみたいだ。

 

「レイ、これは捨てるもんじゃないの。俺にとっては必要なもんなの」

『でももう読んだよ?』

 

 ああ、確かに俺もこの漫画は読んだ。何回も何回も読んだ。

 この部屋の本棚に置いてある本は全部そうだ。少なくとも一回は読んでいる本ばかりだ。

 

 それでも決して必要ないものなんかじゃないし、いらなくなったものなんて一つもない。

 

 何回読んでも面白い本があれば、本の中に俺の思い入れも詰まっている。なんなら好きすぎて実家から持ってきた本だってあるぐらいだ。

 別にいつもそれを読み返すわけではないけれど、なんか想い出が詰まっているから捨てられないし、売れない。

 

 もし本当にもう読まないなって本があったとしても俺は捨てることはしない。

 その本を売りに行って、次に買ってくれる誰かがその本を気に入ってくれればいいなと思う。

 

 それくらいに俺にとって本とは俺の人生とは切っても切り離せないものなのだ。

 こう見えて俺は読書家なのだ。

 

「とにかく、これは俺にとって大切なものだから捨てません。OK?」

『わかった』

 

 本当に理解してくれたかどうかはわからないが、俺が言い聞かせるように話しながらレイに本を渡すと、今度はごみ袋に入れることなくじっと手に持った本を見つめていた。

 

 ……そうか、俺がアイス棒を捨てたときもこんな感覚だったのか。

 

 俺にとっては必要ないものに見えても、相手にとってそれは大切なものなのかもしれない。物の価値なんてその人によって全然違うもんなんだよな。

 

 幽霊と接してそれに気づくとか俺ほんとに人間がなってないんだなあ。

 

 ここ数年仕事以外でまともに人と接していない弊害?いやいや俺にだって友達くらいいますから。そんなことないよ。

 最近連絡とってるのはゲーム誘ってくるあいつしかいないけど、俺はそう信じている。

 

 まあレイには悪いことしちまったな。今度ハー〇ンダッツでも買って来てやろう。

 いや、棒アイスの方がいいか?

 

「しかしそう考えるとほんとこの部屋にごみなんてないな……」

 

 しょうがない。こうなったら俺の部屋のごみ捨ても手伝ってもらおう!

 

 そう考えて漫画を持ったままのレイを俺の部屋に招き入れたわけだが、その後も俺のゲームソフトとか、ゲーム機を捨てようとするもんだから、結局一つずつ俺にとって必要なものを教え込んでいたら気づけば深夜になっていて俺の掃除講座は惜しくも中断となった。

 

 そもそもゲームソフトとかは不燃物だから可燃物と一緒に捨てられないからね?

 不燃物とかいうな! 俺の大事な思い出だろうが!!

 

 ……仕事終わりでそのままレイとハチャメチャやってたからテンションがおかしくなってるな。

 

 ちなみにレイはというと、俺が大事だといった本やらゲームソフトを全部抱えて自分の部屋に戻っていった。

 

 何考えているのかいまいちわからなかったけど、抱えた本とかを見つめる彼女の目は、俺が言ったことを理解しようとしてくれているような、そんな気がした。

 

 ゲーム機はさすがに止めたけどね?普通に今も俺が使ってるし、持っていかれると俺ゲームできないし。

 

 そんなこんなで結局レイに掃除という家事を教えられなかった俺だが、頭をフル回転させてこんなものを用意してみたら、レイはごみ捨てがちょっとできるようになった。

 

 

『捨てなくていいものリスト』俺が必要だといったもの。レイが必要だと思うもの

 書いてくれ→『ぼう』『本』『げーむ』

 

『捨てていいものリスト』デザートの空き容器、紙切れ、紙くず。それに準ずるもの。(ただしレイが使えると思ったものは除く)

 

 

 レイのやつ、アイス棒を一体どれだけ貯めるつもりなのだろうか。あと俺が食べたやつに関しては、渡しても受け取ってくれないので普通に捨てている。

 やっぱりべとべとしてるからか? いやべとべとするのが当たり前だからね!

 

 それにしても一人暮らしの家でこんなリストを貼ってる俺……。

 何度も思うけど俺はいったい何をやってるんだろう。



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21話 幽霊同士の井戸端会議ってどういう感じなんだろう。

「やられた……」

 

 最近俺は油断していた。奴はこれには手を出さない。

 だから大丈夫だと慢心していた。

 これは明らかに俺の心の隙に付け込んだ犯行だ。

 冷蔵庫の中を見て己の不甲斐なさにうなだれる。

 

 そう、俺は油断していた。

 

 レイのアイスブームがいつの間にか落ち着き、冷蔵庫の中にあったスフレプリン(コンビニ産)がきれいさっぱりなくなっていたのだ。

 

 以前のようにデザートの空き容器が冷蔵庫の中に放置されていることはない。

 そして最近レイはアイスばかり食べていたから予備のデザートも用意していなかった。

 

 つまり今日の俺にご褒美はなし……。

 

 まさかデザートの容器も収集し始めたとかそんなことしてないよね?

 不安に駆られた俺は泣く泣く冷蔵庫をそっと閉めて近くに置いているごみ箱を開ける。

 

「おー……」

 

 ちゃんとそこにはきれいに完食された後の空き容器が捨てられていた。

 

 なんだろう。このむなしさがあるのに、レイがちゃんとごみ捨てできるようになっているという感慨深い感覚は。

 

 こんなうれしさと悲しさが一緒に襲ってくることなんて、人生で味わったことないよ? 俺はどういう顔をすればいいのさ。

 

 ……まあ、明日からまたデザートの予備を買えばいいか。

 

 そうはいってもやっぱり食べる前に一言言ってもらった方がいいんじゃないだろうか。

「食べるよー」とか「食べたよー」とか……いや、食べたよーは事後報告だから今と何も変わらないよね?

 まあずっと立ちっぱなしもしんどいし、適当に座ろう。

 

「……ん?」

 

 いつものようにリビングにある座椅子に腰かける俺の目の前に、ぽつんと小さく紙切れが置かれている。

 

 まさかレイのやつ本当はちゃんと食べる宣言をしてたのか!?

 

 あの子いつの間にそんなに成長してたの! 本当にそうだとしたら、あまりの成長の早さにレイを抱えて三回回ってワンっていうかもしれない! 

 いやさすがにそれはしないか? いや、俺やっちゃうのか?

 

『ごちそうさま』

 

 ……がくっ。

 

 なんか一気に頭が重くなったわ。期待しすぎてごめんね。でもちゃんとそういうことを言える子は素敵だと思うよ。

 

 ガチャ……バタン。

 

 紙切れを持ったままうなだれていると、不意に玄関の扉が開く音が聞こえる。

 これも最近よくあること。もちろん犯人はレイ。

 

 最初は強盗とか泥棒が入ってきたのかと警戒していたけど、あの音が聞こえた後は決まってレイの気配が消える。

 

 いや別に俺は壁越しの人の気配がオーラとして見えるとかそんな魔法は持ってなんかいないけど、なんか感覚的にそういうのってあるじゃん?

 

 さっきまで視線を感じていたのに、その気配がなくなるとか。近くに人の気配があったのにふいにその感覚が消えてなくなるとか……。

 あれ、もしかして一人暮らしでそんな経験してるのってもしかして俺だけだったりする?

 

 まあ俺も四六時中レイの行動を監視しているわけじゃないが、さすがに気になって玄関に行ったり、玄関の扉が閉まった後にこっそりレイの部屋に行ったりしている。

 

 まあそれで決まってレイがいないし、不審な人物が家に入り込んでる様子もないから、レイが出て行ってるんだろうと確定づけたわけだ。

 しかしレイが普通にこの家から出られることには驚いたけどな。

 

 幽霊にもいろいろと種類がある。

 浮遊霊だったり、守護霊だったり、地縛霊だったり。

 

 正直レイはこの部屋から離れられない地縛霊の類かと思ってたけど、そうでもないらしい。

 

 最近レイはいったいどこに行ってるんだろう。

 

 そんなことを考えながら、スマホをいじったりしてぼんやりと過ごしていると、玄関の音が聞こえてから30分くらいたったぐらいか、突然レイが扉を透けて現れ、俺の前にある机の上に体育座りで座る。

 

 別に扉は絶対に開けるわけじゃないのね。

 さすがにいきなり帰ってきて現れると、びっくりするよ?

 

 しかし目の前に座るレイは特に何をするわけでもなくどこかボーっとしている様子だった。

 まあその姿は別に珍しいわけでもないし、特に普段のレイと変わりがあるわけではない。

 

「……なんかお土産ある?」

 

 俺はいったい何を言ってるんだろう……。

 

 俺は人との間に流れる沈黙があまり好きではない。何かしゃべらなければとだんだん危機迫った状況に置かれたような、そんな錯覚に陥るのだ。

 

 まあそれはいいとしてもなんでレイにお土産を求めているのだろう。

 レイがお土産買ってくるとしたら何を買ってくるんだろう。

 あれ、ちょっと気になるかも。

 

『ない』

 

 俺が投げかけた問いから少し遅れて渡された紙切れにはきれいな二文字。

 

 まあそうだよな。それで「はい、お土産」て普通になんか渡される方が怖いしな。

 幽霊にお土産もらうってこれが本当の冥途の土産ってか!

 別に狙っていったわけじゃないからね? たまたまだからね。ほんとたまたま。

 

 だからそんなに俺のことをジト目で見つめないでもらっていいですかね。

 

「近場を散歩?」

『呼ばれてた?』

 

 ……疑問形に疑問形で返されてしまった。

 

 疑問形で返されると俺としては「そうなの?」と返すしかなくなる。

 それにレイの言っている意味がよくわからないし。

 

 呼ばれてたってどういうこと? 

 もしかして近場で幽霊の会合が開かれてるとか?

 近場の幽霊同士で集まって近況報告的な井戸端会議が開かれてるの? 

 それにレイもお呼ばれしてるとか?

 

 もしそうだとして話してる内容ってどんな感じなんだろうか。

 

「最近あそこの地縛霊さん、また一人道連れにしたらしいわよ」

「やだー、相変わらずお盛んねー。そうそう、あそこの背後霊さんはまた写真に写りこんだんですって」

「若いわねー」

 

 ……やめて、レイだけなら全然平気だけど、他の霊とか怖いやつとか出てきたら俺耐えられる気がしないから。

 レイ以外に幽霊がそこら中にいるとか、誰かをターゲットにしてるとか考えたくもないから。

 

 ……なんか聞かない方がよかったかもしれない。

 レイが何をしているのか余計に気になってきた……。



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22話 俺にはそれが理解できなくてきっと彼女もわかっていない。

 俺には今特別任務が課せられている。

 どこからとか誰からとかは一切明かせないが、非常に重要な任務だ。

 任務名はその名も『幽霊尾行大作戦』

 

 ……我ながら何のひねりもないな。

 

 というわけで俺は今真夜中に外に出ている。

 こそこそと柱とか影っぽいところに身を隠しながら、散歩という体で家の近くを歩いている。

 さすがに誰かに見られると変質者扱いされるので、ちゃんと歩こう……。

 

 なんで俺が用もないのに、言ってしまえば家の周りなんて散歩しても何の面白みもないのに外にいるかというと、レイの後をつけているからだ。

 

 いや、レイが別に何してようが俺には関係ないかもしれないからいいんだけどね?

 こう……保護者? 同居人? としては見守る必要があるかなって。そう、それだけだよ。

 

 俺の知らない間に地縛霊さんの次のターゲットが俺になってたりして、気づいたら呪い殺されてましたーとか、それが嫌でレイの後をつけてるわけじゃないから。

 

 どうせ呪い殺されるならちゃんと死ぬってわかっておきたいじゃん? いや、全然死にたくないし、もし本当にそうなってたらスライディング土下座で幽霊たちの井戸端会議に割り込んで、一生のお願い使うけど。

 

 果たして俺の一生のお願いを幽霊は聞いてくれるのだろうか……。

 

 まあ、そもそもこの井戸端会議っていうのも俺の想像なわけだし、実際レイが何をしているのかはわからない。

 

 レイの歩くスピードはひどくゆっくりしていて、後ろを振り返ればまだ家が近くに見える。

 いざとなればダッシュすれば家に逃げ帰れるな。よし。

 

 それにしてもこうやってちょっと離れてみてると、レイって本当に幽霊って感じがするな。

 なんかふらーって感じで歩いているし、ちょっとでも目線を逸らすとふっとその姿が消えてなくなりそうな存在感の薄さをしている。

 

 夜で昼よりは涼しいとはいえ、今は8月中旬、夏真っ盛り。

 10分も外を歩けばじんわりと背中に汗をかいてTシャツが体に張り付く。

 

 そういえば今年の夏は、海にも行ってないしプールにも行ってないし、祭りなんて見かけてすらないな。というか去年の夏もそんな感じだったな。俺基本的に一年中仕事しかしてないな。

 

 ……四季って何なんだろうね。一人暮らしを始めてからイベントごとには一切いかなくなったな。

 

 そんなことを考えてちょっとしんみりしていると、先を歩いているレイの足が止まった。

 

 やばい、ボーっとしてたから意外と近いな! ちょっと隠れるか。

 

 レイにばれないように俺は近くにあった標識に身を隠す。

 いや標識の棒が細すぎるから全然隠れてないし、結局やってることが変質者なんだけど、レイにはばれていないっぽい。

 

 レイはというとその場で立ち止まったまま足元を見つめて動こうとしない。

 なんだろう。俺が見えていないだけでもしかして井戸端会議が始まってるんだろうか。

 

 もしかしてレイのやつ人見知りして、会話に参加できてないとか? もしかして呼ばれてはいるもののハブられてたりする? 俺助太刀しようか? レイ以外なんも見えないけど、なんか役には立てたりするかもよ?

 

「……え?」

 

 ちょっと不安になりながらレイの様子をうかがっていると、レイは突然歩道と車道を隔てている縁石の上にあおむけで寝転んだのだ。

 

 レイはそのまま動く気配がない。

 

「なに……やってるんだ?」

 

 俺はもう隠れることも忘れて、普通に歩道の方に出てレイのその異様な行動を見ていた。

 

 縁石の上で寝転んでいる彼女の姿は月明かりに照らされて、ぼんやりと薄白く全身が淡く、はかなく輝いているようにも見え、今この瞬間だけはレイの存在が際立っているように見えた。

 そんなレイの表情は心なしか寂しそうで、何かを憂いているようにも見えて、明らかに普通なら見ない異常な、理解できない、何がしたいのかわからない姿なのに……

 

 

 なぜか俺にはそんなレイの姿がひどく美しく映って見えた。

 

 

 幻想的で、神秘的で、普通の人なら絶対にありえない光景。視線が自然と吸い寄せられてこのままいつまでも見ていられるような……。

 

 でもこのまま見ていたら、放っておいたら消えてどこかに行ってしまいそうで、もう戻ってこないようなそんな気がして……

 

 

「さすがに外は暑いといっても、それはちょっと体が冷えるんじゃないか?」

 

 気づいたら俺はレイの真横に立っていて、彼女に声をかけていた。

 



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23話 予想外の変化球は俺のガラスのハートをドストライクした

 レイはぼんやりとした表情のまま、俺の方に顔を向ける。

 

 そして目が合う。

 

 俺を見上げながら一瞬驚いたような表情を見せたレイだったが、すぐに落ち着きを取り戻したのか素直に立ち上がり、パーカーのポケットからメモ帳を取り出して、何かを念じ始める。

 

『えっち』

 

 差し出された紙切れにかかれていたのはシンプルな三文字。

 これほどまでにインパクトのある三文字がこれ以外にあるだろうか。

 

 ……いやいやいや!! ちちちち違うからね!

 別にやましい気持ちがあってのぞき見してたわけじゃないからね!?

 レイのことが心配で様子を見に来ただけであって、それがたまたま尾行するっていう行動につながっただけで、そんなこと言われるようなことは一切かんがえてないからね!?

 この状況でそんなシチュエーションを考えてたら、俺はとっくに犯罪者で捕まってるから!

 

 ていうかさっきまでの俺の感傷的な感情を返してくれる!? 

 レイの発言が衝撃すぎてさっきまでの気持ちが全部どっか吹っ飛んでいっちゃったよ!

 

「ていうかそんな言葉どこで覚えたの? レイって実はむっつ」

 

 そこまでいって、夏とは思えないほどの寒さが降りかかってきたので俺は口を閉じる。

 

 大丈夫? 夏の気温仕事してる? 夜だからってさぼっちゃだめだよ。

 早く俺を温めてくれないと、地縛霊じゃなくてレイに殺られる。

 

 レイは俺をひとしきりにらみつけた後に、またメモ帳になにか念じはじめる。

 ん? 血文字で何か書いてるっぽいけど、結構な長文を書いてるな。何かいてるんだろう。

 

 少し時間が経ち、俺の体に正常な体温が戻ってきたころ、ようやく書き終わったのかレイはうつむきながら、メモ帳をびしっと俺の顔に突き付けてくる。

 

 もしかして結構真面目なことを書いているんだろうか。

 レイの後をつけてきたことを怒っていてその抗議文とか? 

 でもその文章だとしたら冷気が襲ってきていないので多少違和感があるな。

 

 どれどれ?

 

『本棚の奥に薄い本が挟まってて、そこに女の子が』

 

 俺はそこまで読んだ瞬間に、レイから無言でメモ用紙を受け取るとぐしゃぐしゃにして丸めていた。

 それはもう一切の感情を捨てて、ただただ無心でくしゃくしゃにして自分のポケットに突っ込んだ。

 

 ……え、なに。レイにあれ読まれたってこと? 俺自身も隠してたこと忘れてたくらいなんだけど。

 

 ていうかなんで俺そんなところに同人……漫画入れてるの?

 友達も遊びに来ないのに妙に用心深いところが裏目に出ちゃったってこと?

 

『本は大事にしないとだよ?』

 

 レイは無邪気に首を傾げながらそんなことを書いた紙切れを見せながら、髪の隙間から純粋なつぶらな瞳で俺を見てくる。

 

 ……本当に、誠に申し訳ございませんでした!!

 

 ほんと、外じゃなかったら間違いなく土下座してたね。

 実際にレイに向かって頭を下げていた。無言の謝罪である。

 

 レイに見られたってことが意外と恥ずかしくて、なんか顔が熱くなってきて頭をあげられない。

 

 いやだって普段はほとんど見えないけど、ちゃんと顔が見えたら結構な美少女、美人さんだからね? 幽霊とはいえそんな女の子にエロ……あんな漫画を読まれていたと思うと恥ずかしくもなる。

 

 

 ……よし、だいぶ落ち着いてきた。

 

 顔の熱さがなくなったのを感じた俺はやっと顔をあげて、レイと向き合った。

 

 その時少し風が吹いてレイの前髪が揺れてその顔をのぞかせる。

 レイはどこか楽しそうに俺を見て笑っていた。

 それを見てたらなんか俺もおかしくなってきて、笑えてきた。

 

「帰るか」

 

 俺がそういうや否やレイは縁石の上に乗り、バランスよく家の方に向かって歩き始める。

 

 結局レイが何をしているのか、何のために外に出ているのかはわからなかった。

 もしかしたらレイ自身も分かっていないのかもしれない。

 

 でも今はそれでいい。

 

 いつかレイがやっていた行動を理解できるのかもしれない。

 レイが俺に教えてくれる日が来るかもしれない。

 今はわからなくてもいつかきっとわかる。

 

 楽しそうに歩いているレイの後姿を見ていたら、なぜかそんな気がしていた。

 

 

 もちろん帰った後、速攻隠していた例の漫画、小説、DVDはすべてレイの部屋から、俺の自室へと移動した。

 

 さすがにあのままあの部屋に置いておくのは、俺の精神衛生上よろしくないし、純粋なレイのあの瞳をこれ以上曇らせるわけにはいかない。

 

 いや別にそんな特殊なものは置いてないけどね。俺はごくごく一般的な、ある意味健全な……何言わせてんだよ!

 

 俺がこそこそとそれを移動している間、物凄い寒気と視線を背後から感じたけど、俺は何も気づかなかった。誰にも見られていなかった。

 

 そういうことにした。

 

 なんだろう、なんかいろいろと台無しな気がするけど、俺とレイはきっとこれくらいの残念な感じがちょうどいいんだ。



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24話 ん? もしかして今喋った? 

 ただいまー、おかえりー。

 

「つっかれたー」

 

 いつも通り家に入りながら、一人挨拶を繰り出す俺。

 これに慣れてしまっていることがいかに悲しいことか。

 

 普段は特に気にしないんだけど、たまにふと我に返ると俺って何やってるんだろうってむなしい気持ちになる。

 

 まあ最近はレイのお帰り紙吹雪があるからそんなに悲しくもないんだけどね。

 

 ……そういえば今日は来ないな。

 

 レイが大量の紙切れを飛ばしてきた日以来、彼女のお気に入りになっていたのかそれはほとんど毎日、俺が仕事から帰ってくると大量の紙切れが、俺を襲うようになっていた。

 

 いや、あれ地味に体に当たると痛いんだよ? 

 でもレイなりの労いなのかと思ったら無碍にもできないじゃん?

 やさしさと痛みの板挟みにあっている俺、怒るにも怒れない。

 

 まあ実際そんなに怒ってもないんだけど、一人暮らしの家でそんな葛藤にあっている状況がそもそもおかしいんだよな。

 

 そんな毎日受けていたおかえり攻撃が今日は来ない。

 

 もしかして飽きてしまったとか? それはそれで何か寂しいものがある。 

 まあ単純にめんどくさくなったのかもしれない。大量にばらまいたメモの紙切れを集めているのはレイだし。

 

 そのおかげでごみ捨てというのを覚えたのかもしれないけど。

 レイがごみ捨てを覚えたことと引き換えにメモ帳の消費が段違いで早くなったから、俺の財布にも地味にダメージが来てるんだけど。

 

 

「……おかえり」

 

 

 ていうかなんで俺はいつまでも玄関で立って、わざわざゆっくりと靴を脱いでるんだろう。

 

 もしかして無意識でレイのおかえり攻撃を待っているとか? そのためにいつもだったら一秒もかからない靴脱ぎに時間をかけてるとか? 

 

 なにそれ、俺ったらめんどくさい男の子じゃん。もしかしてドMだったの?

 紙でぺしぺしされる性癖があったとか?

 

 いやたまたま靴が脱ぎづらい日なんだよ。

 やけに今日は足と靴が仲良しでなかなか離れてくれないなーって思う日くらいあるじゃん?

 そんな経験したことないが、今日が初体験だ。そういうことだ。

 

「……ん?」

 

 そういえば今聞きなれているような初めて聞くような声が聞こえたような気がしたんだけど……。

 

 俺はやっと靴を脱ぎ終わり、廊下へと目線をあげる。

 

 すると目の前で壁に隠れながら顔を出しているレイの姿がそこにはあった。

 あれ、レイのやつなんか顔が真っ赤なんだけどなんで?

 

 どうしてそんな恨みがこもったような目で俺のことを見つめているんですか?

 あれ、もしかしてさっき聞こえたのって幻聴じゃなくて……

 

「もしかしてしゃべった?」

 

 そういった瞬間レイの顔はさらに真っ赤に染まりリビングの方に逃げ込んでいった。

 

 何あの可愛い生き物、追いかけるしかないでしょ。

 

 そう思い、その一心で一歩足を踏み出した瞬間、リビングの扉が勢いよく開きそこから大量の紙切れが襲い掛かってきた。

 不意打ちの紙吹雪攻撃が俺の顔面に降りかかる。

 いつも通りその紙には赤い文字で「おかえり」と丁寧に裏表びっしりと書かれている。

 いやこのスピードでこれだけの数のおかえりを書けるのは最早職人技だよ。

 速記検定の有段保持者すらおののくほどだろ。

 

 しかし不意打ちはまさか想像していなかった。

 でも今日もちゃんとあるんじゃないか。もったいぶっちゃって。

 

 飽きたのはおかえりということにではなくて、レパートリーが一定化してしまってきていることに飽きてしまっていたのか?

 

 おかえりのレパートリーっていったい何なんだろう。そんな言葉存在しているのだろうか。

 

 なんかちゃんとおかえりと言ってくれたことにテンションがおかしくなっている。

 一回落ち着こう。

 

 俺は落ち着くためにその場で深呼吸をする。

 そして足元に目を向けるといつぞやに見たときと同じように、廊下の床を紙切れが覆いつくしている。

 

 いつもだったら紙吹雪が終わった直後くらいに、すすすーとその紙切れがレイの部屋に向かって消えていくんだが、今日は紙切れたちが動き始める様子がない。

 

 いや、紙切れが自動で動かないことに違和感を覚えている俺はきっとおかしいんだろうけど、俺にとっては紙切れは勝手にばらまかれて勝手に捨てられていくというのが、当たり前になっているのだ。最近は特に。

 

 もしかしてレイのやつ、今日だけでメモ帳一冊を使い切ったわけじゃないだろうな?

 

 紙切れが回収される様子は一切ない。これっぽっちも動く気配もなければ、足元に風が流れることもない。

 

 ……もしかしてこれって俺が片付けないとだめ?

 

 



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25話 ドMとドSを使い分ける俺は、ハイスペックである。……知らんけど

「俺が悪かったって。だから機嫌なおしてくれよ」

 

 俺はレイの目の前にプリンを置きながら話しかける。

 

 あの後レイを追いかけると、レイはいつものようにリビングの机の上で体育座りをしていたものの、どこか不貞腐れた表情でうつむいていた。

 

 確かに実際にレイがもし本当におかえりといってくれたのであれば、俺はそんなビッグイベントをフル無視してスルーしてしまったことになる。

 それは悪いとは思うし、俺ももったいないことをしたとは思うけど、俺だって心の準備ってものがある。

 

 だってあの時靴脱ぐので忙しかったし? 別に紙切れなんて待ってなかったし?

 結局今日は襲い掛かってきた紙切れ、俺が全部片づけたし?

 

 そんな言い訳を重ねてもレイさんは相当ご立腹のようで、頬をぷくーとふくらましながらこちらをちらちら見てくる。

 

 まあ口がもぐもぐと動いているので、怒ってほっぺが膨らんでいるのではなくて、目の前からなくなったプリンをほおばってるだけなんですけどね。

 

「なあ、さっきしゃべった?」

 

 そんな俺の問いかけに意地になっているのか、首を振って否定するレイ。

 

 いやこれまでも笑い声とか悲鳴とか、レイっぽい声が家の中から聞こえたことはあったが、何か意味を持った言葉を発したことはない。

 

 これまでのコミュニケーションは最近確立したばかりの紙切れによる会話くらいである。 

 しかし本当に言葉をしゃべったとなると話は別だ。

 

 正直に言おう。俺は後悔している。貴重なレイの初発言を聞き逃したということに対して、激しく後悔している。

 

 どうでもいいけど初発言って日本語あってる? あってたとしても言いにくい言葉だな。

 

 ともかくレイがしゃべれるようになったのであれば、ぜひとも彼女と会話がしたいのだ。

 

 もしかしたら俺に話し相手ができるかもしれない。この寂しい寂しい一人暮らし生活、メモ用紙を見て話すよりももっとテンポがいい会話ができるかもしれない。

 

 幽霊と会話をすることを楽しみにしている時点で俺ってやばいのかもしれないけど、そもそもメモ用紙での会話でもそこそこ楽しんでいる俺ってどうなんだろう。

 

「おいしかったか?」

 

 俺の問いかけにこくこくと首を縦に振るレイ。

 違う、そうじゃないんだよ。いや反応が返ってくるのは嬉しいんだけど、俺が求めているのはそうじゃない。

 

「もっと食べるか?」

 

 レイはうつむいていた顔をばっと勢いよくあげて、きらきらした瞳でこちらを見つめてくる。

 

 非常にわかりやすい表情である。

 さすがにここ数週間一緒にいるのだ。レイが何を考えているのか手に取るようにわかる。

 

「そうか、別にいらないか」

 

 今日の俺は意地悪である。

 あえて俺は逆の意味としてとらえて、プリンの空き容器と皿を片付けようとする。

 

 レイの絶望したような顔を見ていると心が痛むし、ただならぬ量の寒気が襲ってきているけど、これくらいなら俺にも耐性がついている。

 これくらいの寒気であればまだ耐えられる。

 

 ただレイの目がすごいうるうるしているんだよ。正直今すぐやめたい。冷蔵庫にダッシュして二つ目のプリンを早く渡してあげたい。

 二つ目どころか三個入りプリンをそのままレイの前においてあげたい。

 

 ……だめだ! ここはぐっと我慢だ! 彼女の声を聴くためなんだ。今日の俺は強いんだ! 

 

 でも顔は見てられないからごみ捨てという言い訳を作り出して、レイの顔を見なくて済むように彼女に背中を向ける。

 

 ん? ふと服を引っ張られるような違和感を覚える。

 

 違和感がある方に目を向けると小さな手がきゅっと俺の服を掴んでいた。 

 

 いや実際には距離感を誤ったのか俺の内臓を掴む勢いで、手がめり込んできているんだが俺にかかればこれくらいの補正は楽勝である。

 

「……食べる」

 

 振り返ろうとした瞬間に耳に飛び込んできた小さくか細い、隙間風が吹いたような、でも高く可愛らしい声色。

 

 やっぱり喋った! 俺は今レイと会話をした!!

 

 俺は勢いのままレイの方に振り返る。レイは顔を真っ赤にしながらも腕を伸ばして俺の服を掴んだままだ。

 

 そんなレイを見て俺も一度冷静になる。

 このままだとどんなテンションで話しかけてしまうかわからない。

 このまま話しかけると何を口走るか俺でもわからない。

 さすがのレイでも、このまま発言するとひかれるかもしれない。

 

 よし、冷静にだ。クールにだ。きわめて気にしていない感じで対応しろ俺。

 

「おおおおう。ど、どれくらい食べる?」

 

「あるだけ」

 

 めっちゃ動揺したし、めちゃくちゃ口元ゆるゆるなんだが。

 正直にやけが止まらない。俺の顔今きっと誰にも見せられない形になってる。

 

 でもそんなことはどうでもいい!!

 レイの口が動いていた! そしてそこから音が、俺にもわかる日本語が発せられていた!!

 

 すごい!レイがしゃべっている!あの言霊紙吹雪攻撃を仕掛けていたレイが、俺に向かってしゃべっている!

 

 この子最近成長が著しくない? 俺はどうすればいい? 俺はずっと立ち止まったままなんだけど、何なら一緒に成長したいのにどうすればいいんだろう。

 アラビア語でも覚えればいいのだろうか。

 

 変なテンションと感動で俺がその場で立ち止まっていると、俺の服から手を離したレイがポケットからメモ帳を取り出す。

 

 あれ、どうしてメモ帳? なんでみょんみょんしてるの?

 

『はやくちょうだい』

 

 レイは少し不満げな表情で、でも頬を赤らめながら見慣れた血文字で書かれた紙をこちらに見せつけてきた。

 

 まだこっちの方が抵抗がないって感じか?

 

「喜んで」 

 

 俺はわけのわからない返事をしながら冷蔵庫へと向かう。

 

 結局最後は紙でのやり取りになってしまったが、レイがしゃべれるようになったことは事実である。

 

 まだ恥じらいはあるようだが、これから会話を重ねればもっと喋ってくれるかもしれない。

 

 俺のコミュニケーション能力次第ってとこかな。

 ……あれ、急激に自信がなくなってきたんだけど、今後一生レイの声が聞けない可能性すら浮上してきたんだけどどうしよう。

 

 

 結局テンションが上がってしまった俺は野菜室に隠し持っていたへそくりクレープまでレイにあげてしまい、うちのスイーツストックは本日もレイにきれいにすべて食べつくされてしまった。

 

 まあちょっと意地悪もしたし、最後は幸せそうにクレープ食べていたから、結果オーライである。



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第三章 幽霊との日常
26話 ゴミになるはずだったもので遊べているので、消費が激しくても実質コスパ最強なのでは?


「おかえり」

「お、おう」

 

 毎度毎度のごとく壁からひょこっと顔を出し、こちらを覗きながら帰ってきたら声をかけてくれるレイ。

 

 そしてそれに毎回きょどりながら返事を返す俺。

 今日も今日とてこの時ばかりはレイさんは機嫌が悪そうである。

 

 いや、なんか慣れないんだよね。もうかれこれ5年くらい一人暮らし生活をやっていて、いきなり家に帰ったらねぎらいの言葉をかけてくれる人が待ってるってなに、どこの幸せ者? ああ、俺でしたね。

 

 そんなことがあればいいなあとは思ってたけど実際なってみると、返事に困る。

 

 いや普通におかえりって言われたらただいまっていえばいいんだろうけど、実際ひとり言の時はそうやって会話をしてたけども、いざ面と向かって言われると恥ずかしくてなかなかただいまが言えない。

 

 なんだろう。反抗期の時に実家に帰ってきて母親におかえりって言われてうまく返せないみたいなそんな感じ?

 それもちょっと違うか。

 

 ともかくレイは最近毎日俺が帰ってくるとこうやって出迎えてくれる。

 かといっておかえりしか言わない出迎えロボットになったのかというとそうでもない。

 

 ていうか出迎えロボットって何? 一人暮らし生活の人のところに現れて、毎日「おかえりなさい、ご飯にする? お風呂にする? それとも……」とか言ってくれるタイプのロボット? 何それほしい、どこに売っているのか教えてください。

 

 レイは少しずつ紙に書くよりも口で言う数の方が感覚的に増えてるような気がする。

 

 もちろん俺はレイに変な単語を覚えさせしまいと日々の言動には気を付けている。

 

 そんなレイだが、最近彼女に部屋にお呼ばれされることが多くなっている。

 

 ほら、今だってリビングの扉から半分だけ身体を出してくいくいっと手招きしている。

 

 手招きされた俺に抵抗の余地は残されていない。

 まあちょうど飯も食い終わったところだし、時間も空いてるし断る理由がないから誘いに乗ってるだけなんだけど。

 

 怪談話でよくある「こっちにおいで」って引き寄せられる話ってこんなにかわいらしい話だったのね。俺知らなかったよ。誰かもっと早く教えてくれれば、ホラーも苦手じゃなくなったかもしれないのに。

 

 ホラーで萌えだしてもそれはそれでやばい奴か?

 

 

 そんなこんなでレイの部屋に入ると心地よい冷気が中には漂っていた。

 おかしいな、この部屋は冷房なんて入れてないのに夏真っ盛りで暑いはずなのに、いつ入っても涼しいんだよな。

 

 そして机の方に目を向けるともはやおなじみのジェンガ風に積まれたアイス棒たち。

 

 週末休みの前日になると最近よくレイにこのアイス棒ジェンガに誘われるのだ。

 

「やる」

「そうか」

 

 やる?と聞かれているわけではなく、断定なので俺と一緒にやることは確定になっているようである。

 

 俺と向き合う形で対面に正座するレイ。気合は十分といったところか。

 

 もちろん俺もやるからには本気である。いくら世間知らずの幽霊が相手だとしても俺はゲームにおいて一切の手加減はしない。

 

 そして何気にこのアイス棒ジェンガ面白いのだ。ジェンガよりもバランスを保つのが難しいし、少しでもミスればすべて崩れ去る。

 

 まるで人生みたいだね。……はっ!そうか、ジェンガとは人の人生を体現していたのか!!

 俺の人生はいったいどこから崩れ去ってしまったのだろう。

 

 なんだか目の前でうんうんとうなっているレイを見ながらそんなことを考えていたら、悲しくなってきた。

 

 集中しよう。

 俺は1本目を早々に抜く。まだ1、2本目は余裕だな。

 

 余裕だよな? レイさんよ。いや、そこはまずいんじゃない。ほらぐらついてるよ。お手付きしたから負けとか言わないからやり直してもいいんだよ。

 

 言っているそばから目の前で崩れ落ちるアイス棒タワー。 

 

 そう、このゲーム面白いには面白いのだが、一つ問題があるとするのならばとてつもなくレイが弱いのだ。

 一人遊びで俺よりも何十、下手したら何百とこのアイス棒ジェンガの歴戦を重ねてきたレイである。

 

 はじめてやった時はそれなりに覚悟して、負けるつもりで勝負に挑んだのだが、結果は御覧の通り、これまで俺は全勝中である。

 

「そんなとこ抜かない」

 

 レイのいいわけである。

 

 まあ一人でやってるときはなるべく続けようとして、バランスが保てそうなところから抜くからなあ。

 

 その気持ちはよくわかる。

 俺も中学時代とか一人で対戦型カードゲームをやってたときとか、もうダメージをゼロにできたのに「ふはははまだ終わらんぞ!」とかいって、やけに引き延ばしてたもんなあ。

 

 やめよう、この記憶は掘り起こしちゃだめだ。そんな気がする。

 まあ一人でやってる時と相手がいるときじゃ感覚が全く変わるからな。

 

 何分俺は意地が悪いからな! レイが抜きやすいところの棒を抜いたりはしない。

 それでも4本くらいは持つと思うんだけどなあ。

 

『もう一回』

 

 血文字を見せつけてくると同時に机の上で組みあがる棒タワー。

 崩れ去るのも一瞬であれば、組み立てるのもこれまた一瞬である。

 

 もしこのゲームがどっちが長く崩せずにいられるかではなく、どっちが早くタワーを立てられるかだった場合、俺は瞬殺される。

 

 絶対に勝てない。 

 

 だから俺からは絶対そんなゲーム提案しないけどね!

 俺だって負けたくないし、勝ちたいし。

 

 そんな俺の腹黒心理など知る由もなく、白熱?した二回戦が始まった。



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27話 失敗しても修正してすぐに成功させるから、幽霊は優秀です

 目の前には先ほどと何ら変わらない、まるで古来よりそこに存在しているかのような気さえする熟年の崩れ具合を現したアイス棒と、一本のアイス棒を片手に握りしめながら、そんな崩れ去ったアイス棒の山々を不満げに見つめるレイの姿があった。

 

 ちなみに俺はまだアイス棒を一本も取っていない。

 

 二回戦はレイ先手で始まり、俺の番が回ってくることなくその戦いは終わったのだ。

 

 レイは何か言いたいことでもあるのか俺の顔とアイス棒を交互に見つめている。

 そしておもむろにメモ帳に手をかける。

 

『勝ち?』

「いや、崩れちゃってるからね」

「うーー」

 

 そんな崩れてもいいから一本でも手に持ってれば勝利っていうルールに変更されたなら、俺だって今からこの崩れた山からアイス棒取り放題だからね。

 

 え、もしかして本当にルール変更する?

 負けるの嫌だから2、3本俺も手に持っておこう。

 

 俺の心配をよそにレイは素直に負けを認め、手に持っていたアイス棒を机の上に戻す。

 

 そして即座に再びアイス棒タワーを組み立てようとする。

 が、一瞬組みあがったタワーはすぐにバランスを崩して再びただの山に戻る。

 

 へえレイがこれを失敗するなんて珍しいなあ。今日はいつもに増して調子が悪いのかもしれない。

 

 レイもまさか失敗すると思っていなかったのか不思議そうに首をかしげながら、崩れたアイス棒を見つめていた。

 

 そんなことをのんきに考えていると、じーっというレイの視線が感じられる。

 レイはじっと俺の手に持っているアイス棒を見つめていた。

 

 ……え、もしかして俺のせい?

 

 そんな1本でもかけちゃダメな実は精密な作業をしていたの?

 

「もう一回」

『アイス食べたい』

 

 ……始まった。

 

 俺はアイス棒を机の上に戻し、瞬時に今度は綺麗にタワーが立てられる光景を見ながらなんと返したものかと考える。

 

 これは最近レイが覚えた新しい技である。

 

 レイのやつ口でしゃべりながら、同時に血文字で会話をし始めるというわけのわからない会話法を身につけていた。

 

「まあ明日休みだし構わないけど。さっきケーキ食べたでしょうが」

 

 アイス棒を取りながら返事をする。お、ちょっとぐらついたけどまあまだ大丈夫だな。

 この会話を身につけてからというもの定期的にこういう二重会話が俺とレイの間で発生する。

 

 正直に言うと今やってるジェンガより大変だからね? 

 レイはどういう思考しているのかわからないけど、俺は同時に二つの会話を理解してそれに返事をしないといけない。しかもゲームにも集中しないといけない。

 

 正直脳みそが一個じゃたりないんだよ。

 

「いじわる」

『さっき食べたのはアイスじゃないよ?』

 

 揺れが止まるアイス棒タワーの様子を観察するようにじっと見つめながら、平然と同時会話を進行するレイである。

 

「いやいやまだまだこれからでしょ。アイスもケーキも広義的にはデザートだから一緒」

 

 覚悟を決めたように口を真一文字にきゅっと閉じると、意を決してレイは1本の棒を抜き取る。

 

 手が震えてるけど大丈夫? なんでわざわざそんな崩れますよーって教えてくれそうな場所を取ろうとしてるの?

 

 俺の予想通り抜き取った瞬間に宙に舞うアイスの棒たち。

 

 ああ、また俺の勝ちか。今日は本当に調子悪いのかもな、いつもは1本は取れるもんな。2本目は取れないけど。

 

 そんなことを思っていたら宙を舞っていたアイス棒たちが不自然に動いて、気づいたときには机の上に再びきれいなアイス棒のタワーが建設されていた。

 

 え、何今の? まあもちろん俺にはこんな芸当できないからやった子なんて一人しかいないんですけど。

 

 棒タワーからすーっとレイの方に視線を向けると、レイは俺の視線からそれるようにスーッと体を逸らす。

 

 いやそんなことしても無駄だからね?

 なにこんな時に新技編み出してるの。

 



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28話 最近の女の子は脳みそが2つか3つ標準装備されていると思う。

「続けよ」

『アイスは冷たい。ケーキは甘い』

 

 私は何もしてませんという風な無表情を装って、しれっと会話を続けるレイ。

 まあばっちり俺の体が寒気に反応して鳥肌立ってるので、動揺してるのはバレバレだけどね。

 

 調子の悪いレイだが、やはり勝負には負けたくないらしい。まさかこんな技を使ってくるとは。

 

「まあ別にいいけどさ。アイスも甘いでしょうが。ほい」

 

 難なくアイス棒を抜き取る俺。むしろ初期配置に戻ってるから2本目より取りやすかった説あるけどね。

 

 しかしこの会話方法は疲れるんだよな。めちゃくちゃ頭が沸騰しそう。

 

 俺もいろいろと試しては見た。

 レイがしゃべっていることにだけ反応したりとか、俺も対抗して口とペンを使って会話したりとか。

 

 まあしゃべっていることだけに反応してたら、なんかせっかくレイが血文字で書いた話題を無視しているようでざわざわしてきて落ち着かないし、ペンを使いながらこのゲームをするのは難易度が高すぎる。

 

 俺は物心ついたころから生粋の右利きである。両利きなんてそんな器用なスキルは持ち合わせていない。 

 そしてペンを書く時ももちろん右。そうなると自然にアイス棒を抜き取るのは左手になる。

 

 左手で繊細な作業をするのはとてつもなく難しい。だからといって妥協して負けたくもない。

 

 左手でこのゲームをしていた時はさすがに相手がレイでも危なかった。

 俺の全勝という栄光という名の大人げない結果に泥を塗りかけるところだった。

 

 ゲームに負けたくない俺がたどり着いたのは、結局すべて口で返事をするのが手っ取り早いし、ゲームにも負けないという結論に至ったわけだ。

 

 そんな思い出を思い返しているとレイがアイス棒に手をかけていた。

 

 もはや定番といった感じで崩れるアイス棒タワー。

 そして一瞬で元に戻るタワー。

 

「どうしたの?」

『甘いの食べたいからやっぱりアイス食べたい』

「どうしたのって……まあいいや、続けるのな。甘かろうが冷たかろうが、結局そこに戻ってくるのかよ」

 

 

 崩れては戻って崩れては戻ってのやり取りをそれから何回か繰り返すレイ。

 

 一応もうこれ俺の勝ちでいいんじゃないのって内心思ってるけど、過去最長時間の勝負になっているから、引くに引けない。

 

 ちなみに俺の頭はパンク寸前。

 

 あれだな、感覚的にはめちゃくちゃ流行っているあの緑のチャットアプリで話してたらいつの間にか一つの話から派生して話題が2個も3個もになっていて、一回の返答でそれをまとめて返す感覚。あれに近い。

 

 男友達と会話しているときはそんなことになることは少ないんだけど、会社の女後輩とかと話しているときは、しょっちゅうそういうことが起きる。

 

 ……もしかして女性って男よりも脳みそ一個多い? なにそれ、ハイスペックじゃん。

 そりゃ男は女に敵わないわけだわ。

 

「まだ……まだ……」

『アイス取ってきていい?』

「いや、息上がってるじゃん、組み立てるの疲れるならもう諦めろよ……。今うちにアイスのストックはありません。昨日誰かさんが食べつくしたでしょうが」

 

「疲れてない。勝負はこれから」

『買ってきて』

「いやもう負けてるようなもんじゃないの? え、こんな深夜に?まあ確かにレイがアイスアイス言うから、食べたくなってきたけど……」

 

 ちょっと待て。

 

 なんで盤面上ではライバル同士の最終決戦ばりの会話をしているのに、一方そのころ戦場の隅ではアイスが欲しいとごねる子供をなだめるけど、結局ちょっとアイスに惹かれ始めているお父さんみたいな親子の会話みたいになってるの?

 

 さすがに温度感が違いすぎて冷静になると何話してるのかわからなくなってきたわ。

 

 ていうかお父さんもっとがんばれよ。そこは我慢しなさいって言いなさいよ。

 あ、俺か。しょうがないじゃん、アイスは俺も好きなんだし。

 

 あー思考までこんがらがってきた。

 え、それはいつものことって?うるせえよ。

 

「……ちょっと休憩するか。アイス買ってくるわ」

 

 机にぶつからないように注意して立ち上がりながら大きく伸びをする。

 今俺の番だからここで机にぶつかって崩れたりしたら俺の負けになるしな。

 

 そんな俺を見てどこかほっとしたような表情を見せたレイは、正座体勢から体育座り体勢になりおでこを自分の膝にこんこんと打ち付けていた。

 

 いや、やっぱり相当あの崩れてる最中のアイス棒組みなおすの神経使うんじゃん。

 そんな無理してやらなくていいじゃん。別に俺何回戦でも付き合うよ?

 

 そんなに俺に負けるのが嫌か、いやいまさらだろ。

 まあいいや、とりあえず棒アイス買いに行こ。なにがいいかなあ。

 

『あれがいい。ナッツのカップのやつ』

 

 レイのやつ顔を向けないまま血文字でハー〇ンダッツをご所望してきやがった。

 

 あれアイスの王様だよ?高いんだからね。そんなに気軽に食べられるものじゃないんだよ?

 

「考えとく」

 

 まあ先は長そうだし、好きなもん買ってやった方がいいのか?

 いやここで甘えさせるのは今後のためにもよくはない! アイス棒二本買ってこよう!

 

 

 結局俺はコンビニで100円棒アイスとハーゲ〇ダッツのマカダミアナッツ味を買ってきて、もちろん俺が棒アイスの方だった。

 

 そして肝心な勝負はというと、初めて、いや最早ジェンガでもなかったんだけど最後の一本まで勝負が進んだが、結局数と手番の関係で俺の方が一本多く、今日も俺の勝ちとなった。

 

 そのあとも何回戦かやったがすべて俺の勝ち。最後の方はレイも組み立てる気力がなかったのか、俺が組み立ててレイが崩しての繰り返しだった。

 

 レイ曰く彼女の敗因の原因は

「建てるの下手」

 だそうだ。

 

 あくまで実力差で負けたわけではないらしい。

 くそ、一人の時に組み立てる練習してそんな言い訳ができないくらい、完膚なきまでに負かしてやるからな。

 

 そんな終盤は疲れた様子を見せるレイだったが、そのころの会話といえばこんな感じである。

 

「もう一回」

『アイスおいしい。紙無くなりそう。眠い?』

「おー。お、ついに味わって食べることを覚えたか。買っとくわ。いやまだいける」

 

 俺の返事の感じからしてお察しの通り、頭がパンクどころか完全にショートしてたよね。

 チャットならともかくリアルの会話でこんなに複数の話題を同時展開しちゃいけません!

 

 棒アイス一個じゃ足りなかったなあ。どうせコンビニ行くなら新作のタルトでも買っとけばよかった。

 

 まあ買ってたとしてもレイに食べられてた未来しか想像できないんだけど。

 そんな感じで、ゲームが終わったころには空が白みだしていた。

 

 ほんと……休みでよかった。



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29話 派閥争いには参加したくないのに、気づいたら自分から火を焚いてる

 俺が勤める会社には食堂が完備されている。

 

 しかも決済はICチップが内蔵されている社員証をピッとするだけで給料から自動天引きだから、財布いらず。

 何気に便利である。

 

 さーて、今日は何を食べるかな。お、今日は竜田揚げがあるのか。

 

 なんか冒険してる感じの生クリーム入り麻婆豆腐とかいうのがあるけど、あんなの誰が食べるの?

 甘いか辛いかくらいははっきりしようよ。

 

 ほら誰も取らないじゃん。当たり前じゃん。

 時々此処の社員食堂は暴走してああいうよくわからない商品だしてるんだよな。

 

 もちろん俺もそれは取らずに無難に竜田揚げ食べるけど。 

 いや、デザートの新作はよく冒険したくなるけど昼飯くらいは無難においしいとわかってるものがあればそれを食べるよね。

 

 俺は安定を愛する男だ。人生でも食事でも冒険はしない!

 

 

 竜田揚げを取った後、ご飯と汁物を乗せた俺は適当に人が少ない空いている席に座る。

 

「一緒してもいいか?」

 

 いただき……ん? 

 めったに話しかけられない食堂で誰かに声を掛けられた。珍しいこともあるもんだな。

 

 そんなことを考えながら顔をあげると目の前には同じ部署の先輩が生クリーム入り麻婆豆腐を乗せたお盆をもってこちらを見つめていた。

 

「あ、どうぞ」

「すまんな。空いているところがなくて」

 

 この先輩かなりの美人である。

 美人と食事ができるというだけで世の男子はうらやましがるかもしれないが、先輩は仕事にストイックなのだ。

 

 ストイックというか至極真面目というか、しかも仕事ができるスーパーウーマンときたもんだから、俺はちょっと苦手意識があるんだよな。

 いや俺もまじめに仕事はするけど先輩ほどじゃないし。

 

 というかスルーしそうになったけど、先輩あの甘いか辛いか分からない物食べるつもりなんですか? 大丈夫か? 午後の仕事に影響ないだろうか。

 

 俺が勝手に心配しながら竜田揚げをほおばっていると、先輩は何の迷いもなく白みがかっているのに赤い麻婆豆腐を口に入れる。

 

 あ、すごい渋い顔してる。見たことないくらい形容しがたい表情をしてるけど。

 え、涙目になってない?大丈夫ですか?

 

「ときに九丈君。君は猫派か?犬派か?」

 

 声をかけるべきか迷いつつも二つ目の竜田揚げを口に入れていると、先輩は何事もなかったかのように、俺に話しかけてきた。

 

 ちらっと顔を見てみればそこにはいつも通り凛々しい顔をした先輩の姿がある。

 ……うん、俺は何も見なかったことにしよう。あんな先輩の姿は見なかった。

 

「聞いているか?」

「あ、すいません。聞いてますよ」

「そうか。それでどっちなんだ?」

 

「俺はたけのこ派ですかね」

「はあ……君は相変わらずだな」

 

 いやいやちゃんと質問はわかってるけど、そんな争いが勃発しそうな質問にまじめに答えられないから。

 

 俺が返事した内容は内容でどこかで戦争が生まれそうだけど、そこはスルーしてもらおう。

 

 別にキノコも食べるからね。タケノコ絶対至上主義派みたいな過激派ではないからね。

 何がとは言わんけど。何がとは言わないけどね!

 

「どうしたんですか、急に?」

「いや単純に疑問に思っただけだ。犬派と猫派は分かち合えるのだろうかと」

 

 この人、すごい真面目な顔しながらすごいどうでもいいこと言ってる。

 しかもついでに変な食べ物頑張って食べてるし。

 

 えー、これどういう風に返すべきなの。冗談で言っているのか真面目に話しているのかまったくわからないんだけど。

 

「すまんな。急にこんな話をしてしまって。実は最近喧嘩をしてしまってな。ちょっとどういう風に謝ればいいか悩んでいたんだよ」

 

 え、猫派か犬派かで喧嘩をしてしまって仲直りできてないってこと?

 

 何その可愛い喧嘩。というかだから気軽にそんな話持ち掛けちゃダメだって言ったじゃないですか。

 あ、口に出してはいってないか。

 

「一緒に暮らしてるものだから、いつまでも喧嘩しているわけにはいかないだろう? だから君にも聞いてみて何か思いつけばと思ったんだ」

 

 先輩は俺が黙っている間にどんどん話を進めてしまう。

 え、もしかして本気で先輩結構悩んでるのか?

 

 一緒に暮らしてるってことは、結婚してるって話は聞いたことがないし、彼氏さんとかかな?

 

 ……そうかー。いや別に先輩のことが好きだとか狙ってるとかじゃないから、別に何とも思わないんだけどね?

 まあ先輩は美人だし彼氏くらいいて当然だろうなとは思うし何も落ち込んでたりはしないよ。

 

 でもほら……こう、なんというか、別に好きじゃなくても、へーそうなんだーって思うことってあるよね。

 なんで俺はこんな必死になってるんだろうか。

 

 とにかくこれは何か言わなきゃいけない流れだよな。

 何を言えばいいんだ?

 

「……普通に犬と猫がじゃれてる動画を一緒に見れば何とかなるんじゃないですかね」

 

 俺は最後の一個になった竜田揚げを飲み込んでから何の気なしにボソッと口に出す。

 ちらっと先輩の方に顔を向けると先輩は雲が晴れたかのようにぱあっと明るい笑顔をこちらに向けてくる。

 

「そうか、動画か!その発想はなかった!ありがとう参考にするよ!」

 

 先輩は感動したように声のトーンをあげると、よほど悩みが解決しそうなことがうれしいのかバクバクと麻婆豆腐を食べていた。

 

 そしてまた微妙な顔をしていた。

 

 ……なんか、先輩って怖い人だと思ってたけど、もしかしたらそれは俺の勘違いで、ただの真面目に物事を考えすぎるちょっと変な人なのかもしれない。

 

 ろくに話さず人のことを判断しちゃいけないね。

 涙目で麻婆豆腐を食べてる先輩を見ながら、また一つ成長する俺であった。



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30話 俺が勤める会社にはもしかしたらまともな奴がいないのかもしれない。

 それから先輩と俺の間では特に会話もなく、黙々と昼飯を食べていた。

 配分間違えたからご飯と汁物だけの質素な感じになってしまった。

 

 いや、先輩とずっと昼飯の間会話をしろなんて高難易度クエスト俺にクリアできるはずがないからね?

 

 あれだけ会話ができたのも奇跡みたいなもんだからね。

 

「じゃあ私はお先に失礼するよ」

「あ、はい。お疲れ様です」

「午後も残っているからな?」

 

 先輩は俺の返事に軽く笑いながら返すと、席を立って歩いて行った。

 

 うーん、俺も食べ終わってるから食堂を出れるんだけど、先に失礼するって言われた手前、一緒に出ちゃうとなんか気まずい感じになるよなあ。

 ちょっと時間空けて出るか。

 

「お疲れ様です!ご一緒します!失礼します!」

「ごちそうさまでした」

「え、先輩待ってください!これ見てくれませんか!超かっこいいんですよ!」

 

 うるさい、声でかい。周りの人見てるから。

 それに若い、明るい、元気すぎる。

 やめて俺のHPはもうゼロよ!

 

 現実逃避はやめて俺の横に座ってきた人の方に目を向ける。

 まあ予想通り俺と同じ部署の後輩である。

 

 そして俺の方に突き付けてきているスマホの画面に映っているのは、間違いようがなく東京タワーだった。

 

「かっこいい……?」

「いやーかっこいいですよねえ。こんな角度からでもかっこいいなんてすごすぎません?」

 

 後輩はご飯をつつきながらスマホの画面をうっとりとした画面を眺めている。

 

 お行儀が悪いから食事中にスマホはしまいなさい。

 まあこの食堂にそんなルールはないからわざわざ口に出しては言わないけど。

 

 まあこの通り後輩は今日も元気である。

 

 何やら建造物のフォルムフェチというちょっと変わった趣味を持っている。

 まあそれ自体は別に個人の自由だしいいんだけど、彼女は明るく元気に辺り構わずそれを公言しているのである。

 

 あまりの元気の良さに誰もお近づきにならない。

 まあ簡単に言ってしまうと残念系美人だな。

 

 特に何をした覚えはないんだけど、俺は彼女になつかれている感がある。

 そして食堂から逃げようとして華麗に俺は失敗した。

 

「そういえば食事来るの遅かったんだな」

「はい、東京タワーの一番かっこいい角度を探してたら遅くなっちゃいました」

 

 なんじゃそりゃ。

 再度チラ見して彼女のスマホの画面を見るが、俺からすればどこから見てもただの東京タワーである。

 

 どうやったらかっこよく見えるのか気になるところではあるが、それを聞くと間違いなく午後の業務に遅れるので俺は絶対に質問はしない。

 

「あー、どこかにエッフェル塔みたいな人いないかなあ」

 

 何それ、どういう意味、そんな人見たことないけど。

「君エッフェル塔に似てるねー」って言われてうれしい人なんてどこにいるの?

 

 エッフェル塔に似てるって言われる人ってどんな人なんだろう。めちゃくちゃ背が高いとか? 顔がパリ系の美形男子とか?

 何それ、結局ただのイケメンじゃないですか。イケメンは世界を救うってか。

 

 というか君は東京タワーの話をしてたんじゃないの?どうして急にエッフェル塔が出てくるわけ? 

 これだから最近の若い子の話はテンポが速くてついていけん。

 

 まあ2歳しか歳の差かわらないんですけど。

 ともかくここは話を合わせるべきか?

 

「自由の女神とかはきれいって感じするよな」

 

 実物は見たことないし、写真くらいでしか見たことないけどまあ無難な有名どころだろう。

 

「先輩、何言ってるんですか。あれは人ですよ」

 

 いや君こそ何言ってるの? 

 

 人ではないでしょ。あれを人と認めちゃったら大体の物が人になっちゃうけど。

 え、どうしてそんな冷たい目で俺を見てくるわけ?俺なんか間違ってる? 

 あれ、もしかして俺の倫理観が間違ってる?なんかすいません。

 

「自由の女神より東京タワーの方が100倍美しいですもん!」 

 

 はい、アメリカに向かって土下座しなさい。

 最近流行りのドラマ顔負けの勢いで今すぐニューヨークの方角に向かって、土下座しなさい。

 倍返しといわず100倍返しで頭を地面にこすりつけなさい。

 

 いや、そもそもこれは俺が間違えていたな。俺がわからない価値観を持っている相手に向かって、相手のフィールドに不用心にボールを投げてしまった俺が悪い。

 自分のボールが返ってきてマッチポンプデッドボールになっちゃってるから。

 

「先輩は東京タワー派ですか? スカイツリー派ですか?」

 

 後輩がふいにまじめな目線でこっちを見つめてくると思ったら、そんなことを聞いてきた。

 

 何、今日はそういう日なの。派閥争いをいやでも勃発させたい日なのか?

 

 それにしてもこれは先輩の時よりも難易度が高い。

 

 相手は建造物ガチ勢だ。

 下手に答えてしまえばバッドエンド確定。

 

 何かいい逃げ道はないか……。

 

 いや後輩の視線が怖すぎてまともに顔見れないんですけど。

 視線をきょろきょろさせているとふと時間が目に入る。

 

 ……筋道は見えた!!

 

「そ、そんなことより時間は大丈夫か?」

 

 時刻は昼休み終了10分を切っている。

 

「げ、やばっ!」

 

 後輩もそんな俺の言葉を聞いて自分の腕時計に目を向けて、急いでクリーム入り麻婆豆腐をかきこんでいた。

 

 あれ、君もそれ食べてるの?何案外おいしいとかそんなパターン?

 先輩とかは涙目になってたけど後輩はなんか普通に食べてるし、逆に気になってきたんだけど。

 今度メニューに出てたら買ってみようかな。

 

「じゃ、俺は先に戻るから」

「ふぁい!」

 

 口に物を入れたまま喋らない。

 

 ま、ともかく何とか質問に答えずに逃げることができた俺は一安心だ。

 

 ……なんかうちの会社、ていうか部署おかしな人しかいないんじゃないか?

 い、いやあの二人が、特に後輩が目立って仕方ないだけだよな!

 

 俺はいたって普通だしな!



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31話 普通こういうのは女の子が恥じらうから需要があるわけで、俺が恥じらっても何の意味もない。

 俺は風呂が嫌いだ。

 

 ……うん、突然すぎる告白だし、こういう言い方をすると語弊があるけど、毎日ちゃんと風呂には入ってるからね?

 

 正確に言うと湯につかるという行為にさほど興味がない。

 一人暮らしを始めてからというもの基本的にシャワーで済ますことがほとんど。

 

 実家暮らしの時はほら、風呂に入ると勝手に湯船が張られてて、次の日の朝になると勝手に湯船がなくなってたからそりゃあ湯船が張られてたら入ろうかなってなるから、入ってたけど。

 

 ほんと実家ってすごいよね、待ってれば熱々のご飯が出てくるし、掃除しなくても部屋が片付いているんだから。

 ほんとにお母さまありがとうございます!!

 

 ……まあ俺の実家での自堕落な生活については置いといてともかく俺は風呂が嫌いである。

 

 例えば、湯船が張られている風呂と全自動垢落とし機?全自動きれいにしちゃう機?みたいなやつが置かれていたとしたら、俺は間違いなく全自動なんちゃら機を選ぶ。

 

 例えば、天然露天風呂と全自動なんとか機が置かれていたら、俺は迷わず天然露天風呂に飛び込む。

 いや、飛び込むのは危ないからゆっくりと露天風呂の熱さをじわじわと感じながら入る。

 俺はそういうやつだ。あー、なんか温泉行きたくなってきた。

 

 そしてそんなことを考えながら俺は今家の湯船に身を沈めていた。

 ……言っていることとやってることが違うじゃないかって?

 

 いや、そりゃあ毎日入るのはめんどくさいし、地味に水道代が手痛いところであるからやらないけど、たまにこう、今日は湯船に入りたい気分だ!めちゃくちゃ湯船につかってゆっくりしたい!っていう瞬間が訪れるんだよ。

 それが今日だったってだけの話で、俺は欲望に従って湯船につかっているわけ。

 

「ふふふん」

 

 ちょっと気分がよくて鼻歌なんて歌ってしまう。

 もちろん一人暮らしの風呂なんて足はのばせないし、絶妙な感じで横幅が狭いしで、露天風呂に比べるのが申し訳ないほどに小さなところだけど、欲望のままに湯船に入っているときは、最高にのんびりできる。

 そりゃ鼻歌も歌っちゃうよな。

 

 そんなこんなで一人カラオケリサイタルをやってたら、結構な時間が経ってたような気がする。

 そろそろのぼせそうだし出るとするか……。

 

 ガラガラ……

 

 いやあたまに入るからこそいいのかもしれないな。また気が向いたときにやろう。

 

 ……ん?ガラガラ?

 

 え、湯煙で結構な暑さになってたはずなのに、すっごい涼しい空気が流れ込んできてるんですけど……?

 

 俺はだいたいの予想はついていたが、まさかという気持ちで音がした風呂場の入り口の方に目を向ける。

 

 顔はきっと青ざめていたんだと思う。それか目が点になってたんだと思う。

 俺の顔についてはともかく目の前にはなぜか膨れ面でこちらをまっすぐ見つめているレイの姿があった。

 

 ……よし、ここで状況を整理しよう。

 

 俺は湯船から出ようと立ち上がり、外に出ようと足をあげているところ。

 目の前には風呂の入り口で俺とばっちり目が合っている状態のレイさんが登場。

 

 非常にわかりやすいかつ何というベストタイミングな登場なんだろうか。

 

「うえ!?あおはる!?ふぎゃだら!きゃーー!!いって!」

 

 慌てすぎた俺は上げていた足を即座に下ろし、その際に浴槽のふちに盛大に足をぶつけそのまま滑って転ぶように、湯船の中に戻った。

 盛大にお湯がぶちまかれレイの方に流れていく。

 

 いやいや焦らないでっていうほうが無理だから! なんていうタイミングで登場しちゃってくれてんのさ!

 

 もうちょっとあったでしょ!あんだけ湯船に入ってたんだから来るタイミングなんていくらでもあったでしょ!

 

 なんで俺が出ようかなと思ったタイミングでそんな堂々と入ってくるわけ?

 そんなときに来られちゃったら俺のサト~ルが丸見えになっちゃうじゃん!

 幽霊にめちゃくちゃ見られるとか何それ、俺お嫁に行けなくなっちゃうよ!

 

 そもそもなんで入ってきてるわけ!?

 

「楽しそう」

「……はい?」

 

 レイが一歩ずつ俺の方に近づいてくる。ちなみに頬は膨らんだままだ。

 普通俺が怒っていい場面だと思うんだけど、なんでレイが怒っていて俺が詰められているような構図になっているんだろうか。

 

 というかそれ以上近づかないでほしいかなあ。風呂に入っているのにすごい寒いし、俺のいろいろなものが見えてしまうわけだし……。

 

「楽しそうにしてるから」

 

 混乱する頭で何とかレイの言っていることを理解する。

 なるほどな。

 

 レイは基本的に俺が何か楽しそうなことや面白そうなこと、あとおいしそうな物を食べていると必ずと言っていいほど食いついてくる。

 いろんなものに興味を持ちやすいお年頃なのだ。

 

 そして察するに風呂場から俺の鼻歌がずっと聞こえていて、それでレイに隠れて何か楽しそうなことをしていると勘違いした彼女が、風呂場に突入してきたわけだ。

 

 ……行動と発言の意味は理解できたけど、まったく訳が分からない。

 

 ていうかレイに鼻歌聞こえてたってことは結構なボリュームで俺歌っちゃってたってこと?またお隣さんからクレームとか来ないよね。そっちも心配なんだけど。

 

 まあ今はお隣さんの心配よりかは今のレイと俺の状況についてだ。

 一体どうしたものか……。

 

「えーっと……一緒に入るか?」

 

 はてさて俺はいったい何を口走っているのだろうか。

 

 そしてなぜレイさんは俺の発言に何の違和感もなくうなずいているのだろうか。

 レイが近づいてくる。もちろん俺に止めるすべはない。

 

 なぜなら俺が誘ったからな!

 

 ……ていうかこういうのって普通逆じゃないの?

 なんで俺がきゃーって言っちゃってて、レイはこんなにも冷静なわけ?



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32話 お風呂回は続くよ、どこまでも。

 俺は今湯船につかっている。

 パーカーを着たままのレイと一緒に。

 

 俺が浴槽の端っこに背中をくっつけてて、その前にレイが俺の方に背中を向けて体育座りで座っている。

 いや、向き合うのはいろいろとまずいからね、これが最善策ですよ。最善策。

 

 ……どうしてこうなったんだ?

 

「暑い」

 

 いやそりゃそうでしょ。服を着たまま風呂にはいる奴なんて見たことないよ。

 なんでパーカー着たまま、そのまま風呂に入ってきたの?

 

 ていうか普通この浴槽のサイズだと二人で一緒に入るなんてことできないんですけど。

 

 どういうわけか、というか理由は明白でレイの体が透けているからところどころ俺の体がレイの体にめり込む形で、ちゃっかり二人とも入れている。

 透けてるんだから湯船の温度とかわからないんじゃないの?とか思ったんだけど、普通に暑いらしい。

 

「服着たままだからな」

「わかった」

 

 そう一言いうとレイは突然立ち上がり、浴槽から出ていく。

 

 なんだ、入ってみたら思いのほか面白くなくて飽きたとかか?

 

 それよりもちょっと薄目でレイが歩いているところを見ると、なんかなんもないところで、水滴がぽたぽた落ちていて足跡がついてるように見えるんだけど。

 透けてるはずなのにしっかり濡れてるってそれはいったいどういう現象?

 

 そんなことを考えながらレイの姿を追っていると、レイは風呂場の扉をすり抜けて姿が見えなくなった。

 しかし直後再び扉をすり抜けて俺の目の前に姿を現す。

 

 簡潔に言おう。レイは全裸だった。

 

「ちょちょちょ!!」

 

 俺、大混乱である。突然目の前に可愛い女の子が全裸で現れたのだ。

 思わず目をそらすことすら忘れてしまう。

 

 あ、レイさんって意外と着やせするタイプだったんですね。まあいつもだぼだぼのパーカー着てるから体形とかはわかりづらいよな。

 思ってたよりも大きい。髪に隠れてわかりづらいけど。あえて何がとは言わない。

 

 なんかレイが全裸になってからというものの、湯煙が一層濃くなったような気がする。 

 おかげで彼女の大事なところはきわどいラインで見えない。神秘が湯煙によって守られている。

 

 なにこれ、これも幽霊の超常的な何か?いや、というよりは湯煙に意思があるように思えて仕方ないんだけど?

 

 湯煙ばっかりずるいぞ!おれにももっとしっかり……って俺は何をまじまじと見つめているんだ!!

 

 俺はいまさらながらレイから視線を逸らし、波立つ湯面を見つめることに全集中する。

 足音が聞こえる。足音が徐々に近づいてきている。

 

 ちらっと目を向けるとほんのりと頬を染めたレイが無表情のままこちらに近づいてきていた。

 ああ、パーカーかぶってないと前髪ふんわり浮いてるから、いつもより顔が見えやすいんだな。

 

 ちなみに頬を染めているのはきっと照れているとかそういう可愛いもんじゃなくて、ただ単に湯の熱さにやられて火照ってるだけなんだと思う。

 

 ていうか今の俺の方が断然顔が赤い自信がある。もうなんというか全身が熱い。

 俺の体温で湯が沸騰するんじゃないかっていうくらい体、特に顔が熱い。

 

 ちゃぽん。

 

 間近で響いて聞こえた音につられて、俺は思わず顔をあげてしまう。

 目の前には真っ白な景色が広がっていた。

 

 湯煙でほとんどなんも見えないけど、目の前には白い壁に透過してうっすらと見える細い背中があった。 

 そしてレイがさっきと同じように湯船につかる。

 

 レイが入っても湯があふれるとかそういったことは一切なくて、レイが動いても一切湯面は波立たないんだけど、どういうわけか彼女の長い髪の毛だけは湯面に浮かんでいるように見えた。

 

 あれ、髪の毛だけ実体化してるとかそんなことある?

 まさかそんな器用なことできないよな。

 

「ちょうどいい」

「そ、そうか。ち、ちなみに服はどうされたんですか?」

「消した」

 

 脱いだんじゃなくて消したのね。

 どういうことか全くわからなかったが、俺はわかったことにした。

 なんか深入りしたらいけないような気がした。

 

 そしてそこから俺とレイの入浴タイムが始まったんだが、正直俺は生きた心地がしなかった。

 

 レイに触れてる感触とかそんなものは一切ないはずなんだけど、脳みそが勝手に補完してレイと触れ合っているようなそんな錯覚を覚えてしまっていた。

 

 いやあ人間の頭って賢いんだなあ!今だけはめちゃくちゃ退化してほしいところではあるんですけどね!なんでこんなに優秀なんですかね!!

 

 よし、だいぶ慣れてきた。多分慣れてきた。一切体は動かせないけど、もう大丈夫だ! 顔の熱さはだんだん引いてきた。

 

 多分時間的には短いんだろうけど俺にとってはめちゃくちゃ長く感じた無言の時間は唐突に破られる。

 

「楽しいことは?」

「えーーっと……」

 

 風呂で楽しいことって言ってもなあ。まあ確かにレイは俺が楽しいことをしていると思って入ってきたんだろうし、俺からしたら生き地獄、生殺しでしかないわけだけど、そんな風呂で楽しいことなんて思いつかない。

 

「ここってなにするの」

「そうだな……髪洗ったり、体洗ったりとか?」

「どうやって?」

「あー……」

 

 俺は今いろいろともろもろの諸事情で立ち上がることができないから、レイに教えてやることができない。

 

 そして正直結構湯船につかってたのと体の体温が急激に上がってたせいで、のぼせてきているような感覚がある。

 なんだか頭がぼんやりしてきている。

 

「やってやろうか?」

 

 だから言い訳をさせてほしい。

 これは俺の失言ではなくて、俺の体調的な問題から起こった必然的出来事であって、ついちょっと考えたことがそのまま口に出ちゃったわけで、ともかく俺は何も悪くない。

 

 絶対に俺は悪くない。

 

「わかった」

 

 レイは立ち上がるとまた湯船から出て行った。

 全身に長い髪の毛がくっついて、水滴が滴り落ちているレイの姿が目の前にはあった。

 

 ……だからどうしてこうなるんだ?



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33話 謎現象連発しすぎて、もはや慣れてきたかもしれない

 今俺の目の前には背中をこちらに向けて首をかしげているレイが立っている。

 ちなみに背中から下は湯煙が黙々と立ち込めていて、全く何も見えない。

 ほんとこの湯煙いい仕事するよね。

 

「どうするの」

「とりあえずそこにある風呂椅子を持ってきて座ってくれ。俺の手が届く範囲で」

 

 なんで俺はこんなノリノリで的確な指示をレイに出しているのだろうか。

 頭はパニック状態だというのに! 手が届く範囲って何!?

 もうやる気満々じゃん!

 

 別にジェスチャーで教えて、レイ自身にやってもらえばいいんじゃないの?

 

 あ、そっか。その手があった。

 

「レイ、別に持ってこなくていいや。適当に座ってくれ」

「届かなくていいの?」

「別に俺がやる必要ないと思ってな」

 

 いやあここで気づけてよかった。流れのままに何やらわけわかんない展開になるところだった。

 危ないところだった。

 

「やってくれるんじゃないの?」

 

 レイはそういうと首をきょとんと傾げたまま、風呂椅子を引き寄せて俺に背中を向けたまま座った。

 ……レイよ、素直なのはいいことなんだがもう少し俺の機転に感づいてだな。

 

 いやそれをレイに求めるのは酷なことか。元々俺がやろうかとか口走ったことが事の発端だし、これはもう仕方ないよな。

 

 ……仕方なくだからな! ああ仕方ないなあ!

 

「……とりあえずそこにある青い容器二個こっちにおいてくれるか」

 

 俺が指さしたシャンプーとトリートメントが入っている容器をレイは危なっかし気に持ち上げると、浴槽のふちに置く。

 

 いや、さすがに体を洗うのは難易度が高すぎるから、髪の毛だけに勘弁してほしい。

 いや別に髪の毛洗うのが難易度低いとかそういうわけでもないんだけど、どちらかというとそりゃ髪の毛だろう! 

 

 これはただのレイに教えるための作業。何もやましいことはない。仕方なくだしな。

 

 よし、まずはシャンプーからだな。

 しかしシャンプーを手に付けてから俺はある重大なことに気づく。

 

 ……あれ、俺レイに触ることできないんじゃないんだっけ?

 

 さっき湯船につかっているときもそうだったし、普段からもそうだがレイの体は透けてるから俺とぶつかるくらいの距離にいても、実際に体がふれることはない。

 

 すり抜けて貫通する。

 

 もちろんそれは髪の毛も例外ではないはずだ。実際これまで俺の手にレイの髪の毛が絡みつくなんてハプニングは起こったことがない。

 

 あれ、これってそもそも無理ゲーでは?

 

「はやく」

 

 レイはそんなことに気づいた様子もなく、せかすように声をかけてくる。

 え、レイって自分が透けてることに気づいてないとか? 

 

 いやいやさすがにそれはないだろ。

 ええい、ごちゃごちゃ考えてても仕方がない。ままよ!

 

 俺は意を決してシャンプーを泡立てるとレイの背中まで流れている長い髪の毛を掴む感覚で手を近づける。

 

 ……うわーなにこれ。

 

 実際には触れてる感覚もないし、手に重みが増えたわけでもないのになんかレイの髪の毛が俺の手の動きに合わせて浮いている。

 

 そのまま感覚的に手櫛の要領でレイの髪をといてみると、手についているシャンプーの量は減っていないのに、彼女の髪の毛にシャンプーの泡がついていた。

 

 まるで俺が触っているかのように、実際には触っている感覚はないのに、髪の毛が自動的に動いていた。

 

 ……もう何があってもたいていのことでは驚かないつもりだったけど、この謎現象はさすがにびっくりだ。

 

 俺が干渉していないはずのものがまるでそこに存在しているかのように勝手に動いている。

 こんなの見たことがないし、味わったこともない。

 

 俺はひたすら空気を握っているような感覚なのに、透けている髪の毛が俺の手の中にある。そんな変な感じ。

 とりあえず俺がレイの髪を洗ってやることはできそうだが、問題はここからだ。

 

 女の子の髪ってどうやって洗えばいいんだろうか。

 

 いや、俺女の子の髪の毛とか洗うどころか触ったこともそんなにないからね!?

 そんな俺に突然髪の毛を洗いなさいってそもそもの難易度がベリーハード、エキスパート級なんだよ、わかってる!?

 

 ……とりあえず、俺がいつも自分の頭洗う時にやっているようにやればいいのか?

 あんまり乱暴にするのもよくないよな。

 この長い部分はどうすればいいのかまったくわからないんですけど、とりあえずてっぺんから攻めるか。

 

 まるで俺は城攻めをするような気分で、いや、そんな戦国大名なことしたことないんだけど、気分的にはそんな感じ? 

 そうかー、戦国大名って城攻めするときこんな不安と期待に満ち溢れた感覚だったんだな!

 

 現実逃避を試みながら、それでもやっぱり顔が熱くなりながらも、俺はレイの頭に手を乗せる。

 そして手をわしゃわしゃと動かしレイの髪の毛を洗う。

 

 うん、イメージ的にはそんな感じ。実際にはひたすらに俺の指先がレイの頭の中に突っ込んでて、俺は手を空中で振っている感じ。結構疲れるね。

 

 でもやっぱり謎現象でレイの髪の毛はどんどんシャンプーの泡で覆われていき、ふとレイの顔に目を向けると、彼女はどこか気持ちよさげに目を細めている。

 おーなんか猫っぽい。

 

 しばらくそういうことをして、長い後ろ髪に関しては手櫛のようにして髪を梳く感じでやってみた。

 特にレイから文句は出なかったので間違っていなかったのだろうか?

 

 まあそもそもレイは風呂に入るという行為すら知らなかったわけだから、怒る余地がなかっただけかもしれんから、俺のこの洗い方があっていたのかどうかは全くわからん。

 

 しかしやってみると意外と楽しいもんだな。レイは気持ちよさげにしてるし感覚はないけど俺が触ったところがどんどん泡立ってきてるし。

 

 なんだかんだ徐々に慣れてきた俺はレイの前髪に手をかけて、ちょっと持ち上げてみる。

 

 すると突然レイがこちらに振り返り、真っ赤な顔で俺の方をにらみつけてきた。

 物凄い冷気を放ちながらフルフルと首を横に振っているレイに逆らえるはずもなく、俺はレイの前髪から手を離す。

 

 前髪により顔が半分くらい隠れたことで、レイは落ち着いたようで、再び俺に背中を向けておとなしくなった。

 

 え、もしかして顔を完全にみられるのは恥ずかしいとか? 全裸なのに?色々見ちゃってるっていうのに、顔を見られるのは恥ずかしいのか?

 まあレイの髪は細いしさらさらしてるからちらちらと顔は見えてるんだけど、前髪をあげられるのはどうやら相当嫌らしい。

 

 レイの恥ずかしがるポイントがいまいちわからん……。

 

 俺は頭をひねりながらも何とかレイの髪の毛をシャンプーまみれにすると、シャワーで洗い流した。

 この時もシャンプーは俺の手についている量のものしか流れていないはずなのに、レイの髪からシャンプーの泡がなくなっていくという不思議現象を目の当たりにした。

 

 その後のトリートメント、体洗いはレイ自身にやってもらった。

 

 いや、さすがにこれ以上は俺の心臓が持たないから。

 いくら感覚がないとはいえ、これ以上のことを俺に求めないでほしい。

 俺頑張ったと思うよ?いろいろと刺激が強すぎるから!ほんとに!

 

 まあ自分の体をあわあわの状態にしているときは結構レイも楽しそうにしていたし、結果オーライじゃないだろうか。

 

 結局いつまでもあわあわしているままボーっとしてたから、洗い流すのは俺がやったんだけど。

 さすがにシャワーを近づけるのは気が引けて、頭から一気にシャワーかけて泡を落としたけど、特に怒られなかった。

 

「終わりだな。楽しかったか?」

「ほくほくした」

 

 レイは満足そうにそう言うと立ち上がり、今度こそ風呂から出て行こうとしている。

 

 まあ風呂は楽しむっていうよりはそっちの方が醍醐味って感じはするよな。

 なんだかんだ気に入ったみたいでよかった。

 俺はいつ心臓が飛び出るかってくらいドキドキして生きた心地がしなかったけどな!

 

 がらがら……

 

 あ、今度は普通に扉開けるのね。ほんとにすり抜けるときと開けるときの違いを教えてほしい。

 

 ていうかレイのやつ出た瞬間にもうパーカー着てるんですけど!? 

 あ、もうフードかぶった。え、服濡れないの?大丈夫?

 

 心配になってよく見てみたが、レイの髪はもう乾いているのかさらさらとレイが進むたびに左右に揺れているのが見えた。

 

 ……なんか今日はいろいろと新しい謎現象を目撃したな。

 

 俺もそろそろしたらちゃんと出るか。 

 ほんとは今すぐ出たいところだけど、まだもう少し時間が必要そうだ。

 なんで?とは聞かないでほしいところだな。

 

 

 その後レイが出て行ってから俺もきっちり体を洗って、長風呂から出たわけだが、どういうわけか風呂場からレイの部屋に続く廊下は水浸しで、湯を抜くと浴槽の排水溝にびっしりと大量の長い髪がまとわりついていた。

 それなのにやっぱりレイの様子を見てみれば、やっぱり濡れてるような感じは一切なかった。

 

 え、もしかしてこれって俺が片付けるの……?

 あ、それとレイに俺が風呂入ってるときは入ってこないでっていうの忘れた。



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34話 最近の幽霊はテレビから出てくるのではなく、見る方が好みらしい

 俺は昔からテレビっ子だ。

 

 小さいころから家でテレビがついていれば、恋愛ドラマだろうが、夕方のニュースだろうが、時代劇だろうが、食いつくようにテレビを見ていた。

 

 なんでそんなテレビが好きだったのかはわからないけど、とりあえずホラー以外のものであればなんでもとりあえず見ていた気がする。

 いやホラーだけは本当に無理だから。

 心霊写真とかはまだある程度知識がつき始めると、全部合成って思いこむことで何とかなったけど、本当にあったかもしれない怖い話とか、世にも不可思議な物語とかやってるときは、チャンネルを一切変えずにひたすら教育番組ばっかり見てたから。

 

 ただそんなに四六時中テレビを見ていたのも実家にいるときまで。一人暮らしを始めてからはそもそもテレビを買うことができなかった

 

 まあ俺は貯金家でもないし、テレビを買う金がなかっただけなんだけど。

 その代わりパソコンというスーパーアイテムを手に入れた俺は動画サイトをあさるようになった。

 

 あ、アダルトの方じゃないよ? 健全な方だよ? yutubeとかネコネコ動画とか。

 あとは海外ドラマとかアニメを見たくて、NetFreeとかにも登録していた。

 

 まあ後々働くようになってからテレビを買うことはできたんだけど、それでもテレビはほとんど見なくなった。

 

 ほとんどゲームで使うくらいで、たまにふとテレビをつけて面白そうなバラエティがやっていれば、それを見るくらい。

 やっぱりCMがないっていいよな。

 

 それでyutubeで動画をあさるのが日課になっている俺だが、最近困っていることがある。

 

「レイ、だから俺の上でくつろぐのはやめなさいっての」

 

 レイは俺に対して大分遠慮がなくなっているような気がする。

 最近は俺の自室まで来て一緒に動画を見ているくらいだ。

 

 まあ俺が一人でいたいときとか、疲れているときは雰囲気を察しているのか来ないんだけど、そういうタイミングを多分うまいこと見計らって自室に来ている。

 

 で、俺が今ベッドにうつぶせになって動画を見ているんだけど、対するレイはそのうつ伏せの俺の背中の上でうつぶせになって、顎を俺の頭の上にのせて、動画をガン見している。

 

 もちろんレイが俺に乗っていても感触も重さもないから、俺に一切の負担はない。

 感覚的にレイがいるなってことがわかるくらい。

 

 俺がレイに触ると体にめり込むのに、レイが俺に触ると普通に乗っているように見える不思議……これくらいのことならもはや驚いたりしないけどね!

 

 まあ別に動画を一緒に見るのは全然いいんだけど、たまにレイが動いたりすると、彼女の髪の毛が目の前でゆらゆら揺れて映るから結構邪魔なんだよね。

 

 ていうか今見てる動画あんましだな。

 他の動画に変えようかな。

 

「そういえば新しい海外ドラマとか配信されてないかな」

 

 俺がyutubeのタブからNetfreeの画面に切り替えようとすると、突然マウスを持つ手が真冬のときごとく、指先が凍るような寒さに襲われる。

 

 そちらに目を向けると、レイが必死に俺のマウスを動かす手を止めようとして、手をぺしぺしと叩いていた。

 

 最近一部分だけ冷やしてくるという小技を覚えたレイである。

 

「これ見るの?」

「見る」

「……さいですか」

 

 俺も指先が凍り付いて、結果切断とかそんなことにはなりたくないので、おとなしくマウスから手を離して近くに置いていたスマホを手に取る。

 

 動画を一緒に見るのはいいんだけど、何を見るのかくらいは俺に主導権を握らせてほしいんだけど……なんか俺の上で揺れているレイは楽しそうだし、まあいいんだけどね……。

 

 少しスマホをいじっていると、今度は俺の頬にひんやりとした感触が当たるのを感じる。

 

 そして強制的に顔がパソコンの画面の方に向けられる。

 

「ちょちょちょい、レイ? 俺今いいとこなんだけど!?」

「見る」

 

 せっかくスマホゲーでいい感じに幽霊から逃げれていたのに、レイの謎の干渉力によって無理やりスマホから視界を外されたせいで、ヤンキーは幽霊に捕まってみるも無残な処刑をされていた。

 

「あーあ……。これ見た後海外ドラマ見るからな」

「わかった」

 

 こうなったら俺に主導権はない。

 俺は素直にあきらめてレイと一緒に動画を見ることにした。

 

 結局その動画を見終わった後も、海外ドラマを探しはしたものの特に目新しいものもなく、ただただぼんやりと動画を流し見する時間が続いていた。

 

 俺は途中何度か寝落ちしそうになったが、レイはずいぶんと楽しんでいたようである。

 

 最近の幽霊はテレビから出てくるのではなく、動画を見ることに夢中らしい。

 

 ……まあ今更レイがテレビから出てきたところで、怖くもないし驚きもしない。

 なんかまた新しい遊びでも見つけたのかなって思うくらいだ。

 

 俺もずいぶんと今の生活に順応したもんだな……。



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35話 熱気じゃなくて冷気でやる気を伝えてくるうちの子はたちが悪い。

 俺はゲームが好きだ。

 なんだかんだこの間友達が誘ってくれたヤンキーが幽霊から逃げる鬼ごっこゲームも続けている。

 

 そして俺は負けず嫌い。

 やるからには負けたくないし、全勝したい。

 

 でも俺はゲームがめちゃくちゃうまいわけではない。むしろ下手なのかもしれない。

 いや自分で下手だと思うとへこむから、俺はそこそこうまい。

 うん、そういうことにしておこう。

 

 で、家にはもう一人超負けず嫌いがいる。

 

「あ、負けた?」

 

 そう、今ゲームをしている俺の真後ろでじっと立っているレイさんだ。

 

 ……て、いつの間にそこにいたの!?

 全然気づかなかったし、俺そんなにゲームに集中してたっけ?

 

 いや確かに久しぶりにゲームしたいなあと思って、テレビゲームやってるけどそんな周りが見えなくなるほど、熱中少年になってたわけじゃないよね?

 

 ……まあレイが神出鬼没なのはいつものことか。

 それに冷静な解説ありがとうございます。こんちくしょうが。

 

「楽しそう」

 

 レイはそういうと俺のコントロールを奪おうと、俺の背中に覆いかぶさるようにして手を俺の前に持ってくる。

 

 出たよ。最近のレイの原動力「楽しそう」

 

 こうなったら俺が教えるまで絶対にレイはひかない。お風呂の時だってそうだった。

 ていうか俺が引かずにいると半端じゃない冷気が襲ってくるから、単純に俺が凍死する。

 

 だから引くことなんてできない。

 むしろ快く教える。レイの上機嫌な顔はこっちも見ていて楽しくなるからな。

 

 でもわたくし一つ思うのはこうやってレイが俺に覆いかぶさってきているわけじゃないですか?

 

 俺が寝転んでレイがその上に乗っているときも思ってたことだけど、もうちょっとなんか感触があってもいいんじゃないですかね?

 

 こう、ふにっとか、ぷにっとか……別に変態じゃないからね!? 男として当然の感想だと思うよ!うん!

 

 あ、でも重さはなくてよかったかもしれない。今重さがあれば俺の肩は完全に死んでいる。

 それでも落ちないか心配になってしょうがないので、俺の肩の上で直立するのはやめてもらっていいですか?

 

 バランスとろうとしないで!こんな時に変な新しい遊びを見つけないで!

 遊ぶかコントローラー奪うかどっちかにしなさい!

 

「まあまあ落ち着けって」

 

 俺の肩の上でびしっと直立姿勢を取り、どこかどや顔じみた満足げな表情を浮かべているレイに俺が持っていたコントローラーを差し出す。

 

 俺から降りてすとんと隣に座ったレイはコントローラーを素直に受け取る。

 そしてその片手で受け取ったままの状態でコントローラーをじっと見つめていた。

 

 ……いや、別に手放してもそれは逃げないからね?

 ああ、これはあれか。握り方がわからないのか。

 

「これはだな……ん?」

 

 俺が再びレイからコントローラーを借りて握り方を教えようと、手を伸ばした瞬間、レイのコントローラーを握る手がぐっと強くなったような気がした。

 

 ……うん、寒い。これは取ったらだめなやつだな。

 

 しかしこの俺!こんなこともあろうかともう一個コントローラーを持っているのだ!

 なんて用意周到な俺!さすが俺!

 

 ……本当はいつか彼女ができてお家にお呼びしたときに一緒にやるために、念のため買っておいた予備のコントローラーなんだけどね。

 

 なんか埃かぶっているような気がするんだけど気のせいかな。

 まあそうだよな、一年ぶりくらいに使うもんな。一年越しの新品未使用初開封だもんな。

 

 ……悲しくない悲しくない。

 

 俺は複雑な思いを抱えつつ、一年間ずっとスタンバっていたもう一つのコントローラーを取り出す。

 

 なんか哀愁が漂って見えるのは俺の気のせいだろうか。

 やめよう、これ以上考えるのはやめよう。

 

「とにかくコントローラーはこう持って」

 

 俺は自分の手で持ったコントローラーをレイに見えるように傾ける。

 レイは俺の手の方を見つつ、コントローラーを逃がさないように見よう見真似で手を持ち替えていく。

 

 だから逃げないから。急にバサバサって飛んだり、急に消えたりしないから。

 レイじゃないんだから。

 いや、レイが突然鳥みたいに飛んでもびっくりするけど。

 

「こう?」

「そうそう、そんな感じ」 

 

 今度はしっかり両手でコントローラーを掴んだレイは、やはりその掴んだコントローラーをじーっと見つめている。

 

 さてコントローラーに夢中のレイはもうほっといて、何のゲームをするかな……。

 やっぱりやるなら対人戦のゲームの方がいいよな。

 なんか無料でないかな。

 

 俺は今やっていたゲームを終了し、ゲームストアをあさる。

 

 お、格闘ゲームがあるじゃん。

 

 俺ほとんど格闘ゲームはやったことないけど、いや一緒にやる相手がいなかったとかそういうわけじゃなくて、RPGとかアクションゲームの方が俺の性にあっているだけであって、別に友達がいないからとかそういうわけじゃないんだけど……誰に言い訳してるんだ俺は。

 

 ともかく初心者同士ちょうどいいかもしれない。

 

「これやってみるか」

「わかった」

 

 レイのやる気も十分である。

 

 もう冷気がびんびんに横から伝わってくる。

 ちょっと弱めてくれないと俺指動きそうにないんですけど。

 

 レイとゲームするのはあのアイス棒ジェンガ以来か。

 まあ相手がデジタルゲーム初心者だろうが一切手は抜かないけどな!

 

「負けない」

「上等」

 

 俺とレイのゲーム大戦がはじまった。



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36話 うちの幽霊はずっと負けず嫌いです。なんでデジタルの方が強いの?

「よっしゃあ!」

「むーー」

 

 レイと始めた格闘ゲーム、現在3戦全勝。

 ゲーム内のカエルのガッツポーズと同じポーズを俺は今している。

 

 というかカエル同士で戦う格闘ゲームって何?

 なんか戦ってる画がシュールだし、無駄に操作性難しいんですけど!?

 それに勝った報酬がカエルスタンプって誰が喜ぶのさ?

 

 それにしても今の三戦目は結構危なかった。

 一戦目はコントローラーのボタン配置すらわからず、おぼつかない操作のレイだったが、二戦目では完璧に配置を覚えてきていた。

 

 そして三戦目、スキルコンボを覚え始めた俺とジャンプして逃げるということを覚えたレイとの戦いは、攻撃こそこっちが押しているものの、気を抜いたらカウンターを食らうという何気に一進一退の攻防を繰り広げていた。

 

 四戦目でレイが攻撃手段を覚えてきたらけっこうまずいかもしれない。

 

「もう一回」

「おう」

 

 しかし俺に逃げるという選択肢はない。レイがまだ戦う気があるというのであれば、俺はそれを受けて立つまでだ。

 

 そうしないと、俺家の中で凍え死ぬとかそんな変な死に方したくないし。

 

「次は赤色で行くかな」

 

 ちなみにこのゲーム、操作キャラクターは色違いのカエルのみである。全7色のカエルの中から一匹選んで戦う感じだ。

 

 今までやってみた感じ色ごとに特異な攻撃スキルが変わるらしい。

 正直わかりづらいしそんな大きな変化があるようには見えないんだけど。

 

 レイが選んだのは灰色のカエル。

 確かカウンタースキルが優秀だった気がする。

 やっぱり四戦目も逃げの一手を使うのか?

 

 そうして始まった四戦目。

 俺は見事にレイのカウンターにはまった。

 

「あ、くそ! これなら……うえ!?」

 

 そして俺は初めてレイにゲームで負けた。

 

「勝った!」

 

 レイのこの嬉しそうな顔。なんで俺負けたのにこんなほほえましい気持ちになってるの? 

 俺って負けず嫌いじゃなかったっけ?

 

「もう一回」

 

 でも勝ち逃げさせるとは言っていない。たまたままぐれで一回勝っただけかもしれないだろ?

 今度は俺もちゃんと考えて攻撃するさ。

 

 俺は選手交代緑のカエル。遠距離攻撃にプラス補正があるらしい。

 レイは変わらず灰色のカエル。どうやらお気に入りらしい。

 

 五戦目、開始。

 

 

 ……全然遠距離攻撃当たんないんですけど。何そのガードのタイミング、うますぎない?

 え、俺のこの遠距離の玉跳ね返せるの? なんで俺が攻撃したやつで俺がダメージ受けてるわけ? そんなのずるくない?

 

 いやいやどういう操作したらそんな的確にカウンター使えるのさ、俺の体力めっちゃ減っていってるのに、レイまだ全然余裕なんですけど。

 

 俺はつい気になってレイの手元の方に視線を向ける。

 ……なんか指が今まで見たことないようなスピードと滑らかさで動いていた。

 正直何やってんのか全然わからなかった。

 

 そしてレイがそんな俺の隙を逃すわけもなく、画面に意識を戻したときにはすでに俺が操る緑のカエルは地面に倒れていた。

 

「……負けた」

「勝った!」

 

 さっき勝った時と同じように目をキラキラさせながら勝ち誇ったような顔で俺を見上げてくるレイ。

 まあようなっていうか、実際勝ってるんですけどね。

 

 ていうか何この順応の速さ。もうなんか勝てる気がしないんですけど。

 いやいやいやここであきらめてどうする。まだわからないだろ。

 

「もう一回!」

「いいよ」

 

 くっそー、レイのやつ余裕気にしやがって! 次こそ負かす!

 

 

 ……結局そのあと5戦やって俺はレイに全敗した。

 結果、俺3勝5敗。レイ、5勝3敗。俺のま……

 

「まだだ! 次はこれで勝負だ!」

 

 俺は格闘ゲームを素早く終わらせると別の目に入った無料レーシングゲームを開く。

 格闘ゲームはあれだ。あのー……ちょっと調子が悪かったんだ!

 

 ていうか適当に目に入ったやつ開いたけど、なにこれ、旅客機でレースするの?

 いやお客さん乗せている飛行機同士で競っちゃだめでしょ。

 

 ルールを見るとどうやらスピード・レース終了時のお客さんの生存者数で競い合うようだ。 

 なにこれ、こんな飛行機乗りたくないよ。

 

「まあいいや、やるぞ」

「うん」

 

 始めて見ればゲーム性自体は特殊なものの、操作性自体は普通の車のレーシングゲームと変わらなかった。

 

 いや飛行機と車の操作が同じってどうなのって思うけど、まあそこはゲームだしな。

 レーシングゲームは格闘ゲームと違ってやったことがあるから、まあまあ自信がある。

 これならレイに勝ち越せるはず!

 

「なん……だと……?」

「さっきのより簡単」

 

 しかし俺の希望はいとも簡単に打ち砕かれる。

 

 一戦目は俺の勝利。ただし二戦目、三戦目と俺はレイに負けた。

 二戦目はスピードでは勝ったもののお客さんの残っている数で大差がつき負け、三戦目は普通にスピードでも残存数でも負けた。

 

「簡単……?」

 

 いやいや飛行機のバランスを保ちつつ、カーブを攻めてなおかつお客さんが死なない程度にスピード出すのめちゃくちゃ難しいんですけど?

 

 なんで俺の方は半数以上お客さんの数減ってるのに、レイの方は俺よりスピード出してたのにお客さんほとんど残ってるの?

 

「くっ……」

「終わり?」

 

 俺の4勝5敗……。

 

「まだだ! 次はTPSで勝負だ!」

 

 俺はレーシングゲームの画面を閉じると、レイが来るまでやっていたTPSのゲームの画面を開く。

 こうなったら完全に俺の土俵で勝負だ! プライドなんてものはない!

 

 勝利こそすべてだ!

 

 ……といってもこれはチーム戦だからな。どうしたものか。

 

「……より多く敵を倒した方が勝ちな」

「? わかった」

 

 これは100人の銃撃サバイバル戦。最後の1チームになれば勝利。

 今までなったことはないけど、敵を倒すことはできる。

 ふっふっふっ。俺の神髄を見せてやるぜ……。

 

 

――reiがsabori-nuを倒しました――

 

「おー、ナイスヘッドショット」

 

 ……じゃなくて!! なんだ今のスナイパーショット!

 

 俺敵の姿完全に見えなかったんだけど!? え、ズームとかもしてなかったよね?

 まぐれ?そうだよね?そうだといって!

 

――reiがponpokoを倒しました――

 

「おーナイス」

 

 ……まぐれじゃありませんでした!! 一体どういう精密さでどんだけ先の距離の敵を撃ち抜いてるの? 

 何この子天才? ゴーストゲーマーとして大会に出場させた方がいい!?

 

「余裕?」

「お、おう! うえ!? なんか撃たれてるんだけど!?」

「そこ」

 

「どこどこ!? うえあ!? わからんって!」

「あ」

「あ……」

 

――saikyoがsatoriを倒しました――

 

 なんか敵の姿を見つかる前にハチの巣になって死んだ。

 

――reiがsaikyoを倒しました――

 

 そして俺を倒した相手をレイが冷静にハンドガンで対処して倒していた。

 

 

――ドンvictory!! おめでとう! 一位です!——

 

 結果、その後もレイは淡々と敵を倒し続けて当たり前のように最後の一人になっていた。

 

「勝った。ほめられた。楽しかった。一番!」

 

 レイは誇らしげにコントローラーから片手を離して、びしっと人差し指を伸ばして笑顔でそ俺にむかって突き付けてくる。

 

 すっごいうれしそうな顔してるし、なんかすごい健気だし、プライドまで捨てて勝負にこだわった俺バカみたいじゃん……。

 

 なんかもう……

「完敗です」

 

 俺はコントローラーをその場において、両手を地面につきレイへと頭を下げる。

 

「? でも今のは一緒に勝ったんでしょ?」

 

 頭上からそんなレイのきょとんとした声が降りかかってくる。

 

「レイ!!」

 

 何この子すごいいい子じゃん! そうだよな! 最後のこれはチーム戦だもんな!

 二人で勝ち取ったものだよな! 俺0キルだけど、誰が何と言おうが二人の勝利だよな!

 

 俺は嬉しさのあまりレイに抱き着こうとしたが、当然その腕はレイの体を通り抜け勢い余って俺は床に突っ伏す。

 

 俺の突然の行動にびっくりしたレイはばっと立ち上がると、すさまじい寒気を俺に与えながら、その場から走り去っていった。

 

「勝った!」

 

 そんな捨て台詞……いや、勝利宣言を残しながら。

 

 あーめっちゃ笑いながら言ったんだろうなあ。目の前床色一色だったから見えなかったけど。 

 なんだこれ。負けたのにめちゃくちゃすがすがしいな。

 

 

 ……とりあえずカエルも旅客機も銃撃戦も特訓するか。

 俺もレイも負けず嫌いである。




突然ですが、作品タイトルを変更しました。
ここまでお読みくださってありがとうございます。
内容は変わらずほのぼのしていくはずなので、今後とも皆様の日常の隙間にお邪魔させていただけると幸いです。


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第四章 黒歴史と幽霊
37話 それはきっと黒歴史というやつで、いつまで経っても消えてくれない。


「聡って私のことどう思ってるの?」

 

 ああ、またこれか。

 

 とある日の何の変哲もない放課後の学校の教室。

 雰囲気だけは完璧でやけに夕焼けの日差しがまぶしく、彼女の姿が反射して幻想的に映えていたことを覚えている。

 

「え、どうって彼女」

「そうじゃなくてさ、いっつもうわっつらばっかりじゃん? 私のこと好きなのかなってたまに不安になるよ?」

「…………」

 

 うわっつらだけっていわれてもな。

 

 そもそも俺が彼女に告白したのも、周りが「あの子絶対お前のこと好きだって」て囃し立てられて、調子に乗って告白して、そんで高校2年生で初めてできた彼女。

 

 たったそれだけ。

 

 あーでもたったそれだけでも、もう三か月もこいつとは一緒にいる。

 一緒に帰ったりいろんなところに行ったり、どこ行っても彼女は楽しそうで俺も楽しかったし、いっぱい笑ってるけど、それをどっか俯瞰的に見ていて。

 

 まあ……たまには思ってることを言ってもいいのか?

 

「……好きかどうかはわからない。でも嫌いではない」

 

 それは考えている中でぽろっと出てしまった一言。

 

 今考えればわかる。俺はバカだ。大馬鹿だ。何もかも間違っている。

 これは彼女に対して、自分から好きだと告白した相手に対して絶対に行ってはいけない一言。

 

「……ふーん」

 

 今になってもその時の彼女の顔が思い出せない。

 教室の机に反射した日の光で彼女の顔を遮って、よく見えなかったのかもしれない。

 

 でも彼女の声はその返答に失望した様子も、落胆した様子もなくただただ静かな声だったことは覚えている。

 

「もっと好きになるようがんばるよ!?」

 

 おいおい、聡さんよ。高校2年生、絶賛高2病発症中の俺よ。

 とっさに返したその言葉はまったくもってフォローになっていない。

 

 むしろバッキバッキだったガラスに、とどめのパンチ一発ぶち込んだレベルで崩壊させている。

 

「……そっか。かえろ」

 

 それはいつも通りの、怖いくらいに普段通りの音色で発せられた言葉。

 

 バカな俺は何とかスルー出来たと思い込んで、いつもは客観的に物事を斜に構えてとらえていたくせに、都合が悪くなると主観的にとらえて、一緒にバカみたいな話をしていつも通り一緒に帰り路を歩いた。

 

 

 

 そして一か月後俺は彼女に振られた。

 まあ考えれば当然のこと。好きかどうかわからないと言い放たれた相手とずっと一緒にいるなんて選択肢は、きっと誰だって選ばない。

 

「私好きな人できた。わかれよ」

「おう」

 

 たった二言で俺と彼女の4か月は終わった。

 

 長かったようで短くて、いろいろあったようであっという間で。

 別れるってことに悲しみを覚えなかったわけじゃない。

 

 一緒に帰ることもなければ、きっとこの子と二人でどこかに遊びに行くってこともないんだろうなって、そう思えば少しは寂しいと思った。

 

 でも不思議と辛いという感情は湧いて出てこなかった。

 

「聡さ、好きって頑張ってなるもんじゃないと思うよ」

 

 そんなことはわかってる。

 そうやって言い返せればかっこつけられたのかもしれないけど、俺は何も言えなくて。わからなかったから。今でもそれがわからないから。

 

 

 数週間後彼女が一個上の先輩と楽しそうに笑っている姿をふと見かけた。

 

 その時に初めて心がちょっとだけずきっと痛むような感触があったことを覚えている。

 それがいったいなんの、何に対する痛みだったのかわからない。

 

 彼女が俺以外の男と楽しそうにしゃべっている、歩いていることへの嫉妬心?

 

 多分違う。

 

 俺と別れて間もない間に他の男とくっついている恨み言?

 

 これも違う。

 

 そういえばどこかに行った時も一緒に帰った時も彼女の顔をまともに見て話していた記憶がない。

 

 いや、多分顔は見ているんだろうしちゃんと会話も弾んでいたはずなんだけど、それでも今思えば、一緒にいたときの彼女の表情はどこかぼんやりとぼやけていて思い出せない。

 

 俺は彼女のことをあんな風に笑わせられていたんだろうか?

 ちゃんと楽しませていられたんだろうか?

 

 俺もあの先輩と同じように彼女と一緒に楽しく笑いあえていたんだろうか。

 

 別に彼女のことがトラウマになって彼女が作れなくなったとかそういうことはない。

 高校3年でも大学時代も彼女ができたことはある。

 

 だけど続いても数か月。みんな向こうからサヨナラを告げてくる。

 

 何回繰り返しても同じ。彼女と一緒にいるときの俺はどこか客観的に自分を見ていて、自分が楽しんでいるのかわからない。

 好きで告白したはずなのに、たまに本当にその人のことが好きなのかわからなくなる。

 

 ただそれだけの話。何も特別な何かがあるわけじゃない。

 普通に告白して、付き合って、一緒に出掛けて、そして振られる。

 

 そんな映像が何度も何度も俺の目を通して、同じ内容が若かりし頃の俺の感情と今の俺の感情がごっちゃまぜになって、繰り返される。

 そのうち俺にはわからなくなってしまった。

 

 好きになるって何なんだろう。

 人を愛するってどう頑張ったらいいんだろうか。

 

 歳を重ねた今でもふいに彼女の言葉を思い出す。

 

 

――好きって頑張ってなるもんじゃないと思うよ――

 

 

 俺にはその言葉をわかったつもりになっていて、でもやっぱりわからない。

 俺は恋に盲目になれる人をうらやましいと、そうとすら思う。

 

 



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38話 黒歴史を思い出したときってどうしようもなく地面に埋まりたくなりませんか?

「ぷぎゃああ!」

 

 自分のどっから出てんのかわからない声を聞きながら飛び起きる。

 

 ベッドのちょっと硬い感触に自分の足元にかかる柔らかい掛布団の存在で、一気に現実に引き戻される。

 

「はあ……またあの夢か」

 

 高校時代のいわゆる俺の黒歴史。

 夢だと認識しているのかしていないのか曖昧な間をさまよってみている、そんな夢。

 

 ていうか夢の中俺ちょっとポエミーすぎない!?

 

 怖いよ、何、自分の顔がかっこいいとか思ってるわけ!? 鏡見てからしゃべりなさい!

 

 よし洗面所までダッシュ。

 うん、今日の俺もかっこいい!

 

「……はあ」

 

 鏡に映る髪の毛ぼさぼさの腹立つほどに寝ぼけた顔をしてこちらを見つめ返してくる自分の頬をつねる。

 

 なんだこの顔、気持ちわる。

 

 この夢を見たときはだいたい気分は落ち込み気味になって、いつものモチベーション、やる気はどこへやら、きれいさっぱりどこかにいなくなってしまう。

 

 まあいつもからそんなにモチベーションもやる気も持ち合わせているわけではないんですけど。気持ち的にね?

 

 なんでわざわざ夢ってやつはたまにこうやって昔の黒歴史の記憶を引っ張り出してきて、その張本人に見せつけてくるのかね。

 

 見せられなくても覚えてるし、俺がいかにバカだったかなんて再認識させられなくても分かってるつーの。

 

 ああやばい。これ以上考えると恥ずかしくて死にたくなるし、でも死にたくないからひたすらに自分の頭を掻きむしって、黒歴史を頭から消し去りたくなる。

 はげたくないからこれもそろそろやめよう。

 

「どうせ夢ならもっとハッピーな夢を見たいよな」

 

 例えば大物芸能人とデートする夢とか、鳥になって空を自由に飛ぶ夢とか、女風呂に潜入したら可愛がられて……やべ、会社遅刻する。

 

 バカなこと考えてないで仕事行くか。

 

「…………はあ」

 

 憂鬱な一日が始まった。

 

 俺の気持ちに合わせるように今日の天気は一雨降りそうなどんよりとした曇り空が広がっていた。

 まあ俺の気持ちと天気は比例してないけどね。神様じゃないんだから。

 

 

「どうした、調子でも悪いのか?」

「……へ?」

 

 いかん、ぼーっとしすぎて先輩の返事をわけわからん発音で返してしまった。

 

「本当に大丈夫か? 変だぞ」

「先輩が変なのはいつものことですよーー」

 

 後輩よ、お前にだけはそれは言われたくない。

 

「これ印刷してきます」

 

 いかんいかん、仕事に全く身が入っていない。

 

 いや別に夢とか黒歴史のこととか全然気にしてないんだけどね?

 過去を振り返ってる暇なんて俺にはない! って感じで生きていたいじゃん?

 でもこういうなんかうまくいかないなーって日はあるよね。

 そういう日もあるんだよ。

 

 結局その日一日は全く集中ができなくて、三回ほど先輩に大丈夫か?と心配される始末だった。

 

 

「はあ、ダメダメじゃん。今日の俺」

 

 いつもの俺が普通の俺だとすれば今日はダメンズな俺。イケメンな俺はいつ登場してくれるんですかねえ。

 俺はいつでもオッケー、万事準備オッケーな感じなんですけどね。

 

「……疲れた」

 

 帰り道を歩いているとふと遠くからドーンという花火が上がる音が聞こえてくる。

 そちらに目を向けると満天の星空が輝く中でひときわ輝やいている火花が空を舞っていた。

 

 俺の気持ちはこんなに腐ってる……腐ってない、曇ってるというのに朝の雲はどこへやらきれいな星と月が顔をのぞかせている。

 

 あーそっか。今年ももう花火大会の時期か。

 

 周りをよく見れば急ぐように浴衣姿で早歩きしている人がちらほらと目に入る。

 8月の終盤に開かれる大きな祭りで、花火の時間には結構な人が集まるらしい。

 

「今年の夏も終わりかあ」

 

 今年も結局何一つ夏らしいことしなかったなあ。

 

 海にも行ってないし、バーべキューもしてないし、ただただ休みの日はクーラーの効いた部屋で一日中動画を見るかゲームをするか、本を読むか。

 あ、最近はレイと遊んだりもしてたな。

 

 部屋で涼みながら過ごす夏。それの何が悪い。最高じゃないですか。

 冷え冷えの家こそ至高。

 

 別に浴衣で祭りに行くとかうらやましいなとか、学生時代ですらそんなことしなかったなってセンチメンタルになっているわけではない。そんなことは断じてない。

 

 

 もう何度目かもわからないため息を吐きながら、背後であがる花火の音を聞きながら、玄関の扉を開けた。

 

 別にどこで花火が上がっていようが、祭りをやっていようが俺にとってはいつもの日常と変わらない。

 明日も仕事だし花火を見ている元気なんて残ってない。

 

『おかえり』

 

 今日は紙のパターンね。 

 それはどういう意図があって使い分けをしているのか俺には全くわからんけどね。

 

「……おう」

 

 珍しく俺が家に入るなりレイは壁から顔をのぞかせるのではなく、とてとてとこちらに近寄ってくる。

 

「……どうした?」

「この音」

「音……? ああ、花火な」

 

 確かに家の中にいても結構響くもんだな。去年はそんなに気にならなかったような気がするけど、あれ去年は残業しててそもそも家にいなかったんだっけ?

 一年前の記憶すら曖昧なんて老化が早すぎない? 病院行った方がいい?

 

 そんなことを考えながらリビングに向かおうとすると後ろから何やら腕を引っ張られる感覚。

 振り返るとレイが俺の腕にしがみつくように両腕でつかんできていた。

 

「なんだ?」

「ここにいて」

 

 えー廊下で立っておきなさいって何の罰ゲームだよ。

 今時学校でもそんなこと先生言わないよ。それに自分の家の廊下で突っ立ってるってそれは完全に変人じゃん。

 

「あー俺今日疲れてるから、また今度な」

「でも……」

 

 レイはつかんだ俺の腕を離そうとしない。

 

 なんか今日のレイはやけにひかないな。いつもだったらこういう時は、すっと離れて一人で遊んでるのに。

 

「俺は寝る」

「だって」『この音が』

 

 いやほんとに今日の俺に二重やり取りに付き合える元気はない。

 勘弁してくれ本当に。

 

「音? だから花火だろ? 近くで祭りやってるんだって。毎年のこと」

「でも……」

 

「しっつこいぞ! 今日はほんと無理だから! 俺は寝る!」

 

 レイの腕をすり抜けるようにして腕を動かして、俺は無理やりリビングへと入る。

 

「……ばか」

 

 扉を閉める直前レイの震えているような怒っているようなそんな声が聞こえた気がして、でも振り返ることはできなくて、そのあと彼女の気配がなくなったのを感じた。

 

 一人になったこの家で、花火の音だけが部屋の中に響いていた。

 その音がどこかむなしく、そう感じてしまった。

 



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39話 だから血文字ってもっと怖いことが書いてあるんじゃないんですか?

 いつもよりちょっと気持ちが落ち込んでいて、自分の調子が悪くて。

 そんなタイミングの悪いタイミングでからまれてイラっとして、いつもなら気にしないのに何でよりによって今日なんだよって勝手に怒って。

 

 それはちょっとした綻びから生まれたすれ違いで、今までこんなことはなかったけれど、いいことではないとわかっていて。

 

「あーー!!」

 

 分かってる、分かってるよ!

 

 いくら言葉を並べたって、それっぽいことを言ったって俺がレイに八つ当たりしたのが悪くて、レイのことを考えなくて行動した結果、こうなったってことは十分わかってる。

 

 乱暴に頭を掻きむしってもいらいらは収まらなくて、そのままの勢いでベッドにダイブする。 

 ベッドの堅さが全身に伝わってきて地味に痛い。

 

 俺が疲れていて、それでも絡んできたレイに怒ってるんじゃない。

 自分の感情に任せた子供じみた行動にイライラしてるんだ。

 

 あーくそ、怒りそのまま言葉を発するとか子どもかよ、反抗期かよ。

 

 部屋に入ったとたんに周りが静かになって、それでようやく冷静になって、自分がいかに愚かな行動をしたかを顧みて、そして後悔する。

 

 過去のことをいつまでもうじうじ抱え込んで、言い訳をして逃げてそのあげくに今近くにいる人までもないがしろにする。

 

「あーなんだ俺……最低じゃん」

 

 あおむけになって腕で顔を隠したところで、さっきの事実が変えられるわけでもないし、逃げられるわけでもない。

 

 今俺がやるべきことがたった一つなのはわかっている。

 それを実行することが怖くて逃げたく今もこうやってベッドに倒れている。

 

「……あほか。行くぞ」

 

 俺は自分の体に鞭を入れて立ち上がる。

 まだスーツのままだけど着替えている時間がもったいない。

 

 俺は自室から出るとリビングの扉を開けてレイの部屋へと向かう。

 

 決意したはずなのに体は固くなって、部屋の扉を開けるのに戸惑ってしまう。

 花火の音はとっくになくなっていて、家の中には静けさだけが満ちていた。

 

 ……トントン。

 

「あー……なんだ……レイ、さっきは俺もイライラしてたっていうか、それでもそれをお前にぶつけるのは間違ってたと思う……」

 

 扉を開ける勇気がなくて、一枚扉を挟んで部屋の中に向かって話しかける。

 

 …………。

 

 帰ってきたのは静寂。

 

「おい、レイ?」

 

 そうだよな。顔も見ずに謝るなんて礼儀がなってないよな。

 ここはちゃんと顔を見てちゃんと謝らないと。

 

 俺はそう思いなおし、レイの部屋の扉を開けた。

 

「……あれ?」

 

 いつもなら部屋の隅っこで体育座りでいるはずのレイの姿がない。

 

 気が抜けて全身の力が抜けると同時に、俺のこの決意を返してくれとちょっとだけ思ったり思わなかったりした。

 

 洗面所を覗いても風呂場をのぞいても、トイレの中を見てみても彼女の姿も、気配すらどこにもなかった。

 

「……もう知らん。寝る」

 

 よくわからない体の内側にあるざわざわにまたイライラして、俺はそのざわめきを無視するようにふて寝することにした。

 

 結局俺はいつまでたっても子どもだった。

 

 

 次の日の仕事も結局身が入らないまま、一日が終わってしまった。

 

 挙句には先輩にも同僚にも体調不良を心配されて早帰りするかとまで聞かれてしまった。

 それはさすがにさぼりと変わらないので遠慮したが、そのあとも俺が集中することはできなかった。

 

 え、後輩? あいつはいつも通り、今日は法隆寺の画像を眺めながら「この絶妙なバランス造形がたまらん!結婚したい!」とかわけのわからんことを言っていた。

 

 結局昨日はあの後寝たからレイとはあってないし、朝も俺がバタバタしてたっていうこともあるけど、姿も気配もなかった。

 

 まあ朝は基本的に出くわしたことがないので特に気にはしてないけど。

 

「……はあ」

 

 なんか最近俺ため息多くない?

 

 確かため息一つすると幸せが同じ数だけ逃げていくんだっけ?

 やばいじゃん、ただでさえ少ない俺の幸せがこのままだとマイナスになっちゃうよ。掴まえなきゃ。

 

 ……あ、そんな変な人を見る目で見ないでください。別に変な人じゃないので。俺はまともなので。

 

 ただ幸せを逃がさないように吐き出したため息を空中でつかんでるだけですから。

 

「……はあ」

 

 あ、やばい。また逃がしてしまう。

 

 そんなことを繰り返しながら家につき玄関を開ける。

 

 …………。

 

「……なんだよ」

 

 なんか違和感があるなと思ったら最近帰ったらいつもレイの「おかえり」があったから、それがないことにおかしいと思ってしまったんだ。

 

 いつの間にかあいつの労いに慣れてしまっていたのかなあ。

 

「おかえり、ただいま」

 

 しょうがないので久しぶりに一人挨拶をして靴を脱ぐ。

 

 そして顔をあげると玄関先のリビングとレイの部屋に通じる廊下には衝撃的な光景が広がっていた。

 

 

『ばか』『あほ』『まぬけ』

   『なす』『ぷりん』

        『アイス』『ぼう』

 

 

 壁一面に広がる血文字で書かれた悪口のオンパレード。

 びっしりと書かれたそれは壁の色が真っ赤になるほどに、でも文字は読める絶妙な塩梅で書かれていた。

 

 というかリビングに近づくほど、もう何かレイの食べたいものリストみたいな感じになっていて、悪口ですらなくなっている。

 

 むしろレイからプリンとかアイスとかって言われることって誉め言葉なんじゃないだろうか。

 

 ……それはないか。

 

 そんなことを考えながらも、徐々に俺の頭にまた血が上っていくのを感じる。

 

 上等じゃねえか……。

 

「俺は消さないからな! 自分で掃除しろよ!」

 

 俺はリビングの扉を開けながら家全体に聞こえるようにそういうと、リビングへと入った。

 

 結局その日もレイの姿を見ることもなく、気配も寒気も物音がすることもなく、俺は昨日買っておいたプリンを食べて眠りについた。

 一応アイスのストックも確認したけど、減っているような様子はなかった。



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40話 不安になる理由はきっともう気づいてる。

 次の日の朝はもちろんのこと、夜仕事から帰ってきても血文字はまだ消えていなかった。

 それどころか気配すらもあれから感じられていない。

 

 まあ仕事自体はずっとパフォーマンスを落としているわけにもいかないので、集中力がさすがに戻ってきたのだが、家に帰ると少し寂しくなるこの感じは何だろうか。

 

「あいついつまで出てこないつもりなんだ……」

 

 冷蔵庫に入れていたプリンを食べながら考える。

 

 レイがいなくなったとしてもそれは彼女が出てくる前の状態に戻るだけであって、あいつはもともと幽霊だし、一人暮らしであることは何ら変わりない。

 

 そう考えれば別に探さなくたって、このまま普通に過ごしていればまたひょっこり顔を出すようになるかもしれないからいいのかもしれない。

 

「……いいわけ、ないんだよなあ」

 

 いくら言い訳を探してももうレイと過ごす日常が当たり前になってしまっている。

 周りから変人扱いされようが、どんなことを言われようが幽霊である彼女と過ごすことが普通になってしまっているのだ。

 

「ああ、くそ!」

 

 俺はプリンを一気に口の中に放り込むと、立ち上がった。

 

 家の中のすべての扉を開け放つ。

 しかしどの部屋にもやはりレイが隠れている様子はなく、その姿が現れるはずもなかった。

 

 そもそも気配がないんだからそのくらいわかりきっていることだ。

 もう彼女を探すと決めた俺はこれくらいであきらめることはない。

 

 でも焦りはする。

 本当にいなくなったりしてないよね?

 

 あんな血文字がラストメッセージだったりするわけないよな? 

 暴言を言うだけ言って逃げるなんて許されないでしょ。

 俺にも一言くらい言わせてくれ。

 

 考えても仕方がない。家にいないのであれば、外を探すしかない。

 幽霊なのだからもしかしたら本当はいつもレイがいる部屋にいて、ただ姿が見えないだけなのかもしれない。

 

 ただ直感的に俺はそうではないと、この家にレイはいないと感じている。

 まあただの直感だから何のあてにもならないんだけど。

 

 俺は勢いのまま外に飛び出す。

 でも行く当てはない。どこを探せばいいのかまったく見当もつかない。

 

 とりあえず、この間レイが寝転がっていた場所に行ってみるか?

 とりあえずこの間の場所を目指そうと、大通りへと向かう。

 

 そして大通りに出た瞬間その姿を見つけた。

 いつかのあの日と同じように、縁石の上で寝転がって微動だにしない彼女。

 

 あの日と違うのは今日はうつぶせになって寝転がっていることだろうか。

 うつぶせでその顔が見えないとしてもそれがだれかなんて俺にはすぐわかる。

 

 というよりレイ以外に縁石で寝転がって落ち着いている人なんて、どこ探してもい

ないと思う。

 

 うつぶせかあおむけなのかは気分で決めているのだろうか。

 そのままずっと見ていればやっぱりどこか存在感が薄く、はかなげに映っていて、気づけばあの時と同じようにまた俺は彼女の隣に立っていた。

 

「何やってんだ。帰ろうぜ」

 

 謝るとか怒るとかそういったことはすべて頭から抜け落ちていた。

 今彼女に言いたいことをそのままいった。

 

 レイは顔だけこちらに向けると、一瞬驚いたような顔をのぞかせたがすぐに立ち上がって、俺の後ろにつく。

 

 これは素直に帰ってきてくれるってことだろうか?

 途中でまたどっかに寝転がって動かなくなったりしないだろうか?

 

 そんなことを考えつつ、ゆっくりと歩き始めると後ろからレイがついてくる気配があった。

 

 

 家までは遠くなかったのだが、なんかこのまま帰る気にもならなくて俺は家から遠ざかるように歩いていた。

 

 そして今レイはというと、俺の少し前を歩いている。

 どうやら俺の方が歩くのが遅くて、いつの間にかレイが追い越してしまっていたようである。

 

 なんか家に帰るのが気まずくて歩いていたわけだけど、レイは大丈夫かなーとか思ってたら、いつの間にか形勢逆転されている。

 

 むしろ今はレイが歩きたいところを俺がついていっているくらいだ。

 なんかあんな血文字を残すくらいだから相当怒ってるのかなーとか考えてたのに、やけに上機嫌に見える。

 

 よく一人で外に出ているレイだが、こんなに歩いたことはなかったのか興味深そうに周りをきょろきょろと見まわしながら歩いている。

 

 スキップでも始めそうな勢いだ。

 ……本当に怒ってたの?

 

 そんなことを考えていると、突然車のクラクションがその場に鳴り響く。

 どうやら信号待ちしていた車がなかなか発進しなかったため、その後ろの車がしびれを切らしたようだ。

 

 しかし俺は車の様子どころではなかった。

 

 さっきまで上機嫌だったレイがクラクションが聞こえると同時に、とんでもないスピードで俺の後ろに回り込んで、俺の背中を掴んできたのだ。

 

 いやこれはもう感覚的につかんでいるというより抱きつかれている。

 きっと今レイの全身が俺の背中に当たっているというのに感触を一切感じられない。

 やっぱりなんかもったいない気になるな!

 

 でも今はそんなことを言っている場合ではない。

 なんでレイは突然怖がってしまったのか。

 

 まあクラクションの音にびっくりしたのには違いないが、それにしても反応しすぎな気が……。

 そういえばこの間喧嘩した日も花火の音が結構大きく響いていたような……。

 

「もしかして大きい音、怖いのか?」

 

 俺はまさかと思いながらレイの顔が見えるように顔を後ろに向けながら話しかける。

 

「……いま?」

 

 レイはあきれたようにジト目をこちらに向けるように顔を見上げ、俺のことを見つめてくる。

 

 うん、上目遣いからのジト目、これもなかなか……じゃなくて!

 

 いや確かにレイの言う通り、気づくならあの花火が上がっていた日、もしくはその次の日くらいには気づけよと思うくらいいまさらではあるのだが、俺は冷静ではなかった。

 

 今だってクラクションの音がなかったら気づいていなかったに違いない。

 いつもだったら気づいていた気がするけど、本当に焦ってたんだな……。

 それに幽霊がでかい音が苦手なんて考えたりしないでしょ、普通。

 

 にしてもクラクションはともかくとして、それで花火が苦手になるのは少し残念な気がする。

 

 花火の日俺はふてくされて全く見なかったわけだが、別に花火が嫌いなわけではない。

 むしろ結構好きな方だ。きれいだし楽しいし、見てもやってもテンションが上がるものだ。

 

 それをレイが知らないまま音だけで苦手になるのはちょっともったいない気がする。

 

 ……よし決めた。

 

「レイ、ちょっとコンビニによってもいいか」



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41話 コンビニというのは、現代社会が造り出したダンジョンだと思う。

 そこから俺は一切俺のことを離そうとせず、しがみついたままのレイを半ば強引に引っ張るように歩きながら、近くのコンビニへと向かった。

 

 それにしても怖がりすぎじゃないですかね。

 ていうかコンビニに着く直前たまに笑い声とか聞こえたから、きっと怖がってないよね。俺の体を使って遊んでただけだよね!

 まあ重さとか一切ないから普通に歩けるからいいんだけど……。

 

「いらっしゃいませー」

 

 複雑な思いを抱えながらコンビニに入ると、涼しい風が体に当たる。

 外は結構な夜になっていて静かな感じだったけど、中に入ると店内BGMや照明の明るさで、結構雰囲気が変わる。

 

 いやあ家から徒歩五分の距離にコンビニがあるって最高だよな。

 思い立ったらすぐに行けるっていうところが素晴らしい。

 俺はここにコンビニが建っているせいで金欠気味だよ。

 

 レイは突然周りの雰囲気が様変わりしたことに驚いているのか俺から離れて、周りをきょろきょろと見始めだした。

 

「さて、目的のものは……」

 

 俺がコンビニに来たのには理由がある。 

 店に入ってすぐに右に曲がりその奥へとすすむ。

 

 レイはきょろきょろしながらも、俺の背中をちょこんとつかみながら必死に後ろをついてきていた。

 なんか子供みたいで可愛いな。

 

 ドリンクコーナーとトイレのちょうど間くらいに、それはぽつんと置かれてあった。

 そう家庭用手持ち花火セットである。

 

 いやあ、初めてコンビニでこれを目にしたときは何でコンビニにこんなものまで売ってるんだよとか思ったけど、まさにこういう時のために用意してくれてたんだな。

 

 コンビニで花火を買う人なんてそうそう居ないだろうとか思ってたけど、今まさに俺はその人になろうとしているわけで、あのときは本当に小ばかにしてすいませんでした!

 

 心の中で謝罪しつつ複数種類の花火が置かれている箇所をチェックしていく。

 

 打ち上げ花火は音的にダメだろうし、何より家でこの時間にやるのはまずい。

 そうなってくると手持ち花火も音が出そうなやつはダメそうだな……。

 

 なかなか音が静かな花火となると数が限られてくる。

 それこそ線香花火とかだけになってしまう。

 

「お?」

 

 しかし俺は見つけてしまった。

 

『音が出ない!夜お家でできる!安心安全手持ち花火セット!』

 

 ……何というベストマッチ。一つだけ残っていたそれはまさに俺に買ってくれと言わんばかりに存在を主張している。

 きっとこいつは俺に買われるために生み出されたのだろう。

 

 ここで俺が手に取らなければきっと悲しむに違いない。

 俺が買ってあげるしかないじゃないか!

 

「帰ろ」

「おう、もうちょいまって」

 

 レイはあまりにも慣れていない場所に来てしまったせいか、早々に帰りたそうにしている。

 

 ていうか普通に会話しちゃったけど、レイの声とか姿って周りに見えていないよな!? 大丈夫か?

 それに見えてなかったとしても、一人で誰かと会話している風を装っている変な人になってない、俺?

 

 そう思って周りを見回したがそもそも店内には俺以外、お客さんがいなさそうだった。

 

 田舎でまじよかった。

 

 俺は変に上がったテンションをレイの言葉を受けて少し冷静になりつつ、運命を感じた花火セットを手に取る。

 よし目的は達成した。あとはこれを買って帰るだけだな。

 

 俺は謎の達成感に包まれながらレジに向かっていると、突然レイの様子が変わった。

 

 あれだけ俺の背中に隠れておびえた様子を見せていたレイが突然俺の前へと走りだし、ある場所で止まったのだ。

 その顔は見たことないくらい幸せに満ちていて、目がキラキラと輝いている。

 

 そう、レイが見ている場所は間違いなくデザートコーナーだった。

 

 ……わかる。わかるよ。俺もめちゃくちゃ疲れている日とかにその場所に行くと、すべてがおいしそうに見えるもんな。

 でも買わないからな。今日はこの花火を買いに来ただけだから。

 

 そんなことを考えていると、レイは今度は後ろを振り返ってまたそのまま固まってしまった。

 

 ここのコンビニにはデザートコーナーの真後ろがアイスコーナーになっている。

 レイにとっては魔のゾーンといっても過言ではない。

 

 ほら、レイの顔よだれが垂れそうなくらいふにゃふにゃになってるもん。

 こんな顔、家だと一切見たことないんですけど。

 ちょっとコンビニに嫉妬しちゃうんですけど。

 

「ここは……天国?」

 

 いや、気持ちはわかるけどそんな大げさに言うほどか? 

 それに幽霊であるレイが天国とかいうとシャレにならんから。本当に成仏しちゃったらどうするのよ。

 

 再開した瞬間にたくさんのデザートと遭遇して消えちゃうとか、俺きっと一生後悔するからね?

 コンビニのデザートコーナーに立つたびに泣き出しちゃうかもしれないよ?

 

「レイ、そろそろ行くぞ」

 

 一向に動こうとしないレイを連れて行こうと、俺はデザートを買おうかどうか迷っている人を装いながら、小声でレイに話しかける。

 

 しかしレイはそれでも動こうとしない。目をきょろきょろさせながら目の前に並んでいるスイーツを、これでもかというほど眺めている。

 

「……はあ。一個だけな」

 

 結局俺の方が折れた。

 

 だって本当に微動だにしないんだもん。俺は彼女のことを触れないから、その場から動かせる手段を持ち合わせていない。

 それなら潔く買ってあげて、気持ちよく帰ってもらった方がいい。

 

 別にデザートとアイスを見るレイが可愛すぎるから思わず口に出してしまったわけではない。 

 俺はそんな感情に流されるような男ではないのだ。ちゃんとした戦略的発言だ。

 

 ていうかくるくるくるくるその場で回って忙しそうだな、レイのやつは。

 そして目がマジだ。

 これは一個決めるのにも相当時間がかかりそうだな……。

 

 

 

 結局コンビニから出たときには、夜は一層更けていた。

 

 俺の手には花火セットが入った袋が。レイの両手には大事そうにアイスが握られていた。

 

 結局スイーツじゃなくてアイスにしちゃったのね。

 

 レジにおいて店員さんがアイスを持った時のレイの悲しそうな表情は、正直見てられなかった。

 だってまるでこの世の終わりか一生の仇みたいな顔で店員さんのこと見てるんだもん。

 

 店員さん寒気がすごすぎて震えながらレジしてたよ。まあ俺も一緒にふるえてたけど。

 そんなレイにただ会計しているだけだからと小声で説得するのが大変だった。

 

 きっと店員さんには聞こえていないと思う。

 なんか時々変な人を見るような目で俺のこと見てきたけど、たぶん気づかれてない。

 

 そのまま俺とレイは無事に家に帰ることができた。

 レイはアイスをちょっとずつ食べていて、帰るまで俺の背中に抱きついてくることはなかった。

 

 ……なんかアイスに負けたみたいでちょっと悔しいんだけど。



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42話 ホラーは苦手です。だから……

 俺の家には庭がある。

 

 いや、二部屋ある上にリビングまであって庭付きで、それなのに家賃が安いってどんだけ盛ってんだよと思うかもしれないが、事実そうなのである。

 

 まあ庭があっても一人暮らしで家庭栽培をするわけでも、花を育てるなんて感性も持ち合わせていない俺が、それを使うことはなかったのだが。

 

 そんな使っていなくても除草剤だけはしっかりと撒いていて、整備されている庭に今俺は明るさ確保のためのライトと、その隣の水をたっぷり入れたバケツの前で仁王立ちしている。

 

 蚊が寄ってきそうなので、ずっとじゃなくてたまにステップダンスしているけど。

 

 今こうして俺が庭に立っているのにはもちろん理由がある。

 そう、花火をするためだ。

 

 しかし肝心のレイが出てこない。

 自分の部屋に入ったきり、出てくる様子がないのだ。

 

 一人で花火してもむなしくなるだけだからね? 

 いやはた目からは一人で花火をしている残念な人に映るかもしれないけど、レイがいないと主観的にもそんな感じになっちゃうからね?

 

 このまま出てこないとなると花火のテンションとかなくなって、来年までこの花火セットお蔵入りの可能性あるよ?

 それは運命を感じたこの花火セットに申し訳ない。

 

「レイー、ちょっと来てくれ」

 

 俺はリビングの窓を開けて、レイを呼ぶ。

 

 するとトタトタという足音とともにレイの姿が見えた。

 しかしすぐにその姿が消える。かと思ったら隣の俺の部屋の窓から音もなく現れた。

 

 えーなんで開いてるこっちからじゃなくて、わざわざ隣から来たの?

 そんなに俺の隣を通るの嫌ですかね。

 いやそんなこと考えると悲しくなるからやめよう。

 きっと俺を驚かせようとしただけなんだろ。いまさらこんなことでは驚かないけど。

 

「確認してた」

「なにを?」

「部屋で変なことしてないか」

 

 レイが俺のことをじっと見つめながらそんなことを言い出す。

 

 いや、さすがにそんなことしないからね!? 

 今までレイがいつも着ているパーカーって俺のお古だけど、タンスから引っ張り出せばレイの匂いとかするかなとか思ったりはしたけど、実際にはそんなことしてないからね!?

 

 ていうかそもそもそんな心境じゃなかったし、それどころじゃなかったし。

 

 俺が無言でレイに背を向けて花火の準備を始めると、背後からすごい寒気を感じた。

 おー、これが無言の圧ってやつか。多分違うと思うけど。

 

 

 花火に火をつけてからは、割と順調に事は進んだ。

 

 最初に俺が手に取った噴出型の花火に火をつけると、始めは驚いて家の中に飛び込んでしまったレイだが、俺の必死な説得と無駄に体を動かして楽しさをアピールしたことで、庭に戻ってきてくれた。

 

 いやまさか手持ち花火両手に持って阿波踊りをする日が来るなんて、考えてもみなかったよ……。

 

 それでレイに花火を持たせると、それからは楽しそうにレイも俺の見よう見まねで花火をもって踊るようになった。

 

 ……俺はレイに花火というものを間違って教えてしまったのかもしれない。

 まあこれはこれで可愛いのでありである。俺のテンショングッジョブである。

 

 

 そして噴出型やらねずみ花火を楽しんで、今二人して膝を抱えながら線香花火をしている。

 

 いろいろと手持ち花火がある中で、俺は線香花火が一番好きだ。

 いつまで火種が落ちないか選手権もできるし、何より線香花火が出す火花がきれいだ。

 

 楽しめる上に美しさを堪能できる一石二鳥な花火である。

 持った花火によっても勢いとか散り方とか全然違うしな。

 

 そんなことを考えながら線香花火をじっと見ていたが、ふとレイの方に目を向ける。

 目を向けたタイミングでちょうどレイが持つ花火の火種が落ちてしまい、レイは残念そうな顔で地面をじっと見つめている。

 

「ほい、次」

 

 まだ数はあるから大丈夫。

 俺は自分の火種を落とさないようにレイから消えてしまった線香花火を受け取ると、それをバケツに捨て、新しい花火を渡して火をつけてあげる。

 

 最初まだ火花が激しくない時は物憂げな表情を浮かべていたレイだが、だんだんと火花が激しくなるにつれてその表情は明るく時折笑顔すら見えた。

 

 よかった。ちゃんと花火を楽しんでくれてるみたいだな。

 こんなに楽しいこともあるってことを知らずに苦手になるのは、なんかもったいないもんな。

 これで嫌そうにしてたら仕方なかったけど、そうじゃなさそうでよかった。

 

 俺も二本目の線香花火に火をつけながら、今回のことを振り返る。

 俺の自己中でレイと喧嘩して、レイが家出して。

 三日会ってないだけだったのに、俺焦りすぎだよな……。

 

 気づいたらいつの間にかレイがこの家にいることに、俺の隣……上?にいることが当たり前になっていた。

 

 レイが部屋の隅で体育座りしていて、机の上に座ってデザートを食べて、俺の背中に寝転がって一緒に動画を見て。

 そんな生活が日常になっていた。

 

 今考えてもレイは不思議な子だ。

 

 幽霊のくせに怖がりでちょっとしたことでびっくりして、それで人見知りで。

 何も知らなくて、でも教えたら上達は早くて、俺が考えている以上のことをしてきて驚かせてきて。

 

 俺のご褒美スイーツもアイスも勝手に食べるし、勝手に自室に来て我が物顔で動画を見るし。

 怒っても悔しくてもうれしくても顔にすぐ出るし、ごまかしても冷気ですグわかる変なやつ。

 

 でもどこかほっとけなくて、つい色々教えたくなって、笑った顔も怒った顔も可愛くて、なんでか守りたくなって。

 

 いつの間にかリビングの机の上に座っていることが普通で、帰ったら壁からひょこっと顔出して「おかえり」って言ってくれるのが当たり前で、それがなくなるとどこか不安で悲しかった。

 

 俺は物思いにふけりながら、たった今落ちた線香花火を捨てるためにバケツを覗き込む。

 

 ライトに反射された水面にゆらゆらと映る自分の顔は、何ともだらしなく頬を緩めていた。

 

 ……ああ、何だ俺。ちゃんと笑ってんじゃん。

 

――好きって頑張ってなるもんじゃないと思うよ――

 

 ……なるほどなあ。

 

 あの時彼女が言った言葉の意味が分からなかったし、いつの間にかわかったふりをしていて、その言葉を遠ざけていたけど、今ようやく本当に理解できた気がする。

 

「俺、レイのこと結構好きみたい」

「? 私もすき」

 

 レイは線香花火を手にしてきょとんとした顔できょとんと首をかしげながら、答える。

 

 あー……これはたぶん伝わってないやつ。

 まあ伝えようとか思っていったわけじゃないんだけど。

 ぽろっと出ちゃっただけなんですけど。

 

「花火もいいもんだろ?」

「楽しい」 

 

 でも今はこれでいい。

 別にこれまでも劇的な何かがあったわけじゃない。

 

 いや幽霊が家にいて、それと会話をして、デザートの取り合いをして、今こうして花火をしているっていうのは劇的におかしいかもしれないけど、それすらも今の俺にとっては普通だ。

 当たり前になっているのだ。

 

 漫画みたいに通学路でぶつかって運命的な出会いをしたわけじゃない。

 というかレイとそういうパターンになった場合、俺がすり抜けてそもそも何も始まらないわけだけど。

 

 ただレイは俺の家にいただけで、俺はそこに住んでいただけ。 

 それでいつの間にか打ち解けて、仲良くなって、同居人になって、家族みたいになって、そんで俺が好きになっただけ。

 

 この好きって感情が父性なのか、同居人としてなのか、友達としてなのか、はたまた女性としてなのかそんなのは俺にはまだわからない。

 

 でも彼女はここにいてくれてるんだ。俺がいる家に住み着いてくれたんだ。

 俺は幽霊や妖怪の類は信じないし、出会ったこともなかった。

 

 ホラーは苦手で避けてきたし、それは今だって変わらない。

 心霊番組を好き好んでみる人の気持ちはわからないし、心霊スポットに行く人は何を考えているんだろうと思う。

 

 でも俺はそんなホラーが苦手だからこそ、

 

 

 この幽霊《レイ》と全力でラブコメしてみようと思う。

 

 

 なんかコメディー入っちゃってる前提が俺らしいというか残念というか……。

 でも恋愛というには仰々しくてなんか似合わなくて、ラブコメの方がしっくりくるよな、俺とレイって。

 

 あ、そういえばまだレイに言い忘れてることがあるよな。

 俺はまた地面を見つめて落ちた火種を探しているレイに顔を向ける。

 

「えっと、なんだ……今回は俺が悪かった。すまん」

「許す」

 

 そんなどこかの会社の上司みたいな返しながら顔をあげたレイは見たことないくらい満面の笑みを浮かべていて、花火の明かりに反射してどこまでもキラキラと輝いていた。




終わる雰囲気醸し出してますが、まだ終わりません。
お付き合いいただけると幸いです。


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43話 黒歴史じゃなくてもっといい名前に変えれば、思い出しても恥ずかしくならないと思う。……多分

 いつもの会社の帰り道。

 今まさに自宅の玄関前。俺は家の中に入るのをためらっていた。

 

 だって、だって……いったいどんな顔してレイに会えばいいのかわからないんですもん!!

 

「ふおおおおお……」

 

 頭を抱えて思わずよくわからないうめき声が口から漏れ出してしまう。

 もちろん近所迷惑にならないよう声のボリュームは落としているけども。

 

 それくらいの理性は保てているけども!

 理性があるからこそ昨日の夜の出来事が鮮明に思い返されるたびに、死にたくなるくらい恥ずかしい感情に襲われる。

 

 だって俺告白したんだよ! 幽霊に! しかも毎日会う、家に住み着いている子に!

 そんな翌日にどんな顔して会って、どんなこと話せばいいかなんてわかるはずもないじゃん!

 

 昨日はまだよかったよ。花火をしたテンションと、なんかそのほかの深夜テンション的なよくわからないテンションのおかげで、花火楽しかったねー。そうねー。うふふー。みたいな感じで乗り切れたよ。

 

 レイがそうねーとか言うはずがないんだけど、今のは全部俺の妄想なんですけど。

 でもそれくらいきれいにまとまっていたんだよ!

 

 朝起きたら冷静になってるから話は別。

 まあ朝はレイと遭遇しないから、自分が恥ずかしいだけで家から逃げるように飛び出すだけで、彼女との会話を避けることができる。

 

 でも今は違う。

 もう一歩足を踏み出して、扉を開ければきっと彼女はいつものように玄関先の廊下の隅から顔をのぞかせて待っていてくれているはずだ。

 

 そうなるとレイから逃げることはできない。

 いや別に逃げたいわけでもないし、何なら早く帰って顔を見て癒されたいまであるんだけども!

 心と体は一緒じゃないの!

 

 ……頭の中で昨日のことを反芻するうちに逆に冷静になってきた。

 もう覚悟を決めるしかない。

 

「黒歴史確定演出じゃねえか……」

 

 意を決して扉を開けて家の中に一歩足を踏み入れる。

 

「おかえり」

 

 やっぱりレイはいつも通り、いつもの場所で俺の帰りを確認するなりその言葉をかけてくれる。

 

「お、おう……」

 

 そういえば今冷静になって考えてみると、俺ちゃんとレイにただいまって言ったことないんじゃないか?

 いくら慣れたといっても素直に返事をするのがなんか照れくさくて、曖昧な言葉を返して逃げていたような気がする。

 

 恥ずかしいついでだ。俺の意識も変えないとな……。

 

「……ただいま」

 

 靴を脱いで、レイとすれ違いざまに出たその言葉は、聞き取れているのかどうかわからないほど、小さな声だった。

 俺の意気地なし! もっと堂々と返せよ! 

 このままだとレイにこの家の実権握られちゃうよ。意志の弱さに負けて。

 

 家に帰るたびにレイにスイーツを強要されて、お帰りといってもらう日々……あれ、そんなに悪いことでもないのか?

 ていうか、今とやっていることあんまり変わらない?すでにこの家の家主は俺ではなく、レイにすり替わっていた?

 

 俺の心情など知る由もなく、後ろをついてくるレイの方にちらっと顔を向けると、いつもよりその表情は明るく微笑んでいるように見えた。

 

 やっぱりレイは何も気にしてないよな……。

 

 レイはリビングに入るなり、冷蔵庫を開けてショートケーキを取り出す。

 そしていつものように、机の上に体育座りして容器を開封しはじめた。

 

 俺もワクワクしている表情を浮かべるレイの邪魔にならないように、特に話しかけることもせずに、カップ麺を取り出す。

 

 レイって食べてるときも幸せそうだけど、この開封をしているときが一番楽しそうなんだよな。

 冷気もこの時が一番激しい気がするし。

 

 お湯を沸かしながらレイを横目で見ると、彼女はすでにショートケーキをちまちまと食べ始めていた。

 その顔は机の上に落ちるのではないかと思うほど、とろけていてとても幸せそう。

 

 彼女は昨日のことを全く気に留めている様子がない。

 

 それもそうだよな。

 レイにとっては仲直りして、花火っていう新しい遊びを楽しんだってだけだもんな。

 

 俺にとっては結構一大事な転機の夜であって、それが今日になって黒歴史になって、今でもレイの顔をまともに見れなくて、なんか勝手に気まずい思いをしてるるっていうのに……。

 

 いや待てよ? 彼女が特に気にしていないんだし、俺が恥ずかしがるようなことでもないのだろうか?

 

 それに黒歴史っていうと心理的に悪いことのように思えて、ネガティブにとらえてしまう。

 別に悪いことではない。むしろいいことであり、思い出すたびに恥ずかしい思いをするのは、なんか違うのではないのだろうか……。

 

 これまでの黒歴史と呼んでいる思い出だってそうだ。

 

 高校時代のあれも、大学時代のあれも、社会人になってからのあれやこれもすべて別に悪いことではない。すべて今の俺を作り上げている大事な思い出たちだ。

 それならもっといい名前を付けるべきだろう。

 

 例えばそう……青春の一ページとか!

 

 昨日のあれは俺の人生における青春の一ページだったんだよ。

 別に青春は学生の特権ではない。社会人が青春して何が悪い。

 

 今のところ独りよがりな青春になっているけど、今後レイにも青春きたーと思えるような思い出を作ればいい。

 

 彼女はこの家に住み着いているのだから。

 

 時間はいくらでもある。

 

 今後黒歴……青春の一ページが増えれば増えるほど、俺たちは青春しているのだ。

 そういうことにした方が、なんかこう心がすっとする。

 

 恥ずかしがる必要はない! これは俺という存在を構成する中で大事な思い出なのだ。

 

 もうレイを見ても顔が熱くなるようなことも、気まずいと感じることもない。

 それどころか彼女のいつも通りの様子を見て、心がすっと落ち着いたような安心感さえ覚える。

 

「アイスもあるけど食べるか?」

「食べる」

 

 ようやく心に平静を取り戻した俺は、今日も今日とてレイを甘やかすのだった。



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44話 今日も今日とてレイは考える

 気づいたときにはそこにいて、小さなマンションの一室の、小さな部屋の片隅で縮こまるようにしてそこにいた。

 

 自分が何者なのか、なんでここにいるのか、そんなことさえわからなかった。

 はじめて何かを感じたのは自分のことだった。

 

 何かを怖がっていたのか、単純に寒かったのか、それすらも分からないけど、自分は部屋の片隅で壁に埋もれるようにしながら、その体を震わせていた。

 

 

 どのくらいそうしていたのかわからないけど、そのうちこの体が動かせることを知った。

 

 それからは毎日いろんなことを試した。 

 

 物は基本すり抜ける。掴むこともそこに座ることもできない。

 なんでここに立っている床は足がすり抜けていないのに、自分が持とうとする物はすり抜けてしまうのか。

 

 そのことが疑問で、ひたすらその部屋の中にあるいろんなものに触り始めた。

 そのころ、この空間に自分以外の存在がいることに気が付いた。

 

 それは自分と同じような形をしていて、でもその存在感ははっきりとしていて、その時にこれが人だということを知った。

 

 その人は私のことに気づいていないようで、自分から話しかけようと思っても声の出し方がわからないから、意思疎通ができない。

 

 だから私はひたすら物に触り続けた。

 

 はじめて自分の意思でものに触れることができたのは、木目の取っ手が付いた入れ物だった。

 それを押したり引いたりしていて、取っ手をもって引っ張った時に、それは急に動いた。

 

 ガタン!という大きな音にびっくりして手を離してしまったけど、確かにそれは動いた。

 

 入れ物の中に入っていたのは、分厚い布のようでそれはもう一人の人がいつも身にまとっている物によく似ていた。  

 

 私はその時自分がその人と違って、何も着ていないことに気づいた。

 なんだかそれがとても嫌で、何かを着なければという感覚になった。

 

 その人がその布を体につけているところを何回か見ていることがある。

 私は入れ物の中から出てきた布を取って、見よう見まねで着てみた。

 

 私はその時初めて、服というものを身にまとった。

 

 身にまとったはずなのに、手に取ったはずの、着ているはずの服はまだ目の前でくしゃくしゃのままだったけど。

 それでも私は服を身につけた。

 

 コツを覚えた私は、その感覚を忘れたくなくていろんな場所で、いろんなところ、いろんなものに触った。

 

 トイレでいくら引っ張っても出てくる紙を触っているときに、もう一人の人が帰ってきたのはびっくりした。

 

 トイレから出てきた私にその人はやっぱり気づく様子はなくて、トイレの前でぶつぶつと何か言っていたけれど、私はとにかく楽しかった。

 

 

 私に革命が起きたの、そのあとその人がいつもいる場所であの人が帰ってこないうちにと思い、いろんな物に触っていた時だ。

 

 その箱のような扉を開けた瞬間、甘い匂いがしたような気がした。

 

 なんだか懐かしくなるような、どこかで嗅いだことがあるような、これまでそんなことは一つもなかったのに、それはそんな匂いがした気がした。

 

 私はその箱の中に入っていて、甘いにおいを発しているそれを気づいたら手に取って、口の中に入れていた。

 

 びっくりするくらいそれは甘くて、そしておいしかった。

 

 今まで何かを口に入れるということはしなかったし、そんな行為は知らなかった。

 でも初めて口に入れたそれはとてもおいしく私は一瞬でそれのとりこになった。

 そんなときトイレの前でずっと立っていたその人が部屋に戻ってきた。

 

 私は急いで自分がいつもいる部屋に戻る。

 でもその時その人は初めて私の部屋に訪れて、そしてこういった。

 

「からになった容器は冷蔵庫に戻すんじゃなくて、ちゃんとごみ箱に捨てろ!!」

 

 れいぞうこ?ごみばこ? 私の知らないことばかりだった。

 その人は一瞬きょとんとした様子で首をひねった後、再び口を開いた。

 

「あと俺の金で飯を食うなら皿洗いぐらいしろ! 深夜にがたがたすると近所迷惑だから、静かにしろよ」

 

 その人はそういうと扉を閉めて遠ざかっていった。

 あの人から飛び出してきた言葉は知らないことばかりだ。

 

 皿洗いもきんじょめいわくも何のことだかわからない。

 でもその皿洗いというものをすれば、もっとあのおいしい甘いものを食べてもいいということだろうか。

 

 もう他の物にはさほど興味はなくなっていた。

 

 今はあの甘くおいしく口の中でとろけたあれが、食べられるのであれば何でもいい。

 

 私はその次の日、ひたすら皿洗いのことを考えて気づいたらあの箱の隣の、白いものややけに鋭利な物がある場所の前に立っていた。

 

 とりあえず目の前にある飛び出した銀色の取っ手のようなものをたたいてみる。

 するとそこから勢いよく水が飛び出して止まらなくなった。

 どうすればいいのかわからない私はとにかく周りにあったいろんなものに触りまくった。

 

 いろいろ持ち上げたり銀の床の上に落としてみたりしたけど、水が止まる様子は一切なかった。

 最後にダメもとでもう一度銀の取っ手に触ると水はようやく止まった。

 

 ほっとしたけど、目の前はぐちゃぐちゃになってしまっている。

 でも私は直感的にここに来た自分の勘を信じることにした。

 これがきっと皿洗いなんだろう。それよりも隣の箱を開けたくて仕方がない。

 

 私はいてもたってもいられずに私は隣の大きな黒い箱を開けた。

 そこには昨日と同じように、甘いにおいがする物が入った箱が置かれてあった。

 

 でも形が昨日と違う。それでも私はそれを手に取って口の中に入れていた。

 それはとても甘かったけれど、昨日と違って口の中に長く残った。

 

 一口で入れるのは少し苦しくて、ちょっと口から出してしまった。

 手に乗ったそれを再び口に入れてほおばる。

 口の中に甘さが残って、のどを通ればその甘さはなくなる。

 

 昨日ほどの感動はなかったけれどそれもとてもおいしかった。

 

 そのあとは部屋に戻ってあの人の帰りを待った。

 私の皿洗いの成果を見てどういう反応をするのかちょっと楽しみだったのだ。

 

 扉が開く音が聞こえる。あの人がきた。

 もしかしたら私がいる部屋にまたやってくるかもしれないと、身構えてたけどそんな様子は一切なくて、しばらくするとガチャガチャという音が響き始めた。

 

 私がやっていることには気づいたに違いないのに、なにをやってるんだろう?

 私は何か間違えていたのだろうか?

 

 そんなことを考えていたけど、でもそれはすぐにどうでもよくなった。

 昨日嗅いだあの甘いものの匂いがしたのだ。昼に食べた物ではなく、正真正銘昨日のあの匂い。

 

 気づいたら私は勝手に体が飛び出してあの人がいる部屋に飛び込んでいた。

 あの人はいなかったけど、目の前の物の上に、昨日たべたそれがぽつんとあった。

 しかも一つではない。三つだ。

 

 私はそれに飛びつくようにそのものの上に座って、それを手に取った。

 すぐに食べないとあの人が戻ってきてしまう。

 

 私はそれを両手に一個ずつ抱えるように持った時、扉が開く音がした。

 

 そこにはぽかんとした表情で、間違いなく私を見つめるその人の姿があった。



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45話 今日も今日とてレイは食べる

 わたしは迷いに迷っていた。

 今手に持っているこれを口に入れるか、ここから逃げるか。

 

 でもたまたま目が合ったような気がしただけで、もしかしたら目の前に立っているこの人は、何か一回転しているこの人は私のことに気づいていないのかもしれない。

 これまでも気づかれていなかったのだ。このタイミングで急に気づかれると考える方が難しいのではないだろうか。

 

 というよりもさっきから甘い匂いにつられて、この手に持っているプルンプルンしているこれから目を離すことができない。

 できることなら今すぐにでもこの容器の中に入っているそれを口の中に入れたくて仕方がなかった。

 

 きっとばれていない。

 すぐ食べてここから立ち去れば私の姿は見えていないに違いない。

 

「とりあえず机の上には座るな?」

 

 それは明らかに私に向けて語りかけられた言葉。

 その瞬間再びその人の方に視線を向ける。

 目の前のその人はやっぱり私に気づいている。私のことが見えているのだ。

 

 なぜかうれしくなっている自分と、怖くなっている自分がいるのを感じながらも、やっぱり視線は手に持っている物に吸い寄せられてしまう。

 

 最早迷う余地はなかった。

 見えてしまっているのであれば、これを食べてしまうほかない。

 

 この誘惑には勝てない。

 

 わたしは一気に両手に持ったその容器のふたをぺりぺりとはがすと、二つ一緒に口の中に放り込んだ。

 

 昨日の比ではないほど甘い香りと味が口の中いっぱいに広がる。

 

 最早甘さだけがわたしの周りを支配していて、それ以外のことは考えることができない。

 その甘さの中にも時折ほろ苦い味が紛れ込んでおり、それがいい塩梅に口直しになっている。

 

 わたしの口の中に広がる幸せをかみしめながら、それがのどを通りすぎていくのを楽しんでいた。

 口の中から幸せが消えると一気に恐怖が襲ってくる。

 

 目の前のこの人に私のことがばれてしまった。

 今まで姿を見られていなかったから、この人には私の姿が見えないものだと油断していた。

 

 せっかく洗い物をしたのに、何も言ってくれなかったという多少の不満もあったかもしれない。

 

 それでも目の前に出てもばれないであろうという油断があったことは事実だ。

 でもあの甘い物の誘惑に勝てるはずがなかった。

 

 この人になにかされるのだろうか。

 何か言われるのだろうか。

 わたしはこれからもここに居続けていいのだろうか。

 そんなことを考えていたら、その人が口を開く。

 

「そんなんじゃだめだ……プッチンプリンはプッチンしてこそだろうが!!」

 

 鬼の形相で叫びに近い言葉で発せられたそれは私の予想を大きく裏切るものだった。

 まったくもって言っている意味がわからない。

 その意味を理解しようとしている間にも、その人は怖い顔をしながらこちらに近づいてくる。

 その人がこちらに手を伸ばしてきて、思わず反射的に身構えてしまったけど、その人は私の真下にあるもう一つ残されたプリンを手に取った。

 

 そこからは何が起こっているのかわからなかった。

 その人は必死にしゃべりながら皿と言っていたものの上に、あの甘いものを乗せて、そしてスプーンと言っていたそれで、それをすくっていた。

 

 わたしはもはやそこに恐怖という感情はなかった。目の前の光景を見るので精いっぱいだった。

 

 だってあの小さな容器の中でぷるぷるしていた甘いものが、皿の上に解放されて今はぷるんぷるんしている。

 早く自分を食べてと言わんばかりに、魅惑的な動きをしている。

 そしてこの人はそれをちょっとずつすくって食べている。

 

 そんな少量ずつ食べることができるのであれば、永遠にそれを食べることができるのではないだろうか。

 そんなことができるのであればわたしは幸せすぎて死んでしまうかもしれない。

 

 気づけば私は目の前のその人がちびちびと食べている皿の上にのったそれをかすめ取っていた。

 再び口の中に広がる忘れもしない幸せな風味。

 

 何度口に入れてもこれは美味しいし、ちびちびでも一気にでもおいしさは変わらない。

 

 再び目の前に人がいることも忘れてしまう。

 何かこちらに訴えかけるように言ってきている気がするけど、今の私にはそんなことも聞こえない。

 

 口の中にある物を味わうことで、堪能することの方がこの瞬間だけは大事なのだ。

 でもさすがにがっかりしていた様子を見せていたその人が、こちらに手を伸ばしてきたときはびっくりしてしまった。

 

 ほとんど無意識にその手から逃れるように体をのけぞらせていた。

 しかし私の後ろにはいつもある壁も何の支えもない。私はそのまま目の前がぐらついて自分の身体が倒れていくのを感じていた。

 

 口の中のものを飲み込んで再び意識を目の前に向けたとき、目の前にあったのは大きな大きな手だった。

 

 それは明らかに私の顔にめり込んでいて、隣を見ればさっきまでスプーンと皿を持っていたその人が倒れているのが目に入った。

 

 この手はこの人の手だ。

 

 それを自覚した瞬間、全身が熱くなるのを感じた。

 今まで何も感じたことがなかった、むしろ冷たいとまで思っていた自分の身体が突然の熱さに襲われた。

 

 それが私は何だか恥ずかしくて、とても怖くて思わずその場から逃げ出していた。

 自分の部屋に戻っていつもの定位置に座り込む。

 

 完全にあの人に私のことがばれてしまった。

 

 それでも私が食べている物には怒っていたけれど、ここにいること自体に怒っている様子はなかった。

 

 それに私がバランスを崩した後、その人は私の隣で倒れていた。

 私は自分の顔を両手でぺたぺたと触る。

 まだあの手の感覚がなんとなくだが残っている気がした。

 

 ……もしかして倒れる私をかばおうとしてくれたのだろうか。

 

 もしかしたらあの人は私にとって怖い人ではないのかもしれない。

 私はそんなことを考えてちょっとうれしくなっていることに気が付いた。

 



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46話 今日も今日とてレイは笑う

 それからはその人といろんなことで関わるようになった。

 私も姿を見せることがどんどん怖くなくなっていった。

 

 それにその人は私が触る、口に入れるということしか知らないのに、それ以上に楽しいことをいろいろと知っていた。

 

 そしていろいろと甘くておいしいものを家に連れてきてくれた。

 

 そのどれもがおいしくて、最近食べたアイスというものも衝撃的だった。

 口の中が冷たくて、一気に食べると頭が痛いってなるのに、美味しさはそんなことも気にならないくらい口の中いっぱいに広がっていた。

 むしろ慣れるとその冷たさでさえおいしく感じる。

 

 ほかにもお風呂や、遊び、ゲームを一緒にしていろんなことを覚えた。

 

 文字を書くこととしゃべることは教えてもらったものの中でも特に難しかった。

 文字を教えてもらって、それを紙に書く。最初は全然まったくうまく書けなくて、自分の意思が反映される謎の赤い文字を生み出してしまったりもした。

 

 それでもそれで会話するのはなんか悔しくてひたすらに練習をした。

 ボールペンで書いた初めての文字は赤文字に比べて格段に読みにくくてなんて書いているのかわからなかったけど、その人はとても喜んでくれた。

 

 それがうれしくてもっと意思疎通がしたくて、結局ボールペンを使うことは減ってしまって、楽な赤文字を選んでいるけど、いまでもペンで書いた文字を読み取れるレベルで書くために、たまに練習をしたりしている。

 

 しゃべることを覚えるのは文字を書くことよりも簡単だった。というのもあの人がしゃべっているときが、楽しそうでその人のしゃべっている様子ばかり見ていたのだ。

 

 そして真似するように私も口とのどを動かしていたらいつの間にかしゃべれるようになっていた。

 

 しゃべれるようになってからというものその人とのコミュニケーションは格段に増えた。

 

 私はもっとその人のことを知りたくて、自分がどういう存在なのか知りたくてその人にいろいろと触れたり、乗ったりしてみた。

 

 そのころから私は気付いたら外に出ていることがあった。

 何の意味があるのか自分でもわからないけど、外に出ては寝転んでボーっとしていることが増えていた。

 

 そこにいるときはなぜか胸がざわざわして、でもどこか落ちついて、きっとこうなる前の私に関係あることなんだろうけど、私にはこの行動の真意がわからない。

 

 でもここにずっといるとどこにも行けないような、このままここから動けなくなりそうなそんな気すらしていた。

 だから私がここにいることがその人にばれて「帰るぞ」と言われたときはとてもうれしかった。

 

 私にはこの道端ではなくてちゃんと帰る場所があるんだと実感することができた。

 そのことがとんでもなくうれしかった。

 その嬉しいという気持ちがその人にはなんでか気づかれたくなくてついごまかしてしまったけれど。

 

 最近やった花火というのも楽しかった。

 

 突然家の中にいたら大きな音が何度も何度も響いたときはびっくりして怖くて、その人を頼っても相手にしてくれなくてムカついたりしたけど、外で花火を持って、それを見たときにはそんな気持ちはどこかに消えていた。

 

 花火の前にその人が迎えに来てくれた時点でそんな気持ちはもうほとんどなかったんだけど。

 

 特にわたしは線香花火というものが好きだった。

 ぱちぱちしてて、ちょっとでも揺らしたりするとすぐに火が落ちて消えてしまう。

 丁寧に持っていれば最後まで激しくきれいに燃えあがって、そして消えていく。

 そんなはかなさが好きだった。

 

 花火も楽しかったけれど、その時にその人に言われた言葉がなぜか頭の中に残っていた。

 

「俺、レイのこと結構好きみたい」

 

 その言葉がわたしの胸の中にすっとはまるのを感じた。

 顔を赤くしながらそう言うこの人のことを考えた。

 

 この人は私の知らないことをいっぱい知っている。

 

 この人は私にいろんなことを教えてくれて、この人に姿を見られてからというもの毎日が楽しかった。

 

 楽しいとか悲しいとかむかつくとかいろんな感情を私が持っているということを教えてくれたのもこの人だ。

 そして何よりこの人と一緒に何かしていると安心する。私は誰かに見られている。ここに存在していると確信できて、ものすごく楽しくてそして安心するのだ。

 

「私も好き」

 

 そう答えたけれど、その人は気が抜けたように笑っていた。

 私は何か間違えたのかな?

 

 そんな楽しい事ばかりしている毎日だったけれど、一番うれしかったのは『名前』というものをもらった時だった。

 

 それはいつものようにその人が一人でしゃべっていることがたまたま耳に入ってきただけだった。

 なんとなしにそれを聞いていて何してるんだろうと考えているとふいに『レイ』という言葉が耳に入った。

 

 その瞬間私も気づかないうちに体を動かしていて、気づいたらその人の前に座っていた。

 その人はびっくりしていたけれど、言葉一つでここまで反応していた私自身が一番びっくりしていた。

 

 なんでかわからないけど、その『レイ』という言葉がすごく気になったのだ。

 

 シュークリームの誘惑に一瞬流されそうになったけど、今はこっちの方が大事だとそう思った。

 デザートよりも大事なものがあると思ったのはそれが初めてのことだった。

 

 その人が再び『レイ』と呼んだ時、何か体の内側ですとんと落ちつくような気がした。

 うまく説明はできないけれどなにかとてもしっくりきたのだ。

 

 

 そして私はその日から『レイ』になった。

 

 

 その人が名前を呼んでくるたびに胸の内がくすぐったくなるような、でもどこか嬉しい気持ちになる。

 

 それは初めてプリンを口の中に入れたときのあの幸福感に近いものがあった。

 

 そういえば私はあの人の名前を知らない。

 あの人は私の名前を呼んでくれるけれど、私はあの人が名乗っているのを聞いたことが無かった。

 

 あの人の名前がなんなのか知りたかった。読んでみたらどんな反応をするのか、そして私はどんな気持ちになるのか知りたかった。

 

 思い立った私はあの人がいる部屋に飛び出す。

 でもあの人はまだ帰ってきていなかった。

 いてもたってもいられなかった私はそのままベッドの上で座って、あの人の帰りを待ち続けた。

 

「ほえ……?どうした?」

 

 帰ってきて部屋へとやってきたその人は私の姿を確認するなり、変な声を出してぽかんとした表情を見せている。

 

 私の姿を見るだけでそんな声を出すのはちょっと失礼だと思う。

 

「名前」

「……レイ?」

「違う」

 

 私の名前は私が一番よく知っている。どんな時でも呼ばれればやっぱりほっこりした気持ちになるが、今はそっちではない。

 私は自分の意思を伝えるべく、その人の方に指をさす。

 

「え、なに……あ、もしかして俺の名前ってこと?」

 伝わったことがうれしくて首をぶんぶんと縦に振る。

「そういえば言ったことなかったっけ……聡だよ。九条聡」

 

 くじょうさとる……。それがこの人の名前。

 

「……さとる」

「……お、おう」

「さとる」

「な、なんじゃい」

 

 私が名前を呼ぶとさとるは少しうろたえるように苦笑いを浮かべながら、そして顔を赤くしながら反応してくれる。

 

 それが楽しくて私は何度もさとるの名前を呼んでみたりした。

 

 呼んだらさとるが反応してくれる。

 それを見て私も自分の名前が呼ばれたかのように体が温かくなるようなそんな感覚に包まれる。

 

 後半はさとるは慣れてしまったのかあんまり反応を返さなくなっていたけれど、それでも私はなんだか楽しくなっていて、彼の名前を呼び続けていた。

 

 さとると過ごす日々は私にとって楽しくて仕方がなかった。

 

 これからもこんな日が続けばいいと、素直にそう思った。

 



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第五章 幽霊とお出かけ
47話 今は過去の繰り返しってよく言うじゃないですか。それですよ、それ。


 俺はレイと一緒にコンビニに行ったことを今激しく後悔していた。

 その場のテンションで行動してしまうからこういうことになってしまうのだ。

 

 これは俺の悪い癖であり、別に直そうとも思わないけど痛い目に遭うたびに俺ってやつは……と考える部分。

 

 ブーーー

 

 そういうことってよくあるよね。

 

 で、今俺が後悔している理由である物が俺の手の中に握られている紙に書かれているのだが、もう一度それによく目を通す。

 

『今日の欲しいものリスト』くるくる巻かれてたアイス。くるくる巻かれてた黄色のケーキ。

 

 ブーーブーー

 

 ……今日はどうやらくるくる巻かれているものをご所望らしい。

 

 しかし9月に入り気温もさがってきたというのに、レイはまだアイスを食べるつもりらしい。

 まあ家の中で食べるのであれば季節なんて関係ないし、おいしいものはいつだっておいしいんだけど、彼女の体は冷えないのだろうか。

 

 レイとコンビニに行って花火を楽しんだあの日以来、いつの間にかこの『ほしいものリスト』が作られていて、コンビニで目に入ったのであろうレイの食べたいものがリクエストされるようになった。

 

 これまではあくまで俺が食べたいものを買ってきて、それをレイが食べているだけだった。

 それだけならまだ勝手に食べられている、仕方ないな。で済ませられたから、俺の財布に優しくない行為だとしても何となくそれを許すことができた。

 

 許せる理由が自分でもどうかなと思うけども、それでも俺はそれで納得することができていたんだ。

 

 でもこうなってしまうと話が変わってくる。

 

 俺がレイの食べたいものを買ってきて、それをレイが与えられて食べる。

 それでは、それでは……レイが俺のヒモになってしまうじゃないか!

 

 ブーー

 

 それはレイの教育に非常によくない。このままレイがこの行為に慣れてしまうと、彼女はずっと誰かから何かを与えられないと行動できない残念な子に成長してしまう。

 

 そうなると働くこともできず、一生俺のヒモとして生活していくしか方法がなくなってしまう。

 

 それはそれで俺としては特に問題ないし、それでレイがずっとここにいるのであればいいとは思うんだけど……そもそも幽霊が働けるような職場なんて俺は聞いたことがないんだけど、そんなところあるんだろうか?

 

 ……いや、もしかしたら俺が知らないだけで貞子さんとかトイレの花子さんとかももしかしたらシフト制で働いているのかもしれない。

 

 残業時間を使って井戸やらテレビから飛び出しているのかもしれない。

 残業しなくていいからおとなしくしていてほしいところではあるけれど。

 

 ブッブーー

 

 ともかく! 俺はよくてもこのままではレイのためにならない。

 そういう考えに至った俺は今日、レイに文句を言いに行くことにした。

 

 断じて昨日までちゃんと前日に『ほしいものリスト』を確認していて、ちゃんと次の日にそれを買っていたけれど、今日はたまたま見るの忘れて買い忘れてて、家を出て買いに行くのがめんどくさいから怒るのではない!

 

 これはちゃんとレイのためを思っての行動なんだ。

 

 

「レイ―、いるかー? いるよなあ? 入るぞー」

 

 俺はレイの部屋になっている一室の扉をノックして彼女の返事を待つことなくその扉を開ける。

 

 扉の先には部屋の隅で体育座りをしながら、手に持った漫画で顔半分を隠しながら、睨むような視線でこちらを見つめてくるレイの姿があった。

 

 俺はそんな予想外な彼女の反応に思わず足を止めてたじろいでしまう。

 

 ブーー

 

 俺のポケットに入ったスマホから出るバイブ音だけが、その部屋に響いていた。



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48話 質問:幽霊に反抗期ってあるんですか?

 レイは今現在すごく不機嫌そうである。

 それがなぜか。俺にはまったく理由が思い当たらない。

 

 着替え中だったようにも見えないし、そもそもレイが俺の古着以外着ているところを見たことがない。

 だから着替えるような服も彼女は持ち合わせていないはず。

 

 そういえばそんなに服を持っていないというもの女の子としてはどういう風にレイは考えているんだろうか。

 やっぱりかわいい服とか自分で服を選んで買いたいとかそういう願望はあるんだろうか。

 それなら服も買ってあげる必要があるよなあ。

 

 そもそもどういう原理で俺の服を着ているのかすら想像がつかないんだけど、

 だってレイって透けてるんだよ? そうするとあのレイが着ている服も透けてるってことになるよね。

 

 俺物体がすり抜ける服とか買ったことないんですけど。ていうかそんな服どこに売ってるんだよ。

 

「まだ返事してないのに」

「へ?」

 

 絶賛考えが逸れにそれているときに、レイはボソッと抗議するような口調で俺に話しかけてきた。

 

 ……もしかしてノックをして返事を聞く前に入ってきたことに怒ってるの?

 

 そんなので今まで怒ったことなかったし、別にノックせずに入っても体育座りしてマンガ読んでるか、アイス棒ジェンガを崩して悶えてる場面にしか遭遇したことがないんですが。

 

「何か問題でもあったか?」

「……乙女にはいろいろあるの」

 

 これまた衝撃である。

 レイからまさか乙女なんていう単語が飛び出してくるなんて。

 

 だって俺が見ているのにいきなり風呂場で素っ裸になるような子だよ?

 そんな子に何を恥じらうことがあるというのか。

 

 しかし今のレイの発言を聞いて俺は一つの結論にたどり着いた。

 

 これはあれだ。最近読んでいる漫画の影響を受けているんだ。

 冷静になってみればレイは不機嫌そうな顔をしているものの、その発言に一つも怒っているような感情が込められている様子はないし、なにより彼女から冷気が発せられていない!

 

 なんだよ、レイのやつ全然怒ってないじゃんか。

 ちょっと反抗期になったのかなとか心配した俺の気持ちを返してくれよ。

 

 きっと今のセリフだって最近読んでいる漫画で使われているところがあったのだろう。

 それをレイは使いたくなってみただけなんだ。

 

 だってレイが本当に怒っているんだとしたら俺は冷気に耐えられず、こんなにじっとしていられるはずがないからな!

 

「そんなことよりもレイ、言いたいことがあるんだ」

「そんなこと……」

 

 なんかちょっと冷気が流れてきて鳥肌が立ったけど、俺の心は平常運転に戻った。

 もう惑わされない。俺は今日こそレイに物申しに来たんだ。

 

「この『ほしいものリスト』についてなんだが」

「買ってきてくれた?」

 

 きょとんと首をかしげながらキラキラさせた目でこちらを見つめてくるレイ。

 俺はそんな彼女の純粋な瞳にあてられて、思わず身じろぎしてしまう。

 

「いや、それはその……今日はコンビニの調子が悪かったというか、俺の具合が悪かったというか、財布のひもが固かったというか……」

「つまり?」

「…………忘れた」

 

 その瞬間今までの比にならないほどの冷気が俺の全身に襲い掛かる。

 

「悪かった! 明日はちゃんと買ってくるから! というか俺用に買ってきたショートケーキ食べてもいいから! だから落ち着いてくれ!」

 

 こんなの説教どころではない。説教をしていたら俺の命がいくらあっても足りない。

 なんか全身から鳥肌と一緒に心臓が飛び出してくる!

 

「くるくるの気分だったのに……」

 

 そんなことを言いながらも冷気が弱まったところを見ると、どうやらそれで納得してくれたらしい。

 

 くるくるの気分だったっていうことは書かれている内容を見れば一目瞭然だったけど、俺はそういう気分じゃなかったってことだよ。許してくれ。

 

 というかくるくるの気分ってなんだよ。ぷるぷるの気分のときとかもあるのかよ。

 くるくるとかぷるぷるとかレイが言うとちょっとかわいい。

 

 なんで俺はモンブランを買ってこなかったんだろう。

 くるくるするレイをちょっと見たかった気もする。

 

「これ明日のやつ」

 

 レイは部屋を出ていくすれ違いざまに俺に一枚の紙を押し付けてくる。

 

 うーん、やっぱりこれは少しまずい気がするな。俺が買ってくるのがまるで当然のような感じになっているじゃないか。

 やっぱり一言くらい言っておいた方がいい気がする。今なら俺の心臓も一個あれば足りそうだし。

 

「あのなレイ」

「さとる?」

「お、おう?」

 

 未だにレイに名前を呼ばれるのは慣れない。

 

 そんな可愛い小さな口からささやくように少し甘い声で名前を呼ばれると、鳥肌とは違ったぞわぞわ感が背中に走る。しかしそれは気持ち悪いものじゃなくてこう、体の内側があったかくなるような心地いい感触。

 

 俺がそんな感覚を味わっていると、レイは俺の方に向きその細くて長い人差し指を俺の下半身に向けていた。

 

「さっきからうるさい」

 

 なに!? 俺の下半身が暴発していたのか!? 

 

 慌てて俺は自分の下半身に目を向けるが、特にそんなことはなかった。

 ただスマホのバイブがずっとなっているだけだ。

 

 レイの方を見ると少し彼女は膨れ面をしたまま指をさし続けている。

 それは明らかにスマホが入っているズボンのポケットを指さしていた。

 

「……相手してやるか」

 

 レイに言われたら仕方がない。

 俺は諦めるようにため息をつくと、ポケットからスマホを取り出して画面を開いた。



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49話 結局何が言いたかったのかわからないです。おすし。

『何の用でしょうか』

 

『先輩! やっと気づいてくれたんですね!』

『ていうか先輩に敬語で返されるとぞわぞわってするのでやめてください』

 

 鳴り響くスマホからチャットアプリを開き、返答するや否や軽快に2回スマホのバイブが鳴る。

 スマホを再びポケットにしまう暇すら与えてくれないんですけど。

 

 目の前で机の上に座るレイは、幸せそうに口をもきゅもきゅと動かしながら、ショートケーキを頬張っている。

 

 幸せそうで何よりですけど。

こっちは後輩に遠まわしに気持ち悪いって言われてるんですけど。

 

 俺があえて無視していた間に後輩が送ってきていた内容を確認すると、意味の分からないスタンプが大量に送られてきていて、何が言いたいのかまったくもってわからない。

 単純に気づいてほしかっただけだろうか?

 

 それにしても会社の先輩に気づいてもらうためにスタンプ連打するなんて、そんなことをするかふつう?

 ……まああいつは普通じゃないからそういうこともするか。

 

『それで何の用だ?』

 

『先輩に相談したいことがあったんですけど、いつ暇ですか?』

『ぞわぞわに関してはスルーの方向ですか?』

 

『俺に相談?』

『突っ込んだら俺の心が勝手にダメージ負っていきそうなんでスルーの方向で』

 

『そうです! 私結構真剣に悩んでるんです!』

『別に私は先輩を追い詰めようとはしてませんよ』 

 

『ひま』

「暇って、今俺が食べるはずだったケーキをおいしそうに食べてたじゃん。ああ、食べ終わったのね。俺の分を残すとかそういう発想は……ないよね。すいません」

「?」

 

 失礼しました。レイの血文字が乱入してきてしまいました。

 口に出して言えばいいのに、なんでわざわざ紙に書いて見せてきたんだろう。

 

 なんだろう。俺がレイそっちのけでスマホをいじっているのがさみしかったとか?

 もしそんな理由だとしたらかわいすぎるんですけど。

 レイの方を見たらこれまたかわいく頬を膨らませてこちらを見つめてきているんですけど。

 

 その頬を指でつんつんしたい。させてほしい。いやするしかない。

 

 ほぼ無意識のうちに彼女の方へと伸ばした指は、案の定レイの頬を貫通してそのまま空にむなしく俺の指が残るだけ。

 

  何の感触も感じることができない。その感触はレイだけしか知らないのだ。

 霊のみぞ知る……なんか神秘的じゃない?

 

絶対に触ったらぷにぷにして気持ちいいのに、絶対に触らせてもらえない。

 いやきっとレイには自覚がないんだろうな。

 

手を伸ばした俺に向かって首をかしげてるくらいだし。

可愛すぎて可愛いしか出てないくらい語彙力が低下する。ずっと見てたい。

 

 でも無意識の不可侵領域とか最強じゃん。

人は手に入れられないものが近くにあるときこそ燃えるんだよ?

 ……は! これが本当の絶対領域ってやつなのか!?

 

 考えがいろんな所へ散らばり始め、俺自身混乱してきたので改めて震え続けているスマホへと視線を戻す。

 そういえば後半やけに静かだったけど、あきらめたのか?

 

『おーい』

『せんぱーい。寝ちゃいましたー?』

『私もねまーす』

『今度相談のってくださいねー?』

『ではまた会社で!』

 

 その後猫が渋い顔で、まるでビルの上からターゲットを狙っている砂いぱーのような表情をして敬礼しているスタンプが送られてきて、そこでメッセージは終わっていた。

 

 見事なまでの自己解決……。たった数分送らなかっただけでここまで普通メッセージを送ってくるものか?

 

 実はめちゃくちゃヤンデレなんじゃないの。彼氏になる人は大変そうだな。

 もしかしたら人じゃなくて建物かもしれないけど。

 人よりも建物の方がしっくりくるっていうのがなんというか……。

 

 結局何を相談したかったのか、そもそも何のためにメッセージを送ってきたのかすらよくわからなかったな。

 

 俺はそのままスマホの画面を閉じて、机の上に置く。

 レイはブラックアウトした画面に映る自分の姿を見て、不思議そうに自分の顔や服を引っ張っていた。

 

 というかレイって幽霊なのに普通に鏡とかこういう反射するものに姿が映るんだよな。

 なんか幽霊ってそういうの映らない印象があったけど……それは吸血鬼とかだっけ?

 

 まあこうやって自分の格好を確認しているレイもかわいいからどっちでもいいんだけども。

 

「そろそろ俺も服買わないとな」

 

 これからどんどん寒くなってくる。最近は誰かとどこかに出かけるなんてこともなかったから、ファッションに気をつかったりとかもしなくなってきてしまっていたけど、さすがに今年は秋服と冬服を新調した方が良いかなあ。

 

 思い立ったら即日行動! といっても今日はもう遅いし、次の休みくらいに街に繰り出してみようかな。

 

 まあ今年も誰かとどこかに行く予定なんて一つもないんですけどね!

 気分転換は大事だよね!

 



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50話 電車に幽霊もすごく定番ですね、昼間に現れるのはレアだけど。

 電車ってさ、ちょうど人の睡眠欲を刺激してくれるくらいの心地よさで揺れるし、もし眠くならなくても、電車の中から見る景色って外から見るのとはまた全然違って、ものすごくいいよね。

 

「なんで無視するの」

 

 それにさ、この電車の中の独特なにおい? これって電車の中でしか味わえないと思うんだよね。

 

 田舎過ぎて満員電車なんてものに遭遇したことはないんだけど、それも一度は味わってみたいよね。

 

「むーー」

 

 思い立ったが吉日。

 俺は早速休みになるや否やレイのおしゃれ計画の為に街に繰り出していた。

 

 やめろ、こっちを見上げながら頬をつつくのはやめなさい。可愛いから。

 悶える変なおじさんになるから。

 

「うーー」

 

 ……現実から逃げるのはやめよう。

 

 視線を下げると、俺の膝の上に乗るような形で座っているレイがいた。

 足をぶらぶらさせながら、俺の体に背中からもたれかかってきている。

 

 さっきから話しかけられてはいるのだが、電車の中でまばらに人もいる状況でうかつに返事をするわけにはいかない。

 

 それがたいそう不満なのかほとんど直角に首を曲げて、膨れ面で俺の顔を見上げてきている。

 そして今は俺の頬をつねろうとしているのか、両手を俺の顔の方に近づけて何やら妙な動きをしている。

 

 そんなレイを見ても一切怖さはなく、むしろかわいすぎて癒されているんだけど、その動きは呪いとかじゃないよね? 俺の注意を惹こうとしているだけだよね?

 この後電車の座席に貼り付け状態になるとかありえないよね?

 

 そもそもどうしてこんな電車の中にレイが一緒にいるのか。

 

 もちろん俺が連れてきたわけではない。俺は一人で家を出て、そして電車に乗るまではずっと一人だった。

 ……なんだよ、一人で街に繰り出して何か問題でもあるのか。

 ないよな、一人の方が気楽だしな! 一人最高!

 

 まあ気分的にはそんな感じで電車に乗り込んだわけだ。

 そして座席に腰かけて、外の景色を見て黄昏ていると、股の間からレイが突然生えてきた。

 

 さすがにレイの顔だけが椅子から、股の間から出てきたときは飛び上がってしまった。

 そんな心臓に悪い登場をしたレイは、今思えばその時からどこか不機嫌そうに見えて、そのままぬるぬると俺の前に立つと、そのまま膝の上に座ってきた。

 

 もちろん俺に拒否権など存在しない。断ったら俺の心臓が凍えて止まるかもしれないし、そもそも止める必要がない。

 

 まあどうしてレイがこんなところまで来れているのかまったく想像がつかないし、せいぜい移動できても家の近くまでなんだろうなとか勝手に決めつけていた俺からすると、こんな長距離で家から離れることができるなんてのは衝撃的事実だ。

 

 そこら辺を問い詰めたいところではあるんだが、この間のコンビニでの一件を思い返す限り、レイの姿は俺以外に見えていないはず。

 それであれば突然一人で会話をし始める俺の姿は、他の人から見ればさぞ変質者に映るだろう。

 

 ちなみに俺の周りに人は座っていない。

 

 まあ突然俺から、正確に言うと俺の周りから極寒の冬を思い起こさせるような冷気が流れ始めたら、離れるよな。

 俺はもう慣れたけど。

 

 断じて俺がひどく臭うとか、席を陣取っているとかそういう理由ではない。

 一応自分の臭いをかぐけど……うん、特に問題ないよな。

 レイもこれだけくっついているわけだし。

 

 ともかく俺の両隣とかには人はいないわけだけど、同じ車両内に人はまばらにいる。

 最初は鳥肌が立つほどの冷気を放っていたり、突然飛び上がったりする俺のことを訝しげに見てくる人はいたが、今はさほど気にされていない。

 

 俺もこれ以上レイを無視しているとさすがに命の危険に及ぶ。

 レイは突っつきたくなるほどに頬を膨らませて、明らかに怒ってますよアピールをしている。

 

 まあ頬を突っつかれているのは俺の方なんですけど。別に止める気もないし、とめることもできない。

 そして俺の頬に何か感触があるわけではないから、別に俺の顔をどういじられようとも何の変化も実害もない。

 

 しかしレイは少し楽しそうにつついているから、もしかしたら彼女の方は感触があるのかもしれない。

 一人だけそんなこと楽しむなんてちょっとずるくないですかね?

 

 何かいい方法はないか……。



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51話 名案を思い付いたけど、結局変人認定試験に合格した。

 考えながらもおもむろにポケットからスマホを取り出す。

 暇つぶしに対するための最高峰の武器、スマートフォン。

 

 それを取り出すためには少しお尻を浮かせる必要があったが、特に俺の上に乗っているレイが振り落されるようなことはない。

 

 何がどういう原理で俺の膝の上に乗ってるのか知らないけど、俺が足を動かしたら彼女の足が俺の太ももにめり込むだけだからな。

 その時に少しだけ、レイは居心地が悪そうにしているから足を組んだりとかはできないけど。

 

 ん? スマホ? 

 ……少しマナー違反的な行動になってしまうが、背に腹は代えられん。

 命よりも大事なマナーなどこの世にあるはずがない。少なくとも俺は知らない。

 

 ある方法を思いついた俺は取り出したスマホの画面をつけずに、そのままスマホを自分の片耳に近づける。

 

「あー、もしもし?」

 

 電車の中で電話をするというのはマナー違反で避けるべき行為なのかもしれないが、これはあくまでも周りへのパフォーマンスへあって、実際には俺の上に座るレイに話しかけているだけだ。

 

「…………」

 

 名案だと思って意気揚々と話しかけたというのに、さっきまで唸り声をあげていた当の通話相手は、俺の突然の奇行を見てこてんと首をかしげている。

 

 あなたが返事してくれないと俺ほんとに変質者になっちゃうからね!? 

 電話なんて来てないのにさも電話が来て通話をしているように、見せかけている悲しい人になっちゃうから、返事くらいしてほしいな!

 

「レイ、どうしてここにいるんだ?」

 

 俺は周りに俺が発している言葉がなるべく聞こえないように小声で、レイに話しかける。

 

 電話での会話でここに居るんだとか聞いている奴とかやばいやつだろ。なんか見えちゃいけないものでも見えてるのかとか思われそうじゃん。

 いや見えてるから否定できないんですけど。

 

「ついてきた」

 

 レイからは非常に簡素な返事が返ってくる。

 いやついてきたのはわかるんだけどさ……。

 

 むしろ自由気ままに電車の旅を楽しんでるとか言われる方がびっくりだよ。

 むしろなんで俺を誘ってくれないんだよって寂しくなるよ。

 

「どこ行くかわかってるの?」

 

 俺の問いかけに対して、首をふるふると横に振るレイ。

 ちなみにその手はいまだに俺の頬のところにあげられたままだ。

 

「楽しい」

 

 それは俺の頬をつんつんしていることが? それとも電車に乗っていることが?

 

 ともかくいつの間にか機嫌を戻している様子のレイの口元は緩んでいて、微笑んでいるようにも見える。

 そんなレイの様子が可愛くて俺の顔もつい緩んでしまう。

 

「それはよかったな」 

 

 そろそろ電話作戦も限界だろうか。

 小声とはいえ、にやつきながらスマホを耳に当てている俺に向けられる視線は冷ややかなものだ。

 冷気がなくなって命の危険が去った代わりに、何か精神的な疲労を感じる。

 

「どこいくの?」

「アウトレットモール」

 

 俺がスマホを耳から話した瞬間に、そんな的確な質問をかましてくるレイ。

 きっと純粋な疑問なのだろうけど、どうしてタイミングが今なんだろうか。

 

 思わず普通に答えてしまった。

 

 しかもきっとレイは俺が言った言葉の意味を理解できていないから、また首をかしげていた。

 つまり俺は特に意味もなく、突然目的地を独り言で呟いたやばい奴だ。

 

 同じ車両でちょっと離れて座っていた人たちや、立っていた人たちは明らかに俺を避けるようにさらに距離を取っていくし、さすがに赤の他人とはいえちょっと悲しいんですけど。

 

 まあいいさ。俺の近くにはレイがいるしな。

 近くというよりもう接触しまくっているわけだしな。

 

 レイが突如ついてきてくれたことによって、一人での買い物になるはずの休日が、思いがけず楽しいものに変わった。

 

 しかしそれと同時に一つ不安なことができた。

 

 アウトレットモールは当然ながらスーパーマーケットも完備している。

 それにとどまらずフードコートもさぞかし充実しているだろう。

 

 はたして、レイはコンビニよりも広いエリアで展開されているスイーツエリア、アイスエリアを見て、我慢できるだろうか。

 

 フードコートのあの匂い達を我慢できるだろうか。

 

 もし立ち寄った場合のシュミレーションをしてみるか。

 

 まずスーパーエリアに行き、自然とスイーツエリア、アイスエリアを回る。

 ……うん、商品いっぱい入ったレジ袋が、4袋くらい増えたな。

 

 そしてそれを抱えて休憩がてらフードコートへと向かう。

 ……あれ、おかしいな。気づいたら服を買うための金がレイの体の中に消えてる気がする。

 

 そしてフードコートでは空中に食べ物が浮き、突如どこかに消える現象が多発して大騒ぎというおまけつき……。

 

 …………よし、俺はそこを今から危険地帯、デンジャーゾーンに設定する。

 俺は絶対危険地帯には近づかないと心に誓った。

 

 そんな俺の絶望的な脳内シュミレーションを知る由もないレイは、のんきに俺の肩に顎を乗せて鼻歌を歌いながら外の景色を眺めていた。

 

 ほんと今日距離近すぎない? ほとんど抱き合ってるんだけど。

 透けてますけどね!!



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52話 引きこもりヒモニートにとって、駅のホームは地獄と同義……?

「レイー、ここで降りるぞー」

 

 周りに聞こえないようなボリュームでレイに話しかけてから、席を立つ。

 

 結局目的の駅に着くまで、レイは俺にくっついたままで窓の外の風景を見ていた。

 なんなら最後の方は俺に覆いかぶさっているまであった。

 

 レイの身体をすり抜けるようにして席を立った俺のことを、彼女は一瞬俺の方を睨みつけるように見つめてきたが、そのあとすぐに俺から離れまいとしているのか俺の後ろにとてとてとついてきた。

 

 いや俺だってできるならレイの身体はすり抜けたくないんだよ。

 体が貫通するときのぞわぞわ感は慣れるはずもないし、何より本来の人であればありえない光景を本能的に頭が受け付けなくて、いやでも嫌悪感を覚えてしまう。

 

 実際すり抜けるってわかってても、女性の腹のど真ん中に顔を突っ込むのはなかなかに勇気がいるんだからね?

 俺のそこらへんの一瞬の葛藤をわかってほしい。

 

 レイも体を貫通されると気持ち悪いとか思うんだろうか? それにしては俺にくっついてばっかりだけど。

 

 もしかして痛いとか苦しいとかあるのかな? もしそうならこの駅のホームで土下座するくらいの覚悟はあるけど。

 

 そんなことを考えているとふと、体が重くなるような感覚に襲われる。

 体というより下半身? え、俺は別に醜態を世間にさらして興奮するような変態ではないんですけども。

 

 自分自身でも気づかなかったそんな性癖があるのかと、若干冷や汗をかきながら足元に手を向けると、俺の腹を締め付けるように細い腕が巻き付いていた。

 

 その腕のもとを辿って行けば、がたがたと震えているレイがいた。

 顔はもともと真っ白だから真っ青になっているかどうかはわからんけど、明らかにおびえている。

 

 にしても、自重以外の重さを感じているってどういうこと?

  これまでも何回かこうやってしがみつかれることはあったが、重さを感じることはなかったはずだ。

 

 普通に歩いてホームから離れるのは難しそうだ。

 電車はとっくの昔に駅を発車していて、いつまでもその場から動こうとしない俺は少しだけ、周りから視線を集めてしまっている。

 

「おい、おいレイ。どうしたんだ?」

 

「むり」

 

「なにが!?」

 

 これ以上変人にならないように、できる限り声を抑えてレイに話しかけてみるが、レイからの返答は全く意味が分からないものだった。

 

 無理ってどういうこと? 

 というか明らかに怯えている様子なのに、冷気を全く感じない。

 

 こんなに感情が荒れている状態であれば、間違いなく俺が震えるくらいには寒くなっているはずなのに。

 レイは俺のことなどお構いなしといった具合に、震えながら周りをきょろきょろしている。 

 

 苦しいとかは一切ないんだけど、心なしか俺を締め付ける腕の力が強くなっている気がする。

 いや、心なしどころか明らかに強くなっている。

 

 だってレイの腕が俺の腹にめり込んでるから。もはや俺にしがみついているとかそういう次元じゃないから、貫いちゃってるからね?

 さっき頭貫通したのそんなにいやだったの? 何だったら今からでも謝るけど?

 

 待てよ……? 

 今のレイの様子を見て、一つの可能性に思い至る。

 

 レイは何かに対して怯えている。彼女の視線を辿ればそれは周りのせわしなく歩く人や、友達と談笑をしながら歩いている人たちに向けられている。

 

 何を隠そうレイはひきこもりだ。それどころか働くことなんて経験したこともないけど、スイーツだけはしっかりと食べているヒモニートだ。

 ……いや、べつにけなしているわけではない。俺はただ事実を述べただけ。

 

 まあそんな彼女は俺以外の人と接したことが無い。俺以外の人間をほとんど見たことが無い。

 せいぜいコンビニ店員くらいか。まともに見たことがあるのは。

 

 そんな人と接することを知らないレイがいきなりこんな休みの日の駅のホームに降り立てば、どうなるか。

 周りには知らない人がいっぱいだ。それで怯えてしまっているのだろう。

 

 そもそも電車に乗っていた時から人はいたわけだけど、その時は風景に夢中だったからそこまで気にならなかったとか……?

 そこまで考えて俺はもう一つの事実へとたどり着く。

 レイがこれほどに動揺しているのに、冷気が出ていない理由。

 レイから冷気が放出されれば、間違いなく注目を浴びる。レイではなく、俺が。

 

 しかしレイは俺の真後ろに立っているわけだから、レイからすれば自分に視線が向けられる、注目を浴びることと同義になっているんだろうか。

 

 一心同体的な? いや胴体は腕貫通しているけどレイの心まではわからん。

 ともかく本能的にそれを拒否したレイは新技を編み出した。

 

 冷気を放出する代わりに感情の荒波を重さに変換するということで、俺にしか被害が来ないようにした。……とか?

 

 いやそんなことができるのであれば、そもそも冷気を抑えればいいんじゃないのと思うけれど、そこはレイさんクオリティだ。

 

 無意識ではこれが限界だったのだろう。

 結果としていつまでも動かない俺が若干注目を浴びてしまっているわけだけど。

 

 いや、我ながら名推理だと思う。思考が進む進む。まあ俺の頭が冴えているのはレイのことを考えているときだけなんですけど。

 

 それも何考えてるかわからん時は、まったくもってわからんけど。

 今日は調子がいい。

 

「そういうこと?」

 

「? むり。さとる、ごー」

 

 俺は馬か何かか。

 

 答え合わせをしたくなった俺はレイに尋ねたわけだが、レイが俺の思考など分かるはずもなく、腹から手を突き出して前方を指さしながら俺の背中に向かってぶつけるようにぶんぶんと頭を振っていた。

 

 ……えー、俺これ引きずらなきゃダメ?

 



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53話 幸せのパンケーキって、食べてる人が幸せそうだからこそだよね……何言ってるかわかる?

 ドキドキわくわくの電車体験を何とか無事に終えた俺は、駅前にあるカフェで一息ついていた。

 いやあんな電車の中でも、ホームでもドキドキしたのは幼少期以来だよ?

 

「あー疲れた」

 

 まだ目的地にすらついていないのっていうのに、俺の疲労度はすでにマックスに近くなっていた。

 

 それもそのはず。電車の中では途中から極寒の地を思わせるような気温に耐え抜き、電車から降りたかと思えば、ホームからこのカフェまで背中から鉛のような重さのものを引きずっているかのような筋トレ状態を味わい、そしてここにたどり着いた。

 

 さっきまで顔は真っ青だったのに、今は汗だくで真っ赤になっているくらいだ。

 俺は別にボクサーも野球選手でも、ましてや南極調査隊を目指しているわけでもない。

 

 そしてそんなことをする羽目になった元凶でもあるレイさんはといえば、俺の膝の上に乗って、目の前でパンケーキを頬張っている。

 

 俺の苦労など知る由もなく、満面の笑みで頬をぱんぱんにしてそれはそれは幸せそうにもぐもぐと口を動かしている。

 

 そんなレイを横目に俺もレイの動きに合わせて、無造作に手と口を動かしている。

 もちろん俺の口の中には何も入っていない。

 

 でも俺が動かなければパンケーキが勝手に宙に浮いて、どこかに消えていってしまう摩訶不思議な光景が、カフェ店内の一角で繰り広げられることとなる。

 休日の人が多くて、さらには店内の角際で人もあまり通らず目立ちにくい場所とはいえ、だれが見ているかわからない。

 

 俺としてはレイの食事シーンは見慣れたものだが、他の人が見ればホラー映像他ならないだろう。

 それに虚空に向かって俺が死んだ目でにやついていればなおさらだ。

 

 ……正直に言おう。すごくむなしい。

 

 だってそうでしょ。俺は一切パンケーキの味がわからないのに、食べるふりをしないといけない。

 必死に口の中に入れた空気の味をかみしめければいけない。

 

 そして目の前にはさぞかしおいしそうにそれを食べている人がいる。

 俺はそれを眺めることしかできない。

 レイの笑顔と差し引けばプラスマイナスプラスだ。

 

 ……じゃあいっか。

 そもそも二つ頼めばいいんじゃないかと思ったりもしたが、傍から見れば俺はおひとり様だ。

 一人でまあまあの大きさを誇るパンケーキを頼むのは、気が引けてしまった。

 俺にはそんな勇気がなかった。

 

 だから俺ができることといえば、レイがパンケーキを掴んでいない瞬間を見つけて、コーヒーを飲むこと。

 ちなみに俺の目の前のコーヒーカップには、コーヒーがなみなみと注がれていて、一口も口をつけていない。

 

 レイの口と手が止まらないのだ。

 なに、そのパンケーキそんなにおいしいの? ますます気になるんだけど。

 

 もう一個頼もうかなって揺れ動くけど、きっともう一個頼んでも俺は食べられないんだろうね。レイの体の中に入っていってしまうんだろうね。悲しいね。

 

 そういえばコンビニスイーツでパンケーキを買ったことなんてないから、初めての味に感動しているのかもしれないな。

 

 まあそうじゃなくてもレイは一度食べ始めると、その手を食べ終わるまで止めることはないんだけど。そこがまた彼女の可愛いところでもある。

 

 俺がエア食事のパントマイムに慣れ始めたころ、目の前の皿からパンケーキはきれいさっぱりなくなっていた。

 

 そしてそのまま興味深そうに、観察するようにコーヒーを眺めるとそのままカップを手に取る。

 



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54話 コーヒーの苦みをおいしいと感じられる大人になりたかったです。

 え、黙ってみてたけどもしかしてコーヒーも飲むつもりなの?

 そうなると俺何も口にできないことになっちゃうんだけど。

 

 俺の心配などつゆ知らず、レイはどんどんコーヒーを口に近づける。

 そして一口口につけた瞬間、レイはカップを口から離しそのままの勢いでカップから手まで離してしまう。

 

 もちろん俺はそれを取り落すようなミスをしない。エアー食事を極めた俺ならば、飲むふりなど簡単なことだ。

 レイの動きをトレースしていた俺は、顔をしかめながら舌を突き出して膝の上で暴れる彼女をよそ目に、宙を舞っているカップを両手でキャッチする。

 

 少し中身がこぼれたけど、俺の手の上だからセーフ。

 さすがにちょっとレイを叱ろうかとも思ったけど、彼女は今それどころではない。

 きっとあまりの苦さにびっくりしたのだろう。いまだに俺の膝の上で暴れながら、しかめっ面をしている。

 

 俺が怒らなくても十分に苦しんでいるみたいだ。

 なんかコーヒーに苦しめられる幽霊ってなんか面白いな。

 

 しかしレイは子供だな。もちろん俺もブラックは飲めない。甘党だからな。

 だから注文の時に砂糖を入れてもらうようにお願いしている。

 それでもレイにはまだ早すぎたってことなんだろうな。

 

「あげる」

 

 あげるって元々俺が飲む予定だったんだけど……なんなら、パンケーキも俺がいただく予定だったんですけど……。

 

 レイは涙目ながらに俺の顔を見上げそう宣言した後に、俺の口元へと近づいていくコーヒーをまるで親の仇でも見るような目つきで睨みつけていた。

 

 いや、今回に限ってはレイの自業自得だからね? 世の中の食べ物すべて甘いと思ったら大間違いだよ?

 謎の優越感とほんの少しの困惑をスパイスに、俺は見事にキャッチしたコーヒーに口をつける。

 

「……!!?」 

 

 一口口に含んだ瞬間に、コーヒー豆特有の苦みが口の中全体に広がり鼻を突き抜ける。

 香りは完ぺきといっていいほど、いい匂いが鼻全体に広がる。

 

 まあ普段インスタントコーヒーですらあまり飲まない俺からしたら、違いが判るわけもないんだけど。

 だがしかし、これは苦い。苦すぎる!

 

 まるでブラックコーヒーかのような、インスタントのものよりもさらに感じる苦味が舌を刺激する。

 ……え、本当にこれ砂糖入ってる?

 

 顔をしかめながらコーヒーカップの中に納まっているコーヒーをじっと眺める。

 ……砂糖が入っていたとしても溶けているだろうから、ブラックか微糖かの違いなんて分かるわけないよな。

 

 急募、砂糖が入っているコーヒーと入っていないコーヒーの見分け方。

 そんなことを考えながらコーヒーを睨みつけていると、向こうから店員さんが真っ青な顔して走ってくるのが目に入った。

 

 あれって間違いなく俺の席にめがけてきているよな。

 ほら、レイさんとか警戒してか俺の膝から飛び降りて、椅子の後ろに隠れちゃったもん。

 めちゃくちゃ寒いし。

 

「すいません! 確か砂糖入りで注文されているお客様でしたよね!?」

 

「え、ええ、まあ、はい」

 

「すいません! 入れ忘れてしまったので、交換させていただけますか?」

 

「あ、わかりました」

 

 まくしたてるように、ほとんど一方的に話しかけてきた店員さんはそのまま俺が持っていたコーヒーをひったくるように持って行ってしまった。

 

 嵐のようだった……。レイなんて完全に怯えてしまっている。

 俺の震えが止まらない。

 

 別にまともに人と話したのが久しぶりだからとかではないからね。

 あくまで寒さのあまりふるえているだけだから。レイと一緒にしないでほしい。

 そういうことだ。

 

 その後店員さんが持ってきてくれたコーヒーはやっぱり苦かったけど、それでもさっきよりは明らかに甘く、ちゃんと飲むことができた。

 

 途中俺が飲んでいるから気になったのか、もう一度口に入れていたけど、やっぱり顔をしかめてラスボスを睨みつけるような視線でコーヒーを見つめていた。

 

 ま、まあ結果的にはレイよりも俺の舌の方が大人だったってことでいいよね!?

 



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55話 距離的にも全然進んでないけど、ストーリー的にも何の進展もございません(反省はしていない)

 休憩しに入ったはずの喫茶店で、いまいち休憩できた気がしない時間を過ごした俺は、店員さんと話した後どこか気まずさを感じて、超高速で熱々のコーヒーを飲み干して店を出た。

 

 なんだろうね。あのお店の店員さんとちょっと長話したときの気まずさっていうのは。

 別に俺は悪いことをしているわけではないし、きっと誰も気にもしてないんだろうけど、何か注目されている気になってそわそわしちゃうんだよね。

 

 これはみんな感じているんだろうか。それとも俺みたいなコミュしょ……おとなしい人にしか感じられない感性なのだろうか。

 

 あ、ちなみに焦って一気飲みしたせいでしっかり舌を火傷しましたね。

 めちゃくちゃひりひりするし、多分口内の裏側ちょっとだけ皮めくれた。

 

 そんなこともありながら店を出たわけだが、本来であれば徒歩10分ほどで大型ショッピングモール、もといちょっとおしゃれな言い方をすればアウトレットモールにつくわけだが、歩き始めて10分、俺はまだ目的にたどり着くことができていない。

 

 もちろん原因はうちの子である。

 何回でもいうがレイはこんな遠出をするのは初めてだ。

 

 今まで外で見たことがあるものと言えば、アスファルトと縁石と自販機と、そして辛うじてコンビニくらい。

 

 そんな彼女が家周りの田舎に比べたら十分都会なこんな場所に来たらどうなるか。

 そう、はしゃぎまくっているのである。

 

 今日のレイは総じてテンションが高い。

 さっき甘い俺が食べられなかったパンケーキを食したからか、電車に乗っていた時よりもテンションが高い。

 

 まあとにかく何が言いたいかというと、レイがうろちょろうろちょろするから全然先に進むことができないのだ。

 

 コンビニを見つけたと思ったら、吸い寄せられるようにフラーっと近づいていくし、自販機が三台ほど並んでいようものならその場でボーっと立ち尽くして、ラインナップをこれでもかというほど眺めている。

 

 最初は俺もついていっていたが、途中からさすがに疲れてきて勝手に先に行こうとすると、まるで刺されるかのような視線を感じて彼女のもとに行かざるを得なくなる。

 

 そんなの無視すればいいじゃないかと思うかもしれない。

 でもそんなことはできない! もし無視し続けてレイに嫌われて一生睨みつけられるようにでもなってみろ!

 

 レイの笑顔が一生見れなくなるなんて俺はきっと生きていけない。

 あと10秒でもあんな目で見つめられたら、俺の精神はきっと崩壊する。

 いや間違いなくぶっ壊れる。それくらいの破壊力を持ち合わせている。

 

 何言ってるんだって思うかもしれないけど、あの目をしているときのレイさんは普通に怖いからね?

 なんか呪い的な何かがあるんじゃないかって思うくらいだもん。

 

 そしてさらにやっかいなのは、手を握って彼女の行動を抑制することすらできない。

 別に俺がレイの手を握るのが恥ずかしいとかそういう精神的な問題ではない。

 

 物理的な問題で彼女の手は絶対に握ることはできないのだ。

 俺はレイに触ることはできない。手を握るまねごとをしたとしても、彼女の意思一つで俺の手なんて簡単にすり抜けてしまう。

 

 向こうが服とか掴んできたときは感覚があるっていうのにね。

 何この一方的な受けることしかできない愛情……愛情は曲解している?

 

 ともかくそんなこんなでレイの好きなようにさせていたら、喫茶店からまるで進むことができていないのだ。

 

 後ろを振り返ればまださっきまでいた店の外装を確認することができる。

 それどころか駅名までまだ確認できる。

 このままでは間違いなく一生ショッピングモールにたどり着くことはできない。

 

 ていうかはたからみれば、一人で自販機の前にずっと突っ立っていたり、コンビニの前で何かを引っ張るようなパントマイムをしたり、入り口で通せんぼをするように仁王立ちをしている完全な不審者だ。

 

 いや引っ張っても物理的な効果はないんだけど、何となく気分的にね。

 俺も一人で出かけると思ったらレイがついてきてくれて、思いのほかテンションが上がっているのかもしれないね。

 

 ちなみに通せんぼしたときのレイの上目遣いジト目はごちそうさまでした。

 

 ともかくこのままでは俺の目的地がショッピングモールから、最寄りの警察署に変更になってしまうかもしれない。

 

 ほんと通報されかねない。

 それだけは何としても避けなければ……。



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56話 自分のことを天才だと錯覚することは、人生において自分を幸せにする近道だと思う。いいこと言った!

 ということで、レイに目隠しをすることにした。

 

 ……は? って感じだよね。わかる。その気持ちはよくわかる。でもちょっと待ってほしい。俺もまさかこれが成功すると思っていなかったんだから。

 

 そもそもダメもとでやってみたら案外うまくいって俺自身びっくりしてるんだから。

 自分の気持ちを落ち着かせるために、客観的な自分の思考に言い訳をしてみる。

 

 よし現実に戻ろう。

 このままでは誰かに通報されると予測した頭のいい俺は、本気で対応策を考えることにした。

 

「レイ、ちょっとおいで」

 

 ドラッグストアを見つけて、トイレットペーパーをボーっと眺めているレイに声をかける。

 

 超至近距離で。さすがに虚空に向かって誰かを呼びかけていたらアウトだからね。

 尿検査とかされちゃうからね。

 

 邪魔されたことにちょっと怒っているのか、少し不満げな顔をしながらもレイは、トイレットペーパーから視線を外し、俺の方に振り向く。

 いやそんなに真剣にトイレットペーパー眺めている子なんてなかなかいないから。

 

 いったい何を考えていたのか。

 まさか突然袋破って店内のトイレまでくるくる紙を伸ばすとかやめてね。

 怒られるの間違いなく一緒に目の前に立っている俺だから。

 

 それにしても駅前ってドラッグストアが、よく標準装備されているイメージあるよな。

 

 需要があるのかね。俺はあんまり使ったことないけど。

 電車酔いした人とかに酔い止めが売れるとか? あれ? 酔った後に酔い止め飲んでも意味なくね?

 

 ……いかん、思考がどうでもいい方向に偏り始めている。

 俺の悪い癖だな。

 

 気を取り直して改めてレイの方に顔を向ける。

 呼ばれたにもかかわらずずっと放置されているレイは、きょとんと不思議そうに俺の首をかしげながら俺の顔を見上げていた。

 

 何その不意打ち。不満顔からのきょとん顔とかギャップ可愛いなんだが。

 俺死んじゃうよ?

 

「なに?」

 

「あ、すまん。えっと、俺の前に立ってくれるか」

 

「……? 分かった」

 

 トイレットペーパーはもういいのか、意外にも素直に俺の前に移動するレイ。

 俺はそのまま彼女の視線がふさがるようにレイの顔の前に両手を持っていった。

 

「よし、このまま俺に合わせて歩くんだぞ。行くぞー」

 

「みえない」

 

「がんば」

 

 もうやってしまった勢いのまま足を一歩踏み出してドラッグストアから離れる。

 最初は視界がふさがれていることへの不快感からか、冷気を漂わせていたレイだが、何歩か進むと新しい遊びだと勘違いしたのか腕を振りながら俺の歩調に合わせるようになった。

 

 どうだ。この完璧な俺の計画。

 周りを見させないと思わせず、新しい遊びだと錯覚させることでレイに楽しい思いをさせたままスムーズにショッピングモールへ向かう。

 

 まさに計画通り。……ほんとだよ?

 

 しかし一つ問題点があるとすれば、周りからの視線。

 どうして先ほどにもまして、周りから注目を集めているのだろう。

 

 もう店の前で仁王立ちをしたり変な動きはしていないはずなのに。

 ちょっと客観的になって考えてみようか。

 

 俺は今レイに目隠しをしている。

 まず大前提としてレイの姿は俺以外には見えていない。

 

 だから野外で変なプレイをしているバカップルには見えないはずだ。

 バカップルって……そもそもカップルじゃないしな! 今はまだ!!

 

 周りから見たら意外とそうとも見えるのか?

 いや周りには俺しか見えてないんだからそもそもそういう発想にならないでしょうが!

 

 ……落ち着け俺。考えすぎてむなしくなるんじゃない。

 ともかくそういう路線はないと考えた方がいい。

 

 俺は一度レイの方に顔を向け、それと同時に自分の手の位置を把握する。

 結構レイは身長が低い。

 俺とレイの身長差的に彼女の頭はちょうど俺の胸のあたりに来るくらいだ。

 

 そして俺は今レイに目隠しをするため、両手が自分の胸のあたりに位置している。

 自分の胸を両手で押さえているように見えなくもない……。

 

 ……もしかして俺変態だと思われている!?

 いや、突然路上で胸を押さえ始めるとか変態以外の何物でもないじゃねえか!

 

 片手ならまだ胸が痛いのかなで済むかもしれない。でも両手はダメだ。

 なに、ちょっとチャイナ風のコサックダンスでも始めるんか?

 なんだよ、チャイナ風のコサックダンスって。意味わかんねえよ。

 

 その事実に気づいた瞬間、真有の恥ずかしさに思わず両手を下ろしてしまう。

 

「もうおわり?」

 

 レイは少し寂し気に俺の顔を見上げてくる。

 そんなに楽しかった? そんな顔されるとやめられないじゃん。

 

 レイのために俺頑張るしかないじゃん。

 あれ、そもそもこういう状況になってるのって誰のせいだったっけ?

 

 でもこのままではまたレイはふらふらとどこかに行ってしまう。

 それを避けるためには俺の脳みそではベストアンサーである目隠し以外に方法が思いつかない。

 

 だがしかし、また両手をあげるのは俺にとって羞恥プレイ以外の何物でもない。

 さすがにもう一度同じ過ちを繰り返す勇気は俺にはない。他人の目を気にしない度量もあるはずがない。

 

 何かいい方法はないものか……。

 こうやって考えているうちに早くもレイは周りをきょろきょろし始めた。

 このままではまずい。

 

 そんなとき、ズボンのポケットに入れていたスマホのバイブが鳴る。

 なんだ、こんな忙しい時に。俺は今スマホにかまってやっている時間はないんだ!

 ん? 待てよ? スマホ……。

 

 そして俺に天啓が舞い降りる。

 

 スマホを取り出し、そのまま耳にセット。

 

「あ、もしもしー? どしたー?」

 

 そして俺は適当にひとり言を言いながら、もう片方の手でスマホを持っている方の腕をつかむ。

 

 そう。何も手で隠すことはないのだ。

 レイに実際に触れているわけではないのだから。

 

 ようは何であれレイの視界をふさげればいいのだ。

 自分の体と腕の間がちょっと空いていたり、位置的におかしかったりもするかもしれないが、さっきに比べれば全然ましだ。

 

 やはり文明の利器は素晴らしい。誰ともつながっていないのに通話している悲しい現実を受け入れなければ完璧な作戦だ。

 

「よし、じゃあ気を取り直して今度こそ……レッツラゴー」

 

「おー、れっつらごー」

 

 レイも先ほどよりもノリノリで両手をグーにして腕を振り上げる。

 こうしてようやく俺はまともに、まっ直ぐショッピングモールに向かい始めることができた。

 

 

 ショッピングモールにつく頃には俺の両腕がぷるぷるのがったガタになっていたけど、レイがちゃんと楽しそうだったので気になりません。

 

 明日は全身筋肉痛かなあ……。

 

 



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57話 何もかもが初めてだから、どこに行くにも新鮮です。

 策士的かつ天才的で独創的な作戦により、何とか日が沈む前にショッピングモールにたどり着いた俺は、レイの目隠し状態を保ったまま、モール内部に侵入することに成功した。

 

「しかし久しぶりに来てみると広いな」

 

「なにもみえません」

 

 うん、そうだね。目隠ししているからね。

 レイが本気になれば、いや別に本気にならなくてもその気になれば、俺の手をすり抜けて目隠し状態から抜け出せるのだろうけど、この状況を楽しんでいるのかレイは今のところ、俺の腕の中におとなしくおさまっていた。

 

 途中から歩くのが疲れたのか、俺の身体にもたれかかるようにしてちょこちょこと歩いていたが、実際に効果があるのかどうかはわからない。

 

 だって感覚的には俺の身体すり抜けているわけだからね。

 だからレイがもたれかかってきても意味があるとは思えないんだけど、そこら辺のレイの感覚でしかわからん。 

 

 俺たちがやってきたのは田舎の救世主イーオン様だ。

 食料品をはじめとして、衣服、フードコート、そしてゲームセンターというアミューズメント施設まで何でもござれの最強ショッピングモールである。

 

 学生時代こういうところにいきすぎて、逆に何もすることが無い状態に陥っていたのはいい思い出だ。

 

 別に毎回のデート場所がイーオンだったとかそういうわけではない。

 それで若干ひかれてたとかってことは断じてない。

 

 ……だって学生の身分で行ける場所なんてせいぜい限られてるじゃん。田舎なんてそれこそこういうショッピングモールで、ウインドウショッピングという名の散歩をするくらいしかやることないでしょ?

 

 さあ悲しい青春の一ページにはふたをして、今のことを考えよう。

 服売り場は二階にまとまっている感じか……。

 

 あのエスカレーターから乗ればすぐに行けそうだな。

 なるべく食料品売り場を避けて、服売り場へとたどり着かなければならない。

 

 なぜなら相手は目ざといスイーツ大好き幽霊が相手だ。

 もしかしたらスイーツの気配を感じとって、突っ走ってしまうなんてことがあるかもしれない。

 

 俺は周りを確認しながら、エスカレーターに乗りこむ。

 エスカレーターに乗った瞬間、レイが少しびくっと体を震わせて俺の顔を見上げてきた。

 

「どうした?」

 

「うごいてないのにうごいてる」

 

 なに? なぞなぞ?

 

 突然のレイの謎の言葉を一瞬理解できなかったが、今の状況を考えてすぐに答えにたどり着いた。

 

 そうか、レイはエスカレーターに乗るのも初めてだもんな。

 確かに乗ったことが無かったらびっくりするのかもしれないな。

 

「ちゃんと終着点になったら降りるんだぞ」

 

 レイのことだから足が巻き込まれるなんてことはないんだろうけど、足が地面にめり込む映像は、そんなに見たいものでもない。

 

 レイは俺の掛け声と同時にエスカレーターからジャンプして、無事に二階へとたどり着いた。

 二階は見た感じ食料を売っているような場所もなければ、フードコートもなさそうだし、もう目隠しを外してもよさそうだ。

 

 スマホを耳から離しながら、感謝をこめてポケットにしまう。

 スマホはまさに俺が変態として通報されないようにしてくれる救世主だった。

 お前のことは忘れないぞ。

 

 目隠しを外した途端、レイから放出される冷気が一気に膨れ上がった。

 外の気温のせいで突然氷点下並みの寒さに叩き落された俺の心臓がちょっと止まるかと思った。

 

 怖くなったのかなと思って、レイに目を向けるとどうやらそうではなく、逆に目をキラキラと輝かせていて凄まじい勢いで首を振って周りを見渡していた。

 

 やっぱりレイも女の子だから、服とかにときめきを覚えるんだろうか。

 

「行くぞー」

 

 周りに人がいないことを確認してから、小声でレイに話しかけて目的地へと向かう。

 



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58話 ファッションセンスがないからって面白さで服を選ぶあたりが、モテな……なんでもないです

 俺がいつも服を買う場所は決まっている。

 庶民の味方ユミクロである。

 

 安価でありながら、それなりの種類の服を置いている。

 しかもいいのは男性専用だとか、女性専用とかそういった店ではなく、スペースに分けられてどちらの服も売っているところだ。

 

 これで俺は女性用服専門店に男一人で訪れるという事態は回避できたわけだ。

 まあプレゼント用だとかなんとか言えば、何とでもなるのかもしれないが、俺のコミュニケーションのうりょ……話術では、そこまで人を話せるかどうかも怪しい。

 

 まあそんなことはさておき、ようやく目的地に辿りついたわけである。

 服を買いに来るのも久しぶりだし、自分用の服も一応見ておくかな。

 

 何を隠そう俺はファッションに一切のこだわりはない。

 だがしかしお気に入りくらいはある。冬はパーカーしか着ないくらいにはパーカー愛好者だ。

 

 ユミクロに足を踏み入れるや否やまっすぐと男性物のパーカーコーナーへと足を進める。

 

 レイは周りが気になるのかふらふらとしているが、俺から離れるのも嫌なのかちょこちょこと俺の後ろをついてきている。

 素直でかわいいもんだ。

 

 秋に入ったから秋物はもちろん、早くも冬物の商品が並び始めている。

 服屋ってさ、季節の移り変わりが早いよね。

 

 夏中盤くらいに訪れるともう秋物が売り場を支配しているんだもんな。

 夏休み終了日に慌てて宿題に手を付ける人の気持ちにもなってほしいもんだよ。

 

 まあその分、夏物の服が安売りされているから悪い事ばかりではないんだけど。

 大抵人気の商品は売り切れてしまっていて、微妙なデザインの服しか残されていない。

 

 ファッションにこだわりはないが、見栄えは気にするのである。

 まあ、年頃の男の子ですし?

 

「これとかよさそうだな」

 

 パーカーに違いなんてないという人がいるかもしれない。

 俺はあったことはないけど。

 そんな人がもしいるのであれば俺ははっきりとノーの札を叩き付けたい。

 

 パーカーと一言で言っても、その種類は多種多様である。

 

 チャック付きのもの、頭からすっぽりかぶるもの。

 はたまた手を突っ込ませることができる前ポケットがついているもの。

 ズボンと同じように横ポケットがついているもの。

 

 語り出したら実にきりがない。

 パーカーだけでご飯三杯はいけてしまうのだ。

 

 ……ごめん、それはさすがにいいすぎた。

 パーカーをおかずにご飯は食べられません。

 

 俺はどこぞの建造物オタクとは違うからな。

あいつなら、東京タワーの写真があれば三杯といわず、三合くらいぺロリといってしまうんじゃなかろうか。

 

 話はそれたが、そんな数多く存在するパーカーの中でも俺のお気に入りはチャックがついていない頭を通して着るやつで、なおかつ前ポケットがついているものである。 

 

 そしてワンポイント何かデザインが入っていれば最高である。

 そう、今俺がこの手に持っているパーカーに書かれている白文字『There are no ghosts』とか、何書いてあるかわからないけど、なんかかっこいいじゃんね。

 

 ちょっとネットで調べてみようか。

 

 なになに……?『幽霊なんて存在しません』

 

 ……ますます気に入ってしまった。もう手に取ったパーカーを手放すなんて出来そうもない。

 目を離すことすらできない。これはもはや恋と言っても過言ではない。

 

 このパーカーを俺が着ているとか最高に矛盾していて皮肉が効いているんじゃかろうか。

 

 レイの方に目を向けると、彼女は周りの風景に飽きてきたのか俺の方を見上げながら、ぷくーっと頬を膨らませている。

 実に退屈そうだ。もうちょっと待ってくれ。俺の心は決まりつつあるから。

 

 もしかしてこのパーカーに嫉妬でもしてるのか?

 大丈夫、パーカーかレイのどちらかが崖から落ちそうになっていたら、迷うことなくレイを選ぶから安心してくれ。

 

 まあ助けようと掴もうとしてもすり抜けて、逆に俺が落ちていってしまいそうだけど。

 そもそもパーカーが崖から落ちるって何事だよ。

 

 なにはともあれ、俺のところにはいつだってこのレイという幽霊がいる。

 そんな俺がこのパーカーを着ていたら……うん、俺だけが面白い。

 

 よし、買おう。誰かに言いふらしたいけど、自分の心の中にしまっておいて一人でほくそえんでおこう。

 

 意外と早くお目当ての服が見つかった俺はいよいよ女性服売り場の方に足を進めることとする。

 

 一着しか買わないのは、他にお気に入りのパーカーが見つからなかったからだ。

 断じて思いのほかこのパーカーが高くて、予算がカツカツになっているとかそういうわけではない。

 

 とりあえず、後で試着はしなくちゃな。

 



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59話 やっと女性服売り場に降り立つ決心はついたけど、まだたどり着きません。

 俺はまだ女性服売り場にたどり着くことができていない。

 いや何度か素通りはしているんだけど、足を止めてじっくりと服を見るなんてことができない。

 

 休日の昼下がりということもあり、店内にはそこそこ女性客もいらっしゃる。

 そんな中、足を止めてじっくり服を選ぶなんてことはハードルが高すぎる。

 

 俺はユミクロをなめていたのだ。

 でもこのまま女性服売り場をウロウロするのもなんだか不審者感が出てきて、居心地が悪い。

 

 ちょっと周りを見渡して、あ、ここ女性服売り場かー、間違えちった、てへぺロ!の雰囲気を出すのにも限界がある。

 

 そんな冷たい目で見ないでください。俺は純粋に服を選びに来ただけなんです。

 このままうろうろしていても仕方がない。

 俺は遠くで目視のみでめぼしい服を選ぶこととした。

 

 ……まったくわからん。

 

 俺自身ファッションセンスはないと自覚している。そして自分の為に買う服も割かし適当だ。

 さっきみたいにセンスよりも面白さをとって選んでしまうことなんて、日常茶飯事だ。

 

 そんな俺に女性の服を選べと?

 それはいくらなんでも無茶が過ぎるんじゃないだろうか。

 

 何かテンションあがって現地まで来たはいいけど、いざその時になってみたら何したらいいのかまったくわからんのだが。

 

 なんで電車の中で気づかなかったんだろうか。どうして俺がレイの服を自分のセンスのみで選べると勘違いしていたのだろうか。

 

 思い上がるなよ俺! 実際は女性服売り場にも堂々と立てないちっぽけな存在にすぎないんだぞ!!

 

 よし、ネットの力に頼ろう。

 いやー、現代に生まれてよかったなあ。

 もし江戸時代とかに今の状況に陥っていたら完全にゲームオーバーだった。

 

 パーカーだけ買ってほくほく顔で帰宅してしまうところだった。

 あれ、江戸時代にパーカーって売ってるのか? 

 

 ……まあ細かいことは置いておいて、自分の脳みそで追いつかないところはネット大先生の力を借りればいい。

 

 とはいえ、なんて調べればいいかなあ。

 レイにちらっと目をやり彼女の容姿を改めて確認する。

 

 レイの身長は小さい。でも子供用の服を着せるには、それが似合わないくらいの大人びた顔つきをしている。

 でも完全に大人かといわれるとまだ幼さが残る。

 

 そして何より可愛い。全体的に見て可愛い。これ大事なところ。

 

 もし俺以外にも彼女の姿が見えていたら、店内で10人中半分以上は二度見するだろうっていうくらいには可愛い。

 そんなレイの姿が俺にしか見えてないって、どんな幸せ者だよ。俺めちゃくちゃ得してるじゃん。ありがとうございます。

 

 ……いかん、思考がトリップしてしまった。

 例えば『小さい女性が着る服』とか? あまりにも安直すぎるだろうか。

 

 おお、いろいろと画像が出てきたぞ! さすがネット師匠だ。

 弟子の考えをすべて読み取ってくれているようだ。

 

 レイも俺がスマホを触っているのが気になったのか、精いっぱい背伸びをしながら画面を覗き込んでくる。

 

「えっちなやつ?」

 

「ちげええわ!!」

 

 あまりの突然のレイの発言に思わず普通に突っ込んでしまった。

 

 当然周りから注目される。

 俺は慌ててスマホを耳に当てて、誰かと会話している風を装う。

 もちろんだませている感じは全くないけど。

 

 それよりもレイさん、いきなり何を言い出すんですかね。

 こんな往来でそんなエッチなやつを見るような変態に俺が見えるのかね。

 

 それに俺が女性の画像をスマホに出してたらそういうものって発想がまずよくない。

 俺とモデルさんに失礼だから反省してほしい。

 

 全く誰のせいで、そんなことを考えるようになったんだか。元凶を作った奴の顔が見てみたいね。

 

 俺の心と周りの視線が落ち着いたところで、再びスマホに目を落とす。

 ワンピースとか、ワイシャツとかいろいろとあるんだな。

 

 なになに? ほうほう、ハイウエストにすると足が長く細く見えるのか。

 ふむふむ……何書いてあるのかいまいちわからんけど、女性が大変なんだなということはわかった。

 

 でも見てる感じワイシャツとかよさそうである。それにワンピースとかもこのレイのふわっとした感じと相まって、いい感じなんじゃなかろうか。

 

 個人的な趣味を言うのであれば、このロングニットワンピにニーハイとか、萌え袖に絶対領域とかいう俺得祭りである。

 

 レイはよく萌え袖はしているけれど、ニーハイを履いているところは見たことが無い。

 というよりもパーカー以外何か着ているのを見たことが無い。

 

 今日だっていつもの俺のお古のパーカーを着て、ちょこまかと動き回っている。

 そう、いつだって彼女は見えそうで見えないのだ。何がとは言わんけど。

 

 そうなればミニスカか短パンくらいあってもいいんじゃないだろうか。

 別に短くなくてもデニムがあってもいい。第三候補くらいで。

 

 よし、そうとなればルートは決まった。

 まずはニーハイコーナーを攻めて、そのあとこのロングニットワンピとかいうものを探す。そして短パンとスカートを探す。

 

 もしレイが気に入りそうなものが無ければ次はワンピースを探す。なんかこうふわっとしたもの。

 それでも気に入らなければデニムとかを見てみる。

 

 順番はつけたけど特に意味はない。

 別に俺がレイに着てほしい順に回る順番をつけたわけではない。

 効率を考えたが故の行動だ。

 

 どこら辺に何があるかは女性服売り場を三周くらい下からあらかた把握しているしな。

 

 よし、うじうじ頭の中で考えていても仕方がない。勇気を出せ俺よ。

 誰も俺のことなんて見ていない。さっきちょっとだけ注目を浴びたかもしれないが、そんなことは誤差の範囲だ。

 俺のことなんてだれも興味がない。興味をもたれることがあり得ない。

 

 さあ突き進め。

 

 俺は自分にそう言い聞かせて、ちょっとだけ悲しくなりながら女性服売り場へと再び歩を進める。

 

 



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60話 服を選んでるときは男だろうと女だろうと、テンションが上がる。

 気合を入れた俺は女性服売り場を通り過ぎて、試着室に訪れていた。

 べ、別にこの期に及んでビビったわけじゃないよ?

 

 とりあえず自分用に買う予定のパーカーのサイズ感とかフィット感とか? そういうのをいろいろと確かめたかっただけで、断じて逃げたわけではない。

 

 とはいってもパーカー一つ試着するのにそれほど時間はかからない。

 なぜかレイは試着室の中にまで着いてきたりもしたけど、それもさほど大した問題ではない。別に全裸になるわけじゃないしね。

 

 そしてパーカーの見事なフィット感を味わい、ますます運命を確かめたところでいよいよ覚悟を決める。

 

 諦めにも似た覚悟を持った俺は、スマホを耳にセットしたまま女性服売り場へと足を踏み入れた。

 

「どういうのがいいかねえ」

 

 あくまで電話の向こう側で話しているのが女性で、その女性のために買い物をしている風を装って、服を物色していく。

 

 実際にはただの独り言だということを分かった上で、こんなことをするのは何度やってもなぜか惨めな気持ちになる。

 まあレイと話しているようなもんだし、悲しくなんかないんだけどね!

 

「これとかどうだ?」

 

 俺は計画通り、ニットワンピースを手に取りレイの方に向ける。

 レイは首をかしげてそれをじっと見つめているが、俺としては早く着てみてほしいところではある。

 

 レイは試着室に入らずともその場で試着し放題だ。

 どういう原理なのかはわからないけど、服の魂を抜き取って服はそのままで自らにそれを着用することができるのだから。

 

 まあ服に魂なんてあるのか知らないけど。人間にすらあるのかどうか確かじゃないんだから、服にも魂くらいあるかもしれない。

 

 と、ここまでしょうもないことを考えていてもレイは俺が持っている服を手に取ろうとはしない。

 

 うーん、好みに合わなかったのだろうか。

 別に強要するつもりもないので、俺はニットワンピを元の箇所に戻す。

 

 レイのワンピース姿見てみたかった……。

 俺は多少なりとも想像してしまったレイのワンピース姿の妄想をかき消して、次の場所へと移る。

 

 秋物のTシャツコーナーだ。

 俺は適当なTシャツを手に取ると再びレイの方に見せる。

 

 レイは再び首をかしげるものの、今度は手をこちらに伸ばしてきた。

 お、これは興味を持ってくれたようだ。

 

 パーカー以外のレイの姿が見れるということにちょっとだけテンションが上がる。

 レイがTシャツに手を近づける。

 しかしレイの手はそのままTシャツをすり抜けて俺のお腹の方に近づいてくる。

 

 あれ?

 

 俺が首をかしげるのとレイが首をかしげるのはほぼ同時だった。

 まあレイの場合すでに首をかしげていたから、90度くらい曲がっているっていったほうが正しいのかもしれないけど。

 

「着れないよ?」

 

 そういいながらTシャツの間を何往復か手を動かすレイだったが、確かに前みたいに服の魂が抜けるような現象は起きそうにない。

 

 どういうことだ?

 

 前やってくれた時は特に大したことはしていなかったよな? 服の相性とかあるのだろうか。

 俺はTシャツを戻して今度は近くにあったスカートを手に取って、レイの方に向ける。

 

 しかしそれもやはりレイの手がスカートをすり抜けるだけで、レイの手に触れることはなかった。

 

 んー、何がいけないというのだろうか……。まだ購入してないからダメとか、そんな倫理観的な制御がかかっているのだろうか。

 

 俺がスカートを持ったまま首をひねっていると、突然レイはスカートを持っていない方の腕に手を近づけてきた。

 

 そこには俺が買おうとしていたパーカーがある。レイはそれに触れるくらい手を近づけると、はっと驚いたような表情をして一気に何かを引き抜くような動作を見せた。

 

次の瞬間、レイの手には『There are no ghosts』と記載されたパーカーが握られていて、それを頭にかぶると一瞬でレイの服装が変わる。

しかし俺の手には未だパーカーは残ったまま。

 

……いやいや幽霊が『幽霊は存在しません』のパーカー着ているとか、どういう一発ギャグだよ。俺を笑わせようとするのやめてもらっていいですか。

 

ここでツボにはまってしまえば、俺はユミクロで大爆笑している変人になってしまう。

 

というかどういうことだよ! どうしてレイは俺が買おうとしていたパーカーは着れたんだ?

 

どうにか冷静さを取り戻した俺は、目の前で楽しそうに今来たばかりのパーカーを伸ばしたりしながら、はしゃいでいるレイを見つめる。

 

気に入ったのか? それはいいんだけど、ほほほーいとかいいながらパーカー伸ばしてその場でくるくるするのはやめてもらっていいかな。

 俺今すごく笑いの沸点が低くなってるから、それ以上みてたら耐えられそうにないんだけど。

 

 まあそれはともかくこれはどういうことだろう。

 ……考えられることとすれば二つだろうか。

 

 一つはまあ別にそれならそれでいいんだけど、もしもう一つが原因だとすればすごく最悪だ。簡単に言えば俺は今日社会的に死んでしまうことになる。

 

 俺はそんな最悪な結末を否定するがために、はしゃいでいるレイを連れて女性服売り場を離れる。

 

 そして先程自分が見ていたパーカー売場まで戻ってきた。

 特に形等を気にすることなく一番近くにあったパーカーを手に取る。

 

「レイ、これに着替えられる?」

 

 一つ考えられる原因とはレイがパーカーしか着ることができないということ。

 

 考えてみれば俺の家にも当然パーカー以外の着る物はあったわけだけど、レイがパーカー以外を着ているところを見たことが無い。

 

 もしかしたらレイはパーカーしか着ることできない体に改造されてしまっているのかもしれない。

 ……別にデメリットは無いように感じるけど。

 

 そんなことを考えているうちにレイは俺が広げているパーカーへと手を伸ばす。

 ……結果は俺が期待していたものではなく、そのままレイの手はパーカーをすり抜けてしまった。

 

「……無理?」

 

「むり!」

 

 元気なお返事ありがとう。……となると、残された可能性というのは多分一つしかない。

 

 レイは俺が着たものしか服を着れないのだ。つまり俺のお古限定でレイはおしゃれをすることができる。

 つまりレイが女性ものの服を着るためには……。

 

 いや、まだあきらめてはいけない! 実際レイはパーカーには興味を示せど、あまり女性ものの服には興味なさそうだったじゃないか。

 

 そんなことを考えていると、突然レイが女性服売り場の方へと走り出した。

 彼女を見失って迷子にするわけにはいかないため、急いでレイの後を追う。

 

 そしてレイは俺が最初に足を踏み入れたニットワンピが置いてある場所で立ち止まると、びしっとそれを指さす。

 

「これもきたい!」

 

 そんなレイの行動は、俺の死亡確定演出を確信するには十分なものだった。

 

 レイが満面の笑みをこちらに向けながら指し示す方角に見えたもの。

 それは俺が最初にレイに見せたニットワンピそのものだった。

 

 …………えー、ほんとに?

 



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61話 絶望は突然やってくる。

 レイは俺の心を読めるエスパーに昇格したのだろうか。

 もしそうなのだとしたらきっとレイはドSだ。

 だって俺が嫌がっているのに、わざわざその方向に持って行こうとしているのだから。

 

「ほんとに着たいのか?」

 

 俺の絶望的な視線を受けてなお、笑顔で俺の顔を見上げコクコクと頷いて見せるレイさん。

 二人の間の温度差がすごい。絶対零度と熱帯夜くらいの温度差。

 いつもと立場が逆転しているところがなお恐ろしい。

 

 しかしレイにこんな楽しそうな、期待するような目線を向けられて俺の心は揺れに揺れていた。

 

 別にレイの言葉を無視して、やっぱり何も買わずに帰ろうというのは簡単だ。

 目隠しをしてこの場から去ればレイは俺についてきてくれるだろう。

 しかしだ。そのあとのことを考えると、そんなことはできない。

 

 多分拗ねたレイ、もしくは怒ったレイは多分俺がいまだ感じたことのないほどの冷気を俺にぶつけてくるだろうから。

 

 別にそれが怖いというだけではない。目の前でこんなに期待した目を見せてくれる子の、しかも俺が好意を寄せている子からそんな目で見つめられて拒否できるだろうか。

 

 そう、できるわけがない!!

 結婚詐欺に引っかかりそうとか言わないでほしい。

 男ならあらがえない性なのだ。わかってもらえるだろう。わかってもらえるよね?

 

「……本当に欲しい?」

 

「ほしい。さっきみせてくれたやつもほしい」

 

 最後の抵抗もむなしく、むしろ追加要求を求めてきたレイに対しては俺は完全に折れた。

 分かった。大盤振る舞いだ。こうなったら恥もくそもあるか。

 

 レイが欲しいといったものと、俺の個人的な趣味でレイに着てほしいと思ったもの、まとめて買ってやろうじゃねえか!

 

 だから欲望のあまり涎を垂らすのはやめてね?

 可愛い顔が台無しだし、どんだけ口元緩んでるんだよ。

 

 覚悟を決めた俺の行動は早かった。レイが欲しいと行ってきた物をとりあえず手当たり次第手に取っていく。

 萌え袖絶対領域という完璧な俺得コーデを完成させるために、特に求められているわけではなかったが、ニーハイも手に取る。

 

 もう一旦俺が着なければいけないという事実は頭のどっか隅の方に追いやる。

 無の感情だ。何も感じないのが大事なのだ。

 

 それに今は個人の多様性が尊重される時代だからな!

 めちゃくちゃ男物の服を着ている俺が、突然女性ものの服に興味を持ったって別に誰も気にしないかもしれない。むしろ俺が気にせずに堂々としていれば誰にも何も言われないのかもしれない。

 

 そう思いつつも俺は両手に服を抱えた状態で、なるべく人とすれ違わないようにルートを選び、試着室へと足を運ぶ。

 

「……ふーー」

 

 極度の緊張状態から抜け出した俺はそのまま鏡にもたれるように背中を預けて、その場に座り込んでしまう。

 

 何とか第一関門は突破した。

 多分俺が女性ものの服を大量に持って、試着室に入ってるところは誰にも見られなかったと思う。

 

 レイは俺の様子がおかしかったのか真似をするように、俺の身体にもたれるようにひっひっふーといって、一緒に座り込んでいた。

 いやその言い方だと、疲れているというよりは出産間近の妊婦さんになっちゃうからね?

 

 この子まさかわざとやってるんじゃないだろうな。

 いや天然でやってるから恐ろしいんだけど。

 

 ん? ちょっと待てよ。今レイが一緒に試着室の中にいるってことは、別に俺は女性服を着て外に出なくてもいいってことじゃないか?

 そう、別に俺は自分の為に女性服を買うわけではない。レイのおしゃれの為に着る必要がある為、試着室に入っただけだ。

 

 つまりここで俺が着て、そのままレイがそのお古を着てくれれば気に入ったものだけ買えるというわけだ。

 そう考えると途端に体の力が抜けた。なんとか俺の羞恥心的な死は免れそうだ。

 

 よし、じゃあ着替えるか。

 手当たり次第にサイズの大きい服を手に取ったから、正直何を持っているのかあまり把握していない。ニーハイだけはしっかりと握ったのを覚えている。

 

 さすがに女性ものの服を俺が着るにはそれなりのサイズの大きさにどうしてもなってしまう。

 レイが着るとなると、どうしてもぶかぶかになってしまうだろうが、そこも加味して俺がぎりぎり着れるくらいのサイズにはしている。

 

 これくらいならレイもちょっと大きいくらいでぶかぶかで不恰好とはならないだろう。

 

「おー、これはなんというか……すごいラインナップだな」

 

 レイの顔に服がかかるのを気にすることなく一つずつ服を広げていく。

 いくら人に見られないとは言っても、これをちゃんと着るのはなかなか勇気がいる。

 レイも見てるわけだしな……。

 

「……よし、決めた。まとめて着ればいいんだよ」

 




進みが遅くて申し訳ない。
20万字くらいで終わるつもりがまだまだ続きそうです……。
良ければ感想、お気に入り登録よろしくお願いいたします。


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62話 絶望を覗く時、絶望もまたこちらを覗いているのだ(言いたかっただけ)

 一つずつ着るのが恥ずかしいのであればまとめて着てしまえばいい。それなら恥ずかしさは一回で終わる。

 そう決めるや否や俺は立ち上がって、服を脱ぎ始める。

 

 突然俺の支えがなくなったからか、バランスを崩したレイは足をバタバタさせながらそのままコロンと倒れてしまった。

 いや恨めし気に俺の方見てるけど、レイの場合俺別に支えてないからね? 勝手に転んだだけだよね?

 

 まあそんなレイのことは置いといてとりあえず難易度の低いTシャツを着る。

 やっぱりきつくて結構ぴちぴちだが、まだこれは序盤。次にワイシャツを羽織り、ボタンをしめる。

 ……よし、大分変態並みにパツンパツンだけどまだ耐えられる。

 

 次からは難易度が上がる。ニットワンピだ。

 正直どうやって着るのが正解なのかわからんが、とりあえず頭からかぶればいいのだろうか。

 

 服が体を締め付けているせいで、可動域の圧迫感を感じながらもなんとか頭を通すことに成功する。

 そのまま自然に足の方まで落ちるかと思ったが、それは不自然に腰のところで動きを止める。

 

 服の裾を持って引っ張ってみるが、どう考えても画像にあったような股を隠すぐらいには伸びそうにない。

 

「……仕方ないか」

 

 なんか肺まで圧迫されている感じになってきて、苦しくなってきた。

 しょうがないからニットワンピはこれであきらめて次に移るとしよう。

 

 そして次に手に取ったのは、ぴちぴちの短パンだった。あの太ももが見えてる履いている意味があるのかないのかわからないやつ。

 

 下半身の着替えとなるとさすがに難易度は跳ね上がる。

 俺の想定ではニットワンピで足まで隠れてズボンは見えない。恥ずかしさ激減! の予定だったのだが、その予定も狂ってしまった。

 

 まあ予定に想定外はつきものだよね。夏休みの宿題もやろうと思ってたら、気づいたら夏休み終わってたりするもんな。

 

「きゃー」

 

 俺がすでに履いていたジーパンを脱ぎ始めると、レイは突然声をあげて座り顔を両手で隠した。

 

 ……いや、あなた俺が全裸の時に平然とした顔で風呂に乗り込んできましたやん。

 それに悲鳴が棒読みすぎまっせ。

 

 レイのよくわからないリアクションを横目に見てあきれつつ、いよいよ短パンに足を通す。

 

 …………いやこれ無理じゃね?

 片足を上げて何とか履こうとするが、俺のふくらはぎを通りそうにない。

 

 えー、これ女性のみなさんどうやって履いてるの? もしかしてこれも頭からかぶる系?

片足を上げたまま短パンと格闘していた俺は、突如バランスを崩して思い切りその場でずっこけた。

 

……いってえ。

慌てて試着室内を確認するが、どうやら鏡が割れたりとかはしていないようだ。よかった。

 

「あのー、大丈夫ですか?」

 

「ひっ!?」

 

 突如試着室の外からかけられる声。思わず変な悲鳴を上げてしまったが、相当な音が鳴っていたからな。

 心配して店員さんが声をかけてくれたのだろう。

 

「だ、大丈夫です! すんません!」

 

「いや、さっきからうめき声とか聞こえてたので……何かお手伝いしましょうか?」

 

 うめき声!?

 ああ、服が小さすぎて腕とか頭を通す時にうめいていたかもしれない。

 

 いやそんなことよりも今店員さんに中に入ってこられると確実にまずい!

 今の俺の姿を誰かに見られるなんて、俺がその瞬間はずか死ぬ!!

 

「ちょっとバランスとか倫理感とか羞恥心を、崩しちゃっただけなんで! お構いなく!」

 

「はあ。……何かお困りでしたらお声掛けくださいね」

 

 店員さんはそういうと試着室の前から去って行ったようだ。

 人の気配がなくなった。

 

 ……危なかった。別にやましいことはしてないから隠す必要もないのかもしれないが、俺の自尊心の維持のためにも、この姿を見られるわけにはいかなかった。

 

 俺はむなしく片足に入ったままの短パンを脱ぐ。こいつは強敵すぎる。諦めよう。

 一度深呼吸をして心臓を整えると、今度はひざ上30センチくらいだろうか。ミニスカートを手に取る。

 

 レイ、本当にこういうの着たいのだろうか?

 そう思いつつも手に取ったものはしょうがないため、チャレンジする。

 

 ……意外と入るもんだな。チャックは閉めれないけど、ワンピースで何とか隠れるからぎりぎりセーフだろう。

 

 スカートを人生で初めて履いた感想。めちゃくちゃスースーして落ち着かない。

 こんなことになるならすね毛とかそってくれば良かった!!

 

 いやそんなことしたら俺がめちゃくちゃ女装する気満々みたいになるじゃん。いやむしろそこまで吹っ切れたかったかもしれない。

 

 中途半端に男の部分が見えるというだけで、途端に羞恥心が湧いて出てくる。

 あ、男の部分ってすね毛のことだからね? 念のために言っておくけど。

 

 しかしそんな時のために握りしめていたニーハイの出番である。

 俺ってば準備がいい。

 

 まあそんなつもりは一切なく邪心しかなかったんですけど。

 結果オーライである。

 

 同じ過ちを犯さないように俺は座ることで、何とかニーハイを履くことに成功する。

 

 もう全身の圧迫感がすごすぎて、俺だけ真空管に閉じ込められているんじゃないかと錯覚してしまう。

 真空管に閉じ込められたら窒息で死んでるんじゃないかというマジレスは受け付けてない。

 

 セルフ突っ込みをしながらも、なんとか立ち上がった俺は鏡で自分の姿を見る。

 ……うん、わかってたけどファッションのファの字もないほどに一目でわかるくそださコーデの完成だ。

 

 なんか全体的にぴちぴちしすぎてて、もう違和感しかないし単純にパツンパツンじゃなかったとしてもこの着方はないだろうと俺でも分かる。

 

 何よりワンピースの下からちょっとワイシャツが見えてしまっているのがダサすぎる。

 見せるのか隠すのかせめてどっちかにしてほしい。

 

 これが未来の最先端ファッションだといわれてもこの格好で街中は歩きたくない。

 まあいいや。別に誰に見られるわけでもないし。

 

 全裸も見られているレイにだけ見られているだけだから、いまさら恥じらいなんてない。

 ……無いっていうのは嘘だな。恥じらいを隠して押し殺してレイに披露しなければいけない。

 

 まあレイはずっと試着室の中にいて俺が着替えてこの姿になる様子を見ていたわけだから、いまさら四の五の言っても遅いか。

 

 それにしてもレイのやつ静かだな。

 俺はそう思って現実を受け入れるようにようやく鏡から目を離す。

 

 そして試着室の中を見渡したのだが……どこにもレイの姿は見えなかった。

 

 




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63話 気まぐれと絶望は隣りあわせ

 いない。いない。いない。

 床をいくら眺めても、入り口の段差になっている部分を覗き込んでみても、果ては鏡と壁の少しだけ空いている隙間をのぞいてみても、レイの姿はどこにもなかった。

 

 いったいいつからいなくなっていた?

 最後にレイの姿を確認したのは、俺が立ち上がった時に不満そうな顔をこちらに見せていた時だ。

 

 確かに今考えてみれば、俺がすっ転んだ時や店員さんが声をかけてきたとき、レイの気配を一切感じられなかった。

 

 いつもならビビッて大量の冷気を放出してもおかしくないというのに。

 それに俺が服を着終わった後も、レイからは何の反応がなかった。

 

 いつもならすぐに気づきそうなそんな違和感に気づくことができなかった。

 くそ、服に気を取られすぎていた!

 

 気づかないうちにレイは試着室を出ていってしまったのだろうか。

 でもそうだとしたらいったいどこに行くというのか……。

 

 それに俺がもし見つけられなかったとしたら?

 レイは俺以外に姿が見えない。そうなると迷子として案内されることもない。

 

 もし俺が彼女のことを見つけられなかったら、ずっとこの店内を彷徨うことになるのか?

 

 一人でずっと泣きながら俺のことを探し、広い店内を彷徨い歩くレイの姿……。

 そんなことを想像してしまうといても経ってもいられなかった。

 

 気づけば試着室のカーテンを勢い良く開け放ち、ユミクロの中を走り回る。

 女性服売り場にレイの姿はない。男性服売り場にも子供服売り場にもどこにも彼女の姿は見えなかった。

 

 すれ違いざまに通行人が俺の方に目を向けてぎょっとしたような反応を見せる。

 

 きっとすごい顔になっているのだろう。不安で彼女を見つけられない恐怖に耐えながら必死になっているあられもない顔になっているに違いない。  

 でも他人のことなんて気にしている余裕はない。

 

「くそ、どこいった!」

 

 ユミクロ内を見渡してもどこにも見当たらない。そうなるとやっぱり他の場所に行ってしまった可能性が高い。

 荒ぶる呼吸をと問えながら一度立ち止まり、周りを見渡す。

 

 すると入り口付近で紺色のパーカーを着ている影の薄そうな人物の姿が目に入った。

 あれは……。

 

 レイが最後に着ていた服は俺が手に持っていた文字入りの紺色のパーカーだ。

 見間違いかもしれない。でも迷っている余裕はなかった。

 

「レイ!」

 

 俺は相も変わらず不審者を見るような目線でこちらを見つめてくる他人を押しのけて、通路へと飛び出る。

 

 そこには俺から背中を向けたレイの姿があった。

 

「よかった……」

 

「さとる?」

「九条……?」

 

 レイが振り返り、首をかしげながら俺の名前を呼ぶ。

 こっちはめちゃくちゃ心配したっていうのにきょとんとした顔しやがって……。

 

 ん? 今レイ以外に俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気が……。

 こちらをじっと見つめたままのレイの姿を視線から外し、俺はさらに奥の方に目を向ける。

 

 そこには苦笑いで、でも鋭い視線で俺のことを突き刺すような目つきでこちらを見つめてくる会社の先輩の姿があった。

 

「鶴木さん……」

 

 会社の周辺で一番大きいショッピングモール。

 たまたま休日が被って、同じ会社に勤める人と遭遇することは特に珍しくもないのかもしれない。休日をつぶす手段なんてここくらいしかないし。

 

 でも先輩は俺の顔を見て苦笑している。というよりもどう反応すればいいのか困っているような戸惑っているような、そんな表情に見える。

 

 そして先輩の目線は俺の顔ではなくてなぜか体の方を凝視している。

 いつもきりっとした表情で仕事をこなしている先輩のそんな顔は珍しいように思えた。

 

 あ、でもなんかこの間食堂で犬猫戦争の話をしてた時も似たような顔をしてたかもしれないな……。

 

 そこまで先輩の様子を観察して、よくわからない過去の回想を思い返してようやく思い出した。

 

 自分が今どんな格好をしているかということに。

 



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64話 絶望の先に待つのは、きつい説教でした。

 100歩譲ってただの女装姿を見られるのならまだいい。

 いや、それはそれで嫌なんだけど。

 でもそっちのほうが今の状況よりは1000倍ましに思える。

 

 なんてったって、俺は女装どころか手当たり次第手に取った女性服を身にまとっているくそださコーデなのだ。

 

 そりゃ先輩だってこんな会社の後輩の姿を目の当たりにすれば、動揺くらいする。

 俺なら知らない人のふりをして、背を向ける。

 まだ真正面から俺の姿をとらえて、その場から去ろうとしない先輩はすごい。

 

「まあ、なんだ……個人の多様性が認められる時代だからな。個人の趣味をとやかく言うつもりはないぞ」

 

 そして先輩は俺の格好をスルーするどころかしっかりとコメントをしてくれた。

 いや俺自身も思っていたことだけど、他人に言われると……なんだろう、このもやもやしてしまう感じは!

 

「……もしよければ私が服を選んでもいいが?」

 

 調子を取り戻したのか先輩は、遠まわしに俺のファッションセンスに対して釘を刺してきた。

 

 いや俺だってわかってるんですよ! いくらセンスがないといっても今の俺の格好が、人様の前に出してはいけないということはわかっているんです!

 これはやむを得ない事情がありまして……!

 

「お構いなく……」

 

 さすがに先輩にそんな言い訳も事情を話すわけにもいかないため、こんな事態を招いた張本人であるレイのことを横目でにらみながら、先輩へと言葉を返す。

 

「だれ?」

 

 レイは俺の視線を感じ取ったのか、先輩から距離を置くように俺の背中に隠れると先輩の方へ指を指しながら鋭い視線をぶつけている。

 

 いくら人見知りだからといって睨みつけるのはよくないと思うよ。

 ほら、先輩震えちゃってるじゃん。

 俺も一緒になって震えてるけど。

 

「急に冷房が強くなったな……」

 

 すいません。冷房じゃなくてうちの子の仕業なんです。

 この子人見知りなのに一人でどこかに飛び出しちゃうような、ちょっと感情と行動がイコールになっている残念な子なんです。 

 本当にごめんなさい。 

 

 周りを見渡し腕をさする先輩に心の中で必死に謝罪しながら、自分もレイの冷気に耐える。

 

 しかしここからどうやって先輩から逃げ……ご厚意をお断りすればいいだろうか。

 

 さすがに無言で立ち去るわけにもいかないし、かといって何を話せばこの俺の状況を理解してくれるのかわからない。

 先輩との間に冷たい空気と気まずい沈黙が続く。

 

「え、寒……あ、すみません。お客様……?」

 

 そんな冷戦状態が続いている状況下に新たな爆弾が落とされる。

 いや普通にユミクロの店員さんが俺のことを訝しげに見つめながら声をかけてきただけなんだけど。

 

 声的に更衣室で声をかけてきた人と同じだろうか。一体どうしたんだろう。

 

「あの、その着られている服ご購入されてませんよね? そのまま外に出られるのは困るんですけど……」

 

 言われるがまま自分の服装に再び目を向ける。

 万引きまがいなことをしているという事実に気づかされると同時に、また俺のこのあられもない格好を知らない人に見られてしまったという羞恥心から一気に自分の顔の体温が上がるのを感じる。

 

 しかし一方で今の状況を冷静に考えている自分も存在していた。

 別に人格が二つあるとか、並列思考ができるとかそういうわけではない。

 

 めちゃくちゃ大笑いしているときとか、頭のどっかで客観的に自分の様子を見てて「めっちゃ笑ってんなぁ」って思うことあるでしょ。そんな感じ。……あるあるだよね?

 

 ともかく今のこの状況はチャンスだ。

 レイは見つけているからこれ以上恥をさらす必要はないし、彼女は新たな見知らぬ人の登場で軽いパニック状態になっている。

 

 これ以上この場に居続けたら多分全員凍る。というか真っ先に俺が氷漬けになる。

 店員さんに呼ばれているというこの事実。利用しないわけにはいかない。

 

「じゃ、そういうことで。また会社で!!」

 

 俺は先輩に軽く会釈をするとユミクロ店内に向かって猛烈ダッシュを開始する。

 背中にはレイがしがみついていてさながら透明マントのようにゆらゆらと揺られている。

 

「あ、久能!」

「お客様!?」

 

 いや俺のダッシュで体が浮くとか自重軽すぎない? ちゃんと食べてる?

 いや幽霊だから自重とか関係ないんだっけ?

 

 後ろから聞こえてくる声が聞こえてないふりをして、全力で現実逃避をするように全くどうでもいいことを考えながらただ一点を目指す。

 

 今の俺は風だ。誰にも追いつかれないし、多分誰にも俺の姿は見えない。

 というか見ないでほしい! お願い、こっちに視線を向けないで!!

 

 あと店員さんの足が速い! でも今捕まったらこのままお会計コースで、さらに多くの人の目にさらされることになる。それだけは避けなければならない。

 

 俺は決死の思いで目的地である更衣室に辿りつくとカーテンを破らん勢いで中に飛び込む。

 

 背後からやけに楽しげな「きゃー」っていう聞き覚えのある声がするけど、別に新種のアトラクションではないからね? 俺は必死なんだから。

 この状況が誰のせいかわかってる? ……いや半分は自業自得ですけど!!

 

 頭はパニック状態でも行動は冷静。着るときは正反対に尋常ではないスピードで服を脱ぎ捨てて、高速で着なれた服へとシフトする。

 

 更衣室を出るころには謎の達成感に包まれてやけにすっきりしていたような気がする。

 

 レイもそんな俺の表情が面白かったのか真似をするように謎のドヤ顔をしていた。

 いや俺ドヤ顔はしてないでしょ? 更衣室からドヤ顔で出てくるって意味わからんけど。

 

「お客様」

 

 しかしそんな余裕は目の前に仁王立ちで待ち構えていた般若の姿を見て、消え失せた。

 いついかなる時も俺に優しく接してくれたゆるふわ系のきれいな店員さん。

 

 その人は意外にも……雰囲気から分かる通り当然ながら偉い人だったようで、俺は店舗裏に連れて行かれてこってり怒られた。

 

 そこにはゆるふわの面影は一切なく、あるのは冷たい視線と容赦ない説教のみ。

 いや、この歳になって説教されるっていうのはなかなかきついものがある。

 

 ちなみにうちのレイさんはその間何の役にも立つことなく、俺が座る椅子の後ろでガタガタと震えていた。

 そのせいで、俺が常時貧乏ゆすりしている態度悪い奴だと思われて、余計に怒られた。

 

 ……これは俺が悪いのか?

 

 もちろん試着した女性服はすべて責任をもって購入した。

 さすがに伸び切った服やニーハイを元に戻す勇気を俺は持ち合わせていなかった。



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65話 疲れたときのアイスって本当に絶品ですよね。俺は食べれないんですけど。

 ひどい目に合いました。

 ……いや本当に。

 

 俺ただ休日にショッピングに来ただけじゃん?

 それなのになんで一人でエア目隠しするわ服屋で大脱走スマッシュゴーストを始めないといけないわ、挙句の果てに女装して万引き疑い?

 

 別にそんなハチャメチャな休日を送りたかったわけじゃないんですよ。

 俺は静かに優雅にショッピングを楽しんで、それなりの満足感を得て帰宅できればよかった。

 

 それなのに何この全力疾走した後かのような疲労感。

 今日一日でここ一週間以上の体力を使い果たしたような気がする。

 

 フードコートの安そうなプラスチック製の椅子にもたれながら、スプーンでアイスをすくい取る。

 それを口に運ぼうとするが、その前にスプーンの上に乗っていたアイスは忽然と姿を消す。

 

「んーーーー」

 

「幸せそうで何よりですけど、俺にもくれるっていう配慮はないんですかね……」

 

 俺の膝の上には足をバタバタとさせながらほっぺに手を当てて顔をとろけさせているレイの姿があった。

 

 もう何が何でも椅子の上には座らないという意思のもと、俺の膝の上という選択肢を選んでくれたことには何の文句もないんだが、その位置だと俺が食べようとしたものはすべてレイの口の中へと消えていく。

 

 そもそもなんでフードコートに来てしまっているのか。ここに来た当初は何が何でもこのエリアは避けなければとあれほど苦労したというのに。

 

 いや、言い訳をさせてほしい。

 可愛い顔とは裏腹に結構な罵声を浴びせてきた店員さんの攻撃によって俺のHPは著しく低下していたわけですよ。

 

 そしてやっと解放されたと思ったら近くから美味しそうな焼きそばの匂いやら、鉄板焼きの匂いが漂ってくるわけです。

 

 これは俺に大打撃の精神攻撃。気づいたら俺はアツアツのお好み焼きを持って、ここに座っていた。

 

 ……うん、わけわかんねえな。

 

 そのお好み焼きがどうなったかというと、誰もが想像できる通り俺の膝の上に座っている小さな悪魔が全て食べつくしてしまいました。

 

 いや、俺もこれ以上レイを甘やかすわけにはいかないと思って一度は席を立ったんだよ。

 でもアイスのメニューにあるサンプル画像がめちゃくちゃおいしそうだったんだよなあ。

 

 確かに俺はお好み焼きを一口も食べることができていないから、結構腹が減っている。新しく買い直すことも考えたけど、レイが食べている姿と匂いを嗅いで変にお腹いっぱいになった気分になっていた。

 

 そして食後のデザート気分で……気づけば俺はアイスを手に持って席に戻ってきていたわけです。

 

 そしてアイスという好物をレイが見逃すはずもなく……。

 そうして俺の行きの攻防も努力もすべて水の泡となり、レイの策略にまんまとはまったのでした……て、完全に自業自得だな、うん。

 

「あーん」

 

 ボーっとしながらここまでの経緯を思い返していると、突然スプーンを持っている右手が誰かに掴まれているような違和感を覚える。

 

 そしてこの声はレイの声……まさかこれは!?

 夢にも見たカップルなら絶対にやるであろう『あーん展開』なのか!?

 

 勢いよくレイの方に目を向けると、レイは俺の方には目もくれず両手で俺の右手を掴み、無理やりアイスの方へとスプーンを動かそうとしていた。

 そしてその口は大きく開いていて、いつでも準備OKな状態だ。

 

「そこはさあ……。ほら、涎垂れてるぞ。台無しだぞ、いろいろと」

 

 レイのよだれで俺の服が汚れるということはないが、見てくれがものすごいことになっていたから、その口をふさぐためにアイスを取って、スプーンをレイの口の中に放り込む。

 

 レイにお決まり展開を期待した俺も悪かったが、これは期待させるようなことを言ってきたレイもちょっとは悪いんじゃないかな。

 

 そんな意味を込めてレイをじっと見つめるが、彼女は最早俺のことなど眼中になくアイスとスプーンにしゃぶりついている。

 

 ほんと、今日は色々と予想外すぎるよなあ。

 



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66話 その謎技術はもともとレイが持っていたのか、幽霊の謎パワーなのか俺には分からない。

 アイスを頬張るレイを横目に見ながら俺は改めて今日買ったものを確認するために、レイの体に触れないよう体をよじりながら地面に置いていた紙袋をあさる。

 

 改めて見てやっぱり思うが、自分の為に買った服が一着で、それ以外が女性ものの服なのはバランスがおかしいと思う。

 

 あーてか体を変な感じでねじってるからめちゃくちゃ脇腹つりそー。

 それになんか腰も重くなってきたし。最近運動梳かしてないからな。

 突然こんな無理な動きをしたら体が悲鳴を上げるのも当然……

 

「さとる、着るの?」

 

「うおお!」

 

 思わず大声を上げてしまったが、何とか上体は下げたままで耐えることができた。

 俺の膝の上にいると思っていたレイが、いつの間にか俺の背後から顔を出していたのだ。

 

 俺の頬にレイの頬が密着しそうなほどに彼女は近づいてきていて、俺が持っている紙袋の中を覗き込んできている。

 ……てことは俺の腰が重くなったように感じたのは、不健康なせいじゃなくて物理的な影響のせいか。

 まあ物理的でもないんですけど。霊的? まあそんな感じ。

 

「アイスはもういいのか?」

 

「なくなった」

 

 え、うそ……。

 俺は顔だけを動かしてテーブルの上を見ると、確かにアイスが入っていたカップの中身はきれいに空っぽになっていた。

 

きれいどころかまるで洗浄したかのようにアイスの残骸すら残さずにそのカップはピカピカになっていた。

 

「え、どうやって食べたの?」

 

 俺は紙袋に触りだしてからスプーンを動かしていない。レイがスプーンを使ったとしてもこんなにきれいに食べられるはずがない。

 

「こうやって、こう」

 

 レイは器用に俺の腰の上で正座しながら、カップを持って口の中に放り込むジェスチャーをしてみせた。

 

「ん? ちょっと待って。まさかカップごと口の中に入れたんじゃないよな?」

 

 どんだけ大口開けてもレイの口の大きさではそんなことできないよね?

 できたとしてもやったなんて言わないで!

 

「???」

 

 レイは首をかしげながら、もう一度同じジェスチャーを繰り返す。

 

 ……あー、これはやってますわ。レイのびっくりどっきり霊技がさく裂してますわ。

 

 レイの口のなかに物入れたらコインランドリー並みにきれいになるのか?

 100円入れたら俺の心もきれいにしてくれる? じゃなくて、それは見たかったような見なくて正解だったような、複雑な気分である。

 

「まあ人前でやるのはやめような」

 

「さとるしか、見ない」

 

 レイはそんな俺の心の内を知る由もなく、正座の状態を崩すと再び無表情で俺の首に腕をからませ、顔を覗き込ませてくる。

 

 ほんと、そういうことを無自覚にやったり言ったりするのは勘弁してほしい。

 何、俺しか見ないって。まあ確かに言葉通りの意味で俺しか見えないんだけど、そういうことじゃなくて、俺になら見られてもいいってこと?

 

 その信頼は嬉しいけど、別に俺もレイがカップを丸呑みにするところを見たいわけじゃないからね。

 さすがにコップとかまで丸呑みするようになったら止めよう。うん、そうしよう。

 

 それとこの自然流れなバックハグは何。レイは俺のことを殺そうとしてきているのか。

 まあバックハグというよりは完全に俺の背中の上に乗っちゃって、全体重を俺の首に絡ませている腕で支えているように見えるから、実際に重さがあったら俺の首ぽっきり言っちゃってそうだけど、そんなことは関係ない。

 

 こっちは天下のセカンド童貞だぞ。勘違いしちゃうし、どきどきしちゃうだろうが。って、童貞ちゃうわ!

 いや、ほんとに。言葉のあや……比喩ってやつだよ。そうそれ。

 

 



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67話 やはり神は存在した。いや幽霊だけど、俺からしたら女神でありその背後から後光が射しているといっても決して過言ではなく、そもそもレイの可愛さは(以下略)

「さーとーるー、ひーまー」

 

 分かった、分かったからとりあえず俺の首元を軸にしてぶらぶら揺れるのはやめなさい。

 別に苦しくもないし、感覚はそんなにないんだけどなんか首絞められている感じして心象はよくないから。

 まあアイスもお好み焼きもレイが食べ終わったわけだし、そろそろ帰ってもいいかなあ。

 

 果たしてレイは俺が買った服を着てくれるのだろうか。

 そんなことを考え、若干憂鬱な気分で紙袋の中身を再び覗き込む。

 

「やっぱり着るの?」

 

「着ません」

 

 店員さんにまだあんなダサださ恰好を見られるのはまだセーフ。

 あの店に足を運ばなければ、もう一生会うことはないだけだし。

 

 でも会社の先輩に見られてしまったのがつらすぎる。だって会社の先輩だよ?

 明日会社で会うんだよ? 先輩俺のことを見るたびに、俺のあの恰好を思い出すんでしょ?

 

 俺が先輩なら絶対思い出して笑っちゃう。1か月は思い出して目の前で笑いをこらえなきゃいけないことになる。

 え、なにそれ。先輩にそんな感じで見られたら死にたくなっちゃう。

 

 考えるだけでもこれほど憂鬱になるのだ。

 再び着ようものなら羞恥心と懐疑心と猜疑心と後悔で俺の心は破裂してしまう。

 

 こっちとらガラスのハートどころかメンタル豆腐なんだから、もっと世界は俺に優しくするべきだと思う。まあ俺は納豆のように粘り強く時代に食らいついていくけどな!

 あーやっぱり俺お腹空いてんのかな。

 

 そんな感じでこれからの想像とこれまでの事実に打ちひしがれ、自分のことを憂いていたら、またまたいつの間にかレイは俺の背中から離れて紙袋の前でちょこんとしゃがみこんでいた。

 

 紙袋をじーっと眺めているが、正直何を考えているのかわからないほどに、その視線には力がこもっておらず、表情は無表情だった。

 なんだろう。やっぱりお気に召さなかったのだろうか。フリマアプリに出してしまったほうがいいのだろうか。

 

 レイは警戒心全開で会袋の中に手を突っ込むと、ゆっくりと人差し指と中指でつまむようにしてニーハイを取りだす。

 

 いや、確かに俺が一回履いているけど、そんなに汚くないから。

 そんなばっちい物を触るような手つきで取りださないでね。

 目の前でそんなことされると俺も傷つくからね。ねばりついた心もバリバリにはがされちゃうからね。俺の中の何かが。

 

 悲しい気持ちでそれを眺めていると、しゃがんでかろうじて見えていたレイの足元が一瞬で黒色に塗り替わる。

 

 ん? え、もしかして、もしかして!!?

 

「れれれれレイさんや、少し立ってもらうことはできるでしょうか?」

 

 動揺しすぎて口がうまく動かないし、言葉遣いはなぜか敬語になってしまっているが、そんなことは今はどうだっていい。

 

 レイが無言で差し出してきたニーハイを丁重に受け取りながら、ゆっくりと立ち上がる彼女の姿を見つめていた。

 そして俺の予想通りやっぱりレイはニーハイをその身にまとっていた。

 

 だが……惜しい!! ニーハイはパーカーぎりぎりまで覆っていて、レイの太ももがあまり見えない!!

 

 なんかもうちょっとで見えそうなのに見えない! みたいなギリギリ路線が好きな人にはたまらないシチュエーションなのかもしれないが、俺は絶対領域絶対派だ。

 何を言っているのかわからなくなってきたけど、これは実に惜しい!

 

 でもニーハイを着なれてないからか、俺がじっと見つめていて恥ずかしいからなのかわからないけど、もじもじとパーカーを伸ばそうとして足を隠そうとしているレイは可愛い!

 

 俺は一心不乱に紙袋の中に手を突っ込んで、ワンピースを取りだす。

 

「これとかどうだ?」

 

 これは強制ではない。あくまでレイの意思を尊重している。着たければどうぞ? 俺がしているのはそういった類の提案だ。

 

 まあ気持ち的にはそんな感じなんだけど、手が前に伸びてしまってレイに押し付けてしまっているような構図になっているのは仕方がない。きっと気のせいだろう。

 

「着ていいの?」

 

「もちのろん」

 

 俺が返事をするや否やレイのパーカーが消えて、その姿が大きく変化する。

 あ、パーカーが消えるって言っても別に服が消し飛んで一瞬きわどい全裸姿になるとかではなく、単純に一瞬の衣チェンジって感じね。

 

 余計なことを考えているとレイは俺からの反応が無い事を気にしたのか、俺の顔を覗き込むようにしてしゃがみこんできた。

 

「……だめ?」

 

「いい。すごくいい。もう眼福。その……なんというか、ね。いいよね」

 

 フリーズしていた俺のもとに、突然のレイの上目遣いからの疑問形というオーバーキルのダメージを受けた俺は、語彙力をなくした。

 

 そんな返答でも満足したのか、レイは勢い良く立ち上がるとその場でくるくると回り始める。

 いやー、予想した通り……いや、予想以上、天井突破唯我独尊って感じ。

 

 いつもだぼだぼのパーカーを着ているからわかりづらいが、レイのスタイルは十分に細い。だがしかし出るところはしっかり出ていて、足は細すぎるわけでもない。

 つまり出るところは出ていて、引っ込んでいるところは引っ込んでいるのだ。

 

 身長は低いけど、それでもワンピースはよく似合っている。フードコートを照らす明るいライトは、今だけはレイを照らすために存在しているかのようにレイを照らし映していた。

 

 そして注目すべきはやはり絶対領域!!

 

 先程のパーカーとは違い、惜しみもなくその白い太ももを見せつけ絶対な比率を誇っている。

 そしてレイが両手をあげてくるくるするたびにちらリズムを刺激する。

 

 いやー、いい買い物したわぁ。

 ちょっと、いや大分無理して小さいサイズの服を着てよかったわ―。

 

 いろいろと過去の行動を後悔していた俺だが、今この瞬間の光景を眺めているだけで後悔なんてものは幸福という名の激流で洗い流され、それと一緒に過去の愚行の記憶も一緒に流し忘れることにした。

 

 まあ何よりレイが気に入ってくれているようで本当に良かった。

 俺の独りよがりになっても仕方ないしな。

 

 結局俺は眩しく光り輝きながら、スカートがひらひらするのを楽しみながらくるくるしているレイを小一時間ほど生暖かい目で眺めていた。

 

 なぜか周りの人から感じる視線は冷たく感じたが、俺は気にしない。

 そんなことよりこの光景を目に焼き付けることの方が大事。

 

 



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68話 充実した疲れは己の身体を心地よくいじめてくる。

重たい体に鞭を入れて、ゆっくりと歩を進めてようやくショッピングモールの外に出たときにはすでに日は落ちかけていて、夕日が眩しく俺の顔面を照らしつけてきていた。

 

 いや、今日は本当に疲れた。駅までの道のりをゆっくりと歩きながら振り返る。

 いろいろとありすぎたけど、ほとんど最後のフードコートで記憶は埋め尽くされている。

 

 なんかやってはいけないようなことをやったような気もしたけど、もう覚えてない。先輩にも会ってないし、店員さんにも怒られていない。

 そんな過去はなかったんだ。

 

 レイはよほどはしゃぎ疲れたのかフードコートから出るころには、俺の首に腕を回し全力で俺にしがみつきながらも、すやすやと眠っている。

 

 着ている服はパーカーではなく、フードコートで着たワンピースのままだ。

 よっぽど気に入ってくれたということだろうか。

 

 まあそれは買い物冥利に尽きるというか全然嬉しい事なんだけど、一人だけぐっすり寝てるのはずるいと思う。

 

 いや別に俺の背中に乗っているとかは全然いいんですよ。

 重いとかそういうことはないし、俺の足取りが遅いのは俺も単純に疲れているからであって、レイが背中にいるのは全然関係ないんだけど。

 

 まあ時折にへらって笑いながら、凍てつくような冷気をぶつけてくるのはやめてほしいんですけど。

 いったいどんないい夢を見てるんだか。

 

 そもそも今日俺がこんなに疲れている大半の理由はレイがついてきたからだと思うんだけど。

 

 レイが家でおとなしく待ってくれていたら、こんなに時間がかかることもなかったし俺が変態みたいな恰好しなくても済んだわけだし、こんなに疲れて帰宅することもなかった。

 

 まあ家に帰ってから体力満タンのレイに付き合ってたら同じくらい疲れてたのかもしれないけど。

 

「まあでも……楽しかったなあ」

 

 四の五の文句は言っているが、今日一日はこの一言に尽きる。

 一人で来てたらこんなに感情が揺さぶられることもなかったし、普段しないような経験をすることもなかった。

 

 疲れ以上に充足感と満足感で心は満たされていた。

 

 まあ結果オーライ。レイも外に出てちょっとは人になれたかもしれないし、これからはもしかしたらいろんな場所に一緒に行けるのかもしれない。

 すべてはレイの気分次第なんですけども。

 

 そんなことを考えていたらもう電車がホームについた。

 行きは随分と時間がかかってけど、帰りはすんなり帰れそうだな。

 

 まだ帰宅ラッシュの時間にはぎりぎり差しかかっていないからか、乗っている人の数はまばらだ。

 これなら座れそうだ。

 

「……あ」

 

 しかし座ろうとしたところで気づいてしまう。

 このまま座ると、レイが完全に椅子にめり込んでしまう。

 

 別に問題ないのかもしれないけど、見た目的にどうなんだろうか。

 なんか人間的な倫理観が俺にそれはよくないといっているような気がする。

 

「レイ、隣に移動してくれ」

 

 効くのかどうかわからないけど、動き出した電車の揺れに合わせるようにして自分の身体を揺らす。

 それと一緒にレイの身体も左右に揺れるのだが、そんなことはお構いなしといわんばかりに彼女は眠り呆けている。

 

「頼むよー。俺も座りたいんだよー」

 

 レイには申し訳ないが、俺もずっと立ちっぱなしはさすがにしんどい。

 家まではちょっとでも休憩したいし、ここは何としてでも座りたい。

 

「んーんーー」

 

 体の揺れを大きくすると、俺の顔の横でがくんがくんと顔を揺らしながら、不満げな音を発する。

 

 それと同時に俺の首を絞めているレイの腕の感覚が急に強くなったような気がする。

 いや、これはまずい。俺このままだと永遠の眠りについちゃう。電車の中でレイにノックアウトされそう。

 

 生命の危機を感じた俺はレイのことを考える間もなく、目の前の空いていた座席に急いで腰かけた。

 

 びくっと一瞬体を震わせたレイはそれと同時にパチッと目を開き、俺の肩の上に顎を乗せながらこちらを恨めし気に見つめてくる。

 

「な、なんだよ」

 

「あほぉ……」

 

 え、なにそれ可愛い。

 寝起きで頭が回っていないのか、そもそも彼女の頭はいつも回っていない気がするけど、眠気眼のままレイはのそのそと俺の肩の上に登ってくる。

 

 そして俺がまさかの不意打ちに呆けているうちに、彼女は肩の上からストンと膝の上に着地する。

 そして俺の方に体を向けてそのまま腰に手をまわすと、何事もなかったかのように再び目を閉じた。

 

 ……いやいやコアラじゃねえんだから。俺は木じゃないよ? 感触も重みもないのが何とももどかしい。

 まあ逆になくてよかったかもしれないけど。

 

 とにかく首が絞まる感覚から解放された俺は、ようやく一息ついて背もたれに深く腰掛ける。

 今まで歩いていた分の疲労が一気に襲い掛かってきたのか、全身がひどい脱力感に襲われる。

 

 あー、しばらくは動けそうにもないな、これは。

 

 レイの方に視線を向けると、彼女は俺の胸を枕のように使い眠り呆けている無防備な寝顔を見せながら、すやすやと眠っていた。

 本当に気持ちよさそうに寝るよな。

 

 ためしにほっぺのあたりを突っついたりつねったりしてみるが、一つも反応はない。

 まあそもそも、突っつけてないし指めり込ませるのは悪いかなと思ってぎりぎりを攻めているから、ずっと空中に指突き出してるだけなんですけど。

 

 カモン、ぷにぷに感覚!

 

「ふあああ……」

 

 レイの気持ちよさげな寝顔を見ていたらこっちまで眠くなってきた。

 レイの感覚があったら絶対に眠れないような彼女の座り方だけど、残念ながら……いや幸いにも彼女から伝わってくる感覚はない。微量な冷気のみ。

 

 それも火照った体をいい感じに冷やしてくれていて、どんどん瞼が下がってくる。

 まあ駅までには距離もあるし、一眠りしても大丈夫か。

 

 

 

 そのまま眠りについてしまった俺は駅員さんにたたき起こされるまで爆睡してしまっていた。

 自分の家の最寄りのホームなんてのはとっくの昔に通り過ぎていて、たどり着いたのは終点。

 

 コアラのようにしがみついたまま眠り続けるレイに恨み言を言いながら俺は逆路線の電車に再び乗りこみ、そして無事自宅につくことができた。

 

 ショッピングモールを出るときはうっとうしいくらいに眩しく俺の顔を照らしていた日の光は、家に着くころにはすっかり姿を隠してしまっていた。

 

 

 




第5章これにて終了です。
……長くなって申し訳ありませんでしたー!
個人的にも途中からなんでこんなに長くなってるんだ? 君たち自由すぎないか? と主人公と幽霊に対してつっこみながらも、そのまま突っ走りました。
まぁ最後いい雰囲気でまとめった風になってるので結果オーライですかね
次章は長らくチャットを無視してきた後輩との絡みが始まります。
書いててとても楽しいので(後輩の頭がぶっ飛んでる)これもどれくらい続くのか未定です……(反省してない)

最後にこの場をお借りして、感想やお気に入り、誤字報告いつもありがとうございます!
誤字報告は本当に助かってます……。
pv数も1万を突破して感無量でございます。
感想、ツッコミ等気軽にいただければと思います。
この後も彼らの日常ラブコメ(?)を生暖かい目で見守ってやってください!


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第六章 後輩襲来(お家訪問)
69話 後輩のことはバカにしてるけど、絶対後輩も俺のことをバカだと思ってるよね。


 食堂の窓から外をのぞけば大粒の雨が窓をたたきつけている。そんなどんよりとした気分にならざるを得ない天気。

 

 そんな中でも会社には来て8時間きっちり仕事をしなくてはいけないという悲しきかな社会人の宿命。

 雨の日とかに出社したら『雨天出勤報酬』みたいなさ、臨時ボーナスがあってもいいと思うんだ。

 

雨の中よく来ましたねー。頑張りましたねー。花丸!お金あげちゃう! みたいな。

 まあ実際にそんなことを上司から言われたら、馬鹿にしてんのかと思ってモチベーション下がるから。

 要するにお金だけくれればいい。給料あげてください。おなしゃーす。

 

「先輩!! 聞いてますか!」

 

「あーそうだな。今日もいい天気だよな」

 

「土砂降りの雨ですよ! 雨フェチですか! なんなんですか!」

 

 雨フェチってなんだよ。ていうか自分で言ったことに自分でキレるなよ。反抗期か。

 自分自身に反抗してみたってか。そんなの動画配信者でもやらんわ。

 

「先輩! 私は怒ってるんです!  あっつい!!」

 

 がしゃん! という机に激しく器を置く音と共に、器の中に入っていた紫色をしたスープがこぼれ出る。

 ああ、乱暴に置くからだよ? 物は丁寧に扱いましょうって道徳の時間で習わなかったのか?

 

 ていうかまた地雷メニュー選んでるのかよ。なんだったけな、確か『むらさきいもと紫キャベツのポタージュ』だったけな。

 まあ毒々しい紫色の見た目はさておき、むらさきいもと紫キャベツならまだ食べられそうって思うよね。

 

 でもそれが罠なんだよな。ここの食堂は『お、いけそう』と思っているメニューもどう調理したらそんな味になるのかってくらい、まずいとくそまずいの中間の微妙なものを出してくるのだ。

 

 だから地雷メニュー。

 

 まあそんな地雷メニューにも一定層の購入者がいるから食堂は調子に乗って、また新たなメニューを生み出すんですけど。

 ああいうのは一回目だけで充分。リピーターの気持ちがわからん。

 

 目の前で涙目で手をぶんぶんと振り回しながら、机にこぼれたスープを拭いている後輩を横目に見ながら俺は生姜焼きを頬張る。

 やっぱり無難が一番だよな。悪魔が作ったようなメニューには手を出さない。これ大事。

 

「先輩! どうして既読無視をするんですか!」

 

「別に無視してないだろ。こうやってちゃんと返事してるじゃないか」

 

 ようやくテーブル拭きの作業が終わった後輩はものすごい剣幕で俺の方に身を乗り出しながら、問い詰めてくる。

 

「今現在のリアルの話をしてるんじゃなくて! 私はチャットの話をしているんです!」

 

「リアルに生きようぜ」

 

 現実を見ろ現実を。あまりの大声に周りの人が引いてるぞ。ちゃんと周りを見て俺の身にもなってくれ。

 

「私、結構本気で悩んでるから相談したのに……」

 

「へえ。どの建造物とどの建造物のマッチングで?」

 

「そうですねえ。最近はタージ・マハルのあの大きな丸みを帯びた屋根と聖ワシリイ大聖堂のあの小柄ながらも主張してくるデザインをした丸み。どちらが私にふさわしいのか……そうじゃなくてですね!!」

 

 椅子にもたれかかるようにして座り直し落ち込んでるような表情を見せたかと思うと、うっとりとしたどこかにトリップしているような表情に変わり、そして怒ったようにこちらを睨みつけてくる。

 

 まったく、忙しい奴だな。食事くらい気を落ち着かせてのんびり食べようよ。

 

「とりあえずそのなんとかっていう建造物の方角に向かって、土下座すれば解決するんじゃないか」

 

「どうしてですか!!」

 

 どうしてもなにもどうせどっちも有名な建造物なんだろ? それに対してどちらが私にふさわしいとか、一回本気で怒られた方がいいと思うよ。ほんと。

 

「先輩はそうやって私のこといじめるんですね……」

 

 うわあ、そんな態度取られたら俺が悪いみたいじゃん。

 

 別に痴話げんかでもないし、こんなの会話にすらなっていないのに別れ話を切り出された彼女みたいな雰囲気出すのやめてくれる?

 君見た目はいいんだから、他人から見たら10対0で俺が悪く見えちゃうんだからさ。

 

「……自分の武器を理解してらっしゃるようで」

 

「なんのことですかぁ?」

 

 そうなんだよな。こいつ発言はバカそのものなんだけど、地頭はそこまで悪くないんだよな。

 実際業務はそつなくこなすから、こんなに目立つ発言をしていても上司に目をつけられることはないし。

 

「それで。相談ってなんなんだ?」

 

 あまり後輩をいじりすぎて、本当に悩んでいて相談できなくて恨まれるなんてことは勘弁してほしいので、そろそろ本題に入るとしよう。

 

「え、こんなに人がいるところで相談できないからチャットしたんじゃないですか」

 何言ってるんですか、脳ミソついてますか。

 

 そんなことまで聞こえてきそうなほどに、唐突な真顔と冷ややかな目線でこちらを見つめてくる後輩。

 シンプルに思ったことを言おう。

 

 は・ら・た・つ!!

 

「ごちそうさまでしたー」

 

 こっちが真面目に相談に乗ろうとしたらこれだよ!

 ちょっといい先輩風ふかしてやろうとか考えた俺が間違いだったよ!

 俺はトレーを持ち上げながら席を立つ。

 

「あああああ!! ごめんなさいごめんなさい!! ちょっとした冗談ですよ―――!! 先輩、私を捨てないでください―!! なんでもしますからあああああ!!」

 

 だから言い方を考えろ言い方を!! そしてそこまで悲壮感を出すな!

 そんな大事じゃないだろうが!

 

 俺は周りの冷たい視線に負けて、再び席に戻る。

 机の上に身を乗り出して最早机に腹ばい状態になっていた後輩は、乱れた服装を整えながら席に座り直す。

 

 ちなみにその間の動作は全て真顔である。しかも食事が入った器は全て落とさず、踏まないように綺麗に避けられている。

 

 何この後輩。俺怖い。

 

 それでこいつは人が多い所で相談もできないのに、ここで何を話すつもりなのか。

 

「先輩。単刀直入に言いますね」

 

 そうだな。そろそろ休憩時間も終わるし手短だと助かるな。

 後輩の目の前の器の中にはこぼれたとはいえなみなみと注がれているスープと大量に盛られているご飯が残ってるけど、果たして休憩終了までに食べ終わるのだろうか。

 

「先輩の家に行ってもいいですか」

「はい、却下でーす。お疲れー」

 

 再び立ち上がった俺は、後ろで激しくヘドバンしながら俺のことを引き留めようとしている後輩を尻目に、二度とその席に戻ることなく今度こそ本当に食堂を去った。

 

 ほんと誰かあの後輩、何とかしてあげて。

 



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70話 べ、別に後輩のことなんてなんとも思ってないんだからね! いや、ほんとに。

 食堂の窓から外をのぞけば午前中に降っていた雨も上がり、余韻を残すかのように雨粒が窓にこびりついている。

 ……こびりついているってなんかやだね。

 

 ていうか最近雨降りすぎじゃないかな。秋だよ? 梅雨の真逆だよ?

 もうちょっと穏やかになってくれてもいいと思うんだけど。

 帰りは雨降ってないといいなあ。

 

「先輩!!」

 

「はい、いい天気です」

 

「いいお返事ですね! 全くかみ合ってないですけど!!」

 

 あれ、つい最近同じことやったような気がするんだけど。

 今日も今日とて後輩は食堂につくやいなや俺の目の前の席を陣取った。

 

 ほかにも空いてる場所はいっぱいあるんだから、そっちを使えばいいのに。

 昼ご飯くらい一人でゆっくり食べたくない?

 こんなこと言ってるから俺はいつまで経ってもボッチなのか……。

 

「悲しくなるな」

 

「なにがですか! 先輩が悲しいとか楽しいとかは正直どうでもいいんですよ!」

 

 この後輩ひどい。会社の先輩のことを何だと思ってるんだよ。

 

「先輩この間の件、どうするつもりなんですか!?」

 

 言葉を濁すな。そして大声を出すな。

 またあらぬ方向に勘違いされるだろうが。

 

 最近社内で俺らなんて呼ばれてるか知ってる?

 食堂で見せつけるように痴話げんかをするバカップル。

 

 通称『食バカップル』だよ?

 

 食堂と職場とバカップルをかけたんだね。誰だよ考えたやつ。

 それ聞いたとき、お、ちょっとうまいなって思っちゃったじゃんかよ。

 

 うまいとかそういう話じゃないの。俺からしたら全部風評被害なわけ。

 そもそも後輩の話を聞いてなくて会話が成り立ってない時点で、カップルなわけないじゃん。会話にならないんだから好きになるわけがないのよ。

 

「とりあえず謝ってもらっていい?」

 

「唐突すぎます!」

 

 まあ何日か前にわけのわからない提案を受けてから、俺はこうしてのらりくらりとその話題を避けているわけだが、後輩は諦めようとしない。

 社会人なんだからさ、俺が家に入れたくないんだなって察しましょうよ。

 

「後輩よ、そもそも君は女性なわけだ」

 

「先輩、私の名前知ってます? 考えてみたらこれまで呼ばれた記憶がないんですけど」

 

 ほらな、会話が成り立たない。名前の話をしてるんじゃないんだよ。

 こっちから話題を振れば逸らされる。

 君は俺の家に来たいのか来たくないのかどっちなんだい。

 

「あ、もしかして先輩、私が一人で行くとどうにかなっちゃうと思ってます? 大丈夫です、先輩はそういうことできないってわかってますし、私にもそういう気持ちはないので安心してください」

 

 剛速球で話題が帰ってきたと同時に、その球が俺の心を砕きに来たんだけど。

 なんで俺告白どころか何も言ってないのに振られた感じになってるの?

 

 別に俺も後輩のことはなんとも……建造物に魂を捧げる残念な子としか思ってないけど、それでも傷つくのは傷つくんだよ?

 

「そもそもいつも私がほとんど一方的にしゃべってるし、会話すら成り立っていないのにそんなことが起こるわけもないんですよね」

 

 ……なんだろう。他人に言われるとすごい、こう……寂しい気持ちになるね。

 俺今、あなたとはお話になりません。って断言されたようなもんじゃん。

 

 そういうのは口に出して言うんじゃなくて心のうちに納めておくもんだと思うよ!

 社交辞令! 大事!

 

「じゃあなんで俺の家なんだよ。別に居酒屋とかでいいんじゃないか?」

 

「いやーだって、私も先輩もお酒飲まないじゃないですか? なんかもったいなくないですか?」

 

 後輩よ。それは違うぞ。

 確かに俺は酒はあまり好んでは飲まない。

 

 だがしかし居酒屋とは酒を飲まない人でもちゃんとお腹いっぱいになって、なんか楽しい感じになって帰れる親切設計なお店なんだよ。

 

 良質な居酒屋だと良心的な価格で大量の量の料理を提供してくれる。

 しかも中盤くらいから酒を飲んでる人は料理をつまみ感覚くらいでしか食べないから、結構満腹になる。

 

 ほんとどこぞの残念オリジナル料理を提供する食堂とは大違いだよ。

 

「それに……」

 

 後輩は突然気まずそうに表情を曇らせながらうつむく。

 

 おっと、居酒屋に情熱を注いでる場合ではないな。

 これはちょっと真面目に聞いておかなければ、あとで後悔するやつだ。

 

 後輩のおちゃらけた雰囲気がなくなったことを察知して、俺もすっと姿勢を伸ばして真面目モードへと移行する。

 

「知らない人に私のこと残念な人だと思われたくないですし」

 

 うーん…………もうテオクレだと思うんだけど?

 

 ん? この子はまだ自分が残念な子だってことを隠せてると思ってる?

 猫の皮どころか顔面の皮もはがれかけてるレベルで欲望さらけ出してるのに、まだ間に合うと思ってる?

 いったいどこらへんでそう思ったんだろう。ちょっと気になるから聞いてみたい。

 

 そもそも後輩は俺に何を相談するつもりなんだろうか。

 めちゃくちゃヘビーな案件とかだったら俺なんかに相談しても無駄だと思うけど。

 いや、さすがに後輩もまさか俺のことをそこまで頼れる人間だと思っているわけがない。

 

 ……なんか無駄に病みそうになってきた。

 ネガティブまっしぐらルートに突入しそうになった思考を強制終了し、口を開く。

 

「じゃあ後輩の家じゃだめなのか?」

 

「え、何言ってるんですか普通にダメに決まってるじゃないですか」

 

 顔をあげると同時に真顔でこちらをまっすぐ見つめてくる後輩。

 

 じゃあなんで俺の家ならいけると思ったんだよ!!

 いや俺もOKでーすとかって返事が返ってくるとは思ってなかったよ?

 

 否定される前提で言ったに決まってる。しかも結構謎に緊張したんだからな?

 いった後にちょっと気まずさ感じて、視線逸らしちゃったんだからな。

 

 そんな俺のピュアな心をを踏みにじるがごとく、ミジンコを見るような目で見てきやがって。

 ミジンコだってすごいんだからな! こう、なんか……きっとすごいんだよ。

 

 だめだ。このまま後輩としゃべっていても俺の血圧は上昇していくばかりだし、堂々巡りになるだけだ。

 

 家に呼ぶのも嫌だが、後輩と一生こんなやり取りをするのも疲れる。

 正直仕事してる時より疲れる。やはり怒りというのは人間にとって悪感情なのだ。

 毎日頭空っぽにして生きてるくらいがちょうどいいんだよ。

 

「本当に最近よく一緒にいるな。私も邪魔していいか?」

 

 突然俺の背後から声をかけ、そしてナチュラルに俺の隣に腰かけたのは、あの日あの時ショッピングモールで最悪の状態で遭遇した先輩だった。




本当に毎度毎度展開が進まず申し訳ございません。気づけば文字数が……。
あと後書きなし派の方も、連続で長文後書きを書いてしまって申し訳ありません。

本当は今日投稿するつもりはなかったのですが、オリジナル日間ランキング3位とかいうわけがわからないことになっておりましたので、急遽投稿しました。

最初見たときはそういったランキングに無縁すぎてバグか何かかと思ったんですが、何度かリロードして本当だとわかった時は心臓止まりました。

いつもいつもありがとうございます。
頑張って一定のペースで投稿できるよう頑張ります。

そして、誤字が多くて申し訳ございません!
一応確認はしているのですが、視界からすり抜けていっているようです……。
誤字報告、本当に助かります。なるべく無いようには気を付けますが、
もしまた発見したら暴言をたたきつけながら教えていただけると幸いです。

感想、お気に入りしていただけると幸いです。
本当に日間ランキングありがとうございます!
行けるところまで行きたいです!


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71話 二人なら問題ないですよね! とかそういう問題じゃない気がするんですが。

 いやなんかしれっと隣に座ってきたけど、よくこんな空気の中普通に合流できたな。

 それに先輩にはついこの間こっ恥ずかしい場面を見られたばかりなので、正直言って気まずい。

 

「先輩聞いてくださいよー。先輩が意地悪なんですー」

 

 ややこしい、ややこしいよ。ちゃんと固有名詞を使いなさいよ。

 ほら、先輩もちょっと困っちゃってるじゃん。

 それに俺が意地悪なんじゃない。お前が非常識なだけなんだよ。

 

「いったい何をそんな言い争いをしているんだ?」

 

 別に言い争いなんかしていない。後輩が一方的に俺のことを責めてきてるだけで、俺は全然言い返したりなんかしていない。

 

「ふっ。君の目を見れば、何がいいたいかなんて想像つくさ」

 

 先輩は髪をかきあげながら、まっすぐと俺の瞳を見つめてきていた。

 え、なにこの人。すっげえイケメンじゃないですか。

 ていうか目を見れば社員が何考えているかわかるとか、どれだけハイスペックなんですかね。

 

 そもそも先輩はこの間のことを全く聞いてくる気配がない。

 俺は颯爽と逃げ去ったというのに先輩はあの時の話は、あの場で折り合いをつけてくれたというのだろうか。

 

 プライベートと仕事を完全に切り分ける。これが社会人というやつだよ。

 分かるか? 後輩、見習えよ。

 

「そうか、後輩は彼の家に行きたいということなんだな」

 

「それだと語弊があります! 私はあくまで先輩に相談をするために先輩の家に行きたいんです」

 

 後輩の発言にはいつも語弊しかないんだから、今更訂正しても仕方ないと思うけど。

 

 俺が先輩の株をあげている間、後輩が先輩にこれまでのいきさつを話していてくれたようだった。

 

 そして今先輩は俺の目をじっと見つめてきている。

 お、これはまた俺の心理を読み解いてくれるというあれか?

 

 絶対に嫌です。断固拒否です。勘弁してください。なんでもしま……せんけど、家には誰も呼びたくないんです。

 

 俺は目を見開いてしっかりと先輩の目を見つめ返す。

 そして先輩は俺に向かってしっかりと頷くと、微笑を携えて後輩の方へと顔を向ける。

 

 さすが先輩。あの顔は完全に以心伝心できたようだな。

 これで安心して昼休みを過ごせるようになるわけだ。

 

「わかった。私も一緒に行くとしよう」

 

「……ん?」

 

「どうした?」

 

 きょとんと首をかしげながら俺が問い返したことが予想外です。とでもいうように不思議そうにこちらに顔を向ける先輩。

 いやいや、さすがに聞き間違いだよな?

 

「ぱーどぅん?」

 

「だから私も彼女と一緒に君の家にお邪魔しようといってるんだ。九条もそれを望んでるんじゃないのか? 私のことを熱烈に見つめてきたじゃないか」

 

 何を考えてるか目を見ればわかるって話はいずこへ……。

 

「先輩! それはめちゃくちゃ名案ですよ! 先輩も一緒に先輩の家に行ってくれるなら、先輩も私とどうにかなるなんて心配しなくて済みますもんね!」

 

 先輩がゲシュタルト崩壊しそう……。

 どうにかなるとかそれ以前にそもそも家に来ることが問題だといってるんだけどな。

 

「週末ですか?」

 

「そうですねー。早ければ早い方がいいですね。私は以前から連絡してたのに無視されてましたし……。今週の土曜日とか?」

 

「九条、無視はよくないな」

 

 どうして俺は頭では拒否しているのに口をついて出たのは、日程の確認なんだろうか。

 どれだけ否定してもこの決定は覆らないってもう深層心理で認めてしまっているのかもしれない。

 

 ていうか休みの日に来るのかよ。会社終わりに10分くらいアパートの前で世間話程度にお話しして、はい終わり。じゃだめですかね。

 だめですか、そうですか。

 

「先輩はどうですか? 土曜日空いてますか?」

 

「俺は」「あ、そっちじゃないです」

 

 だから紛らわしいんだよ! 名前で呼べ名前で!

 

「だって先輩だって私のこと名前で呼ばないじゃないですか。対等ですよ対等」

 

 あれー? 先輩と後輩って対等なんだっけ? 一応上下関係っていうものが存在してるんじゃないっけ?

 

 それと俺口に出して言ってないのに、どうして普通に会話できてるわけ?

 俺ってそんな内心を読み取りやすそうな顔をしてるんかね。

 

「うん、問題ないぞ」

 

 スマホで予定でも確認していたのか先輩は触っていたスマホから目を離すと、いい笑顔でそう宣言した。

 

「じゃあ決まりですね!」

 

「そうだな!」

 

 いや、二人とも実にいい笑顔を浮かべてるけど俺の意志は結局……。

 

「だから俺の家は……」

 

「先輩! 早く食べないとお昼休み終わっちゃいますよ!」

 

 最後の抵抗むなしく、俺の発言は無視されるという結果に終わり、そしてなし崩し的に週末先輩と後輩が俺の家に来ることとなってしまった。

 ……なってしまったのかあ。

 

 後輩のやつめちゃくちゃ笑ってるじゃん。悩みなんてなさそうなんだけど。

 いったいこいつは俺に何を相談するっていうんだ……。

 

 



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72話 タイミングってもんがあるでしょうが!

「ただいまー……」

 

 疲れた。主に仕事以外の内容で疲れていて無駄な疲れに思えて仕方ないけど、とにかく疲れているのは一緒だ。

 

「さとる、おかえり」 

 

 今日も今日とてレイが俺の帰りを出迎えてくれる。

 俺の癒しはレイだけだよ……。

 

 レイにゾンビのような足取りで近づきながら、癒していただこうと抱き着くそぶりを見せる。

 

 するとレイは突然警戒したように俺から離れるように飛びのき、俺はそのまま地面に突っ伏した。

 まあレイが避けなくても結局レイの身体をすり抜けて同じ結末になっていたのだろうけど。

 

「おつかれ?」

 

 レイは冷たい床に突っ伏している俺の頬をつんつんとつつきながら、小首をかしげる。

 

 それは疑問形なのか、俺をねぎらってくれているのか。

 後者として受け取ろう。そういうことにしとけば俺は明日も頑張れる。

 

「ありがとう」

「?」

 

 俺はちゃんとお礼が言える男だ。

 お疲れ様とねぎらいの言葉をいただいたのだから、それに感謝を表するのは当然というものだろう。

 

 ……そろそろ頬をつつくのやめてもらってもいいかな。

 なんかレイの指が頬を貫通しているからか顔にすごい違和感があるし、絶対楽しんでるよね。

 俺と遊ぶのは大歓迎だけど俺で遊ぶのは勘弁していただきたいところだな。

 

 さて、こうしていつまでも床で寝転がっているわけにはいかない。

 今週末には客人が来る。しかも女性。しかも二人。

 

 ……なんだろう。本来であれば泣いて喜ぶほどに嬉しいイベントのはずなのに気乗りしないこの感じは。

 

 いや二人とも顔はいいんですよ。顔は。

 でも二人ともどっかねじが外れてるんじゃないかってくらい、たまに突拍子もない言動をする。

 

 後輩はまあ見てもらっての通りって感じで、先輩は見た目も中身も一見普通を装っているが、一回暴走すると理解できないことをし始める。

 

 会社の打ち合わせで使う予定の資料を突然全部シュレッダーにかけて、元データを完全消去するとか。

 しかもそれを真顔で実行して、開き直って上長にありのまま自分がやったことを報告するんだから、上長も苦笑いですよ。

 

 ほんと彼氏さんちゃんと先輩の心のケアをしてあげてくださいよ。

 

 こんなまともな人材は俺くらいの、変人だらけの取りまとめを任されている部長はさぞかし大変だろうと同情するが、部長も部長で大概なので何とかしようとは別に思わない。

 

 まあそんな二人が家にやってくるというのだから、正直不安しかない。

 それでも強引とはいえ家に招き入れることになったのだからそれ相応の準備はしなければならない。

 

 俺はのっそり立ち上がるとリビングへと足を運ぶ。

 

「……気が進まない」

 

 リビングの扉を開けた瞬間になんとか動かしていた足が止まる。

 

 なんだ、この惨状は。

 

 自分でもいうのもなんだが、俺は結構部屋の掃除はする方だ。

 だから一人暮らしだからと言って部屋がゴミ屋敷になっているとかそういうことはない。

 

 ちょっと片づけをすればいつでも人を呼べるくらいにはきれいにしている。

 まあいままでそれを実行する時はなかったんですけど。

 突発的なおうち訪問イベントどころか、突発的なお食事イベントすらなかったんですけど。

 

 ま、まあそれは置いといて、今のこのリビングの惨状はなんだ。

 ゴミ箱の中身を全部ひっくり返したかのようなゴミの散乱の仕方。

 

 ていうかひっくり返したよね。机の上にゴミ箱がさかさまになっておかれてるんだもん。

 完全にばらまいた後の確信犯だよね。

 

 しかもキッチンのシンク上では食器やら調理器具が踊りまわっている。

 これ以前どこかの誰かが同じことしてたよね。

 

 緩やかな寒気を放出して存在をアピールしているレイの方に体を向ける。

 いや緩やかな寒気って意味が分からないんだけど、なんというか凍てつくような鋭い寒さじゃなくて、じんわりと体の芯を冷やしていくようなそんな感じの寒気を出してるのよ。

 

 そして振り返れば謎のドヤ顔を浮かべている彼女の姿があった。

 しかも腰に手を当てて胸を張っていて誇らしげである。

 

 パーカー姿なのが悔やまれるけど、そんなポーズの取り方どこで覚えたんだか。

 マンガか?

 

「何事?」

 

「かたづけた」

 

 ふんすっと鼻息が聞こえそうなほどに鼻の穴を広げるレイ。可愛い顔が台無しである。

 

 ……いやそうじゃなくて、明らかに片付いてないよね。散らかしてますよね。

確かに洗い物に関しては以前も似たようなことがあったし、まだ教えてなかったから仕方ないのかもしれない。

 

 でもごみ捨てに関してはレクチャー済み。しかもレイはちゃんと袋にゴミを捨てることを覚えていた。

 

 つまりこれは確信犯である。

 

 現に俺がどれだけ真っ直ぐに見つめようが、ドヤ顔を崩さない彼女だが、視線が右往左往しすぎ。

 そんなんじゃ俺は騙せないぜ? というか冷気もだんだん強くなってるし、正直丸わかりなんだよなぁ。

 

「何か言いたいことは?」

 

「むしゃくしゃしてやった」

 

 反省はしてない……と。

 弁解の余地すらないじゃん。

 可愛い同居人だ。いつもなら大目に見るんだけど……どうしてよりによって今日なんですかねぇ。

 

 この後の片付けのことを考えると、どんどんと体は重くなり、重力に抵抗することなく俺はゴミの中に一旦寝転ぶことにした。

 ……思考放棄ではないよ?



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73話 いつもは全く気にならないのに、掃除のときだけやたらと目に入る漫画。あの現象に名前はありますか。

 ゴミの中に身をゆだねて数分、冷静になってみれば後輩たちが家にやってくるのは週末だ。

 今日は確か一週間のど真ん中……そう、水曜日くらいだった気がする。

 

 いや、なんか仕事に毎日言って一週間の一日か、二日たまに休んでって感じだと曜日感覚なくなるでしょ?

 もうその感覚を長く続けていると今日が何曜日とか気にならなくなるわけ。

 

 とりあえずあと何日いったら休みってことしか考えなくなるわけですよ。

 まあそれはともかく先輩と後輩が家にやってくるまでに、まだ2日くらいの猶予はあるわけだ。

 

 要するに今日焦って片づけをしなくても、まだ猶予は二日間あるわけだ。

 だから別に今日レイが暴れる日だったとしても何ら問題はないわけで、こんなに落ち込む必要もなかったということになる。

 

 まあ散らかした本人はもう自分がしたことをきれいさっぱり忘れているのか、仰向けで寝転がっている俺の腹の上で正座したまま、ぴょんぴょんと跳ねている。

 

 正座のまま跳ねていることを突っ込むべきなのかもしれないけど、そのくらいの不思議行動にはもう驚くことはない。

 というよりも、俺のお腹ってそんなトランポリンみたいに飛べるようなバネ搭載してたっけ?

 

 一応そんなに太っているつもりはないんだけど、ちょっと不安になるからやめてほしんだけど。

 あと単純に心臓に悪い。重さを感じないからいいもののもしレイが急に重くなったりしたら、俺耐えられる自信ないからね。

 

 ……レイが重い? バカ野郎、女の子はいつだって翼のような軽さを持ってるんだよ。何を言っているんだ俺は。反省しろ。

 

 そんな自問自答を行いながら、今なお現実逃避を続けているわけだが。

 仰向けのまま顔を動かし部屋の様子を再度確認する。

 

 床にはレイが散らかした紙切れが大量に散らばっており、他にはポストに届くよく分からないチラシやらなんやらが散乱している。

 そしてシンクの上は言うまでもなく大惨事。パッと見た感じ、割れている物がなさそうなのがまだ救いなのかもしれない。

 

 さらに机の上には中身の入っていない無数のペットボトル……。

 いつか捨てなければいけないと思って、早何週間過ぎたのだろうか。

 

 なんでペットボトル回収って二週間に一回とかなんだろうね。

 地域によっては不燃物として一緒に捨てられる神の地のようなところがあるようだが、残念ながら俺が住む地域は田舎なのに、そういった分別はしっかりとしている。

 

 そして一人暮らしであるがゆえに、お茶を沸かすとかそういったことは一切しない。

 ペットボトルオンリーである。

 

 そして今度の回収日に捨てよう、まだ回収日までには時間があるから片付けるのは今度でいいや、回収日がいつの間にか過ぎている。

 この魔のループに入ってしまっているのである。

 

 そこまで考えてようやく思い至る。

 今日片づけを放置してしまうと俺は恐らくぎりぎりまで部屋の片づけをすることはない。

 

 恐らく、前日か当日ぎりぎりになって過去の俺に文句をたれながら掃除をする羽目になる。

 そんな未来が容易に想像できる。

 

 なぜなら俺は夏休みの宿題は夏休み最終日、もしくは夏休み終了後の提出授業直前にやるタイプだからだ。

 

 今日やらなくて済むことは今日やらなくていいって学生のころは思ってたけど、結局今日やらないことはいつまでたってもやらないんだよな、大体。

 というわけで、結局片づけをしようという気分になっている今日やるしかないのだ。

 

 レイのやつも俺の腹トランポリンに飽きたのかどっかに行っちゃったし、寂しさを紛らわすためにも掃除するしかない。

 

 よし、なんかやる気出てきたぞ。

 体に気力が戻ってきたつもりになった俺はそのままの勢いで立ち上がる。

 

 そして高くなった視点で部屋の様子を見て一瞬やる気がなくなりそうなところを何とか根性で持ちこたえる。

 

 俺ならやれる。パパッと掃除してさっと寝て明日にはすっきりした部屋で目覚める。

 うん、いいプランだ。

 

「さとる、これ」

 

 伸びをして気合を入れていた俺のもとにレイが突然音もなく姿を見せる。

 びっくりした! せめて足音くらいさせてほしいんだけど。なに、とうとう瞬間移動でも身につけたの?

 こんな狭い部屋でそんなことを習得しても実用性があまりないと思うけど。

 

 むしろMP的な何かを使用して行うのであれば、歩いた方が疲れないと思うんですけど。

 いやレイがMPを使ってるかどうかなんて知らないんですけどね。考えたこともなかったわ。

 

 俺の戸惑いと驚きと切なさをよそにレイは目の前でつぶらな瞳をこちらに向けて、両手を突き出している。

 その上には見覚えのある物がのっている。

 

「なに?」

 

「あー、これは……トランプだな」

 

 よく見つけてきたな。引っ越し当初誰かと一緒に遊べるかと……まあ詳細は省くけど、要するに買ってから一度も使っていない、開封していないトランプだ。

 

 新品のはずなのに哀愁を感じるのは気のせいだろうか。……いや、きっと気のせいだろう。

 

「あそぶやつ?」

 

「そうそう」

 

「あそぼ」

 

 おっと、これは魅力的な提案だ。

 掃除途中に見つけてしまった懐かしいマンガやアルバム。

 それよりもはるかに魅力的な提案だ。

 

 しかしここは心を鬼にして断らなければならない。

 なぜなら今日やらなければ俺は金曜日にきっと地獄を見ることになるだろうから。

 

 すまんなレイ。今日じゃなかったら、全然いくらでもトランプの遊び方どころか極意を教えてあげられたんだが。今日だけは。今日だけはダメなんだ。

 

「悪いけど……」

 

 そこまで口にしてふとレイと目が合う。

 

 レイの目は心なしかうるんでいるように見えて、これから俺が何を言うのかわかっているのか悲しんでいるような、はたまた何かを期待しているような、そんなどちらともとれるような目を向けてきていた。

 

「さとる?」

 

「よし遊ぶかー」

 

 俺にはできない! そんな小動物のような目で、しかも上目づかいで見つめられて俺に抵抗できるはずがない!!

 

 そのあと俺はレイと全力で七並べをした。

 それはもう今すぐ寝なければ明日の仕事に支障が出る! ってくらいめちゃくちゃ白熱したトランプゲームだった。

 

 まあ俺が全勝してるんだけど。

 ほんとにレイはアナログゲームが苦手だなあ。



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74話 料理は芸術だ! 個性だ! 爆発だ!

 食堂にマスタードの匂いが充満している。

 今日のとんでもメニューは『マスタードクリーム漬けチーズアウトハンバーグ』だ。

 

 いやなんか字面的にはそこまで問題ないように見える。

 見慣れないメニューだったけど、チーズインハンバーグみたいなもんだろうと頼んでしまった俺が悪い。

 

 俺はまだこの食堂のあくどさをいまだに理解しきれていない、自分が悪かったと黄色が目立つハンバーグを目の間にして後悔している。

 

このハンバーグ、クリームがどうとかチーズインじゃないとかって以前に、マスタードが多い。

どのくらい多いかっていうと、他の料理食べててもマスタードの味がするくらいにおいがきつい。

 

 クリームとチーズの味はおろかハンバーグ食感のマスタードを食べているみたいだ。

 マスタードの匂いで鼻が刺激されて、半泣き状態で昼ご飯を食べている。

 

「先輩、楽しみですね!」

 

 どん! という音にマスタードの匂いが追加される。

 もう勘弁してくれ……。いや後輩よ。お前なら頼むと思ったよ。

 

 俺ですら初見だから回避できずに頼んじゃったんだもん。

 初見じゃなくてもとんでもメニューを好んで頼む後輩なら、間違いなく今日のハンバーグは外さないと思っていた。

 もうなんかマスタードの匂いのせいで頭がボーっとしてきたぞ。

 

「先輩、聞いてますか?」

 

 聞いてないよ。絶賛マスタードに頭の中浸食されてるよ。

 

 俺以外の同じものを頼んでいる周りの人も、俺と似たような後悔やら絶望やらそういうネガティブ感情てんこ盛りの顔をしている。

 お気持ちお察しします。

 

 はあ。あまりのマスタード臭に現実からトリップしそうになったけど、ようやく後輩の話に耳を傾ける。

 

 どうやら週末の俺の家に来る話をしているようだが、実に楽しそうに話している。

 これ本当に俺の家来る必要あるの?

 

 さて、この間は意図せずレイの誘いにのってしまって、結局掃除のその字も手に付けられなかったわけですけども。

 

 ここで問題です。土曜日まであと何日猶予が残ってるでしょう。

 

「やっと金曜日ですからね! 明日が楽しみですね」

 

 はい、後輩正解。10万ポイント。逆転優勝おめでとう。

 

 ……ええ、案の定そのあとも手を付けることはなく金曜日まで来てしまった。

 実に予想通りの展開である。ここまで来ると逆に落ち着いてくるってもんだよね。

 

「ちゃんと綺麗にしといてくださいね?」

 

 うるさいよ。的確に今の悩みごとの本質を突っついてくるんじゃないよ。

 にやにやしてるのも腹が立つからせめて笑わずにいってくれる?

 

 マイナス20万ポイントで失格にするよ。さっきから何のクイズ大会なのか知らないけど。

 

 あー俺はなんてダメなやつなんだ。

 マスタードで頭は回らないし、後輩は無意識に俺の現状をあおってくるし本当にやる気があってもやらない男である。

 

「何時?」

 

「なにがですか?」

 

 俺の質問の意図を察してくれよ。

 明日の話をしてるんだから、明日何時に来るのって話でしょうが。

 会話の流れを察しようよ。

 

「あの。そんななんでわかんねえんだよ。みたいな目で見つめられても困るんですけど。唐突に時間を聞かれても何のことかわかりませんよ。先輩のことそこまで理解してないですし、するつもりもありません」

 

 なんなの、俺のハートに剣を刺さなきゃ死ぬ呪いにでもかかってんのか。

 そんなジト目をこっちにぶつけてくるんじゃないよ。俺が悪かったよ。ごめんて。

 

「先輩と話してたんですけど……ゴホッゴホ。あ、先輩は先輩でも先輩の先輩の方です。夕方くらいかなって。17時くらいにお邪魔しますね! ウエッ」

 

 なんで俺には一言も相談がないわけ。もう決定事項で夕方ごはん時に邪魔しに来るつもりなのね。

 あれだよね。めちゃくちゃ晩御飯をいただくつもりだよね? 君たち俺の家に何しに来るつもりなの。

 

 友達の家に遊びに行くとかそういう関係じゃないんだからさ。もうちょっとわきまえるとかそういった俺に対する配慮はないわけ。

 ないんだよね。知ってる。あったらこんなことになってないもんな。

 ちょっとでもそんなことを考えた俺が悪かった。ほんとごめん。

 

 というかハンバーグ食べて咳き込むんじゃないよ。

 いや気持ちはわかるけど。ほんとマスタード強いよね。

 

 食堂の作成者は一回食べた? ちゃんと食べてから提供しているのであれば、味覚が一般人とはちょっとずれちゃってるんだと思う。

 その個性を社内に広めるんじゃなくて、自分の中で大事に隠しといてほしい。

 

「先輩、何がとは言いませんけど。期待、してますね」

 

 晩飯を? 部屋の綺麗さを?

 そんなニヤって感じで笑われても、何を求めてるのかわからんから別に俺はなんもしないぞ。

 そういうことははっきり言ってくれないと。

 

 結局その後後輩ににやにやとこちらを見られながら、俺は涙をたらたら流し、咳き込みながら昼休み終了ぎりぎりにハンバーグを食べ終える羽目になった。

 

 後輩もにやつきながらもぼろぼろ涙を流していた。

 こんなハンバーグ風マスタードなんて一生食べない。

 

 



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75話 そもそもパエリアってどんな料理だっけ?

 土曜日です。休みです。現在時刻は午前10時です。おはようございます。

 

 基本的に休みの日は午後まで夢の世界にいることが当たり前な俺が、何でこんな早起きをしているか。

 

 ええ、午後にやってくる後輩と先輩のための晩御飯作りですよ。

 朝に晩御飯を作り始めるってわけがわからないよ……。

 

 それに俺自身朝ご飯食べてないし。まあもともと朝は抜きがちだから、特に何か食べようって気にもならないんだけど。

 

 掃除はとりあえず昨日何とか終わらせた。

 まあ見た感じ他人が見ても汚いとは思わないくらいに片づけられてるんじゃないかな。

 代償としてレイの部屋(仮)は開いてはいけない禁断の部屋になってしまったけど。

 

 ……だってペットボトルとか隠しようがないからね。それ以外にもいろいろと放り込んだ気がするけど、仕方ないよね。うん、仕方ない。そういうことにしておこう。

 

 しかしとりあえずキッチンの前に立ったのはいいけど、何を作ればいいのかまったく思い浮かばない。

 

 そもそも普段料理しない人間がこういう時にパッと何か思いつけるほど都合のいい世の中ではない。

 

 レイも俺の気持ちをわかってくれているのか、俺の横でうつらうつらとしながら涙目になっている目をこすっている。

 ……この子絶対眠いだけだわ。

 

 さっきめちゃくちゃ大口開けてあくびしてるの見ちゃってるし。

 でも眠そうなレイってだけで割とレアなので、これが見れただけでも早起きした甲斐があるってもんだ。

 

 しかも俺の服の裾をちょんって掴んでるところがさらにあざと萌えポイントです。

 

 レイとしては無意識に自分が倒れないようにしてることなんだろうけど、また無意識ってところが怖いよね。すごいよね。

 まあ意味があるのかどうかは知らんけど、そのまま一生つかんで離さないでください。

 

 そもそも別に俺に合わせて起きてこなくてもいいのになあ。

 そんなことされると単純だから好きになっちゃうよ? あ、もう好きなんだっけ。

 

 ……恥ずかしいことを考えさせないでほしいんだけど。朝から高血圧で倒れちゃうよ。

 顔真っ赤だよ。熱いわ。

 

 これも晩御飯を作らないといけないという今の状況が悪い。

 つまりそういう状況になるように仕向けてきた後輩が全て悪い。

 よし、後輩には謝ってもらうことにしよう。

 

 俺の中で一つの証明ができてすっきりしたところで、スマホを手に取る。

 

 ま、こういう時は先人の知恵に頼るべきだよね。

 素晴らしきかな検索時代。検索すれば何でも分かる。

 そりゃ現代人皆検索中毒になるよね。

 

 なんて調べればいいかな。とりあえず『一人暮らし もてなし料理』とかで検索してみるか。

 

 やっぱり一定数需要があるのか結構な数のサイトが検索結果として表示される。

 とりあえず一番上のサイトを開いて中身を確認する。

 

 どうやらそのサイトはQ&Aサイトになっていて、質問に対していろんな人から回答が得られるようだ。

 

「やっぱりみんな似たようなことで悩んでるもんだなあ」

 

 その質問者も一人暮らしをしていて友達が来るけど、何が振舞えばいいかわからないといったような悩みを抱えていたようだった。

 そして大事な回答だが……なになに?

 

「手軽に作れるパエリアなどはいかがでしょうか……?」

 

 ぱえりあ? 手軽に作れる?

 え、なんでこれがベストアンサーになってるの?

 

パエリアって手軽に作れるもんなの? 俺外食する時ですらパエリアなんて頼んだことが無いんだけど、パエリアってそんなにメジャーなものなの?

 

 それとも最近の一人暮らししている人って、パエリアくらいは簡単に作れるぐらいみんな自炊してるの?

 

 俺が時代に乗り遅れているだけ?

 時代に乗り遅れててもいいからパエリアはちょっと敷居が高いかな……。

 

 俺はパエリアを作るのは早々に諦めて他の回答を探す。

 結構いろんな人が回答しているようで様々な候補が上がっていく。

 

『普通にカレーとかシチューとかでいいんじゃね? あとは鍋とか。余っても自分で食べられるし、日持ちするし困らないっしょ』

 

 おー、回答の仕方は雑だがなかなかこの回答はいい感じだ。

 

 鍋は時期的にまだちょっと早いし、暑いから無理かもしれないがカレーか……。

 確かに余ったとしても困らないし、なかなかありかもしれない。

 

 うーん、でももてなし料理でカレーとかシチューってあんまり聞かないよなあ。

 

 ……まあいっか。よくよく考えたらそこまで気合い入れてもてなすような相手でもないしな。

 

 正直後輩とかはよく食堂の個性的なメニュー食べてるやつだし、味にうるさいってことはないと思う。

 

 先輩はちょっと不安だけど、あの人もいろいろとぶっ飛んでるしたぶん大丈夫だろう。

 よし決めた。俺はカレーが食べたいです。

 カレーを作ることにします。

 

 だってカレーって切った具材を鍋に放り込んで煮込んでカレールーぶち込んどけばいいだけでしょ?

 

 パエリアとかより全然簡単そうだし、とにかくなんかカレーの気分になってきた。

 料理はカレーに決定。見知らぬ雑な回答者よ、ありがとう。

 

 心の中で俺からのベストアンサーを贈呈することにしよう。

 謎の達成感に包まれながら、シンクの隣にある冷蔵庫を開け放つ。

 

 あ。そういえば俺……。

 

「ぐおおおおおお! まじかぁ」

 

「うるさい」

 

 寒い寒い寒い。思わず大きい声をあげてしまったが、おねむのレイにはご不満だったのかとてつもない冷気をあてられる。 

 

 冷蔵庫の冷気と合わさって、テンション上昇と共に上がっていたはずの俺の温度は一気に下降する。

 

 レイに謝りながら再度冷蔵庫をチラ見するが、現実は何も変わらない。

 冷蔵庫の中は見事に空っぽで、カレーの材料はおろか野菜すらどこにも姿は見えなかった。

 

 ……今から買い物いかなきゃだめなの?

 俺のテンションが底をつくのと、限界を迎えたレイがその場でこてんと倒れて眠りこけはじめたのは、ほぼ同時だった。

 



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76話 カレー作りを始めます。まだ終わりません

「おかえり」

 

 往復一時間のドライブを終え、家に帰って出迎えてくれたのは、なぜかふてくされて頬を膨らませているレイさんだった。

 

 えー、何で怒ってるの?

 爆睡してる感じだったし起こさないように気を使って、なるべく物音立てないように行動してたんだよ?

 

 それに何もないとなると寒いのかなとか思って毛布まで掛けたんだけど、どうして彼女はこんなにご立腹なんでしょうか。

 まあかけたはずの毛布は掛布団じゃなくて、敷布団の役割を果たしていたけれども。

 

 それにレイが周りの温度に影響されるのかわかんないし。

 気分だよ気分。自己満足ってやつ。

 

 ご立腹なレイの隣を通り過ぎてリビングへと向かう。

 頬を膨らませぷりぷりしつつも、レイも俺の後ろをついてくる。

 

 両手に持っていた購入物をとりあえず机の上に置き、レジ袋の中をあさる。

 まあそんな大したもんは買ってないし、時間がかかったのも普段いかないスーパーでどこに何があるかわからんから、無駄に店内を何周もしてしまったからなんだけど。

 

 スーパーってなんで店ごとに配置がガラッと変わるんだろうか。 

 いっそのこと全国共通とかにしてくれれば迷わずに済むのに。

 何周もぐるぐるして挙句の果てに同じところに何度も足を運んでたら、不審者に間違われても文句言えないよ。

 

 さて、そんなスーパーの愚痴はさておき、カレーを作らないといけないわけだけど。

 まだ昼なのにそんなに早く作って意味はあるんだろうか?

 まあカレーだし煮込めば煮込むほどうまくなるだろうし、いっか。

 

 一日目から二日目のカレーを楽しめるとか最高じゃん。

 何言ってんのかわかんなくなってきたけど。

 

 よしあとはスマホを準備すれば準備は完ぺき。

 きっと野菜を切って煮込んでカレールーを入れれば作れるんだろうけど、せっかくすぐに頼れる文明の利器があるのだから使わない手はない。

 

 『カレー 作り方』

 

 うん、我ながらあほっぽい検索ワードだと思うけど、こんな雑なワードでもしっかりとお目当てのサイトをヒットしてくれるあたり、優秀である。

 お、サイトだけじゃなくて動画もヒットしている。こういう時は動画の方が分かりやすいかもしれないな。

 

 動画サイトを開き、内容を確認する。

 やっぱり基本的には具材を切ればいいみたいだ。

 順調に動画の内容に沿って俺も具材をどんどん切っていく。

 

『次に玉ねぎを串切りにします。これですね』

 

 ……串切り? いやこれですねって、すでに切り終わってるやつを出されても困るんですけど。

 

 なんか学生の頃に家庭科の授業でやったような気もするけど、何年前だと思ってるのさ。

 

 そんな昔の記憶、覚えてるわけないじゃん。

 ……まあ適当でいいでしょ。どんだけ綺麗に切ったって、口の中に入ればみんなぐしゃぐしゃになるんだから、一緒一緒。

 

 俺は動画の指示を無視して適当に玉ねぎを切る。

 玉ねぎってなんで切ってるとこんなに涙が出てくるんだろう。

 

 なんかテレビでなんとかって成分が体のどこかを刺激してるからって聞いたことがあるけど、何言ってたかは全く覚えてない。

 

「かなしいの?」

 

 ボロボロ泣きながら玉ねぎを切り刻んでる俺の様子を、レイが心配そうな表情で見上げてくる。

 心配してくれるのはうれしいけど、全然悲しくないんだ。

 生理現象だから仕方ないね。

 

 レイが心配してくれたことにテンションあがってたら、玉ねぎを少々切りすぎてしまった。

 みじん切りみたいになってしまったけど……まあ食べれば一緒だよ。むしろ食べやすくていいんじゃない?

 

 その後人参もよく分からない切り方を指示されたが、当然それも無視して適当に切った。

 よし、あとは鍋に入れて煮込めばいいだけか。

 

『定期的にあくとりであくを取ってください』

 

 悪取り?

 なんか無数に穴が開いているお玉を楽しげにもって言ってくるけど、そんな便利な道具家にはないよ?

 そもそも悪取りってなに。悪い成分でも浮いてくるの?

 

 確かにそれは取り除かなきゃいけないのかもしれないけど、どれが悪なのか全くわからん。

 動画に映っているお姉さんは泡立ってるところを、掬ってるから同じことすればいいか。

 

 俺はお玉を取りだして沸騰している泡めがけてそれを突っ込む。

 お湯を掬ってみるが、何の意味があるのか全く分からない。

 まあやることに意味があるんじゃないかな。

 

「やりたい」

 

 レイは俺がやっている作業を遊びか何かだと勘違いしたのか、そういいながら俺の背中によじ登ってくる。

 やりたいって、そんな楽しいもんでもないよ?

 

 まあこのまま放置してふてくされて俺が凍死してもしてもいけないので、俺の背中越しにレイにお玉を持たせる。

 

 持たせるって言っても目を細めてみると、御玉が宙に浮いているようにも見えなくもないんだけど。

 それにレイのやつ勢いよくお湯を捨てるから、俺の体にかかりそうで普通に怖い。

 

 というかレイさん、多分そんなに毎分毎秒お湯を捨てる必要はないと思うんだけど?

 どんどん鍋の中のお湯が少なくなっている気がするんだけど。

 

「レイ、ステイ」

 

 一応声をかけてみるがレイは鍋の中にお玉を突っ込むことに真剣なようで、全く聞いてくれる気配が感じられない。

 しょうがない。これはこの作業をレイに任せた俺が悪い。

 

 その後お湯が減るたびにお湯を足すという全く無意味な作業をすることになったが、レイがそれを俺とのバトルか何かだと勘違いして、ますますお湯を捨てる勢いが激しくなってしまった。

 

 ……カレー作りって意外と大変なんだな。

 まだカレーにすらなっていないあたり、先はまだまだ長そうだ。

 



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77話 カレーに合わないものはないというが、これはあまりにも度が過ぎる。

 結局煮込めたのか煮込めてないのか、よく分からないまま俺はカレールーを入れる段階へと進むことにした。

 いや、一応沸騰してるし大丈夫なんじゃない?

 

 ジャガイモとか食べてみたけど、素材の味を楽しめたしそんな固くなかったからたぶん大丈夫。

 大丈夫じゃなくても俺はあの二人を信頼しているから、きっとおいしい美味しいって食べてくれるに違いない。

 

 ちなみにみじん切りした玉ねぎの姿はどこにも見えない。

 きっと知らず知らずのうちに大自然の中に返って行ったんだろう。

 元気で過ごせよ。

 

 もうそんなことよりレイの行動を止める方が大変だった。

 お玉を返してもらおうと取ろうとすると、まるで俺が親の仇か何かみたいに睨みつけてくるし、めちゃくちゃな冷気をぶつけてくる。

 

 何度か格闘と説得を繰り返して、お玉を取ることには失敗したが背中から降りてもらうことには成功して、何とか悪取りは終了した。

 あとはカレールーを入れるだけだけど、ほんとにこのかけらみたいなやつ8個も全部入れていいの?

 

 箱の中身見たときはてっきり一個しか入れないもんだと思ったけど、どうやら全部入れてしまうらしい。

 

 レイの方をちらっと確認するが、彼女はお玉を大事そうに腕で抱えたまま、背中から降りる際にしれっと持って行った塩コショウの容器を興味深そうに眺めている。

 まあこの様子ならさっさと入れてしまえばまたやりたいなんて言い出すこともないだろう。

 俺は一個ずつカレールーの素? かけらを鍋の中に落としていく。

 

「おー」

 

 四つくらい落とすともう鍋の中にあるのは完全にカレーっていう雰囲気を醸し出していた。

 

 なんか感動だな。全然カレーになりそうになかったものが今は見事に『私、カレーですけど何か?』みたいな顔して鍋の中に存在している。

 これを自分が作ったんだと思うとなかなか感慨深いものがある。

 

「さとるー。これ、あ」

 

「え?」

 

 レイとのバトルを避けるために、レイが肩越しに話しかけてくると同時に、とっさに腰を落としてしまった。

 頭上を見上げればシンク横に置いてあったはずの調味料の数々が宙を舞っている。

 

 脳の処理が追いついていないのか、その光景がやけにゆっくりはっきりと目に映る。

 状況を頭で理解するよりも先に手が動いていた。

 

 中身をこぼしながら回転する調味料に向かって手を伸ばす。

 気づいたときには、俺の両手には4つほどの調味料が納まっていた。

 

 すごい、これが火事場の馬鹿力ってやつか?

 だって指と指の間に調味料挟まってるよ? 

 

 これを空中キャッチしてるって、俺曲芸師にでもなれるんじゃない。

 変な感動を覚えながらそこまで目にして、ようやく俺の頭に理解が追い付く。

 

 それと同時に一つ残念なことに気づいてしまった。

 調味料の向きが逆さになっている。そして指に挟まっている容器からは絶え間なく中身が重力に逆らわず下に落ちていっていた。

 

 いやな予感がしながらも、俺はあえて現実を確かめるようにゆっくりと視線を下に落とす。

 調味料たちの行く末は今まさに真のカレーへと姿を変えようとしていた鍋の中だった。

 

「ぬわああああ!!」

 

 慌てて、指から離し机の上に置くが時すでに遅し。

 容器の中身は半分ほどなくなっている状態になっていた。

 普段料理はしないけど、使いそうな調味料は揃えている。

 

 ただし料理はしないからほとんどが新品状態。

 そのはずの各種調味料がそろって半分以上中身がなくなっている。

 ……どこに消えたかなんて考えたくもなかった。

 

「どうした?」

 

 俺は現実逃避をするように事の元凶であるレイの方に体の向きを変え、尋ねる。

 レイは居心地が悪そうに手に各種調味料のふたを持ったままもじもじとしていた。

 

「とれたよって」

 

 確かにずっと容器触ってたもんな。

 ふたを取ろうとして頑張ってたんだな。

 

 それで全部取れたから俺にその成果を見せようとして、背中によじ登ってきたと。

 まあ確かに警戒して大げさな動きをした俺も悪い。その動作で容器が手から離れてしまうのも、まあ仕方ないのかもしれない。

 

 でも一つだけ言わせてほしい。

 ……それ今する必要あった?

 

「よかったな」

 

 俺はそんな思いをぐっと封じ込め、レイに無理やり作った笑顔を向け、頭をなでるしぐさをしてみせる。

 多分口元はひきつっているような気がする。

 

 いや、だってここまで頑張って作ってきたんだから、それなりにショックは受けるわけですよ。

 

 レイはお玉の上にふたを乗せながらも、しょんぼりとした様子を見せていた。

 あれ? 反省してる? 遊びたいのか反省したいのか、どっちなのかよく分からんぞ。

 

 まあでも鍋の中に消えていった調味料は別に特段おかしなものではない。

 塩に醤油、それとお酢と七味だ。

 

 カレーの味にかき消されるような気がしなくもないが、問題はその入ってしまった量。

 半分はまずいんじゃないかなあ……。

 

 とりあえず俺は残りのルーをつっこんで無心で鍋の中をかき混ぜる。

 お玉はとられているから菜箸で必死にかき混ぜる。

 混ざってるのかどうかは怪しい。

 

「味見してみるか……」

 

 正直このカレーを口に入れるのは怖いものがあった。

 見た目は完全にカレーで匂いもカレーの匂いしかしないが、この中には大量の調味料が入っている。

 

 塩、しょうゆはまだありだと思う。まあ七味も辛さを強めるにはありかなって気もしなくもない。

 

 カレーにお酢ってなかなか聞いたことが無いんだけど?

 まあカレーに合わないものはないっていうし、とりあえず一口食べてみよう。

 

 俺はスプーンを手に持ち、心なしか震えている手を抑えながら、鍋にスプーンを突っ込む。

 そしてルーを一掬いしてそのまま口の中に放り込む。

 こういうのは勢いが大事だからね。

 

「……ごほっごほっ」

 

 なんだこれ! しょっぱからすっぱい!!

 しかもなんかカレーの味薄くない? 酢を入れちゃって味が薄まってしまったのか?

 なんかもう舌にあるあらゆる味覚が刺激されていて、頭がショートしそうになる。

 

 ……いやでもまだ時間はある。

 

 煮込んで調味料成分を飛ばせば、そんなことが可能であれば何とかなるのではないだろうか。

 いや逆にいろんな調味料を入れて味を緩和するというのはどうだ?

 

 やりようはまだあるのかもしれない。ここであきらめのはまだ早い。

 俺は大量の水を飲みながら、このカレーを何とか食べられるようにしようと固く決意するのだった。

 

 

 



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78話 休日だろうが後輩の頭はぶっ飛んでいますが、平常運転です

 テーブルに並びますはハンバーグにお好み焼き、そして軟骨のから揚げ。

 まあみんな酒を飲むわけでもないし、つまみ的なものは用意しなくても問題ないだろう。

 

 カレー? あれは冷蔵庫の中に固く封印を施した。

 ……いや言い訳をさせてほしい。

 

 悲劇的な調味料の後、何とか味を中和させようと頑張ってはみた。

 家にある調味料のすべてを掛け合わせてみたが、どうにも本来のカレーの味に戻ることはなかった。

 

 最後に味見したカレーのような何かの味はいまだに口の中に残っているような気がする。

 来るのがあの二人とはいえ、さすがにそんなものを出すわけにはいかない。

 俺にだってそれくらいの良識は残されている。 

 

 よってカレーを出すということは諦めたわけだが、かといってまた一から何かを作るというのはめんどくさすぎた。

 

 そこでコンビニの出番ですよ。

 いや、ほんとにコンビニは優秀。歩いていける距離にあってよかった。

 

 レンジでチンするだけで美味しそうな料理がいっぱい完成するんだもん。

 一回自分で作ったからこそ分かるコンビニ飯の偉大さってやつだね。

 

 レイにすべて平らげられそうになるという事態は発生しそうになったが、何とか回避して今は別の部屋に移動してもらっている。

 まあ後輩と先輩にレイが見えるとは思えないけど、念のため。

 

 宙に浮いてどこかに消えていくハンバーグとか見られても、うまく言い訳できる気がしない。

 そんな事態が起こるのであれば、事前にレイに別の部屋で待機してもらっている方が安全だ。

 

 

ピンポーン。

 

 

 目の前の完璧な料理を見て感慨深く考えていると、ふいにチャイムが鳴る。

 まさか俺の家のチャイムが使われる日が来るなんて、思ってもなかったなあ。

 

 いや、実際にはなんかの勧誘とか宅配便のお兄ちゃんが定期的に押してたりはするんだけど、そういう意味ではなくて、こうなんというか、かかわりのある人が家に来るなんてもうないだろうと思っていた。

 

 まあそのかかわりのある人間というのが、後輩と先輩というのが何とも言えないところではあるのだが。

 

「遅いですよ!」

 

 玄関を開けるや否や後輩がむくれた顔で待ち構えている。

 そのすぐ後ろで佇んでいる先輩は苦笑気味に手をあげていた。

 

 遅いって何が?

 ここ俺の家だよね? 遅いとか早いとかあるの?

 そもそも君たちが来る時間帯を見計らって、ちゃんとコンビニ飯を温めていた俺をほめてほしいくらいなんだけど?

 

「じゃ、お邪魔しまーす」

 

「邪魔する」

 

 棒立ちのまま無言の圧を送り続ける俺の隣を通り過ぎて、後輩たちは家の中へと進軍してくる。

 俺まだどうぞって言ってないんだけどね。

 どうしてどんどん奥に行ってしまうんですかね。

 

 家の構造を知る由もない後輩たちは周りを見渡しながら廊下を進み、そのまま左に曲がろうとする。

 

 そっちはだめだ!!

 

 そっちはリビングではなく、いろいろと男の子の秘密を隠している秘密の部屋だ。

 簡単に立ち寄らせるわけにはいかない。

 俺はなお進もうとする後輩の肩を掴み、先輩を押しどけると開かずの扉の前に立ちふさがる。

 

「え、なんですか? 怖いんですけど」

 

「リビングはあちらになります」

 

 俺は真顔で反対側の方向を指さす。

 俺の無言の圧をようやく受け取ってくれたのか、何かを察したのか真っ先に先輩がうんうんと深くうなずいて、体の進行方向を変えてくれた。

 

「えーきになるなあ」

 

 後輩、お前の辞書には妥協、遠慮という言葉がないのか。

 俺が嫌がってるんだから察しろよ。いや、押さないで。

 

 全身を使って俺をどけようとしないで。なんなの、なんでそんなに密着するの。

 俺のこと好きなの?

 

 ごめんね、俺の心は埋まってるんだ。

 だから諦めて?

 

 無言の攻防を後輩と続けていると、突如後輩の肩を後ろから先輩ががしっと掴んだ。

 

「先輩?」

 

 先輩は無言で首を横に振る。

 後輩はそれでようやく諦めてくれたのか俺から離れると、しぶしぶといった様子でリビングの方へと向きを変えた。

 

 なんとか先輩に助けられたけど、先輩の物わかりがよすぎるのもなんか気になるけど、まあここは先輩が大人だったということにしておこう。

 俺はほっと息を吐きながら、二人の後をついていくようにリビングへと向かう。

 

「うわあ、意外と綺麗にしてるんですね」

 

 意外とってなんだよ。意外とって。俺が綺麗好きかもしれないだろ。

 

「すごいカレーの匂いがするな」

 

「そうですね! あれ、でも本体の姿が見えないんですけど」

 

「確かに」

 

 しまった。カレーもどきを隠すことに必死で匂いのことまで気が回らなかった。

 二人とも不思議そうな顔をして、テーブルの上を見渡している。

 

「その、二人は何持ってきたんですか!? お土産?」

 

 俺は咄嗟に二人が持っていた袋を指さす。

 お土産なんてわけわからんこと言ったけど、二人が何を持ってきたのか全く想像もつかない。

 というかここまで持っていることに気づかなかった俺もどうなのか。

 

「ああ、これですか? お酒です」

 

 語尾に音符マークがつきそうなほどにリズミカルにそういった後輩は、袋の中から一本の酎ハイを取り出してにっこりとほほ笑んだ。

 

 

 え? 俺たち酒飲めないって話してたよね?

 ……何してんの?

 



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79話 魔の扉が開かれしとき、かの後輩は千里眼を獲得せんし者とならん。……なにいってんの?

「え、いやーさすがに手ぶらだと悪いかなって思ってコンビニに寄ったんですけど」

 

 後輩に手に持ったビニール袋をぶらぶらさせながら、悪びれる様子もなく供述を始める。

 そもそも手ぶらじゃまずいと思って、コンビニに行く理由がよく分かんないんだけど?

 

 コンビニでもさすがに手土産に最適な菓子折りとかは売ってないでしょ?

 え、売ってるの? 最近のコンビニってそんなものまで完備してるの?どうなの?

 

「いや私も悪いんだ。ついちょっと気になる味のお酒があったから、それを手に取ってしまってだな……」

 

 先輩も後輩に併せるように自供し始める。

 先輩気になるお酒って、お酒飲まないんじゃなかったっけ?

 

 そもそもお酒飲まない集団の会合だから、今日俺の家の集合的なノリになったんじゃなかったっけ?

 

「いやー、それを私が見てしまって、私もなんか今日は飲める気がする―!! ってなっちゃいまして」

 

 なっちゃいまして。じゃあないんですよ。

 確かに気持ちはわかる。

 

 酒にめっぽう弱い俺だが、半年に一回くらいのペースで「あれ、今日俺酒に強いんじゃね?」 みたいな謎気分になって、酒缶を購入してみることはある。

 

 まあ大体一本消費する前に酔いつぶれるんですけど。

 気分だけが強くなったところで、体が急に酒に強くなるわけがないんだよな。

 

「私もそんな後輩のことを見てたら、行けるんじゃないかと思ってだな……」

 

 後輩に続けて自供を続ける先輩。

 まあその気分はわかる。理解できる。

 

 でもその量は何さ?二人して両手でビニール袋を持たなきゃ持ちきれないくらいの量の酒を買ってきてるわけでしょ?

 

 本当に飲むんだよね? 余ってもだれも処理できる人いないからね?

 そもそも後輩は店内で「今日は飲める気がするー!」って叫んでたわけ?

 

 もしかして俺がよくいくコンビニでやったわけじゃないよね?

 もしそうだとしたらもうなんか恥ずかしくなって俺あそこいけなくなっちゃうんですけど。

 

「それで、レジを通して店を出たときには気づいたらこんなことに……」

 

「そういうことだ」

 

 最後だけ申し訳なさそうに語尾を濁らせ自供を終える後輩。

 それとは真逆に先輩はなぜか誇らしげに胸を張って、ビニール袋を後輩に渡していた。

 いや、さすがに後輩も20缶くらいを両手で持つのは厳しいと思うんだけど……。

 

「ま、まあ細かいことは気にせず今日はパーッと行こうじゃないか!」

 

「そうですよ! 気にしたら負けなんです! そこで試合終了なんです!」

 

 先輩、それどちらかというと、俺のセリフだと思うんですよ。まあ俺そんなこと言うつもりもなかったですけど。

 後輩もそれに便乗しないでもらえます?

 

 試合始まる前に負確みたいなもんだからね?

 そもそも始まってもないし、何との勝負なの? 自分の肝臓と酒のキャットファイト?

 うん、勝てる気がしねえわ。

 

「そういうわけで先輩、冷蔵庫お借りしますね!」

 

 もう……なんか……どうでもいいわ。好きにしてください。

 なんか俺の家のはずなのに、既に主導権は後輩にわたっているような気がする。

 

 それどころか家主のように手慣れた手つきで冷蔵庫を開ける。

 ……ん? 冷蔵庫?

 

「あ、ちょっとま!」

 

「……先輩、これなんですか?」

 

 冷蔵庫の中には無理やり詰め込んだカレーもどきが存在している。

 そんなことは後輩たちが持ってきた酒の量ですっかりと忘れてしまっていた。

 

 そしてその結果、今冷蔵庫の扉は開け放たれ、中に封印していた例の物が姿を現していた。

 

「もしかしてこれ九条が作ったカレーか?」

 

「匂いの正体はこれですか!」

 

 いや、それはカレーというかなんというか……。カレールーをぶち込んだ酢の物といいますか、人様に出せるものではないんですよ。

 わかったら早く冷蔵庫を閉めてくれないですかね?

 

「美味しそうなハンバーグがあるよ!」

 

「でもそれ、コンビニで売ってるやつですよね? さっき寄ったコンビニの冷凍コーナーで見ました」

 

「確かに言われてみれば……」

 

 なんでそういうときだけ勘が鋭いのかな! この後輩は!

 そして先輩も便乗しないで! そこはいつもの大人らしくスルーしてくれると助かるんですけど!

 

 何かを察したのか後輩は冷蔵庫に手をかけたままにやにやとした表情で、こちらを見つめてくる。

 

「先輩が作ったカレー、私食べてみたいなあ?」

 

「そうだな。せっかく作ってくれたんだし、食べてみたいもんだな」

 

「いや、本当に……その……」

 

「まさかカレーを失敗するなんてことないですもんね!?」

 

「まあ多少失敗していたとしてもそこまでひどい味にはならないだろ」

 

 後輩のあおりは普通に腹が立つし、先輩のフォローも逆にいらっとしてしまう。

 というかこの状況から何か逃げ出す手段はないのだろうか。

 

 そういえば俺ご飯炊いてなくね?

 そうじゃん。ご飯が無ければカレーライスにならないじゃん。

 カレーだけ食べてもしょうがないよね。

 

「ご飯がない」

 

「そういうと思って! 買ってきました。レトルトごはん! なんとチンするだけ簡単にホカホカご飯が食べれちゃう!」

 

 わーお便利! じゃなくて! なんでそんなものを買ってきてるわけ?

 どうして俺がご飯炊き忘れることを見越してんの? エスパーなの?

 

 千里眼でも持ってるの? いや、持ってたとしても俺の家を監視しないでほしいんだけど。

 いやそもそも持ってたらこんなとこにいねえわ。

 

 もっとなんか国のすごいところとかで頑張ってそう。なんか別の話はじまりそう。

 いや後輩が千里眼持ってようが、持ってなかろうがそんなことはどうでもいいんです。

 

 動揺しすぎてわけわかんないこと考えちゃってるわ。

 

「先輩はそこそこできる人ですからねえ。どこか抜けてるところがあるというかなんというか……」

 

「そうだな。読みが当たって正解だったな」

 

 その読みのせいで、あなたたちは黄泉の世界に送られるかもしれないんですよ?

 カレー神にそれはもうこてんぱんの、ぼこすこに怒られると思うんですよ。

 だからやめといた方がいいと思うんですけど……。

 

「なんなら私温めましょうか? ていうかこの鍋が邪魔でお酒はいらないので、むしろ温めてもいいですか?」

 

「無言は肯定の意になってしまうぞ。昔からのルールだ」

 

 そんなルール聞いたことないけど、もうなんかどうでもいいや。

 

 二人が食べたいって言ってるからね。別に俺が好き好んでふるまうわけじゃないからね。

 俺は悪くないからね? ここ大事。

 もう勝手にしてくださいって感じですよ。

 

「よし! じゃあパーティを始めましょう!」

 

「楽しみだな!」

 

 後輩は冷蔵庫から鍋を取りだすと楽しそうに振り回している。

 いや、こぼれそうだから正直やめてほしいんですけど。

 

 それにパーティって今日そんな陽気な集まりだったけ?

 なんかもうちょいシリアス的な感じのノリかと思ったのに、めちゃくちゃウェイウェイなノリじゃん。

 いやまあ後輩にシリアスを求めたこと自体が間違っているんだろうけどさ。

 

 いや、あんたたち本当に何をしにきたの?

 



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80話 社食並みに美味しいは誉め言葉ではなく、侮辱だと思ってる。傷つくよ?

 テーブルに並んでいた完璧な料理、通称コンビニ飯は脇に寄せられど真ん中にはカレーもどきが位置している。

 もう何を言っても無駄、この人たちの押しには勝てないと悟った俺はカレーを温める機械と化し、そして思考放棄したままそれをテーブルに置いた。

 

「なんか……酸っぱい匂いしません? 気のせいですかね?」

 

「そうか? 私はあまり感じないが……」

 

「え、私だけ!? もしかして妊娠してる?!」

 

 大げさに片手で口を押えながら自らのお腹をさすり始める後輩。

 いや、先輩。疑うような目でこちらを見ないでいただけますか。そんなことあるわけないでしょう。

 後輩の妄想ですよ妄想。あるとしても想像妊娠でしょ。

 

 それにどちらかといえばこの酸っぱい匂いが感じ取ることができない先輩のほうがやばいと思いますよ?

 

 俺はなるべく息を止めながらカレーのような何かをそれぞれの皿に入れていく。

 他の二人に食べさせるのだから、俺だけ食べないというのはどこか礼儀が鳴ってないような気がするので、一応俺の皿にも入れる。

 まあ二人よりも圧倒的に量は少ないが。

 

「どうぞ召し上がれ」

 

 俺は失敗していることを思わせないようになるべく満面の笑みを顔に貼り付けて、二人に提供する。

 

「わーい。いただきまーす!」

 

 後輩は特に疑う様子もなく、ご飯と一緒に大量のカレールーをすくうとそのまま口の中に入れた。

 いや俺があれだけ渋ってたんだから、もうちょっと疑った方がいいと思うんだけど?

 

「うっ!!」

 

 狭い部屋に後輩のうめき声が響く。

 俺は警告したからね? 食べない方がいいよって言ったよね? あれ、言ったっけ?

 言ってないとしてもそんな雰囲気は醸し出していたからね。

 

 先輩も大口を開けたまま後輩の方を凝視している。

 そうだよね。突然自分が今から食べようとしている物と同じものを食べた人が、うめきだしたら警戒するよね。

 

「大丈夫か?」

 

 一応声をかけてみるが、後輩は目を見開いたまま口をもぐもぐと動かしている。

 別に無理して食べなくてもいいから。吐き出した方がいいんじゃない?

 

「……美味しいですねこれ! なんか今まで食べたことない感じの味がします」

 

 ……うそぉ。

 

 口の中のものを飲み込んだ後輩の第一声がそれだった。

 ……大丈夫? この子の舌。やっぱりバグってるよね。

 

 それとも食堂のご飯で鍛えられすぎて、これぐらいなら余裕とか?

 後輩の感想を聞いて安心したのか先輩もほっとしたような表情を浮かべて、スプーンに乗っていたカレーを口の中に運ぶ。

 

 先輩の感想を待つかのように、部屋の中が一瞬の沈黙に包まれる。

 

 しかし先輩は俺たちの注目に構っている暇はなかったようで、軽く咳き込むと近くにあった酎ハイの缶を開け、そのまま口の中に流し込み始めた。

 うん、そうだよ。それが正常な反応だよ。

 

「……はあ、はあ。な、なんというか……すべての味覚を刺激するような味をしているな。……うん、実に芸術的な作品だと思う」

 

 そういい終えると、再び缶を煽る先輩。

 いや無理して褒めようとしなくてもいいんですけど。ていうか褒められてる?

 

 別に俺どこぞの食堂みたいに料理に個性的で芸術的感性は求めてないんですけど。

 あれ、あんまりうれしくないぞ。

 

「なんか私これどこかで食べたことある気がするんですよねえ。どこだったっけなあ……」

 

 後輩はカレーをパクパクと口に運びながら、首をかしげていた。

 こんなカレーを売っている店はもうすでにつぶれてるんじゃないかな。

 こんなものが売れるはずがない。

 

 そして後輩よ。なぜ当たり前のようにそんなに食べられるんだ。

 見てみろよ先輩の顔を。この世のものとは思えないものを見ているかのような顔でお前のこと凝視してるぞ。

 多分俺も似たような顔してるんだろうけど。

 

「思い出しました! 会社の社食で食べたことある味です! すっきりしたー!」

 

 おい、それは褒め言葉じゃないぞ。

 料理人に対する最大限の侮辱といってもいいかもしれない部類に入るぞ。

 全然嬉しくない。

 

 いや俺は料理人でもないけど、なんで少し傷つくんだろう。

 後輩はすっきりしたのかもしれないけど、俺はまったくすっきりしない。

 

 心がもやもやだよ。

 もう霧がかかりすぎて目の前がにじんできたよ。泣いてなんかないからね。

 

 後輩はニコニコしながら、酒を飲みそしてカレーを食らう。

 先輩もそんな後輩を見ていてお残しはよくないと思ったのか、涙目になりながらカレーを食べ、そして酒でそれを流し込んでいた。

 

 そうだよな。こんなの吞まなきゃやってられないよな。

 俺も端に追いやられたハンバーグをつまみに、ちびちびと缶酎ハイを飲む。

 味はうまいがやっぱりこのアルコール感が苦手なんだよな。

 普通のレモンジュースが飲みたい。

 

 なんか先輩が俺のことを睨んできているような気がするが、そんなことは気にしない。

 別に俺は食べろって言ってないからね?

 

 先輩が体裁を気にして食べてくれているだけだから、それは個人の自由だ。

 俺はこのカレーは今日はチャレンジする元気がないから、美味しさが約束されているハンバーグを食らうのだよ。

 

「ところで後輩よ。結局今日なんで家に来たんだっけ? なんか相談があったんじゃなかったっけ?」

 

「そうでした!」

 

 パンと勢いよく手を叩く後輩。スプーンはすでにカレーが入っていた器の上に置かれていて、その中身は空になっていた。

 

 よく全部食べたね。すごいよ、もはや尊敬する。そのバカ舌に。

 ていうかそうでした。ってもしかして忘れてたの? 今日のメインイベントでしょ。

 このままだとただ俺の家にただ飯食いに来た人みたいになっちゃうよ。

 

「でももう答えは出たようなものなんですけどね」

 

「というと?」

 

 先輩も後輩の意味不明な発言についていけなくなったのか、首をかしげながら問い返す。

 

 それより先輩。もう一缶空いてますけど、ペース早くないです?

 顔色が一切変わってないのが、余計に怖いんですけど。

 

「いやあ、ずっと気になってたんですよね! 男の一人暮らしってどんな感じなのかなって。つまりはそういうことです!」

 

 手を高く振り上げそう宣言しながら、もう片方の手で缶を傾ける後輩。

 その表情は実に清々しいものだった。

 

 

 ……いや、どういうこと?



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81話 混沌はさらなる混沌を生み、それはやがて壮大な混沌へとつながるのだ。

あまりにもあまりにもなんで一言だけ言わせてください。
『覚悟』してお読みください。


「ちょっと先輩。失礼しますね」

 

「あ、ああ」

 

 とりあえず俺は後輩の対面に座っていた位置から移動して、後輩と先輩の間に入るように奴の隣へと移動する。

 

「な、何ですか先輩。なんだか目が怖いですよ? え、私襲われちゃいます? だめですよ! 先輩が見てるじゃないですか! 公然わいせつ罪で訴えられて、多額の賠償金を払わなきゃいけなくなりますよ! 先輩が借金まみれになっても私は支えることができません! なぜなら私にお金がないから! それに」

 

建持望(たてもちのぞみ)

 

「うえ? は、はい?」

 

 まくしたてるようにわけのわからないことを言っていた後輩だが、俺の一言でうろたえるように目をきょろきょろさせて、黙り込んだ。

 

「しばいていいよね?」

「いいと思う」

 

 よし、先輩の許可が出たぞ。覚悟しろー。最高何連続たたけるか。

 後輩の頭でモグラたたき合戦だー!!

 

「わーー!! 待ってください! ステイ! シャラップ! シットダウン! 冗談です。冗談ですってばあ!!」

 

 さすがに本気で身の危険を感じたのか、後輩は自分の頭やら体やらを腕で隠しながら俺から遠ざかり、必死の弁解をしてみせる。

 

 そうだよな。冗談だよな。まさかそんなしょうもない理由で、俺の貴重な休日をつぶしたわけもないよな。

 もっと深刻な相談で俺の家に来たんだよな? そうだよね? そうだといえ。

 

 いや、危ない所だった。つい暴力事件に発展するところだった。

 自宅で暴力事件勃発なんて冗談じゃないからな。

 俺の方が勘弁してほしい。

 

 あと先輩。私はわかってたぞみたいな顔して頷きながら酒飲むのやめてくれます?

 というかそろそろ缶を手から離してください? 異常なペースで飲んでますよね。

 俺介抱しませんからね。

 

「うー、初めて名前を呼んでくれたと思ったら、この仕打ち。ひどいですよ」

 

 後輩は泣いているようなしぐさを見せるが、あまりにもわざとらしすぎる。

 そもそもそんな理由であれば家に来る必要がないだろ。

 

 なにが一人暮らしの男の部屋が気になるだ。

 多分後輩が社内でそんなことをのたまえば、一瞬で彼女の本性を知らない男たちがホイホイ寄ってくるだろう。

 

 だから対象が俺である必要はない。俺である意味がない。

 後輩見た目だけはいいからな。

 しゃべらなければ愛想いい子ちゃんの可愛い系美人だからな。

 

「無言の圧力をかけてくるのやめてくれます?」

 

 別に圧力なんてかけてないよ? 俺はちゃんと目と目を見て話すのが大事だと思っているから、後輩とこうして向き合って顔をちゃんと見てお話をしているだけ。

 

 先輩の方見ても、もうこの人ただののんべいと化してるし。

 顔色が変わらない余計に怖い。どこが限界なのか、見た目だけだったら全然余裕そうなんだよ。

 ほんとリバースだけは勘弁してください。

 

「そもそも先輩。勘違いしないでほしいんですけど、私は先輩だからこうしてほいほい家まで来てるんですからね。成り行きとして酔っぱらい先輩も一緒についてきましたけど、私は一人でも多分先輩の家に来てましたよ」

 

 突然後輩は片手に缶を持ったまま説教するようにたらたらと言葉を羅列し始める。

 若干舌が回ってないような気もするけど……もしかして酔ってる?

 

「先輩。聞いてますか!?」

 

「聞いてます!」

 

 あ、先輩。多分今のは先輩じゃなくて俺に対して言ってるんだと思います。

 だからわざわざ手をあげて存在を主張しなくても大丈夫ですよ。

 黙って飲むか食べるかしててください。

 

「このカレーはまずいって話だよな!」

 

 まずいって言っちゃった!

 どさくさに紛れてこの先輩思いっきり本音口に出しちゃったよ。

 いや先輩も酔ってるじゃん。ゆらゆら揺れてる場合じゃないのよ。

 

「うちの会社に独身貴族の一人暮らし男性なんてたくさんいるわけですよ。でもですよ! 考えてみてください。こんな容姿完璧愛想もいい美人が『おうちに行きたいなあ』なんて言ったら、世の一般男性はなんて思うと思います? はい、先輩回答をどうぞ!」

 

「かれーらいす!」

 

「そうれす! 『お、ワンちゃんあるんじゃね?』て思われるんれすよ! ねえよ! そんなつもりで声かけないし、そもそも会社の人に気軽に『おうち行きたいなあ』なんて言えるわけないんですよ! だから先輩は貴重なんです! 気軽に突撃隣の晩御飯できる貴重な人材なんです! わかります?」

 

「こんなカレーが作れる君は逆に天才だ! わが社に必要な存在なのら!」

 

 誰か助けて。前も後ろもうるさい。もう何言ってんのかわかんない

 考えられないし、考えたくない。

 

 なんで俺を挟んで成り立ってない会話を繰り広げるの。

 後輩の目がどんどん座ってきてるんだけど。

 先輩の方は最早見るのが怖い。

 

 しかも俺も一口しか飲んでない酒がまわり始めてなんかすげえぐらぐらする。

 これ、後輩が揺れてんの? それとも俺の視界が揺れてんの?

 

 というかですね。好き勝手言ってくれてますけどね。俺も男なわけよ?

 見た目はいい後輩がもし本当に一人で、しかも酒が入った状態で家にいたらどうなるかなんてわからなくない?

 

 一つ屋根の下に男と女。二人とも酔っ払い。いい歳した男女が放置されたら、後はどうなるかわかるよね? 想像つくよね? 

 

 ……想像……あれ? 全然そんなことになってる想像ができない。

 

「俺も男だからな。バーストするかもしれないじゃん」

 

「しないですよ。何言ってるんですか」

 

 いやお前が俺の何を知ってるんだよ。

 急に冷静になられるとこっちが困るんだけど。

 

 俺がすごい恥ずかしいこと言ってるみたいじゃん。

 あれ、もしかしなくても俺本当に今恥ずかしいこと言ってる?

 

「ぬ、重」

 

 突然背中にのしかかってくる重厚感。

 レイが背中に乗ってくるときには感じない柔らかい何かやその数倍の重さが俺の背中を襲う。

 

「先輩! 失礼れすよ! 先輩も乙女なんだから重たいとか言わないでください!」

 

 いや重いものは重いんだもん。しょうがないじゃん。俺素直なんだからさ。

 後輩の言い分を察するに酒に負けた先輩が俺の背中に倒れてきたのだろう。

 

 なんだろう。普通なら興奮するようなシチュエーションなのに、どうして何も感じないんだろう。

 あれ、俺大丈夫?

 

「うっ……」

 

「あ、先輩が吐きそう!」

 

 それは待て! やめろ!!

 

 俺は後輩が指を指している方向を見ることなく、先輩を押しのけ近くのビニール袋とガムテープを手に持つと先輩の顔面にビニール袋を押し付ける。

 そしてそのまま先輩のぷにぷにとした頬にガムテープを張り付けた。

 

「間に合った!!」

 

「先輩、もう少し優しく介抱して!! そんなリバースの処理の仕方見たことありませんよ!!」

 

「さとるうるさい!!」

 

 扉を大きく開け放ち叫んだレイの声と先輩のリバース音はほとんど同時に、部屋の中に響き渡った。

 

 あー。もうカオスだよ。




これに懲りず続きも読んでいただけると泣いて喜びます。
ちなみに遠くない未来に同じようなカオスが待っています(反省してない模様)


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82話 人生観を語ってもすべてお酒のせいにしてしまえばいい。

「せんぱーい。さむいんれすけろーー」

 

「おう。そうだな」

 

 そりゃ寒いだろうさ。

 なぜなら俺の膝の上で、レイが今お前のことをがん見してるんだから。

 

 睨んでないだけまだましだと思いなさいよ。

 俺だって寒いんだから、我慢してるんだから。

 

「せんぱーい。なんれすかその手の動きはー。きもちわるいれすよー」

 

「おう。そうだな」

 

 気持ち悪いってなんだ。

 俺はただ膝の上にいるレイの機嫌を取るために、頭を撫でているだけだよ。

 

 いつも通り感覚が分からないから、撫でられているのかどうかすらわからない。

 せめて俺の頭が彼女の頭にめり込まないように注意を払うのに必死なんだよ。

 

 だから話しかけるな。

 

 そして後輩。君は先輩の家に来ているというのにだらしない姿を見せるんじゃない。

 机に埋もれるのは勝手だが、せめて前を隠せ。その豊満な二つの肉まんが俺の視界に映りこむんだよ。

 

 だからレイににらまれるんだよ? もし先輩が起きてたらダブルパンチだからね。

 

 

 あのしっちゃかめっちゃかな状況から打って変わって、今部屋の中は非常に落ち着いている。

 というのも、騒ぎの現況を引き起こした先輩はリバースするだけして、そのままダウン状態。

 

 まあやはりというか、予想通り突然部屋に入ってきたレイの姿や声は二人には見えていないようだった。

 

 二人とも酔っぱらってるし、レイもなんか不機嫌だし俺はレイがこの部屋にいても問題ないと判断した。

 

 そしてレイは俺のもとに来て膝の上で落ち着いている。

 冷気だけがこの部屋に充満しているが、逆にその効果で後輩と俺が若干冷静さを取り戻す。

 

 そんな奇跡的な偶然が重なり、今我々は黄昏気分でお酒をたしなんでいる。

 正直もうレモンサワーじゃなくてコーラとか飲みたい。

 この子たちほんと頭回ってなかったのか、一切通常の飲み物を買ってきてないの。

 

 見事に酒・酒・酒。

 

 こういう時に限って、俺も普通のお茶とか買ってないんだよね。

 そもそも人呼ぶんだからお茶くらい用意しとけよって、さっき冷蔵庫見たときに自分で自分に突っ込んだよ。

 

「先輩。聞いてもいいですか?」

 

 酔いがさめてきたのかろれつが正常に戻りつつある後輩が、座り直しながらこちらに尋ねてくる。

 

 もう俺は騙されない。こいつが真面目モードを装ったとしても、それは偽りの姿。

 どうせしょうもないことしか言わないんだろ。

 俺はわかってるんだよ。

 

「私……結婚できると思います?」

 

 おっと、結構真面目なトーンでなかなかな話題を突っ込んでくるじゃあないですか。

 言っときますけど、俺だって酔ってますからね?

 

「俺に聞いてどうするんだよ」

 

「いやー、先輩ならズバッといってくれるかなあと思って。へへへ、すいません」

 

 後輩は特にそれ以上追及してくることもなく、にへらと笑いながら机に顔を置いたまま缶を傾ける。

 

「たまーに思いません?」

 

 しばらくの沈黙の後、後輩はぽつぽつとまるで独り言のように手に持っている缶を眺めながら語り始める。

 

「このままこんな感じで何もないまま一生を過ごして、特に何もなく死んでいくのかなーって考えません?」

 

 突然人の家で病みモードに入らないでもらわないでほしいんだけど。

 いや考えるか考えないかで言われたら、確かに考えることもあるけども。

 

「学生のころは漠然と、普通に仕事して結婚して子供産むんだろうなあって思ってましたけど、それって全然普通じゃないんですよね。すごいことですよね、その普通ができる人って」

 

 口調こそ暗くなく、まるで愚痴を言うかのような軽いノリでしゃべっているがその内容はまあまあ重い。

 気軽に返事ができるような内容ではなかった。

 

「私のお母さんが、今の私くらいの歳で結婚して、先輩の歳になるともう私を産んでいるわけですよ。それが普通だと思っていましたけど、いざ自分がその歳になってみたらお母さんすごいなあって思うわけですよ」

 

 まあ確かに子供のころは普通に親と同じように働いて、結婚して子供と戯れてって考えてたよなあ。

 

 何なんだろうね。あの子供時代の謎の自信は。

 相手がいなけりゃ子供どころか結婚もできないのにね。

 

「わたしこのままなーんもないまま死んでいくだけなのかなあ……」

 

 そんなしみじみと言われても困るけど。

 

「先輩! そこんとこどうお考えですか!」

 

 自分が暗い話をしていると気づいたのか、最後だけやけに明るくまるでマイクを持っているような手で、俺の方に体を向ける。

 

「まあ……そこに存在しているだけで、誰かに自分がいるって認識してもらえてるだけで、万々歳なんじゃないの」

 

「……はい?」

 

 一瞬俺の言ったことを理解しようとしてくれたのか顔をあげて考えるそぶりを見せた後輩だったが、やはり理解できなかったのか俺に尋ね返してくる。

 いや、俺も考えるわけですよ。

 

 今日も何もなかった。明日も何もないのかな。このまま何もないまんま堕落した日々を過ごしていくのかなって。

 

 堕落ってのは言い過ぎかもしれないけど、まあそんな感じのことを考えることは半年に一回くらいある。

 でもそのたびに俺は無理やりにでも思うことにしている。

 

「今日を生きて終わったんだから、とりあえず万々歳でしょ」

 

 何も事件に巻き込まれず、生命の危険を脅かされることもなく、平和に今日を生きれた。

 それだけで十分じゃない?

 

「明日のことは明日の俺が何とかするし、未来のことは今日の俺が考えたってどうしようもないから、未来の俺に任せるしかない。とりあえずなるようになって今日まで生きてんだから、明日もなんとかしてくれるでしょ。明日の俺が」

 

 そう思えば気持ちが楽になるし、考えたって仕方がないって気がしてくる。

 まあ逃げてるって言われればそれまでだけど、逃げ上等。

 

 逃げようが何しようが日付は変わって、明日の俺が今日の俺になるわけだ。

 どうせ逃げようがないんだから、その日くらい気楽に考えたって誰にも怒られない。

 今日生きてれば大成功って考えは昔から持っていたけれど、その考えはレイと出会ってからちょっとだけ変わった。

 

 レイと初めて出会ったときこそ彼女は怯えていたけれど、今はこんなにも懐いてくれている。

 

 俺もレイの存在を認めて、レイも俺のことを認めてくれている。

 

 そんな謎の信頼感すら覚える。

 そんな自分の存在を認めてくれる相手がいるってことが重要なんだと最近思うようになってきた。

 

 どんなに小さな関係でも、自分のことを誰かが知ってくれてさえいれば何があっても生きていけるんじゃないかな。多分。

 

「先輩。たまにそういういい事風なこと言いますよね」

 

「何が?」

 

「……何でもないです! 先輩に相談してよかったです! トイレ借ります!」

 

「いっといれ」

 

「面白くないですよ」

 知ってるわ。

 

 後輩はその場にいるのが気恥ずかしくなったのか、はにかみながら立ち上がると部屋から出て行った。

 

 俺もなんか自分が恥ずかしいこと言っているような気がして、へんな古風なダジャレをぶっこんでしまった。

 レイもその空気に感化されたのか、うつむいて何か考え事をしているようだった。

 

 

 ……俺も結構酔ってるのかも。

 



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83話 完全に先輩は酔っぱらっている。

 それにしても今日はレイのやつやけに静かだな。

 いや部屋に突撃してきたときこそ、今まで聞いたことないくらいの大音量で声をあげてたわけだけど、今は置物のようにおとなしく俺の膝の上に座っている。

 

 結構レイも気まぐれだからな。

 俺が頭をなでるそぶりを見せて、嫌な時ははっきりと拒否反応を示してくるわけだし。

 今日はそんなこともないから別に嫌がってるってわけでもないと思うんだけど。

 

 まあ一番うるさかった後輩がリビングを出ていき、今この部屋にいるのは爆睡中の先輩と、静かなレイと、彼女の頭をなでる俺。

 

 うるさくなりようがないんだよな。

 俺が一人でぺらぺらとしゃべるわけでもないし。

 

「九条……」

 

 そんなことを考えていたら、どこからともなく声が聞こえてくる。

 一瞬寝言かと思ったけど、そんなことはなかったようで先輩が目をこすりながらもそもそと起き上がっていた。

 

 いやまあ寝言で俺の名前呼ばれても困るんですけど。

 夢の中で何されてるか不安になって、俺の方が眠れなくなるんですけど。

 

「九条……」

 

 はい、九条ですがなにか?

 名前を呼びながらこっちを睨みつけないでほしいんですけど。

 

 いや別に睨んでるわけじゃなくて、視界がぼやけて見えづらいだけなのかもしれないけど、それでも見られてるこっちは気が気じゃないから。

 

「うわ、何の音だ?」

 

 あ、ほら。レイが怖がって、リビングから飛び出していってしまったじゃないですか。

 

 先輩からしたらテーブルの上の物が勝手に動き出したように見えてるのかもしれないけど、俺の目にはしっかりとテーブルの上を走り去るレイの姿が映っていた。

 

 しかしそれが功を奏したのか先輩は目が覚めたご様子。

 にもかかわらずいまだに俺の顔の方をじっと見てくる。

 

 俺何かした? え、何もしてないよね。

 ちょっとお口に合わないカレーを提供しただけだよね。

 

「えっと……いい天気ですね?」

 

「カーテンに隠れていて、外は見えないけどな」

 

 ええ、おっしゃる通りで。

 いやこの状況で他に何を言えと?

 

「建持はどうした」

 

「トイレに行きました」

 

「そうか……」

 

 先輩は何かを考えているのかしきりに周りを見渡しながら、首をかしげている。

 いやもしかして先輩もなんか病みルートに突入するわけじゃないですよね?

 最近先輩わりかしまともだから、信用してるんですからね。

 

「それにしても、うまく隠したな」

 

 先輩は生暖かい目をしながら俺にほほえみを向けてくる。

 なんでだろう。言っている意味が全く分からないのに、憐みの目を向けられているような気分になるのはどうしてだろう。

 

「ほら、この間休日に会っただろう?」

 

 ……おう。

 ここでその話題を出してくるのか。

 

 以前俺はデパートでレイの服を買うときに、やむを得ない事情があり女装をしている。

 その女装をしている知り合いには一番見られてはいけない最悪のタイミングで、先輩と鉢合わせている。

 

 やけに突っ込んでこないなと思ったら今このタイミングで放り込んでくるのかー。

 いや確かに後輩も戻ってこないし、周りには俺と先輩以外誰もいないから配慮してくれてるといえば、してくれてるんだろうけど。

 てっきりもう蒸し返してこないものだと思っていた……。

 

「いや、私は別にいいと思うんだ。どんな趣味があってもいいと思うし、それは個人の自由だ。私が口出しする筋合いはないと思う。それは当然だ」

 

 いや別にいいんですよ? 否定しても。

 だって俺にそんな趣味趣向はないんだから。

 

 むしろ全力で否定してくれた方が、俺もそんな趣味はありませんでしたーっていう話に持って行きやすいんだけど。

 

「ただ一つどうしても忘れられないことがあってだな……」

 

 まあそうでしょうね。

 あんな恰好した職場の後輩に出会ってしまったらそれはもう忘れられない一日になるでしょうね。

 

「わかります」

 

「そうか、分かってくれるか! そうだよな! 君自身も気づいていたんだな!」

 

 俺の返事をどういう意味で受け取ったのか急に先輩のテンションが高くなり、俺の方へと顔を近づけてくる。

 

 だからみんな無防備なんだよ。

 気軽に四つん這いとか前かがみとかならない方がいいと思うの。

 視線を逸らさなきゃいけない俺の気持ちも、ちょっとは考えてくれるとありがたいんですけど。

 

「あれはさすがにないよな。ださすぎる!」

 

 ……もう隠そうともしないんだね。

 ああ、もしかして俺が自分の服のセンスの無さを自覚している返事だと思ったの?

 それでオブラートのかけらもなくして、ドストレートに直球ぶち込んできたんですね。

 

 いや、そりゃ俺だってあの時の女装の格好がダサすぎることくらい自覚はしてるし、普段あんな恰好しないよ!?

 なに、先輩の中で俺って圧倒的ファッションセンスがないのに、女装しているイタい奴みたいになってる?

 

「そこで私は考えたんだ」

 

 ああ、もう嫌な予感しかしない。

 だって先輩の目がきらきらしてんだもん。めちゃくちゃ考えてるんだもん。

 

 まるでいたずらする前の少年のような純度なんですもん。

 会社でもこんな先輩の姿見たことない。

 

「私は君をコーディネートしようと思う!」

 

 …………。

 うん、そんなびしーってこっちに指さしてきてドヤ顔されても、俺全く理解できてないからね?

 いったい何を言っているのか俺にも分かるように説明してくれないでしょうか。

 

「何ボーっとしてるんだ。さっさと脱げ。そして隠してある服を持ってくるんだ」

 

 なにこれ、俺の貞操の危機!?

 純粋に誰か、ほんとに助けて!

 

 カムバック後輩!!



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84話 そんな不可視の地雷を察知して避けなさいという方が無理な話

「ふふふー、どこにいくんだい?」

 

 キャラ崩壊した先輩が俺のもとに迫ってくる。

 俺の逃げ場は少ない。どれだけ後ずさってももう後ろに迫るのは壁のみ。

 

 先輩は四つん這いのまま俺にどんどんにじり寄ってくる。

 その顔に貼り付けたような笑みに恐怖を覚える。

 

 ……めちゃくちゃめんどくさい酔っ払いじゃんこの人!

 

「待ってください。話せばわかりますって。人間話し合いが必要なんですよ。コミュニケーション取りましょ。コミュニケーション」

 

「ああ、私はぜひとも君を完璧な美少女にしてみせるよ」

 

 会話が成り立たない。コミュニケーション以前の問題だ。

 今の先輩はただただ欲望のままに行動する化身に成り果ててしまっている。

 

 そもそも服を用意する前に俺を脱がすなんて、それはいろいろと順番がおかしくないだろうか。

 

「もう逃げられないねえ?」

 

 先輩の笑みがますます濃くなってくる。

 もうなんかここまで来たらあきらめの境地に立って、どうにでもなれと思わなくもないが、さすがにそういうわけにはいかない。

 

 俺はこんなところで服をひん剥かれるわけにはいかないんだ!

 俺にも守りたいものはある。隠したいことはある!

 

「か、彼氏に知られたら怒られますよ!」

 

「かれ……し……?」

 

 どうやらよく分からないけど効果は抜群だったようだ。

 俺の発言を機に動きを止めた先輩は、まるでロボットのようにぎこちなく首をかしげる。

 

 そして言葉の意味を理解し始めたのかみるみるうちに先輩の表情が真顔へと戻っていき、そして四つん這いの状態からなぜか正座へとフォーメーションを変えていった。

 

「はぁ。君も勘違いしているようだな」

 

 勘違い? 俺は何か間違えたことを言っただろうか。

 だって前も食堂で犬派か猫派で、彼氏と喧嘩的な青春を繰り広げたってのろけてたじゃないですか。

 

「よく会社でも間違われるが、私に彼氏なんてものは生まれてこの方できたことはない!」

 

 なぜか語気を荒げて、こちらに唾を飛ばさん勢いで物申す先輩。

 まあそんな先輩の様子よりも俺は今先輩が言ったことの方が衝撃的すぎるんですけど。

 

「犬派とか猫派とかっていうのは……」

 

「ん? 何の話だ? ……ああ、前話したことか。確かにそんな話もしたな。あれは猫を飼っていて、スマホで犬の動画を見ていたら猫がやたら不機嫌になって口をきいてくれなくなったから、どうしたものかと思って相談したんだ。対人間を想定したことではない」

 

 なんだそれ。めちゃくちゃ紛らわしいじゃん。

 ということは何? 犬の動画見てたら飼い猫がめちゃくちゃ不機嫌になったから相談したってこと?

 

 そんなこと察しろっていう方が難しいだろ。

 先輩は容姿も整っていて、そして暴走しなければ性格も普通にできた女性って感じだ。

 

 そんな女性に彼氏がいないと考える方が無理があるんじゃないかな。

 それにこれまでに一度も? まじで?

 

「私の気も知らないで、社内の連中はすごいイケメンと付き合ってそうとか、やれ私が暴走した時彼氏はどういう対処をしているのかとか、かと思えばデートはどういうところに行くのかとか、私に彼氏がいる前提で話してくる。私の気も知らないで!!」

 

 先輩の表情が鬼気迫っている。

 あれ、もしかしなくても俺これ地雷踏んだ?

 

「彼氏の作り方? どうやったらいい人と出会えるか? 養ってくれる男はどこにいるか?そんなにほいほい出会えるものなら、私が知りたいくらいだよ!」

 

 とうとう涙を流し始めながら、悔しそうに床を殴り始める先輩。

 かと思えば勢いよく顔をあげて、テーブルに置いていた飲みかけの酎ハイを手に取れ、一気に飲み干す。

 

 え、どうしよう。なんか俺が悪いことしているような気がしてきちゃった。

 

「私は!!」「れっきとした!!」「年季の入った!!」

 

 

「処女なんだ!!」

 

 

 もう俺先輩の顔が見れない。

 すごい眼光でこっち見てるんだろうけど、俺申し訳なくて見れねえよ。

 

 ごめんなさい。人を見かけで判断しちゃいけないって学校で教わったのに、めちゃくちゃ見た目で判断してました。

 

 まさか先輩がそんなに悩んでたなんて知りませんでした。

 とりあえず時たま本当にわけのわからないタイミングで、暴走するのをやめたらすぐ彼氏できそうですけど、どうですかね。

 

「わかったら脱げ!!」

 

 そういうところだよ!! しまった油断した。

 前後の脈略が無さすぎる突発的な先輩の行動を予測できるはずもなく、とびかかるように襲い掛かってきた先輩にあっけなくつかまり、そして押し倒される。

 処女とかそういう話の後にこんな馬乗りになられたら、俺別のこと気にしないといけないんですけど!

 

 大丈夫? 俺の貞操は守られる!?

 そんなことを考えている間にも先輩は泣きながら俺の服を脱がさんと手をかけていく。

 

 まずいまずいまずい。このままだと本当にまずいことになる!!

 

 



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85話 痴態と醜態と愚行と悪酔いと……助けて!?

「あー、すっきりしたー。……て、二人とも何やってるんですか!!」

 

 なんていうタイミングで戻ってくるんだ後輩!!

 いやナイスタイミングと言えばナイスタイミングなのかもしれないが、一番最悪でもある。

 

 だってこんなの勘違いする以外何物でもない光景だよ!?

 俺だったらそっと開けたリビングの扉をもう一度閉めるところだよ!?

 

「え、先輩って先輩のこと狙ってたの? え、どっちの先輩がどっちの先輩を狙ってたの? ん? どゆこと? 私トイレに戻った方がいい?」

 

 ほら混乱してるじゃん。最早自分が言ってる先輩の意味が分からなくなって混乱してるじゃん。かたくなにならずにそろそろ名前で呼んでくれてもいいんですけど?

 

 それと戻らないで。今戻られると本当に暴走した先輩をだれにも止められなくなるから。

 

 だが後輩が戻ってきたことによって、先輩もちょっとは冷静になるだろう。

 さすがに先輩も俺と間違いを犯そうとしているなんて後輩に勘違いはされたくないだろうからな。

 

「ちょうどいいところに来た! いまこいつの服を脱がしているところなんだ! 手伝ってくれ!」

 

 先輩むしろ救助要請してるんですけど!?

 なんで冷静になってやめるどころか、手助け求めちゃってるの!?

 

「え……えー、どういう状況?」

 

 ほらさすがの後輩ちゃんも困惑ですよ。大混乱ですよ。

 

 そらそうだよね。トイレから戻ったら俺の上に先輩が馬乗りになってて、一緒に俺の服をひん剥けって指示されるんだよね。

 ほんと意味わかんないよね。なんかごめんね? 俺むしろ被害者だけど。

 

 それより先輩、そろそろ異常行動をしてるって自覚してるんじゃないですか? だから俺から離れて。

 いやー! 待って、ズボンに手をかけないで!

 

「……よく分かんないですけど分かりました! お手伝いします!!」

 

 何を理解したのか後輩は困惑した表情のままそう宣言すると、俺と先輩の方に近づいてくる。

 

 なんでそこで先輩の方に天秤が傾くの!?

 バカなの!? バカ通り越して頭空っぽなの!?

 

 意気揚々と近づいてこないで!

 さすがに二人がかりだと俺も抵抗しきれないから!

 

 

「頼む……助けてくれ……」

 

 

 俺の口から漏れ出た決死のヘルプは今まで生きてきた中で、自分自身でも聞いたことが無いほどに悲壮感が漂っていた。

 後輩の足が止まり、にやけていた表情が真顔になる。

 

「……あー、先輩? 九条さん本気で嫌がってるみたいなんで、やめてあげてください」

 

 どうやら後輩は俺と先輩がじゃれているわけではないことに、ようやく気付いてくれたらしい。

 部屋に入った時点で、俺の必死さに気付いてほしかったんだけどね。

 

 しかし後輩の説得もむなしく先輩の動きは止まらない。

 俺はすでに上半身裸にされている状態である。

 

「先輩! よく考えたら私九条さんの全裸とか全く興味ありませんし、そもそも視界にいれたくないです! 願い下げです!」

 

 いや、まあそりゃそうだろうけどさ。そんな嫌悪感全開で言われるとちょっとは傷つくからね?

 いや俺を助けようとしての発言だから別にいいんだけどね。

 

「先輩と先輩が致しているところを眺めるなんてもっとごめんです!! 先輩AVの見過ぎですよ!!」

 

 おい、最後の言葉はいったいどっちの先輩に対して言ったんだ。

 どさくさに紛れて、俺のことけなしてるんじゃないだろうな。

 

「バカ野郎! 私はそんな不純な動機で九条を脱がしているんじゃない! もっと純粋な心で、私は九条のことを思って脱がしているんだ!!」

 

 なぜか怒られる後輩。そして先輩の肩を掴んだ後輩の手はいとも簡単に払いのけられ、後輩はよろめく。

 

 後輩も結構飲んでるもんなぁ。足元おぼつかないよね。

 なんかもう無我の境地なのかもしれない。

 やけに冷静に物事考えられるようになってきたよ。

 

「どの口が言ってるんですか! こんな状況を見て誰がどう純粋にとらえるんですか! どっからどう見ても、冴えない後輩に筆おろしをしようとして襲い掛かっているビッチな美人な先輩の図にしか見えませんよ!!」

 

 よく言った後輩! あとお前も例えがAVの見過ぎだ!

 

「びっ!? 君こそ薄汚れた心でしか物事を見れないから、そういう見方しかできないんだ! 詳しくは言えないが私は純粋なんだ! もっと心をきれいにして出直して来い! あと筆おろしってなんだ!?」

 

 先輩はちょっと黙って! あと本当に純粋だな!

 

「ほら、先輩涙目じゃないですか。はーなーれーてーくーだーさーいー」

 

「嫌だ! 私は絶対九条から離れないぞ!」

 

 先輩は最早俺に覆いかぶさるように身を寄せてきていて、その後ろから全力で後輩が先輩の肩を引っ張っている。

 

 ……なんかすごい客観的にみると一人の男を二人の美人が奪い合っている光景に見えなくもないよね。

 

 その美人が後輩と先輩っていうのが残念すぎてならないんだけど。

 しかも内容がそんな昼ドラみたいな状況じゃなくて、女装させたい先輩とよく分からないけど事態を収拾したい後輩だもん。

 さらには他人事じゃなくて俺当事者だしね。

 

 うん、全然ときめかないしむしろ早く何とかしろよ二人でいちゃいちゃすんなとまで思う。

 正直1.5人分くらいの体重が俺にのしかかっていて、めちゃくちゃ重いし。

 

 というか先輩めちゃくちゃ力強いよね。

 俺も先輩をどかそうと力入れてるし、後輩も顔真っ赤にして引っ張ってるのに全然離れない。ヒル並みにくっついてるんだけど。

 

「わかりました! 先輩!」

 

 後輩は何かを思いついたのか先輩から離れると、どこか吹っ切れたように乱れた髪をかきあげる。

 

「分かってくれたか!」

 

 そして後輩が理解してくれたと勘違いした先輩が顔を勢い良く振り上げ、後輩の方に満面の笑みを見せる。

 

 後輩がそのチャンスを逃すはずもなく、いつの間にか手に持っていたアルコール強めのストロング何とかの缶の口を先輩の口に押し当て、一気に傾けた。

 

「んっ!? んぐ!」

 

「こうするしかないんです。許してください先輩! そしてすべて忘れてください!」

 

 先輩の喉がぐびぐびと動き、アルコールがその身体に注入されていっているのが見てわかる。

 いや、大丈夫? さすがに急性アルコール中毒とかで倒れられても困るからね?

 

 口の端からこぼしながらもなんとか後輩の猛攻を耐えきり、彼女を見つめる先輩の目は明らかに座っていた。

 

「そうか……わかった。そういうことなら、お望み通りまずはお前から脱がしてやろう!」

 

 そしてターゲットが俺から後輩へと変わった。

 先輩は俺のことなど忘れたのか、俺の腹に思いっきり体重をかけたのちに、俺から離れると後輩の方に勢いよく迫っていく。

 今の最後の攻撃が何気に一番ダメージ食らってる。今うごいたら俺リバースしちゃう。

 ……すまん後輩。何とか逃げ切ってくれ。

 

「なんでそうなるんですか!! 先輩の思考回路九条さんと同じレベルじゃないですか!」

 

 

 後輩も酒を片手に必死に逃げるが、暴走した先輩から逃げることはできない。

 あっという間に後輩に追いつくとお返しと言わんばかりに、後輩の口に酒を流し込む。

 

 もう先輩俺を脱がそうとした本来の目的忘れてるよね?

 それに飲み方が学生なんですよ。もっと大人な感じで呑みましょうよ。

 どうせ呑むなら。

 

 何とか貞操は守られ、落ち着きを取り戻した俺は、やけに冷静な頭で二人の猛攻を眺めていた。

 

 いやほんと居酒屋に行かなくてよかったのかもしれない。

 あの二人の痴態を公然の場で見せることなんてできるはずがない。

 

 

 そこからは見るも無残な猛獣どもの惨めな争いが繰り広げられていた。

 

 なぜか酒の飲ませ合い合戦へと発展し、もう何をしゃべっているのか俺では聞き取れないレベルの、というか記憶に残したくない会話を繰り広げていた。

 

 ありがとう後輩。お前の尊い犠牲のおかげで俺の中の何かは守られたよ。

 今度なんか奢るわ。十円ガムでいいかな?

 

 なんやかんや楽しそうに飲んでいる二人を冷たい目で眺めながら、俺は乱雑に脱がされた服を一枚一枚己の身につけるのであった。

 



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86話 幽霊の存在肯定

 酒に強くもしないのに、テンションのままに大量に酒を購入して、それを飲むとどうなるか。

 醜態をさらした成れの果て、リビングで寝転がっている二人がまさにベストアンサーである。

 

 まあそんなこと言いながら、流れで俺も結局飲まされたから、そこそこ酔ってるんですけど。

 

「どーん」

「うえっ」

 

 いろんな意味で体を冷やすために、ベランダに出て風にもあたっていようと思っていたら、後ろから普段はあまり感じない重量が重く俺にのしかかってきた。

 

 重量の主であるレイがにへらと笑いながら背中をよじ登り、俺の肩に顎を乗せてくる。

 しかしその笑みはいつもと違い、どこか陰りがあるようにも見えた。

 

「どうした?」

 

 まあ今日は一日我慢させすぎちゃったしな。カレー事件でやらかしとはいえ、このくらいは全然かまわないし、むしろウェルカム、もっとやってもらって大丈夫。

 

「さとる、気づいちゃった」

 

 レイは俺の肩に顎を押しつけながら、話し始める。

 その口調はいつもののんびりと間延びした雰囲気ではなく、どこかしっかりした真剣なようなものに思える。

 

 さすがにここで空気の読めない俺ではない。

 おちゃらけることもなく静かに話の続きを待つ。

 

 

「私って死んでるんだね」

 

 

 息が詰まる。言葉に詰まる。思考が止まる。

 それを聞いて瞬間、世界から音がなくなったのかと、そんな錯覚を覚えるほどに頭が真っ白になって何も聞こえなくなる。

 

 さっきまでのふわふわした感覚が一瞬で無くなって、全身の血液が根こそぎどこかに持っていかれたような感覚を覚える。

 

 それは俺からしたらすでに当たり前になっていた事実で、レイが幽霊であることを信じて疑っていなかった。

 

 たしかにレイ自身が自らを幽霊だと名乗ったことはこれまで一度もない。

 自分が死んでいることにレイが気づいていないなんてこと、これまで考えもしなかった。

 

「だれにも見えなくて、気づかれなくて。それでも私はここに存在している」

 

 いつもの舌足らずな口調とは異なり、レイははっきりと喋っているように聞こえた。

 まるで自分が死んでいるということを口に出して、しっかり認識するかのような、確認するかのようなそんな口調にも思えた。

 

 いつ、そのことに気づいたのだろうか。

 先輩や後輩とこれから先自分たちがどうなるか話しているときに、確かに死ぬとかそういうことについて柄にもなく真面目に話してはいた。

 

「私、このまま誰にも認められないまま消えちゃうのかなあ」

 

「大丈夫だ。俺が見てる」

 

 それは口をついて出た言葉だった。

 レイの明らかに何かを我慢している震えた今にも消えそうな声。

 

 その何かが流れ落ちないように、彼女が消えてしまわないように絞り出すように出したはかない言葉。  

 

 誰にも認められず消えていく?

 レイにそんな悲しい思いをさせていいはずがない。

 

「レイのことが誰にも見えなくて、その存在を誰にも認められなかったとしても、俺が見てる。俺だけはずっとお前のことを見てるよ。いやというほどその存在価値を認めてやる。というか認めてる」

「……さとる」

 

「もし……もし俺だけが見てても意味ないっていうなら、周りが嫌でもレイのことを認識できるように、俺が何とかする。なんか、こう……うまい方法使ってなんとかするよ」

 

 すべて頭で考える前に、整理する前に出てくる言葉。

 何とかするという無責任な言葉にレイは困ったような笑みを浮かべて、俺の顔を横から覗き込んでくる。今彼女の目を見ることはできない。

 

 二人の距離は近いようでまだ全然遠かったのかもしれない。

 これからどんどんレイが過去のことを思い出せば、俺からもっと距離を置くのかもしれない。

 

 そして人知れず、レイはいつか……。

 そこまで考えて無理やり思考を断ち切る。

 

 レイが嫌がっても一緒に住んでいるんだ。俺の好きなようにさせてもらう。

 どれだけレイが俺と距離を置きたくなったとしても、離れたくなったとしても俺は最後まで拒否してやる。レイという存在にしがみついてやる。

 

「例えば、そうだな……。鈴付きのチョーカーとかつけてさ。音が鳴ればレイがどこにいるか誰にでも分かるとか? いや鈴付きのチョーカーってなんか首輪みたいでいや? じゃあ却下だ」

「さとる」

 

 だから今は考えるのだ。レイが多数大勢の人から認められたい。存在を認識してほしいと思っているのならば、俺に何ができるか足りない脳みそを引きちぎってでも考える。

 

「でも音が鳴るものを身につけるっていうのは意外とありだよな。じゃあ……指輪とか! 俺特注で頼んでみるからさ、動かせば音が鳴る指輪。……いやでも結局音が鳴ってて俺は底にレイが見えるからわかるけど、他の人からは見えないのか」

「さとる」

 

 ああでもないこうでもない。

 もうこんなのは考えているとは言わない。

 ただ今の思考を口に出して垂れ流しているだけだ。

 

 でもそうでもしなければわからなくなってしまう。

 何がレイの為になるのかわからなくなってしまう。

 

「そうだな。レイのことが見えるような何かを」

 

「さとる!!」

 

 耳元で、大声で、そして聞き慣れた声で自分の名前を呼ばれて、ようやく俺は我に返った。

 声がした方に目を向けると相変わらずレイが顔を肩に乗せ、俺の目をまっすぐ見つめてきている。

 

「私知ってるよ。さとるがいっぱい私のこと考えてくれてるって」

 

「うえっ!? それは……おう」

 

「私ね。気づいたの。さとるが私のことを見てくれてること、考えてくれてることって当たり前じゃないんだなって。だからね。そういうことが言いたかったの」

 

 あれ、何か俺いまレイに慰められてる?

 俺そんなにひどい状態なのか?

 

「うにーーー」

 

 慰められたと思ったら全力で両頬をつねられる。

 地味に痛いし、せっかく近くにあったレイの顔が後ろに回り込んだことで見えなくなってしまって、非常に残念な状態だ。

 

「だから、ありがとう」

 

 不意に耳元で囁くように呟くように、でもしっかりと聞こえてきたその言葉。

 聞こえているのにどこか気恥ずかしくて、でもその恥ずかしさが心地よくて。

 

 もう一度聞きたくなって、聞き返そうとしたときにはすでに背中にレイの気配はなかった。

 とっさに後ろを振り返ると、レイはリビングの方にまで戻っていて、若干赤く染まった顔に全力の笑顔を携えて、俺の方を見つめている。

 

「さとる、これからもよろしくね! 私のこと、ずっと見ててね!」

 

 これからもよろしくね。

 

 そんな単純な言葉が今の俺には一番響いて、どうしようもなく嬉しかった。

 これからもレイと一緒に過ごせる。それをレイ自身も望んでくれている。

 そんなちょっと考えれば疑う余地もない、そんな事実をレイ自身が肯定してくれたように思えた。

 

 レイの姿はもうない。

 きっと自分の部屋に戻って行ってしまったのだろう。

 

 さっきのレイにはいつもの子供っぽい雰囲気はなく、どこか大人びた雰囲気を纏っているような気がして、不覚にもめちゃくちゃドキドキしてしまった。

 本当にレイには適わないなあ……。

 

「わすれてたわすれてた……おっとっと」

 

 そんな心地いい余韻を感じながら、めちゃくちゃ自分でも自覚できるほどの決め顔で、リビングの柵に手をかけて風を感じていたら、戻ったはずのレイが再びリビングに戻ってきた。

 

 おっとっととか言いながら思いっきり後輩の頭を踏んでいるが、これは後輩が悪い。

 おい後輩。今すぐその頭をどけろ。

 

 レイが転んだらどうするんだ。危ないだろうが。

 起きるか寝ながらでも立って今すぐそこからどけ。

 

「さとる!!」

 

 はいはい悟さんですよ。今日はよく名前を呼ばれる日だな。

 まあレイに呼ばれるのは嬉しいからどんどん呼んでほしい所ではあるけれど。

 

 俺は後輩から一瞬で視線を外し、レイの方に顔を向ける。

 俺の名前を呼んだレイは一瞬考えるようなそぶりをみせて、そして何か納得したのか大きくうなずくと、再び俺の方にまっすぐ顔を向けてきた。

 

 

「えっとね……。大好き!!」

 

 

 顔を真っ赤にしながら叫ぶようにそう言ったレイは、俺の反応を見ることなく再び俺から背を向けて、奥の部屋へと走り去っていった。

 

 え、俺? もちろん死んだ。死亡理由はキュン死。よくあるよね。

 その『好き』が親愛の意だとしても関係ないよね。

 

「はあ……ずるいなあ」

 

 しばらくリビングには戻れそうにない。

 こんなにやけ面を酔っ払いたちに見られでもしたら何言われるかわからないから。

 



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87話 それは夜の闇に溶けながら淡く耳の中に入り込む

「先輩、何にやついてるんですか」

「うえっへほっほう!」

 

 顔の火照りもようやく消え、リビングに戻ろうと庭先から窓を開けるとじとっとした目でこちらを見つめている後輩の姿があった。

 

 え、俺にやついてた?

 

 レイの不意打ちの後、30分ぐらいこの世の心理とか社会の歯車になることについて、真剣に考えて、真顔に戻ったと思ったらまだにやついてた? 

 

 もう俺一生にやけてるんじゃない?

 こうなると修復不可能なんだよきっと。あきらめろ。

 

「指摘してもにやついてるし。もうだめだ、この先輩」

 

 おい、あきらめるな。お前ならなんとかできる。

 なんかよくわかんないけど、すっごいしょうもないギャグとか言ってくれれば真顔になれる気がするんだ。

 いいから一回言ってみ?

 

「先輩。気持ち悪いですよ」

 

 俺のクリスタルな心臓にでっかい針を通すようなストレートな一言を言いながら、後輩は庭へと出ていく。

 

 え、これ俺もついていかないといけない? もう十分外で涼んだし俺は戻ってもいいよね。

 よし先輩起こすかー。

 

「ちょっと何戻ろうとしてるんですか。可愛い後輩が意味ありげに外に出てるんですから、普通ついてくるでしょ」

「ですよねえ」

 

 俺は肩を落としながら完全にリビングに向かっていた体を半回転させて、庭のほうへと向き直る。

 

 すでに庭に出ておそらく意味のなくしゃがんでいるのであろう後輩と、ふと目が合う。

 その時ちょうど夜風が吹き、彼女の肩ほどの髪がふわりと揺れる。

 ほんと黙ってればなんで彼氏がいないのかってくらい美人なのに、もったいないよなあ。

 

「どうしたんですか? ……もしかして私が夜に似合いすぎて見惚れちゃいました?」

 

「そうね」

 

「……ふへ?」

 

 いじわる気な笑みを向けてくる彼女に俺はくぎ付けになっている。

 

「せ、先輩? あんまり見られるとさすがに恥ずかしいんですけど……」

 

 なぜか頬を赤くしながら、髪を整え始める後輩だったが、俺はそんなこともお構いなしに彼女のある一点を見つめ続ける。

 

「そっか、そういえば俺買ってたな」

 

「先輩もしかして私のこと……は?」

 

 いや後輩が履いているサンダルなんか見おぼえあるなあって思ってたんだよね。 

 結局買ってから海とか行く機会なかったし、俺以外庭に出るから庭にある一足以外使わなくて、結局使わずじまいになってたやつだ。

 

 いやー、すっきりした。

 しかし後輩よ。なんでそれを君が履いてるわけ?

 

 いや別に同じもの持ってるって可能性も……いや男物だしその可能性は低いか。

 それに後輩が俺の家に来るのは初めてだから、ふつう一人暮らしの家に庭があるなんて考えないよね?

 

「あ、もしかしてこれですか? 玄関でさみしそうにしてたんで借りました。というか借りる前に一応声かけたんですけど、やっぱり聞いてなかったんですね」

 

 え、いつだろ。もし俺がこの世の摂理について考えてた時に声かけたんならそら聞こえてない。

 外界の音をすべてシャットダウンして、思考に没頭してたからね。

 

「はあ。先輩にちょっとでもまともな常識があると勘違いした自分が悪かったです。すいませんでした」

 

 なんで俺は謝られてるんだろうか。まあ今回のことに関しては謝ってもらってもいいくらい迷惑してたけど、結果俺もなんだかんだ楽しくしてるし、そこまで気にしなくてもいいんじゃない。

 なんかすごい今更って気もするし。

 

「……ほんとはガチ相談なんてするつもりもなかったんだけどなあ」

 

 後輩は膝を抱えながら空を仰ぐ。

 なんかセンチメンタルなんだな。わかるよ。夜ってそんな感じになるよな。

 そういう時は早く寝るに限るよ。まあ君はさっきまで爆睡してたわけだけど。

 

「先輩ってそういうとこありますよね。普段は全く会話が成り立たなくてコミュニケーション能力以前の問題なのに、真剣に相談したときはそれなりの答えをくれる。しかも押し付ける感じじゃなくて、こううまく言えませんけど、いい感じの答え。ほんとそういうところずるいと思いますよ! 何萌えですか!」

 

 立ち上がって近寄ってくる後輩に指をさされながら説教される俺。

 別に俺自身そんなつもりはないんだけどなあ。

 

 そりゃシリアスな雰囲気の時は俺も空気読むよ?

 それに俺のことさっきからぼろくそに言ってるけど、後輩とか先輩とかに比べたら全然常識人だと思ってるからね。

 自分のこと棚に上げて説教するのやめてもらっていいですか。

 

「先輩。私ちょっと思ったことがあるんですけど」

 

 後輩はどこか恥ずかしそうにはにかみながら俺のほうをまっすぐと見つめてくる。

 ……ん? なんだこの甘酸っぱい青春のにおいがする雰囲気は。

 

 俺後輩とこんな空気になるなんて思ってみなかったし、なんか緊張してきたんだけど。

 

「さっき普通に結婚してとかそういう話したじゃないですか。先輩、私の性癖にも理解あるしなんだかんだ先輩と話していると楽しいし、案外ありだと思うんですよね」

 

 後輩は言葉を区切ると、大きく息を吐く。

 俺もさすがに何かを言えるような、考えられるような空気ではなくそのまま後輩の続くであろう言葉を待つ。

 

 

「先輩…………試しに私と結婚してみません?」

 

 

 それは夜の闇に溶けることなくはっきりとその場に言葉として残り、俺の耳にすっと入り込んできた。

 

 



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88話 もう東京タワーと結婚するための法律でも作ればいいんじゃないかな。

 ……なんだこれ。どういう状況。どういう展開。

 いやさすがに酒に酔ってるって言っても、それはさすがに言いすぎじゃない?

 酒の席の誤りじゃ許されない発言なんですけど。

 

 そもそも試しに結婚って何。

 

 なに最近って仮結婚して、いろいろと合わなかったらやっぱりなしでとかそういうことできるわけ?

 俺そんなシステムしらないし、そんなシステムないよね。

 そもそもそれがあったとしても後輩と俺が結婚? いやいや、意味わからんでしょ。

 

 確かに社内では変人カップルとか茶化されることはあるけど、あくまでそれは愛称的なもので実際には付き合ってないわけで……あれ俺たち付き合ってるんだっけ?

 もう訳が分からなくなってきた。

 

 いや考えなくても答えは決まってるけど。俺にはレイがいるし。

 それに後輩のプライベートなんて知らないし、彼女のことすらあまりよくわかってないんだからそんな中途半端な状態で結婚なんてできるはずがない。

 

「俺は……」

 

 言葉に詰まる。彼女を悲しませないように、会社であったときに普通に接することができるようにする言葉はなんだ。

 そもそも女性から告白を受けたことなんてないから、こういう時どういう顔してなんて言えばいいのかわからない。

 

 いや、特に取り繕う必要なんてないのか? 思ったことをそのままいえばいいのか?

 

「正直めちゃくちゃ驚いてる。でも……あれ?」

 

 ずっと地面に顔を向けて考えていたが、これはまっすぐ相手の目を見て伝えるべきだと思い、顔を上げるとなぜか目の前に後輩の姿はなかった。

 

「先輩。なにしてるんですか。虫入っちゃうから、早く中に入ってください」

 

 あれ、なんでだろう。

 俺の目の前にいるはずの後輩の声がなぜかリビングのほうからするぞ。

 

 俺は首をかしげながらゆっくりとリビングのほうに顔を向けると、そこには胡坐をかいてするめを加えている後輩の姿があった。

 

 ……さっきまでの雰囲気は何?

 

「ちょっと」

 

 さすがに状況に頭が追い付かない俺は、頭を抱えながら後輩を手招きする。

 

「……さすがにごまかしきれないか」

 

「ちょっと。戻ってきて。頼むから」

 

 なんか言ってるけど、彼女の戯言を聞いている余裕はない。

 とりあえず説明してほしい。 

 

 君が一体に何を考えているのか俺に分かりやすく解説してほしい。

 俺の手招きに応じて後輩はするめを数本手に持ちながら、庭先へと戻ってくる。

 

「とりあえず正座」

 

 地面を指さす俺のことを目を見開きながら見つめてくる。

 いやそんな顔したいのは俺のほうなんですけど。

 

「いや、先輩。ここ砂利がすごいんですから」

 

「じゃあこっち。いいから正座」

 

 さすがに砂利まみれの場所で正座させるのは足を怪我してしまうかもしれない。

 それは俺も申し訳ないから、窓近くのアスファルトのところでいいよ。

 

 後輩は不満げな表情をしながらも、しぶしぶといった様子でアスファルトの上で正座する。

 

「どうぞ」

 

 俺は後輩のほうに手を差し出し、説明を促す。

 俺がすべきことは終わった。あとはご説明をお願いします。

 

「いや、そのなんというか……先輩ならいつもの冗談として受け取ってくれるかなと思ったんですけど。まさかのガチ受け取りされちゃって、どうしようってなっちゃって、なんかその場に居づらくなったんで……」

 

 いやだってあの空気はマジじゃん。なんか流れからオチまで完璧だったじゃん。

 どこかで練習でもしてきたのってくらいの雰囲気演出してたよね。

 

「だって普通に考えてください、試しに結婚とかそんなことありますか? 付き合ってもないんですよ? 普通にありえなくないですか!」

 

 そうだよな。付き合ってないよな俺たち。

 よかった。勝手に付き合ってるって思われたらどうしようかと思ったわ。

 

 それにすごい剣幕でまくしたてるけど、そんなありえないことをお前は俺にしてきたんだけどね。

 

「女優にでもなればいいんじゃないかな」

 

 俺はギリギリのところでため息を押し殺しながら、後輩の横を通りリビングへ戻ろうとする。

 

「あれ、先輩? 結構真面目に怒ってる感じですか?」

 

 ……そりゃ怒るだろ!

 なんだよ、冗談って。そんなに俺の純真な男心を踏みにじって楽しいか。

 

 気づけなかった俺が悪いとか、こんなことで怒るなんて大人げないってなるんだったら、俺大人になんてならない!

 

「ま、待ってください先輩! すいませんでした。調子に乗りました!」

 

 リビングに片足突っ込んでる俺の腕をつかんでくる後輩。

 振り返ってなぜか涙目になっている後輩の顔を見下ろす。

 

「うっ。想像以上に冷たい目線。いや、わかってます。私それだけのことをしたんですよね。受け入れます。受け入れますとも。ほんとすいません」

 

 後輩は謝りながらも俺を庭へと引きずりおろそうと結構な力を込めて俺を引っ張ってくる。

 

 ……いや力強い力強い。危ない危ない。

 普通に力負けした俺はリビングから体が離れ再び庭先へと戻ってくる。

 もう今日だけで一年分くらいのリビングと庭の往復を行った気がする。

 

「先輩一つだけわかっててほしいですけど」

 

 後輩は俺の両腕を両手でつかみ、俺の顔を見上げるように見つめてくる。

 

「私先輩のことは嫌いじゃないです。それだけは勘違いしないでほしいです。むしろ会社の先輩の中だったら一番、一番好きです。先輩として。尊敬……はしてないですけど。でも!」

 

 なんか真剣に言ってる風だけど、さっきの一件であんまり俺真剣に聞いてないからね?

 ゲーム風に言うと俺の中の君の好感度はマイナス50点くらい余裕でされてるからね。

 挽回は難しいんじゃないかなあ。

 

「でも、私の今の彼氏は東京タワーです。これは譲れません!」

 

 ……ん? なにいってるんだこいつ。

 どういう会話の流れで東京タワーが出現したの?

 

「月一でくらいしか会えない遠距離恋愛ですけど、彼はいつも同じ場所で堂々と待ってくれてるし、私もそんな彼を愛してます。だから先輩を彼氏にとか、先輩とか結婚とかそういう余裕は今はないので、ほんとすいません!」

 

 後輩は両腕をつかんだまま頭を下げる。

 だから俺は後輩の両手を取り、しっかりと握る。

 

真剣な言葉をぶつけてくれた後輩にはしっかりと答えてやらないとな。

俺が手をつかんだからか、はっとしたような表情で後輩は顔を上げながら、俺の手を握り返してくる。

 

「後輩よ」

 

「先輩……!」

 

「お・し・あ・わ・せ・に」

 

 俺はつくりに作った満面の笑みを見せながら、ゆっくりそういうと後輩の手を振りほどき、全力でリビングに戻りそのまま体を翻し、窓を閉める。

 

 後輩は俺の意図を察していたのか全力で俺の背中を追っていたようだが、ぎりぎり俺が窓を閉めるほうが早く、後輩はびたーんという音を立てながら顔面を窓にぶつける。

 

「ちょ!? 先輩!」

 

 ちょっとそのまま頭を冷やして反省しなさい。

 



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89話 とある性癖を持つ一般女性は過去を思い返す

 初めて見て感動した建造物は、街にあったサンタクロースの銅像がたくさん配置されていたお城のような建物だった。

 その周りだけはいつも薄暗くて、そんな中でぽつりと一つだけ建っていて、異様な存在感を放つその建物を見て、子供ながらにキレイと感じたことを今でも覚えている。

 

 小学生の頃に見つけたその建物を暇があれば見に行って、その中に入るカップルたちを嫉妬の目線で見ていた。

 

 それがもしかしたら私の初恋だったのかもしれない。

 

 まあちょっと成長してからその場所がラブホテルだと知って、当時思春期真っ盛りだった私の恋心は砕け散ったんだけど。

 

 まあ建造物の用途はどうであれ、私はその初恋をきっかけに日本中の有名な建造物を調べるようになった。

 高校の頃には日本だけでは飽き足らず、世界のほうにも手を出し始めた。

 将来はこういう建造物を眺める職業に就くんだと思っていた。

 

 まあそれも就活のタイミングぐらいで、仕事の関係じゃなくてプライベートの関係がいいなと思って、考えを改めるようになったんだけど。

 

 とにかく私は小さいころからいろんな建物に恋をした。

 今は東京タワーが最推しっていうか好きっていうか、再推しって感じ。

 

 もちろん普通に男の人と付き合ったこともある。

 ありがたいことに自分に自信が持てるくらいに容姿は整っていたから、告白されることも多かった。

 

 ちょっといいなって思った人とは付き合ったりもした。 

 でも告白されるときに「私は建物に恋をしてます。それでもいいですか?」ってちゃんと言うようにしてた。

 

「そんなの全然気にしないよ!」

 

 たいていの人はそう言ってくれたけど、結局すべて三か月も続かない。

 二か月続けばいいほうで、大抵は一か月くらいで別れを告げられる。

 

 別れる理由は決まって「自分に愛情が向いてないから」

 

 だって、しょうがないよね。私には今夢中なものがある。

 熱量が多いほうに気持ちを傾けるのは普通のことじゃないかなって思うんだけど。

 

 どうやら私の建造物愛は普通の人と一線を介してるらしかった。

 何人かとおつきあいしてようやく自分のこの感情の矛先が普通じゃないって自覚した。

 それが高校2年生くらいの時。

 

 それからは人と付き合うってことはしなかった。

 結果、もっと建造物にのめりこんでいくようになっていった。

 

 そんなこじらせた状態でそのまま大学を卒業して入社した去年の春。

 もちろん最初から私は周りに建造物愛をオープンにしていたわけではない。

 

 むしろ認められないことが怖くて、普通じゃないって思われるのがなんか嫌で周りに合わせていた。

 

 そんな時だった。同じ部署の先輩と昼を一緒にすることになったのは。

 その時バッキンガム宮殿に想いをはせていた私は、彼への思いをはせながら食堂でご飯を食べていた。

 

 そしたら先輩が腰を低くして頭を何度も下げながら私の隣に座ってきた。

 確かその時周りは満席だったんじゃなかったかな。

 

 うちの会社の食堂は社員に対してギリギリくらいの大きさしかないし、しょうがないかって思ったくらいだった。

 先輩とは話したこともなかったし、そもそも誰かと話しているところを見たことがなかったから、同じ部署の先輩っていうくらいの認識しかなかった。

 

 

「幸せそう」

 

 

 それは先輩の独り言だったのかもしれないし、その場の無言の空気に耐えかねて話しかけてきたのか、ともかくすごい小さな声だったけど、私のことを言ってるんだと確信した。

 

 その時ちょうどスマホの待ち受けにしていたバッキンガムを見ていたから、ニヤニヤしてしまっていたのかもしれない。

 

「い、いや、これは違くてですね! 趣味というか特技というか癒しというか彼氏というか……ともかく違うんです!」

 

 そんな顔をあんまり面識のない人に見られてしまったこと、もしかしたらスマホの画面が見えてて建造物を見てニヤついている変な人と思われてしまったかもしれないという恐怖。

 

 そんな羞恥心やら恐怖心やらが入り混じって、ひどく動揺してしまって言わなくていいことを口走っていたような気がする。

 

 先輩からすぐに返事は返ってこなかった。

 むしろ何に対してかはわからないけどびっくりした様子で、それを隠すようにご飯を口に掻き込んでいた。

 

「ま、まあ。なんであろうと、自分が幸せであることって大事ですよね」

 

 ずっと動かしていた手を止めて、口の中のものをゆっくり飲み込んでからボソッと放った一言が、なぜか私の中にしみこんでいくような気がした。

 

 なんでかその時の先輩の言葉はお世辞とか社交辞令とかそういう風には思えなく、先輩の口から出た本音のように聞こえた。

 考えているように言っているのではなく、ぼーっとしながら言っているかそういう風に聞こえたのかもしれない。

 

「あの、でも早くしないと休憩終わっちゃいますよ」

 

 先輩はそう言い終わるや否や席を立って行ってしまった。

 

 その時から先輩とちょくちょくお昼を一緒にするようになった。

 というよりも私が先輩の姿を見つけると、無理やり近い席に座っていたって感じだけど。

 

 まあ端的に言うと私は先輩に懐いた。

 

 まあ……しょうがないんじゃないかな。

 当時の私は、世の中で私のことを理解してくれる人なんていないってくらいは心の中でやさぐれていて、しかも慣れない環境で精神もそれなりにまいってたんだと思う。

 

 そんな時に私の恋心を肯定してくれるようなことをぽろっといってくれたんだから。

 うん、先輩が悪い。

 

 まあ先輩に接すれば接するほど、基本的に先輩は人の話を聞いてなくて、会話の流れをぶった切ってわけわかんないこと言ってる変な人で、今思えば初対面でちゃんと会話が成り立っていたのは奇跡だったのかもしれない。

 

 でもそんな先輩だからこそ、私も好きなことを話していて先輩にいろんな建物の話をするようになっていた。

 

 それが災いしていつの間にか会社でも隠さなくなっちゃったけど、少なくとも同じ部署の人たちはそんな私を受け入れてくれていて、というよりもやっと本性を現したかっていう目すら感じたんだけど。

 

 確かに同じ部署の先輩たちに比べたら、私ってまだまともなのかなとすら思えるようになってきた。

 

 ある意味私の天職だったのかもしれない。この職場は。

 



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90話 一般女性はやらかし、そして物思いに耽る

 先輩と話していると成り立っていない会話のはずなのになんでか笑えて、先輩が放った一言の前後の頭の中の先輩の独り言を想像して、それが当たってたらなんでかうれしくなって、とにかく先輩への興味は尽きなかった。

 

 そんな私のしょうもない皮を破った先輩と一年くらい一緒に働いていた時ふと思った。

 

 

 私は先輩のことをどう思っているんだろう。

 

 

 思えばこれまでこんなにも他人のことが気になるなんて思うことはなかった。

 人に合わせて会話をするくらいなら、その時間をいろんな建物をめぐる時間に充てたいと考えていた。

 

 でも先輩と話していてそんなことを考えることはない。

 むしろもっと話してみたいとすら思う。 

 それはなぜなのか。

 先輩の生態が謎だから? 先輩が頭の中で何を考えているのかもっと知りたいから?

 

 

 ……私が先輩のことが好きだから?

 

 

 そんなことを考えるけど、どうしても先輩と私の関係に『好き』という感情を交えると、違和感を覚えてしまう。

 何かもやもやして自分が何を考えているのか、先輩のことをどう思っているのかわからなくなってきていた。

 だから先輩と腹を割って話せば、何か答えが出るんじゃないかと思った。

 

 元来私は物事を深くまで考えることに向いてない。

 気になった物があれば、特に考えずに現地に向かって確かめるし考えてもわからないことはとりあえず思考放棄する。そういう性格だ。

 

 だから先輩とも休憩の時間だけじゃなくてもっとがっつり話す時間があれば、この気持ちにも説明がつくんじゃないかって思った。

 

 家を提案したのは最初は純粋な好奇心からだ。

 むしろその時は先輩よりも先輩が住んでいる場所のほうに興味があった。

 

 先輩に指摘されてから初めて、どうして私は一人暮らしの男の人の家に行こうとしているのにこんなにも拒否感も、警戒心も抱いていないのだろうと疑問に思った。

 

 結局それもわからずまたもやっとした。

 まあそれもいけばわかると思って気軽に考えることにした。

 

 先輩を説得する流れで、同じ部署のもう一人の先輩もついてくることになったが、私は特に気にしなかった。

 私は先輩と話す時間があればいいだけだし、同じ部署の先輩であれば私の性癖のことはばれている。

 

 だから必ずしも二人きりである必要はなかった。

 普通好きとかだったら、なんで二人じゃないのかと思ったりするのだろうか。

 

 

 当日になって緊張なのか何なのか、テンションがおかしくなってしまった私は飲めもしないのにお酒を大量に購入してしまった。

 

 そしてとうとう来てしまった先輩の家。

 まあ特にいうことはないなんてない普通も部屋で、特に何も思わなかったかな。

 

 失敗したという雰囲気を醸し出してるカレーもいただいたけど、普通に食べれたし。

 一緒に来た先輩はせきこんでたし、作ったはずの先輩は一口も口にいれてなかったけど。

 

 するつもりもなかった話もした。

 その時も先輩は初めて話したあの時みたいに真面目に返してくれた。

 

 そんな先輩の言葉はやっぱり私の心の中にすっとしみ込んで、びっくりするくらいすんなり受け入れることができた。

 

 普段はまともに話すら聞いてないくせに、そういう時だけそんなことをする。

 そんな先輩がずるいと思いつつ、なぜか照れ臭くなった私はお酒以外の理由で火照った顔を見られたくなくて席を外した。

 

 

 お手洗いから戻った時目の前で広がっていたのは予想だにしない光景だった。

 もし私が先輩に『恋』ってやつをしてるんだとしたら、到底受け入れられないであろうそんな光景。

 

 でも私はそれを見ても特に何も感じなかった。

 

 またなんかやってるよこの人たち。そんな風にちょっとあきれてすらいたかもしれない。

 だから私はその時思った。

 あ、私別に先輩のこと好きじゃないんだって。

 それなのに、それなのに……。

 

「なにやってるんだろうなあ……」

 

 空には満天の星空が広がり、だいぶ夜も更けていることを教えてくれている。

 冬に近づいている外はやっぱり肌寒くて、リビングのほうに目を向けるといつの間にか起きていた先輩が心配そうにこちらを見つめてきていて、ちょうど目が合う。

 

 私を庭に置いてけぼりにした張本人である先輩は背を向けてこちらを見ようとしない。

 

 あの時出た言葉は思わずついて出てしまった言葉だった。

 そんな言い方をすると本当に私が軽い女みたいな感じになるけど、本当に思わずって感じ。

 

 酔いで火照った体を覚まそうと庭に出たときに、ふと先輩の顔を見たとき、心がざわついた。

 

 その時先輩が見せていた表情は見たことなくて、でも私もよく知っている。

 そんな表情をしていた。

 

 先輩も誰かに恋をしてるんだな。そんなことがすぐにわかるような顔だった。

 そこから先輩にあんなことを口走っていた。

 

 口から出た後にすぐに後悔した。私はいったい何を言っているんだろうか。

 そんな風に思った。私だったらあんなことを言う女なんて嫌いになる。

 

 もしかしたら先輩はそれを冗談だと思って、まじめに受け取らないかもしれない。

 そんなことを思って先輩の顔を見ると、彼は真剣に何かを考えているようだった。

 

 その瞬間、私は怖くなった。

 

 私の発言に対して肯定されることも拒否されることも、その答えがどちらだとしても聞きたくなかった。

 

 だから、私は逃げた。

 先輩が口を開く前にその場から逃げた。

 ……まあその結果割と本気で先輩を怒らせてしまったわけだけど。ま、当然か。

 

 冷たい夜風が私の体を冷やして、どんどん頭は冷静になっていく。

 先輩の家に来て話をすれば何かわかるかもしれないと思ったけど、結果変な暴走をしてしまっただけ。

 

 先輩を怒らせたとはいえ、うまくごまかせたんじゃないかと思う。

 でも自分の気持ちはごまかせていない。

 

 自分が先輩のことをどう思っているのか。

 結局この気持ちにこたえは出ていない。

 

 もしこの気持ちに名前があるならだれか教えてほしい。

 私が一番この気持ちの答えを知りたいから。

 

 『好き』とも『尊敬』とも、もちろん『嫌い』とも違う。

 

 どうしてかそんなあいまいでたまに苦しくて考えればモヤっとしてしまうこの感情を、どこか心地いいと感じている自分もいた。

 

 もしかしたら私はこれ以上の進展も後退もしてほしくないのかもしれない。

 今の先輩後輩の関係が一番心地いいのかもしれない。

 

 口から吐き出る白い息を眺めながら、私は自分にそう言い聞かせていた。



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91話 飲み会の終わりって盛り上がってたのがウソみたいに意外とあっさりしてるよね。

「そろそろ許してやったらどうだ?」

 

 いつの間にか起きていた先輩が、憐みの目を庭のほうに向けながらそうつぶやく。

 別にもう怒っていない。ただタイミングを見失っているだけだ。

 

 確かに冗談で後輩が口走った言葉は、冗談として受け取ることをできなかった。

 でもリビングに戻ってきて俺は思った。

 

 あれ、このさも私は常識人です。みたいな面ぶら下げている先輩が俺にしたことに比べたら、さっき後輩がしてきたことなんてかわいいもんなんじゃないのかと。

 

 そう思ったら途端に熱くなっていた頭はサーっと冷えて、冷静になってきた。

 そして今俺がしている寒空の中、一人庭に追い出していることのほうがやばいのではないかとも思ってきた。

 

 後輩のほうにちらっと視線を向けると、何を考えているのか空を見ながらひたすらに息を吐きだしているように見える。

 あれは単純に暇で遊んでいるのか、それとも何か黄昏ているのか。

 

 俺にはわからない。もう女心ってやつがわからないんだよ!

 すべてがめんどくさくなった俺は、庭へと続く窓に手をかける。

 

「あ……」

 

 窓を開けると後輩は虚ろな瞳でこちらを見上げる。

 あれ、結構反省してるっぽい? それとも俺がやりすぎたか?

 

「……よし」

 

 まるでペットに命令するような言葉をかけてしまったが、後輩にそれを気にしている様子はなく瞳に光を取り戻しながら先輩のほうへとかけていって、そのまま先輩の自由奔放な胸の中にダイブした。

 

「寒かったですぅ」

 

「よしよし。つらかったな」

 

 あれ、なんか流れ的に俺が悪いみたいになってない?

 あれだよね。これは後輩がさすがに悪いよね。俺は何も悪くないですよね?

 

「もういい時間だ。そろそろ帰ろうと思うんだが」

 

「えー、もう帰るんですか? 今からもう一度飲みなおすんじゃないんですかー?」

 

 すっかりいつもの調子を取り戻してるところ悪いが後輩よ。

 今から飲みなおすと明日になっちゃうでしょ?

 

 深夜にバカ騒ぎして壁ドン食らって気まずくなるの俺だからね。

 壁ドンの被害を受けるのは俺だけなんだからね。わかってる?

 

「今から飲んでたら朝になってしまうぞ。さすがに夜通しはまずいだろ?」

 

 出た先輩の常識人ムーブ。普段は何皮かぶってるんだって思ったりもしなくもないけど、今日ばかりは頼もしいと感じてしまう。

 

 なるほどこのギャップがあるから、部長は先輩が暴走してもあんまりきつくは言わないのか。

 

 やるときはやる女って感じで認められてるのかな。

 できるなら暴走もしてほしくはないんですけど。

 

「私はお泊りも辞さない覚悟です」

 

 ぐっとこぶしを握ってこちらに笑いかけてくる後輩。

 

 いやそこは辞せよ。

 さっきまでとのテンションの差はなんだ。さっきまで黄昏ムードでなんか知らんけどどんよりしてたじゃん。

 何そのテンションの持ち直し。もはや怖くなるわ。

 

「まあ後輩がどうしてもというのであれば……」

 

 あれ、これもしかして本当にお泊りコースになるパターン?

 俺普通に寝たいんですけど。

 

「私は先に失礼しようかな。二人で楽しんでくれ」

 

 先輩はさっさと帰り支度を始めながら立ち上がった。

 

「え、先輩私を置いていくんですか」

 

「しょうがないだろう。まあ二人でも大丈夫だろ」

 

 あれ、今日先輩が俺の家来たのって、女性一人で一人暮らしの男の家に行くのは危ないからとかそんな理由じゃなかったっけ。

 結局先輩が先に帰っちゃったら先輩が来た意味なくなりますよね。

 

「すまないな。家で待っている者がいるんだ。怒られてしまう」

 

「……あー。なるほどぉ」 

 

 後輩は先輩の言葉を聞いて納得したように先輩を引き留めるのをやめる。

 

 うん、猫ね。猫の話。

 

 先輩大事なところぼかすからみんなに勘違いされるんですよ。

 後輩も絶対勘違いしてるからね。

 

「おいしいごはん作ってあげるんですか?」

 

 俺は後輩が誤解しないように話を広げてあげる。

 これで先輩がうまく返してくれれば誤解は解けるはず。

 俺ファインプレーじゃない?

 

「そうなんだ。本当に私のご飯が好きな仕方ないやつなんだよ」

 

 あ、失敗した。

 もっとややこしくなった。

 

「あーー、のろけはいいでーす」

 

 ほら、やっぱり後輩はますます勘違いしてしまっている。

 そういいながらも後輩も帰り支度を始めている。

 

「あれ、結局帰るのか?」

 

「はい。さすがに先輩と二人きりだとどうなるかわからないので帰ります」

 

 いや、別に何もしないけどね?

 それに二人きりじゃなくて家にはかわいいかわいい幽霊がいるんだけどね。

 

「じゃあ今日はこのあたりでお開きだな」

 

 先輩がまとめに入ろうとしている。

 いやあ、俺の大事な何かが失われそうになったり、後輩に怒っちゃったり、レイに心わしづかみにされたりしたけど、なんやかんやいい一日だったな。

 

「先輩。今日は本当にありがとうございました。それといろいろとすいませんでした」

 

 ふざける様子ではなく、後輩はしっかりと俺のほうに頭を下げてきた。

 まあほんと今更って感じだけど、誠意は受け取っておこう。

 

 どういたしまして。

 ひらひらと手を振って礼を返す。

 

「ふふ、先輩らしいですね」

 

 今のどこら辺が俺らしいというのか。

 俺だってちゃんとお礼されたら返事くらいするよ。

 あれ、俺今どういたしましてって口にだしていったっけ?

 

「ところで九条。最後に一つだけいいか?」

 

 先輩がリビングの扉の前に止まって俺に尋ねてくる。

 後輩も先輩が何を聞こうとしているのか見当がついていないのか、首をひねっている。

 もちろん俺も見当つかない。

 

「ぶしつけな質問で悪いが、この捨てなくてい」「後輩よ、これを進呈しよう!!」

 

 俺は先輩がそこまでしゃべった瞬間、猛ダッシュで机の上にあったカレーもどきが入った鍋をひっつかみ後輩へと渡す。

 後輩は勢いのままそれを手に取る。

 

 忘れてた! もう当たり前になりすぎてリビングに貼ってた『捨てなくていいものリスト』を隠すのを忘れてた!

 しっかりとレイの血文字も書かれているし、これ以上追及されるわけにはいかない。

 

 俺は後輩に鍋を押し付けたまま、二人を玄関へと誘導する。

 

「え。いいんですか? というか、先輩何聞こうとしたんですか。気になるんですけど。扉に何かあるんですか」

 

「なんか……すまなかった。余計なことを聞いてしまったな」

 

 そう思うなら早くお靴を履いて、外に出ましょう!

 

「外は冷えますから、気を付けてくださいね」

 

「そんな外にさっきまで放り出されていたんですけどね……。それと先輩。くれるっていうならこのカレーありがたく頂戴しますけど、食べ終わった後鍋はどうすればいいですか?」

 

 それはお前が悪いから弁解の余地なし。

 

 あと鍋なんて後でどうでもなるでしょ。焼くなり煮るなりして好きにしてもらっていいよ。

 後で返ってくるんなら、俺は気にしない。というかいまはそれどころじゃない。

 

 おい後輩。俺の合間を縫ってリビングに戻ろうとするな。そういうところだぞ。

 

「ほら、帰るぞ。デリカシーが足りないのはお前の悪いところだぞ」

 

「えー、先輩だけずるいですよー」

 

 先輩は後輩の首根っこをつかみ引きずるように外へと連れ出していく。

 あれはたぶん後輩本気で抵抗してないんだろうな。本気で抵抗したら多分先輩の肩外れるだろうから。

 

「邪魔したな」

 

「お邪魔しました。あ、これで先輩の家に来ても安全だと証明できたんでこれからいつでも好きな時に遊びに来れますね!」

「本当に勘弁してください許してくださいごめんなさい」

 

 後輩の無邪気な一言に俺は即座に反応して、土下座をする。

 プライドなんてものは母親のおなかの中に置いてきたからな。

 

 土下座くらい軽いもんよ。

 だからそんなたまり場みたいな感覚で来ないでいただきたい。

 

「え……冗談ですよ。そんなに本気で引かれるとさすがの私も傷つくんですからね?」

 

 後輩はドン引きしている視線を俺に向けながら、土下座姿を眺めながら歩き始めた。

 先輩も俺の様子を見て苦笑いを浮かべながら、歩き始めた。

 

 ……なんかいろいろとダメージは負った気がするが、無事に終わってよかった。

 

 

 無事に! 終わってよかったな!!

 



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92話 一夜の非日常が過ぎ去り、いつもの日常がやってきた

 「ふわあ……」

 

 朝です。おはようございます。

 二日酔いもなく、昨日の出来事が嘘のようにさわやかな朝を迎える。

 

 さて、ここで問題です。

 人を招いたとき、一番めんどくさいことはなんでしょう。

 

 そう、片付けです。

 自分の部屋を抜け出しリビングに入ると山積みになっているシンクが目に入る。

 

「うげぇ」

 

 思わずうめき声が出るほどにひどい惨状。

 空いた缶はいつのまにか後輩か先輩が持って帰ってくれていたみたいだから、それは片づけなくてもいいんだけど、なにより洗い物がめんどくさすぎる。

 

 昨日はさすがに眠気と酔いで頭回ってなかったから、そのまま放置して寝ちゃったんだよなあ。

 

 多分今日片づけをやらなければ一生やらない。

 そんな謎の自信すらある。

 ……あきらめて片づけを始めようか。

 

 

 洗い物をはじめて数十分後、シンクがある程度片付いたところでふと視線を感じ、リビングの入口のほうに目を向ける。

 

 そこにはパーカーが着崩れて、肩がもろだしになってしまっているレイがぽけーっとした顔をして立っていた。

 

「ぽけー」

 

 なにその効果音。なんで今口に出して言っちゃったの。

 やだかわいいんだけど。抱きしめたい。

 

 俺は内側から湧き上がる衝動を必死に抑え込みながら、レイの服を正してあげる。

 触れてる感覚はないのに、ちゃんと肩が隠れているこの感じはさすがにいつまで経っても慣れそうにないな。

 

「…………おはよう」

 

 ぽけーっと口からよだれをたらさんばかりにあけている口から、小さな挨拶が漏れる。

 

 昨日庭で感じた大人びた気配は消え失せ、その様子はいつもの知性が足りてないレイって感じだ。

 悪口じゃないからね? むしろ褒めてる。

 

「プリン食べる?」

 

「……ぽけー」

 

 返事になってないから。その効果音別にそんな便利に使えないからね。

 俺の横を通り過ぎてゆっくりと冷蔵庫に向かうレイ。

 

 あ、自分でとるんですね。しかもその手に持ってるのプリンじゃなくてアイスだし。

 

 プリンじゃなくてアイスのほうが好きになっちゃったの?

 たまにはプリンもどうですか。食べないなら俺食べちゃうよ?

 いいんだね? 食べちゃうからね?

 

 そんなことを念で必死に送っても、すでにレイは机の上に体育座りでアイスをほおばっている。

 ……俺もプリン食べよ。ちょっと休憩。休憩は大事だからね。

 

「あいつら……」

 

 冷蔵庫を開けてまず目に入ったのは、大量のアルコール缶の束だった。

 

 ……そうだった。結局十数本買ってきたけど、結局飲んだのって四本くらいでしょ?

 五本でも余ってるじゃん……。どうするのこの大量のアルコール。

 

 俺もう一年くらいは酒飲まなくていいかなって思ってるんだけど。

 思わず漏れ出るため息を吐きながら、プリンを取り冷蔵庫を閉める。

 とりあえずあの酒たちのことは考えないことにした。

 

 現実逃避ではない。いったん思考を放棄しただけだ。

 あとでちゃんと考えるから。多分。きっと。

 

 レイはそんな俺の悩みなど知る由もなく、相も変わらずアイスを口に含んでもぐもぐしている。

 

 しかし見れば見るほど昨日の面影はないというか、むしろいつもよりもいっそうのことボーっとしているようにすら見える。

 まあこっちのほうが安心するというか、いつものレイって感じがするからいいんだけど。

 

 でもどうしても彼女を見つめていると昨日のことを思い返して考えてしまう。

 

 この様子を見る限りだと彼女がいった『大好き』って発言は、恋愛とかそういうんじゃなくてむしろ家族とか友達に向けたりするそういった類の意味だったんだろう。

 

 例えそうだとしてもレイが自分に対して好意的な感情を持ってくれていることに変わりはない。

 ちょっとずつ近づけばいい。そう思う。

 

「さとる」

 

 名前を呼ばれて顔を上げるといつのまにか体育座りから正座へと変わっていたレイが、こちらに両手を向けている。

 

 すでにその手にも口の中にもアイスの姿は見えなかった。

 結構な時間考えてたかな?

 

「どうした?」

 

 優しく微笑みかけるように彼女に尋ねる。

 今日はどんな話をしようか。何をしようか。どうやって二人の距離を縮めようか。

 

「ちょうだい」

 

 ………………。

 

 とりあえず差し出された両手に向かって顔を近づけると、全力でレイは腕を引いた。

 

 いや、今までちょっと感動的な流れじゃったじゃん? きれいに『fin』手文字が見えそうな感じだったじゃん?

 

 え、結局一口も食べてないよ。このプリン。

 

「ちょうだい?」

 

 小首をかしげながらつぶらな瞳をこちらに向けてくる彼女。

 俺はあきらめてレイの手の上にプリンを置いた。

 

「ありがとおー!」

 

 完全に目が覚めた様子の彼女は勢いよく立ち上がり、受け取ったプリンを頭上に掲げ、くるくると回りながら自分の部屋へと戻っていった。

 

 ……あの子、なんか後輩の悪い部分に影響されてない?

 これは週明けもう一回後輩に説教だな。拒否権は与えない。

 

 

 手をついて天井を仰ぐ。

 

 一夜の非日常が過ぎ去り、いつもの日常がやってきた。

 

 そんな感じがした。

 

 

 

 ……もう今日は片付けしなくていいですか?




ここまでお読みいただきありがとうございます。
これにて後輩襲来編終了です!
個人としても初の文字数に到達し感慨深いものがあります。
またレイと聡が庭でお話をする話は、自分でも満足するものができたと思っています。

またこの場でお礼と謝罪をさせてください。
いつも誤字報告ありがとうございます。
中には名前を間違えていたりと、致命的なミスを冒してしまっている箇所もあり大変申し訳ございませんでした。
なるべく皆様が作品に没入できるよう見直しをしっかりと行うようにいたします。

今後は少し二人の日常を描いてから、妹おうち訪問へ突入したいと思います。
今後も本作をお楽しみいただけると幸いです。


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第七章 妹・襲来
93話 幽霊とのわくわく! どきどき! 洗い物講座!


「違う違う、こうシュッパッって感じでやるんだよ」

 

「しゅぱっ」

 

「どぅぅぅぅわあああぶない!!」

 

ブッブー。

 

 包丁が宙を舞う。 

 そしてそのまま刃先を下に向け重力に従いシンクに勢いよく突き刺さる。

 

 そう、俺は今レイに洗い物を伝授している。

 ちなみに包丁が舞うのはこれで3回目だ。

 

 もう刃こぼれどころの話じゃないし、こんなの命がいくつあっても足りない。

 どうして刃をスポンジで覆うだけで、そのまま包丁が宙に飛んで行ってしまうのか。

 

 刃物を見たら投げないといけない、そんな暗殺者的ルールがレイの中であるのだろうか。

 俺自身の命の心配などよそに、レイは楽しそうにけらけらと笑いながら泡だらけの両手を天高く振り上げている。

 

 振り上げているってことはもう確信犯だよね?

 もうわざとやってるってことでいいかな?

 

ブーブッブー。

 

 まだまだ先は長い。 

 とりあえず包丁はこのまま放置して、難易度としてはベリーイージーな箸に挑戦してもらおう。

 洗い物で挑戦って意味が分からないけど。

 

「じゃあ箸ね。これは端っこをもってシュッって感じでスポンジを動かす」

 

「しゅっ?」

 

 レイは俺に手渡された箸を持ったまま首をかしげている。

 洗い物の説明って思っていたよりも難しい。

 

 今まで洗い物を論理だててやったことがないから、どうしても感覚的な擬音が混ざってしまう。

 大丈夫、きっとレイならわかってくれるさ。

 

 そう思いながら説明している結果、なぜか泡立った食器や包丁が宙に舞っているわけだが。

 

ブブー。

 

 さっきからスマホの通知がうるさい。

 こういう時に連続で来る連絡なんていい思い出がない。

 大体常識をどこか遠いところに置いてきた非常識な後輩くらいからしか連絡は来ない。

 

「しゅっ」

 

「なんっで!?」

 

 スマホを取り出そうとポケットに手を突っ込んだ瞬間、何を思ったのかレイは箸をとうとうスポンジに通すことなく、俺のほうに突き出してきた。

 しかも笑顔で。

 

 なんなの。実は俺にうらみでもあるの。今完全に俺の眼球めがけてきたよね。

 レイの身長がもう少し高かったら、俺の眼球お陀仏になってたからね。

 レイの身長が低くてよかったー。

 

「もういっかい!」

 

「だからなんで!?」

 

 何かを察したのか、微量の冷気を放ちながらレイは箸で突き攻撃を繰り出してきた。

 しかも今度はちょっとジャンプしながら。

 

 完全に俺を盲目にしようとしてやがる。

 大丈夫、レイに対してはもう十分盲目だから。

 

 こんなことしても許してるんだから、物理的に俺の目をつぶそうとしないで!

 危ないので箸は没収する。

 

 包丁ではなく、少し危険度が下がった箸で狙ってくるあたりやっぱり確信犯だと思うんだよな。

 しかしここまで洗い物という行為を知らないとは思わなかった。

 

 いや、あの『深紅の惨劇事件』を何度も繰り返されたら何とかしてあげなきゃって思うじゃん?

 

 でもいざ教えようと思ったら俺は不死身の再生能力を手に入れなければならない。

 そんなファンタジー的能力現代社会にはないからね?

 ということはレイには洗い物を教えてあげられないということになってしまう。

 

「つかれた」

 

 そうだよね。午前中ずっとシンクの前に立ってるんだから、疲れたよね。

 よし。今日はここまでだ。これ以上やると俺の寿命はマイナスまで縮んでしまう。

 

「手、泡まみれだぞ」

 

 シンクに刺さっている包丁は見て見ぬをしたまま、水道をひねる。

 レイは素直に手を伸ばすとそのまま手を水で濡らして、泡を落としていた。

 

ブッブー。

 

 そういえばなんか連絡が来てたんだっけか。

 命の危機にさらされていてすっかり忘れてしまっていた。

 俺はようやくスマホを取り出すとチャットアプリを開く。

 

『先輩。来週の土曜日に』

「うん、これは見なくていいやつ」

 

 思った通り、連絡してきたのは非常識後輩だったようだ。

 やっぱり見なくてよかったんじゃないか。

 

 ……ん?

 後輩のチャット画面を開いて既読スルーしても、通知の数が残ったままになっている。

 

 ニュースとかお知らせとかはすべて既読にしてるから……誰だ?

 俺は首をかしげながら、チャット欄を見る。

 

 レイもそんな俺の真似をしているのか首を大きく曲げながら、俺のスマホ画面をのぞこうとピョンピョンはねている。

 

「ゲッ」

 

「げっ」

 

『へい、バカ兄貴元気してる?』

 

 思わず開いてしまったチャット画面をそっと閉じる。

 これは見なかったことにしよう。それがいい。

 チャットなんて馬鹿な後輩からしか来ていなかった。そういうことにしよう。

 

ブブー。

 

 どうやらそういうことにはしてくれないらしい。

 俺はため息をつきあきらめたように、再びチャット画面を開く。

 

 レイもため息をつきながら、外国人ばりの両手を挙げて首を振っている。

 俺そんなにオーバーリアクションしてないからね? というか、俺の真似するの好きなの?

 いや、可愛いからいいんですけど。

 

『おい、無視するな。返事しろ』

 

 どうやら俺がしている行動は相手に筒抜けだったらしい。

 

『まあいいや。今度そっち行く用事があってさ。ついでにバカにいの家に行くから。よろしく』

 

 ……何も返せない。俺にとってそれは死の宣告そのもののように思えた。

 

『かわいい妹がわざわざ家に出向くんだから、しっかりおもてなししてね。お兄ちゃん♡』

 

 そんなメッセージを最後にチャットは途切れる。

 いや向こうから一方的に話をされただけだから会話になってないんだけど。

 

 ……まじか。

 

 思わずその場に膝から崩れ落ちる。

 最近家に訪問イベントが多すぎるんじゃないですかね?

 

 ……レイ。マネするのはいいけど俺と重なるように膝をつくのはやめて。

 中身が見えるんじゃないかと思って、普通に怖いから。

 

 

 

 



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94話 ハイスペックな妹とロースペックな兄……どこのラノベですか?

 俺には妹がいる。

 確か今年20歳とかそのくらいだったと思う。

 

 高校卒業と同時に専門学校のために一人で都会へと向かったチャレンジャー。

 何の専門学校だったか忘れたけど、実家を出てからはほとんど連絡を取っていなかった。

 

 いや別に仲が悪いとかそういうわけじゃない。

 うちの家族感的にそう頻繁に連絡を取る感じじゃないから、自然と妹とも連絡を取っていなかっただけの話だ。

 

 しかし妹が絡んでくるときはたいていろくなことがない。

 俺はこんなにも普通な人間で、いたって普通に幽霊との生活を楽しんでいるというのに、あいつは普通を逸脱しすぎているのだ。

 

 類まれなる美貌を持ち、モデルのようなスタイルをしている。

 そして一度熱中したことに全力で、確か専門学校に行ったときにはその分野の知識はあらかた調べつくしたみたいなことを言っていた気がする。

 

 別に俺の両親が超絶イケメンと超絶美人で、美人が生まれて当然。みたいな環境ではない。

 

 それだったら俺がガチャのはずれ枠引いたみたいになるからね?

 逆に平平凡凡な家庭から、SSR、UR級の人間が生まれてきてしまったのだ。

 

 その美貌から学生時代はあらぬ噂をよくたてられた。

 そもそも俺と似なさ過ぎて兄妹に思われないのだ。

 

 街中を歩いていても「不釣り合い」だの「なんであんな男と」だの、いわれのない誹謗中傷。

 いや妹とお似合いだって言われてもそれはそれで嫌なんだけど!

 

 しかも妹はそれを楽しむがごとく、そういう声が耳に入ると恋人のような振る舞いをし始める。

 その演技力の高さに周りの人はみんな騙される。

 

 俺ですら一時「あれ、俺たちって兄妹じゃなくてカップルだっけ?」と思ったことがあるくらいだ。

 まあそれを妹に言ったらガチで引かれて、一か月ほど晩御飯が犬のえさになった。

 

 そんな超ハイスペックトラブルメーカー妹が家に来るらしい。

 

 ……いい予感がしない。

 まあレイに関してはこの間の会社相談会もとい飲めないやつらの飲み会で、俺以外には見えないことが判明しているから安心してもいいけど、それはそれだ。

 

「外には出れないなあ」

 

 妹には申し訳ないが、俺の家にいる間は外出禁止令を発令しよう。

 俺の家から妹が出てくるだけでも噂になるし、一緒に外に出ようものなら学生時代にいやというほど味わった誹謗中傷をまた味わう羽目になってしまう。

 

 恨むなら兄貴のイケメン要素をすべて奪って生まれてきた自分を恨むんだな妹よ。

 しかし今度っていつだろう。

 

 家に来るんならそれくらい伝えておいてほしいものだが。

 このチャットの中には全くそれが書かれていない。

 

 報連相大事だよ? おもてなしって言われたって、いつ来るのかわからなければ俺は何も準備できないんだから。

 お兄ちゃんをいたわってほしいものだよ。まったく。

 

「さとるー。つづき」

 

 お、過去を振り返っていたらレイが洗い物の続きをやる気になったらしい。

 俺の袖を引っ張ってシンクへと連れて行こうとしている。

 そのやる気が殺る気じゃなければいいのだが。

 

「よろしくおねがいします!」

 

 レイはシンクに向かって深々と礼をしている。

 なんだろう、この試合前の緊迫感は。

 

 よし、俺も気合入れるか。

 妹のことは後回しだ。妹のことよりレイのほうが大事なんだ。それは間違いない。

 

 俺はシンクに突き刺さっている包丁を力任せに引き抜くと、ゆっくりとレイに渡す。

 

「やり方は覚えてるよな?」

 

 レイはスポンジと包丁を片手ずつに持ったままコクコクとうなずいている。

 返事だけはいいんだよなあ。

 もうすでに包丁の刃先がこっちに向いてるから怖くて仕方ないんだけど。

 

「しゅっ!」

 

 ほら、なんか包丁振り上げてるし。

 

「ぱっ!」

 

 勢い良く振り上げられた包丁はレイの手のもとを早々に離れて宙を舞う。

 その行先は庭へと続く窓だ。

 やばいこのままだと窓を突き破りそう!!

 

 放物線を描いて窓に一直線に向かう包丁を呆けた表情で見つめているレイの隣を走り抜けると、落ちてきた包丁が手に届く位置にスタンバイする。

 

「おらこいやー!!」

 

「がんばってー!」

 

 いや、応援してくれるのはいいけどさ。こんなことになってるのはレイさんのせいですからね?

 いつの間に両手にスポンジ持ってるの?

 

 そして洗剤がついた状態でポンポンみたいに振り回さないでね。

 床がすごいことになってるから。

 

 レイの謎の応援を受けながら、俺は包丁を向き合う。

 あ、意外と近い。当たるかも。

 一か八か俺は真剣白刃取りの要領で、包丁に向かって両手を突き出す。

 

 …………。

 

「おー」

 

 一瞬の静寂の後にレイの感心したような声とラップ音のような拍手の音が部屋に響く。

 包丁は俺の両手に綺麗にとらえられていた。俺の顔の目の前で。

 

 あと一寸でも反応が遅ければ、俺は大けがをしていたに違いない。

 心臓の鼓動が早まっていく。

 

 一回、感心しているレイに怒ってもいいかな? いいと思うんだよね。一回くらいなら。

 態勢も背中をのけぞっているせいで不安定だ。

 しかしここで倒れようにも、その反動で手が動けば俺の顔に傷ができる。

 

 なんとかない筋力を使って己の体を持ち上げなければならない。

 この態勢もまあまあきついし。

 

ぴんぽーん。

 

 そんな緊迫した状況の中、気の抜けるようなインターホンの音が鳴り響く。

 だれ!? こんな生死がかかってるときに!

 

 レイはピンポンの音にびっくりしたのか、脱兎のごとくリビングから去って行ってしまった。

 

 こんな状態で出れるわけがない。

 そんなことを思っていると扉が開く音がする。

 

「あれ、開いてるじゃん。いくら田舎だからって不用心じゃない?」

 

 待って。この聞き覚えのある声は……。

 

「さと兄? きたよー? 元気してるー?」

 

 インターホンを鳴らした相手はそのままリビングの扉をあけ放ち、今まさに包丁と向かい合っている俺と目が合う。

 

「やあ妹よ。兄は元気だよ」

 

「…………」

 

 口をポカーンと開けたまま、立ち止まりこちらを見つめてくる妹。

 ああ、気持ちはよくわかる。俺も逆の立場だったら混乱して、そっと家から出てるかもしれない。

 

「ちょっと、さと兄なにしてるの?! いくら不細工だからって早まらないで!!」

 

 妹は目をひん剥きながらダッシュで俺に近づくと、俺の手から包丁を奪い取った。

 もしかして俺自殺しようとしてると思われた?

 

 ……というか俺は不細工じゃねえ! フツメンだよ!!

 



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95話 大人になるほど間違ったことしても誰も怒ってくれなくなるっていうけど、それでも妹に説教されるのは何か違うと思う。

 まさかこの歳になって人前で正座をする日が来るとは思わなかった。

 学生時代の全校集会の時に話を聞く態勢って体育座り派かあぐら派で別れると思うんだけど、俺はもちろん正座派だった。

 

 正座が一番しゃべってる人の顔がよく見えるからね。

 校長の顔とか先生の顔を見てても意味ないんだけど。むしろ寝てたから顔なんて見えてないんだけど。

 

 でもほら、なんというか正座って真面目な印象あるでしょ?

 寝てると不真面目だけど、正座してるから真面目。

 

 ほらプラスマイナスゼロ。なんて利己的!

 まあ集会が終わって解散するとき、大抵足がしびれて次の授業に遅れてたんだけど。

 あれ、そうすると結局プラスマイナスマイナス?

 

「ちょっとバカ兄貴! 話聞いてるの!? 聞いてないんでしょ! 知ってる!」

 

 さすが血のつながった家族だ。俺のことをよくわかっている。

 そう、俺は実の妹の前で正座をしている。というかさせられている。

 

 どうして俺は今説教されているんだろう。

 助けてもらった後に、自殺しようとしているわけではないって言った気がするんだけど。

 

 あれ、言ったっけな? 仮に言ってなかったとしても、わが妹ならわかってくれるはずだ。

 

「それで? 何があったの? なんかつらいことでもあったの?」

 

 割とまじめな感じで妹が問いかけてくる。

 お、これはそろそろ正座を解除してもいいんじゃないだろうか。

 

 説教が始まって10分くらい経過したころからすでに足の感覚がない。

 俺の足はちゃんと機能しているか確認したいから、もう足崩してもいいかな。

 いいよね?

 

「ステイ。何勝手に足崩そうとしてるの。ダメに決まってるでしょ」

 

 シリアスな雰囲気にかこつけて、足を崩そうとしたらしっかりと怒られて。

 しかしステイって。俺は犬じゃないんだから。

 

 仮にもあなたの兄だぞ。

 妹にすべてが劣っているとしても、俺のほうが兄だというそのただ一点だけは変わらない。

 

「かわいい妹が来てあげたんだから、全部話してみなさい。相談くらい乗ってあげる」

 

 妹が優しい笑みを浮かべて俺を見下ろしている。

 あれ何この包容力。もしかして妹って姉だったのでは?

 

 しかしそんな妹の発言を顧みて、俺も一つ思うことがある。

 妹から家に行くといわれたのはさっきのチャットが初耳だ。

 

 それなのにどうして今妹はすでに俺の家の中にいて、俺に説教をしているのか。

 今度行くからと言って、その直後に来るなんてそんなのあり?

 

「何しに来たの?」

 

 だから素直に疑問に思ったことを聞いた。

 それなのに妹の顔がどんどん変わっていく。

 

 まるでその顔は般若の仮面のように……まあ般若をあんまりよく見たことがないんだけど。とにかくそれはもう恐ろしい顔になっていた。

 

 美人が台無しだぞ。

 

「私が珍しくバカの心配してあげてるっていうのに、何その言い草!」

 

 自分で珍しくとか言っちゃうんだ。自覚あるんだな。

 多分自分でも優しいお姉さんムーブしてて、途中で恥ずかしくなったんだな。

 

 あとバカってもうただの悪口だからね。お兄さんでも家族でもなくなってるから。

 お兄ちゃん悲しいなあ。

 

「はあ。心配して損した。お風呂入る」

 

 そういって妹は俺に背を向けると、リビングから出ていこうとする。

 あれ、まだ話し終わってなくない?

 

「そもそもどうやって俺の家に?」

 

 妹に家の住所を教えた記憶はない。というかお互い一人暮らしを始めてから連絡すら取ってないんだから、教える機会がない。

 

 それなのに妹は今俺の家にいる。

 もうなんか当たり前のように風呂に行こうとしているけど、いったいどうやってこの場所にたどり着いたんだろうか。

 

 別に俺特定されるようなことしてないよ? SNSもやってないし。

 もしかして俺が住んでいるところの、あらゆる場所のピンポンを鳴らしまくったんだろうか。

 俺はそんな非常識な妹に育てた覚えはないぞ!

 

「そんなの、お母さんに聞けば一発でしょ」

 

 あー、うちの親経由か。

 どうやらご近所さんの家を片っ端からピンポン無断訪問をしてきたわけではないようだ。

 

 確かに引っ越した当初教えたような気がするな。

 そんなこと忘れてたけど。

 

「あれ、俺お前の家の住所親から聞いてないけど」

 

「はあ? そんなの当たり前でしょ。高尚なレディーの住所をそう簡単に特定させるわけがないじゃない」

 

 はい! 意義あり! 俺だって高尚なボーイだと思います!

 そこは男女平等で俺にも公平に妹が住んでいる場所を公開するべきだと思います!

 

「それに別にさと兄は私が住んでる所教えたって来ないでしょ」

 

 さすが妹、よくわかっている。

 もちろんいくつもりなんてない。

 

 だって妹が住んでいるところ都会だよ? 都会って夜歩いているとおやじ狩りと出くわすんでしょ?

 おやじじゃないのに狩られちゃうんでしょ? そんな世紀末な場所に足を踏み入れたくない

 

「あのね。さと兄が思ってるほど、都会は怖いところじゃないから」

 

 顔だけこちらに向けてそう言い残した妹はため息をつきながら、今度こそリビングから出ていく。

 妹よ。それはもうお前が都会に染まってしまっているからそう思うだけだぞ。

 

 トカイコワイ。

 

 



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96話 幸福の後にはたいてい避けようのない不幸が待っている。

 俺に言いたいことだけ言って、俺の言いたいことは全く聞いてもらえずそのまま風呂へと向かった妹。

 

 きっと今頃都会で薄汚れてしまった心を田舎の汚い水で洗い流しているのだろう。

 いや別にうちのシャワーは汚くないけど。そもそもシャワーで心まで洗えるのか知らないけど。

 

 少なくとも俺はやったことないし、そんなことをやらなくても俺の心は純粋な少年のような、きれいな心を持っているはずだ。

 

 そもそも『心』とはどこにあるのか。

 

 心臓? 頭の中?

 どちらにせよ、心臓か脳みそを体の中から抉り出し水を浴びせる。

 

 ……想像しただけで吐き気がしてきた。

 どんなホラー映像だよ。実の妹が兄の家の浴室でそんなことをしてたら、全力でこの家から追い出すね。

 

「さと兄~、着替え持ってくるの忘れたから、持ってきて~」

 

 おっと妹様のお呼びだ。

 しかし兄をパシりに使うとは何事か。

 

 しかも着替えだと?

 仮にも年頃の女子が男にそんなことを頼んで恥ずかしくないのか。

 

 ……あいつは俺に対してそういう感覚はないだろうな。

 俺も別にあいつの下着を見て興奮するような特殊性癖は持っていないし。

 

 いや、あいつは確かに美人だ。

 家族というひいき目でなくても、十分に可愛い。

 

 おそらく学校で同じクラスだった場合、思わずあいつがいる方に目を向けてしまうくらいには美人なのだろう。

 

 しかし『妹』という存在は不思議なもので、どれだけ芸能人級に可愛かったとしても女性としてみることは絶対にない。

 

 好きになることはもちろん、妹の下着を見て興奮するなど想像すらできない。

 無理やり想像したとしても、そんな状況に嫌悪感すら抱く。

 

「ちょっとまだー? キャリーケースの中に入ってるから、早くしてー。このままじゃ可愛い妹が風邪ひいちゃうよー?」

 

 なるほどキャリケースの中か。

 そりゃ俺の部屋をいくら探したって、妹の服が出てくるわけもない。

 

 むしろ出てきたらそれはそれで事案だ。

 そして妹よ。自分で可愛い妹なんて言ってしまうと、兄としてはパシりなんてやめてしまおうかという逆説的心情にならなくもないんだからな。気をつけろよ。

 

 妹のキャリケースをあけて、中をあさる。

 あさるといっても大したものは入っておらず、むしろ着替えと化粧品くらいで女性の荷物にしては少ないぐらいに感じた。

 

 まあ女性と旅行なんて行ったことないから、どうして女性が旅行に行くときあんな大荷物になっているかなんて知る由もないんですけど。

 

 妹のくせにやけに大人っぽい下着とジャージを手にして、浴室と隣接している洗面所へと向かう。

 

「きゃーお兄ちゃんのえっちー」

 

 洗面所の扉を開けた瞬間に、耳に入ってきたのはひどく棒読みなありきたりなセリフで、目に飛び込んできたのはその裸体をしっかりとバスタオルでガードして、何も見えないようにしている妹の姿だった。

 俺は特にコメントをせずにその妹の近くに着替えを乱雑に置く。

 

「さすがに無視は悲しいんですけど」

 

「わざとらしくつまづいて、抱きつけばよかったか」

 

「そんなことされたら吐ける自信がある。そしてその吐しゃ物をのどに詰まらせて、自害したほうがまだまし」

 

 そこまで言うなら最初から言うなよ。というか俺は吐しゃ物以下の存在なのか。

 あと、人に自殺するなとか説教しといて自分は簡単に自殺したほうがましって、まずは自分の行いを顧みてから人に説教しなさい。

 

「いつまでそこで突っ立ってるの?」

 

 冷たい視線をこちらに向けながら、シッシッとまるで羽虫を追い払うようなしぐさで、俺を洗面所から追い出す妹。

 

 ……おかしいなあ。ここの家主は俺のはずなんだけどなあ。

 誰かがこの家に来るたびに家主の権限を誰かに奪われている気がする。

 まあ家主の自覚なんてないから、奪われても別に何とも思わないんだけど。

 

「さとる……」

 

 リビングに戻っている途中、背後から声を掛けられ後ろから服を引っ張られているような違和感を覚える。

 

 振り返ると、レイがさみしそうにこちらを見上げながら俺の服をつかんでいた。

 この騒がしい家の中で一人でいることがさみしくなってしまったのだろうか。

 

 寂しくなってしまった結果、俺のところにやってきたというのであれば、なんと愛らしいことだろう。

 

 家主冥利に尽きるというものだろう。

 レイが望むのであれば、俺は家主の威厳を取り戻す努力もいとわない!

 

「さとる」

 

 しまった。うれしくて廊下で立ち止まったまま考え事をしてしまっていた。

 何かジトっとした視線を感じるがきっと気のせいだろう。

 

「こっちくるか?」

 

 そう言いながらリビングへと向かう。

 レイは俺の服をつかんだままついてきた。

 

 まあ妹がいるとはいえ、俺以外の人にレイの姿が見えないことは以前先輩と後輩が家に来た時に判明している。

 だからレイがリビングにいることをそこまで気にする必要はないだろう。

 

 リビングにたどり着き、床に座ると俺の膝の上にレイが乗ってくる。

 いつもは俺の背中の上か、机の上に座ることが多いからこれはレアパターンだ。

 

 もう一つのレアパターンは俺の頭の上で立っていること。

 あれ、バランスとるの相当に難しいと思うんだけど、本人的には楽しそうにしているからそこまで苦じゃないんだろうか。

 

 レイは俺の膝の上で何をするでもなく、ただ小さな頭をゆらゆらと揺らしている。

 俺はその光景を見ているだけで、幸福感に包まれる。

 あー、幸せだなあ。

 

「さと兄、ドライヤーってどこに…………?」

 

 風呂から上がった妹が、女子力もかけらもなく髪をバスタオルでガシガシと拭きながら、リビングへと入ってくる。

 

 そして俺の方に視線を向けた瞬間に、口を開けたままその場で固まった。

 妹が入ってきた瞬間にレイに向けていた自分でもわかるほどの、気持ちの悪い笑みは消し去ったはずだが、もしかして見られていたのか?

 

 そうだとしてもこいつなら一つや二つや三つ何か小言を言いそうなものだが、そうではなくただ目を見開いてこちらを凝視している。

 

 何か様子がおかしい。

 妹の視線の先をよくよく見てみれば、俺の顔ではなく俺の腹部あたりを見ているような気もする。

 

 もしかして……いや、そんなまさかな……?

 

 

「だれ……? その女の子」

 

 

 …………あれ、もしかして見えてます?



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97話 一度転がり始めると止まらないのが、人生なのです。まあ、なんだ、その……頑張れ?

 いやいやいやいやそんなまさか。

 先輩と後輩には見えていなかったんだ。

 

 よりによって妹にだけレイの姿が見えるなんて、そんなこと考えられるか?

 先輩と後輩には見えなくて、妹にだけ見えている理由。

 俺と妹がレイの姿を見ることができる理由なんて、何かあるか?

 

「ドライヤーならそこに」

 

「そんなことはどうでもいいの」

 

 とりあえず気でもそらしておこうと思ったが、言葉をかぶせるように妹に発言を遮られて、あえなく失敗。

 

「私怒らないよ? お兄ちゃんがどんな罪を犯していたとしても怒らないから説明して? ほら、私たち家族じゃない」

 

 やけに冷静かつ静かな口調で語りかけてくるのが逆に怖い。

 家族……そうだった。俺とこいつとの共通点ならある。

 

 血のつながり……当たり前すぎることだし、容姿が違いすぎてたまに忘れるが強力な切っても離れない共通点があった。

 

 つまり俺の家族にはレイの姿は見えるってことか?

 

「お兄ちゃん? 黙ってたらわからないよ?」

 

 しまった。妹のやつかなり怒っている。

 ここで黙り続けているのは悪影響しか生まないのはよくわかっている。

 

 わかってるけど……どう説明したらいいわけ!?

 

 助けを求めるようにレイへと目を向けるが、彼女は我関せずといった様子で体を揺らし続けている。

 いや君がここにいるから、こんな事態になってるんだからね? わかってる?

 

 ……わかってないんだろうなあ。

 

 というか俺と初対面の時はビビり倒して逃げていたのに、なんで今はそんなに落ち着いてるの。

 反応が違いすぎてちょっと悲しくなるんだけど。

 

 ま、まあそれはいいや。

 今はとりあえずこの状況を打破するために、何か言い訳を……!

 

「……なりゆき?」

 

 ……ぬあああああ!

 なんで口をついて出た言い訳がよりによって、なりゆきなんだよ!

 そんな説明で誰が納得するんだ。そもそも説明になってない。

 

 ほら見てくださいよ、目の前で煙を上げている女性の表情を。

 もう美人が台無しになるくらい、美人の跡形もないくらいその顔面がゆがんでしまってますよ。

 

 俺はここから挽回すれば、死を免れることができるのか想像もつきません。

 やめて、近づいてこないで。

 

 それ以上近づいたら俺は燃えカスになってしまうような気がする。

 真っ白に燃え尽きるんじゃなくて、真っ黒な消し炭になりそう。

 

 あとどうしてレイはこの状況で俺のズボンを引っ張って、脱がそうとしてるの?

 先輩に悪い影響でも受けたの?

 

 そうだとしても今やることじゃないだろ!

 目の前の燃え盛る炎が見えないのか!

 

「お、落ち着け」

 

「落ち着け? この状況を見てどうやって落ち着けっていうの? 誘拐してきたの? もう遅いけど、自首すればまだ罪は重くならずに済むかもしれないよ?」

 

 俺に諭すように話しかけながら、じりじりと距離を詰めてくる妹。

 

 確かに気持ちはわかる。

 一人暮らしだと思っていた兄の部屋に、見知らぬ女子が居座っていてしかも俺になついている。

 

 そんな状況が急に目に入って動揺しないわけがない。

 ああ、気持ちはわかる。

 だが説明が難しすぎる!!

 

 レイ、ズボン引っ張らないで! なんでそんなに脱がしたがるの!

 その行動のどこに楽しさを見出したのかまず説明して!

 せめて俺とレイだけの時にやって欲しい。

 

「私お兄ちゃんのこと信じてるんだよ? こんな光景を見た今でも信じたいと思ってるんだよ? まさか私のそんな純粋な気持ちを踏みにじる気?」

 

「まず説明をだな」

 

「どうぞ?」

 

 正直レイが発する冷気の数倍冷たい氷点下に達しそうな視線で、こちらを見つめる妹。

 

 こんな時にとっさに言い訳が思いつけばいいんだが、レイの攻撃を阻止することに意識が向けられすぎていて、話に集中できない。

 

 いやいくらお兄ちゃんだとしても、実の妹の前で下半身露出するのは避けたいじゃないですか?

 それにこんな空気の中でいきなりパンツ一丁になったら、俺は本当にこの世からサヨナラしなければいけなくなってしまうかもしれない。

 

 いや、かもしれないではなく確実にそうなる。

 だから自分の命を守るためにも今の行動を止めるわけにはいかない。

 

「お兄ちゃん?」

 

「うわあ!!」

 

 妹が眼前に迫り、俺を見下ろしたタイミングで、レイが突然声を上げる。

 

 手が滑ったのか、そもそもそんな概念があるのかわからないけど、とにかく突然俺のズボンから手が離れたレイは、勢いに任せて体が後ろに倒れた。

 

 

 そう、俺の膝の上に乗っている状態で、後ろに倒れたのだ。

 

 

 俺の背筋にヒヤッとした感覚が走る。

 それがレイの冷気によるものだったのか、今後の展開を察して発生したものなのか定かではない。

 

 そして再び妹は目の前の光景を見て、信じられないと、こちらへ訴えかけてくるかのように目を大きく見開く。

 

 そして、ずっと我関せずを貫き通していたレイの体は俺の腹部を貫通し、背中から顔をひょっこりとのぞかせていた。

 可愛げのあるその足は大きく天井に向かって伸びている。

 

 一体妹の目線からはどういう光景が広がっているのだろうか。

 一瞬その場所を交代してくれたりしないだろうか。

 

 

 …………。

 

 

 急募。この状況を打開できる天才的言い訳。

 だれか助けて……。

 



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98話 妹とのラッキースケベって何のご褒美でもないし、それなら幽霊とのラッキースケベの方がうれしいしむしろご褒美……いえ、なんでもないです。

「ちょちょちょちょっと!! ななななにやってるの!?」

 

 何やってるのって、俺が知りたいんだけど。

 レイはすっころんだままバタバタと足を動かしている。

 もちろんレイの体は俺の腹を貫通しているままだから、俺自身の悪寒は止まらない。

 

 というかあんまり叫ばないでくれないかな。

 多分同じマンションに住んでいる人なんだろうけど、あまり騒がしくした次の日とかにそのおばちゃんに会うと、すごい白い目で見られるんだからね。

 いくら夕方とはいえ、そんな大声で叫んだら俺めちゃくちゃ白目剝かれるよ?

 

 それに何事じゃなくて、何やってるのっていったいどう答えれば正解なんだろう。

 俺としては今俺の身に起きている出来事を、全力で妹から隠したい一存ですが、隠そうとしてもレイの体は透けるから隠せるわけもない。

 

 むしろ体を折り曲げようものなら、背中とか足とか顔からレイのあらゆる何かが飛び出してしまって、それこそ放送事故レベルの人体不思議ファンタジーになってしまう。

 

「その子大丈夫なの!?」 

 

 何を心配しているのか妹はおろおろしながら、パタパタとかわいらしく動き続けているレイの足を見つめている。

 レイは大丈夫だろ。むしろ俺の方を心配してほしいんだけど。

 

 レイがいつまで経っても起き上がろうとしないから、最早鳥肌を通り越して蕁麻疹が出始めたんじゃないかって思うんですけど。

 

 あ、いや、別に蕁麻疹って嫌とかそういう悪い意味じゃないからね?

 寒気やら悪寒やらで鳥肌が経ちすぎて、ぶつぶつがずっと体に出てるから蕁麻疹みたい~っていう比喩だからね?

 

 だからレイさん冷気を増幅させないでもらってもいいですか!

 え、聞こえてる?

 

「妹よ、これは違うんだ……」

 

「なにこんな状況でシリアスぶって『妹よ』とか言っちゃってるのよ! かっこよくないから。それに違うって何が違うの? 何がどう違ったらそんなことが起きるの?」

 

 だめだ、妹が混乱している!

 

 早く何とかしなければ妹の脳みそがショートしてぱっぱらぱーになってしまう!

 もともとぱっぱらぱーで救いようがないのかもしれないけど、まだなんとかなるはずだ!

 

「と、とにかくその子助けてあげないと!」

 

 俺の心配をよそに妹は焦ったように前のめりになって、バタバタしているレイの足を掴もうと手を伸ばした。

 

 まさか俺と違って妹はレイに触ることができるのかと思ったけど、当然のごとく妹の手はレイの足をすり抜け、そしてその光景を凝視した妹は再びフリーズ。

 

「え、ちょ……」

 

 しかしフリーズしたタイミングが悪かった。

 前のめりになってバランスを崩している状態での体勢固定。

 

 都会で何をやってるのかは知らないけど、きっと俺と同じで運動はそれほどしていないであろうわが妹がそんな不安定な体勢を維持できるほどの、筋肉量があるはずもなかった。

 

「ちょっと、どいてー!!」

 

 どいてと言われましても。

 いいか? こういう時こそ冷静に考えるべきだぞ。

 

 重力に従って倒れてくる妹、それをよけるにはどのくらいのスピードで俺はここから移動しなければいけないのか。

 

 移動するためにはまず立ち上がらなければならない。 

 ほら、この時点で俺が立ち上がろうと膝を立てたらむしろ妹の顔に俺の膝が激突するかもしれない。

 

 かもしれない行動って大事なんだよ?

 だから俺がここでとるべき対処はむしろ

「ふべし!!」

 

 考えている途中で妹は俺に覆いかぶさるように倒れて、俺はそのまま押しつぶされる形で一緒に床に倒れてしまった。

 

「お、重い……」

 

 あ、やべ。そう思った時にはもう遅い。

 だってよりによって思わず口に出していってしまっているんだから、超至近距離にいる妹にはばっちり聞かれてしまっている。

 

「重いって何? 私これでも同年代の女の子の中では相当軽い方なんですけど。平均体重以下ですけど何か?」

 

 起き上がり俺に馬乗りになるような形でそれはもう冷たい視線で見降ろしてくる妹。

 もう俺、冷たさの板挟みでどうにかなっちゃいそう……。

 

「って、そんなことよりその子大丈夫!? ていうかなんかお兄ちゃんと顔が重なってるけど、お兄ちゃんも大丈夫!?」

 

 今日はよくお兄ちゃんと呼んでくれる日だなあ。

 

 妹が小さい頃はよくお兄ちゃんお兄ちゃんと俺の背中を追いかけていたものだが、いつの間にか俺を追い越して俺が背中を眺めるようになってしまった。

 

 呼び方もそれに応じてバカと間抜けを経由して、今はさと兄に落ち着いているわけだし。

 

「大丈夫。レイは幽霊だから」

 

「お兄ちゃん……?」

 

 おーまいがー。

 なんかよくわからん感傷に浸ってたら、勢い余って口が滑ってしまったぞ?

 妹の方を見るのが怖い。

 

「……こんなかわいい子のことを幽霊だなんてなんてこと言うの!!」

 

 …………ん?

 てっきり変な目で見られると思っていたら、思いのほか予想外な返事がきたぞ?

 

 レイが可愛い? いやそりゃレイは可愛いけれども。

 そんなことは当たり前なんですけど。いまさら確認する必要もないけど。

 

 でも面と向かって言われると嬉しいなあ。別に喜んでないけどね?

 当たり前のことだから。

 

「え、なんでそこでさと兄が照れてるわけ? 照れる基準がよくわかんないんだけど。さと兄のこと褒めてるわけじゃないんだけど」

 

 今度こそこちらを引いた目で見つめてくる妹は、すっと立ち上がりじりじりと俺から距離を取ろうとする。

 待って、これは俺が悪かった。 

 

 つい、ついなんだよ。 

 しょうがないでしょ。好きな子のことを褒められたらついにやけちゃうのが、男ってもんでしょ。

 

 お前こそ男のこと理解してる?

 俺は女のことなんて全然わかんないけど。

 

「せ、説明するから」

 

 苦し紛れに出た言葉は、事実上の敗北宣言だった。

 当然でしょとでも言いたげな顔で俺から十分な距離を確保した妹は、そこで座って俺の言葉を待つ。

 

 

 ……さて、何と説明したものか。



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99話 転がり落ちた結果、最大の不幸がわが身に降りかかる。

「つまりなに? いまさと兄の後ろに隠れているその子は幽霊で、いつの間にか家に住み着いていて、怖いのを隠すために接していたら、懐かれたってこと?」

 

 疲れた……。

 あの状況から逃れる術など結局あるわけもなく、俺は洗いざらいすべて妹に話す羽目になった。

 

 まあ一部正しく伝わっていないようだが。

 俺は最初からレイに怖さなど感じていない。

 

 素直な気持ちでぶつかっていたら懐かれていた。

 ただそれだけの話だ。……ほんとだよ?

 しかしそれを否定することすら億劫だった俺は、とりあえず首を縦に振る。

 

「ふーん?」

 

 なんかもう3年分くらいしゃべったような気がする。

 普段働かない口を突然過重労働させると、全身が疲れるんだな。

 人間の神秘っていうか新発見だ。

 

 ただ俺がここまで頑張ったとしても、妹が納得してくれるかどうかはまた別の話だ。

 もし俺が妹の立場だとして、突然幽霊がどうのこうのって言い始めても信用なんてできるわけがない。

 

 でも本当なんだから仕方ないよなあ。

 ちなみになんでレイが俺の背中の後ろに隠れているかというと、あのひっくり返った状態から一回転して俺の身体を完全にすり抜けたレイは、そこでようやく妹が目の前にいることに気づいた。

 

 俺の身体をすり抜けたことで、目の前にあったちょうどいい俺の背中を隠れ場所に使ったということだ。

 

 ……なんで目の前に来るまで気づかないのさ。俺のズボンに気を取られすぎじゃない?

 俺が初めてレイの姿を確認した時も思ったが、幽霊なのに人の気配を察知する能力が鈍すぎる。

 

 妹は俺とレイを交互に見つめて、なにやら首をひねっている。

 もちろんこんな状況で俺が口をはさむわけにもいかない。

 

 というか正直もうしばらくは口を開きたくない。

 これ以上口を動かすと顎とか頬とかが外れそう。

 

「なるほどね、理解した。というかあんなの見せられたら納得するしかないでしょ」

 

 妹はレイをまっすぐに見つめながら、うんうんとうなずきながら何か納得をしたみたいだ。

 レイのことを幽霊だと認めるということだろうか。俺の話を信じてもらえた?

 

 あんな無茶苦茶な状況で、無理やりな説明を受けて納得できるなんてもしかして俺の妹って……ちょろいのでは?

 

「よく騙されない?」

 

「はあ?」

 

 お兄ちゃん、妹が詐欺に引っかからないか心配だよ。

 最近携帯に俺を名乗る人物から電話とかかかってきてないよね?

 

 妹の中で俺よく事故にあったり入院したりしてないよね。

 我ながらあの説明で納得してもらえるとは思っていなかった。

 

「あー、そういうこと。大丈夫だよ。さと兄だから信じたんだし、目の前で超常現象を目の当たりにしたんだから、信じるしかないでしょ。それにこのご時世、幽霊くらいで驚いてたら生きていけないって」

 

 どうやら妹は単純に心の広い人物だったようだ。  

 いくら心が広いといっても、実の兄が幽霊と一緒に仲良く暮らしてたらびっくりすると思うけど。

 

 それにしても超常現象か。

 俺にとってはこれが当たり前になっていたから、そんな感覚とうの昔に忘れてしまっていた。

 

「ちゃんと見ればかわいい子だし、さと兄になついてるし、悪い子じゃなさそうだしね」

 

 ちゃんと見なくてもレイは可愛いだろ、ちょっと自分が美人だからって調子に乗るんじゃないよ。

 訂正しなさい。

 

「……おいで?」 

 

 怒り狂っている俺を無視して、妹は後ろにいるレイに向かって手招きする。

 もちろんビビりまくっているレイが、彼女のもとに近寄るわけもなく冷たい空気を大量に放出しながら、俺にしがみついている。

 

 いやこれ妹じゃなくて俺にダメージ来てるから。

 久しぶりにこんな冷気浴びてるから、身体が感覚忘れててめちゃくちゃ寒いんだけど。

 

「うーん……」

 

 妹は腕をさすりながら、何か考え事を始める。

 この冷気は部屋全体に充満しているらしい。

 そんなのを間近で直撃している俺、よく生きてるよな。

 

 そんなことを考えていたら、おもむろに妹は冷蔵庫の方へと向かう。

 

 そして一段目を開けては閉めて、そして二段目の野菜室をあけてなにやらごそごそと探り始める。

 人の家に来て勝手に冷蔵庫の中を見る上に、中身を探るなんてなんて非常識な子なんだ。

 

 冷蔵庫の中は乙女の神秘という言葉を聞いたことがないのか。

 実質お前は今乙女の神秘の中をぐちゃぐちゃにしてるんだぞ。

 俺の中にある純粋な乙女が汚れたらどうしてくれるんだ。責任取ってもらうぞ。

 

「あ、あった」

 

 つぶやき何かを手に取り、野菜室を閉める妹。

 いったい何を探して……て、あれは!

 

 妹が手に持っているものが目に入る。

 あれはレイに見つからないように野菜室の奥深くに隠していた、高級生クリームプリン(コンビニ産)じゃないか!

 

 いや俺も買う前までは、プリンに生クリームなんて邪道だとか思っていたけど、いざ食べてみると甘すぎないクリームと、絶妙な甘さのプリンがちょうどいい塩梅に絡み合って、カラメルとはまた違うおいしさだったのだ。

 

 それからは何かのご褒美に買うようになった。

 そんな大事な俺のご褒美を妹は握りしめていた。

 いったいそのプリンで何をしようというのか。

 というかそれをレイに見せるとまずい。

 

 まさか!

 

 一つの可能性に思い至り、ゆっくりとレイがいる方へと顔を向ける。

 ……時すでに遅く、レイはプリンを凝視してよだれを垂らしている。

 

「女子を釣るには甘味物でしょ!」

 

 妹は勝ち誇ったようにどや顔をすると、手に持ったプリンを突き出しながらゆらゆらと手を揺らしている。

 

 言い方はあれだし、甘いものが嫌いな女子もいると思うけど、確かにレイに対してその作戦は有効だ。

 もう有効というより決定打になるんですけども。

 

 案の定レイは妹が持つプリンに引き寄せられるように、ゆっくりと俺から離れて妹の方へと足を進める。

妹はそんなレイをどこかへと誘導するように、ゆっくりと後ろへと歩を進めている。

 

 いいのか、レイ! そのまま簡単にレイにつられてしまってもいいのか!

 幽霊としての、というか人見知りとしての誇りとかプライドとかそういうものはないのか!

 

 いや確かにあのプリンの誘惑は逆らえないものがある!

 ていうか俺が食べたくて買ったんだから、あれは俺用なんだよ!

 

「ちょっと、バカ兄はついてこなくていいから」 

 

 妹の冷たい視線とありがたいお言葉。

 しまった。俺自身プリンの誘惑に負けて無意識に妹に近づいていたらしい。

 

 しかしこのままだと、せっかくのご褒美生クリームプリンがレイに食べられてしまう!

 

 そしてレイがあの味を知ってしまったら、きっとしばらくはおねだりするに違いない!

 

 そして俺はそのおねだりに逆らえない! 結果俺は金欠になって破産する!

 

 そうプリン破産だ!

 

 そんな未来を避けなくてはと思うものの、あのプリンが妹の手に渡ってしまった時点でもう遅い。

 ゆっくりと一定の距離を保ち続ける妹とレイはゆっくりとリビングから去っていく。

 

「さと兄はついてきちゃだめだからね! 乙女の会話に割って入ろうとしないでね!」 

 

 どうやら乙女の会話という名の何かが行われるらしい。

 妹に逆らえば何をされるか分かったものではない。

 

 プリンはあきらめたくないが、ここは潔く二人の会話が終わるのを待つべきなのだろう。

 

 レイ、生クリーム嫌いだったりしないかなあ……。

 

 

 



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100話 当たり前すぎることはいつの間にか当たり前だということに気づかなくなって、気づいたときには重大な見落としをしている。

 日が暮れた。

 二人はまだレイの部屋から戻ってこない。

 

 ……いやそんな話すことある?

 妹はともかく、レイ自身そこまでたくさんしゃべる方ではない。

 

 そんなに何時間も会話が続くとは思えないんだけど。 

 俺ですら、レイと一日一緒にいるということは少なくないが、何時間も連続して会話を続けるなんてことはしたことがない。

 

 まあ俺があまりしゃべらないってこともあるのかもしれないけど。

 それにしても長い。

 

 あのプリンは一体どうなってしまったんだろうか。

 何かの手違いで冷蔵庫の中に戻ってきてたりはしないだろうか。

 

 そう思いおもむろに野菜室の中を探してみるが、当然プリンはその中に入っていない。

 

 いやわかってたけどね。

 もし入ってたとしてもそれはそれで空っぽの容器だったんだろうけど。

 とにかくそんなことをしてしまうくらいに暇なのだ。

 

 

 それからまたしばらくぼーっとスマホを眺めていると、ようやくレイの部屋の扉が開かれる音が聞こえてきた。

 

 そのあとすぐに妹とレイが部屋に入ってくる。

 どちらの手にもプリンの姿はない。

 

「プリンをどこにやった?」

 

「戻ってくるなり、気になったとこそこなの? やっぱりさと兄の価値観おかしいよね」

 

 なんでだよ。プリンは大事だろ。あれ高かったんだぞ。

 500円くらいするんだから。コンビニで500円って普通に弁当買える値段だからね?

 

 それとレイが後ろでうんうんとうなずいているが、何に対してのうなずき?

 もし妹の発言に対してうなずいてるんだとしたら、俺ショックなんだけど。

 

 というかそうだとしたら、お二人さんなんか仲良くなってる?

 やはりプリンの結束力は計り知れないってことなんだな。

 

「さと兄ちょっと」

 

 自然と隣に座ってきた妹に手招きされたので、顔を寄せる。

 定位置である机の上に座ったレイは、どこからともなくスプーンと生クリームプリンを取り出し、パクパクと食べ始めた。

 

「なにこの子めちゃくちゃ可愛いんだけど! なんでさと兄なの? 私でもよくない? あの子連れて帰ってもいい? さと兄にはもったいないくらいだよ? レイちゃんもきっと私の方に来ることを望んでるって」 

 

 ……まだ食べてなかったのか、そのプリン!

 なんでわざわざ俺がいるところで、しかも目の前で食べるわけ?

 

 すっげえだらしない顔してるじゃん。その気持ちはよくわかるけどいやがらせか?

 妹の入れ知恵か?

 

 いやいくら入れ知恵とはレイがそんな意地が悪いことをするはずがない。

 ということは天然か……天然パワー恐るべし。

 

「……聞いてる?」

 

 え、なにが?

 妹に耳をつねられ、ようやく我に返る。

 

 いや確かにレイがプリン食べる様子を見てたから、ほとんど話は聞いてないけど、ぼんやり聞いた限りだとただの愚痴か誘拐宣言じゃないですか。

 

 だめだよ、連れて帰ったら。

 レイはここが好きで住み着いてるんだから。

 本人に直接聞いたことはないけど、きっと多分おそらくそうだ。

 

「とにかくさと兄にレイちゃんはもったいない! ということで今日はレイちゃんと一緒に寝ます!」

 

 なぞの宣言を声高らかに行う妹。

 その声にビビって体を震わせるレイ。 

 

 ……仲良くなったんだよね? レイびっくりしちゃってるけど。

 そこからは二人で適当にご飯を食べて、妹はレイの部屋で寝ることとなった。

 

 いや別にまあそれはいいんだけど、すぐにレイの存在を受け入れられるとかさすがわが妹というべきか、家族というべきか。

 

 とにかく俺以外にもレイの存在を認知できる人物がいるとわかったのは、レイにとっては朗報だろう。 

 

 その認知できる人物が妹だったという部分については、俺にとっては悲報なわけだけど……。

 

 

 その日俺は生クリームプリンに襲われる夢を見た。

 襲われはしたけど、三メートルくらいのプリンに埋もれたから、なんか一つ夢がかなったような気がした。

 

 不幸と幸せを同時に味わうとか夢っていうのはすごいなあ。

 

 



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100話到達記念ss ※この話は本編とは一切関係ありません。

「先輩、もしも私たちの会話が不特定多数の全世界の誰かに見られていたとしたらどうします?」

 

 いつもの昼食、いつもの食堂、いたって真面目な顔で後輩が語りかけてくる。

 口からはっぱを垂らしながら。

 

「それうまいの?」

 

 見た目的に完全に野原なんだけど。

 皿の上に壮大な草原が広がっているようにしか見えないんだけど、本当にそれおいしい?

 葉っぱという名の自然の味しかしないんじゃないかな。

 

「先輩、もしもですよ。もしも私たちの会話だけじゃなくて、先輩が考えていることまで余すことなく不特定多数の誰かに見られていたら。どうします」

 

 口元の葉っぱにばっかり気が取られていたが、いったいこいつは何を言ってるんだろう。

 

 やけに真剣な顔して話してるけど、内容は全く現実味のないものだし何より口元に増えていく葉っぱがシリアスムードを台無しにしている。

 

 なに? 口の中で高速増殖でもしてるの? 自らの身体の栄養分を栄養に育ってるの?

 もうそれはただの葉っぱじゃなくて寄生葉とかそんな感じなのよ。

 いったいこの食堂は何を目指してるの。

 

 まあ後輩の話をいくら真面目に聞こうとも、俺の思考が誰かに見られているなんて考えたこともないし、普通考えない。

 

 それに俺とレイの会話ならまだしも、俺と後輩の会話なんて食堂にいるときや会社にいるときは常に周りの不特定多数の人間に聞かれている。

 

 だから何を当たり前のことを言ってるんだって感じだ。

 そもそもこいつはなんで突然そんなことを話し始めたんだ?

 

「私ですね、結構寝る前とかにネット小説を読んだりするんですよ。それで最近読んだ小説に先輩の思考に似通った主人公が、私のしゃべり方とか考え方によく似た後輩キャラと話している描写があってですね……」

 

 葉っぱを貪りつつも首をかしげる後輩。

 別に俺の考えていることなんてほかの普通の人と変わらないんだから、キャラが被ることくらいあるでしょ。

 むしろ共感性を得るためにあえてそういう普通の主人公にしているのかもしれない。

 

 それに俺と後輩がしゃべってる内容だって、別に何も特別なことを話しているわけではない。

 似たような会話が出てくることくらいあるんじゃなかろうか。どうなんでしょうか。

 

「先輩のキャラを主人公なんて、一般受けを狙ってやることじゃないと思うんですよね~。結構特殊な人なんだから」

 

 おい、どういう意味だおい。

 シリアス風に言ってるけど、それただの悪口だからね?

 

 俺は周りの人と溶け込むように普通の一般人として生活しているんだから、モブを主人公にするなんて理解できないならまだわかるが、特殊なのに主人公にするなんてありえないはただの悪口だからね。

 

「まあでも小説としては寝る前に読むものとしては、ちょうどいいものでしたよ。先輩みたいな主人公が可愛い女の子の幽霊と一緒に暮らしてるっていう話で、なんかほのぼのしてましたし」

 

「は?」

 

 後輩の一言により一瞬で背中が伸びる。

 こいつ、今なんて言った?

 

 俺と後輩の会話が小説の一部分と似通っている、まあそれはまだわかる。

 俺の性格が主人公と似通っている、それもわかる。

 俺みたいな性格の主人公が女の子の幽霊と一緒に暮らしている?

 

 ……そんなピンポイントなこと、後輩が言えるわけがない。

 いや、まさか……たまたまでしょ。

 

「先輩どうしたんですか? 口から葉っぱなんか垂らして。これ、そんなにおいしくないですよね」

 

 うん、まあこの葉っぱはおいしくないんだけど。

 そんなことより話の腰を折らないでほしいんだけど。

 

「ところで先輩、話は変わるんですけど」

 

 いやだから話を変えるなって。その小説のタイトルを教えなさいよ。

 俺がこの目で見てしっかりと確かめるから。

 

「今日は何の日でしょう」

 

 今日? 今日は四月一日だろ?

 ……あ、そうか。四月一日か。

 

「全部嘘ってことか」

 

「さあ? どうでしょう?」

 

 後輩は意味深でやけに妖艶な笑みを浮かべると、席を立ってその場から立ち去っていく。

 

 なんだ、エイプリルフールの嘘ってことか。

 

 そうだよな。俺によく似た主人公で、俺と似通った境遇の話があるなんて偶然そうそうあるはずがない。

 ほっとした瞬間に全身の力が抜ける。

 おもむろにポケットからスマホを取り出し画面をつけると、ふと時刻が目に入る。

 

「ん? 12時25分……?」

 

 あれ、確かエイプリルフールで嘘をついていいのって、午前中だけだったような……。

 

 それによくよく考えればたとえ嘘だとしても後輩が俺の状況をピンポイントで詳しく知っているのはおかしいし、俺の考えてることなんて後輩に話したことはないし、それをあたかも知っているかのように話しているのはおかしいような……。

 

 ……いやいや、まさか、ね。

 

 

 

 結局午後の仕事は後輩のことが気になって、全く身が入らなかった。

 いや別に後輩のことが気になってってそういう意味じゃなくて、単純に食堂の話を聞こうとしたんだけど、何回聞いてもはぐらされるというか、そもそもそんな話などしていないかのようにふるまってくる。

 

 しまいに腹が立って壁ドンとか顎クイとかしてた気がするけど、それでも後輩は真相は話そうとしなかった。

 

 今考えれば後輩相手にずいぶんととち狂ったことをしてしまった。

 そんなことするからろくに仕事もしてないのに、疲れちゃうんだよなあ。

 

「ただいまー……」

 

「さとるー!!」

「ドュベ!!」

 

 家に入るなり、レイが懐へと全力でダイブしてくる。

 普通に考えれば俺の腹を貫通して扉に頭をぶつけそうなのに、こういう時だけ都合がいいのがレイだ。

 

 見事にレイの頭は俺の腹にクリーンヒットし、しかも謎の重量感に襲われる。

 いったい何事?

 

「だれかにみられてる……きがする」

 

 上目遣いをされながら放たれた一言は、今の俺にとって十分な破壊力を持っていた。

 

 なんでよりによって今日そんなこと言うの?

 ねえ、どうしてレイまでそんなこと言うの?

 

 それにそのセリフは本来幽霊に抱きつかれている俺が言うべきセリフであって、幽霊がそんなことを言うのはなんか違うんじゃないかなあ?

 

 

 嘘かほんとかはわからないが、後輩が見たというネット小説。

 そして今のレイの言葉。

 

 偶然にしてはあまりにもできすぎているような気もする。

 でも、まさかそんなことが、あるわけがない。

 

 き、きっと後輩の話を深読みしている俺の考えすぎで、レイが感じているそれも一人の時に感じる勘違いに決まってる。

 

 今のこの思考だって俺だけが知りえるもので、ほかの俺のことを知らない誰かが俺の考えてることが見えてるなんてことがあるはずがない。 

 

 そうだよね? 誰にも見られてない……よね?

 

「勘弁してくれ」

 

 もし誰か見てるなら、俺にくっついて離れようとしない冷気ましましの幽霊を引きはがす方法を教えてほしい。

 




……ということで、本作がついに100話到達いたしました!
記念の短編がこんなホラーチックなメタメタな感じでいいのか?
まあこの作品だし、いいでしょ! という感覚で書き上げましたw

深夜テンションのノリと勢いではじめた作品でまさかこんなに長く書き続けるとは思っておりませんでしたが、主人公とレイ、後輩の絡みを書いていると面白く、気づけば100話になっていました。

もちろんここまで続けられたのも読んでくださる方がいらっしゃったからです。
誰にも読まれなければここまでは続いていませんでした。

いつも楽しんでいただきありがとうございます。
これからものんびりと書いていけたらと思いますので、飽きるまでお付き合いただけると幸いです!!


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101話 兄よりも妹の方が偉い。これは兄に課せられた宿命である。異論は認める。

「今日俺仕事なんだけど」 

 

「ふーん、そうなんだ。いってら」

 

 朝リビングに向かうと当然のように妹がまだ居座っていた。

 そういえばいつ帰るとか全然聞いてなかったけど、今日もこのままここにいるつもり?

 

 めちゃくちゃ興味なさそうに返事してるけど、絶対帰る気ないよね。

 まあ、別にいいんだけどこんな田舎にいたってすることはないだろうし、とっとと帰った方がいいと思うんだけど。

 

「今日レイちゃんとショッピングに行くから」

 

 ショッピング……? なんだそのおしゃれな行為。

 こんな田舎でそんなおしゃれなことができると思ってるのか。

 普通に買い物しに行くって言えよ。

 

 というか勝手に言ってるけどレイは本当に妹についていくんだろうか?

 今リビングに姿は見えないし、きっとまだ部屋で寝てるんだろう。

 

 ああ見えてレイの朝は遅い。

 ……ああ見えて? レイの行動を思い返せば割と想像通りではあるか。

 

「昨日レイちゃんがファッションショーみたいなことし始めてみてたんだけどさ。あれ、さと兄の性癖全開の服でしょ? ほんとセンスないよね~。レイちゃんは着せ替え人形じゃないんだから」

 

 性癖とか言うな! お前がなんで俺の性癖知ってるんだよ!

 

 それにもし俺が買った服にセンスがないんだとしたら、それは俺のセンスがないんじゃなくて服選びの時に見てた画像のセンスがないから、その画像を作った人に言ってください。

 

 会話の流れ的に今日は服を買いに行くということだろうか。

 

「ん」

 

 こっちを見ずに片手をこちらに差し出してくる妹。

 なんだ? 何も言わずに手を出されてもなんのこっちゃ俺にはわからんぞ。

 とりあえずその手の上に自分の手を重ねてみる。

 

「……俺の方が手がでかいな」

 

「何言ってんの当たり前でしょ。というか何してんの、気持ち悪い」

 

 気持ち悪いって言われたって、手だしてるんだから俺も同じ事すればいいのかなって普通思うだろ! 

 人として当たり前の行為だよ!

 

「普通手出したらお金置くでしょ!」

 

 おかねえよ! どんな人生送ってきたら手出しただけで、お金がもらえると思うんだよ!

 甘えん坊か。もしかしていままで手だしてたら親が金出してくれてたのか。

 俺、そんなことされたことないけど!?

 

 まあ昔から妹には甘かったしなあ。

 きっとこれは全国のお兄ちゃんの宿命なんだと思うけど、基本的に親というのは下の子に甘い。

 

 俺は悪くないのに俺のそばにいるときに妹が泣けば、問答無用で俺のせいになるし、妹がねだったものは大抵のものは用意される。

 

 まあ別に不公平だとかなんだとかは思ったことないけど……そうか~、お金も自由自在だったのかあ。

 ……というかなんでお金?

 

「今日、ショッピングに行くから」

 

 わざとらしい大きな声でさっきと同じことを言っている。

 

 ……ああそういうこと。

 

 買い物に行くから金を出せと。

 

 それならそういえばいいのに。俺がケチるとでも思っているんだろうか。

 買い物の目的もレイのためっぽいし、別に何も言わないけどな。

 俺は財布から1万円札を取り出し、妹の手の上に置く。

 

「あんがと」

 

 妹は一万円札が乗ったまま手を引っ込めると、それを無造作にポケットの中に突っ込んだ。

 

「鍵ここに置いとくから」

 

 予備の鍵、いわゆる合いかぎを妹の目の前に置く。

 まさか合いかぎを使う時が来るなんてなあ。

 感動しそうになるけど、相手が妹だから感動したところでって感じなんだよなあ。

 

「会話しようとしないのは、もはや意地なの? まったく誰に育てられたんだか。親の顔が見てみたいね」

 

 会話してるでしょうが。別に全く話してないわけじゃないんだから、ちゃんと会話は成立している。と俺は思っている。

 

 思い込みって大事なんだよ?

 あと親の顔は俺と同じくらい見てるだろ。

 むしろ俺の方が早く一人暮らしを始めたから、俺よりも多く見ているのに、いったい何を言ってるんだか。

 

 もしかしていってみたかっただけなのか、その定番セリフを。

 兄を言ってみたい言葉のはけ口にするんじゃないよ、まったく。

 そんな風に育てた親の顔が見てみたいね。

 

 

 結局家を出るときまでレイが顔を見せることはなく、まあ朝はいつものことなんだけど、そのまま妹をおいて会社へと向かった。

 



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102話 目の前に変質者(知り合い)が現れた!!

 会社についた瞬間入り口がやけに賑やかだった。

 全国的なニュースで取り上げられるような大きな会社でもないし、入り口をふさいでいるのは記者とかそういうのには見えない。

 

 というか明らかに不審げにうちの警備員が誰かを取り囲んでいるように見える。

 なんだろう。不審者とかが入ろうとしたのかな。

 うちに入っても大したことないだろうに、酔狂な人間もいるもんだな。

 

 そんなことを考えながら入口の方に近づくと、入り口を取り囲んでいる警備員の隙間から人影が見える。

 

 ……なんかでかい鍋を持ってるんだけど。

 

 その人物は必死に何かを説明しているように見えるけど、会社に鍋を持ってくるっていったいどういう言い訳をするんだろうなあ。

 

 あの鍋に見覚えはあるようにも見えるし、そもそも鍋を持っている人物にすら見覚えしかないような気がするけど……やべ、目が合った。

 

 俺は慌てて入り口から離れて視線を逸らす。

 ……なんか取り込んでるみたいだし、今日は裏口から入ろうかなあ?

 

「先輩! おはようございます! 助けてください!」

 

 鍋を持った不審者が大声で何か言っている。

 俺の方へと一斉に視線が向けられるのを背中で感じるとともに、俺は早歩きでその場から離れた。

 

 俺は知らない。あんな非常識な不審者なんて知り合いじゃない!!

 

 

 それからはひたすらに不審者から逃げた。

 なんとか会社に入れたらしいそいつは、ことあるごとに俺のところへ来ようとする雰囲気を醸し出していた。

 

 俺はその雰囲気を察知するたびに席を立ち、男子トイレへと逃げる。

 だって鍋持った人に話しかけられたくないんだもん。

 そりゃ逃げるでしょ。そいつと同類と思われたくないし。

 

 いくら寛容な職場だからと言って丸出しの状態で鍋を持ってくるバカがどこにいるんだよ。

 せめて何かに入れて持ってくるとかさ、そういうことを普通考えるでしょうが。

 

 きっとそんなこと考えなかったんだろうね。

 鍋を持ってくることに全身全霊で鍋を何かに入れようなんて、頭の片隅にも思い浮かばなかったんだろうね。バカだから。

 

 とにかくこんな調子では仕事にならない。

 そう思いながらもそいつに話しかけられるのが嫌すぎて、午前中は大半をトイレで過ごすことになってしまった。

 おれこのままだと便所飯になったりしないよね。

 

 

「先輩! どうして逃げるんですか!」

 

 やけにくぐもった声が背後から聞こえる。ごはんの味が一気に何も感じなくなる。

 ここまでか……。

 

 観念して声がした背後に顔を向けるとそこには化け物が立っていた。

 顔が鍋に侵食されている新種の未確認生命物体。

 

 ……いや、何やってんの?

 なんで鍋かぶって食堂に意気揚々と入ってこれるの?

 

 君社会人だよね? 羞恥心とかそういうものはかけらも持ち合わせてないのかな?

 そんなことやられたらふつう逃げるでしょ。というか逃げさせてほしい切実に。

 

 周りの視線を感じますか? そもそも物理的にも精神的にも周りの目なんか見えないから感じないか。

 

 俺はビシビシと感じてるから、俺の肩を押さえつけて逃がさないようにするのやめて!

 頼むから俺をここから逃げさせてくれ!

 

「あの、暑いのでこれ取ってもいいですか」

 

「お好きにどうぞ」

 

 俺の返事を待つことなく、鍋人間はその本体である鍋を外す。

 下から現れた見慣れてもはや見たくないほどの後輩の顔はやけにすまし顔で、どこぞのCMを意識しているのか髪をふぁさふぁさと振り回していた。

 

 俺のヴィクトリー丼に髪の毛はいるからやめてくれないかな。

 

「そういえば聞いてくれよ後輩」

 

「……なんですか?」

 

「このヴィクトリー丼、メニュー表に何かを隠してます! って書いてただろ? 何が入ってたと思う?」

 

「なんですか? というか自分で言うのもあれですけど、今その話します? それよりもっと言うことありません?」

 

「なんとな、ゆで卵が飯の中に隠れてたんだよ……」

 

「なんだろう。このどうでもいいネタバレを食らった感じ」

 

 思った以上に後輩の反応が薄い。

 ああ後輩もヴィクトリー丼を持ってるから、隠し味がわかってがっかりしてるのか。

 

 いやそんなことよりも俺の方が悲劇だ。

 ぱっと見この丼、ご飯の上にちょこっと申し訳程度の焼き鳥が乗っている程度で量が少ないように見える。

 

 これだけでは後半乗り切れないと思った俺は、単品でゆで卵を注文した。

 そしていざ実食してゆで卵が出てきた時の絶望感……後輩よ、お前にわかるか?

 

 昼飯にゆで卵二個はさすがに重いって!

 

 いや確かに何かを隠していますとはメニュー表に書いてあったよ?

 書いてたけど、まさかゆで卵まるまる一個が入ってるなんて思わないじゃん。

 

 しかもたちの悪いことにご飯の上には卵のそぼろも乗せているため、まさかご飯の中からまた卵が出てくるだろうなんてことを思わせないようにミスリードさせている。

 

 いやまあ乗ってなくてもゆでたまごが出てくるなんて思わないけど。

 そもそも親子丼ならまだしもまんま焼き鳥と卵を一緒の料理の中にそのまま入れるってそんな独創性はだれも求めていない。

 

 それなら親子丼でいいじゃん。なんでそこで個性爆発させちゃったの。

 そもそもの話ヴィクトリー丼ってどういう意味だよ。何とかけてるのか全く分かんねえよ。

 あれそもそもなんで俺は今こんなに食堂のメニューにケチつけてるんだっけ?

 

「あのー先輩? そろそろこちらの世界に戻ってきてもらってもいいですか?」

 

 いつの間にか俺の正面の席に腰かけてゆで卵を器用に箸で挟み持ち上げながら、俺の方を見つめている。

 

「突然なんですけど、今日お家にお伺いしてもいいですか?」

 

 …………ん? いまなんて?



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103話 変人にならないためにとった行動が奇行であることにまだ本人は気づいていない。

 なんか前にも同じようなことがあったような気がするなあ。

 気のせいかなあ。あの時も必死に否定したのにほぼ強制的に、無理やりに、先輩を味方につけて家に押し掛けてきたよなあ。

 

 二番煎じは面白くないんだぞ後輩。

 いや二番煎じも何も二回とも後輩が言ってきてるんだけど。

 

「いや今回はちゃんとした理由があるんですよ!」

 

 おい、その言い方は前回は大した理由がなかったって自白してるようなもんだぞ。

 いろいろと理由つけて俺も何となくその理由で納得してたんだから、いまさらになって意味のない自爆をするんじゃないよ。

 誰も幸せにならないからね。

 

「この鍋を返したくて!」

 

 そういって恥じらいもなく抱えるように持っていた鍋を、ドン!という割と大きめの音をさせながらテーブルの上に置いた。

 個人的には今すぐ元の位置に戻してほしい。

 

 人生で今までこんなに視線を浴びることなんてなかったレベルで注目されてるから。

 今すぐにでもその鍋をテーブルの下に戻すか、もう一回頭にかぶって冷静になってほしい。

 

「返さなくていいよ」

 

 というかやっぱりその鍋はもともと家にあった鍋だったのか。

 どおりで見覚えがあると思ったし、そうだとしてもなんで会社に持ってくるのか理解ができない。

 

「そういうわけにはいきませんよ! なんか高そうだし、もらっちゃうのはまずいです。というか一人暮らしでこんな鍋使いません!」

 

 いや俺も一人暮らしなんだけど。

 実家出るときに許可なしに持ってきたものだから高いかどうかはわからんけど。

 そもそもどうして鍋を返すことが家に来ることにつながるのか。

 

「わかりました。妥協して家にお邪魔するのはあきらめます。だからこの鍋をお持ち帰りください」

 

「お断りいたします」

 

「なんでですか! 帰りまで警備員に捕まりたくないんですよ! わかりますか? ここの社員なのに、全警備員さんから不審者扱いされる私の気持ちが!」

 

 わかんねえよ! というかそんなの自業自得じゃねえか!

 なんで俺が八つ当たりされてるわけ?

 

「だから先輩にも同じ気持ちを味わってほしいんですよ! ヴィクトリー丼で落ち込んでる場合じゃないんですよ!」

 

「お断りいたします」

 

 絶対に返したいとかじゃなくて、自分と同じ目にあってほしいっていうのが本音だろ。

 というか楽しんで鍋かぶったりして遊んだりしてるんだから、そろそろ愛着わいてきたころじゃない?

 

 手放したくなくなってるんじゃないの?

 ほら、遠慮せずに持って帰りなよ。

 

 俺まで不審者扱いされるのは絶対にごめんだ。

 つまり何があってもこの鍋を受け取ることはできない。

 

 俺は心の中でそう固く誓い、一気にゆで卵を口の中に放り込む。

 後輩より先にこの席を立ち、後輩は鍋を持って帰らざるを得ない状況を作るしかない。

 こうなった後輩は何があってもひかないことを俺は学んだのだ。

 

「ちょっと何急いで食べてるんですか? 卵のどに詰まらせて死んじゃいますよ。もっとゆっくり食べましょうよ」

 

 そんなおじいちゃんじゃないから大丈夫だよ多分。

 むしろ鍋を持った不審者扱いされるくらいなら、まだ卵をのどに詰まらせて死にかけた方がましだ。

 

 それよりもお前も急に丼抱えてめちゃくちゃ口の中に入れてるじゃん。

 どうやら後輩も同じことを考えているらしい。

 

 ゆっくり食べたほうがいいんじゃないかな。

 この焼き鳥ちょっと固いし、ゆっくり食べないと胃で消化されないかもしれないよ。

 昼休みの時間はまだまだあるんだから、もっと味わって食べなさいよ。

 

 そこからは二人ともひたすら無言で、自らの目の前にある食事を消化する作業に専念することとなった。

 

 後輩と俺との違い。

 それは俺にはもう一つゆで卵が用意されているということ。

 

 いやまあ自分で注文したんですけど。

 しかしこれは大幅に時間をロスしてしまう。

 

 なぜなら俺が注文したゆで卵は殻付きだ。

 ここで殻をむいていたら、その間に後輩は丼を食べ終わってしまうだろう。

 

 そんなことになったら俺はこの食堂から、そして会社から家まで鍋を見せびらかしながら歩いている変質者へとなり果ててしまう。

 こうなったら背に腹は代えられないか……。

 

「ちょっと先輩!? なにしてるんですか!?」

 

 俺は覚悟を決め、ゆで卵を口に入れる。殻つきのままで。

 そして歯を突き立て無理やり口の中で殻をかみ砕くと、そのまま口の中で産卵した殻をすかさず皿の上に吐き出す。

 

 そこからはその繰り返しだ。

 正直口の中は痛いわ、殻の味で卵の味なんてわからないわでおいしさなんてみじんも感じられなかったが、そんなことを言ってられない。

 

「ごちそうさま」

 

「先輩、そんな薄情なことするんですか!!」

 

「ごちそうさま!!」

 

 嘆く後輩と鍋をその場において、さっさと席を立つ。

 

 ……勝ったな。

 

 一つでも判断ミスをしていたら後輩の方が先に食べ終わっていたに違いない。 

 口の中を犠牲にしたがその犠牲により俺が会社で変質者扱いされる未来は避けることができた。

 

 ヴィクトリー丼と名付けたのはここまでの展開を予想していたからだろうか。

 ……いや普通に違うんだろうけど。ゆで卵を急いで食べることを強制する食堂があったらそれはもう普通にサイコパスだよ。

 

 ともかく俺は勝利した。

 それを盾に午後も突っかかってくる後輩を軽くあしらうことができた。

 結果として鍋は後輩が持って帰ることになった。

 

 

 正直言うともっと普通にご飯食べたかった……。



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104話 霊的存在がラスボスなのはよくあることだけど、レイがそれをやるとただただ可愛い

 変人という名の後輩による鍋返却攻撃という名の奇行から何とか逃げ切った俺は、へとへとになりながらも家に帰還することができた。

 

 くそ、まだ口の中がじゃりじゃりしてる気がする。

 なんかちょっとだけ血の味も残ってるし。

 

 いくら変人になることを避けるためにとった選択だとはいえ、払った犠牲は大きかったようだ。

 主に俺の口の中が大変なことになってる。

 

 しかし仕方なかった。俺まで奇行をしてしまう変人にはなり下がりたくなかったしなあ。

 

 まあそのおかげで危機は回避できたのだから、必要な犠牲だったのだろう。

 

「ただいまー」

 

「遅い」

 

 うつむき気味に、ため息をつきながら玄関の扉を開けると、辛らつな言葉が降りかかってくる。

 

 顔をあげると、しかめっ面をして腕を組んでいる妹が仁王立ちしてこちらを見下ろしていた。

 

 いや遅いって言われても俺ほとんど定時にあがってるからね?

 なんなら早く帰りたすぎて定時よりちょっとだけ早い時間に会社出てるからね?

 

 これが社会人の普通の帰宅時間なんだよ。社会人をなめるんじゃないよ。

 

「なに辛気臭い顔してんの? そんな顔してると幸せが逃げちゃうよ~」

 

 手をひらひらと振りながらからかうような口調でそんなことを言ってくる。

 

 人をイラつかせるうえで、最適な行動をして見せる妹のことをにらみつけたくもなるが、睨もうものなら何倍返しされるかわからないから、ここはお兄ちゃんらしく大人の対応をとることにしよう。

 

 そう、スルーだ!

 

「…………」

 

 俺は妹から向けられる蔑みに似た視線を受けながら、ひたすらに無言を貫き通す。

 

 というか、いつまでもそこに立っていると俺ずっと玄関でいないといけなくなるんですが。 

 

 なに? 俺はここで飯食えって?

いじめかな? 家庭内いじめかな?

 

 一対一はいじめじゃなくてただの喧嘩だよ?

 しかも俺は手を出さないから実質カツアゲなのでは?

 

「……はあ」

 

 目の前でため息つかれると傷つくよ?

 いや確かに俺も家に入るなりため息ついたけどさ。

 

 それはだれに対してでもないこの世界に向かって吐き出したため息でしょ?

 

 あなたのため息は完全に俺に対して吐き出したため息だろ?

 

 俺に幸せが足りなさそうだからって、自分の幸せを吐き出してどうするんだよ。

 

 別に俺その幸せ取り込めないから。ため息飲み込まなきゃいけないの?

 もっと自分を大事にしてください。

 

 というか妹の吐いたため息を必死こいてパクパクと飲み込もうとしてたら、それはただのシスコンを超えた変態なんだよ。

 

「さと兄が何を考えてるのか知らないし、想像したくもないけど。まあ別にさと兄が幸せか不幸かなんて私には関係ないし? さっさと上がりなよ。私も立ってるの疲れた」

 

 そう言って踵を返しリビングの方へと歩き始める妹。

 いやいや上がりなよって言われても、そもそもここ俺の家だし。

 

 なんでたかが二日いたくらいで家主気分になってるの?

 

 どんどんこの部屋の賃貸者である俺の存在感が薄くなってる気がするんだが、気のせいだろうか。

 

 しかし妹が玄関から離れたことで、ようやく俺も家に上がることができるのも事実だ。

 ここは変な口答えはせずに素直に家にお邪魔させていただこう。

 

 ……お邪魔する?

 

 とりとめのないことを考えながら家に上がると、妹は今度はリビングへと続く扉の前で仁王立ちしていた。

 不敵な笑みを浮かべながら。

 

「……これからあと3人倒さなきゃいけないの?」

 

「何言ってんの?」

 

 ちょっとボケのつもりで言ったのに、予想外の真顔で返されてしまった。

 ノリの悪いやつだ。俺の妹のくせに。

 

 いやだってそんな立ち方してさっきと違う顔してたら、四天王的な何かを倒さないと部屋には入れないロールプレイなのかなって思うじゃん。

 

 そういうことをしたがるお年頃なのかなって、遅めの思春期なのかなってお兄ちゃんちょっと心配しちゃうでしょうが。

 

 もちろん妹四天王を倒した先に待ち受けるのは、我が家の魔王レイだ。

 

 そして俺は四天王を倒すものの、魔王レイのあまりの可愛さにその身を取り込まれてしまうのだろう。

 

 そして世界は光に包まれるのだ。

 はい。ハッピーエンド。うん、何の話?

 

 ここまで長々と妄想をしていても妹はその場から動く様子を見せない。

 

 本当に四天王のつもりなのだろうか。それとも番人?

 どちらにせよそういうことは俺が休みの時にしてほしいものだが。

 

「さて頭の悪いお兄様に質問です。秋といえば何?」

 

 頭の悪い? お兄様?

 いろいろといいたいことはあるが、この質問に答えなければここを通ることはできないということだろう。

 仕方ない。付き合ってやるか。

 

 秋といえば何といわれても当てはまるものは大量にある。

 

 食欲の秋、芸術の秋、紅葉の秋、読書の秋、スポーツの秋、卵の秋……。

 

 こういうものをあげれば春夏秋冬の中で秋が一番豊富だ。

 その中から一つ選べと言われてもなあ。

 

 まあ時間帯を考えるなら食欲の秋なのかもしれないが、果たして妹がそんな単純なことを答えにするだろうか。

 

 いやそんなことをするはずがない。

 もっとわけのわからない回答を用意しているからこそ、こんなことを聞いてきているのだろう。

 

「えーっと」

 

「そう。秋といえば鍋です」

 

 俺が口を開くのとほぼ同時にかぶせるように、そしてどや顔でそんなことを口にする妹。

 

 鍋? どうしてここでも鍋が出てくるの?

 もう鍋からは解放されたんだよ。

 

もう半年はその言葉を聞きたくないくらい、堪能してきたんだよ。

 勘弁してくれ、ふざけんな。

 

 妹はふっふっふと気持ち悪い笑いを浮かべながら扉を開ける。

 

 開いた扉の隙間から熱を持った煙が漏れ出してくる。

 

 え、なにしてんの? 火事? 放火?

 家族に我が家を放火されてるの?

 

 急いでリビングへと入る。

 

 目の前には机の上に身を乗り出し、小さな手からあふれるほどに掴んでいる肉を、大口を開けて今まさにその中に放り込もうとしているレイの姿があった。

 

 

 レイさん、それ生肉ですけど……?

 



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105話 もうちょっと待てば季節に沿った料理なのに、まだちょっと早い気がする。

 いや待て待て待て待て待って、レイそれ生肉だから!! 超絶危ない生ものだから!!

 

「ちょっとレイちゃんなにしてるのー!!?」

 

 ダッシュでレイのもとへと駆け出す俺と妹。

 まさに彼女の口の中に吸い込まれんとしていた生肉をすんでのところでキャッチする。

 

 妹はレイが掴んでいる生肉を解放しようといつの間にか手に持っていた菜箸で肉を引っ張っている。

 しかし不思議パワーが働いているのかレイがとんでもない馬鹿力を発揮しているのか、生肉はその場からピクリとも動こうとしない。

 

 あーもう生肉を手でわしづかみしてるから、めちゃくちゃ手がべたべたしてるんだけど。

 しかし今レイはどんな顔して生肉をつかんでいるのか。妹からの襲撃に抵抗しているのか。

 

 そんなことが気になった俺はふとレイの顔へと目を向ける。

 その瞬間にレイもこちらを見ていたのかばっちりと目が合ってしまう。

 

 突然訪れる沈黙。

 

 まるで時が止まったかのように、多分時間としては一瞬なんだろうけど何分にも感じられるような、そんな奇妙な時間が流れていた。

 

 俺がぽけーっとしていると、レイは突然顔を真っ赤にして大げさに後ろへとジャンプして俺から大きく離れる。

 それと同時にレイの手から肉が解放され、妹が宙に浮いた肉を器用に菜箸でつかみ取って皿の上に戻していく。

 

 ……ええ。

 

 今まで一つ屋根の下で過ごしていたから、目が合うことなんてしょっちゅうあったのに、こんな警戒されるの最初に会った時以来なんだけど。

 普通にショックなんですけど。

 

 いや、ま、まあ結構な至近距離で顔が接近していたし、そのことにびっくりしただけかもしれないよな。

 それくらいしかいまさらレイに警戒される理由なんて思いつかないし。

 

 自分にそう言い聞かせ、ようやくその場が落ち着いたことにより周りにも目が向くようになる。

 

 いつも簡素であまりものが置かれていないはずのテーブルの上には、色とりどりの野菜やら、レイが触ってぐちゃぐちゃになったのであろう肉が皿に並べられておかれていた。 

 

 そしてテーブルの真ん中には見覚えのない土鍋が置かれていた。

 あー……鍋ってそっちの鍋ね。リアル鍋の方ね。

 

 いや別に後輩が持っていた鍋がバーチャルとか妄想とかそういうわけではないけど、なんというかジャンルが違う方の鍋だった。 

 

 そもそも俺こんな土鍋持ってったけ?

 うちには今そういった鍋系統のものはないと思ってたけど。

 

「ど、どうよ」

 

 どもりながらも妹は胸を張りながら、こちらを見つめてくる。

 妹が俺にとってほしいリアクションとしては驚いてほしいのだろう。

 でもなあ。さっきのレイの行動を見た後だしなあ。

 

 確かに普通にリビングに入ってこんな準備を見たら、普通に驚いたんだろうが、さっきのレイの映像が強く目に焼き付いていて、いまさら鍋を見ても「おー鍋だー」くらいの感想しか思い浮かばない。

 

 というか鍋って普通冬とか寒い時期にするんじゃないの?

 なんか鍋をするにはまだ若干残暑がのこってざんしょ。って感じなんですけど。

 

「この土鍋は何?」

 

「えー、感想そこ? これを見てまず気になるところがそこなの? そんなんだから彼女できないんだよ? 自覚してる?」

 

 土鍋と彼女は関係ないだろ。

 なんだよ。道行く人に「へいそこの彼女、土鍋変えた?」とか「ハローお姉さん。最近土鍋使ってる?」とか聞きまわれば彼女ができんのか。

 

 土鍋トークで女性がホイホイついてくんのか。怖えな土鍋。

 なんだよ土鍋トークって。

 

「まあいいや。この鍋はこの家に鍋という存在がなかったから、わざわざ買ったの。持って帰ってくるのめちゃくちゃ重かったんだから。実家から持っていったあの大きな鍋はどうしたの? ……てなんで聞いただけでそんな顔ゆがめるの。不細工だよ」

 

 うるせえ。嫌なことを思い出させるんじゃねえ。

 その鍋は今元気に変人の家で愛用されているだろうよ。

 

 どういう使い方されているのかは知らんけど。

 被り物として使われているのか、それとも新手のバッグとして使用されているのか。

 使用用途はわからないが、きっとろくな使い方をされていないことは容易に想像がつく。

 

 ご愁傷様。元うちの鍋よ。

 

「おなかすいた」

 

 いつの間にか妹の隣に移動していたレイがお腹をさすりながら、テーブルの上の食材たちにらんらんと目を光らせている。

 

「そうだよねー。お腹すいたよね。考えなしのおバカさんはほっといて、ご飯にしよっか」

 

 妹は俺には一切見せることのない満面の笑みをレイに向けると、俺のことが見えなくなったかのようにテーブルの前に座る。

 まあ俺も座るんだけど。

 

 いつもならテーブルの上が座る定位置であるレイは、今日はテーブルの上が食材でいっぱいだからか妹の膝の上に座っていた。

 てっきり俺の方に来るのかと思ってたけど、ずいぶんと二人は仲良くなったみたいだ。

 

 なーんか、レイとの間に距離を感じるような気もするけど、まあ……気のせいかな。

 そういう日もあるよね。

 

「うーん、ちょっとやりすぎちゃったかな」

 

 妹が何か独り言を言っているが、よく聞こえなかった。

 まあなんやかんやで平穏に鍋パーティは幕を開けた。

 

 パーティというには身内ばっかりだし、人も少ない気がするけど。



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106話 もうちょっと早い時期に発言してたら全くおかしくないのに、それを言うにはちょっと遅い。

「そういえば今日どうだった?」

 

 珍しく自分から話題を投げる。

 一日二人で過ごしていたわけだけど、一向に妹もレイもその話をしようとしないから気になっていた。

 

 それとレイからなぜかずっと視線を感じていて、正直ちょっとだけ居心地が悪い。

 いやレイに見られるのは全然苦じゃないし、むしろご褒美というかずっとそこから見ていてくださいというか、たまにはこういう違った感じもいいなあとは思っているんだけど。

 

 なんかずっと見つめてくるって感じじゃなくて、ちらちら見られてるって感じなんだよなあ。

 それでもう一回目を合わせようとレイの方を見たら、目をそらされるし。

 

 そんな謎のやり取りが続いていて、しかもそんなに会話をしなかったから居心地悪く感じたのだろう。

 

「どうだったって言われても。普通に楽しかったよ」

 

 妹は鍋の中の肉をかき混ぜながら、そっけなく答える。

 レイは今はその鍋の中でぐつぐつと音を立てている肉に夢中なようで、ぽんぽんと口の中に放り込んで、こちらの話など聞いている様子はない。

 

 野菜もそうだけど、肉とかそういう本格的な料理って食べさせたことなかったから新鮮なんだろうな。

 

 これをきっかけに毎日鍋をねだられるようになるとそれはそれで困るけど、レイは一度はまったものを食べ続ける習性があるから十分あり得る話だ。

 

 そういえば二人は今日何しに行ったんだっけ。

 まさか土鍋を買いに行っただけではないよな。

 

 ショッピングって言ってたくらいだし。

 ……ああ、そうだ。服を買いに行くって言ってたっけ。

 

「そういえばさと兄。黙ってたでしょ」

 

 鍋をつつきながら妹が白い目をこちらに向けてくる。

 俺なんか忘れてたっけ。金は渡したし、レイは一緒について行ってるだろうし、他に俺から渡せるものなんかあったっけ。

 

「レイちゃんが人が着たものじゃないと服を着れないってこと!」

 

 ……あーそういえばそんな制限があったっけ。

 いや覚えてたよ? あんなことがあったんだから忘れるはずがないじゃん。

 

 ただ伝えるのが抜けてたというか、うっかりさんだったというか。

 というか別に妹はいいじゃん。レイと同じ女なんだから。

 別に恥ずかしい服買わなきゃ恥をかくこともないんだしいいじゃん。

 

「あれ、ちょっと待って。レイちゃんにそういう制限がありつつも、今女物の服が着れてるってことはもしかしてさと兄むぐ!! あっふい!!」

 

 妹が余計なことに気づく前に手元にあった野菜の束をつかみ、妹の口の中に突っ込む。

 涙目になりながらも口を必死に動かしながら、俺が突っ込んだ野菜たちをなんとか飲み込もうとしていた。

 

 そうか、まだ熱かったか。手が勝手に動いてしまったもんでな。

 せめてふーふーしてから突っ込めばよかったな。

 

 ただ妹よ、君がいけないんだよ。気づかなくていい真実に気づきあまつさえそれを口にしようとしたのだから。

 

 俺は当たり前の行動をとっただけ。

 むしろ感謝してほしいくらいだ。真実を口にせず済んだのだから。

 

「なにすんのよこの変態!」

 

 へん……たい?

 

「そそそそそんなことよりどんな服を買ったんだ?」

 

 俺は華麗に妹の言葉をスルーして会話を続ける。

 

「こういう時だけまともな会話をしようとするんだから。レイちゃん着替える?」 

 

 妹は俺をにらみつけながらもレイに話しかけるときだけは優しい口調になっている。

 

 しかしそれに対してレイの答えは沈黙&硬直だった。

 鍋の中を覗き込もうとでもしていたのか顔を前に突き出した状態のまま固まっている。

 

 どうしたんだ? 幽霊に肉って与えたらだめなんだっけ?

 そういえばレイに何でもかんでも与えてるけど本当に大丈夫なのか?

 

 知恵袋とかで『幽霊に食べさせてはいけないものはありますか』とか聞いたら誰か返してくれるかな。

 

 硬直が解けたのかレイはぎこちない動きで顔を引っ込め、縮こまるように座っている。

 どうやら肉は問題なかったようだ。よかった。

 

「さと兄に見せないの?」

 

 妹もレイの様子に違和感を持ったのか、今度はレイの方にちゃんと目を向けながら話しかけている。

 

 俺も鍋をつつく手を止めてレイの方に目を向けるが、彼女は俺の方をちらちらと見ながらもじもじとしている。

 

 こんなレイ見たことないからなんか新鮮だなあ。

 そんなことを考えていると、レイは小さく首を横に振った。

 

 どうやらファッションショーはしてくれないらしい。残念だ。

 しかしさすがになんかちょっと変だな。

 

 今度は妹の方へじっと視線を向ける。

 妹も俺の視線に気づいたのかゆっくりとこちらへと顔を向ける。

 

「な、なに?」

 

「なんかした?」

 

「い、いや、何かはして……ないんじゃない?」

 

 いや疑問形で言われても質問したのはこっちだから。

 ただ妹の言葉を信じるのであれば何もしていないらしい。実に怪しさ満点ではあるが。

 

 一応わが妹の言っていることだしいったん信じることにしよう。

 それならばレイは何かされたのではなく、何かあったのだろうか。

 

 うーん、俺もついていくべきだったのかなあ。

 それはさすがに過保護すぎるよなあ。

 

「多分、今は気分じゃないってことだよ。鍋食べよ鍋」

 

 妹はいきなり会話の流れをぶった切ると、鍋をつつきはじめる。

 うーん実に怪しい。

 

 妹の行動に不信感を持ちつつも、これ以上詮索しても妹は話さないだろうと察して食事を再開した。

 

 

「あのさ、さと兄」

 

 しばらく鍋の沸騰する音だけが続く時間が続いたあと、唐突に妹が口を開く。

 

「今週の休みは暇? 暇だよね」

 

 俺の意見を聞くつもりはないらしい。

 予定が入ってるとかって言ったらどういうつもりなんだろうな。

 

 というか今週末まで居座るつもりなの? そろそろ帰ったら?

 そんな俺の思考などお構いなしに妹は箸を皿の上に置き、俺の芽をまっすぐ見つめてくる。

 そして再び口を開いた。

 

「海行こ! 海!」

 

 

 ……ん? ごめん。ちょっとなんて言ってるのかわかんない。

 



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107話 あと春をコンプリートすれば家の中だけで四季を楽しめる最高の空間になるのでは? 桜の木でも生やそうか。

 シリアス空気をぶっ壊して、レイの新ファッションを見ることもできず落ち込んでいる俺の気持ちをぶっ飛ばすように、妹はわけのわからないことを口走った。

 

「あれ、聞こえなかった? 海行こうよ。もう決めたから確定事項ね」

 

 いや聞こえてたんだけど、理解したくなかったというか。

 もう一回言われてしまうと理解せざるを得ない。妹がわけわからないことを言っているという事実を。

 

 というかこんなセリフ、鍋を囲みながら言わないセリフランキング一位だろ。

 鍋を囲みながら暑い暑いと言っているのに、そんなさなかに海に行こうという。

 

 もう俺の家の中だけ四季が無茶苦茶だよ。

 そのうちシンクから桜が生えてきたりしないよね?

 そもそもどうしていきなり海なの。

 

「今年の夏海行けなかったんだよねえ。こっちに来たのもいい機会だし、せっかくだから行きたいなあって。ほらなんか自然と対話したい時ってあるでしょ? 今がその時なのよ」

 

 自然と対話したい時なんてあるのか?

 あー今日は山と話したいとか今日は海とだべりたい気分~とか?

 

 もしかして登山家が唐突に山に登りだすのってそういうことなのか?

 山が語りかけてきたからその山に登ったみたいな。

 ……すごいな登山家。

 

「山だっけ?」

 

「海だっていってるでしょ! こんな格好で山なんて行こうものなら、登山家に殺されるよ!」

 

 へー登山家って恐ろしいな。いやこの場合は山の方が恐ろしいのか。

 山は恐ろしいぞということを体現するために、登山家がカジュアルな格好で山に登りに来ている愚かな人間を殺害するのか。

 ……やっぱり登山家って恐ろしい。

 

 確定とまで言い放っている妹を止めることはもう誰にもできない。

 いくら話をそらそうとも俺がOKするまで永遠と海の話をし続けるのだろう。

 

 まあきっと俺がOKしなくても、勝手に海に行くことになってるんだろうけど。

 まあそんな妹のとんでも的外れ季節外れな発言のおかげで、多少なりとも感じていた居心地の悪い空気が霧散した。

 

 あのタイミングで言ったのは意図していったのか……いや、こいつのことだしそれはないな。

 

 

 その後は他愛もない会話をしながら、鍋を無事完食した。

 ただその日レイが俺に触れようとしてくることはなかった。

 いやまあいつも実際には触られてはないんだけどね……。

 

 

 

「……ん?」

 

 眠りについて何時間くらいか。

 ふと目が覚める。

 

 ベッド近くの時計に目を向けると時刻は2時22分になっていた。

 おーぞろ目だ。なんで目が覚めちゃったんだ。めちゃくちゃ深夜じゃん。

 

 明日も仕事だし早いところもう一度眠りたいものだが、なぜか目が冴えてしまって眠りにつけそうにない。

 

 今日はなんか寝つきも悪かったし、眠りが浅かったのかなあ。

 鍋なんて普段食べないものを食べたりしたから、身体がびっくりしたのかもしれない。

 

 ……なんだか散歩に出たい気分だ。

 

 もしかしたら俺も目覚めてしまったのかもしれない。聞こえるようになってしまったのかもしれない。自然の声というやつが。

 

 そんなしょうもないことを考えながらも体はすでに起き上がり、外に向かって歩き出していた。

 

 玄関を開けると涼しい風が体に当たる。

 そうだよな。もう秋だもんな。歩くにはちょうどいいかもしれない。

 

 ちょっと黄昏た雰囲気をまとった気になりながらあてもなく、家の周りをぶらぶら徘徊する。

 

 ふと歩道のど真ん中で立ち尽くす人影が見えて、足を止める。

 こんな時間に誰だろう。なんて考えるまでもない。

 

 俺のよく知っている同居人、レイだ。

 気づけば彼女がたまにいる道まで出ていたようだ。

 

 月明かりに照らされて淡く輝いているようにすら見える、でも存在感が限りなく薄くなっている時のレイは、可愛いではなく美しく見える。

 

 これまでも何度かそんなレイの姿を見ることはあった。

 でも今日はこれまでとは違った。

 

 いつもだったら縁石に寝転がってぼーっと空を見上げているのに、今日の彼女は縁石の上でただ静かに立っていた。

 

 ボーっとしているのは変わらないが、たまに我に返ったように顔をぶんぶんと横に振って、わたわたとその場でせわしなく足踏みをし始める。

 

 顔は手で覆っているから表情は見えないが、今日はなんだか様子がおかしかったし悩み事でもあるのだろうか。

 

 本当は近づいて何か声をかけるべきなのかもしれないが、なぜか今日はレイに声をかける気にならなかった。

 なぜかそっとしておいた方がいいと思った。

 

 もしかして飯の時隣に座ってくれなかったこと、無意識に結構ショックを受けてんのかなあ。

 

 まあレイもたまには一人になりたいこともあるだろう。

 今は妹もいて、自分の部屋でも一人になれないわけだし。

 

 そう自分によくわからない言い訳をして、程よい眠気が来たところでまだバタバタとよくわからない動きをしているレイから目を離し、自分の部屋へと戻った。

 

 

 結局そのあともあまりしっかりと眠ることはできなかった。

 



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108話 体調不良より寝不足の方が指摘されるべきなのに、そうならないのはなんでだろう。

 「ふわああ」

 

 大きなあくびをしながら、いつもの食堂の定位置へ。 

 昨日……というより今日はあの後もあんまり眠れず、ずっと眠りが浅い半覚醒しているような状態で朝を迎えてしまった。

 

 こんなコンディションで仕事をしているものだから、集中なんてまずできない。

 あくびをかみ殺すしながら過ごすので精いっぱいだった。まあ別に我慢もせずに堂々とあくびしてたんだけど。

 

 眠くて頭が回っていないからと言い訳をするわけではないけど、ご飯ボールに白米という訳の分からないチョイスをしてしまった。

 たまに出てくるご飯ボールなるご飯を練り固めて、シソ風味の味付けをしてボール状にしているおかず。俺はこれが結構お気に入りだ。

 

 この個性爆発食堂の個性が発揮されている商品の中でも、一番おいしいと断言できるだろう。

 

 ご飯をおかずにご飯を食べるという抵抗感さえ拭うことができれば、注文することにためらいなどなくなる。

 まあそれならご飯じゃなくて麺類か別のおかずを選べよと思わなくもないが、おかずをおかずにおかずを食べる。

 

 もうこっちの方が字面的に訳が分からなくなってるから、俺はあえてご飯をおかずにご飯を食べるのだ。

 ……やっぱり俺今日は帰って寝た方がいいのかもしれない。

 

 抑えきれないあくびを抑えるつもりもなく、涙目になりながらあくびを垂れ流す。

 ふと目線を上に向けると苦笑いしている先輩がトレーをもって目の前に立っていた。

 

「ずいぶんと眠たそうだな」

 

 返事をしたいが、ずいぶんとあくびが長くて口を閉じれそうにない。

 俺はぺこぺことお辞儀をするしかなかった。

 

「一緒していいか?」

 

 先輩は俺の事情を察してくれないのか容赦なく話しかけてくる。

 今この状況を見て返事ができると思っているのだろうか。

 

 というかこのあくび長くない? もうなんか頭ボーっとしてきたんだけど。

 もうなんか口の中一気に乾いている気がするし、涙とかだらだら流れてるんだけど。

 なにこれ、何かの呪い?

 

「……大丈夫か?」

 

「でゅあ! はあ……はあ……」

 

 あくびをしただけで死にそうになった人間がかつてこれまでにいただろうか。

 俺は必死に目元から流れ出る涙を手の甲で拭いながら、酸素を必死に取り入れようとしていた。

 はあ、死ぬかと思った。死因『あくび』とかシャレにならんからね。

 

 悲しみの葬式が戸惑いと嘲笑の場に変わることになるよ。

 自分の気持ちが落ち着き、再び先輩の方に目を向けると先輩は当たり前のように俺の前に座り、特に俺の様子を気にすることもなくご飯を食べていた。

 

 そういえばこんな状態で聞くのも流れ的におかしいかもしれないが、先輩に相談でもしてみようか。

 うーん、でもなあ……。あ、確か先輩猫飼ってるって言ってたな。

 

「先輩一つ聞きたいことがあるんですけどいいですか?」

 

「どうした?」

 

 先輩は特にこちらに目を向けることなく返事をしてくる。

 

「えーっと……もしもの話ですけど。先輩が飼っている猫がある日突然前触れもなくそっけなくなったらどうします?」

 

「そっけなく……彼は割といつもそっけないぞ。甘えてくることなどめったにない」

「あー確かに猫ってそういうイメージありますね」

 

 これは例えが悪かったか?

 猫は気まぐれなんてよく言うし、しかしわざわざ『彼』っていう言い方しなくても……。

 そんな言い方するから周りに勘違いされるんじゃないですかね。

 

「お、おお……」

 

 先輩は途端に手を止めて、変な音を口から出しながらこちらをまっすぐと見つめてくる。

 

「ど、どうしたんですか?」

 

 なんか変なもんでも食べたんだろうか。

 それとも家にいる猫のことを思い出して唐突に帰りたくなったとか。

 

 そういうことよくあるよね。俺も最近はよく家にいるはずのレイのことを考えて、仕事中に唐突に帰りたくなることがある。

 たとえば今とか。もう今日は帰ろうかな。

 

「君とまともに会話を交わせたことに軽く感動してしまった」

 

 ……ん? 何そのいつもはまともな会話になってないという意味を含んでいるような言い方は。

 

「俺はいつだって真面目に会話してますよ?」

 

「ほ、本当に大丈夫か? 体調悪くないか? 今日はもう帰るか?」

 

 なんで普通に話してるだけでこんなに心配されてるんだろうか。

 見てくださいよこの先輩の今までに見たことないレベルの心配そうな顔。

 

 そんなにこっちに近寄って顔を確認されなくても俺は元気ですから。

 そもそも体調悪かったらご飯をおかずにご飯を食べたりしないでしょ。

 

 さすがにもっと体に優しい食べ物を摂取するよ。

 もしかして先輩に相談したのは間違いだったか?

 

 

 



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109話 まじめな話をしてたはずなのに、趣味の話になると急にストーカー気質になるのなに?

「す、すまない。取り乱してしまった」

 

 少し着崩れたシャツを整えながら、先輩は自分の席に深く腰掛ける。

 最初は冗談だろうと思っていた先輩の心配だったが、まさかの本気で心配されているようで、体の隅々まで異常がないか確認されてしまった。

 といっても先輩が俺の周りをぐるぐると廻って、見てくるだけだったけど。

 

 先輩の確認により俺は健康だと認めてもらえたようだ。

 きれいな女性の先輩に自分の身体の調子を心配されるというシチュエーションは、本来であれば喜ぶべき状況なんだろうけど、心配されている理由が何とも言えないくらい残念なため、気軽に喜ぶことはできない。

 

「それで何の話だったか。……ああ、そうだ。相手にそっけなくされたらどうするかという話だったか。君もついに同棲を始めたのか?」

 

 ちょっと先輩。いつになったらそういう誤解を生むような発言を控えていただけるんですかね。

 

 それについにってなんですか。ついにって。猫の話ですよね? そうですよね?

 自分のことに対して紛らわしい発言をするのは先輩の勝手だが、それによって人を巻き込むのは勘弁してほしい。

 

 ほら、さっそく周りにいた人が噂している。

 なぜか俺と後輩が同棲しているという噂に派生している。

 

 なんでそういう話になるわけ?

 あいつと同棲なんて天地がひっくり返ってもあり得ないでしょ。

 隕石が日本のど真ん中に落ちてきた後なら考えてもいいけど。

 

 そもそも付き合ってすらないのに、そんな事実があるわけがない。あってたまるか。

 おい、なんか同時に『お似合い』って言ったの誰だ? 聞こえてるぞ。

 

 一人ならまだしも複数人から同時に言われると真実味が増しちゃうだろうが。

 あんな変人と俺がお似合いなわけないでしょうが。改めなさい。

 

「ちなみに何日間くらいなら、放っておかれても平気ですか?」

 

 話の軌道修正を行うために、質問をする。

 先輩は少し悩むそぶりを見せてから口を開きぽつりとつぶやいた。

 

「一日以上放置されたら死ぬかもしれない」

 

 意外ともろいな先輩!

 え、猫ってそういうもんってさっき言ったばかりじゃん。

 

 一日以上ってそっけないタイムが二日目に突入したら先輩死んじゃうってこと?

 めちゃくちゃ飼い猫のこと大好きじゃん……。

 

 いや俺もたった半日くらいでレイに避けられるような態度をとられて、俺の勘違いかもしれないのに、こんなに悩んでるんだから人のことは言えないか。

 

「そうならないために気を付けることはたったの二つだ」

 

 急に営業口調というか何かの怪しいセミナーのような口調になる先輩。

 ご丁寧に二本の指を立ててこちらに向けてきている。

 

 しかしこれは真面目に聞いていた方がいいかもしれない。

 通常時の先輩はどこぞの変人と違って、割とまともなのだ。

 聞いていて損はないはずだ。

 

「一つ目。自分までふてくされてそっけない態度をとらないこと。二つ目。向こうがそっけない時はつかず離れずの距離感でいること。これだけだ」

 

 あまりの声の張りと自信ありげな声に周りの人も耳を傾けて聞いている。

 なんかメモまで取ってる人までいるけど、先輩が話しているのはあくまで飼い猫との接し方の会話だからね?

 

 同棲している彼氏とうまくいってないときの接し方では断じてないからね。

 ……大半が聞いてないんだろうなあ。

 

「一番大事なのは、距離を置きすぎないことだな。相手のことを考えてだとか、やけになってだとか、理由はどうであれ物理的な距離を何日も置いてしまえば、自然とその分心の距離も離れてしまう。後日仲直りしようとしても、その時には時すでに遅しだ」

 

 なるほどな。こっちも向こうと同じようにそっけなくしてしまったら本末転倒と。

 まあもともとそっけなくするつもりもなかったけど、確かに今の先輩の話はためになるような気がする。

 堂々とした言い方をしているっていうのもあるのかもしれないけど。

 

「逆に積極的に関わりすぎるのもだめだぞ。相手に不快感を与えてしまっては、それもまた心の距離まで話してしまう原因となる。まあ結局のところいつも通り……いつもよりもちょっと控えめに接するのが一番いいのかもしれないな」

 

 うーん、難しい。猫も人も接し方は変わらないってことなんだろうな。

 周りの人がメモを取る手が止まらないし。盗み聞きはよくないよ?

 金払うか、黙ってご飯を食べなさい。

 

「ありがとうございました」

 

 あんまり理解はできなかったけど、先輩の話は頭の片隅に置いておこう。

 意識すぎるのもよくないだろうからな。結局のところいつも通りで構わないってことだろうし。

 

「珍しく相談なんてしてくれるから、嬉しかったぞ。ところで猫種はなんだ?」

 

「……ん?」

 

 おっと、この会話の流れはまずい。

 俺は例えばの話をしていたんだけど、もしかして先輩の中で完全に猫を飼い始めたことになってる?

 

「猫種だ。スコティッシュ・フォールドかロシアンブルーかアビシニアンかメインクーンか?」

 

 先輩が呪文を唱えだした。ティッシュ? ロシア? 面食い?

 やばい、ちょっと先輩のこと尊敬し始めてたのに急に目がガンギマリになってて怖い。

 

「すまない。種類にとらわれすぎた。もしかして雑種か?」

 

 いや近づかないで。そんな目を見開いたままこっちに顔を近づけないで!

 とっさに周りに目を向けても、すでに俺たちの会話に興味をなくしたのか、それともわざとなのか、みんなそろいもそろってメモ帳を閉じてご飯をかきこんでいる。

 

 こっちの話を聞いている人なんてもう一人もいない。

 この薄情者!! そんなんだから先輩のことを勘違いするんだぞ!

 今の先輩を見てみろよ! ていうか助けろよ!

 

 こうなったら先輩は俺が白状するまで決して逃がしてくれない。

 もう先輩はご飯なんて手をつけずにじっと俺の方を見つめている。

 真っ黒な目をこちらに向けて。いや怖い怖い怖い。

 

「ご、ごちそうさまでした!」

 

 俺は先輩と必死に目を合わさないようにしながら、トレーを持って立ち上がる。

 

「あ、待て九条!」

 

 後ろから迫ってくる声を無視して、俺は前だけを向いて歩く。

 なるべく速足で。

 先輩ありがとう。そして、さようなら!!

 

 最近会社で誰かから逃げてること多くない? 治安悪いのうちの会社。

 



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110話 何も変わらないまま、季節外れのイベントが始まってしまった。

「海だー!!」

 

「電車の中で騒ぐな。迷惑でしょうが」

 

「うわお兄ちゃんがまともなこと言ってる。気持ちわる」

 

 だからなんで俺が普通にしゃべるとみんなそういう反応するの。

 心配そうな目でこっち見ないでくれる? 俺はまともだから。

 

 先輩から逃げていたらあっという間に土曜日になり、気づいた時には電車の中に乗り込んでいる状態になっていた。

 

 そして電車に揺られること1時間半、ついに窓の外に海が見えてきたわけだが、まだ先は長い。

 だからはしゃぐのはまだ早いと思うんだ。

 

 出る時間が早かったからか休日だというのに、意外と電車の中は閑散としている。

 まあこっち方面には海水浴場しかないわけだし、こんな時期にわざわざこっち方面行きの電車に乗る人が少ないってこともあるのかもしれないけど。

 

 そして俺とレイがいつも通りに戻ったかといえば……実はいまだにぎくしゃくしている。

 いや俺は先輩の教えを必死に守ろうとなるべくいつも通り接しようとしていたんだけど、なにせレイが俺のことを避けまくる。

 

 それはもうわかりやすいくらいに、俺の自意識過剰ではないと証明してくれるレベルで大げさに避けられる。

 そんな風に避ける相手にいつも通り接するなんて難しいことは俺にはできない。

 

 そもそも避けられている時点で、いつもより積極的に俺から話しかけていってるんじゃないか、ちょっかいをかけているんじゃないかって考えちゃうからね。

 

 そんな感じで過ごした一週間だったわけで、じゃあ今この場にレイがいないのかと聞かれればそういうわけではない。

 

 今は窓の外をずっと眺めている妹の膝の上でぐっすりと眠っている。

 まあいつもなら寝てる時間だし、眠いのはわかるけど妹がうらやましすぎる。

 

 というかそもそもの元凶は妹がレイに何かしたか、何か言っているからこうなってるに違いないのに、妹が懐かれて俺が避けられているということが発生しているのはおかしくないだろうか。

 

 妹も嫌われればいいのに。そうすれば共通の敵ができて俺とレイは仲直りができる。

 

 やっぱり共通認識の敵を作り出すことは大事だと思うんだよね。

 仲直りの一番手っ取り早い方法だよね。

 まあ別に喧嘩してるわけでもないからそれで元に戻るかといわれれば微妙なんだろうけど。

 ともかくこのことに関して妹が我関せずを貫ているのが気に食わない。

 

「な、なに?」

 

 意味深にじーっと妹の方を見つめても、妹は目をそらすのみ。

 俺の無言の問いかけにこたえようとはしない。

 いや、直接聞けばいいのかもしれないけど、基本的に妹の近くにはレイがいるわけで、当事者が目の前にいる状態で、そのことを聞くのは何となく気まずいというか、まあ俺はそんなことができるほどのメンタルは備わっていない。

 

 だからこそ家族になら伝わるであろう無言の問いかけをしているのだが、妹は全く感づいてくれない。

 いまだって不審者を見るような目つきでこちらを見るだけで、また窓の外に視線を戻してしまっている。

 

 そうなると俺の方にはもう一切目もくれなくなる。

 まったく家族を何だと思っているのか。俺は家族をちゃんと想っているのに。

 というか君はいつ帰るんだよ。早く帰れよ。

 

 できれば今日までにレイとの関係修復を図りたかったが、今の状態のままで今日を迎えてしまったのならそれはそれでしょうがない。

 

 季節ごとのイベントを過去数年間こなしてこなかったのだ。

 今日くらいは夏らしいイベントを楽しむべきだろう。

 まあ今は秋だから、夏イベントでも何でもない季節外れの海イベントなんだけど。

 きっと海に入るイベントも可愛い女の子の水着イベントもないんだろうけど、いやあったとしても妹の水着を見るだけだからうれしくもなんともないんだけど。

 

 え、レイこの日のために水着を買ってたりしないよね?

 もしかしてファッションショーをこの間しなかったのもそういうサプライズのため?

 

 妹がそんな気遣いができるなんて想像もつかないけど、いやレイがそんなことを考える方が想像できないけど、もしかしてもしかしたりする?

 

「お兄ちゃん。気持ち悪い笑みを浮かべながらレイちゃんを見ないで」

 

 うるせえ。なんでお前はこういう時だけばっちり俺の方見てるんだよ。

 一生海だけ見とけ。俺は今忙しいんだよ。

 

 それに俺の笑顔は気持ち悪くなんてない。

 ほら見ろ、俺の笑顔の輝きでレイが起きちゃったじゃないの。

 

 レイさん? 起きて早々俺から目をそらすのやめてもらいます?

 今数日ぶりにばっちり目があいましたよね?

 

 どうしてそらしちゃうんですかね。え、俺の笑顔そんな気持ち悪い?

 真顔でいた方がいい? 逆に怒ってた方がいい?

 

「変顔ばっかしてないで降りるよ。ほんと気持ち悪いんだから」

 

 真顔で言うな。お兄ちゃん傷つくぞ。

 適当なことばっかり考えていたら最寄りの駅についてしまったらしい。

 

 まあ俺も純粋に海は楽しみだし、せっかく遠出したんだ。

 今日は楽しむしかないな。

 

 



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111話 だいたい何かしらイベントが発生すると、いろんなところでいろんなことが起きるからカオスになる。

「海だー!!」

 

 あれ、今のセリフさっきも聞いたような気がするけどなんかループしてる?

 まあ叫んだ妹さんは全速力で俺たちを置き去りにして海へと猛ダッシュしてるけど。

 確かに海を見てテンション上がるのはわかるけどさ。頼むからそのまま飛び込んだりしないでね。

 

 今の時期は普通に遊泳禁止だから。

 どこぞの映画みたいに突然海から飛び出してきたサメに喰われても、俺助けられないからね?

 

 ま妹もそこまで馬鹿だったわけではないらしく、靴と靴下をその場に置き去りにするレベルにとどまり、そのまま海にダイブすることはなかった。

 

 何がうれしくて妹が落としていった靴と靴下を拾い集めなきゃいけないんだよ。

 別に血のつながった兄妹なんだから、ここからシンデレラストーリーが始まるわけでもないしね。

 

 レイも妹の声ですっかり目が覚めたのか、さっきまで歩きながらうつらうつらとしていたのにすっかりと元気になって、砂の上を踏みしめている。

 

 確かにレイにとっても海に来るのは初めてだもんな。

 砂の感触が新鮮なのか、地面をじっと見つめがら何度も何度もその場で足踏みをしている。

 

 いやあ可愛い。一生見てられる。

 俺はレイから近すぎず遠すぎずの距離を保ちながら、砂で遊んでいるレイの姿をじっと見つめる。 

 

 もう妹のこととかどうでもいいくらいレイが可愛い。

 こんなレイの姿が見れたから、海を提案してきたそこだけは妹に感謝だな。

 

 レイは足踏みをしながらゆっくりとしたスピードで海の方へと向かっていく。

 俺はその後ろを保護者のような視線を向けながら後をつけていた。

 

 いや後をつけていたっていうのは人聞きが悪いな。

 俺はレイを見守っているのだ。

 

 そう、レイが万が一にも転んでしまわないように、たとえ転んだとしてもすぐにフォローができるように、しっかりと見守っているのだ。

 断じて後をつけているわけではない。

 誰に向けてかわからない言い訳を考えながら海の方へと目を向ける。

 

 いやあ晴れてよかった。

 やっぱりだいぶ気温も下がっているからか、肌に触れる空気はちょっと寒いくらいだけど、それを日の光がいい感じに緩和してくれている。

 それに波があれているということもないから、水面が光っていい感じの景色に見える。

 

「ばかやろーー!!」

 

 なんかどっかの誰かの叫び声でそんな情緒豊かな景色も台無しになってる気がするけど、他人の振りしとこ。

 

 ていうかあいついったいどこまで行ってんだよ。

 声がした方に目を向けても妹の姿は豆粒ほどにしか見えない。

 

 かろうじて姿が見えるといったくらいだ。

 どれだけテンション上がって走り回ったのか。

 昔から体力お化けだと思っていたが、それはいまだに健在だったようだ。

 

 それにそんなに離れてるのにこんなにしっかりあいつの声が聞こえるって、どれだけ大声で叫んでるんだよ。

 

 なんか嫌なことでもあったのか?

 まあそうじゃなきゃ俺のところに来るはずもないけど。

 

「お前らのことなんてどうでもいいわーー!!」

 

 また叫んでる。

 相当うっぷんがたまっていたんだろう。

 

 それを全く関係ない海にぶつけるのもどうかと思うけど。

 海を泥沼な人間関係に巻き込むのはやめてあげて!

 

 今の純粋なままのきらきらしたままの海でいさせてあげて!

 俺人間関係に疲れてメンヘラ化している海なんて見たくないよ!

 

「私はわたしだーー!!」

 

 なんか哲学っぽいこと言い始めたんだけど。

 私とはいったい何者なのか。

 

「自由だーー!!」

 

 今のお前ほど自由なやつはいねえよ。

 海に来て周りの釣り人とか俺のこととか一切関係なく大声で叫んでるお前ほど自由な奴はほかにいないから。

 

 宣言しなくてもわかってるから。

 頼むからこれ以上恥をさらさないでほしい。

 

「ばかやろーー!! ぎゃー!!」

 

 それは一回聞いたぞ。

 ネタ切れか?

 

 というか海に反撃されてんじゃん。しっかり波に足すくわれて転んでんじゃん。

 そりゃ海も自分全く関係ないのに、知らない人間から突然ディスられだしたら怒りたくもなるよ。

 

 これに関しては妹が全面的に悪いからね。

 ほんとうちの身内がご迷惑おかけしております。すいません。

 せめてもの誠意の証として海に向かってお辞儀でもしておこう。

 

 そのあとも妹は周りの目を一切気にすることなく、ひたすらに海に向かって罵倒を続けていた。

 そろそろ通報されないか心配になってきたけど、巻き込まれるのは嫌だしひたすらに他人の振りをしておこう。

 

 そもそもこれがしたくて海に来たかったの?

 海にいったい何のうらみがあるのさ。

 わざわざ罵倒するために海に足を運ぶ人ってなかなかいないと思うけど。

 

「さとる!」

 

 聞きなれていたはずなのに、懐かしくも思える久方ぶりの俺の名を呼ぶ声に即座に反応する。

 いった。首ひねった。

 

 しかししっかりと俺の名前を呼んできたレイの方に顔を向けることに成功した俺。

 レイのためなら首の一つや二つくれてやらあ。 

 俺の名前を呼んでくれたレイはおびえたような表情でこちらへと走ってきていた。

 

「襲われる!」

 

 レイは海の方を指さしながらまっすぐと俺の方へと駆けてくる。

 

 おい海!! うちの可愛い幽霊に何してくれとんじゃ!!

 

 条件反射でレイが指さした方向をにらみつけた直後、謎の衝撃が体全体にのしかかり俺はそのままバランスを崩して、砂浜の上に大の字で寝転がった。

 

 あれ、久しぶりのコミュニケーションで加減がわからなくなったのかな?

 なぜか俺がレイに襲われてるんですけど。

 



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112話 はじめての連続で混乱しているみたいだけど、ちゃんと楽しめているようで何よりです。

 背中は熱い。腹上は冷たい。

 俺は寝転がっている。レイは俺にまたがるようにしてしがみついている。

 久しぶりのスキンシップの結果、こういうことになってしまった。

 

 いや正直嬉しいよ? レイから歩み寄ってくれたんだからそりゃ嬉しいさ。

 でもどうして実態のないはずのレイがぶつかって、俺は派手に砂の上で転んでるんだろうか。

 

 ほんとこの子の構造がどうなっているのか誰か教えてほしい。

 俺は一生かかっても解き明かせそうにない。

 

 まあでも今はそうも言ってられない。

 レイは何かに対してひどくおびえているようだ。

 

 頭についた砂を払いながら、ゆっくりと起き上がる。

 そしてレイがずっと見つめている方に目を向けるが、特に何か怖がるようなものがあるようには見えない。

 

 さっきはつい勢い余って海に対して怒ってしまったけど、別に海が荒れているわけでもないしな。

 

 レイの方に視線を戻しても彼女と目が合うことはない。

 彼女の視線の先を追ってみると、やっぱり海の方を見ていると思うんだけど、やっぱり俺には何も見えないんだよなあ。

 

 ご存じの通り俺には霊感がない。

 だから仮にレイが仲間的な種族としては同じ的な何かが見えていたとしても、俺はそれを目視することはできない。

 

 こうなったら近づくしかない。

 その場で靴と靴下を脱ぎ、ズボンを捲し上げながら海の方へと近づく。

 

 レイはというと信じられないものでも見るような目で俺のことを見つめてきていた。

 ……やっぱりやめとこうかな。

 

 なんでそんな「お前正気か?」みたいな目で見てくるの?

 そんなにやばいナニカがいるの?

 レイが止めてくれたら俺も別に無理する必要もないんだけど。

 

 しかしレイが俺を止めようとする気配はない。

 それどころか俺に近づくつもりもないみたいだ。

 

 さっきはあんなに猛烈なアタックをしてくれたというのに。物理的にだけど。

 いやある意味精神的なのか? あのアタックはどういう分類に入るんだろう。

 

 ともかくレイが俺のこと止めてくれないから、俺は海に近づくしかない。

 耳に入ってくる罵倒の数々を意識的に無視しながら、ゆっくりじわじわと波打ち際の方に近づく。

 

だいぶ近くまで来たけど、全然違和感とかは感じない。いや単純に霊感がないから、気づいてないだけかもしれない。

 

 波が素足に触れる。

 やっぱり結構冷たいな。

 

 こんな中で泳いだりでもしたら、死んじゃうもんな。

 やっぱりどうしてこんな時期に海なんて来たんだろう。

 そりゃ叫ぶくらいしかやることなくなっちゃうよな。

 

 もう少しくらいは進んでも大丈夫か。

 さっきまで背中が砂の熱さにやられていたからか、このくらいの冷たさが今はちょうどいいまである。

 

 でもこれ以上進むと急に深くなったりするから、そろそろ止まりたいんだけど。

 レイの様子をうかがうために、後ろを振り返ると彼女はさっきまでのおびえたような表情ではなく、きょとんとして首をかしげていた。

 

 いや首をかしげたいのは俺なんだけど。

 いったい何におびえてたんだよ。

 

「大丈夫?」

 

 何の心配か知らないが、首をかしげながら不安そうに尋ねてきたので訳も分からないままとりあえず首を縦に振っておく。

 するとレイは恐る恐るこちらに近づいてきた。

 

 しかし波が砂浜へ迫るたびにレイはそれをにらみつけるようにして、びくっと震えながら足を止めてしまっていた。

 

 あー、そういうこと。

 迫ってくる波に襲われるって思ってること?

 

 レイって大きい音が苦手だったり、基本的に受け身だもんなあ。

 海の積極性なんて天敵に近しいだろうな。

 まあ物理的干渉を受けないんだから、関係ないような気もするけど。

 

 そんなことを考えている間にもレイはゆっくりと歩を進めている。

 俺も少しレイの方に近づいて、万が一転んでも受け止められるくらいの距離に立つ。

 

 まあこれもレイにその気がなければすり抜けるんだろうけど、そこは気分でカバー。

 

 ついにレイの足に波が触れる。

 

 触れるといっても俺が立っているところみたいに波が乱れるわけでもなく、特に流れに変化はないけど、レイからしたら触れた感触があるのかジャンプしてそのまま砂浜まで後ずさりしてしまった。

 

 何かしてあげたいけど、かといって俺に何もできることはない。

 せいぜいずっと海の中に足を入れて、安全だと身をもって示すことくらい。

 

 結構足が冷えて感覚とかなくなったけど、ここでおおげさに海から出ても余計に恐怖心を抱かせてしまうかもしれない。だから我慢だ。

 まあ無理して海に触れる必要もないとは思うけど、レイも頑張ってるしな。

 

 そこからレイは何度か海に立ち向かっては砂浜に戻りを繰り返し、ついにはその場にしゃがみこみ、自分の足元を流れている波をじっと見つめていた。

 

 別に転んだとかではなく、自主的にしゃがみこんだって感じ。

 もしかして妹に倣ってこの子も海に喧嘩うりだしたんだろうか。

 

「大丈夫か?」

 

 近づいて波を揺らしてレイを刺激するのもどうかと思い、一応そこから動かずに声をかける。

 

「……おもしろい」

 

 ……全く面白そうとは思ってなさそうなトーンだけどほんとに大丈夫?

 

 そんな心配をしたのもつかの間、顔をあげてこちらのレイはわかりやすいほど目をキラキラさせて俺の顔を見つめてきていた。

 

 なんだ、ちゃんと海と仲良くなれてるじゃん。

 もう完全に海を人と同列にしてるけど、これ海に対して失礼とかにならないよね。

 海もレイと仲良くなれて光栄でしょ。

 むしろ海には感謝してほしいくらいだ。

 

「さとる後ろ!」

 

 生暖かい目でレイと見つめ合っていたら、突然レイが慌てるように俺の背後を指さす。

 

 いやいやレイさん、いくら定番とはいえ幽霊自身がそれをやっても俺は引っかからないよ。

 むしろやるなら俺がレイの方指さして言うべきセリフだからね? 

 

 そんなことを考えていてもそれでもついつい気になってしまうのが人の性というもので、俺は後ろに体をひねろうとした。

 

「ざばーん」

 

 やけに無機質な声が聞こえてきたと同時に全身が一瞬で冷たさに覆われる。

 レイがとてつもない冷気を放ったのかとも思ったけど、口元がしょっぱいし全身濡れてるしどうもそれとは別のようだ。

 

 頭に理解が追い付いてきたところでようやくひねりかけていた体を完全にひねり切り、後ろへと体を向ける。

 

 そこには高々と掲げたバケツをさかさまにして満面の笑みでこちらを見つめている妹の姿があった。

 

 なに? 海に嫌われすぎて海に体を乗っ取られたの?

 



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113話 いつも戦いとは急に訪れるもの。大体勝利しても得るものは少ない。

 今俺は全身がびしょぬれになっている。さっきまでは砂の熱さにやられていたというのに。

 温度差激しすぎて本当に風邪をひいてしまうかもしれない。

 

 どうしてこんなことになってるかというと、理由は明白で妹が手に持っているバケツの中にはもともと海水が入っていて、それを俺にぶっかけたから結果として俺はびしょぬれになってしまったんだろう。

 

 ……うん、頭では理解できてるけど起こっている状況はさっぱりわからない。

 どうして突然妹がそんな奇行に及んだのか、さっきまで罵倒していた海となぜ結託をしていたのか。

 聞きたいことは山ほどあったが、その前にまず一つだけ確認したいことがあった。

 

「そのバケツはどこから持ってきた?」

 

「気にするとこそこ?」

 

 いやいや大事だろ。

 もちろん自前でバケツを用意しているわけがない。

 特に何の目的もなく来たのだから、何かを用意してるわけでもない。

 

 それなのに突然バケツを持って現れたら、どこかの釣り人から盗んできたのかと思っちゃうでしょうが。

 だからこれは非常に大事なことなのだ。

 

「はあ、さと兄ってホント怒んないよね。殴られるかと思ったのに」

 

 いや別に怒ってないわけじゃないけど。

 というか怒る以前に突然の状況展開に頭がパニックになってるんだから、そんな感情も湧き出てこないよね。

 

 まず何でこんなことになってるか説明してほしいもん。

 なに、俺に怒ってほしかったの?

 それなら別にこんなことしなくても、日常の中で結構怒ってると思うけど。

 

「安心して。そこらへんに落ちてるやつを使っただけだから。盗んだりはしてない」

 

 妹はあきれたように腕を下ろしながら、そう発言する。

 まあそんなことだろうとは思ったけど、衛生面とかそこら辺のこと考えると全然安心はできないよね。

 

 むしろ不安しかないよね。

 なんでそんな衛生的に不安になるものに海水を注いで、実兄にかぶせたの?

 

「ちょっと貸して」

 

 若干警戒の色を見せた妹からほとんど強引にバケツを受け取ると、ゆっくりとその場にしゃがみバケツの中に海水を汲む。

 

 きっと妹は何をされるか察しているだろうし、ここからは時間との勝負だ。

 俺は素早く立ち上がると同時に汲んだばかりの海水を妹に向けて、ぶちまける。

 

「あまいねえ」

 

 しかし次の瞬間、水の衝撃が訪れたのは俺の方だった。

 

 顔面に思いっきり海水を浴びてより一層濡れる。

 何が起こったのか全く理解ができない。

 

 目に染みてくる海水をなんとかぬぐい取り、妹の方に目を向けるとなぜか彼女の手には再びバケツが握られていた。

 慌てて俺の手元を確認するが、俺が奪ったバケツが奪い返されたわけではない。

 しっかりと俺の手にもバケツはまだある。

 

「いやー、ここら辺いっぱいバケツが捨ててあるんだよね。一つだと思ったのが間違いだったね」

 

 ということは背後とかに隠していたというわけか。

 でも俺も間違いなく妹に向かって水をぶちまけているわけだから、ちょっとくらい濡れてもいいものだが、妹は全く濡れている様子はない。

 

 それどころか実に涼しげな表情をして、水を滴らせている俺の方を見下しているようにすら見える。

 俺は涼しさを超えて寒くなっているというのに、ほんとに腹立つ。

 

「さと兄は一生私に勝てないのよ」

 

 ほう? 一生とな?

 よかろう。そこまで言うのであれば俺も男だ。そして貴様の兄だ。

 兄の威厳というものを見せつけてやろう。

 

 覚悟しろ! 合戦じゃあ!

 

 こうして俺と妹の第一次バケツ合戦が開幕した。

 そんな中レイは海と戯れることに飽きたのか、砂浜の方に戻ってしゃがみこんで何かをしていた。

 

 すまんレイかまってやれなくて! でも今は一世一代の大戦!

 兄の威厳を取り戻すためにこの勝負負けるわけにはいかないんだ!

 

 



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114話 些細なことで戦いは終わりを迎え、そしてまた些細なことで戦いは再開する。

 世はまさに群雄割拠の時代。

 歴代の名だたるバケツ将軍たちが大海で自分の尊厳をかけて戦を行っていた。

 

 そしてそれは俺たちも例外ではない。

 いま兄妹での悲しい戦がこの静かな秋の海で繰り広げられていた。

 

「はあ……はあ……」

 

「もうそろそろ降参したら?」

 

 俺は今兄の尊厳をかけて実の妹と戦っている。

 そして状況は最悪。

 

 俺は全身びしょびしょ。手足の感覚どころか全身の感覚すら残っていない。

 満身創痍。まさにそんな状況だといえるだろう。

 

 そして対する妹は無傷。

 せいぜい海に使っている足が濡れているくらいだろう。

 

 そして息が上がっている俺に対して妹は嘲笑の笑みをこちらに向けてくる余裕すらある。

 まさに戦況は劣勢も劣勢。敗北寸前といったところだろう。

 

 ……冷静に考えてみればこの状況になっているのは至極当然なんだけどね。

 

 昔から妹は運動神経がよく、そして明るく家の中で遊ぶよりも外で遊び続けているようなアウトドア派、まあ簡単に言えば陽キャの象徴みたいな存在だ。

 

 対して俺は運動神経はそこそこ、めちゃくちゃできるわけでもなくめちゃくちゃできないわけでもない。いたって普通。

 

 そして休日は外に遊びに行くくらいなら真夏にこたつに入ってた方がまだましと思っているインドア派だ。しかもただの完全なインドアではなく、たまにキャンプとかアウトドアなこともしてみたくなるめんどくさいタイプのインドア派だ。

 

 そんな陰キャな俺がこの勝負において妹に勝てる要素は正直ない。

 そんなことはこの戦が始まった開始5分くらいで早々に気づいた。

 

 俺が放った水が一切妹に当たらない時点でこうなることは悟っていた。

 だがそれでも俺には譲れなかった。

 

 なぜならここで勝負を断りでもしたら、多分少なくとも10年くらいはそのことでバカにされる。

 

 今までだってそうだった。

 そんなことになるくらいなら、負けるとわかっている勝負でも、断るよりは受けた方が後々のことを考えると楽なのだ。

 

 そして勝負が始まれば俺は元来の負けず嫌い。

 ただ単純にそのまま降参するなんて真似はできない。全力でぶつかって全力で砕かれなければならない。

 

 まあ負けるつもりは毛頭ないんだけど。

 さあいよいよ疲れで考えていることも支離滅裂になってきたぞ。

 

 今自分が何を目的としてこんなハードなバトルを繰り広げているのか、すでに理由は見失っている。

 

「さと兄へとへとのべたべたのびしょびしょじゃん。気持ち悪いの三拍子が勢ぞろいだよ。もう諦めたら?」

 

「なんだ、降参か?」

 

「今のこの状況をどれだけポジティブに捉えたらそういう返事ができるのよ……」

 

 はっ! 隙を見せたな!

 ため息をつきあからさまに俺から視線を外し下を向いた瞬間に、すでに海水をなみなみと注いでいるバケツを妹に向かって振りかぶる。

 

「ほんとわっかりやすいなあ」

 

 しかしいとも簡単によけられてしまい、そして反撃を食らう。

 いくら俺の身体から水分がなくなりそうになっても、すぐに妹に追加されて俺は再びびしょびしょになる。

 どうして俺が水をかけようとしているタイミングがばれているんだろう。

 

「教えてあげよっか? さと兄が何かしようとするときは、目が一瞬こうクイって吊り上がるの。すっごくわかりやすいくらいに悪人面になるの。だからタイミングなんてさと兄が教えてくれてるようなもんだよ?」

 

 なんだそりゃ。そんな癖あれば自分でも気づきそうなもんだけど。

 それにこれまでそんなこと誰にも指摘されたことがない。

 

 ただ現実問題、今まで妹にすべて攻撃のタイミングを見切られよけられているということは、妹の言う通りそういう癖があるのだろう。

 

 ……今までみんなそんな分かりやすい癖をスルーしてくれてたってこと?

 なんかすごい恥ずかしいんですけど。

 くっ。精神攻撃とはなかなかにやりおるな!

 

「さとる! 見てー」

 

 俺のことをなめくさり、もはやバケツに海水を注ごうともしない妹の目の前で、再びバケツに水を入れる。

 そんなとき背後から引っ張られるような感覚とかわいらしい声をかけられる。

 

 レイに呼びかけられたら一時休戦だ。

 俺はかがめていた腰をあげてレイの方に向く。

 

 そして渾身のどや顔を披露しながら彼女が指を指している方へそのまま視線を動かす。

 そこには砂でできたアイス棒タワーがどでかく俺の目の前にそびえたっていた。

 

 ……えーなにこれ。なんでお城とかそういうのじゃなくて、このアイス棒タワーなの。

 

 しかもなにこの大きさ。2メートルくらいはあるんじゃないの。

 確かにこんなの作ったらどや顔もしたくなるわ。

 

「す、すごいな……」

 

「ふふーん」

 

「どうやって作ったんだ?」

 

「うーん……イメージの勝利?」

 

 俺と妹が見にくい争いをしている後ろでまさか一人完全勝利を収めているものがいるとは。

 またレイのトンデモパワーを使ったんだろうな。

 

 じゃないとレイが自分よりの身長よりも高いこんな器用なもの作れるはずがないもんな。

 絶対途中で崩れて、その瞬間に俺は冷気に襲われて即死しているはずだもん。

 

 いやでも本当に見れば見るほどすごいな。

 単純なアイス棒を砂で表現して見事にそれを積み上げている。

 どうして崩れないのか不思議なくらいのバランスだ。

 これ以上近づくのすら俺の足音で崩れてしまいそうで怖い。

 

「へえーすごーい!」

 

 背後から感心するような高い声が降りかかってくる。

 

 そうだよな。お前もすごいと思うよな!!

 なんかよくわかんないけどすごいよな!

 

 俺はこの謎の感動を妹と共有したく勢いよく妹の方へと振り返った。

 それはもう手元のバケツを振り上げるくらいの勢いで振り返った。

 

 バケツを振り上げた直後、バケツの中になみなみと注がれていた海水が遠心力を失い我先にとバケツから飛び出し、そして妹の顔面に向かって真っすぐと向かっていく。

 

 妹はこちらに顔を向けて、驚いたような呆けているようなそんなあほ面をさらしていた。

 そんなあほ面を見て俺はようやくバケツを持っていたことを思い出し、今の状況を理解する。

 

 しかしいまさら状況を理解してももう遅い。

 時は止まってはくれないんだから。

 

 水は迷うことなく妹の顔面を直撃するとそのまま見事に妹の顔と髪を盛大に濡らし、地面の中へと姿を消した。

 

 妹の髪からぽたぽたと水滴が絶え間なく落ちている。

 うつむいているから彼女がどういう表情をしているのかわからない。

 

 レイに助けを求めようにも、彼女はなぜか俺と妹から離れるように、自らが作成したアイス棒タワーに向かって走っている。

 

 ……この状況で俺は妹になんて声をかければいいんだろう。

 



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115話 別れというのはいつも唐突に訪れるもの。それを受け入れ始めたころに再会するとめちゃくちゃ感動するよね。

 いや冷静に考えると別に俺は悪くないよね?

 俺から一方的に停戦するっていっただけで、べつに合戦が終わってたわけでもないし、それを抜きにしても俺の方が何倍も水を浴びているわけだし。

 

 奇跡的にというか、逆になんでそうなったのか疑問だけど、妹の服はほとんど濡れていない。

 

 全部が顔面に集中してせいぜい垂れているしずくが服を濡らしているくらいだ。

 だから被害としては全然少ないわけですよ。俺に比べれば。

 

「ふふっ」

 

 え、何怖い。

 

 妹はうつむいたまま肩を震わせ始めた。

 かろうじて見える口角は上がっているようにも見える。

 

 あまりに突然すぎておかしくなっちゃったのかな?

 俺責任持てないんだけど。めちゃくちゃ怖いんですけど。

 

「どーーん」

 

 かと思ったら今度は背後で気の抜けるような声。

 そちらを見るとなぜかレイが自分で作り上げたアイス棒タワーに体当たりして、さらさらとタワーが崩れていくさまが目に入る。

 

 レイは後のことを考えていなかったのか、自分に降りかかった砂を払うようにして頭をぶんぶんと振り回している。

 

 いや実際には一粒も砂はついてないんですけど。

 多分気分的な問題だよね。

 

 そして気が済んだのか頭を振り終えるとそのまま俺の方へと顔を向けた。

 何か言ってほしそうだけど……。

 

「えっと、なにやってんの?」

 

「? 満足した」

 

 んー……そっかあ。

 俺からすればあんな見事なタワーがいとも簡単に壊されてしまったことに多少なりとも残念な気はしなくもないけど、作成者の本人が満足しているんだったらベつにいいのかな。

 

 俺と妹に見せれて満足したってことかな。

 俺としては新たなランドマークタワーとして、なんなら風とか雨で崩れないくらいにしっかりと固めて新たな観光地としてもよかったと思うけど。

 

「あっはははははは」

 

 今度は何!?

 レイに気を取られていたらまた背後から声。

 今度は甲高い笑い声。

 

 もう俺この板挟み嫌なんだけど!?

 首動かしすぎていつか首ひねるよ絶対!

 

 そんなことを考えている間にも笑い声は絶え間なく耳に入ってくる。

 妹の方に顔を向けると、彼女は髪をかき上げて空を仰ぎながら大口を開けて大笑いしていた。

 

 とうとう本格的に狂ってしまったらしい。

 

 そんなに水かぶるのが嫌なんだったら、勝負なんか吹っ掛けなきゃよかったのに。

 そんなに俺からは確実に食らわないという自信があったんだろうか。

 

 まあ実際今までかすりもしなかったし、今のだって俺の意思に反した俺を含めた不意打ちだったけどさ。

 怒るんじゃなくてそこまで笑われると、俺としてはどうしていいかわからないんですけど。

 

 むしろ若干距離取りたいんですけど。

 レイの方に近づいていいですか。

 

「はー、お腹ちぎれる。あー……」

 

 今の状況を変えるにはまだお腹がちぎれるくらいのインパクトがあることが起こった方がいいかもしれないね。

 まあそんなことが起きたらいよいよ俺は妹をおいて先に帰らせていただきますけど。

 

「すっきりした!」

 

 顔も髪もびしょびしょでむしろ湿っぽくなりそうなのに、妹は満面の笑みをこちらに向けてきてそう言い切った。

 

 まあわかってはいたけど、別に怒ってたとかショックを受けていたとかそういうわけではないみたいだ。

 

「レイちゃんは可愛いし、お兄ちゃんはわけわかんないし。挙句の果てに口開けてるときに海水ぶっかけられるし」

 

 口開けてるのはお前があほ面晒してるのが悪いんじゃん。 

 あと背後に立って急に話しかけるからじゃん。俺だってまさかバケツからあんな勢いよく飛び出すとは思わなかったわ。

 

「私今回は結構メンタル来てたから、お兄ちゃんのところ行っても変わんないかなって思ったりもしたんだけど。いやあ、さすがお兄ちゃんだね」

 

 これは、褒められてるんだろうか?

 なんか心なしかけなされてる気もしなくもないし、なんだかその言葉を素直に受け取る気にもなれない。

 

 素直に受け取ったら、それはそれでなんか照れくさいし。

 いまさら何を言ってるんだか。

 

「んーーーー」

 

 俺の考えなど知ったこっちゃない妹は勝手に晴れ晴れしい表情を浮かべながら、大きく伸びをしている。

 

 こいつは俺のところに来たら精神が落ち込んでいてもなんとかなるって思ってるみたいだけど、まあ昔からそんな感じでからんでくることはあるけど、俺としては全然関係ないと思っている。

 

 全部妹が自分自身で持ち直しているだけだし、俺が何かしているということは一切ない。

 

「……よし。帰るね!」

 

 え、一人で帰るの?

 帰るねって言ってもお前うちの鍵とか持ってないじゃん。

 どうやって家に入るつもりなの。

 

「私は一足お先に都会に帰らせていただきますわ」

 

 どこの貴族だよ。都会かぶれしてるんじゃないわよ。

 というか帰るってそういうこと?

 あまりにも唐突すぎて普通に俺の家に一人で帰るのかと思った。

 

「その……なに? 都合よく頼ってばっかで申し訳ないけど、いつもありがとうね。お兄ちゃん」

 

「……自費で帰れよ」

 

「別にお金欲しさで言ったんじゃないよ! なんで素直に感謝を受け止めないのさ!」

 

 いやだってお前が素直にお礼なんて言うわけないじゃん。

 何か裏があると思って当然じゃん。今この状況で考えられることなんて帰宅費用を出せってくらいなもんじゃん。

 

「まあ私も大人になってお礼くらいは素直に言えるようになったってことだよ」 

 

 大人に、ねえ。

 レイの方に向かって歩いている妹の背中を見つめる。

 

 たしかに成人もしているわけだし、立派な大人なのかもしれない。

 でも俺からすれば小さい頃の妹と何ら変わりはないように見えるわけで、大人になったようには見えない。

 まあそれは向こうも同じことを俺に思ってるんだろうけど。

 

「レイちゃん。お兄ちゃんのことよろしくね」

 

「? わかった!」

 

 レイに俺のことお願いするってどういうこと? 俺レイにお世話されるの?

 それもいいとは思うけど、現状逆の光景しか思い浮かばないけど。

 だからレイも意味も分からずに肯定しないでね。

 

「さと兄もたまには実家に顔見せてあげなよ。ああ見えてお父さん寂しがってるんだから。じゃーねー」

 

 妹はそんな捨て台詞をはきながらひらひらと手を振りながら砂浜から去っていった。

 

 まるで海外ドラマのような去り方が妙に似合っているのが腹立たしい。

 ……俺も今度退勤するときに真似してみようかな。

 



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116話 とある妹の独白

 電車に揺られながら窓の外へと目を向ける。

 さっきまではしゃいでいた海が目に入り、思わず頬が緩んでしまう。 

 

 思いっきり海水をかぶったのが顔だけとはいえ、化粧も崩れ服も濡れてしまった私は近くにあった服屋で、適当な服を買ってそのまま新幹線に乗った。

 

 まさか自分でもこんなに急に帰ろうと思う時が来るとは思わなかったけど、色々あって一週間もお兄ちゃんの家に居座っていたのだから、判断は遅かったのかもしれない。

 

 昔から私は自分の許容範囲や何かしら限界が来た時、お兄ちゃんに頼ってしまう癖がある。

 成人を迎えた大人が兄に頼るなんてって自分でも思わなくないけど、文句ひとつ言わずに受け入れてくれるお兄ちゃんにも問題があると思う。

 

 まあ表向きぐちぐち言ってくるけど、結局本音ではそんなこと思ってないっていうのがバレバレなんだよね。

 お兄ちゃんってホント嘘つくの下手だなあって思うけど、それは私が妹だからこそ感じることなのかしら。

 

 今回はさすがにお兄ちゃんのところに行っても立ち直れないんじゃないかって思ったけど、ほとんど反射的に理性が爆発すると同時にお兄ちゃんの居場所を、お母さんに聞き出していた。

 

 やっぱりこれは悪癖なんだと思う。

 お兄ちゃんは私を助けてくれてるなんて自覚は全くないんだと思う。

 

 私がいつも勝手にお兄ちゃんの懐に逃げ込んで、お兄ちゃんが私の悩みとは全然関係ない馬鹿なことをして、それを見て悩みがどこかに行ってるっていうどちらかというと、独りよがりな頼り癖なのかもしれない。

 それに悔しいことにお兄ちゃんはそんなばかばかしいことを毎回大真面目にやらかすのだ。

 

 しかも本人はやらかしたことに気づいていない。

 だから私はそんなお兄ちゃんを見て、自分が悩んでることなんてお兄ちゃんがしでかしていることに比べたらどうでもよくなってしまう。

 

 だから何もしていない人にお礼は言わないし、だからこそ今回素直になったらすごく驚かれてしまった。

 あれはちょっと心外だったな。

 私だって感謝くらいするんだから。

 

 むしろお兄ちゃんより饒舌なんだから、私の方が周りの人に感謝を伝えてるくらいだと思う。 

 正直今回はお兄ちゃんのところに行ってもなんの解消にもならないんじゃないかと思っていた。

 

 お兄ちゃんは知らないんだろうし興味もないんだろうけど、高校を卒業してから声優について学ぶために、専門学校に行っている。

 

 正直私がこの道を選んだのだってお兄ちゃんが高校生の時にリビングでアニメを見ていて、それに影響されたんだからお兄ちゃんはわが妹の進路くらい知っておいてほしいものだけど、どっちみちそんなことを言っても素直に聞いてはくれないだろう。

 

 よくよく考えてみると私は昔からお兄ちゃんに影響されやすいのかもしれない。

 アニメとか漫画にはまったのだってお兄ちゃんが持っていたのを勝手に読んだりしてからだし、高校卒業の時に都会の方で一人暮らししようって思ったのも、お兄ちゃんが先に家を出ていたから。

 別にブラコンというわけじゃないし、もちろん異性として見ているわけでもない。

 

 自慢じゃないけど高校生の頃私はモテた。

 いわゆるモテ期ってやつだったんだと思う。

 

 告白してくる人の中には高圧的な態度をとってくる人もいて、だんだんそれに嫌気がさして、そういう人に対してはお兄ちゃんの盛れに盛れている寝顔の写真をつきつけて「これよりかっこいい自信があるならいいよ」と言い返して追っ払っていた。

 

 お兄ちゃんは自覚してないけど、黙っていればお兄ちゃんだってそこそこのイケメンなのだ。

 本当にずっと人前では黙っていればいいのに。

 

 そんなお兄ちゃんの盛れている写真、まあ寝顔を撮るほどの関係って思われていたのかもあったのかもしれないけど、大抵はそれでなんとかなった。

 そういうことをしたりもしているけど、私は断じてブラコンではない。

 

 ブラコンが影響して今まで誰とも付き合ったことがないなんてこともない。

 単純に私のお眼鏡にかなう相手がいなかっただけ。

 

 なんか考えがそれてる気するけど……そうそう専門学校のことだった。

 思い出すだけで腹立つけど、私は専門学校内でそこそこ優秀だった。

 

 卒業前にはプロダクションとの契約も決まっていたし、学校内でされているラジオ的なパーソナリティをやっていたりもした。

 

 要するに夢がかなう一歩手前まで来ていたわけだけど、もちろん何もせずにここまで来たわけじゃない。

 人並み以上に努力も勉強もしてきたつもりだし、その結果得られたもの、多少運は絡むのかもしれないけど、あくまでも自分の実力で手にしたものだと自負していた。

 

 でも周りはそうは思わない。

 やれコネを使っただの、美貌を売って契約しただのやっかみやひがみの言葉はどうしても出てくる。

 そんなものは昔から多少なりとも言われていたことだし慣れていたから、まだ耐えることができた。

 

 でも学内ライブが行われることになり、私の出演が寄ってたかって無しになったときに堪忍袋の緒が切れた。

 どうして私の顔がいいというだけで、ここまでひがみを受けなければいけないのか。 

 

 そういうことをしている暇があるのであれば、自分磨きにでも時間を当てればいいのではないか。

 

 そんなことを言いたかったけど、すべてがどうでもよくなって学校に行く意味が分からなくなった私はそのまま学校を飛び出した。

 それはもうひどい精神状態で気づけばお母さんにチャットを送り、そして新幹線に乗ってお兄ちゃんの所へと向かっていた。

 

 今思えばこれも自分勝手な行動だと思うし、戻ったところで契約が続いているのかラジオとかはどうなっているのか正直分からない。

 

 ともかくそんな状態で飛び出してきちゃったものだから、お兄ちゃんのところに行っても気休めにもならないと思っていた。

 新幹線の中でちょっと冷静になったときに思ったのは、私も結構限界だったんだなって。

 

 まあ飛び出してきた手前、このままいかないのも後味が悪いし、新幹線代がもったいないし、結局お兄ちゃんの所に行くことにしたんだけど。

 

 それで家に入ってみたら、お兄ちゃんが自殺まがいな行為をしていた。

 結果的には私の勘違いだったわけだけど、あんな場面見てしまったら誰がどう見ても自害しているようにしか見えないと思う。

 

 焦った私はその瞬間なんでお兄ちゃんのところに来たのか、自分に何があったのか一切合切頭から吹き飛んで、お兄ちゃんを止めることに必死だった。

 

 この時点で私がお兄ちゃんの所に来た目的は達成しているんだから、お兄ちゃんって本当にずるいと思う。

 その最初の出来事が最高到達点だと思ったら、そうじゃなかった。

 

 今度はいつの間にか連れ込んでいた女の子といちゃいちゃしていた。

 しかも話を聞いたら幽霊とか言い出した。

 

 私が専門学校で孤独と戦っているときに本当にこの人は何をしているんだろうって、本気で思ったよね。

 

 やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんなんだなって。そう実感したよ。

 



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117話 とある妹と幽霊の話

 レイちゃんと仲良くなるのにそう時間はかからなかった。

 その点に関してお兄ちゃんは終始不満そうにしてたけど、そこは男女の違いじゃないかな。

 

 それかコミュニケーション能力の違いじゃない?

 レイちゃんはお世辞にも話し上手とは言えないし、そんなレイちゃんとコミュニケーションを破壊するお兄ちゃんがすんなり仲良くなるなんて、あんまり想像がつかない。

 

 今あんなに仲良くなってるのだって奇跡だと思うし。

 

 最初にレイちゃんの部屋で話した時だって、ほとんど私が一方的に話しかけてただけだし。

 それでもちょっとずつ警戒を解いてくれて、ぽつぽつと話をしてくれるようになって。

 

 といってもレイちゃん自身の話はほとんどなくて、お兄ちゃんとの話ばっかりだったけど。

 

 レイちゃん自身、自分のことをあまり覚えてない様子だった。

 幽霊ってみんなそうなんだろうか。今まで幽霊とじっくり話す機会なんてあるわけもなかったから、わかんないけど。

 

 四六時中幽霊と話す機会があったら、それはもう声優なんて目指さずに霊媒師とかにでもなってたかもしれないしね。

 

 まあレイちゃんからお兄ちゃんの話を聞いている時も相変わらずだなって思った。

 そんなところがレイちゃんが惹かれた部分でもあったんだろうけど。

 

 自分の家に住み着いた幽霊のために、服を買ってあげるって普通意味わかんないからね。

 理解ある家族じゃなかったら速攻病院に連れて行ってるところだよ。

 ほんと理解のある家族であることをお兄ちゃんには生涯かけて感謝してほしい。

 

 二人でショッピングに行くころにはレイちゃんともだいぶ仲良くなっていて、いっぱい話をしてくれるようになっていた。

 まあそれも最初に比べたらっていう意味で、会話の数自体は少なかったと思うんだけど。  

 

 ショッピングに行ってても楽しそうにお兄ちゃんの話をするレイちゃんを見て、ちょっと意地悪な質問をしてしまった。

 

「レイちゃんはさ。さと兄のこと好きなの?」

 

「うん、好き」

 

 思ったより即答で恥ずかしがる様子もなく、アイスを食べながら答えるレイちゃんにはちょっとびっくりしたなあ。

 アイスに気を取られすぎたのかもしれないけど。

 もっと深くまで突っ込みたくなってしまった私は、そこで余計な質問を続けてしまった。

 

「レイちゃんの言ってる好きってどういう好きなのかな?」

 

 レイちゃんは私の言っている意味が分からなかったんだと思う。 

 首をかしげて考えるそぶりを見せながらも、ずっとアイスを食べていた。

 

 本当にレイちゃんってアイスが好きだよね。

 お兄ちゃんにもっとしっかりしたもの食べさせなさいっていうの忘れてたなあ。

 

「好きは……好き?」

 

「うーん、なんていうんだろうなあ。私もね、さと兄のことは好きだよ? 本人には口が裂けても言わないけど。変なところが多い……というか変なところしかないけど、安心感があるし、本人に自覚はなくても色々と助けてもらってるわけだし。でもいくら好きだとしても、さと兄とずっと一緒にいたいとか、密着したいとかは思わないんだよね」

 

「一緒にいたい……密着……」

 

「そう。レイちゃんはさと兄とどうなりたいのかな?」

 

 今思えば余計な横やりをしたなあって思う。 

 単なる好奇心だけで人の関係に口出すなんて絶対しない方がいいのに。

 

 レイちゃんはアイスを食べながらも必死に考えている様子だった。

 冷たい空気が対面にいる私にまで伝わってきたからね。

 

 本当にレイちゃんって物理的に感情の変化が分かりやすい。 

 だからこそお兄ちゃんも気兼ねなくレイちゃんに接することができるのかもしれない。

 

「さとるとずっと一緒にいたい……。ずっとくっついてたい」

 

 ぽつりとつぶやくように吐き出したレイちゃんのお兄ちゃんに対する想い。

 レイちゃんはその時に初めて自分が抱いている感情を理解したのかもしれない。

 

 もしかしたら私が捻じ曲げてしまったのかもしれないとも思ったけど、多分そうじゃなくてレイちゃんがずっとお兄ちゃんに抱いている想いを、自覚できていなかったことを自覚するようになっただけ。

 

「レイちゃんは本当にお兄ちゃんのことが大好きなんだね」

 

「うん、だいす」

 

 そこまで口にしてレイちゃんは唐突に口を閉じた。というよりも続く言葉が無理やり止まってしまっているように思えた。

 

 急に猛烈な冷気が私の全身に襲い掛かってきた。

 

 あの時の寒気は正直怖くもあったし、一生忘れないくらいの衝撃があった。

 でもその時のレイちゃんの顔は冷たい空気と真反対に真っ赤な顔をしていた。

 そんな顔を隠すようにしてうつむいてはいたけど、私にははっきり見えていた。

 

 だからレイちゃんはその時初めて自分が抱いている愛情が、私がお兄ちゃんに対して持っている『家族愛』ではなく、別の感情だということに気づいたんだと確信した。

 

 『好き』という言葉は不思議な力を持っている。

 

 相手のことを好きになればなるほど簡単に言葉にして伝えられなくなってしまう。

 

 その言葉はある種の呪われた言葉のようで、伝えると暖かくなれる祝福の言葉でもある。

 

 大好きなアイスに手を付けずにそれが溶けていく様子を眺めているようにも見えるレイちゃんの姿を見て、私は素直に幸せになってほしいと思ったんだ。

 



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118話 とある妹とお兄ちゃん






 自覚した……してしまってからのレイちゃんはあからさまにお兄ちゃんにそっけない態度をとるようになってしまった。

 

 お兄ちゃんは理由がわからないからあたふたするしかない。

 あれだけ焦っているお兄ちゃんを見るのは初めてで、本人に聞かずとも両想いなんだとみてて感じた。

 

 まあそんな二人の様子を見て申し訳ない、余計なことをしてしまったなってちょっとは反省したけど、それでも恋愛初心者みたいな振る舞いをしていう二人を見て、楽しんでたのは正直事実かな。

 

 お兄ちゃんが会社に行っている間にもレイちゃんはずっと悩んでいるのか、はたまた考えすぎて思考放棄していたのか、ボーっとしていることが多くなっていた。

 

 話を聞こうかなとも思ったけど、これ以上首を突っ込んで引っ掻き回すのもどうかと思ったし、レイちゃんの頭をこれ以上混乱させると私が寒気で死んでしまいそうだったから、特にそのことに関して話すことはしなかった。

 

 海に行こうって思ったのもこの時くらいだったかな。

 もうこの時には自分が抱えている問題とかストレスとかほとんどどうでもよくなっていて、二人の距離を元に戻したい、もしくはそれよりもっと近くなってもらいたいっていう思いの方が強かった。

 

 だから海に行けば解放感とかレア感で何とかならないかなあって思いながら、海に行くことを提案してみた。

 

 まあそれで実際海に行ってみたら、私のテンションがバグっちゃったわけなんだけど。

 

 なんか悠々と構えている海見たら無性に腹立ってきちゃって、それと一緒になんで私が今お兄ちゃんのところにいるのか思い出しちゃって、周りのことも気にせずに叫びまわってしまった。

 

 そんな私が奇行にはしっていたというのに、お兄ちゃんは知らんぷり。

 

 それはそれで腹が立って、別に全然全くかまってほしかったとかそういうわけじゃないし、二人がいちゃいちゃしているのを邪魔したかったってわけでもないけど、無性に腹が立って、たまたま近くにあったバケツを持ってお兄ちゃんに水をぶっかけてしまった。

 

 もうあそこでタイミングよくバケツがあったのは本当に運命を感じた。

 もしかして私の運命の人はバケツなんじゃないかって勘違いするレベルだよね。

 まあバケツは人じゃないんだけど。

 

 そんな不法投棄と大自然の海の力を借りて、お兄ちゃんにほぼ八つ当たりに近いことをしたっていうのに、怒って当然なのに、それでもお兄ちゃんは私に対して怒るようなことはしなかった。

 

 むしろ私の攻撃を挑発か何かだと思ったのか、同じ方法で仕返ししようとしてくる始末だ。

 正直あの時は本当はお兄ちゃんって頭のねじが外れてるんじゃなくて、ただの優しすぎる聖人か何かなのかと思った。

 

 まあ仮にそうだとしても私がお兄ちゃんの攻撃を食らってあげる理由にもならないんだけど。

 昔からどれだけお兄ちゃんが不利になるようなことをしても、八つ当たりをしてもお兄ちゃんは全く怒ることがなかった。

 

 私が子ども扱いされているのか、それとも何もわかっていないのか。

 なんかどっちもなきがするけど。

 

 そんな関係がちょうどよく心地いいから私はついお兄ちゃんの所に逃げてきてしまうんだろう。

 

 顔面に海水をぶっかけられたとき、頭が真っ白になるのと同時にバグっていたテンションが落ち着いて自分が冷静になっていくのを、なぜか客観的に捉えられていた。

 そしてその直後のレイちゃんの奇行。

 

 今までもお兄ちゃんに似た行動の片りんを見せてきたレイちゃんだったけど、その時の行動は本当に意味が分からなかった。

 

 でもそんな行動を目の前で見たおかげで、どこか吹っ切れた私はすごくすっきりした。

 

 レイちゃんもお兄ちゃんも意外と似た者同士なのかもしれない。

 

 だから二人とも惹かれあって、たとえレイちゃんが家に住み着いた幽霊じゃなくても、出会い方が違っても二人は惹かれあっていたのかもしれないと、素直にそう感じた。

 

 というかあの二人見てたら私が周りの人のせいで悩んでることがばかばかしく思えてくるんだよね。

 あの二人はどこまでいっても、自分のペースを崩さないし、周りの目なんて多分気にしてない。

 

 お兄ちゃんはよく自分のことを普通だっていうけど、こんな一般人がいてたまるかって思う。

 普通は周りの目が気になって家ではともかく外で的外れな変な会話なんてできるはずがないもん。

 

 そんな普通じゃないお兄ちゃんとレイちゃんを見てたら、私の悩みはちっぽけなものに思えてきて、悩まなくてもいいんじゃないかと思えた。

 

 私は私のペースで、周りが何と言おうと夢を叶えるためなら妥協しないし、好きかっていえばいいと、そう思えた。

 

 そういう結論に至れたのは悔しいけどやっぱりお兄ちゃんのおかげで、しかも今回はレイちゃんもいて、そんな二人がありのままの姿を見せてくれたから私も決心がついたんだと思う。

 

 私はまたお兄ちゃんに救われてしまったわけだ。

 まあ今回はお礼を言ってしまったけど、あんな反応をされるくらいだったらもう一生お礼なんて言ってあげない。

 

 私の都合でお兄ちゃんを振り回して、頼れるだけ頼るだけだ。

 すっきりした頭のまま再び窓の外に目を向ける。

 

 高速で変化する景色の中にもう海は見えなかったけど、それでも私の目にはまだ海で遊んでいるレイちゃんとお兄ちゃんの姿が見えたような気がした。

 

 ……あー、私も早く恋がしたいなあ。

 空から男の子が落ちてきたり、突然部屋に誰かが住み着いてたり……いやそれはホラーだし、普通に怖いからいいや。

 

 青春真っ盛りなお兄ちゃんがうらやましいよ。

 私は恋に全力になれるのはもう少し先かな。 

 

 今は夢を追うので精いっぱい。

 でも恋をするときは、あの顔を真っ赤にしていたレイちゃんのように心の底から純粋な想いを抱かせてくれる人に出会いたい。

 

 そんなことを考えながらどんどんと流れていく景色をボーっと眺めていた。

 



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119話 顔が整っていれば多少のマイナスポイントなんてギャップ萌えでプラスポイントになるんですよね!!

『荷物全部置いてきちゃった。送っといて』

 

 スマホに届いた一通の通知。

 それを見るなりポケットから取り出したスマホをもう一度ポケットの中に押し戻した。

 

 結局あの後さっそうと帰っていった妹を追うようにして俺たちも変えることにしたんだけど、さすがにびしょびしょの状態で帰るわけにはいかないので、近場の服屋で服を買って帰ることにした。

 

 ほんと意味わかんない出費だよね。

 というかあんな場所に服屋があるのって、そういう客を狙って建ててるんだろうか。

 

 その割には全身びしょびしょで海水をまだ滴らせていた俺にはびっくりしているようだったけど。

 

 ほんと失礼な話だよ。俺だって濡れたくて濡れたわけじゃないんだから。

 激しい戦いの果てにやむを得ず、ああなってしまった。

 いうなれば名誉の負傷だよ? 迷惑そうにするんじゃなくて尊敬してくれてもいいんだよ?

 

 そして電車に乗るなり寝てしまったレイをおぶるような形で、そのまま家に帰ってきた。

 まああれだけはしゃいでいれば疲れるだろうな。

 

 初めての連続だっただろうし、あの崩れてしまった世界遺産を作るために使った謎パワーも体力使うぽいしなあ。

 

 そして家に帰りなり図ったかのように届いたチャット。

 それがさっきの一文である。

 

 そうだよな。うすうす気づいてはいたけど、あいつ荷物なんて持たずに身銭一つで本当に帰ったんだもんな。

 

 俺妹のこと賢いと思ってたけど、実はバカなのかもしれない。

 いやバカじゃなかったとしてもかっこつけたがりなのかもしれない。

 

 そういえばここに来た時も四天王ごっことかしてたし、もしかして遅れてやってきた厨二病なのか?

 お兄ちゃんを厨二病の世界に巻き込むのは勘弁してほしいんだけど。

 

 そのうち悪の組織がーとかって言いだして、俺のところに住み着いたりしないよね。

 ほんと勘弁してね。大人の俺じゃ付き合いきれないから。

 

「おーい着いたぞー」

 

 妹をどう現実の世界に引き戻せるか考えながら、背中で眠りこけているレイの身体を揺らす。

 まあ一度眠りについたレイはなかなか起きないことで有名なんですけどね。

 

 あまりしつこくして機嫌を悪くされて、また距離が開いてしまうのは嫌だしこのまま部屋まで連れていくか。

 

 部屋の扉を開けると、秋の夜風にしては冷たすぎる風が全身に襲い掛かる。

 真夏の冷房が十分に効いている部屋くらいの涼しさが充満している。

 

 この部屋で一週間過ごした妹もすごいけど、それ以上に中止すべき光景が目の前に広がっていた。

 

 ……ちょっと散らかりすぎじゃないですかね。

 

 そこはまるで強盗でも入った後のような散らかりようだった。

 服は散乱しているわ、化粧道具らしきものも床に落ちてるし、キャリーケースの中が空っぽになるのを見る限り、中のものをすべて外に出して、彼女はそのまま帰っていったらしい。

 

 これ見るまで忘れてたけど、そういえば妹は片付けが大の苦手だったな。

 もうここまでくると片付けが苦手っていうよりは、散らかすのが得意って説明したほうがしっくりくるまであるけど。

 

 レイを背中におぶりながらため息をつき、片づけを始める。

 なんというか俺の周りにいる女性陣は世話が焼けるというか。

 

 突然来たと思ったら突然帰っていった妹。

 嵐のようにって表現がよくあるけど、まさしく嵐のごとく自らの私物を人の家で荒らしていって、そのまま放置して帰っていった。

 

 ただまあレイとぎくしゃくしていたところを海に行くという提案をもって、元に戻してくれたってこともあるし、今回は大目に見てやることにしよう。

 

 なんて心の広い兄なのか。

 妹はこんな兄を持ったことを生涯誇りに思えばいいと思うよ。

 

 あいつが今どこで何をやってるのかは知らないけど、俺たちは何か自分ではどうしようもなくなった時に無理やり頼り頼られるくらいがちょうどいい兄妹なんだろう。

 

 ……あれどこで何をやっているのか知らないっていうので大事なことに気づいたんだけど、妹の現在の住所知らないから送ろうにも送り返しようがないよね?

 

 あいつ本当に勢いとノリだけで帰っていったんだな。

 今の今まで気づかなかった俺も俺だけど、やっぱりあいつの方がバカなんじゃないかな。

 

 そんな風に頭の中で妹のことを馬鹿にしながら片づけを着々と進めていった。

 下着とかそういうの諸々あったけど、やっぱり何の感情の変化もなかった。

 

 まあ当然なんですけど。

 いまさらそれを確認したところでっていう感じではあるんですけど。

 

 

 結局俺がベッドに入ることができたのは、日付も変わり夜も深くなってきたころだった。

 

 いくら何でも散らかしすぎ……。

 せめてもの抵抗として荷物は実家に送り返すことにしよう。

 




これにて妹襲来編終了となります。
自分の気持ちを自覚した幽霊と相変わらず多方面に振り回されっぱなしな主人公。
これから二人はどうなっていくのかお楽しみに……。
次章は旅行編に突入します。新たな出会いもあるかも……?

いつも読んでくださりありがとうございます。ここまで続けられているのも皆様のおかげです。
これからも気長に緩くお付き合いいただけると幸いです。

よろしければ評価や感想、気軽にお寄せください。
全て全身全霊で受け止める所存です!


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120話 雨降って地固まるのは聞いたことあるけど、海水かぶってノックダウンは聞いたことない。

「……とる。さとる」

 

 声がする。耳元がやけにくすぐったい。

 

「んー……もうちょっと」

 

 感覚的にはさっき寝たばっかりだ。

 朝までにはまだまだ時間があるだろう。 

 

 誰かが俺の名前を呼んでいる気がするが、今は眠気の方が勝っている。

 俺は再び心地よいまどろみに身を任せて夢の中へと……。

 

「さとる!」

 

 右耳から顔にかけて吹きかけられるとてつもない冷気。

 生命的本能から俺の脳は途端に覚醒して目を見開く。

 

 目の前には長い髪をだらりと俺の顔に向かって垂れ流し、うつろな瞳でこちらを見つめながら頬を膨らませている少女の姿があった。

 

 普通に生命の危機を感じるからこういう起こし方は勘弁してほしいんだけど。

 窓の方に目を向けるとやっぱり日の明るさは感じないから、まだ寝てそんなに時間もたってないんだろう。

 頭も重いし。

 

「見て!」

 

 しかしそんな悪健康な俺の状況など知る由もないうちの幽霊、俺の命の灯を脅かしたレイさんはくるくると回りながら俺から離れながら、ベッドの横でバン! と音が出そうなくらいすがすがしい顔で両手を広げた。

 

 なんというか、今日のレイはすごいもこもこしていた。

 いつの間にそんなパジャマを買ったのか。いや十中八九妹と一緒に買ったんだろうけど。

 

 なんというか眠るだけで起きた時にはベッド周りが糸くずだらけになってそうな……そんないい方したら可愛さも何もなくなりそうだけど、ともかくもこもこしてるパジャマを着ていた。

 

 しかもここからが重要かつ重大なことなんだけど、そのパジャマにはフードがついていた。

 もちろんフード付きでレイが被らないわけがない。

 

 ここまでは別にいつも通りでなんらおかしいことはない。

 ただもこもこしているだけだし。

 

 ただそのフードには耳がついていたのである。 

 猫耳のような少し小さめで遠慮するようにちょこんとつけられた耳。

 耳までもこもこしている。 

 

 そしてなぜか、その耳はぴょこぴょこと小刻みに動いていた。

 

 レイも動いていてそれに連動するように動いているならまだ理屈はわかるよ。

 でもレイは両手を広げて俺の感想を待ってるんですよ。

 つまりそこから全く動いていないわけなんですよ。

 

 でも彼女の頭にあるフードについてある耳はずっと動いてるんですよ。まるで元から彼女の体の一部であったかのように。

 あざとい。だがそれがいい。

 

 原理はわからんけど、服を一瞬で着替えられる時点で超次元的な何かなのだから、耳が動くくらいどうってことはない。

 

 だって可愛いんだからなんでもいいでしょ!!

 

 寝起きで頭回ってないからそこまで気にならないっていうのもあるけど。

 

「……どう?」

 

 しびれを切らしたのかレイがフードの奥からつぶらな瞳をのぞかせて、不安げに首をかしげている。

 

 ここはクールかつ素直な感想を言ってあげないとな。

 下手にオブラートに包んで言うとレイの場合、それを素直に受け取って俺が死にかねない。

 

「か、かか、かわいいです」

 

 めちゃくちゃどもってしまった。

 

 俺のそんな情けない返事でも満足したのかレイは飛び跳ねながら自分の部屋へと戻っていった。

 飛び跳ねてるときも耳はあらゆる場所にぴょこぴょこと動き回っていた。

 

 結局あのパジャマ姿を見せたかっただけなのか?

 突然のレイのイメチェンにすっかり目はさえてしまって今から寝ようにも寝れそうにもない。

 というか起きてわざわざあのパジャマに着替えたってことなんだろうか。

 

 俺に見せるために?

 何それ可愛すぎるでしょ。

 

 ちょっと前まで避けられていたのが噓のようなレイの振る舞いがかわいくて仕方がない。

 だからちょっとどもっちゃうくらいしょうがないよね!

 

 そんなことを考えながらもそもそと布団の中に潜ろうとしていると、再び扉が開かれる音がする。

 どうやらまだ終わりではなかったらしい。

 

 次は一体何が来るのか。

 覚悟を決めるように俺はベッドの上で正座をしてレイが現れるのを待つ。

 

 そして飛び出すように俺の前に現れたレイを見た瞬間、俺はノックダウンされた。

 文字通りベッドの上で俺はなぜか寝転がっている。

 

「ぐはっ」

 

 吐血してないよね? 鼻血も出てないよね?

 うん大丈夫。体は正常のようだ。

 

 服装自体は王道的なショートパンツにタイツ、そしてグレーのロングカーディガン。

 ロングカーディガンがちょっと長くて燃え袖気味になっているとことかタイツ姿が新鮮すぎる時点で、破壊力は抜群だ。

 

 それなのに極めつけのハーフアップ。これはだめだ。

 まさか髪型まで変えてくるなんて想像もしていなかった。

 そんなことされたら俺が耐えられるはずがない。

 

「さとる?」

 

 心配そうな声が耳に入る。

 その瞬間飛び起きてレイの方へと顔を向けた。

 

「違う違う。今のは可愛さの圧に負けた結果というか、幸せの過剰摂取で幸福死したというか!」

 

 あれ、これ言い訳になってる?

 そう思ったけどレイは特に何も言わずに首だけかしげてまた部屋に戻っていった。

 

 そのあともレイのファッションショーは続いた。

 ゴスロリにクール系女子(眼鏡付き)、極めつけにはメイド服に制服ともはやなんでもありだった。

 

 そのたびに髪型も変わってたからもしかしたら妹と試着した時の髪型を再現しているのだろうか?

 服の着脱が一瞬でできるんだからそれくらいできても何も不思議ではない。

 むしろレイの超常現象の中では普通なくらいだ。

 

 というかあの制服妹が着ていたやつっぽいけど、なんで家に持ってきてたわけ?

 パニックになりすぎて、思い出に浸りたくて、思わず持ってきたとか?

 どういう心理状況だよ。

 

 ともかくあらゆる可愛いを俺に見せつけてきたレイは今は最初に見せたもこもこパジャマ姿に戻っている。

 

 髪も下ろしてフードもかぶりいつものレイである。

 ベッドの上で横になり撃沈している俺の横で足をブランブランさせながらベッドの上に座るレイ。

 その様子は漂う冷気や表情からも上機嫌であることが見て取れる。

 

「なあレイ?」

 

「なあに?」

 

「どうして俺を避けてたんだ?」

 

「避けてた……?」

 

 ボーっとする頭の中で思わずほとんど考えなしに口に出してしまった。

 一瞬後悔するが気になってたのは事実だし、レイも特に機嫌を損ねることもなくんー?といいながら首をひねっている。

 

 もしかして心当たりないの?

 レイの様子を見てそんなことを考えたが、一瞬はっとしたような顔をして彼女はこちらをじっと見つめてきた。

 

 な、なんだろう。

 やっぱり俺が知らない間にレイに対して何かやらかしていたのだろうか。

 

「んー……内緒?」

 

 首をかしげてなぜか頬を赤く染めはにかみながらそう言うレイの姿はどこかいつもより大人びて見えて、一層可愛く見えてしまった。

 

 ……結局内緒なんだね!!

 

 何の答えももらえなかった俺はそのあとすぐに俺の腹の上に頭を乗せてすやすやと眠り始めた彼女をしり目に、朝まで悶々と悩む羽目になってしまった。

 

 出た結論は

「まあ元通りになってるしいっか」

 という投げやりなものだった。

 

 しょうがないよね。ほとんど徹夜で頭回らないし。

 



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第七章 怪しい旅行
121話 幽霊が出迎えてくれるのが、家の平穏な日常です。


 妹の突撃訪問以降我が家には久しぶりに平穏な日々が訪れていた。

 最近後輩が襲来してきたり、妹が来たりと何かと忙しなかったからなあ。

 

 確かに家に誰か来ないかなとか淡い期待を抱いていた時期もあったけど、最近の奴はなんか思っていたのと違う感じだったし。

 

 もっとこう甘酸っぱい大人になっての青春。みたいなのを想像してたのに、実際に起こったことといえば非常識と非常識のカオスな空間が完成しただけで甘酸っぱいも何もなかった。

 

 仕事も最近は落ち着いてるし、やっと日常が返ってきたって感じがする。

 そんなことを考えてしまう仕事帰りである。

 

「ふーただいまー」

 

 大げさにため息をつきながら家に入ると、冬の到来を感じさせる冷たい空気が全身に降りかかる。

 ……いやこれ冬になり始めたからってだけで起こっていい冷たさじゃないよね。

 

 顔をあげるとやはり目の前にはボーっと突っ立っているレイの姿があった。

 しかもなぜか髪の毛で顔全体を隠して暗い雰囲気をまとっている。

 

「びっくりした。何事?」

 

 玄関前に立ってるなら声かけてくれてもいいのに。

 どうして無言で突っ立ってるの?

 あれ、おれただいまっていったっけ? 確か言ったような気がするけど。

 

 いやでもいつもだったらレイは必ずおかえりって返してくれるし。

 もしかしていってないのかもしれない。

 

「えっと……ただいま」

 

「…………」

 

 頑張ったのに無視された!! ちょっと家から出て行ってもいいですか?

 頭冷やしてくるのでちょっと待っててもらっていいですか!?

 

 いまだにただいまっていうのちょっと恥ずかしいんだからね?

 俺のそんな意図を汲んでくれると嬉しかったんだけどな!

 

「……精神統一中」

 

「……なるほど」

 

 全くわからんけどとりあえず頷いておこう。

 精神統一とか言いながらいつも以上に冷気垂れ流してますけど。

 感情ブレブレだけどそれ本当に精神の統一できてるの?

 

 とりあえずそんなよくわからない行動をとるレイの隣をすり抜けてリビングへと向かう。

 

 冷気が消えない限り後ろからついてきてるんだろうな。

 振り返るとやっぱり髪の毛をだらーんと前に垂らしたままとぼとぼと俺の後ろをついてきていた。

 

 まあこういうのも今に始まったことじゃないしな。

 なんか妹が帰った後あたりから、レイはこうしてよくわからない行動をとりながら無言になることが増えていた。

 

 さすがに玄関前でやってることは初めてだったからびっくりしたけど。

 何か考えていることでもあるのか、はたまたただ単純な気まぐれなのか、俺には止める権利もどうするつもりもないので、そのまま放置している。

 

 俺はそのまま自室へと向かう。 

 当然のようにレイも部屋へと入ってくる。

 

 ベッドの上で座ってどうするのかなあと観察していると、彼女は少しの間部屋の中をぐるぐると回りはじめた。

 精神統一って禅的な何かをイメージしてやってるのかと思ってたんだけど、違うのか?

 

 それだけ動き回ってたら逆に精神乱れそうだけど。

 目とか回らないの? 大丈夫?

 

 そんな感じで眺めていると、何を思ったのかレイはそのままテレビの裏に消えるように入り込んでいった。 

 

 そしてそのままなんの動きも反応もなくなったため、観察をやめる。

 こうして観察してるけど結局何がしたいのかわからないしなあ。

 

 スマホでもいじってようかな。飽きたら出てくるでしょ。

 そんなことを考えながらテレビに背を向けてスマホをいじること数分。

 

「ばあ」

 

 突然レイの顔が横に飛び出してきた。

 そちらに目を向けるとなぜか満面な笑みで何かを期待するような目をこちらに向けていた。

 

「埃とか溜まってなかった?」

 

「……あれ?」

 

 テレビ裏とかあんまり掃除とかできないもんなあ。 

 レイの様子を見る限り埃とか被ってるわけではなさそうだけど。

 そう思い声をかけたのだが、何が不服だったのか彼女は首をかしげながら俺をじっと見つめていた。

 

「テレビから出てきたら驚くんじゃないの?」

 

 ……あーこれはあれだな。たまたま見てたテレビかなんかのドラマに影響されているパターンか。

 

 確かにテレビから誰か出てきたらびっくりするよ?

 それが知らない人だったりおぞましいものだったりしたらの話だけど。

 だってテレビから出てきたのレイじゃん。

 

 知ってる人だしおぞましいどころか可愛らしいからむしろこっちから出迎えに行くわ。

 何、レイは俺のことを驚かしたかったのか?

 

 なんかレイに驚かされなきゃいけないようなことなんかしたっけ?

 記憶にないな。

 

「むむむ、おかしい」

 

 確かにレイが出てきた方に目を向けると彼女はテレビから上半身を出している。

 でもそれテレビの裏で頑張って足伸ばして俺の方まで顔出してきてるってことでしょ?

 

 いくらレイが幽霊だからって宙に浮けるわけじゃないし。

 その光景を思い浮かべると微笑ましくすらあるよね。

 

「出直してくる!」

 

 レイはそう言い捨てると、まるでどこぞのモブキャラのようにたったったっと音を出しながら自分の部屋へと戻っていった。

 

 結局何がしたかったんだろう?

 

 

 



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122話 レイは別に何ともないけど、相も変わらずホラーと名の付くものはすべて苦手です。

 夜は静かなものである。一般的に言うのであれば。

 しかし俺の家は一般的ではない。なぜならレイがいるから。

 

 深い眠りに落ちていたと思ったのに、今なぜか無性に体が重くなっているような気がして目が覚めた。

 目を開けても周りはまだ真っ暗で深夜に目覚めてしまったんだなとぼんやりとした頭で自覚する。

 

 少し体でも動かそうと思い、身をよじったがどうにも体が動かない。

 特に機能とかは運動とかそういうのはしてないから筋肉痛で動かせないってこともないと思うけど。

 

 体が動けないと思えば思うほど不思議なもので、顔がかゆくなってきているような気がしてくる。

 これになんか名前を付けてほしいものだけど、なんかあったりするのかな。

 

 顔の方へ手を持っていこうと右腕を動かそうとするけど、やっぱり動かない。

 なんか押さえつけられているような感じがするな。

 

 ……これはもしかして金縛りなのでは?

 

 そんなオカルト的な発想が思い浮かび、全身に鳥肌が立つ。

 いや確かにレイがいるのにいまさら何を怖がるんだって自分でも思わなくはないけど、それとこれとは話が別。

 

 俺はホラーが苦手なんだ。

 

 レイの超パワー、血文字とかそういうのに驚かないのは、あくまで彼女がそれをやっているというのが分かり切っているから怖くないのであって、その他で起こる超常的現象は普通に怖いに決まっている。

 

 首とか顔は何とか動かせるようで、恐る恐る頭だけを持ち上げて体の方に目を向ける。

 視線の先には俺に覆いかぶさるようにしてすやすやと眠っているレイの姿があった。

 

 ……なんだ、レイか~。

 レイのせいで体が動かないとわかって一気に全身の力が抜ける。 

 

 いやちょっと待って。

 なんでレイが俺の身体の上にいるわけ?

 それになんでこんな気持ちよさそうに寝てるわけ?

 

「あのーレイさん?」

 

「……えへへ~」

 

 俺の言葉が聞こえているのか聞こえていないのか、いや多分聞こえてないんだろうけど、俺の問いかけに対して反応することなくにやにやしながらひたすら自分の頬を俺が被っている布団に擦り付けていた。

 

 布団をどかしてその感覚を味わいたいものだが、残念なことに体が動かない俺にはどうすることもできない。

 確かに最近レイは自分の部屋に閉じこもる時間が極端に減った。

 

 寝るときもよく俺のベッドにもぐりこんできて眠ることが増えていた。

 俺としてはそれには何の問題もないし、むしろウェルカムなんですけど今日は寝る前にレイの姿が見えなかったから、油断していた。

 

 いや隣で寝てるとかだったら別にここまで困惑してないんだろうけど、身体の上となると話は別だ。

 それにこの金縛りみたいなのも無意識なんだろうし。

 

 あまりの幸せな光景に目がさえてしまった俺はここ最近のレイの行動を思い返す。

 そういえばこの間もなんか変なことやってたな。

 

 

 

「さとるー」

 

 とある日の夕方。仕事が終わり帰ってのんびりと過ごしていると、どこからともなく俺を呼ぶ声が聞こえてきた。

 ただ声の主であるレイの姿はどこにも見えず、代わりにリビングの入り口に小さな紙切れが置かれてあった。

 

 この感覚も久しぶりだなあって思いながら紙を開くとそこには一本の長い黒髪と『こっち』と一言だけ赤い字で書かれてあった。

 いやこっちって言われてもどっちなのかわからないんだけどね。

 

 その後とりあえずリビングの中をうろうろして特に何もなかったから、リビングの外の廊下に出るとまた紙が落ちてあった。

 そして内容はやっぱり一緒で『こっち』とだけ書かれている。

 

 そして紙に挟まるようにして二本の長い黒髪が置かれてある。

 さすがにレイの仕業だとわかっているから別に怖くはなかったけど、彼女が何をしたいのかは全くわからなかった。

 

 ただここでリビングに戻ってしまうと結局後々怒ったレイの冷気を大量に浴びて死にかけるんだろうし、それなら付き合った方がいい。

 命大事に。いやレイが俺が死ぬようなことはさすがにしないと思ってるけど、冷気はそうじゃないかもしれないじゃん?

 

 ついうっかりで死なないためにもそういうのは大事だと思うんだよね。

 そして俺はまた廊下をぐるぐるすることになる。

 

 また紙が落ちてるんだろうなあとか思いながらいろんな部屋を見て回ったけど、それ以上紙が見つかることがなかった。

 何分かそうやってただうろうろしていると、待つのが嫌になったのか玄関の扉が開く音が聞こえてきて、そこから真っ白な手が顔を出した。

 

「さとるー、こっちこっち」

 

 レイの声が聞こえるとともに白い手が手招きするように俺を呼んでいる。

 それに呼応するように玄関の方に近づくと、手が引っ込みそれと同時に玄関もすごい勢いで閉められてしまった。

 

「えぇ……」

 

 困惑しながら開けていいかもわからないから玄関の前で立ち尽くしていると、急にカタ……カタ……という音が家の中に響き始めた。

 

 なんてことはない。玄関に設置されている郵便受けの扉がゆっくりと開いたり閉じたりしていただけ。

 

 犯人なんてわかり切っている。

 わかり切っているのに当の犯人はそんなこと気にしていないのか、それとも俺が誰がやっているかわからないと思っているのか、徐々にスピードを速めながらひたすらに郵便受けをカタカタと動かしていた。

 

 ……レイがやってるってわからなかったら多少はビビったかもしれないけど、そういうのは自分がやってるってわからないようにやるもんだと思うんだよね。

 さっき自ら玄関に誘導してたし、俺レイの声をすぐに忘れるほど物覚えが悪いわけでもないからね?

 

 とりあえず玄関の扉を開ける。

 そこには郵便受けを触っていたのがまるわかりの手の形をして両手を突き出しながらしゃがんでいるレイがいた。

 

 ちなみにその時のレイはびっくりするわけでもなく、きょとんとした顔でこちらを見上げていたので普通にめちゃくちゃ可愛かった。

 そんな姿が見れて満足したけど、そのまま放置するわけにもいかないのでとりあえず家の中に引き戻す。

 

「近所迷惑になるからやめてね?」

 

 一応そうやって注意したけど、そんなつまらない話をレイが聞いているわけもなく「あれれ?」って言いながら首をかしげていた。

 

 ちなみにその時の顔も普通に可愛かった。

 とぼけてるのか俺が驚かなかったことを不思議に思っているのかはわからなかったけど、とにかく可愛かったので俺は満足です。

 

 そんな典型的なオカルト行為を最近やたらと試してくるレイ。

 理由は何となくわかっている。

 

 テレビをつけた時にたまたまやっていたホラー番組をレイと一緒に見てしまったからだ。

 

 いや、俺は全く見たくなかったんだけど、テレビつけてチャンネルを変えようとした瞬間にレイにリモコンを取られたから、俺に拒否権はなかったんだよ。 

 テレビから離れようとするとレイが強制的に俺の顔をテレビの方に戻すし。

 

 もう俺涙目だからね? レイは楽しそうに見てたけど。

 要するにレイにはホラー番組が多分お笑い番組とかバラエティとかそういう楽しいものに見えてしまったんだろう。 

 

 レイって知らないことを知ったときは基本的に楽しいって思ってそうだし。

 そんな楽しそうなことを彼女が試さないわけがない。

 結果、最近のオカルト行為につながるんだろうな。

 

 相変わらず俺の胸の上ですやすやと眠りこけているレイの姿を見ながらそんな考察をする。

 

 まあレイが楽しければいいんだけど、俺もうまく驚いてあげたりできないからね?

 だって全部レイがやっているってわかったら、結局怖いよりも可愛いが勝っちゃうもん。

 

 驚けるはずがない。むしろその状況でレイに抱きつかず理性を保っている俺をほめてほしい。

 

 

 ……ホラー番組見せるのなしにしようかな。これ以上過激なものを見せると彼女が何をし始めるかわからない。

 危険はないのかもしれないけど危ないことはさせたくないし。

 

 ただそういうオカルト行為にはまってるって言ってもこの間の精神統一という名の突っ立ってるだけのやつとか、今のこの状況とかはよくわからないんだけど。

 

 レイは一体俺にどうしろというのか。

 男心はもてあそばずに大事に丁重に扱ってほしいものだね。

 結局俺は体を動かすことをあきらめて、顔がムズムズしたまま二度寝した。

 



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123話 人がいくら悩んでいようが、後輩と食堂は相も変わらず平常運転です。

「ああーーーー、んーーーー……」

 

 かれこれ三日間ぐらい悩んでいるけど、結論が出ない。

 そもそも三日悩んでも完売にならないってのがやっぱり怪しいんだよなあ。

 

 なんかいろいろと視線を感じるけど、そんなこと気にしてられるほど余裕もない。

 スマホの画面にくぎ付けだ。

 

「珍しく先輩がいかにもかまってほしいみたいな声あげてますね。こんな誰がいるかわからない食堂でよくそんなこっ恥ずかしいことできますよね。前失礼しまーす」

 

 誰がいるかわからないって、個々の食堂は社員食堂なんだからうちの社員しかいないでしょうよ。

 むしろだれかわからない一般人が紛れ込んでいたらそれはただの部外者だし、不審者じゃん?

 

 俺のそんな突っ込みを込めた目線を受けてもそれを気にする様子もなく、わが後輩は俺の了承を得る前に前の席に座ってしまった。

 

 しかし今日はそんな後輩にも構っていられない。

 俺は再びスマホの画面へと目線を戻す。

 

「それで、どうしたんですか? そんな悩んで。顔色も悪いし。生理ですか?」 

 

 女の子が大衆の面前で何を堂々と口にしてるんだよ。

 しかもご飯をもぐもぐしながらそんなことを言うんじゃないよ。食欲なくなるわ。

 そもそも俺男だし。女性のつらさなんてわかる体に産まれてないんですよ。

 

 一度に怒涛な突っ込みをしないといけないほど、ボケないでもらっていいですか?

 いまそっちにリソースを割いている余裕がないって俺言ったばかりですよね?

 

「ちなみそれなんだと思う?」

 

「え、また唐突な……。私が食べてるやつですか? ビーフシチューですよね?」

 

「メニュー表記上は。実際は?」

 

「んーー、シーフードカレー?」

 

 だよなあ。

 俺は後輩が食べているビーフシチューもどきに目をやりながら再度うなだれる。

 

 ここの食堂は個性が強い。

 でもたまに個性が強いだけじゃすまされないこともあるんだよね。 

 

 というのもこの食堂カレーと名の付くものはもちろんのこと、カレーっぽいものは全てシーフードカレー味になってしまうのだ。

 

 どうしてビーフシチューと名の付くものからほのかな魚介類の味がするのか甚だ疑問ではあるが、実際にそういう味付けになっているんだから仕方がない。

 

 しかもほんのりとかではなくしっかりとシーフードなのだ。

 シーフードカレーを作った鍋をそのまま洗わずに流用していろんなカレーを作ってます。っていう理由では説明がつかないほどにしっかりと魚魚している。

 

「でも先輩も同じもの食べてるじゃないですか」

 

 だってうまいんだもん。

 悔しいことにカレーにバリエーション、ビーフシチューと名の付くシーフードカレー、普通にうまいのである。

 

 嘘偽りさえなければ食堂の人気メニュートップスリーには入るであろううまさをしている。

 だからこそメニューを偽るのがもったいなさすぎる!

 どうせなら素直にシーフードカレーですって堂々と書いておいて!

 

 そんな文句を抱えながらもシーフードカレー味のビーフシチューを頬張りながら、思考を元に戻す。

 そうだよ。同じ感覚を共有できてつい盛り上がっちゃったけど、それどころじゃないんだよ、俺は。

 

「はああああ。どうするかなあ」

 

「またかまってちゃんに戻ってる」

 

 うるせえよ。

 こんなの見たら誰だって同じ反応になるって。

 そう思いながら俺はうなだれたまま、スマホ画面を後輩の方へと突き出す。

 

「何ですか? これ? 旅館サイト? へえ、旅行行くんですか。いいですね」

 

 まあね。せっかくの正月休みという名の有給消化というありがたい冬休みがあるから、旅行の一つでも行こうかと思ったわけですよ。

 

「え、まさか私誘われてます!?」

 

 馬鹿野郎。そんなわけあるか。俺一人で行くんだよ。

 いやレイがいいっていうのであれば、レイと一緒に行きたいけどそもそもレイって県外まで出れるのかわからないし、家からどれだけ離れても大丈夫なのか測ったこともないしなあ。

 

「ごめんなさい。私正月前と正月は帰省してニートするって決めてるんです。だから一緒にはいけません」

 

 だから誘ってないって。無駄に俺が振られた雰囲気出すのやめてくれる?

 そんな頭深く下げなくていいから。別に誘ってないから。

 だから周りもひそひそと「振られてる」とか話さないで! 誘ってないから!

 

「意外だな。てっきり海外にでも行くのかと思ってた」

 

「え? ああ、確かにそれも魅力的ですけど。確かに本物より勝るものはないんですけど。でも海外に行っちゃうと一人にしか会えないじゃないですか? でも実家に帰るとコレクションがいっぱいあるんですよ。のんびりしながらたくさんの彼氏と一緒に過ごせるって思った方が幸せじゃありません?」

 

 わかったからまくしたてるな。

 お前の気持ちは十分伝わったから。俺が悪かったよ。

 というか一人とか彼氏とか紛らわしいからそういう言い方やめてくれる?

 そもそも相手人間じゃないじゃん。

 

 コレクションって何。建造物のフィギュアとか写真とか実家に飾ってるの?

 まあ確かにレイのフィギュアとか写真とかあれば俺もその部屋から出ないだろうけど。

 

 まあ? 俺の場合きっとその部屋に本物のレイがいるから結局両方楽しめちゃうんですけどね?

 

 ていうかレイって写真に映るんだろうか。

 ああ、ダメだ。また思考が脱線してる。

 今は旅館の話をしてたんだった。

 

 こいつと話してるとついつい思考がわけわからない方向に発展しがちで困る。

 ほんと反省してほしい。

 

「この旅館の値段、どう思う?」

 

「……あれ、私もしかして誘われてるわけじゃなかった? まあいいや。えーっと……一拍千円? この和風で立派そうな旅館で?」

 

 そう、俺の悩みの種。それはこの旅館が安すぎることだった。

 



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124話 怪しすぎて諦めようとしてたのに、どうしてそういうことするの?

 この旅館の情報を見つけたのは家で観光地を調べてあらかた行きたい場所が決まって、さて旅館でも調べようかと思ってまとめサイトを開いていた時だった。

 

 確かその時はレイも一緒で、それまでは俺のスマホの画面をのぞき込んでいただけだったのに、旅館サイトを開いたとたんに勝手にスマホをスクロールしたかと思うと、タッチしてとあるページを開いた。

 

 覗き込まれている時とかって、特に悪いことをしているわけでもないのに謎にむずむずしちゃったりするよね。

 

 なんだろうねあの感覚。ほんとにやましいこととかは一切調べてないのに、あのプライベートをガン見されている感覚。 

 ……ほんとに何もやましいことはしてないからね?

 

 それはさておきその開いたページに出ていた旅館情報が問題だった。

 パッと見古民家風の小ぢんまりとしているけど、歴史を感じさせるようないい雰囲気の旅館の画像があった。

 

 そしてまあまあ広い温泉。しかも部屋にも露天風呂付ときた。 

 まあなんというか俺の好みにはドンピシャの外装と内装をしていたんだよね。

 俺はフローリングよりも畳の部屋の方が好きだし。

 

 で、ほとんどひとめぼれで、しかもレイが偶然かもしれないけど選んでくれたっていう補正もかかって、多少高くても俺はここにしようと思っていたわけ。

 別に何か金を使う趣味があるわけじゃないし、最近もレイの食費がプラスされるくらいで、多少高い旅館に泊まれるくらいの余裕はあったし。

 

 そう思いながら金額を確認したら「千円」って、本当にそれだけ書いてあった。

 俺はそこで思った。

 あれ、この旅館もしかしてやばい?

 

 だって普通に考えたら一拍一人一万円以上は取れそうな旅館だ。

 それなのに千円って。

 いくらなんでも怪しすぎるでしょ。

 

 ここの画面を選んだレイはもう飽きてしまったのかどっかに行ってしまっていたし。

 しかもさらに不安になることがその下に書いてあった。

 

『予約確定後取り消し不可』 

 

 ……えぇ。何このあからさまな逃げるなよ宣言。というのが初見の反応。

 それから何度見ても怪しさしか感じなくて予約を躊躇している。

 

 いや確かに別のところにすればいいとは思うんだけど。

 こうなんというかこの旅館には謎に惹かれる魅力があるんだよね。

 

 もちろんほかの旅館の情報も確認したけど、どうしてもこの旅館の魅力を超えるようなものが現れない。

 だから妥協するかこのまま予約してしまうか迷っているのだ。

 

 そしてこの旅館を見つけてしまった張本人であるレイになど聞いてみても、首をかしげるだけで何も言ってくれないし。

 

 そうしてかれこれ一週間ぐらいこのサイトと見つめ合って過ごしている。

 今の最大の悩みの種である。

 

 

「へー、いかにもって感じですねえ」

 

 後輩の間延びした声で現実に引き戻される。

 そうだよね。こんなの誰が見たって怪しいって思うだろうし、多分これを見つけてもよっぽどの変人じゃない限り予約しようなんてことは思わないだろうね。

 そこまでわかっているのにどうして俺はこんなに悩んでるんだろうな。

 

「実は写真を加工しまくってボロボロなのを隠してるとか? んーそれにしては自然なんですよねえ。空間がゆがんでそうな加工もしてなさそうだし」

 

 珍しく真剣な表情を見せながら俺のスマホ画面を見つめて、ぶつぶつとつぶやいている後輩。

 確かに俺もその線は考えたし、俺には写真加工の技術がどれほど進んでるのかわからないから判別つかないんだよね。

 

 ただ建造物に対して目が肥えすぎている後輩がいうのであれば、加工の類はないのだろう。多分。

 そこに関しては信じてもいいような気がする。

 

「事故物件とか? やっぱり定番だと幽霊が住み着いてるとか、実は存在しない旅館だとかそんなところですかねえ」

 

 定番な展開にはなってほしくないものだけど、やっぱり思い当たるところといえばそのくらいだよね。

 今となってはレイが選んだっていうのも怪しいところだもんな。

 

 いや別にレイを疑うわけじゃないけどさ。

 霊的な何かで惹かれあって選んだだけなのかもしれないし。

 

「うーん……えいっ」

 

 考えれば考えるほど答えなんて出ないなんてわかってるのに、どんどん思考の渦に飲まれそうになっていく。

 そんなとき突き出した片手が少し押されるような感覚があり、後輩の方へ意識を戻した。

 

 すると後輩は俺のスマホへ指を突き出し、何かをタッチしていた。

 ……え、もしかしてお前。

 

「レビュー待ってますね」

 

 ニコッと笑いながらそんなことを言い放ち、自分のスマホを触りだす後輩。

 慌ててスマホの画面を確認するとそこには『ご予約ありがとうございました。心よりお待ちしております』というメッセージが画面いっぱいに表示されていた。

 

「おま!!」

 

 なにやってんの!?

 誰も俺の代わりに予約してなんて頼んでないよね!?

 どうして勝手に予約しちゃったの? お金払ってくれるの?

 

 え、どういうつもり?

 ねえスマホ見てないで、こっち見て説明してくれよ。

 

 後輩を睨みつける勢いで見つめ続けるが、後輩は険しい表情をしながらスマホを見ていて、全く俺の方を見る様子がない。

 

 おい、何とか言えよ。

 やっと俺の念が伝わったのか後輩は顔をあげる。

 しかしその様子がどこかおかしかった。

 

「あの先輩……」

 

 恐る恐るといった様子で俺に話しかけてくる後輩。

 なぜかその先は聞きたくなかった。

 

 聞いたらもうなんか、どうにかなっちゃうんじゃないかって感じがした。

 すごい嫌な予感がした。

 

「今私も同じサイトで旅館があるか確認してたんですけど」

 

 やめて。それ以上は言わないで。

 そうだとしても冗談だといって。

 今なら許してあげるから。

 

「その旅館情報全く出てこないんです」

 

 後輩の静かな声がすんなり頭に入ってくると同時に手に持っているスマホが短く震える。

 

 画面を確認すると、それは『予約完了』のメールの通知だった。

 

 



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125話 突然のご褒美は心臓に悪いし止めてほしいけど、やっぱりやめないでほしい。

「はああ、疲れたあ」

 

 特大なため息をつきながら、玄関の扉を開ける。

 今日は特に仕事の内容で疲れたとかそういうのじゃなくて、バカでどうしようもない後輩を追いかけまわすので疲れた気がする。

 

 あんなに廊下を全力疾走したのとか学生時代以来だよ。

 なんか周りから白い目で見られていたような気がしなくもないけど、そんなことより俺を死地に送り込んだかもしれない悪党を懲らしめることで精いっぱいだった。

 

 まあ結局捕まらなかったんですけど。

 無駄に運動神経いいんだよな。

 

「おかえりなさいませ。ご主人様」

 

 唐突に聞きなれない言葉が耳に飛び込んでくる。

 反射的に顔をあげて玄関に目を向けると、なぜかメイド服を着たレイが俺に向かって頭を下げていた。

 

 ……いやなにごと?

 

 一瞬パニックになりながらもなんとか正気を保つ。

 あぶねえ。あまりのメイド服姿のレイの可愛さと破壊的な一言に天に召されそうになった。

 

 あれ、そもそも幽霊がメイドになってるってそれは本当にメイドカフェじゃなくて冥土に連れていかれるのでは?

 

「ご主人様?」

 

 あまりにその場から動こうとしない俺を見て不思議に思ったのか小首をかしげながら、俺の方を見つめてくる。

 

 正直そんな格好でそんな可愛い顔でこっちを見ないでほしい。

 俺の正気が保てないから!

 

「た、ただいま」

 

 とりあえず動揺しながらもいつも通りを装い、廊下へと歩き進める。

 しかしレイの隣を通り過ぎた直後、カバンを持っていた方の腕が何か強い力に引っ張られ、足を止める羽目になってしまった。

 

 振り返るとレイがしかめっ面でカバンを見つめている。

 なんだろう。カバンにうらみでもあるのだろうか。

 

「お荷物、お持ちいたします」

 

「え、ああ……いや……」

 

 どうして今日のレイはこんな感じなのか。

 何かの役に入り込んでいるのは間違いないと思うんだけど、どうしてメイドをしているときはそんなに流ちょうにしゃべれるの?

 

 いつもはしたったらずな子供みたいな感じなのに。

 そのギャップはずるくない?

 

「大丈夫」

 

「……お荷物お持ちします」

 

 どうやら俺が持ってるかばんを片付けたいようだが、別に中身に何か重たいものが入ってるわけでもないし、いつも俺自身が片付けているわけだから別にそんな必要性は感じない。

 

 だから大丈夫だよって意味で断ったんだけど、なぜかレイさんはふくれっ面をして同じ言葉を繰り返している。

 

 どうしてそんなに俺のカバンをにらみつけてるの!

 俺のカバンが一体何をしたというのか。

 

 こうなっては俺が意地を張っても仕方ない。

 別にレイに渡したところでカバンが粉々になるわけでもないし、拒み続ける理由も特にないしな。

 ……さすがに粉々にはならないよね?

 

 カバンの行く末を若干気にしながらカバンを持つ手の力を緩め、そのまま手から離す。

 するとレイは嬉しそうにはにかみながらカバンを抱えながら、俺の後ろに立った。

 

 そんなレイを横目に見ながら自分の部屋に入ると、なぜか会社に行く前は落としていたはずのパソコンの電源がついていた。

 

 スリープモードになっていた画面を立ち上げパソコンを開くと、そこには配信されている海外ドラマのワンシーンがフルスクリーンで映っていた。

 パソコンいっぱいにメイドさんがずらりと並んでいる。

 

 さてはこれに影響されたんだな。

 どうして主人公やヒロインではなくてモブキャラのメイドに影響されたのかは謎だけど、レイの突発的な行動の意味は分かった。

 

 というかメイド服まで着れるって妹は一体何をやってるんだ。

 後でメッセージで説教しておくか。

 

 レイの行動の意味は分かったが、今日レイに聞きたいのはそのことではない。

 もっと大事なことを聞かないといけない。

 

 そう思いレイの方に再度顔を向けると、いつの間にか手に持っていたカバンをどこかにやってふわっと広がっているスカートをつまんでくるくるとその場で回っていた。

 

 メイドってそんな感じで遊んだりしないと思うんですけど……レイさん、もしかして飽きてらっしゃいます?

 

「なあレイ」

 

「な~に~?」

 

 間の抜けた声で返事をするレイ。

 うん、これは完全にメイドをするのに飽きてるね。もしかしたらすでにそんなことをやってたことすら、どうでもよくなってるのかもしれない。

 

「この旅館に見覚えは?」

 

 まあ気にしても仕方ないから、俺はスマホに表示されている例の旅館のページをレイの方へと突きつける。

 目は悪くないから見えてるはずなのに、彼女はなぜか顔をしかめながらスマホに超至近距離まで顔を近づけると、そのまましばらく眺めていた。

 

 その距離だと逆に何も見えなくなってると思うんだけど、もうそれは突っ込まない方がいいんだろうね。

 

「知らない」

 

 まあ返ってきた答えは予想通りだから別に驚かない。

 やっぱりこの旅館は別にレイが惹かれたからとか何か関係があるから、選んだというわけではないらしい。

 

 たまたま……強いていうのであれば旅館の方がレイを引き付けて選ばせたというべきだろうか。

 そんな考えをすればするほど行くのが嫌になってくる。

 

 でもせっかくの旅行だから、あいつにも責任取ってもらって完ぺきな計画を立てよう。

 ……とりあえず明日後輩を捕まえて連行しよう。

 

 旅館サイトのページでもう一室部屋の予約をしながら、固く心に誓い、レイのメイド服姿を堪能することにした。

 

 

 

 



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126話 相談する相手はきちんと選びましょう。

「何か俺に言いたいことはないですか」

 

「ご武運を」

 

「…………」

 

「すいません。出来心だったんです。だが後悔はしていない!」

 

 別にお前はあの旅館に行かなくていいって思ってるんだもんな! 

 レイがメイドをやっていた翌日、俺は昼休みで堂々と昼飯を食っている後輩の首根っこをつかんでいた。

 

 一日経ったら俺が追いかけないとでも思っていたのだろうか。

 まあそう思わせるように今日は朝から何もしかけていなかったら、油断させておいた俺の作戦勝ちといえば聞こえはいいな。

 

 そういうことにしておこう。

 多分単純にこいつがバカなだけだと思うけど。

 

「そんなに怒らなくていいじゃないですかぁ。先輩の勇気が出なかった部分を私が代わりにプッシュしてあげただけじゃないですかぁ~」

 

 似合わないぶりっ子のような猫なで声を出しながら必死の抗議をする後輩。

 首根っこをつかまれながらも飯は食ってるんだから、絶対こいつ反省もしてないしこの声も俺が気持ち悪さで手を離すと思っての作戦だろう。

 

 だが甘い! これくらいの気持ち悪さでは俺はお前を逃がすわけがない!

 なぜなら建造物の写真を眺めて、挙句の果てに画面にキスまでし始める後輩の姿の方が、今の何倍も気持ち悪いからこれくらいは全然許容範囲だ!

 

 後輩はしばらくにゃーんとかごろーんとか訳の分からない単語をつぶやいていたが、俺が動じないと気づいたのか途端に真顔で俺の方へと顔を向けてきた。

 

「そんなに私の首が好きですか。セクハラで訴えますよ。先輩と後輩の関係なのでパワハラでもいいですね。どっちがお好みですか?」

 

 ……ぐっ。

 思わず彼女の首から手を離してしまう。

 

 今のご時世ハラスメントで訴えかけられたら俺の方は何もすることができない。

 こいつの場合思ってもないのに平然と口に出すから余計にたちが悪い。

 

 こんなのハラスメントハラスメント、略してハラハラじゃないか!

 俺が一体何をしたっていうんだ。俺は無実だ!

 

「突っ立ってないで、座ったらどうです?」

 

 後輩よ。君はたまに無言で至極正論を投げてくるよね。

 その茶番に付き合ってあげてるんですよ~。みたいな雰囲気を唐突に出すのやめてくれない?

 

 俺がかまってほしい人みたいじゃん。というか基本的に暴走してるのは君の方だからね?

 

 まあ拒否する理由もないため、後輩の前の席へと腰掛ける。

 ちなみに俺はもうご飯を食べた後だ。

 

 今日の謎メニュー、豆腐の上に納豆が乗っただけのおかず、大変おいしゅうございました。

 

 もうなんというか謎とかじゃなくてただの手抜きメニューだよね。

 まあ食堂のいつもの謎センスは今はどうでもいいとしてこいつに聞かないといけないことがある。

 

 後輩の建造物に対する情熱と愛情は本物だ。格段に俺よりも知っている。

 誠に不本意ではあるが有意義な旅行にするにはこいつに頼るしかないのだろう。

 

「一つ聞きたいことがある」

 

「なんで質問する立場の人間がそんな歯を食いしばって悔しそうな顔してるんですか。私まだ何も言ってないですよ。まあ何か聞くつもりなら? それなりの対価は用意してくださいね」

 

 よしこいつはもうだめだ。海に捨ててこよう。

 再度手をつかんで引っ張りそのまま首根っこをつかんでやろうとしたが、ぼそっとつぶやかれた「セクハラ」という言葉に俺はあえなく敗れ、おとなしく席に戻った。

 

「で、なんですか?」

 

 どうして俺はまだ何も言ってないのに、目の前に座るこいつは偉そうに腕を組んでるんだろうか。

 心なしか見下されているような気もする。

 

 もしかしてここぞとばかりに普段の恨みを発散してるのか?

 俺普段そんなひどいことしてるっけ? 会社では頼りがいのある先輩で通ってると思うんだけど。被害妄想はよくないよ?

 

 この後どうなってしまうのか。俺はとてつもなく悪い予感がしながらも意を決して口を開く。

 

「京都に旅行に行こうと思っているんだが、回るとしたらどこを回ればいいと思う?」

 

 俺がそういった瞬間後輩の目の色が変わった。

 手に持った茶碗を投げ捨てそうな勢いでテーブルの上に置き、俺の方へと顔を寄せてくる。

 

 俺は早くも後悔した。

 どうしてよりにもよってこの後輩に相談をしてしまったのか。

 

「先輩。やっと私の気持ち、わかってくれたんですね?」

 

 せめて先輩に相談すればよかったなあ。

 もはや諦めに近い感情を抱いて俺はうつろな目で、それとは対照的にキラキラ、いやギラギラとした瞳を向けてくる後輩のことを見つめていた。

 



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127話 いつから自分だけ安全地帯にいれると勘違いしてた?

 目の前にはさっきまでのきらきらとした目はどこに行ったのか深い闇をのぞかせながら、ふてくされたようにこちらを見つめてくる後輩の姿があった。

 

 俺は最初から別にお前の気持ちを分かったなんて一言も言っていないはずなのに、何を勘違いしたのか迫りくる後輩の圧から逃れるため、というよりも俺の純粋な疑問であると理解してもらうために必死に説明をした。

 

 そしたらふてくされてしまったのだ。

 子供かよ。

 

「それで? どこに行きたいとかはあるんですか?」

 

 ふてくされてはいても一応話を聞いてくれる気はあるらしい。

 行きたいところか……。

 

 京都へは旅行で行ったことがない。

 いや学生時代に修学旅行とかで言ったことはあるような気はするが、ほとんど団体行動だったこともあり、ほとんど記憶に残ってない。

 

 学校によっては自由行動できるみたいだけど、俺のところは小中高全部団体行動だったな。 

 あの頃は自由なんてものはなかった……。

 

 まあそんなことはどうでもよくて、普通の旅行で京都は行ったことがない。

 でもいつかは行ってみたいと思ってたから、色々観光地を調べていたりはした。

 京都ってすごいよね。観光地の宝庫。

 

 一回行ったくらいじゃ京都に行ったことがあるなんて言えないんじゃないかって思うほど、観光するところがたくさんある。

 

「一番行きたいところはあれだな。あの……赤い鳥居がいっぱい並んでるところ」

 

「あー伏見稲荷ですか。あの周り何もないんですよね……」

 

 すごいな。名前がわからなかったから何となく画像を見たイメージだけで言ったのに、ほとんど食い気味で答えてきた。

 

いやまあ有名なところだから行ったことがある人ならすぐわかるのかもしれないけど、それにしてもメモ帳まで取り出して何をしてるんですかね?

仕事の時もそれくらいの真面目さを出してもらってもいいでしょうか。

 

「ほかには?」

 

 俺のちょっと引いている様子なんて見る気もないようで、メモにかじりつくようにして顔を接近させたまま聞いてくる。

 

「やっぱり……金閣寺とか? あー清水寺とかも見てみたいかも」

 

「……先輩って意外とミーハーなんですね」

 

 少し冷めた目線をこちらに向け吐き捨てるようにそういうと再び目線はメモへと戻る。

 

 ミーハーか? 俺がミーハーなら京都に行きたい人はみんなミーハーになっちゃうんじゃないかな。

 確かに横道なところを選びすぎな気はするけど。

 

「これもしかして一泊二日で行くつもりですか?」

 

 そういえばそういうところも話してなかったっけ。

 

「二泊三日だな」

 

「それならまあ……」

 

 さっきからめちゃくちゃメモに何か書き込んでるけど、俺が言ったことなんてそう多くない。

 いったい何をまとめているというのか。

 

 もしかして今速攻で旅行のしおりとか作ってないよね?

 もしかして修学旅行のしおりとか本気で作ってた感じ?

 

 俺なんてしおり作成に参加することなく、むしろ配れることもなかった類だよ?

 別にいじめられていたとかそういうわけでもなく本気で忘れられてたっていう一番悲しいパターンだけど?

 

 そんなことを考えている間にも後輩はするすると手を動かして、メモに何かを書いている。

 

「そういえば、降りる駅とか決まってるんですか?」

 

「降りる駅? いや別に特に考えてないけど……」

 

「はあ……」

 

 一瞬こちらに冷たい視線を向けた後輩は、再び視線をそのメモへと落とす。

 今まで黙ってたけどさ、後輩の圧がすごいんだよ!

 

 なんでそんな突然人を殺すような目でこっちを見つめてくるわけ?

 なんで人が変わったようにそんな圧を発せられるわけ?

 まともな返事をしないとこの世から消されそうな勢いの雰囲気を発してるよ?

 

「できました」

 

 別に後輩のことなんてちっとも考えていなかったけど、突然手をこちらに突き出してきたことに対して、思わず背筋を伸ばしてしまった。

 

 後輩の手に握られていたのはナイフではなく、さっきまで必死に何かを書いていたメモ用紙のようで、恭しくそれを受け取る。

 

 その中身は一日目と二日目の簡単な回り方ルートみたいなのが書かれていた。

 ちゃんと俺が行きたいところも盛り込まれているし、多分本当にこの順番で回るのが一番効率がいいんだろう。

 

「俺この平安神宮とか下鴨神社とか行くつもりなかったんだけど?」

 

「黙っていけ」

 

 なんだそれは。どうやら後輩のおすすめスポットらしい。

 平安神宮は聞いたことあるけど、下鴨神社なんて正直初耳だ。

 

 まあ建築物狂いが行けと命令するほどおすすめの場所なら、もちろんいかせていただくんですけども。

 しかし後輩は必死にこれを作っていたようだが、一つ大事なことが抜けているようだ。

 

 まあ俺も言ってなかったから仕方ないんだけど。

 俺はポケットにもらったメモを入れながら、代わりにスマホを取り出しカレンダーを開いて、後輩の方へ見せる。

 

「なんですか?」

 

「この日とこの日、暇?」

 

「まあ実家に帰るのはそのあとなんで、暇ですけど……」

 

「じゃあ申し訳ないけど今のメモは必要ないな」

 

「……先輩。私すっごく嫌な予感がするんですけど」

 

「あの旅館お前の分の部屋もとっておいたから」

 

「はあ!?」

 

 もちろん俺は最初から、というかあいつが勝手に部屋を予約した時からこいつも道ずれにすると決めていた。

 万が一やばい旅館だとしてどうして俺だけがそんな目に合わなければいけないのか?

 

 どうせなら旅館に行くことの決定打となった元凶もつれていくべきだ。

 後輩が表示するサイトには旅館のページはなかったかもしれないが、俺がもう一度検索した時はその旅館のサイトはまだあった。

 だからもう一部屋予約しておいたのだ。

 

「先輩、私行きませんよ!?」

 

「喜べ後輩。俺のおごりだ」

 

「だから行きませんって!?」

 

 聞こえないなあ!

メモではなく実際についてきてもらって案内してもらうことにしよう!

 



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128話 旅行前のテンションが一番高いまである。

「これ!」

 

「それはいらないでしょ」

 

「むー」

 

 我々は今旅行カバン作成中です。

 それなのにレイさんは両手いっぱいにアイス棒を持って頬を膨らませております。

 

 ちなみにこのやり取りはすでに三回目です。

 いらないといっているのに、なぜか両手に持ったアイス棒を離そうとしないレイ。

 

 別に持って行ってもいいけど、もし後輩にでもそれを見られたりしたら一人遊びしている悲しい独身男性扱いされるし、絶対にネタにされるから却下だ。

 だから早くその手に持っているものを離して、自由になりなさい。

 

「じゃあ……これ!」

 

 お次に登場しましたのは大量の服です。

 確かにおしゃれしたいのは分かる。

 

 せっかく遠出するわけだし、ずっと同じ服だと飽きちゃうもんね。

 レイも最近おしゃれを覚えた女の子だ。

 

 その気持ちは痛いほどにわかる。

 だがしかし。

 

「却下です」

 

「ぶー」

 

 頬を膨らませてこちらを睨みつけてくるレイは実に可愛い。

 この顔を見れるならいくらでも却下できるというものだ。

 いや別に俺も意地悪がしたくて却下をしているわけではない。

 

 倫理観的な問題だけなのである。

 だって俺が旅行カバンの中に大量に女性ものの服を入れて持って行っていたりして、ばれたりしてみろ。

 

 それこそ何を言われるか分かったものではない。

 まあ正直あの建造物バカにそんなことをとやかく言われる筋合いはないのだが。

 

 いやがらせ目的のために今回の旅行に強制連行することになった後輩だが、はっきり言ってこういう弊害を考えてなかった。

 

 レイにももちろん楽しんでほしいが何せ考えなければいけないことが多すぎる。

 こうなったら観光地まで案内してもらって、そこから自由行動にするべきか……?

 

「むーー」

 

 うなりながら漫画を読み始めてしまったレイさん。

 ちゃっかり俺の身体を背もたれにしてすっかりリラックスモードである。

 

 しかしその体勢だと俺も動けないんだよね。

 まあ正直な話準備といっても特に大荷物になる予定もない。

 

 男の旅行の用意なんて最悪財布と下着くらいあればなんとかなるレベルだ。

 財布があれば現地でも下着とか調達できるしな。

 

 手ぶらで行ってもいいくらい。

 ただ俺は思うわけである。

 

 旅行とはこの準備期間も楽しんでこそなのではないかと。

 現地に着いた時のことを想像しながらいろいろなものを詰め込む。

 その過程が楽しいのである。

 

 レイにもその楽しさを味わってもらおうと思ったんだけど、すでにレイさんは飽きてるモードに入っていて、漫画に熱中しているみたいです。

 いや確かに俺も却下ばっかりで申し訳ないとは思うけどさあ。

 

 そんなことを考えながらダラダラしていると、レイが突然立ち上がってキッチンの方へと走っていった。

 今度は一体なにを持ってくるつもりなのだろうか。

 

 そんなことを考えてレイの後姿をボーっと眺めていると、彼女は振り返りこちらへと走って戻ってきた。

 その手にはきらりと光るものが……。

 

「待て待て落ち着け! レイ! 別に意地悪したわけじゃないから!」

 

 レイがその手に持っていたのはまさかの包丁だった。

 そんなにアイス棒を持っていきたかったならもっと抗議してくれればいいのに!

 

 俺はそんな実力行使に出るような短絡的な思考に育てたつもりはない!

 誰だ、レイに実力行使という手段を教えたやつは! 妹か? あいつめ!

 

「?」

 

 小首をかしげてこちらをつぶらな瞳で見つめてくるレイはとてもかわいい。

 その両手に包丁を持っていなければ素直に眺めていられるんだけどね! 

 

 というか何か言ってくれてもいいんじゃないですかね。

 どうしてずっと無言で包丁を持ってるんですか。その刃先が若干こちらに向いているように見えるのは気のせいですか?

 気のせいですよね、気のせいだといって!

 

「もっていかない?」

 

 ……ん?

 逆に問いたい。包丁を持って行っていったい何をしようというのか。

 その包丁を使う場面が来るのでしょうか。そんな場面に遭遇したくないんですけど。

 

「片付けて来なさい」

 

「じーー」

 

 いや、じっと見つめられても困るんだけど。

 そもそも包丁なんて持っていったら銃刀法違反で捕まるんじゃないの?

 

 包丁くらいの刃渡りだったらOKなの?

 いやOKだとしても持って行ったりしないだけど。

 

 だめだ俺。レイの目力にごまかされるんじゃない。

 体が凍えそうなくらい寒いけど負けちゃだめだ。

 そういえば久しぶりだな。これほどの冷気を浴びるのは。最近平和だったもんな。

 

「ちぇ」

 

 だれ、今舌打ちしたの? まさかレイじゃないよね?

 だれ、あんな健気な子に舌打ちという悪しき文化を教えたんですか!?

 

 まあガチっぽい舌打ちじゃなくて口で言っているような可愛らしいものだったから、まだ許せる。

 許してあげるからその大事気に持っている包丁を今すぐ戻してきなさい。

 

 もうレイから目を離すことができない。だって目を離した瞬間に彼女包丁を持って飛び込んできそうなんだもん!

 

 結局そのままレイとのにらみ合いが続き、その日の旅行カバン作成は全く進まなかった。

 



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129話 後輩が弁慶なら実質俺は牛若丸ってこと? そんなに褒めるなよ、照れるだろ。

大変長らくお待たせして申し訳ありませんでしたああ!!
他作品の執筆とそれを終えた燃えつき症候群で全くこちらに手を付けられませんでした!さぼってました!
というわけで京都です。
またぼちぼち更新していきます。
今話はほとんど勢いで書きました(いつも)


「来ちゃった……着いちゃったよ、京都……」

 

 駅から出るや否や隣に立つ後輩が全身で落胆をアピールするように肩からうなだれている。

 いや新幹線に乗った時点で京都はともかく大阪に着いちゃうのは確定だったじゃん。

 

 地下鉄乗った時点である程度諦めつくでしょ。

 そしてお前は新幹線の中でのりのりで駅弁食べてたんだからうなだれる権利はない。

 駅弁の匂いでちょっと酔った俺の気持ちを考えろ。

 

「ま、あきらめろ」

 

「諦めろって言ってる本人が私をここまで引っ張り出してきたんですよね!? 分かってます!? まあ新幹線に乗った時点で8割方あきらめてはいたんですけど……」

 

 新幹線乗って逆に諦めない2割は何?

 新幹線から飛び降りて家まで戻るつもりだったの?

 死んじゃうよ?

 

 

 時の流れというのは早いもので、といっても一週間くらいしかたってないけどあれから何とか準備を終わらせた俺たちは、最後まで無駄な抵抗を見せた後輩を引きずって、そして今京都の大地に足を踏み入れている。

 

 なんというか気分の問題かもしれないけど、すでに観光地の匂いがする気がする。

 観光地の匂いがどんなものか分からないけど、まあテンションが上がっているのは事実だ。

 

 もちろんレイも一緒だ。

 初めての新幹線で魂を持っていかれてしまったのか、それとも全くの見知らぬ土地で緊張してしまっているのか無表情のまま俺の服の裾をつかむようにして、すぐ後ろに立っている。

 もしかしたら後輩の圧に押されてしまっているのかもしれない。

 

「お前のせいだぞ」

 

「先輩の頭の中で私はどういう扱いになって、どうして私が責められているのか説明を求めてもいいですか」

 

 お前は俺の可愛い可愛いレイを脅かす危険な存在だ。

 だからお前のせいだといった。俺は何もおかしなことは言っていない。

 

 レイの様子は少し心配ではあるけど、表情の変化は乏しくても周りをきょろきょろしていて興味はあるようだ。

 

 見知らぬ土地への緊張が解ければすぐにいつもの調子に戻るだろ。

 まあこっちの方がおとなしくていいのかもしれないけど、せっかくの旅行だ。

 レイも含めて楽しまなければ意味がない。

 

「じゃあ18時にここ集合で。解散」

 

「……は?」

 

 俺は後輩にそう告げると、レイがついてきていることを確認して駅から離れるように歩き始める。

 

 なぜか後輩は口をぽかんと開けて呆けている様子だったけど、何かおかしなことを言っただろうか。

 

 ま、あいつのことを気にしても仕方ない。せっかくの京都だ。

 後輩が教えてくれたルートを参考にして回ろうか。

 

 まずはどこから行こうか。

 レイは行きたいところとかあるのかな。

 

「待て待て待て待て!! 待ってください!!」

 

 すごい形相で後輩が俺の目の前に立ちはだかり、そしてこちらを睨みつけてくる。

 何やってるんだこいつは。旅行のテンションだからって、いくら何でも走り回ってはしゃぐ歳でもないだろ。

 もう少し大人としての節度をもってだな……。

 

「いやいやいや『何やってんの、こいつ?』みたいな顔で見てきてますけど、それはこっちのセリフですからね!?」

 

 表情だけで俺の考えていることを正確に読み取られてしまう。

 なぜだろう。後輩と言葉を交わさず以心伝心しても全くうれしくない。

 

 どうせなら俺はレイと以心伝心したい。

 そう思い、レイの方を見るが相変わらず彼女は無表情のままじーっと俺の背中を見つめている。

 

 しばらくそんな彼女の表情を見つめ続ける。

 ……うん、まったくわからん。

 

「何目そらしてるんですか。おい、こっち向け」

 

 うるさいな。俺は今忙しいんだよ。 

 お前に俺の考えが読めたんだ。俺がレイの考えていることを読めないはずがない!

 

 ……あ、上目遣いで首をかしげてくるの超かわいい。

 思わず目が合ったレイと見つめ合っていると、急に頭をつかまれ強制的に顔の向きを変えられる。

 

 痛い痛い痛い、やめろ。話しかけてくれればそっち向くから。

 無理やり俺の頭を動かすのはやめろ。首捻挫する。痛い痛い。

 

「……よみがえったのか、弁慶」

 

「誰が弁慶じゃい」

 

 いや今のお前の顔は般若を超えて弁慶だったよ。まあ弁慶の顔ぱっと出てこないけど、京都だけにね。

 

「どこ行こうとしてるんですか」

 

 どこって観光に決まってるじゃん。

 京都に来てスーパー寄って家に帰るわけないじゃん。

 

「まさか私と別行動しようとしてます?」

 

 当たり前じゃん。

 後輩に用があるのは実質夜だけだ。

 いや別に変な意味じゃなくて、やばい旅館だったときの道連れとして連れてきただけで、昼まで一緒に行動を共にしようとは思っていない。

 

「なに、その当たり前じゃんみたいな顔。めっちゃ腹立つんですけど! ほぼ無理やり連れてきたんですから、私の観光に付き合ってもらいますからね!」

 

 えー、無理やりとか言ってるけど、お前新幹線の中で駅弁食べながら観光ブックに載ってる金閣寺に頬ずりしてたじゃん。

 むしろノリノリだったじゃん。俺らより楽しそうだったよ。新幹線の中で。

 

「そんなすねた顔してないで! 行きますよ!! 時間は有限です!」

 

 問答無用で腕をつかまれ、ずんずんと歩き始めた後輩に俺は逆らうことができず引っ張られていく。

 いや抵抗はしたよ?

 

 でもこいつ無駄に力強いんだもん。あざできるわ。

 それと後輩から出ている弁慶並み、いや恐らくそれ以上の覇気に逆らう勇気は俺にはなかった。

 

 レイ、俺がヘタレでごめんよ。俺は今の状態の後輩に逆らうことはできない。

 

 そうして俺を引っ張る後輩、後輩に引きずられる俺、そしてその背中をつかみついてくるレイという、何とも奇妙な観光が始まった。

 

 この列車行軍なに?

 



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130話 まだ入れるからってこんなのどうやって……あ、ちょっと待って押さないで!!

「トカイコワイ……バスコワイ……」

 

「なんでそんな突然エセ外国人みたいに片言になってるんですか」

 

 列車走行で後輩に連れられ、その流れのまま乗ったバスで悪夢を見た。

 人が入れる隙間なんてないんじゃないかってくらいのぎゅうぎゅう詰めの状態のバスに放り込まれたのだ。

 

 そこから目的地までずっと人と密着しながら、それでも周りの人に接触しないようにと最大限の気を使いながら、ようやく目的地であるバス停につき解放された。

 

「世間一般的には今日は平日なんじゃないの……」

 

「世間一般的には今日は冬休みです。だからこうして私と先輩も遠路はるばる京都という地に足をつけてるんじゃないですか」

 

 そうでしたね。すいません。

 どうして後輩はこんなにもぴんぴんしてるんだろうか。

 

 普段からあんな詰め詰めの状態を味わっているわけでもないだろうに、ずいぶんと余裕そうだ。

 それがまたそれとなく腹立つ。俺はこんなにも消耗しているというのに。

 

「それに今日はまだましな方ですよ。先輩のところ謎にスペース空いてたじゃないですか。もっとひどいときは人に接触しないようになんて考えられないくらいすし詰め状態ですから」

 

 あ、それはうちのレイさんのおかげですね。

 俺にしがみついているレイが常に冷気を放っているおかげか、レイに重なるようにして人が立つことはなかった。

 

 みんな彼女の姿は見えていないはずなのに、なぜかそこを避けるようにして立っていた。

 まあレイに重なった瞬間、猛烈な悪寒に襲われるから当然と言えば当然なのかもしれないけど。

 幽霊で人には見えないのに存在感を放っているって、それは幽霊としてだ異常なんだろうか。

 

「そもそも一本目で乗れたのがラッキーでしたね。三本は見送らないといけないと思ってました」

 

 乗れないことを考えないといけないバスっていったいどういう状況。

 ここは本当に日本ですか。

 

「ずいぶんとお詳しいんですね」

 

「当然です! この京都という大地には私の彼氏がたくさんいますからね! 定期的に会いに来ないと!」

 

 あんまり大声でめったなことを言うんじゃありません。

 あなたの性癖を知らない人が聞いたら、ただの遊び人宣言をどや顔かつ大声でしている変人だからね?

 

 まあそうじゃなくても変人なんだけど。

 なんだよ、彼氏がたくさんいるって。人生楽しそうだな。 

 後輩は元気はつらつとしているが、俺の後ろを歩くレイはすっかり静かになってしまっている。

 

 もしかしたらレイもあまりの人の多さに酔ってしまったのかもしれない。

 今だってショッピングモールに行った時の人の多さとは比べ物にならないくらいだもんな。

 

「さ、いつまでもグロッキーになってないで! つきましたよ、清水寺!」

 

 後ろのレイに気を取られすぎて全く前を見ていなかった。

 先頭を歩く後輩が指さした方向に目を向けると真っ赤な正門が俺たちを出迎えてくれた。

 そしてその奥ではこれまた赤い三重塔の姿が見える。

 

「へー結構色鮮やか」

 

 なんというか清水寺って色で言うと茶色っていうイメージしかなかったんだよな。

 それなのにいきなりこんな赤い正門で出迎えられると、イメージと違いすぎてびっくりする。

 

「どうしても清水寺っていうと清水の舞台がある本堂が有名ですもんね。驚くのも無理ないです。ぐふふ」

 

 なぜか誇らしげにしながら語る後輩の後ろを続いて正門をくぐると、すぐにまた門が目の前に現れた。

 

「これは西門って言って浄土をイメージしているらしいですよ」

 

 へー、浄土って天国みたいなもんだっけ。 

 天国行くときにはこんな赤い立派な門で出迎えてくれるってことなのかな。

 

 それなら確かに死んだ後でもテンション上がりそう。清水寺で見たのと同じだ!  

 みたいな感じで。

 天国でふと思ったが、レイはお寺とか神社とかそういうの大丈夫なんだろうか。

 

 幽霊的にはそういうところってなんか苦手なイメージあるけど。

 俺は後輩からちょっと離れてレイに声をかける。

 

「レイ、大丈夫か? なんともないか?」

 

「? たのしい」

 

 そうですか。それはよかった。

 レイは俺の質問の意図が分からなかったのか、首をかしげながらそう返してきた。

 

 視線は俺の後ろにある西門に集中している。初めて見るのかな。

 まあ体調とかなんともないならいいんだけどさ。

 

「先輩、何してるんですか? 行きますよ」

 

 そういいながら後輩は俺を待つつもりなどないらしく、どんどん先に進んでいってしまっている。

 それにしてもその首にかけている一眼レフは一体どこから取り出したのだろうか。

 

 見た目だけはいい後輩が一眼レフを持っていると最近はやりのカメラ女子とやらには見えなくもないんだけど、彼女に近づくと聞こえてくる「ぐふふ」やら「げへへ」という下卑た笑いとともに、とてもではないが人には見せられない表情をしているのが全てを台無しにしている。

 とりあえずよだれは拭いた方がいいと思うけど。

 

 俺はそんな後輩の知り合いだと思われないように、彼女から一定の距離を保ちながら本堂に向かうことにした。




超お久しぶりです。更新が滞っており申し訳ないです。
リアルが多忙すぎてなかなか書けませんでした。
徐々に更新再開しようと思います。また日曜日にも更新します。
お楽しみいただけると幸いです。

あと5万UA突破しました!読んでくださる皆様のおかげで更新できています。
ありがとうございます!!


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131話 うちの後輩はもう少し恥じらいと周りの視線というものを感じた方がいいと思うんだ。

「おー、さむっ」

 

「おー」

 

 参道を歩いてるときも寒いなあとは思っていたけど、清水の舞台に立つと余計に寒く感じるな。

 人が多くて観光どころじゃないかなと思っていたけど、舞台の上は意外にもひとがまばらで好きな場所で見ることができた。 

 

 だからこうしてレイと一緒に舞台の端っこまで来て見てるわけだけど、結構寒い。

 それに思っていた以上に高さがあって怖い。

 

 後輩?

 あの変態はいつまでたっても写真を撮っているので、そこら辺に放置してきた。

 

 いっそのことこのまま放置してここに置いて帰った方が会社や俺のためにも鳴るんじゃなかろうか。

 後輩も嫌がらないだろうし。

 

 そういうわけでもはや顔面崩壊レベルでにやけ面を晒しながらカメラを構えていた後輩は放っておいた。

 

「おー」

 

 レイも調子が戻ってきたのか、俺の隣で柵に体重をかけて景色を眺めている。

 体重をかけすぎて地面から足離れちゃってるけど。

 これ以上前のめりになると、真下に落ちそうなくらいだ。

 

「危ないぞ」

 

 俺はレイに触ることができないため、口を隠しながらレイにだけ聞こえる音量で注意する。

 まあ目キラキラさせて楽しそうだからいいんだけど。

 

 それに幽霊だからもしかしたら、落ちても体的には大丈夫なのかもしれないけど。

 たとえ大丈夫だったとしても俺の精神衛生上大ダメージを食らいそうなのでよろしくない。

 

 まあそんなことを考えながらもレイの気持ちもわからなくもない。

 見晴らしもよく風もとおっている。

 

 夏とかに来れば涼しくていいのかもしれない。

 今は吹き抜ける風が冷たすぎて、ただでさえ寒いのに余計に寒く感じる。

 

「それにしても清水の舞台から飛び降りるとはよく言ったもんだな……」

 

 少しだけ柵から顔を出して下を見てみるが、相当に高いような気がする。

 確かにここから飛び降りることを考えたら並大抵の覚悟や決意では足りないだろう。

 というか普通に死にそう。

 

「昔の人は結構実際に飛び降りたりしてたらしいですよ」

 

 先ほどまで変態的様子を周りに惜しげもなく晒していた変態が、何食わぬ顔でいつの間にか隣に立っていた。

 

「命知らずというかなんというか……」

 

 そちらが何も言わないのであれば俺も別に突っ込むこともせずに、会話にのってあげますけども。

 すました顔してるけどよだれの跡がついてるからね? 突っ込まないけど。

 

「そうでもなかったみたいですよ。意外と生存率高かったらしいですし」

 

 へー。昔の人の方が身体的にはたくましかったのかもしれないな。

 まあいくら体が頑丈でも俺はここから飛び降りようなんて思わないけど。

 

「ここから飛び降りて生きていたら願いが叶うとか言われてたらしいですけど、そこまでしたいほどの願いって何なんでしょうね」

 

 死んでもいいから万一にかけてでも叶えたい願いって言うのがある人にはあるんだろう。

 

 俺には……まあもしここから飛び降りて生きていられたらレイに触れるようになりますっていう話なら、一考の余地があるかもしれない。

 それはもはや失敗して死んでいる可能性の方が高いけど。

 

「私がもしここから飛び降りて生きていたとしても、その生きるために使った運をどこか別の場所で使えばよかったって後悔する気がします」

 

 そういう考え方もあるんだな。

 レイの方にも顔を向けるが、俺と後輩の会話には興味がないらしくほとんど柵と平行になるくらいにまで、身体を持ち上げて真下を見つめている。

 

 変なところで度胸があるというか、こういうことでは怖いと思わないのかもしれない。

 俺としてはひやひやして仕方ないから今すぐやめてほしいけど。

 

「先輩、滝飲みに行きませんか?」

 

 また後輩が意味わからんことを言い出した。

 滝飲むって何よ。俺そんな滝をがぶ飲みするほど巨大な胃袋は持ってないんですけど。

 

「何を想像しているのか分からないですけど、私を変人みたいな目で見るのやめてもらいます?」

 

 いやそんな俺が悪いみたいな目で見つめられても、突然滝飲みを「一件行きます?」 みたいなノリで誘ってくる後輩は間違いなく変人だと思うけど。

 

 というかそれがなくてもあなたは「変人みたいな」ではなく紛れもない変人ですから。

 そろそろ自覚したらどうですかね。

 

「音羽の滝っていう有名な滝があるんですよ! それを飲める場所があるからそこに行きましょうって話です」

 

 ああ、そういうことね。観光地として有名な場所があるのね。 

 てっきり道なき道を進んだ山奥までいって、滝に打たれながらがぶ飲みするのかと思った。

 

 そういうことなら確かに気になるかもしれない。滝を飲むなんて普段なら絶対しないことだしな。

 

「行くぞー」

 

 レイに声をかけると、十分に景色を満喫していたのか意外にもすんなりと柵から離れて、俺の傍へと近寄ってきてくれた。

 

「先輩? 誰と話してるんですか?」

 

「!? ……ほら、滝飲みに行くぞー」

 

「ちょっと先輩!? 急に背中押さないでください!」

 

 押すな押すなは押してくれってな。

 俺はごまかすように後輩の背中を思いっきり押し、さっきのことをうやむやにしようとする。

 

 そんな俺と後輩のやり取りを見たレイは俺たちが遊んでると思ったのか、俺の真似をするかのように背中を押すしぐさを見せてきた。

 

 成り行きとはいえどうして京都についてから俺たちは連結して移動したがるんだろうか。



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132話 冷静に考えると滝飲むって日本語はおかしい気がするけど、いまさら気にしても仕方がない

 参道とか正門には結構な人がいたっていうのに、本堂でもある清水の舞台には人が少なかった。

 

 あんなに多かった人はみなどこに行ったのか。

 本堂から少し奥に歩いてすぐにその謎は解けた。

 

「これ全部滝飲みに来た人?」

 

「これでも少ない方ですから、並びましょ」

 

 どれだけ眺めても前に見えるのは、人、人、人。

 人しか見えない。先が見えない。ゴールも分からない。もはや何も分からない。

 えー、本当に並ぶの……?

 

 目を凝らして行列の奥を見てみれば、確かに三股に分かれた滝の姿を見ることができる。 

 

 でももはやこの人の行列の方があの落ちている滝より長いのではないだろうか。

 どれだけみんな滝飲みたいんだよ。そんなにのど乾いているなら、適当にそこら辺の自販機で水を買えばいいじゃん。

 

 どれだけ心の中で文句を垂れ流しても、後輩は止まってはくれない。

 俺はあまり行列に並ぶって言うのが得意じゃない。というかその待っている時間で他のところに行きたいってなってしまう派なのだが、後輩はそうではないのだろうか。

 

 それにレイがこれだけの人の中で耐えられるかどうかが問題だ。

 そう思って後ろについてきているはずのレイがいる方に顔を向けるが、そこにレイの姿はなかった。

 

 一瞬迷子かと思ったけど、再度行列の方に目を向けるとその最後尾に後輩とレイの姿があった。

 どうやら今の俺に味方はいないらしい。

 

 まあ別に一切列が進んでないわけでもないし、並んでみればすぐかもしれないよな。

 そう自分に言い聞かせながら、俺は後輩の横に歩を進める。

 

「この滝を飲むと願いが叶うらしいですよ」

 

「人類みな強欲なり」

 

「突然何言ってるんですか。怖いですよ」 

 

 怖いのは今の状況だよ。

 どれだけみんな自分の夢を叶えたいんだよ。

 

 この並んでる時間を夢を叶えるために努力する時間にあてなさいよ。

 ……うっ。自分自身で考えたことが自分自身に返ってきてダメージを負ってしまった。

 

「まあ正確にはどの滝を飲むかで成就できる夢は決まってるみたいですけど」

 

 あー三股に分かれてて、その一つ一つにそれぞれ意味があるってこと?

 いや確かに三股には分かれてるけど。滝って自然には三股になったりしないでしょ。

 

「あれって元々は一本の」

「先輩、余計なことは言わなくていいんです。そんなんだからモテないんですよ」

 

 俺の話を遮るようにして、後輩は冷たい目線をこちらに向けながら辛らつな言葉を投げかけてくる。

 

 モテるモテないの話は関係ないでしょうが!!

 今は滝の話をしているのであって、そこに俺がモテるかどうかなんて要素は一切関係なかったと思うんですけど!?

 

 それに俺の場合、モテなくてもレイがいるからいいんですー。

 まあそのレイさんはさっそく並ぶことに飽きてしまったのか、俺の背中の方に回り込んで、背中をつついてきてるけど。

 

 いや、これはつついているというよりも何か文字を書いているような……なになに……

 

「も」「て」「な」「い」

 

 ぐっ……。きっとレイには悪気はないのだ。

 単純に後輩が言ったことを繰り返すように背中に書いただけなんだ。

 

 そうだよね? そうだと言って!

 思わずレイの方に顔を向けてしまい、隣に立っていた後輩が唐突な俺の奇行に驚いたのか、ぎょっとしたように半歩距離を取る。

 

「ど、どうしたんですか先輩。急に振り返ったりして」

 

「誰かが俺を呼んでる気がした」

 

「急に不思議ちゃんにならないでもらっていいです?」

 

 ……ふう。冷たい視線を浴びることにはなったが、なんとかごまかせたようだ。

 ことの発端もとい原因であるレイは素知らぬ顔で俺の背中をつつき続けている。

 それ楽しいの?

 




お知らせです!
この度投稿サイト「たいあっぷ」様にて本作を投稿いたしました!
このたいあっぷというサイトでは、イラストレーター様に表紙を作成していただけるのですが、何と! 今回Σウルフ様にイラストを描いていただきました!

レイが超絶美少女に描かれておりますので、抵抗ない方はぜひとも一度見てほしいです!
本編の流れは変わりませんが、たいあっぷ限定で読み切り短編を二本投稿しております。
ぜひとも一読いただけると幸いです!

https://tieupnovels.com/tieups/1725

それでは今後とも本作をお楽しみいただけると幸いです。


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133話 仏に幽霊との恋愛成就を祈るのはルール違反ですか?

 まあいいや。そもそも何の話してたんだっけ。

 そうだよ、三本の滝の話だよ。

 

「それで三本になってるのは何か意味があるのか?」

 

「おー、よくぞ聞いてくれました。向かって左から順に学業成就、恋愛成就、延命長寿を叶えてくれるそうですよ」

 

 へー……全部俺には直接縁がなさそうに思えるんだけど。

 別に今さら何かを本気で勉強しようなんて思わないし、長寿でありたいとも願うほどには考えたりはしない。

 

 唯一恋愛成就だけは少し関係あるのかもしれないけど、成就したい相手は幽霊だしそれを仏様に頼むのもお門違いな気がする。

 

「観光ガイドとか向いてそうだよな」

 

「せっかく教えたのにすっごい関係ない返答がきて私は悲しいです。……というかそれって暗に転職しろって言ってます!?」

 

 それはただの被害妄想だよ。

 単純に教えるのがうまいからっていう意味で褒めただけじゃん。

 

 そんな感じで話していると、というかどちらかというと後輩がぎゃーぎゃーと言っていただけなんだけど、それを聞き流していたらいつの間にか滝は目の前にまで迫っていた。

 やっぱり流れがスムーズだからかそんなに長時間待った感じはしないな。

 

「で、結局先輩はどれにするんです?」

 

「……恋愛成就」

 

「消去法ですね」

 

 なぜばれたし。

 お互いに一つずつ柄杓を持ち滝の前に横並びで並ぶ。

 

 お、意外と距離があるんだな。

 ちょっとだけ前のめりになりながら三股で流れている真ん中の滝へと柄杓を伸ばす。

 

 その瞬間、カツンという音とともに右から伸びてきた柄杓と俺の柄杓がぶつかり合った。

 

 後輩の方へと顔を向けると、向こうもこちらを見てきており目と目が合う。

 柄杓が触れ合いながら流れる気まずい時間。

 

 柄杓と柄杓が触れ合いから始まるラブコメの予感。

 

 いや、始まんねえわ。

 俺が恋愛成就を選んだら消去法ですねーとか言ってたのに、しれっとお前も恋愛成就選んでるじゃん。俺と同類じゃん。

 

 お互いに何事もなかったかのように柄杓に水をためて、それを自分の方へと引き寄せる。

 

 一瞬流れている滝水の上で杓を止めてしまったからか、柄杓の中には並々と水が注がれていた。

 

 こういうのって一口で飲んだ方がいいんだっけ? いやでもこの量を一口で飲み干すって言うのは、なかなかに苦行というか、そもそも全部飲む必要ないんだっけ?

 

 こういうときは先人の、というか詳しいやつの力を借りよう。

 そう思い一度視線を外した後輩の方へと再び視線を向ける。

 すると後輩は豪快に顔を上にあげ柄杓にたまっていた水をひたすらに流し込んでいた。

 

「えー……」

 

 こいつめちゃくちゃ本気じゃん。

 消去法とかじゃなくて本気で恋愛成就しに来てるじゃん。

 

 いや別にいいんだけどね。何も恥ずかしいことではないんだろうけど。

 むしろ欲望に忠実で実に人間らしいとは思うんだけどね。

 もうちょっと勢いというかさ、飲み方とかは考えた方がいいんじゃない?

 

「うっ……げふっ」

 

 ほら、勢いよく飲みすぎてえずいちゃってるじゃん。というか飲みきれなくて口の端から垂れてきてるし。後そのやり切ったかのような死んだ目でこっち見るな。

 少なくとも今のお前の姿を見て恋愛成就するとは思えんぞ。

 

 しかし今の後輩の行動からどうやら一口で飲まないといけないというのは分かった。

 俺は隣に立つ悲惨な表情をしている後輩の二の舞にならないとゆっくりと柄杓を傾けて飲むことにした。

 

 お、意外と冷たくてうまいな。

 並んでるときに何も飲んでなかったからのどが潤って、なおおいしいような気がする。

 

 ……でもやっぱり量は多いな。

 なんとか柄杓の中に入っていた水を飲みほした俺はそこから離れようとした。

 

「さとる」

 

 しかし隣にいたレイがその場から動こうとせず、なぜか両手をこちらに差し出してきていた。

 

「やりたい」

 

 ……えーっと? これは流れから言うとレイも滝飲みをしたいということか?

 

「レイ、これは一人一回って決まっていてだな」

 

「やってないよ?」

 

 周りに聞こえないように若干かがみながらそう言ったが、レイは自分自身を指さしながら首をかしげる。

 そうですね。あくまで今滝飲みしたのは俺であってレイではないですね。

 

 しかし周りから見るとそうは見えないんですよ。

 俺がなかなかその場から動かないことを不思議に思ったのか先に滝から離れようとしていた後輩が逆走して戻ってくる。

 

「何してるんですか、先輩」

 

「さとる、ちょうだい」

 

 うっ、冷気が強くなってきた。

 このまま放置するのは俺の寿命にも、立ち止まり続けるのも待っている人にも悪い。

 

 ……ええい、ままよ。

 俺はレイに柄杓を手渡す。

 

 レイは嬉しそうにそれを受け取ると俺の前に立つようにして滝の前に立った。

 もちろん俺はそこから離れるわけにはいかない。

 

 しかも俺はレイの身長に合わせて柄杓を持っているふりをしなければならない。

 そうでなければ周りの人から見れば、柄杓が宙に浮いてひとりでに動き出したように見えるだろうから。

 

「先輩……?」

 

 恐らく突然柄杓を持ったまま中腰になり左に右に向いて奇行し始めたように見えるのであろう俺を、じっと見つめてくる後輩。

 

 どうして戻ってきたのか。そのまま去ってくれればまだ赤の他人に白い目線で見られるという被害だけで済んだのに。

 

 いやこれもレイのため。

 せっかくレイもここまで一緒に来たんだ。彼女も楽しまなければもったいない。

 

 レイが楽しむためなら後輩の視線が何だ、周りの視線が何だ! 今はレイが最優先!

 

 くっ……足曲げながら腕伸ばすのきつい……。

 しかもレイに重ならないように気を使ってるから変に力が入っているから、腕がプルプルしている……!

 

 レイは俺の真似をしているのか、それともさっきの俺と後輩の会話を聞いて理解しているのか、真ん中から流れている恋愛成就の滝水をくみ取りそのまま口の中に流し込んでいた。

 

 さすがにレイと完全に顔を重ねるわけにはいかないから、はたから見ればちょっと不自然かもしれないが、がっつりみられているのは恐らく後輩のみ。

 これまでの傾向から考えて後輩ぐらいならいくらでもあとから言い訳ができるはず……!

 

「……ぷはっ!」

 

 一気に水を飲みほしたレイは満面の笑みで柄杓をこちらに返してきた。

 この笑顔が見られるなら俺はいくらだって変人になろう。

 

「おいしかったです」

 

 そしてなぜか滝に向かってお辞儀をしたレイはそのまま体をひるがえし、滝から離れるように歩き始めた。

 俺もそのあとを追うがすぐに後輩と目が合う。

 

「先輩今の……」

 

 目を見開きこちらを見つめる後輩。

 さすがにごまかしきれないか……? 全身に緊張が走る。

 

 正直今の光景を突っ込まれた時の言い訳なんて思いついていない。

 レイの行動を隠すので精いっぱいだった。

 

 しかしここで視線を外してしまえば、疑惑が増すのみ。

 俺はあえて後輩から視線を外さずに続く言葉を待った。

 

「……どれだけ恋に飢えてるんですか。さすがの私でも必死すぎてちょっと引きます」

 

 ……なんとでもいうがいいさ。

 後輩に不自然な飲み方に気づかれていないと確信した俺は不敵な笑みを浮かべて、後輩の隣を通り過ぎる。

 

「え、なんでちょっと誇らしげなんですか。意味わかんないですけど。ちょっと先輩!?」

 

 後輩が何か言っているが聞こえない。

 俺は乗り切ったのだ。この一世一代のピンチを。

 

 たとえ周りから白い目で見られようとも、後輩に気持ち悪がられようとも、今の俺の心は達成感で満ちていた。

 



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134話 どうして君がまるでまともな人間であるかのような発言をしてるんですか?

「ありえないですよ! 何考えてるんですか! 常識がないです。あんな場面で変な度胸見せなくていいんですよ!」

 

 まさか後輩に常識を説かれる日が来ようとは。

 音羽の滝から離れてからというもの後輩はずっとこんな調子だった。

 結構本気で怒ってるぽいし、もちろん俺も反省はしているんだが、あれ以降レイがずっと上機嫌でニコニコしているのである。

 

 その姿を見たらレイにも滝飲みさせたのは間違っていなかったと思える。

 だから反省はしているが後悔はしていない!

 

「何にやにやしてるんですか! 話聞いてます?」

 

 しまった。顔に出ていたようだ。

 さすがにこれ以上俺の不審な行動を後輩に見られるのはまずい。

 なるべく自然にしないと。

 

「まあ落ち着けって」

 

「誰のせいだと思ってるんですか!」

 

 俺のせいですよね。知ってます。

 うーん、どうにかして後輩の機嫌を取らないとな。 

 何かいいものはないか……。

 

「お」

 

「先輩、ちょっとどこに行くんですか」

 

 ちょうど歩いている隣に売店があり、そこに立ち寄る。

 いろいろと置いているが特に目についたものがあった。

 

 音羽の滝の天然水。

 いやそういう言い方をしていいのかどうか分からないけど、立派な箱に入ったそれをレジへと持っていく。

 

「先輩そこまでして……」

 

 なぜまた後輩に引かれているのかは分からないが、俺はそのまま会計を済まして後輩の元へと戻る。

 

「ちょっと先輩のこと侮っていたかもしれません。そこまで真剣に悩んで」

 

「やるよ」

 

 俺は今買った重厚な箱に入った音羽の滝水をそのまま後輩へと手渡す。

 差し出された勢いで受け取った後輩は状況を理解できていないのか、ぽかんと口を開けている。

 

 しかし徐々に理解し始めたのか手の中で何度も箱を転がしながらわたわたと慌て始めた。

 

「え、あ、でもこれ意外と高いんじゃ……」

 

「本気だったからな。気にするな」

 

「え……? いやいやいや! 私も消去法でしたよ!?」

 

 嘘つけ。

 消去法で恋愛成就の滝を選んだ奴があんな据わった目で水を飲み干すわけがない。

 

 別に悪いって言ってないんだから否定せずに受け取っとけばいいのに。

 まあそれに迷惑料と思ってくれば構わない。

 

「こういうところずるいですよねー。だからモテないんですよ」 

 

 こいつまたモテないって言ったな!? 気にしてないとはいえちょっとは傷つくんだからね!?

 純真な男心を傷つけないで!

 

「……よし、次行きますよ!!」

 

 しかしすっかり機嫌を直した後輩は、俺のひびが入ったガラスハートには一切気にせずにバス停へと歩き出した。

 え、もしかしてまたあのすし詰めバスに乗るんですか? ほんとに?

 他に交通手段とかないですかね……?

 

 

 

 バスまじ恨むべし、忌むべし。

 

「バスガス爆発ブスバスガイド乗降中……」

 

「完全に目がいっちゃってる状態で早口言葉で呪おうとするのやめてもらっていいですか。それにバスガイド乗降中って何ですか。ちゃんと乗せてあげてください」

 

 爆発するバスに乗ろうか乗らまいか迷っているバスガイドさんの心情を表してるんでしょうが。むしろ乗らないのが正解でしょうが。

 

 そもそもそれならなんでバスが爆発すること知ってるのさ。絶対犯人バスガイドじゃん。

 

 あとあんな満員状態のバスに詰め込まれて元気なままな後輩の方がおかしいと俺は思うんだ。

 

「バスパスパクパクプスプスプスプス」

 

 レイに関しては俺の真似をしようとしたんだろうけど、ちゃんと言えてないしバスパスしようとしてるし、何なら食べようとしてない? あと後半諦めないで。

 

 そんなレイも俺の周りを飛び跳ねるようにして歩いている。

 どうして俺以外みんな元気なんだろう。俺がおかしいんだろうか。

 

「それにしてもあんなに満員なのに先輩の周りには人が寄り付かないですよねえ。不思議です」

 

 そう言って後輩は俺に顔を近づけて匂いを嗅ぐそぶりを見せる。

 やめて。まるで俺が臭いから誰も寄り付かないみたいな行動するのやめて。

 

 間違いなくレイのせいというか、おかげだから。

 レイに重なると死ぬほどの怖気が走るから、誰も近づけないだけだから。

 

 まあそれはいいとして、俺たちはいったいどこを歩いてるんだろうか。

 

「次どこだっけ」

 

「もう忘れたんですか? 八坂神社ですよ」

 

 あー、やさかじんじゃね。知ってる知ってる。

 まるで祭りの時並みに露店の如く食べ物を売っている商店街通りを歩きながら、目的地を向かう。

 

 その向かい側では木々がうっそうとしているのにそんなザ・日本な風景を挟むように車道を車がどんどん通りすぎていく。

 

「なんというか日本すぎて日本らしくない」

 

「言ってる意味が分かりません」

 

 いやなんというかさ、この商店街の感じとか反対車線の木々で神社の中が隠れてる感じはすごい日本っぽさがあるじゃん。

 

 それなのに真ん中に太い都会ならではの車道が通ってて、一気に現実に引き戻されるというか、今どきこんないかにも日本! って光景も見ないから、逆に新鮮というか違和感があるというか、そういう感じよ。

 伝われ、このセンチメンタルな感情!

 

「バカなこと言ってないで行きますよ」

 

 バカって……。

 俺は俺自身が感じたこの気持ちが後輩に一切伝わらず、一刀両断された悲しみを背負いながら、八坂神社へと向かった。

 



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135話 見た目が派手だから何がどうなっても綺麗に見えるね

 はー、タクシーサイコー。

 俺は今涼しいクーラーが聞いている車内で完全にだらけていた。

 

 あれから八坂神社と平安神宮と下鴨神社を周ったのだが、さすがにバス移動はギブアップした。

 

 そしてその三つを周ったときの詳細については後輩の人間らしい威厳を保つためにも明言しないでおこうと思う。

 

 俺も隣で顔面崩壊していた後輩のことはもう思い出したくもない。早く記憶から消えてほしい。

 もうあんなの彼氏にべたぼれの彼女どころの話じゃないから。

 なんかもう別次元の存在になってたから。

 

 顔面崩壊後輩のことはもう記憶の片隅に封印して、今はこのタクシーの涼しさを甘んじて受け入れようではないか。

 

「もう少しでつきますよー」

 

 涼しさを堪能しようとした瞬間にかけられる運転手からの無慈悲な一撃。

 

 バスで移動している時はあんなにも時間を無限に感じたのに、快適になった瞬間どうしてこんなにも時が過ぎるのが早くなってしまうのだろう。

 

「先輩の顔、溶けきったり急に蒼白になったり気持ち悪いですね」

 

「そんなに見つめるなよ。照れるだろ」

 

「……はあ」

 

 ため息をつくな。

 それに顔に関しては今のお前だけには言われたくない。

 

 いくら美人だろうと、それを台無しにできる才能があるあなたは素晴らしい人材だと思いますよ。

 

 俺は後輩に気づかれないように、いつの間にか膝の上で眠りこけているレイの頭をたたく。

 

 ……一向に起きる気配がない。

 

 初めての遠出だし、一生人とおしくらまんじゅうしてたし、彼女もきっと疲れているのだろう。

 

 でもこのままタクシーの中に残していくわけにはいかない。

 そんなことをすれば危険が伴う。運転手さんに。

 

 目が覚めて一人だとわかったレイが何をするか分からない。

 運転手さんを凍え死なせてしまうかもしれない。

 うん、情景がありありと目の裏に浮かぶ。危険だな。

 

 そんなことを考えながらもレイの頭をポンポンと叩く。

 リズムよくたたいてたら楽しくなってきたな。感触はないけど。

 こういうのは気分が大事だ。

 

「テンション上がりすぎて行動バグってますよ」

 

 後輩に白い目を向けられるがそんなことは気にしたことではない。

 俺はレイを起こすことに必死なのだ。

 

「……いたい」

 

 おっと我が姫はようやくお目覚めのご様子。

 

 猛烈な冷気を受け、さらにはレイと後輩両方から白い目を向けられながら俺はタクシー代を支払いタクシーから降りた。

 

 運転手さんまで苦笑いしてんじゃないよ。

 別に涼しさと旅行テンションで頭がおかしくなってたわけじゃないんだから。

 

 

「すごーい」 

 

 今まで何を見ても特に反応を示さなかったレイが金閣寺が視界に入った途端、目を丸くしてそれを見上げていた。

 

 確かにすごい。

 昔の人はどういった気持ちで作り上げたのだろうか。

 金ぴかにして周りを威嚇でもしようと思ったのかな。

 

「すごーい!!」 

 

 金閣寺を見てテンションがマックスになったのか途端に走り出すレイ。

 

 当然見失うわけにはいかないので俺も追いかけて走りだすことになる。

 

「ちょっと先輩どうしたんですか!」

 

 後輩が何か言っているがそれどころではない。

 レイを見失ったらおしまいだからな。

 

 幽霊の迷子とかどうやって案内してもらえばいいんだよ。

 

「幽霊と迷子になっちゃったんですけど」なんて迷子センターに言ってもただの変人扱いだからね。

 

 そもそもここに迷子センターがあるのかどうかすら分からないけど。

 仮に案内してくれたとしても俺しか見つけられないわけですけど。

 

 結局レイが立ち止まるまで俺と後輩が追いかけっこをしているような状態がしばらく続いた。

 

 運動不足の一般社会人を走らせるんじゃありません。

 息絶え絶えで金閣寺見てる余裕なんてないからね。

 

「何やってるんですか、もう……」

 

「俺が聞きたいよ」

 

「はあ?」

 

 奇行に走る原因になった張本人はちょっと落ち着いたのか、ぼーっと金閣寺を眺めてるし。

 

 これまでの様子からして寺とか神社には興味ないのかと思ったけど、そういうわけじゃなかったのね。

 

 ただレイの琴線に引っかからなかっただけなのだろう。

 

「私思うことがあるんですけど」 

 

 後輩が口を開く。

 どうせろくでもないことしか言わないんだろうけど、とりあえず話くらいは聞いてやろう。

 

「建造物って天候によって表情が変わると思うんです」

 

 ほら一般人には理解できないことを言い出したよ。 

 唐突もなく理解できないことをさも当然のように語りだしてるんじゃないよ。

 

「数ある建造物の中でも金閣寺はそれが顕著に出てると思うんですよ」

 

「……例えば?」

 

「おお、先輩も興味あります!?」

 

 やめろ急にテンションを上げるな。同族扱いするんじゃない。

 

 興味はないけど聞かないと一生言ってそうだから、今聞いてるだけだから。

 全然興味はないから。

 

「しょうがないですねえ。教えてあげますよ。まず晴れの時は陽キャ。これがデフォルトですね」

 

 陽キャ。なんだそれは。

 

「曇りの時は外見イケメンなのに、実は内面では闇を抱えてる系の陰キャ」

 

 金閣寺は曇ってても闇は抱えてないだろ。

 そもそも空は見えるんだから内面も外見もないだろ。

 

「そして雨の時は傘もささずに外で待ってくれている系のイケメンですね! いわゆる水も滴る良い男ってやつです」

 

 もはや性格ですらなくなったじゃん。それはただのシチュエーションじゃん。

 お前が男にやって欲しいことの間違いじゃないのか。

 

「雪が積もりでもしたらそれは完璧超人、もはや人じゃありません。最強です」

 

 もはやというかそもそも人ではないからな。金閣寺は。

 

 人と同じような感覚でとらえてるのはたぶん君くらいだからね。

 

 それに最強ってなんだよ。じゃあ他の天気どうでもよくなっちゃうじゃん。

 

「……あっそ」

 

「先輩にはまだ早かったですかね」

 

 そんな残念そうに見られても、お前の感性は一生俺には理解できそうにないし、理解する必要性が感じられないよ。

 

 だめだ、これ以上ここにいると三人中二人が意味の分からない思考にトリップしそうだ。

 早々にここを離れた方がいい気がする。

 

 そう判断した俺は地面に根が生えたかのようにそこを離れようとしないレイを、なんとか地面から引きはがさせ金閣寺を離れることにした。

 

 無理やり連れて行くときの冷気はこれまでで一番大きかったような気がするけど、どれだけ気に入ったんだよ……。

 



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136話 お前がみているものは幻だし、別に俺は疲れてないんだからね!

「……とる、さとる、起きて」

 

 頬が痛い、寒い、柔らかい。 

 やめい、頬をつまむな、引っ張るな、ムニムニするな。

 俺の頬はおもちゃじゃない。

 

 分かった、起きるから……起きればいいんでしょ……。

 

 夢心地から目覚め、目を開けると目の前には美少女のドアップが映り込む。

 

「うわあ!!」

 

 思わずのけぞってしまい、目の前の美少女、我が愛しの幽霊レイさんは不満げに頬を膨らませる。両手は俺の頬に置いたままだけど。

 

 びっくりした。目覚めたのに夢かと思った。

 あまりのドアップに心臓止まるかと思った。

 

 のけぞるくらい許してほしい。心停止しなかった俺をむしろ褒めてほしい。

 

「すいません、お客さん。なかなか起きないんで声掛けしてたんですけど、まさかそこまで驚かれるとは……」

 

 運転席から申し訳なさそうな顔をしながら覗き込んでくる運転手さん。

 

 いやいやあなたは全然悪くないんですよ。むしろあなたの声は全く聞こえてなかったですから。

 

 声掛けしてもらってたのにすいません。うちの子があまりにもサービス精神なことに驚いてただけですよ。

 

「良かったらお連れさんも起こしてもらってもいいですか……?」

 

 相変わらず申し訳なさそうな顔をしながら俺の隣を見る運転手さん。

 

 隣にはよだれを垂らしてあほ面を晒しながら爆睡している我が後輩のご尊顔があった。

 いびきをかいていないことがせめてもの救いだろう。

 

「おい、起きろ」

 

 ……反応なし。見れば見るほど美人なのがもったいないあほ面だ。

 

 まあさっき隣で大暴れして大声出したのに、未だにこんなに爆睡してるんだからこの程度で起きるとは思ってなかったけどさ。

 

 どれくらい待たせているのか分からないがこれ以上運転手さんを待たせるのは精神的にもお財布的にも痛い。

 

 かくなる上は……。

 俺は後輩の鼻をつまむとそのまましばらくつまみ続ける。

 

「……ふが!! ばああ!!」

 

「おはよう」

 

「殺す気ですか!! なんか死んだおばあちゃんが今一瞬見えましたよ! 超笑顔で手を振ってましたよ! そっちに行けなくてごめんね、おばあちゃん!」

 

 大丈夫だ、しょせんそれは幻、もしくはお前の脳が見せたただの夢だ。だから気にするな。

 それにそんな大声を出すんじゃありません。人前だぞ。

 

 なんとか起きた二人は運転手さんにぺこぺこしながらタクシーから降りた。

 

 その間もレイは元気に俺の頬をぺちぺちと叩いていた。

 気に入ったのね。それ。意識向けないようにするの地味に大変なんだからね。

 

 しかしレイはずっと起きてたんだろうか。意外とタフだな。

 

 

「せんぱーい、本当にここであってるんですよね?」

 

 あってるだろ。普通に住宅街ぽいし目の前にある家は宿というよりは古民家って感じだけど、タクシーの運転手が何も言わなかったってことは正解なんだろ。

 

 なんか降りた後運転手さん首傾げながら苦笑いしてたけど、きっと気のせいだよ。

 

「いくぞー」

 

「おー」

 

「えー」

 

 レイが元気な返事をしてくれるから後輩の返事は聞かなかったことにした。

 

 そして俺は元気よく手を挙げて歩き出したものの、なんか他人の家に勝手に入るような感覚がして、恐る恐る玄関の扉に手をかける。

 

 ……ええい、ままよ! もし怒られたら全力で謝って逃げよう。そうしよう。

 

 ガラガラ……。

 

 ゆっくりとしかし滑らかに動いた扉は俺の拒否する意思とは反するようにスムーズに開く。

 こんなに音を立ててしまったら仕方がない。もう後には引けない。

 

 玄関にゆっくり入るとその後ろをきょろきょろしながらレイと後輩も遅れて入ってくる。

 誰かが迎えに来る様子もなければ玄関の先は真っ暗だ。

 

 確かに日暮れとはいえまだ外には日差しがさしている。

 なのにこの暗さはいったいなんだ……?

 

「す、すいませーん」

 

 お、後輩が声を出した。

 俺なんて雰囲気にのまれてレイの後ろに隠れることしかできなかったのに、たまにはやるやつだ。

 

 まあレイの後ろに隠れたところで何も意味はないんだけど。

 むしろ中腰になっている変な奴になっているだけなんだけど。細かいことは気にしない。

 

 しかし後輩が勇気を振り絞り声をかけても誰かが出てくる様子はない。

 

 むしろこの家からは人の気配がしない。

 これは騙されたか……?

 

「……帰るか」

 

「そう、ですね。どうしましょう」

 

 まあ泊りに関してはどこか別の場所を探すしかないだろう。

 まあこの冬休みシーズンどこか空いているとは思わないが、最悪ネットカフェでもしょうがない。

 

「ごめんなさい、気づかなくて」

 

 俺と後輩がその家から立ち去ろうとしたとき突如奥から清廉な声が聞こえてくる。

 

「人、いたんだ……」

 

 それは同感だ。

 しかし人が出てきたならここから勝手に立ち去るわけにはいかない。

 二人して足を止めて声の主が出てくるのを待つ。

 

「夜ご飯を作っていて全く気が付かなくて。ごめんなさいね」

 

 割烹着を着て前に下げている手拭きで手を拭きながら現れた女性は、俺よりは年上だろうがそれでも若く見えるいかにもおかみさんといった雰囲気の方だった。

 

 なんで若く見えるんだろう。肌が真っ白だからだろうか。

 いくら冬になっているからとはいえ、ここまで真っ白な肌を保ち続けることはできるのだろうか。

 

「どういった御用?」

 

「あ、えっと、予約していたものなんですけど」

 

「…………ああ、そういうこと」

 

 一瞬目を丸くしたおかみさんは何かを理解したのか目を細めて軽く頷いて見せる。

 何、今の間? 俺たちはその間をどう受け取ればいいの?

 

「三名でよかったかしら?」

 

「え?」

 

 後輩は首をかしげているがおかみさんの発言を聞いた俺は瞬時にレイの前に飛び出し彼女を背中で隠す。

 

「二人です」

 

「先輩?」

「二人です」

 

 冷や汗が止まらない。

 今目の前に座るこの女は絶対に、間違いなくレイに視線を向けていた。

 

 また目を細くしたおかみさんは何かを考えるように首をかしげる。

 

「……そういうこと」 

 

 そして何かを納得したのか俺を見て一度頷くと、また出てきた時の笑顔に戻る。

 

「ごめんなさいね。私ったらうっかりしちゃって忘れちゃってたみたい。大丈夫、ご飯の準備はあるから。二人ね。大丈夫よ。お部屋に案内しますね。さ、どうぞどうぞ」

 

 急に普通に対応しだしたおかみさんだが、逆にそれが怖い。

 

 さっきまでの対応から温度差がありすぎて怖い。

 

 しかしここまで来たのだ。

 もう引き返せるような雰囲気ではない。

 

 後輩も首をかしげながらもちゃんと予約で来ていたことに安心しているのかほっと息を吐きながら家の中に入っていく。

 

 俺もそれについて行くしかない。

 なるべくおかみさんの視界にレイを入れないようにしながら俺は家に上がった。

 

「あなた、憑かれてるのね」

 

 俺の後ろに立ったおかみさんが放った言葉に、全身に鳥肌が立った。

 




楽しくなってまいりました。
(この話書くまで冬休みだということを完全に忘れてました……怖い、自分の記憶力)


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137話 空気を読まないやつもたまには役に立つ。

 俺は部屋に案内された後もおかみさんに言われたことがぐるぐると頭の中で繰り返されていた。

 

「憑かれてる……?」

 

 俺が? 誰に。

 いやそんなこと考えるまでもなくわかっていることではあるが、分かりたくない。

 

「部屋にお札とか貼ってなくてよかったー」

 

 突然の歯の抜けたような声に思考を遮られる。

 一度は部屋が別だから分かれた後輩が合流してきたのだ。

 

 いや、お前は自分の部屋にいろよ。何当たり前みたいに俺の部屋に入ってきてるんだよ。

 

 まあ確かに部屋に入ってすぐ机の裏とか壁にお札が貼られてないか確かに確認したけどさ。

 

 でもこの部屋、恐らく後輩のところも同じだろうが、外見が一般的な民家だったにしてはちゃんとしている。

 

 なんというかちゃんとした民宿の畳部屋って感じだ。

 テーブルが真ん中に置かれてその上にはちゃんと茶菓子まで用意されている。

 

 ほんとに忘れていたのか? と疑うレベルで部屋は清潔さがある。

 まあ部屋に入った瞬間、温度が何度も下がった気はしたけど。

 

 それは季節のせいというよりも最近の俺にとってはもっと近しい感覚。

 そうだ、レイに冷気を浴びせられた時の感覚に近かった。

 

 ……いやいやまさか、たまたまでしょ。何せ俺には霊感がないんだから。

 

 そんなことを考えている間にも後輩は部屋の中を勝手に物色し、レイも部屋を見渡しながらそわそわしている。

 

 見慣れない部屋だから落ち着かないんだろうか。

 それとも何かほかに理由があるのだろうか。

 

 ……いや深く考えるのはやめよう。レイは落ち着かないんだな。きっと。

 

 部屋の中を一通り物色して満足したのか、後輩はふらふらと部屋から出ていく。

 多分自分の部屋に戻っていったのだろう。

 

「さとるー」

 

 ずっときょろきょろと周りを見渡していたレイは、後輩が出ていくのと同時くらいのタイミングで立ち上がると、のそのそとこっちに近づいてきてそのまま俺の胸の中にダイブしてきた。

 

 ほんとだったら頭があごに激突している角度での大分だが、あいにく俺とレイの間でそんなアクシデントは起こりえない。

 

 レイはそのままぐでっと俺に埋もれるように体勢を崩すと顔を擦り付けてきた。

 

 ここまで甘えてくるのは珍しい。

 初めての遠出だしレイも疲れてるんだろう。

 レイが近くに来たからか俺もようやく緊張感みたいなのが取れて、リラックスできたような気がした。

 

 

 しばらく放置していると入口の扉をノックする音が聞こえる。

 

「どうぞー」

 

 後輩ならノックせずに入ってくるだろうし、おかみさんだろうか。

 案の定部屋に入ってきたのはおかみさんだった。

 

 特に表情を浮かべていなかった彼女だが、俺の様子を見て途端ににこにこし始める。

 

「二人は仲がいいのね」 

 

 ……この人やっぱりレイのことが普通に見えてるんだな。

 さっきは聞かなかったことにもできたけど、おかみさんは別にレイが見えていることを隠すつもりもないらしい。

 

 まあ俺にとっても後輩が近くにいないし、別に何を言ってくれても構わないが。

 

「そんなに睨まなくても、別に何もしないわよ。安心して」

 

 諭すように優しい声色でそういうおかみさん。

 そうは言われても今まで身内以外にレイのことが見えていた人がいないからな。

 

 警戒してしまうのは人間的本能というか俺の弱さ故というか、まあ当の本人であるレイは俺にもたれかかったまま首をかしげながらおかみさんを眺めてるだけなんだけど。

 冷気も出てないから怖がってもないみたいだし。

 

 そんなことを考えながらレイからおかみさんへ視線を戻すと、彼女は初めてレイを見た時のように鋭い眼光をこちらに向けていた。

 ……この短時間で俺なんかしましたっけ?

 

「この子とコミュニケーションが取れているということは、他の子も見えてるんですか?」

 

 ……ん? 他の子? 他の子って誰のことだ?

 でもここは正直に答えておく方が何となくわが身の安全を守れる気がする。

 

「俺、霊感ないんで」

 

 簡潔にそう答えるとおかみさんは補足していた目を丸くして、ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返す。

 

「ふふふ、冗談がお上手で」

 

 あれ……? 信じてもらえてない? これ信じてもらえてないよね。

 俺は冗談なんかじゃなくて本気で言ってるんですけども。

 

「せんぱーい、ご飯はどうなるんです……あ、すいません」

 

 俺とおかみさんが変な空気の中見つめ合っていると、その空気を破るように後輩が入ってきた。

 

 今だけは後輩の空気の読めなさが功を奏した形だろう。

 

「あらあら、私としたことが話しすぎちゃったみたいね。そう、ご飯はいつごろお出ししようかと思ったのだけれど。お二人の様子からしたら一緒にこの部屋に並べちゃっていいかしら」

 

「私はいいですよ」

 

 まあ俺も別に困らない……よな。

 

「私としてもいっぺんに出させてもらった方が片付けも楽ですし。じゃあさっそく用意しますね」

 

「やったーご飯だ!」

 

 かくしておかみさんが言っている真意を聞くことができないまま、話は流れていった。

 

 あの空気のままこの部屋にいることは耐えがたかったから後輩ナイスと言いたいところだが、おかみさんは一体何のことを言っていたのか。それだけは気になるな。

 

 他の子っていったいどういうことなんだろうか。

 

 そしてレイはどうしてずっと虚空を指さしてるんですかね。

 

 そこに何かいるんですか? 霊感0の俺には全く見えないんだから、そういうことやめようね! そんなことしたって怖がらないんだからね?

 



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138話 いまさら見つめあっても……どこ見てるの?

 あまりにも豪勢な、それこそ宿泊費1000円でこんなに出してもらっていいんですか? と思わざるを得ないほどには高級老舗旅館で出てくる量の夕飯を食べ終わった後、俺はレイと部屋の中でのんびりしていた。

 

 まあ高級老舗旅館なんて生まれてこの方行ったことないんだけどね。

 

 後輩はというと、腹いっぱい食べた後すぐに風呂へと向かっていった。

 

 なんとこの旅館、露天風呂があるらしい。

 露天風呂があるなんて、ご飯もそうだったがやっぱりここは普通の旅館なんだろうか。

 

 それにしては見た目は古民家だったし、女将さんは忘れてたなんて言ってたし違和感がありすぎる。

 

 そもそも本当に忘れていたんだとしたらあんなに豪華な夕飯をすぐに用意できるんだろうか。

 でも俺ら以外に宿泊客がいるような様子はないしなあ。

 

 謎は深まるばかりで、そんなことを俺がいくら考えても答えが出るわけもないんだけど。

 

 謎というか問題といえばもう一つあった。

 女将さんにはレイが見えている。あの人には霊感があるのだろうか。

 

 でも霊感がある人に見えるのであれば、この前デパートとかに行ったときに誰かに見られててもおかしくないと思うんだよな。

 

 まあ仮に見えていたとしても幽霊と絡んでいる人間なんて意味が分からなくて声かけられないのかもしれないけど。

 

 いや俺がもしそんな状況に出くわしたら逆に声かけるけどね。意味わかんなさ過ぎて。

 

 そして件のレイさんはというと、寝転びながら顔を左右に動かしている。

 

 それだけ見ればお腹いっぱい食べて、だらけてるように見えなくもないんだけど……。

 

 え? 後輩がいる中でレイも夕飯を食べられたのかって?

 

 そりゃもう食べてましたね。

 方法は簡単。俺の膝の上に彼女が座って俺は食べている風を装ってその前にレイの口の中に消えていく。

 

 ええ、実に簡単なことですよ。目の前で美味しそうな食材たちが消えていくのを食べてるふりしながら見てるのは、ちょっとむなしかったけど。

 

 まあそれでレイが笑顔で満足げに頬張ってたからプラマイゼロなんですけどね! むしろプラス!

 

 まあそんな感じでお腹いっぱいになったレイはさっきから寝転んでるわけだけど。

 

 左右に首を振ってるのはいいんだけどその視線の先は明らかに誰かを追ってるんだよな。

 

 この部屋には今俺とレイしかいないはずなのに。

 そんなレイをじーっと眺めていると視線の先に俺がいたのかばっちり目が合う。 

 

 見つめ合う二人。流れる沈黙。 

 

 いやさっきから沈黙ではあるんだけど。

 いまさら目が合ったくらいでドキドキなんてしませんよ。俺も大人ですからね。

 

 ……何、そんなにじっと見つめて。そんなに見つめないで。

 ドキドキしないっていうのはうそだから。ちょっとはドキッとするから。

 そんなつぶらな瞳で見つめてこないで!

 

 心臓が高鳴っているのを自覚しながら何となく髪の毛をいじる。

 いや別に変な格好なんてしてないつもりだし今さらではあるけど、さすがにこんなに見つめられると気にはなるじゃない?

 

 そんなことをしていると突然レイが俺の頭上を指さして口を開く。

 

「重たくない?」

 

 重たい……何が?

 俺は頭を振ってみたり目線を上に向けてみるが、特に違和感はない。

 もちろん重たいなんてこともない。

 

「見えてない?」

 

 だから何が? あえて口に出しては聞かないけど。

 素直なレイなら俺の問いに対して真正面から返してくるだろうから。

 俺は真実を知りたくない。真実から逃げていたい!!

 

「あ」 

 

 レイは短く声を出すとそのまま指を下ろし、視線を俺から外してまた何かを目で追い始める。

 

 レイに何が見えているのか、さっきまで俺の頭の上に何が乗っていたのか考えたくもないけど、何となく予想はつく。

 

 でも俺霊感がないからなあ。

 気配を感じるなんてこともなければ、寒気がするなんてこともない。

 

 何かが見えるなんてもってのほかだ。

 そういうのはレイだけで十分間に合ってる。

 

 ……よし、深く考えることを放棄しよう。

 さっき言ったばかりじゃないか。俺は真実から逃げると。

 

「風呂行ってくる」

 

 おもむろに立ち上がりレイの方に目を向けると、俺の言葉には反応してくれているのか気だるげに片腕をあげながらも手を振ってくれた。

 

「……一緒に行く?」

 

 俺の誘いにレイは一瞬振っていた手を止める。

 

「んー……いい。遊んでる」

「そか」

 

 一瞬迷うそぶりを見せる彼女だったが、結局また手を振り俺を見送る態勢へと戻った。

 まあ無理して連れて行ってもしょうがないしな。

 

 俺はレイの言い方が一人で遊ぶというニュアンスではなかったことに気づかなかったふりをしながら部屋をでた。

 レイは俺が部屋の扉を閉めるまで手を振ってくれていたが、やはりその目は俺ではなく何もない宙を見つめていた。 

 

 そのことをちょっと寂しく感じたとかは……ない、はず。

 



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139話 ラッキースケベは突然に

「まじか……」

 

 古民家の裏庭へと続く扉を開くとそこには立派な露天風呂がありました。

 こんなことを何も知らない人に言って誰が信じるだろうか。

 

 いやまあ実際にはちゃんと脱衣所があったんだけどさ。

 さすがに男女まで分けるほどの広さはないようで、小さなスペースで服を脱ぎそして今扉を開けたばかりだ。

 

 当然後輩がいなくなっていることはちゃんと脱衣所で衣類の類がないことを確認している。

 

 後輩とのラッキースケベなんてなんもうれしくないからね。

 だって見た目はよくても中身があれだから……。

 

「さむっ」

 

 あまりの衝撃に思考がどうでもいい方にいっていたが、時折体にたたきつけてくる風が冷たくて現実に引き戻される。

 

 そりゃ真冬に素っ裸で外に立っていたら、いくら風呂の湯気が立ち込めているとはいえ寒いに決まっている。

 

 とっとと湯船につかるに限るな。

 一拍1000円とはいえ旅館なんだし露天風呂くらいあって当然だろう。

 すでに1000円以上のおもてなしはされているような気がしてるけど。

 

 ほんとあのおかみさん、ホームページに記載するときに一桁料金を間違えたんじゃないかな。

 

「あー生き返るー」

 

 思わず声が出てしまうほどに湯船につかった瞬間全身に温かさが染み渡る。

 

 露天風呂ってずるいよね。

 何の効能がないとしても外にあるだけで外気温にさらされた後の身体に染み渡る温かい湯なんて、極上でしかないんだから。

 まったく罪な存在だよ露天風呂ってやつはさ。

 

「あーーーー」

 

 疲れのピークが出たのはタクシーの中だと思っていたけどどうやら勘違いだったようだ。

 湯船につかっていると全身から疲れという疲れの気がどんどん抜けていくような錯覚に陥る。

 

 というか腰にも足にも力が入らない。このままだとおぼれてしまう。

 ここについてもう動かなくていいっていう安心感から疲れを自然に忘れてただけなのかもなあ。

 

 間違いなく今が一番疲れを感じており、同時に解消していると断言できる。

 

「ばーん」

「ぶわっつぷおうぷぷぷ!!」

 

 完全に寝落ち半分で快楽という名の湯船に溺れかけていたけど、急に裏庭の扉が勢いよく開かれ、聞き間違いようのないレイの声が耳に飛び込んできた。

 

 焦るあまりに湯を大量に摂取してしまうわ、態勢を戻そうとして足を滑らせて余計に溺れそうになるわで一瞬三途の川見えたぞ。

 

 そんな方法で俺を死の世界に引き込もうなんてレイもなかなかにやりおる。

 

「行きます」

 

 やっと湯船から顔を出し落ち着きを取り戻してレイの声がした方に顔を向けると、彼女はなぜか服を着たまま湯船の縁に立ち片手を高く振り上げていた。

 

 その表情はどことなく真剣だが、俺には彼女が今から何をするのか直感的に分かってしまった。

 

 そして止める間もなく想像した通りレイは手を挙げたままジャンプをして湯船の中に飛び込む。

 もちろん水しぶきが立つわけもなく湯面すら揺れずにレイは湯船の中に姿を消した。

 

「レイ!?」

 

 少し待ってみるがレイが姿を現す様子はない。

 まさかレイの身に何か起きるなんてことはないとは思うが、彼女自身にも周りの環境にも何も変化がないとさすがに心配になる。

 

「ばあ」

 

 そろそろ潜ってでも確認しようかと思っていた矢先、レイが万歳した状態で湯船から勢いよく現れる。

 

 しかも飛び出てきたのは飛び込んだところではなく、俺の目の前。

 

 いたずらが成功したかのような満面の笑みを浮かべながら出てきた彼女は、なぜか今は全裸になっている状態だった。

 

「レイ……」

 

 声をかけると手を下ろした状態のレイがこてんと首をかしげながらこちらを見つめてくる。

 

 レイは今俺の目の前で全裸で立っているが当然のように湯けむりが邪魔して全身はよく見えなくなっている。

 

 今日も湯けむりはいい仕事をしてくれるぜ。

 ……そうじゃなくて。レイには一言言っておかないといけない。

 

「温泉に飛び込んだら危ないでしょ」

「……? びっくりした?」

 

 いやもはやびっくりよりも安心の方が大きいけどさ。

 

 レイはひとしきりやりたいことやって満足したのか俺の隣に座るとそのままくつろぐように大きく伸びをしている。

 というかさっきは遊ぶって言ってたのに結局温泉はいりに来たのね。

 

「入りたくなった」

 

 レイはこういうところ本当に自由だよな。欲望に忠実というかなんというか。

 

「結果は?」

「まんぞく」

 

 むふーという鼻息とともににへらと笑ったその例の表情は完全にだらけている。

 彼女も疲れてたんだろうな。

 まあ俺もレイと温泉に入れて満足だよ。

 

「ふんふんふーん」

 

 露天風呂の空間に癒しの雰囲気が流れていたのに、突如耳に入ってきた絶妙に音を外していそうな鼻歌に全身が硬直する。

 

 レイはそんなこと全く気にせずにくつろいでるみたいだけど。

 いやいや今はレイのことより今聞こえてきた声の方が問題だろ。

 

 どうして? 奴がいなくなっていることは間違いなく脱衣所で確認していた。

 こういうことがないように万全の確認は行ったはずだ。抜けは何もなかったはず。

 

「ふんふーんふん!」

 

 何やら気合の入った鼻歌はすぐそこまで近づいてきている。

 まあ今更焦ったところで逃げようがないんだが、とりあえず俺はすわり位置をレイの前に移動する。

 

「おじゃましまー……え?」

 

 え? って言いたいのはこっちだよ。

 目の前には全裸の後輩が仁王立ちでこちらを見つめ立っていた。

 

 こういう時の湯けむりさんは仕事をしてくれないらしい。

 ばっちりと後輩の全身が目に入る。

 

 それと同時に彼女の眼を見開いた表情も確認できる。 

 俺も同じ顔してそうだけど……。

 

「ななななんでいるんですかあ!!」

 

 それもこっちのセリフだよ。

 ああ、もうめちゃくちゃだよ……。

 




本当は温泉はサラッと終わるつもりだったのにレイも後輩も入ってくるからこんな事に……


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140話 幽霊にとりつく俺、それが今の自分にとっての日常です

「ここシャワーは別なんですよねえ」

 

 そう発言しているのは隣に座る容疑者1の後輩。

 いや容疑者も何も犯人確定なんですけども。 

 

 たしかに周りを見渡しても温泉しかない。シャワーやそういったものはない。

 そこに気づけなかった俺の落ち度も……いや、服があれば誰かもとい俺が入っているということは気づきそうなものだが。

 

 こいつのことだから何も確認せずに入ってきたのだろう。どうせ。

 

「何冷たい目でこっち見てるんですか。確かに確認しなかったのは悪いと思いますけど、それでも美人の裸体を拝めたんだからいいじゃないですか」

 

 そんなことを悪気もなくのたまい、伸びをして温泉を楽しんでいる様子の後輩。

 

 こいつさっきまでパニックになっていたくせに、すぐに落ち着いてしれっと俺の隣に座ってきたからな。

 

 精一杯今にも暴れだしそうなレイを抑えている俺の身にもなって欲しいものだ。

 

 それに自分から美人の裸体とか口にするやつの裸体を見ても何もいいことなんてないんだよ。

 

 そういうのは恥じらいがあるからいいのであって、自ら見せつけてくるような奴に興奮するなんてことはない! ただしレイは別とする。

 

「上がるか……」

「私はもう少しのんびりしていきますねえ」

 

 勝手にどうぞ。

 俺はレイの手を引きながら温泉を出ることにした。

 

 後輩からしたら手を後ろにしながら歩き出す俺を変人だと思ったのか、首をかしげながらも特に気にする様子もなく温泉を満喫していた。

 俺もシャワーを浴びて部屋に戻るか。

 

「もどってる」

 

 温泉に満足したのか、レイはいつの間にか服を着ており俺の手から離れ小走りで部屋へと戻っていく。

 

 一通りやりたいこともできたし温泉にも入れたから満足したんだろうな。

 また見えない何かと遊びに戻ったんだろうか。

 

 

 そのあとは言ったシャワーはいたって普通の一般家庭にあるお風呂で、特に何事もなく過ごすことができた。

 

 というか疲れすぎからか足がプルプルして立っているのが大変だったよ。

 そんなプチピンチも乗り切って、今は安眠を求めて部屋に戻っている最中である。

 

 亀のような牛歩ではあるが着実に部屋には近づいている。

 

「あら、こんばんは」

「あ、どうも」

 

 部屋に戻る途中おかみさんとエンカウントした。

 何やら疲れている様子に見えたが俺と目が合うとすぐに営業スマイルへと変わった。

 

「ご飯と温泉、楽しんでもらえたかしら?」

 

 ええ、それはもう十分に。びっくりすることの連続でしたよ。

 

「追加料金払いましょうか?」

「ふふふ、大丈夫よ」

 

 いやほんとにそのレベルよ。このおもてなしで1000円は欲がなさすぎるよ。

 

「今少しお時間あるかしら?」

 

 そういうとおかみさんは距離を詰めるように俺の隣まで歩いてくる。

 なんだろう。やっぱり脅されて俺だけ多めにお金取られるのかな。

 

 別にそれでもいいんだけど。あ、確かにレイの分の料金は払ってなかったな。それかな。

 いやおかみさんがカツアゲなんてするようには到底見えないんだけど。

 

「憑かれている者同士ちょっとお話しない?」

 

 憑かれているもの同士……。それはおかみさんにも何かが憑いているってことになるんですが……。

 

「あなたにももう見えてるんでしょ?」

「いや俺霊感ないんで」

「え?」

 

 俺の即答が意外だったのかおかみさんは予想外だったのか目を丸くしてこちらを見つめてくる。

 

 いやそんな感じで見られてもないものはないし、見えないものは見えないんだからしょうがない。

 

「それは……無理があるんじゃないかしら? だってあの子は見えてるんでしょ?」

 

 確かにレイは見えてるけど、他の霊的気配とか幽霊は今まで通り見えないんだから、俺には霊感がないとしか言いようがない。

 

 なんでレイが見えて会話出来て触ってる風なことまでできるのか説明しろって言われたら説明はできないけど。

 

 それに……

「俺は別に憑かれてるわけじゃないと思いますよ」

 

 あくまでおかみさんに言われて俺が出した結論は、だけど。

 

「それも無理があるんじゃないかしら? あれだけ密着していていつも一緒にいるんでしょ?」

 

 おかみさんは俺が支離滅裂なことを言っていると思っているのか、さすがの営業スマイルも崩れて苦笑がにじみ出ている。

 

 まあおかみさんの気持ちも分からなくもないけど。

 

「むしろ俺の方が憑いてるんじゃないですかね。彼女に」

「え?」

 

「俺はずっと一人でした。家に帰って一人で飯を食べて風呂に入って寝る。それが当たり前だった。でも今はそんな生活にレイがいることが当たり前になっているんです。レイがいない生活はもう想像すらできません。何かあれば彼女のことを考えてる」

 

「だからそれが憑かれてるって」

 

「違いますよ。決してレイに求められてしているわけじゃないですから。確かにデザートとかは求められますけど、それだって俺があげたいからしてるだけ。彼女の反応が見たいからやってるだけです。それは絶対に憑かれてるからじゃないです」

 

「どうしてそう言い切れるの?」

 

「惚れた弱みです……かね。彼女が笑ってくれるなら、傍にいてくれるならある程度のことはしますよ。もちろん彼女がダメなことをしたり、俺にしてきたりしたらちゃんと怒りますよ。彼女とは対等にいたいですから。それが今の俺にとっての日常であり当たり前なんです。こう思うことに相手が人間なのか幽霊なのか、そんなことはあんまり関係ないんじゃないですかね」

 

 おかみさんと出会い「憑かれている」と言われてから俺がずっと考え続けてきたこと、そして行き着いた結論だ。

 

 おかみさんは俺が言ったことを理解しようとしてくれているのか目をつむり考えるそぶりを見せている。

 

「別に理解しようとしなくてもいいですよ」

「違うの。そうじゃなくてね。そういう考え方は私にはなかったから……憑いている。そうね……」

 

 まあ確かに霊感持っている人って少なそうだし、考え方とか自分中心になって他の誰にも意見をもらえないから考えが固まってしまうことはあるのかもしれないな。

 

「少し昔話をしてもいいかしら?」

 



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141話 出会いのタイミングってめちゃくちゃ大事だよね

 俺は手を出し先を促す。ここまで話しておいておかみさんの話を聞かないなんてことはできないしね。

 

「私もねもともと霊感はなかったの。もうちょっとちゃんとした状態で夫と二人でこの民宿をこじんまりと営業してたわ。近所の人が認知している、自分で言うのは恥ずかしいけれど隠れし良宿なんて言ってもらえてたわ」

 

 だから温泉の設備があったり、部屋がちゃんと分かれてたりしてたのか。

 してたっていう過去形なのが気になるけど。

 

「でも夫が病気でなくなってしまって。私には何もなくなってしまった。そう思ったわ。だから民宿の営業もやめようと思って、そのころには生きる気力もなかったかもしれない。そのころだったかしら。小さな子供たちが寄り付くようになったのは」

 

 小さな子供……。おかみさんの言い方的に近所の子供とかではなさそうだよなあ。

 

「最初は私も幽霊だなんて思わなかった。でも人の子だろうがたとえ幽霊だろうが同でもいいと思っていた私は、その子たちをおもてなしするつもりで民宿のおかみさんの振る舞いを続けていたわ。子供たちはいつでも元気で私を振り回すようにいろんなことをして、私もちょっとずつその日常を、夫がいない日常を受け入れつつあった。そんな奇妙な生活が始まってしばらく経ってからある学生さん二人が訪ねてきたの。ネットで予約したものですけどって」

 

 その学生の心情はよくわかる。多分俺たちと同じ状況だっただろうから。

 

 ネットで見つけた格安の旅館予約。ダメもとで応募して訪れたら古民家だったときの不安。

 

「その時は民宿を営業している認識はなかったし、ネットへの掲載なんて夫と経営していた時ですらやってなかった。でも私にはすぐあの子たちの仕業だってわかった。それに料理は毎日あの子たちに用意してたから、すぐに用意できたし温泉も用意できた。民宿はいつでもできる状態だったのよね。それからは一年に一回くらいのペースでお客さんが来るようになったの」

 

 はたから聞けばもう営業しているつもりのない民宿の情報をネットに載せてお客さんを連れてくるなんて、なんて迷惑な幽霊だって思うけど、おかみさんの表情は穏やかで怒っているような様子は一切なかった。

 

「それを私は受け入れた。私はあの子たちに憑かれたんだって思ってた。私が絶望しないように、死なないように。どういう理由かは分からないけど、もしかしたら元々ここにいてこの場所を気に入ってくれてたのかもしれない。気に入っている場所がなくならないように私をこの場所に、この世にこの子たちは引き留めておきたいんだろう。ってそう思うことにしたの」

 

 おかみさんはそこまで話し終わるとふーっと息を吐いて目を伏せながら下を向く。

 

 まあ確かに人生のどん底でそんな摩訶不思議なことがあったら順応することはできても、受け入れることはできないかもしれない。

 

 俺の場合は何の変哲もない日常の中にレイが突然現れたから、受け入れることができたけど。

 

 おかみさんは顔を上げて俺の方に顔を向ける。

 その表情はどことなくすっきりしているようにも見えた。

 

「でもあなたに言われてちょっとだけ考え方が変わったわ。憑かれてるんじゃなくて憑いている。確かに私はあの子たちがいたおかげで夫を失った悲しみをごまかせたし、今でもこうして生きている。あの子たちがこの場所を、私を求めているんじゃなくて、もちろん最初はそうだったかもしれないけど、今は私があの子たちを求めているのかもしれない。私もあの子たちがいない生活は、もう考えられないもの」

 

 残念ながら俺には子供たちの姿は見えないからどんな顔をしておかみさんに接しているのか、見ることはできない。

 

 でも今のおかみさんの表情を見る限りきっといい関係を築けているのだろう。

 

 結局何か関係を紡ぐのに相手が人か幽霊かなんて些細な問題でしかないんだと思う。

 

「よかったですね。その子たちがおかみさんの元にいてくれて」

「そうね……」

 

 意外と長時間話していたからだろうか。ちょっと冷えてきた。

 そろそろ部屋に戻ろうかな。

 

「じゃあ俺は戻ります」

「引き留めてごめんなさいね」

 

 今はなんだか少しでも早くレイの顔が見たい。そんな気分だ。

 

「あ、最後に一つだけいいかしら。どうしても言いたいことがあって」

「……?」

 

「あなた……結構若い子が好きなのね」

「ぶっ!!」

 

 さっきまでのシリアスはどこに行ったのか、おかみさんはいい笑顔を浮かべてそんなことを言ってきた。

 もしかしてさっきの苦笑いもそっちの意味だったわけじゃないですよね!?

 

 それに確かにレイの言動は幼児退行化しているようにも思えるけど、それでもあの見た目的に最低でも高校生ではあるはずだからね! 多分!

 まあそれでも十分に若いんですけども!!

 

「いや別に悪い意味じゃなくてね。隣にあんな美人さんを連れて一緒に旅行をしているのに、それでもあの子を選ぶのがちょっと不思議で。ごめんなさいね」

 

 おかみさん、それはちょっと勘違いしてますよ。

 たしかに隣に連れている後輩の見てくれはいいですよ。完璧かもしれない。

 

 それでも。

「人は見た目がすべてではないんですよ」

 

「……ふふっ。幽霊に恋している人がいうと説得力あるわね。お風呂上りに引き留めてごめんなさいね。でもとても有意義な時間だったわ」

 

 くすくすと微笑んでいるおかみさんに見送られるのがちょっと気恥ずかしかった俺は、軽く会釈すると少し速足で部屋に戻ることにした。

 

 早くレイに会いたい。レイと遊んで早くこの恥ずかしさを忘れたい! 霧散させたい!

 

 いつも最後までちゃんと締まらない俺である。

 



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142話 幽霊だろうが人間だろうが教育方針は人それぞれなのです

「おっはようございまーす!!!!」

 

 部屋に響く明るい声。それと同時に勢いよく開かれるふすま。

 うん、元気なのはいいことだけど今何時だと思ってるんですかね。

 

「あれ? 起きてたんですか、絶対に寝てると思ってたのに」

 

 いやできることなら俺も寝たかったけどさあ。

 

 俺が起きていたことがよっぽど意外だったのか目を丸くしながら後輩は、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。

 

 そんな後輩を尻目にスマホを手に取ると表示された時間は朝の四時半。

 ……朝からこいつは元気だなあ。

 

「大丈夫ですか? ゾンビみたいな顔してますけど」

 

 そういいながら顔を覗き込んでくる後輩の髪は跳ね散らかっている。 

 いや、セットくらいはしてこようよ……。

 

 大丈夫か大丈夫じゃないかと言われれば全然大丈夫ではない。

 なんせ俺は起きたのではなく、ずっと起きてたのだから。

 

 ……大変だったんだよ。

 おかみさんと話してレイと少し遊んでたけど、さすがに疲れていたのか睡魔が襲ってきて即就寝。

 

 そこまではよかった。

 

 しかしそれから体感的に三十分ごとに目をこじ開けられる感覚に襲われて目を覚ますわ、金縛りにあって起こされるわ、終いには足をつかまれて部屋中を引きずり回されて起こされるわ……そこまでされると俺も寝られたものではない。

 

 そしてここまで存在感をアピールされればいくら霊感がなく気配すら感じない俺ですら悟るよね。さとるだけに。

 

 女将さんにとってはいい幽霊なのかもしれないけど、俺にとってはとんでもない悪霊でしたよ!

 

 いったいどういう教育してらっしゃるんですか!

 ……まあおかみさんに八つ当たりしてもしょうがないんだけどさ。

 

 そんなこんなで寝れずに朝を迎えたわけである。

 もはや限界突破して眠くないよ。逆に。

 

 レイ? 隣でぐーすか気持ちよさそうに寝てるよ。

 

 どういうわけかここに住みついている幽霊は寝ているレイにいは一切手を出そうとはしてないようだった。

 

 いや俺が気づいてないだけでもしかしたら何かしてるのかもしれないけど、もし寝ているレイに手を出していたりしていたらレイが何もしないわけがない。そんな気がする。

 

 なんだろうね、幽霊のお姉ちゃんとしてでも見てたのだろうか。

 

 それとも何かレイが先んじて手を打っていたか。

 まあレイが手を出されなかった分、俺の方にいたずらの魔の手が伸びてきたというオチだろう。

 

 レイを守れたと考えればちょっとは溜飲も下がるってもんだね!

 

「おーい、せんぱーい? 起きてますかー? 目あけたまま眠るとかいう無駄な高等技術されてると私気づけないんですけどー?」

 

 あ、後輩のことを忘れていた。目の前に顔があるのに存在を忘れていた。

 やっぱり寝不足は大敵だ。周りへの注意力が散漫になりすぎるみたいだ。

 

「で、何しに来たの?」

 

 こいつはこんな朝っぱらから、人によっては深夜に何しに来たんだろうか。

 

「うわ、開口一番があいさつでもなく冷たい質問とか。私じゃなかったら泣いてますよ」

 

 お前だから言ってんだろうが。

 こんな扱いしてもおれるようなメンタルをしていない後輩だから、俺はこういう対応をしているのだ。別に他の人にも同じ対応はしない。

 

「喜べ、特別扱いだ」

 

「何もうれしくない特別扱いありがとうございます。って、そんなことはどうでもいいんですよ! 行きますよ!」

 

 だからどこに? こんな朝っぱらから電車もまだ動いてないよ。

 人はみんな夢の中だよ。

 

 こういう時こそ部屋にいるであろう幽霊たちは後輩をどこかに連れて行ったりしてくれないだろうか。

 

 しないんだろうな。4時くらいから何の反応もなくなったし。もしかしたらぐっすり寝てるのかもな。散々俺をもてあそんどいて張本人たちはしっかり夢の中にいるのかもしれないね。

 

 幽霊が夢を見るのかどうか知らないけど。今度レイに聞いてみようかな。

 

「何ボーっとしてるんですか! 低血圧ですか? 伏見稲荷、行きますよ! ほら、ハリーハリー、時間ないんですから!」

 

 ああ、そういうことか。そういえば今日は朝から伏見稲荷に行くってスケジュールだったか。

 朝ってこんな早いとは思わなかったけど。

 

 まあ行くにせよなんにせよ俺の準備は大したことないとして、この隣で可愛い寝顔を晒しているお嬢様を起こさなければいけない。

 うーん、守りたいこの寝顔。

 

「そんなことよりお前のその寝ぐせはそのままでいいのか?」

「なっ!?」

 

 俺は後輩の頭を指さしながら指摘する。

 後輩は今気づいたのか自分の頭を両手で触りながら徐々にその顔を真っ赤に染め上げていく。

 

「れれれレディに指摘するなら自分自身もなんとかしてくださいね!」

 

 苦し紛れなのか負け惜しみなのかそういい放った彼女は、そのまま立ち上がると足音を立てながら部屋から出て行った。

 

 指摘されて恥ずかしくなるくらいなら、最初からちゃんとセットしてくればよかったのに。変な奴だよ。

 

 まあ何はともあれこれで邪魔はいなくなった。

 俺はさっそくレイを起こす準備にかかった。

 

 

 ちなみにレイを起こすのは困難を極め、その後30分は格闘をしていたことをここに残しておこう。

 

 触れない、大声を出しても後輩に不審がられる。そんな状態の眠り姫を起こすのはさすがに難易度高すぎますよねえ……。

 



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143話 眠さ相まって幻100倍

あけましておめでとうございます。(まだ一月だからセーフ)
今回の話が浮かばなくて3か月間旅館に閉じ込められてました。
やっといい形になったので脱出できました。ホラーですね。
今年こそは完結させます。お楽しみいただけると幸いです。


「ねむい」

 

 そう、眠い。そしてレイは機嫌が悪い。

 最悪の朝といっても過言ではないだろう。

 

 されど準備はできた。

 後輩は先に外で待っているらしい。

 まだ準備ができていない俺を見てぐちぐちと何か言っていたがちゃんとは聞いていない。

 

 だってその時にはレイをなだめるので精いっぱいだったから。

 まだ目をこすって眠そうにしているレイの手を引っ張りながら、玄関へと向かう。

 

「もうお帰りですか?」

 

 玄関には柔らかな笑みを浮かべるおかみさんが正座で待っていた。

 昨日も寝るのが早かったわけではないだろうに、その表情には微塵も眠たさや疲れは感じさせない。

 さすがプロというべきか、なんというか。

 

「お世話になりました」

 

「いえいえこちらこそ。あの子たちはいたずらしませんでしたか?」

 

 それはもう盛大にいたずらされましたよ。

 しかも見えないから余計にたちが悪かったですよ。

 昨日の話を聞いたうえでそんなことを言えるはずもなかった俺は、とりあえず笑みを作って返しておく。

 

「……迷惑かけたようで申し訳ありません。知らない人が来るとついいたずらしちゃうんですよね」

 

 俺の渾身の愛想笑いはおかみさんには効果がなかったようだ。

 すぐにばれてしまった。

 おかみさんも苦笑いを浮かべていたが、俺の手をつかんでいる眠気眼のレイに目をやると、また優しい笑みへと戻った。

 

「あなたたちもどうか仲良くしてくださいね。余計なお世話かもしれませんけど」

 

 こうしてレイとコミュニケーションが取れている俺は幸せなのかもしれない。

 ここにいるかもしれない幽霊たちもおかみさんと何かやり取りがしたくて、泊りに来た俺たちのような客に、おかみさん自身にちょっかいをかけているのかもしれないと思うと、可愛げも出てくるものだ。

 眠たいものは眠たいけど。

 

「せんぱーい。何してるんですかー? 早くいきましょー」

 

 おかみさんと俺の間に挟まるレイ。

 そんな奇妙な状態の中流れる沈黙を破るように後輩が玄関の扉を開け放ち、大声で声をかけてくる。

 

「それではお気をつけて」

 

 おかみさんの丁寧な礼を受けながら俺はレイの手を引きながら旅館の外へと出た。

 

 

 いくら観光地とはいえこんな朝早くから起きて電車に乗る人は少ないのか、昨日のバスの混雑具合を見れば実に閑散としている電車を降り、駅を出る。

 

 駅から出るとすぐ目の前に鳥居が見える。

 

「びっくりするぐらい人が少ないな」

 

「それでもこの時間からちらほら人がいるんですから、人気ですよねえ」

 

 確かに言われてみればこんな朝早くでもちらほらと人がいる方が珍しいか。

 赤い鳥居を目の前にすると、いささか威圧されているようにすら感じる。

 

 いや別に神社に入れないほどやましいことは特にしてないんだけどね。

 まあレイを連れていることがやましいことと言われればそうなのかもしれないけど。いや別に変な意味ではなく。

 

 レイはというと電車の中で眠りこけていたからか、今は目はぱっちり開いて目が覚めているように見える。

 

 まあいつまでも鳥居の前で立ち往生してても仕方ない。

 俺は目の前を歩くレイを尻目に鳥居の前で一礼してからくぐる。

 それをレイが見ていたのかわざわざ鳥居の前まで戻ると、俺の真似をするように深々と頭を下げ、俺の隣に戻ってきた。

 

 うん、可愛いね。

 すでに一回鳥居くぐった後にやってるし幽霊だから意味があるのかは分からないけど、可愛いから関係ないね。なんでもいいよね。

 

「あまりにも鳥居が有名だから千本鳥居の後に本殿がありそうなイメージありますけど、先に本殿があるんだから意外ですよね」

 

「え、来たことないの?」

 

 こいつのことだから日本の有名どころなんかとっくに全箇所回ってると思ってたけど。

 京都なんか特に私の庭だって言われても違和感ないのに。

 

「来たことあるに決まってるじゃないですか。先輩のレベルに合わせて発言してるんですよ」

 

 ……ナニコイツハラタツ。

 

「だっていやでしょ? この先にあれがあってこういくのが最適解で、みたいな話ずっとされると」

 

 なるほど? 後輩なりに気を遣ってやってると。そういうことが言いたいわけですね?

 その割に昨日は最効率を求めようとしてたと思いますけど?

 

「そういう割に昨日は最効率求めようとしてたって言いたげな顔ですね」

 

 ジト目でこちらを見ながら俺の心の中を読んでくる後輩。普通に怖い。

 ほんと最近エスパーにでも目覚めたの? それともそんなに顔に書いてるの?

 

「あれは回るところが多すぎたので仕方なかっただけですよ。今日は特にここ以外に予定も決まってないんだから、のんびりでいいんですよ」

 

 そういうもんかね。まあ昨日は確かに怒涛だったし、後輩のおかげでバタバタしながらもしっかり観光できた気はするけど。

 そんなことを話しながら本殿でお参りをしていよいよ鳥居の方へと向かう。

 

 人が多くなる前に来れたのはよかった。

 雰囲気をじっくりと味わえてこの場所の良さがより際立つというものだ。

 まあ俺ごときでは空気澄んでるなーってことくらいしかわかんないけど。

 

「おー……」

 

 もうすでにいくつかの鳥居をくぐり、他の神社とは違う独特の雰囲気は味わっていたものの、やはり千本鳥居を前にすると思わず声が漏れる。

 左右に並べられた鳥居が目を向けるだけでも奥に続いていて、朝の淡い日差しに照らされて紅く煌めいている。

 

 思わず鳥居をくぐる手前で足を止めてその光景を呆けるように見ていた。

 そんな光景の中に白い光が紛れ込む。

 

 それがレイだと気づいたのは目の前を走り回る白い光を数秒見つめた後だった。

 紅く染められている景色の中に一つの白い光が輝く。

 

 朝日に照らされたレイの姿が、鳥居の鮮やかさに取り込まれてしまいそうで。

 日の光に紛れてその姿が霞んでレイの姿が見えなくなる。

 ここから消えてしまいそうな気がして思わず自分の手をレイの方に伸ばしていた。

 

「どうしたんですか? 先輩」

 

 後輩の声ではっとする。

 伸ばした手の先にはレイがいて、鳥居に手を付けながらこちらを不思議そうに見ていた。

 

「いや、これは……」

 

 途端に恥ずかしさがこみあげてきて、その手のやり場に困る。

 無意味にこぶしを握ったりするが上げた腕を下ろそうにも行き場がない。

 

「あ、分かりますよ。気持ちいいですもんね。伸びしたくなる気分になりますもん」

 

 後輩は俺の様子など気にもしていないのか隣で大きく両手をあげて伸びをし始める。

 俺もそれに合わせるようにぎこちなく腕を自分の頭の上にあげる。

 よかったこいつがあほで。というか鈍感で。

 

「さとる?」

 

 後輩に気を取られていて気付かなかった。

 レイがいつの間にか俺の目の前まで来ていて、その首をこてんと横に傾げていた。

 そしておもむろに両手を伸ばしてくると、俺の顔を包み込むように頬に手を当てる。

 

 そのまま俺の目元に指を添えてまるで涙を拭くような仕草を……。

 そこまでされてようやく気付いた。

 俺はなぜか泣いていた。

 

「いや、これは、ちが……」

 

 なぜ泣いているのか。

 レイが朝日に、鳥居の中に吸い込まれて消えていきそうで、そんなことを錯覚して、勘違いして。そんなことをレイに言えるはずもない。

 

「大丈夫。私はここにいるよ」

 

 レイが何を考えていたのかは分からない。

 でもやけに大人びた笑みを浮かべて、でもいつもの調子で声をかけられて。

 その言葉は俺の中にすんなりと溶け込んでいくような気がした。

 

 レイの手に添えるように自分の頬に手の平を持っていく。

 程なくして手は熱く温まっていく。

 

 それがレイの手の体温ではなく、自分の頬の熱さだと気づき、それがやけにもどかしかった。

 

「……進むか」

 

「うん!」

 

「行きましょー!」

 

 一瞬見えた大人びた様子はどこに行ったのかレイは俺から離れ鳥居の中を走り始める。

 何も知らない後輩も伸びをしたままこぶしを振り上げ、そのまま鳥居の中へと歩き始める。

 

 俺は二人にばれないように目元をこすり、レイが先にいることをもう一度確認してから二人の後に続いて鳥居をくぐった。

 



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144話 それは無傷であっても無傷ではない

 瓦屋根の木造家屋が立ち並ぶ往来で忍者が大手を振って闊歩し、その向かいには外衣を羽織りその腰に刀を差した金髪の侍が着物姿の女性と横並びに歩いている。

 このまま両者がすれ違えば一触即発。しかし両者ともに歩みを遅くすることも、わき道にそれることもなくその距離はどんどん縮まっていく。

 そしてすれ違うや否や緊張感はピークまで高まり両者どちらともなく刃を相手に向ける。

 

 ……ことはなくやけに親し気に一言二言言葉をかけあうとそのまま両者ともに視界から消えた。

 

「おーい? 生きてますかー?」

 

「うお! なんだやるのか?」

 

 そちらが抜くのであればこちらも抜かねば無作法というもの。

 静かに腰に手を添える。

 

「やるのかってなんですか。それになんで腰に手を当ててるんですか。先輩刀なんて持ってないでしょ」

 

 ……おお、あまりの風景の変わりようと温度差にタイムスリップした気分だった。

 そもそも忍者がこんな往来を闊歩してたり、金髪の侍がいる時点で、それはもうタイムスリップじゃなくて、世界線どっかで変わってるでしょ。

 歴史の教科書全部書き直しだよ。

 

「もう雰囲気にのまれすぎですよ」

 

 目の前に立ち先ほどまで俺の顔の前で手を振っていた後輩は呆れたようにこちらを見つめ、その隣に佇むレイは何か琴線に触れる部分があったのか、俺の真似をするように腰に手を当てている。

 なぜか両手を腰に添えているから、はた目から見たら威張っているようにしか見えないんだけど。

 

 そもそもなんでこんな江戸時代の情緒あふれんばかりの場所にいるのかっていう話だけど。

 伏見稲荷で鳥居につられるまま最奥まで進んでいた俺たちですが……ええ、もちろん奥まで行きましたよ。

 

 あんなの運動不足の社会人が歩いていいところじゃないよ!

 普通に山登りじゃん! 確かに鳥居と朝日というマッチングした景色によってしんどさは軽減されていたかもしれないけど、それでもしんどいものはしんどいのよ!

 まあそんな山登りもとい参拝をしている最中に旅館の話を後輩にしていた。

 

 いや別に幽霊が云々とかっていう話はごまかしたというか、後輩が勝手に勘違いしてくれたけど、結果的にほとんど一般宅のようなところに二泊もするのは申し訳ないよねという話でまとまった。

 本当に後輩はたまに鋭い時があるけど、基本的にあほだからこういう時助かるよね。

 

 ただこのまま帰るのはもったいないよなって思ってたら「じゃあ映画村に行きましょう!」と後輩が言い出して、長時間の運動による酸欠と寝不足に襲われていた俺は、そのまま連れてこられるがままに映画村まで来ていたというわけだ。

 じゃあってなんだ、じゃあって。

 

「一つの建物がどーんってなってるのもいいですけど、こう芸術的な建物がずらーってなってるのもまたいいですよね。イケメン選び放題、どれだけ浮気しても怒られない! 選り取り見取り! って感じで。分かります?」

 

 分からないよ。

 後輩基準のイケメンを見すぎたせいなのか語彙力もなくなってるし、後半は常人には理解できないことを言ってるし、そんなこと一般人である俺が理解できるはずもない。

 

「そこの者ども待たれよ!」

 

 そんな後輩のよくわからない話を右から左に聞き流しながら歩いていると、背後から声をかけられ突然すぐ真横を黒い物体が複数通過し、直後土埃で先が見えなくなってしまった。

 こうなったら足を止めるしかない。

 

「あれ……?」

 

 大体何が始まるのか予想できるからそれはいいとして、ふと横を見ているとさっきまでいたはずのレイの姿がどこにも見えなかった。

 どこかで置いてきたっけ。

 いやでもついさっきまで俺の周りを忍者走りしながらついてきてたはずだけど……。

 

 そんなことを考えていると目の前の土埃が晴れると、予想した通り4、5人の忍者が俺たちから背を向けて立っていた。

 そして10人ほどの侍が忍者たちに立ち向かう形で立っていた。

 

 まあそれは予想出来ていたことだしやっぱりって感じで驚きはなかった。

 いやこの人数いったいいつからスタンバイしていてどこから出てきたんだとか、さっき忍者と観光者らしき侍がすれ違った時は、和やかに会話してたじゃんとか言いたいことはいっぱいあるけど。

 

 それよりも今一番問題なのはそんな一触即発のショータイムが始まるっていうそのど真ん中になぜかレイがいるということだった。

 巻き込まれたのか自らそこに行ったのか……いや巻き込まれることはないから自分からそこに行ったんだろうけど、完全に侍と忍者に板挟みされてその迫力に気圧されてか周囲を見渡し困惑している。

 

「レイ!」

 

「まだ我らの悲願の邪魔をするか!」

 

「我らは何度だってお前たちの前に立ちはだかろうぞ!」

 

 呼びかけようにも大声は出せないし、そもそも俺の声なんて侍と忍者のどすのきいた声にかき消されてしまうだけだ。

 さりげなくレイに向かって手を振ってみたりもするが、よっぽど混乱しているのか俺のことを見失ってしまっていて、全く目が合わない。

 

「いざ尋常に!」

 

「お覚悟!」

 

 レイとコミュニケーションが取れないままショーは進んでいき、いよいよ乱闘が始まる。

 侍は走り出し忍者はその手に手裏剣を持ち投げようと構える。

 

 レイは完全に勢いにおじけづいたのかその場でしゃがみ込んでしまい、動けそうにない。

 このまま侍が忍者に突っ込んでレイの方に走ったとしても、彼らの足はレイをすり抜けるのだろう。

 

 例えばこのまま忍者が侍の足に向かって手裏剣を投げて、そこにレイがいたとしてもその手裏剣はレイには当たらないんだろう。

 そんなことは分かっている。

 だからこのままショーが終わるまで待っていても何も影響はない……。

 

「ちょっと先輩!?」

 

 目の前で好きな女の子がおびえている。

 彼女が現実の何かに影響を及ぼすことは少ない。彼女自身に被害が及ぶことは皆無だ。

 

 それでも大きな足や鋭利な手裏剣が目の前に迫ってきたら、それは怖い。

 俺は目の前に立ちはだかる忍者たちをかき分けて無理やりショーに乱入した。

 

「危ない!!」

 

 忍者の人に大声で注意されるがレイの元にたどり着くと彼女をかばうように自分の背で隠す。

 

「……さとる?」

 

「大丈夫か?」

 

 突然の乱入者に先ほどまで勢い勇んで迫ってきていた双方の足と手が止まる。

 完全にショーを中断させてしまった形だ。

 

「……あ、争い程無益なものはござらぬ! 我は未来からそれを見てきた! だ、だからこの戦いを止めに来た!」

 

 この場を何とかしなければという一心で絞り出した言葉はそんな意味の分からないものだった。

 もちろんその後のショーは一時中止となった。

 



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145話 だからホラーは嫌いだって言ってるじゃないですか! なんですかこの仕打ちは! いじめか!? いじめなのか!? いじめないで!!

「ほんとにびっくりしましたよ。そんなにここの雰囲気にやられてたんですか?」

 

「ハハハ―。……すいません」

 

 あの後俺とレイはその場から追い出され、なんとかショーは再開し先ほど終幕したわけだが、その後俺は侍と忍者からひどく怒られることとなった。

 まあ当然だし出禁にならなかっただけましだとは思うけど。

 

 本当に申し訳なさと大人になってから初めてといっていいくらいしっかりと怒られたことで、完全に委縮してしまった。

 そして後輩の元に戻ってきてこの言われようである。

 レイは俺の後ろにぴったりとくっついてきており、離れようとしない。

 

「先輩のこと変だとは思ってましたけど、まさかここまで変人だったとは」

 

 お前だけには言われたくないとは思うけど、今この場では完全に俺の方が変人だから返す言葉もない。

 

「まあいいです。この後も回れるんですよね? しっかり謝ったんですよね?」

 

「もちろん」

 

「オッケーです。じゃあお化け屋敷に行きますか」

 

「……ん?」

 

「え? お化け屋敷。行くでしょ?」

「行かないよ?」

 

 なに当たり前みたいに言ってんの。

 え、俺への罰ゲームか何か?

 

「映画村のお化け屋敷って結構怖いって有名なんですよ」

 

 いらないよ。その情報。

 その情報を俺に教えれば「じゃあ行こう!」ってなると思ったの?

 

「行かないと後悔すると思うんですよねー」

 

 行った方が後悔するよ。

 悪かったって。ショーの乱入しちゃったのは悪かったよ。

 周りから見たらただの変な乱入者だろうし、それはしょうがないとはいえ反省してるからさ。

 

「あれ、もしかして先輩。お化け屋敷怖い系の人ですか?」

 

「そうだよ、怖いよ。だから行かないよ」

 

「あら素直。そっかー残念だなあ。行きたかったなあ」

 

 別に怖いことは否定しないし、行きたいなら一人で行けばいいじゃん。

 俺はレイと一緒に出口で待っててあげるからさ。

 優しいでしょ。先に帰るんじゃなくて出口で待ってあげてるんだから超優しいじゃん。

 

「あれもしかして先輩、幽霊とかも怖いたちですか?」

「そうだ」

「怖いの?」

 

「…………」

 

「先輩?」

 

 即答しようとしたらレイが回り込んでこっち見てきた。

 それはずるい。上目遣いでこっち見てくるのはずるいよ。

 

 さっきの怖さが残っているのかちょっと目が潤んでるのもずるい。

 もう何もかもがずるいよ。反則だよ。

 

「……怖くない。むしろ好き」

 

「はあ?」

 

 レイは俺の返答に満足したのか、それとも照れてしまったのか頬を少し赤く染めながら俺の背中の方へとまた隠れてしまった。

 

「じゃあお化け屋敷もいけますよ。一回行ってみましょ。一部例外とか言わずに全幽霊好きになっちゃいましょ」

 

「いかないの?」

 

 だからレイさん、そうやって聞いてくるのはすごくずるいと思うんだ……。

 結局レイの可愛い圧に負けてお化け屋敷に入ることとなった。

 

 

 お化け屋敷ってさこの雰囲気がもう怖いよね。

 外は普通に昼間ですごく明るくて、楽しい家族の団らんとか見れるのに、このお化け屋敷の空間だけ現実の世界とは別世界に迷い込んだんじゃないかってくらい、陰湿で真っ暗で何か出そうな雰囲気を醸し出してるよね。

 ほんと最初にこの構造を考えた人はすごいよ。尊敬……はしないけど。

 

「先輩、もうちょっとゆっくり歩きましょうよ」

「無理」

 

 俺は後輩のことなど一切気にかけずに早歩きでお化け屋敷の中を進んでいた。

 今のところ怖いのは雰囲気だけで何かが出てきたりはしていないけど、もし何か出てきたら俺は全力疾走でこのお化け屋敷内を駆け回るだろう。

 

 レイは俺の首に掴まってぶら下がっているから俺が走っても問題ない。

 レイはだいぶ落ち着いたのか周りをきょろきょろ見渡して、楽しんでいるようにも見える。

 こういうところ怖くないのかね。

 

「な~に~し~に~き~た~」

 

 はい無理です。ありがとうございました。

 

「ちょっと先輩! 走っちゃだめですよ!」

 

 知らない知らない。無理なもんは無理!

 

 それは唐突だった。

 何も出てこなくて周りの雰囲気にも慣れだしてちょっとゆっくり見てもいいかなと思いだした途端に、真横から何かが話しかけてきた。

 

 それを察知した瞬間に俺の足は勝手に走り出していた。

 今までに出したことのないようなスピードで屋敷の中を走る。

 

「きゃはははは」

 

 レイが俺の耳元で楽しそうに笑ってくれているのが唯一の心の救いだ。

 この声がなければ俺はとっくの昔に失神、いや絶命していただろう。

 ホラー嫌いなめんな。

 

「走るな!!」

「ごめんなさああああああい!!」

 

 今隣に何かいたよね!?

 絶対何かいて注意されたよね?!

 でも振り返る余裕なんてないし足を止めるなんてもってのほかなんですけど!

 俺は出口前の隠しているのであろう回し扉を荒々しく回すと一気に出口へと飛び出す。

 

「はあ……はあ……はあ……」

 

 思わずその場にへたり込んでしまうくらいには全力疾走だったし、何より何も覚えていない。記憶が吹っ飛んでる。自分はなんでこんなところに入ってしまったのだろうか。

 

「さとる、大丈夫?」

 

 あまりにも大層な様子の俺を心配してくれたのか俺の首に掴まっていたレイが、俺の前に立ち頭を撫でてくれた。

 それを見て幾分か落ち着いてくる。

 

「先輩早すぎますよ……。というか幽霊役のスタッフに怒られている成人男性なんて初めて見ましたよ」

 

 よかったね。初めてのものが見れて。

 俺も初めてお化け屋敷に入ってしっかりトラウマ刻まれましたよ。

 

「さとるー。楽しかったー。もう一回行く?」

 

「帰ろう……。もうお家に帰ろう……」

 

 レイから悪魔のような提案をされるが、それにこたえることはできない。

 もう一回行ったら間違いなく失神やら失禁やら人前にはもう立てない体になってしまうに決まっている。

 

「そっか……」

 

 残念そうなところ悪いが本当に帰ろう。

 もう俺の体力は0だ。

 

「ちょっと休憩したら帰りましょうか」

 

 後輩の一言で何とかその場から立つ気力が湧き、なんとか立ち上がると近場の休憩所に向かうのだった。

 もうお化け屋敷は一生行かない。

 レイにどれだけおねだりされてもいかない。……行かない。

 



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146話 それはね、金縛りっていうんだよ

「つっかれたー」

 

 家まであと数歩。その数歩が無限にも感じる。

 一泊二日の旅行。後輩とは駅で別れすっかり辺りは暗くなってしまっている。

 朝早くから起きて山登りをして、そのあと学生時代以来のダッシュをして……もう目は開いているのか開いていないのかよく分からないレベルで疲労困憊だ。

 

 朝もぐっすり眠ってお化け屋敷で俺の肩に掴まっていただけのレイは、あんまり疲れていないようで俺をおいてさっさと走り去っていってしまった。

 多分先に家に帰ったんだろうけど……なんて薄情な子なんだ。

 

 あー家が遠い。それしか出てこない。

 まあでも不思議な出会いがあったりきれいな景色を見たり、全然したくない怖い思いをしたり、有意義な旅行だったといえばそうなんだろうな。

 

 レイも楽しんでたみたいだし。

 後輩にもついてきてもらえたおかげでいろんなところ回れたんだろうし。

 あいつにもミリ単位くらいには感謝しないとな。

 

 それはそれとして今回の旅行でやっぱり俺には霊感がないってことが分かった。

 最近疑わしくなっていた俺の主張だけど、旅館にいたのであろう何かに関しては一つも見えなかったわけだし、結論俺には霊感がないってことでいいよね。

 だとしたらやっぱりレイは特別なんだろうなぁ……。

 

「おかえり」

 

 そんなことをボーっと回らない頭で考えていると突然玄関の扉を貫通してレイの頭がにゅっと現れる。

 勢いよく前に出すぎたのか少しつんのめってしまっているのか、彼女の顔は長い髪で隠れてしまっている。

 でもその可愛らしさは隠しきれていないのだから大したもんだよ、ほんとに。

 

「やめなさい」

 

 きっと最後に行ったお化け屋敷の影響でも受けたのだろう。

 だから俺はレイの頭をチョップするように頭を振り下ろす。

 

「むー……」

 

 俺の反応がお気に召さなかったのかレイはその長い髪の間から不満げな目でこちらを見つめながら、両手で頭を押さえながら顔を引っ込めた。

 

 恨めし気に俺のこと見てたけど絶対痛みなんてないよね。

 俺に無駄な罪悪感を抱かせるのやめてくれる?

 

 レイの可愛いいたずらにも片手をあげて反応するのが精いっぱい。

 旅行後の疲れって心地いいんだけど尋常じゃないよね。寝れてないから余計に。

 

 重い足を引きずるように家の中に入ると、玄関にはすでにレイの姿はない。

 俺もそのままベッドに直行。

 

 風呂に入りたいとかいろいろ思うことはあるけど、今はとりあえずこの眠気を解消したい。

 倒れるようにベッドに寝転がるとそのまま意識が勝手に遠のいていった。

 

 

「……ぐっ」

 

 自分のうめき声で目が覚める。

 周りの暗さからまだ朝にはなっていないことが分かる。

 中途半端な時間に起きてしまったらしい。

 

 すぐ二度寝するにも妙に目が冴えてしまって寝付けそうにない。

 ……シャワーでも浴びるかあ。

 そう思って体を起こそうとしたがなにか違和感があった。

 

 ……体が動かない。

 

 まるで重力に逆らえなくなったかのように体が持ち上がらない。

 うつ伏せで寝ていたはずが寝がえりをうっていつの間にか仰向けになっていたのか、暗闇に慣れてきた目に映るのは自分の部屋の天井のみ。

 

 声を出そうにもさっきみたいにうめき声すら出せない。

 これはもしかして……。

 自分の頭の中によぎった一つの可能性を必死にかき消す。

 

 あまりにも疲れすぎていて力が入らないだけ。もしかしたらまだ寝ているのかもしれない。

 このままもう一回寝ちまうか……。

 

 そう考え目を閉じようとすると突然目の前に何かが迫ってきていた。

 顔と顔がくっつきそうなほどに迫ってきていたのは他の誰でもないレイだった。

 

「起きてる?」

 

 その表情はいつか見た時のように大人びていて、俺の目をじっと見つめてきていた。

 

 見ての通り。

 そう返したいのに相変わらず声は出ない。俺の体のはずなのに俺の言うことを聞いてくれない。

 

 超至近距離にあったレイの顔はふっと遠のき程よい距離で保たれる。

 しかし今この状況でレイの顔が目の前に見えるってことは、レイが浮いているなんてことがない限り、もしかしてもしかしなくても彼女は今俺にまたがって……?

 まあ重さは全く感じられないんだけど。

 現実逃避ぎみにそんな今起こっているであろう状況を冷静に考える。

 

「私ってさ普通じゃないんだね」

 

 レイは俺の顔を見下ろし、未だにまっすぐに目を合わせながら話し始める。

 

「普通の幽霊は見えないし、目の前に突然幽霊が出てきたら普通はびっくりする」

 

 旅館のこと、お化け屋敷のことを言っているんだろうか。

 そんなに気にすることでもないと思うけど。レイはレイだし。

 

 そう声をかけたいのにこのくそみたいな体はまるでいうことを聞いてくれない。

 頭では声をひねり出そうとしているのに、口すらまともに動こうとしない。

 

「じゃあ悟と話している私は何なのかな。普通じゃないのかな。それともあのおかみさんみたいに悟が特別なのか。私って異常なのかな」

 

 表情を変えずに、泣きもせず、自虐のように笑うこともせず、まるで俺と目は合っているのに、彼女はどこか違う場所を見ているような、そんな表情でまくしたてるように自分の存在意義を話し続ける。

 そんなレイのことを例え触れないと分かっていても、抱きしめてやりたいのに体は動かない。

 

 腕がちぎれてもいい。上半身と下半身が分かれてもいい。

 頭の中ではそこまでイメージしているのに体は全くびくともしない。

 

「私って……なんなんだろうね」

 

 レイはぽつりとそうつぶやくと俺の視界から消えた。

 

 体はいまだに動かない。

 あいつが今どこに向かうとしても、ただ自分の部屋に戻るだけなんだとしても、傍にいてやらないといけないのに、猛烈な睡魔に襲われて抵抗ができない。

 

 徐々に薄れていく意識の中、レイの声だけが俺の頭の中に残り続けていた。

 

 

 その日以降レイはいつかのようにまた一人で外に出ることが多くなった。




本作は次話から最終章となります。
最終章はまとめて執筆したいため、また暫く投稿が止まると思います。
なかなか投稿できていなくて申し訳ないですが、お待ちいただけると幸いです。


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