We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life. (Towelie)
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An unfulfilled promise

「はぁっ、はぁっ、はあっ」

 狂おしく反響する虫の声が、警鐘を鳴らすかのように森を山を震わせていた。
 けたたましい声をバックに人っ子ひとりいない夜の峠道を進む影があった。

 華奢な体系に不釣り合いな大きなザックを背負い、息を荒くしながら坂道をのそのそと上がっている。
 その格好は登山者のようであったが、よろよろとした動作は生まれたての小鹿のように弱々しいものだった。

「はあ……、はあ……」

 息を吐く回数が多くなっていた。
 肺が、胸が苦しい。

 なんで、わたしこんなことしてるんだろう。
 舗装道を歩くのがこんなにしんどいとは思わなかった。


 外灯のない夜道を案山子のようにふらふらと体を揺らしていた。
 靴の感触がわからなくなるほど疲弊してる、もう足が限界だった。

「もう、だめ……」

 肺の奥から絞り出したようなうめき声をあげると、その場にがくりとへたり込んだ。
 長い髪が地面に落ちても気にせず、口を開け閉めしながら、酸素を貪り続けていた。

 片側の車道を塞ぐように座り込んでいるのでかなり危ない行為だが、夜の田舎道では通る車は皆無だった。

 昼の間に熱されたアスファルトが、夜風に冷まされてひんやりと心地いい。
 このまま動きたくないほどだった。

 少しは()()な体力になったと思ったのだが、それは自分の中だけで、実際はそれほどではなかったようだ。


(やっぱり……自転車使えば良かったかな)


 疲れ切った頭で考えたのはそんなことだった。

 それだけ目指す場所までは距離があったのだから仕方なかった。
 ()()()()来るのは想定外だったことだし。

 それだけ無謀な道行だった。

 独りぼっちの山歩き。
 ゴールはまだ遠く、暗い道は彼方まで続いている気がしていた。


 汗で濡れた髪を気だるそうにかきあげると、少女は力を振り絞って白い金属製の柵にぐったりと身を預けた。
 
 せわしない虫の声と少女の荒い息遣い、そして遠くの方から聞こえる微かな川のせせらぎが渦のように巻き込んで耳の奥に流れてくる。

 そして一際騒がしい蝉の声がまだ夏であること主張するように激しく鳴いていた。


 少女は下ろしたザックからペットボトルを面倒くさそうに取り出すと、両手で持って、少しづつ吸う様に胃の中に流し込んでいく。

 ──ごくごくと飲むのは返って負担がかかってしまうから。
 そんなどーでもいい事だけをなぜか覚えていた。
 
 ……ほかに思い出すことがあるはずなのに。
 

「……ふうっ」

 ため息と共に空気を吐きだす。
 
 水分を補給したので幾分落ち着いたが、そのかわり汗が噴き出してきた。

 生温い微風は汗を蒸発させてはくれない。
 髪も服もじとっとした不快感で湿っていた。

 代えの下着を持って来るべきだった。

「昼間よりは楽だと思ったんだけど……上手くいかないね」

 空のペットボトルで足をマッサージしながら、スマホの画面を睨む。
 これでも行程表(スケジュール)は作っておいたのだ。

 ただ……ちょっとした衝動に駆られて延長したのだけれど。
 
 その無謀さが甘さを招いていた。


 もっと早くに行動するべきだったと思う。
 それは”時間”じゃなくて”日時”。

 でも分かったふりを続けるよりはずっとマシな事だった。
 だってまだ”終わっていない”のだから。


 ”真実を見つける時はいつも過ぎ去った後”。


 誰かの言葉が頭に浮かぶ。
 人は失って初めて大事なもの気づく、そう言いたいのだろう。


 ──だったら、動くだけだ。
 

「……行かなくちゃ」

 考えを打ち消すように首を振ると、少女は勢いよく上体を起こした。
 奮い立たせるように足をたん、と軽く鳴らすと、少し勢いをつけてまた坂を登り始めた。

 徐々に傾斜がきつくなっていく。
 目的地に近づいてる反面、足への負担も大きくなる。
 

 月は黒い雲に覆われてその光を小さくさせている。
 薄く陰ったまま、黒い輪郭を白く染めていた。


 月明かりさえ届かない暗闇の道、ペンライトの明かりだけを頼りに一歩一歩確認するように歩いていく。

 光が照らす先はくねくねとした山道。
 それが闇の奥まで延々と続いていた。

 暗闇に吸い込まれそうな錯覚を覚えて、思わずぞっとなった。

 少女は呆れたように大きなため息を零す。
 そのまま横を向くと、何かを辿るように遠くを見つめていた。

 それはまだ何も知らなかった頃の記憶。
 少し前のちょっとだけ希望を持っていた頃。

 ほんの少し前なのにとても懐かしく感じる。
 勝手な期待に胸を膨らませていた。


 でもそれは、ただの強がり。

 陽炎のように揺らめいて消えた儚い想い。


 すべては夢。

 そうだったら良かったのに。





 

 六月の後半。

 

 長かった梅雨が夏の情景に変わろうとしていた。

 

 初夏の日差しが朝の空気と混ざり合って、山陰の町に本格的な夏の到来を告げていた。

 

 清々しさとは少し遠い、じめっとした暑さは朝から憂鬱になってしまうほどねっとりと纏わりついていた。

 

 駅へ続く坂道をひたすらに下っている少女がいた。

 

 ──”三間坂蛍(みまさかほたる)”。

 

 坂の上の大きな屋敷に住む一人娘。

 家族は居ないのか、お手伝いさんが来る時以外は、蛍が一人でこの屋敷で暮らしていた。

 

 大人しそうにみえる少女は、二つに結わいた長い髪をはためかせながら、今朝も慌ただしく家を出て行った。

 

 この電車を逃したら遅刻は確実、それでも二度寝は止められない。

 友達にもよくからかわれるけど、眠気に勝るものはないと蛍は考えていた。

 

(人間の三大欲求のひとつだし)

 

 欲望を言い訳にしながら蛍は坂道を転がるように下りていく。

 

 下りなので足を赴くまま動かせばいいのだけれど、それに甘えて躓いて転倒しそうになったことが何度もあった。

 

 蛍は少し注意深く足を動かしながら、起き抜けに見た夢に頭を巡らせていた。

 

 

 それは夢だとわかっているのに自意識が残っている。

 夢の話。

 

(なんだっけ? レム睡眠だったかな?)

 

 ともかくそんな時にみた夢だった。

 

 そこは蛍が良く知っている場所、なのに町も人も何もかもが歪んでいて。

 

 悪夢という概念が具現化したようで、そこでは黒衣のカーテンが永遠と広がっていた。

 光を失った世界、白い怪物の群れ、そして赤錆の匂いを漂わせる黒く大きな獣。

 

 変わり果てた世界には混沌と恐怖が渦巻いていた。

 

 だが時には青と白の二色しかない、静謐な世界もあった。

 

 そこには長い髪の女性がひとりいるだけ。

 ただそれだけの場所、でも嫌いではなかった。

 

(ホラー映画というよりも、()()()のような世界だったなあ……)

 

 夢の続きを手繰り寄せるように蛍は頭をひねる。

 

 蛍はいつの間にか走ることをやめて徒歩での移動になっていた。

 それは夢想のせいだけでなく、空も関係していた。

 

 朝早の光線が蛍の白い肌に焼くような痛みと熱を早速与えてくる。

 

 朝から容赦のない日差しから身を守る為、蛍は道の端に小さくせり出した陰に身を隠しながら、怯えたように歩いていた。

 

 これで少しはマシになるが、目に見えない紫外線が黒いアスファルトに燦々と降り注いでいるのが揺らぎでわかる。

 

 梅雨明けの晴天は早朝から積極的だった。

 

 蛍のなだらかな額に汗が吹きこぼれそうになり、思わずハンカチで拭った。

 

(はぁ、はぁ、なんか辛い……このままだと電車に乗り遅れちゃうよ。でも、怠くて……次の電車にしようかなぁ?)

 

 弱気な考えが脳裏に浮かぶ。

 

 しかしこの時間の電車に乗り遅れることは、蛍の通学時間では”遅刻”を意味している。

 それだけ切羽詰まった状況だった。

 

 それに蛍の懸念は遅刻だけではない、いつもの”朝の楽しみ”を奪われることにも向けられていた。

 むしろこちらの方が優先順位が高いといってもいい。

 朝の元気をもらう大切な時間、それはとても”たいせつ”なことだから。

 

(そうだったね。暑くても、日焼けしても、間に合わせないと……!)

 

 蛍は自問自答すると、”大切な楽しみ”の為だけに駅への道のりを再び走ることにする。

 

 容赦なく照り付ける日差しを物ともせず、腕を振って坂を駆け下りる。

 汗が飛び散って、口の中に塩味が入っても気にすることなく。

 ただ目的地へのと向かうだけ。

 

 息が苦しくて、胸も痛む、でもその先には極上の楽しみが待っている。

 

 幸せとはこういった必死さの中に生まれてくるものかもしれない。

 蛍はふとそう思った。

 

 制服を汗まみれにしながら、蛍は目的の駅にたどり着くと、コンクリートの階段を飛び越えて、その勢いのまま改札口へと飛び込んでいった。

 

 そこは”小平口(こひらぐち)駅”は山小屋風の木造の駅舎で、駅入口の特徴的なアーチはこの路線にあるアーチ橋をモチーフとしていた。

 

 小さなロータリーを有し、それなりに商店もある。

 都会と言うにはどうやっても無理だが、田舎と決めつけるには、駅前はそこまで閑散としていなかった。

 

 山間に流れる河川と並行して走るローカル線、その終着駅で始発駅でもある小平口駅。

 通勤や通学、下流の町に行くときと、この町ではこの路線は重要な交通手段だった。

 

 だが近年はマイカーを利用するものが多くなり、利用客は年々減少傾向にある。

 そのため、観光として運用してみるのもどうかとの有識者会議が最近あったばかりだった。

 

 それでも”この駅だけ”はなぜか赤字になることはなく、通常と同じ売り上げを出していた。

 だからこれまでやってこれた。

 

 でも──それがいつまで続くかはわからない。

 ある日突然終わることだってあるのだから。

 

 

 まだ人気の少ない朝のホームに、四両編成の緑色の電車がいつもの時間、いつもの場所で大きな口を開けながらじっと待っていた。

 

 この駅から始発の上り列車。

 そしてこの電車で友達と待ち合わせていた。

 

 列車が待っていることに安堵したのか、蛍は再び眠気と妄想にたゆたいながら、朝の散歩を楽しむようにゆっくりと自動改札をくぐり抜ける。

 

 小気味よいチャイムがなって、ゲートが開く。

 その穏やかな振る舞いは深窓の令嬢のようにも見えた。

 

 

 丸みを帯びた緑の列車──もの言わぬ鉄の従者が寝ぼけ眼の令嬢を出迎える。

 

 赤い絨毯(レッドカーペット)が引いているかのように、蛍はしずしずと足を交差させながらプラットフォームに恭しく入場した。

 

 白い屋根の隙間から、小鳥が朝のさえずりを投げかける。

 

 蛍はそれに小さく微笑んで応えると、蹲ったまま待ちわびている緑の車体をまざまざと見つめた。

 

 蛍はこのレトロな車両を結構気に入っていた。

 何か愛らしい名前をつけたいほどに。

 

(でも大抵笑われちゃうんだよね。センスないのかなあ、わたし)

 

 蛍が自身の想像に拗ねた表情を浮かべていると、レトロな車両からこちらを訝しげに見ている男性とふと目が合った。

 きちんとした身なりの中年の男性、頭には電車の運転手を表わす帽子とホイッスルを口にくわえていた。

 

 その男は眉間にしわを寄せて、無言のまま左腕を指さしてこちらを睨むように見ている。

 

 なんだろう? 蛍が視線に考えを巡らせていると、ホームに備えてある丸い時計が目に入った。

 

 ──発車予定時刻はとっくに過ぎていた。

 

 

 あっ、と小さく叫ぶと、蛍は慌てて電車に飛び乗った。

 そのちょうどのタイミングでドアが閉まる。

 

 続いて気の抜けたようなホイッスルが鳴り響き、大きな振動と共に朝一番の列車が動き出した。

 眩い朝の光線が、緑の車体の輪郭を白く染めていく。

 

 がたがたと車体が大きく揺れて危なっかしい挙動を見せる。

 

 でもそれは古い列車のいつもの普通の動きだった。

 

 

 蛍はほっ、とため息をつくと、いつものようにいつもの席に腰を下ろした。

 

 前から三列目のいつもの座席、それが”わたし”の場所。

 その隣は”親友”の場所。

 

 そこは()()の指定席となっていた。

 

 朝の密かな楽しみに頬を緩ませる。

 

 弾む様な声で、毎朝”おはよう”と言ってくれるあの笑顔が好きだから。

 

 

 ガタゴトと列車は実にリズミカルな音を立てて進行していた。

 かなり古い車両なのにその挙動は一部の狂いもないように思える。

 

 人間に例えるならリタイヤ寸前というかすでにそうなっている状態。

 それを今風に改装して使用していた。

 

 それはさながら延命治療を施した老人のそれの様であり、ある意味残酷かもしれない。

 

 でも列車はそんな疑念を持つことなく走り続けていた。

 いつか来るであろうボロボロになって鉄の塊となるその日が来るまで。 

 

 ゆえに列車は生きているのだ。

 

 

 いつもとは少し早いペースで電車が進んでいる気がする。

 車窓からの景色が早回しでちょっとしたコースター気分になる。

 

 通常よりダイヤが遅れ気味になっているのかもしれない。

 

(わたしのせいじゃないよね? 気のせいだよね)

 

 蛍は当事者意識を隠すように、すまし顔で瞳を閉じた。

 

 それを非難するかのようにレトロな車体がぎしぎしと傾いた音を上げて大きく揺れる。

 錆びついた箇所が悲鳴を上げているかのように軋んだ音を立てて。

 

 

 もたれ込んだ乗客もその動きを合わせるように左右に揺れていた。

 瞼を閉じた少女の長い髪は振り子のように艶めかしい動きで揺れていた。

 

 

 ニュースで今日の気温が予報された影響か、電車の空調は始発からフル稼働していた。

 

 掃除機で吸ったような低い唸り声が車内に充満して、さながらどこかの工場のようでもある。

 

 乗客はそんなことに気にする様子もなく、車窓からの景色を忘れたように目の前のスマホに夢中になっていた。

 

 そんな普通の光景の中、蛍は少し小ぶりな書物を鞄から取り出した。

 

 細い指先で栞を手繰るとそのページをめくる。

 古いインクと紙の香りが少女を出迎えた。

 

 あれ? と小首を傾げる。

 

(前に読んだのってここからだったっけ?)

 

 頬に指を当てて考えてみるが、思い当たる記憶が浮かんでこなかった。

 

 確か、最近買った本のはず。

 買ったことは憶えているのに、読み進めた記憶がないのはちょっとした珍事だった。

 

 うむむ、と唸ってみる。

 やはり結論は出なかった。 

 

 まあ、読んで行けばその内思い出すだろう。

 それほど気にする要素ではない、読み返しは嫌いではなかったから。

 

 それに”彼女”が来れば、小説を読む必要がないのだから。

 二人だけの楽しい時間がやってくる。

 

 その時までしばし本に入り込むことに蛍は決めた。

 

(異世界みたいな夢の話したら何て言うだろう? やっぱり変な子って思われるかな)

 

 でも。

 

 それでも話してみたい。

 

 だって怖くて楽しい夢の話だったから。

 

 蛍は自然と口角が上がっていることを自覚した。

 親友の前では不思議と素直になれる、本当の自分になれる気がするから。

 

 だから早く会いたいな。

 早く()()()まで着かないかな。

 

 そんな蛍の気持ちを汲み取ったかのように、列車は速度をあげて山陰を進んで行く。

 もうすぐ彼女の最寄り駅のはずだ。

 

 高鳴る鼓動を包み込むように開いたページに目を落とす。

 

 だがそこに窓からの光が差し込んで白いページに反射して広がった。

 

 蛍は本を開いたまま、その光の方向に振り仰いだ。

 

 そこには。

 

 迫り出すように盛り上がった雲が幾重にも広がっていた。

 

 雲の隙間から光の柱が何本も、光の道が出来たようにこぼれ落ちる。

 その中のひとつがこの紙の物語の上に偶然にも落ちてきたのだ。

 

 蛍は目を眇める。

 そして小さな声で呟いた。

 

「天使のはしご……」

 

 雨上がりの空でもないのにこれを見ることが出来るのは稀であった。

 そしてそれを知っているものはここにはいない。

 

 みな俯いて黒い画面を見つめていたから。

 

(だったら、わたしがひとり占めしちゃおう)

 

 蛍は本を開いたまま、空からの贈り物にしばらく視線を移す。

 

 四角い枠に収まった荘厳な光景、それは蛍の心を美しくさせた。

 でも、その美しさの中に一抹の寂しさも覚える。

 

 理由は、よくわからない、でも。

 寂しいと思うのはきっと、この光景に気づいている人がいないから。

 この素敵な景色を共有してくれる人がいないから。

 

 蛍はそう解釈した。

 

 

 蛍は空を斜めに見上げながら、軽く微笑む。

 

 そして天使の贈り物をルーペ代わりにしながら、蛍は本の世界に引き込まれていった。

 

 

 ………

 ……

 …

 

 がたん。

 

 線路のつなぎ目が車体を上下に揺さぶった。

 

(んっ……)

 

 その振動は蛍の意識を回復させる。

 まだ微睡に囚われたままで周りを伺う様に見渡してみる。

 

 すでに電車内は乗客でいっぱいになっており、座る席がないのか立っているものもいた。

 

 ここまで乗客がいるということは多分終点が近いはず、蛍がまだはっきりしない意識のなかでそう考えていると。

 

『次は浜松……』

 

 車内アナウンスが蛍の耳朶にエコーのように木霊する。

 

(あれ? もう……?)

 

 そのことで蛍はいつの間にか寝入っていたことに気づいた。

 それでもまだ寝たりない、前日に夜更かししたわけでもないはずなのに。

 

 朝から全力疾走した影響かもしれない。

 体力不足は悩みの種であった。

 

 

 本はしっかりと手に握られていて、辛うじて落とすことはなかった。

 こういう読書の仕方をしているから読んだ記憶がなくなるのだろう。

 蛍は自分に深く納得がいった。

 

 

 濁ったアナウンスが流れると車内が急に慌ただしくなってきた。

 蛍は軽くあくびをして、緩慢な動きで降りる準備をする。

 

 まだ立ち上がる気はない、人の波に飲まれるのは好きではなかったから。

 

 騒がしい車内を呆然と見ていると、ある違和感が蛍に浮かびあがった。

 

(確かこういう時、一緒に待ってくれる人が隣にいた気がする……でも)

 

 あれ?

 

 蛍は反射的に右隣の座席に振り向いた。

 そこには、見知らぬサラリーマン風の男がスマホの画面に夢中になっていた。

 

 蛍はため息をつくと、視線を元に戻した。

 そしてまた違和感について考え込む……しかし何も浮かんではこない。

 

(まだ、寝ぼけてるのかな……)

 

 もやっとした感情を乗せたまま列車は整然と並べられた幾ばくかのホームの一つに滑り込むように入って行く。

 

 いくつかの路線が乗り入れて、ひしめき合っている巨大なターミナル。

 かなりの利用客がこの駅から西へ東へと行き来している。

 蛍の通う学校もこの駅にほど近い場所にあった。

 

 ホームに着くや否や、降りる順番を競い合う様に車内はごった返す。

 一分一秒を争う何かが彼らにはあるのだろう。

 

 絵空事のように蛍はその様子を呆然と見送っていた。

 

 そしていつの間にか車内には蛍ひとりが取り残されていた。

 まだ終点ではないが、この駅でほとんどの乗客は降りてしまう。

 所謂(いわゆる)、要衝の拠点駅であった。

 

 

 焦燥感に駆られたように慌てふためきながら座席から立ち上がると、両手で鞄を抱きながら恥ずかしそうにホームに飛び降りた。

 

 それを合図にきちんと整列した四角い体躯の乗客達は無人の車内にどっと乗り込んでいく。

 

 みんなそれを朝から晩まで繰り返している。

 同じことの繰り返しに飽きることなく、ただひたすらに、何の疑問も感じることなく忠実に。

 

 それが社会というものだった。

 

 

 少し気後れしながらも蛍は改札を抜ける。

 人の流れに押されるように、いつもの学校への方角に向かう。

 

 その道のりも蛍はひとりきりだった。

 所在投げに片手をひらひらさせながら、朝の疑問に首をひねる。

 

 その内、同じデザインの制服が徐々に増えていって街路を花のように埋めていく。

 

 通りの向こうには駅前の繁華街にはおよそ似使わない、荘厳な門扉とさも異世界のような大げさな校舎が、さながら中世の城のようにそびえ立っていた。

 

 それこそ異世界の住人のように下賤とは違った様式で語らいながら少女たちは門をくぐる。

 外界の侵入を拒む、乙女の園。

 蛍も一応そこの住人だった。

 

 学校に来ても違和感は拭いされない。

 それどころか数珠つなぎに増していくように感じられた。

 

 何かとても大事な忘れ物をしたときのような、モヤっとした不安が蛍の脳裏によぎるが、それが一体何なのかがわからない。

 

 蛍は内心首を傾げながら、門をくぐり校舎へ向かう。

 途中の無駄に贅沢な庭に優雅に咲く、無数のアガパンサスを見た時、唐突に思いついた。

 

 忘れ物のことを友達に聞いてみればいい。

 一人でわからない答えは他の人に聞くのが一番。

 

 誰かにそう教えられた。

 それが誰かは思い出せないが。

 

 クラスで仲のいい友達に聞いてみよう。

 そんなに多くはないけれど蛍にはその方が良かった。

 

 前に”友達”のせいでトラブルに見舞われたこともある。

 一人のほうが気楽でいい、そう考えたことさえあった。

 

 でも、今は違う。

 かけがえのない”親友”がいる。

 その人のおかげでわたしは前よりも柔軟になった気がする。

 

 考え方も表情も、自分では気づかないけど”良くなった”みたいだった。

 

 

 ”蛍ちゃんは肝心なところが抜けてるんだから”。

 

 少し呆れたような顔で微笑む親友、きっとそんな感じなことを言われちゃうんだろうな。

 

 そんな台詞を想像するだけで蛍は恥ずかしさで身悶えしそうになる。

 

 でもそんなに悪い気はしない。

 その人にちゃんと話を聞いてくれるだけで嬉しい。

 話題を共有することが嬉しいのだから。

 

 

 蛍は穏やかな表情のまま昇降口に辿り着くと、整然と並んだ郵便受けのような靴箱から自分の内履きを取り出した。

 

 その時、びゅんと、一陣の風が長い髪を撫で上げた。

 風は長い下駄箱から出口に抜けて、空と混じり合ってそのまま通り過ぎて行った。

 

 蛍は呆気に取られて、一瞬呆然としてしまう。

 はっと気が付くと、何事かと思い自身の靴箱をまざまざと覗き込む。

 

 そこにはいつもの内履き以外には何も入っていない、いまどき手紙なんてのももっての外だ。

 

 気のせいかと思ったが、それでも何かが体の隙間をぬって通りすぎていった。

 忘れていたなにかに気づかせるように。

 

 風が抜けた方に首を向ける。

 ちょうどそこにいた知らない生徒と目が合って、思わずあっ、と声を出してしまう。

 気まずい空気が間に流れた。

 

 今日はやけに他人と目の合う日であった。

 

 蛍は見知らぬ生徒に愛想笑いを浮かべると、そそくさと靴を脱ぎ、茶色いローファーを手に取った。

 

 そして誤魔化すように外履きをワザとらしく気にかけてみる、すると本当に気づくことがあった。

 

 細かい傷があちらこちらについていた。

 いつも通学に使っているとはいえ、ここまで傷だらけだっただろうか?

 

 まるで一つの山を登り切ったようにボロボロとなっていた。

 つるっとしていたソールも大分すり減っていたことから、本当に山に登ったのではと錯覚を受けそうになる。

 

 でも……道具なんて使い続ければいつかはガタがくるものだ、その時、直すか新しく買い替えればいいだけのことだ。

 今までそうしてきたのだから。

 

 ふうっ、と大きなため息をこぼすと、蛍は回りくどい動作で内履きと外履きを交換する。

 

 パタン、という乾いた音がやけに大きく耳に響いた。

 

 

 キュッとなる内履きに履き替えると、ガラスのように磨きこまれた廊下の端を静かに歩く。

 そこでは誰もが淑女の真似をしていた。

 

 それでも、こんなに静かだったかな? もっとこう……誰かとおしゃべりしながら廊下を歩いていたそんなイメージがある。

 

 でも今は静かに歩いていた。

 それが普通なようで普通でない気がする。

 

 蛍は囁くような声で挨拶をしながら教室に入り込む、すると何人かの生徒に挨拶を返された。

 

(なんか、もっと教室の中が騒がしかったような気がするけど?)

 

 

 僅かな疑問に首をかしげつつ、自分の席に着くと、中の良い生徒たち数人に囲まれる。

 よく知っている顔が机の前で花のように咲いていた。

 

 みんな違って綺麗だよね、蛍はそう思っていた。

 

 でも、仲が良い子はこれで全てだっただろうか。

蛍はそれほど友達は多くないけれどちょっと寂しい気がした。

 

 口を結んで何やら考え込んでいる蛍に、集まった少女たちは少し戸惑いの表情をみせる。

 

「あ、ごめん」

 

 その視線を感じ取って、蛍は慌てたように表情を取り繕うと、とりあえず当たり障りのない話題から振ってみることにした。

 

「ええっと、なんか、変わったことってなかったっけ?」

 

 口から出たのはあいまいな言葉。

 蛍の口下手は相変わらずだった。

 

 目の前の彼女等は一瞬きょとんした様子を見せるが、これが蛍の個性であることをそれなりに理解しているので、適当にあれこれと問題提起する。

 

 少女たちの会話の大半はこの異常な暑さのこと、そして少し前に起きた大雨の事。

 もっぱら天気の事が多かった。

 

 むしろ重大な、たとえば人命がかかわる事件なんかよりはずっとましであった。

 

 蛍も学校までの大騒動を話しのネタにした。

 ……やっぱりというか当然、揶揄(からか)われてしまった。

 

 そんなこんなで結局何の他愛のない話になっていた。

 めいめいが好き勝手に話をしていた。

 話の内容などどうでもいいのだ、集まることに意味があるのだから。

 

 結局、蛍の疑問は解決しなかったが、彼女たちの会話は蛍の気を少し紛らわすことぐらいは出来た。

 

 でも誰かが言ったある言葉は蛍に強い衝撃を与えた。

 それこそが疑問の、忘れ物の正体かもしれなかったから。

 

「”宿題”やってきた?」

 

 どうしよう……何もやってないよ……。

 

 

 教室の喧噪を切り取るようにホームルームのチャイムが鳴った。

 

 

 いつも通りの授業が始まった。

 スケジュール通りの学生生活。

 

 楽しいかと問われれば、まあまあと答えるだろう。

 

 それでも前よりかはましになった。

 友人たちの存在が大きいのかもしれない。

 

 

 でも、と蛍は思う。

 

 やっぱり何かが足りない。

 圧倒的に決定的なものが欠けている、そんな気がしてならないのだ。

 

 だがそれを追及する暇も余裕もそんなにない。

 

 

 それは学期末のテストが近かったから。

 長期休みの前の大事なテスト、それが来週に迫っていた。

 

 その為、生徒の話題はもっぱら暑さとテストのことが中心となっていた。

 

 それが終われば待望の夏休みが待っている。

 その為か、みんな真剣に授業に取り組んでいた。

 

 それは蛍も例外ではなかった。

 理数系はかなり得意なのだが、それ以外は平均点どまりだった。

 教科によっては平均点に届かないものさえあったのだ。

 

 そのため蛍にとっての問題は不明瞭な違和感の解明ではなく。

 

(なんとしても補習だけはしたくない……!)

 

 蛍は春のテストのことを思い返していた。

 友達に散々いじられた苦い経験が頭をよぎる。

 

 そちらの対策の方が今は重要だった。

 

 だから真面目に勉学に取り組もう。

 まだ学生なんだから。 

 

(でも宿題忘れちゃった……放課後補習かも……)

 

 結局良くわからないまま、本日の終了を告げるチャイムが鳴った。

 

 昼に何を食べたのかも、なんの知識を学んだのかもイマイチ良く分かっていない。

 補習だけは嫌、それなのに。

 

 宿題の分の補習をもう受けてしまった……。

 

(胸のモヤモヤも残ったままなのに)

 

 蛍は訳も分からぬまま、帰宅の準備をする。

 友達もみんなさっさと帰ってしまった、テスト勉強があるからだろうか。

 

 少し薄情なのではないか? 蛍はむぅ~と頬を膨らませた。

 だが、クラスで宿題を忘れたのは蛍だけだったので仕方なかった。

 

 

 午後の強い日差し、それが斜めに差し込んで格子模様を描き出す。

 トラックから聞こえる規則的な掛け声と(ひぐらし)の鳴き声。

 

 夕暮れ前の夏の放課後。

 それが四角く切り取られていた。

 

 蛍は確かめるように教室を見回したが、特になにもない。

 静まり返った教室があるだけ。

 

 

 のそのそとした動きで鞄を手にすると蛍は静かに教室を後にする。

 廊下へ抜ける際、蛍は不意に後ろを振り返ってみた。

 

 教室には誰もいない、何の”忘れ物”も落ちていなかった。

 

 

 結局、行きも帰りもひとりきりだった。

 

 でも特に寂しいとか思わない。

 むしろ補習が無ければみんなと一緒に帰ったのだろうか?

 そちらの方が何故か実感が湧かない気がしていた。

 

 青と橙の混ざったそらに薄く縁どられた雲が伸びている。

 何度見上げても空はただ青いだけ。

 

 斑色の雲が紐のように伸びていた。

 

 

 藍色の空を見上げながらひとり歩いていると、複数の影が視界の隅に入った。

 同じ制服の一団が駆けながら何かを喋っていた。

 

「あっ」

 

 その一団のある言葉に蛍は思わず反応した。

 それは駅前にあるクレープ店のこと、放課後に食べに行こうという約束のこと。 

 

 ”約束”。

 

 そういえば彼女が思い付きで決めた他愛のない約束があったこと、それを今、急に思い出した。

 

(そういえばわたしも約束したんだったよね。確か……金曜の放課後だったっけ?)

 

 偶然とはいえ”約束”の事を思い出すことは出来たが、肝心なことが蛍はわかっていなかった。

 

(あれ、今日って何曜日?)

 

 肩に下げたポシェットから、蛍は今日初めてのスマホを手に取る。

 時刻と共に今日の曜日が映し出される。

 

 ()()()

 放課後を過ぎた時刻に、今日を知った。

 

 蛍はそれで納得したようにパンと両手を叩く。

 

(そっか、”忘れ物”って、この事だったんだ)

 

 蛍は朝からの胸のつかえがようやくとれた気がした。

 モヤっとした頭も急にクリアになった気がする。

 

 でも、なぜ忘れていたのかはわからない、大事な親友との大切な約束のはずなのに。

 

 でも偶然思い出せたのはやはりラッキーだった。

 ヒントをくれた名も知らぬ生徒たちにお礼を言っても良いぐらいに。

 

 

 木漏れ日というには強い光が差す並木道を、蛍はその気持ちのまま楽しんで帰る。

 

 

 親友との約束。

 

 蛍は夕暮れの電車の中でそのことばかりを考えていた。

 

 

 ……………

 …………

 ………

 

 

 待ちに待った”金曜日”がやってきた。

 と言っても次の日なのだが。

 

 その日の午前中、蛍は早速クレープ店の前にいた。

 

 来週からテスト期間に入るので、午前中で学校は終わっていた。

 蛍はわき目も降らず駅前のクレープ屋に来ていたのだった。

 テスト勉強のことは頭の片隅にも入っていなかった。

 

 

 親友との約束。

 この日が来るのを指折り数えていたのだから。

 たった一日だけど……それでも待ち遠しいものだ。

 

 だから早く来てもいいよね。

 

(一緒に行ってもいいんだけど……なんか恥ずかしい気がする)

 

 浮ついた気持ちを抑えるように、蛍はクレープ店の外観をつぶさに眺めた。

 

 ”Pastel”と書かれたポップな看板が目を引く、こじんまりとした店舗。

 大通りの裏に面していて、周りのビルの影に埋もれてぱっと見分かり辛い場所にあった。

 

 それでもそこそこ人気があるのは、近隣の学校へ通う生徒達のおかげで、ちょっとした隠れスポットだった。

 

 店の前には小さなテーブルと椅子が車道をぎりぎり跨がない程度に用意してあった。

 所謂、オープンカフェなのだがあまりにも簡素すぎる、それでもランチタイムにはこの席の予約があるほどで、それなりな人気だった。

 

 今はまだ早いからか誰も利用していない。

 蛍はそこには腰をかけず、メニューの掛かれた看板の傍に寄りかかるように立っていた。

 

(お昼には、まだ早い……か)

 

 蛍は右手で時間を確認する。

 確か待ち合わせ時刻は特に決めていなかった。

 

 でもそんなに時間も掛からないだろう、同じ学校の生徒なんだし。

 用事が合って遅くなっても昼時には来るはずだ。 

 

 

 蛍は忍ばせておいた小説に目を通しながら、楽しみに想いを馳せる。

 それだけで時間を限りなく楽しむことが出来た。

 

 でも、と蛍はふと思う、ちょっと浮かれすぎな気もする。

 友達と待ち合わせてスイーツを食べることがここまで待ち遠しいものなのか。

 

 まだそれほど空腹感はない、この為に朝食を抜いてきたわけでもないし。

 

 だったら?

 

 蛍は目を動かして周りをきょろきょろと確認する。

 同じような制服姿の女子が店の前で行列を作っていた、それに混じってちらほらと男女のカップルの姿も見える。

 

 その様子は楽しそうに見えた、蛍は微笑ましさで目を細める。

 

 でも、もしかすると自分もそっちの方に思われているのだろうか? まさかとは思うが。

 

 意識するつもりはなかったが何だか急に恥ずかしくなってきた。

 

(恋人を待ってるとかそういうのとは違う、よね? 彼氏とかいるわけないし……でも、このドキドキは何だろう?)

 

 蛍は急に居ても立っても居られなくなり、慌てたようにポシェットから小さな鏡を取り出すと、誤魔化すように髪形を気にしだした。

 

(前髪おかしくないかな? あ、枝毛もある……)

 

 鏡を睨みながら必死に身なりを気にする姿は、恋人を待つそれと酷似していて誤解を受けても仕方がないほどだった。

 

 そういえば、と蛍は思いだす。

 クレープ店の人に店の近くで待たせてもらう許可を受けにいったときも誤解を受けていた。

 蛍ぐらいの年頃になればカレシの一人ぐらいいることはごく普通のことだったから。

 

(気になる男の人なんていないのに……待ってるのは女の子の友達。ただそれだけ……)

 

 普通の友達なのにその事を思い浮かべる度、蛍は顔が熱を帯びたように火照っていた。

 これはきっと頭上から照り付ける日差しのせい、今日も午前から猛暑だからきっとそのせい。

 

 ほのかな胸の高鳴りを夏の暑さのせいにして、蛍は再び本と向かい合った。

 

 しかし、意識すればするほど余計に気になってしまって、物語に入り込むのに些か時間を要していた。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 日は徐々に傾きはじめていた。

 橙色に染まった雲がしだいに細くなって空と混ざり合う。

 

 

 意識的に時間を気にしてしまうので腕時計は鞄の奥にしまっておいた。

 

 

 蛍は白い椅子に腰かけて待ち人の到来を静かに待っていた。

 

 クレープ店の店員が気を利かせてくれて、蛍に座るよう促してくれていたのだ。

 

 待ち続けていることが不憫に思ったのか、それともただ単に迷惑していたのか。

 蛍は余計な詮索はせず、素直に好意を受け取った。

 

 お昼過ぎになると同年代の女子で賑わっていた小さな店も、人がまばらに来る程度となっていた。

 そのため席も空いていたのだが、夕暮れも相まって寂しさを感じさせる。

 

 

 昼時の喧噪が嘘のように静かな時間。

 銀と銅が入り混じった光線が町と少女を朱色に染めていた。

 

 

 持ってきた小説もすでに佳境に入っていた。

 

 ふと、視線を感じて蛍は顔をあげる。

 すると先ほどの親切な店員が気遣わしそうにこちらを見ているのが分かった。

 それで蛍は何を言わんとしているかを察した。

 

(そっか、もう閉店時間なんだ)

 

 借りていた椅子を両手持って、店員に深く一礼する。

 軒先を借りただけでなく、座席まで用意してくれたお礼をしなければならない、蛍はそう考えた。

 

(ずっと居たわけだし、冷やかしは流石に悪いよね……)

 

 さて、何を頼もうかとメニューを見ながら蛍が逡巡していると、バンダナを巻いた親切な店員は穏やかな調子で紙袋に入ったものを手渡してくる。

 

 なんのことかさっぱり理解できず、蛍は店員に尋ねた。

 

 それは売れ残った品という名目の暖かいクレープ。

 まさか店員さんに気を遣わせてしまうとは思わなかった。

 

 蛍は申し訳なくなって再度頭を下げる。

 

 ちゃんとお金を払うと言ったのだが、売れ残りに値段はつけられないと、やんわりと断られた。

 

 その代わり今度その友達と一緒に来て欲しい、その時は腕に寄りをかけて特製のクレープを作るから、代金はその時でいいと笑顔で返された。

 

 前から知っている店だし、店員さんだって見知ってはいる。

 けれどもこんなことは初めてだった。

 こんな事がなければこういった心持ちを受けることはなかっただろう。

 

 

 偶然には悪意も善意もない。

 誰かの言葉が胸を少しくすぐった。

 

 

 蛍は別れる際、親切な店員にこう言った。

 

「あの、今度来るときは新作クレープ友達の分も一緒に注文します! それもトッピングマシマシの超特大でお願いします!」

 

 と、甘党の蛍でもかなり無茶な約束をした。

 

 

 でも、それぐらい素敵な偶然と綺麗な気持ちに結びつきに感謝しておきかった。

 

 その人は待ってる、と約束してくれた。

 小さな信頼が生まれた瞬間だった。

 

 

 暖かい感情を胸の内に留めながら、蛍は夜の帳のおりた公園の隅のベンチに一人座り、きわめて遅いランチをとった。

 

 気を利かせてくれたのだろうか、様々なフルーツと色とりどりのソース、そしてアイスクリームまでもトッピングしてあった。

 

 店員の言葉通り残り物を詰め合わせたのが、混ざり合ったソースの色で判断できる。

 それでも甘い香りが食欲をそそった。

 

(でも、これって、新作クレープとそんなに大差ないよね……)

 

 色々なフレーバーのごった煮という意味では同じかもしれない、蛍はちょっと気の毒になった。

 けれども香しい香りがその後ろめたさを打ち消して幸せな気分に変えた。

 

 しかしあるものが蛍の小さな幸せに暗い影を落とす。

 普通の人なら気にすることはない、むしろ喜びそうなことなのだが、蛍にとっては天敵に近いものであった。

 店で焼くクレープなら多少なりとも入れるもの……。

 

(こんなところにまで気を利かせなくてもいいのに……)

 

 具材がたっぷりと詰まったそのクレープには、これでもかというほどの生クリームがたっぷりとトッピングしてあった。

 

 ()()()頼んでいるときは生クリーム抜きにしてもらっていたのだが。

 

 この場合”好意”だから仕方ない、それにこれは突然のサプライズだったから。

 そんな無理な注文できるわけがなかった、自分の好き嫌いの為だけに。

 

 

 蛍は精一杯の笑いを浮かべながらそれと対峙する。

 

 甘党なのに生クリームが苦手なのは致命的であるが、これは好みの問題なのでそうそう解決出来るものではない。

 それは当事者が一番よくわかっていることだから。

 

 

 蛍はぎゅっと目を瞑ってクレープ相手に精神統一を図る。

 他人が見ていたら何事かと思う儀式を臆面もなくやっていた。

 

 美味しそうなのは間違いない、それに朝からなにも食べていないのだから余計にそうみえる。

 

 蛍はごくりと喉を鳴らすと。

 

「……いただきます」

 

 苦手意識が食欲に一時的な敗北を認めたようで、蛍は手を合わせて、両手で持ったそれにがぶりと食らいついた。

 

 ──もちもちとした食感の生地、それにくるまれた色とりどりのフルーツと滑らかなソース。

 そして冷たいアイスクリーム、何もかもが口の中を楽しませる。

 食べる度に味が変わるのでつねに新鮮なフレーバーが舌を躍らせて、一口かむごとに口内が多幸感(ユーフォリア)に包まれた。

 

 でも、生クリーム……やっぱり()()()()()好きになれない。

 

 だが実際のところ、お腹が空いていたからか普通に全部食べてきってしまった、これは蛍には”脱帽”ものであった。

 

 ペットボトルのお茶を全て飲み干してようやく、といったところであったが。

 

 

 お腹と心が幸福感で満たされた。

 ベンチに持たれながら、空をぼーっと眺めていた蛍はぼそっと呟く。

 

「今度頼むときは生クリーム抜きにしてもらわないと……」

 

 食べ終わった後に考えたのはそんなこと。

 蛍は少し胃の重さを気にしていた。

 

 …………

 ……

 

 白い月が密やかに顔を出していた。

 

 先ほどまでのクレープの甘い香りは湿った空気と混ざりあって夜風に消えていた。

 

 町全体を黒いヴェールが覆いつくす。

 夜に染まった繁華街は、昼間とは違って大人の色に変わっていた。

 

 

 夜であることを認知した蛍は急に悪寒を感じた。

 先ほどまでの小さく甘い幸福感はどこかへいってしまった。

 

 代わりに出てきたのは焦りと恐怖。

 蛍は明らかに夜に怯えていた。

 

 

 こんな時間まで街に居る事が怖いのではない。

 もっと別の、蛍だけの個別的な恐怖が徐々に頭を(もた)げていた。

 

 

 こつ、こつ。

 

 

 恐怖に拍車をかけるように、夜の闇に男性的な靴音が木霊する。

 靴音はこちら(公園) を目指しているようにも聞こえる。

 

 蛍は突然の焦燥感に駆られて立ち上がると、ベンチの横の木にその身をさっと隠した。

 

 なにかを察したわけではない、ただ靴音が聞こえるだけ。

 それなのに蛍は身を縮こませて震えていた。

 

 小刻みに震える体を無理やり木の陰に隠して、横目で公園の出口のほうを確認する。

 そこにはまだ何もいない、外灯に照らされた住宅街の路地があるだけ。

 

 

 こつ、こつ、こつ。

 

 

 無機質な靴音が徐々に大きくなってくる。

 間違いなくこちらに向かってきているのだろう。

 

 木の陰に隠れながら蛍は足音が近づいてくるのをじっと待った。

 強い口渇を感じて、唾を呑み込んだ。

 

(なんか……こういうの前にもあった気がする?)

 

 見えない恐怖と渦となって、あの時の悪夢を蛍に思い起こさせようとしていた。

 もう居もしない白い”何か”の姿を。

 

 顔のない白くぶよぶよとした皮膚を持った白い影。

 ひび割れたような黒い亀裂が所々に入っていて、意味不明な言葉を発していた人の姿をした化け物。

 そいつらが悪臭を漂わせながら群れをなして襲い掛かってくる、文字通りの”悪夢”だった。

 

 悪夢が蛍の心に引っかいたような消せない傷跡(トラウマ)を残していた。

 

 それが靴音となって、蛍の眼前に白い人影を隆起させていた。

 

 居もしない化け物に怯え、一歩二歩と後ずさりする蛍。

 我慢は限界を迎えようとしていた。

 

(なんで? なんでアイツ等がここにいるの!? もう嫌だ、もう帰りたい……!!)

 

 パニックになった蛍は叫び出しそうになるのを必死に堪えて、鞄を抱きかかえたまま公園を飛び出した。

 

 公園から突然出てきた蛍にスーツ姿の()()の男性は驚き、その場で尻餅をついていた。

 

 それに振り返ることなく蛍は夜の町をひた走る。

 焦りからくる無意識な衝動、足が勝手に動いていた。

 

 一晩中でもあそこで待っているつもりだった。

 なのに、今はそのことすら忘れたように、蛍は迷宮のように入り組んだ小道を、息を切らせながら走り続けた。

 

 四角い影となったビルの間を小走りに通り抜けて大通りに出る。

 

 週末のネオンで彩られた見慣れた大きな駅を確認すると、蛍はようやく安堵して足を止めた。

 

 荒くなった呼吸を落ちつかせるように、近くの信号に手をついて息を整える。

 信号待ちをしていた人が何事かと見てくるが、今の蛍には目にすら入っていなかった。

 

 地上から浮かび上がる人工的な光と、星空に彩られた白い光が混ざり合って、相反するような色調(グラデーション)を描いていた。

 

 

 一つ信号を遅らせた頃、蛍はようやく落ち着くことができた。

 

 月が闇夜にひとりぼっちで浮かんでいる。

 まるで全てを見透かすように。

 

 それはあのときだってそうだった、月だけは裏切らなかった。

 

 蛍は空を見上げながら縞模様の歩道を渡り、改札前の太い柱に身を預けて月光をその身に浴びた。

 

 安らかな光、暖かささえ感じさせる夜の光を全身で受ける。

 それは蛍に冷静な感情を呼び起こした。

 

(そういえば、なんで来なかったんだろう? 大事な約束のはずなのに)

 

 ──日時を間違えていたから? 

 ──それともただ単に忘れていただけ?

 

 様々な経緯が頭の中にあふれ出す。

 

 でも答えはわかっていた。

 考えたくない、理解したくない、そして認めたくない。

 

 それでも答えはひとつだけ。

 

 

(そうか、わたし()()分かっていたんだ……)

 

 蛍は夜風に言葉を濁らせる。

 

 忘れていたわけではない、むしろ全てを知っていた。

 それを心の奥底に大事にリボンで包んで仕舞いこんでいただけ。

 

 傷つきたくなかったから、辛い思いをしたくなかったから。

 

 ああ、だから。

 

(だから友達は”久しぶり”とか”元気だった”とか形式ぶった挨拶をしてきたのか)

 

 何に対してなのかと首を傾げていたが、何てことはない”自分の事”だったんだ。

 蛍はようやく合点がいった。

 

 

()()()()わたし……学校へも行かず、ひとりだった……吉村さんにもずいぶん迷惑かけたんだっけ……)

 

 蛍は少し前の自分の姿を思い出していた。

 

 虚無の鎖にくるまれた、全てを失い自暴に囚われた時のことを。

 様子を見に来たお手伝いの人がそんな自分にとても甲斐甲斐しかったことを。

 

(でも、行かなくちゃって思ったんだ。それは多分、約束。そのことを覚えていたんだね)

 

 蛍は目で月に問いかける。

 大きな瞳に丸い月が宝石のように写り込んでいた。

 

(なんて……ごめん、最初から全部覚えているんだ、あの時のあなたの顔も)

 

 蛍はぺろっと小さく舌を出した。

 悪戯っぽく、そして切ない微笑。

 

(そんな都合よく忘れることなんて出来ないよね。だから探している振りしてた。でも自分を偽るのって疲れるね。そう考えると道化師とか詐欺師の人って凄いよね。わたしは演技とかそういうの苦手だから……小学校の演劇のときだって……)

 

 蛍はもの言わぬ月に胸中を告白する。

 だが月は無垢な輝きを放っているだけ、話し相手さえなってもくれない。

 だれも蛍の話に耳を貸すものなどここにいなかった。

 

 信号が変わり、行き交う群衆が横をすり抜けても蛍はただひとりきり。

 ひとりで月と戯れていた。

 

 

 でもそれはそんなに悲しくない。

 だって理解してほしいと思わないから。

 悲しいのはもっと別の事。

 

 それは現実。

 夢が現実であったことが悲しい。

 

 ──()()()()()()()、全てが、夢であってほしかった。

 

 ただそれだけなのに。

 

 

 月を宿した瞳に熱いもの込み上げてきて頬を濡らす。

 

 胸の内側から外側に広がっていく悲しさ、寂しさ、そして後悔。

 様々な想いがないまぜになってあの時の切なさを呼び起こさせる。

 

 なんで、どうして。

 何度考えても答えはなかった。

 

 

(あれ? わたし、まだ泣けるんだ……)

 

 

 瞳を滲ませながら自分の意外な反応に感心をしめす。

 

 あんなにいっぱい泣いたのにまだ涙が出てくる。

 こころの一部が壊れてバラバラになったとてっきり思っていたのに。

 

(そっか、まだ気持ちの整理がついてないんだね……わたし。どこかに希望があると思ってるんだ。わたしも諦めが悪いよね。そんなところもあなたと一緒だ)

 

 蛍は自嘲するように小さく笑う。

 

 

 真円の月、それが少し輝きを増した気がする。

 気のせいかもしれないが、その小さな光が穏やかな笑顔と重なって見える。

 

(なんか、ちょっと燐に似てるね。だからかな月が優しく見えるのは)

 

 

 太陽の眩しさと月の儚さの両方をもっていた少女。

 

 素敵な笑顔ときらきらとした瞳でいつも真っ直ぐだった、かけがえのない友達。

 

 ”それが込谷燐(こみたにりん)”。

 わたしの憧れで大好きな唯一無二の”親友”の名前。

 

 

 わたしだけが彼女を概念として記憶している。

 ”燐”という名の少女が実存していたことを。

 

 

 吉村さんもクラスのみんなも誰も覚えていなかった。

 でも、わたしは憶えている、彼女の声も容姿も性格さえも全て。

 

 それはわたしの中の悲しさがまだ残っているから?

 それともわたしは期待しているの? 手から離れて行った彼女のことを。

 

 ……よくわからない。

 

 でも、それだけじゃないはずだ。

 もっと純粋で透明なものが二人の間にある、そうであってほしい。

 

 でも、それを確かめる術がない。

 

 

 だから──月に微笑んだ。

 

 親友が、燐が悲しくならないように頑張って笑うんだ。

 とても笑う気分じゃないけど、燐がそう望んだから、わたしに。

 

 それが燐のたった一つの願いごとだったから。

 

 

「燐。月が綺麗だね」

 

 

 聞こえるように話しかける。

 

 隣で同じ景色を見ている気がしたから。

 

 同じ思いで月を見上げている気がしたから。

 

 

 

 だからまだ、一緒に月を見ていた。

 

 

────

───

──

                            

                                 






お久しぶり&初めまして。Towelieと申すものです。

前作を終わらせてからかなり間が空いてしまいました……なんか燃え尽き症候群っぽいものになってしまったようです……。拙作でもなるもんですねー。

その間、ちょこちょこ書いていたんですけど、イマイチ継続性に欠けてしまったりで、なかなか投稿まで至りませんでした。

でも、このまま先延ばしにするのもなんなので、思い切って投稿してみました。
安定の拙作ですが、ほんの少しでも楽しんでもらえたら幸いです。


さてさて、今回はいわゆる”青い空のカミュ”のエンディング後の話になっています。あとがきでこんなことを書くのも何かおかしい気もするのですが……1話の時点ですとそこまでネタバレになってない、ような気がします……多分。

ですが、ネタバレ前提の話となっております故、もし青い空のカミュを未プレイの方がいましたのならば、先にゲーム本編をお楽しみになってからの方がいいかと思います。

でも未プレイでもなんとかなりそう? 私の場合は基本斜め上の展開になりますからねー。
それって所謂、原作クラッシャー? 一応タグつけておいたほうがいいのかな?

あ、もちろん二次創作の勝手なエンディング後の話なので、私の妄想100%で出来てます。
わざわざ書くことでもないと思うのですが、念のため補足しておきます。


プロットというかストーリーボードっぽいのはちょうど一年前ぐらい前には出来ていました。
むしろ一番最初に考えたのがこの話でした。かなり適当なプロットでしたけどねー。

でも、エンディング後の話だとちょっと無謀っていうか、大それたことな気がして、とりあえず保留にしておきました。
それで書いたのが、話が作りやすそうだった”学校であった怖い話”と”青い空のカミュ”のパロディ作品だったわけです。

それとは関係ないのですが、”学校であった怖いカミュ”最近リメイクしてみましたー。っていうかほぼ全文書き直してますよー! だってもの凄い拙作でしたし……。
まあそれは今も変わってないですけどねー。

新たリメイクとして投稿するわけではなく、直接書き直しています。

でも、まだ1話しか直してない……こちらも並行してやれない、かな? と思ってますけどマルチタスクは私の脳の構造的に無理っぽいので、気が向いたときにちょっとづつ直してみたいと思ってます。

それに偶然ですが、学校であった怖い話が発売されて今年で25周年みたいなんですよー!!
記念というわけでもないですが、なんとか年内までにリメイク終わらせたいなー。


そう言えば前回の話のあとがきで”千頭駅”が”小平口駅”の元ネタかなーってドヤ顔で書いてしまったわけですが。

すでに一年以上前に分かっていて、しかも聖地巡りをしてきた人がいるじゃないですかーーー!!!
何度恥をかけばいいのやら……ですが、貴重な資料ありがとうございます。大変参考になりました。

私自身まだ千頭駅及び周辺地域に行っていないので、こういった形で残していただけるのには本当に助かります。しかもわざわざ比較画像まで用意していただけるとはっ! なんてマメなお方だっ!

その方は駅舎を千頭駅と特定したようですがプラットフォームはまだ特定出来ていなかったようですね。
なので私の見解としましては……大井川鉄道の”金谷駅”のホームっぽいかなーと思ってます。画像検索すると似てる……気がする、かな? 
まあ、また間違ってる可能性がありますけどねーー安直すぎるかなぁ? 


あと、本編で燐と蛍が待ち合わせたコーヒーショップがシカゴのピザショップ? から来てるのかなと思ったのですが、Robertsonsという南アフリカ? の香辛料を扱うブランドも関係してるみたいです。
帆船のロゴマークとライトグリーンっぽいカラーはこのブランドのロゴをモチーフにしたっぽいですねー。
英語圏ではポピュラーなスパイスっぽい? 日本ではあまり馴染みがなさそうですね。ちなみに私は全く知らないブランドでした。コハダ先生は博識ですねー。


さてさて、今回の話はプロットの段階では6話で終了の予定です。
前の話のように話数が伸びることは……なさそうです、多分……多分です……。
仮に伸びても1話追加するぐらいです……もうあんなに長いのは嫌なのでーー。

肝心の投稿頻度ですが……相変わらず重度なのんびり思考なので1週間から10日前後かかると思って間違いないです。
もしかしたら前回みたいに2週間以上更新が開いてしまうこともあるかもしれません。
あまりに期限が空くようでしたら活動報告を使ってお知らせします。


それにしても、もう9月ですね。コロナ禍で色々混乱した年ですが、それでもすっかり秋にななっちゃいましたねー。
今年もあと、三か月ですよ───嘘みたいに早いですね──。

でも、まだちょっと暑い……このまま残暑が続くんでしょうか?
と思ったら急に寒くなってきたよぅ……この辺の時期は天気の移り変わりが早いかもですねー。
やはり体調管理に気を付けたいです……って毎回言ってる気がしますねぇ……。まぁ、健康は大事ということで。


さてさて、無駄に長くなりましたが、これもいつものことですねー。

拙文かつ、長文のお目汚し失礼しました。


それではでは。


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Sérotonine


 小平口駅から少し離れたところにある中学校脇の商工会議所で町長を招いての町の対策会議が開かれていた。

 主だった議題は”これまでのそしてこれからの小平口町について”。

 小平口町はさまざまな出来事が”偶然”いい方向に傾いて、都会から離れた山間の町を驚くべき勢いで進化、発展を進めてきた。

 これといった特産品(名物)もない小平口の住人は他所の土地から教えられたお茶の葉の栽培で細々と生活をしてきた。

 そんなある時、()()()()()がこの地に偶然やってきたことで全てが上手く回るようになった。

 戦後、復興のための林業はとてもうまく行った。
 その林業が衰えを見え始めると、今度はダムの建設により安定した収入を得るようになった。

 時代時代で町は収益を得、その財政で施設を増やし利便性をもって発展していった。

 だがそのせいで町は大きな代償を支払わなくてはならなかった。


 すべてがねじ曲がり、道理の通用しなくなった世界に変容してしまった。
 その結果この町にとってもっとも大事なものが失われてしまった。
 
 分かっているのはごく僅か、たった一人と言ってもいい。

 しかもそれを指摘してもこの町の誰もが首を傾げるだろう、()()()()()()()()()()覚えていないのだから。


 でも、覚えていても忘れていても同じ。
 目に見える形でそのことは分かってしまうのだから。


 幸運によってもたらされてきた加速度的な発展、それに”とうとう”というか”ついに”陰りが見え始めていたのだ。
 鉄道路線の赤字のしわ寄せがこの町まで及んできていたのだ。

 同じ路線が通っているのに小平口町だけ財政が潤ってるのはおかしいと他の町が気づくのは当然でもあった。
 むしろ今まで気づかなかったのがおかしいぐらい不自然だったはずなのに。

 そうなるとこの町の税制の在り様に不信感が生まれてくるようになる。

 賄賂か、はたまた脱税か、談合か、さまざま憶測が生み、しだいに町は孤立していった。

 これまでも何度かこういう目にあったが、なぜかうまい事話がついて、大事には至らなかったのだ。

 しかし今度は上手くいかなかった、町は鉄道路線の赤字の大半を押し付けられてしまっていた。
 そんな不当なことがあっていいはずないと、何度も交渉をしたのだが、なしのつぶてだった。

 肝心の鉄道会社にも直談判したのだが、なぜか首を横に振るばかりで話しにもならなかった。
 更に別の問題もあった。
 これは他所の自治体でも社会問題になっていることがこの町にも起きていた。

 いわゆる、空き家問題である。
 
 経済的理由や家人が高齢の為、他所の老人ホームに行ってしまった等、様々な理由で家を放置する社会問題である。

 放置された家は、雑草や異臭、老朽化による家屋の倒壊等の危険がある。

 他の市町村は大胆な対策を打ち出すことも出来るが、ここ小平口町は特有の理由でそれが出来なかった。

 小平口町は人口の安定化を理由に、他所からの移住者を制限してきた。
 変な習慣や思想を町に入れたくないとの理由だったが、その為移住希望者の審査がとても厳しく、何らかのコネがないと到底無理だった。
 それが町の空き家の増加を招いてしまっていた。

 人は制限出来ても家だけはどうにもならない。

 それまでは理由をつけて相続してきたのに、最近は町と人との結びつきが薄くなっていた。
 

 小平口町は表面上平静を保っていて問題がないように見える。
 実際は巨額の負債を押し付けられ、住民からも見陰られつつある、陸の孤島。
 この町は名目通り山の谷間に挟まれて孤立してしまった。

 こうなるとそれこそ昔は口減らしや、家人の売買などの非人道的行為を行う場合もあったようだが、現代でそれをやればたちまち非難の的、というよりも法的責任に問われるだろう。

 そんなことになればこの町はたちまち死んでしまう事は明白だった。

 だからこそ町長や町の有力者、果ては祭りごとの上役まで呼んで、対策会議を開くことにしたのである。

 会議は難航した。
 これまで出した企画全てが皆が納得するものであり、それが狂いなく上手くいくものだったのに、今回は勝手が違っていた。
 いくら議題をあげても必ず何らかの文句や反対意見が出て、纏まらなかったのだ。
 一枚岩と思われた面々の結束が崩れてきていた。
 だが、その理由を知っているものはいなかった。

 ただ、これまでしがみ付いていた何かがなくなってしまった。
 そんな曖昧な理由を口にする()()はここにはいなかった。

 実りのない長い議論が終わると、皆火が消えたようにひっそりと解散していった。

「……」

 白髪混じりの薄くなった髪を撫で上げて、中肉中背の猫背の男が音もなく呟いた。
 丸くなった背中をさらに丸めながら、のそっとした足取りで歩いていく。

 日が傾きかけた時刻、意味の会議に無駄に時間を費やしてしまった。
 夕暮れ時の蜩の鳴き声がさらに哀愁を誘う。

 ここに長い事住んできたがいよいよ崩壊の時がきたようだ。
 窮地を脱するにはやはり隣町のとの合併をするしかないようだ、それもかなり不利な条件で。

 最悪、町の名前はなくなるかもしれない、明らかにこちらが格下だった。
 以前はこちらのほうが交渉のテーブルの上座にいたのに。

 この地にそこまでの思い入れはない、ただ親に先祖に言われるがままやってきただけ。
 いまさら責任を感じることもなかった。
  
 だが……何かが心に引っかかる、痛みのあるひっかき傷が疼いているようで。

「こんにちは」

 夕日に照らされた丸い背中に声が掛かる。

 声の方に恭しく振り向くと、そこにはスラっとした女性が立っていた。
 年は三十台前後だろうか、暑さを感じさせない清潔な身なりはどことなく芯の強さをうかがわせる。
 
 見覚えはなかった、だが向こうはこちらを知っているようだ。

 初対面らしい形式的な挨拶を交わす、渡された名刺をみると結構な役職のようだ。
 改めて名を名乗る、女性は屈託のない表情で返した。

 だが女性はこの仕事を近々辞めるらしく、まだその効力が残っているうちに話をつけておきたいとのことだった。

 朝からの会合で疲れていたので少し訝しく思った。
 割のいい話なら聞いてみたいが、この町の最近の雲行きはよろしくない。
 事業計画も何もかも全てが裏目に出ていた。

 そして長年の勘からこの女性の話は、所謂町の事業関連の話だろうと推測できる。
 彼女の役職もそういう関連だったから尚の事だ。

 だが……美人との話を断るほど野暮ではない。
 先ほどまで男やもめの世界にいたのだから尚の事だった。
 男は美しいものは得てして大好物なのだから。

 大川は純粋な精神で了承すると、女性を駅前の居酒屋の方へ促した。
 左手に光るもので少しガッカリしたがここは努めて紳士の如く振舞った。

 五月蠅い場で失礼に当たるかと思ったのだが、この手の雰囲気は嫌いでないとの返事をもらったので少し気を良くした。

 女性はめっぽう酒に強かった。
 だが大川の関心は酒豪の飲みっぷりではなく、何気ない話──むしろ本題の方だった。

 その提案(プレゼン)は、強力なつながり(コネクション)がないと恐らく実現できないだろう。
 目の前の女性は自分にはそれが出来ると言い切った。
 女性の語気の強さから酒の上の話ではないことが伺えた。
 役職に間違いない強引さと説得力がかの女性からはひしひしと感じられる。

 しかし分からないことがある。 

 何故この土地に縁もゆかりもない人物が何故ここまでするのか、それが分からなかった。

 ──だが、乗っかっても面白いかもしれない。

 どの道このままだとにっちもさっちもいかなくなる。
 この女性を前に出して日和見主義の連中にけしかけてみるのもいいかもしれない。

 大川はぐっと猪口をあおった。

 隣に座る女性の酒量と喋りは止まってくれず、結局店じまいまでこの調子だった。





 


 7月の最初はテストだった。

 

 休みの前の最後の行事。

 ここでの結果が休みをどう過ごすかに影響を及ぼす。

 

 いい点だったら現状維持、もしくは更に頑張る。

 悪かったらそれこそ休みを返上してでも頑張る。

 

 高校生活での夏休みなんてそんなものだ、休みの間にどれだけ頑張れるかが今後の進路を左右する。

 思うままに遊んでいればその分進路は狭まってしまうだろう。

 

 長いようで短い夏の長期休暇(サマーバケーション)、過ごし方は人それぞれ。

 

 だが無情にも時間は有限で、限りあるものだった。

 

 

「三間坂さん、結果どうだった?」

 

 今学期最後のホームルームが終わると早速クラスメイトが尋ねてくる。

 

「うん……まあまあ、かな?」

 

 蛍の”まあまあ”はほぼ言葉の通りの意味だった。

 

 得意科目は学年でも上位に入るほどの才能をみせる蛍だが、それ以外は”まあまあ”。

 つまりそれほど成長していなかった。

 

「それでも追試はなさそうだけどね」

 

 小さく舌を出す蛍。

 つられてクラスメイトも微笑んだ。

 

「良かった。じゃあ今度みんなで遊びに行かない? 映画見て、スイーツ食べてー、とか」

 

 髪の毛を後ろに縛ったブラウンヘアの少女が人差し指を立てて前のめりな提案をしてくる。

 その迫力に気圧されたように蛍は首を上下に振っていた。

 

 

 最近、友達に声を掛けてもらえるようになった。

 

 その中の何人かとテスト期間中は集まって勉強会を開いていた。

 いってもみんな家の方向がバラバラなので、学校の図書室で小一時間程度の集まりだったのだが。

 それでも蛍にとっては以外ともいえる有意義な時間だった。

 

 蛍はその友達とは前から面識があったし、休みの時間などに話すこともあったが、会話が弾んだ経験はない。

 別に壁を作っていたというわけではなく、単に話題が少なかっただけ。

 

(もう蛍ちゃん、そーゆーのを”コミュ障”って言うんだよっ)

 

 燐がよく言ってた気がする。

 そんなコミュ障も、今では複数の友達と会話が出来るし、一緒に出かける約束まですることが出来た。

 

 でも、燐のおかげだねきっと。

 

 

 ほんの少しのタイミングが何を変えるきっかけになったんだと思う。

 それが良いかどうかは別として。

 

 逆に燐によって繋がれていた友達の縁がいつの間にか切れていたケースもあった。

 出会いと別れを経験して、少しずつ大人になっていく、そういう公式なんだろう。

 

 それは難解な因数分解のようであり、直接的な証明ですべて割り切るには少々繁雑なことだった。

 

 運命なんて曖昧な言葉では伝えきれない、もっと単純でそれでいてデリケートなもの。

 誰だってそれを決めつけられたくないのだから。

 

 

 夏休みに入る前、蛍は別のことで奔走していた。

 

 燐へ繋がる手掛かり。

 それを諦めたくはなかった。

 

 込谷燐はとりわけ友達も多く、交友関係は蛍の考えているよりもずっと広かった。

 それは彼女の人徳のなせる業だろう。

 それは彼女の豊富にある魅力の一つでもあった。

 

 蛍は自分の知る限りの燐の友達から片っ端に話を聞くことにした。

 

 テスト期間で忙しくしてる生徒からわざわざ一人づつ尋ねていくのは大変に骨の折れる作業であったが、それでも蛍は一切面倒とは思わなかった。

 

 しかしこれといって有力な手掛かりはなく、どの女子生徒に聞いてもその姿どころか名前さえも覚えていなかった。

 

 彼女と親しかった教師も同様の反応で、どういう仕掛けか分からないが、生徒名簿にもその名を載せてはいなかった。

 

 それが単に”名”だけならまだしも実存的な肖像も残っていないのが悍ましく感じる。

 

 嫌がらせとか悪意とかそういった分かりやすいものではなく、もっと大きくて理解不能なもの、不条理的な力が彼女に働いている、そんな気がするのだ。

 

 全てがなしのつぶてかと思われたが、まだ微かな残り香もあった。

 その一つがある生徒に尋ねた時に起こっていた。

 

 ”星野優香”。

 彼女は文化祭の出し物で燐と共に漫才をした仲であった。

 二人はとにかくウマが合うらしく、二人の間には笑いが絶えなかった。

 

「りん? 燐ねぇ……う~ん、誰かと漫才っぽいのは憶えているんだけどなぁ……それが誰だったのかが謎なんだよねぇ……結構ウケたことは分かってるんだけど」

 

 それだけしか分からなかったが、それでも自分しか燐を覚えていないと思ってた蛍には少し安堵する出来事だった。

 

 

 それともう一人、燐の()()親友、”鏑木智子(かぶらぎともこ)”通称”トモ”も違った反応を見せた。

 

「なんかさぁ。すっごく上手いやつがいたはずなんだよねぇー!? その子にパスすれば確実に得点圏内っていう頼れるやつがさぁ! いや、いるはずないか……そんな子がいればこんなダメダメなチームになってないもんねっ!」

 

 ”トモ”は燐と同じホッケー部所属で最も仲の良いチームメイトであった。

 

 トモの軽快かつ大きな口調はチームメイトの耳にも届いたらしく、彼女は同じダメダメな子らに追い掛け回されていた。

 

 今のホッケー部はトモの言う通り芳しくなかった。

 燐がいなくなったためとは一概に言えないが、蛍も何度か応援に行ったけれどここまで大差で負けたことを見たことがなかった。

 

 燐のポジションには別の子がレギュラーとなっていたが、やはり実力不足なのか終始首をひねりながら試合をしているようにみえた。

 

 

 燐一人が欠けただけでここまで精彩を欠くものかと、蛍は別の観点から感心していた。

 もっとも蛍は燐しか見えてなかったわけだが。

 

 結果は、未だ追い掛け回されている彼女を見れば火を見るよりも明らかで。

 反省会は責任のなすりつけ合いで、とても醜いものであった。

 

 その点から燐は自分を理解していなかったように思える。

 燐をレギュラーに指名してくれたものの目は確かであった。

 彼女はこのまとまりのないチームで必要不可欠な存在だった。

 

 だが皮肉にもそれが分かるのは彼女が居なくなってから、そしてその失われたことが分かっているのは蛍ただ一人だけ。

 

 燐は以前蛍に語ったことがある、もしかすると部長になるかも、と。

 本人は乗り気ではなかったようだが、周囲は期待していたようだ。

 明るく前向きで頑張り屋、そして周囲に気配りもできる彼女のことを。

 

 

 前述の星野優香の件もそうであるが、彼女も燐になんらかの期待をかけていたようで。

 コンビ漫才的なものを将来に見据えていたらしい、もっともこれは優香本人が言っていただけで、燐は”恥ずかしい過去”のようであったが。

 

 二人の”友達”の証言から燐に関する記憶は何らかの強い結びつきがある者には僅かに残っているようだと蛍は考えた。

 

 優香もトモも燐に何らかの共感(シンパシー)を持っていた為にその他大勢の友達のように完全に忘れてはいないようである。

 

 でもそれは不完全な形のようで、吹けば消えてしまう程度のごくわずかなもの。

 それこそ明日、いや1分後には忘れてもおかしくないことだろう。

 

 トモに至っては燐がシュートを決める度、”流石私の嫁!”とか”結婚しよう!”、などと本気なのか何なのか良く分からない愛情表現を見せつけていたほどなのに。

 

 それを見つける度に、もやっとした感情と無意識に手に力が込められていた。

 燐の活躍はとても嬉しいが、その度に見せつけられるじゃれ合いに蛍は一抹の寂しさと羨ましさを同時に感じていた。

 

 だが、そんな彼女等の心の中に燐は居なかった。

 

 蛍に一つの優越感と罪悪感が生まれていた。

 あれだけの人気者であった燐を覚えているのは今や()()()()では蛍だけのようだったから。

 

(わたし、少し嬉しく感じてる? 意識してなかったけど、わたし、すごく悪い子なんだ……)

 

 蛍が望む限り燐とはいつも一緒にいることが出来る。

 それは燐と蛍が同一体であるともいえた。

 

 トモと一緒に勝利で抱き合っているのを見かけたときのドキッとしたあの感情や。

 優香と二人で文化祭のステージで披露していたときの、自分の力不足(トーク力)と燐の隣に並べなかった寂しさ。

 

 そういった嫉妬からくる負の感情、些細なことなのだけれどそれが少しづつ傷になっていく。

 他者との比較なんて一人のときは考えもしなかったのに。

 

 でも蛍は()()の嫉妬を知っていた。

 それは燐だけには知られたくない()()の負の想い。

 

 しかもまだ残っている、前述の二人とは違ってまだ残っている感情だった。

 

 

 ──でも、今はとりあえずまだ閉まっておく。

 

 

 まだその時ではないのだから。

 

 

 とりあえず”わたし”が出来る事と言えば──。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 

 

 

 

 7月も半ばまでくると、流石に暑さにも慣れが出てくる。

 

 まばゆい日差しと刺すような灼熱はすっかり日常化していた。

 

 連日の晴れマークは日本地図を覆い隠すほどに勢力を拡大していた。

 それは呆れというよりも単に面白みの欠片もなかった。

 

 雨だって忘れたように偶には降るが、それは所謂”焼け石に水の如く”でとくに期待感はなかった。

 

 人々は特に変化のないお日様のアイコンから逃れるため、一時的にせよ涼を求めて海や山へと駆けずり回っていた。

 

 蛍も世間一般のように夏を満喫していた。

 

 新しい友達のグループに蛍は加わって、毎日のようにみんなで遊んでいた。

 

 映画、カラオケ、水族館に動物園、ランチも当然一緒にとった。

 花火大会や、祭りにも参加した、時には県外に遊びにいくことさえもあった。

 

 

 蛍はとても充実した日々を送っていた。

 それは”自由”だった。

 

 これまで抑制されていた思いを断ち切るように何もかも忘れて楽しんでいた。

 

 それは世話をしにくる家政婦の目にも顕著なものであり。

 塞ぎこんでいたのが嘘のように明るくなったと、関心させるものだった。

 

 蛍ははためにはとても明るくなったし、精力的になったと世間的には思われた。

 

 

 事実間違ってはいなかった、だがそれは親友のやり方を真似ているだけ。

 

 彼女はどんなときも笑顔を絶やさず明るく振舞っていた、それこそ心が押しつぶされそうな悲しい出来事があっても、それを臆面に出さず笑う事ができた芯の通った少女だった。

 

 蛍はそれをとても尊敬していたが、同時に切なく思っていた。

 燐は決して頑固というわけではない、むしろ柔軟だった。

 

 少し、ほんの少しだけ怖がっていただけ。

 ”自分らしさ”を守るのにこだわっていただけだった。

 

 それを知っているのはごくわずかだろう、燐は本心を隠すのがとても上手だったから。

 でも分かる人には分かってしまう、そう例えば”彼”のように。

 

(でも、わたしだって分かっていたんだよ。燐が”本当”は何が欲しかったっていうこと)

 

 でも、言えなかった。

 燐が話してくれるまで待ってるつもりだった。

 

 だからわたしはまだ待ってるんだ。

 

 

 

 

 或る日の午後、買い物帰りで賑わう列車に蛍は一人でいた。

 赤いシートの端に座り、どこに視線を合わせるでもなく、物思いにふけっていた。

 

 少し大人びた白のひらひらしたチュニックに身を包み、豊かなボディーラインを隠すようにラージサイズのショッピングバッグを抱え込みながら、足をきっちりと閉じて呆然と車窓からの景色を眺めていた。

 

 その表情は少し暗く、憂鬱そうに見えた。

 

(まずは形からと思っていたけど……なんでこんなに買っちゃったんだろう……?)

 

 蛍は一つ息を吐いた。

 横幅の大きいショッピングバッグには小一時間程前に購入したアウトドアグッズがぎっしりと詰まっていた。

 

 蛍は中程度のバックパックと気に入ったデザインのトレッキングシューズ、そしてペンライトも購入していた。

 さらには過剰な量の行動食までもつい買ってしまっていた。

 

 無駄に溜まったポイントカードだけが手元に残った。

 

 正直言ってこんなに買うつもりはなかった、でもそれは自業自得からくる結果であった。

 

 

「う~ん、燐だったらどんなの選ぶかなぁ?」

 

 蛍は駅前のショッピングモール内にあるアウトドアショップを物色していた。

 ここは燐と一緒に来たこともある店で、燐の欲しかったトレッキングシューズを買いにあちこち走り回った場所の一つだった。

 ”その当時”の蛍には全く興味の対象にならなかった場所、そんなところで蛍はひとりブツブツと唸りながらタグのチェックをしていた。

 

 形もまちまちな色とりどりのバックパックの壁画は蛍を大いに悩ませた。

 

 無駄に種類だけはあるがどれが自分に合うのか分からず、とりあえず燐の気持ちになって考えてみるが余計に分からなくなるだけだった。

 

 選択は豊富であるがゆえに悩ましい、予算だけは無駄にあったのだから。

 

 仕方なく、ショップの若い店員に聞いてそれなりの大きさから選ぶことにしたのだが……。

 

 

 如何にも初心者に見える蛍に、店員は努めて事務的で丁寧な物腰でどこの山に登りに行くのかと訊ねてきた。

 それは商品を勧める目安にする為の簡単な質問だったのだが、初対面のましてや()()との会話だったので、蛍は思わず焦って口を滑らせてしまった。

 

「ふ、富士山に登りたいと思ってますっ!」

 

 似合わない拳を握り、唇を震わせながら明らかに無茶な事を言ってしまっていた。

 その時の若い店員のあー、的な蔑んだような口調が今も蛍の胸にささっていた。

 

(やっぱり初心者丸出しだったかなぁ……だからって真に受けなくてもいいのに……意地悪されたのかな?)

 

 はあ、と再びのため息をつきながら、蛍は袋の中身を再び確認する……深いため息が出た。

 

 

 車窓からは稜線の向こうに隠れるようにして、小さな富士山が深緑のシルエットのままで夕焼けに映えていた。

 三角の屋根帽子には薄っすらと白いものがまだ残っているようにみえた。

 

 

(燐は……本当にあそこ(富士山)に登ったんだよね……凄いなぁ)

 

 

 自分には出来ない事、違う景色、そして誰隔て分ける事ない人付き合い。

 燐はわたしにないものを全てもっていた。

 

 燐はそれを全て手放してしまった。

 彼女はそこまで追い詰められていたのだろう、でなければ他の選択があったはずだ。

 

 わたしが今更どうこうすることは出来ない、燐の真似事をしたところで何も変化をもたらさないだろう。

 

 それでも……何かしたい。

 

 部屋でじっとしてると無駄に余計な事ばかり考えてしまう。

 ”小人閑居(しょうじんかんきょ)して不善(ふぜん)をなす”とはまさに今のわたしのことをいうのだろう。

 悲観からくる行動は得てして碌なものがない。

 深い悲しみが求めるものは大体同じものだったから。

 

 だったらせめて燐が楽しんでいたもの、そして悩んでいたものを少しでも理解してあげたい。

 もっと早く、それこそ小平口町でのあの異変が起きる前からそうするべきだった。

 

 踏み込んじゃいけない領域、そんなものを勝手に決めつけてたんだと思う。

 燐はそんなこと気にする子じゃなかった、きっとわたしが勝手に遠慮してただけ。

 後、一歩、その一歩が足りなかったんだね。

 

 そういえば……蛍は鞄の中から一枚の紙を取り出す。

 

 それは”富士登山のススメ”のパンフレット。

 店員がわざわざ余計な気を利かせて”無理やり”渡してくれたものだった。

 

 ”一歩、一歩、確実に! そして安全に富士山に登ろう! ”そんな素敵な標語が書いてあった。

 

(だから富士山になんて登らないのに。ん、でも……”一歩づつ”っていうのはそんなに間違ってないのかもね)

 

 そう、一歩づつ、確実に日々を過ごす。

 それは確かに一緒だった、それにちゃんとゴールだってある。

 

 トレッキングに近いことをするつもりだったし。

 胸に秘めた確かな想い、それは一見すると結構な目標にも見えた。

 ただ一つ”下山”の予定がないだけ。

 

 

 それに、わたしはちょっと違う。

 目的が、その色が違うのだ。

 

 その色は輝いていない、でも濁ってもいない。

 あくまで純粋に、光を放つことなく、密やかで儚いもの。

 

 わたしはあの”青と白の世界”を求める。

 あの鮮やかな二色のコンストラクトを。

 

 その為には色々とやることがある。

 まずは検証、そして知識、あと体力もいるよね。

 

(なんか、本当に登山するみたいかも。でも富士山は無理だなあ……でもあそこまでだったら行けると思うんだ。まあ、トレッキングっていうよりハイキングっぽいけど)

 

 富士登山と比べたら全然大した距離じゃない、それでも達成感はありそうな気はする。

 

 でも、何だろう? 少し胸がどきどきしている。

 それは好奇心からくるものか、それとも恋心に似たものか。

 少し怖いけど……ちょっと楽しみ。

 

(なんか冒険に行くときみたい)

 

 胸の高鳴りを肌に感じながら、蛍は遠くを眺める。

 

 車窓からスローモーションのように逆方向へ流れる景色、しかし蛍の視界には映っていなかった。

 その視線は更に遠くを見ていた、この世界とは違うもう一つの世界へと。

 

 親友を失ったあの青い空でもなく、暗闇が歪んだ恐怖となって襲い掛かってきた夜でもない。

 この赤い空になぜかそれを強く意識していた。

 

 彼女の栗色の髪が茜色の空に溶け込んでいるように見えるから?

 彼女の瞳の色があの焦がしたような夕日と似ているから?

 

 ともかくこの夜の帳が下りる黄昏時に彼女を燐を強く意識するのだ。

 燐はずっとわたしと一緒にいる。

 二人で一つというわけじゃなく、それぞれが別個の存在として認識出来ているのだ。

 

 でも傍目には一人。

 

 思えば一人でいることにもすっかり慣れてしまっている、元から親しい友達なんていなかったからある意味前に戻ったとも言えるのだけれど。

 

 でも、それなりに構ってくれている友達は出来た、本来友達とはそういうものなのかもしれない。

 

 つい寂しそうにしてたから同情からくるものかもしれないけど、それでも一人でいるよりかは随分マシであっただろう。

 

(でも、わたしは重く捉えちゃう癖があるからなぁ……いつまで付き合ってもらえるやら)

 

 友達との距離、それが未だに分からない。

 

 そういう意味では燐にはとても良くしてもらったと思う。

 彼女は細やかな気遣いがとても上手だったから。

 今の友達にそれを求めるのは酷だろう。

 

 もっとも、そういった何気ない気遣いが燐に傷をつけてしまったかもしれないけど。

 

 

 

 窓の外では夕焼けと夜の境界線が出来ていた。

 

 暗闇に白い影を浮かばせて勝手に恐怖を感じたときもあったけど、今は何も感じない。

 夜の闇も月明かりもいつの間にか日常の一風景となっていた。

 

 燐が言ってた通り”慣れて、忘れて”いく。

 ココロが楽な方に流れて行っているのか。

 

 辛い出来事は思い出は時が来れば忘れていき、素敵な出来事だけが残っていく。

 そんなことを書いた本もあった。

 

 でも。

 

(わたしは辛いなんて思ってないよ、燐)

 

 昼と夜とが入れ替わる僅かな時間の夕暮れ時。

 この僅かな時間にこそ燐との幸せだったことを思い出す。

 

 幸福であるとかそういう事しら意識しなかった無垢で純粋なわたし達二人だけの時間のことを。

 

 

 時間も人も何もかもが平坦な一本の線のように見える。

 表面的には変化があるようで、実際はなにも変わっていない。

 

 いくら外見やつきあう友達が変わっても、わたしは燐を好きだったころのまま。

 二人で必死にもがいていたあの狭い世界のまま。

 

 どこまでこの普遍さを保てるかはまだわからない。

 

 でももしこの想いに揺らぎがあるとしたら……その時は。

 

 

(きっと完璧な世界が待っているんだ)

 

 

 蛍は胸元の荷物を気にしながら、いつも読む文庫本よりもサイズの大きい、カラー装飾の本を取り出した。

 ライトグリーンの印象的な表紙が目を引く少し豪華に見える書物。

 

 タイトルは幸福、またはそれに付随したホルモンから取られており、あたかも医学書か哲学書のようでもあった。

 

 なんでこの本が気になったのかはよくわからない、洋書コーナーの目立つ場所にあったので、何となく手に取って流し読みをしてみた。

 

 するとあるキーワードが目について、思わずのめり込んでしまった。

 

 結局購入してしまったわけだが、今にして思えば立ち読み程度で済ませてもよかったかもしれない。

 一応付け加えておくが、別につまらなかったというわけではなく、内容よりも描写というか蛍にしては少々というよりもかなり過激な内容だった。

 

(なんでこんなに……男女の絡みというか、”せっくす”の描写が多いんだろう……?)

 

 こういったものを年頃の女子学生が見るとどういう反応になるのかというと。

 顔を赤面して俯くという初々しいものではなく、むしろあからさまに顔をしかめている、”嫌悪”の色が強かった。

 

 それは無理もなかった、この本の”そういう描写”は少女の思い描くロマンスとは遥か遠くの場所の出来事に思える程生々しいものだったからだ。

 

 それはともかく、蛍の関心は主人公の男(名前はすっかり忘れていた、作中も”ぼく”としての表現が多かったから)が、ガールフレンドにも仕事にも嫌気が差して、全てを捨てて逃げる道を選んだこと。

 

 そう、その男は”蒸発者”となることを決めたのだ。

 

 蛍は過激な”せっくす”描写の項目には触れないで、そこの部分を繰り返し読んでいた。

 フランスでは毎年一万二千人の蒸発者がいること、フランスには移動の自由? なるものがあることなど(これは成人の場合のみのようだが)蛍は僅か数十行を何度も手でなぞっていた。

 

 

(燐は……蒸発者になりたかったの? 全てをリセットして人生をやり直すために?)

 

 

 それだったら良いんだ。

 わたしはもう燐に執着しない、彼女には彼女の人生がある。

 一緒の道を歩まなくてもそれぞれが幸せだったらそれで良いことなんだから。

 

 でも。

 でももしも”それが”わたしを思ってのことだったら……。

 

(ごめん、やっぱり燐の本心が知りたい。心にぽっかり空いた穴の正体が知りたいんだ)

 

 

 だからもう少しだけ。

 あなたの事を想ってもいいよね?

 

 

 

 今のわたしにも処方箋が必要なのかもしれない。

 キャプトリスク(抗うつ剤)よりも強い薬が。

 

 

 

 

─────

────

──

 

 

 






はい。先週、地元の図書館に行ってみたのです。
四連休前だったので利用者は少な目でした。それでもちゃんと体温計測してそれにパスしたら入場──と思ったら今度は入館証明書みたいなもの? も書くことに。
さらにもし図書館内でコロナ感染者が出たらある程度の情報をネット上で公開するとまで言われちゃいましたよ。(流石に名前などは公表しないようですが)まあこの辺りの対応は仕方ないですよねーまだ感染者出てきてますし。

そんなこんなで戦々恐々とした市営の図書館で色々借りてみたわけーです。

とりあえず、カミュの”異邦人”が読みたかったのですよー。
ですが文庫本サイズのは何故か置いていなかったので、仕方なく対訳版を……これは左半分のページがフランス語原文で右半分が日本語訳となっている、所謂教材書みたいです?
文字が大きくて読みやすく、結構すらすら読めますねーー。もちろん日本語訳のほうですがーー。フランス語むーりー。
そういえば英語が得意な方はフランス語の習得も短い時間で済むとの解説をどこかで見たことがありますね。
私、英語ダメダメだったからなあ……どうりでフランス語もダメなわけだーー。まあ、そういうレベルではないんですけどねー。

後は、今回お話でちょっと絡めてみましたウエルベックの”セロトニン”も借りてみました。
最初はそれこそ本屋で立ち読みしてたんですけど、何か続きが気になって図書館で借りたんですよー。
まあ大体作中の蛍ちゃんと一緒の感想ですねー。まあ私の主観が入り過ぎてるともいうのですけれど。
主人公の”フロラン=クロード”が現ガールフレンド(何故か日本人)に愛想をつかして人知れず逃亡──蒸発して各地を転々とするという内容です。
そこで昔の恋人に会いに行ったり友人に会いに行ったりと平坦なようで波乱なストーリーが展開してくるわけです。
そしてタイトルにもなってるセロトニン。この場合は投薬(抗うつ剤)の副作用と言うべきなんでしょうか、これによって彼の人生は音を立てて崩れていく……と言った話だった……気がします。
彼はセックスこそが愛の証と思っているらしく、セックス無しでは愛は語れないとも言い切るほどセックスに溺れていたようです。
まあ彼のガールフレンドの日本人女性はそれよりももっとハードコアだったわけですけど。

殺人をするかと思いきや未遂で終わるし、自殺をするかと思ったらこれも未遂だったりと割と平坦で日常的、そして最後は静かに死を望む。
私はなんとなく、あのタイトルを言うのも気を遣う”ゴドーを待ちながら”のような不条理感? を受けました。

それにこれを見ると抗うつ剤のような強い薬は死に近づくもしくは、死そのものではないかと解釈されそうですね。とくに主人公は薬によって性欲も抑えられてますから尚更でしょう。
むしろこの小説を読んで欲情してしまった人は薬で性欲を抑制したほうがいいというメッセージだったりして。


あ、アニメ版ゆるキャン△ の2期PV公開めでたいですねー!
それにしても来年1月放送がやたらと早く感じるぅ……小説書いてるときの一週間も早く感じる……早く書きたいけど毎回難しいなあ……集中力が足りないなぁーー。


それではではー。


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Accept Absurdity

 
 8月に入り、暑さはより明確さをもって夏であること実感させた。

 五月蠅く鳴く虫の声に蝉の声が顕著に混ざり合って、田舎の夏を鮮やかに彩る。

 白く()()()()()()が黒い地面にちらほら見かけるようになるころ、蛍は夏休みの間に見つけたウォーキングをルーティーンとして楽しんでいた。

 朝日を浴びながら時間を気にせず自分のペースで歩く。
 運動嫌いな蛍とは思えない程、健康的な夏休みの過ごし方だった。

 兼ねてから気にしていた体力のなさを克服するにも良いことで、メリットばかりだった。

 普通と少し違うのはウォーキング用の軽めのシューズを履いているわけでなく、むしろ真逆のごつごつとした重いトレッキングシューズを履いて歩いていること。

 あの日アウトドアショップで半分やけ気味になって買ったグリーンカラーのトレッキングシューズ。
 本当は燐と同じものが欲しかったのだが、あれは限定品だったらしく、この店では取り扱っていなかった。
 妥協してそこそこ気に入った(可愛い)デザインのものにしたのだが、これまでの蛍の人生で履いたことのないトレッキングシューズはなかなか足に馴染まず、(蛍の運動神経だと)履き慣らすのには結構な時間が必要と店員に断言されてしまった。

(間違ってはないんだけど。言い方ってあるよねぇ?)

 初めのころは本当に億劫で、蛍はそれこそ三日坊主かもと弱音を吐いていた。
 だが一日、二日と続けてみると意外と歩けることが分かって面白くなり、むしろ朝歩くようになったおかげで調子が良くなってきたみたいだった。

 ご飯も美味しく食べられるし、お通じも良くなった気がする。

 それに別の楽しみも出来た。
 それはあの”三日間”燐と共に逃げ回った道筋を辿る楽しみがあった。
 
 あの時は二人とも逃げるのに必死で思うがままに駆けずりまわっていたけれど、改めて道筋を辿ると意外な発見もあった。

 地図アプリに燐と一緒に行った場所に印をつけてみて良くわかった。
 小平口駅から山道、けもの道と、道伝いにずっと右回りで逃げていたことだった。

 そのせいかどうかはわからないけど、あの言い知れぬ違和感の正体はこれだったのかといまさら思う様になった。

 だからと言って何かどうかというわけでもないけれど。


 今日もいつものように吊り橋を渡って駅の方までの山道を歩くルートを選んだ。

 ライトブルーのシアー感のあるキャミソールワンピースに、足首までのスパッツというラフなスタイル。
 無骨なトレッキングシューズとは以外にも相性が良かった。


「蛍ちゃんは少し変わったセンスしてるよね」

 休みの間に、一緒に遊んでいた友達グループの子に言われたことを思い出す。

 どう少しなのかは自分では分からないが、それは単に話の取っ掛かりにしたかっただけなのだろう。
 クレープを片手に微笑みながらの言葉に悪意は感じられなかったから。

 蛍は雑誌やスマホを片手に自分なりの新しいセンスを試してみてはため息をついていた。

 結局自分らしいというかぎりぎり年相応の少女趣味の格好に落ち着いてしまった。
 でもそれこそが蛍だと言ってくれた人もいた。

(燐はお人形みたいで可愛いって言ってくれてたけど、あれってお世辞だったのかな?)

 蛍は歩きながら首をひねるが、まんざらでもない顔をしていた。


 蛍は通学の時の坂を下って大通りを抜けるルートより、多少遠回りの吊り橋ルートの方を朝の散歩道としていた。
 木々の香りと木漏れ日が降り注ぎ、小鳥のさえずりと虫の声が間近に聞こえるこちらの道を蛍は好んだ。

 こちらのルートの方がアウトドアシューズの具合を確かめるのに最適だったし、朝露のしっとりとした空気と草花や木々の息吹に囲まれながらの散歩はこの上なく気持ちよかったから。


 とん、とん、とん。
 吊り橋に掛けられた長く乾いた木の板を普通の道のように何気なく渡る。
 
 あの時の夜、燐と一緒に全力疾走して渡った吊り橋、背後から不気味な手が追いかけてくるかと思うと今でも少し怖くなる。

 でもあれは夜のせいもあったのかもしれない、今日のような天気のいい朝は開放的で気持ちが良い。
 橋の下を流れる水の音と吹き上げてくる風がとても心地よく、朝からとても良い気分になる。
 
 考えてみたら家のすぐ近くに吊り橋があることってすごく貴重で贅沢なことではないだろうか。
 今まであまり使わなかったことが勿体無いぐらいに今はこの吊り橋が気に入っていた。

 吊り橋を抜けて雑木林に囲まれた林道を下ると、細い流れの小川と並行する道に出る。
 駅へと続く道のりは天然のアスレチックロードのようであり、靴の慣らしにはちょうど良い。
 それに足首が固定されるトレッキングシューズはこういったちょっとした山道では適材適所だった。

 大地をしっかりと踏みしめる感触が気持ちいい。
 木々の間から降る木漏れ日が暑さを和らげてくれて森に守られてるカンジがする。

 軽く口ずさみながらテンポよく歩いていく、以前と比べると大分余裕が出てきたことがわかる。
 ぬかるんだ道も背の高い藪も何度も通っているせいか、以前ほど気にならなくなった。


 このままだと駅の裏側に出てしまうので、ちょっと遠回りする。
 小平口駅の白いプラットフォームが雑木林の隙間からコマ送りのように段々に見える。
 何もかもが嘘のように普通の光景だった。

 ぐるっと回ってロータリー側に出ると、工事車両や建築会社の車が片方の車線を塞いで行列しているかのように整然と停まっていた。

 ここ最近では珍しくない光景だった。
 ほんの少しの間に小平口町は開拓したてのように家や店舗を急激に増やしていった。

 特に駅前は開発が激しく、ロータリーを囲むように結構な商店街となっていた。
 それでもまだトラックや他県ナンバーの車が停まっている所をみると、かなり大規模な町おこし事業のようであった。

 駅前の特徴的な電話ボックス近くにある()()()にも”小平口町を永遠のふるさとに”といささか誇張するように書かれていた。

 ()()()()地域活性プロジェクトなのだろう。

 今の蛍はそれほど関心はなかった。

 しかし、標語の下に書かれているマスコットキャラ、これを初めて見た時は流石の蛍も驚愕せざるを得なかった。


 地域活性化の為に作り出された所謂(いわゆる)()()()()()、少しおどけた感じが愛らしい、”座敷わらしのコドモ様”。
 
 誰のアイデアかは知らないが、偶然にしては出来過ぎてる気がする。

 黒髪のおかっぱ頭に赤い着物を着た女の子、それはまさしく座敷わらし、つまりは”オオモト様”を彷彿とさせた。

(さすがに偶然だよね……? でも、名前はともかく格好もまんまなんだよね)

 そもそも座敷童なんて大体こんな格好をしているだろうけど、わざわざ手毬まで用意してあるし、何より名前が似すぎている。

 初めて知ったときは、他にもあの三日間の記憶が残っている人がいるかもと期待していた。

 だが、そんなことは無いだろうとも思っていた、冷静に考えるとあの時のことをまともに覚えているものなどいるはずがないのだ。


 蛍と燐、そして当事者である()を除いては。


 この町の住人である吉村さんも、あの大川さんでさえも何も覚えていなかったのだから。
 他に該当するものなどいないはずである。

 ──まさか本人(オオモト様)という訳ではないだろうし……。

 ちなみに座敷わらしのコドモ様は着ぐるみも製作中であり、ニュータウンとしての工事が終わった記念の式典でお披露目するようだった。

 そういう意味では”まともな”プロジェクトらしい。

 傍目には分かり辛いが、一部の人間はこれが小平口町の存亡をかけたものであることを知っていたので割と本気で取り組んでいたのだ。


 それにしても。

(燐がこれを見たら、きっと大笑いしちゃうね)

 燐の心底可笑しそうに笑うのを想像して蛍もくすくすと小さく笑った。

 妄想だけでもこんなに笑えるのだからこの場に燐がいればもっと楽しいはずなのに。

 最近の蛍は燐を身近に感じるようになったのか、時折隣を見る癖がついてしまっていた。

 日が経つにつれ少しづつ状況に慣れていくかと思ったけどそれはむしろ逆であった。
 日を追うごとに燐への想いが強くなっていく。


 その想いが胸中から込み上げてくると蛍は電気もつけず真っ暗な部屋で一人閉じこもっていた。
 どこを見るでもない、視線は宙を彷徨い虚空を眺めていたと思えば、ベッドや押し入れに目を向けると悲しくなって顔を伏せる。

 蛍の唯一の拠りどころが蛍をもっとも苦しめていた。
 自室には燐との思い出がとても多かったから。

 重要なことも他愛のないことも一緒に話し合ったベッドも、穴熊のように二人で身を寄せた天井裏も、全ては瞼の裏の出来事のように何の残影も残っていなかった。

 蛍は失ったものに対して夜泣きすることもあった、その度に蛍は自分の心を慰めるあまり、自ら引っ掻き傷をつけてしまっていた。
 
 燐のように何度も少しづつ。

 それは蛍の心と体に消えない傷跡を残してしまっていた。

 蛍は手首を後ろ手で隠すようにして家へ戻って行った。

 その後姿を見送る者はいなかった、みんな自分のことで忙しかったから。

 小平口町の住人は前を向いて新しい街の発展に取り組んでいた。
 蛍だけはただ一人後ろを向いて過去に縋っていた。

 蛍は変わりつつある町の様子を遠くから見る事しか出来なかった。
 彼らと蛍には決定的な溝があったから。

 変わった者と取り残された者。
 どちらが正しいとかという訳ではない。
 ただ進むべき方向が違うだけ。


 蛍は帰る道すがら空を見上げた。
 朝から早くも入道雲が広がり始めて、蛍の頭上に青い影を落とす。

 山肌を縫うように陽の光が登り始めると、緑の絨毯を金色に染めていた。
 道の両側に広がる茶畑では農家の人が朝早くからお茶の摘採に精を出していた。


 今日も朝から暑くなりそうだった。





 ちゃぷん。

 

 水気をはじく音が浴室に木霊する。

 

「ふぅ……」

 

 少しぬるめのお湯に浸かり、蛍は小さくため息をついた。

 ほんの少しだけ暑さも和らいでくると、設定温度を少し上げてみたくなる。

 

 夏の終わりが近づいてきていた。

 

「大丈夫かな……?」

 

 湯船に肩を沈めながら浴槽の縁を軽く撫でる。

 ヒノキのすべすべとした触り心地を楽しむ、その様子は少し名残惜しそうにも見えた。

 

 何度か決心を鈍らせてしまったが、もう今日をおいて他にはない。

 おあつらえ向けに満月であるこの日を逃すわけにはいなかった。

 

 だからこそ念入りに体も髪も洗っておいた、出来るだけ綺麗な体で会いたかったから。

 

(これが最後かも? ……出来れば燐と一緒にお風呂入りたかったな)

 

 あの時はプールで済ませてしまったけれど、一緒に湯船に浸かりたかった。

 燐はうちのお風呂すごく気に入ってくれていたから。

 

 普通の家庭よりも少し大きな浴槽、少女が二人入ってもまだ余裕があった。

 

 いつもなら長湯するところだが今日は控えめにして上がる。

 大きな姿見に蛍の裸体が映り込んだ。

 少女のあどけない顔立ちに大人の身体つきのアンバランスがとても美しい。

 

 だが、その表情は磨きこまれた鏡と違って、切なく曇ったままだった。

 

(プールの時、燐は褒めてくれたんだよね。わたしのこと……綺麗だって)

 

 蛍は胸の内で反芻する。

 暖かく柔らかい燐の言葉、今でもほんの数分前のように思い出すことが出来る。

 

 両手をぎゅっと握り合わせた。

 

 蛍は裸のまま、鏡の前の自分に問いかける。

 

「わたしに出来るかな? 大丈夫、その為に準備してきたんだし。それに、”出来るか”じゃなくて”やる気があるか?”だね」

 

 複雑な表情で微笑む()()()()

 鏡に映ったその美しい表情はその心を表わすように透明で澄み切っていた。

 

 あの夜の三日間。

 それは鏡に映ったもう一つの世界ではないのか、だからこそ今、普通の世界になっている。

 そう考えたこともあった。

 

 理屈があってるかどうかなんて関係なく、ただ事実がそうであっただけ。

 

 オオモト様が言っていたあちらの世界とこちらの世界。

 あれは二枚合わせの鏡のように並行したものだったのではないか。

 

 だったら燐はそれこそアリスのように向こうの世界に囚われたまま、そういう解釈も出来る。

 

 かんぺきなせかい……そこは向こうの事? それともまたさらに別の世界のこと?

 

(分からないからこそ確かめないとね)

 

 脱衣所で立ち尽くしても特に意味はない、ただまだ体が熱く火照っていた。

 髪を乾かして下着を付けるとその恰好のまま冷蔵庫からミネラルウォーターを取って、自室にあがる。

 ハウスキーパーの吉村さんは既に帰った後で、この家にはもう蛍一人しかいなかった。

 

 用意しておいた新品のベージュのベースレイヤーを着て、その上に学校の制服を着る。

 風呂上りなので何か熱くて不快感を覚えるが、多分なんとかなるだろう。

 

 蛍はもってきたペットボトルの蓋を外して少しだけ口に入れた。

 半分程のみ終わったところでキャップを閉める。

 残りはバッグに詰め込んだ。

 

 蛍はベッドの脇の荷物を一度チェックする、忘れ物はないだろうか。

 うん、大丈夫みたいだ。

 

 

 ──備えよ常に。

 

(あのゴドーとか言うDJがそんなこと言ってたね。ボーイスカウトがどうこうのって)

 

 自らをゴドーと名乗っていた狂った世界のラジオDJ、彼の正体は何だったのだろう?

 そして何故彼は”最後”にあんなことを言ったのだろうか?

 

 

 町は何の被害も受けていなかったのに。

 

 その真意を聞きたくて、蛍は家にあったラジオやスマホのラジオアプリも使ってチューニングを試みてみたが、もう二度とあのラジオに繋がることはなかった。

 

 彼は何を蛍と燐に伝えたかったのか、それはもう分からないことだった。

 

 

「心構えって言ってたよね。うん、それは大丈夫。やり残したことはないから」

 

 必要なものは全てバックに詰めこんである。

 もう心残りはない。

 

 

 ──そう、やるべきことは全てやったのだ。

 

 蛍はバックパックの重さを確かめながら、あの時のことを思い返していた。

 

 休みの間の日中、蛍は燐と一緒に小平口町を逃げ回った場所を一か所づつ丁寧に見て回っていた。

 

 駅周辺の道や吊り橋は当然として、二人で飲料を買った自販機にもいったし、こっそり忍び込んだ中学校にも普通に正面から入った。

 

 図書室は休みの間も一般に開放してあった、教室は流石に無理だったが。

 素敵な思い出のプールは……休みの間は学生が利用してるようだった。

 

 あのくたびれたようなバス停にも行ってみたが、何も変わったところはない、普通にバスも走っていた。

 山の上の白い風車や、県境へと続く峠は、歩いていくにはちょっと遠かったのでまだ止めておいた。

 

(県境にはバスを使えば行けそうだけどね)

 

 今までの最長記録は開けた林の中にあった工事現場のプレハブ小屋まで行けたことだ。

 あのプレハブ小屋はまだ残っていて、まだ使用もされているみたいだった。

 

 どうやらあの場所からもう一基の風車を山の上まで運ぶ作業があるらしく、木々は更に伐採されていて、風車への新たな道はかなりのところまで出来ているようだった。

 

 そのまま風車までは結構な距離がありそうなのでその時は行かなかった。

 その代わり廃墟と化した保養所には行ってみた。

 

 でも、そんなものは無くなっていた。

 いつの間にか解体されており、僅かな痕跡しか残っていなかった。

 

 全てがあの時のままという訳ではないようだった。

 

 それはあのとてつもなく長かったあの緑のトンネルも同じことだった。

 

 転車台へと続く廃線跡の緑のトンネル、そこへはどうやっても行くことが出来なかった。

 確かあの廃線跡の道は蛍の家の近くからも伸びていて、ちょっと森の奥に入れば行く事ができたはずなのに、いくら探しても肝心のその線路跡が見当たらなかった。

 

 森をくまなく散策しても廃線跡の道も緑のトンネルも転車台もなくなっていた。

 

 木々が全てを覆いつくしたかのように、二人が思いを通じ合った道はひっそりと閉ざされてしまっていた。

 

 

 大事な思い出が少しづつ無くなっていく。

 それは時間が進んでいることを意味していた。

 思い出のままで立ち止まってくれるものは少ない、むしろ変わっていくほうが多かった。

 

 

 黄昏時の帰りみち、蛍が物思いにふけながら一人歩いていた時にそれはおきた。

 

 ある思い出と再会することが出来たのだった。

 

 

 それは人じゃなくて獣。

 つまり白い犬──サトくんとの再会だった。

 

 その中型犬が偶然、背の高い草むらからぴょんと飛び出たときは、蛍はひどくビックリしてかなり間の抜けた声を上げてしまった。

 

「うそっ! サトくんなの!?」

 

 

 ピンと立った三角の耳とくるりと巻いたふさふさの尻尾の中型犬、そして首には青いバンダナを巻いていた。

 それは紛れもなくサトくんだった。

 

 再会を喜ぶように蛍はサトくんに駆け寄る。

 犬は恐れることなく、その場に立って蛍を迎え入れようとしていた。

 その様子に違和感があった。

 

 何か違う気がした。

 蛍は無意識にそう感じ取っていた。

 

 無邪気に後ろ足で頭を掻くその動作と、明らかに獣そのものの瞳の色、そして匂い。

 

 

 ()()()は人には到底無理な特性だった。

 

 

 だから蛍は分かってしまった。

 この犬は”サトくん”であって”サトくん”じゃないんだ、と。

 

 有り体に言うなら、サトくんは”もうここにはいない”ということだった。

 

 白い犬の器は白い犬のもとへと還ったのだ。

 

 そう捉えるのが自然で道理がいった。

 

(でも右目の傷も治ったみたいで良かった……すごく痛々しそうだったから)

 

 よく見ると怪我の後すらないようにも見える。

 血の跡もかさぶたもなかった。

 

 それは別の犬なのではないかと思ってしまうほど綺麗な体をしていた。

 

 それは触れてみたい衝動に駆られるほど、ふさふさと魅力的だった。

 

 蛍は白い犬の顔をまじまじと見つめる。

 黒曜石のように大きくつぶらな瞳はやはり獣のそれであった。

 

 蛍は犬の前で腰を屈めると、その頭に手を載せてそっと撫であげた。

 やわらかい毛並みに蛍は懐かしさを覚えていた。

 

 白い犬は嫌がる素振りもみせず、ただ尻尾を左右に揺らして撫でられ続けている。

 

 こうして犬の頭を撫でててみてもこの中には彼がいないことが分かる。

 本能というよりも感覚でそれが分かってしまった。

 

「ねぇ、”サトくん”。燐はどうしたんだろうね? どこに行ったのか分かるかな?」

 

 蛍は優しく話しかけながら犬の白い毛の深いところまで指を埋めてみる。

 柔らかい毛の感触とその下の皮膚の温かさが白い犬の小さな鼓動までも感じさせた。

 

 触られることが嬉しいのか、無邪気に尻尾をふる白い犬。

 だが、蛍の問いかけには独特の呼吸を出すだけで一声も返さなかった。

 

 蛍はその様子に寂しそうな瞳で微笑んだ。

 

(もうこの子は()()()()じゃないんだ。そして彼でもない。ただの白い犬……)

 

 犬は鼻をくんくんと鳴らすとそのまま蛍の周りをぐるりを一周した。

 それは偶然にもあのときと同じような動作だった。

 

 キミは無邪気でいいよね、そう蛍は嬉しそうに呟いた。

 

「やっぱり、()()()に行ってみないとダメだよね? 逃げてばかりもいられないし」

 

 蛍はもう一度犬の頭を撫でると、忘れていた何かを思い出したようにおもむろに立ち上がった。

 蛍の突然の行動に白い犬は戸惑ったように鼻を上に向けてじっと見つめていた。

 

「あ、ごめんね。今度会ったときは何かあげるから」

 

 犬の気持ちを察したように蛍はまた頭を撫でてあげた。

 

 動物的な犬の目を覗き込む、無垢な瞳というのは人間でなく動物に例えるものだと蛍は思った。

 だからこそ彼はサトくんになりたかったのかもしれない。

 人は純粋になどなれるはずもないのだから。

 

 燐は偶然この子にサトくんという名前を付けた。

 それは間違っていなかった、だからこそ燐はとても苦しんでいまったのだ。

 

 乙女の無邪気な想いは思いも寄らない形で実現していまったのだから。

 

 

 蛍が物思いにふけっていると、何かを思い出したように犬が一声、わん! と鳴いた。

 

 突然の吠え声に蛍は少しビックリしたが、安堵を含んだため息交じりの微笑みを白い犬に向けた。

 

 蛍からは何も貰えないことがわかったのか、犬はくるりと体の向きを変えると何事もなかったかのように気の向くままの方向に歩き出した。

 その方向に何かの当てがあるのだろうか。

 

 蛍は犬の突然の行動に呆気にとられたが本来、犬なんてこういう気まぐれなものなのだと思いだし、くすっと笑った。

 

 そしてその丸まった尻尾と背中に声を掛ける。

 

「今度からあなたのこと”シロ”って呼ぶから。ちゃんと覚えてね」

 

 白い犬は首だけをこちらを向けてもう一度、ワンと鳴いた。

 燐には悪いけど、この瞬間から白い犬はサトくんじゃなく、わたしのシロになったのだ。

 

「ごめんね燐。でも文句があるならちゃんと聞くからね。わたしはこれでも寛大だから、ね」

 

 蛍は口に手を当てて小さく微笑むと家の方へと歩き出した。

 

 少しだけ肩の重さが抜けた気がしていた。

 

 

 ───

 

 ───

 

 ───

 

 夏休みに入る前、それこそ”最初から”気になっていたことがあった、そしてそれを確かめる勇気がなかったことは明らかで、それは蛍が臆病になっていたからだった。

 

 燐がいつも通学に使っていた駅、そこは小平口駅と比べると都会的な駅と街並みだった。

 駅のプラットフォームからは燐の住んでいたマンションの上部分が微かに見える。

 蛍にはそれを見るだけしか出来なかった、これ以上は足が進むのを拒否していたから。

 

 事実を知ることが怖かったんだと思う、現実はいつだって想像以上に残酷だったから。

 

 でも、あの白い犬にあって少し楽になったことが切っ掛けとなってこうして燐のマンションへといく事が出来た。

 

 

 すでに8月も中盤になっており、いわゆるお盆休みの時期でもあった。

 

 

 蛍は白い真新しいワンピースに身を包んでマンションまでの灼熱の道を歩いていた。

 背中はざっくりと大きく開いているキャミソールタイプであり、裾は膝下まであった。

 頭には大きな赤いリボンの麦わら帽子を被っているが、今日の暑さは格別であったため、白い日傘を差していた。

 

 その風貌はどこからどう見ても清楚なお嬢様と言った感じの様相であった。

 細い足を包む、経験値のあがった無骨なトレッキングシューズを見なければだが。

 

 

 少し年季が入っている白いマンションは大分築年数が経っており、見た目以上に古い建築物であった。

 ここから見る限りでは燐たち家族の借りていた部屋はカーテンが閉められていないことしか分からない。

 エアコンの室外機がベランダに見えるが動作はしていないようだ。

 

 それ以上の情報は分からなかった。

 蛍は双眼鏡を持って来ればよかったと少し後悔した。

 

 背伸びをしたりぴょんぴょんと跳ねたりして、更に部屋の中を情報を収集しようとするが、衆目に晒されている気がしたので、顔を赤くしながらそそくさとマンションに向かった。

 

 マンションの入り口の先のドアはオートロックになっているので住人以外は簡単には入れない。

 蛍は日傘を畳んで玄関ホールの扉を開けると、数字のついたパネルの前に立った。

 そこで燐に教わった通りに燐の家の部屋番号を入力して下からのインターホンで呼び出した。

 

 トゥルル、トゥルル。

 

 電話機の様な規則的な呼び出し音がカメラレンズの下のスピーカから鳴っていた。

 蛍は自分の胸の高鳴りとシンクロしているようで急にドキドキとしてきた。

 

 このマンションはエントランスからの呼び出しにはカメラを通じて誰が居るのかが分かるようになっているので話が早く、不審者や怪しい勧誘はすぐに門前払い出来る。

 

 もっともそれは住人がいる場合のことで、もし仮に燐がいてくれるならすぐに気づいてくれるはずだ。

 

 でも……いや。

 蛍は頭を振って否定する。

 

 それでも燐がいつもの元気な感じで出てくれるとまだ信じていたから。

 

 

 ……規則的な呼び出し音が吹き抜けのエントランスに虚しく響く。

 

 

 いくら待ち続けてもインターホンが鳴り続けるだけ。

 燐どころか誰も階下にすら降りてこなかった。

 

 

 蛍は、一旦マンションの外に出て、誰かが出入りしてくるのを待った。

 住民なら呼び出しをすることなく、専用のキーで開けることが出来るからだ。

 

 これはれっきとした不法侵入であり犯罪だが、こうでもしないと納得が出来そうになかったから。

 蛍は諦めるきっかけのようなものが欲しかった。

 

 あれだけマンションに行くのを拒んでいたのに、いざ行ってみると確固たる証拠が欲しくてしかたがない、自分はつくづく傲慢だと思う。

 

 

(一目でいいから燐に会いたい……それだけなのに)

 

 

 確かに”それだけ”なのだが、それは到底叶わぬ願いだと思っている。

 それにこれだけの強い想いがあるなら何故あのとき手を掴み損ねてしまったのか。

 

 それがとても口惜しい。

 

 蛍は白い雲を見上げなら嘆息する。

 

 雲は二度と同じ形はならない、それでもあの時のような無限の広がりを白い雲と真っ青な空に感じ取った。

 

 ふと、歩行音を感知して視線を地上に戻す。

 

 すると小さなエコバッグを片手に一人の女性が蛍の目の前を通り過ぎようとしていた。

 恐らくマンションの住民だろう、もう片方の手には鍵が握られていた。

 

 蛍は待ち合わせをするような気遣わしげな素振りを見せながら、俯き加減に目線を逸らした。

 

 あまりにも不自然な動作に見えたのか、その女性は一瞬怪訝な顔を向けたが、そこまで気にしていなかったのか首を元に戻すと、手にした合鍵でエントランスのドアを開ける。

 

 軽い音がして重い扉が開く、階下のひやっとした空気が流れ込んで少し冷えを感じた。

 

 女性はそのままエレベータの前に立ち、1階まで下りてくるのを少し苛立ちながら待っていた。

 こちらを振り向く様子がなさそうに見えたので、蛍はエレベーターが1階につく前に足を忍ばせながらそっと女性の背後をすり抜けると、横の階段を一歩、二歩と息を止めたまま上ってその場にしゃがみ込んだ。

 

 何かの気配を感じて女性は背後を振り返るがそこには何もいない。

 だが、何かの物音を聞いた気がして、横の階段を覗き込む動作をみせる。

 

(こっちに来ないで欲しい……)

 

 蛍が両手を組んで祈るような仕草で身を縮こませていると、タイミングよく救いのエレベーターが到着した。

 中には誰も乗っておらず、箱の中のエアコンの冷たい空気が女性を出迎えただけであった。

 女性は頭を巡らすような仕草をみせていたが、それ以上は詮索する気はないらしく空調の効いた四角い箱へと乗り込んでいった。

 

 そのままエレベータが上へと動き出したのを音で確認すると、蛍はようやくため息をついた。

 

 最近、結構活発になってると自覚してるけど、こんなスパイというか犯罪的なことをするなんて……蛍はこれを”愛の勘違い”と訳の分からない病気に仕立て上げて、自分の心をとりあえず納得させた。

 

 

 

 コンクリート作りのしっかりとした階段を静かに上る。

 吹き抜けの階段は外と違って洞窟のようにひんやりとしていた。

 

 登るたびに、カン、カン、と靴音が鳴って、吹き抜けを通って全体に広がった。

 その音があまりに大きく聞こえたので蛍はびくっと身を縮こませる。

 蛍は手すりにしがみつくように持ちながら、出来るだけ足音を響かせないように注意深く階段を上がった。

 

 ここまで来て引き返すことなどこのときの蛍には一切頭になかった。

 

(わたしって、燐の言う通り結構大胆なのかも)

 

 蛍はこの状況下で自分の意外な一面を今、急に理解することができた。

 

 

 ぐるぐると階段を登るとようやくお目当ての階に辿り着く。

 

 蛍は荒くなった息を整えようと、近くの柱にそっと寄りかかった。

 山道を歩くよりも階段の方がきつく感じられた。

 

 

 このマンションはワンフロア2世帯となっており、燐の家族が借りていた家はこの階のエレベータ前の部屋となっていた。

 

 同じような部屋が続いて分かりずらいが確かここだったはずだ、

 蛍は指をなぞるようにして部屋番号を確認してみる。

 間違ってはいないようだが肝心の表札がなくなっていた。

 

(表札……あったはずだよ。ね?)

 

 表札をかけられるプレートをもう一度確かめてみるが、そこは白紙になっていた。

 それは何を意味するのか、蛍は頬に手を当てて小首を傾げていた。

 

 

 しん、と静まりかえった扉の前で蛍は呆然と立っていた。

 黒い金属製のドアからは人の気配を感じ取ることが出来ない。

 

 それは厚みのある缶詰めのようで、開けてみないことには中身がわからないものだった。

 

 蛍はごくりと唾を呑み込むと、意を決して玄関横のチャイムを鳴らす。

 扉の奥から小さくチャイム音が聞こえるが、それ以外はいくら耳をそばだててもなにも聞こえない。

 人が歩くような生活音は皆無だった。

 

 玄関に備え付けてあるのぞき窓から中を伺おうとする。

 ドアの内側からは何も見えるはずもない、蛍は奇怪な行動をする自分が恥ずかしかった。

 

(鍵は……多分掛かってるよね? でも確かめてみたい)

 

 そう解ってはいるもののこの時の蛍はそれを確かめずには帰る気がしなかった。

 万が一ということもあるし。

 

 この時はやっぱりどうかしていたのかもしれない。

 その奇行を理解したのは家に帰って夕食のカレーを食べたときにようやく気付くものだった。

 

 蛍は胸に手を当てて一度深呼吸をする。

 湿気ったコンクリートの香りが鼻孔から肺に広がって、少しむせそうになる。

 それはきっと心を落ち着かせるためではなく、自分の行動に正当性をもたせるための細やかな儀式。

 

 つまり言い訳の為だった。

 

 

 こんなところでまごまごしてたら誰かにみられてしまう、焦燥感に駆られながらそのドアに躊躇なく手を掛けた。

 金属製のハンドルは冷たくて少し重量感があった。

 だが初めてのものではない、燐の家に遊びに行くときに握ったことのある感触だった。

 

 掴んだは良いが、レバーを倒して引っ張ることには流石に抵抗があった。

 並々ならぬ緊張で思わず手が震えるが、蛍は両手で持って掴み直すと、そのまま勢いよくレバーを下げて、手前に引っ張った。

 

 ガキッ、と鈍い金属音が鳴り、それ以上ドアは動かなかった。

 

「あっ!」

 

 蛍はたまらず声を上げてしまい、慌てて手を離した。

 わかっていたことなのに、それが現実と実感すると急に熱が冷めたように狼狽えていた。

 

 蛍は両手で口を抑えると、こんなの本当の自分じゃないとでも言うように頭を左右に振りかぶった。

 

 上の方からかすかな生活音のようなものが聞こえて、蛍はびくっと身を震わせると、口を抑えたまま無我夢中で階段を駆け下りた。

 

 甲高い足音がらせん状に響きまわる。

 それでも蛍は耳を塞ぐことも、足を止めることもせずに一気に下までおりると、這う這うの体でマンションの外に逃げ出した。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 自分は相当な変わり者と揶揄されたこともあったが、それでもそこまで常識外れたことはしたことはない。

 

 確かにあの夜の中学校では消火器であの”何か”に攻撃したけれど、それだって本心からの行動じゃなかった。

 あれはどちらかと言うと燐を守る為というよりも、燐に危害を加えたアイツが許せなかった、そんな単純な正義感からくるものだった。

 

 でもこれは違う。

 好奇心から他人の、それこそ大事な親友のプライバシーを暴こうとしていた。

 

 答えが知りたい、それを免罪符にして勝手にそれこそ心のドアを開こうとしたのだ。

 開かなくて良かった。

 

 でも、予想通りだった。

 

 もうこの部屋は誰も使っていない。

 それこそカタツムリの抜け殻のように、誰も背負わなくなった空っぽの部屋になっていた。

 

 

 ”デンデンムシノカナシミ”ではカタツムリの殻の中には悲しみが一杯つまっていたけれど、それはみんな同じだと言っていた。

 

 だからカタツムリは嘆くのを止めて悲しみと共に生きていくことにしたのに。

 

 

 この部屋もあの”青いドアの家”の世界のカタツムリも殻を置いて行ってしまった。

 

 悲しみが一杯の殻は背負うには重すぎるから置いていくしかない、そういうことなのだろう。

 

 気持ちが落ち着いたのか、蛍はもう一度マンションを見上げた。

 青空に映えるように白いマンションの壁が日差しに照らされて光沢を放っていた。

 

(わたし、本当に好きだったんだよ。燐の家が……)

 

 それは蛍だけが知っていたことだった。

 

 この家の、燐の家の狭さがとても居心地が良かったことを。

 どこに居ても誰かの声が聞こえるほど家族の距離が近かったこの家を。

 

 本当に円満だった込谷家。

 だがある時期を境にそれが崩れてしまった。

 

 些細な夫婦間の気持ちのズレがあったのだろう、だがそれは積もり積もって不満となって軋轢を生んでしまった。

 

 それだけで夫婦は、家族は崩れてしまった。

 去っていた父親、残された母子、どちらが幸せだったのだろう?

 

 

 蛍の好きだった暖かい団欒はこのマンションからなくなってしまった。

 

 燐が、その両親が育んできた家族の形が知らぬ間に、そして突然失われたことが悲しかった。

 

 

 多分、もうここには来ることはないだろう。

 綺麗な思い出がこれ以上穢れることは耐え難かったから。

 

 それにもしまたこのマンションを見上げることがあればそれはきっと……。

 

 蛍は鼻の奥が少し痛んだ。

 

 踵を返すようにマンションに背を向けて駅の方角に歩き出す。

 

 本音をいうともう一度ここに来たかった、それこそ何度でも。

 親友とその家族が住んでいた、本当に暖かい場所に。

 

 

 でもそれは無理なことだった、ここには悲しみの抜け殻しか残っていなかったから。

 

 

 

 

 8月も後半に差しかかり、珍しく雨の日が続いていた。

 

 暑さの波もひと段落した頃、蛍は自室で一人スマホを片手に寝転がり足をバタつかせていた。

 整った顔を歪ませて、逡巡する姿は悩める乙女と大差ないようにも見える。

 

 だが蛍の胸中はまるっきり逆であった。

 

「う~ん、どうしたらいいのかなぁ……」

 

 アドレスを何度も確認して、そこに文章を打とうとは思っているのだが、どうしても指が止まってしまうのだ。

 

 親しい相手、それこそ燐になら迷うことなくメールも電話も簡単に出来るのに、この相手では定型文を打つ事すら頭をひねるほどに難儀していた。

 

 

 燐と言えば──あの賃貸マンションの部屋は既に引っ越した後だったようだ。

 

 あの後、蛍はもう一度燐のマンションに訪れていた。

 

 その時ようやく気づいたことなのだが、エントランス前のポスト部分の表札もなくなっており、無断にポストを使われないよう、テープで止めてあったのだ。

 

 なんでこんな分かりやすいことに気づかなかったのか、この時点でもうここには住んで居ないことが分かったのに。

 

 リスクを冒してまでマンション内に無断侵入をしたのはただの徒労であった。

 

 ちょうどこのとき、たまたまこの棟に訪れた管理人っぽい帽子を被った男性が掃除をしていたので、蛍は思い切って燐の住んでいた部屋のことを尋ねてみた。

 

 中年の男性は一瞬怪訝な顔をしたが、蛍の姿を舐めるように一瞥すると口もとを緩ませた。

 そして思い出したようにああそういえば、とわざとらしい前置きをして話し始めた。

 

 この人は清掃員兼、管理人らしい。

 退屈な作業に話し相手が欲しかったのか、舌を回しながら聞いても居ない事までベラベラと口八丁に話してくれた。

 

 この男性によると、込谷家は一月ほど前の晩にこっそりと引っ越して行ったらしく、行先までは分からないとのことだった。

 

 もしそれが離婚によるものなら納得ともいえる。

 世間体を気にするのなら、立つ鳥跡を濁さずのように素早く簡潔に去りたいと思うのは当然であったから。

 

 だが、それ以上の役立つ情報はなく、蛍は男性の食い入るような視線に耐えながら、特に聞きたくもない感じの話に小一時間ほど付き合う事になった。

 

 

 

 そうなると手掛かりは()()()()()()となった。

 

 それは彼──高森聡(たかもりさとし)のことだけだった。

 

 燐の携帯にはあの時から何度も掛けているが、電話もメールもSNSさえも繋がらなかった。

 それは燐の自宅も同じだったので、この前マンションにまで確認しに行ったのだ。

 

 引っ越したとなれば話は早い。

 燐への残る手掛かりは彼に全てを委ねられたのだ。

 

 彼──聡には()()()()一度としてこちらから電話等をかけたことがない。

 

 思えば燐に半ば強引に登録させられたときから一度も連絡を取ったことがなかった。

 

 それは必要なかったからだと思う、聡はあくまで燐の従兄、そう割り切っていたから。

 

 その”男”と今になって”初めて”連絡を取ろうとしているから悩んでいた。

 それは必要になったから、もう彼しか残っていなかったから。

 

 それでもまだ……迷いがあった。

 それは聡の心の奥底に眠っていた本性を知ってしまったから。

 

 雨降る転車台で彼──ヒヒは自分の奥底の想いを語っていた。

 それもとても楽しそうに、当然のように燐に向かって語っていたのだ。

 

 そのときの燐の哀しい顔が今でもはっきりと思い出せる。

 

 ヒヒはあのとき蛍を眼中に入れてなかったようだが、蛍は項垂れるサトくんと、高らかに笑うヒヒと、悲しみに暮れる燐と同じ場所に居て、その様子を、言葉を一言一句聞いていたのだ。

 

 だからこそ今、躊躇っていた、あの狂った世界の()()が彼の歪んだ想いが作り出したものだと蛍は思っていたから。

 

 燐の言葉を借りるなら、彼はスイッチであったと。

 つまりそれは元凶であるということだった。

 

 だが全てを彼に擦り付けるわけではない、それにもしあの時に世界が歪んでいなかったらば、蛍は”オオモト様”して祭り上げられて、聡の相手に儀式をさせられた可能性があるのだから。

 

(分かってる、でも割り切れないんだよ。燐……)

 

 ここに居ない親友の顔を思い浮かべて悲しくなる。

 

 燐は彼が好きだった。

 彼も燐が好きだったはずだ。

 

 なのにあんなことになってしまった。

 誰が悪いわけでも無いと、燐もオオモト様も言っていたけど本当にそうなのだろうか?

 

 別に蔑みたいわけではなく、そうでないと理解と解釈が出来ないのだ。

 

 それにそんな優しい二人が何故今居なくなってしまったのか。

 不条理で片づけるにはあまりに軽すぎる気がするのだ。

 燐もオオモト様もとても大事で好きな人だったから。

 

「でも、こうやってスマホを眺めていても何も解決するわけでもないし……」

 

 今度は仰向けに転がりながら蛍は懊悩していた。

 その度に蛍の二つに結わいた長い黒髪がベットの上で艶めかしく踊っていた。

 

 無理に聡と関わりを持たなくても生きていく上では問題ないだろう。

 バイアスの掛かった相手はまともに見ることが出来ないし、関わったたけでも過剰にストレスがかかってしまう。

 

 だが、もし彼と燐に接点があったとしたら? 

 それに、もしかしたら聡の家に身を寄せている可能性だってある。

 

 そう考えるとすぐにでも連絡を取るべきなのだが、結局今の今まで先送りにしてしまった。

 

 それは彼が()()()居るかどうかの問題もあった。

 燐は間近で、蛍は遠目にだが()()を見てしまったから。

 

 サトくんとヒヒの壮絶な最期の姿を。

 その二匹の亡骸までも。

 

 だからこそ聡がこの世界に居なくてもそれほど不思議ではない。

 

 彼は白い犬であり、大きな猿だったのだから。

 

 

 しかしそんな理屈をこねている時間はそれほどない。

 時間は有限であるし、()()()()したいこともあったから。

 

 それに燐のマンションがもぬけの殻だった以上、もう縋れるのは聡だけだったのだから。

 

「このままじゃ八方塞がりだし、やっぱりメールぐらい送ってみよう」

 

 当たり障りのない文でもいいやと、蛍は少し投げやりになりながらスマホに指を走らせる。

 入力するたびに消していたので、スマホの学習機能がその文を即座に出してくれた。

 

 ”こんにちは”、から始まる感情のない要点だけの文章、今の蛍に出来る精一杯の言伝だった。

 

 えいっ、と勢いよく送信ボタンを押す。

 たったこれだけの事ですごい時間を使ってしまった、蛍は急に喉の渇きを感じて、傍に置いていた水筒を手に取ってごくっと飲み干した。

 冷たい煎茶の若葉の香りと滋味(うまみ)が爽やかに喉を駆け抜けていく楽しみで、落ち着くことが出来た。

 

「はぁ……」

 

 今初めて息が出来たかのように深いため息をつく。

 窓の外では夏によく見られる先の細い雨が、ざあざあと降りそぼっていた。

 

 後は返事を待つだけ、どういう返信が来るのかまったく想像できない。

 メールは届いたようなのでアドレスは生きているようだが、見たかどうかはわからない。

 そもそも見れる状態なのだろうか?

 

 SNSの方が手軽だし既読も分かるしで便利だけど、この件に関してはSNSだと軽く感じてしまう。

 

 それに聡とはそこまで親しい中ではなかったから。

 

 この待つという時間、蛍はそれほど苦ではなかった。

 

 だって、もうずっと待っていた。

 燐のことをずっと、それこそ世界で一人だけになっても彼女のことをずっと待っていた。

 

 あの夜、燐と一緒にこのベッドで抱き合う様に寝たのを昨日のように覚えていた。

 

 蛍はいつものようにクマのぬいぐるみに手を伸ばすと、ぎゅっと抱きしめる。

 この子では燐の変わりには到底なりようにない、そう思いながらも毎晩抱きしめて寝ていた。

 そうしないと寝れそうになかったし、不安ですぐ泣いてしまっていたから。

 

(もし、これで何の手掛かりもなかったとしたら……)

 

 蛍は不安な気持ちを押しつぶすようにより強く抱きしめる。

 茶色いクマは蛍の焦燥感をただ黙って受け止めるだけであった。

 

 どれぐらいの時間が経っただろう。

 

 クマに抱きついたままゴロゴロとしていた蛍だが、急に思いついたように口を開いた。

 

「やっぱりSNSでも送ってみよう! アプローチは多い方がいいかもだし」

 

 蛍は反動をつけてがばっと起き上がると、しばしクマと別れて再びスマホを手にした。

 良いとか嫌とか言っている場合じゃない、感情の問題ではないのだ。

 もっと論理的に解決しないとこのままになってしまう。

 

(わたしが、わたしだけが燐を救えるんだ!)

 

 焦燥感に駆られながらSNSのアイコンをタップする。

 緑の画面が出たところで不意にスマホが震え出して画面が急に変わると、聞き覚えのある着信音が鳴りだす。

 

「着信……? 誰から? えっ!?」

 

 それをみた蛍の顔がさっと青ざめた。

 発信者番号と共に表示されていたそのアドレスは。

 

「高森……聡……さん?」

 

 一瞬誰のことだか分からななかった、ほんの少し前にメールを送ったばかりなのに。

 

 連絡が来るのは正直半信半疑だった。

 そして何よりメールで返信してくると思い込んでいただけに、この電話には思考停止させられてしまった。

 

 言葉もなく蛍は無意識にスマホを握りしめていた。

 手に伝わり続けている規則的な振動と急かすように鳴り続ける着信音に何故か現実感がなかったから。

 

 蛍は呆然とその画面を見ていたが、蛍はごくっと唾を呑み込むと、スマホを両手で持って、左手の親指で受話器のアイコンにそっと触れた。

 

 

『もしもし……』

 

 最初に声を発したのは()からだった。

 

 

 ───

 

 ───

 

 ───

 

 

「これでよしっ」

 

 あらかたの荷物をバックパックに詰め込むと満足そうに蛍は微笑んだ。

 

 机の上には大事にしていたとぼけた感じのネコの顔のポシェットと、その横に便箋をしたためた封書を置いておいた。

 

 これで何かあっても問題ないはず、()()()ならこの後のことも安心して任せられる。

 幼い頃からずっと見てくれたあの人に何かお礼がしたかった。

 

 

 それにしても、と蛍は思い返す。

 

「あのときの電話は驚いちゃったな。本当に掛けてくるとは思わなかったし」

 

 

 聡からの電話は蛍を落胆よりも別の感情を思い起こさせた。

 

 ──彼は一方的に喋っていた、それこそ息継ぎを忘れてしまったかのように。

 

 蛍は何事かと携帯を持ったまま、目を丸くしていたが、どうやらこれこそが彼、そのものであることが分かった。

 

 ……色々あって喧嘩同然で会社を辞めたこと、その後しばらく鬱状態だったが、突如としてスローライフに憧れて農業実習をしに北海道にいること。

 そこでの生活は素晴らしく、自分にとても合っていたこと、そして登ってみたかった山が多くて移住してもいいぐらいに気に入ったこと。

 

 自分のことだけを壊れたスピーカーのように聡は喋っていた。

 

 

 そして彼は──従妹()のことを覚えていた。

 

 

 だが、聡は従妹という概念でしか燐のことを覚えていなかった。

 

 燐という従妹の存在は知っているが、”覚えていない”。

 つまり”居たことを覚えていなかった”。

 

 何とも都合の良い話だが、高森聡は近くにいる”いとこ同士”という認識のみで燐の事を覚えているらしかった。

 

 本当のところはよく分からない、虚言の可能性だってある。

 だがそのことを問いただしたところで何も得られないだろうと蛍は思っていた。

 

 蛍のことはその従妹の友達という認識のみで電話を掛けてきたらしい。

 それでも彼は憶えていたらしい。

 じゃあ何でこんなに馴れ馴れしいのか、蛍に興味が沸いたとかそういう感じではない。

 

 それは聡との会話でよく分かってしまった。

 彼は自身の言っていた通り少し普通じゃなくなっていた。

 

 ほんの少しだけ心に傷がついていた。

 それは細かいひっかき傷なのか、消せないほど深い傷なのか。

 

 少なくとも病気と認定できるほどに壊れていたことは確実であった。

 

 

 蛍の中で彼は嫌悪や拒絶ではなくなっていた。

 むしろ哀れみ。

 

 

(なんて、可哀想な人だろう)

 

 

 もう、そうとしか蛍は彼を表現できなかった。

 

 

 結局、彼のもとには燐はいなかった。

 でもそれにほっとしている自分がいた。

 

 もし彼と一緒だったら?

 その時はきっと喜ぶとは思う。

 

 でもそれが本心かは分からない、ただ分かっていることは……。

 

 こうして準備を進めてきた甲斐があったということだった。

 

 重いトレッキングシューズを履いて散歩したことや、軽いジョギングもして体力づくりをしたのは無駄ではなかったのだ。

 少し重くなったバックパックを担いでみる……肩にずしっとくる重みが蛍を少し不安にさせた。

 

「大丈夫。これぐらいなら想定内。これでも鍛えたはず、だもん」

 

 胸中に訴えかけるように少し強がりを言ってみる。

 夏休みの最終日、今日やらないと多分もう無理だろう。

 

 きっと虚無のまま永遠と流されるだけだ。

 

 不安な気持ちに鞭打つように、ぐっと歯を食いしばる。

 そして誰にも見せるでもなく小さくガッツポーズをとってみる。

 

 ちょっとだけやる気がでた……気がする。

 

 

 綺麗に清掃しておいた自分の部屋を改めて確認する。

 無駄なものが少ない自分自身の在り様を表わした和室の部屋。

 

 あのとき荒らされたと思っていたのに……今でも信じられない。

 

 でも、こうして自分の目で見ている以上現実なんだ。

 

 白い何かに家を、部屋を土足で踏みにじられたのも現実。

 こうして何事もなかったかのように普通なのも現実。

 

 それは二枚合わせの鏡のようにどちらも等しく現実なんだ。

 

 でもそれを選ぶ権利はない、どちらか一方だけ。

 選択肢すらなかった。

 

 

 だからわたしは今夜それを選び取る。

 

 Aか、Bか、二者択一のわかりやすい問題。

 

 

「じゃあ行ってくるね」

 

 箪笥の上に座るぬいぐるみに行ってきますの挨拶をする。

 何も言わない優しさに蛍は少し嬉しくなって、もう一度手を振ってみた。

 当然何も答えてはくれない、でも変わらないものがそこにあった。

 

 綿が飛び散って目が取れたときは絶望したけれど、今はなんともない。

 もしあのままだったとしても自分で治す気ではあった。

 ……多分不格好なクマが出来上がるだろうけれど。

 

 部屋のドアをゆっくりと閉める。

 カチリ、という小さい音が偽りの現実との別れを告げていた。

 

 

 蛍は躊躇なく階段を下って玄関先に出る。

 華奢な脚が履くのはローファーではなく、今やそれなりに使い込んだトレッキングシューズだ。

 この為に用意しておいたものでこれを履いて行くことに意味があるのだ。

 

 蛍は玄関前でしゃがみ込んで靴ひもを結ぼうと試みた。

 トレッキングシューズの紐は通常よりも太くしなりがあって結びやすいはずなのだが、何度やっても蛍はあまり上手くならなかった。

 

 自身の不器用さに歯噛みしながらも四苦八苦の末、なんとか両足とも結ぶことが出来た。

 

 コツコツ、と踵の部分を土間に打ち付けてみる。

 これで靴がしっかりと収まるらしかった。

 

 ちゃんと履けたか確認するようにトントンと歩いてみる。

 

 うん、大丈夫みたいだ。

 

 蛍は後ろを振り返ってみた。

 真っ暗な廊下には誰もいない、見送ってくれるものはいなかった。

 

 でもそれで良かった、もし誰かいたらきっと止めていただろうから。

 

「……いってきます」

 

 蛍は小さい声で念を押すようにもう一度出かけの挨拶をした。

 その言葉は暗い廊下の奥に吸い込まれるように消えていき、すぐに静寂に戻っていた。

 

 蛍の声に応じるものはいないのに何故か楽しそうに笑うと、少し戸惑いを見せながらも玄関マットの上に土足であがった。

 すぐに足を話すと真っ暗な廊下に向かって頭を下げた。

 そしてくるりと身を翻すと幼い頃から変わっていない重みのある玄関の引き戸を、勢いよくがらりと開け放した。

 

 外はまだ少し薄暗い程度で、ひぐらしがカナカナと鳴いていた。

 

 夕闇が迫る黄昏時、紫とピンク、そして茜色の三重奏(グラデーション)

 

 複雑に絡み合った空の色は、この後のことを暗示しているかのようで禍々しくも見えるが、蛍は前に食べたクレープのソースの色を想像して少し素敵な気分になっていた。

 

 この空を見れただけでもこの時間まで待ったかいがあったというものだ。

 

 

 あまり早い時間だと近所の人に見られてしまうし、遅すぎると間に合わなくなるかもしれなかったから。

 

 だからこそこの時間が丁度よかった。

 

 蛍は引き戸を閉めて鍵を掛ける。

 

 黄金と蒼の光線に照らされた中庭を抜けて大きな門の横に備えてある通用口の門から下界へと抜けた。

 

 その入り口にも鍵を掛けると、蛍は用の無くなった鍵をまざまざと見つめる。

 

 そしておもむろに近くの雑木林に向かって鍵を投げ捨てた。

 

 沈む夕日に照らされて銀色のカギがきらきらと光を反射させて、木々の間に消えて行った。

 

「これでいいんだ。もう戻ることはないのだから」

 

 蛍は小声で呟くと、その林の前を少し勢いをつけて走り出した。

 

 少女は一人何処へ行くのか、それを知る者はいない。

 本人だけが、蛍だけが知っている。

 

 だがその顔は少し赤みを帯びて薔薇の様に染まってた。

 夕暮れ時のやわらかい光がそう見せているのか、それとも少女自身の心の内側からくるものなのか。

 

 蛍は半分になった夕日を眩しそうに眇めると、家を振り返ることなく少し速足に歩を進めた。

 

 二つの髪を上下に揺らしながら、蛍は夕焼けとは反対方向の黒い森に向かって一人駆け出していった。

 

 

 

 

─────

 

───

 

──

 

 






ん、書くことがあまりないです。

あ、先日久々にスーパーな銭湯に行ってきましたよー!新しく出来た海沿いのスパ銭にーー。

入り口には最新式っぽい検温器が置いてましたねーー36.7℃はセーフだったらしいです。
岩盤浴は意外にも安かったけど今回は入らなかったです。ひたすらお風呂を満喫してましたねー2時間程ですが。

内湯は窓全開だったですし、露天風呂は目の前がそく海で開放感半端なかったですねー。
天気よくて良かったーーー。でも露天風呂には満ち潮の時は向こうから見えるかもしれないので立ち上がらないでくださいと書いてましたねー。
残念だったのはサウナが一つしかなかったことですねー。塩っぽいサウナがあればーなお良かったですーー。

もう書くことがなくなってしまった。

あ、そういえばテレビ買ったときからずっと使ってきた録画専用のHDDが壊れてしまったようですー。
ですが前に一度だけ使っただけで放置していたデータ移行用の外付けHDDがTVに対応出来たので良かったですよー。

まあ今のところ赤毛のアンぐらいしか録画してないですし、それにもうすぐ終わっちゃいますけどねーー。

あ、そういえばSouth Park Season 24が公開されてましたねー。今年はやらないのかと思っていたので少しビックリしましたよー。
それにしてもパンデミックスペシャルでエピソード13とは……残りの1~12はいずれ公開するのかそれとも単に忌み数(13)に掛けただけのかは分かりませんねー。でもあの終わりとたびたび出てくる死神の風貌から後者の線が強いかもしれないですね。

今回はタイムリーと言うかなんと言いますか、まさか公開後にドナルド・トランプに新型コロナで陽性反応が出てしまうとはねぇ……狙ったわけではないと思いますけど、もし万が一があったならばアメリカ全土を火の海にしてしまうのでしょうか?
まあ、絶対にそんなことはないでしょうけれどー。

今回作中にpangolinなるものが出てきてビジュアルがアルマジロっぽかったのでそれかなと思って見てたのです。ですがそれとは全く違う個体で? 日本語でセンザンコウという鱗甲目の哺乳類みたいです。中国などでは漢方や魔除けとして珍重されてるとか。
そのセンザンコウが新型コロナウィルスの中間宿主とされているらしくその遺伝子を解明すればコロナウイルスのワクチン開発に役に立つのではとされていたようです。

でも、日本では今年の3月か4月頃までは少し騒がれていたようですが その後はコウモリが感染元ネタと一緒に消滅したっぽいですね。

どこかの医療チームや遺伝子研究のチームやらが頑張ってセンザンコウの事を研究してるのかもしれないですけどねー。

まあ動物を元凶とすると色々な団体が怒りますし、かと言って中国のせいにしても知らぬ存ぜぬですし。
このまま来年を迎えるのもモヤモヤする気がしますけどねー。責任じゃなくて事実が知りたいだけだと思うんですよー。今後の対策にもなりますしね。
なんか前にも似たような事を書いた気が……デジャビュかなぁ?


あ、書くことないとかいってたのに結構書いてました。


それではではー。



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Belsomra

 
 運良く状態のいい古民家を手にすることが出来た。
 だけどあまりに古かったので、リノベーションに多額の費用と時間を取られてしまった。
 誤算というわけじゃないけど、夏にオープンする予定が秋にずれ込んでしまったのは集客的にも予算的にも地味な痛手だった。

 まあ、まだ万全ってわけじゃないし、焦っても仕方ないのかも。
 そんなことを考えてたらもう8月も終わりとなっていた、時間にゆとりがあったのに気が付けば結局時間に追われている。

 古民家カフェならぬ古民家ベーカリー、名前は……まだない。

 ……こんなので再来週のオープンに間に合うのだろうか?

 パン窯、オーブン、冷蔵庫にホイロ、パンをこねるためのニーダーと必要なものはすべて取りそろえた。
 かなりの予算オーバーになったので窯以外はすべて中古品だが、その中でもいいの選んできた。
 あとは知り合いから分けてもらったり、ネットオークションで手に入れたりした。
 作業台やラックはDIYで手作りしてそこそこに仕上げた。
 
 もちろん資格も許可も取ってある、営業申請書はそろそろ書かないと間に合わなくなってしまう。
 今この辺りは出店ラッシュで役所も忙しく、営業のための立ち入り検査も順番待ちとなっているようだ。
 
 バイトの子にも研修をやってもらっているが、まだちょっとおぼつかない感じが初々しいというよりも苦々しく思えてくる、これでオープンまでに接客ができるようになるのだろうか。

 まあいざとなったら自分で全部やることもできるけど、もうそこまで若くないし……これが20代前半とかなら一人でもなんとかなりそうだけど……。
 
 泣き言を言っても仕方ない、自分で決めたことだから。

 過去をリセットしてここで生活していく、そのために貯金をすべて崩した。
 もう後には引けなかった。


 それにこの程度のことで凹んでいてはアイツに笑われてしまう。
 わたしと、家族を捨てて、自分の欲望をとったアイツに。

 これぐらい追い込まれたほうがむしろやる気が出るというものだ。
 追い込まれてからが強いのだ、そうやってこれまで生きてきたのだから。

 負ける気はなかった。

 
 色々考えている内に、もうこんな時間になってしまった。
 急いで車を出さないと間に合わなくなってしまう。
 忘れ物がないか一応確認する、自分で言うのもなんだが、こう見えても結構忘れっぽいようで、そのせいで色んなチャンスを逃したこともさえあった。


 でも、もうそれは昔のこと。
 少し前の悲しい記憶。

 暗い部屋の中で光を失った虚ろな瞳をわたしは見た。
 その悲しい瞳にはわたしは映っていなかった、ただ空を天井をぼんやりと見ていたのだ。

 わたしは怖かった。
 その瞳に何も映っていないことを。
 その瞳の原因がわたしにあることを。

 だから、もう……二度と……。



 ……あ、起こしちゃった? ごめんごめん。
 先に寝てていいからね、今、配達に行ってくるから。

 大丈夫、さっき少し寝ておいたし、できるだけ安全運転で行くから。
 せっかくの新車だしね、これでも教習所ではかなり褒めらたんだから。
 
 平気よ、こういう時間に追われるのには慣れてるから、あなたは安心して寝ててちょうだい、確か明日から学校でしょ? 宿題は終わったの?
 そう、さすがわたしの子ね、その辺は抜かりないわね。

 だったらあとは寝るだけね、大丈夫あなたならみんな暖かく迎えてくれるわ。


 え?! 運転代わる? もう馬鹿なこと言ってないで新学期の準備して寝なさい。
 大丈夫よ、あなたなら、わたしの子なんだから、堂々と学校に行けばいいの。

 まあ、ね、これでも前職では鬼の……なんて無駄話をしてる暇なかった、じゃあ行ってくるわね。

 ……うん、ちゃんと戻ってくる。
 もうどこにも行かないわ、本当よ。


 え? 忘れ物? 何、忘れたかしら??

 何これ? エコバッグ? 中に何か入ってるの?
 ……まあ、これはわかるけど、後のはちょっと要らなくない?
 
 え、必要? わたし? 違うの?

 じゃあ誰向けなのよ? 内緒なの? なんだかねえ……。
 うーん、かさばらないから良いけど……まあいいわ、持っていくわよ。

 まあ、あなたが必要て言ったからね、だからきっとどこかで使うのよね。
 勘が冴えてるのよね、今のあなたは。

 それに、家族だしね、子供の言うことは聞かないとね。


 ……もう見失いたくないから。



 ううん、なんでもない、じゃあ行ってくるわね、若いからって夜ふかししてると肌に悪いわよ。

 あ、それと……こっそりパン焼いちゃだめよ、ここはわたしの店なんだから。
 あなたにまだ全部譲る気はないからね。

 そ、十年早いわよ。
 もっともちゃんと資格を取れば結構早く開業できるんだけどね。

 でもその時は自分の店を持ちなさい、親を当てにしちゃだめよ。

 わたしは……わたしはいいの。


 全く、元気になったと思ったら、とたんに変なこと言うんだから。
 まあ、でも……。


 ううん、なんでもない。
 それじゃ行ってきます、戸締まりだけはしておいてね。


(あの子……なんでこんなものを渡したのかしら。それに何かやってるとは思ったけどほんとうに自分でパンを焼いていたなんて)

 後で食べてみよう、でもこれでわたしより美味かったりしたら……。
 でも、ありうるか、なんせあの子とても器用なのよね。

 ……多分、アイツに似たのよね、そういうところ。

 でも器用さっていうのは割と不安定なものなのかもしれない。
 特に人の関わりに影響が出てしまう。

 あの子にだって辛いことがあったんだ、だからあんな風な悲しい瞳を向けていたんだ……。
 大人とか子供とか関係なく、誰にだって悩みはある。

 でも、わたしの子なんだから、信じてあげないと。
 多分、親になるってそういうことなんだと思う。

 必要な時は寄り添って親身になる、自立するときになったら依存せず、子を尊重する。

 当たり前のことだが、わたしには何一つ出来てなかった。
 自分のこと、自分の親のこと、仕事のこと、世間の目のこと。

 そんな表面的なことばかり気にしていた。
 ほんとうに大事なことは目の前にあって、すぐ近くにあったのに。

 それを見ようとはしなかった、わたしは多分親じゃないんだと思う。
 年だけ取った子供のままだった、あの子にも自分にも向き合えてなかった。
 そして……彼にも。

 もう遅いのかな? すべて終わったことなの?

 でも、まだ……まだやり直せそうな気がする。

 あの子もわたしもほんとうの家族になってない。


 そうだ、あの子に店の名前を決めてもらおう。

 あの子はいろいろなものに名前を付けるのが昔から得意だった。
 だから好きな名前をつけてもらおう、センスは悪くないから大丈夫だろうし。

 それに。
 
 わたし一人の店じゃない、ここは新しい家族の家なのだから。







 夕日が完全に沈んで、夜の闇が森の木々を影に変えていた。

 夜になっても天気は崩れる様子を見せないが、雲が多く重苦しい感じがしていた。

 

 月はその丸い体を恥じらうかのような身の素振りで、黒い雲の隙間の中を出たり入ったりと、気まぐれな乙女のような恥じらいを見せていた。

 

「今日のお月さまは恥ずかしがり屋さんみたいだね」

 

 慣れた足取りで吊り橋を軽く渡りきると、橋の親柱の横に立ち、蛍は黒い空を仰ぎ見ていた。

 見ているのは蛍一人だけ、傍らには誰もいなかった。

 ただひとりで変わりゆく空を眺めていた。

 

 その瞳には悲壮感も絶望すらもなかった、ただ月が雲の影で見えなくなっていることに寂しさを覚えていた。

 

 小さくちぎれた雲が何かに追われるようにして夏の夜空をゆるやかに駆け抜けていく。

 それは高いところにある月を通り越して西から東へと流れていった。

 そのたびに月は真実を見せまいとするかのように、雲の後ろで身を隠したまま、何も語ろうとはしなかった。

 その陰湿な様子をまばらに瞬いた星たちが煌めきながら笑っていた。

 

 

 はっきりしない月の態度に少し頬を膨らませながら、蛍は空と地上の境にある淡い色彩に視線を定めつつ、雑木林の群れの中を少し歩幅を狭くしてわりかし慎重に歩いていた。

 

 いつもの制服の下には燐と同じような黒い長袖のシャツを着こんでおり、華奢な両手とか細い首が化学繊維でできた黒い布で覆われていた。

 

 燐には悪いが、初めの内はこういう格好が恥ずかしかった。

 燐とは違ってこの方が蛍には落ち着かず、外で着ると恥ずかしさのあまりすぐに脱ぎたくなってしまうほどだった。

 

 でも今は不思議なぐらい馴染んでいた、嘘のようにこの長袖のベースレイヤーを着ることにためらいがなくなっていた。

 その変化は燐に少し近づいた気持ちにさせたので、蛍は変化が嬉しくなっていた。

 

 常闇の夜は視界が悪く、歩くものを不安にさせる。

 暗がりに何がいるか分かったものではないからだ。

 

 でも蛍にとっては全く知らない道というわけではない。

 吊り橋もその渡った先も、まだ近所の範囲内であり、夏の散歩コースだった。

 

 それに夜とはいってもまだそこまでは暗くはない。

 青黒いシルエットで何であるかは確認出来る。

 夏の夕暮れはまだほんの長く、気持ちの余裕を与えてくれた。

 

 道を進むたびに辺りの虫の声が脈打つように次第に大きくなっていき、夏の風物詩を感じる前に鬱陶しさが先にきてしまう。

 道の両端の雑木林からは奥深い闇と羽虫の鳴き声、草木の青い匂いで息が詰まりそうだった。

 

 日中の森とは違って黒く太い木の陰の裏に見えない恐怖を感じて、蛍は思わず気後れして道の真ん中で立ち止まってしまった。

 

 ほーほー、と梟のさえずり声が雑木林の幹に反射して木霊になった。

 特に意味のある鳴き声じゃないが、いやなタイミングだった。

 蛍は無意識に家の方角に顔を向けてしまっていた。

 

 蛍は考え込むように顎に手をのせて逡巡すると、思いついたように背中のバックパックのポケットから金属で出来た淡い色のペンライトを取り出した。

 

 それはアウトドア商品一式と共に買わされた(と蛍は思っている)ものであった。

 通常トレッキングを行う時は手が塞がってしまうため、頭で固定するライトが好まれるようだが、蛍はそこまで考えていなかった。

 

 ただ夜歩くことになりそうだから買っただけだった。

 でも、燐も同じようなペンライトを持っていたことが一番の理由だった。

 それに前、燐に蛍の家の懐中電灯の所在を聞かれたときに分からないと答えたあの無知を晒したことも思い出していた。

 

 ようするにペンライト買うだけの理由付けはそろっていた。

 

「燐、どう? 今度はちゃんとライト持ってきたよ。ほら、結構明るいでしょ? 850ルーメンなんだって……それって明るい、のかな?」

 

 アウトドアショップの若い店員が熱心に説明していた気がしたのだが、その時の蛍はぼーっとしていて別のこと、燐のことを考えていた。

 

 燐はどのアウトドアグッズを持っていたんだっけ? とか、燐だったらどれを選ぶだろうか? とか、蛍はアウトドア商品すべてを燐目線で選り分けていた。

 だから店員がこのペンライトを勧めてきたときは、すぐに決断を下すのではなく、蛍の心の”燐”に問いてみることにした。

 

(これは燐が持ってたペンライトに少し似てる気がするよ……るーめん? 数値が大きいほうが良い、のかな? 頑丈そうだしこれなら燐も納得してくれるかも?)

 

 こうして、心の中の燐の了解を得た蛍は、この最大850ルーメンの武骨な(可愛くない)黒のペンライトを購入してしまったのだ。

 

 だが肝心のルーメンのことはすっかり失念していて、今の今まで一度も使用したことがなかったのだ。

 

 蛍は何も考えず、小さな本体の前面にあるスイッチを軽く回してみた。

 カチッ、と細かい音がすると同時に鋭い光が稲妻のように雑木林の奥の方まで一気に照らし出した。

 

 一瞬の出来事に蛍は目を見開いて凍り付いていたが、やがてわわっと、小さな悲鳴をあげると、取りこぼしそうになるペンライトを握り直して、慌ててスイッチをOFFにした。

 

「はあ……びっくりした……雷が落ちたかと思ったよ。それにしても……」

 

 蛍は手の中の小さな黒い筒をまるで危険物のように覗き見た。

 ペンライトは空と同じように黒く死んだように静まり返っている。

 

 もう一度スイッチを入れてみるのは少し勇気が必要だと蛍は思った。

 

(……燐が持ってたのはここまで明かるくなかったはずだよね。あれぐらいがよかったのに……)

 

 はあ、とまた蛍はため息をついた。

 蛍が買ったペンライトは6段階の切り替え機能が付いていて、ダイヤルの最初のスイッチは最大の光源で照らすモードとなっていた。

 とても明るい反面電力の消費が著しく、2時間程度しか明かりを保つことができなかった。

 

 無駄なものを買ってしまったと言わんばかりに困った顔で手の中のペンライトを見つめている蛍。

 掌サイズのペンライトがやけに重く感じていた。

 

 

 だからと言ってこのまま暗い森の中を進む気は起きなかった。

 蛍は意を決してペンライトを再び持ち、暗い道の先にかざすと、ダイヤルを3段階ほど余分に回してみた。

 

 カチカチカチ。

 

 万華鏡のように何度も捻ると、同じように光も瞬間的に入れ替わって、様々な光の模様が黒いキャンバスに描き出された。

 

 野球場のナイター照明のように眩しかった強い光は、今はほどほどの光量に抑えられていた。

 最大850ルーメンの光の束は半分以下の細い光となって、ちょっと強い懐中電灯レベルにまで収まっていた。

 

 それでも十分な明かりを確保できてはいる。

 夕方や夜のトレッキングではこの程度で十分だった。

 

 すっかり宝の持ち腐れとなっていたが、今の蛍にはちょうどよかった。

 

 足元をライトで照らしながら一歩ずつ坂を下る。

 慣れた道とはいえ、月明かりも薄い夜の林道を一人で歩くことはかなりの無謀さがあった。

 

 それに何日か前にここを通ったとき、ぬかるみで足を滑らせて転びかけてしまったのだ。

 幸いケガはなく、トレッキングシューズのおかげで尻餅すらつかずに済んだ。

 手はちょっと汚れてしまったけど。

 

 そんな頼りになるトレッキングシューズも履き慣らすまでが大変だった。

 登山経験のない蛍はトレッキングシューズを買うことすらおかしなことだったのに、それを自分で履くことになるとは思ってもみなかった。

 

 それでもちゃんとサイズも図ったし、なるべく可愛いデザインにしたけど(燐が選びそうなもの)それでもまだ少し躊躇するほどだった。

 

 試し履きしてみると、普段の靴とは違って重くて歩きづらいし、全体的に硬く出来ているので普通の一般的な歩き方すらできなかった。

 

 この辺の違いも定員が丁寧に教えてくれたようだが、蛍はあまりよく覚えておらず、結局ネットで再度調べなおす羽目になった。

 

 今はある程度足にフィットするようになったので普段の靴との違いがはっきりと分かるようになった。

 ぬかるんだ坂道でも安定して昇り降りすることもできるし、バランスを崩して倒れこむことなんてもうない。

 これなら安心して森や山へ行くことができる気がする、むしろ自分から行ってみたくなった。

 思うままに足を動かすことができるのだから。

 

 きっと適材適所とはこういうことを言うんだろう、燐が普段からアウトドアグッズを身に着けていた理由はきっとこれなんだろう。

 

 蛍はそれがやっと分かった。

 

 

 

 宵闇が空を覆いつくすと、真っ黒な木々の群れが無限に続いているような錯覚を覚えるほどの心細さを感じる。

 

 一人で森に入ることがどれほど無謀なのかを身をもって知ってしまった。

 

 今でも林業を生業としている人たちだって日の沈むまえには作業を止めてしまう。

 代わりに日が昇る前の早朝から作業を開始していた。

 

 それだけ夜の森は危険で恐怖があった。

 

 あの”ヒヒ”の昔話だって夜、山に女が一人で入ると、かどわかされるからとの戒めからの教訓のための言い伝えなのだろう。

 

 黒く大きなヒヒの姿は男性の、彼の欲望と肉体が具現化したものなのだろう。

 燐の全てを食らいつくすそのことだけを愚直に追い求めた姿はある意味立派だともいえる。

 その一途さを純粋な精神にしたものがサトくんであったということだ。

 精神だけ、意識だけだと動くことができないから犬の姿を借りたのだろう、それだけ純粋だったということか。

 

 ただどちらも燐を欲していたのだ、違うのはその方向性なだけで。

 

 サトくんは燐に心から愛されたかった、一緒の幸せ、一緒の想いを守りたかった。

 ヒヒは燐に己の欲望をぶつけたかった、燐に好かれようとはせず、むしろ燐が嫌がり、苦痛と絶望に満ちた顔にヒヒは得も言われぬ興奮を感じていた。

 

 歪みとは人間の欲が生むものであり、互いの想いのすれ違いから起こるものなのだろう。

 

 

 ただ言えることは、歪みは起きた、そしてそれは思いもよらぬ形で終わりを告げた。

 それを客観的な出来事として理解できてるのは、わたしと燐、そして”オオモト様”の三人だけだろう。

 

 でも二人は()()にはいない。

 二人はもう蛍の手の届かぬところへ行ってしまった。

 

 だからもうわたしだけなんだ。

 わたし一人だけがあの時のままの悲しさで、忸怩たる思いを抱えたまま静かに生きていかなければならないんだ。

 

 でも、それは誰の為なの?

 

 わたしはそんなこと……。

 

 ────

 

 ────

 

 ────

 

 

 

 ゆったりとしたペースでぬかるんだ坂を一歩ずつ下っていくと、涼を感じさせるせせらぎが木々の隙間から流れてきて、それは次第に大きくなっていった。

 湿気を帯びた茂みと灌木の後ろに流れる小川はだんだんと細くなっていき、中流から下流へとゆるやかに変わっていた。

 

 たおやかな流れは生き物すべてを癒すように、謙虚な振る舞いをみせていた。

 

 蛍は川岸の道から離れると、足元に気を配りながら低い段差の滝の流れるところへ近づいて、おもむろに銀のカップに水を汲んだ。

 

 山の恵みをふんだんに含んだ湧き水(ミネラルウォーター)、それをカップになみなみと注ぐと、転ばないように注意深く足を戻して、水を汲んだカップを両手で持った。

 

 ちょうど月が顔を見せたのか、小さな水の中に青白い月が写り込む。

 カップの中で星空と月が混ざり合って、小さな宇宙ができた。

 蛍はそのまますべてを一気に飲み干した。

 

「冷たくて美味しい……」

 

 透き通った湧き水の涼味が喉をすり抜けて、熱くなった胃にじんわりと染みわたった。

 それだけで十分過ぎるほど生を知った心地がした。

 

 小平口町には山の雪解け水がふんだんに流れ込んでいて、年中新鮮な水を飲むことが出来た。

 水道水もそれで賄っているため実質水道代は掛からない。

 それ目当ての移住者もいるのだが、そう上手くはいかなかった。

 小平口町への移住は大変面倒な審査をパスしなければなく、強力な縁故でもない限り他の地から移住できたものは殆どいなかった。

 

 ただ一点、座敷童の相手をする男達だけは別格で、彼らにはある種の特権が与えらえていた。

 

 だがそれも遠い過去の話になろうとしていた。

 

 地域活性運動の一環として、まず初めに移住者の審査を大幅に軽減したのだ。

 そのおかげで街には移住希望者が古民家や放置住居を自分達の住みやすいようにリノベーションして住み着くようになった。

 

 田舎暮らしに憧れるものや豊かな自然と水を利用して商店を出すものもいた。

 

 この短い夏の間に小平口町は随分様変わりしてしまった。

 

 ”マヨヒガ”と呼ばれていた古くしなびた旅館は大手チェーン店が買い取って、低価格の温泉施設としてリノベーションすることになっていた。

 かなり大規模なものになるらしくオープンは今冬を予定しているようだ。

 

 

 駅前の店舗数も一気に増えて、大抵のものは駅前で揃うほどの充実ぶりを見せていた。

 飲食店も大手から、個人経営のものまで幅広く、各店舗が名産であるお茶を使用した新商品を開発していた。

 座敷童による人為的な幸福の力はこの土地から完全に忘れ去られようとしていた。

 

 

「ここの水、こんなに美味しいんだから販売してもいいのに」

 

 蛍は二杯目の水を飲みながら自然な意見を述べる。

 

 この地に幸福が舞い込んでいたときは何もかもが上手くいっていた。

 だからなのか、町の発展はとても早く、すべてが一足飛びで行われてきたのだ。

 

 その為、地道な発展というものを町は経験したことがない。

 すべての事業が上手くいって、しかも確実性があるものばかりだったから。

 

 

 でも、今は速度こそ早いが、そこそこな事業計画に留まっている。

 それは儲けや発展性よりも、もっと地道でゆっくりとした事業計画のようであった。

 

 蛍は町の移り変わりには興味を示さなかった、でも今のこの町の形は良い事だと思っていた。

 幸運にも座敷わらしにも頼らない町本来の形、古いものでも新しいものでもない。

 この町の、土地の可能性を信じた発展の仕方、それで良いのだと思う。

 

 無理をすれば必ずどこかで歪が生まれて、それがだんだんと大きくなっていく。

 ちょうどいい発展こそが、山間の小平口町の在り様なのだ。

 

 

 川岸のぬかるんだ道でも滑ることはなく安定しているトレッキングシューズに頼もしさを感じながら蛍は藪を切り開きながら先を進む。

 

 まだ歩き始めたばかりだ。

 辿り着く場所まではまだまだ距離がある、蛍は一歩一歩足元を確かめながら林道を歩いていった。

 

 背の高い木の上から梟のような鳴き声が聞こえてくる。

 月はまた雲に隠れていた。

 

 

 赤黒い木々の隙間から小平口駅の細長いプラットフォームが異世界の神殿のように明るく見えた。

 そろそろ最終列車がくるころだろうか、駅構内にいる数人の鉄道関係者が確認したり合図をだしたりと忙しそうにしていた。。

 彼らが普通の駅員であることを遠目で確認すると蛍は言いようもなく安堵した。

 駅構内の真白い照明が木の間から暗い森に差し込んで光と陰の交錯する格子模様を描き出す。

 光は蛍を細長く角ばった獣のたてがみの様に見立てていた。

 

 小平口駅に別れを告げて、ロータリー側に抜ける逆方向の更に深い森への道を蛍は進んだ。

 このあたりの林道は人がほとんど通らないためか藪すらも払っていない。

 

 だが、このひときわ大きな道はトラックの巨大な轍のおかげで、舗装された道とそれほど変わらない感覚で歩くことができた。

 

 巨大なタイヤの跡に残っているのは踏みつぶされた小石と木の根、へし折れた枝葉の名残があるだけだった。

 

 それでも楽な道のりというわけではなく、蛍は徐々に苦悶を顔に滲ませた。

 

 少し休憩を取るべく開けた場所を見定めてそこで立ち止まると、蛍は息を荒くしながら傍らの木に寄りかかると、黒色に染まった山肌を呆然と遠目で眺めていた。

 

 黒い山の中腹に立っている、ひときわ存在感のある白い風車。

 蛍はそこを一応のゴールとしていた。

 

 交通機関でここまで来ることは出来ても、それでは意味がないのだ。

 それにこの先は()()()()()()では進むことは出来ない。

 

 一応車両が一台通行できる程度の道はあるのだが、舗装はされておらず、なおかつ一般は立ち入り禁止となっていた。

 たとえタクシーでも通ってはくれないだろう、もっとも使う気はなかったのだが。

 

 その為、あの時のように風車にいくにはハイキングというよりもトレッキングコースを使って裏道で行くしかないのだ。

 

 蛍はその場で入念なストレッチをする。

 といってもまだまだトレッキング初心者なので体育の授業程度のほぐし方しか知らないのだが。

 それでもやって置いて損はないだろうと思っていた。

 

 実際この道を使うのは初めてではない、前は燐とサトくんと一緒に登った道だった。

 

 でも、今は一人で登らないといけない、そう思うとなんとなく寒気を感じた。

 

 あの時は無我夢中で燐の背中を追いかけながら登り切ることが出来たが、今回は上手くいくとは限らない。

 

 励ましてくれる人はいないし、背中を守ってくれる人もいなかった。

 

 行くも戻るも独りで決めないといけない。

 

 少し小高くなっているので遠くの暗がりに小平口の町を見ることができた。

 町の照明はまばらに鋲を打つ形で町を箱のように作っていた。

 かなり遠くまできた錯覚を覚えて、身震いをした。

 

 蛍はいざという時の自分の臆病さを良く知っていたのであらかじめ退路を断っておいた。

 だからもう蛍に戻るという選択肢は事実上無くなっていた。

 

 だったら。

 

「行くしかないってことだね……」

 

 ここまで来るのだってかなり緩やかな足取りだった。

 

 休み中ほぼ毎日歩いて体力をつけてきたと思ったけれど、思ってたより荷物が重くてペースを上げられなかった。

 

 そこまで時間があるわけじゃない。

 

 焦りを感じて蛍はついスマホを気にしてしまう。

 白い画面が映し出すのは今の時刻、今日という日が終わるまでにはまだそこそこの時間があった。

 

 うん、と誰に合図するわけでもなく、ひとり頷くと蛍は再び歩き始めた。

 少し脚が重く感じるが歩けないほどではなかった。

 

 

 

 風車まではここから更に登らなくてはならない。

 最初はしっかりとした舗装道になっていたが、少し傾斜がついたのを実感すると人一人が通れる程度の山道へと変わっていった。

 

 夜風に吹かれて草葉ががさがさと揺れる。

 虫の声は少し収まった感じがしたが、雉鳩や椋鳥の野鳥の鳴き声がすぐ近くから聞こえるようになった。

 彼らの棲家が近くのあるのかもしれない。

 

 偽りの夜とは違い、本物の夜は死んだように暗く、闇夜に何がいるのかの見当がつかなかった。

 

 湿気を帯びた生温い風と匂いはあの時によく似た感情を蛍の中に呼び起こしていた。

 言い知れぬ不安を抱えながらも、燐の背中を見つめながら黙々と歩いていたあの時のことを。

 

(燐は、信じたくなかったんだよね。サトくんとヒヒのこと。辛い気持ちのまま真実に向かって歩いていたんだ……)

 

 ざくっ、ざくっ、と土を踏みしめる重い靴音が夜の声と混ざって、蛍の小さな耳に届く。

 まだ使い込みの足りないトレッキングシューズだったが、それでも蛍の足の負担を和らげてくれていた。

 

 燐が好きだと言っていた青い草の匂いとキリギリスの鳴き声が混ざり合って夏の風情を感じさせた。

 

 でも今の蛍にそれを楽しむ余裕はなかった。

 

 以前とは比べ物にならないほど体力に余裕はあるはずだが、それでも疲労は拭えない。

 両足とも歩くたびにどんどん重くなり、ペースはガタ落ちになってた。

 

 山頂に近いためか心なしか空気が薄く感じられて肺が少し苦しくなる。

 

(なんだろう? 前よりきつい、かも……)

 

 荒くなった呼吸の下で蛍は頭を巡らせる。

 脳まで酸素が回らないのか、考えがまとまらない。

 思うように動いてくれない体に、蛍は少し戦慄した。

 

 顔にべったり張り付く髪を汗と一緒に拭うと、ふいにその考えにいきついた。

 

(そっか、前は燐だけが背負っていたから……)

 

 蛍はもう喋るだけの気力がなくなっていた。

 あのときのようにただ黙々と口をつぐみながら足だけを動かした。

 

 泥まみれのトレッキングシューズが鉛の塊のように重く、足にのしかかるようになった。

 足を一歩づつ上げるのがやっとの状態だった。

 

 あの時は燐だけが重荷を背負っていた。

 蛍やサトくんにその重さを気づかれないように明るく振舞っていただけ。

 燐は常に重荷を背負わせれたまま、三日間を過ごしていたのだ。

 

(燐は……凄いよね、わたしはこの程度でも脚が重くて仕方ないよ……)

 

 それは経験の差なのか、それとも精神の強さなのか。

 蛍は燐との違いを”普通”と意識したこともあったが、それはある意味間違いだった。

 

 燐は到底普通のカテゴリーには収まらなかった。

 明るく気が利いて頭の回転も速く、運動神経もとても良い。

 なによりとても優しかった。

 

 こんな素敵な燐が普通の少女であるはずがない。

 燐は特別なんだ、誰にとっても特別な存在、それが燐なんだ。

 

 だからこそ蛍の憧れでもあったわけなのだが、そんな燐に少しでも近づこうと色々と自分なりに努力してみた。

 

 休みの間に友達と積極的に出かけるようにしたし、明るく振舞おうと笑顔の練習もしてみた。

 苦手な生クリームも頑張って食べようとしてみたし、苦手な教科を克服するため復習も欠かさなかった。

 

 蛍の泣き所でもある体力をつけようと毎日散歩もした。

 ジョギングっぽいこともしてみたけどこれは長続きしなかった。

 

 あらゆることにチャレンジしてみた、とても苦手な料理にもトライしてみたのだが、一度として人が食べられるものを作ることが出来なかった。

 

 色々やってみてわかったことは燐はとてもすごいということだった。

 陳腐な言い回ししか出来ないが、燐は見た目以上にすごく素敵は人だということが分かった。

 改めて良く分かったのだ。

 

 

 はあ、はあ、どうしよう本当にしんどくなってきた。

 

 蛍の足取りはさらに重くなっており、ペースは登り始めの半分以下となっていた。

 道はより険しくなり、殆ど山道と化していた。

 

 軽い高揚感から始まった蛍の夜の単独トレッキングも、興奮はすっかり冷めていて、苦行が頭を支配していた。

 

 ペンライトの明かりと以前の勘を頼りにひたすらに進んできた道のりもいよいよ限界が見え始めてきたのだ。

 

 蛍にはなんで以前よりも辛く感じるのかが分かっていなかった。

 それは燐とサトくんがいたからこそであった。

 特に燐はあの辛い気持ちを抱えながらもしっかり蛍の歩きやすいペースに落として進めていたのだ。

 気持ちはとても焦っていたがそれでもペースを守ることが出来たのは単純な経験値と蛍に対する気遣いの表れだった。

 

 一人で山道を歩くのは一見楽そうに見えるが、実のところ複数人で歩くよりも数倍疲れてしまう。

 特に夜だとそれが倍増した。

 

 作り物の三日間の世界とは違って暗がりから何が出てくるか分からない。

 小平口町の山は深い為、様々な動物がいる可能性は十分あるのだ。

 それに人がこないとも限らない。

 

 ヒヒの言い伝えを比喩したわけではないが、制服姿の官能的な少女が一人、森にいるところを目撃されたらそれこそ何をされるか分かったものではない。

 

 結局のところヒヒもあのナニカも人間だった。

 だとすれば悪意や歓喜をもって近づいてくるのは人間だから、つまりオスがメスに欲情しているのだ。

 

 それは自然の摂理かもしれないが、当事者としては溜まったものではない。

 女と男では性交に求めるものがあまりにも違いすぎるのだから。

 

 

 

 はあ、はあ、はあ。

 

 余計なことを考えても気が紛れるどころか余計に辛くなってくる。

 

 意識は内側に向いたまま、意味さえ求めずに前を向いて歩くだけだ。

 休む事さえも考えなかった、ただ楽になりたいとは思っていた。

 

 息苦しい。

 

 こんな時、燐が隣にいてくれたら、優しく手を貸してくれたら、後ろから背中を押して声をかけてくれたら、どんな困難な道でも乗り越えることができるのに。

 

 在りし日を夢想しても望む通りにはならない。

 

 もう誰も手を貸してくれない、背中を守るものもいない。

 そして燐はもう傍にいないのだ、一番辛いときに友人がいないのは本当に辛い。

 

 ただ一人で暗闇をおぼつかない足取りで歩いているだけ、目的さえあやふやなのに。

 

 

(燐がいる、燐が待ってる)

 

 朦朧とした意識で考えられるのは霧のように淡く、ひどくぞんざいで曖昧なことだけ。

 

 燐へ想いだけが、引きづることしか出来ない蛍の足を限界以上に動かしていた。

 

 

 

 

 暗い空を突き上げるようにそれは立っていた。

 白く長い柱と、遥か上の方についている三枚の白い羽。

 

 風力発電用に設置された、山の上の白い風車、それが蛍の眼前にそびえ立っていた。

 

 円を描くように開けた広場に白い風車がぽつんと立っている。

 風車は転倒を意味する十字架のようでもあり、道を指ししめす灯台のようでもあった。

 白く細長いものは、あの時見た時から外観も何も変わっていない。

 時間を止めたように寂しそうな顔でひとり、そこで伸びていた。

 

「はぁーっ、つ、着いた……わたし、ひとりでここまで来れたんだ……誰の力も借りずに」

 

 ここまで来れてよかった。

 蛍は肺の底からのため息を長々とつくと、安堵感でその場で倒れ込みそうになった。

 下が泥でも四肢を伸ばせればそれで良かった、だけど、せっかく来てきた制服が泥まみれになるのは耐えられそうにない。

 この制服は燐との接点なのだから、それを汚すのは二人の関係の冒涜のようなものだ。

 

 蛍はさっきからずっと笑っている膝を物理的に叱咤して、手短に休める場所を探した。

 

 風車の前の階段スペースが良さそうだ。

 普通に歩くのさえしんどいが、蛍は足を引きずるようにして風車の前まで近寄ると、コンクリート造りの階段を一歩つづよじ登って、点検用の扉の前のスペースに腰を下ろした。

 

「はふゎあ~」

 

 おかしな声を上げながら蛍はぐったりと体をもたげた。

 

 そして待ってましたとばかりに水筒を取り出すと中の水を一気に飲み干した。

 ぬるま湯のような水が喉から胃袋に流れ落ちる。

 あまり美味しいものではなかったが、今はこれでも十分だった。

 

「……」

 

 蛍は何も言わずしばらくぼーっとしていた。

 疲れが通り過ぎるのを待つように、石のように黙って固まっていた。

 

 虫の声が騒がしいはずなのに何故か眠気を誘う。

 蛍はおずおずとスマホに目をやった。

 あと一時間もすれば日付が変わるだろう、それまでにやらなければならない。

 

 ずっとバックパックを背負っていることに蛍は今気づいた。

 それを緩慢な動きで下ろすと、小気味よくチャックを下ろして中をごそごそと漁る。

 

 中から茶色い液体の入ったペットボトルと四角い箱を取り出した。

 結構な重さがあり、蛍は困った顔を浮かべていた。

 

 自分のことながら、こんな重いものをわざわざ持ってきたのかと。

 実際はそこまで重いものでもないが、疲れをぶつける相手がそれしかなかったのだ。

 

 蛍は口をゆすぐ代わりに烏龍茶のペットボトルに口を付ける、むぐむぐと口の中こね回してからごくんと飲み込んだ。

 

 籐で編まれた四角い箱を手に取って中を開ける。

 中には綺麗に詰め込まれたサンドウィッチと付け合わせのサラダが彩りよく詰まっていた。

 

 小さなウェットシートで軽く手を拭いた後で、誰もいないことを確認すると、首周りと腋もウェットティッシュで拭き取った。

 汗で汚れた体がすこしさっぱりした。

 

 さっぱりしたことで急に食い気を感じた蛍は、プチトマトの蔕を指で抜いて、そのまま口に放り込んだ。

 

 一口噛むごとに甘みが赤い果実からこぼれ落ちる。

 それはフルーツトマトと呼ばれる品種で酸味よりも甘みが強く、果物よりも高い糖度をもつものもあり、蛍は通常のトマトよりもこちらを好んでいた。

 

 バスケットの隅に収められていたそれを、3つとも手でつまんで食べた。

 ハンカチを使って口を少し拭うと、ラップにくるまれたサンドウィッチに目を向けた。

 

 日本では食パンを挟んで作るサンドイッチが主流だが、蛍は食べやすくカットしたバゲットで作っていた。

 

 

 ──トーストしたバゲットの表面に薄くバターを塗って、その上にブーケレタスの葉と生ハム、薄く切ったアボカドを載せて、マヨネーズを少し塗ってそしてまたレタスの葉を乗せて、仕上げの黒こしょうをかける。

 上からバゲットを被せて形を整えると……バゲットサンドの出来上がり!

 ──いちおう料理らしい料理ができた、と自分では思っていた。

 

「燐、わたしだって料理ができるようになったんだよ?」

 

 

 これを料理と呼べるかはさておいて、蛍は自慢の一品を前に、自信満々な態度でそれを見せびらかした。

 これでも何度も練習して作ったものであった。

 失敗した分は蛍の朝食となっていたが、あまりに量が多かったので吉村さんにも手伝ってもらっていた。

 そのためここ何日かはパンが食卓に並んでいた、それは朝昼晩関係なかったので、蛍も家政婦も少し胃を悪くしてしまった。

 

 それでも蛍にとっては楽しい思い出となっていた。

 

 

「あ、これも写真にとっとかないと」

 

 蛍はバックパックからカメラを取り出すと、中が開いたままのバスケットを踊り場の中央に寄せてファインダー越しにピントをあわせた。

 

 パチリ、とシャッターを切る蛍。

 特有のアナログ音がレトロな風情を感じさせた。

 

 カメラ本体の下部から先程撮った写真が出てくるが、画像は真っ白だった。

 しばらく待つと徐々に白いキャンバスから色が浮かびだしてくる、そしてこれから食べるであろうとする一幕がそこに映し出されていた。

 

 蛍が持っていたのはインスタントカメラ、通称”チェキ”と呼ばれるものだった。

 

 最近の蛍が一番ハマっているもので、猫のポシェットよりも身につけることが多くなっていた。

 

 蛍は友達みんなと出かけるときも一人で散歩するときも欠かさず持って出ていた。

 そしてことあるたびにシャッターを切って、人物や風景を一枚の中に収めていた。

 

 これは燐や誰かに感化されたわけではなく、自主的に始めたことだった。

 

 

 

 アナログで撮った写真は味が出るものらしく、友達には結構評判であったようで、撮ったり撮られたりと、映えるツールとして親しまれていた。

 

 だが、蛍の意図するものとは違っていた。

 

 蛍は一冊のノートを取出すとページをめくって何やら書き込み始めた。

 そして書き終わると先程撮った写真を文章の下に貼り付ける。

 丸い可愛らしい文字とカラフルな文体でしたためられたそれは日記帳のようでもあった。

 

 そのようなノートを何冊もバックパックに入れて蛍は持ってきていた。

 

 

 蛍は満足そうにノートを眺めると、大切な思い出を閉じ込めるように、静かにノートを閉じた。

 

 やるだけのことはやったので、ようやく食事を再開させることにした。

 

「あ、美味しい! 自分で作ったと思うとすごく美味しい。そういえば、”外ご飯効果”で3倍美味しくなるんだっけ?」

 

 美味しさの理由を蛍はあれこれ考える、それだけこの瞬間に幸せを感じていた。

 そしてこれは自分へのご褒美のようなものだった。

 

 

 虫の声をバッググラウンドにして蛍はつかの間の幸せを目と耳と舌で味わっていた。

 

 蛍が空を見上げると、黒い雲の隙間から星が鋭く光っていた。

 電気信号のような星空を眺めながら、蛍はふいにある疑問をわきあがらせていた。

 

「小平口町って”ホタル”いないのかな? そういえば一度も見たことないや」

 

 自分の名前の由来となった昆虫の”ホタル”、夏のはじめ頃、地域によっては川沿いで見ることもある、発行する昆虫。

 夏の風物詩としても有名で、川もあり、山間の小平口町では多少なりとも見かけてもおかしくはないのだが、何故か一匹たりも見かけたことはなかった。

 

 そこになんらかの意味があるのかは分からない。

 ホタルが住む条件をこの地は満たしている気がするのに。

 

 ただこの町近辺ではいなかったのだ。

 

(やっぱり、わたしの名前ってそーゆー理由でつけられたのかな……ホタルのように儚い存在って意味で)

 

 バスケットの中身をキレイに空にした蛍は余韻に浸るように黙って景色を見つめていた。

 

 空と山が一体になるかのように黒い稜線は波打つ水面のような曲線をたた長く伸ばしていた。

 

 耳を聾さんばかりの虫の騒音が風にのった二つの髪と同期するように凪いでいた。

 

 

「さて、ご飯も食べちゃったしね……そろそろやってみようかな」

 

 階段の縁に腰かけて所在無げに脚をぶらぶらさせていたが、蛍は思いついたかの様に腰をひねった。

 

 傍に置いたバックパックの口を開いて手を差し入れて、ごそごそと中を漁ってみる。

 暗さでよく分からなかったので、蛍は思い切って中身を全部出すことにした。

 

 白いコンリートの上に雑多なものが溢れ出ていた。

 可愛い図柄のノートが数冊とピンクの巾着袋の中の空のランチボックス、そして袋に入った色々なタイプの行動食と水の入ったペットボトル。

 それと黒いビニール袋がひとつあった。

 蛍はその包みを解いて袋の中身を躊躇なくぶちまけた。

 

 中にたいしたものは入っていない、麻のロープと処方薬と思しき白い紙包み、あとは……剃刀といったところだ。

 

 蛍はそれを見下ろしながら、ドリンクバーの前で今日は何を飲もうかと思案するような純粋さで頭をひねった。

 

「ロープ……すごく苦しいみたいだよね、それに……」

 

 白い風車の周りの木々を改めて見渡してみるが、御眼鏡に叶いそうな()()()()は見当たらなかった。

 

(まあこれは最後の手段でいいかな。下に何か()()()()()()()()()良さそうだし)

 

 取りあえずロープを使うことは止めて、他の道具で試して見ることにした。

 

剃刀(カミソリ)かぁ……ついもってきちゃったけど、意味ないんだよねこれ。ただ痛いだけだし」

 

 左手の長袖を少しまくってみる。

 手首には痛々しい横線が何本も引いてあり、何度も試した後が深い傷となって刻まれていた。

 

「気持ちが落ち着くっていう人もいるみたいだけど……そうでもないね。むしろもっと寂しくなっちゃった」

 

 自虐的な眼差しをここからは見えない蛍の家の方角に向ける。

 そしてあの時のことを回帰した。

 

 

 

 ──月明りだけの部屋で()()をやってみた。

 ちくっとした痛みはあったが、思っていたよりも痛みは少ない。

 

 赤い。

 

 わたしってやっぱり赤い血なんだ。

 

 手首から流れる絹の糸のようなそれは生々しい赤だった。

 その様子をじっと見ていたら、いつの間にか腕から零れ落ちてシーツまで落ちてしまっていた。

 赤い斑点が白いシーツにぽつぽつと何度も雫のようにこぼれ落ちる。

 

 ぽつり、ぽつり。

 

 カーテンの隙間から差し込むやわらかい光が赤いマーブル模様のシーツを金色に染めていた。

 

 その光景は、燐とオオモト様と三人でやったテーブルクロスを使った座敷童の説明のことを思い起こさせて、蛍は少し懐かしくなった。

 

 赤い斑点が落ちる様を砂時計のように数えながら、蛍はいつの間にか眠気に誘われていた。

 虚ろな意識で考えたのは燐のこと、それだけが意識の奥ではっきりと残っていた。

 

 

 次に目覚めたときは燐のところではなく、部屋だった。

 そして誰かに揺さぶられているのか気持ちの悪い目覚めだった。

 ここ最近での最悪の目覚めを蛍にしていたのは、顔を真っ青にして今にも泣きだしそうな家政婦の吉村だった。

 

「最近明るくなったって。吉村さんに言われたばっかりだったんだけどなぁ……」

 

 吉村さんに珍しく褒められたことを思い出して蛍は寂しそうに笑った。

 

 その日から吉村は蛍の一挙手一投足を注意深く見ることが多くなった。

 おそらく情緒不安定と見ているのだろう、それでもすぐには結論付けなかった。

 この世代の子は多感だし、夏休みに入る前は数日間とはいえ蛍は自室で食事もとらず塞ぎ込んでいたのだから。

 

 だが、そんな吉村の甘い考えは簡単に打ち砕かれた。

 

 一緒に食事を取る際にさりげなく蛍の手首を見るのだが、この二、三日の間に手首の傷が更に増えているのを確認して、思わず悲鳴を上げそうになりとっさに手で口を抑え込んだ。

 

 吉村の手から転がり落ちる箸に蛍は笑いながらそれを拾おうとしたときに、不意に手首を掴まれた。

 

 あっ、と蛍は思ったがもう遅かった。

 

 叩かれるかな? と蛍は好奇心を漲らせたが、そうではなかった。

 吉村はそのまま蛍をぎゅっと抱きしめていた。

 静かな和室にしゃくりあげるような嗚咽が何度もあがる、それは家政婦の吉村の嗚咽だった。

 蛍は困った顔でその必要以上に小さくなった背中を同じようにぎゅっと抱きしめた。

 二人はそのまま朝まで一緒にいることにした。

 

 

 次の日、吉村は朝から家にやってきた。

 蛍が疑問の顔で出迎えると、すぐさま病院に行こうと提案した。

 

 蛍はきょとんとした顔を浮かべて、ああ……、とひと言唸ると。

 

「うん、朝ごはん食べたら行くよ。吉村さんも一緒に来る?」

 

 と、屈託のない笑顔を向けた。

 てっきり抵抗されると思っていただけに、素直な蛍にいささか拍子抜けしていた。

 

 だがそれは、蛍の計画通りだった。

 家政婦には見抜けなかった、吉村の中では蛍は純粋で無垢な少女だったから。

 

 今回の件だって何かの気の迷いというかちょっとした好奇心が働いただけだと思っている。

 でも、何らかの安心が欲しかったのだ。

 

 

 

 吉村に付き添われて、下流の町の病院に行くことになった。

 いつもの電車で良かったのだが、体に障るからと珍しくタクシーを使うことになった。

 際限なく、ぐるぐる回る料金メーターが落ち着かない吉村の顔と妙にマッチして蛍はなんだが面白かった。

 

 市街地に立つ、大きな病院は真新しく、患者を荘厳な気分にさせる。

 無駄に装飾をあしらった広いロビーは三ツ星ホテルのように荘厳だった。

 白く清潔な壁と大理石のきれいな床に趣味の悪さを感じさせる。

 

 それでも腕は確かなようで、ネットでの評判もまずまずだった。

 

 蛍は普段通りの格好と仕草で医師の診察を受けた。

 その医師は以外にも女性だった、意外と言う言い方はハラスメントに相当するかもしれない。

 だから、女性医師であったことは頼もしかった、と言ったほうがいいだろう。

 

 精神科の知的な女性医師の思慮深い診察で、蛍は微弱な鬱の兆候が見られると診断された。

 それは隣にいる、やはり知的で美しい看護師も納得したようにうなずいている。

 

 自傷をしている以上、妥当な診断だとここにいる誰もが思っていた、当の本人さえも。

 あまりにも思惑通りの展開に蛍は眉を動かすことなく、胸中でほくそ笑んだ。

 表情を隠すのは割と得意な科目だった。

 

 

 蛍は医師にすがりつくような目線を向けると、実は最近寝付けていない、それが毎夜の狂った衝動に走らせると、おずおずとしかしハッキリとした声でいった。

 蛍はすべての罪を睡眠障害に擦り付けた。

 

 察しの良すぎる女性医師は眼鏡の奥の細い目を燻らせながら、蛍の両手を包み込むようにとった。

 そして最大限の理解を示すような念を込めた声色で、蛍と、その乙女を惑わす病状に心から共感を寄せてくれた。

 

 つまり蛍が望むがままに薬を処方してくれるということだった。

 

 これこそが蛍がここにきた最大の目的だった。

 

 医者は抗鬱剤と便秘の薬、そして肝心の睡眠薬を処方してくれた。

 ここまで来るのに時間がかかるから薬は多めに出してほしいと願ったら、それも快く受けてくれた。

 

 この医者の判断が甘いのか、病院の方針なのかは分からないが、とにかく上手くいった。

 自傷行為は前振りと言ってもいいぐらいで、この睡眠薬がどうしても欲しかったのだ。

 おかげで袋いっぱいの薬を受け取るはめになった、それはたっぷり70日分もあった。

 治療にはそれだけの日数がかかるということなのかもしれない、蛍はことの大きさに少し後悔した。

 さらに。あの医師と今日の気分を毎日ネット上でやり取りすることになってしまい、憂鬱な気分にさせられた。

 

 ──今、こうやって家を出れたのもかなり緻密な計画の下でのことだった。

 

 ここまでめんどくさいことになるとはさすがに想定外だった。

 

 でも、そのおかげでこれが手に入ったのだ。

 蛍は白い紙包みからクリーム色の楕円形の錠剤つまったシートを取りだした。

 1錠でも結構な効き目があるらしく、一日に2錠飲む場合は3時間ほど間を置く必要があった、そしてそれを行うには医師の許可が必要となる。

 

 そこまで効き目が強い薬なのだろう、だが実のところ蛍はまだこの睡眠薬を一度も飲んだことがなかった。

 それは蛍は睡眠障害などなかったからだ。

 

 1ダースはある薬のシートから一粒取り出してみる。

 ラグビーボールのような形の白い錠剤は消しゴムのようにも見えてちょっとだけ可愛く見えた。

 

 家庭用にも同じようなものがあるが、効き目がまったく違っていた。

 強い薬ほど副作用が濃く出てしまうことがあり、家庭用は成分が抑えらえていた。

 

 だが、蛍のは医療用、それかなり強めの睡眠薬だろう。

 もしかしたら麻薬の類に近いのかもしれない。

 

 蛍はこれを羊の子守唄(エターナルスリーピング)と名付けることにした。

 相変わらずのネーミングセンスだが、燐に絶対受けるだろうと思っていた。

 蛍には謎の自信があった。

 

「よし、ちょうど食後だし飲んじゃうよ。燐、いいよね」

 

 ここにいない親友に是非を訊ねる。

 とうぜん答えは返ってこない、辺りから聞こえてくるのは昆虫の声だけ。

 それでも蛍は声が聞こえたように何度も頷くと、覚悟を決めたように星空に微笑んだ。

 

 新しいペットボトルの蓋を開けるとそのまま水を一口含んで、むぐむぐと咀嚼するように動かすと、口をすぼめて地面に吐き出した。

 

 ちょっとだけ口内をさっぱりさせると、蛍は薬のシートを改めて眺めてみた。

 成分や注意事項が書かれた紙にも一応目を通すが、特に気にする様子もみせず、紙を袋にしまった。

 

 さて……何錠飲んでみようか?

 蛍は頬に指を当てて逡巡した。

 

「わたし薬、苦手なんだよね。特に錠剤はちょっと苦手……上手く飲み込めないし……やっぱり顆粒にしてほしかったな」

 

 蛍は医師にそう告げたのだが、この薬は顆粒がないらしく我慢してほしいと懇願された。

 処方箋を請け負った薬局にもそのことを告げたのだが、同じような回答だった。

 

「こーゆーこと言うのって子供っぽいのかな? 燐は薬飲んだりするの平気? まあ、薬を飲むのが好きな人なんてあんまりいないよね」

 

 蛍はぷちぷちと薬を指で押し出しながら独りごちた。

 手のひらの薬は全部で12錠、そのうち2錠は胃腸の薬だった。

 

「ただでさえ飲む薬が多いのにそれを薬で中和しなきゃらないのってどうなんだろ。でもこれも飲まないと胃を悪くしちゃうんだよね」

 

 蛍は飲む量にうんざりしながらも薬を服用することにした。

 だがそれでも蛍には大変な苦行だったので、結局三回に分けてなんとか飲むことができた。

 そうすると効き目は落ちる可能性もあるが仕方がない。

 

 まったく体に優しくない薬の毒々しい味は、先程のサンドウィッチのときめきを全部打ち消してしまっていた。

 

「はぁ……」

 

 蛍は風車まで辿り着いたときよりも深いため息をついた。

 やはり薬を飲むという行為が苦痛を伴うものだったから。

 

 

 一仕事やり終えた蛍はなんとなく自分のお腹を擦ってみた。

 消化できたかどうかを確かめるにはまだ早い気もするが、それでも気になっているのか、円を描くように何度も触ったりつねったりを繰り返していた。

 

 ……当然まだ変化は見られない、胃液が沸騰するような底知れぬ不快感もまだなかった。

 

 変化がないといえば蛍自身の体のこともあった。

 オオモト様に普通の少女になりつつあると言われたが、今のところなんの変化もない。

 座敷童の力がなくなったかどうかも分かってはいなかった。

 

 目に見える変化がないことが怖い。

 突然あの白い手の連中のようになってしまうことだって考えらないことではないのだ。

 

 ”普通”の定義が蛍には分からなかった。

 

「とにかく、あとは待つだけかな……」

 

 蛍は考えを打ち消すように両手をぐっと挙げて伸びをした。

 わざとらしい欠伸を浮かべてみるが、眠気は訪れそうにない。

 

 今度は瞼を閉じて、しばし黙り込んでみた。

 手持ち無沙汰からか、両手を組んでその時を待ち続けるが、やはりまだ効き目はやってこなかった。

 

 山間を焦がすように様々な虫の声が瞼を閉じた耳に流れ込んでくる。

 五月蝿いだけだと思っていた虫の声が今はそんなに悪くはない、それはこれから起こることへの鎮魂歌のようにも讃美歌にも聞こえたからだ。

 

 羽虫の声に身を委ねながら、蛍は一人、その中で終わりの時を待ち続けていた。

 

 

 ……小一時間ほど経っても蛍の体には何の変化はおきなかった。

 

 少しヤケになったのか、蛍は持っていたバックパックを枕代わりにしてコンクリートの床にごろんと寝転んだ。

 

 コンクリートの床は夜露を通さなかったのか、思ってたよりも冷たくはなかった。

 埃っぽさもなく硬ささえ目をつぶれば意外にも快適であり、縁側で夕涼みをしているのと大して変わらなかった。

 

 眼前には黒い雲の隙間からの星屑の海が視界を遮ることなくパノラマ状に広がっていて、自然のプラネタリウムの様相を醸し出していた。

 

 月は再び額縁の隅に隠れるようにして、ぼんやりとした光を下界に落としていた。

 

 夏の終わりに吹くような湿り気交じりの偏西風が蛍の前髪を優しく撫で上げる。

 アンダーシャツにくるまれた華奢な両腕を体に回して、かき抱くように体を包み込んだ。

 

 膝を曲げて丸くなっていると体の奥から黒い不安が湧き上がって、なんとなく嫌な感じになった。

 不安からか自身の手を空に高く突き出して掌を握ったり開いたりしてみた。

 蛍の手はかすかに震えていた。

 

 

「いよいよかな……?」

 

 他人事のように一言呟くと、蛍はバックパックの横のポケットから白い紙の玉のようなものを取り出す。

 

 それはノートの切れ端で出来たものだった。

 前は違った形をしていたのだが、”ある理由”から今のしわくちゃの、少しいびつな丸い紙の玉になってしまっていた。

 

 蛍は両手で玉を包み込むように握るとそのまま胸元で抱きしめた。

 決して力を入れないように優しく抱き止める姿は、卵を守る雌鶏のように優しく愛らしい穏やかな顔をしていた。

 

 想いと希望の慣れの果て、これこそが蛍の拠り所だった。

 耐え難い感情のうねりがこの形を造ってしまったのだ。

 

 はじめは酷く後悔した、綺麗なものを大切にしたかった、それだけだったのに。

 彼と同じことをわたしもしてしまったのだ、それも()()も!

 

 今は少しは落ち着くことができている。

 だって形を変えても想いは微かに残っているはずだから、わたしが手放さなければきっと残ったままだと信じているから……。

 

 

「燐……」

 

 蛍は意識があることを確かめるかのように大切な人の名前を呟いた。

 何度呼び掛けても返ってこない親友の声、それはまだ覚えているから。

 

 だから、そろそろ呼んでほしい。

 名前を呼ぶだけで幸せと言ってくれた、青空のような澄んだ声で。

 

 

 蛍は潤んだ瞳を虚空に向けて、生あくびを何度もかみ殺していた。

 それが薬によるものなのか、体の疲労からきてるものかは分からない。

 

 ただ闇の底から呼ぶような強烈な眠気が蛍の瞼と四肢を鉛のように重くさせていた。

 

 蛍は微睡みに誘われていた。

 意識を混濁させながら重度の夢遊病者のようにたどたどしい言葉を宙に向けて発していた。

 

「ねぇ、燐……わたし、まだこれが夢じゃないかって思ってるんだ。すごく、すごく長い夢の中にいるんじゃないかって思ってるんだよ、ほんとうなんだ……だってねえ、これって夢だよね? そうじゃなかったら説明が、つかないもん。わたしだけが覚えてるなんて……」

 

 羽虫も鳥も蛍の言葉には耳も貸さなかった。

 ただやりたいことをやっているだけ、だから蛍も同じようにした。

 

「もしくはね、何かの劇かなーって思ってるの……燐とわたしが主役で、意味のわからない不条理の演劇にむりやり出演してられてて……顔のないおばけや猿が襲ってくるのを二人でどこまでも逃げ続ける……でも最後はハッピーエンドで幕を閉じて拍手喝采……面白味、ないかな? わたしはこういう普通の終わり方が好きなんだけど……ね……」

 

 睡魔が蛍の思考を奪っていく、それは少し怖いけど望んだことだったから、自分で決めたことだったから。

 

 蛍は映らな瞳のまま夜空に視線を向ける。

 熱に浮かされたような焦点の合わない瞳はすべてのものを三つほど余分に見せていた。

 

 宝石の屑のように綺麗な星たちも、白い剣のようにそびえる風車も、青白く照らす月さえも、何もかもが三重に海の底のように揺らめいて見えていた。

 それはパラレル画像を逆からみたように均等でおかしな光景だった。

 蛍はその光景に何かを見出したのか、にこっと微笑んでいた。

 

 ──だからそのままパラレル世界の裏側に身を置くことにした。

 

「燐……そろそろ出番だよ……早く来ないと劇が進まないよ。恥ずかしいのかな? 大丈夫、わたしが一緒に出てあげるから、大丈夫だよ」

 

 何かが失われていく感覚、それを心の内側で感じた蛍は、白い紙の玉に縋るように抱きしめた。

 黒い睡魔が蛍を奪いさろうと腕を伸ばす、それは抗えようにない甘い誘いだった。

 

「ちょっと、怖い、かも……でも、これで、燐……に会えるのかな……だったら……」

 

 それっきり蛍は言葉を出さなかった。

 代わりに小さい寝息を立てていた、両手で小さな紙を丸めたものを抱いたままで。

 

 あたりは虫の声が支配していた。

 秋の虫も混じり始めたのか、ときおり豊かなハーモニーになることもあった。

 

 少女の寝息は小さかった、もうこのまま目覚めないんじゃないかと心配になるほど小さく、とぎれとぎれになっていた。

 

 

 

 そして何かのスイッチが消えたように、ふっ、と蛍は意識を失った。

 

 

 暗がりの中で一人横たわる少女の姿は美しくも儚げな危うさがあった。

 

 それは黒い羽虫の(あかり) が消えたときの()()()()とよく似ていた。

 

 

 風の囁きも虫の騒めきもどの音も蛍の耳には届いていなかった。

 

 

 

 

 

─────────

───────

─────

 

 






はううう、PCが起動不可になるとは微塵にも思わなかったですよ──!!
とは言っても自分が悪いんですけどね……なんで余計なことまでしちゃうのかなあ、私……パニくると変なことする癖があるんでしょうか……。
おかげで新しいPCを買う羽目になってしまいましたよ──! 余計な出費がかさんでしまったですよ……まだスマホ買い替えてもないのに……。

貰い物で10年近く前のPCだったのですけど全然メンテしてなかったのが悪かったのかなあ? 前の持ち主も私も中を一度も開けたことなかったですしね──予想通り誇りまみれでこんな状態でよく動いていたものですよ──。

でも、使ってる人間が大体悪いんですよね。いくら古くても使い方次第ですしね……もう少しいろいろなものを大事にしたいです、本当に。

大事なデータはなんとか移すことができましたけど、まだ全部じゃないですねー。でも、本当に大事なデータってごくわずかだと思い知りましたよー。9割はわりとどうでもいい駄データだったんですねー。これを気にデータの断捨離をしたいと思ってます。

スマホでも書くことはできるのでちょこちょこ更新してはいたのですが、ものすっごく使いづらかったですー。音声文字入力も試してみましたが、私の喋り方が悪いのか、誤変換ばかりであんましいい感じにならなかったです……私の滑舌が悪いだけなのかもしれないですけどっ。

しかも私のスマホが低性能かつ画面が小さい&解像度が低い(これが一番の苦しみどころでした……)しかもバッテリー持ちも悪いという、低価格アンドロイド携帯の三重苦を抱えていたのでストレス半端なかったです。

こうやって今、モニタで書けることを至上の喜びとなってますよ~。当たり前の幸せってこういうことを言うんですね~。改めて時間しますよー。でも、このモニタも割と古いんですけどねぇ……これもそのうち買い替えることになるのかなぁ? もうちょっとだけモニタには頑張って頂きたいですっ。

あ、そういえばPCがダメになってる間に”青い空のカミュ”が”美少女ゲームやり放題サービス”のラインナップに入ってましたね────!! めでたい、のかな? 既に持ってる私としては何ともいえないのですが、間口が広がるのは良いと思います!!

それに一週間無料でお試しできますので、青い空のカミュだけにプレイを限定すれば全部のCGを回収してもクリアまでは行くと思います。
でも、ボリュームが少ないゲームと言うわけではないんですよー! 何度もやってストーリーを理解していく探求型? 美少女ゲームなのかな……多分。

さらに有料サービスに加入すれば他の色々なゲームもやりつつ青カミュも余裕でクリア出来ちゃいますしねー。しかも一か月3000円と、YASUI!! ……気がします。
その辺りの金銭感覚は個人の判断にお任せします。 

それにしてもこのサービス、結構利用される人多いんでしょうか? サブスクリプションってイマイチ実感がっていうか所有感がなくてどうも苦手なんですよねーー。

まあ、私みたいに古い考えの人は少ないと思います。


それではでは~。


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Unravelable shoelaces



(ん……)
 
 蛍の意識は途絶えたかと思われたが、普通に微睡みの中から目を覚ました。
 まだ寝起きの怪訝な表情のまま、薄ぼんやりとした視界の中で瞼を少し上げる。

(まだ、朝じゃないんだ……)

 暢気な感想をそっと呟く、蛍が覚醒するにはまだまだ時間が必要だった。

 辺りはすべての明かりが消えたように真っ暗で、異様なほど静まり返っていたので、状況を把握できないでいた。
 五月蠅いぐらいに羽虫が騒いでいたはずなのに、今はその騒ぎの痕跡すらなかった。

 空と思しき天井は、満点の星空が静かに瞬きを繰り返していた。
 それにしてもあまりにもはっきり見えるものだから、銀河の中に放りこまれたみたいになって、少し胸が竦んだ。

 視界の奥には白く細長い風車が天にまで伸び、空を貫くほど真っ直ぐで、どこまでも伸びているような錯覚を思わせた。

 ベッド代わりに寝ていたのは、くすんだ灰色のコンクリートの床だった。
 弾力性など皆無に等しいコンクリート製の硬いベッドは、蛍の背中や腰に多大な負担と疲労感を強張りと共に与えていた。

 蛍は風車の下の狭いスペースで、バックパックを枕にしたまま、熟睡してたようだった。
 
(寝てた、んだよね? まだ夜みたいだけど今、何時かな)

 傍らに置いていたスマホに手を伸ばそうとするが、何故か手が動かなかった。
 指先だけは微かに動かすことができるところをみると、どうやら寝違えたみたいだ。

 この程度のことで不自由をきたす自分の体を恨めしそうに思いながら、蛍は体全体に力を込めて、何とか起き上がろうとするが、手どころか足さえも動いてくれない。

 仰向けから腰を捻って横向きの態勢になろうするが、それも出来ない。
 首から下が石像になったみたいに重くなり、その四肢の感覚すらなくなっていた。

(何、これ!?)

 心地よい微睡みの世界から、急に冷たい現実的な荒野の中に晒されたように、蛍の理解の範疇を超えた現象が突如して襲い掛かってきた。

 不安と焦燥が胸の奥からこんこんと湧き出してくるようで、蛍は軽いパニック状態となっていた。

(怖い……もしかしてこれが死んじゃうってことなの!?)

 それを意識するほどに恐怖が束となって心のバケツをこんこんと溢れさせようとする。
 止めようとすればするほどどんどんと湧きあがってくる。

 今の状況を確認したくても、肝心の身体が動かないのではどうにもならない。
 蛍は可能な限りの手段を試みてみる。

 とりあえず目は普通に動かすことが出来る。
 これは不幸中の幸いだったが、なまじ見える分、恐怖を感じやすくなったのかもしれない。

 眼球だけを必死に動かしてこの状況を確認しようと蛍は必死になった。
 明かりのない鬱蒼な夜の森では隠れる場所が多すぎて、何がいてもおかしくはない。
 もしかしたら、こうさせた何かがすぐそばにいるかもしれないのだから。

 精々今わかるのは、風車の下で仰向けに寝ていて、体が思うように動かせない、それだけだった。

 蛍は無理だと思いながらも、もう一度スマホに手を伸ばそうとする。
 やはり手は動きそうにない、ただ指だけは何かに怯えたようにぶるぶると震わすことが出来る。
 それ以上は一ミリも動いてはくれなかった。
 足も同様に、曲げることも捻ることも出来ない、足指をぎゅっとつかむことすらできなかった。

 足も手も動かし方を忘れたように、ただだらんとさせていることしかできない。
 ここまでくると寝違えただけの問題ではないのだろう。

(これって金縛り? みたいだよね……あ、これが金縛りなんだ……初めて掛かったよ)
 
 今まで金縛りのようなことにあったことはなかった。
 思春期の頃には稀に見られるようだが、蛍には全くの疎遠な出来事だった。

(確か、金縛りは悪霊とか妖怪の仕業とか言われてたこともあるんだっけ? わたしは……()()妖怪なのかな? でも、妖怪なら金縛りにならない、よね? じゃあ、人間ってことかな)

 蛍はあれから数か月立っても自分が座敷童の血を引いているとは完全には信じていなかった。
 病院に行ったとき少し気にしていたが、()()としての異常はなかった。
 鬱の傾向アリとは診断されてしまったが。
 外見も内面も人間であると診断されたのは、思ったよりも嬉しいものだった。
 人間と座敷童の違い、それは結局何なのだろうか?

 蛍が難しい顔で試案していると、左の腰辺りがぼんやりと光っていることに今気付いた。
 体は動かないので、視線を頑張ってその方向に向けると、小さな筒状の物を視界の隅に捉えることが出来た。
 多分ペンライトの明かりだろう、確か、寝る直前まで点けておいたままだったはず。
 光量をさらに抑えた省エネモードにしていたので、まだ電池が持ったのだろう。
 
 ほんのりとした明かりに少し安堵した。


 しばらくの間じっとしていたが、それでもまだ身体は動きそうにない。
 さっきまでちょっとだけ動かせていた指先も今は蝋を落とされたように固まってしまった。
 これでは埒が明きそうにないので、試しに蛍は口を動かそうと試みる。

 ……口は半開きのまま、これ以上開けることも閉めることも出来なかった。

 ポカンと口を開けたまま、声を出そうとお腹に力を入れてみた。
 お腹はちゃんと動いてくれるが、声帯が震えてはくれない。
 ”あ”も”い”も出てはくれなかった。

 舌先が細かに震えるものの、そこから言葉をだすことができない。
 声帯が麻痺したのか、それとも声帯がなくなってしまったのか。
 どちらにせよ本格的に深刻な状況だった。

 単純な言葉を順番に試してみるが、なしのつぶての有様だった。
 半開きの口は接着剤でも流し込まれたかのように微妙な形で固まってしまった。

 鼻筋から下が自分のものじゃなくなってしまった。
 それはショーウィンドウのマネキンのように、人の真似を懸命にしてる哀れな人形のようであった。

 それでも息ができるだけマシなのだろうけども。

 ちなみに鼻で呼吸はできた。
 ただ生きる分には今のところ大丈夫だが、この先どうなるかはわからない。
 やがて全て金縛りにあってしまうこともありうるのだから。

(全部麻痺したらやっぱりしんじゃうのかな? まあそれも悪くないのかもね……)

 蛍は妙に落ち着き払った顔で頭上の景色を眺めていた。
 首が動かない以上、これしかやることがなかった。
 とりあえず月の形を再確認したり、有名な星座を目でなぞったりと、気の紛らわす行為に没頭していた。

 全くの無意味な行為だった。
 それでも蛍は穏やかな眼差しで黒い空を見ていた。
 こうなったとことに心当たりがあるのだから、仕方なかったのだ。

(薬の副作用だよね、きっと。ちゃんと用法を守らないからこうなったのかも……? お医者さんが言ってた通り結構、強い薬だったんだね)

 薬で金縛りに合うのは少しおかしかった。
 蛍の飲んだのは睡眠薬であって、筋弛緩剤の類ではないのだから。
 それでも蛍はこのことに何の疑問も抱かなかった、他の要因は考えにくい、そう決めつけていたのだ。
 
 それに……()()()()何かと都合が良かった。
 すべてを薬のせいにすれば、ちょっとだけ気が楽だったからだ。

 ただ身体が拒絶反応を示さなかったのが意外だった。
 もしこの動かない身体で胃の中のものが逆流なんてことになったら……想像しただけでも恐ろしいことになる。
 嘔吐の海で溺れて死ぬなんて笑いごとにもならないだろう。

 でも、寝返りの打てない身体で嘔吐が詰まって死ぬケースは割と多いらしい、何かの本で読んだ気がする。
 そういう意味では恵まれている気がする、まだ身体は綺麗なままだったから。


 ……それにしても、動けないことがこんなに辛くて怖いものだとは思わなかった。
 健常な時は気づかないが、普通に身体が動くことはそれだけで幸せなことだったんだ。

 今は夜空を見上げることしか出来ない。
 星の瞬きと月の暖かさを感じることだけ。
 それでもこの綺麗な空を見ながらしねるのならそれも幸せなことのように思える。

 ただ、もし今、悪意をもった者が現れでもしたら、どうすることもできないだろう。
 好き放題されて身も心もボロボロになると思う、それはとても怖いこと。
 死んだ方がましと思えるかもしれない。

 この状態だと穢された絶望から舌を噛むことも出来ない。
 死ぬことすら自らの手で行えないのだから、いわゆる”詰み”だろう。

 相手の気が済むまで蹂躙され続けるだけ。
 始めも終わりも相手次第、飽きるまでずっと穢され続けるだろう。

 身体を穢されても心さえ綺麗ならばと思うのだが、多分自分には無理だろう。
 もし燐に汚されたことを知れたら恥ずかしくて生きていけないし、第一燐に知られたくはない。
 もし燐に知られたらその時点で命を絶つだろうと思う。

 燐は……自分の心に誠実であったから、わたしの前からいなくなったんだんだね……。


 深い悲しみの後の、罪滅ぼし。
 それは肉体を離れて、綺麗な心のままでいること。

 
(でもね、燐。心だけじゃダメなんだよ、身体があってこその心なんだから。それに燐はわたしと違って運動神経だって良かったし、病気のない健康な体をしてたのに、そんな邪険にしちゃダメだよ。身体だって燐を形作る一部なんだから……)

 燐に言えなかったこと伝えられなかったことが、今更のように頭に浮かんでくる。
 そしてこんな時に限って声が出せない。
 その無力さが悲しかった。

 蛍はふと、自分の体を気にしてみる。
 首も動かせないので目だけで下を見てみると、自分の無駄に大きく邪魔な部分が視界の大部分をしめていた。

(燐と比べて、わたしの体って嫌だなぁ。胸なんて無駄に大きいし、そのせいで恥ずかしいし、重いし、汗ばむし、で全然いいことなんてないよ。燐のように無駄のない可愛い身体のほうがよかったなぁ)

 蛍は誇張ぬきで自分の体を好きではなかった。
 理由は蛍が思っていた通りで、メリットを感じたことなど殆どない。
 
 ただ、あのプールでのとき蛍の体を綺麗と燐が褒めてくれたのはとても嬉しかった。
 もし何かしらの良いことがあったとしたらそれだけだった。

 好きな人に自分の体を褒めてもらえるのは素直に嬉しい。
 一部の同性からは羨望と嫉妬の目で見られることもあった。
 男性からはもっと酷く、好奇と欲望の目でたえず見られていることもあった。

 それでも燐が綺麗と言ってくれたから、”綺麗な蛍”と言ってくれたことが何よりも嬉しい、それはわたしが生きる自信につながったのだから。

 わたしはわたしのことを好きでいられたのだから。

(でも、綺麗な身体も動かないんじゃどうしようもないよね。やっぱりだなあ……)

 どう力を込めても岩のようにびくともしない。
 身体全体に鉄の重しが乗っているかのような、そんな不自然さ。

 もしかしたら、もうわたしの体はなくなったのかもしれない。
 わたしの身体は誰かのところに行って、今は首だけなのかもしれない。
 それでもいいか、と蛍は本心で思っていた。

 それでも、視界にはまだ役に立たない身体が横たわっていた。
 震わせることしか出来ない指と、無駄に大きく丸みを帯びた自分の胸部は否が応でも目に入ってしまう。

 それが蛍を落胆させていた。
 生きているのか死んでいるのか曖昧な身体が情けなかった。
 複雑な顔で蛍はため息をついた。

(このまま、わたしの身体が全部動かなくなるのも時間の問題かもね……ねえ、燐。もしわたしが身体を手放したら貰って、くれる、かな? もし燐が戻ってきてくれるならこの身体でもなんでもあげるんだけどね。もっとも、わたしの弱くて重い身体じゃ燐は嬉しくないかもね)

 軽く微笑むことすら出来なかったので、代わりに蛍は瞳を物憂げに細めた。

(でも、本当にどうしたらいいのかな? まあ、でもどっちみちしんじゃうならもう一度身体動かないかな? 一度だけでいいんだけど……)

 蛍は最後の力を振り絞るつもりで、今一度、身体全体に力を込めてみる。

 起き上がれ──なかった。

 ぴくりとも身体は動かせず、むしろ力を入れすぎたせいか、呼吸が苦しくなった。
 
 はあ、はあ、首から上だけを動かして酸素を貪る。

 これ以上はもはや無駄だと悟った。
 だから蛍は再び瞼を閉じた。

(もういいや。夜空も月も堪能したし、もう見るものもない。あとはこうやってしぬのを待ってみよう)

 蛍は瞼の裏側に星と月、そして風車の光景を焼き付けてそれを頭の中でイメージとしてつくりあげる。
 その中でわたしと、燐が手を繋いで歩いているんだ、どこまでも、一緒に……。


 きっとこれが”完璧な世界”なんだね。
 
 
 わたしは燐と同じところに行くんだ。
 それはどこまでも、燐と一緒に、どこまでも。

 それはとても楽しいこと、そしてそれは時間を忘れられる。

 そうすればそのうち終わるだろう、心臓か脳かどちらが麻痺するに違いない。
 もう苦しいも悲しいのも十分判った。

 ねぇ、──燐、あなたと楽しいことをしてる夢で終わりたいな。
 二人だけの楽しい世界のままで。

 それは最後のわがまま。



 最後のイメージが少しまとまりきらなかったのでもう一度だけ瞼を開けてみる。

 誰かいた。

 その黒いシルエットには見覚えがあった。
 よく知っている顔だったから。

(あ、なんだそういうことか……最初からそう言えばいいのに)


 ()()()は刃物を持った手を高々と夜空にかざす。
 それは月の煌めきを反射して銀の刀身にその醜い顔を浮かび上がらせていた。

 我ながら酷い顔……蛍は本気でそう思っていた。
 そして()()()()()()目掛けて刃物を振り下ろす。
 それは正確に急所をとらえていた。

(そんなに憎いんだ……いいよ別に。でも、そのかわり……)

 びゅん。
 風切る音が耳朶を打つ。

(早く楽にしてほしい)

 鈍い音がして。


 世界は再び真っ暗になった。
 




 

 

 ……嫌な音。

 

 とても嫌な音がする。

 

 なんていうんだっけこれ? 確か……モスキート音とか何かで言ってた気がする。

 

 ”蚊の鳴くような声”だっけ? なんか聴力のバロメータ的なやつ。

 そういう類の音がする……それもすぐ近くから、耳元で何度も。

 

 周りを飛び回っているみたいに……。

 

 すごく不快、誰か止めてほしい……。

 

 誰でもいいから……。

 

 今すぐとめて。

 

 パシッ!

 

 無意識に手が動いた。

 

 叩いた手も叩かれた手も両方とも痛い。

 けれども何かを潰したような手ごたえがあった。

 

 まだ覚醒してない意識で手ごたえあった手をぼんやりと眺める。

 

 右の掌に一本の線が見えた、良く見るとそれは細長くなった虫の死がいだった。

 その虫が蓄えていたのだろう、赤い血がインクを零したように掌を赤く染めていた。

 

 スカートの裾で汚れた手を無造作に拭うと、それ以上は気にすることなく、眠りの中へもう一度落ちることに決めた。

 

 むにゃむにゃと無邪気に微睡んで、身体を横向きに捻る。

 床は石そのものみたいな硬さがあったが、少女には極上のベッドで寝てるのとそれほど区別のない幸せな吐息を漏らしていた。

 

「ひゃふぅ……」

 

 言葉ともつかない声をだして、まだ起きる気をみせない少女。

 眠りから覚まそうとするものも、耳元で騒ぎ立てる時計もないのだから、このままずっと寝ていられそうだった。

 

 だが、耳元の奥にへばりつくような、ノイズ音がぷつぷつと細切れに入ってくる。

 

 変調を繰り返す、雑多なホワイトノイズ。

 じーじー、とかぎーぎー、とか電気信号とさほど変わりないあの単調な音。

 風情など特に感じないあの音がいつまでも鳴っている、その単調な不快さは徐々に覚醒へと導いていく。

 四方八方から聞こえる虫の音は否応なしに少女を現実へと呼び戻した。

 

(あ、れ……?)

 

 おかれた状況を確認するだけの身体の準備がまだ整っていない。

 少女は瞼を擦りながら、周囲を見渡してみる。

 

 月はまだ真上にいて、暗い夜の森にいた。

 風車の下で勝手に寝ていただけ、それだけだった。

 

 それはある種の安堵感とほんの少しの落胆を少女に感じさせていた。

 

 何か夢を見た気がするが、まったく覚えてはいない。

 ぼんやりとしたビジョンの断片も何も思い出せなかった。

 

 ──ただ。

 

 後、もうちょっとだった気がした。

 何がかはわからないが。

 

 それでも蛍はこの場所で目を覚ましたのだ。

 虫の戦慄く真夏の夜の森の中で。

 

 

 蛍は緩慢な動きで上体を起こすと、なんとなく首を左右に動かしてみたり、両手をぶらぶらとさせてみた。

 

 不思議と身体に異常はない。

 少し痛む箇所はあるが、普通に動く、筋肉痛のような怠さもなさそうだった。

 

 両手を組んで上に伸ばす……すると左手の甲に微妙な違和感を感じた。

 長袖のアンダーシャツがカバー出来ていない唯一の箇所、そこが痛みにも似た別の自己主張をしてくる。

 先ほど虫がいた個所だった。

 その手の甲の真ん中辺りが腫れぼったくなって、チリチリとした異常を訴えてくる。

 

 蛍は傍らに置いていたペンライトを手に取りそこに光を当てる。

 手の甲の中心が少し赤みを帯びていて、ぷっくりと大きく腫れていた。

 恐らくさっきの虫のせいだろう、よく見るとその腫れの中に針のような小さな(あざ)があった。

 

「さっきのって”蚊”、だったのかな?」

 

 患部に手を伸ばす、指で触ってみると、少し盛り上がっているのがわかった。

 そこを指で引っ搔いてみる。

 

 痒い。

 ちょっと掻いたら余計に痒くなってきた。

 痒みを止めようと、少し強く掻いてみる。

 

 ぽりぽり。

 

 それでも痒みが収まらないので、蛍はもっと掻いてみることにした。

 

 かりかり。

 

 いくら掻いても痒みが止まらない。

 それどころか痒みはどんどんと強くなっていくようだ。

 いっそのこと皮膚ごと掻き毟りたくなってきた。

 

(……あ、そういえばこういう時はバッテンを付ければいいって吉村さんが言ってた気がする……)

 

 爪でこうバツの字をつけるようにすれば痒みが和らぐと前に家政婦が言ってたことを思い出した。

 

 そういえば……と、蛍は長年の疑問の解決を急に得た。

 

「わたし、蚊に刺されたのって、もしかしたら初めてかもしれない。なんで今まで刺されたっことがなかったのかはわからないけど。多分初めてのことだこれ……」

 

 蛍は無意識に手を掻きながら感嘆した。

 

 そのことが蛍に決定的なものを知るきっかけとなるはずなのだが、当の本人は痒みを止めることだけに集中していたので、それが分かるのは少し後の話だった。

 

 とりあえず蛍は、家政婦の教えの通り、人差し指の爪を使って毒素を注がれて膨れ上がった痒みを原因となった皮膚のドームに駐車禁止のバッテンをつける。

 

 所謂おまじないのような行為で、痒みは完全に収まったわけでもないが、不思議と楽になった気がした。

 

「はぁ……」

 

 思わずため息をこぼす。

 これまで経験のない痒みは蛍の目を覚まし、そして疲れさせた。

 

 ぐわっぐわっ。

 

 不意に近くの木が大きく揺れて、何かが飛び立つ音が聞こえてきた。

 明らかに大きさの違う鳴き声が周囲に反響して、虫の声をかき消しながら、黒い闇の空へと消えていった。

 

 蛍は一瞬呆気にとられたが、ややあって、びくっと身を震わせた。

 カラスだろうか? 目で見えない対象の恐怖は、蛍になお一層の現実感を思い起こさせた。

 

「あれ? わたし、何してたんだっけ?」

 

 蛍は寝ぼけた頭をおこすべく、頬に指をあてて考え込んだ。

 蚊に刺された箇所はまだ痒みを伴っているが、それ以外に目立った傷や汚れもない。

 

「ここ、風車の下、だよね。普通に起きちゃったんだ……」

 

 辺りはまだ暗い夜の森の中であって、頭上にそびえる風車は音もなくただ佇んでいた。

 蛍は切ってあったスマホの電源を入れる。

 すでに日付は変わってしまった後だが、夜明けまではまだまだ時間があった。

 そのことから蛍が寝ていたのはせいぜい一、二時間程度のことだったことがわかった。

 

 まだ夜が明けてないことに少しほっとした。

 

(ちゃんと薬飲んだはずのに……効かなかったみたいだね)

 

 傍に置いてある、処方箋の紙袋を拾い上げる。

 睡眠導入剤のシートは綺麗になくなっていた。

 

 抗うつ剤はキチンと並べられていたが、当然飲む気はしなかった。

 

 蛍は複雑そうな顔で白い小さな紙袋を見つめていた。

 

(このまま目が覚めなくても良かったのにね)

 

 しかし目が覚めてしまったのだから仕方がない。

 いろいろあったせいか、すでに眠気は消えてしまった。

 

 蛍はこの状況を受けいれるべく、とりあえず固くなった首と背中をぐっと伸ばしてみる。

 身体が整ったような気持ちよさを感じるが、同時に脳の奥から鋭い痛みが湧きあがり、思わず頭を抱えた。

 ずきずきとした痛みは内側から無限に湧いて出てくるようで、蛍はその場で蹲っていた。

 

「………っ!」

 

 堪らず両手で頭を押さえつける。

 かぶりを振ることも出来ず、彫像のように目を閉じて痛みをやりすごした。

 掌から熱と痛みの鼓動が伝わってきて、脈拍がびくびくとのたうつように高ぶっていた。

 

 熱と苦痛が蛍の思考を黒く焼き尽くしていく。

 

(あうっ、頭、痛い……頭が割れちゃいそうに痛い、よ……何これ? もしかして……薬の、副作用、なの……!?)

 

 大量の睡眠導入剤を飲んだのだから、体に何らかの影響が出てもおかしくはない。

 本来二錠でも多い薬をいっぺんに八錠も飲めば身体に悪影響を及ぼす可能性は高くなる。

 むしろ異常がない方がおかしいぐらいだ。

 

 それに、あれだけの量の睡眠薬を一度に飲んだのにこの程度しか寝れないとは思わなかった。

 

 白い床に投げ捨てられた、青白いスマホの画面は午前一時をさしていた。

 

 苦しまないで済むように睡眠薬を使用したのに、こんなことになるとは思わなかった。

 様々な感情が蛍の中に生まれていたが、痛みでなにもまとまらない。

 

 どのぐらいそうしていただろうか、しばらくすると痛みの波が潮を引くようにすっとどこかへ消えてしまっていた。

 

 蛍はとても深い息を長々と吐くと、バックバックの紐を掴んで、ペットボトルの水で喉を潤わせた。

 温めの水が一時の安らぎと気遣いを喉と胃にあたえてくれた。

 

 蛍はその場で座り込んだまま、呆然と虚空を眺めていた。

 痛みに敏感になっているのか、すぐに動き出すようなことはせず、一時の平穏に身を置いていた。

 

 痛みがぶり返さなかったので、蛍は傍にあった手すりに体重をかけてゆっくりと立ち上がってみる。

 立ち眩みのようなふらつきを一瞬見せるが、へたりこむようなこともなく、普通に立ち上がった。

 

 自分の身体の安定を確認した蛍は、しゃがみ込んでバッグパックを拾うと中身を確認する。

 その中から色とりどりのノートの束を取り出すと、胸元で大切に抱きかかえながらアスファルトの小さな階段をゆっくりと下りる、

 少し湿った地面に驚きながらも、風車の傍に回り込んで、決めて置いた場所につくと、草を足で踏みつけてスペースを作り、先ほどのノートの束をそっと静かに置いた。

 

 風車の傍に置かれたノートはあの雨の時と同じように、わけもなくぽつんとしていた。

 蛍は俯きながら、ここにはいない親友に呼びかける。

 

「届くかどうか分からないけど、ノートここに置いておくね。本当はわたしが直接燐に渡したかったんだけどなんか上手くいかなかったみたいだから。燐の都合のいい時でいいから良かったら読んでほしいな」

 

 少し困った顔で微笑んだ。

 

 そのノートは全部で三冊分あり、蛍の日々の生活とその時の気持ちや疑問を赤裸々に書いたものだった。

 それは聡が残したノートと同じように燐の為だけに書いた特別なものだった。

 女の子らしい可愛らしいデザインのノートは蛍の好みで選んだもので、少し丸みを帯びた字体と、写真を交えた蛍にしては凝った作りの日記帳となっていた。

 それこそ夏休みの宿題よりもはるかに気持ちとやる気を込めた力作であった。

 

 燐がいなくなったことへの葛藤や新しい友達、夏休みの生活など多岐に渡り様々な言葉を用いて出来るだけ丁寧に作った。

 時には感情に任せて書きなぐったこともあったが、それでも次の日には反省の弁も書いた。

 

 燐に近しい友人や燐が所属していた部活のこと、そして小平口町の今現在や町民のことも書いた。

 

 ……高森聡のことももちろん書いた。

 ただし燐が悲しまないように、できる限りの気を使って書いた。

 一番気を使った項目だった。

 

 あれから早いもので二か月とちょっとが経ち夏休みも最後となっていたが、それまでのことをできる限り詳細にそして燐が楽しめるようにまとめたつもりだ。

 

 中には言葉にすらなっていないページも何枚かはあったが、訂正することも破り捨てることもせずありのままの形で残した。

 

 あの大学ノートも同じであったのだろう。蛍は一度も見ることが出来なかったが、彼の見聞きしたことや、秘めた思い等、彼のすべてが書いてあったに違いない。

 彼の経験や道徳、そして、欲望まで一切合切が包み隠さず書き記してあったと思う。

 

 もうそれしか自分の気持ちを伝える術がなかったのだろう。

 だからこそ燐は戸惑ったのだ。

 燐が愛して、一つになってもいいと思った男の本性が赤裸々になったのだから。

 

 なんで聡はそんな恥ずかしいと思えるものを燐に残し、そして敢えて教えてしまったのか、それがわかっていなかった。

 誰だって自分の嫌な部分や、恥部を曝け出すのには抵抗あったはずだから。

 たとえ愛し合ったとしても、ほんとうのところは最後まで出さなかった人もいる。

 

 聡は本当の意味で燐を愛していたんだと思う、でもそれは燐の想いの範疇を超えていた。

 好きすぎて憎んでしまうことは割と良く聞く話だが、彼は燐が好きすぎてすべてを食らいつくすつもりだったのだ。

 それは燐の想いや気持ちを完全に無視する形となっても、それが止めきれなかったのだろう。

 

 男と女、お互いの気持ちが合うことなどまずありえないのだ。

 だからこそどちらかがある種の妥協をせねばならない。

 だが、それを強要した時点で対等でなくなってしまう。

 

 もし、本当の対等な関係になりたいのだとしたら、それは……。

 

「あうっ、また……いたっ!」

 

 蛍は目の前がぐらっとして、直後に強い痛みに襲われた。

 こめかみのあたりがずきずきと痺れるような痛みを何度も訴えかけてくる。

 

 思わずその場でしゃがみこんで痛みをが通り過ぎるのを待った。

 頭の中で大蛇がのたうち回るかように容赦のない痛みが蛍の頭を何度も打ち付ける。

 さらに副作用は別の部位にも影響を及ぼしていた。

 

 蛍は急に嘔吐感を感じて、何度もえずくように咳き込んだ。

 やはり薬は合わなかったのか、蛍の身体は明らかな拒否反応を出していた。

 

「はぁ、はぁ」

 

 蛍は急に具合が悪くなったように感じた。

 薬の影響とは言え、ここまで自分が弱いとは思わなかった。

 

 向こうの世界に行くことも、この世界で生きていくことも出来ない弱い自分が嫌だった。

 

(なんでわたしだけ一人でこんなところで苦しんでるんだろう……燐、オオモト様。わたし辛いよ、二人のいるところへ行きたい。完璧な世界、”青いドアの世界”に……)

 

 蛍はしゃがんだ姿勢のまま、顔を上に向ける。

 白い十字架は何を(はりつけ)にし、そして何を許したのか。

 それはどうでもいいことだった、だが気を紛らわす材料が不足していたので、それしかなかったのだ。

 

「向こうにいるんだよ、ね? 燐もオオモト様も。わたしも連れて行ってほしいのに、もう苦しいことは嫌なのに……もう、どうしたらいいのか……っ」

 

 頭の痛みが更に増してきて、本当に頭が割れそうになってくる。

 蛍はそうなればいいと思うようになってきた。

 そうすれば二人のいるところへ行けると。

 

 ──この世界とは違う世界。

 青と白で構成された、静謐な世界だった。

 湖のような水溜まりがところどころに点在していて、そこに一本のどこまでも続く長い線路があった。

 そして不思議な駅舎と、その駅に隣接している家、燐が名付けた”青いドアの家”だった。

 

 だが、その鮮やかな色のドアは消えてしまった。

 長い黒髪の柔和な女性、オオモト様がいなくなってからその家はがらんどうのようになってしまった。

 それは燐の居たマンションと同じように”すべて終わったあと”だった。

 

 誰もいない無人の駅舎も同じだった。

 行先の書いていない電車が来たとき、二人が手を離したときに、すべてが消えてしまったと思っていた。

 割れた結晶のように儚く、季節外れの雪のようにすべてが解けて消えてしまった。

 

 

 そう蛍の目には見えていた。

 それはホームに残った親友の姿も同様だった。

 

 でも、まだ二人はそこにいる。

 

 そう思うことが蛍の唯一の生きがいだった。

 

 その想いなくしては生きていけない、ここまで一人でこれたのも、二人への会いたい気持ちがそうさせたのだから。

 

 

 でも、睡眠薬を飲んだのにどうして……どうしてわたしはまだここにいるんだろう。

 

 まだ、苦しまなくちゃならないの?

 

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 

 ……少し痛みが治まった気がする。

 まだずきずきとする頭を押さえながら、蛍はことさらゆっくりと立ち上がった。

 

 ふらふらと揺れながら立つ少女の瞳は苦痛からか”いびつな色”になっていた。

 金色黄色(リビアングラス)の美しい無垢な瞳は篝を帯びたようにくすんでいて、表面は綺麗な色を湛えているのに、その奥の芯の部分は細かい傷がぱりぱりとひび割れたように、何本もの消せない傷をつけていた。

 

 瞳の外と内の色は完全に剥離しており、曖昧な瞳の色を印象付けていた。

 

 それでもなお蛍は前を見据えていた。

 進むべき道がまだあると言わんばかりに瞳を見開いて。

 

「……んっと」

 

 身体の不調をごまかすように蛍は腕をぐっと天高く伸ばしてみる。

 

 夜空に浮かぶ星も、月も、あまりにも高い位置ありすぎて、いくら指先伸ばしても触れることもかなわない。

 ここからではもう二人の場所は遠すぎるのだ。

 

(そうだよね、遠すぎて眩暈がしちゃうよ……でも、どうしようかな? もっと高いところへ行けばいいのかな)

 

 鈍い痛みを出すこめかみを意識で無理矢理押さえつけながら、蛍は必死に頭を巡らせた。

 痛みと波長を合わせるようにして、思考の深い海からその答えを引き出そうとする。

 

「そうだ! あの山の頂上、峠を越えた先の県境に通じる道。あそこにはまだ行ってないよね」

 

 蛍は、以前、燐の運転で行った山の頂上付近のことを思い出した。

 この町を抜けるため、燐と二人で軽自動車で山を越えようとしたときは、緑で出来た壁が邪魔をして隣県まで進むことが出来なかったのだ。

 

 あれはきっと歪みが作り出した不条理の壁なんだろう。

 それがわかったところで何もできなかっただろうけど。

 

 ただ、今はどうなっているのかはわからない。

 それが蛍の唯一の心残り、最後の疑問だった。

 

 おそらくは普通に通れる筈だろう、だって建物は全て元に戻っていたのだから。

 ただ緑の壁はどちらかと言うと生きている気がした。

 完全な無機物という感じではなかった。

 むしろ何らかの意図でもって邪魔している感じだった。

 

 辺鄙な山の頂上に突如として現れた、葉と緑で出来た見上げるほど高い壁。

 多分、緑のトンネルのように、意識をもっていたんだろう。

 悪意とか善意とか関係なく。

 

(でも、道が通れるってことも聞いてないんだよね)

 

 道が通じていることは普通だったから誰も報告はしないだろうけども。

 それでもここで待っているよりかはましな気がする。

 

 行く意味があるのかないのかはこの際関係ないのかもしれない。

 ”わたし”はまだ時間があるのだ。

 

 もしかしたらまだ薬の効き目が残っているかもしれないが、それを待つだけの理由も特になかった。

 

 ”後で”なんて言葉はなんの意味を持たない。

 今、どうするかが問題なんだ。

 

 蛍は自身の両頬を確かめるようにぺちぺちと叩いてみた。

 頭は痛いし、少し気分も悪い、おまけに膝への痛みもまだ残っていた。

 それでもまだ動ける……多分。

 

 まだ気だるい体を動かして、唯一の手荷物であるバックパックを引っ掴む。

 

 スマホを手にして夜明けまでの時間を確認する……まだ時間は残されている。

 

 蛍はバックパックを背負って手短に準備を整えると、ここから立ち去る前に、もう一度白い風車を見上げた。

 

 月明りが風車をより幻想的にさせていた。 

 白と白が重なり合って、細く伸びた柱に淡いグラデーションを作っていた。

 いつまでも動かない風車に意味があるのかはわからないが。

 燐も聡もこの風車が好きであったのだろう、そんな気がした。

 

(わたしはここであまりいい思い出がないから、そんなでもないけどね)

 

 ぺろっと舌を出す、そんな余裕が出てきた。

 

 蛍は目線を地面に置かれた日記帳に向ける。

 

 あの人と同じことしてる、と蛍は思っていた。

 でも不思議と嫌悪感はなく、同情にも似た連帯感があった。

 

「じゃあね、燐。また()()()()()()()

 

 それは普段のように自然な会話だった。

 蛍は軽く手を振ってこの場所を後にする。

 

 

 白い風車は動く気がないのか、それとも動き方を忘れてしまったのか、何も返すことなく、じっとそのままの姿だった。

 

 この風車に役目など最初からなかったのだ。

 

 それでも綺麗なままだった。

 

 

 

 ────────

 

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 ────────  

 

 

 峠の道のりは歩きやすい舗装道であったが、それが逆に良くなかった。

 

 舗装道の方が歩きやすいのは当然だが、夜間の森では景色に変化の色が見られないので退屈だった。

 どこを見ても真っ暗闇だから仕方がないのだが。

 

 それに道はどこまでも単調で、蛇の背のような曲がりくねった道を幾度超えても同じような暗い道が際限なく続いているように感じられて、終わりの見える兆しがない。

 

 上を見ても下を見ても同じような道の連続でループしているのではないかと思ってしまう。

 

 でも、そのことはすでにわかっていたことだった、だからこそより辛かった。

 知らなければどこまで続くかの不安はあるが、その分期待をもって歩くことが出来る。

 だが、知っていればもう期待はない。

 期待はないのに不安はあるというのはあまりにも酷なことだった。

 

 余計なことを考えずに、ただ歩くことだけに集中する。

 歩いていれば痛みも身体の不調も気にすることがなくなるから。

 

 それでもなおきつい勾配は、蛍の足と体力を容赦なく痛めつけてくる。

 

 僅かな街燈すらない山の峠道、それはとても心細く、かつ絶対的な孤独感があった。

 

 

 ……どれだけ歩いたのだろう。

 

 進めど進めど、頂上は見える兆候すらなかった。

 なによりこの道は看板の類がやけに少なく、先ほどみた数十キロ先の隣県のホテルの看板が一つあるだけだった。

 

 蛍はここを歩いていることを徐々にだが後悔し始めていた。

 そして、少し前、ここに車で来たときの自身の言葉を思い出していた。

 

「車じゃなきゃ、絶対、無理って……自分で言ってた、のに、ね……」

 

 息を切らせながら自嘲気味に笑うと、蛍は顔の表情を変えることなく足だけを動かした。

 頂上が近くなればなるほど勾配がきつくなっていく。

 車だと大したことない斜面が歩くだけでここまできついとは思わなかった。

 

 トレッキングシューズがなんの役にも立っていないと疑うほど、足取りはどんどん重くなっていく。

 背中のバックバックが鉄の甲羅にでもなったかのように物凄い重さで両肩と背筋を痛めつけてくる。

 手にしたペンライトがどうにも邪魔くさくて、バックバックの中に放り投げた。

 履き慣らしたはずのトレッキングシューズはいまや石のように重くなり、それが何かの罰のように足元をがんじがらめにしていく。

 

 なにか軽快なメロディーでもを口ずさんで気を紛らわしたいのだが、その気力も当になく。

 騒がしい虫の声だけが常闇のステージ上で夜明け前まで続くアンコールを延々と繰り返し(リピート)ていた。

 

 蛍はもう自分でもわかっていた。

 

 睡眠薬の効き目が段々と身体を蝕んでいることに。

 瞼は小石を張り付けたように重くなっていて、生あくびはいくら嚙み殺しても収まる気配をみせない。

 それどころか欠伸をすればするほど眠気が増してくるような気さえしてくるのだ。

 

 肩も背中も絶え間ない痛みをずっと訴え続けている。

 頭痛はもう持病になったかのように、ずっと頭を締め付けていた。

 そのせいで口を聞くことも、思考すらもままならない。

 身体すべての不調が蛍の限界を何度も超えていた。

 

 もうこれ以上は歩けないだろう。

 だってもう、歩くだけの気力も理由も足りないのだから。

 

 

「はあ、はあ、はあっ……」

 

 崖に沿うように続いていたガードレールが少し途切れたところで蛍はぱたっと歩みを止めた。

 

 薬がだいぶ身体に回ってきたのだろう、その視線はあらぬ方向を向いていた。

 蛍は今、自分がどこへ向かっていて、何をしに行くのかもわかってはいないようだった。

 

 呆然自失のまま、立ち尽くす蛍。

 傍目にも痛々しく映る姿は、少女が望んだ姿でもあった。

 

「足、痛いな……」

 

 なんともなしに呟くと、俯いたまま靴の爪先を黙って見つめていた。

 夜も更けて少し温度は落ち着いたはずなのだが、蛍はそれと反比例するように滝のような汗で全身を濡らしていた。

 

 冷たく、体の内から湧いてくる汗に不快感と寒気を感じるが、それを拭おうともせず、ただ立ち尽くすだけとなっていた。

 

 眠気と疲労が頭のなかでせめぎ合う。

 目を閉じてその場でじっとしていても、汗も眠気もどんどんと身体の内側から湧きあがってくるようだ。

 

 崖下から吹き抜ける風が蛍の長い髪をなびかせようとするが、汗で重くなり、肌に張り付いた髪はべったりとしてそれ以上動かなかった。

 

 はあ……、蛍は煩わしそうに髪をかき上げる。

 

 羽虫の声も大分遠くになった今、自分のため息だけが、とても大きく聞こえた。 

 黒い山の向こう側でなにかの鳥の鳴き声が聞こえるが、それを確かめるだけの気力がない。

 

「……」

 

 言葉を忘れたのか、何も言わず、最後のペットボトルの水を飲む。

 体が拒否しているのか、半分ほど飲んで後はアスファルトの上に転がした。

 

「もう、ダメ……つかれた……」

 

 蛍は倒れるようにガードレールに身を寄せて、ため息交じりの吐息を吐いた。

 体力の限界だけでなく、眠気もあってはどうすることもできない。

 軽く瞼を閉じただけでそのまま眠ってしまいそうだった……睡魔が蛍を眠りの園へ誘っていた。

 

 このまま寝たらきっともう目を覚ますことはないかもしれない。

 そんな予感がしていたが、それでも別によかった。

 

 このまま立ってでも眠りそうなほど瞼は重く、意識は暗闇に落ちていきそうだった。

 

「ごめん……もう無理……」

 

 蛍は誰ともなく謝ると、そのまま眠りの中に落ちようとする。

 もう何も考えられなかった。

 

 ただ寝ることだけに意識を向けようとしたとき──。

 

 視界の外側から強い光の束がこちらに向かって走ってきていた。

 

 眩しい光に照らされて、蛍は無意識に手をかざして対象をすがめる。

 強烈な光は黒と青の世界を切り取るようにして猛然と突進してくる。

 

 このままぶつかってしまうのではないかと思われたが、光を放つ物体はぎりぎりのところを避けて、猛スピードで蛍の目の前を駆けていった。

 生き物の目のように丸い二つの光は、呆然と佇む少女を気に留めることもなく、そのまま峠の道を下りていく。

 蛍は目を丸くしながらその後姿を呆然と見送った。

 

 はっきりとはわからなかったが、赤いテールランプで先ほどのものが車であることはわかった。

 多分、軽自動車だろう。

 特に車に詳しいわけではないが、どこかで()()()がある車種だった。 

 それは少しむっくりとしたデザインで、カラーバリエーション豊富な女性風(ガーリー)なイメージの軽自動車だった。

 

 燐が運転していた車と同じ軽自動車だった……気がする。

 

 かなりのスピードが出ていたのだろうエンジンの高く唸っていた。

 それほど慌ててはいないのか、それとも運転に自信があったのか、、蛍が近くにいてもクラクションの一つも鳴らなかった。

 

 蛍はなんとなく見覚えがあったその車を、通り過ぎる刹那に垣間見ていた。

 ウィンドウの向こうのドライバーはこちらからでは良く見えず、口元が確認できただけだった。

 

 ルージュをひいた口元で、燐ではないことだけはわかった。

 そんなわけあるはずがないのだけれど、いちおう気になったのだ。

 

 車はガラスを切ったようなスキール音を山肌に響かせながら、夜の峠道を猛然と駆け下りていく。

 瞬く間に小さくなるテールランプ、その小さな赤い光を呆然と見ていた。

 蛍は二つの赤い光を見ながら、頭の中に生まれた漠然としたもやもやを腕を組んで整理していた。

 あれだけあった眠気は再びどこかへ行ってしまった。

 

「……車が来たってことは……」

 

 蛍は思案気に呟いた。

 そして車が来た方角に指を差す。

 すっかり暗さが戻った車道を見て、蛍はあることを理解しようとしていた。

 

(この道はもう峠まで一本道……ということは、峠の道はそのまま県境まで通じているってことだよね)

 

 はあ……、蛍は肺の奥の空気を一滴残らず外へ吐き出した。

 深いため息の後、白いガードレールに寄りかかって、遠くの山々を眺める。

 

 山の稜線が空と同じ色に染まって、作り物のように理路整然とした絵肌を暗闇の遠くまで描き出していた。

 

 蛍は純粋に心が満ち足りていた。

 峠の頂上までは行けなかったが、その必要がなくなったのだから、ある意味得をした。

 

 反対側から車が来たということは、峠の道は隣の県まで続いているのだ。

 蛍はその理論に満足していた。

 薄々わかっていはいたことだけと、実際に何らかの答えが欲しかったのだから。

 それがわかっただけでも、もう十分やり遂げた。

 

 それに……ここでの景色は今までみたどの景色よりも最高に良かったから。

 

 気温差と標高が生む、白い靄が山と森を幻想的に染め上げている光景が、とても心地よかった。

 ここからでは点のようにしか見えない町並みに、遠くまできたことを存分に味合わせてくれる、得も言われぬ達成感。

 

 これ以上のものがどこにあるのだろう。

 もっといい景色があるのかもしれないが、今の蛍にはこれだけで十分満足できた。

 

 

 ただ一つ残念なのは……今、一人ぼっちだってことだけ。

 大好きな人が、燐が、隣にいてさえくればこれまでの人生で最高レベルの出来事なのに。

 

 それだけが本当に……。

 

 

「わたしね」

 

 白いガードレールに両手を添えながら、蛍はここからではその陰すらも見えない、はるか先の景色を思い描いていた。

 

「わたし、あのDJの人が言ってたことって比喩だと思ってるんだ。ほら、古いものも新しいものも流れたってあの人言ってたでしょ。結局、あれって価値観とか楽観的なものとかそう言った土地に染み付いた慣習的なものが削進されたったいうのかな。とにかく元の小平口町の形に戻ったってこと、だよね?」

 

「だからね」

 

 蛍は二つに結わいた髪を解いて、止めていた髪飾りを一つづつ、丁寧に外していく。

 

 音を立てたかのように、蛍の長く艶やかな黒髪が夜風よりも青くリボンのように舞い上がった。

 髪を下した蛍はそれまでの疲弊した姿から嘘のように凛としていた。

 蛍は手の中の二つの髪飾りを悲しそうな目で見つめる。

 

 蛍の清楚さを引き立たせていたキンセンカの花を模した髪飾り、それは家政婦がくれた髪飾りで、蛍が幼少期から付けていた大切なものだった。

 それを外すことは髪を洗ったりすること以外には滅多なことがない限りしなかった。

 

 それを今、ここで外すことは過去からの別れを意味していた。

 手の中の二輪のキンセンカはこの離別をわかっていたかのように、淡々と静かに咲き誇っていた。

 

 ぎゅっと手を握りしめて、手の中の髪飾りを優しく包み込む。

 そして蛍はその手を後ろに振りかぶって、そのまま、手の中のものを放り投げた。

 

 キラキラと光を反射しながら、キンセンカの髪飾りがなすすべもなく崖下へと落ちていく、そう思われたが……。

 

「……っ!」

 

 振り上げた手を頭上に掲げたまま、蛍は小刻みに全身を震わせていた。

 何かの葛藤が、迷いがあったのか、無言のまま静かに手を下すと、俯いたまましばらく動かなかった。

 

 握りしめられた拳には髪飾りが二つとも残っていた。

 

 はあっ、と安堵からのため息をつくと、蛍は髪飾りをスカートのポケットにしまった。

 

 長い髪を風に揺らしながら、途方に暮れた表情で崖下の町並みを見つめていた。

 

 ──もうこの場所にいる理由すらなくなっていた。

 

 あの不条理の象徴とも言える壁がないことがわかった今、冒険というには短すぎる家出はここで幕を下ろすこととなった。

 

 終わりを意識すると、それまでの疲労が一気にのしかかってくるようで。

 蛍は全身の気怠さでちょっとでも動くことすら億劫になっていた。

 

 やることはもうすべて終わった。

 

 

「……じゃあ、もういいよね」

 

 

 間近でないと聞き取れない小さな声でつぶやくと、痛む足を半ば引きずりながら、一歩づつ、ゆっくりと前に進んでいく。

 

 今いる場所はガードレールのない、崖の上に迫り出した休憩所のような場所だった。

 といってもベンチが置いてあるわけでもなく、ただ木でできた柵で覆われているだけの簡素な展望スペースのような所だった。

 

 とりわけ意味のない、工事の際の資材置き場のような、道から取り残された場所だった。

 だが、蛍にとっては都合の良い、言ってみればおあつらえ向きの場所だった。

 

 柵の傍まで寄って、そこから崖下を見下ろしてみる。

 ちょうど下には道路はなく、ただ黒い大きな井戸のような暗闇が底知れぬ様相で広がっているだけ。

 土留めをした斜面すらも視界になく、緑を湛えた木々も、この高さでは黒い台地と見分けがつかなかった。

 

 蛍はしばらくその幻想的で死を誘うような、異世界の入り口のような黒の景色をじっと見ていた。

 崖下から吹き上げる、温めの風が蛍の前髪を何度も持ち上げる。

 

 風はときおり鼻をむずがゆくさせるが、くしゃみが出るほどではなかった。

 

(別にこのままでもいいんだけど……なにか言っておいたほうがいいのかな?)

 

 蛍は難しい顔をして思案する。

 うむむ、と小さく唸りながら、蛍は頭の中で辞世の句に相当する言葉を捻りだす。

 こういう気の利いた言葉を作るのが結局最後まで苦手なままだった。

 

 あっ、と小さく息を跳ねると、蛍はパンと手を叩いた。

 

 本当は指を鳴らしたがったが、一度としてそれは成功したことはなかった。

 ちなみに燐はこういうのも得意で、指を鳴らすことも口笛を吹くことも異常なほど(プロ並みに)上手かった。

 

「燐……あなたが好きです。わたしはあなたが大好きです。どうかあなたのもとに、燐のいる世界へわたしを連れて行ってください……」

 

 恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、燐への愛の告白を口にする。

 両手を胸元で握り合わせた仕草はまさしく美少女のそれであったが、セリフは低学年向けの少女漫画でも採用は難しそうなセリフであったが。

 

「もうちょっとこう……哲学的なほうが燐に心証がいいかもしれない」

 

 蛍は再び腕を組んだ。

 だが、別に怖気づいているわけではなく、本人は至って真剣だった。

 

 蛍は計画的ではあったが、ここまで来ることは衝動的であった。

 だからこそ最後は計画的であったほうがいい。

 ここまで衝動的に行ってしまっては、きっといい顔をされないだろうし、変な誤解を周囲に与えてしまうことになる。

 

 なにより燐にちゃんと気持ちを伝えて置きたい。

 だってもうすぐこの肉体と捨てることなるだろうし。

 気持ちは後からでも伝わるかもしれないけど、言葉は声は今でないと伝えらないないだろうから。

 

 だからこそ真剣に考えたい。

 きっとこれが、わたしの最後の言葉になるはずだから。

 

 

「わたしね、夏休みの間、色んな本を読んだよ。ほら、カミュのこと覚えてる? 燐はなんだか見る気しないって言ってたけど、わたしは読んだよ。代表作の”異邦人”も”ペスト”も、”幸福な死”も読んだよ。あ、”最初の人間”も読んだ。でもこの作品って途中までなんだよね、もし完成したら結構な長編になったと思うんだ」

 

「あ、えと……つまり、ね」

 

「燐。燐は生きてるだけ、生きることが楽しいって思ってたんだよね。だから色んな人が燐と一緒にいることで幸せになっていたんだね。わたしだってそうだよ、もし燐が声をかけてくれなかったらもうとっくの昔に死んじゃってたって思うんだ、わたしも相当弱いんだよ」

 

 蛍は一旦言葉を区切って深呼吸する。

 鼻から森の香りと、夜の涼しい香りが、二つの肺にたっぷりと満たされる。

 それを十分に堪能して、一気に口から吐き出した。

 

 あれほど苦しかった頭の痛みがすっと消えてなくなり、普段のコンディションに戻った気がする。

 蠟燭の最後の輝きかもしれない、と蛍は思ったが口にせずに、さらに言葉を続けようと唇を震わせる。

 

「ねぇ、燐。わたし燐は向日葵みたいだって思ってるんだよ。みんなを明るくさせて、さらに燐はもっと明るくなる、太陽にだって負けないぐらいに眩しくてキラキラで……だからさ、わたしと……代わろうよ。わたしがそっちに行くから、燐は戻ってくればいいよ。わたしはもう十分生きたよ。今までで一番頑張って生きたと思う。だから夏休みの間は色んなこといっぱいしたつもりだよ」

 

「それに、わたしはきっと”そっち側”だと思うんだ。オオモト様もわかってたんだと思う。だってわたしのお母さんも、その前のお母さんも、さらにその前だってきっと……同じことをしたんだと思う。だから気を使わなくていいんだよ。わたしは元からだから」

 

 そう、最初からそうなんだ、きっと。

 

「でも、燐は優しいからね、そう簡単に代わってくれないかもね。だから、わたしから会いにいくよ。ちょっと予定が狂っちゃったけど。今からそっちに行くね。もしかしたら燐は怒っちゃうかもしれないね。でも……わたしも怒ってるんだよこれでも。だからおあいこ」

 

「あ、ごめん。全然哲学的じゃなかったね。わたしにはちょっと難しいのかもね」

 

 う~ん、と蛍は三度首をひねる。

 適切な言葉を考えるのは苦手だが、まだ喋り足りないのも事実だった。

 もうちょっと燐の気持ちに訴えかけたいなあ、そう蛍は考えていた。

 そこには悲しい目の少女はなく、きらきらしたした瞳の、一人の乙女がいるだけだった。

 

「あ、告白……してみようかな。どうせ最後だし、誰も聞いてないからいいよね? あ、燐には聞いてもらわないとだけど……」

 

 蛍は逸る気持ちを抑えつつも、友達の親友に対する気持ちを心のなかで紡ぎだす。

 それは蛍の本当の気持ち。

 燐と知り合ってから、ううん、それよりももっと前。

 

 込谷燐を一目見た時から感じていた、心のときめきを言葉にする。

 

 

 どきどき。

 

 

 迂闊にも心臓の鼓動が早くなる。

 目の前に本人はいないのに、聞いてくれるかもわからないのにすごく緊張してしまう。

 緊張で手に汗が浮かんできて、それを袖で拭った。

 

 今頃になって蚊に刺された手の甲が痒みを訴えてくるが、気にすることもない。

 こっちはそれどころではないから。

 

 告白を前に虫刺されなどロマンの欠片にもならないから。

 小刻みに震える唇を引きつらせるように動かして、軽く口を開いて舌先を歯茎の上に乗せる。

 

 そして蛍は最初の言葉を出した。

 

「わたし前にも言ったけどもう一度言うね。わたし燐の事が好きだよ、だいすき。だから……わたしと……」

 

 ここまではわりと良かった、言葉を出すたびにどんどん気持ちが高ぶっていって、胸がほんのりと暖かくなっていったから。

 恋のときめきを感じることができたから良かった。

 

 しかし、この後の言葉はあまり適切じゃなかったかもしれない。

 いやむしろ、これはダメなやつかもしれない……。

 でも、なぜか止められなかった。

 気持ちに勢いがつきすぎたのか、言葉が、想いが、止められなかった。

 

「わたし、燐と()()()()がしたい。どうしようもなくせっくすがしてみたんだ!」

 

 普段は口下手の蛍がこの時だけ、やたらと饒舌だった。

 だからまだ言葉は続いていた。

 

「わたしだって知ってるよ、セックスは男の人とするものだってことは。でもわたしは燐がいい。むしろ燐じゃなきゃダメなの。だって一人でしてる時だって燐のこと考えながらしてるんだもん。男の人に触られたり色々されたりなんて耐えられない。でも、燐が相手ならきっと大丈夫。何されても平気だよ、だって燐は優しいもん、わたしが嫌がることなんてしないってわかってるから。だから……ね、一緒にしよ?」

 

 蛍は汗を撒きながら息継ぎもせずに捲くし立てた。

 そして言いたいだけ言うと、急に口を噤んでその場に立ち尽くした。

 

 急にのどの渇きを感じて、足元に置いていたペットボトルを手掴みすると、一気にのどの奥まで流し込んだ。

 

 満足したように空のペットボトルのキャップを閉めたときに。

 事の事態を理解して、火が出そうなほど真っ赤になった顔を手で覆いながら、一人懊悩していた。

 

 しばらくそのまま顔を覆っていたが、その小さな肩が震えていた。

 肩だけではなく、蛍の体全体が小刻みに震えていた。

 

 蛍は顔から手を離すと、赤い顔のまま何かに耐えるように口元を押さえていた。

 その瞳は波の様に揺れていた。

 でも、それは悲しみからではなく、むしろ恥ずかしさからくる笑いの目だった。

 

「ぷっ……」

 

 とうとう堪えきれなくなったのか、蛍の口元がどんどんと緩んでいく。

 それはこれまで見たことのない本当の笑い顔だった。

 

「あははははっ!!」

 

 丸い月に向かって蛍は笑い声をあげた。

 青黒い夜の中、少女は一人で笑い転げていた。

 括れを伴った柔らかな腹に手を当てて、大声で笑っていた。

 

 もし他の人が居たら、何事かと思うほどだろうが、幸いにもここには蛍一人だけ。

 後は、何も理解できない羽虫か小動物しかいなかったから。

 

 何をするにも自由だった、だから波が収まるまでずっと笑っていた。

 

「あははっ、ごめんごめん。あまりにも可笑しすぎて笑っちゃってたよ。だってあんな告白っておかしいよね? でも、頭に浮かんじゃったんだ、変だよねっ、あははっ!」

 

 目に涙を浮かべながら、まだ自分の言葉が面白いのか蛍は微笑んだまま燐に謝った。

 言葉は風に吹かれただけで霧散してしまったが、それでも気にすることはなかった。

 

 どうせこの世界の言葉は燐には届かないのだから。

 

「ふぅ……」

 

 ひとしきり笑った蛍の顔は、驚くほど綺麗になっていた。

 恐らく今が一番少女を美しくみせているのだが、その対象はどこにもいなかった。

 けれでもそれは悲しいことではなかった。

 

 もうすぐあえるから。

 

 あと数歩、足を前に出すだけで燐に会うことが出来る。

 

 蛍の瞳は確信めいた輝きを持っていた。

 迷いはないようだった。

 

「きっとね……」

 

 蛍はさらに一歩足を進める。

 その先はもう崖しかなかった。

 

「きっとわたし、まだ夢を見ているんだね。ううん、きっとずっと覚めない夢を見せられてるんだよね。そう、燐に会った時からずっと夢の中だった。だからいい加減覚めなくちゃね。気持ちのいい、本当に気持ちのいい夢だった。ずっとこのままでいいと思ってたけど、それはこの町が幸運を求めるのと一緒で、わたしには大それたことだったんだね」

 

「だって、燐と友達になってから、ずっとわたし幸せだったから。あなたの隣にいるだけで幸せだった。でも、それは重しになっていたんだね。わたしと燐、同じだと思ってたけど、それはただの勘違い、良くある思い込みだったんだね」

 

 

「でも燐。もし、もしももう一度あなたに会えたら……今度はちゃんとした友達になりたいな」

 

 

「色んな話したり、ショッピングに行ったり、クレープ食べたり……あ、これだと今までと同じだね。そうだ、わたし燐と喧嘩してみたいな。燐はすごく優しいし気を使ってくれるからこれまで一度も喧嘩にならなかったけど、やっぱり喧嘩したほうがいいと思うんだ。あ、でも叩いたりとかそういうのは無しで、ね。でも、やっぱり燐は優しいから喧嘩しないかもね。わたしも燐と喧嘩なんてやっぱり考えられないなあ……」

 

 遠くの山の頂が薄っすらと白く滲んできていた。

 まだ月は消えてもおらず、夜も星を湛えていたが、それほど長くは持たないだろう。

 夜明けの鐘が鳴り響く準備が徐々に整え始めていた。

 

「ごめんね。話長くなっちゃって。あ、まだ言いたりない事があるから後はノートを見てね。結構色々書いておいたから」

 

 実際、ノートには日記形式のエッセイだけでなく、様々な事柄のレジュメも記されていた。

 それは小平口町のこと、町民が求めた幸福、そして歪み、さらには座敷童についてのことと多岐にわたっていた。

 

 その中で座敷童に関しては独自の研究というか見解を記していた。

 

 それは座敷童本人だからこそわかるようなことだったとも言えた。

 

 蛍は座敷童による幸運の継承をある種のクローニングのようなものと考えていた。

 

 座敷童の親が望む望まないを別にして子を産む、そしてその子供が力を受け継いでいく。

 一見すると普通の人間の営みのように思えるのだが、その子供がすべて女の子だったとすると話が違うと蛍は思っていた。

 

 さらには母体に関することは一切残されていない。

 小平口町にも墓地はあるのだが、座敷童のお墓も、供養の塚すらもないのだ。

 当然そういったことを記した資料もないことから、発覚を恐れた住民が代々秘密裏にしていたとそう思い込んでいた。

 

 燐と一緒に図書室を調べた時に結論を出していた。

 

 そう、座敷童の概念は口伝(くでん)のみの伝承だったのだろう。

 これまで外部には伝わらなかったのだから、よほど強固なパスワードだったのだろうと推測する。

 それは多分、生死をもって定められたのだろう。

 原始的かもしれないが、それだけ昔からの習慣だったとも言える。

 きっと彼らは恐れていたのだ、幸福を失うこと、それが他の町や村に知れることを。

 

 そういう意味では彼らは賢かったのかもしれない。

 同時にとても臆病すぎたのだ。

 

 だから墓も記録もない、それがもっともな結論だと思っていた。

 

 だが、あの不思議な夜が終わり、一部を除いて町が元に戻ったときに、蛍はやっとわかった。

 

 幸運は継承でなく、書き換えで行われていたこと。

 だから毎回新しい幸運が土地に舞い降りていたのだと。

 

 代わりに力を失った幸運は、その肉体も名前さえも記憶から失われてしまうのだと言うことに。

 あたかも生贄のように、消えてしまう。

 古い肉体には幸運は宿せない、代わりに新しい肉体を創造することが出来る。

 幸運を詰め込んだ新しい器を。

 

 それは人間の女性と何ら変わりないのかもしれない。

 

(わたしは24番目の座敷童とか、そういった感じなのかもね)

 

 新しい肉体が生まれれば古い肉体は自動的に廃棄される。

 無駄のない合理的なシステムだと、蛍は他人事のように感心した。

 

 幸運とは肉体があってこそ力を発揮する、それは目には見えないけど、確実に影響を与え続けるのだ。

 歪みが起きようと構うことなく、人が求める限りずっと。

 

 それがあの、異常な世界を生み出してしまったことになったのだけど。

 それすらも忘れた町の人間はこの先、どうするのだろう。

 色々やっているようだが、蛍には何の興味も湧かなかった。

 

 ──だから何もわからなかった。

 

 

…………

………

……

 

 

「なんか、空にいるみたいだね……ごめんね。本当は山の頂上まで行きたかったんだけどね。それでも、燐をこれまでで一番近くに感じる、そんな気がするんだ」

 

 蛍はこれから自分がいく世界を見下ろしてみた。

 崖から下の世界は深い闇の底、地底への入り口のように黒く目のくらむような高さがあった。

 正常な人間ならばこの時点で足が竦むだろう。

 

 蛍にはそうは感じなかった。

 彼女にとってはそこは望むべく世界であって、終わりの始まりの場所だったから。

 その為にわざわざここまで来たのだから、怖さはなかった。

 

「燐、わたし今、幸せだよ。うん、本当だよ。だってここからの景色すごく綺麗だし、それにもうすぐ願いが叶うから。ねぇ、燐。好きな人の傍にいることが一番幸せなことなんだよ?」

 

 ほとんど黒で占められている世界、それは一つの素粒子から出来ていた。

 それは宇宙の始まりと同じ、新しい景色。

 蛍が世界で最後に見る、最高の光景だった。

 

(せっかくだし何か歌ったほうがいいのかな?)

 

 蛍はこの想いを歌に乗せて伝えてみようとする。

 でも、なんの歌がこの場にふさわしいのだろう? 蛍は小首をかしげて考えた。

 

(わたしが”蛍の光”を歌うのはなんか嫌だなあ。もうちょっと叙事っぽいのがいいな……)

 

 蛍は再び考え込むが、急にある結論に至った。

 

「わたし、歌苦手だったんだ……あの時は燐と一緒だったから歌えたけど、結構音痴なんだよね」

 長い髪をなんとなく手で梳かしながら蛍は恥ずかしそうに微笑んだ。

 

(そういえば、あの時燐と一緒に歌った曲ってなんだったっけ?)

 

 車の中でラジオから流れてきた、あの懐かしい感じの歌。

 叙情的なメロディーも、大切な人との別れを思わせる、寂寥感のある歌詞も頭に思い描くことが出来なかった。

 

 タイトルすら思い出せないのは明らかな異常だった。

 だが、思い当たる節がないわけでもない、多分これは()()()()()()()()()()だろう。

 

(多分、あの時の記憶が今でも残っていたのは、わたしがまだ”座敷童”としての力が残っていたから。そして、その力が本当になくなろうとしてるんだ……)

 

 それに関しては恐怖感はない、こんな力は最初から気にもしてないし、当てにだってしてはいなかったから。

 でも、記憶が失われていくのは単純に怖かった。

 悪い記憶ならなくなってくれればそれに越したことはないが、良い記憶、ましてや燐やオオモト様との楽しくも心地よい記憶が失われていくのは到底耐え難いものであった。

 

 日記やネット上に残しておけばいいというものではない気がする。

 それを立証するものがいなければ、それはただの虚言であり、伝承にもならないのだ。

 そう蛍は考えていた。

 

 だが、それに抗う術を蛍は持っていない、ただ流されるだけ。

 水が低いところに流れるように、座敷童のこともオオモト様のことも、そして燐のことすらも徐々に忘れていくのだろう。

 

 幸運も不幸も水に流して、ただ流れるままに……。

 

 

 ……結局歌うことは止めて、蛍は改めてこの世界から去る準備をする。

 と言っても特別な事は何もない、これと言ったルールさえない、だから各々が好きなように飛べばいい、あとは大体同じ結果なんだし。

 

 助かるかどうかを気にする人はまずこんなことすら考えないのだから。

 

 黒い刺繍糸で縫い付けられたパッチワークの空に子午線のような紫がかった地平線がが山肌を駆けあがって徐々にせり上がってきていた。

 

 夜と朝の混ざった風が蛍の長い黒髪をうねりをもって煽ってくる。

 それはなにかの生をもった触手のような不規則な形を作って、伝説上の生き物のシルエットを山肌に描き出していた。

 

 谷から吹き上げてくる風で綺麗な髪に小さな軋みが見えてきているが、蛍はもう髪を束ねる気などなかった。

 

 蛍は軽く姿勢を正すと、影絵のような山の向こうのその奥の青紫ヴェールを透かすように見つめた。

 目を閉じるかどうか迷ったが、蛍はこの美しくも儚い世界を目に焼き付けたかったのでそのままの姿で落ちることにきめた。

 

 恐怖は増すが、その分ジェットコースターのような最高のスリルを人生の最後に楽しむことが出来る。

 蛍はおとなしい見た目に反してそういったアトラクションが結構好きだった。

 とは言ってもこれはアトラクションではなく、リアルなのだが、それほど大差はないだろうと。

 

 ──ただ、二度目がないだけだった。

 

 

 せっかくだから記念の写真を撮ろうかと思ったが止めた。

 余計な通知が来ないように携帯の電源はずいぶん前から切っていたし、持ってきたインスタントカメラはただの重しとばかりにノートと共に風車の傍らに置き去りにしてきたのだ。

 

 もういいや、と面倒くさそうにそっと呟くと、蛍もう半歩ほど両足を前に出す。

 

 ほとんど空と変わらない場所に蛍は立っていた。

 

 崖下から吹く風は生と死のはざまを流れる、橋渡しのような温い温度で全身を撫で上げる。

 

 蛍はこの光景にある既視感があった。

 青いドアの家、そしてその世界、風車の連なる静寂の世界、どれもこれもがこの景色と酷似していた。

 

 蛍はわかっていた、あの世界は一種の煉獄なのだと。

 これから旅経つものが一時的に身を寄せる場所、やがて帰る場所なのだと、それが当たり前のようにわかったのだ。

 

 だから()()から下へ落ちればきっと行ける。

 オオモト様と燐の待つあの世界に。

 

 因果地平の彼方だとか、event horizonとかどうでもいい。

 

 ただ、あなたの元へ、わたしがほんとうに欲しかったもとへと行きたいだけ。

 

 

(だから、ちょっとだけ、待ってて……すぐ行くから、ね)

 

 

 崖下をつぶさに覗き込むと、そのまま普段の道のように何もない空間を歩きだそうと脳に指令を送ろうとしたその少し前、蛍にある単純な疑問が沸き起こった。

 

 

「靴って、脱いだ方がいいのかな……?」

 

 取るに足らない問題だが、それがやたらと気になってしまう。

 そして一度気になりだすと、どうにも気になって仕方がなくなる。

 

 わずかな風の悪戯がおきただけでも落ちそうな不安定な足場で、蛍は町内会議に参加したときのような気難しい顔をして心中で自問自答していた。

 

 恐怖という感覚はとうに何処かへいったかのような暢気さは他人が見たら呆れるほど清々しくみえるだろう。

 

(ドラマとか小説だと大体脱ぐよね? でも何の意味があるのかな……? 足が汚れるし特にいいことなんて……あ! そういうこと)

 

 蛍は疑問を解消した感動に打ちのめされた。

 それは単純なことであって特筆すべきことではない、ただ人の本質があった。

 

「優しさなんだね、きっと。靴を脱いでおけばわかるから、ここから飛び降りたって。靴を置いておけば警察の人とかが発見しやすくなって掛かる迷惑が少なくてすむから……だから最後の優しさなんだね」

 

 蛍はその自論に嘆息した。

 もしこれが優しさを伴うものなら、人はその優しさを最後に見せるのだ。

 だったら、この世界も別段悲しいものじゃない。

 

 そう思うからこそ蛍はその優しさを模倣するのが当然だと思い、一歩、二歩と後ろ向きで崖上から後ずさる。

 

 蛍はすこし広い場所まで戻ると、手ごろな場所で身を屈めて、トレッキングシューズの靴紐をまざまざと見つめる。

 ディープグリーンのトレッキングシューズにレモン色の綺麗な靴紐が少し変わった結び方で歪に結われていた。

 

 自分がやったことながら、相変わらずの不器用さにため息が漏れる。

 気を取り直して、結んだときと同じような手順で靴紐を解いていった。

 

 ……それは蛍が考えていたよりも容易なことではなかったみたいで、きつく結び込まれた靴紐は蛍の細い指をそう易々とは通してくれなかった。

 

 思い通りにいかない靴紐に蛍はムキになったのか、本来の目的も忘れて靴紐を外すことのみに神経を集中していた、周りも気にせず目の前の行為に没頭していた。

 

「えいっ、このっ!」

 

 どんなに力を込めて指を掛けようとしても、固く結ばれた靴紐は鋼の鎖のようにびくともしなかった。

 トレッキングシューズシューズと一緒に別売りの靴紐も買ったのだがこれが良くなかったらしい。

 ただでさえ外れにくい形状の靴紐に、出鱈目の結び目を施したものだから、それが二重にも三重にもなってしまって、蛍の手に余るものとなってしまった。

 

(どうしよう。燐が待ってるのに、こんな靴すら脱げないなんて……!)

 

 焦れば焦るほど靴紐がきつく、長くなっていくような妄想に囚われる。

 

 蛍はただ裸足になりたかった。

 重い靴を脱いで自由な姿に、黒いタイツも脱いで素足のままで大地を踏みしめてみたかった。

 なんなら制服を脱ぎ捨てて、下着も脱ぎ、全裸になったっていい、もう何も気にするべきものなどないのだから。

 

 むしろその方が上手く飛べるかもしれない。

 あの空の彼方まで高く、燐のところに届くように。

 

 それぐらい、今の蛍は熱を帯びていた。

 だいぶ涼しくなってきたと思われた夏の終わりは、蛍の中でだけ再びの猛暑となっていた。

 汗を掻き、息を切らせるほど力を入れても、靴紐は何かの意思をもったように強固な鍵をかけ、元通りになるのを止めてしまったのだ。

 

 結局、左も右も蛍の言うことを素直には聞いてくれず、指の爪が剝がれそうになるほど痛い思いまでしてやっと、この行為が無駄なことに蛍は気付いた。

 

「……もうこのままでもいいかな……どうせ同じだし」

 

 蛍は降参したように両腕を投げ出すと、脱ぎかけ靴のままで立ち上がろうとする。

 そのとき不意に背中が妙に重いことに気づいた。

 

 いまだに蛍はバックパックを律義に背負っていたようだ、そんな自分の間の抜けっぷりに思わず肩をすくめて苦笑した。

 

「そうだ。靴の代わりにバッグを置いておけばいいよね、むしろこっちの方が目印になりやすいし……」

 

 余計なものを投げ捨てるような無造作でバックパックを地面に放り投げると、体重が一気に軽くなったような気持ちになり蛍は驚いた、それだけ重い荷物だったようだ。

 それと同時に、何かに弾かれたような硬い金属音がバッグの内からこぼれだして、その方向に首を向ける。

 

 音は蛍にあることの所在を思い出させた。

 

「あ! そういえば、ナイフみたいなのを入れてた気がする」

 

 蛍は一度捨てたバックパックをもう一度片手で拾い直すと、そのふて腐れたような口を少し乱暴に開いて中を引っ掻き回す。

 

(確かあったよね? 一度も使うことはないと思ってたけど……)

 

 それはバッグの内ポケットに専用のポーチと共に仕舞われていた。

 赤いエナメル塗装を施した金属製のジャケットに北欧の国旗をあしらったロゴが押されている、それはお洒落な靴ベラのようにも見える。

 

 中には主にアウトドアで使用する為の道具が、棺桶(アイアンメイデン)のように綺麗に折りたたまれた状態で収納してあった。

 マルチギアとも呼ばれていて、用途に応じて中のツールに些細な変化があり、USBメモリが付いているものもあった。

 小ぶりだが肌触りよく、手に馴染むデザインをしている、日本では主に十徳ナイフの名称で親しまれていた。

 

 蛍の持っているものはジャケットの先端に小さなLEDランプが付いていて、暗闇でも使い勝手のいいモデルだった。

 どういう構造が良くわからないので、とりあえず全てのツールを親指と人差し指で摘まんで取り出してみることにする蛍。

 ナイフだけでなく、ハサミや、缶切り、ヤスリにスケール、それから用途不明な金属のつまようじ的なものと、赤い胴体に金属の枝が生えているようで少し不気味だった。

 

 その鉄で出来たカミキリムシのような滑稽さに少し笑みをこぼした。

 悪くない笑いだった。

 

 ナイフかハサミ、どちらを試そうか少し迷ったが、一番使い勝手が良さそうなハサミで靴紐を切ることにした。

 ”紐を切る”と言う行為になんとなく罪悪感を覚えるが、靴紐が解けない以上、切るしかほかない。

 

 ペンライトのLED明かりと、ナイフのLEDの小さな明かりを交差させながら、靴紐にハサミの刃をあてがう。

 一瞬の躊躇の後、蛍がハサミの柄の力を込めようと指先を動きを脳が伝えようとしたその時、何かを引っ掛けてしまったのか、スカートの左のポケットから、何かが音も立てずすっと落ちていった。

 

「……?」

 

 それは軽かったので落ちたことにすら気付かないかと思われたが、蛍は何故かすぐにわかった。

 スローモーションのようなコマ送りで黒いアスファルトの下に転がるそれを、蛍は落ちきるまでずっと目で追っていた。

 

 丸い紙の球、大事な贈り物が無残にも姿を変えたもの。

 蛍が大切にしていたもの。

 そして壊したものだった。

 

 それが無造作に地面に落ちる。

 そのままの地面に制止しすると蛍はてっきり思っていたので、その後の動きで、驚愕することになった。

 

「えっ!?」

 

 紐を切ることを中断してそれを拾おうと手を伸ばすが、その手を

 ただの紙を丸めたそれが、奇妙な音を奏でたのだ。

 そしてそれは弾んでいた。

 ゴム毬のような弾力性と音で、二度、三度と弾んでいたのだ。

 

 ぽん、ぽん、ころころ。

 

 球は蛍がいる崖の方ではなく反対方向へと進んでいった。

 その動きは意思を持ったかのように、緩やかにそして目的があるような動きで転がっていく。

 ころころと無邪気に転がる紙の球、それはどこか懐かしさを覚えるものだった。

 

 何が起こったのかにわかに信じられなくて、蛍は口をあんぐりと開けたままだった。

 

 そのまま暗闇の中をどこまでも転がって行きそうな気がして、蛍は拾おうともせず、ただ行先を黙って見守っていた。

 

 「あら?」

 

 声がした。

 

 人間の、おんなの声だった。

 

 珍しいものでも見つけたような驚きの混ざった声。

 どことなく落ち着いた声が印象的だった。

 

 他人の声。

 この世界には自分以外誰もいないと思っていたのに。

 蛍は急に疎外感を覚えた。

 

 暗がりの中でかさかさと物音がする。

 蛍は口を閉めるのも忘れて、自然と息をひそめていた。

 

 多分、あれを拾い上げたのだろう、不思議そうな疑問の声が闇の中で小さな吐息とともに漏れるのを聞いた。

 

 当然、こちらにも気づいたようで、軽い足取り音がこちらへと近づいてくる。

 蛍はしゃがみこんだ態勢のまま動くことも敵わず、何かに怯えるように身を固くしてその時を待っていた。

 

 敵意があるとは思っていないが、今の姿を見られるのはマズイ気がする。

 このままどこかへ行ってくれないかと思っていたが、その願いは叶えられそうになかった。

 

「どうしたの? 大丈夫?」

 

 知的な声、だが冷たい感じではない。

 どちらかと言えば慰撫するような声色にほっと安堵の息をついた。

 

 声をかけた女性はこちらの反応がないことに、少し戸惑っているような感じを示しているようで、観察するようにこちらを見下ろしていた。

 

 蛍はしゃがみこみながらその人影を横目で見やる。

 ペンライトの外側の淡い光が黒いパンプスを照らし出す。

 大人の女性の足だった。

 

 蛍はおずおずとその人物に顔を見上げる。

 

 

 月明りが二人を照らしていた。

 時間が、呼吸が止まったような感覚があった。

 

 

 黒いアスファルトに二つの人影が青い輪郭をつくっていた。

 

 

 

 

 ────────

 

 ──────

 

 ────

 

 






去年ぐらいから続いている鬼滅の刃ブームが今年も続いていますね~。
今年は映画公開もあってか最大級の盛り上がりを見せてますね。こういうのには全く興味がなさそうな身内も映画を見に行きたいようで、ミーハーながらも気になっているようです。

さてさて、ブームとは縁遠い私でしたが、ある時、右脳と左脳の違いを調べていたときに、偶然にも発見してしまったわけですよー。

──”鬼滅の刃キャラ診断”なるものを~。

っていうか割と有名な診断かもしれないですね、今、もっとも旬のコンテンツですし。
原作もアニメも見ていない私が、興味本位で診断してみた結果……。
竈門禰豆子(かまどねずこ)と診断されましたっ!
うむ~、私はヒロイン属性なのか~? 何か納得がいかないかも? けど診断テストってこんなものかなぁ? まあ回答は5問しかないし、8キャラ分の結果しかないみたいですしねぇ。

別の診断テストで遊んだ後、気になってもう一度診断してみると……。
やはり竈門禰豆子! ……好きな食べ物は関係ないみたい?
むきになってもう一回やってみる。今度は性格のところを変えてみると、やっと違うキャラに……。
我妻善逸(あがつまぜんいつ )かぁ……アニメも原作も全く見たことない私でもこのキャラがどんなのかは大体想像つきます。何より診断結果に女好きでヘタレとわざわざ2回も書いてありますしねぇ……へたれの女好きか、竹筒妹ヒロインか……どっちも微妙なポジションですね……。

後日もう一回やるも、やはり禰豆子! ……もう禰豆子でもいいよ……。
竹筒は持ってないので代わりに海苔巻き咥えて寝ることにします……おやすみなさい……。


さてさて、人気作品と言えば恒例? のものがありますね。
──そう、AV化です!!

この鬼滅の刃も例外ではなく、実写化を前にAV化されておりました。

タイトルは、”鬼詰のオメコ 無限発射編”!!! とかいうどこから突っ込んだらいいのかわからない強烈なタイトルでした……。
しかし、タイトルだけ見ると公開中の映画がもうAV化で凄いなーと勘違いしそうになりますが、実際はそんなことはなく古民家風の建物だけで撮影されたエコな低予算AVでした。
それだけコロナ渦のAV撮影がどれだけぎりぎりの切迫した状況だったのかを物語っているということですね──多分。

しかし、問題はタイトルではなく、中身の方ですけども……原作アニメとも未視聴の私でどこまで原作再現出来てるかがわからないのです……。

とりあえず、コスプレには力が入っている気がします。似合う似合わないは別として。私のような原作知らない組にも分かりやすく解説を交えたセリフを入れてくれるですが……何故か会話が頭に入ってこないのです……。演技的な問題でしょうか? それともカラコンがあまりにも痛々しすぎるからでしょうか?
それでも竹筒を咥えた妹が鬼化しそうなのを止めるために兄が奔走していることだけはわかりました。多分この辺りの設定は原作通りでしょう。

さて、肝心の? プレイ内容ですが……黒子っぽい人に男装っぽい女性と、ピンク髪の女性が幻術っぽいのをかけられて妄想エッチ的な展開になる内容みたいですねー。
とりあえず最初は百合というかレズシーンから入るのはお約束なんでしょうか? 男装の人が蝶の髪飾りをつけた人と致してますねえ……恐らく最初のシーンが一番の見どころだった的なやつですね──少なくとも私には。

ピンク髪の人は首にぬいぐるみの蛇を巻いた中二病の人とエッチしてましたねー。なんかこの人ブリーチで見たような気があるようなないような……そんなオサレな人でもやることはやるということですね。

そして、いまだにレズってる二人を何故か覗いている猪頭の男が加わって、仲良く? 3Pすることになります。多分原作を知っている人ならば、”ああ、二刀流ってそういうことね”と感心するかもしれないです、多分。そしてこの猪男が一番再現率が高いと思われます。まあ、ガタイのいい男優に猪の頭をつけただけみたいなものですからねー。その後に出てくる市松模様の彼も猪頭を乗せればいいと思ったのは私だけでしょうか?

そして妹の相手はもちろん市松模様の学ランを来た兄とのエッチ。定番中の定番でしょう。ただ、男優が……残念ながらおっさんですね。これは仕方ないのです、いわゆるギャップ萌えを狙ったのでしょう。それにこういうコスプレAVにはもれなくおっさんがついてくることがお約束になっているのです。そしてそれを求めている層が一定レベルでいるようなのです。多分ですが……。

さて、三人のコスプレ女子が幻術をかけられて黒子の男に犯されているだけだったという、良くある展開から、本物の兄がやってきて、何の”呼吸”も使わずに一刀両断して終わるという、極力無駄を排した戦闘シーンは清々しさすらあります。
ですが、紅蓮なんちゃらさえ流れればそれなりに格好良くみえたのではないかと思ったりなかったり。ただコスプレしたおっさんが半笑いで残心するのはどうかと思ってしまうのですよー。最後までキャラに成りきりましょう(謎の上から目線)

AVである以上、ヌけるかどうか最大の焦点であるはずですが、どうかと問われれば……ゆるキャン△ のAVと評価は大して変わらないですね。頑張ればいけないことはない……気がします。
ただ、私は無限列車編のパロディだと思い込んでいたので、コスプレ痴漢ものかと少しワクワクしながら見ていたので、古民家AVではなんの感情も沸いてきませんでした。俗に言う、心のちんちんすら立たなかったのです……。

無駄にAV解説が長すぎて少し心配な気がしますが、今回はこれで──。


ではでは──。



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 ───ここから動かない。
 
 動きたくない。

 そう思っていたけれど。

 このままこの場で立ち止まっていれば、もやもやしたものも、わだかまりも、すべて別の誰かの手で解決してくれる。

 代わりに、すごく迷惑かけちゃうけど……。

 でも。

 それでも一緒に行きたかった、あの青い空の向こうまで。

 ずっと、ずっと遠くの空までも。
 

 でも、わたしの足は動いていた。
 
 ()()()()()()を手にしたまま、何も考えず、何も喋らずに線路を歩いている。

 理由はあるようで……ないのかもしれない。


 この先に”完璧な世界”があると燐は言った。
 それが本当ならとても嬉しい。

 ”同じ場所”に行けるのならばその先がなんでもよかった。
 それは望んでいたことだから。

 燐の隣がわたしの居場所だったから。
 どんな困難に合っても、たとえ死ぬほどつらい目に合っても。

 燐さえいてくれたらそれだけで、わたしは生きていけた。
 たとえ死んだとしても生きられることが出来たのに。

 ……ずるいよね。

 だから、そんなずるい彼女の元へ行くのだ。
 そして怒って笑って許してあげる。

 その為に歩いてみることにした。

 のだが……。

 無駄に暑い。

 太陽が行く手を遮るかのように熱と光のシャワーを燦々と浴びせてくる。
 抗いようのない強い日差しは、汗でへばり付いたシャツに水を掛けたように濡らしてくる。

 このまま川に飛び込んでもそれほど変わらない気はする。

 どうせ行先なんて結局のところみんな一緒なのだから。

 その事がわかっていても、わたしは歩いている。

 包帯をした足が痛みをぶり返してきて、思わず顔をしかめても歩みを止めなかった。

 足を引き摺っても、歩く。
 実際足はひきずっていたのだけれど。

 砂利を敷き詰めた線路をただひたすら歩く。
 真っ直ぐな線路、真っ青な空、まっさらなわたしの心。

 冗談みたいに完璧に揃っている。

 ”かんぺき”とは一部の狂いもないこと。


 燐、”あなたは”完璧な世界で何を見ているの?

 



 必死な思いで辿り着いた先は完璧な世界とは程遠い世界。

 呆れかえるほど普通の世界だった。

 わたしはひとり、小平口町に帰ってきていた。

 あの陥没したような巨大な穴はどうなったとか、終わらない夜の世界だったのに、とかは些細な問題だった。

 それぐらい普通のわたしがよく知っている町のままだったから。

 異形の化け物に変わったはずの住人はみな、普通だったから。
 少なくとも、出会った人はみな普段の格好でいつも通りの日々を送ってるようにしか見えない。
 いのちを奪われた人だっていたはずなのに。
 もっともそれが誰だったのかはわからないけれど。

 何よりダムが決壊して町は水没したのではなかったのか?

 あのラジオDJの虚言だったとしても、彼はなんでそんなことをわざわざ言ったのか。

 その真意はわからないが、目の前の光景が現実だとしたら……やっぱり。

 そうやっぱり()()は夢だったということになる、はず。

 だってそうじゃないと理屈が合わなくなってしまう。

 オオモト様が”夢のなか”で言っていた。
 卵の殻のなかの”ほんとうの”町の姿がこれなはずがないのだから。

 もしすべての幸運がなくなってしまったら、町は村に……いや、存在すらなくなるかもしれないはずだから。

 そのぐらい昔からその行為は続けられてきたはず。

 だから町が元のままなのはおかしいのだ。

 どちらかが夢でどちらかが現実なのだ。

 
 驚きも悲しみも湧かず、絶望すらなかった、だって、どちらが夢でも現実でも、わたしはここにいるのだから。

 だからどっちでも同じだった。


 わたしは心底疲れてしまった。
 
 燐と二人で夜のなかを必死に逃げて、それぞれの哀しさを知って、そのうえでほんとうのことを知ったのに、その代償がこの普通の町の普通の午後の姿。

 何がほんとうかなんて誰もわかってはいない。
 この人たちは幸運という餌を食べながら、死にながら生きていたのだから。

 夢だとするならば悪趣味で。
 現実とするのならば、それは……やはり悪趣味だった。


 こんなもの一体誰が望んだのだろう? こんな嘘のような在り様を一体誰が──。
 こんなものの為に燐が……親友が……全てを失った。

 もし今、わたしの手に何らかの武器か力があったのならば、きっと……。

 いや、このときはそんなことすら思わなかった。
 ただ今、目に映るものすべてが不快だった。

 
 わたしはこの幸運と嘘で出来た町のなかで唯一の拠りどころである、もっとも忌み嫌う場所に向かった。

 無駄に高いところにある、無駄に大きな屋敷へ。

 夕空の下、黒い屋敷が姿を現した。

 黒く不格好なただ大きいだけの歪な屋敷。
 それが”わたし”の家、何も知らなかったころに普通に暮らしていた、呪われた家。

 呪われた門のカギを外す、鍵は普通に施錠してあった。
 今度は玄関の鍵、面倒くさいがこれも外す。

 勢いよく扉を開くが、暗い廊下が広がっているだけで、何の気配もない。
 一人で住んでいるのだから当然だが、当たり前のように静かだった。

 無意識に左手でスイッチを探す、カチリと動かすと一拍の間、ぱっと玄関の灯りが灯った。

 そこには長い廊下があるだけ他には何もない。
 思わずため息を零す、安堵の為かそれとも疲労からか。

 どちらにせよ確かめねばならぬことがあった。

 靴を脱ぎ散らかしたまま、おもむろに玄関わきの階段を階段を上がる。
 今すぐにでも駆け上がりたかったが、足がずきずきと痛みを主張してくる。
 思い通りにいかない体に毒づきながら、なんとか階段を登って自分の部屋のドアを開けた。

 ……部屋の様子からこれが夢であることが分かった。

 ぬいぐるみもタンスもベッドカバーも何もかもが()()()()()だった。

 服を脱ぐこともせず、そのままベッドに倒れ込んだ、お気に入りのクマのぬいぐるみを引き寄せると、ぎゅっと折れるほど抱きしめた。
 柔らかい綿の感触に心が少し軽くなった。


「あれは長い夢。そうだったんだ……」

 天井の梁をぼっと見つめながら呟く。
 自分に言い聞かせるように噛みしめながら。 
 
 ほんとうに夢ならまあ、それなりに楽しめたのではと思う。
 怖いことも嫌なことも、痛いことだってあったけど、好きな人とずっと一緒だったから。

 でも、”さいご”のは例え夢でも、悲しすぎる。

 とても悲しい。

 だからこそ夢であってほしいのだけれど……。

「だったら、燐が無事かどうか確認しないとね」

 蛍は身を起こそうとベッドの縁に手を掛けた。
 それほど力は入れていない、それなのに。
 左足に激痛が走った。


 何事かと思い痛みを訴えている左足を見る。
 包帯が丁寧に巻かれていた。
 それは”あの人”が手当してくれた包帯、最後の優しさだった。


 その事実を知ったとき、寒気を覚えた。

 橙の光の差す、夏の蒸し暑い自室で蛍はひとり、内から出てくる寒さに震えて布団を被った。
 

 ……耳鳴りがする。
 それは頭の中で何度も響いて、嫌な感情を引き出そうと必死に呼びかけていた。
 蛍は今度は暑さに苦しんだ、嫌な感じの汗が額から流れ落ちる。

 布団を目深に被りながらリモコンを手に取り、エアコンに向けた。

 自動運転が最適な温度にするために西日の強い部屋の温度を下げる。
 蛍はリモコンの温度を確認しようと小さな液晶に注視する。

 33度。

 でも、それ以上に暑く感じるのは、別の要因があったから。
 蛍は再びリモコンを手に取って、エアコンのモードを冷房にしようと試みた。

 その横に奇妙な物体があった。


 ……紙飛行機だった。

 ノートの切れ端で作った紙飛行機。

 わたしと燐が一緒に飛ばした紙飛行機だった。


 白く、清純な紙飛行機は、まるで彼女の心を投影したように透き通ってみえた。

 そしてそれが現実であったことに蛍は強い衝撃を受けた。


 目の前が真っ暗になる。

 どこからが夢でどこまでが現実なのか、その境界線はどこにあるのか。

 耳鳴りが余計に酷くなっていく。
 心拍数が上がっていくのがわかる。

 あつい。
 さむい。

 ねぇ、わたしは今どこにいるの。

 あなたは……どこなの?


 多分、わたしはわたしでなかったと思う。
 それぐらい錯乱してた、わたしは異常者になっていた。


 一人だけどこか別の世界にずれ込んでしまった感覚。
 それが無性に苛立たせる。


 ───誰かが、なにかを叫んだ気がした。

 多分、わたし。

 でも何のために。

 わからない。


 わたしはわからないまま潰してしまった。

 とてもだいじなものだったのに、潰してしまったのだ。


 だって、”こんなもの”なんの役にも立たない。


 なんの慰めにもならないもの。

 だから潰した。

 原型を留めないほど何度も。
 

 不思議と罪悪感はなかった。


 そのかわり。

 
 てのひらに一つの塊が出来ていた。

 それは世界。


 わたしは二人の世界を小さく丸めたものをゴミ箱に放り投げた。



 重くも軽くもない音が静かに鳴った。



 


 

「どうしたの? こんなところで。一人?」

 

 人の声がした。

 ”わたし”じゃない他人の声。

 

 良く知らない声。

 

 

 ──それは雨の日の午後に似ていた。

 

 

 実際には降っていない雨は耳の奥に流れてくるノイズがそうさせているのか。

 それとも、さっきから高鳴り続けている心臓音なのか。

 

 それでも雨に打たれたばかりのように、身体はじっとりと濡れていた。

 夜風で乾いたはずの汗が首や腋、額からジャグジーの泡のようにどんどんと湧きあがってベースレイヤーを通して制服や髪を濡らしていく。

 

 緊張と不快感で叫びだしそうになる衝動を堪えるように、スカートの裾をぎゅっと握りしめて感情を押し殺した。

 

 二人の人間を月の光が白く縁取っている。

 長く伸びた影はお互いの立場を明確にするように、その長さを競い合っている。

 

 カマキリのように細長い影が”彼女”。

 カナブンのような黒いかたまりが”わたし”。

 

 蛍は天敵に睨まれた小動物のように、怯えたような顔で黙ったままだった。

 無防備な背中を丸出しにしたままで。

 

 どうせ田舎だからと油断していたところもある。

 人がいることも、ましてや話しかけてくるとは蛍は思ってもみなかったのだ。

 想定外の事態に頭がパニックでこんがらがりそうになっていた。

 

 どちらにせよ、かなり不味い事態になってしまうだろう。

 それこそ”通報”なんてことになれば、かなり面倒なこととなる。

 

 自分があずかり知らない所でなら、さほど気にしないのだが、過疎化に近い町では噂はその日の内に広まってしまうだろう。

 

 そうなれば近所の噂の的になるだろうし、”やっぱり”とか定義づけられて入院なんてことにもなりかねない。

 

 二学期は病院の白いベッドから始まったなんて、少女漫画でも使い古されたような展開は御免だった。

 

 それに自分だけならまだしも吉村さんも何か言われてしまうだろう。

 もっともそれは、()()()()()()()()()()()()同じことになるのだろうが。

 

 まあ、その場合はわたしじゃなくなってるはずなので、一切関係の無いことになってしまうけれど。

 

 

「本当に大丈夫? 怪我してるんじゃない? 手を貸すわよ」

 

 なしのつぶての状態に、女性は当惑したような気遣わしい声色で蛍の背中越しに再度話しかけていた。

 

 それでも”彼女”からの返事はなかった。

 

(聞こえてない……はずはない、わね。だったら無視されている?)

 

 いくら話しかけても黙っている蛍に、何かトラブルがあるのではと女性は思った。

 いわゆる”女の勘”というやつだった。

 

 足が痛いとかの身体的な問題ではなく、もっと精神的なもの……。

 夜中に少女一人、制服のままこんなところにいるのだから、おかしいと思わないわけがない。

 だとしたら考えられるケースは”それなり”にある。

 例えば家出とか……変な男に騙されたとか……。

 

 蛍の地面にまで垂れ流れている長い髪。

 暗がりでもわかる綺麗な黒髪だったが、少し乱れていたのでそこにちょっとした違和感を感じさせる。

 

 どちらにせよ声をかけてしまった以上、”大人”としてはこのままにしておくことは出来ない。

 そう決め込むも、どうしたらいいものだろうか? 腕を腰にあてて困り果てたようなため息を女性は軽くついた。

 

(どうしよう……このまま黙ってたら気を悪くしてどこかへ行っちゃってくれないかな……)

 

 蛍は女性の好意など当然知る由もないので、割と自分勝手な理由で沈黙を守っていた。

 だが、女性の言葉にこれまで感じたことのない母性的なものを若干感じてはいた。

 しかし、逃げ出してしまいたい気持ちの方がほんの少し勝っていたので、その好意を素直に受け取ることができなかった。

 

 それでも露骨に逃げるのは何かこう、非常識な気がする。

 だからこそ、このまま女性が首をかしげながらも立ち去ってくれないかなと思っていた。

 その方がスマートで後腐れない、そう思っていたから。

 

(隙を見て、走り出しちゃうのもあり、かな? でも、足が……)

 

 蛍は女性の立ち位置をちらっと横目で確認する。

 暗がりのため、こちらが見てることには気づいていない、はずだ。

 

 蛍のほぼ真後ろに女性は立っているようで、さっきから背中に視線があたっている気がしている。

 女性は間違いなくこちらを見ているだろう、ペンライトのスイッチを切っておかなかったのがアダになってしまった。

 

 だが、その場からは動いていないようで、ときおり体を揺さぶるような衣擦れ音が聞こえていた。

 

(警察とか呼ばれちゃうのかな……)

 

 蛍は最悪の事態を想定して、目の前が真っ暗になったような気がした。

 恥をかくことにはそれほど気にしないが、警察の厄介なるのは話が違う。

 

(もしこの人が携帯を取り出したら、その時は……)

 

 蛍は珍しく攻撃性を内に秘めた。

 誰かに危害を加えようなんて殆どなかった蛍だが、”迷惑を掛けたくない”の思いが人畜無害のような少女に、激しい攻撃性を引き出していた。

 それはあの中学校で追い立てられたときとは違い、明らかに自分だけのものだった。

 

 せっかくいい場所を見つけたと思ったのに、こんなことになるなんて……。

 蛍は自分の体力のなさ、マイペースさ、そして迂闊さを少しばかり恨んだ。

 

 蛍にとっては背水の陣に相当する行為をしようとしていた。

 しかし、第三者、つまり女性から見れば明らかにおかしな感情を少女が秘めていることを背中が物語っていたのだ。

 

 秘めたる感情は固く凝り固まった背中が何もかも教えてくれていた。

 

 女性はその背中になんとなく理解を示していた。

 そして、一ミリも眉を動かすことなく、胸中でため息をついた。

 自分も女なのでこのぐらいの年の子が何を考えているのかは大体わかるつもりだ。

 

(警察や消防を呼んだら怒りだしそうな感じね。いや、怒り狂って突っかかってくるかも、ね)

 

 長い髪の少女が怒りに燃える姿を見てみたいと、興味本位を擽られるが、怒らせるつもりも、事を大事にする気もなかったので、それは止めておいた。

 

 ただこの少女が困っているなら助けになりたかった、それだけだった。

 どこか不安定にみえたから。

 

 自分だって”学生”だったころは色々面倒ごとを起こしたものだし。

 それが大人への通過儀礼的なものかと思ってはいた。

 

 客観視している自分をみるのが普通であったけど、それがたまらなくつまらなかった。

 大人でも子供でもない、その中間の頃がもっとも美しく、かつ面白く退屈でとても繊細だった、ガラスのように壊れやすいのに。

 

 それを知ってたはずなのに、わたしも大抵バカだよね……。

 

「はぁ……」

 

 今度ははっきりと言葉にしてため息をついた。

 

 この少女もそれほど変わらないだろう。

 世代は大分違うが、どこかちぐはぐな感じが見て取れる。

 大人と子供の中間の清らかな部分をもった、この世でもっとも綺麗で儚い存在。

 

 だから……ここで何をしようとしていたのかは”わかっているつもり”だ。

 

 それは”同じ女”としての本能だけでなく、一人の母親としてのものもあった。

 

 このぐらいの年の子は全く知らない言語で喋る。

 自分も例外なく同じだったから、そうなのだろう。清楚で育ちの良い子でもその辺は例外ではなかった。

 

 そしてこのように危うい感じを少なからずもってしまう。

 その解消法だけがおのおので違っているだけだ。

 場合によっては合法非合法すれすれのことをしてみたり、年不相応の嗜好品(しこうひん)で背伸びしてみたり、行きずりの男と寝たりと、”何かしら”のアクションを必要とするのだ。

 

 そこには良いも悪いもない、ただ仕方なく、寂しいから、自分を見てくれないから等、若さと可愛さを含ませたアピールを彼女たちはするだけだった。

 

 ただ、まだそれらは可愛いもので、もっと深刻に、むしろナチュラルにそれを追求すると、あまり良いことにならないこともある。

 

 この少女はその良くない感じがする。

 今だって、こちらの隙のようなものを伺っている感じがする。

 ちょっと目を離せばすぐにでも逃げ出すか、今にも飛び掛かってくるような、そんな不安定な素振りがある。

 

 自分はそこまでおせっかいなたちではない。

 それどころか他人にそれほど関心がないと言ってもいいだろう。

 特に今は考えなければならないことが多すぎて、それどころではないのだから。

 

 でも……このままでいいとはさすがに思えなかったから。

 

(……はぁ、面倒だけど仕方ないか。今日も疲れたからさっさと帰って寝たかったのに……まあ、いいけどね。このまま放っておくには危うい感じもするし)

 

 女性は先ほどまでやっていた面倒なプレゼンを思い出して憂鬱な気分になった。

 自分の商品を置いてもらう為とはいえ、ここまで(へりくだ)なければならないのは単純なストレスだった。

 それでもセクハラされなかっただけでもまだマシなのかもしれない。

 

(でも、もしそうなったら……わたしはどうするだろうか?)

 

 多分、口やら手やら足やらだして断固拒否するだろう。

 下に見られるのは仕方ない部分もあるが、慣習とか、利己的な付き合いなどまっぴらごめんだった。

 そういったことは前職でもしょっちゅうだったし、ある意味どうしようもない部分もあるけど、せっかく異業種でやり直すことにしたんだから、出来る限りクリーンで行きたい。

 

 そのせいで生きづらくなるかもしれないけど、それはそれと割り切るしかないんだ。

 

 でもどうしてもストレスは溜まってしまう。

 それを解消しようといつもの様に夜の峠を自分のペースで(法定速度を少々オーバーする程度)気持ちよく走っていたときに見てしまったのだ。

 

 そのまま見て見ぬふりで通り過ぎてもよかったことなのに、どうしても気になってしまった。

 

 なんとなく面倒ごとになりそうな気はしていたが、予想とは少し違うがトラブルの匂いはしている。

 ”わたし”は更なるストレスの火種を自分で拾ってしまったと少し後悔した。

 

 それでもトラブルは最小限に食い止めねばならない。

 前職でもそうやってなるべくスマートに対応してきたのだから。

 

「えっと、学生さん? そろそろ帰ったほうがいいんじゃない。親御さん心配してるわよ」

 

 ありきたりすぎる言葉を、先ほどの営業スマイルとはちょっと違った感じで作ってみた。

 その笑顔は無理したためか少し引きつっていたが、蛍は相変わらず背を向けたままだったし、暗がりだったので誰にも見られてはいなかった。

 

「あ。これあなたのもの? ちょっと借りるわね」

 

 女性は誤魔化すように蛍の隣にぴょんと移動すると、ずっと地面を丸く照らし続けているペンライトを了解も得ずに拾い上げて、スイッチが入ったままの状態で蛍の方に向けた。

 

 蛍は全身を強い光で照らされたことで、サーチライトに射抜かれた脱走者のように全身をびくっと震わせると、狼狽えた表情でとっさに手で顔を覆った。

 

 蛍の姿を白く消し去るほど強い光に女性は慌てて、蛍の顔から光をずらした。

 ペンライトの小さい明かりがここまで強いとは思わなかった。

 

「今の()()()()ってこんなに明るいのね……あ、ごめんなさい、こんなに強い明かりだとは思わなかったから。小さいのに強い光が出せるのね」

 

 新しい玩具を買ってもらった時のような興味深い(子供みたいな)瞳でペンライトをまじまじと見つめていた。

 

「えっと、靴が脱げないのかしら? どれどれ……あぁ、これは酷いわね。これじゃあ足を委託しても無理ないわね。誰が結んだのかは知らないけど、すぐに脱がせてあげる」

 

 蛍の訝しそうに見つめる視線に気付き、女性は慌てたような愛想笑いを浮かべると、蛍の靴に明かりを向ける。

 ライトグリーンのトレッキングシューズには綺麗な赤い靴ヒモが括られていた。

 しかしその結び目は毒をもった蛇がとぐろをまいたような不気味さを醸し出しており、なんとも形容しがたい摩訶不思議な結び目をこんもりと作っていた。

 

(こんな酷い結び方で歩いてたんだ……)

 

 他人事のような感想を今更のように胸中で漏らす蛍。

 とりあえず脱げなければいいやと思って結んだ結果がこれだったのだ。

 

 靴ヒモの先端を引っ張ってみたり、結び目に指を掛けたりと、蛍とあまり変わらないことを女性は試してみるが、その程度で解けるならば苦労はしていない。

 無駄に頑固で意固地な靴ヒモがある男の飄々とした様子を思わせるようで、わけもなく女性は憤りを感じていた。

 

 これでは埒が明かないと思ったのか、ふいに腰に手を当てて立ち上がると、逡巡するようなそぶりで口元に手を当てていた。

 

「これは……ちょっとやそっとじゃ解けそうにないわね。こんなことが出来るには天才かかなりの不器用かというところね。やっぱり切るしかないのかぁ……」

 

 女性は匙を投げたように肩をすくめた。

 

 結んだ本人を目の前にして散々な言いようだが、このマンデルブロ集合図のような独特の結び目は、そう言われても仕方のないほど、複雑怪奇な出来をしていた。

 

 女性は物思うような仕草で辺りを見渡すと、少女の手に今だ小さな金属片が握られているのに気付いた。

 その先端が鋭角であることでハサミであることがわかった。

 蛍がしゃがみ込みながら何をしようとしていたのかをようやく理解することが出来た。

 

「あなた、それで切ろうとしていたのよね?」

 

 蛍は黙って頷く。

 ほかに何の目的があってハサミを握るのだろうと蛍は思ったが口には出さなかった。

 

「そうよね、やっぱりそれしかないか」

 

 大人の女性は納得したように何度も頷いた。

 ブランド物のような真新しそうなスーツは今やしっかりと皺が寄ってしまっている。

 

 忙しさと疲れが服に皺を刻んでいるのだと蛍は思った。

 

「じゃあ、切ってあげるからハサミ貸してもらえる?」

 

 女性は口角を引き上げて、この日最高クラスの精一杯の微笑みを作った。

 そこまで愛想よくする必要はない気はするが、念には念を入れたかった。

 

(一応刃物だしね。突然刺されるとか、シャレにならないから……)

 

 小動物をあやす様な優しい瞳を女性は湛えた。

 

 その瞳に絆されたように、蛍は無言のまま、手の中の十徳ナイフを反対に持ち替えて、おずおずと手渡す。

 その手は何かに怯えるように小刻みに震えていた。

 

「あ、でもっ!」

 

 女性がハサミを受け取るのと同時に蛍は切羽詰まったような声を上げた。

 これぐらい自分でやります、と二の句を継ごうとしたのだ。

 

「な、何っ!?」

 

 蛍が突然叫んだので、呼応するように女性も声を上げていた。

 

 二人は初めて目線を合わせていた。

 女性は蛍の瞳を見て、なんて綺麗で澄んだ瞳だろうと、漫画のような感想を抱いていた。

 蛍は女性の瞳に、母親のような暖かさと、懐かしさに触れたような、そんなノスタルジックな光景を垣間見ていた。

 

 蛍がじっと見ていると、女性は声には出さずに口だけを動かしてした。

 ”大丈夫”そんな唇の動きに蛍は女性の大人らしさを感じ取って、それ以上何も言えず、ただ黙って頷いていた。

 

 蛍の”了承”受け取ると、女性は器用な手つきでハサミを構えた。

 

 試しに柄の部分を何度か握ってみる。

 ハサミの刃は音も出すことなくスムーズに動いた。

 新品そうに見えるからか切れ味はなかなか良さそうだった。

 

 その刃の先端を靴ヒモの結び目のすぐ横の一本線にあてがう。

 何度も切ることはない、この一本切れば大丈夫なはず、女性はそう思ったので、一番切りやすく効果的な場所を選んだ。

 

「じゃあ、切るわよ、いいのよね?」

 

 最後の確認を取るように女性は蛍の目を見ながらはっきりとした声で尋ねる。

 蛍は口を結んだまま再度女性に向かって頷いた。

 

 蛍からの無言の了解を得ると、女性は靴ヒモに狙いを定めた。

 アウトドア専用の靴ヒモと言っても、何も鉄や銅が練り込んでいるわけでもない、所詮はtだのヒモなのだ、切ろうと思えばそれほど難しくはない。

 このハサミも小さいながらもちゃんとしたメーカー品なので、見た目以上の切れ味をもっていた。

 

 蛍は無意識に身体に力を入れたまま、黙って行く末を見守っていた。

 

「……」

 

 靴ヒモを切るぐらいものの数秒もかからず終わることなのに、女性はハサミを構えたまま一向に動こうとはしなかった。

 それは何かに魅入られてたように不自然な行為だったので、蛍は女性の顔色を窺うように覗きみる。

 

 本当に何かが取り憑いたのだろうか? 女性はハサミを握ったまま、何やらぶつぶつと呟いていた。

 

 そして、突然唸り出すと、そのまましばらくの間黙っていた。

 

 あまりに異様な様子に蛍は唾をのみ込んでいた。

 

「やっぱり、勿体ない……わよね」

 

 女性がぼそっと呟くのを蛍は聞き逃さなかった。

 怨恨が乗り移ったような所為は、単純にものを大事にしたかったからの葛藤から? 来るものだったらしい。

 

 蛍は少し当惑した様子で愛想笑いを浮かべながら、先ほど口にしなかったことを今度はちゃんと言うことにした。

 

「あ、あの~、自分でやりますから」

 

 気遣うような声色で蛍は話しかける。

 相手が年上の女性とわかってはいても緊張してしまう、それは家政婦の吉村さんとは違ったタイプだとわかっていたから。

 

 でも、不思議と初対面という感じはない。

 

(どこかであったことが、ある?)

 

 蛍は小首を傾げて目の前の女性を改めて見てみるが、見覚えがあるような気がする。

 咄嗟に名前は出てこないが、どこかであったような記憶がある。

 

 曖昧な記憶を手繰り寄せるようにじろじろ女性を観察していると、その視線に気付いたのか、女性はすっと立ち上がった。

 

 その服装と体つきは明らかに大人の女性であり、商談にでも行ってきたような上下ばっちりとしたスーツ姿で、夏だというのに全身黒ずくめだった。

 

 いかにも仕事の出来そうな格好をしていたが、似つかわしくない違和感があった。

 キッチリとしたスーツには似合わない独特の香り、それは食欲を誘うような確かな香りだった。

 

「ねぇ、()()()、少しは歩ける?」

 

 誰に話しかけているのか直ぐにはわからなかったが、それが自分であることに蛍は今初めて気づいたように目を見開いて固まっていた。

 蛍はどう答えていいかわからず、首を人形のように僅かに上下に揺らす。

 

 緊張のあまり、喉が張り付いて声の出し方を忘れてしまったようだ。

 

 女性はその返事で何かを察したのか、突然蛍の目の前でくるりと向きを変えると、背を向けたまま、地面にしゃがみこんだ。

 

 蛍は一瞬呆気に取られたが、女性が何をしようとしているのかがわかると、顔を真っ赤にして手を横にぶんぶんと振った。

 

「えっと! そこまでしてもらわなくても、大丈夫です」

 

 蛍は女性の厚意を拒否すると、小声で何度も大丈夫と繰り返した。

 が、相手はその答えがくることに先刻承知済みだった。

 

「いいから乗って、そんなに遠くはないから」

 

 顔だけをこちらに向けて女性が少し語気を強めてそう蛍に告げた。

 遠くの意味がわからなかったが、選択の余地がなさそうだった。

 このまま拒み続けていたら、無理やりにでも背負わされそうな気がするので、蛍はその厚意を受けることにした。

 

「お邪魔します……」

 

 少し場違いな挨拶をしながら蛍は女性の背にしがみついた。

 これまで感じたことのない大きな背中だった、厳密には家政婦のほうが大きな背中をしていたのだが、それは幼少期までのことで、蛍が成長してくるとむしろ家政婦の背中はこんなに小さかったのかと目を丸くするほどだった。

 

 そんな成人した蛍を女性は少しふらつきながらも背負いきった。

 蛍は大人の優しさを今初めて知ったかのようなときめきと感嘆を覚えた。

 

(この人はなんでこんなにわたしにしてくれるの?)

 

 蛍は背に揺られながらその疑問を投げかけようとしたがやめた。

 きっとこの人ははぐらかすようなことしか言わない気がするから。

 ゆりかごに乗った赤ん坊のように、ただじっと素肌の感触を楽しみながら甘えることにした。

 

 一つの塊となった影が山道をとぼとぼと下っていく。

 その姿は身の丈よりも大きな殻を背負って、それでも前に進んでいくでんでんむしのようなゆっくりとした足取りだった。

 

 蛍が成り行きをはらはらしながら見守っていると、坂を下った先にある緊急の待避所のような場所で、黄色いライトを点滅させている黒い影があるのを見た。

 

 それは少し前に通り過ぎた軽自動車に似ていた。

 ナンバーは覚えていないが、恐らく同じ車だろう。

 田舎の夜の峠道に来る車なんてそうそういるものでもないし、何よりその方が辻褄があっていた。

 

(でも、それだとわざわざ戻ってきてくれたことになる。なんでそこまでして……?)

 

 蛍は無償で背を貸してくれている女性に何らかの心当たりがないか、もう一度考えてみた。

 

 ……何か思い出せそうで思い出せない。

 モヤモヤした感情が曇り空のように蛍の心に溜まっていった。

 

 カチッ、カチッ。

 規則的な機械音が蛍のもやもやを打ち消すように山肌に響く。

 暗闇の中、白いガードレールの先に黒い輪郭を保ったままの軽自動車の姿がぼんやりと浮かび上がっていた。

 

 海の底のような深い青のボディーカラーに、真珠を思わせる白のルーフがのった、親しみやすい(女子受け)デザインの車だった。

 

(あれ? やっぱり見覚えがある気がするけど……こんな色だったかな?)

 

 背負われていることを忘れたように蛍が首を傾げていると、背負っている女性は荒い息を何度も付きながらようやくここまでたどり着いた。

 

「はぁ、はぁ……やっぱり、年齢には、はぁ、勝てないか……」

 

 これでも若いころは部活でキャプテンを務めたこともある、などと”お決まりな”ことを口走りそうになったが、その戯言を飲み込んで最後の力を振り絞らんばかりに、車のドアに手を掛ける、

 

 それは正確にはドアではなくて、そのドアの横に付いている黒いボタン(リクセストスイッチ)を押したのだった。

 

 若干震え気味の指先でそれに触れると、ピピッ、と小鳥の囀りのような小さな音がして車のロックが外れたようだった。

 それと同時に車の両サイドに付いたドアミラーが開閉していく。

 

 深い夜の中ではドアミラーの開閉音がことさら大きく聞こえていた。

 その音は、かつて蛍と燐が無人の作業車に襲われたときと、同じタイプの音だった。

 蛍はそのことを一瞬思い出して、少し身を竦めた。

 

 女性は生まれたての小鹿のように膝を震わせながら、ドアを開けようと手を伸ばすも、おんぶしたままの片手では上手く力が伝わらないのか、鍵の掛かっていない薄い鉄の扉程度も開けることが出来なかった。

 

「あっ、わたしがやります」

 

 蛍は気付いたように声をあげると、背負われた体勢のままで右手を精一杯伸ばして、銀のドアノブを掴む。

 

 冷蔵庫のドアノブにも似た銀の取っ手を蛍は思いっきり引っ張った。

 

 ばくん、と空気が抜けたような軽い音がして、助手席のドアが開いた。

 同時に柔らかい感じの間接照明が珍しい客を歓迎するように光を外まで零していた。

 

 女性はお礼を言う余裕もなく、うなだれるように小さく頷くと、頭をぶつけない様に注意しながら、蛍を座席に押し込んだ。

 

 ベージュとネイビーの二色構成の車内は四角い鳥かごのようにこじんまりとしていた。

 車内にはエアコンのひんやりとした残り香と、粉っぽい独特の香りが入り混じって、彷徨うようかのに漂っていた。

 

 蛍はこの車の内装にもやはり見覚えがあるような気がしたが、それを口にすることはなかった。

 

「……はあ、これぐらいで疲れるなんて、やっぱり年かなぁ……まだまだ若いとは思ってるんだけどねぇ」

 

 開いたままのドアに身をもたせながら、女性はため息交じりの吐息を疲れ果てたように吐き出した。

 その顔には汗がびっしりと浮かんでいたが、女性らしい眼差しはまだ保ったままだった。

 綺麗で素敵な人だなと蛍は素直に思った。

 

「あ、ありがとうございます。おかげで助かりました」

 

 蛍はベージュのファブリックシートにちょこんと座ったまま、仏蘭西人形のように足を揃えて、丁寧にお辞儀をした。

 

 重い荷物を届けてきた宅配業者のような疲れ顔していた女性は汗を拭いながらも少し満足げな表情で蛍に微笑んだ。

 

 純粋な()()()微笑みだった。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 闇がまだ留まっている時刻。

 

 白いシートにキチンと腰掛けながら、蛍は心配そうに自分の足を見ていた。

 正確には足ではなく、その傍らでどうにかして靴を脱がそうとしてる人を見持っていた。

 あれから少し時間が経ったが、靴は蛍の両足に嵌まったままだった。

 

 偶然出会った細身の女性、その人は今だに靴ヒモとの格闘を続けていた。

 当の蛍は、すでに戦いを放棄しているのに。

 

「あの。やっぱり、切っちゃってください。別にそこまで思い入れのあるものでもないですし」

 

 蛍の言う通り靴ヒモに思い入れのあるものなど、そこまでいるわけではない。

 何故なら靴ヒモは消耗品だったからだ。

 紐が切れたら新しい紐を通せばいいだけのこと、それで靴は元通りになるのだから。

 

 だが、女性は蛍の言葉を軽く流す素振りをみせるだけで、靴ヒモとの戦いを止める気などないようだ。

 

 なにがそこまで彼女を掻き立てるのかはわからない。

 本人もよくわかってないのに、蛍がわかるはずもなかった。

 

「なんで、こんなにっ、固いのかしらっ、ね!」

 

 切るのは簡単に済むだろう、その為のハサミもある。

 良い紐であるのは確かだが彼女の言う通りそこまで値の張るもの、珍しいものでもない。

 

 どうみても普通の靴ヒモとしか言いようがない。

 アウトドア用になにかの繊維が編まれているかもしれないけど、それを込みにしても普通の部類だろう。

 それでも切るに至らないのには、一体なぜなのか。

 

(ここまできたらただの意地? なのかしら。本当にただそれだけなの?)

 

 よくわからなくなってくる。

 ただ勿体ないだけではない、かと言ってこれという理由もない。

 一度手をつけた以上、何とか解いてみたいのはある意味人間の心理かもしれないが………。

 

 何かが胸につかえている、そんな感じがずっとしていた。

 

(何か大事なことを忘れてるような気がする。何だろう、()()()()()()()()()()()()()と思わせる何かが……)

 

 ついに紐をほどくのを諦めたのか、額に指を乗せて女性は考えこんでいた。

 

 蛍にしてみれば考える必要などなかった。

 だってハサミで紐を切るだけのことなのだから、それでこの問題は解決するのに。

 でも、そう思うだけで口にすることも、自分でハサミをとって切ることもしなかった。

 

 何故かはわからないが、自分で切ってしまうのは何かこの女性との信頼的なものを裏切る気がしたのだ。

 

 ただの靴紐は今や二人の運命の糸と成り代わっていた。

 

 長考の時間は無駄に時の長さを感じさせて、蛍を不安にさせる。

 言いようのない焦燥感を覚えて、蛍はたまらず声を掛けた。

 

「あの、何か()()()でも、あるんです、か?」

 

 特に何かを示す言葉ではなかった、ただなんとなく口から出た言葉だった。

 

 目の前で考え込んでいる女性は蛍の問いに何かを閃いたのか、思い立ったように後部座席のドアを開け座席に飛び乗ると、ラゲッジスペースの下あたりをごそごそと探り出した。

 

 蛍が呆気にとられたようにその行動を見守っていると、お目当てのものを見つけたのか、女性は嬉しそうに何かを抱えて戻ってきた。

 

 それはシンプルなエコバッグだった。

 

(探していたものってこれ? でも、今必要なのかな?)

 

 蛍は女性の行動がいまだ理解できなかった。 

 

「そうそう、これこれ。必要だから持っていけって言われていたのよね」

 

 女性がエコバッグから取り出したのは、何の変哲もない文房具の”ゼムクリップ”だった。

 わざわざ目の前で見せられても、普通のクリップと特に変わりはないように見える。

 特殊な仕掛けもなさそうだし大きさも形も至って普通であり、強いて言うなら色がピンク色なぐらいで、普通の細長いクリップとか言いようがなかった。

 

 蛍が不思議そうな顔でまざまざとクリップ見ていると、女性は細い指先でクリップの先端を摘まんで少し広げると、釣り針のような形を作った。

 それを反対に持ち替えて、先端部分を幾重にも結び目の中に差し込んで、片方の手で支えながら少しずつ、解きほぐすように引っ張った。

 

 見た目以上に地味で緻密な作業に、女性は時を忘れたかのように没頭していた。

 こういうのが好きなタイプなのかもしれない。

 

 蛍も固唾を飲んでその一部始終を見守っていた。

 

「……」

 

 瞬きを忘れる程度の時間が過ぎたころ、すべての作業はつつがなく終了した。

 

「なんとか………解けたみたいね」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 ほどなくして蛍の左足は靴の束縛から解放されることになった。

 女性の手伝いを受けながら蛍は何時間ぶりに素足を出そうとすると、急に痛みが襲ってきた。

 

「痛っ!」

 

 靴を履いていたときよりも強い激痛に蛍は顔をしかめた。

 

 ちゃんとサイズも合わせて、トレッキングシューズので歩き方や、十分な鳴らしもしておいたのに。

 

 信じられないような顔つきの蛍を察したのか、女性はトレッキングシューズを手に取ってしげしげと眺める。

 

 そして一つの結論をだした。

 

「靴ひもの結び方が問題だったかもしれないわね。かなり個性的な結び方になってたし。それと長い時間履いてたんじゃない? ちょっと足がむくんできてるみたいだし」

 

「あ……それでかも」

 

 蛍は納得したように頷いた。

 

 家を出た時から一度も靴を脱がなかったし、緩めることもなかったのが、足に負担を与えていたんだろう。

 それに風車まで行ければいいと思ってたから、追加でこんなに歩くとは思わなかったところもあった。

 

「とりあえずタイツは脱いでおいた方がいいわね。それと、はい。痛いところに貼っておくと少しは楽になると思うわ」

 

 女性がエコバッグから再び取り出したのは……小さな四角い箱。

 パッケージで絆創膏であることはわかった。

 

「あ、ありがとうございます。でも……」

 

 その後に続く語句を蛍はなんとなく飲み込んだ。

 特に聞かねばならないことでもなかったし、それは人柄的なもののような気がしたから。

 

「そうよね。やたらと()()()()()のよね」

 

 呆れたような、それでいて感心したような言葉を女性は口にした。

 

 その他人事のような口ぶりに蛍は違和感を覚えるが、プライベートなことのような気がしてそれいじょう踏み込む気はなかった。

 

「その……実はね」

 

 目の前の女性が少し勿体ぶった言い方であるものを見せる。

 少し緊張した目の色に、蛍は思わず唾をのみ込んでいた。

 

「替えの靴下も……あるのよ……どうする?」

 

「えっ?」

 

 目を丸くしたまま、蛍は理解できないように首をかしげていた。

 この女性は”そういった関係”の仕事をしているのだろうか? 例えば古着屋さんとかそういうアパレル関係の仕事、とか……。

 

(でも、車の中の匂いはそれとは違う……どちらかというと……)

 

 蛍が何かを探るように目を閉じで匂いを嗅いでいるのに気付いた女性は、慌てたように言った。

 

「ああ、ごめんなさい、さっきから匂ってるでしょ? 配達の時もこの車を使ってるからどうしても残っちゃうのよね」

 

「もしかしてパン屋さん、とか?」

 

「そう、ご名答! っていうか、まだオープン前なのよね。今日だって顧客についてもらう為に、うちの新製品を納品しにいった帰りのなのよ……パン屋って楽に始められるかと思ったんだけど、結構競争相手も多いし、資金ばかりかさむのよねぇ……」

 

 額に軽く手を乗せて、女性は蛍が聞いていないことまでとつとつと語りだした。

 なんでもできそうな人に見えるのに、意外と苦労してやっていることに少し親近感を覚えてしまう。

 

「あ、ごめんなさいね。変な事言っちゃって! とりあえずこれ絆創膏貼った後にでも履いてみて。多分、サイズは合ってると思うから。あ! いちおう新品だから大丈夫よ」

 

「はい……」

 

 蛍は半ば強引に靴下を受け取る。

 可愛らしいピンクのスクールソックスに、猫の顔のワンポイントが付いていた。

 見覚えのあるメーカーのものだった。

 

「じゃあ、悪いけど自分でケアしておいてね。今、あなたの荷物取ってくるから」

 

 声をかける間もなく女性は助手席のドアを閉めると、そのまま駆け出して行った。

 車内に一人取り残された蛍は、ちょうどよい温度の空調の風に少し身を委ねる。

 

 はあ、と大きなため息を付くと、言われた通り華奢な足を包んでいた、黒いタイツを脱いで赤く擦れていた踵に絆創膏を張り付けた。

 冷たい絆創膏にちょっとびっくりしたような声を上げるが、貼った直後から何かの薬効があったみたいにじんわりと浸透していく感じがあった。

 

 不思議に思いパッケージをよく見ると既存のものとは少し違い、キズ専用のものらしかった。

 さらには靴ずれ用とまで記載してあったので、ほぼ専用のものと言ってもいい。

 女性の用意周到さに、僅かな違和感と、何とも言い難い既視感を覚えながら、蛍は両足にそれを張り付けた。

 その上から、先ほどの靴下をビニール袋から取り出して、足にはめてみる。

 

 すこし生地が厚いかと思ったが、意外なほど快適な履き心地に蛍専用に作られたものかと思い込むほどに足にフィットしていた。

 

 蛍はこの靴下の色とデザイン、そして気遣いが好きになった。

 

 

 蛍はクリーム色の座席で一人、膝を抱えながら、窓の外に映る月に首を傾ける。

 

 エアコンと小麦粉の匂いで満たされた車内は、安心とときめきが同居していた。

 この中から見る月の明かりは、静かに降る雪のような白さと安らぎに満ちていているように感じられて、蛍はその明かりに懐かしさを思い出していた。

 

 燐と一緒に廃墟の一室で身を寄せ合っていたときの柔らかさが急に蘇ってきて、蛍は悲嘆に暮れて胸元で膝を抱き寄せた。

 

 

 ──ずっと不条理のなかにいる。

 それはいついかなる時も傍にいて、こっちを誘うように見ているのだ。

 良いことも嫌なこともすべて、不条理の世界のなかに飲まれていく。

 それが嫌だったから、家を出てそこから救われようとしたのに。

 結局ダメでここにいる。

 

 自分とはなんと愚かなのだろうか。

 

 抗っても逃げてもダメならどうしたらいい。

 自分なりに受け入れようとしても、心の奥が受け入れてくれない。

 

 もっとも肝心なところが受け付けてくれないのだ。

 もう彼女は居ないという絶対的な事実を。

 

 それが悲しい、辛い。

 だからこそもう終わらせたかったのに、なにもかも全てを。

 

 他人とかどうでもいいのに、どうしてまた”他人”とかかわりあってるのだろうか。

 

 もうわたしが関わっていいのは自分だけ。

 後、月と星、そしてあの青と白の夢のなか。

 

 そこで待っている少女──燐。

 

 それしか無いのにどうして、こんなところで足の痛みに怯えてるんだろう。

 もう肉体なんて意味がないはずなのに。

 

 ……そうだ、こんな弱い足をしているからダメなんだ。

 

 燐もわたしの弱さにため息をついてたもんね。

 

 だったら、こんな体もう……要らないよね、邪魔くさいだけだし、燐に呆れられるしね。

 

 でも、なんだろう? 今になってそういうことではない気がする。

 燐が言いたかったのはちょっと違う気がするんだ、上手くは言えないけど……。

 

 ──燐は……何を言いたかったんだろう。

 

 ドキュメンタリー映画を見終わったような、夢見ごちの様相で、蛍は顔を上げた。

 

 少しの間夢を見ていた気がする。

 嘘のようなホントの夢、深淵の奥の深い底から掬い上げたような、ドロッとした夢。

 

 まだ終わっていない夢。

 

 

(そういえば、まだあの人戻ってこない……?)

 

 蛍は助手席の窓から見えるサイドミラーに目をやった。

 黒一色の世界が小さな鏡に映っているだけ、明かりも人影もなかった。

 

 色んな感情の混ざったため息を一つ付くと、蛍は所在無げに車内(インテリア)を見回した。

 まだ真新しい感じのする車内はベージュとネイビーの二色だけで構成されていた。

 シートはソファーのように座り心地もよく、清潔感があった。

 後部座席には何やら荷物が積まれているが、さすがにそれを見ようとは思わなかった。

 

 フロントには黒を基調にしたインパネとベージュのステアリングがモノトーンを演出していた。

 その上には計量器のようなレトロ調のスピードメーターが鎮座しており、その下には小さな液晶パネルがカラフルな付箋のように張り付いていた。

 

(燐が運転してた車の中もこんな感じだった気がする……)

 

 より一層の懐かしさを思い起こすものがないか、蛍は車内に二人の思い出を探してみる。

 目の前にあるタブレット端末のようなナビパネルに触ってみるが、希望のものを映すことなく、黒い画面のまま静かに黙り込んでいた。

 

 燐は初めての車の運転に戸惑いながらも一生懸命になってくれていた。

 悲鳴を上げたり、時には一緒になって慰め合った狭い空間に二人きり。

 二人だけの時間は嫌いじゃなかった、むしろとても好きだった。

 

 運転させてばっかりだった燐には悪いと思っているけど、二人の距離が近くて、そしてとても新鮮だった、二人だけの夜のドライブ。

 

 長い時間じゃなかったけど、プールの時と同じ、もしかしたらそれ以上に素敵な時間だった。

 

(わたしは。もう一度……ううん、ずっとあのままどこまでも行けたらいいのにと思っていたんだよ、燐)

 

 ラジオから聞こえてきた歌を二人で唄ったこともあった。

 遠い記憶、もう戻れないあの夜の二重奏は忘れらない思い出だったはずなのに。

 

「あれ?」

 

 何故か今は曲が思い出せそうになっている、あの潮騒のようなメロディーも、叙情的な歌詞も湯水のように頭に流れ込んでくる。

 

 そして、そのタイトルも。

 

「確か……”例えば月の階段で”だっけ? あれ? 普通に思い出せた。でも……」

 

 その事が思い出せたことに不思議と違和感がなかった。

 まるで最初からわかっていたかのように、頭の中に歌詞もメロディも浮かんでくる。

 

 蛍は試しに曲のメロディーを口ずさんでみる。

 忘れかけた記憶に一つづつ、ペンで印を付けるような丁寧さをもって曲を紡いだ。

 

 美しい旋律があのときの思い出とともに蛍に歌を作り出した。

 一人で歌うことの心地よさと、自由、そして寂しさと悲しさが四重奏となって車内を彩る。

 胸中に秘めた想いを混ぜ合わせて蛍は歌った。

 

 一緒に歌ったもう一人の少女、燐に想いを伝えるように、糸を紡ぐように丁寧なリズムで。

 

 

「素敵な歌ね」

 

 いつ戻ってきたのだろう、いつの間にか女性が運転席に座っていた。

 蛍は歌うのを止めると恥ずかしそうに俯いて、じっと貝のように閉じこもってしまった。

 

「あ、ごめんなさい、気にせず歌っていてもいいのに。とてもきれいな歌声だったわよ」

 

「そ、そんなこと、ない、です」

 

 たどたどしい口ぶりで蛍は一層恥ずかしそうに答えた。

 耳まで真っ赤にしたその姿に女性はなおも可愛さを強調しようとしたが、これ以上は困らせてしまうと思ってやめておいた。

 

「ちょっとは元気になったみたいね。どう? 何か飲む? 水とお茶があるけど」

 

 両手にそれぞれのペットボトルを持って、催促するように蛍の目の前に差し出した。

 

「でも……」

 

「遠慮することないのよ。これはあなたの為に用意したんだから。もっともわたしが用意したわけじゃないんだけどね」

 

 まただ、含みを持たせたもの言いに蛍は妙な違和感を感じていた。

 

 勿体ぶった感じに聞こえるが、本人も話半分と言った感じのニュアンスに聞こえる。

 わかっているようで本当のところはわかっていないような、そんな曖昧さを感じさせた。

 

「じゃあ、お水いただけますか?」

 

 透明なペットボトルのほうを蛍は遠慮がちに指さした。

 

「あら、そう? 烏龍茶嫌い?」

 

「いえ、そうじゃないんですけど……」

 

 さすがにお茶の方を受け取る気にはなれなかった。

 好意で貰うものだし、それになにより気が利ききすぎている気がしていたのだ。

 それはこうなることを予想していたかのような周到さが、どうにも気になってしまう。

 

「チョコレートもあるわよ。 食べるでしょ?」

 

 女性は蛍の返事を待つことなく、赤い包装紙の板チョコを半分に割った。

 

 パキッ、と耳障りの良い音を立てて半分になったチョコレートを手渡される。

 

 ……当然のようにこちらの欠片のほうが大きかった。

 

「どうしたの? 甘いもの嫌い?」

 

「あ、いえ……」

 

 蛍はじっと見つめられていることに、羞恥心を覚えて、慌ててチョコを無理やり口に押し込んだ。

 甘さを口内で味わうことなく、慌てた様子で水をぐっと飲みこんだ。

 

「はあ……」

 

「そんなに急いで食べて、よっぽどお腹が空いていたのね。あ、そうだ、だったらこれ、食べてみる?」

 

 蛍の異様な食べっぷりに一瞬目を丸くした女性だったが、それで何かを思いついたのか、再びバッグの中から何かを取り出した。

 

「これは……パンですか?」

 

「そう。一応新商品っていうか、試作品かな? まだこれといって目玉の商品がないのよね。色々試してはいるんだけど……で! 良かったら食べてみてくれない? 自分たちだけじゃよくわからないから、他の人の感想も聞きたいのよ」

 

「はあ……」

 

 これまでの合理的な口調と違って興奮気味に話す女性に蛍は少し驚いてしまって、つい気の抜けた返事をしてしまった。

 

 女性は気を悪くした表情も見せずにその”試作品”を蛍の手に握らせる。

 それは我が子の成長を見せるような女らしい、よく言えば”母親”そのものを端正な顔に宿していた。

 

「毎日試作品のパンばっかり食べてるから、いい加減舌がおかしくなってると思うのよね。でも、あなたなら大丈夫そうだし、それに同じぐらいの女の子をぐらいからをターゲットにしてるから参考になると思うのよね~。それに最近は体に良いものを選ぶ傾向があって……」

 

「あはは……」

 

 余程自信があるのか、一方的に話す女性を蛍は愛想笑いを浮かべながら聞き流していた。

 熱心な話を尚も続けるが、蛍には話の半分も理解できなかった。

 

 でも、わかったこともある。

 

(つまり……正直に食べた感想を言えばいいってことだよね。でも……変なこと言ったら気を悪くしちゃうかも。それとも無理してでも美味しいって言ったほうがいいのかな?)

 

 蛍は女性の熱意から責任を感じたのか、食べる前からあれこれ考えだしていた。

 このパン一つで店の命運が掛かってるかのように思えて、蛍はまだパンを胃に収める前に言いようのない満腹感があった。

 

「あ、ごめんねー。なんか一人で喋っちゃって。とりあえず食べてみて、感想はともかくお腹空いてるんでしょ。味は保証するから、ね」

 

「え、あ、はい……」

 

 謎のプレッシャーからか、そこまでお腹が空いてるわけではなかったが、断り切れない空気になってしまったので、少し気がのらないが、蛍は食べる決心をした。

 

(とりあえず食べてから考えよう……)

 

 そう決めた蛍は、食べる前にペットボトルの水を口に含んで、うがいをするように口内をむぐむぐと水でかき回すと、口元を手で隠しながらそれを飲み込んだ。

 

 その後で改めて渡された茶色の紙袋を開けてみる、ビニールに包まれた円形のパンが蛍を待ちかねたようにその姿を現した。

 

 小ぶりなパンは深い緑色をしておりその表面には楕円形の豆のようなものが埋め込まれているようだった。

 

「これってもしかしてベーグルですか?」

 

 リング状の形を見た時、ドーナツではないかと思ったが、そのふっくらとした仕上がりでベーグルだと蛍は気付いた。

 

「そう、ベーグルなのよね……わたしとしてはガッツリとした総菜パンとかメロンパンを中心に売りたいんだけど、ベーグルの方がいいって言われてるのよねぇ……」

 

 女性の口ぶりには多少の落胆と苛立ちが含まれているように聞こえた。

 

「ベーグルのほうが女子受けがいいのは知ってるんだけど、小平口町はそんなに居ないみたいだから、サンドウィッチとかカレーパンの方がいいと思ってるんだけど……。どう? やっぱり女子だからベーグルのほうが良い?」

 

 突然話を振られて蛍は慌てふためいてしまう。

 

「あ、えっと……ベーグルのほうが可愛い、と思います……」

 

 女性は蛍の女子らしい意見に苦笑いを浮かべると、生産者的な意見も交えてさらに話を続けた。

 

「まあ、わたしも女だからベーグルがどの程度のものかわかってはいるけどね。でも材料がねえ、通常のパンで使う材料を使わないから結構手間かかるのよね。プレーンだけならいいんだけど、これみたいに生地にいろいろ混ぜたりして種類を増やさないと目を引かないしねぇ……」

 

 パンなんて作ったものをショーケースに並べればいいのかと思っていた蛍には、この女性の苦悩が表情が理解できなかった。

 

 確かにたくさんの種類のパンがあれば華やかにはなるけれど、作る方はそれほど簡単なことではないらしい。

 

 女性はどこから取り出したのかレポートのようなものに目を落としながら、何やらぶつぶつとまた言い出した。

 

 蛍はその様子を横目で見ながら、緑に染まったドーナツ状のパンに、豆のようなものが埋め込まれているのに気づき、はしたないとは思いつつもそれだけを穿って口に入れてみる。

 

(小豆かな、これ? ほんのり塩味で柔らかい)

 

 ふっくらと煮詰めた小豆の柔らかさに心奪われると、これと組み合わせたベーグルを味わってみたい気持ちが沸々と湧いてきた。

 

 女性はと言うと、スマホだけでなくタブレット端末も取り出して、一人会議の真っ最中のようだ。

 

 蛍は小さく笑うと、緑色した円形状のベーグルをつぶさにみやる。

 

 お茶のいい香りが鼻を刺激する。

 鮮やかな緑は上質な茶葉を思わせて、蛍は一面に広がる茶畑を夢想した。

 

 お茶で有名な県下ではこのようにお茶を使った料理はそれなりにあるし、別段珍しいものでもない。

 

 それでも地元民なら常日頃からあるお茶はいわゆるソウルフード。

 故郷を懐かしむことの出来る思い出の味なのだ。

 それこそ、マドレーヌを食べて昔を懐かしむような、忘れられない味。

 

 このベーグルにはその想いを感じさせる。

 上手くは言えないけど、忘れてほしくないものがここには詰まっている感じが蛍にはしたのだ。

 

 蛍はそれを少しかじってみる。

 

 もちもちとしたベーグル特有の触感と弾力感がたまらなかった。

 中にはこの硬さが嫌という人もいるようだが、普通のパンにはないこの強めの弾力感がベーグルの持ち味と蛍は思っていた。

 

 ドーナツ生地のようなしっとり感とも、バゲットのような硬さとも違う、このもちっとした感じが歯に心地よさを与えてくる。

 そこに抹茶の清涼感のある味わいとほっこりとした小豆の甘みが絶妙だった。

 

(これ、宇治金時をイメージしたベーグルなんだ)

 

 県内の女子生徒ならば嫌いな人はいないと思われる宇治金時(誇張含む)

 それが女子に人気のベーグルに練り込まれている。

 

 ──映えること間違いなし、な気がする。

 

 蛍は何も考えずに残りも全部食べてしまった。

 後から気付いたが、半分だけのときに写真も撮って置けばよかったと思った。

 

 そこまでお腹は空いてなかったはずなのに、食べてしまった。

 自分で思ってたよりもお腹が空いていたのかもしれない、ずっと歩いてばっかりだったし。

 

「ごちそうさまでした……」 

 

 蛍は恥ずかしそうに紙袋をぎゅっと丸めていた。

 

「どう? 美味しかった?」

 

 会議に決着が着いたのか、女性が自信満々の様子とは違った、少し窺うような表情で感想を聞いてくる。

 蛍の満足気な表情と、空のビニール袋で答えを聞くまでもないのだが、生のリサーチが聞きたいのか、ちょっと急かす様に問いかけた。

 

「あ、はい……」

 

 蛍は一拍おいて、感想を言った。

 

「美味しかったです……とても」

 

 甘いものを食べた幸福感と満足感が素直な感想を蛍に言わせていた。

 なんとなく女性の顔を見ることができなくて、空の紙袋を見ながらぽつりとそう蛍は呟いた。

 

「はぁーーー、やっぱりね」

 

 落胆したような言葉を出すが、それほど悲しい感じはしない。

 むしろ喜んでいるような感じの声色だった。

 

「う~ん……でも、なあ……」

 

 肩まである黒髪をかき上げながら、女性は悩むような、それでいて喜んでいるようなそぶりを見せていた。

 

 蛍はその様子を後目にして、ペットボトルの残りをちびちびと飲んでいた。

 

「ふぁ……」

 

 急に欠伸が出てきて、蛍は思わず口を手で塞いだ。

 消費した分のカロリーが摂取できたおかげなのか、それともまた睡眠薬の魔力がむくむくと蘇ったのか。

 

 異様な眠気を感じ、蛍は何度も目を擦った。

 

「疲れたんでしょ? 寝てて良いわよ。()()()()()()()()()起こしてあげるから」

 

 安堵したような表情を浮かべながら、女性は思い出したかのようにシートベルトを締める。 それを見て、蛍も重い瞼を薄くしてシートベルトをなんとか自力で締めた。

 

 カチリ、と小さい音がすると何故か安心することが出来た。

 いい感じに眠れそう、蛍は薄れゆく意識の中でそれだけを思っていた。

 

 先ほど女性が言ったことに何の疑問も持たずにただ、寝ることだけに意識を向ける。

 

「ごめんなさい……すこし、寝ます……」

 

「ええ、疲れてるみたいだし、気にしなくていいわ」

 

「はい……ありがとう、ごさい、ます……」

 

 蛍はそれだけを言うと、すぐに寝息を立てて、眠りのなかに溶け込んでいった。

 

 少しやつれているようだが、穏やかな色相で規則的な寝息を立てている。

 

「やれやれ、一瞬人影を見て慌ててバックで戻ってきたんだけど、とんだ拾いものね」

 

 一番左にある、ペダルを踏みこんで、サイドブレーキ(パーキングブレーキ)を外す。

 左手を軽く添えて、ボタンを押したまま、サイドレバーをドライブの位置まで目で確認しながら下ろす。

 教習者と勝手の違うこの車の操作に手を焼いたこともあったが、今ではそこそこ操れるようなった。

 

 もっとも性格から来るものだろうか、普通のドライバーよりもスピードを出し過ぎる傾向があるようだが。

 

(まあ、事故らければ問題ないでしょ)

 

 初心者らしい甘い考えと怒られるだろうけど、このぐらいしかストレスの解消がないから仕方ない。

 後はアルコール類を飲んで寝るだけなんて侘しすぎるし。

 

 ちょっとぐらいスピードが出てもいいでしょ、田舎だし夜だし誰もいないしだし。

 

 でも今夜は、いつも以上よりもスピードを抑えて走る必要があるみたいね。

 

「眠り姫を起こしちゃ悪いしね」

 

 そういいながらも女性は普通以上のアクセルを強めに踏んだ。

 突然の鞭に、ライトグリーンの鉄の馬は嘶きのような強めの回転音を上げる。

 その音は蛍を起こすほどには至らなかったので、女性騎手は安堵の表情で微笑んだ。

 

 高い回転数のまま、軽自動車は坂道を下っていく。

 細いタイヤは車体をがくがくと揺らすが、それなりに安定はしていた。

 

 いつものペースで進んでいることに、改めて気付いて、アクセルペダルを少し開ける。

 

(わたし、ちょっと浮かれている? でも、なんでだろう)

 

 可愛らしい少女を隣に乗せているから?

 それとも珍しく他人に奉仕したから?

 

 良くわからないけど。

 

(なんだか、こういうの悪くないわね)

 

 高揚したような少し赤みがかった顔で再びアクセルペダルを少し強く踏む。

 まだローンの残っている軽自動車はそれに応えるように、スピードを出してくれた。

 

 

 鉄の馬車に揺られながら、蛍は暗い迷路のなかで何かが蠢くのを見ていた。

 

 

 それは蛍にだけ見えて。

 蛍にしか認知できない動物の姿だった。

 

 

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 






ゆるキャン△ のアニメ2期楽しみだな~。とか言ってましたらば、ドラマ版もまさかの2期目やっちゃうとか思わなかった~!! 
かなり嬉しいサプライズですが、今から撮影に入るみたい? なので、スタッフさんにはぜひ頑張ってもらいたいところです。

ゆるキャン△ アニメ2期終わったら、即ドラマ版2期とは。特報映像でのどなたかのコメントでもありましたが、来年の前半期はゆるキャン△ づくしで楽しみですねぇ~。
昨今のキャンプブームの煽りもあって、かなり注目されそうですね。

ですが、ドラマも2期をやるとなると、気になるのはどこまでアニメ化&ドラマ化するかですねぇ。

浜松と磐田、河口湖となでしこのソロキャンは確定のようですが、映像化するのはそのエピソードまでなんでしょうか?

正直、1クール(12話?)の尺だと相当余るっていうか、ジャンプアニメ並みに尺稼ぎしないと持たない気がしますねぇ……。もしくはオリジナルエピソードでかなり話を稼ぐ必要が出てくるとは思います。むしろドラマアニメともに1期は原作に忠実過ぎたのかもしれないですけどねーーー。果たしてどうなることか……。
でも、まあへやキャン△ の5分アニメ版は実質オリジナル展開でしたから、アニオリで話を稼ぐのも十分ありそうですねー。

その辺りは楽しみでもあり、ちょっとだけ心配なところでもありますねー。
なんにせよ楽しみなのには違いないのですがっ。

それに私個人の予想ではやはり伊豆キャンは映画版になると思ってますねー。
代わりにテレビ版では伊豆キャンに行く直前、例えばリンがお爺ちゃんと共にバイクで走るシーンで終わるとか総いった前夜で終わって、続きは映画でね☆ みたいな感じかなーとか思ってます。
それか、原作ありアニメではたまにある、前倒しを使う可能性もありますねー。
伊豆キャンは会話程度でさらっと流して、千秋の断髪式や大井川キャンプを先にやってしまうことも考えられますね。
そうすれば尺も持ちますし、せっかくの新キャラでもある土岐綾乃の出番も増えますしねえ。っていうかそうじゃないと綾乃ちゃんの出番ってかなり少ないんだよね。原作だと正月に出たっきり、次の出番は伊豆キャンの後ですしねぇ……。

でも、伊豆キャンをテレビアニメでやらないと今度はあおいの妹のあかりの出番が、やはり正月だけになってしまう、かな?

こういった展開予想も結構楽しかったりするので、その辺りも気にしながら放送内容を妄想のも結構好きですよー。

そしてドラマ版……製作期間が結構カツカツな気がしますが、1期のようにアニメ版を参考にする時間がどうみてもないので、アニメと同じように原作を再現せざる得ないですねえ。
アニメとドラマで大きく解釈が変わる箇所もあるかもしれないですねー。
そういうのも含めて楽しみです。

そういえば艦これもキャンプネタをするようなので、コロナ禍において空前のキャンプブームが到来してるのかもしれないですね。

この調子だと来年もまだコロナの脅威は続きそうですしねえ……。


あ、最近私はキャンプではなく別のアウトドアにハマりつつあるのですが、それはまたの機会に~。

ではでは、それでは~。




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Other Minds


「ん……」

 首の痛みを感じて重い瞼を開けてみる。
 見慣れない天井、景色が動かされている感覚、そして芳しい香り……情報が多すぎて精査できない。

「ふああぁぁぁ~」

 口に手を当てて欠伸を噛みころす。
 目覚める気は特にないので、無意識に寝やすい体勢をとった。

 まだ寝たりない、それを体現するかのように、即座に瞼を閉じた。
 誰にも邪魔されたくない至福の時間……寝ることに意味など求めないが、それ故に必要なことでもあった。

(なんか白いものが……)

 瞼の奥に白く張り付くものがある。
 長い棒状のもの、それが黒い背景を切り取るように伸びている、そんなイメージ。

 半目を開けてみる。
 動く景色の中にそれが立っていた。

 ぼーっとした白い柱、見覚えがあった、けれどそれだけだった。

 山の上に風車が立っているだけ、それだけ。
 そのことは()()少しだけ落胆させた。

(なんだ、まだここなんだ)

 睡眠していたという概念は理解出来ていたが、それがまだこの程度だったことは残念だった。
 すごく寝ていたという感覚があったから、とっくに山を下りて市街地まで来てると思ってたのだった。

(だったらまだ寝ててもいいよね)

 誰に断りを入れるわけでもなく、蛍は再び瞼を閉じた。
 まだ夢のなかで揺蕩っていたい、そう自己主張するように体の力を抜いて楽な姿勢をとる。
 考えるのも面倒くさい。

 このままずっと寝ていたらダメなのかな? もういいよね、だってもう疲れちゃったし。

 蛍は眠りの中に身を委ねるべく、眠ることだけに意識を集中した。

 …………
 ………
 ……


(……なんか、もう寝れそうないや)

 途中で起きても割とすぐ眠ることが出来るのが、ちょっとした自慢だったのに。
 今はこれ以上寝ることが出来そうになかった。

 蛍はしぶしぶ、もう一度だけ瞼を開けてみる……。
 重く瞼を開けたその先に、黒い山々に囲まれるように白い風車がまだ視界の中に残っていた。
 なんどか瞬きをしてみても、それは目の前に悠然と立っていたので蛍はある結論を導き出す。

(あれ、もしかして車、止まってる?)

 車に乗っているはずなのに、さっきから景色が動いていない。
 暗い世界にぽつんと投げ出されたような不安感が、蛍に嫌な感じの胸騒ぎを覚えさせた。

 状況を確認すべく、蛍は重い身を起こそうとぼんやりと微睡んでいたその時、誰かの喋り声が耳に入ってきた。

 遠くから聞こえてくるようだが、そこまで離れてもいない感じもする。
 例えるなら隣の家の窓から薄っすらと聞こえてくるような、そんな微妙な距離感があった。

 蛍は、まだ完全に覚醒していない頭を揺らしながら、好奇心の赴くまま、音に導かれるように身を起こしてみた。

「ふぁあ……あれ、これ何だろう」

 蛍の体にはいつの間にかタータンチェック柄の薄いブランケットのようなものが掛けられていた。
 それを律義にたたみながら、辺りを見回してみる。
 間違えなくあの軽自動車の中だが、運転席は誰も座っておらず、蛍以外もぬけの殻だった。

 人の気配は当然感じられないが、車のエンジンはまだ掛かったままのようで、重低音のような微かな振動と、涼しさを運ぶエアコンの駆動音が車内を細かく震わせていた。
 停車の合図を促すハザード音が少し耳障りに聞こえる。

()()()が掛けてくれたんだよね。でも、どこに行ったんだろう?)

 まさかとは思ったが、一応後部座席も覗いてみたけれど、やはり誰もいない。
 そこまで大きくはない軽自動車の車内だったが、一人だとなぜだか広く感じてしまう。

 蛍はこの車の中に一人でいることに例えようのない孤独感を感じていた。

 家でも、自室でも一人だったし、今日の行動だって全部一人でしたことだった。
 それでも寂しいとか、不安だとかはそれほど感じることなく、全部自己責任でやってきたつもりだった。

 なのに、なぜ今になって一人でいることに寂しさを覚えるのだろう。

 燐に会えなかったから……? だけではない気がする。

「燐……」

 蛍は静かに呟いた。
 友達の名前はまだ忘れてはない。

 でも、その声は遥か先の山の向こう、その頂よりもずっと遠い、空の彼方にまでは到底届きそうになかった。


 終わったと思った話し声がまた聞こえてきていた。
 カーステレオは点けていないので、音は車外からだろう。

 蛍はシートベルトを外して運転席側にのろのろと四つん這いで移動すると、()()()運転席に座ってみた。
 助手席とは違った景色に新鮮さを感じるが、同時に罪悪感もあった。
 思わずハンドルを触ってみたい衝動に駆られるが、変なことをしてトラブルになることを恐れて、その衝動的な好奇心を心の中で飲み込んだ。

 やけに興味をそそられるダッシュボードから目を離すと、蛍は運転席側の窓を覗き込んでみた。

 そこには同じような黒い背景があった。

 その黒の中に白い板がみえる、多分、道路沿いのガードレールだろう。
 そこにもたれかかるようにして、誰かが立っていた。

 その人物は話をしているらしく、携帯電話のようなものを耳に手を当てながら、もう片方の手を所在無げにひらひらとさせていた。
 暗くて顔まではわからないが、多分あの女性だろう。

 でも、それ以外の人物だったら……?

 蛍は最悪の事態を想定して、女性の動向を注意深く見守った。

 聞こえてくる声は女性の声だったので少しほっとした。
 だが、誰と何の話をしているのかまでは分からない。

 言い争いをしているような勢いはないみたいだし、かといって重要な話をしているような真剣な感じもなかった。

 むしろ和やかに話しているように見える。
 更にときおり、相手の理解に頷くような仕草を何度も見せていた。

(仲良さそうに喋っている感じがするけど……親子、かな? それとも友達?)

 女性との関係性を会話から察してみる。

 ”二人”の楽し気な会話がガラス越しに伝わってくるようで、蛍は自然と笑みを作っていた。

 親子の場合、蛍には到底わからないことだったけど、でも親子だったらきっといい間柄だと思った。

(でも、親子だったらもうすごく遅い時間だよね。怒らないのかな?)

 蛍の思惑とは違って、女性が怒鳴り声等をあげることはなかった

 何かの確認をしているのか、はいはい、と女性はちょっと呆れ気味の返事を返している。
 その声は明るく、ちょっと嬉しそうだった。

 会話が一段落付いたのか、女性はスマートフォンを上着のポケットに仕舞うと、ふぅ、と小さくため息を付く仕草をみせる。

 その後、一瞬だけ月を見上げると、何事もなかったかように小走りでこちらに近づいてきた。

 蛍はなんとなく気まずさを覚えて窓から視線を外すと、急いで助手席まで戻って、シートベルトを適当につけると畳んでおいたブランケットを強引に頭まで被って横になった。

 別に覗き見をしたかったわけでもなかったのだが、女性のプライベートを見てしまったことが何故だか恥ずかしかった。

 ブランケットに包まれながら、そんなことを悶々と考えていると、不意にドアが開く音がして、女性が車に戻ってきていた。

 少し息を切らして戻ってきた女性はなにも疑うことなく、運転席に乗り込む。
 蛍はブランケットを被りながら、起きていることを悟られないように目と共に口も閉めた。

 それは不器用な蛍らしいミスだった。

 わざとらしく寝息でも立ててればいいだけのことなのに、ブランケットを目深に被って丸くなっている様は、冷房が効いているとはいえ、夏の車内では不自然な行為になってしまった。

「ごめんごめん。ちょっと電話が入っちゃって、起こしちゃったかしら?」

 黒いショートカットの髪を軽くかき上げながら、女性は助手席で横たわる丸くなったブランケットに笑みを見せながら言い訳の言葉を口にした

「……」

 蚕のように丸くなったブランケットからの返事はなかった。
 蛍は今更のように寝息をたてるわけもいかず、ただ口を結んで黙っていることにした。

「あら……まだ、寝てるみたいね」

 女性は蛍に気を使って声のトーンを落とすと、安堵したように呟いた。

 蛍は女性の気遣いに罪悪感を感じていたが、起きるタイミングがわからず、ブランケットの下でもぞもぞと手を擦り合わせていた。

(どうしよう……なんか、いいタイミングはないかな)

 どうでもいい時ほど睡魔に襲われやすいのに、こういう”寝た方がいい”時に限って眠ることが出来ない。
 
 高ぶった神経は蛍の心と体に熱を持たせ、ブランケットの内側は熱くなっていった。
 制服が汗で張り付いて鬱陶しい。
 蛍は呼吸を荒くしながら、なぜ自分がこんなことをしてるのだろうと、些細な疑問を感じていた。

「それにしても、この子、やっぱり()()かしらね……」

 蛍は心臓が飛び出す程に驚いた。
 女性は間違いなく蛍のことで何かを言おうとしている。

 ()()という単語のニュアンスがやたらと気になってしまう。

 きっとあまりいい言い感じではない、そんな気がする。
 やはりこの女性には全てお見通しなんだ。

(どうしよう、やっぱり家出とか思われちゃってるかな……まあ間違ってはないんだけど。それにさっきの電話だって警察かもしれない……どうしよう、正直に言った方がいいのかな)

 でも──。

(なんて言って起きればいいんだろう……寝たふりなんかするんじゃなかった)

 親切な人を裏切るような真似をするつもりはなかったのに。
 きっと軽蔑される……。

 蛍は後悔の渦の中で翻弄されていた。

 少し前まではこの女性から逃げようとしていたはずなのに。
 飾り気のない人柄と見た目とは違う思慮深さのギャップに、この人に嫌われたくない気持ちのほうが蛍の中で強くなっていた。

(もう、こうなったら言われる前に言うしかない!)

 蛍は考えるのを放棄して即決した。

 その勢いのまま、身体を覆っていたブランケットを勢いよく剥ぎ取って、がばっと身を上げる。

「ご、ごめんなさいっ! わたし、起きてましたっ!!」

 あまりの突然な事に、女性は瞬きすることも忘れて蛍の方を見ながら目を白黒させていた。

 一方の蛍は、ぜいぜいと息を荒くしながら、子犬の様に目を潤ませながら女性を見つめていた。

 状況がさっぱり飲み込めなかったので、女性は抑揚のない声で言った。

「あ、えっと、おはよう……?」

 夜が明けるにはまだ早い、暗闇が覆いつくす時刻で。

 この日二人は最初の朝の挨拶をした。




「どう、少し落ち着いた?」

 

「はい……驚かせちゃってごめんなさい」

 

「こっちこそごめんなさい。うるさくて寝られなかったんでしょ」

 

 月明りが届かない、微妙に薄暗い車のなかで、二人の女性はお互いに頭を下げた。

 

 地上から遠ざかる月明りはだいぶ薄くなっていったが、変わりに空全体がゆっくりとした動きで青白さをちらちらと増してきていた。

 

 その為、明かりのない車内でもお互いの顔がだいぶ見えるようになってきた。

 

「いえ、寝ることはできました。ありがとうございます」

 

 蛍はペットボトルのお茶で口を洗いながら女性に再度お礼をいった。

 

「そう、ならよかったわ。でも穏やかに眠っていたから、ちょっと心配だったのよね。わたし……」

 

 女性はそこまで言って口をつぐんだ。

 

 悪い言葉を言うつもりはないのだが、この少女には適切ではない気がしたから。

 割と思い付きで喋ってしまうことがあるのは自分でもわかっていた。

 だからこそトラブルも多かったのだが。

 

「? どうしたんですか?」

 

 言葉を区切ったことに疑問を感じたのか、蛍はつい女性に訊ねてしまっていた。

 

 それだけこの人に興味が湧いたのか、自分でもよくわからない部分もあったが、なんとなく聞いてみたくなった。

 

 蛍の質問を受けて、女性は顎に手を当てて、考え込むような仕草をとる。

 

 曇りのない目で見つめる蛍の視線に、女性は絆されるように自身が思っていたことを口にした。

 それはあまりにも突飛で蛍の範疇を超えた言葉だった。

 

 

「その……ちょっと、触ってもいいかしら?」

 

「えっ?! 触るですか?」

 

 予想だにしなかった言葉に今度は蛍は思わず聞き返してしまった。

 ”触る”その意味がわからないわけではない、問題はその意味だった。

 

 真意を分かりかねるその質問に、蛍は困惑の顔を隠すことなく向けてくる。

 

 女性は慌てて補足した。

 

「あっ! 勘違いしないでね。ちょっと手を触ってみたいだけだから。他意はないのよ。一応調べておきたいの」

 

 女性は弁解するように言葉をつなげた。

 その言葉は蛍をより困惑させる。

 

 同性だからって、何をしてもいいわけではない。

 ましてや蛍のように多感な時期の少女にこんなことを言えば、蛍でなくても困惑するだろう。

 

 ただ、女性は真剣な目で蛍を見つめているので、その真意のほどは分からないが、変なことはしないだろうとは思っていた。

 

 

「あ、はい、それだったら……いいですよ」

 

 蛍は調べるという言葉に引っ掛かりを覚えたが、あえて詮索はしなかった。

 

 ただ、良いと言った手前どうしていいかわからず、蛍は顔色を窺うようにおずおずと右手を差し出した。

 

 この行為は自然なものだった。

 蛍は右利きであったわけだし、それに運転席側に近い右手を出すのは普通な行為だと思っていた。

 

 ──だが。

 

 もし右手ではなく左手を見せてほしいと言われたら……少し考えたかもしれない。

 疚しさはないと言われたら嘘になってしまう。

 

 でも、そういった目的で女性は言ったのではないとは思う。

 根拠はないけど。

 

 余計な事を考えたせいか、蛍は掌に汗をかいてしまっていた。

 それに気づいて慌てて手を引っ込めようとしたが、その前に女性に手を握られてしまっていた。

 

 汗をかいていることへの嫌悪感と恥ずかしさから、一旦手を引っ込めたかったのだが、思いのほか女性の力は強く、蛍の力では到底振りほどけるものではないように感じられた。

 

 二の句が継ぐ間も与えないほど早さで手を握られてしまったせいかは知らないが。

 蛍は何も言わず観念したように俯きながらそのまま手を触られ続けていた。

 

 蛍の緊張からくる湿った手とは違い、女性の手は驚くほど滑らかで細く、指は雪のように白かった。

 その白魚のような指先は製造の仕事をやっているはずなのに、驚くほどきめ細かで、艶があった。

 ピンクの貝殻を思わせる薄い爪はパン職人の為、マニキュアを付けていないが、それが必要ないほどに綺麗で健康そうな色をしていた。

 

 そんな綺麗な手で熱心に手を握られるものだから、蛍はとても恥ずかしくなってきた。

 

「あ、あのっ……!!」

 

 羞恥から来る困惑からか、蛍は強く言葉を発した。

 

「あ、ごめんなさい。流石にしつこかったわね」

 

 女性が気付いたように蛍から手を離すと、蛍は即座に手をハンドタオルで拭いた。

 その行為に女性は一瞬驚いてしまうが、すぐに顔を緩めて謝った。

 

「ごめんさい。気を悪くしたんでしょ、もうしないから、ね」

 

「あ、これは。そうじゃなくて、汗で濡れちゃったから。それだけ、です」

 

 蛍は慌てて釈明した。

 

「いいのよ。触りすぎたわたしが悪いんだから。でもあなたの手、そんなに汗ばんでなかったわよ。むしろずっと触っていたいぐらい……あ、ごめんね。また変なこと言ってるわね」

 

 女性は無邪気に舌を出しながら自身の頭を軽く小突いていた。

 

「そ、そうですか……」

 

 どう答えたらいいかわからず蛍は一言だけ呟くと、恥ずかしさを隠す様にハンドタオルで何度も手を拭いていた。

 

「あぁ、えっとね。こんなこと言ったら笑われるかもしれないけど。あなたがあまりに綺麗な顔で寝ていたから、ひょっとして幽霊じゃないかと思ったのよ。そういう話って聞いたことない? ほら、真夜中に車で走ってると一人の女性が乗せてって頼み込むあの怪談話! わたしこの手の話って信じてないんだけど……」

 

 女性は笑いながらわりと失礼なことを言いだした。

 そのまま一人で定番の怪談話に対する考察を喋りだしていた。

 

(この人が一度喋りだしたら止まらないのは分かっているつもりだけど……それにしても幽霊か……)

 

 普通なら、嫌悪感を示してもおかしくないことだったが、蛍は違っていた。

 

 ”幽霊”……。

 

 蛍はその曖昧で不安定な物質の名称、その概念的な要素に複雑な想いがあった。

 

 それは親友が唐突に投げかけてきた質問だった。

 

 そして彼女がわたしと交わした最後の話題でもあったから。

 

 だから、ずっと心に残っていた。

 

 

 彼女の言う量子力学の考え方によると、人の想いは幽霊ような形になって残ると言っていた。

 それは物質でなく、情報と言う目に見えない形で残留すると。

 だからこの世は幽霊でいっぱいだとの話だった。

 

 燐がなぜあの時、あんなことを言ったのかは今だにわからない。

 幽霊になりたかったのか、それとも色々あって疲れてしまったのか……でもそれにしたって唐突すぎるとは思う。

 

 わたしは彼女の姿を白い雲が浮かぶ青い空に探し求めた。

 情報、視覚、そして想い、隠された本心をも追い求めたが、その欠片すら見当たらなかった。

 

 だから燐は幽霊になったのではない、そうずっと信じている。

 ずっと、信じていたんだけど。

 

 燐の代わりに落ちてきたのはあの時の紙飛行機。

 何も書かれていないノートの切れ端が落ちてきただけだった。

 

(燐……わたしこう見えて、燐以上にしつこいんだよ? だからこうやってあなたを探しに来たんだけど……結局わたしのしてきたことって意味なかったみたいだよね……)

 

 だって結局あなたの姿を見ることが出来なかったし、会いに行くことだって出来なかった。

 

 今だって結局何もしないまま戻ろうとしてる。

 前に峠の頂上に行ったときと同じように。

 

 なんだろう、自分って結局何なんなんだろう?

 

 ただ惰性で生きているだけだ。

 

 燐に会う前のすべてに無関心の人間……そうじゃなくて、ただ使い捨てられる運命の座敷童に戻っただけ。

 その座敷童の力ももう失われているみたいだし……もうわたしに価値なんてない、価値なんてないんだよ燐……。

 

 ──だからわたしが消えればいいだけのことだったのに、どうして? どうしてわたしはこの世界にいるんだろう。

 

 燐。

 

 わたし、もう生きていくの辛いんだよ……。

 

 

(やっぱり、わたしこのままじゃ終われない気がする……)

 

 蛍は何かに取り憑かれたような、機敏な動きで再びシートベルトを外そうとする。

 

「あらっ、どうかしたの?」

 

 しばらく黙り込んでいた蛍が急に活発な動きを見せたので、一人で喋っていた女性が心配そうな顔で蛍に声をかけてきた。

 

「あ、あのっ! わたし、やっぱり行かなくちゃ、いけないんですっ!」

 

 蛍は説明するのもまどろっこしいようで女性の顔も見ず、シートベルトを外すことだけに集中していた。

 

 焦りからか上手く外れてくれない、さっきは簡単に外れたのに。

 

 がちゃがちゃと耳障りな音が蛍を余計に焦らせた。

 

「行くってどこへ? あ、ちょっと、あなた……」

 

 女性が蛍に問いかけようとしたとき、不意に口が止まった。

 よほど気になったのか、女性の視線は蛍の左手付近に注がれていた。

 

「ちょっとごめんなさい」

 

 女性は蛍の是非も聞かず、その左手をおもむろに掴んだ。

 

「あっ……!」

 

 蛍は女性がまさかそうするとは思わなかったのでつい油断してしまっていた。

 

 蛍の左手首は長袖のアンダーシャツで隠れていて、手首から先がどうなっているかわからなくなっている。

 

 だが夏で長袖シャツを着ている不自然さは、余計に目立たせてしまうこともある。

 一目でアウトドア用のシャツとわかるものはあまりいない、むしろその黒い長袖の下を揶揄してくるほうが多いぐらいであった。

 

 自分一人なら特に気にならないことも他人からみればおかしなことだって普通にあるのだ。

 むしろ後ろめたいことほど、バレやすいのが人の心理だった。

 

(あ……でも。バレてしまった方がいいのかもしれない。そうすれば変な子だって思ってこれ以上関わらないでくれるかも)

 

 蛍はこの期に及んでもまだそういう考えを持っていた。

 

 それは人でなしというわけではなく、それだけ燐への想いが強まったということだろう。

 

 結局何の成果もないまま、下山しようとしている自分と、燐への想いを果たすべく、この世界からの脱出をきめてきたはずの自分。

 

 二つの想いの葛藤に蛍は苦しんでいた。

 

 もう帰る場所はない、そう決めたのに、いざ帰れることなるとほっとしている自分がいる。

 その精神の弱さが気に入らなかった。

 

「ここ、蚊に刺されたんでしょ。ぷっくりと膨れてるわよ」

 

 蛍の忸怩たる思いなど汲み取る気はないかのように、女性は暢気に虫刺されの痣を指摘してきた。

 

 女性の私的にすっかり忘れていた左手の痒みがぶり返してきて、蛍は無意識に左手の甲に手を伸ばす。

 

「まって! 無理に掻かないほうがいいわ。余計に痒みが増してくるわよ。ちょっと待ってなさい確か……」

 

 女性は後部座席からのバッグを取り出すと、そこからまた何かを取り出した。

 

「あ、やっぱりあったわね。はい、これを塗ってしばらくすればきっと治るわよ」

 

 女性は小さなプラスチック製の水筒のようなものを取り出すと、キャップを外して、朱肉のようなスポンジを蛍の赤く膨らんだ患部に何度か刷り込んた。

 

「うんっ……」

 

 擦られたことによる刺激と、すっとしたミントのような爽やかさが同時に来て、思わず声を出してしまった。

 

 蛍は変な声を上げてしまったことに恥ずかしくて膝をむずむずとすり合わせていたが、女性は特に気にする様子も見せていなかった。

 

「これで大丈夫と思うけど。それにしても……ホント、用意周到よねぇ……霊的なものにでも目覚めたのかしら?」

 

 もう用はないとばかりにバッグを後部座席に投げ込むと、女性は腕を組んで何やら考え込んでいる。

 

 蛍はさっきまでの勢いを完全に削がれてしまったようで、大人しく座席に座り、まだ僅かに痒みを訴えてくる左手の盛り上がりを触れるか触れないかのところのぎりぎりで擦っていた。

 

 ……少しの間車内は静かになっていた。

 

 まだ鳴き続ける虫の声は軽自動車のガラスをすり抜けるほど高い声ではなかった。

 代わりにハザードランプの規則的な音が、メトロノームのように延々とテンポを刻んでいた。

 

「どう? 少しは痒み、治まったかしら」

 

 蛍は呆けたような顔を女性に向けるが、それが自分に言われたことだと気づくまで少し時間が掛かった。

 

「あ……はい、少し、良くなったみたい、です」

 

 蛍は患部を見ながらそう答えた。

 

「そう、だったら良かったわ。そういえばさっき何処かへ行きたかったみたいだけど……? もしトイレに行きたかったらここで待ってるわ。あ、ちゃんとティッシュは持ってる? ないなら貸すけど?」

 

 あっけらかんとした女性の口ぶりに、蛍は毒気を抜かれたように一瞬きょとんとしていたが、何かがツボにきたのか蛍は噴き出してしまった。

 

「あはは、大丈夫ですよ。もう行く気なくなっちゃいましたから」

 

「そう? でも我慢はダメよ、行きたくなったらちゃんと言ってね」

 

 一人で笑い続ける蛍に少し怪訝な顔を浮かべるが、屈託のない顔で笑う蛍を見て、その疑念を打ち消した。

 

「でも、あなたが()()()()笑ったの初めてみたわ。やっぱり可愛いわね、あなた。笑顔がとっても似合うわ」

 

「そ、そうですか……」

 

 女性が真顔でそう言うので、蛍は急に現実感を感じしまい、照れ隠しの返事をした。

 これは本当の気持ちだった。

 

「そういえば、さっき窓の外から何かを見てなかった? 珍しい動物でも見つけたとか?」

 

 女性は突然話を変えると助手席側の窓にかぶりつくように身を乗り出してきた。

 上品な感じの香水が蛍の鼻をくすぐって、少しだけドキリとした。

 

「あ、ここだとちょうど良く見えるんです。ほら、あの山の上の風車が……」

 

 蛍は黒い窓ガラスに指を差す。

 白い風車が、ロウソクよりも少し大きい姿で黒いガラスに映り込んでいた。

 

「……風車?」

 

 女性は顔を窓に密着させるほど近づきながら、何度か目を擦ったり瞬きを繰り返していたが、埒が明かないのか一旦見るのを止めていた。

 

 そして助手席と運転席の間にあるひじ掛けを開いて、中から銀の細い眼鏡を取り出して掛けると、再び窓の外を見る。

 

 蛍は女性の様子に不可解なものを感じて首を傾げた。

 だがそれ以上は気にはせず、黙って風車を見ていた。

 

「う~ん、何か棒状のようなものは見えるけど……あれが風車なのかしら? あなた視力はいくつなの? わたしそんなに視力低いつもりはなかったんだけど……まさか、老眼かしらねぇ。まだ若いとは思ってるんだけど。それとも自分で気付いてないだけで本当は鳥目だったのかしら」

 

 女性は眼鏡を忙しなく前後左右に動かしながら、自分の視覚状況を説明していた。

 

「ここに越してきてまだ日は浅いけど、最近はずっとこの峠を車で往復してるのよ。でも、風車なんて初めて知ったわ。日中だって走ることもあるのに気が付かないなんて……」

 

 蛍は女性が嘘をついているとは思わなかったが、ちょっと大げさすぎると思った。

 

 蛍にしてみれば何も特別なことはなく、普通に風車はずっとあったし、それはこの町の住人なら誰でも知っているはずのことだから。

 

 それに風車の辺りを測量に来た聡や、燐だって見ることが出来たのだから、なおさらだった。

 

(あ、でも……もしかしたら)

 

 蛍も窓ガラスに額を近づけるほど近づいて風車を眺める。

 

 風車には特に変化は見られない、でもそれはおかしいことだった。

 

 風力発電の風車である以上、幾日かに一度は回さなくてはならないのに、蛍は一度も回ったことを見たことがない。

 

 代わりなのかはわからないが、薄っすらと白く発光しているように見える。

 それはあの時から変わってない気がする。

 

 だからこそ違和感がなかったのだ。

 

「やっぱり、回っていない」

 

 蛍は雨雫のようにぽつりと呟いた。

 

「回っていないって風車が?」

 

 蛍の方を向かずに風車を見ながら話しかける。

 女性の目にも風車は回っているようには見えなかった。 

 

「はい。わたし一度も風車が回ったところを見たことがないんです」

 

 蛍も女性の方を向かずに答えた。

 

「だったら、まだ工事中とか?」

 

 女性はもっともな意見を口にした。

 

「でも、もう三か月以上もこのままなんです。それに動力はあるみたいなんです。薄っすらと発光してますし」

 

「発光? してる、かしら……確かにちょっと光ってるように見えるわね。でも照明装置なんてついているようには見えないけど」

 

 眼鏡のレンズを窓ガラスに押し当てるようにして見ても、風車を照らしているような光の線はどこにも見えない。

 

 それどころか彼女から見た風車は消えかけの蝋燭のように儚く点滅しているように見えていた。

 少しでも目を離せば風景と同化してしまいかねないほどに淡く光っていた。

 

「いえ、そうじゃなくて。その……風車は本当は誰にも見られたくなかったんだと思います。でも、夜は月明りで影が出来ちゃうから。だから自分で光ることで影を消していた、そんな気がするんです」

 

 メルヘンチックな蛍の考察に女性は素直に可愛らしいと思っていた。

 

 自分にもそんなころがあったのかもしれないと。

 だからちゃんとその想いを受け止めてあげようと思った。

 

「そうなの? でも、風車は見られた方がいいんじゃないの? 大きな風車があるだけでも絵になるし。複数立っている場所では観光名所になっていることもあるぐらいよ」

 

 蛍の問に女性はいささか現実的な答えを出してしまっていた。 

 きっと自分が学生の頃はメルヘン的なことがあまり好きではなかったのだろうと思った。

 

「だから、だと、思います。風車は”ある”だけでいいって前に”友達”が言ってました」

 

「友達が?」

 

 それまで風車しか見ていなかった女性が蛍の方に向き直る。

 その表情には少し切なさ含まれているように感じた。

 

「はい、風車で賄える電力はそれほど多くないけれど、それでも風を受けて回っているのがいいってそう言ってました……今は回っていないけど、それでもあるだけでいいと思うんです」

 

「だったら、なんで見えないほうがいいのかしら?」

 

 女性は生徒に質問するような口調で柔らかく話しかける。

 

 学校の教師になった気になって、女性は少しむずがゆくなった。

 教職には密かに憧れていた時期があったから。

 

「それは……多分、灯台と同じだと思うんです」

 

「灯台……」

 

 女性は分かったような分からないような曖昧な感情を顔に浮かべていた。

 蛍はそんな女性を気にすることなく、俯きながら話し続けた。

 

「昼間は普通過ぎて誰も気にしないけど、夜は月明りでここにあることがわかってしまう。だから自分で光るしかないんです。風車はきっとそっとしておいてほしいんです。それはきっと……幸運と同じで……」

 

 最後の方はぼそぼそと言っているので何かは分からなかったが、蛍の考察だとあの風車が目的をもって存在を消しているのはわかった。

 

 でも、それじゃあまるで……。

 

(あの風車が意思を持っているとでも言いたいのかしら? 空想が好きそうな感じの子に見えるけれど、でも……なぜだかわからないけど説得力があるのよね。そういった純粋な心が風車を見るのに必要なのかしら? 風車の幽霊なんて怪談聞いたことがないけれど……)

 

 女性は腕を組んで頭を巡らせる。

 

 蛍の話が空想の産物だとしても、別に悪いことがあるわけでもない。

 むしろ観光名所の少ない小平口町の噂話としては上出来の部類だった。

 

 だったら訊ねることは一つだった。

 

「あの風車ここから見ても結構大きいわよね。あなたは近くまで行ったことあるの?」

 

「あ、はい。少し前まで風車の下で寝てたんです」

 

「寝てたって、本当? 何かあそこにあるの?」

 

 女性は三度窓の外に目をやった。

 

「えっと、友達に会えるかなって思って行ったんですけど……」

 

 蛍は正直に目的を口にした。

 秘密にしても良かったのだが、なぜかあっさりと言ってしまっていた。

 

「友達って、さっき言ってた友達?」

 

「はい。でも、ここには居なかったみたいなんです」

 

 蛍は寂しそうに窓の外の白い風車に瞳を向けた。

 

 月明りを吸収するかのように淡い光を出している白い風車。

 儚く光を放つ風車の姿は、一輪の花の様に可憐でうつくしかった。

 

(多分、こうやって光る風車が見えるのはわたしだけなんだ、きっと)

 

 蛍はそれこそが真理であると思った。

 白い風車は灯台でもあって、十字架でもあり、花でもあるのだ。

 

 恐らく風車がこの小平口町に建てられたとき、すでに幸運の力はなくなっていたのだと思う。

 

 幸運が終わることはすなわち町が元に戻ることだ。

 

 そう、町は一度死んだのだ。

 

 でも死んだはずの町は以前と何も変わらないまま残っていた。

 家屋も、人も、経済さえも。

 

 あのDJが言っていたのはこういうことなのだろう。

 

 ダムの水が洗い流したのは町や人ではなく、考え方や、価値観、そして幸運を吸いすぎた土壌なのではないかと思っていた。

 

 土の性質を変えたことで、幸運による概念を実存に置き換えたのだ。

 

 例えば、砂で出来た城をその形のまま、材質だけ石のレンガに変えたように。

 

 そんな超常的なことはそうそう出来るものではない。

 でも、この町に染み付いた幸運、人の想い、そして()()()()()()()()座敷童の願いが形を取ったとしたら?

 

(そう、あの空に浮かんでいった光の球はそんな感じだった。みんな、何かの役に立ちたかっただけなんだ)

 

 その想いの落としどころが今の町の姿ではないかと蛍は思っていた。

 

 そして風車は十字架の役割を終えて、灯台となることに決めたのだろう。

 

 町が人が間違った方向に行かない様に、回ることを忘れてみまもっているだけの存在に。

 

 それがたとえ自分の姿が見えなくなったとしても。

 

(そうか、じゃあ、あの風車が沢山ある世界はオオモト様……つまりは、わたしの世界だったんだ……)

 

 燐が思い描いたとばかり思っていた風車だけの世界。

 

 とても綺麗な場所だったけど、あれは座敷童が行きつく世界だったんだ。

 

 それは蛍が燐の為に”初めて”幸運を与えたことだった。

 

(そうか、だからわたしには見えなかったんだ。あの時はまだ、燐が心から願っていなかったから)

 

 蛍はそれが一番しっくりくる気がした。

 

 常闇の世界で、何度も危険な目にあったのに一向に幸運が訪れなかったのが不思議だったけど、それがやっとわかった。

 

 本気で願っていなかったからだ、わたしじゃなくて……燐が。

 だからあの時の燐は本当に悲しかったんだ。

 

 ”ここじゃない世界に行きたい”、それは彼女の本当の、心の奥からの悲しみだったんだ。

 

 燐はずっと悲しみをもっていたんだ。

 その悲しさは蛍が考えていたよりもずっと深く、ずっと辛いものだった。

 

(燐は、きっと自分を取り巻く環境が嫌だったんだね。だからこそ、あの世界を望んでいたんだね)

 

 

 だから分かる。

 あの場所に燐はいない。

 

 燐は蛍の手の届かない世界に一人で行ってしまったんだ。

 

 それがようやく理解できた。

 

 本当の意味での親友との別れ。

 それは認めざる負えない現実なのだから。

 

 

「……泣いて、るの?」

 

 いつの間にか女性の顔が蛍の目の前に来ていた。

 

 レンズに映り込む自分の顔は鼻を真っ赤にして、顔をくしゃくしゃにしながら、今にも零れ落ちそうなほど涙を目に浮かべていた。

 

 蛍は自分の顔を初めてみたような驚きがあった。

 

「えっと、そうじゃなくて、その……」

 

 蛍が慌てて弁解しようとすると、涙が零れ落ちそうになった。

 その雫を急いで指でふき取ると、誤魔化す様な笑みを無理やりつくった。

 

「いいの、いいの、よくわかってるつもりだから。泣きたいときは我慢せずに泣いた方がいいわよ、スッキリするから」

 

 身を乗り出したままの女性が腕を伸ばして蛍を柔らかく抱き寄せてくる。

 蛍が腕の間から戸惑い気味に女性を見上げると、穏やかな表情で微笑みながら頭を撫でてくれた。

 

 その自然な行為に蛍は声を出すことも忘れてなすがままになっていた。

 

 背中に回された手が蛍の背中を優しくとんとんと叩く。

 幼い子があやされているみたいで少し恥ずかしかったが、そこまで悪い気はしなかった。

 

 むしろ知ったことのない母の温もりに触れたみたいで。

 蛍は懐かしさと安堵を同時に感じていた。

 

 蛍の思い描く母親とは少しイメージが違っていたが、この女性の持つ独特な母性と都会的な香水の香り、そして車内を包み込む粉っぽい香りは、蛍に別の物語を母親像を作り上げていて、これはこれで良い感じだと思っていた。

 

 背負われていた時も香っていた洗練された大人の女性の臭い、パン屋さんとは言っていたけど、まだこの女性は都会的なものを宿していた。

 そのプライドの高さを映したような香りが成熟した女性的なうなじや、母性の強い胸の谷間や、お腹の下から体温と共に流れ出てくる。

 

 どこかのブランドの香水だろう蛍は思った。

 

 だが、蛍には香水に関する知識も、それをつける習慣もなかったのでよくはわからなかった。

 ただ、上品で透明感のある香りは今のこの女性にぴったりだと思った。

 

 女性は何も言わず、ただ蛍の髪を撫で続けている。

 二人は本当の親子のようにお互いをしっかり抱き合っていた。

 

 この行為に蛍は僅かな既視感を覚えたが、これ以上深く考えることはしなかった。

 

 今はただ、この女性の手の中に沈み込みたかった。

 悲しいことへの少しの癒しになる気がして、ただ黙って甘えていた。

 

 白い月が山の峰の向こうに消え去るまでのわずかな時間、蛍はそっと静かに涙をこぼした。

 

 一度出た涙はなかなか止まることはなかった。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 

 低いエンジン音が暗い森に覆われた山道を響かせる。

 あれほど苦労した夜の単独行は、自動車の中から見る客観的な視線から見れば実はそれほどの距離ではことがわかった。

 

 それは最初からわかっていたことだけど、それでも車で下るのは思っていた以上に快適で、罪悪感を覚えるほどに楽だった。

 

 それでもこの日はスピードを抑えていたらしく、普段よりも二割ほどアクセルを緩めて走行していた。

 

 早く走ることがここまでアドレナリンに直結するとは思わなかった。

 と、それは女性の弁。

 

 スピードに快楽を求めるなんて馬鹿みたいと、冷めた目でみていたこともあったのに。

 今は真逆の、同じ穴の狢となってしまった。

 

 スピードを出すのは危ないことはわかっている、山の峠道では最悪の場合ガードレールを突き破って谷底に落ちることだってあるのだから。

 

 それでもなお止められない。

 特に車は弄っていないし、競い合う相手もいない、それでも楽しかったのだ。

 まだ寝静まった夜の峠を限界ギリギリのスピード(精々80㌔前後)で、コーナーをクリアしていく。

 

 貯め込んだストレスを下りの道でスピードと共にいっきに吐き出す、そのカタルシスがたまらなく快感だった。

 

 もちろん無茶したり、毎夜同じことをやってれば近隣住民から苦情が出たり、警察が出張ることになるから、こういったことをするのは週末だけと決めている。

 

 ブランドもののパンプスではアクセルワークはシビアになるが、”遊び”だからそれでもいいのだ。

 

 ただ一時の快楽を求めるためだけに走る。

 不倫関係に走るよりかはよっぽどましだとは思う。

 こっちは何があっても自己責任だし、田舎だから夜はめったに人も車もこないしね。

 

 でも、今夜は人がいた。

 人形のように綺麗で幼さを残した少女だった。

 あどけない顔立ちとアンバランスなほど見事な女の体系は、男ならば二度目してしまうほどに魅力的に見えただろう。

 

 女のわたしだってはっとしてしまったほどだ。

 

 でも、どこか儚さを持っていた。

 少女特有のというよりももっと深い悲しみを宿していた。

 

 裏切られた悲しみか耐え難い絶望か、それとも予期せぬ別離か……様々な感情が体の隙間から覗いているようにみえる。

 

 だからわたしは──幽霊かと思ったのだ。

 もしくは人の姿をした別のもの……それぐらい神秘性があった。

 

 だからこそ興味を惹かれて、今一緒に車に乗っているのだけれど……。

 

 その少女は窓の外を見ている。

 ミラー越しには何故か映らない、白い風車。

 さっきからそれをじっと見ているように思える。

 

(友達と会えなかったって言ってたけど、”誰か”は言わなかったわね。まあ、知ってどうなるわけでもないけど)

 

 彼女とわたしは偶然あった、ただの他人なのだからこれ以上干渉するつもりはない。

 本人だってきっと望んではいないだろう。

 

 でも、四角い窓の外をじっと見つめているその背中をみると、なぜか悲しくなってくる。

 理由はわからないけど、同じような悲しさを抱いてしまうのだ。

 

「ごめんね……」

 

 少女がそっと呟いていた。

 ここにいる誰にも聞かせることのない呟き。

 恐らくはここにいない友達に聞かせるものであろう、謝罪の言葉。

 

 言っても意味はないはずだとわかっているのにそれでも口にしたかったのだろう。

 それだけの強い想いが彼女と友達の間にあったのだと思う。

 

 やるせない気持ちが伝わってきて、思わず少女に声を掛けたくなった。

 でも、適切な言葉が見当たらない。

 

 わたしはこの少女の何も知らないのだから。

 

 少し前、ラジオでも付けようかと提案したけど、やんわりと拒否されてしまった。

 

 きっと今少女は別れを惜しんでいるんだ。

 

 誰にも理解できない想いを秘めたままで。

 

 だから邪魔しちゃいけない。

 今夜はさらにゆっくりと走ることにした。

 

 あまりにゆっくりだと気を使いすぎると思い、一定の速度を保つようにアクセルを調整する。

 これが意外にも難しい。

 

 何かの本で読んだことだが、早く走る為にはただがむしゃらにアクセルを開けるのではなく、きまったコースできちんとタイムを調整して走るのがいいらしい。

 

 微妙なアクセルワークが思いのか難しかった。

 

 それでも、出来るだけさり気ないスマートな走行をしないと。

 

 人に気を使って走るのは窮屈な気がして好みではなかったが、今日はそんなに悪い気はしなかった。

 

(そういえば、パンにもなるだけ気を使ってほしいと言われったっけ)

 

 口を尖らせて膨れた顔で言う、あの子のことを思い出すと、唇が自然な笑みの形になった。

 

 元気になったのはいいけど……ちょっと口うるさい気もする、まぁ良いことなんだけど。

 

 そういえば、うちの子と同じ歳だったような……?

 

(何か忘れている? なにかしら……)

 

 女性がつい物思いにふけっていると、目の前に急にカーブが現れた。

 

 それは当然最初からあったのだが、考えていたために反応が遅れてしまったのだ。

 

「ま、前っ!!」

 

 少女の切羽詰まったような叫び声で我に返ると、慌てて反射的にハンドルを切った。

 タイヤの悲鳴とブレーキ音が暗い峠の道に悲鳴のように木霊する。

 

「ヤバっ!」

 

 ブレーキペダルを半歩踏み込みながら、最悪の事態を想定した。

 

 軋む音が聞こえるほどに奥歯をぎゅっと噛みしめながら懸命のハンドルさばきを見せる、大人の女性。

 

 だが遠心力によって車のタイヤが一瞬浮かび上がる感覚が確かにあった。

 

 蛍も、ステアリングを握る女性も、その刹那に嫌なことを想像していた。

 

 その前に一瞬早く現実に戻ると、尚も思いっきりステアリングを切っていた。

 

 タイヤが焦げるような匂いを嗅いだ気がしたが、すんでのところでガードレールとの激突は避けられたようだ。

 怖くてサイドミラーを見ることが出来なかったので、音だけでそれを感知した。

 

 高鳴る心臓を落ちつけながら、軽自動車はさらに速度を落としながら平静を装うように走行を続けていた。

 

 しばらく押し黙っていた二人だが、どうにも気まずい空気が流れていたので、女性は声が震えないように気をつけながら正面を向いたまま、声を出した。

 

「あははは、ごめんね……ついぼーっとしてた」

 

 片手で髪をかき上げながら、女性は自らの不注意運転の弁明をした。

 

「あ、いえ……事故がなくてなにより、です」

 

 蛍はまだ両手を胸の前で組みながら、困った顔で微笑み返した。

 

「ごめんね、怖かったでしょ? 初心者なのに、油断って怖いわね。まだまだ爪が甘いわね、わたし」

 

 自信に満ちた顔とは一変して、女性はしょげ返ってしまった。

 

 その様子に蛍は慌てたように言葉を口にする。

 

「あ、本当に大丈夫ですよ。こういうの慣れてますし。前にもこういうことあったから……」

 

 蛍はつるっとしたシートベルトを軽く握ってみた。

 あの時の同じような車で同じような目に合う……偶然という言葉で片づけていいものなのだろうか?

 この女性が現れたときから何かが変わった気がする。

 

 蛍は思いつめた表情で、流れる景色に身を委ねていた。

 

 蛍がそう言ってくれたことで女性は幾分気持ちが楽になった。

 同乗者を危険な目に合わせるのはあまりにも不本意だったからだ。

 女性は軽く胸を撫でおろすと、微かな疑問を蛍に投げかけることにした。

 だが、今度は油断しないように視線は正面に向いたままで。

 

「前にって、この場所で同じようなことにあったの?」

 

「はい……」

 

「それってあなたが運転していたわけじゃないわよね? やっぱりその……友達?」

 

「あ、えっと……」

 

 蛍はどう返答していいものか迷った。

 

 友達()なのは間違いないのだが、同い年の友達が運転していたとは流石に言いづらい。

 それにあのことは二人だけの秘密と共に誓い合ったのだから。

 

(だったら、なんて言えばいいのかな)

 

 蛍がどうしたらいいか思案気な顔をしているのを横目で確認すると、女性は肩の力を抜いた接し方で話し続けた。

 

「ごめんなさい。変な質問して、嫌なら無理に言わなくてもいいから。”こういうこと”ってことは、やっぱりさっきみたいな危ない目にあったの? まあ、わたしが言うのもなんなんだけどね」

 

 小さく舌を出して、自虐気味に笑っていた。

 蛍はその顔に似合わない子供っぽい仕草に、くすくすと笑っていた。

 そして思いついたようにこう話した。

 

「そうですね……初めの内は怖かったです、運転に慣れてなかったから。でも一生懸命になってれたからすぐに運転に慣れてしまって、それからは安心して乗ってられました」

 

「へぇー、頑張り屋さんだったのね」

 

「はい。呑み込みが早いのにいつも真っすぐで一生懸命で」

 

「ふふっ、だったら負けてられないわけ。わたしもちゃんと運転しないとね」

 

 片手を口に当てて女性は小さく笑った。

 

 蛍はあの時の悪夢のような出来事をこんな風に気軽に話せたことに不思議がっていた。

 

(なんでだろう、この人といると不思議と気持ちが落ち着いていく。なんでも話せる気がする。でもそれって)

 

 蛍は自分の心に生まれた感情に戸惑っていた。

 自分の気持ちに正直に、そして一緒にいることになんの違和感もないのは、この世界でただ一人と思っていたから。

 だからこそ自分の今の気持ちの揺らぎが信じられなかった。

 

 この人に母親的な母性を感じるのは確かだ。

 でも、この感情はそれだけではない、暖かくて明るくて、それでいて芯の強さを感じる。

 

 それは彼女の性格と良く似ていたから。

 

 

 

 

 

 

 ……蛍は小さく息を吐くと、窓の外に視線を映した。

 

 サイドミラーから見える景色にもう風車の姿はなかった。

 

 山道も終わり、木々が少なくなってくる。

 代わりに茶畑が道路沿いに広がるようになった。

 

 それは山の斜面にまで広がっていて、さながら黒い水面が波紋を広げているように、壮大で悠然とした光景だった。

 

 ところどころに小さな風車が立っていて、それがひとりでに回っていた。

 それは風車ではなく防霜ファンというもので、霜から畑を守るためのスプリンクラーの役割を果たしていた。

 ”お茶を美味しくするための扇風機”、そう呼んでいた時期があったことを蛍は思い出していた。

 

(あの風車も……いつか回ってくれるのかな)

 

 蛍はそんなことを考えながらぼんやりとしたままで車に背を預けていた。

 

 茶畑の海の中を抜けるように軽自動車はゆっくりと走る。

 

 蛍は不意にお茶の香りを嗅いだように感じて、その清涼な匂いに淹れたてのお茶をイメージした。

 

(ああ、これってオオモト様が淹れてくれたお茶と同じ香りなんだ)

 

 蛍の嗅覚にあの時感知できなかった青い匂いと、清涼感のあるお茶の風味が今やっとわかった気がした。

 

 それで分かったことがあった。

 

 ”青いドアの家”は最初からここにあったんだと。

 

 特別なことはない。

 最初からすべてあったのだと。

 

 だからこそ、夢でも現実でもなかったのだと。

 

 ようやく蛍は理解出来た。

 

 

 蛍がまた黙ってしまったことに、女性は少し気を病んでいた。

 先ほどの無茶な走行をまだ気にしているのかもしれない。

 

 こういった寡黙な子ほど、いつまでも根に持つものだと経験上知っていたから。

 お互いに遺恨を残したままだと別れづらい。

 

 最後は笑って別れたいと、思っているから。

 

 彼の時のように喧嘩別れなんて御免だった。

 

 

「……ねぇ、あなた、ペットとか飼ったことある?」

 

 女性からの予期せぬ質問に蛍は目を丸くした。

 

 なんでそんなことを聞くんだろうと蛍は小首をかしげる。

 

 蛍はなんとなくステアリングを握る女性の手を見てみた。

 気をもんでいるのか、何度も人差し指でハンドルを弾いていた。

 

 それを見て気を使われていることに気付いた蛍は、フロントガラスに映る一面の茶畑を見ながら女性の質問に答えた。

 

「いえ、ペットは一度も飼ったことないんです。でも、近所に懐いてくる犬がいて……あ、多分、地域犬だと思うんですけど。その子、とても頭がいいんですよ」

 

 まるで人みたいにとはさすがに言えなかった。

 実際、あの時のサトくんと、今のサトくん……つまり”シロ”は同じ犬なのかはわからない。

 

 ただ、今のあの犬に聡の影を見ることはなかった。

 聡は自分なりの幸せをもっているのだから、もう犬の体に頼ることはないはずだから。

 

 だから、あの白い犬はシロになったんだと思う。

 

 

「そう、犬ねぇ……実はだいぶ前に犬を飼いたいって言われたことがあったのよ」

 

「……お子さんにですか?」

 

 蛍は少し言葉を選んだ。

 

「ええ、そうよ。まだ小さかった頃にね。でもね、うちその当時、ペット不可の賃貸マンションにいたのよ。だから諦めなさいっていったんだけど。誰に似たのか頑固でねえ……」

 

 当時のことを思い出したのか、女性はため息交じりの言葉を出した。

 

 蛍は軽く苦笑いすると、黙って話の続きを促した。

 

「わたしが呆れていると、アイツ……その、夫が話に参加してきてね。犬はダメだけど別の生き物なら飼ってもいいぞ、って無責任に言ってくるのよ。わたしそれを聞いてほとほと呆れたわよ……ねぇ、アイツ、いや彼はなんて言ったと思う? 直感で答えてみて」

 

 塾の講師のような質問に蛍は愛想笑いを浮かべていた。

 

 でも、ちょっと気になる。

 犬がダメだとしたら……?

 

「やっぱり猫ですか?」

 

 蛍はあまり深く考えないで答えた。

 

 こういった質問は大抵予想を大きく上回ることが多い。

 それに、無理に捻った答えを出さなくても向こうから喋ってくれるに違いない。

 

 蛍は話を聞かせてくれる母親を待つ気持ちで、女性からの答えを待った。

 

「う~ん、それならまだマシなんだろうけど、ね」

 

 さすがに分かるわけないか、と小声で言うと、女性は蛍の思惑通りに事の顛末を語り始めた。

 

「そしたらね、犬の代わりにタコを飼えばいいっていうのよ()()()。わたしはバカじゃないの? っていったんだけど、ソイツが言うにはね、タコと犬のニューロンはほぼ同じ数だっていうのよ。むしろタコのほうが柔軟性があって、学習能力が高いっていうのよ。わたしも子供も呆れてものも言えなかったわ」

 

「だからね。わたしはこう言ったのよ」

 

 当時の思いをぶつける様にエンジンが回転数をあげていた。

 強めに踏んだアクセルが過敏な反応を示し、エンジン音が唸りを上げる。

 

 蛍は突然のスピード感に堪らずシートベルトにしがみ付いた。

 

「あ、ごめんなさい。ついあの時のことを思い出しちゃって」

 

「いえ、それでなんて言ったんですか、その、旦那さんに……」

 

 旦那と言う言葉に反応するように、女性は一瞬だけ眉を吊り上げた。

 その事から、関係はあまり良くないことが蛍にも分かった。

 

「だからね。言ってやったのよ」

 

 ちょっとぶっきらぼうな口調で話す女性。

 

「タコなら食べられるからいいんじゃない。ってね」

 

「あはは……」

 

 なんとなく予想していた答えに蛍は抑揚のない声で笑っていた。

 

「そしたらね。アイツは突然怒りだすし、子供は泣きだすしで、もう家じゅうパニックになったのよ。結局、家でペットの話題を出すことは禁止になったんだけどね……ねぇ、わたし間違ったこと言ってないわよね?」

 

 蛍は無理やり目線を合わせてくる女性の顔をまともに見ることが出来なかった。

 

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 






ネット上で心理テスト的なものを見かけるとやらずにはいられない質ですが、最近は占いも試してみたりしてます。

占いといってもメジャーな星占いだけでなく、生年月日で診断するものや、姓名判断、手相、比数術、血液型に、九星気学等、様々なものがあるんですねえ。

そんな中最近面白いと思ったのが、本格的な”ネット”の占いです。いわゆる個別的な占いと言いますか、コロナ禍によって以前のように占い師のところへ出向くことが減ったのか、先行きの見えない世相に不安を感じたのか、このネット占いは最近ちょっとしたブームになっているようです。
まあショッピングモールとかで占いの人とか見かけても基本スルーしてましたからねえ私は。そういう意味ではネットだとお手軽に自宅で占ってもらえるから便利ですよねー。コロナ禍だと余計にそう思います。

さてさて、この占い何が面白いかと言いますと、どこから出てきたのでしょうか思うぐらいに占い師が沢山いるわけなんですよー。
某サイトの占いコーナーなんてみましても、実に個性的な方が多くて、色んな意味で目移りしてしまいますよ。

私は基本無料か、一部無料しか試していないのですけど、結構凝った作りになっていて、見てるだけで面白いと言いますか、下手なブラウザゲームやスマホゲームよりも面白いかもしれないです。むしろそう言ったゲームが飽きた方のほうがのめり込みやすいかもですね。
そして一部無料で鑑定してもらうと、極一部を除いて結果がモザイクになるんですよー。もし鑑定結果が全部見たいのなら、”相応の”お金払ってね☆ というなかなか理に適った? サービスとなっています。
有料サービスには運命の人と出会う日時やそのイニシャル、中には似顔絵まで書いてくれるのもあったりして、ちょっとそそられる内容もあったりします。

やっぱり占いはどちらかというと女性向けのコンテンツなのか、恋愛関係が多いですね……片思いや、結婚関係は定番だとしても、不倫や略奪愛等とちょっと物騒なのもあるのが気になりますけど。

ただ、この有料サービス結構問題になってるらしく、多額のお金を要求されたと社会問題化しているようです。
お金を払うと鑑定結果のメールが届くやつとか、個別での電話での鑑定とかは、場合によっては結構えげつない額を要求をされるようですねえ。

上記のブラウザを使った占いも、個別的な文章ではなくいくつかの定型文から成り立っているみたいですし……。

まあ、過剰な期待はしないほうがいいと言うことですねぇー、所詮占いですし。バーナム効果と言われたら、私は否定できませんしねぇ。

でも、ほどほどに当たるんですよね~どんな占いでも。全部じゃないですけど一部該当する部分があるから、気になって色々試して見てしまいたくなるんですよねー。

中にはいい鑑定結果ばかりじゃないんですよね……まあそこが面白いんですけど……。

私が体験したケースですと、”あなたにとても大事な話があります”とか書いてあって、指示通りに変な巻物っぽいのをクリックしたら……。

”近い将来、あなたに辛辣な事を言ってくる人がいます。でもそれはあなたを嫌いで言ってるのではなく、あなたに愛されたいから言ってくるのです。どうか大らかな心で受け止めてあげてください……”
と、書いてあるんですよーーー!! なにそれ怖い!!! 愛されたいなら素直にそういって下さい!! 近い将来に会うかもしれない良くわからないお方!!

正直、下手なホラー映画やゲームよりもよっぽど怖かったです。真っ黒な背景に白の文字でコワイことを書くのは反則ですよー。


あ、そういえば今度は別の鬼滅の刃占いをやってみましたよ~。これは生年月日で占うやつで、前に試したものと比べると本格的な感じがしますね。さて、今回は……。

──不死川実巳(しなずがわさねみ)っっ……タイプ???

……すみませんニワカなもので誰だか分かりませんでした……。ただこの人は中二病っぽく見えますね。ギルティギアで見かけたような気もする……。

私見ですが、この鬼滅の刃占いは動物占いをベースに作っている感じがしますね。
ちなみに私は動物占いですと羊でした、めぇぇぇ~。


さてさて、ついでに同じサイトにあったキングダム占いも試してみたのですがっ。

──河了貂(かりょうてん)っっ──??? 

……実はキングダムも全く知らないので何に相当するキャラなのか見当もつかないのです。ただ説明文を見ると……女子キャラ、なのかな? 良くわからない、謎ですね……。


どうしよう、わからないキャラばかり該当してしまったので、何の感情も湧いてきませんでした……ファンの方すみません。


あと、最近なって出てきたと思われる電車でGO!! の駅診断占い? を最後に試してみます……。

──【池袋駅】タイプ!?
 
う~ん、私はあんまり池袋には行かないんですけど……でも、合ってるような合ってないような……私はてっきり秋葉原か神田かと思ったんですけどねぇ……ヲタクですし……。



ではでは、それでは~。



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J'ai tué la fille

 
 8月30日


 吾輩は──猫である。

 有名な漱石の一文だよね。

 オオモト様は──座敷童。

 この町で一番最初の、猫じゃなくて座敷童。
 この人からすべてが始まったんだ。


 ──じゃあ。

 ()()()は?

 わたしも──座敷童、そうだったよね。

 にわかには信じられなかったけど、多分そうだね。
 オオモト様だけじゃない、町のみんなもそう認識していたから。

 でもそれを知ったのは割と最近のことなんだ。
 吉村さんも知ってたみたいだし、町で知らなかったのはわたしだけ、なのかもね。

 だったら、燐は、燐はなに人かな?

 インド人! じゃないよね。

 燐は──普通の人。

 普通の女の子だよね。

 じゃあ……なんで普通の女の子がわたしの前から居なくなっちゃったのかな。
 何の痕跡も残さないで、ちょっとずるい……っていうか唐突だよね。
 事前に何か言ってくれればよかったのに、一人で居なくなっちゃうなんて、あり得ないよ……。

 それとも、わたしの気が狂っちゃったのかな?
 突然変な幻覚を見た──とか、なんかのトリックとか……わたしあのドラマ結構好きなんだよね。

 あ、ごめんごめん話が変になっちゃったね。

 だって、燐はすぐそばに居て、あの時だってわたしに……!

 わたしに……。
 燐は何をしたんだっけ?

 実は良く覚えていないんだよね。

 出来れば、あとでこっそり教えてほしいな。
 誰にも言わない、二人だけの秘密にするから、ね。

 わたしが起き上がったとき、燐は居なくなっていたよね。
 カバンも靴も匂いさえ残さずに。

 だから今だによくわからない出来事なんだ。
 夢、というよりも悪夢にずっとうなされているような気がするよ。

 やっぱりちゃんと薬を飲んだ方がいいのかな……。

 後でまとめて飲むからいいとしよう。

 うん。

 そういえば、オオモト様はオカルトなんて存在しないって言っていたけど、わたしはそっちの類の方が信憑性がある気がするんだよね。

 わたしの座敷童の呪いの力が反転して燐に降りかかってしまった、とか?
 そんな感じの出来事、やっぱり祟りとかそういった感じなのかなぁ。

 燐、呪いが来た感じとかあった?

 わたしが普通の女の子になんてなろうとしたから、その罰がわたしでなく燐にいってしまったんだとしたら、神様も意地悪なことするよね。

 でも、神様ってオオモト様のことかな? あの人、結局何なんだろうね。
 肝心なことを言わないで居なくなっちゃったし。

 でも、なんか燐と同じような感じがするんだ。

 それでね、一時期、本気でお祓いや祈祷を頼もうとしたこともあったんだよ。
 そのことを吉村さんとかカウンセリングの先生にも相談してみたんだけど、まともに取り合ってくれなかったんだよね。

 こっそり一人で頼めばよかったかも。

 やっぱりわたしは普通じゃないのかもしれない。
 それは座敷童とか関係ないのかも?

 だってもう幸運を呼ぶ力なんてなくなっているのにそれでも普通の女の子とは何か違うんだ。

 燐、普通ってなんだろうね。

 わたしは燐を普通の女の子として見ていたんだよ。


 でもね。

 気を悪くしちゃうかもしれないけど。

 燐は──本当に普通の女の子だったのかな。

 別のグループの子たちと友達になったけど燐とは明らかに違うんだよね。
 上手くは言えないけど、彼女たちと燐は何かが違う、そんな気がするんだ。

 それはわたしの主観だけじゃない気がする。
 良くわからないけど根の部分が違う気がするんだ。

 燐は普通じゃない、でもそれは悪い意味じゃなくて、むしろ特別な方で。

 わたしも小さかったころ、周囲の子との違いに悩んでいた時期があったんだよ。
 前に話したことあったかな?

 でもね、結局これと言った答えは出なかったけど、一つの指針みたいなものは出来たんだ。


 それは、燐。

 燐という名前の元気な太陽がわたしに方向性を示してくれたんだよ。

 周囲との違いなんて気にすることもなかった、燐といれば毎日が楽しかったから。

 だからね、わたしは燐ともっと普通な、対等の関係になりたかったんだ。

 わたしにとっては少し、ううん、結構思い上がった考えだったのかもしれないけど。
 それでも、あなたと一緒にいたかったんだ。

 燐の肩を並べ合える存在であることが、わたしの幸せなんだよ。

 燐の幸せはわたしの名前を呼ぶことって言ってたけど、それは多分、嘘だよね。
 わたしを悲しませないための優しい嘘。

 燐らしいよね。

 燐はきっと自分の幸せよりも、周りの人を幸せを願うんだよね。

 前からそういう考えだったよね、燐は。


 だから好き、なんだけど。

 あ、そういう好きじゃないよ、人として好きってこと。

 でも、誰よりも好き、だよ。

 そういえばね、最近友達と良く話すことがあるんだけど、大抵カレシとかそういう恋バナになっちゃうんだよね。

 クラスでも付き合ってる人とかいるみたいだけど、わたしはそういうの無理っぽいなぁ。

 隠れファンとかいそうとかみんなに言われてるけど全然嬉しくないんだよね、むしろちょっと怖いかも……。

 わたし燐が男の子だったらなぁ、って思うことがあるんだ。
 なんか男子より男子してるっていうか、あ、変な意味じゃないよ。

 いつもわたしを守ってくれるし、話も面白いし、頭だっていいし、運動神経だって……。

 とにかく、わたしの理想像なんだよね燐は。

 燐と一緒に暮らすことになったらきっと毎日がきらきらして楽しいだろうなーとか妄想することもあるんだよ。

 でも、燐には聡さんがいるから。


 だから妄想のままで終わらせてもよかったんだけどね。

 せっかくだから書いてみたよ、これが最後の日記になると思うし。



 あのね、あれからずっと考えていたことがあるんだ。

 なんでわたしたち二人だけが何の影響も受けなかったのかって。
 だって、みんな何かしらおかしくなっていたんだよ。

 町の人だって、あの大川さんだって……聡さんだってそうだった。

 わたしたちを除いてみんな欲望のままに行動していたんだよ。
 それはサトくんだって例外じゃなかった、はず。

 これってやっぱりわたしのせいかなって思ってるけど、これといった確信がないんだ。

 でも座敷童が関係しているのは間違いないよね。
 それに三間坂家も……。

 だから、わたしのせいだよね。

 ごめんね、燐をずっと怖い目に合わせちゃって。
 知りたくないことも見たくないものもあったよね。

 わたしのせいだけど、わたしじゃどうにもならなかった。

 でも、もしあの時、帰りの電車で燐がちゃんと起きて、燐とそのまま分かれていたら……わたしはきっと、聡さんと……。

 ごめん、変な事言ってるね。

 ~したらとか、意味ないよね、本当に。


 だからごめんね燐。
 

 わたしはあなたに罪滅ぼしがしたい、わたしに出来ることならなんでもする。

 だから、戻ってきてほしい。

 燐、あなたのいる世界がわたしの幸せなんだよ。

 あなたが空の彼方にいるのなら、わたしもそこにいく。

 だから、少しの間待っててほしいんだ。
 必ずあなたの傍に行くから。


 でも、一つだけやっておきたいことがあるの。

 最後にそれが知りたいんだ。


 あなたをころした人のこと。

 わたしは燐が自分から居なくなったなんて思っていない。
 燐はそういう子じゃないってわたしが一番良く知ってるから。

 誰よりもずっと燐のことを知っているつもりだから……。

 だから、その原因を突き止めてから会いにいくね。

 じゃあね、燐。


 ────
 ───
 ──



 

 紫のヴェールが黒い天幕を外に押し出すように、山の稜線の東側から白い線とともに薄っすらと染み出していた。

 

 今の空と同じような色合いのネイビーの軽自動車が山間の町をほどほどのスピードで走っている。

 

 女性は先ほどから何も言わず、ステアリングを握っている。

 

 目的の場所はそう遠くないのか、走りにはゆとりのようなものが感じられた。

 

 蛍は窓の外に映る見知った風景を他人事のように眺めていた。

 

 その横顔には後悔も何もなかった。

 

 ただ、一つの憂いの様なものは影になった目じりから伝わっていた。

 

 この夏の間、自分でも驚くほどの行動力を見せたと思う。

 

 顔見知り程度だった友達ともショッピングに行ったり、映画を見たりもした。

 

 あれだけ苦手だった運動も自主的にやり始めた。

 

 それでも毎朝欠かさずウォーキングを続けられるとは自分でも思わなかった。

 

 これまで大した関心を向けなかったものにも興味を示すようになった。

 

 燐があれだけ楽しそうに話していたトレッキングだって、自分からやりたいと思ったことは一度だってなかった。

 アウトドアショップにだって一緒に回ったのに、わたしは何の興味も湧かないまま、燐と一緒にいることだけを楽しんでいた。

 

 わたしは燐にしか興味が湧かなかったのだ。

 

 だが、燐が居なくなってから、急に興味を持ち始めた。

 アウトドアグッズもトレッキングも。

 

 それはある意味当てつけだったのかもしれない。

 

 燐の真似をすることで、燐が来るきっかけになればいいと本気で思っていた。

 

 結局何の意味もなかったけど。

 

 

(だったら、わたしは何のために一日中歩き回ったのかな……?)

 

 何の答えも、何の成果も得られない僅かな時間の家出。

 残ったのは疲労感と倦怠感、それと眠気。

 

 無意味なことと言われればそうなのかもしれない。

 

 わたしは無意味に無作為に生きてきたのだから。

 

 今更なことだった。

 

 これでもやるだけのことはやった。

 後悔はしていない。

 

 これが現実なんだと言うならばそうなのだろう。

 

 何も変わらない現実。

 

 なにをしたらわたしは、燐は幸せになれるのだろうか。

 

 

 

 物憂げな表情で窓の外を見る蛍。

 その様子に女性は何かを喋ろうと口をもごもごさせてみるが、この空気に合う適切な話題が見当たらなかったので若干間抜けな感じになってしまった。

 

 恥ずかしさを隠す様に運転に集中するも、その憂いのある表情が視界に入ってしまう。

 どうしたものかと思案する女性。

 

 すると突然忘れかけていた警戒心が急に脳裏に湧いてきて女性は少し戸惑いをみせる。

 

 こうしていると普通の子なのだが、あの峠の頂上付近であったときはもっと思い詰めた表情をみせていた。

 それは一朝一夕な衝動的なものとは違い、もっと根深いものに見えたから無理やりにも連れてしまったのだけど……。

 

(ここまで来てこんなこと考えたくはないけど、大丈夫よねこの子。あの時、警察に通報しておけばよかった! なんてことはないと思っているわよ。結果はどうであれ、これでよかったんだわきっと……)

 

 にしても……。

 

(縁起でもないこと考えるなんて……どうかしてるわ、わたし!)

 

 邪な考えを戒めるように自身の頭を軽く小突く女性。

 

 不可思議な音に反応して蛍が視線を運転席側に向ける。

 

 女性は蛍の視線に気付かないふりをして黙ってステアリングを握っていた。

 蛍は不思議そうに首を傾げるが、運転に集中しているように見えたので特に何も言わなかった。

 

 

 車内はしばらくの間、音がなかった。

 

 空調が運転席と助手席との間に心地よい風を流す。

 それは様々な香りが混ざり合って、微妙な空気感を出していた。

 

 運転席の女性は、なんとなく外の空気が吸いたくなって窓の開閉ボタンに手を掛ける。

 

 低い音と共に、左右の窓が開いていく。

 空調よりも涼しく、そして爽やかな風が車内の嫌な空気を押し流した。

 

 小鳥のさえずりや、虫の声、それらが狭い軽自動車の中に入り込み、そのまま抜けていった。

 

 新しい日の声と空気が、二人の会話の代わりを務めていた。

 

 二人は自然に顔を見合わせると、お互いに微笑んだ。

 

 

 軽自動車は澄んだエンジン音を響かせて緑の田畑に挟まれた道を行く。

 

 フロントガラスに映る二人は本当の親子のように仲睦まじい姿を透明なファインダーのように鮮やかに見せていた。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 

 まだ薄暗い朝の時刻。

 

 温度差からか霧状のものが雲の様に浮かんでいた。

 それらは高低差がある小平口町ではこの時期の朝に良く見られる光景だった。

 

 町の中心地に近い大通りの一角。

 その路肩に車は停車していた。

 

 道を照らしていた生きもののような丸いライトは生気を失ったように消え、代わりにハザードランプがかちかちとリズムを刻む。

 

 大通りの道は左右に街燈が灯っていた。

 等間隔に真っすぐ続いていて、さながら空港の滑走路のように整然としていた。

 その先には町で唯一の駅がある、ひなびた町でのまともな交通機関。

 

 その駅へ続く道すがらの信号のない十字路、左手の坂を登った先に蛍の家があった。

 

 まだ夜明け前の閑散とした街の風景は、ちょうど朝と夜の境界線にはさまれたような奇妙さがあった。

 

 朝でも夜でもない曖昧な時間。

 

 新緑の生い茂る山の頂は、黒い闇の中で朝日が訪れるのをじっと息をひそめて待ち続けていた。

 

 蛍は自分から車を降りていた。

 女性に声を掛けられる前に、さっさとシートベルトを外して車外に出ていた。

 あれだけ手こずった靴紐も軽くだが結ばれていた。

 普通に歩く分なら問題ないだろう。

 

 山からの涼しい風が蛍の二つに結わいた髪を柔らかく撫で上げる。

 

 蛍は窓を開けた時、自分の髪が大きく広がっているのを見て、慌てて髪をゴムで止め直していた。

 ポケットに仕舞っておいたキンセンカの髪飾りも両側に付けられていた。

 

 結局髪飾りも想いも捨て去ることが出来ず、表面上は家を出る前と同じ姿のままだった。

 それはあの異変の後の小平口町の様子と同じで、そのことを理解できるのは殆どいないのだ。

 

 同じだと思っているのは、ただの思い込みなのに。

 

 

(結局、戻ってきちゃった……)

 

 蛍は感情のない顔で坂を見つめていた。

 

 それほど急な坂ではないのだが、坂の先には見通せないほどの霧状の白い(もや)がちりちりと浮かんでいる。

 それはなんだか遠い異国の地を思い浮かばせる幻想的な光景だった。

 

 家を出てほんの数時間程度しか経っていないはずのにひどく懐かしく感じる。

 

 それほどまでに感慨深いものがこの地にあるのだろうか。

 わたしはこの町に裏切られたというのに。

 

(何で戻ってきちゃったんだろう。もうここには何もないのに)

 

 帰ってくるつもりなどなかったのに、結局戻ってきている。

 そのいい加減さがなんとも滑稽だった。

 

 流されるまま、気持ちの決着さえもつけぬまま、何食わぬ顔で家に帰ろうとしている。

 

 自分の人生の縮図を見ているようで、なんだか妙におかしくなった。

 

 並々ならぬ決意をもってこの時を選んだはずなのに、人の優しさに少し触れただけで簡単に絆されてしまう、軽薄さがおかしかった。

 

 それは紙のように薄い感情。

 

 風が吹くだけで簡単にひっくり返り、自分さえわからぬ方向に飛んで行ってしまう、いい加減なもの。

 

 そこには裏も表もなく、ただ流れていくだけ。

 指針があるようで実際はなにもない、ただ意味もなく裏と表を繰り返すだけの存在。

 

 結局、何物にもなれない、なり切ることも出来ない。

 きっと、それがわたしの本質なんだ。

 

 誰かがいて初めて行動する意味が生まれる。

 わたしはもともと依存体質なのかもしれない。

 

 吉村さんが来てくれるから食事をする気になれるし、燐が喜んでくれるなら何でもやろうと思うようになった。

 

 誰かの為を言い訳にして、わたしは今まで生きてきたんだ。

 

 その曖昧で適当な考え方が周りにいる人に不快感を与えていたのだと思う。

 今だって無意味に行動して、他人に迷惑をかけてしまったわけだし。

 

 だから燐はわたしの前から居なくなってしまったんだ。

 わたしが迷惑をかけてしまったから、わたしが重く感じられるようになったから。

 

 でも、わたしは燐が好きなことをやめられなかった。

 友達であり、親友であることをやめることができなかった。

 

 それどころか、それはもっと強いものに変化しようとしていた。

 

 彼女のもっと深い存在になりたかったんだと、思う。

 

 だからこそ彼女は、燐はわたしの前から居なくなってしまったんだろう。

 

 でも、それは拒絶ではないことは知っている。

 手は離れてしまったけど、突き放されたわけではない。

 そもそも燐はそういう子じゃないから。

 

 二人の、わたしの事を思って離れていったんだろう、きっと。

 

 そういう意味では彼女とわたしの想いは一緒だった、そう信じたい。

 

 ──信じる、なんてそんな言葉もう意味はなさないのかもしれない。

 

 わたしは彼女のことを受け入れる必要がある。

 冷たく固くなった氷が解ける様に。

 

 それはまだ固く、そう簡単に溶けるものではないが、それでもやらないといけないのだ。

 

 そうじゃないとわたしはまた同じことを繰り返すだろう。

 あのときの白い影がわたしの家を荒らした時のように。

 同じようなことを何度も繰り返して、やがていずれは……。

 

 それはそれでありだとは思う。

 もうこの世界にわたしが求めるものはないのだから。

 

(でも、それは燐の望んでいたことじゃない)

 

 そんなことはずいぶん前からわかっている。

 ただ納得できなかっただけ。

 

 出会いがあるから別れがある。

 それを認めるのに二ヶ月近くかかってしまった。

 

 だからこそいいのかもしれない。

 割り切れない思いほど強く、今もずっと心に刻みついているのだから。

 

(燐、わたしはどんなことがあってもあなたを忘れない……ずっと、あなたの名を覚えているから……)

 

 少しづつ肩の力が抜けていくのが分かる。

 わたしは意地になっていたんだろう。

 

 苦しいことに蓋をして、燐に合えると信じて色々やってきたんだから。

 きっと彼女の笑顔に合えると信じていたのだから。

 

 無意味だったのかもしれない。

 けれどもやるだけのことはやったという達成感はある。

 

 まだ辛いけど、前を向くことを諦めないと思えるようになったから。

 わたしさえ、彼女のことを覚えていればいいんだ。

 

 誰かにそのことを伝えなくてもいい、むしろ伝える気もない。

 

 その決意が出来れば、無謀な行程も意味のあるものになってくる。

 

 

 この町もそうだ。

 

 プラットフォームを突き破る大きな穴も、荒らされたはずのわたしの家も、全て嘘のように元通りになっている。

 

 それは最後の幸運の力によるものなのか、得体の知れない神様の気まぐれなのかはわからない。

 

 ただ、町は新しく生まれ変わろうとしている。

 

 だからわたしは目を逸らさず新しい小平口町を受け入れなくてはならない。

 三間坂の姓を名乗っているからとか、”座敷童”だったとかそういうことじゃない。

 一人の住民として受け入れる必要があるのだと思う。

 

 幸運の力も座敷童の伝承もなくなった小平口町。

 そこに何の価値があるのかはわからないけど、それでも町は残り続ける。

 

 少しの間に大分変化してきているど、それでも町は在り続けるんだ。

 

 蛍は初めてこの町が好きになった気がした。

 

 いい思い出はあまりないけど、それでも生まれ育った町だから、だから大事にしたい、そう思えるようになった。

 

 

「えっと、ここで良かったのよね? それとも、家の前まで行った方がいいかしら」

 

 蛍が物憂げな顔で考え込んでいると、いつの間にか女性が隣に立っていた。

 

「あ、いえ、ここで十分です」

 

 蛍は意識を戻すと女性に振り返った。

 

「そう、ならよかったわ」

 

 思い詰めていた表情の蛍の顔に僅かに生気が宿っているのを見て、女性は少し安堵した。

 

「はい、色々お世話になりました」

 

 特に何も言っていないのに、”どうしてこの場所で停車したのか”、なんて、わざわざ聞かなくてもわかっていた。

 

(”この人”は”わたし”を知っているんだ。そして”わたし”も”この人”を知っている……)

 

 それ以外の答えはない気がしていた。

 

 まだ煮え切らない思いがいくつか浮かんだが、蛍がそれを口にすることはなかった。

 

 それは女性から特に何も言ってこなかったから。

 

 だからお互いに他人のふりをしていたんだと思う。

 その方が余計な気を使わなくていいと思っていたんだろう。

 それは偶然にも同じ思いだったから。

 

 だから一緒に居て苦にならなかったんだ。

 

「わたしね」

 

 女性は軽く髪をかきあげて話し始める。

 

 澄んだ花のような香水の香りはすっかりなくなっていた。

 蛍はそれが別れの合図だと思った。

 

「あなたには悪いけど、自分のしたことを余計なお世話だとは思っていないの。こういうの偽善っていうのかしらね。でも放ってはおけなかったのよ」

 

 腰に手を当てて女性はそう言い切った。

 

 水分を含んだ風が二人の頬を撫でる。

 

 香水の香りが鼻まで届き、蛍は少し驚いた表情を見せた。

 

「何があったのかは聞かないわ。わたしだって色々あったし。でも、まだまだこれからなんじゃない、恋も人生も。これからが一番楽しくなる頃なのよ。って、わたしもまだまだかしらね。もう三十超えてるのだけど」

 

 女性は肩をすくめて、自嘲気味に乾いた笑いをみせる。

 そのおどけた様子に蛍も小さく微笑んだ。

 

 空の色が少しづつ変化していく。

 その急な変化は天候の崩れとは違った不安を女性の中に植え付ける。

 

「ねぇ、大丈夫? なんなら一緒に付いて行ってあげましょうか。ちゃんと説明すればきっとわかってくれるわよ」

 

「あ……」

 

 女性の気遣いに蛍は口に手を当てて、何かを堪えるようにした。

 

 それは急に湧き出てくる感情で、蛍の心を(さざなみ)のように何度も揺らす。

 

 憂いを湛えた女性の瞳は、彼女とよく似ていた。

 大好きな親友の瞳と同じ輝きをつぶさに感じられたのだ。

 

 芯の強そうな真っ直ぐな瞳は波の様に揺れ動いて小さな陰りを映す。

 

 燐とは違った、母性とか、慈愛とかそういったものも含まれていた。

 

 それは蛍が知らない母の瞳。

 青いドアの家のあの人とも違う瞳だった。

 

「……っ」

 

 蛍は両手で口元を抑えると、涙がこぼれない様に小さく俯いた。

 

 込み上げてくる感情が、少女に一つの答えを導き出そうとしていた。

 

 蛍は顔も見たことがない、母親の最後の言葉を聞いた気がした。

 

 それは”名前”。

 

 母親が自分の名前を呼んだとき、その姿が霧のように消えたことを蛍はまだ目の開かぬうちに分かっていたのだ。

 

 蛍は自分の運命を既にわかっていた。

 自分も多分こうなるのだと。

 

 だからこそ、母親の本当の暖かみを今初めて知ることができた。

 それは今まで感じたことがない、安らぎを与えるものだった。

 

 蛍の様子に女性は戸惑いをみせて、再度何か声を掛けようとした。

 

「ねぇ、上まで一緒に──」

 

「いえ、大丈夫です。わたしもう子供じゃないです、からっ」

 

 女性が言い終わる前に、蛍が声を出した。

 俯いた顔を真っ直ぐに向けて、瞳を赤く晴らしながらはっきりとわかる笑みを作っていた。

 赤みを帯びた頬には涙の後が一筋残っていた。

 

 虚勢でも空虚からでもない純粋な想いからの言葉。

 

 きっとわたしが本当に欲しかったものはこれなんだと思う。

 

 ”自立”なんていう形式ぶった概念ではなく、もっと自然な答え。

 大人になるっていうことはきっとこういうことなんだと思う。

 

 子供と大人の境界線があるとするならば、それはきっと、何かを捨てたり変えたりすることじゃない。

 

 自分なりの方向性を見定めることなんだと、蛍はやっとわかった気がした。

 

 生きることに目的や理由なんてない。

 そんなことを気にするから余計に生きづらくなると昔の哲学者は言っていた

 人は何のために生まれたなどど考えること自体がおこがましいと。

 

 だったら、わたしはずっと燐を探し続ける。

 それが世界中を回ることになっても、たとえわたしがお婆ちゃんになったとしても、一生全てを掛けて彼女を探し求める。

 

 まだ彼女のことを覚えている限りそれはずっと続けることがわたしの生きがいなんだ。

 

 すごく単純なことなのに、ずっと答えが出せずにいた。

 夏休みが終わったら、もうすべてが間に合わないと思い込んでいた。

 

 そうじゃなかった。

 むしろこれからが始まりなんだ。

 

 もし彼女をどこかで見つけたら何を話そう。

 泣きついちゃうかもしれないし、もしかしたら引っ叩いちゃうかもしれない。

 

 どうであれ、それは楽しみでもあるし生きがいでもあるはずだ。

 

 わたしは生きる目標があった。

 それはきっと幸せなことなんだ。

 

「……そうね、今のあなたはりっぱな大人だわ、ごめんなさいね。ちょっと自信がなかったのよ。最近そういうことがあったばかりだったから。でも一つだけ忠告しておくわね」

 

「はい」

 

「あなたは何かとても大切なことをしようとしてるみたいだけど卒業だけはしておいた方がいいわよ。学生生活でもとりあえずやり遂げることはなにかの支えになると思うから。最近同じこと言ったばかりなんだけどね」

 

 女性は肩をすくめると、今乗ってきたばかりの軽自動車を見つめる。

 朝靄の煙る町に車のハザードランプの音だけがサイレンのように規則的に鳴り続けているだけだった。

 

「もしかして、お子さん、ですか」

 

 蛍はなんとなく気まずさを覚えてつい余計なことを聞いてしまったと少し後悔した。

 この人は気を使ってこちらのプライバシーに踏み込んでこないのに、こちらから勝手に土足で踏み込むなんて……。

 

(わたしって自分で思っていた以上に我がままでデリカシーないんだな……)

 

 蛍が軽い自己嫌悪に陥っているのを察したのか、女性は暗い影をさっと振り払って蛍に向き直る。

 

「ええ、でも心配いらないわ、もう解決済みのことだし。それに、あなたと同じで芯は強い子みたいだから」

 

「そう……なんですか」

 

 自分から聞いておいて雑な返事になってしまったが蛍は内心、安堵していた。

 

「うん、親になるのってとっても大変なのよ。あなたも分かる日がくるでしょうね。もっとも、あなた可愛いから彼氏とかいるんでしょ」

 

 見かけによらず意地悪な質問をしてくる女性に蛍は慌てたように手を振った。

 

「い、いえ、カレシなんてそんな……わたしにはそんなの」

 

「いらない、とか言っちゃうのこの可愛い容姿で? うーん、勿体ないなあー。わたしが男だったら……ってそういうとこがわたし、おばさんっぽいのか? うーん、今風な多様性を身に着けないとねぇ」

 

 割とどうでもよさそうな事を真剣に考え込んでいる女性に、蛍はすっかり慣れた様子で苦笑いを浮かべた。

 

(やっぱりこの人といるとなんか落ち着く。自然体でいられる気がするよ。それって、燐と一緒にいたときと同じみたいな?)

 

 蛍は自分でもよくわかっていない違和感の正体に気付いた気がした。

 

 けれどもそれを追求しようとはしなかった。

 もう進むべき道は見えているのだから。

 

「あ、その、いろいろお世話になっちゃいました。わたし家に帰ろうと思います」

 

 蛍は今だに考え込んでいる女性に声をかけて、恭しくお辞儀した。

 

「あ、っと、うん! そうね。親御さん心配してると思うけどちゃんと話せば伝わるから。親ってなんだかんだ言ってそういうものだから。あなたなら大丈夫よ」

 

「はい!」

 

 蛍は自分の両親の事を言うことはしなかった。

 それは親であるこの人の事を信用していたから。

 だからその言葉は今の蛍にはなんとなくだけど理解することが出来た。

 

 両親の代わりに自分で自分を心配すること、そして自分を大切にすること。

 蛍はそう解釈することにした。

 

「えっと……」

 

 蛍は何か言おうとしたのだが、言葉が浮かんでこなかった。

 ここまでしてくれたのに、言葉以外何も返さないのは失礼に当たる気がしたが、この女性にはそういうことは不要だとは思っていた。

 それでも何かをしてあげたかった。

 

 親友によく似た親切な人に。

 

「気を使わなくてもいいわよ。わたしもこの町の住人なんだし、何かあればあなたを頼ることがあるわ」

 

 蛍がまごまごしている間に、その心情を察したのか女性は肩をすくめながらそう蛍に言った。

 

 先に言われてしまうとそれ以上なにも言うことが出来ず、蛍は。

 

「はい……」

 

 そう返事を返すことしか出来なかった。

 

 それ以上お互いの間に何も言うことはないというかのように、女性は蛍に背を向けて運転席のドアを開けた。

 

 蛍はしばらくその様子を黙ってみていたがやはり何も言うことが出来ず、代わりにもう一度頭を下げた。

 

 そんな蛍に女性は軽く手を振って微笑み返す。

 

 偶然出会った二人の別れの挨拶だと、蛍は思った。

 

 蛍も女性に背を向けて坂道を歩き始める。

 解いた靴紐は軽く縛って置いたので、今度は易々と外すことが出来るだろう。

 問題があるとすれば鍵を投げ捨てたことだが、家のポストの裏辺りにある石の下に合鍵を隠してあったので誰かが持ち出さなければ多分大丈夫だろう。

 

 むしろ今の蛍には家の窓ガラスを割ってでも入る気概さえあるのだから。

 これまでなかった希望が蛍の中に生まれていた。

 

 簡単なことのはずなのに上手くいかないこと。

 

 そんなものはこの世にいっぱい溢れている。

 いつだってそうなんだ。

 

 それを不条理などの概念で定義づけるから、ややこしくなる。

 

 ただシンプルであればいい。

 

 やる気があるかないか、結局はその二択なのだから。

 

 わたしは──見つけるために生きる。

 

 自分にとっての本当に大切なものを見つけるために。

 

 だから今は学校に行く。

 まだ電車に乗るまでに時間はあるはずなので、少し眠ってから行こう。

 

(あ、電車で寝ればいいか。幸い制服だし……宿題は持ってないけど)

 

 だったらなんとしても家に入らないと。

 

 蛍は数時間後の学校の事を考えながら坂道を一歩ずつ上がっていたそのとき、背後から声がした。

 

「蛍ちゃん!!」

 

 少し驚きながら振り返ると、さっきの女性が息を切らせながら駆け上がってきていた。

 

 蛍は女性の言葉の意味がわからず、思考が停止したように凍り付いていた。

 

「はぁ、はぁ……これ、うちの店の名刺。今週はまだオープン出来ないけど、近いうち開けるからその時は是非来てほしいの」

 

 そういって女性は小さな青いカードを蛍に手渡した。

 蛍はロボットのようなぎこちない動きでそれを受け取る。

 

 綺麗な青のカードは、一目見ただけでも印象に残るほど風味のいい色彩をしていた。

 そこには白い文字で住所と、そしてその店の名前らしきものが書いてあった。

 

 蛍はそれを指でなぞりながら声に出して読んでみる。

 

「青いドアの家……」

 

 聞き覚えのある言葉だった。

 だが、少し不可解なことにその前に空白が多く用意されていたのだ。

 

 不自然な文字の配列に、蛍は青いドアの家の由来を聞く前にそちらのほうが気になっていた。

 

「あの、なんでこんなに空白が空いているんですか?」

 

 蛍の素朴な疑問に女性は痛いところをつかれたような顔で苦笑いをした。

 

「実はまだ正式な名前は決まっていないのよね。だからとりあえず娘がどうしてもつけたいといった、”青いドアの家”だけは書いておいたのだけれど……」

 

「娘さん、ですか……?」

 

「そう、言ってなかったっけ? まあいいわ。あの子、夏休み前に何かあったみたいだったみたいで学校にも行きたくなかったみたいなの。で、夏休み中、気晴らしを兼ねて店の手伝いをさせてあげたらすっかりはまっちゃったみたいでね。”学校に行かないでパン屋やる”って聞かないのよ」

 

「はあ……」

 

「だからね、進路のことはとやかく言うつもりはないから、せめて卒業だけはしておきなさいって言っておいたのよ。まあ、わたしもそういうこと言えた義理はないんだけどね。娘の意見をなにも聞かないで離婚しちゃったしね」

 

「え……」

 

「あ、これも言ってなかったかしら? 別に隠すつもりはなかったんだけど。でも、まあ生き方なんて一つじゃないんだから、いろいろなことを勉強しなさいって娘にはいっておいたの。まあわたしににて頭はいいからどんな職業でも大丈夫そうなんだけどね。運動神経もいいし。なんだか親ばかみたいね、わたし」

 

「娘さんのこと、好きなんですね」

 

 矢継ぎ早に話す女性に蛍は微笑ましさと、いわゆる家族愛的なものを感じた。

 

 それは忘れていた家族の暖かみを蛍の胸中に思い起こさせるほどの愛のこもった言葉だった。

 

 だから蛍は自然な笑みでそう結論づけた。

 

「あ、まあ、ね。わたしの子供だしね。自分の子が嫌いなんて親はいないと思ってる。理想論かもしれないけどね」

 

 的を得た蛍の言葉に女性は一瞬口ごもったが、少し照れたような表情で答えた。

 

 その様子からその子が本当に愛されていることがわかった。

 

 相思相愛とはこういうことを言うのだろう。

 わたしは彼女とこういった関係になれていたのだろうか?

 

 わたしの一方的な思い込みで彼女を苦しめていたのではないだろうか。

 

 もしかしたら愛情の取り違いをしていたのかもしれない。

 愛情とは依存とは違うはず。

 

 互いを想い慈しんで、そしてそれぞれの考えに基づいた生き方をするのがいい関係なのではないだろうか。

 

(燐──わたしは、あなたの目にどう映っていたのかな。わたしはずっとあなたを見てきた。込谷燐という唯一無二の存在、親友のことを。わたしは、三間坂蛍は、あなたにとってどういう存在だったのかな)

 

 わたしは燐の傍に居られればそれでよかった。

 でも、燐は? 燐は……わたしから離れたかった。

 そう、だよね?

 

 だったら、わたしがあなたを探し続けることは苦しめるだけなのかも。

 

 やっぱりわたしは──。

 

「こらっ」

 

 蛍の頭上に何かが落ちてきて、ちょっとばかりの吃驚と、ほんのりとした痛みがあった。

 

 顔をあげると、女性が少し眉を吊り上げてこちらを見ていた。

 右手は蛍の頭に乗せられている。

 

 蛍はこの人に何かされたんだと思った。

 叩かれた、というよりも少し強めに手を頭に乗せられたといった方が正しく思える。

 そのまま、頭をわしわしと撫で擦られる。

 少し強めのスキンシップに蛍は軽く目を回した。

 

「ダメよそんな顔してちゃ、せっかくの美人が台無しになるわよ。二学期なんだからちゃんとしなさい。新学期からそんな顔だと友達に笑われちゃうわよ」

 

 蛍の顔を覗き込むと、片目でウィンクする。

 なんだか本当の母親に言われているみたいで、蛍は胸の奥が桜色の熱を帯びたように、ほんのりと暖かくなった。

 

「はい……」

 

 蛍は嬉しさを胸の奥にしまって、このめくるめくような瞬間をことさら大事に扱った。

 

 この女性は母親だけでなく、父親の側面も持っているように思えたから。

 

「うちの子も一時期暗かったのよね、まったく。だったら喧嘩なんかしなければいいのにね。そう思わない?」

 

「あ、えっと」

 

「ねぇ、蛍ちゃん。もしかしてうちの子と喧嘩したんでしょ? 最近全然連絡もとってないみたいだし。どうしたのかなーって思っていたのよ。まったく、誰に似たんだが、頑固でねぇ。自分から謝れる子にしたつもりだったんだけどね」

 

(やっぱり名前、知ってる?)

 

「あ、あのわたしの名前……」

 

「ええ、蛍ちゃんでしょ。髪を下ろしているから初めは分からなかったけど、結わいた髪を見た時、やっぱりって思ったのよね。うちの子がお世話になってるのに、なんですぐに気づかなかったのかしら……こういうの接客業じゃ致命的なのにね」

 

 なぜ今まで気付かなかったのか、蛍もこの女性とは初対面ではなかった。

 

 漠然とそういう気がしていたが、実際には顔見知りと認識すら出来なかった。

 

(やっぱり、わたしも知っていたんだこの人のこと。なんで思いださなかったのだろう。容姿とか声で気付いてもいいはずなのに。でも、わたしだけじゃない。この人もついさっきまで気付いていないようだった?)

 

 蛍がいくら頭を巡らせても、それに関する答えはでなかった

 

 とても大切なことのはずなのに、なぜか頭に何も浮かんではこない。

 蛍は大事なパズルの最後のピースを見つけられずに悶々としていた。

 

 蛍がひとり懊悩していると、女性は思いついたように手を叩いた。

 

「そうだ、忘れてた。これ蛍ちゃんのでしょ? あの時拾ったから返すわね」

 

 そういって女性は何かをポケットから取り出すと、蛍の目の前に差し出した。

 

 ──それは丸い物体だった。

 

 蛍はそれで、すっかり忘れていた大事なものを思い出していた。

 元に戻したら何かが切れてしまいそうな気がして、結局その丸いままの姿で持っていた、二人の紙飛行機の成れの果て。

 

 丸めてしまったのは自分のせいだけど、それでも大事に持っていた思い出の品。

 紙飛行機のままだったら、きっと持ち運ぶなんてしなかっただろう。

 

(そういえばあの時、ポケットから転がり落ちたんだっけ。わざわざ拾っていてくれたんだ)

 

 蛍は女性の心遣いに感謝するとともに、ずっと大事にしようと思った。

 このノートの切れ端が二人を繋ぐ唯一の絆だったから。

 

 もし無くしていたらきっと物凄く後悔していただろう、燐とわたし、二人の想いを乗せたものだったから。

 

(でも、もう飛行機の形じゃなくなっちゃったから、燐、怒っちゃうかもね)

 

 それでも良いんだ、だって形を変えても二人で飛ばしたことに変わりはないのだから。

 体のいい言い訳かもしれないけど、それでもよかった。

 

(もし燐に怒られるなら、それはとても嬉しいことだし)

 

 だから彼女に合うその日まで大事にとっておこう。

 空から落ちてきた、そそっかしい幽霊の忘れ物を。

 

 持ち主に届けるまで、わたしはこの世界に留まればいいのだから。

 

 

 蛍はその思い出の品を受け取るべく、両手を伸ばす。

 

 女性は小さく笑って、掌にそれを乗せた。

 

(え……!?)

 

 それは確かに丸い形だった。

 

 けれども、明らかに違うもの。

 色も、形状も、そもそも大きさが違う。

 

 だが、蛍には見覚えがあるものだった。

 

 むしろこちらのほうが()()()があるといってもいい。

 それぐらい印象が強かったから。

 

 丸い球、それは確かにノートの切れ端を丸めたものだった。

 わたしがどうにもならない不条理にすべてをぶつけた結果そうなったはずなのに。

 

 これは明らかに違うものだ、わたしのものじゃない──。

 

 これはあの人が大切にしていたもの。

 

(オオモト様が持っていた……手毬!?)

 

 それは蛍の手の中に確かにある。

 現実的な重さで手のひらの上に転がっていた。

 

 蛍は慌てたように女性に尋ねた。

 

「あ、あのっ! これって本当にあの時に転がったものなんですかっ!?」

 

「え。ええ、そうよ。確かにあの坂の上で転がってきたのよ。暗闇の中から急に湧き出たように転がってきたから、ちょっとびっくりしたのよ。でも転がってきた方向にあなたがいたから……」

 

 捲くし立てる要は蛍の剣幕に少し驚いてしまったが、女性はあの時のことを想い返す様に蛍に言って聞かせた。

 

「あの、他にはなにもなかったですか? その、同じような形の丸い紙、とか」

 

「わたしはこれしか見てないわ。ほかに別に落としたものでもあるの?」

 

「いえ、その……」

 

 女性の素朴な疑問に蛍は口ごもる。

 説明のしようがなかったから。

 

 あの紙飛行機の成れの果てが手毬になったとは到底思えない。

 

 不可思議な現象があるこの地においてでも、そう思った。

 

 今、手のひらで包み込んでいる手毬は蛍のスカートのポケットには明らかに収まりきらない大きさに見える。

 

 でも、この女性は転がってきたものはこれだけだと言っていた。

 嘘をついているようには見えないので確かにこの手毬が転がってきたのだろう。

 

(でも、わたしは紙の球しか持ってきていない。それに最後に青いドアの家に行ったときにはオオモト様と一緒に手毬もなくなっていた、はず……?)

 

 なんだろう、記憶が曖昧になっている気がする。

 これまで正しいと思っていたことが揺らいでいくような、そんな不安定な気持ちに蛍は駆られた。

 

 何かが変化していくような感覚。

 それは何かを試す様な感じで選択を迫れてるような一種の脅迫的なものがあった。

 

「これ以外にはなかったけど、暗くてわからなかったかしら?」

 

 女性は蛍が手の中の手毬を呆然と見つめていることに不思議がったが、おもむろに手毬を取ると、無造作に上空に放り投げた。

 

 蛍が気付いたとき、毬は暗い空に緩やかに浮かんでいた。

 

 深い藍色の空に白い毬が舞い踊る。

 様々な色の糸でかがられた幾何学模様が、回転するたびに違った表情をみせる。

 

 蛍はその光景に微かな既視感を覚えた。

 

 青いドアの家でオオモト様がしていたこととまったく一緒だったから。

 とても単純なことなのに鮮烈にそれを覚えていた。

 

 女性はなにが気に入ったのか、何度も毬を宙に投げる。

 

 手で受けるたびに毬はぽん、ぽんと軽快に鳴った。

 だが、それだけではなく、ちりん、ちりんと聞きなれない音も混ざっている。

 

 わざわざ耳をそばだてることもないぐらいそのはっきりとした音色は、毬の中から聞こえてくるように感じた。

 

 その小気味よい音を鳴らそうと女性はより高く毬を上に投げた。

 薄暗い背景をばっくに、手毬は小さな月のように、その姿を宙に晒す。

 毬の表面の幾何学模様が回転に合わせて華やかな模様を形作る。

 

 蛍はもどかしい思いで、少し急かす様な声色で女性に声をかけた。

 

「あ、あのっ、やっぱりそれわたしのですっ。だ、だから、その、もう……」

 

 蛍はこれ以上女性が毬で遊ぶ行為が怖くなった。

 

 これがもしオオモト様の持っているものと同じだったとしたら、この地にまだ座敷童の力が残っていることになる。

 そんな気がしたからだった。

 

「あら、ごめんなさい。つい童心に帰ってしまったわ。はい、あなたにかえすわ」

 

 蛍の焦ったような物言いに、女性は慌てて遊んでいた手を止めて蛍に再度手毬を返した。

 

 手の中で静かにたたずんでいる手毬。

 蛍は一瞬、じっと見つめると、おずおずとした手つきで毬を両手で静かに降ってみた。

 

 ちりん、ちりん。

 

 虫の音の様な静かで耳障りの良い音が、手毬の中から確かに聞こえてくる。

 

「中に鈴が入っているのかしらね。可愛い音色ね」

 

 女性の言葉に同意するように蛍は頷くと、おもむろに毬を上空に踊らせてみた。

 

 ちりん、ちりん。

 

 可愛らしい鈴の音が舞い上がる手毬を音で彩る。

 その色相が変化する模様を見た時、蛍の脳裏にある考えが浮かんできた。

 

(きっと、この毬が幸運の概念そのものだったんだ……)

 

 手毬の外側の糸はこれまでこの土地で培ってきた幸運。

 それを紡いでいるのはわたしより前のオオモト様……つまりは座敷童の力。

 

 今、その中心にあって小さな音色を奏でているのは、小さくて儚い鈴の音。

 それは、多分燐の声。

 

(そういうことだったんだ……)

 

 わたしの前から燐が居なくなったわけじゃない、ましてや幽霊になんてなるはずもない。

 

 もっと単純なことだったんだ。

 

 

 ──わたしが見えなくなっただけ、聞こえなくなっただけなんだ。

 

 燐の姿も、声も、すぐ近くにあるのに、何も見えなくなってしまったから。

 何も聞こえなくなってしまったからなんだ。

 

 ()()()が自分の足元ばかり見ていたから。

 

 だから……なんだ。

 

 そう、わたしはきっと盲目になっていたんだ。

 

 一番大事なものを見ていたつもりなのに、肝心なものが見えてなかった。

 

 彼女の幸せを願っていたはずなのに、結局は自分のことしか見えてなかったんだ。

 

 だから燐が教えてくれたんだ。

 自分の存在を無くすことになっても。

 

 幸せの大切さ。

 

 それをわたしに教えてくれただけなんだ。

 

 

 なんてことはなかった。

 

 

 

 わたしが、少女を──燐をころしてしまったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ────────

 ──────

 ────

 

 







先々月の半ば辺りからハンドケアマッサージ機なるものを使っているのですが、値段の割に結構満足度が高いです。
たまたま行ったホームセンターで新品なのに半額と言う、所謂在庫セール品だったんですが、前から気になっていたのでついつい買ってしまいました。

以前、店頭でお試しでやったことがあってちょっと気になってはいたんですけど、買うにはちょっと値段が、となっていたんですけど、半額ならということで買ってみました。
安物の割にはいい仕事してると思いますっ。ほぼ毎日使ってますしねぇー。

ですが、安いのには何かしらの理由があるわけでして……。

・コードレスなのは良いのですが、充電式なのにバッテリー残量が分からないとことか。
・軽いんだけどちょっと形が大きすぎるとか。
・ボタンの効きがあまりよろしくないとか。
・専用ポーチと汚れ防止のビニール手袋が付属していたのですが、手袋は4枚程度しか付いてないし(既存のビニール手袋で代用可能?)、ポーチはサイズがピッタリすぎてとても使い物にならなかったり。
・3種類のマッサージが楽しめるんですがその中の一つが”骨を折る勢い”でマッサージしてくるところとかとかとか……。

と、まあ色々粗は目立つのですが、それでも重宝してます。一応3段階の切り替えも出来ますし、この時期にはありがたいヒーター機能も付いてますしねー。
っていうかわりと普通の機能かもしれないですね。でも、コスパは良い気がします。

スマホ片手にハンドマッサージ……はそこそこプチ贅沢な気分に浸れます。

ただ、前にお試ししたのはフランフランのものだったので、あちらのほうが多分、性能が良い気がするー。
フランフランで売ってるヒータールームブーツも冷え性の私にはちょっと気になるアイテム……でも1時間しか暖かさが持たないのがなぁ……。


★青い空のカミュ。

DL版が、現在50%OFFセールをしてますねー。結構久しぶりっぽいかもー。
でも、美少女ゲームのサブスクリプションにも入っているのに、半額でも買えるとか、太っ腹
かな? サブスクで”青い空のカミュ”が気に入ったのでしたら、今がお買い得かと思われます。

でも、多分新春セールやりますよね? やっちゃいますよねー?
……まあ、確定ではないと思いますので、買いたいときに買ってしまうのがいいかと思われます(同じことを毎回言ってる気がしますがっ)

あ、もちろんkai-softの回し者じゃないんですよー。ただの通りすがりの狂信者なだけですからー。


★ゆるキャン△

ゆるキャン△ SEASON2放送までもう既に1ヵ月切ってますよ───!! 時が経つのは本当に早いですねぇ。特に今年は世界的に大変な一年だったのに、それでも等しく時は流れるんですねぇ……感慨深いです。

で。2期の新たなメインビジュアルが公開されたのですが……伊豆キャンまで確定みたいですね──。
そうなると、劇場版は大井川キャンプと千明の断髪式あたりになるのでしょうか。それともアニメオリジナルエピソードでしょうか……期待半分、不安半分、ですねぇー。

それにしても、ゆるキャン△ の2期はかなり期待されてるっぽい? なんかイベントやらグッズやらが満載なんですけどー。
深夜アニメの2期はまったくと言っていいほど宣伝されないのが定説かと思ったんですが……新型コロナのせいもあって、新作アニメがリリースし辛い事情も? あるのかもしれないですね。
今頃”ソロキャン”が流行語に入ってしまうぐらいですし、キャンプブームも相まって期待値はそうとう高いのかもしれないですねー。

なんにしても、来年の楽しみがあるのは良いことです~。


それではでは~。


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Auld Lang Syne

 
 
 夜明け前の空に小さな穴が開いていた。

 それは月でもなく、星でもない。
 ただの毬。

 小さな鈴の音を響かせながら手毬が虚空に舞っていた。

 くるくると回転を繰り返しながら、様々な色の幾何学模様を藍色の空に映す。
 その古風な感じがこの山に囲まれたひなびた町の情景と幾分マッチしていた。

 頂点近くまでのびきった毬はその場で留まることなく、力尽きたように落下をし始める。

 それは普通の動作だったから。
 だから女性はそのまま少女の手の中に収まると思っていた。

 それは必然の動きではなく、偶然と言うほど仰々しいものでもない。
 ごく普通の微量なエネルギーによるもの。
 むしろそれは慣習の類だった。

 本を読むためにページを捲るように、投げた毬を受け止める手の動き。
 それらは好奇心から来るものだ。

 ()()()()()()()がない限り、それは妨げられることはない。
 例え、毬を取りそこなったとしても、手はそれに準じた動きになっているのだから。

 だから、女性は驚いてしまった。

 蛍は落ちてくる毬を拾おうとする気もなく、ただその場に立ち尽くしていたのだから。
 両手は力なく垂れ下がっているだけで、受け取る気配も見せずにただ立っているだけだったから。

 毬は、ぽーんと少し間の抜けた音を立てて大きく跳ねると、何度かバウンドしたのち、地面に転がった。
 そのままころころと坂を下って女性の足元まで転がってくる。

 それに僅かな既視感を覚えると、女性は軽くため息を付いて、腰を屈めて毬を受け止めた。

 ちりん、とお礼を言うように毬の中の鈴が小さく反応する。
 幼い子供の様な可愛げのある毬に女性は応じる様に微笑んだ。

 そのまま手毬を拾い上げると、蛍の方に視線を移す。

 蛍は空の一点を見つめながら、毬の方に気もくれずに立ち尽くしたままだった。

 何かあるのか、と女性も蛍が見ている方角に視線を送る。

 そこには黒い空があるだけで、月はおろか星さえも消えてしまっていた。

 それでも蛍はじっと空を見つめている、その体が僅かに震えているように見えるのは気のせいだろうか。

 さすがに不審に思ったので女性は毬を手に蛍に声を掛けた。

「どうしたの? 何かあったの」

 蛍は何も答えない。

 蛍の様子が明らかにおかしかったので、女性は坂をゆっくりと歩きながら蛍の元に近寄ろうしたとき。

「ごほっ、ごほっ」

 蛍は口に手をあてがいながら咳きこみ始めた。
 なかなか咳が止まらないのか、身体をくの字に曲げて嗚咽を繰り返すと、膝から崩れ落ちる様にしゃがみ込んでしまった。

 突然の事態に、女性はわけもわからず声を荒げた。

「ちょっと! 大丈夫なの!?」

 手毬を小脇に抱えて、女性はしゃがみこんでいる蛍に駆け寄った。

 何があったのか、蛍は肩で息をしていた。
 それは女性が蛍を見た中で一番疲労しているように見えた。

 ほんの少し前まで元気そうにみえた少女は、突然歳を取ったかのように衰弱しており、目も虚ろになっていた。

 毬が地面に落ちるまでの僅かな間に、蛍は別人のように生気を失っていた。
 
 息をするのも辛いのか、ぜいぜいと苦しそうにしている。

 女性は蛍を楽にさせるように、地面に寝そべるような格好にさせるとその頭を膝の上に乗せた。

 軽く手を握ると蛍の手は氷のように冷たくなっている。
 それなのに額は火傷するかのように熱くなっていた。

 蛍の目が何かを訴えかけている、そう直感で思った。

「大丈夫、軽い立ち眩みだと思うから、このままじっとしているといいわ」

 蛍の思いを察して女性はそういった。
 張り付いた前髪を優しく払ってあげると、蛍は小さく首を横に振った。

「お水が欲しいのね? ちょっと待ってて、車にまだペットボトルの水が残っているはず……」

 女性が少し身を上げて停車している軽自動車のほうに視線を上げたとき、腕を掴まれた。

 とても冷たい手、それは掴まれたのが分からないぐらいに力のないものだった。

 女性は顔を戻すと、蛍は先ほどよりも少し強く首を横に振っていた。

「違うの? じゃぁ……」

 女性が頭を巡らそうと空を見上げると、小さな声が耳朶を打った。
 始めそれが蛍の声だと気づくまで少し時間を要した。

 それぐらい、小さな声だった。
 周囲の虫の音のほうが大きいぐらいの、か細い声で蛍は話し出した。

「違う、んです……わたしが、わたしが、ころして……しまったんです……だから、ごめんな、さい……」

 女性には蛍が何を言っているのかまるで理解できなかった。

(ころした? この子、ころしたって言ってたわよね? こんな虫もころさないような子がなにをころしたというの??)

 言葉の真意を確かめたかったが、急に弱々しくなった蛍の瞳を見てると何も言えなくなってしまった。

 代わりに別の言葉が頭に浮かんだ。

「少し水分を取った方がいいわね。ちょっとここで待っててね、今取ってくるから」

 何かから逃げる様に女性が立ち上がろうとすると、蛍のか弱い手が再度女性を引き留める。

 そうじゃないと、言わんばかりに目を見開いたままで。

 蛍の予想以上の頑固さに根負けした女性は蛍と向かい合うことにした。
 この少女は何かとても大事なことを話そうとしてると思ったから。

 だから小さく冷たい手を癒すようにぎゅっと強く握りしめてあげた。

「あの、あなたは……燐の、お母さん、ですよね?」

 蛍のその言葉で女性は蛍が何を言わんとしているのかを大体想像できた。
 でも、それは先ほどの言葉とは関係ないものと考えていた。

 女性は一度息を吐くと、微笑みながら答える。
 これまで出したことのないぐらい明瞭な声で。

「ええ、そうよ蛍ちゃん。何度かあったことあるわよね、家に遊びに来た時に」

 女性は記憶を巡らせながら蛍に語り掛ける。
 そこには虚勢も威圧もなく、ただ普通に、娘の友達に聞かせる声のトーンで話していた。

 その声を聴いて蛍は力なく微笑んだ。
 瞳を嬉しそうにほころばせているが、口は小さく動くだけだった。

「やっぱり、そうですよね……良かった、間違ってなくて……あっ、ちゃんと挨拶してなかったです、ごめんなさい……三間坂、蛍です……」

「いいのよ、そんなこと。それより、苦しくない? やっぱりお水取ってくるわ」

「でも……」

「いいから、たまには言う事聞きなさい」

「え。あ、はい……」

 母親が娘に言うようなその口ぶりに蛍は呆気に取られるも、素直に返事をした。

(なんだか、本当のお母さんに怒られたみたい……)

 本当のお母さんになんかあった記憶もない。
 それでも、そう思っただけでなんだか気持ちが少し落ち着いたような気になった。

「まだ寝てたほうが良さそうね。これ枕になるかしら?」

 女性は毬を軽く叩いたり両手で押したりして、何かの実験的なことを始めていた。
 すると何か確信があったのか、膝に乗せていた蛍の頭を少し持ち上げて、空いたスペースに手にしていた毬を素早く差し入れた。

「……?」

 蛍は何をされたのかよくわかっておらず、後頭部の不思議な感触に首を傾げた。

 毬は意外にも蛍の体重を絹の糸の繊維だけで受け止めていた。

 手毬は伸縮性があるのか形を変えることなくその丸い姿のまま、地面の上で安定した枕となっていた。

 あまりにも上手くいったので女性は自分でも関心するほどだった。

 蛍は顔を見られていることに恥ずかしさを覚えて手で覆い隠したくなったが、絶妙なバランスで毬に頭を乗せていることに不安を感じて、手を動かすこともままならなかった。

「ちょっとだけそのままをキープしててね。すぐ戻ってくるから」

 言うは早いが、女性は身をひるがえすと止めていた軽自動車に駆け出していた。

「あ、ありがとう、ございます……」

 熱に浮かされたような顔を僅かに上げて、蛍は感謝の思いを消えかかりそうな声で伝える。

 その小さな声が届いたかどうかは分からないが、女性は此方を一瞬振り返る小さく手で合図をした。

 その様子に目で合図を送ると、蛍は眼前に広がる黒い空をぼんやりと眺めていた。

 空は明るさを取り戻すかのように、グラデーションを繰り返しながら夏本来の色に近づきつつあった。


 

(このまま待ってれば、夜は明けるんだよね……)

 

 いつまでも続くかと思われていた終わらない夜、蛍はあの夜のことを思い出していた。

 今とは違う作りものの世界、そことは違うことを改めて知った気がした。

 

 普通なことだけど、それがなぜか嬉しかった。

 

 普通に朝を迎えられることの喜び。

 あの世界とは違う、現実的な空の色を蛍は自然と待ちわびていた。

 

 風も、鳥の声も、虫の騒めきも。

 何もかもが写実的で、当たり前の中で流れている。

 

 燐もわたしも渇望してならなかった現実(リアル)

 

 それはどこまでも果てしなく。

 先を見通せるなんてことはなく、ずっとずっと続いているんだ。

 

 蛍は鼻から息を吸い込んでみる。

 小さな肺の中に新緑と夏の情景がなみなみと注がれる。

 

 少し気持ちが落ち着いてきた気がした。

 

 蛍は頭の下にある毬の感触を確かめながら、少し憂鬱な表情で頭を巡らせていた。

 それはもっとも言いたくないことで、言わねばならないことだったから。

 

(燐のお母さんになんて言ったらいいのかな……)

 

 蛍は右手を胸元に当てて考え込む。

 左手は無意識に額と瞼の間に乗せていた。

 

 目隠しをするようなその仕草はなんとも憂鬱げに見えた。

 

 手の隙間から空を見やる。

 青と黒の混ざった抽象画に薄暗い色の雲が点々と落ちていた。

 

 きっと数時間で夜が明けて朝が来るだろう。

 

 そうなればいつもの世界が始まってしまう。

 

 ただ流されるだけの怠惰な日常が。

 

 その前に答えを出しておきたい。

 

 答えは自分の罪。

 無知で無思慮でどうしようもない自分がした、許されない罪の事だった。

 

 蛍は瞼を閉じて嘆息する。

 

 自分の生まれ持った力が無意識に行なったことだとしても罪は消えないのだと。

 

(わたしは一番大切なものを、一番残酷な方法でころしてしまったんだね)

 

 悪意でも善意でもない、願いを叶えるというやり方で。

 彼女が望んだ方法でころしてしまったのだと。

 

 

 暗い空が滲んで見える。

 森の匂いを含んだ風が頬を撫でて、長い髪を静かに揺らしていた。

 

(なんとしても言わなくちゃ……きっとわたし、すごく後悔すると思う)

 

 でも、なんて言ったらいいのだろう?

 さっきはつい、うっかり喋っちゃったけど、冷静になってみるとかなり突拍子もないことを口走っていたことに気付く。

 

(ちゃんと説明しないと。そういえば()()()……”自分の娘”って言ってたよね、確か。それってもしかして? でも、それだと)

 

 蛍は一瞬、楽観的な考えが浮かぶが、それをすぐに打ち消した。

 

 仮定を出すことが出来るがそれだと色々と辻褄が合わなくなってしまう。

 そんな都合のいいことなんてあり得るはずがないし。

 

 それに。

 考えうる限りの手を尽くしても燐に繋がる手掛かりは残っていなかったから、その線は薄かった。

 

(でも、燐のお母さんが今ここに居るんだから、ひょっとして!?)

 

 楽観的な考えと悲観的な考えの両極端が蛍の頭の中で何度も鬩ぎ合う。

 

 どの道聞くしかないと蛍は決意した。

 

「はぁ、はぁ、大丈夫? 気持ち悪くなってない?」

 

 蛍が仰向けのまま頭をフル回転させていると、意中の人が息を切らせながら舞い戻ってきていた。

 坂を全力で登ってきたのだろう、額には汗が滝のように流れていた。

 右肩には可愛い絵柄のあのトートバッグを下げている。

 

「寝心地悪かったでしょ。それともこの毬の方が枕として優秀だったりして」

 

「いえ、そんなに、寝心地良くはなかったです」

 

 女性のノリに合わせて蛍は答える。

 蛍この女性──燐の母親に、母性と友達的な感覚を同時に感じていた。

 

 それは友達の母親という感覚ではなく、むしろ本当の母のように思えていたから、少し甘えたような声になっていた。

 

「そう? じゃあまた膝に乗せてあげるわね。あ、はい、お水。ちょっと減ってるけどタオル濡らすのに使っただけだから。それともスポーツドリンクのほうがいいかしら?」

 

 女性はバッグからペットボトルに入った水とスポーツドリンクを交互に取り出す。

 

 蛍は小さな声をあげた。

 

 異変のあった夜、燐が自販機でカフェオレを注文したのに出てきたのは何故かスポーツドリンクだった。

 

 カバンから出てきたのはそれと同じデザインのものだったから、とても驚いてしまった。

 

(何の変哲もないスポーツドリンクだけど、確か燐のお父さんが良く飲んでたって言ってたよね……)

 

 蛍の目線が手の中のスポーツドリンクに注がれていることに気付いたので、女性は蛍とペットボトルを交互に見渡すと、にこりと微笑んだ。

 

「はい、どうぞ。スポーツドリンクが飲みたいんでしょ。じゃあ、わたしは水を貰うわね。急いできたから汗かいちゃったのよ」

 

 女性はそういうと蛍にスポーツドリンクを手渡して、自身はペットボトルの水に口をつける。

 顔に似合わない豪快な飲みっぷりに蛍は目を丸くして見つめていた。

 

「あー、お水冷たくて美味しい! わたし、今ぐらいの時間が一番好きなのよ。夜でも朝でもない。朝焼けの気配がする紫色の空の色が。なんて、変な事言ってるわね」

 

「変じゃないですよ。わたしもこの空の色好きです。なにかが始まりそうな感じがして」

 

「そうね。これから一日が始まるのよね」

 

 二人は言葉なく、ただ空を眺めていた。

 夜明けを待つような素振りを見せながら、そうではない、そんな曖昧な空の色に惹かれていた。

 慎ましやかな街燈の明かりがよく知る町を異国的に彩る。

 

 夜の湿った空気が消え去って、夏の朝のしっとりとした空気に変わった気がした。

 

 蛍もキャップを外してスポーツドリンクに口をつける。

 

 ほろ苦い甘みと清涼感。

 燐も同じ味わいを感じていたのかな、そう思うことが懐かしく、感慨深かった。

 

 そしてあの時のことを思い出す。

 自販機の前でそれぞれペットボトルを持ち、白い月明りの下で語り合ったときのことを。

 

 あのとき、燐は自分の父親のことを話してくれた。

 あの時の燐は寂しそうだった、けれど目線は穏やかに見えたんだ。

 

 だから胸の内を話してくれたんだと思う。

 カフェオレじゃなくてスポーツドリンクが出てきたのは普通は間違いなんだけど、あのときの燐とわたしにとっては間違いじゃなかったと思ってる。

 

 燐は世間一般でいう平凡な家庭を望んでいたんだろう。

 そんな些細なことさえ叶わない世界に悲観していたんだ。

 だからこの世界から燐は居なくなってしまった。

 

 要因はそれだけじゃないと思うけど、一因はあると思う。

 

(わたしはあの時の燐の思い出を覚えてる。でも、燐のお母さんは……?」

 

 あの、()()()を覚えているのは自分だけ、そう思っているだけれど。

 

 実際、あの聡さえ覚えていなかったのだから、もう知っているものはいないと思っていた。

 

 だけど。

 

(あの時の燐のお母さんって、何処に行ってたんだろう? 燐の話だと留守にしてるって言ってたけど)

 

 蛍の推論では離婚関係ではないかと思っている。

 燐の話だとそのせいで週末は家を空けがちだと言っていたから。

 

 ──燐の事が心配じゃなかったのかな?

 

 余計なお世話だと思うが、どうしても気になってしまう。

 両親の面影さえない蛍には到底分からないことであるのだけれど。

 

 だからこそ余計に”母親”の気持ちが知りたかった。

 

 

 ──聞いてみたい。

 

 好奇心が沸々と湯水のように蛍の内側から湧きあがってきた。

 

 他人の気持ちに土足で入るのは良くないことは知っている。

 

(でも、燐はわたしの親友だから、だからやっぱり聞いておきたい)

 

「蛍ちゃん、頭にタオル乗せるわね……ん? どうかした? なにか難しい顔をしてるようだけど」

 

「あ、いえ。気にしないでくださいっ!」

 

 心の内を覗かれたみたいで、蛍は思わず誤魔化す様に大きな声を上げていた。

 

「あら、そう」

 

 興味なさそうな返事を返すと、女性は柔らかな手つきで蛍の前髪を左右に軽く寄せて、その露わになった額に水で濡らしたハンドタオルを丁寧に乗せた。

 

 タオル越しに水の冷たさが伝わってきて、火照った頭を心地よく冷やしていく。

 それがとても気持ちよくて、蛍は軽い眠気に誘われた。

 

 蛍は微睡みの中で、女性の顔を見やる。

 

 親友のような優しい、慈しむような瞳。

 それが蛍の視界いっぱいにあった。

 

 鼓動が小さくどきり、と鳴った。

 

(燐のお母さん、凄いよね。なんでも出来るしすごく優しいし。でもそれって燐と同じ、だね。親子って何かしら似てくるんだね……)

 

 蛍には親子で過ごした思い出がなかったから。

 母も父も物心つく前に居なくなったのだから仕方がなかった。

 

 その役目は別の人、家政婦の吉村と、世話役の大川が引き受けることになった。

 でも、この二人がほんとうの親でないことは直ぐにわかっていた。

 

 今となってはそれは座敷童としてのものだったのかもしれない。

 人との違いを嗅ぎ分ける能力が最初から備わっていた可能性がある。

 

 特別なものとそうじゃないものの違い。

 それが出来るのは特別なものだけ、普通の人には見分けがつかない。

 

 だからこそ特別な人は苦しんでしまうのかもしれない。

 

 蛍には分かっていたけど苦しむことはなかった。

 

 だって何も求めなかったから。

 何も期待してなかったから。

 

 だから周りの人が思うほど辛いとも寂しいとも思うことはなかった。

 

 でも今はちょっと違う。

 

 楽しいことも、嬉しいことも知ったけど、辛いこと悲しいことも分かってしまった。

 

 わたしはいつの間にか”特別”じゃなくなっていた。

 でも、自分ではそう思っていただけで、みんなと一緒じゃなかった。

 

 わたしは、特別をやめることができるんだろうか?

 

(だったら、燐は、燐も……特別、なの? 燐のお母さんに聞いたら分かるのかな……)

 

 燐が飲んでいたのと同じスポーツドリンクに口をつけながら、彼女の母親の膝枕の上に頭を乗せながら考え込む。

 

 この人にどういった聞き方をしたらいいのか、蛍には中々に難しい問題だった。

 

 なのでここは思い切って率直に聞いてみることにした。

 

 もしかしたら機嫌を損ねることになるかもしれない。

 けど、だからと言って黙っているわけにもいかなかったから。

 

 ここで聞かなかったらきっと後悔する、そう蛍は感じていた。

 

「あ、あの……聞いても、いいですか?」

 

 蛍はおずおずとことさら慎重に女性に話しかける。

 

「ん、なにかしら」

 

 蛍の顔色が少し良くなってきたことに安堵したのか、女性は優しい声で答える。

 

 素直に美しい人だと思った。

 

 その自然な優しさが燐とそっくりであることに蛍は今、気付くことができた。

 

「あ、え~と、その、お、おこ……」

 

「おこ?」

 

(ゆ、勇気ださなきゃ……!)

 

 蛍は息を飲み込むと、焦燥感に突き動かされたように思いの丈を言葉に変えた。

 

「ええっと、お、お、お子さん! そ、そう、お子さん産んだ時ってどうでしたかっ!? やっぱり、苦しかったですかっ!」

 

 蛍は、本当は一言づつ言葉を選んで話し出す……つもりだった。

 流石に直接的に聞くのはちょっと難しい気がしたので、当たり障りのない話題から入るつもりだったのだ。

 

 これでも。

 

 だが、口から出たのは回りくどい質問とは、遥か上を行く突拍子すぎる質問だった。

 

 蛍は自己嫌悪から今すぐにでも女性の前から消え去りたくなった。

 

「えっと……蛍ちゃん?」

 

 蛍の質問の意図が全く分からず、女性は眉を寄せて蛍の顔を覗き込んだ。

 

 蛍はすっかり動揺してしまい、どういった表情を見せていいのか分からず、とりあえず普段めったにやらないような愛想笑いを即興で作ってみせた。

 

 顔を赤くしながらこめかみを小刻みに動かして、口角を無理に吊り上げる蛍の笑みは、傍目から見ても痛々しいものであった。

 

「あはは」

 

「あははは……」

 

 顔を見合わせて互いに笑いを浮かべる。

 

 はあ、と大きなため息を付く女性の仕草に蛍は反射的に身を竦めてしまった。

 

「あ、あの~」

 

 その後の沈黙に耐えかねて、おずおずと蛍から声を掛けた。

 

 ──すると。

 

「あははははっ!!」

 

 女性は綺麗な顔を歪ませて大声て笑い始めてしまった。

 

「えっ?」

 

 蛍は思考が停止したように固まってしまった。

 

「あはははっ!! ごめんなさい。急にそんな質問してくるからおかしくなっちゃって」

 

 よほど”ツボ”に入ったのか笑い声はなおも収まることなく女性は文字通り腹を抱えて笑っていた。

 

「は、はい」

 

 蛍は顔を真っ赤にして、照れ隠しするようにペットボトルの水に口をつけた。

 水を飲んでもまだ羞恥心は収まりそうになかった。

 

「あー、ごめんごめん。ついおかしくって。でも、こんなに笑ったの久しぶりかもしれないわね」

 

「……? そうなんですか?」

 

「ええ、ここのところ忙しくって、笑ってる暇も泣いてる暇もなかったのよ。だからちょっとすっきりしたかも。ありがと」

 

「あ、いえ。喜んでいただけたのなら良かった、です」

 

 何といっていいか分からず、蛍は適当な言葉でお茶を濁した。

 

「それで、出産のときの話ね。確かに苦しかったわ。もう死んじゃうんじゃないぐらいに苦しくてねえ。そしたらね”アイツ”立ち合いにも来ないのよ! 仕事が忙しいって。子供と仕事どっちが大事なのかってねぇ」

 

「はい……」

 

「まったく、男なんて子作りだけ一生懸命で、いざ生まれるってなると怖気づくんだから、まったく……大体……あ、ごめんなさい。蛍ちゃんにはまだ早い話だったわね」

 

「あ、えっと……多分、大丈夫です? わたしももう高校生ですし」

 

 蛍は伏し目気味に俯くと空のペットボトルを両手で弄んだ。

 

 ぺこっ、と大きめの音がして、蛍は思わず慌ててしまった。

 

「そうね。蛍ちゃんもうちの子も同い年だものね。こういう話しぐらい普通にするわよね」

 

「あのお子さんって……」

 

 意図せずにして理想的な話の流れになったので、蛍はここぞとばかりに話を振ってみた。

 

「ええ、()()()()元気よ。でも、少し前までほんと酷い顔してたの。何かあったんだろうけど話してくれなかったから、これでも心配したのよ」

 

 ため息交じりに当時の事を振り返る女性に、蛍は感慨深くなっていた。

 

 それは共感や同情からではない。

 

(燐がいるの……!? でも、本当に……どうしよう)

 

 嬉しいはずなのに、喉から声が出てこない。

 急に過呼吸に襲われたようになり、蛍は鼻から呼吸を繰り返した。

 

「すー、はぁ……」

 

 ちゃんと息が出来るようになると、とたんに心が弾け出すように高鳴っていくのがわかる。

 

 心臓の鼓動がステップを踏むようにほのかな暖かさと共に聞こえるほど鳴り出している。

 蛍は気持ちを落ち着かせるように胸元でペットボトルをぎゅっと握りしめた。

 

 ちゃぽん、と言う水音が心の揺れを表しているようで余計に恥ずかしさを感じる。

 

 唐突に目頭が熱くなる。

 それは純粋な感情の昂り、それが涙腺を刺激して温かな雫を蛍の目元を溢れさせる。

 

 理由など必要なかった。

 驚きと喜びが混ざり合った感情が頬を伝いとめどなく流れていく。

 

「ど、どうしたの!? どこか痛むの??」

 

 突然涙を流した蛍に心配そうな声を掛ける女性。

 

「……大丈夫です。ただ嬉しかっただけですから」

 

 流れる涙を拭おうともせず、女性の目を見ながらそう答えた。

 

 蛍の瞳には純粋なものしか映っていなかった。

 

「そう、わたしもあなたが元気になってれて嬉しいわ」

 

 そう言って蛍の髪を撫でる。

 

 蛍は今、この瞬間がとても幸せだった。

 

「そういえばその髪飾り綺麗ね。キンセンカがモチーフなのかしら」

 

「あ。はい……」

 

 蛍が惚けていると、不意に女性が蛍の髪飾りを気にしだした。

 

 だが、蛍としては……。

 

(もっと燐のことが聞きたかったんだけど……)

 

 何とも煮え切らない感情があったがとりあえずそれは胸の内に閉まっておいた。

 

 だっていつでも聞けることだから。

 それは今じゃなくても良いと、この時は思っていたから。

 

「これは家政婦の人がくれたんです。こういう綺麗なの集めるのが好きだったから。でも……」

 

「でも?」

 

「えっと、キンセンカってあまりいい花言葉じゃないじゃないですか。小さい頃は気にならなかったんだけど、今となってはその……」

 

 蛍は少し口ごもった。

 

 実のところほんの少し前まではお気に入りの品だったのだ。

 

 だが、自身が座敷童だったことや、友達が、燐が居なくなったこと、そういった不条理の積み重ねがお気に入りだったキンセンカの髪飾りを嫌なものに転嫁させていた。

 

 一種の八つ当たりだったのかもしれないが、そういったものがないと精神を安定させることが出来なかったとも言える。

 それに結局手放すことは出来なかったわけだし。

 

「キンセンカの花言葉って別離とか悲嘆だったかしらね。でもあれって……ねぇ、蛍ちゃん。あなたって日本人よね?」

 

「えっ!? あ、はい。多分」

 

 この”多分”は曖昧な言い回しや、言葉の綾ではない。

 人類かどうかの部分での多分だった。

 

 かなり壮大なニュアンスを含めたものだったが、それを察することが出来るのはせいぜい蛍と燐ぐらいだろう。

 

(そもそも座敷童に国籍とかそういうのあるのかな……)

 

「まあ、そうよね。名前からして”蛍”だしね。で、キンセンカの花言葉なんだけどあれって良くない花言葉は大体ギリシャ神話からなのよね。だから日本人であるわたし達には関係ないのよ。そう思えばちょっと楽にならない?」

 

「えっと、まあ、そうですね」

 

 持論を展開する女性に蛍は同意するように頷いた。

 

「それにほら。ネットで調べたんだけど、キンセンカの花言葉には太陽や健康、あと幸福があるみたいよ。もしかしたら家政婦さんもそっちの意味であなたに渡したんじゃないかしら」

 

「太陽、幸福……健康」

 

 蛍はその言葉を反芻してみる。

 

「こういうのは気の持ちようなのよね。ほら、”病も気から”っていうじゃない。何事も受け取りかた次第なのよ」

 

 燐の母親の言葉はあのとき燐が発したことと同じだった。

 だから蛍は驚いた。

 

(あぁ、”そういうとこ”やっぱり親子だよね)

 

 その偶然の一致がなんだか面白くって蛍はくすくすと笑いだした。

 なんで蛍が笑っているのか分からず女性は当惑の表情で蛍をみる。

 

 蛍は見られていることに気付くと、恥ずかしそうに頬を綻ばせた。

 

「くすっ、”健康も気から”。そういうこと、ですよね」

 

 蛍のからかうような問いにわずかな違和感を覚えたが、それが何なのか分からなかったので、話にのってみることにした。

 

「ええ、そうよ。蛍ちゃん面白い回し知ってるわね」

 

「はい。友達に教えてもらいましたから」

 

「そう」

 

 元気に笑う蛍を見て、自分がやったことに間違いはなかったと女性は思った。

 

 二人は至近距離で顔を見合わせて笑い合った。

 

 燐ともまたこうやって話すことができるかもしれないと思うと、蛍の胸はまた弾むように高鳴った。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

「わたし、死にそびれちゃったみたいです……」

 

 蛍が普段の会話のトーンでぽつりとつぶやいたものだから、一瞬何を言ってるのか分からかった。

 

 女性は蛍の言葉に頭を巡らせるのが精一杯で言葉をつぐむことが出来ずにいた。

 

「別に死にたいわけじゃなかったんです。ただ、それしか知らなかったから」

 

 蛍が何を言わんとしているのか皆目見当も付かないが、やはりあの峠でのことはそういうことだったのだと、女性は今更のように理解した。

 

「今はその……大丈夫なの? 何か吹っ切れたとか?」

 

 探り探り言葉を作っていく。

 それは腫れ物に触るような感じとは違い、優しく包み込むイメージで。

 

「そうですね……」

 

 蛍は女性に体を預けながら目を細めて遠くを見た。

 

 ちょっとの間二人に沈黙が落ちる。

 

 女性は蛍が何か決心を持って話そうとしている。

 そんな気がしたので、肩の力を抜いて待つことにした。

 

 一方蛍は、どのように話を進めたらいいのかわからず、さっきから頭の中を無為にぐるぐるとかき回していた。

 

 この人が燐のお母さんであることはわかった。

 というより、お互いに顔見知りだった。

 

 それなのに今になって思い出すということは……何かが”切り替わった”のではないかと蛍は思っていた。

 

 あの()()()の時のように、何かのスイッチが切り替わったことでお互いを認識し合うようになったのではと。

 

 例えば……この手毬とか。

 

 蛍は空になったペットボトルの代わりに毬を手にしていた。

 

 見覚えのある幾何学模様の手毬。

 紛れもない、オオモト様が持っていた毬だ。

 

(わたしがまだ座敷童だから? それとも燐だけでなくオオモト様もこの世界に?)

 

 いくら妄想をつづけても答えは出そうにない。

 

 それよりも。

 

(燐のお母さんにもっと話を聞いたほうがいいかもね。燐の話を)

 

 もし燐が居るというのなら、学校にも来ず、何も連絡をしてこないのか。

 

(やっぱり、わたし嫌われちゃったのかもね。きっとわたしが原因なんだ)

 

 それでも燐を一目見たかった。

 そう、燐が元気でいるならそれでいいんだ、それがきっとわたしの幸せ。

 

 蛍は燐の母に話す内容を心に決めた。

 

 蛍は上体を少し起こして女性と向かい合う、その瞳には決意の色があった。

 意を決して口を開こうとした時、別の言葉が蛍の言葉を遮った。 

 

 

「あの……なにかあったんですか? こんな、地面に座り込んで」

 

 背後から急に声がかけられた。

 女性の声。

 

 二人に声を掛けたのはエプロンをつけた少し小柄な壮年の女性だった。

 

「あ、ごめんなさい、ちょっと立ち眩みになったみたいで。でももう大丈夫みたいです」

 

 燐の母親は地べたに座り込んだまま、首だけを声の方へ向ける。

 そこには自分よりも幾つか歳の上の女性がいた。

 

 小柄なその人は少しくたびれた表情で髪を後ろに束ねていた。

 

 焦っていたのか、綺麗に束ねていたと思われる髪が解れてきている。

 エプロン姿と相まって、年齢以上に女性を老けさせていた。

 

 聞き覚えのある声に蛍は緊張感を覚えて急に起き上がると、燐の母親の肩越しに声の方を見る。

 

「あっ!」

 

 蛍は声を出してしまった。

 見覚えのある、良く知った顔だったから。

 でも、ここいるはずのない人だったから驚いた。

 

 人影もこちらを見る、お互いの存在に気付くと叫び声にも似た声を上げた。

 あまりに大きな声だったのでご近所迷惑になることを気にするほどだった。

 

「ほ、蛍ちゃん!?」

 

 それは紛れもない、家政婦の吉村の姿だった。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 

「──初めまして、最近この町に越してきた、”込谷咲良(こみたにさくら)”です。駅の近くでパン屋をやって……いえ、やる予定です。すみません、まだ準備が足りなくて」

 

「まあ、あなたがそうなの。噂は聞いているわよ町長相手に直談判して土地を確保したとか聞いてるわよ。やり手らしいわね」

 

「いや、あはは。なんか変な風に伝わってますね。そんなのじゃないですよ、至ってフツーの人ですから。それにパンの方も全然素人同然でして正式にオープンできるかも分からないぐらいなんです。それにしてもわたしてっきりあなたが蛍ちゃんのお母さんかとおもったんですよ」

 

「いえいえ、とんでもない。わたしだってただの家政婦なんです。蛍ちゃんのお母さんなんてそんな……。それにしても、苦労なさってますのね、独学でパン屋さんを始めるなんて。見た目以上に大変なんでしょパン屋さんって? それに確かお子さん連れでしたよね? 確か……」

 

 以外にも初対面ながら馬が合っているようだった。

 まるで旧知の親友のようにとめどなく話している。

 

 ”彼女たち”は取り留めのない会話、所謂”世間話”をかれこれ30分以上も続けている。

 蛍のことなどそっちのけで。

 

 蛍は適当に相槌を打っているだけだった。

 同性の会話なのだけど、なんとなく入り込めかった。

 

 大人の会話に混ざれない辺り、蛍はまだ子供なんだと実感した。

 

 自己紹介から始まった会話はやがて目の前の蛍の話題になる。

 

 蛍は気まずさを覚えて、ただ黙って俯いていた。

 

 それを見かねたのか”咲良さん”は”わたし”が不利になるようなことは一切言わなかった。

 それどころか。

 

「すみません、わたしが蛍ちゃんを連れ回しちゃったんです。だから蛍ちゃんは悪くないんです。蛍ちゃんがすごく可愛かったからついナンパしちゃったんです!」

 

 虚偽の報告と、ぎこちないウィンク。

 

 そんな大人の気遣いに蛍は困った顔で、でも感謝の瞳を向けて微笑んだ。

 蛍が出来る精一杯の感謝の表現だった。

 

「そうですか……でも、わたしはただの家政婦ですから無事ならそれで良いんです」

 

 意図を察したのか吉村もそれ以上追求しなかった。

 

 だが、蛍は家政婦の吉村がとても心配性なのを知っていた。

 

 だからかなり無理をしていることが分かっているだけに申し訳なく思った。

 それに多分、机の上の書置きを見ただろうし。

 

 今はいいが後で何か言われるかもしれない。

 自業自得なので何も言い返すつもりもないけれど。

 

「それじゃあ、蛍ちゃんをお任せしてもいいですか。わたしこれからひと眠りして、すぐパンの仕込みをしないといけないので」

 

「はい、わたしが責任を持って蛍ちゃんを家に帰しますから、ゆっくり休んでてください」

 

 自分の事で大人たちが気をもんでいる、それが蛍にはもやもやしてたまらなかった

 

 だから早く話を切り上げて欲しくて、ようやく蛍が一歩前にでる。

 

「あのっ、えっと……」

 

 何と言っていいかわからず、誤魔化すように手をもじもじとしていると、蛍の頭にふっと影が落ちた。

 

「蛍ちゃん」

 

 蛍の頭に柔らかく手が乗せられる。

 

 掌から愛情が伝わってくるようで、蛍はうっとりと目を細めた。

 

「お店、来てよね。まだオープンまで時間掛かるけど、いつ来ても歓迎するから。その時は美味しいパン、御馳走するからね。あ、それと……」

 

 咲良は蛍の頬に頭を寄せると耳元で囁いた。

 

 蛍は言葉の衝撃で視界が真っ白に染まった。

 

 そして一言一句を噛みしめる様に何度も頷くと、そっと胸元で手を組んだ。

 大事な、とても大事なものを胸の奥の小さな引き出しにしまうような仕草で。

 

 蛍は小さく、そして喜びからの微笑みを作った。

 その笑顔は咲良が見た今日一番の蛍の笑顔だった。

 

「それじゃあ失礼します。バイバイ蛍ちゃん。お店、絶対来てね。あ、オープンしたら大繁盛で行列が出来ちゃうから、出来ればオープン前に来てね、約束」

 

 咲良が小指を差し出すと、蛍もおずおずと小指を差し出す。

 絡み合う二つの指、そのことは蛍の幼いころの他愛もない一瞬を垣間見たような気がしていた。

 

 指が解かれたとき、蛍も咲良もなんとなく微笑んだ。

 

 言葉のない二人のやり取りに吉村は少し寂しそうな顔で見守っていた。

 

 咲良は坂を下りながら待ちぼうけをしている軽自動車の元に帰った。

 坂の途中でこちらを振り返ると、子供のような顔で大きく手を振った。

 

 軽自動車の低いエンジン音はするが、すぐには発車しなかった。

 すると咲良が運転席の窓から身を乗り出して声の限り叫んでいた。

 近所迷惑など省みずに。

 

「今日は楽しかった!! またドライブしましょう! 今度は()()で!」

 

 咲良はまた大きく手を振った。

 

 蛍はまともにその顔を見ることが出来ず、片手で目元を覆いながら女性に向かって弱々しく手を振った。

 ちょっと強引な人だったけど、とても優しい、とても”素敵な人”だった。

 

 蛍は今日の事をきっと忘れないでいようと思う。

 

 無謀と挑戦と偶然が重なり合ったこの日を。

 ほんのちょっぴりの奇跡が起きた日の事を。

 

 

「──ねぇ、蛍ちゃん、今日は学校どうする? 二学期って確か()()からよね」

 

 吉村さんと連れ立って坂道を上る。

 

 そういえばこうやって二人で話しながらこの道を歩くことがずいぶん久しぶりな気がする。

 前に一緒に帰ったのっていつの頃だっただろうか。

 

 なんだかちょっぴり新鮮な気分だった。

 

「蛍ちゃんは夏休みの課題全部終わってるのよね。だったら今日は休んでもいいんじゃないかしら。わたしから学校に連絡しておくけど」

 

 心配そうな顔で見つめる吉村さん。

 

 この人はいつもそうだ。

 なるべくわたしに無理をさせないように便宜を図ってくれていた。

 

 例えそれがわたしの正体を知った上でのことだったとしても、それでもわたしの世話を良くしてくれたのだから感謝してる。

 

 今だってそう。

 

 どうしてだか知らないが、わたしが帰ってくるのを待っていたようだし。

 

 これじゃあ家政婦さんというよりも、まるで……。

 

「あまり顔色が良くないみたいだし、学校は明日からでもいいんじゃない。どうせ今日は始業式ぐらいでしょ?」

 

 あんまりしつこく聞いてくるものだから、いい加減わたしの考えをのべることにした。

 

「ううん、今日はなんとしても学校に行きたいんだ。確かめる、じゃなくて、どうしても知っておきたいことがあるんだ。きっと()()も来ると思うし」

 

「友達ってあれでしょ、いつも蛍ちゃんと一緒にいる元気な子。そういえば最近見てなかったからどうしたのかと思っていたのよ。喧嘩でもしたのかと思ってたけど……」

 

 吉村の思いがけない言葉に蛍は驚いたように立ち止まる。

 そして泣き笑いのような顔で吉村に微笑んだ。

 

「ふふっ、もう変な事言わないでよ。わたしが”友達”と喧嘩なんてするわけないじゃない」

 

「そ、そうよね。あなた達、いつも仲良かったらそんなわけないわよね」

 

 不思議な顔で微笑む蛍に吉村は一瞬たじろいでしまう。

 でも、蛍の口調はとても穏やかだったのでそれほど気にはしなかった。

 

「うん、そうだよ。だって好きだから」

 

 蛍は自然にそう答えた。

 躊躇いも恥じらいもなくただ普通な感じで。

 

 普通の会話をしている。

 そんな当たり前のことすらこの人と出来てなかったのだ。

 

 互いにどこか溝を作っていた。

 わたし達は特につながりのない他人だったからそれは当然なんだけど、一緒に過ごす年月がどれほど経っても関係に変化はなかった。

 

 でも、それはあの狂った夜が来る前までの話。

 

 今はなんだか妙に距離が近くなった気がする

 

 干渉するも、されるのも苦手だった。

 

 でも、燐と出会ってから変わった気がした。

 それは別れた後も。

 

 吉村さんが迎えに来てくれたとき素直に嬉しかったから。

 この人が待っていてくれたことで、わたしは家に帰る理由が出来たんだ。

 

 わたしはまた変われたんだ。

 

 燐以外の人にも心を開くことが出来た。

 それが嬉しい。

 

 ”ただいま”と言うことが、”お帰り”と言ってくれる人がいることに素直に嬉しいと言えるようになった。

 

 だからね。

 

「ありがとう。吉村さん。わたしの事を待っていてくれて、大好きだよ」

 

「なに、もう、変なこと言わないで蛍ちゃん……恥ずかしいわ」

 

「うふふ、吉村さん照れてる。ちょっと意外」

 

「も、もう! 大人をからかわないでちょうだい」

 

 ね、やっぱり楽しい。

 

 生きてるってこういうことなんだね。

 なんかやっとわかった気がする。

 

 でもね、もし、もしもだよ。

 

 もし、わたしが燐をころしたことを責められたら、今度はわたしがころされようかと思うんだ。

 だって不公平だし。

 

 それに自分で、じゃなくて、彼女の手、燐の手でころされたい。

 大好きな人にころされたらきっと、納得出来る気がするんだ。

 

(そういえば燐は笑顔だったよね。わたしにころされて嬉しかった、とか?)

 

 そんなわけないか。

 わたし、すごく自分勝手なこと考えてる。

 

 でも、わたしは燐にころされてもいいんだけどね。

 それこそすごく残酷な方法でも良いんだよ。

 手足をもがれたり、火あぶりにされてもいい。

 エッチなのは……うーん、燐が相手をしてくれるんだったらいい、かな……。

 

 でもまあ、わたしの方が先にころしちゃったんだから、言い訳にもならないんだけどね。

 

 やっぱりわたしって重いのかな……? 燐に依存したいわけじゃないんだけど……。

 

 好きって気持ちって意外と重いのかもね。

 

 それともわたしってかなり執着が強いのかも。

 

 燐も一途って言ってたけど、わたしもかなりのものかもしれないね。

 もしかしたら燐よりもずっと強いのかもしれない。

 

 こーゆーのって自分じゃどうしようもないんだよね。

 なんていうか距離感っていうか気持ちが止められないっていうか。

 

 恋する乙女ってこんな感じなのかな?

 恋したことがないから良くわからないけど、燐とだったら……。

 

 あ! いやいや、こういうのが重いんだよね。

 

 でもねぇ……。

 

 そうだ! 吉村さんに相談してみよう。

 

 吉村さん家庭的だからこういう話し得意そうだし。

 

 それに。

 吉村さんだけじゃなく他の人を頼ってもいい、そんな気がするんだ。

 

 大川さんとか男の人とか、前よりもずっと距離を置くようになっちゃったけど、そういう考えって子供っぽいよね。

 

 人の一側面だけみて全てを知った気になってるのってやっぱり良くない気はするんだ。

 

 まだちょっと難しいけど、せめて今までぐらいの関係には戻したいと思ってるんだ。

 

 吉村さんにだって色々打ち明けたいと思ってる。

 

 だって吉村さんはずっと見ていてくれたから。

 それこそ、”ほんとうのお母さんみたい”に。

 

 吉村さんといろんなことを話してみたい。

 

 ねぇ、燐。

 

 吉村さん、わたしのお母さんになってくれるかな?

 いきなりこんなこと聞いたら引かれるかもしれないけど……わたしは前から考えたことなんだ。

 

 オオモト様には悪いと思ってるけど、吉村さんのほうがお母さんに近い、気がする。

 

 何かいい知恵があったら教えて欲しいな。

 

 あ、燐の事を吉村さんに聞こうと思ってたのに、なんか変なことになっちゃったね。

 

 とりあえず。

 

 燐が……学校に来てくれると。

 

 いいな……。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

「ねぇ、蛍ちゃん。とりあえず一度寝てからどうするか決めるといいわ。いつもの時間になったら一度起こしてあげるから。それと朝食はいつものパンでいいのよね……?」

 

 さっきから蛍が黙っているのは、きっと疲れからだろうと思った。

 

 家政婦の仕事を終えて一度帰宅したのに、また蛍の家に行ったのは何か勘が働いたからだった。

 鍵は案の定掛かっていたが、念のため作って置いたスペアを持っていたので、何とかなったが、やはりもぬけの殻だった。

 

 机に置いてあった手紙には友達に会いに行くことと、とても重要なことが端的に書いてあった。

 何かあったときの相続とか財産分与の事だった。

 

 それは全て”わたし”宛てになっていることが書いてあった。

 

 だからあれは遺言だったのだろう。

 でも、大事にはしないでと書いてあったから、それに従っただけ。

 

 別に土地や財産が欲しいわけじゃない、そうほんとうに欲しいのはきっと……。

 

 

 蛍ちゃんは一度決めたらなかなか変えない頑固さがあるのでとりあえずやんわりと提案してみる。

 彼女はこの案をのんでくれるだろうか?

 

(そういえば友達に会いに行く書いてたわよね。仲のいい友達? 確か……そう”燐ちゃん”。燐ちゃんって言ってたわよね。そういえば苗字って込谷……もしかしてさっきの人も込谷だったわよね? こんな偶然ってあるのかしら)

 

 込谷燐(こみたにりん)、ちゃん。

 あの子、ずっと蛍ちゃんと仲良かったのに、この夏休み中一度も家に遊びにこなかったわね。

 遊びにいく約束もなかったみたいだし、やっぱり喧嘩でもしたのかしらね。

 

 ちょっと気が引けるけど聞いてみたほうが……いいのかしら。

 でも、彼女なら蛍ちゃんのメンタルを支えてくれると思うのよね。

 いつも元気ではつらつとしてたから。

 

 それに、あの子がいたから蛍ちゃんを都市部の学校に通わせることが出来たんだし。

 

 彼女なら蛍ちゃんを守ってくれる、そう見込んだからこそこのひなびた町から蛍ちゃんを外の学校に行かせることが出来たのよね。

 

 でも……なんで”外の学校に行かせることが問題だったのか”はよく分からないのよね。

 

(とにかく、もし本当に喧嘩したのなら話を聞いてあげないと。蛍ちゃん、燐ちゃんと一緒にいるときすごくキラキラしてた。内気な蛍ちゃんが変わったのは多分彼女のおかげなのよね)

 

「ねぇ、蛍ちゃん。あなたやっぱりあの子……えっと、燐ちゃんと喧嘩したんでしょ? だって最近家に遊びにこないし、それに………」

 

 あら?

 

 吉村は後ろを振り返ったまま立ち止まった。

 

 結構な登り坂はもうほとんど登り終わっている。

 

 坂の頂上付近にある三間坂の家はその荘厳そうな門構えをつぶさに見せながら、夜明け前の空と変わらない静けさで佇んでいた。

 

 この家で家政婦をしている吉村は今登ってきたばかりの坂へふらふらと引き返すと、そこから見える町並みを見下ろした。

 

 ロータリーを囲むように並べられたミニチュアの家々がつぶさに見える。

 

 その横にはコバルト色に光る川とが坂向こうの山の稜線に白と朱色の橋を架けていた。

 

 遥か上空にはひときわ白く光る星が登っていた。

 

 明けの明星だった。

 

 その偶然の美しさに興奮と感動が同時に襲い掛かる。

 

 胸の高鳴りは星を見つけたことの喜びかそれとも別の感情なのか。

 

 自分のことなのによくは分からない。

 

 ただ。

 

 視界が泡のように滲んでいた。

 

 綺麗なものを見たからだと思ったし、もしかしたらそれは歳のせいかもしれない。

 最近はちょっとしたことでも涙もろくなっている、そんな気がしていたから。

 

 

 でも、最近泣いたのはいつの頃だったのだろう。

 

 

 夜明け前の僅かな時間にしか見ることが出来ない景色。

 それは一枚の絵のような美しさ、それを独り占めしている気がして無意味な罪悪感を感じる。

 

 虫の音がコーラスのように静かに耳朶に響き渡る。

 その音に惹かれたように、小さな黄色い光が目の前を悠然と通り過ぎた。

 

 発光した黄色は物憂げにひらひらと舞い踊っている。

 何かを探しているようで、特にこれといって決めてないような曖昧な感じで。

 

 一匹だけでなく、複数いればもっと綺麗なのにとつい考えてしまった。

 けれどもそんな人間的な情緒など構うことなく、光は単独飛行を繰り返している。

 

 その懸命さに一瞬、胸が締め付けられる思いがした。

 

 だからこれでいいと思った。

 

 

 迷子になった小さい光。

 

 今にも消えそうな淡い光を藍色のキャンパスに描いている。

 

 

 きっとこの子は”幸せ”なんだと思った。

 

 ()()()()に幸せなんて感情があるのかどうか分からないが、なぜかその気持ちが唐突に脳裏に沸いた。

 

 でも、それほど間違いでもない気もする。

 

 わたしは夜明け前の情景に、この小さな光にしあわせを感じているから。

 

 

 女性は初めてしあわせを実感した気がした。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 






はい。激動の2020年も今日でとうとう終わろうとしてますねぇ……。
今回のお話も今年で終わりにしたかったんですけどねぇ……相変わらず適当にやってます。

さてさて、今年はどんなことがありましたか? まあほとんどの人が新型コロナウィルスのことを言及しますよねぇ。

二月ぐらいまでは対岸の火事のような出来事で見てた人も多いかと思われます。それが今ではここまで生活に影響を及ぼす存在になるとは思いも寄らなかったですよー。いやぁ、怖いというよりも、今だに信じられないというか、収縮することなんてあるんでしょうかねぇ。
これまで様々な伝染病が流行ったわけなんですが、実態が分からないのとやけに致死率が高いのは流行り病の共通点なんでしょうか。なんにせよワクチン待ちなんでしょうねぇ。

その前に入院するだけの病床が足りなかったり、ウィルスの変異体が出てきたりと、ウィルスを題材にした小説みたいな方向になってるのは何かの偶然なのですかねぇー?
クライマックスからのハッピーなエンドを期待してます。

私的には今年は金運が良くなかったです……。
財布は落としちゃうし(結局見つかってない!)、PCが壊れて新しいのを買う羽目になるし……まあ、二つの案件とも自業自得の面が大きいんですけどね……それだけにやるせなかったりですよーー。
まあ、給付金が出たからある程度は補填出来たんですけどね。

あと、今年はマスクイヤーでしたねー。どこに行くにもマスクが必需品と化してましたねー。
わたしは秋口から春先にかけてマスクを着用する習慣が出来ていたので、マスク不足にはならなかったのですけど、一時期は本当にマスク不足で大変な思いをした方もいると思います。マスク買うために行列や転売なんかも横行しましたしねー。

今年の一月あたりまではマスクの価値なんて全然なかったのに、今や生活必需品にまでなってしまうとは……こんなことになるとは誰が予想できたのでしょうか。

流石に占い師の方でもそういったことを言ってる人はいませんでしたね。芸能人の結婚とか新元号を当てたと言ってる方はいるんですけどね……。
こういったグローバルかつワールドワイドなことを予想するのは難しいんでしょうきっと。
それにやはり占い師の方に聞く人もいるみたいなんです。”コロナ禍はいつ収束するのか”と。しかもそれが真剣に聞いてくるものだから余計に困るって言ってましたね。まあ、終わってもないことを終わるっていうのにはやはり抵抗と思います。
それに個人的ですが、占いとか予言とかいうものは後出しじゃんけんのようなものと思ってます。当たるか当たらないとかではなく、そういった言葉を楽しむものと思って見てますのでー。

それにしても夏場のマスク着用がこんなに苦しいものだとは思わなかったです。冷感マスクとか初めはそれこそ冷ややかな目で見てたんですよ。こんなの作って何か意味あるのかな、って。

でも、いざ自分で付けてみると大変快適でして、洗えばまた使えることもあってか、暑い日の外出では大変お世話になりました。

そしてソーシャルディスタンス、いわゆる”密”の回避ですね。
これにはまだ研究の余地といいますか、もう少し厳密化したほうが良さそうに思えます。

ちょこちょこスーパー銭湯に行ったりすることもあるのですが、密回避にはあまりなってないような気がします。っていうかみんな普通、もしくは普通以上に喋ってるんですけど……間隔を開けましょうとか喋らないようにとか張り紙がしてあるんですが、大して効果を発揮していないようなのです……。
数人の仲間と一緒に来るから気が大きくなっちゃうのかもしれないですけど、もう少し静かにしてほしいとは思ってます。夜の外食なんかも同じ感じかもしれないですね。

あとはオリンピックを含めたイベントの中止や延期が多くありましたね。この分だと来年になってもそれほど大幅な変化は望めそうになさそうですし、無観客もしくは少人数の観客でのイベントがデフォになるかもしれないですねー。
オリンピックもその方向が妥当かと思います。

2020年はある意味仕方がなかった年とも言えますね。暗い話題ばかりだったのはご容赦ください。


と、だらだら書いてたらいつの間にか年が明けてました……。


      ★明けましておめでとうございます☆彡

今年も恐らくwithコロナでしょう。残念ですが……。
ですのでとりあえず自分の身を守ることを最優先にしたほうがいいです。当然他の人に迷惑を掛けないのが前提なんですがっ。

コロナが収まるかどうかよりも、自分とその周りにいる人達がいかにストレスなく日常生活を過ごせるかが重要だと思ってます。

私的に今年を快適に過ごすポイントは”迂闊”ではないかと思ってます。
迂闊な事を言わないとか、迂闊な行動はしないーとか、そういった感じで迂闊さを無くせば割と快適に過ごせる……かな? でもうがい手洗いは忘れずにですよー。

あ、あと。上の方で軽くディスってる気がしますけど占いもやっぱり良いかと思います。なんでも鵜呑みにするのではなく、ちょっとした行動の指針にするのも良きかと思ってます。

ですが、色々種類があってよくわからないと思います。特に星座占いなんかは占い方によっては真逆の運勢になってることもありますしねぇ……。

で、私も色々な占いを見てきて結構試してみたりもしたんですけど、その中でこれはっっ! 的なものがあったので紹介してみたいと思います。
鬼滅の刃占いじゃないですよ~。それにステマでもないです~多分。

結構有名だとは思うんですけど”しいたけ占い”とか言うのが個人的に結構当たってるような気がします。
いわゆる12星座占いなんですけど、なんか言い当ててるといいますか……特に2021年度の占いが当たってるような気がします……まだ2021年始まったばかりなんですけどねー。

無料なのにテキスト多めで見てるだけで面白い気がしますので一度見てみてもいい、かな……とかとか。無料ですしっ!(無駄に2回言いました)

ともかくっ、今年も気持ちよく一年を過ごしていけたら良いですね!


それでは~。
今年もよろしくお願いします。




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rare occurrence


 
 川沿いの山の奥、そのまた奥の深い谷の中、そこに小さな集落がありました。

 そこでは妖精が住み着いていて、町や人に幸運をもたらしていました。

 妖精の力でまちはどんどん発展していき、人々の暮らしも豊かになりました。

 ですが、妖精のもたらす幸運は良いことだけを呼ぶわけではありませんでした。

 妖精の強すぎる力は町に少しずつ穴を空けていたのです。

 けれどもそれに気付くものは誰もいませんでした。
 当の妖精ですら気付かなかったのです。

 そんなこともつゆしらず、町の住人は幸運の力を当たり前のように利用していきます。

 幸運の力は有限なので、その力がなくなるたびに新しい妖精が生み出されました。

 力を使い果たした妖精は泡のように消えてなくなりました。
 妖精の呼ぶ幸運は自分の寿命を削る危険な行為でした。

 町の人はそれを知っても誰も止めようとはしなかったです。
 姿どころか名もわからなくなる妖精よりも、自分たちの幸運を優先したのです。


 その結果。
 
 山間の小さな町は変貌を遂げ、夜が支配する町へと変わってしまったのです。

 その異変に偶然巻き込まれた二人の女の子。

 少女たちは手を取り合って夜の町を駆け回ります。
 どこかに出口があると信じて。

 顔の無い白いお化け、お互いを憎しみ逢う犬と猿、そして青と白い世界に住む長い髪の淑やかな妖精。

 閉ざされた黒い世界でふたりは様々な出来事を体験していきます。

 髪の短い活発な少女は剣の代わりに鉄パイプを振りかざして自身を鼓舞しました。

(なんかぱっとしないなぁ……普通に剣でよかったと思うんだけどぉ)

 髪の長いおっとりした少女は気丈にも消火器を振り回して悪意に対抗しました。

(こっちは消火器かぁ……でも、鉄パイプよりは実用的かもね。それしても消火器って意外と重いんだよ。この子、結構力持ちなのかもね)

 少女たちは心と体に無数の傷をつけながら、緑のトンネルを抜けた先へと向かいます。
 けれどもそこは求めていた出口ではありませんでした。

(よくある展開だよね、そーゆーのって)

 二人が絶体絶命のピンチに陥ったとき、雨夜の月の輝きが二人を助けてくれました。
 ですが、それはお互いの大事なものと引き換えの幸運でした。

 全てを失った少女たち。
 残されたのはお互いの存在だけでした。
 
 最後まで仲の良かった二人は線路を歩いて同じ方向に進みます。

 完璧な世界を目指して。


 けれど、青い空の下に残ったのは一人の少女だけでした。

                           おしまい。

(おしまい、って……えー、何それぇ!? もうちょっとこう……別なアプローチとかなかったのかなぁ。夢なのになんか色々と勿体ないっていうかぁ……)

 あ、そうだ、これ夢だ。

 こういうことたまにあるんだよね、眠ってる最中に夢だなって理解しちゃうの。

 ノンレム睡眠がレム睡眠に切り替わるとき、だったっけ?

 いかにも夢らしい荒唐無稽で脈絡のない話なんだけど、途中までは楽しかったなー。

 でも、二人はどこで擦れ違っちゃったんだろうね。

 価値観? 解釈の違い? それとも……。

 まあ、夢なんだから深く考えるようなことでもないか。



 ……それにしても。

 本当に、夢の話。

 なんだよ、ね……?


 …………
 ………
 ……


「あ……れ?」

 

 やっぱり寝てた。

 

 そう思うほかなかった。

 

 自分がそれまで何をしていたのか。

 朝なのか夜なのかそれすらも分からない。

 ふわふわとした虚無感が心の縁を一撫でする。

 

 長い旅路から帰ってきたような現実感の無い目で周囲を巡らせる。

 ……黒い部屋、だとすれば夜なのだろうか。

 

 部屋の中には目の前の机とベッド、見覚えのある家具やぬいぐるみ。

 後は山になった段ボール、それだけだった。

 

「あれ? これ机だ……」

 

 少女は目の前にある木製の机をつぶさに見つめた。

 小さなスタンドがおぼろげな光で天板とその上のノートを照らしている。

 天板のに描かれた掠れた木目とくだらない落書きの後には微かな憶えがあった。

 

 ここは間違いなく自分の部屋だった。

 けれども、なぜか合点がいかない。

 

 自分の部屋であって他人の部屋のような違和感。

 それがどうも拭い去れなかった。

 

 少女は何かを探す様な淑やかな視線で自分の部屋とおぼしき場所を呆然と眺める。

 

(夢、だったのかな。変な姿勢で寝てたから変な夢みちゃった)

 

 微睡んだ視線で背もたれにもたれかかると、頭の後ろに手を組んで天井を見上げた。

 

 吸い込まれそうなほど高い天井、その奥に蛇の背のような巨大な梁がかけられている。

 それが妙におぞましく見えて、一瞬、背中がぞくっとなった。

 

 辺りが暗いせいかまだ焦点が合わない。

 

 黒いゼリーの中に閉じ込められたような不快な閉塞感が胸の奥を湧きだたせた。

 

「んん──っ!」

 

 湧きあがった暗い感情を解きほぐすように、わざとらしく声を出して伸びをした。

 凝り固まった心と体が伸ばされて気持ちがいい。

 一陣の風が吹いたような清涼感が少女をリフレッシュさせる。

 

 ただ、あまりに力を入れすぎたせいか背もたれがミシミシと嫌な音を立てる。

 バランスを失って椅子ごと倒れ込みそうな危険な感じがしたので、少女は現実を直視したような素早い動きで椅子の角度を元に戻した。

 

 ぷふぁ……、と少女は切ない息を漏らす。

 

 その吐息は白塗りの壁に反射して、なお一層の孤独感を少女に味合わせた。

 

 八畳程度の部屋の中にただ一人。

 ゆえに映る影もただ一つ。

 

 その形があまりに歪だったので、夢の中にいるような感覚を覚えて、確かめるように自分の頬を強くつねった。

 

「あいたたたっ!!」

 

 やっぱり痛いじゃん……。

 涙目になりながら、赤くなったほっぺたを擦る少女。

 

 さっきから一人で何をしているんだろうか。

 間抜けなことばかりしてる自分が恥ずかしい。

 

 頬をつねって分かったのは、ここが()()であること、そして越してきてまだ日も浅いという今更な事実であった。

 

 それでもまだ他人の家にいるような違和感はある。

 前に住んでたのが集合住宅だったかもしれない。

 

(築何十年の中古マンションだったけどね)

 

 まだ落ち着かないのか、机の上のスマホに無意識に手を伸ばす。

 

 軽く触っただけで、スタンドよりも幾分強い光が網膜を刺激する。

 見慣れた画面の安心感と、怠惰な感じが液晶越しに伝わってくる。

 その液晶越しの光の中に混ざり合ったなにか良くないものを少女は見た気がした。

 

 携帯が示す時間は……午前3時14分。

 

 夜明け前と言っても差し支えない時刻。

 完全に夜が明けきるまでせいぜい1時間弱といったところか。

 

 このぐらいの時間が夏においてもっとも涼しい時間だった。

 

 山間の田舎町では日が昇りが早く、すぐに蒸し暑いもわっとした空気が立ち込めてしまうだろう。

 そういう意味では今だけは夏を忘れることが出来た。

 

 さらに暦の上では”今日から”季節が変わる。

 でも、今日の予想気温だとそれはまだまだ遠いことのようだ。

 

 暑さ寒さも彼岸までというが、実のところ体感温度が重要なのだと思う。

 

 少女はスマホ弄りに飽きたのか、ベッドの上のガラス窓に目を向ける。

 

 開け広げられていた窓の外は、満天の星空……ではなく黒い雲がスモッグのような重厚さをもって堆積していた。

 

 容赦のない黒い雲の侵略に気分がげんなりする。

 

 けれども微妙な色さ加減が深淵の夜を禍々しく彩っていて、ちょっと聞こえが悪いが、世界の終わりを予感させるような、そんな美しさがあった。

 

 もし今この手にワイングラスを持っていたならば極上な気分になっていたかもしれない。

 

 墨汁をミルクで溶かしこんだような毒にも薬にもならない空の色に乾杯を──。

 

 なんて。

 

 まあ、まだ未成年だから空のワイングラスを持つのが関の山なのだが。

 

 

 ……朝でも夜でもない、そんな半端な時間に起きてもこの少女は特にやることがなかった。

 くだらない妄想に耽るも、無駄に頭を使うだけでなにも生産性はない。

 

 それどころかむしろ……。

 

「ふあぁぁーぁ、やっぱりまだ眠い……まだ早い時間だしなぁ、二度寝しちゃおうかな」

 

 大きな欠伸をかみ殺しながら、眠そうな瞳で朝の時間を放棄のしどころを思案する。

 

 これでも一応朝型なのだが、いくら何でも早すぎるとは思う。

 

 ただ個人経営の()()()ではわりと一般的な起床時間らしいが、まだ学生の少女にはそこまでするだけの責任も義務もなかった。

 

(何かお腹空いたかも……)

 

 なにかに囁かれたように少女は急に空腹感を感じた。

 

 こういうのは一度気になると、どうしても頭に残ってしまう。

 

 とりあえずなにか食べようかと少女は腕を組んで思案する。

 

 いますぐ食べられるのは、試作品の余ったパンか、失敗したパン……のようなものだけ。

 パン屋だから仕方がないのだけれど、四六時中パンばかり食べるのはさすがに辛い。

 贅沢を言うつもりはないが、それでもきついのには変わりないのだ。

 

 家のパンを食べなければならないと思うと、さっきまでの強い食欲が委縮したように何処かへ行ってしまった。

 

 それはそれでありがたいが、なんか負けたような気になる。

 

 そうなると興味のしどころは別のものに向かうのだが……。

 

 それまでわざと視界に入れてなかった机の上のノートにちらりと目を落とす。

 

 母がなかなか帰ってこなかったので、せっかくだからと新学期に向けての予習をしていたのだが、めんどくさい問題の途中で寝てしまったようだ。

 

 勉強はそれほど苦手ではないはずなのだが、単調な問題の羅列は下手な睡眠薬よりも効き目があるから困る。

 

 眠りたくなったら六法全書や和英辞典を読めば一発だと、何かで言っていたことを少女はつぶさに思い出していた。

 自分の場合それを試してみると思うだけで眠りにつけそうな気がする。

 

 漫画や小説だと逆に目が冴えるのに不思議なものだ。

 

「あっ、ヤバっ!」

 

 少女は慌ててノートを手に取ってまざまざと見つめだした。

 それは答えが間違っているとかそういった、学生的な理由からではなく。

 

「良かったぁ、涎垂れてなかった……」

 

 やや大げさな安堵のため息をつく。

 

 誰に見せるわけでもないノートなのだが、そういったシミのようなものが付いてしまうのはとても気になることらしい。

 

 少女のフクザツな乙女心なのだった。

 

(それにしても今日はちょっと遅いなぁ。まあそんなに心配するようなことでもないと思うんだけど)

 

 勉強道具を隅に寄せて、机の上に突っ伏したまま、まだ帰ってこない母親を気にしていた。

 

 手持ち無沙汰を解消するようにまたスマホを弄る。

 皿の目で見ても連絡のようなものは何も入っていなかった。

 

「ん──」

 

 携帯を見ながら頬を膨らませる。

 つるりとしたガラス面には自分の酷い膨れっ面がまざまざと映っていた。

 

「んにゃー」

 

 めんどくさそうに一声鳴くと、少女はスマホをベッドに投げ捨てた。

 ついでに自分もベッドに転がった。

 

 引っ越すとき、わたしの家具や寝具は特に新調しなかったので、部屋以外は前の家と何も変わってない。

 

 家具を新調したくなかったんだと思う、前の家には思い出が沢山あったから。

 良いことも、あまり良くないことも含めて。

 

 でも思い出の品に囲まれてもどこか落ち着かなかった。

 

 親戚のうちにも同じような古い家もあるのだが、ここは何か違う気がする。

 

 人が住まなくなった古民家をリノベーションして店舗兼住居の古民家パン屋にしたのだが、それは思ってたより楽なことじゃなかった。

 オーナーがリノベーションするのが一般的らしいが、わたしたちは店舗兼住居なので自分たちでやるしかない。

 それが思ってたよりも全然大変で、わたしは夏休みの大半を返上することになってしまった。

 

 住む場所を確保するのがこんなに大変だとは思わなかった。

 

 でも、自分たちでリノベーションしたんだから愛着も湧く、そう思っていたのだけれど……。

 

 なんでだろう、なんか切ない。

 

 全然違う家だから? それとも匂いが違うから?

 

 母には絶対言わないけど、わたしは時々こう思ってしまうことがある。

 

「……前の家の方がよかった、な」

 

 ベッドの上のくたびれた顔の犬のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。

 

 父が買ってくれたもの。

 タコとどっちが良いかと聞かれて迷わず選んだ犬のぬいぐるみ。

 

 これには父との思い出がまだ残っていた。

 

 とぼけた表情のぬいぐるみを胸に寄せて匂いを嗅ぐと、あの頃の思い出が蘇ってくるようで気持ちが落ち着いてくる。

 

 楽しそうに笑う、父と母。

 そして、わたし……。

 

 全ての歯車がぴっちりと収まったあの頃。

 

 もう戻ってこないあの頃の思い出。

 

 それはまだわたしの中に残っている。

 

 でも、その思い出はもういつまでも残して置くものじゃなくて、むしろ──。

 

 キィーッ!

 

 外の方から何やら甲高い音がした。

 急ブレーキを踏んだような耳障りな音。

 

 少女は現実感を呼び起こされてベッドから跳ね起きた。

 ベッドの上に捨てられたぬいぐるみが抗議の目でこちらを睨んでいたが、少女はそれほど気にする様子も見せずそのまま立ち上がると、若干早足気味に廊下へと出た。

 

 予想以上に暗い廊下に一瞬気後れするも、思い出したように壁にあるスイッチを入れた。

 

 暗い廊下に明るい回廊が道を作りだす。

 その案内のままに玄関へと小走りに向かった。

 

 やっと帰ってきた、少女はそう思った。

 

 こんな時間に()()()()を立てるのはうちぐらいしかいない。

 近所迷惑なると言っていたのは自分だったのに全く……。

 

(どっちが母親だか分かったもんじゃない……)

 

 少女はぶつくさと文句を言いながらも玄関前に出迎えにいく。

 なんだかんだで心配だったのだ。

 

 勢いよく玄関のドアががらがらと開いた。

 立て付けが悪いらしく、どうしても音が出てしまう。

 

 母は客が来たときに分かりやすいからいいと言っていたが、自分としてはもっとお洒落で綺麗な玄関窓に変えたかったのだ。

 

 例えば鮮やかな空色の玄関扉とか──。

 

 だが、今は古い玄関のまま、その古い扉から荷物を抱えた人物が入ってきた。

 働き者の一家の主、脱サラして始めたパン屋で日々奮闘している女店主。

 それが少女の母親だった。

 

「お帰り、お母さん。今日はずいぶん遅かったね。なにかあった──」

 

「ああ、まだ起きてたのね。あれほど寝てなさいって言っておいたのに、まったくこの子ったら……」

 

 母は帰ってくるなり小言を言い始めた。

 まあ、わりといつものことなんだけどなにかいつもと様子が違う気がする。

 

 その証拠にハザードランプをつけたままの軽自動車が門の前で停車していた。

 割と几帳面な母にしてのズボラな行為に何かあったのではと感づいてしまう。

 

(まさかトイレ? そんなわけないか)

 

 なんとも暢気な仮説だが母を良く知る少女としては割と現実的な考えだった。

 

(お母さん変なプライドがあるんだよね。外のトイレをあまり使わないというか、使いたくないんだろうね。別に恥ずかしがるようなことでもないんだろうけど)

 

 下世話な考えに浸っていると母親がこちらをじっと見ているのに気付いた。

 

 邪な妄想がばれたのだろうか、なんとなく睨んでいるようにも見える。

 

「あははは、ごめんね。で、今日は帰り遅かったよねお母さん。なにかあったの?」

 

 栗色の髪を手でかきながら、ひきつった笑顔を向ける。

 心の中を読まれたわけでもないのに妙に焦ってしまった。

 

 こういうことへの勘がやけにするどいから困ってしまう。

 

 母親は今日一日の疲れを吸い込んだ前髪を垂らしながら、何かをこらえる様に両手で拳を作ってわなわなと肩を震わせている。

 

 少女は身の危険を感じで思わず後ろ足で飛びのいた。

 その衝撃で赤茶色のフローリングの床がきゅっと音を立てる。

 

 玄関マットを隔てて、母と娘が対峙していた。

 

「ゆ……」

 

「ゆ?」

 

 唇を震わせながら母が発した言葉を少女が反芻する。

 

 ゆ? なんだろう、よもや許さないとか言うつもりではないとは思うが。

 

 そういえば母はこう言った冗談めいたことは通用しなかったのだと少女は今更のように思い出していた。

 

「まあまあ、お母さん落ち着いて、とりあえず今日はもう寝た方が良いよ。ねっ」

 

 今日一番の笑顔を見せる少女。

 ここまで媚びる必要はない気もするが念には念を入れておきたかった。

 

「幽霊……」

 

「えっ!? わたし幽霊じゃないよ~」

 

 母があまりに突飛なことを口にしたので、反射的にそう言った。

 少女は驚きの表情で一歩近づくと、項垂れた様子の母の顔を覗き込む。

 

 まだ何やらぶつぶつと言っている母の焦点は合ってない様に見えた。

 流石に気味悪くなって、さっきよりもさらに二歩ほど遠くに離れる。

 

 夏と言えば怪談話が定番ではあるけど、今頃その手の話を聞いたのだろうか。

 もう夏も終わりだというのに。

 

 でも、そういった話を人にしたくなるのは分かる。

 わたしだって多分誰かに喋りたくなっちゃうしね。

 

 せっかくだから母の怪談話を聞いてあげようかな、親孝行の一環として。

 

 少女はそう自分を納得させると、再び母の元にとてとてと近づいた。

 

「幽霊が、幽霊が出たのよっ!!!」

 

「わわわっ!!」

 

 突然子供のように母が泣き叫んだので思わずその場で尻もちをついてしまった。

 これまで見たことがない必死の形相の母の顔に少女は思わずたじろいでしまった。

 

「いたたた、んもう! 幽霊だなんて、そんな非現実的なこと──」

 

 あるわけない! そう言葉を続けたかった、なのにその言葉が出てこなかった。

 

 何かが喉に引っ掛かったような不快ともとれる違和感に、少女は意識せず自分の首を撫でていた。

 

 そんな娘の疑問など一切汲み取る気もないかのように一人で話し続けている母。

 

 ちょっとどころじゃない異様な感じ。

 例えるなら下山したばかりの登山家が山であった恐怖の体験を身を震わせながら、皆に聞かせるような、そんな病的な口調だった。

 

「ホテルから戻ってくる途中、峠にいたのよ女の子が。可愛そうに思って車に乗せてあげたのよ……それは確かよ……でも、それが誰だったのか思い出せないの……顔も容姿も髪型も何もかも! 幽霊よ。あれは間違いなく峠の幽霊なのよ……」

 

 本当に何かに取り憑かれたようにおどろおどろしく話をするので、少女はぱっと立ち上がると小刻みに震えている母の肩をぎゅっと抱きしめた。

 

 体の内側から震えているようなその身震いに少女は得も言われぬ恐怖を感じて堪らず耳元で叫んでしまう。

 

「大丈夫、お母さん! お酒でも飲んでるの!? 飲酒運転はあれほどダメって言ったのに!! 自制しなきゃだめだよっ」

 

 パニックになったせいか余計な事まで少女は口走っていた。

 

 だが、揺さぶられたままの母の呼気からはアルコール臭はしなかった。

 酔っていないならば一体なんだというのだろうか……?

 

 まさか本当に幽霊を見た、というか出会ったとでも言うつもりなのか。

 

(まあ、本人はそう言ってるんだけど……)

 

 少女が訝し気な視線を送るが、当人は気にする様子もなくなおもぶつぶつと話している。

 

「あれはきっと、小平口峠の幽霊なのよ……そう! 峠で死んだ走り屋の幽霊がわたしを呼んだのよ、もっと走りたいって……!! 限界を超えた走りがしたかったって……」

 

「限界って……」

 

 本気なのか冗談なのか、にわかには信じがたい妄想を話している母親の姿は、目を覆いたくなるほど滑稽だった。

 

 むしろ限界を迎えているのは母の方だろう。

 

 少女が良く知る合理的で理知的な母の姿は今日はもう見られそうにない、少女はそう確信した。

 

「はぁ……」

 

 人間は本当に疲れているとき、覚えのない幻覚を見ることが稀にあると本で読んだことがあるが、それを目の当たりにするとは思わなかった。

 

 最近寝不足が続いているようだったけど、幻覚を見るほどの疲れとはどの位なんだろうか。

 

 とにかく今日はもう休ませてあげよう、ちょっと休めばいつもの母に戻るかもしれないし。

 

 いつか来るであろう母の介護とはきっとこういうことなんだろう

 そう遠くないと思われる未来を想像して少女は少し切なくなった。

 

「ほら、お母さん。ちゃんと歩ける? わたしが寝室まで一緒に行ってあげるから……」

 

 慈愛に満ちた表情で娘は母の手を取る。

 

 突然の優しさに何かあるのではと急に冷静になった咲良はその意図に気づいてぎょっとなった。

 

 いくらなんでもそこまで歳を取っていない、そう言わんばかりの憮然な表情で娘の手を振り解く。

 

「もう! まだ介護なんて歳じゃないわよ! ほんとあなたってデリカシーがないわね。それに何か霊的なものを感じたから、わたしに色々渡したんでしょ? 幽霊が出るなら出るっていってくれればまだ心の準備が出来たのに……意地悪な子ねっ」

 

(幽霊が出るとわかっていたら、さすがに事前に知らせるよ……)

 

 少女は首をすくめて小さなため息をついた。

 

 霊感なんてものは自分にはない。

 

 それにもし幽霊が出るとわかってたら、もうちょっとマシなものを入れていただろう。

 お守りとか十字架とか……。

 

(それにわたしがバッグに入れたのは……)

 

 そういう目的じゃない、もっと別の目的。

 

 っていうか。

 

「え~、なにそれー。お母さんが他人を勝手に幽霊って勘違いしてるだけなんじゃないのぉ? さっきからおかしなことばーっかり言ってるー」

 

 少女は母に冷ややかな目をぶつける。

 

 そういうスピリチュアルな事とは無縁な母だと思い込んでいただけに、落胆というかちょっとガッカリな気持ちになった。

 

「別にいいでしょ、実際に見たし……触ったりも、したんだから」

 

 娘に蔑まれているように感じたのか咲良は拗ねたように口を尖らせる。

 

「それにあなただって()()()()()興味あるんでしょ? なんだっけ……幽霊が実在するのかどうかの天文学的な立証だったかしら、そういう物理的な本、読んでなかった?」

 

「……幽霊は実在するのかの量子力学的可能性」

 

「あ、そうそうそれよ! そういう波動関数的なものに偶然あったのよ、多分。どうしよう、お母さん幽霊に取り憑かれちゃうかも──」

 

 年甲斐もなく体をくねらせてもだえる母親。

 ベッドの上ならともかく、玄関前でそんなことをしても誰も情欲を掻き立てないだろう。

 見たくないものを見てしまったような残念さが少女の眉をしかめさせた。

 

「ふぅ~ん」

 

 少女は母の奇妙なダンスに身じろぎもせず、嫌悪感と落胆をないまぜにした言葉を一言だけ呟いた。

 

 本来明るい気質の少女にしてその氷のような冷たい瞳と抑揚のない言葉は見るもの全てを凍らせるほど冷ややかなものであった。

 それは例え肉親と言えでも例外ではなく、むしろより冷たく氷柱のように突き刺さっていた。

 

 蝉の声も遠くなった晩夏の夜、古びた家のつるんとした廊下に寒々しい空気が滞っていた。

 

 冷え切った間を断ち切るような大きなため息をつく少女。

 埒が明かないと思ったのか、これ以上この話を膨らませることなく、話を変えることにした。

 

「だいいち、あのカバンの中身、お母さんがよく忘れるからまとめて置いてってわたしに頼んだやつなんだよ」

 

「そうだったからしら……覚えてないわ……」

 

「まったく、だから一緒に行こうって言ったのに」

 

 隣県のホテルまでパンを卸に行くようになったのはほんの数週間前のこと。

 

 この町になんの繋がり(コネ)もないパン屋が開店してもそれほど客足は伸びないだろうと、あちこち開拓してみた結果、隣県のホテルが朝食用のパンを買ってくれるようになったのだ。

 

 評判が良かったのか、食パンだけでなく創作パンも買ってくれるようになったので、開業前なのにすっかりお得意様となっていた。

 

 最初の内は母と子、二人で配達に行っていたのだけど、”パンの事はいいから、あなたはしっかり勉強しなさい”とのことになり、最近は母一人で行くことになってしまった。

 

(その割には忘れ物したーとか、プレゼンで何に言うの忘れたーとか言うんだよね。前の会社すごく優秀だったって聞いてたんだけど……ほんとなのかな)

 

 だからそういった”抜けていること”をバッグにまとめて渡したはずなのだが……その目的すら忘れてしまったようだ。

 

「だって、ほらクリップとか入っていたわよ」

 

「それ、お母さんがファイルまとめるのにいるっていうし、いざという時、髪留めにも使えるから入れて置いてってわたしに言ったよ?」

 

「じゃあ、あのベーグルは? あれ、あなたが作ったんでしょう。幽霊が食べちゃったみたいだけど」

 

「え~、あのベーグルお母さんに食べてもらいたかったのに。せっかくの自信作を得体のしれない人に食べさせるとかないよ~」

 

「あら、ごめんなさい。そういえばブランケットも入っていたわよ夏なのに」

 

「お母さん冷房病なんでしょ? クーラーで底冷えして辛いからって、運転するときブランケット膝に掛けてたじゃない」

 

「じゃ、じゃあ、水とかスポーツドリンクは? わたし一人が飲むにしては結構な本数が入っていたわよ?」

 

「……お母さん」

 

「な、なに?」

 

 急に真剣な口調になった娘に母である咲良は少し緊張した。

 そのせいか喉の枯渇を感じて、思わず唾を飲み込んだ。

 

「それ……ホテルの人にあげる分だよ」

 

「あっ! そういうことね!」

 

 母は両手をパンと叩いて合点がいったことを娘に示した。

 

「そうそう、ホテルの人にお世話になってるから差し入れにと持っていったのよね。いやだわぁ、すっかり忘れてたわ」

 

「もう~、お母さん呆けちゃったの? いつも配達するとき差し入れ持って行ってるよね。ほんとに大丈夫?」

 

 少女は母の額に手を当てて熱を測ってみた。

 熱はないみたいだが、やっぱり疲れてるんだろう。

 

「う~ん、どうも今日はなんか調子が悪いみたいね。厄日なのかもしれないわ」

 

 母も自分の額に頭を当てていた。

 娘の言う通り今日は色々ありすぎて疲れ切っているのかもしれない。

 

「ほらぁ、お母さん。もう休んだほうがいいよ。なんならおんぶしてあげよっかぁ」

 

 悪戯っぽく笑って、両手をくいくいと動かす少女。

 

 明るい笑顔に咲良はなんだか救われた気分になった。

 その顔をみただけで帰ってきたかいがある、そう思ったから。

 

「どうしたのお母さん」

 

 じっと見られていることに気付いたのか、少女は不思議そうに小首を傾げていた。

 

「なんでもないわよ。大丈夫、ひとりで歩けるわ。それより明日……いいえ、今日は学校はどうするの? 今日から二学期なんでしょ。一人で行ける?」

 

 玄関に靴を脱ぎ散らかしながら()()の予定をそれとなく聞いた。

 

 今でこそ元気な娘と言ったところだが、ほんの数か月前までは考えられないほどに落ち込んでいただけに、その反動が気になっていた。

 

「わたし、これでも立派な高校生なんだからね。だから、大丈夫だよ。ひとりでちゃんと学校に行ける」

 

「だからね、わたしよりお母さんのほうが心配だよ。すぐ一人で突っ走っちゃうんだから。そっちの方がよっぽど心配」

 

 覚悟を決めたような娘の表情に咲良はやれやれと肩をすくめた。

 

 ブランクがあるくせに無理をしちゃって、誰に似たんだろうか。

 でも、その意思をもった瞳には母として一人の人間として安心していた。 

 

「はいはい、じゃあちゃんと学校に行きなさい。でも……無理しちゃダメよ。辛くなったらいつでも話聞くから。わたしはあなたの味方なんだからね」

 

「うん。ありがとうお母さん」

 

 暖かい言葉に胸がきゅんと疼いた。

 でもそれは、悪くない疼き。

 

 だから素直に心からのお礼が言えた。

 

 こういうささやかな気遣いが嬉しい。

 確かめることのない自然なやり取りが母との間に出来ていることが嬉しかった。

 

 実際、母はよくやっていると思う。

 離婚手続きするだけでも面倒なのに、次に引っ越す家どころか新しい仕事まで決めてしまったのだから。

 

 思い切りがいいというか……でも、母なりに相当悩んだと思う。

 わたしにはそんな事、おくびにも出さないけど。

 

 多分、わたしに心配かけなくなかったんだと思う。

 

 でも、ずっと傍に居てくれた。

 ずっと寄り添っててくれた。

 

 母にとってわたしは、必要ない子なんだって思うこともあったけど。

 

 きっと誤解してたんだね、お互いに。

 

 母はわたしの意向をちゃんと聞いてくれた。

 色々手続きで忙しいのに貴重な自分の時間を割いてまで。

 

 色んなことを話した。

 将来のこと、好きだった従兄のこと、そしてお父さんのことも。

 

 嫌な事も話したような気もしたけど、それでも黙って聞いててくれた。

 

 きっと、わたしにはそれが良かったんだと思う。

 

 わたしはわたしが思っているよりもずっと寂しかったったんだって、わかったから。

 

 気持ちが少し落ち着いた頃、母は一人で色々なところに帆走していた。

 

 なるべく学校が変わらないような場所を引っ越し先に選んでくれたし、新しい仕事の為に必死に勉強もしていた。

 

 パン屋さんをやりたいという願望があったのは引っ越し先が決まった時に初めて知ったんだけどね。

 

 だから、すごく驚いた。

 でも母は抜かりなかった。

 

 勢い任せの行動じゃなく、資格は持っていたし、もろもろの免許や許可も取ってあった。

 

 貯金だってかなりの額があった。

 それでも開業資金でほとんどがなくなってしまったのだけれど。

 

 前の職場でも相当に出来る人だったらしく、会社を辞めるとき相当引き留められたらしい。

 そんな話を本人から聞いた。

 

「──いつ復帰してもいいようにポジションは残しておくからって言われたけど、産休じゃないんだから復職する気はないですー、って言ったんだけどさ」

 

 何本目かの発泡酒を開けながら笑いながらそう言った母はそれなりな笑顔だった。

 なんだかんだで認められたのが嬉しかったんだろう。

 

 それにしても、あれだけ父に”飲みすぎ”って注意してたのにその本人が一番飲んでるという……まあ今となってはいい思い出なんだけどね。

 

 でも、お父さんはスポーツドリンクでお母さんはお酒……そう考えるとなんだか相性はそんなに良くなかったのかもね。

 

 いつからか、母は別れた父の愚痴を話さなくなった。

 

 なんでそんな事言うんだろうって思ってたけど、それってただ単に寂しさからだったんだね。

 

 それがわかるようになった。

 

 だってわたしも同じだったから。

 ずっと、ずっと寂しかったから。

 

「どうしたの? 何かわたしの顔に付いてるかしら」

 

「んーん、何でもない」

 

 真顔で尋ねる母にそっけない返事を返す娘。

 

 そこにはなんの気負いも緊張もない、ただただ普通のやり取り。

 だからこその幸せ、何気ないちょっとした幸せを感じる。

 

 欲しかったものはきっとこんな他愛のないもの。

 でも、求めようとすれば意外と難しいものだった。

 

 ”簡単なのにやり遂げるのは難しいこと”。

 

 もうだいぶ前に聞いた気がする言葉、どこかへ置いてきたような想いの残滓。

 

 何が原因でそう言ったのかもう()()()()()()()のだけれど。

 その答えがこれなんじゃないかと思っている。

 

 遠くに行ってしまった想い。

 

 それがいいとか悪いとかじゃなく、そうなってしまっただけのこと。

 

 人づてに母から聞かされたとき、何の感情も湧いてこなかった。

 悲しいとも寂しいとも思わなかった。

 

 むしろ幸せになってほしいと願った。

 

 わたしとじゃなく別の、自分の幸せを求めて欲しいと。

 

 そう、幸せ。

 

 わたしは幸せになる資格なんてない。

 だからせめて、彼女にだけは幸せになってほしかった。

 

 そう、だったのに。

 

「なんか頭がくらくらしてきたわ……今頃になって疲れが出てきたみたい……やっぱり寝不足からきてるみたいね……」

 

 壁に寄りかかりながら母がふらふらとした足取りで寝室に向かっていた。

 

 その様子は本当に疲れているようで、足がおぼついていない。

 

「お母さんは早く寝て。後はわたしがやっておくから」

 

 母の様子を気にしながら、少女は脱ぎ散らかした靴を綺麗に並べた。

 この靴でどこかへ歩き回ったのだろうか、いつも綺麗に手入れしているのに、今日はやけに汚れていた。

 

 この泥のような汚れが幽霊の仕業というわけではないとは思うが、母の言う”何か”はあったんだろうと思う。

 

 それでも幽霊が出たとは信じられないのだが。

 

「ごめん、後は頼むわね。でも学校へ行くときは一声かけてね。朝食は無理だけど見送りぐらいはしたいから」

 

 母親らしいセリフを言う母親。

 それがなんとも母性を感じさせて、少女の胸をどきっとさせた。

 

「もう、小学校の入学式じゃないんだから。でも……うん、わかった。家を出る前に声をかけるね」

 

 屈託なく笑うその仕草に、咲良は言葉通り娘の小学校の入学式を思い返していた。

 

(……あの頃とそんなに変わってないわね)

 

 くすくすと笑う母の姿に娘は理解できず何度も首をかしげた。

 

「んー、何が面白いの?」

 

「いいのよ、あなたは気にしなくて。あ、それよりも」

 

「なにー?」

 

 母とこうして話しているのは楽しいが、いい加減眠ってほしかったので、ちょっと面倒そうな返事をする。

 

「あなた、友達と喧嘩したんでしょ? 大体あなたがガサツなせいでトラブルが起きるんだからちゃんと謝っておきなさい」

 

「え~、わたしお母さんと違ってガサツじゃないもん。それにわたし誰とも喧嘩なんかしてないよ」

 

「……もう、一言余計よ。でも、確かそんな事……あら、おかしいわね」

 

「どうしたの?」

 

「うーん、なんか思い出せないのよね。あなたと同じようなこと言ってた気がするんだけど……どういうことなのかしら」

 

「はあ……もう寝た方がいいよ。お母さんあんまり顔色よくないし」

 

「また失礼なこと言うわね。でも、分かったわ、やっぱり少しは寝ないとダメよね。体にも精神にもよくないし」

 

「うんうん。でも、大丈夫? 一人で寝れるの~? 怖いんなら一緒に寝てあげるけど」

 

 からかうように口を寄せて悪戯っぽく笑いかける少女。

 

 その言い方があまりにわざとらしかったので咲良は腹を立てるどころかなんだか可笑しくなってしまった。

 

「やっぱり怖いから一緒に寝て~。”ママ”怖いわ~」

 

「えっ、なにそれっ!! ”ママ”だなんて初めて聞いたよっ!」

 

 思わずその場で飛び上がってしまった。

 

「失礼ねぇ。小さい頃は”パパ、ママ”っていつも甘えてたでしょ」

 

「そんな昔のこと覚えてないけど……もしかして思い出を捏造してない?」

 

「そんなわけないでしょ。それより……」

 

「ん?」

 

 母が突然真剣な口調になったので、少し緊張する。

 

「……なんでもないわよ。やっぱりもう寝るわね。後のことはお願い」

 

「あ、うん」

 

 何が言いたかったんだろう、と首を傾げるがそれ以上問いただすことはしなかった。

 少し背中を丸くしながら寝室へ向かう母の背中を少女はぼんやりと見送っていた。

 

「ねぇ、”(りん)”」

 

 少女が玄関前で突っ立っていると、暗闇の先から声が聞こえてきた。

 その声がなぜか他人事のように聞こえて、一瞬何のことか分からなかったぐらいだ。

 

 なに──、と返事をする前に母の声が廊下に響く。

 

 寂しい廊下の中に明るい幻燈の様な声が反射して、わずかながらに色が灯った気がした。

 

「一応、玄関前に”塩”、蒔いておいてね。本当になにかあったら怖いし。それと戸締りはしっかりしておいてね」

 

 はいはい、心でぶっきらぼうな返事をする。

 お母さんは変なところで繊細だった。

 

「うん、わかった! お休みなさいお母さん」

 

 いい子を演じるつもりはないけど、今はこう言ったほうが良い気がした。

 

 一瞬”ママ”って言った方が良いのかと思ったりもしたが、あまりにもアレ過ぎるのでやめておいた。

 

 とりあえず塩を取りにキッチンへ出向くことにする。

 自宅はパン屋を併設しているので二つキッチンが備え付けてあった。

 

 古いキッチンがあったのだが、昭和より古い年号のものだったので、勿体ないが全て交換したのだ。

 

 だから家の外見とは違って、今風のキッチンになっている。

 ただ予算の都合で中古品や特売の品ばかりなのだけど。

 

 小綺麗な対面式キッチンの前にある白塗りのテーブル。

 これも一緒に新調したものだ。

 ところどころにある小さな傷は中古品であることの証だったが、限られた予算内で誂えたものだから仕方がない。

 

 それでも結構気に入っていた。

 それは燐が自分が選んだデザインだったから。

 

 そしてそれを母が買ってくれた。

 

 母に認められたみたいで嬉しかった。

 

 白いテーブルにはテレビのリモコンしか置いていない。

 

 このテーブルの良さは何も置かない時が一番輝いている、燐はそう思っていた。

 リモコンはまあ、特権扱いとして認めているが。

 

「これでいいか」

 

 燐はキッチンの隅にあった、食塩の入った瓶を手にする。

 

 ”塩を撒く”を額面通りに受け取ったので、燐としてはゆで卵をに塩を振りかけることとほぼ同義だと思っていた。

 

 青いキャップの瓶を手に玄関前まで行くと、下駄箱の上に置かれていたエコバッグが目に付いた。

 

「お母さん、また忘れてるよ……」

 

 半ば呆れたように呟くと、燐は何ともなしにその中を覗いてみた。

 

 それは普通の行為だったが、中身は普通ではなかった。

 

 なぜなら、予想だにしないものが入っていたから。

 

 燐の予想では中には空になったペットボトルが数本と小さな備品が入っているはずだった、それはさっき母が見せてくれたから。

 

 でも、違った。

 

 最初に出てきたのは違うものだった。

 

「これ、毬だ」

 

 手にしたものが間違いでないことを確認するように少し大げさに口に出してみる。

 

 入れた覚えのない毬が、エコバッグの中から出てきたのだ。

 

 七色の糸でかがられた手毬。

 それは何故か知っているもの。

 

(──そうか、だから”あの時”)

 

 燐は毬を手にしたまま遠くをみる仕草をした。

 

 忘れようとも忘れられない青と白の世界。

 わたしはそこに確かに行った。

 

 無人のプラットフォームに大きな水溜まりの池。

 

 青いドア。

 

 風も吹かない風車の森。

 

 夢のようで夢じゃない世界。

 

 ”あの人”とまた逢ったのは風車の上。

 相変わらず風も吹かない場所だったけど、あの人の髪は揺れていた。

 とても綺麗な黒髪が音もなく流れていたから。

 

 だから、そんなに……寂しくなかった。

 

 ひとりだと泣いていただけだと思うけど。

 

 あの人がいたから、わたしはまた戻ってこれたんだと、思う。

 

 ”オオモト様”は優しかったから。

 

 

「──ねぇ、お母さん! この毬、どうしたの!?」

 

 寝室に戻ったであろう母親に玄関から声をかける。

 

「……」

 

 結構大声を出したのに返事は帰ってこなかった。

 もう、寝てしまったのだろうか。

 

 なんとなく胸騒ぎを覚えて燐は急いで母の寝室へと向かった。

 

 毬を小脇に抱えたまま、つるっとした木の廊下を駆け抜ける。

 

 ときおり廊下がぎいぎいと鳴く。

 

 その音に妙な懐かしさを感じて、燐は一瞬ぼんやりとした。

 

 前に住んでいた中古マンションよりも格段に広い廊下。

 学校ならともかく、古い廊下があるところなんて今はあまりないのに。

 

(なんでだろう、前にもこういうことがあった、とか?)

 

 一つ角を曲がった先に母親の部屋がある。

 元は襖部屋しかなかった古民家だが、新しく住むにあたって全て取っ払って、代わりに壁とドアを付けて独立した部屋に作り直し(リノベーション)したのだ。

 

「……お母さん」

 

 バタバタと部屋の前まで行くと、それまでの慌ただしさとは一転して平静な声で呼びかける。

 

 その声は部屋の中からでも聞こえるほど澄んだ声だったのだが、それでも母の部屋からは返事はなかった。

 

 燐は軽くノックしてみた。

 

 こん……こん……。

 

 応答はない。

 今度は少し強めにノックしてみる。

 

 こんこんこん。

 

「………」

 

 やはり応答もなく、出てくる気配もない。

 

 まさかとは思うが……ちょっと躊躇したのち燐は部屋のドアに手を掛けた。

 スライド式のドアが音もなくするりと横に移動する。

 それがあまりにも滑らかに動くものだから、拍子抜けしてしまった。

 

「……お母さん?」

 

 小声で母を呼びながら部屋へと入る。

 

 明かりのない母の部屋はさながら海の底のような仄暗い異空間だった。

 けれども、独特な母らしい匂いがしているのですぐに分かる。

 多種多様なフレグランスの香り、わたしにはまだ似合わない感じの柑橘系の香り、それが充満した母の部屋。

 

 それにしても照明はともかくクーラーも点けていなかったようで、部屋の中はちょっとした蒸し風呂風味だった。

 

 暗い部屋を手探りで進むと何かが足に絡みついてきた。

 

 燐はそれを蛇か何かと勘違いして思わず悲鳴を上げそうになった。

 すんでのところで口を抑えると、足に絡んだものを指先で摘まみ上げてみる。

 

 薄いブルーのレースの派手な紐に二つのカップが垂れ下がっていた。

 

(なぁんだ、お母さんのブラじゃん……)

 

 心底ほっとしたように呟くと、その紛らわしいものをその場に投げ捨てる……ことはせず、律義に畳んで白い棚の引き出しの中に綺麗に並べ入れた。

 

(相変わらずだらしないなぁ)

 

 暗くてよく見えなかったが、部屋のあちこちには脱ぎ散らかした衣服が散乱していた。

 さきほどまで来ていた黒のスーツもしわくちゃのまま、床に転がされている。

 

(ほんとにもう、せっかくのスーツが皺になっちゃうよっ!)

 

 慣れた手つきで衣服を片づけていく。

 暗がりの部屋の中なのに、どこにしまうのかが分かっているのはいつもやっているから。

 

 外ではしっかり者で通っている母も、家に帰ればこんな感じだ、

 

 つまり、これはいつものわたしの仕事なのだ。

 

(こーゆーとこがお父さんに愛想をつかされちゃったんじゃないの)

 

 衣服をたたみながら心の中でそっと毒を吐く。

 あらかた片付いただろう、燐は部屋の中央に鎮座してるベッドに近づいた。

 

 これだけ物音を出しているのに母は気付かず、すぅすぅと安らかな寝息を立てていた。

 さっき玄関で別れてから5分と経ってないのに既に夢の中にいるとは。

 

 燐自身もそうだが、母もこんなに寝つきがいいとは思わなかった。

 

(こういうとこ遺伝、なんだろうなぁ)

 

 なんとなく納得した様子で寝息を立てる母を見下ろす。

 

 穏やか寝息。

 当然いびきなどはかいてはいない。

 

 けれどもその顔の様相というか、ところどころに浮いている小さな皺の筋は彼女の年輪というか苦労のようなものを表わしていた。

 

 母の疲れ切った寝姿に胸が苦しくなってくる。

 それは次第に切なさと憂いを燐に訴えかけるようになった。

 

 ──結局わたしは。

 

(わたしは、自分のことしか考えてなかったんだ。お父さんのこと、お母さんのこと、お兄ちゃんのことだって、全部自分中心で考えてた……)

 

 多分、前から分かっていたことだったが、それを認めるのが怖かったんだと思う。

 

 他人を愛せれば自分も同じように愛してくれる。

 そう考えるのが楽だったから。

 

 ”愛されたかったら同情をすればいい”なんて、何かの小説で言ってた気がするけど、わたしはそれと同じことをしていたんだと思う。

 

 それで結局自分だけが傷ついてしまう。

 

 傷ついて、ひっかき傷だらけのボロボロになった心には癒しも、見て見ぬ振りも、なんの意味もないのだから。

 

 できることはただ一つだけ。

 

 ──認めること。

 

 自分の弱さを認めること。

 

 でも……それだけじゃダメなんだってことを教えてくれた人がいた。

 

(それがお母さん、だよね)

 

 お母さんはわたしにずっと寄り添っていただけじゃない。

 ちゃんと先を考えて動いていた。

 がむしゃらじゃない、確固たる目的があって動いていたのだから、素直に凄いと思う。

 

 そのせいで自分の楽しみが減ったみたいだけど、それでも動くことを止めなかったお母さん。

 嫌なことだってやりたくないことだってあったはずなのに。

 

(でも、ごめん。わたしは何も変わってない。弱い心のままなんだよ)

 

 燐は母の部屋で一人涙していた。

 それは実際には流れていないが、心の奥は涙で溢れに染みを作っていた。

 

 非日常な体験をしても、すごく辛いことがあっても、何も変わらない。

 住む場所が変わったって、何も変わらなかった。

 

 わたしはわたしにしかなれなかった。

 

 どんなに強がってもそれだけは変わらない、変わりようがないのだから。

 

 学校に行かなくなっても、自分に傷をつけてもこれといった変化はなかった。

 

 ただ虚しさが募るばかりで。

 

 お母さんはなぜか怒らなかったけど、それが余計に辛かった。

 

「わたしはなんのために生まれたのかな」

 

 暗いガラスのような瞳で、母を見る。

 外よりも暗い闇の中にもっとも深い闇がその瞳に宿っていた。

 

 少女は毬を両手に抱えてみる。

 

「やっぱりこれ、あの時のだよね」

 

 あの時、あの場所、あの人。

 色々な”あの”が燐の中で駆け巡る。

 

 どれが本当の”あの”なのかは分からない。

 

 とりあえず燐は、その人がしていたように毬を上に放りなげてみる。

 

 ちりん、ちりん。

 

 小さな鈴の音が静まり返った部屋の中に鳴り響く。

 

(この毬、中に鈴が入ってるんだ……)

 

 投げた瞬間に気になったのはそれだけ。

 天井にぶつかるかも、なんて気にしなかった。

 

 燐が慌てて気付いたときにはもう遅く、毬は瞬きほどの速度で天井すれすれまで上がっていた。

 ちょっとしたことになるのではと危惧したが、燐の憂いを笑うかのように毬は天井を掠めただけで落ちてくる。

 

 その奇妙な毬の動きをじっと目で追っていた。

 一秒にも満たない毬の軌跡がなぜだかとても長く感じられた。

 

 そして毬はいつの間にか手に戻ってきていた。

 そのことを知らせる様に、手のひらの上で毬がまたちりん、と鳴った。

 

 傷一つない手毬。

 綺麗な糸で表面を飾り立てられている。

 

 工芸品としても良く出来ているように思える。

 価値の知らない燐でさえもその出来栄えに感嘆するほどだった。

 

(偶然か、必然か……なんか、そんなこと言っていた)

 

 言葉が唐突に蘇る。

 

 あの人は毬が手元に戻ってくることを偶然と言っていた。

 それは毬だけじゃなく、”この町で”起こったこと全てが偶然だと。

 

 わたしが巻き込まれたのも、お兄ちゃんが二つに分かれたのも。

 

 そして……。

 

 とても悲しいことがあったのも全て偶然。

 

 じゃあわたしが今ここにいるのも何かしらの偶然が働いたからなのか。

 だとしたら人間の意思って何なんだろう。

 

 そんな哲学めいたことを考えても何の答えはない。

 

 もし、もしも。

 

 今、目の前で寝ている母がこのまま目を覚まさなかったとしたら……わたしは一体どうするんだろうか?

 

 また、大切なものを失ったらわたしは今度こそ……。

 

 そんな刹那的な考えを振り切るようにかぶりを振ると、自身の心の狭さを憂いて、燐は嘆息した。

 

「燐?」

 

 闇の中から声がしたような気がして、はっとなると黒の中で二つの目がこちらを見ていた。

 半開きの瞼から覗く目は微睡みとちょっとした疑問母がこちらを見ていた。

 

 その純粋な視線に耐えかねて、燐は慌てたように手をばたばたとした。

 

「あ、えっとぉ、ごめん起こしちゃった? あの、さ。この毬どうしたのかなって……」

 

 言い訳めいた言葉を連ねる我が子の姿を見ても頭が回らないのか、半ばまだ夢見がちな症状のまま、咲良は呆然としていた。

 

「あ~、なんだったっけそれ。たしか……ゆーれーの忘れ物、だと思う……悪いけど後で交番にでも届けててねぇ~」

 

 ふぁ~、大きな欠伸を語尾に付けて一通り喋ると、お母さんは満足したのかこちらに背を向けてまた夢の世界への扉を開きに行ってしまった。

 

 なにそれ~、とお決まりの反論をしようとする前に、背を向けた母がぽつりと呟いた。

 それは寝言だったのかもしれない、でもはっきりと耳に届く言葉で言っていた。

 

「あなたは、あなたよ。何者でもないわ」

 

 それこそ哲学的な言葉だったが、特に意味がありそうなわけではなさそうだ。

 

 それでも。

 

「うん……ありがとう」

 

 そのわけのわからない言葉がなぜだか救いになった気がしたので。

 

 燐は素直に微笑んだ。

 

 今はそれで良いんだ、焦る必要なんてない。

 そう、思えたから。

 

 

 部屋を出るとき、もう一度母の方を振り返った。

 

 さっきのは寝言だったのか、小さく寝息を立てていた。

 

 燐は思い立ったようにまたベッドまで行くと、穏やかな母の額に軽いキスをした。

 

 

 ……………

 …………

 ………

 

 

「えっとぉ、これでいいみたいだね」

 

 玄関の隅に小さな皿をことんと置いた。

 その上には山のよう盛られた塩。

 

 ”塩を撒く”の意味がイマイチ分からなかったので、スマホで調べてみた。

 

 最初のでも間違っていないみたいだが、魔除けとなるとこういった形が定石らしい。

 

 食塩ではなく、ちゃんとした塩、小皿に中心にはあまりに可愛いとは言えない猫の顔が書いてあった。

 

 家にあるもので適当に見繕ったものだが、それなりに形になった気がする。

 それに塩はあとで回収してもいいしね。

 

(まあ、さすがに食べる気にはならないけどね……ナメクジにかけるとかあり、いやなしだね)

 

 皿の上の白く雪の様な小さな山脈になんとなく愛着が湧いてきて、燐はその頂を指でつまんでみる。

 

 指の上の塩の絨毯、それを雪のように白い塩の山に降らしてみる。

 

 雪というよりも霙のような重さで落ちていく塩の雪。

 

 その情緒もない落ち方がなんともストレートでおかしかった。

 

 指に残ったそれを舐めてみる。

 

 ぺろり。

 

 舌先に鋭いしょっぱさが傷のように残る、このしょっぱさが魔除けになるのだろうか。

 

 でも、塩は料理にも欠かせない。

 

 パン作りにだって当然塩は必要だし、人気の塩バターパンは塩がはないと始まらない。

 ブリオッシュにも……塩はいるね、うん。

 

 そう考えると塩って結構すごいかもしれない。

 味付けにも使えるし魔除けにも使えるのだから。

 

 シシュポスが登った山はもしかすると、このような塩の山だったのかもしれない。

 

 ただ果てない徒労を与えるだけでなく塩を舐めることで疲れを癒し、そしてまた岩を運ばせるために。

 いわゆるアメとムチの関係があったのかもしれない。

 

「あ、砂糖でも良かったかな? うち砂糖もいっぱいあるんだよね。そのほうがナメクジも喜んだかも」

 

 そうなるともはや魔除けでもなんでもなくなるのだが、当の本人は気にせず目の前の白い子山に話しかける。

 

 そんな謎めいた情感をもって塩の山を眺めていると、その白い頂が一層光ってるのを見かけた。

 玄関前の人感センサー付きのライトの明かりでは出せない、もっと高貴で安らぎに満ちた柔らかい光の宝石。

 

 燐はしゃがんだままその後ろ、その遥か上空を見上げる。

 太陽が昇る直前に見ることできる星、金星が青と白の間で浮かんでいた。

 

 こんな時間まで起きてたことはなかったのですごく新鮮な光景だった。

 

 青と紫の狭間でつつましく光る一つの星。

 あたりの星影がなくなっても、異彩を放つように一人だけで輝き続けている。

 見つけて欲しいような、でも見られたくないようなそんな思慮深さで。

 

 太陽が昇る間のささやかな時間で自分を表現するように輝いていた。

 

 だが、そんな神秘的な光景をみても燐は別の事を考えていた。

 美しい光景よりももっと現実的なこと、そう──。

 

「そういえば……車のハザード付けっぱなしだったじゃん。お母さんわりとよく忘れるんだよね。バッテリーが上がっちゃうからって言ってるのに」

 

 ぐっ、と上体を起こすと、ポケットから取り出した車のキーを手に行進するかのような高揚感を持って軽自動車へと向かう。

 

(なんか、自分の車みたいな言い方してたかも)

 

 その胸の高鳴りは車を動かす口実が出来たこと。

 

 まだ燐は免許を持っていないのだが、こうした”非常事態”が起きた時に車を動かすことがあるのだ。

 

 当然無免許なので見つかれば罰則ものなのだが、前に住んでいた町と違い、この町(小平口町)はどこか素朴で閑散としているので、こういう事には寛容……な気がしていた。

 

 それに運転するのは初めてじゃない、お母さんが疲れた時運転を変わることもあるし、自分一人で運転したことだって結構あった。

 

 夏休みという期間それほど退屈を覚えなかったのは新しい環境と、この新しい技術(ドライビング)を覚える楽しみがあったから。

 

 でも、本当のところはちょっと違うのかもと思ってもいた。

 

(あの時確かにわたしは車を運転していた。でも、何のためだったのか、それがよくわからないんだ)

 

 モヤモヤした感情が膨れ上がり爆発しそうになった。

 けれどもそれがわたしを行動させる原動力となった。

 

 それでもなんとなく街中を歩き回るのには抵抗があった。

 前にもまして人の目が気になってしまう、特に男の人の視線には敏感になった気がする。

 特別な意味はない、と思うけれど。

 

 だから夜に活動することが多くなった。

 

 もっとも昼は母の手伝いで開店の準備や片付けで忙しいので夜しか空いている時間がないのだけど。

 

 それにお母さんが気遣ってわたしを昼間連れ出そうとはしなかった。

 

 なんでだろう? あんなに青い空が好きだったのに、今はあまり見たくない。

 雨の日のほうが幾分落ち着く気がする、どうしてだかわからないけど。

 

(でも、今のこういう景色も好きだなぁ。いつかちゃんと免許が取れたら、朝焼けをみながらドライブしてみたいな)

 

 ささやかな願望を胸に、自家用車と化した我が愛車”ノクチュルヌ号”へと向かう。

 

 夜を思わせるそのボディーカラーを見て、自分が命名したのだが、母は恥ずかしがって一向にそう呼んではくれなかった。

 

「可愛い名前なのにねぇ? ”ノクちゃん”っ」

 

 ボンネットを軽く撫でると、ノクちゃんはカチカチとハザードランプで返事をしてくれた。

 ノクちゃんは小回りも聞いて燃費もいい、可愛いやつなのだ。

 でもちょっぴり照れ屋さんでいまは耳をたたんでいるけど。

 

 燐が運転席のドアに手を差し込むと、ノクちゃんは観念したように両耳を広げた。

 この何が始まるような期待感、燐はそれが好きだった。

 

「──ねぇ、太陽が昇り切ったら星はどうなると思う?」

 

 これから運転席に乗り込む瞬間のことだった。

 いっさいの気配はない。

 

 ただ声がして、そしていつの間にかそれが燐の背後に立っていたのだ。

 

 早いとかそういう感じではない。

 突然その場に現れたような、そんな人知を超えた動きをするものがすぐ後ろにいるのだ。

 

 振り返るだけの余裕もなく、ただ目線だけを横にして背後をみる。

 燐は息をするのも忘れてそのことだけに集中した。

 

 赤い着物、そこから覗くすらっとした手足。

 前髪を短く切り揃えた、小柄なおかっぱ頭の少女。

 

 その少女の顔を見て燐は目を見開いた。

 知っている顔、だった。

 

 けれども喋ったことはない。

 別の姿では見たことがあった。

 

 ()()()() ()見たのはこれが初めてだったから。

 

 だから声も出なかった。

 

 その少女は雨が降っていないというのに傘を差していた。

 瞳の色と似た緋色の和傘、それを華奢な肩で悠然と担ぎ持っていた。

 小さな白い手を握りしめて。

 

 傘から覗く大きな瞳は星のような純粋さで上を見ていた。

 その緋色の眼差しは自分よりも遥か上の藍色の空に向けられていた。

 

 まるでもうすぐ雨が降るかのような繊細な視線で。

 

「そうじゃないわ。太陽が昇ると星が落ちてくるのよ。星の光は宇宙からの力の源、それが幸運と言う形になって地上に染み落ちるの」

 

 小さな唇から不思議な言葉を紡ぐ少女。

 叙情歌のようなロマンティシズムな言葉はその可憐な姿ととてもマッチしていた。

 

「星が?」

 

 降ってくるわけがない、燐はそう言おうとしたが、少女があまりにも純粋に空を見上げているものだから、それ以上何も言えなかった。

 

 だから燐も少女の隣で同じように空を眺めた。

 

 隣にいるが母の言う幽霊かもしれない、でもそれは問題ではなかった。

 

 だって、空がとっても綺麗だったから。

 何物かどうかを詮索するのはその後でもいいはず。

 

 とても奇妙な感覚だったから。

 

 カチカチと急かすように鳴るハザードランプを置いてけぼりにしたままで。

 

 

 空が星を零すその時を二人はただ一途に待ち続けていた。

 

 

 

 

 ────

 ───

 ──

 







★ 祝、ゆるキャン△ 2期放送開始 & 単行本11巻発売!! ★

2期放送直前まで本当にやるのかと謎の疑心暗鬼をしてましたので、結構ドキドキしながら見させていただきました。星座待機まではしませんでしたがっ。でも、アニメを見るだけでドキドキするとか何時ぶりでしょうか。

それで感想なんですが──。

第1話。
・いきなりアニオリ展開から来るとは思わなかった──!! ですマジで。よもやリンの中学時代から始まるとは……でも、良いサプライズでした。
そして新オープニングなんですが……どことなく某、山歩きアニメ風味で結構好きです。個人的には1期OPよりも好きですねー。曲と動きのマッチングがたまらないです。

第2話。
・原作で言うところの25話、26話をアニメ化した話なんですが……なんかすっごく密度が濃かったぁ。なんかもう一つのセリフも逃すものかってぐらいの勢いで再現してましたねー。
そのせいか体感1.15倍速でしたよー。大晦日~元旦の話ってこんなに情報量多かったのかぁ……漫画だとそこまで気にならなかったんですけどね。
アニメになって動きがつくとこうも違った印象になるんですねー。

出来るだけ原作のいいところを取ろうした結果なんだけど、遊びを入れたところが車でのシーンだけぐらいですかねぇ。
あとは、福田海岸のチャリティー賽銭箱の件、流石にセリフにはしなかったようですが、鳥居のシーンではしっかり書いてありましたね。そういうのは個人的に良いとおもいます。

見附天神での”ラス詣”や謎の白い犬まで再現するとは思わなかったなあ。特にラス詣はアニメだと何を言ってるのか分かり辛いのに敢えて言いかえをせずにそのまま採用するとは……原作愛ですねぇー。

それと夜のキャンプシーンはアニメならではの表現でよかったですねー。原作にはなかった風車を書いてるのは良かったです。

そうそう、今年は初日の出を拝みに行かなかったので、ゆるキャン△ で初日の出を堪能させていただきました。
今年もまだ緊迫した状況が続きますけど少しでも世界的な快方に向かってくれればと思います。

青い空のカミュが好きなってから若干風車フェチになってる気がするなぁ……車を運転中、風車が見えるだけでテンション上がってついよそ見が……(危ないので止めましょう!!)

そういえば、私はBSでゆるキャン△ 見てるんですけど、前番組が何故かきんいろモザイクの一期なんですよね。
だからか余計にゆるキャン△ の密度が濃いっていうか尺当たりの情報量が多く感じます……。流れを知ってる人でも結構追いきれなかったのではと思ったりします。

ですが、2期はこんな感じにならざるを得ないでしょうねぇ。そうじゃないと伊豆キャンも含めて1クールに収めるのは無理っぽいですしねー。

今後の尺の使い方が楽しみですねー。もしかすると伊豆キャンで詰め込み過ぎて、二倍速アニメになってたら別の意味で面白いかもしれないです。
リンの黒船来航はカットするかなー。結構好きなシーンなのでどうなることやらー。


さてさて、話は変わってしまうのですが、今世間を騒がしているマスクの話題を少しだけ。

ほんの数日の間に布やウレタン製のマスクがダメな子扱いになって、普通の不織布(ふしょくふ)マスクのほうが信頼性が高くなってしまうとは思わなかったですよ……。

1年前のようにマスク不足にはならないのでしょうけど……うむむむ、なんか煮え切らないですねぇ……。


あ、それと前回、今年は迂闊なことをしないと言っていたのですが、早速もう迂闊なことをしてしまいました……。

まったく興味がなかった某ミスドの行列に並んでしまうとはわあああぁぁ。っていうかなぜ行列作ってるし。有名チョコとコラボしたドーナツがそんなに人気なんでしょうか。

そういう”みーはー”な精神が密を呼んでしまうと言うことをなぜ理解できないのかぁー(特大ブーメラン)

カミュのペストの一文を借りるなら、”何人も、最悪の不幸(新型コロナ)の中にさえ、真実に何人のかのこと(ミスドの新作ドーナツの為に並ぶこと)を考えることは出来ない”、と言った感じになるかな? なんか違う……。

……まあ、美味しかったんですけどねー。っていうか甘っ! ドーナツ食べるなんて久しぶりだったからすごく甘い……珈琲がなければ即死だった……甘さで。
個人差によるとは思いますがっ。


それではでは──。




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Make a compromise


 青と白。

 白と青。

 青い空と白い大地。

 二つの色しかない世界。

 静かすぎて耳鳴りがする世界。

 日の光をいくら浴びても暑さを感じることはない不思議な世界だ。

 でも、良く知ってる世界。

 目の前には銀色に光る線路と白いプラットフォームが見える。

 これにも見覚えがあった。

 あの家は……ここからでは良く見えない。
 まだここにあるのだろうか?

 角度を変えて確かめようと、身体を動かしてみる。

 ……
 …………

 ……なぜか体が動かなかった。

 改めて自分の体を見回してみる。

 ──なるほど、と思った。

 わたしの体には動くために必要なものがなかった。

 だから動けない。

 動きたくとも動けない。

 でも不思議とパニックにはならなかった。

 困惑はするけど、仕方がないと思ったからだ。

 それは、他人事のように思えたから。
 自分のことなのに、いまいち実感が湧かなかった。

 ……ここから動けないのなら何ができるんだろう、ほかにやれることはあるのかな?

 きょろきょろと目を動かすと、すぐ真下に線路が続いていた。

 どこまでも続くように先の見えない長い線路。

 ()()()()()()()()()()()()()その名残すらなかったように、日の光を浴びてきらきらと輝く線路は真新しさしか感じなかった。

 線路の間の枕木の隙間の白い砂利に混ざって、何かが転がっているのが見える。
 それは石というにはあまりにも整いすぎていた。

 だからすぐ気づいた。

(あ、カタツムリの殻だ)

 普通に声を出したつもりだったのだが、なぜか言葉にはならなかった。

 その事はとりあえず置いておいて、わたしは殻を拾い上げようと手を伸ばす。

 ……?

 どうやら物を掴む手もないようだった。

 手も足もなく、喋る口さえもない、おまけに首も動かせない。
 こんな自分になんの価値があるのだろう。

 考える脳だけは持っているようだが、それでは何もしないのと同じだった。

 そう、何もしないこと。


 ……それでもいいのかもしれない。

 別に特別なことをするわけでもなく、ただここにいるだけ。

 それでいいと思う。

 もともとわたしには何もできなかった。

 自分一人でいいかと思ったけど、結局一人では何もできない。

 だからこれが末路なんだと思う。

 勝つとか負けるとかでなく、末路。

 わたしはこうなることが運命づけられていたのかもしれない。
 最初から、生まれたときから。

(みんなはわたしを望んでいたと思うけど、わたしはそうじゃなかったんだね、きっと)

 誰の為でもない、自分のため。

 わたしは最後まで自分を認めてあげられなかった。

 今動けない自分こそが本当の自分なんだと思う。
 何物にも縛られず、期待されずにただ立っているだけ。

 ほかには何もない。

 出来ることはただ空を眺めるだけ。

 そしてもし空を眺めるのに疲れたら、今度は真下にあるカタツムリの殻を見つめていればいいんだ。

 わたしはそれでいい。
 それだけで十分退屈することはなさそうだし。
 
 それにこの世界は夜も来なければ雨さえも降らないのだから。

 あれ?

 ずっと、ずっと青い空と思ってたのに色が変わってる。

 ほんの少し前まで真っ青な空だったのに、今は赤い夕焼けの空に変わっている。
 もうそんなに時間が経ったのかな、時間の概念なんて感じられないけど。

 あれれ、また変わった。
 今度は朝焼けのような金色になってるよ。

 やっぱり時が過ぎるのが早いのかな?
 それともわたしの頭がおかしくなったのかも?

 あ、そうじゃない。
 おかしくなったのは頭じゃなくて目だった。

 だって左目だけで見ると赤くなって、右目で見ると空がきいろになる。

 でも、両目で見ると青に変わるんだ。

 それは空だけじゃなくて、周りの景色もそれぞれの色が混ざった景色に変わっていた。

 赤い空にはピンクの雲。

 黄色い空にはバナナみたいな可愛い雲。

 青い空には……やっぱり白い雲だ。

 これってすごく怖いことなんだけど、不思議と気持ちは落ち着いている。

 あか。

 きいろ。

 あお。

 あか。

 きいろ。

 あお。

 なんだか、小さい頃に歌った童謡みたいだった。

 リズムをとるように瞼を閉じたり開いたりするとその度に色が、色彩が変わっていく。
 わたしが合図するだけで世界が変わっていくようで、ちょっと有意義な気持ちになった。

 でも……やっぱり空は青い方がいいな。

 どこまでも澄んだ青い空が。

 ()()()()溶け込んだ、青い空が。

 だからわたしは両目で空を見ている。

 そうすることしか出来ないけど、それでもあなたに会えるような気がするから。

 それに。

(言ってた通り、すぐに慣れちゃったみたいだね。そのほうが楽だもんね)

 わたしはここで待ってる。

 どれだけ時が経っても、ずっと青い空を見ながら。

 ずっと。

 ずっと。





 黒が赤紫になって青みが空に滲みだす。

 

 絵の具を零したような夜のしじまに砂の様な小さな星々が消えそうなほどの微かな光で瞬いていた。

 

 燐はパジャマ代わりに着ているライトグリーンの無地のTシャツにベージュのショートパンツ、素足にはピンクのストラップサンダルを引っ掛けていて、所謂ラフなスタイルで見知らぬ少女と空を見上げていた。

 

「やっぱりさ、星なんて落ちてくるはずもないよね」

 

 燐はたまらず口を開く。

 そう都合のいい状況に出くわすわけがない、そう言わんばかりの口調で。

 

 それでも視線は空の一点を眺めたままだった。

 

「……」

 

 燐の問に何も答えない少女。

 

 その沈黙が何か馬鹿にされているような気がしたので、燐は少し頬を膨らまして話を続けた。

 

 

「星ってさ、流れ星のことでしょ。でも、そうそう都合よく見れるものじゃないよね。流星群が見える時期とじゃないとダメなんじゃないかな」

 

 何かわかったような物言いで燐は少女を諭すように続けた。

 

 とは言うものの、今は何の流星群が見れるのかはわからない。

 燐はそこまでの天文的な知識をもっていなかった。

 

「……」

 

 それでも少女は何も答えずに空を眺めている。

 まるでそれしか見るべきものがないかのように。

 

 さっきから少女が黙ったままなので、燐がもう一度聞き返そうとしたとき、少女の細い指がすっと伸びて、天を指し示していた。

 

「えっ!? なに、今、星が落ちてきたのっ!?」

 

 燐は少女の示した方角に瞬間的に視線を合わせると、目をきょろきょろと動かしてみる。

 

 スポーツをやっていたおかげで動体視力には自信があったから、だからすぐにでも見つけられると思っていた。

 だが、少女の指し示した方向にはそれらしきものはなかった。

 

 流れるような星の影も軌跡もなかった。

 

 ただ青黒い空に少し色味が掛かった雲が流れているだけ。

 指さすほどのものではなかった。

 

 さらにいつの間にか星々の瞬ききもあらかた終わっていた。

 

 夜明け前の天体ショーは大した見どころもなく、アンコールもないまま閉幕してしまった。

 

「……結局、何も起きなかったよねぇ?」

 

 確認するようにつぶやく燐。

 

 自分の目では確認できなかったが、隣の少女にはなにかが見えていたのかもしれない。

 そう言った期待を込めてのものだった。

 

「期待してた……?」

 

 これまで黙っていた少女がぽつりとこぼす。

 

 あどけない声色は可愛らしさのなかに凛としたものがあった。

 

「あ、えっ!? そうゆうわけでもないけどさ……あんなこと言われたらちょっとは期待しちゃうんじゃない?」

 

 思っていたことをずばり言い当てられて、燐は手をぱたぱたと振りながら弁明した。

 

(なんでバレたんだろう? わたしすぐ顔に出ちゃうからなぁ)

 

 燐は子犬のように項垂れながら恥ずかしさのあまり指をもじもじとさせた。

 

 燐の急な変わり身の早さに首を傾げる少女。

 

「期待を裏切られたから落胆してるのね。でもそれは仕方ないことだわ」

 

「そうなの?」

 

 燐も首を傾げる。

 

「ええ、だって、あなたは本気で見ようとしなかったから。だから見えるものも見えなくなるのよ」

 

 再度、胸の内を少女に見透かされて燐は思わずうっ、と喉を詰まらせて唸った。

 

 少女の言うように確かに信用していなかった。

 

 それこそ子供だましというか、少女らしい微笑ましさ(リリカル)だとかそういうものだと思っていたから本気で取り合わなかった。

 

 少女よりも明らかに年上と自分では思っているのに、それを取り合わなかった自分の懐の狭さがなんとも恥ずかしかったのだ。

 

 顔を真っ赤に染めて何かに耐えかねている様子の燐を特に気にせず少女は話しだした。

 

「大丈夫。星は地面に降り注いだわ。幸運という偶然の種子を」

 

 納得するようなしないような、煮え切らない表情で燐は少女の言葉を黙って聞いていた。

 理解しようと頭を巡らすもその一片さえ拾うことが出来なかったが。

 

「幸運の力は太陽から星に向けて発せられるの。だから日中はその力を蓄えて、夜になると幸運の力の作用で星が輝くのよ」

 

「そして、日が昇るころその力は地面に降り注いでいく。そのおかげで大地は肥沃になったり、川や海が綺麗になっていくのよ」

 

 少女の細い首を伝わってでる言葉は小鳥の囀りよりも可憐で、雨のしずくのように透き通って聞こえる。

 

 まるでおとぎ話の住人様な面持ちで燐は少女の言葉に耳を傾けていた。

 

 だが少女の言葉は不思議の国に入りそびれた燐の耳は難しく、全てを理解することは到底叶わなかった。

 

(どうしよう、何言ってるのか全然わかんないよっ)

 

 助け舟を出すもののない状況で、燐の出来ることは一つだけだった。

 

「あ、えっとぉ、そろそろ帰ったほうが良いんじゃない。こんな時間に出歩いてたら家の人に怒られちゃうんじゃない?」

 

 頭が理解するよりも少し早く、燐は話題を有利な方向に変えた。

 

 この少女の言葉を理解するには時間が掛かる。

 それは苦手なジャンルの本を読むよりもつらかったから仕方がなかった。

 

「……家なら目の前にあるわ」

 

 話の腰をへし折られても少女は顔色一つ変えず、目で訴えかける。

 少女の視線の先には言葉の通り家が一軒あった。

 

 かさついた青のトタン屋根を被った色褪せた古民家。

 

「目のまえ……?」

 

 燐はきょろきょろと周辺を確認する。

 

 道路に面した住宅街の一角、両隣には家屋はなく、代わりに青々とした茶畑が広がっている、田舎らしい僻地な場所だった。

 

 だから少女の言う”目の前”には今出たばかりの家しかないわけなのだが……。

 

「まさかとは思うんだけど、それって」

 

「そうよ。ここがわたしの住む家」

 

 燐は驚きを隠せず、口をぱくぱくとさせる。

 

 この少女は何を言っているのだろう? ここはわたしの家で少女の家ではないはずなのに。 住む家、確かにそう聞いた、でも。

 

(どういうことなんだろう、だってこの子どう見てもわたしより年下だし、それに親戚でも見たことがない。じゃあ、まさかまさか………!)

 

「お、おおおお、お父さんの隠し子とか、とかなのぉ──!?」

 

 燐はパニックになって思わず少女を指さしながら叫んでしまった。

 

 燐の父、いや前の父は確かに異性に人気があった。

 歳を感じさせない飄々さは、燐から見ても父というよりかは年の離れた友達のような間柄だったから。

 

 それでも遊び好きという風には見えなかったが……。

 

(いやいや、だったら別の女の人のところに行ったりしないし。結構遊んでたのかも)

 

 父の過去は良く知らないが、離婚だって今回が初めてじゃないのかもしれない。

 

 新しい家に引っ越したと思ったら()()()に妹も出来たとか、そんな漫画みたいな展開……。

 

「……あなただって、わかっているはずよ」

 

「ふええぇっ!?」

 

 確信を持った少女の言葉に燐はすっかり動揺してしまった。

 

「あなたはわたしの事を知っている。それだけじゃない、全てを知っているのに無知を演じている。傷つきたくないから」

 

「わ、わたしが、全部、知ってる、の……?」

 

「ええ」

 

 燐は肩を震わせながら少女に問い返す。

 少女は平然と答える。

 

 その気丈とも言える落ち着きっぷりに燐は狼狽えたように一歩下がった。

 

「や、やややっぱり、そうなんだね」

 

「ええ、そうよ」

 

 さらりとした少女の黒髪から覗くあどけない瞳。

 少女は至って平静だったのだが、今の燐には何か悲しみを湛えた瞳に映っていた。

 

「過去を知ることは悪いことじゃないのよ。それを理解した上でどうするかが重要なのよ」

 

「うんうん、そうだよね、辛かったよね」

 

 少女に言われるまでもなく分かっている。

 

 両親が離婚するのは誰だって辛い。

 わたしのような高校生だって辛いのに、こんな小さな子を残したまま離婚するなんて。

 

(お父さん……信じてたのにぃ)

 

 燐は自分の心の中の父のイメージをぎゅっと握りつぶした。

 

「綺麗なものを大事にしたい、あなたはそれがどういうことか分かってしまった。だからこそあなたは悩んだ末に選び取った。未来ではなく尊さ、美しさを選んだのね」

 

「そうだよね、大人は汚いよねっ。わかる、わかるよその気持ち。わたしたちは綺麗だもんね」

 

 燐は目元を拭うような仕草をする。

 

 燐の大げさな態度に少女は小首を傾げるも、そのまま言葉を続けた。

 

「だからあなたはいなくなった。失うことそして穢されるが怖くなったから」

 

「いなくなったのはお父さんの方だけどねぇ。でも、ほんと大人って勝手だよね。離婚するぐらいなら結婚なんかしなければ良いのにね。こんな小さい子を残して、お父さん見そこなったよっ!」

 

「見そこなう?」

 

 少女は頬に手を当てて疑問を口にする。

 その仕草が本当に無垢を感じさせたので、燐は思わず目がうるっとなった。

 

「大丈夫っ! 今日からわたしがあなたのお姉ちゃんだよっ! お母さんにも言えばきっと分かってくれるからっ! ずっと、ずっとここにいていいからねっ」

 

 燐は感極まったのか少女を正面から抱きしめた。

 細い身体を包む幾何学模様の赤い着物が燐の腕の中で小さくなった。

 

 予想外の出来事に少女は小さな口を開けたまま、なすがままに抱かれていた。

 

 驚いた拍子で少女のか細い手から傘が滑り落ちる。

 乾いた音と共に地面に落ちる鮮やかな朱色の和傘。

 

 その時初めて少女の姿が空の下に晒された。

 艶のある美しい黒髪、透き通ってきめ細やかな肌、折れそうなほどか細い手足。

 少女のすべてが作り物のように整っていて比喩ではなく人形のようであった。

 

 これまで感じたことのない心の温もりに、少女は自分の輪郭がこのまま薄れてしまうのではないかと思うほどの衝撃を受けていた。

 

 このまま時が止まっても構わないと思えるほどの時間だったが。

 

「燐、苦しいわ」

 

 自分と言う存在がまだここにあることを確かめるように、少女は小さく呟いた。

 

「あっ、ごめん、なさい」

 

 少女の囁きで、燐は思い出したように身体を離した。

 なぜだか名残惜しそうな顔で少女を見つめていた。

 

 少女は小さく息をはくと、着物のシワを軽く撫でてて正した。

 そして地面に転がっていた和傘を拾い直すと、また同じように傘を差した。

 

 少女の艶のある仕草は同性である燐ですらどきりとさせられた。

 

「何か……勘違いをしているんじゃないかしら」

 

「えっ、あ、そうなの? そういえばわたし名前名乗ったっけ? もしかしてお父さんから何か言われちゃった? わたし込谷燐、だよ。離婚したとき苗字を戻すかどうかってお母さんに聞かれたけど、わたしは元のままが良いって言ったんだ。だって、わたしはわたしだしね」

 

 燐はぱっと思いついたように手を叩くと、矢継ぎ早に自分の事を話した。

 最後のほうは母の受け売りだったけど、燐はとても気に入っていたから、なんとなく言ってみたかったのだ。

 

「そう、じゃあ燐」

 

 ため息交じりに名を呼ぶ少女。

 その声にはどちらかというと呆れのほうが強かった。

 

「なになに? お姉ちゃんって呼んでも良いんだよ。あ、燐姉ちゃんでもいいし、燐お姉さまでもわたしは全然構わないよっ」

 

 健康的な白い歯を見せながらころころと笑う燐。

 

 妹が出来たことがよほど嬉しかったのか、それとも自分の境遇を理解してくれるものが出来たせいなのかは分からないが、自分でも不思議なほどテンションが高かった。

 

「あなたを姉と呼ぶことはないわ」

 

 落ち着いた声で少女はそう言い切った。

 

「うっ、そ、そうなの……じゃあ」

 

 燐は若干落胆した様子をみせるが、すぐに言葉を続けようとした。

 別の呼び方を考えたのだろうか。

 

 だが、その前に少女の声の方が一歩早かったので、それは叶わなかった。

 

「わたしとあなたに血のつながりはないわ。もっとも、()()()の血もかなり薄くなってはきているのだけど」

 

()()()……?」

 

 燐は少女の言葉を反芻する。

 その言葉に少し胸の痛みを覚えた。

 

「燐、あなたは最初からわかっていたんでしょう。わたしが誰であるか。そして自分がどういう存在であったのかを」

 

「わたし……」

 

 言葉の続きが出てこなかった。

 

 別に考えていなかったわけではなく、むしろ考えすぎていたから言葉が出なかったのだけれど、それを言葉にしなければ同じだと思っていたから、燐はそのまま黙り込んでしまった。

 

「わたしとあなたは違う血が流れている。けれど燐はわたしと似たような性質を偶然持っていた。それはもうあなたにだって分かっているはず」

 

 少女の言葉は燐の胸を静かに抉った。

 小さな痛みが心に傷をつける。

 

 だけどそれは今の燐には十分すぎる痛みだった。

 

「何も特別なことじゃないのよ。ただその力が強かっただけ」

 

「本当に、それだけ、なんですか」

 

 絞りだすように燐は口を開く。

 それは歳下相手ではなく、あの時のあの人と向かい合ったときの声色になっていた。

 

「ええ、だから誰も悪くない。そう言ったわよね」

 

 少女は諭すように言った。

 傍から見れば少し滑稽に見えるが、二人の間にはそんなことどうでもよかった。

 

 問題なのはなぜ今になって現れたのかということ。

 

「そうね。でも、それだって分かっているはず。あなただって戻ってきたのだから」

 

「……それは」

 

 燐は痛いぐらいに自分の手を握りしめた。

 自分でも分かっている、なぜ戻ってきてどうしてここにいるのかも。

 

()()()()()……わたしは、普通じゃないんですか?」

 

 燐はその名で少女を呼んだ。

 

 一目見た時から確信はあった。

 でもにわかには信じられなかったから、色々探りを入れてみたのだけれど。

 

 やっぱりこの子はオオモト様だと分かった。

 見かけだけじゃない、醸し出す雰囲気があのときのままだったから。

 

 オオモト様は一瞬目を伏せると空を仰ぎ見た。

 急に日が差したように空の明るさが目に付いて、朝の匂いを嗅いだ気がした。

 

「そうね……わたしにもわからないのだけれど」

 

 オオモト様は言葉を一旦区切ると、真っ直ぐに燐を見た。

 そして何かを決めたように大きな瞳を伏せて、オオモト様は話を続ける。

 

「あなたは周りを明るく照らす力を持っている。それは()()()()()と似たようなものなのよ。でも強すぎる光は周りに影響を与えてしまうの。太陽の光で作物は育つけれど、その光が強く長く続けばすべてが干上がり枯れてしまうように」

 

 静かな抑揚でオオモト様は言った。

 

 緋色の瞳は凪ぐような平静さで燐を見ていたが、傘を握る小さな指が落ち着きないように何度も握り直しているようにみえた。

 

 逆に燐はオオモト様にそう言われても特に動じはしなかった。

 自分でもなんとなく分かっていたことだったから。

 

「ねぇ、オオモト様。わたし普通の女の子なんだよ。お父さんとお母さんから生まれた、これと言って特別なものはない普通の女の子として」

 

 オオモト様の言いたいことはなんとなく分かる。

 でも普通は普通だ。

 特別なものはない、自分でも分かっていたことだったし。

 

「普通の基準なんてものはないわ。ただあなたは周囲に影響を与えることが出来る。そこには普通の定義なんてものは関係ないのよ」

 

「で、でもっ!」

 

 燐はオオモト様に詰め寄るかのように語気を強めて否定した。

 

 自分でも十分分かっていることだったが、それを認めてしまえば現実になってしまう気がしたのだ。

 

 普通じゃない自分の存在を。

 

(それはまるで、彼女みたいってこと?)

 

 急に脳裏に浮かんだ言葉に燐は心中で首を振ってそれを打ち消した。

 

「わ、わたしは普通です! 普通じゃないといけないん、です……」

 

 最後のほうは聞き取れないほどの小さな声になっていた。

 

 オオモト様はあなたの言いたいことはわかってるとばかりに傘をくるりと手の中で回した。

 

「普通であることはどうでもいいこと。問題は”あなた”と”わたし”がここにいる。そうでしょう?」

 

「う、はい」

 

 燐は歯に物が挟まったような顔でオオモト様を見つめた。

 

 あの時見た幼いころのオオモト様。

 でもそれは異変が見せてくれた過去の姿だと、そう言っていた。

 

 あの”青いドアの家”の人と同一だとしても、それほどおかしくはない。

 大人の頃の面影が小さい頃から現れていると思ったから。

 

 ただ存在には矛盾が生じていた。

 

 歳をとらない存在であるとか、何かで作り出した幻想か。

 

 ともかく()()の存在じゃない。

 

 だから音もなく背後に現れてもそれほど不思議じゃなかった。

 

 青いドアの家でもそうだったから。

 

 

「もし」

 

 オオモト様の小さな口が開いた。

 

「もしも、わたしが今、ここにいることにあなたが影響してるとしたら。あなたは、燐は、嫌な思いをしてしまうのかしら」

 

「それは……」

 

 燐はその問いにも答えられなかった。

 

 何故ならそれを認めてしまえば、自分は目の前の少女とそれほど変わりのない存在だと言うことになってしまう。

 

 だが、改めてオオモト様が言うということは……。

 

(やっぱりわたしは”普通”じゃないんだ)

 

 自分では普通の一般的な人間だと思っていただけにショックだった。

 

 でも、と燐は唐突に思うことがあった。

 

(こういうこと、”あの時”も考えてたのかもしれない。わたしは自分のことだけで精一杯だったけど、もしかして、こういった悩みを聞いてほしかったかな)

 

 今更なことだけど、同じ境遇になってわかった。

 

 特別な存在に優位性なんてものはないことを。

 

 普通であること。

 それはある意味幸せなことであり、安定したことなのだということ。

 

 特別な存在はみんなとは普通とは違う、だから必然的に孤立してしまうのだ。

 

 目の前にいる少女のように。

 

 わたしは()()の立場がイマイチよくわからなかったけど。

 今なら分かる気がする、きっとずっと戸惑ってたことも。

 

「わたしには、特別な力なんてないです。だって普通の子、だし……」

 

 絞りだすように言う燐に、小さなオオモト様は首を小さく振った。

 

「特別かどうかはわからないけど、あなたには引き寄せる力がある。でもそれは良いことだけではなく善悪に関わらず様々なものを引き寄せてしまうの」

 

「そういう力は誰しも持っているのよ。燐は少しだけ他の人より強かった。それがこの町の異変と偶然波長があってしまったの」

 

「……」

 

 燐には頷くことも首を振ることも出来なかった。

 肯定も否定も嘘のように感じられたから。

 

 ただ茫然とオオモト様の話を聞いていた。

 

「でも、あなたはそれに気づいてしまった。あの白い犬とヒヒが”あなたが望んでいた通り”の結果になってしまった時に。それも偶然なのだけれど、あなたはそれを認めなかった」

 

 心の奥底ではまだ信じていたかったこと。

 

 でも、この人に言われたことで揺らぎが生じだしている。

 それは急に夢から覚めたような、めくるめく感覚。

 

 認めたくないけど……認めざるを得ないことだった。

 

「オオモト様は、その、全てを知ってたんですか……」

 

 燐は両手を固く握りながら言葉を紡ぐ。

 すがるような瞳で目の前のオオモト様を見つめながら。

 

 オオモト様は小さく息をはき、目くばせするように瞼を閉じると、差していた傘をすっと畳んだ。

 

 手にした傘よりも小柄な体、全てのパーツが人形のように整った少女。

 その顔立ちに似合わぬ芯のある声で小さく語りだした。

 

「わたしが知っていることは大してない。それは間違いじゃないのよ。それにもう過ぎてしまったこと。だから気にするべき問題はないわ。あなたも彼も町の人も、みんな同じ夢を見ていただけ。ただ夢から覚めた時間が違っただけなのよ」

 

「彼だけではなく、あなたの想いも町を変えるきっかけになってしまった……燐はそう考えたのでしょう。仮にそうだとしても、この町を元の姿に戻したのもあなたなのよ。だったらあなたは十分に責任を果たしたことになるわ」

 

「わたしにはそんなこと──」

 

 燐は思わず口を挟もうとしたが、それ以上の言葉は出なかった。

 

 なのでオオモト様はそのまま話し続ける。

 聞いていようがいまいが関係なく、それはいつも通りで。

 

「誰が、なんて関係ないこと。この町にはもう幸運の力もないし、座敷童なんて概念も存在していない。誰が望んだにせよ、これこそがこの町の本来の姿なのよ」

 

 この町は座敷童の幸運によって発展し、そしてその力で狂ってしまった。

 

 それは本来の町の姿じゃないから、と”オオモト様”が言っていた。

 

 目の前の少女と同じ、オオモト様が。

 

「でも、”オオモト様”は」

 

「わたしは……わたしは、この町に幸運をもたらす為に来たわけじゃないわ。燐、あなたに会いにきたのよ」

 

「わ、たしに?」

 

 自信なさげに自分を指さす燐に、オオモト様は小さく頷いた。

 

(なんでわたしに? どうして)

 

 燐は言葉なく立ち尽くした。

 本来ならばオオモト様に真意を確かめるものなのだけど、なぜか燐は口をつぐんだままだった。

 

 それはなんとなくからくるものだったけど、ある意味確信もあった。

 

 燐は聡の残したノートで”彼女”が何をしたのかを知っていたから。

 だからかチクリと胸に棘が刺さっていた。

 

 凍り付いたように立ち尽くす燐の横をオオモト様は通り過ぎる。

 石畳を歩く細い足に嵌められたぽっくりの音が燐を膠着から解き放った。

 

「あ……」

 

 思わず燐は呟いてしまった。

 通り過ぎる赤い着物が名残惜しそうにひらりと揺れる。

 

 その所作は冷たいというよりも、むしろ気を遣うような素振りに見えた。

 

 燐はオオモト様の動きを呆然と目で追っていくと、その足が自分の家庭を通り抜け、玄関に向かっていることに気付いた。

 

「オオモト様っ」

 

 焦燥感にかられたように燐がその小さな背中に声をかける。

 

 その声にオオモト様はぴたりと足を止めてこちらを振り向いた。

 表情は変わっていない、けれども少し悲しそうにみえた。

 

「彼のことはわたしに非があるわ。あの時はあれしか方法を知らなかった。そのことであなた達に不義をしてしまった。ごめんなさい」

 

 オオモト様は両手を揃えて頭を下げた。

 

「謝ってすむことじゃないと思っているの。だから、もし燐が望むのならば、彼との仲を取り持つこともできるわ。わたしにはそれぐらいしか出来ないけど……」

 

 大きな瞳を揺らしながらオオモト様は切なそうにこちらを見つめていた。

 その表情は悲しみと後悔で満ちていた。

 

 今まで見たことのないオオモト様の表情に、燐は慌てて笑顔を作った。

 

「わ、わたしは別にそういうつもりはないです。それに、お兄ちゃんとのことはもう……」

 

 微笑みながら話すつもりの燐だったが、”お兄ちゃん”と言った途端、急に胸が苦しくなって言葉が出なかった。 

 

 もう吹っ切れたと思ってたのに、まだ忘れられないでいる。

 割り切れない自分の弱さが悲しかった。

 

「大丈夫よ」

 

「えっ、なにがですか?」

 

「じきにあなたはわたしの事が見えなくなるわ。それに座敷童とはそういうものだから」

 

 幼くも柔和な顔でオオモト様は微笑んだ。

 

「じゃあ、オオモト様は消えてしまうんですか」

 

「消えるというわけはないわ。ただ見えなくなるだけ。あなたたちの定義で言うのなら光よりも早くなること。つまりわたしを認知することが出来なくなるだけ」

 

 それはつまり”事象の地平線”ということだろうか。

 誰かが言った言葉、それが燐の脳裡にぼんやりと浮かぶ。

 

 いつ、誰に言われたことなのかよくは覚えてないけれど、その言葉と意味だけははっきりと覚えていた。

 

 誰なのか思い出すことは出来ない。

 思い出そうとするたびに白い霧の様なものが記憶を覆い隠してしまう。

 

 とても重要なことのはずなのに。

 

(なんか脳が拒否するような感じがするんだよね。わたし変な病気になっちゃったのかな……?)

 

 燐が頭をうんうん唸らせていると、オオモト様は玄関周りをきょろきょろとしている。

 何かを探すような仕草をしていた。

 

「だから燐、悪いけど用意して頂戴」

 

「えっ、用意って?」

 

 言葉の意味が不明だったので燐はオオモト様に聞き返した。

 

「この家でパンを売るのでしょう? だからパンを食べてみたいわ。最後にあなたが作ったパンを食べてみたいの。わたしが来たのはそのためよ」

 

 真っ直ぐな瞳をこちらに向けてオオモト様は真剣な表情で突拍子のない事を言い始めた。

 

 燐は何も言えず目を何度も瞬かせる。

 

 オオモト様流の冗談──にしてはイマイチだと思った。

 

(オオモト様って、そういう食事とか必要ないんじゃないの??)

 

 青いドアの家でも何かものを食べたのを見たことがない。

 お茶を淹れてくれたような気もしたけど、結局口をつけなかったと記憶してる。

 だからあまりにも意外な言葉だった。

 

「わたしにだってエネルギーは必要なのよ。そう、人並みにね」

 

 オオモト様は玄関わきに置いていた塩の山を眺めながら言った。

 

 折れそうなほどに細い身体を水鳥のように優雅に曲げて玄関前の白い山の頂を二本の指でつまむオオモト様。

 

 細い指に付いた塩の結晶をじっと眺めたかと思うと、そのままぺろりと舌で舐めとった。

 

「ん……良い塩ね。これなら美味しいパンがきっと出来るわ」

 

 その一連の動作に何かを感じたのか、燐は見てはいけないものを見たかのように顔を赤くして呆然としていた。

 

 オオモト様の言葉も小さな赤い舌も何もかもが耽美に見えた。

 

「それに盛り塩には魔除けだけじゃなく、縁起担ぎの意味もあるのよ。穢れのない清い商売をしているという意味で。この町でも昔はよく店先に並べてあったわ」

 

「もっとも、座敷童が居付いた店屋は、すべからく繁盛するでしょうけど」

 

 小さな舌をぺろりとさせて、はにかむように微笑えむオオモト様。

 そのあどけなくも、艶めかしい仕草を見て、燐はお伽噺のヒロインにでもなかったような感情の昂りを覚えた。

 

(ただ塩を舐めてるだけなのに、なんだか……えっちな感じにみえる。”この”オオモト様ってわたしより年下? なんだよね……?)

 

「どうかしたの?」

 

 顔が赤くなった燐を見て小首を傾げるオオモト様。

 

 急に近くに寄ってきた感じがして、燐は慌てて身振りを大きくしながら微笑み返す。

 

「あはははっ、な、なんでもないです」

 

「? そう」

 

 オオモト様は気にする様子もなく、よほど気に入ったのか丹念に指をぺろぺろと舐めていた。

 

「それで、燐はどんなパンを作るの」

 

 指をしゃぶりながらオオモト様が真っ直ぐに訊ねてくる。

 その仕草だけは年相応の少女らしい愛くるしさがあった。

 

「あっ、えっと、わたしっ結構何でも作れるんですよ。店で出すパンは大体作れるし、お母さんは作らないベーグルやブリオッシュだって出来るんですよ。パン屋だけじゃなくカフェもいいかなって思ってるから、今はドーナツやラスクの練習もしてるんですよ」

 

 今、一番ハマっていることからか、燐はことさら胸を張って答えた。

 

「そう、なら問題ないわね」

 

 オオモト様はさらりと受け流すと、そのまま自然な感じで玄関のドアを開ける。

 独特のサッシの音がすっかり寝静まった玄関口にがらがらと響いた。

 

「ほ、ほんとにウチに入って来ちゃうんですか?」

 

「ええ、都合が悪いの?」

 

「そういう意味じゃないですけどぉ。なんか本当に入ってくるからちょっと戸惑っちゃって」

 

「幸運とはそういうものよ。唐突にやってくるわ。受け止められるとかそういったものは一切考慮しない。時には理不尽とも置ける状況下にだって幸運はあるのよ」

 

 急に真面目なことを言うので燐は面食らったように腰を曲げた。

 

 脈絡がないというか切り替えの早いところはやはりオオモト様だと思ったが。

 

「幸運……」

 

 燐はその言葉を口に出してみる。

 

 もうこの町(小平口町)は幸運も座敷童もなくなってしまったと言った。

 

 でも、オオモト様は居て、あの時のこともわたしのことも覚えている。

 

 幸運がなくなったと言っているがそれはどの程度信用できるものなのだろうか。

 それにまた同じようなことが繰り返されることだってある。

 

 その時が訪れるなんて誰も分からかったのだから。

 

「大丈夫、もうあの時のようにはならないわ」

 

 いつの間にか傍まで来ていたオオモト様がこちらを覗き込んでいた。

 大きな二つの瞳が興味深そうにこちらをじっと見ている。

 

「大丈夫、って、どうしてですか」

 

 穢れのない瞳。

 透き通るような視線に見つめられたからか、燐は少し照れてしまっていた。

 

「それは燐、あなたがもう一度”切り替えて”くれたから」

 

「あなたはもう一つのスイッチに気付いた。”あの子”でも”彼”のでもなく、自分の中にあるもう一つのスイッチに。でも、それを切り替えるのには迷いがあった。それは自分が歪みの元凶だと思い込んでいたから」

 

「……」

 

 燐は瞼を伏せる。

 その心を閉ざすような仕草を見せる燐に、オオモト様は燐の耳元で柔らかく囁いた。

 

「あなたは自分よりあの子の幸せを選んだ。それこそがあなたのスイッチ。自分を捨てて守ろうする純粋さこそがあなたが切り替えるべきものだった」

 

「全てを失って最後に残ったもの。それはお互いに同じだったけど、あなたのほうが少し愛が強かった。だから自分の肉体を捨ててまで彼女の為に全てを戻した。幸運も座敷童も存在しない世界に」

 

 オオモト様の言うように自分がスイッチを持っていたかどうかは分からない。

 そんなものを自分で切り替えたつもりなんてなかった。

 

(ただ、見えただけなんだ。線路の先に何かが揺らめいているのが。それが良くないものってわかったから。そうしたら)

 

 本当にそう思っただけだった。

 それだけなのに、自分の中で何かがカチリと音を立てた気がしたんだ。

 ただそれだけ。

 

 それだけだったんだけど……。

 

「そう、それだけ。でもあなたはここに戻ってきた。燐は変わっているのよ。自分を愛し、他の人を愛することができるようになったの」

 

「愛、ですか?」

 

「それに、あなたが覚えてくれていたから、わたしはこうして輪郭を保ってあなたの前に立つことができる。ありがとう、わたしを覚えていてくれて」

 

 これまで見たことがない表情が目の前にあった。

 燐は微笑み返すとその小さな温もりに体を埋めた。

 

「わたしは、オオモト様のこと忘れたことないですよ」

 

 それは本当のことだった。

 

(でも、わたしが覚えていたのは”大人な”オオモト様だったんだけどね)

 

 青いドアの家にいた長い髪の優しい人。

 どんなときも笑みをたやさない優しい人。

 

 覚えていたのは()()()のオオモト様だったから。

 

 燐は思わず小さなオオモト様の顔を覗き込んだ。

 あどけない顔立ちの中にある静謐さは、オオモト様なんだけど。

 

「今のわたしが嫌なの?」

 

 目の前の大きな瞳が少し悲しんでいるように見えたので、燐はその瞳から誤魔化すように目を逸らした。

 

(嫌とかそういうわけじゃないけど、なんかちょっと気まずいんだよね……)

 

 燐は変な空気を変えるべく、オオモト様に尋ねた。

 

 それはいま聞かなくても良いことでもあるし、いま聞いておきたいことでもあったから。

 

 だから真剣な目で見つめた。

 

「あの、オオモト様は……どこから来たんですか?」

 

 オオモト様は一瞬沈黙する。

 朱色の瞳には少し迷いがあった。

 

「そうね……」

 

 話題を変えたのに眉をひそめることなくオオモト様はすっと顎を上げる。

 

 そのまま遠くを見るように視点を空に流すと、何かを掴むように彼方に手を伸ばした。

 着物の裾から覗く、折れそうなほど細い腕が真上を差していた。

 

「多分、空から来たと思うわ。何処という特定の場所はもう分からないけど」

 

 オオモト様が指さすその先にはもう星も月もいなくなっていた。

 代わりに東から様々な色の雲が赴くままに流れていた。

 

 漠然とした朝の空気が夜の澱みをその熱量で押し流しているその途中。

 もうほとんど夜明けだった。

 

「わたしは何をしにここに来たのかしらね……」

 

 誰に向けたでもない小さな呟き。

 声は小さな星屑となって空にかき消える。

 

 その言葉の小ささと、オオモト様の華奢な体がやけに寂しそうだったので、燐は何も言わずにオオモト様の小さな手を優しく握った。

 

「わたしも、何をしたいのかまだ良くわからないんです。でも、今やるべきことはわかりました」

 

「燐?」

 

「わたしのパン、食べてください。色んな種類のパン、いっぱい作りますからっ!」

 

 大きな瞳を輝かせて燐は言った。

 

 結局、何がしたいのかなんて分からない。

 わたしだってこの人だって何のために生まれてきたなんて分からないんだ。

 

 でも今はこの人に、オオモト様にわたしの作ったものを食べてもらいたいと思ったから。

 

 もし本当に星から来たんだったら、地上の美味しいものを食べてもらいたかった。

 

(何食べても”まあまあ”とか言われそうだけど)

 

 それになんとなく似ている気がしたから。

 

 ”わたし”と”オオモト様”。

 

 それは初めて会った時からどこかで感じていたもの。

 姿も境遇も何もかも違うけど、お互い傷を負ったもの同士だったから。

 その連帯感がそうさせるのかもしれない。

 

 小さなことに拘っている自分を変えるためにも、今は自分の作ったパンをオオモト様に食べさせてみたい。

 

 それは喜んでもらいたかったから。

 オオモト様の本当の笑顔が見てみたかったから。

 

(まあ、実のところ、わたしお母さん以外に”まともに”パンを人に食べさせたことがないんだよね)

 

 そう言う意味ではわたしの最初のお客さんは、この小さな姿のオオモト様だった。

 

 それにもう迷わないって決めたんだ。

 

 わたしは自分に折り合いをつけたから戻ってこれたのだから、きっと。

 

(なんだか良くわからないこともあるけど)

 

 今はただ、この人の希望通りのことをしてあげたい。

 そうすれば何かが分かるかもしれない、そんな気がするから。

 

 燐は、自分の直感を信じた。

 

 今までだってずっとそうやってきたのだから、いまさらそれを変えることをするつもりはなかった。

 

 それが”わたしがわたしであること”なんだ。

 

「ええ、期待しているわ」

 

 オオモト様はそう言って小さく頷いた。

 細く小さな指をぎゅっと握りしめながら。

 

 その柔らかい感触に燐は胸がぎゅっと暖かくなる。

 彼女の本心を聞いた気がしたから。

 

「じゃあ、決まりっ! えっと、オオモト様は何が食べたいの? さっきも言ったけどわたし結構何でも作れるんだよっ。今、女の子に人気のシナモンロールだってバッチリ焼けちゃうんだからっ!」

 

「わたしは、燐が作ったものならなんでもいいわ」

 

「そう、ですか? でも、それって恋人同士みたいな言い方だね」

 

「そうなの? わたしにはわからないわ」

 

「う~ん、なんかぁ、”付き合って三年ぐらいのカップルがお昼何食べたいって聞く彼女にてきとーに答える”的な感じ」

 

「わたしならその”彼女”と一緒に料理作るわ」

 

「いやいやそーゆーことじゃなくて……ってオオモト様料理できるんですかっ!」

 

 目をくるくる変えながら、ひとりノリツッコミをする燐。

 

「あら、わたしだって料理ぐらいできるのよ」

 

 表情には微塵も見せないが少しむくれたような、珍しい口調でオオモト様は答えた。

 

 ぎゅっと手を繋いだまま、楽しく笑い合うふたりの少女。

 それは傍から見れば姉妹のように仲睦まじい姿だった。

 

 それでも二人はひっかき傷だらけ。

 だからこそお互いがわかっていた。

 

「あっ、ごめん! オオモト様! ちょっと玄関で待ってて、すぐに戻ってくるからっ」

 

 燐はぱっと手を離すと、家とは逆方向に掛けていった。

 

 その先にはすっかり忘れられた軽自動車が一台。

 死んだように蹲りながら、尚も存在を主張するようにカチカチと泣き続けている。

 

 燐はすっかり待ちくたびれている軽自動車に駆け寄った。

 バッテリーというよりも、放置していたことに同情を感じていたのだ。

 

「ええ、待ってるわ。待つのは……慣れているから」

 

 小さな呟きを駆けだす燐の背中に投げかけると、オオモト様は玄関前の木製の式台に足を揃えてちょこんと腰掛けた。

 

 開かれたままの玄関先には謝りながらボンネットを撫で続けている燐の姿があった。

 

 石造りの土間に漆塗りの小さな木履(ぽっくり)が揃えて並べられている。

 それだけで何かの趣のある絵になりそうな、情感のある風景がそこにあった。

 

 戸口に差し込む光。

 

 いつの間に夜が明けていたのか、青い空に太陽が昇っていた。

 

 初めてみるような面持ちで顔を上げると夏の色をした太陽と目が合った。

 

 それがあまりに目に焼き付いたので思わず笑みが零れた。

 

 

 朝の光がとても気持ちよかったから。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 





さてさて、今回もゆるキャン△ SEASON2の話ばっかりですー。


・第3話。
2話と同じくおおむね原作通りでしたねー。原作5巻の裏表紙の再現とか、原作では3コマ程度しかない庭での綾乃との交流がキチンと描写してあったりで、見ごたえ十分でしたねー。
ですが、新キャラの土岐綾乃の声が……うむむ? 本編予告のときにはそれほど違和感がなかったのに、なんか本編だとなんか違って聞こえる。自分の中のイメージと違ったかぁ……と、思ったのですが、もう一度最初から見直したら何故か慣れてしまったので、万事オーケーですね。単純すぎかー私。

・第4話。
この回も原作通りの感じでした。温玉揚げの変な歌があんな感じになるとは……。桜さんだけやたらと作画に気合が入っていた気がするー。アニメのおかげで車のカギをわざわざ持ち出して、夜中にハンディカイロを仕込むなでしこを拝めるとは……良く考えるとサプライズって結構と大変なんですよねぇ……。

・第5話。
山中湖キャンプ編ですねぇ。
積雪があるせいか今までで一番寒そうに見えますね。山中湖の描写は美しさよりも寒気がしてきましたよ。水曜どうでしょうの人を声優に使うとはねぇ。流石にあの人はちょっと難しかったみたいですけどもー。
そういえば恵那の父が出ませんでしたねぇ。キャラが強すぎるから外されたのかもしれないですね……。

そういえば今頃気付いたのですけど。OPのリンの携帯の画像は毎回違うみたいですねー。5話は、4話のなでしこが買ったガスランタンやドヤ顔になってましたねー。


さてさてさて、今ゆるキャン△ SEASON2と言えばっ!公式発表のあった第2話での不適切な描写問題が話題になってしましたねー。すでに作画は差し変わっているようなんですがっっ──。

ちなみに私は公式発表があってもなんのことなのかさっぱりでした。わりと適当にアニメ見てるんだなーとちょっと凹んでみたり。

既にマスコミ発表的なものもありましたし、2話公開してすぐに分かった問題だったみたいなので今更感はありますが、あえて掘り下げてみようと思います。

★ゆるキャン△ SEASON2 第2話のGoogleストリートビュー問題。

・身延町の? 雪道になってるシーンの左上に2019 Google のロゴマークが白く薄っすらと写り込んでました。(私も後日確認しました)

・それにより、Googleストリートビューの画像をトレスしたとの疑惑が(2話放送後割と直ぐに)Twitter等で話題となっていたみたいです。

・2月1日に公式で第2話における不適切画像のお詫びと差し替えの報告を発表がありました。

・翌日某ニュースサイトで事件のあらましのようなものが記事になりました。(ちなみに私が事件の概要を知ったのはこのニュースのおかげでした)

公式による不適切な画像って何のことだろうと私は最初みたときは勝手に想像を膨らませていたんですよねー。
で、この件で色々書きなぐったのですが、上手くまとめきれなかったので、箇条書きと言いますか、このように経緯をまとめてみましたっ。

そして次に個人的な見解をまとめてみます。

★ストリートビューのトレース問題の個人的な見解と考察。

・雪道の絵が用意できなかったから? 納期を守るためやむを得なく? 

・Google側が勝手に撮ったものなんですが、それでも著作権的なもの(ポリシー)はあるようです。

・ストリートビューを参考にした模写はグレーみたいですが、トレスは残念ながらブラック、すなわちNG案件だと思ってます。

・画像を変更しているようですが、今のところ木でロゴを隠す程度のものらしいので、根本的な解決にはなっていない気はします。

・ソフト化の際にはちゃんと直ってるかも? ですが疑わしい事例を作ってしまったので、マイナスイメージもさることながら、各方面に飛び火しないかちょっと気になります。

・私的にはリンが見附天神を走り回ったり、歩きスマホしたり、焚火を放置して移動販売に行ったりと、マナー的な問題かと思ったんですけどねー。まさか制作側のマナーといいますかモラル的な問題だとは思いもよりませんでした。

・公式には詳細は記述してないところをみると、この件はもしかすると業界的に闇が深いのかもしれないですね。

・なんにせよバレなきゃ大丈夫と思っていること程、結局バレるものなんですね。

……と、こんな感じですかねぇ。

まあ、勿体ない案件ですよねぇ、人気作品だけに。
好きだった作品なだけに、クリーンであってほしかったのですが……起きてしまったものは仕方ないですね。

ただ、”消し忘れたー”ではなく”つい魔が差した”の方であってほしいのですよー。
といっても、この件はすぐにどうこうできる問題はない気がしますので、ファンとしては信じて見守るしかないわけです。

楽しく作品を見ることが出来ればそれだけでいいんですけどねー。



それではではー。




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I Won't Fall Apart



「お疲れさまー!」

「お疲れさまでーすっー!!」

「今日、帰り何食べてく?」

「あっ、あたし今日はパス」

「マジで? あー、オトコかぁ? このやろー」

 遠くの山々は真白に染まり、海から流れてくる潮風にも冷たいものが混じり始めた頃。
 冬の到来が日々を実感しつつあった。

 ついさっきまでグラウンドで汗を流していた少女たち、白い息を吐きながらそれぞれ放課後の楽しみ方をわいわいと話し合っていた。

 それは練習の時よりも生き生きとしたものに見えたのだが、ある少女は憤懣やるかたないと言った感じであからさまな態度で頬を膨らませていた。

「燐ー、あとお願いねー」

「ええ~、またわたし一人なのー?」

 燐は頬を膨らませてチームメイトに文句を言った。

「何言ってんの、当たり前でしょ」

「そうそう」

 燐の不満はさっきまで一緒だったチームメイトに一蹴された。

「だってさ、わたし一人で後片付けやってるんだよ。そろそろ手伝ってくれてもいいんじゃないのかなぁ……?」

 人差し指を合わせながら、ちょっと媚びた様子で燐は上目で見つめる。

 何もしなくても可愛いタイプの燐にこれをやられたら、その辺の男なんかイチコロなのだろうけれど。

 燐と同じチームメイトはすっかり慣れているので特に効果はなかった。
 なので軽くあしらわれる。

「ダメダメ、これは燐が決めたことなんだから。ちゃんと最後までやらないとね」

「でもでもっ、一人で後片付けってすっごく疲れるんだよ? 今日で最後なんだからみんなでやろうよ~。ねっ、後で何かおごるからさぁ」

 燐は引き下がることなくチームメイトの手を掴むとさらに甘えたような声をあげて見返りを提示した。

 そこまで悪くはない提案だったので、手を掴まれた少女は首を捻る。

「んー、まあ今年最後なんだしちょっとぐらい手伝ってもいいけど──」

「ほんとっ? トモっ!」

 燐は顔をぱっと明るくして、ホッケー部で一番の親友のトモに詰め寄った。

「なんて……やっぱダメっ!」

 トモは燐の手を話すと、目を指で伸ばして舌を出した。

「最低なやつだなトモは」

 隣にいた同じチームメイトの田辺はドリンクにストローを差しながら冷ややかに言った。

 運動の後に飲む豆乳ドリンクは美容と健康に最適だと田辺は何かのネットの記事で見たことを律義にも実践していた。

 今日のフレーバーは豆乳の”あずき黒蜜”風味。

 昨日飲んだ、”抹茶ストロベリースムージー、ゆずラムネ風味”とか言う、味が喧嘩しているよりかはいくぶんマシであった。

 つまりまあまあの味だった。

 安心しきった顔で豆乳ドリンクを飲む田辺を他所にトモと燐の会話はエスカレートしていた。
 
「むむぅー! トモの意地悪! 鬼軍曹! 役立たず! ついでにディフェンスが下手!」

 気を持たせるような素振りのトモに燐は罵詈雑言を浴びせた。

「なっ!? 役立たずとか、ディ、ディフェンスとかは関係ないじゃん! まったくもう、燐は興奮するとすぐ口が悪くなるんだから……」

 トモは自分でも気にしているところを言われて顔を真っ赤にして抗議した。

「まあでも……ごめんごめん。からかったわたしも悪かったよ。でもさ、今日で最後なら最後までキチンとやったほうがいいよ」

「そうそう、それに燐はキャプテンに目を掛けられてたから期待を裏切られた反動が大きかったんだよ。いわば愛のムチだね」

「そんなの嬉しくないもん。わたしこれでもエース候補なのに、みんな薄情だよねっ」

 燐は聞く耳を持たないようで、ぷいとそっぽを向いた。

「まあまあ、落ち着きなよ燐。それに燐だって思い当たる節があるじゃん。連絡も無しに練習休んでたんだし」

 トモはなだめすかせるように笑いながら、燐の肩を揉んだ。

「だよねー、しかも一日や二日じゃなかったよね。丸二か月も休めば怒られても仕方ないって」

 ストローを名残惜しそうに加えながら田辺はめんどくさそうに言った。

 田辺の正論に燐は言い返すことが出来ず、代わりにぐぬぬと歯を軋ませていた。

「ウチ、燐がてっきり退部したと思っとったけん。二学期明けで戻ってきたときはビックリしたわー」

 まだ着替えている途中だったのか、制服を無理やりスカートの間に押し込みながら燐よりも小柄な女子生徒もこの話に加わった。

「おー、藤井おつかれー」

「フジッコ、お疲れ~」

「ウチはお豆さんやないで~。あ、トモちゃん燐ちゃんお疲れさん」

 藤井は変な呼び方をする田辺を笑顔でスルーして、トモと燐に挨拶した。

「べーちゃん……ウチ、その言い方は嫌って前にも言ったやん。まったく学習能力のないやっちゃでほんま……」

 藤井はその言われ方がよほど気に入らないのかぶつぶつと文句を言いながら、制服の袖をうにょーんと伸ばしていた。

 同時に二つのことはできないタイプだった。

 べーちゃんと言われた田辺もその呼ばれ方が気に入らないらしく、露骨に顔をしかめていた。

「そいで、みんな何の話しとったん?」

「お前……何の話か分からずに参加してきたのかよ」

 田辺は藤井を見下ろしながら呆れたような声を出した。
 田辺はホッケー部で一番背が高く、対する藤井はトモや燐よりも更に背が低かった。

 藤井は独特の言葉遣いでおっとりした印象をみせるが、実のところ一番気が強かった。
 
 いわゆるギャップが激しい子だった。

「そんなん女子あるあるやん。で、なに、燐のことイジメとったん? ふたりとも陰険やなー」

 藤井はきょろきょろと目を動かしながらヘアゴムを口で咥えて、うっとおしそうに髪を束ねていた。

「違うってそんなんじゃないよ。ただ燐がさ」

 トモはちらりと燐の顔を覗き見た。

「むむっ? うぅー」

 トモと目が合った瞬間、燐は言葉を忘れたように唸り声をあげて威嚇した。

「なんや、燐ちゃん。ご機嫌ナナメやなぁ」

 小柄な少女は少し癖のある髪を軽く手で梳かしながら、なぜだか楽しそうに微笑んだ。

 それは悪気のある感じではない。

 方言がそうさせるのか、毒舌そうにみえてもどこか憎めないのが藤井の得なところだった。

 藤井は燐が部活に参加していない間、その穴を埋める様にレギュラーに昇格していた。
 本人はそのつもりはなかったが、補えるだけの人も技量も足りてなかったため仕方なかった。

 即席の慣れないレギュラーで試合に勝てると言ったら、それは推して知るべしだった。
 慣れないポジションと明らかに技量が足りてない上に、何故かチームワークもガタガタだったのだ。

 燐はその実力だけでなく、ムードメーカーの役割も果たしていたのだ。

 だがそのことに気付いたのは、燐が戻ってきてからのこと。
 それまでチームのみんなはわけがわからないまま喧嘩をしていたようなものだった。

 燐がチームに復帰したことで藤井は再びレギュラー落ちしたが、本人はそのほうが気楽で良かったので喜んでレギュラーを燐に譲ったのだった。

 そんなわけで燐は、戦力と言う意味でも、チームをまとめるという意味でもこのホッケー部にはなくてはならない存在となっていた。

 でもワンマンチームというわけではない。
 それは燐が望むものではなかったから。

 だから燐は自分で罰を受けることにしたのだ。
 このチームは燐にとって家族や友達と同じで、今の自分が大事にしたいものだったから。

 でも、それが長く続くと流石に疲弊してくる。
 自分に課した罰なのに、それが今頃になってうんざりしてきていた。
 
「まあ、レギュラーなのにひとりで片付けもやってるんだからぼやきたくもなるか」

「うんうん、わたし、とっても可哀そうだよね」

 カバンを後ろ手に持ちながら首を傾げる田辺に、燐は同意するように何度も大きく頷いた。

「せやなぁ、ウチなら即、部活辞めとるところや」

 すっかり髪が整った藤井はすっきりした様子で、細い首にマフラーを巻いて白いウサギのキャラクターを模した手袋を付けていた。

 藤井は小さな手をうんうんと動かしながら扱いづらそうにスマホを弄っていた。
 会話には参加しているが両手はスマホから離れることはなかった。

 どこかのほほんとした練習の時とは違い、卓越したピアノ奏者のような軽やかさで藤井の指は画面の上で踊っていた。

「でもさぁ、燐だって悪いんだよ。だってさぁ”親友”のアタシに連絡一つくれなかったし……」

 トモがちょっと口を尖らせながら燐に苦言を言った。
 だが、最後の方は声が小さくなっていた。

「まあ、トモは仕方ないよなぁ。燐が部活に戻ってきたとき泣きながら出迎えたぐらいだしな」

「あれは感動ものやったねぇ。二人はそのまま結婚するんかと思ったわ」

 スマホに夢中なのか藤井は顔も上げずに適当ことを言った。

 そのことでトモは顔を耳まで赤くしながら猛然と突っ込みを入れた。

「あ、あれは違うって!!! あれはねぇ、なんていうか……ま、魔が差したんだよっ! 魔がっ! そ、そうだよね燐……」

「あ、はい……」

 吠えたていたトモが燐に話を振ってきたので、燐は何と言っていいか分からず、ただぼんやりとした返事をしてしまった。

 その返事が二人の間に気まずい空気を作り出してしまった。

 トモと燐は周囲の冷ややかな視線に(とは言っても一人はスマホに夢中なので実質一人だけなのだが)晒されて二人して俯いてしまった。
 
 遠くの山脈から吹き下ろされる冷たい風がスカートをはためかせる。

 凍えるような冷たさで少女たちの細い足はぎゅっと縮こまっているように見えた。

 ただ燐だけはそうではなかった。

 他の三人は既に学校の制服姿であり、いつでも帰宅できる状態だったが、燐は今だ部活の時のジャージ姿のままだったから。

 長袖の為、制服と比べるとそこまで寒さは感じないが、代わりに言いようのない落差を感じられた。

 ()()()()制服を着ている三人とは違い、燐だけが今だ学校指定のジャージ姿であったことが今更のように恥ずかしかった。

 そのことが子供っぽさを強調してるいるように感じて、燐は自分がひどくわがままであることを心中では認めていた。

 でも割り切れないものもあったので、燐はその子供っぽさを言い訳にしながら、表情には頑としてみせないようにつとめた。

 それはさっきから話でネタにされていたことも関係していた。

 燐の胸中を知ってか知らずか、三人は今だ燐ををネタにして話していた。
 ただ無為に話しをしているだけなので、その間に片づけなり、手伝うなりしていればすぐ終わるはずなのにそれを指摘するものはいない。

 少女たちは、女たちは幾つになっても会話と言う概念から逃れることはできないようだった。

「その”エース候補”がいなかったから地区予選も初戦で敗退だったしねぇ。あれは恥ずかしかったよ」

「もう、その話はもういいでしょ。わたしもちょっとは反省してるんだし……」

 燐は両手をぶんぶんと振りながら弁明する。

 だが、それは仕方なかった。
 レギュラーの燐が居ないせいで負けたというのが内外でのもっぱらの噂だったから。

 ホッケー部は学校内でそれなりに期待されていただけに、一回戦の格下の相手に負けたのはかなりの非難の的になっていたのだ。

 そしてその矛先はその時居なかった燐一人だけに向けられていたからだった。

「そうそう、そのせいでみんなギスギスやったもんねぇ。あん時はしょちゅう喧嘩でサイアクやったわ」

「うぐぐっ! で、でもうちの部、喧嘩なんてしょっちゅうだったじゃん。何でもかんでもわたしのせいするのは良くないよ~」

 やる気なさそうな藤井の呟きに、燐は口角を無理やり上げて反論する。
 
 口調はソフトな藤井だが、顔に似合わずきついことを言うので少し燐は苦手だった。
 だからと言って嫌いというわけではなく、むしろ藤井の歯に衣着せない言い方は、無駄に気を遣いやすい燐に羨ましくみえるほどだった。

「ほら燐、わたしなんてストレスで3キロも太っちゃったし!」

 トモは頼んでもいないのに制服をはだけさせると、柔らかそうな脇腹を摘まんでみせた。

「それはトモの食べ過ぎが原因だと思う」

 燐は冷ややかな目でトモの緩んだ腹を見つめた。
 他の二人も頷き合って燐に同意していた。

 トモの脇腹についた脂肪には誰一人同情してはくれなかった。

「へぐっ!」

 冷たい風がむき出しの腹に突き刺さって、トモは思わず変なくしゃみをした。

 それが本当に鼻を刺激したものなのか、プライドをくすぐられたせいなのかは分からないが、トモに漫画みたいなバカっぽさを感じさせた。 

「むぐぐぐっ、ともかくっっ!!」

 自分だけ否定されたことに恥ずかしかったのか、トモは燐をびしっと指で差して言った。

「燐はチームワークを乱した罰として今年いっぱい一人で後片付けの刑なんだから、しっかり罰を受けなさい」

「まあ、わたしらと違ってエースなんだからこれぐらい余裕だよね」

「えぇー、そんなの関係ないって言ってるじゃん。最後ぐらい手伝ってよー。わたし大事な用事があるんだって」

「ダメダメ、手伝ってるところ誰かに見られたらわたしらがキャプテンにどやされるもん」

「せやでー、戦いは非情やでー」

(戦いってなんのだよ……)

 藤井の適当過ぎる相槌に田辺は呆れた目を向けた。

「んもう、この際エースとかどうでもいいからっ!」

 燐は自分のアイゼンティティを一つを投げ捨てて懇願する。

「ねぇ、トモぉ、ちょっとだけで良いから手伝ってよう……わたし今日は本当に大事な予定があるんだってぇ」

 燐が訴えかけるような視線で顔を覗き込んでくるので、トモはギクリと狼狽えてしまう。
 チームメイトとしても同性としてもこの上目づかいで頼むのは反則級だと思った。

「しょ、しょうがないなぁ……そ、そんな顔されたら無下には断れないな……って、あれ? なんか引き摺られてんだけどっ!?」

 トモは少し顔を赤らめながらも燐の”お願い”に手伝おうとしたのだが、その想いが届くことはなく。

 トモのスレンダーな身体は藤井と田辺の無言の企みによって阻止されてしまった。

「ちょ、ちょっと何してんのアンタら! こんな宇宙人みたいな真似するなぁ~!」

 だらしなくグラウンドを引き摺られながらトモは抗議の声をあげる。

 燐は何事が起きたのかイマイチ理解できていないようで、口をあんぐりと開けたまま凍り付いていた。

 田辺が脇を抱えていながら呆れたような声で呟く。

「全く、トモは燐に激甘なんだから」

「せやねぇ燐ちゃんの事が好きなんは分かるけど、ここは見守ってやらんと」

 藤井はスマホを片手持ちしながら、右手だけでトモを引っ張っていった。
 見かけによらず力は割とあるほうだった。

「す、好きってねえ。アタシと燐はそういうんじゃ──」

「はいはい、分かったから。とにかく今日はこのまま帰るよー。後でなにか奢ってやるから」

 顔を真っ赤にしたまま騒ぎ立てるトモを後目に、そのまま二人は校門の方までずるずると引きずっていく。

「あ、ねぇ、結局手伝ってくれないの?!!」

 異様な光景に呆気に取られていた燐だったが、思い出したように叫ぶ。
 ホッケー部の連中は喋るだけ喋っておきながら結局何もしないで帰ろうとしているのだから。

 燐としてはただ時間を無駄にしただけだったので叫びたくなるのも無理はなかった。

「すまん燐、後はお前に任せた! 燐ならきっとできるっ! あ、あと今年もよろしくなー!!」

 トモは情けなく引きずられながら、親友に謝罪と早すぎる新年の挨拶をした。
 冬日に焼けた顔に真っ白い歯をはしたなく開けて笑うトモに燐はわけもなく可笑しくなった。

(よろしく、って……先にクリスマスがあるんだけどね)

 燐は心中でつっこむと、去り行くチームメイトに対して大きく手を振った。

「バイバイ、また来年ねー!」
 
 その声が届いたのか、トモは引きずられながら燐に向かって両手を案山子のようにぶるぶると振るった。

 そのコメディチックな親友に燐はくすっと小さく笑うと、トモに負けないように両手をぴんと伸ばして体ごと手を振り返した。

 それにはトモだけじゃなく二人のチームメイト、田辺と藤井も燐に向かって振り返していた。
 
 なんだかんだでホッケー部はみんな仲が良かった。

 身体を動かしたせいなのか燐はほんの少しだけ心から温かくなった気がした。

 …………
 ………
 ……


「……でも、結局ひとりなんだよねぇ……仲が良いなら手伝ってくれればいいのにさ」

 ホッケー部の連中が居なくなると急に一人で居ることに実感が湧いた。
 祭りの後の静けさのように、燐はぼそっと呟くとしばらく無言で立ち尽くしていた。

 冷たい風が頬を撫でる。
 じっとしていることに耐えかねて、燐は意味もなくため息をついた。

 吐く息の白さでずいぶん日が傾いてきことが分かったが、気が付くと周りには誰もいなくなっていた。

 他の運動部も既に解散してしまったようであり、広いグラウンドの上に立つのは燐以外には何物もいない。

 これから練習する部活もないみたいで、グラウンドの大型照明に明かりが灯ることもなかった。

「はあ……」

 燐はまたため息をつく。
 湯気のように浮かんだ白い息は霧のような残留感も一切無く、一瞬の内に消えてなくなった。

 人気がなくなったことを実感すると急な寒気を燐は感じ取った。
 ぶるぶると身震いをするとジャージの中に身をしまう様な動作でその場でしゃがみこんだ。

 亀のように蹲る燐。
 それでも芯から来る寒気は取れなかったので、何か暖かいことを考えることにした。

(温泉、肉まん、お風呂、お鍋、焼きそば、ラーメン……)

 燐は自分のお腹がぐぅと鳴くのを聞き逃さなかった。

「あー、もう! こんなところで丸くなってても意味ないよねっ! 早く終わらせてラーメン食べに行かないとっ!!」

 燐は自分を鼓舞するように立ち上がると、誰もいない緑のグラウンドの上で高らかに宣言した。

 その声に応えるものはなく、ただ冷たい風が身を引き裂いてくるだけだった。

 燐はまたしゃがみ込みそうになるが、両膝を叱咤してなんとか耐え忍ぶ。

「今日で最後、今日で最後だから頑張ろう……」

 ぶつぶつと言いながらその辺に転がっているホッケー部の備品をかごに押し込む。
 軍手越しにも冷たさが感じられたが、身体を動かしているとそのうちに慣れてくるようになった。

 備品で満杯になったかごを押しながら、燐は芯からの寒さと、陽気でタフなチームメイトの面々、その愉快でガサツな連中をほんのちょっとだけ呪った。




「まったくもう……お前らってやつは本当に薄情だなぁ、そんなにイヴの予定が大事か」

 

 トモは二人の間で歩きながら口を尖らせる。

 特に痛みはなかったが、確かめる様にしきりに両腕を回していた。

 

「いや、わたしクリスマス何も予定ないけど……」

 

「ウチはあるでー」

 

「あっ、そう……じゃ、なくて!」

 

 トモは隣でスマホを見ている藤井のおでこに突っ込みを入れた。

 不意打ちだったためか、藤井は眩暈を起こしたようにふらふらとおぼつかない足取りになるも、スマホの安否だけはなんとか死守していた。

 

「いたた、なにすんのー」

 

 おでこを擦りながら藤井は涙目になって言った。

 その仕草は妙に幼く見えた。

 

 藤井は背の低さから年下の少女に間違えられることがしょっちゅうだった。

 そんなことあるものかねとトモ達はからかったが、それはあながち間違いでもないと思った。

 

「あんなぁ、燐ちゃんのことなら大丈夫やって。今までちゃんとひとりでやってたやん」

 

「そうだけど……なんか用事があったっぽいじゃん。なんか悪い気がしてさ」

 

 トモは顎に手を当てて逡巡する素振りをみせる。

 

「なんだ、トモ、そんなに燐のことが気になるのか。なんなら手伝ってあげればいいじゃん。燐、涙流して喜ぶぞー。”ありがとう、トモ大好き!”とかさ」

 

 田辺はにやにやしながらトモの顔を覗き込む。

 背の高さとクールさから年上の女性に間違われることもある田辺だが、その顔はクールさとはとても言えそうにない顔をしていた。

 

「さっきからアタシをなんだと思ってるんだ。燐とはただの友達だって!」

 

「ムキになるとこが怪しいなぁ。ほんまのこと言ってみぃ? 誰にも言わんから」

 

「うんうん、言わん言わん」

 

 藤井の言葉が移ったのか、田辺も方言で話していた。

 普段はそれほどでもない二人だが、こういう時だけは妙に仲が良かった。

 

 それに藤井は相変わらずスマホに釘付けだった。

 会話こそ流暢だが、視線は画面からいっときも離していない。

 

 そのせいかその言葉が軽いものに思えて、トモは一件と共に腹がたった。

 

「トモ! やっぱり来てくれたんだね。燐、嬉しい!」

 

「当たり前やないの。ウチは燐の恋人なんやで」

 

「トモ! 結婚しよう!」

 

「もちろんやで。二人で幸せになろな~」

 

「……な、なにしてんのアンタら」

 

 トモが憤慨したように二人を睨みつけようとすると、何故か子芝居が始まっていた。

 その脈絡のなさに怒りを通り越して呆れかえってしまった。

 

「何って、お前と燐の真似」

 

 田辺はしれっとした顔で応える。

 何故かドヤ顔だった。

 

「迫真の演技やろ~。二人はこのまま南紀白浜にハネムーンに行くんや。そして二人はホテルの一室で一夜を共にするんやで~。ロマンチックやないの~」

 

 小指を立てながら夢見る様に語る藤井。

 少女趣味なのは外見だけではなく、中身もピンク色のようだった。

 

「は、ハネって……あ、アタシと燐がそんなことするわけないだろうぉ!! それに一夜ってなんだよぉ!」

 

 トモは目をぐるぐる回しながら、二人の胸倉に掴みかかった。

 流石にそこまでは想定していなかったのか、田辺と藤井はトモを宥めすかせる。

 

「落ち着けトモ。そんなにムキになるなって、心配なのは分かるけど友達なら信用してやれよ」

 

「せやせや、女子高あるあるやん。堪忍してやトモちゃん。燐ちゃんならきっと大丈夫や」

 

 一触即発の三人の背後で下校帰りの生徒たちがくすくすと笑いながらこちらを見ていた。

 

 そのことに気付いたトモは我に返ったように二人から手を離すと、腕を組んでふんと鼻息を鳴らした。

 

「ふんっ、アタシだって燐のことは信用してるよ。アイツは人一倍努力してるのにずっと明るくて優しいし、だから守ってやりたいだけだよ」

 

 憮然とした表情のトモだったが、喋るたびにその顔はどんどん赤く染まっていった。

 

「トモデレだ」

 

「トモデレやな」

 

 二人はトモの反応に見たまんまの感想を述べた。

  

「と、トモデレってなんだよっ! アタシはそんな単純な女じゃないぞっ!!」

 

 トモは堪忍袋の緒が切れたように両手を上げて、二人に猛然と挑みかかる。

 それを見た二人は一瞬青い顔になった。

 

「トモのやつガチギレしたんじゃないか?」

 

「ようするにトモギレやな。だったら、逃げるが勝ちやな」

 

 藤井と田辺は頷き合うと、校門の外へと走り出した。

 トモはそのまま二人を追いかける形で外に出た。

 

「待てー、お前らは何かアタシにおごれー!」 

 

「はぁ? なんでトモに奢る話になってんの?」

 

「さっき何かおごるって言ってじゃないかっ」

 

 トモは田辺に引きずられていた時のことをはっきりと覚えていた。

 

「なんでそんな、どーでもいいことだけ覚えてるんだよっ! 普段は忘れ物多い癖に」

 

「ウチ、クレープがええなあ。Pastelのクレープがええねん」

 

「アタシ大判焼き!! 小豆とクリームとイチゴのクリーム!」

 

 トモはつい先ほどまでの怒りの原因が何処に行ったのか。

 今食べたいスイーツに思いの丈をぶつけていた。

 

「だから、なんでわたしが奢ることになってんだよぉぉ」

 

 田辺は自分がいつの間にか奢る係になっていることに異議を立てる。

 

「べーちゃんがトモちゃんをからかった罰やで」

 

 藤井は悪びれもなく田辺の顔を見上げながらそう言ってのけた。

 

「フジッコだってやってただろう! わたしだけ不公平だぞ。どっちでもいいからわたしにも何か奢れー」

 

「ふふっ、奢り奢られやな」

 

 藤井は何が楽しいのかぴょんぴょんと飛び跳ねながら石畳の道を脱兎のごとく駆け出していった。

 

 その後に負けじと二人が後に続く。

 

 三人はそれぞれが食べたいものを叫びながら、商店街に続く道をまるで嵐のように駆け抜けていった。

 

 日はとっぷりと暮れ始め、黒い帯状の雲が北西にかけて伸びていた。

 

 

 ……

 ………

 …………

 

 

「んーと、スティックは予備も含めてちゃんと全部あるし、ボールの数も……うん、合ってる。うんうん、バッチリだね」

 

 燐は現場主任にでもなったつもりで指差しながら、もう一度数を確かめた。

 

 ホッケー部は割とざっくばらんなところがあり練習するたびに備品がなくなっていくという適当なところがあったのだが、ここ最近は備品の不備もなく埃も目立たないほど綺麗になっていた。

 

 それは燐が後片付けをするようになってからだった。

 燐はその細やかさと几帳面さで部室の内と外を綺麗に保っていたのだ。

 

 運動部で一番汚れていたホッケー部の部室は、燐が後片付けをするようになったので運動部で一番整理整頓が行き届いた部室へと変貌していた。

 

 燐はそのことに一種の満足感を得ていたが、それも今日で終わりだろう。

 

 来年からは数日も経てば元の木阿弥になってしまうのだから。

 燐としては残念だが仕方なくも思ってはいた。

 

 整理整頓された部室よりも雑用から解放される方がよっぽど良かったからだった。

 

「んーっ」

 

 一仕事終えたようにぐっと伸びをすると、燐は部室のカギをかけて、すっかり暗くなった工程を一人校門に向かって歩いた。

 

 夕日はその顔を半分ほど覗かせるだけだった。

 

 橙が黒に染まる冬の逢魔が時。

 完全に日が沈む前の僅かな明かりを頼りに燐は液晶の電源を入れた。

 

 どこか穏やかな夕暮れ時は、もうしばらくもすれば暗闇に包まれるだろう。

 夏に比べて冬は夜の時間が長く、そしてそれは寒さを伴っていた。

 

 燐はマフラーのもふっとした感触を確かめながら校舎の角を曲がる。

 校舎の屋根に張り付いた小さな照明を頼りに校門の前までの道を歩いていた。

 

 そのまま何事もなく校門に辿り着くと、その横に人影が居るのが分かった。

 その人物はこちらに気が付くと気さくな素振りで手を振ってきた。

 

「燐? もしかして燐かな。部活いま終わったの?」

 

 冷たい街燈に照らされた人物は自分ことを知っていた。

 

 教室とは違った感じに見えたので、燐は一瞬分からなかったが、良く通る声と、眼鏡の奥の我の強そうな瞳で分かった。

 

 燐は片手をひらひらとさせながら、クラスメイトの少女に近づく。

 

「違うよー。わたし一人で後片付けしてたんだ」

 

「へー、燐ってそんなにきれい好きだったっけ? それともなにかあったのかなぁ」

 

 にやにやと口元を緩めながら意地悪そうな顔で覗き込んでくる。

 ともすれば嫌味っぽい行為だが、彼女は不思議と許されるタイプだった。

 

 そのテンポよく軽快な声と、特徴のある笑い声。

 コメディアン志望とか言ってたのに、いつの間にか生徒会に所属していたしたたかな奴。

 

 クラスメイトの鏑木優香(かぶらぎゆうか)だった。

 

 

 ……

 ………

 …………

 

「だからか、さっきホッケー部の連中をここで見かけたんだけど、なぜか燐が居なかったから変と思ってたんだ」

 

 優香はその時の様子を楽しそうに燐に言って聞かせた。

 

 アイツ等、漫才トリオになれるんじゃないの? との優香の弁に燐は自分のことのように恥ずかしくなってしまった。

 

「でもさ、三人が帰ったのって結構前だよね。それから優香はずっとここに居たの?」

 

「まっさか。その後校舎に戻って学校に残っている生徒がいないか見回りをしてきたんだよ」

 

「あっ、そういうことね。働きものだねぇ、優香は」

 

「うんうん、もっと褒めていいよ~」

 

 燐の言葉に気を良くした優香は、腰に手を当ててふんぞり返るような仕草をとった。

 

「相変わらずだねぇ」

 

「それ、どういう意味よ」

 

「まあ、こっちの話」

 

 生徒会に入っても変わらない友人の態度に燐は少し安心していた。

 

「それにしても……眼鏡なんて掛けてたっけ? 教室じゃ見たことないけど」

 

 燐は今日一日の事を思い浮かべてみた。

 授業中でも休み時間でも優香が眼鏡をかけたところを見たことがない。

 

 だからこそ校門の前に立っていたときは別人と思っていたのだが。

 

「ああ、これ度の入ってないやつでブルーライトをカットすることしか出来ないんだ。ほら」

 

 優香は眼鏡を外すと、燐に手渡した。

 燐は優香に許可を得て、その眼鏡を掛けてみる。

 

 ……独特のくらっとする感覚がなかったので優香の言う通り確かに度は入っていないようだ。

 

「あれ。燐、結構似合うじゃん。燐も眼鏡デビューしても良さそうじゃない」

 

 燐の眼鏡姿は以外にも似合っていて優香は手を叩いて好奇の声をあげた。

 

「いやいやいや、わたしに眼鏡は似合わないよー。第一、部活の時邪魔だし」

 

 はい、と燐は眼鏡を優香に返した。

 優香は名残惜しそうに受け取ると、また眼鏡を装着した。

 

「ねぇ、スマホとかいつも見てないなら要らないんじゃないの?」

 

 素朴な燐の疑問に、優香はちっちっち、と指を目の前で揺らす。

 

「燐、生徒会っていうのはね高尚なものなんだよ。だからその役員は眼鏡女子でないといけないのだよ分かるかねキミ?」

 

 芝居がかった口調で悠然と語る優香に燐は呆れて物も言えなかった。

 

「それにね、わたしは形から入るタイプなんだよね。だから眼鏡を掛けると背筋がピンと伸びてシャキッとするわけよ。仕事モードに切り替わるってやつかな? 割と集中できるんだよね」

 

「それってプラシーボ効果なんじゃないの?」

 

 目をきらきらさえながら言ってくる優香に燐は冷めきった灰色の目を向けた。

 

「んもうー、燐ってばノリが悪いなあ。文化祭の時は最高のパートナーだったじゃないわたし達。あの時の可愛いくて素直な燐は何処にいってしまったのやら、よよよ……」

 

 燐はこんな変人を生徒会に推薦したことをちょっと後悔していた。

 

 自分が色々と忙しかったので、とりあえず優香を推薦したらそのまま当選するとは思っていなかった。

 

 さらに本人がこんなに乗り気だとは思わなかった。

 こんな性格なのでてっきり断るとばかり思っていたのだから。

 

「なになに? もしかしてまた漫才したくなった? わたしは燐とならプロのお笑い芸人になったっていいんだよ」

 

 興味津々と言った面持ちで燐の手を取る優香に、燐はいささか大げさに首を振って否定した。

 

「ないない、お笑い芸人なんて。わたしには向いてないよっ。やるなら優香一人でやって」

 

「えー、ひとりは寂しいじゃん。それに燐は漫才向きだよ。わたしが保証する」

 

(優香の保証だから当てにならないんだけど……)

 

 仲間内では優香の直感は役に立たないことと同義だった。

 

「それに燐とだったら天下とれそうな気がするんだけどなぁ。二人で東京でいい暮らししようよ、ねー?」

 

 優香の壮大な? 妄想劇に燐は苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 

「あ、それにしてもさ」

 

 優香は手を後ろに組んで、燐の顔をずいっと覗き込んできた。

 燐は反射的に顔をのけぞらしてしまう。

 

「な、なに? 顔が近いんだけど……」

 

 レンズ越しに見る優香の瞳はとても大きく見えて、なんだか見てるこっちが恥ずかしかった。

 

「うーん、やっぱり燐だよねぇ」

 

「それ、どういう意味?」

 

「なんていうかさぁ……燐。単刀直入に訊ねるけど、宇宙人に攫われてたとかそういう、奇妙な体験したことない?」

 

「ふぇっ、何それー」

 

 優香がわざとらしく眼鏡を人差し指で押さえながら勿体ぶった言い方をしたので何かあるなとは思ったが……。

 

(中らずと雖も遠からず、ってことなのかな……)

 

 燐は優香の妄想力というか直感に関心していた。

 

 優香はクラスでも燐あたりと一緒になっていわゆるおちゃらけ担当だった。

 

 だが、そんな優香はこの秋でがらりと変わってしまったのだ。

 本人はやるつもりないと言っていた生徒会役員に推薦されて、みごと当選していた。

 

 本来ならば目の前の燐が選ばれるべきだったのだが、本人は部活との両立が出来そうにないことと、家が店をやっているので忙しいこと、そして”無断欠席していた”ことを理由に辞退していたのだ。

 

「まあ、いっか。ちょっとモヤっとするものがあるけど燐は今ここにいるんだもんね、うんうん」

 

 一人納得するように何度も頷く優香の姿はなんというか、探偵にでもなったつもりのようにみえた。

 

 燐はその探偵風な優香の横をこっそり通り抜けようとする。

 別に悪気があるわけではないが、今はこれ以上話を続けるだけの理由がなかったのだ。

 

 だって燐には大事な用事があるのだから。

 

「あ、ちょっと燐! どこ行くの!? まだ話は終わってないわよ」

 

 優香がほんの少し考えている間に、燐は校門の外まで出ていた。

 その小さな背中に優香は声を掛ける。

 

「ごめん、優香。わたしこれから用事があるんだ。話なら後で聞くから夜にでも連絡して~」

 

「ちょ、ちょっと燐──」

 

「ほんとごめんねー! 後でメッセージ送っておくからー!」

 

 燐は優香に大きな合図を送りながらもその返事を待たずして、やせ細った街路樹が並ぶ石畳の道を跳ねる様に軽やかな足取りで駆けて行った。

 

 燐の動きに合わせて揺れ動く大きなバックパックを悠然と見送りながら、優香はその場で立ち尽くしていた。

 

「何時間でも、ってそこまで込み入った話でもないんだけど……」

 

 優香の呟きは燐には届かなかった。

 

 ふと気づくとすでに夕日は沈み込んでいて、暗がりが月のない天幕にかかっていた。

 

 この時期は日が沈むのがやたらと早く、もたもたしているとあっという間に真っ暗に包まれてしまう。

 

 夜の静けさに包まれた校舎にはもう誰も残っていないだろうと思った。

 そのことを指し示すようにどの教室の窓からも明かりが零れていなかったからだ。

 

 燐とそんなに長く話していたつもりはなかったのだが、いつの間にかそんな時間になっていたようだ。

 

 クラスメイトとのおしゃべりは生徒会の面倒な仕事よりも有意義で、時間の経つのがずっと早いらしかった。

 

 急に暗闇の中に一人取り残されたみたいで、優香は寂しさを隠すように口元までマフラーを手繰り寄せた。

 

 夕日の消えた冬の暮れは異様に寒く、スカートの下の素足まで凍り付きそうになる。

 

(さむっ! 誰も見てないんだしやっぱり、ジャージ履けばよかったか)

 

 恨めしそうな目で優香が自身の下半身を見つめていると、頭の上で何かが光り出した。

 あまりにもタイミングが良すぎて思わず何か起きたのか直ぐに理解が出来なかった。

 

 振り仰いだ優香のレンズには白灯光の薄ぼんやりとした光が過去の幻燈のように浮かんでいた。

 

 その光の正体は校門の横にあるガス灯であり、それが門の外から校舎を強い光で照らしていた。

 

 ガス灯と言っても昭和初期の頃とは違い、見た目こそ昔のままだが電球はLEDライトに取って代わっていて、暗くなると反応するセンサーも付いていた。

 

 ただちょっと感度が弱いのか、日の落ち切った今頃のになって作動していた。

 

 外観は昔のままで中身は今風、そんな気まぐれなガス灯の明かりを見て、優香は今更のように思い出したことがあった。

 

(あ、そうか今日はクリスマスイブか)

 

 なぜだか急にそれを思い出した。

 今日が二学期最後の学校であったことさえも。

 

 生徒会の仕事の激務で時間に疎くなっていたのか。

 それとも何も予定がないからなのか。

 

(わたしもカレシがいればもしかしたら忘れることはなかったのかもなぁ。まあ、誰でもいいってわけではないけど)

 

 今日の予定が白紙なことが良いことか悪いことなのかは分からないが、白紙であることは事実だった。

 

 意外なほど真面目と言うか自身の奥手っぷりに苦笑する。

 

 自分では結構明るいと思ってたし、トークだって割とイケる、そう思ってはいたがそれを発揮するのは主に同性だけだった。

 

 それにそもそも女子高では肝心の出会いがないのだから、カレシなんてできないのは当たり前。

 

(でもみんな結構カレシいるんだよね。どこで見つけてくるのやら……?)

 

 やるせない思いを吐き出してみる。

 吐く息の白さがはっきりと見えたので、ずいぶん寒くなっているもんだと優香は他人事のように思った。

 

 だが寒さは頑として現実的で一切の容赦がなかった。

 急に寒さが増してきたみたいに感じられて、優香は自分の肩口を抱きしめながら躊躇うことなく足早に校門の外へと一気に駆け抜ける。

 

 校門を抜けたところで寒さに変わりはなかった。

 スカートの下から伸びる足がそのまま凍り付いてしまうのではないかと危惧して、優香は人目がないことを確かめるとふとももの辺りをぱんぱんと二回ほど叩いてみた。

 

 痛みは当然あったが、ちゃんと痛覚が通っていることに安堵した。

 

 誰も通らない黒塗りの道に気味悪さを感じて、優香は足早に駅方面へと向かった。

 

 ……少し歩くといつもの街路樹と石畳が優香を迎えてくれた。

 心細さから解放された優香はその道すがらあることを考え始めた。

 

 それは先に帰った燐のことだった。

 

(燐は、クリスマスイブ、何か予定があるのかな。あ、だから急いでいたのか)

 

 燐の慌てっぷりに違和感を覚えていた優香だったが、それで合点がいった。

 

 それは羨ましいというか、妬ましいというか……なんともも言い難かった。

 まあ、自分はそこまで恋愛っぽいことをしたいとは思ってはないけれど……。

 

 それでも楽しそうな燐を見て羨ましいと思うのはカレシの居ない女子としては普通の感情だと思う。

 

(でも燐の彼氏って年上だっけ。社会人って言ってたような……)

 

 事あるたびに燐が楽しそうにそのことを話していたのを思いだした。

 

 あれは所謂”恋する乙女の瞳”だった。

 これと言って恋したことがない優香だったが、あながち間違いではないだろう。

 

 燐としては隠しているつもりだろうが、周りの女子には分かり過ぎるほどに筒抜けだった。

 

「恋をするとわたしもあんな感じになるのかなぁ……なんだかちょっと怖いや」

 

 複雑な顔で優香は呟いた。

 そして普通とは案外難しいものだと思った。

 

(そういえば燐、いつからかあの彼の話しなくなったな、ラブラブだったのに。やっぱり恋愛って難しいんだろうなあ)

 

 なんでもこなせる燐でも恋愛が難しいのだとしたら、自分なんて到底無理だろうと優香は思っていた。

 

 まあ、恋の病はお医者様でも草津の湯でも治せないとか言ってるしね。

 難病と言えば難病なんだろう。

 

 なら、恋愛なんて当分要らない、かな。

 そんな未知のものに触れるよりも今は普通に生徒会のほうが楽しいし。

 

(でもさっきの燐、焦ってたけど何か楽しみにしてる顔だったなあ。ま、まさか別のカレシが出来たとか!? は、流石にないとは思うけども……ああ見えて要領いいからなぁ燐は)

 

 生徒会だって本当は燐がやるはずだったのにいつの間にか自分に押し付けられてたし。

 まあ、やってみたら案外楽しかったから良いんだけど。

 

 にしても。

 

「わたしもイブを一緒に過ごす人が欲しいなあ……やっぱり都会に、東京に行かないとダメかなぁ……」

 

 氷の様な冷たい風が優香の鼻や耳を赤く染めていく。

 

 震える体を抱きしめながら、東京への想いを胸に優香は石畳の上を一人とぼとぼと歩いていった。

 

 ────

 ───

 ──

 

「少し、時間過ぎちゃったけど……まだ、待っててくれてるかな」

 

 燐は時間を確認しながら目的地に向かって懸命に足を動かしていた。

 

 駅までの距離はそんなにないのだが、焦っているせいかやけに遠く感じてしまう。

 寒さで足が凍り付いているかのように感じて、気持ちとは裏腹に時間だけが加速的に過ぎていくような気になった。

 

 燐は更に

 息はそこまで切れることはないが、代わりに頭のほうがもやもやとしてくる。

 今急いでいることとは別の懸念があったからだ

 

 それは主に二つあった。

 

 一つは家の事。

 

 クリスマスと言えばケーキ、ケーキと言えばケーキ屋なのが一般的である。

 けれも、自分の家がパン屋の仕事を始めると必ずしもそうではないことが分かった。

 

 別にケーキを出さずとも客はそれっぽいものを求めにくるのだと。

 

 普通のクロワッサンを白いチョコレートでコーティングし、赤や緑でデコレートするだけで、それをクリスマス用と思い込んで買ってくれるのだから。

 

 当日でもない日に店に出してもそれなりに売れるのだから、用は雰囲気作りが重要なのだと思った。

 

 煙突がなくてもサンタが来ると思ってるような、そんな日本的なクリスマスとケーキを売らないパン屋と言うのは意外にも親和性があったりする。

 

 そんなことが分かるようになったのも売る立場になったからのことであり、それまではまったく気にも留めないことだった。

 

 そういう事で多分、今、店は忙しいだろう。

 ピークと言ってもいいかもしれない。

 

 クリスマスイブというのはケーキ屋だけでなく、パン屋にとっても一番の書き入れ時だと思っている。

 

 ただ、今から家に帰ってもほとんど何の役にも立たないであろう。

 頑張って列車を乗り継いでも、ほぼ閉店時間になってしまうのだから。

 

 だから母には無理しなくていいと言われていた。

 今日はバイト増員して頑張ると言っていたのでその人たちに任せるしかない。

 

 一番忙しいときに手伝えない。

 それが一番残念だった。

 

(それともう一つ……)

 

 燐が夜空に考えを巡らせながら走っていると、ふいに脇から人が出てきてぶつかりそうになった。

 

 燐はとっさに体を翻してその人影を躱すと、その場で立ち止まって即座に頭を下げた。

 

「すみません、急いでいたんで! 本当にごめんなさいっ」

 

 矢継ぎ早に謝ると、燐はぎゅっと目を瞑った。

 

 ぶつかってはいないが、自分の不注意のせいで危ない目に合わせてしまった。

 何か言われるだろうとじっと頭をさげて待っていると、その頭に柔らかいものが乗せられた。

 

 はっとして目を開くとそこには今時珍しい着物が目に付いた。

 冬場に着物って珍しい、燐がそう関心していると、柔らかな声が頭の上から降ってくる。

 

「大丈夫、ぶつかってはいないわ。あなたが咄嗟によけてくれたんでしょう。ありがとう」

 

 そう言って頭を撫でられていた。

 

 怒られるどころかお礼、というか頭を撫でられるとは夢にも思わなかった。

 なので燐は思わず顔を上げてしまった。

 

「あのっ! わたし、って……あれ?」

 

 顔を上げるとそこには誰もいなかった。

 その人は既に遠くにまで行っており、いつの間に移動したのか小さな背中しか見えなかった。

 

 なので燐は追いかけることはせず、もう一度頭を下げた。

 その時どこかで嗅いだことのある、静謐な香りが漂ってきて懐かしい感じがした。

 

 燐が再び頭を上げると、あの人は町の明かりと喧騒に紛れるようにどこかへと行ってしまった。

 

 燐は何かとても大切で忘れがたいものに出会った気がして、消えた方向をしばらく見送っていた。

 

 柔らかい手の感触、それだけが何かのシミのようにいつまでも残っていた。

 

 夜の帳が町を覆いつくすと、様々なイルミネーションが町並みを飾り付けていた。

 

 

 ────

 ────

 ────

 

 マフラーを冬の空になびかせながら、燐は更に速度を上げて駅に続く道を駆け出していく。

 

 その途中で一軒の店が目に入った。

 燐は何かを思い出したように立ち止まってしまう。

 

 そして店の周りをうろうろしてたかと思うと、思案するように宙を見上げた。

 

 そのまましばらく考え込んでいた燐だったが、何かを決意したように手をポンと叩くと、くるりと身を翻してその店の前へと走った。

 

(プレゼント当日で良いかと思ってすっかり買うの忘れてたっ。危うく手ぶらで行くところだった……呆けてるなあ、わたし)

 

 寸前で気付いたのはラッキーだったけど、これが最適かどうか燐は迷っていた。

 けれども、他のものに変える余裕はない。

 

 それに”これ”は確か約束してたものだし、本人もこれが良いと言っていた気がする。

 ずいぶん前のことだけれどなぜか機会に恵まれなかったので、ちょうど今がチャンスだった。

 

 ただ問題は。

 

(まだ残ってると良いんだけど……)

 

 それが唯一の懸念材料だった。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

「はあっ、はあっ、な、なんとか間に合った?」

 

 燐は駅前の広場まで来ると、大きく息をついて辺りをゆっくりと見回してみる。

 

(あれ? いないね。どこ行ったんだろう? まだ来ていないってことはないはずだけど……帰っちゃった、とかはないか……そういうことしないもんね)

 

 それらしい人影が見当たらなかったので燐は少し困惑した。

 

 イルミネーションで彩られた駅前の広場は年末特有の活気が溢れていた。

 

 暗がりの中でも行き交う人は多く、昼の喧騒と夜の華やかさが色づくちょうど中間の時間はある種の快適さが満ちていて少し浮かれているようにも見えた。

 

 燐はしばらく待ち合わせの場所で待っていたが、現れる気配がなかったので、すこし場所を移動することにしてみた。

 

 電話やSNSで居場所を訊ねるほどではないと思う、そこまで気を遣う必要はなかったから。

 

 そういった表面的な付き合いじゃなかったから。

 だからこそ……。

 

(……にしても、カップルが多いなあ……まあ、イブだしこんなものなのかもね)

 

 待ち合わせていた場所は広場の中心にある噴水の前だったのだが、そこは定番の待ち合わせスポットだった。

 

 主に待ち合わせとして使うのはカップルがだったのだが。

 それに今日はクリスマスイブのせいか普段よりも多い気がする。

 

 カップルが。

 

 きらびやかな格好の大人の男女や下校帰りの学生カップルなど、皆思い思いの相手とイブの夜を過ごすのだろう。

 

 傍から見ても恥ずかしいぐらいにイチャイチャしていた。

 

 燐はそのことをなるべく視界に入れない様にして暗がりの中を探していた。

 

 薄暗い中での人探しでも骨が折れるのに、今日はやけに人が多く出ているのでそれは困難を極めた。

 

 人手が多い理由はイブだけではなく、この場所にも意味があったからだ。

 

 燐も人々と同じ理由でここに来たのだが、ここまで人が多くなるとは思っていなかったので、ちょっと後悔し始めていた。

 

 しかも時間が経つにつれ人出はどんどんと増えていっている気がする。

 このままでは人の波に飲まれるのも時間の問題だろう。

 

 誇張ではなくそれぐらい人がこの場所に集結しつつあった。

 

 燐は諦めたように少し喧騒から離れた場所に行くとポケットから携帯を取り出した。

 呼び出そうと液晶に触れた時、ふんわりとしたものが背中に覆いかぶさってきた。

 

 それはどちらかと言うと抱擁に近い行為だった。

 

 バックパック越しにでも伝わる柔らかい感触がはっきりとした重さと共に寄りかかってくる。

 

 確かな温もりが燐にぴたっと密着していた。

 暗闇の中でもはっきりと分かる長い髪がたなびくようにふたりを包む。

 

 肩越しから流れる甘いバニラのオーデコロンの吐息が鼻をくすぐった。

 燐も好きな香りだった。

 

 それは香水の香りそのものだけではなく、この少女がつけているから好きなのだと思う。

 少女が持つ透明で澄んだ香りと、香水の甘い香りが混ざった奇跡的な中和の取れた香りが大好きだった。

 

 なので燐は振り返ることはせず、ただしばし余韻に浸るように靴先を眺めていた。

 

 ピンク色のトレッキングシューズはあの頃のままに。

 燐の足にぴったりと収まっていた。

 

「遅刻だよ、燐」

 

「ごめん。でもさ、どこに居たの? 待ち合わせ場所には居なかったよね」

 

「あ、ごめん。燐がなかなか来なかったからちょっと駅ビルのショップに行ってたの」

 

 あっけらかんとした口調で悪気もなく言ってきたので、燐は苦笑いする。

 

「なぁんだ、わたし心配しちゃったよ。もしかしたら……って思っちゃったから」

 

 燐はそう言うと、ちょっと首を持ち上げた。

 

 視界には澄んだ冬の夜空が無限のように広がっている。

 

 その先には何もないはずなのにどこか懐かしいような、そんな戻れるような場所が空のどこかにはあったのだ。

 

 今はもう行くことは叶わない場所だけど、そこは本当に完璧な世界だったから。

 

「だから、そこに行っちゃったかと思ったの?」

 

「うん……ちょっとだけ」

 

「大丈夫だよ燐。わたしはどこにも行かないよ」

 

 さっきよりも少し強く抱きしめられる。

 柔らかい感触と想いを押し付けられたみたいになって少し恥ずかしかった。

 

「それに、待つのは慣れてるから……」

 

 耳元で囁かれる。

 熱い息が想いを届けるように、燐の耳をふわっとさせた。

 

 その暖かさと、刺激と、そしてその言葉に燐は脳の奥が痺れるような衝撃を受けていた。

 

「そうだったね……ごめんね待たせちゃって」

 

 そこに本当にいるのか確かめたくて首に回された手に触れてみる。

 

 柔らかい手の感触は、寒空の下にいたとは思えないほど暖かくて、安心した。

 

 そのまま慈しむように撫でていると、不意に手を掴まれる。

 

 細い指先が何かを探すように彷徨っていたが、それはお互いの指の隙間にぎゅっと収まった。

 

「これでどこにも行くことはないね」

 

 手と手がぎゅっと固く繋がれる。

 そのことがすごく気持ちよかった。

 

「うん、そうだね」

 

 パズルのピースがぴったりはまった時のように何も違和感がなかった。

 それは自然な行為のようにも思えた。

 

 いつもの友達の、蛍の手だったからすごく嬉しかった。

 

 人ごみの中で恥ずかしいことをしてる気がするけど、特に気にならなかった。

 

 暗闇がイルミネーションが特別な日が、何もかもカモフラージュしてくれるみたいで。

 

 なんでもないわたしたち。

 ただ普通にいつものことをしていただけのわたしたちのことを。

 

 雪は降ってないけど、それぐらい寒かった。

 

 でもお互いが密着したところはすごく暖かった。

 

 ───だから、ずっとこのままでも良いと思った。

 

「暖かいね」

 

「うん」

 

 あの時夜空に浮かんだランタンに似た赤い炎が揺れていた。

 

 冷たく氷のような風に吹かれても消えることなく、ただひっそりと揺れていた。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 






ゆるキャン△ 2ndSEASONもあっという間に折り返しですねー、早いですねー。

第6話。
かさね原作通りのエピソードでしたねえ。ただスマホが使えなくなる過程を丁寧っていうか隙がないようにしてあったのが印象的でした。
それにアニメのチョコちゃんも良かったけど、実写だとどうなるかなぁ……4月からのドラマ版では一番楽しみかもしれないー。

第7話。
原作での2.5話分を詰め込んだ贅沢な回でした。だからか若干巻き状態でしたけど、上手くまとまったのではないかと思います。
ただ、なでしこが大型犬に襲われるシーンと、リンがアルトラパンっぽい車を運転する回想、いえ妄想シーンがなかったのが残念でしたー。
青い空のカミュ仕様(フレンチミントの2トーン)かどうかが知りたかったー。でもドラマ版でも無理っぽいなあ、回想シーンの為だけにラパンを出すわけないしねー。


そういえばゆるキャン△ の聖地巡礼でマナー的な問題があったっぽいですね。聖地と言ってもゆるキャン△ は色々な場所がありますからねー。その一つ、富士山YMCAキャンプ場ちょっとしたトラブルがあったみたいですが……。

まあ、キャンプするほどでもないけど、折角来たんだから聖地を見て回りたいのは分かります。

ですが、ルールとマナーを守って楽しく聖地巡礼(デュエル)しよう! が基本だと思ってますのでトラブルなく見たいものですよねー。後で嫌な思い出になっちゃいますしねー。

あ、そんな私も聖地巡礼してきたんですよー。とは言っても去年(2020年)の秋なんですけどねー。
行ってきましたよー、埼玉県飯能市の天覧山!!
……はい。ゆるキャン△ でもなければ青い空のカミュでもない、よもやよもやのヤマノススメの聖地のひとつ、天覧山。
10月と11月、二回行ってきたのですが、二回とも中段止まりだったのでリベンジしたいなと思ったんだけど、機会がちょっとないーです。
今年の夏頃にはまた行きたいなー。高尾山にも行きたいですしねー。

そういえば先日、バイク(原付)でぼーっと走っていたら、某アウトレットモールまで来てしまったので、ちょっと立ち寄ってみました。

駐車場が満車だったから分かってはいたけど人が多いですねえ。ついでにワンコも多いですねー。
で、買ってきたものと言えば銀杏の缶詰と瓶詰のガムシロップだけ───。
しかしこのガムシロップ720mlも入っているのにまさかの100円でした。賞味期限が近かったとはいえ結構なお得感、瓶代だけで元が取れそうなほどに。
明治屋のアウトレット、意外と侮れないのかもしれない……。

それではではー。



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Medieval ecriture

 

 夜空に瞬く星よりも眩い光の束。

 それは星の気配を消してしまうほど強く、月の光さえも遮ってしまうほどの明るさで地上をそれこそ夢の世界のように彩っていた。

 駅前のショッピングモールにある巨大なツリーは星をちりばめたようなLEDライトの電球で眩いほどにデコレートしてあった。

 ベンチの周りにあるポインセチアを植えたプランターにも小さな電灯が真珠のように添えられている。

 どこもかしこもクリスマスムードで彩られていた。

 毎年やっているのでそれほどの変化はないはずなのだが、今年は異様なほど人出が多く、なにやら異様な雰囲気に包まれていた。

「ねぇ、蛍ちゃん。本当にここでいいの?」

「まあ、ちょっと離れてるけどここなら人気も少なそうだしいいんじゃない」

「確かに、今のところはそんなにいないね」

 蛍と燐はクリスマスの喧騒から少し離れた場所にある白いベンチに腰かけていた。
 駅前の煌びやかなスポットとは違って、ここには光は届いていない。

 夜の闇とさほど変わらない冷たいベンチの周りには今のところそれほど人は集まっていなかった。
 
 ここからだとツリーは柱の影から微かに見える程度で、それは首を傾けてもそれほど変わりはない。

 氷で作られたみたいな冷たいベンチに腰掛けるのにはちょっと無理がありそうなので、ブランケットを下に引いてその上から座った。

 それでもなんとなくまだ冷たい気がする。

 燐も蛍も同じ思いなのか、どちらともなく身を寄せ合って肩をぴったりと並べて座る。
 お互いの肩が触れ合う距離まで近づいたことで、ようやく暖かさを感じることができた。

 ネイティブ柄の生地の厚いブランケットを持っていたのは、燐ではなく蛍だった。
 裏地にも刺繍が施してあり、リバーシブルで使うことが出来るアウトドア仕様。

「これ、結構いいやつだよね。わざわざ買いに行ったの?」

「うん、冬場でアウトドアするとき役立つかと思って」

 蛍はベンチに引いたブランケットの感触を確かめる様になぞった。

 フリース素材で出来たブランケットは二人で腰掛けるにはちょうどいい大判サイズで、赤と白のネイティブ柄はイブの日にちょうど合っていた。

「蛍ちゃん、冬でもトレッキングとかに行くつもりなの?」

「うん、最近は冬でもキャンプとかアウトドアするのが流行ってるんだって。人気(ひとけ )も少ないし虫はいないしで夏よりも快適みたいだし。ほら、この雑誌の表紙」

 蛍は用意周到とばかりにアウトドア雑誌を見せてくる。
 表紙には”寒いからこそ冬キャンが熱い!!”と大きく書いてあった。

(寒いのか熱いのか良く分からないよ、これじゃ……)

 燐は支離滅裂とも言える文言を訝しそうに眺めていた。
 中を見ると蛍の言う通り数ページも渡って特集してあった。

 だが、冬場でのキャンプのことばかりが書いてあったので、冬のトレッキングの敷居は高いがキャンプだけならばそうでもない、つまりはそう言う事なんだろうと燐は一人で納得していた。

「だからさ」

 蛍が雑誌の横から顔を覗き込んでくる。
 珍しく食い気味の蛍に、燐は少し驚いた。

「今度さ、燐も一緒に行かない? トレッキングかハイキング」

「あんまり遠くだと雪があったりして大変だけど、近場ならいい気がするんだ。燐。最近山に行ってないでしょ。だから日帰りでちょっとした山にでもどうかなって」

「確かに最近は行ってないけど……」

 興奮気味に話す蛍に、燐は一言答えると、困った顔で微笑む。

 てっきり燐が即答するかと思っていただけに、勢いを削がれたように蛍はきょとんとしてしまった。

(燐、もしかしてまだ聡さんのこと気にしてるのかな? もう吹っ切れたからって燐は言ってたけど……)

 つい余計な事を考えてしまう。

 時期早々だったのかもしれない、と蛍は後悔した。

「ごめんね。無理に誘っちゃて、わたしと一緒じゃ嫌だよね。足手まといになるし」

 自身の身勝手な憶測も含めた謝罪を燐にした。

「あっ、全然そんなことないよ! ただ、休日もやることがいっぱいで暇があんまりないだけで、もう少ししたら落ち着くとは思うから」

 蛍が気を遣って言ってくれているのに無下に断った気がして、燐は慌てて訂正した。

「そうだよね。部活もやって家の手伝いもしなくちゃならないんだもんね。ごめんね、燐の都合も聞かないで勝手なことばかりいって」

 蛍はいたわるように燐の手に触れる。
 手袋越しでも蛍の気持ちが伝わってくるようで安堵する。

「あ、でもでも、蛍ちゃんに誘ってもらえてすっごく嬉しいからねっ! それにしてもさ、蛍ちゃんすっかりアウトドアにハマっちゃったよねぇ。今はわたしより詳しいんじゃない?」

「さすがにそれはないよ~。まだ半年もやってないし。でも……自分でもこんなにハマるとは思わなかったよ」

 そう言った蛍の顔は以前よりもずっときらきらしていた。

 前はどちらかというとガーリーな女の子らしい服を着ていたが、最近の蛍はアウトドアで着れる機能的は服を着ることが多くなっていた。

 制服の下も燐と同じような長袖のベースレイヤーを重ね着して、足元もローファーではなく、ズレのないしっかりとしたトレッキングシューズを履いて登校するようになっていた。

 燐と並べばペアルック、もしくは双子コーデともとれる格好だったが。
 周囲に何と言われようとも二人は気にせず、むしろ真似するものも出てきたほどであった。

 蛍のトレードマークとも言える二つに結わいた髪も前よりかは短くなっていた。
 トレッキングするときに邪魔だからと、ある日突然短くしてしまっていた。

 そのおかげなのか、蛍は以前よりも活発になってきたと思う。
 価値観が変わったというか、ちゃんとした趣味が出来たからだろうと燐は思っていた。

 だいぶ変わった印象になった蛍だったが、あのキンセンカの髪飾りだけはまだ自分の髪に付けていた。

 捨ててしまおうかと思ったこともあった。
 けれども結局元の蛍の髪に収まっている。

 それは貰った吉村さんに悪いと思ったし、それに自分の事を間近で見てたのはこの髪飾りだけなんだと思ったから。

 多分、燐でも吉村さんでもないと思う。
 わたしが最後に残るのは、この悲しい花言葉を持つ髪飾りだけ。

 そんな気がしたから。


「とりあえず今一番気になるのはうちの店のことかなぁ。トレッキングを再開するのはその後だね」

 燐は自分に言い聞かせるように言った。

 自分でも分かっている。
 まだ心の中に煮え切らない思いがあることを。

「それにさ、蛍ちゃんがいるから大丈夫だよ。わたしは蛍ちゃんがいればそれでいいんだよ」

 燐の長い髪が優しく揺れる。

 肩口程度までしか伸ばしていなかった燐の髪は、今は背中の辺りまで伸びていて、燐の印象を変わったものにしていた。

 落ち着いて見られるというか、大人っぽくなったなんて、クラスや部活のみんなに言われたこともあった。

 何も変わっていないのにね。

 ただ長い髪は部活の時邪魔になるのでカチューシャで止めた後、更にゴムで縛ったりしていた。

 髪が長くなったせいでホッケー部の連中に遊ばれることもあった。
 時に三つ編みにされたり、ショートツインにされたりと格好の玩具にされていた。

 燐はその度に違った自分を見た気がして、少しむくれたりもしたが、満更でもなかったらしい。

 蛍は燐の髪型が変わるたび、嬉々として写真を撮りにくるのだが、それが無性に恥ずかしかった。

 でも、髪型を変えても特に何が変わるわけでもない。
 引っ搔き傷はずっと心の奥に残ったまま。

 唯一変わったことと言えば……。
  
 燐は考え深い表情になったかと思うと、困った顔で笑いながら答えた。
 
「お兄ちゃん向こうで上手くやってるみたいだし、これで良かったんだと思う。でも北海道ってすっごく雪降るから、今頃は大変なんじゃないかなぁ? うー、考えただけで身震いしてくるよぉー」

 燐はわざとらしく体を震わせて、どこか客観的に笑い飛ばした。

 自分でもバレバレな態度だと思っているが、適切な言葉が浮かんでこなかった。

 だったら笑い話のほうがいい。
 その方がまだ少しだけ救われる、そんな気がするから。

「燐……」

 蛍は胸元で手を握る。

 燐の手を今すぐにも握ってあげたかったが、燐を傷付けた自分にその資格はないと思ったから。

(やっぱり聞かなければ良かった。燐はまだ聡さんの事を忘れられずにいるんだ……そうだよね、あんなに好きだったんだもんね。わたしって無神経だな……)

 燐を気持ちを代弁するかのように蛍は膝の上に手を乗せて俯いてしまった。
 
 燐は何とも言えず困ってしまった。

 蛍が共感してくれるのは嬉しいけど、自分の道化っぷりが無意味になってしまう。

 結局蛍にも気を遣わせてしまった。

 だから燐は蛍の手に掌を重ねてもう一度笑った。

 今度は少し自然な感じで。

「わたしが今気がかりなのはね、家のことと……蛍ちゃん。ね、せっかくの二人っきりのイブなんだから笑って欲しいなぁ。ちょっとだけでいいから」

 俯いた視線を上げると燐の笑顔があった。
 ちょっと無理してるのが分かるけど、そこがとても愛おしい。

 蛍も少し無理をして笑ってみせた。

「あ、えっと……うん、イブだもんね。ごめんね、変なこと言っちゃって」

「ううん。こっちこそごめんね。近いうちにトレッキングもやるようにするから、それまで待っててほしいな」

「わたしいつまでも待ってるよ、燐と一緒にトレッキングするの楽しみだから」

「蛍ちゃんも言うようになったねぇ」

「そうだよ。わたし我慢せずに言うようにしたんだ。その方が楽だと思ったから」

 蛍は目元をこっそり拭いながら照れたように笑った。

「へぇー、蛍ちゃんは成長したんだねぇ。そういえば胸も大きくなったような……」

 燐はわざとらしく両手をわきわきと蠢かせた。
 それはあからさますぎる行為だった。 

「燐。女の子同士でもセクハラは成立するんだよ」

 蛍は真顔で燐をたしなめる。

「もぅ、蛍ちゃんは手厳しいなあ。ちょっとしたスキンシップがしたいだけなのに」

 残念と言った顔で燐は手を引っ込めた。
 触れ合いたいのはわりと本心だったけど。

「燐はそんなことばっかり言ってるんだから。恋なんて当分無理だよね」

「くすっ、まあね」

 燐と蛍は顔を見合わせて笑った。



「そういえばさ、今日ってクリスマスイヴでしょ。燐、”青パン”の手伝いはしなくてもいいの? 結構お客さん来てそうだし」

「もう、蛍ちゃんその名前は止めてよ~。ちゃんと”青いドアのパン屋さん”って可愛い名前があるんだからぁ! それに店のことは多分大丈夫だと思う。確か今日は吉村さんがシフトに入ってくれてるし」

 三間坂家の専属といっていいほど献身的に世話をしてくれた吉村は、最近家政婦業を辞めていた。

 理由のひとつに蛍の自立があった。

 自分一人で何でもやってみたいという蛍の意見と、蛍自身に収入がないことから自分が辞めるのが妥当だと思っていた。

 それでも吉村との交流は続いており、吉村は何かにつけて三間坂家を訪問していた。

 そんな吉村が新しい勤務先に選んだのが燐の家がやっている”青いドアのパン屋さん”。

 新しい人を雇うだけの予算はまだぎりぎりだったが、燐が学校に行ってしまう以上、母が一人で切り盛りしなくてはならなくなる。

 辺鄙な田舎町のパン屋でもやることは山の様にあるのだと母、咲良は今更のようにため息をついていた。

 そんな時に渡りに船とばかりに吉村が求人を申し込んでくれたので、咲良は即採用した。
 知り合いが少ない小平口町で、娘の友達の知り合いというのはとても心強かったから。

 たちまち二人は意気投合して、その日のから仕事をすることになった。

 吉村は家政婦の経験のおかげで大変良く働いてくれた。

 ”燐が居なくても十分やっていける”、ある日燐が遅くに帰ると、母がアルコールを煽りながらのたまったので、燐は憮然として訝しんだが、とりあえず言うように任せることにした。

 それは思ったよりも上手くいっていて、多分今日も大丈夫だとは思う。
 蛍も吉村さんが別に仕事に就けたことをとても喜んでいた。

「まあ、吉村さんがいるなら大丈夫そうだね、今日の”青パン”」

 蛍は何気なくその名を口にしているが、燐には思いのほか心苦しく聞こえてしまう。

 ”青いドアのパン屋さん”は、店の命名権を母と争ってなんとか無理やり勝ち取った、名誉ある名前だった。

 故に燐には店の名前にこだわりがあった。
 ちゃんと正式名称で呼んでほしい、と常々思っていて周囲にも話しているのだが、それは親友の蛍にすら伝わっていない。

「でもみんな”青パン”って呼んでるよ。その方が覚えやすいみたいだし、わたしも青パンの方が親しみやすくて好きだなぁ」

 紅葉が落ち始める頃、帰り道で蛍が何気なく言ったこと。

 結局それは燐の周りだけでなく、町内でもその呼び名が定着してしまった。

 誰が最初にその名で呼んだのかは分からないが、今や小平口町の青パンになってしまっていた。

 あまりにも定番化したので、いっそのこと店名も”青パン”に変えようかと母に議論を持ち出されたが、燐は断固として譲らずその意見を速やかに却下した。

「青パンって言い方さ、なんかすっごく胡散臭くない? なんか下着売ってるお店っていうか、いかがわしいお店みたいでさあ……確かに最近は変な名前のパン屋さんが流行ってるとはいえ、やっぱり青パンはないよ~」

 そんなことを蛍に言っても意味はないのだが、当事者としては愚痴を零さずにはいられなかった。

「でも言いやすいし、可愛くない? 語感もいいし。それにこの前、人に尋ねられたよ。”青パンって店はどこですか”って。わたしはちゃんと燐の家を教えてあげたからね」

 蛍はそれが総意であるかのように少し胸をはった。
 ただでさえ大き目のバストが更に強調されて、燐は圧倒的なものを感じて閉口した。

「なんか複雑な気分だなあ……有名になるのはいいんだけどねぇ」

 しっくりこないとばかりに首をかしげる燐。

「でも有名になることは悪いことじゃないんじゃない? いっそのこと本当にパンツの形したパンでも売ってみるとか」

「ふぇ~、そんなの作ったら大炎上だよー!! 今だと女性軽視とか言われそうだし……」

 蛍の突飛すぎるアイデアは燐に即座に否定された。

「えー、良いと思うんだけどなあ。ほら今って、色々売ってるパン屋さんよりも、特化型のパン屋さんが増えて来てるじゃない? 食パンしか売ってない店とか、ベーグルだけの店とかもあるし」

「そういった専門の店って増えて来てるよね、駅前にもあるし」

 小平口町と違って、この駅周辺は明らかに都会であるためそういった専門店も割とそこらじゅうにあった。

 界隈で新しいパン屋が出来ると燐は自分の店でも使えるものがないかと足繁く通い、何らかのアイデアを模索しているのだが。

 そういった専門店の台頭はここ最近増え続けていて、それは確かに一定の人気を得ていた。

「だからパンツ型のパン専門店にしてみたらどう? 青だけじゃなく白とか黒とかボーダー柄とか……それこそ燐の好きなベーグルみたいに色とりどりにしてみたら可愛くないかな?」

 蛍の言う、謎のアイデアを頭の中で思い浮かべてみる燐。

 逆三角形のパンをトングで掴み、それをレジに持っていく客……。

 ……どうみてもありえないし、いかがわしいとしか表現しようがない。
 
 燐は軽い眩暈をおこしたように額に手をあてていた。

「ごめん、蛍ちゃん。とてもじゃないけど受けないよそれ……もしかして、わざと変なアイデア出して楽しんでない?」

「あ、バレた? わたしね青パンにちょっと変わったパンとかあったらいいなぁって前から思ってたんだ。看板商品みたいなの」

 肩をすくめる燐には蛍は小さく舌を出して笑った。

「変わってるっていうか、マニアックすぎるっ。そんな看板商品作ったら別の意味で有名になっちゃうよ~!」

「あははっ、でも注目を浴びることはいいことだと思うよ。お店は宣伝が第一だし。それにもし取材が来て本に載るようになったら、”お願いだから青パンって呼ばないでください”って書いてもらえばいいんじゃない」

「うー、余計に呼ばれそうな気がするし、そもそも取材になんてこないよ~。うちは普通だし」

「だから新商品開発しよっ。わたしも協力するから。みんなで青パンを盛り上げていけばきっと取材がやってくるよ」

 蛍は嬉しそうに燐に提案する。

 何を張り切っているのは分からないが、蛍は燐の家、青パンに並々ならぬものがあるようだった。

 燐はなんとも複雑な気持ちになる。
 蛍とは違って燐はささやかなものしか求めていなかったから。

(蛍ちゃんには悪いけど、わたしは素朴なパン屋さんがいいんだよね)

 燐はそこまでのものをパン屋に求めてはいなかった。
 もともと母が趣味で始めたようなものだし、母子二人で暮らしていけるだけの収入があればいいと思っていた。

 確かに店としては客がより多く来た方がいいのは当たり前とは思う。
 知名度があがるのも悪くないとは思わない。

 でも燐は今のままで十分と思っていた。

 背伸びしない、身の丈に合った生活とちょっとした幸せがあればそれで。

 ……多分母はそう思ってはいないだろうが。

「わたしは田舎の素朴なパン屋さんでいいんだよ。そんなに有名にならなくても、蛍ちゃんとか友達とか、近所の人たちパンを買ってもらえればね」

「でも、それじゃあ赤字になるんじゃない? 店のパンが結構売れ残ってるの見るよ」

 急に現実的な意見を言う蛍に、燐は開いた口が塞がらなかった。

「ほ、蛍ちゃん、痛いとこつくね。でも、最近はちゃんと計算して焼いてるからロスは少なくなってるんだよ」

 いつまでも売れ残りのパンで腹を満たすわけにもいかないので、燐は母と二人で夜通しリサーチと試作品の開発をしていた。

「そうなの? わたし、売れ残りのパンを一つの袋にまとめて売るのが好きだから、売れ残りが減るのはちょっと残念だなあ」

 一時期、売れ残ったパンを蛍にあげてたこともあったが、それは悪いからといつしか蛍はお金を払うようになっていた。

 そのおかげで助かったと言えばそうなのだが。

食品廃棄(フードロス)問題のこともあるし、売れ残りは減らしていかないとね」

 燐は人差し指をくるりと回して、聞きかじりの知識を披露する。

「だったらやっぱり有名になったほうがいいんじゃない? お客さんが来てくれて、売れ残りもゼロ。一石二鳥ってやつじゃないかな」

「あっ、そういうこと、なの……?」

 蛍に上手く丸め込まれて、燐は小首を曲げて考え込む。

「ねっ、燐。みんなで青パンを盛り上げて行こう。町おこしの一環として、ねっ」

 燐の手をとりながら蛍が明るい声で提案してくる。

 蛍としては同じ町に親友が移り住んでくれたのだから、なんとしても協力してあげたかった。

 燐は蛍の気持ちを汲んで優しく微笑み返す。

「ありがとう蛍ちゃん、その気持ちだけで嬉しいよ。でもね……」

「ん?」

「やっぱり青パンはちょっとね」
 
 それだけはどうしても譲れなかった。

 そして二人は顔を見合わせると、くすくすと笑い合った。

 何気ないやり取り。
 それが二人にとって何よりも楽しく、心地よかったから。



「ねぇ、燐。まだちょっと時間あるし今のうちにプレゼント交換しない? 燐はちゃんとプレゼント持ってきてくれたよね?」

 蛍はきらきらした瞳で燐に尋ねる。

 それはどんなイルミネーションよりも綺麗で透き通って見えた。
 その瞳の前にはどんな嘘も見破られそうで。

 だから燐は誤魔化すことなく正直に蛍に話した。
 
「ごめん……実はわたし直前になるまですっかり忘れたよ。でも、ちゃんと用意したからね」

「うん、だったら問題ないよ、えらいえらい」

 蛍はにっこりと笑って燐の頭を撫でた。

 突然のことだったが、蛍が屈託のない笑顔だったので、燐は何も言わずなすがままに撫でられていた。

「燐は賢いねー、よしよし」

 ペットにするような可愛らしい声で蛍が言うので、燐はさすがに恥ずかしくなってきた。

「も、もう蛍ちゃん、撫ですぎっ。さすがに恥ずかしいよー」

 燐は頭に乗せられた蛍の手を払いのけた。
 と言ってもそこまで力は入れておらず、軽く押した程度であったが。

「燐、照れなくてもいいのに」

 燐が手加減してくれたことを知っていて、蛍は再度燐の頭に手を乗せようとする。

「もー、撫でることがプレゼントじゃないでしょ。どうかしちゃったの蛍ちゃん?」

 燐は蛍の手を両手で受け止めると、どこか浮足立っている蛍に首を傾げた。

「ほんとにね。クリスマスイブだからなのかな」

 蛍は他人事のように言って、頬に指をあてた。

 なんとなくだが、今日の蛍はいつもと勝手が違う気がする。

 上手くは言えないけど、どこかふわふわとして定まらない感じがする。
 イルミネーションの明かりが蛍をいつも以上に活発にさせている、そんな気がした。

「蛍ちゃん。早く交換しよう。なんか人出が増えてきているし」

 確かに燐の言う通り、誰も居ないと思ったベンチの周りには人が集まってきていた。

 待ちきれないとばかりに燐はいそいそとバックパックを下すと、中から赤いリボンにくるまれた紙袋を取り出す。

「あ……そうだね」

 少しぼおっとしていた蛍も隣に置いたカバンからプレゼント用の紙袋を取り出す。
 それは赤いリボンにくるまれた少し大きめの包装紙だった。

 奇しくも燐と同じようなものを手に取っていた。

「じゃあ、はい! 蛍ちゃんメリークリスマス!」

 燐は少し頬を染めて、プレゼントを蛍に渡す。

「うん、メリークリスマス、燐」

 蛍も顔を赤くして言うと、赤いリボンにくるまれたプレゼントを燐に手渡した。
 
(あれれ?)

 二人は同時に同じ違和感を覚えていた。

 燐から蛍に、蛍から燐にプレゼント交換がなされたはずだったが、それは何も変わっていない様に見えた。

 間違い探しというにはあまりに同じもの。
 リボンの結び方も包装紙もほとんど変わりはない。

 燐の手の中のプレゼントのほうが若干大きく見える程度の差異しかなかった。

 蛍はせっかく渡したものを突き返されたような、何とも言えないショックを受けて、自分のと燐のプレゼントをしばし交互に眺めていた。

(これってどういうことなんだろう? もしかして燐と被っちゃった?)

 燐も同じことを思ったのか、顔を見合わせると大きく頷いた。

 二人は照らし合わせたように同じタイミングでプレゼントの中身を確認する。

「あっ」

「あ……」

 リボンを解いて紙袋を上げた時、小さな歓声が二つ、同時に沸き起こった。
 そこには驚きと、小さな喜びが含まれていた。

「やっぱりこれって……」

 燐は包み紙の上の薄いベージュ色のものに見覚えがあった。

「クレープ、だよね。これ、もしかしてパステルの……」

 蛍もそれを知っていた。
 中身を落とさない様に気を付けながら、包装紙のロゴを確認する。

 そこにはゴシック体で”Pastel”の文字のロゴが書いてあった。
 もちろん燐のものにも。

「あ~、やっぱりパステルかぁ。この辺のクレープ店ってパステルしかないもんね」

 燐は諦めたような声を出す。

「燐、ごめん。被っちゃったね」

 蛍が本当に申し訳なく謝ってきたので、燐は慌てて返答する。

「蛍ちゃんが悪いんじゃないよ。事前に聞かなかったわたしが悪いんだからっ。だからごめんね」

 燐と蛍はベンチの上で向かい合ってお互いに謝罪した。

 二人がプレゼントに選んだのは、偶然にも同じもの。

 クレープショップPastelの”デラックスぱすてるクレープ”だった。

 これが新作で売り出したときはまだ初夏の頃、二人にとって忘れがたい季節の頃だった。

 そのボリューム感から当初は敬遠されがちだったのだが、夏の休みに入ってからは急に売り上げが伸びてきて、いまやPastelの定番商品となっていた。

 それでもあくまでシェア向けで、シングルで頼む人はあまりいなかった。

 しかし燐と蛍の手にはそのクレープが握られ、いや割と重そうに持っていた。

 いかもトッピングも全く同じ、アイスもストロベリーも、チョコレートソースも全ては過剰に盛られている。

 優に3人前はあろうかと思われる大きなクレープは見た目だけでなく中身もしっかり3人前だった。

 もちろんカロリーも3人前。
 今日の体重計が怖いぐらいだった。

「蛍ちゃん……これ食べきれるの?」

「もぐもぐ、うん。わたしは大丈夫みたい」

「あぁ、そう……」

 黙々と食べ始める蛍に尻込みしながら、燐は端っこの方から少しづつかじりついた。
 生地の暖かさと、中のアイスが絶妙なアクセントになっていて確かに美味しいのだが。

「でも、良かった。燐のプレゼントがクレープでわたしてっきり」

「てっきり?」

「ブーメランかと思っちゃったよ」

「ふぇっ!? なんでブーメラン?」

「小説でさ、わたしたちと同じように女の子同士でプレゼント交換するの。で、その子の渡したのがブーメランだったんだよ」

「ブーメランねぇ……あ、もしかしてファンタジー小説とかで良くあるバトル系の話?」

 燐はその手の話を何度か読んだことがあったので蛍が言っているのはそーゆー系の話だと思っていた。

 それならブーメランを貰ってもそれほどおかしくはない。
 剣でも槍でもなくブーメランなのはちょっと斬新だとは思うけれど。

「ううん、違うよ。わたし達と同じ高校生で普通の話だったなあ。敵とかそういうのは出てこなかったし」

 蛍はさも美味しそうにクレープを食べながら燐の期待をあっさりと否定した。

「そうなんだ……だったら余計に不思議だねぇ」

 燐は少しがっかりすると蛍と同じようにクレープを食べる。
 この量の多さは一種のファンタジーだと思った。

「でも、燐から貰ったら嬉しいかもね。たとえそれがブーメランだったとしても。……あ、きっとそういうことなのかもね」

「ん? しょうゆうこと?」

 燐は口の中ではもはもと苺を転がしながら蛍に聞き返す。

「きっと燐には分からないことだよ」

 ハムスターのように口いっぱいに頬張る燐の顔が可笑しくて、蛍は楽しそうに答えた。

「??」

 燐はなぜ蛍が笑っているのか分からず首を捻る。
 尚も笑っている蛍に肩をすくめると、クレープを食べる作業に戻った。

「んー、それにしてもさ、これボリュームがあるよねぇ。なんか飲み物欲しくならない?」

「そう思って買っておいたんだ。はいこれ燐の分」

 蛍は傍らに置いた青いバックバックから小さなペットボトルを取り出す。
 オレンジのキャップのそれは人肌程度の暖かさがあり、自販機等で良く見る飲み物だった。

 少し茶色がかったペットボトルを手に取ると燐はしげしげとラベルを見つめる。

「蛍ちゃんこれって……」

「うん、()()()()ミルクティーだよ。わたしのおごりだから遠慮せずに飲んでね」

 やはり予想通りミルクティーだった。
 ラベルには”ミルク20%増量”とおまけ書きまでしてある。

 ただでさえ甘いミルクティーにミルクの追加がしてあり。
 完全に甘党向けのテイストになっていた。

 つまりそれは蛍向けの飲み物と言うことで。

 考えてみたら蛍が買う飲み物は殆どが甘味系の飲み物だった気がする。
 知っててやってるなら分かるが悪意がまったくない分、余計にたちが悪いとも言えた。

「えっと、その……さ」
 
「どうしたの?」

 出来れば甘くない飲み物が良かったんだけど……と燐は言おうとしたが、隣の蛍が普通にミルクティーを飲みながらクレープを食べているのを見たら何も言えなくなってしまった。

(もしかして、蛍ちゃん、わたしを甘さでころそうとしてる!?)

 燐の脳裡にあり得ないけど、あり得そうな考えが浮かんでしまう。

「燐、あまり進んでないけど……途中で何か食べてきたの?」

 蛍は少し心配そうに燐を見つめる。

 蛍のクレープはすでに四分の一程度まで減っていた。
 それに対して燐のクレープはまだ半分以上も残っている。

 いくら甘いのが好きだからってこれでは……。
 蛍が心配するのも無理はなかった。

「あ、いや、そんなことないんだけど」

 比喩だけでなく実際の腹の内も探られてるみたいで、燐は思わずギクリとした。

 さっきから頑張って食べているのだが一向に減る気配がない。
 そのことにずっと疑問を感じていた。

 行儀悪いとは思いつつ、クレープの中を指で開いて見てみる燐。
 量といい重さといい、いくらなんでも多すぎる気がしたからだ。

 中を開いてみて燐は声も出せず仰天してしまった。

 そこには大量の生クリームソースと過剰ともとれるフルーツがぎっしりと詰まっていたからだ。

 これは燐の知っている特製クレープではない、ここまで過剰に盛り付けることはなかったはず。

 特製クレープを食べるのはこれが初めてではないのだから。

 燐は横目でちらりとクレープを食べる蛍を見る。
 相変わらず美味しそうに食べているが、そこまでボリューム感はなさそうに見える。

 対して自分のは明らかに分厚い、この差は一体なんなんだろうか?

 燐が手を休めて考え込んでいると一つの答えに辿り着いた。

 それは、単純なことだった。

(あっ! そうか。わたしの買ったものは蛍ちゃん用にホイップクリームを抜いてもらうように言っておいたから、それほどでもないけど)

 蛍はそんなことを気にする必要がないのだから、量に差が出るのは当然だった。

 でも。

(なぁんか、中のフルーツも多いんだよねぇ、苺なんて食べても食べても後から出てくるし……いくらなんでも多すぎだよー)
 
 盛りだくさんなフルーツのトッピングに燐は泣きそうになってしまう。

 そんな燐の手がまた止まっていたので、蛍が心配そうに見つめていた。

(そういえば、蛍ちゃん。クレープ店の人と仲良くなったって言ってたっけ……)

 もしかしたら”コレ”は特製的なものなのかもしれない。

 急場でプレゼントを決めた燐と違って、蛍はこのクレープを最初から渡そうとしていたわけだし、前もって準備していた可能性が高い。

 いや多分そうなのだろう。

 どちらにせよ、燐には過剰すぎるサービスだった。

「燐、大丈夫? やっぱり体調が悪いの?」

 さっきから手が止まっていることに蛍が見かねて声をかける。

 蛍の手にあのクレープは握られておらず、代わりに綺麗にたたまれた包み紙を手にしていた。

 蛍のあまりの速さに燐はしどろもどろになって言う。

「あ……だ、大丈夫っ。全然何ともないよ。ただちょっと量が多いなーって思っただけで」

「あぁ、それ、ひかりさん……その、クレープ店の人に頼んで特別に作ってもらったんだ。大切な人に渡したいって」

「やっぱりそうなんだ……」

 燐は自分の予想が当たっていたことを呪った。

 そして、こんなことになるのなら事前に胃薬を飲んでおけばよかったと胸中で後悔する。

「あのさ、蛍ちゃん良かったら少し食べない? わたしひとりじゃ食べきれそうにないんだ」

 燐はそうそうにギブアップ宣言をした。
 無理すればなんとか食べられないことはないが、それには時間もかかるしなにより色々と過剰に摂取することになる。

 ただでさえこの時期は食べ物が美味しくてついつい食べ過ぎてしまうのに、このままだと冬の休みを待たずしてダイエットをしなければならなくなってしまう。

 燐の必死の懇願に蛍は首を振って苦笑いする。

「ごめん燐。わたし、生クリームダメだから。それに燐の為に作ってもらったんだから全部食べて欲しいなって……ダメ? わたしってわがままかなぁ?」

 二人の会話は意図せずにしてカップル的なものになってしまっていた。

 そのことに気付いた燐は顔を赤くしてしまう。

 突然押し黙った燐に蛍は疑問を感じたが、自分の言ったことに気付いて口に手を当てると、同じように顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 傍から見れば微笑ましい光景にみえるのだが、当の本人たちは恥ずかしさで死にたい気持ちになっていた。

(どうしよう、燐に誤解与えちゃったかな)

 蛍は片目を空けて燐の様子を窺う。

 燐はしばらくクレープを見つめていたが、意を決したのか、凄い勢いでクレープを食べ始めた。

 驚いた蛍は慌てて声をかける。

「ちょっと燐! 無理しなくてもいいよ」

 蛍の制止も聞かず燐はクレープを口の中に運ぶ。
 その度に甘さが口いっぱいに広がってきて、もはや何の味か分からなくなっていた。

 それでも燐は止めることはしなかった。

 それは恥ずかしさを隠す為か、蛍の期待に応えるためか、もしくは両方かもしれない。

 今できることがこれを食べることだとするならばそれをするしかない。

 燐は余計な事も考えず、ただひたすらにクレープを胃袋の中に押し込んでいた。

 蛍は固唾を飲んでその様子を見守っている。
 アスリートが完走する瞬間を見届けるように心の中で声援を送っていた。

 蛍の応援が通じたのか、ついにその時が訪れる。

「ぷふぁ~、なんとか、全部食べたー」

 一仕事終えたように疲れ切った声をあげた。
 そのことを示すように冬だと言うのに燐はすっかり汗だくになってしまった。

 部活でもここまで疲れた覚えはそうそう無い。

 左手をぱたぱたと振りながら燐はマフラーを取って火照った体に冷気を送った。
 それは残さず食べたことよりも、苦痛から解放されたような優越感で満ちた表情だった。

「燐、お疲れさまー」

 蛍がぱちぱちと手を叩いて燐の健闘を称える。

 大層大げさな様子に何事かと振り返ってこちらを見るものもいたが、二人は特に気にせず微笑み合っていた。

「いや~、わたしも甘いものは嫌いじゃないんだけど、これは苦労したよー。当分クレープは見たくないかも」

 本気でそう思っているらしく、燐は包み紙を忌み嫌うもののように丸めながら自身のバックパックにしまい込んだ。

 甘味で痺れた舌を潤すべく、燐はミルクティーを流し込む。
 甘さ以外の味覚を忘れてしまったようで、何の味も舌先に残らなかった。
 
「でもさ、やっぱりPastelのクレープって美味しいよね。燐の食べっぷりをみてたらまた食べたくなっちゃった」

 蛍が笑顔のままで怖いことを言ってきたので、燐は身震いしてしまう。
 甘いものは別腹というが、蛍のそれには際限がなさそうに思えた。

「でも、燐とこうしてイブの日にクレープを一緒に食べられるなんて夢みたい。燐が約束を覚えてくれてたからだね。ありがとう燐」

 イルミネーションに彩られて幸せそうな表情で蛍が笑っていた。

 約束の時間にはちょっと遅れてしまったが、彼女に最高のプレゼントを渡すことが出来て、燐も同じ気持ちで微笑んだ。

 きっと物事に遅いも早いもないんだと思う。
 大切なのは、やるかやらないかだけだと。

 これは良かったんだと思う。
 彼女の笑顔がわたしにとって最高のプレゼントになったのだから。

 にしても。
 燐は現状を振り返る。

(二人でシェアしようと思ったから大きいのにしたのに、まさかの誤算だったよ……)

 家では相変わらず売れ残ったパンばかりを食べているのに、ライバル店の? クレープまでこんなに食べる羽目になるとは……。

(ダイエットを兼ねてトレッキング再開しようかな……)

 繊細な意図を持っていたはずのトレッキングへの情熱は、現実的な事象によって簡単に蘇りそうだった。

 …………
 ………
 ……

 激闘を終えた燐が勝利の美酒(ミルクティー)に酔いしれていると、隣で起こっていた信じがたい光景に思わず口の中のものを吹き出しそうになった。

「けほっ、けほっ、ほ、蛍ちゃん、それって……何?」

 喉を抑えながら燐が指さしたのは、ベンチの上の物体。
 茶色い丸太のように見えるそれは、”ブッシュドノエル”という丸太をイメージした主にクリスマスで食べるケーキだった。

 蛍はそれをベンチの上に広げていた。

「なにって、今日ってイブじゃない。やっぱりクリスマスケーキが必要かなって思って、買ってきたんだ。ここのケーキ絶品なんだよ、すごい行列だったんだから」

 楽しそうにケーキを切り分けている蛍。
 燐はその様子に恐怖に似た感情を覚えて戦慄する。

(まさか、まさかだよね。蛍ちゃん!)

 燐は予想通りの展開にならないことを祈った。

「はい、燐。あ~ん」

 だが、今度も燐の予想した通りになってしまった。
 今日の燐は良くも悪くも勘が働くようだ。

「えっ。その、今クレープ食べたばっかりだから……」

 切り分けたケーキを蛍がフォークで口元に運んでくる。
 あまりにもお約束な展開に、燐はぶんぶんと首を振ってその行為を拒否、ではなく遠慮した。

 恥ずかしさは当然あるが、それよりももっと切実なものが燐にはあった。

 これ以上甘いものを口に入れたら、口の中がバカになりそうだったから。
 口から本当に砂糖を吐き出しかねないから。

「燐ってば、遠慮しなくてもいいよ。これもわたしがおごってあげるから。それにクレープだけじゃ物足りないでしょ。燐は部活の後なんだからちゃんと食べておかないとね」

 にこにこと笑いながらケーキを近づけてくる様は天使の様な笑顔の蛍。

 だが燐にはその微笑みが悪魔のように見えていた。
 裏がないだけに余計に怖かった。

「わ、わたしもうお腹いっぱいなんだよ~。届いて~」

「えー、ちゃんと届いてるよー。だってデザートは別腹なんでしょ? ほら、あ~ん、して燐」

 このまま押し問答を続けても更に恥ずかしいだけだし、一度だけなら蛍の言う通りにしたほうが良いと思った。

(そうか、蛍ちゃんの主食はクレープだったのか。じゃあ生クリームがダメになったのはクレープの食べ過ぎが原因だったりして)

 どうでも良いことを考えながら燐は目をぎゅっと閉じて観念したように口を開いた。

「あ、あーん」

 蛍は片手を添えて燐の口の中に優しくケーキを入れる。
 燐は舌の上に乗っかったことを確認すると、もごもごと口の中全体で味わった。

 とろけるようなバターの豊潤な香りとココアのふわっとした味のマッチング、確かな美味しさがあった。

 それを素直に楽しめないのは口の中が甘ったるいせいだと思うが、それにしたってこれは。

(やっぱり甘い! さっきはちょっと違うけど甘いケーキだ!)

 ケーキはクレープよりも好みな燐だったが、まだ下にさっきまでの甘さが残っている内にケーキを口に入れられたものだから、余計に甘さが気になってしまった。

 燐の舌の上で違う甘さの層が出来て、さしずめミルフィーユ状態になっていた。

「どう、燐。美味しい? 燐の店のパンも美味しいけど、ここのケーキも美味しいでしょ。新メニューの参考になるかと思って、燐の為に買ってきたんだよ」

 気づかいは嬉しいが、気の回しすぎという言葉もある。
 蛍の二つ目のプレゼントは燐にとって明らかに後者であった。

 それでも蛍が恋人にでも訊ねるような甘い声色で聞いてくるので、燐はことさら頑張って口をほころばせた。

「う、うん。美味しいよ。蛍ちゃんは優しいなあ」

 ”優しい”のニュアンスがちょっと違っているが、蛍にはばれていないようだった。
 多分変な顔をして言っている気がするが、それを確かめる余裕はない。

 なんとか頑張って食べた自分を褒めてあげたいぐらいだった。

「そうでしょ。まだまだあるからいっぱい食べてね燐」
 
 燐の感想に満足したのか、蛍は一口だけでは終わらせてくれないようだ。
 心にもないことを言った報いなんだろうか、燐は聖なる日に良く知らない神様に懺悔した。

「わ、わたしはもういいから蛍ちゃんが残り食べてほしいな」

 自分としては頑張ったほうだと思う。
 蛍よりもボリュームのある特大クレープを食べた後にケーキまで食べたんだから。

「──えっ、これは燐の分だよ。わたし実はね……燐が来るちょっと前につい一人で食べちゃったんだ」

 事も無げに照れた笑いを浮かべる蛍に、燐は親友でありながらも戦慄してしまう。

(食べたって………まさか全部一人で食べちゃったっていうの!? しかもその後に、あの大きなクレープも食べられちゃうもんなの??)

 蛍は燐と同じく華奢な体つきをしているが、出るところは出ている。
 それも平均以上に。

(蛍ちゃんのプロポーションが良いのは、過剰なスイーツの摂取のおかげ? なわけないよねぇ……)

 燐は自身のどうしようもない考えに一人ため息を付いていると、蛍が先ほどと同じことをやろうしとしていた。

「ほら、燐。あーん」

 さっきとまったく同じことが起こって燐はこれがデジャブなのかと、軽く現実逃避する。
 
 そんな思惑など意に介していないように蛍は再び燐の口元にたっぷりとココアパウダーが乗ったブッシュドノエルの切れ端を乗せたフォークを運んできた。

 友達同士というよりかはやはりカップルのやり取りにみえる。

 燐は恥ずかしさを誤魔化すように声を上げた。

「あ、あのねっ、蛍ちゃんっ!」

 燐が急に大きな声を上げたので蛍は少しびっくりしてしまった。

「ど、どうしたの燐?」

「うん。あの、あのさ……」

 燐はその後、何と言ってかわからず、両膝をもじもじとさせた。

「こ、これ……」

 もういらないとは流石に言えない。

 せっかく蛍が善意でしてくれたことを無下になんでできるわけがなかった。

 でも、舌も胃袋も悲鳴を上げている。

 だとすれば燐に出来ることはもう………。

「あのー、テイクアウトでお願いします……お母さんにも食べさせてあげたいし」

 背に腹は代えられないとばかりに、燐は代替案をだした。
 母を口実に使ったようで悪い気もするが、嘘は言ってないと思う。

(まあお母さんはこういうお菓子好きだし食べてくれるとは思うけどね。売れ残りがなければの話だけど)

 今日だけは完売しててほしい、燐はクリスマスらしく神様に祈った。

「燐は優しいね。お母さんのことも考えるなんて」

 疑う余地もなく蛍がニコニコと笑うので、ちょっとだけ胸が痛んだ。

 燐は目線を逸らしながら愛想笑いを浮かべると、すっかり温くなったミルクティーを口に入れる。

 ……やっぱり、甘い。

 贅沢は言わない。
 
 普通のお茶、もしくは水が切実に欲しかった。





 

 にわかに周りが活気づいてきて、ベンチの周りにも人が集まってきていた。

 

 喧騒の度合いが上がったようで、なんとなく物々しさを感じてしまう。

 

 帰宅ラッシュ的なものにしてはどこか違って、何かを期待しているような高揚感がある気がする。

 

 ミルクティーを飲み干した燐が不思議そうに辺りを眺めていた。

 

「あ、そろそろじゃない」

 

 隣に座る蛍が何かをスマホで確認していた。

 

「そろそろって?」

 

 燐は自分で調べることなく、隣に座る蛍に聞き返す。

 

「あれ、言ってなかったっけ? もうちょっとでクリスマスの特別イベントみたいなのが始まるみたいだよ」

 

 ほら、と蛍がスマホの画面を燐に傾けた。

 

 イベント用のHP(ホームページ)の見出しには、”恋人たちの甘いひと時を彩るイブの夜に起きる奇跡! 駅前広場withプロジェクションマッピング!!”と、大層仰々しいタイトルが付けれている。

 

 よくある一夜限りのプロジェクションマッピングがこの駅で今から行われるらしかった。

 

「確かに。でも”恋人たち”ってねぇ」

 

 燐はちょっと困ったように蛍を見る。

 

「ね」

 

 蛍も困ったように微笑み返す。

 

 HPに記載してあるスケジュールではあと少しのことらしい。

 

「だからこんなに人が多いんだ」

 

「うん。みんな目的は同じみたいだね」

 

 燐は物珍しい様子で周囲を見渡すと、見物人はどんどんと増える一方で人の波があちらこちらに出来ていた。

 

 イベントのシンボルだった高いクリスマスツリーも、いつしか人の垣根に埋もれて見えなくなってしまった。

 

「どうしよっか、ここからでも多分見えるとは思うんだけど……」

 

 人通りが少ない場所を選んだつもりだったけど、ベンチの周りには人が集まってきていて、なんだか気まずい感じになっていた。

 

 駅を巨大なスクリーンにするプロジェクションマッピングなのだから、まったく見えないということはないだろうけど、このまま人が増え続けたら、せっかくの映像が人によって遮られてしまうかもしれない。

 

(それに、やっぱりカップルが多いよね。なんかわたしと燐だけ場違い感があるかも)

 

 カップルだけでなく、親子連れやそれこそ女の子同士で来てる人たちもいるのだが、圧倒的にカップルのほうが多かった。

 

 特にベンチの周りにいるカップル連れから無言のプレッシャーを与えられているみたいに感じて、蛍は俯いて視線から逃れた。

 

「ねぇ、燐。場所……移動しようか?」

 

 蛍は燐の腕を掴むと耳元でこそこそと呟いた。

 

「うん……なんかさっきから視線が怖くない? なんていうか敵意っていうか」

 

 蛍も視線を感じたのか燐の腕にしがみ付く。

 

(別にカップル専用とか書いてあるわけでもないし、なんなんだろう一体?)

 

 確かにこの辺りのベンチの数は限られているので、羨ましいのは分かるのだが。

 

 なぜだかたまたま空いていたから座ったけど、棘の様な視線で睨まれたらとてもじゃないが落ち着くことは出来そうにない。

 

 さっきまで二人でそれなりに楽しかったのに、今はなんか妙な場違い感があった。

 

(プレゼント交換もしたし、やるべきことは一応やったからいいけど……)

 

 蛍はこちらを睨んでいるような眼から背けて燐だけを見ることにした。

 

 その時ちょうど燐が座っているところに何かが書いてあったのに気付いた。

 

「燐。ちょっといい?」

 

 どうしても気になって燐に少しどいてもらうように頼む蛍。

 

「あぁ、うん」

 

 よっこいせ、と年より臭い擬音を発しながら燐が座る位置をずらすとなにやら文字が書いてあった。

 

 二人は顔を近づけてそれを読む……文面をみて燐も蛍も飛び上がらんほどに吃驚してしまった。

 

『カップル専用! 愛のらぶらぶベンチ』

 

 と、そっけない明朝体で書かれていた。

 

 二人は周りに聞こえない様にぼそぼそと耳打ちをすると。

 

「ほ、蛍ちゃん! わ、わたし喉が渇いちゃったなぁーちょっとカフェに行ってみない?」

 

「き、奇遇だねぇ。燐。わ、わたしもそうしようと思ってたんだぁ」

 

 二人は頬に手を当ててわざとらしく立ち上がった。 

 

 その瞬間周りの人の目の色が変わった気がして、蛍も燐も身を竦めた。

 

 多分これからこの席をかけての醜い争奪戦が始まるのだろう。

 

 よもや喧嘩にはならないだろうとは思うが、精々無言での牽制か、突然の椅子取りゲームが始まるかのどちらかだと思う。

 

 なんにせよこの場にいると碌なことになりそうにないので、二人の少女はこの場から逃げるようにこの場から走り去った。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 人でごった返す広場をどちらともなく駆け出す。

 

 二人は手を取り合ったまま、落ち着けそうな場所を目指す。

 前に蛍と待ち合わせに使ったカフェは、カップルで溢れかえっていて、入れる余地はなさそうだった。

 

 これといった場所が決まらず、二人は人の波を右往左往に駆け抜ける。

 

(人が少なくて、かつ、見やすい場所……)

 

 燐は走りながらそれっぽい場所を探す。

 

 目ぼしい場所や店はすでに人で溢れていて、人気のない場所は立ち入り禁止のロープが引いてあった。

 

 蛍も同じように目を凝らすが、人の波の中ではなしのつぶてであった。

 

 色とりどりのイルミネーションが、人影を同じ色に照らし出す。

 

 カラフルな人の波の草原を駆け抜ける。

 そこには意味はなく、でもしっかりと手を繋ぎ合って。 

 

 別にそれほど楽しみにしてるわけではないのだが、追い詰められたような焦燥感を背中に感じていた。

 

「燐。上の歩道は?」

 

 蛍が思いついたように走りながら上を差す。

 

 歩道が広場を取り囲むように円形に広がって、見学するには格好の場所だが、広場よりもさらにごった返して、壁の様に人が張り付いていた。

 

 さしずめ蟻の行列のように整然と人が群れを成して並んでいる。

 冬だと言うのにこの一帯だけは異様なほど熱気があり、何がおきてもおかしくない殺伐さがありそうだった。

 

「ちょっと無理みたいだね……」

 

 燐は軽く笑って、別の場所を目指した。

 

 ぶつからないように走るだけで精一杯なのに、誰もいないベストなポジションを探すのはそれこそ至難の業であり、土台無理なことだった。

 

 もう少し早く行動すればなんとかなったかもしれないが、今更無理な注文であった。

 

「燐、ごめん、わたしが早く知らせておけばよかったね」

 

「ううん、わたしだってあそこがカップル席だって知らなかったんだから仕様がないよ。あの視線の中、居座ることなんてできそうにないし」

 

 少女たちはお互いに謝罪を述べながら、エスカレーターを早足で駆け下りた。

 

(どうしよう。なにかいい手は……あ、そうだ!)

 

「蛍ちゃん。まだ、体力に余裕ある?」

 

 燐は走りながら横目で蛍を見る。

 

「う、うん。まだ、少しは、走れると思うけど……」

 

 週末にアウトドアをする機会が増えたので蛍は自然と体力がついてきた。

 以前とは雲泥の差なのだが、それでも燐にはまだ及ばない。

 

 でも燐となら大丈夫なことは知っていた。

 

「だったらさ、ちょっと下に行ってみない?」

 

 指さす先を見て蛍は燐が何を言っているのかがさっぱり分からなかった。

 

「下って……地下道のこと?」

 

 駅前の広場はバスターミナルと広場の下をくぐって改札に向かう地下道が四方に張り巡らされていた。

 

 地上よりかは確かに人通りは少なそうだが、地下では何も見ることができない。

 本末転倒としか言いようがないのだが、燐が提案した以上何か名案があるんだろうと蛍は考えた。

 

「うん、分かったよ。行ってみよう」

 

 燐は蛍が頷いたことを確認すると、地下道への階段を駆け下りる。

 燐が思った通り地下道の中は人気が少なく、薄暗い地下通路は地上よりも少し暖かった。

 

「でも、燐。ここから何処に行くの」

 

 蛍は息を整えながら辺りを見回した。

 通学の時も使う道以外にも出口はあり、割と利便性に優れてはいた。

 

 蛍は厳密に何処に出るかは分かってはいない。

 何時も行くところは流石に分かるのだが、ちょっと繁華街から離れた出口にはまったく疎かった。

 

「蛍ちゃん、こっち!」

 

 蛍が頭の中で地図を描いたとき燐に急に声を掛けられてびくっとした。

 燐に手を引かれるまま、薄暗い地下道を人の流れと反対方向に進む。

 

 天井から車が行き交う音がして、大通りの下を行っているんだと蛍は思った。

 

 二人は地下道を赴くままに進んだ。

 それは五分程度のことなのに、とても長い時間に感じられた。

 

 その間走り通しだったが蛍は燐の動きについていくことが出来ていた。

 手を引かれてはいるが、足がもつれるようなことはない。

 

 固めに結んだトレッキングシューズが蛍の足にちゃんと機能していた。

 

「確かここの出口だったと、思うんだけど……」

 

 燐が自分に言い聞かせるように呟きながら冷たい階段を一歩づつ上る。

 

 吹き抜けてくる冷たい風で地上への出口だと分かった。

 手を引かれるまま蛍も後に続く。

 

 暗いゲートから這い出るように地上に出ると、そこには黒い空と微かな星が見えていた。

 

 迷宮から出た時の様な解放感と空の高さが印象的だった。

 

 出口のすぐ近くには建設中のビルなのだろうか、目も眩むほどに高い建造物が黒くそびえ立っていた。

 

 二人が出てきた出口はちょうど大通りの反対側にある地下道の出口だった。

 

 駅を挟んで巨大なバイパスが走っているため、ここからでは大きなクリスマスツリーもただの小さな置物程度にしか見えなかった。

 

「あれれ? 間違っちゃった……?」

 

 予想していた出口と違ったのか、燐が周辺を見渡しながらスマホで位置を確認する。

 ほかの行き先があったのだろうか。

 

 いつも正確で慎重な燐なのだが、なぜだか精彩を欠くように困惑していた。

 

 燐がスマホを調べている間、蛍は目の前に流れるヘッドライトの川を見送っていた。

 

 それは自然のイルミネーションと言っていいほど幻想的で、どこか冷たく感じられた。

 

 ごぉごぉと流れるロードノイズが波のうねりのように聞こえてくる、

 遠くで小さな粒のように重なりあっている人の群れはまるで殉教者のそれみたいに見えた。

 

 暗がりに浮かび上がるイルミネーションがどこか違う星のターミナルのように見えて、高揚感と寂しさが蛍の脳裡に同時に湧きあがる。

 

(そういえばあの時あのままベンチに座ってても良かったのかも。カップル席って書いてあったけど、別に女の子同士でも良いよね?)

 

「ねぇ、燐。わたし達あのまま──」

 

 蛍は思いついたままの事を燐に言おうとした、のだがそこで口を閉ざしてしまった。

 それは燐の様子がおかしかったからだった。

 

「ふえ、蛍ちゃんどーしたのー? なにか分かったぁ?」

 

 さっきまでスマホを調べていたはずの燐が、ふらふらと手を揺らしながらコンクリートのフェンスにもたれ掛っていた。

 

「ちょ、ちょっとどうしたの燐!!」

 

 蛍は燐の傍に慌てて駆け寄る。

 

 少し目を離したすきに何が燐にあったのだろうか、蛍はどうしていいかわからずおろおろとしながら燐の手を握りしめた。

 

(あれ、熱い。燐の手ってこんなに熱かったっけ?)

 

 ついさっきまで握っていたすべすべとした燐の手は燃えるように熱くなっていた。

 それは手だけじゃなく、顔も熱を帯びて火照っているようにみえた。

 

 苦しそうにため息を漏らす燐の額に手を置いてみる……熱があるようだ。

 

「はぁ、はぁ、あれ? おかしいな、蛍ちゃんが二人、三人に見えるよ……なんか変……」

 

 ため息交じりの白い息を吐きだす燐。

 脱力感を伴った燐の口調に蛍は不安で胸が締め付けられそうだった。

 

「燐! どこが苦しいの? 燐!?」

 

 蛍は燐の耳元で呼びかけた。

 

 燐はどこか焦点の合わない目つきで蛍を見ていた。

 指には力が込められているがどこかおぼつかず、ときおり抜け落ちそうになる。

 

 蛍は燐の手をぎゅっと握り直した。

 燐の熱さと苦しさが伝わってくるようで、蛍は瞼をつむって嘆息する。

 

(どうしようどうしよう。さっきまで元気だったのに。そうだ! 救急車を呼ぼう。それしかないよ!)

 

 蛍は意を決して自分のスマホを取り出す。

 大事にはしたくないが、きっとこれは非常事態だ。

 

 指先を震わせながら、液晶画面を操作する蛍、

 だったのだが。

 

 その手を燐が掴んで止めていた。

 

「大丈夫だよ蛍ちゃん。わたしは大丈夫っ」

 

 燐は顔を赤くしたまま指をブイの字にして笑っていた。

 蛍は毒気を抜かれたように閉口するも、すぐに真剣な顔に戻った。

 

「何言ってるの燐。動いちゃだめだよ。ほら、こんなに熱があるし」

 

 蛍はもう一度燐の額に手を当てる、熱はさっきよりも上がっていように思えた。

 

「でも、なんか気持ちいいんだよ~。なんか全部さ全部がふあふあーってシファンケーキになっちゃう感じ……」

 

 燐は蛍の腕に抱かれながら、子供の様にきゃっきゃと笑っている。

 

 蛍としては今にでも救急車を呼びたいところだが。

 はしゃぐ燐が子供過ぎてつい愛おしくなってしまった。

 

「ねぇ、蛍ちゃ~ん」

 

「どうしたの燐!?」

 

 燐が急に猫なで声を上げながら蛍に顔を近づけてくる。

 蛍はどきっとして少し顎を引いてしまうがその時、何かの強い香りが蛍の鼻孔をくすぐった。

 

(あれ? なんだっけこの臭い。どこかで嗅いだことが……?)

 

 それは蛍にとってはあまり思い出したくない臭いだった。

 それでも記憶を探るように蛍が逡巡していると燐が大胆な行動に出たので、その考えは中中断されてしまった。

 

 蛍は目の前の光景が何かの夢の続きなのかと思った。

 それはあまりに現実離れしていて、信じられなかったからだ。

 

「ほら、見て~蛍ちゃん。わたし、今日は青いパンツじゃないんだよぉ~。赤と白のクリスマスカラーなんだ~。どう、可愛い?」

 

 燐はまるで小悪魔のようにいやらしい笑みを浮かべながら、スカートをめくって蛍に自分の今日のパンツの柄を見せつけていた。

 

 蛍は思考回路が停止したようにしばらく凍り付いていた。

 

 燐の下着姿は何度も見ている、蛍にとって別段特別なことではない。

 

 だが、それを路上で、公衆の面前で披露することはあまりにも常軌を逸脱していた。

 普段の燐ならばこんなことは絶対にしない、そう分かっているから。

 

 そんなことをしない少女があり得ないことをしている。

 そのギャップが燐を淫靡に見せていた。

 

 蛍は我を忘れたように燐のストライブ柄の可愛らしい下着に釘付けになっていた。

 

「ほらあ、ブラもお揃いなんだよぉ~。なんか暑い……だから脱いじゃうねぇ」

 

 凍り付いた蛍が目に入らないのか、燐はスカートをめくったまま一人で喋っている。

 

 燐は言葉通りこの場で制服を脱ぎ始めるようだ。

 

 無造作にバックパックを下すと、制服の上着に手を掛ける。

 このままだと本当に燐は制服を脱ぎ捨てて下着だけの姿になるだろう。

 

 だが蛍にはどうすることも出来なかった。

 

 自分では気づいていないようだが、蛍も明らかにおかしくなっていたからだ。

 燐と同じように頬は上気して、正常に物事が考えられない状態になっていた。

 

 誰も止める者はいない、そう思われたのだが。

 

 ぷぁーん!

 

 通りを走る車から急にクラクションが鳴らされた。

 

 それは全くの偶然であり、二人には何の因果関係もないことなのだが、その音で蛍は現実から戻ってくることが出来た。

 

「燐!!」

 

 蛍は我に返ると、燐の体を隠すようにそのまま抱きしめた。

 

 小さな子を慰めるように燐の背中を何度も擦る。

 

 燐はきょとんとしたまま何も言わず虚空を見つめていた。

 

 二人はしばらく抱き合っていたが、ややあって燐が声を上げる。

 

「蛍、ちゃん……?」

 

 その間、幸いなことに付近を通りがかるものはいなかった。

 

 蛍はほっと胸を撫でおろす。

 安堵したとき、鼻孔にまたあの嫌な臭いが漂ってきて、蛍は思わず眉を寄せた。

 

 だが、二度目の香りで蛍は思い出すことが出来た。

 

(これ、よく宴会なんかで嗅いだような……そうだ、お酒の香り! でも、どうして?)

 

 蛍は燐の首元に鼻を寄せてみる。

 それは確かに燐から漂っていた。

 

 匂いの発生源は……まさかの燐?

 

「わたし、蛍ちゃんとこうして抱き合うの好きだよ。だぁいすき」

 

 すごく可愛らしいことを言っているが、小さな口から洩れているのは微量なアルコール臭。

 

(燐はお酒なんか飲むような子じゃないし。何か変なもの食べたとか? さっきだってわたしと燐はクレープとケーキしか食べてないはずだし……あれ、ケーキ……?)

 

 蛍の頭の中でパズルのピースが嵌まった時のような小さなひらめきが沸き起こった。

 

 それはあの時、分かっていたことであり、自身の不注意がもたらしたものだったから

 

「あああぁっ!?」

 

 蛍が奇声にも似た大声を耳元で上げたので、燐は耳がキーンとなって指で押さえた。

 

 燐が耳を抑えながら蛍の顔を訝し気に覗き込むと、その顔は血の気を失ったように青ざめている。

 

「ど、どうしたの蛍ちゃん!」

 

 燐は千鳥足になりながら蛍の手を取ると、強いショックを受けたような顔で蛍はこう言った。

 

「燐! お水、今すぐお水飲もう!」

 

 蛍が切羽詰まった様子でそう叫ぶので、何か起きたのか分からず燐は困惑した。

 

「蛍ちゃん落ち着いて、蛍ちゃん!」

 

「燐、早く、早くお水飲まないと、大変な事に!」

 

 少女たちはせっかくのイルミネーションとこれから始まるプロジェクションマッピングを見ることもなく、何かに魅入られてたようにお互いの名前を呼び合っていた。

 

 …………

 ………

 ……

 

「ほら見てー蛍ちゃん。ここからでも結構見えてるよ!」

 

 燐は空になったミネラルウォーターのペットボトルを何かの楽器の様にぺこぺこと凹ませながら七色の光を放つ駅舎を指さす。

 

 すでにプロジェクションマッピングは始まっており、駅前の広場は映画の撮影さながらの迫力でライトアップされていた。

 

 色とりどりの光の柱が、二人が良く知る大きな駅舎を別の色に飾り立てていた。

 

 もう少し近ければもっとはっきりと見えるのだが、そんなことは気にせず遠くにみえるイルミネーションに向かって燐は携帯のシャッターを何度も切っていた。

 

「うん、綺麗、だね……」

 

 蛍は唇を震わせながらなんとか言葉を繋ぐ。

 

 艶のある可憐な唇は怪我をしたかのように紫に染まっていて、顔色はさっきよりもよけいに青くなっていた。

 

「どうしたの蛍ちゃん。まだ落ち込んでるの?」

 

 結局二人はあの後、近くにある高台の公園に来ていた。

 

 穴場スポットと言ってもいいぐらいに人ひとりいなかったのは良かったが。

 

 それもそのはずで、備え付けられているベンチも遊具も人が使うことを拒んでいるように冷たくなっていたからだった。

 

 二人の前にある木製の柵も触ることをためらうほど冷たくなっている。

 なのに燐はそれに掴まって、身を乗り出しながら小さくなった光のショーを眺めていた。

 

 蛍にはとても真似する気にはならなかった。

 

「うん、だって……」

 

 ため息を纏った白い息を掌に吹きかける。

 ちょっとだけ暖かくはなるけど、その温もりは一瞬で消えてしまった。

 

 ここには寒さを遮るものは一切なく、寒々しい冬の風が薄いタイツにくるまれた蛍のふとももを無慈悲に撫で上げる。

 

(うううっ!)

 

 声にならないうめき声を上げながら、ストールのように羽織ったブランケットを身体ごと抱きしめた。

 

 外から来る寒気かそれとも内側くるものなのか、蛍は困惑した表情で隣ではしゃぐ燐を見やる。

 

 燐は相変わらずマフラーと手袋しか主だった防寒具を身に着けてないのに、寒さで震えるようなこともない。

 

 燐を苦しめていたものはすっかり抜けきっていて、いつもの快活な燐に戻っていた。

 

 一方の蛍は。

 

(……頭痛い。なんで今頃になって……)

 

 じっとしていても寒いし、かと動くと頭が痛いしで、ここに来るのだってやっとの思いだった。

 

 そして今は気持ち悪さが襲ってきていた。

 

 燐と同じように水を飲んでもなかなか治らず、むしろ自販機の水の冷たさにむせ返りそうになっていた。

 

(痛みと寒さと気持ち悪さでどうにかなりそう。どうして燐はあんなに元気なの……)

 

 四肢が凍り付いたように動けないでいる蛍とは対照的に燐は一人ではしゃぎながらイルミネーションを食い入るように眺めていた。

 

 時折、すごーいと歓声を上げたり、うっとりとした目つきで眺めたりもしていて、蛍にとっては人工的なイルミネーションよりもよっぽど面白く、とてもうつくしかった。

 

「それにしてもさ、まさかあのケーキにブランデーが入ってるなんて思わなかったよ。通りでなんかずっと体が熱いなーって思ったんだよね」

 

 無邪気に笑いかける燐。

 

 燐としては特に他意はなかったのだが、蛍は気まずそうに視線を落とした。

 

「ごめん、燐。店の人に言われたのにすっかり忘れてたよ。それなのに燐にも教えなかっただけでなく、自分でも食べちゃうなんて……わたしって肝心なところが抜けてるんだね」

 

 そう言うと、蛍は何を思ったのか頭からブランケットを自分の世界に閉じこもってしまった。

 

(わたしって何も変わらないなぁ、相変わらず内気でドジだし要領悪いし……性格ってどうしたって治らないものなのかなぁ)

 

 蛍はブランケットの裏地を見つめながら、自己嫌悪の渦に囚われていた。

 

 まるでブランケットで出来たてるてる坊主のような蛍の姿に、燐はやれやれとため息をつくと、小さく笑って蛍の背後に回り込んだ。

 

「ほ、た、る、ちゃん」

 

 燐は蛍のブランケットをがばっと剥がしとると、蛍が呆気に取られている間に二人の体をブランケットごとぐるぐると丸め込んだ。

 

 勢い余ったのか、二人の頬がぷにっと密着していた。

 

 燐の頬のもっちりした感触に蛍は心臓が飛び上がるほどびっくりして、一時寒さを忘れるほど驚き慄いた。

 

「あははは、こうしてると暖かいね。なんか春巻きになった気がしない」

 

 燐は変な例え方をして微笑んだ。

 いつも見る蛍の好きな燐の笑顔だった。

 

 それが間近にあったから蛍は安心して笑顔を作った。

 こうして二人包まっているとあの時のことを思いだす様な気がして。

 

「春巻きっていうか、ブリトーみたいかも」

 

 そう言って蛍はすぐ横の燐と向き合う。

 少し寄せればお互いの鼻先が届きそうなほど近い距離。

 

 その密度で燐と蛍は向き合った。

 

 変わらない二人、変われない二人の少女。

 だからこそ一緒にいることが出来る。

 

 お互いがお互いを失ったからこそ、わかることがあった。

 

「でも、やっぱり、ここからだとさすがに遠くない? 何やってるのか全然わからないけど」

 

 蛍は片手をかざしながら、プロジェクションマッピングをしている駅舎を眺めた。

 カラフルな影絵のようなものが映し出されていて、光ったり跳ねたりを繰り返している。

 

 キャラクター的なものが動いていることはわかるのだが……。

 

「あ、あれって家康くんじゃない?」

 

 燐が指を差して叫んだ。

 

 燐の朱色の瞳にはその様子が分かっているのだろうか。

 

「家康くんって、ご当地キャラクターの?」

 

「うん、多分そうだよ。ほら、なんかしてる」

 

「へぇー」

 

 キャラクターは何か分かるようだが、何をしているのかまでは分からないようだ。

 蛍は燐の指し示す方向を見てもさっぱりわからないので、適当に相槌をうった。

 

「わたし全然見えないんだけど、やっぱり燐の方が視力良かったんだっけ?」

 

「平均的な視力だったと思うんだけどなー。あ、今度は座敷童かな? なんだっけあのキャラ。オオモト様なんだっけ?」

 

 燐がまた指を差す。

 燐はプロジェクションマッピングの実況役になっていた。

 

「違うよ燐、多分あれは、”コドモ様”だよ。うちの小平口町のマスコットキャラ」

 

 蛍の目にはぼんやりとしか見えなかったが、特徴的なシルエットでわかった。

 黒いおかっぱ頭に赤い着物を着ていて、なにやらふらふらとしていた。

 

 どこか頼りなさそうな怪しい動きは、どことなく海月を思わせた。

 

「あ、そうだったね、コドモ様。どうも覚えづらいなあ。そのまんまオオモト様でいい気がするんだけどなあ」

 

 燐は一目見た時からオオモト様のマスコットだと信じて疑わなかった。

 

 蛍だって最初はそうとしか思えなかったから無理もなかった。

 

「オオモト様の事はもう町の人は覚えてないから多分違うんじゃないかな」

 

 プロジェクションマッピングの中のコドモ様は軽快に踊っているようだった。

 二人にはそれが良くわからなかったが、そっちの方が良かっただろう。

 

 その微妙な踊りは会場の失笑をかっていたから。

 

「そういえばさ、燐はオオモト様と会ったんでしょ」

 

「逢ったっていうか、出てきたっていうか……でもすぐに何処かへ行っちゃったんだよね」

 

「ん? 燐の家に居着いてるんじゃないの?」

 

 座敷童だし、と蛍は言おうとしたが自分が言うのは何かがおかしいと思い直して口をつぐんだ。

 

「……そんな感じはしないなぁ。だってうちの店そこまで商売繁盛って感じじゃないし」

 

 そう言って燐は肩をすくめた。

 

「そうだよね……」

 

 幸運も座敷童も消えた町。

 それを知っているのは燐と蛍の二人だけ。

 

 その事を伝える義務も責任もなく、そのまま風化していくものだと思っていたけれど。

 

(燐の前にオオモト様が出てきたってことは、何か知らせたいことがあったのかな)

 

 オオモト様は何のために現れたのか。

 その事を燐に尋ねても燐は決まって口を閉ざしてしまう。

 

(オオモト様と燐の間に何があるんだろう……)

 

 一人だけ何も知らないでいるみたいで、蛍はちょっと切なくなった。

 

「あれ?」

 

「どうしたの燐」

 

「あのコドモ様の隣にいるイヌのキャラって、サトくん!?」

 

 燐は蛍の期待通りに実況してくれていた。

 

 蛍がその方向を見ると、確かに謎の小さなマスコットがコドモ様の隣で座っているように見える。

 

 少し目が慣れてきたのかもしれない。

 細部まではまだわからないが、蛍にもなんとなく見えるようになってきた。

 

「あれはね、コドモ様のペットの”サトウくん”だよ。ほら、体が灰色でしょ。それに首に巻いてるスカーフ、赤くなってるでしょ」

 

「すごく紛らわしい名前だね……それになんだか、間違い探ししてるような気分になるよ」

 

 蛍の言う通り、犬の”サトウくん”は中型犬というよりも大型犬の類で、首に巻いたバンダナは情熱的な赤に染まっていた。

 

「サトウくんはね。作者の名前から取ったんだよ。イラストレーターの佐藤さんから」

 

「そういう繋がりからかあ。じゃあ偶然なんだね」

 

 ”佐藤さん”は小平口町に住むイラストレーターで、普段は実家の茶畑の手伝いをしている。

 

 町おこしの一環でデザインを切ったのが、コドモ様とサトウくん。

 それは偶然にも小さい頃のオオモト様とサトくんに似ているものだった。

 

 何かを元にしたのかとインタビューされた際、”枕元に赤い着物をきた少女と白い犬が立っていたので、夢のお告げと思いそれを絵にした”とスピリチュアルな意見を言ったことでちょっとした話題になったこともあった。

 

 そのサトウくんは何もせずに主人コドモ様の隣で座って吠えていた、と言うよりもただ口をパクパクと開けているだけ。

 

 映像はあっても音声はないので、ただの電脳紙芝居だった。

 

「燐は、シロ。じゃなくて、サトくんの元になった白い犬に、会ったことってある?」

 

 元というのは変な言い方だが、他に例えようがなかった。

 

 ラノベとかで良くある転生とかは違うし、そもそも蛍が出会ったときから白い犬は最初から犬だったのだから。

 

「あったことあるよ。一度だけだけどね」

 

 燐はあっけらかんとした調子で答える。

 

 蛍が思ってたほどこの件は燐にとってそこまで重要ではないようだった。

 

 蛍はほっと胸を撫で下ろす。

 

「わたしも一度だけ会ったことがあるんだ。うちの家の裏山の小道で」

 

「本当? わたしもその辺だったかも」

 

「へぇー、じゃああの辺を縄張りにしてるのかもね。で、どう? サトくんって感じあった?」

 

 蛍は自分の知らない間に燐が裏山の吊り橋付近で白い犬にあったという事実に少し違和感を覚えていた。

 

 なぜ燐がその事を今まで言わなかったことにも疑問があった、が。

 

 その事は置いておいて、白い犬の感想だけを燐に求めた。

 

「ふつーの白い犬って感じだったね。普通の犬よりかは賢そうではあるんだけどね」

 

「で、その時たまたま持っていたお菓子を食べさせてあげたんだけど、よっぽどお腹空いてたみたいで全部食べちゃったよー」

 

「そういえばサトくん目、怪我してなかったね。だからかちょっと印象が違ってみえたけど」

 

 燐は身振り手振りでその時の様子を蛍に言って聞かせた。

 

 どういう理由で裏山の道を歩いていたかまででは言わなかったが、あの白い犬と燐がまた会えたことは素直に良かったと思った。

 

「良かったね、燐」

 

「え? う、うん」

 

 蛍が唐突に言ってきたので燐は少しびっくりした。

 

「あ、でも、それだけだったなあ。食べるだけ食べたらどこかに行ってそれっきりだしね。ああっ! コドモ様たちの出番も終わっちゃったみたいだね」

 

「そっか……なんだかあっけないね」

 

 蛍の文言にはどちらの意味が含まれているかは分からなかった。

 

 プロジェクションマッピングはまだ続いていて、白い駅舎のキャンバスに四季折々の景色を映し出していた。

 

 ……

 ………

 …………

 

「少しは暖かくなってきた?」

 

「だいぶ楽になってきたよ。ありがとう燐」

 

 血色の良くなった顔ではにかんだ笑顔になる蛍。

 

 ようやくアルコールが抜けきったのか、青ざめた顔にはほんのり赤みがさしていた。

 

「こっちこそありがとう。こんなところまで付き合ってくれて」

 

 二人は白い息をかけ合いながらお礼を言った。

 

 ほぼ同時に喋ったので二人の目の前に大きな綿のようなかたまりが出来上がっていた。

 それは燐と蛍の顔を覆い隠す程大きく、そして一瞬の内に弾けて消えた。

 

「わたしは燐と一緒ならどこへでも行くよ。それがたとえ戻れない場所であってもね」

 

 暗い空を見上げながら蛍はつぶやく。

 月は黒い雲の隙間にいて、一向に姿を見せようとはしなかった。

 

「そういえばさ、前にもこんなことしたよね。あの時はボロボロのシーツだったけど」

 

 燐はあの夜の事を思い返した。

 

「保養所の時ね。あの時は疲れちゃってたねお互いに。特に燐はすぐに寝ちゃってたしね」

 

 蛍も同じ思いであの時のことを振り返る。

 

 あの時のことが一種のターニングポイントだったのかもしれないと蛍は思っていた。

 

 燐は秘密を知り、それが確信に変わった時。

 

(もしあの時サトくんと一緒に町に戻っていたら……わたし達はどうなっていたんだろう)

 

 このことは燐には聞けなかった。

 だってもう巻き戻すことは出来ないのだから。

 

「うん……ホント。でもそれは今もそんなに変わらないかも。どうしたって時間は過ぎ去っていくし、同じままじゃいられないから、なんか疲れちゃうんだよね。それが勉強だったり、人間関係だったりね」

 

「そうだね……」

 

 しばらく待ったが燐も蛍も話を続けなかった。

 

 蛍は不安な面持ちのまますぐ間近にある燐の横顔を眺める。

 

 顔立ちはどこかまだ幼いのに、消えない痛みを知ってしまった燐。

 誰が悪いわけでもない、そう燐もわたしも言ったけれど。

 

(もし世界が悪いんだとしたら、今のこの世界は燐にとってどう映るんだろう?)

 

 遠くを見つめている燐の瞳に蛍は答えを求めていた。

 

 煌々とした明かりの先から軽快な音楽が流れてくる。

 それは周辺から巻き起こり、上空へと登って、二人のいる高台まで聞こえてきた。

 

 やがてそれは歌声へと変わる。

 聞き覚えのあるメロディ。

 

 そのメロディに合わせて映像も変化していた。

 金色の木々も人影もリズムに合わせてダンスをするように。

 

 四角いスクリーンがまるで鏡のように星空を映し出す。

 それはあの時見た、もう一つの夜の風景のようで、不意に懐かしさを覚えた。

 

 叙情的な旋律は、あの頃と今を紡ぐようで。

 

 それは蛍も燐も良く知っている名曲だった。

 

「……終了の合図ってことなのかな」

 

 燐はいつの間にか蛍の顔を見ていた。

 

 そのことに気付いたのはほんの数秒前だったので、蛍は面食らったように顔を赤くして少し目線を送らせた。

 

「そう、みたいだね。でもせっかくのイブなのにクリスマスソングじゃなくて、最後はこの曲なんだ」

 

 蛍はかるく口ずさむ。

 嫌いと言うわけではないけど、そこまで好きな曲ではない。

 

 でも自然と覚えているメロディー。

 

「蛍ちゃんはこの曲好きじゃないよね。”蛍のひかり”」

 

「うーん、まぁね。小さいときは名前のせいでよくからかわれたし」

 

 ちょっと名前が何かと被っただけでからかいの対象になるのは子供の頃に良くあることだった。

 

 今はそういうことは無くなったけれど。

 

「わたしだって子供の頃、男の子っぽいとか言われてたよー。男子に」

 

「燐は仕方がないんじゃない。わたしもたまにそう思うし」

 

 蛍は燐をからかうように言った。

 

「えー、今は髪が長いからそんなことないよねぇ?」

 

 燐はわざとらしく髪をかき上げて、女性らしさをアピールする。

 

「うふふふ、それはどうかなぁ?」

 

 口に手を当てておしとやか風に笑う蛍。

 

 燐は頬を膨らませて、そんなことないもんと一人憤っていた。

 

 地上から吹き上げてくる小さなメロディー、はやがて大きな音に変化していた。

 それに合わせて映像もダイナミックなものになっていく。

 

 夜空から地球、そして銀河へと。

 旅するように視線が更に先へと変わっていく。

 

 光よりも早いスピード。

 それが人の手で実現できるのはいつの頃になるのだろうか。

 

 その頃は自分たちなんか、影も形もなくなっていて、お墓すらなくなっているかもしれない。

 

 もっと遅く生まれればなんて、誰が決めることが出来るのだろうか。

 

 いつだってそう。

 なんだって思う通りにはいかない。

 

 だからこそ今を大切にしなければならないのに、それだけだとどこか足りなく感じてしまう。

 

 何かが欲しいんだと思う。

 

 確固たる、自分らしい形のある何かが。

 

 

 

 蛍は燐の肩に頭をちょこんと乗せて、流れてくるメロディーに身をまかせた。

 

 もともと勘違いから生まれた曲で、そもそも使われ方が違っていた。

 

 実際は祝いの時などに使われる曲であって、別れの曲ではない。

 でも映画の影響から日本では別れの曲として今に至るまで使われている。

 

 そこに違和感を覚える人はいないだろう。

 だって何よりも心地よく、耳障りが良かったから。

 

 そして別れはこの旋律のように、静かなものなのだと分かっているのだから。

 

「わたし、来年もこうやって燐と一緒にイヴを迎えたいな……」

 

 蛍が唐突に呟いたので、燐は小首を傾げて小さく笑った。

 

「もう来年の話? 蛍ちゃん気が早いよー」

 

「鬼に笑われるっていいたいんでしょ? でも、そうでも言っておかないと消えていっちゃいそうだから」

 

 蛍が遠くを見て言ったので、それが何に向けたものなのかは分からない。

 

 燐は自分に向けたものであると思っていた。

 だから困った顔で言うしかなかった。

 

「……ごめんね蛍ちゃん。わたし自分勝手だったよね。蛍ちゃんを残して……ひとりで」

 

 燐は蛍に何度も謝罪していた。

 蛍の傍にいる限りずっと言われ続けるだろうとも思っている。

 

 そしてそれは仕方がないことだということも。

 

 

「……何度も謝らなくてもいいよ。わたしだって同じようなことを燐にしたんだし」

 

「──けど」

 

「大丈夫、燐が言いたいことわかるから。よくわかるから」

 

 蛍はそっと燐の頬に触れた。

 寒さで赤くなった頬はほんのりとして、そして愛おしい。

 

 必死に謝る燐が愛おしかった。

 

「ただね、約束してれば少しは安心かなって思っただけなんだ。なんだっていつかは消えてなくなるものだから」

 

「蛍ちゃん……」

 

「なんて、ちょっと寂しくなったのかもね。だからわたし蛍のひかりって苦手なんだ。なんか悲しくなってきちゃうから」

 

 蛍がそう言ったせいなのか、ちょうど曲は止まってしまった。

 

 水面の波紋のように流れていたメロディが小さな火のように静かに消えていた。

 

 ──その直後。

 

 遠くから地鳴りのような拍手の音が聞こえてきて、二人は驚きのあまり抱き合った。

 

 近くにいればそれこそ割れんばかりの大喝采だったに違いない、きっと感動できるほどのものだったに違いないのだけれど。

 

「やっぱりさ、あのまま我慢して残ってれば良かったかな?」

 

「ここで良いよ。わたし騒がしいのはあんまり好きじゃないし」

 

「そっか……そうだね」

 

 二人は抱き合ったまま遠くを見る。

 

 ささやかだけど確かな幸せがここにあることを誰かに伝える様に。

 

 永遠なんてものはない、それでも今は少しだけそれを信じて見たかった。

 

 二人とも絶望を知り、その上でこの世界に居るのだから。

 

 ……

 ………

 …………

 

「そういえばさ、ジョバンニも祭りの日に丘の上から見た星に想いを馳せたんだっけ」

 

「……うん? 銀河鉄道の夜のこと?」

 

 蛍が唐突に話をしてきたので、燐は戸惑いがちに答えた。

 

「丘から見える列車の明かりに銀河鉄道の姿を思い描いてたら、いつの間にかその銀河鉄道に乗ってたって話だったよね。燐は好きだったよね、銀河鉄道の夜」

 

「うん、子供の頃はそれこそ何べんも見たよ。前にも言ったけど夜空を見上げると銀河鉄道のことを考えちゃう時があったんだ」

 

「そっか、それってジョバンニと一緒だよね。今はどう?」

 

 蛍は少し目を細めて笑っていた。

 それはとっても綺麗で、どこか不安げにも見える。

 

 青いドアの家でチケットの事を聞いた時の蛍と同じような表情に燐には見えた。

 なぜそんなことを今になって思い出すのかは分からないが。

 

「今は、うーん、どうだろう。もう、それほど空想に浸れなくなったのかも」

 

「燐は大人になったんだよ。大人には銀河鉄道は見えないんだよ」

 

「そうなの? なんか、別の話とごっちゃになってない? ”雪渡り”がそんな内容だった気がするけど」

 

「そうだったかも」

 

 イブのイベントが終わりを告げても、少女たちは楽しそうに笑っていた。

 

 地上の照明が弱まったおかげで星の姿をまばらに見えるようになっていた。

 

 二人ともその事にはしばらく気付かず、祭りの終わった駅から出入りする列車の光に銀河鉄道の姿を探していた。

 

 もちろんそんなものはこの世界にはなく、二人には帰りの列車の時刻の方が重要だった。

 

「蛍ちゃん。そろそろ帰ろうっか? イブのイベントも終わっちゃったから、駅がすっごく混むとは思うけど」

 

 それでも今のうちにホームまで行く必要があった。

 最悪の場合、帰りの列車がなくなる可能性があるからだった。

 

「……」

 

「蛍ちゃん、どうしたの? まだ具合悪い?」

 

 燐の呼びかけに蛍が答えなかったので、心配して燐はもう一度声を掛けた。

 

 蛍は燐の方を向かずに駅よりはるか先の暗い空を見ながらぽつぽつと語りだした。

 それはさっき語った童話の続きだった。

 

「ねぇ、燐。どうしてカムパネルラってさ死んじゃったんだろうね」

 

 脈絡のない問いに燐は頭を整理しながら、苦笑いで答えた。

 

「えっ、あ、ううーん。確か……ザネリとか言う友達を助けるために川に飛び込んだんだよね、カムパネルラ。そしてそのまま浮かんでこなくなって………」

 

 燐は朗読をするようにぽつぽつと語る。

 それでも頭の片隅では帰りの電車の時刻のことが気になっていた。

 

「助からなかったんだよね……でもさ、わざわざ殺さなくてもいいと思わない? 自己犠牲ってそんなに綺麗なものなのかな。わたしはそこが腑に落ちないんだ。そこまでしないと本当に大切なものって分からないものなのかな……」

 

 話の続きを蛍が引継ぐ。

 

 この作者の作品は自己犠牲の話が多いと、青と白の世界で話したことを燐は思いだしていた。

 

「うん、そうだよね……何かを失う必要はないよね」

 

 燐は何とも答えづらく、蛍と同じように遠くの空を眺めた。

 

 真っ黒い空に真っ黒い水平線が薄い紐のようにどこまでも、どこまでも伸びている。

 

 電車がことこと鳴る音と、低い波の音が聞こえるようになった。

 

「ねぇ、燐」

 

 蛍は小さな波の音のような微かな声で話す。

 唇を震わせながら一つずつ丁寧な口調で。

 

「もし……もしもだよ。もしも、もう一度、わたしの前から燐が黙って消えたりしたら、わたし……今度は本気で怒っちゃうと思う」

 

 蛍は燐にそう告白した。

 

 燐は呆気に取られたが、何かを耐えるような蛍の横顔を見て小さく微笑むと、軽く咳ばらいをして明るい声で話し出した。

 

「へぇー、わたし蛍ちゃんが本気で怒ったとこみたことないからなぁー。ちょっと見てみたいかも」

 

 燐は蛍の前でおどけてみせた。

 気負った様子など微塵も見せずに蛍に笑みを見せる。

 

 蛍はふぅ、と深いため息をつくと燐の顔を真っ直ぐに見つめた。

 

「燐。そんな風に笑っていられるのも今の内だけだよ」

 

 意味ありげに言った蛍は、ポケットからスマートフォンを取り出して何やら操作しだす。

 

 燐がその様子を興味津々で見守っていると、蛍は少し口の端を緩めながら自身のスマホの画面を自信ありげに燐に見せてきた。

 

 その画面には──。

 

「んにゃっ! な、何これー!? 蛍ちゃんこんなの何処で撮ったのぉ!?」

 

 燐は驚くほど素っ頓狂な声を上げて、この画像の出所を蛍に問いただす。

 あまりにも急な変化にさすがの蛍もたじろいでしまった。

 

 それは……燐が自分でスカートをめくって下着を見せている、少し前の事の画像だった。

 

「な、何って、これは燐が自分で撮ってっていうから撮ってあげたんだよ」

 

 蛍はしれっとした調子でそう言った。

 

「わ、わたしそんなこと言ってないー!!」

 

 燐の抗議はもっともであったが、あのときの燐は正常でなかったので詳細までははっきりとは覚えていなかった。

 

「ともかく」

 

 蛍は言い終わらないうちに自分のスマホを燐の手からひょいっと抜きとってポケットに仕舞い直す。

 

 あっという間の事だったので、燐は簡単に取り返されてしまった。

 

「今度燐が勝手なことしたら、この写真クラスのみんなに見せちゃうからね」

 

「うえぇっー! そんなことされたらわたし、学校に行けなくなるー!!」

 

 燐は酔った時以上に顔を真っ赤にして抗議をした。

 

「あ、ホッケー部の人たちにも見せちゃおうかなぁ……? きっとみんな驚くよ。真面目な燐がこんなことしてるって。エースじゃなくなっちゃうかも?」

 

 うふふ、と蛍は含み笑いをする。

 燐は生まれて初めて蛍に対して恐怖を感じていた。

 

「そんなことされたら、わたしのエースとしての威厳がああぁぁ!! とにかくそれを消させてよー!!」

 

 燐は襲い掛かる勢いで、蛍を抱きしめようとした。

 が、蛍はするりと燐の手をすり抜けてしまう。

 

 日頃トレッキングに励んでいるせいなのか、蛍の動きは機敏だった。

 

「わたしだっていつまでも運動音痴じゃないんだよ燐」

 

 蛍は機敏さを表すようにその場でくるりと回って燐を挑発する。

 

 フリルの付いたスカートがふわりと翻って、その様子はビルの光と混ざって、幻想的で刺激的な光景だった。

 

 当の蛍はそんなことも知らずに、無邪気に笑顔を見せていた。

 

「むむっ、でもわたしだって部活とかいろいろ頑張ってるんだからぁー!」

 

 燐は何かに対抗するように吠えると、蛍のブランケットをマントのように羽織りながら挑みかかった。

 

「ちょっと、燐! 顔が怖いよー! 燐に犯されるー!」

 

 他人が聞いたら誤解されそうなセリフを言いながら公園内を逃げ回る蛍。

 

「人聞きの悪いこと言わないでよっ! 蛍ちゃんの盗撮魔ー!!」

 

 燐も誤解を受けそうな言葉を発しながら追いかけ回す。

 

 誰もいない夜の公園で、少女たちは時間も、今日が何の日であるかも忘れてはしゃぎまわっていた。

 

 

 

 ずっとこうしていたいと思う。

 

 他愛無い会話をしながら、子供みたいにはしゃいで。

 

 時が止まればいいのと思ったから、それを叶えてしまったんだろうか。

 わたしかオオモト様が。

 

 でも思いの力ってそんなに強いのかな。

 

 だったら。

 

 二人の想いが永遠のものになればいいのに。

 そうすればずっと一緒なのに。

 

 どこまでも一緒だったら、わたしは幸せだよ。

 

 でも……。

 

 

 全部重なり合わなくてもいい。

 

 ほんの少し、ちょびっとだけでも一緒なら。

 それでいいんだ。

 

 それだけで。

 

 それだけでわたしは幸せなんだよ。

 

 だからわたしはこの写真を消さないだろうと思う。

 

 悪いことだとは思うんだけど。

 

 だって、かけがえのないものだから。

 

 何も持ってないわたしが唯一縋れるのは、あなただけなのだから。

 

 

 ──それに。

 

 あなたが溺れていたならばわたしは迷わず川に飛び込むだろう。

 

 氷のように冷たくても、激しい濁流でも迷うことなく。

 

 深い底で漂っていようが、流れるままに引きずられていようが構わない。

 きっとわたしはあなたの傍まで行く。

 

 わたしの世界はあなたの中にしかないのだから。

 

 周囲を明るく照らす小さな太陽。

 でもその内側はとても繊細で傷つきやすくて、無数の引っ搔き傷が残っていて。

 

 それでも健気に明るい小さな光。

 

 わたしはそんなあなたの傍にずっと寄り添っていたい。

 あなたに必要がなくなるまでずっと、ずっと。

 

 わたしは多分、月なんだろうと思う。

 

 ひっそりと浮かぶあの白い月のように静かで誰からも求められず、ただ一人で……。

 

 太陽の邪魔をしないように寄りそう月でいられればいい。

 

 でも……月は自分で光ることが出来ない。

 

 太陽の光をその身に受けないと、あの星の様に輝くことさえできないのだから。

 

 だから太陽を守りたい。

 

 たとえ月が粉々になっても守っていきたい。

 

 でないとわたしは。

 

 多分。

 

 ────

 ───

 ──

 

 





ゆるキャン△ 2期もいよいよ終盤。みんな楽しみの伊豆キャン編ですねー。やっぱり早いー。時の経つの早いなー。

第8話。

鰻美味し、はままつー♪ と言う7話でも歌っていた謎替え歌から始まるなでしこのソロキャンエピソード。アニメだとナイトキャンプの描写が良いですねぇ。陰影がはっきりつくので作画が綺麗に見える気がしますし、なにより雰囲気がいいですしねえ。
隣の家族連れにもちゃんと名前と苗字が設定されてましたねえ。

ゆるキャン△ のおかげで桜の愛車のモデル、日産ラシーンが人気になってるとかいないとか……某86みたいに高騰するんですかねぇー。

第9話。

薪を貰うエピソードと恵那がギリースーツを着る小ネタが削られてましたねー。薪はともかく、ソロサバゲとかいう謎遊びの映像化はドラマではあるんでしょうか。ただのテロリストにしか見えないからなくなったのかもしれないですけど。

そういえばちゃんと3月4日の放送日に合わせてきましたねぇ。狙ったんだとは思いますが、それに合わせて放送権利なものを取ったんだとしたらこだわりが凄いなあ。

大井川キャンプの伏線は流石にカットされたけど、最終話で拾われてそうな気はしますね。

第10話。

伊豆キャン編に合わせて新しくPVを作ってしまうとか、力の入れ方が半端ない感じーです。
黒船の件があって良かったー。まあなくても大丈夫な小ネタなんですけど再現していただいて感謝ですー。

そういえばルートに関して公式から注意喚起的なものがありましたけど、通りで原作にもあった対向車とのすれ違いのエピソードがないと思いましたよ。
原作は結構前の話ですし。連載していたころと今では結構変わってる場所も結構ありそうですねぇ。

にしても所々にある風車の描写が良いですなあ。動いているのを見てるだけで二次元なのに心が洗われそうになりますねえ。
正直、美観を損なうぐらいに大量にある太陽光発電より風車の方が趣があって良いと思うんですけど、日本はそんなにないんですよね。やっぱりコスト対評価が悪いんでしょうか?
設置が大変ですもんねー。でももう少し増やしてもいいと思います。


ふおぉー、ゆるキャン△ のキッチンカー地元のイオンにも来るんだー。
物見遊山がてら行ってみようかなぁ……多分整理券で行列が発生するんでしょうけども。でも、何注文してもおまけがつくのはいいですよねぇ。

そうそう、今年の1月頃、図書館にてがっこうぐらし! の元ネタと思われるスティーブンキングのザ・スタンドを借りてみたんですけど、あまりの長さに読み切れなかったー。

自動図書(備え付けの端末で呼び出してもらう本)だったので、どんなものか全然知らなかったんですが辞典クラスの分厚いものが出てくるとは思わなかったですよー。調べた時に前後編と書いてあったので、これなら読みやすそうかと思ったんですけどねー。後編なんかかなり端折って読了しましたよー。

先にネットであらましを知っていたから、大筋は分かるんですけどね。
でもまた借りて見てみたいかも。デカ過ぎで借りるのが少し恥ずかしいけど、ちゃんと読了したいですし。

それではではーー。




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I owe you one.


 ガタンゴトン。

 黒い背景の中を列車が走っている。

 独りぼっちの最終列車が夜に包まれた川沿いの路線を揺れながら走っていた。

 昼白色の車内の人気はなく、通勤帰りのサラリーマンが疲れた顔をして座っているか、寝ているかしていた。

 ガタンゴトン。

 鉄の橋梁に差し掛かると、車内がより不安定に揺れ動く。

 黒一色に染まったガラスの向こうは濃淡な闇が支配していて、夏場とは違って寄ってくるものなどもなかった。

 橋の下から流れてくる小さなせせらぎの音に、外の空気を感じることが出来た。

 橋を越えると列車は僅かな明かりが照らすプラットフォームに滑り込んだ。

 規則的な車内アナウンスの後にドアが開く。

 乗降する者は誰もいない。
 少しの間、空気の入れ替えをしただけの意味のない行為。

 急いでいるのか何の合図も待たずにドアが閉まった。

 その事に異議を唱えるものはいない。
 皆、目的の駅以外には関心を寄せはしなかった。

 酷く不気味でそしてとても静かな夜の列車。

 ゴトゴトン。

 再び規則的なメロディーを奏で始める。

 街灯のない真っ暗な闇を丸いヘッドライトの明かりが切り裂いていく。

 型遅れの車両は軋む音を立てながら、それでも走ることを止めなかった。

 錆びた線路の継ぎ目に()があったのか、一際大きな音を立てて列車が傾いた。

 がくん。

 何かが沈み込むような音がして、車体が大きく揺れる。
 その衝撃はすっかり眠りこけていた少女の体を左右に揺さぶった。

「はぅ、ん……」

 頭が下がった衝撃で少女は微睡みから目を覚ました。

 少し乱暴で不本意な起こし方に、思わずしかめた顔を浮かべてしまう。
 そのまま無意識に制服の袖で口を拭った。

 ”染み”にはなかってなかったのでとりあえず一安心と息を漏らす。

 焦点の合わない目で辺りを見渡してみる。
 ぼんやりとした視界に映るのはいつもの見慣れた列車の風景。

 ありきたりな広告も、特に興味のない車内ポスターもいつものまんま。
 それだけにここが通学に使ういつもの列車だと確認することが出来る。

「ふあああぁ……」

 燐は人目を憚ることもせず、大きな欠伸をした。
 スピードの遅いローカル線は心地よく、眠気を誘うのにはぴったりだった。

(寝過ごす心配がないからいつまでも寝てられそうだよ……蛍ちゃんの気持ちが分かるなぁ)

 引っ越したと行っても通学先も交通手段も変わらなかった。
 その為、最初の頃はつい寝過ごしたと思って慌てふためいたこともあったけど。

 いつしかそういう事は無くなっている。
 新鮮さとは無縁のルーティンとなっていた。

「ふぁ~」

 今度は小さなあくびをかみ殺す。
 
 ひと月も経てばすっかり今の状況にも慣れてしまっていた。
 むしろ終点まで寝られる分、楽になったとも言える。

 そういう意味ではこの長い通学時間もそれほど悪いものではないと言えた。

(何より一緒にいられる、蛍ちゃんと終点までずっと)

 終点の小平口駅に着いてもまだ蛍と一緒なのはとても嬉しいことだったから。

 そうだよね、蛍ちゃん。

 燐はいつもの様に隣で蛍が寝息を立てている、そう思っていたのだが──。

 隣に座っていたはずの蛍は居ない。

 確かに一緒に帰りの列車に乗ったはずなのに。

 ……トイレにでも行ったのだろうか?

 まだ寝ぼけたまま、むむむと首を傾げる燐。

 すると、ふと周りの様子がおかしいことに気付いた。

 いないのは蛍だけでなく、他の乗客も見当たらない。

 確かにもう遅い時間であったが、それでもまだ乗客は乗っているはず。
 終点の小平口駅で降りるのだって、燐と蛍の二人だけということはこれまでだってなかった。

 ただ一つの例外を除いてだが……。

 ごとごとと揺れる音だけが車内に響く。

 今、どの辺だったっけ?
 燐が窓からの景色を確認しようと身を乗り出そうとしたとき、僅かな違和感があった。

(あれ?)

 燐が体を捻って、蛍が座っていたはずの座席に手を掛けた時に気付いたこと。
 そこには蛍が座っていた温もりさえもないようにさらっとしている。

 まるで最初から誰も座っていなかったように。

 それに立てかけて置いた燐と色違いの蛍のバックパックもなく、長細い座席には燐と燐のバックパックだけが取り残されていた。

 呆けた瞳で左手の感触を何度もを確かめてみる。
 確かに蛍と手を繋いだままにしておいたのに、その残り香さえ残っていないように感じた。

 ただ、そのおかげで少しずつ脳が活性化してきたのか、今の状況を理解できるようになった。

(えっとぉ、小平口駅に向かう列車に、蛍ちゃんと一緒に乗って、それから……)

 これまでのプロセスが燐の脳裏に思い描かれていく。
 指折り数えてその順序を確認するほどのものはなく、ただシンプルなことだけ。

 だから燐は今の状況になにか絶対的な危機感を感じ取った。

「嘘っ! 蛍ちゃん!!!」

 公共の乗り物であることも忘れて燐は勢いよく立ち上がった。

 この車両にはトイレは付いていないこと。
 そして蛍が途中下車する理由もないこと。

 乗客がほとんどいないのはローカル線の終電では特に珍しくもない光景だったが、蛍が居なくなることは明らかに異常なこと。

 それはとても怖いことだった。

 自分から離れて行ったのに、いざ居なくなるとそれがとても恐ろしい。

 それはあの青い空の再現のよう。

 ともすればそれは……。

(まさか、また……なんてことはないよね? だってもうわたしたち……)

 ──消せない傷と不条理を知ってしまったのだから。

 燐は首をぶんぶんと振ってその考えを消し去った。

 そうそう二度も起きるわけがない。
 自分でもそう言っていた、確かに。

 でも……。

 自分の胸を抑えて気持ちを落ち着かせると、燐は軽く目を閉じて自問する。

 だが、その時間さえも惜しいのか、燐は考えがまとまらないまま、行動を起こしてしまった。

「蛍ちゃん!!!」

 湧きあがる不安を打ち消すように燐はもう一度、蛍の名を呼んだ。

 がたがたと揺れながら進む列車の中はぞっとするほど静かで、暖房が効いているとはとても思えないほど、寒々しい。

 どこかの車両の窓が空いているのかもしれないがそれにしたって嫌な、妙な寒気を感じる。
 そして嫌な胸騒ぎもまったく収まってはくれなかった。

 燐は諦めきれずにもう一度だけ車内を見回すと、座席に置いていたバックパックを引っ掴んで、前方の車両へと駆け出した。

 あの運転席に誰も乗っていなかった列車でも蛍は同じ思いだったのだろうか。

 そう思ったら急に涙が溢れ出そうになった。

 失って分かるもの。

 それはきっと自分が()()()()()()()()()()()なのかもしれない。

 燐はやるせなさに胸を痛めながらも前だけを見て走った。

 後ろには何もなく、月明りだけが小さな背中を照らすように刺していた。


 …
 ……
 ………



 空っぽの客車の中を少女が一人走っていた。

 

 焦燥感に突き動かせれたように、燐は前方のドアをためらいもせずに開いた。

 冷たい金属製のドアが、擦り切れるような音をたてて横に動く。

 

「蛍ちゃんっ!!」

 

 ドアが開くとすぐに燐は蛍の名を呼んだ。

 

 他にも乗っている人がいるかもしれないと思ったのはその次。

 ともかく蛍が無事で居るかどうかの方が先だった。

 

 燐の杞憂に反して声に反応する人はいなかった。

 二両目の車両も同じように静まり返っている。

 

(……ここにもいない?)

 

 しばらく耳を傾けていたが、なんの返事も音もなかった。

 

 ここには居ないと決めつけた燐が、次に先頭の車両に向かうことを決めたとき。

 

「やけに騒々しいなぁ」

 

 客車の前方から声がした、男性の声で。

 憤っていると言うよりかは、少し暢気な声色に聞こえる。

 

 ここからでは頭しか見えないが、奥の座席に誰が座っている。

 

 燐が周囲を見渡した時は誰もいなかったし、何の声も返ってこなかったのに。

 

 だが木製の背もたれから頭の半分ほどだろうか、黒髪が覗いていた。

 流石にそれだけでは何も分からないが、若い男性のような気がした。

 

 自分以外の乗客がいたことに燐は安堵するも、さっきだした大声の事で恥ずかしくなった。

 一言謝ろうと思い、その人物の席に近づく。

 

(それに蛍ちゃんのことも知ってるかもしれないしね)

 

 それでもすぐに近寄ろうとはせずに、燐は考え込んだ。

 

 近寄りがたい空気はないが、得体の知れない人物かもしれない。

 むしろこういうのが一番危ないとも言える。

 

 例えばホラー映画のように。

 

 燐はバックパックからなにか武器になるものかないか探してみたが、出てきたのは馴染みのあるペンライトぐらいで、天井に照明が点いている以上、目くらましに使えるかどうかさえ怪しかった。

 

 それでも何か手に持っていると安心した。

 

 それはあの時の再現をしているようで、嫌な気分でもあったが。

 流石にあの白い人影は居ないだろう、あの甘く嫌な臭いもしないし。

 

 燐はゆっくりと一歩ずつ確実に前に進む。

 

 その際、他の座席が目に入るも、対面式の古めかしい座席にはやはりというか他に誰も乗っていなかった。

 

 レトロ調というか、かなり昔に使われていたと思われる年季の入った座席なのに、そこまで使いまわした様子はない。

 

 光沢のある木製の背もたれにぴんと張った藍色の革張りのシートは、そのまま高額な特別列車に使われてもおかしくないような、高級感と特別感を感じさせた。

 

 例えるならこの車両だけ鉄道が主流だった時代にタイムスリップしたかのような、当時の面影のまま現代に蘇ったような。

 

(まあ、わたしには馴染みがないんだけどね。高額な観光列車にも乗ったことがないし)

 

 つまりはモノクロ写真を今の技術でカラー化したような、そんな懐かしさと新鮮さがこの車両の中に存在していた。

 

 それは座席だけでなく、壁紙も調度品もモダニズムを体現していた。

 

 綺麗に磨かれた木目調の床はどうやら本物なのか、燐が歩くたびにぎしぎしと鳴って、なんとも趣というか、吊り橋の渡るときのあのひやっとした感覚を呼び起こす。

 

 列車の揺れに合わせて床もぎいっと傾くので、燐は思わず座席の背もたれにしがみ付いた。

 

(床、抜けないよね? いくら何でも)

 

 燐は足元の状態を気にしながら、綱渡りをするような慎重さで前に進む。

 ぎしっ、ぎしっと鳴く床は、静まりかえった車内の不気味さを拍車させていた

 

 確かにここだったはず、燐は恐る恐る座席を覗き込んだ。

 

 一人の男性が座っていた。

 文庫本を手に持ち、時折指でなぞりながら反芻しているようだった。

 

「あ、あのー、大声出しちゃってごめんなさい。それでですね──」

 

 そこで燐は言葉を止めた。

 その人物の顔を見覚えがあったからだ。

 

 見覚えがあったなんてものではなく、心臓が飛び上がるほどの驚きと衝撃があった。。

 

 それはここにはいるはずのない人物だったから。

 居ることすら思い浮かばなかったと言ってもいい。

 

 青天の霹靂と言うか、とにかくあり得なかったから。

 

 物陰から覗かれていることに気付いたのか、その人物はこちらを振り返って声を掛けてきた。

 

 黒縁の眼鏡から覗く優しい瞳はあの時のまま。

 少し短くなった前髪を軽くかき上げてその人物は笑みをみせた。

 

「やあ、燐。久しぶりだね」

 

 こちらの姿を確認しても少しも驚いた様子も見せずに笑っている。

 

 燐は驚きのあまり声も出なかったが、()()が変わらず接してくれたので少し表情を和らげることが出来た。

 

 もっと飛び上がって喜んでもいいはずなのに、なぜだか緊張している。

 

 それはきっと知ってしまったからだと思う。

 

 彼の秘めた思い。

 そしてわたしの思いにも。

 

「どうしたんだい、ぼーっと突っ立って。立ち話もなんだしこっちに座ったら?」

 

 ”高森聡”は、開いていた小さな本を閉じると、迎え入れるように空いている窓側の座席に手を広げた。

 

 塵一つないシートはまるで新品のような美しさとなだらかさがあり、座り心地が良さそうに見える。

 

 二人で座るには十分な広さもあり、足を伸ばすことも十分できそうだった。

 

 燐は聡が何を言っているのか理解できず、やや他人事のようにぼーっとしていたが、それが自分に向けたことだと分かると急にびくっと体を震わせて、まじまじとその聡の顔を見つめ返した。

 

 大人しそうにみえる少し癖のあるマッシュヘアに黒縁の眼鏡、その奥の優しそうに細められた瞳。

 

 それは燐が好きだった面影のままだったから。

 

「お、お兄ちゃん……?」

 

 確かめるように燐は小さく呟いた。

 

 名前ではなく、燐の昔馴染みの呼び方で。

 

 勿体ぶった言い方が面白かったのか、従兄──聡は唇だけを動かして静かに微笑んでいた。

 

 優しい笑顔。

 それをまた向けてくれるのは嬉しかった。

 

「奇遇だね。こんなところで燐と偶然会うなんて。神の思し召しかな? いや神にどうこうしてもらう理由なんてないよね。ならこれは天の摂理かな」

 

 なにかの引用を交えて喋る癖も変わってない。

 

 何も起きていないかように聡は普通だった。

 それは山小屋の後でもそうだったのだけれど。

 

 だからこそ、どこか違和感を覚えるものだった。

 

「うん。偶然だよね」

 

 燐は込み上げてくる不安をおくびにも出さずに笑顔で返した。

 

 一縷の望みがないわけではない。

 偶然出会う可能性だってちょっとはあると思っていたから。

 

 もしかしたらクリスマスに合わせて一時帰省してきたという”理由”だってある。

 

 小平口町からは南アルプスが近いし、冬の登山だって聡が好んで行っていたからそれをしにきた可能性だって十分にある。

 

 理由なんてものはいくらでも考え付くものだ。

 例えそれが殆ど望みない可能性だったとしても。

 

 目の前のものを現実と認めるならば、それも止む無しとは思う。

 

 偶然の重なり合いが大きな奔流となって流れを形成するならば、今のこの偶然はなにをもたらすのだろう。

 

 それ今、考えたところで燐には何の結論も出せはしなかったのだけれども。

 

「ん? どうしたんだい。僕の顔に何か付いているのかな」

 

 聡はおもむろに眼鏡を外すと、ポケットから取り出したクロスでレンズを拭き始めた。

 

「……っ」

 

 眼鏡を外した聡に燐は動揺していた。

 それはあの時以来見ていなかった素顔だったから。

 

 山小屋の夜の時以来に。

 

 だからと言って拒絶するわけではない。

 ただあまりにも無防備に素顔を晒したので面食らっただけ。

 

 考えすぎなのかもしれないけど。

 

 燐にじっと見られているのが恥ずかしかったのか、聡は眼鏡を元に戻すと、どうしたの? とばかりに困った笑顔を見せた。

 

 ……どうしていいか分からなくなってきた。

 

()()変な臭いもないし、おかしな気配もない……どうしよう、頬っぺたつねってみようかなぁ……)

 

 聡の顔を見ながら燐はまったく別の事を考えていた。

 見れば見るほど聡にしか見えなくなってきて、頭がこんがらがりそうになる。

 

 ぼんやりとした蛍光灯の明かりの下で思わず頭を抱えそうになった燐だったが、突然何かに突き動かされるように突飛な行動にでた。

 

(うー、よしっ!)

 

 燐は小さく頷くと、まるで忍者のような動きでそそそそと聡の前に行くと、その横ではなく、向かい合った斜め前の座席にすとんと腰を下した。

 

 明らかに挙動不審な燐の動きに、聡は呆気に取られながら見ていたが、ややあって腹を抱えて笑い出した。

 

「あっははは、なんだいそれは。今学校では忍者ごっこが流行っているのかい?」

 

 燐は……顔から火が出るほどの恥ずかしかった。

 

(これで何もなかったら。わたし、お兄ちゃんにすごく変な子って思われちゃうよっ)

 

 久しぶりの従兄の前で燐は羞恥で顔を真っ赤に染まっていた。

 

 だがその面影はどこか悲しげな影を作っていた。

 

 ────

 ───

 ──

 

 ガタンゴトン。

 

 列車は変わらず規則的な音をきざんでいる。

 

 燐は座席を挟んで聡と向かい合っていた。

 

 話すタイミングをうかがうような微妙な空気が二人の間を流れている。

 

 それは、お互いに顔を合わせることなく遠くに行ってしまったから。

 聡は燐に何も告げずに遠い北の大地に農業研修に行ってしまった。

 

 その事は燐に少なからずショックを与えていた。

 聡が無事で居たのは良かったが、結局離れ離れになってしまった。

 

 何の決着もつけずに。

 

 その従兄が今、目の前にいる。

 偶然を喜ぶことなのだろうが、まだ燐の中の不安は消えなかった。

 

 きっとそれは決定的なものが欠けていたからだと思っている。

 聡だと認めさせるだけのものがあと少し足りなかった。

 

「どうしたの燐。緊張してるのかい? 僕は燐と話すのが楽しみで戻ってきたんだよ」

 

 気さくで優しい声。

 幼いころからよく聞いた声に燐はつい作り笑いをしていた。

 

「そうなんだ。わたしもお兄ちゃんと話せて嬉しいよ。電話もメールもあまりくれないから」

 

 連絡をしないのは分かっていた。

 きっとお互いに気を遣っている、そうそう都合よく忘れるなんて出来るものじゃないから。

 

 離れてみてそれが良くわかった。

 忘れたくとも忘れられないことが確かにあるのだ。

 

(でも、少し楽になったとは思ってる)

 

 変わったことと変わらないこと。

 

 きっとそれは時間。

 

 だからこそ一人で遠くに行ってしまった聡を逃げたなんて思ってはいない。

 それを自分のせいだとも思わなかった。

 

 それはある種の折り合いがついたのかもしれない。

 

 でも言葉にするのはちょっと難しかった。

 

 燐はどう話を切り出そうか逡巡していると、聡はどこから持ち出したのか四角い板状のものを持っていてそれを熱心に操作していた。

 

「お、兄ちゃん……それ、なに?」

 

 燐が指を差す。

 

 黒い板は良く知るタブレット端末のように見えた。

 

「ああ、地方の農業ってイメージとは違って結構大変なものでね。ちょっとデータを見てるだけだよ」

 

「データ?」

 

「うん。田舎で悠々自適なんていうけど結局は仕事を持たないとやっていけないからね。向こうの人はもちろん教えてくれるんだけど。それだけじゃなく、もっと色々なところからアンテナを伸ばして個性を出していかないとね。こういうのってやったもん勝ちなところがあるから」

 

 聡は端末を見ながら熱心に語り続けた。

 

「へぇー。お兄ちゃんも色々大変なんだね」

 

 関心したように燐は呟いた。

 

 ここ(小平口町)だって立派な田舎である。

 

 しかし広大な敷地のあり、冬は比較にならないほど雪が降り寒くなる北の地では大変の度合いがまったく異なるものなのだろう。

 

 異国のような聡の話に燐は気の毒そうに肩をすくめた。

 

 端末を片手に顎を触る聡をどこか遠くを感じながら、燐はぼんやりと窓の外を眺める。

 

 頬杖を突きながら見る黒い窓の向こうには星が見えたりとか、標識など視界には映らず、ただ真っ黒いビロードのような布が覆い被さっている。

 

 月どころか星さえ見えない状況に燐は何故か疑問に感じなかった。

 

 それだけこの状況は心地よかったのかもしれない。

 何もかもが元に戻ったかのようで。

 

(なぁんだ。やっぱり偶然かぁ。疑って損しちゃったな。にしてもわたし、神経質になってるのかな? どこかまだ警戒してる……)

 

 ふぅ……。

 

 燐は肺の中の重たい空気を吐き出した。

 目の先では今だにタブレット端末に釘付けになっている聡が居る。

 

 いつもの列車にちょっとした偶然が重なっただけで、こんなにも違ってみえるなんて。

 

 それにしても。

 

(やっぱりさっきのはすごく恥ずかしかったな)

 

 燐はさきほどの奇行を思い出してまた顔を赤くすると、今更のように両手で顔を隠した。

 聡の前だと燐の中の甘酸っぱい感情が溢れ出てしまう。

 

 もう決着がついたと思っていたのに……。

 

 許したとか許さないとかの感情の概念はどうでもよかった。

 

 ただこうして従兄と妹に戻れたことが嬉しい。

 

 そこには恋愛感情のようなものはなくなったのかもしれないけど、それでも普通のやり取りが出来るようになったのは本当に良かった。

 

 嫌われてなかったことが嬉しかった。

 

 この世界に帰りたくなかった理由の一つがそうであっただけに、ほっとしてしまう。

 

 誰かに嫌われたり恨まれたままなのは辛かったから。

 それが想っていた人ならば尚のことだったから。

 

 ずっと心の中に巣を作っていたもやもやがようやく晴れたような安堵感に、急に鼻がつんと痛くなってきた。

 

 込み上げてくるものを堪えることが出来ない。

 燐は顔を隠しながらすすり泣くように、鼻をぐずぐずとさせた。

 

 その音に気付いたのか聡が顔を上げる。

 

 顔を隠している燐に気が付くとやれやれとため息をついた。

 そして思い出したように燐に訊ねる。

 

「そういえば燐。さっき誰かの名前を呼んでなかった? 確か蛍、とか言ってたよね。確か燐の友達でいたよね蛍ちゃんって子が。彼女がどうかしたのかい?」

 

 聡に言われたことで燐は現実に立ち返った。

 

 聡に再会できたことは嬉しかったが、それが目的ではなかった。

 

「あ、そうだ! 蛍ちゃんを探してたんだった!」

 

 なぜ今まで忘れていたのか、もっとも重要なことだったはずなのに。

 

 他の座席を見ても誰も乗っていなかったし、他の乗客の声もない。

 だからこの車両には聡しか乗っていない。

 

 こんなところでぐずぐずしている暇なんてなかったんだった。

 

 燐はぎゅっと瞼をつむった。

 暗い視界の中で列車の規則的な音だけが耳朶を打っている。

 

 蛍のことを強く思い浮かべる。

 想いの強さを届けるように。

 

 燐は決意したように瞼を開くと、覆い隠している指の隙間から聡の姿を眺めた。

 まともに顔を合わせるのにはまだ恥ずかしかったし、何より聡に言われるまで蛍のことを忘れていたのが恥ずかしかった。

 

 薄く開いた指の隙間に目を通す。

 

 きっとお兄ちゃんは見ていることに気付いているだろう、困った顔をして微笑んでいる、そう燐は思っていた。

 

 幼い頃から聡は隠し事が出来なかったから。

 こちらの考えなどお見通し、それを知っていながら聡を指の間から覗き見た。

 

(……えっ!!??)

 

 思わず叫びそうになって、慌てて口をつぐむ燐。

 

 信じがたい光景がそこにはあった、それは何度瞬きをしても変わらない。

 

 それまで普通だと思った世界が簡単に崩壊する、そんな衝撃的なものが燐のつぶらな瞳に映っていた。

 

 ──何もない。

 

 ──そこには何もいなかった。

 

 指の間から覗いた先には何も映っていなかった。

 

 ただ青いシートの座席があるだけ。

 誰も座っていない。

 

 聡どころか本もあの端末さえも。

 

「う、嘘っ!!!」

 

 燐は焦燥感に駆られて顔から両手を引っぺがすと、思わず立ち上がっていた。

 

 それは目の前で見たものを否定するようかのように、目を赤く腫らして正面をだけを見ていた。

 

 立ち上がった燐の視界の先には……呆気に取られたようにこちらを見つめている従兄の姿があった。

 

「ど、ど……」

 

 そこから言葉が上手く繋げなかった。

 

 聡は一瞬ぷっとなって噴き出すのをこらえると、優しい瞳で燐に話す。

 

「どうしたんだい燐。今度は顔が真っ青になってるじゃないか。少し酔ったのかもしれないね。隣においでよ、肩ぐらい貸してあげるから」

 

 にこにこと微笑む従兄に、燐は身体を震わせて立ち尽くしていた。

 

 これが早とちりならまだ良い、恥を欠くだけで済むから。

 

 でも、もしこれが、()()()()()()()()だったら、それはあまりにも辛いことだ。

 そう思ったら燐はまた泣きそうになってしまった。

 

 見かねた聡が燐をなだめようとしたとき、他の声がそれを遮った。

 

「切符ヲ拝見シマス」

 

 確かにそういう言葉だった。

 

 この車両には燐と聡しかいないと思われたのに、別の人物が来ていた。

 

 いつからこの車両に来たのかは分からないが、言葉から察するにこの列車の車掌だろうか、そうとしか考えられなかった。

 

 でも今時切符確認なんて聞いたことがない。

 

 燐はこのローカル線で通学しているが、そんなの一度もお目にかかったことがなかった。

 最寄り駅が小平口駅に変わってもそれは同じで、蛍からだって聞いたことがない。

 

 だが現に今座席まで来ている以上、絶対と言うことはないのだろう。

 なにか事情があったから見に来ることだってあるだろうし。

 

 燐は第三者が居たことで救われた気持ちになった。

 

 重苦しい空気を変えるにちょうど良かったし。

 それに、ついでと言ういい方はないが、蛍のこと行方だって訊ねることが出来る。

 

 何より自分と聡以外の人間が居たことで、異常さが払拭された気分になっていた。

 

 人が集まるところには危険がない、なぜだかそう感じてしまう。

 

 そういうのは何効果と言うのだろうか? とにかく渡りに船とはこのことだ。

 

 でも、切符とは何を見せればいいのだろうか?

 

 燐は革製のパスケースをバックパックのサイドポケットから取り出すと、これで良いのかと車掌に尋ねようとした。

 

「ヒッ!!」

 

 車掌の姿はおかしかった。

 服装は合ってるとは思うのだが、それ以外が圧倒的におかしい。

 

 風変りとかそういうことではなくもっと別の次元のこと、

 

 だから燐は言葉を忘れてしまった。

 

 何を言うのかを忘れてしまったのではなく、この人影に掛ける言葉を持ち合わせていなかったのだ。

 

 一番見たくないものが目の前にいる。

 それなのに燐は瞬きすることを忘れて、それを直視していた。

 

 奇怪な姿している車掌を。

 

 白くぶよぶよとした皮膚。

 身体のいたるところには黒い亀裂が入っていて、とてもおぞましい。

 

 指は膨張したように膨れ上がってぼこぼことした節がついていて、奇妙な方法に折れ曲がっていた。

 

 何よりその顔には、吐き気を催す程のいびつな特徴があった。

 

「ドウカシマシタカ?」

 

 白くひび割れた顔にあるのは頬まで裂けたただ一点の真っ赤な口だけ。

 その口をにたっと動かして人の言葉を喋っている。

 

 自分が人ならざる者だと気づいていないように。

 

 人の真似をして衣服を来ていても、化け物であることに変わりはない。

 

 こんな姿で車掌を気取っているのだろうか。

 鼻をつんざくほどの悪臭を放っているというのに。

 

 しかも燐には別の、圧倒的な嫌悪感がこの人影にあった。

 

 良く知る人物が、二度と見たくない姿で現れたからだった。

 紛れもなく、それはあの大川だった。

 

 祭りの世話役だけでなく、町内会での中心的な役割もしている燐も知ってる、”今の”大川ではなく。

 

 あの時、口を歪ませて蛍を探していた時の大川の姿だった。

 

 しかもこの姿を誰よりも燐は知っている、大川の欲にまみれた姿は燐の脳裏に焼き付いて今もなお離れなかった。

 

 月明りに照らされた赤黒い剪定ばさみを手にする、変わり果てた大川の姿は、ある意味あのヒヒよりも恐ろしく不気味だった。

 

 そんな悪意を持った時の大川が目の前に居る。

 しかもあの時と同じような剪定ばさみを手に携えて。

 

「い、いやあああぁっ!!?」

 

 パニックになった燐は両手を上げると、その場から遠のいた。

 おもむろに聡の手を掴むと、震えながら叫んだ。

 

「お、お兄ちゃんっ! こ、この人……!」

 

 縋りつくように背中を丸めながら震える燐の姿は、追い詰められた小動物のように怯え切っていた。

 

 大川は太い指で何もない顎を擦ると地鳴りのような大声で笑い出した。

 

 その声で燐はヒッと短く叫ぶと、その小柄な身を聡の背後に隠した。

 

「ハッハッハ、コレハ失礼シマシタ。コンナムサイ男が突然デテキタラ驚クノモ無理モナイデスナ。ハッハッハッ」

 

 気味の悪い声で笑い続ける大川に燐は心底恐ろしくなって、聡の後ろで耳栓をして蹲った。

 

 こんなところで悪夢の続きが始まるとは思わなかった。

 

 あり得ない事態が立て続けに起こって、燐は絡まった頭を整理するように何度も頭をぶんぶんと振った。

 

 これが夢であることを願うように。

 

 身震いしながらしゃがみ込む燐に聡は小さな笑みを浮かべると、やれやれと言った調子で車掌の方に歩み寄った。

 

 燐は聡の影がなくなったことに不安を駆られて、その大きな背中に飛びつく勢いでしがみついた。

 

 偽物かもしれない。

 

 姿こそは見知った従兄だが、正体はよくわからない。

 違和感は消えるどころかどんどん強くなっていく。

 

 目の前でふらふらと揺れている化け物が燐がもっとも()()()()()()()()姿を変えている可能性もある。

 

 それでも唯一縋ることが出来るのは幼い頃から頼りにしていた従兄だけだったから。

 

 だからその後ろが一番安心できた。

 

「すみません車掌さん。この子、いえ()()()()が失礼なことを言ってしまったようで」

 

 笑いながら会釈をする聡に、大川も笑いながら返す。

 

「イエイエ。コチラコソ驚カセテシマッテ大変申シ訳ナイ。歳ノワリニハ老ケテイテ厳ツイト仲間内デモヨク言ワレテイルノニ」

 

「そうですか? 車掌さん渋くてモテそうですよ。僕なんてほらこの通り童顔なせいで良く学生に間違われるんですよ」

 

「イヤイヤ若ク見ラレルノハ結構ナコトデスヨ。私ナンテマッタク……」

 

 聡と大川は普通に会話をしていた。

 古くからの友人のように親し気な様子で。

 

 聡が残したノートでは二人は一応顔見知りになるのだが、それはあまりよい関係ではないみたいだったのに。

 

 嘘のように話が合っている。

 

 燐には二人のことも話す内容も何一つ理解できないでいた。

 

 あの白い何かと普通に話している聡がおかしいのか、それとも化け物に見える自分の目がおかしいのか。

 

 それさえも分からない。

 

 言語の分からない星に投げ出されたような孤独さを燐は感じていた。

 

「どうぞ。切符です」

 

 燐が暗い悲しみに囚われていた時、聡が大川に切符を見せていた。

 どんな切符を手渡しているのか、燐は聡の背中越しに覗き見る。

 

 聡が切符と言って手渡そうとしているそれは、薄いビニールに包まれている小さな青いお守り。

 

 燐と聡にとってとても大事なものを切符と称して見せていたのものだから、燐はつい声を荒げてしまった。

 

「お兄ちゃん! そ、それは違うよっ!」

 

 燐が叫んだことで聡も大川も無言のまま振り返る。

 

 その沈黙がなんとも重く感じて、燐は奮い立たせるように言葉を続けた。

 

「それは、それはわたしとお兄ちゃんが山の上の社で買ったものでしょ。わたしとお揃いのがいいってお兄ちゃんそう言ってたのに……」

 

 最後の方は消えかかりそうな声になっていた。

 燐は悲痛な叫びを押し殺すように拳をぎゅっと握りしめた。

 

 自分の背中ですすり泣くようにシャツを握る燐に、聡は肩をすくめる。

 

 そして思い出したように手を鳴らすと、燐の頭を撫でてこう言った。

 

「でも、これが僕の切符なんだよ」

 

「え、でもっ。そんなのおかしいよっ」

 

 頼りにしていた従兄に裏切られたような気分になって、燐は顔を上げて反論する。

 

(何なのこれ? やっぱり夢の中なの? おかしいよ……何もかもがおかしいよっ)

 

 燐は混乱する頭で自分の頬っぺたを抓ってみる……右の頬がヒリヒリとしても何からも目覚めることも、変わることもなかった。

 

 そして燐が止める間もなく、聡は大川に”切符”を渡していた。

 

 二人の思い出がズタズタに穢されたように感じて、燐は涙で濡れた瞳を聡の背中に押し付けた。

 

「ハイ。確カニ」

 

 大川は何とも素っ気なく言うとお守りをそのまま聡に返した。

 

 大川の手にしていた枝切りばさみでお守りが裂かれると思ってただけに、燐は脱力したように大きく息をついた。

 

 ちょっとだけ大川に感謝した。

 だが、それはすぐに解消してしまう。

 

「ソチラノオ嬢様モオ願イシマス」

 

 それは自分の番がやってきたから。

 

 いびつでぼこぼこした手のひらをこちらに向ける白い何か。

 

 顔を背けたくなるほどの不快な臭気が間近に迫って燐は思わず鼻をつまんだ。

 

(なんでお兄ちゃんは平気なの? でも、この臭いやっぱり同じだ……やっぱりこれはまた何か変な事に巻き込まれたってことなの?)

 

 燐が鼻をつまんでも大川は目のない顔でこちらを見つめている。

 表情が分からないことがどうしようもなく気味が悪くて燐は足が竦む思いだった。

 

 聡は助けてくれるのだろうか、現に大川に詰め寄られても何も守ってはくれない。

 

 燐がこんな嫌な気分でいるというのに。

 

 大川はさっきから無言で手を差し出している、早くよこせと言わんばかりに。

 

 その口しかない顔が下卑た笑みに歪んだ気がして、燐はひっ、と慄いた。

 

 燐はすっかり追い詰められた気分になった。

 

 聡は何もしてくれそうにないし、大川は答えを迫るように手を差し出したまま。

 

 燐の小さな背の後ろは木製の枠に嵌められたガラス戸が列車の揺れる音に合わせてカタカタと鳴っている。

 

 いっそのこと、この窓から飛び降りたいぐらいの気持ちになった。

 

 ここには明確な敵もいないが、かと言って味方してくれる人もいない。

 

 八方塞がりの燐に出来ることは、ただ想うこと。

 

(蛍ちゃん。わたしはどうしたらいいと思う?)

 

 燐は寂しくなって親友の蛍の事を思い浮かべた。

 どんなときでも燐の味方になって、親身になってくれるその人のことを。

 

(そんな大事な人をわたしは二度も蔑ろにしてしまったんだ……ごめん、蛍ちゃん。わたし甘えてばかりだよね)

 

 燐はぷるぷると首を振ると覚悟を決めたように、大川を見据えた。

 

(ただ見せるだけで良いんだよね。お兄ちゃんのお守りだって切られなかったし……)

 

 同じことをすれば良いんだ。

 燐はそう決意すると、バックパックに括りつけてあるお守りに手を伸ばした。

 

 聡とお揃いのお守りはトレッキングの時一緒に買った思い出のお守りだった。

 

 あれからも燐は外すことなくずっとつけたままにしておいた。

 

 いつの日か同じ場所に一緒に返しに行こうと思っていたから。

 

 燐は買った時から一度も外したことのない、大事なお守りを外そうと試みるも左側に何故か手ごたえがなかった。

 

 あれ? 燐は首を捻ると、お守りが括りつけてある肩ひもを確かめる。

 

「──無くなってる!!?」

 

 外した覚えがないのに、燐のお守りがなくなっていた。

 

 思わず聡の手にあるお守りを見てみるが、燐の持っていたものとは色が違っている。

 聡は青で燐のは赤のお守りだった。

 

 その赤色のお守りがなくなっていた。

 

 燐は信じ切れずにバックパックを下すと、どこかに紛れ込んでいないか、あちこち漁り始めた。

 

 外した覚えのないものが見つかるはずもなく、燐は途方にくれてしまう。

 

(やっぱりない……どこかに落とした?)

 

 木の床の上を見回しても何も落ちていない。

 紙屑一つ落ちていない床はとても綺麗で、何か落ちていればすぐに分かりそうだった。

 

 心当たりがないか、燐が思案に頭を巡らせていると。

 

「切符ヲ拝見シマス」

 

 会った時と全く同じことを大川が話していた。

 

 壊れたラジオのように同じことを繰り返す大川に、燐は焦りと混乱から頭が回らなくなって、つい本当のことを話してしまった。

 

「えっと、落としちゃったみたいなんです。切符、っていうかお守りを」

 

「ソウナンデスカ」

 

「あ、えっと。はい……」

 

 また同じことを言う大川に燐は呆れたように呟く。

 

 だがこれで話は通じたと思ったのか、燐はお守りを探すべくもといた車両に戻ろうとしたとき。

 

「ココニ落チテマシタヨ、ホラ」

 

 そう言って大川が床を指さしていた。

 

 白い指の先にあったのは、燐が探していたお守りではなくて、手ごろな大きさの手毬だった。

 

「これ、わたしの探し物じゃないです」

 

 燐は即座に否定した。

 

 あの人のものかもしれないと一瞬思ったが、そんなことより今はお守りの行方の方が大事だったから。

 

「デスガ、ココニチャント名前ガ書イテアリマスヨ」

 

 人影がなおも食い下がって言うので燐はにがにがしながらも渋々その手毬を拾い上げた。

 

 そこまで言う以上どこかに名前が書いてあるのだろうか。

 

 まざまざと毬を見つめる燐。

 どこにも名前など書いてない、でも……。

 

(これ、やっぱり良く似てる……)

 

 薄呆けた蛍光灯の下でその毬は一際輝きを放っていた。

 

 絹糸でくぐられた幾何学模様の毬はいつもオオモト様が持っていた毬と瓜二つにしか見えない。

 

 同じものがもう一つあるとは思わなかった。

 そこまで毬の種類を知っているわけではないけど。

 

(そういえば、お母さんが持ってきたあの毬。あれも同じような柄だった……あの後、どうしたんだっけ)

 

 燐は無くしたお守りや聡、大川のこと、そして蛍の事も忘れてぼうっと毬を眺めていた。

 確かに家にも同じものがあったはずなんだけど。

 

 ごとんごとんと燐の耳朶で音が流れていく。

 

 静かな夜。

 冷たい月と居るはずのない人達。

 

 わたしはなぜここにいるんだろう。

 

 もしかしたら既に列車は脱線していて、谷底の下で見ている最後の情景かもしれないし、ただの夢かもしれない。

 

 ──夢か現実か、なんて。

 

 そこは重要じゃないって言ってたけど。

 

(だったら、何が重要なんだろう……?)

 

「どうしたんだい、燐。ぼーっと立ってると危ないよ」

 

 聡は知らぬ間に座席に座り直していて、また四角い端末を弄っていた。

 

 燐は一瞬だけ目の前が白くなった気がしたが、何でもないことに気付くと、きょろきょろと辺りを見渡した。

 

 どこにもあの大川の姿はなかった。

 

「車掌さんは?」

 

 燐はあえて大川とは言わなかった。

 

「次の車両を見回ってくるって行ってしまったよ」

 

「あ、そう」

 

 燐は短く返事をすると、掌の中の毬を軽く撫でた。

 

(じゃあこれがわたしの切符だったんだ。だったらお守りは?)

 

 燐は首を傾げる。

 

 オオモト様が言っていた切符とはわたし自身のことだったはず。

 

 だとしたら。

 

「お兄ちゃん」

 

 燐は改めて聡に声を掛ける。

 

「うん? なんだい燐」

 

 聡はこちらを見ることなく答えた。

 

「わたし探し物があるんだ。だから行かなくちゃ」

 

「そうだね。でもそれは……」

 

「何も言わなくてもいいよ。大体わかったから」

 

 聡が言い終わる前に燐は言葉を被せると、内緒話をするように人差し指を小さく開いた口の前に当てた。

 

 子供っぽい仕草。

 

 でも視線は聡も知らない大人の眼差しをしていた。

 

「そうか……」

 

 聡はそれ以上は何も言わず代わりに小さく手を振った。

 

 それは多分別れの挨拶だったのかもしれない。

 

 だから燐も手を振った。

 大好きだった従兄と忘れるために。

 

 燐は聡の方を振り返ることなく、先頭車両の扉を開けた。

 

 もう後悔の念は無くなっていたから。

 

 …………

 ………

 ……

 

 金属製は金属製だった。

 

 冷たいノブをがっちりと掴むと、そのまま力を込めてスライドさせる。

 

 するすると音も立てず開くドア。

 思ってたよりも力を入れる必要がなかった。

 

 燐が一歩足を踏み入れる。

 

 そこは列車の車内というよりも暗い部屋の中のように見えた。

 他の車両とは違って、なんというか狭さを感じたから。

 

 暗くて良くわからないので照明のスイッチを探すべくペンライトを灯す。

 

 丸い明かりが照らし出すのは、古ぼけた畳と汚れた壁、そして煤で焼けたような真っ暗な天井。

 

 照明らしきものは見当たらない。

 

 さらに部屋の中はあの白い人影が放つ異臭とは違った感じの別の臭いがたちこめていた。

 

 なんというか形容しがたい臭い。

 

 燐は鼻をむずむずさせながら、壁に沿って歩く。

 暗くて良く分からないが、まだ奥がありそうだった。

 

 列車の中にいることすら忘れそうになる空間が広がっている。

 それでも前に進むしかない。

 

 きっとそこに大事な何かがあるような気がしていたから。

 

 探していた大事なものが。

 

「あっ!?」

 

 暗がりの中に明かりが灯る。

 ペンライトの明かりとは違った淡い、ロウソクのような明かり。

 

 その明かりのなかに人影があった。

 

 燐はつい声が出てしまったことを迂闊に思いながら、ペンライトの明かりを消すと暗がりに身を潜めた。

 

「……」

 

 だが人影はこちらに気付いていないのか、じっと立ったまま動こうとはしない。

 

 人影は手に何かを抱えているように見える。

 手の中のそれは毬のようにも見えた。

 

 燐は思いかけずバックパックにしまい込んだ毬の感触を、布越しに確かめてみる。

 丸い物体はカバンの奥で静かに眠っているようだった。

 

 人影が危害を加えてくるような感じはない。

 燐は直感でそう思った。

 

 それは先ほどの大川がそうであったように、”そういうことをする”理由がないんだろうと思っていた。

 

 白い人影たちは理由が欲しかったんだと思う。

 生きるだけの理由、生きがいが。

 

 それが見つかったからこそ危害を加えなくなったんだと思う。

 

(だからこの人影もきっと)

 

 燐はそっと人影に近づいていく。

 どの道、後戻りなどしようとは思わなかった。

 

 明かりが強くなるにつれてその人影の輪郭が分かるようになってくる。

 それは長い髪をもつ赤い着物の女性。

 

 白い人影ではなく、”ちゃんとした”人間の女性。

 

 その人は胸に赤ん坊を抱いていた。

 体には綺麗な柄のおくるみで巻かれていて、元気そうに目を空けていた。

 

 長く伸びた睫がとても綺麗だった。

 

 燐が傍まで近寄ろうとすると、その前に声が掛けられた。

 

「こっちへいらっしゃい」

 

 優しい声色に絆されたように燐はその人の傍まで近寄った。

 特に警戒心を抱くこともなく。

 

 女性は燐の方を見ることなく、胸に抱いた赤ん坊だけをじっと見ていた。

 燐も同じようにその顔を眺めた。

 

「可愛い赤ちゃん。まるで天使みたい……」

 

 自然と口から零れた素直な言葉。

 この子を例えるには相応しい言葉だと思っていたから。

 

「ええ、そうね」

 

 慈しむような綺麗な声で女性も同意する。

 だが、その黒の瞳は揺れているように燐には見えた。

 

「? どうかしたんですか」

 

 無垢な笑顔を向ける赤ちゃんに対して女性は少し顔を曇らせて微笑んでいた。

 その笑顔が永遠でないことを知っているかのように。

 

 燐はそれが気になり声を掛けたのだった。

 

「そうね……」

 

 女性は一呼吸置くと、慈しむように赤子の頭や頬を撫でまわす。

 

 大人しい子なのか、嫌がるような声も上げずに撫でられ続けていた。

 でも、楽しむような声も上げなかった。

 

「この子で終わりにしたいと思っているのよ。歪んでしまった町の流れを」

 

「………」

 

 燐にはこれが過去の事であると分かった。

 何年前かは分からないが、そんなに遠くない話だとは思う。

 

 蛍の家で見た残像のような、想いの欠片が見せているものか、それとも誰かの記憶か。

 

 思えばこの場所もあの座敷に似ている気がする。

 どこか秘密めいた作りも、鼻に付く据えた臭いも。

 

 だからこの人がオオモト様で間違いないと思った。

 

「これまで沢山の子が生まれ、そして消えてしまった。一片の名前さえ残さずにね」

 

「誰が悪いというわけではないの。でも、どこかに終わりにしなければならないわ。例えこの子が苦痛と不条理に合ったとしても」

 

 燐はなんと言葉を掛けていいか分からず、オオモト様の話をただ黙って聞いていた。

 きっとそれしか自分に出来ることはないと思ったから。

 

「でも、きっと同じことになるわ。そうきっと何も変わらない。もう歪みは限界まで来ている。それでも変わろうとはしないのよ誰も」

 

 オオモト様は憂いを込めるように小さく息をついた。

 それは諦めというよりもどこか達観した様子だった。

 

「この子のこと抱いてみなさいな。この子はきっと最後を一人で迎えることになる。だから今のうちに人の温もりを感じさせてあげたいの」

 

「……わたし、ですか?」

 

 燐は戸惑いながらも自分を指さした。 

 夢の中のなら自分は見えてなくても不思議ではないと思ったから。

 

 でもオオモト様は無言のまま小さく頷いた。

 

 オオモト様の許可を得たので、燐はその赤ん坊を腕の中で抱きとめる。

 綿菓子のような甘い香りと、温かさが燐の腕の中で小さく息づいていた。

 

 前に親戚の人に抱かせてもらったことを思いだしていた。

 その子は男の子だったけど、今わたしの腕の中に居るのは女の子だ。

 

 燐にはそれがすぐに分かった。

 

「良かったらこの子と遊んであげて。きっと寂しいはずだから」

 

「寂しいって、この子がですか?」

 

 燐は腕の中の幼子の顔を見る。

 

(寂しいとか言う以前に、その意味さえ分かってなさそうだけど……)

 

 その大きな瞳はまだ目がちゃんと見えていないのか、暗い空間に焦点を合わせているようにみえる。

 

 それでも何かが見えるのかもごもごと何か言いたそうに口を動かしていた。

 

「寂しいのはあなたよ」

 

 オオモト様は小さく首を振ると燐に向かって優しく頷いた。

 

「わ、たし……?」

 

「ええ、でもあなただけじゃないわ。みんな寂しいのを我慢しているだけ。でもあなたはとても優しすぎるから他の人よりもずっと寂しさを感じやすいの」

 

「……」

 

「でも、その子があなたの友達になってくれるはずよ。大丈夫、そんなに長い間じゃないわ。きっとこの子も多分、もたないと思うから」

 

 もたないって何に?

 

 燐がそう聞こうとした時、胸のあたりに違和感があった。

 何か虫のようなものに弄られているようなそんな、感じが。

 

 まさかと思いつつ、胸の間を覗き込んでみると。

 

「わわっ! な、なに?」

 

 腕の中で大人しくしていた赤ちゃんが燐の胸を触りだしていた。

 突然の事に燐はそれ以上言葉が作れなかった。

 

 小さな手が燐の中程度の胸の上を這いまわる。

 その動きはいやらしいというよりも、とてもくすぐったかった。

 

「ひゃあははははっ!! わ、わたし、お乳なんて出ないからっ。ふゃははははっ、だ、だから無理だってぇ!」

 

 燐がなだめすかせようとしてもくすぐったくて話が出来なかった。

 

 当然話にならないので、幼い少女は少し機嫌を悪くしたのか今度はかんしゃくを起こしたように燐の胸をバシバシと叩いてきた。

 

 小さくとも手加減のない子供の攻撃に、燐は思わず顔をしかめた。

 

(い、痛いっ! もう、全然大人しくないじゃない。これじゃ天使じゃなくて、小悪魔だよー)

 

「あはは、流石に痛いな~。わたしは出ないって言ってるのにー」

 

 それでも胸への攻撃を止めてくれない赤ちゃんに燐は困り果てて白旗を上げた。

 

「はあ、やっぱりわたしじゃダメみたいです。ごめんね、あなたのお母さんに代わるから。だからお乳はお母さんから貰ってね? すみません……お子さんお返しします、って……あれぇ!?」

 

 すぐ横に居たはずの黒髪の女性がまるで煙のように居なくなっていた。

 

 口を半開きに開けながらキツネにつままれたような顔で燐は立ち尽くした。

 腕の中の赤ん坊は燐の胸を玩具のように無邪気に叩いている。

 

 まさか──暗がりの中に溶け込んだ、とか?

 

 燐は赤子を片手で抱きかかえながらペンライトを周囲に向ける。

 丸い光に人影が映ることはなく、燐が入ってきたはずのドアもなくなっていた。

 

 赤ん坊と燐は暗い部屋の中に取り残されてしまった。

 

(こーゆーのって、”育児放棄”って言うんじゃないんだっけ……? わたしにどうしろっていうのよぉ)

 

 出口がなくなったことよりも赤ん坊を押し付けられたことのほうがショックだった。

 

 途方に暮れた燐を見て腕の中の子は何がおかしいのか、けらけらと笑っていた。

 小さな瞳を宝石のように輝かせながら。

 

「ねぇ、()()()()どこかへ行っちゃったよ。寂しくないの?」 

 

 燐はまだ言葉も分からない少女に話しかける。

 幼い少女は当然意味が分かっておらず、無邪気な笑みを浮かべたままこちらを見てきゃっきゃと笑っていた。

 

 その無垢な微笑みは燐を癒すどころか、余計に疲れさせた。

 

 結局ここに何しにきたのだろうか。

 

 親友を探しに来ただけなのにとんだことに巻き込まれてしまった。

 

 そんなの、あの三日間の時に散々味わったのに。

 まだこんな非日常な事柄に巻き込まれている。

 

「わたし、巻き込まれ体質なのかな……もう二度と起こるはずないって思ってたのに」

 

 色んなものを呼んでしまうって”小さい姿のオオモト様”に言われたけど……。

 

 そんなの自分ではよく分からない、分かりたいとも思わなかった。

 

 はあ……。

 

 なんかため息ばかりついてる気がする。

 ため息の数だけ幸せは逃げるってよく言ってるけど。

 

「わたしの幸せなんてもう全部なくなってマイナスなんだろうな……」

 

 吐き出した言葉は赤ん坊の上を通り過ぎて暗い空間に弾けて消えた。

 

 その答えを出すものなどここには居なかった。

 

 いつしか赤ちゃんが大人しくなっていることに気が付いて、燐が顔を覗き込むと遊び疲れたのか小さな寝息を立てていた。

 

 その寝顔があまりにも安らかで、そしてよく知ってる寝顔と二重(ダブ)って見えた。

 

 燐は顔をほころばせる。

 きっと彼女が小さかったころもこんな感じだったろう。

 

 そのせいか少し悪戯したくなってきた。

 

 ぷにぷに。

 

 シャボン玉のような小さな頬っぺたを小指で軽くつついてみる。

 

 ぷにっとする感触が指にとても心地よかった。

 

 燐は起こさない様に含み笑いをすると、小さな頬っぺたを何度もつついた。

 

 赤ちゃんは嫌がる様子も見せず笑っていた。

 楽しい夢でも見ているのかもしれない、時折小さな指を物欲しそうに動かしている。

 

 その無垢な仕草に母性本能がくすぐられたのか、燐はまだ生えそろってない少女の髪を軽く撫でると小さな額にそっと口を付けた。

 

 宗教的なものなど知らないし、特にこれと理由はなかったがなんとなくそうしたくなってしてしまった。

 

 自分の大胆な行動を誤魔化すように燐は髪を優しく梳いてあげた。

 

 それが気持ち良いのか、小さな手を開いたり閉じたりして喜びを表していた。

 

(なんか、犬のしっぽみたい)

 

 燐はどこかで聞いた子守歌を唄いながら、幼い少女の柔らかい髪を何度も撫でてあげた。

 

 そこには新鮮さと懐かしさが同居して、何とも言えず恍惚だった。 

 

 ──確かに自分は寂しいんだと思う。

 

 慕っていた従兄も、父も母もみんな変わってしまった。

 

 変わっていないのはわたしだけ。

 

 引っ搔き傷でいっぱいになっても変わることが出来なかった。

 

 そもそも人は変わるなんて思ってはいないのだけど。

 

 でも他の人はちゃんと出来ている。

 わたしだけがあの時のままだ。

 

 安らかな寝息を立てる少女をそっと見下ろす。

 

 小さな体に自分の大きな影が落ち込んで、なんだかいけないことをしている気持ちになった。

 

(わたしはあなたに寂しさをぶつけてもいいのかな? 拒絶したりしない? ねぇ……蛍ちゃん)

 

 一目見た時からすぐに分かった、この少女が蛍であることを。

 

 絶対的な確信があったわけではない、ただそれが分かっていた。

 

 オオモト様が蛍の母なのかどうかはやっぱりまだ分からない。

 

(だって一度も蛍ちゃんを名前で呼ばなかったしね)

 

 この出会いが本当のものかは分からない。

 

 でも、こうして見ることができたのは良かったと思っている。

 

 無防備に眠る小さな生命。

 

 無垢で穢れをしらない少女。

 罪の意味さえもしらない少女。

 

(もし、わたしに罪があるんだとしたら、それはきっと蛍ちゃんと出会ったことだね。わたしが蛍ちゃんを困らせるきっかけになっちゃったんだね)

 

 切り替えるスイッチがあるって言ってたけど。

 もしかしたらわたしのスイッチは最初から押してあったのかもしれない。

 

 それをただ戻しただけで特別な意味なんてなかったのかもしれない。

 

 わたしか蛍ちゃん。

 

 どっちが居なくなっても良かったんだ。

 

 ただわたしの方がちょっと臆病だっただけ。

 

 その先の線路の先に何も見いだせなかったから。

 

 だから諦めただけ。

 

 ──じゃあ、今のわたしは?

 

 わたしが今ここに居るのは?

 

「わたしは……って、んんんーっ!!??」

 

 一瞬の浮遊感の後、どこかに落下した。

 

 何が起こったのかまったくわからず、燐は手をバタバタとしてもがき続ける。

 

 水の中にいるような感覚があるが、何も見えない。

 

 冷たい感覚が背筋を撫で上げる。

 

 暗い海の底に落ちてしまったような絶望感が燐を包み込んだ。

 

(何これ!? どうなってるの? ここって海? それとも川?)

 

 暗くて良く分からないが流れで体が引っ張られている感じはない。

 海か池か、どちらにせよ危機的状況に変わりはない。

 

 パニックになりそうな頭の中で燐は今の状況をひとつづつ確認する。

 

 燐が水の中で腕を組んだとき、手の中の小さな子がいないことに気付いた。

 

(嘘、居ないっ! どこかへ落としちゃった!?」

 

 燐は暗い水の中を探し回る。

 

 何も見えず、音さえも聞こえない。

 

 上も下も分からない純粋な闇。

 その奥に沈んでしまったんだろうか。

 

 深い深い闇の底に。

 

 燐は水を飲んでしまうことも構わずに叫び続ける。

 

「蛍ちゃーーん!」

 

 黒い水の中は音を通さない。

 

 それでも燐は叫んだ。

 自分の息が続く限り。

 

 肺の中に水が入り込んでもその人の名を呼び続ける。

 もうそれしか残っていなかったから。

 

 他に欲しいものなんて何もなかったから燐は叫んだ。

 

「蛍ちゃんっ!!!」

 

 声が出た。

 間違いなく自分の声だ。

 

 そして、かたたん、かたたん、と小さく鳴る列車の音も聞こえる。

 

 そして目の前には。

 

「あ、うん……」

 

 驚いた眼でこちらを見る蛍がいた。

 

 とても……気まずかった。

 

 ────

 ────

 ────

 

 

「燐ってば、すごく恥ずかしかったんだからね」

 

「にははは……ごめん~」

 

 すっかり人気のなくなった列車内で燐と蛍は同じようなやり取りを何度も続けていた。

 

 二人のいる車両には蛍と燐以外の乗客は見当たらなく、終点の小平口駅までは降りることはあっても、乗る人は誰も居ない。

 

 終電の静かな車内では燐と蛍の声以外は車内アナウンスだけだった。

 

 燐が夢から覚めたのはいつも使うローカル線が半分ほど通過した程度の距離でのことで、まだまだ先は長かった。

 

 蛍が珍しく燐よりも先に目覚めたので、うなされたように苦しそうにしている燐を心配して顔を覗き込んだとき、タイミングよく目を覚ましたらしかった。

 

 その時の燐の声があまりにも大きくて、蛍がビックリすると共に乗客から一時注目の的になってしまった。

 

 その事で何度も謝っているのだが蛍はなかなか許してくれなかった。

 

「ほんとごめん~。なんか変な夢をみちゃってさぁ。無意識でのことだからいい加減許してよぉ~」

 

 手をついて何度も謝る燐。

 あんな変な夢を見たのは疲れているせいだと思っていた。

 

(しかもよりにもよって蛍ちゃんの名前を叫んで起きちゃうなんて。べたなマンガみたいで恥ずかしいよぉ……)

 

 思い出しただけで顔から火が出そうになる。

 額には暖房のせいとは違った汗がじっとりと湧いていた。

 

「じゃあ、夢の事を話したら許してあげる。あんなにうなされてたんだもん。どんな夢か気になるじゃない」

 

 蛍は嬉しそうに好奇心を秘めた目で燐を見る。

 そのことで蛍がもう怒っていないことは明白だった。

 

「うーん、夢の内容かぁ。それは恥ずかしいなあ」

 

「わたしだって恥ずかしかったんだから」

 

 蛍は顔を赤くして抗議する。

 それもそのはずで。

 

(わたしの名前を呼んだんだから、やっぱり気になるよ)

 

 蛍としては知る権利があった。

 

「うぅーん……言えないわけじゃないんだけどぉ……あ、そうだ! せっかくなら別のことにしない? なにか埋め合わせするから」

 

「えー、またそれ? 燐、往生際が悪いよ」

 

 蛍の意見はもっともだった。

 

「だってさあ、夢の内容って人に話すと良くないっていうじゃない? だからさ、ね蛍ちゃん。別のことならなんでもするからー」

 

「本当に何でもいいの燐」

 

「え? う、うん……」

 

 蛍が真っ直ぐにこちらを見て言うので、燐は少し後悔し始めていた。

 

(なんでもは、言い過ぎだったかなぁ。変なこと頼まなければいいけど)

 

 委縮したように縮こまる燐に、蛍は思わず吹き出してしまった。

 

「燐。変なこと考えてたんでしょ?」

 

「だってぇ……蛍ちゃん真剣な目をしてるんだもん」

 

「ごめん。ちょっと燐を困らせたかっただけだから」

 

「もー」

 

「あははは……」

 

 二人は顔を見合わせて笑いあった。

 

 車窓から覗き込んだ白い月が二人を照らす。

 

 北からの冷たい風が古ぼけた車両の不安げに揺らしても、二人の話はとめどなく流れていた。

 

 まるで専用の貸し切り列車のように厳かで温かかった。

 

 月も星空も、流れる景色も、全ては二人の為にあるかのように。

 

 二人で居る意味。

 

 そこに理由なんてものはなく、ただ流れ続ける景色のように自然だった。

 

 深夜のローカル線は終点までまた間があった。

 

 燐はバックパックから棒状のお菓子を取り出して、蛍と一緒に食べ始める。

 これでも特別な夜だったから。

 

 だから少しだけ違ったことをしてみたくなった。

 

 

 バックパックに付けたお守りが音もなく揺れていた。

 それに気づいた蛍が燐にそっと囁く。

 

 見つかって良かったね、と。

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 







 ☆☆☆ 青い空のカミュ。発売二周年おめでとうございますー!!! ★★★


Kai-SOFT様。クリエイターの〆鯖コハダ先生には改めてお礼を言いたいと思います。

素晴らしい作品を世に送り出していただいてありがとうございました!!

貴社の発展並びに、クリエイター様のご活躍をお祈り申し上げます。


ですが、去年と同じくまたも一日遅れになってしまいました……申し訳ありません!!

うむぅぅ、間に合うかと思ったんですけどねぇ……計画性の無さはこのまま一生治らないんでしょうか……。

でも来年の三周年の時はこそは必ず!!!
ですがその時も何か書いてるのかな? 今のところは何の予定はないんですけどねー。


さてさて、2019年3月29日で発売から丸2年ですよー。本当に早いものですねー。当時はまさか一つの美少女ゲームにここまで入れ込む……いや! 推すとは思わなかったのですよーー!!

でも、それだけ思い入れのある作品だったということなんでしょうね。そうでなければこうやってネット上で小説書くこともなんかしなかったですし。
一周年の時も書いてた気がしますけど、自分がこうなるとは今だに信じられないなー。無為と怠惰の狭間でだらだら過ごしてきましたダメ人間ですからねー。でも本質は何も変わってないんですけどもーー。

しかもまだ小説を書いているとはねぇ……っていうか今回の作品、いちおう一周年記念作品の2弾目だった気がするんですが……それがまさか二周年までずれ混んでしまうとはーーーやはり計画性がないというか先送り主義すぎるぞぉぉぉーーー。

とにかく、青い空のカミュ。二周年を無事に迎えることが出来て良かったですーーー。
三周年も何らかの形でお祝い出来るといいなぁー。


■ ゆるキャン△ 2ndseason まさかの13話構成だった(今頃知った)

第11話。

・セーブポイントと灯台の件がないぐらいで概ね原作通りの流れでしたねー。”ゾンビぐらし!”どういう表現にするのかとちょっと楽しみにしてたんですが、割と無難な表現で少し残念だったり。

第12話。

・最終話……じゃなかった! 伊豆キャン編は長いですからねー。
で、ここで綾ちゃんが再登場するとは流石に思わなかった。この分だと最終話でもある13話
にも出番がありそうですねぇ。
駐車場と富士山ナンバーの事ネタがなくなってるので、車関係のエピソードが省かれてる感じ? 水どうネタは流石に出してきましたがw

それにしてもトンボロは原作アニメ共にみんな普通にじゃぶじゃぶ渡ってますねえ。私はリアルで行ったことがないんですが、3月の伊豆の海は意外と暖かいのかな? サンタじゃなくてレタスになってましたねー。あかりちゃんはググらない超良い子と言うことで。

最近はちょっと分からないことがあるとすぐスマホに語り掛けてしまいますよー。音声検索は人をダメにする悪しき機能ということで。でも使ってまうよーー。便利過ぎるんやもん。


■そういえば先日、また埼玉県の飯能市に行きまして、ついに3度目の正直で天覧山登頂を果たしてきましたよーー!! 中段までがきつかったから山頂まではもっときついのかと思ったけど思ってたほど大したことなくて良かったわぁー(精一杯の強がり)

でも、山頂までのルートどうしようかと迷ったあげく、アニメでもあった観音側のルートにしてしまったんですよね……なんかごつごつした岩がある崖でした。思いがけずきついルートを選んでしまった……。

土曜日だったせいか、かなりの人出が居ましたねえ。中央公園の桜も満開でしたし。暖かかったし。
もちろん山頂も人いっぱいでした。でもあんなに狭いとは思わなかった。そういえばカメラの三脚立ててる人もいましたねー。なんにしても登れてよかったーー!!

帰りに天覧山登山口付近にできた複合施設”OH!!!”とか言う所でアイス食べて帰りましたよー。甘酒ソフトうまー。

で、ヤマノススメと言えば、ついにアニメ4期をやるみたいですねー。遅まきながら去年の夏頃に今更ながらハマったんですけど、いい時期にハマったとも言えますねー。放送は早くても来年かな? 今から楽しみです。

今、飯能は結構注目されてますからねー。ムーミンバレーパークも出来ましたし、野外サウナを楽しめる施設でもありますし、そして天覧山登山口の複合施設OH!!!
新しいスポットもアニメ4期で出そうですかねぇ。ムーミンはちょっと難しいかなぁ版権ものだし。

実は去年初めて天覧山に行ったときにちょうどその天覧山前の複合施設が完成してまだ一週間の時だったんですよー。だから初めて見た時、あれ?何か原作ともアニメとも違うぞ!? と混乱したのを覚えてますよー。

ちなみにムーミンバレーパークは二度目の飯能に行ったときに訪れてみたんですよー。とは言っても、この日はちょうどイルミネーションをする前日だったみたいで入り口から覗くぐらいしかしませんでしたけどね。

なので、隣にある温泉施設で一風呂浴びてきたわけです。そのときは露天風呂からイルミネーションがちょっびっと見えたぐらいでした。

ちなみに二度目の天覧山は午後五時に着いたのですがすでに真っ暗でどうしようかと思ったんですが、結局携帯のライトを使って登ってみましたよー。

で、なんとか中段には着いたのですが……当然誰も居ないですし、しばらく待っても登る人も降りる人も居ないしで、この時も結局中段で下山しましたよぉーーー。

なんというか期せずしてナイトハイクになったんですが、天覧山程度の低山でも想像以上に恐ろしかったですねー。素人の夜登山、ダメ絶対!!

四期公式発表のあおいとひなたの間にいるのは山岳部の部長ですよねぇ多分。
アニメでかえでがポンコツキャラになったのは、部長がアニメに出ないせいかと思ってたんですけど、やっぱり出しちゃうんですねぇ。
ヤマノススメはアニメと原作で大分印象が変わりますから、その辺りの兼ね合いがどうなるか……続報が楽しみです。


ではではでははーー。




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A Sky Full of Stars


「うーん……」

 本格的な冬の到来を告げる風が山間の木々をざわざわと揺らしていた。
 
 昼間とは違った季節らしい寒さが黒くなった木々や家屋をかたかたと震わせていた。

 四両編成の小さな鉄道はもともと少なかった乗客をさらに減らしており、残っている人よりも空席のほうが多くなっていた。

 型遅れの古ぼけた車両に今だ縛りつけられているのはくたびれた乗客か、運転手だけだった。

 そんな中、ひときわ明るい制服姿の少女たちは咎めるものが居ないことをいいことに、見通しの良くなった車内でお菓子を食べたりおしゃべりしたりと割と好き勝手なことをして、帰路を満喫していた。

 だが、代わり映えない景色の中では、それすらも退屈になってしまうのか、いつしか無言のまま肩を寄せ合って座っているだけになった。

 栗色の髪の少女は、ぼんやりとした瞳でスマホを眺めながら髪をクルクルと回していた。

 これは隣にいる親友が良くやる癖だったのだが、いつしかこの少女にも伝播してしまっている。

 列車の天井から注ぐ明かりが少女の髪を黄金の色相(ペールゴールド)に彩る。
 
 ミルクティーの様な濃淡さを差し込んだ髪を軽く梳いて、小さく耳にかけると、悩ましい唸り声をまたあげていた。

「どうしたの燐?」

 難しそうな顔で唸っている親友に蛍が声をかける。

「なんかさ、わたしが寝てる間にメッセがいっぱい来ててさぁ。どうしたもんかなと思って」

「あ、本当だ。いっぱいだね」

 蛍もスマホの画面を覗き込む。

 たわいのない内容のメッセージや可愛らしいキャラクターのスタンプやらが分刻み、秒刻みで並んで情報の渋滞を起こしていた。

 ホッケー部員からが半分ほど占めていて、後はクラスメイトからだった。

 ホッケー部の連中からはほぼ全員分が来ているようで、イヴので過ごし方や、今食べているものの事、これからカラオケで歌う曲など、かなりどうでもいい一方通行的なものばかりが身勝手に送られている。

「あ、そうだ。優香に連絡するんだった」

 思い出したように呟くと、ぽちぽちとスマホを入力し始めた。
 スタンプで済みそうなことも、ちゃんとした”言葉”を紡いでテンポよく入力を進める。

 燐の両手を使ってのフリック入力は女子の間でダントツに早かった。

 蛍が燐のそれを初めて見た時はあまりの速さに目を丸くしてしまうほどだった。

 他の女子も蛍と同じように口を開けたまま見とれてしまうほどだったから、余程の速さなのだろう。

 快活でありながらちょっと危なっかしく見えるところもある燐だが、ここぞの集中力には別人かと思うほどで、普段とは見間違うほどのギャップがあった。

 だからこそ学校や部活でいい成績を残しているし友人も多いわけなんだけど。

 蛍だったら返信を考えるだけで小一時間ほどかかってしまうのに、燐は僅かな時間の間に数十人にメッセージを送り返すことが出来る。
 
 人間としての能力の違いだろうが、それでも嫌味な感じはまったく見せないので、燐を悪く言う人は殆どいなかった。

(結局、マメな人が一番モテるって言うよね……)

 蛍はそんなことを考えながら、一心不乱に入力する燐を尊敬の念で見つめる。

 蛍だって燐以外の友達とSNS上でやり取りすることぐらいあるが、頻度はそこまで多くなく、続いたとしても精々2、3回程度で”知り合い”レベルから脱出することはない。
 
 中には蛍が何もしていないのに知らぬ間にブロックされていることもあった。

 返信が多くても鬱陶しがられるが、放置しすぎは張り合いがないと言う事だろうか。
 ネットでも現実でも距離感がつかめなかった。

 ただ、蛍と合う友達は燐だけということだけは分かった。

(まあ、それは願ったり叶ったりなんだけど)

 蛍が夏休み前に入った友達グループは、二学期を迎えるとともに自然消滅していた。

 もう少し色々と気を遣うべきだったのかもしれないが、友達との距離感が分からない蛍にはどうしようもない問題だった。

(燐との距離なら分かるんだけどなぁ……)

 スマホ見ながら微笑んだり、困った顔をしたりと忙しい燐の横顔を見つめる。

 友達が沢山いる燐だったが、蛍はそれを羨ましいと思うよりも、大変だなぁと思ってしまう。

 少数の友達でも上手くいかないのに、あれだけの友達と繋がりを続けるなんて自分には到底無理だと思うから。

(でも、それじゃダメなんだよね。燐だって……だからあの時も)

 何事も一生懸命で誰にでも優しい燐。

 そのせいで傷だらけになり、挙句あんなことになってしまった。

 絶対と思っていたものが絶対ではなくなった瞬間。

 ──燐の心が砕けた時、わたしの心も砕けてしまった。

 それは二度と思い出したくないほどの苦痛を植え付けた。
 わたしにも、燐にも。

 だからこそ燐を守ってあげたい、救ってあげたい、あの時だってそう思っていた。

 でも、わたしじゃ役不足だった。

 わたしは燐の気持ちだけでなく、燐自身を絶対視している。

 その想いは今も変わらない、重いとは思っているけど、それ以外のやりかたを知らないから。

 だから燐と話をしたい。
 いつもの他愛無い会話ではなく、ちゃんとした”これから”の話を。

 じゃないときっと後悔する。

 もうあんな想いはしたくないし、させたくないから。

「あっ、お母さんからも来てる……んー、なになに……はぁ、やっぱり心配性なのかぁ」

 それまで黙って入力していた燐が急に鬱陶しそうな声を上げたので、蛍はこわばった考えを打ち切って、また燐のスマホを覗き込んだ。

「ええっと……”いつまでも夜遊びしてないで早く帰ってきなさい”だって。燐も立派な不良だね」

 燐の母からの”親心”ともとれるメッセージに蛍は微笑ましい気分になった。

 燐としては鬱陶しく思えるだろうが、心配してくれる人がいるのは良いことだと思う。
 母親との関係の良さを思わせるメッセージに、蛍は少し羨ましくなった。

「もー、それだったらわたしと一緒に居る蛍ちゃんだって不良だってことだよー」

 燐は口を尖らせて反論する。

「まあ、そういうことだね」

 不良扱いされても不服そうな顔はみせず、楽しそうに笑う蛍。
 このやり取りすらも微笑ましいのか、屈託のない笑みを見せている。

「それにさ、夜遊びって言ってもそこまで遅くないよねぇ。ただ家に着くまでの時間が掛かるってだけでさ」

「小平口駅って、燐の前の最寄り駅から更に一時間以上も掛かかるからね。さすがに遠いと思うよ」

「まあねー、しかもずっと電車に揺られっぱなしだしさ。なんかこう、時間が勿体ない気になっちゃうよ。蛍ちゃんはほぼ毎日これだったわけでしょ? よく我慢できるねぇ」

 少し同情するように燐が呟く。
 それを見た蛍はまたくすっと笑った。

「けどわたし、電車に揺られながら本読むの結構好きだから。それほどでもないんだ。まあ……卒業までの辛抱だよ、燐」

「卒業かぁ……まだ大分先の話だよね……あーあ、こんなことだったら学校から近い場所で出店してくれれば良かったのにぃ」

 ありえない願望を口にしながら、母への返信に言葉ではなくスタンプで返す。

 最近の燐のお気に入りの黒猫のスタンプは蛍だけでなく、他の友達への返信にもたびたび使われていた。

 黒猫のスタンプには数種類あるが、今回はその中でも”鋭意努力しています”の文字が付いているスタンプを選んだ。

 肝心の黒猫は丸まって目を閉じてるため絵柄と文字がまるであっていないが、愛嬌のある絵柄のため、送られてもそこまで嫌な感じはしない。

 特に、”こういう場”には適材適所だと言えた。

「んー、大体終わったぁ~」

 スマホの作業を粗方やり終えたのか、燐は両手を首の後ろに回すと、くたびれたようにぽすっと背もたれに身体を預けた。

 それを見た蛍も燐と同じように背もたれ……ではなく、燐の肩に寄りかかると傾げるようにちょこんと首を乗せた。

 蛍がぴったりとくっついてきた箇所がぽかぽかと暖かかい。
 列車の暖房とは違った、ほんのりとした蛍が持っている心の暖かさ。

 それに触れた気がしたので燐は小さく微笑んだ。

 眠るでもなくただ瞳を閉じている蛍から視線を戻すと、窓の外の暗闇に目を向ける。

 流れる景色には街灯はおろか、生活の光さえも見えなくするほどの速さで進んでいる。

 月は星が良く見えるように気を使っているのか、雲を照らしながら後ろで様子を窺っていた。

 冬の星々が良く見える頃になるとそれに比例して外気は下がり、結露が黒いガラスを白く吹き付ける。

 燐はおもむろに白く濁ったガラスに人差し指で何かを描いてみた。

 何か意味ありそうなものを途中まで書いていたのだが、イマイチだったのか慌てて掌で擦り消した。

 銀色の額縁には元の透明なガラスが黒の景色をとうとうと流していた。

「何書いてたの燐?」

 燐の動きを目で追っていた蛍が興味深そうに尋ねる。

「んー、なんかてきとーに書いてただけだよ」

「ふーん」

 蛍はそれ以上聞くことはせずに、燐の肩を楽しむことに戻った。

 気のない返事に悪戯心がくすぐられたのか、燐は思ってもいないことを口にする。

「もしかして、相合い傘でも書いてるかと思ったんでしょ?」

 自分から告白したので、蛍はびっくりして目を見開く。

「誰と誰の?」

「わたしと……蛍ちゃん」

 燐があまりにもあっけらかんと言うので、蛍は小さくため息をつくと、燐の頭に自分の頭をこつんとぶつけた。

「嘘つき。燐ってたまに空気読まないよね」

 からかいすぎたようで、子供のような蛍の態度に燐は目を丸くする。
 そして困ったように苦笑いすると、蛍の綺麗な黒髪にそっと鼻を寄せた。

 可憐な金盞花の香りを嗅いだ気がした。

 …………
 …………
 …………

 程なくして車内に沈黙が宿る。

 規則的な音だけが唯一の音を単調に奏でていた。

 静かな空間で二人で居ると、あの時のことを否応なしに思い出してしまう。
 青と白で彩られたあの不思議な空間のことを。

 あの世界に夜はなかったが、もしあったとしたらきっと星が綺麗に見えるだろうと蛍は思っていた。

 水溜まりのような泉も、あの白い駅舎も青いドアの家も、真空のような空に浮かぶ星の光を受けてきっときらきらと輝くだろうと、そう思っていた。

(きらきらかぁ……)

 蛍はふと頭の中で沸いた疑問を隣の燐に投げかけてみた。

「ねぇ、燐。燐の家も、やっぱりイルミネーションやるの?」

 一応パン屋さんだしと、もっともらしい理由も添えて。

「実はね……恥ずかしいから帰ってくるまでやらないでってお母さんに言ってあるんだよね」

 新しいメッセージが来てたのか、燐はまたスマホを覗き込んでいた。

「じゃあやるのは明日以降かな」

「うん……多分ね。でも、もう多分やってるんじゃないかと思うよ……お母さん、あんな顔してるのにすごくやりたがってたみたいだし」

 顔はともかく、母が早くからイルミネーションの準備していたことは知っていた。

 それもLEDライトやクリスマス用のオブジェの準備だけでなく、見栄えよく飾り付けるための図面まで引くほどの本格ぶりだったので燐は面喰ってしまった。

 クリスマスなんてなんの意味があるのか分からない。
 と、言ってもおかしくない母がここまでイルミネーションにこだわるのは何なのだろうか。

 電気代だってバカにならないのに。

(本当は前のマンションの頃から大々的にやりたかったのかもね。賃貸だったから思い切ったのが出来なかったけど)

 結局その事を母に聞けないまま学校に行ってしまったけど。

「もしも、もうやってたらサプライズだよね。あの町ってみんなイルミネーションやらないから、燐の家を見るのが楽しみだよ」

 蛍は本当に楽しみなのか目を輝かせて言った。

「あはは……あんまり期待しないほうがいいよ」

 そんなに大規模なものを作らないで欲しい、燐は少し遠く離れた母にそう願った。

「どうしたの燐? お腹でも痛いの?」

 燐が腕を組んで固まったので、蛍は燐の体調を慮った。

「もう、そうじゃなくてぇ。ん、まあ……家に帰ってからでいいか」

 燐は真意ありげに、二回ほどうんうんと頷いた。
 何のことか分からず蛍は小首を傾げる。

「そういえば、蛍ちゃんは家でクリスマスの飾り付けしたことある? 確か去年行ったときはやってなかったよね」

 燐は去年イブではなく、クリスマス当日に蛍の家に遊びに行った時を思い出す。

 その時を様子を思い浮かべても、クリスマスらしきものはイチゴの乗ったケーキと、申し訳程度のリースだけだった気がする。

 流石に家でクリスマスやらないのとは聞けなかったのだけど。

「やったとしても、わたしの家には似合わないよきっと。それにクリスマスに特別何かしたことって殆どないんだよね。毎年気を遣って吉村さんがケーキ用意してくれるぐらいで」

「え? じゃあ、去年がわたしが行ったときって……」

「そう。あれが初めてのわたしのクリスマスなんだよ」

 とてもクリスマスとは呼べないものが蛍のクリスマスだったなんて。
 燐はなんだか申し訳ない気持ちになってしまった。

 流石に高校生ともなるとクリスマスに特別ものは感じない。
 むしろ普通になってしまった。

 そんな”普通”の事すら蛍には特別な事だったんだ。

 そんなこと蛍は一言も言わなかったけど。


 ──今日はすごく楽しかった。

 あの時、帰り際に蛍が言った言葉。
 わざわざ小平口駅まで見送ってくれた笑顔の蛍が印象的だったので覚えていた。

 何気ない言葉なのだが、妙に気になっていた。
 それほどの想いがあるとは思わなかったけれど。

 今まで見たことのない満面の笑みに感じた違和感は、そういうことだとは思わなかった。
 そんな一般的な楽しみすら蛍は知らなかったのだ。

 それなのに、わたしは──。

「燐。ちょっと顔色悪いよ。もう少し寝てたほうがいいんじゃない。まだ終点まで時間もあるし」

 心配そうに顔を覗き込む蛍。

 それはあの時と少しも変わらない透明な瞳のまま、一点の染みすらもなかった。

「大丈夫だよ蛍ちゃん。ちょっと蛍ちゃんに見とれてただけだから」

 燐は両手を振って慌てて笑顔を作った。
 胸中の想いを蛍に悟られないように。

「燐って結構人たらしだよね。誰にでもそう言ってるんでしょ」

「そんなことないよっ、蛍ちゃんだけだよ」

「また嘘ついてる。そういうのって目を見れば分かるっていうよね」

 そう言った蛍は燐の瞳を真正面に見つめた。

 まだ何も言ってないのにと少し呆れ顔の燐だったが、蛍が真剣に見てくるので、同じように蛍の瞳を見つめ返す。

「じーーー」

 わざとらしく口で言う燐に対して、蛍は真剣のそのものの目を向けたまま。
 蛍の心の内を読み取るような一途さに燐は少し気後れしそうになった。

 がたがたっ。

 何かが引っ掛かったように列車が大きく揺れる。
 二人は無意識に抱き合って、未知の恐怖から身を守った。

 何ごともなかったのか列車はそのまま走行を続けていた。

 特にアナウンスも何もない。
 古い路線では時たまこういうことが起こるものらしい。

 先ほどまでの微妙な空気がどこかに行ってしまって、燐と蛍はお互いに顔を見合わせると、小さく苦笑いを浮かべた。

 終点まではまだ数駅ほどはあった。

 …………
 ………
 ……

「あのさ、燐はさ……」

 蛍はもじもじと俯きながら呟く。

「うん」

 燐は片手間でスマホを弄るのを止めて蛍の声に聞き入った。
 なんとなく、大事な話のような気がしたから。

「その、どんな感じだったかなって」

「うん? ”どんな感じ”って」

 蛍の言っている意味が分からず、オウム返しのように聞き返す。

 ニュアンスではそれとなく分かる、でも思い違いの可能性もあったから。
 
(きっと、わたしの”行先”の事だろうなあ、蛍ちゃんが聞きたいことって)

 はぐらかしてばっかりだとわたしも蛍ちゃんも傷ついてしまう。
 もうお互いに十分すぎるほどに傷だらけなのに。

 それでもまだ答えが出せないのは余裕がないのか、あるいは今、余裕があるせいなのか。

 どちらにしてもこれ以上黙っていることは出来そうにない、そんな予感めいたものを感じていた。

 がたんごとん。

 先ほどの揺れをものともせず、列車は規則的な音を奏でる。
 整然とした音が二人の間にある微かな緊張感を緩和させていた。

 蛍と燐は同じ制服の他人のようなよそよそしさで、前だけを見て座っていた。
 どちらかが話だすのを待ちわびるかのように。

「……その、消えちゃったあとさ……」

 先に言葉を出したのは蛍だった。

 うかがうように言葉を選びながら口を開く。
 緊張しているのか、小さな手をぎゅっと膝の上で握りしめながら。

「………」

 燐は、思いを噛みしめるように黙っていた。

 決して意味が分からなかったというわけではなく答え方、伝え方を模索していた。

 過去の事だから考えるだけのものはないはずだが、少し言い方を考える必要はあった。

 嘘をつくつもりは無いが、悲観的にとられても困ってしまうから。

 ともあれ話さなければならないことであった。

 なので燐はとりあえず笑ってみた。
 場の空気を少しでも和ませるように努力して。

「あはは」

 燐は自嘲気味に乾いた笑みを浮かべると、誤魔化すように鼻歌を歌いながら言葉の先頭を探す。

 始めが肝心だった。

 だが、適切な言葉が浮かばなかったのでとりあえず笑ってみたが、そこから先が続かない。

 燐は言葉を紡ぐより先に、ずっと膝の上で小刻みに震えている蛍の手に自分の手を重ね合わせる。
 
 蛍が俯いた瞳を上げた時、燐はもう一度微笑んだ。

 今度はそこまで努力する必要はなかった。

 そして話し出す。

 誰に聞かれても到底理解しえない話だったが、蛍にだけ話したいことだったから。

 周りに人はいないけど、燐は密やかに蛍の耳元で話した。





「昔々在るところに、山間に囲まれた小さな村がありました」

 

「うんうん」

 

「その頃、村は干ばつが酷くせっかく作った作物が育たなくて貧困に苦しんでいました。そこに一人の少女が通りかかりました」

 

「うんうん」

 

「……むー、その少女が村に訪れてからというものの、次々と村に幸運な事が起こりだし、それは少女が神の使いに違いないと、それはそれは村人たちに感謝されました」

 

「へぇ、凄いね」

 

「…………」

 

「……? どうしたの燐。話の続きは?」

 

 急に黙ってしまった燐に蛍が不思議そうな顔を向ける。

 

「……もう、蛍ちゃん早く突っ込んでよぉ。このままだと創作した昔話を延々と語っちゃいそうになっちゃうからっ」

 

「ああ、そういうこと。燐が真剣な顔で話すから、わたしすっかり信用しちゃったよ」

 

 やっと腑に落ちたように両手をパンと叩く蛍。

 急に燐が昔話を語りだしたから何事かと思ったけれど。

 

「でも、その昔話どこかで聞いたことがあるような気がするなあ……どこだったっけ?」

 

 額に指をあてて暢気な考えに浸る蛍に、燐は疲れたようなため息をもらした。

 

(どこまで本気だったのかなぁ……まぁいいけど)

 

「……蛍ちゃんが聞きたいのは、変な昔話じゃないでしょ。まあ、夢の話っていうかおとぎ話みたいなことだったから、あんまり変わりないかもだけどね」

 

「そうなの? だったら楽しみだね」

 

 好奇心を露わにした瞳で蛍が急かしてくる。

 

 もうちょっとこう……緊張したような空気になると思っていただけに燐はいささか拍子抜けしてしまった。

 

(まあこっちの方が話やすいかな、退廃的な話でもないしね……)

 

 燐は形式ぶったような咳ばらいをこほんとすると、今度こそ真面目にあの時の事を語りだした。

 

 それはとても怖いことだと思っていた。

 だからこのままで、二人が同じ時間の中でいるのならそれでいいと思っていた。

 

「あー、ごめん蛍ちゃん。最初に謝っておくけど、あの時のことはそこまで覚えていないんだ。あ、でも別に隠し事をしてるわけじゃないからね」

 

「大丈夫、分かってるよ燐」

 

 申し訳なさそうに告白する燐に蛍は落胆も驚きもなくただ理解していた。

 

 言葉にしなくても伝わる思い。

 それを十分に知っていたから。

 

「だから、覚えていることだけ言っていくね」

 

「……うん」

 

 ずっと聞けなかったけど聞きたかったこと、それをいま燐が話してくれる。

 

 嬉しいけど、どこか怖い。

 

 でも、きっと大事なことだ。

 二人にとってとても大事なこと。

 

 それは蛍にも告白せねばならないことがあったから。

 

「えっとね。青い空が目の前に広がっていて、わたしはそれをずっと眺めているの。でもね、なぜだか川に流されているの」

 

「燐、それって──」

 

 蛍は一瞬胸がドクッとなった。

 燐の語ったことはとても嫌なイメージを抱かせたからだ。

 

 ありがちな死へのイメージを。

 

「でもね。流れはそんなに急じゃないんだよ。むしろ心地よくてね、水も冷たくないし、ぬるま湯っていうか、このままずっと流されてても良いかなって感じだった。なんか流れるプールにいるみたいだったかも」

 

 蛍とは違い、燐は淡々と言った調子で話している。

 まるで他人事のような平坦さをもって。

 

 蛍は燐の一言一句を聞き逃さないように神経をそばだてていた。

 

 緊張のせいでさっきから握りこぶしを作っていることさえ気づかずに。

 

「……プール?」

 

 唇を微かに震わせながら蛍はやっとの思いのでその単語を口にした。

 

 プールと聞いて思い浮かぶのは燐と二人で入った夜の中学校のプール。

 それを蛍は思い返していた。

 

 あの夜のことは今でも蛍の中では綺麗な思い出として奥底に残っていた。

 あの時感じた充足感は、何物にも代えがたいほどの尊さと幸福で満ちていたから。

 

 燐が居ない日常に回帰したときも片時も忘れることがなかった大切な思い出。

 

 あの時の言い知れぬ恐怖も、孤独感も何もかも忘れることが出来た、きらきらとした思い出の欠片。

 

 輝く記憶の海にずっと浸って生きていくのかと思ったけど。

 その記憶を一緒に紡いだ人がまたこうして目の前にいる。

 

 幸せ過ぎて現実感が薄かった。

 

「大丈夫、蛍ちゃん。なんかボーっとしてるけど……?」

 

「あ、えっと。大丈夫だから、平気だから、だから燐。続き話して」

 

 眉を寄せながら覗き込んでくる燐に、蛍は慌てたように取り繕うと続きを燐に促した。

 

 蛍が急に顔色を変えたことに燐は少し心配がったが、ここで話を止めることは本意ではない気がして、ほんの少しゆっくり目に続きを話す。

 

「う、うん。でね。もしかしたらわたしじゃなかったのかもしれないって思ってるんだ。なんていうか、誰かの目を通して見ているような感じ? 川面に浮かぶ木の枝とか鳥とかそういった感じの視点だった」

 

 燐は自身はあまり覚えていないと言っていたが、ことのほかつまびらかに語っている。

 

 それでもどこか曖昧なのか、時折うんうんと首を捻っていた。

 

「言いたいことなんとなくだけど分かるよ。ほら夢なんかでも良くあるじゃない、視点が小刻みに変わるっていうか……そういうの。それに、わたしも似たようなものだったし」

 

 夢のようで夢じゃないはなし。

 その思いを共有できるのは、同じ体験をした人だけ。

 

 燐とわたしだけ、二人だけの秘密。

 

「蛍ちゃんも、もう一度向こうに行っちゃったんだっけ……」

 

 変な言い方になってしまったと燐は思った。

 だが、そうとしか言いようがなかった。

 

 あちらとこちらの世界。

 

 良く似ているようでどこか違っている。

 

 望んだ時に来ればいいと言っていたけど、そこまで簡単な場所じゃない。

 

 夜の世界と繋がりがあったとは思ってるけど、天国か地獄かなんてそんな概念にとらわれるような感じはしなかった。

 

 在るか無いか、ただそれだけだった。

 

「うん。わたしも気が付いたら”そうなってた”みたい。別に望んでなかったのにね」

 

 蛍は少し恥ずかしそうに言うと笑みをこぼす。

 

 儚げな瞳。

 あの空の情景が移り込んでいるような透き通るような深さを湛えていた。

 

「わたしはね、なんか信号機になってたみたい。電車なんて殆どこないのにね」

 

 変だよね、そう言った蛍はくすくすと笑った。

 顔を見合わせた燐も思わず微笑む。

 

 それはあの世界では変なことばかり起きていたから。

 それを変だと思う事すら変な感じなってしまう、つまりそういうところだった。

 

「信号機かぁ。規則正しい蛍ちゃんには合ってるのかもね」

 

「そう? 燐の方がしっかりしてる気がするけど」

 

「蛍ちゃんは見た目以上にしっかりしてるよ。あ、でも信号機ってどんな感じだった? ”あそこ”って車とか通ってなかったよね」

 

 青と白の世界では車はおろか道路さえもなかった。

 あるのはただ一本の長い線路、それだって殆ど使われてなかったのだけど。

 

「なんかね、電車の信号機だったみたい。足元にあの線路もあったし。動けなかったけどね」

 

 無機物になってたかもしれないのに蛍は落ち着いた調子で話す。

 夢と現実の境界があいまいな世界のせいだろうか、燐と同じようにどこか他人事のようだった。

 

「へぇー、それって、”シグナルとシグナレス”見たいじゃない? わたしと違ってロマンチックって良いよねぇ。ちょっと羨ましいかも」

 

 ”シグナルとシグナレス”は信号機同士の切ない恋の話を描いた昔の童話で。

 それゆえ燐はロマンチックと言いたいのだろう。

 

「うん。わたしも最初にそれを浮かべたんだ」

 

「やっぱりね、結構有名だもん。で、蛍ちゃんがシグナレスだとして、シグナルは誰だったの?」

 

 燐は恋愛話のような食いつきっぷりで蛍に続きを促してくる。

 

 蛍は……困った顔をすることしか出来なかった。

 

「それが、他の信号機はなかったし、誰もわたしに話しかけてこなかったよ。いくら待っても電車も何も来なかったしね」

 

 燐の期待を裏切るような、ロマンスの欠片もない話に蛍は申し訳なくなった。

 

「そうなの? じゃあ退屈だったんじゃない?」

 

 自分と同じような境遇だったことに燐は驚いていた。

 

 景色が流れている分自分のほうが少しだけマシだと思ったほどだった。

 どこまで行っても青い空と雲だけだったけど。

 

「確かにね。でも」

 

「しばらくすると慣れちゃったんだよね。何も起こらないことが普通っていうか、燐じゃないけどずっとこのままでも良いかなって思ってたのかも」

 

 あの世界は時間さえも流れているのかすら分からなかったから。

 日が沈むことも天候すら変わらない世界において、何かを定義づけることは意味がないのだろう。

 

 ただ雲だけが悠然と流れていく。

 

 音も何もなく、時の流れさえも止まってしまった世界は、ある意味では楽園だったのかもしれない。

 

 一切のしがらみのない世界。 

 完璧な世界。

 

 なくなったと思ってたけど、完璧に終わりはない。

 

 かんぺきだからかんぺき。

 それ以上でもそれ以下でもないのだから。

 

「うん。わたしも同じだった。わたしは自分が風車になってる感じがしてたんだ、川に流れてるのにおかしいよね」

 

 今度は燐が照れたように笑った。

 

 透明な笑み。

 

 あの線路の上での笑みとよく似ていた。

 

「風車……」

 

 蛍は燐の言う風車を想像する。

 

 空に届きそうなほど高くそびえていた、幾つもの白い風車。

 

 あの一つが先の燐だったのだろうか。

 

 音も立てずただひたすら回り続ける風車はどこか人の一生のようで、物悲しさを思わせたけれど。

 

 だとしたら、あれも人なのかもしれない。

 

 回り続ける風車は思いをただ届けたかっただけなのかも。

 

(それにしても、燐が風車……)

 

 蛍はつい堪え切れずにくすくすと笑いだした。

 

 急に笑い出した蛍に燐は少し嫌な予感があった。

 

「蛍ちゃん。もしかして変な事考えてない?」

 

「えっ!? そんなこと全然ないよ。ただ、燐が風車になったら可愛いだろうなぁ、って思っただけ」

 

「えー、可愛いなんておもえないけどなぁ、だってただの風車だよ」

 

「なんかさ、いつもの燐みたいに一生懸命に回ってる姿を想像したら可愛いって思っちゃったんだ」

 

 そう言いながらも蛍はまだ笑っていた。

 

「ええー、それなら蛍ちゃんの信号機の方がきっと可愛いよ。シグナレスだって思慮深い女の子だったんだし、蛍ちゃんにぴったりだね」

 

「そんなことないよ。でも……」

 

 恥ずかしそうに俯きながら蛍は言葉を濁す。

 それにはある思惑というか願望があった。

 

「ん?」

 

「なんでもない。やっぱり燐の方が可愛いと思っただけ」

 

「それだけぇ? だから蛍ちゃんの方が可愛いって」

 

 二人はムキになって互いの事を褒めることで張り合っていた。

 

 微かな疑問を打ち消すように。

 

「じゃあ二人とも可愛いってことで良いんじゃない」

 

 蛍は嬉しそうに折衷案を打ち出した。

 それを聞いた燐は疲れ切ったような眼を向ける。

 

「……なんだかなぁ。結局わたしたち何の話をしてたんだっけ」

 

「良くわからなくなっちゃったね」

 

「うん……」

 

 蛍と燐は顔を見合わせる。

 

 無駄な事にエネルギーを使った気がする。

 

 それが妙におかしくて二人は同じタイミングで笑い合った。

 

 

「ねぇ、燐……わたしたち、なんで今までこの話をしなかったんだろうね」

 

「うん。意外とそこまで深刻な話にならなかったね」

 

「深刻って?」

 

 蛍は顔を上げて燐の顔をつぶさに見る。

 瞳の奥が微かに揺れていた。

 

「だってさ、わたしが勝手に居なくちゃったわけでしょ。怒られたって無理ないなって思って……」

 

「なんだ、そんなこと」

 

 蛍は安心したように小さな息を吐くと、小さな手で燐の頬に触れた。

 ガラス細工を手に取るような繊細な手触り。

 

 けれども目線はしっかりと燐を捉えていた。

 一切のブレのない柔らかな瞳を一心に向けて。

 

「燐、わたしはここだよ。ずっと、ずっと待ってたんだよ。でも待ちきれなかったからちょっとだけ寄り道しちゃったけどね。でも、また会えたね」

 

 そういった蛍の顔は高揚したように微かに赤みを帯びていた。

 

 変わらない眼差し、変わらない笑顔。

 

 変わらずわたしの前で微笑んでくれている、無二の親友。

 

 それが嬉しい。

 

 だからわたしも伝えたい。

 この胸の高鳴りを。

 

「わたしもまた会えて嬉しいよ蛍ちゃん」

 

 燐は蛍の手を握りしめる。

 壊れてしまいそうなぐらいに細い指をしっかりと握って。

 

 蛍も同じような強さで握り返す。

 

 それだけで、何かがぴったりと収まった気がした。

 

 何もかもが分かるわけじゃないけど、これぐらいがちょうどいい気がした。

 

 

「ねぇ、蛍ちゃん」

 

「なぁに。燐」

 

「何見てるの?」

 

「うん……ちょっと」

 

 蛍は珍しくスマホに夢中になっていた。

 何か調べ物をしているのか、液晶を見ながら考え込んでいる。

 

「なんかちょっと寒くない? 暖房の効きが悪いのかなぁ?」

 

 周囲を見渡しながら両腕を自分の腋に入れる。

 どこかから隙間風が入り込んでいるのか、さっきから妙に足元がすーすーしていた。

 

「わたしはそんなに寒くないかな。むしろ暖かいぐらいかも」

 

 落ち着かない燐と違って蛍は余裕たっぷりとした様子で話す。

 

 そんな蛍に燐は訝し気な視線を送る。

 

「? 燐、なんか怒ってる?」

 

 視線に気が付いて蛍はスマホ越しに燐の顔を覗き込む。

 

「怒ってるっていうかさぁ……」

 

「うん」

 

「どうして蛍ちゃんはわたしを膝枕にしてくつろいでいるのかなって」

 

「ああ、それはね……気持ちいいからだよ」

 

「……全然、答えになってないよね」

 

 蛍は何を思ったのか、突然燐のふとももに頭を乗せてきた。

 始めのうちは可愛いなーなんて黙ってみていたけど。

 

 いつまでたってもどいてくれないので恐る恐る聞いてみたのだが……。

 

「あれだよね。燐のふとももって割と細いよね。あんなに運動しているのに」

 

 燐の質問を無視して、ニーソックスに包まれた燐のふとももをむにむにと触る蛍。

 急なスキンシップ? に、燐は飛び上がらんほど驚いた。

 

 柔らかいだけでなくしっかりとした弾力性のある燐のふとももは確かに触り心地がよく、意外にも枕として使うのに最適だった。

 

「ちょっと、蛍ちゃん……へんなところ触らないでよー、くすぐったいよー!」

 

 急な触感に燐は軽くパニックになって足をばたばたとさせた。

 そのせいで膝が上下に揺れて寝心地が悪い。

 

「もう、燐。あんまり動かないで。せっかくの低反発枕が台無しだよ?」

 

「わたしの膝は低反発まくらでもトゥルースリーパーでもないよっ! だからもう止めてぇ~」

 

 燐の必死の懇願に蛍はしぶしぶ触るのを止める。

 

「触り心地良かったんだけどなぁ」

 

 名残惜しそうに指をわきわき蠢かす蛍を見て、燐はデジャブを感じていた。

 

「なんで蛍ちゃんはわたしのマッサージを拒んだのに、わたしにはいっぱい触ってくるのっ」

 

 もっともな指摘に蛍は少し考える。

 そして出した結論は。

 

「だって燐のこと好きだから」

 

 だった。

 

「もう! さっきから全然答えになってないし。まったくもう、変な汗かいちゃったよぉ……」

 

 呆れたように言葉を飛ばすと、燐は取り繕うように身だしなみを整えた。

 もっとも膝の上には蛍が頭を乗せたままだが。

 

「じゃあ、良かったんじゃない?

 

「良かったって何が?」

 

「暖かくなったみたいで」

 

「……」

 

 的を得た蛍の言葉に燐は何も言い返せなかった。

 

 代わりに大きく息を吐くと。

 

「うん……そうだね」

 

 と、疲れ切った顔で小さく呟いた。

 

 

 ────

 ────

 ────

 

 ぷしゅー。

 

 気の抜けた音を立てて鉄の扉がやっと閉まる。

 

 誰も乗降しない駅で扉を開けっ放しにしておく意味が分からない。

 その間ずっと外気が入り込んでせっかくの暖房が無駄になっていた。

 

 雪深いところなら手動で扉を閉めるはずだが、ここは雪が降りそうで降らない土地だった。

 前の前には高い山々が連なっているというのに。

 

 扉が開くたびにじっと身を強張らせて耐えていたが、それもこれで終わりだった。

 

 もう途中停車する駅はないのだから。

 

 後は終点の小平口駅を残すのみ。

 少し気が楽になったが、まだ肌寒さは残っていた。

 

 それにしても、今日の帰りの列車はやけに人が少ない。

 蛍と燐以外の乗客はほぼいなくなっているように見える。

 

 そのせいなのか暖房の効きも微妙だった。

 

 それでも列車は終点を目指す。

 それだけが目的だったから。

 

「ねぇ、燐。今何時になった?」

 

「えっとねえ。23時3分ってとこだね」

 

 蛍はまだ燐の膝の上でごろごろとしていた。

 しかも毛布代わりにブランケットを上に掛けていた。

 

「ふぁぁああ……通りでお腹が空いてきたと思ったよ~」

 

 欠伸をかみ殺しながら、食への欲求を訴える蛍に燐は心底驚いたように目を見開いた。

 

「え、蛍ちゃん。まだ食べたりない……の?」

 

「あ、そういうわけじゃないけど、なんか小腹が空いちゃったのかも。燐はお腹空かない?」

 

 十分”そういうわけ”だが、あえて燐は指摘しなかった。

 

「わたしは、もうお腹いっぱい。それになんかまだお腹にクレープが残っている気がするよ」

 

 不安がるように自身の下腹部を触る。

 ポンポンと小気味よい音の何十パーセントがクレープなんだろうか。

 考えただけでも恐ろしかった。

 

 今日は体重計に乗るのは止めておこうと燐は固く誓った。

 

「もう、燐ってば大げさだね。でもクレープの味が残っているのはいいんじゃない。わたしもクレープに包まれて眠りたいよ」

 

 自分をクレープに見立てているのか、膝の上でごろごろと転がる蛍。

 クレープというよりもイモムシみたいだった。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。いつまで膝の上で寝ているの」

 

「えー、ダメなの?」

 

 明らかに不満そうな声を上げる蛍。

 なんだかいつもと違ってテンションが高い気がする。

 

「ダメっていうか、わたしの足が痺れてヤバそうなんだけど……」

 

 少しの間ならいいかと思っていた膝枕だが、予想に反して蛍はずっと膝の上に頭をのせていた。

 

 運動神経ばつぐんの燐でもさすがにこれは辛い。

 足の感覚がなくなりそうになっていた。

 

「鍛え方が足りないよ燐。もっとプロテインとか飲まなきゃ」

 

「膝枕のためだけにふとももを太くなんかしたくないよぉ~」

 

 無茶な事を言ってくる蛍に燐は泣きごとのような反論をする。

 

 早く終点についてほしい、燐は切実に願った。

 

「わたしそこまで重くないと思ってるんだけどなぁ」

 

 蛍は少し拗ねたように頬を膨らます。

 

 わざとらしい物言いに燐は呆れてものも言えなかった。

 

「そういえば燐ってさ、いい匂いがするよね。なんのフレグランス使ってるんだっけ?」

 

「わたしはねぇ……って、蛍ちゃん。どこ見て言ってるの!?」

 

 燐が自分の使っている香水に頭を巡らそうとしたとき、急にふとももの辺りがすぅすぅし始めたので言葉を区切ってそちらを覗き見ると……。

 

 蛍が燐のスカートの中を覗き込んでいた。

 

「何って、燐のスカートの中がいい匂いするってねって、言ったんだけど」

 

「ちょっとぉ、わたしよりも蛍ちゃんのほうがいっぱいセクハラしてくるー。セクハラ問題がすぐ身近なところでおこってるよぉ」

 

 スカートの中に蛍が顔を突っ込んでくるので、燐は素早く両手で押さえてそれを阻止した。

 

 その勢いでスカートがはためいて、中の空気が辺りに広がった。

 

「ほら、やっぱり良い香りだよね。何の香水だったっけ?」

 

 少女特有の甘い香りと燐が部活の後に付けたフレグランスの臭いが重なって、蛍の言うような”良い匂いが”辺りに薫った。

 

「これってスメハラって言うんだっけ? ともかく、さっきから何してるの蛍ちゃん!?」

 

「クラスメイト同士のスキンシップ」

 

「スキンシップにしては過剰すぎるっ」

 

 燐のもっともな意見に蛍はくすくすと笑うだけだった。

 

 なんだかおかしい気がする。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。もしかして、まだアルコールが抜けてないの? なんだかちょっと変だよ」

 

 少し失礼な言い方だが、それは端的に蛍の様子を言い表していた。

 

「んー、気持ち悪いのはなくなったんだけど。なんだかちょっとふあふあする感じ……」

 

 そう言いながら燐のスカートに手を伸ばそうとする蛍。

 完全に酔っ払いのそれと同じようになっていた。

 

「んもう、おさわり厳禁!! もうすぐ終点だけどちょっとの間でも寝てたら。酔っぱらって帰ったら色々言われちゃうかもだし」

 

「あー、そうだね……でも、燐。足は大丈夫なの?」

 

「まあ、少しの間ならまだ平気だよ。それより少し寝てて、駅についたら起こしてあげるから」

 

「うん。そーする、ごめんね燐」

 

「いいよ気にしないで、わたしと蛍ちゃんは友達でしょ」

 

「うん……そうだね」

 

「あ、そうだ眠るまで子守歌でも歌ってあげようかぁ?」

 

「燐はそうやってすぐわたしを子ども扱いするんだから。わたしは逞しくなったんだよ、これでも」

 

 蛍がまた頬を膨らませたので、燐はくすっと笑った。

 

「蛍ちゃんはすごく逞しくなったよ。ひとりでも大丈夫なぐらいに」

 

 膝の上で仰向けの蛍の頭を軽く撫でる。

 綺麗な黒髪はいつまでも触っていたいほどの滑さを持っていた。

 

 それが心地良いのか、蛍は燐のされるがまま撫でられていた。

 

「蛍ちゃんは甘えん坊さんだね」

 

「うん……わたしお母さんとの思い出がないから、誰かに甘えたかったんだね」

 

「吉村さんには甘えなかったの?」

 

 うん、と小さく頷く蛍。

 その視線の先は天井にある丸い照明に向けられていた。

 

「吉村さんはやっぱり他人だよ。それは昔から変わってないんだ」

 

「そっか、じゃあオオモト様は?」

 

 オオモト様の名前を聞いて蛍は目を丸くするも、直ぐに口を開いた。

 

「オオモト様はお母さんというよりも、ご先祖様の方が強い気がするんだよね。ほら、見た目からしてそんな感じだし」

 

 蛍の言う見た目とは容姿全般じゃなくて服装だけのことだろう。

 そう燐は解釈した。

 

「オオモト様って、歳とらないのかな……?」

 

 蛍の何気ない呟きは他に誰も乗っていない車内に浮かんで消える。

 

 思いのほか静かな車内に燐は少し背筋が寒くなった。

 

 このまま蛍とオオモト様の話題を続けることに妙な罪悪感を覚えて、燐は少し強引に話を変える。

 

「そういえば蛍ちゃん、さっきスマホ熱心に見てなかった? 何か調べてるみたいだったし」

 

 急に話が変わったことに蛍は目を丸くするも、燐の気遣いに気付いたのか、そっちの話に乗っかることにした。

 

 蛍は寝ころんだまま、ポケットからスマホを取り出して燐に見せる。

 

 液晶には高層マンションが表示してあった。

 サイトをよく見るとそれは駅前に作っていたタワーマンションのようで、画像は完成予定図だった。

 

 日付をみると来年には完成予定らしい、予約受付中と書いてある。

 

 どういうことか聞こうとするよりも先に蛍の声が耳元に届いた。

 

「わたしね、あの家手放そうと思ってるんだ。でねマンションに住もうと思ってるの」

 

 蛍の予想だにしない告白に、燐は頭が追い付かず呆然としていた。

 

「何かの手がかりになると思ってあの家に住み続けてきたけど、もうそれも必要なくなったじゃない? 燐はちゃんとここにいるし。座敷童の幸運もなくなっちゃったしね」

 

「……まあ、そうだよね」

 

 練習してきたかのようにすらすらと喋る蛍に、燐は曖昧な返事を返すのが精一杯だった。

 

「もう三間坂の姓を守る意味なんてないわけだし。色々提案はされてたんだ。あの家ってかなり昔からある建物で一度も壊れたことがないんだって。それにわたしにはよく分からないけど建築的な価値もあるんだって」

 

 金銭になりそうな話だからか、蛍は何故かひそひそ声になっていた。

 

「それって文化財的なものなの? 町で買い取ってくれるとか」

 

 良くは分からないが燐も緊張したようにごくりと唾を飲み込んだ。

 

「歴史的建造物ってほどでもないけど、小平口町の歴史を伝えるのに役に立つんだって。あの町にそんな崇高な歴史があるとは思えないんだけどね」

 

 小さく舌を出して蛍は微笑んだ。

 それはあの町のもう誰も知らない数奇な歴史を知っているからこそだった。

 

「でも、それで良いと思ってるんだ。あの家にもうしがらみはないし、町の役に立つのならそれでもいいかなって……」

 

 寂しそうにつぶやく蛍に、燐は明るく笑いかける。

 

 蛍の気持ちは十分すぎるほどに分かっているから。

 

「蛍ちゃんが決めたことならいいんじゃないな。でもいきなりマンションに住んじゃうの? しかも新築で? いちおう聞くけど賃貸だよね」

 

「うん。さすがに分譲はちょっと怖いよ。でも、せっかくだからこういうのもいいかなっておもって」

 

「うーん、蛍ちゃんが決めたんだから文句はないけどさぁ……」

 

 蛍はこういった大事なことでも迷わずに決めてしまうだけの大胆さがあるのは知っている。

 

 その迷いのなさは蛍のとても良い所なんだけど……。

 

(蛍ちゃんってやっぱり大胆だなあ。わたしだったらもう少しこう熟考したり、みんなに相談とかするんだけど……)

 

「ねぇ、蛍ちゃん。試しにわたしの家で一緒に暮らしてみない? 使ってない部屋もあるし、こっちのほうが面倒な手続きとか要らないよ。それにお母さんも蛍ちゃんのことすっごく気に入ってるみたいだしさ」

 

 燐は安易に首を振らずにとりあえず妥当なところから提案してみる。

 蛍が一緒に住むことになっても親友の燐はともかく、母も反対しないだろうとは思う。

 

 母と蛍はそこまで面識はないと思っていたのだが、いつの間にかすっかり仲良くなっていた。

 吉村さんもパートに来てくれるおかげで家族ぐるみの付き合いがあると言ってもおかしくはない。

 

 だから後は蛍次第だとは思うのだが……。

 

「ごめんね。燐の提案は素直に嬉しいんけどね」

 

 やんわりと断る蛍。

 

 見た目以上に頑固な蛍は自分と似ているとは思っていたけど……案の定だった。

 

「わたしね、自分では田舎暮らし向いてない気がするんだよね。違う景色を見たくなったっていったらおかしいかな?」

 

 蛍は恥ずかしそうに目線を逸らした。

 

 燐はそんな蛍に尊敬と愛おしさを感じていた。

 

「でもね」

 

「女の子の一人暮らしって何かと心配じゃない。吉村さんにも色々言われちゃったし。だから、燐。わたしと一緒に、住んでみませんか?」

 

 膝の上で仰向けのまま、蛍が手を差し伸べる。

 

 少し演技がかった声色で、でも表情は真剣なままで。 

 

「シェアっていうかわたしが家賃とか色々出すから、燐は料理とか掃除とかわたしが苦手なことをやってくれるだけでいいから……どう、だめかな……?」

 

 顔色を窺うように見つめてくる蛍、燐はまだ上手く話を飲み込めていなかった。

 

「え、ええっとぉ……つまり、わたしと一緒にマンション暮らししないかってこと?」

 

 燐は同じことを聞き返す。

 

「うん、そういうこと」

 

 蛍の迷いのない返事に燐は呆気に取られてしまった。

 

(わたしが蛍ちゃんと一緒に? これって同棲じゃないの!? 確かに学校からは近くていいんだけど……)

 

 燐が逡巡しているのが分かったので、蛍は慌てて補足を入れる。

 

「あ、ちゃんと燐のお母さん……咲良さんにも了解取ってあるから一応大丈夫だからね」

 

「ふええっ? お母さんに? いつの時?」

 

「うん。前に燐のお店に行ったときにね。店のことなら吉村さんとかパートの人とかがいるから心配しなくてもいいって、そう燐に伝えてって」

 

 蛍の言葉を受けて、燐は思い当たる節があった。

 最近母が前ほど手伝いを頼まなくなってきたのはきっとこのせいだったのだと。

 

「はぁ……」

 

 燐は複雑な想いで息を吐いた。

 甘いというか、なんというか……。

 

(結局気を使わせちゃってるのかな……お父さんのこともそうだし……)

 

 離婚成立後、もう会うこともないと思ってた父からの連絡があった。

 母ではなく燐の携帯の方に。

 

 やり直すつもりは無いがそれでも年に数回は娘に会いたいとのことだった。

 

 燐が独断で決めるのはさすがに難しい案件だったので、やむを得ず母に相談した。

 密会することも出来たが、後でバレるときっと大変なことになると思っていたから。

 

 母は……意外なほどあっさりと承諾した。

 

 その代わりその時は自分も立ち会って、()()()会う条件付きで。

 

 流石に父の今の”恋人”と会うのは無理のようだが、それでもかなりの進歩とも言える。

 

 父もその条件で呑んでくれた。

 

 向こうも嫌だとは思うのだけど、それでも会いたいらしい。

 

 それは来年の年明け早々の第一日曜日に決まっていた。

 

 そのことを思うだけで少し心がざわつくけど、どこか期待もしている。

 少し前まで普通にお父さんと呼んでいた人に会うことに。

 

「……ごめんね」

 

「えっ!?」

 

 突然蛍が謝ってきたので、燐はつい大きな声を上げてしまった。

 

 慌てて口元を抑えると、恐る恐る周囲を見渡す……誰もこちらを見ていない。

 もっとも、乗客は殆ど残っていないのだけれど。

 

 燐は安堵の息をもらすと、改めて蛍と向かい合った。

 

「ご、ごめんねつい、ぼーっとしちゃってて、それよりなんで謝るの蛍ちゃん」

 

 燐は声のトーンを落として蛍に訊ねる。

 

「だって……急なことに燐がビックリしちゃったのかと思って……」

 

「あ、うん。確かにビックリしたけど、今すぐってわけじゃないでしょ。まだあのマンションだって出来てないし」

 

「うん。でも来年の春ごろには完成するみたいだから、その前には決めちゃわないといけないけどね……で、どうかな? わたしと一緒に住んでくれますか燐……」

 

 ゆっくり瞬きをした蛍が再度尋ねてくる。

 

 プロポーズのような言い回しに燐は少し頬が熱くなっていた。

 

 真っ直ぐ見つめる蛍の瞳は何一つ疑う事すら知らないように見えた。

 

 燐はその無垢な瞳から目を逸らすように瞼を軽く閉じて結論をだす。

 

「ん……」

 

 小さく吐息をもらすと、蛍の表情(かお)を盗み見るように、薄く瞼を開けてみる。

 そこには不安で瞳を揺らして待っている蛍の顔があった。

 

 蛍の緊張が手のひらから太ももに掛けて伝わってくるようで、思わず喉を鳴らした。

 

「……うん。いいよ」

 

「燐。いいの?」

 

「でも、ちゃんとわたしも家賃とか光熱費とか払うからね。そこらへんはちゃんと折半しないといくらなんでも悪いからね」

 

「でも……わたしの我がままだし……」

 

 顔を曇らせてつぶやく蛍に、燐は少し誇大な意気込みを語る。

 

「いいのっ。それに、いざとなったらバイトでもなんでもするからっ」

 

「燐……」

 

 嬉しいような困ったような、複雑な顔で蛍が見つめる。

 

「わたしはね、蛍ちゃんと対等に付き合いたいんだ。どっちかに依存とかそういうのはなしで、お互いが楽な関係になりたいんだ」

 

「わたしもそうだよ。燐と対等になりたい。燐と一緒じゃなくて、燐とわたし、それぞれが自立した関係がいいな」

 

「うん。じゃあ決まりだね」

 

 燐はやっと蛍の手を取った。

 待ちわびたように握り返す蛍の手は柔らかくて、とても優しかった。

 

「うん……あ、じゃあどの間取りがいい? ワンルームだと二人で寝るにはちょと狭いし、ちゃんとお互いの部屋があったほうがいいよね? やっぱり2LDKがいいのかな……でもそうなると予算が……」

 

 蛍の頭の中では既に決定事項だったのか、まだ正式に住むかどうか決まってないのにあれこれ算段し始めていた。

 

 蛍の持つ予算とやらがどれほどのものかは知らないが、確かかなりの額があったはず。

 

 新築マンションの一室を一括で買えるほどの予算は多分あるとは思うが、額が大きい分遠慮したくなる。

 

 対等とは言っても金銭面では既に大差がつけられていた。

 

「えっと、蛍ちゃん? 無理しなくていいからね。わたしはワンルームで十分満足できるから」

 

 言葉通り燐にはそれで十分だった。

 これ以上蛍に気を遣われたら頭がどうにかなりそうだったから。

 

「でも、わたしと燐の愛の巣だよ。ここはちゃんと決めておかないと後で後悔することに……あ、でも、狭い部屋で二人でまったり暮らすっていうのも悪くないのかな……?」

 

 蛍はぶつぶつ言いながら、予算と希望の落としどころを模索していた。

 

 燐は苦笑しながら、どこか他人事のように窓の外で瞬く星を眺めていた。

 

 

 かんかんかん。

 

 小さな踏切の音が耳から耳に通り抜ける。

 

 列車も友も時間も何もかもが加速度を付けて通り過ぎていった。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 

「すぅ、すぅ……」

 

 小さな寝息が人気のない車両の中にひそやかに流れている。

 

 このまま終点まで寝そうにないと思われた蛍だったが、結局、燐の膝の上で寝息を立てていた。

 

 もう終点までそこまで距離はないはずなのだが、安心しきったような顔で眠っていた。

 

「やれやれ、足の感覚がないぐらいに痺れてきてるのに幸せそうな顔で寝ちゃってる。そんなにわたしの太ももって寝やすいのかなぁ……」

 

 ぷにぷに。

 燐は人差し指で蛍の頬をつつく。

 

 しっとりとした柔らかさは夢の中の蛍と一緒だった。

 

 燐は不思議そうに自分の指を見つめる。

 夢で触ったときの感触がまだ残っている気がした。

 

「それにしても……なんであんな夢みたんだろ」

 

 明らかに夢であるはずなのにどこか現実にあってもおかしくないような、そんな夢だった。

 

 断片的な記憶の欠片(フラグ)を見せられているような、自分のようで、自分じゃない夢の話を。

 

(誰かに夢を見せられているとか……さすがにそんなことはないか)

 

 あの時の記憶が今だに脳裏に焼き付いている気がする。

 それはきっと蛍も同じだろうとは思うけれど、それを口に出すことはしなかった。

 

 燐は無防備な寝息を立てる蛍の髪を軽く撫で上げる。

 

 さらさらと、綺麗な黒髪が指の間を流れ出る。

 良く練り上げられた絹糸のような、繊細で美しい光沢のある髪はうっとりするほど見惚れるものだった。

 

 慈しむように何でも丁寧に梳きあげてみたくなる綺麗な髪。

 

 少し切なくなって胸が痛んだ。

 

「……それにしてもみんな勝手だよね。わたしの考えなんて全然聞かないで勝手に決めちゃってさ……」

 

 蛍の二つに結われた髪をふあふあと持ち上げる。

 

 何をしても起きない蛍は寝てもなお、燐を楽しませる。

 

「お母さんも、お父さんもお兄ちゃんも、みんなわたしの道を勝手に決めちゃってる。わたしにだって行きたい道とか普通にあるのにね」

 

 燐は少し自嘲気味に小さく笑った。

 

「蛍ちゃんだってそうだよ。わたしに何の相談もせずひとりで決めちゃってさ……わたし本当はちょっとショックだったんだよ?」

 

 気持ちを表すように少し強く蛍の頬をつついた。

 

 ぷにぷにぷにっ。

 

「う、うーん……」

 

 ちょっと苦しそうに吐息をもらしながら蛍が寝返りを打つ。

 だが、起きることはなく、またすぅすぅと規則正しい寝息を立てだした。

 

 燐はほっと胸を撫で下ろすと、謝罪とばかりに髪をことさら優しく撫でてあげた。

 あの夢の赤ん坊が目を覚まさない様に、出来るだけ柔らかく。

 

「でもね、蛍ちゃん。わたし知ってるんだよ。蛍ちゃんが無理してるってこと」

 

 燐は軽く握られている蛍の腕を優しく取ると、長袖の制服から覗くアウトドア用の黒いシャツの袖を少し下した。

 

 冬場は長袖の為目立たなかったけど、それはまだ蛍の左手首に残っていた。

 

 かさぶたとなって治りかけている幾つかの小さい擦り傷と、最近付けられたものだろうか、はっきりとわかる二本の線が付けられてあった。

 

 燐が戻ってきてからもうそんなことはしなくなったと蛍の口から聞いたはずだったが。

 

 どうやら悪い癖になってしまったのだろうか、新たな傷が蛍の手首についていた。

 

「やっぱり寂しいのは蛍ちゃんのほうだよね。ごめんね、わたしまた見て見ぬふりをしてたんだね」

 

 体の傷は時間が経ったら消えてしまうと思ったけど、それは同時に心も傷つけるものになっていた。

 

 こんなことをしても心を埋める事なんて出来ない、それが分かっているはずなのに。

 

「蛍ちゃんのこと、重いなんて全然思ってないからね。だって……わたしだって、ほら」

 

 燐は寝息を立てる蛍の前に自分の手首を見せる。

 

 そこには蛍と同じように燐の手首にも傷がついていた。

 

「でもさ、こんな二人が一緒に住んだらとっても危ないと思わない? 愛の巣どころか愛憎入り混じる地獄絵図になったりして」

 

 乾いた笑みを浮かべながら、少し薄汚れた旧式の車両の天井を見上げる燐。

 ベージュ色の天井に黒い染みのような汚れが点々と付いていた。

 

(わたし、こういうことになるのが嫌だったはずなのにな。どうしてこうなるんだろう)

 

 あの時だってそうだよ。

 誰かが敷いたレールに乗っかっているのが嫌だったから。

 

 その先になんの希望が持てなかったから。

 

 だからわたしはレールから飛び降りたんだ。

 

 大事な、好きな人の手を離してでも。

 

 それなのに、ね。

 

「こういうのって運命なのかな。それとも宿命? どっちにしても偶然とは言い難いよね」

 

 燐が嘆息しながら話しかけても膝の上の蛍は小さな寝息を立てているだけ。

 

 さらっとした蛍の前髪を軽く流す。

 柔らかい黒髪は全て壊したくなるほど美しかった。

 

「蛍ちゃん、わたしは裏切ったんだよ。わたしは蛍ちゃんの気持ちに気付いていながら、その想いを踏みにじったんだよ。そんなわたしと一緒に暮らしてもいいの? きっと後悔することになるよ」

 

 囁くように燐は問いかける。

 

 蛍の無垢な寝顔は燐の告白を受けても、穏やかなままだった。

 

「ふぅ」

 

 ため息を漏らす。

 ひどく疲れていた。

 

 それは蛍に胸中を打ち明けたからだけではない。

 

 夏から秋に、そして冬がやってきて、年が変わっていく。

 

 過ぎ行く時間の流れにつかれてしまった。

 

 ……あの世界は時が止まっていた。

 

 どこまでも青い空、真っ白な駅舎と白い雲。

 

 かんぺきなせかい。

 

 あそこが終点で良かったのに。

 

「どうしてわたしは……」

 

 規則的な音と沈黙が交互に流れる。

 

 列車は軋む体を揺らしながら隧道の中に勝手に入っていった。

 定められたレールに沿って。

 

 暗いトンネルを通り抜けた先は今のわたしの最寄り駅。

 

 小平口駅がある。

 

 今のわたしの終点。

 

 わたしはそれを望んでいるのだろうか。

 

 外と変わらない色が車内に薄い天幕を作る。

 ごー、と鳴る地鳴りのような音がやけに耳障りだった。

 

 

 

 暗い気圧の海でわたしは一人で藻掻いている。

 

 流れに逆らって泳いでも満足に泳げないのにそれでもまだ頑なに泳ぎ続けている。

 

 流れる先にも後にも同じものが待っているとしたら。

 

 それはきっと幸福なのかもしれない。

 

 だったら幸せなままがいい。

 

 わたしはもう一度。

 

 自分をこの世界を殺してみたくなった。

 

 

 幸せが怖いわけじゃない。

 

 幸せだからきっと怖いんだ。

 

 今が幸せすぎるから。

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 






★ゆるキャン△ 

・SEASON2放送終了と原作12巻発売とドラマ版”2”放送開始と劇場版製作決定おめでとうございますーー!!!

あ、VRゲームも発売されましたし、コンシューマーゲームでも出るんでしたっけ、まだまだブームは続きそうですねー。

ここ何週間の間のゆるキャン△ 関係は色々と目まぐるしかったですねえ。映画発表の時なんてちょうどエイプリルフールの時だったから、ニュースサイトが取り上げるまでネタだと思ってたぐらいですよー。リンだけでなくなでしこまで髪を短くするとは……三輪バイクの時のではなく、まさかの野クル十年後の続きなんでしょうか? さすがにテントは飛ばなさそうですけどもw

・アニメ版ゆるキャン△ SEASON2 13話。
ちょこちょこオリジナルセリフを挟んでてて、最後までテンポ良く駆け抜けましたねぇ。原作にあったお爺ちゃんエンドではなく朝の登校エンドなのも爽やかで良かったですー。惜しむらくは綾乃の出番が最後になかったことですかねぇ。この辺は劇場版でリベンジすることでしょう! 多分。特典のOVAの可能性もありそうですけど……。

・ドラマ版ゆるキャン△2。
アニメ放送中にドラマが始まってしまうという前代未聞? の展開からスタートしましたねー。SPとなってましたけど、実質1話でしたね。総集編少な目でしたし。
アニメ見てた頭をドラマに切り替えるのにちょっと違和感があったりなかったり……。
結局、見てるうちに慣れるとは思いますけどねー。

それとやはり実写のちくわはかわええわぁ。ドギーテントでくつろぐちくわはリンじゃなくても、ものすごーく見たくなりますよーーーっていうか、もふもふしたいぃぃ。

あと、実写の食事シーン、これもヤバ目でしたねえ。4100円の鰻重の破壊力も相当なものだけど、個人的にはなでしこが一人で二個も食べた大判焼きが凄い飯テロだったよぉぉぉ!!原作、アニメだとそこまで気にするシーンでもないのに、なぜ実写だとあそこまでの空腹感を煽ってくるのだろうかーーーやっぱり食べ物系は実写に限りますねえ……って同じことを前回のドラマの時も書いた気がするーー。

あと、前作同様にアニメとドラマだと原作の拾いどころが違いますねえ。砂浜で椅子が沈み込むエピソードとかアニメは割愛してたのに、ドラマ版はわざわざコケるところまで入れて再現してましたしね。
それに前回以上にドローンを使った空撮が多い気がしますねえ。そのおかげでロケーションの良さをひしひしと感じますよー。
でも、車でのダイアモンド富士のシーンはちょっと……完全に停車して撮ってますやんー。まあ、仕方がない? のかな。

☆青い空のカミュ。
二周年記念ー!! とはちょっと違うようですが、スプリングセールで5月10日まで50%OFFセールをやってますねー。
未購入の方は……多分居ないと思うのですが、最近はセールになることも少ないので、購入したい方は今がチャンスかなーとは思います。
最近、定額サービス等でもう一度やってみたいと思った方にお勧めします。

★South Park.
3月の中ごろ、SEASON24 episode2が公開されてましたね。このままS24で作り続けるのかなー。楽しみだけど、基本コロナ禍での話になりそうですねえ。
で、最近になった公式サイトに行ってみたら……adidas x South Parkのコラボグッズが出るみたいじゃないですかーー。
しかも! 私が名前を勝手に借りているTowelieのシューズが! なんか目が付いてるんですけど……どうやら紫外線を感知すると目が赤くなる仕様らしいですが、ヤク中を再現したものなんですかねぇ……シューズの裏のところにポケットが付いている等、謎なところに力を入れているようです。

このTowelieシューズ、日本では買えないかと思ったのですが、アディダスの日本語版のアプリでも紹介されていたのでどうやら日本でも買えそうですね……。

で。つい魔が差してポチってしまったのですけど……なんか早まった気がするー?

まあ、抽選販売なので買えるかどうかは微妙なところですけどねー。
最近でもとある限定商品の為にショップに人が雪崩れ込んで騒動になったぐらいですし。
でも、日本ではそこまで人気にならなそうな気はするんですけどねぇ……でももしかしたら結構競争率高めなのかもしれないぃ。

20日には抽選がされるそうなので、次話のあとがきに当落報告します。


それではでわわーーー。




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Living is not breathing but doing.

 
 夜明けの橙色と澄み切った空色が平均的に重なり合って、揺れ動く一本の線を描いていた。

 まだ蝉が勢いよく鳴いていたころ。

 小鳥の囀りより、羽虫の音が五月蠅かった頃のこと。
 あと数時間で登校するための電車に乗らなくてはならないのに。

 今日から二学期が始まるのに。

 わたしは一人、友人? のために生地を作り、バターを包んで、何度も折りたたむ。
 そして形を整えてトレーに乗せ、オーブンに叩き込んだ。

 中古で買ったパン焼き用のオーブンはどうも設定がまだ良く分からないのか、加減が難しいらしい。
 そうお母さんが言っていた。

 おっきくなった電子レンジぐらいにしか考えていなかった自分としては、妙にアナログな部分が多いこのオーブンに実質手を焼いていた。

 職人は色々試して覚えるというが、こういう場はうってつけではある。
 わたしはパン職人になるつもりはないけど。

 焼き加減でパンの味が変わると言ってもいいぐらいに重要なのはよくわかった。

 頭の中であれこれ考えていても実際焼けば一目瞭然、明々白々たるだった。

(まあ、初めて焼いたわけじゃないけどさ。それにしても焼くたびに味が変わるっていうか、フレーズが変わるっていうか……こういうの面白いんだけど……)

 そもそも何のためなんだろう。

 何のためにわたしは夜が明けきる前から一人でパンを作ってるんだろう。
 眠くてへとへとで今にでも倒れそうなのに。

(このパン焼き上がったら、もう寝よう。絶対寝よう。立ったままでいいから寝よう)

 そう思いながらもパン作りを続けている。
 完全な素人なのに。

 そのせいなのか勝手が分からず、ストック(パンの材料)が目減りしていた。
 このままだとオープン前に赤字になってしまう。

 生活するだけでもぎりぎりなのに。

 ちょっと遊びでパンを焼いただけでも色々うるさい母親だ。
 こんなことがバレたらきっと大変なことになってしまうだろう。

「これも、まあまあね」

 燐が母の機嫌を取るための良案をオーブンの焼き加減を見ながら、巡らせているとき、カウンターから少女の声が聞こえてきた。

 可愛らしくも、凛とした声色。

 その小さな口では食べ終わるのに時間が掛かると思うのだが、異常とも言える速さで出されたパンを全て平らげていた。

 先だって作って置いたメロンパンは十分と掛からずに綺麗になくなっている。
 少し多めの八個分も焼いたというのにだ。

 少女は小さな唇で燐が予想した通りの感想をそっと述べた。

 何度目かの同じ言葉にため息をつくこともなく、代わりに小さく肩をすくめる。

 燐は不機嫌さを隠すことなく、眉をひそめて質問する。

「ねぇ、()()()()()……? いつまで食べてるんですか。わたしもう眠くて眠くて……ふわあぁぁぁ」

 燐はパンの出来云々よりも、もう眠くてたまらなかった。

 だからオオモト様がいくら食べようが、凡庸な感想を述べようが気にもならなくなっていた。

 ただ、明らかに小柄なのに、食欲が全く衰えていないようなのは、さすがに気になる。

 水も飲まずにただ黙々と食べ続ける姿は、ともすればそれは座敷童、つまり”妖怪”のようであった。

(まあ、普通の人でも胃袋に猛獣を飼ってるぐらいに食べる人もいるし、これぐらいで妖怪扱いはないか……)

 ぼんやりとした瞳でそんなどうでもいいことを考える。

「そうね……次は何が出来上がるの?」

 小さな口をナプキンで拭きながら、つぎのオーダーを気にするオオモト様。

 ワガママなお嬢様に振り回される給仕(メイド)みたい。
 燐はこっそりため息をついた。

 まだ食べる気なのだ。

 この幼く小柄なお嬢様(オオモト様)は。

「ええっとぉ……」

 オオモト様に言われて、燐はオーブンの窓から中を見る。
 真っ赤に映る灼熱の中で先ほどのパンがふんわりと膨らんでいるのが見て取れた。

 これなら上手くいきそうな気がする。
 もういい加減最後にして欲しいのだけど。

「クロワッサンが出来上がりそう、です」

「そう……」

 読めない表情で小さなオオモト様小さな口を少し開けてつぶやいた。
 そこには期待が含まれているのか、それとも落胆しているのか分からない。

 それでも立ち上がる素振りを見せないところ、それなりに期待はしてくれているようだ。

 小さな体のどこにそんなに入るのかはわからないが。

「あのー、わたし学校行く前にひと眠りしたいんですけどぉ……だから、これで最後ってことでいいですかぁ?」

 燐はとうとう我慢できずにオオモト様に打ち明けてしまった。

 口も思考もマヒしてしまったのか、このままでも眠ってしまいそうになって、ふらふらと立ちすくみしながら時折がくんと頭を揺らしている。

 夜明けとともに眠気がぶり返してしまったようだ。

珈琲(コーヒー)でも飲んだらどうかしら。豆を荒めに挽いたものを暖かくして飲むといいわよ」

 オオモト様の意外すぎるアドバイスに燐は目を丸くする。
 
 それでももう十分と言わない辺り、意外と頑固なようだ。

「珈琲……」

 霞がかった思考で燐はオオモト様の言葉を反芻する。

 母も自分も普段から珈琲を嗜むことはないので、すぐ飲めるようなものは見当がつかなかった。

「あ、そういえば」

 燐は最近店で導入したばかりの業務用のコーヒーメーカーの存在を思い出した。

 これもやはり中古品だが、それなりに良いものらしく、有名なレストランでも使用されているものらしかった。

 何という店かは知らないが。

 好みの豆と水を入れて、後は機械にお任せという至ってシンプルな機能しか付いていない。
 買ってすぐ試用してみたが、そこそこ美味しい珈琲だった気がした。

 味の違いは分からないけど。

 燐としてはペットボトルのカフェオレで十分だと思っていたから、母が買ってきたときは、宝の持ち腐れか捕らぬ狸の皮算用ぐらいにしか思っていなかったが。

 自分で飲むために使うのはいささか勿体ない気がしたので、燐はダメもとで提案してみる。

「オオモト様もコーヒー、飲みませんか?」

「わたしはお茶でいいわ」

 やんわりと、でもはっきりと断られてしまった。
 そう言うんじゃないかと思っていた燐は小さく首を振ると、取り繕った笑顔で答える。

「じゃあ、お茶にします」

「ええ、お願い」

 その笑顔のまま、コーヒーメーカーの前を素通りしてキッチンへと戻る。
 燐はこれまで客相手のバイトなどしたことはなかったが、自然とそういう所作が出来ていた。

 オオモト様のアドバイスは特に活かさせることなく、燐は家にある適当なお茶を淹れることにした。

 お湯を沸かそうと、ステンレス製の電気ケトルに手を伸ばす。
 水を半分ほど入れてから、台座へと戻そうとしたとき。

 きぃん!

 小さな鐘の音のような柔らかい電信音がキッチン内に響いた。

「あっ!!」

 お湯を沸かすのを後回しにして、オーブンに駆け寄る燐。
 白銀に磨かれた中古のオーブンは燐の期待を数秒早く裏切り、出来上がりの鐘を鳴らしていた。

 耐熱性の分厚い手袋をいそいそと嵌めて、灼熱のオーブンの扉を開ける。

 もわっとした上気と共に小麦粉の焼けた臭いが辺りを埋め尽くした。

 今日だけで幾度となくパンの焼ける匂いを嗅いだが、この焼き上がりの瞬間がたまらなく魅力的だった。

 眠気を食欲に書き換えるほどのかぐわしい香りに燐は目的も忘れて一時、その香りに浸った。
 
 クロワッサンは燐が大好きなパンだったから尚更だった。

(はぁ……このままクロワッサンの香りで眠りたい……むしろクロワッサンになりたい……)

 燐が非生産的な妄想に浸りながらうつらうつらしていると、無言の圧力(プレッシャー)がすんでのところで現実へと押しとどめた。

「…………」

 オオモト様がこちらを見ていた。

 呆れているような、軽蔑しているようにこちらを見ている、そんな気にさせた。

 燐は両手を合わせた可愛げなポーズで取り繕うと、くるりと半回転してオーブンに向かい直った。

 クロワッサンが乗ったトレイを慎重に取り出す燐。
 少し早い気もしたがパンの表面を見る限り仕上がりは上々のようだった。

 出来立てのクロワッサンは目立った焦げ目もなく、見た目は悪くない。
 だが問題は中身だった。

 燐は試しにそれを一つ取って、パン切り包丁を使って二つに割ってみる。

 ざくさくっ。

 香ばしい音とバターの豊潤な香りが燐の耳朶と鼻孔を軽やかにくすぐった。

 幾重にも層を作った断面図に燐は安堵の笑みを浮かべる。

 この層の広がり方でクロワッサンの出来栄えが変わってしまう。
 それだけに中を確認するのには少し緊張していた。

「うん、これなら”まずまず美味しい”、だね」

 ポジティブな考えをもって燐はお皿に盛りつける。

「クロワッサンが焼き上がりましたよ~」

 店でも使う予定の小さなベルを鳴らしながら、燐は長い髪の少女の待つ、木目調のダイニングテーブルの上に白い皿をことっと置いた。

「ありがとう……」

 感情がこもっていないというよりも、最初から最後まで平坦なお礼にもすっかり慣れてしまった。

 ()()()()()は感情がないわけではなく、表現の出し方を忘れてしまったようだ。

 今日だけのやり取りで燐はそう分析していた。

(あんな目に合えば誰だってそうなるよ……)

 小さい頃のオオモト様が不条理の下で暴行を受けたことを燐は知っていた。

 薄暗い部屋で男達から辱めを受ける、オオモト様を。

 何故あの場で誰も止めるものは居なかったのだろうか。
 それを思うと胸がちくちくとしてくる。

 人の道を外してでも、渇望した幸運、それが廻りまわって彼らの元に降りかかったんだろうか? あの欲望を隠していた歪な面のような醜い姿に。

 オオモト様は少女の身でその欲望を一身に受け止めていたから。
 きっと同じだったんだろう、だからこそ分かっていたのかもしれない。

「燐」

 小さな声に呼ばれて燐ははっとなった。
 いつの間にかオオモト様に覗き込まれていた。

 ばつが悪そうに燐が視線を外すと、お皿の上のパンは全てなくなっていた。
 見かけの割によく食べると感心しきりの燐。

 オオモト様は何か言いたいのかじっと目で訴えかけていた。

「な、なんですか。やっぱり不味不味(マズマズ)の方だったとか……?」

 オオモト様はそうじゃないとばかりにふるふると首を振ると、窓の外に目を向けた。

 朝日がガラス越しに照らしてくる。
 ジトっとした蒸し暑さがテーブルやキッチンにまで入り込んでいた。

「あなたは”綺麗な嘘の話”と”悲惨なほんとうの話”……どちらが好きかしら?」

 窓の外を見ながらぽつりとつぶやく。
 それだけ言うとオオモト様は背を向けてしまった。

 燐は困惑したように小さな背中を見つめると、眉根を寄せながら何も乗っていない綺麗なお皿を片づけだした。

 黙り込んでしまったオオモト様を横目に見ながら、燐はお茶を淹れることを思いだして、ポットのスイッチを入れる。

 大して時間は掛からずにお湯が沸くのだが、今はその時間がもどかしかった。

 お湯が沸く間、手持ち無沙汰を解消するように燐は洗い物をしていた。

 どういう意図の質問は分からない。

 謎かけのような質問はオオモト様の常套句のようなものだったから、燐はそこまで深刻に考えない様にしていた。

 なにか適切なヒントはないかと辺りを見回してみる燐。

 調味料、パンを焼くオーブン。
 業務用の冷蔵庫が二台、それとカエルのキャラクターが描かれた無添加の洗剤とスポンジ。

 どれも答えを提供しそうにはなかった。

 かちゃかちゃと音を立てながら食器を片づける。

 やることがすっかりなくなってしまった。

(このままベッドに潜り込めばいい感じで寝られそうなのに……)

 体ではそう思うが、心はまだどこかで躊躇していた。

 オオモト様の質問が残っていたから。

 どういう概念の質問なのかまるで見当がつかない。
 そこまで重要なことではない気がするのだが。

 適当な相槌をうって話を終わらせて眠ってしまおうかなんて思いたくなる。

 睡眠は人間の三大欲求の一つなのだから、抗いようがないのだ。
 
 それにしても、オオモト様の言うことは姿形は変わってもその辺は変わらなかった。

 濡れた手でタオルを探しながら、うんうんと燐は一人納得したように頷く。

(どんな答えをしてもため息はつかれそうだなあ。”それがあなたの考えなのね”とか意味深なこと絶対言いそうだし。どうしたらいいのよぉ)

 腰をくねらせながらもだえる燐。

「どう答えても問題ないわよ」

「うひゃああぁっ!!」

 沈黙していた空気が急に動いたので燐は朝っぱらに似つかわない声をあげてしまった。

 慌てて口元を抑えると、声を潜めてオオモト様に口を尖らせる。

「オオモト様……わたしの心の声を読まないでくださいよぉ。ご近所迷惑になっちゃうからっ」

 近所迷惑になるのは燐のほうだが、ついオオモト様に矛先を向けてしまっていた。

「心を読むことなんてできないわ。人が心の中で思い描くものはそれぞれ違うものだから」

 本当に分からないとばかりに小首を傾げるオオモト様。
 燐は疲れたようにため息をついた。

「それより燐、新しいパンはまだなの。さっきから待っているのだけれど」

 ちょこんと椅子に腰かけながらこちらを見るオオモト様。
 先ほどの謎めいた質問は何だったんだろうか?

 窓から差し込む光の粒子がきらきらと艶やかな黒髪をなめらかに彩っていた。
 青々としている山裾が遠くに見えていた。

「それに、人の心が読めたとしてもそれは良いことだけではないのよ。むしろ悲しくなるほうが大きいかもしれない」

 水面を揺らす様な静けさでオオモト様は瞼を伏せる。
 それに燐は何も答えなかった。

 朝の爽やかな静けさが木目調のリノリウムの床に小さく横たわる。

 前の家主が置き去りにした古時計が、ちくちくと小さな音を立てていた。
 普段なら気付かぬ些細な音が、この時はやけに耳朶をひりひりと刺激した。

「あっとぉ、じゃあ次はシナモンロール焼いちゃおうかなぁ。これも好きなんだよねぇ。今度はわたしも食べてみようかな……?」

 燐は表情を伺いながらことさら大きな独り言を呟くと、足早にキッチンへと戻った。

 せっかく片づけた食器や材料をまた出すのは少々面倒だが、小さなお客様のオーダーに答えてあげたい。
 
 でも今からシナモンロールを作るのはかなり時間がかかるので、あらかじめ用意しておいた生地を冷蔵庫から取り出した。

 ホットケーキミックスで作った簡易的なものだが、おやつ替わりで食べる分にはちょうどよいと思って燐が作っておいたものだった。

 容量の少ない家庭用冷蔵庫とは違って色々入れることができるのは重宝する。
 変なものを入れるなと母に怒られることもあるけど。

(にしても暑いなあ……早朝からこれだと今日も炎天下になりそう)

 額の汗を拭いながら燐はめん棒で生地を伸ばしていく。

 キッチン兼パン工房の中はまだ夏の残り香が残っているこの時期では、蒸し風呂のような暑さがあった。
 朝早い時間でもこのありさまなのだから、日中はそれこそ汗だくになるのは必至だろう。
 それなので、厨房にはささやかながら冷房が完備されていた。

 本当に細やかすぎて、壊れているのかと錯覚するほどの弱々しい風が燐の前髪を軽く持ち上げる。
 これでも最大風力なのだから、空調設備の充実は急務だった。

(伸ばし終わった生地にシナモンと砂糖を掛けるでしょ。くるくると巻いた後、切り分けて。あとは、それから……)

 作業工程(レシピ)を頭の中で思い浮かべながら、燐は肝心なことを忘れていたことに気付く。

「オオモト様ももちろん食べますよねぇ、まだちょっと時間が掛かりますけど」

 今更、聞くまでもないことだったが、念のため声を掛けた。
 今すぐにでも消えてしまいそうなほど、儚く、か弱い存在に見えたから。

「ええもちろん。あなたが作るものなら何でも食べるわ。それに時間はまだあるから」

 表情は変わらず涼しかったが、オオモト様の思いかけずの言葉に燐は手が止まってしまった。
 
 友達や母が冗談交じりで言う言葉とも違う素直な言葉に、燐は()()()()()オオモト様に優しい感情を持つことができた。

(わたしはあんまり時間がないんだけどなぁ……まあ、いいか)

 わたしの作るパンでも待っていてくれる人がいるのは嬉しい。
 食べてくれる人がいる、それだけで作り甲斐が、理由が出来るのが嬉しかった。

 燐はその気持ちを先ほどの答えに乗せて言葉にする。
 
 目の前で待つ少女に想いを届けるように。

「わたしは……嘘でもなんでも楽しい話の方が好きかなぁ、そりゃあ、悲しい話の方が心が揺さぶられちゃうんだけどね」

 伸ばし終わった生地を前に何気なく口にした。
 自然な言葉の流れは自分でも驚くほど軽やかで精細さをもっていた。
 
「そう」

 オオモト様の意味ありげな質問は一言の答えを返すのみで、後はただこちらつぶさに見ていただけだった。

 想いが届いたのかは分からない。

 ただ曇りのない瞳で見つめられていることが気恥ずかしくて、燐はちらちらと視線を小刻みに逸らす。

(う~、やっぱり答え方間違っちゃったのかなぁ。頭の弱い子って思われるのかもぉぉ)

 もやもやとしたままパンを作っていたせいか、燐はつい散漫になってしまい、うっかりシナモン粉を大量に振りかけてしまった。

 シナモンの香りが好きだから少し多めにすることはあっても、こんなに大量にしたことは一度もない。

「やばっ!!」

 燐がひとこと言う間に、黄色い砂塵はあっという間に広がって、キッチンからダイニング、床やテーブルにまで大量に降り注ぐ。
 
 更にそれは扇風機の風に煽られて広範囲へと散らばってしまった。

 シナモンのほろ苦さが燐の視界を覆い隠し、髪や身体をセピア色の色調に染め上げる。

「けほっ! けほっ!」

 両手で口元を覆いながらむせたように咳き込む燐。
 大量のシナモンを吸ってしまったのだから無理もなかった。

 涙目になりながらも、燐はまず椅子に腰かけたままのオオモト様の傍に寄り添った。

 オオモト様は人形のような白い肌にところどころ黄色を纏いながら呆然としたように座りこけていた。

 申し訳なさと、迂闊さに際悩ませながら、燐はオオモト様の綺麗な髪や着物に纏わりつく香辛料の粒を手でぱんぱんと叩き落とす。

 その度に小さな体が大きく揺れて、燐はそのまま壊れてしまいないかと心配になった。

「ごめんなさいっ! だいじょうぶですか?」

 その顔を覗き込むと、まだ気が仰天しているのか燐のほうは見ずに何もない虚空を眺めている。

 あまりにも表情が変わらないので気がかりになった燐は一声掛けることなく、オオモト様の胸のあたりに手を当てた。

 とくん、とくん。

 ロウソクのような微かな心音が掌ごしに伝わってくる。

 燐が安堵の息をもらそうとすると、オオモト様が自分の頬についた、シナモンの粒を指ですくって舐めていた。

 ぺろぺろと。
 味わうように何度も。

「……オオモト様。何なさってるんですか」

 子供っぽい、いや年相応だろうか。
 燐はオオモト様の小さな指を離すと、濡れタオルで拭う。

 思ってた以上よりも広がってしまったらしく、白いタオルは黄色になってしまった。

 艶やかで柔らかい黒髪の隙間までシナモンが入り込んでいて、いくら落としても埒が明きそうにない。

 すっかり綺麗にするには水で洗い落とすしかない、そう燐は思った。

「オオモト様! シャワーにいきましょう。着替えか何か取ってきますから!」

 燐はオオモト様の小さな手をとって、案内するように軽く引っ張る。
 けれどもそれを拒否するように小さく首を振る粉まみれの少女。

 燐は当惑したように見つめ返す。

「わたしは、大丈夫よ」

 オオモト様は小さな声ではっきりいった。

「けど、このままだと……気持ち悪くないですか? べとべとして」

「そうでもないわ、むしろ楽しい」

「楽しいって……?」

 燐はテーブルを指でそっと撫でる。
 指は線を引いたように黄色く染まっていた。

 おおよそ楽しいとは思えない状況に、燐は肩を落とした。

 母に対する言い訳だって考えないといけないし、なにより今日から登校日なのだ。

 シナモンロールだってまだ途中だし、珈琲すら煎れていない、それなのに時間はどんどんと無慈悲に過ぎていく。

 やることが多すぎて、燐は軽いパニックになりそうだった。

 頭を抱える燐を見て、オオモト様は小さくくすりと笑った。
 折れそうに細い指を口元に寄せて。

「やっぱり楽しい……燐、あなたといると退屈しないわ」

 微笑んだオオモト様はシナモンの粒と朝日が差し込む光に照らされて、息をのむほどの美しさを纏っていた。

 それは絵画や彫像では出すことが出来ない艶やかさがあった。

 幸せそうな笑み。

 きっとこれが言いたかったのだと燐は思った。

 眩いほどの映しい空、

 どこまでも高い空と同じように、少女は透明に澄んでいた。


 ………
 ………
 ………



「──ん…………」

 

「り、ん……」

 

「燐……」

 

 儚げな声が頭の中に響く。

 

 忘れられない声。

 

 忘れてはだめな声。

 

 わたしの脳裏を、気持ちを揺さぶる声。

 

「燐、燐」

 

「……んん。あ、おはよう蛍ちゃん。今日は自力で起きられたみたいだね」

 

「うん……起きたら真っ白だったからびっくりしちゃった。雪の中に埋もれたかと思ったよ」

 

 ちょっと酷い言われ方をされた気がしたが、今の蛍には理解できない言語で話されているようなものだった。

 

「真っ白って……さすがにそこまで寒くないとは思うけど。それにまだ雪は降りそうにないし」

 

「うん。そうだね……」

 

 起き抜けの声の蛍はまだ現実感を掴めていないようだった。

 寝ぼけ眼のまま、目の前の白いものに手を伸ばす。

 

(固い……本かな……?)

 

 まったく知らない本というわけではない、蛍にも見覚えのあるものだった。

 

「燐。もしかしてそれって課題? 今日もらったばかりの課題をやってるの」

 

 燐が開いているのは、今日二学期の最後に渡された課題のテキストだった。

 

「うん。なんかボーっとしてるのも勿体ないって思ってさ。どんな問題があるのかなって」

 

 さも当然のように言う燐に、蛍ははぁ、と気の抜けたような声をあげた。

 

「燐は見た目と違って真面目だもんね。わたしは小説は読むけど勉強はしたことないから」

 

 蛍の暢気な言葉に燐はくすっと笑う。

 

「むー、見た目は余計じゃない? それに、どんな課題かちょっと目を通してただけだよー」

 

「わたし、夏休みの課題一つもやらなかったでしょ? だから先生に先立って釘刺されちゃってさ……だからちょと真面目ぶろうかって思って」

 

 桃色の小さな舌をだしてはにかむ燐。

 蛍は合点がいったように頷いた。

 

「ああ、そっか。燐はそうだったもんね」

 

「うん。だから今の内に少しやっておけば、何があってもいいかなって」

 

「何がって?」

 

「イレギュラーな何か。トラブルかもしれないし、良いことかもしれないけど」

 

「”備えよ常に”だっけ? 聡さんから教わったボーイスカウトの教訓だっけ」

 

「うん……でもあれって日常でも言えることだよね。備えあれば患いなしって。だから少し勉強してました。うるさくしてごめんね」

 

「ううん。目が覚めたのはそういうことじゃないから気にしなくていいよ燐」

 

「じゃあ、お言葉に甘えてもう少しだけやっちゃおうかな。必修科目が多くなっちゃって大変なんだよね」

 

「わたしも、覚えることいっぱいで頭パンクしそうになるよ」

 

 ちょっと目を通すだけにしようとしたのだが、蛍にそう言ってしまった手前、燐は引っ込みがつかなくなってしまい、少しは課題に取り組むことにした。

 

「うふふ」

 

「……? どうしたの蛍ちゃん変な声出して」

 

 ページをめくりながら、蛍の方を見ずに尋ねる。

 もっとも蛍の顔はテキストの下にあるのだが。

 

「だって、燐が真剣な顔してるなって思って」

 

 蛍はノートの僅かな隙間から燐の顔を眺めていた。

 

「これでも勉強だからね。こーんな顔して勉強してたらおかしいでしょ?」

 

 そう言って燐は自身の目じりを指で吊り上げた。

 

「あははっ、燐ってば。そんな人いないよ~」

 

 燐の可愛い顔が台無しになるほどの変顔に蛍は腹を抱えて笑った。

 

 蛍があまりに笑い続けるので、燐は恥ずかしくなってさっきの顔をすぐに止めて、誤魔化すように課題に取り掛かった。

 

「ごめん。あんまりおかしかったから本気で笑っちゃった」

 

 察した蛍は燐に頭を下げる。

 それでもまだ笑いの虫が収まらないのか、思い出し笑いを続けていた。

 

「ねぇ、燐。さっきの顔もう一回やって欲しいな。写真、SNSに上げるから」

 

 スマホを片手に蛍が微笑む。

 それを見た燐は心底嫌そうな顔を蛍に向けた。

 

「そんなことしなくてもいいのっ。もう、蛍ちゃんもちょっとは課題やればー」

 

 燐に呆れたように言われたことで蛍は少しむっとして拗ねた口調で言い返す。

 

「えー、今はそんな気分じゃないからいいよぉ」

 

「蛍ちゃんはマイペースだもんね。でも、夏休みの宿題もぎりぎりだったんでしょ? 今の内からやっておけばきっと楽だよ」

 

 燐の言うことはもっともだった。

 だが、蛍は自分を良く知っているので、それを変えようとも変えたいとも思わない。

 

 だって燐がいるから。

 

「燐。終わったら後で写させてね」

 

「……蛍ちゃん、課題は自分でやらないと意味ないんだよ」

 

 やはり燐の言うことはもっともだった。

 

「それはわかってるけど……でも面倒だし……それに燐の書く文字って綺麗で見やすいから、わたし好きなんだよね。燐は教えるのが上手だから先生になれるよ」

 

「すぐそうやっておだてるー。そんなこと言ったって見せてあげないんだからねっ」

 

「はいはい」

 

 ()()()やり取りに蛍は口元を隠して、うふふとほくそ笑んだ。

 

「ほんとうにわかってるのかなぁ?」

 

「うんうん、わかってるよ燐」

 

(燐が必ず見せてくれることをね)

 

 訝しみながらペンをくるくると回す燐。

 蛍は確信があったので、その様子をただ笑ってみていた。

 

 

 ………

 ……

 …

 

 ごぉごぉとしたうねり声がトンネルの隙間から車内に入り込んでくる。

 

 どこか別世界のような目線で蛍は周りを見渡した。

 

 静けさを伴った座席にはもう誰も乗っていないかのような錯覚を思わせる。

 

 その中で燐がペンを走らせる音だけが、ただ一つの生きている音だった。

 

「んんーっ、問題多いし。それになんか今日は捗らないなぁ……やっぱり疲れてるのかも」

 

 大きく伸びをすると、燐は降参するようにペンを転がした。

 

「今日は色々あったからね。そういう日もあるよ」

 

 落ち着いた声色で言う蛍。

 

 下から見上げる上から目線の蛍の言葉だったが、燐は特に気にせずほっと息をはいた。

 

「くすっ、蛍ちゃんは優しいなぁ。蛍ちゃんの方が学校の先生に向いてるんじゃない?」

 

「えっ、わたしが先生……?」

 

「どうしたの蛍ちゃん。わたし、変なこと言ったかな」

 

 ハトが豆鉄砲を食ったような顔になった蛍に、燐は不思議そうな目を向ける。

 

「だって、そんなこと考えたこともなかったから……そっか先生かぁ……燐がそういうなら目指してみるのもいいのかな」

 

 自分の頬に手を寄せて、身もだえるように頭を揺らす蛍。

 そのせいで蛍の頭が燐のふとももがぐりぐりと刺激して、燐は、はうっと情けない声を上げてしまった。

 

「あ、ごめん。燐のふとももずっと枕にしてたよね」

 

 燐が痛そうな声を出したので、蛍は慌てて飛び起きようとする。

 

 それを見て燐は蛍のおでこを指でちょんと乗せてやんわりとそれを制した。

 

「だいじょうぶだよ、蛍ちゃん。少しくすぐったかっただけ」

 

「ほんとなの燐?」

 

「うん本当。それにこれぐらい、部活に比べたらなんともないよ」

 

 課題のノートを手に持ちながら小さくガッツポーズする燐。

 シュートを決めた時に良くする、少し控えめな燐のアピールだった。

 

「そう……でも、痛かったらすぐに言ってね、すぐにどくから」

 

 蛍は燐のふとももに頭をゆっくりと乗せる。

 

(でも、こうしていると燐の愛情に包まれているみたいで安心するっていったらどんな顔されちゃうのかな……)

 

 膝の上から心配そうに仰ぎ見る蛍に燐は屈託のない笑顔で微笑んだ。

 

 胸中の思いは伝わってないだろう。

 けれどもそれで良かった。

 

「でもね、蛍ちゃん。学校の先生になるならしっかり勉強しないとね。自力で課題を終わらせるぐらいは普通にしないと」

 

「燐。わたしだってやれば出来るんだよ」

 

 燐に子ども扱いされてると思った蛍は少し頬を膨らませていった。

 

 実際蛍は夏休みの課題を一人で終わらせていた。

 

 もっともそれは提出されることはなかったのだが。

 

 そのせいで蛍が学校に復帰したときは、さっそくの追試に悩まされることになった。

 それは燐も同じだったのだが。

 

「だったら今回も一人で頑張ってね、蛍せんせ」

 

 悪戯っぽくウィンクしながら、燐は未来の先生にエールを送る。

 

「もう……!」

 

 牛の物まねのような蛍の声はトンネルの轟音にかき消されてしまった。

 

 ………

 ……

 

「……そろそろ交代しよっか」

 

「ん、交代って?」

 

 燐の膝枕で寝そべっていた蛍から思わぬ声がかかり、燐はつぶさに聞き返した。

 

「今度はさ、わたしが燐に膝枕してあげる。いい加減、疲れちゃったんでしょ」

 

「まあ、それは否定しないけど……いいの?」

 

「うん。燐に負担かけたままじゃかわいそうだしね」

 

 蛍は軽く手を合わせると、即座に頭を起こした。

 

「大げさだよ蛍ちゃん」

 

 だが、蛍が頭を起こしたことで、足が軽くなったのは確かだった。

 人の頭の重さは体重の10%程度と言うが……。

 

 燐は思わず蛍の頭頂部を見つめていた。

 

「………?」

 

 何事かわからず小首を傾げる蛍に、燐は繕った笑いを見せる。

 

「ほ、蛍ちゃんは重くないからねっ」

 

 意味がわからなかった蛍はもう一度首を傾げた。

 

 ……そこまでやわな足じゃないんだけどなぁ、と燐は自分の足に対して愚痴をこぼすも、蛍の提案に素直に応じて体勢を入れ替える。

 

 だが、蛍のふとももに頭を乗せるのに抵抗感があるのか、燐は念を押すように蛍に聞き返した。

 

「蛍ちゃん、本当に大丈夫?」

 

「燐こそ大げさだよ。膝枕するぐらいで遠慮することないよ。あ、でもちょっと待ってね」

 

 蛍はバックパックを開くと中から忍ばせて置いたポシェットを取り出す。

 それをさらに開いて、中から綺麗なハンカチを取り出すと、それを広げて自分の膝の上に置いた。

 

「はい、どうぞ」

 

 そう言って出迎える蛍は、少し頬が染まっているように見えた。

 

 燐は微笑ましさに小さく笑うと、ゆっくりと体を倒して蛍の膝元に頭を寄せる。

 

 黒いストッキングに包まれた蛍のふとももは、燐が思ってたよりもずっと柔らかく、心地よい感触が頭をふんわりと包み込んでいた。

 

 横を見るとすぐ蛍のスカートが目に入る。

 ひらひらとした可愛らしいレースのスカートがカーテンのようにひらめいて、とても可愛らしかった。

 

「そういえば、わたし蛍ちゃんに膝枕されたことってそんなにないなぁ」

 

「そうだっけ?」

 

 燐の髪をやんわりと触りながら蛍が顎に指を添える。

 髪を梳くほどに燐の表情が穏やかになっていくようで、蛍は胸中で胸をそっと撫で下ろしていた。

 

「うん。だからかな、なんか、ちょっとドキドキしてるかも」

 

「わたしもなんかドキドキしてる」

 

 位置が変わっただけなのに、二人は初めて会ったかのように顔を赤くしていた。

 

 そのまま見つめ合う燐と蛍。

 

 互いの目を見ているだけで、どんどんと思いが募っていくようで、ドキドキが収まらなかった。

 

「今さ、誰か来たらどんな風に見られちゃうのかな……」

 

「同じ制服だし、仲のいい友達ってところじゃない? まあ膝枕はちょっと引かれちゃうかもだけど」

 

「そうかな……?」

 

 蛍は意外そうな顔をする。

 燐がもう少し気の利いたことを言ってくれると思っていたから。

 

「でも、仲がいいっていっても限度があるよね。わたしと燐は客観的にみてどれぐらいなのかな?」

 

「うーん、そうだねぇ」

 

 蛍が欲しい答えは燐にはわからないでもない。

 ただ、それを口にすると何かが崩れてしまう気もする。

 

 この微妙な関係は確かに心地よく、それなりな幸福感があった。

 親友と呼べるほど仲が良くて、お互いのことを気遣える関係が。

 

 でもそれ以上にはなれない、そんな気はする。

 

 性別とかそういった身体的なことではなく、もっと崇高な精神的なもので。

 

 振り返るほどに何かを忘れてきた気になってしまう。

 心と体の繋がりをお互いが期待しているというのに。 

 

「ううーん」

 

 燐は少し希望を匂わすような事を言おうと思ったが、適当なことを言って蛍を傷つけたくはなかった。

 

 カチューシャから零れ落ちた前髪を指で弄びながら、燐はわざとらしい声でうめく。

 

「そんなに難しい答えかな……?」

 

 燐の髪をさらさらと手で梳かしながら蛍がどこか惚けたようにつぶやく。

 

 困ったように蛍は微笑んだ。

 

「うん。難しい答えだよ蛍ちゃん。数学の課題なんかよりもずっと」

 

「わたし数学と物理は好きだよ。燐も好きだけど」

 

「……もしかして、今の告白なの?」

 

「うん。頑張ってみた」

 

「はぁ……」

 

 重いため息を蛍に向けて吐き出す。

 想いの塊は蛍の鼻筋を通って、蛍光灯明かりのなかに消えていった。

 

 蛍が何気なく呟いたことで燐はあることを思いだした。

 

「そういえばオオモト様も同じようなこと言ってたなぁ」

 

「オオモト様が? じゃあオオモト様も燐の事が好きなの?」

 

 急に顔を近づけてくる蛍に燐は少しびっくりしてしまった。

 

「そうじゃなくて、好きの比較が突拍子もないものだってこと」

 

「なんだ、びっくりした。オオモト様、燐の事気に入ってたみたいだからてっきり好きなのかもって」

 

「わたしよりパンの方が好きだったみたい。いっぱい食べてたし」

 

「そうなの? 意外だね。オオモト様、和食派だと思ってたよ」

 

「あんな恰好してるからね……あ、そういえば手毬、返しそびれたままだった」

 

「手毬って、オオモト様の? 持っていかなかったの?」

 

「うんー。うちに置いたままになってるんだよね。あれ? 蛍ちゃん知らなかった?」

 

「うん。今始めて聞いたかも」

 

 蛍が嘘を吐いているようには見えなかったので、燐はあれ? と首を傾げる。

 

 オオモト様が持っていた手毬、それは確かに燐の家にあった。

 

 いつ取りにきてもいいように玄関前の棚の上に置いておいたのだけれど。

 

 あれから一向にオオモト様は現れてくれなかった。

 

(そういえば、ぶつかりそうになった人ってオオモト様にちょっと似てたような気がしたけど……他人の空似だったのかな)

 

 この世には自分と同じ人が三人は居るっていうし。

 オオモト様が三人、いやもう少しいてもそんなにおかしくない気はする。

 

(蛍ちゃんだって”オオモト様”だしね)

 

「手毬か……あ!」

 

 燐がなんとも言えない表情で健気なオオモト様を眺めていると、急に思い出したような声を蛍はだした。

 

「どうしたの」

 

「燐。オオモト様が忘れていった毬って中に鈴みたいのが入ってなかった?」

 

「あ、えと………」

 

 燐は少し考えた後、小さく首を振った。

 ちょっと投げてみたときにそれっぽい音がしていた気もしたけど。

 

「ごめん、触ると呪われちゃうかとおもって、あんまり弄ってないんだ」

 

 でも埃だけは掃ってるけどね、と燐は付け加えた。

 

「そう……あのね、燐」

 

「うん」

 

「もしかしたらその毬、わたしのかもしれない」

 

「え、蛍ちゃんのものってどーゆーこと!?」

 

 燐は跳ね起きるほどの勢いで聞き返す。

 

「うん……」

 

 蛍は口を引き結ぶと、逡巡するようにした。

 燐はそのしぐさをぼんやりと見上げていた。

 

(やっぱり蛍ちゃんの胸、大きいなあ……大きすぎて顔が見えないほどなんだけど)

 

 燐が蛍の胸を見上げながら暢気な感想を頭の中で巡らせていると、ようやくまとまったのか、蛍が口を開いた。

 

「最初はね」

 

「うん」

 

 蛍が話し出したので、燐は黙って耳を傾けた。

 

「最初は二人で飛ばした紙飛行機だったの。でも……わたしはそれを潰しちゃったんだ。だってすごく悲しかったから」

 

 蛍が一言一句噛みしめるように言った言葉に燐は目を丸くした。

 

 それは言っていることの意味が分からなかったわけではなく、少し情報量が多かったからだった。

 

 情報を整理するだけの時間が燐には必要だった。

 

「え、紙ヒコーキって、あの時の」

 

「うん。燐もやっぱり覚えてたんだね。ノートの切れ端で作った、二人の紙飛行機。それがわたしの足元に降りてきたんだよ」

 

「え。だって、そんな、こと……」

 

 狼狽えるように呟く燐の様子に蛍は違和感を覚えて燐に尋ねる。

 

「あれって燐が飛ばしてくれたんじゃないの? わたしに届けるために」

 

 胸の奥でしこりになっていた想い。

 

 苦しさとか切なさとかそういった重しをちょっとでも軽くしてあげたい。

 そう願って飛ばした紙飛行機。

 

 最初は戸惑っていた燐も一緒になって飛ばしてくれた。

 

 それが燐が消えたあと、わたしの下に降り立ってきたんだ。

 何かを、忘れていたなにかを思い出させるように。

 

 それの想いを今ようやく吐き出すことが出来た。

 

 ふたりで飛ばしたはずの紙飛行機が寄り添うように飛んできたこと。

 

 ずっと大切にしようと思っていた”きれいなもの”。

 

 感情の高ぶりからわたしが握りつぶしてしまったけれど。

 

 あの時の慟哭は片時も忘れたことがなかった。

 

 なぜならあの時のわたしは。

 

 世界でただ──ひとりきりだったから。

 

 広い世界に投げ出された異邦人、そのものだったから。

 

「わたしには、そんな事できないよ……だって」

 

 燐は寂しそうにつぶやいた。

 

「だってわたしには、あの紙飛行機に触れることができないから」

 

 燐の言葉はあの日みた空のように、蒼く澄んでいた。

 それでも蛍のふとももの上に頭を乗せた燐はここにいる。

 

 ──なのに。

 

 不意に焦燥感にかられて蛍は燐の手を強く握った。

 柔らかく暖かい、そのちいさな温もりに、蛍はほっと胸をなでおろした。

 

「なんか、手錠をかけられたみたい」

 

 儚げに笑う燐がとても愛おしくなって蛍は片方の手を燐の胸に当てる。

 

 どくんどくん。

 

 少し早めの燐の鼓動に、蛍は思わず涙をこぼしそうになり、唇を噛んではにかんだ。

 

「ありがとう燐」

 

「わたし、お礼を言われるようなことしてないよ」

 

 燐は空いた手の人差し指で蛍の鼻をちょんと触る。

 それで蛍が少し涙ぐんでいることに気が付いた。

 

 燐はそっと指先で目元を拭ってあげる。

 それぐらいしかしてあげることが出来ないから。

 

「ん。でも、ありがとう……」

 

 どこまでも暗く、辛い出来事ばかりだったけど、その中のほんの僅かな灯り。

 その小さな灯りが今のわたしと燐を結び付けたんだ。

 

 限界まで追い詰められて、最後の最後まであがき続けたわたしたち。

 オオモト様に名前を呼ばれて、その暖かさに触れたこと。

 

 もう半年前の出来事なのに、もう何十年と経ったみたいに感じられる、忘れない遠い日の出来事。

 

 傷ついた心はもう戻らないけど、それでも二人一緒にここにいる。

 

 燐とわたし、そしてオオモト様……。

 好きな人に囲まれてほんとうによかった。

 

「ねぇ、やっぱりオオモト様に会いたい?」

 

 燐に顔を覗き込まれてはっとなった。

 蛍は考える間もなく口元を小さく緩めながら首を振る。

 

「……ううん」

 

「そうなの? わたしはまた会ってみたいなあ。パンのお金貰ってないし。毬も返してあげたいしね」

 

 燐は少し蛍から目線を逸らすと、天井の蛍光灯管を眇める。

 その中の小さな羽虫の死骸が、夏がとっくに過ぎていたことを示していた。

 

「オオモト様、忙しいのかな?」

 

 遠くをみるような声で蛍が呟く。

 

「忙しいっていうか、神出鬼没って感じがしない? 噂してたらしれっとこの場に現れそうだし」

 

「だね」

 

 二人は照らし合わせたように辺りを見渡す。

 

 着物を着た女性も少女もこの車両には乗っていなかった。

 それどころか他の乗客さえも乗っていないみたいに感じる。

 

 暗いトンネルの中に閉じ込められたみたいになって、蛍は不安を感じてしまった。

 

「ねぇ、燐……他の車両に移動してみようか?」

 

 不吉な考えを打ち消すように、蛍が先だって声をかける。

 

「蛍ちゃんと”一緒なら”いいけど……」

 

 燐は強調するように蛍と一緒の行動を口にした。

 

 あの夢が正夢であるはずはないが、どこか心にひっかかりはあった。

 

 普通なら妄想ですんでしまうことだが、その妄想以上の出来事に二人してあったのだから。

 

 全てを夢で片づけることは出来ない、燐はあの体験でそれを学んだ。

 

「じゃあ、一緒に……あっ」

 

 立ち上がろうとした蛍だったが、ふと思い立って腰を浮かすのを止めた。

 それを見て燐は不思議そうに見つめる。

 

「……燐がどいてくれないとわたし、立ち上がれないよ」

 

 口に手を当てて微笑む蛍を見て、燐は今自分のいる場所を思い出した。

 

 寝心地が良くてつい忘れていたが、蛍の膝の上に頭をのせたままだった。

 

「ご、ごめんね蛍ちゃんっ。寝心地が良くてつい」

 

 燐はがばっと起き上がると、即座に謝罪した。

 

「いいよ。燐が気持ちよくなってくれたらわたしも嬉しいから」

 

「でも、今度からは30分100円だからね」

 

「いやいや、蛍ちゃんのふとももは30分500円の価値はあるよ」

 

「そう? だったらそういう仕事やってみようかな。燐限定だけどね」

 

「えー、親友からお金取るのぉ?」

 

「燐、だからだよ」

 

 顔を見会わせて無邪気に笑い合う二人。

 

 暗闇の中から響く地鳴りのような音の中でもはっきりと聞こえる声は、見えない恐怖をほんの少し遠ざけてくれた。

 

 ────

 ────

 ────

 

『──長らくのご乗車ありがとうございます。次は終点、小平口……お出口は左側になります……』

 

 現実感のあるアナウンスが、二人だけの車内にも響きまわった。

 

 燐と蛍は手を握ったまま、その無慈悲なアナウンスを聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。

 

 二人以外誰もいないと思った列車は、ただ単に終点まで乗る人が少ないだけだった。

 

 そのことは二人ともよくわかっているのに、ちょっとの違和感で簡単に疑ってしまう。

 

「もしかしたら期待してるのかな……? そうなることに」

 

 蛍のいう期待は世間一般のものとはちょっと違っていた。

 燐もそれがわかっていたから、気遣うように笑いかける。

 

「こういうの、なんとかシンドロームって言うんじゃない? 夢と現実の区別がつかないとかいうやつ」

 

「わたしは現実が見えてるから違うよね。燐がそれなんでしょ?」

 

「わたしだって現実ぐらいみえるもん。例えば……試合で何点取ったとか、今週の売り上げがどのぐらいだったとか色々みえてるしっ」

 

 指折り数えて計算する燐は幼い子のように見えて、可愛かった。

 

 狂気と正気、その違いは天と地ほどに違うけど、そこに燐がいるだけで世界が変わったようになる。

 

 燐がいればどこだっていい、ただ燐が隣にいてくれさえすれば、それだけでわたしはいいんだ。

 

 でも、少しだけ温もりが欲しい。

 

 燐がずっと隠している傷だらけなところに触れてみたい。

 

 蛍の心がざわざわとして、息が少し早まったきがした。

 

「ねぇ、燐。わたし、燐に貸してたものがあるんだけど」

 

 こちらを見ながら言う蛍に燐は何かを感じ取ったのか、曲げていた指をゆっくりと元に戻した。

 

 手を握る蛍の力が強くなっていく気がした。

 

「わたし何か貸してたかな……蛍ちゃんからノートは借りてないし、小説は確か前に返したはずだよね」

 

「うん」

 

 燐としては普通に話してるだけなのだが、蛍にはそれが妙にもどかしかった。

 

「ゲームじゃないしねぇ……蛍ちゃんはそもそもゲームしないもんね。うーん、なんだろう?」

 

 顎をちょんとつまみながら足を揃えて純粋に考え込む燐。

 

 その一連の動作全てが今の蛍にはたまらく魅力的で愛おしい。

 

 慰めてあげたい。

 そう思った蛍は燐との距離を近くした。

 

「どう? 分かった」

 

 そんな可愛らしい燐に蛍は意地悪に聞き返す。

 燐が分からないことを知っていたかのような艶めかしさで。

 

「むー、降参。わたし人に貸借りするのが苦手だから結構覚えてるんだけどなあ。どうにも思いつかないよぉ~。蛍ちゃんごめんね~」

 

 覚えのないことに両手を合わせて謝る燐を見て、蛍は胸の奥がとくんと熱くなった。

 意地悪してるのにそれを疑うことなく、純粋に信じ込んでしまう少女。

 

(わたしのこと燐は純粋って思ってるみたいだけど、燐のほうがよほど純粋で危なかっかしいよ……)

 

 快活な少女の奥にある繊細なこころの奥。

 

 それを大切に守ってあげたい。

 

 でも、それだけに壊してみたい気持ちも少し分かる。

 

 きれいだからこそ余計に散る姿がみてみたい。

 

 蛍はこの時初めて、燐の従兄の抱いていた気持ちが分かった気がした。

 

「じゃあ、教えてあげる」

 

 そういった蛍は耳にかかった長い髪を軽くかき上げると、不思議そうにこちらを見る燐の顔を影を作った。

 

 艶がかった唇は何かを求めるように小さく開いて、熱を帯びた息を吐き出している。

 

 ───きっと、意味のないことだった。

 

 けれども感情が先走り、意味もなく求めてしまう。

 

 取り返しのつかないことになるのは分かっているけど、それを止める理由もなかった。

 

 燐と同じことをする、それだけが蛍を衝動的に動かす。

 

 お互いの鼻先が触れそうになって、燐は思わず倒れ込んだ。

 

 蛍も追うように燐に覆いかぶさる。

 二人の視線がぴったり重なり合って、無言のまま見つめ合った。

 

 燐の瞳には困惑の色はない、諦めたような色も。

 

 だからそこで動きを止めてしまった。

 

 唇が触れ合うまで後、数センチ、数ミリしかないのに。

 

「……いいよ」

 

「燐」

 

 瞬きするだけでまつ毛が触れ合いそうな距離で。

 

「蛍ちゃんのしたいようにして、いいよ」

 

 鼓動も何もかも見透かされてた。

 

 想いも、左手の傷も。

 

 寝たふりをしていたことも何もかも。

 

 かたかたと揺れていた。

 

 暗いトンネルの中で蛍の長い髪が振り子のように揺れていた。

 

 もうすぐこのトンネルも抜ける。

 その時わたしたちはどうなるのかな。

 

 友達のままで、いられるの?

 

「燐は……ずるいよね。だって……手で口押さえてるし」

 

「だって蛍ちゃん。変な事しようとするんだもん。わたしの初めては自分で守らないと」

 

 もう、と蛍は呟くとすっと顔を引いて、柔らかく燐を見下ろす。

 

 そして座席の上で足を崩すと、背もたれと燐との間のに強引に割込んでそのまま横たわった。

 

 少女とは言えども、座席の上で二人が横並びに寝るのにはかなり無理がある。

 

 燐は床に落ちてしまわないように片手をつこうとしたが、宙を舞うその手が床につく前に蛍に握られてしまった。

 

 狭い狭い座席の上で少女たちは向かい合うようにして横になる。

 

 蛍と燐、お互いの吐息が再び鼻をくすぐるほどの近さになった。

 

「蛍ちゃん。珍しく強引だね」

 

「ごめん。でも燐とこうやって話したかったから」

 

 微笑みながら謝罪する蛍。

 

 蛍が喋るたび、燐の鼻先に甘いチョコレートの香りがたおやかに薫る。

 

「危うく落ちちゃうところだったよ。蛍ちゃんの胸おっきいから」

 

 燐はバニラの香りを湛えた声色で話しかける。

 

 二人だけの甘い空間は、お菓子の香りで埋め尽くされていた。

 

 燐は空いた手で蛍の胸を触る。

 むにむにとした触感が手にとても気持ち良かった。

 

「ふつーに燐はセクハラしてるよね」

 

 お返しとばかりに蛍も燐の胸に触れる。

 蛍と比べると控えめだが、それでも年頃の少女としては十分な大きさがあった。

 

「それに落ちたとしても大丈夫だよ燐。ほらこうして手を繋いでるし」

 

 細い指先を絡め合った手はお互いに左手だった。

 心に傷がある同士でなめ合っているだけなのかもしれない。

 

 それでも放したいとは思わなかった。

 

「二人とも落ちちゃいそうじゃない?」

 

「じゃあ、こうして抱き合えばいいんだよ」

 

 蛍は手を伸ばして、燐の背中に触れるとそのまま自分の方に引き寄せる。

 思ってたよりも強い力で、燐はされるがまま蛍と抱きあった。

 

 二人の胸と顔が狭い座席の上で密着していた。

 

「ちょっと……暑くないかな」

 

 燐の声が蛍の耳のすぐ近くから聞こえてくる。

 少しくすぐったさを感じて蛍は、もぞもぞと顔の位置をずらした。

 

「わたし寒がりだからこれぐらいが丁度いいよ」

 

「くすっ、人肌が一番良いっていうもんね。雪山で遭難したときも抱き合ったほうがいいんだって」

 

「じゃあ、燐とわたしは今遭難してる最中なのかもね」

 

「そう……かもね」

 

 人気のない列車のなかでお互いの暖かさ、鼓動を直に感じていた。

 

 誰か見たら変なことをしてると思うに違いない。

 

 友達の関係とはさすがに思われないかもしれない。

 

 それでもお互いに凍えていたから。

 

 だからトンネルを抜けても、列車が駅についてもこのままで。

 

 駅員さんは車掌さんはなんて言うだろう。

 

 そう考えただけでちょっと面白くなってくる。

 

 恋人同士って言ったらどんな反応をするだろうか。

 

「ねえ、燐。わたし……次の誕生日が最期かもしれない」

 

 しがみ付く燐の髪を梳きながら蛍が耳元で言葉を作る。

 

「最期って?」

 

 囁くような蛍の声が耳に心地よくて、燐はお伽話を聞かされているような夢見ごこちになっていた。

 

 残酷な世界の残酷な言葉を燐が聞いたとき、列車は暗いトンネルの中から抜け出した。

 

 漆黒の空には星の煌めきがふりそそぎ。

 月は天の海原にぽっかりと浮かんでいた。

 

 さらさらと流れる川のせせらぎが、横切る緑の車体を穏やかに包んでいた。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 






あっ、と言う間にもう5月です? やっぱり早い──。

それで、South ParkコラボのTowelie shoeなんですが……何事もなかったかのようにあっさり落選しましたよーーーー!! ”残念ながら、落選しました”ってなんかこう素っ気ないなぁ……。
そんなに競争率高かったんですかねぇ?? オークションサイトに出品されてそうですけど、そこまで求めるものでもない気がしますけども。
再販とかなさそうですね……。

・ゆるキャン△ (アニメ)
メディア特典の新作アニメの情報が出ましたけど、あれってなでしこの格好が全部違うんですよねー。総集編というよりか、へやキャン△の寄せ集めになるのかな? エリンギネタとかやりそうな気がする。

・ゆるキャン△ 2(実写)
第4話見た時に何が起こったのかと思いましたよ。デジャブというか既視感いうか、冗談抜きで再放送かと思ってしまいましたよーー!! スキレットのエピソードは確かに実写版では割愛されていた話ですけど、こんな形で復活するとはーー。繋がりは割と自然だったのでこれはこれでいいのかもしれない、です。

5話の山中湖はびっくりするぐらい人が居ませんでしたね。バスは貸し切りかなあ。アニメよりも人気のない山中湖はコロナ禍の世相を反映してますねぇ。
カリブーくん、もといモンタベア! モンベルをゆるキャン△ で聞けるとはーー。モンベルはアウトレットショップにしか行ったことがないんですよ。でも、店の前にモンタベア置いてありますね。カリブーくんよりも全然小さいんですけども。
ヒマラヤとか言うスポーツ店の前に置いてあるやつの方がデカくて、こっちの方がカリブーくんに近い気がします。

6話は芸能人枠でしたねー。
実写版はテントを張ってる時が一番ゆるい感じがしますねー。岬の先……実写だとほんまええとやーーー。でもすごく危うい場所に見える……テント貼ったら危ないのも頷けますねぇ。
で、実写チョコちゃんーー!! かわええなぁ、かわええぇぇ……。
でも予想してたよりも大分おっきい、っていうかふとましぃ? より食パンに近いコーギーだった気がします。
あと、今回の実写へやキャン△ アニメでもやらなかったタコさんウィンナーの話を使うとは……。なでしこが(なぜか千明も)カウボーイハットをかぶってるのは、同じ作者の別の漫画のパロディなんですよねぇ。分かりづらいネタまで実写化するとは……こだわってるるるー。


でわわではー。



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Sandrillon and Green Gables in Winter


 黒い天幕を掛けた車窓からの流れにぽつぽつとした小さい光が時折、混ざるようになった。

 それは小平口町に入った合図でもあった。

 小平口町は近隣の町々と比べて照明も、舗装された道路の数も多かった。

 駅前はそこそこといった様相だが、それでも商店はそれなりにあり、生活に必要なものは十分に揃えるほど整ってきていた。

 鉄道を含めた町の存続が危ぶまれていた時期もあったが、今はどこ吹く風といった様子で、町は独自の発展を遂げていた。

 近隣との町の合併はまたしても白紙に戻っていた。

 何の気なしに始めたキャラクターを使ったPR効果が思ってた以上に効果を発揮していた。
 表立った伝承も名勝地もなく、これといった名産品もまだ生み出していないというのに。

 狐につままれたような感じはあったが、財政が潤ってくれる分には誰も文句はなかった。
 それが例えどのような力の奔流であったとしても。

 ただ、この話は何度も持ち上がるだろう。

 何れ、町が市に変わるときが来るのかもしれないが、それには解決せねばならないことがまだまだ山積みであった。

『長らくのご乗車ありがとうございます。間もなく終点の小平口駅……お出口は──』

 くたびれた感じのアナウンスが再度車内に流れる。

 いつも思うが、本当に長い道行だと思う。

 自動音声じゃないアナウンスにも疲労が色濃く聞こえるほどに。

 ぎいいぃぃっ。
 金切り声のようなブレーキ音が車体を大きく揺らす。

 壊れるのではないかと思うほどの音を出して列車が速度を落とし始めると、比較的滑らかだった走行音が急にがたがたとし始める。

 これはいつもの光景だったのでそれほど慌てることはなかった。

 よたよたと不安定に左右に揺れながら、旧式の列車は停車する準備をし始めたようだった。

「んしょ、と」

 燐はそのタイミングで上体を起こすと、傍らに置いていたバックパックを肩にかけた。

 すっかり見慣れたバックパックだが、常日頃から使っているせいか、汚れと傷が大分目立つようになってきている。

(そろそろ買い替え時かなぁ? 結構気に入ってるんだけど)

 バックパックを背負ったまま燐は立ち上がると、その場でぴょんぴょんと跳ねたりしてフィーリングを確かめてみる。

 小さい傷や色のくすみはどうしようもないが、まだまだ使えそうな気配はあった。

 燐が不安定な車内でぴょんぴょんと跳ねている時、蛍はまだ列車の長いシートに一人で座っていた。

 両手は膝の上にぎゅっと握られたまま、目は言葉を探すように宙を泳がせていた。

「どうしたの蛍ちゃん? そろそろ着く(終点)よ」

 いつもの事なんであえて言う事でもないが、さっきから呆然と蛍が腰かけたままでいるので、一応気にはなっていた。

「蛍ちゃん~? 終点ですよ~。起きてますかぁー?」

 燐はわざとらしく蛍の耳元で尋ねる。

 普段だとちょっとムッとした調子で抗議する蛍なのだが、今日は燐に何かを言いたそうに目で訴えるだけで、それっきりだった。

「んー? 蛍ちゃん、もしかして……怒ってる?」

 返事の代わりにこくこくと無言でうなずく蛍。
 その反応に確かに怒っているようにもみえる。

 ただその表情はいい意味で普段と変わらなかったので、少し分かりづらい。

「ええー、わたし何かしたかなぁ」

 頬に指をあてておどけたしぐさで燐が問いかけると、蛍はまたこくりと一つうなずいた。

 それを見て燐は、えー?、とまた困った顔をする。

(んんん??)

 燐は小さく呟いてその原因を頭の中で探った。
 思い当たる節はあるような、ないような……心当たりが曖昧過ぎで逆に判然としなかった。

「もしかして、わたしともう少し一緒に……横になっていたかったとか?」

 金属製のポールにもたれ掛りながら、燐はとりあえず直近の事から尋ねてみることにした。

「うんうん」

 蛍は口に出して頷いた。
 燐は、危うくポールを掴み損ねそうになった。

 その大きなリアクションはまた少し蛍を不満げにさせる。

「いや、だって……まだほかに人が乗ってるし、さすがに恥ずかしいじゃない? それに、変……だし」

 燐のつぶやきは段々と尻すぼみになっていた。

「変じゃないもん。みんなやってるもん」

「みんなって?」

「酔っ払いの大人とか」

「いや……あれは一番真似しちゃいけないやつだよ蛍ちゃんっ」

 燐が蛍になんとか理解してもらおうと身振り手振りを交えて説明したそのとき。

 しゅううー、と空気の萎んだ音がして列車がゆっくりとした速度になる。

 窓の外にはほのかなLEDライトの灯りが、白いプラットフォームを浮かび上がらせている。

 駅の標識には──小平口駅。

 その先には線路は続いておらず、文字通りの終着駅であった。

 それは蛍の最寄り駅でもあり、今や燐の最寄り駅でもあった。

「ねぇ……燐」

 何かを考えていた蛍が、ひそやかな声をかける。

「このまま普通にドアが開くと思う?」

「えっ? そりゃあ普通に開くでしょ」

 突拍子のない質問に燐は眉を寄せながら言う。
 気になるのか、困った顔でドアの方を振り向いた。

 雪が降る地域だとこの時期ぐらいでは手動でドアを開けなくてはならなくなるが。
 このローカル線の沿線では滅多な事では雪が降らないので、手動に切り替わるのは年明け頃だった。

「まだわからないよ燐。ドアが開いたら、あの白い人影がホームを埋め尽くしてるかもしれない……」

 顔を強張らせながら、されどもどこか嬉しそうに声を潜める蛍に、燐は呆れたような眼で見る。

「蛍ちゃん。時間遅くなるたびにそんなこと言うのは止めようよ~。そんなこと毎回言われたら、わたしだってちょっとは意識しちゃうじゃん」

「でしょ? だから燐も準備して」

 眉を潜めて言う燐にうんうんと同意した蛍はバックパックを広げて、ごそごそと漁りだした。

 燐は一旦立ち上がったものの、蛍の動向が気になってその隣に再び腰を下ろした。

「準備って?」

 訝しむような燐の視線をよそに、蛍は着々と準備し始める。

 アウトドア用の軍手、ヘッドライト、折りたたみ式のトレッキングポールにクマ除けの鈴と、多種多様なものを取り出して、座席の上に並べだす。

 出したものを一つづつ丁寧に身に着けていく様子を見て、燐はこれから蛍は登山に行くのではないのかと疑うほどだった。

 装備が整ったのか、蛍が一際明るい声を出して座席から立ち上がった。

「うん! これで大丈夫。燐は……その恰好で大丈夫? 何か貸そうか?」

 ヘッドライトの位置を確認しながら、少し心配そうに蛍が声をかける。

「お、お構いなく……」

 燐は視線を何度も泳がせながら、蛍の仰々しい格好を見ない様した。

(蛍ちゃん……まだ酔っぱらってるんだよね……きっと。うん、そうに決まってるよ)

 燐はあれこれ詮索せずに、全てをお酒のせいにすることにした。
 そして何があっても蛍を守ってあげようと思った。

「蛍ちゃん、わたしがついてるからね」

 燐は自分を鼓舞するように言った。

「わたしが燐を守ってあげるんだからね」

 蛍がトレッキング用のポールの長さを調節しながら微笑む。

 この分だとスタンガンとかまで持ってきてる可能性もありそうなので、燐は少し気遣うように言った。

「わたしの身はわたしで守れるから大丈夫。それより蛍ちゃんの方がちょっと心配かなーって、ね。あのね、蛍ちゃん……気負わなくていいからね」

「全然気負ってないよ燐。わたしが燐を守るって決めてるんだから」

 意思の硬さを示すように蛍が自身の胸をとん、とついた。

「あはは……」

 今、この車両に他の乗客がいなくてほんとうに良かったと思った。

 燐は黙って前だけを見ることにした。
 早く列車の扉が開いてくれるのを祈るような気持ちで待ちながら。

 鉄製の扉のガラスの向こう側には、工事中の駅舎と薄暗い改札口が見て取れた。
 ホームで待つ乗客は流石にいないが、あの白い人影も当然いない。

 まばらとはいえ駅員がホームに立っていることに燐は安堵した。

「燐、安心した?」

 蛍が仰々しい格好のままで顔を覗き込んできたので、燐は一瞬ぎょっとしてしまった。

 これからトレッキングをするには申し分ない格好なのだが。
 本人はそのつもりではないのだろう。

 これから起こりうる未曾有の災難に備えての装備なのだろうか。
 万に一つの確率でも起こりそうにはないが。

「蛍ちゃんがあんなこと言うから意識しただけ。それにしてもなんでゴーグルまでしているの?」

「あのときは無我夢中だったでしょ。よく考えたら目とか狙われたらおしまいだったって思って用意してみたんだけど。プロの登山家でも愛用してるんだってこれ。全然曇らないし、太陽とか直接みても大丈夫なんだよ」

「そ、そうなの? なんか蛍ちゃんのほうがすっかりアウトドアに詳しくなっちゃったね」
 
 蛍が着用しているゴーグルは曇り止め加工だけでなく、スキーやスノーボード等のアクティビティでも使える撥水加工も施されてあった。

「そうかな? けど最近のアウトドアの服って結構可愛いものがあるよね。普段使いでも着れるのもあるし。燐に付き添ってた時は全然興味なかったのに不思議だよね」

 トレッキングポールを両手に持って、ゴーグルを着用しながら自分の姿を楽しそうに確認している蛍は今では燐以上にアウトドアを楽しんでいた。

 その姿に燐は複雑な顔で見つめる。

(蛍ちゃんが楽しそうなのは良いことなんだけど……)

 わたしはまだ()()()()が怖かった。
 白い人影も、あのヒヒも、あからさまな欲望を持ってこちらを狙ってきていたから。

 ゴーグルで守っていても、仮にスタンガンを押し当てても、お構いなしに襲い掛かってくるだろう。
 彼らには大切なものが欠けていたから。

 そしていのち──ではなく、もっと単純で下劣なものを欲していた。
 こちらの命よりも、もっと確固たる優先事項があって、それはとてもおぞましいこと。

 一方的な欲情。
 それをぶつけようとしていた。

 あの世界の誰彼も。

 まだ命を奪われる方がマシだと思えるほどの、残虐で非道な行為。
 幸いにそれをぶつけられることはなかったけど、それでもなお、あの歪んだ好奇心に恐れを抱いてしまう。

 燐はあの目、欲望にぎらついた目が特に怖かった。

 目という概念がないのに、その欲望だけがギラギラとしていた。

 その矛盾した悪意に嫌悪している。
 今でもずっと。

(わたしはもううんざりなんだ。だって、あの三日間でわたしの大切なものを全部失っちゃったから。だからもう……あのことは……)

「燐、降りないの?」

「ふえっ!?」

 燐が嫌なものを無理やり思い出そうとしたとき、蛍の声が現実へと帰す。

 気が付くと、いつの間にか目の前の扉は開かれていて、山からの冷たい風が燐の頬を針の様に突き刺していた。

 肌を刺すような冷たい風が、開けっぴろげの扉からぴゅーぴゅーと無慈悲に入り込んできて、列車の古い暖房などもはや何の役にも立ってくれていない。

 それもそのはずで既に車内の空調は止まっていた。

 燐は急に鼻がむずがゆくなって、くちゅん! と大きなくしゃみをした。

 すかさず蛍がハンドタオルを燐に手渡す。

「ありがと、蛍ちゃん」

「燐、早く出よ。ここにいると本格的に風邪をひいちゃうよ」

 登山用のグローブに包まれた蛍の手が燐の手をそっと取る。

 慣れないグローブにまごつきながら、蛍は先導するように燐の手を軽く引いた……つもりだったのだが。

「あいたっ!」

 蛍の手に引っ掛けて置いたトレッキングポールが偶然にも燐の脛の辺りを強打してしまった。

「あ、ごめん! 燐、大丈夫?」

「う、うん……」

 燐は片足をぴょんぴょんと跳ね上げて、形容しがたい痛みに堪える。
 想像するだけでもぞっとするような痛みに蛍は顔を青くしておろおろとしていた。

「ごめんね、燐。なんか動きづらくって、つい」

 蛍は慌ててトレッキングポールを腕から外そうとして手を振り上げてしまう。

 その動きに合わせてゴム製とはいえ先の尖ったトレッキングポールが燐目掛けて再び唸りを上げた。

「うひゃあ!」

 燐は片足を使ってそれを間一髪に躱すと、冷や汗をかきながら努めて明るい声で蛍に諭した。

「危ないところだったぁ……あははは、蛍ちゃん。柄の長いのを振り回したら危ないよ、こういうのは周り見てから動かなさないとね。まあ、もうそこまで警戒しなくてもいいと思うけど」

 部活で使うフィールドホッケーのスティックや、テントのポール等、燐はわりと長物を扱うことが多かったから取り扱いには十分気を付けていたからこそ避けられたものの、もし頭に直撃などしたら堪ったものではないだろう。

(こんなところで流血沙汰なんてたまったもんじゃないよぉ……)

「そうだよね。ごめん燐。何事も一旦立ち止まって見渡さないとダメだよね」

 焦りからか、少し早口の燐に蛍はもう一度謝ると、今度は落ち着いてトレッキングポールをバックパックに仕舞い込んだ。

 グローブも外してすっかり身軽になった蛍は改めて燐の手をとる。

 燐は何事もなかったようにこっと笑うと、蛍の手をぎゅっと握り返した。

「そんなに身構えてたら疲れちゃうよ。それに、なにが起きてもそれは仕方ないんじゃない?」

「……だよね」

 そう言いながらも蛍の横顔はどこか寂しそうだった。

「……でもさ、二人一緒なら何が起きても平気な気がするんだ、蛍ちゃんもそう思わない?」

「うん。わたしも燐と同じ気持ちだよ」

 燐のその言葉に蛍はようやく笑顔を見せる。

 二人はそのまま列車のドアからホームへと降りる。
 ほぼ無人のプラットフォームに降りる乗客はもういなかった。

 列車は煌々とまだ明かりを灯しているが中には誰も残っておらず、骨格のようにみえる旧式の車体を無造作に横たわらせていた。

 真っ暗なプラットフォームをLEDのライトが優しい色を添える。

 その人工の明かりを見ながら、燐は浮かび上がった違和感を蛍に投げかけてみた。

「ねぇ、蛍ちゃん。さっき横になってるとき変な事言わなかった? 最後がどうとか言ってた気がしたんだけど」

「そうだった? ごめん、あんまり覚えてないかも」

 どこか煮え切らない曖昧な返事を蛍はこぼす。
 何かを包み隠すようにする蛍に、燐はもやもやとした気持ちを感じて困ったように眉根を寄せた。

「でもさ──」

 燐がもう一度聞こうとしたとき。
 それを遮るように蛍が口を開く。

「あれはね」

 蛍は優しい声で一旦言葉を区切ると。

「この電車で今日は最後ってことだよ」

 蛍は俯いたまま、燐の目を見ないでそう言った。

「ふーん」

 ホームの屋根をみながら燐は白い息と素っ気ない返事を同時にはいた。

 別に疑っているつもりはではないのだが、蛍がこれ以上言いたくないようなので、これ以上は聞き出そうとは思わなかった。

 二人はしばらく黙ったまま、人気のないプラットフォームを並んで歩く。

 途中で黒づくめの駅員とすれ違ったが、二人の顔を一瞥すると、そのまま自分の業務に向かっていった。

 蛍はその間、恥ずかしそうに燐の腕にしがみ付いていた。

 改装途中の白い天幕に覆われた駅舎から冷え切った無人の改札を通り抜ける。

 二人が改札を抜けたのを確認した駅員は照明の一部を落とすと、もう出入りできない様に鉄製のゲートを固く閉じた。

 わたし達が最後の客だったんだろうと二人は思った。


 待合室の中も当然ガランとしていて、売店も案内所もシャッターが下りていた。
 冷たそうなベンチには人が座った残り香すら残っていないように、つるんとしている。

 蛍は片手で携帯を操作してため息をつく。

「23時か……」

 売店どころか、町で開いている店は精々コンビニ店ぐらいのものだった。

 蛍がため息をついている横で燐は苦笑いを浮かべる。
 まだ日付が変わっていないことだけが唯一の救いだった。

「ねぇ、燐。あの話って嘘だよね」

 ぽつんと蛍が呟く。
 
 その言葉に気を取られた燐は、駅舎の窓から覗く黒い山々の向こうの白い風車がゆっくりと動き出しているのに気づかないでいた。


 立ち尽くす二人の後ろで数人の駅員たちが終電後の点検作業に追われていた。


 待合所の傍らにある年季の入った円柱型のストーブが小さな青い炎を静かに揺らめかせていた。




 改装中の駅舎から外に出ると、そこには冬の星座が二人を待ち構えていた。

 

 黒塗りの空には満天の星が生き生きとしていて、そのちょうど反対側にいた月は黒い雲の影でひっそりと、こちらを窺うように光を落としている。

 

 周辺にある店舗はあらかた閉まっていて、車どころか人の影さえも見当たらない。

 

 吐く息の白さだけが、生きている証に感じられるほど閑散として薄暗かった。

 

 ロータリーの真ん前にある、高い街燈だけが煌々と光を放っていた。

 

 青白い明かりは暖かいというよりもむしろ寒々しさを思い起こさせて、燐は思わず身震いをした。

 

 列車や駅舎の中がほどほどに温かかったせいか、外は別の世界かと思われるほどに冷え切っていた。

 

 思わず駅舎に戻りたくなる気持ちをぐっとこらえる。

 

 それなのに蛍は何かを探すように辺りを見渡していた。

 そしてお目当てのものを見つけるとあっ、と小さく叫んで嬉しそうに指を差す。

 

「燐。ちょっと食べていかない?」

 

「蛍ちゃん、これ、アイスの自販機だよね? 本気で食べるつもりなの?」

 

 蛍が指さしたのは稀によく見るアイスの自販機だった。

 

 都心部ではそれほど珍しくないものだったが、この田舎の小平口駅にも設置してあるのは少し違和感を覚えるものだった。

 

 アイスは数種類のフレーバーから選べて、それが手軽に楽しめると主に若い世代に人気だった。

 

 冬場でもそれは変わらず稼働していた。

 

 もちろん冷たいアイスしか売っていないのだが、中には売り切れのランプが灯っているところをみると、この時期でも需要はあるようだ。

 

「うん、もちろんだよ。で、燐は何がいい?」

 

 すでに買うことを前提とした口ぶりに燐は想像しただけで唇が震えてくるようだった。

 

「わ、わたしは……その、いいや。この寒い中食べたら胃の中まで凍りつきそうだし」

 

 燐は手を振って拒絶する。

 

「でも燐。寒い時に食べるアイスって別格なんだよ」

 

 得意げに話す蛍。

 燐はいろいろな意味で返す言葉が見つからなかった。

 

 寒いときに食べるアイスが美味しいのは分かるが、それは暖かい部屋だからこそであって、外で食べるのはもっての外だった。

 

「持って帰って家で食べるの?」

 

「ううん。今食べるんだよ」

 

 まさかとは思って燐は尋ねたが、蛍の答えは案の定だった。

 燐はこの寒空の下で食べることを想像しただけで、こめかみがきぃんと軋しむようだった。

 

「どれにしようかなぁ……色々あって迷っちゃうね」

 

 蛍は自販機の前でうんうんと一人で頷いている。

 

 燐は数歩下がって、その様子を遠目で見ていた。

 自販機の近くにいるだけで冷気が伝わってくる気がしてくるからだ。

 

 今の燐にはアイスの自販機が巨大な氷の塊のように見えていた。

 無論、そんなことはないのだけど……。

 

「今日の気分はこれだね、っと」

 

 蛍は硬貨を流し込むと、お目当てのフレーバーのボタンを押した。

 

 カラッと、軽い音がしてアイスが落ちてくる。

 

 冬場だからカチコチに凍りたものが出てくるかと思ったが、そこまで霜まみれではなかった。

 

「燐、ひとくちあげようか?」

 

 蛍は包み紙をぺりぺりと剥がすと、燐の鼻先にアイスを近づけた。

 

 蛍が選んだのはてっきりモナカだろうと燐は思っていたから、目の前のそれに思わず顔をしかめていた。

 

 おおよそ冬には似合わないフレーバーだったから。

 

 燐は首をぶんぶんと振ると、蛍に聞かずにはおれなかった。

 

「蛍ちゃん、なんでそれにしたの?」

 

 燐があからさまに拒絶した反応を示したので、蛍は少し頬を膨らませた。

 

「なんでって……わたし、結構好きだよ”チョコミント”味」

 

 蛍はひとくちアイスをかじる。

 

 燐は見ているだけで歯が浮きそうになり、食べてもいないのにぎゅっと奥歯を噛みしめた。

 

「ほ、蛍ちゃん、大丈夫……なの?」

 

「うん。やっぱり美味しい。すーっとしたミントの香りと味がわたし好きなんだよね。歯磨き粉なんて言う人もいるけど、一度食べたら病みつきになると思うんだ。燐だってそうでしょ?」

 

 さも当然とばかりに蛍が尋ねてくる。

 燐は凍り付きそうな顔を無理やり笑顔で繕った。

 

 内心は寒気を抑えられないでいた。

 

「燐は、何が好きなんだっけ」

 

「えっとぉ、わたしはねぇ、ワッフルコーンが好きだなぁ。あのコーンのパリパリ感がたまらないんだよねぇ。上のアイスは結構なんでも食べるよ、チョコでもバニラでも抹茶でも」

 

「へぇ、燐が食べてるとこあんまり見たことないから」

 

 蛍はぺろりと舌先でアイスを掬い取りながら、燐の話に耳をかたむける。

 

「部活の帰りでみんなで食べながら帰ったこともあったなあ。で、誰か一人はアイスを落としちゃうんだよね。それをみんなで大笑いしてさ。楽しかったけど、普通に勿体ないよね」

 

「でも、楽しそうでいいね」

 

 肩をすくめて言う燐に蛍は微笑む。

 燐の話を聞くだけでもその楽しそうな情景が浮かんできそうだったから。

 

「燐、そろそろ帰ろっか? アイス食べてたらやっぱりちょっと寒くなってきちゃったみたいだし」

 

 蛍はそれでもアイスを離さずに、口にくわえたまま両手を擦り合わせている。

 

「やっぱりね、言わんこっちゃない」

 

 燐は小刻みに震えている蛍の両手を取って自分の息をはぁーっと吹きかけた。

 

「身体、随分冷えちゃったね。カイロ貸そうか?」

 

 燐は制服のポケットに入れて置いた使い捨てカイロを取り出すと、蛍の前で上下にさらさらと振った。

 

「そこまで気を使わなくてもいいよ。燐にこうしてもらってるだけで十分暖かいから」

 

 そう言って蛍は微笑むが、口にアイスを咥えているからか、唇が紫色に染まっていた。

 

 燐は頭を一振りすると、蛍の口からぱっとアイスを取ってそれを自分の口の中に無理やり押し込んだ。

 

「あ……」

 

 一瞬のことに蛍は目を丸くする。

 

 チョコミント味のアイスはもはや半分も残ってはいなかったが、それはまだ冷たさを十分保ったままで。

 

 燐は口に入れた瞬間、全身が凍り付きそうになり目を何度も瞬かせた。

 

 それでも燐は舌と歯を器用に使って口の中だけでアイスを転がすように食べると、それを短時間の内に全て胃の中に収めた。

 

「ぷふぁー、冷たかったぁ!」

 

 脱力したような深いため息を付くと、燐はカイロを自分の頬にくっつけた。

 自分の出した吐息がミントの香りと混ざって、生まれたての冷気みたいだった。

 

「燐?」

 

 蛍が何と声を掛けようかと迷っていると。

 燐がプラスチック製のアイスの棒を口で咥えながら笑みを見せる。

 

「あはは、蛍ちゃんごめんね、アイス無理やり取っちゃって。差額分ちゃんと払うから」

 

 燐はスカートのポケットから小さな財布を取り出すと、硬貨を蛍に手渡した。

 

「100円は多すぎだよ燐。それより、アイスどうだった? 冬のアイスって結構美味しいでしょ」

 

 金額以上の気遣いが分かった蛍は、あえてアイスの感想だけ尋ねることにした。

 

「ん~、冷たくて味が分からなかった、かなぁ? 息がすごく爽やかになったのはわかるけどね」

 

「じゃあもう一本買ってみる? 今度は燐の好きなのでいいよ」

 

「いや、その……もう十分です。はい……」

 

「ふふ、じゃあお金返すね。ありがと燐」

 

 今度は蛍が燐の口からプラスティックのアイスの棒を指で引き抜くと、それを傍のごみ箱に投げ入れた。

 

 ──そして。

 

「やっぱりアイスは夏のデザートだよね」

 

 振り向いた蛍は笑顔でそう言った。

 

 ────

 ───

 ──

 

「蛍ちゃん、今日はどうする?」

 

 こう聞いてくるのは決まって蛍が燐の家に泊まりに来るときだった。

 

 それは今に始まったことじゃない、燐が小平口に引っ越してきたと知らされた時から割としょっちゅう蛍は泊まりに来ていた。

 

 燐と同じぐらいに燐の母親が歓迎してくれているので特に問題はないのだが。

 

「でもさ、今晩のわたしの家(青いドアのパン屋さん)は結構大変かもよ」

 

「どうして?」

 

 燐は自分で言って疑問を呈していたので、蛍は小首をかしげる。

 

「だって、酔っ払い(燐の母親)がいるのは確実だし、それに……」

 

「それに?」

 

「それに明日、サンタの格好してお店やらないといけないし……」

 

 用意してあるって母が言っていたから間違いないだろう、しかも蛍の分まで。

 

「あ、そっか明日がクリスマスだもんね。そーゆーことって燐の店でもやるんだ」

 

「……まあ、一応パン屋さんだしね。それはそうと蛍ちゃんあの格好って出来る? お母さん、蛍ちゃんに絶対着させそうだよ」

 

「う~ん、恥ずかしいからあんまり着たくはないけど、燐と一緒なら」

 

「やっぱり、そうなるかぁ……はあ、知り合いとかこなければ良いんけどぉ」

 

 燐は観念したようにがっくりと肩を落とす。

 

「でも、来てくれたほうが繁盛していいと思うけど」

 

「……まぁね」

 

 蛍のもっともな意見に、燐は重重しい白い息を長く吐いた。

 

 この時期、至る所で見かけるサンタのコスチュームを付けた人。

 あれを自分でしかも自宅兼店舗で着ることになるとは夢にも思わなかった。

 

 少し前と今では生活そのものが180度変わっていることに燐は今更のように驚愕してしまう。

 

 父も従兄も意図せずして自分から離れてしまったし、母とは住む場所どころか仕事そのものも変わっていたのだから、まったく不思議なことだった。

 

 でも一番不思議だったのはあの夜の出来事と、その後のことなんだけど。

 

 それでも10年経っても変わらなかったものが、たった数ヶ月で変貌してしまっているのには舌を巻く。

 

 秋の寂しさも、冬の凍てつくような寒さも、前に住んでた中古のマンションのときとは明らかに違って感じられる。

 

 前の場所から数十キロも離れていないのに、燐は随分遠くに来た気になっていた。

 

 ここ小平口町には親友の家があるだけでなく、今や自分の家もあるのだから。

 しかも未経験なパン屋までやり始めて。

 

 激しい環境の変化に気を抜くと頭がぐるぐるとなってしまう。

 

 この町で起こった三日間の出来事は燐の身辺を一変させただけではない。

 

 小平口町の、それこそ世界の根幹まで捻じ曲げてしまうほどの影響があった。

 

 ただ、あれがなくとも父は既に離婚を決めていたし、自分に対する従兄の秘めた、いびつな想いも多分変わっていないだろう。

 

 全てはもう既に起こっていたことだった。

 

 もし決定的に違うことがあるとするのならば、”あのあと”の事だけ。

 

 それだってもう今となっては何の意味があったのか分からない。

 

 自分はこの通り輪郭を保って両足を地面につけているし、狂気の宴を繰り広げた小平口町の人も物も平凡な田舎の生活に戻っている。

 

 覆水盆に返らずと言われる事が、わたしと、蛍ちゃんだけに起こったものだとしたら、そこに何の意図があったんだろう。

 

 オオモト様は特に何も告げずにどこかへと去ってしまった。

 後姿を見送ることなく、気付いた時は消えていたのだから。

 

「ね、燐」

 

「うん、なに蛍ちゃん?」

 

「サンタの衣装ってどんな感じ? 燐はもう見たんでしょ」

 

「ちょっとだけね」

 

 朝のバタバタした時間にちらっと見ただけで詳細までは覚えていない燐。

 

「でも、足を出すやつだったと思う」

 

 そこまで気に留めなかったが、それだけは見逃さなかった。

 サンタの帽子の下にスカートがあったのだけは覚えていた。 

 

「そっかぁ……ねぇ、燐。下にズボン履いてもいいかな? 赤系のズボンなら大丈夫だよね」

 

 蛍は実物を見てないので何とも言えないのだが、なんとなく露出の多い衣装を想像して、燐にそう提案した。

 

「良いんじゃないかな。上だけちゃんとしてればカウンター越しには気づかれないし」

 

 あの赤と白の格好というものはやたらと目立つ、それは想像以上に恥ずかしいものなのは燐も良く分かっていた。

 

 なので蛍の意見に快く同意した。

 

「でも、パンを補充するときにバレちゃうかも」

 

「それは大丈夫だよ、他のことはわたしで何とかするから」

 

「でも、それだと燐が──」

 

「まあ、ちょぉっとぐらい足出してもいいかなって。それに、お母さんのサンタコスなんて想像しただけで鳥肌が立ちそうだし……」

 

 ほら、と言って燐は腕をまくって見せる。

 

「もう、失礼だよ燐。咲良さん綺麗だからきっと似合うんじゃないかな」

 

「蛍ちゃん~、鳥肌を増やす様なこと言うの止めてよ~。眠れなくなるー」

 

 燐のしかめっ面に蛍は声を上げて笑った。

 

「でも……そっか、燐がやるなら」

 

「ん?」

 

 蛍が珍しく腕を組んで黒い空を見上げて呟く。

 

 燐は冷たくなった腕を袖の中に戻すと、何事かと首を傾げた。

 

「どうしたの蛍ちゃん」

 

「うん、燐が足出すならわたしも頑張ってみようかな、って」

 

「え、無理しなくてもいいよ。そりゃあ蛍ちゃんは可愛くてプロポーションも良いから似合うとは思うんだけどね」

 

「燐、おだてなくてもいいよ。でも、もう決めちゃったから」

 

 こうなると蛍は梃子でも動かないのを燐は知っていたから、困った顔で小さく肩をすくめた。

 

「オッケー、じゃあ明日は二人して足出しちゃおうか」

 

「うん。そうしよう。恥ずかしいけど燐と一緒ならきっと楽しいと思うから」

 

「わたしも、蛍ちゃんと一緒ならきっと楽しいと思う」

 

 蛍と燐は顔を見合わせて笑い合うと、明日の事を軽く話し合った。

 

 ………

 ……

 …

 

「……ねぇ、燐。そろそろ聞いても大丈夫かな」

 

「んぅ?」

 

 話がちょうど途切れたタイミングで蛍が少し重い感じの口を開いたので、燐は普段とは違った変な声を出してしまった。

 

 風が音を立てて枯れ木をざわざわと揺らす二人だけの時間。

 千切れた黒い雲が、青白い月を静かに晒していた。

 

「さっきの話って、作り話なんでしょ」

 

「うーん、さっきって、どの話のこと?」

 

 蛍が言ったことが直ぐにはわからず、燐はとりあえず指折り数えてみた。

 

「燐が川に流されてたって言ってた話のこと」

 

 蛍は少し拗ねたような口調で話す。

 それで燐は蛍が待合室でぼそっと呟いたことを思いだした。

 

「ああ、蛍ちゃんが嘘って言ってたのはそれのことね……やっぱり、バレてた? 結構、上手い話しが作れたーって思ってたんだけどなぁ」

 

 燐は月を見上げながら、困ったように微笑む。

 

 その横顔を見た蛍はなんだか申し訳なくなってしまった。

 

「ごめん。燐の話、信じてあげればよかったね」

 

 蛍は苦笑を浮かべながら小さく頭を下げる。

 

「あ、いやいや、自分でもちょっとわざとらしいかなーって思ってたからいいんだよ蛍ちゃん」

 

 燐は片手を振って蛍の思いを尊重した。

 

「そう?」

 

「うん。ごめんね、嘘ついちゃって」

 

 燐が片手で謝罪の合図を送る。

 蛍はううん、と小さく首を振った。

 

「気にしなくていいよ。だって、わたしと燐の仲だし。でも、わたし燐の話聞いたときにあるお話を思い出しちゃったんだ」

 

「なんのお話?」

 

 燐は蛍との会話にもやっとした不思議な違和感を覚えていたが、そのまま話を促した。

 

「”赤毛のアン”」

 

 蛍が苦笑いしながら言ったことは燐にとって意外なものだった。

 まさかその本のタイトルが出てくるとは思わなかったから。

 

「わたし”赤毛のアン”は結構読んだんだけど、そんな話ってあったっけ?」

 

 燐はどうもピンと来ないのか、ぐるりと頭を回す。

 

 蛍はくすりと微笑みながら答えを言った。

 

「ほら、アンがエレイン……? エレーンだったかの劇を野外でやることになって小舟に乗って川に流される一幕(エピソード)があったじゃない、あれを想像しちゃった」

 

「ああ! それかぁ。そういえばそんなお話あったねぇ。蛍ちゃん、良く覚えてるね」

 

 燐は感心したように言った。

 

「わたしもアンは何度も読んでたから」

 

 すごく好きだったし、と小さく蛍は呟く。

 蛍は些細な事とはいえ燐に褒められたことで顔を赤くしていた。

 

「あのお話、アンは危ないところをギルバートに助けられるんだよね。でも、結局二人は喧嘩別れになっちゃうけど」

 

「そうそう、アンはギルともう仲直りしたいのに素直になれないんだよね」

 

「複雑な乙女心、ってやつだよね」

 

「くすっ。うんうん」

 

 二人はこの場で赤毛のアンの童話を見ているように話し続けた。

 

 蛍も燐もアンの事で話をしたことは今までなかったのだが、まるで二人にとって公然の事のような呼吸で話していた。

 

「でも、アンが素直になれないのって女の子には分かっちゃうんだよねぇ。今で言う、ツンデレとはちょっとニュアンスが違うんだよねー」

 

 二人は指し示したように頷きあった。

 

「そうだね。でも、燐ってちょっとだけアンに似てるかも」

 

 蛍は燐が熱心に語るのをみて、微笑むと唇に手をあてて呟く。

 

「えー、わたしがアン・シャーリー?! うーん、そんなこと言われたことないなぁ……まだ、お下げが出来るほど髪、伸びてないし……だったら、蛍ちゃんがダイアナ、かな? 髪型は、わたしよりも似てる気がするね」

 

「わたしがダイアナ……二人とも仲がいいのは似てるね」

 

 お互いを指さしながら小説の登場人物に照らし合わす。

 古典的な遊びだったが、それでも二人は楽しそうに山間の日本の田舎町にアンの世界観を思い描いた。

 

「じゃあこの県道はさしずめ”恋人の小径(こみち)”だね。わたしたちが通学するときはいつも使うし」

 

「それだとわたしの家の裏道が”おばけの森”ってことになるね……それほど間違ってないのがちょっとあれだけど」

 

 燐とは違い、蛍は少し残念そうにつぶやいた。

 

「そう考えるといつもの道もちょっとは楽しく感じるよね……ねぇ、ダイアナ。今晩は月が綺麗だからうちの庭で夜会しない? 美味しいイチゴ水もあるわよ」

 

 澄ました顔でアンになりきったようにたおやかに語る燐に、蛍は笑いを堪えることが出来なかった。

 

「あはははっ、もう燐、あんまり笑わせないでよ。それにイチゴ水じゃなくて葡萄酒を振舞う気なんでしょ?」

 

「あ、あたり。でも蛍ちゃんは葡萄酒じゃなくてケーキで酔っぱらってたからなあ」

 

「それは燐もでしょ。あの写真、証拠としてちゃんと残ってるからね」

 

 蛍はわざとらしくポケットを弄って携帯を取り出すふりをする。

 

「わぁー、もう早く消してよー。わたしの黒歴史になっちゃぅぅー!」

 

 それを聞いた燐は沸騰したように顔を真っ赤にして、自身の恥ずかしい画像の消去を蛍に迫った。

 

「あははは、燐。そういうところが”アン”っぽいよ」

 

 蛍の的を得た言葉に、燐は口をぱくぱくさせながら、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。

 

「ねぇ燐。この道よりあの廃線後の緑のトンネルの方がよっぽど”恋人の小径”っぽくない? なんかわたし達だけの道って感じがしてたし」

 

「ああ。わたしもそれは感じてた。広さもちょうど二人分だったしね……怖い目にもあったけど、ずっとあそこを蛍ちゃんと一緒に歩いていけたらなぁ、って思ってた」

 

「そうだね。燐、わたし達も”死がふたりを分かつまでの友”で居られるかな?」

 

「なんてことないんじゃない? わたし達、もう一度死んだようなものだしね」

 

「うん。そうだよね」

 

 蛍が差し出した手を燐は優しく受け止めた。

 

 月光が照らす道を、二人はアンとダイアナのように手を取り合いながら、少し広めの”恋人の小径”を並んで歩いた。

 

 蛍は燐にアンの無邪気さ一生懸命さを、燐は蛍にダイアナのような本当の優しさと思慮深さをそれぞれ感じ取っていた。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

「あのさ……やっぱり今日は蛍ちゃんちに泊まりに行きたいなー、なんて。その方がイヴの夜を厳かに過ごせそうな気がするんだよね」

 

 隣で歩いていた燐が唐突に変な事を言い出したので、蛍はわけが分からず首を傾げる。

 

 蛍の家に通ずる坂道はもう通り過ぎちゃったし、今更そんなこと言うのはおかしかった。

 

 それに燐の家はもうすぐそこで、あの家の角を曲がれば特徴的な屋根が見えるはずだった。

 昼の間であればだが。

 

 まだ看板はないが、くすんだ色の古民家の外壁は白く塗装してあって、空色を吹いた趣のある屋根瓦が丁度よいアクセントを作り、どことなくヨーロッパ風の建物にも見えなくはない。

 

 それだけでも気分をワクワクとさせるのに、中から香ばしいパンの香りが漂ってくるのだから、魅力がないわけがなかった。

 

 燐はどこかちぐはぐな感じがむずがゆいと言っていたけど、蛍は青い屋根と白の外観、そして燐が一人で頑張って塗装した、青いドアがとても気に入っていた。

 

 それはまさに”青いドアの家”そのものだったからだ。

 

 だが、すでにこの時分だとその魅力のすべては夜の帳に塗りつぶされているとは思うだが。

 

「あれ? 燐、なんか空が光ってない?」

 

 蛍は向こうの空がぼんやりと光っているのを見つけて燐の顔を見ながら指をさした。

 

 燐はそれが既知であるかのように無言で見ていた。

 顔は少し、引きつっているのか、多分に口角が上がっているにも見える。

 

「あっちって燐の家の方、だよね……?」

 

 燐がそれほど気にしていないようだったので、蛍は少し手を強く引っ張って再度尋ねる。

 

「う、うん……気のせいであってくれたらいいんだけど」

 

 ため息まじりの燐を見て、蛍はようやくはっとなった。

 

「あ、そっか!」

 

 蛍はそのまま燐の手を引きながら、通りの先まで駆け出す。

 燐は困った顔をしながらも蛍に引かれるがまま後をついてきていた。

 

 少女たちが垣根で覆われた民家の角を曲がると、そこには、田舎の町に相応しくない、光の世界が広がっていた。

 

 眩いほどのLEDライトを全身に纏った古民家は、テーマパークのアトラクションというよりも、どこか違う国の不思議な式典のように見えた。

 

「あのさ……こういうのを見てロマンチックっていうのかな、自分の家だからよく分からないんだけど」

 

「うん、確かにイルミネーションだし、わたしはロマンチックだと思うよ」

 

 蛍と燐は手を繋いだまま、その光景を眺める。

 駅前で見たものとは規模も光量も少ないけど、それはそれで綺麗だった。

 

 周りが暗いせいだろうか、その明かりは一際光り輝いてみえて、お伽の世界の家のように図らずも幻想的であった。

 

「綺麗……だよね」

 

「まあ、綺麗って言えば綺麗なんだけど」

 

「どうしたの燐? 何か言いたいことでもあるの」

 

「なんていうか……だって、自分の家だよ」

 

「だから?」

 

 自宅がこのように着飾っていることに蛍は少し羨ましさがあった。

 

 なので少し口を尖らせてなぜか不満そうな燐に言い返す。

 

「こういうのに憧れてた時期が確かにあったんだけど、実際に目の当たりにすると、うーん」

 

 難しく考え込む燐に、蛍は無言で首をかしげた。

 

 吐く息が白く浮かび上がっては消えていく。

 きらびやかに色を変えるイルミネーションとは対照的に、白い息は寒さとともに儚く消えていった。

 

「なんかさ、ホテルっぽいんだよね。色使いとかそういうのが」

 

 燐は七色に光を変える自分の家をみながらそう呟いた。

 

 燐の呟きに蛍は頭を巡らす。

 燐の言う”ホテル”とはいわゆる広義の意味ではないだろう。

 

(だとすればきっと……)

 

「……燐。ホテルってあれでしょ、ラブが付く方のだよね」

 

 蛍は少し遠慮気味に笑って聞き返した。

 

「うん……ラブの方」

 

 蛍が理解してくれたことは嬉しいが、よくよく考えるとこれは一応自宅なのだから全然嬉しくはなかった。

 

「でも、可愛くていいんじゃない。わたし色使いとか結構好きだよ」

 

 ラブな方のホテルも一応女子受けを考慮している外観であることが多いので、そういう意味では同じなのかもしれない。

 

 どっちみちこの家に住んでいる燐とすれば複雑な気持ちだった。

 朝、家を出る時とは違った眩い光景に、燐は色々な意味で現実感を忘れていた。 

 

「もしかして……期待されてる……とか?」

 

 蛍が何の気になしに呟いた言葉は燐を震え上がらせるほどのものであった。

 驚いた燐は思わず蛍の手を離してしてしまう。

 

 それがどういう意味なのか蛍は分かっていっているのだろうか。

 

「やだなぁもう、脅かさないでよ蛍ちゃんー! わたしはこのイルミネーションに、ぜんっぜん関与していないんだからっ」

 

「そうなの?」

 

 燐が顔を真っ赤にして弁明したので、蛍は驚いてしまった。

 

「もちろんだよー。こーんな、ラブホテルみたいなイルミネーションにするならとっくに反対してるし」

 

 腰に手を当てててふんぞり返る燐が妙に可愛くて蛍はくすくすと笑った。

 

「それもそうだよね。でも燐のお母さんはどう思ってこういうイルミネーションにしたのかなーって」

 

「ちょーっと、センスないよね」

 

 道の真ん中で顔を見合わせて笑い合う蛍と燐。

 静まり返った住宅地に少女の声はなお大きく聞こえた。

 

 風のざわめきが千切れそうな枯れ葉をがさがさと揺らす。

 その音に澄み渡った空の高さを感じ取った燐は髪を抑えながらちりばめられた空を見上げた。

 

 蛍も同じように髪を耳のあたりで覆いながら星の空を見定める。

 

「で、どうする蛍ちゃん? 家に泊まってく? あ、”休憩”とかそういうのはもちろんないけどね」

 

 燐はわざとらしく休憩を強調して言った。

 だが、そういったホテルを一度も利用したことがなかったら、実際のところは良く分かっていない。

 

 ただ、そういう話をクラスメイトから聞いたことがあるだけだった。

 

「そうなの? わたし燐とご休憩してみたかったんだけど」

 

 蛍も燐と似たような知識しか持っていない。

 経験などもっての外だった。

 

 二人は目を合わせると、取り繕った笑顔で微笑む。

 

 こういうことの知識が同年代の少女と比べるとあまりにも稚拙だった。

 

「でもさ燐。休憩って何するんだろ? 単に休むだけ?」

 

「う、うーん、ちょっとした暇にエッチするとか?」

 

 燐は自分で言って疑問を感じてしまった。

 従兄とそういう関係にまでなりそうだったが結局叶わなかったし、ホテルを利用することまでは微塵も考えたことがなかったから。

 

「エッチって、そんな少しの時間なんだ……わたしは経験ないからわからないけど」

 

 蛍が少し踏み込んだことを言ってくる。

 

 燐は蛍に経験がある風に見られているという思い込みから、耳まで赤くして慌てて白状した。

 

「わ、わたしだって経験ないからねっ。だから期待とかそういうのはない、はずだよ……」

 

 俯き加減で恥ずかしそうに呟く燐に、蛍はすこし複雑な面持ちだった。

 

 ラブホテルがそう言った理由で使われるのは分かってはいるが、サービス内容まではまったく知らない二人だった。

 

 蛍と燐はなんとなく顔を合わせづらくなって、黙って燐の家を遠巻きに見ていた。

 

(そういえばハロウィーンの時も結構派手に飾り付けしてた気がする……)

 

 燐は秋のお祭りのことを思いだした。

 

 母は行事には結構張り切るタイプらしく、開店以来のイベントとあって尚更張りきって準備していた。

 

 燐は学校や部活に忙しい時期で全然手伝えなかったが、それでも母は一人で飾りつけも、ハロウィーン用の新作のパンも全部用意していたのだった。

 

 その行動力の高さに燐は改めて驚いたのだったが。

 

(まさかここでも頑張るとは、ね)

 

 外観は仕方ないとは言え、まさか生活圏までは飾り立てはしないだろう。

 

 だが燐は無謀にもリボンであしらわれた自分のベッドを想像してしまう。

 当然あり得ない妄想だが、今の燐にはそれなりな現実感があった。

 

(そして、何らかのギミックがあってベッドが回転してたりしたら、もう……!、ど、どうしよう……わたし、蛍ちゃんと朝まで一緒に寝れるの!?)

 

 一昔前の知識でもって、燐は良からぬ想像にひとりで身もだえしていた。

 

「燐……だいじょうぶ?」

 

 心配そうな顔で蛍が覗き込んでいた。

 

「あ、あはっ、あはは、だ、大丈夫。それよりさ、今日は一緒に泊まろっ。こんな家にお母さんと一緒にいたら気がおかしくなりそうだし。あ、変な事なんか絶対しないからっ!」

 

 慌てて笑みを浮かべる燐に蛍は優しく微笑む。

 

「……別に変な事してもいいけど」

 

「蛍ちゃんなんか言った?」

 

「ううん、なんでもない」

 

 燐は小首を傾げるも、蛍の楽しそうな顔を見て、それ以上何も言わなかった。

 何だかんだで蛍が泊まりに来ることは素直に嬉しかったから。

 

「きっとお母さん、蛍ちゃんの為にサプライズなご馳走をして待ってるよ」

 

 そう燐が言いながら笑いかけたそのとき。

 

 ピロピロピロン。

 軽快な音がどこからか響いてきた。

 

「……わたしじゃないね。燐のスマホじゃない?」

 

 蛍が自分の携帯を確認して呟く。

 

 蛍の言葉に燐は慌ててポケットから携帯を取り出した。

 

 ピロピロピロンッ。

 

 呼び出し音が続いていた。

 液晶に写る発信者の名前を見て、燐は訝し気な顔を浮かべた。

 

(トモかぁ……こんな時間に何の用よ)

 

 燐は軽くため息をついて、液晶画面をタップして電話に出る。

 

「もしもし、なにかあったのトモ──」

 

 燐が一応心配するような声で話しかけると、携帯から数オクターブ高い声がサイレンの様に鳴り響いた。

 

 それには燐だけではなく、隣にいた蛍さえも耳を抑えるほどの大音量だった。

 

『メリ──クリスマス──!!! イエーイ!!!』

 

 液晶画面での発信者情報は”トモ”だけだったが、恐らく彼女だけではないだろうとは思ってはいた。

 

 だからってこんなにうるさいとは思ってなかったけど。

 

(まだカラオケしてたんだ……)

 

 携帯から流れてくるバックミュージックでそれを察することが出来た。

 声から察するに、明らかにはしゃいでいるのが分かる。

 

 彼女たちはクリスマスパーティーの真っ最中なのだろう。

 

 電話口の向こうがあまりにも五月蠅いので、そのまま切ってしまおうかと思った燐だったが。

 

『待って待って、燐、まだ切らないでくれよぉ!』

 

 こちらの意図を察したようなトモの声に燐は蛍と顔を見合わせて苦笑いした。

 

「トモ、何の用なの? わたしこれから家に帰るんだけど」

 

 燐は頬を膨らませてトモに要件を促した。

 

『え、今どこなの?』

 

「今、家の真ん前。うちの家イルミネーションやってた……」

 

 燐はつい余計なことを言ったと思ったがもう遅かった。

 

『嘘っ! なになに凄いじゃん! やっぱり燐の家でもそーゆーのやるんだ。まあ今はパン屋だもんね。”青いパンツのパン屋”さんだっけ?』

 

「違うっ! ”青いドアのパン屋さん”っ!!」

 

『略せばどっちも”青パン”だから同じじゃん』

 

「だーかーらぁ、ぜんっぜんっ、違うってのぉっ!!!」

 

 漫才のようなやりとりは傍で聞いてた蛍の耳にも届いて、くすくすと零れる笑いを堪えるのが大変だった。

 

『トモー、燐のやつなんだって?』

 

 電話口では別の女子の声がトモに聞いていた。

 サバサバした声は田辺で間違いないだろうとは思った。

 

『なんでも、青パンがイルミネーションでカーニバルらしい。みんなでこれから見に行かない?』

 

 それを聞いて燐はげっ、となった。

 

 ただでさえ変な略し方で自分の家の名前を覚えられているのに、こんなホテルみたいなイルミネーションまで見られたら……。

 

 燐がむむむと策を講じていると、蛍がなにやら目くばせをしていることに気が付いた。

 

 どういうことだろうと、燐は頭を捻る。

 黒い空を仰ぎ見るようにした燐の視界に白い月が映った。

 

 それで何か肝心なことを思いだした。

 

 燐は自信満々に携帯を握り直すと、電話口の先でどうするか決めている哀れな三人に言ってのけた。

 

『トモ、もう電車終わってるよ。どうやって帰る気?』

 

 燐がそう呟くと、電話口は一瞬静寂が包まれたようだった。

 

 その後、ぎゃあぎゃあと喚く声や醜い怒号がさっきよりも五月蠅く鳴り響いていた。

 

 燐はその惨状を理解してけらけらと笑う。

 

 あの三人はホッケー部の中でもとりわけテンションが高いが、それでもどこか憎めない連中だった。

 

 だから燐はあの三人が好きだった。

 

『なんや、楽しすぎて時間確認するのすっかり忘れたわー』

 

 とぼけたような藤井の声は分かっている感じがした。

 

『フジッコ! お前知ってただろう! それよりオトコはどうしたんだ。お前クリスマスに予定があるって言ってたじゃないかっ』

 

 いつもクールな感じの田辺が珍しく声を荒げている。

 終電がなくなってしまったことへの悔しさだろうか。

 

 それとも。

 

(まさかお酒飲んでないよね……?)

 

 燐は自分たちの事を棚に上げて、要らぬ心配をしていた。

 

『あー、あれはなぁ……』

 

 含みを持った藤井の言い方にトモも田辺も固唾を飲む。

 なぜか電話口の燐も固唾を飲んでいた。

 

『うそや』

 

「うそや??」

 

 二人の代わりに燐が反芻していた。

 

『アカン、これ以上は言ったらあかんのや。先駆者に怒られてまう……』

 

『はぁ?』

 

『先駆者ってどういうことよ?』

 

「そうそう、どういうこと?」

 

 息のあった三人のツッコミに小柄な田辺がこほんと咳ばらいをした。

 

『パクリはあかんちゅうことや』

 

「はあぁぁぁ??」

 

 ますます訳が分からないと、田辺を除く三人は呆れた息をついた。

 

 ………

 ……

 …

 

 燐はついつい話が弾んでしまい、そのまま携帯で話し込んでいた。

 

 燐にもカラオケに来てほしかったのか、代わる代わる話しかける三人に燐は切るタイミングを掴めないでいた。

 

 そんな時。

 

「燐……」

 

 蛍が消えかかりそうな声を掛ける。

 

 燐は蛍の声に気付いていたが、ちょうど面白い話の最中だったので、もう少しだけ待ってもらうことにした。

 

「蛍ちゃんごめん、もう少ししたら絶対切るから」

 

 燐は目くばせして謝ると、電話口から聞こえてくる明るい声の方へと戻っていった。

 

「……じゃあ、お休みっ。もう、今度は本当に切るからねっ! え、テキトーにその辺で寝たらいいんじゃない? じゃあね、お休みっ! バイバイ!」

 

「んっ……もう」

 

 なかなか電話を切らせてくれないホッケー部員に無理やり別れを告げると、燐は改めて蛍の方を向かい直そうとしたのだが……。

 

「あれ、蛍ちゃん?」

 

 傍に居たはずの蛍の姿が見当たらなかった。

 

 燐がもう一度声を掛けようとすると、通りの向こうにその姿を見つけることが出来た。

 

 燐は小走りで慌てて蛍の下に走り寄った。

 

「ご、ごめん蛍ちゃん。つい長電話しちゃって……さ、わたしの家に行こっ」

 

 燐が手をとろうとすると、蛍は首を振って自身の両手を胸のあたりでぎゅっと掴んだ。

 

「ほたる、ちゃん?」

 

 驚愕する燐の表情を見ない様にして、蛍は悲しそうな目で笑いかける。

 

「ご、ごめんね。でも燐が悪いんじゃないから。もう遅いから、だから今日はもう帰るよ……」

 

「帰るって、自分の家に?」

 

 蛍はこくんと頷いた。

 

「で、でもっ」

 

 燐の悲しい瞳を見て、蛍は胸がずきんと痛んだ。

 

 でも。

 

「ごめん燐、今日はやっぱり帰るよ。ごめんね……その、おやすみなさい!」

 

 燐がもう一度声を掛ける間もなく、蛍は小さく頭を下げると。

 身を翻して自宅の方へと一人、駆け出して行ってしまった。

 

 ちりん、ちりん。

 鈴の音が薄暗い夜道に小さく鳴り響く。

 

 蛍がまだ身に着けていたクマ除けの鈴が悲しい音色を立てていた。

 

 きっと。

 

 きっと泣いていたと思う。

 

 わたしは、その手を掴むことすら出来なかった。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 







・ドラマキャン△ 2

第7話。
やっぱり実写は食べ物描写が格別にいいですねぇ。今更ですけど、きりたんぽ鍋も良いし、朝食の味噌汁も美味しそうですねぇー。チョコちゃん(コーギー)の出番がそこそこだったのがちょっと残念かーーーでも、かわええなぁー。

第8話。
今頃スキレットの話をしたと思ったら、まだアニメでもやってない斎藤家の庭キャンを先に実写でするとは──!!! でも千明の断髪式がなかったのは残念。でも上手い具合にスキレットの話と絡めることが出来たのは繋がりが自然で良かったですねー。
そして、やはりちくわ──(チワワ)(実写)はかわええなあ。でもちょっと動きがフリーダムすぎてハラハラしてしまった。
でも”撃たれた振り”は流石に無理だったかぁー。でも全体的にオリジナル感満載だったし、原作には絡んでこないリンちゃんも参加したしで見ごたえがあったかもー。

いつかアニメでも庭キャン(と千明の断髪式)を見ることが出来るのかな。劇場版は(ディザーイラストだけ見ると)オリジナルっぽいし、まだ三期やるだけの話のストックは足りなそうですしねぇ。

でで、ソフト特典アニメ第2弾は”旅するしまりん”……何故か恋するしまりんかと思ったw
これも第1弾のミステリーキャンプみたいにオムニバスっぽい感がするけどももも。

今、ゆるキャン△ 原作漫画の取材写真が閲覧できますね。
花見限定の写真のようですけど、それだけでも結構な枚数を撮ってるんですねー。こうして見るとアニメや漫画のロケ地、いわゆる聖地というのは膨大な量の資料があって初めて成立するものなのが改めて分かりますねぇ。感心しきりです。

あ、最近世間を賑わせていた脱走したペットのアミニシキヘビが無事捕獲されたようで何よりですねぇ。結局アパートの天井裏に潜んでいたようですが……灯台下暗しな結末でしたね……。
実際私は野生のヘビ、野良ヘビに相対したことが数回程ありますが、大抵向こうが逃げていきますよねー。うちの近所にもマムシ注意の看板がしてある場所があったのですが、今は宅地造成されて、ふつーに家が建ってます。
人がヘビを怖がるように、蛇も人が怖いのかもしれないですねぇー。

そして、アミニシキヘビの一時預かり先が野毛山動物園かー。子供の頃、横浜に住んでた時に行ったことがあるみたいなんですよねー(全然覚えてないですけど……)

その時、首に縄ではなく、ヘビを巻き付けられたみたいなんですよー!! 物も何も知らなかった頃とは言え、ひぎいぃぃー!! ですねぇ。(爬虫類好きの方ごめんなさい。わたしは無理です。むしろよく頑張ったな当時の私!)もし今、またやることになったら速攻でギブアップしそうです……。

そういえば最近は暑い日が続くためか、アイスコーヒーを嗜むことが増えてますねぇ。とは言ってもどこかで買ってくるわけではなく、もっぱら自分で作っています。
まあ、インスタントコーヒーを少量のお湯で解いて、そこにシナモンと今だに残っているガムシロップを少量入れて後は氷をどばっと入れるだけのシンプルなものなんですが。
今更なんですけど、アイスコーヒーの美味しさの決め手は、当然コーヒー(豆)なんですけども、次に重要なのが氷なのではないかと思ってます。まあそれしかないわけなんですけど……。
ただ、ほぼ飲み終わったグラスの中に残る氷をかじかじするのが結構好きなんですよねー。謎の満足感が得られるというか……なんか妙に腹持ちが良い気がするんですよねぇ。
もしかしたら氷はかなりエコなダイエットフードだったりするのでは──と思ったり思わなかったりしながら、本日も残った氷をしゃくしゃくとしています。

……去年も同じような事を書いた気もするけどもも──。


それではでは──。




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Masse de pain

 
 ちりんちりん。

 可憐な鈴の音と足音が夜のアスファルトで切ないハーモニーを奏でていた。

 彼女は一人で行ってしまった。
 暗がりの中、何かに急き立てられるように。

 もしかしたら一度ぐらいはこちらを振り返ったのかもしれない。
 様子を窺うように瞳だけを子細に傾けて。

 けれども夜のカーテンに覆われた中ではそれを確認するだけの術はなかった。

(後を追えば良いだけなのに、なんでわたしは……)

 ただ、呆然と見送っているんだろう。

 自分でもわけが分からず、自問自答を繰り返す。

 ──何で? どうして、と。

 それこそ意味がない、答えなど当に出ていた。

 足が動かない。
 それだけのこと。

 そんな単純(シンプル)な事が出来なかった。
 あの時と同じように。

 けれどあの時とはさすがに事情がちょっと異なっていた。

 あの、全てが終わった後のことは……。

 
 ──青い空。

 初夏の太陽がじりじりと肌を焼いて、白い雲が山脈のように生い茂っていた。
 何もかもが夢のように眩しくて、全てが完璧だったあの夏の日。

 悪夢から覚めた日。
 その最後の日のこと。

 わたしは彼女の手を引いてあげたかった。
 
 立ちすくむ彼女の手を握って促してあげたかった。

 長く続く線路のその先へと。

 でも。
 それができないでいた。

 だって、体が動かなかったのだから仕様がなかった。

 正確には。

 その身体そのものがなかった。

 ──だからすぐ傍に居るのに気付いてもらえなかったんだと。

 それが分かった。


 彼女はわたしのすぐ隣で空ばかり見上げていた、こんなに近くにいるのに。

 すぐ傍にいたのに。

 青い空にも白い雲の向こうにもわたしはいない。
 あなたのすぐ傍にいるのに。

 わたしは彼女を安心させようと声を掛ける。

「……」
 
 けれども言葉は形を作ってくれない。

 だったら、怯えたように震えている彼女を元気づけようと、そっと肩に手をのせた。

 気持ちではそうだったのだが、”手”だけじゃなく、”腕”そのものがなかった。

 わたしはどうやら完全に輪郭を失っていた。

 そうとしか言いようがなかった。

 立っているのかどうかすらも自分で分からない。
 傍から見るとふわふわと漂っているだけかもしれない。

 でも隣にいる彼女が認識出来てないと言うことは、客観視できるものは居ないと言うことになる。

 何故ならわたしは彼女を認識できるから。
 彼女が涙を流しているのが分かるから。

 だが、それを見てもわたしの心は何故か揺らがなかった。

 心が冷たくなってしまったんだろうか、そんな暢気な考えを巡らせていると、不意に視界に何かが割り込んできた。

(紙ヒコーキ……?)

 スローモーションのようなゆったりとした動きで滑空してくるそれを目で追った。

 しかもどうやらそれはわたしの身体を貫通して下りてくるようだった(体そのものはなかったけど、そんな感じに見えた)

 それがぽとりと枕木の下に落ちた時、わたしはにわかに色づくことが出来た。

 この奇妙で不条理な状況を打開する何らかの(キィ)になると思ったからだ。

 彼女はそれを掴もうと足を一歩踏み出した。
 わたしも一歩前に出る。

 わたしと彼女は互いに手を伸ばした。

 風車の上で二人で投げた紙飛行機に。

 ノートの切れ端で折った紙飛行機に。

 わたしの手は消えてしまったが、気持ちで、想いでそれを拾い上げることがなぜか出来ると思ったから。

 ……根拠は当然ないけど。

 細い指がそれを掴んだ。

 もちろんわたしじゃない。
 彼女がそれを拾い上げていた。

 わたしの必死な想いは無機物には届かなかった。

 それは彼女にも届かなかったのだけれど。

 彼女は折れない様に注意深くしながら、それを胸元で抱きしめると、思い詰めた空気を吐き出すように空を見上げていた。

 わたしは直ぐに中身を確認したかったから、その様子をヤキモキしながら見ていた。

 中に何か書いているか知りたかったから。

 もしかしたらヒントのようなものがあるかもしれない。
 藁にも縋る思いだった。

 彼女はしばらくそうしていたが、はぁと息を吐くと、意を決したように紙飛行機の中を開く。

 わたしも彼女の肩越しにそれを覗き見た。

 ちょっと罪悪感もあったが背に腹は代えられない。

 だが、そんな軽々しい思いなど簡単に吹き飛んでしまった。

 まっしろ。

 まっしろだった。
 紙飛行機は紙飛行機のままで、まっしろなノートの切れ端で折られたものだったから。

 だから当然なんだけど真っ白だった。

 彼女も納得いかないようで、何度もそれを見返していた。

 縦にしたり横にしたり、裏返してみたりしていた。

 だが──何も記されていない。

 書きやすいように罫線が引いてあるだけの大学ノートの切れ端。

 その白い紙に滴が落ちる。

 この時期にありがちなにわか雨ではなく。

 彼女の、蛍ちゃんの。

 絶望からの涙、そうだと思った。

 彼女はそれを止めることなく、紙に小さな染みを作っていく。
 その為に涙を零しているかのように。

 けれどもわたしにはどうすることも出来ない。

 彼女を慰めることも、一緒になって泣いてあげることも出来なかった。
 わたしは何一つできなかった。

 出来ることはただ──傍にいるだけ。

 それだけ。
 
 あの時のサトくんがしてくれたこと。

 抱き合って泣いているわたし達に、ただ黙って見守ってくれていたこと。

 ただ見守る優しさ。

 ()()()()になって初めてわかった。

 彼の、お兄ちゃんの優しさが。

 失って分かること。
 それはあまりにも多すぎて。

 わたしがこんな姿になってから今頃後悔しているとき、彼女は人目も憚らず泣き続けていた。
 だが実際、誰も通りがかるものはいなかったし、幸いにして列車も来なかった。
 それは良かったことだと思う。

(ローカル線のダイヤなんてこんなものだね。早く乗りたいときほどなかなか来なくて、どうでもいい時ほどすぐ来てるんだよね)

 まあ、今は体がないから電車には乗れないと思うんだけど。

 どれぐらいの時間が経ったのだろうか、彼女は感情の波が収まったのか、自分の身体をかき抱いていた手を解くと、緩慢な動きで立ち上がった。

 膝についた泥を払おうともせず、焦点の合わない瞳を赤くしたままで。
 涙の痕がとても痛々しかった。

 少し虚ろな感じで彼女はよたよたと歩き出した、手にはあの紙飛行機を携えて。

 きっと彼女は分かっていた、あんなものに最初から意味なんてないことを。

 それでも縋ってみたかった、持っていきたかったんだと思う。

 わたしも同じ思いだったから。

 鼻をすすりながら拳で何度も目を擦ると、彼女はこちらを振り返った。

 まるで()()にいることが分かっているかのように悲しい瞳でじっとこちらを見ていた。

 その顔は泣き笑いのような、曖昧な表情で。

 それでも涙を堪えるように目を見開き、唇を噛んで、しっかりとこちらを見据えている。

 彼女は分かっているだけじゃない。

 ここにわたしがいることが分かっていながらどうすることも出来ない自分が悔しいのだと、それがやっと分かった。

 彼女の頬からまた涙がこぼれていた。

 とめどなく流れでる涙をもう拭おうともせず、じっとこちらを見ている。

 わたしは、自分がしたことを理解し、そして……後悔した。

 彼女は諦めたように小さく手を振ると、それでも名残惜しいのか後ろ向きのまま一歩ずつ歩き出した。

 駅舎の待つその先へと。
 後ろ向きのままで。

 今にも崩れ出しそうな微笑みを作ったまま声も出さずに泣いている。

 わたしも一緒に泣きたかった。

 でも、もうそんなこともさえ出来ない。

 ただ、窓の外から眺めることだけしかできないのだ。

 そして彼女は翻った。
 青空の下、きらきらと光の陰影を纏いながら。

 そして──その先へと駆け出して行った。

 腕を振って、なにもかも断ち切るような力強さで。

 その顔は二度とこちらを振り返らなかった。

 青い、青い空。
 空は高く、雲がそびえていた。

 その先へと。

 完璧な世界の先へと。

 彼女は走っていく。

 息を大きく弾ませて。

 誰よりも遠くへ。

 ただその走り方はあまりにもぎこちなく、今にもよろけてしまいそうなほど脆くみえた。

 無理矢理足を動かしているのが分かる、
 彼女の苦しさ、辛さが見て取れた。

 周りの景色はバケツをひっくり返したように水浸しになっていて、枕木も砂利もその隙間に水溜まりを作っている。

 そんなところで単純に走り出せばすぐに靴は泥まみれになり、跳ねた水萍は黒いストッキングを無情に濡らすだけなのに。

(だからレールの上を歩くように教えたのにな……)

 結局、わたしが彼女にしてあげられたことはそれぐらいだった。

 彼女からは色々気付かせてもらったり助けてもらったりしてくれたのに、わたしができたことはそれだけだった。

 でも、それすらもやってくれなかったので、結局何も成しえてはなかった。

 けれどもその事で罪悪感を覚えることも、後悔することはきっともうない。

 もう終わってしまったこと、だった。

 彼女は何かを求めて駆け出した。
 わたし一人を置き去りにして。


 だから……()()追いかけることが出来なかった。

 ただ、あの時と違ってわたしは輪郭を保っていて、凍てついた空気の中で白い息を何度も吐きだしている。

 でも。

(耳鳴りが、止まない……)

 髪を流して片手を耳に当てた。

 ちゃんと手が動くことに滑稽ながらも安堵する。
 ついちょっと前まで何の問題もなく動かしていたはずなのに。

 けれどももう片方の手には空しく、冷たくなったスマホが意味もなく握られている。

 思わず手放してしまいたいほどに凝り固まっている無機質の塊は。
 今のわたしを象徴しているかのように酷く空しく、そして冷たかった。 
 

 わたしが握っていたかったのは。

 彼女の柔らかい温もり、その思い。

 そして、彼女自身だった。





「ごめんくださいー」

 

 燐は雑木林と崖に囲まれた大きな家の門まで来ていた。

 

 凍り付いた通用口の横にあるインターホンを3回ほど鳴らした。

 もちろん3回とも有効な返事は返ってこない。

 

 凍っているのは門扉だけでなく、家全体にも及んでいるかのように真っ暗で静まり返っていた。

 

 それでも家に居ると思う。

 

 携帯の呼びかけにも、送ったメッセージに既読も付いてないけどそれは何故か確信できた。

 勝手な思い込みかもしれないけど。

 

 そこまで酷い別れ方をしていない、と思っている。

 

 それもやはり勝手な思い込みだろうか?

 

 部活の仲間なんて、それこそ絶交する勢いで喧嘩をしておきながら、次の日には何食わぬ顔で挨拶するような、良く言えば大らかな連中だった。

 

(まあ、蛍ちゃんは”そういう”のとは違うと思ってるけどね)

 

 だからこそ今日中に仲直りしておきたい、燐はそう決めてここへ来た。

 

 真夜中の友達のとこに、蛍の家に。

 

 最悪、柵を飛び越えて中に入ることも出来るが、そこまではしたくない。

 

 燐はもう再度、いや四度インターホンに手を伸ばす……その前に通用口の門を試しに押してみた。

 

 ぎいいぃぃぃ。

 錆びついた音が寝静まった夜の住宅地にいななきのように響き渡る。

 

 労せずしてあっけなく門が開いた。

 

「ちゃんと”戸締りをしたほうが良いよ”って、毎回のように言っているのにぃ」

 

 燐は、ため息の混ざった長い息を吐いた。

 

 ハウスキーパーの人が来なくなってから、蛍の言えは以前にも増してくたびれてきた気がする。

 

 悪く言えば荒れてきた、そんな退廃的な感じが似合うようになっていた。

 

 手入れする人がいないわけだから当然といえば当然なのだけれど。

 

 でも、冬になれば草むしりする必要がなくなると本人は無邪気に喜んでいたが、枯れ葉や枯れ枝を放置するのは何か違う。

 

 そんなことを蛍に言っていたら。

 

「じゃあ、一緒にやらない?」

 

 なぜか家政婦の代わりを燐が務めることになってしまった。

 

(別に蛍ちゃんちを掃除するのはそこまで嫌じゃないけど、さ……)

 

 物覚えは良いしなんでもテキパキこなせて、細かい所にも気を配れる……そういう意味で燐は、打って付けではあった。

 

 でもそのせいで蛍がだらしなくなってるとしたら……。

 

 今だってこうして戸締りせずにいるわけだし。

 

 燐は、色々やってあげるのも考え物だなと、合点が言ったように一人で頷いていた。

 

「もしもーし、蛍ちゃーん、家にいるんでしょ?」

 

 暗い中庭を通って、母屋の玄関越しに呼びかける。

 ここにもインターホンが付いているが、燐は先に戸口で呼びかけることにした。

 

 1分ほど待ってみてもやはり応答がなかったので、脇にあるインターホンを鳴らす。

 

 ピンポーン。

 ちゃんとチャイムの音は鳴るが、蛍が出てくる気配はない。

 

 まだ、怒っているのだろうか。

 

「はあ……」

 

 燐はがっくりとした白い息を吐く。

 

 それに追い打ちを掛けるように冷たい風が何度も通り過ぎて、その度に燐は身震いした。

 

 それでもすぐには帰ろうとは思わなかった燐は、もう一度呼び鈴を鳴らすべく、身体を玄関に近づけた。

 

 小さな軒先だが、それでもそのまま外に身を晒しているよりかはマシだったから。

 

 だが、近づきすぎたせいでチャイムが押し辛かったので、燐はバランスを取るために無意識で玄関扉の出っ張りに手を掛けていた。

 

 すると。

 

 がらがらと、大きな音がして玄関扉が横に開いてしまった。

 

(なんで!? 開いちゃったよぉ!)

 

 予想だにしない出来事に、パニックになった燐は脱兎のごとくその場から逃げ出して、暗い木の影に身を隠しながら、きょろきょろと周囲に目を配っていた。

 

(な、なに? なんで玄関も鍵が掛かってないの? まさかの泥棒がいる、とか?)

 

 燐はしばらく玄関先の様子を窺っていたが、人影も物音も明かりさえも付かなかった。

 そのことは異常であるにもかかわらず、燐は枯れ木にもたれながら息を零す。

 

 それは安堵の為のものか、それとも。

 

 どちらにしても一息つくことで、燐は少し落ち着きを取り戻すことが出来た。

 

 泥棒の線はないと思う。

 

 これといった根拠はやはりないが、わざわざこんな田舎町まで来て窃盗を働く輩はそうそういないとは思っている。

 

 狭い地域だからそういった噂は直ぐに広まるし、それに。

 

(蛍ちゃん家は広すぎて、何の知識もなしに入ったら出られそうにないもんね)

 

 燐だってあの時初めて奥の方まで入ったけど、それでも家の全体までは把握しきれてない。

 庭の掃除を手伝うだけでも一苦労なのに、家の中も全てやることになったら……。

 

(蛍ちゃんが手放したくなる気持ち分かるなあ……広すぎるんだよねこの家)

 

 蛍に対する同情の念を燐は胸中でそっと呟くと、そろそろと玄関の方に引き返した。

 

 

 開け広げられたままの玄関は、外と寸分変わらない色をもって沈み込んでいた。

 

 真っ暗い玄関の先には真っ暗い廊下が続いている。

 

 二階へ続く階段も何もかも、黒という世界の波に飲まれたように色づいて、淀んでいた。

 

 あの時のように電気が付かない、ということではないだろう。

 

 燐は蛍がしていたように、玄関の照明のスイッチを入れる。

 

 カチッ。

 小さな音がして、黒だまりだった玄関に柔らかい色の照明がぱっと降り注ぐ。

 それは緊張して強張った燐の表情をを少し和らげた。

 

 廊下の先はそれでも暗いままだが、少しだけ状況が分かってきた。

 

 玄関には靴が一足だけあり、それは蛍の履いていたトレッキングシューズで間違いなかった。

 

 相変わらずヒモ靴が苦手なようで、苦心してヒモを解いたのが丸まった靴紐の弛み加減で見て取れた。

 

 燐はそれが微笑ましくて、本人のいないところでくすりと笑った。

 

(さてさて、どうしようかな)

 

 いざ入ったものの、そこからが問題だった。

 

 直近で浮かぶ言葉はあるけれど、それを言いに来たわけじゃない。

 確かに心配ではあるけれども。

 

 ちょっと不器用で不用心な友達はやはり自室だろうか?

 

 とりあえず燐はもう一度玄関前の呼び鈴を鳴らしてみる。

 

 ピンポーン、ピンポーン。

 

 ちょっとうるさいぐらいに聞こえる音に、燐は自分で鳴らしておいて胸をドキドキとさせていた。

 

「………」

 

 高鳴る気持ちを抑えながら待っていた。

 

「……」

 

 それでもこの静寂を破る者もなにもない。

 広い家のどこかの部屋にあるのだろう、振り子時計の音がかちかちと遠くで鳴っていた。

 

「蛍ちゃ~ん……」

 

 その音に薄ら寒さを覚えた燐が、トーンを抑えた声で暗がりの中に呼びかける。

 

 家に居るのは間違いないのだが、勝手に踏み込んで確かめるだけの勇気はまだなかった。

 

(返事はないなぁ……もう寝ちゃったとかは、流石にないよね)

 

 鍵もかけずに寝てしまったのならさすがに大問題だった。

 いくら田舎の辺鄙な町だからって、年頃の少女が一人で住んで更にそこに鍵もかけないなんて。

 

(”そういう習慣”はさすがにないはずだよ、さすがに……)

 

 燐はそれほどこの町のことに詳しくはないが、そういった前時代的な風習は小平口町にはないと思っている。

 

 その代わり別の風習、儀式があることは知っていたから。

 

 さすがにあれ以上の奇祭はないはず。

 

 文献にも残されていない謎の儀式、幸運をもたらす為とは言え、代々して行われていた非道な儀式。

 

 わたし達はそれを知り、探して、そして選択の果てに戻ってきた。

 

 色々なものを失って、そして壊れてしまったけど。

 それでもここに来ている。

 

 足はしっかりと地についているし、手には……。

 

 燐は家から持ってきた平たい段ボールを片手に苦笑いした。

 

 このまま玄関先に”これ”を置いて帰ってもいいが、それだとなんのために来たのかわからない。

 

 わたしは彼女と──蛍ちゃんと話をするために来たんだから。

 ただ届けるだけなら、配達の人だって出来ることだしね。

 

「蛍ちゃんー、燐だよー。蛍ちゃんにお届け物があってきたんだけど、ちょっとだけ下りてきて欲しいなぁ」

 

 燐は蛍が籠城してるであろう暗い階段の先にある、二階の自室に首を伸ばして呼びかけた。

 

 ドアの隙間から零れる光もなく、二階からの返事もない。

 

(これは相当怒ってるね。蛍ちゃんとこんなこと滅多にないから難しいなあ)

 

 燐としては早く仲直りしたかったので、ここはなりふり構わずに声をだした。

 

「本当ごめん! ちゃんと謝るからちょっとだけ降りてきてよぉー」

 

 燐の必死の懇願も空しく、蛍からの返答はなかった。

 

(んもぅ! 蛍ちゃんの頑固者っ)

 

 燐はぷんすかと頬を膨らますと、持ってきたものを猫をかたどった玄関マットの上に、とすっと置いた。

 

「蛍ちゃーん! プレゼントここに置いておくからねー。後で食べてねー」

 

 自室でふさぎ込んでいるであろう、蛍に向かって最後通告とも言える声をかけた。

 

 耳をそばだてるも返事はない、なしのつぶてだった。

 

 燐は肩をすくめてため息をつくと、もう一度階下からそっと覗き込んでみた。

 

 玄関の照明も、月明りさえも届かない暗い階段の先は、時が止まったように静かで、氷の棺のような感じを思わせるような冷たさがあった。

 

 燐は複雑な顔でそれを見送ると、帰る前に玄関の灯りを落とそうかと迷っていた時のことだった。

 

「………?」

 

 いつからそこに居たのだろう。

 

 黒い廊下の先でそれは髪をだらんと前に垂らしていた。

 白い服のようなもの着ているが、それは服というよりもタオルのような布を当てているだけ。

 

「あ……」

 

 ぼんやりとした声は誰のものだったのだろうか。

 

 ぽたぽたと水のようなものを床にこぼしながらそいつが近づいてくる。

 右手には小さなランタンをぶら下げて。

 

 それは素足のまま、ペタペタと張り付いた音を立てながら廊下の奥から光ある方へと現れようとしていた。

 

 ゆらゆらとおぼつかない足取りで向かってくるそれを見た燐は。

 

「ひっ……!」

 

 たじろいだ燐は。

 

「いやああああぁぁぁ!!!」

 

 耳をつんざくような悲鳴を惜しげもなく披露していた。

 

 寝静まった夜。

 その声は家の玄関を突き抜けて、黒い空まで大きく鳴り響いた。

 

 ────

 ────

 ────

 

「んくっ、んくっ、ふあぁぁぁ……」

 

 湯気の出る空色のマグカップを両手で持って、それをゆっくりと飲むことで燐はようやく落ち着くことが出来た。

 

「ごめんね燐。お待たせちゃって」

 

 そのタイミングで、蛍が済まなさそうな顔でキッチンへと入ってきた。

 

 ピンクのネコが可愛らしい、いつものパジャマに少し薄手のベージュのカーディガンを羽織って。

 

 ドライヤーだけでは不十分なのか、まだ水気のある長い黒髪を一生懸命タオルで拭っていた。

 

 髪を下すと床に届きそうなぐらい長かった蛍の髪は、腰骨程度までには短くなっていた。

 これでも断腸の思いで散髪したようだったが、まだまだ長髪の部類ではあった。

 

「大丈夫だよ”蛍ちゃん”。わたしが勝手に押しかけちゃっただけだし」

 

 喉を通り抜ける柔らかい暖かさにほっこりしながら、燐が苦笑して答える。

 

「燐、それなんなの? ホットミルク?」

 

 蛍は今気付いたように燐が持っているマグカップを指さした。

 

「うん。レンジに専用のボタンがあるから簡単に作れるんだよ。あ、牛乳とか勝手に使っちゃってごめんね」

 

「ううん」

 

 蛍は小さく首を振ると、燐の向かい側の椅子に斜めに座った。

 毛先のダメージが気になるのか、手に取ってじっと見つめていた。

 

 燐が両手で持っているマグカップは甘い香りを漂わせている。

 蛍がキッチンに入ったとき香ってきたものの正体はこれだろう、そう思った。

 

「わたしもホットミルクは好きだよ。甘いし」

 

 本日の髪質にいまいちな反応を見せると、蛍は半乾きのまま長い髪を手で持って二つにすると、一つずつ丁寧にゴムで止めた。

 

「はい、これ蛍ちゃんの分。さっき作ったばかりだから、まだ温かいと思うよ」

 

 燐はピンク色のマグカップを蛍の前に置いた。

 白い湯気を立てるカップは熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどの温度を保っていた。

 

 蛍はマグカップを取ると、そっと両手で包み込んでそのかぐわしい香りを楽しんだ。

 

 甘い香りを堪能しながら、ややおっかなびっくりに舌を近づける蛍。

 舌先からくる熱さはさほどでもなかったので、そのまま口をすぼめて啜ってみる。

 

「………っ」

 

 思ってたよりも熱くなかったけど、それよりも予想以上の甘さの方に驚いた。

 

「これちょっと変わっているよね。何か入れたの?」

 

「なんか、砂糖をひとさじ入れるだけで美味しくなって、ついでに膜が張らないんだって。ネットに書いてあったよ」

 

 膜というのは牛乳を温める時に出来るたんぱく質の薄い膜のことで、鍋で温める時は鍋底からゆっくりとかき混ぜるといいらしいと、燐はネットの豆知識を自慢げに語った。

 

「へぇー、どうりで飲みやすいと思ったよ。わたしも今度やってみるよ」

 

「きな粉とかはちみつを入れても美味しいみたいだよ」

 

「ただ温めるだけじゃないんだね」

 

「うん。あとねココアにコーヒーを混ぜたものってカフェモカって言うんだけどね。それはね……」

 

 弾むような調子の燐のマメ知識をバックに聴きながら蛍はもう一口ホットミルクを飲んでみる。

 

 暖かみのある甘みと、可愛らしい燐の声。

 それが一体となって蛍の五感を楽しませた。

 

 それはなんだか小さい頃に戻ったような、そんなやさしい気持ちにさせた。

 

「そういえばさ、燐は寒くないの? そんな恰好して」

 

 今の燐の格好は否応なしにも目についてしまう、蛍は燐の話が一区切りしたタイミングでおずおずとそれを尋ねた。

 

「うー、すっごく寒かったよ~。全身にカイロ貼りつけたいぐらいだったしぃ」

 

 さっきまでは冗談が言えないぐらいの寒さだったことを表すように、燐は大げさに身体を揺さぶってみせる。

 

「ひょっとしてそれがお店で着るサンタの格好なの? ちょっと薄手っぽいね」

 

 それは生地の厚さのことだけではなく、見た目的な意味合いも含まれていた。

 なぜなら蛍が考えていたよりもずっと短かったからだった、主にスカートが。

 

(あんなに丈が短いの履くんだ……燐は似合ってるけどわたしには無理っぽいなあ)

 

「まぁね。お母さんが蛍ちゃんとこに行くなら折角だから着ていきなさいって。夜にこんな服でウロウロしてたら変なお店の人と勘違いされるのにねぇ」

 

 燐の言葉のニュアンスには少し諦めが滲んでいるように聞こえた。

 ちょっとしたやり取りがあったに違いない、そう蛍はにらんでいた。

 

「わざわざ何処かで買ってきたのかな。こーゆーのってあんまり売ってないよね」

 

 蛍は感心するように燐の紅白のサンタの格好をまざまざと見つめる。

 

 学校のある駅前の大型ディスカウントストアのものとはちょっと違う気がする。

 もしかしたらハンドメイドなのかもしれない。

 

 蛍にじっと見られてると思うと、それまでなかった羞恥心が急に込み上げてきて燐は顔を赤くして隠すように体を屈めた。

 

「あ、あんまり見ないで欲しいなー。これって着るの結構恥ずかしいんだよね。今更なんだけど」

 

「あ、ごめん燐。でもまぁ、そうだよね」

 

 燐の照れた表情が可愛くて蛍はにこっと微笑んだ。

 

 さらに蛍が笑っていることはそれだけではない、自身は気づいていないのか、ミルクで口の周りを白くさせた燐は、まさしくサンタのようであった。

 

(そんなところまでなりきらなくてもいいのに)

 

 蛍は燐が気付いていないのがおかしくてくすくすと笑い続けた。

 

 燐は何がそんなにおかしいのか首を傾げる。

 でも蛍の笑みが純粋なものだったので胸中で安堵した。

 

(蛍ちゃん、機嫌直してくれたのかな?)

 

 あんな風に別れてしまったから、燐は気をもんでいたのだが、楽しそうに笑う蛍にほっと胸をなでおろした。

 

 でも、燐はもう一度謝罪の言葉を口にする。

 蛍は良くとも燐はまだ納得できなかったから。

 

「蛍ちゃん、本当ごめんね。わたし、すっごく無神経だったよ。だから本当にごめんね」

 

 両手を合わせて平謝りする燐を蛍は優しい表情で返す。

 

「燐。それはもう何度も聞いたよ。だからもう気にしなくていいよ」

 

「でも」

 

「ううん」

 

 尚も食い下がる燐に、蛍は小さく首を振った。

 柔らかい瞳の奥に、申し訳なさそうな顔の親友が写っていた。

 

「それに、燐だけが悪いわけじゃないよ。わたしだって我儘言っちゃったんだから」

 

「そんな、蛍ちゃんは悪くないよ。わたしが蛍ちゃんを放っておいて、ずっと電話してたのが悪いんだよ」

 

「わたしだって、燐の話もろくに聞かないで帰っちゃったんだから同罪だよ。だからお互いがちょっとすれ違っただけ。それでいいでしょ」

 

「でもさぁ……」

 

 燐は明らかに自分の方に非があることを認めさせようと、ちょっと不満げな顔を向けた。

 

「ね。燐」

 

 蛍は燐にそっと手を添える。

 

 マグカップを弄んでいた燐の手に蛍の柔らかい手が乗せられて、燐ははっとなってこちらを真っ直ぐに見つめた。

 

「わたしね、多分嫉妬してたんだと思うの。だって燐がホッケー部の人と楽しそうに話しているのをみたらなんか急に寂しくなってきちゃって。ああ、やっぱりわたしは燐と釣り合わないんだなーって思ったらなんか一緒に居ちゃいけない思ったの。ごめんね燐」

 

 わたしって思ってた以上に寂しがり屋だったみたい、と蛍は一言付け加えて顔を赤くした。

 

「蛍ちゃん……」

 

 蛍が困ったような顔でこちらを上目づかいで見てくることに、燐は罪悪感と嬉しさを同時に覚えた。

 

 無垢で純粋な友達にわだかまりを与えてしまったことへの罪悪感と、同じような思いで好きでもらえることの嬉しさで、燐の気持ちは複雑に揺れ動いた。

 

「蛍ちゃんは弱くないよ、わたしがいけなかったんだ。わたしにとって何よりも大事な友達なのに」

 

(燐……)

 

 大事という言葉は何気ないものだったが、蛍にとってそれは何にも代えがたいものだった。

 それは蛍も同じだったから。

 

 大事なのは自分だけじゃない。

 一番近くに居てくれて、ずっと見守ってくれている人も同じように大事にしたい。

 

 それは壊れやすくてとても綺麗なもの。

 

 それはきっと……目の前の人。

 

 同じ気持ちだと思っているから。

 

 だから素直に嬉しかった。

 

「だったら、おあいこでいいんじゃないかな」

 

「おあいこって……蛍ちゃんは、それでいいの? わたしの事許してくれるの?」

 

「許すもなにもないよ。燐とわたしの仲だって言ったでしょ」

 

 蛍は燐の顔を真っ直ぐに見つめる。

 燐も目を逸らさずにそれを受け止めた。

 

「じゃあ蛍ちゃん、わたしと仲直り……して、くれますか?」

 

「それはわたしのセリフだよ燐。ワガママなわたしだけど良かったら仲直りしてほしいな……」

 

「ワガママなんて一度も思ったことないよ。蛍ちゃんはいつだって真っすぐで純粋だし。わたしのほうがずっとワガママだよ」

 

「わたしの方が燐の事、ずっと純粋で一途だと思ってたんだけどな」

 

 二人はこのことで何故か一歩も譲らなかった。

 

「なんか、お互いに気を使っちゃってなかなか上手くいかないね」

 

 困った顔で笑みを作る蛍。

 

「うん。わたしもそう思ってた」

 

 燐も同じように苦笑した。

 

「じゃあどうする?」

 

「そうだね……」

 

 顔を見合わせる燐と蛍。

 二人の答えは決まっていた。

 

「じゃあ、はい」

 

「うん」

 

 どちらともなく差し出された手をしっかりと繋ぐ。

 

 蛍と燐、二人の両手には、惑いも衒いもなかったから。

 

 だから二人とも自然な笑顔になった。

 

「なんか、いつもこういうことやってるねわたし達。癖になってるとか?」

 

 キッチンに置いてあるファンヒーターのせいなのか、ピンク色の頬で燐が照れた笑いを見せる。

 

「うん。でも、握手って仲直りの定番な気がするし。それに、燐と手を繋ぐのって嫌いじゃないから」

 

 蛍も上気した顔で、はにかんだ笑みを燐に返した。

 

「あ、わたしも。なんか手を繋ぐと安心するっていうか、でもそれって蛍ちゃんとの時だけかも」

 

「わたしは燐ぐらいしか繋ぐ相手、いないから分からないけど」

 

「もー、蛍ちゃん、わたしはそういう意味で言ったんじゃないってばー」

 

 からかうような燐の口調に蛍は安心したように微笑む。

 何かあっても分かってくれる友がいることが嬉しかったから。

 

「ごめん、分かってるよ燐の事なら。全部」

 

 意味ありげな言葉を紡ぐ蛍に、燐は一瞬だけ呆気に取られた。

 

「え。あ、そうだね……えっと、わたし達にはこれで十分だよね。これ以上はなんかまだ早い気もするし」

 

「早いって?」

 

 意味が分からないように首を傾げる蛍を見て燐は、ちょっとだけ目を丸くするも、直ぐに疑いの眼差しで見つめた。

 

「蛍ちゃん……意味わかって言ってるよね……」

 

「そんなことないけど」

 

「どーだか」

 

 しれっと呟く蛍と、少し呆れ顔の燐。

 

 しばらく見つめ合った二人は、どちらともなく吹き出していた。

 

 暗く冷たい家の中で、二人のいるこの一室だけが、温かな情景を作り出していた。

 

 

 ………

 ………

 ………

 

「そういえばさ、蛍ちゃんって、お風呂入ってたんだよね? 真っ暗な中で」

 

「うん。そうだよ」

 

 燐が店から持ってきたピザを二人で囲みながら、夜更かしすることを決めたとき、燐が何気に呟いたことだった。

 

「でも、真っ暗なお風呂って怖くない? 停電してたわけじゃなかったし」

 

 燐はその後、風呂上がりの蛍に代わって通用口と玄関の戸締りをして、ついでに戸口の照明を付けたままにしておいた。

 

「停電なんてあの時ぐらいだったしね」

 

 蛍がマルゲリータから伸びる細長いチーズを眺めながら答える。

 

 燐の母が作ったと思われる円形のピザは宅配業者のものとさほど変わらないクォリティーで、まだ香ばしい匂いをあげていた。

 

 四種類(クワドロプル)のピザが楽しめるようになっているパーティー仕様でそれぞれ、チーズたっぷりのマルゲリータ、エビが乗ったシーフード、そしてちょっと辛めのハラペーニョと定番が揃っていた。

 

 だが、最後の一つは……まあ、これも定番と言えば定番なのだが。

 

「わたしはやっぱりこれがいいな」

 

 蛍がマルゲリータの1ピースを珍しい早さで胃に収めると、これが本命とばかりにそれに手を伸ばす。

 

 下のチョコレートソースが見えないほどマシュマロが乗っかった、チョコレートチャンクピザに。

 

 蛍が幸せそうな顔でマシュマロピザを食べる様子を、燐は少し口角を引きつらせながら眺めていた。

 

 やっぱりと言うか、そうだろうなとは思っていた。

 代わりに辛口のハラペーニョ味には一切手を付けていない。

 

 これは燐が食べるしかないのだろう、なんたって蛍は甘党なのだから。

 

 燐は今から明日のトイレの心配をしなければならなかった。

 

「ちょっと恥ずかしいんだけどさ……」

 

 デザート系のピザをまずは一切れ完食した蛍が、その味を口内に残したまま、ゆっくりとホットミルクを傾ける。

 

 マシュマロとミルクの組み合わせは見てる燐の口内までも甘ったるくなりそうだった。

 

 ミルクを飲み干した蛍は、ほっと一息つくと、膝をもじもじとさせながら最近の趣味、というか少し奇妙なルーティーンの事を話し始めた。

 

「あのさ。最近ね、わざと電気点けないでお風呂に入るのがちょっと気に入ってるんだ。でも流石に真っ暗はわたしも怖いからランタンだけは置いてたけど」

 

 蛍が使っていた小さなランタンはテーブルの隅で鎮座していた。

 

 シンプルな外観のLEDランタンだが、生活防水と充電機能がついてあるため、アウトドアだけでなく、普段の生活にも使える割と便利なものだった。

 

「明かりも音もない浴室で風の音だけ聞いて入る(にゅうよく)の。そうするとね、星の瞬きとか、息づかいとかそういった目で見えないものを感じるような気になって……ほら、あの時、燐と一緒に夜のプールに入った時みたいな、暗い海に漂うようなイメージで」

 

 蛍は少しうっとりしたように自身の風変りな入浴法をとつとつと語った。

 

 普通の人なら到底理解しがたいことであったが、燐だけは違った。

 

 蛍と一緒の想いを共有できるのは燐だけだったから。

 

「ああ、あの時のことね。わたしもあの時はすごく気持ちよかったよね。星の海の中を泳いでるみたいだった」

 

 銀河鉄道に乗ってるみたいだったね、と微笑む燐。

 

「うん。わたしもおんなじ気持ちだった。だからあの時の事をしてみたかったんだと、思う」

 

「そっか……」

 

 その気持ちはよくわかる。

 

 あれは、あの世界における一時の安らぎだったから。

 

 充足した時間。

 

 燐と蛍、二人の意識が空と水の間で一体となって混ざり合っていた僅かな時のこと。

 

 想いのすべてもなにもかも。

 

 お互いを意識することなく、混ざり合ったあの時間は過去と呼ぶにはまだ近すぎる出来事だった。

 

「でもさ、さっきも言ったけど戸締りぐらいはちゃんとしなきゃダメだよ。何かあってからじゃ遅いんだし」

 

「うん、そうする。今度からはちゃんとするよ」

 

「蛍ちゃん、前にもそう言ってたでしょ。信用できないなあ~」

 

 燐がにやにやと口を緩ませながら指摘する。

 

「だったらさ、燐が一緒に住んでくれればいいよ。そうすれば防犯ばっちりだし」

 

 妙案とばかりに手を叩く蛍。

 

「また、それぇ。もー、蛍ちゃんは一等地のマンションにわたしと一緒に住むんでしょ? もう自分で言って忘れちゃったのぉ?」

 

 肩をすくめる燐を見て蛍は目をぱちくりとさせた。

 

「え、燐。一緒に住んでくれるの!? だって……」

 

「蛍ちゃんは危なっかしいからね。わたしが傍でついててあげないと心配で夜、寝られなくなっちゃうよ」

 

「そうなんだ、ごめんね。でも、嬉しい、かも」

 

 燐の言葉を素直に受け取った蛍は、困ったようにしながらもぱっと顔を明るくさせた。

 

「あはは、気が早いなあ蛍ちゃんは。でも一緒に住むなら色々と用意しなくちゃね」

 

「うん、不束者ですがよろしくお願いします」

 

 蛍はテーブルに手を揃えて、燐に向かって恭しく頭を下げた。

 

「こ、こちらこそ……よろしくお願いします」

 

 燐も慌てて頭を下げる。

 

「なんかさ、新婚さんっていうかおままごとしてるみたい……」

 

「あ、わたしもそう思った」

 

 二人は顔を見合わせて笑い合うと、ピザの残りに手をつけることにした。

 

 …

 ……

 ………

 

「クリスマスだからピザを持ってくるのは何となく分かるんだけど……これはいつもの?」 

 

「うん、そう。いつものやつ、だよ」

 

 燐は意味深に言葉を区切りにながら、諦めの混じったため息をついた。

 

「失敗作も混ざってると思う」

 

 燐が家から持ってきたものは大きなピザだけではなかった。

 

 ノンアルコールのシャンパン風飲み物とサンタの衣装。

 それと二切れのケーキと、あと、いつものビニール袋。

 

 中には袋いっぱいにパンが入っていた。

 大小さまざま色とりどりのパンの山が。

 

 焦げ目が大きくついたもの、中のクリームがはみ出しているものなど”いかにもなパン”がぎゅうぎゅうに詰まっている。

 

「あ、でもちゃんと食べられるものだけを選んでるから安心してね」

 

「う、うん」

 

 さらっと怖いことを言う燐に、蛍は複雑な笑みで答えた。

 

 燐がこうして失敗したり、売れ残ったパンを持ってくるのは、定番と化していたから、蛍はさほど驚かなかったが、実のところ、それほど嬉しいわけでもなかった。

 

 売れ残りが出ると言うことは燐の店”青いドアのパン屋さん”、通称”青パン”が繁盛していないと言う証になるのだから。

 

「イブだからちょっとはマシかなと思ってたんだけどね」

 

 パン屋の書き入れ時なんて季節ごとのイベントかの何かの記念日ぐらいなのに。

 

 その最大のイベントの一つでこれでは……母がボヤきたくなる気持ちも分かる。

 

 言ってもまだ無名のパン屋だし、開店して一年も経っていないのだからこんなものなのかもしれないけど。

 

「いつになったら売れ残りってなくなるのかな……」

 

 蛍が袋の中身を指で確認しながらぽつりと零した。

 

「うーん、せめて店が連日満員にならないと無理かもね」

 

 作り笑いをする燐からは諦めの色が濃くでている。

 

「それってどれぐらいで達成しそう?」

 

「そーだねぇ、例えば小平口町が”市”になって、店がSNSやテレビで大人気になって、そこから全国にチェーン店が出来て……あ、あと! わたしと蛍ちゃんがアイドルデビューして武道館でリリイベする頃にはなんとか──」

 

「つまり、それって絶対無理ってこと?」

 

「そ、現実は厳しいってことだね」

 

 燐がその厳しい現実の象徴たるパンの袋をテーブルクロスの真ん中に置いた。

 

 バランスを保ってしっかりと立つビニール袋は、それだけ売り物にならなかったパンがつまっているということだった。

 

「理想だけじゃお金は稼げないもんね」

 

「だねー」

 

 白いテーブルクロスのちょうど真ん中に置かれたパンの袋の中は、潰れたり焦げたりもしているが中身はパンであることには変わりはない。

 

 形がちょっと崩れていたり、中の()()が少なかったりしてもパンはパンなのだ。

 

 それでも客は色、形のいいパン、人気のパンばかりを選んで買っていく。

 売れ残ったパンにはもう価値などないのだろうか。

 

 蛍はあの、青いドアの家での一件を思い出していた。

 

 二人で手で持ったテーブルクロスに毬を押し当てた奇妙な実験、というか幸運の流れの解説を。

 

()()()()()言ってたよね、”毬という立体が押し付けられて平面の世界が歪んでいる”って)

 

 結局幸運とはわたし達の世界において、立体的かつ歪みを作るほどの質量を持っているということなのだろうか。

 

 なんでそんなものを欲しがったんだろう。

 あれからもう一度、中学校の図書室まで行ってみたが、やはり手掛かりらしきものは何もなかった。

 

 幸運は人の手には余るもの。

 ましてやそれを意図的にコントロールすることなんてことは土台無理な事だったのだと。

 

 そんな今更な事しか分からなかった。

 

 それともう一つ、蛍がどうしても気になっていることがあった。

 

 それは蛍がテーブルクロスの毬のことをブラックホール現象との類似性を指摘したときのことだった。

 

 ”確かにのみ込みの早い子”、あの時わたしを見てそう言った、オオモト様は。

 

(あれは燐に言ったんじゃないよね、多分。燐はわたしよりも全然のみ込みが早いけど……)

 

 ”確かに”と言うことは以前から知っていたということになる。

 

 オオモト様は蛍の出生やその生い立ち、そして自分の過去については一切語ってくれなかったけど。

 

(だったら、やっぱり”わたしのお母さん”ということになるのかな。でも、わたしの前にはあれから出て来てはくれないんだよね)

 

 理由は知りたいような、知りたくないような……。

 

 蛍は消化しきれないもやもやとした気持ちを抱えながら、テーブルクロスの上のパンの山を皿のように眺めていた。

 

 

 一方の燐は、蛍とは全く別な事を考えていた。

 

 蛍と一緒に暮らすとなったら何が要りものだろうかとか、どうやって母を言いくるめたらいいだろうかとか、そんな些細な事で頭を悩ませていた。

 

 だが、本質は別のところにあった。

 

 燐はビニール袋一杯のパンの山に一本の木、大木を見ていた。

 

 大木は風車であり、風車は燐にとっての孤独のイメージだった。

 

 つまり白ではなく。

 はいいろ。

 

 風車が動いて見えないのは灰色のせいだと思った。

 

 燐は風車を手で持って横にずらしてみる。

 

 その先にはこちらをみる親友の顔があった。

 

 目を合わせた二人は何気なく微笑み合う。

 

 

 幸運も質量も最初からなかった。

 

 あるのはただ、偶然。

 

 

 偶然こそがこの世界の全てだった。

 

 

 

 ………

 ………

 ………

 

 

 






先日、アイスコーヒーを嗜もうと一口飲んでみたら……なんか酸っぱいぃぃ! まさかカビが発生してるんじゃ……と不審に思っていたら、どうやらガムシロップとビネガーを間違って注ぎ込んでしまっただけでしたw

飲めないことはなかったですけど、ふつーに美味しくはなかったです……珈琲の風味もコクも全部ビネガーに染まってしまいますからねぇー。でも、勿体ないから全部飲んだんですけどね──。
でも、体に良さそうかもも? とちょっと調べてみましたらば……むう、酢コーヒー!? そーゆーのもあるのかぁ? しかもスプーン一杯のお酢で肥満予防にもなるらしいですぅ?? うーん、二度と試したいとは思わなかったんですけど、たまには飲んだ方が良いでしょうか? 酢コーヒー……。


★ドラキャン△ 2。

   \ ここをキャンプ地とするっ!! /

と、実はそこまで詳しくない水曜どうでしょうネタ。
で、第10話~12話は、なでしこのソロキャンエピソードでしたけれども、やはり実写は食べ物が美味しそうですよねぇー。荏胡麻チーズケーキ、しぐれ焼きと良い感じの飯テロだったです。ホイル焼きは……実写だとかなりのボリューミーですねぇ。食材を丸ごとホイル焼きして、オリーブオイルをだばぁとかける絵面の豪快さは実写ならではかも……それでも雰囲気は良かったですねえ。
ただ、リンもなでしこも覗き見が近すぎて気付かない方がおかしいレベルになってますね。特にカップルが食べている富士宮焼きそばをなでしこが羨ましがるシーンが凄く近くて、見てる方が恥ずかしくなるのががが。
あと、周りに聞こえるほどの独り言を言いながらテントを設営したり、準備するなでしこに何故かわかりみが深いんですけどももも。案の定つっこまれていましたが。

と色々頑張っていたドラマ版ゆるキャン△ 2ですが、次の13話が最終話……つまり! 伊豆キャン無しが確定してしまいました……。
まあ……何となくそんな気はしてましたけどねー、ペースが緩やかでしたし。
それに、この時勢で伊豆の観光地を巡ってロケするのはちょっと難しいですもんねぇ。伊豆編のクライマックスとも言える堂ヶ島のトンボロのシーンはどうするのかなーってちょっと期待してたんですけどもー。

あるかどうかはまだ分かりませんが続編、三期に期待ですねー。


ではではー。



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For example, on the moon stairs again.

「蛍ちゃん。これからデートに行かない?」

「でぇと? いまからゃ?」

 蛍は目を丸くする。

 だって、燐の頼みで仕方なくハラペーニョ味のピザをちょうど口に入れたところだったから。

 案の定、真っ赤に染まった舌と唇を金色のしゅわしゅわで癒しているときに突然燐が言ったことだったから。

 だから燐の言っていることがよく理解できなかった。

「うん今からデート。お腹も膨れたし、後は寝るだけってなんか勿体ないじゃない、せっかくのクリスマスだし。それとももう、眠たい?」

 燐は意地悪そうな笑みでそう提案してくる。
 確かにもう一般的には十分寝る時間になっていたが。

「んんー」

 蛍はコップの中で子猫のように小さな舌をぴちゃぴちゃとさせながら思案する。

 シャンメリーはコップの中でぬるくなっていたし、炭酸泡がぷちぷちと弾けて、火傷に余計なことをしている気がしてきたが。

 今はそれほど眠気はないし、蛍とすれば燐と一緒に居られればなんでも良かった。

「無理にとは言わないけどね」

 燐は念を押すように言った。

「あ、燐。ちょっと見て」

 蛍は腫れが引いたことを確認してもらう為、燐の前でべぇーと舌を出す。
 蛍の珍しい仕草に燐はくすくすと笑って、オッケーの合図(サイン)を指で作った。

「火傷してる感じはないみたいだったよ」

「そう……だったらいいんだけど……」

 燐に笑われるほど恥ずかしい思いをした蛍だったが、それでもまだしっくりこないのか、気難しそうな顔を浮かべながら口内で何度も舌を転がした。

(これが治らない事には行けそうにないなぁ……あ、そうだ!)

 燐はパッと目を輝かせると、何か閃いたのか手を叩く。

「蛍ちゃん、ちょっと冷凍庫借りるね」

 燐は蛍の返事を待たずに冷蔵庫の下の冷凍室の扉を開けた。
 中は何も入っていなかったが、それでもお目当てのものは見つかった。

 トレイを取り出して中を確認する、ちゃんと出来ているようだった。

「はい、氷。しばらくこれをしゃぶってればいいよ」

 燐は製氷皿から四角い氷を一つ取り出すと、蛍の口の中にころんと入れた。

「もぐもぐ……ひゃりがと燐。ひゃじめ(始め)からこうすればよかったねぇ」

 蛍は口の中をもごもごさせながら奇怪なお礼を言った。

「くすっ。ん、じゃあ行こっか、”善は急げ”ってねっ」

 言うが早いが、燐は蛍の手を引っ張った。

「ち、ちょっと待ってよ燐。テーブルの上、このままにしておく気なの」

 蛍の視線の先には白いテーブルクロスいっぱいに食べ散らかした後が散乱していた。

「あっ、だよね。食べ終わったら片づけるのが鉄則だよね。うっかりしてたよ」

 二人が食べ散らかしたテーブルは飲みかけのペットボトルやビニール袋が散乱していた。

 燐があっさり手を離したことに蛍は一抹の寂しさを覚えたが、顔には出さなかった。

「ちゃちゃっと片づけちゃおうか。蛍ちゃん、残りのピザはラップに来るんで冷蔵庫の上の棚に入れて置くからね。後でレンジかトースターで温めたら食べられるから」

「うん。わかった」

「あとは、ケーキだけど……これも冷蔵庫だね。飲み物も……冷蔵庫だね。ごめんね、残り物ばっかり入れちゃうけど、ちょっと持ち帰ろうか?」

「ちょっとづつ食べるから大丈夫だよ」

 燐は蛍と手分けして残り物をあらかた冷蔵庫に押し込んだ。
 物がなくなったテーブルクロスの上を燐はウェットティッシュで手早く拭く。

 家が接客業を始めてから、燐は以前よりもこういった家事に精を出すようになっていた。

 気になる汚れでもあったのだろうか燐は関係ないところまで掃除しだした。
 蛍はその様子に少しの違和感があった。

(あれ……今日ってなんだったっけ?)

 蛍は壁に掛けてあったカレンダーに今更のように目をやった。

 12月……25日……クリスマスか。

 本当に今更の事だったが今夜はイブでクリスマス当日だった。

 だから、燐はこんなにはしゃいでいるのかと理解した。
 まるで小さい子供みたいに。

 蛍は急に納得した気分になって、母親のような気持ちで(本当の母親の心情は分からないけど)テキパキと動く燐のことを見守っていた。

「これでいいかなっ。どう? 蛍ちゃん」

 テーブルの上どころか、床や冷蔵庫まで綺麗になっていた。

 短時間の間の燐の働きっぷりに蛍は感心しきりだった。

「あれだよね。燐って部室の掃除を一人でやってるんだよね。だからかな、掃除するのすごく上手くなってる」

「もう……それは言わないでよー、この前お母さんにも言われたしー」

「それは良いことだよ燐。掃除が得意なのは家政婦さんの第一条件だって、吉村さんが言ってたし」

「いやいや、家政婦さんとかないから。メイド服ならちょっと着てみたいけどね」

 燐は短いスカートを摘まんで気品がある風に持ち上げてみせた。
 スカートが短すぎて、しましまのパンツが少しだけ見えてしまっていた。
 
「燐がメイドになってくれるならわたしが雇ってあげるね」

「……蛍ちゃんち広すぎるから却下」

 サンタ姿のメイドはその見習いにすらならずに秒で退職した。

 ………
 ………
 ………

「燐、やっぱり車で来てたんだね」

 蛍はコートを着込んで外に出ると、自宅の家の門の前に止めてあった軽自動車を指さした。

「うん、なんかあれもこれもって持っていくことにしたら結構な荷物になっちゃったからつい
……」

 なぜか少し照れたように笑う燐に、蛍もにこっと微笑む。

「サンタさんの格好をしてるんだから、全部袋に詰めてくればいいのに」

 蛍の意見はある意味もっともだった。
 
「えー、そんなの恥ずかしいよー。それ完全に不審者じゃん」

「自分からそんな恰好しているのに?」

 蛍はわざとらしく首を傾げる。

「いやー、これは無理やりに、ね……それにこの恰好、蛍ちゃんに一番最初に見せたかったから、車で急いで来たのっ。なのにさ……」

「なのに?」

 拗ねた口調の燐に蛍はわけを尋ねる。

「なのに、蛍ちゃんってば、SADAKOみたいな恰好で出てくるんだもん。すっごくビックリしちゃったよぉ」
 
 SADAKOとは燐が良く見るホラー映画の主役兼、悪役のキャラで、人気作だからか続編が何本も作られていた。

 外伝やスピンオフも作られたが、どの作品も主役はSADAKOだった。

 燐はそのSADAKOを真似して、前髪で目元を隠しながら、両腕を、ぞぞーっと前に突き出した。

「あれは……ごめん。でも脅かすつもりはなかったんだよ。玄関先で物音がしたからそのまま出てきちゃっただけで」

「わたし恐怖で腰が抜けちゃったよぉ~」

「あはは、だったらお化け屋敷のアルバイトしようかな。燐が怖がるぐらいだし」

「あ、それいいね。夏休みに一緒にやろっか?」

「……うん」

 二人は約束をした。
 クレープの時は違って、まだ当分先のこと。

 よほどのことがない限り叶えられそうな、ごく自然な約束。

 それは蛍の心をほのかに温かくした。
 例えそれが叶わない遠い未来の話だったとしても。

 それでも嬉しかったから。

「で、燐は何のお化けの役がやってみたいの?」

「えっとぉ、わたしはねぇ……うーん色々あって迷っちゃうなあ。そうだ! 蛍ちゃん、わたし似合いそうなお化けとか妖怪って分かる?」

「うーん、そうだねぇ……」

 蛍が考え込む仕草をしていると、燐が好奇心のある眼差して見つめていた。
 その瞳を見て蛍はある妖怪の姿が浮かんだ。

「燐は、どっちかっていうと猫っぽいから……」

「うんうん」

 蛍の答えをワクワクしながら覗き込む燐は、サンタの格好をしているのにプレゼントを待つ子供のようだった。

(猫っぽい妖怪って言ったら猫又かなぁ? それとも猫娘?)

 猫のフレーズから導き出される妖怪は燐の知識では精々そのぐらいだろう。
 二体とも可愛い系の妖怪で通っているので、燐はどちらでも嬉しかった。

 だが、蛍の答えはあまりにも予想外だった。

「燐は……”ぬりかべ”とか似合いそうじゃない、見かけの割にしっかりしてるし」

「えぇー、ぬりかべー!? 猫要素全然ないじゃん」

 燐はあからさまに嫌な顔をした。

「でも、可愛いと思うよ。燐のぬりかべ」

「ぬりかべなんて可愛くないもん。ただの壁だもん」

 無邪気に笑う蛍に燐はぷいっと頬を膨らませた。

 へそを曲げる燐を見て、蛍は”天邪鬼”っぽくて可愛いなあと思ったが、本人には言わないでおいた。

 ………
 ………
 ………

「蛍ちゃん、ガス使ってなかったよね? 一応元栓は閉めたけど。エアコンもファンヒーターも止まってたし、水道は……さすがに破裂することはないとは思うけどちょっとだけ水、だしておこうか?」

「うん。そのほうがいいかも」

 燐は、分かった、と返事をすると、走って蛍の家の玄関に戻ると、キッチンの蛇口を捻った。
 ちょろちょろと細い水の線が排水溝へと流れていく。

 庭にある蛇口は前もって布が巻き付けてあるので、そう簡単に破裂することはないと思う。

 あらかた点検し終わったのか、燐が髪を揺らしながら玄関から出てくる。

「後は、燐がちゃんと確認したなら大丈夫だよ。わたし燐のこと信用してるし」

「あはっ、蛍ちゃんに頼りにされるのは嬉しいんだけどね、今日みたいなのがあったらやっぱり心配だよ~。何かあった後じゃ大変なんだし」

 顔は笑っていたが、蛍の思っている以上に燐は心配なようで、蛍の家の周辺をペンライトで照らし出していた。

「今日はたまたまだから」

「本当に?」

「本当だって。それより燐、早く行こう。早く行かないと夜が明けちゃうよ」

 蛍が手に持った水筒を前後に揺らしながら、少し急かすように燐の背中に呼びかける。

「まだ夜明けはそこまで近くないよ蛍ちゃん。冬だからね」

 燐は玄関扉が開かないことをもう一度手で引いて確認すると、ようやく門の外まで戻ってきた。

「はい、家のカギ。門のカギは蛍ちゃんが閉めて」

「うん」

 蛍は通用口の門を手わされたカギで締めると、きちんと閉まっているか燐が動かして確認した。

「これで大丈夫だね」

「そうだね」

 蛍と燐は顔を見合わせた。

「燐、デートっていうかこれってドライブだよね。どこまで行くの?」

 夜と変わらない色をした深い青と白のツートーンカラーの軽自動車を見つめながら蛍が尋ねる。

「それは着いてからのお楽しみ、だよ」

「お楽しみ……?」

 人差し指を立ててウィンクする燐はやはり楽しそうだった。

(でも、はしゃいでいるのは燐だけじゃないね。わたしだって楽しんでいるんだこの時間を)

「どうしたの蛍ちゃん。やっぱり眠い?」

 顔を覗き込む燐に、蛍は慌てて首を振る。

「だから大丈夫だって言ってるでしょ。それに燐が運転するんだからわたしが仮に眠っても問題ないでしょ」

「それってフラグ?」

「もう、行くなら早く行こ。燐にはそう言ったけど雪が降らないとも限らないし」

「そ、そうだねっ、山の天気は変わりやすいっていうもんね」

 慌てた燐の言葉に蛍は一瞬眉をひそめる。

「今から山に行くの?」

「山っていうか、なんと言うか……」

 燐ははにかんでほのめかすと、運転席のドアノブに触れる。

 ぴっ、と小さな音がして、ドアミラーの開閉と共に車内から生き返ったような明かりがぱっとこぼれおちる。

 それを合図に少し気を遣ってドアを開けると、燐と蛍はコッソリと車に乗り込んだ。

 ()()()()()()と車に乗るのはこれが初めてということはなく、月に一度程度は助手席に乗せてもらっていた。

 だが、まだ燐は無免許なので日中を大っぴらにということではなく、もっぱら夜、それも今日のような深夜で、決められたルートだけの限定的なドライブだった。

 だから、きっと今夜も同じルートなのではないかと思っている。
 それでも蛍は燐と一緒のドライブが好きだったから同じ場所でも問題はなかった。

 
 燐はシートベルトを締めると、運転上の不備はないか指先で一つづつ確認をする。

 これは無免許運転を許可してくれた母親との約束ごとだった。
 蛍は大変そうにその様子を固唾を飲んで見守っていた。

 でもこれは、教習所では必ずやることであり、別段おかしい訳ではない。

 むしろこういった運転前の点検を疎かにするからパンクやエンジントラブルのような単純なミスが起きるのだ。

 燐だってあの時みたいなガス欠はもう懲り懲りだし、十分に点検をするのには異論はない。

 その為の自家用車なんだし、ただ闇雲にアクセルを吹かして乗り回せばいいというわけじゃない。

 そういった基本的なことを燐は免許を取る前から学んでいたので、その時が来たら免許は簡単に取得できるだろう。

 もっとも免許を取るのにはお金が掛かるし、何より時間が必要だった。


 フロントガラスの余白に月が映り込んでいた。

 蛍は安心しきった顔で月を見上げると、シートベルトの帯を締める。
 バックミラーで自分の顔を覗き込むと、前髪が少し気になるのか、指で軽く横に流した。

 燐も懐かしい眼差しで月に微笑んだ。
 だって月はいつでも二人の味方だったから。

 燐はスタート前の安全点検を終えると、サイドブレーキを外して、シフトレバーをドライブに入れる。

 こんな当たり前なことさえあの頃は知らなかった。

 あの時はまさか自分がこうやって日常的に運転することになるとは夢にも思わなかった。
 だからまだ、夢の続きをしているような気がしている。

 現実を忘れているわけじゃないけれど。

 もう一度、後方確認をした燐は車の周辺に誰もいないことが分かると、少し慎重にアクセルを踏み込んだ。

 寝静まった住宅街に、低いアクセル音が唸り声をたてる。

 車はやや緩慢な速度で蛍の家の前から発進する。

 流れる黒い背景に蛍は自分の家を見る。

 何の思い入れのない黒い屋根の家があるだけ。
 他は取るに足らないものしかない。 

 歪に繋ぎ合わされてやたらと部屋が多くなっただけの母屋。

 歪んだ情念を吸い込んだ奇妙な形の面が飾られていた、冷たい廊下(面は今はもう飾っていない)。

 何かをひた隠すように、遠くに作られた離れ。

 それらが視界から黒く遠ざかっていく。
 あたかも時の流れから切り離されていくように。

 近いうちにこの家から自分は出ていくだろう、でも、何の後悔もない。
 自分が住みたい家ではなかったのだから、至極当然のことだった。

(わたしは三間坂家を捨てて、燐と一緒に暮らすんだ……)

 それは望んでいたことだったが、なぜだか急に寂しくなった。
 この家に住んでて良かったことなんてそれこそ一つもないのに。

 でも、もう少しだけ。

 その時が来るまでは大事に使っておこう。
 この家には新たな役割があるのだから。

 ………
 ………
 ………

 迷路のような黒い垣根の間を軽自動車が通り抜ける。

 深夜の走行は、”あれ”に追われた時のことを思いだして、まだ少し気味の悪い思いがする。

 でも、脇から這い出てくるものも、下卑た視線でこちらを睨むものもいなかった。

 信号機のない十字路を右折して県道に出ると、燐は蛍の予想とは違う方向にウィンカーを出した。

「あれ? 燐」

「あ、ごめん。忘れ物しちゃったから先に家に寄ろうと思って」

「そういうことなら、わかった」

 燐は蛍に頷き返すと、細い路地に向かってステアリングを切る。

 角を曲がってすぐに分かるぐらいにきらびやかな照明の家があった。

「やっぱり、すごいよね」

「あはは、恥ずかしいからスイッチ切っちゃいたいんだけどね」

 他人事のように呟きながら、照明で飾られた自分の家の前で軽自動車を停めた。

 月明りよりも一際明るいイルミネーションの光景に、燐とは真逆の胸の高鳴りを蛍は感じていた。

「ちょっと待ってて、すぐに戻ってくるから」

「うん」

 燐は素早く運転席から降りると、エンジンを掛けたまま家の玄関の方へと駆けて行った。

 一人取り残された蛍は窓の外に意識を向ける。

 青白い月とイルミネーションに彩られた、クリスマス仕様の可愛い青いドアのパン屋さん。

 それはおとぎ話の一ページのようだった。

 だが、じっとイルミネーションを眺めていると燐の指摘した通り睡魔が襲ってくる。
 
 瞼が妙に重い。
 蛍は唇を噛んでなんとか耐えしのいだ。

(燐……忘れ物って言ってたけど、一体なんなんだろう)

 なんとなく分かってはいたが、深くは考えなかった。
 それよりも睡魔の方が数段手ごわかったから。

 ──どれぐらい待ったのだろう。

 蛍は何度も欠伸をかみ殺して燐が戻ってくるのを今か今かと待っていた。
 駅前で待っていた時は全然苦じゃなかったのに……。

 きっと眠気のせいだと蛍は目を擦りながら思った。

「燐……わたし、もうダメ、かも……」

 蛍がとうとう睡魔に負けそうになり、うとうととし始めたとき、微睡んだ脳裏に急に浮かびあがった疑問。

 それは友達の家のことなのに、何故か今まで考えたことのない事柄だった。

(燐の家って前に誰が住んでいたんだっけ……?)

 小平口町はさほど人口の多くない町だ。
 町に関心のない蛍でも住んでいた人の苗字ぐらいは覚えているはずだった。

 なのに不思議と思い出せない。

 名前でなくても顔、もしくは性別ぐらいは普通に分かりそうなものなのに。

 引っ越しをしたとか、持ち主が亡くなったとかも聞いたことがない。
 それどころかいつから空き家になったのかも。

「そういえば、この町の人口って、あんまり変わってないんだよね」

 中学校の図書室にあった郷土史の本で初めて知ったことだ。
 あの時は優先したいことがあったので、特に気にも留めなかったけれど。

 新しくこの町に越してきた込谷家と、いつの間にか住人が居なくなって空き家となった家屋。

 ……このことはなにか関連性があるのだろうか。

 霞がかった今の蛍の思考では何も形作ることができなかった。


 そうこうしていると、蛍の視界の先にサンタ姿の少女が息を弾ませているのが見えた。

 何か荷物を抱えながらこちらに近づいてくる。
 それは紛れもなく燐だった。

「ごめんー、待った?」

 燐はまず蛍の安否をウィンドウ越しに確認すると、荷物を持ったまま、トランクのドアを器用に開けた。

「ん……だいじょぶ、それほど、待ってないよ……」

 明らかに眠そうな声を出す蛍を見て、燐は小さく微笑む。

「ごめんね、準備に手間取っちゃって」

「ううん、平気だよ」

 燐に気遣ってもらえるのは素直に嬉しい。
 
 本当の意味で気を遣ってくれるのは燐だけだったから。

 だからこそ蛍は完全には眠ろうとはしなかった。
 けれど、ちょっとだけうたた寝してしまったかもしれない。

 そこのところは胸中で反省した。

「じゃ、今度こそ行こうか。蛍ちゃん」

「うん」

 燐が運転席に乗り込むと、玄関の外からこちらを見る人影に蛍は気が付いた。

 イルミネーションが逆光になって顔は見えないが、多分、燐のお母さんだろう。
 
 こちらに向かって大きく手を振っていた。
 蛍も窓越しに小さく手を振り返す。

 大した挨拶はできなかったけど、どうせ後数時間後にはパン屋のバイトで会うのだから、その時にすればいいと思っていた。

 だから今は手を振るだけにした。
 燐はため息をつきながら、小さく手を振った。

 軽自動車は再び走り出す。
 
 月が照らす、その道の先へ。




「はっ、はっ、はっ」

 

 紅白の派手な格好の少女が走っていた。

 白い息を弾ませながら、ちらりと後ろを振り返る。

 

「はあっ、はあっ、はあっ」

 

 そのすぐ後ろを同じ格好した少女が懸命についてきていた。

 

 雪の様に白い息を宙に何度も吐きだしながら、少女たちはホテルの脇の駐車場まで小走りで戻ってきた。

 

 軽自動車のエンジンはかかったままになっており、二つの丸いヘッドライトがサンタ姿の少女たちを正面で捉えていた。

 

 先に着いた燐はドアを開けると、すぐさま運転席に滑り込む。

 少し遅れて蛍も助手席のドアを開けて乗り込んだ。

 

 それぞれ乗り込むとすぐにドアを閉める。

 

 狭い軽自動車の中はエアコンが効いていて、外とはまるで別世界だった。

 

 ベージュのファブリックシートに突っ伏した燐は、やっと一息つくことができた。

 

「ふわぁー、やっぱり外は寒いよねぇー。顔に針が刺したみたいだよ~」

 

 燐は凍り付いた顔をもみほぐすように頬を手で包み込んだ。

 

「だ、だよね。やっぱり山の上って、だいぶ寒いんだね。さっき、雪、みたいの、あったし」

 

 蛍は荒い息をつきながら、胸の中心に手を乗せていた。

 冷たい風が肺に苦しかったのか、豊かな胸を上下させていた。

 

「えっ、雪!? それってマジなのっ!?」

 

 燐は素っ頓狂な声を上げて、窓にへばりつくようにして辺りの様子を窺った。

 

 だが、蛍の言うような雪のようなものは今のところ軽自動車の周りには見当たらなかった。

 

「ごめん、見間違いだったかも」

 

 燐の慌てっぷりに気を悪くした蛍がすぐさま訂正する。

 

 本当に残雪があるのなら、峠を登る前に何らかの注意喚起がなされているはずだし。

 

「あはは、まあそうだよね。わたしも雪は見てみたいけど帰り道にはあって欲しくないなー。この車ってまだ冬用のタイヤじゃないしね」

 

 暗い空を燐はガラス越しに睨む。

 今のところ雪が降ってくる兆候は見られなかった。

 

 安堵の息を吐くと、燐は焦燥感に駆られたように素早くシートベルトを締めて、車の周辺をミラー越しに確認する。

 

 駐車場には宿泊客と思われる車が数台あるが、白い帽子を被った車は今のところ見当たらない。

 

 蛍の勘違いでつい焦ってしまったがただの杞憂ではないと思う。

 

 特に、峠の頂上付近は地上と違って寒さが全然違っていたからこれからどう崩れるかは分からない。

 

 ここから早めに抜けるのが得策だと思った。

 

 サイドブレーキに足を掛けようとしたその時、ポケットの膨らみが熱を帯びているのを感じとって、燐は慌ててそれを取りだした。

 

(あ、これかぁ。そういえば帰り際に渡されたんだった)

 

 燐の手の中のそれは配達先のホテルの従業員から渡されたもので、手に取るとそれは熱いぐらいに温められていた。

 

「蛍ちゃん、はいこれ。差し入れでもらったんだ」

 

 燐は労いの言葉と共に、まだ温かい缶コーヒーを蛍に手渡した。

 

「燐、ありがと……きゃっ!」

 

 蛍は燐が普通に手渡したので何気なく缶を掴んでしまい、予想外の熱さに思わず缶を放りなげてしまった。

 

「あ……」

 

 狭い車内を200グラムのスチール缶が宙を舞っていた。

 

 なすすべなく、そのまま弧を描いて後部座席まで落下していくと思われたが。

 

「っと」

 

 燐は手を伸ばして見事にキャッチすると、軽く微笑んでもう一度蛍に手渡す。

 今度は気遣うように掌の上にそっと乗せた。

 

「熱いなら手の中で転がすといいよ、蛍ちゃん」

 

 ちょっとした注釈も添えて。

 

 蛍は申し訳ない気持ちで頷くと、燐に言われた通り、掌に馴染ませるような動きで、両手のあいだで缶を転がした。

 

 燐も同じように手の中で缶を転がす。

 二人はしばらくの間缶を回すことに没頭していた。

 

 手のひらがだいぶ熱さに馴染んだ頃、燐は先だってプルタブをそっと開けるとコーヒーをひとくちだけ飲んだ。

 

 程よく甘いが、少しがっかりした。

 外はまだ熱いのに、中の液体はそれほどでもなかったから。

 

 それを見た蛍も缶を両手で持って、恐る恐る口に近づける。

 

 蛍も同じ反応だったようで、缶のラベルを眺めながら小首を傾げた。

 

「缶コーヒーってそれほど熱くないよね。缶は持てないぐらい熱くなってるのに」

 

「ねー。缶が熱いから中も熱々なの期待しちゃうよねー。火傷寸前の熱いコーヒーが飲んでみたいんだけどね」

 

「わたしはそこまでは求めてないかなあ。でも温いよりかはいいかもね」

 

 少し過激な燐の意見に蛍はくすっと苦笑してもう一口飲んだ。

 

「あ、蛍ちゃん。クロワッサンあるけど食べる? 焦げ目がちょっと気になっちゃったから回収してきたんだけど」

 

「うん。燐も食べるでしょ」

 

「わたしは……今はいいや。雪が降る前に帰りたいしね」

 

 そういって燐は車を発進させようとした、だが目の前に半分こになったクロワッサンを差し出される。

 

「もう、蛍ちゃん」

 

 少し呆れた顔で蛍を見る燐。

 

「大丈夫だよ。まだ雪は降りそうにないし、燐もちゃんと休んだほうがいいよ」

 

「そう、かな?」

 

 燐はもう一度空の色を見る。

 上の方が濃い藍色になっているが、ちらちらとするものは落ちてこなかった。

 

「まあ、蛍ちゃんがそう言うなら間違いないね。蛍ちゃんの()()()()勘って大抵当たってるもんね。そういえば前の勉強会の時だって……」

 

(勘、か……そういえばこれも座敷童の力だった、のかな? だとしたらわたしはまだ……)

 

「………」

 

「蛍ちゃん?」

 

 急に黙りこくった蛍に違和感を覚えた燐が顔を覗き込んでいた。

 

「あ、ううん。なんでもないよ。さ、燐。ちょっと休憩しよ」

 

「う、うん」

 

 慌てた様子の蛍が少し気になったが、燐は蛍の提案に賛成した。

 

「かんぱいー」

 

 カンッ!

 

 スチール缶を重なり合わせた軽い金属音。

 それがベルの様な音色で車内に木霊した。

 

 蛍の家でもグラスを合わせなかったのに、何故か車の中でそれをやっていた。

 缶コーヒーを片手で持って。

 

 ぱりぱりと香ばしい音とふくよかな珈琲の香りが二人の間に広がって、それはふんわりと車内にも充満する。

 

 暖かな味と香りが燐と蛍の口内を幸福にさせた。

 

「んー、労働の後のパンは格別だねぇ」

 

「ふふっ、本当にね」

 

 小さな軽自動車の中は二人だけのささやかなカフェテリアとなっていた。

 もっともメニューは、缶コーヒーと半分の焦げたクロワッサンだけだが。

 

 ミルク少な目の微糖のコーヒーはさっくりとしたクロワッサンととても相性が良かった。

 

 燐はコーヒーを飲み干して空き缶をドリンクホルダーに置くと、助手席の蛍に向かい直して申し訳なく両手を合わせた。

 

「ごめんね。普通にパンの配達を手伝わせちゃって。後でちゃんと埋め合わせするから」

 

「いいよ燐。車で来たって言ってたから、もしかしらって思ってたし、それに」

 

 蛍も最後に残ったクロワッサンを口に入れると、少し温くなったコーヒーをこくこくと飲み込んだ。

 

「それに、結構楽しかったから。まあ、ちょっと恥ずかしかったけどね」

 

 蛍はスカートの先をちょっと摘まんでみせる。

 

 紅白のスカートから覗く、蛍の健康的な太ももを包み込むストッキングが、艶めかしい陰影と色気を醸し出していた。

 

 燐はいつものワンポイントのあるオーバーニーではなく、服とお揃いの紅白のオーバーニーを着用している。

 

 普段の制服と比べて二人とも少し丈が短いスカートを着用していた。

 夜であったせいかそれほど気にならないようだった。

 

「その割には結構ノリノリだったんじゃない? ()()()()()()()()挨拶も出来てたみたいだし」

 

「あれは……燐がいきなり言うからつい、つられちゃっただけで……」

 

 燐は届け先のホテルに着くなり、焼きたてのパンを乗せたトレイを持ちながら、ホテルのロビーで開口一番。

 

「Merry Christmas!!!」

 

 やたらと良い発音で燐が叫んでいた。

 

 打合せなしの突然の出来事に蛍はホテルの従業員と一緒に呆気に取られていたが、燐が隣で合図を送ってきたので、仕方なく蛍も続いた。

 

「め、めりーくりすます……」

 

 蚊の鳴くような声。

 それが蛍の聖夜の挨拶だった。

 

 燐のおかげで顔から火が出そうなほど恥ずかしい目に合ったが、蛍は今日がクリスマスであること、そして特別な日であることを嫌というほど理解することが出来た。

 

 実際、子供の頃と違ってもうそこまでの特別感がなかったから、これは色々な意味での思い出になったと思う。

 

 それに燐とクリスマスはさらなる特別感を出していた。

 またこうして一緒にいることが奇跡に近いことだったから。

 

 それは(なお)の事だった。

 

 神のなど、まったくと言っていいほど信じていない蛍だったが、この日だけは特別に神に感謝した。

 

 この幸せが永遠であることをそっと願った。

 

「じゃあ、すごーく嫌だった?」

 

 見透かすような素振りで燐が聞いてくるので、蛍はちょっと言葉を詰まらせると。

 

「すごーくじゃないけど……燐が一緒だったから、それほどでもなかったけどね」

 

 四角い窓から外を見ながら、蛍は顔を赤くしてそう言った。

 

「本当? じゃあ来年もやろうねっ」

 

 燐は待ってましたとばかりに微笑むと、一度外したシートベルトを再度締め直した。

 それが出発の合図だと思った蛍は同じようにシートベルトを締め直す。

 

 蛍がシートベルトを締めたのを見て、燐はサイドブレーキを外した。

 

 軽自動車は人気のないホテルの駐車場からようやく動き出した。

 

 蛍は黒い景色を遠くに眺める。

 浮かんでいる月の上側がほんの少し欠けているのが見えた。

 

 きっと昨日の晩、ウサギに齧られたんだろう。

 ウサギは見た目と違って少し気が強いから。

 

 少し気の毒な月のことを蛍は、燐の次に慮った。

 

 

 ────

 ────

 ────

 

「なんかさ、食べてばっかりだよね。わたしたち」

 

 蛍はお腹が見えそうなほど大胆な紅白の服の上から少しお腹を摘まんで言った。

 

 冬の月は全てを見透かすように白かった。

 白い月が照らす道を、LEDのヘッドライトが走り抜ける。

 

 まだ街燈すらない下りの峠道は、そのまま落ちてしまうのではないかと思うほどの高さと闇が連なっていた。

 

「クリスマスだからいいんじゃないの? あとから運動すればいいわけだし」

 

 蛍につられて燐も片手でお腹の辺りを撫でてみる。

 視線は前に向きっぱなしなので、多分ここがお腹だろう。

 

 燐が想像してよりも少しぽよっとしていたので、少し顔が青くなった。

 

 真っ暗な道を燐はいつもの感じで車を走らせている、時間に正確なバスの運転手のような繊細さでもって。

 

 蛍は、助手席に身を預けながら安心しきった顔で燐の横顔を眺めていた。 

 

 真剣な燐の顔は、運転中だというのに思わず抱きしめたい衝動に駆られるほど綺麗だった。

 

 この頃の燐は走りに大分余裕が出てきたのか、ときおりこちらを見ながら冗談を言ったり、走行中に飲み食いが出来るほどにまでなっていた。

 

 燐の卓越した(と思われる)運転技術(ドライビングテクニック)は蛍だけではなく、母親も殆ど信用していた。

 

 まだ免許もなく、街灯もない真っ暗な峠道なので不安要素が全くないわけではないが、それでも特に注意するような点は見当たらない。

 

 燐は元から空間認識力が高かったのかもしれない、蛍はそう思っていた。

 

 部活の時なんかでも燐はエース級の技術を持ちながら、チーム全体を把握する司令塔の役割も兼ねていた。

 

 キャプテンになるのだけは頑なに拒んでいたが、それもきっと時間の問題だろう。

 

 夏の頃とは違った安定感が蛍をまた眠りの園へと誘おうとしていた。

 

 登り道ではなんとか耐え忍ぶことが出来たが、身体を動かした後、軽食までとってしまったので、また睡魔が蛍を襲ってきていた。

 

 燐は、何度も瞬きをする蛍の様子に気が付いて、軽い口調で声をかける。

 

「蛍ちゃん、寒くない?」

 

「ん。だいじょうぶだよ。だってこの車……あ、なんか別の名前があるんだっけ?」

 

 蛍は眠気を誤魔化すように違う話題を燐に振った。

 

「ノクちゃん。ノクターンブルーの色だから」

 

 あの夜の世界で、勝手に使ってしまった軽自動車と同じ車種を燐──込谷家は購入していた。

 

 偶然かどうかは分からない、もしかしたら燐が薦めたのかもしれない。

 

 燐は運転したことがあるから。

 同じ車種の車を。

 

 燐は母よりも少し早くこの軽自動車(グレード)に乗りなれていたから。

 

 だが、全て同じというわけではなく、フロント周りや内装、あと何よりボディーカラーが違っていた。

 

 畑の横で乗り捨てられていた車はミントグリーンの美しい光沢が印象的な車だった。

 

 込谷家が所有して、燐が運転している車はホワイトの2トーンルーフであることは変わらないが、メインカラーは深海や夜を思わせる深い青、”ノクターンブルー”。

 

 その色でコーディングしてあった。

 

 燐が言うには、母が甘い感じのパステル調カラーが好きではなく、大人っぽい落ち着いた感じ(モノトーン)が自分に合っているとして選んだものらしかった。

 

 だが、車種もモノトーンなボディーカラーもパンの配達には適しているとは言えない。

 そもそもそんな気は初めはなかったのだから当然なのだけれど。

 

 定番の白のライトバンにすればよかったと母は後悔していたが、まだこの車のローンが残っている内は買い替えることも、新たに車を買うこともできなかった。

 

 大して荷物は積めないと思われたが、後部座席も利用すれば意外と容量はあるみたいだし、運ぶ量を考えたら、今のところ問題はない。

 

 この先、注文が増えなければの話だが。

 

(燐はあの時の車、結構気に入っていたよね。出る時お礼言っていたし)

 

 燐だけでなく、蛍もあの車が気に入っていた。

 

 だからこそ燐が同じ車を選んでくれたことが嬉しかった。

 

「やっぱり4WDは坂道楽だよね。セカンドに入れる必要もないし。代わりに燃費は落ちるってお母さんはちょっと神経質になってるけど、その分安定性はあるし、しかもこの車はシートがぽかぽかのヒーターになるしね」

 

 カタログのような燐の言い回しに、蛍はつい眠気を忘れて噴き出してしまう。

 

 燐の言う通り、ベージュとネイビーのファブリックシートの底面は何もしていないのに、ほんのりと暖かくなっていた。

 

 運転席と助手席だけに備わっている機能だが、おかげでそこまでエアコンを強くする必要がない。

 

 冷え性の蛍にはうってつけの機能だった。

 

「燐。ずいぶん運転に慣れたよね? さっきから楽しそうだし」

 

 穏やかに運転する燐の横顔に、蛍が最近思っていたことを口にした。

 

「あ、分かる? 最初の頃、お母さんになんでそんなに運転が上手いのかって聞かれたこともあったんだよ。今は何も言わないけど」

 

「それは、そうだよね」

 

 軽く言う燐に蛍は苦笑いする。

 

「だからゲームでちょっと慣らしたんだって言って、ごまかしたけどね」

 

 燐は舌を出してゲームのようにステアリングを軽く左右に揺らした。

 車も反応して小刻みに揺れる。

 

 蛍は困った顔でシートベルトを握っていた。

 

「でも実際に免許を持っている人ほど、車のゲームはあんまり上手くないんだって。でも不思議だよね、ゲームの世界の方が色々無茶な運転出来そうなのにね」

 

 少し寂しそうに言うと、燐はアクセルを気持ち多めに踏んだ。

 

 ぐうううん。

 

 エンジンの回転数があがって、音が少し変化する。

 

「あの夜もゲームみたいだったよね。燐じゃないけどわたしだってホラーゲームか映画みたいって思ってたよ」

 

「うんうん、かなりの無理ゲーだったよね」

 

「無理っていうかクソゲーだったよね……」

 

 感情のこもった蛍の呟きに燐は声を上げて笑った。

 

 二人っきりになるとこの話しばかりになってしまう。

 燐と蛍はあの三日間の事ばかり話し合っていた。

 

 あの時のあれはどうだったとか、あれはやっぱり違っていたとか、今となっては夢のような、それこそ取り留めのない話。

 

 でもそれは生きているからこそできることであって、そういう意味では今の二人は幸せだろう。

 

 今更話し合ってどうにかなるわけでもないが、それでも気持ちを共有できるのは二人だけだったから。

 

 二人はいくらでもこの話をすることが出来た。

 

「燐は、さ、その……小さい頃のオオモト様に出会ったでしょ。ほかに気になることあった?」

 

 蛍は少し言葉を選んで話しかけた。

 

 蛍が記憶している幼い頃のオオモト様は、男たちに乱暴されていた姿だったから。

 

 オオモト様に問題があるわけじゃないことは分かっているけど、この話になると蛍は決まって憂鬱そうな顔になった。

 

「うーん、そうだなぁ……パンを食べて、シナモンの粉が掛かっちゃったときは笑ってくれてたけど、後はねぇ……蛍ちゃん、オオモト様に何か聞きたいことでもあるの?」

 

「あ、うん……」

 

「例えばどんな事?」

 

「そうだね……じゃあオオモト様の名前とか」

 

 蛍が聞きたいことは別にあった。

 

 でも、上手く考えがまとまっていなかったので、とりあえず当たり障りのないことを口にしていた。

 

「名前ってオオモト様の?」

 

「うん、そう」

 

 素直に頷く蛍をちらりと見て、燐は考えを巡らせた。

 

(本名が”オオモト様”じゃ流石におかしいもんね。”座敷童”は概念って言ってたし)

 

 ”オオモト様”の呼び名はどちらかというと敬称な恭しい感じがするけど、”座敷童”の方は妖怪扱いというか、町の人に忌み嫌われている感じがする?

 

 どちらの呼び方も正しかったから、燐は困惑した。

 

「むー、毬に名前でも書いてあれば良かったんだけどねー」

 

 燐の家の玄関前にまだ手毬は置いてあった。

 オオモト様の毬で間違いないはずだが、何故か持って行かなかった。

 

 名前は……当然書いていない。

 その内取りにでも戻ってくるのだろうか?

 

 そしてそれは──()()姿で。

 

「燐~、オオモト様はそこまで子供じゃない気がするよ」

 

「えー、子供っぽかったよ。なんか気難しそうなお嬢様って感じだったし」

 

「へぇー、大人の方のオオモト様はお淑やかなのにね」

 

 蛍も燐も良く知っている”青いドアの家にいたオオモト様”は大人の女性だった。

 だが、燐が家に招待した”オオモト様”は幼い少女の姿だった。

 

 どちらも”オオモト様”に違いはない、同一人物なのだから。

 

(同じ人、かぁ……)

 

「どうしたの燐」

 

 燐が顎に手を当てて考え込む仕草をしたので、蛍は少し気になって声をかけた。

 

「あ、いやぁ。なんでもないぃよ~」

 

 何でもなくはない笑顔を作ると、燐は前を前を向いてステアリングを握りしめた。

 

 ここからはカーブが連続するはずだ、よそ見をしている余裕はなんてなかった。

 

(でも、町でぶつかりそうになったのって”大人のオオモト様”だったよね? 顔はよく見えなかったけど……)

 

 町で着物を着ている人なんてそうそう居ないはず。

 だからこそ印象に残っていた。

 

 顔は覚えてなくとも、着物はあの時と同じ柄だった……?

 

 写真でも撮って置けば蛍に見せることも出来たけど。

 

 もし、あれが()()()オオモト様だとしたら?

 

 そこに何の意味があるのだろう。

 

 わたしに……何を伝えようとしたんだろう。

 

 燐はつい運転中にも関わらず、答えの出ない考えに嵌まって頭を逡巡していた。

 

 そのせいでブレーキを踏むのがいつもより少し遅れてしまった。

 

「燐っ! 前っ!」

 

 蛍の叫び声で燐ははっと我に返る。

 

 白いガードレールがすぐ目の前に迫っていた。

 

「くぅっ!」

 

 燐は歯噛みしてブレーキを踏むと、ステアリングを目いっぱい切り出した。

 

 闇を切り裂くようなブレーキ音が峠に響き渡る。

 

 それでも燐はステアリングを切ることを止めず、なんとか切り返そうと懸命にコントロールする。

 

 その甲斐あってか、車は済んでのところでガードレールの接触を免れることが出来た。

 

 蛍はシートベルトを掴みながら、放心したように前を眺めていた。

 心臓の音がどくんどくんと早鐘のように鳴っていた。

 

 車が立ち直ったことに燐は安堵すると、平静を装うように蛍に笑いかける。

 

「ごめんごめん、つい考え事しちゃってた。蛍ちゃん平気?」

 

「う、うん」

 

 そう言いながらも蛍の手はシートベルトをぎゅっと握っている。

 

 燐は心の中で自分を軽蔑しながら、再度愛想笑いを浮かべた。

 

 …

 ……

 ………

 

 軽自動車は緩やかにカーブを曲がっていた。

 

 燐は運転に集中するため余計な事を考えない様、唇を軽く噛んでいた。

 

 蛍は眠気と少し重い空気を紛らわすべくラジオをチューニングしていた。

 軽快でハスキーな女性DJのトークと低いBGMが暗い車内に少しだけ色を付ける。

 

 蛍は一瞬燐の顔を見た後、独り言のように前を向いてつぶやいた。

 

「あのDJって結局誰だったのかな」

 

 二人の間でもう何度もした憶測。

 

 あの世界で燐と蛍以外、唯一会話が成立していた気のする、あの不思議なDJのこと。

 

 ”DJゴドー”と名乗っていた奇妙な男のラジオをクラスメイトに聞いてみたが、やはりと言うか誰も知らなかった。

 

 ネット上のラジオでも該当するものもなく、SNSで呟いてみてもそれは同様だった。

 

 燐の持っていた携帯ラジオは壊れてしまったのか、電池を交換しても音すらならなくなっていた。

 

 だが、周波数はあの時のままで止まっていたので、その周波数は覚えているのだが。

 

「やっぱり、なにも聞こえないよね」

 

 蛍はもう一度チューナーを弄ると落胆するように言った。

 

 けれどもそれはもう幾度となく試したことだったから期待もなかった。

 

「だね。だってあれはあの世界、あの時だけのラジオだったんだろうし」

 

 燐は小さく肩をすくめる。

 それももう今更のことだった。

 

「”例えば月の階段で”、素敵な曲だったよね」

 

 蛍が紡いだ言葉はあの時初めて聴いて、そして二人で歌った曲のタイトル。

 

 悪夢の思い出の中の細やかな1ピースだった。

 

 何かしらの引っ掛かりがこっちの世界に残ってはないかと、燐と蛍は文化祭の時みんなの前でこの歌を披露してみることにした。

 

 二人の頭の中で歌詞とメロディーは大体残っていたが、それだけでは曲になりそうになかったので、足りない所は意見を出し合って独自で曲を形にした。

 

 何で二人で歌を披露することにしたのかとクラスのみんなに聞かれたとき燐は。

 

 ”それは、わたしと蛍ちゃんの復活祝いだからだよ”と、さも当然のように答えていたが、本人たち以外のクラスのみんなは訳が分からないみたいに首を傾げていた。

 

 その代わり何かを祝福するような微笑ましい感じの拍手を貰えた。

 

(まだ何の曲やるか発表してないんだけど……)

 

 燐は不思議そうに首を傾ける。

 蛍は俯いたまま燐のスカートの端を掴んでいた。

 

 皆の前で発表した以上、やれる範囲の妥協はしなくないと思った二人は、(蛍は成り行きから仕方なくだったが)手芸部の子に頼み込んで今時のスクールアイドルのような、レースがかったお揃いの衣装を身に纏って、当日壇上に現れた。

 

 燐はみんなの声援に手を振って答えたが、蛍は恥ずかしがって手をもじもじとさせているだけであった。

 

 だが、スポットライトが二人を照らし、半分は自作した”例えば月の階段で”のイントロが流れ始めると、意外なほど蛍の緊張は和らいだ。

 

 それだけこの曲は好きだったし、このためにいっぱい練習していたのだから。

 何より燐と一緒に歌うことに蛍は充足感を見出していたから。

 

 ──だから声は少しも震えなかった。

 

 蛍と燐はお互いの手を取って声を合わせた。

 

 練習したときとは違って、大勢の前で歌う緊張感に蛍は何度かキーを外すことがあったが、その度に燐がフォローした。

 

 蛍は感謝の念を心の中で燐に送った。

 想いが届いたのか燐はそれを情熱的な歌声で返す。

 

 二人の合唱は盛大な拍手の中で幕を閉じた。

 

 当然の様にアンコールの声が上がったが、他にレパートリーを考えていなかったので、また同じ歌を歌った。

 

 今度はみんなにも覚えてもらったのか、最後の方は大合唱になっていた。

 

 その日限りのデュオだったが、意図せずして週明けは二人の話題で持ちきりになっていた。

 

 結局この曲を知っている人は誰もいなかった、ということが分かった。

 

 収穫はそれだけだった。

 

「あの時はすごく興奮したよねー。もっと歌いたいぐらいだったし」

 

 燐はステアリングを握りながら、軽く鼻歌を鳴らす。

 

 それを微笑みながら助手席で聞いていた蛍だったが、やがて燐のメロディーに合わせて口ずさむようになった。

 

「答えは──いらない」

 

「光が──ゆれて夢のせかい──」

 

 二人のハーモニーが夜に染められた車内にしっとりと流れる。

 

 伴奏も観客もない二人だけの二人のためだけのライブ。

 

 蛍は缶コーヒーの空き缶をマイクに見立てて歌っていた。

 燐も真似して片手で……は、止めておいた。

 

 蛍がスチール缶のマイクを燐に寄せる。

 

 二人は頬が密着するほどの近さで歌を奏でていた。

 

 終わらない夜の車内のラジオから流れてきた抒情的なメロディーは、今や二人だけの新たなメロディーとなっていた。

 

 それは初めて歌ったと同じ高揚感を確かに思い起こさせていた。

 

「いえーい! はい、蛍ちゃん!」

 

 燐と蛍は今までで一番の歌声を響かせると、感極まった燐が左手を差し出してくる。

 蛍は一瞬考えたのち、おずおずと燐の手ちょこんと触れた。

 

 そっと触れるだけの勢いのない軽いハイタッチ。

 けれども二人の絆は確かなものだった。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。この曲でアイドルデビューしてみない? 蛍ちゃんとなら結構いけると思うんだけどな」

 

「アイドルなら燐ひとりでやればいいと思うよ。わたしは燐と違って歌も踊りも自信ないし可愛くもないから」

 

 燐が()()その話をするので、蛍はため息交じりに答えた。

 

「蛍ちゃんは可愛いし、やればなんでも出来るっていつも言ってるのに。それに文化祭の時だってちゃんとやれてたじゃない」

 

「あれは燐と一緒だったからだよ。わたしひとりじゃ何もできないよ」

 

 蛍は膝の上で指を弄ぶ。

 

 その様子に蛍は案外満更でもないものを感じとった燐は、もう一押ししてみた。

 

「でも蛍ちゃん。最近ひとりで山に行ったりしてるじゃない。山登りもアイドルも同じだって。初めはすごく億劫でも登ってしまえば案外楽しいもんでしょ」

 

「それは……否定しないけどね」

 

 ちょっと雑な燐の言い回しに、蛍は困惑しつつも理解を示していた。

 

「でしょ? だからダメもとでオーディション受けて見ない? 学生限定のご当地アイドル募集してるって学校の掲示板に貼ってあったし」

 

「わたしもそれ、見たよ。クラスでも話題になってたよね」

 

「そうそう。優香が一緒にやらないかって誘ってきたけど、わたしは蛍ちゃんとじゃないと出ないって断ったけどね」

 

「えー、優香ちゃんとなら良かったんじゃない。わたしと違って優香ちゃん物怖じしないし」

 

「ダメダメ。優香と組んだら結局漫才になっちゃうしね。わたしは……おっとと、蛍ちゃんと、一緒にアイドルやってみたいんだ」

 

 燐は慌ててハンドルを右に切った。

 またおしゃべりに夢中になっていたせいか反応が遅れてしまっていた。

 

 蛍は思わず助手席の手すりにしがみ付いてバランスをとる。

 下り坂で少しスピードが乗り過ぎているかもしれないと思った。

 

 車が無事に曲がれたことにほっと胸を撫で下ろすと、手を元の膝の上に置き、小さく笑って燐に答えを返す。

 

「燐がそこまで言うなら、いいよ。でも、オーディションに落ちても恨まないでね」

 

「大丈夫だよ。わたしと蛍ちゃんなら絶対にオーディション受かるって!」

 

「それも直感?」

 

「うん!」

 

 迷いなく即答する燐に蛍はやれやれと肩をすくめた。

 

 でも、少し胸が暖かくなった。

 

 

「ねぇ、燐。わたしは”普通”になれると思う?」

 

「蛍ちゃんは別段”ふつー”って感じはしないなぁ。だってすごく綺麗だし、性格もとっても可愛いしね」

 

「もぅ、燐……そーゆーことじゃなくて」

 

 蛍が顔を赤くして反論する。

 

「わたしが言いたいのは”普通の子”、のことだよ」

 

 そう言うと蛍は顔を赤くしたまま押し黙ってしまった。

 

 やっぱりそっちの事かと燐は小さく息をつくと、その先が直線であることを確認したのち、少しスピードを緩めて蛍に笑いかけた。

 

「オオモト様が言ったことだったよね、確か」

 

「うん」

 

「座敷童の力が発揮されるのは少女のうちだけ、だから座敷童って呼ばれてるって……」

 

 青いドアの家でオオモト様が蛍と燐の前で話してくれたこと。

 それは二人の脳裏に鮮明に残っていた。

 

「でも……わたしにはその実感がないの。普通に近づいていることにも幸福を呼ぶ力がなくなっているかどうかも自分じゃわからない」

 

 そう言って蛍は燐の顔を覗き見た。

 

 蛍に見られていることは知っていたが、今の燐には蛍の方だけを見ることが出来ない。

 

 前方に意識を集中しながらも、蛍の言いたいことを理解した燐は、言葉を選んで話すことにした。

 

「ごめんね、わたしも蛍ちゃんのこと見た目だけじゃわからないんだ。芯の強い頑張り屋さんなのは分かってるんだけどね」

 

 燐の精一杯の気遣いに蛍はくすっと微笑む。

 

 でもきっと燐は分かっている。

 それを言わない燐の気持ちも分かるから、蛍もそれ以上は追求しなかった。

 

「そっか、じゃあさ、もしなにか変化があったら教えてほしいんだ。どんな小さなことでもいいから。だってわたしは燐しか頼れる人がいないから……あ、友達としてでね」

 

 蛍も気を遣った言葉を返す。

 そこには口外の想いも含まれていた。

 

「うん、分かってるよ蛍ちゃん」

 

 燐も蛍の目を見て微笑み返すと、すぐに前方に視線を戻した。

 下るだけの帰り道はさすがに早いが、それでもまだまだカーブはあるから。

 

 小さいカーブをひとしきり下った時、ふとバックミラーの蛍が目に入った。

 

 シートを少し倒した蛍が、頭を窓に当て、首を傾げていた。

 気持ちをひた隠すように黙ったまま流れる景色に目をやっていた。

 

 燐は、複雑な想いでその姿を見ていた。

 

 ………

 ………

 ……… 

 

 青白い月が軽自動車を照らし出している。

 

 夜の峠を走り続けた軽自動車はちょうど峠の中腹あたりで停車していた。

 ハザードランプを焚きながら、主人が戻ってくるのを静かに待っている。

 

 燐と蛍は車から外に出て、冷たい夜風に身を震わせていた。

 

 眼下に広がる景色は空と地上の境目さえも分からないほど真っ暗で、このまま夜が明けないのではと思わせるほどの怖さがあった。

 

 でも、夜明けは必ずやってくる。

 どんなに拒んでもそれは必ずやってくる。

 

 それはあの夜を知っている二人だからこそ分かることだった。

 

「蛍ちゃん、なんでここに来たかったの?」

 

 寒さで唇を震わせながら訊ねる燐。

 

 ここからの眺めは確かに良いが、峠の頂上の方がもっと高くて見下ろすことが出来た。

 だから蛍がわざわざここに来たい意味が燐には分からなかった。

 

「燐は……聞いてないの?」

 

 蛍はやや驚いたような顔を向ける。

 その視線はどこか落ち着かなかった。

 

「聞いてないって……?」

 

 蛍は何のことを言っているのだろう。

 燐には思い当たる節がなかった。

 

「そう……」

 

 蛍はなぜか寂しそうに呟くと、また崖の方に目をやっていた。

 

「蛍ちゃん、危ないよ!?」

 

 崖下から吹き上げる風に太ももを煽られた燐はたまらず声を上げた。

 

 ただでさえ冷たい冬の風が燐のオーバーニーと下着の間の僅かな隙間に刺すような冷気を送り込んでくる。

 

「大丈夫だよ燐。(前と違って)今はちゃんと手すりがあるから」

 

 怖くないのか、蛍は振り返って小さく微笑んだ。

 

 その言葉に燐は引っ掛かりを覚えて眉をひそめる。

 蛍はここに来たことがあるのだろうか。

 

 燐は降参とばかりに鼻を啜りながら、弱々しい声で蛍に声をかける。

 

「ほ、蛍ちゃん……そろそろ車に戻ろう。このままじゃ二人とも風邪ひいちゃうー」

 

 蛍は燐の声が届かないのか、柵にしがみ付いたままその真下に広がる崖を見つめていた。

 

「さっきからどうしたの、何か見える?」

 

 燐は蛍の傍まで寄るとおっかなびっくり崖下を覗き込んだ。

 

 視界のせいだろうか、崖下の景色は漆黒の闇に全て飲み込まれてしまったように、木々も山肌も黒々としている。

 

 吹き上がる冷たい風が地の底からの叫び声のように痛みとなって肌に纏わりつく。

 それは氷というより血の通っていない手に掴まれているようだった。

 

 燐は不可視の恐怖に慄いて、その場から思わず一歩下がった。

 

 そんな燐にも目もくれず、蛍は闇を凝視している。

 何かに魅入られたみたいに、一心に。

 

「蛍ちゃん……?」

 

 別人のような一途さの蛍に、燐は両手を胸元で合わせながら恐る恐る尋ねた。

 

「ここには何もいないよ、ただ……」

 

 そこで言葉を切ると、蛍は急にその場でしゃがみ込んだ。

 燐は慌てて傍まで駆け寄ると、蛍は他愛もない素振りで微笑んだ。

 

「ただ……ここから飛ぼうとしたことがあっただけ」

 

「……そうなんだ」

 

 蛍の告白に燐は一瞬目を見開いて膠着したが、すぐに表情を戻して小さく笑い返した。

 何でもない日常の出来事を聞いた時のような何気げなさをもって。

 

 燐の様子は明らかに初めて知ったものだ。

 だから蛍は燐に尋ねずにはいられなかった。

 

咲良(さくら)さん……燐のお母さんからは何も聞いてないの?」

 

「えと、うん」

 

「だからなんだ……」

 

 違和感の正体はこれだった。

 

 あの時、あの人は気付いていたはず、それなのに。

 

 蛍は胸の内で燐の母──咲良(さくら)にそっとお礼を言った。

 

 知らない所で気を使ってくれていたんだんだ。

 そう思うと、鼻の先が少しツンとなった。

 

 想いが溢れてこぼれ落ちそうになり、目元をそっと拭った。

 

「蛍ちゃん、やっぱり寒いんでしょ。さ、早く車に戻ろう」

 

 小刻みに震えながらも先に立ち上がった燐が蛍に手を差し伸べる。

 蛍は切なそうな瞳で燐を見上げると、冷たくなったその手をとった。

 

 そして蛍は燐の隣に立って、暗い冬の景色を眺めた。

 

 周りには立ち入り禁止の看板がそこかしこにあった。

 崖の周りの柵と同じく、蛍が夏の日に訪れたときにはなかったものだった。

 

 何とは言わなかったようだが、通報というか注意喚起のようなものはしてくれたようだった。

 

 蛍は改めて感謝した。

 友達とその友達の母に。

 

「だいじょうぶ?」

 

 その優しい友達が心配そうにこちらを見つめていた。

 

 自分の方がずっと辛いはずなのに、周りの事ばかり気にする優しい人。

 真っすぐで不器用で壊れやすくて、でもそこがすごく綺麗で。

 

 だから守ってあげかった。

 

 彼女を苦しめる全てのものから。

 

 なのにわたしは無力で、結局何も成しえていない。

 

 想いはここに置き去りになっているのに。

 それを取り戻しに来たいとも思わなかった。

 

 せっかく手に入れた幸せが失われるのが怖い。

 

 その弱さが再びここに来ることを躊躇させていた。

 

 蛍は確かめるように燐の手をとる。

 

 燐は少し驚いた顔をしたが、優しく握り返してくれた。

 

「なんでもないよ。ここからの眺めっていいなって思っただけ」

 

「そう? でも、うん……綺麗だよね。これと言って目に付くものはないけど。でも、こういうのって詫び錆びって言うんだっけ?」

 

「そうかもね」

 

 固く繋ぎ合った手は何よりも暖かった。

 あのまま全てを終わらせなくてよかった、蛍は本当にそう思った。

 

 手を繋いだまま車に戻ろうとしたとき、もう一度だけ蛍は振り返った。

 

 あの夏の日、今のような身を切るような寒さじゃく、うだるような暑さの後の、生ぬるい風が吹きつけていた時の事。

 

 ここでもう一人の人と出会ったこと。

 さりげない気遣いでわたしを導いてくれた人がいた。

 

(でも、あの人はきっとわたしの前に姿を現さない。それがあの人なりの優しさなんだろう)

 

 姿の見えない人に向けて蛍はそっと感謝の言葉を転がした。

 

 冷たい風がそれを拾って暗い空へと運んでいく。

 

 そのまま思いがあの人に届けばいいなと蛍は思った。

 

 

「そういえば蛍ちゃんこんな話知ってる?」

 

 蛍はぼんやりと月明りに浸っていた。

 だが、燐が無邪気に話しかけてきたことで現実に回帰してそちらに振り返った。

 

「あのね。お母さん夏ごろここら辺を通りがかったとき幽霊を見たんだって。蛍ちゃんはそういうの見たことある?」

 

 さも信じていないような顔で笑いかける燐。

 

「え、えーっと」

 

 それはきっと自分のことだとは言い出せず、蛍は困惑した表情で笑みを返す。

 

「わたし、蛍ちゃんが幽霊になったら嫌だからね」

 

 燐は蛍の両手を握って真っ直ぐに見つめる。

 

「燐」

 

 燐の瞳は月明りよりも綺麗で。

 蛍は目が離せなかった。

 

「だからもし幽霊になりたくなったら言ってね。わたしも一緒についていくから」

 

 燐はいつでも優しかった。

 

 その優しさが彼女を苦しめているのに、それでもその生き方を止めようとはしない。

 

 自分自身が幽霊になったというのに。

 

 少しだけ月に嫉妬した。

 月に染められた燐はすごく綺麗だったから。

 

 わたしは、そんな燐が好きだった。

 

 

 …

 ……

 ………

 

「ねぇ、蛍ちゃん……ものは相談なんだけどぉ……」

 

「ん、なぁに燐」

 

 燐が運転しながら、ちらちらとこちらを窺ってくるので、蛍は困ったように聞き返す。

 

「あのさ、手を繋いでも……いいかなぁ」

 

「えっ、手って。どういうこと!?」

 

 蛍は落ち着かせるようにシートに座り直すと、顔を赤くしてうつむく燐を少し訝し気に見た。

 

「なんか今日は蛍ちゃんとずっと手を繋ぎたい気分なんだ。自分でも変かなーって思ってるんだけどね」

 

「………」

 

「あ、でもでも。運転中は我慢するから。でも今日はなるべく手を繋いでいたいなーって」

 

 燐は愛想笑いを浮かべると、手を引っ込めてステアリングに乗せようとした。

 

 ──その時左手を温かいものが掴んでいた。

 

 蛍の手だった。

 

「ほ、蛍ちゃん……?」

 

「偶然だね、燐。わたしも今日はずっと燐と手を繋ぎたいって、思っていたから」

 

 離さないとばかりに燐の左手を強く引っ張った蛍が、照れたような表情で見つめていた。

 

「本当に、いいの?」

 

「うん」

 

 燐は蛍の目を見て確認すると、どちらともなく手を握り合った。

 

 互いの細い指先が絡み合い、パズルのピースが嵌まった時のような手に馴染むような、握り心地のよさを二人は同時に感じていた。

 

 燐と蛍は互いの存在を無言で確認し合うと、再び町を目指して車を走らせた。

 

「もし、万が一燐が事故を起こしても、わたしは、後悔しないから」

 

「うん……」

 

「……あ、一応言っておくけど()()じゃないからね」

 

「もう、わかってるってばぁ。ちゃんと運転するよぉ!」

 

 蛍が珍しく低い声を出したので、燐は慌てて返事を返す。

 

 暗闇からカーブが迫ってくる。

 

 燐が少し強く手を握ってきた。

 柔らかい燐の手は緊張の為か少し汗ばんでしっとりとしている。

 

 緊張を解す様に、蛍はもう片方の手も燐の手に乗せた。

 

 その事で安心したのか、燐は覚悟を決めて右手だけでステアリングを切る。

 

 意外なほど安定して車は曲がっていた。

 

 何事もなくカーブを曲がりきると、二人は同時にため息を漏らした。

 

「なんか、上手くいったね」

 

「うん……もっと激しく揺れるかと思ったんだけど意外だね」

 

「二人の愛の力、とか?」

 

「あはははっ、もう燐ってば」

 

 ──冗談ばっかり。

 

 でも。

 

 この手の温もりは本当だったから。

 だから、このまましんだって構わない、

 

 どうせ終わりは必ずやってくるのだから。

 

 

「冗談なんかじゃ、ないよ」

 

「燐?」

 

「わたしは蛍ちゃんと本当に」

 

 燐が強く手を握る。

 蛍も負けないよう強く握り返した。

 

 道の先は大きくカーブを描いていて、その先には巨大な脚でひび割れたはずのトンネルが、大きな口を開けていた。

 

「本当に一緒にしあわせになるために戻ってきたんだから」

 

「……燐」

 

 蛍はこの手が溶けて燐と一緒の一つになりたかった。

 そうすれば二度と離れることはない、どこまでもどこまでも一緒に居られる。

 

 魂だけじゃ寂しかったから、だから全部。

 

 二人で一緒の。

 

 かんぺきな世界。

 

 ………

 ……

 …

 

 

 後部座席の窓の隅で風車がこちらを覗いていた。

 

 深夜だと言うのに風車が回っている、ゆっくりとした速度で。

 

 それがどういうことなのかは分からない。

 

 燐にも蛍にも。

 

 オオモト様はどうだろうか。

 あの人は何か知っているかもしれない。

 

 ()()()()()()()()()あの白い風車の真下だった。

 

 辺りには置き去りにした数冊の日記帳とカメラ。

 

 そしてそれを見つめる少女──燐がいた。

 

 ”燐”はそのことをまだ蛍に話してはくれない。

 

 なぜあの時、あの場所に居たのかを。

 なぜあそこに自分が居ることを知っていたのかも。

 

 ”遺書のようなもの”は部屋に戻ってきた時は無くなっていた。

 

 吉村さんか燐が見たのかもしれない。

 でも場所は書いてなかった、もちろんあそこで”落ちている”ことも。

 

 でも、そんなことはどうでもよくて。

 

 ただ。

 

 風を受けて風車がまわっていた。

 

 誰にも気づかれることなくただひとりぼっちで。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 




・ゆるキャン△ 2(ドラマ)も滞りなく最終回を迎えしましたねー。
個人的に思うことは、コロナ禍でのドラマ撮影は見た目以上に厳しかったのかなーって印象でした。とくに初回のSPを挟んでの磐田──浜松の時ロケで予算を使いすぎた気がします。ドラマ版はそこが個人的ピークでした。
あとは、全体的にそれほど寒さっていうか冬を感じなかった気がしますねー。寒そうだなーと思ったのは最終話での薪を取りに行く件だけだった気がしますー。まあ、去年の冬は比較的暖かかったから、仕方ないのかもですねー。

・そして伊豆キャンは予告通りなしぃ……でも実写で伊豆キャン、というか伊豆のジオスポット巡りを忠実にするとなるとやはり予算が……それだけで二時間サスペンスドラマぐらいの予算が必要な気がします。
あと、原作からしてそうなんですけど、アニメもドラマも二期は静岡キャン△ になってますね。思ってたよりも山梨はキャンプ地が少ない……わけじゃないと思いますけどねー。でも原作だと次は大井川沿いでのキャンプ(静岡)ですからねー。
仮に三期があったとしても静キャン△ がまだ続くねん……。


・ゆるキャン△ ×厚生労働省ポスターが配布? されてますねー。
色んな意味でエコでしたねぇ、無償で印刷しても良いみたいですし。画像もアニメからの流用でしたしねー。


・どうやら今、”DL版青い空のカミュ”がサマーセールで50%OFFみたいですよー!
さらに! まとめ買いセールというものも同時にやってるようで、”触手作品10本まとめて1万円セット! ”というものに青い空のカミュもラインナップしてるんですよー!! ということは1本あたり千円ということになるわけでー、そうなると青い空のカミュが実質”千円”と言うことにぃぃ! これは、超! お買い得なのではー!!!

ちなみに7月19日まで限定セールなので気になる方はお早めに──! あと、他にも”ハーレム作品セット”や”孕ませ作品セット”なんかもあるようです(孕ませ作品って言うパワーワードが凄いですが……)

・実は一万円セットよりも、”青い空のカミュが触手ゲージャンル”だったことが地味に気になったとこだったりしますー。
あまり意識してなかった事ですけど触手ゲーと言われれば触手ゲーなのか、なぁぁぁ……間違ってはない気がしますけども……。
まあ、青い空のカミュに至ってはこれだ、っていうジャンルはあってないようなものですしね──。

・先日、うちの地域でも真夜中過ぎに防災サイレンというか防災無線の放送がありまして、こちらの方ではそこまでの被害は出なかったみたいです。ですがそのせいで寝不足に……ZZZZ

ではでは──。





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Nightswimming

 
 新学期最初の日。

 ぼやけた頭を揺らしながら、玄関の戸を開ける。

 真っ青な空に入道雲。

 ……暦の上では今日から秋のはずだったが、空はまだ夏の様相をしていた。

 朝から蒸し蒸しとしていて、さっそくげんなりする。

 やっぱり……休もうかな。

 晩夏の気怠さに、甘い考えが頭をよぎる。

(いやいや、まだ病人というわけじゃないんだし)

 一時期、あまりに酷い顔をしていたから母に病院へ行こうか相談されたこともあったけれども。

 きっともう大丈夫。
 これといった根拠はないけど。

 わたしは頭から甘えを追い出すように頭を振ると。

「……行ってきます」

 自分に言い聞かせるように声をだした。

 それは思ってたよりも覇気のない、例えるなら目に見えない精霊の言霊のようだった。

 無理しなくていいからね、と廊下の奥から声が帰ってくる。
 そこまで聞こえたのがとても意外だった。

 おかげで家を出るしかなくなってしまったのだが。

 ──だからと言って無理はしていないつもりだけど。

 別に学校に行くのが嫌なわけじゃない、まだ眠気は残っていてもなんとなく大丈夫な気はしていた。

 だってまだ若いし、学生なんだし。

 一、二時間程度でも寝れたからきっと大丈夫、放課後には部活もあるけどきっとそれも何とかなる。

 前にもっと辛い思いをしたからこれぐらいは平気なつもりだった。

「行ってきますー」

 念を押すようにもう一度玄関先で声をかける。

 ため息のようなかすれ声がしたが聞こえない素振りでやり過ごす。

 ピンク色のトレッキングシューズの踵を土間でとんとんと叩いて、足に馴染ませる。

 そしてもう一度靴紐を締め直してぴょんと立ち上がると、下駄箱の上の”それ”が不意に目に入った。

 どういう経緯でウチにあるのか、刺繍糸でかがられた手毬が朝の陽だまりの中で輝きを放っていた。

 あの人が持っていたものに間違いないと思う。
 毬自体にそこまで詳しくはないけど。

 複雑な模様は見間違えようがないほど緻密で可憐で、それは運命のようでもあったし、地下鉄の路線図のようでもあった。

 かなり昔のもののような風合にも見えるけど、これといって色あせてもいないしほころんだり傷んだりしている部分もない。

 家宝にでもなったみたいに母親が手を合わせているが、今のところ特に恩恵なども見られない。

 当然、夜に動き出すとかそういった事もない、はず……。

 大丈夫……だよね?

 玄関先で取り留めのない想像に頭を膨らませていると、こちらにやってくる母の足音が聞こえて、慌てて玄関扉を閉める。

 何やら叫んでいる声がする。
 扉越しに振り返って小さく手を振ると、逃げるように家の門をくぐった。

 たったそれだけの事なのに額はもう汗ばんでいた。

 ………
 ………
 ………

 家から最寄り駅まではそんなに遠くはない。
 目と鼻の先というほどでもないが、それでも前に住んでいたところよりかは大分近かった。

 まだ夏であることを主張するかのように蜩が鳴いている。

(でも、ヒグラシって秋の季語だから間違ってないのかな)

 どうでも良いことに頭を悩ませながら、朝の道を一人歩いていく。

 ……なんかまだ落ち着かない。

 朝早い時間だと、まだそこまで慣れ親しんでいないこともあって、どこか別の国に来た気分になってしまう。

 前の家からそこまで離れていない場所なのに。

 どこか異邦人のような面持ちで、新しい通学路をギクシャクと歩く。

 電車通勤する人だろうか、幾つもの人影がわたしの傍を足早に通り過ぎていく。

 わたしもその後に続いて駅へと向かう……つもりだった。

 とある道に差し掛かった時、わたしは思わず足を止めていた。

 視線の先には、山の中腹へと続く道があった。
 それなりの勾配のある坂道はまだ朝も早いせいもあってか、靄のようなものがたちこめているように見えた。

 何かを期待しているようにしばらくそこで待っていた。
 自分で確かめに行けばいいだけなのに、ただ待っていた。

 携帯の電波よりも近い距離なのに。

 意気地の無さに失望したように溜息をついてその場から離れる。
 
 そこから数歩離れたとき、こちらへと向かってくる足音がして思わず振り返った。

(まさか──と思った)

 けれども、それは希望していた人じゃない。
 ただのサラリーマン風の男性。

 慌てた様子で簡単に追い抜いていく。

 複雑な表情でそれを見送ると、その後を追うように静かに歩き出す。

 まだ開いていない携帯電話のショップの前を通り過ぎると、小さなロータリーと駅舎が街へ行く人々を待っていた。

 小平口駅。

 ここまで一本道だから迷いようもなかった。


 新しい最寄り駅の事も当然知っていた。

 年間何万人が利用して──とかは知らないけど。

 それでも何線が乗り入れて、行先は何処だとか、平日と休日の始発と最終の時刻は──とかはアプリを見ずとも覚えていた。

 まだお父さんのようにはなれないけど。

 駅の前には小さなロータリーにはワゴン車のような小さなバスが一台停車していた。
 周辺には日常的な商店や飲食店等ががほどほどに連なっている。

 ウチの店も駅前のこの辺りに出店したかったようだが、空いた土地もなく、さらに賃料が高いこともあって結局住宅街の古民家に店を構えることになってしまった。

 そのせいで客足に大きな差が出ることは必至だったが、まだオープン前ということもあってか、母はまだ強気でいた。

(その強気が裏目に出なければね)

 オープン前のパン屋には既に暗雲が立ち込めている、ような気がする。
 杞憂ならそのほうが良いんだけれど。

 ──この町に越してきてから数週間が経過していた。

 まだどこか夢の中にいるようなふわっとした曖昧な感じは残っているけれど、時間は一向に待ってはくれなかった。

 夏の長期休みは全く休めた気がしなかった。

 やることはいっぱいあるのに、意識は別のところに行っている。
 そのちぐはぐな感じが、心と体を休ませてはくれなかった。

 家族も、家も、生活さえも一変してしまった。
 苗字こそ変わってはいないが、予想だにしないことの連続に今も戸惑いが付きまとう。
 
 ──あの出来事がわたしの全てを変えてしまった??

 それだけじゃないことは自分が一番よく知っている。
 あの時の事だけを責めても何の意味もない、それに時間を戻したいとも思わなかった。

 とはいえ、やることが多すぎて感傷に浸る暇さえない。

 けれど大切な事は今でもずっと覚えている。

 それは言葉に出来ない想いの境界線。

 忘れているわけじゃない。
 あの坂の上の大きな家のことだって。

 ただ、なにかの取っ掛かりがほんの少し足りなかった。

 それだけ。

 ………
 ………

 小平口駅は絶賛改装工事中のことだった。

 ところどころが白いテントのようなシートに覆われていて、どこかの基地か、病院のようにも思わせる。

 テントで思い返したことと言えば、この町にもついにキャンプ場を作る予定があるらしい。

 小平口町はどちらかと言うと、風光明媚(ふうこうめいび)な良い場所なのに今までなかったのが不思議なぐらいだった。

 ちょうどキャンプがブームになっているので、今からでもあやかろうということだろう。
 安易な計画かもしれないが、それだけに早く完成(オープン)するだろうとは思う。

 今はアウトドアをする気分じゃないけど、もしもキャンプ場が出来たらちょっとやってみるのも良いかもしれない。

 特に今流行りのソロキャンプなんて、今のわたし的にはピッタリな気がした。
 これから先もずっとソロかもしれないし、その辺は慣れておいた方がいいのかもしれない。

 モヤっとした気持ちを抱えたまま改札を抜けると、プラットフォームには既に電車が待機していた。

 型は知らないが、他所で使い古された電車を改装して使っているらしい緑色の電車。
 今の自分の状況とちょっと似ていて妙な親近感が湧いた。

 でもこの電車は()()()()()でも見たことがあった。
 完全に同一のものではないと思うが、それにしたってよく似ている。

 形も色も、四両編成な所までも。
 行先までは書いてなかったが、あれはやっぱり同じものだったのだろうか。

 普段、利用しているのに比較できるほどの知識はなかった。

 ただ吃驚するほどよく似てただけ。

 それに今更、だよね。
 きっともう乗ることもないだろうし。

(わたしは……乗らなかったけど……)

 これ以上考えても意味はない、そんな気はする。

 わたしは頭を一振りすると、”現実”の方の電車に乗り込んだ。

 朝一番の電車の車内は、得も言われぬ新鮮さがあった。

 冷房も程よく効いていてとても心地が良い。
 このまま誰も乗らなければいいな、そう思うほどのときめきを感じていた。

 車内を物珍しそうに見渡していると、発射の合図を促すベルが鳴り響く。
 ちょうどのタイミングで乗れたんだと、安堵の息を吐いた。

 このまま突っ立っているのもなんだし、適当な席に腰を下ろすことにする。

 始発だからか空いている席はそれこそ、より取りみどりだった。 

 何かを探す素振りをしながら良さそうな席を物色する。

 二両目。
 三両目。

 と、心の中で数えながら歩いたところで、直感的な何かを感じ取ってそこに腰かけた。

 前から三両目の座席。

 何の変哲もない三人掛けの座席はまだ誰も座ったような感じもなく、とてもキレイだった。

 ちょうど日も差し込んでおらず、この場所だけ切り取られたような居心地のよい特別感があった。

 隣にはまだ誰も座っていない。

 僅かな違和感を覚えたが、一息ついて背中のバックバックを下ろすと、席の空いている左側、ではなく膝の上にとすっと置いた。

 列車が発車するまであと少しの時間。
 わたしはドアの方を凝視していた。

 駆け込んでくる乗客が居ないか、ただその一点だけを。

 ”何か”ではなく”誰か”を待っていた。
 ドアが閉まるその直前までずっと。

 買い替えたばかりの真新しいスマホに気をやることもなく。

 再度チャイムが鳴り響くと、空気の抜ける音がしてドアが閉まる。

『おはようございます。本日……鉄道をご利用いただきありがとうございます。この電車は──』

 流れるような音と車内アナウンスに耳を傾けながら、わたしは少し残念な気持ちで窓の景色を遠くに眺めた。


 まだ夏は終わっていないのに、なぜだか秋の終わりを感じるような切なさが胸にチクリとした痛みを与えていた。


 ────
 ────
 ────


 がたん、ごとん。

 いつの間にか深く寝入っていたみたいだった。

 寝不足でもなんとかなると思ったのはきっとこういうことかもしれない。

 古ぼけた列車は、朝の陽光の中をなだらかに走行している。

 隣に知らない人が座っていた。
 それは向かいの席にも。

 膝の上のバックパックを抱き枕代わりにして寝入ってたようだった。

 うっかり涎を垂らしていないだろうか。
 制服の下に着ている長袖のシャツでそっと口元を拭ってみる。

 幸運なことに湿ってはいなかった。

「ふわぁぁ……」

 ほっとしたせいか、思わず欠伸がこぼれ出たので、慌てて手で抑える。

 首を引っ込めて周囲に目を配ったが、みんな自分の事に集中しているようでこちらを気に留めるものは誰もいない。

 それはそれで少し寂しかったりもする。

 もう一度口に手を当てて欠伸をかみ殺すと、ポケットからスマホを取り出して時間を確認する。

(まだ余裕あるなぁ……もう一度寝直そう……)

 再び重くなった瞼と線路のミニマリズムな音を意識的にシンクロさせながら、再び眠りにつこうと、バックバックに首を預けようとした時──。

 どしん!

 何かがぶつかったような重たい音がして、強制的に眠気から覚まされた。

 と、同時に甲高い金属音が耳障りな音を立てる。

 どうやら急ブレーキを掛けたようで、それまで静かだった車内は、ちょっとしたパニックになっていた。

 電車が完全に停車してしまうと、落ち着きを取り戻したのか車内がざわざわし始める。

 わたしはバックパックを抱きかかえたまま、首だけを伸ばして窓の外に目をやってみる。
 停車した場所は駅ですらなく、周りには何もなく、ただ一本の線路だけが伸びていた。

 皆が一斉にスマホで状況を確認したりしていると、察したように車内アナウンスが流れてきた。

『──駅構内で起きた人身事故の影響で……』

 それを聞いて、またか、とか、最近多いね、とかもっともらしいことを呟いていた。

 一方のわたしはこれで遅刻したら遅延証明書を発行してもらわないと困る、なんて割とどーでも良いことに頭を悩ませていた。

(人身事故……わたしも危うくそうなりそうになったんだっけ)

 あの時は本当にびっくりした。
 だってずっとあのままだと思っていたから。

 それは。

 幽霊のままだと。

 ………
 ……
 …

 意識だけとなった”わたし”は線路を通過する電車をただ見送っていた。

 電車は”わたし”の中をすり抜ける。
 だから何があってもしぬことができない。
 
 空腹でも渇きでもしぬことが出来なかった。

 それにすり抜けていくのは電車だけではなく、風も雨も、日の光も。

 聞こえてないから分からないけど多分音だって、全部わたしの中をすり抜けて行ってしまう。

 もうそんな概念は既に通り過ぎてしまってるのだろうけど。

 ただ、代わり映えのない景色は、あの世界を垣間見ているようで。

 もしかしたらあのテレビの映像は、自分の未来の姿だったのかもしれない。

 そう思うほど酷似していた。

 退屈を紛らわす為、行き交う電車を数えたり、日が沈む回数も数えたりした。

 星の瞬きも数えてみたし、何かを感じとっているのか(カラス)が傍まで寄ってくる日もあって、その黒い羽根の数も数える時もあった。

 色々なのを数えたが、記録することも、誰かに話すこともないので何の意味もなさない。
 
 そんな退屈を紛らわす日々にも飽き飽きとしていた。

 しぬにせよ生きるにせよこんな生殺しのままでは狂ってしまう。

 狂う頭すらもないけど。

 永遠このままかもしれないし、やがて空に還るかもしれない。

 何より彼女はもう行ってしまったのだから。

 自分の存在価値はもうないと思っている。

 でも、彼女に想いを託すことだけはできた。
 上手く伝わったかどうかは分からないけれど。

 それでも実感があったからそれでよかった。
 
 後は彼や彼らと同じで、光の粒となって向こう──完璧な世界に行くだけ。

 憧れていたもう一つの世界……待っててくれてるだろうか。

(お兄ちゃん………) 

 それは、本当に意外な形で裏切られた。

 すっ──と、何かが崩れ落ちるような感覚。

 やっとこの日が来た。
 
 待ちに待った日。

 おわりの日。

 空に還るのではなく、地に沈んでいくのかと少し残念だったが、この意味のない不条理が終わるのならそれでもよかった。

 初めに輪郭を失ったときとは違った力の流れ。

 ほんとうにしぬっていうのはこういうことなんだろう。

 あの時は、重力から解き放たれた感じだったけれど。
 これはただ落ちていくだけ。

 暗い地の底へと。
 なすすべもなくわたしは翻弄されていく。

 それももう終わり。

 わたしはもう──おわり。

 ──ありがとう、……ちゃん。

 最後にもう一度言いたかった言葉。

 言葉は形を作ってはくれないけど。

 わたしは最後にもう一度言えたんだ。

 だからもう──。



 でも中々終わってはくれない。

 それどころか。

 わたしの身体は。

 羽の様にゆっくりと。

 地が。

 足についていた。

 それは確かに文字通りに。

 無重力から急に解放されたような鉛の重さを体の隅々に感じた。

 靴底は砂利を踏みしめているみたいだが、生まれたての様にぷるぷると脚が震えて、真っすぐにさえ立つこともままならない。

 力の、筋肉の入れ方を忘れてしまったようだった。
 でも、ちゃんと立てたこと、大地を踏みしめること感覚に歓喜した。

 そんな束の間の喜びは本当に一瞬。

 これまで止まっていた刻の流れが一瞬でわたしの中に入り込んでくる。

 まるであの町の様な刹那的な速さで。

「……っ」

 生きているはずなのに死ぬほどの苦しみや痛みが二重三重に襲い掛かってきて、わたしの身体を貪るように這いずり回る。

 渇き?
 空腹?
 それとも酸素??

 どれだかわからないが、内側から沸き起こるマグマの様な欲望が渦になって苛まれる。

 ──何から解消すればよいのか。
 ──どれから選んだらいいのか。

 答えが分からず、頭はパニック状態で今にも割れそうだった。

 せめて、水が飲んでみたい。

 深い海の底から戻ってきたばかりのように酸素を求めて口をパクパクとさせる。
 ただ息を吸うだけでもこんなに辛いなんて。

 喉の渇きを潤したい。
 そう決めた直後、視界の奥からからけたたましい音がした。

 始めは何の音が分からなかった。

 獣の鳴き声の様な感じ。
 そう思っていたのだが。

「プォーン!!!!」

 もう一度音がする。
 忘れていた感覚が蘇りそちらに首を動かした。

 耳をつんざく音と共に電車がすぐ目の前まで迫っていた。

 運転手からは人が突然出てきたと思われたのか、明らかにブレーキが間に合っていない。

 金切り音がして、線路から火花が飛び散る。

 わたしは状況が吞み込めず、”いつもの癖”で突っ立っていたのだが、鈍くなっていた五感が今頃になって重大な危険を知らせてきたので、慌てて線路から飛びのこうとする。

 だが──。

 足がまだ上手く動かず、自分では必死に走っているつもりだったのだが、あちこちの関節が言うことを聞いてくれなかった。

「っ……!!」

 だらしなく線路の上に倒れ込んだわたしは這いつくばるようにして、その身体をなんとか外に投げ出した。

 わたしの思考は完全に停止していたらしい。

 なぜならば。

「………!」

 線路の外は土手、だったから。

 わたしの身体は無様にごろごろと転がっていく。
 なすすべもなくごろごろと。

 傍には川が流れているようで、無邪気なせせらぎを聞かせていた。

 だが、先日の雨で川は増水しており、音と違って濁った川の水は急な流れを作っていた。

 わたしは転げ落ちそうになる体をなんとかしようとその辺の草を掴んだ。

 ぶちぶちと、草は呆気なく千切れていく。
 滑り落ちる体を支えるにはその草はあまりにも脆弱すぎた。

 ざざざざっ。

 背の高い草がクッションになり、少しだけ勢いが弱まった気もする。

 それでも止まらず、身体は斜面を転がり続ける。

 とても長い時間転がっているように思えたが、終わるのは一瞬だった。
 
 光を反射した水面はもう目の前だったから。

 気持ちよさそうとか、やっと水が飲めるなどと暢気な考えばかりが浮かんでくる。

 わたしは覚悟を決めて、川に落ちる運命を受け入れた。

 まだ体に馴染みがないがきっとなんとかなるだろう。
 前は水泳、得意だったはずだし。

 それに体がわたしを裏切るわけがないと思ってたから。

 だから着水したときのことだけを考えていた。

 けれど──。

 体は落ちる数センチ手前で何とか止まってくれていた。

 何のおかげなのかは分からないが、ともかく川の()()の所で勢いは完全に止まり、水没することは間逃れた。

 両手で草を握っていた。
 指が切れて、爪が剥がれ落ちそうなほど痛かった。

「おおぉーーい!」

 一息つく間もなく、頭上から声がする。

 多分鉄道の関係者だと思う。
 車掌か運転手だろう。

 凄い音がしていたから、電車を緊急停車させたのかもしれない。

 それは運行上当然の対応だったが、わたしには招かざる来客だった。

 わたしは返事を返したほうがいいのかそれとも黙っていた方がいいのかと、蹲って考え込んでいると。

「大丈夫なのかーー!?」

 返事を催促するように声がまた掛けられる。

「だ、だ、大丈夫ですー!!」

 わたしはつい思わず返事を返していた。

 その時のわたしは列車を止めてしまったことの罪悪感や、ダイヤを乱してしまったことへの賠償金? 的なものはまったく頭に浮かんでいなかった。

 そんな事よりも。

(声……出た……? わたしの声、だよね?)

 ただ声が出たことへ歓喜。
 これまで出来なかったことが出来たことの喜びの方が何倍も強かった。

 その声はちゃんと耳に届いたのか、帽子を被った男性は声がしたこちらの方をつぶさに見下ろしている。

 その姿で、結構な距離を転がり落ちたことが理解できた。
 見下ろす人がかなり小さく見えたから。

 だが、向こうからはこちらが見えていないようで、背伸びをするように覗き込む仕草で見ているようだった。

「……っ!」

 急に全身に痛みが走った。

 落ちる際、どこかにぶつけたのだろうか、右肩のあたりがずきずきと痛みを訴えている。

 声を出したことで無理が出たのか、痛みはどんどんと大きくなってくる。

「”本当に”大丈夫なのかーー!!?」

 運転手だか車掌だかの人はもう一人増えていて、本部に連絡しようかどうか迷っている様子だった。

「ほ、”ほんとうに”大丈夫ですー! ごめんなさいー!!」

 黙っているわけにもいかず、もう一度だけ声をだす。

 出来れば救急車を呼んで欲しいぐらいだったが、迷惑を掛けたくない気持ちの方が勝っていたので、真逆なことを言ってしまった。

 けど、謝ったのは本心からだった。

 わたしは言葉だけじゃ足りないと思い、左手をひらひらと振ってみた。
 それだけで激痛が走る。

 見えているかどうかは分からない。
 ただ、ここへ降りて来てほしくはなかった。

 事を大げさにしたくないし、何より恥ずかしかったから。

 こちらが手を振ったのが見えたのか、帽子を被った二人はなにやら話す合うと、これ以上深い入りする必要がないとみなしたのか、連れ立って視界の奥へと消えてしまった。

 急に辺りが静かになる。
 川のせせらぎだけが時の動きを教えてくれた。

 ややあって、電車の警笛だろうか、びりびりっとした音が二回鳴り響く。

 安心の合図を返してくれたのだろう。

 そのまま電車は何事もなかったかのようにゆったりと線路の上を進んで行った。

 戻ってきて直ぐの危機的状況は、ローカル鉄道のあやふやな対応のお陰で事なきを得た。

 静けさが戻ってくる。

 わたしはすぐに動かずにその身を横たわらせたまま、悠然と流れる雲を見送っていた。

 白い雲が流れる。

 わたしは河原で一人ぼっちだった。

 制服もバックパックもお気に入りのトレッキングシューズもあの頃のままなのに。

 そのところどころが泥と青に染まっていた。

 けど、草の香りを嗅いで、頬を撫でる少しぬるめの風に目を細めていると徐々に実感していく。

 荒い息づかいも、ドキドキと鳴っていた心臓も一定のリズムに落ち着いていく。

 わたしは痛む肩を抑えながら、ゆっくりと上体を起こす。

「空が、高い……」

 扉の向こうから見ていた客観的な景色は、この瞬間はっきり自分の目でとらえることができた。

 確かめるように息を吸い込むと、両手を水平にしてゆっくりと息を吐いた。

 右手は痛くてまだそんなに上がらなかったけど、確かな息吹を感じる。

 生きている全てを五感で感じ取っていた。

 まだふらつく体を無理矢理立たせると、体中の泥を緩慢な動きではたき落とす。
 
 あらかた綺麗になったと思う、そこまで気を使うだけの余裕はまだなかった。

 わたしはそのまま川沿いの細い道を引き摺るようにして歩きだす。
 
 肩や足の痛みは痛みを増すが、なんとか歩けそうではあった。

 むしろ歩くほかなかった。

(重いし、痛いし……苦しい)

 これまで出なかった汗が、額や腕から流れ落ちる。

 これは本当に自分の身体なんだろうか。
 そう疑いたくなるほど、言うことを全く聞いてくれない。

 生きることをサボっていた”ツケ”が回ってきたということか。

 ともかく、”自分の体なんて何も思い通りにならない”、それが良く分かった。

 道を踏み外さないよう、一歩ずつ足の感触を確かめるように小径を進む。

 最後に見た彼女のように、足元を繊細に気を配りながら一歩ずつ。

 あの時はおっかなびっくり線路を歩く彼女を笑っていたけど、今のわたしは線路どころか、ただの道を歩くことさえもおぼつかない。

 ただ、ゆっくりと進めばいいんだ。
 焦る必要なんて初めからなかったんだし。

 結論を早めても結果は特に変わらない。
 ただ先を知るのが怖かっただけ、ただそれだけのことだった。

 何もかもが偶然いう概念だとするのなら、わたしはどこまでも巨人に追いかけられるんだろう。

(わたしは巨人に踏みつぶされたんだ、そう思ったんだけど……)
 
 わたしは立ち止まって首を横に向ける。

 川面に揺れる姿は確かにわたし──燐、だった。


 ……
 ………
 …………


(わたし自身と……世界に対する無関心……か)

 最近、本で見た言葉を頭で反芻していると、確認が取れたのか列車は運行を再開していた。
 
 がたん、ごとん。

 乗客に気を使っているのかやけに謙虚な走りを続けていた。
 でもしばらくするといつものリズムに戻っていくだろう。

 実際ダイヤは遅れているのだから、それは仕方がなかった。

 列車の景色は徐々に早送りのような勢いで早くなっていく。
 さざなみが大きな波になっていくように。

 時間は日常で最も大切な事だから。
 それを守って平穏無事に過ごせればそれで万事良いのだ。

 わたしだって例外じゃない。

 色々なものに無関心になったけど。

 それでも父や母、幼い頃から一緒だった従兄だって、同じ時間の中で生きている。
 もう元には戻らないとしても。

 そして一番大切な……友達。

 好きの反対は嫌いじゃなくて無関心、らしい。

 でも無関心で居られたからこそ、こうして学校にも行くことが出来る。

 わたしは人や物にちょっとだけ執着しすぎてしまったようだ。

 その事がわかっただけでも、あの時の事に少しの意味を見出すことが出来る。

 例え人が生きていることに意味などなくとも、それでも何かが欲しかった。
 それにはまず自分を認めてあげること、それが第一歩じゃないかと思う。

 誰かからの評価なんてその後なんだろう。

 だから平等に無関心。

 肉体があることの有難みや、モノが食べられることの喜びなんてすぐに慣れてしまったし。
 順応性なんてものが自分にあるとはおもわなかったけど、これもまた現実だった。

 喉元過ぎればなんとやらで、執着なんてものもそこまで持続性がないものなのかもしれない。

 なにかがぽっかり空いたような寂しさはあるけれど、あとは至って平然。
 まだ無関心のままでいられる。

 なにかが変わっても、目的はなにも変わってはいないのだから。

 だからわたしはもう少し夢の続きを楽しむことにする。

 この無関心を殺してくれる何かが待ってる。

 その時を願って。


 ………
 ……
 …



「おはよ、蛍ちゃん……生きてる、よね?」

 

 頭上から投げかけられた目覚めの挨拶は可愛らしい口調なんだけど、やや辛口だった。

 

「……うん、ちゃんと生きてる、よ……ほら」

 

 楽しそうに頭を撫でている燐の手をふわりと握った。

 

 それは思っていたよりも冷たくて気持ち良かった。

 

 起き抜けの体温にしっとりとした燐の手の冷たさがなんだか心地よくて、蛍はもにもにと揉み解すように触り続ける。

 

 燐は小さく笑みを見せると同じような強さで手を握り返しながら、もう片方の手で蛍の髪をさらさらと撫で上げた。

 

 蛍はうっとりと目を細める。

 

 燐はそのまま蛍が二度寝してしまうのかと少し気になった。

 

「おはよ燐……今日も洗濯ものは?」

 

「うん、ダメだったよ。今日も乾燥機使ってる。少しうるさかった?」

 

「ううん。大丈夫、それより燐……今何時? ずっと雨だと感覚がおかしくなっちゃって……」

 

 寝ぼけ眼で燐の顔と壁を交互に見比べる。

 

「燐、も。あんまり寝てないの?」

 

 蛍は燐の顔を無造作に触りながら、確かめるように目の下の膨らみを少し伸ばしてみた。

 蛍の言うように燐の瞳は少し充血しているように見える。

 

 燐は蛍にべたべた触られても嫌な顔一つせず、困ったように答えた。

 

「バレちゃったか。なんか寝付けなくてさ、朝から色々やってたんだ。でも、蛍ちゃんはちゃんと眠れたみたいだね」

 

「うん。わたしも最初は寝つきが悪かったんだけど、いつの間にか寝ちゃってたみたい」

 

 蛍は素直にそう告白して、改めてベッド脇の自分のスマホを手に取った。

 

 ……既にお昼を回っていた。

 

「うん。実はもうお昼なんだ。さすがにお腹空いたでしょ? もう朝と昼が一緒になっちゃうけど何か食べるよね」

 

 燐がからかうように蛍に微笑みかける。

 その笑顔で自身の空腹感に蛍は今気付いた。

 

「ごめん。すっかり寝過ごしちゃったね。でも、燐。いつもみたいに起こしてくれればいいのに」

 

 蛍は俯き加減に尋ねる。

 

「なんか、蛍ちゃん気持ちよさそうに寝ていたから。それにせっかくのお休みだし、無理矢理起こしちゃ可哀そうと思って」

 

「燐は、わたしの寝顔が見たいだけでしょ?」

 

「あたり! だって蛍ちゃんの寝顔、すっごく可愛いから」

 

 蛍の指摘に燐は指を鳴らす。

 

「もう、燐ってば……でも、わたしいつまで経っても子供みたいだよね。一人だと中々起きられないし……」

 

 顔を赤くした蛍がもじもじしていると、ベッドの横にいた燐が首に手をまわして抱き着いてきた。

 

「でも蛍ちゃん今日は自力で起きれたじゃない。無理矢理起こすんじゃなく、起きたい時間に起きるのが自然で良いんじゃないかな。今日は特に予定もないしね」

 

 慰めになっているのかは分からないが、燐の言葉は蛍を心を暖かくした。

 

 燐はいつも優しいから、つい甘えたくなってしまう。

 いけないことだとは分かってはいても。

 

「ありがと……燐」

 

 二人は顔を見合わせて微笑んだ。

 

 もう遅い時間だけど、それでも目覚めは笑顔だった。

 

 とても幸せな時間。

 

 これで雨が降っていなければと思ったが。

 

(でも、こうして燐とだらだらするのも嫌いじゃないんだよね)

 

 むしろずっとこうしていたいぐらい。

 

 雨を降らす灰色の空を蛍は複雑な想いで眺めた。

 

「さて、改めてお早う蛍ちゃん! えっと……何食べたい? 今日は蛍ちゃんの好きなのなんでも作ってあげるっ!」

 

 燐はベッドからぴょんと立ち上がると、エプロンを直しながらキッチンへ向かった。

 

「燐。ほんとに何でもいいの?」

 

「ま、まあ材料があればだけど、ね。でも、なるべくリクエストには答えるよ」

 

「ふーん」

 

「ほ、ほんとだってぇ! 今のわたしは、蛍ちゃんに料理を作ってあげたい欲に駆られてるんだからぁ」

 

 蛍に疑いの眼差しを掛けられた燐は慌てて弁解した。

 

「じゃあ……”よだれ鶏”でもいいの?」

 

「うぐっ! よだれ鶏かぁ……冷蔵庫に材料あったかなぁ……」

 

 思いがけない蛍のリクエストに燐は不意を突かれたように膠着した。

 

 とりあえず冷蔵庫を開けて材料を確認してみる燐。

 

 ソースは調味料を混ぜ合わせばなんとかなりそうだが、肝心の鶏むね肉がなかった。

 

(あれ? 先週買っておいたと思ったんだけど……?)

 

 冷凍庫も開けてみるもそれらしいものは入っていない。

 

 豚肉ならあったが、それだと”よだれ豚”になってしまう。

 それは流石にイレギュラーすぎるとは思った。

 

(でも蛍ちゃんにそう言っちゃったしなぁ……うむむむ)

 

「蛍ちゃん。鶏肉がなかったからちょっと買いに行ってくるね」

 

 燐はそういうとエプロンのヒモを緩め始めた。

 

「あ。ごめん」

 

「え?」

 

「やっぱりよだれ鶏はいいよ。ちょっと意地悪言ってみただけだから」

 

「でもぉ……」

 

「ごめんね燐、適当なこと言って。わたしは()()()()()良いから」

 

()()()()って本当に?」

 

「うん。朝から重いのはちょっとね。しびれ鶏は今度で良いよ」

 

 蛍は上目遣いで燐の顔を見る。

 

 窺うような蛍の瞳に燐はにこっと微笑む。

 

「くすっ、実はそういうんじゃないかって思ってた。だから大丈夫だよ蛍ちゃん」

 

「そうなの? 燐は凄いね。わたしの考えなんてなんでもわかっちゃうよね」

 

「流石にそれはないよー。でもいつものってことはトーストとサラダで良いのかな? あ、蛍ちゃんチーズは? とろけるやつあるよ」

 

 燐は薄いチーズをひらひらとさせて尋ねる。

 

「じゃあ、とろけるのでお願い」

 

「オッケー。じゃあ出来上がるまでちょっと待っててね」

 

 蛍の要望に軽やかに答えると、燐は厚切りのトーストにバターを塗り始めた。

 その間、蛍はいつもの様にパジャマのボタンを外して、体温計を腋にあてた。

 

 パンをトースターに入れると、燐はたっぷりのレタスに皮を剥いたアボカドとプチトマトを添えた。

 

 更に冷蔵庫からミルクと無糖ヨーグルトを取り出して鼻歌を口ずさみながらトレイの上に乗せた。

 

 これが蛍のいつもの朝のルーティーン。

 

 少し早めに起きた燐が諸々の家事をやって、少し遅めに蛍が目を覚ます。

 今日は休みのだからかなりのんびりだが、いつもは朝から割と気ぜわしかった。

 

 ハウスキーパーの人でもここまで甲斐甲斐しくなかったので、蛍は初め戸惑っていたが。

 今は燐が常に一緒に居る日常にもすっかり慣れていた。

 

「ふわぁ……」

 

 蛍は体温計が鳴るのをかみ殺しながら待っていた。

 寝すぎたせいか、また眠気がぶり返して頭をこくっと下げる。

 

 再びの眠気に誘われそうな時、小さな電子音が蛍の耳朶を打った。

 

 36.5℃。

 

 低血圧の蛍にしてはやや高めの数値だったが平熱の範囲だった。

 

 蛍はのそのそと這い出るようにベッドから出ると、窓の外を見ながら軽くスクワットしてみた。

 

 これも一応ルーティーンだが、そんなに長くは続かない。

 20回もすれば息も絶え絶えになってしまうだろう。

 

 だからその半分程度を目標としていた。

 

「いち、に……」

 

 窓の外ではどんよりとした曇り空にしとしとと雨が降り注いでいる。

 

 ここ何日かはこの調子だった。

 

「あれ?」

 

 起き抜けで張り切りすぎたのか、まだ数回しかやってないのに目の前が急にぱちぱちとなって視界がぐるぐると回転する。

 

 ベッドもその脇の小さなタンスも天井も蛍の視線の中でぐるぐると回っていた。

 

「蛍ちゃんもうすぐ出来るよ……って、どうしたの?」

 

 ベッドに手をついて頭を抱える蛍に燐が不思議そうな顔でたずねる。

 

「うん……昨日飲みすぎちゃったみたい」

 

 涙目になりながら変なことを言い出す蛍に、燐は呆れ声とため息をつく。

 

「飲み過ぎたって、昨日寝る前に飲んだのは烏龍茶でしょ? 蛍ちゃんまでお父さんみたいなこと言うなんて……」

 

 目を回した蛍がシーツをぎゅっと掴んだ時、トースターがきぃんと音を立てた。

 

 

 ………

 …………

 ……………

 

 

「ちゃんと全部食べられたみたいだね。うんうん、感心感心」

 

 綺麗になったお皿を見て、燐が満足そうにうんうんと頷く。

 

 起き抜けのだったけどちゃんと食べてくれたことが嬉しかった。

 

 最近、蛍の食が細くなってきて少し心配だったから。

 

 燐は空になった食器をトレイごとキッチンに運ぶ。

 蛍がなにか言う前に燐が片付けだしたので、慌てて呼び止める。

 

「あ、燐は休んでていいよ。後片付けはわたしがやるから。燐ばっかりさせちゃって悪いし」

 

「気にしないでいいよ蛍ちゃん。食べ終わったばかりだしね。それに」

 

 燐は食器をシンクで洗うのではなく、食器洗浄機の中に並べると扉を閉めてスイッチを入れた。

 

 ごうん、と音がしてケースの中の食器に水が吹きかけられる。

 小さなケースの中でも雨が降っているようだった。

 

「こうやってボタン一つで食器を洗ってくれるんだから誰だって出来るしね。ほんと楽だよねー」

 

「そんなに気に入ったのなら、燐のお家(パン屋さん)にも置いてみればいいのに」

 

「うちは洗い物が多すぎて逆に役に立たないんだよね。業務用のは結構するしぃ……」

 

 パン屋になって分かったことは、次から次に欲しいものが出てくると言うことだった。

 

 調理道具や設備だけではなく、レイアウトや看板、照明に至るまで、あらゆるものに不満を覚えそれを改良をしたくなる。

 

 基本的に母の店なのは分かってはいるが、それでも何かしらの手を加えたくなってしまう。

 

「燐も自分でパン屋さん始めそうだよね」

 

「それはないなー、多分。まだうちの店だって全然安定してないし、それにわたしは職人に向いてない気がするんだよね……なんていうか集中力が足りない、みたいな? あ、蛍ちゃん食後のコーヒー飲む? ちょうどお湯が沸いたから淹れようと思うんだけど」

 

「じゃあ少しだけ。燐の半分程度でいいから」

 

 こぽこぽと珈琲のドリップパックにお湯が注ぎ込むと、こうばしい香りに包まれる。

 

 蛍は淹れたての香りを楽しみながら、スマートフォンをとんとんと叩いていた。

 

「蛍ちゃんの方が向いてる気がするなぁ。何にでも一生懸命だし」

 

 燐は蒸らす時間を量りながら、こまめにお湯を注いだ。

 

「何みてるの蛍ちゃん?」

 

 燐は淹れたての珈琲を入れたマグカップを両手に持ちながらキッチンから出てくると、その一つを難しい顔をしてスマホを見ている蛍の前に置いた。

 

「ありがと燐」

 

 蛍は燐の目を見てお礼を言うと、すぐにはカップに手をつけなかった。

 代わりにスマホを画面を燐に差し出す。

 

「避難勧告が出てる地域って結構あるみたいだね。この辺はまだ大丈夫みたいだけど」

 

「避難指示は小平口町にも出てるみたいだよ。ほら」

 

 燐は蛍の液晶を操作して小平口町のハザードマップを出す。

 小平口町周辺は一部を除いて全体的に赤──氾濫危険地域になっていた。

 

 蛍より数時間前に起きていた燐は一応実家にも確認の電話をしていた。

 

「まだ、”避難命令”までは出てないんだって。でもやっぱり心配してるみたい」

 

「それはそうだよ。ダムの水位だって気になるだろうし」

 

 蛍は燐から携帯を戻してもらうと小平口ダムの水位をHPで確認した。

 燐も珈琲を片手に液晶画面を眺める。

 

「流石に放流まではいかないみたいだね」

 

「うん、良かった」

 

 ダムの水位が思ったほどでもなかったので、蛍はほのかに湯気を立てる珈琲にようやく口を付けた。

 

 砂糖多めのエスプレッソは、苦みを抑えて蛍にちょうどよい甘みを与えていた。

 

 糖分が記憶を呼び起こしたかのように、蛍はあのラジオの事を口にした。 

 

「ねぇ。燐、あの時ダムってどうなったのかな? ラジオでは小平口ダムが決壊して全域が浸水したって言ってた気がするけど……」

 

 蛍がやけにはっきりとあの放送のことを口にしたので、燐はカップをテーブルに置いて、記憶を呼び戻すように天井を見つめた。

 

「うーん、もしそうなってたらすぐに騒ぎになってたと思うよ。線路の陥没もそうだけど、被害の規模が大きすぎるからね」

 

「そうだよね。でももしも本当に決壊してたら小平口町は流されちゃったのかな?」

 

 ラジオでもそんな風なことを言ってた。

 けれど実際は流されていなかったし、陥没もしていなかった。

 

「蛍ちゃんちは残ってるかもね。町でいちばん高い所にあるんだし」

 

「そうかな? でも多分、うちもダメだと思うよ。ダムが決壊したときの勢いって相当すごいみたいだし」

 

「そっか……じゃあ、何事も起こらなくて良かったね」

 

「うん……」

 

 燐の言葉に蛍は少しぎこちなく頷く。

 

「蛍ちゃん。ちょっと心配?」

 

 心を見透かしたように燐が気遣った言葉をかける。

 

「まぁ、やっぱりね。一応生まれ育った場所だし。吉村さんもいるしね。それに燐だって心配でしょ。燐のお母さんも小平口町に残ってるんでしょ」

 

「うん、確かにね。ちょっと心配。でも……大丈夫だと思うよ。きっと」

 

「……燐がそう言うなら間違いないよね」

 

 蛍はにっこり微笑むと、再びカップを手に取った。

 燐も蛍に微笑むと、珈琲を飲みながら、皿の上のクッキーを手に取った。

 

 ただの気休めでしかないが、それでも蛍は燐を信頼していたし、燐も蛍にいい加減な事をいうつもりは無かった。

 

 だからきっと大丈夫。

 それが二人の真理だった。

 

 ──

 ───

 ────

 

 蛍と燐はこの春から一緒に住んでいた。

 

 高層マンションの一室。

 そこが二人の新しい住まい、Respawn point.

 

 建物自体は春先には完成していたが、施工業者の小さなミスが発覚して、実際に入居できたのは五月の頭まで待たなくてはならなかった。

 

 要するにまだ越してきてひと月余りだった。

 

 だが、引っ越し日がちょうど大型連休の時だったので、その日のうちに全部終えることができたのは良かった。

 

 とりあえずな日用品と、トランクに詰められるだけの衣類。

 あとは学校に必要なものぐらいだった。

 

 蛍の家──三間坂家は、まだ手放してはないのでこれは蛍の第二の家……つまりこのマンションは三間坂家の別荘みたいなものだった。

 

 燐もそんな感覚であり、どこかリゾートのような気分で住んでいた。

 

 クラスのみんなには同棲してるってからかわれたけど……。

 

 実のところ間違っていなかった。

 だからかそんなに悪い気はしなかった。

 

 燐はボディーガード兼、家政婦の名目で一緒に居てくれるし(本人は嫌がるけど)、なにより学校に近いのは良かった。

 

 ぎりぎりまで布団に入っていられるのは至福のひと時だったから。

 

 マンションからは大きな駅のターミナルを真下に見下ろす眺望だったし、よく晴れた日には海や富士山だって拝むことが出来る。

 

 駅前でイベントがあれば特等席で見られるのが嬉しかった。

 

 でも、今は大きな駅も、穏やかな海岸線も雨霞に煙ってしまっている。

 

 せっかくの眺望もこの雨の前では形無しだった。

 

 雨足が強くなったのか、ゴーっという音と共に大きなガラス戸にばちばちと滴が付く。

 

 このまま漂流してしまうのではないかと錯覚するほど雨はずっと続いていた。

 

 分厚い雲はどっしりとしていて、動くことを忘れてしまったかのように上空に広がっている。

 

 何かの小説で見た、人体に影響を及ぼす濃度の強い雨。

 

 それを彷彿とさせた。

 

「ふああぁぁ~」

 

 蛍ではなく、燐が大きなあくびをする。

 

 情感に浸っていた蛍は驚いて燐の顔を見るとくすっと笑った。

 

「やっぱり燐も眠いんじゃない」

 

「うん……かもね」

 

 カフェインを摂取して蛍の眠気は収まったようだが、今度は燐が眠気を訴えていた。

 

 無邪気に目を擦る燐の姿が愛おしくて、蛍はまたくすっと笑みをこぼす。

 

「雨音を聴くとなんか眠たくなるもんね」

 

「何もない休日だと余計にね」

 

 燐は話半分と言った感じで窓の外に目をやっていた。

 

 蛍も滴り落ちる雫の行方を目で追っていた。

 

「……なんかさ、変な感じだよね」

 

「ん? 何が」

 

「燐とこうして二人で住むのって」

 

「それは、確かにね」

 

 燐は三つ足のスツールから立ち上がると、ネコの顔が付いたスリッパをパタパタ鳴らしながら、大きなガラス戸の前に立った。

 

 蛍も静かに立ち上がると自然にその隣に立つ。

 

「こう高い所から見下ろすとなんかさ”勝ち組”って感じしない?」

 

 眼下に流れる車の波や、色とりどりの傘の群れ。

 それを見下ろすのが勝者、なんだろうか?

 

 蛍は苦笑いして燐の腕をそっと取った。

 

「勝ちとか負けとかどうでもいいよ。燐とこうして一緒にいるだけでわたしは幸せだし」

 

「それはわたしも。蛍ちゃんと一緒だから良いんだと思う」

 

 蛍の言葉に燐はあははと笑顔でこたえた。

 

「あのときさ……」

 

「なに蛍ちゃん」

 

 燐は小首を傾げて蛍の方を向いた。

 蛍はどこか物憂げに重い空を見ながら言葉を繋ぐ。 

 

「燐が……町になにかしてくれたの?」

 

 無垢な瞳が燐を捉える。

 燐は一瞬言葉を忘れてしまった。

 

 蛍の瞳は純粋で少しの濁りもない、あのときのままだったから。

 

「いやぁ、そのぉ……」

 

 だから燐は魔力にかけられたように本音を話すしかなかった。

 大切な人の前で嘘なんかつけるはずがなかったから。

 

「ごめん蛍ちゃん、自分で分からないんだ。オオモト様にもそれっぽいこと言われたけど、まるで見当がつかなくって……」

 

 燐の正直な告白に、蛍は理解したように微笑む。

 

「ごめん、燐。変なこと、言ったよね」

 

 蛍は自分で言葉をしまうと燐の肩口に首をぴたっと置いてきた。

 

 少しもたれるようにして密着する蛍に燐は戸惑うような笑みを浮かべてその華奢な肩をそっと抱いた。

 

 蛍の付けているオーデコロンの香りが二人の少女の間を包み込む。

 香水は童話と同じ名前の銘柄であり、その名の通りキラキラとした星の匂いがした。

 

 冷たい雨音が二人の気持ちをゆっくりと冷ますようで。

 

 このまま外に出て二人で濡れるのもいいかな、と燐はちょっと思った。

 

「ふあぁー」

 

 窓ガラスに燐の口の奥まで映り込んでいた。

 

 奥まで容易に見渡せそうな燐の大きなあくびに蛍は困った顔を向けた。

 

「やっぱりわたし眠いみたいだね。午後になって眠気が活発になったみたい……」

 

 流石に二度目は掌の下で噛み殺すと、眠気を覚ますように燐は顎の下あたりの肉を親指と人差し指でむにむにと摘むように伸ばした。

 

「そういうのよくあるよね。わたしは丸一日寝てたこともあるよ」

 

「流石に、そこまではないけど……でも、寝たいのに中々寝れないっていうのも辛いんだよね。昨日だって夜中に掃除をしてみたり、身体を動かしたりしたんだけどてんで効果がなくてさ、仕方がないから朝までずっと起きてたんだよね」

 

 燐は蛍の言葉を軽く流しながら、軽い欠伸をした。

 

「燐も大変だね。じゃあ、わたしと一緒に寝ようか? どうせやることもないし」

 

 蛍は燐だけでなく自らも寝ることを提案した。

 

「確かにそうだけど……でも、折角のお休みに午後から寝ちゃうのってなんか勿体なくない?」

 

「寝るのは大事だよ、燐。なんたって……」

 

「人間の”三大欲求”だって言うんでしょ? 確かに、このままだと何もやる気が起きないね……蛍ちゃん、ごめんだけどちょっと横になってくるよ……」

 

「うんうん。燐、ベッドはこっちだよ」

 

 いつの間にか蛍と一緒に寝ることになってしまっていたが、今の燐は手を引かれるがまま、寝室に入って行く。

 

(夜あれだけ寝れなかったのに、なんで今頃……)

 

 腑に落ちない身体を少し恨めしく思いながら、燐はベッドにぽすっと横たわる。

 蛍も向かい合うようにしてベッドに横になった。

 

 クイーンサイズの真新しいベッドは燐と蛍が一緒に寝ても、まだまだスペースに余裕があった。

 

 人生の半分はベッドの上なんだから良いのを買わないと、と蛍の弁だったが、それにしたってこのベッドは大きすぎた。

 

 寝室の大半を巨大なベッドが占めていて、後は小さなタンスを置くスペースしか残ってない。

 

 そのため普段はリビングで過ごしていた。

 

 2LDKの角部屋は部屋と呼べるのものは実質一部屋だけで。

 もうひとつは壁が取っ払われてリビングと一体化してあった。

 

 おかげで景色の奥行きを楽しむことが出来るし、何より二人っきりだったから、問題がないというよりもむしろ都合が良かった。

 

「ねぇ、燐」

 

「……うん?」

 

 目の前の燐の髪を撫でながらく蛍が囁くようにつぶやく。

 しとしとと降る雨音のような、細やかな声色で。

 

「燐の髪って随分長くなったよね。もうわたしと変わらないぐらいじゃない」

 

「まだ蛍ちゃんほど長くはないと思うよ。でも、確かに伸びたかもね」

 

 自身の髪を撫で上げる。

 栗色の髪はロングと言っても差し支えないほどの長さになっていた。

 

「もう切ったりしないの? 前の髪型、燐によく似合ってたと思うけど。ここまで長いとさすがに部活の時、邪魔にならないの?」

 

「縛ってるから、へーきだよ」

 

 燐は後ろ手で髪を握ってポニーテールをつくって見せた。

 

「あ、いっそのことわたしの同じ髪型にしてみるとかは。燐ならきっと似合うよ」

 

 蛍はすっかり元の長さに戻った、二つの結わいた髪をふわりと持ち上げてみせる。

 

「蛍ちゃんと一緒かぁ……」

 

 燐はたゆたいながら、蛍の髪型、所謂ツインテール姿の自分を想像してみる……。

 

 それは子供っぽく、大分年下な感じだった。

 

「あはは、わたしにはちょっと難しいなぁ。でも何か……あ、三つ編みならどうかなっ?」

 

「燐のみつあみかぁ……」

 

 何気なく燐に却下されて、少し残念な蛍だったが、燐に言われて三つ編み姿を想像してみた。

 

 燐も再び想像上で髪を整えてみる。

 

「……わたしは可愛いと思うけど、燐は?」

 

「う~ん、まあ、まだ今のままでもいいかな。ストレートは結構好きだし。それにしても確かに伸びたよねぇ。もう、一年近く伸ばしっぱなしだしね」

 

「うふふ、うん。そうだね……あれから一年だもんね。やっぱり髪も伸びるよね」

 

「一年ってすっごく早いよね」

 

「うん。あっという間」

 

 燐は半分ほど瞼を開いて蛍を見つめていた。

 子守歌のような蛍の声に耳を傾けながら。

 

「燐の手ってあったかいよね」

 

「でも、蛍ちゃん。さっき冷たいって言ってなかった?」

 

「今はあったかいよ。ほら」

 

 蛍が手を強く握る。

 確かに蛍の暖かさが手に伝わって来ていた。

 

「今はあったかいね。主に蛍ちゃんのおかげで。でもわたし、蛍ちゃんとはずっとこうして手を握っていたいんだ」

 

 燐は半分ほど微睡んだ思考で微笑む。

 蛍もそんな燐の顔を見ながら笑みを返す。

 

「それはわたしもだよ、燐とずっとこうしていたい」

 

 二人はお互いの名を呼びながら両手を握り合った。

 あの時離れ離れになった温もりが確かであることを確認するように。

 

「話変わるけど、”青パン”ってさ、今日も営業してるの?」

 

「あ、うん。お母さんああ見えて頑固だから。”一人でもお客が来るならその為にパンも焼くし、店を開けるんだ”、って」

 

「咲良さん、相変わらずだよね」

 

「まあね。わたしが家を出る時はあんなに寂しそうにしてたのに、今じゃケロっとしてるよ。むしろ足手まといが居なくなって清々するって言ってたぐらいだったし」

 

「あはは。その方があの人らしくていいよ」

 

「もう、蛍ちゃんはお母さんの肩持つからなあ。前なんて、わたしよりも蛍ちゃんの方が娘に欲しかった~、とか言ってるんだよっ。こんなに出来た娘がいるのにまったく、ねぇ」

 

「燐……自分でそんなこと言っちゃう?」

 

「言っちゃうよぉ」

 

「あはははっ」

 

 季節が過ぎ、環境が変わっても二人は変わらず友達であり続けていた。

 ふざけて笑い合うことも何も変わっていない。

 

 それでも……何かが音を立てて崩れていく気がする。

 

 絶対なんてものはこの世にはないのだから。

 

「ねぇ……蛍ちゃん。どこか悪い感じする?」

 

「え? なに突然? えと、なんともない、よ……?」

 

 燐の唐突な質問に蛍は横になったまま首を傾げる。

 だが燐の声色が真剣だったので、蛍は今の自分の調子を正直に答えた。

 

「吐き気は? 気持ち悪い、とかは」

 

「平気だよ。いちおう熱も測ってみたけど平熱だったし」

 

 矢継ぎ早に質問してくる燐に疑問を感じながらも、蛍は淡々と答えた。

 

「ちょっとごめんね。ふむふむ……確かに熱は……ないっぽいね」

 

 燐は腕を伸ばして蛍の額に手のひらを当ててみる……蛍の言うように熱はないみたいだった。

 

「ね。普通でしょ」

 

 熱はないはずの蛍だったが、頬は少し赤くなっていた。

 

「あとはそうだなぁ……あ! 酸っぱい食べ物は? レモンとか、スダチとか酢ダコとか食べたくならない?」

 

「酢ダコって……燐。ひょっとして」

 

 蛍はピンと来たのか少し声を潜めて、燐に聞き返した。

 

「ん?」

 

「わたしの事……妊婦さんか何かと勘違いしてない? さっきからそれっぽい気遣いしてるし」

 

「そんなつもりは……ないんだけど」

 

「ほんとに?」

 

「うんうん。ほんとだよ」

 

「……じーっ」

 

 じとーっとした目つきの蛍に見つめられる。

 無垢な瞳は燐の邪な考えを見透かすようだった。

 

「うっ、蛍ちゃんそんな目で見ないで~」

 

 たまらず燐は声を出す。

 

「じじーっ」

 

 さらに蛍が見つめてくる。

 

「はううっ」

 

 燐は小動物のような瞳をつくって体を丸めると、照れ笑いを浮かべた。

 

「あはは、ごめんね。蛍ちゃんが可愛かったからちょっとからかっただけ」

 

 蛍の視線に耐えきれず燐はあっさりと自供した。

 

「燐ってば……わたしにいつもそんなことばっかり言うんだもん。可愛いっていえば何でも許されると思ってるんでしょ?」

 

「そ、そんなことはないよ。わたし蛍ちゃんはいっつも可愛いなあ、綺麗だなあって思ってるしっ」

 

「もう……」

 

「あはははっ、ごめんね蛍ちゃん」

 

「いいよ、燐。気にしてないから。だってわたしたち友達でしょ」

 

「うん。そうだね」

 

「それに……燐とだったらそうなっても別にいいし……」

 

 蛍は自分の下腹部の辺りを見ながらそっと呟いた。

 

「……あのー、蛍ちゃん。目の前にいるから全部聞こえちゃってるんだけど……」

 

 おずおずと声を掛ける燐に、蛍は何も答えず笑みを作った。

 

 だから燐も何も言わず目を細めて蛍を見つめ返した。

 

 滝のように流れる雨がほんの少し弱まったような感じがした。

 

 

 ………

 ………

 ………

 

 

「ただいま~」

 

 水玉模様のポンチョを羽織った燐が、玄関先で滴を零して帰ってた。

 

「お帰り燐。どこか行ってたの」

 

 蛍が目を覚ました時、目の前にいたはずの燐が消えていた。

 携帯にメッセージが残してあったので、特に心配はしなかったけど。

 

 それでも無事に戻ってきてくれたことに心中でそっと感謝した。

 

 蛍はダイニングテーブルに寄りかかりながら小説を開いて燐の事を待っていた。

 傍らにはグラスに注いだ(ペットボトルの)紅茶を置いて。

 

「うん。半額になるまで待ってたの」

 

 そう言ってエコバッグに入った半額シールの貼られた弁当を見せる燐。

 その上からビニール袋が掛かっていて、雨から守っていた。

 

 中身は半額シールが貼られた弁当とお惣菜。

 賞味期限は全部今日までだった。

 

「あ、よだれ鶏もあったよ。ついでにスイーツもっ」

 

 燐はもう一つの袋から二つ入りのケーキの包みを取り出す。

 蛍に配慮してモンブランをチョイスしていた。

 これにも割引シールが貼ってあった。

 

 生クリームが苦手な蛍だったが、モンブランは何故か大丈夫というより好物だった。

 

「ちゃんと料理すればいいのにね」

 

 他人事のように蛍はつぶやく。

 実際大半の料理をするのが燐なので間違ってはいない。

 

「たまの休みぐらいはゆっくりしたいしね。あ、なんか社会人っぽい?」

 

「もう……」

 

 蛍はくすくすと笑うと、傘があまり役に立たなかったのか、ずぶ濡れの燐を見てタオルを渡すと、直ぐに給湯器のスイッチを入れた」

 

「燐。先にシャワー浴びておいでよ。ご飯の準備はわたしがしておくから」

 

「サンキュー蛍ちゃん。じゃあお言葉に甘えちゃうね」

 

「うん……と言っても、温めるだけなんだけどね」

 

 困った顔の蛍に燐は、あははと笑いかけると、すっかり濡れそぼった上着や下着を臆面もなく脱ぎ捨てた。

 

「燐。ちゃんと畳んでから洗濯機に入れてね。でないと皺になるよ」

 

「はいはい。もう、分かってるってばぁ。あ、蛍ちゃんも一緒に入る? 二人で洗いっこしよっか?」

 

 燐は言われた通りに服の皺を伸ばして洗濯槽に入れると、誘うような口調で蛍をからかった。

 

「わたしは、まだいいや。燐が先に入って」

 

 蛍は一瞬考え込んだが、すぐに思い直してそう答えた。

 

「あーあ、蛍ちゃんと一緒に入りたかったなあ。普通に洗いっこしたいだけなのにー。変なところとか触ったりしないんだけどねー。特に胸とか」

 

 わざとらしい燐の言い方に蛍はため息をつく。

 

「変な事言ってないで早く入った方がいいのに。本当に風邪引いちゃうよ」

 

「はぁーい」

 

 間延びした返事を返すと、観念したように燐はお風呂場の戸を閉めた。

 

(燐ごめんね。せっかく誘ってくれたのにね)

 

 すりガラス越しの燐に心の中で謝罪すると、燐の着替えとバスタオルを棚の上に置いた。

 

「燐。ここに着替え置いておくからね」

 

「あ、うん。ありがとう」

 

 燐は高らかに奏でていた鼻歌を止めて、軽やかなリズムでドア越しに答える。

 

 燐の楽しげな返事にやっぱり一緒に入れば良かったかな、なんて蛍はちょっと思ったりもしたのだった。

 

 ───

 ──

 ─

 

 夕食後、蛍と燐は窓際に椅子を並べて雨音に耳を傾けていた。

 

 雨に濡れた街頭やネオンは宮殿のように煌びやかで。

 いつまでも眺めていたいほど美しかった。

 

「今日って、何もしてなくない? わたしなんて食べて寝るしかしてない気がするよ」

 

 残念そうに口をこぼす蛍。

 

「いいんじゃないかな。何もしない事が一番の贅沢って聞いたことがあるし」

 

 燐は明日からの練習のスケジュールをノートに書き込みながら、蛍のぼやきを軽く流す。

 休み前に大事な試合があるのでプランを入念に練っている最中だったから。

 

「燐は色々動いてるからいいんだよ。わたしが具体的にしたことって小説をちょっと読んだぐらいだったし」

 

 燐に軽くあしらわれたと思った蛍は不満げに口を尖らせた。

 

「それでもいいんじゃない。蛍ちゃんは本読んだり曲聞いたりして、いつもリラックスしてるイメージがあるなあ」

 

「それって人としてダメっぽい感じじゃない? これと言った生産性がないっていうか……」

 

「気にしすぎだよ。蛍ちゃんはその自由なところがいいんじゃないかな。わたしと違ってあくせくしてない癒し系な所が、ね」

 

 燐はペンを回すと、一段落ついたようでノートを閉じた。

 

「燐。それって褒めてるの? なんか複雑な気分なんだけど……このままだとどんどん太ってきそうで……」

 

 蛍は脂肪の付き具合を近頃、妙に気にしているようで、お腹をむにむにと触ってはため息をついていた。

 

「もう、蛍ちゃんはプロポーション良いんだから、気にする必要なんてどこにもないでしょ」

 

 やや呆れたような声の燐に、蛍はそっと胸の内を明かす。

 

「だって、燐。太ったら幻滅するでしょ? わたしに燐に嫌われたくないもん」

 

 悩める乙女の吐露に、燐はぽっと顔を赤くする。

 

「そんなことないよ。わたし蛍ちゃんが仮に”こーんなに”太っても嫌いになんて絶対ならないからっ」

 

 燐は大きく手を広げて”こーんなに”を表現した。

 その広さは蛍の体系の二倍以上はあった。

 

「そこまでは流石にならないけど、本当、燐?」

 

「うん。だって蛍ちゃんは蛍ちゃんでしょ。わたしはどんな蛍ちゃんでも愛せるよ」

 

 燐の素直な告白に蛍は目をぱちぱちとさせた。

 

「それは……嬉しいけど、ちょっとフクザツな気分かも……外見だけじゃなくて中身も好きになって欲しいな……」

 

「蛍ちゃんの中身も……って、言い方は良くないけど、もちろん好きだよ。それはずっともうずっと前から」

 

「だったら、嬉しいな。わたしも燐のことずっと前から好きだよ」

 

 蛍は素直な気持ちで燐に告白した。

 

「あはっ、なんか面と向かって言われちゃうと照れちゃうね」

 

 燐は照れくささを誤魔化すように、自分の髪を何度も触っていた。

 

「うん。でも、本当のことだから」

 

 顔を赤くした二人は顔を見合わせる。

 

 少し微妙な、土砂降りの外とは真逆の空気が流れた。

 

 

「あー、じゃあさ。踊ろうっか蛍ちゃん!! 楽しいし、痩せられるしで、一石二鳥だし!」

 

「えっ!? 突然何言ってるの燐」

 

 さも名案とばかりに手を叩く燐に、蛍は困惑の顔を向ける。

 

 新築のマンションだから、防音等はしっかりしているとは思うけど。

 だからって今ここで踊るなんて……。

 

 燐の提案は、蛍にとってあまりにも突飛すぎた。

 

 わけが分からないまま燐に手を引かれて立ち上がると、蛍はたどたどしい足取りでダンスのようなものを踊らされていた。

 

 ダンスの課題でも上手く踊れない蛍が燐に手を引かれただけですぐに踊れるはずがない。

 

 それが当たり前だった。

 

「なんかちょーっと、動きがぎこちないね……あっ、そうだ! 蛍ちゃん、何か曲があった方が踊りやすいよね?」

 

 燐は一旦踊るのを止めて、テーブルの上の自分のスマホを操作し始めた。

 音楽系のアプリだろうか、あれでもないこれでもないと燐は試行錯誤している。

 

 すると、お目当ての曲が見つかったのか、燐は目をぱっと輝かせてスマホを叩くと、再び蛍の手を取って踊り始めた。

 

 ピアノのイントロが静かに流れる。

 

 蛍はその曲に聞き覚えがあった。

 二人は曲に合わせてゆっくりと踊りだす。

 

 蛍が唯一と言っていいほどリズムに乗れる曲、だから燐は選んだんだろう。

 

 ”例えば月の階段で”を。

 

 案の定、燐は歌い始める。

 ちゃんと自分のパート、リズムをつくって。

 

 こうなると蛍も黙って聞いていることは出来ない。

 

 蛍も自分のパートで歌いだす。

 

 声だけじゃなく手も足も自然と動く。

 それはどっちかというと曲というよりも条件反射、に近かった。

 

 伸びのある燐の歌声に、蛍も声を重ね合わせる。

 

 ただの軽いダンスのつもりが何時しか本格的なライヴになっていた。

 

 しだいに二人の息がぴったりと合ってくるようになり、足取りも当初とは見違えるような軽やかさになっていた。

 

 だからか間奏の間、少し話す余裕が出てくるようになった。

 

「ねぇ、燐、なんで……踊ろうと思ったの? しかも、こんな雨の日の夜なのに」

 

 二人ともパジャマ姿のまま、引っ掛けたスリッパで踊っていた。

 

 ぺたぺたと暢気な音が床を鳴らす。

 

 コメディチックな足音に自然と笑みが出ていた。

 

「こういうの、憧れだったんだ。マンションで踊る二人っていう、シチュエーションに」

 

 燐は蛍の手を取ったままくるっと翻る。

 そのしなやかな動きに蛍は目を奪われていた。

 

 燐は授業のときのダンスでも別格の上手さがあった。

 

 歌も踊りも完璧な燐はアイドルの素養が最初から合ったとも言える。

 対して蛍は歌も踊りもどこかズレていた。

 

 少し前にあったアイドルオーディションの時もこの歌で二人はエントリーしていた。

 

 どこかちぐはぐなデュオだったのに、そのギャップが受けたのか、何故か最終選考までは行くことが出来た。

 

 でも、結局辞退した。

 

 蛍は上手くやれる自信がなかったからこの事に安堵した。

 

 燐は店の手伝いだけでなく、年明けからホッケー部のキャプテンになっていたからとてもじゃないけど無理だった。

 

 勿体ないとみんなに言われたが、蛍はともかく燐は意外にもそうは思わなかったようだった。

 

 その事を蛍が尋ねた時、燐はあっけらかんと言った。

 

「蛍ちゃんと一緒に歌えたからそれで十分だよ」

 

 と。

 

 満足そうに微笑む燐を見て、蛍はぽかんと口を開けていた。

 

 でも実際、燐は十分だったんだと思う。

 不可解な事象、不条理な目に遭ったのだから。

 

 多くは望まない、きっとそういうことなんだろう。

 

 それは蛍も同じ気持ちだったから。

 

 燐の気持ちが分かることが嬉しかった。

 

「ねぇ、燐。もし明日が晴れになったらどこか行かない?」

 

 蛍は、もつれ込みそうになる足をわたわた動かすと、微笑んで燐にそう提案した。

 

「別に、いいけど……学校は?」

 

「学校も、たまのお休みで事でいいんじゃない。燐はいつも、頑張ってるんだし」

 

 蛍が珍しいことを口にしたので燐は目を丸くした。

 それでもステップは軽やかに刻んで。

 

「蛍ちゃん。悪い子だー」

 

 くすくすと笑う燐に蛍も笑みを返す。

 

 それだけでお互いの気持ちがすぐに分かった。

 

 瞳を見るだけ、手を握るだけで分かる。

 それは二人だけしか分からない事だった。

 

「いいよ。でも、晴れたらだからね」

 

「きっと、晴れるよ」

 

 そう──明日は晴れになる。

 蛍は予感があった。

 

 だからこそ燐と約束したかった。

 

 もう時間は殆ど残っていないと思うから。

 

 

 ちょうど曲が終わったところで、蛍は足を止めて燐の顔を見た。

 

 燐も蛍の顔を見つめる。

 

 二人は今、お互いのことだけを見ていた。

 

 燐と蛍、傷だらけだけど綺麗でどこか儚い少女たちを。

 

「あのね。燐」

 

 蛍は一度呼吸を整えるように息をのむと、覚悟を決めたように口を開く。

 

 本当は何も言うつもりはなかった、せっかくの幸せな気分に水を差したくなかったし。

 このまま自分が黙っていればいいと思っていたから。

 

 でも、燐は何を言うか分かっているみたいに、純粋な瞳を向けて見つめていた。

 

 だから躊躇いは確かにあるけど、後悔はないつもりだった。

 

 蛍の言葉を燐が静かに待っていたとき。

 

 

 ──それは起こった。

 

 

「えっ!? なに?」

 

 燐は自分の周囲を見渡して大きな声を上げていた。

 蛍も同じように困惑した表情で燐と自分とを見比べている。

 

 この前兆には確かに覚えがあったから。

 

 それが今頃になって起きるなんて夢にも思わなかった。

 

 もう無くなったものとばかりと思っていたから。

 

 目を見開いて手を取り合っている二人の中心で風が吹いていた。

 

 全ての窓は閉め切っているし、空調は動きを止めていたにも関わらず。

 

 ──風がどこからか吹いていた。

 

 風は森のような香りを運んで小さな渦を作り、天井に吊り下げられている照明をかたかたと揺らし続ける。

 

 燐の部活のノートがぱらぱらとめくり上がり、しだいにその強さを増していった。

 

「これって!?」

 

 蛍は声を荒げて尋ねる。

 燐は深く頷く。

 

 もう二度と起こらないと思ったこと。

 それがなぜ、このタイミングでなったのか。

 

 渦はどんどんと大きくなり、壁に掛けてあったカレンダーやリビングの隅の大きな観葉植物さえも揺らし始めていた。

 

 二人は覚悟を決めたように頷き合うと。

 

「燐。行こう」

 

「うんっ」

 

 行く意思を決めたのは蛍の方が若干早かったが、燐も特に迷いは見せなかった。

 

 二人は瞼を閉じて、同じような呼吸で肩の力を抜いた。

 風と光に身をまかせるように。

 

 思いを汲み取ったように真っ白い光の渦が二人を包む。

 

 けれどもその手は固く握られたままで。

 

 白い光は一切強く輝くと、二人のいたマンションの一室をぱっと照らすと。

 

 淡い光の粒を放ちながら、打ちあがった花火のように収束していった。

 

 二人が消えたリビングは照明が点いたままになっていた。

 

 少し前の生活感を残したまま、しぃんと静まり返っている。

 

 その行先は様として誰も知らなかったが。

 一部始終を見ているものはいた。

 

 白い影──。

 

 けれどもそれはとても小さくて、何も語るようなこともなく、ただ見ているだけの白い人形。

 

 その人形は二体いた。

 

 軒先に括りつけられていたそれは、雨が止むようにと首を縛られた哀れな少女の姿を模していた。

 

 頭をツインテールにしているテルテル坊主は燐が作ったもので。

 

 ちょっと形は悪いが、それでもどこか愛嬌のある顔と、カチューシャを付けているテルテル坊主が蛍の作ったものだった。

 

 二人はお互いのテルテル坊主を作り、それを軒先につるしていた。

 晴れが来るその日を願いながら。

 

 でも二人はその晴れを拝むことなくどこかへと行ってしまった。

 

 吹き上げるビル風がテルテル坊主を強く揺らす。

 

 けれども二人は寄り添ってその風に耐えていた。

 

 その真下で、色とりどりの車の波が水浸しの町をじゃばじゃばと泳ぐように走行していた。

 

 まるで夜の海、夜のプールを泳いでいるように。

 

 それはちょうど夏の蛍の様にとても綺麗で。

 

 優雅で、そして儚かった。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 

 




雨続き……と思ったら今度は猛暑が続くことに……。そしてまた雨が続くみたいですね。

なんかもう冬が恋しくなってきたかも……? そういう時はゆるキャン△ を見ると少し涼しくなる、かも?(ダイレクトマーケティング)。

先日、コインランドリーに入れてそのまま履かない放置していたシューズが見つかったので久々に履いてみようと思ったらば……すごくボロボロになってるし……。

このまま捨ててもいいかなと思ったんですが、せっかくなので家にあった”結ばなくてもいい靴ヒモ”を装着してみることにする──。
うん、これは中々……ダメな感じだなぁ……シリコン製だと思うけどやっぱりどこか変な感じになりますねー。でも脱ぎ履きは確かに楽なんですけどねー。

でもこれを装着したらどんなハイブランドのシューズでももれなく魅力半減になりますねぇ……靴紐も立派なシューズの一部ですねー。

さてさて、首都高値上げ前に、親戚の家にネコをもふもふしに行ってみました(それだけじゃないですけども)。
前に比べて大分懐くようになってきたので、かまいがいがあるなあ。ちょうど生え変わりの時期なのか猫の毛びっしりになるのがちょっと難ですけどもー。


ではではー。


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Leave Before You Love Me

 白。

 穢れの無い色。

 あたらしい色。


 真っ白な光に包まれる。

 あの世界が呼んでいる合図。

 輪郭を無くしたときとは全く違う、爽やかな木々の香りと共に。

 怖い感じはない、それにもう何度も行った事があったから。

 それに……いっしょだから、大丈夫。

 一人じゃないから。
 きっと大丈夫。

 意識がふっと消えうせる。

 手の温もりは残ったままで。

 白光の先には、すぐに目が開けられないぐらいに眩い世界が広がっていて、どこまでも済みきった青い空が待っている……そのはずだった。

 それなのに。

(……何もかも真っ暗だ……)

 悪夢からちゃんと目覚めていないのではないかと疑うほどの黒一色。
 でも瞬きはちゃんとできている。

 だから瞼は、瞳はキチンと開いていた。

 ……眼前に広がるは底知れぬ闇。

 首を回してみてもその景色は変わらない。
 どこまでも闇が無限に広がっている。

 ”無のせかい”。

 そうとしか言いようのない黒一色の景色でわたしは目を覚ましてしまった。

 もしかして、そのまま寝ていたほうがマシだった?
 そう思えるほど今のこの世界は絶望的だった。

「ほ、蛍ちゃーん!!」

 何も見えない恐怖から、つい蛍を呼びかけてしまう。

 一緒に渡ってきた(スイミング)から近くに居るはずだ。

 だって今までがそうだったから。

「燐、ここだよー!」

 すぐ近くから声がする。

 指先が一瞬何かに触れたかと思うと、掌が温かいものに包まれた。

 きっと蛍の手だと思った、だってとても安心できたから。
 
「蛍ちゃん、ここって井戸の底とかじゃないよね? 暗くて何も見えないけど」

 きょろきょろとどこを見渡してみても真っ暗だったから。
 燐はそう例えていた。

 でも井戸の底なら天井に光の点が見えるはず。
 もちろんそんなことはないけれど。

「燐はもしかして、”青いドアの家の世界”に来たと思ったの?」

「え……うん」

 いつものパターンだとそうだった。

 けれども、もう一年以上も()()()()()()()()()()

 そもそも”青いドアの家”とは、あの歪みきった世界があるからこそ存在しうるものだと思っていたから。

 だからこのことは不条理というか。

 全くの想定外のできごとだった。

 ぷにっ。

「うひゃぁ!!」

 急に燐が突然素っ頓狂な声を闇の中に響かせた。

 実際に飛び上がりそうなほど驚いたのだが、暗闇の中では上手く身動きが取れず、ただ肩を弾ませただけにおわっていた。

「燐、何があったの?」

「い、い、いま、何ががわたしに触れたのっ。まさか、蛍ちゃんじゃ、ないよねっ!?」

 声を震わせる燐に蛍はそっと笑みをこぼすも、光さえ通さない黒いヴェールは蛍の幼い企みを覆い隠すのに一役買ってしまっていた。

「え、なに? どうしたの蛍ちゃん……ひゃわあぁ!!!」

 またしても燐の悲鳴が闇に木霊する。

 ぷにぷにぷに。

「ん、もうっ、さっきから、やってるのってやっぱり蛍ちゃんでしょっ!! や、やだ、もうっ!」

 予想通り蛍の指が燐の身体をつついていた。

「うふふ、燐はくすぐられるの弱いもんね。こう真っ暗だと余計に敏感になるでしょ」

 蛍は燐の敏感なところをピンポイントに指でちょん、とつつく。

 蛍には全てが見えているかのように正確に。

 ぷにぷに。

「あううっ、だからって、そ、そんなところに指を入れちゃ、にゃはははっ!」

 蛍があまりに的確に突いてくるので、燐は蛍が本当に見えているのではないかと思っていた。

 でもこの状況では考えがまとまるはずもなく。

 ぷにっ。

 燐はなすすべもなく、蛍に弄られ放題だった。

「ま、待って蛍ちゃん、こーさん、もう降参するからっ」

 燐は肩で息をしながら、蛍がいるであろう闇の前に白旗をあげた。

「あっ、ごめんごめん、ちょっと意地悪しすぎちゃったよね。燐が可愛いかったから、つい」

 蛍の声色はちっとも悪びれた風には聞こえなかった。

「も、もう、蛍ちゃんってば……自分じゃセクハラ禁止って言ってるのに、わたしにはするんだからぁ……」

 敏感になった体を抑えるようにしながら、燐はため息交じりにつぶやく。

「うふふ、燐が可愛い声を出すからいけないんだよ? つい虐めたくなっちゃうの」

 しれっとした蛍の声色に燐はぶるっと身を震わせた。

「そ、それよりさぁ。もしかして蛍ちゃんって……見えてるの? なんかわたしをくすぐるときの動きがすごく正確だったけどぉ」

「こんな感じで?」

 ぷににっ。

 燐の脇腹の下辺りを蛍がまた指でつつく。

「きゃんっ! も、もうっ。蛍ちゃん、わざわざ触らなくてもいいのっ!」

「ごめん、ごめん、つい」

 蛍は謝罪の言葉を述べるも、その口調は明らかに楽しんでいた。

 だからか、燐はつい身を固くしてしまっていた。

(これ以上くすぐられたら、変なことになっちゃいそうだよ。もう)

「うー、蛍ちゃんが暗がりに乗じて変なことする~。後でセクハラで訴えるからねっ」

 何も見えないのに燐から軽蔑の目で見られている気がして、蛍は苦笑して指をそっと引っ込めた。

「もうしないから。だから燐、機嫌直して、ね?」

「ほ、本当にもう触ったりしちゃ、ダメだからねっ!」

 ぷいと、燐がそっぽを向いたようなそんな気配がした。

 その姿を想像するだけで、なんとも愛おしくなり、悪戯心がまたむくむくともたげてしまいそうになる。

 闇がそうさせるのか、今の蛍はいつも以上に好奇心が旺盛だった。
 それは愛情からくるものだったが。

(ただちょっと触っただけなのにな……)

 燐にしてみたらちょっとどころではなかったのだが、それは当事者同士しか分かりようもない。

(それにしても……なんか変だったな、あの感じって)

 燐の身体を指でつついたときの感触。

 あの触り心地には確かな弾力性とリアリティがあった。

 蛍はその意味をもう一度確かめようと、燐の身体を懲りずに触ろうとしたのだが。

「ふにゃー!」

 蛍の好奇心からの動きを察したのか、子猫みたいに威嚇する燐の声を聴いて、やっぱり今は止めて置いた。

「んもう、蛍ちゃんってば、やーっぱりまた変なことしようとしてるっ。今度触ったら、絶交……は流石にないけどさ……でもさぁ。蛍ちゃんは本当に見えてるの? わたしからは全然見えないんだけどぉ」

 燐は蛍の企みを未然に防いだことと、そしてようやく本題に入れたことに安堵の息をついた。

「うーん、見えてるっていうか……イメージなのかな」

「イメージ?」

 闇の中、燐は頭をひねった。

 この漆黒の世界で、蛍は何をイメージできているのだろう。
 闇の中では気配どころか、生命の有り様さえも感じられない。

 むしろ暗闇には”死”のイメージを強く感じる。
 湧きあがった不快なイメージをぶんぶんと首を振って燐は払いのけた。

(こんなネガティブなイメージじゃなくて、まず、蛍ちゃんのことをイメージしてみよう)

 燐は蛍の姿を黒いキャンパスに描いてみた。
 蛍の髪や顔、特徴的な部分を心の中の線でもってなぞりだすように。

 だが、燐がどんなに目を凝らしてイメージを膨らませても蛍の輪郭どころか、瞳の小さな輝きさえも見つけることが出来ない。

 闇が全ての光を吸い取ったみたいに、蛍と言う少女の概念を見つけられないでいた。

「……ごめん、蛍ちゃん。頑張ってイメージしてみたけど何も見えないんだけど……もう、どうしようもないのかなこれって……」

 燐は半ば諦めたように言葉を投げる。

 イメージだけで何かを見ることなんて到底できるはずもない。

 漫画で良くある”心眼”なんてものはフィクションだからありえる話で、現実にはとても無理なものなのだから。

 いくら目を皿のようにしても世界は黒いままで。

 このまま二人とも闇に墜ちる。

 そんな最悪な未来しか想像が出来なかった。

「焦る必要はないんだよ燐。だって始まりは、いつも暗いんだから」

「はじまり? 何のことを言ってるの蛍ちゃん」

 蛍の意外すぎる言葉に燐は目を丸くする。

 謎かけのような蛍の言葉は、”あの人”のように聞こえた。
 優雅なあの長い髪の人のように。

「もしかして……何か、知ってるの?」

 燐が身を乗り出す。

 すると吐息が頬を撫でる感じがして、思っていたよりもずっと近くに蛍がいることが分かった。

「あっ、ごめんね蛍ちゃん」

 そう言って、燐は慌てて顔を遠ざけた。

「ううん、別に気にしてはいないよ」

 優しい蛍の声に燐はほっと胸を撫で下ろす。
 でも、少し照れたような声だった気がした。

「えっとね……多分、なんだけど」

「う、うん」

 ちょっと勿体付けた言い方の蛍に焦燥感を覚えた燐は少しせっかちに頷いた。

「やっぱりね、想像(イメージ)がもうちょっと足りてないんだと思うの。もっと心から思わないとダメみたい」

 ずっと想像してはいるのだけれど。
 そのやり方が問題なのだろうか?

「具体的にその、どうしたらいいか教えてもらってもいいかなぁ。わたし想像力がまったく足りてないみたいだし」

 燐は恥じるように自分の事を卑下しながら、蛍に懇願した。

「あのね、わたしは直感で燐をイメージしているの。これは燐、って思ったら、何がなんでもも燐だって思うようにしてる。つまり燐を認知して、そこから概念を作り出すの」

「認知して、概念??」

 燐はさっきから蛍の言っていることの本質が分からずに同じ言葉を繰り返した。

「だからイメージが重要なんだと思うの。ほら、初めて青いドアの家の世界に来て帰るとき、オオモト様が言ってたでしょ?」

「確か……”願うことが無意味じゃない”だったっけ? じゃあ、強く願えばこの闇が晴れるってこと?」

「理屈だとそうなるね」

 蛍は闇の中でにこっと微笑んだ、そんな感じがした。

「願い、かぁ」

 思いと想いの境界線がなくなる、そうも言っていた気がした。

 この世界は実存と概念の基準が曖昧になっている……ということ?

「つまり、わたしと燐で一緒にイメージを作り出せばいいんだよ」

 蛍はさも簡単な事の様に言っていた。

「でも、お互いのイメージが違っていたら? わたしと蛍ちゃんは似てるところがあるけど全部が全部一緒ってわけじゃないしぃ」

「それでもやってみるしかないよ。燐だってこんな暗い世界のままじゃ嫌でしょ」

「まあ、それは確かにね……」

 あの電気も何もない歪んだ世界でもここまでは暗くはなかった。

 二人で”何か”から屋根裏部屋に隠れたときだって確かに何も見えなかったが、それは短時間の内だったし、何より”出口”があったから。

(ここには出口はない……のかな)

 ぽかんと口を開けて、闇と視界を合わせて見ても出口は見当たらない。

 やはりイメージを作るほかなさそうだった。

「何度でもやってみようよ燐。時間はいくらでもあるんだし」

「そうだね……でも、ずっとこのままってことはないよね。蛍ちゃん」

「うん。きっとね、燐と一緒ならきっと大丈夫だよ」

 蛍の言葉に微かな希望を得た燐は小さく頷いて同意すると、前にやった時のように蛍の手を強く握ってこの黒い世界の終わりを願った。

 蛍も同じような強さで握り返してくる。

 緑のトンネルの中でも二人で同じようなことをやった時はどんなに頑張っても向こうの世界へは行けなかったけど。

 だから燐は少し自嘲気味に笑う。
 また同じようなことになるんじゃないかと思って。

「あのさ、蛍ちゃん。ちょっと関係ない話になっちゃうんだけど、なんであの時はダメだったんだろうね。その時も向こうの風景をイメージしてたと思うんだけど」

 燐の疑問に蛍はほんの少しの間、無言になった……が。

「えーと、青いドアの世界に行けなかったときのこと、だよね。わたしが疲れたから休もうって言った時の」

 燐の言葉は大分足りなかったが、蛍には理解できた。
 それはどんな公式の計算を割り出すよりも、ずっと簡単なことだった。

「あ、うん……ごめんね突飛な質問しちゃって」

 自分のせっかちな質問に、直ぐ理解をしてくれた蛍に燐は胸中で感嘆する。

「大丈夫だよ」

 蛍は闇の中でも分かりそうなほどの笑顔を見せて、話を続けた。

「でね、あの時は燐とわたしの気持ちにほんのちょっぴりズレができてたからだと思うよ」

「え、そうなの? だってわたしと蛍ちゃんって、いちおう両思い……だったよね。想いの方向は同じかと思ってたんだけど」

 燐は意外そうな声をあげた。

(両思いなことと、このことは関係ないと思うけど……)

 蛍は少し困った顔をする。

 けれど今でも燐にそんな風に思われているのはすごく嬉しかった。
 蛍はずっと、想いをを秘めたままでいたのだから。

「燐は多分、あの時は”青いドアの家”にそんなに行きたくなかったんじゃないのかな」

「そ、それは……」

 蛍の言葉は、的を射たかのように燐の息を詰まらせた。

 しばらく待っても燐は口を開かなかった。

 蛍の言っていることは間違いではない。

 疲れを癒したくて向こうへ行くことを願ったはずだったけど。
 燐の心は到底治せそうになかったから。

「それは仕方のないことだよ。わたしだって燐のような気持ちがちょっとあったし」

「蛍ちゃんも、なの?」

「うん。何でもかんでもオオモト様に頼るのはどうかなって、あの人も忙しそうだったし」

 蛍はなるべく言葉を選んで話した。

 お互いの表情が見えないこと。

 その事が今は幸いだった。

「ごめんね、蛍ちゃん、気を遣ってくれて。あの時ね、自分では意識してなかったけど、蛍ちゃんと言った通り、そうだったんだと思うの」

 無意識に拒んでいたのかもしれない。
 悲嘆と言うか、単純にもう傷つきたくはなかったから。

 好きな人が残したノートで()ってしまったこと。

 もっとも知りたくない真実(こと)を。

 誰が悪い訳じゃないとは思っているけど。

 あの人は全てを知った上でわたしにそう言っている。
 あの時はそうだと思い込んでいた。

 曖昧な感情はどうやっても素直になれなかった。

 後になってそれは全部誤解だったんだと分かったんだけど。

 あの時はまだ心が弱っていたから。

「でも、今は大丈夫だよ。だって”ここに”また来たいって思ってたもん」

 燐は今の率直な気持ちを口にした。

 白と青の静謐な世界。
 夢とも現実ともつかないあの場所こそが、求める世界の理想の形だったから。

 だからまた、行ってみたかった。

「それなら良かった。だったら燐、ちゃんとイメージができるはずだよ」

 燐は僅かな違和感を覚える。

 蛍に非難されているわけではないが、気付いてほしいニュアンス。
 それが含まれているようだったから。

「やっぱり、わたしが原因なのかな……」

 燐は自分のことを指さして呟いた。

 見えないはずなのに、それは簡単に思いが伝わって。

 だから蛍は否定するように首を左右に振った。

「そういうことじゃないよ。原因っていうか……燐が、世界だから」

「わたしが……せかい???」

 蛍の言っていることは禅問答みたいだった。
 
 難しく考えすぎてるのかもしれない。

 確かにあの時、去っていく列車を見送ったわたしは、世界と一緒になって弾けて、そして……。

(じゃあ、このせかいを壊したのがわたし、なの?)

 だから、わたしが世界。
 そういうこと、なの? 筋が通っているというか……。

(でも、壊しちゃったのなら直さないといけないよね)

 一応、責任はあるみたいだし。

 そんな力なんて到底持ち合わせていないけど。

 だって、何の変哲もない普通の女の子なんだし。

「どうしたらいいの蛍ちゃんー。わたし、ノーアイデアだよ~」

 燐は情けない声を上げながら、縋りつくように蛍の手を握ったままぶんぶんと振り回した。

「あっ、あのね、燐。同じようにすれば良いだけだよ。頭の中で同じ景色を巡り合わせるだけ」

「巡り合わせって……どうしたらいいの?」

「……こうすれば、いいんだよ」

 こつん。

 何かがおでこにぶつかる。

 きっとこれは蛍ちゃんのおでこだ。
 
 蛍ちゃんの息づかいがとても近くに感じるから。

「匂いとか、景観とか、そういった事物を微細に思い描くの。燐が自分で言ってたでしょ、折り合いをつけるって」

「うっ、そんなこと、言ってたかな」

 線路の上を歩きながら燐が言っていたこと。
 燐自身はすっかり忘れていたようだったが、蛍は昨日のことの様に覚えていた。

 あの時の二人は楽しさと寂しさが入り混じっていたから。

「わたし、燐としたことは大体覚えてるよ。文化祭とか、プールのこととか、あとそれから……」

「うにゃー、今はそういうのはいいからっ。二人で一緒の景色を作るんでしょ。それに集中しよっ」

「はいはい」

 触れ合う額からそれぞれの言葉が頭の中で混ざり合い、微笑ましい旋律を紡ぎ出す。

 優しい言葉の振動は陶酔しきりそうなほどの甘美と、豊かな気持ちを心の深い所に与えてくれる。

 そんな気にさせた。

 そして同時に肩の力も抜くことが出来た。

 鼻の頭が触れ合いそうな距離であるのに、不思議とリラックスすることが出来ている。

 まるでお互いの存在を芯から渇望しているかのように。

「それだけで、青いドアの世界が戻ってくるの?」

 鼓動が早くなってくるのが分かる。

 けど、それは二人とも。
 同じように胸を高鳴らせているのがすぐ近くで聞こえてくる。

 黒い静寂の中で、二人の鼓動だけが恥ずかしげもなく音色を響かせていた。

 どくん、どくんと。
 何かの始まりを知らせるように。

「それは燐次第だよ」

「んむぅ、なんだか責任重大だなぁ」

「落ち着いてイメージするだけだよ。余計な事は考えないで」

(余計な事、か……)

 ずっとそうだった気がする。

 自分のことは放って置いて周りの人ばかりが気になって。

 気づいたら大事なものを全て失ってしまった。

 今更後悔したって、何も戻っては来やしないのに。

 それは今だってそんなに変わらない。
 変わりたいとも思わなかった。

「大丈夫だよ、燐とならきっと何でもできる気がするから」

 燐の頬に温もりが伝わる。
 蛍の手がふわっとした燐の頬を撫でていた。

 いたわるようにそっと触れる程度だったけど。
 洗い立てのような蛍の優しさが頬から顎にかけて伝わってくるみたいで。

 とても愛おしい。

 その気持ちは漆黒の箱に包まれた彼女の輪郭を仄かに浮かび上がらせていた。

「うん。そうだね」

 笑顔の作り方を今知ったように、にっこりと微笑む。
 蛍も同じように微笑み返す。

 顔は見えないはずのにそれが何故か分かった。

 目で見えない大事なもの。

 それはほんとうの純粋な想いだった。

「要するに、卵の中身を作ればいいってこと、なのかな」

 どこに反射しているのかは知らないが声は確かに耳に届いている。

 二人とも宙に浮いている感じはなく、地面つまり”床”のようなものに座り込んで腰を下ろしていた。

 ただ辺りが真っ暗だからどこで腰かけているかは不明だった。

 平面が幾何学的に広がっているかもしれないし、それこそ風車の時のように狭く高い場所にいるのかもしれない。

 でも、何かの上にいることは確か。
 故に卵の殻は存在している。

 燐はそう推測した。

「それで合ってると思うよ」

 なるほどね……燐は心の中で呟いた。

 この世界が真っ暗なのはやはり一度壊れてしまったからなんだろう。

 オオモト様が居なくなって、()()()()も役目をおえたから。

 だったら何でわたし達はまたここに来たんだろう。
 こんな暗い世界を望んでなんかいないのに。

「また作ればいいんだよ、燐とわたしで。思い描く風景に絵の具で色を付けるみたいに」

 迷いを諭すような蛍の声。
 それがすぐ目の前から流れてくる。

 それは燐だけじゃなく、自分もそうであるかのような丁寧な口調で。

 燐は蛍に導かれるように目を閉じる。

 闇の中で目を閉じることへの違和感と恐怖感があるが、それは片隅にも残さずにおいた。

「少しずつゆっくりで良いんだよ」

 闇の中でただ蛍の声だけが響く。
 その声はいつもと変わらないはずなのに、どこか違って聞こえる。

 常に落ち着いた調子の蛍の声が少し怖かった。

「ほ、蛍ちゃん、なんだよねっ!?」

 今更な疑念だったが、どうしても聞かずにはいられなくなり、燐はたまらず声をあげた。

「うん? そう、だけど……?」

 蛍は当惑したように曖昧な返事を返す。

 その口調はいつもの蛍の感じだったから。

「あはは……だよね。ごめんね、変なこと聞いて」

 湧きあがった焦燥感を誤魔化すように、燐は髪の毛を引っ張ったりしながら、蛍に謝った。

「ううん、燐の気持ちはよく分かるよ。何も見えないことってやっぱり怖いもん」

「でも、わたしと違って蛍ちゃんは落ち着いてるよね。やっぱり見えてる?」

 暗がりで、くすっと蛍の笑い声がする。

「わたしだって燐のことは全然見えないよ。でも燐であることに間違いないって確信はあるんだ」

「え、なんだろう。匂い、とか?」

 距離が近いせいか、燐は自分の手首の辺りを嗅いでしまっていた。

 くんくんと鼻を鳴らすも、気になるような香りはしない。
 自分の臭いは良く分からないけれども。

「匂いも、まあちょっとはあるけど。それだけじゃなくて……”彩り”かな? 上手く表現できてないと思うけど」

 蛍は秘密なことを伝えるように囁き声でそう言った。

「いろどり?」

「うん。はっきりと見えるわけじゃないけど、燐の身体の輪郭とか中心がぼんやりと色がついて見えるの」

「へぇ~、なんか凄いね。蛍ちゃん、エスパーみたい」

 燐は蛍の特技? に感嘆の声で拍手した。

「そんなんじゃないとは思うけどね。だって、燐だけしか認知することしか出来ないと思うし、それに今だけだと思うよ」

「そうなの? じゃあ今かくれんぼしたら簡単に見つかっちゃうってこと?」

 今やるのかはおいておくにしても、余りにも限定的な状況を燐は勝手に想像していた。

「そう、なるのかなあ」

 蛍は小さく笑って答えた。
 燐の例え話が可笑しくて、蛍の奇妙な能力のことはどこかに行ってしまった。

「ちなみにわたしって何色なの?」

「えっとね……んー、内緒にしておくよ。燐が気を悪くするといけないし」

「えー、何それ気になる~。何色かすっごく知りたいな~」

 芝居がかったような燐の台詞に蛍はふふ、と笑みをこぼす。

「うふふ、まあその内ね」

 いい意味でリラックスすることが出来た二人は、改めて手を取り合う。

 あの白く眩い世界を取り戻すために。

 それは、広大な砂漠の中で井戸を見つけるような、途方もなく荒唐無稽な出来事。
 少なくとも燐はそう思っていた。

「えと、青と白の世界を思い浮かべればいいのかな」

 少し自信なさげに燐が呟く。

「初めはね」

 落ち着いた蛍の声は、正解へと導く教師と言うよりも、なにかの研究員のような端的さがあった。

「後は何があったっけ……青いドアの家はどうなっちゃったのかな。それとプラットフォームと線路も。でも あれって未来のこと、だったのかな? 実際あの通り線路の周りは水浸しだったし……」

 世界のことを考えるとどうしてもその意味まで求めてしまう。

 狭間にある世界。

 あの人はそう言っていたけど、そこに行けるってことは実質生きていないようなものなんじゃないんだろうか。

 今だって良く分からない。

 今までわたしが見ていたものが夢でこっちが現実なんじゃないんだろうか。

 際限なく闇が広がる無の世界。

 かんぺきな……しのせかい。

 一度しんだ人が甦るはずがない、わたしも、お兄ちゃんも、そして町の人達だって。

 そんな都合のいい、ゲームのような話なんて現実にあるはずがない。

 時はぜったいに戻せないし、やり直しだってそんな簡単に出来るはずがないのだから。

「必然はない、って言ってたでしょ」

 想いが漏れたのか、蛍の声を耳元で感じた。

 蛍の言葉だけが真実であるかのように、燐の不安や疑念を柔らかく打ち消す。

「それは分かってるけど……」

「肩肘を張る必要なんてないんだよ。ただ、見たい世界を想像すればいいだけ」

「でも、それじゃ蛍ちゃんとは違う世界になっちゃうんじゃない」

「大丈夫だよ燐。燐とわたしはきっと同じものがみたいはずだから」

「………」

 蛍はにこっと微笑んだ、と思う。

 要するにそういうことなんだ。
 声色だけでその笑顔を想像することが出来る。

(だから二人で思い描く、”かんぺきなせかい”。そう言うことだよね、きっと……)

 燐は握られた手の力を少し緩めて前を見た。
 目の前には闇がどこまでも続いている。

 それでも手のひらの温もりは少しも変わっていない。

 闇の中、その存在はじっとこちらを待っている。
 
 すべては闇に閉ざされているのにその視線は少しもブレがない。
 黒い視線は真っ直ぐにこちらをみている。

 きっとそれが──わたしたち二人が見たいもの。

 同じだけど違うもの。
 瞳も笑顔も違う。

 でも本当に見たいものだった。

(わたしが見たい世界……)

 燐も蛍も目を閉じる。

 二人は同じ思いで瞳を閉じた。

 青い空でも、白いプラットフォームでもない、そして風車が立ち並ぶ世界でもなかった。

 青いドアの家がどうなったか気にはなるけど。
 今、見たいものは違う。

 一番見たいものは”あなた”。

 ”あなた”の笑顔が見たい。

 それこそが求めるべきものだった。

 何かが割れた音を聞いた。

 瞼の裏側で世界が再構成されていくロジックの片鱗を見た気がした。


 今、自分たちのいる場所。

 そこは無限の闇が永遠に広がっていると思っていたけど、きっとそういうことじゃない。

 黒い箱の中で必死に藻掻いているだけ。
 明かりを求めるだけの哀れな蛾、みたいに。

 だから出口は頭のすぐ上にあって、あとはその固く閉ざされた蓋をそっと押し開くだけ。

 大事な日のプレゼントのリボンを解くような。
 ドキドキとした感情の赴くままに。

 ひとりだったらちょっと難しいけど。

 二人だったから大丈夫。

 何があっても、きっと。

 好きな人……だったから。

 ……
 ……
 ……

 まだ瞼に黒い残滓が残っている。

 それでもほんの少しの勇気をもって瞼を開ける。

 ───
 ───

 真っ白の洪水が溢れでて、瞼の裏が焼けそうになった。

 でも、頑張って少しずつ。
 重い瞼を開いていく。

 その先にはきっと待っている。

 ”わたし”の事を待ってくれている人がいるから。


 最初に飛び込んできたのは、水彩画のような青と白のコンストラクト。
 でもそれはただの背景でしかなくて。

 蛍の目の前には燐が。
 燐の瞳には微笑む蛍の姿が映っていた。

 青い空の下、白いプラットフォームベンチの上で二人はまた出会うことができた。

 二人は何も言う事なく手を取り合う。

 周りの景色が目に入らないほど真っ直ぐに見つめ合って。
 一途な視線をたじろぐこともなく受け止めていた。

 柔らかい。
 最高の笑顔でもって。

「ありがとう、燐」

「ありがとう、って?」

「世界を創ってくれたことへの”ありがとう”だよ。燐が居なかったらきっと無理だったと思うから」

 卵の殻が割れて、何かが生まれ出たような。
 そんな爽快感があった。

 それは一人じゃ成しえないこと。

 だからお礼を言わなくちゃ。

「それは蛍ちゃんもでしょ。蛍ちゃんがちゃんと導いてくれたからだよ」

「うん。”二人で”、だもんね」

「だから蛍ちゃんにも”ありがとう”。こんなわたしを、ずっと、ずっと待っていてくれて」

 今までちゃんと言えなかったこと、それをやっと言うことが出来た。

 引っ掻き傷はもう治らない。
 だけど、傷を癒すことは出来る。

 この手の傷跡のように。

 意味なんて理由なんて関係なく。

 ただ目の前の人にお礼が言いたかった。
 
「でも燐だって待っててたじゃない。だから……ありがとう燐。ちゃんと()()()に戻ってきてくれて」

 瞳をそっと拭いながら蛍はまたお礼を言った。
 燐も染み出た雫を手の甲で擦りながら微笑む。

 今更とか、そんな言い訳も恥ずかしさも欠片にもなくて。

 ただお礼の言葉を交わす。

 微笑み合ったその先には湖面が広がっていた。

 それは二人のいる無人のホームを中心に、どこまでもどこまでも広がっているように見えた。


 二人はこの瞬間、世界の中心であり。

 そしてそこから全てが広がっていった。


 まるで今、生まれたばかりの星みたい、だった。





「蛍ちゃん、最初にこの世界に来た時に言ってたよね”ウユニ塩湖”みたいだな、って」

 

 立ち上がった燐が呆然と景色を眺めながら蛍に尋ねる。

 

「そういえば、そんなこと言ったね」

 

 燐に手を貸してもらって蛍もその隣に立って遠くを眺める。

 

 湖と言うより波の出ない海辺が辺り一面に広がっていて。

 蛍は海の上にいるような幻想的な気持ちになった。

 

 蛍は初めてこの世界に来た時、日の差し込む水面の広がりを見て、テレビで見たスペインの有名な湖の事を思い出していた。

 

 それぐらい水の透明度が高く、空を鏡のように映し込んでいたからだった。

 

「こんなにさ、ウユニ塩湖感が強かったっけ? 前はもうちょっとこう、まばらっていうか、点々としてた気がしない?」

 

 燐は前の時の様子を思い浮かべる。

 

 白い大地に水が染み込んで、小さな池の様なものが周りを囲っていた気がするけど。

 今はその地面すら見当たらない。

 

「そうだった気がする……でも、なんでこうなったのかな」

 

 水溜まりというにはあまりにも大きすぎる水の床がどこまでに広がっていた。

 

 どこを見渡してみても水平線が伸びていて、自分たちのいる場所以外のすべてに空が浮かびあがっていた。

 

 ──それは確かにウユニ塩湖のようだった。

 

 触れれば消えてしまいそうなほど綺麗な湖面はどこまでも透き通っていて。

 透明度は高いのにその奥底はようとして見えない。

 

 深いのか浅いのか、エメラルドブルーの水はただ水面をきらめかせるだけで。

 簡単に奥の深い所を晒してはくれなかった。

 

「今日も空は高いね」

 

 燐は眩しそうに空を見上げる。

 

 澄み渡った空に陽の光が燦々と降り注いでいるけれど、太陽らしきものは見えない。

 どこからか光の線がきらきらとしながら落ちて来ていた。

 

「ここって、いつも青空だったもんね」

 

 目を細めながら蛍も空を仰ぎ見る。

 

 夏空の思い出を切り取ったみたいに白い雲が悠然と流れていく。

 それは時の流れを感じさせない、一振りの絵画のように。

 

「線路も駅舎もあるね」

 

 ふと辺りを見渡した蛍は感嘆する。

 

 それは思い描いた通りの風景、そのものだったから。

 

「てっきりなくなったとばかりに思ってたんだけど」

 

 少し寂しそうに燐はつぶやく。

 

 蛍は小さく頷いただけで、それ以上は言葉を続けなかった。

 

「さて──青いドアの家は、あるかなぁ……?」

 

 燐はワザとらしくつんと、つま先立ちになって、きょろきょろと周りを見回した。

 

「多分、あるんじゃないかな」

 

 燐の気遣いが分かった蛍はそっと笑みを見せると、燐の横で同じように辺りを見回す。

 

 ……別に探す必要などなかった。

 

 だって、最初からそこに建っていたのだから。

 

「あっ! 蛍ちゃんやっぱりあったね」

 

「うんっ」

 

 二人はプラットフォームの横に立っている、”青いドアの家”を見つけて喜びをあらわにする。

 

 だけど。

 

「……なんかちょっとデザイン違っていない? こんな感じの家、だったっけ」

 

 遠くに見ながら燐は首をかしげる。

 

 ちゃんと玄関のドアは青いので、”青いドアの家”に間違いはない、が。

 

 それでも燐の記憶とは違った外観の家にみえる。

 

「家っていうより、アパート? なんか大きくみえるね」

 

 蛍も自分のもっている記憶との差異に、不思議そうに小首をかしげた。

 

 前の家はそれこそ普通の建売住宅(たてうりじゅうたく)のような外観をしていたが、”この青いドアの家”はどちらかというとモダン風味で、著名な建築家が手掛けたようなフレキシブルなデザインの家になっていた。

 

「あれから立て直した……とか」

 

 少し茶化した風の燐の冗談に、蛍は苦笑する。

 

「どうなんだろ。確か最後に見た青いドアの家は、玄関のドアがなくなって、窓も窓枠もなくなってたんだっけ?」

 

「うん、それと……」

 

 燐は物憂げな表情で言葉を切ると、黒髪の柔和なあの人のことを思い浮かべた。

 

「オオモト様も居なくなってたよね」

 

 蛍も同じ思いだったので燐よりも先に答えた。

 

 蛍にとっては唯一の身内とも言える大切な人だったが、居なくなったときに感じた喪失感は、そういった感情とは少し意味合いが違っていた。

 

 ”お母さん”、というよりも半身(はんしん)を失ったときのような不条理な心の揺らぎ。

 

 双子の姉妹の片方を失った時のような、どうしようもないほどの孤独と虚無感。

 それに似ている気がする。

 

 ……双子どころか姉妹すらもいないけど。

 

 燐が自分のもとに戻ってきてくれた以上、蛍の心残りは後、そのことだけだった。

 

「オオモト様……あの家に居てくれると良いんだけど」

 

 新しい? 青いドアの家は、前と同じくどこからか電線が引いてあって、電気が使えることは窺える。

 

 ただ、ところどころの壁にひびが入っていたり、緑色に苔生してる箇所があったりと、何故か年季の入った感じの作りが少し気になった。

 

 燐はそのことに、家族と共に住んでいた中古のマンションの姿を垣間見て、少しだけ切ない情感に囚われる。

 

 蛍はそんな様子の燐を横目に見ると、とん、と近寄って燐の細い腕に自分の手をそっと絡めた。

 

「燐、せっかくだから行ってみようよ。どうせここしか行くところはないんだし」

 

「あ……うん」

 

 蛍が寄り添ってくれたことに燐は少し安堵する。

 でも、そんな蛍の格好を見てあることに気が付いた。

 

「そういえば蛍ちゃん、今着てるのって学校の制服だよね」

 

「あれ? あ、でも、燐もそうみたい」

 

 少女たちはお互いの姿を不思議そう顔で確かめ合った。

 

「本当だ。でも確か二人ともパジャマだったよね。どうして制服なんか着てるんだろう?」

 

 もうすっかりお馴染みとなっていた学校の制服だが、前とは少し違う所もあった。

 胸元のリボンの色が前と違っていた。

 

「靴だって、ちゃんと履いてるね」

 

 燐は踵をとんとんとコンクリートに打ち付けて具合を確かめる。

 ピンク色のトレッキングシューズは、細かい傷も汚れも見覚えのあるものだった。

 

 それに、靴だけでなく、黒のオーバーニーも履いている。

 

 ちゃんと準備する時間なんてなかったはずなのに。

 

「燐、わたしなんてローファーだよ。最近あんまり履いてないはずのに」

 

 蛍の細い両足には学生らしいローファーが収まっていた。

 そして蛍の言葉通りに、おろしたてのような綺麗な飴色の光沢を放っている。

 

 奇妙な面持ち足先を見つめる蛍と燐。

 

 他人の靴ではない、明らかに自分たちの持ち物だった。

 それは多分制服も。

 

「この恰好がここでの正装……なのかも?」

 

 いつもの制服との違いは他にないか、燐はしげしげと確認しながら試しにその場でくるっと回ってみた。

 

 やはり制服で間違いはない、みたいだがそれ以外のカバンやポシェットなどは持ってきていなかった。

 

 むろん携帯などもポケットに入っていない。

 だが、燐はカチューシャ、蛍はキンセンカの髪飾りを付けている。

 

 その絶妙なさじ加減も前の世界の時と同じだった。

 

 一方の蛍は、自分の手のひらを指で押しながら、あの時の疑問を思い返していた。

 

(燐の身体を押したときの感じ、あれってやっぱり……)

 

 蛍は自分の人差し指と親指を押し比べてみる。

 

 肉と肉の触れ合い。

 

 あの柔らかさはパジャマ越しに触った感じでもなく、制服のさらっとした手触りとも違う。

 

 直接、肌に触れた時の生の身体の柔らかい感触。

 それに違いなかった。

 

 でも、もし、そうだったとしたら。

 

(もしかして、燐とわたし、二人とも裸、だった……?)

 

 目隠しをしながらだと違った感触になるというが……あれは燐の素肌に直接触れたと断言できる。

 

 でもどうして裸だったのかは分からない。

 いくら考えても答えは出そうにない気はするが。

 

「どうしたの蛍ちゃん。なにか分かった?」

 

 燐が無邪気な瞳で顔を覗き込んできていた。

 

「あっ! えと、ううん、なんでもない、よ……」

 

「……?」

 

 顔を真っ赤にして慌てふためく蛍に、燐は首をかしげる。

 

 蛍は目を泳がせながら、何か言おうと口をぱくぱくとさせていた。

 

「も、もしかしたら、わたし達の制服姿も一緒にイメージしてた……とか」

 

「イメージって、誰の?」

 

 蛍はなんとか口を動かして言葉を出すが、わかっていなさそうな燐の顔をみて、ひとつため息をつくと、困ったように眉根をよせて微笑んだ。

 

「ふふっ、わたしじゃないことだけは確かだよ」

 

「えっ!? じゃあわたしなのぉ? えー、わたしそんなに制服好きだったかなぁ」

 

 燐は信じられないとばかりに制服姿の自分の姿を見下ろすと、プリーツスカートの端を指でちょんとつまんでみる。

 

(ここの制服は可愛い、とは思う。だって学校を選んだ理由のひとつでもあったわけだし……だからって、ねぇ?)

 

 腑に落ちない様子で燐は頬を膨らませると。

 

「蛍ちゃんっ。わたし制服フェチじゃないからねっ」

 

 恥ずかしげもなく蛍にそう宣言した。

 

 蛍はそこまで言ったつもりは毛頭なかったので、驚いて目を丸くした。

 

 しばらくの間。

 

「人って、色んな性癖を持っているものだよね」

 

 独り言のように静かに蛍はつぶやくと、全てお見通しとばかりに燐の手を軽くひっぱりながら、白いプラットフォームの上を散歩の様な足取りですたすたと先行して歩きだした。

 

「だーかーらー、わたしは制服フェチじゃないんだってばー。ねー、聞いてるー、蛍ちゃんー?」

 

 蛍に引きずられるようにして燐も後に続く。

 

 少女たちの影が線路まで伸びて、白い線路の上に黒のコンストラクトを描き出す。

 

 それはどこか懐かしいような、甘くて苦い、忘れがたい情景。

 

 だけど。

 

 懐かしいなんて思えるほど刻はたっていない、はず。

 

 過ぎ去った時間軸を振り返るかのように、二人の影法師はどこまでもその長い身体を伸ばしていった。

 

「ちゃんと聞いてるよ、燐」

 

(だって、ここは二人が作った世界だしね)

 

 聞き逃すことなんてなかった。

 

 蛍は、いつになく楽しそうな笑みを浮かべながら、親友と一緒の穏やかな時間が世界と永遠だったら良いのにと胸中で願っていた。

 

 …………

 …………

 …………

 

「うーん、やっぱりちゃんと”青いドアの家”だね。外観は全然違うけど」

 

 二人は手を繋いだまま”その家”の玄関前に立っていた。

 

「うん……施工業者が来たとかは、さすがにないと思う」

 

 燐の冗談に乗るように、小さく肩をすくめて蛍はそう言った。

 

「でも……」

 

「これってリフォームとかのレベルじゃなくて、完全に建て替えたって感じだなあってやっぱり思って」

 

「だよね。まるっきり面影がないもんね。これは完全に別の家、だよ」

 

 二人はまだ中には入らずに、ただ遠巻きに外観を眺めていた。

 

 静まり返った住宅はやはり人の気配を感じさせない。

 それこそ展示場のモデルハウスのように。

 

「中に、入ってみる? 誰か居るかもしれないよ」

 

 蛍が制服の脇の辺りを引っ張って燐に尋ねる。

 

 ”いつもの青いドアの家”だったらこんなことは聞かないのだろうが。

 

「誰かって、いるのは多分オオモト様でしょ」

 

「まあ、()()に考えたらそうだよね。でも、オオモト様以外の人が居る可能性だって否定はできないよ?」

 

 もっともらしく言う燐に、蛍は少し不安げな顔で自分の意見を述べた。

 

「それは、そうだけど……でもなんか嫌だなぁ」

 

 燐はあからさまに怪訝そうな顔を青いドアの家に向けた。

 

 改めて近くで見ると違和感は余計に強くなる。

 

 ”青いドアの家”と呼ぶことさえ憚られそうなほど違う家だ、と、

 

 正面にある大きな窓からは家の中の様子の一部が確認できた。

 

 ごく普通のソファとテーブル、薄型のテレビ、あと奥にキッチンがあるみたい。

 どこにでもありそうな普通のリビング。

 

 家具の配置や種類もなんとなく前の家と似ている。

 

 でも、ちゃんと窓もサッシも付いているし、その窓ガラスは新品のように透明に磨かれていた。

 

「やっぱり誰の姿も……見えないね」

 

 大きな窓から中を覗いた燐は、少し残念そうにつぶやいた。

 蛍もその横で肩をすくめる。

 

「うん、お留守、なのかな」

 

「………」

 

「どうしたの燐? 急に黙り込んで」

 

 蛍は燐の方を振り返る。

 

「あー、うん。なんかさデジャブ感が強くって。まだ目が覚めてないみたいに思えちゃってさ」

 

「それ、分かるよ。わたし青いドアの家って本の中の世界って感じがあるんだ」

 

「それって、”果てしない物語”だったっけ? 確か映画化もしたよね」

 

 子供の頃、燐は両親と三人でその映画のDVDを見た記憶が蘇った。

 あの頃は何をやっても楽しかった気がする。

 

 今は……どうなんだろう。

 

「うん。でもわたしは小説でしか知らないんだ」

 

 蛍はこの本に限らず、小さい頃はひとりのイメージしかない。

 

 自室に閉じこもって好きな本を読むこと。

 それが楽しみであり、あの頃の蛍の全てだった。

 

 でも、燐と出会ってからはそれまでとは違い、本当の楽しみ方を知ることが出来た。

 

 それはまるで、この話の主人公のように。

 

「映画だと主人公が白いドラゴンに乗るシーンが話題になったよね。わたしも子供の頃、乗ってみたいなってちょっと思ってたことがあるんだ」

 

 燐は楽しかったことだけを拾い集めるように、遠くを見ながら幼い頃の小さな思い出を話した。

 

 龍にも銀河鉄道にも乗ることは出来そうにないけど、それ以上に奇妙すぎる体験は不本意ながらすることが出来た。

 

 運が良いのか悪いのかは分からないけれど。

 

「空飛ぶ魔法とか、道具とかって憧れるよね。でも燐と一緒ならわたしは魔法なんて別にいらないけどね」

 

 空よりも透明な蛍の笑顔。

 

 その笑顔の向ける先が自分だと思うと、燐は胸の奥が自然と温かくなってくる。

 

 二人だけの穏やかな世界。

 

 燐は自分が戻ってきたことに意味を求めなかったけど。

 もしかしたらこれが理由なのかも、と思ってはいた。

 

 とても単純なことだけど、その単純さで人は好きになったり反対に嫌いにもなったりする。

 

 好き──でいてくれるなら。

 

 きっとそれだけで。

 

「で、燐。どうしよっか……?」

 

 蛍は燐の耳元で囁く。

 

 オオモト様以外の人が居るかもしれないとの蛍の自論だったが、そのせいで声を潜めたくはなった。

 

「あぁ、うん……」

 

 燐は微睡みから覚めたように俯き加減で返事をする。

 

 触らぬ神に祟りなし、と言うし、誰が居るか分からない家に勝手に入る意味はない。

 前がそうだったからと言って、今も同じようにすることなんてないとは思うが。

 

(でも、他に行く当てもないんだよね……)

 

 燐はチラッと、青い玄関ドアを流し見る。

 

 閉ざされた青いドアからこちらを誘っているような、何か得体の知れない空気があるように思えて、思わず握りこぶしを作っていた。

 

「とりあえず呼び鈴押してみる? もし誰か出てきたら逃げればいいんだし」

 

 燐の不安な気持ちを察したのか、蛍が積極的な意見を出した。

 

 だが、この閉ざされた世界で逃げる場所なんてあるのだろうか。

 家の周りは深さと成分の分からない水面が広がっているというのに。

 

「なんか悪戯みたいじゃない、それって」

 

 困った表情(かお)で蛍を見る燐。

 でも、燐も過去に蛍の家で同じ事をしていたので、今更感があった。

 

 それに何が居るか分からない以上、それしか手はないのも事実だった。

 

「まあ……そうだよね。このまま待ってても扉は開いてくれそうにないし」

 

「だよね」

 

 少女たちは物憂げな瞳で、扉が開かれるのを待ってみたが、それはとても叶いそうになかった。

 

 やはり自分たちから何かする必要がある。

 

 二人ともそれは同じ気持ちだった。

 

「じゃあ燐。押してみるよ?」

 

「う、うん。気をつけてね、蛍ちゃん」

 

 思いついたことを早速実行しようとする蛍に、燐は気を使って声をかける。

 

 蛍は無言で頷いて返事をすると、ドア横の呼び鈴のボタンをそっと押した。

 

 ──ピンポーン。

 

 蛍がボタンを押した瞬間、燐はとっさに身構える。

 何が出てきてもいいように、蛍を自分の身体の後ろに隠しながら。

 

 でも……少し待ってもドアが開かれることはなく、燐の決意はただ虚しい時間に流れて行った。

 

 蛍は燐の背中ごしに展開を見守っていたが、嬉しいのか残念なのか分からない、複雑な表情で息をついた。

 

 二人は顔を見合わせる。

 

「そういえばさ……去年のクリスマスの時の蛍ちゃんも中々出てこなかったよね」

 

 燐はこのことと蛍のクリスマスの一件を結び付けて話した。

 

 蛍はその事を言われるのが恥ずかしいのか、顔を赤くしながら口をこぼす。

 

「あれは、たまたま、だよ」

 

「くすっ、じゃあ、そういうことにしておくね」

 

 燐が冗談を言ってくれたので、少し緊張が和らいだ。

 

 

 クリスマスの一件は、燐が尋ねてくることを予想した蛍の作戦(ドッキリ)だったのだが。

 その突飛な理論は蛍にしか分かりようがないので、今でも燐に話すことは事はなかった。

 

 かなり突飛な蛍のサプライズだったが、燐は薄々感づいてはいた。

 

 あんなことで怒るなんてことは、燐の良く知っている蛍に限ってなかったことだったからだ。

 

 でもそれを本人に指摘するつもりはない。

 

 あの夜はとても思い出深いものだったし、とても素敵な一夜だったから。

 

 でも……その後の事はあまり思い出したくはなかった。

 

 燐は蛍との絆を感じながら片手で軽自動車を運転していたのだが、調子に乗り過ぎて危うくガードレールに車を擦りそうになってしまった。

 

 そのせいで興奮したのか二人とも一睡もしないまま店の手伝いに行ったので、寝不足でボロボロだった。

 

 ──しかもあの、恥ずかしいサンタの衣装で。

 

 その日は色々な意味での特別な一日になってしまった。

 

(しかもその事が後になって地域新聞に載るのは思わなかったしね……)

 

 おかげでちょっとだけ客足は増えたのだけれど。

 

 楽しかった瞬間は確かにあるのだが、全体的にみるとなんとも微妙だった。

 

「そういえば、クリスマスの時楽しかったよね。ああいったクリスマスならまたやってみたいね」

 

「ふええっ? そ、そうだった?」

 

 蛍のあまりにも意外な感想に、燐は驚いて呂律が変な感じになっていた。

 

 燐の変わった返事に蛍もちょっと驚く。

 

「あ、うん。今年はもっと趣向を凝らしたものにしたいね。もちろん燐とふたりでね」

 

「あははは……」

 

 幸せそうな蛍の微笑みに対して、燐はため息の交ざった笑みを無理矢理作った。

 

 ……

 ……

 ……

 

 青いドアの家の前はずっと静かなままだった。

 

 厳かで静謐な感じは嫌いではないが、それだけの為にここに来たわけではないと思う。

 

 これでは埒が明かないと思い、今度は燐が呼び鈴に手を伸ばす。

 

 ピンポーン。

 

 チャイム音はするけれど、人がやって来る気配はやはり感じられない。

 

 前の”青いドアの家”の様にしないといけないのかもしれない。

 

 燐は覚悟を決めると、前と全く同じように玄関のドアノブに手をかける。

 蛍は固唾を飲んでその様子をじっと見守っていた。

 

 この家のドアノブは前とは違ってハンドルタイプの、いわゆる”現代風”の取っ手に変わっている。

 

 燐は改めて青いドアをまじまじと見やる。

 

 前のドアよりも色彩が少し際立ってるように感じた。

 

(空の青っていうよりも海の底の深い青色に近いのかも)

 

 脳裏に浮かんだのは実家に置き去りのままの軽自動車。

 あと、あの悪夢のような小平口町の夜の色、だった。

 

 燐は、濃淡の青いドアの家のドアノブを引く。

 

 かちっ。

 

 小さな音がしてドアが開く。

 当然のように鍵は掛かっていなかった。

 

 鍵の掛かっていない玄関ドアに何の意味があるのだろうかと、燐の中に疑問が湧いたが、それは蛍に対する当てつけのようになってしまう気がして、胸の内だけのことにしておいた。

 

 ドアは簡単に開く。

 変な音も出すことなく、滑るような緩やかな動作で。

 

「…………」

 

 燐と蛍は手を繋いだまま、開かれた扉の先を凝視する。

 

 二人は好奇心と緊張を漲らせた表情で中を覗き込んだ。

 

「中は普通だね」

 

「うん。全然普通」

 

 お互いぽつりぽつりと感想を述べる。

 確かに何の変哲もない普通の玄関だったから、それは仕方がなかった。

 

 靴が一切並んでいないのも前の家と一緒。

 

 蛍は前にはやらなかった下駄箱の中を開けてみる。

 

「やっぱり何も入ってないね」

 

 少し残念そうに肩をすくめる蛍。

 それはあまりにも普通すぎて面白味もなにもないことを示しているようだった。

 

 見渡してみても何かが潜んでいそうな感じはなさそうなので、燐は少し警戒心を解いた。

 

「とりあえず上がってみよっか。すみませんー、お邪魔しますー」

 

 燐は一言挨拶をすると、玄関に座り込んで靴紐を解き始めた。

 

「……お邪魔します」

 

 蛍も同じように脱いだ靴を揃えると、反対側に向けて燐のトレッキングシューズの隣に置いた。

 

 玄関口はとても静まり返っていて、風もないのに外とは少し空気の感じが違って感じられた。

 

 それは、二人が一緒に住んでいる新築のタワーマンションとも違って、生活感が皆無というか、嘘みたいな真新しさが漂っていた。

 

 蛍と燐は手を取り合うと、他の部屋には目もくれず、真っ直ぐにリビングの方角を目指した。

 

 

「オオモト様ー?」

 

 リビングに入ってまず、蛍が最初にやったことはオオモト様の名前を呼ぶことだった。

 

 そう呼んで出てきた試しは一度もないけど、これは”礼儀”と言うよりも”儀式”に近いことだった。

 

「オオモト様ー、建て替えたんですかー? いいお家ですね」

 

 燐は呼びかけにお世辞を交ぜてみたが、その程度で出て来てくれるはずもなく。

 

「あ、家具も全然違ってるね。テレビだってこーんなに大きくなかったし」

 

 オオモト様を探すのに飽きてしまったのか、燐は楽しそうに薄型テレビの前で腕を目いっぱいに広げていた。

 

 確かに燐の言うように、家具デザインもその配置も前の家とは別物になっている。

 それでも基本的なことは何も変わっていなかった。

 

 テレビとソファにテーブル。

 奥にはキッチンがあり、冷蔵庫も完備してあった。

 

 前の青いドアの家と同じく、生活に必要な家財道具は一通り揃っているが、そのきっちりしたところが逆に違和感を感じさせる。

 

 マニュアル通りというか、”遊び心”が皆無だった。

 

「一応テレビも、つけてみようか?」

 

 蛍がリモコンを片手に燐に尋ねる。

 

「やっぱりそこは気になるところだよね」

 

 テレビの前のソファに飛び乗ると、ちょっとおどけた感じで燐は微笑む。

 

「でも、燐には先にやることがあるんじゃない?」

 

「ふえっ、やること? 他に何かあったっけ……?」

 

 ソファでくつろぎながら、燐は腕を組んで考え込んだ。

 

(やるべきことって何だろう……あっ!)

 

 合点がいったとばかりに燐は手を打ち鳴らすと。

 

「蛍ちゃん、わたしちょっとトイレ行ってみるね」

 

 と、リビング内に恥ずかしい宣言を上げた。

 

 意図していなかった言葉に蛍は危うくリモコンを落としそうになる。

 

 なんとか落とさずにすんだのでほっと胸を撫で下ろすと、困った顔で燐に微笑みかけた。

 

「そうじゃなくて、燐。ほら、冷蔵庫……」

 

 おずおずとキッチンの方を指さす蛍。

 

 そこには黒の四角い冷蔵庫が、開かれるのを待つかのようにそびえ立っていた。

 

「あぁ、そっちかぁ」

 

 燐はようやく蛍の意図を理解することが出来た。

 

 でも。

 

「他人の家の冷蔵庫を覗くのって結構マナー悪くない? 今更こんなこと言うのもなんだけど」

 

「でも、燐は、わたしの家の冷蔵庫を勝手に開けてるよね?」

 

「あれは蛍ちゃん家だからだよ~。それに今は一緒に住んでるんだからそういうのは言いっこなし、だよっ」

 

 痛いところをつかれたように、控えめ気味に笑う燐。

 

「燐はもう、本当に調子が良いんだから」

 

 蛍は呆れたように肩をすくめると、手にした黒いリモコンを見つめていた。

 押してみるべきかどうか迷っている様子で。

 

「あははっ。ま、まぁ、冷蔵庫の中を見ればその人の今の暮らしっぷりが分かるっていうしね」

 

 燐はもっともらしい言い訳をすると、蛍が何かを言う前にそそくさとキッチンへ移動する。

 

 システムキッチン横の冷蔵庫は、窓からの光を浴びてその全体が黒光りしていた。

 

 開くことを拒むような重厚な佇まいをしていたが。

 

「ん、じゃあ、開けるねっ!」

 

 バラエティー番組の開かずの金庫を開ける時のような勢いで、燐はごくりと喉を鳴らすと、一番大きな片開のドアに手をかけて勢いよく開いた。

 

「せーのっ!」

 

 掛け声と共に冷蔵庫のドアが開かれる。

 

 燐は何故か玄関ドアを開く時よりも何故か力を込めていたようで、ドアが開くと同時に燐も身体ごと引っ張られていた。

 

「あ……」

 

 少し離れて見ていた蛍にもその中身がはっきりと見えた。

 

 燐もドアの隙間から首を伸ばして中を覗き込む。

 

 やはりと言うか、冷蔵庫の中は。

 

「また、空っぽかぁ」

 

「みたい、だね」

 

 燐は予想通りと言いたげに肩をすくめていた。

 

 けれど蛍は、燐が開ける前からなんとなくそうじゃないかとは思っていた。

 

 だからこの家はまだ誰のものでもないのだろう。

 

 それこそ所有者の無いモデルハウスのように、ただ在り続けるだけだった。

 

 ──

 ──

 ───

 

「ん──、気持ちいいねっ! 陸の、じゃなくて、水の上の孤島に住んでいるみたいだね!」

 

 それではただの島、なのだが。

 

 そんな細かいことは気にする様子もみせずに、燐はぐっと両手を上げて、全身で気持ち良さを表すように大きく深呼吸をした。

 

 目の前には青い空と水平線がどこまでも広がっている。

 見た目だけだったら、燐の言うようにどこか南の海の孤島のようだった。

 

 燐がいる濡れ縁の下には、新品のようにきらきらとした白い線路が長く伸びている。

 家の形こそ違っていたが、建物や線路の配置は鏡で写したようにそっくりそのままだった。

 

 新しい青いドアの家の中をくまなく探してみたが、オオモト様どころか、誰かの住んでいた生活の残り香でさえも見当たらなかった。

 

 見た目ほど広い間取りではなかったが、それでも人ひとりが住むには大きすぎる家だった。

 

 そのことに何かの手掛かりがありそうだったが、その理由を求めること自体がそもそもの間違いだったと気づくのには、結構な時間と体力を使った後だった。

 

「本当だよね。南国のコテージにいるみたいな感じするもんね」

 

 両手にグラスを持って蛍も縁側に出て来ていた。

 

「はい。燐、お水」

 

 蛍が持ってきた透明なグラスの中には、それこそ青と白の風景と変わらない透明度の高い液体が入っている。

 

 蛍の言う通り水なのだろうと思うのだが。

 

「これってこの家の蛇口からの”お水”だよね?」

 

 確認するように燐は再度、蛍に尋ねる。

 その意図を理解した蛍はちょっと困り顔で言った。

 

「大丈夫だったよ。さっきわたしが飲んでみたけど”普通のお水”だったし」

 

「えっ、そうなんだ。蛍ちゃん、何ともないの?」

 

 蛍が先に飲んでいたとは思わず、燐はつい焦ったように聞き返した。

 

「今のところはね。燐、心配してくれてありがとう」

 

「そうじゃなくて、えと……やっぱりちょっと気になるじゃん。ここっていわゆる普通の場所じゃないし……」

 

 蛍からのお礼に、燐は照れ隠しのように周りを見渡した。

 

 透き通るような空に積乱雲が立ち上って。

 周りは池とも湖ともとれるほど巨大な水面がどこまでも広がっている。

 

 それこそあの”ウユニ塩湖”のように。

 

 水平線の先には他に別の建物も、植物すらも見当たらない。

 ただゆらゆらと陽炎が立ち上っているだけ。

 

 全てが水に流された後の世界のようだった。

 

「全てを水に流されたのって、小平口町じゃなくてこっちの世界だった……なわけはないよね?」

 

 受け取ったグラスを見つめながら、燐がぽつりと雨滴のようにつぶやく。

 

「どうだろうね。燐の言うように町の代わりにここが水浸しになってくれたのかもしれないね」

 

 燐の憶測を肯定するように、蛍も空を映す水面を見ながら言葉をつくる。

 

「実際に被害はなかったからね」

 

 燐は実際に小平口町に引っ越してきた時は何の感情も湧かなかった。

 自分の事で精一杯で、他に意識を向ける余裕すらもってはいなかった。

 

 だから後になって、被害が一切出なかったことを知った時は、少し嬉しい気持ちがあった。

 

 あれだけ嫌な目にあっても、特に町が悪い訳じゃない。

 

 町の人達だって、一部の想いが強く出ただけで、みんな普通の生活を送っている普通の人達だったわけだし。

 

 そういう意味ではすべては夢の中の話、と考えることも出来る。

 

 あの時の記憶さえ残っていなかったらの話だが。

 

「でも、だったらなんであんな放送をしたんだろう、あのDJ……」

 

 蛍はあのラジオDJをよほど気に入っていたのか、今でも話の種にするほどだった。

 

 文化祭の時だって、ラジオから流れてきた”例えば月の階段で”をみんなの前で歌ってみないと提案したのは蛍からだった。

 

 皆の前で歌うことを恥ずかしがる蛍なのに。

 

「さぁ? でもラジオのこと”嘘つき箱”って言ってる人もいるしさ、話半分で良いんじゃないかな。もう終わったことなんだし」

 

「まぁ、そうなんだけどね」

 

 少し投げやり気味に答える燐に、蛍は苦笑いした。

 

 ”古いものも新しいものもまとめて”。

 あのDJはそんな言葉をラジオで流していた。

 

(全てを水に流すって言いたかったのかな……でも、何に対して? 座敷童? それとも……幸運?)

 

 蛍が言葉の意図を測りかねようと嘆息してる時、燐はグラスとにらみ合いをしていた。

 

「ぅむむむむ……」

 

 蛍はそう言っていたが燐はまだ受けとったグラスに口を付けず、透明な中身を指でかき混ぜたりして弄んでいた。

 

(前に飲んだ時はガラスみたいな味だったね……またあれを飲むのは嫌だなぁ)

 

 燐は最初に水を飲んだ時のことを思い返す。

 無味無臭で美味しくなかったことを。

 

 その次に食べた桃も同じ感想だった。

 

 でも、最後に食べたケーキやお茶はとても美味しかった。

 

 あの時のケーキの味を再現しようと、パンに混じってケーキをたまに焼いているのだが。

 

(あの時の味に中々ならないんだよね。材料は間違ってないはずなんだけど……)

 

 白桃のケーキにはそれほど特別な材料が使われてるとは思ってはいない。

 

 舌に自信があるわけではないが、今の自分になら作るのにはそこまで難しいとは思わなかった。

 

 ただ、あの頃はケーキはおろか、パンを焼いて売るなんて思いもしなかったから。

 

(今だったら、食べる前に紙にメモしたり、分解して工程を確認するんだけどなぁ……)

 

 ほんの少し前の自分と今の自分を見比べて、その違いを微笑ましそうに楽しむ燐。

 

 こういうことを考えること自体が不思議だった。

 

 ぽっかりと空いた心を埋めるように、夢中でパンを焼いたりしていたのだけど、それが今ではある一定の意味を持つようになっていた。

 

 妥協が出来ないのは変わっていないけど、それがいい方向に働いてきていると思う。

 

(なんかただ運命に翻弄されているみたいだけどね)

 

 ぐるぐると。

 

 このコップの中の純粋な流れのように。

 

 その時、頭の中で浮かんできたのは自分の才能を秘めた発掘したと思ってもいいだろう、その母のどや顔だった。

 

(はいはい、お母さんは凄いねー、すごいすごい)

 

 ちょっと嫌味な妄想を抱きながら、コップの中で指でかき回す燐。

 揺れ動く複雑な想いを液体と共に溶かし込むかのように。

 

 ……そこにどれだけの想いが込められているのかはわからないが、あのガラスを溶かしたような水をもう一度味わうのだけは嫌だったから。

 

 いっそのこと水を捨てても良かったのだが、それはせっかく持ってきてくれた蛍に悪いし。

 

 少し喉も乾いていたから。

 

 だから、結構ぐるぐると回した。

 

 これで少しでも美味しくなるといいけど……。

 

「よしっ、こ、これなら」

 

 根本まで濡れそぼった指を引き抜いて、燐は恐る恐る自分の指についた水滴をぺろっと舐めとった。

 

(あれっ?)

 

 甘みのようなものを感じる。

 

 もう一回、今度は指全体をしゃぶってみた。

 

 ぺろぺろっ。

 

「やっぱり、甘い、美味しい……」

 

 水かどうかよりも、その甘さに惹かれてしまった。

 

 美味しいと理解したら後は早いもので、燐はそのままごくごくとコップの中身を喉に流し込んだ。

 

 なんだかんだ言っても結局飲みたかったみたいで、驚くほど簡単に燐の渇きに透明な液体は浸透していく。

 

 飲み終えた燐はコップをとんと置くと、素直な感想を蛍に言った。

 

「この水、冷たくて美味しいね! あ、疑っちゃってごめんね。せっかく蛍ちゃんが汲んでくれたのにね」

 

「あ……う、ううん、いいよ、気にしてないから」

 

 蛍は一瞬驚いた表情をみせたが、直ぐに安堵の笑顔を覗かせた。

 その様子に燐は不思議な違和感を覚えたが、今は特に言及しなかった。

 

 蛍はしずしずと燐の隣に近寄るとスカートを折り畳んで、その横にちょこんと腰掛ける。

 

 裸足になって、水の中に足を入れたくなるほどの爽やかな時間。

 

 二人は寄り添うよう景色と一体となっていた。

 

 蛍が隣に座ると、燐は急にソワソワとして辺りをきょろきょろと見渡す素振りをみせる。

 

 何かを探すような燐の挙動に蛍はなにごとかと首をかしげた。

 

「どうしたの燐。なにかを待ってるの?」

 

「あ、いやぁ……そろそろオオモト様が来そうかなーって。ほら、いつも不意打ちみたいなタイミングでわたし達に話しかけてくるでしょ。今がそのタイミングっぽいかなって」

 

 照れ笑いする燐を見て、蛍はくすっと笑う。

 

「確かにね。オオモト様が出てくるには良さそうな感じだもんね」

 

 蛍も燐もオオモト様と正面から出会ったことはなかった。

 二人にとってオオモト様とはそういう人だった。

 

「オオモト様がスイカを持って出てきてくれると思ったんだけどなー」

 

 ワザとらしい声を上げる燐。

 

 ”振り”を作ったつもりだったが、肝心のオオモト様には少しも届いていないようだった。

 

「なんで西瓜(すいか)なの? 時期的にはちょっと早い気もするけど」

 

 蛍はオオモト様よりもスイカである方を気にしていた。

 

「だって、この景色にはスイカが合いそうな気がしない? ちょっと早い夏! って感じでさ。別にメロンでもいいんだけどね」

 

 燐はここから見える景色を手でフレームを作って企画の提案(プレゼン)をオオモト様ではなく蛍にしてみせた。

 

「ただ単に、燐が食べたいだけなんでしょ?」

 

「あはは、まあ、そう、なんだけどね」

 

 蛍のツッコミに燐はウィンクして答えた。

 

「燐は”青いドアの家”が好きなんだよね。パン屋さんだって”青いドアのパン屋さん”だしね」

 

「あれはまあ、リスペクト……かな? 蛍ちゃんは、あんまりこの場所が好きじゃない、のかな? そんな気がするだけなんだけど」

 

 燐は隣に座る蛍の顔を伺いながら言葉を作る。

 それはその理由がなんとなく分かるからだった。

 

 燐に気を使われていることに気付いた蛍は遠くを見るようにしながらそっと呟く。

 

 それはここでは吹かない風のように、さらっとした透明な呟きだった。  

 

「そうだね、やっぱり燐には……分かっちゃうよね」

 

 片方の長い髪をくるくると指に絡ませながら蛍は困った顔で続けた。

 

「この場所って音も何もないからちょっとだけ苦手なんだ……でも、でもね、もし燐が好きでいられるなら。わたしも、好きになれるとは思う……」

 

 蛍は空になったグラスを置くと、燐の手に自分の手を重ねた。

 

 それは何かの意思表示のようだった。

 

「あはは、蛍ちゃんは返事に困ることをさらっと言うもんね。もう、変なところで大胆なんだから」

 

「相手が燐、だからだよ。わたしが大胆になれるのは燐と一緒の時だけだから」

 

「また、もう……」

 

「うふふ」

 

 結局、オオモト様は来なかった。

 

 けど、二人だったから。

 

 そんなに寂しくは感じなかった。

 

 

 …………

 ………

 …… 

 

 

「燐、オオモト様ならもう居るんだよ」

 

「えっ!?」

 

 蛍が言っていることがすぐには呑み込めず、燐は間の抜けたような返事を反射的に返していた。

 

「えっ、えっ? オオモト様来てる、の? どこに」

 

 燐は首を上下左右に振って、赤い着物のオオモト様の姿を探す。

 

 しかし家の中にも外にもその姿を確認できない。

 

 直ぐに隠れてしまったとかは……あるのかな。

 

「蛍ちゃん、どこにも居ないけど……?」

 

 燐は眉を潜めて蛍に尋ねる。

 

 あの時、燐しか見えなかった風車の森のように、蛍にしか見えないオオモト様がいるのだろうか。

 

 困惑する燐を見て蛍は微笑むと、自分の胸にそっと手を当ててこう言った。

 

「さっきから目の前に居るよ」

 

「え、目の前って……わたしの目の前には蛍ちゃんだけ……?」

 

 燐は自分で言って、あっと声をあげる。

 なんだ、そういうことか。

 

 それなら最初から確かに”存在”している。

 

 燐もにこっと微笑むと、蛍を真っ直ぐに眺めながらその答えを言った。

 

「確かに蛍ちゃんは”オオモト様”だもんね。あ、だった、かな? 今は普通の女の子になったんだもんね」

 

 嬉しそうに手をパン、と叩く燐を見て、蛍は複雑な瞳で微笑んだ。

 

「自分じゃまだ良くわからないけどね、普通かどうかなんて。でもそうじゃないよ燐。目の前は”わたし”の目の前のこと」

 

「えええぇ!!?」

 

 燐は蛍の言っている意味が全く分からず、首を傾けて頭を捻った。

 

(えーっと、わたしの目の前に居るのは蛍ちゃん。蛍ちゃんの目の前に居るのはわたし。つまり蛍ちゃんの目の前のオオモト様って……?)

 

「だから、燐が”次のオオモト様”なんだよ」

 

 蛍の宣言に燐は凍り付いたように固まっていた。

 

 蛍が”オオモト様”だったのは間違いない、だって”オオモト様”がそう言っていたのだから。

 

 蛍ちゃんは座敷童だと。

 つまり今のオオモト様なんだと。

 

 その”オオモト様”がわたしを”オオモト様”だと言っている。

 

 次の”オオモト様”だと。

 

 燐は抱え込みたくなる頭をフル回転させながら、なんとか適切な言葉を探し出した。

 

「もう、やだなぁ。蛍ちゃんからかわないでよ~。わたしが言いたいのはわたし達が良く知ってる、”長い髪のオオモト様のこと”。だって、わたしがオオモト様なはずがないじゃない。わたしはごく普通の女の子、なんだし……」

 

 困ったように苦笑する燐。

 

 だが蛍の反応は燐が期待していたものとはかなり違って、至って真面目な口調だった。

 

「燐は、その、普通の女の子じゃ、ないと思う……あ、でもそれはそういう”意味”じゃなくて。だってあの夜の時、わたしと燐だけが変化しなかったんだよ。わたしは座敷童、つまり大元だったわけだからその理由が立つけど、燐はそういうのとはちょっと違う、よね?」

 

「あう、そ、それは……」

 

 それ以上言葉が続かなかった。

 そうでない理由も、そうである理由も、燐にはまるで見当がつかなかったからだ。

 

「それに燐にはオオモト様の”資格”もあるんだよ」

 

「……資格、なの?」

 

 燐は思わず眉根をよせた。

 あまり、好きではない言葉の響きだったから。

 

 オオモト様にも言われたことだったから、余計に気が騒いでいた。

 

「うん。例えば……今飲んだお水、とか」

 

 蛍はテーブルの上のグラスを指さす。

 

 燐はまさかと思い、複雑な想いで蛍の瞳を見つめ返した。

 

 優しい蛍の瞳が僅かに震えたように見えた。

 その瞳の奥に宿す思いは、疑うべきところなど微塵もなかったのだったが。

 

「ごめんね燐。でも、ちゃんとわたしも飲んだんだよ。ただ燐とは違って、やっぱり味はしなかったの」

 

 驚くほど素直に蛍は告白した。

 そして誤解を解くように蛍は手のひらの下の燐の手を少し強く握る。

 

 こんなことで信じてもらえるとは思ってはいないけど、それでもそうしたかった。

 

 温もりが想いの潤滑油の役割になってくれれば良いなと信じて。

 

「……そっか」

 

 燐は一言だけ返すと、線路を見つめたまましばらく俯いていた。

 

(燐……)

 

 蛍は何も返せず、ただその横顔を見つめるだけ。

 

 ──燐に嫌われたかもしれない。

 

 ただ、その一点だけが蛍の胸の奥を奔流の様に際悩ませる。

 

「燐。わたしね……」

 

 蛍は堪らずその小さな肩を抱きしめようとしたとき。

 

「……なぁんてね。実はそうなんじゃないかなってちょっとだけ思ってたんだ」

 

 蛍より燐が先に言葉を重ねていた。

 

「燐……」

 

 蛍は伸ばしかけた手をどうしていいか分からず、とりあえずもう片方の手も燐の手の甲の上にそっと乗せた。

 

 燐と蛍は近い距離で向かい合うかたちになる。

 

 互いの息が糸のように混ざり合って、複雑な、でも綺麗な二人だけの色を紡ぎ出した。

 

「何で桃だったりケーキだったりしたんだろうって、ずっと気にはなってたの。だって、わたしが食べたいなって思っていたものがちゃんと冷蔵庫に入っていたから」

 

「それだって偶然……なのかもしれない。でも、納得はしてなかったんだ。あまりにもタイミングが良すぎたから。自分から食べたりしたのにね」

 

 燐は蛍にさえ言っていなかったことを明るい声で告白した。

 

 なんとなく分かっていたことだった。

 でも、自分で自分が信じられなかった。

 

 だって自分では”普通”だと思っていたから。

 

「そうだったんだ。燐は自分のことが分かってるんだね」

 

「……どう、なのかな? わたしだって良くわからないけどね」

 

 燐がいつものような明るさで微笑んだので、蛍も同じような笑みで応える。

 二人は普段からそんな感じだったし、そのことになんの疑問も感じなかった。

 

「でもさ、わたしがオオモト様になっちゃうから、蛍ちゃんとお別れしなくちゃならないの?」

 

「えっ……」

 

 蛍は心臓が凍り付いたように動けなかった。

 驚愕に目を見開いたまま、口を開けたまま燐の顔を見つめ続けるだけ。

 

「………」

 

 今度は燐が蛍の手を強く握る。

 だが、蛍にはまだ握り返すだけの余裕がつくれなかった。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。座敷童、つまり幸運を呼ぶ人ってどうして必要なのかな。わたしはそういうのは良く分からないんだけど」

 

 燐は他人事のように疑問を投げかける。

 

 幸運によってもたらされたものがあの悲劇だったのなら、確かにそんなものを頼りたくはない。

 

 (さいわ)いが(わざわ)いを呼ぶなんて。

 

 それなら幸運なんてものは最初から必要がない。

 

 人は己の裁量で生きるもので、運によって人生を左右されるということがそもそもおかしいのだから。

 

「わたしにも、よくわからないんだ……ただ、座敷童は一人だけなんだって。そこだけは昔から変わらないみたい」

 

 沈んでいた蛍だったが、燐に言葉を投げかけられてやっと顔を上げることが出来た。

 

「うーん、でも、わたしがオオモト様……座敷童だったら、すぐに幸運の力なんて無くなっちゃうんじゃないのかなあ? だってわたしだって蛍ちゃんと一緒で”童”って歳でもないし、それにもう……初潮だって済んじゃってるんだもん……」

 

 燐の言葉の最後の方は消え入りそうな声、だった。

 

 赤面する燐を見て、蛍は柔和な、慈愛のような眼で微笑んだ。

 

「燐は、多分大丈夫だよ。これも仮定だけど、燐が本来の”座敷童”の形じゃないかなって思ってるんだ」

 

「本来のかたち?」

 

「うん。わたしみたいに”座敷童の子供”って言うのが、そもそもの間違いなんじゃないのかな。もっと別の方法で力っていうか、その想いを受け継ぐ事が出来るんだと思うの」

 

「それって桃とかケーキ……?」

 

 燐は自分の上唇を軽く舐めながら、青いドアの家で一人だけ食べたり飲んだりしたことを今になって反省していた。

 

(わたし、食い意地張り過ぎだったもんなぁ)

 

 でもだとしたらオオモト様は最初から分かっていたのかもしれない。

 

 わたしにそういった”素質”があることに。

 

「でも、それだけじゃないと思うよ。燐は、わたしや”オオモト様”に近かったからだと思うの」

 

「近いって……距離のこと?」

 

 確かに蛍とはずっと一緒だったし、オオモト様とはこの世界では良く会っていた。

 そういう影響はあるのだろうか? 朱に交われば何とやらみたいな感じで。

 

「精神っていうか、波長が似ている気がする。上手く言葉には出来ないけど」

 

 そうつぶやいた蛍の姿は、顔立ちは違うのにオオモト様とよく似ていた。

 それは夜のプールで感じた時と同じ違和感だった。

 

 

 理屈じゃない。

 けど、比喩でもなかった。

 

 

 ほんものの”オオモト様”が今、わたしの目の前に立っていた。

 

 

 

 ─

 ──

 ───

 

 

 

 





長かったガムシロップとの戦いについに終止符を打ったので、家で(くすぶ)っていた黒蜜と豆乳をまぜまぜしてソイラテ風味で珈琲を嗜んでみたりー。

某所で投げ売りされていた栃木イチゴ飲料を飲んでみる──例えるならイチゴ味のポッキーを飲んでいるいるような懐かしい味わい。
つぶつぶが付いたイチゴポッキーじゃなくて、あのつるんとしたほうのポッキーの味に近いですねー。
駄菓子屋で売ってそうなミニマムなイチゴポッキー、久々に食べてみたいなー。

飲料のラベルには関東・栃木イチゴと書いてありながら製造しているのは静岡というエモさも良きでした。

今回のサブタイはNIKKA SESSIONのプレイリストから。ウィスキーに合う曲とのことのですが、その中のMarshmello x Jonas Brothersの耳当たりのソフトなコラボ曲からチョイスー。
Jonas Brothersはsouthparkでゲスト出演したエピソードで知ってました。(結構、酷い扱いだった気がするけど……)Marshmelloの事は今回の事で初めて知りましたねー。

やったことはないけど、某ゲームの動画でバケツみたいなの被ってたアバターを見て、何だろうこれって思ってたけどどうやらマシュメロのスキンだったみたいですねーーバケツじゃなくてマシュマロ(マシュメロ)の頭だったのかーーなるほどーー。


それではでははは──。



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The Golden Crown

 
 あお。

 優しいあお。
 癒しのあお。

 それは空のいろ。

 水のいろ。

 青と青が積み重なって、絵の具のように交じり合って違う青ができる。

 澄みきった青にレジンのような透明な揺らぎが差し込まれて、異なる世界の情景を描き出す。

 わたしはその絶妙なさじ加減の空を遠くから仰ぎ見ている。

 もうずっと深い水の底から。

 青と青、その狭間に見える白い小さな光。

 雲以外は浮かんでいないけど、それでも光は頭上から降り注いでいる。

 燦々と。
 とめどなく、降り注いでいる。

 小さな気泡がこぼれ出て、遥か上を目指して上って行った。

 ぽこぽこ、ぽこぽこと。
 まるで炭酸ソーダの水の中にいるみたいだった。

「まだ……起きないの」

 しゃがみ込んで見上げるわたしの傍には一人の少女。

「……」

 返事はなく、胸を小さく上下させているだけ。

 呼吸に合わせて小さな泡がぽこぽこと、小さく閉じられた口の端からこぼれていく。
 規則的なリズムでひとつずつ、光の屈折で揺らめきながら。

 わたしはそれを指でちょんとついた。

 気泡はぱっと姿を消し、水と簡単に同化した。
 それを見てくすっとして、静かに横たわる彼女の髪を優しくなでる。

 まだ温かい。
 でも少し傷んでいるかな?

 急に切なくなって、ことさら丁寧に髪を梳いてあげた。
 手ぐしで失礼だけど。

「もう、朝だよ。このままだと学校に遅刻しちゃうよ……」

 学校から徒歩圏内のマンションに越してきばかりなのにこれじゃあ意味がない。

 まあ……今は違う場所、世界に居るのだから関係がないけれど。

(ここから学校まではどれぐらい掛かるんだろう……)

 安らかに呼吸する親友の髪を撫でつけながら、今考えなくてもいいことに頭を巡らせた。

 それは穏やかだったから。

 例えようもなく、それこそ水のように。

「ここは涼しいからクーラー要らないね。でも洗濯物も乾きそうにないね」

 両方ともここでは役に立たない。
 むしろここで役に立つ電化製品は極々一部だった。

「そもそも電気がないか……周りが水だから電気を通したら感電しちゃうかもだけどね」

 微笑んだ口元も手の動きも、二人の髪が揺らぐ様子でさえもスローモーション。
 ぜんぶが重いイメージ。

 ちょっと気怠くもあった。

 吐き出す音だって相当おかしい。

 セロファンの紙を一枚通して喋っているみたいで、なにかの冗談のように聞こえてきて、くすくすとまた笑ってしまった。

「ふふっ、なんかずっと夢の中だね」

 声だけじゃなく話す内容もおかしかった。

 ──自分じゃないみたいに。

 笑うたびに空気が零れでてて、上へと逃げて行く。

 でも息苦しさを覚えることはない。

 始まる前の世界とは違って、恐怖も閉塞感もない。

 むしろ心地いい。
 ずっと、ずっとここに居たいほどに。

 きっと、ふたりだからかな。

 ひとりぼっちじゃないから。
 好きな人といるから。

 どんな世界でも楽しいんだとおもう。

 たとえ世界が味方してくれなくとも、二人だったらそれで。

 だけどこの状況は。

「やっぱり、ちょっとおかしいよね」

「……」

 ぽこっ。

 返事の代わりに泡がちょんとでた。

 けれどその小さな泡はシャボン玉のように薄く壊れやすいものではなく、真っ直ぐに空を目指して伸びていく。

 まるで空に帰ることを切望するかのように。

 空に戻ったって辛いことが待っている、それなのに。

 泳ぐよりも断然早い速度で上がっていくそれは、どうやっても追いつけない時間の流れを例えているようで。

 わたしはこの場所で一人取り残されていくような気持ちになった。

 けど──。

(どうしてこんなことになったんだっけ?)

 前後の記憶がイマイチなのは、脳に酸素が上手くいきわたらないからだ。
 水の中、その底にいる弊害、そのせいだと思った。

 蛍はゼリーのような透明な布に纏わりつかれる感覚に身もだえしながら、酸素がそこまで届いていないであろう脳みそを懸命に巡らせた。


 …………
 ………
 ……




 カチッ。

 

 窓のような大きなテレビの電源を入れてみる。

 

 画面に現れたのは砂嵐、もしくはカラーバー。

 

 横殴りの雨の様に画面の中は土砂降りのノイズをだしている。

 それはどのチャンネルをまわしても同じ結果だった。

 

 前のように車窓からの景色を映すことも、()()()()()景色を映すこともない。

 

 つまりこれは──。

 

「もう、電車は来ないってことだよね」

 

「そう言うことになるよね」

 

 燐と蛍は、テレビの前の細長いソファの上に並んで座り、納得したように頷いていた。

 

 二人が向かい合わせに座るだけの椅子の数は十分にあるのだが、そうしたいとは思わなかった。

 

 燐は諦めたようにリモコンを放り出すと、両手を枕にして白いソファの背もたれにもたれかかった。

 

「ふう……」

 

 ぼんやりと天井を眺める。

 

 前の青いドアの家との決定的が違いを挙げるとすればリビングからの天井が真っ先に浮かぶことだろう。

 

 それは燐の今の家、古民家よりもずっと高い吹き抜けの天井になっていた。

 

 その奥の木目調の天板には白い羽を広げたシーリングファンが時計回りにくるくると廻っていた。

 

 止めるためのスイッチが何処にあるのかは分からない。

 風車にも似た扇風機は二人が部屋に入ってた時から回っていたのだから。

 

 でも、と思う。

 

 この扇風機と風車は同じ存在なのではないかと。

 それはどちらも意味もなく回っているからだ。

 

 実際の所このシーリングファンは空気を循環させる役割があるので、意味がないわけではない。

 

 それは風車も同じで、その大きな羽根で電力を発生させることができるのだから無意味なものではなかった。

 

(でも、誰にも見てもらえなかったらやっぱり意味がないよね)

 

 夜鷹が綺麗なのは誰かに見てもらえるから。

 だれも見てなければそれは光っていないのと同じ。

 

 風車だって誰も見ていなかったらそれは存在していないのと同義だった。

 

 けど、誰かは必ず見る。

 それは光っていたり、回ってたり、巨大だったりするからだ。

 

 それらの要素を兼ね備えてなくても見ることはあるだろう。

 そういう意味ではこの世に無意味なものなどひとつもないんだろうけど。

 

 堂々巡りしてる燐の隣で、蛍が代わりにチャンネルを回していた。

 

 だが、あの窓の時の様にノイズの先に偶然何かの映像が差し込むようなこともなく。

 分かっていたことだけど、期待していたようなものは最後まで映らなかった。

 

 ひとりで一生懸命やっていた蛍もようやく諦めがついたのか、テーブルの上にリモコンを静かに置いた。

 

 色々やってみたが、結局何のためのリモコンとテレビなのかは分からなかった。

 

(普通にテレビ番組を楽しむこともできないし。本当になんなのかなこれ)

 

 蛍は、はぁっ、とため息をついた。

 

「でも……線路も駅舎もあるよね。いつかは電車が来るのかな」

 

 電車が来ないなら存在すら要らないものだったから。

 

「なにかきっかけがあれば来るようになってるのかもね」

 

(きっかけ……?)

 

 蛍は自問自答したとき、ある覚えの様なものがあった。

 きっとそれは燐にも。

 

 けど、お互いそのことで議論を交わすようなことはしたいとは思わなかった。

 もう終わったことだったし。

 

 それなりに解決済みの様な気もしたから。

 

「その時は誰を迎えに来るのかな?」

 

「あ、うん……でも、わたしはきっと列車には乗らない……ううん、()()()()と思う」

 

「どうして?」

 

 燐は無為にノイズを発しているテレビのスイッチを切ると、ソファの背もたれに手を掛けて、食い入るように蛍の顔を覗き込んだ。

 

 燐の瞳には、不安げに揺れている蛍の顔が映りこんでいた。

 

「あ。そうか、蛍ちゃんは切符、持ってなかったんだよね……まあ、わたしの切符だってもうないんだけど」

 

 燐は以前と同じようにポケットの中を広げて探すような素振りをみせる。

 当然何も入っていなかったので、両手を蛍の前に広げておどけてみせた。

 

 その仕草に蛍は小さく笑みをみせると。

 

「燐の切符はまだ使えるよ」

 

 はっきりとそう告げた。

 

「え。そう、なの?」

 

 燐はぱちくりと二回瞬きをして、蛍の方を見つめ直す。

 その根拠が知りたかった。

 

「ジョバンニの持っていた切符と同じだよ。燐の持っている切符はどこへでも行ける乗り降り自由な切符だから。決して無くなることはないんだよ……」

 

 蛍は実際にあるものであるかのように言っているが、あの時も今も燐は切符の様なものを一度も持ったことがない。

 

 実感だってない。

 

 だから、銀河鉄道の夜の事を言われてもやっぱりピンとは来なかった。

 

 それに全てが御伽噺のように進んでくれるのなら悲しい思いなんてするわけがないのだし。

 

 話しの結末は、分かっているのだから。

 

「だったら、蛍ちゃんの切符だって」

 

 あるはずだと思う。

 

 あの時の電車は一人乗りにしては大きすぎると思ったし。

 

「わたしは最初から切符を持ってなかったんだよ、きっと。だってわたしは最初から求めていなかったんだから」

 

 ただ、流されるままに生きてきただけ。

 だから燐のように先の事柄に何も見出すことができなかった。

 

 ”選び取るものがない”。

 

 あれから一年が経っても何も変わってないのかもしれない。

 

 色々なものに興味を惹かれるまま手を出してみたのだが、本当に欲しいものは結局見つからなかった。

 

(それはそうなんだよね。だってもう、最初から持っていたんだし……)

 

「ねっ」

 

「ふぇっ?」

 

 蛍は燐を見つめてにこっとした。

 それが何のことか直ぐにはわからず、燐は曖昧な瞳のまま微笑み返す。

 

 きっと、この関係性こそが大切なものなのだろうと思う。

 近すぎて気付かない、かけがえのない大切な人。

 

 このまま欲望の赴くままのことをしたらあなたはどう思うのかな。

 

 拒絶?

 それとも……嫌悪?

 

 蛍にはどちらの表情も魅力的に感じる、きっと間違いなく。

 

 別に嫌われたいわけではなく。

 ただ、あなたの──燐の違う表情が見てみたいだけ。

 

 もう多分最後なんだし、これぐらいの贅沢があっていい、よね?

 

 蛍がにこっと微笑んでこちらを見ている。

 

(いつもと変わらない蛍ちゃんなのに……)

 

 なぜだか悪寒のようなものを背筋に感じてしまった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「ねぇ、燐は座敷童ってなんだと思う? こんなこと今になって聞くのもなんだけど」

 

「えっと、うーん」

 

 不意に訊ねられて頭を捻る。

 

 あの時は町の異変を解くために座敷童の事を調べていたのだけれど、今や自分の身に降りかかる事案になってしまった。

 

(他人事と思って流していたけど)

 

 もう少し、ちゃんと考えた方がいいのかもしれない。

 

 あの時は、興奮しててとても酷い事を口走りそうになってしまったけど。

 結局、そのことが自分に返ってくるとは露ほども思わなかった。

 

 でも、蛍だけでなく自分まで座敷童になってしまうなんて。

 荒唐無稽と言うか……この世界でそんなことを思うこと自体がおかしいんだけど。

 

(そういえば……)

 

 燐は指で唇をなぞると、聡から借りた本の知識を幾つか思い出した。

 

 何かの書籍で書いてあった気がする。

 

 人は食事、つまり摂取する”栄養素”が育まれる人格に影響を及ぼしてくると。

 

(要するに……わたしは座敷童の家で食事をしたから、同じ仲間──座敷童になっちゃったってこと、なのかな……?)

 

 蛍ははっきりとは明言しなかったし、自分としてもそうかなと漠然と思っただけで。

 

 なんていうか、決定的なものが見当たらなかった。

 自身が座敷童であるというパズルのピースが抜け落ちている。

 

 ”同じ釜の飯を食う”なんていう表現があるけど、それがわたししか食べていない場合はどうなんだろう。

 

「あっ、そっか」

 

「どうしたの、燐」

 

 難しい顔で考え事をしていると思った燐が急に声を上げたので、蛍は少し心配そうに尋ねる。

 

(だからなんだ……わたしの家にオオモト様が来てパンを焼いてほしいって言ったのは。あれはつまりわたしと”同類”って意味だったんだ……)

 

「燐」

 

 蛍が顔を覗き込んでいた。

 

 怯えたような瞳。

 きっとわたしも同じ瞳の色をしているんだと思った。

 

「あはは……蛍ちゃんとはずっと友達でいたいなって思って」

 

「? そんなの当たり前じゃない。燐が嫌っていうまでわたし達友達だよ」

 

「そっか、じゃあずっと友達のままだね」

 

「……うん」

 

 ちょっと間が出来た。

 

 燐は気持ちを紛らわそうとテーブルの下を覗き込んだり、戸棚を開いたりしていた。

 蛍もどこか落ち着かないのか、空っぽのコップを手にキッチンへと戻っていく。

 

 それぞれの時間。

 それぞれの思いがあった。

 

「燐とオオモト様ってどこか似てるよね」

 

 備えてあったクロスで手を拭きながら、蛍が唐突な事を言った。

 

 燐は驚いて立ち上がる際、テーブルに頭をぶつけそうになったが。

 

「それって蛍ちゃんの方でしょ? 二人とも綺麗だし。わたしとオオモト様は全然似てないと思うよ」

 

 あんな柔和で優雅な佇まいは到底出せそうにないし。

 

 燐はかがんだ態勢から立ち上がると、またソファの上に鎮座した。

 蛍もその横に腰を下ろす。

 

「容姿じゃなくて、境遇が似てるのかも? 上手くいえないけど、燐もオオモト様も一途……あ、クドい感じみたいだし」

 

 蛍が首を捻って言い直したが、それはあまり良い言葉ではなかった。

 

「わざわざ悪く言い直さなくてもいいのっ。ふつーに一途でいいじゃん……わたしはともかくオオモト様に悪いよ」

 

 蛍との付き合いが燐でも蛍がたまにする変な言い回しには参ってしまうことがあった。

 そこが誤解を生む原因になることがあるから、他の人が居る時は燐がフォローに回ることさえもあった。

 

「ごめんごめん。でも、オオモト様はわたし達のことずっと見ていた気はするんだ。どういう方法は分からないけど」

 

「ずっとって、それって蛍ちゃんと友達になる前からのこと?」

 

 もしそうだとしたら偶然よりももっと強いもの。

 運命だったと言えなくもない。

 

 蛍と友達になったのだって或いは……とか。

 

「その辺りのことはよく分からないけど。もしかしたら、そうなのかもしれないよ。()()()() ()がそれに気付いていなかっただけで」

 

 困ったように蛍は眉を寄せる。

 

「うーん、それってストーカー、だよね。映画のSADAKOみたいにずっと前から目を付けられてたのかなぁ……」

 

 縁起でもないことを想像して、燐は少しげんなりとした気持ちになった。

 

「呪いとかそういうオカルトはないってオオモト様が言ってたじゃない。燐がそうなったのはやっぱり偶然だと思う」

 

 蛍はそう言うが、蛍のそもそもの出生がオカルトじみていると言うことをすっかり忘れているようだった。

 

「それにオオモト様だって何か自分なりの考えがあったんだと思うよ。”どんなことをしても”町の歪みを止めたかったみたいだったし」

 

 オオモト様の気持ちを代弁するように、珍しく少し熱の入った口調で蛍はそう推論した。

 

 蛍がムキになるのにはやっぱり血縁関係だからではないかと燐は思っていたが、あえて黙っていた。

 

「それはなんとなく分かるけど、結局歪みは起こっちゃったよね。町の人達は変貌(かわった)し、小平口町はずっと夜のままだったもんね」

 

 燐は小さく肩をすくめた。

 

 結果がどうであれだなんて、上手くいなかったことへの言い訳でしかないわけなんだし。

 生死に関わる重大なことなら、責められはしても労ってくれるものは殆ど居ないわけだしね。

 

 それに、オオモト様が色々考えていたのはノートに書かれていた事柄からある程度予測をつけることができた。

 

 けれどその方法は稚拙(ちせつ)というか、町の歪みを変えられる程度のものでは到底なかった。

 

 むしろ、そのせいで悪化、もしくは異変が起こる時間を早めてしまったとも言えた。

 

(けど、そのおかげでおにいちゃんと蛍ちゃんがあんなことにならなかったわけだし)

 

 そのことだけ見れば上手くいってくれたと思う。

 でもそれだって偶然なのだろう。

 

 意図したものではなかったから、彼女だってやり方を変えざるを得なかったのだろうし。

 

(仕方ないのかな……あの人はずっと小さい頃から町の人達にひどい目に遭わされてきたわけだし……)

 

 ”最初の儀式”と言っていた以上、あれで終わりではないことは容易に窺える。

 その辺りもノートに記載されていた通りだとは思うけど。

 

「オオモト様ってさ、小平口町の人達に恨みとかそういう感情を持たなかったのかな? もしわたしだったらすぐに心を閉ざしちゃうと思うけどね」

 

 あんな酷いことをずっとさせられたら誰だってなるとは思う。

 

 それどころか自ら命を絶ったって不思議ではないぐらいの非道な行為だったから。

 

「そこは……謎だよね。わたしだって大川さん、とか関わった町の人達の顔をまともに見ることがまだちょっと出来ないし……」

 

 相手は何も覚えていないのだから理不尽ではあるのだけれど、疑う事すら知らなかった蛍だからこそ、その辺りの折り合いをつけるには思っていた以上の時間が掛かっていた。

 

 知らぬが仏でいられればどんなに良いことか。

 

 知ってしまった以上はもう戻れない。

 例え表面上は平穏であったとしても。

 

 同じ時間は二度と帰ってはこないのだから。

 

 

「あのね、燐。わたし、ちょっとやってみたいことがあるんだけど。少し付き合ってもらっていい? これが最後かもしれないから」

 

 蛍はおずおずと、でもはっきりとした意思でもって切り出した。

 

 少し唐突だったが。

 燐はにこり、と笑みを見せると蛍の手をぱっと取る。

 

 自然な流れ。

 いつもの燐、だった。

 

「蛍ちゃん、お願いに、最初も最後もないんだよ。それに、わたしは蛍ちゃんのお願いならなんでも聞いちゃうんだからね」

 

「そっか、燐はそうだったもんね。ありがとう、燐」

 

 蛍は透明な笑みを浮かべてお礼を言うと、繋がり合った手を愛おしい何かのように口元まで持ち上げ、それぞれの指の間にそっと唇をあてた。

 

「あ……」

 

 燐は呆気に取られたようにその光景を見送っていた。

 瞳を伏せた蛍の横顔がとても綺麗だったから。

 

 唇が触れた指がとてもあたたかい。

 白いレースで包まれているかの様な心地よさがいつまでも残っているかのように。

 

 燐は恥ずかしそうに笑顔を送ると、蛍と同じように口元に持っていき、その可憐な指を小さな唇で挟んだ。

 

 ちゅっ。

 と、燐は唇を押し当てる。

 

 思いを込めるように強く。

 

 蛍からは与えられてばかりだったから、その思いを少しでも応えてあげるように。

 

「……燐」

 

 二人は衝動的に瞬間的な幸福と想いを同時に与え合った。

 

「それで、ええっと……蛍ちゃん。やってみたいことって」

 

 恥ずかしそうにしながらも手を離すことはしなかった。

 

「うん……ねぇ、燐。ちょっと外へ出てみない?」

 

「家の中じゃできないことなの?」

 

「うん」

 

 燐はなんとなく察したようにふむふむと顎に手を当てて何度か頷いて見せた。

 蛍もそれにつられてうんうんと頷く。

 

 そのまま濡れ縁から外に出ても良かったが、なんともはしたない気がしたし何より靴は玄関に置き去りのままだった。

 

 二人は連れ立ってリビングを後にする。

 

 蛍はふと立ち止まってもう一度リビングの部屋の中を見渡した。

 

 家具も調度品にも以前の面影はない。

 

 けれど。

 

(あの人の残り香がまだどこかにある気がする……)

 

 テーブルにもソファにも何の痕跡もない。

 

 あるのは静かなキッチンの冷蔵庫と、音もなく回る天井のプロペラ。

 

 柔らかな光を受け入れる透明なガラス窓。

 青いドア。

 

 それらが組み合わさって”青いドアの家”だった。

 

 あの人は、現れなかった。

 理由は分かっているけどそれでもやっぱり寂しい。

 

 止まったように静まり返ったリビングの中身は、あの人の心を映したように、清潔で穏やかだった。

 

「お邪魔しましたー」

 

 燐は誰もいないリビングに声を掛ける。

 静かな室内に燐の元気な声が響く。

 

「お、おじゃましました……」

 

 蛍も空っぽの部屋に声を投げた。

 

 声を返してくれる人はもう居ない。

 もっとも、前の家でも最初からいなかったのかもしれない。

 

 あの人はそんな自分の事すら気に掛けるような人ではなかったから。

 

 でも。

 

 蛍はもう一度だけちらりと目線を送ると。

 

「また、来ます……」

 

 それだけを残して、ガラスに区切られたリビングのドアをそっと閉めた。

 

 

 ───

 ───

 ───

 

「んーーー」

 

 青いドアの家から出ると、燐は溜息と一緒に息を吐ききった。

 

 額が少し汗ばんでいた。

 この場所では暑さなんて感じないはずだったが。

 

「にしてもぉ、わたしが座敷童かぁ……蛍ちゃんもだけど、やっぱりショックはショックなんだよね」

 

 動揺からくる火照りを覚ますように、燐は手で自分の顔を仰ぐ。

 

「それは仕方ないよ」

 

 困り顔で蛍は微笑むしかなかった。

 

 青い空に広がる大きな雲が二人の頭上に柔らかい影を落とす。

 それだけでも少し涼しい気持ちになった。

 

 自覚が全くないわけではなかった。

 

 それはあの消える直前に突然わかったことだったし。

 

 ただそれを指摘されるのはやっぱりショックだった。

 言われたからってどうにかなるようなことでもなかったし。

 

 何より一番の友達に言われるのは、自分で思っていた以上の衝撃があった。

 

 しかも友達(蛍ちゃん)だって座敷童であるのだし。

 

 あまりな言い方をあえてするならば、二人とも、もう人とは純粋に呼べそうにはなかった。

 

「蛍ちゃんもさ、()()()()()に言われた時、これぐらいショックだった? わたしなんて、目の前が一瞬真っ暗になっちゃった」

 

「あ、うん……何を基準にしたらいいか分からないけど、やっぱりすごくショックだったと思うよ。もう大分前のことなんだけどね」

 

 蛍も全く思い当たる節がなかったわけでないが、後にして思うとその事を言う人に恵まれなかったことのほうがショックが大きかった。

 

(燐もわたしと同じで、真実よりもその真実を隠されていた方のが辛いんだね……ごめんね、燐)

 

 蛍は胸中でそっと涙をこぼした。

 もっとちゃんとした言葉で伝えてあげるべきだったのに。

 

「でも、あの時ほどじゃなかったかな。ショックの割合は」

 

「あの時って?」

 

 燐が首を傾げるのを見て、蛍はふふっと微笑んだ。

 

「……さ、行こう。燐はわたしのお願い何でも叶えてくれるんでしょ」

 

 少し強引に燐の手を掴むと、今度も蛍が先行して歩き出した。

 

()()()()、なんて、言ったかなぁ……?」

 

 蛍に引かれながら、燐は自分の頬を指で掻く。

 

「別に変なお願いじゃないからだいじょうぶだよ」

 

 ”大丈夫”がいちばん”大丈夫じゃない”のはお約束だけど。

 

 ここに来てからの蛍はなんとなく浮足立ってみえる。

 本人は否定するだろうが、やっぱりこの世界と波長が合うのかもしれない。

 

 だってこの世界は”オオモト様の世界”、だったのだから。

 

(それってわたしも含まれるんだよね。別に嫌悪感とかそう言うのはないけど)

 

 今更、駄々をこねるなんてことはしない。

 蛍だって自分の身体を多分、呪ったりもしたんだろうし。

 

 ただ、どうしてこうなったんだろうとは思ってしまう。

 

 普通とか平凡だとの事がこんなに難しいことだとは微塵にも思わなかったから。

 

 ……

 ……

 

「──で。ここで何をするの、蛍ちゃん」

 

 燐は足元を指さしながら蛍に問いかける。

 まさか釣り、なんてことはないと思うけど。

 

 二人は大きな水たまりの縁の所に並んで立っていた。

 

 僅かに覗いている白い大地は、まるで()()()()の砂浜のように空からの光を浴びてきらきらとしていた。

 

 これで潮風が流れてくれば大海と見間違ってもおかしくはないけれど。

 この世界で風を感じたことなどこれまで一度たりともなかった。

 

 蛍はしゃがみ込むと、透明な液体(水?)を手で掬ってみた。

 

 零れ落ちる水は一見ただの水にしかみえない、泡のように溶けてなくなることもなかった。

 普通に蛍の手から零れ落ちる。

 

 雨水なのかどこからの湧き水かは分からないが、それは空との間に境界線を作り、彼方まで広がっているようだった。

 

「燐はさ、気にならない? この水溜まりってどうしてできたのかなって」

 

 なんとも言えない表情の蛍が波紋の上に浮かんでいた。

 

「そこまでは……気にならないかな。まだ、線路の先とか電車の方が気になるかも。でも蛍ちゃんは気になるんでしょ、池っていうかこの大きな水たまりのこと」

 

「うん、この世界の水かさが増したのと、被害が起きなかった小平口町の様相と何か関係があるのかなって……」

 

 蛍がぱしゃ、っと水を弄びながらつぶやく。

 燐は息を吐くと、蛍の隣でしゃがみ込んで同じようにその水を手で掬ってみた。

 

「ここの水、別に冷たくはないね」

 

 不思議そうに首を傾げる。

 

「燐も、そうだったの? それ、わたしだけかと思ってた」

 

 蛍はほっと息をつくと、指でつまむように水をすくった。

 

 確かに温度は感じない。

 そのせいか、ちょっと怖い気もする。

 

 ”別の液体”と形容するのが正しい気がした。

 

「指が溶ける……とかはなってないよね?」

 

 慌てて蛍の手を自分の手を見比べた。

 燐は漫画か映画で見た硫酸の海を思い出していたのだった。

 

 蛍は困ったように頷くと、何でもないように掌を広げてみせる。

 

「良かったあ。でも液体って色々あるからね。わたし達だけじゃ全然判断付かないし」

 

 燐はほっと胸を撫で下ろした。

 

「何かの実験道具があればいいのにね。成分とか調べたらこの世界のことがちょっとは分かるかもしれないよ」

 

「”青いドアの家”の研究か。誰も信じてくれなさそうだよね、それ」

 

「でも、燐だけは信じてくれるじゃない。それだけでも研究する価値はあるよ。それにわたし、少し前までそうしようと思っていた時期もあったし」

 

「座敷童とか、町の事?」

 

「うん。途中で止めちゃったけどね」

 

「そうなんだ、ちょっと勿体ないね」

 

 蛍が未知のものに触れた時の様な感嘆とした表情で触り続けていた。

 

「これ。パン作りの修業に使えるかもね」

 

 座敷童や小平口町の事を調べたのは結局自分の為だったから。

 

 燐が居なくなったこと。

 

 その一点を知りたいが為に図書室の資料を漁ったり、町を彷徨ってみたけれど。

 

(全部、意味がなくなったもんね。燐は自分で戻ってきたし、わたしは……)

 

 徒労だったと思う。

 一応ノートには纏めたけども。

 

 去年の夏はそれだけで全て消えてしまったし。

 

 でも──こうして振り返ることは良いことだと思う。

 

 それに、燐と今でも一緒だから。

 こんな研究なんて最初からどうでもよかったんだ。

 

 燐さえいてくれたら他には何もひつようないから。

 

「蛍ちゃん?」

 

 蛍は急に立ち上がると、成分の良くわかっていない液体の海の中に一歩、足を前に踏み出す。

 

 ぱちゃ、と小さな音を立てて蛍が靴ごと足を入れているのを見て、燐は現実のことなのか直ぐには見分けがつかなかったのだが。

 

「ちょ、ちょっと……蛍ちゃんっ!!」

 

 焦燥感に駆られた燐は慌てて立ち上がると、当然のように水の中に入って行く蛍の手を掴んだ。

 

 その手は思っていたよりもずっと冷たかったので、燐は一瞬、ひやりとしたのだったが、手を離すような真似は絶対にしなかった。

 

 この手を離したらもう二度と会えない。

 

 そんな気がしたからだった。

 

「どうしたの蛍ちゃん!? 危ないよっ!」

 

 叫ぶような声を上げる燐。

 

 それでも、手を無理矢理引っ張ろうとはせずに、あくまで蛍の隣に寄り添ってその腕をしっかりと抱きとめた。

 

 ばしゃばしゃと水しぶきが跳ね上がって二人の少女の制服を濡らす。

 

 ……そのはずだった。

 

「燐、ほら、濡れてないよ。靴も制服も」

 

 くるぶしまで水に浸かりながら、蛍が濡れたはずのスカートをパタパタとさせて、燐に向かってそう言った。

 

「あ、本当だね。って、やっぱり危ないよ蛍ちゃんっ。これ水じゃなくて変な液体だって」

 

 確かに蛍の制服の上着もフリルの付いたスカートも全く濡れていない。

 それは蛍だけが特別というわけではなく、燐も制服も同様に染み一つ付かなかった。

 

「変な液体って?」

 

 何のことか分からず首をかしげる蛍に、燐は顔を真っ赤にしてつぶやいた。

 

「へ、変な液体は、変な液体……だよ」

 

「ふぅーん」

 

 ばしゃっ。

 

 蛍は水に浸かったままおもむろに手で掬って、あろうことか燐に水を振りかけた。

 

 びちゃ、という濡れたときの音がするが、燐の身体も髪も滴ることはなかった。

 

「……」

 

 燐は声も上げずに、立ちすくんだ様子で自分の状態を確認する。

 

「濡れてない……ね」

 

 確かに服も何も濡れてないので、キッと睨むことも叫び声をあげる要素もない。

 

 それはまっとうな水の場合なのだが。

 

「濡れないってことは水分じゃない、の? 科学苦手だから全然わからないよ~」

 

 燐は困ったように蛍を見つめ返す。

 

「ごめん、燐。わたしも化学は苦手だから」

 

 蛍は片目を下げてそう謝罪した。

 

「それなのに、水を掛けたりしたの?」

 

「なんか、楽しそうかなあって」

 

 ほらもうすぐ夏だし、去年は海にも行けなかったから。

 と、蛍は取ってつけたように夏を言い訳にした。

 

「そんな、いたずらっ子の蛍ちゃんにお返しだあっ! えいっ」

 

 燐はお返しとばかりに蛍にも透明な、水の様なものを浴びせかけた。

 

「きゃぁっ!」

 

 約束事のように声上げた蛍。

 得体の知れない水を掛けられたのにどこか楽しそうだった。

 

 頭からずぶ濡れになったはずなのに、二つに結わいた長い髪は一滴の滴さえも纏わりつかせてない。

 

 まるで水滴が蛍の身体をすり抜けているかのように。

 

「じゃあ燐にももう一回、えいっ」

 

「やったなぁ、それっ!」

 

 蛍と燐は童心に返ったように水を掛け合った。

 

 本来だったらずぶ濡れになるのが必然なのに、水は何かの膜が貼っているかように二人の身体を濡らすことも、また冷たさを感じさせることもなかった。

 

 それは人工的に作られた砂や雪のように、後腐れなく元の水たまりへと戻っていく。

 

 人工的という言葉はある意味適切な気はする。

 

 もしこの水が”ダム湖から溢れるはずの水”だったとするならば、それは何かの力を借りないとあり得ないことだし。

 

 人の手、もしくはそれ以上の力がないと成しえないことだった。

 

 オオモト様の力だったなら、それは()()()()()()()

 

「どういう理屈なんだろうね」

 

「うん……やっぱり水じゃないのかもね。水っぽい”別の何か”しか言いようがないよ」

 

 燐は笑いながらそう言ったが、それは不安を隠すための笑顔だった。

 

 水じゃなかったら?

 それを深く掘り下げるのはなんとなく危険な感じがした。

 

 さっきコップで飲んだ水もそうなのだったが、この世界は燐にも波長があっていた。

 それは蛍よりもずっと。

 

 それは少し怖いことだったから。

 

(……祭りのあとみたいな感じ)

 

 心の奥にそれがずっと付きまとっている気がする。

 綺麗な夕焼けの後の、夜の帳が降りるその境の曖昧な時間のように。

 

 自覚はない、でもどこかで意識してしまう。

 

 何かの終わりを。

 

 ただでさえわたしは寂しさから一度、飲まれてしまったのだから。

 

「きゃあっ!!!」

 

 蛍の叫び声……なんだろうか。

 考えを打ち消して、燐は声の方を振り返った。

 

「ほ、蛍ちゃん、どうして!?」

 

 隣にいるはずの蛍だったが、いつの間にか燐から離れて、水たまりの中心の方までひとりで行ってしまっていた。

 

 空を映し込む水鏡の中に蛍が上半身だけを出して、ばしゃばしゃと水しぶきを上げている。

 

 考える間もなかった。

 

 明らかに溺れている。

 そう思った燐は、体に纏わりつく水流をかき分けながら蛍の下へと駆け寄る。

 

 水の深さとかそう言う重要な事はこの時、頭に入ってなかった。

 

「蛍ちゃん!!」

 

 ただ蛍を助けること、それが最も重要なことで、後の事は考えてない。

 

 足を入れたとき、(くるぶし)程度だった水かさは、燐が先に進むたびにどんどんとその高さを増してきている。

 

 すり鉢状の池になっているのかもしれない。

 水の重さで思うように動かせない足をもどかしく思いながら、助けを求める蛍の下へと足を進めた。

 

「燐っ!!」

 

 蛍の声に焦りが混じったことを感じた燐は、水が腰の高さまで来たところで、一度軽く深呼吸をすると、水面に顔をつけて泳ぎ出した。

 

 青一色の水の中は吸い込まれそうなほど美しく、奥の世界まで見ていたいほどだった。

 

 だが、そんなことは後でも出来る。

 今は蛍のことを最優先にした。

 

 濡れることのない怪しい水に顔をつけることはかなりの抵抗があったけど、そんな事を気にしている場合じゃなかった。

 

 かけがえのない友達が自分の名を呼んで助けを求めている以上、それに全力で応えるのが自分の目的、生きている意味だと思っていたから。

 

 手と足を懸命に動かして泳ぐ。

 もしタイムを計ったら相当な結果が出そうだが、それすら意味がなかった。

 

 そこは全く重要じゃなかったから。

 

「蛍ちゃんっ! もうすぐ、だからっ、待ってて!」

 

「……燐っ!」

 

 燐が蛍の傍までようやく近づいたとき、ほんのわずかな違和感があった。

 今までの場所との違いというか、水の広がりのようなものがあった。

 

 水の色、青さが違う気がした。

 

 けれでもそんな事を気に掛けるよりも、まずは蛍の救出。

 

 それを優先する。

 

 燐は蛍が足がつったんだと思ったので、まずは落ち着かせることにした。

 そして二人でゆっくり陸地へと戻ればいい、それで大丈夫だと思った。

 

 ──だから、傍まで寄って蛍の手を取ったとき安心しきってしまっていた。

 

「えっ!?」

 

 いくら水を含んでいたとしてもそこまで重くはないはずだった。

 ましてやこの水は濡れないはず、だからそういった物理法則とは無縁だと。

 

「燐っ! 手を離してっ!! このままだと二人ともっ……きゃっ!」

 

「蛍ちゃん!!!」

 

 絶対に離すつもりなんてない。

 もう、あんな辛い思いはしたくなかった。

 

「うわっ!」

 

 引っ張られる。

 もの強い力で引き寄せられていくように。

 

 磁石がくっつくような、これまで経験したことのない強い力で。

 

 引っ張られていく、水中へと。

 

 深い、深い水の中に

 二人いっしょに。

 

「がふっ!!」

 

 激しく水を飲んでしまった。

 

 一体なにが引っ張っているのか、燐は水中で目を凝らす。

 

「……!!」

 

 助けを求めるように手を伸ばした蛍の脚に何かが巻き付いているような気がする。

 でもそれはほんの一瞬そう見えただけで。

 

 ごぽごぽごぽ。

 

 それを確認する間もなく。

 どんどんと、どんどんとひきこまれていく。

 

 真っ青な水のその奥へと。

 

 体の至る所からぽこぽこと気泡が零れていく。

 

 二人の鼻や口、制服のポケットの隙間からすらも。

 とめどなく流れていった。

 

(……蛍ちゃん!?)

 

 燐は驚愕に目を見開いた。

 

 繋がれた手、それを蛍が外そうとしていた。

 溺れかかりそうなのに、懸命に指を手の隙間にねじ込むようにして。

 

(せめて、燐だけでもっ……)

 

 あの時と逆だった。

 

 電車での時も線路の上を歩いていたときも、手を離したのは燐の方だった。

 

 でも、今は手を離してはくれない。

 

(だったら、今度はわたしが外すしか……っ!)

 

 空気が激しく漏れ出す。

 

 でも外すしか、それしか燐が助かる方法がなかった。

 

 こんなことになってしまったのは自分の不注意だったから。

 その責任を取りたかった。

 

 それにしても、水溜まりの中央部分がこんなに深くなっているとは思わなかった。

 

 なんで歩こうと思ったのだろう。

 けど、今はそんなことはもうどうでもよくて。

 

(燐っ!! お願いだからこの手を離してっ!)

 

 蛍は目で訴えかける。

 けれど、燐は困惑の表情のままぎゅっと手を握りしめたままだった。

 

 その瞳はずっと綺麗な色のままだったから。

 

「……燐」

 

 言葉と引き換えに大量の水が口内に流れ込んでくる。

 得体の知れないこの水を飲むなんて考えもしなかったはずなのに。

 

 きっともう、戻れない。

 そんな重苦しい予感がふと頭をよぎる。

 

「蛍、ちゃん……」

 

 燐は引っ張りあげるどころか、手を握ったまま蛍の傍まで泳いで行く。

 なにかを決断したような柔らかい瞳を向けて。

 

(燐……どうして?)

 

 燐の瞳に見初められると何も抵抗することが出来ない。

 自分にはその権利がない、そう思っていたから。

 

 愛おしい気持ちが心の中でどんどん膨らんでいくようだった。

 

 燐が決めた以上、蛍はもう何も言うつもりはなかった。

 

 だって蛍にとって燐こそが世界で。

 燐にとっても蛍が唯一の希望、それだったのだから。

 

 蛍と燐は水の中、至近距離で見つめ合った。

 

 無理して喋る必要なんてなかった。

 視線も想いもつねに同じ方向だったから。

 

(蛍ちゃん……大丈夫だよ。わたしは……蛍ちゃんを絶対に幸せにしてあげるから。だから一緒に行こう、どこまでもどこまでも、ね……)

 

 もう遠い遠い記憶の欠片。

 

 けれどもまだ一番大切な場所に残っていた。

 

 それは自分だけの思いじゃない、蛍にも聡の中にもまだ残っている。

 

 あれだけの体験をしても人の肝心なところは変わらない、変わりようがなかった。

 

 一番大事な人が居た。

 その人の為なら何でもしてあげたいと思った。

 

 だけど。 

 

 本当に大事な人は、どんな時でも寄り添ってくれる人。

 

 それは──友達だった。

 

 走馬灯のように、想いがぐるぐると螺旋を描いて頭の中をかき回す。

 

 空からの光がどんどん弱くなり、水面から遠く離れて行くのを肌で感じる。

 けれどそれに比例するように大事な何かを思い出していく、そんな錯覚もあった。

 

 テレビのリモコンを回すように頭の中でモノクローム映像が何度も切り返っていく。

 ときにノイズであったりもするけれど。

 

 それは写実的な想いを一つづつアルバムの中に収めていくような。

 

 そんな地道な作業だった。

 

(そっか、蛍ちゃんはきっと……)

 

 燐は蛍の両手を繋ぎ合わせると、自身の胸の中でぎゅっと抱きしめた。

 

(り、ん……)

 

 蛍は驚いたが抵抗はなかった。

 ただ、涙でぐちゃぐちゃの顔を燐に見られなかったことに安堵した。

 

 すでに水の奥深くまでいるのに。

 

 二人の泡が混ざり合う。

 

 泡のビスチェに包まれた二人は、そのまま消えてしまいそうなほど綺麗だった。

 

 ──本当に、きれいだった。

 

「ねぇ……蛍ちゃん」

 

 彼女の耳元で想いを寄せる。

 もう声も思いも届かなくなる、そう思ったけれど。

 

「なぁに、燐……」

 

 囁くような声で蛍はちゃんと答えた。

 

「ごめんね……蛍ちゃん」

 

「燐?」

 

 蛍は口を開いていた。

 これ以上水を飲んだら余計苦しくなるはずなのに、そんなことには気にも留めず。

 

(わたしの方が悪いんだよ……だからそんなこと言わないで)

 

 蛍は罪悪感で押しつぶされそうになって、燐の背中を掻き抱いた。

 

 どくんどくん。

 

 二人の鼓動が音叉のように高鳴り合って身体の内側を刺激する。

 

「まだ、あったかいね……」

 

「うん……ごめんね、燐」

 

 彼女が謝る必要なんてないと思う。

 だって本当に悪いのは自分だったから。

 

 わたしが彼女の心を砕いてしまったんだ。

 

 ──悪いのはわたし、それはずっとそうだった。

 

 彼女だけじゃない、両親も従兄も友達との関係も。

 悪いのは全部、わたしなんだ。

 

 だってわたしはすごく弱いから。

 

 弱いから……だからもう、彼女の思いには答えられそうになかったから……。

 

 

 

「蛍ちゃんが謝ることなんてないよ……わたしこそゴメン……」

 

 わたしは謝るしかなかった。

 目の前の友達にもあの人にも。

 

 わたしは自分の心はもう壊れてしまったと思い込んでいた。

 もう元には戻らないものだと。

 

 けど、そうじゃなかった。

 壊れていたのは精々半分程度で、しかもまだ直すだけの欠片も残っていた。

 

 きっと臆病になり過ぎていたんだと思う。

 憧れを抱きすぎて、本当の色を見ていなかったんだ。

 

 瞼がゆっくりと重くなっていく。

 

 水圧によるものなのか、疲労からか。

 ともかく目が閉じようとしていた。

 

 でも、不思議と心地いい。

 

 好きな人と一緒だから。

 きっとそう、だよね。

 

 わたしが”本当に”オオモト様だったら、空と水とも一体になれるのだろう。

 そして彼女とも。

 

 半分ほどの視界がどんどん暗くなっていく。

 

 日が沈んで夜になっていくような必然性。

 

 夜が来ないと思っていた世界で夜の陰りを見ることができた。

 

 でも天からは日がさしている。

 いつものように燦々と。

 

 少女たちは昼と夜の狭間にいた。

 

 空と水。

 昼と夜。

 

 全てが混ざり合っていく。

 

 薄れていく意識の最後に見たのは、ほんとうに大切な友達と、月のない夜空に降り落ちた、青と黒のスクリーン。

 

 燐の瞳には夢の中の極光(オーロラ)のようにうつくしく見えた。

 

 蛍もいつの間にか燐のすぐ隣でその情景を一緒に眺めていた。

 

 二人は同じ景色をみて、同じように胸をときめかせた。

 もう地上には戻ることができないのに。

 

 だから綺麗なのかもしれない。

 

 もう二度と戻れないから綺麗なんだと思う。

 

 だから大切にしないといけないのだけれど……。

 

 意識が、想いが落ちていく。

 水泡のように儚い音を立てて。

 

(このまま水に溶けたら綺麗な泡になるのかな……)

 

 口元がほんの少しだけゆるんだ気がした。

 

 ────

 ───

 ──

 

 コトン。

 

 小さく音がした。

 

 きっと底についたんだろうと思った。

 

 思ってたよりも苦しくなかったのはあの変な水のせいなのかもしれない。

 

 けれど、もう終わり。

 

 溺れてしぬのはもっとも苦しいって聞いたことがあったから、そういう意味ではラッキーだったと思う。

 

 それによく言う、土左衛門(すいしたい)は、体中が水でぱんぱんになって、どんな美形の人でも一目も見られない姿になると言うし。

 

 この世界では他に人が来るはずもないからその心配も無用。

 他の人に嫌な思いをさせないで済むし。

 

 それに好きなひとと一緒に最後の時を迎えるのは一番の幸せと言っても差し支えはない。

 

 それこそが人の生きる意味。

 幸せな最後だと思っているから。

 

 良かった……ほんとうに。

 

 戻ってきて、良かった。

 

「……だからあなたは自分を捨てたのね。自分を蔑ろにすることで最後に残った大切なものを守ろうとした。彼と同じように……」

 

 ……内側から声がする。

 

 懐かしさを感じる柔らかい声。

 

 その声には聞き覚えがあったが、今はそんなことはどうでもよかった。

 

「自分を大切になさい。あなたは我慢をしすぎるわ。もっと肩の力を抜いて……」

 

 ──そんなこと、言われなくなってわかってる。

 

 でも、それしか方法を知らないから。

 

「だったら寄り添えばいいのよ。それは自分だけじゃなく、相手にも。()()()()寄り添っていけばいいのよ」

 

 でも、もう終わっちゃったし。

 

 だから、もう無理……です。

 

「終わりはないわ」

 

 意思のこもった声。

 耳朶を打つ強い声。

 

「だってあなたは座敷童なのだから」

 

 

 ── 

 ───

 ────

 

 

「ねぇ……蛍ちゃん……? 何を、しようとしてたの……?」

 

 燐がふいに目覚めたので、蛍は思わず顔を離していた。

 

「えっと、人工呼吸……かな」

 

 蛍は恍けたように横を向いた。

 

「……」

 

 燐は蛍の顔、ではなくその後ろを見ていた。

 

(青い、景色……?)

 

 空の色とは違う青が広がっていた。

 

 とめどなく揺らぐ景色は、人工呼吸と言った蛍の言葉を裏付けるかのように現実感が薄かった。

 

 天井からは細い光の柱が何本も差し込んでいた。

 

 けれどそれはとても遠くて。

 見えない天井に阻まれたみたいに、途中から切れてしまっていた。

 

「……もう、死んでるのにぃ?」

 

 燐は小さく微笑む。

 

 その笑顔には少し皮肉が混ざっていたが、それは死人のものとは思えないほど血色がすこぶる良かった。

 

「大丈夫、燐は()()()しんでいないから、安心して。それに、燐もわたしもまだ一度も正式にしんだことってないと思うんだ」

 

 死亡に正式や略式のようなものがあるのだろうか。

 

 燐は訝し気に眉をひそめたが、周りの景色を見ることが出来るので、少なくともまだ意識は残っているとは思った。

 

 どれだけ続くかは分からないけれども。

 

「燐、ウソだと思ってるでしょ?」

 

「そんなことは……思ってないけど……でも、わたしたちが今いるのってさっきの水の中でしょ。やっぱりしんでる方が普通なんじゃない?」

 

「そう、かもしれないけど……でも、生きている実感はあるよ」

 

 ほら、と蛍に手を差し伸べられて燐は上体を起こす。

 蛍の手のひらからは確かな温もりを感じた。

 

「なるほどね」

 

 腑に落ちない所はまだあるけれど。

 

 燐はようやくちゃんとにっこりとした。

 

 ……

 ………

 …………

 

 頭上には緩やかな波紋を広げた空が広がっている。

 

 ファインダー越しに見ているような透明な青いヴェールが幾つもの筋を作っていた。

 それが遥か遠くの先まで広がっている。

 

 泳いで戻るにしてもかなり遠い、そこまで息が続くのだろうか。

 

 そんな事を考えている時点で、すでに手遅れだったと気づく。

 

「もう地上には戻れないんだね……」

 

 それが今の答えだった。

 

「この砂、さらっとしてるね。まるで星くずが落ちてきたみたいだよ」

 

 蛍は暢気に足元の砂を拾い上げて、感嘆するように指で触っていた。

 

 光は奥まで届いていないのに、その砂はきらきらと綺麗な色を放ちながら、蛍の指をすり抜けていく。

 

 蛍の言う通り星くずを散りばめたような砂粒は別の意思を持っているかのように、水中で広がりもせずにそのままベージュ色の砂漠へと還っていった。

 

 浮力もなければ、水圧のようなものもない?

 

 じゃあ酸素は?

 この水のような液体は一体……?

 

 考えることが多すぎて頭が割れそうに痛くなってしまった。

 

「全部が偽物だから大丈夫なのかも」

 

 水の中で手を洗うかのように、蛍が手をはたきながらそう呟いた。

 

 不思議で不条理な世界だったけど、結局その理屈で片付いてしまう、そんな気はする。

 

 この世界は”青いドアの世界”という別世界なんだから。

 常識の枠から多少外れたことが合っても不思議ではない。

 

 何よりここには悪意も善意もないのだから。

 

 ただ、オカルトはないって言っていたあの人。

 その言葉をどこまで信じていいかは分からかった。

 

「わたしと燐はお魚になっちゃった……とかは?」

 

 突然種族が変わるとか、異世界ものの小説でもそうそうないだろう。

 

「蛍ちゃんはどう見てもお魚になってないよ。いつもの可愛いまんまの蛍ちゃん、だよ」

 

 燐はくすくすと笑いながら、蛍を指さした。

 

 蛍は顔を赤くすると、照れ隠しをするように髪の毛を回す。

 

 長い髪は風とは違うなびきかたをしていた。

 ゆらゆらと、深海にすむ生き物のように。

 

「そういえば……目が痛くないね。わたし、目が弱くて長時間水に漬けてるとすぐ痛くなっちゃうから……だからこれは水じゃないよ」

 

「えー、今更そんなこと言っちゃうの、蛍ちゃん。もっと他に重要なことがあるでしょー」

 

 燐にそう指摘されたが、当の蛍は気にするような素振りも見せなかった。

 

「他のことは気にしても仕方ないよ。今はこの景色を楽しまないと」

 

 蛍は水中でも普通に目を開けられることがよほど嬉しいのか、物珍しそうに周囲を飛び回りながら、この不思議な光景を記憶するように、何度も瞬きを繰り返していた。

 

 燐はそんな蛍の様子を呆然と座り込んだまま眺めていた。

 

(確かに景色は綺麗なんだけど……)

 

 それこそ童話の様な世界。

 ここにも他の生物はなく、青と白、それだけで構成されている。

 

 けど、ここはやっぱり水の中だった。

 それは間違いない。

 

 だって──。

 

 ぽこぽこっ。

 

(喋るたびにこうやって空気が漏れるんだから、水の中で間違いはないよね。だけど……どこから空気を取り込んでるんだろう)

 

 さっきまで普通に喋っていた燐だったが、水の中だと認識したら急に口を開けるのが怖くなった。

 

 蛍の言うように魚、というのは流石に現実的ではないので。

 間を取って人魚にでもなった……のだろうか?

 

 燐は恐る恐る立ち上がると、自分の身体を一度くるりと見回した。

 

 起き上がった時点である程度予想はついてはいたが、ヒレの足にはなっていないし、手にもエラのような突起物は出来ていない。

 

(まあ、蛍ちゃんが何ともなかったんだから、わたしだけ人魚なんておかしいんだけどね)

 

 むしろそんなものになったりしたら、気が狂いそうになるだろうけども。

 

(でも……座敷童だってそうだよね。見た目は普通の人と同じだけど)

 

 人成らざるものになる不安と恐怖。

 そして孤独。

 

 無意識だろうけど、蛍ちゃんはずっとその思いに睨まれてきたんだ。

 

 蛍の言うショックがようやくわかった気がする。

 

 そう思うと無邪気に振舞う蛍がとても愛おしくみえた。

 

「お魚とかの水の生物は、エラで水中の溶存酸素を取り込んでいるんだって」

 

 蛍は両手をひらひらと魚の様にしながら、生物の授業で習ったことを燐に話した。

 

 やはり魚の真似をしているのだろうか、口を無意味にぱくぱくと開けてもいる。

 その度に真珠のように丸い泡が天へと昇って行った。

 

「まさかと思うけど、座敷童はカッパの要素は持っていないよね?」

 

 燐は自分でそう言って頭のてっぺんを触っていた。

 

 一瞬、固いものが手に触れて、びくっと身震いしてしまうが、それは自分が身に着けているカチューシャだと分かるとため息をついた。

 

 こぽぽぽっ。

 

 その度に気泡が上る。

 鬱陶しくもあり恥ずかしさもあった。

 

 カッパではない別の妖怪に変化したとか?

 だとしたらわたしたちは進化……いや、退化したのだろうと思う。

 

 命は水から生まれてきたから。

 それに今更適応するのは進化ではなく退化と考える方が妥当だった。

 

「口からこぼれていくのは酸素じゃなくてその人の記憶、なのかも」

 

 蛍は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。

 

「じゃあ、全部吐ききったら何もかも忘れちゃうってこと……?」

 

 燐は先ほど上がって行った泡を眺めてながら、また別の泡を吐き出していた。

 

 まったくもってきりの無い行為だった。

 

「嫌な記憶だけ無くなっていくとかは……さすがに都合よすぎるよね」

 

「そんなことないよ。わたし、蛍ちゃんとの楽しい記憶だけがあればそれで十分だと思っているし」

 

「ほんと? わたしも同じだから嬉しいな」

 

 屈託のない笑みを浮かべる蛍に、燐は照れ隠しするように両手を後ろに回した。

 

 それを見て蛍は唇に手を添えて微笑むと、空気の球が次第に小さくなっていく様子を憂いを帯びた瞳で眺めていた。

 

「燐は……嫌なことってずっと覚えている方、かな。わたしはどっちかっていうと一晩経つと忘れちゃうんだけど」

 

「自分では蛍ちゃんと同じだと思ってるんだけどね」

 

 そう、嫌なことは一秒だって持っていたくないし、明日以降になんて持ち込みたくはない。

 

 それが事物ならまだ解決はしやすい方だけど、人が、ましてや良く知っている人が関わることだと話が複雑になってしまう。

 

 顔を合わせるたびに微妙な、おおよそ耐え難い嫌な空気が流れてしまうから。

 だからこそお互いに愛想笑いをしてやり過ごしていたのだけれど。

 

(それが歪み……だった?)

 

 あの歪んだ世界が出来た原因はノートにも書かれていたし、”オオモト様”も自身もそう言っていた。

 

 もうずっと遠い出来事なのに、今だに脳裏に焼き付いて離れないのは”嫌な記憶”だから?

 

 忘れようとしても忘れられない”嫌な出来事”。

 

 どんなに逃げても追いついてくるし、すごく楽しいことがあった後でも、ふと振り返ってしまうこともある。

 

 まるであの猿──ヒヒのように。

 あのヒヒは嫌な事、嫌な感情を具現化したような存在だった。

 

 そういう意味ではあの夜がなくとも、例えおにいちゃんが居なくとも存在していたのかもしれない。

 

 お兄ちゃんの秘めた想い……だけじゃなく、もしかしたらわたしの中にも居た、のかもしれない。

 

 でも、わたしの場合は動物の形をしていなかった。

 

 捨てられた作業場で偶然拾ったあの鉄パイプ。

 わたしの中の”ヒヒ”とはあれだった可能性もある。

 

 最後まで持っていたし、何より。

 

ヒヒ(おにいちゃん)を傷つけてしまったのは、鉄パイプを握りしめた”わたし”だったから)

  

「……燐のなんでも背負っちゃうところ、全然変わってないよね」

 

「え?」

 

 いつの間にか傍まで来ていた蛍に背中合わせに囁かれた。

 

 同じように後ろ手に握られた手をちょんちょんと触られる。

 まるで何かを手探りに求めるように。

 

「うん。こればっかりは変わりようがないみたい」

 

 燐も後ろを向いたまま手さぐりに蛍の手に触れた。

 

 柔らかくて細い蛍の指先は少し力を込めただけで簡単に折れそうなほど、華奢な手触りをしている。

 

 とてもまどろっこしいスキンシップだけど、今はそれで良かったと思う。

 

 もし抱き着いたりしたら、それはもうここから帰ってはこれそうにないから。

 

 二人しかいない水の底がそのまま二人だけの世界になってしまう。

 それは悪くないけど、まだほんの少しだけ早い気がした。

 

「別に息苦しくはないけどさ、そろそろ行かない? ずっとここにいると先祖返りしちゃいそうだし」

 

 燐は背中合わせの蛍の手をぎゅっと握ると、青と青が重ね合わさった天井を見ながら自虐気味に笑いかけた。

 

「燐の先祖ってタコ、だったっけ?」

 

「えー、わたしタコじゃないよぉ。それだったら蛍ちゃんはクラゲっぽいよ」

 

「あ、わたしクラゲにはちょっと憧れるんだよね。水中でゆらゆら揺れてるのを見ているだけで癒されるんだよね」

 

 タコと言われて皮肉のように言ったのだが、蛍には届いていなかった。

 

「そういえば蛍ちゃん、前に一緒に水族館に行ったとき、クラゲのコーナーにずっと居たもんね。なんかクラゲのグッズも買ってたよね」

 

「クラゲの”クラちゃん”。今だってちゃんとベッドの上に置いてあるよ」

 

 ”クラちゃん”は、ミズクラゲをモチーフにしたキャラクターで、触手が異常に伸びるのがチャームポイントのぬいぐるみだった。

 

「わたし、あの触手にくるまれながら寝るのが落ち着くんだ……」

 

 蛍はうっとりとした目線で青と白の天井を眺める。

 

 その視線の先にクラゲを浮かべているのだろうか、はぁー、とため息音が泡と一緒に浮かんでいた。

 

「クラゲってさ、なんか怖くない? 毒とか持ってるのもいるでしょ。特に夏は大量発生するみたいだし」

 

「あれは、人間が不用意に近づくからいけないんだよ。もっとクラゲに優しくしないと。昔、タコを飼おうとした燐だって分かるでしょ?」

 

 蛍があまりに意外過ぎることを言うので、燐はフジツボのように固まってしてしまった。

 

「あ、えっと、もしかしてお母さんから聞いた? でも、わたしその時の事、全然覚えてないんだよね」

 

 蛍の期待とは裏腹に、燐は困ったように首を横に振った。

 

「そうなんだ。大泣きしたって聞いてたから覚えていると思ったよ」

 

 燐の母親──咲良から聞いた話とは幾つか違うようで、蛍も首を傾げた。

 

「それは盛りすぎ。だって、確かみんなでそのタコ食べちゃったもん」

 

「うーん、ロマンもなにもないね」

 

「タコにロマンを求めるほうが可笑しいんだって。お母さんはすぐなんでも大げさにするんだから……」

 

「あははっ、でもいい人だよ。わたし燐のお母さんがあんな楽しい人だとは思わなかった」

 

「そう? 前からあんなだったよ。まあ……離婚寸前の時は別人かと思うほどだったけどね」

 

「そっか……じゃあ、別れて良かったんだね。燐の家は」

 

「結果だけ見ると……そう、なのかもね。でもよりにもよってパン屋とはねぇ」

 

「燐には良い経験になってるんでしょ?」

 

「まぁ、ね」

 

 ()()もそうなのだろうか。

 確かにこんなこと、そうそう出来るものではないけど。

 

 スキューバだってやったことないのに。

 

 潮の流れのようなものがないからずっと落ち着いたままの水中は、プールの底に居ることとそれほど大差はない。

 

 ただ、流れがあった方がもっと楽に進めるし、何かあればそのせいにだってできる。

 

 止まってしまうことはとても怖い。

 みんなが上手く流れに乗っていると思えばそう思うほどに。

 

 だから無理してでも泳ごうとするんだけど。

 

「でもね」

 

 囁くような小さな声だったけど。

 水の中は地上よりもよく音が聞こえてしまう。

 

 それは水の音波が簡単に伝えてしまうから。

 

「タコの身体って柔らかいんだよ。だから燐だってきっと折り合いをつけられるよ。何事も柔軟に受け止められるよ。だってわたしの好きな燐だから」

 

 告白、のつもりだろうか。

 

 誤魔化すように微笑んでいるけど、その想いも簡単に伝わってくる。

 

 水が何もかも教えてくれるようだった。

 秘めた想いでさえも。

 

「クラゲだってそうだよ」

 

 さっきより強く手をぎゅっと握る。

 

「クラゲだって柔らかそうに見えて芯は固いんだから。だから蛍ちゃんは流されたりしないんだよ。わたしの好きな蛍ちゃんは頑張り屋で、とっても強い子なんだから」

 

 ぎゅっ。

 

 指の動きは繊細過ぎて水中では音が届かない。

 

 だから今の音はきっと、心が動いた音。

 

 わたしの心が動いた音だ。

 

「わたし、蛍ちゃんが好きだよ。きっと誰よりも」

 

「大丈夫だよ燐」

 

「わたしを好きでいてくれる人なんて燐ぐらいだから。でも、燐はライバルが多いからちょっと心配だけどね」

 

「それこそ大丈夫だよ」

 

 また、ぎゅっとした。

 

 それは指が絡まる音でもあったし、心が気持ちが暖かくなる音かもしれない。

 

 どちらも重要じゃない。

 

「ねぇ、蛍ちゃん」

 

「なぁに、燐」

 

 すぐ後ろで親友の声。

 同時に頭にコツっとしたものが当たる。

 

 頭をもたせかけたのだろうと思った。

 

「泳ぐんじゃなくて、水の中を歩いてみようか。どこまで続いているかはわからないけど」

 

「わたしもそれがいいかなって思ってたんだ。燐と一緒だったら、どこまでも行けるから」

 

 蛍は笑顔で振り返る。

 

 蛍が一緒にいてくれて本当に良かったと思った瞬間だった。

 

「くすっ、蛍ちゃん。泳ぎ苦手だもんね。ついでにレクチャーしてあげよっか? もう溺れたりしないように」

 

 あはは、と笑い合うたびに泡がこぼれていく。

 それは空気なのか、記憶なのか。

 

 けどそこは重要じゃなかった。

 

 重要なのは二人でいること。

 

 ふたりだから楽しくて、ふたりだから寂しかった。

 

 少女達は手を取り合って、海ともしれない深い水の底を歩く。

 

 音のない世界。

 

 風も当然ないが、水流のような強いうねりもなく、これといった起伏もない平面の世界が広がっていた。

 

 

 星屑の大地は何の生物の痕跡もなく、青い宇宙の別の惑星のように静かだった。

 

 その惑星の砂地を踏みしめる。

 

 ざくっざくっと音がして燐と蛍、二人の足跡がその後につづいた。

 

 それはただ無意味に靴の形を残していくだけ。

 

 けれど、その軌跡は何かに繋がるような、そんな余韻もあった。

 

 

 ────

 ────

 ────

 

 






★100円ボールペン。

最近、プライベートでボールペンを使う機会が増えたので色々なメーカのものを試しているのですが、どうもしっくりくるのがないんですよねー。
その中でもSARASAというジェルボールペンがまぁまぁ気に入って使ってますね。ただ、替え芯を買うほどでもないんですよねー、何かが足りない?? 個体差があるのか、たまにインキの出が悪いこともあるし、何より直ぐインキがなくなってしまうのがちょっと難点です。でもコンビニなんかでも売っているのでつい買ってしまうんですけどねー。

そんな時、本屋さんで新製品との触れ込みでUNI-BALLONEとかいうSARASAよりもほんの少し高めのペンを買ってみたら……すごく軽い書き味で良かったですよー。ちょっとグリップの所が滑りやすい気もしますが、この加速度は堪らないですねー。
ただ、これもインクがすぐ無くなりそうなのがぁぁ……それに少しだけペン自体が短いのも気になってしまったり……でも、インキがなくなるまで使い続けるとは思いますけどねー。当然の事なんでしょうが。

☆500円のカメ、さん?

少し前の頃、いつの間にか家のトイレにカメが鎮座しておりました。
と、言っても生き物のカメではなくていわゆるガチャガチャの景品のカメのフィギュアなんですけどねー。噂には聞いていたんですが、まさか自分の家にも連れられてくるとは……この亀ってガチャガチャのカプセルに入れることが出来なくて甲羅のままで出てくるとか聞いたことがありますねー。わたしが実際に回したわけじゃないから分からないんですけど。

で、流石に500円だけあってリアルに出来ておりますし、可動部分もやたらと多いです。口も動きますしね。このモデルの売りは甲羅に全身を収められることらしいですが、最初から甲羅に入った状態で出てくるみたいなので、むしろ引っ張りだすことが出来る方が正しい……のかな? マニュアルの様なものがなかったので詳細は分かりませんでしたが、ネットで調べたところハコガメシリーズの中でも、もっともポピュラーな? セマルハコガメのキットだったみたいです。

トイレが住処なので入るたびに愛でていますが、手触り良きーー。でも、今のところ金運アップなどの効果はなさそうです……。


それではではでは。



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Ultramarine

 
 
 良く分からないままに夏は終わって。

 柔らかく色づく秋の気配が山肌にほんのりと朱色を落としそうな頃のことだった。

 何でだったのかは覚えてはいない。
 
 けもの道とも呼べる小径をひとりで歩いていた。
 そうといっても休日は一人になることが多いのだが。

 空は高く。

 抜けるように広い。

 魚の鱗のように連なった細い雲の広がりに、夏の終わりを如実に感じさせた。

 駆け抜けて、そして終わってしまった夏。

 今年も大して変わらないと思っていた。

 けれどわたしは本当の夏がくるその前に、大切な、とても大切なものを失ってしまった。

 失いたくなんてなかった筈なのに。

 今まで大切にしてきたつもりだった。

 そのつもりだったけど……。

 家族も、親友も、大事な人も。

 そして……自分自身でさえも。

 全てが壊れてしまった、バラバラと音を立てて。

 あの出来事が全て悪い訳ではない。

 そう、思っている。

 あれはただのきっかけに過ぎなくて本当はもう、取り返しのつかない所まできていたんだと思う。

 分かっていたことだった。
 傷つきたくないから触れなかっただけのことで。

 誰だって傷つきたくなんてないから。

 でも、わたしは弱いから自分で傷を広げていって。
 そして最後は砕けてしまった。

 それでもこうして移り変わる直前の山の景色を見ている。
 
 自分の足で、ひとりきりで。

 確かにこの世界から消えてしまったのに。

 遠くの山を眺めている。

 ……
 ………
 …………

 暑いと思ったら急に気温が下がったりと安定しない日々が続いたが、ここにきてようやく季節が落ち着くことができたようで、ちょうどよい散歩日和だった。

 風がほんの少しひんやりとしてたけど、ちょっとした山歩きにはちょうど良い。

 トレッキングとか高い山に登るとかはまだしたくはなかったから。

 ひとりで行動するのが怖いわけじゃないと思う。
 まだちょっと慣れてないだけで。

 でも孤独が怖いわけじゃない。

 自由。
 一人でいる自由に戸惑いをもっているんだと、そう思う。

 それに、やることがない日は家にこもりがちだったから母親が要らぬ心配して、なんて……外に出たのは多分そんな理由だろう。

 だけど、部活では常に体は動いているし、家でだってゴロゴロしていることなんてない。

 店の手伝いはしょっちゅうだったし、無免許運転……もとい! まだ日が昇る前から起きて、隣県にまでパンの配達をしたりと、常に予定はいっぱいいっぱいだったから。

 たまには家に籠る日があってもいいとは思っている。

(まあ、心配なのは良く分かるんだけどね)

 半ば追い出されるように家を出た。

 あの人()はこういうこと強引だったから。

 渋々だったけど、外に出て良かったと今は思っている。

 秋直前の野山の景色は目にも心にも極上の癒しになっていたから。

 紅葉する前の穏やかな緑、まだ自分の中に少しの期待が残っていることの表れのように思えて、綺麗だけどちょっとだけ寂しく感じた。

 何も知らずにいられたら、なんて……そんなことを今更思い返してみたところで何の慰めにもなりはしないから。

(時間を巻き戻したって、きっとどうにもならないよね……)

 なぜだろう、それだけは確信ができた。

 運命とか絶対なんて言葉は使いたくはないが、抗いようのないことだったんだと思っている。

 そう思い込むことで、納得しようとしているのかもしれないが。

「はぁ」

 気分を少しだけでも変えようと、ずっと愛用していたアウトドアウェアや道具を丸々一式処分した。

 引っ越しの際の荷物を減らす目的もあったけど、本当のところは別にあった。
 我ながら思い切ったことしたと、つくづくそう思う。

 何かを察した母親に眉をひそめられたが、もう持っていても意味のないものだったから取り繕った顔でなんとか乗り切った。

 自分で買ったものばかりだったけど、思っていたほど未練はなかった。

 でも、あの時のピンク色のトレッキングシューズとバックパック。
 そして、そこに括り付けられて揺れている小さなお守り。
 それだけはまだ、捨てずに残しておいたままだった。

 そして、今もこの時も身に付けている。

 ピンクのトレッキングシューズはもはや完全に自分の足となっていた。
 これを履かない生活なんて考えられないし、考えたくもない。

 きっとボロボロになるまで使い続けるだろう。

 バックパックだって今だ通学用のカバンとして持っている。
 まだしっかりしてるし、とても気に入ってるデザインだったから。

(でも、このお守りは……)

 もう未練はないと言っていたのに、どうしても捨てることが出来なかった。

 それは忘れがたい苦い思いからくるものなのか。
 それともまだ、期待している……の?

 あの人はわたしから離れてしまったのに。

 ついでに髪の毛も切ってしまおうかと思ったが。
 当てつけみたいに思えてこれも止めた。

 けれど母には”パン職人なら髪の毛はより短いほうがいい”と散髪を勧められた。
 ついでに運動部なら髪は短くて当然だとも言われたけど。

(これ以上短くしたら、ベリーショートになっちゃうじゃん。それにパン職人になるなんて一言も言ってないしっ)

 憮然とした表情のまま、雑木林に囲まれた裏山を散策していた時。

 それは不意に起こった。

 がさがさっ。

 考え事をしながら歩いていたせいか一瞬反応が遅れてしまった。

 なにかの前触れのように草むらの影が揺れ動く。
 その奥の灌木の裏側辺りに何かがいるようだった。

(な、なんだろう? この辺りって何の動物が居たんだっけ?)

 まだ陽が高いからと油断していたのもあったと思う。

 熊や猪のような野生動物なんてこの辺りではそうそう出てくるものではないと思い込んでいたから。

 アウトドアではその思い込みからの油断が一番危ないのだ、と散々言われてきたのに。

「くっ……!」

 今すぐ逃げ出した方が良いのだろうか。
 でももし、相手が熊だったのなら、本能的にこちらを追いかけてくる可能性もある。

 こんな時に限ってクマ除け用の鈴は持っていなかった。

 近所の山をちょっと歩くのにそんな大げさなものは必要ないと、自分で家に置いてきたのだ。

 ”備えよ常に”。

 誰かのお節介な言葉が嗜めるように頭の中で何度も響きまわる。

(今更、そんなこと言ったって)

 前にもわたしは同じことを言った。

 多分、きっと。

 がさがさっ!

 余計な事に頭を使っていると、それはこちらが身構えるも早く、草むらから飛び出てきてしまった──。

 灌木の影から出てきた姿にわたしは驚愕した。

 だって出てきたものは。

「わんっ!」

 白い……犬だった。
 
 まるであの時の再現をしているかのような状況に、わたしは口を大きく開けて膠着していた。

 それは時が止まったように。

 あまりにもそうとしか思えなかったから。

「さ、サト……くん? なの……??」

 何気ない午後の休日。

 わたしは全く予期せぬ形で一匹の白い犬と再開を果たした。


「わんっ!」

 こちらの呼びかけに答えるかのように、白い犬はまた一声鳴いた。

 何処か愛嬌のあるその吠え声は正しく”サトくん”だった。

 だってサトくんには()()が出来るから。

 ちゃんとわたしの言葉を聞いていてくれてたから。

 出会ったときからずっとそうだった、サトくんは。

「サトくんっ!!!」

 感情に突き動かされたようにわたしはサトくんに抱きついた。

 もふもふの毛に覆われた少し太め首に手を回して小さな体を抱きしめた。

(あたたかい……)

 柔らかい毛並みはひだまりを万遍なく含んでいるようなお日様の臭いがした。
 それはわたしの心をふぅわりと包み込んで、安らぎと安堵を与えてくれた。

 土と獣と陽だまりと。

 ()い交ぜになった香りは確かにサトくんだった。

(でも、なんだろう、何かが……違う……?)

 匂いも容姿も確かにサトくんになのに、何がが引っ掛かる。
 何の要素が違うと言うのか。

()()()、サトくん……なんだよね?」

 こちらをじっと見つめる犬にもう一度尋ねてみる。
 見間違え、とは思えないが。

「くーん」

 サトくんは鼻を鳴らすと、ぺろぺろと手を舐め始めた。
 
 まさしく犬の仕草だったのだが。

 その無邪気な様子に少し困った顔で眺めていたとき、ふとあることに気が付いた。

 というより、なんでこんな分かりやすいことに直ぐに気づかなかったのかが不思議なぐらいだった。

「そういえばサトくん。首に巻いてた青いバンダナはどうしたの? どこかで落としちゃったのかな?」

 両手で顔を覆い隠すように持ち上げて、頬の辺りをむにむにと擦りながらサトくんに尋ねた。

 しかし、サトくんは目を細めてされるがまま何も答えてはくれない。

 それは犬だから当然なのだけど。

「そういえば……”右目”も治ってるね。良かったね、サトくん」

 初めて会った時からサトくんは怪我をしていたらしく、右目に包帯を巻いていた。
 
 それは後になってオオモト様が処置したからだと分かったけど。

(あの時は”左目”って言っちゃったけど)

 わたしは何を勘違いしたのか、左目を怪我してるって言ってしまった。
 勘違いにしては、(年齢的に)かなり恥ずかしいものだったが。

 あれはある意味では正しかったのかもしれない。
 サトくんから見たわたしを無意識に見ていたのかも。

 あの時”左側に居たわたし”を。

(……我ながら苦しい言い訳だとは思うけど)

「くーん、くーん」

 尻尾を左右にぱたぱたと振っているところをみるとサトくんは喜んでいるらしい。

 犬の様と言うより、獣特有の表現に安堵した。

「なんだ、やっぱり言葉分かるじゃん」

 わたしは安心しきった笑みをサトくんに向けた。

 忘れかけていたほんものの笑顔。
 陰りの無い本当の笑顔で。

 サトくんだったからこうして笑えたのだろう。

 わたしの本当の顔を知っている人はこの世界にはもう誰もいないと思っていたから。

「わんっ!」

 サトくんは軽快な声でひとつ鳴くと、わたしの手からするりと抜けだして、尻尾を振りながら急にトコトコと歩き出した。

 サトくんのこの突飛な挙動には見覚えがあったから、わたしも素早く立ち上がって戸惑うことなくその後についていく。

「わたしについて来いって言いたいんだよね、サトくん」

 白い犬は何も答えずただ歩いていく。

 わたしにピッタリのちょうどいいテンポで。

 ──サトくんの行く先に何かがある。

 わたしは確信めいたものを胸中に感じながら、まだ真新しいカフェオレ色のジャケットのチャックをぎゅっと引き上げた。

 ────
 ───
 ──




 ────

 ───

 ──

 

「ねえ、燐」

 

「………」

 

「燐ってば」

 

「……あ、あれっ」

 

「どうしたの燐。ぼーっとして」

 

「あー、ごめん。そのぉ……不思議だなぁって思って」

 

 慌てたように言葉をつくる燐。

 

 その時、燐の口から一際大きな泡がこぼれてだしていく。

 それは生きている証でもあったし、ここに囚われていることも示していた。

 

 ベルベットのような青の残像。

 それは天井だけでなく、二人の全身をも包み込んで離さないようでいた。

 

「え、何が?」

 

「なにがって……今、こうしていること、だよ」

 

 小首を傾げる蛍に燐は脱力したように小さく笑みを見せる。

 と、同時に呆れたようなため息もついた。

 

 言葉に続くように、ぽこりと丸い泡が浮かび上がりひとりでに上へと向かっていった。

 青い空の待つ地上へと。

 

 こぽり。

 

 自分で作った気泡をただ見送る。

 

 空まで浮かび上がった言葉は誰に届くのだろうか。

 

「……」

 

 なにかがおかしい世界だとは思っていた。

 空も太陽もプラットフォームも普通そうに見えて、普通のものではなかった。

 

 けれどここまで現実と剥離したことはない。

 

 つまり、物事の(ことわり)を超えている。

 

 不思議の概念そのものだった。

 

 この広大な水たまりはいつ、どうやって出来たものなのか。

 

 ()()()()では、ここまでの規模ではなかったはず。

 

 今のこれはあのウユニ塩湖よりも深く広い湖だと思う。

 

 行ったことはないけど。

 

 その湖の中に引き込まれて、二人とも溺れてしまったはず、だった。

 

 螺旋階段から転げ落ちるようにあっけなく深い底まで。

 

 為す術もなかった。

 

 水を沢山飲んでしまったはずなのに、その水の底で息をして、そして普通にお喋りまでしている。

 

 まるでこの水の世界が日常であるかのように。

 

 どう考えてみても不自然で不思議だった。

 それ以外の説明の仕様がなかったから。

 

 でも、まだ生きていることには感謝した。

 

「ああ、そういうこと」

 

「なにか他に気になることでもあるの、蛍ちゃん」

 

「そういうわけじゃないんだけど……わたしはそれほど違和感がないから。ここにいることに」

 

「思ってた以上に居心地いいっていうか……燐の言うように先祖返りしてるのかもね」

 

 蛍はとつとつと話を続けながら困ったように苦笑いした。

 

「あはっ、蛍ちゃんもそうなんだ、実はわたしも。初めの内はどうしようかと思ったけど意外と悪くないよね。ちょっと宇宙空間っぽくない?」

 

 そう言って燐は水中で膝を抱えると、反動を利用してその場で一回転してみせた。

 

「うん。なんか月の上にいるみたいだよね。この砂だってなんか星の形みたいだし」

 

 蛍は足元に広がる無数の砂を一つまみすると、青い宇宙の中に放りなげた。

 

 さらさらした砂の粒子が、青いスクリーンをバックに流星へと変化していく。

 

 二人の目の前で水の星空が瞬いていた。

 

「綺麗だね」

 

「うん、とっても」

 

 地上と全く違うのに、同じように息をすることが出来る。

 

 でも、それしかできない。

 けれど、ここでしかできない事もあった。

 

 それはほんの些細なことしかないけど。

 それでもどこか楽しい。

 

 それと引き換えに何か大切なものを失っていくような、そんな不安はないわけではないけど。

 

 それでも友達と一緒にいる。

 

 一番大切な友達と一緒に見ているから。

 

(綺麗なんだと思うよ。そうだよね、燐……)

 

 水の青と空の青。

 二つの青が交じり合った青のパッチワークが群青色の半球を描き出していた。

 

 そこからこぼれる光が、穏やかな青の世界を作っていた。

 

 上を通りすぎる真綿のような雲は、時折底の方までもその滲んだ影を落としていた。

 

 雲の切れ間から覗く光はどこかぼんやりとして頼りないが、それでも懐中電灯の明かりなんかよりもずっと眩しかった。

 

「なんかさ、すごく大きいプールにいるみたいだよね」

 

「分かるー、わたしプールの底を歩いたことあるよ」

 

「あ、わたしもやったことあるよ、でも直ぐに浮き上がっちゃうんだよね」

 

 小首をかしげる蛍に燐は苦笑いすると、蛍の胸の辺りを指さした。

 

「蛍ちゃんはほら、色々と大きいから浮きやすいんだよ、きっと」

 

「大きいせいだから、なの? それってなんか不公平じゃない?」

 

 蛍は自身のバストをぺたぺたと触りながら言った。

 

「ここではそんなに体が浮き上がらないから良いんじゃないかな」

 

「まぁ、そういうことになる、のかなぁ……なんだか納得できないところもあるけど……」

 

 何度も首を傾げる蛍に燐はあははと苦笑するしかなかった。

 

 ────

 ────

 ────

 

「ちょっと暗いけど、そこまで視界は悪くないね」

 

 ざくざくと、砂と石の大地を踏みしめながら蛍は感嘆するように言った。

 頭上から伸びる光の柱は、夜道の街燈のように常に二人を照らし続けていてくれてたから。

 

 満月のような、ほどよい明るさで。

 

「うん。確かに良い明るさだよね。暗くも眩しくもなく。なんか水族館の中にいる気分だよ」

 

「水族館か……そういえば燐は水族館に行ったことある?」

 

 隣で手を握る燐に尋ねた。

 

「あれ? 蛍ちゃんと一緒に行ったことってなかったっけ? ほら、あのちょっと古い感じの水族館に」

 

 入り江の中を渡り廊下みたいに進むからちょっと怖い感じもするんだけど、イルカのショーやペンギンなんかもいて、見た目以上に楽しめたあの……。

 

 燐はしきりに説明するも、蛍には初めて聞くことだったので首を傾げるだけ。

 

「ごめん、わたしは一緒に行ってないね。子供の頃の遠足で行った記憶しかないし」

 

「ごめんごめん。そっか、わたしも小さい頃家族と行っただけだったみたい。ごめんね蛍ちゃん」

 

 燐は反省するように蛍の前で手を合わせた。

 

「ふふ、いいよ。でも、いつか燐と一緒に水族館に行きたいな」

 

 燐があんなに必死に説明してくれるなら行ってみたいと思うのは蛍にとって当然のことだった。

 

 そして、はにかむような笑顔を見せる蛍に燐は大きく頷いた。

 

「今度のお休みにでも行ってみようよ。蛍ちゃんと一緒ならきっと何倍も楽しいよ」

 

「でも、燐。来週試合って言ってなかった? 予選を決める大事な試合なんでしょ」

 

「あ、そうだった。あ~あ、せめて魚でも泳いでくたら水族館気分に浸れて良かったのにねぇ」

 

 魚どころか動くもの一つもないけれど。

 それでも何かがいることを願ってしまう。

 

「敵意があるものはお断りだけどね」

 

 考えを見透かすように蛍は小さく舌を出した。

 

「だよね。もう少し明かりが下まで届いてれば見通しが良さそうなんだけど……?」

 

 深い水の底は濁っているのか、それとも澄んでいるのか。

 どちらとも判然が付かないほど濃く、何かがわだかまっているかのようだった。

 

 頭上からの細い光だけを頼りに進むしかないのだが、それでもあの漆黒の世界に比べたらずっとマシだった。

 

 ただ、この青の水がもっと濃く、そして先が全く見通せないほどの濁りだったのなら、きっと直ぐに水面まで逃げ泳いだに違いない。

 

 そういう意味では何らかの意図がある気もする。

 

 あの小平口町の歪みのように。

 

(……ん?)

 

 蛍はふと気配のようなものを感じて、何気なく後ろを振り返る。

 

 けれどそこには何もない。

 

 揺蕩うような静けさと砂漠のような砂地が無限に広がっているだけ。

 

 ただ、恐ろしく静かだった。

 

 黒いわだかまりの様な思いは蛍の中でどんどんと膨らんでいき、やがて影を作り出す。

 

 そこには何もいない。

 

 だからこその恐怖もあった。

 

(あの時、何かがわたしを掴んだんだ。そのせいで燐と一緒に底にまで……)

 

 はっきりとは見てない。

 と言うより何も見えなかった。

 

 ただ、足が抜けてしまうほどの強い力で引っ張ってきた。

 それは燐と一緒でもお構いなしに。

 

 ぬめっとした感触が一瞬あっただけで、後は訳も分からずに水中へと引き込まれてしまったから。

 

 蛍は首を振って踵を返すと。

 

(もう後戻りはできないんだきっと……)

 

 二人だけの世界だと思っていただけに蛍はショックを隠し切れず、燐の元まで駆け寄るとその小さな手をぎゅっと掴んだ。

 

(燐っ……!)

 

 自分では強く握ったつもりだったが、水の中だからか思ってたよりも力が出ない。

 だから燐はそれほど気にすることもなく。

 

「どうしたの蛍ちゃん。何かあったの?」

 

 急に手を握られて驚いた燐が顔を覗き込んできた。

 

「あ、えっと……」

 

 何の穢れもない燐の瞳に、安堵を覚えた蛍はホッと胸を撫で下ろす。

 

 せめて燐だけでも何も知らないままでいられるのならそれでよかったから。

 

「な、なんでもないよ。それより燐、もうちょっと先へ行ってみようよ。もしかしたら何かみつかるかもしれないし」

 

「え、うん。そうだね。せっかくだしもう少し進んでみてもいいよね。こんなこと滅多に出来るもんでもないし」

 

 燐と蛍は確認するように頷き合うと、夜の砂漠を彷彿とさせる群青色の先へと足を進めた。

 

 ……

 ……

 ……

 

 

「この世界の終わりってあるのかなぁ……」

 

 かなり歩いたつもりだったが、さっきから景色が変わっていないことに燐はげんなりとした様子を見せる。

 

「どう、なんだろうね。でも緑のトンネルの時みたいに、いつかは終わりが来ると思うよ」

 

 先へ急ぐようにと促した蛍だったが、少し後悔をし始めていた。

 池や湖に相当する、岸のようなものが見つかりそうになかったからだ。

 

「そうだよね、このままずっと続いてるなんてことはないよね」

 

 どんな道にも必ず終わりはくる。

 それが辛く険しい道だったとしても。

 

 逆に楽しくてずっと歩いていたいと思う道にも終わりはくる。

 

 始まって、そして終わる。

 それが美しいということだろう。

 

「もしかしたらここってアレかも……」

 

 やや疲労した顔の蛍が唐突に呟いた。

 

「アレって?」

 

 青一色の景色に飽きてきた燐は興味深そうに蛍の言葉を待った。

 

「燐は”天動説”って聞いたことある? 地球は平らで宇宙の中心にあって、世界の果てがあるって言う、昔の人の論説」

 

「わたしも知ってるよ、それ。海は滝みたいに途中で無くなってて、大地を大きな亀が支えてるだったっけ? あ、もしかして蛍ちゃんが言いたいのは、この世界はその天動説だってこと?」

 

「うん、荒唐無稽かとは思うけど、なんとなくそんな感じなのかって……」

 

 蛍は恥ずかしそうに小さく頷いた。

 

「じゃあこのまま進んでれば行き止まりじゃなくて、水の切れ目があるの?」

 

「分からないけど……」

 

 この世界の果て。

 それを確かに見たことはない。

 

 線路の先に続く世界だって結局見ることは出来なかったから。

 

 あの現実こそが先と捉えることも出来るが。

 

(でも、あの風車だらけの世界は? あそこと繋がっていたんじゃないの?)

 

 だって──オオモト様も来ていたし。

 

 燐は頭を巡らせる。

 世界の謎じゃないけど、世界の繋がりが見えなかった。

 

「わたしはどこだっていいんだけどね、燐と一緒に居られさえすれば」

 

「蛍ちゃん……」

 

 二人は同じ考え、同じ方向だった。

 

 緑のトンネルの時とは違い出ることだけになら、多分簡単だとは思う。

 

 青の天井はずっと開け放たれているのだから。

 

「それは……わたしもだよ。蛍ちゃんと一緒にどこまでも行ってみたい」

 

 今度も本心からの言葉。

 

 友達に対して偽りの言葉なんて一度も言ったことがない。

 だって、とても大切な人だったから。

 

「うん」

 

 きっと、まだ楽しみたかったんだと思う。

 

 理由がないからこそ楽しい。

 そういう時間こそが幸福なのかもしれない。

 

 わたしたちは何かしらに理由を求めてしまうものだから。

 

「そういえばさ、蛍ちゃん、からだ重くない? なんだかんだで水の抵抗ってあるよね」

 

「あ、うん。でもまだ大丈夫だよ。軽いジョギングをしているような感じと似てるかも」

 

 燐の言うように水の中ではただ歩くだけでも結構な体力を消費してしまう。

 息も出来て、濡れることもないのに、”そういうところ”は法則に乗っ取っていた。

 

「ねえ、蛍ちゃん。やっぱり服、脱いじゃってもいいんじゃない? どうせ誰も見ていないんだし、そのほうが体動かしやすくなるよ」

 

 燐の突然の提案に蛍は驚いて口をあんぐりと開けた。

 

「えっと……別に、いいよ。せっかく濡れないんだから脱ぐ必要なんてないと思うよ」

 

 困った顔で蛍は苦笑した。

 

「えー、でもさ、服着てるとなんだかゴワゴワしてこない? あの夜のプールみたいにさ裸になってみようよ。きっとすごく気持ちいいよー」

 

 なにかこだわりがあるのか、燐は食い下がるように再度提案してくる。

 その意図が読めた蛍はあえて口にする。

 

「それって、燐がわたしの裸をみたいだけなんでしょ?」

 

 燐は虚をつかれたように一瞬押し黙ると。

 

「そそ、そんなことないよー。蛍ちゃんの体はすっごく綺麗だけどぉ……ご、合理性からそう言っただけっ、他意はないからねっ」

 

 そういった燐の目は周りの背景よりも緩やかに泳いでいた。

 

(はぁ……)

 

 蛍は胸中でため息をつく。

 

 でも、嬉しくないわけではなかった。

 だって、燐が綺麗って言ってくれたのだから。

 

 好きな人にそう言われて嫌な人なんていない。

 たとえそれが届かない人であっても。

 

 燐が最初に告白してくれたのは、歪んだ夜のプールでのことだった。

 

 二人とも当然水着は持っていなかったので、燐はともかく蛍はしぶしぶ裸になったのだったが、確かにあの時はとても素敵で気持ちのいい一夜だった。

 

(燐とわたし。二人だけの夜だったね)

 

 お互いの気持ちを告白して、そして認め合った。

 あの時初めて燐と気持ちが一つになった、そう蛍は思っていた。

 

 だから燐が言いたいことは良くわかる。

 あの充足感は何事にも代えがたいものだったから。

 

 けれど。

 

「でもさ、燐。脱いじゃった後、その服ってどうするの? 持ったまま歩いたりするほうが面倒なんじゃない?」

 

「あ……」

 

 確かにそうだった。

 燐は鳩が豆鉄砲を食ったような顔でポカンと口を開けていた。

 

「……だよね。服をその辺に捨てちゃうのもなんか悪い気がするもんね」

 

「うん。それに濡れないんだからこのままでいいんだよ」

 

「まあ……蛍ちゃんがそういうのならいいんだけどさ」

 

 腑に落ちないのか燐は少し口を尖らせた。

 

「うふふ、燐がどうしても脱ぎたいっていうなら止めないけどね」

 

「えー、わたし一人だけなんてなんか嫌だなあ。こーゆーのは二人一緒じゃないとね」

 

「じゃあ、今は諦めてね」

 

 蛍はそう言い切ると、元気よく腕を振って歩きだした。

 燐はガッカリしたようにその後に続く。

 

「やっぱり不思議だよね。まるで山の上を歩いているみたい」

 

 酸素不足というわけではない。

 それぐらい歩くのが険しいと言う意味だった。

 

 燐はホッケー部の部長になったことでこれまで以上に部活に専念するようになった。

 そのせいか休日はトレーニングと称して、また山に登るようになっていた。

 

 蛍も一緒に登ってみたのだが、ペースについていくのが精一杯で景色を楽しむ余裕すらなかった。

 

「結構、膝にくるね。本当に山に登ってるみたい、だよ」

 

 蛍は息が上がってきたのか、疲労感を隠すことなく息を吐いた。

 

(なんでわたしだけローファーなんだろう。アウトドアシューズだったらまだマシだったのに)

 

 ローファーは学生らしく可愛いので好きなのだが、今、一番履きたくない靴でもあった。

 

 砂の上を歩くたびに砂が靴の裏に絡みついて、その度に足が何倍にも重く感じる。

 いっそのこと脱いでしまおうなんて思ったりもしたのだが。

 

「やっぱり体が重いんでしょ蛍ちゃん。わたしが服を脱ぐ手伝いしてあげよっかぁ?」

 

 指を蠢かしながら燐が茶化すように言った。

 

「もう、燐は裸が見たいだけなんでしょ。お風呂でもわたしの胸ばっかり見てるし……燐ってもしかしてオッサンなの?」

 

「そんなことないよおー。それにわたしオッサンじゃなくて女の子だし。ただ蛍ちゃんとっても綺麗だからー」

 

 燐は両手をぐっと握って、相変わらずな言い訳を言った。

 

「燐ってば、またそういうこと言う。燐だって可愛いじゃない」

 

 蛍は素っ気ない素振りで呟いた。

 

「うー、可愛いじゃなくてさぁ。これでも体系気にしてるんだよ~、一応部長さんだしさ。可愛いじゃ威厳ないでしょ」

 

「燐は可愛い部長さんで良いじゃない。わたしはそれが似合ってると思うな」

 

「この場合の”可愛い”は誉め言葉になってないよー」

 

「ふふふ、ごめんね」

 

 燐と他愛無い話を続けていた。

 それだけで少し疲れが解れた気がした。

 

 きっと燐に気を遣われている。

 蛍はそう思ったが、燐のその優しさが嬉しかった。

 

「なんか上の方渦巻いてない? 穂波が立っているみたいに見えるよ」

 

「ほんとだ、ここって海流もないのに不思議だよね」

 

「風も吹かないしね」

 

 燐と蛍は、水と水とが出会うところをぼんやりと眺めていた。

 

 水中からみる空はそれだけでもう、異世界のようであった。

 

 筋の様な模様がマーブルのように広がって、空とは異なった青の文様を浮かび上がらせている。

 

 青と白の境界線は山の頂で見る光の流れの様だった。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。やっぱりちょっと休憩しよう。水の中じゃただ歩いているだけでも体力を使うし、それに息が出来ても倒れちゃったら意味ないし」

 

 燐は一つ息を吐くと、蛍にそう提案した。

 

「えっと……」

 

 蛍は困ったように目元を下げると、口元に拳を持っていき、ささやくようにごにょごにょと口を濁した。

 

 燐に気を遣われていることが如実に分かるからこその返答に困っていた。

 

(確かに疲れてるけど、まだ歩けるような気もするし。でも、せっかくの燐の好意を無下にするのは何か悪い気もする……)

 

 蛍は結論が出せず、一人頭を悩ませた。

 

 考え込む蛍に、燐は困り顔で見守っていたのだが。

 

「ねぇ、蛍ちゃんはわたしを守ってくれるんでしょ? だったらちょっとだけわたしにも気遣って欲しいな」

 

 蛍の手をとった燐は、微笑みながら言葉を紡ぐ。

 

 やわらかい燐の手。

 触れられただけで蛍は少し強くなれた気がした。

 

「……燐」

 

 俯いていた蛍が顔を上げる。

 

「ね。ちょっとだけでいいからさ」

 

「うん。燐、ありがとう」

 

「お礼を言うのはわたしの方だよ。ごめんねワガママ言っちゃってさ」

 

 手を取り合った少女達は互いを見つめ合う。

 

 二人の頭上のその更に上から降り注ぐ細やかな光の柱。

 

 その一つが二人の柔らかい影を砂上に描き出していた。

 

 ────

 ───

 ──

 

「あれっ」

 

 何もない殺風景な水の世界だとそう思っていた。

 休めそうな場所なんて到底ないと。

 

 緑のトンネルの時のように都合よく現れるわけがないと。

 

 けど、そんな予想を反した登場に蛍は困惑の声を発した。

 

「ど、どうかしたの?」

 

 燐は心配そうに蛍に駆け寄る。

 

「燐、ほら、あれを見て!」

 

 蛍はそこに指をさす。

 ちょっと自信なさげだったが、思い切ってそれを指し示した。

 

 あたかも現実であることを自身に言い聞かせるかのように。

 

「え、どれっ?」

 

 蛍が指さす方向に燐も視線を送る。

 

「うん? なんだろうねあれ。何かの建物……?」

 

 その方角には四角い何かがあるようだった。

 揺らぎによって何かはわからないが、何かがあることだけはわかる。

 

「わたしにもそう見えるよ。けど、なんの建物だろうね……岩みたいに下から突き出てるみたいだし……珊瑚……とはちょっと違うかんじ」

 

 蛍は小首を傾げる。

 

「まあ、海じゃないからサンゴはないと思うけど……でも、なんなんだろうねアレ」

 

 燐も頭を捻って考え込む。

 

 青い背景の中では対象との距離が掴みづらいが、結構な大きさがあるような気はしていた。

 

 燐はなんとなく打ち捨てられた工事現場のプレハブ小屋を思い出して、少し嫌な予感を感じたりもしたのだったが。

 

「ねぇ、燐……傍まで行ってみない? 何かあるかもしれないし。そこで休憩できそうかも」

 

 好奇心を含んだ蛍の声。

 

「確かに気になるもんねぇ。でも……んー、わかった。じゃあ、行ってみよう」

 

 始めは否定的な意見を言おうとしたのだが、燐は考え直して蛍に同意した。

 

「うん」

 

 蛍は大きく頷くと、燐と手を取り合いながら目標まで歩いて近づくことにした。

 

 何らかの危険はあると思う。

 けれど、そんなことをいちいち気にするのは、止めた。

 

 リスクを気にして動かないのなら、こんな水の中を歩く事なんてしていないし、とっくに水面まで泳いでいるだろう。

 

 それこそ閑散とした砂漠に突如して出来たオアシスみたいに現れたのだから、行ってあげないと悪い気すらする。

 

 好奇心にころされる可能性もあるが。

 それだって覚悟の上だったと思う。

 

 あの逃げることに精一杯だったときはもう違う。

 

 純粋に二人でいることが楽しかった。

 

 平坦な道を平坦に歩いていても、危険はないが楽しみもないのだから。

 

「燐は何に見える? わたしは何かの小屋っぽく見えるんだよね。わたしと燐が隠れた時みたいな小さな小屋」

 

 二人は歩きながら推測を続けていた。

 楽しみを少しでも味わい尽くすように。

 

「あ、わたしもそんな感じかな。おっきな冷蔵庫っぽくも見えるけど」

 

「じゃあ今度はなにか入ってるといいね」

 

 蛍はくすりと微笑む。

 

 さっきから全然お腹は空いていないし、水なんで浴びるほど飲んでいると言うよりも、もうすでに溺れているのだけれど。

 

 それでもなにかを期待する楽しみ。

 それは普通にあった。

 

 燐と蛍はその建物のようなものを当座の目的地にして、歩を進める。

 

 もう少し進めば何か判別できるだろう、と燐が一歩足を踏みだした時、焦燥感に駆られたような声を蛍が上げた。

 

「燐! あれって列車じゃない? ほらあの形!」

 

 蛍に急かされて燐も目を凝らす。

 細長いその姿は、確かに電車の車両の様に見えた。

 

「確かに、電車みたいだね。でも……なんでこんな所に」

 

 車体の殆どが砂と砂利に埋もれていて、どこの車両かは判断がつかない。

 ただ、どことなく見覚えのあるフォルムな気はした。

 

「随分前からあるみたいだね。色々錆びついているし」

 

 更に近づいていくと、その微細が分かるようになってきた。

 

 金属が錆びてボロボロに崩れた箇所がところどころに見受けられ、かなり前から放置されている印象を受ける。

 

 けれど塩分など微塵もないこの水の中でここまで錆びついてしまうものなのか。

 

 それを検証する術は今のところ二人にはない。

 もっともそれを確かめるにはかなりの時間が必要になるとは思うが。

 

「事故か何かあったのかな……電車、ボロボロになってるね……」

 

 錆とは別に強い衝撃を受けたのか、鉄製のフレームが折れ曲がっていて、車体の半分ほどから”くの字”に曲がっていた。

 

 相当な衝撃だったようで、直せるとかそういうレベルではなかった。

 

「事故っていうより、落下して潰れた? とか」

 

 蛍は自分で言ったことに急に違和感を覚えて首をかしげる。

 その事に何かしらの心当たりがあると思ったから。

 

 切り捨てられてボロボロの車体は、要らなくなった抜け殻(casket)みたいだと燐には思えてしまった。

 

 あのカタツムリの抜け殻のように。

 

「どっちみちこの電車はもう動かないね」

 

「うん……けど、なんか可哀そうだよね」

 

 蛍は静かにその亡骸を見つめた。

 

 少女達の呟いた声はシャボン玉のようにふわりと浮かび上がってやがて一つの泡になって消えていった。

 

 それぐらい静謐で透明な場所だった。

 

「ここからじゃ良くわからないから、上からも見てみようよ」

 

「え。う、うん」

 

 燐は蛍の手を握ったままその場でぴょんと飛び上がる。

 それは思っていたよりもずっと簡単に二人の少女を浮き上がらせた。

 

 まるで月面にいるみたい。

 

 蛍は不思議そうな目で見下ろしながら、自分と燐に起きたことに改めて驚いた。

 

「……やっぱり燐は凄いね。なんでも簡単にやっちゃうんだから」

 

「? わたし何にもやってないよ。ただこの世界がおかしいだけで」

 

「それは分かってるよ。でも燐は凄いなって思っただけ」 

 

 蛍の告白に純粋なものしかないことを感じ取った燐は照れたように笑って言葉をつづけた。

 

「えー、凄くないけどなあ、わたし。至って普通だよ。あ、今は普通じゃないんだっけ……やっぱり実感がまだないね。座敷童だなんて」

 

 急に自覚せざる状況になってしまったけど、ここには座敷童しか居なかった

 それは今始まったことじゃなく、多分、去年の時からだったのだろう。

 

 選ばれてしまったのはきっと偶然。

 そうじゃないと色々と尖った目で見てしまいそうで。

 

「大丈夫だよ。わたしだって慣れたんだから燐だって直ぐに慣れるよ」

 

 そう言って蛍は何故だか足をバタバタと動かした。

 

「……何してるの蛍ちゃん」

 

 燐は率直な疑問をぶつける。

 

「何って、燐。わたし泳いでるんだよ。これでも50メートルを泳ぎぎったこともあるんだから」

 

 必死に足をばたつかせる蛍だが、とてもじゃないが前に進めそうな動きではなかった。

 それが蛍ちゃんらしいな、と燐は思った。

 

「ここは蛍ちゃんにとってちょうどいい特訓場所かもね。ここなら絶対に溺れないし」

 

「まぁ、溺れないという意味では確かかもね。でもね燐、わたし小さかった頃水泳のアンカーに選ばれたこともあるんだよ」

 

 小学生の頃だったか、蛍は確かにアンカーを務めたことがあった。

 

 蛍としては自分と他者との違いを知る絶好の機会と思っていたらしいが。

 

 けれど、水に浮くことは出来ても蛍の泳ぎは全く前に進んでいかなかったので、それまでの大量のリードを逆転されて負けてしまったのだが。

 

 それからの蛍はそういった競技には選ばれなくなってしまった。

 

 蛍は確かに他者とは違っていた。

 

「蛍ちゃんがアンカー、ねぇ」

 

 蛍の今の泳ぎを見て、燐は察したようにうんうんと頷いた。

 

「燐、信じてないんでしょ」

 

「そんなことないよ、わたし蛍ちゃんを信じてるから。だからさ、先ずはゆっくりと泳いでみよう」

 

 燐は優しく蛍の手を取ると、水泳のコーチのように背後から蛍を支えながら、横たわる車体の上部に近づいた。

 

「これ、もしかして、あの時の電車なのかな」

 

 燐は確かめるように車体をつぶさに眺めながら一言つぶやく。

 

「どの時の電車のこと?」

 

「ほら、わたしたちがあの時一緒に乗っていたあの電車のこと。”なにか”に襲われて、その時に出来た大穴に落ちちゃった、あの……」

 

「あっ……!」

 

 燐が喋っている途中だったのだが、蛍は何かに気付いたように、藻掻くような複雑な動きで電車のそばまで近寄った。

 

 蛍の急な動きに燐は呆気にとられるも、直ぐに蛍の傍まで泳いで行く。

 

 二人は朽ちた車体のすぐ傍の水の空にいた。

 

 錆びた車両は窓のある緑色の側面を上に向けて横たわっていた。

 

 ぐにゃりと曲がった窓枠は一部残っていても、窓ガラスはその破片すら残っていない。

 ガラスだけ綺麗に無くなっているかのようだった。

 

 燐はそのことに違和感を覚えた。

 が、蛍は違うことを考えていた。

 

(だったら、まだ残ってるかな)

 

 蛍は車体のトン、と軽やかに着地すると、ガラスの無くなった窓の傍にしゃがみ込み、空洞の窓から中をしげしげと覗き込んだ。

 

 燐も窓があるその下に着地して、蛍の様子を不思議そうな目で眺めていた。

 

「蛍ちゃん、何か見えるの?」

 

 燐は表面では普通に。

 でも内面では恐る恐るに尋ねる。

 

 もしこれがあの時の電車だったとしら、あの”なにか”も一緒に乗っていたから。

 あれは小平口町の住人の変わり果てた姿だと思っていたけど、やっぱり良くは分からない。

 

 町の人もみんな無事みたいだったし、巻き込まれた従兄も一応無事……だったのだから。

 

 蛍ちゃんやオオモト様の説が間違っているとは思っていない。

 けど、それを裏付けられるものは、二人の記憶だけしかなかったから。

 

 限りなく薄い、でも簡単には割れない薄氷の記憶だけしか。

 

「……ううん」

 

 蛍は落胆したような軽いため息をつくと、ふるふると首を横に振った。

 

「やっぱり見つからなかったみたい」

 

 そう言って蛍は小さく微笑んだ、諦めたように。

 でも、どこかほっとしてるようにも見えた。

 

「見つからなかったって?」

 

 何のことか燐には見当つかなかったので再度聞き返す。

 

「通学の時に使っていたわたしのカバン。ほら、あのとき慌ててたから座席に置きっぱなしにしちゃってたけど。もしかしたらって思って見てたんだけどね」

 

 蛍は少し残念そうに微笑んだ。

 

「ごめんね蛍ちゃん。わたしが蛍ちゃんのカバンも取ってくればよかったんだね」

 

 燐からの謝罪の言葉に蛍は慌てて訂正した。

 

「あ、ううん、燐を責めている訳じゃないよ。だって燐はあの時わたしを助けてくれたんだから。それに二人とも逃げるのに夢中だったから仕方がないことだよ」

 

「そうだけど……でも残念だったね」

 

「でも、そこまで気に入っていたわけじゃないから落ち込むほどじゃないの。でももしあったら、あの事の証拠になるかなって思って」

 

「そっか」

 

 燐は曖昧な笑みを浮かべた。

 

 蛍のいう証拠はあの夜のことだろう。

 燐にだってそれはすぐに分かった。

 

 二人の頭の中でしかあの夜のことを証明できるものはないのだったし。

 それだって、いつ消えたっておかしくないほどの曖昧なものだったから。

 

 些細なもので良いから手掛かりが欲しかったのだと思った。

 

 燐は青と白の波形が被さる空を一瞬だけ見ると、蛍の隣にそっと腰をかけた。

 

 あの時、線路が陥没して列車が本当に落ちたのかはよく分かってない。

 車体も瓦礫も黒い闇に飲まれてしまっていたから。

 

 小平口駅のホームも特に異常はなかったようだし。

 さらに今は改装工事も済ませて、全てが新しく生まれ変わってしまったのだから。

 

(あの時の大穴がここに通じていて、電車がここまで落ちたってこと? じゃあこの水って……?)

 

 その穴から決壊したダムの水が流れ込んできて、この世界に大きな水溜まりを作った???

 

 辻褄が合うような、違うような。

 

 なんとも判然が付かない仮説を蛍は頭の中でぐるぐると回していた。

 

「思ってたよりも座り心地いいねここ。ちょっとは休憩できそうだね」

 

「あ、うん。こういうの渡りに船って言うのかな」

 

 燐の提案に蛍は素直に従ったが、まだ頭の中では疑問がぐるぐると回っていた。

 

 ……

 ……

 

「んーっ、こうしてみるとやっぱり綺麗だよね。池っていうか湖っていうか良く分からないんだけど」

 

 燐は鉄の車体の上ごろんと仰向けになりながら、プリズムの混じった青の情景を焦がれるように感嘆した。

 

「うん確かに綺麗な”水”だよね」

 

 もしかしたらあの時のダムからあふれ出た雨水かもしれない。

 そう思っていた蛍だったが、それをいま燐に言おうとは思わなかった。

 

 仮説というより妄想に近いことだったから。

 

 ぽこぽこぽこ。

 

 二人が喋るたびに小さな気泡がこぼれ出る。

 

 それはどんなに儚い大きさでも確実に地上までは行ってしまう。

 

 幸せか悲しみか。

 空気の代わりになにかの思いが地上へとまっすぐに上がっていく。

 

 わたし達はどうしてここにいるのだろうか。

 

 全てを吐き出したって、もう胸中には何も残っていないのに。

 

「ここってさ、体温と同じぐらいの温度なのかな?」

 

「それってどういうこと?」

 

 燐が何気なく呟いた言葉に蛍は即座に反応した。

 

「前にね何かの本で読んだんだけど、鼻とか目に水が入って痛みを感じるのは、塩分濃度が人体よりも濃いからなんだって。それに人体と同じ温度の水だとより痛くないんだってさ」

 

「へぇー、でもそういうのって理に適ってるよね。痛みって悪いことじゃなくて、そういった人体に危険なものを痛覚で知らせてくれるんだね」

 

「うん、だから痛くないのは成分が近いってことじゃないかな」

 

「人に近い水か……」

 

 蛍はぼんやりと考え込む。

 

 雨水やダムの水にそんな成分は含まれていない。

 

 だとしら。

 

(結局ここってなんなんだろう。ここだけじゃなく、”この世界全体”がおかしいんだろうけど……)

 

 鼻も口も目の色さえも全て青に染まっている。

 

 青しかない世界。

 

 水の中では空も雲の流れも全てが別世界の遠い出来事のようだった。

 

 遠いと言うよりもとても遠くて届きそうにない。

 

 あの瞬間は、空をとても近くに感じたのに。

 

 また遠ざかっている。

 

 それが愛おしくて、とてももどかしい。

 

「あ、そうだ、羊水……燐、もしかしたらここの水って羊水に近い成分なのかも……」

 

 なにかを閃いたように蛍がぱっと口を開いた。

 

 燐は瞳をぱちぱちと瞬かせると、頭の中で蛍の言葉をもう一度整理した。

 

「羊水かぁ……なるほどー、そういうのもアリだね。蛍ちゃんの考えで正しいとわたしは思うなあ。息が出来るかはわからないけど、わたしもその説でしっくりくる」

 

 しみじみと、深く浸透するように燐は頷く。

 

 燐自身もなんとなくその答えではないかと思っていたところがあったから。

 

 でも即座に別の疑問が沸き起こる。

 

「燐……わたしたち、誰の中にいるのかな……」

 

 不安げな表情で蛍がつぶやく。

 

「誰って……誰ってことはないんじゃない? たまたま成分が似ていただけとかもあるかもだし」

 

 蛍の揺れ動く瞳をみて燐は優しく微笑むと、蛍の手をそっと握った。

 少し、震えているようだった。

 

 蛍の視線に穏やかな燐の顔が映る。

 大きな瞳の奥にはマリンブルーの揺らぎが彩光に小さく映る。

 

「燐、燐って……」

 

 全てが青に染まって、何もかも溶かしてくれるなら。

 あなたと一体になれるのなら。

 

 それはもう幸せに近いことだった。

 

「でもさ……あんまり難しく考えない方がいいよ、蛍ちゃん」

 

「どうして?」

 

「だって、ここは……夢の中だし」

 

「やっぱり、そう、かな」

 

「きっとそうだよ」

 

「そうだね。夢じゃなきゃこんなこと起こるはずはないもんね。でも……素敵な夢だよね」

 

「うん……素敵だよね」

 

 夢だからこそ綺麗で色づいているんだろう、燐はそう思っていた。

 

 現実は綺麗な面ばかりが強調されるけど、どうしても灰色な部分はあるし、それはどうしようもないこと。

 

 綺麗だから大切にしたい。

 夢だからずっと見ていたい。

 

 けど、夢は思っている以上に思い通りに行かないから。

 

 だから時折変なことになってしまう。

 

 予期せぬ出来事に。 

 

 

「燐。なんか……光ってない? アレってわたしの勘違いじゃないよね?」

 

 蛍は頭上からの光──陽の光とは違う光を見て唇を震わせた。

 

「やっぱり蛍ちゃんにも見えるんだね。わたしだけの見えるわけじゃないよね」

 

「う、うん」

 

 燐は自分だけが見える幻だと思ってあえて蛍には聞かないでいたが、蛍から尋ねてくれたことに安堵からの息を吐いた。

 

 大きな泡の塊は燐の不安の大きさを如実に表しているようだった。

 

「何だろうね、あれ。お化けか、火の玉かな」

 

 興奮したように顔を近づける燐に、蛍は何度も首を上下に振った。

 

「なんかちょっとづつだけど動いていない? 移動しているみたいに見えるよ」

 

 ”それ”は水面近くにいるようで、ぼんやりとした光も放っていた。

 

 その物体はこちらを気に掛ける様子もなく、蛍の指摘したように確かに移動していた。

 

「動いているなら魚か何かかな? 一応水の中だし」

 

「だったら淡水魚かもしれないね。光ってるからアンコウとか?」

 

「蛍ちゃん……アンコウは淡水魚じゃないと思うよ」

 

 確か深海魚だったと思う。

 

「じゃあ、燐は何だと思う?」

 

「うーん、そうだなぁ……」

 

 燐は考え込みながら蛍の顔を覗き込む。

 

「な、なに、燐」

 

「くすっ、”ホタルイカ”なんてどーかなって思って」

 

 からかうような眼差して笑う燐に蛍はぷくっと口を膨らませる。

 

「ホタルイカって言いたいだけなんでしょ」

 

「にゃはは、ごめんごめん」

 

 抗議の目で見つめる蛍に燐は頭をかいて謝罪した。

 

「けど、本当に生き物なのかな。光っているからって生き物とは限らないんじゃない?」

 

 ここから離れた場所に居るため全体像はつかめないが、単純な生き物とは違う気はする。

 青いスクリーンの中では何もかもが機械的で簡素なものに見えてしまうから。

 

「じゃあ、潜水艇とか。あれも一応光ってるよね?」

 

 絶対にあり得ない話ではないが、その場合誰が運転しているのかが問題だったし、結局は生物がいるということになってしまう。

 

 もっともあのハーベスターの様に無人で動いている可能性もあるわけだが。

 

 どの道、どの仮定でも確認しないと証明できないわけで。

 

「ここからじゃ遠くて判断は付かないよね。どっちにしてもさ」

 

 自分の意見も含めて否定とも肯定とも取れるような言葉を燐は発した。

 その表情は心なしか楽しそうだった。

 

 燐の中の好奇心が湧いたのかもしれない。

 未知のものに対する興味はやはり燐の方がほんの少し強かったから。

 

「じゃあ、確認しに行ってみようよ燐。追いつけるかどうかは分からないけど」

 

「えっ」

 

 蛍の提案に燐は意外そうに口を開けた。

 口の形の大きな泡が一つ上がって行った。

 

「あ、わたしがそこまで泳げるかなんて分からないけどね。でも見に行ってみようよ。どうせ行く当てなんてないんだし」

 

 なんだか定職にもつかないでフラフラしている人みたいな言い方に、燐はつい笑ってしまっていた。

 

「あはははっ、蛍ちゃんは相変わらず大胆だよね。まあ、そんなところが好きなんだけど」

 

「くすっ、わたしも燐の事好きだよ。だから行ってみよ」

 

 まっすぐに目を見ながら蛍は言うので燐は困ってしまう。

 蛍の”好き”は、燐と同じだけど、ほんの少し違うものが入っているのを知っているから。

 

「もー、”だから”が繋がってないよ蛍ちゃん。でも、まあ良いけどね。じゃあ行ってみる?」

 

 蛍に好意を持たれることは本当に嬉しかったから。

 こんなに素敵な人を独り占めしていることに罪悪感があったけど。

 

「うん。燐と一緒だからだよ。他の人とは違う燐だから」

 

 二人は確認するように顔を見合わせると、ゆっくりとこちらから遠ざかっていく光る物体を眺めた。

 

 青い世界に赤い光を放つその動きは、星の流れのような神秘的なものを感じられて、思わず見とれてしまうほど綺麗な光景だった。

 

「青い宇宙の星みたいだね」

 

「うん」

 

 蛍は思ったままを言葉にして宙に浮かせた。

 

 舞い上がる泡の群れは確かに青い宇宙に散りばめた透明な星のようにも見えた。

 

 一際光を放つ赤い星は留まることなく、どこかへと去っていく。

 巨人のように特に何も考えてなさそうな動きで。

 

「んー、じゃあちょっと怖いけど追ってみようか、蛍ちゃん?」

 

「えと……」

 

「どうしたの?」

 

「あそこまでちゃんと泳げるのかなって、わたし燐の足手まといになりたくないから」

 

 蛍は正直に口にした。

 けれど言葉には迷いはない。

 

 気持ちが同じだったから。

 大切な友達と想いは同じだったから。

 

「大丈夫だよ、蛍ちゃん」

 

 二人の指が絡み合う。

 そこに所在があるように指と指、その間の小さな隙間に過不足なく収まっていく。

 

 そうなることが必然であるかのように。

 

「蛍ちゃんと一緒ならきっとどこまでも行けるよ。だから一緒に行こう。今度は絶対に蛍ちゃんを守るから」

 

 燐は笑顔でそう答えた。

 

 周りの背景よりもずっと澄みきった燐の笑顔に、蛍は少し切ない気持ちで笑みを返す。

 

 それはあの別れの時と似ていたから。

 

(わたしはあの時何もしてあげられなかった……それは今だって)

 

「そうじゃないよ燐」

 

「えっ」

 

 蛍は燐の片方の手も繋いで胸の上で紡ぎ合わせた。

 

 二人は水の中でお互いのことを見つめ直す。

 回転し、天地が逆になってもその視線を逸らすこともなく、ただ真っ直ぐに。

 

「今度こそ、今度こそわたしが燐を守ってみせる。何があっても絶対、絶対にだよ」

 

 強い決意の色。

 燐はそれを垣間見た。

 

 同時に燐はサトくんの事を思い出した。

 言葉ではなく、目で通じ合ったあの白い犬のことを。

 

 瞳の色は決して違うが、思いの強さは良く似ていたから。

 そしてそれは繋がれた手からも感じ取ることが出来る。

 

 ──ずっと、ずっと好きだよ。

 

「……っ」

 

 何かの音、声のようなものを感じ取った。

 

 思いが水を滑り、波紋となって広がって、燐の心の奥底まで浸透するように。

 

「燐!?」

 

「ど、どうしたの蛍ちゃん」

 

 自分の名を急に呼ばれて慌てて声をかけた。

 

「今、頭の中で燐の声が聞こえた気がしたから……」

 

「それってわたしもだよ。蛍ちゃんにも聞こえたの?」

 

「うん……」

 

「そ、そうなんだ……あはは」

 

 

 そこからどう言葉を作ったらいいか分からず、燐も蛍もただ見つめ合うばかりだった。

 

 気まずいと言えばそうだが、逃げ出したいほどではなかった。

 

 その間、遥か上を漂うようにして進む物体は二人からどんどん遠ざかっていく。 

 

 けれども二人の視界にはその姿は入っていなかった。

 互いを見つめることに精いっぱいだったから。

 

 

「わたしが蛍ちゃんを守るし、蛍ちゃんはわたしを守ってくれる……それってただ守り合ってるだけじゃないの?」

 

 燐はあえて”声”の事は聞かずに先ほどのまでの話に戻った。

 

「それもいいんじゃないかな。わたし達って自分の事なると割と疎かになっちゃうよね」

 

 気遣いが分かった蛍も燐の話に合わせた。

 

「それもそうだね。自分の事は自分が一番良く分かってるっていうけど、実のところそんなでもないもんね」

 

「うん。わたしは燐以上に燐のことを思っているつもりだよ」

 

「わたしも蛍ちゃんのことすっごく大事に思ってるからね」

 

 二人は本心からの言葉でお互いを慰めあった。

 

 不器用だと思う。

 

 けれどこれしか方法を知らなかったし、二人にとってこれが最善であると思っていた。

 

 燐と蛍。

 輪郭を失ったふたりだったから。

 

「あ、喋ってたら大分離れて行っちゃったね。蛍ちゃん行けそう?」

 

「う、うん」

 

「まだ気になることであるの」

 

「あのね、燐。やっぱり、服を脱いじゃおうかって……」

 

「ええっ!? 蛍ちゃん、本気? だってさっき──」

 

 あれほど嫌がっていたのにどうして。

 

 燐は目を白黒とさせた。

 

「水の底歩くだけなら問題ないけど、ちゃんと泳ぐなら話は別でしょ。何も着ていないほうがどう考えても泳ぎやすいしね」

 

「まあ、それはそうだけど……いいの蛍ちゃん?」

 

「うん……燐と一緒だったら恥ずかしくないと思う」

 

「分かった! じゃあぱぱっと脱いじゃおうか」

 

 燐はぱちんと指を鳴らすと(小気味よくは鳴らなかったが)、制服のスカートを緩め始めた。

 

「あ、待って燐!」

 

「え、どうしたの? やっぱり恥ずかしくなっちゃった?」

 

「そうじゃなくて、せっかくなら電車の影で脱ごうよ。そこに制服を置いておけば目印になるし」

 

「あぁ、なるほどね。さっすが蛍ちゃん頭いい!」

 

「もう、燐の方が成績良いでしょ。それより早く追いかけよう」

 

 蛍は可愛らしく口を尖らせると、燐の手を引いて車両の影まで強引に引っ張った。

 こういう時の蛍はやっぱり大胆だった。

 

 

 

「そういえばさぁ」

 

 服は乾いているのに何故か脱ぐのに苦労している蛍に燐が尋ねる。

 

「ガラスの破片って周りに全然落ちていないよね。綺麗になくなっている感じ」

 

 燐は殆ど脱いでいたが、下着とアンダーウェアをどうしようか悩んでいた。

 

「うーん、なんでだろうね。この電車があの時のものなら破片が散らばっていてもおかしくないよね」

 

 その破片を気にして靴は最後まで残しておくつもりだったのだが。

 

 その必要はないようだった。

 

「……結局下着も脱いじゃったね」

 

「うん……中途半端なの嫌いだし」

 

 蛍と燐は全裸で向かい合う。

 

「でも蛍ちゃん、髪飾りは付けたままにしておくんだね」

 

「燐だって、カチューシャ付けたままでしょ」

 

「これは……一応お気に入りだから」

 

「わたしだって、そうだよ」

 

「じゃあ同じだね」

 

「うん、同じ」

 

 少女たちは一糸まとわぬ姿のままで笑い合うと、畳んだ服の上に靴を重し代わりに置いた。

 

「誰か取ったりしないよね?」

 

「燐じゃないんだから」

 

「だーかーら、わたしは制服フェチじゃないんだってー!」

 

「はいはい」

 

「それじゃ、行くよ蛍ちゃん」

 

 こくり。

 蛍は無言のまま頷いた。

 

 二人は制服を守ってくれる錆びついた列車の残骸を蹴って、青い宙の中を漕ぎ出した。

 

 青い青い、どこまでも広がっている淡く青い空の先へと。

 

 そのまま陽の射す方に戻ることもできたはず。

 それなのに。

 

 二人の少女は真っすぐにその物体へと足を動かす。

 

 ──水を飛んでいる。

 

 蛍はそう感じた。

 

 そんな感傷に浸りながら泳いでいると、前を泳ぐ燐との差がどんどんとつきはじめてしまい。

 

「あっ……」

 

 燐の姿は蛍の視界から消えてしまっていた。

 

(予想通りとは言え……)

 

 燐との速さは全然違っていた。

 同じ泳ぎ方をしているつもりなのに。

 

 ”特別”と”違い”は別物だと、幼心に悩んでいた時期もあったのだが。

 

(やっぱり燐は”特別”だよね。クラスでもこんなに速い子っていないもん)

 

 他の部から勧誘を受けるほどスポーツ万能な燐に水泳で追いつこうなんてことは土台無理な話だった。

 

 地上での走りでも全く追いつけなかったけど、水の中なら少しはマシかなと思った自身の見通しの甘さを蛍は恥じた。

 

「蛍ちゃん大丈夫~!」

 

 蛍はもやもやした気分のまま結局いつもの調子の泳ぎを続けていると、燐が手を振って待っていてくれていた。

 

「はぁ、はぁ、ごめんね燐。服を着ていなくても、泳ぐのって結構、疲れるね」

 

「まぁそれはね。それよりごめんね蛍ちゃん。一人で飛ばし過ぎちゃって」

 

「ううん、いいよ。それより今は燐が一人で行ってて、後から追いつくから」

 

「だーめ、蛍ちゃんと一緒じゃないと意味ないでしょ。さ、手を出して蛍ちゃん。わたしが引っ張ってってあげるから」

 

 思わずそのまま手を出そうとした蛍だったが。

 

「燐。手を繋いだまま泳げるの?」

 

 蛍は心配になって聞き返す。

 

「まあ、()()じゃちょっと難しいけどぉ、ここなら多分大丈夫っぽいかなって。それに溺れることもないしね」

 

「たしかにそうだけど……」

 

「じゃあ行こうか。もうちょっと行けば何か判別がつきそうだしね」

 

「わ、ちょ、ちょっと燐──」

 

 燐は蛍の手を取りながら片手だけを使って泳ごうとした。

 

 だが、蛍の準備がまだ整っていなかったので、それはちぐはぐな泳ぎになってしまって。

 

「あっ!」

 

 蛍は思わず手が離れてしまった。

 

「蛍ちゃん!!」

 

 翻弄されるかのようにふらふらと蛍は水の中で舞っていた。

 

 燐はすぐにその手を掴もうとする……が。

 

「ち、ちょっと蛍ちゃんっ。どこ掴んでるのっ」

 

「どこって……燐の、足だけど」

 

「そんなところに掴まらないでよー! ほらわたしの手にちゃんと掴まってて」

 

 燐は身体を折り曲げながら変わった体制で手を差し出した。

 

 けれども蛍は首を振って拒むと、もう片方の手でも燐の足首を掴む。

 

 全く予想だにしていないことの連続に燐は思わず体をくねらせた。

 

「ど、どうしてなのっ!?」

 

「このまま泳いだ方がいいと思うんだ。わたしバタ足だけは得意だし」

 

「えぇー」

 

 燐はあからさまな拒絶の反応を見せる。

 

 何が問題があるのだろうか? 蛍は本気で分からなかった。

 

「どうしたの燐。やっぱりダメ?」

 

「ダメっていうかぁ……うー、下からだと色々見えちゃうじゃん! 今、裸なんだしぃ……」

 

 赤面する燐を見て、蛍はあぁ、と合点がいったように手を叩いた。

 

 確かにこの体勢だと燐の恥ずかしい所とか全部蛍に見えてしまうことになる。

 

「大丈夫、わたしは気にしないよ」

 

「んもー。わたしが気にするのっ!! こんなことなら下着だけでも履いておくんだったぁ……」

 

「今から取りに戻る?」

 

 蛍の視線の先には先ほどの朽ちた車両が粒ほどの小さくなっている。

 

 その大きさから見ると、結構泳いできたらしかった。

 

(今から取りに戻ったら確実に見失っちゃうしぃ……)

 

「も、もうこのままでいいよ。その代わり蛍ちゃんは目を瞑るかどこか違う所を見ててよねっ」

 

「うん」

 

「あ、あとそれと……へ、変な事しないでねっ!」

 

「変な事って?」

 

「それはそのぉ、って……わ、わたしに言わせないでよー」

 

「ごめんごめん、絶対変な事しないから大丈夫だよ。それより燐」

 

 足を掴んだままの蛍が目で合図してきたので、燐もそちらの方を見た。

 

「わ、また遠ざかってるよぉ」

 

「早く行った方がいいよ燐」

 

「う、うん」

 

 蛍に促されて燐は慌てて泳ぐ姿勢をつくる。

 けれども羞恥心の方が勝っているのか、すぐに泳ぎ出すには至らかった。

 

(うー、相手が蛍ちゃんとは言え恥ずかしいよぉ)

 

 燐はぎゅっと目をつむって恥ずかしさに耐えるようにすると。

 

「蛍ちゃんっ。あ、あとで責任とってよねっ!」

 

「え……う、うん……」

 

 恥ずかしさのあまりつい意図せずして燐が放った言葉だったが、蛍は呆然としたように目を瞬かせた。

 

(あれ? わたし変な事、言ったかな?)

 

 蛍の態度が急に変わったことに燐は首をかしげる。

 

 蛍も燐と同じように赤面させていた。

 そして燐の目を見つめながら何かを言いたいように口をもごもごとさせていた。

 

「え、えっとぉ……」

 

 なんとなく察したのか、燐はばつが悪そうに瞳を逸らした。

 

「燐……わたし、頑張るからね」

 

 何かこう決意したような声色で蛍が宣言した。

 

「あ、うん。わたしも、が、がんばる……って変なところ見ながら言わないでよー!」

 

「くすくすっ。うん、そうだね」

 

「はぁ、行こうか……」

 

「うん」

 

 燐は大きなため息を一つ付くと、今度こそちゃんと泳ぎ出した。

 

 流石に息が合いづらいかと思ったが、意外なほど早く泳ぐことが出来た。

 

 燐はどうにも腑に落ちなかったが、蛍は少し楽しそうな表情で足を必死に動かしていた。

 

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 

 






 むぅ──、先日遂に一回目のワクチン接種に行ってまいりましたよ──。
自分としてはまだ良いかなって思っていたのですが、結構周りの人も接種してますからねぇ……こればっかりは仕方ないかなーとはおもいます。

それで、ネットで予約──したのですが、モデルナ製とファイザー製から選べることが出来たので、先に予約できるモデルナ製ワクチンにしました。
てっきり予約者殺到で回線が繋がらないかと思ってたのであっさり予約出来て拍子抜けでしたねー。っていうか、モデルナワクチン人気ないっぽい?まあ副反応が重いって言われてますからねー。その代わりワクチンとしての能力が高いみたい? 誤差の範囲かもしれないですが。

会場は医療機関ではなく大きなホールで行うようで、何かのイベントのようでちょっと楽しみだったり……。
べ、別に病院が怖いってわけじゃないんだからねっ! 勘違いしないで(r

……まあ、他のワクチンでも病院以外の場所で接種出来るみたいですし、自分に合った場所と時間で接種するのがいいと思います。

モデルナは大規模接種とのことで休日に予約してたのですが、思っていたほど混んではなかったです。むしろ流れ作業のようにスムーズでした。 
例えるなら、選挙の時や免許の更新のようでしたねぇ。けど、本人確認は徹底しているらしく、受付のようなのは複数回ありましたし、その度に今の体調や本名を聞かれました。

で。肝心の注射なのですが、チクッ、となっただけであとはそれほどーでしたねぇ。むしろ”もう終わりなの?”ってぐらい呆気なかったです。
その後は待合スペースみたいなところで10分ほど休憩待機して、後は各自お帰りーでしたね。

その場ではなんともなかったのですが、後になって注射を受けた左肩がずっと痛かったですねー。動かせないほどではないのですけれど。

渡されたペーパーによると、副反応は二、三日後とかにもくるみたいですから、まだ予断は許さないーのかな? それでもまだ一回目ですしねー。二回目は結構ヤバそう?? 念のためのアセトアミノフェン錠や冷えるシートは用意してますけどもー。

ワクチンを打ったからといっていきなりどうなるわけでもないですけど、少しだけ安心かなーとかとか。

と、ちょっと余裕ぶっていたのですが……翌日になっても接種した箇所はずきずき痛むし、どうにも気怠いし、結局発熱しちゃうしと、副反応が出まくりでしたよ~~。やっぱりモデルナは強かったかぁ……薬飲んで寝たら大体治まりましたけどねー。

それではではではでは────。



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Postlude

 
 どうしよう。

 絶え間なく足を動かしていたせいか、感覚がなくなりそうになっていた。

 ──なんでこんなに必死に。

 必死になって燐と一緒に泳いでいるんだっけ。

 確かに誘うように光っていたけれど。
 それだけの事がその理由だとは思えなかった。  

 ”セントエルモの火”、なのだろうか。

 ぼんやりとした光は、そのようにも思わせる。

 特殊な条件が重なった時に起こる発光現象……だった気がする。

 小説などでは聞いたことがあっても、それを現実的に目の当たりにしたことはない。
 けれど、こんな摩訶不思議な世界でまともに航行する船がいるとも思えなかった。

 それに、天候もさして悪くはなく見える。

 水中では地上の詳細は分からないけど、モザイクの様な水面の内側を光の線がなだらかになぞっていて、こぼれ落ちた光の柱が白い神殿のようなモニュメントを作っていたから。
 
 快晴であるとは思う、きっと。

 もっともこの世界では天候が崩れることなんてありえなさそうだけど。

 だとしたらあれは一体?

(わたしの足を掴んだのが”アレ”だったとしたら)

 わたしはどうするだろうか。
 自分だけでなく、友達も──燐も一緒に水中に引きずり込んだアレを。

 蛍の頬が水中でもわかるほど上気していた。

 けど、なんにしてもその正体を見ない事にははじまらない。

 ソイツは何のために進んでいるのかは不明だが、何かの意思を持ってどこかを目指しているみたいだった。

 消えたり点いたりと、ゆらゆらと発光しながら、わたしたちの数メートル先へと行った謎の物体。

 それを追って懸命に泳いでいる燐と蛍。
 殆ど裸と言ってもいい、何も身に着けていない状態で。

 二人には羞恥心よりも気にしていたことがあった。

 それは単純な好奇心。
 燐は少なくともそうだった。

 蛍も少し渋っていたがやっぱりちょっとは気になってはいた。
 この世界で二人以外に動くものがあったのなら、気になるのは当然だった。

 それだけ他の生き物の証を見ることがなかったから。

(鬼火とか……燐火とか……そういうもの、かも?)

 漁火、とか言ういい方もあった。
 火の玉から連想される、どこか朧げな炎のかたまり。

 あの光はそう言った霊的な……オカルト的なものに見えた。
 蛍はそういった事は一切信じていないつもりだったけど。

 オオモト様もそう言っていたし。

(でも、座敷童ってやっぱりオカルトだよね。それが良いとか悪いとかではないけど)

 オカルトを否定してもその存在は変わることはない。
 それは蛍とオオモト様、そして燐が証明していた。

 オカルトに縋るつもりは毛頭なくとも、何かが常に寄り添っている。

 世界がわたし達二人を中心に渦を巻いているかのように。

 あの時の巨人と似ていると思った。
 あまりにも巨大で非現実的だったけど、あれは確かに実在していたから。

 誰かに話したら、想像上のものかCGでしょとか言われちゃうとは思うけど。

 けどあの異質とも言える質量の塊は確かにあったのだ。

(あれもオカルトなんだろうね……)

 お化けや妖怪、火の玉など、これまで蛍の人生でわりかしどうでもいいと思っていたことばかりが目の前に現れてきた。

 そして自身も座敷童──つまり妖怪……純粋な人間ではないらしい。

 燐にああは言ったが、まだ自分の中で納得が言っていないことの一つだった。
 最も重要とも言っていいぐらいの。

 オオモト様の説明は時に曖昧だったから、自分なりに解釈してしまったけれど。

 ()()()()()()を知っているものはもう誰もいない。

 まあ知ったところで……なんだけど。

(でも燐だって座敷童なはず……)

 実のところそれは蛍の直感だけだった。

 座敷童の力は目に見えないものだし、もう少しわかるレベルの幸運が何度も起きないと、ただの偶然で済まされてしまう。

 しかし蛍はその偶然こそが座敷童の持っている力だと思っていた。

 偶然が偶然を呼んで大きな偶然となる──それが幸運の本質。 

 それだけ当時の小平口町は良いことに恵まれていなかったんだと思う。

 そうでなければ幸運と少女を結び付けるだけの像も、その概念も生まれることはなかったのだから。

(不幸が幸運を呼んで、その幸運が今度は不幸を呼び寄せてしまう?)

 結局ただの堂々巡りだった。

 それじゃあ、座敷童とは一体何なのか。
 結局それに行きついてしまう。

 答えのない問題を胸中で抱え込みながら、蛍は周りを取り囲む青のスクリーンに複雑な視線を向けた。

 いまこうしていることは幸運なのだろうか。

 呼吸が出来ていることは幸運だと思う。
 羨ましいという人がいてもそこまでおかしいとも思わないし。

 けれどもし、このまま水の中から出れなかったら。

(多分、不幸だって思われるだろうな)

 不幸も幸運も何かしらの条件がいるとは思う。

 ”見方によって”とか”この時代は”みたいな、ちょっとふわっとした感じで。

 例えばこの場所だって、”息も出来て食べられる広大なゼリーの水槽に閉じ込められています”って言われたらどっちになるだろうか。

 不幸かな?
 それとも幸運?

 まだ閉じ込められたとは思ってはいないけど。
 良くも悪くもないみたいな曖昧な捉え方をされると思う。

 まず最初に、その質問に呆れられそうな気もするけど……。

(あ、ゼリーでもいいんだけど、ババロアでも良さそうだよね)

 ババロアの上にチョコソースをたっぷりとかけて、その中で泳ぐのも悪くはない。
 もし寒天だったらカロリーを気にすることもないかも。

 蛍は想像だけで口の中を甘くすることができた。

 きっとこういうのが幸運……なのかな。

 いい使われ方じゃない気もするけど。

(でも、幸福も不幸もなかったら、全部が味気ないものになっちゃうよね。じゃあこれで良いのかな?)

 何度自問自答しても納得のいく答えは出ない。
 燐と話してもこれとった結論は出たことがなかった。

(とりあえず今は……)

 あれに追いついてみようとは思う。

 それが不幸なのか幸福なのか。
 定義を下すものは多分誰も居ないだろうけど。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 少女たちはそれぞれが前後となって、空色の水の中を泳いでいた。

 水の中での息切れってなにか変。
 蛍はそう思ってはいたが、それでも疲労はどんどんと溜まっていく。

 青と白だけの地上もそれなりに味気ないものだったが、青一色の水の世界もやはりそう大差のないものだった。

 どんなに綺麗な景色でも見続けてみればその内当たり前になってしまう。
 それにしたって蛍は少し早い気もするが。

(でも、燐が一緒なら問題ないね。燐とならどこだって楽しいし)

 必死に手を動かしている燐にそっと微笑む。
 この位置ではお尻しか見えないけど。

 こっちを見ちゃダメと燐に言われているけど。

(ちょっとだったら良いよね? 燐だってわたしの体、割とみてるし)

 それでも、こんなに近くで見たことはなかった。
 しかも人に見られたくはない大事な場所を。

(別に隠さなくていいと思うよ。燐の”ここ”とっても綺麗だし)

 本人が聞いていたら赤面ものだろう。
 けれど蛍は素直にそう思っていた。

 燐は身体も心もすごく綺麗だと思っている。

 壊れやすい部分はあるとは思う、けれどそれでも燐の輝きが失われたと思ったことは一度としてなかった。

 自分が今こうしていられるのは燐が居てくれているから。

 居なかったときもあった。
 けど燐は来てくれた。

 燐はわたしを見つけてくれたんだ。
 例えどんな状況であったとしても必ず。

(でも……わたしは燐を見つけられなかった。わたしだってどこに居ても見つけられる自信があったはずのに……)

 燐に出来てわたしに出来ない事。
 それはすごくいっぱいある、両手じゃ足りなくなるほどに。

 逆にわたししか出来ない事って……なんだろう?

 馬鹿馬鹿しいと思った幸運を呼ぶ座敷童の力だって、特別かどうかを認める前に殆ど失われてしまったようだったし。

(わたしだけの……特技か……)

 それは一体なんだろう。
 今後の課題になるとは思った。

「見て、蛍ちゃん、あれっ!!」

 一心不乱に泳いでいた燐が急に言葉を出したので蛍は思わず身を震わせて驚いた。
 燐の声は音叉の様に水に反響して、蛍の体全体から伝わってくるようだったから。

 燐が片手だけを器用に動かして、指さす方向に蛍も目を凝らす。

「あ……!」

 息を呑んだ。

 あの例の発光体がすぐ目の前、視界から届く範囲にまで迫って来ていたからだった。

 結構な距離があったのにいつの間にか追いついてらしかった。

 光る物体はこちらに気付く様子も、逃げるような素振りもみせずに、相変わらず進みたい方向に進んでいるようだった。

(とうとう追いついちゃったんだ……!)

 対象に近づいたことに焦燥感を駆られたのか、蛍の胸がどきどきしだした。

 その激しい鼓動は燐にも聞こえたのか、蛍の方を振り向くとその目を見ながら優しく微笑んでくれた。

 安心させるような優しい笑みで。
 蛍はそれだけで急に心が落ち着いたように感じられた。

(じゃあ、ゆっくりと接近するよ蛍ちゃん)

 燐はそっと小声で(水中では対して意味がないかもしれないのだが)ささやくと、一漕ぎ二漕ぎとゆっくりと距離を詰める。

 蛍もそれに合わせてゆっくり足を動かす。

 誰も後ろを見ていないことを良い事に全裸のまま、蛙のようなはしたない足運びをしていた。

 燐がそれを知ったらすごく怒られるだろうなとは思ってはいたが、こっちの方がまだ楽だった。

 きっとこの分だと、明日は筋肉痛で動けなくなるだろう。

 燐は大丈夫だとは思うけど、蛍は登校できるどころか普通に生活ができることを心配にしてしまうほどだった。

 もっとも、まだちゃんと元の世界に戻れるかどうかわかっていないので、今の時点では無駄な杞憂なのだけれど。

 それでも心配なのには変わりはなかった。

(それにこのまま続けてたら太ももが太くなっちゃいそうだし)

 水泳はダイエットに効果的なのは分かるが、足が太くなってしまうのだけは避けたかった。

 蛍の要らぬ心配をよそに、燐は密やかに確実に相手との差を詰めていった。

(それしても、随分遠くまで来ちゃったなあ……)

 あの先を行く物体が羅針盤だったとしても、かなりの距離を泳いでいた。

 よく似た列車の残骸はきっともう見つけることは出来ないだろう。
 もう服を着ることは出来ない、燐はそう推測していた。

 そもそも水の中だし、女同士なのだからそこまで気を遣うことはないと思うけど。

(にしても、こう見回してみても他に何もないね。てっきり”栓”ぐらいはあるかと思ってたんだけど)

 燐はこの巨大な水溜まりを大きなバスタブか水槽のように思っていた。

 だから水を抜く栓があるかと思って、泳ぎながらずっと下方向を注視していたのだが。
 そこまで予想通りにはいくはずもなかった。

(まあ、仮に巨大な栓があったとして、それを抜いたら……)

 どうなってしまうのか。

 燐は自分のバカげた妄想に自分で戦慄をしてぶるぶると首を振った。
 それを見た蛍は何事かと小首を傾げる。

 そうこうしていると……。

「光の球だ……」

「うん……光ってるね」

 二人はついにその姿を間近に捉えた。
 どちらが前か分からないが、それはふよふよと水中で漂っている。

 更によく見ると、光は一色だけではないみたいだった。

 緑や赤、青や紫など、様々な色が交じり合って、大きな白い光を作り出しているみたいだった。

 光の集合体。
 それは虹のように様々な色を纏って出来ていた。

 だが、その中心には何がいるのかは分からない。
 正体は杳として不明のままだった。

 燐はもう少し近寄ってみようと腕を漕ぐ。
 蛍も頑張って足を動かした。

 近くまで寄ってみると、改めてその大きさに驚いた。

 光の半径は2、3メートルはあるだろうか、そのぼんやりとしたままの光を放ちながら進んでいる。

 こちらが近づいてきてもその光球は色を変化させることもなく、ただ前へと進んで行った。

 すいすいとしたその動作は、それこそ回遊魚や、イルカの類のようだった。

(やっぱりクラゲ? でもクラゲってこんなのだったっけ?)

 蛍は図鑑でのクラゲを思い返してみたが、その絵と泳ぐ姿が一致してくれなかった。

「蛍ちゃん、どうしようか。正面に回ってみる?」

 燐が耳元でぼそぼそと耳打ちをしてくる。

 ”アレ”には耳という器官がないのかそれともどうでもよいのか、燐と蛍が話している間に、また先へと行ってしまった。

「いいよ、燐。ちょっと怖いけど」

 蛍は正直に言うと、ややあって二回ほど大きく頷いた。

 蛍の強張った顔を見て燐は一瞬難しい顔をするが、蛍の固い意志を瞳に感じ取った。
 燐はにこっと微笑むと、蛍の手をぎゅっと繋いだ。

「このまま行くよ、蛍ちゃん」

「うん」

 二人は顔を見合わせると、そのままクロールの要領でもがくように進んだ。
 バランスは確かに悪かったが、それでも二人の目線は一緒だったから。

 左右のバランスの悪いボートのように体を左右に揺らしながら、冷たくも温くもないどろっとした水の中を泳ぎ続けた。

 意外と早い光の物体に蛍はつい音を上げそうになる。

(……息は出来るのに、息がきれそう、だよ……)

 矛盾しているのかどうかすら分からないほど、蛍は身体の限界を感じていた。
 
 水面でぷかぷかと浮くのが好きだった蛍にこれはあんまりな仕打ちだった。

 プールでも泳ぐことはせずただ浮いているだけで満足だったのに。
 こんなに、それも必死になって泳ぐことになるなんて。

 蛍は元の世界に戻ったら、まず最初に湿布薬を探すところから始めないといけないようだった。

 二人は右往左往しながらなんとか発光するものの真下に潜り込むと、一気に泳いでその真ん前に回り込むことに成功した。

 光の球は真っすぐにこちらに向かってくる。

「燐っ……!」

 蛍は燐の身体に手を回してぎゅっとしがみ付くと、恐怖耐えるように目をつぶった。
 燐も蛍の手を固く握りしめると、その正体を探るべく、目をカッと見開いた。

 太陽みたいな眩しい光。

 二人の身体よりも大きな光が少女たちを飲み込んで行く──。

 瞳には真っ白な世界。
 感じるのは蛍の、熱く脈打つ鼓動だけ、だった。

「うわっ!」

 声を出したのは燐だった。

 小さな光の粒。
 それが目の前に広がっていた。

 それらはぶつかってくることもなく、二人の体を通過していく。
 
 光の粒は色を変えながら燐と蛍の間を器用にすり抜けて行った。

 明らかにこちらを避けているような動きに、燐はその光に生命のようなものを感じざるを得なかった。

 原子か、粒子なのかもしれない。

 あの時、異形の姿になった町の人達が姿を変えた光のかたまり。
 それと似ている気がした。

「………」

 燐の声に反応したのか、いつの間にか目を見開いていた蛍だったが、その光景に圧倒されたされたように呆然で立ち尽くしていた。

 色んな色の小さな光が星のようにキラキラと瞬きながら、二人の周りをすり抜けていく。

 数えきれないほどの光の群れは星屑で出来たシャワーのようだった。

(あれは星? いきている星……なの?)

 その時の蛍は何も特別な事物を考えていなかった。
 ただ好奇心の惹かれるがまま、その光の事象を捕まえようとしていた。

 物理的か霊的なものかすらも考えてもなく、無防備に手を伸ばす。

 それはあまりにも短絡的すぎる行為だったが、その無謀さが功を奏したのか、一つの光の粒が蛍の白い手の平に当たって落ちた。

(嘘……拾っちゃった!?」

 軽い衝撃が掌の中心にあっただけで、思いのほか簡単に手の中に収まってくれた。

 蛍はそれを傷つけないように素早く手の中で軽く握りしめると、昆虫を捕まえたときのようにもう片方の手も添えて、中に居るであろうそれを覗き見た。

 手の中には──小さな球が一つ入っていた。

 それは星というよりも、宝石のようで。
 つるんとした丸いガラス玉のようだった。

 動いていたのが嘘のように静かに蹲っている。

 ただ、全体は脈打っているかのように淡く発光していて、まるで”ホタル”を捕まえた時のようなものを髣髴とさせた。

「これって……!?」

 蛍はまざまざと見ながら、その表面をみて驚きの声を上げた。

 光を放つ、ガラスのような表面には小さく細かい模様が施しており、その模様(パターン)の感じに確かに見覚えがあったからだ。

「蛍ちゃんどうしたの?」

 燐が蛍の方を覗き込んできた。

 蛍は目で自分の手の中を見るように合図を送る。
 燐は察したように頷いてみせると、蛍の手の中のものを見ようと目を凝らした……。

「ああっ!」

 蛍が手の中のものを燐に見せようと傾けたとき、隙間からこぼれ落ちてしまった。

 拾い上げようと咄嗟に機転をきかせた燐が慌てて手を伸ばしたのだが。

「あっ……?」

 止まってしまったとばかりに思っていた光球は確固たる意思を持っているように燐の手を躱すと、他の光の球と同じ方向へと消え去ってしまった。

 それは本当に一瞬の出来事だった。
 水中で呆然と立ち尽くす二人の少女。

 だが蛍にはあれが何だったのかが分かってしまった。

 かと言ってそれが何の解明になるのかは分からないが。

「あれは毬、だったよ。すごく小さな手毬だった」

 蛍は自分の言葉が信じられないとばかりにぶっきらぼうに呟く。

 燐にもその声は確かに聞こえたのだが、返すだけの言葉もなく、呆気に取られたようにぽかんと口を開けているだけだった。

 二人は無言のその光景を見送っていた。

 泳ぐことも瞬きすらも忘れているような時間。
 それはどれぐらいだったのだろう。

 恐らく一分にも満たないその光景は、一切の余韻もなく駆け抜けてしまった。
 
 燐は、従兄と一緒に見たワタスゲの原での光景を思い返していたのだが、あまりにもすぐ終わってしまったのでその一かけらすら、思いに浸ることはなかった。

 蛍は何も考えずに燐の隣でその光景を見ていただけだった。
 ただ燐の手の温もりはずっと掴んだままだった。

「ねぇ、燐。燐がいま言いたいこと、当ててあげようか?」

 最初に口を開いた蛍が唐突に燐に尋ねる。
 燐はすぐに苦笑いで返した。

「わたしも、蛍ちゃんが言いたいこと何となく分かるよ」

「じゃあ、せーのーで言ってみよっか?」

「うん。せーのっ!」

 二人が同時にあげた名前。
 それは小さな魚が主役の有名な絵本のタイトルだった。

「燐も”スイミー”って思ってたんだ」

「うん。小さい頃お母さんによく読んで貰ったし。小学校の頃も図書室でよく読んでたからね」

 二人は顔を見合わせて微笑んだ。
 気持ちが言葉がシンクロするのは気持ちとても良かったから。

「でもさ、スイミーって真っ黒かったよね。で、赤い魚と混じって泳いだから大きな魚に見せることできて難を逃れることが出来たって話だったけど」

「さっきのはみんな違う色だったよね」

「うん……だからスイミーとは全然違うよね。外敵みたいなのもいなかったみたいだし」

 行ってしまった小さな光の集合体を振り返る。

 二人の心配をよそに、小さな発光体の群れは丸い形のまま、そのぼんやりとした灯りを照らしながら、青暗い世界へと進んでいった。

「でもさ、蛍ちゃんさっき”手毬”って言ってたよね?」

「あ……うん」

 曖昧な笑みで蛍は答えると、行ってしまった方向を見ながら話を続けた。

「捕まえた光が小さな手毬のように見えたの。はっきりとは分からなかったけど、わたしにはそう見えたんだ。逃げちゃったから分からないけど……燐は、どう見えた?」

 顔を覗き込む蛍に燐は困った顔で返す。

「わたしも、良く分からないや。一瞬の出来事だったし、それに……」

 燐は言葉を詰まらせた。
 その変化に蛍は気づかうように燐を見つめる。

「あ、ごめんそうじゃなくてさ、ただ、あの時の事を思い出しただけだよ。光の球で満ちたあの転車台の事を」

「燐……」

 全てが月光の下に晒された後のこと。
 原子へと還った町の人達が、新しい、完璧なせかいへと昇って行ったときのことだろう。

 その一部始終を蛍と燐は確かに見ていた。

 すべてを捨て去ったあと、どこか寂しくてきれいだった光景のことを。

 光の球が次から次へと薄暗い空へと還っていくあの姿を。

 地上に落ちた星が空に戻っていくように、それは夜鷹と同じように意味はなかったけど、だからこそ美しかった。

 なんのしがらみもない純粋な姿だったから。

「後、ついて行ってみる?」

「ううん、もういいよ」

 蛍の提案に燐は軽く首をふる。
 一応目的は果たしたし、それに。

「あの子たちには、きっと行きたいところがあるんだよ」

 燐はそう言ってその背に手を振った。

 あの時は何も出来なかったけど、今なら自然と普通にできた。
 サトくんもヒヒもその輝きはとても綺麗だったから。

「そうだね」

 蛍も手を振って見送った。


 ふと気が付くと、静寂が戻ってきていた。

 青い世界。

 進むことも戻ることもままならないマリンブルーの箱の中は。

 また、二人ぼっちのアクアリウムに戻っていた。


 ────
 ────
 ────





 全く知らない道ではない、前に歩いたことのある道だったと思う。

 

 それに山道と言ってもすぐ横には県道が並行して走っているから、仮に道に迷っても大丈夫。

 

 まだ日も高いし、程よい風も吹いている。

 

 気持ちよく歩けそうだった。

 

 少なくともそう、思っていた。

 

「はぁ、はぁ」

 

 あれからすっと休まずに歩いている。

 ペースは割と速いとは思う。

 

 それにしたって疲労が来るのが早かった。

 

 ──おかしいなぁ。

 

 これでも色んな山を歩いてきたはずなのに。

 富士山にだって登ったこともあるのに。

 

 体がやけに重く感じる。

 

 確かに山登りはご無沙汰だったけど、それにしたってこれは。

 

 久しぶりなんてレベルではない気がする。

 

(わたし、ちょっとの間にすっかり鈍っちゃったの、かな……?)

 

 自分の身体じゃないみたい。

 

 部活だって二学期から休まずやってるはずなのに……これぐらいでもうペースを落としている。

 

 それは体感だけではなく、その事は時計でも示していた。

 

「はっ、ほっ、はっ、はっ」

 

 息を短く吐いて、一定のペースを保つようにする。

 平地でなら造作もないことでも、山道ではこれが結構難しい。

 

 とにかく焦らないで進むことが重要だった。

 

(それにしても暑いなあ……今日って最高気温何度だっけ?)

 

 秋も半ばだというのにこの暑さは異常だった。

 木漏れ日の下を歩いていても、さっきから汗が止まらない。

 

 軽い山歩きだと思って適当な格好で出てきたことが、仇になってしまった。

 

 それに燐はまた同じミスを犯してしまっていた。

 

(わたしまた、ろくに試さないでトレッキングに来てるなぁ。まあシューズと違ってジャケットだからそこまで問題ではないけど……)

 

 試しというか慣らしにはちょうどいいかもしれない。

 もう少し後のシーズンを考えての装備だったのだけれど。

 

「ご、ごめん~。ちょっと休憩させてね……」

 

 一言そう呟くと、燐は勝手に近くの木にもたれ込んで、バックパックの横に下げたペットボトルで喉を潤した。

 

「はぁ……」

 

 正直、だらしない身体だなあとは思った。

 少しの間、山に登らないだけでここまで鈍るとは思ってなかったから。

 

 部活で体を動かしていても使っている筋肉に違いはあるのか、山歩きにはそこまで役には立ってくれないようだ。

 

 今まで平気だったのは、やっぱり日頃から山に登っていたおかげらしい。

 

 止めたおかげでそれがやっと分かった。

 

(トモが言ってたように真剣さが足りない部分もあるのかなあ、わたし……)

 

 休み中、一度も練習に顔を出さなかったので、部活を辞めたとばかり思われていたらしかった。

 

 だから普段のように部室へ行ったとき、かなり驚かれてしまったんだけど。

 

(すっごく怒られちゃったんだよね。わたしだってそんなつもり毛頭なかったのにさ)

 

 ぐびっと、もう一口水を飲む。

 少し硬めのミネラルウォーターは、喉にも心にもそれほど優しくはしてくれなかった。

 

「なんで、こんな水選んじゃったんだろ? トレッキングだったらもう少し──」

 

 自分で選んだ飲料に対して、腹いせのように悪態を付いていると、ふいに袖の辺りを引っ張らられた。

 

「くぅーん」

 

 もう先に行ってしまったとばかり思っていたサトくんがいつの間にか戻ってきて、燐の袖を口でぎゅっと咥えていた。

 

「あ、と……ごめんごめん。サトくんもお水が欲しいの?」

 

 燐は取り繕った笑顔を向けると、サトくんに向けてペットボトルの飲み口を差し出す。

 サトくんはわん! と一声鳴くと、燐が使った飲み口から水をぺろぺろと舐めだしていた。

 

 その無邪気な仕草に燐は自然と笑みがこぼれる。

 

「よっぽど喉が渇いていたんだねぇ、サトくん。よしよし、いっぱい飲んでいいからね~」

 

 水を飲ませながら片方の手で頭を撫でてあげる。

 

 白く柔らかい毛並みは、何も変わってはいない。

 温かな安心感をわたしに与えてくれる。

 

 サトくんはやっぱりサトくんのままだった。

 

 だからどうしても聞きたくなる、あの時のことは結局何だったのか。

 

 ”巻き込まれたもの同士”。

 何かの意見が聞きたかった。

 

「ねぇ、サトくんはさ、わたしの事まだ覚えてる? わたしはちゃんとサトくんのことを覚えてたんだよ」

 

 ぺろぺろ。

 サトくんはこちらを見ながら、ずっと水を飲み続けていた。

 

 その視線は燐に注がれているかは分かってはいない。

 ただの獣のように一心不乱に水を飲んでいた。

 

「覚えているわけ、ないよね? だってサトくんは、”おにいちゃん”じゃないんだもんね」

 

「わんっ」

 

 サトくんがいいタイミングで吠えたので燐はがくっと肩を落とす。

 何でそういう所だけ返事が早いのか。

 

「もう、サトくんってばもうちょっと含みを持たせてよぉ! ロマンスが足りないなあサトくんは……ってかお水、無くなっちゃったんだね。まあいっぱい飲んでくれたからいいけどね」

 

 情緒が足りないサトくんだけど、また頭を撫でてあげた。

 目を細めて尻尾を振っている様子は犬のそれとしか言いようがなかった。

 

 サトくんは犬だからそこに問題はないのだけれど。

 

(犬であって犬じゃなかったよね、サトくんは。でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだったし……)

 

 顎のあたりをもしゃもしゃと撫でつけながら燐は頭を悩ませる。

 

 そういえば包帯だけでなく、サトくんが首に巻いていたあの空色のバンダナも無くなっていた。

 

「バンダナどうしちゃったのサトくん。誰かにあげちゃったのかな?」

 

 サトくんは何も答えず、舌を長く伸ばして少し息を荒くさせていた。

 

 サトくんだって暑いんだな、と燐は思った。

 

 包帯もバンダナもないサトくんは、既に違う犬にしか見えなかった。

 今思えばあれは両方とも異変の時に付けるようになったのだろう。

 

 本来のサトくんは首輪もリードもない自由な存在。

 そんな気がした。

 

 勝手な解釈かもしれないけど。

 

 でもそうなると、あのヒヒは? 巨大な猿は今頃どうなったんだろう。

 

(まさかこの辺の山奥で生きている。なんてことはないよね、流石に……)

 

 あれは想像上の生き物であって、山というより現実には居ない存在だと思いたい。

 あんなの巨大な猿が山に居たらと思うとぞっとするだろうし。

 

 と、言うよりあれは本当にヒヒだったのか。

 その根本からしておかしかったから。

 

 燐はぶるぶると首を振ると。

 不吉な考えを打ち消すようにサトくんの体をぎゅうっと抱きしめた。

 

(もうお兄ちゃんじゃないことは分かってる。だけど……)

 

 今、従兄の代わりをすることが出来るのはサトくんだけだったから。

 燐はしばらくの間、従兄の香りがまだ残る白い犬を抱きしめ続けた。

 

「わんわんっ」

 

 それまで燐がしがみ付いているを黙って見ていたサトくんだったが、急に鳴きだすと身を翻して、先へと進みだした。

 

「あっ!」

 

 燐の思っていたよりもサトくんはずっと力が強く。

 

 しがみつく燐の身体を引きずるようなものではなかったが、それでも簡単に振り解いて自分の行きたい方向へと歩いていった。

 

「サトくん~。待ってよー」

 

 燐は慌てて立ち上がると、その後を追う。

 けれど白い犬はその声に振り返ることもなく、とてとてと歩いていく。

 

「むー」

 

 素っ気のない態度に、燐は不満げに口を尖らして唸った。

 

「んもう、サトくんたら、わたしが名付け親だったのを覚えてないのぉ? サトくんだってあんなに喜んでいたのに」

 

 燐の記憶の中では喜んでいることになっていた。

 むしろ諦めたように渋々返事をしていたはずだったのだが。

 

「おーい、サトくんー!」

 

 燐がいくら声を張り上げて呼んでみてもサトくんは振り返らない。

 可愛らしい声色で呼んでみても結果は同じ。

 

 人の言葉が分かるような感じはもうどこにもなかった。

 

「………」

 

 燐は不意に悲しそうな顔を一瞬だけ向けた。

 

(これで良いんだよね。サトくんはサトくんとしての生き方があるわけだし)

 

 人間には人間の。

 犬には犬の生き方がある。

 

 それは誰にも押し付けることは出来ない。

 

 それぞれに合った生き方、歩き方があるはずだから。

 

(でもサトくんは野良犬って言うか地域犬になっちゃうのかな? やっぱり可哀そう気もするな。出来たらわたしが世話してあげたいけど……)

 

 その時、燐の脳裏には母親の顔が真っ先に浮かんだ。

 

 マンションから一軒家に越してきたからペット禁止とかの制約はないけど、肝心の母親が苦手としていたから。

 

 厳密にはそこまで嫌いではないとは思うけど、まだ生活の基盤も安定していないのに犬を飼うなんてことは、その苦労を知っている燐には到底言えたものではなかった。

 

 そのことで家族がギスギスするのはもう嫌だし。

 

「誰かもらってくれる良い人が居ればねぇ……」

 

「わんっ!!」

 

 くるりと向き直ったサトくんがせっつくように吠える。

 

 どこまでついていったらいいのだろう?

 先の見えない道行に燐は肩をすくめて息を吐いた。

 

「もう、サトくんたら~。キミの為を思って色々と考えてあげてるんだよっ」

 

 ぐちぐちと言いながらも燐はサトくんの元へと駆け寄る。

 

 振り回されているとは思うが、それでもサトくんが何処に連れて行ってくれるのかを燐は期待していたから。

 

 だからまだ、帰るようなことはするつもりはなかった。

 

 サトくんは安心したように尻尾を一振りすると、またてくてくと山道を歩き出した。

 

 まったくもって無慈悲で無表情なサトくんに燐は不満の色を見せるも、その進んで行く方向に違和感を覚えて首を傾げた。

 

(あれ? こっちの道って通ったことない……よね?)

 

 燐の予想とは違ったルートを進むサトくんに困惑を隠せないでいた。

 

 その道は廃線跡と言うよりももう完全なけもの道で、その証拠に背の高い藪が頭の高さまで生い茂っていた。

 

 人の踏み入った形跡は殆どと言っていいほどない。

 

 これにはトレッキング経験の多い燐でもげんなりしてしまう。

 

 こういった背の高い藪を払うような道具を一切持ってこなかったのもあるし、せっかくの新しいウェアが汚れてしまうのは必至だったから。

 

 当然サトくんは躊躇もなく進んで行く。

 けもの道とは本来そういう道なのだから当たり前と言えば当たり前なのだけど。

 

 普通の人間の燐にはちょっと厳しい道だった。

 

 方角さえ合っているなら、もっと歩きやすい別の道を使った方がいいとは燐は思ったので。

 

「ねぇ、サトくん。どうしてもこの道じゃないとダメなのぉ? 道なんて殆どないじゃない」

 

 燐のぼやきも聞こえないほどの高い藪の壁は、あの時の県境での緑の壁と同じような威圧感を燐に錯覚させてしまう。

 

「サトくーん!」

 

 燐は緑の中に消えて行った白い犬の名前を呼ぶ。

 

 がさがさと草をかき分ける音はすれどもその姿は見えない。

 緑で覆われた壁が、一人と一匹の間に立ちふさがっていた。

 

「はぁ……っ」

 

 深いため息。

 そうする他なかった。

 

(もうサトくんは犬に戻っちゃったんだから、これ以上ついていく意味なんてないのかなぁ? まあ、それはそれで寂しいんだけど、でもねぇ……)

 

 どうしても納得がいかないことがあった燐は。

 

「サトくんっ!!」

 

 その名前を大声で呼んでみるのだった。

 

「……」

 

 帰ってくるのは葉ががさがさと揺れる音か、虫の音色だけ。

 

「もー、忘れちゃったの? キミはサトくんでわたしが名前を付けてあげたんだからねっ!」

 

 サトくんの後についていけない事よりも名前を呼んで振り向いてくれないことの方が寂しかった。

 

 燐は、むーと頭を巡らせると……突然ある考えが思いついた。

 

(まあ、ものは試しだね)

 

 捻った頭を元に戻して、思い切って呼びかけた。

 

 それは全く別の名前で。

 

「──シロッ!!!」

 

 なんでその名前で呼んだのか、その時は良く分からなかった。

 ただ、急に頭に浮かんできたのだ。

 

 燐は叫んだ後、急に恥ずかしくなって顔を赤くする。

 

 こんな”ありきたりな名前”でなんて呼ぶなんて自分でも信じられなかったから。

 

「わぉんっ!」

 

 燐の思いを裏切るように、あっさりと返事が返ってくる。

 

 ”そう呼ばれることを”待っていたように。

 

 燐は呆気に取られたようにしばらくの間凍り付いていた。

 

「なんだかなぁ」

 

 拍子抜けしたように肩をすくめると、姿の見えない”サトくん”に呼びかける。

 

「なんでそれで答えちゃうのっ!? キミはサトくん! サトくんなんだからっ!」

 

 念を押すようにそう言って聞かせる。

 

 しかし、それに対しての返答は当然なく、葉擦れの音だけ虚しく響いた。

 

「んもぉ……」

 

 燐は深いため息をつきながらも、なぜだかちょっとだけ嬉しそうだった。

 

 いつまでもこうしていても仕方がない、サトくんは戻って来そうにもないし。

 

 燐はバックパックを下ろすと中から白い軍手を取り出した。

 

 それを両手にはめると行く手を阻む背の高い藪をかき分けながら、シロ──もとい、サトくんの通った道を一歩一歩手探りに進み始めた。

 

 サトくんの通ったルートには決まった目印があるわけではなく、それこそ本能のままに進んでいた。

 

 燐はただひたすらにサトくんの後を追いかける。

 それはあの時出来なかったことだった。

 

 言い訳をして追わなかったけど、だからこそ今追いかける意味があった。

 

(わたしはサトくんを、お兄ちゃんを信じきれていなかったんだ)

 

 そう、怖かったのは彼の瞳じゃなくて、変わることの出来ない自分の心の有り様のほうだった。

 

 ──簡単なことのはずなのに難しいこと──。

 

(人を信じるのはとても難しいことなんだね)

 

 今度は今度こそは最後まで信じてみたい。

 もう好きだった人の心は入っていなくとも。

 

 何かがある。

 それだけを信じて。

 

「はあ、はぁ……」

 

 けもの道というか道ですらない藪の中をどんどん進んで行く。

 

 まだ日は沈んでいないはずなのに辺りは夜のように薄暗くて、小さな木漏れ日さえ届いてはくれなかった。

 

 先に進むたびに森はどんどんと深く濃く、そして険しくなっていく。

 完全に道に迷ってしまわないよう、スマホを片手に道なき道をひたすら進んだ。

 

 ときおり確認できるサトくんの白い尻尾を目印(コンパス)にして。

 

 にしても──。

 

 一人で登る山ってこんなにも寂しいものなんだと思う。

 誰か一人居ないだけで何か起きたらどうしようなんて、不安に駆られてしまうのだから。

 

(わたし、何やっているんだろう……? お休みに近所の山をちょっと散策しようとしていただけだったのに……)

 

 ひょんなことからちょっとした冒険になってしまった。

 

 そのことがなんだか可笑しくて、少し口元が緩んでしまう。

 楽しい感じではなく、自虐の入った微笑み。

 

 あの夜のはじまりと良く似ていたからと思う。

 

 普通に電車に乗ってちょっと乗り過ごしただけの夜と。

 

 たったそれだけの事なのに、人も町もめちゃくちゃになって、いるはずのないお兄ちゃんまでも巻き込まれてちゃって……。

 

 ちょっとした偶然の重なり合いが、わたしとわたしの周りの人達を根本から歪ませてしまったのだから。

 

 ()()()三日間の出来事がわたしの全てを壊して、そして……。

 

(っ……!)

 

 つい感情が高ぶってしまう。

 辛いことを思いだしたって、何もいいことなんてないって分かっているのに。

 

 サトくんと出会ったせいなのか、燐は歩きながら涙ぐみそうになった。

 辺りには誰もいないからまあいいけれど。

 

 知らないふりで済ませることが出来たはず、それなのに。

 

(偶然だったのに、どうして?)

 

 その偶然がまたわたしを呼び寄せていた。

 それは良い事なのか。

 

 或いは……()()直視したくはないことなのか。

 

 どちらにしても、(サトくん)の進む先に何があるかなんて自分には分かりようがない。

 

 サトくんはもうそういうのではないと思うし。

 

 それに偶然はいつだって目の前に押し寄せてくる。

 わたしの感情なんていつも無視して全てを飲み込んでしまうのだから。

 

 それに抗う手立て何て殆ど存在しない。

 備えなんて出来やしないんだ、いつも。

 

 だからって投げやりになんてなってはいないとは思う。

 

 ……たぶん。

 

 まだ起こっていないことを考えてもどうにもならないので、別の事を頭に思い浮かべて山道を登る。

 

 なるべく楽しいことが良いなぁと燐は思った。

 

(そういえば、なんで”シロ”って呼んだんだろう? ちっとも可愛くなんてないのに)

 

 楽しい事とは真逆の、心に疑問を生じさせながら、燐は辛うじて残っているサトくんの足跡を懸命に追った。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

「ふぅーっ……」

 

 ため息ともつかない声を上げて、燐は大きなそれを仰ぎ見ていた。

 

 ここがサトくんの案内したかった場所みたいで、犬は歩くことをすっかり止めていた。

 後ろ足で自分の頭を掻いたりして、くつろいでいるようだった。

 

「サトくんは、この辺りに住んでるの?」

 

 通じているかどうかは別として白い犬に尋ねてみる燐。

 

 でも、住処の様なものはどこにも見当たらなかった。

 

「それにしても、またこの場所かぁ……」

 

 聞こえるかどうかの小さな声で呟く。

 

 森を切り取ったように開けた場所。

 それがこのちょっとした冒険の終点だった。

 

 周りは深い山に囲まれていて、まだ葉や木々が色づくほどではないが、すでに秋を感じさせた。

 

 植物には詳しくはないが、もしかしたらこの辺りには何か食べられそうな実をつける木があるのかもしれない。

 

 それならばサトくんが案内してきた理由も十分に分かるのだが。

 

「サトくんはこの場所に縁があるみたいね。もう二回……三回目になるのかな」

 

 確かめるように見渡した。

 

 燐が初めて来たときは常闇と雨が包んでいたから、辺りの景色ははっきりとは分からなかったけれど。

 

(それでもまあ。()()があるから間違いようがないよね)

 

 白い風車。

 

 開けた森の中に一基の風車だけが立っている。

 

 山の中腹に建てられた風車は発電の為のものだった。

 

 それはもう分かっていた。

 それだけに悲しくも切ない場所であった。

 

 なんとなく近寄りがたいものを感じとった燐は、遠巻きに風車を眺める。

 

 別にこの風車が悪いわけではない。

 ただ、ここですごく悲しいことがあっただけ。

 

 風車は相変わらず一基のままで、その大きな羽はなぜか動いてはいなかった。

 動かすだけの風が吹いてないからだと思うが、果たしてそれだけなんだろうか。

 

 振り仰いでみてもその全体を視界に収めることが出来ないほど高い風車は、今日の役割を終えてしまったかのように静かに佇んでいる。

 

 相変わらず人気はない。

 賑わうような場所ではないから当たり前だけど。

 

 それは朽ち果てて捨てられた灯台みたいに。

 

「ここにあったんだよね?」

 

 それを見つけ。

 そして知ってしまった。

 

 知りたくはない、けどとても大切なこと。

 

 その事を思い出して風車の周りの影の部分に燐は目を向ける。

 

 ここにはもう何もないとは思う。

 

 目を凝らして探しても、何の情報も落ちてはない。

 既に役目は終わっているはずだから。

 

「さて、と……」

 

 いつまでも感傷に浸るほど、心と時間に余裕があるわけでもないので、さっさと目的を達成することにした。

 

「サトくんが案内してくれたんだけど、何も変わったところはないよねぇ。どうしてここまで来たかったの?」

 

 その顔をチラッと見やる。

 サトくんは犬らしく伏せの姿勢で大人しくしていた。

 

 瞼が大分下がっているところを見ると、眠そう、もしくは寝ていた可能性が高い。

 

 自分から案内しておいていい加減だなあ。

 と思うけれど、燐が勝手についてきただけだったからサトくんは何も悪くはなかった。

 

 燐は身勝手な理由でため息をつくと、両手をぶらぶらとさせながら風車の周りを一周してから帰ることにした。

 

 お参りするような名所のようなものもないし、風車に手を合わせてもなんのご利益もなさそうだったし、せめてこれぐらいはしておきたかった。

 

 特にこれと行った考えがあるわけではない。

 すぐに帰るつもりだったし。

 

 ここには正直長く居たくはなかった。

 

 秋の気配と人気もないことが相まってとても物悲しく感じる場所だったし。

 

 それに何より。

 

 冷たい雨に当たった場所、だったから。

 

 だから、もう何も見つからなくても問題はなかった。

 

 本当に……そのはずだった。

 

「…………!!!」

 

 両手で口元を押さえてしまった。

 けど、肝心の声が出なかった。

 

 本心から驚いたときには声なんて出ない、そう言われていたけど、それは本当に”ほんとうのこと”だった。

 

 別に忘れていたわけじゃない。

 ただ、思い出そうとしなかっただけ。

 

 心の奥底から。

 

 その綺麗な髪を知っていた。

 綺麗な性格も知っているつもりだ。

 

 好きなもの、嫌いなものだってある程度分かっている。

 客観的にどういう子だってことも知っている。

 

 けど。

 

「蛍……ちゃん……」

 

 今の今まで名前が出てこなかったことが不思議だった。

 

 とても綺麗で、大切にしなければならない人、だったのに。

 

 心から話すことが出来る、唯一と言っていい親友。

 その稀有な存在をすっかり忘れていた。

 

 ノートのページを破いた時の様に、その事だけ頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。

 

「………」

 

 今でもきれいだった、()()は。

 

 だからなのだろうか、意外なほど燐の表情は変化がなかった。

 

 現実感がないというよりも、誰も見ることの出来ない夢の世界にうっかり足を踏み入れてしまったときのような完全な場違い感。

 

 そんな感じだった。

 

 周りには色とりどりの花の代わりにカラフルな表紙のノートが散乱していた。

 勉強で疲れた後の夢で見るような、窮屈さを濃縮したような。

 

 そんな現実と夢の狭間で蛍は横たわっていた。

 

 普通なら頬を触ったりして息づかいを確かめたりするのに。

 

 燐は何故かそうしようとは考えなかった。

 

 余りにも無防備で無邪気だったから。

 しばらくの間、燐は蛍の穏やかな顔に釘付けになってしまっていた。

 

「ワンワンワン」

 

 急な吠え声で少女ははっと目を覚ます。

 それは蛍ではなく、立ち尽くしていた燐の方だった。

 

 大きな声だったのだが、それでも蛍が起きることはなかった。

 

 穏やかなリズムで胸を上下させている。

 可愛らしい寝息は確かに眠り姫のようだった。

 

 意識を戻した燐は、夢から覚めたばかりように目を赤くしながら、頭を振った。

 

「え、えっとぉ……サトくん?」

 

 燐は少し大げさに白い犬を二度見して尋ねる。

 

 あれだけの声で鳴くのだから何かあったと思うのは当然だった。

 

「………」

 

 サトくんは惚けた素振りを見せるように明後日の方を向くと、緑の大地にその頭を突っ伏していた。

 

「んー……なんだかなぁ」

 

 演技のようなその仕草に燐は頬を膨らまして呟いた。

 

 人の言葉が分かっているはずがないのに、妙に人間臭い仕草を見せるサトくん。

 

(ワザとなのかなぁ? もうそういった意識はもってないと思ってたけど)

 

 ”残っているはず”はないけど、それでも燐はちょっとだけ期待した。

 

 おかげで目の前の事にピントを合わせることが出来たから。

 

 だから素直に感謝した。

 

「ありがとうサトくん」

 

 お兄ちゃんの居ないサトくんは、ただのサトくん。

 誰のものでもない。

 

 それは自分も同じで。

 

 自分が居て、従兄は遠くに行って。

 

 そして……友達が、蛍がいた。

 

 戸惑うことなんてないはず。

 きっと二人はずっと友達だったから。

 

 偶然から始まった事が偶然のまま続いていく。

 それは例え肉体がなくなったとしてもずっとそのままで。

 

 同じ気持ちのままで。

 

「ん~~~っ!」

 

 手を差し出さそうとしたのだけれど、出たのは間抜けな自分のうめき声だけ。

 

 ことのほか、燐の手は重く鈍かった。

 

 それは触れたら泡のように消えてなくなりそうな。

 そんなおとぎ話みたいな悪い予感をしたからだった。

 

 蛍は、そのままお伽話に出てきても遜色のないほど綺麗で透き通っていたから。

 

 でもかけがえのない、たいせつな友達でもあった。

 

 その友達が地面に寝そべって寝息を立てている。

 

 特に理由もなく。

 

 だから燐はまだ分かりやすい、蛍の周りに散らばっているノートの一冊を手に取って拾い上げた。

 

 綺麗な表紙のノートは特にタイトルがついているわけではなく。

 ただナンバーが無造作に振ってあるだけだった。

 

 ただ、何故この場所にあるのか。

 そしてやけに汚れていないのはどうしてだろう?

 

 いつからここにあったのかは分からないが、差し出されたみたいにノートは綺麗だった。

 あの従兄のノートと全く同じように。

 

 そしてそれは、蛍自身でさえも。

 

 艶やかな長い黒髪もそして何故か来ている制服も、全てが洗い立ての様にきれいなままで。

 

 全てが嘘か幻のようだった。

 

(わたしが来ることを待っていたっていうの? でも、そんなこと……)

 

 燐はノートを手にしたまま、いつまでも寝ていそうな蛍から少し目を離すと、サトくんの方をもう一度振り返った。

 

 何かの答えを尋ねるような縋りつく目線で。

 

 サトくんは尻尾を左右に揺らしながら関係のない遠くの空を見ていた。

 自分は何も知らないと言わんばかりに。

 

 燐は深いため息をつくと、蛍の寝顔を見ながら訊ねる。

 まだ起こさないよう、そっと小声で。

 

「ごめんね、蛍ちゃん。ちょっとだけ見させてもらうからね」

 

 燐は囁くような謝罪を口にすると、「1」とだけ書かれたノートのページを開いた。

 

 なんだろう、ページを開くだけなのにすごくドキドキとする。

 

 見てはいけない秘密を覗き見てしまうような、甘い背徳感が燐の小さな胸をチクリと刺した。

 

「あ……これ、日記、だ……」

 

 ノートを開く燐の手が小刻みに震える。

 何となくそんな気はしていたけど、実際に目の当たりにすると結構な衝撃があった。

 

 可愛らしい文字で書かれた日記には、蛍の想いがページいっぱいに詰まっていた。

 悲しかったこと、辛かったこと、ちょっとだけ良かったことなど全部。

 

「うっ……」

 

 文字を辿るその瞳が滲んでいく。

 それでも燐は食い入るようにページをめくった。

 

 自分にはそれをする理由と責任があるみたいに。

 

 あの時だって兄が残したノートを勝手に見たが、今はそれとは違う感情がページをめくる手を止めなかった。

 

「はぁ……」

 

 一通りノートを読み終えた燐は、疲れたような息を吐く。

 意識して出したわけではなく、無意識からくるものだった。

 

「そういうことだったんだ……」

 

 ノートには蛍の感情が赤裸々に記してあった。

 まだ一冊しか読んではいないが、恐らく他のノートも同じような感じだろう。

 

 彼女の本心。

 それ知ってしまった。

 

「どうしてわたしはお兄ちゃんだけじゃなく、蛍ちゃんの事も……」

 

 そうすることで何の意味があるのとか、そんなことを追求してもどうなるわけでもないし、そもそも知りたかったわけではない。

 

 秘められた思いを知ったって、結果それは辛いことだと分かっているから。

 

(けど、わたしは知ってしまったんだよね……)

 

 もう戸惑う理由もなかった。

 それがきっと彼女と、彼に対する責任。

 

 何もできなかったわたしが出来ることはこれだけだった。

 

「ごめんね遅くなっちゃって。わたし、蛍ちゃんにもすっごく迷惑かけちゃったよね」

 

 蛍がどんな思いであったかは、このノートが全部語ってくれた。

 本当言うと、何も言わなくとも分かっているつもりだった。

 

 ()()()()数か月経ち、久しぶりに見たはずの友達の顔はそこまでの懐かしさを覚えなかったから。

 

 ずっと近くで寄り添ってくれていた。

 会えなくとも一緒だったんだと思う。

 

 その思いの方向は。

 

 いつもと変わらない雰囲気がそうさせているかもしれない。

 たおやかな寝息は燐が良く知る蛍のまんまだったから。

 

「蛍ちゃん起きないの? もう”終点”なんだよ」

 

 確かに終点だった。

 

 ローカル線の終わりの駅。

 周りを山々に囲まれたのどかな町。

 

 蛍の最寄り駅であり、今は燐の最寄り駅でもある小平口駅。

 

 ここから偶然に始まったことは、偶然のまま終わってしまった。

 

 良いことも、悪いことも。

 

(こうしてまた会えたことは”良いこと”なんだよね?)

 

 わざわざ自問するまでもなかった。

 

 もしこれが悪いことだとするのならば、わたしの心は今度こそ粉々になるだろう。

 ナノレベルの粒さえも残さずに。

 

 今こうして彼女を眺めることが出来ているのは奇跡というか、きっとそのおかげ。

 

 ()()()がまだ残っていたから。

 

 絶対に消えることがない胸の奥の心のしこりが。

 

「さて……どうしたものかなぁ」

 

 わざとらしく声を上げてみても蛍ちゃんは起きてくれそうにない。

 

 このまま起きるまで隣で寝顔を見ていても全然構わないんだけど、それはいつまでになるのやら。

 

「ずっとこのままは……流石にないよね、蛍ちゃん?」

 

 耳元でそっと囁いてみても反応はかえってこない。

 

 蛍は、自身でその気になればいつまでも寝ていられると、冗談交じりに言うこともあったが。

 

 流石にそれは冗談だと思いたい。

 仮に本当ならば、無理やりにでも起こすしかないことになるのだが。

 

「……」

 

 燐は今だにその気にはなれなかった。

 

 明らかに寝心地が悪い緑の上で横になっているのに、気持ちよさそうな寝息を立てる蛍がちょっと不憫で愛おしく感じるからだろうか。

 

 それとも、まだどこかで何かを警戒している。

 このことに何かの作為的なものがあるのではと。 

 

 燐はやはりサトくんの方を振り返ってしまう。

 今この場に居るのはサトくんしか居ないからなんだけど。

 

 こちらの視線に気付いているのかいないのか。

 サトくんは暢気にあくびをしていた。

 

(サトくんはやっぱり犬だね……)

 

 今更だけどそれを感じた。

 

 このことは燐は一人で結論を出すしかなかった。

 答えはほぼ出ているのだが、それでもまだ考えるだけの余地がある気がしていたのだった。

 

「あ、そうだ!」

 

 燐は妙案を思いついたのか、パンと手を合わせる。

 が、あまりに現実離れしているので途中でばかばかしくなった。

 

「サトくんに運んでもらう……のは流石に無理があるもんねぇ」

 

 いくらなんでも無茶すぎるなと、燐は自分で呆れてしまった。

 

 例えサトくんが大型犬だったとしても多分無理だろう、マンガじゃないんだし。

 

(わたし一人じゃ多分無理だし、やっぱり救急車を呼ぶしかないのかな。ここからならそんなに時間はかからないとは思うし。でも……)

 

 ──ほんとうにそれでいいのかな?

 

 何かが引っ掛かってしまう。

 

 トゲのような痛みは、少し甘くて、そして切ない。

 でも、嫌いというわけじゃない。

 

 キャラメル風味のポップコーンを奥歯で噛んだ時のようなほろ苦い甘さ。

 

 何度でも味わいたい、けど。

 どこかで止めなくちゃという思いもあった。

 

(わたし、忘れられないんだね。きっと)

 

 それは今だに迷っていること。

 蛍ちゃんの事だけじゃなく、ぜんぶに。

 

 それぞれの事柄に理由なんてないと言われていても、その全てに折り合いをつけられるほど器用じゃないから。

 

 だってわたしはまだ、子供(女の子)なんだし……。

 

 良かれと思ってしたことが、後になって問題となってしまう。

 

 つまり──お節介。

 

 そういう類のものになってしまう気がした。

 

 山小屋の時だってそうだった。

 あの時の浅はかな衝動が、従兄との仲を決定づけてしまった。

 

 良好だと思っていた関係に楔を打ってしまった。

 そしてそれはお互いに。

 

 どうやっても取り返しのつかないことだったし、その後は凄惨な光景でもってわたしは嫌というほど分からされてしまったから。

 

 あんな思いはもう二度と、したくはなかった。

 

 ”好き”に違いはないと言ってくれたように、その想いに違いはないと信じたい。

 

 例え一方的な思いであったとしても。

 

「よしっ!」

 

 燐は自分の両頬をパンと叩いた。

 その音に反応をしたサトくんが片耳をぴくっと持ち上げる。

 

 誰の為、何の為に迷ってたんだか。

 

「今は蛍ちゃんが優先。わたしのうじうじした悩みなんて、それこそ犬も食べないんだし!」

 

 ここは切り替えどころ、だよね。

 

 別に携帯の電波が届かない場所でもないし、充電だってまだ半分以上もあるし。

 いざとなれば、蛍ちゃんの頬っぺたをつねってでも起こせばいいわけなんだから。

 

 じゃあ、直ぐにそうすればいいだけなんだけど……。

 

「うー、なんでそんな簡単な事が出来ないんだろう、わたしってこんなに優柔不断だったっけ?」

 

 一体何の躊躇(ためらい)が出るんだろう。

 こんなことをしている間に陽はどんどんと傾いてきているのに。

 

 薄色の空は、白い風車の陰の柱を山の後ろに追いやろうとしていた。

 季節の移り変わりは、燐が考えているよりもずっと早く夜を呼び寄せていた。

 

「と、とりあえず」

 

 燐はそこら中に散らばってるノートを拾い集めた。

 

 誤魔化している気もするけど、これだって蛍の大事なものなんだろうし。

 持って帰ってあげないと。

 

 あとは、カメラだけ……え、カメラ?

 

「玩具じゃなく、本物のカメラ、だね」

 

 年代物の様に見えるカメラは、燐が今まで見たことのないものだが蛍のもので間違いないだろう、ノートと共に置いてあったし。

 

 手に取った時になんとなく彼女の──蛍の温もり、匂いを燐は肌で感じ取った。

 

 何を撮影していたのかは当然気になる所ではあるのだが、今時珍しいアナログなので現像に掛けるしかない。

 

 もしかしたら、あのだだっ広い蛍の家の中にはそういったことが出来る部屋があるのかもしれないが。

 

「こういったカメラって見た目は地味でも結構高いんだよね、確か。お兄ちゃんも何個か持ってたし」

 

 カメラの事は詳しくはないが、登山の時、聡は思いのほか楽しそうにアナログなカメラで写真を撮っていたのを思い出した。

 

 ただ登るだけじゃなく、綺麗な風景も一緒に撮るから楽しいんだと。

 

 燐も真似して写真を撮っていたが、精々スマホで撮るぐらいだったので、いつかは聡と同じように黒くて武骨なカメラを担いで登る日が来るかと思っていたのだが、それは結局なくなってしまった。

 

(わたし、また余計な事を考えてる……今考えるのはそんなことじゃない筈なのに)

 

 頭を軽く振って考えを打ち消すと、燐はストラップを首から下げてきちんとカメラを構えてみた。

 

「結構……ずしっとだね。これこそカメラって感じ」

 

 角ばったデザインのカメラは使いやすさよりも機能性を重視しているようで、ちょっとでも気を抜くと手から落ちそうなほど大きくて重い。

 

 ついでに付いているボタンもやけに多かった。

 

 ただ持っているだけでも燐は何故か緊張感を感じてしまう。

 それは作りのせいなのか、それとも値段か。

 

 とにかく丁寧に扱ったほうが良いのは確かだった。

 

 カメラを持つとついやりたくなってしまうことがある。

 それは燐とて例外ではなく、ついきょろきょろと辺りを窺ってしまう。

 

 つまり、何でもいいから撮ってみたくなる欲求だった。

 

 手短なところでサトくんを撮ってみようと、燐はファインダーを覗き込んだ。

 

 だが、ファインダー越しの景色にはサトくんは映っていなかった。

 

(あれ、サトくん?)

 

 燐はファインダーから目を離すと、サトくんがついさっきまで居た所を肉眼で確かめる。

 サトくんは本当にこの場から居なくなっていた。

 

「サトく──ん!!」

 

 大声で呼びかけてみるも、返ってくるのは遠くの山肌に反響した自分の声だけ。

 もしくは、ざわつきだした鳥や虫の音だけだった。

 

(サトくん……いつの間にかいなくなっちゃうなんて……)

 

 まだお別れの挨拶もしていないのに。

 置いてけぼりにされたみたいで堪らなく寂しかった。

 

(お兄ちゃんもわたしを置いて行っちゃったよね、ここからずっとずっと遠い場所にひとりで……)

 

 それは悲しいと言うよりも驚きの方が強かったけど、それでも胸は痛んだ。

 細い針のようにぷすぷすと、わたしの心を苛ますように。

 

「サトくん……きっとまた会えるよね?」

 

 燐は空を見上げてもう一度だけ呟く。

 

 さよならは言えなかったけど、きっとまた会えることを願っていた。

 

 また会えたら、今度はなにか食べ物をもってこよう。

 余ったパンでよければいくらでもあげられるから。

 

(サトくんが気に入ってくれればいいけどね。そうすれば余り物も片付くし、サトくんが味を覚えてくれたら、わたしの家までついてくるかもね)

 

 あとは母親を説得するだけだけど。

 結局それが一番難しいだろうとは思っていた。

 

「あ。そうだ。せっかくだから蛍ちゃんの寝顔を撮っちゃおうかな」

 

 燐はワザとらしく大きく声を張り上げると、カメラのファインダーを寝息を立てる蛍の方に向ける。

 

 すごくいけないことをしているみたいでちょっとした罪悪感もあったが、それでも気を紛らわすのにはちょうどいい、美しい被写体だった。

 

「あ……っ」

 

 ファインダー越しに眠る蛍の顔は正しく眠り姫で。

 それは燐でも息を呑むほど綺麗だった。

 

 綺麗としか言いようがなかった。

 

「ごめんね蛍ちゃん、はいチーズ!」

 

 蛍の返事を待たずして、シャッターが切られる。

 

 心の中で謝りながらも、燐はファインダー越しの蛍を眺めていた。

 それなりな重さのあるカメラだったが、この時は何故だかそれが気にならなくなっていた。

 

「ほらほら、蛍ちゃん。起きないといっぱい写真撮っちゃうよー」

 

 蛍が起き出さないことをいいことに、燐は夢中でシャッターを切っていた。

 

 それが一体何になると言うのかは、燐自身も分かってはいない。

 

 そんなことをするより、一刻も早く蛍を起こして一緒に帰った方が絶対良いはずなのに。

 

 分かっているがゆえの興味というか体のいい先送りだった。

 

 何かの決断を下すのはやっぱりまだ、怖かったから。

 

「はぁー、満足したー!」

 

 フィルムが切れるまでシャッターを切って燐はようやく満足したのか、堪らず声を上げた。

 

 気づけば辺りにはオレンジがかった赤みが、緑の葉や広がる茶畑を照らし出していた。

 

 風車も半分ほどが朱色に染まってきていて、白と橙のコンストラクトがとても雄大で美しかった。

 

「遊び終わっちゃったし、もう帰らないと、ね」

 

 燐は前方にバックパックを背負うと、その滑稽な格好でもう一度辺りを見まわした。

 

 もう何も落ちてはいない。

 ただ一つのものを除いては。

 

「蛍ちゃん、結局起きなかったね。よっぽど疲れていたのかな。それとも……?」

 

 燐は今だ小さく寝息を立てる、蛍の綺麗な形の耳元にそっと口を寄せる。

 

「……寝たふりしてたりして」

 

 燐は微笑みながらそうささやくと、蛍の耳にふっ、と軽く息を吹きかけた。

 

 蛍の体がビクッと微かに震えた気がしたが、その事は燐の視界には入っていなかった。

 

(そういえば……)

 

 燐は蛍の顔をまざまざと覗き込む。

 その視線は蛍の閉じられた瞼の下の唇に寄せられていた。

 

(眠り姫は王子様のキスで目覚めるんだったっけ? それって白雪姫の方だったかなぁ?)

 

 魔法か何かで眠らされた姫は王子のキスで目覚めるとかいう、お伽噺での定番の起こし方。

 それを実践してみる?

 

 じっと見つめていると、鼓動が早くなってくる。

 

(わたしする気なの? 蛍ちゃん相手なのに? でもなんでだろう)

 

 小さく開けられたピンク色の可憐な蛍の唇をじっと見ていると、つい吸い込まれそうになってしまうのは。

 

 柔らかそうとは思う。

 それは女の子であっても触れてみたいほどに。

 

(だからっていやいやいや、あり得ないよ。そんなことは全然健全じゃないし!)

 

 燐は僅かに湧きあがった淡い思いを無理矢理打ち消した。

 

 でも。

 

(ひょっとして蛍ちゃんも期待していた、とか? そんなわけはないか。わたし、ちょっとおかしくなっちゃったのかもね)

 

 燐は指で蛍の唇をちょんと触る。

 その程度の事で魔法が解けるはずもなく。

 

 けど、その確かな柔らかさに、安堵と憂いの混ざった深い息を吐いた。

 

 …………

 ………

 ……

 

「さて、今から帰るからね、蛍ちゃん。ちゃんと背中に掴まっててね、落ちちゃうと危ないから」

 

 燐は入念にストレッチを繰り返した後で、そう言った。

 

 ずっと眠りこけている蛍の両腕を自分の首元に回すと、両足をぐいっと持ち上げて自身小さな背中に蛍をおぶさった。

 

 結局起こすことも、誰かの助けを呼ぶこともなく、自分の力だけで蛍を運ぶことに決めた。

 

 とても不器用で非効率的なやり方だけど、今の燐にはこれしか考えられなかった。

 

「よっとととと、やっぱり、重いよねえ。一度立ち上がってしまえば後は楽だよって言ってたけど……あ、蛍ちゃんが重いわけじゃないよ。このカメラとリュックが重たいだけだから」

 

 息を荒くしながらも背中越しに笑いかける燐。

 ただおぶさるだけじゃ不安定だと思ったので、二人の細い体を一本のロープで括り付けた。

 

 麻で出来たロープは蛍のバックパックから見つかったもので、何のために用意していたかは燐には分からないが、そのおかげで蛍を背負っていくだけの目処が出来た。

 

「ロープってね、案外役に立つんだよ。ロープワークが出来るかどうかで、山登りの上級者かどうか分かるんだって。そう言ってたんだ」

 

 燐がこうして立ち止まっている余裕はなかった。

 もうしばらくもすれば辺りは真っ暗になってしまう。

 

 そうなると下山はより困難になってしまう。

 

 すごくキツイが、本格的は山登りは蛍の体重よりも同じ荷物を背負うこともあるから。

 

 そう思えばまあ、なんとかなるかなと思っていた。

 今までやったことはないけれど。

 

 燐は持っていたヘッドライトを頭に付けて、暗くなってきた峠道を下り始める。

 

 帰りは下りだから行きに比べたら楽だけど、”荷物”がある分、気を付けて降りる必要があった。

 

 時折降り注ぐ、烏の不安を煽るような鳴き声にびくりと肝を冷やしながらも。

 燐は一歩ずつ慎重に足を運んだ。

 

 背中の壊れ物に傷が付かないように。

 

「はぁ、はぁ、それにしても人を背負って歩くのって、こんなにも重くて辛いんだね。おにいちゃんに、悪い事しちゃったなぁ、いまさらこんなこと言うのなんだけど」

 

 ほんとうに今更だった。

 でもそれに気付けたのは良いことだと思う。

 

 それだけでもここにこうして”戻ってきた”かいがあったと言える。

 

 何かを犠牲にしないと分からないこと。

 それを教えてくれたあの夜はやっぱり夢だったのかもしれない。

 

 けれど、夢かどうかなんてもう問題ではなくなった。

 

 今は背中で寝ている大事な人を、一つの傷もなくちゃんと家まで届けてあげたい。

 綺麗だけど透明で壊れやすい、儚さを感じさせる大切な人を。

 

 それまではまだ、わたしはわたしのままでいられる。

 

 あのときのように、自分の存在意義を感じ取ることが出来るから。

 

 ……

 ……

 ……

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ、やっとここまで来た……」

 

 無理だろうとは思っていたことだったが、蛍を背負ったまま山を下りることが出来た。

 

 ここに来て体が解れてきたのかもしれない。

 週末となれば従兄と共にどこかの山へ出かけていたあの頃の自分のように。

 

 ほんの少し前のことなはずなのに、とても昔のことのように思える。

 

 この”吊り橋”を一緒に渡ったことでさえも。

 

「あとは吊り橋を渡るだけ、だったよね?」

 

 燐はことさら明るい声で背中に問いかける。

 

 蛍は目を閉じたまま燐の背中にしがみ付いていた。

 小さな呼吸音に燐は安堵する。

 

(あとちょっとだからね)

 

 蛍と自分にそう言い聞かせるように呟くと、蛍を気遣うよう慎重に吊り橋を渡り始めた。

 

 ぎいっ、ぎいぃぃぃ。

 二人分の重さを受けて、小さな吊り橋が鳴いている。

 

 一人で渡った橋が、帰りには二人になっていた。

 

 あれから改装などはされていない吊り橋だったが、それでも何年かに一度は安全点検をしているらしかった。

 

 小平口の観光スポットとしてもそこそこ人気が出てきているらしい。

 燐が引っ越してくる少し前から町は少しずつ別の変化を辿るようになってきていた。

 

 ざわざわざわざわ。

 

 吹きおろしの風が葉や木々を、そしてどこか頼りない吊り橋を軽く揺らす。

 少し狼狽えたが燐だが、それでも足はビクともせずしっかりと木の板を踏みしめていた。

 

 とん、とん、とん。

 

 燐は少し早く、吊り橋を渡っていく。

 別に追ってくるものは居ないが、やはりどこか恐怖を感じる部分もある。

 

 もっと軽快に渡ることが出来るが、蛍をおんぶしたままではこの速度が限界だった。

 

 けれど足取りはずっと軽い、自分でも驚くほどに。

 

 不思議だったのだが、歩くたびに力がついてきているというか。

 戻ってきている感じというか。

 

「……ついたぁ!」

 

 橋の反対側まで着くと、燐は大きく息を漏らした。

 

 吊り橋を渡りきる際、やはり緊張感があったのか、燐はしばらくその場から動けないでいた。

 

「意外となんとかなるもんだねぇ。ダメかと思っちゃった」

 

 燐は小さく微笑みながら蛍の方に顔を向ける。

 汗ばんではいるけれど、充足したようなそんな爽やかな笑顔。

 

 部活の時の燐の顔とそっくりだった。

 

「よっ、と」

 

 蛍を背負い直すと、燐は足を進める。

 

 半分に切り取られた月が少女たちの横顔を白く照らしていた。

 

「月が綺麗だね、蛍ちゃん」

 

「……うん」

 

 燐と蛍は自然に会話を交わしていた。

 

 燐は驚いた素振りを特に見せなかった。

 

 蛍は、いつものように答えていた。

 

 なんてことない一日。

 

 でもちょっと違う、二人の始まりの日。

 

 燐はそう認定した、頭の中で。

 

 止まった時計が動きだす時のように、今日から違う世界の一日がはじまるのだと。

 

 ──けど、全てが元通りとは思ってはいない。

 

 時は現実に進んでいるし、とても大きな引っ掻き傷を”ふたり共”つけたままだったから。

 

 あとちょっと深くなったらきっと砕けてしまいそうなぎりぎりの傷跡。

 それをひた隠しにしている、それはきっとお互いに。

 

「ねぇ、燐はいつから知っていたの?」

 

「何のこと?」

 

「何のことって……ううん、なんでもない」

 

「そう」

 

 雑木林の間を小道をゆっくりと進んだ。

 

 言いたいことはお互い山ほどあるのになぜだか言葉は出てこない。

 

 燐は無言のまま歩き。

 蛍はそのまま燐の背中の上で揺られていた。

 

 どちらがと言うわけではなく、どちらも等しい同じ想いのままだった。

 

 もうしばらくすれば二人は別れてしまうだろう。

 そして同じように元気な朝の挨拶を交わすのだ。

 

 何事もなかったようにして。

 

 今はそれでよかったんだと思う。

 まだ時間はあるのだから。

 

 消えて、そして戻ってきた友達。

 

 そして、かけがえのない人。

 

 もし夢なら永遠に覚めないで欲しい。

 

 そう、願うほかなかった。

 

 

 あの。

 

 ひときわ大きく輝く星に。

 

 ────

 ───

 ──

 

 





さてさて、ようやく2回目の接種も終わったのでとりあえず一安心──だったのですけど、副反応がとても重くて辛かったです~~~。

そういえば、最近ゴルフボールっぽいデザインのシューズを譲り受けました。でもゴルフ用のシューズじゃないみたいなんですよね。

で、これも靴紐がない──っていうかそもそもそういう部分すらない。だからなのか履くときに少しキツイ印象なんですよねー。雨の日だと濡れにくいから良いみたいです?
素材はストラップサンダルのようなクッション性のある感じで、ちょっとふわっとした履き心地かなぁ? まだちょっと慣れない感じですねぇ。


ではではーー。



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In Bloom

 
 わたしの家は代々続く旧家だった。

 それなりに由緒なんかもあるらしい。
 自分には特に関係がないことだけど。

 家だって無駄に広くて、迷う事だってままにあるぐらいだった。

 その無駄な家を捨てることにした。
 廃棄するというわけではなく、町に寄贈という形で。

 家だけでなく、何なら名前さえも捨てても良かった。
 けれど、流石にまだそこまでの覚悟はなかった。

 別名を名乗るとか、まだそういった深刻なことまでは考えていない。
 そこまで嫌いというわけではないけど、取り立てて名乗りたいわけでもなかった。

 あの、”三間坂(みまさか)”の名を。

 けれど、世の中には姓を変えてしまうだけの正当な理由を持った人もいる。

 立場上、もうその姓を”名乗る必要がなくなった”人がそうだった。

 でもそれは世間的には別人になることと同じで、もし変更した場合は住む場所を変えてしまうことが殆どだった。

 それぐらい姓を変える、もしくは前に戻すということは極端に言うとその人がしんでしまうことと同義のようだった。

 そして、例え親がそれを望んだとしても、その子供には抗いようのない、それこそ不条理な理由から従わざるを得なくなってしまう。

 親の決定権は子にとって絶対であり、ある一定の年齢に達するまでは(もしくは達したとしても)、子にとっては親は絶対的な存在であり続けているのだから。

 実際に、とてもすぐ傍でその問題を抱えていた友達がいたせいか、余計にその事が気になってしまう。

 その友達の母親はそうなることを危惧していたらしく、一人娘が卒業するまでは苗字を変えないようにしたようだった。

 ただ、卒業後はどうするかはまだ本人も良く分かってないらしい。

 だから自分がオーナー兼、職人のパン屋さんなのに、名前や苗字の一部をあえて付けなかったのだと言っていた。

 でもその子は例え母親が苗字を変えることになっても、きっと変えないだろうとは思っている。

 だって、その友達は……。

「どうしたの蛍ちゃん。何か、面白いものでも見つかった?」

 ──燐は、離婚した父親がまだ嫌いじゃなかったから。

 きっと、ずっと”込谷(こみたに)”のまま。

 蛍はそう思っていた。

「ん? わたしの顔に何か付いてる? さっきからひっくり返してばかりからかなぁ」

 蛍にじっと見られている事に気が付いた燐は、汚れていると勘違いしたのか首に巻いたタオルでゴシゴシと顔を拭った。

 燐の無邪気な仕草に蛍は少し困った顔でにこっと微笑む。

 蛍は燐と共にまだ蛍の家である、坂の上の大きな屋敷。
 町の中でも一番目立つ場所にある三間坂家まで一緒に来ていたのだった。
 
 昔からある家だが、度重なる増築の上改装までしたこの家はその辺の旅館よりも大きく、町のシンボル的な建物と言っても過言ではなかった。

 その無駄に広い家を蛍は町に寄贈するつもりなのだが、それは手続き上まだ先の話になりそうだし、それにしたって色々な準備が必要だった。

 片付けという名の断捨離と言うか、ともかく不用品の処分が。
 
 無駄なものを削ぎ落して、身軽になりたかった。
 由緒とか、肩書とか、そう言ったしがらみ。

 そして……何もかもから。

「大丈夫?」

 タオルで拭き終えた燐が覗き込んでいた。

「……うん。ちょっと、ぼーっとしてただけ。あ、それと、ごめんね」

「なんのこと?」

 燐は小首をかしげる。

「あはは、こっちの話」

 蛍は慌てて手を横に振った。

 自分が余計な事を言ったせいで燐に無駄なことをさせてしまったことへの謝罪とはさすがに今は言えなかった。

 それに確かにぼーっとしていたのは間違いない。

 けど、燐の家庭の事情にまで頭を巡らせているのは流石にお節介過ぎだと思ったから。
 勝手に頭を悩ましていた事への謝罪も一応含まれていた。

「ごめんね。燐にばっかり作業させちゃって。わたしの家なのにね」

 蛍はもう一度燐に手を合わせる。
 まだわたしの家なのに、そのわたしが一番何もしていないなと改めて思ったから。

 単純に足手まといだなと思った。

「それは仕様がないよ。だってこれだけの量の荷物を見たら、いくら蛍ちゃんでも、流石にため息ついちゃうもんねぇ」

「あははは……」

 燐は蛍の心情を理解したように頷くと、山の様に積まれている段ボールや家財道具の山をうんざりするように眺めた。

 蛍は苦笑することしか出来ない。

 まだこれでも全体のほんの一部であることを燐が知ったら、きっと脱帽してしまうだろうことが分かっていたからだった。

「わたしの家の場合はこんなに荷物はなかったんだけどなあ。やっぱり蛍ちゃんちはスケールが違うよね。庶民とお金持ちの決定的な差って感じ」
 
 燐の家が引っ越しした時は、トラックで運びだせる程度の量に留まっていたのに、蛍の家の量ときたらもう。

 比較になんかとてもなりそうにない。

 この分だと誇張ではなくて引っ越し用の大型トラックが例え数十台あっても足りないだろう。

 物置部屋だけ見ても、古びた調度品や埃をかぶった貴重品の様なものが、それこそ溢れでるほど出てきているのだから。

 仮に全てを処分したとしても、それだけで何日かかるのだろう?
 燐には全く想像もつかなかった。

「ねぇ、蛍ちゃんの家って部屋数いくつあるんだっけ?」

 燐は少し顔を青くして蛍に尋ねる。

 部屋の数だけ荷物があるとしたら、それはおおよそどの程度の量になるのか見当もつなかったからだった。

「ええっと、ねぇ……」

 蛍は高い梁の天井を見ながら指折り数えてみる。
 両手と両足の指を全部足しても、到底足りるわけなかった。

「ごめん、燐。わたしも実は正確な部屋の数は分からないんだ。家全体の見取り図のようなものが確かあったとは思ったんだけど、それもどこへいったのか分からないの……」

 蛍は羞恥心から顔を赤くして答えた。

 蛍ですら正確な部屋数を知らない事実に燐は目を丸くする。
 前に尋ねた時も蛍はよく分からないと言っていたが、本当にそうだったなんて。

 自分とは全く違う次元の蛍の悩みに、燐は深いため息をついた。

「あれだよねぇ。暮らす事って本当に物入りなんだね。蛍ちゃんの言う様にこーんなに大きな家なんて、蛍ちゃん一人だったら確かにもう必要ないのかもね」

 わざわざ両手を広げて燐は蛍の家の大きさを表現して見せた。

 蛍はうんうんと何度も頷く。

「けど燐。今の台詞、映画からのものでしょ」

「あ、バレてた? でもこれは本当の事だよ。今、住んでるマンションだって最低限の家具で良かったはずのに、結構ちょこちょこ増えていってるもんね」

 小平口駅ではなく、燐と蛍の通う学校の駅の真ん前にあるタワーマンション。
 それが今、二人の住処だった。

 最近になってやっと引っ越すことが出来たけど、二人ともそれぞれの家から家具や電化製品等は持ってはこなかった。

 新しい家には新しい家具や家電がいいよね!
 そう意気投合した二人は、新居用の家具や家電をそれぞれのセンスで買い漁った。

 始めはシンプルで良かったのだが、次第に物は増えていった。

 衣服や調理器具、ゲーム機や寝ころぶための長座布団等。
 それらは多岐に渡り、次第に二人の目に付くようになってきた。

 そういった事で二人の間で言い争いの様なものは起こったことはないけれど……。

「ある程度は仕方ないんだろうけど、それでも生活してると物は増えちゃうよね」

「それでも蛍ちゃんちの中にここまであるとはねぇ……あの”青いドアの家”みたいにシンプルなインテリアだったらすぐに片付くのにね」

「それは……確かにね」

 この時は二人とも、またあの青と白の世界に行けるとは露程も思ってはいなかった。
 だからか、遠くの世界の事を語るように話していた。

 もう行くことのないあの青いドアの家を懐かしむかのように。

「でも……まだ蔵の中までは手をつけてないから……」

 追い打ちをかけるように驚愕の事実を言う蛍に、燐はショックを通り越して閉口してしまった。

 きっともうこの家が片付くことはないだろうと。
 そんな絶望的な感じで。

「ねぇ……蛍ちゃん」

「うん?」

 疲れ切った顔で燐がつぶやいてくる。
 今まで聞いたことがない燐の声に蛍が少し眉を潜めたその時。

 体格の良い男が二人の居る二階の部屋に突然入ってきた。
 手には大きな段ボール箱を抱えて重そうに運んできた。

 男はきょろきょろと辺りを見渡すと、畳の空いているスペースにドスンとその荷物を無造作に置いた。

 中身がぎっしり詰まっていそうな段ボール箱を置くと、男は二人を見やることなくそのまま部屋を出て行ってしまった。

「ふぅ……」

 ため息にも似た息を蛍は吐く。
 それを見た燐は小さく笑うと蛍に向かって目くばせした。

 その気持ちは分かるよと言っているように。

 今、蛍の家に居るのは燐だけではない。
 前に雇っていたお手伝いさんや、町の男衆も来ていた。

 彼らも蛍の家の片づけを手伝ってくれている。
 
 新たな、歴史資料館とするための。

 それまで小平口町の歴史資料館は中学校の図書室の中に併設されていた。

 それだと気軽に立ち寄ることも出来ないし、最近では意識の高まった学校側のコンプライアンスに関わるとして、町内議会でも議論に上がっていた。

 資料館だけで別の場所に移せないかと意見が上がることもあったが、これと行った受け入れ先がなく、宙ぶらりん状態となっていた。

 そんな折、たびたび議会に顔を出していた燐の母親である咲良の鶴の一声で蛍の家、つまり三間坂家に白羽の矢が立ったのだった。

 蛍自身が、あの家にいる意味がないと、たびたび燐や咲良に相談していたこともあったので、思い切って提案してみたのだが、思いのほかすんなりと事が進むことになっていった。

 特に蛍が譲渡する町側に金銭をそれほど要求しなかったことが最大の決め手となっていた。

 歴史資料館として寄贈することに決めた蛍の家だったが、事はそんなに単純なものではなく、まず最初の段階で大幅に遅れていた。

 ある程度の時間の余裕は貰ってはいるのだが、このままだと何時まで経っても終わりそうにない。

 だからこそボランティアで人を雇って手伝ってもらっているのだが。

 物を処分する権利が蛍にしかないので、何より効率が悪かった。
 いちいち確認を取ってからでないと単純に捨てることも出来ない。

 そのせいで一作業するのにも思ってた以上に時間が掛かってしまい、一日の作業が段ボール数箱分なんてことはザラだった。

 燐のアイデアで荷物を一か所に集めてもらい、それを片っ端から蛍が確認する作業にすることで少しでも効率を上げようとしたのだが。

 その荷物が多すぎるし家が広すぎることもあって、部屋に運んでもらうだけでも結構な労働となっていた。

 最初の内は俄然張り切っていた二人だったのだが、今はすっかりこの状況にも慣れてしまったのか。

 いつしか片付けよりも、お宝発掘の方に主軸に置いていた。

「蛍ちゃん、そっちの箱から何か見つかった? あのお面と違って、お金になりそうなものとか」

 燐が蛍の家の廊下で初めて目にした不気味な面は、今ではひとつ残らず取り外されていた。

 あれが何のために使われていたものなのかそれが分かった以上、あの面を飾っておく意味など全くなかった。

 正直壊してもいいぐらいの忌まわしく汚らわしいぐらいのものだったが、それでも一応保管だけはしてある。

 あの座敷から離れた、薄暗い部屋の隅の方に。

 こんなものでも、この土地に座敷童がいた証拠になるわけだし、今更壊したところで何も変わることはない。

 けど資料としては展示しないつもりだった。

 それはあの人に。

 ──オオモト様に、申し訳が立たないと思ったからだった。

「資料として価値がありそうなものはそこそこあるんだけど、燐の言うようなお金になりそうなものは見当たらないと思うよ。うちのご先祖様って絵とか壺とかの”骨董”を集める趣味とかなかったみたいだし」

 周りの大人があくせく働いているのを気にもせず、燐と蛍はついつい話し込んでいた。

 もっとも蛍はこの家で唯一の当主なんだし、燐だってその蛍の友人として来たのだからそれほど問題はないとは思うけど。

 いちおう片付けはやっているわけだし……。


「えっ、遂にお値打ちのモノが見つかったの!? 蛍ちゃん」

 興奮したように燐は身を乗り出してくる。

「えと、そう言うことじゃなくて、ちょっと変わったものが見つかったって燐に言いたかったの」

「なぁんだ……で、その変わったものって……?」

 蛍は山の様に積まれた段ボールの中から正方形の箱を取り出して燐の前に置いた。

「中に何が入ってるの?」

 燐はその薄汚れた木箱を指さす。

 真新しい感じではなく、素人目にも明らかに年季が入っている感じはした。

「燐、開けてみて」

 蛍は既に中身を確認したらしく、燐に開けるよう促してきた。

 蛍の表情から推測をすると、それほど変なものが入っているわけではなさそうだった。
 けれど、そこまで良いものが入っているような感じも特にない。

 箱自体が割とぞんざいに扱われていたみたいで、ところどころが変色して色させていたせいからかもしれない。

(蛍ちゃんが勿体付けるぐらいだし。ヘビの抜け殻とか。ちょっと不気味なのが入ってそうなんだけど……)

 燐は箱の中身を見る前から少し憂鬱な気分になった。

 ヘビの抜け殻を見てもそこまで気分を害することはないとは思うが、かと言って別に見たいわけではないから。

「変なものは入ってなかったから安心してね、燐」

 蛍は燐に気を使ってそう言った。

「そうなの? でも、本当かなぁ。そうやってわたしを驚かす気なんでしょ蛍ちゃんは」

「うふふ、わたしは燐と違って正直者で通ってるから」

「またまたぁ~。お代官様ほど悪いお方はこの江戸の中でもそうそうおりませんてぇ」

「ふっふっふ」

「はっはっは」

 べたな時代劇のようなやり取りを続ける二人。
 こんなことをしているから一向に片付かないんだろうとは思っていたのだが。

 このいつものノリがとても心地よかった。

「変な事言ってないで燐、早く開けてみて。本当に大丈夫だから」

「はいはい。開けますよー」

 燐は軽い返事をして箱に手を掛ける。
 
 口ではそんなことを言っていた蛍だったが、燐の手が蓋に触れると何故かごくんと喉を鳴らしていた。

(蛍ちゃん、中身知ってるんじゃないのぉ?)

 燐は訝し気になりながらも箱を開く。

 その中のモノを見て燐は思わず声を上げた。

 初めて見るものだけど、初めてではない気がしていたからだった。

「こ、これって……市松人形、だったっけ?」

「うん、確かにそんな感じだよね」

「でもさ、これちょっと似ていない? あの、あの時のオオモト様に」

「燐もそう思った? わたしも最初見た時ビックリしたよ。まさかこんなものが今まで家の物置に眠っていたなんて」

「それは、そうだよね……だって偶然にしては出来過ぎてるもんね」

 燐の開けた木箱の中に入っていたのは、少女の形をした一体の人形だった。
 何も知らなければよくある日本人形だと思うだろう。

 それこそ、蛍の家に飾ってあった人形とそれほどの違いはない。

 ただ……その人形はあまりにも似ていた。

 赤い着物を着た。
 あの少女に。

「これって、オオモト様……?」

 燐は人形に触れるか触れないかの微妙な距離で指をさす。

「うん……”座敷童様”を模して作ったんだと思う」

 蛍は割と無造作にその人形に触ると、黒い絹糸のような人形の髪を優しく撫でていた。

 櫛の様なものは一緒に入っていない。
 代わりにその人形に合うサイズの手毬が箱の中に収められていた。

 漆黒のおかっぱに可愛らしい模様の赤い着物、そして小さな手毬と……それは正しくオオモト様そのものと言ってもおかしくはなかった。

 黒く大きな瞳は本物の少女のようにあどけなく、可愛らしい顔立ちをしていた。
 でもどこか寂しそうにもみえて……それが余計にあの人を彷彿とさせる。

 柔和のようでいて、どこか憂いを帯びている。

 幼い少女と大人の女性が同居したような、あの柔らかい人に。
 とても良く似ていた。

「蛍ちゃんは、いつ知ったの? この人形のこと」

 人形をしげしげと見ながら燐はため息を漏らす。

「つい最近だよ。家の片付けをするまでは全然知らなかったの。だってこの人形、二階の物置部屋の一番奥の方にあったから。片付けしてなかったら多分、見つからなかったと思う」

「物置部屋ってあの時わたしたちが隠れようとした?」

「うん。そこに置いてあったみたいなんだ、誰からも知られずにずっと前から」

「そっか……」

 夜が明けなかったあの日、二人は蛍の家に侵入しようとしてきた、彼らを物置部屋から覗いていたのだった。

 二階から庭の様子を見ることが出来た絶好の場所だったけど、そこにこの人形も一緒に置いてあったなんて。

 偶然なんだろうけど、何らかの意味でもあったのだろうか。
 物言わぬ人形に何の答えも求めてはいないけど。

「作った人の名前とかは書いていないの?」

「箱とか色々見てみたんだけど……」

 蛍は肩をすくめる。
 どうやら、作者不明の人形らしかった。

「何のために作ったんだろうね、この人形。やっぱり、座敷童の存在を後世に残す為?」

「そうだと思う。むしろそれ以外考えられないかも」

「だよね」

 三間坂家、もしくはそれに近い人が作ったんだろうと思う。

 三間坂家が祀っていた幸運を呼ぶ神様。

 オオモト様──座敷童。

 その像の姿を。

 図書室の資料には載っていなかった。
 きっとどの文献にも。

 だからこそ作ったのではないかと思っている。
 その姿を力を後世に伝えるためだけに。

 これを見つけるのがもう少し早かったら何か変わったのだろうか。

 あの異変が起きる前だったら、と。
 そんな無意味な仮定をしてみても全てはもう終わってしまった後だったから。

 虚しくなるだけだった。

「この先異変が起こるとかそういった事は書いてないんだよね? ただ座敷童の存在を人形で示してるだけで」

「それは流石に無理ないと思うよ。ああいった事が何回も起きてるとは考えにくいし」

「だねぇ」

 蛍は小さな人形の両脇を持ってその人形と見つめ合う。
 ガラス玉のような黒い瞳は、目に映る全ての景色や人を夜の色の中に染め上げていた。

 蛍は一瞬はっとなってその人形から顔を離す。
 
 けれど人形には何も変わった様子はなく、燐は蛍の驚いた顔を見て不思議そうに首を傾げた。

「何かご利益ありそうな感じは……流石にしないね」

「うん。むしろ夜中に動き出しそうな感じの方がするよ」

 蛍はすっかり怖気ついてしまったのか、人形を箱に収めると、黒い瞳と目を合わそうともしなかった。

「じゃあさ、わたしが家で見たオオモト様ってもしかしてこの人形が動いてきたのものかも……」

「まさか」

 燐が変なことを言い出したので、蛍は半信半疑にその人形を二度見してしまった。

(動き出すとか、首が勝手に回るとかそういった事はないと思うけど……)

「蛍ちゃん、これはマンションに持っていかないよね」

「うん……これが枕元にあったらきっと寝れないと思うよ」

「じゃあ、わたしが一緒に寝てあげるよ。はだかで」

「燐ってば……」

 蛍はマンションの寝室にこの人形があることを想像して震え上がった。

 けれど燐が一緒に寝てくれると言った時、呆れながらも同時に心が躍る感じもした。

(はだかで寝るのはまだ抵抗あるけど)

 ひとまずその事は置いておいて、蛍は人形が収まった木箱を元通りにする。

「これは資料として展示するかはまだ分からないけど、とりあえずはまだ大事にしまっておくよ」

 そう言うと蛍は自室ではなく、元あった場所の少し目につきやすい棚の上へと戻しに行った。

 燐もその後についていく。


 残ったのはぎっしり詰まった段ボールの山と、散乱した郷土関係の資料の山だった。


 ────
 ────
 ────



 今にして思えば、それは確かに一瞬の出来事だった。

 

 そのたった一瞬程の出来事は、少女達に新鮮で強烈なビジョンを残して行ってしまった。

 

 色とりどりの光の粒。

 

 視界一杯に光の粒子が広がっていた。

 それは日が沈まない世界の湖に夜の帳、小さな宇宙を作り出していた。

 

 それらは意思を持った生き物なのか、それともただ通り過ぎるだけの無機質な物体だったのか。

 

 その範疇すらも分からなかった。

 あまりにも早すぎていたから。

 

 瞬き出来ないほどではなかったけど、それでもあまりにも早く、それこそ激しい水の流れのように過ぎ去ってしまった。

 

 それらの正体を知るには全く足りない時間だったと思う。

 

 燐も蛍も同じ思いでいた。

 

 瞼の裏にはちかちかと、変化しながら瞬きを繰り返す星の残滓だけがいつまでも流れているようで。

 

 ──綺麗だった。

 

 それは間違いようもなく。

 むしろそれ以外の感想が頭に浮かんでこなかった。

 

 そのせいなのか、二人は今だにその過ぎ去った方向に目を奪われたままだった。

 瞼の裏側で瞬いている星の軌跡を探し求めているように。

 

 もう何の姿も見えてないというのに。

 

 あの小さな光たちはどこまで行くのだろう。

 その行先は誰にも分かりようがない。

 

 もしかしたら世界の果てまで行ってしまうのかもしれない。

 きっと誰も見たことのない世界の終りのその先まで。

 

 わたしたちには到底たどり着けそうにない薄いヴェールの向こうのその先までも。

 

 ずっと、ずっと。

 

「………」

 

「…………」

 

 二人は無言のまま、光が消えて行った先を呆然と眺めていた。

 

 現実感などまるで感じられない場所(水中)であるのに、意識が現実に戻るのに少し時間が掛かっていた。

 

 時を止めたように一点を見つめ続けていた燐と蛍。

 けれどお互いに何かを諦めたみたいに顔を見合わせた。

 

 言葉は発せずとも思いはいつも同じだった。

 

 ──これからどうしよう、と。

 

 そんな不安げな気持ちであることが、揺れ動く二人の瞳の奥から見て取れる。

 

 もう目的は果たしたと思う、一応邂逅できたわけだし。

 後はこの先どうするか、それだけだった。

 

「えっと、蛍ちゃん。とりあえず上にあがろっか。流石にもう泳ぎ疲れちゃったでしょ?」

 

 遥か上の頭上の水面を指さして燐は口を開く。

 

 ぽこっと、小さな気泡が浮かび上がり、我先にと水中へと上がって行く。

 気泡は泳ぐよりもずっと早く、上へと浮かび上がっていく。

 

 日差しが燦々と降り注ぐ。

 天候がずっと変わらない、白く眩しい地上へと。

 

 その速さに、蛍は少し憂鬱な気持ちになっていた。

 

 天井が開かれている以上、そうすることが妥当だと思った。

 

「そう、だよね……」

 

 蛍はぼんやりとした返事を返すだけで、青いカーテンにくるまれたまだら模様の空を物憂げに見上げて続けていた。

 

「どうしたの蛍ちゃん。何かまだ、気になることでもあるの?」

 

「えと……そういうことじゃなくて。まだそこまで疲れていないし、それにわざわざ水面まで出る必要なんてないんじゃないかって」

 

「ど、どうして?」

 

 意外な蛍の返事に、燐は驚いて目を丸くした。

 てっきり蛍は即決すると思っていたから。

 

 確かにこの中に居ても、直ぐにはしんでしまうことはないと思う。

 かと言ってここにずっと居てもきっと何も起こることはないだろう。

 

 この世界は閉じた場所にあると思っているから。 

 

 それにいくら息が続くへんてこな水の中だとはいえ、泳ぐ事自体は普通のプール中や海中を泳ぐ事と何も変わっていない、変わりようがないと言える。

 

 水泳をやることは地上を普通に走るよりも何倍も体力を使うから。

 

 それに、かなりの全身運動なのだから、蛍の身体が悲鳴を上げていても何らおかしくはない、そう燐は思っていた。

 

 それに蛍自身が泳ぎは苦手だと言っていたし、現に燐がここまで引っ張って来たようなものだから、余計に気が気ではなかった。

 

 大丈夫と本人は言っていたが、蛍を引き付けるなにかが、この群青色の世界にまだあるのだろうか?

 

(もしかしてここが気に入ったのかな……水中で息出来るのは確かに素敵だし、水の中も綺麗だしね。でもそれが理由なの……?)

 

 それだけだと少し弱い気もする。

 

 確かに不思議なことではあるが、ただ泳ぎ回っていても退屈しのぎにはとてもなりそうにないし。

 

 それに綺麗な景色ならここだけでなく、それこそ世界中にあるのだから。

 

(じゃあ、一体なんだろ)

 

 濃いブルーの空を見上げながら逡巡する燐。

 

 確かに綺麗な青の世界だとは思う。

 とても静謐で神秘的で、やっぱり綺麗だった。

 

 魚も何もいないけどそれほど寂しさを感じさせないのは圧倒的な解放感とこの世のものとは思えない景色のせいだろう。

 

 実際、この世のものではない気はしている。

 

 それは水中なのに呼吸も出来ていることや、水の冷えや冷たさを感じることもないこと。

 何より、生ぬるい水の感触に妙な心地の良さを覚えていることだった。

 

 食事以外の方法で栄養を摂ることが出来るのなら、ずっとここに居ても平気だと思ってしまう。

 

 もっともこの世界に来て摂取したものと言えば、蛇口からの水道水だけ。

 それでもお腹を空く気配を見せないのは、ここに適用出来ているせいなのか。

 

 それとも前に来たから?

 

 それともやっぱり”わたしが”座敷童になっちゃったから???

 

 この奇妙な世界と自分に対する疑問ならいくらでも浮かんでくる。

 けれど、絶対的な答えはどうしても浮かんではこなかった。

 

 燐は怖気づいたように身震いをした。

 

 このことを追求するのはもう止めよう、頭を振って思考を変えるよう試みる。

 

 今は蛍の事だけを考えることにした。

 

(蛍ちゃんは確かに疲れているはずなのに、まだ大丈夫って言ってる……あっ! それって、もしかしてっ)

 

 燐はある考えに達して、胸中で手を叩いた。

 このような蛍とのやり取りは初めてではないことを思いだしたからだった。

 

 蛍は見た目も性格も大人しそうなのだが、意外にも芯はしっかりしていて、燐が驚くほど大胆でそして……。

 

(頑張り屋さん、なんだもんね……蛍ちゃんは)

 

 もしあの歪んだ夜が訪れなかったら、きっと分からなかったであろう。

 燐にさえ分からなかった、頑張り屋の蛍の一面。

 

 割と頑固な面があるとは思っていたけど、あそこまで一途でひたむきだとは思ってはいなかったから。

 

 燐は、失念したように胸中で反省する。

 

(だったら、またアレがいいのかな……? 少し恥ずかしいけど)

 

 それはあのトンネルの時の様に、()()()()言い方を変える必要がある。

 

 そう燐は思ったので、すかさず実行に移した。

 

 燐は急に気が抜けたように柔らかい表情をとると、柄にもなく弱気な発言を少し大げさに口にした。

 

「あ──、もうダメだめだぁ~。さっきから体がギシギシ言ってて、もうまともに泳げないぃぃー!」

 

「……え? えっ?」

 

 声のトーンまで変えた燐の芝居がかった(わざとらしい)発言に蛍は目をぱちくりとさせている。

 

「この分だと明日は筋肉痛で動けなくなっちゃうー、どーしよー」

 

 燐の口は止まらない。

 止まりようがなかった。

 

「あー、お日様も見たいなあー。日の光を浴びたらきっと気持ち良くて最高なんだけどなぁー」

 

 口を魚のようにあんぐり開けたまま膠着していた蛍だったが、過去にこの状況があったことを思い出して、同じように深くため息をつくと、困り顔で苦笑した。

 

「燐、わたし流石にそこまで馬鹿じゃないよ。でも……ありがと。いつも気を遣ってくれて」

 

 別に馬鹿にされたとは本気で思ってはいないけど、こうして返したかった。

 

 いつものように他愛のないやり取り。

 それはこんな異常な状況でもいつものままで。

 

 けど燐がいるからこの非常識な世界でも平静を保っていられると思っている。

 もし一人だったらとっくにもう溺れている、そんな気がしていた。

 

「蛍ちゃんごめんね。でも疲れてるのは嘘じゃないからね。ついでに筋肉痛なのもね」

 

 燐は片足を持ち上げて、軽くマッサージしてみせる。

 普段なら何気ない行為だったが、本人は気付いていないのか裸でのそれは色々と大胆なことになっていた。

 

「それは分かってるよ燐。けど、ちょっとはしたないかも。さっきから色々見えちゃってる」

 

 言おうかどうか迷っていた蛍だったが結局口にしていた。

 

「はしたないって……蛍ちゃん、散々わたしの恥ずかしいとこ見てたんだから今更感があるよ~」

 

「わたしはチラッとしか見てないから」

 

「えー、痛い程の蛍ちゃんの視線を感じてたんだけどなー。主に下半身の辺りに」

 

 燐は少し照れた表情を見せるも、自身の裸体を隠す様な素振りはしなかった。

 

「ちょっと自意識過剰なところが燐にはあるよね」

 

 蛍は風のようにさらっと言ってのける。

 

「またそうやってぇ。全く、蛍ちゃんって大人しいわりに結構毒を吐くよねぇ」

 

「燐といる時だけだけどね」

 

 二人は顔を見合わせるといつものように笑い合った。

 

 それで良いんだと思う。

 良いことも悪いことも、二人で綯い交ぜにして飛ばしていけばきっとそれで。

 

 蛍と燐の間にはそういった、心のわだかまりなど絶対に起きないのだろう。

 

 傍目から見れば少しもどかしく感じる二人だったが、当の本人たちはこれが自然体、もっとも楽な関係だった。

 

 自分とは違って何か別の理由があるのかもしれない。

 

 例えば、世界の果ての秘密を探りたい、とか。

 

 見かけよりずっと好奇心の強い蛍にはあり得ない話ではないが……。

 

 そんなものが本当にあるのだろうか。

 でも、それが蛍ちゃんの目的なら一緒に行ってみるつもりだけれど。

 

「でも……燐が行きたいのなら一緒に行ってもいいよ」

 

 いつの間にか蛍は燐の方を向いて微笑んでいた。

 

「え、蛍ちゃんが行きたいんじゃないの? その、世界の果て、とか……」

 

「うん? そんなつもりはないけど」

 

 蛍は不思議そうに燐を見つめて首を傾げた。

 

(なぁんだ、わたしの先走りだっただけか)

 

 燐は安堵の息をぽぅっと漏らすと。

 

「だったら……もう戻ろうよ蛍ちゃん。目的は果たしたと思うし」

 

 燐はもう一度手を差し伸べた。

 

 ここに来た理由は見いだせなかったけど、それについてのお話なら地上に戻っても普通に続けられる。

 

 わざわざこの奇妙な水の中で話さなくてもいい事だったと思った。

 

 蛍は差し出された手をそっと握り返すと、微笑んで自分の考えを口にした。

 

「ごめん、別に戻りたくないってわけじゃないんだ。ただ、”目覚めるだけ”でいいんじゃないかなって思っただけで」

 

「目覚めるだけ?」

 

 やはり意味が分からず蛍に聞き返す。

 

 不思議な会話のやり取りはあの人と会話しているときに似ていると燐は思った。

 

 夜のプールで感じたことはやはり気のせいなんかではなかった。

 それはもう分かっていたことだけど、それでも確信せざるを得なかった。

 

 柔和な笑みと穏やかな瞳。

 

 あの時感じたものと同じ想いがした。

 

 捻じれた夜と同じようにお互いに裸で水の中にいるせいだろうか、普段よりもずっと近くにオオモト様を感じることが出来る。

 

 彼女()の中の透明な笑みの中に。

 

「だって夢だから。夢は覚めれば消えてしまうでしょ」

 

 蛍は柔らかい雰囲気のまま、そう言葉を作った。

 

「やっぱり蛍ちゃんもそう思ってたんだ……」

 

 燐は思いのほか動揺することはなかった。

 だって蛍の言っていることは大体燐も同じ想いだったから。

 

 驚きはしても否定したり呆れることはなかった。

 むしろ普通に同意した。

 

 つまりは夢、全ては夢の中のできごと。

 そういう事なんだろうと。

 

「うん……でも、いつもとは違う夢だってことは燐だって分かってるよね? 寝るときに見る夢じゃなくて、身体と心が別離したときの、幻のような妙な現実感のある夢」

 

「……じゃあそれも含めて同じってことだね、あの時と」

 

「うん」

 

 多分最初から分かっていたことだった。

 ここに来たときからずっと感じていた違和感の正体。

 

 青いドアの家も、あの風車だけの場所も、そして終わらない夜も形は違ってもその理はきっと同じなんだと。

 

 現実とよく似ているけど、これは現実じゃない。

 誰かが見た夢、じゃなくて想いが重なり合ってできた夢と現実の境の世界。

 

 そこには悪意なんてなくて、ただ、存在しているだけの場所。

 

 だから──目覚めればこの世界は消えてしまう。

 それは簡単に、まるで陽炎のように儚く消えていってしまうものだと。

 

 そう言いたいのだろうか蛍ちゃんは。

 

 けれど、燐にはその仕組みが良く分からなかった。

 

「でもさ、わたしも蛍ちゃんも眼はずっと開いてるし、眠ってなんていないよね。意識だってちゃんとはっきりしてるし……それでも起きてはいないの?」

 

 立ったまま寝ているだなんて、蛍の家で起きた幻を見た時に思ったことがあったけど。

 それとは違う? のだろうか。

 

 その辺りの境界(せんびき)がどうにも曖昧なままだった。

 

「起きていないっていうか……わたしも燐も最初から寝ていないんじゃないのかな。寝ていなければ目覚める必要はないわけだし」

 

「あ……」

 

 蛍に言われてようやく気付くことができた。

 

 蛍の言う、目覚めの意味を。

 とても単純で、だからこその残酷さ。

 

 でも、何となくそんな気はしていた。

 

 この世界にずっと感じている違和感は、どうしようもないほどに心の中に引っ掛かっていたことだったから。

 

「この世界を()()()……そういう事、かな?」

 

 蛍は静かに頷く。

 

「えと、じゃあ、わたしたちが青いドアの家に来るたびに世界は壊れてたってこと?」

 

 蛍は少し迷った表情を見せたが、それでも小さくこくりと頷いた。

 

 燐は口を開けたまま黙り込んでしまった。

 

 ──青いドアの世界。

 

 それは最初に訪れたときからずっと変わっていない。

 変わりようのない世界。

 

 そう、思ってたけれど……本当はきっと違っていたんだ。

 

 世界は二人が離れる度に消滅して、そしてまた創られていたんだと。

 

 破壊と、創造。

 

 それを繰り返してきたんだ、きっと。

 

 けれど──同じような世界は生まれてはこない。

 

 来るたびに些細だけど変化があったのは多分そういうことだったんだ。

 同じことを望んでも叶えられない、投げた手毬の軌跡のように。

 

 シーシュポスの様でもあり、宇宙そのものとも言えた。

 

 宇宙には変わらないもの、永続するものなど、一切何もないのだから。

 

「燐はさ、この世界好き?」

 

 蛍は燐の手と手の間に滑り込むように泳ぐと、その顔を覗き込んだ。

 

 長くなった栗色の髪と、二つに結わかれた艶やかな黒髪がマリンブルーの背景にたなびいている。

 

 波の様な()()()と、艶めかしい蠢きで。

 

「そうだねぇ」

 

 急な蛍の質問に燐はちょっと考え込む。

 

「酸素みたいなのもあるし、静かだし、割と好きだよ。でもちょっと怖いけどね」

 

「怖いって? 燐、なにが怖いの?」

 

「このまま水に溶けちゃいそうな気がしない? 何もかも水の中で溶けて混ざって一緒になって……」

 

 燐はその想像だけでぞぞっと鳥肌が立った。

 

「それはそれで面白そうじゃない。燐と一緒にどろどろに溶けてくっついちゃったら、それこそずっと一緒に居られるし」

 

「蛍ちゃんとずっと一緒なのはちょっと嬉しいけど、それじゃあスライムじゃない。スライムは流石になんか嫌だなぁ。それにせっかくの蛍ちゃんの可愛い顔が台無しになっちゃうよ」

 

「わたしの顔はどうでもいいけど、燐が嫌なら止めたほうがいいね」

 

 蛍の小さな笑い声が耳朶をくすぐる。

 

 もし蛍がずっと傍で囁いてくれるのなら、溶けて一緒になったとしても寂しくはないからちょっとだけマシかもと燐は思った。

 

「そういえばさ、二人とも裸なんだよね。やっぱりちょっと恥ずかしいかも。今更なんだけど」

 

「えー、蛍ちゃんから提案してきたのに?」

 

 燐もからかうように耳元で囁く。

 蛍は耳まで赤くしながらも、掴んだその手を離そうとはしない。

 

 むしろより強く、燐の手を握りしめた。

 

「ねえ、燐。どうして夢って終わっちゃうのかな」

 

「わたしも、終わらない夢があってもいいとは思うけど……」

 

 蛍が唐突に放った言葉は燐の胸の深くのところを軽くくすぐった。

 

「でも終わるから綺麗なんじゃないのかな。目覚めた後にため息をついちゃうぐらいに儚いから良いんじゃないかなってわたしは思ってるよ」

 

「なるほどね。燐はそういう考えなんだね」

 

 蛍は感心したように頷く。

 

「じゃあ嫌な夢は?」

 

「それはすぐ終わってくれないと困っちゃうよね~。ずっと嫌な夢なんてそれこそ悪夢だし。夢でまで怖い思いなんて誰もしたくないしね」

 

「うんうん」

 

「あ。夢って言えば前から気になっていたことがあるんだけど。燐、聞いてくれる?」

 

 ふと蛍は頭の中で思いついた疑問をそのまま口にする。

 それは前々から思っていたことだったが、あえて言葉にはしなかったことだった。

 

「なになに、どんな夢のお話なの、蛍ちゃん?」

 

 燐が興味深そうに顔を近づけてきた。

 

 大きな燐の瞳は吸い込まれそうになるほど透き通っていた。

 群青色の世界よりもずっと透明で一つの曇りもない。

 

 その奥は小さな光できらきらとしていて、生命力に溢れている。

 

 心が壊れた少女の瞳とは思えなかった。

 

 その燐にどれほどの自覚があるのかは分からないけど、ひっかき傷でさえどこにも見当たらないほど光り輝いている。

 

(責任を持つようになったから、かな?)

 

 蛍はそう思っていた。

 

 それは燐の家のパン屋さんのことや部活でのキャプテンの事、そして……自分とのこと。

 

 どっちかっていうと守られることが多かった燐だけど、今は自分から色々率先してやっているし、すごく頼りにされているから。

 

 その周囲からの期待が燐を再度輝かせていると思った。

 

 きっと燐は壊れやすく面倒なものばかり集めてしまう、一つの癖の様なものがある。

 

 他人の問題を自分の問題に置き換えて考えてしまうから心に無数の引っ掻き傷が付いてしまいやがて壊れてしまったのだと。

 

 けれど、そのおかげなのか、今の燐は少しだけ楽に生きているように見えていた。

 

 壊れたところは決して元には戻らないとは思うけど、他の部分の輝きが増したのではないかと思うほどに、今の燐は生命力に満ち溢れてるようだった。

 

 本来の燐の輝きが、引っ掻かれて砕け散った後でしか見ることが出来ないなんて、あまりにも残酷すぎるとは思うけど。

 

(でも燐が幸せそうだからこれで良かったんだよね、きっと)

 

「どうしたの蛍ちゃん。何かお話してくれるんじゃなかったの?」

 

 ちょっと気を遣った燐が視線を合わせてくる。

 蛍は意識を今に戻すと、燐に向かって済まなさそうに頭を下げた。

 

「ごめん。それは戻った後でも良いかなって思って……思わせぶりな事言ってごめんね」

 

 燐はいつもの笑顔で微笑んで首を横にふるふると振った。

 

「ううん、全然問題ないよ。向こう(現実)に戻った後で珈琲でも飲みながら蛍ちゃんの話を聞けばいいわけなんだし」

 

「ミルクをいっぱい入れたコーヒーを?」

 

「んもー、それは言わないでよ~。これでもわたし結構気にしてるんだからぁ。それに蛍ちゃんだってミルク入れてるよね。中が真っ白くなるぐらいにたっぷりと」

 

「真っ白って程はないとは思うけど、でも、燐が淹れてくれたコーヒーをちょっと甘くしたカフェオレが好きだから」

 

 蛍のちょっとは一般的な甘みの範疇を超えていたから、燐は苦笑いする。

 

「カフェラテももちろん好きだよ。”青パン”で使っているのって全自動のやつだっけ?」

 

「そーなんだよねぇ。自分で色々アレンジできるセミオートか手動が良いって言ったのに、お母さんが、”うちは本格的なコーヒーショップじゃないんだからそんな面倒な事しなくていい”って全自動タイプになったんだよねぇ。それだって中古なのに」

 

 はぁ……。

 燐のため息が小さな泡の輪っかを作って空へと浮かび上がって行った。

 

 その泡がちょうど燐の頭上にきたとき、上から射してくる光に照らされた燐を見て、蛍は密かに胸をときめかせた。

 

 本当に綺麗なものを見た時の情景の眼差しで。

 

「だったら次に淹れる時は違った豆にしてみようかなエクアドル産じゃなくて、もう少し口当たりのいい……あ、そうだ! 蛍ちゃん知ってる? 猫の糞から作る珈琲もあるんだよっ。ちょっとお高いけど今度試しに取り寄せてみよっか?」

 

 でも、お代は蛍ちゃん持ちでお願い! と、燐が都合よく話を進めようとしたのだったが。

 

「……」

 

 蛍は話を聞いていないのか、燐を見ながら呆然としていた。

 

「どうしたの? わたしの体に何か付いてる?」

 

 燐はいつもの洗顔みたいに頬っぺたを持ち上げてみる。

 

 何も付いていないとよう言うよりも、何も身につけていない。

 燐は蛍が自分の裸を凝視していると思って急に恥ずかしくなった。

 

「わ、わたしは蛍ちゃんと違ってひんそーなんだからあんまり見ないでよぉ!」

 

 ぷんすかと顔を赤くして抗議する燐。

 それを聞いた蛍はキョトンとした顔になった。

 

「あ、ごめん。そう言うことじゃないんだ」

 

「じゃ、じゃあどういうことなのぉ」

 

 燐はまだ頬を紅潮させたまま尋ねる。

 

「天使みたいだなって思っただけで」

 

「誰が?」

 

「燐のことが……あっ! で、でもそういう意味じゃないからね。それぐらい綺麗だったってこと」

 

 普通であれば特に訂正するところではないが。

 燐の受け取り方次第では悪意ともとれる発言となってしまった。

 

「ごめんね」

 

 蛍は素直に頭を下げる。

 つい口から出てしまったことで、そこには意図するべきものは何もなかったから。

 

「それぐらい分かってるよ、蛍ちゃんはとっても素直な子だってことも、ね」

 

 ──でも。

 

「わたしは蛍ちゃんの方が天使の様に見えるんだけどね。座敷童うんぬんは別にしても蛍ちゃんは顔も性格も可愛いし、いい意味で人じゃないみたいにきらきらしているから」

 

 燐も素直に言葉を口にする。

 蛍の想いが変わっていないのと同じで燐の想いもずっと同じままだった。

 

 変な事に巻き込まれても、二人は一緒の方向を見ていた。

 

 互いに寄りかかるわけではなく、ほんの少し寄り添うだけの絶妙で、ちょっと儚い距離感のままで。

 

「それこそないと思うけどね。でも……ううん、ここは素直に受け取っておくね。だって、燐とまたこうして一緒に居られることは、天使の悪戯みたいなものなんだし」

 

 多くは望んではいない。

 たった一つの願いが叶うならそれでよかったから。

 

 何でも願い事が叶う箱に入っていたのは、お金ではなく彼女──燐、だったのだから。

 

「あ、それはわたしも思ってたよ。”奇跡”って言葉を使っても良いよね? でも誰に感謝したらいいのかなぁ……やっぱりオオモト様かな」

 

 蛍の話だと、オオモト様は町の人に神様として祭られていたようだから、あながち間違いではないと思う。

 

()()()は何もしてないよきっと。それに燐の場合、感謝よりもちょっと怒ってもいいとは思うんだ。燐はただ、巻き込まれただけだから」

 

「えっ? でもだって、わたしは自分から……」

 

 言いかけて、燐は口を閉じた。

 

「燐?」

 

 蛍はキョトンとした顔で首をかしげた。

 燐が何を言いたそうにしていたのか分からなかったから。

 

「あ、ごめん……ちょっと変な事、言いそうになっちゃった」

 

 燐は少し慌てたように笑みを浮かべる。

 その繕った笑顔に、蛍は僅かな胸の痛みを感じた。

 

「ねぇ、燐。もう居なくなったりしないよね? もし燐がまた辛くなったら今度は何でも言って欲しい。わたしはどんなときでも燐の味方なんだから……でも燐はこういうのが嫌なんだっけ……難しいなぁ……」

 

 自問自答する蛍に燐は困ったように微笑んだ。

 

「嫌なわけ、ないよ。ただ、蛍ちゃんに迷惑を掛けたくなかっただけなんだ。でも結果的にすごく迷惑かけちゃったけどね」

 

 あれは何かの不可抗力だったのか、気まぐれなのか。

 その辺はよくわかっていない。

 

 蛍と燐。

 

 同じ方向を見ていた二人が、何かのひょうしで別れてしまった。

 

 世界が間違っていると確かに少女は言った。

 

 あの時、世界は”ある人の心”と偶然重なりあって、あのような異変が起きてしまったようだったけど、それはどこからかで二人の想いへと変化していった。

 

 兆候がなかったと言うわけではないけれど、それでも必然なんて事柄は今もあの時からも存在していない。

 

 あるのはただ、偶然だけで。

 

 偶然という概念が幸運という事象を生み出して、それはまた別の偶然を生み出していった。

 

 この連鎖はどこまでいっても終わることはなかった。

 

 あの歪んだ夜が始まるまでは。

 

 その夜も終わり歪みは別の世界、これまでと違った世界の有り様に切り替わってしまった。

 

 それでも、町には幸運が残っていた。

 

 これまでとは違った幸運の形。

 

 幸運はあの土地と町に何をもたらすのだろうか、町に住む人も当事者(ざしきわらし)も何も分かっていない。

 

 良いことは起こるだろうとは思う、望む望まないに限らずに幸運は町に降ってくるものだから。

 

 けれどまた異変が起こる可能性も当然あった。

 

 わたしたちの住む世界は常に均衡を保っていて、良いことも悪いこともバランスよく起こるもの、らしかったから。

 

 もし、あの過ちを二度と犯さぬ為に、”わたしたち”がいるのだとしたら……。

 

 それは──。

 

「ねぇ……蛍ちゃん」

 

「なぁに、燐」

 

 わたしたちにできることは結局こんなことだけ。

 特別な事なんて何もできるわけがない。

 

 いつだって、自分たちのことだけで精一杯だったから。

 

「手、繋ごっか。二人で手を繋いで念じれば元の世界に戻れる……そうでしょ?」

 

「うん。間違ってなければ、だけどね」

 

 蛍は差し出された燐の両手をそっと取ると、その柔らかい手をぎゅっと握った。

 

 少し強めに握ってしまったかもしれない。

 けれど、この手を二度と離したくはなかったから。

 

 その強さに少し驚いた顔をしたが。

 いつもの様に、燐はにこっと微笑んでくれた。

 

 蛍の大好きな笑顔で。

 

「戻ったら何時ごろになるのかな……」

 

 蛍はこれまで気にも留めなかった時間の事をつい気にしていた。

 身体はまだ水の中でも、意識だけは向こうのマンションの部屋の中だった。

 

(でも全てが夢なら時間の流れなんか関係ないのか……)

 

 夢か現実か、なんて。

 その事に決定付けるものがあるとするならば、多分それは時間だろうと思う。

 

 夢を見ていた時間と現実での時間。

 それは等しく同じだが、夢の中の時間は現実とは異なっている。

 

 夢では時間などいくらでも作ること出来るし、反対に減らすことだって出来るから。

 

 ただ、意識の介入が難しいだけで。

 

 これまで何度かこの世界──所謂”青いドアの家の世界”に来たことのある二人だからそれは良く分かっていた。

 

「ここ来たときは確か夜だったよね? 確かまだ雨が降っていたし」

 

 何となく二人で踊った後の出来事だった。

 唐突な光は燐と蛍の時間を白く切り取っていってしまった。

 

 だからこそ、今ここに居るわけなのだが。

 

「…………」

 

 二人の視線が自然と宙に向けられる。

 

 深い水の中から見る空は、白い花のように輝いていた。

 そこには雨模様など微塵にも見せずに、雲の隙間からこぼれる(ひかり)をレジンの様に滲ませていた。

 

「不思議だよね。向こうと同じ空なのに全く別の世界なんだもんね」

 

 水面越しに空を仰ぎながら、蛍は感嘆したようにつぶやいた。

 

「うん。でもどっちも綺麗だよね。まるで絵で描いた世界みたいに」

 

 同じように燐も空を見上げる。

 

 柔らかい水の揺らぎが、絵画のような不思議な空の形を青と白のキャンパスの上に作っているように見えた。

 

「でも、それだと現実より絵の中の方が綺麗みたいになっちゃうね」

 

 燐は何も答えず小さく頷いた。

 言葉の意味は分かっていると言いたいように。

 

「……」

 

 蛍はそんな燐を少し不思議な瞳で見つめていた。

 

 横顔がちょっとだけ似てたから。

 白いプラットフォームでの表情と。

 

「あの。そろそろ……良いかな? 蛍ちゃん」

 

「あ、うん」

 

 燐は蛍に囁くように呼び掛けると、正面から見つめた。

 

 二人の少女の視線が水の中で交差する。

 

 蛍はすぐに分かって瞼を閉じる。

 燐も同じタイミングで瞳を閉じた。

 

 夢から目覚めるのに目を閉じるなんて矛盾していると思うけど。

 それがこの世界でのルール、(ことわり)だったから。

 

 燐と蛍は闇の中、静かに想いを繋ぎ合わせる。

 ここに渡って来た時と同じように、一つの願いだけを胸中に念じて。

 

 向こうの世界に帰りたい。

 

 ただ。

 その一点だけを。

 

「…………」

 

 胸中でそれを願い続けるだけ。

 たったそれだけのことだった。

 

 けれど、蛍は不意に湧きあがった不安に駆られてしまう。

 

 燐がその言葉を止めた時、世界が静かになってしまったと思ったからだった。

 

 これまで聞いていた燐の声が一切しない。

 それは蛍にずっと遠くに忘れていたはずの事を思い出させていた。

 

 燐は目を閉じて自分と同じように願っているはず……きっとそうだとは思っている。

 

 けれどそれはただの思い込みで。

 燐はもう居なくて、自分が触っているのは何か別の物質。

 

 あの悪意を持ったモノかもしれない。

 だって、自分を水中に引きずり込んだ透明な影は今だに見つかっていなかったのだから。

 

 瞼を閉じているから姿は見えないけど、燐は確かにいるはずだ。

 この手の温もりは燐以外にありえないから。

 

 蛍はそう信じて手を握る。

 

(でも、燐がもういちど居なくなっていたら?)

 

 疑っているわけじゃない、けど。

 何故だか確信が持てなかった。

 

 蛍は自身の黒い考えを否定するように首を大きく振る。

 

(大丈夫、燐はわたしの手をちゃんと掴んでいてくれる。二度と離さないって言ってくれたから、だから大丈夫なんだ……)

 

 自信の弱った心に言い聞かせるようにして蛍は同じ言葉を繰り返す。

 

 そうすれば気持ちが落ち着いてきてちゃんと願うことが出来る……はずだった。

 

 むしろ得体の知れない不安と焦燥感が胸中でどんどんと膨らんで、どす黒い波となって蛍の心を惑わしてくる。

 

 激しい感情のうねりは、蛍の願いを中断させて、秘めた感情を言葉にしていた。

 

「燐っ……!!」

 

 蛍は堪らずそのまま燐の胸の中に飛び込んだ。

 

 燐の声が今すぐ聞きたい、燐の優しい瞳にずっと見つめられていたい。

 その一途な思いだけを頭いっぱいにして。

 

「ほ、蛍ちゃん!?」

 

 全く予想していなかった燐は面食らったように蛍の名を呼んでいた。

 

「ごめん燐。わたしなんかダメだったみたい」

 

 蛍はそこで言葉を止めた。

 

 何で? という疑問が真っ先に浮かんでしまった燐だったが、言葉にはせず蛍をそっと抱きしめるとその頭を軽く撫でた。

 

「怖い夢でも見ちゃったとか?」

 

 少し茶化すように言葉を投げた。

 

 柔らかい燐の声が蛍の頭上から響いてくる。

 

 その声色だけで、さっきまでのささくれ立っていた心が静かに落ち着いてくるようだった。

 

「夢っていうか、もうあり得ないことを想像したら急に不安になっちゃって。何か集中出来なかった」

 

「それって、わたしの事?」

 

 それには蛍は何も答えなかった。

 

 言えなかったわけではなく、その事に対する自分の弱さが恥ずかしかっただけだった。

 

「そっか」

 

 燐は一言だけ呟くと、蛍の背中を強く抱きしめた。

 

「ごめんね。わたし蛍ちゃんの事、いっぱい傷つけちゃったんだね」

 

「ううん」

 

 蛍は胸に顔を埋めたまま小さく首を振る。

 

 燐はそれ以上はもう何も言わず、ただ蛍を抱きしめていた。

 

 意味のない自傷や薬で誤魔化してみても消えることのない傷跡。

 千のひっかき傷よりも深い傷は、燐も蛍も互いに大事なところに大きな穴を空けていた。

 

 誰のせいだとも思っていない。

 それはもちろんお互いに。

 

「わたしも同じだった。わたしだって、すごく弱いんだよ……燐」

 

「蛍ちゃん……」

 

 燐は自分の事を弱いと言っていたけれど、自分の方が本当に弱いと思った。

 

 それまで何とかなったのは強がりなんかじゃなく。

 

 ただ、無知だっただけ。

 

 本当に大事なものを知らなかっただけだった。

 

 今は大事なものに気付いてしまった。

 もう二度と失いたくはない大切な人の存在に。

 

 でも、もうそれも終わったと半ば諦めていたことが戻ってきてくれたとき、わたしは嬉しさよりも、疑いからもってしまった。

 

 別人と言うよりも、その物全てが夢なんじゃないかと。

 これは都合の良い、自分だけが見ている自分の為だけの夢なんだと。

 

「もう一回やってみない? もしこれでダメだったらそれはそれでってことで」

 

「……燐」

 

 蛍は顔を上げた。

 すぐ目の前には夢じゃない燐の顔があった。

 

「こうして抱き合ったままの方が上手くいくかもしれないよ。保証はないけどね」

 

「ねぇ、燐はわたしで本当に良いの?」

 

 蛍の瞳が細やかに揺れていた。

 

 凪いだように穏やかな水の中なのに、その瞳だけが揺れている。

 それは多分、自分も同じだろうと燐はおもった。

 

 よく似ているから。

 姿形じゃなく心の、もっとも大事な部分が。

 

「蛍ちゃんだから、だよ。わたしはそのままの蛍ちゃんが好きだから」

 

「わたしも、燐がすきだよ……それはずっと変わらない」

 

「だから、怖い?」

 

「うん」

 

 好きだからこそ怖かった。

 嫌われたくなんかなかったから。

 

 蛍は燐の両頬をそっと包み込んで、真正面に見つめた。

 

「わたし、燐が心から笑っているの好きだよ。ずっと笑っててほしいの」

 

「わたしだって蛍ちゃんの笑顔に癒されてるよ。これは本当に」

 

 蛍の視線を逸らすことなく受け止める。

 

 二人の視線の先は互いの姿だけ。

 それ以外は背景にすらなっていない。

 

 空も水も、裸であることすら目には入っていなかった。

 

「じゃあさ……わたし達、両思いのままなのかな? 燐は、その……心変わりとかしてない?」

 

「するはずないよ。蛍ちゃんより綺麗で透明な子なんてそうそういるわけないよ」

 

「わたしもだよ。燐よりも素敵な人なんて学校にも町にもいなかったから」

 

 胸の鼓動を感じる。

 あの中学校の夜の時のように、二人の鼓動が重なりつつあった。

 

 どくんどくん、と。

 

 何かを期待しているように脈を打って。

 

(このままだと変な事になりそう、かも)

 

 燐はにこりと笑うと、軽く頭を振った。

 

 燐の視線が外れてたことに、蛍は少し残念そうな顔をする。

 

「今度はさ、もう少し肩の力を抜いてやってみようよ、リラックスする感じで、ね。もう戻れなくてもいいかなってちょっと投げやり感じが案外いいのかも?」

 

「くすっ、それっていつもの燐じゃない」

 

「ま、まあそうとも言うかも、ってわたしいつもそんないい加減じゃないしっ! それはむしろ蛍ちゃんの方でしょー。蛍ちゃんは本気だせば何でもできるのにぃ」

 

「わたしはいつも全力だよ。この前のマラソンだってあれが今のわたしの精一杯なんだから」

 

「えー、あれがなのぉ。蛍ちゃんはもう少し出来る子だって思ってるんだけど」

 

 蛍は週末、山歩きをするようになったが、それでも体育の成績は相変わらずのままだった。

 

 使う筋肉の違いなのかなぁ、と燐は割と不本意な蛍の体育の結果を気にしていたのだが、当の蛍はそこまで気にしていないようで。

 

 ”わたし山を歩くとき大体何か甘いもの食べてるから、そのせいかも”。

 

 と、何とも暢気な答えが返ってくるだけだった。

 

「燐の言う通り、明日は筋肉痛決定だね」

 

「じゃあマッサージしてあげるね。全身くまなく」

 

 ひひひ、と口元を歪ませながらわざとらしく両指をわきわきと蠢かせる燐。

 

 蛍は呆れたように溜息をついた。

 

「もう、燐ってばそればっかりだよね。女の子の体を触るのが好きなの?」

 

「そ、そんなことないってぇ。わたしは蛍ちゃんだからマッサージしてあげたいの」

 

「誰にでも言ってそうだよね燐は」

 

「んもう、心外だなあ。今のわたしは蛍ちゃん一択なんだからね」

 

「即答できるところがますます怪しいかも」

 

 可愛い顔に似合わず蛍はジトっとした目を燐に向ける。

 儚い印象の蛍との瞳のギャップに燐は少したじろいでしまった。

 

「うー、とにかく信じてよー。わたしは蛍ちゃんが好きだし。もうどこにも行ったりしないからぁ!」

 

 急に大声を出した燐に蛍は目を丸くするも、その言葉ににこっと微笑んだ。

 

「うふふ、ごめんごめん。燐のこと信用してないわけじゃないよ」

 

「本当?」

 

「うん。でも、裸でマッサージされるのは流石に嫌だけどね……変なお店、みたいだし」

 

 悪戯っぽく笑う蛍に燐はきょとんした表情を見せたが、やがてその意味がようやく分かったように苦笑いをした。

 

 蛍はさっきまで不安が嘘の様に笑っていた、ずっと。

 つられて燐も微笑む。

 

 青い、青い世界。

 

 笑い合う少女たちの頭上で光の輪が揺れ動きながら、平らな水面(みなも)に浮かんでいた。

 

 熱の無い、金色の陽光をまき散らしながら。

 

 

 ……

 ………

 …………

 

「……こうして抱き合ってればその内、戻れるのかな?」

 

「どーなんだろうね」

 

 蛍と燐は結局抱き合ったまま、その時が来るのを待っていた。

 

 気泡を纏わせながら、青い水槽の中で揺蕩っている。

 

 どこまでも、どこまでも続いていきそうな水槽だったが、これ以上はもう進むだけの意味はなかった。

 

「ねぇ、燐。何か『お話』して欲しいな」

 

「いいけど。蛍ちゃん、どんなお話がいいの」

 

 繋いだ手を絡めながら訊ねる。

 

 燐と蛍が裸で抱き合うのはこれが初めてというわけはない。

 二人がマンションのベッドに入るとき、裸であることはわりかし多かった。

 

 別に夜な夜な変な事をしているというわけではなく、ただ互いに寂しかったんだと思う。

 寂しかったから、お互いの肌を密着させて温もりが欲しかった。

 

 寒いからとか、そういった温度は関係なく。

 

 何かを埋めたかったんだと思う。

 

 本当はもっと効果的で刺激的な方法があるんだろうけど。

 

 それはまだちょっと怖かったから。

 二人はただ、抱き合って眠るだけ。

 

 不器用と笑われてもこれしか出来ないし、やりたいとはまだ思わなかった。

 

 それは今だってそうだった。

 水のベッドに横たわる様にして裸で抱き合っている。

 

 お互いの息遣いが聞こえるような距離で言葉を交わしていた。

 

 他に誰もいない青一色の中で。

 

「なんでもいいよ。燐の声を聴いていればそれだけで安心できるから」

 

 燐はふむ、と小さく考え込むと少しだけ笑った。

 それに合わせて少し大きめの泡が水面を目指して浮かび上がっていく。

 

 何度も見た光景だけど、とても慣れそうになかった。

 慣れればいいというものでもないとは思うけれど。

 

 偶然にも燐も同じことを考えていた。

 

(わたしだって蛍ちゃんの”お話”が聞いてみたかったんだけど……まあ、いいか)

 

「えーとね……」

 

 燐は口を開いたはいいが、話す内容を考えていなかったので頭を捻る。

 それを見て蛍はまたクスクスと笑い出した。

 

「だって、お話って言っても急に何か出てくるわけがないよぉ。何も手元にないんだし……あ、そうだ! 蛍ちゃんこんなこと知ってる?」

 

「え、どんなこと?」

 

 燐は言い訳の途中で急に頭を切り替えたように質問を投げかける。

 

 ちょっとだけびっくりした蛍。

 けれど、燐の話に合わせることは何ら苦ではなかった。

 

「わたしもね、あれからまた色々調べてみたんだよ。小平口町に伝わってる民謡の事とか郷土とか」

 

 それを聞いて蛍はあぁ、と微笑んで同意する。

 

「燐には前にも話したと思うけど、わたしもまた中学校の図書室に行ったんだ。ほとんどの資料に目を通したけど、やっぱり役立つことは何も書いてなかったよね」

 

 二人があの夜、忍び込んだ中学校は全てが嘘の様に平穏だった。

 

 図書室での資料も蛍が確認した限りでは、変化したような記述も消えたような形跡もない。

 もっとも、オオモト様の事は町の中でも秘伝中の秘伝だったのだから当然なのだけれど。

 

「でもさ、もし何かオオモト様に関して重要な事が書いてあったとしても誰も分からないだろうね。だってあの時の記憶が残ってるのってわたし達だけ、なんだもんね」

 

「うん。そうだよね」

 

 それとなく吉村さんや見知った人たちに尋ねてみたのだが、誰一人あの時のことを覚えている人はいなかった。

 

 更にそれだけではなく、あの夜に大雨が降った記録でさえも予報や天気図に残っていなかった。

 

 もしも燐が戻ってこなかったら、蛍は全て夢の話と疑っていた可能性は十分にあった。

 

 それはもちろん燐も同じで、母親や学校の友達に自分がいなくなっていた時の話をしても、まともに取り合ってもらえないどころか、漫画や空想等の”捉えどころのない話”としてでしか扱ってもらえなかった。

 

 まあ確かに不可思議な事象ではあったし、どちらかというとオカルト色の強い話を信じてもらえるとは到底おもってはいなかったけど。

 

「だからね。わたしはちょっと別の事について調べてみたの。そしたら結構面白いことが分かっちゃってさ」

 

「別の事?」

 

「あのね、河川について調べてみたの。この辺の川って昔はよく氾濫してたって蛍ちゃん言ってたから」

 

「うん、確かにそう言ったね、最近はそうでもないけど。それにその為の防災サイレンなんだし。でも、燐。それが何かのヒントになったの?」

 

「ほら、線路と並行して流れてるこの辺で一番大きな川って”龍”の名前が付けられてるでしょ。それって何か意味があるんじゃないかって思って、そっち方面で当たってみたんだよね。そしたらさ……」

 

「うん」

 

「蛍ちゃんの言う様に小平口町の辺りは昔、水害が頻繁に起きて酷かったんだって。それを何とか鎮めようと当時の人達も色々な方法を試してみたんだけど、結局上手くいかなくて頭を悩ませてたんだって」

 

「それを鎮めたのが、オオモト様ってこと?」

 

 幸運を呼ぶ力が一番発揮されそうなのはそういった天災だろうと思った蛍はそう答えた。

 

 燐は小さく笑うと首を振って話を続けた。

 

「ううん、どうもね、”龍神様”がやったみたいなの。その龍神様が川の氾濫や洪水を力で封じ込めていたんだって。でもそれが何度も頻繁に起こるものだから、龍神様は自らの体ごと川を封印をしてその源を鎮めちゃったんだって。だから川に龍の名前が付いたんだって」

 

「へぇー、わたしも昔の話を色々聞かされてたけどそんな話、初めて知ったよ」

 

 燐の話はやけに具体的で、どこからそんな話をもってきたのかは分からない。

 

 蛍ですら知らない事だったから、ちょっとだけきな臭い感じもしたが、あの土地の異変や座敷童の事を知ってしまった以上、この手の話を何でも信じてしまいそうになる。

 

 それに座敷童は一応実在しているのだから、龍神の様なものが仮にいたとしてもさほどおかしいとは思えなかった。

 

 何より燐が熱心に話してくれるのだから、蛍が耳をそばだてない理由は全くなかった。

 

「まあね。わたしも聞いた時はにわかには信じられなかったんだけどね」

 

「それはそうだよね、龍神なんてそんなそれこそオカルトな事なんてそうそう起こるものでも……あ、そういえばあの話と何か関係あるのかな」

 

 蛍はふと、記憶の引き出しからあることを思いだした。

 三間坂家に伝えられていた、もう一つの”神様”のことを。

 

「あの話って? 蛍ちゃんも何か知ってたの?」

 

「そういうわけでもないんだけど……」

 

 蛍は軽く息を吐くと、伝えられたもう一つの話の事を燐に語った。

 

「燐の話を聞いてね、本当に小さかった頃に一度だけ聞いた話を思い出したの。やっぱり馬鹿馬鹿しいと思ってまともに聞いてなかったんだけどね」

 

 蛍は一旦言葉を切ると、幼い頃を回帰するように頭を巡らせる。

 

 話の内容は不思議と思い出せたが、誰からの事付けなのかだけはどうしても思い出せなかった。

 

「小平口町を含めたあの辺りの地域にはかつて二人の神様がいたんだって。でも、大昔の戦か何かでその神様を祀っていた柱の一つを消失させてしまったみたいなの。それからは一つの柱、つまり座敷童様が一人で町を支えるようになったんだって……そう、言ってた」

 

「じゃあその失われた柱が龍神様ってこと?」

 

「分からないけど……もしかしたら」

 

 誰が伝えたものか分からない話だったけど、燐の話と照らし合わせてみると不思議と辻褄があう気もしてくる。

 

(座敷童と、龍神か……)

 

 蛍は言葉に出来ないモヤモヤしたものが自分の中に溜まっていることに気付く。

 

 おとぎ話のような事柄が自分の周りどころか自分自身にまで降りかかってくるなんて。

 今更ながら数奇な生まれなんだなあと、少し他人事のように思った。

 

(それにしたって龍の神様なんているのかな)

 

 もしもそれがれっきとした神様であり、きちんとした形で人々に祀られていたのなら、町の均衡は保たれたままで、あの歪みの様な出来事は起こらなかった、とか?

 

 今更そんな事を結果を望んだところで意味なんかないんだけど。

 

(でも、だったら……その龍神様はどこに行ってしまったんだろう)

 

 失った柱が行きつく先とは?

 

 蛍が考えを巡らそうと、葡萄酒の様な深青い世界をぐるりを見まわした時、真っ先に目に付いたものは美しくしなやかな燐の裸体だった。

 

 その燐も何やら考え込んでいた。

 同じように二つの意見をすり合わせているのだろうと思う。

 

 無防備な身体のまま、むむむと小さなうなり声を上げていた。

 

「二つの柱かぁ……蛍ちゃんはそういった霊験あらたかな場所(パワースポット)とか行ったことある? その、あの町の中で」

 

 燐も何とも煮え切らないような顔で蛍に尋ねた。

 

「ううん。柱どころか社の様なものも見たことがないよ。それに考えてみたら小平口町って、お寺とか神社って一軒もないんだよね」

 

「それって、オオモト様が居たせいかも……?」

 

 何気なく燐がつぶやいたことだったのだが、蛍には何とも答えようがなく、少し寂し気に瞳を伏せた。

 

「あ、ごめんね。そう言うつもりで言ったわけじゃなくて……」

 

「大丈夫。燐が言いたいことよく、分かるから」

 

 蛍はそう言うと少し頭を引っ込めて表情を見えないようにした。

 

 燐は蛍に見えないようそっと小さな息を吐くと。

 想いを伝える様に蛍の小さな背中を強く掻き抱いた。

 

 一瞬だけピクッと身体を強張らせた蛍だったが、やがて燐の胸の中に寄り添うように抱きつくと、音のない流れの中に身をまかせていた。

 

 二人の周りを穏やかな時間が流れていった。

 

 今までも、そしてこれからもきっと二人きりだと思ったから。

 

「ねぇ、燐。ここのお水ってもしかしたら龍神様が清めた水なのかな。だから息が出来たり濡れたりもしない。そう言う事を燐は言いたかったんでしょ?」

 

 蹲るようにして何やら考えていた蛍が小さく口を開く。

 その考えは燐を少しだけ驚かせるものだったが。

 

「あ、うーん。そこまで飛躍した考えじゃないけど。でも……蛍ちゃんの言う様にそう捉えてみるのもちょっと面白いかもね。この水溜まりもちょっと神聖で厳かな感じに思えるし」

 

 燐は蛍の意見に同意するように笑みを返した。 

 

「なんとなく、(いにしえ)のロマンを感じちゃうよね」

 

 儀式とか妖怪とか神様とか。

 そう言ったものがわたしたちの日常にどれほどの影響を与えるものなのか。

 

 根拠を正してみたところで、これといった何かが起こるはずもなく。

 

 ただ大きな流れの赴くがままの方に流れていくだけ。

 

 きっとここだって、わたしたちが居なくなれば全て無に還ってしまうのだろう。

 

 夢と現の境目に全て落ちて消えて、そしてまた生まれて。

 

 それを見守ることすらも出来ない。

 

 時の流れは急すぎて、わたしたちではその流れに逆らうことなんで出来るはずもないから。

 

「ねえ、燐。わたしたちって何なんだろうね……」

 

「分からないよ。でも、今こうして二人でいることはきっといいことだと思うんだ」

 

「うん」

 

 二人はそれだけ言葉を交わすと、後は静かに瞼を閉じた。

 言いたいことはそれこそ山ほどにあるはずなのに、それを胸の内にしまい込んで。

 

 裸で抱き合ったまま闇へと沈む。

 

 戻っても戻れなくてもきっと同じ、だから。

 

(燐さえ一緒なら、どこだって……)

 

 意識を失う寸前に蛍が考えたことはそんな些細な想い心だった。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 

 ざあっと、波の様な音がした。

 

 これまで凪いだ海のように穏やかだった水面に白波が飛沫を上げていた。

 

 ぽぅんと柔らかい音と共に水中から何かが浮かび上がってくる。

 そこには手ごろな大きさの手毬がぷかぷかと浮いていた。

 

 色とりどりの絹糸で描かれた幾何学模様は、まるで今出来たばかりの様に白日の下で光り輝いていた。

 

 それらは幾つも水中からぽかっと浮かび上がってきて、あたり一面の水は毬が敷き詰めてられていた。

 

 それは水面に咲く蕾をつけたばかりの蓮の花の様に色鮮やかで、無機質なのにどこか生命力に溢れているように見えた。

 

「本当に、綺麗ね」

 

 いつからそこにいたのか、その光景に小さく笑みを見せる少女が、水と陸の境に一人で立っていた。

 

 小さく切り揃えた黒髪を少し手でかき上げると、その少女は浮かび上がった幾つもの毬目掛けて、とてとてと水の中へと歩み寄ろうとする。

 

 可愛らしい模様の着物が濡れる事など気にする様子もなく、じゃぶじゃぶと細い脚で水をかき分けながら進むと、浮かんでいる毬をそっと手に取って小さな手の中に大事そうに収めた。

 

 安心しきったように手の中の毬を愛で続ける少女。

 

 その横顔は年相応の少女の様相であったが、少し見方を変えると大人びた女性の様にも見えなくもない。

 

 それはくるくると色を変える手毬のように。

 

 少女は毬を手にしたまま見つめていた。

 青と白の境界(コントラスト)、変わることのない失われた景色を遠くに眺めていた。

 

 黒い瞳の奥に僅かな揺らぎが見える。

 何か大事なものを欲するかのような一途さを持って。

 

 

「あの子たちは」

 

 そこで少女は言葉を区切った。

 

 ────

 ───

 ──

 

 






先日、仙台まで旅行に行ってきましたよー。宮城県は流石に遠かった……ズラぁ。

思っていたよりも都会でビックリでしたー。で、予約しておいた秋保温泉で宿泊──なんですが、話題の温泉むすめの等身大パネルを案内所で偶然お見掛けしましてねぇ。その時はちょうど物議を醸す直前だったので普通にそのまま置いてあったのですが……やはりと言いますか、特に誰も気にも留めてなかったですね。
もちろん私も横目でちらっと見たぐらいでプロフィールを調べるなんてことは考えすら及ばなかったですよー。

それよりも、温泉街でおはぎを売っている有名な店の方に人が一杯いて、完全に密でした……。おはぎって言うからてっきり和菓子店かと思ったんですがまさか地元のスーパーに売っているとは。そこまで広くない店舗のお総菜コーナーだけに人がぎっしりと……。

朝にも寄ってみたのですが更に人だかりが増えていて、店の外にまで行列が出来てましたねぇ……まあ確かに美味しいおはぎだったわけなんですけどね。
私は変わり種? の納豆おはぎをいただきました。納豆のおもちとはちょっと違った感じでぺろっと美味しくいただけました。

帰りは何を思ったのか福島にある、塔のへつりにまで行ったり──もう新潟が近いじゃん──でも良かったです。

またもやコラボシューズ……ですか。
またadidasとサウスパークがコラボするとは──。
今度はTowelieじゃなくて、主役のStanとのコラボシューズかぁ。しかもStanとStansmithの語呂合わせで作るモデルみたいですね。スクリーンショットだとまたブルーがメインでそしてレッドのラインのシューズになりそうかな? フルはまだ分からないですけどちょっと期待ですね。

日本ではまた手に入りにくそうですけど……抽選に当選と買えないんでしょうか──でしょうねぇ……まあ、やってはみますけどもー。

ではではーー。



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Billedbog uden Billeder

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 また……こんな事をしてる。

 前にもこんな苦しい思いして歩いてた……よね。

 いつだっけ……?

 あぁ、そうだ去年だ。
 去年は本当に色々な事があったなぁ。

 特に夏はそれこそ渦を巻いた歪みの奔流が怒涛の様に流れて行ったから。

 逆に記憶からすっぱり抜け落ちていたこともあった。

 もう、そんなに経ったのかと月日の流れに感慨深くなってしまう。

 それまで運動というか、自主的に動き回る事にはもともとご縁がない、そう思い込んでいたから。

 疲れるのは普通に嫌だし、それに運動神経抜群な友達ならともかく、自分なんかがやったって意味なんてない、そう思っていた。

 そんなわたしが、山道を長距離歩いたり、ローファーのまま走ったりだなんて。
 面倒ごとから逃げていたわたしがそんなことをするとは思ってもないことだった。

 そうせざるを得ない状況は確かにあった。
 
 何の前触れもなく日常は変化して、町も人も変わってしまったのだから。

 逃げるしかない、そう思った。
 事物だけでなく、全ての、何もかもから。

 今は……どうなんだろう?

 それまで漠然として分からなかった事が今では分かる様になったから面倒ごとは増えたけど、それが楽しくもあった。

 前とはちょっと違う日常が穏やかに流れていた。

 幸福なんだろうか、これが。
 その順調さが怖くもあって。

 時折確かめたくなってしまう、本当に幸せかどうかを。

 だからこれはその一環なのかもしれない。
 幸せな人ほど非日常、少し危険と思う事に挑戦したくなるらしいから。

(でも辛いものは辛いよね……?)

 嫌な事、苦しい事は極力避けるようにしてきたつもりなんだけど。

「へぇ、へぇ、へぇ」

 明らかに変な声を上げて苦しんでいた。

 苦しくて辛い、そして暑いしで、幸福とはとても呼べない状況だった。

(最初はそこまででもなかったんだけど……)

 現地に着いた時、看板もない鬱蒼とした登山道口を少し疑いの目で見ていた。

 ──こんな所本当に登れるものなの? と。

 前人未踏と言ってもいいぐらいの名前のない、誰も寄り付かないほどの山だったし、それ故に何の危険があるかも分からなかったから。

 だから今日は朝からテンションは下がっていた。

 情報だけは知っていたけど本当にこんな所を登るだなんて。

(遭難だけはしないようにしよう……)

 まだお日様が登り切っていなかったせいもあり、歩き出しは暗く重いものだった。

 でも、少し進むと思っていたよりも歩きやすく、またその未開さが意外なほど新鮮で楽しかった。

 辛うじて人が通れる程度の山道しかないので確かに不安もあったけど、専用の道みたいな特別感があったし、人の手が加わっていない木々や森にはどんな昆虫や動物がいるのか、そういった物との出会いへの期待もあったから。

 よく見る山とは少し違う、自然の織り成す風景にワクワクしていたはずだったのに。

 これぐらいなら直ぐに登っちゃいそうだと、ちょっと残念がる顔を見せていたはずだったのに。

 あの時の余裕は一体どこにいってしまったのか。

 カモシカの様に軽かだった足取りは、きつい斜面と岩場のせいでまた重い足取りに戻っていた。

 一度鈍くなった足取りはそれが本来の姿だと言っているかのように、軽くなるようなことは無く、むしろ歩くたびにその重さを増してきているように感じられた。

 思う様に動いてくれない事に叱咤しても、わたしの性格と同じで意固地な足は結局最後まで言うことを聞いてくれなかった。

(やっぱり……止めればよかった)

 今日、何度目かのため息をつく。

 自分で行くことを決めたことのはずなのに、それでもため息をつくのは往生際が悪いということなんだろう。

 ただ足を前に出しているだけなのに、目の前でちかちかと星が浮かんでいる。
 まだ昼前だと言うのに。

 道に立ちふさがるように転がっていた大きな岩を何とか無理矢理に乗り越えると、傍にあった大きな木の下で立ち止まった。

 ここに来てもう何度目かの休憩。

 少し勾配のきつい坂道を越えたり、ある程度の障害物を越えただけでこのありさまだった。

 ミネラルウォーターを吸いつくように飲んでいると、弱気な気持ちがすぐに湧きあがって頭の中をぐるぐると駆けまわっていた。

 流石にもう帰りたくなった。
 そう思うのも本当に何度目なのか。

 けど実際に下山するようなことはなく(踵を返しそうになったことはあるけど)、答えはないまま、なんとか踏みとどまっていた。

 もうちょっと、あとちょっとのはずだからと呪文のように繰り言を唱えながら、心と体を宥めすかして。

「はあぁ……」

 溜息さえも億劫でつらいものになっていた。

 限界が近くなってきている。
 いくら誤魔化しても蓄積された疲労は隠しようがなかった。

 思っていたよりも頼りにならないトレッキングのポールを挟み込むように持って頭を俯かせていると、ほんの少しだけ楽になれた気がした。

 何の気休めにもならない事だけど。
 ただ突っ立っているよりは少しはマシになった。

 それにしても……。

(どうしてわたしは、わざわざ山になんか来たんだっけ……)

 思い出せないと言うよりも。

 何も考えたくなかった。
 疲れたから。

 ────
 ────
 ────

「──これぐらいなら、何とかなりそう、かな。わたしでも登れそうな山道で良かった」

 数時間前の自分は何かを読み違えていた。
 楽な山道なんて都合の良いものなんかあるはずないのに。

(浅はかだったなぁ、本当に)

 今なら、うんと叱ってあげたいぐらい。

 山を歩くときはなるべくペースを守った方がいいと言われてはいるが、それは口で言うよりも難しいことだった。

 明らかにペースが遅れているので、気持ちだけが前にいってしまい身体が全然付いていかなかった。

 気ばかり焦ったって山頂はおろか、背中を追うことすらも出来てないのに。

(あの時もそうだったよね。気持ちだけで進んでいたから……)

 自分で自分を追い込んで、もう戻らないと約束して家を飛びだしていたあの日。

 一縷の望みを掛けて夜の山道を駆けずりまわった挙句、結局何も成しえないまま家まで戻ってきてしまっていた。

 それが友達に会うどころか、自分自身すらも無くしてしまうことになるなんて。
 おおよそ想像もできない。

 まさか自分もそうなるとは思ってなかった。

 本当に意味のないことだった。
 
 だって幸運は、すぐ近くにあったのだったから。

「はあっ……」

 少し、頭が重くなっている気もする。

 気圧の変化が影響しているせいか、それとも頑張り過ぎ?
 まだ、山頂に辿り着いてさえもないのに?

 そこまで高い山じゃないから大丈夫って言っていたのにどうして。
 辛さからかつい心に暗雲が立ち込めていた。

 こんな日に限って空は雲一つない完璧なブルーなのに。

「きゃっ!!!」

 ぼんやりとしていたせいか、支えているポールとのバランスを崩して頭から倒れ込みそうになった。

 舗装もされていない雑木林と岩だらけの山道でもし転んだりでもしたらどうなるのだろう……とても想像がつかない。

 ほっと胸を撫で下ろしたその時、良く通る声がどこからから聞こえてきた。

「蛍ちゃーん、大丈夫~!! 上がってこれそう~!?」

 先行して進んでいた筈の燐の声だった。

「あ、うん! なんとか頑張ってみるー!」

 心配そうな燐の声。
 でもそれを聞いて蛍は少し安心した。

 けれど、目を凝らしても燐の姿を見つけることが出来ない。
 蛍は何となくで燐の声がしたと思われる上の方に返事を返した。

 けれど、無理に声を張り上げたせいか、思わず咳き込んでしまい、慌てて水を取り出して口に含む。

 水筒の水はまだ冷たさを保ってはいた。
 そのせいでつい余計に飲んでしまったけど。

(燐は……わたしのいる場所が見えているの? わたしは燐の事なんて全然見えないのに……?)

 上下に視線を動かしてみても燐の姿どころか、その影さえも見えない。
 
 ここよりもかなり上のところまで登っていることは分かるが、それにしても全然見えないなんて。

 蛍は少しだけ不安な気持ちになった。

「りーん!!」

 蛍は潤した喉で叫ぶ。

 声だけだとどうしても不安になってしまう。
 あの時のことを思い出してしまうから。

「何かあったのー?!」

 良かった、燐の声が返ってくる。

「そーゆーわけじゃないけどー!!」

 こっちまで戻って来て欲しいなんて言えなかった。
 一目姿が見たいなんてそんなこと。

 燐の足手まといになりたくないから、一人で最後まで歩くって決めたのに。

(それになんか未練がましいよね。これじゃまるで恋……)

「ん? 恋がどうかしたの蛍ちゃん?」

「ひゃっ!?」

 ずっと遠くにいると思っていた燐の顔が急に目の前にあった。
 驚いた蛍は思わずポールから手を離してしまった。

 ポールにはストラップがついており。本来ならそこに腕を通して使用するのが基本なのに、蛍は何故か外して使用していた。

 疲れのせいなのかは分からないが、そのせいで大変な事になってしまった。

 二人はあっ、と声を合わせて叫ぶ。

 だがもう遅く、蛍の手から解き放たれたトレッキングポールの片方が林の下へと転がって行ってしまった。

 反射的にそれを拾おうとした事は更なるミスを呼んでいた。
 
 その時、蛍は自分の状態を顧みなかった。

 そのおかげで見事にバランスを崩してしまい、蛍は頭から地面へと倒れ込む。

 目の前に広がるのは白く尖った岩肌。
 それが蛍が意識を失う前に見た最後の光景……のはずだった。

「むぎゅぅ」

 本当に頭が割れるほどの衝撃を覚悟していた蛍だったが、予想とは違った柔らかさに呆気に取られる。

(あれ、何で? でも確か、むぎゅって) 

 思わず目をつぶってしまった蛍。
 恐る恐る瞼を開くと、その理由が分かった。

 燐が倒れていたからだった。

 正確に言うと、バランスを失った蛍が燐に倒れ掛かったおかげで蛍は無傷で済むことが出来ていた。

「だ、大丈夫、燐!?」

 自分の身体の心配よりも先に燐に声を掛ける蛍。
 もし燐に怪我なんてさせてしまったらと、気が気じゃなかったから。

「あ、う、うん。一応……大丈夫みたい。カエルにもなってみたいだし」

「え、かえる?」

 蛍は首を傾げる。
 倒れるのと蛙に何の関係があるのだろう。

 燐は少し目を回してはいるが、意識はちゃんとしているようだった。
 蛍は燐にずっと抱き着いていたことに気付いてぱっと身を起こした。

 どこも痛くないのは燐が庇ってくれたからだと思う。
 でも燐はその事に気づいていないようだった。

「頭とか打ってない? 痛いところとかは?」

「え、えっとぉ……」

 蛍に言われて軽く頭を触ってみるがコブの様なものも、鋭い痛みもない。
 血、みたいな赤いものもついてないみたいだ。

 燐は手のひらを食い入るように何度も見つめると、やがて安堵の息をついた。

「立てる?」

 心配そうに見つめてた蛍だったが、とりあえず燐が無事みたいなので、手を差し出して起こしてあげた。

「ありがと、蛍ちゃん」

 燐は小さく笑みを見せてお礼を言った。
 綺麗な栗色の髪が転んだせいで少し汚れているようだった。

「ごめんね。燐に酷い事しちゃったよね」

「大げさだよ~。わたしはほら、この通りだから大丈夫だよっ。蛍ちゃんは大丈夫だった?」

 頭を下げる蛍に燐は軽く微笑んだ。

「うん。燐のおかげで汚れてもいないよ」

「そっか、それなら良かった、って……わたしは結構泥だらけになっちゃったみたいだね……」

 服についた泥を落としながら、燐はどこかに傷がついていないかを確認する。

 結構前から使っているアウトドアウェアは見た目もそうだが、その機能性にも燐の選んだ理由があった。

 外で使う以上汚れはついてしまうのは仕方がないけど、かなりラフに扱っても簡単に破れたりしないタフさが一番のお気に入りだった。

 燐がウェアをもう何年も買い替えていないのは今着ているものが気に入っているからであって、それから成長していないと言うわけではないはず……多分。

「いやぁ、ごめんごめん。ちょっと驚かそうとしただけだったのにわたしが驚かされちゃったね。でも、蛍ちゃんに怪我がなくて本当に良かったよ~」

「う、うん。ありがと、って言うかごめんね。わたし、あのままスイカとか苺みたいになっちゃうって思ったから」

「???」

 燐も首を傾げる。
 蛍の例えが抽象的すぎて上手くは伝わらなかったようだった。

「えっと……と、とにかくふたりとも怪我なくて良かったよねってこと。けど……燐は本当に大丈夫なの? わたし、結構勢いよく倒れちゃったから……ストックをしっかり持ってさえすれば良かっただけなのにね」

 危うく大変な事になりそうだったので蛍は自責の念に駆られた。

 燐がわざわざ自分の所にまで来てくれたことは嬉しかったけど、そのせいで怪我をさせてしまったのならば話は別になってしまう。

 自分がちゃんとした使いかたでストラップを腕にはめて置けばと酷く後悔した。

「気にしないでも大丈夫だよ蛍ちゃん。わたしこうみえて頑丈だしね。それに蛍ちゃんってほら、柔らかったから。だから全然痛くなかったよ」

「それって……わたしの胸がってこと?」

 密かなコンプレックスとなっている平均よりも大きめの自分のバストを蛍は思わず見下ろしていた。

 同性からでもじろじろと見られることがあるので大きくて良いことなんてなく、むしろ恥ずかしいと思うことの方が多かったから。

「胸だけじゃなくて、蛍ちゃんは全体的にふわっとして柔らかいんだよ。あ、性格もそうだね」

「もぅ、燐ってば……」

 からかわれたんだろうなと思ってはいるが、それでも蛍は少し嬉しかった。
 それは決して自分の事ではなく、もっと大事なこと。

(燐は元気そうだし、この分だと本当に怪我してないみたいだね。良かった)

 蛍は小さく微笑みながら胸中では胸を撫で下ろしていた。

「そういえばさ、燐は一度山頂に着いてからわたしのところまで戻ってきてくれたんでしょ? そこで待っててくれても良かったのに」

 燐がいつも使っているバックパックは今日は担いでいなかった。

 代わりに別のもの、それは燐の身体よりも一回り大きいサイズのバックパックを背負っていたのだ。

 何でそんなに大きな荷物なんだろうと蛍は首を傾げていたが、燐は意味深に微笑むだけで中身を教えてはくれなかった。

 中身はともかく、あんなに大きなものを今は持っていないと言うことは、上まで行って戻ってきたんだろうと蛍は推測していた。

「うーん、まぁね。でもねこんなこと言うのもなんだけど、一人でぼーっと待ってるのって結構退屈なんだよね。他に誰も登ってくる人もいないしさ」

「それに、ほら、わたしにはブランクがあるから。だからこれはちょうどいい運動なんだよね。あっ! 決して蛍ちゃんが心配になって見に来たわけじゃないからねっ」

「う、うん」

 最後の方は燐は何故か腕を組んでいた。

 蛍は困った顔で頷く。
 要するに燐は一人で寂しかったんだと、そう思った。

 でも、マンガみたいな台詞も燐が言うと何故か普通の自然な言葉に聞こえてくるのが不思議だった。

 確かに燐はあの時から比べると全然山に行かなくなったが、それでも運動部に所属しているのだから、蛍よりは断然体力はあったのだけど。

「だからさ」

 そう言って燐がそっと手を差し出してくる。
 蛍は少し首を傾げたが、何となく察してその手を取って軽く握った。

「あ……ちょっとごめん。ここで待ってて、すぐに戻ってくるから」

「えっ」

 言うが早いか、燐は自分から差し出した手をそっと離すと、突然林の中に降りてしまった。
 呆気に取られた蛍の手のひらには燐の小さな温もりがまだ残っていた。

「燐、何か、あったの!?」

 一瞬の出来事に焦燥感に駆られた蛍は、燐が降りて行った雑木林に駆け寄ると、下を覗き込んで呼びかけた。

 燐の姿は意外なほど直ぐに見つけることが出来た。
 それほど下まで降りたわけではなかったらしいが、燐は何かを拾い上げるとそれを手に笑顔でこちらに声を掛けた。

「蛍ちゃん。ほらっ、あったよっ!」

 燐はついさっき何処かへ行ってしまったとばかりの蛍のトレッキングポールを持ちながら、手を振っていた。

 燐は素早くこちらへ戻ってくると、今度は燐の方から蛍の手を取った。

「荷物、持ってあげようと思ってたんだけど……まあ、これでもいいよね。二人一緒で登ろうってことで」

 燐の提案に蛍は頷く。

「うん。こっちのほうが良いよ。荷物まで持ってもらったら流石に悪いし。それに燐と一緒の方が実力が出るみたいだから」

 これ以上されたら足手まといどころか完全に”お荷物”だったから。
 それでも蛍には十分すぎるほどの助けだったが。

「くすっ、それなら試験とかも二人で手を繋いで受けてみようか? あ、でもどっちかは左手で書くことになっちゃうからダメだったね」

 燐が心配するところはそこではない気もするが。

「だったら、抱き合えばいいんだよ。わたしが燐のテストに答えを書くから、燐がわたしの答案用紙に書けばいいんじゃないかな」

 燐の突飛な妄想に蛍はつっこみを入れるどころか更におかしな提案をしてきていた。

「それって完全にカンニングっぽくならない? それに、クラスのみんなに何言われるか分かったもんじゃないし」

「でも、まあ、それは今更じゃない? わたし達、仲がいいってみんなに良く言われてるし……」

「そうだけどぉ、それはなんか違う気がするよ」

「そうかなぁ?」

 何でこんな話になったのか、燐と蛍は不思議そうに顔を見合わせて首を傾げていた。

「とにかくっ! このまま一緒に頂上まで行こう。この先ちょっと険しい所もあるし、まあ、そこはわたしがフォローするから」

 燐は本来の目的に立ち返るよう話をもとに戻した。

(険しいところか……)

 蛍は口元に拳を寄せて少し考え込んだ。

 燐でさえ険しいと言う場所なら蛍には尚の事険しいだろうと。
 燐の助けを借りたって結局は自分で登るしかないのだから。

(登れるのかな、こんなわたしでも)

 蛍の心に一抹の不安がよぎる。
 ここまで来るのだって正直いっぱいいっぱいだったのに、これ以上もっときつくなるなんて。

 想像しただけで気が遠くなりそうだった。

「蛍ちゃん大丈夫? 顔色がちょっと良くない、かも?」

「だ、大丈夫だよ。ちょっと暑いなって思っただけ」

 燐に顔色を訊ねられ、蛍は慌てて手をぱたぱたと振った。

「確かにねー、それでも大分暑さは和らいだみたいだけど、まだまだ夏って感じだよね」

「う、うん……」

 山の中とは言え暑い事には変わりない。
 首に巻いたタオルのおかげで日焼けは避けられてはいるが。

(ここに来て逃げるなんてことなんてしたくない……そんなことしたら燐に嫌われちゃうよ)
 
 蛍は無理矢理心を奮い立たせると、覚悟を決めたように燐の顔を真っ直ぐ見た。

「わたし、頑張ってみるよ。最後まで自分の力で登ってみせるからね」

 ガッツポーズの代わりに燐の手を強く握る。
 燐とこうして一緒ならどんなことでも出来そうな気になってしまう。

 山だって何とか越えられるかもしれない。
 そうであって欲しかった。

「そんなに肩肘張らなくても大丈夫だよ。わたし蛍ちゃんなら登れるって信じてるから」

「燐、ありがとう。期待に沿えるよう頑張るね」

「もう、蛍ちゃんは」

 燐はどうやっても頑張る気でいる蛍に苦笑いした。

 それはまるで昔の自分を見ているような気になったからだった。

 聡の後ろにくっついて、はじめてトレッキングをしたときの幼い頃の自分の時みたいに。

(あの時はお兄ちゃんについてきちゃダメだって言われてたなぁ……それでもわたしは無謀にも着いて行っちゃったんだよね……)

 何も知らなかったから出来たことだった。

 幸い大事には至らなかったが、その事で二人とも怒られてしまった。

 けれど、おかげで憧れだった従兄と仲良くなることが出来たんだけど。

(あの時は本当に楽しかったなぁ)

 山もお兄ちゃんも、興味あることは何でも。
 分からない事を知る事が楽しくて仕方がなかった。

 でも、今は違う。

 むしろ知る事で傷つくのが、怖かった。

 ……
 ……

「ねぇ、燐。山頂まではあとどれぐらい? もうちょっとだとわたしは思ってるんだけど……」

 燐が急に考え始めてしまったので、蛍はそっと声を掛ける。
 なるべく無理のない自然な会話を言葉の糸で紡ぎ出すように。

「あっ、ご、ごめん。えっと、山頂までだったよね」

 蛍の声で意識を戻した燐は、慌てたように蛍に謝罪した。

「うん。でも大丈夫だよ燐。わたしもようやく息が落ち着いてきたぐらいだから」

 燐のおかげで少し気が紛れたのか、蛍は自分でも驚くほど落ち着くことができていた。
 呼吸も心構えも何もかもが普段以上に落ち着いている。

 ついさっきまで帰りたいと嘆いていた弱気な心は、トレッキングポールよりもどこか遠くへと吹き飛んでしまったようだった。

「えっと、確かに山頂まであとちょっとだよ。40分ぐらい歩けばつけると思う」

「え、まだ後40分も歩くの?」

 蛍は信じられないとばかりに目を見開いた。

 ここまで来るのだってかなりペースを使ってしまっている。

 燐が山頂で退屈だったのは、蛍が遅いと言う意味であると蛍は解釈していた。

 だから燐の言う40分とは蛍にとっての一時間半。
 もしくはそれ以上だった。

 しかも険しい道らしい……。

 元気になった蛍だったが、また心が委縮しそうになっていた。

「でもあとちょっとなのは間違いないよ。大丈夫、いざとなったらおぶってでも山頂に連れて行ってあげるからね」

 燐は片手でガッツポーズを作る。

「そこまではしなくてもいいよ。なるべく自分の足で登る様にするから」

「そう? でも辛くなったらいつでも言ってね」

「うん。その時はね」

 蛍は困った顔で微笑んだ。

 燐ならばきっと本当におぶってくれるだろうと思っていたから。
 でもそれだけは絶対にさせてはいけないと強く思ってもいた。

 ……
 ……
 ……

「ふぅー、今日もやっぱり暑いよねぇ~。誰も見ていないし、上着脱いじゃおうかなぁ」

 昨今は夏が妙に長く感じる。
 終わりが近づくほど暑さがぶり返してくるようで、冬服にするタイミングがなかなかつかめなかった。

 燐はベージュの半袖のウェアの下に、燐にとっての定番のベースレイヤーを重ね着していた。

 その為上着を脱いでもすぐに下着にはならないが、黒色のベースレイヤーは生地が薄くみえることもあって、殆ど下着と変わりはなかった。

「でも、どこで誰か見てるか……分からないよ……」

 辛そうに息を吐きながらも、なんとか燐との会話を続けていた蛍。
 休憩をとったおかげで足は大分楽にはなったが、それも長くはもたなかった。

 岩をよじ登らないといけないような場所は、本格的な登山に不慣れな蛍の体力を確実に奪っていったのだ。

「蛍ちゃん、ゆっくりでいいんだよ。焦って登ると余計に危ないんだから」

 柔らかい燐の声はどんなせせらぎよりも涼やかで、心地よかった。

 大きな石の上にうつ伏せとなって、目いっぱい腕を伸ばして燐は蛍の手を引っ張り上げていた。

 その背中にはいつしか蛍のバックパックが背負われていた。

 結局燐が担ぐことになってしまって蛍はとても申し訳なく思ったが、このままリタイアするよりはマシだという燐の提案を呑んで断腸の思いで頼んだことだった。

「う、うん……」

 岩をよじ登ってまで山に登るなんてこと、それこそフィクションか有名な登山家しかやらないと思っていた。

 それを自分もやることになるなんて。

 非現実的と言ってもいいぐらいだった。

(熱いし、つらいなぁ……トレッキングってこんなに辛いものだったっけ? もっと気楽に自然を愛でながら……とかそういうのじゃなかったの?)

 蛍の頭の中は後悔と愚痴でいっぱいになっていた。

 やっぱり無茶だったのかもしれない。
 燐の真似をして恰好だけ揃えても、いきなり体力がついてどんな山にも登れるなんてことはありえないのに。

「はあぁぁーっ」

 蛍はわめくように叫ぶと燐の居る岩の上へと転がるように這い上った。
 そこはとても狭く、そして不安定だった。

 立ち上がる事すら怖い場所に燐が待っていた。

「蛍ちゃん、お疲れ様っ。よく頑張ったね」

 燐に褒められたことで蛍はようやく苦しみから解放されたと思った。

 けれどこの先にも似たような場所がまだあるらしいが、その事は蛍の耳にはまだ届いていなかった。

 蛍はその場で膝をつき、力尽きたみたいに首を垂れていたからだった。

 頂上まで後、数メートルのところまで来ているのだが、後40分ほど掛かると言うのはつまりそう言うことだった。

「ふう……」

 少し落ち着いた蛍は一度大きく深呼吸すると、火照った体を冷やすべく、自然の声にしばし耳を傾けていた。

 夏はまだ終わる兆しを見せてはいない。
 小鳥も蝉も元気に泣きわめいていた。

 ここからでも怖いぐらいに絶景で、吹き上がる風がとても気持ち良い。

 燐の言う所だと、山頂はここよりもっーと景色が良いらしく、”楽しみにしててね”とのことだった。

 蛍にしてみればそこまでの道のりこそが楽しくはないのだが……。

 こんなときに限って沸き立つような雲の姿はなく、じりっとくる夏の日差しが目に痛いほどだった。

 額にこぼれる汗を手で拭う。
 帽子の下は嫌になるほど濡れているだろう。

 一度取ったほうが良い気もするが、それさえも億劫だった。

「なんか、ここで満足しそう……」

 蛍はぼそっと呟く。

 燐はそれを聞いて困ったように微笑んだ。
 まだ一つ難所を抜けただけと言わんばかりだった。

 ──改めて山に来ていると思った。

 今、登っている山の事は正直良く分かっていない、けれどここに来る目的はあったのだ。

 最近の地図にさえ詳細は載っていなかったが、蛍と燐が町の人から聞いた話だと昔はそれなりにこの山に登る人がいたらしい。

 修業とかそういうのではなく、単なる趣味なのではとの事だった。
 おかげでこの山の登山道は一応出来てはいるのだが。

(これが登山道なの? 山って言うより崖を登っているみたい……)

 蛍にはそうとしか思えなかった。

 以前に比べたらずっと外に出る機会も増えて山歩きを嗜むようになった蛍だったが、ここまできつい思いをしたことがなかったから。

 行くのはもっぱら低山か、丘ぐらいなもので、それにわりと整備された場所を選んで行っていたのだから。

 この山は整備なんて何もされていない。
 風車へ続く道だってここまで鬱蒼としていなかった。

 もし燐がいなければここまでだって辿り着けないだろう。
 むしろ遭難していた可能性は十分にあった。

 蛍の実家からそんなに離れていないところの山なのに、だ。

「ひぃ……はぁ……」

 空気の漏れた音を口から吐き出しながら、蛍と燐は再び崖の様な山道を登っていた。

 そこまでの標高ではない筈なのに無性に酸素の薄さを感じとってしまう。

 燐に手を引かれながら何とか登ってはいるものの、それでも頂上までは一向に辿り着きそうにない。

 見上げれば手の届くような場所までもう来ているはずのに。

 道を阻むように岩や傾斜が邪魔をしていた。
 そして燦々と陽を降り注ぐ太陽も。

 その位置から見て、ちょうどお昼時だとは思う。

 けれどそんなことよりも、はるかに高い場所から焦がすばかりの強い光を照らし続けている事が無性に腹立たしかった。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 呼吸を整えようと懸命に努力する。
 息を吐く頻度を抑えられなくて、胸が苦しくなる。

 ()()()()の水溜まりで揺蕩っていた時には起こらなかったのに。

 肺に送るだけの酸素の供給が足りていないようだった。
 それはすごく耳障りなのに、自分で止めることが出来ないのがとてももどかしい。

 何でこんなに辛いんだろう。
 幾度となく自問自答しているけど、答えは最初から分かっていた。

「後ちょっとだからっ」

 燐が心配そうにこちらを振り向きながら何度目かの声を掛ける。

 その燐も大分息を荒くしていた。

 けれど蛍を気遣う気持ちに変わりはなく。
 重い荷物を引っ張る様に懸命になって蛍を何とか頂上へと連れて行こうとしていた。

(燐……)

 燐は何でそんなに一生懸命なの?
 そう尋ねようとしたのだったが、口が上手く動かない。

 視線だってさっきからずっと俯きっぱなしで、顔を上げるどころか足元しか見ていない。

 早く、早くとそれだけを頭の中に浮かべて足を動かしていた。

 これは多分逃避なんだと思う。

 本当に辛い事。
 現実からの……逃避。

 どこまで逃げても追ってくるあの顔のない怪物のように、いくら頭を巡らせてもこの苦しさが緩和されることはなかった。

 僅かな希望でさえ残ってはおらず、頑張って登りきるか、苦しさに負けて下山するかの分かりやすい二択だけ。

 燐がこんなに頑張ってくれているのだから下山の選択肢は既になかった。

 例え足が砕けても山頂まで行く。

 その、つもりだ。

 本当に大事と一緒に山頂まで。

 でも、現実はいつだって無情で無慈悲で。

(遠いなぁ……山頂……本当に遠い……)

 何度も休憩を繰り返して遂にここまでやってきたが、蛍は既に限界だった。

 限界を超えるなんて簡単に言うけれど、自分にはその素質はないみたい。
 ここまで来たことで蛍はやっとそれが分かった。

(わたしって、本気になったことってないんだね……何に対しても)

 だからどこかで諦めてしまう。
 それが勉強であったり人間関係だったりと。

 燐は折り合いをつけられないと言っていたが、自分は折り合いをつけるのが早すぎるのだと思う。

 面倒になる前に諦めてしまっていた。

 燐と出会ったことで少しは変わったかなと思ったけど。
 こう言った精神的に追い詰められたときに本音が本性が出てしまう。

 図書室であの何かに追い詰められたときも。

(自分の事だけしか……考えてなかった……)

 すぐ傍にもっとも頼りになる人がいたというのに。

 燐はいつだってわたしの事を気にしてくれていたのに。
 
 わたしは肝心な時に自分の事しか考えていない。

 それは今だって。

(もう、足がまともに上がらないよ……)

 燐が引っ張ってくれてるのに、肝心の自分の足が動かないなんて。

 目に見えて遅くなっているのは分かっている。
 でも、それでもちょっとづつしか動かせなかった。

 弱い身体を持っていることが情けなくて、また涙が溢れ出てきそうになる。

 つい少し前にも辛くて、その場でしゃがみこんで泣いてしまったが、燐が懸命に慰めてくれたおかげでまた歩き出すことが出来た。

(でも、また辛いよ燐。燐はどうして山なんかに登るの?)

 こんな辛い思いまでして。

 二人は山に何しに来たのか。
 それは、ちょっとした好奇心。

 家の整理をするために燐と一緒に物置部屋をひっくり返している時に偶然見つけたものだった。

 あの時、物置部屋から一体の人形が見つかった。

 確かに衝撃的なものだったが、見つかったのはそれだけじゃなかった。

 そのせいでわざわざここまで来ていた。
 それだけの価値がある、そう二人とも思ったからだった。

 けれどそれはまだ、”本当に良いものどうかは”分かってはいなかった。


 ──
 ──


「蛍ちゃん、これってやっぱり()()だよねぇ!? わたし、こんなの初めてみたよー」

 

 やっぱりと言うか、燐は一目見るなり子供の様に興奮して目を輝かせていた。

 蛍は自分で用意した冷たい緑茶を一口飲むと、木製のテーブルの上にことりと乗せた。

 

 二階から見える空と景色は、彩る間際の繊細さでまだ終わることのない夏の情景をガラス窓に描いていた。

 

「うん、わたしもだよ。今まで全然知らなかったんだけど、この家の物置って結構変わったものが眠ってたみたい」

 

 だからこそ新しい郷土資料館として抜擢されたのだとは思うけど。

 それにしても、ガラクタばかりだと思っていた物置部屋からこんなものまで見つかるとは。

 

「へぇー、蛍ちゃんちって何でも置いてあるねぇ。やっぱり大きなお屋敷はこう……格式が違うみたいだね」

 

「格式は関係ないとは思うけどね」

 

 感嘆としたため息をつく燐を見て、蛍は困り顔で苦笑いを浮かべた。

 

 燐がまあ、そんな感じになるだろうとは思っていた。

 あまりにも予想通りすぎたので、蛍がそれほど驚くことはなかったけど。

 

(それにしたって食いつきすぎだよね。誰がどう見たって眉唾ものだし)

 

 蛍が妙に冷静なのは家が裕福だからとか、こういう類のものは見飽きているとかと言うわけではなく。

 

 今になって急に色々見つかるのは余りにも都合が良すぎる。

 なんて言うか少し胡散臭い感じがしたからだった。

 

 町の異変の後だからだろうか。

 

 全ての事はただの偶然からのものだったとしても、何かしらの条件もしくは概念を求めたくなってしまう。

 

 懐疑的すぎるとは思っているけど、勝手に期待したあげく裏切られたというのは何かが違うと思っていたから。

 

「でも燐。なんか、こう怪しいとは思わない? 裏がある、みたいな感じとか」

 

「うら?」

 

 思ってもみなかった言葉に燐は目を丸くした。

 

「うん。その、どう思っているの? 見た目通りのものだと思ってる?」

 

「う、う~ん。わたしには何ともなぁ。だってこれってそういう事、なんでしょ。だからそうとしか思えないっていうかぁ……あ、でも、蛍ちゃんの言いたいことも何となく分かるよ」

 

 蛍が真剣な口調で聞いてくるので、燐はさっきまでの興奮がすっかり冷めてきってしまった。

 

 言われて燐は逡巡する。

 

 確かに今時こういうものが家から出てきたなんて話はどこからも聞いたことがない。

 聞いたととがあったとしても興味は湧くけど多分、それほど信用はしていないと思う。

 

 それこそフィクションとかそう言った()()なんかでは割と良く出てくる小道具的なものだから。

 

 冷静に考えてみると蛍の言う様に怪しい感じもしてくる。

 

 けれど蛍の家、”三間坂家”だからこそ信用できるという考えもある。

 三間坂家は旧家だし、そういった物があってもおかしくはない。

 

 それに。

 

()()()()だってあったもんね)

 

「そんなに古い感じがしないんだよねこれって。あの時の人形と同じぐらいのものだと思うの」

 

 燐の考えを見透かしたように蛍はテーブルの上に人形と”それ”を並べていた。

 

 ものは全然違うが、何となく同じような時代のものに思えてくる。

 

 匂いと言うかそういうのが似ている気がした。

 

「実はね。これって人形と同じ所で見つかったの。正確に言うと人形の箱の中に隠してあったみたいなんだ」

 

 蛍は意を決したように告白する。

 燐は一瞬、蛍が何を言っているか分からず、ただ口をぽかんと開けていた。

 

「これって……この地図が?」

 

 そう、箱から見つかったのはたった一枚の古い地図。

 

 そこには()()()()が記してあった。

 だからこそ悩んでしまうのだったが。

 

 ──どうせ質の悪い悪戯か何かに決まっている。

 

 興味本位で見つめる燐とは対照的に、蛍はそう思い込んだままだった。

 

 ──

 ───

 ────

 

 半袖とスカート姿が違和感なくなった頃、物置部屋から見つかったものがあった。

 

 それは箱に収められた一体の日本人形。

 

 愛らしい顔立ちは、幼い頃の少女──幼いオオモト様にとても良く似ていた。

 顔立ちだけでなく、着物や手毬などの小物に至るまでの全てが。

 

 それらは手作りであり、人形と同じぐらいに精巧な技術でもって作られていた。

 まるで少女が人形に乗り移ったかのように。

 

 けれどそういった呪いとか恨みの様な嫌な感じは、人形の色相からは見えてこない。

 

 むしろ作りての純粋な想いが込められている、というか少なくとも人形を見て悪い感情を起こす人はいないだろうと思う。

 

 単なる人形遊びの為に作ったものなのか、それとも何か別の意図があるのか。

 

 何にしても、オオモト様──座敷童様に好意を持った人が作ったものだと思っている。

 

 ただ──この人形をオオモト様が見つけたかはよくわからない。

 

 今だって手付かずだった物置部屋から発見したものだったし、中は綺麗なままだったけど箱を包んでいた布切れはカビと埃でボロボロになっていたのだから。

 

 そして多分、オオモト様は見てもいないだろうし、知らないだろうと思う。

 

 それは人形だけでなく、()()()()も偶然見つかったからだった。

 二階の物置部屋という場所だけでなく、この人形に近い所。

 

 もっとも近いところで見つかったのだから。

 

 ……

 ……

 ……

 

 ”濡れないプール”の世界から帰ってきて、”普通に濡れる学校のプール”から帰ってきたときのハナシ。

 

 二人の通う学校は、二度目の長い休みに入っていた。

 

 蛍は実家に置いてきたあの人形の事が妙に気がかりとなって、その日はマンションには戻らずに、長い時間揺られてまで小平口町まで戻ってきていた。

 

 相変わらず家は手付かずのままで、郷土資料館となって明け渡す約束までは良かったのだが、いくらやっても片付かないので、一部の部屋以外は足の踏み場もないぐらいに散らかったままだった。

 

 まるで荒らされたあの時の様に、雑然としている一階を見ないようすり抜け、蛍はさっさと二階へと上がった。

 

 オオモト様によく似た人形は元あった物置部屋ではなく、今は蛍の部屋に置いてあった。

 

 もう誰も蛍すらたまにしか訪れない自室は、勉強机こそまだ置いてはあるが、教科書を含めた学校関係の書類や道具は全てマンションへと移してある。

 

 クローゼットにしまっていたお気に入りの服やタンスの中身の下着類もなくなっていて、今やほとんどが空っぽだった。

 

 それなりに大事にしていたクマのぬいぐるみは、ベッドの上を住処にしてこちらを見守ってくれていた。

 

 もっともこちらもマンションの大きなベッドの上へとお引越しさせているのだが。

 

 殆どもぬけの殻となった蛍の部屋で、その人形だけが小さな存在を誇示するようにテーブルの上にぽつりと置いてあった。

 

 一人ぼっちで可哀そうだとは思うが、まだ二人で住むマンションには何となく持っていきずらかった。

 

「好きだったのかな、オオモト様の事が……」

 

 人形を似せて作った理由(わけ)を蛍はそのように考えていた。

 

 少女漫画のような甘い考えを頭の中で抱きながら、人形をもう一度見てみようと、蛍は桐で出来た木製の蓋を開いた。

 

(……あれ?)

 

 蛍は何かの違和感を感じとった。

 

 けれどその理由が分からず、蛍は小首を傾げる。

 

 何が変なんだろう?

 

 疑問に思ったが、やはり理由は分からなかった。

 蛍は箱から人形を取りだして、テーブルの上に立たせる。

 

 置かれた人形をしげしげ眺めても人形が蛍に語り掛けるようなこともなく、ただ時間だけがこつこつと流れていった。

 

「……」

 

 製造した日付がないのでいつ作られたものかは不明のままだが、それにしても状態は良い。

 でも、それ以外の感想が出てこない。

 

 トンボ玉の様な黒いガラスの瞳と目を合わせてみても、これといって何も映してはくれなかった。

 

「髪の毛が伸びたりは……流石にしないよね」

 

 人形に語り掛けるような仕草で、蛍は囁く。

 

 さらりとした人形の黒髪は生きているかのように艶やかだったが、伸びるようなことも当然なく、ずっと変わらぬあどけない表情のまま、白い顔の人形は黙りこくっていた。

 

「オオモト様はどうしてわたしの前に出てきてくれないのかな……わたしが嫌いになっちゃったから?」

 

 蛍は頬杖をつきながら、物言わぬ人形の頬を指でちょんとついた。

 

 燐は引っ越したばかりの頃の家で見たと言っていたオオモト様を、蛍は今だに見たことがない。

 

 それはこの人形の様に幼い姿であったようだけど。

 

(わたしだってまだ座敷童だと思ってる。けどもう力なんて殆ど残ってない……)

 

 だから別の座敷童なんだろうか。

 

 蛍が力を無くしたから、代わりに出てきてくれたと考えることも出来る。

 

 けれどそうなると……。

 

「わたしはどうなっちゃうのかな。()()()が次の座敷童になるの? それとも燐、なの……?」

 

 人形が的確な答えを持っていることは無く、無言のまま蛍を見つめ返していた。

 

 どれぐらい時間が経ったのだろうか。

 

 しばらくの間人形を見ていたが、何か分かりやすい変化が起きるようなことはなく。

 いつの間にか日も傾きだしたのか、人形の横顔に橙の斜線が頬紅のように射し込んでいた。

 

 遠くの方で振り子の音がかちかちと鳴っていた。

 

 結局、違和感の正体を最後まで掴めず、諦めた蛍は人形を元に戻そうと床に置いた木箱に手を伸ばした時のことだった。

 

(まさかとは思うけど)

 

 蛍は半信半疑で木箱を両手に取るとまざまざと見つめる。

 僅かな傷や箱の四隅までも隈なく全部。

 

(あるはずないよね)

 

 蛍はまた深いため息をつこうとした……が。

 木箱の底に僅かな隙間を発見することができた。

 

 素手ではあまりも隙間が狭すぎるし手を痛めかねないと思った蛍は、一階に降りて工具箱を持ち出すと、その中の道具で何とか開けようと試みた。

 

 こういう時の蛍は普段のおっとりとした姿と違ってとても大胆でそして決断も早かった。

 

 木箱は人形と同じく状態が良く少し勿体ない気もしたが、蛍はその隙間に向けてあてがった鑿をハンマーで振り下ろす。

 

 かつん、かつん。

 

 木箱の下にタオルを轢いて黙々と木を剥がす作業していた。

 それでも音は部屋の中で大きく響いた。

 

 そんな事を一度もやったことはない蛍だったが、意外にも器用なところをみせていた。

 箱の底面の隙間の板だけを上手に剥がしとることが出来たからだった。

 

 けれどそれは蛍がと言う理由だけではなく、最初から”そうなるように”作られていたから。

 

 そのおかげだった。

 

 板は簡単にべりべりと剥がれ落ちた。

 

 その中には、小さく折りたたまれた一枚の白い紙。

 それだけだった。

 

 蛍はその折り畳まれた紙を丁寧に開いてみる。

 それを見て蛍ははっとなった。

 

 そこにはある文字が記されていたから。

 正確には文字ではなく……図形。

 

 これは──地図。

 

 何かを示す為に書かれた地図だった。

 恐らくは昔のこの辺り、小平口町の地図であろうと思う。

 

 図の中心には家のような絵が書いてあり、その家を中心としてその周りを取り囲む山や川の絵が書いてあった。

 

 川を上った先の、一際大きな山に、赤い字で”×の字”がつけてあった。

 

 何を意味しているのかは……現段階では分からない。

 

 楽観的な解釈をするならば、昔の人が残した遺産のようなものが地図で示されているところにある。

 

 もしくは、”あった”可能性がある。

 

 けれど、もしかするとあまり良いものではない、隠しておきたいもの、触れられたくないもの。

 

 そういった類のものがある可能性だって十分あった。

 

 特にこの家(三間坂家)は昔から町の幸運の為とはいえ、座敷童に対して目に余る、決して許されざる行為をしていたわけだから。

 

 そういった家の、町の秘密みたいなものがそこにある事も考えられる。

 

 でもその大半は極一部の人。

 二人の少女と一人の青年にはもう分かってしまったことだけど。

 

 何にしても、蛍にとって喜ばしいものがあるとは到底思えなかった。

 

(とにかく、この地図を検証してみる必要はありそう)

 

 オオモト様──座敷童によく似た人形の箱にの裏に巧妙に隠されていたわけだし。

 

 ここに何か”特別な”ものがある。

 蛍じゃなくてもそう思うのが普通だった。

 

 けれど流石に蛍一人で調べるのはとても骨が折れそう事なので、最も信頼できる燐に連絡をしてみたのだったが……。

 

 ……

 ……

 ……

 

「わたし、蛍ちゃんちにはこういう宝の地図みたいなのがある、ってちょっとだけ思ってた事があるんだよね。でも、まさか本当にあるとはねぇー」

 

 興奮冷めやらぬといった感じで燐はしきりに感心している。

 

 冷静になったと思ったのだが、明らかに浮足立っている燐の様子に、蛍ははぁと深いため息をこぼした。

 

 わざわざ地図まで作っておくぐらいだから、何か重大なものがあると思うのは不思議ではないけど。

 

(そこまでして隠しておきたいものって、一体何なの?)

 

 恐らく自分の家に関することだろうとは思っている。

 他に何かしていなければ恐らく……。

 

 蛍の脳裏には、男たちに乱暴されていたあの時の座敷童の姿が浮かび上がった。

 男たちに凌辱されていた幼いオオモト様の声にならない叫び声と共に。

 

 恐らく期待しているような財宝の線は薄いと思っている。

 

 それに今更、遺産や財宝だなんて。

 

 それこそ何の意味もない事なのに。

 

(わたしのご先祖って座敷童を、幸運を町に留めておくためだけにこんな大きな家や財産を所有していたんだろうな……)

 

 今にしてみれば全く持って愚かしいことだった。

 

 けれどそうなると、地図の場所には三間坂家の財産が眠っている可能性の方が高くなってしまう。

 

 変に辻褄が合ってしまうことが、蛍には憂鬱でしかなかった。

 

「……でさ、蛍ちゃんいつ行く?」

 

「え!? 燐、今行くって言ったの……?」

 

 蛍は耳を疑った。

 

 けれど燐は当然と言った感じでうんうんと何度も頷いている。

 

「もちろんだよ。善は急げって言うし、ね!」

 

 燐の好奇心をくすぐる要素は多分にあった。

 

 見知らぬ山、宝の地図、そして冒険。

 

 だからこそ慎重なのだろうと蛍は思っていたのだが……。

 

 今の燐の勢いだと今すぐにでも行きかねない。

 焦燥感に駆られた蛍は慌てて燐に声を掛けた。

 

「ま、待って、燐! ここの山がまだどこなのかよく分からないし、もし山の上だったりしたら、いろいろと準備しないと」

 

「ほえっ?」

 

 珍しく興奮したように喋る蛍に、燐はきょとんとなった。

 

(あっ……)

 

 すっかり乗り気だったのに水を差してしまったかもしれない。

 蛍は少し後悔した。

 

「ご、ごめんね。燐が直ぐにでも行きたいのは分かるけど、せめて週末までは待ってみようよ。どうせ誰もこの地図の事なんて知るはずもないし」

 

 蛍だって自分の家の物置にずっと前からあったものなのに今更知ったのだから。

 他の人が知っているはずなどなかった。

 

(もし吉村さんが先に見つけていたらきっとわたしに言うだろうし……大川さんだって見たことがないはず)

 

 吉村さんはともかく、大川さんは仮に知っていたとしても忘れているとは思う。

 

 それに、物置部屋の散らかりようから見て、几帳面な大川が立ち入った形跡はなさそうだった。

 

「だ、だからね。そんなにまでして、焦る必要なんてないんじゃないかなって……」

 

 しどろもどろになりながらも蛍は懸命に説得する。

 

 燐が行きたいのなら、蛍が止める理由はない。

 今だってそう思っている。

 

 けど、焦るものでもないと思っていたから。

 どうせ、期待するようなものはないんだろうし。

 

「あ、うん。もちろん分かってるよ。わたしにだって」

 

「えっ!? そうなの燐?」

 

 蛍は目を丸くして尋ねる。

 

「そりゃあそうだよ。だってこの地図だけだと、まだ全然分からないことだらけだし。それにさ……」

 

 燐は一旦言葉を区切ると蛍に向かって苦笑いを浮かべた。

 

「山に入るのって結構覚悟がいるんだよ。この辺りの山って登山するような山じゃないみたいだしね。ぶっつけ本番で行ったらきっと大怪我するだろうしね」

 

 燐はにっこりと微笑んでいた。

 

「で、でも善は急げってさっき──」

 

「あぁ、あれは──”今から山に向けての計画を立てよう”って意味で行ったんだよ。蛍ちゃんでも分からない事みたいだから、まずは情報収集から始めないとってことで」

 

「そ、それはそうだよね。どの山かもはっきりしていないし。それに勝手に山に入ったら怒られちゃうもんね」

 

 蛍は心中でほっと胸を撫で下ろす。

 考えてみたら、燐はこういったことには慣れていたのだった。

 

 アウトドアだって最近始めたばかりの蛍とは違い、燐はそれこそ小さい頃から山へ行ったりしていたのだから。

 

「無免許運転とかもしたし、不法侵入も今更なんだけどね。でも、きちんと調べてみてからでも遅くはないと思うよ。まぁ……そんなに良いものが出てくるとは本気で思ってはないけど」

 

「わたしも、そう思ってる」

 

 必要な情報だけしか記していない至ってシンプルな地図は、それゆえの重要さを伺わせるものだから。

 

(それに、少し嫌な感じもするんだよね。幽霊とかじゃないけど)

 

 燐の直感がそう告げていた。

 その事を蛍に伝えるつもりはまだ無く、顔にも出さなかった。

 

「蛍ちゃんは……」

 

「燐が行くならわたしは行くよ」

 

「……だよねぇ」

 

 即答する蛍に、燐は困った顔で苦笑する。

 

「危ないと思っているんでしょ。でもね、これはわたしの家の中で見つかったんだから、わたしが行かないとダメな気がするんだ。三間坂だからとか、そういうのじゃないんだけど」

 

 蛍の姓、”三間坂”。

 それを名乗るのがこんなにも嫌になるなんて。

 

 前からどこか他人事のように考えていた家の事が、ここまで根深い問題になるとは思ってもみなかった。

 

 オオモト様はやんわりと否定していたけど、やっぱり元凶は三間坂家。

 自分の先祖がしたことが今になっても影響を及ぼしている。

 

 幸運を求めすぎて町がめちゃくちゃになっても、それでもまだこの地に傷跡を残していた。

 

 これ以上、あの家は何をして、何を隠しているのか。

 それは行ってみないと分からないことだから。

 

 だから蛍が行くしかない。

 そう思っていた。

 

「それは、まあね……でも、誰が行ってもいい気はするけどね。その為の地図なわけなんだし」

 

「燐の言う通りだと思うよ。今更誰が行ったってどうなるもんでもないとは思う」

 

 蛍は一旦口を引き結ぶと、少し考えたのち口を開いた。

 真っ直ぐに、燐の目を見つめながら。

 

「えっとね……燐が行くならわたしは行くよ。だって……友達なんだし。それに今すぐじゃなければ大丈夫、だから」

 

 思いのこもった言葉に燐は蛍を見つめ返す。

 その表情からは強い意志、揺らぐことのない決意の色を感じ取れた。

 

 あの時の白い犬、みたいに。

 

 蛍は強くなったと思う。

 何も変わっていないと本人は言っているけど、良い意味で変わってきていると思ってる。

 

 蛍の事をよく見てる燐にだけはそれが分かっていた。

 

(蛍ちゃんの強さって、ちょっと怖い感じもするんだよね)

 

 何でだろう?

 最近の蛍からはずっと儚さを感じてしまう。

 

 感じた違和感はより近くまできている気がした。

 

 ”あの世界”、水溜まりの中から戻って来た時からずっと。

 

 蛍の儚さを秘めた微笑みにあの人の面影を感じとってしまう。

 だからか燐は、少しぎこちない笑顔で返した。

 

「ふぅ、蛍ちゃんは一度言ったらきかないもんね。んじゃあ、二人でいこっか」

 

「うん。わたしは最初からそのつもりだったよ」

 

「あはは、そっかぁ。じゃあ日時は……そうだなぁ。今月は結構忙しいみたいだから……一ヶ月後ぐらいを目処にする?」

 

「一ヶ月!? そんなに待つの?」

 

 素っ頓狂な声を上げて驚く蛍に燐は苦笑して続けた。

 

「なんだかよく分かってないしね。間違った山に行って無駄足になるのも嫌だし」

 

「それはそうだね」

 

「だからじっくり調べてからにしてみよう。もしかしたらこの地図の場所に関しての何か資料とかあるかもしれないしね」

 

 限りなく薄い可能性だとは思うが、何かの手掛かりが欲しかったのは事実だった。

 

「うん。わかった。家の中でも関係あるものがないか調べてみるよ」

 

 蛍の家には物置部屋だけじゃなく、各部屋ごとの荷物も置いてあった。

 それだけ荷物があるのだから、人形と地図以外にもまだ何かがあるのかもしれない。

 

 それに一度家をひっくり返さないと資料館として明け渡すことは出来ないだろう。

 

 何だかんだで家の片づけはやらないとダメなことだったから。

 

「あのさ、燐……せっかくだから手伝って欲しい事があるんだけど」

 

 蛍はおずおずと話しかける。

 

 とりあえず人形があった物置部屋からまた調べなければならないが、それは蛍一人では到底終わる量ではなかったから。

 

「わかってるよ蛍ちゃん。わたしも今日は何も予定ないし、ついでに物置部屋の整理もしちゃおうよ」

 

「あ、うん。ありがと燐」

 

 蛍と燐は顔を見合わせてにこりと微笑むと、直ぐに作業に取り掛かった。

 

 目的があると、片付けも捗るかと思っていたんだけど。

 

「改めて凄い量だよね。蛍ちゃんちの物置って。まるで骨董品屋さんみたい」

 

「それなら、燐のお家を間借りして店を始めてみるのもいいかもね」

 

 物置部屋の中はさまざまな物で溢れかえっていた。

 明らかに前より増えた荷物の山に、燐と蛍は呆れたため息をついた。

 

 増えた理由は単純で、他所の部屋の荷物もとりあえずここに置くようにしたからだった。

 

「引っ越した当初はさ、平屋だけど結構広々として快適だったんだよね、あれでも。でも今はそれほどでもなくてさー。やっぱり慣れなのかなぁ」

 

「そういうものなのかもね。わたしは今のマンションの広さで十分満足してるし」

 

 家の広さや構造が変わっても、住む人が同じなら結局は同じということなのだろうか。

 

 結局その日は、日が暮れたことを忘れるほど片付けに没頭していた。

 

 けれど目当てのものが見つかることは無く、地図と人形を結び付けるものは現れなかった。

 

 膨大な荷物の山に埋もれながら蛍が思った事。

 それは。

 

(三間坂家は昔から物が捨てられない性格だった……?)

 

 蛍も当然そうであったことから、変なところでまだ三間坂の家の人間であることを自覚してしまった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「んー、やっぱり山頂っていいね。天気は最高だし、涼しくて気持ちいいよね」

 

「ここが……山頂……わっ!」

 

 山頂に着くなり、被っていた帽子が風に煽られて、空にまで飛んで行こうとしていた。

 蛍は慌てて手で押さえる。

 

 こぼれた二つの髪がふわりと風に舞っていた。

 

 燐は少し瞼を閉じて、吹き上がる風を全身で受け止めていた。

 

 山を登り切ったことに蛍はまだ現実感がなく、立ちすくんだように燐の背中を呆然と見つめているだけだった。

 

 どこまでも飛んで行きそうなほど澄み渡った空の下で、燐の姿は自由で楽しそうだった。

 

「蛍ちゃんなら登れるって、わたし信じてたよ」

 

 燐は満面の笑みで蛍をそっと抱きよせた。

 それは蛍の頑張りと目標を達成した喜びを称えるものだった。

 

 蛍は一瞬だけ驚きの表情をみせたが、呼吸を整えるのに精一杯で言葉が上手く紡げなかった。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 

 荒々しい蛍の呼吸が、燐の耳朶に痛々しい程伝わってくる。

 

 千メートルにも満たない山であったが、道として殆ど整備されていないのは燐でもきつかったから、蛍には尚の事だった。

 

 どこかで休ませてあげたいのはやまやまだったのだが。

 

(この辺って岩場だらけだからなぁ。ベンチなんかあるはずもないし)

 

 むしろそんなものがあるならもっと山道は整備されているとは思う。

 

(でも、頑張ったよね蛍ちゃん。途中からはちょっと心配だったけど)

 

 最初は一緒に登山していた二人だったが、本格的な登山に慣れない蛍が徐々にペースを崩していき、やがて燐のペースに着いていけなくなっていった。

 

 燐だってそうなることが十分に予想出来ていたから、なるべく蛍とペースを合わせるようにしていたのだけれど。

 

 どうしたって差が出てしまう。

 

 ”ペースって早さじゃなくて心拍数なんだよ”と事前に教えてはいたのだが。

 

 結局、足手まといになっていると感じた蛍が気を使って、燐に先に行ってて欲しいと”お願い”されてしまった。

 

 燐としては山頂まで一緒に着いていきたかったが、下山の時刻の事もあるし、これ以上蛍に迷惑な思いをさせたくなかったから仕方なく先行して進むことにした。

 

 燐が先行して蛍が通りやすいように道を切り開いてきたんだけど。

 

(結局、蛍ちゃんがなかなか来なかったから心配になって見に来ちゃったんだよね)

 

 お節介すぎると蛍に思われそうでちょっと気後れしそうになったけど、今こうして二人で登れたからこれで良かったんだと思っている。

 

 二人だったからこそ意味のある行為だと思っていたから。

 

「一緒に来れて本当に良かったね、蛍ちゃん!」

 

 素直な言葉が口から出る。

 それは心からの告白と殆ど同義の意味だった。

 

「うん……ありがとう……燐」

 

 燐の肩に顔を埋めながら、蛍はお礼の言葉を言うことでようやく登り切った実感を得ることが出来た。

 

 燐は分かっているよと言わんばかりに蛍の頭をぎゅっと包み込む。

 

「すごく頑張ったよ。こんな山の上に一緒に来れるなんて以前じゃ考えられなかったことだよ、本当に」

 

 燐の声色は、山肌を縫うように流れてくる少し冷たい風よりもずっと優しく、癒される思いだった。

 

「何とか頑張れた、みたい……だね」

 

 急な寒気を覚えたように、蛍は唇を震わせて言葉を紡ぐ。

 燐は小さく微笑むと、丸くなった蛍の背中をぽんぽんと軽く叩いた。

 

「さ、こんなところで立ち尽くしてるとよけいに辛いよ。もういい時間だし休憩を兼ねてお昼にしようね」

 

「……うん」

 

 休憩したいのはやまやまだったが、座れそうなベンチもなければ寄りかかる手すりさえもない。

 

 あるのは石と砂利だけ。

 尖った岩の上では休むどころか余計に疲れそうだった。

 

「それでね、ここじゃ落ち着かないと思うから、少し行った先にちょうどいい場所を見つけたんだ。後ちょっと歩いた場所にあるんけど……蛍ちゃん、後少しだから何とか歩ける、よね?」

 

 まだ呼吸が落ち着かない蛍が何とか理解できたのは、後ちょっとだけと言う言葉と、燐が申し訳なく蛍に手を合わせている姿だけだった。

 

 蛍は声も出さずに、信じられないとばかりに首を傾げて燐の方を見た。

 燐は先ほどと同じ表情でもう一度頭を下げると、許しを請う様に蛍の両手を握った。

 

「本当に後ちょっとだから。ごめんね」

 

 申し訳なく謝る燐を見て蛍は何とか笑顔を作ると、観念したようにこくりと頭を下げた。

 

(燐がいろいろしてくれたんだから……わたしも頑張らないと)

 

 風は涼しくなったが、太陽にぐっと近づいたから暑さにはそこまでの変化はなかった。

 

 蛍は燐に手を引かれて山頂から更に続く山道を歩きだしていた。

 

 登りじゃないから気持ち楽だけど、足の重さは変わってないから。

 やっぱりゆっくりのままだった。

 

 もう一歩だって歩けないと思っていた自分の足が、燐に優しく手を引かれるだけで自然と前へと進んでいくことは蛍にとって衝撃的な出来事だった。

 

 もっとも疲労しているので、声どころか顔にさえ出なかったけど。

 

 蛍は俯きながらも自分の足がロボットのように動く様子をどこか他人事のように眺めていた。

 

 まるで囚人か、急に老人になったような気持ちで足をただ前に出している。

 

 けれどその事に不思議と嫌悪を抱くことはなかった。

 ぼーっとして頭が回らなかったことも関係しているとは思う。

 

 実際蛍は何も考えてなかった。

 

 薄ぼんやりとした意識の中だけで歩いている。

 白い霧の中を彷徨っているかのように。

 

「あとちょっとだから、頑張って蛍ちゃん。その場所はさっきの場所よりも広くて、景色だってすごく良いんだよ。空もずっと高く見えるし……あとそれから……」

 

 蛍はうんうんと頷いているが、話の内容は理解できていない。

 半ば条件反射で燐の言葉に相槌をうっていた。

 

 燐はまだ水に慣れない子供に教える様にぎゅっと繋ぎながら、その見晴らしの良い場所まで蛍をゆっくり連れて行く。

 

 ずっと足元を見ている蛍には分からないことだったが、その間、燐はずっと後ろ向きで歩いていた。

 

「ほらほら、あんよは上手、上手~。もうちょっとだよー」

 

 もし、蛍のこの姿が誰かに見られていたら、きっと逃げ出していただろう。

 けれど今の蛍ではその逃げる事すら出来なかった。

 

 首から下が自分じゃないみたいからだった。

 

 蛍はその面影さえ知らない母親を脳裏に思い浮かべながら足を前にと進ませた。

 叶わなかった母親との日々に回帰するかのように。

 

 燐は視線を蛍に向けたままだった。

 一度たりとも後ろを振り返らなかった。

 

 まるで背中に目が付いているかのように後ろ向きのまま、真っ直ぐ歩いている。

 それは目的地に着くまで変わらなかった。

 

(……燐、まだなの? わたし、もうすぐしんじゃいそうだよ……?)

 

 休めるのならもうなんでも良かった。

 

 ほんの数メートルがこんなに長く感じるなんて。

 普段いかに時間を無駄に消費しているのかが分かった気がした。

 

 分かっただけで何も解決してはいないけど。

 

 このままどこまでも歩かされるのかな……と蛍があきらめかけていた時。

 

「着いたよ、蛍ちゃん!!!」

 

 燐が叫んでいた。

 

 蛍はやっと頭を上げる。

 そこには。

 

「あ……」

 

 夢で見たようなパノラマが遠くまで広がっていた。

 

「どう? ここからの景色、とっても綺麗でしょ。ほらあそこできらきら光っているの、あれって多分海だよ。見晴らしすっごく良いよね。ここなら蛍ちゃんと一緒にランチをとるには最適だと思って石とかどかしておいたんだよ」

 

 登山ガイドみたいに燐はここからの景色がいかに素晴らしいかを説明してくれていた。

 蛍は……声が出なかった。

 

 けれどそれは疲労からだけではなく。

 

 声が出ないほど綺麗な景色だったから。

 その代わりかどうかは分からないが、蛍は少し目を滲ませていた。

 

「さぁさぁ、蛍ちゃんここに座って。ここは蛍ちゃんの為の特等席なんだからぁ」

 

「う、うん」

 

 蛍を見て燐は明らかに疲れ切っていると思い、気づかう様に身体を支えながら蛍の為の場所まで案内する。

 

「ほら、蛍ちゃんのプリンセスチェア、だよ」

 

 燐が座るよう促したのはお姫様が座るようなふかふかの椅子などではなく、座ることが出来そうな平らな石の自然の椅子だった。

 

 それでも上にアウトドア用のレジャーシートが引いており、一応の座席の体勢を保っている。

 

「うんしょ、と……どう、座れそう?」

 

 燐に付き添われる形で腰を下ろす。

 付き添いされているみたいで少し恥ずかしかった。

 

(あれ……思ってたより固くない。それに、ちょっとふわふわしてる?)

 

 ふらふらしながら岩の上に腰かけた蛍だったが、予想していた感触と違っていたので戸惑ってしまった。

 

 石の硬さや熱を殆ど感じさせなかったからだった。

 燐の引いたレジャーシートが一枚あるだけなのに。

 

「それ、座り心地良いでしょ。薄いけど結構しっかりしてるんだよ。ちょっと耐水性は落ちるけどその分軽いから持ち運びに便利なんだよね」

 

「そうなんだ……燐、ありがとう」

 

 手で感触を確かめながら、蛍は短い言葉でも燐にお礼を言えたことにほっとした。

 

 ずっと燐に頼りきりだったのにまともにお礼ができなくて心苦しかったから。

 

「はぁ──、ふぅ……」

 

 蛍は大きく深呼吸する。

 やっと胸のつかえがとれた気がした。

 

 空と山と風と、そして燐。

 蛍は胸いっぱいになった。

 

「喜ぶのはまだ早いよ蛍ちゃんっ。最高の景色を見ながら最高の食事! これが山登りの醍醐味なんだからっ!」

 

 燐は大きなバックパックから少し大きめのバスケットを取り出すとその蓋を開けた。

 

 蛍は苦笑した。

 その中身は予想通りと言うか分かっていたからだった。

 

「やっぱり……パン、なんだね」

 

「まあ、おにぎりでも良かったんだけどね。って今朝、蛍ちゃんと一緒に作ったんでしょ~」

 

 二人は前日に蛍の家に行き、そこで一晩泊まった後、昼の準備をしてから山へと向かったのだから知っていて当然だった。

 

「それに、わたしはパン屋の娘なんだよ。それこそパンなんて家に山のようにあるんだから」

 

「それも知ってるよ。いつも食べてるし」

 

 燐と蛍がマンションで同居するようになっても、燐のパン屋、”青いドアのパン屋さん”からのパンは当たり前のように届けられていた。

 

 そんなにいつも余ってるのぉ? と燐は少し訝し気に母親を問いだしてみるのだが、”たまたま”とか”ちょうど”としか返ってこなかった。

 

 何だかんだ言って燐のことが心配なんだろうと蛍は思っていた。

 

 一緒に暮らすことにする、と二人で報告に行ったときは、同棲とか駆け落ちとか結婚式はいつ? とか、あることない事言われて赤面してしまったけど。

 

 やっぱり親はいつのときも子供の事が心配なんだろう、改めてそう思った。

 

「どれから食べる? 黄色いピンはタマゴサンドで、緑はアボカドとかのお野菜。あ、こっちの赤いピンはデザートだからね」

 

「デザートってフルーツサンドの事?」

 

「あたり。ちゃんと生クリームじゃなくて違うソースを塗ったから蛍ちゃんでも大丈夫だと思うよ。あれ、これは知らなかったんだっけ?」

 

「うん。その時は……確かテレビ見てたから。でもそっか、それなら安心だね」

 

 バスケットに入っていたのはランチの定番であるサンドウィッチだった。

 

 けれど、分厚い食パンで具材をサンドしてあるから、見た目には何が入っているか分からない。

 

 なので燐はパンの上に色違いのピンを指して中身が直ぐに分かるようにちょっとした工夫を施していたのだった。

 

「やっと一息つけるね。んー、お茶が冷たくて美味しい! ほら蛍ちゃんも」

 

「うん、ありがとう」

 

 ポットに入れて置いた緑茶をカップに注いでもらって口に含む。

 

 茶葉の新緑の香りと、甘く爽やかな味わいが登山で疲れた体にごくごくと染みわたってくるようだった。

 

 この辺りはよくお茶が採れるから飲み飽きてるかと思われがちだけど、やっぱりお茶を飲むと落ち着くのは単純に好きなんだからだと思う。

 

 それにいい茶葉がとれることも飽きることの無い理由だと思った。

 

「ゆっくりで良いからね、蛍ちゃんの分までわたしは食べたりしないから。何なら食べさせてあげよっか? あ~ん、って」

 

「それは……そこまでしなくてもいいよ。子供じゃないんだし」

 

「そう? んじゃ、いただきます~」

 

「頂きます」

 

 かぷっと大きく口を開けてサンドウィッチを頬張る燐を見て蛍は微笑むと、燐の真似をするように大きく口を開けて、耳付きのパンに食らいついた。

 

「外で食べると美味しいね」

 

「ふぉんと、おいひぃおねぇ」

 

 一口で殆ど口に入れていた燐を見て、蛍はくすくすと笑いだした。

 本当に美味しくて、楽しかったからだった。

 

 苦しかったけど最後まで登り切って本当に良かった。

 

 蛍は心からそう思っていた。

 

「あ、このフルーツサンドなんのクリームなの? 燐はさっき生クリームじゃないって言ってたけど」

 

 蛍が食べているのは定番とも言える、イチゴのサンド。

 食べてみて生クリームとは違う味だと思ったが、何のものなのかは分からなかった。

 

「あ、それねぇ、水を切った無糖ヨーグルトのソースなんだよ。こっちのフルーツミックスもそうなんだ。あ、こっちのバナナは……はい、チョコレートソースでチョコバナナ風味だよ」

 

 燐はフルーツサンドが好みなのか、サンドウィッチは普通の具材よりも果物の方が数が多かった。

 

「何かやってるとは思ったけど、こんなに凝ったのを作ってたんだね」

 

「これ自体はそんなに難しいものじゃないよ。ただ好みのものを入れて作ってるだけだしね」

 

「それでも凄いよ燐は。見よう見まねで何でも作れちゃうんだから。もう立派な”青パン”の看板娘だね」

 

「もー、青パンは止めてよ~。みんなその名前で呼ぶから誤解されること多いんだからぁ」

 

 燐と蛍は他愛のないお喋りをしながら山でのお茶を楽しんでいた。

 

 さっきまでボロボロだった蛍もすっかり元気になったようで、燐と会話している最中は終始笑顔を見せていた。

 

 それだけ二人の仲が良かったということなのだが。

 山と言うロケーションが少女たちを素直にさせているようだった。

 

「でも燐ってやっぱり山が好きなんだね。なんかいつもよりも生き生きしてるように見えるよ」

 

「えっ、そう見えるんだ……? 自分じゃよく分からないけど。でも、山に登ってると自然と心が落ち着いてくる感じがするんだよね。アウトドアってやっぱりいいなぁって改めて思ったよ」 

 

「うふふ、燐が喜んでくれたのならそれだけでもここまで来たかいがあるよ」

 

 大事なものを思い出したような燐の横顔を見て蛍はにこりと微笑むと、お茶を飲んでからまたサンドウィッチにかじりつこうとしたのだが、その手を急に止めた。

 

「どうしたの? もうお腹いっぱい?」

 

「ううん、そういう訳じゃないけど」

 

 蛍はサンドウィッチを手にしたままもじもじとしていた。

 

「登山はカロリーを大きく消費するから沢山食べても良いんだよ」

 

 蛍が食べるのを止めた理由がダイエットだと思った燐はそう助言した。

 

「あ、違うの燐。その小鳥とか動物とかが現れないかなって思って」

 

「動物??」

 

「うん。高い山って居そうじゃない? もし出て来てくれたらパンくずをあげたいなっておもって……」

 

 その証拠に蛍は既にパンを半分ほどちぎっていた。

 

「とりあえずちょっと撒いてみたら。もしかしたら出てきてくれるかもしれないし」

 

 囀りはするので何んらかの鳥がいるのは間違いないと思うから。

 

「じゃあ少しだけやってみるね」

 

 蛍は指で一つまみ程度パンをちぎって、少し離れたところにちぎったパンを投げた。

 

「……」

 

 小動物が来やすいよう、二人の少女口を止めてその様子を見守っていた。

 

 ……暫くすると。

 

(あっ!)

 

(……っ!)

 

 ベルのように囀りながら一羽の小鳥が現れたと思うと、すぐにもう一羽もどこからかやってきた。

 

 二羽は同じような灰色の身体を体で、何やら言い合いながら落ちたパンを素早く平らげると、直ぐに姿を消してしまった。

 

 鳥たちのあまりに早い食事に呆気に取られたように見送っていた蛍と燐であったが。

 

「可愛かった……」

 

「うん。すっごく可愛かったね! こういうのってそうそう偶然見れるもんじゃないからね」

 

「そうなの? 燐は良く山に言ってたからこういうのって見慣れてるイメージがあったんだけど」

 

「そうでもないよー。やっぱり野生だからね。警戒はされてると思うし」

 

「じゃあ動物とかは? 燐は一度、下見がてら歩いたでしょ。その時何か居なかった?」

 

「うん──」

 

 知らない山にいきなり入るのは流石に危険だったので、先週末、燐がソロで登っていたのだった。

 

 今日もそうだが、鳥とは違う何かの鳴き声や草葉が大きく揺れた音を聞いたけど、その姿を見せてはくれなかった。

 

「燐、この山って何の動物が居ると思う? やっぱりクマかな」

 

「クマは流石に今の時期は居ないと思うなー、多分だけど。ウサギとかリスとはいそうじゃない」

 

「キツネとか狸とかはどうかな。後、ハクビシンとか野ネズミとか……」

 

 蛍は片っ端に動物の名前を言ってみていた。

 

「南アルプスに行ったときにライチョウを見たぐらいかなあ。わたし、”動物運”あんまりないから」

 

 燐の言う動物運とは動物と遭遇する運気のことだろう。

 それなら登山では低い方が良いとは思うが、燐は残念そうに呟いていた。

 

「そっか、それは残念だね。さっきの小鳥を見て絵本の世界みたいだなって思ったの。そこに動物もやってきたらもっといいだろうな、って」

 

「絵本って、”ぐりとぐら”みたいな感じ?」

 

「うんうん、そんな感じ。わたしあのお話好きだったから」

 

「あ、わたしも可愛いよねぇ」

 

 綺麗な景色を眺めながら、好きな人と美味しいものを食べて他愛のないおしゃべりをする。

 これ以上の贅沢など、今の二人には想像さえできなかった。

 

 またちょっとパンくずを落としてはみたのだが、今度は何も来てはくれなかった。

 

「蛍ちゃん、足はどう? なんともなってない? 痛みとか……マメとかは出来てないかなぁ」

 

 華奢な蛍の足先を覗き見ながら燐は心配そうに尋ねる。

 

 黒いタイツはファッションではなく、アウトドア用の伸縮性の高いものであり、蛍のベースレイヤーと同じ素材で出来ていた。

 

 蛍は見られていることに少し恥ずかしがりながらも、自分のふくらはぎを手でそっと揉んでみた。

 

「ん……少し、硬くなってるかもみたい。でも痛みとかはまだないかな。シューズやポールのおかげかもね」

 

 ここまでの道のりは蛍の予想していた以上に困難だったが、幸いにも怪我とかはなかった。

 

 燐の勧めで、登山前に入念にストレッチをしていたのが良かったのかもしれない。

 蛍はそう思っていた。

 

「どうする、マッサージしてあげよっか。それとも、自分でやってみる?」

 

 いつぞやの夜の時のように燐が聞いてくる。

 蛍もその事を昨日の事の様に思い出して、一瞬困った顔になった。

 

(どうしようか?)

 

 蛍は小さな顎に指を乗せて少し考えると、思い直したようで、ちょっと遠慮気味に燐に答えた。

 

「えっと、じゃあお願いしようかな。燐のマッサージって良く効くみたいだし」

 

 それは実際にしてもらったから良く分かっていた。

 

 あの世界(水溜まり)から戻ってきたとき、マンションのリビングに蛍と燐は倒れ込んでいた。

 

 あれから結構な時間が経っていた筈なのに、”実際の時間”は全くと言って進んではいなかった。

 

 一秒と経ってなかったかもしれない。

 

 雨はしとしとと降り続いていたし、何より服装は寝間着のままだったから。

 二人とも全裸ということはなかったし、ずぶ濡れてもなかった。

 

 全てが夢の世界の出来事、そうとしか思えなかった。

 

 朝日が昇る、その直前までは。

 

 翌朝はに雨はすっかり上がっていて、ビルだらけの町も遠くに見える大きな山さえもきらきらと光輝いていた。

 

 あんな事があっても燐はいつもの時間に起きて朝のルーティーンの一つである、ジョギングへと出かけて行った。

 

 人も車も、その空気でさえもいつもの様に流れていて、燐はようやく夢から覚めた気になれた。

 

 けれど、ただ一点。

 あの夢と現実との共通点があった。

 

 それは、蛍。

 

 蛍だけがその夢の中の出来事を認知できていた。

 分かりやすい事例でもって。

 

 燐がルーティーンを済ませて戻ってきても、リビングにはまだ蛍の姿はなかった。

 いつもなら起きている時間なのにと、燐はベッドルームまで様子を見に行った。

 

「り、燐~」

 

 蛍は起きているようだった。

 しかし情けない声を上げるだけでベッドから起き上がろうとしてこない。

 

「どうしたの、蛍ちゃん」

 

 一向に布団から起き上がらない蛍に首を傾げながらも、とりあえず布団からちょんと出ていた蛍の手をとって熱を測ってみることにした燐なのだが……。

 

「い、痛っ!」

 

 そんなに強く握ったつもりはないのに、蛍が悲鳴を上げたので燐は慌てて手を離す。

 けれどその喋る行為も痛むらしく、蛍は声にならない悲鳴を上げていた。

 

「だ、大丈夫? どこが痛いの?」

 

 恐る恐る燐は尋ねる。

 何か変わった病気なら直ぐにでも救急車を呼ぶしかない。

 

 蛍は弱々しくため息を吐いた後、燐を見つめながら答えた。

 

「ぜ、全部だった……みたい」

 

「全部って、蛍ちゃんもしかして……ちょっとごめんねっ」

 

 燐は一度断りを入れた後、布団の中に手を入れて蛍の腕や脚を軽く揉み解してみる。

 

「くぅ……っ!」

 

 やはりと言うか、身体のどこを触っても蛍は痛みを訴えてきた。

 そして少し熱っぽくもあった。

 

「全身、筋肉痛になっちゃった、のかも……」

 

 蛍自身が言う様のなら、それで間違いないだろうと燐は思った。

 

 普通の筋肉痛ならば、ある程度時間が経てば自然に治るだろうし、そこまで騒ぐ事でもないと思う。

 

 だけど。

 

(あまりに酷い場合は病院に行った方がいいんだよね。蛍ちゃんの場合だって……)

 

 そこまでの専門的な知識はないが、運動部ではこう言うことは良くあることだからある程度症状は燐も理解できていた。

 

 だから蛍にも病院に行くことを促したのだったが。

 

「す、少し寝てれば、きっと治るよ」

 

 蛍は震える声で頑なに拒んでいた。

 

 いくら蛍のように若い女の子でも痛いものは痛いはずなのに……。

 

(頑張り屋さんなのは知ってるけどこれはちょっと……)

 

 燐に迷惑を掛けたくないと思っているんだろう。

 精神的な病気を疑われて病院に掛かっていたこともあるぐらいだったし。

 

 今は薬を飲まなくてもいいぐらいに回復しているけど……お互いに。

 

「病院に行きたくないのはまあ……何となく分かるけど。それじゃあ、湿布買ってくる?」

 

「うん……それで良いと思う。ごめんね、燐」

 

 喋るのもつらそうにする蛍を見ると、なんとかしてあげたくなる。

 燐は湿布を貼るだけでなく、入念にマッサージもしてあげていた。

 

 そのおかげかどうかは定かではないが、日常生活をおくる事すら困難だった蛍の筋肉痛は三日間程度で回復していた。

 

「燐のマッサージが上手く効いたんだね。だってわたしの為に一生懸命してくれていたし」

 

 蛍は治った理由をそうだと信じてしまっていた。

 

(わたしはそこまでマッサージは効果ないとは思ってるんだけどなぁ……)

 

 肝心の燐はそう思っていたが、蛍の絹の様なすべすべの肌に触れるのは嫌いではないので、ここは黙っておくことにした。

 

 それからは燐のマッサージを蛍は抵抗なく受け入れることになった。

 

 実際ちょうどよい加減で燐はしてくれていたし、何より手先から燐の気持ちが直に伝わってくるようで蛍の胸の内がほんのり温かくなってくる気がするからだった。

 

 だから今もこうしてやってはもらっているのだが──。

 

「ねぇ、なんで蛍ちゃんもわたしの足をマッサージしているの?」

 

「だって燐ばっかりじゃ悪い気がして……燐は特に痛い所とかないの?」

 

「うーん、まあ……わたしはこれでも一応山は慣れてるからね。ちょっとブランクがあったけど一度ついた筋肉はそう簡単には衰えないみたいだから」

 

 燐は可愛らしく力こぶをつくる。

 

 同年代の子と比べても少し華奢に見える燐だが、意外にもしっかりとした筋肉がついていた。

 

 柔らかい、細やかな肌のその奥の骨を包み込む芯が入ったような力強さ。

 

(まるで、燐そのものみたい)

 

 蛍は燐のふくらはぎを揉みほぐしながら、そんな事を頭に浮かべていた。

 

「そんなに強くしなくても大丈夫だよ。あ、もうっ。わ、わたしはそんなに疲れてないって言ってるのにぃぃ」

 

 くすぐったくなったのか、燐はわたわたしながら困り顔で訴えてくる。

 そんな燐が可愛くて更に強く蛍はマッサージしてあげた。

 

「ほ、蛍ちゃん。変な声出ちゃうからやめてよ~」

 

「変な声って?」

 

「だから、も、もぉっ!」

 

「うふふふ」

 

 少女達はじゃれ合いながらお互いの身体を解し合った。

 

 先ほどまでパンを啄んでいた二羽の小鳥がまたやってきて、同じようにパンを啄んでいた。

 

 関心があるのかないのか、時折二人の方に視線を送らせながら。

 

 でも燐も蛍もその事に気付かなかった。

 今はお互いの事にしか目が入らなかったから。

 

 ()()()()は愛を競い合うように囀り合いながら、楽し気な様子で午後の一時を過ごし合っていた。

 

「どう? 少しは楽になった?」

 

「うん。ありがとう、蛍ちゃん……何か大切なものを失った気もするけどね……」

 

「それは気のせいだよ。わたしも、燐のお陰で楽になったよ、ほら」

 

 そう言いながら蛍は両手を気持ちよく上に伸ばして、腰を何度も捻ってみせた。

 この分だと確かに大丈夫そうだった。

 

「うんうん、大丈夫みたいだね。わたしは……蛍ちゃんに色々と触られたから、ちょっとナーバスな気持ちになってるけどね……」

 

「そうなの? 燐って意外と感じやすいもんね。一緒に寝てる時だって燐はもぞもぞしてるし……」

 

「蛍ちゃんっ。さっきから恥ずかしいことばかり言わないでよもぉぉー!!」

 

 燐の場合、体だけでなく心まで解されてしまったようだった。

 

「さあてと、ご飯も食べたし、身体も十分解れたみたいだしさ、蛍ちゃん。そろそろ行こうか?」

 

「行くって? もう下山ってこと?」

 

 蛍は楽しすぎたのか目的を完全に見失っていた。

 そのせいでつい、やっと下山できることに胸を膨らまさせていた。

 

 ここまでこれただけで蛍には十分達成感があったわけだし。

 更に美味しいものも食べて心も満たされた”幸せな勘違い”からくるものだった。

 

「え、下山って蛍ちゃん……」

 

 だからか、燐の方が目をぱちくりとさせていた。

 

 ここからが本番であり、目指す目的地はまだ先の方なのだから。

 

 蛍がこの先の登山に耐えられるかが今回のキモでもあった。

 

「もう、何言ってるの蛍ちゃん。地図に書いてあったのはこの次の山の事でしょ」

 

「この次の……山!???」

 

 何を言っているのか全く理解できないとばかりに蛍は燐の言葉を繰り返す。

 もう下山するだけと思っていたから、脳が考えるのを拒否しているようだった。

 

「ちゃんと説明したと思ってたんだけどぉ……」

 

「ごめん。よく聞いていなかったかも」

 

 少し口を尖らせて呟く燐に、蛍は素直に謝るしかなかった。

 

「まあ、気にしないでいいよ。ちゃんと分かるように説明しなかったわたしも悪いんだし。確認の為にも、もう一度ちゃんと説明するね」

 

「うん。お願い」

 

 燐は透明な袋に入った地図のコピーとスマホを両手に持って、この登山の目的を最初から説明した。

 

「ここが今いる山。で、目的の山はここ。それは分かるよね」

 

「そうだったっけ? 直ぐに目的の山には行けないの?」

 

「ここの山……この辺りの山って特に名前がないから言いづらいんだけどぉ。そこに行くためにはこの山の山頂から稜線に沿って縦走しないといけないんだよね。目的の山って場所って登山口どころか山道すら見当たらなかったから」

 

「だから縦走、なんだ……」

 

「うん。でも縦走って言ってもそんなに長い距離じゃないんだよ。あと二つ……三つかな。そうやって山を越えないたどり着けないみたいなの」

 

「ここからも見えるんだっけ、その山って」

 

「ほら、アレがそうだよ」

 

「え……おぉ」

 

 燐が指し示す方向を蛍も見る。

 それは地図で見るよりもずっと大きく、それこそ壁のようにそびえ立っていた。

 

(あんな山に本当に行くの? それもわたしが?)

 

 あの夜の、緑で出来た壁よりもずっと高く見える。

 こうして見ているだけでも圧倒されそうなのに、登るだなんてとても考えが及ばない。

 

「本当に登れるものなの?」

 

 思わず口に出していた。

 それぐらい目の前にそびえる山へ行くことが信じられなかった。

 

「んー、でも見た目ほど高くはないと思うよ。こういうのって意外と何とかなるもんだし」

 

「そうなんだ……」

 

 まるで他人事のように蛍は感心していた。

 やはり自分が登ると言うビジョンはまだ思い浮かばないらしい。

 

「どれぐらい時間が掛かりそうなの?」

 

 蛍は不安げな様子で燐に尋ねる。

 

「んーとねぇ……さっきまでのペースだと……」

 

「あの山の頂上まで行ったら流石に真っ暗になっちゃうよね」

 

「えっ? ま、まぁね……」

 

 燐が答えを出すよりも早く蛍が結論を出していた。

 

(ごめん燐、わたし今日はもう無理なの。もう頑張れそうにないから)

 

 燐に悪いとは思ったが、蛍は確かにもう限界だった。

 残した体力だって下山する為のものであって、縦走なんてとてもできっこない。

 

 でも燐一人に行かせるわけにはいかないから、今日は今だけはここまでで。

 

「ねぇ、燐……」

 

 考え込んでいる燐におずおずと話しかける。

 蛍の脳内は下山した後の事でいっぱいになっていた。

 

「大丈夫だよ蛍ちゃん。わたし蛍ちゃんが言いたいこと大体分かってるから」

 

「本当? じゃあ今日はここまでで」

 

 いいよね。

 と、蛍が口にしようとした時。

 

「ほら、ちゃんとテント持ってきてるから大丈夫だよ。ぎりぎり二人用でちょっと狭いけど、夏だからくっついて寝れば多分大丈夫だと思うし」

 

「……テント」

 

 蛍は思わず絶句した。

 

 今日の燐の荷物はどう見ても多いとは思っていたのだが。

 

「暗くなるまで山を歩いてさ……夜には見晴らしの良い所でテントを張って、流行りのキャンプ飯を食べる! やっぱりアウトドアって楽しいよね! 蛍ちゃん」

 

「えっ!?」

 

 心底楽しそうに縦走の行程を語る燐に、蛍はつい驚いた顔をしてしまっていた。

 

 まだアウトドア初心者の蛍と、ベテランと言ってもいい燐とでは山での楽しみ方に違いがありすぎたのだ。

 

 もっと早くその事に気付くべきだったと思う。

 まだまだビギナーの蛍には縦走してテントで一夜を明かすなど、到底無理な注文だったから。

 

(どうしよう……燐に何て言ったらいいんだろう)

 

 蛍は頭をぐるぐるとさせる。

 

 下山すると言ったら燐は多分反対はしないけど、きっと残念がるだろう。

 もしかしたら、もう連れて行ってくれさえしないかも。

 

 燐の性格上そんな事はあり得ないのだが、今の蛍には正常な判断が下せなかった。

 とにかく燐に嫌われたくはなかったから。

 

「蛍ちゃん……ちょっと顔色悪いよ……やっぱり無理してる。じゃあ残念だけど今日はここまでってことで……」

 

 目指す山の方ではなく、帰り道の方に燐は振り返ろうしたのだが。

 

「だ、大丈夫、大丈夫だよ燐。わたしは……大丈夫なんだから」

 

「ほ、蛍ちゃん!?」

 

 蛍が道を塞ぐように立ち止まったので、燐は戸惑いの声を上げた。

 

「燐が行きたいならどこまでだってついていく。それに、この地図はわたしの家で見つかったんだから、わたしが行ってあげないと」

 

 蛍は燐の目を真っ直ぐに見ながらそう宣言する。

 

 本当に使命からくるものなのかは自分でも分かってはいない。

 座敷童の末裔だからとかそういうのではないとは思う。

 

 でももう、見て見ぬふりは出来ないとは思っていたから。

 

「わたしは無理矢理蛍ちゃんの事を連れて行くつもりはないんだよ……ねぇ、蛍ちゃん、本当に大丈夫? 無理してない?」

 

 気遣わしく顔を覗き込む燐に蛍は胸の内を吐露した。

 

「その、正直言うと無理かもしれない。でも、自分の目で確かめる事だけはしないといけないような気がするの」

 

 蛍がどうこう出来るようなことはもう無いとは思ってる。

 

 座敷童の事だって、力が殆ど残っていないのに打ち明けられたわけなんだし。

 

 三間坂家が関係していることだとしても、もうその名すらも捨てようとしているのだから。

 

 呆気に取られたように固まっていた燐だったが、大きく息を吐くと蛍の目を真っ直ぐに見返して微笑んだ。

 

「実はそう言うんじゃないかって思ってた。蛍ちゃんは一度決めたことはそう簡単に変えないからね」

 

 諦めたように小さくため息をつく燐に、蛍は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。 

 

「それは燐もでしょ。どこまでも真っ直ぐで純粋だから」

 

「じゃあ、お互い頑固者ってこと?」

 

「そういうことだね」

 

「じゃあ、しょうがないか」

 

 蛍と燐は顔と顔を見合わせて頷いた。

 

 二人の気持ちは同じようで同じじゃない。

 きっと完全に交わるようなことはないけれど。

 

 それが人であり、友達だったから。

 だから二人の瞳には迷いの色はなく、お互いがお互いの事を信頼しきっていた。

 

 この先どうなるかなんて考えることすらもしなかった。

 

 お互いに行く場所は分かっていたから。

 

「じゃあ行きますかぁ。こうしていても時間が勿体ないしね」

 

「うん。ねぇ燐、もしさっきみたいにわたしが遅れてたら遠慮なく置いて行っていいからね」

 

「……わかった」

 

 燐は直ぐには返事を返さなかったが、ややあってから頷いた。

 

 それでも蛍には分かっていた。

 燐はきっとまたペースをぎりぎりまで合わせるだろうと。

 

 だからそれ以上は何も聞くことはせずに、先ほどのように両手にトレッキングポールを握って自分のペースで山道を歩いていく。

 

 この分だとテントに泊まるのは確実だろう。

 けど、それを迷惑かけているとはもう思わなかった。

 

 だって燐はわたしだし、わたしは燐なのだから。

 

 この世界でたった二人だけ、だから。

 

「蛍ちゃん」

 

「なぁに、燐」

 

 早速燐はペースを落としていた。

 

「この地図の山、”あの山”じゃ言いづらいと思わない? だから何かいい名前考えてみようよ」

 

「それは……うん。確かに名案だね」

 

 サトくんの時と同じことを燐は聞いていた。

 蛍は特に疑問は考えずに頷いた。

 

 きっと燐はあの時の気持ちでいるんだろう。

 

 蛍と燐とサトくんの()()で、暗い森を歩いていた時の事を。

 

 あの時はまだ何も知らず怖かったけど、でもだからこそ楽しかったから。

 

「うーん、何の名前がいいかなぁ……」

 

 燐は考え込む仕草を見せながらすたすたと山道を進んで行く。

 

 蛍の倍以上の大きなバックパックを燐は担いでいるのに、その顔にまったく疲れを感じさせないのは流石は燐としか言いようがなかった。

 

 あの小さな体の何処にそんな体力があるのだろう。

 燐よりも数段遅いペースで歩く蛍には全く分からなかった。

 

「”青いドアの家”も燐が考えたんだったよ……確か」

 

「うん。あれは本当にいい名前だと思ってるよ。あ。じゃあ、お宝の山とかは?」

 

「それは、そのまんますぎじゃない?」

 

「うーん、じゃあ”蛍ちゃんの山”はどう? この辺りの山って蛍ちゃんちの所有物なんでしょ?」

 

「わたしが、って言うか”三間坂家”が持ってた山みたいだったね。わたしはそれまで全然知らなかった事だけど」

 

 所有者が居る場合は山に勝手に入ることは出来ないからと。

 周辺の山林の事を調べてみて初めて分かった事だった。 

 

 小平口町の土地の多数が三間坂家の土地であったこと。

 

 更に地図の山の周辺一帯は殆ど三間坂家が所有者だった。

 

 だから燐の言う、”蛍の山”は間違いでもなんでもなく、むしろあの山の命名権は蛍にしかないと言ってもいいぐらいだった。

 

「三間坂家のものなら蛍ちゃんのものでしょ。だったら蛍ちゃんに決めてもらわないと」

 

 燐の言うことはもっともだったが、蛍はその事に不満を持っているかのようにため息をついた。

 

(わたしは三間坂家から離れたいんだけどな)

 

 それでも三間坂家が土地を保有していたおかげで、蛍が一定の収入を得ていたことも事実だった。

 

「そうだ、燐」

 

「どうしたの?」

 

「あのさ、あの場所に行ってみてから名前つけてみようよ」

 

「別にそれでもいいけど、どうしてなの?」

 

「ほら、燐の言う様に本当になにか宝みたいのが見つかったらお宝の山でもいいんじゃないかなって」

 

「あー、なるほどね。お宝が見つかってないのにお宝の山はおかしいもんね」

 

「そうそう」

 

「じゃあお宝じゃなくて温泉だったら温泉の山?」

 

 何に使われていた山なのかを知っている人は誰もいなかった。

 

 さっき登った山は林業の為の様だったが、目的の山はどうやら違うようで、切り倒した後の雑木林ではなく天然の木、ばかりの様だったから。

 

 だから温泉が湧いているという燐の意見は決して絵空事と言うことと言うわけではない。

 むしろ、出来れば温泉の方がよかった。

 

「それいいね。温泉あったら入りたいし」

 

「うん、わたしも温泉あったら入りたいー!!」

 

 蛍もそうだが燐だって流石に汗だくだったから、二人が温泉で汗を流したいと思うのは当然の事だった。

 

(下着はまあ何とかもう一着あるけど……)

 

 まあ温泉はともかく、テント泊なんて想定してなかったから替えの下着ぐらいしか持ってきてないけど。

 

 それでも。

 行ってみるしかない、そう思った。

 

 夏休みの最後になって冒険するだなんて……。

 

 蛍にとってはちょうど一年前と同じだけど。

 

 でも今は二人だから。

 

 燐と一緒だから、もう何も怖くはなかった。

 

 たとえ全てがここで終わったとしても。

 

「蛍ちゃん~」

 

 少し先の道で燐が待っていてくれている。

 

 たったそれだけの事でわたしは前に進むことが出来るんだ。

 

 だから燐の方がずっとそのままでいてほしい。

 わたしの心を照らす愛おしいランプの火のままで。

 

 それだけでわたしは暗い道を歩くことが出来るから。

 例え崖があったともきっと大丈夫。

 

 一歩ずつ。

 

 わたしは、月の代わりに道を照らし続けるもう一つの小さな太陽の下へとゆっくりと歩いていった。

 

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 

 




■聖地巡礼(ヤマノススメ)

天覧山、ときたら次は当然、高尾山!
先月の下旬頃に高尾山に行ってきたのです。ケーブルカーもリフトも使わずに1号路から山頂を目指す定番コース。通称ヤマノススメルート(定番のコース)で!!

まあ……きつかったです~~何とか山頂までは無事に着けましたけど、途中で何度も休みましたけどねぇ。
天覧山に登った時も思ったのですけど、舗装路ってそこまで楽なんでしょうか? 先の見通しが良い分余計に疲れてくるような気がします。
次はこんなに斜面のキツイところを登るのかぁ……的な意味合いで。

私はあおい(ヤマノススメの主人公)よりも更に悲しいぐらい体力がなかったから……本当に辛かったです。殆どぶっつけ本番でしたし……でも睡眠はそこそことってたから体調を崩すことがなかったのは救いでした。
その日の高尾山もわたしが知る限り、二件ほど救急搬送されてましたからねぇ。救急隊と見られる赤いバイク二台連なって一号路を下ってきたんですけど、不謹慎ながらレアな光景だったのかも? でも自分が搬送されることになったら流石に嫌なので、登山当日の体調管理はしっかりしておきたいなと思いました。

で、薬王院まで続く参道にありましたねー、ヤマノススメのアニメ本編でモデルになったお店がー! それを示すようにちゃんとヤマノススメのポスターも貼ってありました。しかも四期のNextSummitの。

そして高尾山でヤマノススメと言えば、お団子! じゃなくて、あのモモンガ! でもなくて、ムササビのマスコットですねぇ。もちろんその店にも置いてありました。アニメのワンシーンのスクリーンショットと共に。

出来は……いいと思います、もふもふしてますし。しかし値段が、値段が──!! 私の予想の遥か上をいっていたので思わず二度見してしまいましたよーー!!! 劇中だと、お団子とかのお礼として渡したものだったんですけどねぇ(ちなみに漫画だとムササビではなくモモンガの小さいマスコットとなってます)
どうみてもお団子一本の値段とは釣り合いがいれていないと言いますか……値段的に三倍返しになりますね。そりゃあ大人って言われますよー、ひなた(主人公の親友)にー。

結局ムササビは諦めて、高尾山ではここでしか売ってないと書いてあった、おせんべいだけ買って下山しましたよー。
帰りももちろん徒歩でーーと思っていたのですが、時間の都合でエコーリフトで下山しました。
1号路を登りきったときに見た時はがらがらだったのに、いざ自分が乗るときには行列が出来てましたよ……時間的にちょうど下山のピークだったみたいです。
リフトは視界を遮るものが何もないので開放感が凄かったです。しかも手すりが両サイドにしかないので結構スリルありましたねぇ。冬場は風が直に当たるから利用者少なそうですけど。それにしても行きは登山で帰りはリフトって……普通逆じゃん! でもリフトって久々だったから結構楽しかったかも……。

それにしても平日に行ったのに予想以上に混雑してまして、山頂とかも人でごった返してました。でも見どころ満載で面白かったです。もし今度行くときは違うルートで行きも帰りも徒歩でトレッキングできればなぁって思ってます。


KAI様の青い空のカミュDL版。ただいまウィンターセールで来年の1月13日まで50%オフですねー。もしお買い上げになっていない方はこの機会に是非是非。


ではでは、それでは──ってもう今年も終わりなのだあぁぁ……本当に早いー。



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── SIREN ──

 

 あまりにもざっくりとした地図を頼りに山へやって来た事までは良かったけど。
 実際、それが本当に分かるのだろうか。

 何か、視覚的に分かりやすい目印でもでも置いてあればいいが、ただの地面や草むらでは判断がつかないだろうから。

 この地図の状態から見て、年月は経ってるようにもみえるし。
 今と昔とでは様相が一変している事だって十分に考えられる。

 ここまで来て言うのもなんだけど、無謀──だったのかも。

 それは蛍だけでなく燐も内心ではそう感じていた。

 ワクワクするような高揚感もないわけではないが、情報量の少なさと、少女二人での探索ということもあって、無謀極まりないと揶揄されてもおかしくはなかった。

 それでも気になる事柄だったのは確かだったので、好奇心に引かれてここまでやってきてしまったのだけれど。

「はっ、はっ、はっ」
 
 暑いような涼しいような。
 どちらともつかない曖昧な感覚が肌に伝わってくる。

 汗でべたべただから暑いと言うことには変わりはない。
 けど、山裾を伝わってくる風は涼しいというよりも肌寒く感じる時だってある。

 周りは崖、もしくは明らかに危ない角度で広がっている雑木林だからちょっと足を踏み外してしまえば大変な事になるだろうけど……。

 標識もなければ当然手すりもない、目印になるようなものすらなかったから。

 山の上でありながら、何もない海を渡っているのと同じ感覚があった。

 けれども、ここから見る景色は明らかに違って、雲と同じ目線で歩くことがこんなに気持ちいいとは思っていなかった。

 高所から吹く風は気まぐれに流れる街中の風とも、辺鄙な田舎に吹くのどかな風とも違う。
 空と緑の入り混じった新鮮な風の息吹をつぶさに感じさせていた。

 その生まれたばかりの風に吹かれていると、汗ばんできた身体がちょっとだけ癒されていくようだった。

 心地よい風に吹かれながら、現実感の薄い細々とした山道をひたすらに歩く。

 縦走なんて言っても結局は山歩きだからまた疲れるだろうなぁって思っていたけど。

 目線が雲と同じだからか、空も山もずっと近い場所に思わせる。
 それは思っていたよりも楽しく、むしろ感動すら覚えた。

 こうしてはしゃいでいるのも、”また”最初の内だけかもしれないけど。

「あっ、だいぶいい感じ(ペース)になってるよ。さっきよりも全然歩けてるね」

 担いでいるバックパックが大きすぎてカバンが声を出しているみたいに見えるけど、横目で振り返った燐が励ましてくれていた。

「そう、かなぁ? 自分じゃ全然、分からないけど」

 呼吸を一定のリズムに保つのが大事だと言われたから実践してはいるけど。
 自分じゃリズム感はないと思っているからこれで合っているかは分からない。

 吐くことよりも吸う方に集中した方が楽だと言われたが。

「はぁ、はぁ、ふっ、ふっ」

 テンポよく、吐いては吸うの繰り返し。
 足もそれに合わせて前へ前へと出していく。

 学校とかでよくやる行進なんていうものは本来こういう綺麗な息づかいをする為の所作を学ぶためのものなのかもと、蛍は今更に思ったりした。

 でも蛍がちゃんと歩けているのは、もちろんそれだけじゃなく。

(燐が引っ張っててくれてるから、だよね)

 蛍の両手には再びトレッキングポールが握られていた。
 その少し前を燐が歩いている。

 だから二人の手は繋がれていない。
 けれど、それは安全の為であって、突き放されたとかではなかった。

 それでも燐はなるべくペースを蛍に合わせているので、二人の距離はそれほど離れてはいなかった。

 これだとペースが落ちてしまうけど、無理して遭難とかの方がよっぽど危なかったから。

「富士山、良く見えるね」

 ふと立ち止まった蛍が前を行く燐に話しかける。
 さっきから視界を捉えて離さない日本一の霊峰の姿に嘆息の声を上げた。

 あの頂に立てるとは流石に思っていないけど、こうして高い目線から眺めているともしかしたらという気持ちになってしまう。

 富士山はきちんと登山道が整備されているから見た目より楽なんだと、燐に言われていたから余計に尚更だった。

「今日は雲も少ないし、夏にしては空気も澄んでいるからくっきり見えるよね」

 蛍の隣に立った燐も同じ方向に目を向ける。

 夏の富士山は緑の服をすっぽりと被ったようにしゅっととしていて、少しスリムに見える。

 割と見慣れている景色なのに、今日は一段とその姿が目に焼き付いていた。

 やけにはっきりと目に浮かんでくるので、十数キロ先の山に登っている人の姿までもがここから確認できそうなぐらい。

 ──手が届きそうで届かない場所。

 それはあの澄み渡った青と白の世界みたいだった。

「やっぱりいいよね、富士山。とっても高くて大きいんだけど、登りやすいっていうかちょっとだけ優しいんだよね。なんか……もう一度行ってみたくなっちゃったなぁ」

 日本一高い山を望む燐の横顔は夏色を思わせる爽やかな少女から、どこまでもありのままでいる女性への転身を遂げたみたいにちょっとだけ大人びて見えた。

「燐なら直ぐにでも行けると思うよ。前に登ったことあるんでしょ」

「まぁね、でもあの時は……あ、そうだ! 今度は蛍ちゃんも一緒に登ろうよ! だいぶ山にも慣れてきたみたいだし!」

「え、わたしは……多分まだ無理かな。慣れたって言ってもまだ全然苦しいし」

「大丈夫、いざとなったらおぶってあげるからっ」

 胸をドンと叩く燐を見て蛍は小さく笑みを浮かべる。

「燐は、今でも色々背負ってるんだから……これ以上は本当に潰れちゃうよ」

 本人の性格だけじゃないとは思ってるけど。

 それにしたって燐は他人の事を自分の事のように考えてしまうから。
 やっぱり心配ではあった。

「んー、そう、かなぁ? これぐらいの荷物だったらまだまだ余裕あるんだけど」

 燐は首を傾げながら、担いだバックパックの紐を背負い直す仕草を見せた。
 
(そういう意味で言ったんじゃないんだけど……)

 蛍は何とも微笑ましいような困ったようなそんな複雑な顔で眺めていた。

「でもさ、燐。重くはないの? そんなにいっぱいの荷物なのに」

「まあ、これぐらいならわたしでも持つこと出来るよ。本格的な登山家(クライマー)なら自分の体重ぐらいの荷物を背負うのは普通みたいだし。その点じゃわたしはまだまだ楽してるのかもね」

「そうなんだ……やっぱり登山って大変なんだね。わたしには絶対に無理だなぁ」

 一緒に家を出た時、やけに荷物の多い燐がちょっと心配になったけど、それでも燐の方が歩くのが早かったから蛍は何も言えなかったのだ。

 燐はいざという時の野宿まで考えていたので、テントや調理器具などの諸々一式を詰め込んでいたから、荷物の総重量は優に数十キロを超えていた。

 テント泊まで想定するなら割と平均的な重量だが、蛍にしてみれば重くて動けないのではと思うほどの大きさであったから。

「わたしはまあ……本当は、持てる持てない以前にそんなに荷物、持ちたくないんだよね。必要最低限の装備だけでいいと思ってるし」

「燐はそう言う所、無駄がないもんね。ミニマリストって言うんだっけ? そういうの。わたしは、むしろ燐と逆かな。あれこれ持っていきたくなっちゃう」

「でも、重い荷物に慣れておくのも悪い事じゃないよ。体力つくからね」

「そういうもん、かなぁ」

「うんうん。トレッキングは体力勝負だからね。鍛えておくに越したことはないよ」

 燐にそう言ってもらえると鬱陶しい重さの荷物にも意味があるような気がしてくる。

 体力がついている実感はさすがにまだ湧かないけど、こうして燐に褒められるのならそこまで悪い気はしなかった。

「えっとさ、蛍ちゃん。話の腰を折るようで悪いけど、もうちょっとだけ急げる? あんまり遅いと着く前にテントで寝ることになっちゃうから」

「あ、ごめん。頑張ってみるよ」

 蛍は少し自信なさげに、でもはっきり返事を返した。

「急かせちゃってごめんね。でも日が暮れると山は本当に危ないから」

「大丈夫、分かってるから」

 二人は微笑み合うと、進むべき山の方角へと向き直す。

 スマホの地図上ではまだまだ先のようで、このままだと本当に泊まりになりそうだった。

 蛍はトレッキングポールのグリップを握りやすく調整する。
 両方の手で馴染むように握り直すと、再び歩き出そうとして燐の方を見る。

 燐はどこか楽しそうにしていた。

「そう言う割にはなんだか楽しそうだよね。燐はやっぱりキャンプしてみたいの?」

「あ、あははっ、やっぱりバレちゃうのかな。わたしって直ぐに顔に出ちゃうなぁ」

 ごしごしと燐は顔を擦る。

 少し照れながらも隠すことなく笑顔を向ける燐。
 その顔は本当に楽しみたいできらきらとしてた。

「それもあるけど、ちゃんと準備までしてきてるから。やっぱり使ってみたいなぁって」

「燐とはいつも一緒なんだからキャンプでも同じなんじゃない? 二人でいることが当たり前になってるところあるし……」

 そう言って、蛍は少し俯いた。

 周りの人からも認知されていると言っても、やっぱり面と向かって言うのはちょっぴり恥ずかしかったから。

「確かにね。でもキャンプって結構面白いから。きっと蛍ちゃんも気に入ると思うよ」

 当然のように燐が言うので、蛍は目を瞬かせて呟く。

「そ、そっかな」

 確かに今はキャンプブームにはなっているけど、それを自分が楽しめるかはまだ分からない。

 アウトドアだって燐の真似をして始めたようなものだし、燐の言う様に果たしてそこまでのめり込むものなのか。

 まだ半信半疑の蛍だった。

「まあ、キャンプするにしてもやっぱり早めの方がいいからね。暗くなってからだと色々面倒になっちゃうし。下山かキャンプか……その見極めが肝心なんだよね」

「それはそうだよね。辺りが暗くなってから迷うのは危ないと思うし」

「とりあえず、行けるところまでは行ってみよ。いちおう保険もあることだし」

「うん」

 こういったこまめな意思の確認は面倒だけどやっぱり必要だと思う。
 地上と違う山ならば尚のことらしい。

 少しの判断ミスが命取りになると燐は教わったらしく、それはあの歪んだ夜の時でも発揮されたみたいだったから。

「今日は天気が崩れそうにないから精々5時がピークだね。それ以降はどっちか方針を決めないと」

「5時、か……」

 蛍は赤いバンドの腕時計に目を落とす。
 後、三時間程度あるが、その時間で蛍がどこまで歩けるかが問題だった。

(燐の足を引っ張りたくはないけど……果たして行けるのかな、わたしは……)

 縦走と聞いて顔を曇らせたけど、今のところは思っていたほどではなかった。
 この先どうなるかは分からないけど。

「大丈夫だよ、燐。きっと」

 これ以上は気を遣わせたくはなかったから。
 蛍は精一杯の笑顔で答えた。

「分かった。でも辛くなったらいつでも言ってね。無理は禁物、なんだから!」

 燐は元気よく答えて、再び先頭を歩いた。

 さっきの山から先は行ったことがないと燐は言っていたから、今歩いているのはまさしく未知の場所だった。

 それでも臆することなく先を行ってくれる燐。

 お膳立てしているみたいでちょっと嫌だったけど。
 それでも燐の気遣いには素直に感謝した。

(このまま二人でどこまでも行けたらいいのにね)

 そんな事を胸中で思いながら、燐の後ろに蛍も続いた。



 雲がちらちらと流れていた。

 雨の降る様子はなさそうだが、思っていたよりも早く日が暮れそうな気がして。
 二人は自ずと足早になっていた。

 山肌まで伸びる二本の影はふらふらと揺れていた。

 それでも、少女たちは何が待ち受けているのか分からないその地を目指して道なき道を進む。

 無謀とも好奇心ともとれる行動でもって。




「ねぇ燐、やっぱりわたしも手伝うよ」

 

 手持ち無沙汰に耐えかねた蛍がおずおずと口を開ける。

 

 さっきから燐がひとりで色々やってくれていて、蛍は背もたれのあるアウトドアチェアにちょこんと座り込んでそれを眺めているだけだったから。

 

 自分も何か手伝わなければと思って、堪らず声を掛けたのだった。

 

「大丈夫だよ蛍ちゃん。ほらこのテント……あ、凄いね! 広げるだけで簡単に設営できちゃたよ。後はペグを打つだけ……初めてみたけど簡単だぁ、これ!」

 

 燐は前からそうだが、蛍もアウトドアショップに行くことが増えたのでこういった”お手軽なテント”があること自体は知ってはいたけど、実際にテントが勝手に出来上がるのを見るのは初めてだった。

 

 なので、燐は自分でやった事なのにびっくりしていた。

 蛍も予想とは違ったお手軽さに目を丸くした。

 

「テントって案外楽ちんなんだね。もっと大変なものじゃなかったっけ」

 

「本当はもっと面倒なんだけど……でも、これは簡単だったね。前から使ってるテントしか持ってなかったから、こんなに楽だと思わなかったよ」

 

 重くてかさばるキャンプを想像すること事態がもう古いのだろう。

 最近のキャンプギアの急速な進化を見るとそれが頷けた。

 

 設営も片付けも全てがスマート。

 それが今のキャンプだった。

 

「でも、重いテントを頑張って立てるのもキャンプの醍醐味みたいなところもあるから」

 

 燐は手ごろな石でペグを打ちつけながらキャンプに対する持論を語っていた。

 

「そうなんだ。わたし、キャンプの経験ないからちょっと楽しみなんだ」

 

 お嬢様然とした蛍の言葉に燐は苦笑する。

 実際にお屋敷のお嬢様なのだから間違っていないけど。

 

「学校の課外授業でもやったこと無いの?」

 

「わたしの学校ではなかったね。都会の町に行ったり工場見学してたから」

 

 蛍の通っていた学校は周りが山に囲まれている田舎町だからか、行事の際は専ら都会に行くことが多かった。

 

「そっか、じゃあ素敵な思い出に残るようなキャンプにしてあげないとね」

 

 燐は自らハードルを上げるようにそう言うと、バックパックから厚めのシートを引っ張り出してそれをテントの中に引いた。

 

「あ、それ。さっき座った時に引いたものだよね。ふかふかのシート」

 

 ランチの際、石のベンチの上に引いたシートを燐はテントの中に広げていた。

 

「これは寝る時にもいいんだよ。上に掛けるブランケットは持ってきたけど、下に引く布団はもってないから。あ、蛍ちゃんは先に中に入って休んでいいからね」

 

 燐はテントの中の荷物をずらして、蛍の為のスペースを確保しておいた。

 

「燐は、これから夕食の準備もするんでしょ? やっぱり手伝うよ」

 

「夕食って言っても大したものじゃないから大丈夫だよ。調理するような食材は持ってきてないし」

 

「でも、燐に全部やらせちゃってるよね」

 

「気にしなくてもいいよ。ちょっと忙しくしてる方がわたしに合ってるみたいだから」

 

「だけど……」

 

 燐の性格上を知っているからそれは分かるんだけど、それと蛍が手伝わないのは別だと思っている。

 

 だからか燐が頑なに手伝う事を拒むのを寂しく思った。

 やっぱり自分が足手まといになっている、と。

 

「あはははっ」

 

「燐っ?」

 

 突然、燐が笑いだしたので、蛍は素っ頓狂な声を上げた。

 

 疲れが限界までくると意味もなく笑い出すことが稀にあるらしいが。

 燐はずっと気遣いしてくれていたし、相応に疲れているのかもしれない。

 

 今日は燐に頼り切りだった蛍は、申し訳ない気持ちになった。

 

 けれど燐はあっけらかんとした表情でこう言った。

 

「あ……ごめん。何だか楽しいなぁって思って。やっぱり一人でするアウトドアよりも誰か居た方が楽しいなぁって思って」

 

「あっ、でもでも、誰でもいいって言ってるわけじゃないからね。蛍ちゃんと一緒だからこんなに楽しいんだよ。それに今日の蛍ちゃん、いっぱい頑張ってくれたからすごく嬉しいな」

 

「わたし、何もしていないよ」

 

 今だってそう、ただ後ろを着いていっただけ。

 流されるままなのは何も変わっていない。

 

 やっぱり燐は、そんなわたしに……。

 

「そんな事、ないよ」

 

 燐は真っ直ぐに見つめながら蛍の手を取った。

 

「辛くても一生懸命に前へ進んでいく、そんな頑張り屋さんの為に何かしてあげたいの。ただそれだけ」

 

(燐……)

 

 蛍は何か言いかけたが、その口をつぐんた。

 代わりににこっと笑顔を向けた。

 

「燐の、その言いたいこと、分かったよ。でも、わたしも何かしてあげたいんだ。自分の事よりも他人を優先するもう一人の頑張り屋さんの為に」

 

 不意打ちのような蛍の言葉に燐は口をポカンと開けて一瞬立ち尽くした。

 

「ね?」

 

 口を小さく開けて微笑む蛍。

 それを見て察した燐も微笑む。

 

 他愛ない事だけど、それこそが今の二人に大切な事の様な気がしていた。

 

「くすっ、そうだね。うーん、じゃあ……」

 

 燐はう~ん、と考え込む仕草を見せる。

 何か蛍に出来そうな簡単な用事はないものかと思案する。

 

「じゃあさ、蛍ちゃん。火おこしするから薪になりそうな小さい枝とか集めてもらってもいいかなぁ? あっ、でも、見つからなくても全然いいからね。無理して遠くまで探しに行かなくてもいいから」

 

(無理して焚き火しなくてもいいけど、ちょっとぐらいなら……ね)

 

「うん。分かった」

 

 蛍は分かりやすく顔をぱあっと明るくすると、了承したように小さな手をパンと合わせた。

 

 ちょっと心配だったが、これ以上蛍に気兼ねさせるのも流石に悪いし、本人がそれで満足してくれるならそれで良いと思ったから。

 

「ん、じゃあ、行ってくるね」

 

 蛍は自分の荷物からヘッドライトを取り出して頭に通すと、テントの周りの木々から探し始めた。

 

 まだ肉眼で周囲を確認することが出来るが、夏だからと油断してると直ぐに暗くなってしまう。

 

 テントを設営した場所は見通しは良いが、ちょっと進むと岩だらけの断崖絶壁な場所だったから。

 

 蛍は軍手をはめた手を心細げに胸元で組みながら、注意深く周辺を探した。

 

(この辺りにはあんまりないみたい……やっぱりもう少し奥の方へ行った方がいい?)

 

 顔を上げた蛍は燐に向かって手を振りながら、少し頑張って声を上げた。

 

「燐ー、この辺にはなさそうだから、ちょっとだけ奥まで行ってみるー」

 

「分かったー。でも、本当に無理しなくていいからねー」

 

「うんー」

 

 燐はもう一度同じことを蛍に言うと、ぶんぶんと大きく手を振って合図した。

 

 蛍も真似して手を少し大げさに振って応えた。

 

(燐にはああ言ったけど、出来ればいっぱい見つけて驚かせたいな)

 

 蛍は怯むことなく暗い森の中を進んで行く。

 燐に頼まれたこと以上の事をしてあげたかった。

 

 まだ夕方なのに森の中はすでに夜と変わりなかった。

 それでも蛍はヘッドライトを灯しながら探し続ける。

 

 怖いのは確かにあったが、燐の期待を裏切りたくはなかったから。

 

 蛍は燐の喜ぶ姿を思い描きながら黒い森の方々を探し回った。

 

 ……

 ……

 ……

 

「………」

 

 燐は、後ろ髪を引かれる思いで蛍の後姿を眺めていた。

 

 黒い木々のその合間にその姿が消えるまでずっと。

 複雑な思いを顔に浮かべながら。

 

(蛍ちゃん、大丈夫かな……無理してないといいんだけど……)

 

 自分で頼んだこととはいえ少し後悔していた。

 もっと簡単な用事の方が良かったかもと。

 

(こういうの依存っていうんだよね。もっと蛍ちゃんの事を信じてあげないとね……!)

 

 ぱんぱん。

 燐は自分の両頬を叩いて気持ちを落ち着かせると、自分のやるべき作業へと意識を無理矢理戻した。

 

 蛍が戻ってくるまでに全部済ませて驚かせたかった。

 

「ん、じゃあ、夜ごはん……って今更そんなに改まるものでもないなぁ」

 

 大したものは出来ないと言ったけどそれは何一つ間違っていない。

 

 とりあえずテントと一式は持ってきたけど、それを本当に使うことになるとは思ってはいなかったから。

 

 それ以外の物、例えば夕食などは本当に大したものは用意していなくて。

 

「わたしが持ってきたのはこれだけで、蛍ちゃんが持ってきたものは、これかぁ」

 

 二人が持ってきた食料を見比べながら燐はむむむと首を捻る。

 

 そこには、インスタント食品やレトルト、後は行動食やお菓子などの出来合いの、しかも簡素なものしか並んでいなかったから。

 

「こんなことなら家で何か作って持ってくればよかったかぁ。気が回らないなあ、わたし」

 

 サンドウィッチだけは作ってきたが、それはもう二人で全部食べてしまった。

 お菓子ならそれこそ余るほどあるのに。

 

 ちゃんとした食材ではなく簡易的なものしか持ってこなかった詰めの甘さに燐は我ながら、がっくりきてしまった。

 

(ちゃんとしたキャンプをしたことないって蛍ちゃん言ってたから、流行りのキャンプ飯でも作ってあげたかったんだけど……)

 

 これではキャンプ飯というよりも所謂”ズボラ飯”しか作れそうになかった。

 

 まあ、日頃の二人の食事も大体こんな感じだったから慣れてはいるだろうけど。

 

「ご飯と……まあ、レトルトのカレーがあるから、今日はカレーだね、やっぱり。なんだか……いつもと変わらない気もするけど」

 

 燐も蛍もある程度の料理なら出来る。

 けれど別に料理が好きという訳ではなかったから。

 

 食にこだわりがない事が、燐と蛍の意外な共通点だった。

 

「とりあえず、ごっはん~。ごはん~から、作るよ~」

 

 謎の歌詞を口ずさみながら、燐は青いマットを引いた石の上にコッヘルとバーナーのセット、後、メスティンと呼ばれる最近流行りの小型の飯盒を並べた。

 

 ご飯と言ってもお米を水で洗って、とかではなくお湯を沸かせたメスティンの中に持ってきたパックご飯をそのまま入れて待つだけの簡単なもの。

 

 しかもこの方が飯盒炊飯で良くある失敗もなければ普通に美味しいという、お手軽かつメリットだらけだった。

 

 それにはまずお湯がないと話にならないので、燐はまずミネラルウォーターでお湯を作ることにする。

 

「水は……これぐらい、かな」

 

 内側のメモリに合わせて水を注ぐ。

 

 安価なものにはついていない事があるが、燐が最近買った物には計量カップの様な目盛りが付いて、用途に合わせた使い方が出来るようになっていた。

 

 本来推奨されるやり方ではないのだが、こっちの方がメスティンも汚れないし、何より楽だったから。

 

 線の所まで水を入れると、燐は小さなバーナーのコックを捻った。

 

 カチン、という鈍い金属音と共に、青白い炎が一瞬に揺らめきだした。

 

 水が沸騰する間、燐は他の献立をどうしたものかと並べたものをつぶさに凝視する。

 登山で減ったカロリーを戻すにはもう少し量のあるものが欲しかった。

 

(あれっ、これって……?)

 

 何故かパンパンに膨らんでいたスナック菓子の後ろに隠れるようにして、あるもの姿が燐の目に飛び込んできた。

 

 燐が自分で持ってきた覚えは無い。

 だとすると、蛍が持ってきたということになる。

 

 けれど、これは……燐は目を瞬かせてそれを手に取ってみる。

 間違いなく、スーパーでも良く見かける、あの”食べ物”だった。

 

(これを山に持ってくる人っているかなぁ。まあ、食べられないわけではないけど)

 

 ただ、蛍が()()を好物だったとかは聞いたことがない。

 好きな人はいるとは思うけど。

 

 燐はまあ、そこまで好んで食べるものではないと思ってる。

 出されたら食べるけれど。

 

「折角だから、これも調理にしようかな。お腹の足しにはなると思うし」

 

 ちょっと変わった付け合わせにしかならないだろうけど。

 

 ぽこぽこと気泡が沸き立つような音を合図に、燐はパックも開けずにご飯をそのままメスティンの中に投入して蓋を被せた。

 

「後は待つだけ、だね。それにしても……蛍ちゃん、どこまで行ったんだろ、ちょっと遅いかなぁ?」

 

 蛍はまだ戻ってこなかった。

 ライトも持ってるし、スマホもあるから何かあっても大丈夫とは思うけど。

 

 つい、スマホを覗き込んでしまう。

 まだ大して時間が経っていないことに燐は安堵した。

 

「ふぅ……」

 

 ため息一つついて、空を見上げる燐。

 

 日が暮れて完全に沈んだ後に広がる茜色のヴェールが、空を焦がさんと燃え盛っていた。

 

 月はもう既に姿を現している。

 まだぼんやりとした光を放っているだけだけど。

 

(んんー、わたしって本当にダメだなぁ……なんで蛍ちゃんの事を信じられないんだろ。笑顔で送り出したばかりなのに)

 

 あの笑顔は嘘ではないのに。

 なぜ、余計な事まで考えてしまうのか。

 

「はあーぁ……」

 

 燐は肺の奥から絞り出すように嘆息する。

 

 そしてスマホをぎゅっと握りしめた。

 募る思いを表すかのようにとても強く。

 

「わたしは蛍ちゃんの事を信じたから、なんだよね……?」

 

 燐は自問自答する。

 蛍は一人でも大丈夫だと思ったから。

 

 もう自分は必要ないからと思ったから、その前から消えたのだと。

 

 現世でも常世でもない世界。

 

 ”お兄ちゃん”がいってしまったところに。

 

 確かに自分の意思はあった。

 けれど、全て望み通りというわけではなかったが。

 

 ”わたし”はそこに魂だけが残されていて、意味もなく漂っているだけだった。

 

 もっとちゃんとしたモノ。

 変化した彼らのように穢れの無い純粋な存在になりたかっただけなのに。

 

 わたしの心はもうボロボロになってしまったから。

 

 それが不幸とか不運だったとかは思っていない。

 きっと、自分で望んだこと。

 

 そう、全ては偶然。

 

 たまたま偶然が重なり合っただけ。

 それ以上でも以下でもない。

 

 確然たる理由なんてものはなかった。

 

(でも、だけど……)

 

 あれほどの目にあってもまだ心の奥底で何かを否定している自分もいる。

 

 全ての事柄を偶然で結び付けてしまうのは何かこう……少し乱暴な気もするのだと。

 

 今だって偶然にこの山までやってきたわけじゃない。

 何かの見落としがまだあるのではと、思っている。

 

 それが何かまでは掴めてはないけど。

 

(けど、なんでだろう? さっきから胸騒ぎが収まらない)

 

 胸のドキドキがさっきから強くなっている気がする。

 

 こんな事を今更考えてしまうのは、何かの予感がするからなのか。

 

 たまに時間の流れが早かったり、遅かったり感じることもあるけど。

 

(やっぱり普通じゃないのかな、わたし……何も意識なんか出来てないのに)

 

 山にだって二人で無事に登りきることも出来たし、目的の場所にも一応、”辿り着くことが出来た”というのに。

 

 暗くなってから下山するのは危険だからと、テントで一泊してから下山することに二人で決めた事は間違ってないはずなのに。

 

 どこか不安な気持ちが収まらない。

 

(失う事が怖いんだね。きっと)

 

 大事な、とても大事な友達を失うことが。

 

 自分から離れて行ったのに、やっぱり戻ってきてしまったのはきっと未練からだけじゃない。

 

 本当に大切なもの。

 本当の想いを知ったからだと思う。

 

 あんな不器用な方法でしか本当の事が分からなかったなんてあまりにも滑稽で笑えるほどだけど。

 

 だからこそもう二度と失いたくはない。

 

 輪郭がなくなって心まで凍り付いてしまったわたしを救ってくれたのは。

 

 きっと、彼女の純粋な想いだと思っているから。

 

「──っ!」

 

 身体の奥から湧きあがる良く分からない焦燥感に煽られて燐は、もう一度スマホのスイッチを入れようとした。

 

 何か明確なビジョンが見えたわけではないが、どうしても心が落ち着かなかった。

 

 このままだと居ても立っても居られなくなり、燐はもつれそうになる指を蠢かせて、蛍のスマホにダイヤルしようとしたその時。

 

 背後から声がした。

 

「燐、何してるの?」

 

「うひゃあぁぁあ!!」

 

「あわわっ?!」

 

 脅かそうとしたつもりではなかったので、急に叫び声を上げた燐に蛍はびくっと身を縮こませてしまった。

 

「あっ、ご、ごめん蛍ちゃん。い、いつ戻ってきた、の?」

 

「えっ、う、うん。ちょうど今だよ。ほら、見て燐。何か枝がいっぱい落ちてる場所があったの」

 

 持ってきた袋一杯の枝を見せて微笑む蛍。

 よほど張り切っていたのか、服だけでなく綺麗な黒髪にも汚れがついていた。

 

「ほら、蛍ちゃん、汚れてるよ。枝はその辺に投げちゃってていいから」

 

 あしらうような感じで燐はタオルを投げた。

 その様子に蛍はきょとんとする。

 

 まるで母親に放って置かれた幼い子供みたいだな、と思った蛍は。

 

 がばっ。

 

「わっ! な、何!?」

 

 急に蛍が抱き付いてきたので、燐は上擦った声を上げてしまっていた。

 

 泥だらけになるまで探してきた小枝は、ぞんざいに投げ捨てられ、ばらばらと地面に転がっていった。

 

「燐。寂しかったんでしょ? わたしが戻ってこないから」

 

「そ、そんな事は……ないよ。多分」

 

 蛍の胸の中に抱かれながら燐は消えかかりそうに言葉をこぼす。

 

「燐は寂しがりやだもんね。わたしが傍についててあげないと」

 

 子供をあやすようにぽんぽんと背中を擦る蛍。

 この行為に既視感を覚えたが、それはむしろ良い事だった。

 

「またそうやって子ども扱いするぅ。わたし蛍ちゃんと同い年なんだよ?」

 

「それは分かってるけど、でも、事実だから」

 

 蛍は燐と言う少女を良く知っていた。

 

 明るくて、何でも出来て、頼まれごとは何でも引き受けてくれる、か弱い少女。

 それが燐だった。

 

「も、もぅ、大丈夫だからっ。ほら、身体を拭いたほうが良いよ蛍ちゃん。ちょっと……汗臭いし」

 

 外だと流石に恥ずかしいのか、燐は耳まで赤くなりながらも首を横に振った。

 

「燐だって、汗臭いよ。でも、燐のこの臭いわたし結構好きだよ。頑張ってるのよく分かるし」

 

 例えば部活の後なんかがそうだった。

 燐は誰よりも一生懸命で頑張ってる。

 

 一緒の洗濯機で洗う様になってからそれが良く分かるようになった。

 

 ……決して匂いフェチなどではないと思う、多分。

 

「そーゆーのは後でいいからっ。はい! さっさと顔を拭くっ」

 

 少しからかいすぎたのか、燐は顔を真っ赤にして暖かみのある濡れタオルを蛍の顔に押し付けた。

 

「ふふ、じゃあ後のお楽しみにとっておくね」

 

「何よもう、それぇ……」

 

 意味ありげに微笑む蛍に燐は訝し気に眉をひそめた。

 

「そういえばさ。あそこが秘湯の温泉だったら良かったのにね。それならさっぱり出来たのに」

 

 燐から受け取ったタオルで髪を拭いながら、蛍はあの印のあった場所の事を話し出した。

 

「確かに、()()だったら……ね」

 

 燐は少し曖昧に微笑み返す。

 

 それは燐がというより、あの場所での蛍のとった行動が気に掛かっていたせいだった。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 

 ──目的の場所は確かにあった。

 

 合ったと言うか、割と簡単に見つけることが出来た。

 

 目印の様なものはなかったが、そこだけはそれなりに整備されてあったからだった。

 

「ここ、だよね?」

 

「多分……」

 

 蛍と燐は思わず顔を見合わせて深いため息をついた。

 

 そこまで期待はしていなかったけど、苦労してきた割には大したものではないように見えたから。

 

 そこには温泉もお宝もなく、ただ一つの物体が有っただけの呆気ないものだった。

 

(何これ……石の、柱? 何も書かれてはないけど……?)

 

 そこまで高さの無い石の柱の様なものが立っているだけ。

 

 偶然に出来たように見えるほどボロボロの石だったけど、周りが切り払われているので、意図的に立てたものだろう。

 

 でも、他の何かが辺りにあるわけではなく、たったこれだけしかなかった。

 

 何かの|石碑()()()かな? 最初見た時、燐はそう感じ取った。

 

 しかし石の四方には文字や絵の様なものは描かれてはいない。

 だから何の為に建てられた石碑なのかは分からない。

 

 少し荒唐無稽な考えが頭に浮かんだが、まだこの時はそれを口にはしなかった。

 

 それは蛍が燐が予想だにしないことを口にしたからだった。

 

(でも……人形と一緒に合ったんだよね。あの地図)

 

 蛍はその石碑に正面から向かい合うと、何を思ったのか後ろを振り返る。

 

 後ろには何もいない。

 ただ鬱蒼とした木々が広がっているだけ。

 

 蛍が見ているのはそこではなく、木々の隙間から見える遠くの山。

 そこには……。

 

「……っ!?」

 

 蛍は口元を押さえながら再び石碑をつぶさに見つめる。

 その顔には驚愕と言葉にできない空虚さが浮かんでいた。

 

 自信が座敷童であると言われた時とは違ったどこか諦めのある表情で、蛍は石碑に近寄ると、その手で触れる。

 

 自然な行為に見えたのか、燐は制止することも息をすることすらも忘れたように呆然と眺めていた。

 

 蛍は石碑に対して何をするのか。

 燐は固唾を飲んで見守る。

 

 これはきっと、蛍の──三間坂家の問題だろうから自分が口出しするような事ではないとは思っているのだが、何かを言わずにはいられなかった。

 

 怨恨とは違うけど、そういった負の感情の様な想いが伝わってきたような感じがしたから。

 

 何か提案したほうが良いのかと、燐は口を動かそうとする。

 けれど喉が干からびたみたいに乾いていて適切な言葉が出てこない。

 

 何か言ってあげた方が、寄り添ってあげたほうが良いはずなのに。

 

「──ねえ、燐」

 

 声は確かに自分の名を呼んだが、一瞬、誰の声だかわからなかった。

 

「ほ、蛍ちゃん……」

 

 だからか燐は聞き返す。

 蛍は目の前にいるのに遥か遠くにいるような感じがしたから。

 

「戻ろう」

 

「えっ?」

 

「もういいよここは」

 

「で、でもっ」

 

 蛍があっさりと言い放つので燐は戸惑ってしまう。

 あんなに苦労してきたのに何も調べないなんて。

 

 そんな燐の心情を察したように蛍は手をとってそっと微笑む。

 

「ここには特に何もなかった、それでいいんだよ。わたしは燐と一緒にトレッキングしに来ただけ」

 

「蛍、ちゃん」

 

 もう一度蛍は石碑を見やる。

 表情からは何も窺い知ることができなかった。

 

「さ、暗くなる前にテントを立てるんでしょ? さっき奥の方に少し開けてる場所があったの。そこでキャンプしてみようよ。わたしテントで寝るの初めてだからちょっと楽しみ」

 

 蛍はこれまで聞いたことがない早口で言うと、燐の手を握ったまま先行して歩き出した。

 

「ちょ、蛍ちゃん!?」

 

 急な蛍の切り替えの早さに燐は戸惑いつつもその後をついていく。

 

 二人とももう後ろを振り返らなかった。

 

 ……

 ………

 …………

 

 ぽつんと残された石の柱。

 あれには本当は何が印されていたのだろう。

 

 石を削り取ったような痕もあったし……。

 

(やっぱり、あの下は……)

 

 その事を示すように、石碑の周りには草や花の一本でさえ生えてはおらず、生まれでてくることを避けられているみたいだったから。

 

 そうなると……やはりそうなのだろうか。

 

 確信出来るだけのものはないけど、そう考えてしまう。

 

(蛍ちゃんは、あれで良かったの、かな……)

 

 どうしてもその事でもやもやとしてしまう。

 

 友達として何をしてあげればよかったのか。

 ただ、慰めるだけでは何かが違う気がして……。

 

 ぴぴっ、ぴぴっ。

 

「何の音?」

 

 場違いな電子音が薄暗がりに鳴り響いた事に、蛍は疑問の声を上げた。

 

 燐はすぐさま思い出す。

 アラームをしていたのだった。

 

「そうだった!」

 

 その音が鳴ったと言うことはパックのご飯が出来上がったと言うことだった。

 

 燐は反射的にメスティンの蓋を開けると中からご飯を取り出し、入れ替わるようにレトルトのカレーを中に入れた。

 

 今度は蓋をすることなく、タイマーをセットするとそのまま待つことにした。

 

 その一部始終を見ていた蛍は直ぐに気が付いた。

 

(カレーなんだ……それもレトルトの……けど、外だとどんな感じになるんだろ)

 

 野外で食べるカレーは何か違うと聞いたことがあったので。

 まだ体験したことのない蛍はその事を想像しただけで胸が高鳴っていた。

 

「何か、他にやることある?」

 

 少し声を弾ませて蛍が訊ねてくる。

 

 無垢な瞳は初めて会った時から何も変わっていない。

 どんな事があっても蛍だけは何も変わっていなかった。

 

 いい意味でも、悪い意味でも。

 

「じゃあちょっとした焚き火を作ってもらおうかなあ。あ、あんまり大掛かりなものじゃなくて本当にちょっとしたもので。やっぱり焚火があった方がキャンプって感じがするから」

 

「分かった。でも燐、どうやって火を起こすの? わたしやったことなくて」

 

「うん。今から教えるね。でもちょっとだけ待って……」

 

「どうしたの燐、何か困りごと?」

 

 燐は急に言葉を詰まらせた。

 何事かと蛍が顔を覗き込んでくる。

 

「いやぁ、この山一帯って蛍ちゃんちの所有物でしょ。ちゃんと許可とってからじゃないといけないかなって」

 

 この辺りに連なる山や畑は確かに三間坂家所有の土地だったけど。

 

「別にいいよそんな事。それにわたしが自分で焚き火するんだから問題ないでしょ」

 

「まぁ、そうだけど一応ね」

 

 燐はそう言うと、改まった声色で蛍に尋ねてきた。

 

「地主様。この山で焚き火をしてもよろしいでしょうか?」

 

 呆気に取られた蛍だったが。

 

「うむ、良きに計らえ、じゃ」

 

 少女たちは顔を見合わせて笑っていた。

 

 燐は笑いながらもテキパキとした動きで食事の準備を進めた。

 

 そんな燐を蛍は微笑ましく思いながら、マッチ棒のパズルみたいに小枝を段々に積み上げていた。

 

 ────

 ────

 ────

 

 バーナーの火よりも大きい、本物の炎が夜空の下で小さな星々を巻き上げる。

 

 星が降って来そうなほど空に近い場所で、一条の光の様な白い煙が遥か上の月を目指すみたいに真っ直ぐ伸びていた。

 

 赤い炎が少女たちのその姿を煌々と照らしだしていた。

 

 すっかり後片付けをし終えた燐と蛍は、小さな椅子に腰かけながら、今は食後のお茶を楽しんでいる。

 

 ステンレスのカップには夜空みたいな漆黒色の珈琲が小さな湯気を立てていた。

 

 少しづつ口に運びながら、今日一日の事を振り返っていた。

 

「今日は、いっぱい燐に迷惑かけちゃった」

 

 蛍はそっとカップから口を離すと、遠くを見るようにしてそっと呟いた。

 その言葉は隣にいる燐をこそばゆくさせる。

 

「迷惑だなんて、そんなこと。一緒に来れただけで嬉しかったんだし」

 

 燐はコーヒーの香りの楽しみながら、やんわりと否定する。

 まだ口をつけるのをためらっているようだった。

 

「燐がそう思ってくれるならちょっと嬉しい。そういえば、さっき食べたカレー、レトルトでも美味しかったね」

 

「うんうん。意外なほど美味しかったよね。外で食べると何でも美味しくなるんだから不思議だよね」

 

 ご飯もカレーも一人分しかなかったので二人で仲良く分け合って食べた。

 それが美味しくなる秘訣だったのかもしれないと蛍は思っていた。

 

「でも燐、なんでカレーの上にお豆腐が乗っていたの? そんなの今まで見たことなかったよ。でもカレー味のお豆腐も悪くないね」

 

 小さなお豆腐は水を切ったものを半分こして、そのままカレーの上に乗せただけ。

 料理でもなんでもなかった。

 

 蛍に黙って出してみたけど思ってたよりも好評だったので、燐はほっ、と胸を撫で下ろした。

 

「でもだって、蛍ちゃんが持ってきたんでしょ、お豆腐。お味噌汁とかなかったからカレーに入れちゃおうって思ったの」

 

「わたし、そんなもの入れた記憶ないなぁ……」

 

「蛍ちゃんも? わたしだってそうだよ。豆腐だけ持ってくるなんてないし」

 

 二人とも同じように首を傾げる。

 

 漆黒が辺りを覆い尽くす中、小首を傾げ続ける少女たちの細い影が、赤く照らされた大地に奇妙な影絵を作っていた。

 

 遠くに見えていた山々も今は黒い背景と同化してその縁さえも見えない。

 

 山陰に光を灯すのは燃え盛る炎と、青白く光る月だけ。

 

 遥か先に小さく光る町の明かりは、違う世界の、まるで異世界のように遠く現実感がまるでなかった。

 

 時折聞こえる低い声の主は火を恐れているのか、ここまで近寄ってはこない。

 

 楽しそうに笑う少女たちを遠巻きに見守っているかのようだった。

 

(蛍ちゃんでもないなら……もしかしてお母さん!? ……あり得ない話ではないけど……)

 

 燐の母親は見た目と違って割と悪戯好きなので、燐の予想はあながち間違いとも言えない。

 

 けど……。

 

(何でお豆腐なわけ? パン屋さんなんだからパンでいいじゃん! あ、そういや前に……)

 

 燐は唐突に思いだした。

 少し前に母が奇妙な事を口走っていた事を。

 

(なんか、最初はパン屋か豆腐屋のどっちかで商売を始めたかったって話だったけど、まさかねぇ)

 

 母もああ見えて、自分の進路に迷っていたらしい。

 確かに女手一つになるのだから、大変だったのだろうけど。

 

 結局、パン一本に絞ったようだったが。

 

(そういえば、あのお豆腐、”何も商品名とか書いてなかった”んだよね。まさかだとは思うけど、豆腐屋がどうしても諦めきれなくて自分で造った、とか? 流石にそれはない……よねぇ……?)

 

 妄想とは言え妙にしっくりきてしてしまうのは、やると言ったら意地でもやる母親だったから。

 

 そして自分が妥協できないのも多分、親譲り。

 

 両親が離婚にまで至ったのもそのせいだろうと思っている。

 

 そんな事を母に言ったら仮に事実だとしても怒るだろうとは思うけどね。

 

(ともかく、変な事しないでよね……おかあさん。パン屋だってやっと軌道に乗ってきたばかりなんだから)

 

 これが妄想だけで済みますように、と燐は胸中をため息をついた。

 

「どうしたの、燐。さっきから難しい顔をしてるけど……」

 

「あっ! えっと、な、なんでもないぃぃ!!」

 

「?」

 

 急に慌てふためいたように両手を振る燐を見て、蛍は小動物がするみたいにきょとんとして首を傾げた。

 

 …………

 ………

 ……

 

「山の上だと本当の色で星が見る感じがするよね。もうちょっとしたら手が届きそうだね」

 

 掬い上げるような仕草で蛍は空に向かって手を伸ばす。

 

 流石に届きそうにない星空だけど、指の隙間から今にもこぼれてきそうなほど蛍は近くに感じていた。

 

「うん。銀河鉄道が走っててもおかしくないぐらいのきれいな星空だよね」

 

 あの時ホームに現れた無人の列車、あれこそが銀河鉄道?

 燐は夜空を仰ぎ見るたびそんな事を考えていた。

 

「あれって夏のお話なんだっけ」

 

「え?」

 

 何を指しているのか分からず聞き返す。

 

「”銀河鉄道の夜”」

 

「あぁ、そういう事。どーなんだろう。やっぱり夏じゃないのかな」

 

「ケンタウルのお祭りって書いてあったから夏だよね。ジョバンニは丘の上からこんな星空を眺めていたのかな」

 

「うん。きっとそうだよ」

 

 燐は椅子にもたれながら黒い空を全部吸い込むように眺めた。

 

 もしあの列車がそれだったのなら、何で自分は乗らなかったのだろう。

 何故あの時、ホームから列車を見送っていたのか。

 

(わたしはあの時、何を諦めたんだろう……生きる意味? それとも……)

 

 燐はカップの中に広がる夜を飲む。

 口いっぱいに広がるほろ苦い大人の味。

 

 分かったようで分かっていない、そんな感情の曖昧さを飲んでいるみたいで飲み終わりは複雑だった。

 

 でも、安堵する暖かかさもあった。

 

「燐。ありがとう。燐がここまで連れて来てくれたからこんな素敵な景色を見ることが出来たんだよ。マンションとも前の家とも違う、空に近い場所の星空を」

 

 改まった声で蛍は言った。

 

 燐は振り返る。

 そこには頬を赤くした柔らかい笑顔の蛍がこちらを見つめていた。

 

「それは……蛍ちゃんが頑張ったからだよ。わたしはただ一緒になって歩いていただけ」

 

「けど、燐が居なかったら多分無理だったと思うから」

 

 どこまでも一途な蛍に燐は泣き笑いのような笑顔を浮かべる。

 

「何度も山に登っていれば慣れてくるよ、きっと。わたしも最初の頃は全然だったし。でも、蛍ちゃんと一緒に富士山に登るのもその内、夢じゃなくなるのかもね」

 

「燐に言われるとちょっとだけ、本気にしちゃうよ」

 

「してもいいよ。蛍ちゃんはやれば何でもできるってわたし、思ってるから」

 

 顔を見合わせて微笑み合う。

 

 そんなふたりを月明りが優しく照らす。

 少し冷たく、けれど透明で柔らかい光で。

 

「……ねぇ、蛍ちゃん。ちょっと変な事聞くけど……いい?」

 

 何も聞かずにいても良かったけど、燐は床につく前にやっぱり聞いてみる事にした。

 

 このままだと明日、どんな顔をして蛍と言葉を交わしたらいいか分からなかったからだった。

 

 友達……ううん、それ以上だったからだと思う。

 聞いてあげることで何か、蛍の気持ちが楽になればいいなと思ったから。

 

 廃墟での蛍もこんなもやもやとした気持ちだったんだろうな、と燐は思った。

 

「うん。エッチな事じゃなければいいよ」

 

「エッチな事は流石に聞かないけど……」

 

 眉をひそめる燐に蛍は意外そうな顔をした。

 

「そうなの? こういう時はエッチな事を話し合うのかと思ってた」

 

「どーゆー時よぉ。それにエッチな話し合いってどんな内容なの?」

 

「それは内緒」

 

 慣れないウィンクをする蛍。

 燐は疲れたように肩をすくめた。

 

「で、何が聞きたいの、燐」

 

「あ、うん。あのさ……」

 

 改まって聞くのが少し照れ臭かったのか、燐はコホンと咳ばらいを一つしてから口を開けた。

 

 それを見て蛍は口元を両手で押さえながらくすっと微笑んだ。

 

「あの、あのさ……何であの時の蛍ちゃん、あんな事を言ったのかな……って」

 

 少し緊張していたのか燐は声が上ずってしまっていた。

 

「あの時って……もしかして()()での事?」

 

「うん。そう」

 

 あぁ、その事か、と蛍は今思い出したようにぼそっと呟く。

 自分としてはそこまで気にしてはいなかった。

 

 けれど、燐が真剣にこちらを見つめてくるので蛍は少し緊張して口を開いた。

 

「あはは、あれはね……」

 

「うん」

 

「あんまり深い意味なんてないんだ。ただ何となくそう思っただけで」

 

「そう、なの?」

 

 真意を確かめるように蛍の顔を覗き込む。

 蛍は少し戸惑いながらも笑顔のまま話を続けた。

 

「うん。もう、必要のない事なんじゃないかって思ったの。だってわたしはもう特別な力なんてないわけなんだし。知ったって特にいい事なんてないでしょ」

 

「それは……うーん、わたしにはちょっと分からない事だけど……でも、折角来たのに」

 

「ごめんね、燐。変な事につき合わせちゃって」

 

 両手を胸元に合わせて謝る蛍に燐は首を横に振った。

 

「わたしから行きたいって言ったんだから全然気にしてないよ。あ……ねえ、蛍ちゃん。あの石碑みたいなのに何か覚えってあるの?」

 

「ううん。わたしも初めてみたよ」

 

「そっか……そういえばさ、あの辺ってちょっと窪んでたよね。何でだろう?」

 

 それなりな考えが燐にはあったが、憶測で話す前に蛍に聞いてみる。

 

「さぁ、わたしにはちょっとわからないかも……」

 

 蛍がそう言うと、燐は口を結んで何やら考え込むようにじっと焚き火を眺めていた。

 

(燐………)

 

 蛍もそれ以上は何も聞かず、燐と同じように燃え盛る炎の中を凝視するように見つめた。

 

 背の高い木の上の方でがさっと何かが動く音がしても、二人は特に気も留めずに焚き火の火を見つめ続けていた。

 

 ……

 ……

 

 どのぐらい時間が経ったのだろう。

 

 ぱちぱちと香ばしい音を立てていた焚き火も小さくなっていた。

 あらかた燃やし尽くしたのか、その下には灰が砂山を作っていた。

 

「あの時のわたし、ちょっとおかしかったかな?」

 

 素直に頭を下げる蛍。

 謝られるいわれなんかないと困惑したように燐は首を横に振った。

 

「おかしいなんて……ただちょっと、驚いちゃっただけで」

 

 燐は何故か弁明するように言葉を走らせると、赤く照らされた蛍の顔を眺めながらぽつりとつぶやいた。

 

「それにさ」

 

「うん」

 

「わたしにも蛍ちゃんの気持ち、ちょっとだけ理解できるから」

 

「それは……」

 

 座敷童だから? 

 とは聞けなかった。

 

 もうその概念すらも意味を持っていないから。

 

 多分、あの場所から幸運な事が始まって、後に歪みも起きた。

 

 だから、もういらないと言う事。

 幸運も不幸ももう欲しくはなかったから。

 

「もうすぐ火が消えちゃいそうだね」

 

「うん」

 

 小枝の上で小さく踊る火柱を並んで眺めている。

 

 火は消えそうで消えない、絶妙ともいえる加減で燃えていた。

 実際は相当な温度があるから触ったら重度の火傷になってしまうけど。

 

 それでも触れてみたいだけの儚さがあった。

 

 まるで二人の心の様に脆くて弱々しく見えたから。

 共感しているような気持ちになったからだった。

 

「前にさ、オオモト様が火が消えたら灰が残るって言ってたけど、アレってどういう意味だったんだろ……」

 

 ぽつりと燐が呟く。

 あの人の発した言葉は今でもしこりのように胸の中に残っていた。

 

「わからない。でも、誰しもいつかはそうなるから」

 

 蛍も燐と同じく一言一句、忘れたことなどなかった。

 

 それは自分との繋がりだけじゃなく、一人の()()としての彼女を記憶していたからだった。

 

「だから、生きるだけの意味なんてないって、そう言いたかったのかも」

 

「生きがい、かぁ」

 

 今は煙も殆ど出ておらず、後は消えるのを待つだけになった。

 

 そして何かの前触れのように炎は、ぱちっと一度大きな音を立てたと思うと、白い灰に溶け込むようにして静かに消えていった。

 

 ……

 ………

 …………

 

「なんかさ、テントの中だと余計に静けさを感じるよね」

 

「夜だから余計に、ね。それにさ、なんか今日って虫の声ってあんまりしなくない? このテントって流石に防音効果まではないと思ったけど」

 

「世界中でわたしたち二人だけみたいだね」

 

 火が完全に消えてしまったのを合図に、燐と蛍はテントの中に潜り込んでいた。

 

 薄い布一枚で区切られただけの頼りない部屋(テント)

 

 けど二人だったから。

 思っていたほどそんなに悪いものじゃなかった。

 

「さっきから、遠くで電車の音がしない? 気のせいかな」

 

 テント越しに蛍は耳を澄ました。

 

 幻聴にしてははっきりと聞こえている気がする。

 流石に銀河鉄道の音じゃないとは思うけど。

 

「わたしにも聞こえてるよ。周りが静かだからここまで音が流れてくるのかもね」

 

 だとしたらわたし達が良く使っているローカル線の鉄道の音か。

 それで蛍は納得した。

 

「何かさ、既視感ない? ホラー映画とかで見た事があるんだけど」

 

 蛍のその口ぶりだけで燐は察することが出来た。

 

「あ、分かるー、映画とかでは定番のシチュエーションだよねー。夜にキャンプしてたら突然ゾンビに襲われるやつって」

 

「ねぇ、燐。何か武器になりそうもの持ってきてる?」

 

 からかって言った言葉を本気にとらえたのか、急に蛍が声を潜めて聞いてくるので、燐は思わずきょとんとしまっていた。

 

「蛍ちゃん流石に武器は……それにあんな事、もうそうそう起きないと思うよ」

 

 サバイバルナイフと言われるものなら一応持ってきてはいるが、あまりにも小さすぎてとても武器になるような代物ではない。

 

 プレハブ小屋で拾った鉄パイプは実家の自分の部屋に置いてある。

 これは何なのかと母に聞かれた時、”守り神”だからと言っておいた。

 

 やっぱりまだ休んでいた方がいいと母に疑われてしまったが。

 

 それに、もうあんな目に遭うのは懲り懲りだった。

 

(武器何て持っててもいい事なんてないし、持ちたくもないよ、もう。でも、もし蛍ちゃんに何かあったらわたしはどうやって蛍ちゃんを守るんだろう……)

 

 燐は困惑した顔で逡巡する。

 どうすれば蛍を納得させられるのか、と。

 

「くすくすっ、もう燐ってば」

 

 蛍は堪えきれず噴き出していた。

 当惑した燐は再びきょとんとしてしまった。

 

「ごめん、燐がそこまで本気にするとは思わなかったから。それにホラー映画みたいに静かな夜って言いたかっただけ」

 

「なぁんだ、もう……けど、ホラー映画みたいな夜って誉め言葉じゃないと思うよ」

 

「そうかな?」

 

「そうだよー」

 

 特別な環境がそうさせるのか、今日の二人は特別はしゃいでいるようにみえた。

 

 そういう意味ではあの時の夜の時ととても似ていた。

 

「そういえば、どう、蛍ちゃん。狭苦しくない? ちゃんと寝れそう?」

 

「うーん、まだ何とも言えないけど。十分寝床は確保できてると思う」

 

「そっか、ならまずまずといった感じだね」

 

 火が消えてしまうと、急に闇が牙をむいてくる気がしてくる。

 妙に静かすぎる事が返って不安を煽ってくるようだった。

 

 だからか燐は手持ちのLEDランタンやライトを寝る寸前まで灯しておくことにした。

 

 最近のものは電池もちも良いし、ソーラー発電のもの持ってきているので、朝まで点けっぱなしにでもまた使うことが出来るから。

 

「テントの中って涼しいかと思ってたんだけど、案外そうでもないんだね。むしろ蒸し暑いね」

 

 外よりも暑く感じる。

 蛍はもう一枚服を脱ごうかなと思案した。

 

「夏のキャンプは、まあ、結構蒸し暑いんだよねー。でも夜は結構冷えるから脱がない方がいいよ。風邪引いちゃったら。あっ、蛍ちゃん、背中痛くなってない?」

 

「背中? んー……」

 

 燐に言われて蛍はマットレスの上でごろごろと体を左右に振ってみた。

 

 平らな場所で設営したおかげか、直接地面に寝っ転るような石の様なごつごつ感は感じられなかった。

 

「割と快適みたいかも。これならだいじょうぶっぽい」

 

 満足気にごろごろ転がる蛍を見て燐はほっと安堵した。

 

「初めてのキャンプみたいだから。寝心地悪くないかちょっぴり不安だったんだ。ちょうどいいキャンプ地があって良かったよ。蛍ちゃんに感謝だね」

 

「でも、後は燐が殆どやってくれたから」

 

「キャンプは場所決めが肝心だから、設営場所は結構気を遣うんだよ。その点ここは見晴らしも良いし静かだしで、最高のロケーションだよね」

 

「燐が喜んでくれてわたしも嬉しいな」

 

 ほほえむ燐につられて蛍も笑顔になる。

 

 このままいつまでも話していたかったけど、やはり疲れているのかそんなに長くは持たなかった。

 

 お菓子を食べながらお喋りしていた燐と蛍だったが、蛍が大きな欠伸を一つ浮かべると、それを終身の合図にするようにして横になった。

 

 確かに狭いテントだけど、達成感からかぐっすりと眠れそうな気がした。

 

 …………

 …………

 

「ねぇ、燐。まだ……起きてる」

 

「う、うん。やっぱり……眠れない?」

 

「いつも寝る時間からすれば早い時間だしね。それに、まだちょっと落ち着かないのかも……」

 

 朝から登山をして、下山せずにテントで一夜を明かす。

 蛍にとっては何もかもが初めての経験だったから。

 

 興奮して眠れなくても無理はなかった。

 

 身体は限界まで疲れているはずなのに、意識だけが覚醒している感じ。

 

 寝てしまうのが勿体ないというよりも少し怖くも感じる。

 

 日常と非日常の狭間にいるようなふわふわとした感覚にまだ慣れていなかったから。

 

 蛍は天井に向けていた視線を燐の方に向けると、暗がりの中、小さく微笑む。

 

 ただそれだけの事なのに目が覚めたように燐は胸をどきっとさせた。

 

「あの時さ、燐と一緒に寝たんだよね。廃墟で」

 

「……なんだか誤解されそうだよね、その言い方だと。けど、そうだったね。ボロボロだったから寝心地悪いと思ったけど案外寝れるもんだよね」

 

「燐はほら、あの時だって凄く疲れてたから……」

 

 あの夜で初めて燐は車を無免許で運転していた。

 けれど、燐の疲労感はそれだけではなかったのだが。

 

「蛍ちゃんだってあの時へとへとだったでしょ。今日だって、途中で倒れるんじゃないかって一応心配したんだよ」

 

 蛍はあの”青いドアの世界”で衝撃的な告白をされていた。

 

 人じゃないと言われたことで、ある意味納得できたことはあったけど、それ以上に葛藤が大きく、きっと燐が一緒じゃなかったら輪郭さえ失っただろうと思っていた。

 

 あの時の疲れと今日の疲れは性質は違うけど、感覚的な所でどこか似ていた。

 

「そうだったっけ。なんか、ちゃんと目的地に着いちゃうとそういう辛かったのって忘れちゃうよね」

 

「辛かった分、達成感が凄いもんね。そういうのも山の醍醐味なんだよ」

 

 指をくるっと回しながら燐が少し得意げに解説していると、蛍がくすくす笑い出した。

 

「ご、ごめん。ちょっと調子に乗っちゃったかなぁ」

 

「ううん、そんな事ないよ。ただ、今日は燐に色々教えられちゃったなぁって思っただけ」

 

「そっかぁ……」

 

 夜行性の鳥だろうか、少し奇妙な鳴き声がテントの外の世界を響かせる。

 

 蛍が一瞬、体をびくっと強張らせる。

 燐は蛍の小さな手をぎゅっと握った。

 

「今夜は手を繋いで寝る?」

 

()()()でしょ?」

 

 燐は何となく訊ねただけだったが、蛍は目を丸くして少し意味ありげな台詞でいった。

 

「なんだか付き合っているみたいな言い方だよね、それ」

 

「え、実際付き合ってるんじゃないの、わたしと燐って。野外で開放的だからもっと大胆なことするのかなーと思って、ちょっと期待してるんだけど」

 

 ドキドキと、胸の高鳴りを隠すことなく、蛍は少し艶のある唇をひらく。

 

 期待のこもった瞳で見つめる蛍に、燐はため息交じりの息を吐いた。

 

「蛍ちゃんは……キャンプを誤解してるよ、きっと」

 

「そうかなぁ。ここなら奥手な燐も大胆になってくれると思ったんだけど」

 

「わたしはそんな事……」

 

 するわけないと燐は言うつもりだったが、山小屋での一件を急に思い出してしまった。

 

 あれもいわゆる”開放的に”なったせい、のものなのか。

 

(山は人を素直にさせるっていうけど……わたしってそんなに性欲強いのかなぁ……うー、なんだかすごく恥ずかしい)

 

 今更な事とは言え、意識してしまった燐はそれ以上何も言えなくなってしまった。

 

(……??)

 

 急に顔を真っ赤にして乙女のように俯く燐に蛍は見当も付かず、小首を傾げざるを得なかった。

 

「からかったりしてごめんね、燐。手、つなごうよ。わたしが寝てる間なら何してもいいから」 

 

「もう、蛍ちゃんってば……そんな事ばっかり。でも、ありがと」

 

 なんだか逆になってしまったが、ようやく二人は手を繋ぐことが出来た。

 

 白くて細い指が何かを求めるように握られる。

 

 もう離したくないと言ってるように見えて、燐は少し寂しそうに繋がれた手の動きを見つめていた。

 

「あの──」

 

「あのさ」

 

 同じタイミングで声を掛け合ったことは、嬉しくもあり恥ずかしくもあったから。

 

 蛍も燐も顔を見合わせたまま、出方を窺うみたいに膠着してしまった。

 

「あ、えっとぉ……」

 

 堪らず燐が先に声を出した。

 

「燐から言っていいよ」

 

「蛍ちゃんが先でいいよ。わたしは後でいいから」

 

 他愛もない言葉の譲り合い。

 そんな事ですら今夜は特別感があった。

 

 多分きっと二人とも無意味に浮かれている、そう蛍は思った。

 

 マンションに引っ越し来た時もそうだった。

 

 ベッドはもう置いてあったのに意味なく床に一緒に寝たりして、二人で一緒の特別感を五感で味わっていたのだ。

 

「……」

 

「……」

 

(このまま、燐と見つめ合っているのも悪くないのかも)

 

 そんな思いを蛍は胸中で温めていたのだったが。

 

「じゃあ、わたしから、先に話すね」

 

 燐は深いため息を漏らすと、観念したように先に話し出すことにした。

 

 蛍は少し寂しい思いもあったが、今は燐の声に耳を傾ける。

 

 愛しい人の声を一言でも聞き漏らさないよう、可愛らしい唇が動き出すのを静かにじっと待っていた。

 

「えーと、その……っと……」

 

 けれどその可愛らしい口は途端にしどろもどろになり、適切な言葉の形を作らなくなってしまった。

 

「どうしたの」

 

 囁くように蛍は尋ねる。

 気を使いすぎかなと思ったが、考えるよりも言葉が先だって出ていた。

 

「あ、うん」

 

 絆された燐は頬に赤味を作って足をもぞもぞと動かす。

 

「何言おうとしたのか忘れちゃった」

 

 燐は子供っぽく舌を出した。

 それに蛍は柔らかく笑みを作る。

 

「燐って変なところで気を回すよね。本当はもっと大事な事が言いたかったんじゃないの」

 

「そんな事ないよ。わたしなんて大したこと言えないし」

 

「そうかなぁ、じゃあ、例えば?」

 

 話しをふられて燐は首を捻る。

 

「……明日の、天気のこと、とか?」

 

 蛍は目の前で噴き出しそうになった。

 

「じゃ、燐。明日はどう。ちゃんと晴れそうかな?」

 

「もちろん明日は快晴だよ。だから普通に下山できるよ思うよ」

 

「わたしも晴れだと思ってた。だってスマホで確認したし」

 

 蛍はくすくす笑い出す。

 燐と少し的外れな会話をするのも楽しかった。

 

「そーゆーと思った。でも山の天気って結構変わりやすいから完全には当てにならないんだよね」

 

「なるほどね。わたしはどうしてもスマホを当てにしちゃうなあ」

 

「今は誰だってそうだよ。やっぱりスマホの充電が一番気になるしね」

 

 スマホはそれぞれ丸い形の充電器に繋がれている。

 二人とも、ぎりぎりまで充電させておくつもりではいた。

 

「ねぇ、燐。明日下山したらお風呂に入ろう? 汗でべたべただと燐だって嫌でしょ」

 

「それはもちろん。けど……小平口町って旅館やホテルはあっても温泉はないんだね。せめて温泉でも出れば観光地として盛り上がったのに」

 

 この問題は今も続いてた。

 

 色々町おこしのプランを立てている小平口町だったが、どうにも長続きしない。

 やはり根本たる解決が必要だと、毎月、町内会で話し合ってはいるようだが。

 

「うん、だから幸運が必要だったのかもね。あんな事を続けててまでも」

 

 手を軽く握りながら自虐気味に微笑む蛍。

 燐もその手を優しく握り返した。

 

「わたし達って運によって生かされてるのかな。だったら……」

 

「生きている意味なんてない。燐はあの時、そう思ったの?」

 

 燐は唇を開くかわりに見つめ返した。

 

 蛍もただ黙って燐を見つめる。

 

 密室というには頼りない布一枚で区切られただけの部屋の中で。

 二人だけの静謐な時間が流れていた。

 

 新築のマンションとも、青いドアの家とも違う、ちょっとした異世界感。

 

 現実であるのに異世界を感じとれるのは、オリーブ色の天井に月がうっすらと映り込んでいるせいからだろうか。

 

 こんなに近くにいるのに何の緊張感も感じない。

 

「蛍ちゃんは……何のために生きているの?」

 

「わたしは……」

 

 蛍は軽く口元を緩めるとつないだ手と手を重ね合わせた。

 それだけで燐は理解してくれると知っていたから。

 

 燐は微睡むように目元を細めると、一つ息を吐いた。

 

「なんか、上手く誤魔化された気がするね。でも……ありがとう」

 

 確かめたかったわけじゃないけど、好きな人の好意を受けるのは素直に嬉しかったから。

 

 それだけで。

 

(戻ってきた意味があるんだよ、蛍ちゃん)

 

「もうちょっとちゃんとした答えが欲しいの? じゃあ燐、さっきの続きでもする?」

 

「だから、そう言うことじゃなくて。もう、蛍ちゃんのせいで今夜は寝苦しくなりそう。ちょっとラジオでもつけるね」

 

 すっかり目が覚めてしまった燐は、表情を隠すようにスマホを操作し始めた。

 

 どこからでも全国のラジオが聞けると言うアプリを起動しようとしたのだが。

 

「ん、あれれ? なんか……圏外になってる」

 

 燐は驚きの声をあげる。

 その言葉に蛍も身を乗り出して覗き込んだ。

 

「なんか、山の上って電波が届かないことがあるってよく聞くよね」

 

「確かにそういう山もあるけど。でも、さっきまで普通に使えてたんだけどなぁ」

 

 充電は十分にしてあるから壊れてはいないはず。

 試しに蛍のスマホの電源も入れてみたが、やはり圏外だった。

 

 だから、機種やキャリアは関係ないと思う。

 

 他に考えられる原因は……。

 

「夜は電波が山の上まで届きにくい、とか?」

 

「そんな事ってあるのかなぁ? まあ、別でラジオを持ってきてるからいいけど」

 

 スマホを諦めると、燐は自分のバックパックから小型のラジオを引っ張り出して自身の枕元にことんと置いた。

 

 アウトドアでは非常用のラジオは必須だったから。

 そう、聡から教わったので燐は今度も持ってきたのだが。

 

「燐、そのラジオって」

 

 蛍は思わず指をさす。

 確かに見覚えのあるラジオだったから。

 

「うん、そうだよ。また、持ってきたの。古いけどまだ使えるから。こんなのでも緊急時には役に立つからね」

 

 燐の持ち物にしては地味な黒色のラジオ。

 それは聡からのお下がりの品だった。

 

 そこまで思い入れがある物ではなかったが、あの一件からは少し大事に使おうという気になった。

 

(このラジオが何かしたわけじゃないとは思ってるけど。でも)

 

「ねぇ、燐……」

 

 改まってたずねる蛍に燐は小さく肩をすくめて笑いかける。

 

 蛍が何を言わんとしているか良く分かっているから。

 

「分かってるよ、蛍ちゃん。あのちょっと不思議なラジオがかかるか試してみて欲しいんでしょ?」

 

「あ、うん」

 

 蛍の目を向いて頷くと燐はラジオのスイッチを入れようとする。

 

 蛍にそう言われると少し意識してしまう。

 

 一瞬躊躇した後、燐は意を決したようにスイッチをONに入れた。

 

 ザー、と砂嵐のような音が流れる。

 

 燐はすぐさまラジオのチューナーを弄った。

 

 ぎゅるぎゅるぎゅる。

 

 あのヘンテコなDJ放送の周波数は覚えていなかったので、燐は適当にダイヤルを回した。

 

 当然つながるはずもなく。

 

 ザー、ザー。 

 

 それどころか、定番の、普通のラジオ放送すらつながらなかった。

 

「壊れちゃった?」

 

 残念そうにラジオを見る蛍。

 

 見た目では分からないが、蛍の言う通りこのラジオはもうダメなのかもしれない。

 

 電池だって新しくしたばかりだったし。

 

「うーん、みたいだねぇ。やっぱりこれもダメかぁ」

 

 割と古いものだから急に壊れても仕方がないとは思う。

 残念ではあるけど。

 

「やっぱり、そのラジオ、もしかして聡さんから?」

 

「うん……まぁね」

 

「じゃあ、勿体なかったね」

 

 ウェアやシューズは自分で買ったものだけど、以前はアウトドアの様々なものを燐は聡から譲り受けたりしていた。

 

 大体が古いものばかりだったが、ちゃんと手入れを続けていれば長く使えるものばかりだったので重宝したのだが。

 

 もしかしたら良いものだけを選んで渡してくれていたのかもしれない。

 今思うと、彼の不器用な愛情表現の一つだったのかもと、燐は思った。

 

「仕方ないよ。形あるものはいつかは壊れる、ってお兄ちゃんも言っていたし」

 

 ”ゴドー”と名乗っていたあのDJと聡はどこか似ていると燐は思っていた。

 

 軽い口調だけど口調が哲学的というか、変に理屈っぽい所が似ていると少なからず思っていた。

 

 だからか、蛍とは少し違った思いでDJの放送を待っていたのだが。

 

「仕方ないよね。ダメなものはダメなんだし」

 

 別にこのラジオでなくとも、機会があれば”彼”とつながるとは思うが、なんとなく何かが終わった感じがあった。

 

 始まりなのかもしれないけど。

 

「ねぇ、燐。このままラジオをつけっぱなしにしておこうよ」

 

「え、でも壊れたんだから何の放送も掛からないよ。おまけにうるさいだけだし」

 

 ノイズしか出さないので燐はスイッチを切っていた。

 

「こういう”ノイズ系”って安眠できるって聞いたことがあるよ。泣いていた赤ちゃんが泣き止んだって話もあるし」

 

 あくまで話だけで実際に見たことはないけど。

 

 そういう例もあるみたいだから、と蛍は付け加えた。

 

「わたしも聞いたことがある。静かすぎて眠れないって声もあるもんね。実際、トモなんて逆に五月蠅くしないと寝れないって前に言ってたなぁ」

 

「トモちゃんもそうなんだ……」

 

 意外そうというよりもキャラにあっているような気もする。

 

(しかもデスメタルじゃないと眠れないって言ってたよね、トモ。それは流石に冗談だと思うけど)

 

 冗談であったとしても、トモと一緒に寝るのは多分無理だろうと燐は思った。

 

「ん、じゃあ、つけっぱなしにしてみるね。ボリュームは抑えるけど」

 

 燐は再びスイッチをいれる。

 相変わらずノイズしか出してはくれなかった。

 

「ありがと。これで枕を高くして眠れるね」

 

「そういう意味だったっけ? でも、蛍ちゃんこういう音が無くてもいつも安眠しているでしょ」

 

「それは燐も、でしょ。目を閉じたと思ったらすぐに寝息立てちゃってるし」

 

「蛍ちゃんだって、一度寝たら中々起きないよね」

 

 二人はくすくすと笑い合った。

 

「おやすみ、蛍ちゃん。明日はそんなに早くしなくていいからね」

 

「うん……じゃあ、おやすみ、燐」

 

 何かを期待されているような気がしたが、特には触れずに燐は目をそっと閉じた。

 

 蛍の言っているようにすぐに寝息が聞こえるようになる。

 小さく可愛らしい寝息はくすぐられるほど無邪気なものだった。

 

 蛍は少し寂しく笑みを作ると、燐の頭をそっと撫でる。

 燐の髪はひよこの産毛のようにぽわぽわとしていて、ずっとこうしていたいぐらいだった。

 

「おやすみ、燐」

 

 蛍はもう一度囁くと、そっと額に唇をつける。

 

 もう既に気付かれているかもしれないが、燐からは何も言ってこないので続けていた。

 少なくともマンションで一緒に住むようになってからは毎晩のようにしている。

 

 この事に意味があるとは思っていない。

 どうにかして欲しいというわけでもない。

 

 ただ、綺麗だから。

 守ってあげたいから、そうしているだけ。

 

 それに頬や唇ではないのでそう言った意味合い(ノーカウント)とは違うと思っている。

 蛍の一方的な思い込みかもしれないのだが。

 

(わたしもやっぱり寂しいのかな。燐……あなたが居ない夜なんて考えたくないよ)

 

 近くだからという意味だけじゃない。

 例え離れていてもきっとそう感じることだろう。

 

 燐が世界に居ない事。

 それは蛍にとって何よりも耐え難いものだと分かってしまったから。

 

(でも今日は抱き付いたりしないよ。燐だって疲れてるって分かってるし、わたしだって、今日はもう……)

 

 安堵したら急に睡魔が襲ってきた。

 

 蛍は燐の手を包み込むように握りながら、無垢な寝顔に微笑む。

 そして何やら小さく呟くと、蛍も瞼をそっと閉じた。

 

 小さなテントの中で、二人の少女の寝息に混じって無機質なノイズが流れていく。

 

 それは奇妙なハーモニーとなって燐と蛍を深い眠りへと誘っていった。

 

 …………

 …………

 …………

 

 月影に紛れた木の上で梟に似た鳴き声が木々の隙間を縫って森全体に響いていた。

 

 頼りないテントで健気に手を握り合って眠っている少女たちにはその声は届かず、また起きる理由にすらならなかった。

 

 ラジオから流れるノイズはずっと同じ音階を出し続けている。

 まるでその為に作られた機械であるかのようにひたすらに。

 

 じじっ、じっ……。

 

 何か別のスイッチが入ったみたいに、ノイズが急に変化を見せ始めた。

 

 変化というよりも、何らかの電波が回線を遮断して乗っ取っているみたいに、ぶつ切りになった音が流れ始めた。

 

 それは音楽だった。

 

 聞き覚えのあるような、ないような。

 そんな懐かしさを覚えるサウンドがノイズしか発しなかった古いラジオから流れている。

 

 変化はそれだけじゃなく。  

 

「………は………うけど……が………」

 

 ”声”も流れてきていた。

 

 けれども、ノイズが強くて何事かは聞き取れない。

 もっとも蛍も燐もこの事に気付かなかったので、その声も内容も分からなかった。

 

「……く……方が………また……」

 

 誰も耳を傍立てない放送をDJは続けていた。

 何かを知らせたいのか、声色は次第に早口になっていく。

 

「……だと、キミ達は──」

 

 放送の途中だったラジオが急に切れた。

 

 何かの糸が切れたようにプツンと聞こえなくなる。

 

 その後にはザーザーと無機質なノイズに戻っていってしまった。

 

 奇跡と言ってもいい不可思議な出来事が誰にも知られず終わった。

 

 その事を悔やむものはなく、また、静かな夜が一匙のノイズ音と朝まで同化していく……そう思われていた時だった。

 

 ウーーッ! ウーーッ!

 

 黒く切り取られた山の向こう、その更に先の山の陰から耳障りな音が山肌を伝わってこの地域全体に流れてきたのだ。

 

 災害時に流れる防災サイレンの音がこんな山の上まで流れてきていた。

 

 これも聞いたことのある音。

 

 ()()はまだ二人とも聞かなかったけど、去年の大雨の時には小平口町全域に流れた非常警報の音だった。

 

 けど今は、まだ雨は降っていない。

 あの時だってそうだった。

 

 雨が降る前に流れてくる警報。

 

 それは何を意味していたのか。

 

 もしこの時、蛍か燐のどちらが目を覚ませば何かが分かったのかもしれない。

 

 分かったところでどうしようもないのかもしれないけど。

 

 それすらも意味を持たない。

 何故なら二人とも深い眠りの海に沈み込んでいるのだから。

 

 ウーーッ、ウーーッ!

 

 けたたましく鳴るサイレンはまだ続いていた。

 

 誰が鳴らしているのか、何を伝えようとしているのか。

 

 ”何が”聞かせようとしているのか。

 

 スヤスヤと寝息を立てる二人には恐らく無意識で分かっていたのだろう。

 

 それは、耳を塞いでも流れ込んできたから。

 

 明けない夜が始まる時の合図。

 それがまた繰り返されようとしていた。

 

 

 

 ── Despair no matter what.

 

 

 

 ────

 ────

 ────

 

 

 




■ IKEA

この前久しぶりにIKEAに行きましたよー。って言っても買ったのは靴ベラとかネットとかの細々としたものばかりでしたけどねー。

で、折角なのでフードコートでベジドッグを食べてきましたよー。っていうかいつの間にかホットドッグが値上がりしてて、ベジドッグが一番安くなっていましたねぇ。
で、ベジドッグ初体験──んむー、フェイクミートらしいのでソーセージの肉々しさは全くなく、むしろ少し苦みがあって……ちょっと身体に良さそう? 嫌いではないですけども。

公式を見ると材料にケールやレンズ豆などの植物性のもので作られているみたいですねー。ヴィーガン向けなのかな? でもお手軽に野菜を味わってみたい方にもいいのかもしれないですね。


■ トゥームレイダー

某サイトで期間限定の無料DLがあったので、欲張って三本全てDLしてみました~~。
とりあえず一番容量の大きいのから初めてみましたけど……ボリュームあるなぁこれ。結構やってるのにまだ半分ぐらいしか進んでないのかー。
っていうかトゥームレイダーシリーズって初めてプレイしましたけど、こんな崖をよじ登るゲームだったのかー。地上波で流れている映画をちょっとだけ見た程度の知識しかなかったんですけど、まさかこんな岩壁に貼り憑いたり、崖をよじ登るゲームだったなんて……更に弓や銃で人や動物をバンバン殺して剥ぎ取るハンティングゲームだとも思わなかったですよ。

謎解きゲーだと思ったんですけどねー。まあ、他のシリーズはまだやってないから分からないですけどー。

そしてばんばん死ぬ、死に死にゲーだし。
高い所から落ちても死ぬ。罠にかかっても死ぬ。流れが急な川に落ちても死ぬ。獣や敵に襲われても死ぬ。ムービーシーンだと思って見てたら実は動かせるシーンで津波に飲まれて死ぬ。等、色々なパターンの死が見れる楽しいゲームです。

サブクエストも多くて楽しいけど、割と時間泥棒だなぁ。
っていうかまだ二本も残ってる……これは、半年は遊べそうかもかも……。


あ、最近、著しく更新が遅いのはゲームで遊んでいるせいじゃないからねっ!
ただ、やる気がないだけなんだから勘違いしないでよねっ! (最低の言い訳)


すみませんごめんなさい、やる気出します。多分、いやきっと。

そう言いながら二年近くも続けているのが恐ろしい~。
凄い勢いで時が過ぎていくのも恐ろしい~。

鵺の鳴く夜は……いや、そもそも鵺って何て声で鳴くんですかねぇ。ぐぎゃーとかぴぎゃーでしょうか。

元ネタは”悪霊島”、ですね。映画を見たことがないので今度小説でも借りてみます。


それではでは~~。





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Deep Red

「やれやれ参ったなぁ……降らないって言ってたはずだったのに」

 テントの隙間越しに見える暗い空を仰ぎ見ながら燐が恨めしそうに呟く。

 ──まだ、夜明け前の時刻。

 テントをぽつぽつと打つ音で起こされた燐は、まだ覚めきってない目を擦りながら、スマホの画面と暗闇の空を交互に睨んでいた。

 液晶では確かに晴れのマークがついている。
 だからって、全てが正しいかというわけじゃないけど。

「うぅん……」

 蛍はまだ起きるつもりがないようで、うるさそうに身をよじるだけで、その小さな瞼すら開こうとはしなかった。

(ごめんね。まだ早いもんね)

 疲れがまだ残っているんだろう。
 もう少し蛍を寝かせてあげたかった。

 燐は少し横にずれたタオルケットを蛍の肩口まで掛け直すと、無防備なその寝顔を見て微笑んだ。

 想定外の事だったけど、こうして蛍と一緒ならそれすらも楽しめそうかもと、燐は少し楽観的な気持ちになった。

 それに、こういう事って山ではよくあることだし。

 昔から山には登っていたけど、予定通りに行く登山なんて滅多にはなかった。
 大概何らかのイレギュラーな事案が発生する。

 それをどうこなすかが楽しみでもあり、思案のしどころでもあるから。

 大体は登山好きな従兄から教わったことだけど、実際に体験したからこそ分かった事の方が多かった。

「さてさて、こんな時のために用意してあるんだからねー、っと」

 頼りなさげな小さなLEDのライトを頼りに、燐はバックパックから取り出した真新しい雨具に袖を通しながら、雑音しか出してないラジオをいい加減切った。

(あのDJだって雑音っていうか、変なことばっかり言ってたよね。それも微妙(いやみ)なタイミングで……)

 燐は不意にあのゴドーとかいうラジオDJの存在を思い返していた。

 碌な事は言っていなかったと思うし、それに対して燐もどちらかというと文句を言っていたとは思う。

 その度に蛍に苦笑されていた気もするけど。

 こちらが欲しがっている有用な情報はくれず、軽薄そうな口調でつかみどころがない話ばっかりしてたから当然といえば当然なんだけど。

 特に()()()()を聞かされた後にラジオから流れてきた時は、急に苛立ってしまった。

 それも仕方のない事だと思うけど。

 でも、今思うと、DJの言ってた事は殆どが正論であり、それなりに助言にはなっていた気もする。

 役に立った場面は少なかったけど。

 だからこそ、あの時は余計に鼻に付いていたとも言えるけど。

(でもなんで、あんな事言ったんだろ……まるで”分かってた”みたいにさ……)

 アイツ(ゴドー)が最後に言ったこと。
 それは蛍だけでなく、燐の中にも消えることなく残っていた。

 ”雨が降り続いたことでダムが決壊、あの町の全域が浸水した”、とDJはラジオで報じていた。

 実際に見てきたのだろうか?
 その通りにはならなかったのに?

 そう……そのニュースの様には、ならなかった。

 町も人も異変が起こる以前の状態のまま。
 至って平和というか、いつもののどかな田舎町の初夏の風景が広がってるだけだった。

 あの時から変わったことといえば、ほんの些細なことだけ。

 それは町の存在が無くなるとか、水に沈んで壊滅状態になるとかの大仰なものじゃなくて。

 人によってはどうでもいいことだけが変わっていた。

 それは──座敷童。

 ()()の存在や祭祀等の事柄がそっくりそのまま町から消えてしまっただけ。

 町の人達があれだけ頼りにしていただけに直ぐにでも町は衰退するのではと思っていたが。

(何てことないよね、本当)

 いわゆる、超自然的(ラッキー)な力がなくても小平口町は何とかやっていけているみたいだった。

 もっとも、町の会議に頻繁に出入りしている燐の母の咲良の言う所だと、”新しい町長を含めた男連中は日和見主義ばかりだから、近頃の町の発展は若い世代を含めた女が中心となって盛り上げているおかげ”とのことらしかった。

 それを聞いた燐も蛍も苦笑いをするしかなかった。

(確かに、ダムの決壊を止められる人はいなかったんだよね……? 放水する人は多分いないって……まさか本当に龍神様!!??)

 自分で言ってツッコミたくなった。

 そう言った伝承はあの町が出来る以前に、古くから河川に対してあったらしいけれど。

 だからって何でもかんでも神や伝承に結びつけるのは流石におかしい。
 確かに座敷童はいて、非現実的な町の異変は起きたわけだけど。

 それに本当に、DJの言う様に町や人が水に流されたと言うのなら、今の平穏な町や人の姿は偽りだとでも言うつもりなのだろうか。

 ……言いそうな、気もする。

 皮肉交じりの軽薄そうな声で。

 その声がもう聴けない以上、全ては憶測にすぎないわけだが。

 でもそれはDJだけでなく、”オオモト様”もそんな感じの様なことを言っていた。

 ”あるべき姿に戻る”と。

 それなら。

(わたしもやっぱり戻る、のかな……?)

 あの青い青い空と白い雲。

 何の悩みも苦しみもない、かんぺきなせかいに……。

「燐……?」

 か細い声が不意に耳朶を打つ。
 その声に気付いた燐はいつもの笑顔に戻って、夢から覚めたばかりの蛍の顔を覗き込んだ。

「あ、今度こそ本当に起きちゃった? ごめんね、なんか朝から雨みたいだったから……」

 起きてしまったらしい蛍に燐は申し訳なく声を掛けたつもりだった、が。

「すー、すー」

 またしても寝言だったようで、蛍はすぐに寝息を立ててしまった。
 前日の疲れがまだ残ってるみたいだった。

「蛍ちゃん……ごめん、やっぱり起きて。まだ日は出てないけど、ちょっと早めに準備しよっ」

「うん……わかってる」

 燐にやさしく肩を揺さぶられて、蛍はそう返事はするものの再び起き上がるような気配はまだ見えてこない。
 
 タオルケットの端を握りしめながら、瞼を開けることを拒んでいる蛍の姿は、安眠を邪魔されたことに拗ねている幼い子供みたいだった。

 やれやれと首をすくめてため息を吐く燐だが、その顔色は呆れていると言うよりも安堵の色の方が強かった。

「蛍ちゃん……分かってない、でしょ?」

「……わかってるもん」

 分かってるつもり……なんだよ。
 これでも。
 
 蛍は、湧き出てくる欠伸を咀嚼しながら、燐に尋ねる。
 起きているのは、蛍の中の三分の一程度で、他はまだ微睡みの中にいた。

「やっぱりまだ、眠いね。燐、今……何時だったっけ」

「ええっとね、4時20分」

 燐がスマホで時刻を確認する。

 充電しておいたから充電には余裕があるが、一晩経っても変わらず圏外のままだった。

「それは……早いよね……まだ夜だよ、それ」

 小平口町から登校していた時だってそこまで早起きした記憶には無い。

 燐が毎朝ジョギングをするために早起きしていることは知っているが、そこまで早くないはずだ。

「わたしもちょっと早いかなー、とは思ったけど、何とも天候がよめないからなぁ。それに携帯も繋がらないままだし」

「やっぱりまだダメなの?」

 何度も出てくる欠伸が早すぎる起床を引き戻してくるみたいで、蛍は微睡んだ瞳のままのぼんやりとスマホを握る燐の指先を見つめていた。

 明らかに眠り足りなそうな蛍だったが、それでも燐の話になんとか耳を傾けようと努力している仕草が何とも可愛らしかった。

「うん……まあ、麓まで下りれば使えるとは思ってるけどね」

 機種変更したばかりだし、流石に壊れたとかはないと思う。
 それに蛍の携帯もあるし。

「スマホって……結構不便、んにゃにゃぁ……」

 蛍は何事か言おうとしていたがついに眠気の方が勝ってしまったようで、まるで猫みたいなうやむやな言葉を発していた。

「もしかして昨日眠れなかった? やっぱり背中痛かったかなぁ」

 気づかう様に燐が顔を覗き込む。
 いつもはふかふかのベッドで寝ているから、やはりそのことが一番心配ではあった。

「そんなでもなかったよ。ただ……途中で変な夢を見て起きちゃったから」

「夢? それが原因なのね」

「多分……」

 燐は納得して頷いた。

 寝不足と言っても理由は様々だが、その中でも……夢。
 夢見の悪さだけは誰にもどうすることは出来ない。

 その理由に微笑ましく思った燐は、どこかおぼつかない瞳を向ける蛍の頭をそっと撫でた。

「じゃあ、もうちょっと横になっていた方がいいね」

 急いだほうが良いに越したことは無いが、寝不足のまま山道を歩く方がよっぽど辛いことを燐は良く知っていたから。

 優しい声で囁くと蛍は恥ずかしいのか、ストライプ柄のタオルケットでその表情(かお)を隠す。

 それが何とも愛らしく、愛おしい。
 燐は蛍の下ろした黒髪を優しく撫でながら一本ずつ丁寧に指で梳いてあげた。

 温泉には入れなかったが、それでも蛍の髪はいつものように艶やかでみずみずしさに溢れていた。

「そうする……ごめんね、燐」

 寝ぼけ眼で謝る蛍に燐は軽くため息をつくと、苦笑いで首を横に振った。

「いいってば、別にそんな事。そこまで時間に追われているわけでもないしね。もうちょっとだけのんびりしてよっ」

 それは自分に掛けた言葉でもあるようで、燐は雨具を着たまま蛍の隣でごろんとなった。

「燐もまだ、寝てたら? その内に雨だって止むかもしれないよ」

 蛍はクスっと笑いながら燐の方に手を伸ばす。
 無造作に差し出された手に燐は苦笑いを浮かべながらもその手を取った。

 壊れ物のように華奢な手は燐の手をしっかりと握ってきた。

 大切な、本当に大切なものを離さないように。

「そうやってすぐわたしを引きずりこもうとする~。蛍ちゃんは本当にマイペースだなぁ」

 困った顔の燐。
 けれど本当に迷惑しているわけではない。

 蛍はそれを知っているので、小さく笑うだけで手を離そうとはしなかった。

「いいじゃない。どーせ後は下山するだけなんでしょ?」

「んー、どうだろう? 蛍ちゃんが望むのなら今日も縦走を続けててもいいけどね」

「それは絶対……嫌」

 蛍は首を振って否定する。

 あの息が出来た水中のことでも思っていたことだが、元々が運動苦手なのだから。
 進んで体を酷使しようと言う気にはどうしてもならなかった。

 またあの筋肉痛になるのはとても嫌だったし。

「そう言うとは思ったよ」

 呆れかえるのかと思っていたが、燐にもこれには予想通りだったようで、笑って返す。

 寝ころんだまま、二人は顔を見合わせて笑った。

 実は昨日の石碑のことが燐にはまだ少し気がかりだったが、蛍が気にしないのならばそれでいいと思っている。

 自分がこれ必要以上に口出しする問題ではないと思ったから。
 直感なんだけど。

(でも、本当に雨、止むのかなぁ……?)

 僅かに見える黒い空を眺める。

 漆黒の闇。

 星どころか雲の流れさえも見えない。

 真っ暗闇の中、冷たい雨がテント内を五月蠅く打っていた。

 これでは蛍でなくとも安眠出来そうにはないが。

「ね、燐。ちょっと眠ろう。目が覚めたらきっと良くなっているよ」

 蛍は意識せずに発した言葉だったが、燐は一瞬もやっとした予感みたいなものを感じた。

「……それならいいけどね」

 あの時だってそうだった。

 ”そうなると思っていた”ことが”そうはならなかった”。

 常識は簡単に覆って、非常識とも言える不条理ばかりが容赦なく襲い掛かってきた。

 絶対なんてない。
 それは分かっているけど。

「きっと大丈夫だよ、ね?」

「そうだね」

 蛍だって燐だって分かっている。
 大丈夫なんて言葉は気休めにもならないなんてことは。

 それでも口をついて出てしまうのは、きっと。

「ん? どうしたの燐」

 微睡んだ視線を向ける蛍と正面から見つめ合う。
 その頬は赤く上気して、少し熱っぽく感じてみえた。

「蛍ちゃん。もしかして熱でもあるの?」

「分からないけど……あ、そうだ。燐、お熱測って」

 燐はつい、えーと声を出してしまった。

 蛍は頬をむくっとさせる。
 その仕草は本当の子供の様だった。

「蛍ちゃん、さっきから甘えっぱなしだよー。わたしが居なくても大丈夫なんじゃなかったの?」

「そんな事、一度も思ったことないよ。燐が居ない方が良いだなんて」

「そう言う意味で言ったんじゃなくって……」

 それまでのんびりとした口調の蛍だったのに、こういう時だけちゃんとした返事をするから、つい焦って言い訳みたいなことをいってしまった。

「燐とずっと一緒にいたいよ。わたしはそれだけ、なんだよ」

「それは、わたしだっておんなじだよ」

「ほんとう?」

 無垢な視線の蛍が燐を捉える。

 透明で純粋な瞳に映るのは燐ただ一人。
 その事が嬉しくもあり、少しだけ怖くもあった。

 もし自分がまたあんなことになって蛍の目の前から消えてなくなったりしたらどうなるのかと。

 答えは……多分、分かっている。
 けど、それを確かめるようなことはもうしないと決めていたから。

「仕方がないなぁ。どれどれ……?」

 燐は観念したように首をすくめると、蛍の額に手を乗せた。
 微熱があるような気もするけど、そこまで熱っぽくはない。

 じゅうぶん、平熱の範囲だと思った。

「おでこ同士で測らないと本当の体温って分からないんじゃない?」

 測り方に不満があるのか、蛍が少し口を尖らせて言った。

「大して誤差はないと思うよ。それに、正確に測りたいならやっぱり体温計じゃないと」

「燐、体温計持ってきてる?」

「ううん、蛍ちゃんは?」

「持ってない」

 蛍は大きく首を横に振る。
 そこまで全力で否定しなくても持ってないことは燐には何となく分かっていた。

「ま、いいけど……」

 それは言葉の通りだった。
 けれど蛍は不満そうに燐を覗き見る。

 燐は本当に深いため息をついた。

 後にしてみれば普通に幸せなことだったんだと思う。
 二人きりでいることも、心地よい眠気があったことも含めて。

 燐はしばらく目を閉じて雨音を楽しんでいたが、やがてまた眠りへとついてしまった。

 いつの間にか蛍も寝息を立てている。
 幸せそうな寝顔はとても愛おしく、それが無性に儚くみえた。


 微睡んだ瞬間、何かの声を遠くに聞いた。

 それは奇妙な叫び声などではなく、懐かしい感じのする柔らかい声色。

 まるで子守歌の様に耳朶を打ってくる。

 だからか安心して眠りの途につくことが出来た。


 とても幸運な、幸せな時間だった。


 ……
 ……… 
 …………



「燐ー! こっちー」

 

 雨が降りしきる中、蛍がランタンを手にこちらを呼んでいる。

 

 しばらくたっても雨はやむ気配を見せないばかりか、以前にも増して強くなってきている気がした。

 

「あとちょっとだけ待ってて。後、これだけ、だから!」

 

 最後に残ったテントを無理矢理に袋の中に押し込む。

 雨水と泥にまみれてぐちゃぐちゃになっていたが、それを気にする余裕もなく。

 

 燐は急いでバックパックを担ぐと、雨宿りしている蛍の所まで一気に走った。

 バシャバシャと飛沫を跳ね上げながら、黛色の大きな木の下に転がり込む。

 

 息を切らしながら燐が顔を上げると、心配そうな顔の蛍がタオルを持って出迎えてくれた。

 

「ご、ごめん。ちょっと手間取っちゃって」

 

 泥を落としながら謝る燐に蛍は困った顔で笑みを浮かべた。

 

「ううん、むしろ燐にばっかりさせちゃってごめんね」

 

 あれから小一時間程寝ていたようだが、それでも雨足は強まるばかりだったので、軽く朝食を済ませて、テントを撤収してきたのだが。

 

「いいっていいって、それより……」

 

 息をついて微笑むと、改めて燐は周囲を見渡す。

 

 まだ日の出る時刻じゃないとはいえ、漆黒の闇は山の奥の方までも続いているみたいだった。

 

 この分だと山裾から覗く日の出などはとても期待できそうになかった。

 

(蛍ちゃんと一緒に見たかったのにな……)

 

 淀んだ空を睨みつけた燐は肩を落としてため息をついた。

 

 折角テントで一泊したんだから、朝日を眺めながら蛍と一緒に淹れたてのカフェオレでも飲みながら軽く朝食を取って、余裕持って下山……とでも思っていたのだったが、この雨のせいですっかり台無しになってしまった。

 

 恨めしそうに黒々とした空を仰ぎ見ても、すぐさま天候が良くなることはなく、むしろそれは当分先に見えた。

 

 燐の想いを見透かしたみたいに蛍は口に指を添えて小さく笑う。

 どうにもならないことに頭を巡らせても仕方がないと言うみたいに。

 

 それよりも目下の問題は。

 

「天気の方は、ね。それより燐、下山……できそうかな? 足元がおぼつかなくなりそうで、わたしちょっと自信ないけど」

 

 そう言って蛍は足元のシューズを覗き込む。

 まだ新しいから機能的に問題はないけれど。

 

 問題があるとすれば履き手の方だろうか。

 

 蛍は緊張したように俯きながらその場で足を何度も踏み下ろして地面の感触を確かめているようだった。

 

 蛍も燐もトレッキング用の装備をしているからある程度の天候なら大丈夫だとは思うが。

 

「雨道でも一歩ずつ降れば大丈夫だと思うよ。装備もちゃんとしてるし。でも、気を付けるに越したことはないね」

 

 燐はそう言って、蛍の手にトレッキングポールを持たせる。

 

 こういった、コンディションが悪い時の方がアウトドアギアの真価が発揮されるものだから。

 

 その為にはちゃんした使い方をしていないと意味がないけど。

 

 例えば、降りの時はポールを立てて持つと膝への負担が大分軽減されるし、いざという時の転倒防止にもなる。

 

 折りたたみ式の細いアルミ製のトレッキングポールなのだが、支えがあるのとないのとは安定感が全然違うから。

 

 燐は持ってこなかったが、それは昔からの経験からくる慣れとかではなく、単に少しでも荷物を軽くする為のことだった。

 

 低山だからと油断していると思わぬ形で足をすくわれるケースもあるのだが、その辺りの認識を燐はまだほんの少し軽視していた。

 

 以前にもまだ下ろしたばかりのシューズでいきなりトレッキングに望んで、足を痛めてしまったとても苦い経験があったと言うのに。

 

 学習能力がないわけではない。

 むしろ頭はいい方だったし、器用で何でもできた。

 

 だからこその自信と言うか余裕の様なものがあるのかもしれない。

 

 その辺りは蛍とは真逆であった。

 

「忘れ物は、もうないよね」

 

「うん。流石にね」

 

 両手にポールをはめた蛍はふと振り返る。

 

 さっきまで燐と一緒にテントで寝ていた開けた場所は雨煙のヴェールに包まれていて、まるで夢であったかのようにひっそりとしていた。

 

 その光景を見ていたら、不意の寂しさを蛍は感じた。

 

 理由は分からないが、幼い頃の楽しかった記憶のような儚い思いがほんの数分前のそこに確かにあったような気がしたから。

 

「大丈夫? もう少しここで様子見してようか?」

 

 雨具を頭まですっぽりとかぶった燐が気を遣うように声をかける。

 

 雨が上がるまでテントの中で待っていても良かったのだが、水かさが増えて中まで雨水が侵入してきたら大変だからと、蛍を無理矢理起こして撤収してきてしまった。

 

 つい直感で判断をしてしまったけど、どうやらそこまで水捌けの悪い場所ではなかったみたいだし、勘違いというかちょっと勇み足気味だったのかもしれないと燐は少なからずに思っていた。

 

「平気だよ。もうすぐにでも歩けるし、それに燐の判断で間違ってないから」

 

「……そっか」

 

 微笑む蛍に燐は少し歯切れを悪くする。

 何だろうと蛍は首を傾げた。

 

「どうしたの燐。何かまだ問題でもあるの?」

 

「そういうわけでもないけど……」

 

 そう言った燐だったが、明らかに躊躇っていた。

 それを隠すように左手で何かを弄っている。

 

 蛍はそれを見て少しだけ驚いた。

 まだ持ってるとは思っていなかったから。

 

「あ、燐、まだ”それ”持ってたんだ」

 

「あ……うん」

 

 燐の手に握られているものにやはり蛍は見覚えがあった。

 それはあのラジオとは別の理由で。

 

 透明なプラスチックのケースに収められた方位磁石(コンパス)

 

 どうやらそれも元は聡の持ち物で、それを燐が今でも持ってると言うことは、返し忘れたか、あるいは同じように譲り受けたのか。

 

 どちらにしても、今は燐の持ち物であった。

 

「……」

 

 燐は何も言わずコンパスを覗き込んでいる。

 小さな赤い針はある一点の方角だけを指し続けていた。

 

 あの時は風車。

 けど、今は。

 

(この方向って、やっぱり)

 

 燐の手のひらの上のコンパスが指し示しているのはずっと同じ方向だけ。

 

 それでやっと分かった。

 

 そこに何があり、そして燐が何を言おうとしているのかも。

 

 この山で、どうして()()()()にまで迷うことなく辿り着けたのは、このおかげだったのだと。

 

(どおりでね、燐が迷うこともなかったわけだ……)

 

 目印どころか道すらも無かったが、これがあれば方角を頼りに進むことができる。

 

 ”三人”であの白い風車まで行った時のように。

 

「わたしにも良く、分からないんだ。ぱっと見は普通の……()()()()()が持っていたコンパスなんだけど」

 

 蛍の視線に気付いた燐がぼそっとつぶやく。

 

 理由もその原理も分からないが、このコンパスは北ではなく二人の進むべき方角だけを指し示しているみたいだ。

 

「あのさ、蛍ちゃん。下山する前にもう一度さ……」

 

 と、燐はそこで言葉を止めた。

 

 それは言い淀んだわけではなく、蛍がこちらを見つめながら少し困ったように眉毛を下げて微笑んでいたから。

 

 それだけで十分伝わったと思ったから。

 

 燐は微笑み返して蛍の言葉を待った。

 

「うん……いいよ。やっぱりちょっと心残りだもんね」

 

 コンパスの事は置いておくとしてもね、と付け加えながら蛍はうなずいた。

 

「蛍ちゃん……」

 

 少し困ったように見つめる燐に、蛍は小さく口を開けて続けた。

 

「帰る前に手ぐらいは合わせておかないとね。それが山のルール、なんでしょ?」

 

 そう言って蛍は少し曖昧に笑った。

 

 まだ深夜と言ってもいい、雨の降る暗がりの中。

 

 顔を見合わせた燐と蛍は互いに頷きあうと、ライトをその進む方へと向けた。

 

 ……

 ………

 …………

 

(なんか、雲の中にいるみたい……)

 

 昨日、同じ場所を歩いたときとはまるで異世界、並行した別世界のようだった。

 

 まだ日も傾いていなかったので、青と緑のコンストラクトがとても美しかった。

 

 山も雲も空も、全てがはっきりと目に浮かび上がって、むしろ情感が、現実じゃないほどだった。

 

 けれど今は白と黒のモノトーンの情景に変わっている。

 

 霧の中と言うより迷宮に迷い込んだみたいで、何処を歩いているかすら分からなくなりそうだ。

 

 その白い壁は風景どころか人の輪郭も、声すらも白く塗りつぶしてくるみたいで。

 

 もし、明かりを照らすものが無く、前を行く燐の姿も白い影の中に見失ってしまったのなら……蛍はぞっとして身を震わせる。

 

(あ……そうだ)

 

 あることを急に思い出した蛍は、俯き加減の顔を頑張って上げて、燐の背中だけを見ることにした。

 

 線路の上で、足先ばかりみているから余計に危ないんだよと言ってくれたのは、他ならぬ燐だったというのに。

 

 そう、燐だけ見てればいいんだ。

 真っ直ぐに、他のものには目もくれぬこと無く。

 

 燐だってきっと怖いはずなのに先頭を歩いてくれているのだから。

 

 燐を信じていればそれで……。

 

 蛍は下草を踏みつけながら信じている人の背中を追った。

 

 例え、振り向いてくれなくても。

 わたしは。

 

(あれ……?)

 

 蛍が秘めたる思いを募らせていたとき、不意に蛍の鼻にある種の匂いの様なものが流れてきた。

 

 懐かしく感じるけど、”アレ”とは違う。

 

 新鮮で清々しい、青々とした香り。

 

(そういえば、あの時もこの匂いだったよね)

 

 ”森の香り”。

 

 燐はそう、表現していた。

 

 雨で湿った土の草花の青青しい香り。

 それがあの時の同じ匂いを再現しているみたいに蛍の鼻孔を芳しくくすぐる。

 

 蛍だけでなく燐もそれを感じ取っているのか、時折何かを探すように辺りをきょろきょろとしながら深呼吸して歩いていた。

 

 後ろからだとそれが良く分かる。

 蛍も同じように深呼吸してみた。

 

 空はどんよりとして、霧が立ち込めているが、確かに朝の香りを感じた。

 

 ──心地いい、と思った。

 

 蛍と燐は同じ匂いを感じ、同じ情景の中にいた。

 

 去年、蛍一人で夜の風車まで行ったときにはそれを楽しむ余裕なんてものはとてもじゃないけどなかった。

 

 ただ、辿り着けさえばいいとだけ思っていたから。

 

(でもこれって、草木が湿っているだけじゃないよね。やっぱり燐と一緒だから、かな)

 

 燐と一緒に山歩きをしているから、匂いや夜露に濡れた葉や木の瑞々しさ、足の裏の土の感触を楽しむことができるんだ。

 

 自分一人だったら多分無理だろう。

 実際にそうであったし。

 

 ”トレッキングシューズもそうだけど、雨具も出来るだけ良いものを選んだ方が良いよ”。

 

 そう言ったアドバイスをしてくれたのも燐だった。

 

 蛍が低山などに一人でハイキング等に行ったときは、大抵が晴れか曇りだったから雨具なんてわざわざ買ったことも、装備として入れたことすらもなかった。

 

 つばの広いアウトドア用の帽子があるから小雨程度なら平気だろうと思ったし、そもそも天候が悪くなりそうと予報された日は外に出ること事態を止めるぐらいだった。

 

 そこまでして山に登りたいとは流石に思わなかったし、その辺は今も変わっていない。

 だから燐に言われてもいまいちピンとはこなかったけれど。

 

(用意しておいて良かったんだね。これも燐のおかげだね)

 

 燐の予想通り、雨足が強まってきたので、蛍は目の前を歩く燐にそっとお礼を言った。

 

 後で燐にはちゃんとした言葉で返すとは思うけど、今はその背中に感謝の想いをそっと投げかけておくだけにした。

 

 ……

 ……

 ……

 

「はぁ、はぁ」

 

 どれだけ歩いただろう。

 

 キャンプした所から今向かう石碑のある場所まではそこまで離れてはいないはず。

 

 それなのに、結構な距離感を感じてしまうのは、やはり天候が悪いせいか。

 白い霧が視界を遮るから、余計に距離感が掴めない。

 

 燐のコンパスのお陰で道に迷うことはないからいいけど。

 

 それにしても、雨具を着てヘッドライトまでつけていると、それこそ林業をする人みたいに思えてくる。

 

 想像の姿は、普通に林業をやっている人ではなく、どうしてもあの”ヒヒ”の姿を想像してしまうのは仕方がないことだった。

 

 初めて見た時はそれこそ心臓を鷲掴みにされたかと思ったぐらいの強い衝撃を感じていたから。

 

 燃えるような禍々しい赤い瞳と牙の生えている巨大な口。

 そして、それ以上に大きな刃のノコギリを持って……。

 

 欲望と悪意が具現化したような体躯をあのヒヒはしていた。

 

 けど、それは実は。

 

(ヒヒ……サトくん……聡、さん)

 

 それらは全て同じ人間。

 もしかしたら厳密には違うのかもしれない。

 

 一時的に意識を映していただけ……とも考えられる、少なくとも今なら。

 

 サトくんは白い犬、つまり元の犬に戻った。

 

 じゃああのヒヒは?

 ヒヒの器と魂はどこに行ってしまったのか。

 

 聡は元より、燐にもその辺りのことは未だに聞けなかった。

 

 本人よりも燐の方が最も傷ついているだろうから。 

 このことは。

 

(燐は平気なの……? 聡さんのこと……)

 

 蛍は強い視線で燐の背中に問いかける。

 

 直接燐に聞くことはないけれど、もし燐が話したいと言うのならいつまででも聞いてあげるつもりだから。

 

 けど、蛍はこうして燐が戻ってきて元気でいてくれるのならそれだけで良いと思っている。

 

 わざわざ過去を蒸し返すような事はしない方が良いし、あの異変でのことはもう終わった事だと思っているから。

 

 それに、わざわざ避けて話すのも何か変だし、むしろ何だかギクシャクしてしまって返ってイライラすることもあったので、折り合いをつけてはぽつぽつとは話し合うようにはしているけど。

 

 そのおかげで大分は笑い話として話せるようにはなったとは思う。

 

 もっとも、()()()()()()()()ちゃんとした話はしていない。

 

 女同士だからなのか、どうしても本音を避けた会話になってしまうのはある程度仕方がないと割り切ってはいる。

 

 けど、その事がふと寂しくなってしまうこともある。

 

 あの紙飛行機が空から落ちてきたときだって、もう何年も経っているような気持ちになっていたから。

 

 ”燐が居るのと居ないのとでは時間の進み具合が違うんだよね”。

 

 もうずっと前に自分の家で勉強会をしたときに何気なく蛍が口にしたこと。

 

 自分で言っておいて小首を傾げていたが、燐は照れたように少し顔を赤くしてあはは、と笑っていた。

 

 あれは告白のつもりじゃないけど、それに近い、いちばん最初の言葉だったのかもしれない。

 

 その想いは今も変わっていない。

 ううん、むしろ強くなってきている気がする。

 

(余裕ないのかな、わたし。燐がまた消えていっちゃうんじゃないかって、そんな事ばかり気にしてる……)

 

 もうこれって依存だよね。

 自身を嘲笑するように小さく笑いながら、蛍は燐の影を追って白い霧の中を懸命に進む。

 

 けれど、その小さな影が突然、立ちすくむように止まっていた。

 

 ────

 ────

 ────

 

「どうかしたの?」

 

 時折後ろを振り返りながら、先に行っていた燐が不意に立ち止まったことに不思議がった蛍が駆け寄る。

 

 やっとあの石碑のある場所まで着いたのだろうか。

 

 雨と霧と黒い雲のせいで視界が大変悪く、やけに遠かった気にはなったが。

 

 同じところをぐるぐると彷徨っているのかと少し心配だったが、ようやく着くことが出来たみたいだった。

 

「………見て、蛍ちゃん、あれ……」

 

 蛍の安堵感をよそに、燐はある一点だけを見つめながら、独り言のようにぼそっとした口調でつぶやいた。

 

 燐は指すらも指さないので、蛍はどこの事を言っているんだろうと燐に尋ねようとしたが。

 

 その必要はなかった。

 

 それは、二人の眼前にまざまざと広がっていたからだった。

 

「……り、燐!! これって!?」

 

 蛍は思わず燐の方を振り向いて、反射的に叫び声をあげた。

 

 両手に持っていたトレッキングポールが蛍の細い腕の肘の部分までずり落ちて、とても滑稽な事になっていたが、それよりも目の前の光景の方が比較にならないほどの衝撃だった。

 

「赤い、血……」

 

 燐は思わず口にした。

 一目見た時、蛍もそう思ったことだった。

 

 石碑は変わらずそこに立ってはいたが、その周りの景色が一変していたのだ。

 

 血のように赤い色の水溜まりが、辺り一帯の地面に広がっていたのだ。

 

 その中心に白い石碑が立っている。

 

 さながら、絵で見た血の池の地獄のように。

 

「……!」

 

 蛍は思わず口元を抑える。

 

 確かの血のように見えるからと言っても、血なまぐさい匂いが漂っているわけではない。

 けれど、一度そうと認識してしまったら蛍は急に気持ち悪くなってしまった。

 

「大丈夫蛍ちゃん? でもあれ……血じゃないと思うんだ」

 

「え? そ、そう、なの?」

 

 眉をひそめて聞き返す蛍だったが、目の焦点は若干かみ合っていない。

 やはり動揺しているのか、綺麗なピンク色の小唇を小刻みに震わせていた。

 

 まだ動揺したように目を見開く蛍に、燐はつとめて平坦な声色で続けた。

 

「多分あれ、染料だと思うんだ。土の成分が雨で溶けだしたんだと思うよ。前にこういうのどこかの山でみたことあるし」

 

「えっと、そういうの”赤土”って言うんだっけ? わたしもどこかで聞いたことある」

 

 燐がそう指摘してくれたことで蛍は少しだけ落ち着くことができた。

 

 土壌に含まれている鉄が水に溶けて赤茶色、もしくは赤になると本か何かで見た覚えがあったから。

 

 昨日来たときは気付かなかったけど、この辺りの地面はその赤土のようだった。

 

 何となく不自然な土の盛り方をしているとは思ったが、それだと納得がいく。

 まさか、土そのもの成分が違うとは流石に思わなかった。

 

 燐の言うことに同意するも、蛍にはやはり気になることがあった。

 

「でも……こんなに赤く、色が出るってことってあるのかな? これ、ほんとうの血みたいに見えるよ……それに、何でここだけ?」

 

 その赤い水は雨で薄まるどころか、どんどんと広がって行って、いつしか少女達の足元にまで迫ってきていた。

 

 幸い二人のトレッキングシューズには防水加工が施してあるから中まで染みることはないけれど。

 

「そればっかりはよく、分からないけど……」

 

 自然の染料だったとしても不快感を覚えてしまうのは確かだ。

 

 人類が初めて使った色が赤色だと言うが、それにしてもこの赤一色の水は……禍々しいというか、まるでアイツの目みたいだった。

 

 蛍は一歩、二歩と後ろに下がる。 

 燐も蛍の傍まで、ぴょこんと飛びのいた。

 

「何か、近寄り難いよね」

 

「……うん」

 

 土の影響で色が変わったのならそのまま進んでも問題ないとは思うが、やはり不気味に感じているのか二人とも率先して足を入れたいとは思わなかった。

 

 それに染料ならば靴が汚れてしまうし、やっぱり本当の血だったりしたら……。

 

(そう言ったけどやっぱりちょっと、ね)

 

 触って確かめるだけの勇気はなかったので、燐と蛍は赤い水たまりを迂回するようにしながらまだ染まっていない普通の地面だけを選んだ。

 

 別にこの場所でも良かったのだが、ある程度は近づいてから手を合わせておきたかった。

 何かのこだわりと言うか、特別なものはないんだけど。

 

「何か怖いから、早く終わらせちゃおう」

 

 急かすように燐が声をあげる。

 

 ある程度は近づけたものの、白い石碑の前は完全に赤い水溜まりが溜まっていたので、結局足を入れることになった。

 

 最初からそうした方が良かったけど、なるべくなら触れていたくない。

 被害は最小限に留めておきたかった。

 

(本当に染料なのこれ……やっぱり嫌だよ)

 

 自然のものなのに、不自然なほど真っ赤な水溜まり。

 

 降りしきる雨のせいで水が揺蕩っているだけなのに、そこに何か待ち受けているのでは錯覚を起こしそうになる。

 

 空は真っ黒で辺りは霧のせいで真っ白に染まっている。

 そして地面は……赤。

 

 この世ならざる者が潜んでいたとしても何もおかしくない状況(シチュエーション)であった。

 

「い、行くよ……?」

 

 蛍からの返事を待たずして燐が先に靴先を赤い水へと差しだす。

 

 あの”青いドアの家”の大きな水溜まりみたいに深くなっているかもと、燐は一瞬だけ躊躇した様子を見せたが、蛍が不安げに服の裾を掴んでくるのが分かったので、覚悟を決めた燐は持ち上げた右足を下へとゆっくり下ろした。

 

 パシャ、と赤色の飛沫が小さく上がる。

 確かに不気味な光景であった。

 

 けれど、それだけ。

 

「ふぅ……」

 

 思わずため息が漏れる。

 

 当たり前と言えば当たり前だが、赤い水が溜まっている場所は底なし沼のように足がとられる感じもなく、色がおかしいだけの浅い水溜まりだった。

 

 昨日の時点では普通の何の変哲もない地面だったのだから当然なんだろうけど。

 

 けれどこれ以上足を進めるのは少しためらわれる。

 石碑のある中心部分は確かすり鉢の様にへこんでいた気がしたし。

 

 それこそ、何か穴でも開いているのではないかと疑われてもおかしくないほどの不自然感だったから。

 

「ねえ、燐、なんか……文字が書いてあるように見えない? あの石碑の正面とこ」

 

 燐の後について赤い水たまりに入ってきた蛍が隣で石碑を見つめていた。

 

「文字?」

 

 言われて燐はそちらに視線を向ける。

 

「雨のおかげなのかな。昨日は見えなかった文字が浮かび上がっているように見えるの。燐は、どう?」

 

「うーん、それっぽく見えるような、そんな気はするけど」

 

 蛍の言うように何か文字が刻まれているように見える。

 けど、少し遠いせいか何が書かれているかはまだよくわからない。

 

 多分、石碑を立てた理由か何かだろうけど。

 

「もうちょっと近づいたら良く見えるかも」

 

 燐の手を引いたまま蛍が石碑まで近寄ろうとしていた。

 そのことに燐は流石に眉をひそめる。

 

 これ以上、この赤い水に浸かっているのは何か危ない。

 そんな直感めいたものがあったから。

 

「蛍ちゃんもう止めない? やっぱり何か危ない気がするし」

 

「でも、土の成分が染み出しただけで害はないって、燐はさっき言ってたよね?」

 

「う、確かにそうだけど……蛍ちゃんはその、もう平気なの? さっき、気持ち悪くしてたのに」

 

 ──誰かが流した血みたいに真っ赤なんだよ、これ。

 

 二人はほぼ同時に足元を見る。

 この濁った赤い水は本当に染料の元となる土の成分なんだろうか。

 

 燐は自分で言ったことが急に信じられなくなってしまった。

 

(どうみても血にしか見えないよ。それも()()()()、みたいにしか……)

 

 それを初めて目の当たりにしたのは、やっぱりあの時。

 けど、あの時みたいな悪臭はない。

 

 鉄錆の匂い。

 あの匂いがしないのであれば、やはり”血”ではないのかもしれない。

 

 それでも危険な予感はどうにも収まらない。

 考えすぎと言われればそれまでだけど。

 

「燐と一緒なら大丈夫だと思うから」

 

「あはは、蛍ちゃんそれって理由になってないよ」

 

 燐は乾いた笑いを浮かべる。

 

 何か突き動かされるものがあるのか、蛍は意思のこもった瞳で燐に頷くと、一歩ずつ慎重に前へと進んだ。

 

 その度に赤い水がパシャリと跳ねて、燐はなんとも言えず不快感で顔をしかめた。

 

「……っ!」

 

 けれど燐は逃げることなく、蛍の後をついて行く。

 

 色がアレなだけで後はまったく普通の水溜まりと変わらないのだが、そのことだけが不安に感じてしまう。

 

 きっと幼い頃の自分だったら、色の違う水の有り様を面白がっていたんだろうけど。

 

「やっぱり、何か書いてあるね。えっと……」

 

 蛍は少し息を荒くしながら読み解く。

 

 燐も無事石碑の前についたことにほっと胸を撫で下ろしながら、石に書かれた文字を読んだ。

 

 対したことないはずなのに、何故だか一山越えた時のような気疲れがあった。

 距離にしたら数メートルのことなのに、だ。

 

(あれ? 確かに文字が良く見えるけど???)

 

「蛍ちゃん、どうかしたの?」

 

 石碑を眺めながら不思議そうに小首を傾げる蛍に、燐は声を掛ける。

 

「うん……この石碑ってこんなに綺麗だったかなぁって思って」

 

 始め、蛍の言っている事の意味がよく分からなかった燐は、疑問を顔に浮かべながら確かめるように石碑を見つめた。

 

「……あ」

 

 燐にもよくわかった。

 

 雨で濡れたせいで綺麗に見えるだけかと思ったのだが、苔むしてボロボロだったはずの石の柱がヒビも何もない、綺麗な柱に変わっていた。

 

 見間違えではないと思う。

 もしかしたら別の石の柱がこの山にあって、それと間違ているのかもしれないけど。

 

 手元のコンパスはこの柱の方を指したままだった。

 

 真相を確かめて見たくなったのか、燐は思わず石碑に手を伸ばす……も。

 

「……っ!!」

 

 何か嫌なものを見てしまったみたいに、直ぐにでも手を引っ込めてしまった。

 

「……」

 

 心配そうに横目で見ていた蛍もやはり石に触れることはせず、その表面に書かれた文字だけを目で追った。

 

 はっきりと文字は読めるが、それでも削り取られたと思われる部分があり、全文を読むことは出来なかった。

 

「小……、十二、碑……?」

 

 読める所だけをかいつまみながら声に出して読む蛍。

 けど分からない部分が多すぎて、何なのかさっぱりだった。 

 

「どういう意味なんだろうね、これ」

 

 わずかなキーワードを頼りに少し頭を巡らせていた蛍だったが、どうにも判然としないのか燐に尋ねる。

 

「そうだねぇ……」

 

 燐は腕組みのままじっと石碑をにらんでいる。

 遠くを見るような横顔だったので、蛍は少し不安になった。

 

 前に見た時と同じ表情をしていたから。

 

「燐」

 

 囁くように声を出した蛍は、燐の腹部に手を回して後ろから抱きしめる。

 

 離したくも、離れたくもない。

 思いで繋ぎとめるみたいにきつく指を絡めて抱きしめた。

 

 急な事に驚いた燐は口をぱくぱくとさせていた。

 

「もう、やっぱり怖いんでしょ? やっぱり蛍ちゃんの方が寂しがりやだもんね」

 

 怒ることなく振り返った燐がくすりと笑う。

 

 空はどんよりとしていて、冷たい雨が降っているのに。

 その笑顔は何よりも透き通っていて。

 

 青空、そのものとしか蛍には見えなかったから。

 

「そんなこと……あるかも」

 

 燐の耳元でか細く呟く蛍。

 

 健気な蛍の告白に、燐は不意に鼻の奥がつんと痛くなるの感じた。

 それは好きだからこそ浮かんでくるものだった。

 

「あのさ。ほんのちょっとだけ確信めいたものが頭に浮かんだんだ」

 

「確信……? 何の」

 

 蛍は離れることなく燐に問いかける。

 暖かい吐息が耳にかかって何ともこそばゆかった。

 

「えっとね……」

 

 そこで燐は一旦言葉を切ると、しとしとと降る雨の方にその綺麗な顔を向けた。

 

 厚い雲が眼前を覆い尽くしていて、今が朝か夜かの判別がつかない。

 まるであの時の終わらない夜のときみたいに。

 

「もしかしたら、あのヒヒに関係があることなのかもって……」

 

 天から零れ落ちる雫のように燐はぽつりとだけ呟いた。

 

「ヒヒ? でもヒヒはもう……」

 

 それ以上は蛍は口に出来なかった。

 だってそれは燐も既に知っていることだし、この場所とは何も関係がないと思ってたから。

 

「分かってるよ。けど、そう言うことじゃないんだ」

 

「だったら……」

 

 何のことなの?

 少し非難めいた言葉を飲み込む蛍。

 

(燐が一番思い出したくないことなのに、それを燐が言うなんて……)

 

 焦燥感のようなもやっとした様なものが蛍の胸の内に広がっていた。

 

「前にさ、オオモト様がヒヒについて言ってたこと覚えてる? ”森に入るとヒヒに攫われる”って言ってた事」

 

「うん。あの風車の時のでしょ? 確か、そんな事を言ってたよね」

 

 燐がノートを拾って、そして二人で行ったところ。

 

 目の覚めるような青空に、無数の風車が立ち並んでいた綺麗な場所。

 

 あの時はとても悲しかった。

 それまでの真実を知ってしまったから。

 

 けどそれは、別の思いへと変わったけど。

 

「それに、”伐採現場での凄惨な事件”とかも言ってたよね?」

 

「うん」

 

 燐は”オオモト様”の一言一句を覚えているようだった。

 

「あれって、この場所だったのかなって急に思ったの」

 

「じゃあ、ここで事件が?」

 

「もしかしたらだけどね」

 

 考えすぎかもと言わんばかりに苦笑した燐が、石碑に触れるか触れないかの所で指をさす。

 

「ここの”十二”って書いてあるところ、上の部分が削れちゃってるから全部は分からないけど、本当は”三十二”って書いてあったんだと思うの」

 

「どうして、それが分かるの?」

 

 蛍は目を丸くする。

 そんな探偵みたいな真似を、燐がするとは思わなかったから。

 

「ノートのね、最後の方に書いてあったの」

 

 物憂げに息をつきながら燐は言葉を続ける。

 

「最後の方って……わたしが破った前のページ?」

 

 ノートの最後のページは蛍が自分で破いていた。

 それで紙飛行機を作って燐と一緒に飛ばしたから無くなったんだけど。

 

(そういえばあの紙飛行機って結局どうなったんだっけ?)

 

 蛍の思考は紙飛行機の行方の方に切り替わってしまった。

 

 その事を知ってか知らずか、燐はくすくす笑ったあと、蛍のおでこをちょんと指で押した。

 

「そのページに書いてあったんだ。小さな文字で、”三十二人ごろし”って」

 

()()()って……!?」

 

 燐の言葉に、夢から覚めたような蛍は絶句する。

 

 最初にノートの内容を燐に聞かされた時もそうだったのだが、生まれた時からこの地にいる蛍ですら知らないことがあの大学ノートには記載されていた。

 

 それを書いたのが、燐の従兄の聡だとするのならば、彼はどこまで小平口町の歴史のことや座敷童に関することを知っていたのだろう。

 

 全てを知ったからこその凶行だとしても、それならばあまりにも惨いというか。

 

「ヒヒはさ、()()の方じゃなくて妖怪の方の”ヒヒ”って事は蛍ちゃんも知ってるよね」

 

「うん……あんなの普通の日本の山奥にはいないもんね。あっ、ごめん……変なこと言って」

 

 慌てて頭を下げる蛍に燐は手を振って否定する。

 

「大丈夫だって、もう気にしてないし。それに、遠くに行っちゃったけど、お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだから」

 

 全部が元のままじゃないことは知ってる。

 

 それは座敷童や、”自分自身”のことだけじゃない。

 聡のことだってそうだった。

 

 けどだからって、全てを忘れてなかったことにするなんてことは、まだとても出来なかった。

 

「それじゃあ、あの、ヒヒの元の人が? その……三十二人の人を殺したって事? じゃあこれって慰霊碑?」

 

 蛍は途切れ途切れに言葉を作ると、白い石碑を改めて眺める。

 自問自答した蛍だったが、妙にそれがしっくりくる気がした。

 

「詳しい事は分からないけど、多分蛍ちゃんの考えで間違ってないとは思うよ。昔、何か事件があって、それを風化させないようにこういったものを建てた、とかじゃないかな」

 

「なるほど、ね」

 

 だとしたらこんな山奥にひっそりと建てられていたわけが良く分かる。

 

 けれどあの、人形との関連性が分からない。

 当時の座敷童がやったわけではないみたいだし。

 

「もしかして、手毬と同じ……?」

 

「ん? 蛍ちゃん、どういう事」

 

 今度は燐が目を丸くした。

 謎かけの様な蛍の言葉に眉をひそませる。

 

「何て言うか、割と妄想が入ってるんだけど、オオモト様の持っていた”手毬”って誰かに貰ったものなのかなって思ったの。だからそのお返しに人形を作ったんじゃないのかなって」

 

 恥ずかしいものを見られたみたいに蛍は耳まで赤くすると、誤魔化すように微笑んで見せた。

 

「そう言うことね。うん、蛍ちゃんいい線いってると思う。将来、探偵になれるよきっと」

 

 探偵なんてものに興味は無いが、燐に褒めてもらったことで蛍はようやく胸を撫で下ろした。

 

(だとするなら……)

 

 燐は首をひねる。

 

「”その人”はオオモト様の相手にする為に呼ばれた人、だったのかな……”お兄ちゃん”みたいに」

 

 それまで言いづらかったことを燐は口にする。

 そのことで羨望の様なものを蛍に浮かべせたことがあったから。

 

 だからこそ彼らは融合してしまったのか。

 

 ”彼”と”聡”の求めるものが同じ性質をもっていたから。

 歪んでいるとかではなく、ただ純粋だったのだろう。

 

 だとすれば(さとし)を庇うような仕草の理由もよく分かる。

 

 きっと似ていたに違いない。

 性格の方だけでなく、見た目の上でも。

 

 それならば色々と納得できる部分があるから。

 

(オオモト様が言ってた不義のこととか……)

 

「きっと、そうだよ」

 

 どういった経緯(いきさつ)がオオモト様と”彼”の間にあったのかまでは、あのノートには書かれていなかった。

 

 けど、きっと止むに止まれぬ事情があったとは思う。

 

 自分たちと同じように追手から逃げるために仕方なく、とか……?

 

 もし本当にひとごろしをしてしまったのなら、許されるものではないと思うが。

 

「この町の郷土史にも乗ってなかったから、座敷童がらみ、なんだろうけどね」

 

「……そうだね」

 

 そう思うと、この石碑が哀れにすら思えてくる。

 

 もう誰にも知られること無くひっそりと”慰霊碑”が立っていたこともそうだが、その事件の記録すら残っていなかったなんて。

 

 何もかもが座敷童のことと似ていた。

 その特異性も含めて。

 

「ねぇ燐。だからってこれは血じゃない……よね? 憎悪とか怨恨とかが染み出したわけじゃないよね?」

 

「ホラー作品じゃあるまいし流石にね」

 

 燐は笑ってみせたが、実際のところはよく分かっていない。

 確かめていないのだから。

 

 ただの染料だったのなら雨で流れ落ちるはずなのに、二人のシューズには赤い色がびっしりとこびりついていた。

 

(じゃあ、その時ころされた人たちが町の人と融合したからあんな顔のない”何か”が生まれたの?)

 

 またもや蛍は妄想をしてしまったが、今度は燐には言わなかった。

 

 なんでもかんでも結び付ければいいとは思っていなかったし、今更そんな事を紐解いても特に意味などないと思ったから。

 

 蛍は何とも言えない虚しさで石碑を見つめると。

 

「とりあえずお参りだけでもしよ?」

 

 そう言って無理して微笑んだ。

 

「うん。その為に来たんだもんね」

 

 燐はまだ何か言いたげだったが、蛍の笑みに同意するように頑張って笑みをつくってみせた。

 

 蛍は燐から一旦離れると、拍手はせず軽く手を合わせて頭を下げる。

 そして静かに目を閉じた。

 

 足元がちょっと異様な光景なので目を閉じるのは少し怖い気もしたが、傍らに燐がいるので蛍は恨みがどうこうよりも燐の気配や体温の方に集中していた。

 

 燐は、結局お供え物やお花を見つけることに失念してしたことを思い出し、心の中でまだ良く分からない石の柱に謝った。

 

 二人はどちらともなく頭を上げると、目の前で合わせていた手を解き、再び手を握り合った。

 

「行こう」

 

「……うん」

 

 少女たちは顔を見合わせるともう一度だけ頭を下げ、その場から踵を返すように退散した。

 

 この下を掘り返そうかなんて、大それたことを考えたこともあったが、血のように赤い水溜まりを前にその気もすっかり失せてしまった。

 

 こんな場所でじっとしているだけで何か、得体の知れないものに何かを奪われそうな、そんな危うい思いをつい抱いてしまいそうになる。

 

 一刻も早くここ立ち去るのが得策だった。

 

 雨もどんどん強まっているし、この先、天候が回復することは当分なさそうだったから。

 

 辛うじて地面が見えているところだけを選んで、飛び石のようにぴょんぴょんと飛び跳ねて渡る。

 

 赤い水はまるで地下からいくらでも湧き出てくるみたいに地面を覆い尽くしていた。

 

 靴越しとはいえ、血だまりにいるみたいな凄惨さ目を背けながら、蛍と燐は元来た道を目指してひたすらに進んだ。

 

「よっ、……と、蛍ちゃん。ここまで足、伸ばせる?」

 

「えっと、多分……」

 

 先に足場に乗った燐が蛍に手を差し伸べる。

 

 周りの地面はさっきよりも赤い水溜まりが色濃く広がっていて、まるで《ほんとうの地獄》みたいだった。

 

 頑張って足を開いた蛍は燐のいる足場へと乗り移ろうとした、が……。

 

「きゃあっ!」

 

 トレッキングシューズで足首を固定しているので滑りにくくはなっているはずだが、この時はなぜか足が滑ってしまった。

 

 まるで零れたばかりの血液を踏んだ時みたいに、ぬるっとしたものを靴裏に感じたからだった。

 

「蛍ちゃん、危ないっ!!」

 

 咄嗟に手を引っ張って燐は自分の方へと蛍を抱き寄せた。

 

 結構な勢いで引っ張ったので、そのまま二人とも抱き合ったまま倒れ込みそうにも見えたが。

 

 日ごろの運動のお陰か、燐は体幹のしっかりしたところを見せ、バランスを崩すことなく蛍の華奢な体をぎゅっと抱きとめた。

 

「大丈夫? 蛍ちゃん」

 

「う、うん……」

 

 燐の胸に抱かれながら蛍はくぐもったような声で呟く。

 

 どきどきと互いの心臓の音が高鳴っていた。

 

「あのね、燐。わたしね……」

 

 蛍はこの後に燐に何を言おうとしたのか。

 結局、その答えを聞くことは出来なかった。

 

 何故なら。

 

「ああっ! 見て! 蛍ちゃん、ほら、足元!」

 

「ええっ?」

 

 燐に言われて顔を上げた蛍が指さす方向に目を向けた。

 

 少し微睡んだような目をしていたせいからだろうか、それはとても奇妙なものに蛍の瞳に映った。

 

「ひっ!?」

 

 それを認識したとき、蛍は全身が総毛立ってしまい燐にぎゅっと体を押し付けた。

 

 ただ、赤いだけの水溜まりだと思っていたそれは、まるで人の顔のような形を地面に作っていたからだった。

 

 ──赤い水に浮かぶ人の顔。

 

 そう、形容できた。

 

 見方によっては人よりも獣に近い顔立ちに見えなくもない。

 

 ちょうど目と鼻に相当する部分だけこんもりしていて、二人ともそこを足場に渡ってきたから尚の事ビックリしてしまった。

 

 偶然が作り出した面様なのか、それとも何らかの意図をもって作られたものなのか。

 どちらにしても悪趣味というか、嫌悪しか湧かなかった。

 

 蛍にしてみれば、たった一度見ただけなのにいまだに脳裏にこびり付くように残っている、あの”蛾”の文様を思い起こさせた。

 

 人が嘲笑(わら)っているみたいな蛾の翅の時みたいに。

 

(なんだかこの顔……アレに、似てる……)

 

 燐は蛍の家の廊下で初めて見た時に顔をしかめたあの”お面”のことを思い起こした。

 

 蛍からは処分するかどうかまだ迷っていると言われたけど、多分燐なら迷うことなく処分してしまうだろうと思っていた。

 

 それだけ、嫌悪を抱かせるものだったから燐にとっては当然だった。

 

 蛍の身体をしっかりと抱きしめながら、燐は初めて見た時の気味悪さを思い出す。

 寒気というか皮膚がぞくっと泡立つような感覚を。

 

 特に見ていたくはないもののはずなのだが、燐も蛍も何故か目が離せないでいた。

 

 金縛りにあったように視線が奪われてしまうのは、蛍の家の和室で目撃した時以来の事だった。

 

(何でだろう? 顔を背けることができない)

 

 偶然、顔に見えただけかもしれない。

 

 けれど、一度顔と認めたらそれが誰の、どんな時の表情なのかを想像することがやめられなくなってしまった。

 

 お互いを抱き合いながら、変化した(ように見えた)赤い水溜まりを言葉なく見つめている。

 

 その非現実的な様相に、少女たちは目を見開いて直視していた。

 今すぐにでもここから逃げねばならないはずなのに。

 

「り、燐……」

 

 一瞬、正気に戻った蛍が擦れた声を振り絞って燐に呼びかける。

 

 燐にも蛍が何を言いたいのかは分かっているのに、一向に足が動かない。

 まるで悪魔に魅入られたみたい凍り付いている。

 

 雨足が水溜まりに更なる変化を与える。

 それは下卑た顔で笑っているかのように口と思われる部分をにたつかせていた。

 

「……っ!!」

 

 悪意しか感じさせない表情はあの時の恐怖をフラッシュバックさせるものだった。

 

 欲望を満たすことしか考えていない、歓喜と狂気。

 

 二人とも目と肌で感じ取っていたから。

 それを思い返してしまうのも無理なかった。

 

「あ……あ……」

 

 蛍も思い出したのか、唇が震え出し、早鐘を打つように鼓動が早くなってくる。

 

 その間にも赤い水溜まりは地面を覆い尽くすみたいに広がっていく。

 全てを赤く呑み込もうとしているみたいに。

 

 気づけば周りにある草木や灌木も、赤い水の中に飲まれていた。

 

 流石にこれはおかしい、そう燐が思った時はもう手遅れだった。

 

 空から降る雨すらも赤くなっている。

 

 そう錯覚をさせるほど、そこら中に赤い水溜まりが広がっていたから。

 

 恐怖に駆られた燐が肺から叫び出そうと、息を呑み込んだその時。

 

 ずしん!

 

 地響きの様な大きな音が辺りに響きまわった。

 

 二人は初め地震か何かかと思ったので、抱き合った体をさらに密着してその後の衝撃に備えた。

 

 山で地震にあったときはどうすればいいんだろう、と蛍が頭を巡らせていると。

 

 ずしん!

 どしん!

 

 重い音が赤い水溜まりに大きな波紋を作る。

 波紋の交わりを見た時、燐は不意に頭にひらめくものがあった。

 

 まさかとは思う、けど……。

 

「そんな事、あるわけない! あるはずない、よ」

 

「燐!?」

 

 固く口を結んでいた燐が急に叫び出したので、蛍は吃驚してしまった。

 おかげで良く分からない身体の膠着が解けたのだが。

 

「蛍ちゃん、飛ぶよっ!」

 

「え、えぇっ!?」

 

 まだ訳が分からないままだったが、燐は蛍を抱きしめたままジャンプしようとしているらしい。

 

 蛍は頑張って頭を巡らせると、燐の目を見てうん、と頷いた。

 

「いっせーのっ!」

 

 燐が地面を蹴ると同時に蛍も地面を蹴った。

 

 こんなことならもう少しダイエットしておけば良かったなんて蛍はつい暢気なことを考えてしまったのだったが。

 

「わっ!」

 

 二人は運よくまだ緑が生い茂る林に着地……いや倒れ込んだ。

 

 前から倒れ込みそうになったが、機転を利かせた燐が倒れる際、身体を捻ったので横向きに倒れ込むことが出来た。

 

 ちょっと体をぶつけてしまったが、幸運にも二人とも怪我はないようだった。

 

「行くよっ、蛍ちゃん!」

 

 すぐに立ちあがった燐は蛍の手を掴んで無理矢理立ち上がらせると、森の奥へと走りだした。

 

 まるでジェットコースターのように視線が目まぐるしく変わる。

 蛍は傷む体を気にしながら、走る燐についていくので精一杯だった。

 

(どこか隠れられそうな場所は……あった!)

 

 燐は何かの横倒しになった巨木の後ろに回り込むと、蛍の手を握ったままその後ろへ転がり込んだ。

 

 蛍はもう膝ががくがくしていたので、倒れ込みそうに燐の隣にへたり込む。

 

 何が起きたと言うよりもやっと燐が止まってくれたことの方に安堵した。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 まだ混乱している頭をもたげながら呼吸を貪ることだけしている蛍に対し、燐は巨木の陰から様子を窺っていた。

 

 ずしん、ずしん。

 

 大きな音はまだ鳴りやまない。

 むしろ近づいている気がする。

 

 蛍はもしかしてこれが悪夢の時に良く聞く、四つの短い音なのではないかと思った。

 実際には四つ以上音が鳴っていたが。

 

 それと同時にその違和感の正体に気付くことが出来た。

 

「まさか……まさかだよ、ね? 燐……」

 

 自然と声を潜めてしまうのは、もうそのことを知っていることと同義であった。

 

 燐はこくんと小さく頷く。

 それだけで蛍はがたがと震え、血色の良かった顔が青ざめてしまった。

 

 ずしん!

 

 聞き間違いではない、これはきっと足音。

 

 だとするならば。

 

(なんで!? なんでアイツが()()いるの!!??)

 

 燐は錯乱しそうになる頭をぎりぎりのところで落ち着かせて逡巡する。

 

 だってあの時、”アイツ”は転車台の前でサトくんと相打ちになって倒れたはずだ。

 それは近くで見ていた燐には今でもはっきりと覚えている。

 

 あまりにも凄惨で悲しすぎる光景を。

 

 だからもう、現れることなんてないはずなのに……。

 

 どすん!

 

 足音の主はこちらに目掛けてくるようだった。

 

 あの血だまりのような水溜まりがアイツを呼んだのか。

 重い足音には地震とは違う、狂暴さと残忍さが漲っているみたいに聞こえた。

 

 こんな足を出すのはアイツしかいない。

 けれどまだ、にわかには信じられなかった。

 

 足音が近くなってくるたびに蛍の震えは大きくなっていく。

 

 瞳は大きく見開き、唇から覗く小さな歯を小刻みに震わせていた。

 

 心配そうに蛍を見つめながらある決意を燐は下す。

 それは蛍を守るために燐がしなければならないことだった。

 

(本当に……本当に《また》アイツだったのなら……)

 

 震える指先で燐はぎゅっと握りしめる。

 それは蛍の手でも、あのお守りでもない。

 

 ポケットに忍ばせて置いた一振りの小さなナイフ。

 

 今、燐が手にしたものはそれ、だった。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 




体調がちょっと弱いのか、最近よく口内炎が出来るので、いつもの珈琲に蜂蜜を足してます。まあそもそも珈琲が胃に悪いって話なんですけどねー。でも寒いと飲んでしまうんですよねー出先なんかでもーー中毒ではない……はず。

コーヒーと言えば家には誰のものか分からないスタバのコーヒーカップが置いてあるのですが、これでコーヒーを飲むわけでなく、今はペーパー加湿器用のカップとして使わせてもらっています。大きくて安定感あるから加湿器として使うには丁度いいサイズなんですよねー。
まあ、割と重いからコーヒーを飲むのに適さないだけなんですけどねー。

ででで、ヴァレンタインセールで青い空のカミュDL版がまたまた50%OFFになってますねー。
何か今回は、購入した金額の15%程度がポイントとして還元されるみたいです。これまで無かった特典な気がしますねー。
もう後何日もないですけど、ポイントが付与される今の内におすすめしますー。


ではではーー。



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incessant dream

 
 昨夜から降りつづいていたであろう雨は上がることはなく、むしろすっかり本降りとなっていた。

 雲とも靄ともつかない白い闇の中で、頼りない二つのライトだけがぼんやりと揺れていた。

 それこそ夏夜に飛ぶ甲虫の明かりのように。

「はっ、はっ、はっ」

 意識しているわけではないけど、自然と早足になっていた。
 下りだからだろうか、でもそれにしても。

(道って言うか、滑り台を歩いてるみたい)

 単純な一本道だった帰り道が泥と雨水のせいで道としての機能を殆ど果たしてはくれなかった。

 もともと人の通りのない、けもの道であったからそれほど変わりはないとも言えるけれど。

 でもこの霧と雨は流石に洒落にならないと言うか。

 整備されていない山道だったとはいえ、視界が悪いとこんなにも怖くて歩き辛くなるとは思ってもみなかった。

 それでもトレッキングポールを使っているからある程度は安定していると思うけど、怖いものは怖い。

 白い霧は晴れることなく深く濃くなってくるし、雨足も強いから視界不良なこと、この上ない。

 ちょっとでも足を横に向けたら今にも滑りだしそうになるほど足元が不安定で、こんな場所で転んだりしたらそれこそ崖下まで落ちて行ってしまうかもしれない。

 しかもそれは空想などではなく、限りなく現実味を帯びたものだから……。

 考えただけでもゾッとしてしまった。

 したがって慎重に進むしかないのだが、下りの傾斜が足を前へと勝手に動かしてくる。
 そんなに早くは進みたくはないのに、気持ちが前へと走り出そうとする。
 
 それはきっと恐怖からだろう。

 山頂付近まで出た時は雲海が山一面に広がってて思いがけず感嘆していたんだけど。

(霧がこんなに怖いなんてね)

 今朝方から歩いているから既に疲労が蓄積されている。

 その時はコンパスがあったから、何とか迷わずに歩くことが出来たけど。

(今は使えないんだよね、あのコンパス)

 そのコンパスは見た目は普通なんだけど、ちょっと不思議な方角を指すのだった。
 一応意味はあるみたいで、それなりに役には立ったんだけど。

 ()()()()に辿り着いた時、役目を終えてしまったように急に針が動かなくなった。

 それっきり、普通のコンパスとしても使えなくなってしまった。

 その辺りは、不思議な放送を受信できたあの携帯ラジオと同じなのかもしれない。

 ──役目がなくなったから止まる。

 何だろう、急にお腹のあたりが寒くなった。
 
 ずっと雨に当たっているからかもしれない。

 でも、コーラルピンクのレインジャケットはとてもしっかりしていて、横殴りの雨でも全く寄せ付けない。

 思っていた以上に動きやすいし、通気性だって悪くないからそこまで汗をかいていないし。
 友達との色違いだけど用意しておいて良かったと思ってる。

 でも、なんで今日に限ってこんなに天候が悪くなってしまったのだろう。
 山の天気は急変しやすいって定説があるみたいだけど。

(なんだか重苦しい)

 心の奥底までもが何かの重しをつけたみたいに苦しくて、息がつまる思いだった。

 でも立ち止まったって霧がすぐに晴れるわけでもないし、それならさっさと下山したほうが得策だと、歩いてはいるのだが。

 雲ともつかない霧の中を泳ぐように進む。

 こうしてポールを動かして歩いてると、本当に霧の中をボートか何かで泳いでいるような感じになる。

 湖畔の上に浮かぶ一艘の小舟のような、静謐なイメージで。

 実際は周りを見る余裕すらないけど。
 まるで、白いドームの中に閉じ込められているみたいだし。

 ふうっと息を吐く。

 野外だというのに言いようもない閉塞感を覚えた。

「はぁ……、はぁ……」

 意識すればするほど息が荒くなる。

 まだ夏だということを忘れそうになるほどの底冷えを手足に感じる。
 熱を帯びたように火照っている顔とのギャップで、頭がどうにかなりそうだった。

 過去に登った山では頂上まで行けなくてもその日の内に下山していたからだけど、ただ、帰るだけのことがこんなにも辛いことだなんて。

 やはり天候が悪いとこんなにも大変なんだ。

 ちゃんとした雨具を着ているからずぶ濡れになることはないが、心の中の不快感だけはどうすることも出来なかった。

 こういう事は初めてじゃないけれど、それでもやっぱり少ししんどい。

 早く楽に、安心になりたかった。

 直降りの雨がさっきから煩わしくして仕方がない。
 他に音がないから余計に気になった。

 今日は鳥の姿を一度も見ていない。
 やっぱりこの雨だから巣穴かどこかで羽を休めているんだろうけど。

 一瞬でも見かければ少しは心が晴れそうな気もする。
 
 それを願っても鳥にも都合があるだろうけど。

「はあっ」

 吐き出すほど嫌な天気だった。

 ………
 ……
 …

 天霧に煙る山道を二人の少女がひたすらに歩いている。

 昨日も使った道だから流石にもう迷うことはないと思ったけど、昨日とは打って変わっての荒れた天気は景色だけでなく、その分かりやすい道筋すら惑わせてくるようで。

 考えなしに下山していたらきっと二人とも霧の中で遭難したに違いない。

 でも、彼女──燐、ひとりなら大丈夫だとは思う。
 こうしてお互いの体にロープを巻き付けて進むことを提案してくれたのも燐だったし。

 やっぱり経験が高いから。
 わたしとは違って。

 それにしてもこの恰好……。

 このお互いの体をロープで括り付けると言うのは、映画などでみたすごく高い山に登る人みたいで、ちょっと大げさかと思ったけど。

 視界すらままならない山ではこのロープこそが唯一の道しるべになってくれている。

 それも燐が間違いなく先を歩いてくれているからだけど。
 だからこそ意外なほど安心できた。

(そういえば、前にもこんなことがあった気がする……何のときだったっけ? わたしと燐が一緒のロープで括られていたのって)

 すごく重要っていうか、運命的な事のようだった気がする。

 気のせいだったかもしれないけど。

(でも、燐とこうして線で繋がっていたらいいなぁ。出来れば赤の……)

 ちょっとしたロマンチシズムに蛍が想いを寄せていると、ふいに体が引っ張られる感触があってビックリとした。

 先を行く燐との差がつきすぎたようで、腰に括られたロープが前へ進むことを促しているようだった。

 このまま燐に引っ張ってもらうなんてことはさせたくはない。
 蛍は頑張ってペースを上げることにした。

 ロープでつなぐことは確かに有難かったが、その分ペースを合わせなければいけないので、結構大変ではあった。

 特に燐のペースは蛍とはいろいろな意味で違っていたから。

 それに燐はさっきからこちらを振り返ることなく、自分のペースでもくもくと歩いている。
 蛍はその後を付いていくだけでいっぱいっぱいだった。

 でも、と思う。

(燐は、休まなくて平気なのかな? わたしはもう、だいぶ限界なんだけど)

 自分の体力の無さに憂いながらも、やっぱり燐の事が気がかりだった。

 燐だって疲れているはずだし。
 それなのに一向に立ち止まる気配を見せないのは、やっぱり。

(仕方ないよね。あんな事の後だし。わたしだって未だに信じられないもん)

 衝撃的な出来事があった。

 あったはず。

 あった?

(あれ……?)

 なんだか上手く思い出せないけど、なんか大変な出来事があった気がする。

 だからか、妙に気疲れのような心の余裕みたいものが失われているのを感じている。

 そのせいなのか、燐だって思ってたほどペースが上がっていない。

 それに何となく落ち込んでいるようにも見える。
 燐の小さな背中がさらに小さく見えた。

 それぐらい離れているからかもしれないけど。

(もうちょっとだけでも燐に追いつかなきゃ!)

 頭の中の霧がかった考えを打ち消して、燐との差を少しでも詰めようと蛍は懸命に足を前にと動かした。

 紐でお互いの身体を結び付けているからはぐれることはないけど、それでも心配はかけたくはない。

 それに万一、自分が足を滑らせたりしたら、燐にだって迷惑が掛かってしまう。
 
 最悪の場合二人一緒に谷底に落ちるなんてことに……。

 そう考えると今の状況は一蓮托生であり。
 割と蛍にも責任が掛かっていた。

 蛍は急ぎたいけど慎重に、そうなると結局早歩きで燐の背中を追った。

 実際は下りなんだから前に足を早く出そうと思えばそれはわりと簡単だけど、上手くコントロールするのが難しい。

 勢いがつきすぎて、転んだり足を痛めたりするなんて事は登山ではよくあることだから。

 前のめりになりそうになる身体をなだめながら、蛍は少し早いペースで霧に浮かんだ山の稜線を下って行った。

(あ、ここって昨日燐と一緒にご飯食べたところだ)

 どちらかというと下りが多いからか、蛍が思っていたよりも早くここの場所まで来ることができた。

 燐のペースに合わせていたからだろうと思う。
 その分、疲労はピークに達してはいるが。

 昨日、一緒にランチを楽しんた見晴らしの良い場所は、天然の石のベンチとテーブルのある本当にいい所だった。

 それが今では、雨風に晒されてうらぶれたように静まり返っていた。

 たったそれだけの事なのになんだかひどく寂しい場所に思える。
 お昼時の小一時間程度とはいえ、あんなに幸せな時間を過ごした場所だったのに。

 見方と言うか色彩が変わったからだと思う。
 
 雨が悪いというわけではなく、空気感だろうか。

 ここでいたことが嘘みたいに、背景も何かもがグレーの色に包まれていた。

「もうちょっと行ったら休憩しよっか。無茶して膝を痛めちゃったら大変だしね」

 いつの間にか立ち止まっていた燐が傍まで来ていた。

 燐もここでの事を思い出したのかもしれない。
 ちょっと残念そうにその場所を眺めていたから。

「うん、いいよ」

 蛍は少し大げさに頷いてみせた。

 燐にはきっと分かっていた。
 蛍の体力がもう限界を超えて、気力だけで歩いていたことを。

 だから嬉しかった、本当にいいタイミングで声を掛けてくれたことが。
 自分の事を理解してくれることが嬉しかった。

 それに、変に気を回す言い方ではなく直接的に言ってくれる。

 信頼されていると思った、燐に。

 だからわたしもはっきりと答えた。
 曖昧なのはなんだか悪い気がしたから。

「あはっ、まだまだ元気そうだね蛍ちゃん。でも無理はダメだから。しっかり休憩をとってこその下山なんだからね」

 燐は登りの時と同じようなことを言った。

 でも、思っていたよりも蛍が元気だったので軽く驚いた。
 蛍のその頑張り屋なところが燐はとても好きだった。

 さて、休憩と言ってもどこですれば良いのか。

 あのランチをとった山頂部分は雨ざらしでとても休めそうな場所ではない。

 他に雨宿りできそうな木々も周りにはなかったから、燐の言う様にもう少しだけ歩く必要があった。

「あ、燐っ! あそこなんてどう?」

 雨に濡れた指先を蛍が懸命に差した先は……大きな岩のその真下。

 岩の上の部分が軒下のように出っ張っており、ちょっとした雨宿りぐらいはできそうだった。

 燐と蛍は顔を見合わせると、身を隠すようにその岩陰の影へと急いで入り込む。

 完全に雨をよけきることはできないが、これといった場所も辺りには見つからないので、二人はここで身を落ち着けることにした。

「はぁ、ようやく休めるねー」
 
 燐の言葉に安堵したのか、蛍は思わず岩肌に背中を預ける。

 冷たいかなと思ったけど、背中のバックパックがクッションの役割を果たしてくれたから、むしろ心地いいぐらいだった。

 燐も大きなバックパックを背負ったまま手を首に回して背中を後ろに倒す。

「なんかいいね。こういうの」

 二人でこうしていると岩のベッドで一緒に寝ているみたいだった。

 蛍はどうにもお尻の左側が痛かったので、トレッキングポールの柄で自分のお尻を押したり叩いたりしていた。

 案の定、燐がマッサージしてあげようかと言ってきたが、丁重にお断りした。

 思っていたよりも悪くない場所だったから、思いのほかリラックスすることが出来た。

「やっと、ここまで戻ってこれたね」

 渇いた喉を潤して一息ついた蛍はにっこりした。

「うん。でも、ここからがちょっとキツイかもね。ちゃんと山を降りないといけないから」

 ここまでの行程はどちらかというと平坦な山沿いに下ってきたものだったけど、ここからがちゃんとした山下り。

 本当の意味での下山ということらしい。

 緊張してきた蛍は思わず喉を鳴らした。

 でも、ちゃんと燐と向かい合って話すことができたからちょっと嬉しかった。

 ただもくもくと歩いていた時は、二人の間に何か張り詰めた空気というか、それぞれの孤独感を感じていたから。

 それがようやく元通りになった気がした。
 互いの顔が見えないことがこんなに辛い事だとは思わなかった。

 その代わりと言ってはなんだが、無理やり誤魔化していた体の疲労を一気に感じることになってしまったけど。

 それでも燐とこうして話せることの方がその何倍も嬉しかったから。

 それに話していると少しだけ疲れを忘れることだってできるし。

「そうだよね。ここから降りないと下山できないもんね」

 他に降りれそうな道はなかったし、仮にあったとしてもこの悪天候ではとてもじゃないけど危険すぎる。

 だったら、行きで使った道で帰るのが得策だと思った。

 けど、登りがきつかったから帰りは楽ちん……という事はない。
 むしろ燐の言う所だとここからが本番と言ってもいいぐらいだった。

「まあ、雨で滑りやすいからゆっくり降るしかないんだけどね。蛍ちゃんなら大丈夫だよ」

「……そうだね」

 燐はなんでも簡単そうに言うから、ついそのまま受け取りそうになるんだけど。

 付き合いの長い蛍には分かってしまう。

 話し方の癖というものが燐にあるわけではないが、燐の”大丈夫”は蛍にとってそうとう苦労しなければならない案件であることは間違いなかったからだ。

 燐に大丈夫と言われたら頑張れる気はする。
 でもそんな事で上手くいくのなら苦労はしない。

 急に足が鉄の棒みたいに重くなってくる。

 あと少しで下山できるから確かに頑張りたいんだけど、気持ちが萎縮してるせいか足が言う事を聞きそうにない。

 ここまでだって、かなり無理をして燐のペースに付いて行ったものだから。
 いよいよ体が悲鳴をあげてしまったようだった。

 でも。

 泣き言何てもう言ってもいられない。
 燐にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかないし。

 それに。

 一刻も早くこの山から立ち去りたかった。

 それはきっと、二人とも同じ気持ちで。


 忘れかけていた事象を呼び起こすこの山は、過去の出来事も含めて振り返りたくないほどうんざりだったから。




 ズン、ズシン!

 

 地鳴りのような音は一向に止まってはくれなかった。

 

 荒々しい音の暴力に蛍は思わず耳を塞いで目を閉じる。

 もう止めて欲しいと願いながら。

 

 でも止まってはくれない。

 

 そして、覚えていたこの音を、振動を。

 

 焦燥感に駆られたあの時の恐怖を。

 

(これってやっぱりヒヒなの!? 何で今頃になってヒヒが)

 

 地鳴りのような音で思い起こされたあの時の記憶が、蛍の頭の中で譫言のようにヒヒの名を繰り返させる。

 

 そんな悲痛な思いすらかき消すほどにその音はあまりにも破壊的で。

 

 蛍は蹲りながら小さな心臓を早鐘のように打ち鳴らしていた。

 

「………」

 

 石のように固まる蛍とは対照的に燐はぼんやりと虚空を眺めていた。

 

 意味もなくそうしていたわけではない、ただ、意識がそこ(現実)に向いていなかった。

 

 隣で蛍がひどく怯えていることを知っていながらも燐は別の事に囚われていた。

 

 考えても意味のない事だと思っていても。

 それを止められなかった。

 

 終わっていなかった、何も。

 勝手に終わったと思い込んでいただけで。

 

(お兄ちゃん……)

 

 まだ見えざる脅威が少女たちに刻々と迫りくる中、燐が考えていたのは、この状況を打開する妙案などではなく、大好きだった従兄の──高森聡(たかもりさとし)のことだった。

 

 …………

 ………

 ……

 

 何で──ひとりで行ってしまったんだろう。

 

 それを知った時、悲しさよりも困惑の方が大きかった。

 

 暫くの間、距離を置きたかったんだろう、ということはわかる。

 それはわたしも同じ思いだったし。

 

 だからってそんなに遠くまで行かなくてもとは思ったけど。

 

 今の仕事をわざわざ辞めてまでの事だったのかな。

 

 やっぱりわたしが原因なの?

 わたしがあんなことをしなければ。

 

 それを思うとチクリと胸が痛んだ。

 

 確かに軽はずみな行動だった。

 

 わたしは自分の気持ちを優先することだけを考えていて、彼の秘められた思いなど全く考えていなかった。

 

 そして、あの目を見たわたしは……。

 

 けど……そうじゃない、きっとそれだけじゃなかったんだ。

 

 今ならそれが分かる。

 本当の意味で。

 

 彼が、お兄ちゃんが離れたかったのはそれだけのことじゃない。

 

 ──全部。

 

 だったんだと思う。

 

 わたしだけじゃない、仕事もそして自分自身からも逃げて、やり直したかった。

 そう思っていた。

 

 ストレスがあったんだと思う。

 ずっと想いを拗らせていたみたいだったから。

 

 仕方がない部分はあると思う。

 

 これは個人的というか性格的なもので。

 

 彼、個人の問題だからと勝手に、諦めていた。

 

 でも本当は違ったんじゃないか。

 他に原因があったのではと思った、それはずっと。

 

 だって、お兄ちゃんは知っていたから、町のことも座敷童のこともすべて。

 

 そのせいで自分もおかしなことに巻き込まれてしまったことも。

 

 きっと、逃げたかった。

 全ての元凶である小平口町、それに関係するすべての事象から。

 

 自分の家族さえも置き去りにしてまでも。

 

 巻き込まれた形なんだから被害者だと言うこともできたはず。

 

 でも……それだけじゃなかったから。

 

 自らの犯した罪の重さ、そして想いの強さを知ってしまったから。

 

 自分の中の正直な気持ちに気付いてしまったからだと。

 

 そう、思っている。

 

 隠していたものが白日に晒されてしまったことのショックは、わたしよりもきっと、彼の方が大きかったんだろうと思うから。

 

(それにしても……わたしってバカだなぁ。なんで今になって分かったんだろう)

 

 ひとつの疑問が解けたと思うと、またそこから新たな疑問が湧き出てくる。

 

 それは芋づる式に、問題を絡めとるみたいに。

 

 ──あの音。

 

 きっとあの音が理由だ。

 

 あの、地響きにもにた足音が胸の奥の疑問を無理やり呼び起こしたのだ。

 

 あまりにも遅すぎる。

 

 もっと早くに気付くべきだった。

 

 鳥や虫の声、蛙の鳴き声など。

 そう言った”他の生物”の気配が全くしない事になんで早く気付かなかったのだろう。

 

 それに清々しい朝の香りもここにはしない。

 でも、夜の匂いだって流れてこない。

 

 草の青青しさ、土の香り、花の揺れ方も何処かおかしい。

 

 まるで意図的に作られてたみたい画一的(かくいつてき)な白々しさが垣間見えた。

 

 確かにおかしい。

 そう──全てが。

 

 この辺一体の空気がおかしく感じる。

 

 まるで世界から隔離されたみたいに、独自の空間になっている。

 

 何か大事なものが抜け落ちているようなそんな曖昧さ、不条理さを心と肌の両方で感じ取っていた。

 

 普通なようで普通じゃない。

 そんな微妙さが曖昧さを生んで少しづつ日常を削っていた。

 

 例えば、多少、変な事が目の前で起こっても、あの町の()()の余波みたいなものだろうと勝手に解釈して無理矢理に納得させてしまっていた。

 

 そんな事がすっかり当たり前になってしまったから。

 それが盲点となってしまった。

 

 あの日の”絶望”は、まだ終わっていなかった。

 

 まるであの日の。

 

(転車台みたいに……つまり、そういうことか)

 

 乾ききった喉を無理やり動かして、蟠った言葉をゴクリと呑み込んだ。

 

 確かによく似ていた。

 

 周りの木々は周囲を取り囲むようにがっちりとしているし、石碑を中心とした円形の広場は、行きも帰りも同じ道しかない完全な行き止まりになっている。

 

 他に小屋のようなものは無いが、代わりと言っていいのか、ちょうど少女ふたりが隠れられそうな倒木が横たわっていた。

 

 だから今そこに身を隠しているのだが。

 

 ──こなければよかった。

 

 きっと、そういう認識こそが間違いなんだろう。

 

 でもそうすれば、何も知らずにいることが出来たのに、とか。

 

 いつも通りの元の日常に還ることが出来たはずなのに、とか……。

 

 けれど、そういうことではなくて。

 

(呼ばれていたんだ。きっとわたしも、蛍ちゃんも)

 

 そう、ずっと呼ばれて……呼んでいた。

 

 ずっとずっと、夢の中で。

 

 夢の終わりがあるなら、目覚めるしかない。

 その方法はきっと最初からもう分かっていた。

 

(わたしはずっと、夢に囚われていた……?)

 

 間違ってはいないと思う。

 

 希望に夢見て、他人に期待して、愛情を渇望していたから。

 

 意味なんてない。

 欲しいから、ただそれだけだった。

 

「はぁ……」

 

 声を潜めたまま燐は息を漏らした。

 

 我ながら呆れかえってしまう。

 

 何かの物事と言うのは急に始まるわけじゃなかった。

 必ず何らかの兆候、前段階がある。

 

 ただ、それに気づかなかっただけで。

 

 いつだってそう。

 気付いた時にはもう手遅れ何てことは割とざらだった。

 

 幸せとはそういうものだと言っている人もいた。

 

 ”何で上手くいかないんだろう”……?

 

 誰だって、きっと何かしら悩んでいる。

 けど、皆、折り合いをつけるのが上手で。

 

 わたしはいつもそれが苦手だった。

 

 ──かんたんな、ことのはずなのにね。

 

 ずしん、ずしんと地面と木々を揺らす音が無慈悲に近づいてくる。

 

 これ以上頭を巡らせても答えなんてない。

 むしろ答えはもう持っている。

 

 それでも一目見ないと納得がいかない。

 自分の目で確かめないと理解できないことだったから。

 

「……っ」

 

 さっきから首を伸ばして待ち構えているが、一向にその姿は現れない。

 音だけは伝わってきているのに。

 

 どうせ小山の様な異様な姿をしているだろうから、遠くからでも見れば直ぐに分かるはずなのに。

 

(本当に……ヒヒなのかな? まだ信じられないよ)

 

 いるわけがない。

 頭でそれは分かっている。

 

 けど、この音は?

 この芯から響いてくるような、地鳴りは?

 

 やっぱり”ヤツ”としか思えない。

 

 思いたくはないんだけど。

 

 灌木の影から燐は様子を窺う。

 

 ポケットに突っ込んだ手が痙攣したようにかたかた震えてくる。

 まるで今にでも抜くことを待ちかねているみたいに。

 

 落ち着きたいけれど、適切な落ち着き方が分からない。

 

 もし本当にアイツなら、こんなモノ何の役にも立たないと言うことは分かっているというのに。

 

 それでも地鳴りのようなが響くたびに緊張感は否応なしに高鳴っていく。

 

 あの日、手にしていた工業用の鉄パイプなんかよりも更に頼りないアウトドア用の本当に小さなナイフ。

 

 こんなもので何をしようというのか。

 これに縋ったところで何が得られるのか。

 

 こんなものでアイツを──ヒヒを止めることが出来るのか。

 

 そんなものは分からない。

 

 けれどこれしか、今はこれしかなかったから。

 

 感触を確かめるようにポケット中の金属の刃の表面に触れる。

 

 折り畳み式であるからまだ刃は出していないけど、少しだけ安心というか気が紛れる気がした。

 

 少し黒い感情が頭をもたげそうになるが。

 

 もし、目の前に今あいつが現れたらどうするだろうか。

 

 仮に見つかって先に動かれたらどうしようもない。

 

 ──先手を仕掛けるしかない。

 

 色々な面から考えても。

 

 脇から突くかそれとも背後からか。

 アイツは見かけ以上に俊敏だけど不意打ちならば、あるいは。

 

 それに確か左目が窪んでいたはず。

 

(そうなると左側が死角になるはず。でも、確か両目が見えなくともアイツは追ってくることができたから)

 

 と、燐がそうなることを想定して想像を巡らせていると。

 

「えっ!?」

 

 漏れそうになる声を無理やり押し込んでそちらを振り返った。

 ポケットを弄る汗ばんだ燐の手に触れるものがあったから。

 

 それは蛍の。

 細かく震えながらも燐の手をとる蛍の暖かい手、だった。

 

 震えているのは手だけではない、大きな瞳も小刻みに揺れていた。

 

 きっと覚えている、蛍ちゃんも。

 

 アイツから発せられる恐怖を。

 

 実際に蛍はそういう目に合いかけたわけだから無理もないことだった。

 

「大丈夫、蛍ちゃん、寒いの?」

 

 何か元気づけようと、燐が小声で軽く冗談を飛ばす。

 

「………」

 

 蛍は悲しみに目を曇らせながら無言で首を横に振った。

 

 それは確かに恐怖に怯えた目をしていたが、その視線は音のする方角ではなく、真っ直ぐに燐の方に注がれていた。

 

 非難というか、嗜めるような感じの真摯な黒い瞳を真っ直ぐにして。

 

「ど、どうして」

 

 小声とはいえ、燐はつい声を上げてしまった。

 

 それは、これまで見たことがないような瞳で蛍が見つめているように見えたからだった。

 

 燐の問いには答えずに、代わりに蛍はぎゅっと手を掴む。

 先ほどよりも少し強い力で。

 

 過ちを正す母の様な素振りに燐は困惑の色を顔に浮かべた。

 

 二人がこうしている間にも、黒い影みたいな”アイツ”が舌なめずりしながらこちらを見下ろしているのではと、想像したからだった。

 

 あのいかにも鈍重そうな巨体でこちらに気付かれること無く、接近できるとは思っていないが、それぐらい神出鬼没で狡猾な奴だったから。

 

 まだ確認していないからソレだとは決まったわけじゃないが、悪意というか得体の知れない感じを纏ったものが近づいてきているのは肌で感じている。

 

 熊の可能性もない事はないが、クマはわざわざ分かりやすく足音なんて立てないらしい。

 

 まだ山で一度も遭遇したことはないけれど。

 

(むしろ熊の方がマシまであるよね。ヒヒと比べたら)

 

 あのヒヒは熊よりも獰猛で欲望に溢れていたから。

 

 もっともそれだって彼の秘めたる欲望や想いを具現化したようなものなんだけど。

 

「燐……違う……よ。あれは多分、違う……」

 

 蛍が唐突に口を開く。

 ほんとうに小さく、か細い声で。

 

 そしてふるふると首を横に何度も振った後、まだ目で訴えかけた。

 

 何が……違うの?

 

(蛍ちゃん……? 一体、いったい何を、言っている……の?)

 

 燐には理解が出来なかった。

 

 蛍の可憐な唇から紡ぎ出された言葉の端々も、その意味も何もかも。

 

 違うって……何が?

 

 こんなに激しい地響きを鳴らして近づいているものが他にいるの??

 

 それに微かだが漂ってくるこの匂い。

 獣特有の、でもどこか違う、嫌な感じの匂いはアイツが発しているものとしか思えない。

 

 何か別の生き物可能性もないことはないけど。

 

「………」

 

 小鳥のように震えながら、それでも懇願するように健気に見つめてくる蛍。

 燐は苛立ちにも似た感情を無理矢理に押し殺して、困った顔で蛍に微笑んだ。

 

 その事が余計に自分の心を傷つけてしまうことを知っていたけど、そうすることしか出来なかったから。

 

 ここで感情を顕わにしたところで何にもならないし、これ以上の緊張感はもう耐えられそうになかったから。

 

 よく分からない感情の渦が胸の中でぐるぐると回り続ける。

 

 ──きもちわるい。

 

 赤い湖面、何もかも覆い尽くす様な霧。

 

 重い音を立てながら、良く分からないものがこちらへ向かってくる恐怖。

 

 それは何のために?

 

 誰の、ために?

 

 どすん!!

 

 燐と蛍。

 

 それぞれの想いを押しつぶすかのように、大地を揺るがすような音がすぐ近く鳴り響いた。

 

 雷にもにたその音に蛍は燐の手を握りしめながら身を竦める。

 

 ついにアイツが姿を現したんだと燐は思った。

 白い霧のトンネルを通り抜けて。

 

 ナイフを握る右手に緊張が走る。

 

 赤い瞳だけが白いヴェールの中で怪しく浮かび上がった。

 

 二人は身を貝のように固くしながら、木の隙間から覗き込んでいた。

 

 何かが動くたびに二人のいる地面も合わせて揺れる。

 

 響くような重い音がするたびに、水を跳ねる音が重なり合う。

 

 ソイツは赤い水を跳ね上げながら、こちらの方へと迷うことなく足を向けてきた。

 

「………!!!」

 

 蛍は片手で自身の口元を抑え込んだ。

 燐も思わず息を呑み込む。

 

 蛍はそう言ったのだが、現実は違った。

 

 目撃した姿は、確かにソイツは。

 二人が良く知る、”ヒヒ”そのものだった。

 

 優に3メートルはあるであろう巨体を揺らしながら悠然とした様子でヒヒはこちらへと向かってくる。

 

 見間違いようのない、あの体躯。

 

 あの時のヒヒが()()いたのだ。

 

 この”現実の世界”でも。

 

 赤い二つの目をぎらぎらと輝かせながら。

 

(二つ? 確か、ヒヒの目って……)

 

 自身の言葉に責任を感じる暇もなく、蛍はヒヒの特徴を頭の中で思い描く。

 

 記憶だとヒヒは左の目が窪んでいたはずだ。

 けれどコイツは普通に両目が見えているみたいに光を放っている。

 

(そういえば、サトくんも目が治っていた、ね)

 

 予想通りで合ったことに燐は複雑な気持ちを抱えながら、もう一つの片っ方であったサトくんの事を思い出していた。

 

 サトくんは白い犬に戻っていた。

 けれどこのヒヒには戻るものなどないようだった。

 

 むしろこの姿が正常なのか。

 

 ヒヒは初めて見た時と同じ格好をしていたから。

 

 薄汚れた作業着を着てヘルメットも被っている。

 

 赤い瞳の下には黄色い乱杭歯を覗かせているし、ヒヒという概念そのものの格好をしていた。

 

 これがヒヒでなくて、何であろうと言うのか。

 

(けど、蛍ちゃんの言う様に何かが違う気もする、目がちゃんと二つあることじゃなくて)

 

 ヒヒであると認識したら急に冷静さを取り戻すことが出来た。

 

 燐はつぶさにヒヒの挙動を確認する。

 一体何に違和感を感じているのだろう。

 

 みしっ。

 

 なにかとても嫌な感じの音がすぐ近くから聞こえた。

 

 一体何の音だろうと、蛍が周囲を見渡す。

 

 急に辺りが暗くなったと思った。

 

 その直後、地面が大きく軋む。

 

 何事かと思った時。

 

 一声も出なかった。

 

 ヒヒがすぐ真上にいたというのに。

 

 こちらを覗き込んでいたというのに。

 

「………」

 

 あんぐりと口を開けたまま呆然と見上げる燐と蛍。

 それを無言のまま見降ろす──ヒヒ。

 

 絶体絶命とはこの事だろうか。

 

 不意打ちを仕掛けるつもりだったのに、逆に不意打ちを食らう形になってしまった。

 

 暫くお互いを見ていたふたりと一匹だったのだが。

 

「え、ええぃっ!!」

 

 首を振った燐は自分を鼓舞するように叫ぶと、腰を上げてヒヒを睨みつけた。

 蛍も遅れて立ち上がると、慌てたようにぴったりと燐の隣にひっついた。

 

 向こうがこちらに来なければやり過ごす気ではいたが、こうなっては仕方がない。

 今更遅すぎるとは思うが、まだヒヒが襲ってこない以上、やるしかないようだった。

 

 それに、あのヒヒに限ってそんな情けをかけるような奴ではない事はもう散々知っていたから。

 

 戦うしかない。

 

 それでしか活路を見いだせなかったから。

 この時は。

 

 ────

 ───

 ──

 

「──ちゃん」

 

「………」

 

「蛍ちゃんっ!!」

 

「はっ! あ、ごめん、燐。わたしちょっと寝てた、みたい」

 

 相当に疲れているのか、蛍は瞼をうつらうつらさせながら、曖昧な返事を返した。

 燐はそれを見て悪戯っぽく笑う。

 

「立ったまま寝るなんてあんがい器用だよね、蛍ちゃんって。でも、エベレストとかの高い山に登る人はそういう事も出来ないとダメなんだって」

 

「そ、そうなんだ」

 

 急に縁もゆかりもないエベレストの話になって、蛍は困惑しながらも頑張って微笑んでみせた。

 

 それでも起き抜けだからかまだ頭がぼーっとしていた。

 

「まだ眠い? わたしが肩、貸してあげようか?」

 

 燐がちょこんと肩をくっつけて促してくる。

 

「い、いいよ。もう少し目を閉じていたらすぐにもどるから」

 

「そーぉ?」

 

 ちょっと残念そうに燐が肩をすくめる。

 そんな燐の横顔をみて軽く微笑みながら、蛍はもう少しだけ微睡むことにした。

 

(あれは、夢だったのかな……? ヒヒがまた目の前に現れて燐とわたしが対峙するっていう、あり得ない話……)

 

 夢うつつの中、蛍は追憶に身を委ねる。

 

 ”青いドアの家”。

 

 あの世界にまた行くことができてから何かが少しずつ変わってる気がする。

 

 それは何かの予兆なんだろうか?

 それとももう、何かが起きている?

 

 ともかく、非現実的な事柄が二人の身の回りで起きているのは紛れもない事実だった。

 

(やっぱり、あれなのかな、座敷童。それがまだ影響を及ぼしているのかな。もう殆ど力は残っていないって言ってたのに)

 

 目で見えないものだから分からないけど、そうとしか考えられない。

 

 歪みはまだ座敷童を中心にして残っている。

 そう言われても何らおかしくはない。

 

 むしろ腑に落ちるぐらいだった。

 

(座敷童っていえば燐は? 燐もやっぱり、わたしと同じ座敷童になっちゃうのかな)

 

 前に思わず燐にそう言ってしまったけど、いまいち自信が持てない。

 

(だって燐は”そういう血”ではないと思うし、その力だって……)

 

 そう断言できるだけの知識も力もない蛍では何の説得力もないのだが。

 

 ただ、燐自身はどう思っているんだろうとは思う。

 

 座敷童の定義だって、曖昧で未だに良く分からないことだし。

 超能力者とかエスパーとかの方が分かりやすく感じる。

 

 どっちも同じ意味な気もするけど。

 

(むしろ、ラッキーガールとかの方が良いのかもね。ちょっと軽すぎるけど)

 

 自分はともかく燐だったら似合う気がする。

 

 燐は明るいし、とっても優しいから。

 

「どうしたの蛍ちゃん。わたしがどうかした?」

 

 つい口に出てしまったのだろうか、燐が顔を覗き込んでいた。

 

「な、何でもないよ。またちょっと寝ちゃってただけ」

 

「ふぅーん」

 

 これは流石にバレてしまったのか、燐に疑わしい目を向けられてしまった。

 

「あ、えっと、ね、ねぇ、燐。さっき見た夢の話をしてもいい?」

 

「ふぇっ!? い、いいけどぉ」

 

 珍しく蛍が慌てて話しかけてくるので、燐は目を丸くしながらも、とりあえず頷いてみせた。

 

 蛍はとりあえず胸をほっと撫で下ろす。

 別にやましい想像をしていたわけじゃないのだが、何となく恥ずかしかったから。

 

「で、夢の話ってどんなの? わたしが見たような不思議な列車の話?」

 

 燐は前にそういう夢を電車の中で見たと言っていたけど、わたしのはそんな楽しい夢じゃない。

 

 現実と虚構をないまぜにしたような夢。

 

 むしろ悪夢に近かったから。

 

「えっと、そういうのじゃなくて……その、燐とわたしがもう一度あのヒヒに出会ってしまう夢、なんだけど……」

 

「??」

 

「い、いきなりこんな事言われてもにわかには信じられないよね。でも、夢の話だから」

 

 しどろもどろになって説明する蛍だったが、燐は首をかしげたまま膠着していた。

 

 やっぱり夢の話とはいえ、燐に話すべき内容ではなかったようだ。

 

(それはそうだよね。だって燐はあのヒヒを嫌悪……)

 

「夢じゃないよ」

 

「えっ!!??」

 

 蛍の目が点になる。

 

「あれは本当。現実の話」

 

 そう言い放つ燐を見て、蛍は口を開けたままになった。

 

「わたしも認めたくなかったけどさ、やっぱり現実なんだよね、アレも」

 

 燐は切なそうに顔を背けた。

 

 その言葉に蛍は自分の感覚がだんだんと現実味を帯びてくるのが分かった。

 

 やっぱりそうだった。

 

 燐と一緒にまたあの石碑の前に行き、そうしたら赤い水が周りに張ってて、そして大きな物音と共にヒヒが……!

 

「じゃ、じゃあどうしてわたし達ここにいるの? だってあのヒヒに襲われたのなら、もう」

 

 あの夜、ヒヒに襲われた時、わたし達を助けてくれたのはサトくんだから、きっと今回もサトくんが。

 

「もしかしてサトくんが?」

 

 蛍はつい勢い込んで”サトくん”と言ってしまった。

 

 蛍的にはあの犬は”シロ”で決定したのだったが。

 

 この際どっちでも良かった。

 今度も白い犬が助けてくれたのなら。

 

「サトくんは来なかったよ。最後まで、ね」

 

 蛍の楽観的な考えは、燐によって否定されてしまう。

 

 そんな燐も少し悲しそうな顔をしていた。

 

 来てほしかったんだろうと思う。

 燐はサトくんの事が好きだったし。

 

「じゃ、じゃあどうして?」

 

 どうやって助かったのか。

 ヒヒは獲物を定めたらしつこいぐらいに追いかけてくるはずなのに。

 

「さっきから気になってたんだけど、もしかして覚えていないの蛍ちゃん?」

 

「え? う、うん……」

 

 夢だとばかり思っていたからか、どうしても具体的なことが思い出せない。

 断片的な記憶がつぎつぎと蘇るぐらいで、一番核心的な部分が分からないままだった。

 

「り、燐」

 

 自分は病気なんだろうかと思ったのか、蛍はおずおずと燐に話しかける。

 

 もしかしたら変わってしまう前兆かもしれないと思ったが、まだその事は言えなかった。

 

「大丈夫だよ。わたしが全部話してあげるから」

 

 そう言って頭をぽんぽんと叩かれる。

 雨が降り、フードを被っているとはいえ、何となく暖かい気持ちになった。

 

「要するにどうやってわたし達がヒヒから逃れられたって話だよね?」

 

「うん」

 

 蛍は握りこぶしを作って力強く頷く。

 

 燐だって怖い事のはずなのにそれでも話してくれるみたいだから、一言だって聞き逃さないつもりだった。

 

「それはね……」

 

「うんうん」

 

「蛍ちゃんが助けてくれたんだよ」

 

「えっ、わたしが?」

 

 燐に言われて思わず自分を指さした。

 

 何をしたと言うのだろうか。

 こんな何の力もない自分があの狂暴なヒヒに対して。

 

「蛍ちゃんがヒントをくれたんだよ。”あれは違う”って」

 

「ヒント? わたしが??」

 

 絞り出すように頭を捻る蛍だったが、どうにも思い出せないようで、困惑したようすで顔を曇らせた。

 

 そんなヒント的なことを本当に言ったのだろうか、それも燐に対して。

 

「……本当に覚えてないみたいだね。じゃあちゃんと説明するとね……」

 

 どんなに雨に降られても、燐の声を聞き逃さない自信はあった。

 

 でも覚えていないのは何故なんだろう。

 

 さっきまで”ちゃんと覚えていたような気がした”のに。

 

 まるで、明晰夢のよう、だった。

 

 ズキン。

 

 頭の奥が急に痛みだした。

 それはすぐに収まったから、特には気にも留めなかったけど。

 

 蛍の心はざわついたままだった。

 

 

 ───

 ───

 ───

 

 

 ──”おわった”とそう思った。

 

 この巨体に睨まれたら誰だってそうなるだろうと思う。

 たとえどんな屈強な人物や獣、獰猛なクマだったりしても。

 

 ヒヒの風貌には畏怖しか覚えなかったから。

 

 服装だけは人間の真似をしているけど、腕や顔は獣のそれであり、あまりにもおぞましいい姿をしているからだった。

 

 だからこそ、その一片すら視界に入れたくはなかった……のだが。

 

(あれっ、なんで!?)

 

 燐は、初めて物を見た時みたいに目をぱちくりとさせた。

 

 目は赤く輝いているが、その顔は獣と言うよりも。

 

(なんだか小さく見えるような……?)

 

 ヒヒの顔をまともに見たくなかった蛍は、その手元にだけを見ていた。

 

(やっぱり、違う)

 

 手もまるで人間のように細長くなっている。

 

 服の隙間から見える体毛も薄く、これではあの巨大な鋸を振り回せるとはとても思えない。

 

 そもそもその鋸さえ持ってはいない。

 

 ヒヒの象徴ともいうべき巨大な刃の鋸を今は手に持っていなかった。

 

 どこかに置いてきたとも考えられるが、それにしたって無防備はヒヒを見るのは初めてだったから激しい違和感に襲われる。

 

 もっとも、とても持てそうにない体躯だったけど。

 まるで別人……いや、普通の人間みたいだった。

 

 自分の目を疑う様に何度も燐は目を擦る。

 

 しかしその姿に変わりはなかった。

 

 ヒヒの様な人影はゆっくり動いたと思うと、遠くを見ながら燐と蛍がいる方向に突然頭を下げた。

 

「ひぃっ……!」

 

 短く悲鳴を上げた蛍が燐の腕にぎゅっとしがみ付く。

 

 燐は声すら発することが出来ない。

 

 謝罪のつもりなんだろうか、少女たちは嫌悪感を露わにして、その様子を凍り付いたように眺めていた。

 

 どれぐらい経っただろう。

 

 ヒヒはしばらく首を垂れていたが、急に踵を返すように二人に背中を向けると、静かな足取りで向こうへと行ってしまった。

 

 その先にはあの赤い水を湛えた、白い石碑が立っている。

 ヒヒが迷うことなくそこに向かったことで、大体のことを理解することが出来た。

 

 けれど、二人は未だに凍り付いたまま。

 

 ただ、お互いの手を強く握りしめていた。

 

 ────

 ───

 ──

 

「じゃあ、偽物だったって事なの?」

 

 燐から事のあらましを聞いた蛍が出した答えはそれだった。

 

 燐は何とも困った顔で苦笑いする。

 

「うーん、偽物っていうか多分だけど、元になった人だったんじゃないかなぁ、ヒヒの」

 

「ヒヒって元は人間なの? あんな姿をしているのに?」

 

「それは何ともだねぇ」

 

 曖昧に笑って燐は肩をすくめた。

 

 結局その正体はようとして知れないということだろうか。

 何とも腑に落ちない結末だったみたいだが。

 

「じゃあ、あの足音みたいな地響きは? 地震ってわけでもないんでしょ」

 

 段々と思い出してきたのか、蛍もあの時の様子を語る様になった。

 

「それも何ともねぇ。雷が落ちたとかじゃ、ダメ?」

 

「ダメってことはないけど……やっぱり無理がある気がしない?」

 

「まぁ、ね」

 

 燐と蛍は顔を見合わせてため息をついた。

 

 あれだけの目に合っていながら、それがなんだったのか分からないなんて。

 

「でもさ」

 

「うん?」

 

「あの時の町の異変だって結局何も分からなかったじゃない。だから今回の事もそんなに気にしなくていいんじゃないかなって思ってるの。蛍ちゃんはどう?」

 

「うーん、わたしはあんまり記憶に残っていないみたいだから……でも、燐が良いならそれでいいよ」

 

「ありがとう蛍ちゃん」

 

「別に、お礼を言われることじゃないから」

 

 不条理な事なんて今に始まったことじゃないし、怖い目にあっても互いに無事ならそれで良かった。

 

 理由とか意味なんて、思ってるよりもそんなに重要な事じゃないし。

 そんな事に囚われるのなら、考えない方がマシなまであるから。

 

「実はね。わたし妖怪の仕業じゃないかって思ってるんだ」

 

「燐って、そんなに妖怪好きだったっけ?」

 

 また、とばかりに呆れたような声をあげる蛍に燐は手を振って反論した。

 

「いやいや、そうじゃなくて、だってさわたし達の考えの及ばない現象だったでしょ。だったら妖怪の仕業だったとしてもそんなにおかしくはないかなーって」

 

「理に適っているような、そうでもないような……」

 

 燐が力説する妖怪理論に蛍は首を何度も傾げた。

 

「それにさ、どんな妖怪か大体の想像がつくんだ」

 

 よほど地震があるのか、燐は手を腰に当ててそう言った。

 蛍は大きなため息をつく。

 

 でも、燐の話に乗るのは好きだから、その続きを促してみた。

 

「じゃあ、どんな妖怪の仕業なの?」

 

「わたしの推論だと見上げ入道じゃないかって思ってるの? 蛍ちゃんこの妖怪のこと知ってる?」

 

「聞いたことはあるけど……確か、体を大きくみせて人を驚かす妖怪、だったっけ」

 

「うん、大体当たりだね。でも結構人を殺しちゃう悪い妖怪みたいだよ」

 

「そうなんだ」

 

 悪くない妖怪とはどういうのを指すのか。

 座敷童なんかはその最たるものだろうけど。

 

 燐も蛍も妖怪なんて漫画での知識ぐらいしかないからその程度の認識でしかなかった。

 

「でもね、その正体は、キツネとかタヌキとか……あ、イタチなんかもあるみたいだね。とにかく動物が化けてるんだって。蛍ちゃんはどれだと思う」

 

「どれって……」

 

 どう答えればいいのか。

 それに、その理屈だと、二人は動物に化かされたことになってしまう。

 

 流石にそれは恥ずかしいというか、何とも馬鹿馬鹿しいというか。

 

「うーんと、その中だとキツネかな。もふもふしてそうで可愛い感じだし」

 

 三匹の中でももっとも無難なものを蛍は選んだ。

 

「キツネ可愛いよねぇ。ふわふわの尻尾とか、ピンと立った耳とかさ。それに、ごんぎつねとか、手袋を買いに出てくるキツネが健気でさ」

 

「あと、雪渡もそうだよね。そう考えるとキツネが出てくるお話って結構あるよね」

 

「”キツネ目”って言葉もあるぐらいだし、案外物語に登場させやすいのかもね。キツネって。あ、そういえば”土神ときつね”にも出てくるけど、あれは可哀そうだったね。嫉妬されて最後は殺されちゃうなんて」

 

「うん。みんなで仲良くすれば良いだけなのにね」

 

「ホントだよね。あ、そういえばさぁ……」

 

 二人の話は妖怪の話題から飛んで、お互いの知っている本の話に変わっていた。

 

 この間に雨がやんでくれれば完璧だと思っていたのだが、今日の天気はいつになく頑固なようで。

 

「やっぱり止まないね、雨」

 

「うん……」

 

 ぱらぱらと灰色の空から雨はいつまでも降り続いていた。

 

 流石にもう、この辺りの地面は赤くはないけれど、憂鬱な思いはむしろ増してきている気がした。

 

 ここからの下山に備えて、スティックバーなどの携行食でお昼をすませた二人は、止むことのない空を見てため息をついた。

 

「ちゃんと無事に降りれるのかな」

 

 黒い空を仰ぎ見ながら蛍が重重しく口を開く。

 

 零れる言葉は、空よりも黒く、自身の無さを表しているようだった。

 

 普通にこの山を降りるだけでも結構怖い気がするのに、こんな雨だなんて。

 

 それにさっきから風も出て来ていた。

 

 この分だと暴風雨になるのも時間の問題かもしれない。

 

 そこで雷でも落ちようもんならそれこそ、キツネの悪戯どころの騒ぎじゃなくなる。

 

 死と隣り合わせの状況がまさかこんな近所の山で起こるなんて。

 

 ワクワクしながら山に来たはずだったのに、と蛍が空を睨みつけたその時。

 

「えいっ」

 

 と声がして、蛍の視界が黒く閉ざされる。

 

 目を塞がれてる!? 

 そうすぐに思った。

 

 暖かく柔らかい手のひらの感触が目元を覆っていたから。

 

 誰が、何のために?

 

 なんて、そんな詮索すら意味を果たさない、だってすぐ近くから声がするし、それを出来るのはひとりしかいないのだから。

 

 耳元に掛かる柔らかい吐息交じりの声が耳朶をくすぐった。

 

「こーして視界を塞ぐとね、雨音がすごく良く聞こえるの。どう、何か感じない?」

 

「感じるって?」

 

 小雨ぐらいならいいけれど、こんなに土砂降りだとただ五月蠅いだけじゃないの?

 

 蛍はそう反論しようとしたが。

 

「いーからっ。黙って聞いてみて。雨の声を」

 

 良く知ってる少女がちょっと変わった事を呟いてきた。

 耳がくすぐったいけど、気持ちのいい声色で。

 

 ずっと聞いていたいほどの可愛らしい声だったから、わたしは素直にその声に従って耳を澄ませた。

 

(雨の声……か)

 

「………」

 

 じっと息を潜めて耳を澄ませる。

 

 ザーザーとノイズのような音に混じって、ぴちょん、ぴちょんと石に当たるわずかな飛沫の音がそれまで入らなかった耳に聞こえ出した。

 

 それだけではなく、緑の葉を打つ繊細な音や、木の枝に当たった時の小気味よい音なんかも聞こえるようになった。

 

 そして、鼻歌のようなものを楽しそうに歌っている吐息交じりの少女の声も。

 

「確かに……癒される感じがするね」

 

「周りの音がちょっとうるさいけど、慣れると何てことないでしょ。むしろ普通よりも良く聞こえるというか」

 

「くすっ、燐でもそういう情緒的なものを感じることがあるんだね」

 

「もー、わたしそこまでガサツじゃないんだからね。むしろ繊細っ」

 

「はいはい」

 

 ちゃんと蛍は同意してあげたというのに、燐は不満そうな声を耳元で漏らしていた。

 

「ね、蛍ちゃん、やっぱり怖い? わたしが蛍ちゃんをおぶって降りてもいいんだよ」

 

 柔らかい声色で、燐が提案してくれる。

 

 とっても優しい燐。

 だからこそ傷つきやすいんだろう。

 

 わたしはそんな燐に何をしてあげればいいんだろう。

 その事をいつも考えている。

 

 今だって。

 

「うん、ちょっとだけね。でも、大丈夫だから」

 

「本当に?」

 

 燐の吐息が耳に掛かる。

 このままだと耳に当たるんじゃないかと思うほどに燐の声が近づいているのが分かった。

 

 きっと意地悪されている、蛍はそう思った。

 

「ごめん、やっぱり怖いかも」

 

 蛍がそう告白すると、燐はくすっと笑って蛍の耳朶に息をふっと吐息をあてた。

 

「くすっ、そういうもんだよ。わたしだってやっぱり怖かったもん。でも今は大丈夫だよ。だって蛍ちゃんと一緒だから」

 

 朗らかな、本当に幸せそうな声。

 

 燐の声を聞いていると、本当に幸せな気持ちになる。

 蛍の胸の内に澄んだ青空がぱあっと広がっていくようなそんな清涼感を感じた。

 

「そっか。じゃあわたしも大丈夫だよね。燐と一緒だから、ね」

 

「もー、わたしの真似しなくてもいいのに」

 

「別に、燐の真似してるわけじゃないよ」

 

 そう、わたしには燐の真似はできない。

 いくら頑張ってみたところで燐には絶対になれなかったから。

 

 わたしはわたしのままで良いんだって思った。

 

 何の取り柄もないけれど、燐が好きなままのわたしで。

 

「ねぇ、燐。そろそろ目隠しを外してくれない? もう十分休んだから」

 

 燐の掌の温もりはとても安心するけれど、ずっと真っ暗なのはやっぱりちょっと怖い。

 

 何より。暗い世界にひとりぼっちで投げされたみたいだったから。

 燐もいない暗闇の世界で。

 

 それが怖かった。

 

「そうだね。早く下山してお風呂入りたいしね」

 

「あ、わたしも。さっきから体べとべとですごく不快なんだよね。昨日も入ってないから匂いが気になってたんだよね」

 

「え、蛍ちゃんいい匂いするよ? わたしの好きな匂い」

 

 そう言って燐は蛍の首元に鼻を寄せる。

 思ってもみなかった燐の行動に大人しい蛍にしては珍しく声を荒げて抗議した。

 

「燐、なんでわたしの匂いを嗅ぐの。すごく気にしてるって言ったよね」

 

「ごめんごめん。だったら早く下山して体、洗わないとね。あ、そうだ蛍ちゃん。良いこと教えてあげる」

 

 本気で嫌がっている素振りの蛍に、燐は誤魔化し笑いを浮かべながら謝った。

 

「ん? なぁに燐」

 

「あのね。目隠しを外すと蛍ちゃんの一番見たかったものが目の前にあるからね。ちゃんと見ててねー」

 

「うん。分かったよ」

 

 燐の企みがすぐに分かった蛍はとりあえず頷いてみせる。

 

 でも。

 

「じゃあ、外すよ……って、蛍ちゃん!? 何でわたしの手を掴んでる、の」

 

「あ、ごめん。ちょっと気になったものだったから」

 

「? まあ、いいけどね。あ、そうだ手を外した後もまだちょっとだけ目を閉じたままにして欲しいなぁ。ちゃんと合図するからその時に目を開けてね」

   

「分かった。それじゃあ燐、外して」

 

 蛍がそう言うと燐は蛍の目を覆っていた両手を外した。

 

 やけに注文が多いなぁと思いつつも蛍には燐の考えが読めていたので言う通りに暫く目を閉じていた。

 

「……」

 

 光の粒のようなものが蛍の瞼の裏側に不規則な模様を描いている。

 

 蛍は目を閉じたまま、さっきのようにじっと耳をすませた。

 燐の手に包まれていないから何だかちょっと寂しい気もするけど。

 

(なんだか、小さい頃やってた遊びみたい)

 

 確か、幼少期の頃だったか。

 

 鬼になった子の周りをみんなが手を繋いで囲み、最後に鬼の後ろにいる子を当てる、懐かしい遊びを思い出した。

 

(歌が終わった時に、後ろにいる子の名前を当てるんだよね。わたし結構好きだったなぁ)

 

 蛍は意外にもその遊びが得意だった。

 

 鬼になった子が一方的にならないように、周りの子がヒントのようなものを言う事があるのだが、蛍はそれがなくとも後ろにいる子を当てることができた。

 

 あまりにも完璧に当ててしまうので気味悪がれてしまったが、しばらくするとその遊びは流行りではなくなり、周りでは誰もやらなくなってしまった。

 

 もっと体を使う遊びや、テレビゲーム等の面白い遊びに子供の関心が行ってしまうのはある意味仕方がない事だった。

 

 それに蛍が正確に当ててしまうのは記憶力だけではなく、実は耳が良かったからだった。

 

 耳が良く聞くから、僅かな足音の違いやひそひそ声などでその人を知る事ができた。

 

 本人は至って普通の事だと思っているようではあるが。

 

 雨音に混じって、ぱしゃと水が大きく撥ねる音を蛍は聞き逃さなかった。

 

(ほらね、やっぱり)

 

 きっと燐が目の前で変な顔でにこにことしているんだろう。

 わたしはそれを見て、また噴き出してしまうに違いない。

 

 想像しただけでもう噴き出しそうになりそうだったが。

 

 燐はいつでもわたしを楽しませてくれる。

 わたしはそんな燐が好き。

 

 ──誰よりも好きだから。

 

 だからわたしは燐に微笑むんだ。

 

 いつものように。

 本当の笑顔で。

 

 本当は燐に何もかも差し出してあげたい。

 

 家もお金も……身も心だって。

 

 でもそれだときっと重すぎるから。

 迷惑するだろうから。

 

 だからせめて笑顔や言葉で思いを伝えてあげたい。

 

 だって、わたしの幸せはやっぱり、燐。

 

 あなたなのだから。

 

「もう、いいよ~」

 

 偶然にも幼い頃やった遊びのような言い方を燐がするものだから、蛍はとうとう我慢しきれずに噴き出していた。

 

 燐ともっと早くから出会うことがあればきっとこうやって一緒に遊んでいたと思う。

 燐ならきっとどんな遊びにも付き合ってくれるだろう。

 

 けれど、それは今からでも遅くはない。

 

 こうして山に一緒に来れて、キャンプして一夜を明かして、一緒に下山する。

 

 燐にしてみたらなんてことないことだろうけど、わたしにとってはとてもすごい冒険。

 

 あんまり認めたくはないけど、きっとあの三日間がちょっとわたしを変えたんだと思う。

 

 恐怖も喪失感も確かにあった。

 虚しさも絶望も。

 

 でも、それもいい意味での経験だったと思う様になってきてる。

 

 きっと今が幸せだから。

 

 多少の困難が起こっても燐と一緒なら頑張っていける。

 

 そう、燐と一緒なら。

 

 ──あ。

 

 すっかり忘れていた。

 

 真っ暗な視界の中、薄ぼんやりとした視界の中に人の姿が浮かびあがる。

 

 やっぱり燐だ。

 きっとちょっと変な顔で微笑んでるに違いない。

 

 その微笑みを現実のものにするためにわたしはゆっくりと瞼を開いた。

 

「あうっ……!」

 

 結構な間、視界を塞がれていたから急に眩しく感じる。

 今日は太陽は出ていないはずなのに。

 

 慣れるまで何度も瞬きを繰り返す。

 

 まるで”青いドアの家の世界”にいる時みたいだった。

 

(青いドアの、世界!? まさか!)

 

 蛍は思い切って目を見開いた。

 

 ……

 ………

 

 空はどんよりとして灰色の雨を降らしている。

 

 何も変わっていない。

 

 雨煙に曇る景色も、雨が降り続いていることも全て。

 

 青いドアの家に行くこともなかった。

 

 だからかちょっとほっとした。

 

 でも、目の前には誰もいない。

 

 ”もう、いいよ”と声を掛けてくれた燐がいなかった。

 

 雨はざーざーと降り続いている。

 

 蛍は目の前が真っ暗になりそうで、思わず手で顔を覆った。

 

 その場で崩れ落ちそうになった、その体を支える細い手。

 

 蛍はハッとなって覆っていた顔を上げる。

 

 そこには。

 

「後ろの正面だーれだ」

 

 ちょっと申し訳そうな顔の燐がいた。

 

「燐っ!!」

 

「わっ!!」

 

 燐の胸に飛び込んだ蛍は、ぎゅっと抱きしめる。

 

 暖かい、本物の感触。

 恥ずかしいなんて、匂いなんてもうどうでもいい。

 

 この温もりを絶対に離したくはなかった。

 

「もう、蛍ちゃん危ないよ。倒れちゃったらどうするのぉ」

 

 顔を赤くしながら

 

「それはないよ。だって燐なら受け止めてくれると思ったし、それに、この遊びはわたし得意なんだから」

 

 微笑む蛍を燐はぎゅっと抱きしめる。

 そしてちょっと首を上げて空を仰ぎ見た。

 

 空はずっと灰色で、冷たい雨を降らしている。

 

 でも、暖かい。

 

 彼女の涙が、心がとても暖かった。

 

 心の奥にランプの火が灯ったみたいにあったかい。

 わたしはそれを守らなくちゃならないんだ。

 

 その火が燃え続ける限りずっと。

 

「ごめんね、蛍ちゃん。もうどこにも行ったりしないから」

 

「……うん、約束だからね」

 

 蛍はそう言ってにこっと笑った。

 

 互いの体を掻き抱き合いながら、二人は雨が気にならないほど暖かいものを感じ合っていた。

 

 しばらくそうしていたが、やがてゆっくりと離れる。

 

 燐は改めて蛍に頭を下げる。

 

 蛍も頭を下げた。

 

 二人は頭を下げ続けていたが、やがて目が合うと顔を見合わせて微笑んだ。

 そして手を取り合うと、足元を気にしながらも山を降りる。

 

 天気は悪くて山のコンディションは最悪だけど。

 

 きっと大丈夫だと思った。

 

 ──

 ───

 ────

 

「ねぇ、燐、ちょっといいかな」

 

 麓まで後もうちょっとと言うところで、蛍は前を行く燐に声を掛ける。

 

「なぁに、蛍ちゃん」

 

 ここまでくれば後は緩やかな道を下るだけだったので、すっかり安心した燐は蛍の方を振り返った。

 

「ここまで来たらもうすぐ麓でしょ。ここからは一緒に行かない? 山頂の時みたいに燐と一緒に到着したいなって思って」

 

 そう言って蛍は手を差し出した。

 

「うん、いいよ。一緒に行こう。ここまでくれば後ちょっとだしね」

 

 燐は蛍の手を取ってニコッと微笑んだ。

 蛍もまたそんな燐に笑みを見せる。

 

 ここまでこれたのだから、後は歩きやすい山道をくだるだけ。

 心配どころはもう何もなかったから。

 

 二人は手を繋ぎながら、麓までの一本道を下る。

 

「思ってたよりも湿ってないね、この辺。雨、降ってなかったのかな」

 

 蛍の言う様に、地面はさらっとして渇いているようだった。

 

 どうやら雨が降っていたのは山頂付近の上の方だけだったみたいで、周りの木々にも雨露のあとは残っていない。

 

 いつの間にか雨ももうすっかり上がっていた。

 

 二人はフードを脱ぐと、軽く髪を整えて山道を歩きだす。

 

 山道の周りの森はとても静かで、あの日の緑のトンネルを思わせた。

 

 下草に埋もれた古い線路は無いが、それでもどこか似ていた。

 

 もう辿り着けないあの場所に。

 

 暗い森を手を繋いで歩く。

 

 しばらく進むと、虫の鳴き声や鳥の声が聞こえ出して、森の中が急に活気出した。

 

 ようやく帰ってきたと思った。

 知っている世界に。

 

「もうすぐ、終わっちゃうんだね」

 

 すごく長い時間山にいた気がする。

 流石にもうへとへとだが、それも終わりかと思うと急に感慨深くなる。

 

 もしかしたらもう少し行けるのではないかと錯覚してしまうほどに。

 

「うん。でも蛍ちゃんがこんなに頑張るとは思わなかったよ。これならどこの山でも登れると思うよ。もちろん誇張抜きで」

 

 体力がないと嘆いていた蛍がこんなに逞しくなるとは思ってもなかった。

 そんな蛍を燐は親友として誇りに感じていた。

 

 ──やっぱり友達で良かった、と。

 

 大人しいそうに見えて、実は頑張り屋。

 

 そういう蛍みたいな子の方がアウトドアに向いているのだと思っていた。

 

 聡もそうであったから。

 きっと蛍だって。

 

「そう、かな。自分じゃ自覚ないけど、燐がそう言うのなら」

 

 燐はおだてるのが上手いなぁと思った。

 

 だって燐に言われるとどんなことでもやれるんじゃいかって思えてしまうから。

 

「蛍ちゃん、あそこ。登山口だよ!」

 

 燐が笑顔で指さした先にこの山の唯一の出入り口である登山口が見えた。

 

 その先にはアスファルトも見える。

 車通りの少ない田舎だから、まだ車の影は見えないけど。

 

 急に現実が近くなった。

 

「じゃあ、いっせーの、で越えようか?」

 

「うん。二人一緒にね」

 

 燐と蛍は手を強く握りあった。

 

 大切な人の手。

 想いを込めるようにぎゅっと握った。

 

「じゃあ行くよっ! いっせーのっ!」

 

「せっ!!」

 

 スタッ、と二人は同時に地面に足をついた。

 

「やったね、蛍ちゃん! ちゃんと戻ってこれたねっ!」

 

「燐のおかげだよ! すごく感謝してる!」

 

「蛍ちゃんが頑張ったからだってぇー」

 

 二人は手を取り合いながら、誰もいない登山口の前ではしゃぎまわった。

 

 いつの間にか携帯の電波も回復していたので、燐は早速母親に連絡を取った。

 

 見覚えのある、濃紺と白のツートーンカラーの軽自動車が登山口までにやってきたとき、開口一番、燐は迎えに来た母の咲良に怒られてしまった。

 

 ”連絡つかなったから、すっごく心配したっ!”と。

 

 燐は電波が悪かったことを言い訳にしたが、それでも納得がいかないのか、咲良は燐にしばらく実家のパン屋の手伝いをすることを強要した。

 

 もちろん燐は猛反対したのだが。

 

「わたしも一緒にやるから、ね」

 

 そう蛍が言ったので燐は嫌々ながらも納得するしかなかった。

 

 

「部活して、パンも焼いて……わたし、受験勉強もあるんだから、そんなのいっぺんにできるわけないよぉ~」

 

 ”ノクちゃん”(燐の名付けた軽自動車の名前)の中で燐は母親にそうぼやいていた。

 

 確かに大変だと思うが、燐にならきっと全て完璧にできる気がする。

 忙しくしている時の燐は誰よりもキラキラとしていて輝いているから。

 

 燐の能力ならそれぐらい何てことないだろう。

 

 わたしは……燐を手伝う前に数日間は筋肉痛で苦しむだろうから、明日からはちょっと憂鬱気持ちで過ごすことになりそうだった。

 

 でも、悪くない痛みだと思うから。

 燐がまたマッサージしてくれるだろうし。

 

 そのせいで燐の仕事(タスク)が増えてしまうけど、それはそれで。

 

 そしたら今度はわたしが燐を癒してあげればいい。

 

 わたしは彼女の理解者でいるだけで十分役割を感じられるから。

 

 そういえば、結局、宝もなにも見つからなかったけど。

 

 これで良かったんだ。

 

 だって大切なものはもう。

 既に手に入れていたんだから。

 

 ………

 ………

 

 結局、今日は二人ともマンションには戻らずにお互いの家で寝ることにした。

 

 燐はパン屋さんである実家に。

 蛍は、蛍の家で。

 

 せっかくだからと、蛍のことを咲良は誘ったのだが、流石にそれは思慮がなさすぎると思い、蛍は遠慮することにした。

 

 最近はマンションばかりであまり家には帰ってないみたいだったし、やっぱり家族で一緒にさせてあげたいと思った。

 

 それが普通の家庭だから。

 

 蛍は、久しぶりに自分の家のベッドで寝ることになった。

 

 家の片づけをしに戻っても、寝るのはもっぱら燐の家で一緒に寝るか、蛍名義のマンションの一室だったから

 

 人気のない、暗い部屋で一人きり。

 物音すらしない。

 

 ずっと何年も、生まれた時からそうやってきたはずなのに、何故か今はすごく寂しい気持ちになった。

 

 寂しかった、一人でいることが。

 

 もう何もない部屋に。

 

 もう何もないこの家に。

 

 一人きりでいることが、たまらなく寂しい。

 

 暗くて冷たくて、哀しい場所(いえ)だった。

 

 これならまだ、マンションの方がマシなぐらい。

 あそこには燐の温もりがまだ残っていそうだから。

 

「燐……」

 

 暗がりの中、天井を見上げなら蛍は一人呟く。

 

 蛍の家からでは燐の家は見えない。

 

 でも、遠くに見える小さな家の明かりに、その姿を想像することが出来る。

 

 燐と母の咲良が、食卓を囲んでちょっと言い合い気味に談笑している。

 喧嘩しているようで、実は仲のいい母子の姿を。

 

「良かったね燐。お母さんと仲直りして」

 

 それを想像して蛍は微笑んだ。

 

 ずっと出なかった言葉。

 すぐにでも燐に掛けたかった言葉だった。

 

 蛍は目を閉じる。

 

 一人きりの夜でも燐の事を思うだけで、暖かい気持ちになる。

 

 それだけで、わたしは幸せ。

 

 しあわせなんだ。

 

 ………

 ……

 …

 

 雨が上がったことを証明するかのように、白い月が夜に浮かんでいた。

 

 月は海を照らし、山々を照らし出す。

 

 恵みとは違う癒しの光で地上を照らしていた。

 

 山間のすり鉢状に広がる小さな町。

 その中の一際大きな家。

 

 高い位置にある大きな家を月が照らし出す。 

 

 月明りが家の中に入り込む。

 

 けれども、どの部屋も空っぽであり、人の、生き物の気配はなかった。

 

 月光は二階の窓からも入り込んた。

 

 その中の一室の角の部屋。

 机の置いてある小さな部屋を照らし出した。

 

 空っぽの部屋の中には、空っぽのベッドがあるだけ。

 

 それだけだった。

 

 

 ────

 ───

 ── 

 

 




   ⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖° 青い空のカミュ 三周年おめでとうございます!!! ⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°


2019年、ぎりぎり平成の時に発売された”青い空のカミュ”も今日で発売から三周年ですね~!! おめでとうございます!

……って! また一日遅れになってしまったぁぁ。青カミュファンとして恥ずかしいー! でも、もしかしたら青い空のカミュは3月30日発売なのでは!? うん、そういう事にしておこう。これ、決定ね☆

……すみません。やっぱり3月29日発売で間違ってないです、ごめんなさい!!!

それにしても三年連続遅刻とは不甲斐ないなぁ……。うう、来年こそは、来年こそは必ずっ!!! って来年は流石にどうかなぁ。

去年も三周年記念で何か書ければいいなぁって書いた気がするんですけど、実はこの拙作、あと数回で終わりにするつもりだったんですよねーーー。
どうしてこう(まだ続きを書いて)いるのかなー? まあ、ズルズルと長引かせてしまうのは私の悪い癖だから仕方ないんですよね。往生際が悪いと言うか……落としどころが分からないと言いますか。
まあ、楽しいから書いているわけで決して嫌々書いているわけではない……と思ってます。


で、今回で青い空のカミュの発売をお祝いするのも三回目となるのですが、三年経って思うことは、やっぱり好きなゲームということですね。流石に三年も経って続編もないゲームですから、普通は飽きてしまうだろうと思ってはいます。
ですが、私の中では未だに現役の美少女ゲームなんですねー。ゲームプレイももちろんほぼ毎日しております。

AVG形式の美少女ゲームにやり込みなんてものはないのですが、好きなんだから仕方ないですねー。そのおかげでこうして小説みたいなものを書くことが出来ているのですから、それはそれで意味のあったことだと思っております。

に、してもぉ……三年たってもこうやってお祝い用の文を書いている時が一番恥ずかしい気がしますね。まあ基本、拙文ですから仕方ないんですけど。
何書いたらいいのか分からなくなると言いますか、小説を書いている時の方がずっと楽な気がするほどです。

好きすぎる故の苦悩? なのかな?? よく分からないですが。

それにしても、去年から今年にかけても色々ありましたねぇ。大小さまざま事がおきましたけど、何とか平穏無事にーーとはまだいかないみたいです。
世界はより混乱を極めてますように思えますし。コロナ禍も中々落ち着かないようですし。

それでも青い空のカミュという作品が好きでいられるし、こうして拙作ながらも何とか小説を続けているということはやっぱり良いことだと思ってます。ただ、ペースがやる気に追いつかないみたいで、どんどんと更新頻度が落ちてますけどももも。

あ、そういえば今年はまだどこにもお参りに行ってなかったので、埼玉県にある多聞院毘沙門堂でお参りしてきました。

お目当ては虎のおみくじ……ではなく、”身代わり虎”と言う小さな陶器の置物です。手のひらサイズで振ると中が鈴のようになっていてチリチリと、可愛らしい音を奏でます。しかも300円! YASUI!!!
でも、本来は奉納するためものみたいで、境内にはいたるところにこの虎の置物が置いてありましたよー。
お持ち帰りしてもいいようなのでわたしはお持ち帰りしましたが。ただ、この多聞院と言うところ、ネットで調べて行ったのですが、思っていたよりもこじんまりとした所で、ちょっとだけびっくりでした。
今年は寅年でもあるので、この虎で何かご利益があるといいなあなんて思ってます。

それではではではーー。



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Truly Madly Deeply

 
 明らかに非現実的なことなのに。
 どう考えたっておかしな出来事なのに。

 不思議と落ち着いていた。

 何度も来たせいもあるかもしれない。
 それにもう今更だし。

 まあ、何にせよ。

「また……ここ」

 ベッドから落ちた──と、思ったらここだった。
 
 その下は畳の上に引いたカーペット、ではなくて固いコンクリートの床だったから最初はひどく痛かったけど。

 寝ぼけて落ちることなんて最近はあんまりなかったのに。

 久しぶりの家のベッドはマンションで使っているものより小さいから、こんなことになった?

 そんなわけはないか。
 ベッドというか、睡眠とは関係ないことは分かってる。

 睡眠といえば……。

 ”蛍ちゃんって、寝る時結構大胆だよね”。
 
 そう言われたことは確かにあるけど。

(この大胆は”悪い”の意味じゃない……よね?)

 目が覚めるとシーツがぐちゃぐちゃになってることも、まあ()()()()あるけど。
 
 ──にしても。
 
 ぐるりと辺りを見回してみる。
 まだ床に寝転がったままだから、首だけで周囲というか左右を見渡してるだけだけど。

 まだすぐに起き出す気にはならなかったから。

 もう、驚きもない世界(ばしょ)
 でもだからこそ、また訪れてしまった事実に、驚いた。

 もうお馴染みとなった、青と白の二色だけで構成された世界。

 青い空。
 白い雲。

 そして、不自然なほど静かなプラットフォーム。

 ここだけ見ていると普通の、わたしたちのいた世界と変わらない。

 手を付き出して空を遮る。

 隙間からこぼれる光が少し眩しい。
 でも、刺すような暑さは感じない。

 むしろ心地いいぐらいで。
 昼に見るほのかな月明りのよう。

 そんなことは現実にありえないのに、ここではこれが普通だった。

 ずっと変わらない天気と時間。

 どこまでも続いて行きそうな線路。
 果てなく広い水溜まりも。

 この世界そのものが良く知る現実とは違う道理で成り立っているようだった。

 そんな不思議な青と白の空間に投げ出されているのに、それが当たり前のように感じてしまうのは。

 やっぱり夢だから?
 でも、きっとそうじゃない。

 分かってる。

 あの時だってそう思っていたから。

 初めてこの青と白の世界に来たときだって夢じゃないかと疑っていたけど。

 結局夢じゃなかった。

 現実と言う言葉を使うのも何か違う気もするけど。

 でも、また同じ、()()()()()からだった。

「あっ」

 視界の先になにかがあった。
 それを知ったとき、自然と声が出た。

 言葉なんてもう発する意味さえないと思っていたから自分でもちょっと意外に思う。

 それぐらい静謐で、止まった世界だったから。

 どうするかちょっと考えたけど、結局重い体を持ち上げてそちらの方へと向かう。

 立ち上がるだけのものじゃなさそうだったから、四つん這いになりながら。

 どうせ大した距離じゃないし、それに誰も見ていないのだから恥ずかしいことなんて何もなかった。

 ほら、これ。

 それは──小さいもの。

 とても小さいものがホームの先に転がっていた。
 
 その大きさは精々木の実程度。

「また、これ」

 そう言って拾い上げると、それはそこら中に落ちていた。

 小さなかたつむりの殻。

 この世界には”殻”はあっても”中身”を見たことはない。

 つまり、抜け殻しかないのだここには。

「はぁ」

 ある意味では予想通りだったが、それが当たった所で何も意味もない。

 そもそも何のためにあるのかが分からないわけだし。

 蛍がため息をつくのも仕方がなかった。

 開いた手のひらの上にちょこんと乗せてみる。

 まざまざと眺めてみても特に変わったところはない普通のかたつむりの殻だった。

 少しヒビが入っている以外は。

 蛍はちょっと曖昧な笑みを浮かべると、同じように転がっている他の殻に寄り添うよう、掌の中の殻をそっと地面に下ろす。

 それから蛍はようやく地面に足をつけて立ち上がった。

 けれどまだその場を動こうとはしなかった。
 ぼんやりと空を眺めているだけで。

 気怠かった。
 何もかもが。

 だってどうせひとり、ひとりぼっちだから。

 恐々後ろを振り向いてみても、誰も立っていない。
 ホームのベンチにも誰も座っていなかった。

 その事が酷く空しい。

 もう歩く意味も、何かを考える意味すらもないと思えるぐらいに。

 一人はそれほど嫌いじゃない。
 その方が気が楽だったから。

 でも一人でいることを望んでいたわけじゃない。

 特にこの不思議な世界でひとりでいることは怖いと言うか、ある意味での決定を定義しているようだったから。

「なんで……来ちゃったんだろう、ココに」

 後悔しているかのように空に向かって声を飛ばす。
 その声は誰にも届かずに、シャボン玉のようにぽつんと浮かんで青い空に消えていった。

 どこまでも空は高く、白い雲が広がっていた。

 ──うしろの正面。

 不意にはっとした表情をして蛍は後ろを振り向く。

 そこには──誰もいない。

 それは当たり前なんだけど、その当たり前の事実に一抹の寂しさを覚えた。

(また、ひとりになってる。あの時のように)

 もうすっかり忘れていたこと。
 春の頃だっただろうか、小さい頃の他愛もない遊びのこと。

 あの好きだった遊び(カゴメカゴメ)でじゃんけんに撒けて”鬼”となった時のこと。

 これでこの遊びをやらなくなった時の鬼がわたしだった。

 歌が終わってもみんながいつまで経っても、もういいよと言ってくれないから、いい加減自分でももう良いかなって思って振り返ったんだけど。

 そうしたら、だれもいなかった。
 わたしの後ろには誰も居なかった。

 居なくなったのはひとりだけじゃない。
 一緒に遊んでいた子も誰一人残らず居なくなっていた。

 だから誰の声もしなかったんだとその事がようやく理解できたのはひとりで帰りの道を歩いていたときだった。

 置き去りと言うよりきっと仲間はずれ。
 どっちも同じような意味だとも思うけど。

 こういう事は小さいころは割としょっちゅうだったから、いちいち気にはしなかったが。

(もう、わたしの後ろには誰もいないんだね。あの時のようにみんないなくなって)

 こうなることはもっと早くから分かっていた。

 少なくともあの異変の後はそうだと思っていたし、紙飛行機を拾った時は殆ど核心を持ってたから。

 心がバラバラになるほど辛いことだったけど。

 けど、なんで今になって色々思い出してるんだろう。
 ずっと小さかった頃の、本当に忘れていたことだったのに。

 走馬灯とかそういったアレなのだろうか、死ぬ間際に見ると言われている。

 見たらしんじゃう系だったっけ?

 その辺の定義はよく分からないけど、もし思い出すのならもう少し、良い思い出がよかったなって思う。

 こういった、何とも言えず息苦しさを覚える思い出だけじゃなくて。

 例えば友達──ほんとうに仲のいい友達と遊んでいたときのこととか。

(でもそれだと最近のことばかりになっちゃうか……)

 悪いことではないと思うけど、それは走馬灯とは何か違う気もする。
 
 直近の思い出ばかりだと何というか、寂しさのような切なさが足りない気がするから。
 上手く言えないけど。

(まあ、別にどうでもいいことか、どうせもう遅いんだし)
 
 それでも感傷に浸るのはまだ少し早い気もする。

 まだ決定的な”何か”に出会ってない、そう思っているから。

 とりあえず蛍は今のこの状況をきちんと確認することにした。
 とは言っても取り立てて気にするだけのものは少ないのだけれど。

 だって変わっていない、何もかもが。
 
 それはどちらかというと期待外れとも言えた。

 目の前に広がる光景は綺麗だけど相変わらずだったし、真新しく光る線路と静まり返ったホームはあの不思議な列車すらももう来ないことを表しているようだった。

 だったら何のためにホームがあるのかなんて、既に想像する余地もない。

 きっとこの駅は終わりの始まりなんだと思う。

 その証拠にこの世界ではいつもここから始まっていた。

 ある意味ではプラットフォームらしいとも言えるのだろうけど。
 ただ、帰りの電車が中々来ないだけで。

 もうずっと来ないかもしれないけども。

「また、この制服着てるんだ」

 ローファーの靴先やスカートがちらちら見えるからやっぱりとは思ったけど。

 どうやらまた制服姿みたいだ。

 中学の時のではなく高校の時の。
 あの時と同じまんまのように。

 もう……この事にもいちいち驚かなくなっていた。

 二回目だったし。
 せいぜい裸よりはマシぐらいの感覚。

 それぐらいずっと着ているけどやっぱりまだ可愛いとは思ってる。

 もう少ししたら着ることもなくなったんだろうけど。

「じゃあ、やっぱり……あるよね。あれも」

 蛍はその方向に目を向ける。
 嫌というわけではないけど、そこに行くしかないようだった。

 プラットフォームの脇に建つ、あの建物に。

 ”青いドアの家”。

 それは普通にそこにあった。
 
 変わらない姿と言いたいが……ちょっと前に来た時とは何も変わっていないようにみえる。

 前の家と比べて大分”ましかく”になったけど、それでもこの世界とは不釣り合いな普通の家。

 でも玄関のドアは前のように鮮やかな”青いまま”だったから、”青いドアの家”だ。

 そこは変わらないままであったからその呼び名も変わることはなかった。

 友達がつけた名前だったし、本当に素敵な名前だったから。

(きっと、青いドアの家に行ってみるしかないんだね)

 誰に言うわけではなく蛍は胸の内でそっとつぶやくと、そうすることが当たり前のように青いドアの家へと向かう。

 どうせ()()水溜まりは延々と深く続いているだけだし、線路の先だってどこまで歩いて行ったらいいのかはっきりとしない。

 どちらともどこまでも続いているような気もするから。

 だったら、先ずは知っている場所から向かうのが無難だ。

 どちらにしてももう、戻ってくることなどはなさそうだし。

(だったら、何か残して置けばよかった)

 前にそのようなことを書いたのだけれど、それはいつの間にかどこかへいってしまったし、こんなことになるのならもう一度用意しておけばよかった。

 身内も親戚ももう誰もいないけど、せめて好きな人たちには何か残してあげたい。

 特に大好きな、友達には。

 蛍はそんな、今更どうにも出来ないことにぶつぶつと頭を悩ませながら、何も来ない線路の上をひとりで歩いた。

 ……
 ……
 ……

「……やっぱり誰も、いるはずない、よね?」

 分かりきっている事を言い聞かせるようにつぶやきながら蛍は青いドアの家の玄関まで戻ってきていた。

 良くないことなのは分かっていてもそれでも気になるのか、勝手に外の窓から中を覗いていた。

 ”新しくなった”青いドアの家はやはり普通の建売住宅のような形をしていた。
 
 ただ、どちらかというと少し角ばったデザインになっていて、そこに引き出しの様な小さな窓が幾つも壁に張り付いている。

 それはサイコロのような奇妙な外観であったし、針の無い時計のようにも見えた。

 時間という概念が消失したこの世界で時計の名を出すのは何か変というかおかしいことのようにも思えるが。

 ちょっとモダンで瀟洒な感じの住宅になっていた。

 どの道、この少し変わった家に入るしかないことに変わりはないのだが、それでもやはり家の中がどうなっているのか気になってしまう。

 もしかしたらと言うこともあるし、限りなくない可能性だけど希望的なものはまだ残っていると信じたい。

 それこそ薄い可能性だけれど。

 それでも、玄関のドアを開けて中を確認するまでは様々な推測をすることができる。
 こういうことを、猫で例えた有名な理論があるんだったっけ。

 そうは言っても、このまま想像だけしていても何にも特にもならないし、引き返す場所もその方法もない。

(やっぱり入ってみるしかない。誰もいなくても)

 蛍は胸の前できゅっと拳をつくると、覚悟を決めたようにひとり大きく頷いてみせた。

「大丈夫……」

 自分に言い聞かせた言葉なのに、まるで他人事のように聞こえる。

 頭では理解しているけど、まだどこか判然としないのは夢の中にいるような未だ微睡んだ感じが抜けきっていないから。

 ここに来るといつもそうだった。

 まるで、()()()()()()()()()()()()()ふわっとした感じに囚われてしまう。

 その事に慣れているのかいないのか、自分でもそれがよく分からない。

 あれからずっと夢と現実の境が曖昧のままでいるし。

 こんな事を考えていること自体が今更なんだろうけれど。

 例えば、瞼を開ければいつもの日常が始まって、燐と一緒に残り少ない夏休みを満喫する。
 そんないつもと同じなんだけど、真新しくて特別な日常。

 それを、まだ心のどこかで願っているから──。


 もう、あり得ないことだと分かっているはずなのに。

 そんな当たりのことを、青い空の雲の向こうに思い描いていた。

 ───
 ───
 ───

「う~ん」

 覚悟は決まった。
 そのはずだったのだが。

 蛍はいまだ青いドアの家には入っておらず、玄関前でうんうんと唸りながら、無意味に行ったり来たりを繰り返していた。

(家に入るしかないのは分かってるもん)

 そう分かっているのにどうしても踏ん切りがつかない。

 一応チャイムは鳴らしてある、家の中からの応答はないけど。

 それは何度鳴らしても同じで。

 だからこの家には誰もいない……かどうかはまだ、分からない。

 普通の家ならば大体がそうなのだろうけど、この家にはそれが当てはまらないことは分かっているから。

 だからこそまだ考えてしまう。

 もう後戻りできない事は嫌というほど分かっているのに、それでも踏ん切りがつかない。

(まだ期待してるんだわたし……来てくれるのを)

 でも、一体誰がこんな場所に来てくれるのだろう。

 こんな何もない無味乾燥な世界に。

「………」

 蛍は下唇を噛んだ。

 言葉にしなければ、脳裏に思い浮かべなければ。
 そんな無意味な努力をするためだけに。

 そうなる事など絶対にないだろうと分かっているのに。

 呼べば来てくれるなんて、そんな漫画みたいな都合のいいことはない。

 むしろ彼女なら向こうから声を掛けてくれるだろう。
 自分と違ってしっかり者だし、何でもできるし。

 自分で想像しておきながらとても馬鹿らしくなってしまった。
 あり得ない想像に縋ったって、ただ虚しくなるだけ。

 それに、もし来ていたとしても、今はむしろ会いたくはなかった。

 多分、二人だって同じ。
 何も変わらないだろうと思ったから。

「……」

 でも、きっと逆。

 けどそれを一度口にしてしまったらきっとこのドアをもう開けなくなってしまう。

 何もしなくてもいい。
 ただ傍にいて、見ているだけでいいから、なんて。

 そんな想像すらしてはいけないと思ってる。

 彼女があの時電車に乗らなかったのは多分そういうことなんだ。

(わたしの……)

 蛍は目線を上にあげる。
 澄み渡った青空みたいな友達の笑顔を空に思い浮かべた。

(わたしの、決断が早いと思っているのなら、それは勘違い……だから)

 実際は何も考えていないだけ。
 結果を考えていないから直ぐに決断してしまうだけ。

 たぶん、せっかちなだけなんだと思う。
 その癖、いざという時はこうして迷いを見せている。

 結局流されてきただけだった。

 楽観的と言うよりも、ただ物事に無関心なだけ。

 無関心でいられたから決断だって早いし、何ももってなくとも平気だった。

(じゃあ、わたしが今迷っているのは?)

 自分のことなのに決められない。
 むしろ自分のことだからなのかも。

 誰かがいるとかいないとかではなく、きっとこのドアを開けたら、もう二度とこの家から出られないだろうと。

 それが分かってるからこのドアが開けられない。
 開けるしかなくとも。

 それは初めてここに来て、この家を世界を見た時から感じていたこと。

 心の奥底でこうなる予感と言うか覚えのような違和感あったから。

 それがきっと”マヨヒガ”。
 向こうの、形だけのものなどではなく、本当の意味でのマヨヒガ。

 もう二度と出られないという意味での迷い家がここなんだ。

(そうだよね。わたしはここにずっといるんだ。次の座敷童が来るまでずっと……)

 その次がまだあるのかは分からないが、きっとみんなそうだった。

「……大丈夫……よ」

 と、声がした。

 それはどこからのものか、蛍はたまらず困惑の声を上げた。

「燐!? 燐、なのっ!?」

 思わず振り向いて声を上げてしまったけれど。
 そこには誰もいない。

 周りはただ静かなままで。
 遠くに見える水平線の先にもプラットフォームの影にも何の人影も気配もなかった。

 まるで声が蛍の幻聴であったかのように静まり返っている。

 けど確かに聞こえた。

 紛れもなく人の声で。

(あの声、もしかして)

 身を固くして蛍は戸惑いの顔を見せる。

 まさかだとは思う。
 だってあれからその姿を蛍は一度も見ていないわけだし。

 でも……懐かしい声の様な気がした。

「ドアを開けて……入ってらっしゃい」

 また声がした。
 今度はさっきよりハッキリと聞こえる。

 それはどこからかと言うよりも直接頭から響いてくる感じで。

 でも、その言葉からするとやはりこの家の、青いドアの内側からだと思う。

 誰かがこちらを見ている……と言うわけではないのだろう。
 この世界では。

(だったら、やっぱり……!)

 期待していた人ではなかったけれど。
 
 それでも自分以外の誰かの声が聞こえてくることに安堵してしまう。
 それはあまりにも音のしない世界だったから。

 閑散いうよりも時が止まっている。
 そんな世界だったから、ちょっと安心した。

(やっぱり、”オオモト様”……?)

 前に来た時は出会わなかったけどきっとそうだろう。
 よく考えてみたらそれ以外はないと言ってもよかった。

 でもその事は蛍にある事実を告げていることになる。
 だから必要以上に戸惑いを隠せないのだけれど。

(でも……呼んでいる、わたしのことを)

 青いドアの家。
 その家自体が蛍を呼んでいると言ってもそんなに間違いでもないだろう。

 言葉を濁す様な事を表現をしていたけど、きっとここはあの人の家だと思っているし。

 それが今もっとも納得のいく答えだったから。

 蛍はぐっと生唾を呑み込むと、覚悟を決めたように玄関の前に立つ。

 空よりも鮮やかな青の扉の前へと。

「どの道開けるしかないんだよね」

 意思を問うように言葉を投げかけると、深呼吸してドアノブに手を掛けた。

 自分でもおかしいぐらいに落ちついていた。

 少し前に動揺していたのは何だったかと思うぐらいに。
 力強くドアノブを握っていた。

 あの”一瞬で全てが理解出来たとき”みたいに穏やかな気持ちで。

 それは、声に促されただけではない。

 選択肢なんて概念はもうない、そう思ったら急に気が楽になった。

 怖いなんて感情はもう蛍のどこにもなかった。
 
 僅かな音をたてて青いドアが開いていく。
 あまりの軽さに開けている感覚がなかった。

(ほんとうに求めているものがこの中にある……)

 それはきっと形になるものじゃない。
 でも大切な、ずっと心から求めていたもの。

 ”わたしの幸せを形作るもの”。

 蛍は想いと共にドアを開け放つ。

(燐っ……)

 全てが開かれると同時に思わず目をつぶってしまった。

 鍵はもうない。
 縛り付ける鎖さえも。

 だからもう二度と出られなくとも構わなかった。

 けど、叶うならあなたに会いたい。

 たった一つ。
 たったそれだけの願いを込めて。

「……」

 何も言葉にはできなかった。

 家の中は外と変わらず静まり返ったままで、誰の出迎えももてなしもなかった。

 声の人の姿も。

 まあ、期待はしていなかったから驚きはなかったけど。

 蛍は早々に靴を脱ぎ揃えて、家の中へと入った。

 向かうのはもちろんリビング。

 そこにしか行くべきところはなかったから。

 玄関の棚には犬と猿、そして少女を形どった土鈴が理由もなしに並べてあった。

 蛍はそれを横目でちらりと見やっただけで何の表情も見せず、これまで無かったと思われるスリッパに足を通す。

 その事にも特に疑問は湧かず、パタパタと当然のように足を鳴らして玄関を抜けていった。

 リビングのドアを開ける。
 家が変わってもやることは一緒。

 だからまず部屋に入って声を出した。

「お邪魔します」

 何とも順序が逆になってしまったが、それでも何か一言入れて置きたかった。

 けれど、中には誰もいない。
 まるで新品のように見える数々の調度品だけが突然の来客の訪問を出迎えていた。

 つまり、この家は。

「誰も、いない……」

 ソファやテーブル、薄型のテレビとキッチン。

 配置や物は変わっていても生活様式というか、モノぞろえに変化はなかった。

 生活感がまるで感じられない点も一緒。
 けれど、きっとそれは関係がないと思った。

 ”全て終わった後みたい”

 確かにあの時はそう思った、でも今のこの家は外観も内装も全て違っている。

 終わったと言うよりも新しい生活が始まったような。

 そんな真新しさを感じたのだけど。

 蛍の遥か頭上の天井で空気を巡廻させるための小さな風車がひとりでに音も立てずくるくると回っている。

 この動いていない世界で空気を回す意味があるのかは分からないが、その事でちゃんと電気が通っていることはわかった。

 さっきの声の主もここにはいない。
 明らかにあの人の声だと思っていたのだったが。

「燐……」

 蛍はまた友達の名前を呼んでいた。

 その声は静かなリビングの中の唯一の音となったが、声は当然届かず虚しくリビングの壁に消えていった。

 他の部屋を当たろうか少し迷いを見せた蛍だったが、テーブルの上のリモコンが目に入ると、藁をもつかむ思いで手に取ってスイッチを入れる。

 パッと画面が映り、白い大地の上を走る列車からの映像が映し出される。

 またこの映像だったので、蛍は一瞬記憶があの頃と曖昧になったのかと思った。

 繰り返し流れる映像は、あの三日間の出来事を繰り返しているかのように思えたから。

(……そうじゃなくて)

 確か、何度かチャンネルを切り替えると、向こうの世界が見えたはず。

 蛍は一目でいいから向こうにいるはずの燐の姿をその目に収めたいと思い、出鱈目にチャンネルを切り替えていこうとしたのだったが、そうする前に指が動きを止めていた。

 ──いつの間に、来ていたのだろう。

 さっきまで誰も座っていなかったソファに女性が腰かけていた。
 柔和な顔でこちらを見て微笑んでいた。

 不思議な柄の着物を着て、艶やかな黒髪を長く伸ばし、手には鮮やかな手毬……。

 蛍は驚いて声も出なかった。

 それは、知っていたから。

 知っているのになぜ驚いたかと言えば、それは変わってなかったから。

 あれから時が経ってもこの人(オオモト様)は何も変わってなかったから。

「お久しぶり、と言ったほうがいいかしら。それとも、お帰りなさい?」

 小首を傾げて微笑むその人の長い黒髪に白い光が流れるように落ちていた。

 真夏にみる陽炎みたいに現実感がなかった。

 でもその人は、はにかみながら佇んでいる。

 柔らかい上品な物腰で、手には大事そうに毬を支えながら。

「それとも」

 その人は手毬で口元を隠して内緒話をするようにこう続けた。

 蛍は目を大きく見開いて凍り付いた。
 
 それは耳を疑うほど衝撃的な告白だったから。

「”初めまして”、の方がいいのかしら」

 明らかにその人なのに、何故そんなことを言うのか。
 その真意は蛍には分からなかった。

 ただハッキリしていることは。

 この人は”オオモト様”で、蛍と同じ”座敷童”ということ。

 それも最初の座敷童として幸運を町に呼んだ人だった。

 蛍はまだ、言葉を忘れて彫像のように固まっていた。

 ただそれはショックと言うよりも、もっと深い琴線のようなものが蛍の内側に波紋のように広がっていたせいからだった。





「あの、()()ってやっぱりわたし達の住んでいる世界というか、違う星になるんでしょうか? 次元が異なるというか……並行世界っていうか」

 

 久しぶりに再会したその人にどういった言葉を作っていけば良いのか。

 蛍にはそれが良く分からず、とりあえず思いつくままの言葉を適当に並べていた。

 

「どうぞ」

 

 困惑の顔を浮かべる蛍をよそに、”オオモト様”は今淹れたばかりのお茶をテーブルの上にそっと置いた。

 

 オオモト様の前にもお茶が置かれる。

 

 白いテーブルの上に湯気の立つ湯呑みが二つ、向かい合わせに置かれた。

 

 それはどうみても淹れたてのお茶、にしか見えない。

 他にどう見えると言うことではないのだが。

 

 目の前のお茶からは白い湯気が立っている。

 新緑の香りを含んだ青々とした匂いが今にも漂ってくるようだった。

 

 それは、普通ならば。

 

 蛍はテーブルを挟んで、”オオモト様”と向かい合っていた。

 

 何か会話の糸口を探ろうと蛍が視線を泳がせていると、オオモト様はキッチンへと行き、さっさとお茶の準備をしてしまったのだ。

 

 さすがに遠慮した蛍だったが、オオモト様にやんわり断られるとそれ以上は何も言えなくなってしまう。

 

 それでもただ黙って待っているだけなのも悪い気がして、何か共通の話題になりそうなことを話してみたのだけれど。

 

 それはどうやら蛍には難しい案件だったようだった。

 

 ただこうして向かう合うだけでも緊張するのに、話題を提供するなんてことは。

 

(変な子って思われてないかな。そういう人じゃないと思ってるけど)

 

 軽く自己嫌悪に陥っている内にオオモト様がお茶を持ってきてくれたのだったんだけど。

 

「さあ、どうぞ。冷めないうちにお上がんなさい」

 

「あ、はい……」

 

 促されて返事をしてしまったのだったが。

 

 こういったやり取りは確か前にもあった、その時だってこうしてオオモト様にお茶を勧めらえたのだけれど。 

 

「ええっと……」

 

 その時の事をつい思い出してしまった蛍は、すぐに湯飲みには手を付けずにばつが悪そうに俯いてしまった。

 

 苦いというか何とも気まずい感じだったから。

 あの時は。

 

「?」

 

 どうしたの?

 そう尋ねるように頬に手をあてて首を傾げるオオモト様。

 

 その所作も自然で美しい。

 

 そんな事をぼんやりと思いながらも、蛍は小さな唇に手をやってどうしたものか思案していた。

 

 多分だけど今回も何も感じないのではと思ってるから。

 

 でもわざわざ淹れてくれたのに流石にこのままなのは悪いとは思い、蛍は意を決して湯呑みを両手に持ち微笑む。

 

「えと、いただきます」

 

「ええ、どうぞ」

 

 蛍がようやく飲む気になったことに安心したのか、オオモト様は待ちかねたように蛍に微笑み返した。

 

 たったそれだけの事なのに胸の内が温かくなる。

 この人はいつもこうだった。

 

 悪意がないというか、見かけと違って子供みたいに無邪気な人だったから。

 

(今度は、分かるといいけど)

 

 そう願いながら淡い緑色の液体を蛍は口に含む。

 湯気はまだ微かに上がっていたがそこまでは熱くない。

 

 むしろ丁度いい熱さ。

 

 これなら、舌がどうにかなってさえなければ分かるはず。

 

 そう、願った。

 

「……ごちそうさまでした」

 

 空になった湯呑みをゆっくりとテーブルに置く。

 

 にこっと微笑むオオモト様に蛍は頑張って愛想笑いを浮かべた。

 

 ………

 ……

 …

 

 お茶を飲み終えたのはいいが、その後が続かなかった。

 

 オオモト様から何か話があるのかもと僅かに期待したのだったが、そんなことはなく、やはりこちらから何か話しかけないといけないようだった。

 

 けれど、蛍は話をまとめるのに一苦労で。

 頭の中で言葉を作っては消すの繰り返しをしていた。 

 

 その結果、()()()の間に沈黙が流れることになる。

 

 望んでいたことではなかったけど、必然的にそうなってしまった。

 

 何も言えなくなった蛍は躊躇いがちにオオモト様の表情を窺い見るも、やはりその表情には何も変化がない。

 

 ちょっと気まずい空気が流れてもオオモト様は特に気にしていないようだった。

 

(言いたいこと、聞きたいことは山ほどあるはずなのに……)

 

 適切な言葉が出てくれない。

 それこそ滝のように言葉が流れ出てくるはずなのに。

 

 何かがつかえとなってその流れを堰き止めていた。

 

 それは柔らかい表情でありながらどこか寄せ付けないようなこの人の所作のせいだろうか。

 

 もうそういった誤解のようなものはこの人との間にはないと分かっていても、そこまですぐ気楽に話しかけられるような関係ではない、そんな気がする。

 

 それに一人だったから。

 

 もし隣に友達()がいてくれたのならもっと気楽に話せるのかもしれないけど。

 

 でもきっとこの人は何でも受け入れてくれる。

 それが分かってしまっているからこそ何も言えなかったともいえた。

 

 良いことも悪い事も包み隠さずに言ってしまえる人だったから。

 

 遠慮というか、蛍は傍目にも気の毒なほど委縮してしまっていた。

 悪いことをして叱られている子供みたいに。

 

(何でだろう、オオモト様を目の前にすると)

 

 どうしてだか緊張してしまう。

 

 今すぐにでも取って食われると言うことではないとは思っているけれど。

 

 さっきから手に汗をかいてしまう。

 

 むしろ血縁的にも繋がりのある、ともすれば母なのかもと、そう思っていた人なのに、緊張がどうしても抑えられない。

 

 喋っている時は気にならないのに、一たび黙りこくってしまうとどうしたらいいのか分からなくなってしまう。

 

 穏やかで、柔和な人なのに。

 

「………」

 

 蛍がモノを思うように瞳を見つめ返しても、()()()()()の表情には全く変化がない。

 

 穏やかに微笑んでいるだけ。

 

 目の前にいるのにこんなことを思うのは何だけど、と前置きしながらも。

 

 それは窓というよりも、鏡越しに自分の姿を見つめている気分だった。

 

(鏡……か)

 

 確かに鏡かもしれない。

 それは顔立ちじゃなくてもっと根本的で単純なこと。

 

 それはつまり。

 

(わたしが、”この人”になるんだ。燐じゃなくて”わたし”が)

 

 どうして燐だけに”会って”、わたしには”会えなかった”のか。

 

 それは簡単なことで。

 

 それは自分自身だったから。

 

 自分は自分に会いに行くことはできない。

 だって自分はこの世界にひとりしかいないのだから。

 

 ふたごであったとしても、よく似た顔の人がいたとしてもそれは自分じゃなく他人。

 

 他人と自分は違う存在だから。

 

 でも、鏡を通してなら自分自身に会うことができる。

 

 燐はあの時、地平線の彼方に立ち上る風車を垣間見たと言っていた。

 

 蛍には何も見えなかったのに。

 

 でもそれは、それぞれの思い描く時間の先が違っていたから。

 

 燐は多分目の前のことに注視していた。

 そこには過去があり、知るべき現実があった。

 

 蛍は少し先の、自分の進むべき方向を見ていたのだろう。

 漠然としすぎていたのか、まだこれといった見通しは立ててなかったようだが。

 

 そして今、その時が来てしまった。

 

 もしかしたらもっと早くこうなるべきだったのかもしれないが、色々な偶然が重なってこんなに遅くなってしまった。

 

 運がいいとも言えるし、悪いとも言えた。

 

 それはきっと燐のおかげではないかと蛍は思っていた。

 

 燐は蛍の名前を呼ぶだけで幸せだと言ってくれていた。

 

 きっとそんな些細なことが自分の存在をここまで繋ぎとめてくれていたのだろう、と。

 

 世界からいなくなっていた時のことを燐は詳しくは話してくれなかったけど、多分そんな他愛のない理由だったんだろうと思っていたから。

 

 やっぱり感謝している。

 友達として人間としても、ここまでわたしに関わってくれていたのだから。

 

 何の存在意義もない。

 そう思っていたわたしのことを。

 

「あの、わたし……」

 

 蛍はおずおずと口を開く。

 

 急に話しかけたにも関わらず、オオモト様は嫌な素振りも一片も見せずに蛍の話の続きを促した。

 

「何かしら」

 

「わたしは、いつまで座敷童なんでしょうか。前にあなたに言われた時はあと少しだったみたいですけど、まだなんでしょうか。あとわたしは本当に普通になれるんでしょうか?」

 

 問い詰めるかのように話す蛍をオオモト様は黙って受け止める。

 

 この人も本当のところは分かっていないのかもしれない、それでも蛍は聞かずにはいられなかった。

 

 それが分かるのはきっとこの人だけだろうし、もう手遅れなのかもしれないが、真実というか事実は知っておきたかった。

 

 その後の座敷童の末路も。

 

 答えを知っているのはオオモト様だけ。

 だから全てを委ねるしかなかった。

 

 何かが起こった後ではあの異変の時みたいに取り返しのつかない事になってしまうことだってあるし。

 

 それにオオモト様からならどんな事実でも受け入れることができる。

 そう思っているから。

 

「辛かった?」

 

「えっ?」

 

 少し眉を寄せてオオモト様がそう聞き返してきたので、蛍は慌てて訂正した。

 

「そんなことはなかったです。あれから色々あったけど今でも燐と一緒だし。でも……その、やっぱり真実が知りたいんです。もう戻れないことは十分わかってるから……」

 

「そうね……」

 

 また二人の間に沈黙が流れる。

 

 オオモト様はじっと蛍の方を眺めていたが、蛍は視線を逸らして何か別のことを考えて込んでいるようだった。

 

「蛍」

 

「は、はい!!」

 

 突然名前を呼ばれた蛍はソファから飛び上がらんばかりに驚いて返事をした。

 

 自分でもびっくりするぐらいだったので蛍は急に恥ずかしくなってソファの上でしゅんとなった。

 

 それを見たオオモト様は柔らかく微笑むと、そおっと手を伸ばしてまだ顔を赤くして俯いている蛍の頭に手をそっと乗せた。

 

 そしてぽんぽんと頭を撫でる。

 本当に大事なものを愛おしく思うように。

 

「プラットフォームに行ってごらんなさい。きっとあなたの欲しているものがあるわ」

 

「それってあの電車ですか? でも電車は……それに、わたしはもう、この家から出られないはず、ですよね」

 

 弱弱しく口を動かす蛍を見てオオモト様はくすりと微笑む。

 

「この家は蛍、”あなたの家”よ。だから出るのも入るのもあなたの自由。好きなようにするといいわ」

 

「それってどういう……」

 

 蛍が疑問を聞き返す前に、頭に乗っていたオオモト様の手がすっと引かれる。

 

 それから、つっと立ち上がるとオオモト様は何処かへ行くのかリビングから出て行こうとする。

 

 その前にオオモト様はこちらをもう一度振り返った。

 

「大丈夫。蛍はわたしにはならないわ。もちろん燐もね」

 

「それは」

 

 何かを言いかけた蛍だったが、オオモト様は毬を手にしてそのままリビングから出て行ってしまう。

 

 蛍はひとり取り残された気分になって、少し悲しくなったが。

 

「わたしはいつでも待っているわ、ここで。()()()()のことをずっと」

 

 そう言い残してぱたんとドアは閉じられた。

 

 蛍は消えて行った扉の先をぽかんと見つめていたが。

 

「あ、ありがとうございました」

 

 ややあってからぺこりと頭を下げた。

 

 心ここにあらずと言った感じで、蛍はまだ何の思いも湧かなかったけど。

 

 本当に短いやり取りで、まだ頭は混乱している。

 だけど、それでもあの人とオオモト様とまた会えて、話せてよかったと思ってる。

 

 本当にそう思えた。

 

 ────

 ────

 ────

 

「本当に来るのかな、電車……」

 

 オオモト様に言われた通りに素直にプラットフォームで待っているのだけれど。

 

 まだ何の列車も駅には来てはいなかった。

 

 結局、蛍が危惧していた事など何でもなかったように青いドアの家から外へ出ることができた。

 

 別段カギが掛かっているわけでもないし、リビングには人が簡単に出られそうな大きなサッシもあるのだから当たり前と言えば当たり前なのかもしれないけど。

 

 しかもそのサッシからは前に燐と一緒に外の濡れ縁に出たことがあるし。

 探そうと思えば抜け道なんていくらでもありそうだった。

 

 それでもほっとした。

 

 それは蛍にとって世界の終わりと等しいことだったから。

 

 蛍にとって世界とは燐が隣にいること。

 

 その燐がいなくなったのなら、その世界は終わったことを意味していたから。

 

 それでもわずかな間だけど向こうの”現実の世界”で持ち越えられたのは一縷の望みに掛けたから。

 

 その当てが外れたのならあの世界にもう用事はない、次の世界を探すだけで。

 

 本当にそう思っていたし、実際に実行もしてみたのだけれど。

 

(結局はただの一人相撲だったんだよね、わたしのやったことって)

 

 思い返してみても確かに恥ずかしいことばかりしていた。

 

 もう少し、ほんの少しだけ我慢していれば物事はもっとスムーズに流れていたのに。

 

 結局ただ無意味に場をかき回していただけ。

 周りの人に迷惑をかけながら。

 

 今だってそうだった、もしオオモト様が言ってくれなかったからきっと。

 

 やはりあの声はオオモト様だった。

 

 あの人はまだあの青いドアの家の何処かにいるのだろうか、それとも。

 

 そんなことを考えていると、これまで音がなかった世界に微かな音と振動が流れてくる。

 

 初めてのことじゃない。

 これは前にも経験のあることだった。

 

 確かにオオモト様の言った通り、電車が来るみたいだった。

 

 結局、テレビで確認はしなかったけどここに来るのは間違いないらしい。

 

 どうしてそれが分かったのかなんて今更聞きに戻るようなことはしないけど。

 

 それにもうオオモト様には当分会うことはないと思ってるし。 

 

 列車はあっと言う間に近づくと、真新しい音を立てながらプラットフォームに滑り込んできた。

 

 前に見た時と同じような緑の電車。

 

 この車両にはやはり見覚えがある。

 

 通学に使っていた車両も確かこれだったし、巨大な水たまりの底で転がっていたのも確かこの車両だった。

 

 少し丸みを帯びた緑を基調にしたレトロな車両。

 これがつかわれている路線はもう僅かしかないらしい。

 

 その、もう古い型の車両が目の前に止まった。

 

 行先は当然書いていない。

 

 そして何の前触れもなくドアが開く。

 

 ふしゅう、と音がして金属製のドアが一斉に開いた。

 

 運転席には誰も乗っていない。

 にも関わらず扉は開いた。

 

 蛍はちょっと考えたのち、車内へと入り込む。

 ちらっと後ろを振り返ったが、そこには当然誰の姿もなかった。

 

 乗るのは蛍ひとり。

 

 そこも同じだった。

 

 蛍は足を踏み入れる。

 他の人が乗ってる気配はない。

 

 変わってないなと思った。

 何もかもが。

 

 列車のドアはまだ開いている。

 

 例えば何か大事な忘れものがあり、それを取りに行こうとするのならば、きっと簡単に出れるだろう。

 

 それにもし、誰か時間を読み違えて慌ててこの電車に乗るために全速力で走ってくるのならば、ぎりぎりだが間に合いそうな気がする。

 

 それぐらい自然な情景。

 

 肝心なものはないけど、それでもよくある夏の日にありがちな爽やかさと切なさがここにはあった。

 

「……ん」

 

 小さなため息を一つこぼすと、誰かを待っているかのように、蛍は物憂げに扉の外を見つめながら長い髪をくるくると指で回していた。

 

 誰かが本当に乗ってくるなんて、そんな事は考えてなかったけど。

 

 でも何かを待っていた。

 

 それに何の意味もないことは分かってはいても。

 

「あ」

 

 到着したときと同じように何の前触れもなくドアが閉まる。

 

 せっかちと言うか今回も。

 ブザーもベルも慣らさず唐突に。

 

 それは確かに驚いたのだったが、それ以外の感情は蛍の中には湧きあがらなかった。

 諦めと言うよりも、そうなんだろうなと思っていたから。

 

 むしろこうなることが分かっていたからこそ乗り込んだようなものだった。

 

 ただ、やっぱり何らかの音が無いのは少し寂しいというか。

 

「普通に危ないよね」

 

 もう誰も乗らないから関係ないんだろうけど。

 

 途中下車なんてこの列車には多分ないんだし。

 次に止まる所が終点だろう。

 

 その先にはもうきっと線路はない。

 

 終点まで行ったら今度こそ戻れないだろうと、そう思っていた。

 

 でも、もう決めたことだから。

 

 オオモト様はそう言ってくれたけど、多分、気休め程度の事だろうと思う。

 

 悪気とかそういうのとは違うと思うけど。

 

 あの人にはそういうのはないんだきっと、この世界のように。

 

 良いも悪いもない。

 ただ、綺麗なだけ。

 

(燐も、それが分かっていたんだね、きっと)

 

 燐は”分かっていたから”乗らなかった。

 蛍は”分かってなかったから”乗った。

 

 二人ともそれぞれ違う。

 でも、結局は同じことをしていた。

 

 ただ、ほんの少しだけ気を遣いすぎていただけ、お互いに。

 

 たった”ほんの少し”があのような事になっただけだから。

 だからもう気にしていない。

 

 それは二人とも多分同じ。

 

 これだって仕方がないことで、きっと、きっとみんなこうしてきたんだ。

 

 この世界へ来て、あの人と会いそして。

 

 行先のない列車に乗る。

 

 時刻表も切符もないのは当然の事だった。

 だってもう決まっていたことだったから。

 

 ガタンと小さく揺れて列車が動きだした。

 蛍はまだ座席には座らずに小さいガラスに切り取られた流れる景色を眺めていた。

 

 プラットフォーム脇の青いドアの家も列車の動きに合わせてゆっくりと視界の外へと消えていく。

 

 窓からはその人影は見えなかったが、それでよかった。

 

 もう一度あの人の姿を見たら今度こそ感情を抑えられそうにないだろうから。

 

 これで良かったんだ……きっと全てが。

 

 一度動き出した電車は止まることなく、白いホームの横を進みだす。

 

 これからどうなるのかなんて、もう考えることもないだろう。

 その必要はなくなったと思うから。

 

 蛍は今更に車内を見渡す。

 

 小綺麗だけど、ただ座席があるだけ。

 やはり広告もつり革もない。

 

 それでも窓はあるからどうしてもという時は飛び降りる事だってできるが、はたして今それが出来るだろうか。

 

 燐が必死になってホームを追いかけて来てくれたときだって、自分から外へ飛び降りようとしなかったのに。

 

 怖かった?

 きっとそれはスピードとか高さとかではなく。

 

 拒絶されることを恐れていたんだと思う。

 そうすることがあの時の彼女の本意だと……思っていたから。

 

 ふと思い立った蛍は、あの時のように座席に膝をついていた。

 

 誰も追いかけてくるわけがない、それは分かっている。

 

 だけど。

 

 考えるより先に窓に手を掛けていた。

 

「ううーんっ」

 

 重い。

 と言うか固い。

 

 とても蛍のひとりの力では開きそうになかった。

 

 ハンドルみたいなものは一応付いているから構造的に開くとは思うのだが、どんなに力を込めて持ち上げようとしても四角い窓はうんともすんともしなかった。

 

 あの時は自分で思っていたよりも確か簡単に開いたはず。

 ならばもう開く必要がないということなのだろうか。

 

 どちらにせよ気晴らしに外の風を送り込むことも、勝手に出ていくことも叶わなくなった。

 

 全ての窓を試してはいないが、恐らくそうなんではないかと思う。

 

 けれどそこまで悲しくはない、きっとこれだって自分が選んだことだから。

 

 偶然ではなく、きっと必然。

 

 流されるままに生きてきた自分の姿なのだからと。

 妙に納得できていた。

 

 そう、先に進むにしても結局中途半端で、何かを得ようと尽力することなく、流されるままの自分自身の結果。

 

 その末路といっても過言ではない。

 

 座敷童であると知らされてもそれを変えようともせず、あるがままを受け入れられなかった、自分が選んだ結果なのだからと。

 

「──そうじゃなくて」

 

「えっ」

 

 もう窓の事はどうでもよくて普通に座ろうとしたのだった、蛍は。

 

 でも。

 その小さな手を支えるものがいた。

 

 同じように温かくて小さな手で。

 

 気配というか、そう言ったものはついさっきまで微塵も感じなかったのに。

 

 今はぴったりと寄り添うように傍にいる。

 

 息づかいさえまるで本物のように。

 普通に自然にそこにいた。

 

 あまりにも普通過ぎるから逆に違和感を感じなかったほどで、奇妙というよりも何だか安堵してしまう。

 

 当たり前すぎたから。

 

 蛍は急に自分の発している匂いのことが気になり、何を思ったのか息を止めていた。

 

 それで匂いがどうなるわけではないが、近くで嗅がれなければいいなと思い、胸をどきどきとさせていた。

 

「”願うことは無意味じゃない”。そう言ってたでしょ」

 

 確かに聞いたことがある言葉(フレーズ)

 それを耳元で囁かれる。

 

 少しこそばゆかったけど。

 それは近いからだけじゃなくて。

 

「開けるのか、開けられるとかじゃなくてね。これは開く窓って思えばいいだけなの。例えばほら、あのっ”Open Sesame!!”みたいな感じで」

 

 乗り込んだときは誰の人影も見えなかったから、”違う車両から入ってきた”のではないかと思っている。

 

 それでもまだ全然理由には足りないけど。

 

「じゃあ行くよ?」

 

 どうやら同時に力を入れて開けるらしい。

 

 蛍はまだ息を止めているのでこくんと頷いただけだった。

 

 掛け声もなしに同じタイミングで力を込める。

 

 そんなこと普通は出来ない。

 でもそれが親しいもの同士だったら?

 

 もし、あの転車台でもこんな感じで一緒に動かしていたら……なんて思うこともあるけど、それでも結果は変わらなかっただろうか。

 

「せーのっ」

 

 電車の窓はすっと──簡単に上に開いた。

 

 まるで力を掛ける必要なくあっさりと、それこそ自動で開いてくれたみたいに。

 

 そこから見える景色はまるで──。

 

「ひゃぁぁぁ!」

 

「わふっっ!?」

 

 窓が開くと同時にぶわぁっと、車内に風が巻き上がる。

 

 少女達の長い髪がちりぢりになり、風の上に舞い上がった。

 まるで互いの思いを絡みつかせるみたいに。

 

 これまで溜めていた感情を吐き出すように蛍は大きく息を吐いた。

 

 ”燐”はどちらともつかない髪をかき分けながら、急に暗くなった視界を何とかしようともがいていた。

 

「何で、こんなに風が強いのよっ!!」

 

 そう叫んで燐は開けたばかりの窓を一気に閉めてしまった。

 騒がしかった車内が一瞬で元に戻る。

 

 静まり返った列車の車両にはふたりの少女だけが取り残されていた。

 

 蛍はしばらく呆然としていたが、外の景色をみて驚愕した。

 

「見て、燐! 海が広がってる」

 

 蛍に言われて燐が窓の外の景色に目を移す。

 

 確かにそこは周りは一面の海。

 

 それは二人が見ている片側からの景色だけではなく、車両の両側に広がっていた。

 

 どこまでも続く水平線の上を列車が走っていたのだった。

 

 それは海ではなく恐らく水溜まりだろうが余りにも広大だったから蛍が海と錯覚してしまうのも無理なかった。

 

 その中を二人とも泳ぐと言うか歩いたこともあったのだが。

 

「線路の先ってこうなってたんだ」

 

 燐が目を丸くしながら感心したようにつぶやく。

 

 蛍はまだ口を開けたまま景色に目をやっていた。

 

 水溜まりの上を列車が走っているという事実。

 

 何とも不思議で非現実的な光景だったが、その下にはちゃんと線路はあるみたいで普通に枕木も引いてあった。

 

 誰がやったのかなんて考えなければそれなりに理に適っているかもといえるが、それでもやっぱりあり得ない光景。

 

 それは、水の上を渡った先に何があるのかなんて想像もつかないからだろう。

 

(あれは違うよね、きっと)

 

 蛍は前に燐と一緒に水中を歩いた時に、偶然見つけた錆びてボロボロになった電車の一部を見つけたことをつい思い出していた。

 

 あれがこの列車の、線路の先の行きつくところなんだろうか。

 

 それだったらこの列車は。

 

「どうしたの、蛍ちゃん」

 

「あ、ううん。何でもないよ」

 

 悪い想像をしても仕方がない、蛍はまた頑張って笑顔を作った。

 

 ………

 ………

 ………

 

「それにしても驚いちゃったよ。燐がここにいるなんて」

 

 ようやく落ち着いたのか、二人は並んで座席に腰かけていた。

 

 燐も蛍も制服姿のまま長いシートの上で揺られていた。

 

 穏やかに座席に並んで会話している姿は、これから通学もしくは下校の学生の様に見えるだろう。

 

 それぐらい二人にはもう当たり前の光景だったから。

 

 それが”青いドアの家の世界”の列車での車内でなければの話だが。

 

「最初からここにいたの?」

 

 蛍はとりあえず聞きたかったことを燐に尋ねた。

 

「えっと、わたしは確かに電車の中にいたけど……いまいちよく分からないんだよね。気が付いたら蛍ちゃんが窓を開けようとしてたみたいだったから」

 

「だから、手伝ってくれた」

 

「うん」

 

 燐も自分で釈然としないのか、何度も首を捻りながら起きる前の事を思い出そうとしていた。

 

 腕を組んで必死になっている燐を見て、蛍はおかしくなって笑みをこぼした。

 

 悩む燐を見ていたら自分の葛藤が急に馬鹿らしくなった。

 

「もう、いいよ、燐。それより」

 

「ん?」

 

「”おはよう”」

 

 この世界に朝なんてものは訪れないだろう。

 けれどそう、燐に挨拶したくなった。

 

 だって前まではずっとそうしてきたから。

 

 何だか懐かしく思えるほどに。

 

「うん、おはよう」

 

 ちょっと驚いた感じをみせた燐だったが、笑顔で返してくれた。

 

 二人とも風に煽られたせいでまだ髪はぼさぼさで、なんだか寝起きみたいにみえるけれど。

 

 時間さえ、季節なんてそれこそ感じ取ることのない閉ざされた世界で。

 

 なぜだろう。

 

 それまでしなかった夏の香りを急に感じとったのは。

 

 きっと、どこまでも二人一緒だったからそう思ったのかもしれない。

 

 純粋に、どこまでも純粋だったから。

 

 夏に似たこの世界が永遠であることを願っていた。

 

 

 ─

 ──

 ───

 

 






◎FANZAのスプリングセールで青い空のカミュがゴールデンウイーク明けの5月9日まで50%セールになっております~。
今更ですが、私が二次創作までしてしまうほどの大好きな作品ですので長期休みのこの機会に是非プレイしてください~。

さてさて、ようやく三回目のワクチン接種も終わったのですがぁぁ、副反応結構きつかったですーー!!五か月振りだから大丈夫でしょーみたいなことを言われたけどそーでもなかったなぁ。コロナと副反応との戦いに終わりはあるのかっ!? 乞うご期待ですねーー。

★アウトドアアニメー。
ヤマノススメはまさかの高尾山スタンプラリーだし、ゆるキャン△は劇場版関連でグッズが出たりイベントいっぱいだったりと、アウトドア系アニメの動きが最近活発になってますねー。
あ、ちなみにスローループも見ておりましたよー。原作の時点で好きな作品でしたし。ゆるキャン△アンソロジーに作者様が書いていた時も特段上手い印象がありましたしねー。

で、ゆるキャン△シーズン2が再放送してたのでまた最初から見てますよー。けど、どうしても2話の”あのシーン”が気になってしまうんですよーー”木”だけにーー!
そしてなぜだか今更になって3話でなでしこが食べていたうなパイが気になってしまったので、たまたま近所のイオンで売られていた本家うなぎパイを買ってみました。普通のとミニしかなかったので、滅多に買うことのないミニを購入してみました。
ミニはその通り小さいサイズなのに値段が普通サイズとそんなに違わないので、ちょっと割高感がありますねぇ。ナッツと蜂蜜のせいですかねー。

ちなみにゆるキャン△とのコラボ商品”うなうなパイ”が本家から最近発売されたみたいですが、これはパッケージも原作そのままのこだわり商品なんですよねー。それはまあ売っている場所も限定されてますし、それに人気で手に入りそうにないので、今はミニサイズで楽しみますー。
でも、ミニってうなぎっぽい形じゃないからただのパイにしか見えない……。

でもっ、うなパイミニでもウマーー。
蜂蜜とナッツでプレーンに飽きた人もウマーで食べられると思いますー。ちょっと小さいけども。


それではではー。




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A real lost house.

 
 がたん、ごとん。

 予定通りなのかどうかは知らないが、焦った感じの無いちょうど良いスピードで列車は運行していた。

 線路の繋ぎ目を渡る音に合わせてがたりと車体が揺れる。
 二人のか細い身体もその振動に合わせて揺れていた。

 奇妙な世界を渡る列車は青いドアの家を通り過ぎて、白いプラットフォームのその先。
 もう見知らぬ場所まで走行していた。

 湖のような水溜まりが両脇に広がってその上を列車が走っている。

 それぐらい車窓からの世界は青一色で染まっていた。

 実際は、線路に水がかからないぐらいぎりぎりのところを走っていたようだった。

 まるで水のほうから避けてくれている。
 そんな風に思えるほどに。

 ただ、水溜まりというにはあまりにも大きすぎて、全てを視界に収めることが出来ない。

 列車の窓からは大海原が広がっている。
 そう言われてもそんなに大げさではないだろう。

 窓の外のどこに視線を向けても水溜まりがパノラマのように映り込んでいたから。

 あまりにも神秘的で幻想的な景色なのだけれど、ずっと同じ景色が続くから、ひょっとするとこの列車が動いていないのではないかと錯覚を覚えるほどだった。

 でももし、この車両でひとりきりだったらきっと景色は見えていないだろうと思う。

 変わらないことを望んでいるわけではなかったし、そんなことをしてももう無意味だと思ってたから。

(でも、今は……)

 蛍はちらりと首を向けて横を見た。

「どうしたの、蛍ちゃん。まるで幽霊でも見たような顔してるよ」

 ちょっと茶化すように笑う燐に、蛍もくすりと微笑んだ。

「燐がそれ言っちゃう? わたしの方がよっぽど幽霊に見えるんじゃない。クラス変わっても相変わらず存在感ないから」

 全部分かっているのかそうではないのか、その顔からは何も読み取れないが。

「わたしとクラス別れて寂しいんでしょ? 理数系は授業が多いし真面目な人が多いから」

「もう、寂しいのは燐の方でしょ。休憩時間の度にしょっちゅう来るからもうみんなに覚えられちゃってるし」

「にゃはは、いやぁ、蛍ちゃん寂しくて泣いてないかなってつい」

「もう、そんな四六時中一緒にいるわけでもないし。それにわたし、そこまで……」

 と、話の途中で蛍が口をつぐんでしまった。

「蛍ちゃん、どうかした?」

「えっと」

 口ごもる蛍に燐は小首をかしげた。

「その、毎回来られると流石にアレだから」

「はいはい、でもスマホでやり取りするぐらいならいいでしょ」

「まあ、それぐらいなら」

 それだって燐とは毎日のようにやってるけど。

 ため息をつく蛍。

(でも、燐がいないと寂しそうにみえるのかな……わたし)

 自覚はないけど。

 正直、まだ引きずってる部分はあると思う、とてもショックな事だったし。
 
 教室であろうとこの夢のような世界だろうと。
 長くとも短くともきっと同じなんだと思う。

 寂しいのはきっとそういう事。

 ぴったりじゃない、多分完全に重なることはないだろうけど、それでもちょっとだけ同じ想いがあったから。

 多分それだけで。

 今がふたり一緒なら。
 これが全て夢でも。

 よかったんだ。

「ねぇ、燐。ずっとずっと、このままだったら、どうする」

 どこか遠くを見るように目を細めた蛍がそう聞いてきたので、燐は一瞬迷った後、それでもいいね、と当たり前みたいに答えた。

「そうだよね。燐ならどこだっていいよね」

 燐がそう答えるのが分かっていたみたいに、蛍もさも当然のように答えた。

 わざわざ尋ねる必要もなんてなく、二人の本心からなんだろうけど。
 それでもそう聞いてもらえることが嬉しかった。

 燐も蛍も。

 いつもと変わらない友達だったから。

 多分何かもっと深い思いがあったんだろうけど

 例え行き先が一方通行だったとしても。
 変わらない、ずっと友達のままだったから。

 だから蛍も燐もずっと笑顔のままだった。

 きっと何があっても最後はそうだと思った、それはふたりとも。


 この時までは。

 ……
 ……
 ……

 かんかんかんかん。

 不意に、静謐な車内におおよそ似つかわしくない警報音が鳴り響き、耳元から脳髄まで電流が走ったみたいに蛍はびくっと身を震わせていた。

 線路の周りは一面の水溜まりのはずなのに、何故踏切の警報音がするのか。

 疑問に思った蛍は窓へとかじりつく。

「あ……」

 それは余りにも一瞬に過ぎていってしまったけど、確かに踏切が、よく知る黄色と黒の遮断機と共に赤い目を点滅をぱかぱかさせながら景色の外へと流れていくのが見えた。

 当然、辺りには道らしきものはなく、波紋を湛えた水たまりが漠然と広がってるだけ。
 
 蛍が見たところ、踏切の前には人影はなく、ただ無意味に遮断機が下りているだけのようだった。

 そもそも道が無いのだから、踏切を待つ人がいないのは当然なんだろうけど。

 瞬間的に逆方向の窓も見てみたが、鏡合わせみたいに全くそっくり同じように無人の遮断機と殺風景な単一の景色が広がっているだけ。

 やはり蛍と燐、ふたり以外の人影はいなかった。

「何のための踏切だったんだろうね。そこを船が通過するわけでもないし」

 燐も見ていたのだろう、蛍の直ぐ隣で不思議そうに眺めていた。

「さすがに船はないよ~。むしろこっちが止まることになっちゃうから意味なんて最初からないと思う」

 蛍の言うように確かに意味などない。

 でも、その世界から切り払われたみたいにぽつんと忘れ去れた情景に既視感のような感覚を覚えたのは確かだった。

 その証拠に蛍は心の奥底に棘が刺さったような、胸のつまる思いをした。

(あの踏切どこかで見たことがあるみたい……でも、どこで?) 

 それはいつのものなのか、まだ正体ははっきりとしなかったが、そんな雲を掴むような想いに今、囚われる必要はないだろうと、蛍はそれ以上自身の胸の内を追求することはしなかった。

 その代わりと言ってはなんだが、蛍は軽く深呼吸をしてそっと胸に手を当ててみた。

 急なことが立て続けにあり過ぎてしまったせいなのか、一定以上に高鳴り続けていた動機がちょっとだけ落ち着いたような気がした。

「何かさ、蛍ちゃんと一緒に電車に乗っていると普通に学校行って時みたいだよね。こうして制服も着てるしさ」

 燐はそう言ってスカートの端をひらっと持ち上げていた。

 大分はしたない行為だと思うが、この車両には蛍の他に誰も乗っていないから特に問題はないと思うが。

「燐は、ちょっと無防備な気がする。危機管理が足りないっていうか、燐はいつもしっかりしてるのに……」

 蛍は前に燐がした行為を思い出していた。

(クリスマスの時だって、燐は自分でパンツ見せてたよね。まあ、酔っぱらってたせいだとは思うけど)

 本人はもう忘れてしまったのかもしれないが、蛍はその事を未だはっきりと覚えているから、余計とは思ってもつい口を出してしまった。

 元はと言えば蛍が買ってきた少量とはいえブランデー入りのケーキのせいだったし。

「え、そぉかなぁ? わたし、自分では結構気を遣ってるって、思ってるんだけどぉ。匂いとか髪型とか」

 やはり自覚は無いようだった。
 蛍は大きくため息をつく。

 その燐もわけが分からない顔をしているが、そのにはさっきからずっとスカートをひらひらとさせている。

 別に誘惑しているとかそういう事ではないと思うが。

「でもさ、蛍ちゃんの方がよっぽど危ういんじゃないかな。わたしなんかよりも全然プロポーションいいのに、割と無自覚なんだよねぇ」

「そうかなぁ、だって燐とスカートの長さ同じだよ。でもわたしはストッキングしてるから大分マシだと思うけど」

 燐の言葉に触発されたのか、蛍も座ったままおずおずとスカートの端を両手で持ち上げていた。

 黒いストッキングに包まれた肉感の良い蛍の太ももが艶めかしい光沢を纏っている。

「あのね、蛍ちゃん。ストッキング履いてたほうが、何かエロく見えるんだって。男の人ってそういうものらしいんだよぉ」

 誰も聞いているものなど居ないのに、燐は蛍の耳元でこそっと話しかけた。

「本当? もしかして燐もわたしの事そんな目で見てる?」

 蛍は上目づかいで尋ねる。
 耳は、とても赤くなっていた。

「いやいや、わたしは女だし流石に……あ、でも制服姿の蛍ちゃんには黒が似合うなーって思ってるよ。私服も可愛いなぁって思ってるけどね」

「もう、燐は何でもいいんじゃない」

 やや呆れたような目線を送る。
 けれど蛍はほっとしていた。

 男性目線などではない、燐の客観的な意見が聞けたことに。

「でもさ、こうして二人で電車に乗ってるのってなんか不思議な感じね。わたしは乗れなかったし、蛍ちゃんだって結局ああなったわけでしょ。それなのに一緒に乗ってるなんて……なんかちょっとだけ運命っぽいの感じるかも」

 眩しく笑う燐に蛍はなぜか直視ができず、俯いたまま言葉をつくった。

「確かに、そうだよね。あの時のわたしは目の前が真っ暗になった気がしたもん。燐を置いて行ってしまったって……」

 ほんの数か月前のことなのに、もうすごく昔のことのように感じる。
 生まれ住んだ町で異変が起きたことも、自分が座敷童であったことも。

 多分それは、色々と理解を越えた事ばかりが目まぐる起きたことが原因だろうとおもう。

 それは蛍だけでなく燐も同じで。

 町の異変とは何の関係もないと燐は思われていたのに、何の偶然からか渦中の中心人物になってしまった。

 その結果、燐の大切な人だけではなく、燐自身も……。

 けれどそれは、何か得体のしれない焦燥感に駆られていただけではないとは思う。

 異変の後の事もそうだし、何かにつけて時間には追われていたから。

「まあでも、今はふたり一緒に学校近くのマンションに住んでるんだから、先がどうなるかなんて本当に分からないもんだよね」

「それはそうだよね。わたしだってこうなるなんて思ってもなかったし」

「でも、学校まで近すぎるから歩いて行っても直ぐ着いちゃうよねぇ。何だか呆気なさすぎるぐらいに」

 その分燐は、誰よりも早く来てホッケー部の朝練をしたり、予定の無い日はジョギングしたりと空き時間を利用した所謂、朝活を取り入れていた。

 対する蛍は。

「わたし、いつもぎりぎりなんだけど」

 蛍はその分を睡眠に割り当てていた。

 なぜか他人事のように話す蛍に燐は肩をすくめて苦笑いする。

「それは蛍ちゃんがいっつも時間ぎりぎりまで寝てるからっ。考えてみたら、まともに一緒に登校したことって殆どないよね」

 数える程度だった気がする。

「それはまあ、仕方がないよ。わたしの場合寝るのが義務みたいなものだから」

「まったくぅ」

 蛍の言葉に燐はぷぅと頬を膨らませた。

「でも、おかげで燐とマンションで同居してることがバレないからいいんじゃない?」

 今度は何やら言い訳じみたことを蛍は言いだした。

 燐はちょっと意外そうに、でも、ため息交じりな口を開けた。

「あれ? もうみんなには言ってなかったっけ? わたしのクラスの殆どは知ってたと思うけど」

 燐の記憶だとマンションに引っ越す前からクラスメイトやホッケー部の部員に言ってた気がする。

 色々とあらぬ噂も立ったが概ねその通りだったので特に気にしてはいない。

 むしろ新築のマンションだったので羨ましがられたほどだった。

「そうだったっけ……? わたしは、バレてないと思う。まぁ、今更だしもうどうでもいいか」

 バレたって別に悪い気はしないし。

「うんうん、問題ないない。結婚式はいつとかー、未だにからかわれたりもするけどねぇ」

 その事を言ってくるのは燐の母の咲良だったり、蛍の元家政婦の吉村さん等のもっぱら高齢の女性(こういうと母に怒られてしまう)なんだけど。

 その割には燐は怒ったような素振りは見せていない。
 むしろちょっと嬉しそうに見えた。

 蛍も何とも言葉を返せずもじもじと膝を擦り合わせるだけ。

 ふたりのその仕草だけで、周囲の人は大体の事を察することができていた。
 
 それにしても、こうして二人で他愛もないことを話していると本当に通学していた時と変わらないような気になってくる。

 ただ他の乗客や運転手などがいないというだけで。

「ねぇ、燐。この電車の行き先ってどこだと思う」

 踏切が消えた方に目を向けながら、独り言のように蛍がつぶやいた。

 何となく物悲しいような、切なそうに見せる蛍の仕草は、少女の体を普段よりも小さく華奢に見せていた。

「死者の国、とか……? ”銀河鉄道の夜”だとそんな感じだったよね」

「乗客の中にタイタニック号に乗ってた人がいたんだったよね、確か」

 童話中には明確に書いてはいなかったが、解説本などにはそう書かれていることが多かった。

 二人ともその事を知っているせいか、前に切符の事を話した時も出てくるのはこの童話がらみの事だったから。

「でもそれなら、願ったり叶ったりって感じかな。こうしている事自体なんて言うか奇跡みたいな感じだし」

 そう言った燐の顔を覗き込みながら、蛍はきょとんとしていた。

 ややあって蛍は燐の手をにぎる。

 燐の温もりを直に感じる。

 もしこんなこと程度が奇跡だとするのならば、それこそどこにでも転がっていることなんだろうと思う。

 それほど軽いというか、現実はもっと重いものなんだろうけど。

 身近すぎて、愛おしかった。

「そうでもないんじゃないかな」

 蛍はちょっと困った笑みを作る。

 けれど無理をしている感じはない、むしろどういう顔を燐に見せたらいいか迷っているような、迷いのある笑みだった。

「あ。別に燐が幽霊だからとかそういう事じゃなくて、その方がしっくりくるって言うか……むしろわたしの方が幽霊だよね、存在感、全然ないし」

「もう、蛍ちゃんは幽霊じゃないでしょ。ちゃんとこうして触れることができるんだし」

 燐がぎゅうっと手を握りかえしてくる。
 痛くない程度の柔らかい強さで。

 それだけで胸があたたかくなる。
 奇跡なんて信じる必要もないぐらいに。

「……それは、燐もでしょ。もしほんとうの幽霊だったらこういう時すり抜けちゃうでしょ」

 少し顔を赤くしながら蛍は燐を抱きしめる。

 たったこれだけの事で安心できるのなら、互いに幽霊だとしてもきっと問題はないだろう。
 他の人から認知されなくとも互いがこうして分かるのならば。

 そう思う、本当に。

「ねぇ、燐。幽霊でも触れたり、食べたりすることなんてできるのかな。っていうかそれはもう幽霊じゃないよね?」

「どうだろうねぇ。幽霊だって日々進化してるかもしれないし」

「そういうものなのかな……」

 互いの身体を掻き抱き合いながら、燐と蛍は妙な事を口にしあっていた。

「けど、それだったらそれはもう幽霊なんかじゃなくて」

「ただの人間、だよね」

「うん……」

 誰とは言わなかったが、きっとふたりとも同じ人を思い浮かべていた。
 とても綺麗で思慮深い瞳をした人なのに、どこか子供っぽく無邪気な、あの人のことを。

 ()()()()()はいつだって変わらなかったし、いつだって優しく見守ってくれていたから。

 人間よりも人間らしいなんて、そんな辛辣なことを言うつもりはなく。

 誰よりも人でありたかったんだと思う。

 だからかちょっと悲しかった。
 あの人の想いはいつ報われるのだろうかと思ったから。

「もう思いは成就されたんじゃない?」

 青と白の境界線をみながらそっと風に乗せるように燐がつぶやく。
 
「それだったら、いいんだけど」

 蛍はそれに少し歯切れの悪い言葉で返した。

 想いがかなえられたのなら何故またあの家にあの人は居たんだろう。
 そこが蛍としては腑に落ちないところだったから。

 がたんごとん。

 二人でこうしている間にも列車の窓から映る景色はいつまでも同じで、空の色と少しも違わない白い雲を映した水面がどこまでも広がっていた。

 どこからか流れてくる風が光の粉を撒き、きらきらとその鏡面を柔らかく撫でる。

 風を生み出しているのはきっとこの列車なんだろう。

 この列車が通ったときだけ止まった世界に風が吹くのだ、きっと。

 窓を開けていられないほどの強い風を巻き起こしながら列車はどこかを目指して進んで行くんだ。

 きっと終わりのない、完璧な世界へ。

 そこが何なのかは分からないが、そこまで不安を感じないのは一人じゃないからだと思う。

 あの童話でもそうであったから。

「そういえばさぁ、蛍ちゃんはあの時二人で飛ばした紙飛行機のことまだ、覚えてるかな」

 身体を離した燐が、唐突に質問してきたので蛍は一瞬面食らってしまった。

 燐が言っているのは、”居なくなった後に”蛍の頬をかすめるようにして落ちてきた、あの紙飛行機のことだろう。

 ノートの切れ端で作り、二人で飛ばした何の変哲もない紙飛行機。

 青い空にどこまでも飛んで行きそうな紙飛行機は、とても優雅で自由そのもののように見えた。

 反射的に拾い上げて持ち帰ってしまったけど、その後は……。

「うん。覚えてるけど……」

 思ってもみないことを燐に聞かれて蛍は顔色をさっと変えた。

 確かに覚えている、けどその後の事は燐に申し訳なく思ったから。

「ごめん。前にも言った気がするけど、あの紙飛行機、なくなっちゃったみたいなんだ。大事なものなのは分かってたんだけど……」

 蛍は申し訳なく燐にぺこりと頭を下げた。

 なんであんなことをしてしまったんだろうと今でも思う。

 やるせない思いがあったとはいえ、よりにもよって大事なものを自分の手で握りつぶしてしまうなんて。

 その事を後悔してももう元には戻らない。

 紙飛行機は丸い塊になって、そして何故か”毬”になってしまった。

(その毬も燐の家にあったはずなのに、結局オオモト様が持っていたみたいだし)

 やはり何かの前触れか何かなんだろうか。

 蛍は思考の環を頭の中でぐるぐると回していた。

「それはわたしも知ってるよ。蛍ちゃんが前にそう話してくれてたし」

 くすくすと笑いながら燐は言葉を続ける。

 蛍は耳だけ燐のほうに傾けながら、答えの出ない考えを続けていた。

「わたしが言いたいのはね、蛍ちゃん」

「うん」

「あの紙飛行機は、”わたしが転生した姿”って言ったら信じてくれるかなってこと」

 一瞬の沈黙の後。

「えっ!?」

 蛍は目を大きく見開いて燐の顔をまざまざと見つめる。

 いつものからかっているような燐の顔ではない、真面目なでも少し照れたように頬をかいて蛍を見つめ返していた。

 ──転生?

 燐は一体何を言っているのだろう。

 それこそ漫画や小説のような事あるはずないのに。

 それにもし”あれ”が燐の転生した姿なら、目の前にいる燐は一体なんだというの?

「あれっ、蛍ちゃん……聞いてる? もしも~し」

 燐が発した言葉を真に受けたのか、燐が目の前で確認するように何度も手を振っても蛍は口をあんぐりと開けたままになっていた。

 がたんごとん。

 列車は二人の少女を乗せたままどこかへと走り続けている。

 少女たちは見つめ合ったまま、それぞれ別の想いに囚われていた。

「ねぇ、蛍ちゃん~」
 
 ────
 ───
 ──
  


「大丈夫? 蛍ちゃん」

 

(え……?)

 

 目を覚ました蛍は、一瞬声が出なかった。

 

 何が起きたのか状況はハッキリしないが、蛍の目の前で心配そうな燐の顔が浮かび上がっていたのを見て大体のことを察することが出来た。

 

(わたし、きっと倒れちゃったんだ……なんかすごく恥ずかしい)

 

 貧血とかそういうのはもう治ったもんだと思ってたけど。

 それは単なる思い込みにすぎないようだった。

 

 がたがたと揺れる音が耳朶に少しうるさく届いているところをみると、どうやらまだ列車の車内にいるようだった。

 

「ごめんね蛍ちゃん。わたしが変なこと言っちゃったから」

 

 燐は蛍の事をずっと見ていてくれていたようだった。

 固く繋がれた燐の手が少し汗ばんでいたから。

 

 後頭部に柔らかい感触があるのは、燐が膝枕してくれていたからだろう。

 燐がいつもつけているオーデコロンの香りが鼻をくすぐった。

 

(そういえば、前にもこんな事があったっけ)

 

 去年のクリスマスの帰りの電車でも燐に膝枕してもらったんだった。

 

「わたしの方こそごめん。こんなことで倒れちゃうなんて」

 

 燐以外誰もいないからいいけど、この年にもなって失神してしまうなんて……。

 

「まだ横になってたほうがいいよ。すぐに動くとあたま痛くなっちゃうよ」

 

「うん……」

 

 燐にそう促されてしまっては、再び横になるしかなかった。

 

 腕の力を抜いて、体を楽にする。

 実際のとこは自分でもまだ動きたくはなかったから蛍は素直に従った。

 

 燐の温もりをもう少し感じていたいと言う思いもあったから。

 

 甘えてるな、って燐には思われているかもしれないだろうけど。

 まあ、実際に甘えているわけだし。

 

「ねえ、燐」

 

 顔を覗き込む燐の瞳をみながら蛍は呟く。

 

「なぁに、蛍ちゃん」

 

 蛍が少し元気になったことを感じ取った燐は安堵からの微笑みを見せた。

 

「わたし、どんな姿でも燐だって直ぐにわかるよ。でも、燐の言う事が嘘だなんて全然思ってないから」

 

 仮に燐によく似た子がいたとしても燐じゃないって分かると思う。

 完全に瓜二つだったとしても多分、分かる気がする。

 

 それぐらい特徴があるというわけではなく、燐はわたしにとってとても大切な人だから。

 

 最初は戸惑うかもしれないけど、きっとすぐに受け入れるだろう。

 

「あ、やっぱりちょっと言い方が悪かったみたいだね。ごめんね変な言い方して。えっとぉ、なんていうか……多分転生したと思ったんだけど、拒絶されちゃったっていうのかなぁ……自分でもよく分からないんだけどね」

 

 あはは、と困ったように笑う燐に蛍はびっくりした表情をみせたが、すぐに顔をほころばせた。

 

 話はまだよく分からないが、燐が自分で笑い話に出来ることならそれでいいと思っていたから。

 

「でも、燐。拒絶って……その、紙飛行機に?」

 

「えっと、多分……」

 

 燐は、耳まで真っ赤にしながら複雑な表情で俯いてしまった。

 

 無理もないことだと思う。

 

 それこそ荒唐無稽な事だし、燐も言ってて恥ずかしいのか、終わりの方の声は消えかかっていた。

 

「そっか、転生するのって大変なんだね。紙飛行機にだって人を選ぶ権利があるみたいだし」

 

 燐の告白はどっちにしろ蛍を困惑させるものだったけど。

 蛍はあえてちょっと意地悪な言い方で返した。

 

「もー、変な言い方しないでよ~。蛍ちゃんはわたしが戻ってきて嬉しくないのぉ!?」

 

 よほど恥ずかしいのか、燐はあからさまに話を変えてきた。

 

 蛍はくすりと笑って、口を開く。

 その顔はいつもの愛らしい蛍の顔だった。

 

「それは嬉しいけど、よくある漫画みたいに転生って簡単にできないもんなんだね」

 

 うんうんと感心するように頷く蛍に燐はますます顔を赤くした。

 

「もー、それはもういいからっ。蛍ちゃんもいつまでも寝てないで起きてっ。足が痺れちゃう」

 

 燐はすっかり混乱してしまったようで、少し声を荒げて蛍にそう言った。

 

 蛍はくすっと笑って上体をゆっくり起こす。

 少し燐をからかいすぎたことをちょっぴり反省した。

 

 …………

 ………

 ……

 

「ねぇ燐。あれって……見える?」

 

 列車はいつまでも走っていて、停車する駅はまだその影すら見えてはこなかった。

 

 そんな時、蛍は可憐な唇を細かに震わせながら、おずおずと指をさした。

 

「ふぇっ!? どれの事、蛍ちゃん?」

 

 燐も慌てて蛍が指さすその方角に視線を合わせた。

 

 二人の少女の視線が重なる方向。

 そこにそれはあった。

 

 空の青と水の青に囲まれた線路の先。

 

 そのどこまでも永遠と続いていそうな白いレールの上へ被さるようにして何かが建っているのが確かに見えた。

 

 けど、ここからではまだ全然遠いのか、さながら小さい陽炎のように揺らめいている。

 実際に揺れているわけではない、と思うが。

 

「えっと……あの黒っぽい建物の事、だよね?」

 

 そこに視線を向けたまま、燐はそう蛍に尋ねた。

 

「うん。やっぱり燐にも見えるんだね。あの背の高そうな建物のこと」

 

 燐が自分と同じものを見たことにホッとした蛍だったが、それが何なのかまではまだ判断がつかない。

 

 いくら目を眇めてみても、まだはっきりとした形を視界に捉えることができなかった。

 

「うーん……なんかの塔っぽく見えるけど、また風車じゃないよねぇ」

 

 あの時、蛍には見えなかったものが燐には見えていた。

 

 揺らめく景色の中で立っていた白い風車。

 それは複数見えたのか、今となっては良く思い出せないけれど。

 

 何となく、同じような感じで見えた。

 

 その声を聞いた蛍は視線を外して燐の方を見た。

 

「──わたしはあの時、風車の影すら見えなかったけど、こんな感じだったの? わたしにはお城みたいに見えるなあ」

 

 蛍はちょっとほっとした様子で微笑む。

 何が見えたかよりも燐と同じな事に安堵しているようだった。

 

「うん。けど、どうやらこの世界にはまだ別の、青いドアの家以外の建物があるみたいだね。まあ風車の件の事もあるし、まだ断定はできないけど」

 

 風車が立木のように立っていた奇妙な場所は結局この世界とは繋がってなかったのだろうか。

 

 線路の先の世界がそうかと思っていたのだが。

 よく考えたらあの世界には駅舎も線路もなかったわけだし。

 

(むしろどうやって風車の上まで登ったんだろう? あ兄ちゃんの話だと整備する人の為に登れるようにはなっているみたいだけど)

 

 とても綺麗で落ち着ける場所だったから、もう一度訪れてみたいと密かに思っていた燐は顔には出さず胸中でちょっと残念がった。

 

「誰かが住んでるわけでもないのかな……」

 

 この世界では割かし建造物はあるけれど、人の気配は殆どない。

 動物や植物さえもなく、せいぜい”殻”が落ちているだけ。

 

 生命と呼べるものは多分ない。

 それはあの人だってきっと……。

 

「でもちょっとホテルっぽくも見えない? ほら駅前にもあるやつ」

 

「それってアレな方の?」

 

「そうそうラヴっぽい方のに」

 

 ふたりとも少し顔を赤くして見合わせると、それ以上何とも言えずに貝のように口を閉じてしまった。

 

 この手の中世の城を模したようなホテルは学校からほど近い駅前の裏路地にも数軒あったからつい思いついただけで。

 

 これは別に蛍も燐もそういった事に大変興味があるというわけではなく、いや、少しは興味があるのかもしれないが……年頃の少女なのだし。

 

 それに、そこへ行こうしない限りは人目には付きづらい場所にはあるのだが、それでも駅前にソレがあることは二人の通う学園でも周知の事実となっていた。

 

 しかし、燐も蛍もまだ行ったことはなく、まともに建物を見たためしすらない。

 

 それでも知識の上では知っていた。

 利用したという話が流れてくることも割と普通にあるし。

 

 縁のない所だとまだ思っていたから。

 燐はともかく蛍には大分ハードルの高い場所、だったし。

 

「あれっ!?」

 

 何の前触れもなく、比較的安定していた列車の走行が急にガタガタと大きく揺れ出した。

 

 それと同時に、何か金属を削った時のような少し嫌な感じの音が列車の床下部分から聞こえ出した。

 

 特にアナウンスなどは無いが、明らかに速度を落とし始めているようだった。

 

「もしかして……!」

 

「うん!」

 

 蛍と燐は無言で手を握り合いながら、列車の動きに身をまかせた。

 

 ここまで来た以上慌てたって意味などないし、無理矢理出ようとすれば怪我なんかをしてしまいそうだから。

 

 運に天を任すじゃないけど、じたばたすることは得策ではない。

 そうふたりとも感じていた。

 

 確かに運転手がいないのだからちゃんと停車出来る保証などどこにもないわけだし、楽観的すぎるのかもしれないけど。

 

 それでもこうして手を握り合っていれば、少なくとも寂しい思いだけはする事はないと思っていたから。

 

 ぎいいいいいぃぃぃ!!!!

 

 何かで線を引いたような激しい金属音が列車内に鳴り響く。

 ふたりは身を寄せ合ってその衝撃に備えた。

 

 耳をつんざくようなけたたましい轟音にふたりは思わず顔をしかめた。

 

 これが延々続くのかと思ったが、大きな振動が車内をぐらりと揺らしたかと思うと急に音が止んだ。

 

 燐と蛍は恐る恐る顔を上げて、辺りの様子を窺う。

 

 列車の四角い窓から見えるのは……白い、プラットフォーム。

 

 それは余りにも似ていたのでまたあの駅に戻ってきてしまったと勘違いするほどだった。

 

 ややあって、ぷしゅうと空気が抜けた音がして、それまで固く閉ざされていたドアが開く。

 

「……!!」

 

 突然の事に蛍も燐も声が出なかった。

 

 その一連の流れは普通の電車ならば当たり前の事なのだろうけど。

 

 他に誰も乗っていないだけで全てが不自然に見える。

 

 それは人気の全くないこの駅で降りることを強要されているように思えて、二人とも顔を見合わせたまま、開かれたドアの前で立ち尽くしていた。

 

 またいつ閉まるとも分からないドアだったから、抜け出すとしたら今なんだろうけど。

 

 少女たちは、眉をひそめながら辺りの様子を窺っていた。

 

 運転席側の景色を見ると線路はその先へと続いているようだった。

 ということは、ここが終点ではないようだ。

 

 しかし、燐も蛍も明らかに困惑していて、やっと列車が停車したからとりあえず立ち上がってはみたものの、二人の指は金属製のポールから離れてはおらず、その意思を示すかのようにポールをぎゅっと握っていた。

 

 今すぐにここから出たいわけでもないけれど、ずっとこの電車に残りたいわけでもない。

 

 二人してどうするか決めあぐねているようだった。

 

 ドアは開け放たれているのに空気が妙に重い。

 

 ほんの一歩が怖かった。 

 

「どうしよっか?」

 

 先に口を開いたのは蛍だった。

 

 ずっとこのまま黙りこくっているのかと思われたのだが、蛍がそう聞いてくる以上燐も何かを言わなくてはいけない。

 

 判断を求められていると思った燐は。

 

「ちょっと出て、みる?」

 

 そう蛍に提案することにした。

 

 まだここからでは良く見えないが、多分ここにはさっき見かけたあの変なものが近くにあるんだろうと思っていたから。

 

 ふたりとも”見えた”ということはきっとそうなんだろうと。

 

 蛍は無言のまま頷く。

 やはり同じ考えのようだった。

 

「ちょっと、ドキドキするね」

 

 それは二重の意味でもあった。

 未知の場所に行くこともそうだし、急にドアが閉まるとも分からないから。

 

 燐は不安を隠すことなくそう言葉を投げると、蛍の手を引きながらまず最初に列車から外に足を出そうとする。

 

 前触れが全くないからやっぱり抵抗はある。

 でも出ると決めた以上は出るつもりだった。

 

 とりあえず、一歩ずつ足を進めることにする。

 

 瞬きよりも早い列車のドアの開閉にどう備えればいいのか。

 燐はぎくしゃくした動きでゆっくりと歩を進めた。

 

 そんな燐の後に蛍も続いてくれるだろうと思っていたが。

 

(あれっ?)

 

 燐の足が急に動かなくなってしまった。

 その理由は単純で蛍がまだその場から全く動いていなかったから。

 

「どうかしたの蛍ちゃん。何か忘れ物」

 

 振り返り小首を傾げる燐に蛍は困ったように笑ってみせた。

 

「なんか、ちょっと足が重たかっただけだよ。やっぱりまだ疲れが残ってるみたい」

 

「ああ、山の時の」

 

 そういえば二人して登山を終えたばかりなのだった。

 

 どうしてこの世界へとまた来てしまったかは未だ不明だが、昨日まで山に居たんだし、疲れが残っても仕方がないと思う。

 

「ちょっと待ってね」

 

 蛍はその場で膝の曲げ伸ばしをしてみた。

 折れそうな程、細く長い足で屈伸をするものだから、傍目には危うく見えてしまう。

 

 感触を確かめるように二、三度やってみる蛍。

 

「うん、そこまででもないみたい」

 

「本当に大丈夫? もう少し休んでからでもいいよ」

 

 蛍につられたのか燐もをいつの間にかストレッチをやっていた。

 

 周りが青と白で統一されているからなのか、一刻の猶予もないほどの緊張感はなぜか感じられなかった。

 

「ちょっとピリッとしただけだから平気だよ」

 

 心配そうに顔を寄せる燐に蛍はさっきよりもちょっとだけ大げさに笑ってみせた。

 

 蛍の顔色をじっと覗き込んでいた燐だったが、ふぅ、とため息を一つ出した。

 

「もしかして、ストッキングが伝線した、とか?」

 

「そんな感じ、かもね。いつも制服姿だから体が違和感を覚えているのかも」

 

「やっぱりフェチなんじゃない? もしくは勉強しろって事なのかもね」

 

「確かにそれはそうだね。来年受験だし。なんか色々早いよね」

 

 誰に向けての言葉なのか燐はからかうような口調でそう言った。

 

 蛍が呆れたような顔でみていると燐が急に真面目な顔で見つめているのに気付いた。

 

「でも……それならよかった。あ、痛みが強くなったらすぐに言ってね。例え、()()()、だって痛いものは痛いんだからね」

 

「うん、そうだね。心配してくれてありがと、燐」

 

「別に心配とかぁ……まあ、ちょっとはしてるんだけどね」

 

「燐はいつもの事でしょ。わたしの事よく見ててくれるし」

 

「やっぱり気になるからね。蛍ちゃんのことは」

 

 少女たちは改めて顔を見合わせるといつものように笑ってみせた。

 

「行こっ」

 

「うん」

 

 燐は普段よりもやわらかく蛍の手を引いた。

 

 燐と蛍は何者にも邪魔されること無く、当たり前のようにドアを抜けプラットフォーム上に降りることが出来た。

 

 二人が降り立った後もドアは開いたままだった。

 

「よく似てるね」

 

 蛍はきょろきょろと周りを見回す。

 

 白い屋根とベンチ。

 誰もいないホームに小さな駅舎。

 

「全然区別つかないよね。標識もなにもないし」

 

 燐の言うように駅名を記す看板も標識もない、時刻表すらもなかった。

 

 その辺りも全く同じ。

 

 何一つ情報がない。

 駅として必要なものが何もなかった。

 

 駅舎は、見た目通りこじんまりとして静まり返っている。

 券売機もなく、何もかも無人で空っぽの状態になっていた。

 

 それでも、この世界に初めて来た人なら、そのまま改札を抜けることに少しのためらいがあるのかもしれないけど。

 

「まあ、いつものように出ちゃおうか」

 

 もう二人は何度もこの世界に来ているから、この世界の改札を黙って抜けてしまうことなんて、別段なんてことない事になっていた。

 

 わざわざ口にする必要すらないぐらいに当たり前になっていた。

 

 でも、一応知らない駅だから燐は言ってみることにしたのだ。

 

「そうだね」

 

 蛍は軽く首を振って同意する。

 

 もう慣れきってしまったというよりも、蛍には気にかかることがあった。

 

 けれど、そんな落ち着きのない素振りは微塵も見せずに燐と改札をくぐる。

 

 そんなふたりを咎めるものは当然ない。

 

 列車も低い音を立てたままホームで停車するつもりのようだった。

 

 待っている、とは考えにくい。

 誰も見ていないわけだし。

 

「ん、じゃあ、行ってきますー」

 

 燐はくるっと振り返ると、空っぽの電車に向けて手を振った。

 

 もう何も、運転手すらも乗ってなかった丸い形の車両は、ただ無意味にぽっかりと口を開けているだけで、無邪気に手を振る燐に対して何の反応を示すことはなかった。

 

「照れてるのかなぁ?」

 

(照れるって……)

 

 暢気な燐のつぶやきに蛍はちょっと訝しく思ったが、すぐにくすっと微笑んだ。

 

 燐は不安がらないようにワザと明るく振舞ってくれている。

 そんな燐の気遣いが分かっていたから。

 

「なんか燐、楽しそうだよね」

 

「え、そう? わたし、はしゃいでるかなぁ」

 

「うん。ちょっとだけね」

 

 蛍がそう言うと、燐はちょっと照れたように口を緩める。

 

 この世界にひとりで来た時はもうどうなる事かと思って、覚悟を決めてきた。

 

 でも、蓋を開けてみれば全てが望み通りというわけではないが、半ば思い描いていた通りになった気がする。

 

 オオモト様は変わらず柔和なままだったし、燐も来てくれた。

 二人で一緒の列車に乗り、まだよくわからないが、駅へと降りることもできた。

 

 この列車自体に何の答えがあるのかは結局分からなかったが、こうして無事に燐と一緒に来れたことにはとても感謝している。

 

 手が離れ、そして別れたふたり。

 

 その手を再び結び付ける。

 そんな些細な願いの為だけにあの列車は来てくれたのかもしれない。

 

 互いの夢と夢を結び付けるためだけに。

 

 手を取り合って改札を抜ける。

 いつものみたいに。

 

 燐の足は本当に軽やかで、この先の不安なんて微塵も感じていないようだった。

 

 蛍は、またちょっと足が遅れていた。

 

 その事は顔にも口にも出さず、燐の足を引っ張らないよう頑張って足を動かす。

 

 その度にずきずきと右の足首が痛みを訴えかけてきた。

 

(もう完全に治ったとばかり思ってたのに、何で今頃になって)

 

 自分で言ってた通りトレッキングで無茶をしすぎたせいだろう。

 

 そのせいで痛みがぶり返してしまったと考えるのが妥当だとは思う。

 

 けれどその事を燐に告げなかったのには別の理由もあった。

 

 それは──そこまで悪くない痛みだったから。

 

 我慢できるぐらいの甘い痛み──。

 

 少しむずがゆく懐かしい痛みが時折来るぐらいだったから。

 

(きっと大丈夫だよね)

 

 蛍はその事を楽しんでいるかのようで。

 

 その痛みこそがこの世界で生きている証のようでもあった。

 

 ──

 ───

 ────

 

 青と白の駅舎から抜け出したその先、そこには何というか”町”としか形容できない情景が霧のように白く広がっていた。

 

 まるで蜃気楼のように儚げな町の様相に、燐は思わず立ち止まってしまった。

 

 完全に人気(ひとけ)が無いせいからかもしれない。

 静まり返った町並みは、ただ一軒の家があるよりもより怖いものに感じられた。

 

 それと同様に驚いたことは。

 

「あっ、雨だ……」

 

 額に当たったそれを燐は手で掬って確かめた。

 

 ぽつりと小さな雨粒が燐の手や栗色の髪にぽつぽつと落ちてきていた。

 

「本当、雨だね」

 

 蛍も同じように手を差し伸べて確かめる。

 

 確かに雨の当たる感触があった。

 

 水晶のように透明な──雨粒。

 

 現実の世界と同じようにこの世界でも雨が降る。

 

 それは不思議でも何でもみたいに思えた。

 

 空が青いままなことを除けば。

 

「これって、天気雨だね」

 

「うん。綺麗だよね」

 

 二人はしばらくその光景を見て楽しんでいたが、流石に濡れそぼってしまうので、慌てて駅舎の中に頭を引っ込めた。

 

 燐は濡れた手や顔を黒のアンダーシャツの袖の部分で拭った。

 

(なんか……猫みたい)

 

 顔を洗う猫のような仕草をする燐に蛍はくすくすと微笑んだ。

 

「でもさ、雨にしては冷たくなくない? ほらっ」

 

 そう言って燐はまだ雫がついている手を振るった。

 その内の一つが蛍の頬に向けて飛んで行った。

 

 蛍はきゃっ、と小さく跳ねたが、燐の言うように確かに冷たさは感じなかった。

 

「あ、ごめん」

 

 燐は蛍に駆け寄ると、もう片方の袖で蛍の顔を拭った。

 

「タオルもハンカチもないから汚くてゴメンね」

 

 燐はちょっと言い訳じみた言葉を並べて再度謝った。

 

「ん、気にしなくていいよ、だって燐のだし」

 

「そう?」

 

 怒ってるかもと思った燐は蛍の意外な言葉にきょとんとして首を傾げた。

 

「あ、そういえばあの水溜まりの中で沈んでた時もそうだったよね。別に冷たくもなかったし息苦しさも感じなかった」

 

「この世界はそういうもので出来ているのかもしれないね。見た目は同じなんだけど大事なところが抜けてるっていうか」

 

「成分とかそういうところ?」

 

「うん。見た目は普通なんだけどね。それ以外は普通じゃないっていうか」

 

 言われてみれば、あの列車やホームもどこか違っていた。

 

 見た目以外は普通じゃないと言うか、この世界では別の常識があるんだろうけど。

 

(手や身体は濡れるんだ……水溜まりの中では濡れなかった気がしたけど)

 

 冷たくないとはいえ、雨でびしょびしょになってしまうのはやはり嫌な感じはした。

 

 むしろ不快感はこちらの方が強いまである。

 湿度とかそういう概念はないにしても。

 

 そこまで土砂降りでもないから、短時間なら外に出ても問題はないとは思うが。

 

 蛍が外からの景色を眺めていると視界の隅に何か赤いものが目に入った。

 

(なんだろ?)

 

 きょろきょろ見回してみる。

 

 そこには、元は銀色に輝いていたのだろう。

 黒ずんだ色の傘立てがあり、そこに一本の赤い傘が立てかけてあった。

 

 誰かの忘れ物……というには流石に不自然な気がする。

 

 けれども蛍は何の気なしにそれを手に取ってしまっていた。

 

 ──紅い色(アカイイロ)の和傘。

 

 青と白い世界によく映える、差し色のような紅い傘。

 

 二人にはちょっと大き目の、けれどそこまで重くはない傘だった。

 

「ねぇ、燐。ここに傘が置いてあったよ」

 

 蛍は早速、燐にそれを見せた。

 それを一目見た燐は目を大きくした。

 

「蛍ちゃんっ。それ、どこにあったの?」

 

 びっくりしたような燐の声色に、蛍は焦って傘立ての方を指さした。

 

「え、えっと、そこに立てかけてあったの。燐は、この傘に何か見覚えでもあるの?」

 

「見覚えと言うか……」

 

 蛍からその傘を受け取ると、ちょっと離れたところで燐はぱっと傘を開いて見せた。

 

 鮮やかな紅色の花が広がって、殺風景な駅舎の中に彩りを与える。

 

 それは艶やかさというより、安心というか落ち着いた色合いを醸し出していた。

 

 内側も紅く、シンプルな紅い蛇の目傘。

 

 ただ、中央の轆轤(ろくろ)と言われている部分に飾り糸が施してあり、そこには色とりどりの絹糸がかがられてあった。

 

 それはオオモト様が手にしていた毬を彷彿とさせる様な幾何学模様であり、その色彩であったから。

 

 燐が特に何も言わなくともそれがどういうものなのか、何となくだけど蛍にも理解することは出来た。

 

 燐はしばらく傘を見つめたまま、うーんと考え込んでいたが。

 

「じゃあ傘も手に入ったことだし、行こっか、蛍ちゃん」

 

 そう言って燐が傘を手にしたまま、手を差し伸べてくる。

 

「う、うん」

 

 蛍は少し戸惑ったが、ややあって燐に手を差し出した。

 蛍が頷いたことを確認すると、燐は手を引いて傘の中に蛍を引き入れる。

 

 少女達は一本の傘の中で肩を寄せ合いながら、廃墟のように沈んだ町並みを探索することにした。

 

 ここに行く理由もなかったが、戻るだけの理由もまた無かった。

 

 ぱしゃ、ぱしゃ、と。

 

 青空と雨が交差する中をそぞろ歩くふたり。

 

 どこから雨が降っているのかは分からない。

 けれども、不快にならない程度の薄い水溜まりが白い大地に透明の染みを作っていた。

 

 下は多分、コンクリートで間違いないだろう。

 それは踏みしめる感触もそうだが、周りの風景、雨煙る街並みがそうさせていた。

 

 更にそれには確かとも言える覚えが周囲の建物にあったからだった。

 

「ねぇ、燐、もう気付いてるよね……この”街”のこと」

 

 蛍にはどうしてもそれが分かってしまう。

 生まれた頃から住んでいたから仕方のないことなのだけれど。

 

 それでもそう燐に聞くしかなかった。

 にわかには信じがたいことだったから。

 

「まあ、わたしも引っ越してきちゃったからね”この町”に。まあ、そうでなくても流石に分かっちゃうのかもね」

 

 燐は蛍の方は向かずに視線をあちこちに彷徨わせながら答えた。

 

 向こうにある商店のような廃墟の建物。

 

 ひび割れて寸断された道路や標識。

 

 ぼろぼろに錆びて、どう見ても使い物にならないガードレール等々……。

 

 田舎町では多分よくある風景なんだろうけど、町の至る所がボロボロになっているのは流石におかしいことだった。

 

 まるで嵐が起こった後、みたいに。 

 

 そしてそれはあの、駅前の特徴的なものにも表れていた。

 

「蛍ちゃん。あれって……どう見てもあの、駅前の時計だよね。なんか壊れてるみたいだけど」

 

 傘越しに燐が目で訴えたものとは、駅前の、ロータリーにあるちょっと変わった柱の時計のことだった。

 

 前に蛍から聞いたところによると、このちょっと変わった形の時計は、”この駅”が出来た当時からある、割と歴史のあるものらしかったから。

 

 だからここが何処なのかすぐにでも分かってしまう。

 引っ越してきて日の浅い燐でもだ。

 

 けれどその鉄製の柱は酷く折れ曲がっており、文字盤のガラスも粉々に割れていた。

 

 それは文字通り、時を止めたままのように。

 

 まるでもう幾千も月日が経っているかのように殆ど原型を留めていない。

 

 唯一残っていた時計の針は9の数字で止まっている。

 しかしそんな事に何の意味もなかった。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。もしかしてなんだけど」

 

 燐は蛍の瞳をまっすぐに見つめる。

 

 赤い傘の中で見る燐の顔は色彩のせいだろうか、なんだかいつもよりも綺麗に見えた。

 

 もともと赤い傘にはそう言った、女性が綺麗に見える要素があるらしいのだが。

 

 この状況がそうさせるのだろうか。

 今の燐は特別きらきらと光ってみえた。

 

 蛍が黙ったままこちらを見つめているだけだったので、燐は困ったように微笑んで話を続けた。

 

「やっぱりここって”小平口町”だよねぇ。こっちが本物の方なのかな」

 

 アスファルトには亀裂が入り、水が逆流して噴き出しているとこもあるけど。

 

 今、二人がいるところは小平口駅前のロータリーで間違いなかった。

 

 めちゃくちゃに壊れてしまったあの柱時計もあるし、やはり壊れている電話ボックスも辛うじてその原型を留めていたから。

 

 ロータリーを囲むようにして並んでいる駅前の商店街は、その殆どが瓦礫と化していた。

 

 住人は、恐らくいないだろう。

 居ないからこそこの世界にあるとも言えた。

 

 もう既に、しんでしまった町だからこそ。

 

 そんなもう人の住まない町並みを、燐はちょっと哀れんで眺めていた。

 

 何となくだが、このしんだように静まり返った町に共感するところがあったからだ。

 

 けれど蛍はそうは思わなかった。

 

「それはまだ、分からないかもよ」

 

「それってどういう事なの? 蛍ちゃん」

 

 意味ありげな事を呟く蛍に燐は身を乗り出して聞き返さずにはいられなかった。

 

 だってこれはあのDJの言った通りの”歪みの後の結末”そのものだったから。

 

 ”ダムが決壊して、全てが洗い流されてしまった町”としての。

 

 何も知らない人だってこれを見たらそう納得するしかないと思う。

 

 それほどに町は崩壊していて、辺り一面の家や建物だけでなく、ここから見える木々や畑も殆ど壊滅状態だったから。

 

 だから多分こっちが本当の姿。

 小平口町がこうなるだけの状況も一応あったわけだし。

 

 ただ、町が完全にダム湖に沈んでいないののだけにはちょっと違和感が残るが。

 

 それだって些末な問題なんだろう。

 

 この町は完全にしんでしまった。

 何の形跡も残さずに。

 

 だから蛍の言っていることの意味が燐には理解できなかった。

 同情か慰めだったとしても。

 

「だってほら、燐。あそこの看板を見て」

 

 蛍が指をさした先には何かの商店が軒を連ねていたのだろう、自動ドアがめちゃめちゃに割れている、ほぼ全壊となった店舗のような建物の残骸が転がっていた。

 

 恐らくその店のものだろう、壊れかけた看板が斜めにボロボロの状態で横たわっている。

 

 ひび割れた看板からかろうじて読み取れた文字は。

 

「”HardBank(ハードバンク)”!!??」

 

 燐はその社名を知っていた。

 それは使っている携帯がこのキャリアのものだったから。

 

 けれど驚いたのはそこではない。

 さっきから燐が口を開けて膠着しているのには別の理由があった。

 

「全部……文字がさかさまになってる……」

 

「うん」

 

 震える燐の言葉に蛍はそっと頷いた。

 

「でもそれって、ここだけじゃないの!?」

 

 看板を後ろからみたら逆になっていることなんて結構よくある事だし。

 

「どうも違うみたいだよ」

 

 ほら、と蛍は町の至る所に指をさした。

 

 駅前のお土産屋さんで売られていたぼろぼろの饅頭のお品書きや、同じく駅前にある崩れた交番の表示、折れ曲がったバス停の時刻表など。

 

 それらの全ての文字が何かのトリックのように反転して燐の目に写し出されていた。

 

 極め付きは道路表示で、これもさかさまになっているのは同じだが、書いてある文字の方向から、右側通行の道路になっているようだった。

 

 つまりは。

 

「この町の全てがさかさまになっている。そういうことだよね」

 

「それって……」

 

 ここがおかしな世界だということはもう十分わかっていたけれど、その中でもとびきりおかしなことだったから。

 

 燐は言葉の途中で思考が停止してしまっていた。

 

「まだよく分からないけど、虚構(フェイク)って言いたいのかな……」

 

「虚構……?」

 

 言っていることを頭で整理するように燐も同じことを口にした。

 

 確かに嘘の世界だと思う、でもある意味では真実なのかもと思っている。

 

(もしあのラジオからのニュースが本物だったら?)

 

 それを確かめる術はあの時の燐にはなかったが、蛍ならどうだっただろう。

 逡巡した燐は思わず蛍の目をじっと見つめていた。

 

 燐の考えを察した蛍はもっと困った顔になって苦笑した。

 

「わたしでも分からないよ燐。でもね、一つだけ分かってることはあるの」

 

「それは?」

 

()()()、小平口町によく似てるけど、さっきから電柱が一本もないんだよね。もしほんものの小平口町だったら、それっておかしい事でしょ」

 

「あ……」

 

 確かに蛍の言うように商店や家屋は壊れたまま残されているのに一本も電柱が立ってはいないのはよく考えてみればおかしいことだった。

 

 確か、小平口駅前はまだ無電柱化していなかったとは思う。

 山間の田舎町だし。

 

 色々とおかしな町なことは分かったけど、だったら何でこんな町がこんな所に出来ているのか。

 

 その存在理由が知りたかった。

 

「なんか、鏡の世界にいるみたいだね。あのアリスの世界みたい」

 

「燐もそう思った? わたしもだよ」

 

 不思議の国から戻ってきた少女が、今度は鏡の国へと行くお話。

 何もかもがあべこべの世界で、でもそこが面白くてついつい何度も読み返してしまう。

 

 今だって世界中にファンの多い作品だし。

 年頃の少女ならほとんどの子が読んでいてもおかしくはないほどの知名度を誇っていた。

 

「でももし、ここが鏡の中の世界だったとしたら、こっちが裏なのかな? それとも表??」

 

 あの異変の時はこの世界──つまり、小平口町周辺が圧縮して世界の仕組みが変わるとオオモト様は言っていたけど。

 

 これがそう、何だろうか。

 

 だとしたらあまりにも物語的というが、寓話(アイロニー)を煮詰めた結果というか。

 

 オオモト様が言っていた変化のかたちの一つなのか。

 複数ある選択肢の一つがこの壊れた町の姿だとしたら。

 

(そういえば電柱がないのってもしかしてわたしたちが通りやすくするための処置? あの時の緑のトンネルの時みたいに)

 

 未だに卵の殻に閉じ込まれたままか。

 

 それとも、今までとは違うかたちの卵の殻の中に閉じ込まれているのか。

 

 燐にはああ言ったが、蛍も内心では頭がどうにかなりそうであった。

 

「じゃあ、もしかしたらこの世界にも”別の鏡”があるんじゃない? そこを抜ければ元の世界に戻れるのかも」

 

 妙案とばかりに燐はパン、と手を叩く。

 急な音にびっくりした蛍だったが。

 

「でもそれって安直すぎない? 思いっきりマンガ的っていうか。それこそ童話そのものだよ」

 

「まあ、それは分かってるんだけどね」

 

 鏡の世界から戻るには元から入った鏡か、別の鏡から戻る。

 話の結末のよくある手法だった。

 

「でも、どうなんだろうね。とりあえず探してみようか、他にやることがあるわけでもないし」

 

 ”青いドアの家”もそうだが、この世界で明確な目的というものを見つけたことがない。

 

 水溜まりの中を歩いたときだって、特に何も見出すことは無かった。

 

 ただ、ひどく疲れただけで。

 

 だから燐と一緒に何かを探すことはいいことだと思った。

 

 それが、本当にあるものじゃなかったとしても。

 

 燐と一緒の口実があればそれだけで。

 

 ……

 ……

 ……

 

 二人はぱしゃぱしゃと水を跳ねながら、当てもなく崩れた町並みを探し回った。

 

 全てが反転しているとはいえ、小平口町に変わりはないのだからそこまで迷うことはないけど。

 

 それでも手掛かりが全くないわけだから骨の折れることには変わりはない。

 

「はぁ……」

 

 蛍の足元は相変わらずローファーで、こうした雨道を歩くには適していない。

 

 そんなのはもう去年の時点で分かっていた。

 あの三日間はローファーで歩き通しだったんだし。

 

 せめて長靴とは言わなくとも、燐のようなトレッキングシューズでもあれば十分マシなんだろうけど。

 

 蛍の考えを嘲笑うかのように、廃墟の中からは目ぼしい日用品などは見つからなかった。

 

 流されたのはヒトもモノも一緒と言うことなのか。

 

(もうローファーなんて最近履いていないのに)

 

 蛍は自身の足元を忌まわしく見つめた。

 

 今では燐の影響か、蛍もトレッキングシューズを主に履くようになっている。

 

 やっぱり動きやすいし、靴ヒモも今では上手く結べるようになっていたから。

 

 それなのになぜ、今またこの学校指定のローファーなのか。

 

「はぁぁ」

 

 蛍はまたため息をついた。

 

 二人とも制服姿な事といい。

 まだあの時の異変に囚われたままなんだろうか、自分たちは。

 

 まるで、二度と抜け出せない迷宮に迷い込んだみたいに。

 

 ──雨がしとしとと降り続いている。

 

 上が青空だからまだいいけど、これが曇りか夜だったらきっと最悪な状況だっただろう。

 

 街灯も何も点かないわけだし。

 

 もっとも夜どころか、雲がどんよりとすることのない世界だからそれはないんだろうけど。

 

「あれ、なんか、行き止まりみたいだね」

 

 雨の音に混じって燐の声が聞こえたので、蛍は顔を上げた。

 隣で燐が口をぽかんと開けて立ちくしていた。

 

 見ると大通りの先の道が崩れた家屋で塞がれていた。

 

 それはとても回り道など出来るものではなく、民家と思わしき瓦礫の山が何層にも積み重なっていた。

 

 それらは今にも崩れ出しそうなほど不安定で、こんなちょっとした雨でも崩れてきそうなど脆く見えた。

 

「燐、こっち」

 

 危険を察知した蛍は咄嗟に燐の腕を引いて横道へと逸らせた。

 

 それは燐の家や風車がある方とは反対方向の山の方へ続く道。

 

 けれども今は全てが逆になっているから、それすらも真逆の方向だった。

 

「こっちって確か、蛍ちゃんちの方向、だよね」

 

 上り坂までは流石に変わっていないから多分、蛍の家である三間坂家のある方向だろう。

 

「……うん」

 

 蛍はある意味で強い核心を持った返事を燐に返した。

 その瞬間、二人の背後でガラガラと大きな音が響き渡る。

 

 慌てて振り向くとそこでは先ほどの密集した瓦礫が崩れていて、さっきまで二人が立っていた場所にまで降り注いでいた。

 

 燐と蛍は顔を見合わせると、ほぼ同時に深いため息を吐いた。

 

「こっちに行けって、ことなんだろうね」

 

 こちらの道はそれほど被害がないのか、そこまで道も崩れてもなく、瓦礫となった家屋も少なかった。

 

 まるでこっちの道こそが正解だと思わせるように道を塞ぐ障害物のようなものは見当たらない。

 

 水捌けも悪くなく、とても歩きやすかった。

 

 殆ど普通の田舎の住宅地と言ってもおかしくはない。

 

 けれど、ある程度道を登っていくと次第におかしい所に気付く。

 

 やはり人気がない。

 田舎だとしてもその生活感すらも皆無なのはやはり異常だった。

 

 周りの住宅は最初から無人であったかのように、生活音も明かりもなくひっそりとしている。

 

 あの世話役から町長にもなった大川の家の前を通った時も同じだった。

 

 無意味に盆栽だけが外の庭の花壇に並べて置いてあり、それを見た燐はあの夜の事を思い出して、ひっと声を漏らした。

 

「あれ……じゃない? もしかしてあれが見えていたのかな。あんなのこんな場所になかったよね確か」

 

「え……」

 

 振り仰いだ燐の視線が捉えるその先。

 蛍もその方向を目で追った。

 

 雲みたいな雨煙で遮られた視界の先。

 

 本来ならばここからだと燐と蛍が登ったばかりのあの山が良く見えて、それを背景に蛍の家が浮かび上がって見えるはずなのだが。

 

「あれって……なんなの」

 

 蛍は自分で見たものが信じられず、何度も目を擦った。

 

「お城か塔かと思ったんだけど……」

 

 燐も目を瞬かせる。

 それぐらい信じられない光景だった。

 

 そこにはあるはずの三間坂の家はなく、代わりに別の建造物──燐の言うような塔のような建物がそびえ立っていた。

 

 かなりの高さがあることは確かなようで、あの山の上の風車よりも巨大に見える。

 

 燐と蛍もその高さに圧倒されたのか、しばらく声も出さずに眺めていた。

 

 けど、衝撃的なのはその高さだけではなく、その塔の元、構成しているものにもあった。

 

「あれって! 全部、家で出来てる!?」

 

 燐の目にはそう映った。

 

 辺りが雨と霧状のものに覆われていて全貌はまだ掴めないが。

 てっぺんのほうに見えるのは家の屋根のそれであったから。

 

(あれ? なんか見覚え、ある??)

 

 蛍も概ね燐と同じ感想だったが、家を積み重ねて出来たような塔の一部に何か良く知っているものがある、そんな気がしていた。

 

 誰かの家と言うよりも、その色や形に見覚えがあると言う方が正しい。

 

 少なくとも燐の家ではない。

 だとしたら。

 

(何でだろう。これを見てると何かムズムズする)

 

 燐は今の感情が上手く言葉に表せなかったので、胸中でそう言葉を作ったのだが、蛍はまだ呆然とそれを見ながらなにやら考え込んでいるようだった。

 

 まるでパズルや謎解きをしているような難解な顔をしながら。

 

 そうして逡巡していた蛍だったが、何か思い立ったようにあっ、と声を漏らすと、眉をひそめてつぶやいた。

 

「燐、行こう」

 

「え……」

 

 困惑の顔で燐は蛍の方を向いた。

 

 けれど蛍は燐の方に目を向けずに塔を見つめながら話をつづけた。

 

「どうせここに行くしかないと思う。理由はよくわからないけど多分燐の言う、その”鏡”があるんじゃないかなって……」

 

「蛍ちゃん……」

 

 燐はもう一度その塔の様な、空までそびえる建物をみた。

 

 確かにこんな仰々しいものが建っている理由があるとするならば恐らくそういうことなんだろう。

 

 けれど、それだけの理由でこんなものをわざわざ建てるんだろうか。

 

 自然に出来たような感じは全くしないし。

 

 まだ何かが足りない。

 燐はそんな気がしていた。

 

「もし燐が嫌なら、わたし一人でも行くんだけど」

 

 蛍が真面目な顔でそう言ったので、燐は焦燥感に駆れた。

 

「蛍ちゃんが行くならわたしも行くよ。蛍ちゃんをひとりで行かせるわけなんてこと絶対にないからっ」

 

 蛍は口元に指をあてて、くすっと笑った。

 

「でも、燐はひとりで行っちゃったよねぇ」

 

 不意打ちとも言える蛍の言葉に燐はずきっと胸の痛む思いがした。

 

「あれは……本当にごめん……わたしやっぱり勝手だったよね。蛍ちゃんを置いていくだなんて」

 

 蛍が気にしているのは仕方ないことだと思う。

 

 あれは期待を裏切るとかそういうのではなく、拒絶ともとれる行為を燐は蛍にしてしまったのだから。

 

 許されるとは思っていない。

 でもどうやって蛍に償ったらいいのか。

 

「もういいの。だって今は燐と一緒なんだし。それに──」

 

 目を細めた蛍が見つめる。

 燐も正面から蛍を見つめた。

 

「この先も燐とはずっと一緒なんだから」

 

 ──

 ──

 ──

 

「ふぇ~、近くで見るとホント凄いことになってるねぇ。なんだか今にも崩れ落ちてきそうだよぉ」

 

「ほんとにね、一体誰がこんなものを作ったんだろうね」

 

 少女たちは驚きと関心の面持ちでその塔を下から眺めていた。

 

 現実とは違う世界で、蛍と燐はさまざまなものを見てきたが、ここまで現実から剥離したものを見るのは初めてのことだった。

 

 これまではちょっと変わっていたけど常識の範疇からちょっと抜けだすぐらいのものだったのに、これはその枠どころか完全に二人の想定外のものだった。

 

 家が積み重なって出来た塔は誰が作ったにせよあまり趣味の良いものではなく。

 悪趣味で残酷なオブジェは異世界の監獄のようなものに見えた。

 

 どちらにせよ青と白で統一されたこの世界には相応しくはないものだった。

 

 その色も形も歪でねじ曲がっている。

 

(なんだか、失敗したチュロスみたい……)

 

 場にそぐわない、あまりにも暢気な考えを燐はつい浮かべてしまった。

 

 それにしたって、パン作りで余った材料でたまに燐がチュロス等のドーナツを作ったりすることもあるのだが、それだってここまで酷い出来になったことはない。

 

 それこそあの巨人の様な”何か”が遊びで作ったとしか思えない。

 

 積み木がわりに家を積み重ねて。

 悪趣味で歪んだ塔を。

 

 もしここに鏡のような”窓”があるにしても。

 その目的も意味すらも。

 

 何一つ理解できそうになかった。

 

 あまりにも非現実、不条理さが大きすぎて。

 

「もしかして、あそこから中に入れる、のかな……」

 

 燐が指さした場所には玄関らしきものがついてあった。

 

 けれど家自体が横倒しになっており、窓も玄関も横向きになっていた。

 引き戸のようだから開ける事自体は出来そうだが。

 

(あの家の玄関って、まさかだよね……)

 

 よく見るとその家の玄関のドアは既に壊れているようだった。

 外側から破壊されたような、そんな形跡がある。

 

 周りが廃墟のような建物しかないからそんなには気にならないけど。

 

(やっぱり、これ以上近寄るのは危ないよね。さっきみたいにいつ崩れるともわからないし)

 

 それにさっきから雨に混じってぱらぱらと家の破片のようなものが上から落ちてきていた。

 

 こうなると、入るどころかこの場にいることすら危うい。

 

(けど、蛍ちゃんは行きたがってみたいだし……うーん、どうしよう?)

 

 戻るべきかそれとも……?

 燐がそう手をこまねいていると。

 

「って! 蛍ちゃん!?」

 

 蛍が小雨降る中一人ですたすたとその玄関に向かって歩いて行ってしまった。

 

 燐は慌てて駆け寄ると、蛍の頭に傘を差しだして尋ねる。

 

「危なくない? やっぱりやめようよ」

 

 燐がそう声を掛けるも蛍は聞く耳持たないみたいに玄関へと近づく。

 

「大丈夫、だって知ってるから」

 

 蛍は小さく口を開くと玄関のドアを上へずらすと言うよりも隙間に体を通して無理やりに入るつもりのようだった。

 

「蛍ちゃん、待ってっ」

 

 燐の制止も聞かずにこの奇妙な塔の中に入る蛍に違和感を覚えずにはいられなかった。

 

 けれども腕ずくで止めるようなことはせず、燐も蛍の後を追ってのそのそと中へと入り込んだ。

 

 ……予想通り、中は真っ暗だったが。

 

「スイッチは……あ、電気が通ってるわけないよね」

 

 蛍は自問自答すると、真っ暗な玄関の棚を開けて何かを探し始めた。

 

 蛍のそれは家の構造を良く知っている動きであったが、燐はその事にまだ気づかずにいた。

 

 それどころか。

 

「うわぁ、凄いことになっちゃってるよ。本当に大丈夫かなぁ……」

 

 と、ひとり戦々恐々としていた。

 

「あ、燐、懐中電灯あったよ。やっぱり玄関にあったみたい」

 

 蛍は喜んで燐に見せるも暗くて良く分からない。

 

 蛍は懐中電灯のスイッチを入れた。

 

 カチッ、と小さい音がして真っ暗な玄関にLEDの黄色い明かりが灯る。

 

 蛍が手にしているそれは懐中電灯というよりも手に持つランタンのようだった。

 

 恐らくは緊急用のだと思う。

 

 こんな直ぐの場所にあったのに、あの時気付かなかった自分が情けなく思った。

 

「燐。大丈夫?」

 

 蛍はランタンの明かりを燐に向ける。

 

 燐は何やら喋ろうとしているのか、意味もなく傘をぶんぶん振って気持ちを落ち着かせた。

 

「もしかしてここって蛍ちゃんちなのぉ!?」

 

「え、うん。そうだよ」

 

 勢い込んで喋る燐に蛍は落ち着いた口調で答える。

 

 その声だけで家がどうにかなりそうだったので、燐はなるべく声を潜めて蛍に問いかけた。

 

「だって、蛍ちゃんの家、縦になっちゃってるよ。こんなのおかしいよ」

 

「うん。確かにね」

 

「それに家の中はめちゃめちゃみたいだし……どうしてこうなったのかな?」

 

「それは燐も知ってるじゃない? わたしの家がこうなったことを」

 

「え……それってまさか……」

 

 確かに燐には覚えがあった。

 

 終わらない夜の時、蛍の家に逃げ込んだ際、あの何かが数体やってきたのだ。

 

 二人は隠れていたから無事だったんだけど、玄関は壊され、家のなかはめちゃめちゃに荒らされていたんだった。

 

「じゃ、じゃあやっぱりこっちの方が本当ってこと!?」

 

「しぃー」

 

 たまらず燐が声を上げたので、蛍はその唇を指で押さえた。

 

「それを今から探してみるんでしょ、燐」

 

「探すって……どこに」

 

 もしこの塔のような建物が蛍の家だけで構成されているのなら、それは確かに高い建物になるだろう。

 

 それぐらい部屋数は多く、広さも旅館並みにあるのだから。

 

「多分、一番上の部屋」

 

 蛍はランタンの光を天井に向ける。

 

 そこには……どうやって作ったのだろう。

 

 捻じれた螺旋階段のようなものが遥か上の天井までつながっているようだった。

 

「こんなのっ、登れるわけない……」

 

 体力がないという意味ではなく、構造的にありえないことだから。

 それも木造で出来ているようだったし。

 

 降りることなんて考えていない作りだったから。

 

 見上げた燐は絶句した。

 

「燐がいればきっと大丈夫だよ」

 

「ど、どうして……?」

 

「多分ここが、迷い家(マヨヒガ)だと思うから」

 

「マヨヒガって……それって蛍ちゃんちの近くにある古い旅館のことじゃなかったっけ?」

 

「あれは多分、後から作られたものだと思う。きっとこれが最初なんだ」

 

 そのマヨヒガが呼ばれていた古びた旅館は最近、全面改装して、主に観光客用の旅館として生まれ変わっていた。

 

 名前も、”眠りの家(ネムノキ)”と変えて。 

 

「最初って、蛍ちゃんちってちょっと大きいけど確か普通の家じゃなかった?」

 

 ”普通の家”にしては大きすぎる蛍の家だが、この普通は建築上の意味合いでのことを指していた。

 

「多分だけど、座敷童を囲っておくために三間坂家は高い家を作ったんじゃないかな。座敷童が逃げたり、奪われたりしないように」

 

「じゃあ、崖みたいなところに家が建っているのもそういうことなんだ」

 

「きっとね」

 

 辻褄はあっている……のかは分からないが、何となくだが蛍の言いたいことは大体呑み込めた。

 

 もしかしたら、あの転車台の時のように切り替えるなにかが、この塔の一番上にあるのかもしれない。

 

 根拠はなくともそれしか道はなさそうだった。

 

「燐、行けそう?」

 

「え、う、うん。正直すっごく怖いけどね」

 

「それはわたしもだよ」

 

 そう言って蛍が手を握ってくる。

 蛍の手が小刻みに震えていることはすぐに分かった。

 

 燐もぎゅっと手を握り返す。

 

 怖いのは同じだと思ったから。

 

(それにしたって何だってこんなところに階段なんてつくったのっ)

 

 つい心の中で悪態をついてしまう。

 

 それでも行くしかないんだきっと。

 

「蛍ちゃん行こ。わたしが絶対に蛍ちゃんのこと上まで連れて行くからっ」

 

「うん。どこまでもふたり一緒に行こうね」

 

 本当に不条理で意味のない建物。

 

 でもこの上にきっと何かがあるんだと思う。

 それは本当に鏡か、それともやっぱり何もないのか。

 

 どっちにしろ確かめる必要はあった。

 

 燐と蛍は手を取り合って蛍の家の階段へと足を進める。

 

 先行する燐がランタンを手にする。

 蛍は紅い傘を片手に持っていた。

 

 そこは本来なら家の二階へと続く階段なのだけれど、家自体が横に傾いているから、その階段も黒い蛇のとぐろのようにうねっていた。

 

 人工的にしてはあまりにも歪な階段の有り様に、燐は思わず喉をならした。

 

 蛍も自宅の異様な光景を呆然と眺めていた。

 

「じゃあ……行くよ」

 

「……うん、燐。気を付けてね」

 

 蛍の返事を合図にして、燐は慎重に右足を階段へと乗せた。

 

 ぎぃっ、と板が軋む音がして、燐は手の甲で額を拭った。

 

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 






先日、横田基地の周辺まで行ってきましたー。いやぁ、中には入らなかったのですけどねぇ。特に行く予定もなかったし、その日は朝から雨が降ってたましたからね。でも、人手は多いだろうなーって思ってました。

っていうか、本当に人多かったしー。結構、朝早くに行ってみたんですけど、入場待ちでしょうか本当にヤバいぐらいに人が歩道に溢れていましたねー、ですが、感心してしまったのは皆さんちゃんと順路を守って歩道を歩いていたことですねー。最寄りの駅からかなり遠回りさせられて入場させてたみたいですけど、歩道の片側だけ使って左側通行をさせてたのは流石だなーって思いました。
まあ、周辺はかなり物々しい雰囲気でしたし、途中まで来て車で下ろしてもらうなんてとてもできない感じでしたしねー。車いすの方も普通に列に並んでましたし、規制というか統率はばっちり取れてる感じでした。
にしても無料だったとはいえあそこまで人が来るとはー、日曜はもっと来てみたいですねー、ジョー・バイデンの訪日もありましたし。

そういえば本当に半年近くやってしまったトゥームレイダーシリーズ、一応クリアしましたー。
ですが衝撃の事実が……どうやら間違って最新作からやってしまい最後に終わったのが最も古いやつだったという──。どうりでストーリーが良く分からないと思ったわぁ。クリアして次のやるたびにボリュームが減ってるなーとか、操作がシンプルだなーとか思ったら、全部逆に進めてしまったせいだったとは──! でも結構楽しめましたねー。まさか日本の卑弥呼やロシアが舞台になるのはーー。個人的に色々とタイムリーで楽しかったです。

次はボーダーランズ3……は、取り逃したので、Kohada先生もインスピレーションを受けたっぽいBioShockシリーズ3作品──! ってまたやる順番を間違えそうだったのでプレイ前に調べてみますともぉ……ふむふむ、1→2→Infiniteの順でやればいいっぽいですね。危うくInfiniteからやってしまうところでした……ナンバリングタイトルはリマスター版みたいでしたし、Infiniteのリリース年は3つの中で一番古かったんですけどねー。

さてさて今回もまったり半年攻略かなーーー。


ではではー。



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Teardrop


 ねぇ──燐は何が好き?

「蛍ちゃん? 何か言った?」

 妙な顔をして燐は振り返った。

 ただでさえ今はとても奇妙な家の”螺旋階段”を登っているのに、急に変なことを耳元で囁かれたら。

 燐の表情がそうなってしまうのも仕方がなかった。

「って、あれ?」

 声がしたからてっきりそばまで来ていると思ったのだが。

 燐は辺りを見渡す。
 すぐ傍に居ないのだとするならばどこに行ってしまったのか。

「あ……」

 別に探す必要などなく、肩で息をしながら燐の居る場所より下の階段で立ち止まっている蛍の姿をすぐに見つけることができた。

 拾い物の赤い傘で身体を支えながら、腰を曲げて苦しそうに喘いでいるようだった。

(じゃあ、今の声って)

 蛍の声色だと思っていたから燐はすっかり拍子抜けしてしまった。

 幻聴がする……というにはあまりに静かすぎるところだし。
 木の階段を上っている時、ときおりミシミシと小さな音はするけど。 

(それにしても蛍ちゃん大丈夫かな? さっきから頻繁に休んでるみたいだけど。まあ、無理もないけどね)

 燐だってここまで長い階段を上った経験はない。

 昔ある山に聡と一緒に登りに行ったとき、登山口に近い駅まで電車で来たことがあったけど。

 割と有名な駅らしく、その時はちょっとドキドキしながらホームに降り立ったのだが──。

「わぁー」

 なんて、初めてみた光景だったからあの時は思わず声が出てしまった。

 その声が大きく響くほど地下からのトンネルが広がっていて、どこまでも果てがないぐらいに階段が続いていたから。

 ホームから駅舎まで続く長い階段、その列に圧倒されて暫く呆然と見入ったことを今、燐は思いだしていた。

 けど、”ここ”はそこ以上に長い階段なのはもう確実だった。

 その駅の階段は精々500段にも届かないぐらいだったし。

 この螺旋階段には本当に終わりなんてものはないぐらいどこまでも伸びている。

 誇張じゃなく天まで届くのではないかと思うほど続いているように見えたから。

(──でも結構登ってきたんだよね。これでも……)

 本当にそう思ってはいる、だけど。

 いくら登れどゴールというかその”先っぽ”すら見えてこない。

 摩訶不思議な木製の螺旋階段は永遠に続く、無限の回廊みたいに燐には思えた。

 実際、そうかもしれないが。

 あの息のすることの出来た、”ぬるい水溜まり”の時みたいに、どこまで登ってもゴールなんてものなど最初からないのではないだろうか。

 外から見た時は歪とは言え、最上階のようなものを見た気がしたけど。

 それも今となってはマボロシだった?

 燐だけでなく、蛍も見たから多分、間違いはないと思うけれど。

 それともマンガみたいに階段を上ったと思ったら実は降りている……なんて、そんな現実離れな出来事あるはずはない。

 だけど……。

(この世界ならあり得るのかな……だって、きっと夢、なんだろうし)

 現実とは違うから夢。

 だとしたら、()()()()()()ということなのか。
 
 本当の迷い家。
 そう、蛍は言っていたけど。

 今はちょっとだけ分かる気がする。

 一度、足を踏み入れたら出られない家の事を迷い家(マヨヒガ)というらしいから。

 そういう伝記めいたことを書いた文献は幾つもあるし。
 実際に自分で調べもした。

 けれどそれは、迷路みたいな構造だから迷うのだろうと思っていたけど、実はこういう一本道なのにどこにも辿り着けない家、もしくは現象のことなのかもしれない。

 どこまで行っても何処にも、誰にも辿り着かない迷い家。
 入り口も出口もなく、ただひたすら彷徨い続ける為だけの家。

 それがマヨヒガの正体なら。

(今のこの状況って結構ヤバイ、のかな)

 迷うのは道筋じゃなくて”ココロ”の方なら、既に片足を突っ込んでいるようなものだと言える。

 ”やっぱり戻った方がいいよ”。

 そんな後ろ向きの気持ちが、さっきから燐の中でぐるぐると渦を巻いてもたげていたから。

 多分、言い出せないとは思うけど。
 
「えっと、蛍ちゃん。息、だいぶ荒くなってきてるよ」

 だから、もう帰ろうよ。
 内からの燐の直感がそう何度も告げていた。
 
「う、うん、でもちょっと休めば平気だから」

 この辺りは蛍も譲らない。

 けれど蓄積された疲労は隠し切れないのか、直ぐに顔を戻して苦しそうに自身のローファーの足先をぼんやり見つめていた。

(こんなので最後までもってくれるの……?)

 想いも、そしてカラダも。

 燐は口から出かかった言葉を呑み込んで、少し明るい口調で話を続けた。

「階段の上り下りってシンプルに疲れるんだよねぇ。部活の基礎トレでもするんだけど、辛くて泣いちゃう子もいるんだよ」

 入部したばかりは大体そうだし、ちょっと体力の足りない子なんかもそうだった。

 燐は、小さい頃から聡と山に行っていたおかげで泣き言なんて一度も言ったことはないが。

「それは、まあそうだよね。シンプルって言うか普通に地味できついし。わたし、山登りよりもこっちの方がきついかもしれない」

 荒れた山道よりも整備された階段のほうが辛いと思うのはきっと自分だけではないと思う。

 前に燐に言われたことじゃないけど、登山と階段の上り下りとはきっと使う筋肉が違うんだ。

 それに景色が殆ど変わらないのもつらい。
 最初の頃はそれこそ、非現実的な光景に二人とも目を奪われていたはずなのに。

 今は景色も階段も単調すぎる。

 自分の家という感じは全然ないから、それが原因ではないと思うけれど。

(でも、燐は余裕なんだよね。燐は普通の女の子だと思ってたんだけど)

 蛍は燐の顔をちらりと見やる。

 やっぱり普通とはちょっと、いや大分違う気がする。
 むしろ普通よりもちょっと上、それ以上なのかもしれない。

(考えてみたら成績も運動神経も燐の方が上なのよね。友達だって一杯いるし、心遣いだって)

 燐はほんとうに何でもできる。
 自分とは違って。

 幼い頃に感じた特別感は、実は普通だと思っている友達の方だった、なんて……。

 蛍は呼吸を整えるのも忘れて燐の顔をじっと見た。

 その視線は羨望というか、ちょっとした嫉妬の色が滲んでいるように見えた。

(んん?? なんだろ……蛍ちゃん熱心にわたしを見て、る?)

 熱心に自分を見つめていることに燐は嫌な気持ちは無いが、不思議そうに首をかしげる。

 怒っているわけではなさそうなのだが。

「えっと……わたしの顔に、何か付いてる?」

 困ったように燐が小さく笑う。

 山の時といい、蛍に無理をさせ過ぎたかもしれない。

 ひとつ気がかりな事があるとすぐに周りが見えなくなるのは自分でもよく分かっているはずなのに。

「あ、ごめん。そういうわけじゃないよ。ただ、燐と比べてわたしって弱いんだなぁってちょっと呆れただけ」

 燐に見透かされたことに蛍は例えようのない羞恥を覚えて、耳まで赤くなった。

「そうかなぁ。蛍ちゃんはいつも頑張ってるって思うよ。わたし蛍ちゃんが弱いだなんて一度も思った事ないし」

 ──弱いのはそう、自分のほうだから。

 とても弱いから逃げ出してしまったんだ。
 友達の前だけじゃなく、現実からも。

(それでも戻ってこれたのは……)

 燐はまっすぐに蛍を見つめた。

 その視線は一度心が壊れたとは思えないほど純真で、きらきらと輝く宝石のように蛍には眩しく見えた。

 とても直視できないほどに。

「わたしも燐のこと弱いなんて思ってないから、繊細な部分は誰にでもあると思うし。まあ、わたしは骨とか関節とか、そういった”動きの部分”が繊細みたいだけど」

 蛍は小さく肩をすくめて微笑むと、可愛らしいピンク色の舌をちょんと出した。

「でも、蛍ちゃん手芸とか結構苦手だよね。靴ひもは最近結べるようになったみたいだけど」

 燐はくすっと笑ってちょっとからかうような言葉を投げる。

「まあ手芸とかその辺は追い追いね。でも普通の人よりもちょっと時間は掛かるけどこれでも出来るまではやるんだよ、わたし」

「それも知ってるよ。頑張り屋さんの蛍ちゃん、わたし好きだから」

 いつも明るく優しい燐。
 いつだってわたしの事を心配してくれている。

 でも。
 
(そんな燐の隣にわたしは立つ資格があるんだろうか……)

 別に比較をしたいわけじゃないけど、普段からふたり一緒にいるから。
 燐がそう言った事を気にしないのは分かってはいるんだけど……。

 ──自分には到底できそうにない事が燐には当たり前に出来る。

 その事実が蛍にとってはこんな階段を登ったりすることよりも、ずっと重く苦しいことだった。

「ごめんね。蛍ちゃんのこと、相当疲れさせちゃったみたいだね。どこか……休めるような部屋でもあればいいんだけど」

 結構長い間この中に居る気がするけど、それらしき部屋を見たことはまだ一度もない。

 ()()蛍の家だから木の階段の周りには同じような木の板、つまり廊下が壁のように縦に伸びていた。

 その中に時折、襖のような白い扉が壁に張り付いてることがあったので、燐はその襖を開こうと何度も試みてはいるのだが……。

(ここも開かないかぁ)

 ついさっきも別の襖に手を掛けてはみたのだが。
 やはり開くことはない。

 ずっとこの繰り返し。

 蛍の家をケーキみたいにナナメに切って、それを段々に積み重ねて出来たようなものだから、それぞれの部屋があってもおかしくはないはずなのに。

(なんで、一個も部屋がないんだろう?)

 襖が部屋に通じていると思っているのだが、燐がどんなに力を込めても簡単に開くはずの襖が、その一枚も開くことがない。

 偽物というか絵に描いた餅、何かとは違うと思う。

 襖が開かないことに、なんらかの意思の様なものが動いている。
 燐はそう睨んでいた。

 例えば、異変の時の蛍の家の玄関や窓の時みたいに。

 恐らくだが、積み重なっている家の一軒一軒が一つの石となって、一本の柱と成り代わってしまったのではないかと。

 何らかの理由で家の内側の次元が歪んでこの塔が出来た。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい推論なのだが、通常なら普通にあり得ないことが、この世界で起こっている。

 それは蛍と燐、ふたりっきりでいる時だけに。

(結局何のためにあるわけ? もしかしてわたしと蛍ちゃんを惑わす為だけのもの……?)

 異常な光景を何度も目の当たりにしていると、その理由を知りたくなる。

 異変の残り香と思っていた非日常が収まるどころかより強く濃さを増していっている。

 それはもう気のせいなんかじゃなく。
 
(紛れもなく、現実で起こっている)

 これは全て夢なんだと自分を誤魔化すにしても流石に限度がある。

 目を開くしかない。

 例え、とても見たくはないものを見ることになったとしても。

 不幸も幸運も。
 それぞれ最大クラスのものはもう既にふたりとも経験済み、なのだから。

「ごめん、燐。やっぱりわたし、足手まといみたいだね」

「そ、そんなこと今は気にしないでいいからっ」

 燐はそう言ったが、どうやら相当焦っているようで、きょろきょろと燐の視線が落ち着かない。

 やはり、足場が不安定すぎる。

 これが山道やもう使われなくなった線路や、水の底だったとしても、地に足がついているなら休むことぐらいはできる。

 けど、ここだとそれすらも難しい。

 ただこうして立ち止まることにすら、どこか恐怖を感じてしまうから。
 常に綱渡りをしているような繊細な気持ちに囚われてしまって、何をしても落ち着かない。

 強引に蛍の手を引いて階段を降りるか、それとも登るか。

 決断をしなければならない。

 けれど、どちらも正解のようで間違っている。

 そんなどっちつかずの状態をこの足場の不安定な階段で決めあぐねていること自体、燐は怖くて仕方がなかった。

 進むことも戻ることにもいちいち二の足を踏んでしまう。
 まだ崖の上の方がマシぐらいに。

(自然なものよりも人工物のほうが怖いなんて……)

 これを人工のものと言っていいのかどうかは定かではない、が。

 階段の下から見える景色には虚ろの穴のような漆黒の闇がぽっかりと口を開けている。

 そのように見えた。

 普通に階段を登ってきたはず。
 それなのに、なぜその階下の情景が暗く見えなくなってしまったのか。

 明かりがないからそうなのだろうと思ってはしまうが。

 それでも、外からこの家を見た時は結構高くみえたけど、実際にはそこまではないはず。

 燐の見立てでは、マンションに相当するとせいぜい7、8階程度だろうか。
 それだと、ふたりで住んでいるタワーマンションよりかは大分低い。

(それなのにどうして?)

 上どころか下の景色すらも見えなくなるなんて。

 蜘蛛の巣の罠にかかったみたいに、もがけばもがくほど抜け出せなくなっていくような。

 それでも登ることを諦めきれないのは一体なんなのか。

 その証拠に結局またふたりして階段を上り始めてしまった。

 もう逃れられない。
 何かを得る、その時までは。

「はぁ、はぁ、それにしてもいつまで登るんだろうね、これ」

 さしもの燐も息が切れるようになってきた。

「んはぁ、はぁ……」

 それより数歩遅れて蛍がついてくる。

 返事の代わりに出るのは吐息が混ざった荒い呼吸だけ。

 足元がぎしぎしと不安定な事もそうだが、いつまで立っても終わらない事にも当然不安を感じてしまう。

 建物には窓一つないから余計にそれが顕著に感じられる。
 外から見た時は窓はあったような気はしていたのだが。

 耳元に雨音が小さく届いているから、()()()切り離されていないみたいだけど。

「燐……もしかしたら、そこのドア、開く、かも……」

 痛々しく聞こえる呼吸を繰り返しながら、薄ぼんやりとした声で蛍はある場所をぎこちない手つきで指さしていた。

 それまで襖ぐらいしか目に付くものがなかった木の壁に、全く普通のドアとドアノブが確かについてあった。

 さっき、燐が見た時にはそこには何もなかったような気はするのだが。
 
 気のせいというより見落としがあったということか。

「蛍ちゃん、アレの事を言ってるの!?」

 こくっと頷く蛍。
 どう考えてもそれしか無いわけだが。

「わかったっ!!」

 燐は一言だけ返事をすると、何の疑問も持たずにそのドアノブを手をかけていた。

 あまりにも迂闊だったか。

 こっちの世界は現実の範疇を超えてはいたが、二人に危害を加えるようなことは一度もなかったから。

 怪異的なものはこれまでなかったから、何の覚悟も躊躇いも持ってはいなかった。

 蛍に言われた、危機管理的なものが足りないとはこういう所だったのかもしれない。

 がちゃり。
 金属音と共にドアが開く。

 燐はドアを開けてから、その事に気付いた。

「──あ」

 中を見た少女は小さな声をあげた。

 ──
 ──
 ──






 

 

 くろ。

 

 暗闇。

 

 真っ黒──。

 

 部屋の中は夜中みたいに真っ暗闇だった。

 

 蛍の言う通りに扉を開けた先で燐が目にしたもの。

 

 それは……黒、ただ一色。

 

 外の光もないから、部屋の底が抜けてなくなってしまっているかと思うほど、漆黒の闇が燐の視界一面を覆っていた。

 

 得体の知れない化け物がぽっかりと口を開けて二人が入ってくるのを待ち構えていたみたいで。

 

 思わず後ずさりしたくなる……が。

 

(もう、逃げるんならとっくに逃げ出してるしっ!)

 

 頭の中の怪物を振り払うように燐は首を左右にぶんぶん振ると、生唾一つ呑み込み、手にしていたランタンの明かりを部屋の中へと向けた。

 

 ぱぁっと、光の花が闇を照らす。

 

 見えればなんてことは無い。

 底なし床も黒い怪物もどこにもなかった。

 

(ほら。やっぱり杞憂だったじゃない)

 

 言い聞かせるように呟くと、燐は一歩踏み込んでぐるりと光を回した。

 

 少しすえた臭いがしたが、六畳程度のこじんまりとだがちゃんとした部屋となっているみたいで、色の褪せた壁が四方に広がっていた。

 

 床はぼろぼろだが一応畳のようで、余程古びたものなのかぶよぶよと波打っていた。

 

 部屋は辛うじて和室の形状を保っていた。

 

「ほんとうに普通の部屋なんだ……」

 

 その当たり前なことに安堵した。

 

 この塔のような奇妙な建物(便宜上は蛍の家だが)は、家屋や部屋を積み重ねて出来た歪な形状になっていたから、てっきりほとんどの部屋が何か歪になっていると思っていたのだが。

 

 この部屋は薄汚れている以外は何の変哲もない普通の部屋に見えた。

 他の部屋に入れないからなんの比較はできないけど。

 

(何かこの部屋、どことなく見覚えがある???)

 

 浮かび上がった疑問に、燐はどうにも判然としなかった。

 

 けれど、とりあえず。

 

「蛍ちゃん! 休めそうな部屋があったよっ!」

 

 燐はぴょこんと首を出して、階下で息を吐いている蛍に手招きした。

 

 少し待ったが、蛍がここまで上がってくるような気配はない。

 

 まだ体力が回復しきってないのかも。

 でも、声ぐらいは出せるはず。

 

「蛍ちゃん!? おーい」

 

 燐がもう一度声をだしてみても蛍からの返事は返ってこない。

 そんなに離れたつもりは無かったはずだけど。

 

 まさかとは思う。

 

 けれどこんな所では何があったっておかしくはない。

 

(むしろ、何もない事のほうが……)

 

 妙な胸騒ぎを覚えて、燐は身を翻して一旦その部屋から飛び出すと。

 

 だんっ、だん!!

 

 足元への不安などすっかり忘れたみたいに、燐は登ってきたばかりの階段を一目散に駆け下りた。

 

 二段、三段と飛ばし飛ばしに降りる燐だったが。

 

「……!」

 

 急にその足にブレーキがかかる。

 

 何てことは無い、蛍はすぐ近くの階段で足を伸ばして座っていた。

 

 蛍は虚空を見つめながら何やら考え込んでいるようだった。

 

 燐はほっと胸を撫で下ろすと、トントンと先ほどとは大分ゆっくりと階段を降りながらもう一回、蛍に声を掛けた。

 

「何か、考えごと?」

 

 ここまで来てようやく耳に届いたのか。

 一点を見つめていた蛍がこちらの方を振り向いた。

 

「あ、燐」

 

 夢から覚めたようなちょっと微睡んだ瞳を向けて微笑む。

 

 燐もにこっと笑みを返した。

 

「ちょっと寝ちゃいそうだったから……」

 

「あぁ、そっか」

 

 そう言って、蛍はもう一度頭上を振り仰ぐ。

 

 とめどなく続く階段の渦は、ずっと見ていられるほど荘厳で、普通の世界ならばちょっとした観光の名所になっていただろう。

 

 普通に人の手で作られたものならば。

 

「あ、明かりも無しに置いてっちゃってごめんね。つい物珍しくなっちゃって」

 

 そう言って、燐は蛍の手をぎゅっと握りながら頭を下げた。

 

 手は少し冷たく感じる。

 そういう意味では蛍が言う様に起きたてなのかもしれない。

 

「じゃあ、部屋はあったってこと?」

 

「そーゆーこと。とりあえず行こ。すぐそこだし、そこならちゃんと休めるはずだよ」

 

 燐は蛍の手を軽く引く。

 まだちょっと動きたくはないのか、蛍は一瞬戸惑う表情をみせる。

 

 何やら言いたそうにもじもじしていた蛍だったが。

 

「……うん」

 

 素直に頷くと、燐の手を借りて静かに立ち上がった。

 

 ……

 ………

 …………

 

「とりあえず登ってみるほかないよね。どの道」

 

「まあ、戻っても仕方ないしね」

 

 薄汚れた押し入れにあった埃まみれの座布団を畳みの上に引いて、二人は仰向けになっていた。

 

 蛍はこの部屋自体に見覚えがないと言った。

 家政婦さんたちが使っていた部屋にちょっと似てたがどこか違う、知らない部屋なんだと。

 

 もっとも、こういう”凡庸な和室”は蛍の家には至る所にあったのだが。

 

 蛍が杖代わりに持ってきていた傘は部屋の片隅で開いておいてあった。

 

 その割には濡れたような染みは一つもない。

 作りたてみたいにすらっとした姿は、持ち主のあの人そのもののようだった。

 

「燐はまだ余裕があるみたいだね」

 

「そう見える?」

 

「うん。わたしとは全然違うよ、燐は」

 

 声をひそめて蛍はくすっと笑った。

 暗がりで顔は良く見えなかったが、その笑顔は少し寂しそうだった。

 

「わたしだって蛍ちゃんと同じ普通の女の子、だよ」

 

 燐はすぐ目の前の蛍の手を優しく握った。

 白くしなやかな感触は確かに燐と違った、蛍だけものだった。

 

「……」

 

 蛍は何も言わず燐の目を見ながら手を握り返した。

 

「……雨、降ってるね」

 

「そうみたいだね」

 

 二人の間に細い雨の音が届く。

 

 ()()()()()()()()なら、雲が呼んでくるものだけど、この世界では何が降らせてくるのだろう。

 

 降っても、止んでも、それすらも意味などない世界で。

 

 だから皆目、見当がつかなかった。

 

「この世界にも雨期みたいなものがあるのかな」

 

「どうなんだろうね。そんなに長居したことないからわからないけど」

 

「そう……だよね」

 

 また沈黙が下りる。

 

 異様な光景の連続に目が鳴らされてしまった後だから、こうした静かな二人だけの時間がとても貴重で、最も尊いもののように思えた。

 

「燐。あの……少し目を閉じててもいい? 瞼がさっきから重くって……」

 

 見られることを恥ずかしがるように、自身の腕で視界を隠す蛍。

 その仕草が少し子供っぽくって、燐は目を細めてくすりと微笑んだ。

 

「いいよ。じゃあ明かり、ちょっと弱くしておくね」

 

 燐は急に蛍の長い髪に触れたい衝動に駆られたが、それは胸の内にしまって、自分で言ったようにLEDの明かりを少し弱めにした。

 

「ありがと燐……あとさ」

 

「大丈夫、わたしもちょっと体を休めておくから」

 

 蛍の可憐な唇に燐は指をちょんと当てた。

 

「そうじゃなくて、もうしばらく、手握っててもらいたいなって……」

 

 蛍は恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。

 燐は自身の思い違いに顔を赤くしながら蛍の手をもう少し強く握った。

 

 折れるほど強くはしないけど、それでもしっかりと、蛍がずっと不安がらないように。

 

 互いの指が折り重なるように固く繋いだ。

 

「ありがと。あのね、燐」

 

「何、蛍ちゃん。」

 

 蛍は真っすぐに燐を見つめ返す。

 

「燐が一緒でよかったな、って」

 

「それはわたしの方だよ。気付いたらまたこっちに来ちゃったけど、それでも蛍ちゃんと一緒だったからほんと良かった」

 

 実家のベッドで横になっていたら、遠くから誰かに呼ばれたような、幻みたいな声が聞こえてきて、無理矢理目覚めてみたら、こっちだった。

 

 しかもいきなり電車に揺られていた。

 だからか、現実なんだと思っていたぐらいだった、ほんの少しの間は。

 

「でも、蛍ちゃんが同じ列車の中にいたから」

 

「燐は最初から乗っていたんだもんね。あの電車に」

 

 結局どういう事になったかと誰かに聞かれても到底説明がつかない。

 

 ここはそういう世界だった。

 

 行きたいときに限って行けなかったり、反対に行きたくないのに行ったりもする。

 

 切符とは列車ではなく、世界の方だったとしたら。

 

 あと何回。

 ここに来ることができるのだろうか。

 

「わたしたちって離れていても一緒なのかな」

 

「それって夢の中でもってこと? それとも現実?」

 

 少しからかうように燐が笑う。

 そんな燐の顔を困った顔で見つめながら蛍も小さく笑った。

 

「……どっちも」

 

 蛍は自分で言って顔を赤くした。

 その意味に気付いたのか燐も頬をほんのり上気させている。

 

 なんだか、告白しあっているみたいで、ふたりとも互いの顔がまともに見れなかった。

 

「と、とりあえず今はキチンと休もう。まだいっぱい階段あるみたいだし」

 

「それを考えただけでゾッとするよ……でも、いざとなったら燐がおぶってくれるんでしょ?」

 

 蛍が手をぎゅっと握ってくる。

 なんだか蛍に懇願されているみたいで、燐はくすっと笑みを返した。

 

「どうかなぁ。わたしだっていつまでも蛍ちゃんに甘い顔してるとも限らないよ。蛍ちゃんは自分で何でもできる子じゃなかったっけ?」

 

「わたし、一言も言った事ないよ。むしろ燐がいないとダメな方だから」

 

「また、そんなこと言ってぇ。そんなんじゃわたし蛍ちゃんから離れられないじゃない」

 

「実はそれが狙いなんだ」

 

 微睡んだ瞳を滲ませながら、蛍は楽しそうにくすくすと笑っていた。

 

「もう、蛍ちゃんはすぐ困らせるようなこと言うんだから」

 

 燐は片手で蛍の前髪を優しくなぞる。

 

 本当に綺麗で艶やかな黒髪だと燐は思った。

 

 オオモト様とは違った髪質の蛍だけの髪。

 それに今触れているのもきっと自分だけ。

 

 蛍の全てを独り占めしているような特別感に自分でもびっくりするほど胸が高鳴った。

 

「燐……」

 

「ん、蛍ちゃん、まだ、寝ないの? あ、分かった、子守歌がないと眠れないんでしょ」

 

 一つ息をついて燐がくすりと笑った。

 

 仕様がないなぁって顔をしているが、その割には燐の表情はとても穏やかだった。

 

 それを見て蛍は。

 

「わたし、燐とずっとこのままでもいいよ。もう、戻れなくても」

 

「蛍ちゃん……うん、わたしも」

 

 嫌な顔一つしないで受け止めてくれる大切な友達。

 

 そんな燐と、今一緒にいる。

 

 特別な事はない、ただちょっと世界の方がおかしいだけで。

 

 それだってほんの些細な問題。

 

 燐が隣にいるだけで、蛍はすっと心が満たされる気になれるから。

 

「えっと……」

 

 蛍が急に口ごもったので燐はますます首をかしげた。

 恥ずかしそうに、握った手を掴み直すように忙しなく何度も指を動かしている。

 

 まるで蛍の心情を赤裸々に表しているみたいに。

 

「ごめんね、燐。変な事言っちゃって。わたし、焦ってるんだと思う。何かの可能性っていうかこの家の中にヒントみたいなのがあるのかもって思っちゃったの」

 

「それは……そうだね。確かにここの所、変わったことばかりおきてるしね。おかげで退屈はしないかもだけど」

 

「確かに、ね」

 

「でもさ……」

 

 燐は不意に寂しそうな顔を見せる。

 

「どうしたの?」

 

「うん……夏ももう終わりかなぁって。時間ってあっという間に流れていくんだなぁってさ」

 

「……」

 

 燐も蛍も見ている方向はずっと同じだった。

 けれど、その視線の先に映る景色がほんの少しだけ違っていた。

 

 短いか長いか。

 

 たったそれだけ。

 

「燐は……その、怖くない? これからの事とか」

 

「進路とか、そういうこと……?」

 

 こくりと蛍はうなずく。

 不安そうな蛍の顔を見て燐は一旦言葉を止めた。

 

 けれどそれはほんの一瞬のことで。

 すぐにいつもの顔に戻って蛍を真っ直ぐに見てこういった。

 

「でもわたし一回しんじゃってるからね。だからもう怖いものなんてなくなっちゃったのかも」

 

「またそれ? なんか漫画の台詞みたい。でも……うん、それならわたしだってそうだよ。わたしもきっとそうだと思うし、あの時」

 

 蛍は自分に起きたことを未だにはっきりとは認知出来ていなかった。

 全てが曖昧で断片的、でも夢でもなければ現実というにも何か違う。

 

 その辺りは燐とは認知の違いがあった。

 

「じゃあ怖がる事なんてある意味ないんじゃない。わたしたち」

 

「くすっ、そうだね」

 

 顔を見合わせて笑い合う燐と蛍。

 

 今だってそうだが、この先どんな困難が降りかかっても二人一緒ならきっと大丈夫。

 

 見ている先が多少違っていたとしても。

 

「……燐」

 

 そっと囁かれて燐はドキリとなった。

 

「やっぱり寝れない? じゃあやっぱり子守歌だね。えっとぉ……」

 

 燐は割と数多いレパートリーから何を歌ってあげようか思案する。

 

(やっぱり童謡? バラード系もいいかな)

 

 などと考え込んでいたのだが。

 

「やっぱり戻ろう」

 

 蛍は上体を起こしてにっこりと微笑む。

 

 諦めたような寂しい顔ではなく、むしろ何かが分かったようなすっきりとした顔色になってているように見えた。

 

「でも、ここまで来たのに……いいの?」

 

 家の中に入ったのは蛍の方だったが、今は燐の方が言い訳めいた言葉を口にしていた。

 

「うん、もう分かったから」

 

「分かったって?」

 

「ここには何も無いってことが」

 

「そうなの?」

 

 意外そうに燐は目を見開いた。

 

「あ、そういう意味じゃなくて、この場所には”危険を冒してまで得るものは無い”ってこと。わたしの我がままでこれ以上燐を危険な目に合わせたくないから」

 

 これでも元は自分の家だから蛍には何か感ずるものがあるんだと燐は思っていたから。

 

 だからきっと、気を遣われている。

 

 蛍は殆どの場合燐に合わせてくれていた。

 

 割と些細な事でも燐の方を優先してくれていたから。

 燐も蛍の意思を尊重するように小まめに意見を聞くことにしていた。

 

 時には勘違いすることもあるし、ウザがられたこともあるだろうと思う。

 

 それでも燐は蛍を守ってあげたかった。

 

 蛍と対等に……友達になりたかったから。

 

 そんな蛍がこの家に自分から入って行ったとき、燐はちょっとだけビックリした。

 

 けど本気で止めるようなことはしなかった。

 

 やっぱり好きな人だから。

 

 好きな人が行こうとしているなら、そこに止める権利はない。

 それは燐だって。

 

 だから。

 

「もう、わたしが蛍ちゃんを守りたいのっ。じゃあ……いいんだね蛍ちゃん」

 

「うん。少しは休めたし、それにゆっくり降りれば大丈夫だから」

 

 意思を確認するようにお互いの瞳を見つめ合う。

 

 濁りのない澄んだ瞳。

 

 少女たちはそれぞれの瞳で大事な人と向かい合っていた。

 

 この歪みが残滓のように残った暗い部屋の中で。

 

 二人の存在だけが正常。

 あるいは逆なのか。

 

 その答えがどちらであっても、きっと離れ離れになることはないだろうと固く手を繋いで。

 

「燐、わたしはね……」

 

 蛍が何事か言いかけたその時だった。

 

 がたがたがたっっ!!

 

 大きな地鳴りの様な音と共に地面が震えだした。

 

 二人のいる階の床もぐらぐらと揺れ出す。

 

「きゃああぁっ!!」

 

「──っ、な、なに!?」

 

 たまらず悲鳴を上げる蛍。

 燐は蛍を庇うようにその華奢な体ごと抱きしめた。

 

 畳の床がぐらぐらと波打つように揺れている。

 

 天井に吊り下げられた、黒ずんで付かない照明が振り子のように左右に大きく振れていた。

 

 傘もランタンも倒れてしまった。

 けれどLEDの灯りは消えることなく、辛うじて視界だけは確保できていた。

 

「くうぅぅっ!」

 

 このまま倒壊してしまうのではないかと思うほどの強烈な衝撃。

 

 二人は抱き合ったままそれに耐える。

 その時が来るまでじっと。

 

 床か天井か。

 あるいはその両方か。 

 

 全てを崩してしまいかねないほどの強い振動が建物どころかこの世界を揺さぶっているようで。

 

 天井から粉のような埃がぱらぱらこぼれ落ちて、二人の身体に降り注ぐ。

 少女達は手を握り合ったまま固く目をぎゅっとつむった。

 

 こうしていればきっと終わる。

 

 いい意味でも、悪い意味でも。

 

 急転直下とも言えるこの状況に、燐も蛍も歯を食いしばって耐え忍ぶほかない。

 

 逃げ出すどころか立ち上がることすらもできない。

 

 身を固くして見えない嵐が過ぎ去るのを待つだけ。

 

 それ以外の感情は今のふたりにはなかった。

 

(燐っ……!!)

 

 揺れはどのぐらい続いていたのだろう。

 

 辺りがしぃんと静かになったのを見計らって、燐が瞼を薄っすらと開ける。

 

 もう地震のようなものはおさまっていた。

 

 噴煙のような黄色い煙が少し目に染みたが、床も天井もまだ無事の様で、抜け落ちてはいないようだった。

 

 蛍も重い瞼を頑張って開ける。

 

 煙が酷くて一瞬戸惑ってしまったが、目の前の燐の大きな目を見て、互いの無事を確認した。

 

「燐、大丈夫?」

 

「うん。どこも痛いところはないみたい。蛍ちゃんは?」

 

「わたしも平気」

 

 天板が抜け落ちそうになっているのか、木くずの滓のようなものがぽろぽろと零れていた。

 

 二人は口に手をあてて、そっと短く声を掛け合う。

 

「燐、早く出よう」

 

 こくりと燐は頷く。

 

 二人はなるだけ身を小さくしながら、そろそろと腰を屈めて歩き出した。

 

 みしみしと床に体重をかける度に嫌な感じの音がする。

 

 蛍はなるだけ下を見ないようにしながら、燐の背中を追って素早く部屋から抜けだした。

 

「はぁ、はぁ……」

 

「よ、よかったぁ……!」

 

 とりあえず当面の危機からは逃れることが出来たが。

 

「地震っていうかなんか凄い音がしたよね」

 

「うん。何かが当たったみたいな激しい音だった……」

 

 さっきまでの揺れと轟音が嘘みたいに静まり返っている。

 

 凪いだ海みたいに階段のあるホールは穏やかだった。

 

 この階段自体に被害は出なかったのだろうか。

 

 燐は今いる階段の上下を注意深く調べた。

 

「もしかして」

 

 何かに気付いたのか蛍はあっ、と声を漏らした。

 

「どうしたの蛍ちゃん。危ない箇所でもあった!?」

 

 真剣な面持ちで蛍に駆け寄る燐。

 もしこの階段に何かあればこれ以上登ることも戻る事すらも出来ないだろう。

 

 それぐらいここは生命線なのだから。

 

「あ、ごめんね、燐。なんかさ、かたつむりの家っぽくないかなって? こう上に伸びてるから」

 

「あぁ、えっと、うん」

 

 燐は一瞬、意味が分からなかったので曖昧な返事で返す。

 地震があったばかりだから、てっきり蛍が声を上げたのはそういう事かと思ったのだが。

 

「だからさ、今の地震も下のでんでんむしが動いたせいじゃないのかなって……どう? だめかな」

 

「だめっていうか」

 

 暢気に小さな舌を見せる蛍に、何かもう燐はため息をつかずにはいられなかった。

 

「そういうメルヘンなのは嫌いじゃないけど、さすがにこれはそういうのとは違うと思うよ。だって、わたしたちが中に入る前には”大きなでんでんむし”なんてのはいなかったしね」

 

 いたらいたで怖いとは思うが。

 

「じゃあ地面に隠れていた……とか」

 

「でんでんむしって地面に潜れるもんなの?」

 

 燐は素朴な疑問を蛍に投げた。

 

「さぁ……」

 

「……」

 

 ふたりは顔を見合わせたが、特に何の言葉もなくただ黙って立ち尽くしていた。

 

 遥か上の天井からも小さな木くずのようなものが時折降ってきている。

 

 やはりあの地震は部屋だけでなく、建物全体の様だった。

 

 それを見て燐は直感のようなものが働いたのか、真面目な顔で蛍に声を掛けた。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。わたしちょっと下を見てくるよ」

 

「燐……」

 

「でんでんむしじゃないけど、もしかしたらってこともあるし。あ、蛍ちゃんはここで待ってててね。でも危なくなったらどこかに移動してていいから」

 

 移動と言っても上に上がるか、さっきの部屋の中ぐらいしかないが。

 

 他の部屋がある可能性もないわけではないが。

 

 燐は具体的な提案は言わずに、蛍に軽く微笑んで階下に降りようとする……が。

 

「蛍ちゃん……」

 

 燐の小さな身体を蛍が後ろから抱きしめていた。

 

「置いて行かないって言ったでしょ、燐」

 

「でも、危ないから……」

 

 きっと多分壊れている。

 

 あの音と振動は玄関が壊れたとか、ましてやこの家を支えるほど巨大なでんでんむしが這った音ではない。

 

 階段がどこからか崩れてしまったのだろうと思っていた。

 

 急に蛍がそんなことを言いだしたのは、多分見に行かせないため。

 

 蛍だってきっと分かっていた。

 あの轟音はただ事ではないことが。

 

 もう何度もこういった事を体験していたから。

 

 免疫というか予想が出来てしまうんだと思う。

 

 こういった分かりやすい不条理は蛍も燐も何度も経験済みなのだから。

 

「でも、やっぱり見て確かめないと」

 

 今更どうなるわけではないが、知ればきっと納得できる。

 

 もう前に進むしか道がないことに。

 

 それに万一そうでなかったとするならば、まだ戻れるかもしれない。

 望みは相当薄いだろうけど。

 

「どうしても燐が行きたいのなら止めないけど……」

 

 蛍は燐の体から手を離す。

 

 その代わりに燐の左手に蛍は腕を絡めた。

 

「わたしも一緒だよ」

 

 ──

 ──

 ──

 

「燐っ!?」

 

「蛍ちゃん下がってっ!!」

 

 さっきの地震の影響だろう、木の螺旋階段は途中からすっぱりと切れていた。

 

 燐は蛍を庇う様に前に立ち、壊れてなくなった階段の数段上から、抜け落ちた階下を見下ろした。

 

 黒い大きな穴がぽっかりと開いている。

 

 ランタンの明かりさえ通さぬ暗闇。

 

 下がどうなっているのか分からないのは、小平口駅で起きた最初の異変を再現したみたいだった。

 

 それにしても。

 

(いつの間にかこんなに高い所まで登って来ちゃったんだ)

 

 通りで身体が疲労を訴えるわけだ。

 

 燐は妙な事で感嘆した。

 

「戻れなく、なっちゃった?」

 

 蛍は燐の背後からその様子を見てつぶやく。

 

 燐はは首を後ろに向けて苦笑いした。

 

「うん」

 

 ここから地上まで何メートルあるかは分からないが、とてもじゃないが飛び降りれるレベルのものではない。

 

 仮に飛び降りたとしても助かる保証などなかった。

 

 翼でもない限りは。

 

「蛍ちゃんの言うようなおっきなかたつむりも見れそうにないねー、残念っ」

 

「うん、ホント残念」

 

 燐は蛍を和まそうとボケたつもりだったが、あっさりと蛍に返されてしまった。

 

「あ、でも、かたつむりじゃなくておっきなヤドカリの可能性もあるのかも。それなら地面に潜ることも出来そうだし」

 

 この状況で更にそんなことを言う蛍を、燐は呆れた顔で見返していた。

 

 …………

 ………

 ……

 

 木製の螺旋階段。

 二人の少女はゆっくりゆっくりと登る。

 

 先ほどよりもずいぶんと遅いペースなのだが、それでも二人ともただひたすらに、巻き付く階段を登っていた。

 

 途中から階段が無くなっていたこともあり、いざという時に備えてカニのように横ばいにもなって上ってみたのだが、無駄に体力を消耗するだけで、何の意味もなかった。

 

 それに、ここまで来たら何が起きても起きなくても同じだろうと、蛍と燐の意見は一致していたから結局普通に階段を登ることにした。

 

「ふぅ……」

 

 こうしてちょっと休憩することは多少はあるが、諦めの言葉は二人から出ることはなかった。

 

 前に進むしかないのは結局同じ。

 

 緑のトンネルか、螺旋階段の違いぐらいでしかなかった。

 

 けれども、廃線後のトンネルの時よりも身体の負担が大きいのは単純に階段を登るという行為が疲労そのものを与えてくるから。

 

 代り映えすることのない景色もそうだし、閉ざされた視界で単調に登り続けることは、殆ど拷問といってもおかしくはなかった。

 

(石を持ち上げながら登ってるみたい……)

 

 むしろ制服しか着ていないから蛍は殆ど手ぶらなのだが、そのぐらい身体が重くなっていた。

 

 持ってきたあの傘は、あの地震のごたごたで部屋の中に置き去りのままだった。

 

 再び階段を上る際、さっきまでいた部屋の中をもう一度覗いてみたのだけれど、どうやら天井部分がもたなかったのか天板はすっかり無くなっていて、中は木の瓦礫で埋め尽くされていた。

 

 もう少し出るのが遅かったらと思うとぞっとする。

 

 ランタンだけは部屋を抜け出す際、燐が手にしていたけど。

 

 蛍にはその余裕はとてもじゃないがなかった。

 

「ううっ……」

 

 たった、一段。

 階段を上がるだけで何か神経のようなものがすり減っていくみたいで落ち着かない。

 

 ちょっとでも乾いた木の音がするだけで蛍は身の竦む思いをした。

 折れそうに華奢な足をがくがく震わせる。

 

 もし、もうちょっと体重をかけてしまったらそのまま足元の板が割れていくのではないかと、気が気じゃなかった。

 

 さっきまでは普通に登れていた階段だったのに。

 ちゃんと手すりまでついているから安心だねって燐と頷き合ったぐらいだったのに。

 

 今はもう怖くてたまらない。

 

 まだ吊り橋の方が足場としての体勢を保っていると思うぐらい。

 

 それほどこの階段も、家もその概念すらも何一つ信用に足りるものはなかった。

 

 それでも登り続ける理由とは。

 

(もう、道はないんだもん)

 

 燐はともかく、きっと自分は()()()()()()()()に囚われたままなんだ。

 

 青いドアの家ではなく、この歪な姿になった三間坂家の有様こそが自分がいるべき家なんだと。

 

 蛍はそう思っていた。

 

 それは直感というよりも、”血”だろうか。

 

 きっとそれは唯一残った自分だけ(ざしきわらし)のもの。

 

 頭でも心でもなく、お腹よりも少し下の体の内側から感じとっている本能みたいなもので。

 何とも奇妙な感覚だった。

 

「ねえ、蛍ちゃん。もし鏡があるとして、それはどんな鏡だと思う」

 

「え、鏡?」

 

 蛍はついぼんやりとしていたので、燐の問いを理解するのにちょっと時間を要した。

 

「えーっと……」

 

 ──かがみ?

 

 そう言えば鏡を探しにここに来たんだったっけ。

 

 登山したときもそうだったが、目の前の困難を乗り越えるのに必死過ぎて、当初の目的を忘れそうになる。

 

 そもそも目的が無ければこんな所になんて……。

 

(来なかったなんて、言い切れないけど)

 

 燐に言われて蛍は考えるそぶりを見せる。

 けれど実際は何も頭には浮かんではこなかった。

 

「……白雪姫の鏡じゃないよね、やっぱり」

 

 蛍の口から出てきたのは結局これだった。

 

「それだったら何か可愛げがありそうだね。”この世で一番美しいのは……蛍ちゃん、貴女です!”、なんてね」

 

 あからさま過ぎる台詞でからかう燐に、拗ねるどころか蛍はぷっと噴き出した。

 

 燐の仕草もその言葉もとても可愛らしかったから。

 蛍の知らない燐の小さい頃を見ているみたいに。

 

「もう……流石にそれはないよ。むしろ燐の方が鏡に選ばれるんじゃない。”おぉ、このお姫様も意外と綺麗です”とか、おまけな感じで」

 

「”意外”とか”おまけ”は余計なんじゃない?、でも、案外ありそうかもね。最近は活発なお姫様も普通にありみたいだし」

 

 蛍の軽口に謙遜することなく、燐は似合わないすまし顔をつくってみせる。

 

 蛍はまたひとりで噴き出していた。

 

「じゃあ、燐は何だと思っているの?」

 

 笑いすぎたのか、蛍は目元を少し拭いながら燐に尋ねる。

 

「わたしはね……”浄玻璃(じょうはり)の鏡”なんじゃないかなって思ってるの。略して”ハリちゃん”」

 

「あ、それ何か聞いたことある。確か……閻魔様が生前の罪を見抜くための鏡……だったっけ」

 

 燐と同じく蛍もマンガか何かで見たような。

 そんなことを思いだしていた。

 

(それにしてもハリちゃんって一体……)

 

 燐のネーミングセンスに文句をつけるつもりは無いが、安直と言うかそのまますぎる。

 

 蛍は”ハリちゃん”のことには触れずに燐に話のつづきを促した。

 

「うん。わたしが知っているのもそんな感じ。で、鏡でその嘘がバレちゃうと、閻魔さまに舌を抜かれちゃうって事だよね。ハリちゃんって怖いよねー」

 

 この分だと事あるたびにその名を言われそうだ。

 蛍はそう思ったので。

 

「その……”ハリちゃん”があの上に?」

 

 言ってて恥ずかしくなる、燐は平気なのだろうか。

 

 なんか顔を合わせがたくて頭上を見上げながら指さす蛍。

 燐もその方向に顔を向けて仰ぎ見た。

 

 さっきの地震の影響なのか、暗くてその先が見通せなかった遥か上の天井から一条の光が指し込んでいた。

 

 粒子のような粉を撒きながら今二人のいる遥か下の階段のまで光の柱が伸びている。

 

 手を伸ばせば届きそな程で、燐と蛍は感慨深い瞳でその光景を眺めていた。

 

 もし、天井どころか屋根が無くなったせいで外からの光が漏れだしているのなら由々しき事態なのだが。

 

 キラキラと光を纏っているのは多分、外からの雨だろう。

 

 この辺りの家屋は基本、屋根瓦ばかりだから、上の屋根の何枚かが飛んで行ったか、あるいは壊れてしまったか。

 

 どちらにしてもこれは悠長に眺めを見ていられる状況ではなかったのだが。

 ふたりが直ぐそれに気づくことはなかった。

 

「あれだよね、蛍ちゃんは何も隠し事とかなさそうだから鏡に見られても大丈夫そう、だよね」

 

 燐は唐突に話を戻す。

 蛍は小さく笑って返す。

 

「燐だってそうでしょ?」

 

 そう言われて燐は驚いたように一瞬目を見開いた。

 

「それは……どうかなぁ。わたしは、ちょっと自信ないかも」

 

「わたしだってそうだよ。ちょっとの嘘でも言わない人なんてそれこそいるわけないしね」

 

「それはまあ、そうだよね」

 

 そう言って燐は肩をすくめた。

 

「それでも燐は行くんでしょ」

 

 退路を断たれた以上、登るしかないのは確かなんだけど。

 

「蛍ちゃんといっしょに、ね」

 

 燐は蛍の手を取る。

 

 この場所に来てから蛍は何かと積極的だが、その反面とても儚くも見えたから。

 

 だから燐はちゃんと蛍の手を握った。

 そうすると蛍も手をぎゅっと握り返してくれるから。

 

 分かっていたんだと思う、お互いに。

 

 自分から離した手なのに、またそうやって握り返してくれることを。

 

 それだけで──幸せだから。

 

「あ、ねぇ……蛍ちゃん。今、どれぐらい疲れてる?」

 

「う~んと……60%ぐらいかな。これでも体力ついたほうだから。燐は?」

 

「わたしは、55%ぐらい」

 

「燐、ほんとに?」

 

「ほんとほんと。最近は勉強ばっかりで部活も身に入らないんだよねぇ。あー、怠けてるなぁ、わたし」

 

 ピンっと背筋を伸ばす燐。

 

 明らかに気を遣われているのは分かったが、燐が楽しそうに言うので蛍はそれ以上は何も言えなかった。

 

「でも、それなら大丈夫そうだね」

 

「何が大丈夫なの?」

 

 こちらをみて笑顔を向ける燐に蛍は首をかしげた。

 

 なんかこう、作為のある表情(かお)だったけど、とりあえず蛍は聞いてみた。

 

「ちょっとだけ走ってもいいかな? こういうのは一気に行っちゃったほうが案外楽なんだから」

 

「えっ!? ちょ、ちょっと待って燐。わたしまだ了解もしてないし、それに心の準備が……」

 

 確かに以前に比べたらトレッキングやハイキングをしているから、ちょっぴり体力はついたと自分では思うが、だからって走るだなんて聞いていない。

 

 燐と違って帰宅部なのは変わっていないわけだし、体育の成績だってそれほどだし……。

 

 何より燐のペースで階段を駆け上がるだなんて、そんな大それたこと。

 

「山道も階段も元をたどれば同じ道だからへーきへーき。もしダメそうだったら折を見てちゃんと休憩するから」

 

「そ、そういう問題じゃ──」

 

「じゃあ行くよっ、蛍ちゃん!! しっかりついてきてねっ」

 

 焦燥感を感じた蛍が燐に何かを言おうとする前に、燐は走り出してしまった。

 

「あうっ!」

 

 舌を噛むことは避けられたが、手を引っ張られたまま急に走り出したので足がもつれそうになる。

 

 ややもすれば転んでしまいそうな蛍だったが。

 

(燐に、ついて行くんだから、何があっても、ずっと)

 

 頭の中で何度も反芻しながら蛍は足を前に動かす。

 

 自分の足じゃないみたいにロボットのようにギクシャク上下しながら勝手に階段を駆け上がっている様子がなんかおかしかった。

 

 疲れるのは他でもない自分なのに、足が体が動くことを止めてはくれない。

 

 何のために階段を上っているかなんて、それすら脳が拒否していた。

 

「はぁ、はぁ、燐、りん……」

 

 背中を見つめながら譫言のように繰り返す。

 

 燐の行動はあまりにも突飛でそれに蛍が振り回されている。

 

 傍目にはそう映るのだろうが、実際はそうではなく蛍にだって自分の意思だってある。

 

 燐がもし誤ったことをしていればそれを普通に指摘できるし、場合によっては言い合いになったとしても良いとさえ思っていた。

 

 だからこれは違う。

 

 燐のとった行動は間違いないと思っていたし、そうする理由も明確にしなくても蛍にはわかるから。

 

 燐はきっと分かったんだと思う。

 

 木製の螺旋階段だけじゃない、この建物全体がもうもたないだろうということに。

 

 いつからこうなっていたのかは分からないが、もともと無理のある建造物だったのだろう。

 

 外も内もそれなりに出来てはいるが、基礎というか建築上の理論を果たしていない。

 

 それは見せかけだけのハリボテ。

 砂上の城だった。

 

 だからこそ急ぐ必要があった。

 

 唯一の道である階段すら無くなってしまったら、それこそ何のためにここに来たのかが分からなくなる。

 

 緑の壁に阻まれた時のように。

 

(意味のない行動はもう懲り懲りだから……!)

 

 燐は走りながらも内心歯ぎしりを抑えられなかった。

 

 無意味な努力、行動は燐が最も嫌うことだったし、手遅れ何て言葉は耳に入れたくすらなかった。

 

(でも、蛍ちゃん凄く頑張ってる……わたしが居ない間ひとりで頑張ってたんだ……)

 

 燐の言う通り、蛍の足は意外にも階段をちゃんと捉えて登っていた。

 

 燐のペースについて行くには一段一段登っていたのでは到底追いつかない。

 

 ずっと続けるのは無茶だと思っていても一段抜かしで登るしかないのだが。

 

「はっ、はっ、はっ」

 

 蛍はぎりぎりのところで燐になんとかついて行っている。

 

 明らかに無理と思ってた、燐のペースに()()()()()で食らいついていた。

 

 ……勢いのままがむしゃらに駆けあがっているとも言うが。

 

(やっぱり、ついて行けている!? 蛍ちゃんは本当はとっても凄いんだよっ)

 

 燐は足を前に向けながらちらりを後ろを振り返った。

 

 答える余裕はないみたいだったが、綺麗な顔を苦痛に歪めながら、それでも必死に後を追う蛍の姿があった。

 

 強がりのようなことを蛍が言っていたのは分かっていたが、今は正直余裕はなかった。

 

 だから強引に手を引っ張っちゃったんだけど。

 

(もう一人で本当に大丈夫なんだね。蛍ちゃん……)

 

 胸の内が少し寂しくなった。

 

 その事はもう分かっていたけど、どこかまだ不安もあったから。

 

 だからまた、一緒にいるわけなんだけど。

 

(わたしがいなくても本当に大丈夫だね……今度、こそ)

 

「どうしたの……? 燐」

 

「……えっ」

 

 息をつっかえながら、無理だろうと思った蛍が話しかけてきた。

 

 燐は一瞬、走りながら蛍と目を合わせる。

 

 蛍の瞳が燐を見つめながら心配そうに揺れている。

 

 そう燐には見えた。

 

「……やっぱり、頑張り屋さんだなって思って、蛍ちゃん」

 

 心を見透かされたと思った燐は直ぐに視線を逸らせて、ちょっと大げさに声を出した。

 

 蛍は目を見開くも苦笑いを浮かべるだけ。

 

 喋ってしまったことで余計に息が苦しくなってしまったみたいだった。

 

(本当に、凄いよね蛍ちゃんは、いっつも一生懸命で……)

 

 蛍という少女に出会えた奇跡に感謝しながら、燐はもう少しだけペースを速めた。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

「何とか……着いたね……蛍ちゃん、お疲れ様。凄いね、新記録じゃない」

 

 息も絶え絶えに額に汗を滲ませながら燐は蛍の健闘を讃えた。

 

 何の記録なのかまでは分からないが。

 

 その蛍は。

 

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 

 燐に突っ込むだけの気力もとうになく、その場で息を吐いてへたり込んでいた。

 

 口から漏れるのは声ではなく吐息。

 蛍はただ酸素を取り込む為だけに集中していた。

 

「あはは、ちょぉっと飛ばしすぎちゃったみたいだね……ごめんねー蛍ちゃん」

 

 苦しそうに喘ぐ蛍を見て燐は罪悪感を覚えたのか、燐は手をあてて蛍に謝った。

 

 蛍は声のかわりに小さく手を降った。

 

 大丈夫だよ──。

 そう言ってるように。

 

 燐は辛そうな蛍の仕草に苦笑いして返した。

 

「にしても、この部屋ってなんだろ……?」

 

 蛍が息を整えている間、燐は部屋をぐるりと見渡す。

 

 改めてみてもごく普通の部屋。

 それ以外に感想は出なかった。

 

 ──階段を上った先にあったのは普通の部屋だった。

 

 この階にだけきちんとした普通の廊下があり、それは奥にまで続いているようだった。

 

 先に辿り着いた燐は面食らいながらも、そろそろと廊下を進む。

 

 蛍は驚くことも戸惑うことも見せずに、燐に手を引かれるがまま後を着いてきていた。

 

 身体はもうとっくに限界を超えている。

 だから早く止まって欲しいのだけれど、燐に置いて行かれたくはない。

 

 そのせめぎ合いが蛍の足を無理でも動かしていた。

 

「あっ──」

 

 ちょっと先まで行くとすぐ行き止まりとなった。

 

 そこには白い襖があるだけ。

 

 襖には何の模様も施されてはいない。

 そんな殺風景な襖の前で二人はぼーっと立ち尽くしていたのだったが。

 

「……開けてみるね」

 

 燐は蛍の返事を待たずに襖をするりと横にずらす。

 また開けられない襖なのではと一瞬思ったが、ここはそんなことなかった。

 

「お邪魔しますー」

 

 燐は、一声掛けてから部屋の中に足を踏み入れる。

 

 返事がないのは当然で、中には誰もいなかった。

 

 中は……小綺麗な和室。

 ちょっと趣のある感じの部屋だった。

 

 先ほど休憩する為に入った古い和室とは違い、誰かが使っていたような生活感がどことなく感じられる。

 

 生活感と言っても目を引くのは小さなちゃぶ台ぐらいで、後はなんの変哲もない部屋なのだが。

 

 実際は、変哲もないと言うにはちょっと変わった点が一つだけあったのだが。

 

(なんで、こんなに”てるてる坊主”が吊るしてあるんだろう……それも壁いっぱいに)

 

 雨上がりを祈願するといっても精々一つや二つを吊るせばいいだろうし。

 

 ここまで吊るす意味と言ったら、何らかの切実な理由でもあったのか

 

 例えば、大きな水害や河川の氾濫とか。

 

(あれ?)

 

 物珍しそうにてるてる坊主を眺めていた燐は、ある事実に気付いた。

 

 本当にちょっとの違いなのだが、てるてる坊主の顔は、その一つ一つが違って描かれていたのだ。

 

 てるてる坊主に異なる個性が存在していた。

 

 個体と言った方が正解なのだろうが。

 

 そしてそれはある種の意図的なものであることにも気付く。

 

 目が大きかったり、鼻が高かったりといった細部だけではなく、てるてる坊主自体の大きさもまちまちだった。

 

 不器用という意味ではない気がする。

 

 何故なら顔は違っていても皆きちんと整えられていたから。

 

 適当な感じはない。

 元になった人でもいたのか、それぞれが愛嬌のある顔をしていた。

 

 それに重ならないように等間隔に配置してあるところを見ると、寧ろ器用というか完璧主義なきらいさえ垣間見えるほどだった。

 

 中には双子をイメージしたのだろうか、全く”対”のてるてる坊主もあった。

 

 それぞれが違った存在感を放っていて、同じてるてる坊主でありながら、異なる印象を与えてくれる。

 

 しかし……どんな形であっても、あることだけは徹底されていた。

 

 ──それは首が括られている、と言うこと。

 

 どのテルテル坊主にも首に相当する部分には必ず紐が括りつけられており、その紐だけで天井からつるされていた。

 

 それでも一、二体ぐらいなら可愛げもあるものだろうが、それが複数、十数体以上並べられている光景は、懐かしさを覚えるというよりもむしろ……。

 

(ちょっと、怖い……?)

 

 不意に頭に浮かんだ言葉に燐は自分でびっくりしていた。

 

 幼い頃にもよく作っていたし、山に行く前日などにもよく吊るしていたから、珍しいどころか割と日常的なものだった。

 

 それに最近でも自分で作って吊るしていたし、てるてる坊主を見て怖いなんて感情はこれまで一度も持ったことなどないのに。

 

 それと、なんだろう……?

 少し心がもやもやとする。

 

(わたし、この光景に何か見覚えがあるの……?)

 

 心がそう訴えているような気がした。

 

 でも、どこで?

 

 その肝心な部分がどうしてか思い出せない。

 自分の胸に聞いたって多分答えなどないんだろうけど。

 

「燐、どうしたの、ぽかんとして」

 

 やっと呼吸が整ったみたいで、床に座り込んでいた蛍が不思議そうに燐の顔を眺めていた。

 

「えっとぉ……」

 

 燐は言葉を濁そうとした……のだったが。

 どうせ蛍の目にも映っているだろうから、やはり聞いてみることにした。

 

「蛍ちゃん。この部屋も見覚えない?」

 

「うーんと……」

 

 ようやく目を向けることが出来るようになった蛍は、改めて今、自分たちのいる部屋の中を見渡した。

 

 これでも自分の家だから、どこかの使われていない部屋だろうとは思っていた。

 

 ちゃぶ台がとりあえず置いてあるぐらいで、後は特に気になるような調度品などは置いていなかったから。

 

 ただ、燐がじっと眺めていたてるてる坊主の群れをみたときには、蛍の視線も止まっていた。

 

 覚えがあるというわけじゃなく、もっと深い、因縁めいたものを微かに感じとったからだった。

 

 それはあのオオモト様そっくりの人形を一目見た時と同じ感情に似ていた。

 

「ううん、やっぱり初めてみる部屋だよ」

 

 小さく首を振りながら蛍はきっぱりと言った。

 

「そっかぁ」

 

 燐は落胆したように小さくため息をつく。

 

 蛍が知らない部屋だということは、鏡に対する手掛かりもないということだった。

 

 何故ならこの和室には鏡が置いていなかったから。

 

 当然窓もない。

 

 だが天井に穴が開いているというわけでもないようで、最上段なのに雨漏りの染みひとつ畳にはついていなかった。

 

 だったら光はどこから漏れていたのだろうか。

 

 畳のさらに下の床に穴でも開いたのか。

 

 燐は畳を引っぺがすべきか考え込んでいたが……。

 

「っくしゅん!」

 

 くしゃみの音が部屋に響く。

 

 燐は恥ずかしそうに顔を赤くして鼻を抑えた。

 

「風邪でも引いたの?」

 

「そうじゃないとは思うんだけどぉ……わたしも大分汗かいちゃったからかなぁ?」

 

 もごもごと恥ずかしそうにつぶやく燐だったが、そうこう言っている間に、くしゅんとまた可愛らしい声がした。

 

「タオルとかあればいいんだけど……」

 

 手持ちのものはほとんど持っていない。

 あるのはランタンだけで。

 

「にゃぐっ……」

 

 燐は鼻をぐすっと啜る。

 

 幼く聞こえる燐の鼻声に蛍はふふっと自然に微笑んでいた。

 

「もしかしたらこの部屋に何かあるかも」

 

 蛍は迷いもなく、まだよくわからない部屋の押し入れの開け始めた。

 

 がらっ。

 中は……予想通り空っぽだった。

 

 蛍はもう一つの押し入れのドアを開ける。

 

 ぱかっ。

 

 やはり何もはいってはいなかった。

 

 その間も燐のくしゃみは止まらないようで、蛍に迷惑が掛からないように部屋の端っこに移動して、くしゅんくしゅんとひとりで鼻を鳴らしていた。

 

(何か、何かないのかな……!)

 

 焦った蛍は手当たり次第に部屋の中を物色し始めた。

 

 箪笥の様なものはなかったが、小さな戸棚のような引き出しが並んで置いてあったので、片っ端から開けてみた。

 

 がらっ。

 

 がらっ。

 

 やはり何もない。

 もう一つの引き出しを開ける。

 

 こちらも外れ。

 

 どうせこれも……と思って開けた蛍の手が止まる。

 

 中には、二人が今、切実に求めていたものは入ってはいなかったが。

 

「鏡……!?」

 

 蛍の小さな手に収まる程度の丸い鏡が、むき出しのまま狭い引き出しの中に無造作に入っていた。

 

 と、鏡の後ろに紫の布が敷いてあったので蛍は鏡を一旦どけると、その布をすぐに燐に手渡した。

 

「……これ、いいのかなぁ……」

 

 喜んで受け取った燐だったが、何となく高級そうな布だったので、鼻を噛むのにはやはり若干の抵抗があるのか、一応蛍に問いかける。

 

「まあ、いいんじゃないかな。一応非常事態だし」

 

 若干無責任ともとれる蛍の発言だが、他に変わるものがあるわけでもなく、燐はまざまざとその布を見つめると、その布に謝った後で鼻に当てた。

 

 恥ずかしいのか燐は蛍に背を向けると、ぎこちなく鼻をしゅんしゅんとかんだ。

 

「はぅっ、結局使っちゃったぁ」

 

 すごく罰当たりなことをしてしまった感があったが、背に腹は代えられないというかティッシュぐらいその辺の戸棚にあって欲しかった。

 

 汚した部分を下にして丁寧に折り畳むと、どうしようかと一瞬逡巡したのち、燐は自分の制服のスカートのポケットに恥ずかしそうにしまった。

 

「えっとぉ……蛍ちゃん、他に何かあった?」

 

 誤魔化すように自身の鼻をつまんだりしながら、まだ顔の赤いまま燐は蛍に尋ねる。

 

「あ、うん」

 

 蛍は恭しい手つきで持っていた小さな鏡をちゃぶ台の真ん中にそっと乗せた。

 

 鼻を赤くした燐は感嘆の声を上げる。

 

「鏡! あったんだね、良かったぁ。けど……蛍ちゃんこれがもしかして……ハリちゃん?」

 

「うん……全然小さいよねこれ」

 

 五センチほどだろうか、鏡は掌に乗る程度の大きさしかない。

 鏡面は綺麗に磨かれているようで、少女たちの顔を鮮明に映していた。

 

 燐の”ハリちゃん”のネームにはピッタリなサイズだとは思うが……。

 

 問題はそこではなく。

 これではとても。

 

「鏡の中に入ることなんて出来そうにないよね」

 

 蛍は困った顔で鏡を見下ろす。

 見つかったと言ってもこんなものでは到底意味をなさない。

 

「んと……」

 

 それでも燐は鏡の鏡面に指を伸ばす。

 

 もしやと言う事もあるし。

 

 つんっ。

 当然、燐の細い指が貫通するはずもなく、鏡は普通の鏡のままだった。

 

「そう上手くいくはずないかぁ」

 

「そうだね……」

 

 燐は諦めたように畳の上で四肢を伸ばした。

 蛍はその横に座って深いため息をつく。

 

 結局ここまで頑張って登ったのに、全くの無駄骨だったようだ。

 

 もう二度とすまいと心に誓っていたのに、またこうして徒労に終わってしまうだなんて。

 

「はぁ……」

 

 燐の唇からもため息がもれる。

 

 こんなぬか喜びするぐらいだったら、まだ鏡なんてものがない方がマシだった。

 そう思うほどに。

 

 みしりっ。

 

 何かがひび割れたような音が二人の耳朶を打つ。

 

(なんか音が……?)

 

 燐が音の正体を調べようと上体を起こしたその時。

 

「きゃああああっ!」

 

 二人のいる部屋全体が突然真っ二つになる。

 

 天井も畳も綺麗に二つに分かれて砕けた。

 

「わあああぁぁぁ!?」

 

「燐!!」

 

 とっさに柱を掴んだ蛍は燐の手を握って、部屋と共に落下する燐の体をすんでのところで繋ぎとめる。

 

「うぐうぅぅぅっ!!!」

 

 小柄な燐の体重はかなり軽い方ではあったが、流石に蛍一人の力では支えきれるものではなく、つなぎとめた蛍の方が持たなかった。

 

 綺麗な顔はみるみる内に汗で真っ赤になっていく。

 

 もう一秒たりも持たなかった。

 

「蛍ちゃん無理しないでっ!!」

 

 そう叫ぶも今の燐にはなすすべがない。

 完全に蛍ひとりの力だけで助かっている状況だから。

 

(ど、どこか掴まるところは……アレっ!!)

 

 混乱した頭で燐が見回した先にあったものは、小さなちゃぶ台の足。

 上手い具合に引っ掛かっているらしく、燐が掴まる程度ならなんとか出来そうだった。

 

 というか、そうするほかなかった。

 

 一刻の猶予もない、そう瞬時に判断した燐は飛び移ることを決意した。

 

「蛍ちゃん、ちょっとだけそのまま握っててねっ!!」

 

 燐は蛍の手をしっかり両手で握ると、振り子の要領で体を揺らして一気に飛び移った。

 

「燐ー!!!」

 

 ぱっと重さから解放された蛍が叫ぶ。

 

 刹那の瞬間。

 

 ぱしっと、小気味よい音がして、燐の手はちゃぶ台の足のところを見事に掴んでいた。

 

「はぁ……なんとか……」

 

「良かった、燐……」

 

 二人が同時に安堵の息を吐いたとき、きらめきながら何かが滑り落ちていった。

 

「ああっ! 燐、ハリちゃんが!」

 

 蛍の叫び声を聞いて燐は顔を上げた。

 

 それまで何かに支えられるように落ちることなかった小さな鏡が今更になって滑り落ちていった。

 

 我に返った燐は懸命に手を伸ばす。

 

「ハリちゃんっ!!」

 

 燐は愛着を持ってその名前を叫んだ。

 

 だが、片手では上手く力が入らなかったのか、燐の手から逃れるように無情にも鏡は下へと落ちて行ってしまった。

 

「あ……」

 

 燐と蛍はなすすべなく見送るしかなかった。

 

 その後を追う様に、梁に括り付けてあった白いテルテル坊主達も次から次に落ちていく。

 

 笑みを絶やすことなく落ちていくテルテル坊主。

 

 それは、不気味というより自分の運命を知っているかのようで、健気で儚いものに見えた。

 

 その光景を呆然と見る二人に、更なる悲劇が襲った。

 

 ばきばきばき。

 

 無慈悲とも言える音が鳴り響き、さらに天井が崩れていく。

 

「──っ」

 

 何もできず落下していく二人の少女。

 

 だがもう少女達は奇跡ともいえる動きで落下するお互いの身体を抱きしめた。

 そんなことをしても意味などもうないと言うのに。

 

 一瞬の内に落下していく二人の目の前で、必死に登ってきた階段も壁も音を立てて崩れていく。

 

 何もかもが消えて無くなっていく。

 

 家も町も想いでさえも。

 

 まるでそうなることが予言されていたみたいにあっけなく、何の余韻も残すこともなく。

 

 全てが灰燼と化していった。

 

 悲鳴も何もでない。

 

 しぬとはそういうことなんだ。

 

 二人がそう理解したとき。

 

 ──底で何かが光っていた。

 

「月……!?」

 

 風に押されながら蛍は目を見開く。

 

 鏡が落ちて丸い月が遥か底の方に現れていた。

 

「夜のない世界の……月……」

 

 燐が小さく呟く。

 

 ようやく分かったことだった。

 さっきの地震のような揺れは地震そのものではなく、水によるものだったのだと。

 

 雨水が決壊して起きた衝撃だったのだと、やっと分かった。

 

 その証拠にこれから落ちていく先の地面がきらきらと光っている。

 

 何故この家が巨大な円柱のような形になっていたのか、それはこういうことだった。

 

 月のない世界に月を呼ぶためにこの形になっていたのだと。

 

 この家の意味がやっと分かった。

 

 小さな鏡は鏡のままだったけど、これこそが本来の鏡なんだ。

 

 光と水で作った、大きな月の鏡。

 

 これこそが二人が求めていたもの。

 向こうとこちらを繋ぐもの。

 

 そのものだった。

 

「わたしたち……このまま月に……?」

 

「うん!」

 

 月に落ちる直前、二人は顔を見合わせる。

 

 それ以上の言葉はもうない。

 代わりにかけがえのない温もりがあった。

 

 温かさで いっぱいだった。

 

 二人は一つになって真っ逆さまに落ちていく。

 

 抱き合ったまま落下していく少女達の姿は儚く、でも純粋な。

 ひとりでにこぼれた、小さな涙滴みたいで。

 

 

 一つのきれいな星のようだった。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 





まだ6月だと言うのに暑い日が続きますねー。こんな時は例年通りスキンマスクをしておりますよ~。特に今年は電力がひっ迫しているとの事なのでなるべく冷房には頼らずにこういったエコっぽい物を使っていこうかなんて思ってます。
中には化粧水染み込ませて使うものもあるようですが、あれって何か水分量っていうかしゃばしゃば感が足りなくて……やっぱり専用のものがいいですねえ。
顔全体を覆うマスクだけでなく、目の下に貼るタイプのも使ってます。これもなかなかひんやりして気持ちいいーーけど、目の下のクマがとれる気はしない……自分のクマが濃すぎるせいなのかもしれないのですが……。

この前、胡瓜をスライスしていたら自分の指も一緒にスライスしてしまいました。皮だけじゃなく肉も少々削ぎ落してしまったのか、赤い血液がおびただしく流れてーーーまあ、普通に痛かったです。

神絵師でクリエイターで尊敬するアーティストのKohada先生が事故に遭ったようでして、かなり……心配です。怪我の程度が酷くなければ良いのですけれども。
まあ、焦っても治るものでもないですし、ゆっくり休養をとって頂ければと思います。どうかお大事になさってください。

ちなみに私も前に事故にあったことがありますです。まあこうして勿体ぶった言い方をしなくても誰もが大なり小なり事故に遭ったことがあるかなーって。人も車もとても多いですからねー。

私の場合は夜、原付で道路を走っていたら、対向車線の右折に巻き込まれてしまったんですよねー。急ブレーキを掛けた所までは覚えてるんですけどその後の記憶が……車のドライバーによると、追突された衝撃で投げ出されてフロントガラスに頭から突っ込んだみたいです。

幸い命に別状はなかったみたいですけど……まあ、あったらこうしてはいないですね。
重症というほどでもないとは思いますが、足の指の骨折と、当時はジェットタイプのヘルメットだったので、そのせいで唇をざっくり切ってしまいまして、鼻もちょっと骨折したみたいで……大体全治二ヵ月程度だった気がします。実は今もちょっと後遺症みたいなのが唇に残ってるんですよねぇ。目立たないとは思うのですけど。

実況見分の際、警察の方に、これは助からないだろうと言われたことを今でも覚えてます。
それぐらい事故の状況が酷かったみたいです。自分ではそんなでもないだろうと思ってたぐらいなんですけどねー。


それではではー。



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Mapping the Multiverse

 

 ──大事にしてるつもりだった。

 何よりも大事に。

 例えどんなカタチになったとしても。

 ずっと好きでいられる。
 そう、思っていた。


 ──見上げる空が高い。

 普段見る空よりももっとずっと高く、遠くに感じる。

 ぽつりぽつり、と。

 一定のリズムで音が耳に届く。

 とくん、とくん。

 内側からも音が響く。

 力強く、どこまで響いていきそうな音。

 けれど、なぜか弱々しくも聞こえた。

 動けない。

 けれど、もう動く意味さえもなかった。

 周りでぷかぷかと浮いてるのはバラバラになった自分のからだと、ただの白い布。

 布を巻いた小さな人形の成れの果て、だけ。

 右手には温もりがまだ残っている。

 けれど、そちらを向くことが出来ない。

 何かが体に纏わりついているみたいで、指一本動かすことも叶わなかった。

「あ……」

 呻き声ともとれる声を発した末に見たものは。

 何かの塔みたいに屹立(きつりつ)に変貌した友の家。

 屋根が吹き飛びざっくりと裂けた天井から垣間見えたのは、澄んだ青い空ではなく、何かの集合体みたいなぼんやりとした光が輪のように広がっている光景だった。

 そして、とぷりと闇に沈んだ。
 
 ……
 ……
 ……
 
「んっ……あれ?」

「どうしたの」

「どうしたのって……あれぇ?」

 目をぱちぱちとさせる。

「今日は珍しくお寝坊さんだったね、燐。まあ、ゆっくりしててもわたしはいいんだけど」

「……」

 夢……なんだったっけ?

 何かもう概念というか実感が湧かない。

 だってまだ眠いし。

「蛍ちゃん。今、何時?」

 燐は今、頭に浮かんだ時間の概念の有り様をたずねてみた。

「えーと、7時19分……あ、20分になったばかりだね」

 なぁんだ。

 それならまだ少しぐらい寝てても問題ないよね。

 余裕から安堵が生まれると、また眠気がぶり返してきたみたいで、再び眠りにつこうとした燐はベッドの端っこに投げれられていたペイズリー柄の薄いブランケットを器用に足の指で手繰り寄せると、それで体をくるんで、首をもぞもぞと蠢かせた。

 起きることを断固拒否しているみたいな、燐のその仕草を見て、呆気にとられた蛍は口に手を当てた。

「燐、起きないの? でも、遅れたらやっぱりまずいのかなぁ。一応約束していたことだしね」

 やくそく?
 約束って何だったっけ。

 蛍の独り言を遠くの喧騒のように感じながら、燐は穏やかな微睡みの中に再び落ちようとしていた。

(ん……?)

 意識と共に目が完全に閉じられるその直前、何かの気配を感じ取った燐は鬱陶しそうに薄く瞼を開く。

 ふっと、顔に影が下りてきたと思った瞬間。

 瞳。
 というか顔が鼻先まで近づいていた。

「ほ、ほたっ」

 燐は急に意識を取り戻すと、慌てて声を出そうとしたのだが。

 ぎゅむっ。

「るっ……ぷぎっ!!??」

 自分の身に何が起きたのかすぐには良く分からなかった。

 燐は、目をしろくろとさせて、年頃の女の子がまず出さない、奇妙な声を朝っぱらから高らかに上げてしまっていた。

 それもそのはずで、蛍がまだ起き抜けの燐の小さな鼻を指でつまんで塞いでいたせいからだった。

「燐、起きて」

「むー、いみゃ、おきたよぉ、ほたるにゃーん」

「ん、にゃん? にゃんにゃん?? 何か燐、ネコみたい」

 突然の事に燐は涙目になりながら、蛍に許しを乞う様に首を横にふるふると振った。

 一方の蛍は、燐が事故的に発した一言が面白かったようで、本物の猫と戯れているみたいに、にゃんにゃんにゃんにゃんと真似をしながら、くすくすと微笑んでいた。
 
 二人の何とも不思議な朝の光景であった。

「あ、そういえば燐、起きたんだね。おはよ、燐……にゃん」

 鼻を摘ままれたまま燐に、蛍がにこっとしながら平然と朝の挨拶をしてきた。

「むー、おはよ、蛍ちゃん……にゃん」

 からかわれたことにムッときたのか、燐も語尾ににゃんを付けた。

「ふふっ、にゃんにゃん」

 目の前で笑う蛍の長い髪が燐の顔にふわっとかかる。

 本当に早起きしたらしく、蛍の長い黒髪が朝の陽光を纏って艶めいている。

 こんなに近いと、お風呂上りのコンディショナーの香りが芳しく広がってくるのだろうが、あいにく今は鼻をふさがれたままなので、今朝の蛍がどんな香りを纏っているのか確認することが出来なかったのは少し残念だった。

 もっとも二人とも、シャンプーもコンディショナーを共用しているのだから同じ香りなんだろうけど。

「にゅー、蛍にゃん! とりあえず指、取ってもらえるにゃっ!? わたしずっと変な声で喋ってるにゃぁぁぁー」

「あっ、でも燐の猫声、可愛いよ? 声優さんになれるかも、ね。にゃんにゃん」

「うー、そーゆーのはどーでもいいのにゃ、早くとるにゃー」

 燐がムッとしたような、それこそ本物の猫が威嚇するときのような声をだしたので、蛍は自分のしている事にようやく気付いたみたいに、指をぱっと放した。

「ふにゃぁ……」

 まともに息が出来るようになった安堵と、突き抜ける鼻の痛みで、燐は、うーーと涙目のまま蛍を訝し気な目で見つめた。

「ごめん、燐。えっと、昨日はちゃんと眠れたにゃ?」

「え、あ、うん……寝れたみたい、にゃ……」

 一度目は自力で起きられたと思ったが、二度目は蛍に無理やり起こされたという感じだったたので、燐は少し赤くなった鼻を押さえながら曖昧に答えた。

 口には出さなかったが、二度寝からの目覚めは最悪だった。

「だったら良かった。で、どうする? シャワー浴びる? 髪、結構ぼさぼさになってるにゃん」

「うー、それは、そうだと思うよ……」

 寝ぼけた顔で自身の髪の毛を指でつまんで他人事のようにつぶやく燐。
 蛍は肩をすくめて苦笑いしていた。

「すぐお湯が出るようにしておくからなるだけ早く来てね。あ、朝食は? シリアルでも食べる? トーストならあるけど……それとも”ちゅるちゅる”がいいにゃん?」

 蛍はトーストが乗った丸いお皿を持ちながら、あまり似合わない招き猫みたいな仕草をとっていた。

 大人しくみえる蛍が滅多にしない大胆なポーズなのだが、燐はそれを外の温度とは真逆の冷ややかな目で見つめていた。

 それにしても……。

(もし”ちゅるちゅる”がいいって言ったら買ってくるつもりなの!?)

 ──ちゅるちゅるとは、主にネコ用のペットフードで、”ネコをダメにするおやつ”として有名な、ペット用おやつのことである。

 チューブ型が特徴であり、猫がちゅるちゅる食べることからその名に決まったと言われている。

 その売れ行きは爆発的で、1秒に3匹の猫が(いい意味で)ダメになっているとの評判が公式からでるほどだった。

 ちなみに、ネコだけでなく、ネコ科の動物なら何でも虜にするらしい。
 犬用、ウサギ用も販売展開していて、他の動物用のも開発中のようである。

「燐にゃんに食べさせてあげようか、ほら、あーんしてにゃ」

「もう、蛍ちゃん。いつまで続ける気なの」

「続けるって……何のこと、にゃん?」

「その、ネコみたいな喋りかたっ! 蛍ちゃんって結構意地悪だよね。大人しい顔に似合わずー」

「そんなことないにゃん。燐の方がいじわるだにゃん」

「蛍ちゃんの方がいじわるにゃん!」

「むぅー!」

「にゃにゃー!!」

 蛍と燐は引っ掻くようなポーズをお互い取りながら、全く意味のない威嚇を朝からしていた。

「はぁ……」

 大きなため息をつく。
 先に折れたのは燐の方だった。

「あとでパン食べるからもう許して蛍ちゃん」

「わたしもからかいすぎてごめんね、燐」

 蛍は柔らかく微笑む。
 朝の情景にそのものと言ってもいい柔和な微笑みに、燐も顔をほころばせて笑みを返した。

「いちおうシャワーの準備もしておくね」

「ありがと、蛍ちゃん」

(それにしても、やっぱりまだ暑いなぁ……まだ朝だよ)

 寝苦しそうに寝ていたのか、気をつかってクーラーを早めにかけていてくれたみたいだけど、それでも朝から湿度は高く、じめじめとしていた。

 マンションの部屋の中でこれなのだから外なんてもう、それこそ灼熱の世界だろうと思う。

 ガラス越しの外の景色に目を細める。

 夏はもうじき終わりなのに、暑さはまだ終わってくれないようだった。

「燐にゃ~ん」

「もう、それはいいのっ!」

 バスルームからそのままの猫なで声がして、燐は腰かけていたベッドからぴょんと立ち上がった。

 今日、何着て行こうかなー、と二人が共同で使っているカラフルな箪笥に目を移した時に、横に置いてあった自身のバックパックを見て、燐はぱんと手を合わせた。

(あ、そっか、今日、蛍ちゃんと一緒に行くんだった)

 昨晩も寝る前にふたりで話してた気がする。
 
 目的をようやく思い出した燐は恥ずかしくなったのか、あぁ、と唸って、二回ほど無意味に手を叩いた。

(でも、また行くんだよね、”あそこ”に……大丈夫、なのかな)

 蛍は前から決めていたようだから止めるようなことはしないけど。
 確かに心配な所はあった。

 ()()()()()()()()場所だし。

「燐、どうかしたの?」

「あ、うん。ごめん蛍ちゃん。えと、やっぱりシャワーはいいや」

 殆ど全裸だけの状態で燐はキッチンへ行くと、蛍が用意してくれた、トーストにかじりついた。

「そんな、燐、慌てなくてもいいよ。特に時間は決めてなかったし」

「でも、やっぱり悪いし。わたしのせいで時間が押しちゃうのなら少しでも急がないと」

 燐は無理矢理にパンを口の中に全て押し込む。
 そしてミルクで強引に胃の中に流し込んだ。

「ふぅ、ご馳走様、蛍ちゃん。すっごく美味しかったよ」

「燐ってば……急いで食べたら消化に悪いよ」

 蛍は呆れた声で呟いた。

「このぐらい大丈夫。で、早く支度しちゃうからすぐに出よっ。そうすればまだ電車の時間には間に合うと思うよ」

 燐は食べ終わったお皿を軽く洗いながら、スマホで列車の時間を確認していた。
 
 ふたりが住んでいるのは駅の真ん前のタワーマンションだから、燐の言うように十分間に合いそうではある。

 このまま何もなければのはなしだが。

「でも、シャワーぐらい浴びた方がいいよ」

「どうせ汗で汚れるし、帰ったらすぐに浴びるから」

 燐はさっさとキッチンから離れて、顔を洗うために洗面台へと向かうつもりだった。

「燐、だめだよ。身体べとべとしてる。それに女の子なんだから身だしなみはきちんとしよ」

 蛍は燐のむき出しの肩に手をぴたっと当てて、少し強めの口調で嗜める。

 蛍としては、燐には見た目通りの清潔な格好でいて欲しいと言う願いからだったのだが。

「なんか蛍ちゃん、お母さんみたいだよっ」

 悪戯っぽい目をして燐がくすっと微笑んだ。

「燐の、”お姉さん”じゃないの?」

「う~ん、姉って感じはしないなぁ、蛍ちゃんには。むしろ守ってあげたい妹っぽい感じ」

「そう? 燐の方が妹っぽいけどね」

「……なんか前にも似たようなこと話してたよね。わたし達」

「そうだったっけ、わたしはあんまり覚えてないかも」

 燐と蛍は顔を見合わせて困った顔で笑った。

「ねぇ、燐。ほんの少しでいいからシャワー浴びよ。きっとすごくさっぱりするよ」

 蛍が燐の背中を抱きながら囁き声でもう一度”お願い”をした。
 
 密着したことで燐のむき出しの背中に蛍の柔らかさが直に伝わってくる。
 
 だぼっとしたとシャツ一枚着ているだけの蛍なのだが、それでも上半身裸の燐の方が恥ずかしくなってしまって、顔を真っ赤にしていた。

「……蛍ちゃんにはかなわないなぁ、もぉ。分かったよ、じゃあ軽くだけね」

「うん。それじゃあ、背中洗ってあげる」

「えっ、いいってばぁ、ひとりでできるよ」

 蛍に物理的に背中を押されながら、燐は抗議の声をあげる。

「はいはい」
 
 ぎゃあぎゃあ文句を言う燐を全く相手にしないで、手を引きながら蛍も一緒に脱衣所までついてきていた。

 もう、と燐は一息吹いたあと、観念したように、あんまりこっち見ないでね、と一応念を押した。

「って、何してるの蛍ちゃん!?」

 蛍はにこにことしながら突然服を脱ぎ始めたので、流石の燐も困惑してしまった。

「だって、服を脱がないと洗えないでしょ? 燐は脱がないで入るつもりなの」

 それに燐に構ってたら汗かいちゃったから、と最もらしいことまで言われてしまった。

「脱ぐってわたし下着だけだし」

 下着と言っても燐の上半身は何も着けていない。
 白とブルーのストライプのショーツを身に付けてるだけで。

 燐ははぁっ、と大きく息をつく。

 まだここに引っ越してきた頃は一緒にお風呂に入るのすら嫌がってたのに、どうしてこう変わってしまったのか。

 昨日も一緒のお風呂だったし。

 慣れるって、こういう事……だったっけ?
 燐は過去に言った言葉に自問自答する。

(でも、本当に大丈夫なのかな、蛍ちゃん。そんなに行きたいような場所でないことは分かってるはずなのに)

 燐の胸中はどうにも落ち着かなかった。

「燐、どうしたの。裸でぼーっと立って」

「……裸なのは蛍ちゃんもでしょ。あ、言っとくけど洗ってもらうのは背中だけでいいからねっ」

「えー」

「えー、じゃないからっ。さっき自分で背中って言ってたでしょ。さ、ちゃちゃっと浴びてすぐに家をでるよっ、蛍ちゃん」

「にゃー」

「だからもうそれはいいのにゃー!」

 時すでに遅く、当初乗る予定だった電車の時刻はとっくに過ぎ去ってしまい、なんやなんやでふたりがようやく駆け乗ったのは、マンション最寄りの駅、浜松駅発8時28分の電車だった。

 ──
 ──
 ──



 

 いくら手付かずの自然だからって。

 なんでこんなに無遠慮に生い茂っているのか。

 

 ──キリがない。

 

 本心からそう思った。

 

「──今日も暑いよね~。まだまだ全然、夏! って感じ」

 

「だねぇ……」

 

 一息ついた燐は、呆れるほど真っ青な空を見上げた。

 

 切り取った宝石みたいにぎらぎらと輝く太陽と青い、澄んだ湖みたいな綺麗な空。

 そこを泳ぐみたいに、鯨みたいに大きな雲が悠然と流れている。

 

 どこにでもよくある夏の情景。

 

 痛いほど綺麗な青空が、高い山の空にまで広がっていた。

 

「嫌になるぐらいに暑いけど、ここって、まだ風が抜けるから気持ちいいよねぇ」

 

 夏の情景を遠くに見ながら、燐は栗色の長い髪を無防備にたなびかせる。

 

「本当、居心地、そんなに悪くないよね」

 

 二つに結わいた長い蛍の黒髪も夏のそよ風にそよそよと揺れていた。

 

 けれど蛍にはその情景を楽しむ余裕などなく、息も絶え絶えといった様子で地面に向かって呟いていた。

 

 見かねた燐は小さくなった蛍の肩に軽く手を置いた。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。そこの木陰で少し休んだ方がいいよ。後はわたしが大体やっておくから」

 

 炎天下の下、屈んで作業なんてしていたら例え少しの時間だとしても誰だって参ってしまう。

 

 それでも周りは木々で囲まれているから少しはましな方なのだろうけれど。

 

「だ、大丈夫だよ。元はわたしが言ったことなんだし、それにさっきから燐にばっかりやらせてる。腰とか、痛くなってない?」

 

「わたしは部活で結構こういうことやってるから全然大丈夫だよ。蛍ちゃんはどう? さっきからロボットみたいにギクシャクとした動きになってるよ」

 

 確かに今の状況は油の切れかかったロボットのように緩慢としていた。

 

 お年寄りみたいって言われないだけマシかもなのかもしれないが。

 

「あはは……思ってたよりも腰にくるよね。それにさ、こんなに雑草だらけだったっけ」

 

 蛍の実家の庭ほどの面積はないが、それでも辺り一面雑草というか、緑の草が生い茂っていて辟易としてしまう。

 

 ”二人がかりでやればすぐに終わるかもね”。

 

 なんて、軽い感じで考えていたちょっと前の自分の浅はかさに赤面してしまう。

 

「だったら、もうちょっとだけ頑張ろ蛍ちゃん。あとちょっとの辛抱だからっ」

 

「あ、うん」

 

 青空みたいな笑顔で燐はくすっと笑う。

 

 少し日に焼けた肌が、夏であることを改めて実感させた。

 

「ふぅ……っ」

 

 暑いなあ。

 

 とっても。

 

 簡単な登山やアウトドアでも違和感なく着れる、フードの付いたグレーのワンピースに、トレッキングシューズという、ちょっと半端かな? という出で立ちでここまで来てしまったけど、やはり気軽にハイキングという場所では到底なかった。

 

(まあ、難しいのは恰好だけでないことは知ってるけど……)

 

 せっかくだから少しでも可愛い服でと思ったのだが、まだ色々甘く見ていたらしい。

 

 夏の山を。

 自分の体力を。

 

 その後の作業のことを。

 

 軍手や鎌は予め用意してきたけど、ここまで腰に来るなんて。

 

 ある程度標高があるせいからかもしれないが、庭の草むしりなんかよりもずっと辛くて、苦しかった。

 

「はぁっ、はぁ……せっかく、ここまで早く来ることができたのに……」

 

 頑張って山を登った先に待っていたのがこんな重労働だなんて。

 

(でも、山を管理する人達もこんな思いで作業とかしてるのかな……)

 

 前に燐が言っていたが、そう言ったことは殆どがボランティア活動なのだという。

 

 燐も聡さんと一緒に参加したことがあるそうだし。

 

 そう思うと、ごく普通の管理された山に登るのにすらも頭が下がる思いになる。

 

 登山道の整備や山のごみ拾いなどはそう言った”善意”から成り立っているのだと。

 

(わたし達がやっていることも、”善意”なのかな……? 正直どうでもいいけど)

 

 想いとかそういうのよりも、身体の苦痛から解放されたい気持ちの方が強かった。

 

 ただでさえ、登山で疲れているんだし。

 

 燐はともかく自分は……。

 

 草や地面とにらめっこするのにいい加減飽きたのか、蛍は逃避するように二人分のバックバックが仲良く置かれている灌木の方に目を向けた。

 

 そこには少し傷の付いた、蛍のトレッキングポールがくたびれたように立てかけてもあった。

 

 今回の登山もやはりトレッキングポールを持って臨んだけど、これなしではもう登れないのではと思うほど、蛍の手足となっていた。

 

 たった一度行ったからといって、そう直ぐにこの”ナナシ山”に慣れるものではなかったし、それにトレッキングポールの使い方もようやくわかるようになった気がする。

 

 ──”ナナシ山”は燐ではなく蛍が名付けた、今二人の居るこの山(蛍の家、つまり三間坂家が所有している)の名前で、今回再度登山するにあたって、命名することにしたのだ。

 

 もちろん正式に名乗るとか、そういう申請を出すこともなく、あくまで二人だけの愛称として通っているだけだった。

 

 ナナシ山は雨のせいなのか、前に来た時よりも草木が生い茂っていて、さながら異界の地のジャングルのような有り様となっていた。

 

 だから、蛍も燐も辟易としてしまったのだけれど、折角来たのだから戻るような真似はせず、時間をかけてでも辿り着こうと手を取り合い、暑い中またここにやってきたのだが。

 

 そう、あの変なことが起きた、”石碑の前”に。

 

(辛いなぁ、本当に。でも燐はそうでもない感じだよね。そこまで薄着ってわけでもないんだけど……)

 

 蛍は隣で一緒に作業している燐の姿を上から下まで眺める。

 

 燐は、”これから富士山登頂に行く”と言っても違和感のない本格的なアウトドアな格好だから問題ないけど。

 

 トップスは今日の空みたいに鮮やかな空色のフーデッドベストに、その下は殆ど燐の普段着となっているベースレイヤー。

 

 黒のベースレイヤーは新しいものらしく、見た目は全く同じにしか見えないが、燐は機能性の違いや微妙な着心地の差に、歩きながらひとりで一喜一憂していた。

 

 下は長ズボンでも短パンでもなく、やはり動きやすさを重視した少し濃い目のマゼンタの撒きスカートを履いて、その下に燐のお気に入りの黒いニーソックスを着用していた。

 

 それにちょっと小ぶりだけどサイズピッタリの、色が可愛いイエローのトレッキングシューズを足に履いていた。

 

 今日は全体的に派手目な燐のコーディネートだが、山ではこれぐらいカラフルな方が何かあった時に見つけやすいから良いのだという。

 

 どっちかと言えば女の子らしい格好だったので蛍はちょっと安心した。

 

 やっぱり燐だってフツーの女の子なんだから。

 

 けれど、いわゆる女の子らしい格好をした燐の姿を蛍はあまり見た記憶がない。

 せいぜい学校の制服ぐらいで。

 

 部活だって、ホッケー部だから普通のユニフォーム姿だし。

 

 前にその事を燐に聞いたら。

 

『わたしだって、フツーの服ぐらいあるんだよ』

 

 と、本人は不満げに漏らしてたけれど。

 

 燐には可愛らしい服装が絶対に似合うとは思っているのだが、一緒に買い物に行くのもいつものアウトドア関連のショップかスポーツ用品店ばかりになってしまう。

 

 機能性があって、着心地がいいのが好きなのは分かってるのだけれど。

 

 センスには問題がないはずなので、そういうのを選ばないのは自信がないのか、それともワザとそういう服を着ないのか。

 

 どちらにしても勿体ないことだと、蛍はいつも思っていた。

 

「はううっ……!」

 

 どうでもいい考えに浸る蛍に、容赦なく日差しが照り付ける。

 

 眩しいと言うより、痛い。

 

 夏の日差しの鋭さに、蛍は思わず悲鳴のような声をあげてしまった。

 

 山歩きして、すぐに草むしりをすることになるなんて。

 

 計画したのは自分だけど、もう少し配慮とかした方が良いと思う。

 

 身体は一つしかないんだから。

 

(どうしよう、頭がどうにかなりそう……)

 

 蛍も燐も帽子は被っているのだが、それでもこの強い日差しを完全に遮ることは出来なかった。

 

 水はまだ残ってはいるが、飲んだ分だけ汗が滴ってくるから、実質無駄な気持ちになってしまう。

 

「お疲れ様ー、蛍ちゃん。ちょっと休憩しよ」

 

 一仕事終えたときは既にお昼を過ぎていた。

 

 これでも前回よりは断然早い時間で来ることができたし、その分作業も出来たのだが。

 

「ぐっ、んぐっ」

 

 堰を切ったように、蛍は持ってきた水筒に直接口につける。

 アウトドア用のだからか、入れた氷がまだ微かに残っていた。

 

「ふぃー、まあ、こんなもんでしょ」

 

 汗を拭った燐がさっぱりしたようにそう呟いた。

 

 事実、二人が来る前は鬱蒼とした草の生え揃った、誰も来ることのない山の奥地そのもののような場所だったのだが、頑張ったおかげか今は小ざっぱりとした見栄えの良い場所になっている。

 

 と、言っても細かな雑草を抜いて、石碑を軽く拭いただけぐらいなんだけれど。

 

「でもさ、近くに水が流れてる場所があって良かったよね。まあ……流石に飲むのにはまだちょっと抵抗あるけど……」

 

 前にもあったのかは定かではないのだが、木立の窪んだところに雨水をため込んだような小さな水溜まりがあった。

 

 どこからか水が湧き出ているのか、思っていたよりも水が澄んでいたのでとりあえず持ってきたタオルを水に含ませてみたのだが……。

 

 深く水で浸してもタオルの色に変化はない。

 真っ白なままだ。

 

 でも、と。

 燐はタオルを鼻に近づけてみた。

 

(少し爽やかな感じ、する?)

 

 変な匂いもしないし、水を含んだタオルが手にべとつくような感じもない。

 

 それでもやはり飲むような真似は流石にしなかったが。

 

 ただ、石碑をタオルで擦ったら汚れが相当ひどいのか、直ぐに真っ黒けになってしまった。

 

 洗って拭くを何度か繰り返してようやく本来の、石っぽい色に戻った気がする。

 

 あの時見た、血のような赤い色素の色味は石碑どころか、小さな水溜まりにも一切見られなかった。

 

「あ、蛍ちゃんわたしがやるからいいのに」

 

「これぐらい、わたしでもできるよ」

 

 線香の束に柄の長いライターで火をつける。

 小さな炎が、線香の先端を黒く焼く。

 

 独特の匂いと煙が、開けた森の奥を厳かな雰囲気にさせていた。

 

「……」

 

 二人はしばらく何も言うこともなくその光景を見つめていたが、やがて照らし合わせたように石碑に向かって手を合わせた。

 

 一時の間、燐と蛍は瞼を閉じる。

 

 互いの胸中に浮かぶものは何だったのか──。

 

 それを知る由は互いにはなかった。

 

「──ねぇ、蛍ちゃん。どうして、またここに?」

 

 ぱちっと瞼を開けた燐が、抱えていた疑問を蛍に投げかけた。

 

 前から行きたいと言ったのは知ってたし、花や線香も用意してきたから大体の目的は分かっている。

 

 分からないのはその動機と……理由。

 あと、時期とか。

 

 まあ、時期はお盆を過ぎた辺りだから、分からないこともないけど。

 

 今、どうしてもやっておきたい。

 そんな気概のようなものを、蛍の表情に燐は感じ取ったから。

 

(道のりの疲れから険しい表情になっていた、というのかもしれないけど、さ)

 

 何よりこの場所では特にいいことと言うか、正直、碌な事がなかったから。

 

(また変なことに巻き込まれるのは嫌だからね)

 

 最近になって二度も、向こうの(青いドアの)世界に行ってしまっているし。

 

 よく戻ってこれたものだと、自分たちでも信じられないほどだったから。

 

 それに、見た目こそよく似ているが、前の、良く知っていた青いドアの世界とは全然違くなっている気がする。

 

 何というか、その気になればいつまでも向こうに居られるというか。

 

 見えない檻に囚われている。

 そんな気にもさせた。

 

 そのせいなのかは分からないが、向こうとこちらの境界線がひどく薄くなっている気がする。

 

 何が原因なのだろうと二人は頭を巡らせても答えは出なかった。

 

 それらには全く思い当たる節がない……のではなく、むしろ理由というか事象がありすぎて何に焦点を絞ればいいのか分からないからだった。

 

 異変の時の前兆があったのかは定かではない。

 誰が教えてくれるわけでもないし。

 

 けれど、何か。

 

 歪みというか、とても重要な事が起こるような、そんな予感のような戸惑いが日々募ってくる。

 

 二人にとって、とても重要な事が。

 

 ただ単に気をもんでいるだけかもしれないが、今の内にやるだけの事はやっておこうと思った。

 

「燐は、ここ、嫌いなんでしょ。変なことばかり起こったし」

 

 長い間瞳を伏せていた蛍が目を開けてにっこりと微笑む。

 見透かしたような蛍の物言いに、燐は苦笑して答えた。

 

「ん、まぁね。でも、蛍ちゃんはそうでもないの?」

 

「わたしは……」

 

 そう言って蛍はふと上を見上げた。

 

 燻された白檀の香りを纏った白い煙が、導かれたようにまっすぐにずっと伸びていた。

 

 木々の合間を縫って筋が空に向かっていく様子は、煙というより、青い空に浮かんだ白い絹糸のようだった。

 

「もしかしたらだけどね」

 

「ん?」

 

「わたしも状況によっては、()()()()()入っていたのかなって、時々思うの」

 

「それって……」

 

 燐は思わず石碑に書いてある文字を読む。

 

(さんじゅう……に)

 

 綺麗になっても読めるのはせいぜいこの文字ぐらいで、後の文字は未だ判然としない。

 

 聡が記した(と思われる)ノートには”さんじゅうににんころし”とだけ書きなぐってあったが、ここと関連があるのかはまだよくわかっていない。

 

 おなじような事が偶然書いてあるだけで。

 

「多分、なんだけどさ」

 

「うん……」

 

 蛍は一度言葉を置くと、何かを確かめるように胸元で握りこぶしを作った。

 

 そして大きく息を吐いた後、意を決したように話し出した。

 

 燐も息を呑み込んでいた。

 

「ここって、()()()()()()なんじゃないのかって思ってるの。あ、もちろん根拠はないよ。ただそれがしっくりくるかなってだけで」

 

 蛍は目線を再び空に映す。

 

 白い煙の消えていった先をぼんやり見つめる蛍。

 燐も黙って同じ方を眺めた。

 

「あの煙の消えた先……燐にも分かるよね。あっちってわたしの家の方角なの。ここからでも屋根の上あたりがちょこっとだけ見えるんだよ」

 

「蛍ちゃん家の屋根? あれがそう……なの? よく分かったね。わたしにはちょっと」

 

 燐は背伸びをしたり、ぴょんぴょん飛び跳ねてもみたのだが、蛍の言うような屋根の端が上手く見つけられなかった。

 

 そんなに身長差があるとは思わなかったが。

 

 方角的には確かに合っているとは思っているのだけれど。

 

「直感……じゃないと思うの。そういう意味なんじゃないかと思ってる」

 

「それって?」

 

 何かを分かったような蛍の言葉に燐は小首をかしげながら、まだ煙の流れて行った先を食い入るように見つめていた。

 

「あの、”テルテル坊主”」

 

「えっ!?」

 

 燐は驚いて蛍の方を向き直った。

 

 蛍は……まっすぐに燐の方を見つめている。

 少し思い詰めたような、強張った表情のままで。

 

「燐。あの時のテルテル坊主って幾つ吊るされていたか覚えてる?」

 

「えぇっ!」

 

 不意の質問に燐は面食らってしまった。

 

 あの時って……きっと、あの時の事だよね。

 

 燐は逡巡する。

 多分蛍が言っているのは。

 

(あの、向こうの、”もう一つの蛍ちゃんち”でのこと、だよね……多分)

 

 確かに一番上の部屋にはたくさんのテルテル坊主が上から吊るされていた、と思う。

 

 どうもその時のことを確信持って言えないのは、きっと”今こうしている事の方”が信じられないからだった。

 

(助からないと思ったもんね。今度こそ)

 

 相当な高さから下に落ちたから。

 例え下が水だったとしても助かるものではなかった。

 

 それなのに今こうして二人で他愛もない話をしている。

 

 そのことの方が印象に残っているというか、それしか殆ど頭に残ってなかった。

 

 ──どちらの事の方が夢なのか分からないぐらいに。

 

 それは無理もないことで、向こうの世界での事の大きさから、小さなテルテル坊主の事を燐があまり覚えてなくても仕方がないことだった。

 

「ご、ごめん。テルテル坊主があったことは確かに覚えてるんだけど、幾つかまでは気にしてなかったなぁ。色んな顔があったのだけは覚えてるんだけどね」

 

 燐は若干言い訳めいた言葉を綴る。

 自分で言って恥ずかしいのか、首の後ろの辺りを手でぽりぽりとかいていた。

 

「燐、ごめん。わたしも数まではキチンと覚えてないの。ただ……もしかしたらあの数だけあったんじゃないかなって思っただけなんだ」

 

(数って……)

 

 蛍は具体的な数字を上げなかったが、きっとあの数字のことだろうとは燐も分かっていた。

 

 つまり蛍が言いたいことは。

 

「石碑とノートに書かれた数と一緒かって事が言いたいんだよね、蛍ちゃん」

 

 蛍は複雑な表情でこくんと頷く。

 

(そういうことね)

 

 燐は理解した。

 

 蛍のいう”そういう事”とはその意味なんだと。

 

 ”さんじゅうに”、とはこれまで座敷童が繰り返してきた数。

 

 だから、蛍の家──三間坂家が見える方向にあるものだと。

 

 何度同じことが繰り返されたとしても。

 

 座敷童が描いていた願いや想いを。

 

 ──忘れない。

 

 そう、後世に伝えるように。

 

「だったらさ、誰がそのテルテル坊主を作ったのかな。もう、わたし達以外でその事を知っている人って居ないわけでしょ、だから……」

 

 燐は自分の言葉が言い終わらない内に口を閉じた。

 

 分かっていたことだった。

 そんな事が出来るのはたった一人しかいないことを。

 

「じゃあ、あの部屋ってオオモト様の……!?」

 

「多分……」

 

 ふたりは思わず顔を見合わせる。

 

 けれどもお互いに明確な答えを持っているわけではない。

 

 蛍だって精々仮定の範囲なだけで、確固たる証拠があるわけではなかった。

 

「間違いじゃないね、きっと。オオモト様、そういうことしそうだし」

 

「うん。わたしもそんな感じがするの。作りながら悲しんでたんだと思う。こんなことがいつまで続くのかって」

 

「終わったのかな? もうそういう、連鎖みたいなの」

 

「どう……だろうね」

 

 蛍は曖昧に口を濁した。

 

 少女たちの言葉が止まり、辺りは羽虫のざわめきと新緑のさざなみが温い風と共に流れていた。

 

「ねぇ、蛍ちゃん」

 

「なぁに?」

 

「そろそろお昼にしない? わたしさっきからお腹ぐーぐー鳴っちゃってて」

 

 恥ずかしそうにお腹を押さえる燐に応えるように、お腹の虫が主張するように一際大きくぐーとなった。

 

 身もだえする燐。

 蛍は泣き笑いのような、はにかんだ笑顔になった。

 

 ──

 ──

 ──

 

「なんかちょっと不思議な気分だね。ここで食事とるの」

 

「そういえば初めてかもね」

 

 燐と蛍は石碑の前に陣取る形で少し遅めのランチをとることにした。

 

 テーブルはなく、二人は折り畳み式のローチェアに腰かけてそれぞれ同じ方向をみながら今日のランチを手にしていた。

 

 普通のサンドウィッチ、にしてはちょっと強く焦げ目がついている。

 

 それは燐が作ったものではなく。

 

 珍しく早く起きた蛍がひとりで作った、”パンサンド”。

 

 パンをお好みの具材でただ挟んで焼いただけのごくシンプルなパンだが、普通のトーストとはまた違った味わいのものが、ごく簡単に作れるのが特徴だった。

 

 最近はアウトドアで食べられることの多いパンサンドだけど、あれは直火で作るのが一般的だが、蛍が用意したのはホットサンドメーカーという専用の機器作ったもので、家庭用のトースターと違って失敗もしにくく、生地を流し込めばワッフルなんかも焼けるそこそこ便利なものだった。

 

 両面しっかり焼くから、具材の漏れる心配もなく、汁物を詰めても大丈夫だし、何より蛍が選んだ、ピンクのカラフルなデザインがお気に入りだったから。

 

 だから、蛍がパンを作るときは専らこのホットサンドメーカーだった。

 

 ただ……燐が寝ている間に用意していたから、中に何が入っているのかを燐はまだ知らない。

 

 山歩きや電車の中でも、蛍は頑として教えてくれなかったし。

 

 変な所で頑固だなぁとは思ったけど。

 

(まあ、食べられないものは流石に入っていない……よね? いくら何でも)

 

「じーっ」

 

 燐は手にしたパンと蛍を交互に見比べた。

 

「さ、燐。食べてみて」

 

 そう言って勧める蛍だったが、何故か燐の方をちらちら見るばかりでパンを手にしたきり食べようとはしていない。

 

 どうやら、燐が先に食べてくれることを無言で促しているようだった。

 

「えと、さ、蛍ちゃん。食べる前に中に何が入っているか聞いてもいーい?」

 

 燐は意を決して尋ねる。

 

 蛍の事を決して信じていないわけではないが、一応念には念を入れてみた。

 

 心配そうと言うよりもずっとニコニコとしてるから、蛍ちゃん。

 

「んー、わたしが美味しいと思った物しか入れてないよ」

 

「あはは、それはそう、だよね。変なものは入れないよね、普通」

 

 軽くいなされてしまった。

 

 謎かけみたいな曖昧な蛍の返事に、燐は取り繕った笑みを浮かべた。

 

(もう、結局何のさ……)

 

 生クリームが苦手なのは分かっている。

 それでも蛍は甘党なのだから。

 

(と、なると、やっぱり……アレ、かな)

 

 以前自分で作ったフルーツサンドを燐は思い出していた。

 

 その時もこのナナシ山に来ていたときだったから、蛍の意趣返し? なのかもしれない。

 

 蛍はこういうフルーツサンドみたいな甘いものが好きなんだと言う主張っていうか推しみたいなものを。

 

 そう考えたら気が楽になったのか、催促をするように燐のお腹が小さく鳴った。

 

 自分以外聞こえそうにない程小さな音だったが、燐にはそれがとても恥ずかしく、特に蛍にはもう聞かれたくなかったので、誤魔化すようにパンサンドを躊躇なく一気に口の中へと入れた。

 

 それを見た蛍があっ、と何かを危惧するような声を上げたのだが、燐には一瞬届かず、そのままもしゃもしゃと咀嚼していた。

 

「うむむっっ!?」

 

 普通に美味しそうに食べていたと思っていた燐が急に奇妙な声を上げた。

 

 それは燐の舌で予想していた味も食感もまるで別物だったからだ。

 

 吐き出すほどではないのだが、この確かな()()()は???

 

 燐が瞳を潤ませて蛍に訴えてきたので、申し訳なさそうに眉を下げて蛍はネタ晴らしをした。

 

「えっと、それにはね、確か、納豆とオクラとモロヘイヤがいれてあるの。登山で疲れるからスタミナ付けたほうがいいのかなって思って」

 

 なるほど、それは一理あるチョイスだとは思った。

 

 しかし、燐は明らかに甘いものを想像していたから、予想を反した食材の組み合わせに口内が拒絶反応を起こしたみたいになっていた。

 

「……っ」

 

 燐は露骨に嫌な顔をしながら、仕方なさそうに口をもごもごと動かす。

 

 不味い訳ではない。

 けどやはり、どこか納得のいかない顔の燐であった。

 

 ぷはっ、とようやく息が出来たみたいに、燐が口を開ける。

 

 結局残さず全部食べてしまったし、蛍の選んだ食材の組み合わせも思ってたほどは悪くはなかった。

 

 むしろヘルシーで女子向けだったと思う。

 

 しかし燐にはどうしても納得できないことがあった。

 

「蛍ちゃんって、納豆好きだったっけ?」

 

 ねばねばしたものとか苦手そうなイメージがあったから聞いてみたのだが。

 一緒に暮らしても食べたような記憶もないし。

 

「以外、だった? わたしねばねばなの結構好きだよ。あ、でも好んで食べるようなことはあんまりしないけど」

 

 それは本当に好きなのだろうか。

 燐は口から出かかった言葉を無理やりに呑み込んだ。

 

「じゃあこっちのは?」

 

 燐はもう一つのパンの方も聞いてみた。

 持った時の重さが違うから同じものではない気がした。

 

「そっちは割と普通だよ」

 

 蛍もいつの間にか燐と同じものを一つ食べ終えていた。

 そして同じように二つ目に取り掛かろうとしている。

 

 顔には見せなかったが、意外と蛍もお腹が空いていたようだった。

 

 でも、やっぱり先に口を付けようとはしないで、燐の反応を待っているようだった。

 

「そうなの? だったら」

 

 普通という言葉に妙な安堵感を覚えたのか、燐は今度こそ全力でかぶりつこうと思った。

 

 が。

 

 悪気はないとはいえ、やはり警戒してちょっとづつ食べることにした。

 

 一度に全部口にいれなければならない道義(ルール)があるわけでもないし。

 

「あれっ! 蛍ちゃんっ、これも”伸びる”よっ!」

 

 一口目で違和感を感じた燐は、パンを加えたまま引っ張ってみせる。

 

 にょーん、と白いひも状の”粘り”が、小さな燐の口から糸のように伸びていた。

 

 むにゅむにゅとした食感のこれは……。

 

「あ、それは”おもち”だよ。お餅とチーズと明太子を入れてみたの。どう燐、美味しい?」

 

「え、うんーっと」

 

(パンにお餅かぁ……)

 

 燐は、”普通”の基準が良く分からなくなりそうになっていたが、そのことを議論することは無く、同じようにもぐもぐと口を忙しなく動かした。

 

「ま、まぁ面白い、のかもね。けど、変わったの沢山作ったんだね。ウチのパンの新商品でも結構変わりもの作るんだけど、蛍ちゃんのは何かこう……”別格”ってカンジ」

 

 燐の家のパン屋でも季節に合わせた総菜パンだけでなく、ほとんど週一で新作のパンを母親が作ってくるから、色々な組み合わせ方があることは知ってはいるんだけど。

 

 まさかこんな所でその、余波みたいなものを感じ取ってしまうだなんて。

 

(まあ、蛍ちゃんだってわたしと一緒に色んなパンを試食してるからねぇ)

 

 もしかしたら、感化されたのかもしれない。

 

 変なものといか、変わったパンを作ってみることに。

 

 二人は、森と空と線香の混ざった香りに包まれながら、変わったパンのランチを頼んだ。

 

 最後のパンは燐の予想通り甘い、あずきとバターのアンバター風パンサンドだった。

 

「ごちそうさま、蛍ちゃん。すっごく美味しかった」

 

「どういたしまして」

 

 朝、昼とパンばかりだったのは置いといて、予想以上にお腹が膨れてしまっていた。

 

 燐は、食後のカフェオレを飲みながら、少し前から内に秘めていたことをこの機会に蛍に話してみることにした。

 

「なんか、蛍ちゃんの方がわたしよりもパン屋さん向いてるのかもね。わたしは何かどうも乗り気にならないんだよね。お母さんのしてることは十分認めてるんだけど」

 

 ”青いドアのパン屋さん”だってオープンしてもうすぐ一年経つけど未だにどうもしっくりこないっていうか、燐の中での現実感で全てぴったり浸透しているとは言い難かった。

 

 時間の上でも、気持ちの上でも空白の時間があったせいかは分からない。

 

 まだ微睡みの中というか、どうにも夢の中のイメージから抜け出せなかった。

 

 何もかもが上手く言っている事が嘘みたいに思えてしまう。

 

 何一つ受け入れられないわけではない。

 いつまでも夢見る少女のままなんてことはないことは知ってるし。

 

 けど、どこかでまだ前の──あまり良くなかった頃の暮らしが。

 

 喧嘩しながらも両親と一緒に過ごしていた、あの中古のマンションの面影がまだ燐の中に残っていた。

 

 店の名前を決めさせてくれたのに、それでも何か愛着が湧かないのは心の隅で否定している自分がまだいるから。

 

 何をしていてもどこか上の空なのは、多分そのせいだろうと思ってる。

 

 二重否定していると言われても仕方がなかった。

 往生際が悪いのだとはずっと思ってはいるんだけど。

 

「実はわたしも結構向いてるんじゃないかなってちょっと思ってた。わたし燐の家に臨時のバイトじゃなくて、正式に雇ってもらいたいなって思ってたの」

 

「本当に? そうなの、蛍ちゃん?」

 

「うん。雇ってもらえるかは別だけどね」

 

「蛍ちゃんなら大丈夫だよ。うちのお母さん蛍ちゃんのこと大分気に入ってるし」

 

「それなら良いんだけどね」

 

「もしダメだったら、わたしからお母さんに言うから大丈夫だよ」

 

「ふふ、だったら期待しちゃうからね」

 

 燐としてはからかい半分で言ったことなのだが、蛍は強く頷いた。

 

 先を見据えた真っ直ぐな瞳で。

 

「何かね、燐のとこでパン焼いたり、お店の手伝いとかしてると楽しいの。わたしまともバイトとかしたことなかったから、こういう事が自分に出来るんだって自分でもびっくりしてるんだ」

 

 楽しそうに語る蛍は燐よりも一歩先立っている印象があった。

 

 少しの違和感を感じないほどに。

 

「まあ、蛍ちゃんは由緒正しい箱入りのお嬢様だったからね。経験ないのは仕方ないよ」

 

「その”由緒”ももうじきなくなるけどね」

 

 蛍は小さく微笑む。

 その顔には三間坂の名に何の思い入れももう持ってないようだった。

 

 むしろ重い荷物をようやく下ろしたような安堵さえ垣間見えるほど。

 

 (てら)いのない透明な笑顔。

 

 きっと、それこそが彼女の蛍本来の微笑みなのだろう。

 

 少し控えめに笑う蛍を見て、燐は初めて蛍が笑うのを目の当たりにしたような衝撃を胸の内に受けた。

 

 それはもちろん悪い意味ではなく、むしろ好意的なものだった。

 

「燐は、パン屋さんやらないの? まあ、燐は器用だからなんでも出来そうな気はするけど」

 

「そういう事じゃないけど……なんか、違うのかなって。別に嫌いっていうわけじゃないんだけど」

 

 燐がそれっきり口を閉ざしたので、蛍はまた石碑の方に目を向けた。

 

(あ、そういえば)

 

「ねぇ、燐。さっきコンビニ寄った時、何か買ってたよね。お菓子じゃなくて、何か変わったものだったような?」

 

 ナナシ山に来る前に燐と二人でコンビニで足りないものを調達したのだが、その時、燐がなにやら内緒に買っていたことを今、急に思い出した。

 

 何か変な、いかがわしいものではなかったと思うけど。

 

 そんなのがコンビニにあるとは思ってはいないし。

 

「流石、蛍ちゃんには隠し事できないね。あ、もちろん変なものじゃないよ。わたしが買ったの」

 

 はい、と燐がバックパックから取り出したのは、細長いチューブ状のものが4つ、袋詰めにされているものだった。

 

「燐、これ、”ちゅるちゅる”だよね!? やっぱり燐って……」

 

 蛍はなんというか複雑な目で見つめた。

 

「ちょ、わたしが食べるためじゃないってぇ。もぉー」

 

 ぷくっと頬を膨らませる燐。

 蛍は手を振って謝罪した。

 

「ごめんごめん。でも、何でこんなものを?」

 

「あ、うん……これネコ用のじゃなくて、”犬用のちゅるちゅる”だよ。ほら」

 

「あ、本当だ」

 

 製品の見た目は殆ど変わりないが、愛くるしい顔の二匹の犬(チワワとコーギー)の写真がパッケージに書いてあるからそうなんだろう。

 

 それに成分とかも少し違っているらしいが、やはり見た目では少し分かりづらかった。

 

「この場所って、”変な事”が、あったじゃない。だからもしかしたら来るかもって……」

 

 燐は少し切なそうに言葉を零す。

 

(来るって……)

 

 蛍は頭を捻るも、すぐにその答えを導きだした。

 

「あ、そうか。サトくん……!?」

 

「うん、あたり。もし、サトくんに出会えたら食べさせてあげようと思って買ってきたんだ」

 

「なるほどー」

 

 白い犬──サトくんはあの異変の後、どうやら普通の犬に戻ったみたいだったが、その後どこかの家で飼われたとかの話を聞くこともなく、ここ小平口町近辺をうろうろする地域犬となっていた。

 

 それは何時しか町のシンボル兼、マスコットとなり、町おこしの一環としてキャラクター化もされたのだけれど。

 

「サトくん。あっちこっち行ってるみたいだね。ネット上でやっとサトくんと出会えたって投稿、結構見ることあるよ」

 

「うん。そうみたいだね。サトくんを生で見るためだけに県外からくる人も結構いるんだって」

 

 燐も蛍もその辺りの事は把握していた。

 そしてそれはSNS上だけでなく、町全体にも広がっていた。

 

「だから、”幸運を呼ぶ白い犬”って呼ばれてるんでしょ、サトくん。本人……本犬はいい迷惑かもしれないけど」

 

「でも、餌には困らないみたい。サトくんが来るだけで幸運になるからって、食べ物とか色々貰ってるみたいだしね」

 

「なんかさ、サトくんの方が座敷童みたいだね。これだと」

 

「あはは、本当に」

 

 もちろんサトくんにそんな力はない。

 

 それでも町の活性化に一役買っている事は事実であり、そういう意味では幸運を呼ぶ白い犬というのはあながち間違ってはいなかった。

 

 ただ、燐も蛍も今のサトくんに複雑な思いがあるのだが。

 

「やっぱりペット可のマンションにすればよかったね。そうすれば燐だって──」

 

「蛍ちゃん、それは違うよ。わたしは、サトくんをペットにしたいわけじゃないから」

 

 燐は柔らかく首を振る。

 確かに蛍の言うように、サトくんとずっと一緒に暮らせれば楽しいとは思っているけど。

 

「サトくんは、自由が良いんだよ、きっと」

 

「自由? そうなの??」

 

 蛍はきょとんとした声をあげる。

 

「青空の下、何者にも縛られない、そんな自由な生き方をして欲しいんだサトくんには。わたしの勝手だとは思ってるけどね」

 

(燐……)

 

 多分それは、燐自身がしたかったことなのだろう。

 蛍にはそれが分かっていた。

 

 何のしがらみもなく自由に飛びたかったんだろうと思う。

 

 それが燐という少女の本来の姿なんだろうと。

 

「後悔してる?」

 

 唐突に言葉を投げられて、燐は一瞬驚きの表情をみせたが。

 

「ううん、そんなこと。だって蛍ちゃんがいるから」

 

「わたしもだよ。燐がいるから後悔なんてない。この先どんな道になったって構わないよ。だって燐がいるんだもん」

 

「わたしも同じ気持ち。蛍ちゃんがいるから戻ってこれたの。わたしがこうして話をしたり何かが出来るのは、全部蛍ちゃんのおかげだよ」

 

「燐……!」

 

「ありがとう蛍ちゃん、わたしを、忘れないでいてくれて。大好きだよずっと」

 

 思いもかけない燐の言葉に蛍は急に胸が熱くなった。

 

 嬉しい。

 その感情で一杯だった。

 

「それなら、良かった……本当に」

 

 蛍は目を擦る。

 何の役にも立たないと思った自分が、ようやく認められた気持ちになったから。

 

 それも、蛍にとって一番大切で、好きな人に。

 

 我慢しようとすればするほど、ぽろぽろと目から零れてくる。

 

 泣き顔を見られたくないからか、蛍は腕で顔を隠した。

 

 燐もそっと目元を拭う。

 

 嬉しい気持ちは同じ、だった。

 

「……サトくん、来るかな」

 

「来ると……いいね」

 

 ふたりはしばらくの間、何も話さなかった。

 

 硝子色の蜻蛉や、あまり見ない大きな黒い蝶がひらひらと辺りを飛び回っても、白い犬が来るその時をじっと待っていた。

 

 可能性の薄い事だと知ってはいても。

 

 青い雲が二人の少女を見下ろしていた。

 

 いくら待ってもサトくんは来なかったが、それでも穏やかな時間がそこにはあった。

 

「燐、あのさ、ちょっと頼まれて欲しいことがあるんだけど、どうかな?」

 

「ん……何、蛍ちゃん?」

 

「うん」

 

 意を決したように言った蛍に燐が微睡んだ返事を返すと、それっきり口を閉ざしてしまった。

 

(あれ? 何か変なこと言っちゃった、のかな)

 

 燐は一瞬難しい顔をしたが、特に何も言う事もなく、柔らかい目で蛍と同じ方向に視線をやった。

 

 さあっと、風が抜ける。

 

 長い髪が舞い上がっても視線は同じ方向に注がれたままだった。

 

「この石碑さ……もう壊したほうがいいのかなって」

 

「壊すって、蛍ちゃん!?」

 

「だってさ、もう意味ないよこれ。この町にはもう()()()()()()()()()()()()、こんなものがあったって何も伝えるものなんかもうないよ」

 

「で、でも、それじゃあ」

 

 抑揚なく淡々と言葉を繋ぐ蛍に、燐は何か言おうとはしたのだがまだ言っている事の理解が追い付かないのか、適切な言葉が何も頭に浮かんでなこなかった。

 

 肯定とも否定ともとれる燐の呟きに、蛍は困った顔で微笑み返す。

 

 言った蛍自身も分かっていない、そんな顔をしていた。

 

「ごめん。せっかく燐が綺麗にしてくれたのに、変なこと言って」

 

「それはいいけど……蛍ちゃんだって暑い中、一緒に掃除してたじゃない」

 

「確かに、汗だくになっちゃったよね。ごめん、この埋め合わせは後で必ずするから」

 

「だから、それはいいよ。でも……蛍ちゃんは本当にそれでいいの? だって、ここって……座敷童のお墓なんでしょ? それってつまり」

 

 もし蛍の言うように座敷童の為のものなら、この場所とは彼女たちが居たことへの唯一の証明であり、像でもある。

 

(つまり、それって蛍ちゃんのお母さんも……)

 

 ここにいると言う事なのでは。

 

「燐が、言いたがってること、分かるよ。それでももう無くなったほうがいいと思う」

 

「やっぱりダメかな? 燐は当然反対するよね」

 

 そうなることが分かっていたように、蛍は話を続けながら、くすっと笑う。

 

 透明な笑顔は邪な考えなど微塵もないように見えた。

 

「それは、まぁ、ね」

 

 それが良く分かっているから燐も笑って返す。

 諦めや呆れなどではなく、純粋に分かっているから。

 

 蛍の、本当の気持ちが。

 

「分かってるよ。最初に来た時だったけ、そんな風なこと蛍ちゃん、言ってなかった? ちょっとびっくりしちゃったけど、何か思う所があるんだろうなってわたしは思ってる。だって、悩んだ上の答えなんでしょ」

 

「……燐」

 

「前にも行ったでしょ。わたし結構一途なんだって。だから大丈夫、例え何があったって蛍ちゃんの味方だよ。それにさ」

 

 燐は何を思ったのか自身のバックパックを開いた。

 

 その中には。

 

「そう言うんじゃないかなって用意もしてあるんだよ」

 

 小さいけどしっかりした感じのスコップとシャベル、それとピッケルもあった。

 

 野外では持ってると便利なものだが、それぞれの道具の用途は蛍のしたいことと合致しているものばかりだった。

 

「あ、念のためこれも持ってきてあるんだよ」

 

 そう言って燐が差し出したのは、短冊状の白い紙。

 表面には何やら文字と模様が刻まれている。

 

 これは一般的に言って。

 

「これって、”お札”? 燐、なんでこんなものも?」

 

 蛍は目を丸くして尋ねる。

 

「ほら、前ここで変な事が起きたでしょ。だから一応用意してもらってたの。あっ、ちゃんとお祓いしてもらった”由緒ある”ものだからねっ」

 

 どこの神社とかは特に名言しなかったが、それなりなものらしいことをわざわざ燐は付け加えた。

 

 確かに燐はよくわかっているようだった。

 

 蛍の事を。

 分かり過ぎるほどに。

 

(そういえばあの時だって、燐が用意してくれたんだったって言ってた)

 

 蛍が燐の母親──咲良に介抱してもらった時、こうなることを見越していたかのように適切なものを袋に入れて用意してくれていたのは娘だと言っていた。

 

 それが燐だったのだとしたら。

 

(やっぱり燐は、ちょっと違う?)

 

 戻ってきてからの燐は何も変わってなかったけど、勘みたいなものが強くなっているような……。

 

 座敷童()とも違う。

 

 むしろオオモト様──。

 

 座敷童の大本に近い。

 それを燐から感じる。

 

(燐は、自分で気づいていないみたいだけど)

 

 蛍はちらっと燐の顔を窺う。

 

 燐は何だか分からずに小首を傾げて、無垢な笑みを浮かべていた。

 

「それにさ、実はわたしもちょっと気になってたんだよね。この石碑」

 

「燐も?」

 

 蛍は意外そうな声を上げる。

 燐には特に因縁というか、思い入れはない、そのはずだが。

 

「だって、ほら……あ、蛍ちゃんは覚えているかな。あの”ヒヒ”みたいなの。アイツも結局何だったのか分からないし、それに石碑の前で消えちゃったんだよ。跡形もなく」

 

 燐は何というか、恨めしい目つきであの時の不思議な出来事を語った。

 

「そういえば、そんな事あったね」

 

 下山を優先したからか、蛍としてはあまり覚えておく事象ではなかったけど、燐はずっと気にしていたみたいで、ぶつぶつと文句を言っている。

 

 やはり相手があのヒヒだからか、燐にとっては忌まわしい、けど忘れることの出来ない存在としてこびり付いてるのだろう。

 

 大事な人の片割れ。

 異変の時に別れた、もう片方だったから。

 

 例え、醜悪な様相やそれに見合った挙動をしていてもそれが彼の”本質”なのだから。

 

「石碑っていうより、この場所自体に何か特別なものがあるのかなって思ってるの。霊感とかそういうのじゃないのは分かってるんだけど」

 

「燐、分かるよそれ。雰囲気って言うのかな、空気感が違うよねここだけ」

 

「うん」

 

 蛍の言葉がしっくりきたようで燐は同意を示す。

 

 今日だって山に入った途端蝉の声が鳴り響いて耳をつんざくほどだったのに、この場所に来た途端、ぴたりと鳴き止んでいた。

 

 立ち入ってはいけない境界が引かれている。

 目に見えない天幕がこの場所にだけ覆っているみたいに。

 

 静謐が二人の周りで陽炎みたいにゆらゆらと揺れているみたいに。

 

「でも、ほんとは燐も反対なんでしょ。壊すのも動かしてみることも」

 

 蛍は小さく笑った後、確信したみたいに燐に言葉を投げた。

 

「んー。まぁ、ね。もう関わらないほうがいいとは思う。もう来ること自体も止めたほうがいいとは思ってるよ」

 

「そうだよね。燐なら」

 

 自分の言葉を否定されても蛍は嫌な顔一つ見せず、むしろ安堵しているようだった。

 

「でも」

 

 そう言って燐は一旦言葉を止めた後、蛍を見つめた。

 

 非難するような感じではなく、むしろ好奇心のある瞳で。

 

「でも、気になるんでしょ。どうしても」

 

「それはそうだけど、でも」

 

「だいじょうぶ」

 

 蛍が言い終わる前に燐がその手を握る。

 

「わたしはずっと蛍ちゃんの味方って言ったでしょ。それに。わたしだってやっぱり気になるもん」

 

「燐、いいの?」

 

「もちろんだよ」

 

 蛍は無意識に燐の手を握り返していた。

 

 お互いに汗ばんでいたけど、それが気にならない程、互いに握り合っていた。

 

 それは気持ちが一緒だったから。

 

「さて、方針も決まったし、さっさとやっちゃおうかぁ。誰が来るとも限らないし」

 

「うん。またあのヒヒみたいのが来たら嫌だしね」

 

 罪悪感が全くないわけではなかった。

 

 けれどそれ以上に好奇心、というより、知りたい思いの方がほんの少し強かったんだと思う。

 

 あの夜の異変から、今日に至るまでずっと巻き込まれただけだったから。

 

 自分達だけで出来る事なんて何もないと言われたとしても。

 

 自体が収まるのを指をくわえて見ているだけなんて、もう出来ない。

 

 見なければ、やらなければ良かった。

 そう思ったとしても後悔などない。 

 

 まだ動けるから。

 燐も、蛍も。

 

 その結果失うものなど、お互いの存在しかもう持ち合わせてなかった。

 

「とりあえず、押してみようか? いきなり動くかもしれないし」

 

 周辺の草むしりをしていた時の軍手をはめ直して、燐が石碑を指さす。

 

「そんな、ゲームみたいなことってある?」

 

 蛍は思った通りの言葉を口にした。

 

(でもまあ、いきなり地面を掘るよりかはいいかもね)

 

 石碑の周りは相変わらず赤色の土が露出している。

 ここだけ見ると、異世界みたいな場所に見えるほど不気味な印象がある。

 

 周りと比べてここの土だけ真っ赤だから。

 

 草を毟る際、軍手越しとは言え初めて触ってみたのだが、普通の土と何ら変わりはなかった。

 

 血の様に色が赤い以外は。

 

 だから、燐の仮説にはちょっぴり荒唐無稽だと思ってるけど、それでもこの赤い地面を掘り起こすよりかはまだ良い方なのではと蛍は考えていた。

 

(いくら何でも死体なんか、出てくるはずないよね。今更)

 

 小平口町だけに独自の風土が浸透しているかは分からないが、土葬という文化が残ってることは無いと思う。

 

 流石にこの時代だし。

 

 でも、もしかして……。

 

 蛍が地面の覗き見るかのように身を屈めようとした、その時だった。

 

「うそっ!? ほ、蛍ちゃんっ! 押したら、押したら動いちゃったよっっ!!」

 

「え……ほ、ほんとうなのっ!? 燐!」

 

 急に大声が聞こえたので、足元を見ていた蛍は不意を突かれたように顔を上げて燐に向かって叫んだ。

 

 燐が押したのは多分あの石碑のことだろう。

 

 その証拠に燐が石碑の前に立ち、あわあわと膝を鳴らしていた。

 

「そ、それでっ? 燐、どうなったの!?」

 

 蛍は燐の傍まで詰め寄る。

 燐は何故かこちらを見ようとはせず、震えながら俯いていた。

 

 何か……あったんだろうか?

 見てはいけないような、おぞましいものがあったとか。

 

 蛍は内心首を傾げながら、綺麗になった石碑を正面に見た。

 

 掃除の時に触った時はびくともしそうになかったのに、ちょっと触ったぐらいでこんなに簡単に動くだなんて。

 

 あれ……これ、でも。

 

(何も、変わっていない??)

 

 石碑の下の方を見ても何かが動いたような、擦った形跡は見当たらない。

 

 あんまりどころか何も動いていないみたいだ???

 

「あれ、燐。これってどういう……」

 

 蛍は自信なさげに隣にいる燐の横顔を覗き見る。

 

 燐の思い違い、と言うはないと思う。

 

 それとも何か、蛍には分からない別の異変が見つかったとか。

 

 ──蛍の中で緊張感が高まる。

 

 未だ何も言わない燐に、蛍は恐る恐る声をかけた。

 

「燐?」

 

 蛍は小声で呼びかける。

 急にふさぎ込んでしまった燐は一体何を、見てしまったのか。

 

 その真意が知りたかった。

 

「くすっ」

 

「えっ!?」

 

「あははははっっ!!」

 

「燐!?」

 

 大声で笑いだす燐。

 蛍は事態が呑み込めず困惑して狼狽える。

 

「燐、どうしたの!? 何か、何が視えたの?」

 

 蛍は燐の小さな肩を両手で包み込む。

 

 燐の首が上下に激しく降れても動転した蛍は自ら止めようとは一切考えなかった。

 

「ちょ、ちょっと蛍ちゃん、ま、待って……で、でちゃうから」

 

「出ちゃうって、何が!?」

 

 パニックになった蛍は言葉の意味が分からず尚も燐を揺さぶる。

 

 燐の顔はみるみる青くなっていった。

 

 さしもの燐もこれには参ってしまったのか、両手を上に振って降参の意を蛍に示した。

 

「蛍ちゃん、ストップ! ストップぅ! わ、わたしが全部悪かったからぁ!!」

 

「悪いって、燐、何かしたの?」

 

「お願いだから止めてぇ~!!!」

 

「あっ、うん……」

 

 燐の涙ながらの訴えに蛍はようやく自分のしていることを理解したのか、すっと身体を離した。

 

「はひぃ、色々出ちゃうところだったよ……」

 

 燐は蛍に抱き付くように手を回して、肩で息を吐く。

 

 燐の顔はすっかり青くなっており、もう少しで本当に何かを出しそうなほど気の毒な表情をしていた。

 

「もう、蛍ちゃん、落ち着いてよぉ。さっき食べたものが全部でちゃいそうだったあ……」

 

「あ、ごめん。つい」

 

 ぐすぐすと鼻をすする燐に蛍は謝罪の意味を込めて、その小さな背中を優しく撫でてあげた。

 

 しばらく二人はそうして抱き合っていたのだったが。

 

 ようやく落ち着いたのを見計らって、最初に口を開いたのは蛍の方だった。

 

「ねえ、燐。一体何がどうなったの? わたし、何もわからなかったんだけど」

 

 石碑は動いていないように見えたし、燐は意味もなく謝るしで何がなにやら分からない。

 

 燐が前に言ったように、またキツネか何かに化かされているのでないかと思うほど、蛍の頭はずっとこんがったままだった。

 

「蛍ちゃん、ごめん。ちょっとからかっただけだけなの」

 

「え? からかうって?」

 

 自分でも驚くほど間抜けな顔をして蛍は立ち尽くす。

 

「本当にごめんね。そんなゲームみたいなことあり得ないよねって、言おうとしてただけなんだけど、蛍ちゃんがそこまで真に受けるとは思わなかったの」

 

 え、ゲーム?

 

 蛍は一瞬頭を捻る。

 つまり燐の言っている事は……嘘、狂言だったと言うこと?

 

「なんだ、そういうこと。もう、燐、脅かさないでよ。わたし燐の言うことなら結構信じちゃう方なんだから」

 

「あははっ、ごめんごめん。もうしないからさ」

 

 燐はまだ喉のあたりを押さえながら、蛍に向かって平謝りをした。

 

「わたしもごめんね。ちょっとやり過ぎちゃったみたいで」

 

「へーきだよ、このぐらい……でもさ、蛍ちゃん」

 

「うん? 何、燐」

 

「ごめんね。本当に蛍ちゃんがそう言う事をしたいのかなってちょっと試してみたんだ。大胆なのは知ってるけど、本当にそう言う事を望んでいるのかなって」

 

(あ……)

 

 ようやく蛍は燐の真意を理解することができた。

 さっきまでの事は、蛍を慮った上の燐なりの気遣いだったんだ、と。

 

「わたしもさ、感情が高ぶっちゃうと結構変な事言ったり、行動しちゃったりしてるでしょ。自分でも分かってるんだけどどうしても止められないの。それで後から後悔なんてしょっちゅうだから」 

 

「そのね、綺麗なものを大事にしたいのは分かるの。でも、その結果、壊しちゃったら何にもならないっていうか」

 

「──ただ、見守るだけの愛情もある。そう言いたいんでしょ、燐は」

 

「うん。わたしと同じ間違いを蛍ちゃんにはして欲しくないから」

 

「燐……」

 

 ──燐は、ずっとそうだった。

 

 あの終わらない夜が訪れる前から、ずっと自分の事を気にかけてくれていた。

 

 聡さんの事を話してくれるのもそう言う事からだったんだろう。

 

 全ての事を話していてくれるわけではないと思っているが、男子に対して免疫のないわたしの不信を取り除くために話してくれたんだと。

 

(もしかして、燐は)

 

 不意に蛍は燐自身が意味もなく不条理な理由で消えてしまう事も、そして戻ってくることも知っていたのでは思っていた。

 

 根拠は当然ないのだが、何故だかそう考えることが自然のように感じてしまう。

 

 見た目以上に傷つきやすい、繊細な燐という普通の少女に。

 

「さてー、蛍ちゃん、そろそろ帰ろうか。もうここでの用事は終わったし。あ、滞りなくね」

 

 燐は片目で合図を送りながら笑みを浮かべていた。

 

 確かに、燐の言うようにここでの用事は済んでいた。

 

 誰も手入れにこないから、荒れ放題だった石碑の周りはすっかり綺麗になっていた。

 

 青々とした雑草は殆ど抜いてあるし、黒ずんだカビまみれの石碑もそれなりに拭いてもあげた。

 

 花だってちゃんと買ったものを供えたし、お線香だって一応あげたのだから。

 

(ん……)

 

 蛍はそっと鼻を澄ます。

 

 線香の香りはまだ辺りに漂ってはいるが、煙はもう殆ど出ていなかった。

 

 万が一火事になったから困るからと、香炉代わりの平たい石の上でちらちらと白い息を吹いているだけ。

 

 蛍も燐も、この場所でやることはやっていたのだ。

 

 ただ、誰の為の場所で、何のためのお墓なのかが分からないと言うだけで。

 

 理由なんてもう知る必要もないのだろうけど。

 

「あれ、燐。お札はどうするつもりなの。わたし石碑に貼るものかとてっきり思ってたのに」

 

「ああ、これねー」

 

 燐はひらひらとお札を指でつまむ。

 

「なんか、お札まで貼ったらそれこそ、”何かここに封印されています”って言ってる感じにならない? それこそ仰々しいっていうか、たまたま見つけた人が心霊スポットと勘違いしそうな気がするよ」

 

「それは、まあ、確かにあり得そうな事だけど」

 

 まだ夏だし、余計にあり得そうなことではある。

 

 あの保養所跡の廃墟だって、そういう目的で入った人だっているだろうし。

 

 そもそも、”彼ら(県外の人)”にとっては田舎というだけで心霊スポットなのかもしれないが。

 

「それにね。お札を貰った巫女さんに聞いたんだけど。お札って本来、貼るものじゃなくて、”納める”ものなんだって。だからこうしておけばいいんだよ、きっと」

 

 そう言って燐は、まだ小さな煙を出している線香を乗せた石ごと上に上げると、その下に数枚のお札を置いてまた上から石を置いた。

 

「これで、ヨシ! さ、帰ろう。今回はテントとか持ってきてないから早く下山しないと直ぐに真っ暗になっちゃうよ」

 

「う、うん」

 

「それとも蛍ちゃんがいいのなら、野宿したっていいけどね。結構楽しいんだよ、星空の下、何もない野原でごろんと寝っ転がるのって」

 

「の、野宿!?」

 

 蛍はその言葉に一瞬びくっとした、が。

 

 ふと思い出したように小さく微笑んだ。

 

「燐、わたし、野宿したことあるよ。でも少しの間だし、星とかそういうのはあんまり気にしなかったけど」

 

 その時の蛍は、睡眠薬を大量に飲んでいたから意識が朦朧として景色どころじゃなかった。

 

 なんて、そんな事、いくら燐にも言えないことなんだけれど。

 

「あ、そういえば確かに蛍ちゃん野宿しているみたいだったね」

 

「あれ燐、知ってたっけ? わたし、燐に話したのかなぁ……」

 

 不思議そうに首をかしげる蛍を見て、燐は小さく肩をすくめるとひとつ息をついた。

 

「だって、話したっていうか……」

 

(見つけたというか)

 

 去年の秋ごろ、風車の下で蛍が眠っていたときの事を燐は思い出していた。

 

 辺りにはノート? のようなものが散乱していたし、実質サトくんが教えてくれたようなものだったけど。

 

 あれはやはり自分と同じような状況が蛍に起こったのだろうと、燐は薄々そう感じていたのだが。

 

「不思議だねぇ」

 

「うんうん、不思議だった」

 

 蛍と燐の会話は微妙にかみ合っていなかったが、それに気が付いたように急に顔を見合わせると、少女たちは何事もなくにこっと笑い合った。

 

「まあ、野宿でもわたしはいいけど、多分虫に刺されるよ~。それこそからだ中いっぱいに」

 

 燐は二ヒヒと意地悪く笑って続ける。

 

「それが嫌なら頑張って下山だね。今度は前みたいにロープで引っ張るような”電車ごっこ”はしないからっ。蛍ちゃんの力だけで下山してねっ!」

 

 そう言うと燐は、いきなり駆け出してしまった。

 

「え、ちょ、ちょっと燐~、待ってってば~!」

 

 蛍も慌てて後を追おうとするのだったが。

 

 言葉とは裏腹にその足は立ち止まっていた。

 

 くるりと振り返って、もう一度石碑の方を蛍は真っすぐに見る。

 

 そこには何かがいるわけではない。

 気配だって微塵も感じなかった。

 

 けれども、蛍はもう一度ぺこりと小さく頭を下げる。

 

 壊そうと言った自分に対する過ちか、それとも別の意味合いがあったのかは分からないが、しばらくの間そうして頭を垂れていた。

 

(わたしは……ここに何の思いもない。だけど……)

 

 因縁とか恨みだなんて。

 そんな、積み重ねたものなんか、わたしは何も持っていない。

 

 家柄や血筋だって、ただ勝手に与えられたものだし。

 

 そもそも、こうして生を受けたことでさえも今となってはもう……。

 

「蛍ちゃんー! 本当に置いてっちゃうよー!!」

 

 遠くから呼ぶ燐の声で蛍はようやく頭を上げた。

 

 遠くと行ってもそんなに蛍から離れてはいない、燐はいつもそうだから。

 

「ごめん、燐。今行くー!」

 

 大きく手を振って燐に応える。

 

 そう求めるものはここにはない、その先。

 待っている人のその先にあるものだから。

 

 そして今度こそ蛍は駆け出した。

 

 もう、決して後ろを振り返らないだろう。

 

 前だけ、燐の方だけを見ていればいい。

 

 そのまま真っ直ぐに駆け出して行くだけで。

 

 足に履いているトレッキングシューズも背中のバックパックも正直自分には似合っていない、それは自分でも思っている。

 

 どっちかと言えば服装も小物も昔から少女趣味だったし。

 それが自分だと思っていたから。

 

 でも、あれから変わった。

 

 探して、理解して、選んだ末のこと。

 

 世界が真っ暗になった後のこと。

 

 晴れているのにまっくらになった世界で自分ができることは。

 

 何もない。

 

 何もないことと言うことが分かった

 

「燐っ!!」

 

 もう一度名前を呼んでみる。

 

 そう、わたしが唯一出来ることは。

 

 かけがえのない人の──燐の名前を呼ぶことだけ。

 

 前に燐に、”幸運なことが自身に振り起きないなら、座敷童って何のためにいるだろうね”と言われたことがあった。

 

 周りの人を幸運にする為じゃない? って他人事のように返したけど。

 

 そうじゃない。

 座敷童だって、実は幸運だったんだ。

 

 だってわたしには燐がいる。

 こうして燐の名を呼ぶこともできるし、触れ合う事だってできる。

 

 それ以上は……まだ、いろいろ難しい気はするけど。

 

 タイミングとか覚悟とか、互いの気持ちとか……。

 

 でも、二人でまたこうして友達でいられる。

 

 これ以上の幸運はもうきっとないだろう。

 

 だからもう──いらない。

 

 三間坂の名も家も、お金も座敷童である自分自身でさえも。

 

 執着があるから歪みが起きてしまうんだと。

 よく分かった。

 

「燐っ!」

 

 わたしは燐さえいればいい。

 

 燐がいてくれさえいればそれで。

 

「蛍ちゃん!」

 

 燐も声に答えてくれる。

 

 それだけでわたしは嬉しい。

 

(だから、ごめん。ごめんなさい、()()()()

 

 蛍は走りながら心中でさよならを言った。

 

 それはもう二度とここには来ない、という別離の意味ではなく、またここに来ると言う約束の意味だった。

 

 流されたという意味ではなく、むしろはっきりと区別出来た上の蛍の答えだった。

 

「燐!!」

 

 ずっと、ずっと待っていてくれる友の手を取る。

 

 たったこれだけで。

 わたしは幸運を感じることができる。

 

 こんな、当たり前のことで。

 

「さ、帰ろうね、一緒に」

 

「うん」

 

 蛍は頷いたつもりだった。

 けど、なぜか声が出ない。

 

 代わりに何か。

 

 何かの音がカチンと鳴った。

 

 何だろう?

 蛍は内心首をかしげた。

 

 歯車が動いたというよりも、少し風流な感じの音だった。

 

 風鈴が風に揺られたときみたいな。

 涼やかな音色、みたいだった。

 

 けどそれは、外からの音ではないみたい。

 

 現に燐の耳には特に何も届いてはいないようで、不審がることもなく普通に蛍に笑顔を向けていた。

 

 だとしたら、何の?

 何からの、音?

 

 蛍は考えを頭の中で巡らそうとするが、その前に。

 

 急に全身の力が抜けたようになった。

 

 螺子の切れた人形みたいに呆気なく。

 

 燐の前の前で。

 

 蛍は、文字通り膝から地面に崩れ落ちていった。

 

 ────

 ───

 ──

 

「ね、ねぇっ! どこか悪いの!? 返事してっ、蛍ちゃんっ!!」

 

 燐は突然倒れ込んだ蛍の手をぎゅっと握りしめる。

 

 嘘みたいに冷たくなった蛍の細い指先を絡ませながら、白く透き通った頬を不安げに見つめていた。

 

 急に倒れ込んでしまった蛍を燐は心配そうに見守る。

 

 とくん、とくん。

 

 細い脈の動きが肌から直に伝わる。

 

 このまま途絶えてしまうのではないかと、縁起でもない考えに浸りそうになる心を押さえつけながら、どうか無事であるようにと心から燐は祈った。

 

 けれど、それは何時になるのか。

 

 今の燐にはそれを待つことは出来そうになかった。

 

「ちょっとだけ……待っててね、蛍ちゃん。直ぐに誰か呼ぶから」

 

 燐は小声で囁くと、片手でスマホを急いで操作し始める。

 

 今は電波が届いている。

 

 そのことを瞬時に見極めると、指を素早く画面に滑らせた。

 

 とりあえず、母親に連絡をとろうとする……つもりだったのだが。

 

(えっ……)

 

 燐の指が止まる。

 

 急に蛍がぱちっと瞼を開けたのだ。

 

 まだ半目だったが、さっきまで悪かった顔色が元の少しピンクがかった色に戻っていた、ように見えた。

 

 それは顔色だけでなく手にも力が戻ってきたのか、燐の手を強く握ってくる。

 

 まるで、一瞬の内に違う人物に生まれ変わったみたいに。

 

 蛍に一体何が起こったのか。

 

 さっきの自分の演技とは違って、明らかに違った、胸騒ぎのする危険な様子だったのはずに。

 

「燐……わたし」

 

 その蛍が口を動かす。

 燐はその声を一言一句聞き洩らさないように、耳を傍まで近づけた。

 

「蛍ちゃん! 大丈夫なの!? 立てそう?」

 

「うん、多分……」

 

 そう言ったものの直ぐには立ち上がれないのか、蛍は燐の顔をじっと見つめていた。

 

 安堵した燐は大きく息を吐く。

 これまで息を止めていたみたいに、新鮮な空気がいっぱいに肺を満たした。

 

「燐、わたしね。やっと……なれたみたい」

 

「蛍ちゃん、”なれた”って?」

 

 消え入りそうな小さな言葉を吐く蛍に、燐は落ち着いた表情で聞き返す。

 

 内心はとても焦ってはいたが。

 

(何について言っているんだろう蛍ちゃん。第一、なれたって???)

 

 それはどっちの意味での言葉なんだろうか。

 燐の中で得体の知れない焦燥感が募っていく。

 

 冷たい汗が、燐の頬に湧きあがった。

 

 蛍はそれを察したかのように小さく口を開いた。

 

 とても衝撃的な言葉を、告げた。

 

「普通の……何もない”普通の女の子”にわたし、なれたみたい、なの」

 

 それを聞いた燐は息を呑み込む。

 

 けれどそんな動揺はおくびにも出さずに、優しい口調で蛍に聞き返す。

 

「そう、なの?」

 

「うん……ようやく燐と、()()に。なれたね」

 

 蛍はそう言ってにこりと静かに微笑んだ。

 

 確かに、普通の少女の笑顔だった。

 

「……そう、だね」

 

 燐はその一言しか言えなかった。

 

 呆気なく言い放つ蛍の顔を見つめただけで。

 

 しばらく何の言葉も浮かんではこなかった。

 

 ──ただ、今日が。

 

 本当の、蛍の誕生日なんだと、今思った。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 





ただいまセールで青い空のカミュDL版が3000円ぽっきりみたいですねー!!!! これまでにない安さ!!! だと思うので、まだ未体験の方はこの機会に体験してみてくださいっー! 夏の思い出を彩る一作になると思いますよー。

と、毎回のように宣伝してますけど、よく考えたらエロゲなんですよね、青い空のカミュって。あまりにも当たり前すぎてすっかり失念してましたよー。
でも、とてもよいエロゲなのでやっぱりお薦めです。初夏の切なさと、透明感を味わえる一品、蒸し暑い夏の夜にぜひぜひご賞味くださいませ。

あ、おすすめって言えば”fallGuys”もお薦めです。っていうか、軽い気持ちでプレイしてみたらどっぷりハマってます……対戦系のゲームは熱くなってしまうからやらないようにしているのにぃぃぃぃ~~。でも楽しいから仕方ないですねー。

そういえばまだ映画ゆるキャン△ みてないです。初日に見に行こうかと思ったんですがなんか機会が微妙になくて結局ずるずると……まるで自分の作品みたいだぁぁぁーー。
夏が終わる前に見に行きたいですねー。

COMIC FUZで公開されてる、ゆるキャン△ アニメコミック。あれを見て、昔、某ジブリ作品の似たようなものを持ってたのを思い出しましたよー。そのせいかちょっとノスタルジックな気持ちになります。
でも、情報量が多いのかふきだしでキャラの顔が隠れてしまうのがちょっとねぇ……しかもその役が何故か犬子さんに偏っている気がする。どーゆーことやねーん。

あと、いつの間にかゆるキャン△ の楽曲がサブスクで楽しめるようになってますねー。劇場版の曲もありますし、珠玉の名曲がお手軽サブスクで楽しめる……これも時代なんですねぇ(表現が古いー)。

ではではではー。


(8月2日追記)

……と、上の方で”映画ゆるキャン△”をまだ見ていない、確かにそう書いたのですが……。

映画見に行きましたよーーー! もちろんファーストデイでーー!! まあ、もう8月1日、つまり公開して一ヶ月なんですけどねー。

やー、ハッキリ言いまして……予想以上に良かったです!!! どれだけのを予想していたのかって感じですけどねー。ある程度の情報は得ていましたから、こんな感じ映画になるのかなーって予想は立てていたのですが、いい意味で予想を裏切られましたねー。
一応ネタバレ回避の為に映画の詳細は伏せておきますが、なんと言いますか、全体的にマジメな印象でしたねー。内容も雰囲気もキャラもみんな大人で真面目な映画になっているなぁって感じました。

設定上10年後ですから、それぞれみんな大人になっているのですけれども、個人的には大人って、社会ってこんなに真面目だったかなーって感じがちょっとだけしたりです。

それと、”みんなでキャンプ場作り”が全体のテーマになっているのは予告などで知ってはいましたけど、実際はそれに関する人の繋がりというか、何か、”この映画自体を創る際の紆余曲折を作品に落とし込んだ”感じがちょっとだけしました。

ある意味ではドキュメント映画なのかもしれないのではと、視聴後そんな感じに私はなりましたねぇ。

それとマジメと言いましたが、遊び心が全くないわけじゃなく、むしろゆるキャン△ ファンならくすっと笑えるポイントが要所要所にあって、飽きさせない作りになってるようにみえました。

ただ、10年後だとメインキャラはまだ良いのですが……恐らく一番危惧されたことだと思いますね。10年後の”ちくわ”は。

これは、うーん、劇場で見てくださいとしか言えないですねぇ。ですが、まあゆるキャン△ ですからねぇ、その辺りはうんうんって感じですね。

10年後といえば鳥羽先生はちょっとあれな感じなのに、何故なでしことリンの母親は若いままなのか。とくに咲さんはリンよりも若返ってるぐらいだしーー!

しかし、大画面でみるゆるキャン△ は、何というか感慨深いものがありますねー。やっぱり迫力が桁違いですねえ、当然ですけど。後、音も。これも当然ですが、映画版は割と意図的に音の演出を使っている気がしました。

公開して既に一ヶ月経ちましたし、ちょっとだけ今更な感じもありましたが、劇場で見て本当に良かったです。
映画ゆるキャン△ 十二分に堪能させていただきました!

ちなみに私の貰ったのは愛車のドアを開けて微笑むなでしこのフィルムしおりでした。

映画のネタバレとかは最後の最後のあとがきに書くかもです。私のようにまだ未視聴の方もいらっしゃるかもしれないですし。



さてー、ここだけの話なのですが……実は私、映画にがっつり集中出来てはいなかったのです。気になることがちょっとありまして。
あ、別に変な意味ではなくてですね。例えば……同時上映していた別の映画の音(多分ジュラシックなワールド)がとても大きくてこっちのシアターまでドムドム響いてたーとか。
クーラーが結構効いていて寒くなってきてしまったなぁとか。
暑いからとついお茶を飲み過ぎてしまったせいで、後、一時間の尿意とのバトルに戦々恐々したりーとかとか……そういう、”夏の映画あるある”ではないですよー。

まあ、全部本当のことなんですけど……。

何といいますか……上の方でも書きましたがにも、情報量が多いんですよねー、本当に。それに結構原作のネタを使ってるんですよー。それにはまあ、一応理由があるみたいなんですが……。だからそう言った”小ネタ探し”をしてしまうと本編に集中できないといいますか、そういうのも楽しみの一つだとは思ってますけど。

情報量の多さが影響しているのかは分からないですが、軽くネタバレになりますけど、映画の余韻に浸ろうと思っても、最初の方のオープニング曲に合わせて満員電車に揺られるリンの姿ばかり思い出してしまうんですよねぇー。

そこまで印象に残る部分ではないとは思うんですけど……意外性がいいのだろうか。もし気になった方は是非劇場で確認してみてください。

あと。超超個人的に気になるところもあったのですが、その辺りはネタバレ含めてまた後日続きを書きますねー。


それでは、長文、お目汚し失礼しましたー。

ではではでははー。






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Supernatural


 長く白い──プラットフォーム。

 けど、そこは向こうの世界じゃない。

 現実の、良く知っている駅の大きくて長いホームだった。

 まだ昼間だと言うのに、そこはまるで大きな病院みたいに静まり返っていて、少し空に近い場所にあるせいか、周りの雑踏もまばらにしか聞こえなかった。

 ──列車はまだ姿を現していない。

 到着まで少し時間があるせいか、人気(ひとけ)(まば)らで行き交う者も少なく、目に付くものといえば白い石畳と転落防止用の鉄製のフェンス、それと申し訳程度の自販機とベンチぐらいだった。

 在来線とほぼ同じ高さにあるのに、この専用のホームだけが少し違った異質な情景となっていた。

 その自販機の間に設置されていた小さなベンチに少女たちは座っていた。

 少女らの傍らには長い柄の付いた中程度の四角いカバンが立てかけてあった。

 二人は同じものを買ったのだろうか、それぞれの手には同じようなものが握られている。

 色こそ違うが、小さな泡を吹く炭酸飲料を片手に持ち、もう一方の手には紙で撒いた少し柄のある”クレープ”を手にしていた。

 だが、よくあるクレープとは少し違った形状をしていたが。

 クレープという概念からは外れてはいなかった。

 二つの花飾りを付けた長い髪の少女は顔をにこりとほころばせていたが、可愛らしいカチューシャをつけたもう一人の少女はあまり乗り気ではないのか、何とも形容しがたい苦笑いを浮かべていた。

 二人の少女の反応は様々だったが、食べる事には変わりないようで、ため息をついた燐が先に口を開いた。

「本当にここのクレープ好きだよね、蛍ちゃんは。確かになんでも奢るよって言ったんだけどさ」

「うん。だって好きだし。燐も好きでしょ? ”ぱすてるのクレープ”」

「ん、まあ、確かに嫌いではないけどもぉ」

 そう呟くも、燐の顔は困ったままだった。

 夏の──最後の週。

 燐と蛍は駅に行く前に、マンションからほど近い、行きつけのクレープ店へとやって来ていた。

「はい、どうぞぉ。大きいから落とさないようにしてね」

「ありがとうございます」

 蛍は自分の顔よりも大きい、”超特大ジャンボパフェ、まさかの生クリーム抜き!?”をクレープの店員から両手で受け取った。

 満面の……これ以上ない幸せそうな表情で、声を弾ませながら。

「……」

 燐は絶句というか、複雑な顔でその様子を横目で見ていた。
 半ば、呆れたように。

 けど、蛍は本当に嬉しそうな笑みを浮かべていたから、茶化すような事は言わなかったけど。

(本当に大丈夫なのこれ? これだとクレープって言うよりか……)

 何か別のもの。

 去年の冬だったかに頼んだものよりも遥かに大きく見える。

 それはあたかも、手に持って食べられる特大サイズのパフェかデコレーションケーキのように燐には思えた。

 今目の前にあるものが信じられないというような目つきで、燐は蛍の受け取った特大特製クレープを呆然と眺めていた。

「やっぱりさ、ボリューム感……もの凄いね、これは。こんなの、蛍ちゃん以外で食べきれる人なんか中々いないんじゃない」

「燐~。そんな人を化け物みたいに言わないでよ。これぐらいなら普通の女の子は食べられるもん」

 少し眉を寄せて蛍は不満げに言い放った。

 けれど、この好物のクレープを前にしたら、そんなことは些細な問題だと言うように、すぐに蛍はキラキラとした表情に秒で戻っていた。

(普通って、これがぁ!? こんなのわたしだったら絶対にむりぃー)

 前に蛍と同じものを食べた時、クレープ一つでお腹がパンパンになった出来事を思い出して、思わず手で口を抑えた。

「……?」

 一人で悶えだした燐をみて蛍は不思議そうに小首を傾げる。

 きょとんとする蛍に内心呆れかえっていた燐だが、それは流石に口には出さなかった。

「えと、一応分かってるつもりだよ、燐の言いたいこと。だから前もって頼んでおいたんだ」

「前からって? それって、一体どういう事なの、蛍ちゃんっ」

 似たような事が確か前にもあったから何となく嫌な予感はするけど、恐る恐る蛍に尋ねてみる。

「燐、それはね──」

 意味ありげに微笑む蛍を見て、嫌な予感が的中したことを燐は確信してしまった。

 けれどその前に、別の人の声が二人の耳に届く。

 答えを言おうとした蛍だったが小さな唇を一旦閉じると、囁くような声色で燐に促した。

「ほら、燐。店員さんが呼んでるよ。燐のが出来たみたいだね」

「あっ、うん」

 また蛍がくすりと笑ったので、燐は何とももやっとした気持ちになったのだが、呼ばれている以上、迷惑をかけるのも何なので、その事に特に追及はしないでおいた。

 自分も家がパン屋になってしまったわけだから、そういったちょっとしたトラブルの様なものはよくわかってしまう。

 店に来る客と言うのは自分で思っている以上に、自分勝手で気まぐれなものなのだと。

「お待たせちゃって、ごめんなさいっ。それ、わたしが頼んでいたやつですよね」

 燐はカウンターの前まで急いで戻ると、客らしからぬ言葉で謝った。

 向こうは一瞬ぽかんとしていたが、すぐに気を取り直すと、出来立てのクレープを燐へと手渡した。

 クレープからは、出来立ての香ばしい匂いと熱を加えた甘いソースの香り。

 そこにフルーツやアイスのトッピングが交じり合って、年頃の女子の好物をぎゅっと詰め込みました適な感じが何ともたまらないのものなのだが……。

(あれれ? な、何これ?)

 それは燐が注文したものとは全く違う”もの”だったので。

 鳩が豆鉄砲を食ったような──そんな困惑した顔で、燐はわけが分からず凍り付いていた。

 そのまま駆け込む勢いで燐は店員に尋ねる。

「あ、あのっ、すみません! これ注文、間違ってないですか!? 確かわたしが頼んだものって、もっと普通の──」

 ごく普通のクレープだったはずだ。

「大丈夫だよ、燐。これは確かに燐が注文したものだよ」

 その真意を問う前に蛍がやんわりと口を挟む。
 燐は訝し気な瞳ですぐに反論した。

「えー、だって全然ちがうよお、これぇ、わたしの注文したものってこんなに大きくないし、形だってぇ」

 トッピングや大きさ等、割とバリエーション豊富なぱすてるのクレープだが、こんな不思議形のクレープを燐は今まで見たことがない。

 そもそもこれがクレープかどうかすら疑わしいほど、変わった形をしていた。

(何かこう……花みたいに見えるけど)

「実はね、燐。燐には黙ってたんだけど、わたしが頼んでおいたの。燐の為の特別なクレープを作ってくださいって」

「わたしの為? 何でまた」

 思いがけない蛍の言葉に燐は首を横に傾ける。

 特製のジャンボクレープ以外の新作があったこと自体が初耳だったし、そしてそこに自分が関係しているとは露にも思わなかった。

「だって、燐。今日、行っちゃうんでしょ。だから燐に何か変わった贈り物があればいいなって思って。そこで、ぱすてるの人に事前にお願いしてたの」

「変わった贈り物って……?」

 これがそう言う事なの?

 まだ良くわからない燐は、その少し変わったクレープを眺めながら頭を捻る。

(贈り物ってことは、つまりプレゼントってだよね? 確かに変わったプレゼントだけど……? んー、そういう事じゃないんだろうなあ、蛍ちゃんが言いたいのは)

 その新作クレープは、普通のクレープとは違った形になっていて、円錐を逆さにしたような、逆三角形のような形をしていた。

 けど、トッピングが多すぎるのか生地の上具材がはみ出ていた。

 どうやらそれは、ワザとそうしているらしく、その証拠に見た目は適当ではなくむしろきちんと整えられている。

 まるで、そう花束みたいに──。

「あぁっ!!」

 燐はようやく合点がいったように、短く声を上げてそれを指さした。

 だからこんな形なんだろうと納得することが出来たから。

 チョコにストロベリー、バナナやチョコのソースが白いホイップクリームの土台の上に大輪の花を咲かせていた。

 その姿は、クレープをまるでブーケ(花束)のように見立てているみたいで。

 燐はようやく蛍の意図が分かったみたいで。

「じゃあ、これは、()()()()()()()!! そういう事なんだよね、蛍ちゃん」

 くるりと蛍の方を振り向く。

 蛍は柔らかい顔でこくんと頷いた。

「うん。あのね、わたしがこういうのがいいって、ちょっとデザインをしてみたの。全然下手くそな絵だったんだけど、それをこんなに可愛く作ってくれるとは思わなかったよ」

 燐が喜んでくれている。
 それだけで蛍は胸の奥いっぱいに幸福を感じ取ることが出来た。

 不意に高鳴った感情が、秘めていた蛍の琴線に触れたのか、急に鼻の奥がつんと痛くなる感覚に戸惑ってしまった。

(わたしって、結構単純だよね。こんな事ぐらいで)

 照れ隠しのつもりなのか、蛍は自分のクレープを燐に先だってこっそりと舌で舐めた。

「デザイン……へぇ、蛍ちゃん凄いね。あ、そういえば、ありがとう蛍ちゃん。わたしとっても嬉しいよ」

 改めて燐は蛍にお礼を言った。

 こういったサプライズを蛍にされるとは思わなかったから、ちょっとびっくりしちゃったけど。

「ねぇ、蛍ちゃん。これって何のお花をイメージしているの? もしかして蛍ちゃんが髪に着けてるキンセンカ、なのかなって」

 蛍はずっとキンセンカの髪飾りを気に入って着けているらしいから、蛍と花と言ったらどうしてもそっちのイメージになってしまう。

 しかしそう言う燐もまた、トレードマークとも言えるお気に入りのリボンのついた白いカチューシャで長い髪を留めていた。

 中古のマンションから今の実家である、小平口町のパン屋に引っ越す際、身の回りのものを随分と処分したが、このカチューシャだけは手放すというか、そんな気さえも頭には浮かんでこなかった。

 結局、あの異変の事を覚えているのは、()()()()()とそれぞれが身に着けていた衣服ぐらいだった。

「ねぇ、どうなの、蛍ちゃん……って」

「んっ、なぁにぃ?」

 その事を蛍に聞こうとしたのだったのが、蛍がいつの間にか自分のクレープをむしゃむしゃと食べだしていたので、燐は面食らってしまった。

 しかし、あまりに美味しそうに食べる蛍をみて、燐もついその気になってしまう。

 蛍ほどでは流石にないが、燐だって甘いものが好きな普通の女の子なのだから。

(けど、良いのかなこれ食べちゃっても)

 燐はクレープに夢中になっている蛍ではなく、ぱすてるの店主の方をちらりと窺う。

 女性の店主はニコニコしながらこちらに向かって軽く手を振っていた。
 どうぞと、言わんばかりに。

 燐はうやうやしく軽く頭を下げると、蛍がデザインしたと言っていた、花束の様なクレープをまざまざと見つめ直す。

 ホイップチョコや生クリームを花に見立て、その周りをドライフルーツと菓子が取り囲んでいる。

 確かに色とりどりの花を束ねた花束のように、クレープが甘い香りを纏った花びらを彩り豊かに咲かせていた。

(見た目良くできてるからちょっと勿体ない気もするけど)

 燐はごくっと唾を呑み込む。

 かと言って、このまま保存しておくことも出来るはずもなし……。

(と、なると)

 燐は閃いたようにスマホをポケットから取り出すと、口を付ける前にパチリと一枚写真を撮った。

 蛍は不意に燐のそれを見て、あっと思い出したように声を上げたが、もう既に遅かった。

 食べてしまった部分はもう戻しようがなく、蛍は自分の行為に苦笑いしながらも、燐と同じようにスマホで撮影しようとしたのだったが。

「蛍ちゃん、こっち!」

「あううっ!」

 燐に強引に肩を抱かれて蛍は手からクレープが零れ落ちそうになるのを慌てて支えた。

 何事かと思った蛍が、怪訝そうな顔で燐に振り返ろうとした時。

 パシャッ。
 
 不意を突いたようなシャッター音に、つい変な顔でカメラの方に蛍は振り返ってしまった。

「あ……」

 蛍は口元を手で覆うもこれも遅く。

「ほら、これでいいでしょ」

 燐のスマホの画面には、クレープを真ん中にして、二人の少女の画像が映っていた。

 カメラ目線で笑顔を送る燐と、少し変な顔をしている蛍のツーショット。

 蛍はそれを見てはぁ、とため息をついた。

「もう……燐ってば。クレープ、落としちゃいそうだった」

 蛍は少し口を尖らせて抗議するも、けれど、そこまで怒っているわけではなく、手持ちのクレープをぱくっと口に入れた。

「にゃははっ、ごめんね。あ、でも、これ結構良い感じじゃない? このままネットに投稿してみちゃおっかぁ」

 クレープを手にしながらも燐はまだ食べずに、写真の出来栄えに満足気な表情を浮かべる。

「そんなの恥ずかしいから……」

 蛍は顔を真っ赤にしながら、パクパクとクレープを口に運んでいた。

 蛍のストレス解消なのかもしれない。
 燐は呆気に取られたようにそれを見送っていたが。

 にひっ、と口元を緩めると。

 幸せそうに頬張る蛍に向けて、不意打ち気味に燐はまたシャッターをカチッときった。

 ……
 ……
 ……



 

「ん、おいしぃ! 見た目だけじゃなくて普通に美味しいよね、これっ」

 

 ホームで食べるのを少し恥ずかしがっていた燐だったが、一度(ひとたび) クレープを口にしたら、蛍じゃないけど食べるのが止まらなくなってしまった。

 

「やっぱり燐もそう思うよね。わたし達ここ(ぱすてる)のクレープ、結構食べてる筈なのに全然飽きないのってそう言うことだよね」

 

「たしかにねー。やっぱりトッピングが多いからかも。それか単純に美味しいから、かもね。あ、でもね、蛍ちゃん」

 

「ん? なぁに、燐」

 

 急に燐が神妙に話出したので、蛍は少し驚いて振り返る。

 

 口にはクレープをいっぱいに頬張っていたが。

 

「そのさ、別に出来立ての時に食べちゃっても良かったんじゃないのかなぁ、って。なんでホームまで我慢しなくちゃならなかったのぉ? ここまで来るの結構恥ずかしくて大変だったんだけどぉ」

 

 確かに燐は荷物が少し多かったので、歩くときドリンクは蛍に持ってもらったのだが。

 

 あの花束のクレープだけは燐の手に握られていた。

 

「だって、燐の為に作ってもらったものだから……やっぱりちゃんと持ってて欲しいなって」

 

「うー、でもでもっ結構気が気じゃなかったよお! アイスなんかちょっと溶けそうになってたし」

 

 ほんの少しの時間とはいえ駅構内を移動してきたせいもあり、それにやはり夏だからか、クレープの中のバニラアイスは少し溶けだしていた。

 

 すぐ食べるだろうと思ったから保冷剤の様なものは持ってなかったし。

 

 けど、こぼれるような事はなかったことだけは幸いだった。

 

 後、食べて見て初めて分かったことだが、溶けだしたアイスのおかげなのか見た目よりも食感がまろやかな気もする。

 

 元の状態で燐は食べてないから比較はできないけど、何となく口当たりが爽やかで、そのせいか割とスムーズに大きめのクレープを燐でも無理なく食べることが出来ていた。

 

「でも、フルーツやチョコで彩られた花束を持って歩くのって、なんかおとぎ話のお姫様みたいで面白かったでしょ」

 

「んー、わたしはそこまで面白くなかったけどね。ただ、恥ずかしいってだけで」

 

「そうなの? でも燐が恥ずかしがったのならある意味正解だったのかもね」

 

「それってどーゆー意味ぃ?」

 

「うふふ」

 

 恍けた顔で蛍はクレープを口に運ぶ。

 けど、それはさっきまで蛍が食べていたと違う、別のクレープ。

 

 見た目もそのまま燐と同じ花束のクレープだった。

 生クリームを使用していないという以外は。

 

 蛍が最初に受け取ったものは、蛍と燐がクレープ店の前で立ち話をしている最中に蛍がペロリと平らげてしまったので、新しいものを作ってもらうことになった。

 

 その新しい、花束のクレープも既に三分の一が蛍の胃に収められている。

 

 あの細身の体のどこにそんなに入るのかとちょっと訝しんでしまうが、それだってもう、そこまで驚くべきことでもなくなっていた。

 

 甘いもの、特にパステルのクレープは蛍は大好物であるし、生クリームも相変わらずダメなことも知っている。

 

 むしろ知らないことがないぐらいにお互いの事が分かっていた。

 一緒に暮らしているせいからかもしれない。

 

 いい事も、悪い事も、理解できるようになっていた。

 

「はぁ、甘くて冷たくて、美味しいね」

 

 うっとりとした口調でクレープを食べている蛍。

 

「本当に甘いのが好きだよね。蛍ちゃんは」

 

「まぁ、生クリーム以外、ならね」

 

 残念そうな蛍の意見に軽く相づちを打ちながら、燐もクレープを舌先でぺろっと掬い取る。

 

 やっぱり見た目が好きだったから、一気に口に運ぶのにはどこか抵抗があった。

 

 それにしても、美味しいのは確かなことなのだが、ちょっとだけ甘味と言うか味が濃い気がする。

 

 もしかしたら、この辺りも蛍のアイデアなのだろうか。

 甘党の蛍ならやり兼ねない。

 

 燐はそう思ったので素直に蛍に聞いてみた。

 

「もしかしてだけど。ソースというか、味の方も蛍ちゃん、関係してる?」

 

「うん、ちょっとだけだけど。見た目と味のバランスもこれでも一応考えたんだよ」

 

「へぇ、蛍ちゃんやっぱり凄いね」

 

 感心するように口を開ける燐を見て、蛍は少し頬を赤くして苦笑した。

 

「燐のパン屋さんも甘い菓子パンを多めにしたらきっと人気でると思うよ」

 

 甘党らしい提案に蛍の提案に、燐は軽い笑みを返す。

 

「蛍ちゃんらしいよね、それ。まあでも、流石にないかなー。そんな事したらそれこそ本当にお店潰れちゃうよきっと」

 

クレープ店(ぱすてる)は大丈夫なのに?」

 

「やっぱり都市部とじゃ客層が違うんだよね。田舎のクレープ屋さん何て、やっぱりちょっと需要ないと思うし。それに色んなパンがあってこそのパン屋だとわたしは思ってるよ」

 

 小平口町も以前とは大分様変わりしたが、それでも住人の平均年齢にはそれほど変化は無く、むしろ高齢の傾向はより強まった方だった。

 

 そうしたニーズに特化した店は、小平口町ではそれほど需要がないのが現状だった。

 

 田舎らしいといえばそうなのだが。

 

 燐の考えに蛍は感嘆した声をあげた。

 

「燐も色々考えてるんだね。でも、お店、継ぐ気はないんでしょ。今のところ」

 

「うん、まぁね。まだそこまで縛られたくないっていうかさ……」

 

「何かやりたいことがあるとか? 燐は探検家とか似合いそうじゃない世界中を飛び回ったりとか」

 

 何気ない蛍の言葉に燐はふむ、と少し考え込む仕草をした。

 

「わたし、そんなに宙ぶらりんな感じするのかなぁ。まぁ、でも同じことをやり続けるよりかはちょっと良い気もするけど~」

 

「”女性探検家、燐。巨大恐竜の謎を追う!?”とか面白そうだよね」

 

「……何、その、”昔のベタな胡散臭い番組タイトル”みたいなの。それに恐竜は大体巨大でしょー」

 

「手乗りサイズの可愛い恐竜もいるかもしれないよ」

 

 二人は他愛もない話をしながら、特製クレープにそれぞれ舌鼓を打っていた。

 

「でもさ、なんか、不思議だよね」

 

「それって何の話?」

 

「ほら、美味しいものを食べると嫌なこととか全部忘れちゃうよねって良く聞くから。燐だってそう思わない?」

 

「そうだねぇ。あ、でもそういうのって科学的根拠みたいなのがあるみたい。なんか脳内で幸運を感じるような成分が分泌されるっていうか」

 

「エンドルフィンとかセロトニンのとかの脳から出る快楽分泌の話でしょそれ。前にそういうの本を読んだことあるよ」

 

 脳内から分泌される成分を上手くコントロールすることでスポーツや試験でいい結果を出すことが出来るらしい。

 

 そうかといって、美味しいものばかり食べたり、脳が快楽を感じることばかりしていればいいというものではないようだが。

 

「何事もほどほどが良いってことだよね」

 

「……蛍ちゃんが言うとそんなに説得力感じないけどなー。ほら、前にデザート食べに行っちゃじゃない」

 

 前の休日に蛍と燐がスイーツビュッフェに行ったとき、蛍は目を輝かせながらほぼ全種類のケーキをぺろりと平らげた時は、流石の燐も少し引いてしまうほどだったから。

 

 ドーナツとかクレープとかパフェとか、日頃からよく食べてるし。

 

 蛍がいつも可愛らしく、甘い香りを漂わせているのはスイーツのおかげなのではないかと燐は密かに思っていたし。

 

 そういう意味では蛍は常に幸福を感じているのかもしれない。

 

 座敷童と言う意味のない固定観念に縛られる前から。

 

「でも、それだけじゃないよ。燐」

 

 蛍はクレープを食べ終えてその包み紙を白い指で綺麗に畳みながら、言葉を奏でた。

 

「燐と──いっしょだから、だよ」

 

「燐の隣で食べているから美味しいんだと思う。もし一人だったら多分こんなに美味しく感じることはないと思うな。もしかしたら味すら感じないかも」

 

「流石に、それは……」

 

 けど、自分だってそうだろうと燐は思った。

 

 実際、前のマンションの時だって一人きりで食事をしている時は味どころか今、自分が何を口にしているかどうかにすら興味が持てなかったから。

 

 学校や部活をしている時なんかは気にならなかったけど、そのせいか誰も待っていない家に帰った時は酷く空しかった。

 

 永遠と灰色のパンを噛み続けているみたいに、味気なかった、ずっと。

 

(今は十分満たされてる気がする。でも、だからこそ今の内に……)

 

「どうしたの燐、やっぱりちょっとだけ緊張してる?」

 

「うわわわっ!!」

 

 目の前に急に蛍の顔が現れたからつい燐は変な声をあげてしまった。

 

「な、何、蛍ちゃん?」

 

 周りを見渡した後、燐は声を潜める。

 

 ベンチから転げ落ちることはなかったけど、到着待ちの乗客にちょっとした注目を集めてしまった。

 

「あ、ごめん。燐、何か、わたしの顔を見ながらぼーっとしてたみたいだったから」

 

 蛍はさらに顔を寄せて尋ねる。

 

 顔色を気にしているのかその蛍の仕草に、何か観察されているような気になった燐は、困った顔でその視線から少し目を逸らせて笑みをつくる。

 

「ううん、何でもないよ。ただ、ちょっと」

 

「うん?」

 

「お日様が、眩しかったって、ただそれだけ」

 

「あ、うん。そうだね。まだ日差し、大分強いもんね」

 

 夏の終わり際なのに強い日差しが薄い雲の切れ間から地上を照らしていた。

 

 この日の気温は30℃。

 

 真夏というにはもう遠いが。

 秋と言うには早すぎる。

 

 夏と秋の狭間。

 

 本日はその様な情景だったと言えた。

 

 二人はビルの間から覗く空と太陽を同時に仰ぎ見た。

 

 雨除けの長細い(ひさし)が、白いプラットフォームにそこだけを切り取るみたいに青い影を落としていた。

 

(燐……本当に行くんだよね。一人で)

 

 ちらちらと燐の方を覗き見ている蛍。

 

 先ほどの顔色を窺うものとは少し違った視線。

 自分の事を気にかけて欲しいようなそんな少し熱を持った視線を向けていた。

 

「えっと、そうだね。全部食べないと行儀悪いよね」

 

 蛍のその視線に気付いた燐は薄く笑みを浮かべながら、表情を誤魔化すように残ったクレープを全部口の中に入れ込んた。

 

 空の先にある青い景色を無理やり呑み込んだような、甘さと清涼感を一気にかみ砕いたような、何とも不思議な味が燐の口の中いっぱいに広がった。

 

「ご馳走様でしたっ」

 

 御馳走様の合図とばかりにパンと燐は手を合わせる。

 

 その膝の上には蛍と同じように綺麗に折り畳まれたクレープの包装紙が小綺麗なハンカチみたいに置いてあった。

 

「燐。美味しかったね」

 

「うん。ちょっと大きいかなって最初は思ったけど、意外と最後まで食べられるもんだね」

 

「まぁ、スィーツは別腹っていうしね」

 

 確かに蛍は普段食が細い方だが、本当にスィーツだけは別口のようで。

 

 先ほどのビュッフェでもそうだったのだが、燐が止めなければいくらでも食べられそうな勢いがその時の蛍にはあった。

 

「ん? 何か燐、わたしのことさっきから変な目で見てない? ちょっと馬鹿にされてるっていうか」

 

 何か察してしまったのか、蛍は大きな目を少しだけジトっとさせていた。

 

「そ、そんなことはないよ全然っっ!?」

 

「ほんとかなー」

 

 蛍がずっ、とまた顔を寄せてくる。

 

 たじろんだ燐は椅子から擦り落ちそうなほど、首と腰を引いた。

 

「そういえば、電車来ないね……」

 

「うん。まだちょっと時間あるみたい」

 

 スマホの時計をちらりと覗き見る。

 

 到着予定時刻まで後5分ほど余裕があるみたいだった。

 

「何か、忘れ物なんてないよね。まあ、今から取りに行ったら間に合わないだろうけど」

 

「大丈夫、取り立てて必要ものはないし。後は買ったりするから」

 

「お金は? 余裕あるの?」

 

「もう、大丈夫だってばぁ」

 

 母親みたいに心配する蛍に燐は呆れた口調で返す。

 

 二、三日前から蛍はこんな感じだった。

 

(まあ、無理もないんだけどね)

 

 わたしが自分で勝手に決めちゃったわけだし。

 

 燐は、蛍と離れようとしていた。

 

 他でもない。

 

 唯一無二の大切な、ともだちと。

 部活の仲間や母親とも、町とも。

 

 何がどうしてこうなったとか、そう言った概念などなく。

 

 ただ、燐が行きたかっただけだった。

 

 割り切れない、燐個人の想いがそうさせていた。

 

 ──聡と、もう一度ちゃんと会って話がしたい。

 電話やメールではなく、まっすぐに目を見てキチンと話がしたかった。

 

 たったその程度の事が今の燐を突き動かしていた。

 

「あれ?」

 

 何か急に眼が痛くなった。

 

 ごしごし。

 

「どうかしたの、燐。急に目を擦ったりして?」

 

「ちょっと、目に塵が入ったみたい。もう取れたから平気だけど」

 

「そう。無理に擦らず目薬とか使ったほうがいいよ。燐の目とっても綺麗だから、傷ついちゃったらちょっと勿体ないからね」

 

 そう言ってふふっと蛍は微笑んだ。

 

 その無垢できれいな笑顔を向けられていることに燐は少しの罪悪感を覚えて、ちくりと胸が痛んだ。

 

 ──分かってる。

 

 またきっと同じことをしているという事に。

 

 でも、それでも、今だけは。

 

(蛍ちゃんと、一緒に居たい)

 

 都合の良いワガママを言っていることは充分理解しているけど。

 まだ時間はあるから。

 

「ちょっと、来るの遅くなってない? 何か遅れが出てるとかあるのかな」

 

 感情を誤魔化すように、燐は時間の流れをわざとらしく気にして見せた。

 

 スマホで時刻表を確認してみると、確かに列車の到着予定時刻から一分ほど過ぎていることが分かった。

 

 事故とかそういった案内(アナウンス)もまだないから、単純な遅れなんだろうと思うけど。

 

「どうなんだろうね。けど、燐とこうして一緒にいられるのなら少しぐらい遅れがでてもわたしはいいけどね」

 

 蛍は自分の素直な感情を口にしていた。

 

 それは当然本心であり、ともすればこのまま何も来ないで時間が止まってしまう事さえ望むほど強い思いであったけど、あまりにも現実離れした考えだったので、もっとも口にすることはせず胸の、奥の深いところで柔らかく留めて置いた。

 

「……うん。わたしも同じなんだけどぉ。その後乗り換えもあるからさ」

 

 燐は最終的に飛行機に乗るからちょっとの遅れでも気がかりであった。

 

「ごめん、そうだったよね」

 

 忘れていたわけではないが、今の時間が大切だった蛍はついうっかりしていた。

 燐から前もって今回の旅行というか旅に近いその日程を知らされてはいたのだったが。

 

 まだどこか現実感がないのが本音だった。

 

「それでも蛍ちゃんとこうしてゆっくりしてるのってすごく貴重な感じがするね。ここの所なんだか色々あってバタバタとしてたし」

 

 あの時の異変の余波は相当大きいのか、一年経っても明らかに日常とは異なる事象を時折周囲に持ち込んでくることがある。

 

 それは波のように上下に動いたり、左右に振れたりと安定しないものだったのだが、それが少し落ち着いたようにも思えた。

 

 ある一つの区切りがついたせいなのかもしれない、が。

 

 ──普通にしか見えない少女が、”ふつうの女の子”になる。

 

 そんな当たり前のことが、当たり前にみえる日常を安定、均衡に導いたのだとしたら。

 

 燐がそんな雲をつかむような事を考えていた時、低い警笛音と共に遅れていた列車がホームに滑り込んできた。 

 

 ──

 ───

 ────

 

「燐。本当に良いの? 飛行機代ぐらいは出してあげるって言ってるのに」

 

 呆れたような溜息を蛍はついた。

 

 燐がその旅行の計画を打ち明けてくれたときから、蛍はずっとそう言い続けているのだが、結局燐が聞き入れてくれることは最後までなかった。

 

「わたしだってちゃんと計画は立てて来たんだから大丈夫だって。これでも行き当たりばったりじゃないんだよ」

 

 その為に家でのバイトのお金をちょっとづつ貯めてたりしてたし。

 こっそり節約なんかもしてたら。

 

 なるべく周囲に迷惑をかけたくない。

 特に蛍には。

 

 燐が今回のことを計画したとき、最も気にかけていたのはそこのところだった。

 

「それは知ってるけど……燐って、ほんと変なところで頑固だよね」

 

 浜松から東京まで新幹線で行き、そこで乗り換えて羽田空港まで、そして格安(LCC)の飛行機で”新千歳空港(北海道)”。

 

 燐がいろいろ調べた結果、これが一番手っ取り早く、そして安く確実に行ける方法だった。

 

 聡も同じようなルートを使ったみたいだった。

 でも、それを燐は真似したわけではない。

 

 ただ予算と時間に見合ったルートがそれぐらいしかなかっただけで。

 

 もっとも聡の場合、その時初めて北海道に行ったというわけではなく、向こうの山に登る為に何度か訪れたことはあった。

 

 行くのが初めてな燐とは違って。

 

 その意味では今の燐は不安の塊であるはずなのだけれど、そんなことはおくびにも出さずにいつものように蛍に笑いかける。

 

 蛍には燐のその気持ちが分かるから複雑な心境でもあった。

 

「蛍ちゃんにはマンションの事で殆どお金出してもらっちゃったからね。あ、でもでもっ、いつか必ずわたしの分は返すからね」

 

「もう、それだって良いんだよ。あれはわたしが自分の為に買ったんだから気にしなくていいって、もう何回も言ってるよね燐には」

 

「うん。でも、これから何年掛かるか分からないけどいつか蛍ちゃんに返すからね。もちろん利子をつけてね」

 

「ほんとにもう良いのに……」

 

 頑なに燐が意見を曲げてくれないので、蛍はそれ以上はもう言えなかった。

 

 頑固なのはそう、お互い様だし。

 

(あれ……?)

 

「どうしたの蛍ちゃん、さっきから何度も首を傾げて」

 

「あ、うん。燐、わたし……この新幹線見るの初めてかも」

 

「えっ、それ本当!? あ、でも修学旅行の時、乗らなかったっけ?」

 

「修学旅行の時のとはちょっと形が違う気がする」

 

 似たような印象はあるが、やっぱり少し違う気がした。

 微妙な色使いとか、車両の形状とか。

 

「あぁ、そういう事ね。そうだね、一口に”新幹線”って言っても色んな種類があるもんね」

 

 この駅に来る新幹線の種類は三つ程あるが、その内の一つは駅を通過するだけだった。

 

「でもさ、それだったら、来た甲斐あったんじゃない?」

 

「まぁ、そうだね」

 

 白く細長い車体にブルーのラインが目を引く曲線的なデザインの車両。

 

 先頭車両のみ特徴的な形をしていて。

 

 それは何かの生物──例えるのなら水鳥の嘴のような細長い形状となっていた。

 

 その見掛け通り現行の線路鉄道では最も早く、燐が目的とする首都圏までは1時間と少しで着くことが出来てしまう。

 

「けど、マンションの窓から見えたりしない? わたし新幹線が走ってるの結構目にするけど」

 

「燐が言ってるのはこれぐらいの大きさのやつでしょ。そういうのは見慣れちゃってるから」

 

 蛍は小さじ程度に指を広げた。

 

「何か蛍ちゃん、ちょっとセレブっぽいね。あ、お嬢様だから当然か」

 

 燐は勝手に自問自答して納得していた。

 

 その様子に蛍は困った顔を浮かべながら、ようやく到着した新幹線(ひかり)の車体をぼんやりと眺めていた。

 

「そう言えばわたし、燐が乗るの新幹線って黄色いのかなって思ってた」

 

 足を揃えて小首を傾げた蛍が暢気な事を言った。

 

「それって検査用の車両でしょ確か。それはわたしも見たことないかも」

 

 滅多に走る事のない黄色い新幹線は、走る時間が決まってるらしく、調べれば見る事ぐらいは出来そうなのだが。

 

 けれど、二人ともそこまでの興味はないようで。

 

 すぐに視線を互いの方へと移していた。

 

「それよりさ、蛍ちゃん」

 

 蛍の手を燐はそっとにぎる。

 それだけで、蛍は胸をドキッとさせた。

 

「わたしちゃんとここに戻ってくるから。だからさ、ほんの少しだけ待ってて」

 

「燐……」

 

「今度は絶対に蛍ちゃんの元に戻ってくる。約束するよ」

 

 そう。

 もう同じことは二度としない。

 

 向こうで何を言われようが、されようが必ず戻ってくる。

 もっとも大切な人のいるこの地に。

 

 連れ戻そうとか、向こうで一緒に暮らすとか、そんなことは全く考えていないし。

 

「このままじゃ、ダメなんだよね、燐は」

 

「だめってことはないけど、でもなんかずっともやもやしちゃって」

 

 そう言って燐は軽く苦笑いした。

 

「わたしが悪いのは分かってる。けど、お兄ちゃんだって責任を感じてるから離れて行っちゃったんだと思う」

 

「時が経てば解決することだってあると思うけど。それじゃ何か寂しいなって」

 

「そういうのちょっとだけ分かるよ」

 

「でもね。別に白黒はっきりつけようって気はないの。ただ向かい合って話がしたいだけ。お兄ちゃんだってそのつもりだから、わたしの事拒絶しなかったんだと思うし」

 

 燐はいきなり行くのも何か悪いからと事前に聡に連絡していた。

 

 拒否されるかと思ったが、意外にも”いいよ”との返事をもらったので、長い休みが終わる直前に燐はひとりで行くことを決めたのだ。

 

 ただ、蛍にも一応誘ったのだが。

 

「わたし、燐と一緒には行けない……ごめんね。せっかく誘ってくれるのに」

 

 そうやんわりと断られてしまった。

 

 見送りにはちゃんとついてきてはくれるのだけど。

 

「きっと迷惑かけちゃうから」

 

「わたしは迷惑だなんて全然思ってないよ」

 

「でも……」

 

 そう言って口ごもる蛍を前に、燐はもう無理に誘うのを止めた。

 

「ごめんね。燐……けどわたし、あなたが戻ってくるのをマンションで待ってるから。もし仮に燐が戻らないような事があったとしても、それでも待ってる、ずっと」

 

 そう言った蛍の瞳は真剣そのものだったので、燐は小さくため息をついて首を振った。

 

「ねぇ、蛍ちゃん……それって何かのフラグなの? そんなこと言われたらわたし行けなくなっちゃうじゃん」

 

 じっ、と顔色をのぞくような視線を燐に向けられている。

 そう気付いた蛍は、困った顔で手を振った。

 

「あっ、そういう意味じゃなくて」

 

「んじゃぁ、どういう意味いぃ?」

 

 少し意地悪な言葉で燐は返す。

 

 催促するように、人差し指で蛍の手の腹をすりすりと撫でまわしながら。

 

 それは非難というよりかも、子が母親に尋ねる時のように少しいじけているときにする仕草にみえた。

 

「何て言うか、さ」

 

「……うん」

 

「燐がもし、そのまま戻ってこなくても、わたしはその、いいと思ってるの。だってその為に会いに行くんんでしょ? 聡さんところまでわざわざ」

 

 口を詰まらせながらも、本当に大切な事を口にしたときのように細かに唇を震わせて蛍は言葉を紡いだ。

 

「それはないって、何度も言ってるでしょ。わたしが帰ってくる所は。ここ」

 

 とん、と蛍の胸の中心を軽く指で押す。

 

 ただ、燐の思っていた以上に蛍の胸は大きく柔らかったので、ちょっとびっくりしてしまったが。

 

(つい触っちゃったけど、もしかしたら初めてだったかも。蛍ちゃんの胸に触ったのって)

 

 自分からやっておいて燐は耳まで顔を赤くした。

 

「わたしは蛍ちゃんが幸せになるまではずっと傍にいるつもりだよ。でもだからって自分を犠牲にしてまでとかは、もう止めたの。わたしだって”折り合いって”言葉ぐらい知ってるんだから」

 

「燐……」

 

「だから少しの間寂しいだろうけど、辛抱してね。あ。何ならわたしの家の方に泊ってもいいからね。お母さんもきっと喜ぶだろうし」

 

 蛍の事を燐の母親はとても気に入ってるから問題はないと思う。

 

(むしろわたしがいなくても蛍ちゃんがいるからいい、とか言われそうだけどね)

 

 燐はちょっと変な想像をして勝手に頭を悩ませていた。

 

「うん、分かった。でも、燐……前とは違うから。今の燐の姿を見たら、聡さんも惚れ直しちゃうかもね」

 

「惚れ直すって……自分で言っちゃうのもなんだけどぉ。何も変わってなくない? せいぜい少し髪が伸びたぐらいでしょー。それにぃ、わたしはねー」

 

 自分でも良く分からなかったが、何故だか燐は少し早口になっていた。

 

 蛍は特に気にすることなく少し熱の入った声で話を続ける。

 

「今の燐はわたしから見てもすごく綺麗になったと思う。ちょっと色気みたいなものが出てきたのかもしれないね」

 

 足から頭まで、燐の姿をまざまざと見て蛍はにっこりとする。

 

 口では否定したものの、蛍に言われたことで意識したのか、燐は照れたように頬を染めて小鼻のあたりを指で少しつまんだ。

 

「うー、綺麗になったかどうか分からないけどぉ、わたしはそういうつもりで行くわけじゃないからね。何度も言ってるけどもぉぉっ」

 

「ふふ、分かってるよ燐。戻ってこなくてもいいとは言わなくても、向こうでゆっくりしてていいからね。ちょっとぐらい休みを延長しても燐なら大丈夫でしょ」

 

 分かっているのかいないのか、蛍はくすっと笑みをこぼした。

 

「もう、分かってないでしょ蛍ちゃん。まあ……わたしには、()()()()()()()()、だからそういうことを言うんだろうけど」

 

 そう言って燐は大きく息をついた。

 

「流石に、そこまでは言ってないけど」

 

「でもー、同じこと、だよね。わたしは蛍ちゃんの気持ちを裏切って自分の気持ちを優先したんだから。蛍ちゃんにそう疑われても仕方がないよね」

 

「わたしはそんな事、全然思ってないよ。燐が今隣にいるっていう事実だけでわたしはすごく嬉しいから」

 

 蛍が真っ直ぐにそう言うと、燐は照れたように一言、ありがと、と返した。

 

 一瞬視線を宙に逸らせた燐は、ひとりごとみたいに空に向かってそっと呟いた。

 

 少し増えてきた雑踏に紛れそうな声だったが、蛍には意外なほどはっきりと聞き取ることができていた。

 

「蛍ちゃんに信じてもらえないのはわたしも分かってるの。けど、わたしだって”本当に大切なもの”が分かったから。それは……最後の最後で」

 

「燐」

 

「蛍ちゃん……わたしに、さいごのチャンスをください。お兄ちゃんと少し話だけしたらすぐにもどってくるから、絶対に!」

 

 懇願するように蛍の手を燐はぎゅっと握る。

 

 まっすぐな瞳は、目の前の少女──蛍の姿しか映していなかった。

 

 黒い瞳を小刻みに揺れ動かす蛍だけを。

 

(えっ……!?)

 

 ビックリした顔で見つめているのは、燐だ。

 

 何を驚いているのだろう燐は?

 

 一体何に……?

 

 蛍が不思議そうに目を瞬かせようとしたとき、ぽろりと何かが零れた。

 

 こぼれたところから跡が残ってそこが熱を帯びたように熱くなる。

 

 軽く手を解いて手首の柔らかい所でそっと頬に触れた。

 

(あっ!)

 

 羞恥にも感情が顔から一気に溢れかえる。

 

 自分でこぼしたものだとようやく気付いた。

 

(泣いてるんだ、どうして……?)

 

 こんなに満たされた気持ちでいるのに、一体……?

 

 疑問を呈すればするほどぽろぽろと壊れた蛇口みたいに止まらなくなる。

 

 蛍はとうとう自分の瞼を両手で覆ってしまった。

 

 けれど、頭は冴えているのか、蛍の中で急速に答えを導いていく。

 

 気持ちに対する戸惑いよりも、そうした感情に対する自分の条件反射の理由の方が知りたかったのだ。

 

 あ、そうか、これが、普通の。

 

 普通の女の子らしい、ということなんだ。

 

 ──涙もろくなった?

 

 こんな他愛もないことで泣いてしまうんだから。

 

 じゃあこれが普通の感情、なんだ。

 

「あの、蛍ちゃ……大丈夫? ごめん、わたし……」

 

 急にぽろぽろと涙を零す蛍に、燐はどう言葉をかけていいのか分からず、無意味に謝っていた。

 

 その燐の瞳にも薄っすらと滲むものがあったのだが、蛍の方に意識が向いているせいで全く気付かないようであった。

 

 蛍は、この感情を燐にどう伝えたらいいのか分からず、解いた燐の手を再び自分から握り返した。

 

「蛍ちゃん!」

 

 燐は一瞬視線を握られた手の方に向けた。

 

 温かい。

 包み込むような温もりが白く細い指を介して心の奥まで伝わってくるようだった。

 

 気持ちが、想いが二人の間で。

 千切れてしまった糸が再び繋がったみたいに。

 

 ぴったりと交わった、そう思えた。

 

「燐、わたし……待ってるから」

 

「……!」

 

「ずっと、例えお婆ちゃんになったって燐のこと、ずっとずっと待ってるからっ」

 

 そう言って笑顔を向ける蛍は、まだ目に涙を溜めたまま。

 その奥が溺れてしまうのではないかと思うほど、綺麗な瞳で微笑んでいた。

 

 

 燐は、純粋に綺麗だと思った。

 

 普通の──なんて形容詞では例えようもなく、可憐で、透明で、そしてきっと誰よりうつくしかった今の蛍は。

 

「はぁ……」

 

 そんな事は一切表には出さずに、燐は長いため息をつく。

 けれどそれは安堵の溜息であった。

 

 少し戸惑ったような瞳を向ける蛍に、燐は優しく微笑んで、その目元を細い指で柔らかく拭った。

 

 透明な滴は蛍の純粋さ凝縮したみたいに綺麗であたたかった、本当に。

 

「くすっ。もう、蛍ちゃん。そんな事言われたら、明日にでもすぐに戻って来ちゃうよ」

 

 小さく笑う燐。

 

 その時、燐の目元からからも小さな滴が頬を伝って落ちて行った。

 

「それは……燐ダメだよ。せっかく行くんだから……」

 

 出掛かった言葉を呑み込んで、蛍も笑顔で返す。

 

 けれど水晶のような瞳は、本心では違うと否定しているようだった。

 

「分かってる。けど、蛍ちゃんはわたしとってとっても大事な人だってことを覚えてて欲しいの。わたしは気付くのが遅かったけど、だからこそこの想いは大事にしたいの」

 

「燐って、見かけによらず結構重いよね」

 

「それは蛍ちゃんだってそうでしょ?」

 

「ん。まぁね」

 

「何それ」

 

 そう言って二人はくすくすと笑い合った。

 

 傍目から見たらまるで今生の別れのようにも見えたであろう。

 

 けれど、彼女たちはそれにも似た思い、むしろそれ以上に悲しい事があることをお互い知ってしまったのだから。

 

「……燐、わたし」

 

 蛍は一呼吸おいて、まだ目元を触っている燐の手を優しくとった。

 

 一度離れてしまった手。

 

 けれど今はしっかりと繋がれている。

 

 あの大きな異変の後だって、様々なことが色々あったけど。

 

 元のさや。

 燐と蛍の絆はしっかりと繋がれていた。

 

 ともだちを超えた、本当の想いで。

 

 ……

 ……

 ……

 

「あのね、燐。わたしさ……あの終わらない夜のあと、どうしてこうなったのかってずっと考えてたんだ」

 

「あ、それ、わたしも」

 

 乗るべき列車が到着しても、蛍と燐はまだベンチに腰かけたまま話をしていた。

 

 飲み物を飲んで少し気持ちが落ち着いたようで、二人は仲睦まじい様子で談笑をしていた。

 

 蛍は少しフルーツの方が多いミックスジュース、燐は定番のカフェオレではなく、父が好きだった少し味の濃いスポーツ飲料をそれぞれ飲んでいた。

 

 ずっと終わらないと思っていた。

 あの三日間の日のことは。

 

 永遠に夜の闇に囚われたままなんだと。

 

 ふたりともあの時は確かにそう思っていた。

 

 特に蛍は、生まれ育った町がたった一夜にして絶望と狂気の世界へと変貌を遂げてしまったわけだから、そのショックは図り知る事はできない程だっただろう。

 

 そしてその事に秘伝と言われた座敷童とその秘密、しかもそれは自分の事だと言われたわけだったし。

 

 更には燐の従兄も関わってくることになって。

 

 偶然という一言だけでは語れないほどの体験や思いを経験したわけで。

 

「でも、蛍ちゃんのお陰で悪夢は崩れて、わたし達、一応戻ってきたわけでしょ」

 

「わたしのお陰とはちょっと違うと思うけど……まぁ、そうだね。そこまでは、良かったよね」

 

 と、そこで蛍は改めて燐の顔を見返す。

 

 非難するような瞳、ではないが、その真っ直ぐな視線に燐は耐えられなかったようで。

 

「あははは……」

 

 髪を弄りながら上擦った声で笑うしかなかった。

 

「あっ、別に燐を責めてるわけじゃないの。むしろ、逆。わたし燐にはとても感謝してるんだ」

 

「わたしに……? どうして?」

 

 あんな気持ちを裏切るような事をしたのに?

 心の内に問いかけるように燐は自身の服の襟元をぎゅっと握った。

 

「あのあと、燐が”異変の起こらなかった世界”にしてくれたんだなって。きっとそれは間違いないと思う」

 

「わたしが? 蛍ちゃんじゃなくて!?」

 

 蛍の目の前で、不思議そうに燐は首を傾げる。

 

 思い当たる節など一切ないみたいに。

 

「わたしにはもともとそんな力はないから。だからそんな事が出来るのは燐だけだって思ってるよ」

 

「うー、買いかぶり過ぎだよ、蛍ちゃん。わたしは至って普通の女の子なんですけどぉー」

 

「そーかなぁ……あ、今はわたしも”普通の女の子”だからね」

 

「はいはい、分かってるよ。蛍ちゃんは普通の”可愛い女の子”になったんだもんねぇ~」

 

 燐は軽く手をぱたぱたと振った。

 蛍はもう、と少し頬を膨らませて隣で笑う燐のことを肘で軽くつついた。

 

「きっと燐は、自分の意思とは無関係に勝手に力を出していただけだよ。わたしだって幸運とか座敷童とか何も知らずにそういう幸運みたいなのを呼んでいたみたいだったし」

 

「んー、そう……なのかなぁ? 自分じゃそういうの全く分からないけどね」

 

 燐は自信なさそうにはにかむと、鼻の頭に指先を乗せた。

 

 結局のところ、燐も蛍も分かっている事は。

 二人が戻ってきて、そして町がそのままだったということ。

 

 その代わりなのか、歪みのあったという証拠や、その為の幸運すらも町から消えうせてしまった。

 

 あれだけの、取り返しの付かない犠牲を払って得た幸運そのものが、本当に意味のない、誰の記憶にすら残らないものになり果ててしまったのだが。

 

「わたしさ、蛍ちゃんにずっとそのままでいて欲しいってあの時願ってたけど、本当は違ってたんだ」

 

 そう言って燐は腰かけていたベンチからゆっくり立ち上がる。

 つられたように蛍も一緒に立ち上がった。

 

「そうじゃなくてさ、多分、わたしが変わりたくなかったんだと思う。ただ、ずっと子供のままでいたかったんだって、最近それが良く分かるようになったの」

 

「燐……」

 

「きっとね、まだ切り替えてないんだと思う。蛍ちゃんやオオモト様がしたように、わたしの中ではまだ何も切り替わってない気がするの」

 

「それって、気持ちの上でのこと」

 

「うん。それと……ううん、それだけじゃないと思う」

 

「じゃあ燐はその為に、行くの? 聡さんのところへ」

 

 そう呟くように尋ねる蛍に、燐は小さく笑う。

 自分でもその辺りのことはよく分かってはいない、そう言うように。

 

「他に、分からないんだよね 気持ちの切り替え方が」

 

「………」

 

「何かもっと適切な方法があるんじゃないかって思う。でも見つからなかったから。ヒントみたいなものは沢山あったはずなのにね」

 

(もしかして、それって……!)

 

 蛍は、小さく口を開けたのだが、結局何も言えなかった。

 

 今の燐にかける言葉が見つからなかった。

 

 燐が決意のある眩しい瞳をしていたから。

 夏の日差し何かよりもずっと輝いている表情で。

 

 それが寂しくもあり、嬉しくもあった。

 

 だって燐は──あんな、悲しいことがあったのにずっとキラキラしている。

 

 それは以前よりもずっと強い光。

 

(燐の事、前は夏の向日葵(ひまわり)みたいに、いつもきらきらとしてるって思ったけど……)

 

 けれど、今は少し違った形に見える。

 

 向日葵みたいに笑顔が綺麗なのは変わってないけど、ちょっとそう”陰り”というか、ほんの少しだけ何か物が分かったような顔立ちになっている、そう蛍には見えていた。

 

 もし例えるのなら、一輪挿しではなく、荒涼とした野に咲くマリーゴールドみたいに。

 

 一度折れてしまったのに、また綺麗な花を咲かせている。

 強い生命力、そのものを燐の内側から感じとることができる。

 

 可憐だけど決して折れることのない、真っ直ぐな不器用さは変わっていないのかもしれないけど。

 

 それでもほんの少しの柔軟さ、身軽さをもった気がする。

 

 意思を伴った妥協というか。

 折り合いを、つけられるようになったと思う。

 

 蛍は今の燐をそんな風に捉えるようになっていた。

 

(前みたいに、どこまでも青い空に向かっていくような感じはちょっとしないけど)

 

 でも燐ならきっと、また伸びていく気がする。

 

 わたしの手さえ擦り抜けて、どこまでも遠くへ。

 

「ん? わたしの顔に何か付いてる?」

 

 こちらを見つめたまま急に口を閉ざした蛍を見て、燐はまだ涙の痕が残ってるかと思って手の袖で顔を少し拭った。

 

「あ、ううん。そういうわけじゃないよ」

 

 蛍が慌てたように首を振ると、燐はふぅ~んとちょっと訝し気に眉根を寄せた。

 

「あ、そっか。あの事を気にしてるんだね蛍ちゃん。うんうん、確かに。ごめんね、蛍ちゃんには色々やらせちゃって」

 

 思い立ったように燐は手をパチンと鳴らしたと思ったら、急に困った顔で謝られてしまった。

 

(燐に謝れることなんてあったっけ……?)

 

 もし仮にあったとしてもそんな事は蛍は全然気にはしないのだが。

 

「あ、もしかして、”青パン(燐のお店)”のこと? それなら大丈夫って言ったでしょ。わたしあのお店で働くの好きだし。ゆくゆくは正式に雇ってもらいたいって前に燐にも言ったと思うし」

 

「それは、知ってるけど……だって、わたし家の店なのに蛍ちゃんだけに働かせちゃうのって、なんか悪くって……」

 

 燐が北海道に行っている少しの間だが、蛍がその穴埋めをすることになっていた。

 

 もっとも、燐の母は別に無理に手伝わなくてもいいと言ったのだが、蛍が是非にとのことだったので仕方なく手伝ってもらう事になったのだが。

 

「わたしがしたいだけだから気にしなくていいんだよ燐。それに咲良さんにはいつもお世話になってるし、吉村さんやパートの人達もいるから平気だよ」

 

 それに何度も手伝いに行ってるから大体のことは出来るつもりだし、と蛍は少し胸を逸らして言った。

 

「いやぁ、実はね。その事じゃないんだよね、本当に心配してるのは」

 

「???」

 

 燐が意味ありげに呟くので、蛍はきょとんとして首を傾げる。

 何か、他の事情があるのだろうか?

 

「あのね。どうもお母さん、最近、誰かと会ってるみたいなんだよね。配達で深夜出かけるのはいつも通りなんだけど、戻ってくるのが最近少し遅くなってきてるんだよね。なんか男の人と会ってるって噂もちょっとあるし」

 

「その人って、燐の、その前の……お父さんじゃないの?」

 

 声を潜めてひそひそと囁く燐に合わせて、蛍も声を潜めて尋ねた。

 

「どうもね。()()()()じゃなくて、別の男の人、みたいなの。さっき言ってた吉村さんが夜の帰り道、二人でいたところを偶然見かけたらしいんだって。そしたら全然知らない人だって言ってたの、だからね」

 

「じゃあ、それって……!」

 

 不倫、というか、この場合は再婚?

 なのだろうか。

 

 燐の父と母はもう正式に離婚の手続きを済ませてしまったし、それでも数か月は一度お互いの合意の下で会う事にもなっているので、もう”そういう関係”ではなくなっていたから。

 

 だから燐の母である”咲良”が誰と会っていても全く問題はないのだが。

 

「けど、誰なんだろうね。咲良さんと会っていたの」

 

「うん……わたしの知っている男の人じゃないみたいだけど」

 

 配達の契約をしているホテルの関係者かもしれない、と密かに燐は睨んでいた。

 

 県境に立つホテルまでパンを届けにほぼ毎日車で行っているのだが、燐が蛍と共に駅前のタワーマンションに一緒に暮らすようになってからは、殆ど母が行くようになっていた。

 

 その事に燐は少なからず罪悪感を抱いていたのだったが、当の本人はそれほど気にしていないばかりか、何故だか楽しそうにしていたのだ。

 

 朝の配達といっても、まだ日の登らぬ真っ暗な峠道をひとり車で走ると言う毎日するには過酷なものだというのに。

 

(なーんか、妙に楽しそうにしてたのは、()()()()()なのかな。まあ、まだ分からないけど……)

 

 けど、最近はずっと楽しそうにしている。

 以前の張り詰めた空気など、微塵も感じられないほどに。

 

「燐、分かったよ。わたしがそれとなく探りを入れて見るから」

 

 蛍は任せておいてというように自分の胸の間をとん、と叩いた。

 

 それを見た燐は苦笑いを浮かべる。

 

「あははは……でも、まあ無理しなくていいからね。完全にわたし個人のことだし。それに勘違いってことだってあるからね」

 

「そうだね。でも、なんかちょっとドキドキするね。何て言うか探偵みたいなカンジで」

 

「……なんか蛍ちゃん。楽しそうだね」

 

「そ、そう?」

 

「なんかニヤニヤしてるよ。もう全く……他人事だと思ってぇ」

 

「あははっ。でもさ、燐。もし、もしも咲良さんがその人と、例えば再婚とかすることになっちゃったら、どうする?」

 

「どうするって……?」

 

 まだどんな素性の人物か分かってもいないのにそんなことを聞かれても燐には答えようがない。

 

 母は見た目通り気の強い方だから、もし選ぶのならそれを受け止めてくれる優しい人だろうとは思うけど。

 

(それなら……お父さんだって……)

 

 とても、優しい人だったわけだし。

 それは今だって。

 

(……やっぱり戸惑っちゃうよね、燐は)

 

 そうだろうとは分かっていても尚、蛍は燐に問いかけた。

 きっといつかはこうなるだろうと思っていたから。

 

「燐はどう? やっぱり反対……する?」

 

「わたしは、うん……そうだなぁ」

 

 歯切れの悪い声で呟きながら、燐は視線を宙へと彷徨わせた。

 

 けれどその空を映し込んだような曇りのない澄んだ瞳には、もう既に答えは出ているようだった。

 

 ……

 ………

 …………

 

「えと、燐は一人で、乗れるんだよね? もしなら途中まで一緒に付いてってあげても」

 

「もう、流石にそこまで子供じゃないからね」

 

「うん。だよね」

 

 呆れた顔で言い放つ燐に、蛍は少し困った顔ではにかんでみせた。

 

「ずっと立ち話させちゃってごめんね。じゃ、わたし行くから」

 

(本当に行くんだね、わたし。何もかも……蛍ちゃんすらも置いて)

 

 己の気持ちを確かめるように燐は胸の内に語り掛ける。

 

 そこまで覚悟のいることだったのかと、その真意を問いかけるように、心の本当に大切な部分に燐は何度も呟き続けた。

 

「燐。メールとかLein(SNS)とかしても、良いんだよね?」

 

「そんな事、いちいち許可とることじゃないよ。わたしなんか蛍ちゃんにスタンプとかいっぱい送っちゃうと思うしー」

 

「ふふっ、わたし燐の2倍は送っちゃうよ」

 

「別にいいけどー。でも、秒単位に送信とかはなしだからね」

 

「じゃあ。数十秒単位なら問題ない?」

 

「そんなわけないでしょー、もう。それにそんなに頻繁に送ってくるなんてそれこそ……」

 

 はっとした顔で口を閉じる燐に、蛍は不思議そうに眉を寄せた。

 

「どうしたの、燐?」

 

「あ。ううん、何でもないよ」

 

(さっきから何だろ、なんか今日のわたしちょっとおかしいのかな)

 

 蛍ちゃんの顔を見るだけで胸がどきどきする。

 

 確かにいつもよりも髪もちゃんとしてるし、ドレープのついた可愛い服も着ているけど。

 

 だからって、こんなにどきどきしたことなんてない。

 

(わたし、期待しているの? やっぱり一人で行くのが不安だから? それとも……)

 

 思いが叶わないことは知っている。

 

 仮に少しの時間それが続いたのだとしても、それはずっと永遠ではないことだからと知っているから。

 

 だからといって、その先が暗いものだとか絶望的なものだとかの刹那的なものではなく。

 

 むしろ希望や楽しみに満ち溢れていると思うからこそ、意図的に意識しないようにしていたのだ。

 

(わたしにとっての幸せが、蛍ちゃんにとっての幸せとは違うもんね)

 

 二人一緒だからって幸せを共有できるとは思ってない。

 

 結局それはただの押し付けでしかないから。

 座敷童がもたらした幸運のように。

 

(これでいいんだね。きっと)

 

 できないと思っていた感情に折り合いをつけるように。

 

 燐はその想いを告げることなく、小さく折り畳みそっと胸の内だけにしまって行く。

 そのつもりだった。

 

 だけど。

 

「あのさ、蛍ちゃん。やっぱりわたし、と……」

 

 燐の唇はそこまで言って止まってしまった。

 

 動かないのは、その桜色の小さな唇だけでなく、手も足も、瞬きすらも忘れているみたいに膠着していた。

 

 今いる場所も時間も忘れてしまったように。

 

(燐……)

 

 燐が言いかけた言葉、蛍にはそれが直ぐに分かった。

 

 けど、それの続きを燐に促すことはできない。

 

 してはいけない。

 

 この微妙な均衡を破ればきっと何か大事なものを失ってしまうような、そんな気がしたから。

 

 燐が、とても単純で希望を持った事を言おうとしているのは分かる。

 それを、蛍自身が拒否しないということも。

 

 だからこそ、燐が言わないんだろうということにも。

 

(そうか。そう言う事だったんだ)

 

 蛍の頭の中に急に別の問の答えが浮かび上がった。

 

 全く関係がないようで、今の状況に意味のある言葉が。

 

 あの、もうずっと前の出来事となった、夜の異変に巻き込まれた時に、青いドアの家──オオモト様が不意に蛍に投げかけてきた問いの答えを。

 

 今この場で、燐の目の前で理解することが出来た。

 

(”見つけて”、”選択”して、そして”選び取らなければならない”。そう言っていた)

 

 あの人の、黒い瞳に見つめられながら言われた時の事を。

 蛍は、今更ながらに思い出していた。

 

(わたしには、選ぶ必要があるんだ)

 

 それはもう過ぎて(選択)しまったことだと思ってたけど。

 

 よく考えたら、選択肢なんて何度でも遭遇するものだし、その度に悩むのだって当たり前なのだった。

 

 人間か、座敷童か、だって。

 

 もしかしたら、もっと前に選び取るだけの選択肢のようなものがあったのかもしれないし。

 

 ただ、それに気づかなかっただけで。

 

 それはあの人(オオモト様)だって多分きっと……。

 

(けど、わたしは未だに選び取っていない……あの時もその前も誰かがやってくれていた。わたしは結局、燐に選ばせてしまったんだ)

 

 確かに転車台には自分で歩み寄り、そして押したのだけど。

 結局のところは自分の力だけでは最後まで押し切ることは出来なかった。

 

 燐の時だってそうだ。

 

 自分で守ってあげると言ったはずのに、最後の最後で自分の気持ちに自信が持てなくなってしまったから。

 

(そのせいで燐は……)

 

 罪悪感を抱いているのだとすれば、それはきっとわたしの方なんだ。

 

 ──わたしが不甲斐ないから本当に大切なものを失ってしまった。

 

 もう二度とこんな思いはしたくないから。

 

 だからわたしは。

 

 蛍は唇をぎゅっと噛むと。

 抑揚のない、燐にはおおよそ出したことのない声色で言った。

 

「燐。そろそろ発車(出る)するみたいだよ。その後の飛行機の時間もきっちり決めてあるんだから、これに遅れたら面倒なことになるんでしょ」

 

 燐は驚きのあまり、蛍が一体誰に対して言っているのかが分からなくなった。

 

「えっと、それは……そう、だけど」

 

 蛍の口調が自分を突き放したようなひどく機械的な感じに聞こえたのか、燐は無意識の内に握りこぶしをつくっていた。

 

 蛍ならすべて言わなくとも察してくれるだろうと思ったから、燐の動揺は見た目以上に大きかった。

 

「メールか電話、必ずするから。あと、身体には十分気を付けてね。向こうはこっちより少し涼しいみたいだし」

 

「う、うん。それはわかってるよ」

 

 少し強引に言葉を投げ続ける蛍に、燐は疑問を抱きつつも小さく頷いた。

 

 蛍はもうこれ以上自分の気持ちにごまかしがつかなくなったのか、瞼を半分ほど閉じて燐の目を見ないようにした。

 

「じゃ、燐、元気でね。わたしは、大丈夫だから。燐のしたいようにすればいいんだよ」

 

「わたし、その……本当に、すぐにもどってくるからっ!」

 

 燐は勢い込んで、蛍にそう言い切った。

 

(蛍ちゃん、ごめん)

 

 多分また、蛍に気を遣わせてしまった。

 

 その蛍は自分の身体を支えるみたいに、両手でぎゅっと抱きしめるようにしてこちらを黙って見つめていたから。

 

 その表情は普段と変わりないようにみえるけど。

 内面はきっと違う。

 

 自分以上に苦しんでいるんだと思う。

 

 あんな蛍ちゃん、今まで見たことなかったし。

 

 けれど。

 これで良かったんだろうと思う。

 

 いつか必ずそれぞれの別の道に行かなくてはならないわけだし。

 

 ずっと一緒だなんて、そんな子供じみた考えにいつまでも固執してなんかいられないことはきっとよく分かっているだろうし。

 

 ここが何かの分岐点なのだと。

 そんな予感がする。

 

 これから先、もっと辛い事や悲しい出来事に直面するだろうから、その前の到達点。

 

 もしかしたら、これを気にお互いの人生が変わっていくのかもしれない。

 

 良いも悪くもなく。

 ただその進む方向へと。

 

 お互いの心のまま。

 

 ──自然な形で。

 

「じゃあ……行ってくるね」

 

「……」

 

 そう言って燐が手を振っても、蛍はもう何も言わなかった。

 ただ小さく手を振り返してくれるだけで。

 

 燐は、その手をとってあげたかった。

 

 震える指先をぎゅっと握ってあげて蛍を安心させてあげたかった。

 

 けど、それをしたらもうきっと乗ることはなくなるだろうとも思っていた。

 

 気持ちはお互い同じ方向だから。

 

 二人と同じようにホームに残っていた乗客も次々と列車に乗り込んでいく。

 

 外から見た車内の様子は何だか病院の待合室みたいに白く殺風景に見えて、薬を待つ患者みたいにただ人がまばらに座っているだけに見えた。

 

 燐はこれから小一時間ほど乗るであろう、綺麗な車両から目を離してもう一度振り返って見た。 

 

 蛍は何かを堪えるように俯いたまま、こちらをもう向いてはいなかった。

 

 ──ひとりぼっち。

 

 不意に燐の脳裏に浮かんだ言葉。

 

「……っ」

 

 燐はカバンを手にしたままくるりと身を翻すと、蛍の傍まで駆け寄った。

 

「えっ──燐!?」

 

 我に返ったみたいに、はっとなった蛍は頭を上げ目を見開き、自分の頬を抑えた。

 

 あたたかい。

 その感触と柔らかさ。

 

 そして言葉には到底出来ない、心の底から震えるような、とめどない歓喜。

 

 それがいっぺんに蛍の左頬に集中したから。

 蛍は、目を見開き凍ってしまった。

 

 まるで蛍の間の時間だけが止まったみたいに。

 

 不快感などもちろん一切なく、むしろ驚きと喜びしかなかった。

 

 燐はその蛍の驚いた表情をみてくすっと笑いだす。

 

 けれど耳まで真っ赤に染めたその表情は、恥ずかしさの為の照れ隠しなのだと誰の目にも明らかだった。

 

 無論蛍の瞳にも。

 

 顔を真っ赤にしている燐の姿は映っていた。

 ただ、動けなかっただけで。

 

 幸いホームでは誰も二人の姿を見ていなかったようで。

 

 けど、もしかしたら、停車している車両の中から見られていたかもしれない。

 

 だとしても、今の二人には全く関係のないことなのだが。

 

「んっ、はあぁぁ~」

 

 燐はやや大げさに一回、すうっと深呼吸をすると、おもむろに蛍の長い髪を優しく撫であげた。

 

 この温もりがいつまでも手の中に残ればいいのにと、愛おしさを閉じ込めるように。

 

 そしてにこっと微笑んで、もう一回、目を見て言葉を交わす。

 

 簡単でとても単純な言葉だけど、心と思いが繋がるように。

 

 一言一句思いを込めて口を動かした。

 

 意識した、本当の言葉で。

 

 想いを届けるように。

 

 ”いってきます”。

 

 蛍は、まだ頬に手を当てたまま、小さい声で呟く。

 

 顔は熱を帯びたように上気して、燐の顔すらまともには見れないけど。

 

 それでも。

 

 目の前の好きな人。

 燐にだけ聞こえる小さい声で。

 

 ”いってらっしゃい”。

 

 それだけ答えた。

 

「うんっ」

 

 

 何を──焦っていたのだろう。

 

 急に世界が広がったみたいに気持ちがすっきりした。

 色づいた蕾が咲きほこるみたいに、心にぱっと色がついた気がする。

 

 言いたいことは結局言えなかったけど。

 

()()がその柔らかい笑顔を向けてくれた。

 

 たったそれだけで。

 

 今、この場で全てが終わっていいとさえ思った。

 

 

 ──

 ──

 ──

 

  






先日、某スーパーな銭湯に行った時、脱衣所のトイレでまさかの転倒してしまったのですよー!! 幸いケガは……ちょっとあったり。骨には異常なさそうでしたけど。けれど少し頭をぶつけてしまったことが気がかりでしたねー。床がちょうど少し弾力性のあるものだったのか、ぶつけた直後の痛みはなかったのですが……でも後になって側頭部がずきずきと……まあ二、三日様子をみてみたのですが、やっぱり気になったので結局脳神経外科にーー。

で、MRI検査を行ったわけですが──やはり異常なしなのかーーーまあ、いい事なんでしょうけどねー。まあ、前にもこの病院へ行ったことがあって、その時も異常なしだったから何となくそんな気はしてましたけどね。
それにしても、”きれいな脳”は誉め言葉なのかなぁー??? 頭使ってないって言われてるのと同じ気がして、なんかちょっと複雑な気持ちになってしまったりたりたり。

検査費用は6000円前後でした、ちょっとお高い感じ? けれどそれよりも謎のマスク代のほうが気になってしまいましたよー! いや、ちゃんとマスクしてたんですよー。でも、着用してたマスクが金属探知機に引っ掛かるとの理由で、結局買わされてしまったんですよーーー!! ”マスク一枚50円”だったんですけどなんだかすごく損をした気分に……。

ちなみに自分の後に検査を受ける人も案の定同じ目に合ってしまったようで、別途50円支払ってました。

これは……マッチポンプ? なのかな??? 何だかよく分かりませんが、検査受ける前の問診(しかも2回もあったのに)では一切言われなかったのに、なぜこんな入る直前の、”下着と検査用の上着だけ”の時になって突然聞いてくるのかなぁぁぁ。
全国の病院がこうだとは思わないですけど、もうちょっと早く言ってもらえると助かりますねぇ。

もし、これからMRI、もしくはCT等に入る方がおりましたら、マスクは鼻の部分にワイヤーが入っていないものか(どうもここの部分に探知機が反応するらしい)、”日本製の”ちょっと質の良いマスクを持参してから検査を受けることをおススメしますー。この病院から買ったのも日本製マスクでしたしねー。

あ、そういえば某都内のSAでまさか売ってるとは思いませんでしたよー、”みのぶ饅頭”!! ミニサイズもありましたが、やはりここは普通サイズのものを購入しました。
ゆるキャン△ のプリントクッキーも売ってたからまさかとは思いましたけど。仕入れの人がゆるキャン△ ファンかもですねー。ちなみに売っていたのは石川SA上り(東京方面行)でした。もしかしたら下り線のSAにもあるかもしれないですねー。

※すみません、どうも失念していたらしく、私が立ち寄ったのは上り線の方のSAでした。ごめんなさいっ。ファミリーマートがある方です! 上記の文は訂正いたしました。混乱させてしまってすみませんでした。

みのぶ饅頭は予め冷蔵庫で冷やしておいたのをアイスコーヒーと一緒に頂きました。結構大きいので一個でも食べ応え十分で、中の餡子の甘さも控えめで大人ウマーでした!


それにしても、つい少し前、大分気温が下がってきたなぁって思って長袖を出したのに、もう今日は猛暑になってるとか、もうね……。

皆様も体調管理にはぜひぜひご注意ください。


それではではー。



で、映画ゆるキャン△ ネタバレ&考察コーナー!! なんですが……。
もう結構忘れてるので、超! 個人的に気になった所を交えながらネタバレしていこうかなって……あ、もしまだ見に行ったことがなくて、これから見ようと言う方はここからの事は見ないことをおススメします。

さてさて、まずは映画の内容というかあらすじから……。
──もう使われていない施設が廃墟になってしまったと言う話を千明が持ってきたので、リンやなでしこ等、大人になった野クルメンバーが集まって、みんなでキャンプ場をつくるって言うお話になっています。

何て言いますか、もう最初のコンセプト段階で、むぅ!? ってなっちゃったんですけどぉー!! 偶然ですよねぇ、これ。
まあ、キャンプ場を作るってこと自体が、今ですと一種のブームみたいになってますからねー。これぐらいは偶然の範疇ですねー。

で、様々な登場人物がリン達と関わってくるわけですが、やっぱりみんな大人になったから、出てくる人も大人が多いですねー、当たり前ですけど。
その中でもゆるキャン△ 本編では完全に子供キャラ扱いだったあかりちゃんがまさか美術大生の設定になってるとは思わなかったなー。
その姉のイヌ子さんも、小学校の教師になっていたし……赴任先は廃校になってしまったようでしたが。
その時、迎えに来ていた千明の車が、ライトグリーンとホワイトのツートンカラーだったんですけど!? まあアルトラパンではなくて、N-ONEっぽかったからセーフかなぁー。

それでキャンプ場作りは順調に進んでいたのですが、すっかり老犬となってしまった”ちくわ”のおかげで? 作業は一時中断することに……。
そういえば重機を操縦するのはてっきり千明かと思ったんですが、なでしこがきっちり講習を受けて操縦するとは思わなかったーー……なんでしょう、この展開に少しだけ既視感があるような、ないような??

その結果、ボランティアでやっていたキャンプ場制作をお休みして、みんな普段の生活に戻るわけになるのですが……この時のあるエピソードがもうねぇ……あんまり詳しく書くのもあれなのですが、冬のトレッキングはいいんですが、(ちょっと気になるけど)何故シーフードのカップ麺を……しかも何か意味深な台詞をなでしこが言ってるしぃぃぃ!! これも偶然なんでしょうか? それともよもやの必然!!?? 正直、どっちでもコワーなんですけどぉぉ、特に後者は……ねぇ。
まあ、でも殆ど偶然だとは思ってますよー。ネタ被りは良くあることですしねー。

でも、実は原作漫画の方でもちょっと気になることがありましてですねぇ……このことは次の回でちょろっと書いてみることにしますー。

さて、ちょっと脱線しましたが、映画の後半では、何とか作業も再開して、遂にキャンプ場オープンという運びになったのですが、そこでちょっとしたアクシデントが……という展開になりますねー。

もう少し分かりやすいネタバレをしても良かったのですが、やっぱり一応配慮した方がいいのかなって思いましてここまでにしました。

前にも書きましたが、予想していたよりも全然面白かったです。それにスクリーンの大迫力、大音量でゆるキャン△ を見るという行為自体が、もう感動ものなんですよねー。
先で上げたSAで売っていたクッキーもそうなんですけど、ゆるキャン△ もここまで有名になったんだなーって思って。映画も全国ロードショーでしたしねー。

さてさて、長々と書いてしまいましたが、ここまで読んでくださった方には最後までお付き合いいただきありがとうございました。

映画の方も上映が減ってしまうようですが、新たに上映するところもあるみたいなので、まだ未視聴の方もぜひぜひ見に行ってみてください。

私が書いたこと以外にも、いっぱい見どころがありますよー。それに何気に三期目のフラグを映画で立てていますし。

ゆるキャン△ アニメ三期、あるといいですねぇー。



ではではー。


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Truthfully


 ドアがスルッと閉まり。
 緩やかに列車が動き出す。

 レールの繋ぎ目などないみたいに走り出しも、その後も何もかもがスムーズだった。

 そこには不安も後悔もないみたいに、速さだけが先行していた。

 ……わたしは、そうじゃないけど。

 あまりにも静かだから、夢の中の列車にまた乗ってるのかと思ってしまうほどに。

 それは誇張ではなく、お昼丁度頃に乗車した列車(新幹線)は、レールでもないみたいに滑らかな挙動をみせており、あわよくば何かのシミュレーターの中にいるのではないかと思うほど。

 それぐらい快適だった。
 今の気持ちとは裏腹に。

 けれど、景色はハッキリと動いている。

 本当に少し前までは、山間を走るローカル線の古い車両に体をガタゴトと揺さぶられていたことが信じられないほどに。

 同じ列車というカテゴリー内でもここまできっちり違うものかと、いたく感心……と言うよりも何だか少し呆れてしまった。

 速さと快適さ、その乗り心地の差に。

 その代わり料金は大分かさんでしまうけれど。

 けれど、地元の古ぼけた列車もレトロで可愛くて好きだったから、優劣をつけるなんてことはするつもりはないけど。

「……」

 周りが静かだからなのか、スマホよりも車窓からの景色の方が自然と目に入る。

 ちょうど大きな山の前に列車が差し掛った所(ビューポイント)だったし。

(今日も、大きい……)

 上の方はすっぽりと白い帽子を被っていて少し残念だったが、それ以外の少し霞がかった薄青の稜線が新緑の身体を包み込むようにして、開かない窓をキャンバスにするように、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせていた。

 僅か数秒の景色であるのにその瞬間だけ、列車内は静謐で瀟洒な美術館(ミュージアム)のような厳かな情景へと変化していた。

(……蛍ちゃん)

 そんな雄大な景色を眺めても、燐の脳裏に浮かぶのはホームで別れた友達の、蛍の方だけを向いていた。

 どこに視線をやっても、頭から離れない。

 それは意識でさえまでも。
 ずっと、ずっと遠く。

 まだずっと後ろ髪を引かれたまま、燐はひとりでぼんやりとしていた。

 燐の座席は窓側だったが、隣には誰も座っていない。
 その事が余計にぽっかりと心に穴を開けていた。

 ひとりぼっちである事が強調されたみたいに思えて。

(……どうして、わたし、あの時に)

 外の景色を見てはいるが、頭では別の事を考えていた。

 本当は考えたくないことだった。

 今更どうにもならないことだし、実際にもうどうにもならないことだったから。

 連絡をとることはいつでもできる。
 けれど、それが一体何になるんだろう。

 離れていってしまったのはきっと物理的な事だけじゃない。
 心もそのまま遠くに行ってしまった。

 そんな気がする。

(わたし、また同じことをしちゃったのかな……? 何度こういうことを繰り返せばいいんだろう)

 もっと真剣になんて……それこそもう遅いし。

(……ひっ!)

 燐は思わず声を上げそうになった。

 景色の内側に見知らぬ顔が映り込んできたから。

 それは酷くぼんやりとして、とても間の抜けた覇気のない表情(かお)だったから。

 つまりは自分の……燐の顔だった。

 それが新幹線の磨き込まれた、鏡みたいな窓に映り込んでいた。
 ただ、それだけ。

 我ながら酷い顔をしていると思う。

 これでも自分では結構可愛い部類だと思っていただけに。

(ふぅ……)

 思わずため息をついた。

 この先、一度も行った事のない場所に行くのに、いつまでも気を滅入らせてなんかいられない。

 気持ちを切り替える為、燐は窓の外の景色ではなく、新幹線の車内の様子に目をくばった。

 幾つかの駅に停車したが、それでも燐の隣の席はずっとまっさらな状態だった。

 何か厳かなヴェールでも掛けてあるみたいに、綺麗なブルーのボックスシートが何だかとても寂しいものの象徴みたいに思えて、意味もなく胸が痛んだ。

 別に一人で乗ることが寂しいという理由ではない、はず。

 修学旅行だけでなく、プライベートでも何度か新幹線には乗ったことがあったし……まあひとりではなく、家族とか従兄とだけど。

 だからって、別にひとりでダメな理由にはなっていない。

 ただ座っているだけでいいわけなのだし。

 暇つぶしにスマホを適当に眺めていれば時間なんてあっという間に過ぎ去るだろう。
 距離は確かに長いが、そんな事は気にならないほど新幹線は早いのだから。

(それにしても、お母さん何であんなこと言ったんだろう。わたしもうそんな子供でもないのにぃ)

 曇った気持ちを紛らわすように燐は、今朝出来立てのパンを届けにわざわざ小平口町から車で降りてきた母親のことを思い返していた。

 ”燐は素直で騙されやすいんだから、寄り道とかしないようになさい”。

(って、そこまで子供じゃないもん。お母さん、全然分かってないよねぇ。ほんと)

 特に、”東京は気を付けなさい、変な男が寄ってくるから”……って。

 だから、そんな隙の多い子じゃないって言ってるのにぃぃぃ!

 燐はムキーとなる心を押さえながらも、シートの上でぷんすこと一人、踏ん反り返っていた。

 ただ、自分でも明らかに苛立っているのが分かるだけに、それは大して長続きしなかったが。

 (平常心……ここは平常心、だよ。これじゃあ変なのが寄ってくるより、わたしが危ない人に間違えられちゃう)

 ……
 ……

 こうなると今度は退屈を覚えてしまう。

 手持ち無沙汰を感じた燐はスライド式のテーブルに放っておいたスマホを手に取ると、半ば無意識にそのつるんとした液晶画面に指を伸ばした。

 さて……どうしようか?

 思わず手に取ったものの、そこから先の指が動かない。

 別に操作が出来ないという意味ではなく、()()()()()()()()()()()()が、頭に浮かんでこなかった。

 したいゲームも、見たいSNS(情報)があるわけでもないし、ニュースだって。

(と、なると……)

 だからと言ってすぐにでも連絡したら、何かそれこそ未練がましいと思われるだろうなぁ。
 特に親しい友達には。

 ”どれだけ寂しいの?”、と思われるのはまず間違いないだろうし。

(でも、それでも)

 液晶画面を見つめながら、もやもやとした煮え切れない想いに燐は囚われていた。

(別に直ぐに連絡を取ったって悪いわけではないし。それにやましい事をしているわけでもないよね?)

 言い訳の様な言葉を並べてみても、まだどこか納得がいかないのか、それでも燐の指は動かなかった。

 プライドとか羞恥とかではなく、自分でも良く分からない感情が渦を巻いていた。

(まあ、でもいっか、笑われたって)

 今、声を聞きたいと思ってるのは確かなものなんだし。

 自分の気持ちに正直になろうと思った。
 羞恥なんて後から考えればいいだけ。

 できれば考えたくはないけど。

 半ば開き直るようにほっと息をつくと、燐は携帯に向かって軽く微笑んだ。
 そして母親ではなく、まず蛍に電話を掛けた。

 ついさっきまで一緒だったのだから。
 そうすることに何の迷いもなかった。

「──あ、もしもし蛍ちゃん? 今、何かしてた?」

 何回かのコールの後、蛍の携帯に繋がる。

 出るのが遅かったのでちょっと心配したけど、声を一言聞いたらどうでもよくなってしまった。 

「あ、大した用事じゃないよ。それより燐。どうしたの、なんか忘れ物?」

「別にそーゆーわけじゃないけど、どうしてるかなって」

 燐はそれまでの沈んだ気持ちが嘘のように明るい声で話していた。

 それだけ嬉しかったんだとおもう。
 何気ない、友達との言葉のやり取りが。

「えっと、そのちょっと……トイレ行ってたの」

「あっ、ゴメン! 変な時に電話しちゃって」

「ううん。いいの。もう済んじゃったし」

 そうとは思わなかったので燐はすぐに謝った。

「ホントに? ゴメンね蛍ちゃん。何かタイミング悪いときに電話しちゃって。あっ、先にメッセ送ってれば良かったね」

「本当にもう大丈夫だから」

 ずっと謝ってばかりの燐に蛍は優しい声色でそう言った。

「それより燐はどう? 楽しんでる?」

「うーん、と……」

 こうなると寂しくて電話かけたなどとは蛍に言えない。
 燐は苦笑いを浮かべながら、少し声を高くして答えた。

「そうだね。快適と言えば快適だよね。座り心地も良いし。そういえば、さっき、富士山がとっても大きく見えてたんだよ。何かいつもと違って見えてちょっと新鮮だったよ」

「あっ、そうなんだ。なら良かった」

「うん、蛍ちゃんは? もう家に帰っちゃった?」

「ううん。まだ外だよ」

 蛍のその言葉に燐は一瞬ぎょっとなった。

「え、そうなの? ホントごめん! 周りに聞かれちゃったよね?」

「そうでもないよ。だってもう平気だったから電話取ったの。それにほぼ個室のトイレだったから」

「でもすごく狭いよね。わたし初めてだったからちょっとびっくりしちゃった」

 液晶から聞こえる蛍の言葉に燐は少し引っ掛かった。

(うん? 女子トイレって個室しかないよね? それに狭いって……)

 蛍の物言いにちょっと違和感を覚えて、燐はかざした携帯に首をかしげた。

 駅のトイレはむしろ広く感じるほどだけど。
 特に新幹線側のプラットフォームにあるものは清潔で尚且つ十分なスペースがあったと思うし。

 そんなにトイレにこだわりをもっているとは思ってはなかったけれど。

 何か蛍なりの基準、みたいなのがあるのかもしれない。

 一応、由緒のあるとこのお嬢様だし。 

 蛍の実家や二人で住んでいるマンションだって、家庭用としては広いトイレだと燐は思っていたし。

 二人一緒にでいても結構気付かないことってあるもんだなー。
 そう燐が電話ごしに感心しきっていると、液晶からさらに意外な言葉が飛び出してきた。

「確かに燐の言う通りだね」

「え、何のこと?」

「まだちょっと富士山みえるよ。綺麗だよね本当」

 歓喜を含んだ蛍の言葉に燐は思考停止したみたいに膠着していた。

 声が良く聞こえるから多分外ではないと思うし、駅ナカにしてはやけに静かすぎるとは思う。

 もうお昼過ぎだから、それなりに人出はあるはずだし。

(まさか、まさかだよっ……!)

 思わず燐はごくりと喉を鳴らして、おずおずと蛍に問いかけた。
 液晶越しに少し眉をひそめて。

「ね、ねぇ、蛍ちゃん? 今、何処なの?」

 恐る恐る声を潜めて燐は話しかける。

「……」

 何故か蛍からの返事はなく。

「ど、どど、どうしたのっ。やっぱり今、話しかけちゃいけない場所だった?」

 燐は少し身を屈めてこそこそと話を続ける。
 少女の姿は傍目には確かに怪しいものに見えたのだろう。

 そのせいなのか、燐は飛び上がるほどに驚いてしまった。

 黙り込んでいたスマホから、急に変な声が囁くものだから。

「いま、燐の後ろにいるよ……すぐ、真後ろ……」

 急にノイズが掛かったみたいに蛍の声が聞き取れづらくなったので、燐はスマホに何度も呼びかけた。

「もしもし、蛍ちゃん? 一体どうしたのっ!?」

 その時だった。

 燐はスマホの声に耳を傾けた時。

「燐」

 名を呼ぶ声に、全身の血が凍るような悪寒を感じて燐は、思わず自分の後ろを振り返った。

 戸惑うような苦悶の瞳を。
 誰もいるはずのない座席の方へ。

 だが。

 そこには片手に携帯を握りながら、恥ずかしそうに小さく手をひらひらと振る蛍が立っていた。

 それを一目見た燐は。

「──ッ!? ──ッ!!??」

 辛うじて燐は口を抑えることが出来たのだったが、その表情は驚愕のまま目を見開き凍り付いていた。

 なんで? どうしてここに居るのぉ!?
 そう言っているように。

 足を必死にバタつかせながら。首を何度も左右に振る燐。
 不思議そうにこちらをみる蛍を指さしながら。

 だが、燐が口を抑えていたにも関わらず、実際にそう叫んでいたと変わらなかったのか、それまで静かだった白い車内でざわざわと人の声が戻ってきていた。

 ──
 ──
 ── 

「はぁ、もう。びっくりしちゃったぁ。むー……蛍ちゃんは、わたしを驚かせるの楽しんでない? これじゃあいくつ心臓があったって足りないよぉぉ……」

 ため息交じりに愚痴をこぼす燐。

 ちょっとした騒ぎはすぐに収まり、客室は緩やかな時間の中で東へと流れていた。

「ごめんね。あ、でも、燐なら平気なんじゃない。だって一度、死んだんでしょ? それっていくつも命を持ってるってことだよね」

 さっきから平謝りの蛍だったのだが、急に変な事を言いだしていた。

 燐はまた深いため息をついた。

「また、もう……それなら蛍ちゃんだって一緒でしょ」

(わたしの知らない時間のとき、消えちゃったんだし)

 少し口を尖らせる燐に蛍は困り顔で返す。

「でもさ、燐。わたしの心臓は一つしかないよ。ほら、とくんとくんって鼓動はひとつだけっだし」

 自身の胸に手を当てた蛍は、さも当然のようごとくつぶやく。

「それは、わたしだってそーなのっ。二つも三つも持ってないからっ」

 燐はもうつっこむだけの気力も失せたのか、投げやりの言葉をなげかけた。

「あははっ、わたし達、本当に一緒だね」

「……そうだね」

 くすくす笑う蛍に燐は呆れたように肩をすくめた。

 けれど、内心では少しほっとしていた。
 
 ホームで手を振って別れたときは例えようのない喪失感を覚えたけど。

 どこか安心する、二人一緒だと。

 運命とか、引力とか。
 そう言った不確かな、オカルト的なものを信じてしまうぐらいに。

「あのさ、蛍ちゃん。どうして蛍ちゃんも、その一緒の新幹線に乗ってるの? さっきホームで別れたばかりでしょ、わたしたちって」

 燐は脱線していた話を元へと戻した。

 それがもっとも疑問であり、燐が蛍にまず最初に聞きたいことだった。

「あ、うん」

 蛍は歯切れの悪そうな顔で曖昧に笑う。
 聞かれたくないような、そうでもないようなそんなどっちつかずな表情で。

(まさか、”テレポートしてきた”、とは言わないよね? 流石に……ねぇ)

 燐は自分の頭で考えたことを馬鹿馬鹿しく思いながらも、もしかしたらと少し眉を寄せて蛍を見つめていたが、直ぐにその考えは打ち消して、少しからかうように蛍に言葉を投げた。

「じゃあ、ちょっと寂しかったからわたしの後を追ってついてきちゃった、とか?」

 そう言って燐はくすっと笑う。

 蛍と離れ離れになると言っても、精々二、三日程度だし、それに蛍に限ってそんなことはないと燐は思っていたから。

 ちょっとからかいすぎたかもとは思ったけど。

 けれど、蛍の唇から出た答えは違ったものだった。

「うん……燐の言うようにきっとわたし、寂しいんだと思う。いつまでもこういうのって駄目だとは思ってるんだけど」

 予想していなかった蛍の素直な告白に、燐は。

(そ、そんなそれじゃあ……)

 声に出さない言葉を紡ぎながら、顔を赤くして口をぱくぱくとさせていた。

「で、でもぉ、そんな、もう二度と会えないってわけじゃないんだしぃ」

「けど、もし前みたいなことになったら、多分、わたし……もう耐えられないと思う」

 そう言って蛍は燐の顔をじっと見つめた。

 透明で、穢れのない澄んだ瞳で。

 その綺麗な瞳と見つめ合ったことで、燐はやっと気付いた。
 
 ”同じ”と言った意味。

 蛍が、”普通”に憧れていた本当の意味を。
 ようやくわかった気がした。

「蛍ちゃんっ」
 
 ぎゅっ。

(えっ、今、燐が?)

 突然のことに蛍は声が出なかった。

 まだ燐の隣は空席のままだったから、そこにはちゃっかり蛍が座っていたのだが。

 隣にいた燐が急に蛍に抱き付いてきたのだ。

 頑なだった心を解放させるように、泣き笑いのような表情で燐は蛍の背中に手を回す。

 全てを包み込むような優しい抱擁を燐はしていた。

「ごめんね。蛍ちゃん。わたしもね、本当はすっごく寂しかった。だって、わたし……」

「そっか、燐もそうなんだね」

 蛍は柔らかく微笑むと、燐の淡い栗色の髪を優しく撫でた。

 あれから燐はずっと髪を伸ばしたままだったのだが、この旅行に行く直前、髪を切って欲しいと蛍に頼み込んでいた。

 一月に一回はお互いの髪を切り合いこしていた二人だったけど、この時の燐いつもと違い、バッサリいって欲しいとの要望だったので、蛍は少し緊張しながらも、真鍮の糸みたいに綺麗な燐の髪を文字通りバッサリと切ってしまったのだ。

 それでも前ほどには切ってはおらず、せいぜいセミロングといった具合だった。

「ぐすっ」

 このままだと衆目を気にすることなく燐が大声で泣き出しそうな気がする。
 そう思った蛍は自分の胸元まで燐を引き寄せた。

 ふわっとした柔らかい感触と、ほのかな甘い香りが燐の頬を優しく包み込む。

 燐は嗚咽を必死にかみ殺しながら、一人静かに泣きじゃくっていた。

 やはり辛かったのだと思う。

 急に燐が聡の元に行くと打ち明けたから蛍はびっくりしたけど。

 それでも燐のことだから。
 大丈夫なんだろうと思っていた。

 いつも以上にはっきりとした口調でそう話すから。

(燐のこと……よく分かってるつもりだった……なのに)

 燐の事を全然分かっていなかった。
 
 燐と同じ、普通の少女になっても。

 もっと燐の事、気にしてあげるべきだったんだと思う。
 燐のお母さんにもそう言われたことがあったし。

 見た目よりもずっと繊細な燐のことを。

「あ、ご、ごめんっ」

 顔を埋めていた燐が、急にパッと離れたので蛍は一瞬きょとんとなった。

「もう……大丈夫だから。ごめんね。蛍ちゃんに恥ずかしい思いをさせちゃって」

「ううん。全然、恥ずかしいなんて思ってないよ」

 そう言って微笑む蛍だったが、その顔は名残惜しいというか複雑な表情をしていた。
 一方で燐の方も目も顔も真っ赤に染めていた。

 公衆の面前でこんなことをしていれば確かに恥ずかしいのではあるが。

 二人が顔を赤くしているのには別の思いがあるようだった。

(うー、わたし何してるんだろっ。急に蛍ちゃんに抱き付くなんてっ!)

 それだけ愛おしかったんだと思う、蛍のことが。

 いじらしいというか急に胸がいっぱいになって、気がついたら蛍に抱きついていた。

 羞恥よりも本能的なものが勝った結果だと思う。

 衝動的すぎて自分でも吃驚したけど。

「それに、わたしだって同じだよ。友達が遠くに行っちゃうのはやっぱり寂しいもん」

 体が離れたばかりの蛍に手を優しくとられ、燐はうつむいた顔をあげた。

 その目と合うと、蛍はにこっとした。

 髪留めにつかっているキンセンカのように可憐で儚い、いじましささえ感じる微笑みで。

「わたしもね」

 そう言って笑った後、蛍は少し恥ずかしそうに言葉を続けた。

「頭では分かっていたの。けど、やっぱりダメだった。燐が離れて行っちゃうって思ったら自然と体が動いてたの。こういうのって重たいんだよね」

 唇を小さく開けて苦笑いを浮かべる蛍。

 燐はそのまままた蛍を抱きしめたい衝動に駆られそうになったのだが、その代わりに蛍の細い手を握り返した。

 あまりにも細くて危なっかしくみえるけど、芯はとても強い蛍のその指先を絡ませるように。

 ぎゅっと、しっかりと握った。

「わたしだって、結構重い女だと自分で思ってるよ」

「ちょっと、執念深いタイプの?」

「う……普通レベルだと思う」

 燐と蛍は顔を見合わせたまま、くすくすと笑い合った。

 今度は流石に声は押さえてはいたが、それでも少女たちの可憐な笑い声は静かな車内では何かの旋律みたいに綺麗に奏でられていた。

 それに不快感を感じるものは皆無のようで、むしろ二人のおかげで他の乗客も楽しそうに話し出すようになったほどだった。

「それにしても蛍ちゃん」

「うん、何」

「どうして急に乗ってくることにしたの? だってあんなに嫌がってたよね」

 蛍は燐があれだけ誘っても頑なに首を縦に振らなかった。

 なのに何故?
 燐がそう思うのも不思議ではなかった。

 どうしてもそこのところがどうしても気になっていた。
 蛍の頑固さは燐でも呆れるぐらいだったから。

 何か気が変わるような事象があったとしか思えない。

 燐にはそうとしか思えなかったのだ。

「そう思うよねやっぱり」

 蛍は一瞬ちらりと靴先に視線をやった。

 まるでドレスみたいにフリル多めの服装に、ちょっと丸い所のある赤いラインのトレッキングシューズが蛍の華奢な体躯と比べてやけにサイズの大きいものに見えた。

 だが、決して似合っていないというわけではない。

 むしろそのアンバランス感が人目を惹くほど可愛らしかった。

 対する燐は、頭のてっぺんから足の爪先まで所謂アウトドアな”いつもの格好”。

 久しぶりな人と会うのに、特別なコーディネートとかするはずもなく、むしろこの恰好ならば間違いなく自分だと分かってくれるからとの思いで燐は敢えてそうしたのだった。

 実際はやはり機能性というか、着心地の良さで選んでしまったのだけれど。

 上着は言わずもがな、下にはさらっとしたベースレイヤーを着込んでいるし。

 何だかんだ言っても結局は動きやすさ重視だった。

「そのさ、理由っていうか、わたしに隠してた事とかある?」

 根拠とか裏付けみたいなものがあったわけではない。

 蛍をちょっとからかおうとして言っただけだった。

 その何も考えていない単純な言葉が、その蛍を心底驚いたよう顔にし、目を大きく見開いて口を丸く開けさせていた。

 全く予期していない──図星を突かれたみたいに。

「あのー、蛍ちゃん?」

 何か誤解されていると感じた燐は、手を軽く振って尋ねる。

「だって、あの時……燐はいなかった筈なのに……」

 蛍は燐の事が目に入らないみたいに独り言のようなものをぶつぶつと呟いていた。

「え、えっとぉ」

 急に目の前で思案し始めてしまった蛍に、燐はどう言葉をかければいいか分からず、少し困惑の顔を浮かべた。

「あ、ごめん。ただ流石だなって思って」

「わたしの事?」

「やっぱり燐には分かっちゃうんだなって。以心伝心みたいなものだね」

「あはは。まあ……ただの当てずっぽうだから」

 まだ何のことかは分かってはいないけど、燐は笑みを作りながらとりあえず蛍に話を合わせた。

「えっと、それで?」

 燐はその真相を探るべく蛍に続きを促した。

「あ、うん。その、隠していたとか言うわけじゃないの、ただ……すぐには言わない方が良い気がしただけで。だからって別に悪い事とかじゃないし、止められていたとかでもないんだけど」

「うん……」

 少しだけ会話が止まる。

 ちょうどその時、次の停車駅のアナウンスが車内に流れた。

「蛍ちゃん、次で降りる?」

「ううん。わたしはまだ降りないよ」

「そう」

 余程大事な話なのだろう、蛍の口調には決意のようなものが垣間見えた。
 ホームではあれほど時間があっても一言だって言ってはくれなかったし。

 そうこうしている間に、列車はプラットフォームに滑り込む。

 まるで二人に気を使ってるみたいに静かに停車をすると、ホームドアと連動した客室のドアが音も立てずに開く。

 生ぬるい外気と一緒に乗客の乗り降りが行われる。
 燐が乗った時よりも人の往来が激しい感じがした。

 そういえば、蛍は切符をどうしたのだろうか、まだその事を燐は聞いてはいなかった。

(入場券のまま乗車した可能性が高いけど。それって大丈夫だったっけ?)

 すぐには犯罪、ってわけではなかったと思う。

 多分お金は持ってると思うし、燐も一応手持ちの金に少し余裕をもたせてある。

 どうする気なんだろう、蛍ちゃん。

 そんな燐の考えなど気にしていないみたいに、蛍は行き交う人の流れをぼうっと眺めていた。
 
 無意識の領域で物事を見ているような、そんな目線で。

(もし、不審に思った駅員がもしこっちにやってきたら……)

 燐は蛍の仕草や話の内容よりもそっちの方が大分気がかりになって、思わず唾をごくりと呑み込んでいた。

 ──
 ──
 ──
 


「燐、あのね。わたし、前の晩……オオモト様に、会ったの」

 

「えっ──なにそれっ、本当なの!? 蛍ちゃん!」

 

 燐は口こそ叫び声のような形を作っていたが、それ自体を声を出すことはなかった。

 

 そのぐらい驚いたというのもあるが、また周りの人の視線を惹いてしまうのも流石に嫌だったから。

 

 駅職員はまだ二人の所に尋ねてこなかったから余計に。

 

 その代わりに”Lein”で言葉のやり取りをしていた。

 

 今風と言うか、それは世代である燐たちだけでなく、大人も割とこんな感じだった。

 

『それって、本当に? わたし全然知らなかったんだけど!?』

 

 ()()()に、燐はわけの分からない叫び声をあげるキャラのスタンプも一緒に送っていた。

 

 一仕事やり終えたみたいに、ふぅと息を吐く。

 

 明らかに困惑しているみたいに見える燐の顔は、知らなかった事実を聞かされて狼狽しているようだった。

 

「あ、それね……」

 

 そう言いかけて蛍はそっと口を閉じる。

 小さな口の代わりに細い指を自分のスマホ上に滑らせた。

 

『燐は知らないと思うよ。だってその時ベッドでぐっすりだったし』

 

 可愛い寝息を立てているのを確認したからと付け加えて、蛍もスタンプをついでに添えた。

 

 丸い顔のハチワレ猫のキャラが大きな欠伸をしているだけの、何ともゆるいスタンプだった。

 

 燐はそれを見て少しくすりと微笑んだが、次に出す言葉が見つからないようで、考え込むような素振りをみせる。

 

 蛍は燐とスマホを交互に見ながら、続けざまにメッセージを送った。

 

『わたしね、燐が聡さんのとこへ行くって聞かされたとき実感が持てなかったの。でも前日の夜になってようやく実感が湧いたっていうか』

 

『そう考えたら急に寝れなくなっちゃって』

 

『じゃあその時、オオモト様ががががが!?』

 

 何となく蛍の話の内容を掴みかけたのか、割り込むようにして燐も送信した。

 

 ”が”を少し多めにしたのは、それだけ驚いたという燐なりの表現……らしい。

 

 でも、実際はまだ落ち着かないようで、燐はペットボトルの緑茶を飲みながらスマホを片手で操作していた。

 

「ううん、そうじゃないの」

 

 液晶からではなく、蛍は直接その言葉を口にすると、お役御免とばかりにスマホをコトリとテーブルの上に置いた。

 

 そして燐の用意してくれたお菓子を指先でひとつつまんだ。

 

 備え付けの小さなテーブルには、燐の持ってきたありったけのお菓子が広げられていた。

 

 成り行きからつい、スマホでやり取りをしていたが、別に隠す様な事でもないし、それに誰かに聞かれたとしても到底分かる事ではないと思ったから。

 

 蛍は自ら直接コミュニケーションをとることにしたのだ。

 

 変な会話してる女子たちと思われそうだけど。

 

「……ん、そうなんだ」

 

 その意図を察したのか、燐もスマホの画面をパタンと閉じた。

 

「あのね。どうやっても寝付けなかったから、ちょっと外に出てみたの。あ、ちゃんと鍵は掛けたし、一応燐にも了解とったんだよ」

 

 そう言うと、蛍はピンクの小さなチョコレート菓子を一つ、二つとひょいひょいと口に入れていた。

 

(え……了解? そんなのあったっけ?)

 

 蛍とは対照的に、燐は頭を捻っていた。

 それは蛍の言葉に全く身に覚えがなかったから。

 

 どんなに頭を絞り出しても、蛍の言うその”了解”を取った覚えがない。

 

 夢か現実か分からぬことが立て続けに起こったせいで、その記憶までもが曖昧になってしまったのだろうか。

 

 むむー、と燐が一人唸っていると。

 

「けど、燐は寝てたんだよ。わたしが声を掛けても起きなかったし」

 

「……それってもしかして」

 

 何だか少し嫌な予感がする。

 

「だから燐に、”ちょっと外に出てくるね”って言ったの。そしたら燐がうんうんって頷いてくれたから、それで」

 

「それは蛍ちゃんがわたしの首を無理やり動かしただけでしょ。どこらへんが了解を得たって言うのよー」

 

 ようやく理解できたようで、燐はぷんぷんと頬を膨らませていた。

 

「まぁまぁ、良いじゃない。オオモト様に会った以外は何もなかったんだし。それにそんな遠くにまでは行かなかったから」

 

「それはまあ当然でしょー。女の子の夜の一人歩きなんて危ないんだし。蛍ちゃんはちょっと危なっかしいんだからっ」

 

(危ないって、燐から見たわたしってそんなに頼りないのかな……)

 

 蛍はちょっとだけ寂しい気持ちになった。

 

 だが、燐の言っている事は自分自身の事も含まれていた。

 

 母親から良く言われていたことだし。

 今日のことだってそうだったから。

 

 半ば当てつけのような形で言ってしまったことに少し反省しながら、燐はその後の蛍の行動を聞いてみた。

 

「まさかだとは思うけど、いくら寝苦しいからってハダカで外に出たわけじゃない、よね?」

 

 突拍子のない燐の言葉に蛍は一瞬びくっと身を振るわせて周囲をきょろきょろと見まわした。

 

 どの座席からもこちらを覗き込んでいないようだったので、蛍はほっと胸を撫で下ろす。

 

「もう、燐~」

 

 自身の口元を人差し指で押さえる仕草をすると、囁くような小声で燐に非難した。

 

「そんな事する人とか居るの? それじゃあまるっきり変態じゃない」

 

 ややむくれた感じの蛍の口調に、燐はあははと誤魔化すように笑った。

 

「ごめんごめん、ほら蛍ちゃん凄く綺麗だから、わたしが寝静まった後にこっそりそう言う事して楽しんでるんじゃないのかな、ってちょっと思って」

 

 困った笑みを浮かべる燐に、蛍は心底疲れた息を吐いた。

 

「ちょっとでも思う方がおかしいけど……? それに燐じゃあるまいし……」

 

「わ、わたしだっていくら暑くてもそんな変な事しないもん。もう、蛍ちゃんのエッチ!」

 

「燐が最初に言い出したんだから、燐の方がエッチだと思う」

 

「えー。違うもん」

 

 燐はプイっとそっぽを向くと、やけ食いのつもりなのか箱の残りのお菓子を一気に口の中に入れた。

 

 ぼりぼりぼりぼり。

 

 おおよそ女の子らしくない食べっぷりに蛍はまた大きなため息をついた。

 

「わたしだって……」

 

 燐以外に裸なんか絶対見られたくないし。

 

「んー、蛍ちゃんなんか言った?」

 

「ううん、別に」

 

「あ、そっ」

 

 燐は小首をちょんと傾げるも、直ぐにお菓子を貪り食う方に戻っていった。

 蛍がぼそっと呟いた言葉は、燐の無慈悲な咀嚼音の前に儚く消えた。

 

 ぼりぼりぼり。

 

 リスか何かの小動物のようにお菓子を頬張っている燐。

 

 いつもしっかりしている燐がこういう事をしていると、少し呆れかえってしまう。

 

 けど、燐の素の姿は普通の子と何ら変わりない。

 周りの期待がちょっと大きいだけで。

 

(わたしもそういうとこあるのかも。でも、ちょっと可愛い)

 

 拗ねた子供みたいで。

 

 蛍は口元を押さえてくすくすと笑いだしていた。

 

「それで。何処で会ったの、オオモト様と」

 

 蛍にからかわれてると思ったのか、燐は少し不機嫌そうに緑茶をぐびっと飲みながら蛍に話の続きを振った。

 

「あぁ、うん……」

 

 蛍は改まるように、膝の上で手を揃えた。

 

「ほら、前に二人でクリスマスのイルミネーションを見た時のあの場所。燐、覚えてる?」

 

「あの高台の上の公園のことでしょ。流石に覚えてるよ。んじゃあそこで? 青いドアの世界に行ったんじゃなくて?」

 

「うん」

 

 燐がずいっと顔を近づけて聞いてくるものだから、蛍はつい腰を少し引いてしまった。

 

(燐……顔が近いよ。誰かに見られてたらどうするつもりなの?)

 

 これよりももっと凄い事を人がいるプラットフォームでやっていたのだが、話に夢中になりすぎて蛍も燐もすっかり忘れているようだった。

 

「えっと、ふとあの公園に立ち寄ってみたらそこで立ってたの。まるでわたしの事を待っていたみたいに」

 

 蛍は昨晩あった出来事を思い出していた。

 

 ほんの十数時間程度の前のことなのに何だか凄い遠いこと、ものすごい過去の、例えるのならおとぎ話みたいな出来事みたいに感じてしまう。

 

 現実感がまるでない。

 と、いうよりこれは現実なんだという、確固たる実感が未だに持てなかった。

 

「へぇ。何だかちょっとロマンチックだよねぇ。蛍ちゃんにとっては運命的な出会いだったのかもね」

 

「それはどうかは分からないけど。何か分かってたみたいだった、わたしが来ることを」

 

「じゃあますます運命的なものだね」

 

 今にして思えば、あの青いドアの家に行ったのも偶然ではなかったのでは思う。

 

 どちらかというと必然的なものだった。

 あの人との邂逅は。

 

 燐は丸い大きな月をバックに柔和な顔でこちらを見つめる”大人のオオモト様”の姿を頭に描いた。

 

 それで多分間違いないと思う。

 蛍のその口ぶりからすると、幼い頃の姿ではないことが窺えたから。

 

(そういえば……)

 

 燐はちょっと首を捻る。

 

 わたしから見たオオモト様は子供の姿で、蛍ちゃんから見ると大人……なんてことは流石にないよね……?

 

 ふと、そんな気がしたのだ。

 

 同じ人物が見る人によって違う人になるなんてことはそんなに珍しくはない。

 ただそれは性格的なものや、感情とか、そういった内面の方に用いられるもので。

 

 そう言った話は本で読んだことがあるけど。

 

 燐の仮定のように、大人が子供に見えたり、更にその逆だなんて、そんなことは現実ではまずあり得ない事だ。

 

 変装とかしているのならともかく。

 あの”オオモト様”に限ってそんな器用な事するはずもないし。

 

「? どうしたの燐。急に眼を瞬いたりして。そういえばホームでも目にゴミが入ったみたいだったよね。目薬とか持ってきてる?」

 

「あ。えーと、そう言うんじゃないから」

 

 そう言って燐が誤魔化すように笑うと、蛍も少し困った顔で微笑んだ。

 

「そんなことよりさ、オオモト様何か言ってた? ”おめでとう!”、とか。”今夜はお赤飯よ”。とかぁ」

 

「お赤飯って……」

 

 一体、何の祝い事なんだろうか。

 

 そもそもあの人はそういうのを喜んでくれるような人じゃない気がする。

 

 だって、一言だって言わなかったし……そんなこと。

 

 昨日と今日の間の夜は大きな月が浮かんでいた。

 

 ……

 ………

 …………

 

 ネオンの火も大分落ち着いた頃、蛍は燐と二人で住んでいる駅前の高級マンションを抜け出して、深夜の町をひとり歩いていた。

 

 徘徊と言ってもいい。

 目的も何もなかったのだから。

 

 眠れなかったというのは間違いではない。

 けれど、外に出て行くだけの理由にしては少し弱い。

 

 夜風や都会ならではの、きらびやかな夜の町並みが特に好きいうわけでもなかったし。

 

 その程度のことならマンションの一室でも十分堪能できる。

 

 タワーマンションなのだし、二人が住んでいるのも上から数えた方が早い階層だった。

 

 だから、蛍が外に出たのは……何となく。

 

 何となく外に出たかっただけ。

 

 もっともらしい理由をつけるなら、ひとりで考えなければならないことができたからだと思う。

 

 そうでなくてはこんな、雑踏すら聞こえない深夜の町に何て用事があるはずもないから。

 

(燐は、本当に行っちゃうんだよね?)

 

 夕食を終えた後、燐に向かって言った言葉をもう一度頭の中で繰り返す。

 

 もう()()()()なのに、未だに現実感が感じられない。

 夢の中の台詞かと思う程しっくりとこなかった。

 

 ──それを燐が急に言い出したのは、今からほんの一週間ほど前。

 

 あの、”ナナシ山”の石碑まで行ったその翌日の事だった。

 

 その時、()()()()()() ()になったと蛍は自分からそう言い出したわけだが。

 

 その変化は分かるはずもなく、自分で体をくまなく調べて見ても以前(座敷童)の蛍と、今との違いを何も発見できなかった。

 

 ただ、ちょっとだけ体重が増えていただけで。

 山登りとか色々頑張っているはずだったのに……。

 

 恨めしそうに体脂肪計を睨む蛍に、燐は困った顔で笑っていた。

 

 ──そういうとこがふつうの女の子なんじゃない、と。

 

 蛍が、”ふつう”が実感できないときに、燐もそれまでとは違う、”ふつう”ではないことを言いだしたのだから、初めて聞いた時は夢の続きを見ているみたいに判然としなかった。

 

 後から再度確認するように燐に聞いた時は、びっくりして思わずお気に入りのマグカップを落としそうになってしまったほど。

 

 だって体は山登りの疲れでクタクタだったし、まだ微睡んだ頭じゃ物事なんて理解できようになかったから。

 

 あの山で倒れたときだって、燐が機転を利かせてくれたおかげで、他の人や救急車を呼ばれなかったけど、疲労だけは消えることはなかった。

 

 節々の筋肉痛にもいい加減慣れたとは思っていたけれど、それでもやっぱりトレッキングの後の朝が一番しんどい。

 

 そんな身体がぎしぎし状態の時に燐が言いだしたから。

 

 驚いたんだ──これでも。

 

 衝動的だと思った燐の話だけど、よくよく聞いてみると、それはどうやら前々から燐が考えていたことだったらしい。

 

 ただ、あと一押しというか、少しの踏ん切りがつかなかったというだけで。

 

(その”踏ん切り”はわたしが持っていた)

 

 そういうこと、らしい。

 

 わたしが普通の人、やっと座敷童じゃなくなったみたいに、燐も変わりたい──外見やそう言ったものではなく、本当の自分の気持ちと向き合いたいんだと。

 

 今の心境を確かめたいと言うのが、燐が聡さんの所に行く理由、らしかった。

 

 蛍はまだいまいちピンとはこなかったが、笑ったりすることはせず、黙って燐の話に耳を傾けていた。

 

 決意は本物みたいだったし、それにきっと燐はずっと悩んでいたことだと思うから。

 

 燐は聡さんのこと、前から好きだったことはよく知っていたし。

 本人もそれを公言してたぐらいだったから。

 

 恥ずかしそうにはしてたけど、まんざらでもないみたいだったし。

 

 でも、あんな事があった後だから混乱していたんだと思う。

 お互いに。

 

 不本意だったとはいえ、二人の本当の心の奥の内をさらけ出してしまったあと、だったから。

 

 顔どころか声を聞くことさえ辛かった。

 燐はちょっと目に涙を溜めてそう言っていた。

 

(けど、わたし、本当のところ。燐にどうして欲しいんだろう……)

 

 自分と従兄。

 

 燐にとってどっちが大事かなんて、そんな事は。

 

 わざわざ聞くまでもないことだし。

 

(多分、燐なら……って、んくっ!!??)

 

 自身の想いに耽っていたら、急に口の中に何かが飛び込んできて、訳が分からず蛍は目を白黒とさせた。

 

 たまらず自分の口に指を突っ込んでその”モノ”を確かめる。

 

 何かの虫かもしれないと思うと、ちょっとゾッとするが、それを気にするだけの余裕は蛍にはなかった。

 

 ピンク色の蛍の小さな舌に乗ったのものとは、小さくてコロンとしたもの。

 

 指にとってみると見覚えのある、キノコの形をしたチョコレートの菓子だった。

 

 困惑する蛍を見てくすくすと笑う燐。

 蛍はそれで事態を呑み込むことができた。

 

「もう、燐。変なことしないでよ~。虫が口に飛び込んだんじゃないかって、すっごくビックリしたから」

 

「ふふっ、だって蛍ちゃん、なんか難しい顔になってひとりで悩んでるんだもん。だからちょっと驚かせようかなって。それに虫なんてそうそう入ってくるわけないでしょ」

 

「だからってお菓子を放りこんでくるだなんて……」

 

 蛍は困った顔でそう呟くと、口から摘まみ取ったお菓子をまた自分の口の中へと戻した。

 

 汚いとかそういうのは何にも考えることなく。

 

「ん、じゃあ今度はわたしが口移しで食べさせてあげようっか?」

 

「燐ってば、もうすぐそんな冗談ばっかり」

 

 笑いながら言う燐に蛍は大きなため息をついた。

 

「それで……オオモト様に蛍ちゃん、何か言われたの?」

 

 からかう様に笑っていた不意に燐が確信をつくような事を口にしてきたので、蛍は慌てて意識をそちらに戻した。

 

 その拍子に思わずチョコをごくんの呑み込んでしまったが。

 

 喉につまるようなことはなかったので、軽く胸をなでおろした。

 

「ええと、オオモト様の事だったよね」

 

「まあ、それ以外にないよね。あ、でも慌てなくて良いからね。ゆっくり話してくれればいいんだし、時間はまだ全然あるから」

 

 そう言った後で燐は、客室の上部に備えてあった電光掲示板をちらりと見やる。

 

 蛍がまだどこまで着いてくるのかは知らないが、多分途中下車をするつもりはないのだろうと思う。

 

(やっぱり東京までは一緒に行くつもりかな。流石に空港まではないだろうし。それにしても……)

 

 視線を蛍の方に向き直す。

 

 蛍が急に口を閉ざしてこちらを見ていたので、燐はちょっと気になっていた。

 

 その理由は大体想像つくから、燐はあえて話を元に戻そうと蛍に促したのだった。

 

(まあ、わたしとお兄ちゃんのことだよね、やっぱり)

 

 燐はそっと小さなため息を吐いた。

 

「でね、オオモト様、始めはわたしに気付いてないと思ってた。ずっと空を見上げてたみたいだったし、ちょうど空には月が浮かんでたから」

 

 白い月が黒いカーテン越しにぽっかりと浮かんでいる。

 月明りの夜の出会いだった。

 

 確かにあの人はじっと立っていた。

 

 見間違いなんてことはなく。

 

 地面まで届きそうな程長い黒髪と、不思議な柄模様の着物を羽織っている姿は、蛍が知っている限りあの人以外には考えられなかった。

 

 その見た目よりも、何より雰囲気。

 

 こういうのも何だが、得体の知れないというか、普通の人では決して出すことができないものをその端正な顔や全身から醸し出していたから。

 

 この人はオオモト様だと、蛍は確信できていた。

 

 でも、なぜこんなところで。

 

(けど、燐だって自宅のパン屋さんで出会ったって言ってたし)

 

 そんなに特別なことでもないのかも。

 取って食われるような感じもするはずもないし。

 

 話しかけてすらいないから、まだ分からないけども。

 

「それで、オオモト様とどんな会話してたの?」

 

「うん……そうだよね」

 

 蛍は一瞬黙り込むと、燐の方ではなく、何の変哲もない前の座席の背もたれを眺めた。

 

 思い出すと言うよりも考え込むような、物思う仕草で。

 

 燐がちらっとその横顔を見ようとしたとき、急に蛍が口を開いた。

 

「……何も、言われなかった。だからわたしもオオモト様に何も声を掛けなかったの。ただ横に立って一緒に月を眺めてただけ」

 

「月を一緒に眺めてたって……それだけ?」

 

「うん、そう」

 

 蛍は短くそう答える。

 

 燐はちょっと不思議に思ったが、特には聞かなかった。

 

 確かに二人の間には言葉はなかった。

 

 蛍が直ぐ近くまで寄っても、”その人”は微動だにせず、上空の月を一心に見つめていたのだから。

 

 だから声を掛けそびれてしまったと思ったのだったが、思い立ったように隣に立つと、その柔和な横顔を見ながら、蛍も一緒になって月を見上げていたのだった。

 

「ふぅん? それでその後どうしたの?」

 

 燐がどうしても一部始終を聞きたがっているので、蛍は少し困った顔で一口お茶を飲んだ。

 

「しばらく一緒になって月を見ていたんだけど、わたしだってやっぱり気になるよ。だから……思い切って声を掛けて見たの」

 

「わたしもそうするなあ」

 

 何故か腕を組みながら燐はうんうんと同意するみたいに頷いた。

 

「そしたらさ……」

 

 蛍は何か忘れ物をしたみたいに急に天井を見上げた。

 

 丸みを帯びた白い天井は、静謐さを閉じ込めた天の半球みたいだった。

 

 燐も同じように上を見る。

 蛍の行動を追体験しているみたいに。

 

「いなくなっちゃった」

 

「えっ!?」

 

 ぼそっと蛍が言葉を吐いたので燐は急に振り返った。

 

「居なくなったって……オオモト様?」

 

 聞き違いかもしれない。

 そう思ったので燐は再度そう蛍に尋ねた。

 

「そう、居なくなってたの。わたしが横を向いたらもうそこには誰もいなかった」

 

 少しぼうっとした表情で蛍が言うものだから、燐は信じられないと言うよりもまだ良く言葉が理解できていなかった。

 

 けれど、燐も蛍も()()()()()()()をした、と言うかそう言った現象になってしまったのだから。

 

 燐はそれを否定することも肯定することも出来ず。

 

「…………」

 

 パクパクと、言葉を求めて彷徨っている自分の口にタケノコ型のチョコを放り込むことしか出来なかった。

 

 ……

 ……

 ……

 

(あれ、わたし……?)

 

 蛍は不意に瞼を開けた。

 

 そしてハッとなって上体を起こすと周囲を見回す。

 

 今いるところがどこか一瞬分からず、見知らぬ場所に突然投げ出されたみたいに感じて、蛍は思わず輪郭を確かめるみたいに自分の頬に手を置いた。

 

(確か、新幹線の中にいたはず……)

 

 だったら一体どうして?

 

 それまでの事を思い出すように蛍が額の上に手を乗せて頭を巡らそうとしたその時、すぐ隣から声がかかった。

 

「あ、まだ寝ててもいいんだよ」

 

 それは、燐だった。

 

 良かった。

 まだ隣にいてくれて。

 

 その手にはスマホが握られていて、誰かにメールでも打っていたのか、するすると液晶画面を操作していた。

 

「……ねぇ、燐。ひょっとして、わたしって寝てた?」

 

 尋ねるまでもないぐらいに瞼がまだ重いからそうだとは思うけど。

 

「うん」

 

 燐はスマホの画面を見ながらそう即答する。

 

「話してる最中に急に寝ちゃったんだよ。まるで電池が切れたみたいに、ぱたぁっと。昨夜、全然寝てなかったんでしょ」

 

「あ、うん……そうなの。ごめんね、何か子供みたいで恥ずかしいよね」

 

 蛍はそう小さく口にするも、まだ夢うつつに目線を泳がせていた。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。終点(東京)まで一緒に行くんでしょ? だったらまだゆっくりしてて大丈夫だから」

 

 燐は優しく微笑む。

 

 結局どこまで一緒に来るつもりなのかは分からなかったけど、ここまで来たら途中下車する気もなさそうだから。

 

 それに実際下車するだけの駅もそんなにないし。

 

「迷惑かな? やっぱり……」

 

 蛍はおずおずとたずねる。

 勢いで乗ってきてしまったけど、蛍自身もそれが一番気になる所だった。

 

「そんなことないよ。やっぱり蛍ちゃんと一緒だと楽しいし。少し、安心する」

 

「それなら……良かった」

 

 蛍は恥ずかしそうに呟くと、安堵したように息をついた。

 

 実際のところどこまで燐についていくつもりなのかは決めていなかったのだが。

 

 燐の許しを得た以上、最後まで付き合う気になった。

 

 ほっとした蛍はようやく自分が新幹線に乗っている事に気付いたみたいに、窓の外の景色を見て何とも不思議そうな声を上げていた。

 

「それにしても静かだよね。ちゃんと動いてるのに」

 

「うん。だから蛍ちゃんが寝ちゃうのも無理ないとは思うよ。わたしだってさっきちょっとウトウトしちゃってたもん」

 

「本当にそうだよね。何か家のベッドよりも寝心地がよかったかも」

 

 気にしないと分からないぐらいの微妙な揺れ加減が眠りを誘うのかもしれない。

 

 そう言った”ゆらぎ”や、空調の加減がちょうどいい心地よさ、つまり眠気を生み出すのだろうと。

 

「蛍ちゃんはどこでも寝られる感じするけどねー」

 

「まあ、それは否定しないけど」

 

 顔を見合わせてにっこりと微笑む。

 

 目覚めてすぐ隣に好きな人がいる。

 

 もう大分前から当たり前みたいに思えることなんだけど、実際にマンションで暮らすようになってからまだ半年も経っていないのに。

 

 それなのに普通の、何気ないことみたいに思えるのは。

 

(それは願望というよりも、多分必然だったんだと思う)

 

 少なくとも蛍はそう思っていた。

 

 それでもちょっと周りの環境が違うだけで、それは随分と特別な事みたいに思える。

 

 マンションの一室か、新幹線の客室。

 

 あるいは、テントの中や、もしかしたらホテルで一緒の朝を迎える事なんてあるのかも……?

 

 いや、それはないか。

 流石に。

 

 色々と気まずくなりそうだし。

 

 でも燐とならそんなことない?

 

「どうしたの蛍ちゃん。顔が赤くなってるよ。何か恥ずかしいものでも見えた?」

 

 燐が窓の外をきょろきょろ見回すも何も特別なものは目に入らなかった。

 それは当然のことなのだが。

 

「そういうんじゃないよ、燐」

 

 蛍は冷静になろうと少し深呼吸した後で答えた。

 

「違うの?」

 

 ちょっとがっくりしている燐を見て、蛍は困った顔で微笑んだ。

 

 と、目の前におかれたものが気になって、その事を燐に尋ねる。

 

「ねぇ、燐。これって?」

 

 まだ少し頬を朱に染めたままの蛍が目の前の小さなテーブルにおかれたパンの山を指さす。

 

 想像がつくものだったが一応聞いてみる。

 

「まだ何もお昼食べてないんでしょ。だからそれは蛍ちゃんの分。あ、大丈夫だよ。まだいっぱいあるから、ね」

 

 燐はそう言って、大量のパンが詰め込まれたビニール袋を見せる。

 

 やはりと言うか、菓子パンや総菜パンなどの大小様々な種類のパンが袋一杯に詰め込まれていた。

 

 詰め放題セールでもあったみたいに。

 

 見覚えの良くある光景に蛍は苦笑いした。

 

「まあ、”いつもの”だよ。お母さんがさ、”お兄ちゃんにも食べさせてあげなさい”って。大量に渡されたの……」

 

 少し憂鬱そうにぼそっと燐はつぶやく。

 

 自分が作ったものだからまあ気持ちは分かるが。

 それにしてもこの数は……。

 

 嫌というわけではないが、何か気恥ずかしい。

 燐の表情はそんな照れくさそうな感じが見て取れた。

 

「まあ、今の燐はパン屋さんなんだから別に良いんじゃない。それに”青パン”のパンはすごく美味しいから」

 

 テーブルの上に並べられた大小様々なパンの中から、蛍は香ばしそうにカラっと揚がっているカレーパンを手に取る。

 

 辛いのが少し苦手な蛍でも平気で食べられる、青パンのカレーパンは、燐の母の自家製のカレーが結構ぎっしりと入っていて、何時しか”青いドアのパン屋さん”の看板商品となっていた。

 

 燐の母親──咲良がカレーパンの為に考案した、野菜多めのカレーが詰まったカレーパン。

 

 それを一口かじると、蛍は顔どころか、名すら知らない母親の味を食べたような気持ちになってくる。

 

 それはどういった感情なのかは自分でもよく分からないが、辛いものが苦手なはずの蛍が普通にパクパクと食べることが出来るので、決して悪くない感情であることは間違いなかった。

 

 何より美味しいわけだし。

 

 そんなパンを食べる蛍を見て、燐は申し訳なさそうな顔で言った。

 

「蛍ちゃん、ごめんね。なんかさパンばっかり食べさせちゃってる。この分だと流石に飽きちゃわない?」

 

「そう? わたしは、毎日でも全然大丈夫だよ。燐は違うの?」

 

 蛍が意外そう顔で言葉を投げかけてきたので、燐は一瞬きょとんとなってしまった。

 

(そういえば蛍ちゃんって、前からパン、好きだったよね)

 

 以前の蛍は自分からあまり料理をしないせいか、ハウスキーパーの人が来ない日なんかは、もっぱら菓子パンで食事をすませている。

 

 そう蛍が言ってた事を燐は思い返していた。

 

「燐の家がパン屋さんを始めたって事を聞いた時は正直すごく驚いたけど、こうして燐のお母さんの手作りのパンを毎回食べられるのならわたしにとってはむしろいい事だよ。だから飽きるってことはまだ当分ないかなぁ」

 

 そう言って蛍はパンをもぐもぐと、美味しそうに全部口の中へといれた。

 

 それは聞いて燐は少し肩をすくめる。

 

「まあ、蛍ちゃんが喜んでくれるのならいいんだけどね。ただ、わたし毎日がパンばっかりだと流石にげんなりしちゃうから、たまに食べる別の料理がすっごく美味しく感じるんだよね」

 

 燐の言葉で蛍には思い当たることがあった。

 

「そっか、だから燐は、ちょっと違う料理を作ったり買ったりしてるんだね。この前食べたパスタ。あれ、変わった味だったけど結構美味しかったよ」

 

 蛍が言っているのは前に燐が作った、シラスを使ったペペロンチーノのことだった。

 

 燐が前に神奈川のレストランで食べた味を再現してみようと見よう見まねで作ったものだったが、蛍にはそれが美味しかったみたいで、また作って欲しいと言われた時はやっぱり嬉しかった。

 

「まあ、あれは料理って程じゃないけどさ。何か、パンばっかり食べてると小麦粉まみれになっちゃいそうって思って」

 

 そう言う燐だったが、パスタも小麦粉が主成分なのだが。

 

「でもさ、パン職人さんって大体がそんなもんなんじゃない? それにわたしはそういうの嫌いじゃないかも。むしろ、パンの焼ける匂いを嗅ぎながら朝を迎えるって何か清々しく感じない? あの香ばしい香りとか、焼き上がったときのパリッとした感じも好きだし……あ、もちろん味もね」

 

 蛍が自分のパンへの思いを語った時、今、香るはずもないパンが焼けたときの香ばしい香りを嗅いだ気がした。

 

 もしかしたら燐の持ってきたパンから漂ってきたものかもしれないが。

 

 それは妄想だとしても、蛍の食欲を引き立たせるものだったらしく。

 

「じゃあ、次はどれにしようかな……」

 

 蛍は燐よりも一早く次に食べるパンを物色し始めていた。

 

 それにこういうのもパンの楽しみの一つで。

 中に何が入っているか分からないこそ、食べた時の驚きが増すものなのだと蛍は思っていた。

 

 形も色もとりどりのパンに、蛍は目移りしそうになりながらも、その中で最も分かりやすくそしてとても好きな、”メロンパン”を手に取った。

 

 パリッとしたビニールを破ると、すぐに甘く香ばしい香りが漂ってくる。

 

 外ではなく電車内だから、こういうのは”スメハラ”って言うのかもしれないけど、良い香りにハラスメントなんて言葉はないと思う。

 

 香りを共有する楽しみがあってもいいのではと蛍は本気で思っていた。

 

 その香りの特徴でもある、メロンパンのサクサクとしたクッキー生地の表面部分に蛍は小さな鼻にそっと寄せた。

 

 小麦粉とバターの甘く芳しい香りが、蛍の肺いっぱいに満たされて。

 

 月並みな言い方になってしまうが──幸せな香り。

 

 幸福な匂い。

 

 ”食べる楽しみ”と言う意味での幸せを、蛍は確かに感じとっていた。

 

 パン作りが思ってたよりも全然大変なのは、燐とその母親の咲良のお陰で良く分かることが出来た。

 

 けどその大変さを帳消しにするほど、出来立てのパンの香りは蛍の表情だけでなく思考までも蕩けさせるほどだった。

 

 パン屋さんをやっている燐の事が羨ましく思えるぐらいには。

 

 そしてゆくゆくは自分もパンを焼いてみたいと思っていた。

 

「何かさ、わたしが戻ってきたら蛍ちゃんのお店になってそうかもね」

 

 夢見ごこちな蛍を見て、燐は笑いながら言う。

 

「流石にそれはないよ。わたしなんかまだまだバイト見習いなんだし」

 

「でも蛍ちゃん、物覚え凄くいいから」

 

「燐が戻ってくるまではちゃんと”青パン”のままだよ。その後はどうなるかは分からないけど」

 

 燐の言葉に触発されたみたいに、蛍は少し遠い先の事に想いを馳せながら指でちょっとづつメロンパンをちぎりながら口へと運んだ。

 

 それを見て、燐はクロワッサンをいっぺんに食べようとした口を一旦閉じ、蛍の真似して少しお上品にパンをちぎって食べることにした。

 

 その所作に、普段はあまり見られない蛍の”お嬢様み”を感じたからだった。

 

「ねぇ、燐。あの水の中で見た”変な光の球”みたいなの覚えてる?」

 

 唐突に蛍から質問を投げかけられた燐は、パンを口に入れながら自分の頬っぺたにつっと指を当てて小首を傾げた。

 

 光の球……のこと?

 

 蛍が言っているのは、青いドアの家の世界での”水溜まり”で見た、流れる光の集合体の事だろうか。

 

 あの夜(異変)が終わった後、空に浮かんだランタンみたいなぼんやりとした灯りとは少し違った、色とりどり光が回転しているみたいな光の渦の塊のことだろうか。

 

 粒子と原子が混ざり合ったみたいに、何か始まりを予感させるような淡い光。

 

 それぞれが独立した宇宙で、さながら星の海を回遊する星の欠片みたいだった。

 

 綺麗だった、とても。

 

 あの時の不思議な光景は今でも燐の瞼の裏に焼き付いていた。

 

「蛍ちゃんが言っているのって、あの”スイミー”みたいなもののこと? わたし、あのあと気になっちゃって絵本のスイミー、図書館でみてみたんだ」

 

「燐もなんだ。わたしも学校の図書室で見て来たよ。スイミーを見るの小さい時以来だったけど、今でも良いよね。可愛いし」

 

「そうだよねー。でもさ、怖がらせる大きな魚ってマグロだったんだね。わたしマグロにそんなイメージ湧かなかったなー」

 

「確かにね。マグロってお刺身とかお寿司のポピュラーな食材のイメージが強いもんね」

 

 自分達よりも小さな魚を食べる大きな(マグロ)

 

 それをスイミーを中心とした小さな魚たちが協力して近海から追い払うという内容の絵本だった。

 

 よく考えると食物連鎖の逆をいっている気もするが。

 そういうお話なので仕方がない。

 

 絵本に文句をつける何てことはそれこそナンセンスだし。

 

 どうやら蛍はそう言ったこと言いたいわけではないようで、少し考え込む仕草を見せてから、口をゆっくりと開いた。

 

「そのさ、”座敷童”って、そのスイミーみたいなものだったのかなって……」

 

 またもや唐突な言葉の振りだったので、燐は最初、蛍の独り言かと思ったほどだった。

 

 けれどそれはあながち間違ってもいないみたいで、蛍はぶつぶつとひとりで考察をしているようであったから。

 

 そこは燐も一緒に考えてあげねばならないことだった。

 

 親友であったし。

 ここまで自分を追ってきてくれた、とても大切で好きな人だったから。

 

(けど、座敷童かぁ……)

 

 燐は逡巡する。

 

 小魚と……妖怪? どこに共通点があるんだろう。

 

(あ、もしかして!)

 

 燐は手を小さく叩いた。

 

「蛍ちゃんが言いたいのって、座敷童が”目”だったってことを言いたいのかなぁ?」

 

 そう思いついたものの、ちょっと自信なさげに燐はそう答えた。

 

 あまりに突飛すぎな質問だったので、曖昧に笑みを浮かべて口にしてみたが。

 

 間違いないと思う、多分。

 

 その証拠に燐の言葉を聞いた途端、蛍はほっとしたような表情をしたから。

 

「うん。燐の言う様にわたしはそう感じたんだ。でも……そういうの直ぐに分かっちゃうのってきっと世界で燐とわたしだけだよね」

 

 そう言って蛍は嬉しそうに微笑んだ。

 

「まぁ、ね。()()()()()()()をしてる人ってそうそう居るわけないしね」

 

(世界はちょっと大げさだとは思うけど。でも、きっと、蛍ちゃんは)

 

 黒く小さい魚を座敷童。

 

 周りの赤い魚を普通の人、つまり小平口町の人達に見立てているんだろうと燐は思った。

 

 つまり、座敷童が町の人達の”目”となって、幸運を呼び込んでいたのだろうと。

 

(”目の黒い内”、なんて言うけど、それが座敷童なら色々納得してしまうよね)

 

 そう、座敷童が生きて(力を持って)る間は町に幸運をもたらしてくれるとそう信じられていた。

 

 けどその力が無くなりそうなときは、新たな目、つまり新しい座敷童が必要になってくる。

 

(だから無理やりにあんなことを……)

 

 それを想像しただけで燐の胸に嫌悪感が込み上げてくる。

 

 小さな魚が大きな魚になる為の代償。

 

 それがオオモト様であり、そして蛍だった。

 

 テルテル坊主の数だけ目が生まれてきたのだとすれば、それは。

 

 あの様な、異形を生み出す歪みが起こっても何らおかしくはない。

 今ならそう思える。

 

(けれど、わたしは……?)

 

「燐?」

 

「……蛍ちゃん!?」

 

 蛍がおもむろに額に手を当ててきたので、燐はつい慌てた声をだしていた。

 

 無駄だと思うが一応口元を手で押さえながら聞いてみる。

 

「ど、どうしたの蛍ちゃんっ。急にその、触ったりして……」

 

「どうしたのって……」

 

 蛍は首を傾げながらも、手を額から放そうとはしないで、じっと顔を見つめてきた。

 

 穴が開くほど見つめられている。

 そんな感じがして。

 

 燐は意味もなく顔を赤くした。

 

 少しの変化に気付いた蛍が、少し心配そうに声をかける。

 

「やっぱり……ちょっと、熱あるのかな? さっきからちょっと顔色悪い気がするし。燐って乗り物酔いするタイプだったっけ?」

 

 自分の額にも手を当てながら、蛍は燐の体調を慮って頭を悩ませているようだった。

 

 蛍の勘違いだというのに。

 

「大丈夫だよ、わたし。乗り物酔いなんてこれまで一度もしたことないしっ」

 

 そういって燐は小さくガッツポーズを作る。

 

 部活でシュートを決めた時も燐は派手にアピールすることはなく、今みたいに控えめなガッツポーズだったことを蛍は思い出していた。

 

 だからこそ、燐が空元気をしている事ではないことが良く分かったのだった。

 

「なら、良かった。わたし結構乗り物酔いするから遠足では酔い止めの薬を必ず持ってきてたんだよね」

 

「そうなの? じゃあ今は大丈夫なの? 蛍ちゃん」

 

「シートがふかふかだから大丈夫……だと思うよ。多分……」

 

 言われるまで気付かなかったのか、今更ごとだと思うが蛍は自分の体に問いかけた。

 そう言ったものはもう克服できたのだろうか、と。

 

(すっかり忘れてたけどもう大丈夫だよね……? 普通の人になったんだし)

 

 座敷童だから乗り物酔いをするなどとは聞いたことはないが。

 

 蛍は呼吸を整えるように、片手を胸に当てて何度も深呼吸を繰り返す。

 

 だが、一度気付いたものは、ちょっとやそっとではなくならないようで、蛍はちょっと不安定になったのか、視界が小刻みに揺れていた。

 

 嫌な前兆運動みたいなものを感じて、思わず()()()()()()なったが。

 

 ……問題ない、みたい。

 

 目をぎゅっと瞑って呼吸を整える内に、それはどこかへと消え去ってくれたようだ。

 

 何より、燐が片っぽの手をぎゅっと握ってくれてたから。

 

 だからもう──大丈夫。

 

 そう、思い込むことにした。

 

「ごめんね、蛍ちゃん。変なこと言って、少しお水飲む? それと一応酔い止めの薬もあるんだよ」

 

 燐は念のため緊急用の薬をバックパックのポケットに常備させておいたので、それを一錠とり、蛍の掌に乗せてあげた。

 

 酔いは克服できていないようで、手が氷のように冷たくなっている。

 

 燐は咄嗟に上着を脱ぐと、逆向きにして蛍の肩に掛けさせてあげた。

 

「薬飲めそう?」

 

「うん……何とか」

 

 蛍は弱々しい手つきで口元に手を寄せると、燐に持ってもらいながらペットボトルの水を少しづつ飲んだ。

 

 すぐにでも良くなれば良いのだが、流石にそれは無理っぽいので、蛍は燐にお礼を言うと軽く目を閉じて身体を休めることにした。

 

 燐はその間、蛍の手をぎゅっと握りしめていた。

 

 祈るような気持ちで、静かに目を閉じる蛍のことを見守っていた。

 

 ……

 ……

 

「どう蛍ちゃん。少し、落ち着いた?」

 

「うん、もう平気……ダメだね、わたし。燐の心配よりも自分の方が心配だったね」

 

「もういいって、そんなこと」

 

 申し訳なさそうにする蛍に軽く微笑んでみせる燐。

 

 けれど、内心ではやはりまだ気がかりなようで、蛍にこう切り出した。

 

「あのさ、蛍ちゃん。元気になったみたいだからこそ、言っておきたいんだけど」

 

 燐は真面目な顔でそう言った後、一旦言葉を休めて大きく息を吐く。

 

 不安そうに言葉を待つ蛍に、燐はにこっと微笑んだ。

 

 気にすることないんだよ。

 そう言っているみたいに。

 

「やっぱりさ、次の駅で降りよう、ね。蛍ちゃん」

 

 燐は一切眉をひそめることなどせず、むしろ少し笑って蛍に聞いた。

 

「…………」

 

 蛍は少し黙って燐の話をペットボトルの水を飲みながら聞いていた。

 ごくりと水を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。

 

「あ、でも。大丈夫だから」

 

 笑顔のままの燐に向かって、蛍は、”何が大丈夫なの”と言わんばかりに首をかしげた。

 

「わたしも一緒に降りるから、ね。蛍ちゃん、わたしと一緒に帰ろう」

 

 その言葉を聞いて、蛍はさっと顔を青ざめる。

 

 蛍としては全くそんなつもりはなかったのに、結果として燐を諦めさせることをしてしまった。

 

 考えて見たら燐の性格上、蛍を置いて行くなんてことはするはずもなかったのに。

 

 ホームの上では普通に別れたけど、こうして蛍が弱っているのなら置いていくことなんてことは絶対に出来ないことは蛍が一番良く知っていたのに。

 

 蛍は燐の顔をまともに見れず、顔を伏せてしまった。

 

「あ、そんな顔しないでいいんだよ。わたしがしたいって思ってるだけだし」

 

「……でも」

 

 やっと喋ってくれた蛍だったが、その顔は涙がもう溢れそうになっていた。

 

 燐の足手まといには絶対になりたくなかったのに。

 

「いいの。それにこれで良かったんだと思うんだ。そのね、やっぱりまだちょっと迷いはあったの。時期早々かもしれないって」

 

(何だかんだで時間ばかり気にしてたんだね、わたし)

 

 これぐらい経ったから良いだろうとか、勝手に思い込んでいた。

 

 もう傷は癒えただろう。

 離れていればお互い分かることがあっただろうとか。

 

 全て自分の中での話。

 

 分かっていたはずなのに。

 人はそれぞれ自分の時間を持っていることに。

 

(あの歪みが起きたときも)

 

 朝の来ない狂った世界であったのに、人はそれぞれの時間の範囲でのことしか行なっていなかった。

 

 あんな異形の姿になっていても。

 

 自分の決めたルール、やり方に固辞していた。

 

 彼らだけじゃない。

 わたし達や、お兄ちゃんですらも。

 

「わたしね。蛍ちゃんに影響受けたんだと思う」

 

「わたしに?」

 

「うん、蛍ちゃんが変わったっていうか、”普通の女の子”になったって言われてとき、ちょっとショックだったの。あんな人生観を揺らぐような出来事があったのに、わたしは何も変わってないなぁって」

 

「だからね、ちょっとでも何かしなきゃって思って、急に思いついちゃったんだ。そしたらもう考えが止まらなくなっちゃって、行くしかないって思い込んじゃった」

 

「ひとりで勝手に焦ってたんだけなんだね、わたし」

 

 燐は小さく舌出して笑う。

 

(何も変わってないなぁ、わたしって。あんなことがあっても)

 

 あれから少し変わったと自他共に認めるところがあったが、それは結局表面的なことだけで。

 

 何も、変わってない。

 

 特に従兄の──聡のことに関しては。

 

「わたしって本当に単純だよね。他に選択肢があるはずなのにそれしか見ないっていうか視野が狭いんだね、ほんと」

 

 自虐気味に笑う燐に、蛍は気を使った声を掛ける。

 

「でも、それが燐の良い所だよ。わたしはそんな燐が好き、だから」

 

 今の蛍にはこれぐらいしか言えなかった。

 もっと適切で良い言葉があるはずなのに。

 

「大好きだよ、燐」

 

 瞳を小さく揺らして蛍がにこりと微笑む。

 

 儚げに頬を紅くしている仕草は確かに熱の入った告白のようにも見える。

 実際にもそうなのだろうが、やはり体調がまだ優れないのか少しぎこちない笑顔で。

 

「ありがとう蛍ちゃん。わたしも蛍ちゃんのこと大好き。でも、ごめんね。また蛍ちゃんのことを振り回しちゃってる。やっぱりまだ気持ち悪いんでしょ」

 

 まるで許しを乞うかのように、燐は頭を下げて蛍の両手をぎゅっと包み込む。

 

「ちょっとだけ、ね。でも、ううん」

 

 蛍は瞼を軽く閉じで小さく首をふる。

 

「わたしね。燐に振りまわされているなんて一度も思ったことないよ。むしろ燐と一緒だとどんなことで楽しいの。真っ暗な夜の世界も、不思議なことしか起きない、”青いドアの家の世界”でもずっと楽しかった」

 

「それは、わたしも同じ。蛍ちゃんが一緒だったからどこに行ったってそんなに怖くなかったし、危ない状況だったとしてもどこか楽しんでたと思うの」

 

「ふふっ、本当、燐とわたしってぴったりだね」

 

「両思いだね。それって前にも言ったでしょ。何があってもこれだけはずっと変わらないと思う。友達とかそう言うのじゃなしに」

 

「それは、そうだね」

 

 燐と蛍がお互いの顔を見合わせてにっこりと笑ったとき、列車内に流れる音声が次に停車する駅名を告げていた。

 

「どう? 蛍ちゃん。自分で立てそう?」

 

「それは、大丈夫。でも、燐、わたし……」

 

 確かに顔色はいつもの血色に戻った気はするけど、蛍は立つ気はないようで、奥歯に物が挟まったみたいに曖昧に言葉を紡ぎながら膝の上で指を弄んでいた。

 

 その複雑な想いを表すみたいに、忙しなく蠢かせている蛍の白い指の上に燐は優しく手を重ねた。

 

 とても緊張した後みたいに蛍の細い指はしっとりと濡れていた。

 

 蛍は不安げに瞳を揺らしているだけで燐の方には顔を向けてはくれなかった。

 

 その横顔に燐は、優しげに目を細めて小さく微笑んだ。

 

「うん。さっきに比べたら少し顔色が戻った気はするね。でも、やっぱり”ここ(小田原) ”で降りよう」

 

 深刻さなど微塵も感じさせない、いつもの朗らかな声色で燐はそう言った。

 

 ぎりぎり県を跨いでしまったが、まだそこまでの距離ではないと思う。

 結構大きい駅だし、戻るのならいくらでも方法はあるはずだから。

 

 それに仮に新幹線でなかったとしても、そこまで酷い時間は掛からないはずだから。

 

「ねぇ、燐……」

 

 目で訴えかける蛍。

 少し困った顔をしながら燐は話を続けた。

 

「あのね。蛍ちゃん。わたしは、ここまで来ただけでも結構冒険したって感じだったよ。やっぱり、蛍ちゃんと一緒だったから」

 

 明らかに燐に気を遣われている。

 蛍は小さく燐に微笑み返すと、血色が戻った桜色の唇を少し噛んだ。

 

「それに、さ。また、今度行けばいいだけの事なんだよ。そうでしょ、蛍ちゃん」

 

 うん、そうだよ。

 今、行かなくとも、きっとまた行くことなんかは出来る。

 

 それはお兄ちゃんの元にだけじゃなく。

 

(青い空……あの高く遠い空の向こうにも、きっと)

 

 わたしが望む限り行くことが出来るんだろうと思う。

 

 どこまでもどこまでも。

 

 いつか必ず訪れる事は出来るだろうから。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。どこまでが現実なんだと思う?」

 

 燐は忘れ物はないか身の回りのものをひとつづつ確認しながら、そう呟いた。

 

 少し沈んでいた蛍だったが、燐のその言にはっとなった。

 目をまんまるくしながら、それは質問なんだと理解するのにちょっと時間が掛かったが。

 

「どこまで、って……?」

 

 ややあって、小さく蛍は口を動かした。

 

 初めて出る言葉みたいに、微かに唇を震わせて出た言葉は単純な質問返しみたいになってしまった。

 

 けれども燐は嫌な顔なんかせず、むしろ微笑んでいた。

 そう返す蛍の言葉を待っていたように。

 

「あのね。現実って結局見えている範囲でしかないのかなって。距離っていうか速さでしかないのかもしれないけど」

 

「ほら、テレビとかネットとかで遠い場所のことや世界の事とか伝えてるでしょ。あれってどこまでが現実なのかなって。断片的な情報で知った気になってるだけじゃない? それって現実って呼んでいい事なのかなって思ってさ」

 

「うーん、でも情報としては”現実”なんじゃないかな。受け取り方は様々かもしれないけど」

 

 なるほど、と燐の言葉に小さく相槌を打ちながら蛍は自分の見解を述べた。

 

「そーなんだよねぇ。だから何か難しくってさ。例えばさわたし達の知ってるあの町の異変だって現実だったわけでしょ。でも、”今の町の人”とか、わたしのお母さん何かが知ってる町の情報だって現実なわけでしょ。だったら現実って何なのかなって」

 

「あぁ」

 

 矢継ぎ早に話し出す燐に少し驚きながら、蛍は感嘆するようにこくんと頷いた。

 

 後にしてみれば、燐はわざと長い話をしてくれたのかもしれない。

 ちょっとでも蛍の気持ちを落ち着かせるために。

 

「この駅で降りるよ。蛍ちゃん、いいよね?」

 

 確認を取りつけるように、きちんと目をみて燐は尋ねた。

 

 もうひとりじゃない。

 いろいろと。

 

 ひとりで出来ることなんて、どっちみち大したことは出来ないから。

 

 失って、求めて、ようやく理解できたこと。

 

 依存はしないけど、蔑ろにするつもりもないから。

 

 それは多分、二人とも。

 

「燐がそういうなら」

 

 燐が決めたことに反対はしない。

 例えどんなことがあってもそれが蛍の燐に対するスタンスだったから。

 

「けど、実はちょっと、ほっとしてる。何か息がつまる感じがして」

 

「あはは、わたしもちょっとそうかも」

 

 燐と蛍は顔を見合わせてくすりと笑った。

 

 そこには理由も理屈もない。

 

 ふたりの少女が笑い合っているだけ。

 

 何かを探るようなことも、気を遣うような素振りもない。

 

 ただ純粋に笑顔だった。

 

 ──

 ───

 ────

 

「んー、何かスッとしたぁ!」

 

 ホームに降りるなり、燐は両手を上へと伸ばした。

 

「そう? むしろムッとしてない」

 

 蛍は露骨に不快感を表す。

 

 実際新幹線の車内は快適そのものだった。

 

 エアコンも効いていたし、シートの座り心地も悪くはなかった。

 

 確かに冷房の効いた車内からホームに降りると、まず蒸し暑さが襲ってくる。

 それだけエアコンの効きは良かったみたいだったし。

 

 まるで別世界みたいな気温の落差に、燐の感じた爽快感は速攻で失われてしまった。

 

 もっとも何をもってスッとしたのかは分からないのだが。

 

「だったらさ、何で酔っちゃったりしたの? うちの方のローカル線の方がよっぽど乗り心地が悪いと思うんだけど」

 

 何となく客室では聞けなかった事を燐は蛍に投げかけてみた。

 

 冷房の効きも、シートの座り心地だって、きちんと整備された新幹線と、昔の車両を無理やり使っているローカル線の電車では何もかもが雲泥の差なのだと言うのに。

 

「燐はさ、あまりにも整えられてるなって思わなかった? 新幹線の中」

 

「あ、うーん、それはいい事なんじゃない? それなりに高い料金を払っているんだし。お客さんに快適さを提供するのは間違ってないと思うよ」

 

 おまけに速さも、と燐はついでみたいに補足した。

 

 むしろそっちの方がメインな気もするのだが。

 

「例えがおかしいのかもしれないけど、わたしにはそれが何か、病室みたいに感じちゃって、それで」

 

「それでなの?」

 

「うん」

 

 燐は肺の底から出したような深いため息をこぼす。

 

 蛍は曖昧に笑って言葉をかえした。

 

「ごめんね。言い訳みたいなこと言って。燐はすぐに戻った方がいいよ。まだ間に合うし。わたしは一人で帰れるから」

 

 蛍と燐がおりてきたばかりの客室のドアは普通に開いているし、二人ともまだホームにいるのだからそうする理由があれば十分に間に合うだろう。

 

「だからそれはいいんだって。それにそういう事じゃないよ」

 

「?」

 

 燐が何に対して言っているのか、その言葉の真意が分からず蛍はハンカチを額に当てながら首をかしげた。

 

 冷房に体が慣れてしまったのか、首筋や額から汗がしたたり落ちてくる。

 

 午後のもっとも暑い時間帯だから仕方がないのだけれど。

 

「わたしも蛍ちゃんとおんなじ考えだったんだなって。だからちょっと心配し過ぎちゃったんだなって」

 

「そうなの?」

 

「うん。何かこれからどこに運ばれちゃうんだろうって。新幹線ぐらいでこれなのにこの後の飛行機なんて本当に乗れるのかなって」

 

「けど、燐なら」

 

 大丈夫だと思う。

 

 燐が車の運転をしたときから思っていたことだった。

 呑み込みというか、その場の適応力がとても高い。

 

 自分なんかとは比較にならないほどに。

 

「まぁ、確かにあの時は偉そうに言っちゃったけどー。けど、やっぱり自分でも無謀なのかもって思いもちょっとあったの。だからこうして蛍ちゃんと一緒にホームにでたら急に開放感を感じちゃってさ」

 

 燐はもう一度大きく伸びをした。

 

 潮風が少し混ざった夏の香りとホームの無機質な雑踏のコンストラクト。

 正反対みたいな組み合わせだが、それが燐をちょっとセンチメンタルな気持ちにさせた。

 

「やっぱりさ、背伸びしても良いことなんか無いよね」

 

「それは、うん……そうだね」

 

 ずっとこの、背伸びのない関係でいたい。

 

 何があってもふたりのまま。

 

 どこまでも、どこまでもずっと一緒に。

 

「で、蛍ちゃん。これからどうする? やっぱり、すぐにでも帰る?」

 

「……」

 

 燐が声を掛けてもすぐに蛍は返事をしなかった。

 

 どこか遠くを見ているような、今ここでない世界にいるみたいに、ホームでぼんやりと立ち尽くしていた。

 

「どうしたの? まだちょっと気持ちが悪いならそこのベンチで少し休もうか」

 

「えっと、そう言うことじゃないの。ごめんね気を使わせちゃって」

 

「あ、うん……」

 

 やはり暑さのせいだろうか、違和感みたいなものを感じて、燐は首を横に傾けた。

 

 蛍は少し悲しい目で燐のこと眺めていた。

 

 燐に、と言うよりもどうやらそれは他のものに対してのようで、燐の姿を捉えてはいるが、その焦点はどこか別の場所を垣間見ていた。

 

 蛍の、誰にも知られたくない、本当の心の奥底を。

 

 見ていたのだ。

 自分自身の内面の視線によって。

 

 

(燐は……本当に素直だよね。誰にも疑うようなことはしないのかな……)

 

 

 本当はわたし……嘘を()いているのに。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 

 

 





■最近のゆるキャン△ のちょっと気になる所ー。

を、書こうと思ったのですが、その前に……。
なんだかちょっとした事になったみたいですね? 前にもゆるキャン△ の連載を止めていた時期があったのは知っていたのですが、今回は個別にお知らせが出るほど長期みたいですし。病気とか怪我の報告はなかったみたいなので、ちょっと体調を崩された……とか? 取材とかの為ならいいのですけれどー。
それにしても、漫画家の人やアーティストの方が病気やケガに見舞われるケースを最近よく目にする機会もありましたし、ともかくゆっくり休んでいただければいいなって思います。
私のようなどうしようもない遅筆でも、夢中になるときは時間を忘れて没頭することもありますし。体調管理には十分気を付けていきたいですね。特にプロの方は体が資本なのですし。
無理せずに創作活動を行ってください。ファンはいつまでも待っておりますから。
もちろん私もー、です。

で、ゆるキャン△ 漫画の気になる所ー。なのですが、やはり新キャラ関連なんですよねぇ……。何でしょう、これもやっぱり偶然なのかなぁ……新レギュラーになるであろう新入生二人に、物凄い既視感を感じてしまってるのですがああああ!!??

本巣高校に新一年生として入学した、瑞浪絵真(なみええま)、ちゃん! そして、中津川(なかつがわ)メイ、ちゃん! さらにはもう出ないだろうと思っていたサモエド犬の、はんぺん!!

……私のように青カミュ狂いのフィルターには、それぞれのキャラが、青い空のカミュの、三間坂蛍、込谷燐、そしてサトくんにしか見えないのですー!! (まあ、サトくんはちょっと強引すぎる解釈だとは思ってますが)
でも、何故メイの飼い犬にはんぺんが……? その辺りの展開は今後判明するとは思いますけどー。

だから私にとってこの新キャラ二人は、”蛍と燐と思って”見させていただいてます。これからの活躍に期待ーーだったのですが、原作の方はそうなってしまったので、今後の活躍は来年に期待ですねー。彼女達も野クルメンバーと一緒にキャンプさせてあげてください。


それにしても何か偶然って続きますよねぇ。そういうの前回怖いと書いちゃいましたけど。偶然には感謝もしております。

もし、青い空のカミュという作品に偶然出合わなければ、こんな事なんかまずやらなかったでしょうし、ゆるキャン△ だって、ドラマ版を見ようと思わなければ再熱することはなかっただろうと思います。他の作品、例えば”ヤマノススメ”なんかもそうなんですが、私は結構偶然の結びつきで行動してるところあるなあって思います。天覧山や高尾山なんてまず登ろうとすら思わなかったでしょうしねぇ。

偶然だから怖くもあり、面白くもある。私はそう解釈いたします。

あ、”青い空のカミュ”が10月11日まで3000円のセール価格となっておりますので、まだ持っていない方はこの機会に是非ご購入を検討していただければいいかなって思ってます。さらに他のKAI作品もリーズナブルな価格になってますので是非是非ー。

あ、でも、私はKAI様の回し者じゃないですからねー。毎回言ってますけど。
何の変哲もないただの狂信者、ですからー。


それではではー。



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représentation


「ねぇ、”蛍”。あなたは好きなものを最初に選び取る方かしら? それとも最後にとっておくほう?」

「えっ、と……?」

 確かに──不思議な夜だったのだと思う。
 
 眠れないほど暑くも寒くもない。

 ちょっと不気味ともいえる夜だったのに、なぜわざわざ外へと出たのか。

 その答えが、これだったのと言うのなら。

 何か納得してしまう。

 柔和な笑みを湛えたその人の、長い長い黒髪に(いざな)われただけなのだと。

 ──宵闇が辺りを包むその中において。
 
 まるで絵画のように月光を受けて佇んでいた女性がふいに自分の名を呼んで、不思議な問いかけをしてきた。

 蛍は動揺を隠しきれず、唇を震わせてか細い音を出すので精一杯だった。

 ()()()()()()()()は白い月が輝く真下でこの公園で偶然出会うことになってしまった。

 周りには誰の人影も、いつも一緒にいる友達(りん)すらも居ない。

 この時は、まるで世界全体が急に凍り付いたみたいに、静かで、暗くて、けれどどこか落ちつき払った夜。

 この人はここに来ることを待っていたように静かにただ佇んでいた。

 あの町でも、青と白の世界でもない。

 ()()ですらない所で。

(やっぱり綺麗だなぁ。オオモト様)

 白い月よりもそう見える。

 むしろ月光が当たっているからよりそう見えるのかもしれないけど。

 オオモト様はこの世界とどこか馴染んていないみたいで、長い黒髪を湛えた輪郭が夜に浮かんだ幻燈のようにぼんやりと光って見えていた。

 他の人とは違うと言うことを表しているかのように。

 オオモト様に最初に出会った頃からそんな感じを抱いていたのだけれど。

 夜の闇がそうさせているのだろうか。

 あの”青いドアの世界”で会ったときよりも強く感じとってしまう。

 蛍はその感情に何故か懐かしさのようなものを感じていたのだったが。

 けれど、それは本当に一瞬の事だったので、顔には出さずにオオモト様の問いかけの意味を必死に考えていた。

(好きなもの……例えば、ドーナツとかのスイーツだったら、好きなのは最後に食べるのかなぁ……選ぶのは最初なんだけど)

 真っ先に思いついたのが甘味なあたり、ちょっとアレなのだけど。
 何だか矛盾のようなものを感じてしまう。

 最初に目に入るのはいちばんすきなもの。
 でも、選び取るのはさいご。

「………」

 その辺りの事をオオモト様は聞きたいのかもしれない。

 優先順位とかそう言った指針みたいなものを。

(けど、それに何の意味があるんだろう?)

 とりあえず蛍は浮かんだ答えを口にした。
 考えたってよく分からないことだし。

「えと、後に取っておくほうです。やっぱり」

「そう」

(あれ、それだけなんだ)

 少し拍子抜けしてしまう。
 オオモト様はのことだから何か深い意味とか、謎かけとかがあるのかと思ったから。

 そう言ったキリオオモト様はまた夜空の星に視線を移していた。

 まるで、蛍の単純な答えどころか自分が投げた質問にすら興味がなくなったみたいに。

 蛍は少しの気まずさと気恥ずかしさを感じて無意識に、きゅうっと被っていたパーカーの紐を握りしめた。

 今思えば自分にしては随分とラフな格好で外へと出てしまったが、それは直ぐに帰るつもりだったから。

 ──こんな所で人に会うとは思わなかった。

 それも全く予想どころか”この世界に存在しうるとは思わなかった人”に。

 居るはずのないオオモト様にこんな形でまた再会できるだなんてそれこそ夢すら思わなかった。

 懐かしむように夜空を見上げているオオモト様に、こうして会えたのだから格好なんて関係ない。

(何も言ってこなかったしね)

 単純に興味が無いのだと思う。

 オオモト様自身だって、時代にそぐわない恰好なのに気にするような素振りを全くみせなかったし。

 けど、これは”青いドアの家の世界”の中でも、夢でもない。

 ”現実”に今この人は今、傍に立っている。

 闇夜と同じ色の長い黒髪をなびかせ、月を一心に見つめながら。

 蛍はその横顔を少し不安そうに眺め続けていた。

 オオモト様がまた話しかけてくれる時まで静かに見守っていた。

 ……
 ……

「え? ──嘘、ですか?」

 どれだけの時が経った頃だろうか。

 あれだけ感じなかった眠気を急に覚えた蛍がその場を離れるかどうするか、迷っていた時だった。

 オオモト様がこちらを振り向き、また口を開いたのは。

「ええ、そうよ。蛍、あなたは自分に嘘をついている。本当に好きなものは最後になんかしたりしないはずよ」

 その辺りは好みの問題だと思うが、何故だか強く否定されてしまった。
 
「好きなものを最後に取っておくのは別にいいの。けれどあなたは、()()()()()()()()()()()()手放してしまう。自分には幸福を手にする権利などないと手を下げてしまう。そうでしょ?」

「それは……」

 その先の言葉が蛍の唇からは出なかった。
 代わりに桜色の唇が細かく揺れる。

 何か胸にぽっかりと穴が開いたみたいに、空虚な喪失感が胸に突き刺さった。

 蛍はただ立ち竦む。
 それだけだった。

「蛍。あなたは」

 オオモト様は言葉を止めて蛍の方を見た。

 この時蛍はオオモト様をと向かい合っていることに初めて気付いた。

 深い黒。
 黒檀の瞳。

 髪と同じ色の黒檀の瞳に見据えられた。

 でも、悪い気はしない。
 むしろもっと見られたいと思う程だった。

()()、大事なものを失ってしまう。一度手に入れたものを再び失うのは、とても耐え難いもの。痛みと苦しみがまたあなたを襲う」

(痛みと苦しみ……)

 ずぅんと蛍の胸に重いものが横切る。

 目の前が暗くなる感覚。

 しぬことよりも辛い事がこの世界にあるなんて、あの時は思わなかった。

 蛍にとって大事なものとはたったひとつだけ。

 それは燐。
 燐の存在こそが蛍にとって最も大事でそして、最も好きなもの。

 蛍はあの日の()()()()()()()を思い出して、カタカタと身を震わせた。

 けれど瞳は真っすぐにオオモト様の方を向いていた。

 知っていたから蛍は。

 この人はそんな怖がらせる為だけにこんな話をしない。

 何か意味のあること。
 例えば助言なんかを投げかけるために口を開く。

 それを良く知っていたから。

 けれど。

「だから……その、嘘、ですか?」

 その言葉を受けて顔を強張らせる蛍に、オオモト様は静かに首を横に振った。

 その仕草が清楚な見た目のギャップで少し可愛らしかったので、蛍はほんの少し表情を和らげる。

 問いの答えにすらなってはいないのだが。

「そうね」

 思慮深い。
 少し憂いの目をしてオオモト様はこういった。

「”嘘”は手段よ。別に強制するつもりはないわ。けれど、何らかの事をしないと自分の元から離れて行ってしまう」

「流れているばかりでは何も手にできない。そう思っているのではないのかしら、あなたは。今の燐に対して」

 言葉に詰まった蛍は、羞恥と焦燥感の入り混じった言葉をオオモト様に投げた。

「えっと、じゃ、じゃあ、わたしは一体どうすればいいんですか? その、嘘をついてでも燐のを引き留めれば、それでいいんでしょうか!?」

「やりようはいくらでもあるわ。あなたはもっと意思をハッキリとしないといけない。本人はそれで良くとも周りからはそうとってはもらえないのよ」

 真っ直ぐに言葉が返ってくる。

(やっぱり、学校の先生と話してるみたいだ)

 素直に蛍はそう思った。

 この人が口にしたことは何でも真実になる。
 そう思わせるほどの言葉の重みというか妙な説得力をオオモト様に感じてしまう。

 けれどその言葉は、まるで何かの責務を果たしているかのように淡々としたもので、これまで言いそびれたことをまとめてくれているようだった。

 難しい定理を分かりやすく丁寧に噛み砕いて教えるように。

「明日という日は来ない」

「えっ!?」

「そう思った方がいいわ。あなたにはその意味が分かるはずよ」

 オオモト様はそういうとまた白い満月の方へと顔を向けた。

「………」

 確かに分かる。

 それはあの終わらない夜の一件で嫌という程分からされた。

 明日がくればなんてそんな甘いものはなく、ただひたすら不条理から逃げ回っていただけ。

 望んだ明日は来ない。
 きっとこれからも。

「だから今を全力で生きなさい。あなたは今日という日に最良の結果を出せるはずよ」

「わたしが、そんなこと……」

「月だって同じなのよ。一定の軌道を描いて動いているけど、同じ月は二度と現れない。ここからだと何百年も同じ様に見えるけど、実際には同じ月は一つとしてないのよ」

「少しづつずれていっていると言うことなんですか?」

「ズレているのではないのよ……ただ月の方が」

 そう言ってオオモト様は白い月を見やる。
 蛍もその視線を追った。

「月は遠ざかっていくみたいなの。この世界から離れようとしているのかもしれないわね」

 それは即ち、滅びに近づいていると言う事だろうか。

 世界と言うか現実の終わりに。

 わたし達にはどうすることも出来ないから、仕方のないことなんだろうけど。
 
「オオモト様」

 蛍は思い切って聞いてみることにした。
 これは直接本人やその母親にも聞いてみることが出来ないことだったから。

 この人になら話せるだろうと思った。

 きっと唯一の根源(ルーツ)だろうと思っているから。

「わたしは、燐と──」

 その声色に感情の震えのようなものを感じ取ったのか、オオモト様は月から目を逸らし、蛍の方を振り返った。

 夜よりもなお暗い、黒檀色の二つの瞳を真っ直ぐに向けて。

 ──
 ──
 ──




 

「あっ、あれだよね。ほら、駅のホームからでも見えてたよね、”あの”お城」

 

 燐は弾むような声を上げてそちらを指さした。

 

「うん。そうだったね」

 

「近くまで来るとさ、結構おっきいよねぇ。わたしお城とかあんまり間近でみたことないからちょっと迫力かも」

 

「わたしも。それに海も近いし気持ちいい場所だよね」

 

「本当だよね! このまま海に飛び込みたいきぶんー、かも!」

 

「そうだね」

 

 ことさら感心するように首を上げ下げさせている燐に蛍は小さく相づちを打った。

 

 結局、駅から降りたのはいいのだが、特に行先も何もプランが決まっていなかったのでとりあえず目に付いた場所まで燐と蛍は足を進めていたのだった。

 

「あ、ねぇ、蛍ちゃん。あのお城の天守閣まで登ってみる? なんか絶景が見れそうな感じみたいだよ」

 

「あぁ、うん。そうだね……」

 

 蛍はつい困った感じの返事を出していた。

 

 あまり元気のない返事しかしない蛍に、燐は一瞬ぽかんとした顔になっていた。

 蛍はそのことに気付くと、慌てて取り繕ったような笑みをうかべた。

 

「ごめん、でも大丈夫だから」

 

 とてもそうには見えない。

 そう思った燐は少し言葉を選んだ。

 

「やっぱり、まだ気分が落ち着かないかな。ごめんね。戻ったほうがいいかな?」

 

 心配そうな目で質問を投げかけてくる燐に、より頑張った笑みと言葉を蛍は作る。

 

「そこまで気を遣わなくても本当に大丈夫だから。ただ、来たこと無い場所だったから。違った景色を見て、ちょっとぼーっとしてただけ」

 

「本当の、ホントに?」

 

 そう言って燐に目を覗き込まれる。

 

 秘めた胸の内まで探られているみたいで、思わず視線を逸らしたくなった。

 

 後ろめたいことは……確かに、ちょっとはあるけれども。

 

「うん。それに薬が効いてきたみたいだから気持ち悪くはもうないよ。ありがと燐。心配してくれて」

 

「蛍ちゃんがそう言うなら、良いんだけどさ。でも辛くなったらすぐに言ってね」

 

「分かった」

 

 蛍自身が言ってる様に顔色に問題はなかったことを確認した燐は、ほっと胸をなでおろす。

 

 そしていつもの表情に戻ると少し控えめに蛍に笑ってみせた。

 

「顔色は良さそうだけど、城の近くまで無理に行かなくてもいいよね。ここからでも十分絶景だしね」

 

 そう言った燐は、さっきから何枚も撮っている城をバックにした写真をまた一枚パチリとスマホで撮った。

 

 お城の白い城壁は青空によく映えて、雲を吸い込んだみたいに空との奇妙なコンストラクトを造っていた。

 

 蛍は燐とは違いスマホを持つこともなく、どこか上の空のようにただ漠然と眺めていた。

 

 一時期カメラを持っていたこともあったが、今では部屋の片隅で埃をかぶっていた。

 

 飽きたとかそういうのではなく、単純に取りたい風景とか対象物が見当たらなかっただけ。

 

 この城のようにいいなと思う景色はあってもカメラを構えてシャッタを切る気にはならなかった。

 

 もし今の蛍に撮りたいものがあるとするならば、それは。

 

「ん、どうしたの蛍ちゃん。わたしの事じっと見て」

 

「何か燐、凄く楽しそうだなって」

 

「んー、まぁね。やっぱり知らない場所って何かテンションが上がるよね。そう言うのって分かっちゃうものかな?」

 

 燐は顔に出ていると思ったのか、つい自分の顔を手で覆っていた。

 

「燐じゃなくてもそう思うのは当たり前だよ。せっかく駅から降りたんだし。それに嫌でも目に付くから、あのお城」

 

 駅の近くだけでなく、もう少し遠くからでも十分に見渡せるほど、城は圧倒的な存在感を放っていた。

 

 城の周りは公園となっており木々も生い茂ってはいたが、樹に埋もれるようなことはなく、堅牢そうな石垣を構えた天守閣をそびえ立たせている。

 

「一応、名勝だしねえ。人もいっぱいだし」

 

「見てるだけで何か疲れてきそうだよね」

 

「あはっ、何それ~。蛍ちゃんちょっと年寄りっぽい発言だよ、それはっ」

 

 ……口にしてみて自分でもそうだと思った。

 

 夏の休みの終わり際だからなのか、観光地である事を除いても溢れるぐらいに人がごった返していた。

 

 それは駅のホームでも同じで、乗降する人の波が幾度も繰り返していた。

 

「もう夏も終わりだからねー。最後の思い出に何処かに行きたくなるんだよ、きっと」

 

 人の群れを眺めながら、燐は達観したようにしみじみとそう呟く。

 

 燐の言う様に確かに人混みは多かった。

 

 お城に行くまでの参道は最近整備されたものらしく、城下町風の町並みの新しい店が軒を連ねている。

 

 その事がただでさえ人の多い観光地に余計に人気を呼んでいた。

 

 燐は持ってきた大きな荷物の一部を駅のロッカーに預けており、残っているのは背中のバックパック一つだけ。

 

 結局、燐のいつものカジュアルだけどアウトドア風な装いとなっていた。

 

 本人にしてみれば、装備(ギア)はちゃんとしたものばかりで揃えてるんだからと反論するだろうが。

 

 こういった、いつもの服装にアウトドアを取り入れるスタイルは最近の流行りだったから、そこまで物珍しいものではなくなっていた。

 

 燐はその定番の軽装スタイルが落ち着くのか、成り行きから行き当たりばったりとなってしまったこの途中下車の旅を楽しんでいるようだった。

 

 対して蛍はどこか不安そうにソワソワと足元を揺らしてる。

 

 燐も蛍も普通に観光を楽しんでいるようにみえるのだが。

 

 胸中の想いはそれぞれ違うようだった。

 

 特に蛍の悩みは時が経つにつれ、どんどんと深刻なものになっていった。

 

 ただ自分で自分を追い詰めているだけなのだが。

 

(燐は、本当に帰っちゃうつもりなの? 会うのをずっと楽しみにしてたのに)

 

 楽しそうな燐の声を聞くたびに、胸の奥がチリチリと痛む。

 小さな棘が消えることのない痛みを全身に突き刺すみたいに。

 

 もう癒えたと思った蛍の心に新しい引っ搔き傷を少しづつ付けていく。

 

 こんな切ない思いをするのなら()()()()()なんか言わなければ良かった。

 

 けど、もうどうしようもない。

 

 後悔が渦となってどこまでも纏わりついてくる。

 だから、燐の様に今を心から楽しむことがどうしてもできなかった。

 

 騙したいとかそんな事。

 全然思ったことなんか一度もない。

 

 けれど、何であんなことを言ってしまったのだろうと。

 

 蛍は何度も胸中に問いかけた。

 

「わたしも初めて来たけど、こんな素敵な場所なんて思わなかった。これも蛍ちゃんのお陰だね」

 

「えっ」

 

 蛍は素っ頓狂な声を上げる。

 何か燐にバレてしまったのかと、心臓がバクバクといっていた。

 

「もし蛍ちゃんが居なかったら、こんな所で降りようなんて思わなかったし。だから蛍ちゃんが一緒で本当に良かった、って思ってね」

 

「燐……」

 

 燐と二人きりで旅行するなんてとても楽しいことのはずなのに、蛍の心は澄み切った空とは真逆の、どんよりとした曇り空を描いていた。

 

 青く澄み渡った空にわざわざ黒い雲を描き足すみたいに。

 

 少し遠くに広がる穏やかな午後の海のように凪いだ気持ちになれない。

 何をしていても心の空が晴れなかった。

 

(──けど、言ったのはわたしなんだし)

 

 これは自業自得、自分で選んだ結果の上のことなんだ。

 そう自分のやった事を蛍が受け入れようとした、そのとき。

 

 思いもがけないことが唐突に、蛍の身におきた。

 

「きゃあっ!?」

 

 突然の事に蛍は裏返った声をあげる。

 

 まだ蒸し暑い夏空に蛍の声が響き渡った。

 

 それは……冷たいものを感じたせい。

 

 それもまさか額だなんて。

 

 街中で変な声を上げて恥ずかしいとかそう思う以前に疑問に対する方が大きく、蛍は額を手で押さえながら周りを見渡したのだったが……。

 

 なんてことはなかった。

 

 よく考えるまでもなく、そんなことをするのは一人しかいないのだから。

 

「ビックリした?」

 

 悪びれることなく、何かを手にしていた燐が笑みを浮かべて立っていた。

 それを蛍のおでこにぴったりとくっつけていただけ。

 

 けどそれは、冷たいペットボトルではなく。

 

 透明な液体の入った瓶を両手に持って、夏の日差しを受けながら燐はくすくすと笑っていた。

 

 とても自然な、心からの笑顔で蛍を見つめながら。

 

「はい、蛍ちゃん。お飲み物。くすっ、でもそんな可愛い声を出せるんだったら、もう本当に大丈夫そうだね」

 

 その冷たさに驚いたよりも、燐の笑顔に蛍は目を奪われていた。

 

 なんて綺麗なんだと思う。

 どんな夏の情景よりも、目の前にいる燐の方が素敵で、とても綺麗だった。

 

 蛍はちょっとの間、茫然としていたが。

 

 燐がいつの間にそんなものを持ってきたのかと、ややあってから聞いてみた。

 

「さっきからそう言ったよね。えっと……燐。それって、ラムネ?」

 

 燐は返事の代わりに、はいと蛍に手渡す。

 

 蛍はまだ状況が良く呑み込めていないのか、受け取った冷えた瓶を見ながら何度も目を瞬かせた。

 

 瓶のラベルには”みかんサイダー”と記してある。

 あまり見たことがないものだったので、どうやら”ご当地サイダー”というやつみたい。

 

 そもそもラムネとサイダーの違いって何だったっけ?

 ビー玉が入っている方がラムネ……だったのかなぁ。

 

 言い間違いをしてしまったことに蛍は少し恥ずかしくなったが、燐は別段気にしていないみたいで、サイダーの蓋をぽこんと開けるとごくごくと飲みだしていた。

 

 それを見て蛍は思う。

 

(炭酸、そんなにきつくないのかな?)

 

 蛍はこの手の炭酸飲料が少し苦手だったからちょっと臆していた。

 

 飲むと喉がチクチクとするし、何より飲み終わった後にどうしても出てしまう、恥ずかしい溜息(ゲップ)が好きではなかったから。

 

「うん、美味しいっ! やっぱりさ水分は多くとっておいたほうがいいよ、蛍ちゃん。今ぐらいがもっとも暑い時間だし」

 

 燐は半分ほど一気に飲んで爽快にそう言い放った。

 

 蛍は呆気に取られたように惚けてしまう。

 

 燐のその姿を見て蛍は感嘆していた。

 もし手にカメラを持っていたら、今この瞬間を切り取っておくだろうと。

 

 まるで作り物みたいに夏空によく映える情景そのものだったから。

 

 と、蛍は思わず喉をごくっと鳴らす。

 

 燐の飲み方が本当に美味しそうだったし、今ちょうど甘いものが欲しかったのも事実だったから。

 

 それに何より、大切な──ともだち。

 

 その友達が勧めてくれたのだから。

 美味しいに間違いないと思う。

 

 燐と初めて出会った時もそうだった。

 何をするにも引っ込み思案だった燐が話しかけてくれたんだった。

 

 幽霊みたいに存在感のなかった、わたしに。

 

 ”その本、ちょっと難しいけど読みだすと結構止まらないよね”と。

 

 言い表しづらいけど──風が吹いた気持ちになった。

 

 淀んだ空気を吹き飛ばすように、わたしの中で爽やかな風が吹き出したんだ。

 あの時から。

 

 それからは世界が変わったように楽しいことばかりが続いたんだけど。

 そんな時にあの不条理な歪みが起きて……。

 

 まあ……今はそんな事どうでもいいか。

 

 それよりもこのサイダーを飲むことに集中しよう。

 

 その素敵な友達に炭酸の強さは聞けなかったけれど。

 

 きっと大丈夫。

 

(よし……飲むぞ……!)

 

 蛍は妙に力の入った顔をしながら燐と同じように瓶の蓋を開ける。

 

 プシュっと炭酸の気の抜ける音が夏の空に響き渡った。

 

 何故か意気込んだ顔を見せる蛍に燐はちょっと驚いていたが、でも楽しそうにその様子を見守っていた。

 

 何か燐にまざまざと見られていることに少しの疑問を蛍は抱くも、覚悟を決めたように瓶の縁に唇を寄せ、ミカン味というにはちょっと薄めの金色の液体をそっと喉に入れた。

 

 何ていうか普通の、蛍が危惧したほど炭酸の強くない普通の蜜柑味のサイダーだった。

 

「ん……冷たくてしゅわしゅわしてるね」

 

「まあ、そうだよね。炭酸って大抵はそんなもんだからね」

 

 味とかよりも先に、何てことない普通の感想の方が口から出てしまった。

 

 ミカン味だからそこまで変わった味でもなかったわけだし。

 確かに酸味はあったけど、そこまで酸っぱくはない。

 

 けど、その普通っぽさが炭酸系の飲み物が少し苦手な蛍にはちょうど飲みやすい。

 

 安心した蛍は少し勢いをつけてもうちょっとごくっと喉に入れた。

 

「なんだか、蛍ちゃんらしいね」

 

 飾りっ気のない蛍のシンプルな感想に燐はまたくすくすと笑いだしていた。

 

 燐にからかわれた、そう思った蛍は瓶を手にしたまま顔を赤くした。

 

 滴る汗を柔らかく拭うように、湿り気のまざった温い海風が二人の少女の頬を撫で下ろしていた。

 

「あと、さ。()()()()()あるんだよ。折角だから一緒に食べない?」

 

 燐は背負っていたバックパックから、色どりの良いストライプの包み紙にくるまれた小さな袋を一つ取りだして、それを手に乗せて差し出した。

 

 自信のない少し寂しそうな笑顔を見せながら。

 

 蛍はそれに見覚えがあったので目を丸くして燐に尋ねる。

 

 確か本当に目のように丸いものが中に入っていたことを知っていたから。

 

「これって”ドーナツ”、だったよね? 燐が一生懸命作ったっていう」

 

 まんまるとした、手のひらサイズのコロンとした丸いかたちの小さなドーナツが入っているはず。

 

「あたり。でも、そんな一生懸命ってほどじゃないけどじゃないけどね」

 

 燐は小さく笑うと自分でその包み紙のリボンをほどく。

 

 そこにはちょっと大き目のキャンディーみたいに可愛らしい色の紙に包まれたドーナツが、コルクの栓で塞がれた瓶の中で宝石みたいな綺麗な姿で幾つか入っていた。

 

「でも、これ聡さんに渡す為に作ったんでしょ。だったら」

 

 蛍はそこで言葉を止めた。

 それ以上は燐に聞く必要はない、そう思ったからだった。

 

「確かにね。でももういいんだよ」

 

 燐は意外にもあっけらかんと口にする。

 

 けれど、それでも蛍は躊躇してしまう。

 

(燐、あんなに心を込めて作ってたのに)

 

 燐が行くと決めてから、このお菓子を作っていることをよく蛍は知っていたから。

 

 もっとも燐が自ら見せていたのだけど。

 

 ”お兄ちゃんに渡したいものがあるんだ”と、楽しそうに。

 

 始めは燐の母親と同じく自分で焼いたパンを渡そうと思ったのだが。

 

 何かそれじゃあ女の子っぽくなく、なんだか味気ないとのことで結局ドーナツになったのだ。

 

 それも良くあるリング状のドーナツではなく、片手で食べられる一口サイズの丸いものに。

 

 きっと、重く見られたくはなかったのだろうと思う。

 

 手作りと言うだけでも結構ハードルは高いと思うし、それに今や燐は実質パン屋の(看板)娘となっているのだから。

 

 店を構えている以上、変なものは渡せないし、あまりに本格的すぎるのも何か違う気もしていたようで。

 

 だからこのドーナツは燐にとって一種の妥協案だった。

 

 これから簡単に食べられるし、そこまで重く受け止められないだろうとの燐のほのかな思いを閉じ込めたものだった。

 

 それに、良くあるドーナツ(小麦)色だけでなく、色とりどりに溢れていて、燐のセンスらしいビビットな色遣いと、ちょっとのリリカルさ含んだ見た目になっている。

 

 ブルーのドーナツはブルーベリーのソースで、ブラウンは普通にプレーン。

 ホワイトはミルクのクリームが練り込んであってて、緑は抹茶の粉を入れて焼いたものだった。

 

 一つとして同じ色、味がないのは、調和を気にする燐らしいとも言えた。

 

 それだけでなく、包装紙を解くまで中に何が入っているのか分からない、ゲーム感覚を盛り込んでいるのもとても可愛らしい。

 

 そしてそんなに日持ちしない事を知ってるから、行く前日の夜遅くに作ったものだった。

 

 この小さなお菓子ひとつづつに彼に対する燐の思いが見え隠れしているようで。

 

 だからか蛍は気軽に受け取ることが出来なかった。

 

(それなのに……わたしが食べちゃってもいいわけないよね)

 

 蛍は何か気の利いた断り文句を探そうとしたのだが。

 

「さ、蛍ちゃん、食べてみて」

 

 燐ににこっとした笑顔を向けられると蛍にはもう断るすべがない。

 

 蛍はふぅと息を吐くと、燐の手のひらごと思いのつまった袋を恭しく受け取った。

 

 そして小さな声でもう一度尋ねる。

 とても優しい、少し大人みたいな落ち着いた声色で。

 

 あの人みたいな柔和な目を向けて。

 

「燐、本当にいいの?」

 

 ドーナツはまた作ればいいが、この想いはきっと今だけのものだから。

 

 燐は一瞬だけ躊躇うような素振りをみせるも、小さく首をふり、少しぎこちない顔で笑みを作った。

 

「それ、あんまり上手に出来てないでしょ、急いで作っちゃったし。だからちょっと失敗作なんだけどね」

 

「そうかな? 全然可愛く出来てると思うよ。青パン(りんのいえ)で新作として出してもいいぐらいには」

 

 蛍は素直に言葉を返す。

 

 無理に繕った言葉を重ねるよりも、その方がきっと燐にはいいのだろうと分かっていたから。

 

「流石にそれはないかなあ。結構コストが掛かっちゃったし。これでもちょっとは手間がかかってるんだよ。でも、蛍ちゃんにそう言ってもらえるのはすごく嬉しいなあ。それだけでも作った甲斐があるよ。あ、見た目だけじゃなくちゃんと食べてもみてね」

 

「あ、うん……」

 

 無理して微笑む燐を見て、蛍は胸の締め付けられる思いがしたが、その表情に誰かの面影を垣間見た気がしてつい了承の返事をしてしまった。

 

 自分でそう言った手前、今更否定するのも何かぎこちない気もする……。

 

「じゃあ、燐、食べるね。頂きます」

 

 迷った挙句、蛍は燐の好意を受けることにした。

 

 これ以上言って燐を困らせたくはなかったし、何よりカラフルで小さなドーナツがとても可愛かったから。

 

 その中の一つを摘まんでキラキラとした銀の包み紙をくるりと剥がす。

 中には色どりが綺麗に出ているピンク色のドーナツが入っていた。

 

 蛍はちょんと指でつまんでピンク色の小さな舌にのせる。

 

 それは見た目通りコロリンと口の中で転がった。

 ソースは生地に練り込んであるので、歯で噛んでも中には何もつまってはいないが。

 

 それでも、これは。

 

(甘くて……美味しい……)

 

 謙遜するみたいに燐は言っていたけど、ひび割れるような型崩れもなく、味もしっかりとついている。

 

 何より、この小さなドーナツから、愛情というか何か秘めた想いみたいなのが伝わってくる感じがして、ミカン味のサイダーなんかよりもずっと甘酸っぱい。

 

 蛍にはまだはっきりと分からない、”恋心”。

 そのものを口に入れた気がした。

 

「どうかな? 変な味になってなんかない? 例えばそう、酸っぱい感じがするとか……」

 

 燐も自分でひとつ食べて蛍に尋ねる。

 

 やはり夏場だから、そう言った衛生的なものを気にした、燐にしてみれば当たり前のことを聞いたのだったのだが、それに蛍は首を大げさに振って否定した。

 

「ちゃんと美味しかったから、大丈夫だよ。でも何か……燐、そのものを食べちゃってるみたいで……」

 

「うん?」

 

 ややピントのズレた蛍の感想に燐は思わず首をかしげる。

 

「ちょっと、気恥ずかしかった」

 

 何故か頬を染めて俯く蛍に、燐は面食らったような表情を浮かべて苦笑いする。

 

「え? そ、それって誉め言葉と受け取ってもいいの? けど……なんかちょっと怖いよ蛍ちゃん」

 

 口ではそう言っていたが、燐の顔はそれ程まんざらでもなかった。

 

 ……

 ……

 

「ねえ、燐。少し落ち着いたと思うから、やっぱりお城まで行ってみようか」

 

 ドーナツを食べ終えた蛍が不意にベンチから立ち上がると、燐に手を差し伸べる。

 蛍からそう言ってくるとは思わなかったので、燐は少し戸惑った表情でその顔を見返した。

 

「でも、蛍ちゃん……」

 

「わたしはもう大丈夫。それにさっき約束したじゃない」

 

 蛍が真っ直ぐに綺麗な目を向けていたので燐はそれ以上何も言わなかった。

 

 燐はうんと、大きく頷く。

 蛍はふわっと柔らかく微笑んだ。

 

「じゃあ行こうっか」

 

 そう言った蛍は燐の手をぱっと取ると、屈託のない笑みを浮かべたまま、急かすように城の入り口の方へと燐に手をひっぱる。

 

 燐はちょっと驚いた表情を見せたが。

 

「くすっ、相変わらずだねえ。蛍ちゃんは」

 

 燐は笑みを見せながらも蛍の後に素直ついて行く。

 いざという時の蛍の大胆さが燐は好きだった。

 

 東から流れてくる潮風に夏の終わりの様なものを感じ取ったが。

 

 燐は特にそちらの方を振り返るようなことはしなかった。

 

 きっといつかはそうなるだろうと思っていたし、今は目の前で張り切って手を引いてくれる友達の方がはるかに気になるものだったから。

 

 燐はその一生懸命に歩く人の暖かい手に包まれながら、歩幅を合わせるようにゆっくりと後を追った。

 

 ──

 ──

 ──

 

「何かさ、ちょっと意外……だったよね? 上まで登ってそれだけかなって最初は思ってたんだけど」

 

 小さく肩をすくめて、燐は戻ってくるなりそう口をこぼした。

 

「わたしもだよ。お城の中って結構広かったんだね。展示品なんかも色々してあったし」

 

 蛍も同じ感想を持っていたようで、先ほどまでとは少し目線で、燐と一緒に登った城を下から振り仰いでいた。

 

「それにしてもさ、蛍ちゃん」

 

「ん?」

 

 急に燐が顔を近づけてきたので、焦った蛍は少し顔を引いた。

 

 この距離感はそんなに嫌じゃない筈なのに。

 

「本当にさ、切符。買ってないなんて、ね」

 

 ややぶっきらぼうに燐は言葉を投げる。

 

 二人きりで城の周りの公園を散歩してるだけだし、周りには誰もいないからいいけど。

 

 何となく他の人に聞かれたくはない話だったから、蛍はそっと燐に耳打ちをする。

 

「あれは、その急いでいたからつい。ごめんね。燐にも謝らせちゃって」

 

 二人は改札を抜ける際、駅員にその旨の事情を話して何とか対応してもらったのだった。

 もちろん、蛍のここまでの分の運賃は払った上でのことなのだが。

 

「それはもういいってぇ。それにわたしも、切符代払い戻ししてもらったわけだし」

 

「本当に良かったの燐。その切符って途中下車しても問題ないって言われたよね」

 

「そう、みたいだね。わたしも言われてみて初めて知ったよ」

 

 片道100㌔以上の区間の切符なら途中下車しても問題ないらしい、と。

 

 駅の人にそう提案されても、燐は小さく首を振った。

 

「お兄ちゃんの所にはまだ全然遠いけど、今のわたしはここまででもう十分だからこれでいいんだ」

 

「燐……」

 

「あっ、蛍ちゃん。別に気にしなくていいんだよ。さっきも言ったけど、わたしが蛍ちゃんが一緒に来てくれて本当に嬉しかったんだから。それよりさ、ごめんね」

 

 燐に急に頭を下げられて蛍は目をぱちくりとさせた。

 

「ど、どうして燐が謝るの? わたしがいけない事をしたんだし」

 

「だって蛍ちゃん。本当は一緒に来る気なかったんだよね。でもわたしがホームであんな、”変な事”しちゃったから……蛍ちゃんのこと変に動揺させちゃったのかなって」

 

「あ……!」

 

 燐に言われるまですっかり忘れていた。

 とても衝撃的で恥ずかしいことだったはずなのに。

 

(そういえばわたし、燐とホームであんなことしたんだった……)

 

 あのことを思い返すとかぁっと顔が熱を帯びてくる。

 特に、左頬の辺りはまだ感触が残っているみたいで、他の場所よりもより熱く感じられた。

 

「その、ごめんね、ほんと。何か、その感情が昂っちゃってさ……こんな言いかけがましいこと今更言っても信じてもらえないよね」

 

「そんなことないよ。燐の気持ち、ちゃんとわたしに届いたから。だから一緒にいるんだと思う」

 

「蛍、ちゃん」

 

 二人とも顔を真っ赤にして俯きあっていた。

 

 燐も蛍もお互いの顔がまともに見れなくなったようで、互いに視線を逸らしてそれぞれ違う方向に首を向けている。

 

 少し気まずい空気が二人の間に流れているようにみえたが。

 

 けれど、二人の手は、ずっと握られたままだった。

 むしろさっきよりも強く、しっかり握られているようにも見える。

 

 思いをつなぎとめるかのように。

 互いの指の隙間を埋め合っていた。

 

「あのね、燐。その、わたし燐にどうしても言っておかなくちゃいけないことがあるんだ」

 

 やや、思い詰めた表情の蛍がそう切り出す。

 

 少し真剣に燐の事を見つめながら。

 

 いきなりの事だったので燐は少し驚いていた。

 

 けれど顔を赤くしたまま、すぐにぱっと表情を和らげた。

 

「何? もしかして、告白……とか?」

 

 この状況だったらそうなったとしてもそんなにおかしくはない。

 

 燐の予想外の言葉に蛍は更に顔を赤くしたが、ふるふると首を振った。

 

「ちょっと違うけど……でも」

 

 蛍は一旦言葉を休めてから、小さく微笑む。

 

 朱色に染まった頬は、何かのときめきを予感させるような期待感を燐にもたらしていたのだったが。

 

 実際は──そうではなく。

 

「わたし、その、燐に嘘を吐いていたことがあるの」

 

 蛍のその言葉を聞いてすぐに、燐は驚いた表情をみせる。

 その反動で蛍の手をぎゅっと握りしめた。

 

「やっぱり、幻滅する、よね?」

 

 ちょっと小首を傾げて蛍は尋ねる。

 

 投げやりというよりも、諦めの色の濃い瞳を燐に向けながら。

 

 だってそうだろうと思う、どんな形だって嘘は嘘なのだし。

 

 友達だって、流石に冷めてしまうだろうと思っているから。

 

 けれど、燐は首を横に振っていた。

 

 それは、仕方がないという感じではなく、むしろにこりと笑みを浮かべながら軽口を言ってきたのだ。

 

「ううん、別にそんなことはないよ。どんな嘘かは知らないけどそんな事ぐらいで蛍ちゃんのこと嫌いなんてならないよ!」

 

「だって、わたし燐に嘘をついていたんだよ。友達だからって許されることじゃない」

 

 何てことないみたいに微笑む燐に、蛍は直ぐに言葉を返した。

 

「そんな、嘘なんて良くあることだよ。それにさ」

 

「?」

 

 そう言って燐は片手だけでなく、蛍の両手をその上から握った。

 

 それぞれの手が重なり合い、一つの線を描く。

 

 少女たちの身体を起点として、伸ばされた手が二人のちょうど中心の高さで繋がっていた。

 

 互いの輪郭を紡ぎ合わせるみたいに、燐と蛍は今確かにひとつとなっていた。

 混ざり気のない純粋な気持ちで。

 

「蛍ちゃんがわたしにそう言ってくれたってことは、話してくれるんでしょ。だからもう別にいいのかなって思う」

 

「本当? 燐はそれでいいの?」

 

「うん、もちろんだよ。だって蛍ちゃん、わたしのこと騙したりなんかする人じゃないことは知ってるし」

 

「騙す気は無かったの、ただ、その……」

 

「やっぱり嘘つくの辛かった?」

 

 蛍が言い終わる前に燐が言葉を差し入れる。

 

 一瞬面食らった顔になる蛍。

 けれど苦笑して頷いた。

 

「うん。そうだね。燐の言う様に辛かったのかもしれない。ずっと嘘をつきとおすのって、案外難しいことなのかもね。わたしにとっては」

 

「わたしだってそうだよ~。嘘とか秘密とかずっと秘めて置くのって案外疲れるものだしね」

 

「燐もそうなんだ」

 

 蛍の問いに燐はうんうんと首を振った。

 

「わたしもそーゆーの得意じゃないからね。すぐに顔に出ちゃう」

 

「あはは、わたしもだよ」

 

 よほど苦手だったのか、燐の言葉に同意を示すよう蛍はくすっと笑った。

 

「で、話してくれるんだよね。ここまで言ってやっぱりダメって言われたら、それこそ蛇の生殺し状態だよ~」

 

 顔の火照りを冷ますように、燐はぱたぱたと手で仰いだ。

 

「うん。でもわたし、燐にいっぱい嘘ついちゃってるから、何から話せばいいのかな」

 

 蛍はちょっと目線を上にしながら、少し恍けた風にそう言った。

 

「そ、そんなにあるのぉ? むむむっ。で、出来れば全部話して欲しいな……」

 

 探偵の真似事でもしているのか、燐はわざとらしく口元を片手で覆いながらドラマみたいな台詞を蛍に投げかけた。

 

 あまりにも芝居がかりすぎて、ちょっとアレだが、これもいつもの燐のことなので、蛍は困った顔を燐に向けていた。

 

「全部話すつもりだけど……燐、怒っちゃうかなやっぱり……」

 

「わたしは蛍ちゃんになら何をされても怒らないよ」

 

「そうだったっけ?」

 

「うー、時と場合にはよるけど、基本は怒らないからっ」

 

「そうだね。だって、燐はすごく優しいから」

 

 蛍は長い髪を生暖かい海からの風に晒しながら、澱みのない澄んだ顔でそう言った。

 

 だから燐は安心する。

 

 こんな綺麗で澄んだ目をした子が騙す目的で嘘なんかついたりしないのだと。

 

 きっと何か事情がある。

 それも多分。

 

 蛍にとってはとても重要なことなのかもしれないが、燐にとってみれば割と些細なことで嘘をついてしまったのだと。

 

(考えてなさそうで、ちゃんと考えてるタイプだからなぁ、蛍ちゃん)

 

 表情から察するに切羽詰まったという感じではない。

 

 その罪悪感に耐え切れずにとうとう言ってしまったという感じが燐には見て取れたから。

 

 蛍の、その吐露を聞いても、そこまで燐は困惑することもなかった。

 

(それにわたしだって蛍ちゃんのこととやかく言う権利なんてないし)

 

 細かい嘘なんてしょっちゅうついているし、とても大事な事だって話さないことあるし……。

 

(うー、何かわたしって実は結構嘘つきなのかも??)

 

「はうううぅ……」

 

 急に打ちひしがれたように肩を小さくする燐に、蛍は不思議そうな顔を向けた。

 

 と、何故かそのとき、燐は受験勉強でよく分からなかった十二の方程式のことを急に思い出して、忘れないようにと頭の片隅でメモを取った。

 

 結局、先へ進むにせよ、戻るにしても、まだ勉強は必要なものだし。

 

 何かを知ったり覚えたりするのは嫌いじゃないけれども。

 面倒なことは確かだったわけだから。

 

 今のこの状況にそれが何の意味があるのかは分からないけど。

 

「あ。そうだ。ねぇ蛍ちゃん知ってる?」

 

 少し恍けた声を出した燐が急に手をパンと叩く。

 

「え、何のこと?」

 

 突然出た音に驚いた蛍だったが、燐は気にせず蛍の手を再び握りながら話し続けた。

 

「お城に向かう途中の、さっき通った城下町の施設の屋上に”足湯”があるんだよ。そこからでもお城とか海が見渡せるんだ」

 

「へぇ、それは知らなかった。でも何でそんなこと急に?」

 

 さっきそのお城に登ったばかりなのに。

 蛍はそう思わずにはいられなかった。

 

 燐もそれを知っているのか、軽く中指を立てて横に振った。

 

「うん。そこにさ、今からちょっと行ってみない? 何か無料で入れるみたいだし」

 

「えっ? でも……」

 

 蛍は小首をかしげならそこのところを燐に尋ねた。

 

「足湯って、美容と健康に良いらしいんだよ。何か血行が刺激されるっていうかぁ」

 

 そう言った燐はまだ足湯に入ってもいないのに、何というかぽわんとしたゆるい顔になっていた。

 

 蛍はため息を一つこぼすと。

 

「あ、わたしもそういうのテレビか何かで聞いたことあるよ。冷え性にもいいんだって」

 

 蛍の指摘に燐は苦笑いするも否定することは無いみたいで。

 それどころか、むしろ蛍に更に詰め寄った。

 

 鼻先が触れ合いそうなぐらい顔を近づけながら。

 

「実は冷え性でしょ、蛍ちゃんって。だからさ、ちょっとだけ入りに行こ。ね、ね。ね。どうかな、蛍ちゃん~。サウナとはちょっと違った”プチととのう体験”一緒にしよっ」

 

 そう言った燐は抱き付く様に蛍の腕に手を絡めた。

 

「もう、燐~」

 

 プチ整うとか初めて聞いた言葉だし、さらっと失礼なこともついでに言われた気もするが燐の指摘に間違いはなかった。

 

(冷え性なのは確かだよ。でも……)

 

 蛍は困り顔で思案する。

 

 実際は考えるまでもなく、最初から答えは決まっているのだけれど。

 ちょっと気後れみたいなものがあった。

 

(燐に、気を遣われてるよね……確実に)

 

 少し大げさに言ってしまったせいなのかもしれない。

 嘘と言ってもそんな大したものじゃないのに。

 

 けれど。

 

 蛍は横目でちらっと燐の顔を見た。

 

 とても心配そうな顔で見つめている。

 繋がれた燐の手が少し汗ばんでいるのは、多分この暑さのせいだけじゃないはずだ。

 

 けれど蛍にはその手を振り解くだけの勇気はない。

 それどころかそんな気すら一片も脳裏に浮かんでこなかったから。

 

 蛍は小さくこくんと頷いた。

 

「燐が、そこまで言うのなら」

 

「じゃあ、決まりね。あ、タオルは有料みたいだけどわたしが持ってるからね。もちろん蛍ちゃんの分も」

 

 燐は列車を降りた時からずっと持っているオレンジ色のトラベルケースをバンと叩いた。

 

「え? そうなの?」

 

 こうなることを想定していたみたいに、きっちり用意をしてあるのは燐らしいなと蛍は思った。

 

(でも、もしかして)

 

「最初からそのつもりだった、とかはないよね、燐?」

 

「さぁ~て、何のことかなぁ~。あ、蛍ちゃん。足湯って結構のど乾くらしいから何かまた飲み物買ってから行こうね」

 

 燐はそう言うと先にばたばたと駆け出して行ってしまった。

 

「……誤魔化された」

 

 燐の背中を追いかけながら蛍は、まだ季節が夏である事に少し感謝した。

 

 …

 ……

 ………

 

「……外が暑いから、足湯ってどうなのかもって思ったんだけど……」

 

「確かにね。こういうのも悪くないよね。あんまり入ってるとのぼせちゃいそうだけど」

 

「うん。ほんとに。燐の言う様に夏の足湯も結構いいものなんだね」

 

 燐と蛍は足湯用のベンチに並んで腰かけながら、折れそうに細長い両足を半透明の足湯の中にちゃぷんと入れながら話をしていた。

 

 時間帯の関係なのか、同じように足湯を楽しんでいる人はそれほどいない。

 

 もし大勢いたとしてもきっとそれほど気にしないだろう。

 今の二人にはお互いの存在以外目に入っていないと言えたのだから。

 

「足しか入れてないのに何か全身がポカポカしてくるよね? やっぱり温泉だから?」

 

「かもねぇ~。わたしなんかもうすっかり全身汗かいちゃってるよぉ」

 

「わたしも。でも悪い感じの汗じゃないね。サウナとかに入ったときみたいな感じがするね」

 

 じめっとした重い汗ではなく、からりとした涼やかな感じ。

 

 汗をかいているのに気持ちいいなんて。

 

 これなら確かに血行が良くなりそう。

 蛍は額を軽くタオルで拭きながら感心するように小さく笑った。

 

 ……

 ……

 ……

 

「ふぅん、オオモト様とちゃんとお話したんだ。でも変な事も言われたみたいだね」

 

「ごめんね。黙っておくこと必要なんかなかったんだと思ったんだけど。燐を困惑させちゃうのかなって思って。でも、うん。ちょっと意外だったかも」

 

 そう言った具体的なアドバイスなんかするような人ではなかったような気がしていたから。

 

 足湯に浸かりながら大体の事を蛍は燐に話した。

 

 流石に全部というわけではないけど、それでも会話の内容なんかは事細かに話していた。

 蛍が恥ずかしいと思う部分については、やっぱりちょっとぼかしていたけど。

 

「でもさ、何でオオモト様と話したことを言ってくれなかったの? 別に嘘吐くようなことでもなかったわけじゃない」

 

 ちょっと拗ねたように燐が口を尖らせて言った。

 

「それは、ごめん。だって燐は夏休み最後のお出かけだったわけでしょ。余計な心配をさせたくないなって思って」

 

「本当にそれだけ~? 何か他にあるんじゃないのぉ」

 

「えっ、それだけ、だよ」

 

「ふーん」

 

 ニヤニヤしながら顔を覗き込む燐に、蛍は顔を赤くして耐えるしかなかった。

 

「ま、いいけどね」

 

 そう言って燐はぱっと顔を放す。

 

「燐。許してくれるの?」

 

「許すも何も。別に怒ってるとかそう言うのじゃないしね」

 

「でも、わたし……」

 

「それぐらい嘘って程じゃないでしょ。っていうか安心した。わたしてっきり蛍ちゃんが新幹線に酔っちゃったことが嘘かと思った」

 

 燐は安堵の溜息をついたのだが。

 蛍は驚いたよう表情で燐のことを見つめ返していた。

 

「燐、やっぱり気付いてたの? わたし結構頑張った方なんだけど」

 

「えっ、頑張ったって……アレって嘘なのぉ!?」

 

 あれが演技だったのなら蛍はそうとうな演技力の持ち主と言うことになる。

 

 燐はゆくゆくは蛍は女優にでもなるのではないかと想像した。

 可愛いしスタイルもすごくいいしと申し分ない。

 

 ちょっと引っ込み思案なところはあるけど、そういうのは後で改善されることもあるし。

 

(蛍ちゃん、女優かぁ。意外と合ってるのかもね)

 

 と燐が勝手に蛍の将来を妄想していたのだったが。

 

「あれって半分だけ嘘なの。初めは嘘吐いて燐にそう言ったんだけど、本当に気持ち悪くなっちゃって」

 

「……」

 

 恥ずかしそうに言う蛍に燐は絶句して暫く固まっていた。

 

 ……

 ……

 

「ねぇ、燐」

 

 蛍は微笑んでいる燐の手をそっと握る。

 

「わたし、まだ嘘ついていることがあるの。聞いてもらえる、かな」

 

「もう。ずるいなあ蛍ちゃんは。そんな頼み方されたらわたし絶対に断れないよ。でも、今度こそちゃんとした嘘の話にしてね」

 

「うん。がんばるよ」

 

 何だか変な会話をしていた。

 

 けれど蛍が縋りつくように手を握ってきたから燐も手を握り返す。

 

 立ち上る湯気だけじゃない、少し汗ばんだお互いの指が優しく絡みついた。

 何かに吸い寄せられるように。

 

「ありがと、燐」

 

「どう致しまして」

 

 ぺこりとお互いに小さくお辞儀を返す。

 傍から見ると不思議な光景だが、二人にはそれが心地よかった。

 

 お互いのことを良く分かっているから。

 

「それで今度はどんな嘘をついていたの? もしかしてオオモト様と、エッチは話をしてたとかぁ」

 

 燐はにひひと可愛らしい顔に似合わない笑みを作った。

 蛍はそれに首をぶんぶんと振って否定する。

 

「流石にそれはないよ~。オオモト様がそんな人じゃないことは燐も良く知ってるでしょ」

 

「それはまあ……そう、だね」

 

(うん?)

 

 燐のニュアンスが少しおかしかったことに蛍は内心首を傾げた。

 

 けれど些細な疑問だったので特に言及はしなかった。

 燐がいつもの顔で話を振ってきたから。

 

「じゃあ、どんな嘘のお話をしたの。わたし聞きたいなー」

 

「人聞きの悪い言い方しないでよ。あ、でも嘘っていうか、嘘じゃないっていうか……」

 

 蛍は自問自答をしながら表情を複雑にかえていた。

 

 その様子が子供みたいにみえて、燐はくすくすと笑う。

 

 我に返ったように気づいた蛍は恥ずかしそうに姿勢を正すと、本当に少し前の夜のことに意識を戻す。

 

 母親なのか、そうではないのかまだよく分からないあの人との偶然の逢瀬へと。

 

(それにしても……何で、分かったんだろう)

 

 一緒にいる燐どころか自分でもよく分かっていないことだったのに。

 

 ────

 ───

 ──

 

「──自分でも分かっていたんでしょう?」

 

「それって、何のことなんですか」

 

 蛍はオオモト様に質問を投げたのだったが、返ってきた答えはこれだった。

 

 燐と自分はこれからどうした方がいいのかと、その道筋を訊ねようとしただけだったのに。

 

 質問に質問を返されたことで、蛍は一瞬思考停止に陥ったのだったが、立ち直った蛍がそう聞き返すと、オオモト様は口を閉めて蛍をじっと見つめた。

 

 黒い瞳が見透かすように蛍を捉える。

 

(なんだか、裸にされた気分……)

 

 ただ、見つめられているだけなのに。

 

 すごく恥ずかしい気持ちになる。

 それは見られていることへの気恥ずかしさとは違うもの。

 

 心の奥底に大切にとっておいた大事なものを見透かされているような息苦しさを蛍に覚えださせるものだった。

 

「ねぇ、蛍」

 

「はっ、はい!!」

 

 優しい声で自分の名を呼ばれたことに、蛍はつい大きな声で返事をしてしまった。

 

 急に答えを指名された生徒みたいに慌てながら。

 

「あなたはまだ”普通の人間”には、なってはいない。どちらかというとまだ座敷童の方が近いままよ」

 

「えっ!?」

 

 蛍は自分の耳を疑った。

 ハンマーで頭を殴られたみたいな衝撃が蛍の脳裏を走る。

 

 ここまでの衝撃を受けたのは二度目だった。

 

 一回目は自分が座敷童であると告げられた時。

 

 その時だって目の前が真っ暗になるような強いショックを感じたものだけど。

 

(しかもそれをまたオオモト様に言われるだなんて)

 

 座敷童の件も今回も事も()()()()()()()()、蛍は二重の意味でショックを受けた。

 

 ただ、心のどこかではもしかするとそうではないかと思っていたから、そこまでの動揺は感じなかったけど。

 

 でも愕然としてしまった。

 

 自分から燐にそうだと言ってしまったことだし。

 

 それに、オオモト様の言う様にまだ普通の女の子に何てなっていないのなら、それは燐に嘘をついていたことになる。

 

 意図せずにして罪悪感を伴うこととなった。

 

(だったら、あの身体の内側から響いたような音は一体……?)

 

 蛍がいくら頭を捻ってもその答えには至りそうにないので、求めるようにオオモト様を見つめた。

 

 それに気づいたのか、オオモト様は小さな息をつく。

 

 少し艶めかしくみえるその行為に蛍はふいにドキリとさせられた。

 

「そうね。()()は恐らくその段階が進んでいるという類のものなんだと思うわ。普通の人間には確かに近づいているの。見た目には分からないでしょうけど」

 

「そう、ですか……」

 

 蛍は落胆した表情のまま、力なく頷き返した。

 

 何というか自分が情けなかった。

 

 普通の女の子になったと喜んでいた自分と、燐をぬか喜びさせてしまったこと。

 

 そのことで一番喜んでくれたのは燐、だったから余計に辛い。

 

 もっとも、燐以外に誰にも話してないことだけど。

 

 さらに申し訳なく思うのは、二人だけのささやかなパーティーを開いたあとだったから。

 

 燐は蛍と一緒に喜んでくれて、そして泣いてもくれた。

 それなのにそれが全部嘘だったなんて。

 

(なんて燐に言えばいいんだろう)

 

 ちょっとでも自分を理解できたと思った事に憤りすら感じてしまう。

 

 なんて無知なのだろうと。

 

 幸運を呼ぶ力が薄れていくことにだって、何一つ実感が湧かなったのに、普通の女の子になったことなんて分かるはずもない。

 

 何の根拠もないことは自分でも分かっていたはずなのに。

 

 見た目に変化が起きない以上、あの奇妙な音が何かのサインだと思ったからそう勘違いしてしまったのだけれど。

 

 オオモト様の言い分だと、それでもまだその”初期段階”らしい。

 

 それだって自覚とか予兆みたいなものは一向に感じない。

 

 でも、この人がそう言うのならば、きっとそうなんだろう。

 少なくとも誰かに言われるよりかはずっと信用できる。

 

 自分よりもずっと色々と知っている人だったから。

 

 まあ、座敷童の相談何て誰に出来るものではないと思うけれど。

 

 蛍は思い悩んだ。

 

(このことは燐に話すべき、だよね? 燐だったらきっと受け止めてくれるとは思うけど……)

 

 幻滅はされるだろうと思う。

 もしかしたら絶交、何てことも。

 

 最悪の事を想像した蛍は急に恐れを感じて、たまらず目の前の黒髪の人にすがりついた。

 

「その、やっぱり燐に話した方がいいんでしょうか?」

 

 オオモト様は小さくため息をついて口を開いた。

 

「それはわたしから言うことではないわ。あなたが自分で決める事なのよ。生き方も何もかもね」

 

 やや突き放した言い方をされてしまったが、確かにその通りだと思う。

 

 これは自分と燐の問題なのだし。

 この人は関係ない。

 

 だったら、わたしの答えは……。

 

 …………

 ………

 ……

 

「蛍ちゃん、平気? さっきからぼーっとなってるよ。もしかして湯あたりしちゃった?」

 

「あ……ううん。大丈夫。ちゃんとお水も飲んでるから」

 

 いろいろと衝撃的だった夜の記憶から、ちゃぷちゃぷとした少し熱めの現実へと蛍は意識を戻した。

 

 足湯と言っても一応温泉だから、さっき飲み干したサイダーではなく普通のミネラルウォーターを飲んでいた。

 

「ん、なら、いいんだけど。足湯って結構長く入れちゃうから知らずにのぼせちゃうことって割とあるみたいだからね」

 

 そう言って燐もスポーツドリンクを一口飲む。

 

 それはやはり燐の元の父親が好きだった銘柄のものだった。

 

「何かさ、あの時以来すっかりハマっちゃってね」

 

 燐の言う”あの時”とは、あの三日間の夜の時のこと。

 

 燐と蛍はあの夜、町の中で一台だけ稼働していた自販機で飲み物を買い、語らい合っていた。

 

 燐はカフェオレを押したのに出てきたのはスポーツドリンクで、その事に燐は不思議がっていたけど。

 

「そのおかげで縁、みたいなものが出来たのかもね。燐のお父さんの間に」

 

「まあ、ぎりぎりの縁みたいなものだけどね」

 

 燐はやや呆れたように言うが、その割には嬉しそうだった。

 

 実際、月に一度はその”前のお父さん”と面会しているみたいだし。

 

「けど、お母さんに新しい、男の人がもし出来たら、そういうのも無くなっていっちゃうのかな。仕方ないことなんだろうけど」

 

 燐はぽつりとつぶやく。

 

 寂しさを含んだその言葉に突き動かされたのか、蛍はペットボトルを脇に置き、反射的に燐の手をとった。

 

「!! 蛍ちゃ……」

 

「大丈夫だよ。わたしが燐の傍にずっといるから。燐が嫌だって言うまでずっと」

 

 真剣な目を向けてそう言い切る蛍に、燐は目を見開きぽかんと口を開けていたが。

 

「あはっ! なにそれ? それって、まるで恋人同士の会話じゃん」

 

「くすっ、そうだね」

 

 蛍はそれを否定することなく、顔を赤くしたまま微笑んだ。

 

 足元の水面が日差しを受けてきらきらと反射して、その無垢な笑顔を一層引き立たせる。

 

 本当に綺麗な子だなあ。

 燐は素直にそう思った。

 

「ねぇ、燐。もしわたしがまだ沢山の嘘をついているって言ったら流石に怒るよね」

 

「んー、別にぃ」

 

「そうなの??」

 

 蛍は少し大きな声で尋ねる。

 流石に今度は嫌な顔のひとつでもされるだろうと思ってたから。

 

 燐は涼しい顔で小さく笑う。

 

「あのね、蛍ちゃん。さっきも言ったけれど、わたしだって蛍ちゃんに色々隠し事してたわけだし。そういうのってお互い様だと思ってるよ」

 

「それって、友達だから?」

 

「ん──」

 

 そう言いながら手を引いてくれている燐の横顔は意外にも楽しそうにみえた。

 背中だけでなく、片手にも重い荷物を持っているというのに。

 

「蛍ちゃんだから」

 

「えっ」

 

「それじゃあ理由にならないかなぁ。でも、別に気を使っているとかじゃないよ」

 

「だったら」

 

「好きな人に優しくするのは当然何じゃない? 特に今一番好きな人には、ね」

 

 そう言って燐は照れたように笑った。

 顔を少し赤くしていたが、きっとそれは暑さのせいだけではなかった。

 

 そんな燐を見て蛍はくすっと笑う。

 

「わたしはちょっと違うかも。好きな人にはちょっと意地悪したくなっちゃう方だなぁ」

 

「あー、何かわかるかも。蛍ちゃんって割とそーゆーとこあるよね」

 

 屈託なく笑う燐に蛍はにこっとしながらも胸の中で謝罪した。

 

(ごめんね、燐。色々わがまま言っちゃって)

 

「そういえば、燐。飛行機のチケットってキャンセルするの? 今からだと流石にキャンセル料が掛かっちゃうんじゃ……」

 

 蛍はその代金を支払うつもりだった。

 

 結果として燐を振り回してしまったわけだし、自分にできる事なんて精々このぐらいしかなかったから。

 

 けれど、燐は小さく首をふって否定する。

 

「大丈夫だよ。蛍ちゃんが責任感じる必要ないから。それにキャンセル料とかそういうのは全然かからないの」

 

「どうして?」

 

 不思議そうに問いかける蛍に燐は苦笑いを浮かべた。

 

「だって、元から予約してないんだもの。新幹線の切符は買ったけど、飛行機はその予約すらしてないんだ」

 

「飛行機の、自由席で乗るつもりだった、ってこと?」

 

 今はそう言った方法で乗れるらしいのは小耳にはさんだことはあるけど。

 

 いつも入念に計画してる燐にしては珍しく適当なんだと蛍は思ったのだが。

 

「そうじゃなくってね」

 

 燐は蛍の手を振りながらくすくすと笑う。

 まるで足湯の中でダンスをしているみたいにふわふわとさせながら。

 

 いまいち要領の得ない言葉を出す燐に蛍は苦笑いしながら、内心では胸をヤキモキとさせていた。

 

 それが分かったのか、燐はすこし姿勢を正すと真っ直ぐに蛍と向かい合う。

 

 ふたりの視線がぴったりと重なり合った。

 

「”こうなるんじゃないのかなって”思ってたの。薄々なんだけどね。だから最初から飛行機なんて乗る気なかったんだよ」

 

「それじゃあ……どうやって行くつもりだったの? 聡さんの所へ」

 

 船で行く方法だってあるけれども。

 

 けどそれだって随分と時間がかかってしまうし、それにこの時間だともう今日の便には間に合いそうにないはずだ。

 

(まさか車で行くってことはないよね? だって燐はまだ免許持ってないし)

 

 たまにこっそりと運転しているから勘違いしてしまいそうだけど。

 まだ燐は運転免許をもっていなかった。

 

 取得するつもりはあるようだけど。

 

「まあ、疑問はもっともだよね」

 

 悩む蛍に、勿体ぶった言い方をする燐の目が合う。

 

 とても綺麗な瞳。

 

 心が砕けてしまったなんて、とても思えない。

 迷いも憂いもない、そんな燐に真っ直ぐに見つめられる。

 

「うーん、蛍ちゃん、分からないのかなぁ」

 

「分からないって何を?」

 

「ほら、あの山でのこと、もう忘れちゃったのぉ」

 

「山って、あの、”ナナシ山”でのことだよね。あれが一体??」

 

「そこで何か石碑みたいなのがあったよね。そこでのことまだ覚えてる?」

 

「うん。一応覚えてはいるよ」

 

 そんなに前の話でもないし。

 けど、あまり良いことが無かったからそんなに思い出したくはないんだけど。

 

 確か、麓のあたりに白い石碑があって、そこでわたし達は……。

 

 蛍は何か思い当たるようなそうではないような、何とも煮え切らない歯がゆさのようなものを感じていた。

 

(そうだ! 確か燐はあの時──)

 

 あの時、燐にからかわれたんだった。

 

 本気かどうか試す為に。

 

「えっと、じゃあ、もしかして……わたしまた燐に、化かされた?」

 

 予想とは違った言葉を投げかけられて、燐は脱力したように肩を落とした。

 

「”化かされた”、はちょっと心外かなー。別に蛍ちゃんを騙そうとかしたつもりはないしねぇ。それに……これで”おあいこ”なんじゃないかな」

 

 燐は意味ありげに言葉を投げると、指を立てて顔を作ると上下にぱくぱくとさせた。

 

 まるでキツネがコンコンと鳴いているみたいに。

 

「ま、まさか燐って」

 

「そう、実はわたしはキツネの妖怪に助けれて、狐憑きになった……って、わたしは妖怪でも何でもないんだからねっ!!」

 

 燐は自分でそう名乗っておいて、ぷんぷんと頬を膨らませていた。

 

 燐のやり取りに、頭が全く追いつかない蛍は、しばらくきょとんとしていたが、ややあってため息をついた。

 

 そこには呆れが多く含まれていたが、別の思いもちょっとは混じってはいた。

 

 要するに、燐の旅行計画は──白紙だったというか途中までということ?

 

「ねぇ、燐。いつからなの、それ」

 

 蛍は呆れた声を出す。

 

 何というか多分、燐にまた試されたんだろうと思う。

 覚悟というか、思いの強さみたいなものを。

 

 こういうのは別に嫌いというわけじゃないけど。

 

 やっぱり理由は知りたいから。

 

「流石に最初からってことはないよ。お兄ちゃんのとこに行く気はあったんだもの」

 

「だったらどうして? それにもし、わたしが乗らなかったら、燐はどうするつもりだったの?」

 

 蛍は燐に質問をぶつける。

 自信の恥ずかしさを隠遁するかのように。

 

「そうだねぇ」

 

 ふと燐は考え込む素振りを見せる。

 けれど、すぐにぱっとした顔になった。

 

「その時は、その時……かな。実はあんまり深く考えてなかったり」

 

「そうなの? ……燐のことだからてっきり計算ずくのことだと思ってた」

 

 蛍はなぜか感嘆するような声色でそう呟く。

 行き当たりばったりなんて、それこそ自分みたいな考えなのにと。

 

「わたしはそこまで計画的でもないし、頭も良くないから。それに多分、お兄ちゃんに会ってもそんないい事はないと思う」

 

「どうして? だって燐は今でも聡さんの事、好き……なんでしょ?」

 

(あれ、わたし……なんで? もしかして、嫉妬とかしてるの?)

 

 蛍は内心でびっくりしていた。

 

 二人の中を揶揄した罪悪感、というか心苦しさで胸が痛んだから。

 

 けど、何故そんな感情が自分の中にあるのか、それが良く分からなかった。

 

「それは、どうかなぁ」

 

「そう言うのとは違う?」

 

「うーん、まあこの話は追い追いするよ。今度”ちゃんと行くことにしたとき”にでもね」

 

「……うん」

 

 ちょっと寂しそうに笑う燐に蛍は少しの違和感があったが、燐が後で話すと言ってくれた以上、その先までは追求しなかった。

 

「あ、でもぉ、ちょっと予感めいたものはあったかも。蛍ちゃんならきっと来てくれるだろうって、なんか思ってた」

 

 そう言って、燐が真っ直ぐな目を向けてきたから、蛍はほっとしたように息を吐く。

 

「そっか、なら安心したよ」

 

「ん、何が?」

 

 今度は燐が首をかしげる。

 

「だって、燐も”普通の女の子”だったってことでしょ? だから。わたしはまだ違うみたいだったけど……」

 

 蛍は不意に寂しそうな顔になった。

 

 その顔は幼い頃の蛍、一人だったころの蛍とよく似ていた。

 

 ”かごめかごめ”で一人取り残された時と同じ、感情が乏しかったころの蛍の表情とそっくりだった。

 

(わたしはこのままずっと一人なのかもしれない……燐が、みんなが普通に生きる中、わたしだけがいつまでも”座敷童”のままなんだ)

 

 そんなにこの”力”というのは特別なんだろうか。

 普通になる事さえも、普通に許されないほどに。

 

 哀しいとかいうより、心底呆れかえってしまう。

 

 座敷童の生命なんかよりも幸運を繋いでいくほうが大事だったなんて。

 

 そんな習慣に囚われていた町の人達と何も分かっていないでのうのうと暮らしていた自分に呆れかえった。

 

 けど、と思う。

 

(わたしは普通の女の子になったら何をしたらいいんだろう)

 

 座敷童じゃなくなったのなら、燐と違って唯一の取り柄さえもなくなるわけだし。

 

(そのことをオオモト様に聞きたかったのだけれど……)

 

 蛍は湯の中で足を軽く回す。

 

 小さな螺旋の渦は蛍の心の迷いを表しているようで、少し濁りを帯びた水面に映る少女の顔は今にも泣きだしそうに目を曇らせていた。

 

 空はこんなに晴れているのに。

 

「蛍ちゃん!!」

 

 燐が急な勢いで蛍の手をとる。

 蛍は驚いて口をぱくぱくと開けていた。

 

「ずっとわたしが傍にいるからっ」

 

「……燐」

 

「蛍ちゃんが普通の女の子になるまでわたしがずっと傍にいるっ! そしてゆくゆくは女優デビュー! そうでしょ!? 蛍ちゃん」

 

「え、女優? 燐、何のこと?」

 

 何の脈絡のない言葉に蛍は目をぱちくりとさせた。

 

「わたしは蛍ちゃんの演技力高くかってるからね。だから初めはどこかの劇団に所属するか……あ、養成所なんかもいいかもね。変な所じゃないかわたしがちゃんとチェックするから」

 

 燐は何の話をしているんだろう、と蛍は訝しく思ったが、燐があまりに必死だったのでつい可笑しくなってしまった。

 

「あははっ、何それ、燐、変なの。それじゃあまるで……」

 

 蛍は片手で軽く目元を擦ると、あははと楽しそうに笑った。

 

「わたし、ずっと一緒だよ。それに、蛍ちゃんを大好きって気持ちは永遠に変わらないから」

 

(永遠だなんて……燐、そんな簡単に口にしてもいいの……?)

 

 突き抜けるように青い空。

 沸き立つほど白くそびえる雲。

 

 足元には暖かい水が揺れていて、そこに素足をいれて楽しんでる。

 

 夏の終わり際なのに、もっとも夏らしい午後のひと時。

 

 あの日とそれほど遜色のない情景だけど。

 やっぱりどこか違う。

 

 同じ日はもう二度とこないから。

 

 だからわたしは。

 

「うん。いつまでも、永遠にね」

 

 いつまでも色褪せることのない約束を口にした。

 

 ずっと大好きな人の前で。

 

 想いは、情報は、ずっと残るものだって。

 

 あなたが言ってくれたこと。

 それを信じているから。

 

 永遠に。

 

 ──

 ──

 ──

 

「燐。あともう一つ、とっても大事な話があるんだけど……」

 

「んー? なーにー、蛍ちゃん~。蛍ちゃんのお話なら何でもじゃんじゃん聞くよ~」

 

 大分足湯に長く浸かり過ぎた影響なのか、燐は頬を緩ませて今にも寝入りそうになっていた。

 

 それは蛍も例外ではなく、さっきから何度も生あくびをしそれをかみ殺している。

 

 ととのうどころかゆるゆるになってる。

 微睡んだ思考で蛍はそう思った。

 

 このままだと本当に寝てしまいそうになる、そう思った蛍は眠い目を擦りながらなんとか話をつづけた。

 

「とっても……大事な話があるの。その、わたし達二人に関わることで」

 

 蛍はそう言った後、少しうつむく。

 

 ちょろちょろと流れる源泉の音がどこか浮世離れした音に聞こえた。

 

「蛍ちゃん……」

 

 軽く瞼を閉じようとした燐もそれに気づいたのか、ぱっと目を見開く。

 

(蛍ちゃん。何か深刻そうな顔してる。これってもしかして)

 

「それってやっぱり、Black&White!!??」

 

「……何、それ?」

 

 歯磨き粉みたいな単語に、蛍は思いがけず目が点になってしまった。

 

「あっ、”愛の告白”って意味だよ。ほら”こく”って、(こく)だけじゃなく、(こく)でも表現できるでしょ。だからブラック。白はそのまんまね」

 

「はぁ」

 

 さっきまでのゆるさはどこに行ったのか、意味不明なことを熱心に解説する燐に、蛍はぼんやりとした声で返事を返した。

 

 ゆるいという意味合いでは変わってないのかもしれないが。

 

「ホッケー部の中で流行ってるの。卒業までに”告白(ブラック&ホワイト)されたい~”って!」

 

「そ、そうなんだ」

 

 燐は何故だか楽しそうにその事を語っていた。

 

 蛍はあははと小さく相槌を打っていたが、やや口元を引き締めて話の本題に戻った。

 

「ごめん、燐。そう言うのじゃなくて、ちょっと真面目な話なんだ。わたし達の根幹に関わることっていうか」

 

「根幹? 何だか、壮大な話になりそうだねぇ」

 

 少し眉をひそめる燐に蛍は苦笑いする。

 

「けど、まだ全然仮定の域を脱してはいないんだけどね」

 

 話の本筋を言う前から自信がないということを蛍は事前に告げた後で、再度燐に尋ねる。

 

「それでも、話してもいいかな?」

 

「それはもちろんだよ。さっき何でもお話聞くっていったしー」

 

「そうだよね。燐はいつでもわたしの話を聞いてくれるもんね」

 

「蛍ちゃんだって、わたしの話どころか、どっか行くにしてもいつも付き合ってくれるじゃない」

 

「それは当たり前だよ。わたしにとっては」

 

「わたしも、同じ。蛍ちゃんの頼みだったら何でも聞いちゃう。あ、もちろん出来る範囲でのことね」

 

「ほんと、わたし達って同じだよね」

 

 蛍と燐は顔を見合わせる。

 

 どんなに辛い出来事があっても、たとえ輪郭が消え去ったとしても。

 

 それでもこの世界でたった二人の存在だったから。

 

 概念という枠組みから外れても、またこうして一緒にいる。

 

 ”二人一緒でいる意味”。

 

 今この瞬間がこそがそうなのではないのかとお互いに、そう思った。

 

「あのさ、蛍ちゃん」

 

 改まった声で燐が訊ねる。

 蛍は何事かなと頬に手を添えて首をかしげた。

 

「とりあえず、足湯から出ない? ずっとここにいてもいいけどわたしクラゲみたいになっちゃう~」

 

 すっかり空となったペットボトルを振りながら、倒れ込むように燐は蛍に寄りかかる。

 

 むぎゅっと柔らかい感触が燐の頬に当たっていた。

 

「ちょっと、燐。みんな見てるから」

 

「えー、いいじゃん別にぃ。このまま蛍ちゃんに膝枕して欲しいなあー」

 

 蛍は顔を真っ赤にしながら抗議の声をあげるも、燐はくっつくことを止めずより身体をもたせ掛けてくる。

 

 蛍も長湯のせいで顔がふわふわになっていたのか。

 

「もう……」

 

 と小さく呟くだけで、燐を押し返すようなことはしなかった。

 

 蛍と燐は、しばらくぐだぐだと抱き合いあっていた。

 

 ……

 ……

 

「燐のせいで恥ずかしい目にあった」

 

 濡れた足をタオルで拭き取りながら蛍はまだ顔を赤くしていた。

 

「あははは、ごめんねぇ。でも蛍ちゃんもいけないんだよ」

 

「わたしが? どうして」

 

「だって、あんな真っ白でふわふわもちもちの太ももをしているんだもん。あれじゃあ誰だって触ったり撫でたりしたくなるよ~」

 

 その感触が忘れられないのか、燐は脚を拭く手を止めて虚空で手をわきわきと蠢かせた。

 

「燐、それ、普通にセクハラだから」

 

 蛍は燐の顔を見ずにやや冷たく言い放った。

 

「あれっ!?」

 

「ん? 蛍ちゃん、どうかしたの」

 

 小さく声を上げた蛍に燐が顔を覗き込む。

 

「あ。ううん、何でもない……かな」

 

「???」

 

 手をぱたぱたと振って蛍はちょっと焦ったように愛想笑いを浮かべた。

 

 燐は不思議そうな顔でまざまざと見るも、確かに何もなさそうだったので、持ってきたタオルで足を拭く行為に戻った。

 

(もしかして、これが……!?)

 

 まだ火照っている脚を黒いタイツに通したとき、蛍は確かに感じたのだ。

 

 繊維がぴたっと素肌に張り付くこの、何とも言えない高揚感みたいなものを。

 

(これが燐の言う、”プチととのう”ってこと、なの!?)

 

 未体験の心地よさに感嘆したのか、蛍は自分のふくらはぎを擦りながらひとりで楽しそうにくすくすと微笑んでいた。

 

「………」

 

 何事かと少し心配そうに燐は蛍を見つめていたが、何だか楽しそうに笑みを浮かべていたので、声を掛けずに黙ってその様子を見守っていた。

 

 良くある、勘違い(プラセポ)かもしれない。

 

 けれど蛍は、確かに身も心も整った気分になった。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 





★アニメゆるキャン△ 三期決定おめでとうございま~す!!!

何時かはやるだろうと思ってはいたのですが、映画の公開終わってすぐの早い決定だったですねー。それでも放送するのは二年後ぐらいでしょうかす。流石に来年はない……はずです。そして、どこまでアニメ化するかが楽しみですねー。
大井川鉄道沿いのキャンプは当然やるみたいですし、その後の妄想キャンプ? はやるでしょうし……例の新一年生との出会いまでですかねえ……原作のストックから言っても。
何にしても楽しみっすねぇぇぇぇー!!
そして出来ればドラマの方の三期もあるといいなぁー。まあ、こっちは流石に難しいとは思いますけどももも。

☆ヤマノススメNextSummit
遂にヤマノススメの四期も来たわけだーーーーーー!!! ヤッター!! のですが……前半新規映像で後半総集編の折衷案構成は正直もにょってしまいますーー!! TOKYO MXで再放送を見てたから余計にもにょもちょしてしまいますねえ。まあこれも4話までみたいですけどー。
5話からからは完全新規映像みたいなので、楽しみっすー。

そういえば何かエンディングが話題になっているみたいで、何でもほぼ一人の人がエンディングの絵を全部書いているらしい? それも毎回違う映像だとかだとか。3話は2NDの谷川岳エンディングだったからアレでしたけどそれ以外の話では全部違うエンディングでしたねぇ。この先も、毎回違うエンディングなんでしょうか……?? その辺りもちょっと気になるところですねぇ。
それにオープニングやたらと気合入ってましたねー。でもなんかバトルアニメみたいな謎のスピード感がありましたけどー。ヤマノススメってそういう作品だったでしょうか? でもまあ毎回楽しみに見させておりますー。


あ、最近は粉コーヒーを嗜んでおりますよー。
良くあるインスタントの方ではなく、一般的な中挽きコーヒーの方なんですよねー。何でそんなものがあるのかと言いますと……インスタントの詰め替え用と間違えたーー!? パッケージにインスタント用じゃないって書いてあるやんーーー後から気付いたのですけどね……。
で、コーヒーメーカーは持ってなかったので紙のフィルターを使って飲もうとしたのですが、ドリッパーも持ってなかったので百均の品を購入して使ってます。チャントニホンセイダヨ……。
で、流石にインスタント珈琲と比べると色々とめんどいのですが……何だか妙に美味しく感じる。しかもインスタントよりも!!
手間がかかる分、味に深みが出るとか何とか。でもこれ”アイスコーヒー用”って書いてあるんですよねー。アイスは嫌いじゃないですけど流石に今の時期は……なので普通にお湯で作ってホットで飲んでますよー。アイスでもホットでも普通に美味しいですー。この分だとその内、珈琲豆を挽くところから始めてしまいそうかも。

更に今、COMIC FUZでゆるキャン△ の作者の人が書いている”mono”がほぼ毎日更新されているのですが、その中のエピソードの一つに左手デバイス用のキーボードを自作するっていう話しがあったんですけど、それに触発されたわけではないのですが、私もPC用のキーボードを新しくしましたよーーーー!!!!まあ、キーボードが壊れただけなんですけどねー。
壊れたと言っても全然きかないわけではなく、特定のキーが反応しないと言うやつですねー。
しかし、きかなくなったキーが、”D”何ですけど……ゲームのやりすぎではないと思います。きっと、多分……確かに最近FPSに目覚めつつありますけどもーー! しかしゲームのお陰でキーが効かないことが分かったと言う謎の副次効果もーー!! ってやっぱりゲームやってるんやないかい!! まあ、やりすぎには注意ですね、はい……。
それにしても……新しいキーボードは何か新鮮でいい!! ですね。けど、まだ慣れないからか微妙に使いづらいです。ずっと使ってればその内慣れるとは思うのですけどねー。
前のは結構古いタイプのものだったから気月無かったけど、キーを押したときの感触がいいですなぁ。前のは無駄にかちゃかちゃ鳴るやつだったから、今のはすごく静か……こかこかって感じ。
そういう意味では少し重みがあるのかもしれないですねー。こかこか音は。

今回のお話は新しいキーボードをこかこか言わせながら書きました。


それではではでは。
こかこか。



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At the Airport Cafe


「ふぁ~っ、燐、凄いね」

 列車が駅に到着するなり蛍は、口を楕円形に開きながらちょっと気の抜けたような声上げた。

 けど蛍はさっきからずっとこんな調子だったので、もう燐は驚かなかった。

 少し恥ずかしいとは思っているけど。

 まるで異世界に辿り着いたみたいに、蛍の胸はずっと高鳴ったままだった。
 特に憧れていたわけじゃない、けれど。

 凄いという言葉しか蛍の口からはでてこなかった。

 小田原のお城を初めて見た時はそんなに驚かなかった蛍がここまで驚嘆するだなんて……。
 流石の燐もそこまでは思わなかった。

(まあ、箱入りのお嬢様、みたいなものだったから仕方がないんだろうけどね。色々)

 燐は小さく息を落とす。
 左手にはSサイズのピンクのスーツケースの柄が握られている。

(それにしても、まさか本当に来ちゃうなんて、ね?)

 本当に不思議だと思う。
 こんな事になるだなんて。

 小平口町の歪みに比べたら微々たるものなんだろうけれど。

「ねぇ、燐。本当にもうここって空港の中なの? モノレールから降りたばっかりだよね」

「ん、そうだよ。よく言う、”空港直結”ってやつだね」

「へぇ、楽でいいね」

 蛍は言ってる意味が良く分かってないのか小首をかしげるも、燐の説明にいたく感心したようで、驚嘆の声をあげた。

 さっきから蛍は驚きっぱなしだった。
 その度に隣で説明する燐が苦笑してしまうほど。

 そびえ立つビルディング。
 どこまでも続く町並みや道路、鉄道、そして人の群れ……。

 その全てが蛍の範疇を超えていた。

 映像や本では知っていたけど、実際に目で見て体験するのとでは桁違い。

 もし燐が一緒でなければ、都会の海に一人投げ出された異邦人だったことだろう。

 ──蛍と燐は東京にいた。

 燐はもういいからと頑なに断っているのに蛍がどうしてもと言って聞かなかったので、結局燐が折れる形となった。

 また新幹線の切符を取り直し、電車を乗り継ぎ、そして燐が行く予定だった東京の、羽田空港までやってきたのだった。

 その予定と言っても、燐の話だと所謂机上の空論だったようだが。

「蛍ちゃん。本当にお金大丈夫なの? わたし一応持ち合わせあるんだよ」

「うん、へーきなんだよ。ほら、このカードで支払ってるから」

 蛍は、一般的にあまり馴染みの無い、黒いカードをひらひらとさせた。
 それだけ見ると、確かにお嬢様みたいだった。

 由緒正しいかどうかは別として。

 まあ……本物なんだけど。

(でもやっぱり、ちょっと気になるんだよね)

 燐は眉をひそめてそう思った。

(何でもカード払いが一番危ないってよく聞くよね? やっぱり蛍ちゃんってちょっと金銭感覚が違う気がする)

 マンションの件もそうだったが、やはり蛍と燐とでは金銭感覚のずれがある。
 そう常々思っていた。

 二人で暮らすようになってからはそれは顕著に分かってしまう。
 だけれど、燐もどこか当てにしてしまう所があるから強くは言えなかったけど。

(……口座覗いたら殆ど残ってなかった。とかは流石にないよね、蛍ちゃんに限って)

 でも、普段おっとりとしてる蛍だからこそ危ないのかもしれない。

 三間坂家のお金があると言っても、無尽蔵に使えるだけの額は流石に持ってないだろうし。

(やっぱりわたしがお財布の紐を握ってあげないとっ)

「? どうしたの燐、じっと見つめて」

 少し訝しそうに見つめる燐に蛍は首を傾げて尋ねた。

「あっ、えっとぉ。そんなに珍しく見えるのかな~、って」

「うん? もしかしてわたしのこと?」

「さっきから蛍ちゃん、ずっと口開けっ放しだし」

 まるでお上りさんみたいだよ、とは流石に言えなかったけど、自覚はあるのか燐の指摘に蛍は顔を赤くして恥ずかしそうに弁解を並べた。

「あのね。東京って何でも大きくてすごく密集してるなぁって思って……わたしたちの学校の方(浜松駅前)だって大分都会の方だと思ったけど、やっぱり全然違うなぁって」

 こちらの全てを知ってるわけではないが、きっと比較すらならないと思う。
 特に人や建物の数なんかは雲泥の差だった。

「まあ、首都圏だからね。でも奥の方には村なんかも一応あるんだよ……って、あれ? でも蛍ちゃん、確か前に一人で高尾山に行ったって言ってなかったっけ? あそこも東京だよ」

「でも、あの辺りって東京ってカンジしなかったから。違う県なのかなって思ってた」

 土地勘がないとはいえ、隣県である山梨あたりとごっちゃになった……と言うことなのか。

 蛍の言いようだと上まで登っただけでもうくたくたになり、すぐに帰ってしまったようだけど。

(都心部の方にはあまり行かなかったってことかな? う~ん)

 燐はちょっと考え込むと、少し声を潜めて蛍にこういった。

「蛍ちゃん、はぐれないようにしてね。まあスマホがあるから大丈夫だとは思うけど。離れ離れになると中々会えないってこと、あるみたいだから」

「う、うん。燐とは絶対に離れないようにするよ」

 都会で迷子なんて考えただけでも身震いする。

 蛍は、燐にぴたっと寄り添うように並ぶとその手をぎゅっと握った。

「あはは、まあ、これで安心だよね」

 燐は手を握り返しながら、そっとため息をついた。

(それにしてもだよ、まさか本当に空港まで来ちゃうなんて……しかも蛍ちゃんと一緒に)

 流石にここまでは想定してなかった。

 かと言って行くつもりがなかったわけじゃない。

 けれど、一度途中下車した後にまた新幹線に乗って来るなんて。
 そんな事は全く考えたことなかった。

 思わず頭を抱えたくほどパニックになりそうになったが。

(けど、まあ……これはこれでいいのかもね)

 何でも予定通りに行けばいいという訳でもないし。
 むしろそんなちっぽけな事に拘るから大事なことを見落としてしまうんだろう。

 想いとか、願いとか。
 そう言った目に見えないもの全部。

 結果として背中を押してもらったことなんだし。

 開き直ったことで安堵が生まれたのか、燐は無性に可笑しくなり、くすくすと笑っていた。

「どうかしたの?」

 燐が隣で急に笑みを作っていたので、蛍は不思議そうな顔で問いかけた。

「んーん、何でもないよ。ただちょっと、可笑しかったってだけ」

「あ、そう……」

(かなわないなぁ、蛍ちゃんには)

 強引に押し切られたわけではないけど、でもその純粋さが何とも愛おしい。
 大胆だけど、どこか消極的な立ち振る舞いというか。

 けれど、別に嫌な感じはしなかったから、燐は蛍の意見に従ってここまでやってきたんだ。

「あ、こっちって国内線のターミナルになるんでしょ? もし燐が乗るんだったらここから搭乗することになるんだね。ねえ、燐、ちょっと近くまで行ってみようよ」

 そう言って蛍の方から燐の手を引っ張る。

 右も左も分からなそうにしていたのに、ここに来た途端、何かに触れたみたいに蛍のテンションが上がったようで、積極的に色々な所に行こうとしていた。

 もしかしたら蛍はこういった場所が好みなのかもしれない、燐はそう思った。

(言われてみれば、ちょっと似てるのかも)

 その時、燐の脳裏に浮かんだのは、あの青いドアの家の世界のことだった。

 静謐そうな雰囲気といい。
 青と白で彩られたあの不思議な世界と。

 あそこが還る場所ではないと思っているけど、何となく落ち着く場所なのは一緒だった。

 ただ、空港は飛行機の離着陸の影響で騒音が出るから、同じというが真逆な場所なのに、何故か一緒のように感じてしまうことが不思議というか奇妙ではあった。

「燐、早く行ってみようよ。空港の中ってショッピングモールみたいに色んなショップも入ってるんでしょ。せっかく来たんだから何か美味しいものとか、お土産とか買っておこうよ」

 小田原のときには結局何も残るようなものを買わなかったから気にしているんだろうか。
 いつの間にか手にしていた小さなパンフレットを片手に、蛍が急かすように手を引っ張る。

 燐は少し呆れたように小さく笑った。

「まあ確かにそうだけど。でも、わたし達、別にフライトを待ってるわけじゃないんだからね。そんなに急かさなくとも大丈夫なんだよ」

「それは分かってるよ。でもね……燐」

「何か、あるの?」

 急に蛍が声を低くして呟いたので燐はおそるおそる尋ねた。

「何っていうか……ちょっと楽しくなってきちゃって」

 自分で言って良く分かってないのか、困った顔で微笑む蛍。

「やれやれ、でも迷子にだけはならないでね」
 
 燐は愚痴をひとつこぼすと、その無垢な笑顔につられたように口元をほころばせた。

(でも蛍ちゃん、楽しそうで良かった)

 蛍から大事な話があるからと言った時は少し身構えてしまったけど。

 こういう事だったんだって。

(色々考えすぎなんだろうなぁ、お互いに)

 過去のこととかこの先のこととか。

 パンクしそうになる頭をぎりぎりの所で保っているんだろう。
 あの三日間のことは価値観どころか世界観すらも揺らがせるものだったし。

 ちゃんとした休養が必要、なのかもね。
 時間は待ってくれないけど。

 燐は蛍の手をしっかりと握り直す。

 さっきから互いの手は握られているが、あえて強く握った。

「燐がしっかりついてるから大丈夫なんでしょ? お互いが手を離したりしなければね。それに仮に迷子になったらすぐに燐のことを放送で呼び出してもらうから」

 蛍は少し意味ありげに微笑むと絡みつかせるように手を握り返した。
 
 楽しそうにくるっと一瞬振り返った後、白く磨かれたように綺麗な床をまるでスキップでも踏むかのようにたんたんとテンポよく先へと進んで行く。

 燐は一瞬呆然とした表情になるも、また小さく息をついた。

「そんな恥ずかしいこと絶対にしないでよねっ。本当にもう、わたし達子供じゃないんだから……」

 冗談じゃないと言わんばかりに燐は首を横に振ると、自然と早歩きになっている蛍の後ろをトコトコとついて行った。

 けれど怒っているような顔ではなく、むしろ顔をほころばせている。

 小さなスーツケースを後ろ手にコロコロと引きながら。

 ……
 ……
 ……




「ほら、燐。また降りてきたよ」

 

「あー、うん、そうだね」

 

 ここに来た始めは目の前を横切るたびに顔を少ししかめていた蛍だったのだが、低い音にももう慣れたのか普段と変わりない様子で燐に話しかけていた。

 

「何かさ、飛び立つよりも降りてくる方が多くない? 空港ってどこもこうなのかな」

 

「たまたまじゃないのかな。もしかすると午前の方が離陸する便の方が多いとか」

 

「そういうものなの?」

 

「良くわかんないけどね」

 

 明らかに適当に答えている燐に、蛍はちょっと困った顔をしたが、降りてくる別の飛行機を見つけると素晴らしいものでも発見したみたいに燐の方を叩いた。

 

 空港には三か所の展望デッキがあり、それぞれから滑走路を行き交う飛行機を見渡すことができた。

 

 燐と蛍はその内の真ん中のターミナルの屋上から飛行機がそれなりに行き交う様子をベンチに座り込んで眺めていた。

 

 まだ熱い夏の午後。

 

 うだるような暑さという訳ではないけれど、それでもまだ日は高く、細長の滑走路には陽炎がいくつも立ち上っていた。

 

 デッキには二人以外にも複数の人がおり、それぞれがそれなりに午後の一時を楽しんでいるようだった。

 

 滑走路からは見た目以上に距離が離れているから、耳を塞ぐような轟音ではないにしろ、結構な低い音がするので本物であることは間違いないが、それでも模型みたいな大きさの飛行機が飛び交う様子はどこか現実のものとはどこか違ってみえた。

 

 この空港自体がどこか現実から切り取られたような、そんな錯覚を思い起こさせるほどに。

 

「夏に食べるアイスってさ、何でこんなに美味しいんだろうね? まあ、冬に食べるのも悪くはなかったけど」

 

 蛍はさきほど買ったジェラートを頬張りながら暢気な感想を述べた。

 

「やっぱりさ、夏だからじゃない? もしくは、温泉の後だからかも」

 

 燐もふんわりとした言葉を返す。

 

 二人共もう、滑走路の状況をそこまで気にしてはおらず、顔を向かい合わせながら、空港のアイスショップで購入したジェラートを楽しんでいた。

 

「温泉って……あれって”足湯”だったでしょ。もうすっかり体は冷めちゃってるけど」

 

 肩まで浸かるちゃんとした温泉ならともかく、外での足湯ではそこまで温まった気はしない。

 

 夏だから汗はいっぱいかいてしまったが。

 

 燐は分かってないなぁと言ってるみたいに小さく首を振る。

 

「イヤイヤ、蛍ちゃん。足湯でも全身の血行が良くなるみたいだから、温泉に浸かるのとそれほど変わらないんだって。だからね、アイスが美味しく感じるのは足湯の副次効果みたいなものなんだって」

 

 何かの資料を見たみたいにすらすらと説明する燐に、蛍は少し圧倒されてしまったのだが。

 

「そうなんだ……まあ、美味しいのなら特に問題はないよね」

 

 ぺろりとアイスをスプーンですくいとると笑顔でそう燐に言った。 

 

「そうそう、美味しいスイーツの前でうだうだ言いっこなし、ってことね!」

 

 燐も自分のアイスをパクっと口に入れる。

 

 効能とか効果とかのどうでもいい理屈が、口の中のアイスのように頭の中から溶けてなくなった。

 

「もう、燐がそれを言っちゃうの?」

 

 子供みたいに目を輝かせる燐を見て蛍はくすりと小さく微笑んだ。

 

 遥か遠くに飛び去って行く音を聞きながら、燐と蛍はアイスを手に他愛もない会話を楽しんでいた。

 

 何だか贅沢な、時間の使い方だと蛍は思った。

 

「そういえば、燐。”ととのう”ってあの時、言ってたけど、あれってサウナの時に言うやつなんでしょ? 流石に足湯とは違うと思うな」

 

 蛍は今更な事を口にしていた。

 

「それはまあ……そう何だけどね。でもととのった感じしない? わたしまだふくらはぎがポカポカとしてるよ」

 

 燐は自分のふくらはぎを軽く触りながら、まだ足湯に浸かっているみたいに頬を紅くして笑った。

 

「わたしもまだそんな感じちょっとするよ」

 

 燐の言い分に蛍は曖昧な言葉で頷くと、柄の長い小さなスプーンでチョコミントとピスタチオのダブルを一匙掬って食べた。

 

「でも、足湯でもサウナでもどっちでもよくない? こうしてジェラート食べてると何かもうどうでもよくなっちゃう。蛍ちゃんは?」

 

「わたしも自分で言ってなんだけどどっちでもいいと思う。結局、美味しければなんでもいいのかも」

 

 そう言ってアイスをもう一口食べる。

 

 たったそれだけで蛍も燐も頬を蕩けさせていた。

 

 二人とも色々な話を咲かせてはいるが、どんな固い話であったとしてもアイスを頬張るだけで表情は緩くなるのだから。

 

 難しい議論なんか何もなかった。

 

「でもさあ、蛍ちゃんがそこまで言うならちゃんとした温泉に行かない? 帰りにさちょっと寄って行こうよ。東京でも温泉ってあるんだよ。あ、もちろんちゃんとしたサウナのある所で」

 

 燐はスマホの画面に目を通しながらマンゴー味のソフトクリームをパクリと口に入れた。

 

「確かにそうみたいだね。わたしもさっきスマホで見たよ。わたし達の県も結構温泉湧いてるけどこっちの方でも湧いてるんだね」

 

 蛍もぱくっとジェラートを頬張る。

 明らかに蛍の注文したジェラートの方が多いのだが、もう半分以下の量になっていた。

 

「行くならどこの温泉がいい? 蛍ちゃんの好きな所選んでいいよ。テーマパークみたいなところでもいいしね」

 

 その場合水着が必要になるが。

 最近はレンタルも充実してるので手ぶらでも問題ない。

 

「ねぇ、燐。もしかして泊るつもり?」

 

 蛍はスマホから目を離して燐に尋ねる。

 

「せっかくここまで来たんだしね。一泊ぐらいいいんじゃないかな? 予定は一応開けてあるしね。あ、お店の手伝いの件はわたしの方から断り入れとくから」

 

 燐はひとりでさっさと決めると、もうどこかに予約する気でいるのか、スマホを操作し始めた。

 

 蛍は慌てて口を挟む。

 

「ちょ、ちょっと燐。わたしまだ行くって言ってないから」

 

「あれ、蛍ちゃん嫌だった?」

 

「別に嫌ってわけじゃないけど」

 

 てっきり喜んでくれると思ったのだが、急に蛍に指摘されたので、燐はきょとんとした顔で訊き返した。

 

 蛍は一言呟いた後、そのまま押し黙ってしまった。

 

「どうかしたの? あっ、もし予算が足りないのだったら、って蛍ちゃんに限ってそれはないか」

 

 燐よりもお金を持っているのは間違く事実だし。

 

 それに今日だって、明らかに”必要以上”のお金をもっていたから。

 

「……ねぇ、燐」

 

 蛍が真っ直ぐにこちらを見ながら口を開く。

 

 改まった口調に燐はつい唾を呑み込んでいた。

 

「何、蛍ちゃん」

 

 その緊張感が伝わったのか、燐も真面目な声で返す。

 

「その、わたし達さ」

 

「……うん」

 

 蛍は明らかに戸惑っていた。

 

 思案するような顔をすると、そのまま俯いてしまう。

 

 喋り方を忘れたというわけではなく、むしろ言いたいことは沢山あるのに上手く言葉の作り方が分からなくて悩んでいる、そんな顔だった。

 

 燐は続きを促そうがどうか迷っていたのだが。

 

(そういえば、何か大事な話があるって言ってたけど……もしかしてコレがそうなのかな)

 

 蛍が何を言い淀んでいるのか、思い当たる節が見たらなかった燐は、つい無意識にアイスをぺろりと一口舐めていた。

 

 こういうときに手元に何かあるとどうしても弄ってしまいたくなる。

 

 自分でも嫌な癖だなぁとは思った。

 

「燐、あのね。その、わたし達……別れない?」

 

 一瞬何を言われているのか分からなかった。

 燐は反芻するように言葉を繰り返す。

 

「わかれる……ってぇ!?」

 

「…………っ」

 

 思いかげない蛍の言葉に、燐はただでさえ大きい瞳を限界近くまで見開いて思わず声をあげていた。

 

 ただ、それっきり燐が言葉を発することはなく、口を半開きにしながら彫像のように固まり続けていた。

 

 それ以上の続きはなく、燐も返す言葉が見当たらかった。

 

 しばらくの間お互い何と言葉をかけあっていいのかと探り合いの状態が続いたのだった、が。

 

 我に返ったように蛍があっ、と小さく声を出すと、おずおずとした様子で燐に囁きかけた。

 

「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて……っ」

 

 先ほどの発言を訂正するように口を紡いだ蛍だったが、やはり先の言葉の節が見当たらないのか、貝の様に口を閉ざすと、何かを探すように視線を虚空に彷徨わせていた。

 

(ちゃんと燐に言いたいのに……わたしって肝心な時に言葉が足りなくなるな)

 

 自分から言って置いて適切な言葉が浮かばないなんて。

 

 我ながら間抜けすぎる。

 本心からそう思った。

 

 本当にどうでもいい話しなんかは口からぽんぽんと溢れるほど出てくるのに。

 

 肝心なことになるとすぐに言葉が詰まってしまう。

 

 それが誤解を生んでいる。

 あの人にもそう言われたばかりなのに。

 

「……」

 

「…………」

 

 少女達の間で少しの沈黙が続いた。

 

 外気との温度差でジェラートは徐々に溶けだしていた。

 

 けれど、二人ともそれに手を付けることはせずに、時折唇を動かしてはいるが、かすれ声にすらならなかった。

 

 外の気温と同じぐらいの淀んだ空気が流れていたせいだったから。

 

 ずっと思案していた燐だったが、急にある考えに思い当たった。

 

(よくよく考えたら別れるもなにも、わたし達ってそういう関係ではないよね……多分)

 

 胸の内の動揺を抑えるように燐は何度も瞬きをしていたが、お互いに黙りこくってしまったことで心の余裕が生まれたのか、今の二人の状況を客観的に見つめ直す。

 

(わたしと蛍ちゃんは……仲のいい友達、なんだよね)

 

 確かに今は一緒に住んでるけど、そう言うのって割と良くあることみたいだし。

 

 これと言った、変な関係にはなってないと思う。

 

(”変な関係”っていう事自体が何かおかしい気もするけど……)

 

 だから、まだ──ふたりは友達(しんゆう)のままだ。

 

 そんな友達同士が分かれるということは何を意味しているのだろう。

 

 決別、もしくは別離。

 あるいは卒業とか。

 

(卒業、かぁ)

 

 まだ遠いものだと思ってたのに、こんなにも早くくるものだとは。

 

 将来のことはそこまで積極的には話し合っていないけど、卒業したら多分、お互い違う道を行くとは思っている。

 

 それがちょっと早くなっただけ。

 

 そういう事が言いたいのだろうか?

 

 いや、多分違う。

 

 根幹に関わることって言ってたから、もっと深刻なことなんだ。

 

 でも、わたしの気持ちは変わってない。

 それはずっと前から。

 

 きっとお互いに気にし過ぎただけなんだと思う。

 

 周りがからかうから、ついそんな気になってしまっただけで。

 

 本質は何も変わっていない。

 

 あの時みたいに世界が歪んで、常識も人も崩れてしまったとしても。

 

 大事なところは何一つ変わっていない。

 どこまでもそれを信じているから。

 

 きっと、ずっと。

 

 燐は大きく深呼吸をするように息を吐く。

 

 そして、微かに唇を震わせて口を開いた。

 

「ええっとぉ……つまりあれかなぁ、蛍ちゃん」

 

「えっ?」

 

 ずっと黙っていた燐に急に話しかけられて蛍が燐の方を振り向く。

 その顔はまるで打ちひしがれたみたいに酷く痛々しくみえた。

 

 その表情を見た時、一瞬胸がドキリとしたが、燐は軽く笑うととりあえず今思いついたことを舌にのせて蛍の耳朶に届けた。

 

「よーするに、わたしにお兄ちゃんのとこへ行けっていいたいんでしょ? 今からでも」

 

 熱射で溶けだしたアイスをぺろりと舐めとりながら、燐はコロっと微笑んだ。

 

 蛍は少し眉根を寄せて、憂鬱そうに口を開く。

 

「聡さんの所じゃなくてもいいの。燐には出来るだけあの町から遠ざかって欲しい。出来ればその……わたしからも」

 

 それを聞いた燐は更に胸をどきどきとさせた。

 体中から嫌な感じの汗が吹き出してくるようで、思わず頬を拭った。

 

「小平口町はまあ、分かるけど、何で蛍ちゃんまで? それに何で今になってそんな事……」

 

 燐はそこまで言って口をつぐむ。

 

 どうしてかは自分でも分かっていた。

 

 それは多分、蛍があの人(オオモト様)に会ったせいなんだろうと。

 

 蛍もそれを理解しているらしく、小さく頷いて話を続けた。

 

「だって、わたしがまだ座敷童みたいだから。わたしと一緒だと燐に迷惑がかかっちゃうよ」

 

「そんな……それこそ今更だよ。わたしは蛍ちゃんとずっと一緒にいるって言ったじゃない」

 

「………」

 

 真意を問いただそうとした燐だったのだが、蛍がまた口を引き結んでしまったので、それ以上はもう何も言えなかった。

 

 蛍は俯いて、手元のカップの中で個体が液体へゆらゆらと融けていく様子を、ただ黙って見ていた。

 

 ──

 ──

 ──

 

「ねぇ、蛍ちゃん。やっぱり気にしてるの? その、座敷童のこと」

 

 少し時間が開いた後、燐は改めて蛍に声を掛けた。

 

 また何も答えてくれないのかなと少し気を揉んだが、どうやらそれは杞憂ですんだ。

 

「……うん。どうしてもね、座敷童が実在してるってことはまたあの”歪みが起きる”可能性があるってことでしょ」

 

「まぁ、そうなっちゃうのかなあ」

 

「きっと、そうだよ」

 

 頑なな表情の蛍に、燐はくすっと微笑んだ。

 

「そうかなぁ……わたしはそうはならないと思ってるよ。だって小平口町って無くなっちゃうんでしょ」

 

 その言葉に蛍ははっとしたが、すぐに表情を曇らせて小さく唇を動かした。

 

「うん、確か再来年辺りを目処に”合併”するみたいだね。でも名前が変わったってそれで解決するとは思わないの。座敷童はまだ”この世界”にいるんだし」

 

 蛍は自分自身に指をさす。

 自虐しているかのように。

 

「そっか、そう考えてるんだね、蛍ちゃんは」

 

「うん……」

 

 町おこしの為にいろいろ画策したのだったが、結局、隣の町や村と合併することに小平口町は合意していた。

 

 幸運自体はもう殆ど無くなっていたから、ある意味当然のことなのだろうが、それにしたって早い決断であった。

 

 座敷童の概念そのものが町から消えてしまった結果がこれだった。

 

 それなりに経済は安定していたが、長期を見据えての決断であった。

 

 今あの町の座敷童を概念として理解できているのは、燐という名の少女と、蛍だけ。

 

 その蛍が座敷童として実存をまだ保っているというのならば、それはまた歪みが起きると言う証明になってしまう。

 

 その事を何より蛍自身が危惧していたから。

 

「でもさあ、座敷童ってそんなに凄い存在なのかな。実はわたし、まだよく分かってないんだ。あれだけオオモト様に説明とか受けたのにね」

 

 そう言って燐は少し風をよむような仕草で空を見上げた。

 

 薄紫色の空にうろこ状の雲が波形のようにたなびいていた。

 

「わたしだってそうだよ、燐、未だによく分かってないんだ。自分が座敷童であることもそれが終わってしまうことも……」

 

「まあ、分かれって方が難しいのかもね」

 

 うららかな午後の一時。

 

 振り返った蛍も空と同じように頬をピンク色に染めていた。

 

 一切の穢れも知らぬ、自身が人外だと知ってもそれを乗り越えられるだけの強い視線を真っ直ぐに向けて。

 

「もし、自分がいなくなった後でもそれを覚えてくれている人がいるから安心、とか思ってる?」

 

「何か、具体的な例だね、それ。わたしちょっと心当たりあるかも」

 

 蛍は燐を見ながら苦笑して返す。

 

「あはは、それってわたしのこと? でも、お互い同じことを思ってたりして」

 

 燐は右手の人差し指を頬に当てて恍けた振りをした。

 

「まあ……当たらずと雖も遠からずってところだね」

 

「もう素直じゃないなあ、蛍ちゃんは。見かけによらず意外に頑固な所あるもんね」

 

「それは燐だってそうでしょ。自分でそう言ってたぐらいなんだし」

 

「うぐっ、そうズバッと言われちゃうと……むぐぅ」

 

 燐はぐうの音も出ないようで、断末魔のような呻き声をあげた。

 

 二人は顔を見合わせて笑う。

 

 お互いの事を否定するなんてことはしない。

 

 だって二人だけだったから。

 

 この世界で二人っきり。

 周りに誰がいようとも。

 

 世界が二人ということでもなく、二人が世界というわけではない。

 

 二人にしか見えない世界の有り様が確かにある。

 

 ただそれだけの事。

 

 特別なことは何一つない。

 

 均衡こそがこの世界の有り様だというのなら。

 それに従うだけだ。

 

 壊そうだとか、何かを変えようだとか、そんなことは考えていない。

 

 お互いの存在が、実存的な形で近くに感じることが出来れば。

 

 それがきっとお互いに幸せなんだと思う。

 

 ……

 ……

 

「ねぇ、燐。ここから飛行機に乗ってさ、北海道じゃなくて、もっと遠くまで行っちゃおう? 良く知らない別の国とか……そういうとこに。ちょっと怖いけど燐と一緒ならきっと大丈夫だと思うから」

 

 蛍は複雑な顔して燐にそう言った。

 

 そこには諦めとか悲壮感といったものは微塵も感じられない。

 

 ただ純粋にそう言っているんだろうとわかる。

 

 衒いのない澄んだ瞳をしていたから。

 

「蛍ちゃん……」

 

 蛍の表情を読み取ろうとした燐だったが、それこそ意味のない行為だと気づいたので、すぐに打ち消して軽く苦笑いで答えた。

 

 言葉を選ぶこと無く、ありのままの言葉で紡いで。

 

「うん。いいよ。実はわたし、前からフランスに行ってみたいって思ってたんだ」

 

「あ、それわたしも。女の子ってヨーロッパの方になんか憧れを持っちゃうよね」

 

 蛍もそう思っているらしく顔を高揚させて何度も頷いた。

 

「うーん、やっぱりお洒落で可愛いからじゃないかな? 街並みとか雑貨とか、暮らす人の服装なんかもすっごく可愛いもんね」

 

「それと、言葉も可愛く聞こえない? わたしはフランス語好きだよ」

 

「蛍ちゃんもそう思う? 大学に進学できたらフランス語習いたいなって思ってるの」

 

「燐ならきっとすぐだよ。要領すごくいいから」

 

「それは、蛍ちゃんだって。そういえばね、英語覚えたらフランス語なんて割とすぐに習得できるみたいだよ」

 

「それじゃあ、わたしは英語から頑張らないとだね」

 

 溜息を吐く蛍に燐は苦笑いを浮かべた。

 

 呆れているわけでも、からかっているつもりもない。

 蛍の笑顔や考えかた、思考の大胆さが好きだったから。

 

 何より蛍が、大好きだったから。

 

 少しでもその悩みを軽くしてあげたかった。

 

 二人で一緒に飛ばしたあの、紙飛行機のように。

 

「それはいいけどさ、蛍ちゃん? パスポートって持ってる?」

 

 素朴な疑問を燐にぶつけられて、蛍は一瞬考えたのち、口を開く。

 

「パスポート……わたし持ってない。燐は?」

 

 意外な答えに燐は目を丸くした。

 蛍は一応お金持ちだから、てっきり持っているものかと。

 

「わたしは、持ってるよ。前にバリ島にも行った事あるし、それに確かまだ失効してないと思った」

 

 今は持ってきていないが、実家(パン屋)には置いてあると思う。

 

 父親と家族三人で海外に行くときに取得したものだった。

 

 最近は使っていないけれど。

 

「燐って、そういうとこ抜け目ないよね。わたしね、よく考えたらパスポートどころか外国にすら行ったことないの」

 

 少し寂しそうに蛍はつぶやく。

 

 そう言った知識は主にテレビや本から得ているだけで、実際にはどこにも行ってみたことはなかった。

 

 今にして思えば行かせてくれなかったのだろうと思う。

 

 知らなかった事とはいえ、座敷童だったのだから(町の住民としては)当然なんだろうけど。

 

「じゃあさ、無事に卒業できたら一緒に行こうよ、よく言う卒業旅行でさ。それまでに蛍ちゃんはパスポート取っておけばいいし」

 

 燐はくるりと表情を明るくしてそう提案する。

 けれど蛍は小さく首を横に振った。

 

「燐、ごめん。出来れば、今すぐがいいの」

 

 蛍は敢えて何とは言わなかった。

 燐もその事を追及したりせず、少し無理した明るい声で言葉を続けた。

 

「それって時間とか、そういうこと?」

 

「…………」

 

 蛍は燐から少し視線を逸らすと、小さくこくんと頷いた。

 

 我儘を言っているのは自分でも分かっているから。

 

 けど思いが、言葉が止められなかった。

 

 子供じみていると分かっていても尚、そうしたかった。

 例え嫌われたとしても。

 

(わたし、きっと怖いんだ。やっぱりまだ普通の人間じゃないから……)

 

 オオモト様に指摘されたような、分かりやすい兆候みたいなものは最初にあったきり出てはきていない。

 

 それでもやっぱり不安にはなってきている。

 

 知ってしまったから。

 知らないままであったならば、普通に笑い合うことができるのに。

 

 まだ死ぬとハッキリ決まったわけじゃない。

 だからこその怖さがあった。

 

 今、座敷童であるかどうかというよりも、単純に、生命が終わることへの恐怖を感じている。

 

 光が永遠に閉ざされること。

 そしていかなる感情も、想いも紡げないことが怖いんだ。

 

 ──分からないから怖いのだと。

 

 視界や想い。

 それらが冷たく閉ざされてしまうその事実が、こわいんだ。

 

 いつか誰にだって必ず訪れること。

 それがこんなにも心を暗く、辛くさせるなんて……!

 

 その事よりも、それに怯えてしまっている自分が嫌だった。

 

 この身を引き裂いてしまいたいぐらいに。

 

「蛍ちゃん」

 

 名を呼ばれて伏せていた目をあける。

 

「燐」

 

 そこには柔らかい笑顔を見せる友達がいた。

 

 まだ、友達でいてくれている。

 それはこのままずっと変わらない関係だと思っていた。

 

 依存とかそういった概念のない、純粋な関係なんだと。

 

「いいよ。今すぐにいっても。蛍ちゃんと一緒ならどこだって、それで蛍ちゃんの気が済むならどこへだって行くよ」

 

「燐、わたし……」

 

 蛍は肯定することも否定することも出来なかった。

 

 優しい燐の言葉に胸が──苦しくなったから。

 

 それはささくれだった鋭い痛みではなく、どこか甘ったるい。

 例えるのなら小さな羽虫に刺された時のような軽く甘い痛みが蛍の胸を刺していた。

 

 痒みがないから刺されたことにすら気付かないほどの小さな痛みの棘がちくちくと胸を刺してくる。

 

 痛みで苦しいのではなく、優しすぎて苦しいのだ。

 

「燐っ」

 

 蛍は目の前で微笑んでくれている友達の名をもう一度呼んだ。

 

 愛おしく感じる。

 とても。

 

 誰にも渡したくないほどに。

 

 そう、自分の中にもあの醜い姿のヒヒが心の奥底に棲み付いていたんだ。

 

 彼女の全てを──独占したい、と。

 

 そう欲しているもう一人の自分がいる。

 

 視線だけでなく、身も心も何もかも。

 

 だからって、彼のように憎しみを抱くようなことはない。

 

 自分ではそうしているつもりだし、過剰な期待なんかも持たないようにしている。

 

(でも、このままだと)

 

 蛍は唇を少し噛んで、無理して笑顔を作った。

 

「ごめん、燐。わたし、変なこと言っちゃったよね。その、気にしないでいいから」

 

「気にしないでいいって……そういう事じゃないんでしょ」

 

「それは……」

 

「大丈夫だよ蛍ちゃん。わたしにだってそういう感情はないわけじゃないから」

 

「燐も? そうなんだ」

 

「うん」

 

 目を赤くしたまま首を傾げる蛍に、燐は小さく頷いた。

 

「わたしだって良く分かってないよ。自分のこと。本当に何なのかなって時々思っちゃう」

 

 そして蛍の手を正面から握ると、困った顔でくすりと笑う。

 まるで自嘲しているように。

 

「それって……」

 

「うん、例えばさ」

 

 そう言って燐はくるりと身を翻す。

 手を繋いだままなので、燐の動きに合わせるように蛍もそちらの方を振り向いていた。

 

 二人のちょうど真後ろにある、ガラス張りの窓の方へ。

 燐と蛍は正面から映り込んだ自分たちの姿と目を合わせていた。

 

「こうやってガラスとか鏡に映る姿って本当の自分の姿なのかなって思っちゃうの。本当の自分はもうなくて、今、こうやって映ってる姿は過去のもう無くなった自分の姿なんじゃないのかなって」

 

「何かそう、感じちゃうことがあるんだ。やっぱりわたしも()()()()になっちゃったのかなって」

 

 寂しそうに笑う燐に、蛍は何も声をかけられなかった。

 

 適切な言葉が思いつかなかった。

 燐の気持ちが良く分かるから。

 

 先とか後とか関係なく、やっぱりあの時の出来事は二人に確実な痛み、”引っ掻き傷”をつけてしまったのだとそう思ったから。

 

 慰めとか同情などと言った感情は湧いてこない。

 それを望んでいるわけではないことも分かっていた。

 

 互いにただ認識したいだけだと。

 

 夢か現実。

 

 生か、死。

 

 そう言った概念で自分たちの存在を繋ぎとめるのではなく。

 

 ただ今をそのままの姿で受け入れているその実存を認め合いたいだけなんだと。

 

「わたしね。蛍ちゃん」

 

「……燐?」

 

 普段の燐と変わらない声だった。

 けれど何かが違う、そんな気がしたので、蛍はつい戸惑ったような声をだしていた。

 

 何かの胸騒ぎのような底知れぬ焦燥感を覚えたせいなのかもしれない。

 

「やっぱりわたし──って、えっ!?」

 

 燐が小さな唇から続きの言葉を紡ぎ出そうとしたその、ほんの少し前に、蛍の身体は自然と動き。

 

 その口は塞がれていた。

 

 突然の事だったので、燐は思わず舌を蠢かしてそれを味わってしまう。

 

 甘くて、柔らかい、けど……。

 

(ちょっと生ぬるい……)

 

 何てことはない──。

 

 それは蛍の食べかけのアイスだった。

 

 ──

 ───

 ────

 

「はぁ……」

 

 期間限定のほうじ茶味のフラペチーノを一口飲んで燐は、ほっとしたような溜息をもらしていた。

 

 その横で蛍は同じく期間限定のトールサイズのチョコと葡萄のフラペチーノを啜りながら、申し訳なさそうに眉根を下げていた。

 

「燐。ちょっとは落ち着いた?」

 

「うん……って、元はと言えば蛍ちゃんのせいでしょー。もぉー。全く、ビックリしすぎちゃってそのまま吐き出しちゃうところだったよぉ」

 

「えっ、そうだったの」

 

 蛍は少し心配そうに問いかける。

 

「でも、まあ全部呑み込んだからもう大丈夫だよ。こうやってお口直しさせてもらっちゃったしね」

 

 そう言って燐は中身が見えるカップを片手に持ち、首を傾げてウィンクをした。

 

「ごめんね」

 

「いいよ。こうして蛍ちゃんに奢ってもらったら何もかも許しちゃう。でも、蛍ちゃんにお金出してもらってばかりで何か悪いよ」

 

 お詫びのコーヒー代だけじゃなく、東京行きの追加の料金も蛍が払ってくれた。

 自分が言い出したことだからと、燐の分も一緒にカードで支払ってくれていたのだ。

 

「それぐらい安いものだよ。どうせわたしが持ってたって碌な使い方しないんだし」

 

「そんなこと言ってるとお金、全部無くなっちゃうよ~?」

 

 茶化すような燐の指摘に、蛍は小さく微笑んだ。

 

「その時はその時だから。それに……」

 

「ん?」

 

「あのお金は全部無くなった方がいいの。どうせ元々わたしのお金じゃないんだしね」

 

 少し寂しそうに笑う蛍を見て、燐は蛍の意外な一面を垣間見た気がした。

 

 ついさっき、展望デッキでとった蛍の大胆な行動も、こういった()()な面がさせていたのかもしれないと。

 

 そう、燐は思った。

 

 蛍はスプーンごと残りのアイスを燐の口に突っ込んだあと、そのまま逃げるように展望台を後にしていた。

 

 その間、燐は目をぱちくりとさせたまま、蛍の手にずるずると引きずられてきたのだった。

 

 蛍は自分から燐を引っ張っておいて特に行先がなかったので、どうしようと思案した挙句、ちょうどその時目に入ったのは、見たことのある看板が目印のコーヒーショップだった。

 

 良く知っている店が空港にもあったので、とりあえず燐と二人で入ってみたのだったが。

 

「やっぱりこのお店、こっちでも結構混んでるんだね」

 

 少し声を潜めて尋ねる。

 燐も混雑する店内を気遣うようにひそひそ声で蛍に話した。

 

「そう、みたいだね。東京だと結構どこにでもあるような感じなのにね」

 

 首都圏だと様々なコーヒーショップがあるが、やはりこの店は別格のようで、二人が店内に入って注文を受けるまである程度の時間、列に並ぶ必要があった。

 

「やっぱりそうなんだ、地元(浜松)の方だと駅前とかの都市部ぐらいしか見掛けないんだけど。やっぱりこっちは多いんだね」

 

 それでも客が多いのは人気だけではなく、単純に関東に人が多いというのことなのか。

 

 蛍は少し疲れたような溜息をついて、また中身を啜った。

 

 二人が注文したのは、スイーツそのものを飲んでいるような甘みの強いフレーバーであり、店内にいる客の大半(もっぱら女性客かカップルしかいないが)は、この甘味の強いフラペチーノを好んで頼んでいた。

 

 ステータスであり、ルーティーンでもある。

 そうすることが当たり前であるかのように。

 

「まあ、もう定番ってところはあるよね。わたし達も部活とかの待ち合わせでよく使ってるから」

 

「確かにね。燐と待ち合わせするのもこのコーヒーショップの前が多いよね。なんか目印としてちょうどいいっていうか」

 

「時間潰しにはちょうどいい場所だよね。美味しいコーヒーも飲めるし」

 

「うんうん。種類も豊富だし、内装とかロゴも可愛いもんね」

 

 蛍たち学生は駅前にあるコーヒーショップに集まる傾向があった。

 

「あ、そういえばさ……さっきはありがとう、蛍ちゃん」

 

「えっ?」

 

 てっきり燐に怒られるのかと思っていたから、蛍は拍子ぬけしたような声を出した。

 

 燐は小さく笑うと、ちょっと背を丸くして紙製のストローを口に入れた。

 

「だって、あのまま話を続けてたら変なことになりそうだったのかもって思ってさ」

 

「……? 変な事って」

 

 蛍もカップを両手に持ち、音を立てずにストローを吸い込んだ。

 

「何ていうか、周りに誤解を受けそうな話になっちゃうかもって……あ、修羅場ってわけじゃないよ。でも、蛍ちゃんに話の腰を折ってもらってよかったなって」

 

「そうなの? 変なことしちゃったから燐に嫌われたかと思った」

 

「そんなことはないよ。わたしもしょっちゅう蛍ちゃんに変なこと……もとい、からかうことがあるしね」

 

 そう言って、燐は軽く笑みを作った。

 

「もう……」

 

 燐は具体的なことは何も言わなかったけれど、何となくだが蛍は理解することが出来た。

 

 燐にだって色々思う所はあるのだろうし。

 だから今だってこうしてここにいるのだろうと。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。もう少し空港の中見て歩かない? ここだと何か少し落ち着かないっていうか……」

 

 そう言って燐は軽く周囲を見渡す。

 

 そこそこ広い店内はどこも込み合っていて、ほぼ満席の状態だった。

 

「うん、そうだね。ちょっと騒がしいかも」

 

 二人は円柱型の透明なコーヒーカップを手に立ち上がると雑然とした店内からそそくさと離れた。

 

 注文を待つ行列が店外にまで伸びていて、二人は意外な表情をしたあと、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

 

 

「……何かさ、燐とこうしてるといつもの放課後みたいだね」

 

「確かにね。前は学校帰りに買い食いしながら帰ることって結構多かったもんね」

 

「長い時間、電車で揺られるからね。燐は途中でお腹空いちゃってたでしょ」

 

「蛍ちゃんだってそーでしょー? 終点だったから特別長かったし」

 

 食いしん坊だと暗に言われたことに、燐はふてくされた声をあげた。

 

 蛍はあははと声を出して笑った。

 

「あはは、ごめん。そう言うつもりじゃなかったの。でも……うん、確かにわたしもそうだったね」

 

 蛍は一旦言葉を区切ると、少し遠くをみるような目をした。

 

 大きな窓ガラス越しに見える空は朱色に燃えていた。

 まるで燃え盛る火のように。

 

 赤々としていた。

 

「何かさ、夢みたいに思えることあるんだ。だってさ、ほんの少し前までそれが普通だと思って生活をしていたんだよ。それこそ何の疑問も持たずに」

 

 燐は蛍の横顔を見ながらくすりと笑う。

 

「それは、そうだよ。何か特別なことでもない限り、今の生活(ルーティーン)に普通は疑問を持たないんじゃないのかな」

 

「それにさ、わたしなんて、何かもう全ての歯車が狂っちゃったみたいに感じちゃって、いろいろ諦めてたぐらいなんだし」

 

 当時の事を振り返っているのか、燐は感慨深そうにんうんと頷いていた。

 

 確かにそう、全てが変わってしまった。

 

 もうどうしようもない事ばかりが続いて自暴自棄になっていたの確かだった。

 

 両親の離婚や、従兄とのすれ違い。

 友達との距離感なんかもそう。

 

 結局は些細な人間関係で悩んでたんだと思う。

 他人からみれば割とどうでもいい事なのかもしれないけど。

 

 でもあの頃はそれを解決する術がないのかと、躍起にもなっていた。

 

 盲目だったんだと思う。

 

 でも、それは今だって。

 そんなに変わってはいないのかと思う。

 

 人はそう簡単に変わらないものだし。

 

 あんな事があっても。

 

「それはわたしだってそうだよ。ただ知らなかったと言うだけで」

 

 蛍に軽く手を握られる。

 

 その暖かさから伝わる蛍の奥ゆかしさみたいな、とても大事な柔らかいものを感じて、燐はちょっと鼻の奥が痛くなった。

 

「わたしも色々絶望してたんだと思うの、変わり映えのない日常に。でも燐が一緒だったから」

 

 蛍が何気なく言った言葉から燐はある言葉を脳裏に思い浮かべた。

 

「あ、それってあれでしょ? ”絶望そのものよりも、絶望に慣れてしまっている方が悪い”とかいうやつ──」

 

「あ、うん。そういえばそんなこと、あの()()()()()が言ってたね。燐も覚えてたんだ」

 

 意外だったというように口を大きく開ける蛍。

 

「うん。何か覚えてた。確かあれって小説か何かの一節だったんだっけ?」

 

「そう、カミュの。燐はさ、あれから読んでみた?」

 

「カミュの本のこと? ううん、何かさ、読む機会がないっていうか、まだ読む気しなくって」

 

 燐は首を横に振ると、ちょっと気まずそうにカップの中身をストローで吸った。

 

「そうなの? 燐はてっきりもう読んじゃったのかなって思った」

 

「一応、手には取ってみたんだけどさ。別に1ページも開けないっていう訳じゃないんだよ。ただ、何か指が動かなくて」

 

 しょうがなさそうに笑いながら、手をわきわきと蠢かす燐。

 

 蛍は何とも困った笑みを浮かべた。

 

 燐が読まないのは何か別の理由があるのではと蛍は思っていた。

 とくに指摘はしないだけで。

 

「でもまあ、別に無理に読まなくてもいいんじゃないかな。読みたいときに読むのが一番良いと思うし、それにカミュの本だいたい読んだけど、何としても読んだ方がいい! と、までとは思わなかったよ」

 

 蛍の、明らかに気を使った言葉に燐は苦笑いする。

 

「そんなわざわざフォローとかしなくっても……でも、ありがとう蛍ちゃん。まあ、いつかは読むとは思うよ」

 

 他人事のような燐の言葉に蛍は小さく噴き出す。

 

「ふふっ、燐。もし、読めたら忌憚のない感想、聞かせてね」

 

「またもう、蛍ちゃんは涼しい顔でプレッシャーをかけるぅ。何か……是が非でも読まなきゃいけないみたいじゃない!?」

 

「あはははっ、流石の燐でもバレた?」

 

 燐と蛍は他愛もない会話を続けながら空港の中をぐるりと一周していた。

 

 二人とも疲れた様子を見せなかったが、そうこうしているうちに陽も少し傾き始め、空の高い所にある薄い雲が紫色に染まっていた。

 

「もうじき、今日も終わるね」

 

 ガラス越しに空をみながら蛍がそっと呟く。

 燐もそちらを見やった。

 

 今日一日は何の為のものだったのかと、薄紫の空を見ながら燐はぼんやりと考え込む。

 

 楽しかったけどどこか心の奥に不安を残している。

 

 黄昏時の空が、少し目に沁みる感じがした。

 

「ねぇ、燐。これからどうする?」

 

「あっ、うん……どうしようか」

 

 蛍にそう尋ねられられた燐だったが、曖昧な答えを返すだけで口ごもってしまった。

 

 ここまで来ることはある程度の予想は立てていたが、先のことまでは考えてなかった。

 

(ずっとこのままでいたいっていったら、多分……)

 

 蛍は黙って頷いてくれるだろう。

 

 それではダメな気がする。

 

 行くにせよ戻るにせよ何かちゃんとした理由がいる。

 

 そう思っていたんだけど。

 

「わたしは燐と一緒だったらどこでもいいよ」

 

「蛍ちゃん……」

 

 先に蛍にそう言われてしまったら、燐としては何らかの決断をしなければならない。

 

 もう蛍を傷つけることは絶対にしない、そう約束したから。

 それは自分自身と。

 

「できれば、今日は帰りたくないな……」

 

 ぼそっと零した蛍の言葉に燐は思わず目を大きく見開いていた。

 

「そ、それって……!? ねぇ、蛍ちゃん!」

 

 急に肩を揺さぶられて何事かと蛍は口をぽかんと開けた。

 

「あれ、ただ単に今日は帰りたくないなって思っただけだけど?」

 

「本当にそうなの? 蛍ちゃん、意味わかって言ってる?」

 

 明らかに動揺している燐に蛍は不思議そうに首を傾げた。

 

「意味って……? 何か別の意味でもあるの?」

 

「えっ! いや、まあ、そのぉ……」

 

 蛍に真顔で尋ねられて、燐は急に恥ずかしくなってしまった。

 

(とぼけてる……わけじゃないよね? 蛍ちゃんだってそこまで知らないわけないと思ったんだけど……)

 

「???」

 

 ちょっと訝し気に燐に見つめられていることに気付いた蛍は、不思議そうな顔で首を傾げていた。

 

「あはは、何でもない~。それよりさ、今日は帰りたくないならやっぱりどこかに泊って行こうね」

 

 燐は蛍の手をとってそう声をかけた。

 

 蛍の手は何だかいつもよりも暖かく感じた。

 

「あ、うん、そのさ、さっきは変なこと言って本当にごめんね。燐だって聡さんのとこに行きたかったはずなのにね」

 

 繕うような笑みを見せる燐を見て、蛍は少し困り顔で微笑み返す。

 

「だからそんなに気を遣わなくっていいんだよ。それにこっちだって、わたし達の町から結構離れてるんだから」

 

「うん、そうだね。意外と遠くまで来ちゃったんだね、わたし達」

 

「だからさ、今回はここまでで良いよね? その代わり東京で一泊しちゃおうかぁ」

 

「……そうだね。燐がそういうのなら」

 

 蛍が反対する理由はなかった。

 

 どこか遠くじゃなくとも燐が一緒ならそれでいいのだから。

 

「じゃあ燐。どこのホテルにする?」

 

 何気なく蛍が聞いたことに、また燐は動揺をした。

 

「──ホテルかぁ、って!!??」

 

 燐は今度こそ飛び上がるつもりで蛍に問いかけた。

 

「ほ、蛍ちゃん! それって本気の本気で本気なのっ!?」

 

 また燐が詰めよってきたので、蛍は思わず口元を隠して尋ねる。

 

「どうかしたの? 燐はもしかして旅館の方が良かった?」

 

(あれっ?)

 

 予想とは全く違う答えを蛍に返されて、体が急に覚める思いがした。

 

「そ、そっちの意味なのね」

 

 ちいさくぼそっと呟くと恥ずかしそうに口をつむぐ。

 

(何でだろう、さっきからわたし”意識”してるのかな。蛍ちゃんはそんな気ないみたいなのに)

 

 別にそう言った、”恋人同士が泊るホテル”に泊まる気はなんかはないけど。

 何だか妙にドキッとしてしまった。

 

 ちょっと儚げな、蛍の声色のせいなんだろうか。

 

 燐はまだよく分かっていない顔をしている蛍をちらりと横目で見た。

 

「えっと、空港の周りにもホテルってあるんでしょ? そこでもいいねって意味だったんだけど……」

 

 何だかよく分からないが燐を困惑させてしまったことは間違いない。

 蛍はそう思ったらしく、気遣うように丁寧な言葉を続けた。

 

 燐はますます恥ずかしくなり、更に顔を赤くしたのだったが、このまま黙っているのも何か嫌だったので無理やりに笑顔でこたえた。

 

「あはは、そう言う意味だったんだね。ごめんね早とちりしちゃって。空港のホテルでもいいけど、せっかくならもうちょっとにぎやかな所にしてみない、遊ぶ場所がありそうな所とか」

 

「うん、それでいいよ。あっ……」

 

「何? どうかしたの蛍ちゃん」

 

「えっと、本当に大したことじゃないんだけど……」

 

 口ごもる蛍に、燐はそっと頭に手を乗せる。

 

「それでも話してほしいな。今日はわたし、蛍ちゃんのことずいぶん振り回しちゃったから、何か希望があるなら何でも聞いちゃうよ。お財布に優しい希望だと尚、良いんだけどね」

 

 燐はまた顔を赤くして笑った。

 

 その言葉に安堵したのか、蛍は顔をあげた。

 

「燐にお金を出させるようなことじゃないよ。ただ、”地下鉄”に乗った事ないなって思っただけ」

 

「え、それ本気(マジ )っ!? 蛍ちゃんって一度も乗った事ないんだっけ」

 

「うん。地元にはないし、修学旅行とかでもあんまり使わなかったでしょ」

 

 蛍は自分の長い髪をくるくると回しながら、少し恥ずかしそうに呟いた。

 

「確かにそうだね」

 

 空港に来るときには在来線とモノレールだけだったし。

 言われてみればまだ地下鉄には乗っていなかった。

 

 それだけのスペースが地下のどこにあるのかと思う程、東京の地下鉄は入り組んでいるのに。

 

(確かに、せっかく来たんだから蛍ちゃんに色々体験させてあげないと、だね)

 

「ん、じゃあ、蛍ちゃん。”地下鉄”、初体験してみる?」

 

 燐はにこりとしながら尋ねる

 蛍はこくんと小さく頷いた。

 

「うん。ちょっとだけ怖い気はするけど燐と一緒なら大丈夫だと思うから」 

 

「ジェットコースターに乗るわけじゃないんだから」

 

「それは分かってるんだけどね」

 

 ただ電車が地下を通っているだけのことなのだが、それだって知らないと怖いものにみえるのかもしれない。

 

 車の運転を最初にしたときだってそうだったことだし。

 

(そういえば免許もいつかはとらないといけないのかぁ。でも在学中は色々面倒だし。卒業してからの方がいいよね?)

 

 母親からはいつでもいいとは言われてるけど、このまま無免許運転を続けるのは流石に問題あるだろうし。

 

 いつでも良いは、今すぐに、の意味なのかもしれない。

 

 こうやって回り道をしても時間だけはどうあがいても動いていくものだから。

 

 本当に残酷だと思う。

 

 今考える必要のない母親の顔を思い浮かべて、燐はついため息をついた。

 

「何か心配事でもあるの?」

 

 知らず知らずのうちにため息をついていたらしく、蛍が少し不安そうに顔を覗き込んでいた。

 

「あ、ごめん。そういう訳じゃないよ。えっと、それじゃあ地下鉄に乗りに行こう!」

 

 燐は慌てて笑顔を見せると、少し勢いよく蛍の手を取って歩き出す。

 

「うふふ、お手柔らかに、ね」

 

 蛍は一瞬不思議そうな顔を見せたが、すぐに元の顔で微笑むと燐と一緒に上りのプラットフォームの方へ足を向けた。

 

「そうだ。ねえ、蛍ちゃん、今晩(ディナー)は何を食べたい? こっちは店がいっぱいあるから色んなのが食べられるよ。色々ありすぎて目移りしちゃうんだよねぇ」

 

「そうなんだ……だったら」

 

 まるで地元の子みたいな燐の提案に蛍は頭の中で考えを巡らせた。

 

 これと言って好きなのは甘いスイーツなのだが、それだけだと夕ご飯にはならない。

 

(あっ、それなら)

 

 蛍は不意に脳裏に浮かびあがったものを口に出して言った。

 

「あのね、燐。わたし焼肉なんかいいかも。こっちの方って美味しいお店がいっぱいあるんでしょ」

 

「あっ、いいね。焼肉! 考えてみたら今日のわたし達って、軽めのものばかり食べてたから、夜は少しがっつりでもいいのかもね」

 

 賛成とばかりに燐は指をぱちんと弾いた。

 

「燐ならそう言ってくれると思った」

 

 いつもそう。

 わたしの他愛もない意見でも燐はちゃんと汲み取ってくれる。

 

 頭ごなしに否定することなんか絶対にしないし、もし意見が割れたときはさりげなく譲ってくれることだってある。

 

 燐は、自分で思っているよりもずっと柔軟に物事に対応できる。

 場合によっては妥協だって出来る事も知ってる。

 

 自分では気づいてないみたいだけど。

 

「あ、でもぉ、ちょーっと意外かな、蛍ちゃんが焼肉食べたいっていうの」

 

 二人暮らしになってからも数える程度しか行ったことがない。

 もっとも外食はお互いに出来るだけ控えているんだけど。

 

「えっ、そうかな? それじゃあ、燐は何が食べたいの?」

 

「あー、そうだなぁ……わたしはねぇ」

 

(有名店のカレーでもいいし、ちょっと予算は掛かるけどおしゃれなお店で豪華にフレンチとかもいいなぁ。あっ、ホテルに泊まるならその中のビュッフェでもいいかもね。う~ん、迷うなぁ……)

 

 子供みたいに目線を上にして考え込む燐を見て、蛍はくすっと苦笑いした。

 

 蛍が何に笑っているのか分からず、燐は困った顔で抗議の声を上げていた。

 

 ……

 ……

 

 大きな窓の向こうには、黒い滑走路が光の橋を伸ばしていた。

 

 どこまでも続いているみたいに見えるそれは、物語に出てくる、星を渡る列車の為の光の橋脚みたいだった。

 

 二人とも何故か気付かなかったが、きっと一目見れば見とれてしまうだろう。

 

 それぐらい綺麗だった。

 

 まるで死者を導いている光の柱のようで。

 

 

 ───

 ──

 ─

 

 

 





うー、四回目のワクチン接種したのですけど、今回も全然無事じゃなかった……。
それでもこれまでみたいに三日あれば回復するんだろうと思ったのですけど、オミクロン株のワクチンもセットになっていたせいなのでしょうか、発熱に続き下痢と嘔吐を繰り返してしまって、結局一週間はグロッキーになってましたねぇ……しかも何か今でも少し調子悪い感じが残ってまして、何かいまいち本調子に戻らないです。
何かもう、今から五回目のワクチン打つのが怖くなってしまったりたりですー。

☆ヤマノススメ、はやっと完全新規映像に──で、山岳部部長の小春の声が意外なほど違和感がないなぁ。むしろ可愛すぎるぐらいかも。
そして相変わらず先の展開が読めない……これはいいことではあるんですけど、少し不安もあったり、特に三期でのストーリー展開は結構面食らった人も多かったんだろうと思いますし、いっそのことそこまでストーリーには拘らなくてもいいかなって個人的には思ってます。
楽しく山登り出来ればそれでいいんじゃないのなって。単純すぎるのかもしれないですけど。

★艦これの新作アニメも始まりました……ですが、何かもう制作に遅れが!? 6話だか8話だかしかないアニメなのに、まだ3話の時点でもう再放送になってしまうなんて……。コロナの影響で色々ごたごたしてるんですかねぇ。

そういえば、Kohada先生はお怪我からご復活なされた──のでしょうか!? ちょっと判断が難しい……けど、もしそうでしたらお帰りなさい!! お待ちしておりましたよー。でもどうか無理をなさらないで欲しいです。アーティストやクリエイターの人は唯一無二なところがありますし、やっぱり身体を直す方を優先して欲しいです。

もちろん私も体調には十分気を付けたいとおもいます。万年冷え性なところがありますからこれからの時期は特に辛いですしねぇ……なるべく暖かくして過ごしたいと思います。

とかとか言ってる間に今年も後一ヶ月……やっぱり早いなぁ、いろいろと


それではではー。





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If only I could be a constellation.


「蛍ちゃん、もうそこのお肉食べられると思うよ」

 催促するみたいにカチカチと、金属製のトングを鳴らしながら燐が指示を出す。
 
 蛍は慌ててその肉を取り皿へと移した。

「ちょっと、ペース早くないかな? それに燐、さっきからお肉焼いてばっかりで自分で全然食べてないよ」

 実際蛍は結構食べていると自分では思っていたし、燐は焼くことに夢中なようで、一向に食べている様子をみせてはいないから。

「わたしは、どっちかって言うとお肉よりも”野菜”を食べる方だからね」

 そう言って燐は網の上で焼かれている半月上の玉ねぎをくるりとひっくり返す。

 少し焦げ付いているが、これぐらいが食べごろの様で、燐は箸に持ち替えて自分の取り皿と、蛍の皿にもよそった。

 燐のその様子に”せっかくの焼肉屋さんなのに”と、蛍は困り顔で苦笑いした。

「そういえば燐はそうだったよね。運動部なのにお肉よりもお野菜の方が好きってちょっと珍しい気がするけど」

 マンションで同居するようになって蛍が驚いたことは、普段から活発な燐が意外にも小食であり、さらに野菜や果物を好んで食べることだった。

「お肉だってちゃんと食べるよ。でも、意外って言うのは蛍ちゃんの方だよ。わたしは、ほら……あっ! このカルビももういいと思うよ。これ以上焼くと炭になっちゃうし」

 燐はトングで焼き上がった肉を掴むと向かい合わせで座る蛍の皿へと乗せた。

「今度は燐も食べて。野菜ばっかりでも何か良くない気がするし」

 栄養的にも。
 お店的にも。

「これでも結構食べてるつもりなんだけどなぁ……じゃあ一緒に食べるからちょっとだけ待ててね」

「うん」

 本当に気にしていないようで、燐はにこにこしながら網の上の食材が食べごろになるのを見守っている。

 本人が楽しんやっているとはいえ、気を使われっぱなしで燐に悪い気がした。
 世話好きなのはいいことなんだろうけど。

「はい、これは牛タンだよ、って流石に見れば分かるか。味がついてるからそのままでも大丈夫だから」

「分かった」

 蛍は厚めの牛タン肉をお箸で掬って、燐の言う通りにそのまま口の中へと放り込んだ。

 さっきからどのお肉でも美味しいが、これは噛み応えと言うか少し強めの弾力が歯に心地よかった。

 蛍の満足そうな顔を見て安心したのか、燐も程よく焼いた牛タンを緑の葉野菜でくるりと巻いて、手掴みでぱくりと頬張る。

 燐はこの肉と野菜のコンストラクトが好きだった。

「ん~っ、美味しいっ!!」

「本当にね。このお店に来て正解だったね」

 ──蛍と燐は地下鉄を利用して、都内でも有名な焼肉屋……ではなく、リーズナブルな焼肉店へと来ていた。

 蛍が奢るからと、せっかくだから高級(よさそう) な焼肉専門店に入ろうと提案されたのだったが。
 流石に燐はやんわりと拒否した。

 それで結局この店に入ることになったわけなのだが……。

「東京って焼肉食べるのにも行列ができるとか聞いたことがあるけど、ここはそうでもなかったね」

 やや偏見の入った言い方だが、人の多い繁華街の飲食店ならあながち間違いでもなかった。

 その点で言えばこのお店は穴場であり、時間帯を考えればすぐに席に座れたのはラッキーでもあった。

 だからと言って店に入りづらいとかそう言ったものはなく、行列こそはなかったものの店内には割と客が入っていた。

「まだ新しいお店だからかもね。東京で焼肉食べるなら絶対にここがいい! って決めてたの」

「そうなんだね。わたしこれぐらい落ち着いたお店の方が良かったから。ありがと燐」

 余り客がいないのも考え物だし、このぐらいが丁度いいのかも。
 そう蛍は思っていたから燐に感謝した。

 きっと自分に気を使ってこのお店にしたのだと。

「わたしは特に何もしてないけど。でも、お肉も美味しいし料金もそこそこ手ごろだし、言うこと無いよね」

「だね」

 そう言って少し顔を赤らめる燐に蛍はくすっと笑った。

 焼肉を食べると言うだけで迷路みたいな街中をうろうろと徘徊するのかなと蛍は危惧していたのだが、ネットで調べたのか燐がこの店のことを知っていたのでとりあえずと入ってみたのだった。

 よく知らない店に入るのはちょっと抵抗があったし、何より燐の紹介だったから断る理由はなかった。

「ほらほら、蛍ちゃん、もっとガンガン食べてもいいんだよ。わたしがジャンジャン焼いてあげるから」

「そんなにいっぺんには無理だよ~。っていうか燐。ちょっとお肉焼きすぎじゃない? いくら食べ放題だからって」

「折角だから色んなお肉に挑戦してみたくなっちゃって」

 その言葉に悪意の様なものは微塵も感じないから何も言い返せないけれど。

(わたし、今日一日で結構体重増えそうかも……?)

 お肉はそんなに太らないっていうけど、限度があると思うし。
 だからって残しても悪いし。

 箸を咥えたまま首を傾げている蛍。

 一方の燐は焼くことに忙しいのか、蛍の顔を一瞬ちらりと見ただけで、すぐに肉と野菜の焼け具合を注意深く見守る作業へ戻った。

「燐が早く食べてくれないとお肉固くなっちゃうよ」

 焼き待ちのお肉を眺めながら息を一つこぼした。

「え~、蛍ちゃんだってまだまだ食べられるでしょ。今日はいつもよりも食べてない気がするし」

「もう、わたしがそんな大食いじゃないのは燐も知ってるでしょ。いつもこれぐらいだよ」

 むしろちょっと多めに食べているとは思う。
 このままだと……。

「そうかなぁ……? あ、もしかして」

「な、何?」

 燐が、にひひと口角を上げて顔を覗き込んできたので、蛍は上擦った声で聞き返した。

「デザートの為に我慢してるんでしょ? スイーツは別腹、って言っても流石に食べ過ぎたらお腹に入らないもんね」

 燐の指摘に蛍はかぁっと顔を耳まで赤くする。

 どうやら図星だったらしかった。

「まあ、やっぱりメインはそっちかなって。このお店のデザート、種類も豊富みたいだし何か美味しそうだから」

 蛍は素直に白状をすると、開き直ったのか注文用のタブレットを操作して、季節のデザートの項目を指でさした。

「これのこと?」

 蛍がきらきらした瞳で見ているのは、恐らく季節限定のデザート、”メロンとスイカと桃のよくばりパフェ”のことだろう。
 
 ”おすすめ”でも一番最初に表示してあるし。
 使われている画像も大きく派手で、見ただけでも美味しそうだった。
 
 それをまだ頼んでもいないのに、蛍はにこにこしている。
 想像だけで十分楽しんでいるようで、何というか微笑ましかった。

 けど、一つ気になることがある。

「確かに美味しそうだけど、このパフェ上に生クリームが乗ってるよ。これ蛍ちゃん食べられるの?」

 燐の指摘するようにそのパフェにはこんもりと生クリームが盛られていた。

 その事に異議を唱える人は少ないとは思う。

 だが蛍はきっとそうではないだろう。
 蛍は何故か甘党なのに生クリームが苦手なのだから。

 そう思っていたのだが、蛍の口から意外な言葉が飛び出した。

「上の生クリームは燐が食べていいから」

「えっ、そこはわたしが食べるのっ?」

 何となく嫌な予感がしていたが、それを押し付けてくるだなんて。

 燐は開いた口が塞がらないようで、ポカンとした顔になっていた。

「あ、それだけじゃなくて半分は燐にあげるよ、桃とかも。燐は桃好きだったよね」
 
 確かそうだったはず。
 そう思って蛍は問いかけたのだが。

 肝心の燐はそうではないみたいで、あからさまに苦い顔をしていた。

 蛍が気まずそうな目でこちらを見ていたので、燐は頑張って笑みを返した。

「あっ、えっとねぇ、嫌いっていうわけじゃないけど、何ていうか少しトラウマになってる感じなの」

「桃のことが?」

「うん……ちょっとね……って、蛍ちゃん! お肉焦げちゃうっ」

 蛍の前の肉が黒檀みたいになりそうだったので、燐は慌てて叫ぶと急いで反対にひっくり返した。

 炭にはならなかったみたいだが、これを蛍に食べさせるのは流石に悪いので、燐は自分のお皿にそっと置いた。
 
 安堵の息を一つ吐くと、少し疲れた声で燐は続きを話した。

「だからね、最近は食べてないんだ、桃。もう一年ぐらい食べてないのかも」

「そうなんだ。燐は好き嫌いしないと思ってたんだけど」

「そんな……()()人を食いしん坊みたいに言ってぇ~」

「だったら、こっちの苺のパフェにしようか? こっちもおいしそうだよ」

 メニューの隣にあったもう一つのパフェの方に蛍は目を向ける。

 気を使われている事がありありと分かったが、燐もそれに乗った。

「確かにイチゴの方も美味しそうだね。でもね、わたしの事はいいから蛍ちゃんが食べたいのを選んでいいんだからね」

 燐は笑顔を作って蛍にそう促した。

(もう、燐ってば……)

 こんな他愛もないことで燐と言い合いなんてしたくはない。
 せっかくの楽しい時間が台無しになるなんてことは絶対にしたくはなかった。

 蛍は小さくため息をつくと、こくりと頷いた。

 そのまま備え付けのタブレットから注文をする。
 それはもちろんストロベリーのパフェの方を。

「だからもう~、そんなに気を使わなくていいんだってばぁ」

 燐は肩をすくめると複雑そうな顔をつくった。
 蛍は微笑んで返す。

「別に、燐に気を遣ったってわけじゃないよ、ただわたしが食べたい方を選んだってだけ」

「そうー、かなぁ……」

「わたしが自分で言うんだから、そうだよ」

 蛍は何の衒いもなくはっきりとした言葉で答える。

 燐は少し首を捻ったが、蛍の意志が固いことを知っているので、諦めたように深い息をついた。

「やれやれ、もうわかったよぉ。でも、だったら……わたしもちょっと貰ってもいいかなぁ? あっ、蛍ちゃんが全部食べたいなら別にいいんだけど」

「当然だよ。わたしが全部食べれるわけないじゃない。一緒に食べよう」

 蛍は自分の下腹部を両手で軽く押さえた後で、そう燐に言った。

 俯いている蛍を見て、何か察したのか燐はくすりと小さく笑う。

「確かに、今日はデザートばっかり食べてたしね。ほどほどにしておいた方がいいかもね……お互いに」

「何だか……ちょっと語弊がありそうな言い方だね」

 だが別に蛍は怒っているとかそういう訳ではなく。

 口に手を当てて、くすくすと含み笑いをした。

 ──ややあって、注文したパフェが二人のテーブルへと運ばれてくる。

 少女たちは目を輝かせてそのパフェを向かい入れた。

 だが。

「あれ? こっちにも生クリーム乗ってるね?」

「本当だ。画像ではそんなこと無かったのにね」

 二人は顔を見合わせる。

「わたしが全部食べればいいんでしょ、もう」

 蛍に言われるまでもなく、燐は先だってスプーンをパフェの白い山の上へと入れた。

 ……
 ………
 …………

「ふぅ……流石にもうお腹いっぱい」

「うん、わたしも……ご馳走様でした」

 十分に満足できる量を食べたようで、二人はほぼ同時に箸をテーブルの上の皿に置いた。

 食べたのはお肉や野菜だけじゃなく、スイーツも結局パフェだけでなくケーキも追加で注文していたのだから、少女たちのお腹がぱんぱんになってしまうのも必然だった。

 ご飯のおかわりまでついしてしまったし、明日の体重計に乗るのが怖いほどだった。

「さて、と、蛍ちゃん。このままホテルに直行って事はないでしょ?」

「うん、そうかも。今日は何だか色々合ったからすぐには寝付けそうにないもんね」

 燐も蛍もそう言っていたが二人とも寝つきは割といい方なので、強がりとも言える発言であった。

 ちょっとでも体重を落としておきたい乙女心がそうさせたのか、或いは。

 アルコールを飲んだわけでもないのにちょっと興奮しているのも理由ではあった。

 ちなみに、燐の母親である咲良にはこの件を了承してくれたから、こっちで寝泊まりする分には問題はない。

 だが、それ以外のことは自分たちの判断に任せると言ったのだから。
 
 それはつまり何をしても自由ということだった。

 ちゃんと無事に戻ってこれればの話だが。 

「ねぇ、燐、どこかこの辺りで遊べそうなところってあるの?」

 蛍はそう燐に聞いた。
 土地勘の薄い蛍なんかよりも燐の方が断然詳しいと思ったから。

(けど、何で燐はこっちの方に詳しいんだろう……出身ってわけじゃなさそうなのに)

 そこまで燐の過去に興味があるわけじゃないけれど。
 ちょっとした疑問が蛍の脳裏に浮かんだ。

「遊ぶ場所ねぇ……う~ん」

 以外にも燐はそんなに乗り気ではないのか、単純な蛍の問いかけに頭を悩ませているようだった。

「何か問題でもあるの」

 燐が困っているなら力になりたい。
 気持ちとか予算のこと何かでも。

 燐になら何でもしてあげたいから。

「そういうわけじゃないけどぉ……」

 だが、その顔は明らかに何らかの問題を抱えているときの表情だった。

「本当?」

 蛍が心配そうに問いかける。
 
「何て言うかさ」

 燐は若干言いづらそうにしながら言葉を続けた。

「やっぱり東京は面白いんだけど、ちょぉっと危ないんだよね。こういう都心部の繁華街だと特にさ」

「あ、何となくだけどそれ分かるよ。どこ行くにも人が多いから色んな人がいるし、ちょっと怖い感じの人も見かけることあるしね」

 見た目だけで判断しちゃいけないとは思ってはいるけど、やっぱり気にはしてしまう。

 特に人が多すぎるこっちでは特に。

「……うん、そうだね」

 燐はちょっと曖昧に答える。

(やっぱり視線とかちょっと、ね)

 燐は敢えて口に出さなかったが、田舎から上京してきた少女というのは都会では格好の獲物だった。

 特に蛍と燐は人目を惹くほどの容姿を持っていたから。
 地下鉄の時だけでなく、どこに行っても痛いほどの視線を感じていた。

(特に蛍ちゃんはアレだしね……)

 胸部とか臀部とか。

 幼い顔立ちとのギャップが大きかったから余計に衆目を集めてしまっていた。

 本人は全く気付いていないのが良いのか悪いのかは分からないけれど。

「燐が乗り気じゃないならやめようか。ちょっと遊びたい気持ちはあるけど危ない目にはあいたくないしね」

「うん、そうだね……じゃあもうホテルに行く? 何かさっきから眠気が来てるんだよね」

 食い気を満たしたら今度は眠気が襲ってくる。

 人は欲求には逆らえないと言うことなのか、燐は口を開けてあくびをかみ殺していた。

「ふぁ……わたしもかも」

 燐のものが感染ったのか蛍も軽くあくびをした。

 このままだと二人ともこの場で眠ってしまいそうなので、軽く伸びをする。

「ねぇ、燐。ここからだとホテルってどのぐらいなの」

「そうだねぇ、歩いて五分程度かな」

「そっか……あのね、燐」

「ん、なぁに、蛍ちゃん」

 テーブルに頬杖をつきながら蛍が微笑んでいた。

 曇りのない瞳。
 それに見つめられて燐はちょっと恥ずかしくなりぎこちない笑顔で返した。

「……ありがとう」

「えっ?」

「それが言いたかっただけなの」

 悪戯っぽく、くすくすと笑う蛍に燐は一瞬ぽかんとなった。

「何、それぇ。ここのお店のお肉が美味しかったからってこと? それなら店員さんに言えばぁ」

 そう言って燐は軽く笑う。

 確かに美味しかったし、それに比較的リーズナブルだから正直助かった。

 この後のホテル代や帰りの電車賃の等を考えると割とぎりぎりだったし。

(もうなるべく蛍ちゃんの手を煩わせたくはないから)

 蛍のお金ばかりを当てにしていたら、それこそ本当に友達の関係じゃなくなってしまうだろうし。

 それだけは絶対に避けたかったから。

「それだけじゃなくて、全部だよ。今日は本当に楽しかったって、だから燐にちゃんとお礼を言いたかったの」

「別にわたしは何もしてないけど。むしろ振り回しちゃった方かもね」

 蛍は静かに首を横に振る。

「燐と一緒にいるだけでいいんだよ、それだけで楽しくなれちゃうから。わたしってすごく単純なんだと思う」

 蛍は小さな舌をぺろっと出した。
 まるで自虐しているみたいに。

「蛍ちゃん……」

 確かに今の蛍は幸福(しあわせ)そうな顔をしていた。

 蛍の純粋で透明な言葉に共感するように、燐は蛍を真っ直ぐに見つめて言葉を返す。

「わたしの方こそ、蛍ちゃん、本当にありがとう。サプライズ多めでビックリしっぱなしだったけどすっごく楽しめたよ」

「わたしも、今日はずっと胸がどきどきしてた。今夜は良く眠れそうだよ」

 よく知らない場所での一泊だけど、この分なら多分朝までぐっすりだろう。
 何より燐と一緒の部屋なわけだし。

「ふふっ、それはわたしも。多分部屋についたら着替えもしないでベッドに倒れ込んじゃうかも」

 燐の旅行バッグには、二人分の部屋着と下着が入れてあった。

 元々こちらに泊る気はあったし、その為のホテルも前もって幾つか調べていたからそんなに混乱することはなかった。

 ただ、来る目的は燐の想定していたものとは少し違っただけで。

 蛍と一緒に東京に来れたことは、サプライズというか結果オーライと言ったところだった。

 ……
 ……

「やっぱり夜でも人が一杯だね」

「まあ、繁華街だからね、蛍ちゃん、変な人について行ったらダメだからね」

 都会の夜は二人が今現在住んでいるマンション周辺とは違った空気が流れていた。

 本当の都会というか、人も店も昼間以上の熱気に包まれている。

 ここだけ見ると違った国にいるみたいで、何となく場違いな感じを嗅ぎ取っていた。

 ──異邦人(よそもの)の二人みたいに。

 確かに燐の言う様に色とりどりの光に照らされた人々はあの時襲ってきた、顔の見えない人影みたいに見える。

 けど、普通に顔はあるし身体のいたるところに裂け目が出来ていたりなんてことは無い。

 ただ、顔を火照らせて、時折意味の分からない言葉を発している人は居るけど。

 概ね普通の人達。

 口からアルコール臭を漂わせているだけの普通の人が肩を組んだりして、ふらふらと歩いているだけのこと。

 自分がどう見えているのかを気にしない所は同じかもしれないが。

(やっぱり、こういう人達ってどこにでもいるんだ……)

 蛍は無意識に燐の手を取った。

「蛍ちゃん?」

「その……もうちょっと静かな所に行かない? 何ならもうホテルへ行ってもいいかも」

 蛍は寒気を覚えたみたいに小さな唇を震わせて、か細くそう言った。

「あー、そういうことね。確かに、ちょっと酔っぱらいっぽいのが出て来てるみたいだしね。まだそんな時間でもないんだけどなぁ」

 眉を寄せて手を握る蛍を見て、燐は察したように軽い言葉をこぼした。

「うん……わたしそういうのちょっと苦手」

「わたしもだよ、それは。じゃあ、食後の運動も兼ねて夜の散歩でもしようか?」

「そうだね」

 燐の提案に蛍は大きく頷くと、自分から燐を引っ張って行こうとする。

 けれど。

「蛍ちゃん何処行く気なの?」

 きょとんとした声の燐。

 何処と尋ねられて、蛍は困った顔をした。

「その、公園とか緑のある静かな所の方がいいのかなって」

 別にそういった自然と戯れたいわけではないが、今のこの場所よりかはちょっとは落ち着く気がしたのだ。

 都会の公園だから変な動物とかいるはずもないし。
 変な人は居るかもしれないけど……。

「なるほどね」

 苦し紛れな感じの言葉だったが、燐は意外にも納得したようで関心したように頷いている。

「だったら、あそこに行ってみない? 今ならだいぶ静かになってるとは思うよ」

「燐、あそこって?」

「行けばきっと分かるよ。ここからそんなに遠くないからついてきて」

 ぐいっと手を引っ張られる。

 そんなに強い力ではないが、ちょっと強引に燐に誘われるのは全然嫌いじゃない、むしろ好きな方だったから。

「うんっ」

 蛍は何の疑いもなく返事をし、燐の後へとついて行く。

 見知らぬ土地のどこに連れていかれるのやらと少し不安な気持ちと、ワクワク感が交差していた。
 
 昼間ならまだいいけど、都会でも夜はちょっとまだ苦手だった。

 あの日を境に夜だけでなく、暗闇にも怖く感じるようになったから。

 燐が一緒だから多分大丈夫だとは思うけど。

 蛍は燐の背中を追いながら、ふと考える。
 
(燐はわたしの為に走り回ってくれるよね、いつも)

 そのまま追いついてその小さな身体を後ろから抱きしめたい衝動に駆られたが、それを頭から打ち消すと、二人の手が離れないように懸命に足を動かした。

(やっぱり、ちょっと食べ過ぎだったかも)

 少し足が重い事に違和感を覚えながら、燐と蛍は赤ら顔の人の群れを躱して夜の街を駆け抜けていった。

 ……
 ……
 ……




 

 近くで一目見た時、蛍にはそれが夜空に浮かぶビーズの様にも見えた。

 もしくは、定規を貼り合わせた鉄の幹のようにも。

 

 もちろん実際には、ただ大きな鉄塔が赤と白に発光しているだけだった。

 

 鉄塔と言っても一般的なものとは比較にならないほどの高さがあり、ここからだとその先端が見えない程だった。

 

「……」

 

 二人はしばらく呆然とその巨大な鉄塔を真下から振り仰いでいた。

 

 ──燐に手を引かれてやってきたのは、ビルとビルの狭間に立つ建造物の前だった。

 

 空の隙間からちらちらと見え隠れしていたから、もしかしてと思ったけれど。

 

 近くまで来るとそれがよく分かるようになり、その全体がLEDの光で覆われていた。

 

 光の集合体の有り様は、あの息の出来る水中で遭遇した色とりどりの光の粒の大群とどこか酷似していた。

 

 これよりも高いビルが立ち並ぶようになっても、それでもこの街のシンボルとして相応しい存在感を確かに放っていた。

 

「蛍ちゃん、見るのって初めて?」

 

「うん、テレビとかでは見たことあるけど」

 

「だよね、有名だもんね」

 

 恐らく日本で一番有名な建造物だろう。

 もう60年以上前の物なのにその存在感は今でも十分健在だった。

 

「それにしても、こんなに近くにあったんだね」

 

 ホテルに行く前に燐が寄ろうと言ったのはこれか。

 

 蛍はぼんやりと光を放つそれを凝視した。

 

 少し不思議な感情が一瞬頭をよぎった。

 

「おっきいね。”東京タワー”」

 

 蛍は嘆息したように呟く。

 

「間近で見ると随分迫力あるよね。周りのビルの方が高くなっちゃったけどそれでも大きいよねー。あ、もしかして”スカイツリー”の方が見てみたかった? 確か、ここからでも見えなくは無いはずなんだけど……」

 

 そう言った燐はちょこんと爪先立ちをして、見回すように手を眉毛の上へとかざす。

 

 そちらの方向に見えるのだろうが、周りはビルに囲まれている上に今は夜だから到底みえるはずもない。

 

 向こうもライトアップされているはずだが、周りのビルも煌びやかあったためどの光がそうなのか判別がつかなかった。

 

「別にこっちでも大丈夫だよ。それに東京タワーってわたし結構好きだよ。ちょっと可愛いし」

 

 蛍がにこりとした笑顔を向けてくれたので、燐は安堵した笑みを返した。

 

「う~ん、可愛いと言えば可愛い……のかな、色合いとか? まあライトアップされてるから綺麗なのは確かだけどね」

 

(でも、これってライトアップだけのせいなのかな)

 

 こっちでは全然星が見つからないからちょっと不思議に思ってたけど、その理由がようやく分かった。

 

 都会の真ん中に山のようにそびえ立つ、眩い光のモニュメントがそびえ立っているのだから。

 

 夜空の光が届かないのも無理ないこと、なんだろう。

 

 星も陰るほどの赤々とした粒子の集まり。

 

 それが二人の眼前にそそり立っていたのだから。

 

「ほら、わたし達って”地下鉄”使ってきたでしょ? だから、蛍ちゃんに見せたかったんだ」

 

「確かに、景色とか全然見えなかったもんね、ずっとトンネルの中にいるのと殆ど変わらなかった」

 

 蛍は素直な意見を口にする。

 

 穴倉みたいなホームで電車を待つ間は確かにドキドキしていたけど、列車の中はそこまで変わってはいないし、外の景色は真っ暗で実際長いトンネルに入っているのと同じ感覚だった。

 

「だって地下鉄なんだしそんなもんだよ。直ぐの所で駅があるから移動には便利なんだけどね」

 

 バス並みにね、と燐は補足をつけ足して言った。

 

「駅に着いたと思ったらもう次の駅とかになるんだもんね。燐の言うみたいにバス代わりに使われているんだね」

 

 場所によっては500メートルも離れていないかもしれない。

 そんな短い区間に駅があるなんて。

 

「うんうん、モノレールなんかもそうだもんね。こういうのってわたし達の使うローカル線なんかじゃ考えられないことだよねぇ」

 

「駅と駅の間隔が凄く長いもんね」

 

 そう言って苦笑いする蛍に、燐も同意するように頷いた。

 

 

「……なんかさ」

 

「うん?」

 

「東京タワーって、ちょっとだけあの風車に似てる気がする。あ、もちろん形とか高さとかは全然違うんだけど」

 

 蛍は風船のようなふわっとした声色で空に言葉を浮かべる。

 

 明らかに全く違うものだが、きっと伝わるだろう。

 そう願いをかけて、そっと宙につぶやいた。

 

「蛍ちゃんの言いたい事、何となくだけど分かるよ。雰囲気っていうか……どっちともシンボルだもんね」

 

 燐は懐かしむような瞳で巨大な鉄塔を上から下まで眺めた。

 

 建造物的な類似ではなく、抽象的な相違と言ったらよいのか。

 

 小平口町では、電力の為の風車ぐらいしか目を引く建造物がなかったから。

 ある意味、必然的にこの大きな電波塔と同じように見えるのだろう。

 

 とは言ってもこちらは日本で唯一のものに対して、あの風車は比較的そこまで珍しいものではないし、それに。

 

(東京タワーは観光施設になってるけど、あの風車は別に)

 

 ただの発電用の装置でしかない。

 

 高さとか規模は関係なしにまったく比較にならないのだ。

 小平口町のあの風車とは。

 

 ひとりぼっちで立っているという点だけで見れば同じかもしれないが。

 

(それにしても、白い風車……ね)

 

 あれからどれぐらいの時間が流れたんだろう。

 

 日々が早すぎてあの日の記憶すら薄れそうになってしまう。

 

 それはいいことなんだと思う。

 嫌だった出来事をいつまでも覚えていたって、きっと何も生まないから。

 

(そうだよね……お兄ちゃん……ごめんね、また会いに行かなくて)

 

 燐は衝動的駆られたように蛍の手を握る。

 

 蛍は一瞬こちらを振り向いたが、すぐにぎゅっと握り返した。

 

 二人は手を手を取り合ったまま、電飾で彩られた鉄塔を言葉なく眺めた。まあ、カップルだらけかもしれないけど」

 

 茶化すように燐が問いかける。

 それを受けて蛍はちょっと考えたが。

 

「ううん、ここでいいよ。カップルだらけなら尚更だし」

 

 小さく首を横に振った。

 

「まあ、そうだよねぇ」

 

 そう言うのが分かっていたみたいに燐は小さく笑うと、また視線を上へと向けた。

 

「実はね、わたしもそう思ってたんだ。別に上まで行かなくてもいいかなって……あ、でも、お金が勿体ないとかそういうんじゃないんだよっ」

 

 そう言った燐の横顔を見ながら蛍は口元を緩める。

 

 燐と同じ考えだったことがちょっと嬉しかった。

 

「分かってるよ、燐の気持ち」

 

 ライトアップされているとか、見上げたときの迫力とかそういうのではなく。

 

 今のこの景色がとてもうつくしく感じるのは多分あの時と同じ、だから。

 

 風車は風車でも、あの時見た、青と白の世界で風車が立ち並ぶ不思議な空間。

 

 その時と想いが一緒だったから。

 

(そう……こんなにも綺麗に感じるのは、きっと燐と一緒だから)

 

 好きな人と綺麗な景色を見られることが何よりも嬉しい。

 

 だから目に映るもの全てが儚くて、綺麗なんだ。

 

「あのね、蛍ちゃん」

 

「うん」

 

「わたしもね、蛍ちゃんに”ブラック&ホワイト”しなくちゃならないことがあるんだけど……いいかな?」

 

「あ、うん、別にいいけど……」

 

(燐、まだその言葉使うんだ……)

 

 ちょっと呆れそうになったがそれは胸の内にしまい、蛍はにこっと微笑んで燐に話を促した。

 

「ありがとう蛍ちゃん」

 

 燐は小さい声でお礼の言葉を述べると、少し緊張した声で話し始める。

 

 気持ちが伝播したのか、蛍も無意識に表情を硬くしていた。

 

「わたしさ、初めて言うけど、東京の大学を受けてみようかなって思ってるの。まだ受かるかなんて全然分からないけど。でも、そのつもりで頑張ってるんだ」

 

 赤と白の鉄塔を見上げながら、燐は少し早口に自分の思いを吐露した。

 

 その事を初めて聞いた蛍は、流石に固まっていた。

 

 最近の燐がよく勉強してることは知っていたけど、まさかそんな目標があったなんて。

 

 今の今まで知らなかったことだったから。

 

 燐は蛍の表情を心配そうに窺いながらも、あえて話を続けた。

 

「ごめんね、急な話しちゃって。でも今の段階だと受験する学校のボーダーぎりぎりって感じなんだ。だからまあ無理かもって思ってるところはあるんだけどね……でも」

 

 燐のその言葉に蛍にはある事を思い出した。

 

「でも、燐は受けてみたいんでしょ? 可能性は薄いかもしれないのに」

 

 ちょっとキツイ文言になっていたが、今の蛍は感情のコントロールが出来ないでいた。

 それだけ動揺してるということだった。

 

「うん」

 

 けれど燐は素直に頷いた。

 

 意思の入った言葉に蛍ははっと我に返ったのか、目を大きく見開くと耳を赤くしながら恥ずかしそうにゆっくりと口を開いた。

 

「だったら……わたしから言う事は何もないかな。燐が決めた事なんだし……あ、じゃあちょっと前に咲良さんと一緒に出かけてたのって……?」

 

 珍しく、母娘(おやこ)だけで旅行へみたいだから、流石に蛍は同行しなかったけど、今思えばそういう事だったんだ。

 

「うん……そうなの。一度受ける大学まで行ったんだ。わたしはひとりで行くって言ったのにお母さんが一緒について行くって聞かなくてさぁ」

 

 やれやれと首を振って肩をすくめる燐。

 

 母親が自分にべったりになったことに呆れというか、少し戸惑っているようにも見えるけれど……。

 

(そっか、だからなんだ)

 

 燐がやけにこっちの事に詳しいのと、その行動に一切の迷いがないこと理由は。

 

 前に知っていたからなんだ、と。

 

 それが分かった。

 

「ごめんね、蛍ちゃんに黙ってて。やっぱり……怒っちゃった、よね?」

 

 燐は気遣(きづか)わしげに蛍を見る。

 

 蛍は燐が思っているほど落ち着いているようで、燐がじっと見つめていることにきょとんとした顔をしていた。

 

 やっぱり無理しているのかもしれないと思ったのだが。

 

「ううん、ちょっとショックはあるけど……けど大丈夫だよ。それに何となくだけどこうなるじゃないかって思ってたんだ」

 

「えっ、そうなの? わたし結構顔に出やすいからなぁ……あ、もしかしてお母さんから何か聞いてたとか」

 

 ふるふると蛍は首を振る。

 

「それはないよ。ただ燐とは違う道を行くのかなって、漠然とだけどそんな予感がしていただけ。本当にそうなるとは思わなかったけど」

 

 蛍は泣き笑いのような表情になる。

 

 燐はそんな蛍の両手をとって、真っ直ぐに見つめた。

 

「そっか、じゃあわたしと同じだね。蛍ちゃんとはずっと仲良しだと思うけど、将来は別の方向に行く気がしてたの。あ、でもね、蛍ちゃん、これだけは言っておくね。とっても大事なことだから」

 

「?」

 

 まだ他にも何かあるのだろうか?

 呼び止めるような燐の言葉に蛍は小さく首を傾げてその続きを待った。

 

「もし、仮に東京の大学に通うことになっても、わたし……今のマンションから通うつもりだから!」

 

「えっ、燐、それって!?」

 

 蛍はたまらず丸く開けた口元を手で押さえた。

 

 それぐらい衝撃的なことだった。

 燐の言っていることは。

 

 理解が追い付かないというか、まだ話がよく呑み込めなかった。

 

 蛍の動揺を察したのか、燐は小さく笑うと、ちょっと訂正して話す。

 

「ごめんね、また急な話しちゃって。んとね、新幹線なら東京へ通うにしてもそんなに時間掛からないでしょ? だから定期券を使って通学するつもりなんだ」

 

「でも、それだと結構お金掛かるんじゃ」

 

「あ、それは一応大丈夫。上手くいけば奨学金も出るみたいだし、それにお母さんからも許可もらってるから。まあ……入学祝いみたいなもんだろうけどね」

 

 もちろんまだ受験すらしていないから、合格後の”ご褒美”的なものだろう。

 我儘を聞いてあげるからその代わり頑張りなさい的なものの。

 

「それにさ、東京で一人暮らしするのって結構お金かかるんだよ。家具とかも揃えないといけないし。ざっと計算してみたらむしろ定期代の方が安くあがるぐらいだし」

 

「そ、そうなんだ。わたしそういうのよくわからないから……」

 

 金銭感覚の疎い蛍には分からないことだったが、蛍と違って几帳面な燐がそう言うのだからきっと間違いないのだろう。

 

 それにしても、知らないことだったとはいえ地方との物価の差? に蛍は軽くショックを受けていた。

 

「それにさ、やっぱり女の子の一人暮らしは危ないとか今更言ってるんだよ。だからもう子供じゃないって散々言ってるのにさぁ」

 

 燐はため息と一緒に愚痴をこぼす。

 

 来年の春にはもう大学生になるんだし。

 もちろん上手くいけばの話だけど。

 

「それは仕方ないよ、やっぱり心配なんだよ燐のことが」

 

「えー、自分は散々好き勝手してるのにぃ!?」

 

 燐は口をつんと尖らせる。

 蛍はそんな燐の仕草に苦笑いした。

 

 燐の言う”好き勝手”とは離婚する時の母親の一連の行動の事だろう。

 

 一人娘をほったらかしにして、ひとりで奔走していたのだから、燐が未だに怒るのも無理ない事だった。

 

 それでもやっぱり母親は何だかんだ言って娘のことが心配なんだろうと。

 

 父や母のことを良く知らない蛍にもそれは分かった。

 

 笑う蛍を見て、燐はむーとむくれていたが。

 

「あ、ごめん、わたしの事ばっかり話しちゃって。えっと、確か蛍ちゃんって……」

 

「うん。燐はもう知ってるよね、わたしが地元の大学を選んだってことは」

 

「確か、もうAO入試(総合型選抜)したんだよね? 秋ごろには合否が分かるっていうあの」

 

 こくんと蛍は小さく頷く。

 

 AO入試は学校の成績や面接、論文などで入学できる、割と比較的新しい試験制度のことだった。

 

 本番が苦手な蛍にはうってつけと思い、試しに申し込みをしてみたのだが。

 

「結局テストは普通にあったし、わたしもそんな手ごたえみたいなのは全然感じなかったけど」

 

「そっかー、でも蛍ちゃんなら大丈夫だと思うよ」

 

「どうして?」

 

「だって綺麗で可愛いから」

 

「またそうやって」

 

 容姿は関係ないでしょ。

 

 蛍は呆れた息をついた。

 

 けど、ちょっとだけ気持ちが楽になった。

 

 だから蛍は素直にお礼を言った。

 

「ありがと、燐」

 

「でも、燐も推薦で入れてくれる学校があるんでしょ。わざわざ東京の、それも難しい試験なんか受けなくてもいいのに」

 

「あー、アレね」

 

 燐はまるで今初めて聞いたようなやや間の抜けた声を上げた。

 

「スポーツ推薦とか、わたしはそこまでのものじゃないから。ホッケー部だってそんな大した成績残せなかったしね」

 

 最後の夏の大会もそこそこの所までしかいけなかった。

 

 悔いは特にないけど、やっぱりちょっと残念ではあった。

 これでも三年間続けてきたわけだったし。

 

「でも、ちょっと勿体ない気がする。だって燐、あんなに頑張ってたのに」

 

「そう? でも大学行ってまで続けたいとは思わないなぁ。それよりも今は他の事に興味あるから」

 

「他の事って?」

 

「それはね……自分のこと」

 

「自分の……こと?」

 

 さっきから燐の言葉を反芻しているだけだとは分かっていたが、それでも蛍は聞き返した。

 

 ()()()()()()()()を持っているのは自分だけではないと。

 

 彼女にもその権利、理由がある。

 

 だから。

 

 燐の言う、”自分の事”とはやっぱり、あの事だろうと。

 

(燐だって気にしてるんだ……自分の……多分、座敷童のこと……)

 

 自分は座敷童としての一生を終えてしまうだろうが、その場合燐が入れ替わる形で座敷童になる。

 

 そう蛍は仮定をしていた。

 

 ただ、これまでの座敷童とは違う形になるだろうから、異変みたいなようなことはそうそう起きないとは思っているけど。

 

「わたしね、もっと視野を広く持ちたいの。誰にも頼らないように」

 

 燐はそこで一呼吸置くと、少し眉根を下げて小さく微笑んだ。

 

「蛍ちゃんみたいに、優しい人になりたいなって。わたし結構欲張りみたいだから」

 

「燐……」

 

 寂しそうに笑う燐に蛍はなにも言えず、ただ意味もなく口を開いた。

 

 結局、辛いだけだったのだろうか。

 

 あの夜のことも。

 おわった後のことも。

 

 不幸の後だから良いことが起きるなんて都合の良い話はやっぱりないんだ。

 

 こころは壊れなかったけど、受けた傷や()()はもう元には戻らないのだと。

 

「燐は、わたしのこと、買いかぶりすぎだよ」

 

 蛍はぼそっと一言呟いた。

 

 頬が少し赤らんでいるのは、赤のLEDに照らされているせい、だけじゃない。

 黒い瞳の奥を微かに揺らしていたから。

 

「そうかなぁ。蛍ちゃん凄いと思うよ。頭良いし、いつも優しいし」

 

「そんなことはないよ。わたし何てこれと言ってなにも持ってないんだし。燐の方がずっとずっと凄いよ。何でも出来るもん」

 

 このままだと不毛なやり取りを延々と続けそう。

 そう思った燐はちょっと強引に話の行き先を変えた。

 

「……まあ、そう言うのって自分じゃよくわからないって言うからね。わたしは蛍ちゃんの良い所いっぱい知ってるから」

 

 燐が何の衒いもなく言うので、蛍は余計に顔を赤くした。

 

「すぐそうやって、燐はわたしのことをからかうし……」

 

「別にからかってなんかないよ。あ、でもね」

 

 燐は不意に大きな目をくりっとさせた。

 

 たったそれだけで蛍の鼓動がドキッと大きく鳴った。

 

「別にそういう……何ていうか、思い詰めたようなことじゃないの。ただ、周りじゃなくて自分がどう思うかで考えたいなって……それだけなの」

 

 言っていることの意味は分かる。

 燐の思いも。

 

 でも、肝心のところ。

 もっとも大切なことがどうしても分からなかった。

 

「でもそれだと……わざわざ遠くの大学に行く理由にはならなくないかな」

 

「確かにね」 

 

 蛍がそう問いただすと、燐は少し困った顔で小さく呟いた。

 

 一息ついて燐の次の言葉を待つ。

 

 大丈夫。

 ちゃんと返してくれる。

 

 わたしの好きな人はそういう人だから。

 

「もっとさ、ちゃんと勉強しないとダメな気がしちゃって、だから自分でもちょっと無理かもってとこに挑戦してみたかったの」

 

 何かを指し示すように先のとがった電波塔を見上げながら、静かな声色で燐はそう言った。

 

「燐はあれでもまだ、勉強し足りないの? いつも頑張ってるのに。燐みたいに勉強もしながら部活も頑張るのってそうそう出来る事じゃないよ。あ、パン屋さんのバイトもそうだね」

 

 そう考えると燐は一人で何役もこなしている。

 

 蛍は燐の頑張りにいつも感心しているが、良く体が持つなぁと少し心配もしていた。

 

(心配なのは身体だけじゃないんだけどね)

 

 ホッケー部だって結局部長にまでなったわけだし、燐はなんにでも一生懸命に取り組んでいる。

 

 本当に自分とは大違いだし、そういう意味では燐はまったく変わっていない。

 

 それが良いか悪いのかは、周りが決める事じゃないとしても。

 

「そう? そんなに特別な事とは思ってないけどね。まあパン屋の方は最近はそんなにやれてないけど」

 

 燐はそう言ったが、あの”ナナシ山”での一件以来、特に予定のない休みの時は”青いドアのパン屋さん”で店を手伝っていた。

 

 それに蛍も普通について行っていたので、二人の休日はパン屋の手伝いか受験勉強のほぼ二択となっていた。

 

 だからこうして二人で一緒に出かける事自体、割と久しぶりだったのだけれど。

 

「でも、蛍ちゃんありがとう。いっつも応援してくれてたり、わたしのこと手伝ってくれたりして。蛍ちゃんがちゃんと見てくれてるからわたしはいつだって頑張れるんだよ」

 

 一緒にいなくとも視線を感じることがある。

 

 やっぱりあの時からかもしれない。

 

 悪夢のような夜の出来事が。

 燐と蛍、まだちょっとぎこちなかった少女達の気持ちをちょっとだけ近づけたのだと。

 

 ……いっしょに暮らすようになったぐらいだから、だいぶ近づいたのかもしれないが。

 

「燐が頑張れるなら良かった」

 

 蛍はそっとうなずく。

 

 それと同時に不意に目頭が熱くなった。

 

 頬が火照っていることに気付いて蛍は恥ずかしそうに俯く……のではなく、燐に視線を見られないようにと上を向いた。

 

「あ、そういえば……」

 

 その時視界に入った赤と白のツートンカラーの光を見た時、蛍の脳裏にあることが急に思い浮かび思わず声が出ていた。

 

「どうかした?」

 

「ちょっと思い出したことがあるの。前にクイズ番組か何かで見たんだと思うんだけど」

 

「うん」

 

 蛍は思い出すように一つ一つ言葉を重ねた。

 

「東京タワーって12月23日に開業したみたいなの。でも、クリスマスに近いからって赤と白にしたわけじゃないみたいなの。偶然そうなったみたいなんだって」

 

「まあ、そうだよね。いくらイブの前日に近いからってそれは流石にないよねぇ」

 

「うん。航空法に基づいて赤と白にしたんだって。黄色と黒、緑とかの組み合わせとかもあったみたいだよ」

 

「へぇ~、なら今の色合いで良かった気がするね。今でも十分目立つし」

 

 周りが灰色の建物だらけだから、余計に映えるのかもしれない。

 

 今でも景色に埋もれないのは、そういったデザイン性の高さからくるものだと。

 

 燐はそう思った。

 

「うん、それにちょっと可愛いもんね」

 

「あ、それ何か分かるー。無骨過ぎない所がいいよね、曲線的な感じとか」

 

「怪獣映画とかに出てくるとすぐに壊されちゃうイメージあるけどね」

 

「ねー」

 

 二人はくすくすと声を潜めて笑い合った。

 

「あ、でも、燐の考えでもいいと思うよ。ちょっとロマンチックな感じがして、わたし好きだなぁ」

 

 同じ景色でも考え方ひとつで違ったものに見えるみたいに。

 

 近いとか遠いとかの表面的な事象ではなく。

 

 内と外、物事の両面を認識できるかどうかの些細な違い。

 

 その、ちょっとした認識のズレが、歪みを生んでしまうんだろうと。

 

「わたしは、燐と見た景色をずっと忘れないよ。今の夏も、あの時の……不思議な夜のことだって」

 

「それはわたしも同じ。まあ、忘れようとしても忘れられない出来事だったからね。普通じゃ到底体験できないよ、あんな事は」

 

「……うん、そうだね。忘れる事なんかとてもできないよね」

 

 もうずっと遠く、ずっと長い夜の出来事。

 

 とびきりの悪意と狂気をどろどろに溶かし込んだ不条理そのものの世界の中で、意味も理由も分からないまま逃げ回っていた。

 

 夢と現実の境が壊れていた夜があったのだと。

 

 たった三日間のことがそれまで積み重ねてきた価値観や何かもをバラバラにしてしまった。

 

 他意も無為もなくあっけなく。

 

 ただその先を見守ることしか出来なかった。

 

 季節は過ぎ、新たな年が始まっても、かわらない。

 

 思いはあの夜にずっと置き去りのまま。

 ずっと夢に囚われているみたいに。

 

 現実感が未だに追いついていなかった。

 

「変わらないよね、わたし達。()()()()()()に遭ったのにさ」

 

「うん……でも、だからじゃないかな。燐と今でも一緒にいられるのは。女の子同士の同居って結構喧嘩が多いみたいだから」

 

「それは蛍ちゃんがいつも優しいから」

 

「それは燐の方だよ」

 

 悪戯っぽい目で燐が笑う。

 蛍はちょっと困り顔で笑みを返す。

 

 二人は久しぶりに顔を合わせたみたいに真っ直ぐに向かい合い、少しの驚きと感動を瞳に湛えて微笑んだ。

 

 まだ良く知らない町の暗い空でふたりっきり。

 

 周りは殺風景な駐車場だけど、それでもとても特別な場所に思えた。

 

 そう、登る必要なんてない。

 

 二人が一緒にいる。

 

 それだけでもう十分理由になってるのだから。

 

「あのね、蛍ちゃん」

 

「なに、燐」

 

「もう一度ここに来ない? 冬の時期にはちょっと変わったライトアップになるみたいだし。それに……」

 

「……燐」

 

「それにさ、その頃になればお互いの行き先もきっとはっきりしてるんじゃないかな。それぞれの進むべき方向っていうのがさ」

 

「そうかもしれないね。12月になればもう色々分かっちゃうよね」

 

 確かにそうだ。

 

 きっとその頃には答えが出ているだろう。

 

 燐もわたしも

 

「でもね、燐。もしも、その前に……”いなくなっていた”ら?」

 

 肝心な事は呑み込んで蛍がひとり言みたいに問いかける。

 

「蛍ちゃんそれって──」

 

「………」

 

 ”何”とは言えなかった、とても。

 

 それを口にしたら、きっと何かが壊れていってしまう。

 

 あの日見た青い空のように。

 

 思いとか関係なしに、言葉はヒトを慰めることも傷つけることもできるもの。

 

 あの歪んだ時間で唯一分かったことはただ、それだけだったから。

 

「その時は……きっと」

 

 燐はそこで言い淀む。

 

 軽々しい、気休めなんかとても言えなかった。

 

 

 蛍は燐を見つめた。

 

 燐も蛍をじっと見つめていた。

 

 それぞれの視線の先に互いの姿が映り込む。

 

 それは光り続ける鉄塔よりも鮮明にその姿を捉えていた。

 

 ただそれだけの事が、二人の特別な時間だった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「どうしたの燐、なんで急に……?」

 

 蛍が目をぱちくりさせる。

 

 信じられないというか。

 本当に急なことだったから、つい訝し気な声で燐に訊ねた。

 

「あ、うん。何かさ急に歌いたくなってきちゃって。周りが静かだからかも」

 

 そう言って燐はまた口ずさむ。

 

 鼻歌交じりの声で燐が歌うのはもちろん、”例えば月の階段で”だった。

 

 あの夜のことで残っている事と言えば少女たちの想いと記憶、そして、不思議なラジオから聞こえてきた、この歌ぐらいだった。

 

 蛍と燐は、車の中で歌ったこの曲を耳だけを頼りにメロディを作り、楽譜を引いたのだった。

 

 それは、小平口町で起こった歪んだ夜の手掛かりを知るためだけに。

 

 結局何の手掛かりも得られずに終わってしまったのだったけど。

 

(こうして曲として残っているのなら意味ないわけじゃなかったんだね)

 

 蛍はそう感嘆する。

 そして蛍もそっと歌い出した。

 

 燐が何かの合図を送ったわけじゃない、自然と口から歌が流れていた。

 

「──もしも全てを忘れても」

 

「……覚えていても」

 

 それすらも同じ、だから。

 

 二人はこの歌詞で一番好きなフレーズに声を合わせて歌う。

 

 蛍と燐。

 互いの手だけでなく、気持ちも合わせて奏であう。

 

(けど……本当は分かってる)

 

 この歌は別れを示唆した歌詞になっていることを。

 

 それは、きっと。

 

 燐はそれが分かっていても尚、自分から歌い出していた。

 

 やっぱり好きな曲だったし、それに。

 

 二人っきりの夜だったから──。

 

 実際は周りにちらほら人がいるが、お咎めとかそう言った抗議を受けないのは、多分この夜のせい。

 

 月すらも隠すほどのキラキラとした夜だったから。

 

 季節の境目だったから。

 

 だから良かったんだろうと思う。

 

 それに東京と言う巨大な町が。

 こういうことを受け入れてくれたんだと思う。

 

(それは、失ったわけではないから……そうだね)

 

 自分達以外の誰かの歌声が耳に届く。

 

 こんな、名も知れないような歌を誰が一緒に歌っているんだろう?

 

 そっと目で見渡してみたが、それらしい人影は見当たらない。

 

 蛍が首を傾げると、ぼんやりとした星がいつの間にか夜空に浮かんでいた。

 

(あ、そうか、わたしは)

 

 もし、消えてしまうのなら星になりたいと。

 

 そう──思っているんだ。

 

 星座なんてそんな大それたものじゃない、ただ小さく光る星でいい。

 

 冷たい石の下なんかじゃなく。

 

 寂しさを感じた時に見える星でいい。

 

 あなただけが見える星。

 

 それが自分にとって本当の幸いなのだと、今ハッキリと気付いた。

 

「どうかしたの?」

 

 歌い終えた後、蛍が上を向いたまま一点を見つめていることに気付いた燐が声を掛ける。

 

 夜空の星か飛行機の明かりか、そんなのを見つけたのだろうと言った感じで軽く微笑みながら。

 

「近すぎて気付かなかったけど、ようやく見つけたの」

 

「見つけたって? 夏の星座とか?」

 

「うん、そういうもんかも」

 

 ちょっと困ったように微笑みながら蛍が答える。

 

 何となく艶のある、憂いの表情をしているように見えたが、きっとライトアップのせいだろうと思い燐はそれほど気にはしなかった。

 

「ここはちょっとだけ開けてる場所だから、都会でも星座が見えるのかもね。今だと何が見えるんだったっけ?」

 

「それは”燐”、だよ」

 

「ふえっ?」

 

 その瞬間──耳がキーンとなった。

 

 その原因は不意打ちと、多分……歓喜。

 うれしいんだと思う。

 

 でも疑問もあった。

 

 どうして、と。

 

 そう聞きたかったけれど、口が巾着のようにもごもごと動くだけだから。

 

 代わりに手をぎゅっと繋いだ。

 

 その気持ちを確かめたくて。

 

 どくんどくんと。

 お互いの鼓動が高くなっているのが分かる。

 

 その音がもっと聞きたくて折れそうになるほど指を絡めてぎゅっとした。

 

 同じような強さでぎゅっと握りしめられる。

 

 それだけでちょっと安心した。

 

 身体の力が全部抜けるぐらいに。

 

「……あのさ、蛍ちゃん」

 

「なぁに、燐」

 

「何で……急にくっついてきたの? わたし、”前みたいに”蛍ちゃんが倒れちゃった! って、ちょっと焦っちゃったよぉ」

 

「あはは、ごめん。でも、本当にまた倒れそうになったら、燐はこうやって支えてくれる?」

 

 蛍は明るい声でそう質問をする。

 燐はため息を一つ落とすと。

 

「それはもちろんだよ。でも出来れば倒れる前に言ってね。いつでもわたしが一緒にいるとは限らないから」

 

「うん……分かった」

 

(それが出来るのなら苦労はないんだろうけどね)

 

 蛍は少し唇を震わせた。

 

「そろそろ行ってみる? 夏だからって油断してると身体冷えちゃうし」

 

 周りを取り囲むコンクリートから流れてくる湿り気を伴った風が、夏なのに少し肌寒く感じさせた。

 

「まだいいよ。もう少しこのままでも」

 

「そう? まあ蛍ちゃんがそう言うのならいいけどね」

 

 少し呆れたように言葉を投げると、蛍の肩を片方の手でそっと抱き寄せた。

 

 小さな肩と肩がぴたっとくっつく。

 

 ちょっとだけ驚いた顔を見せた蛍だったが、嫌がる素振りはみせずに、むしろ自分から燐の手に自身の細い腕を絡めた。

 

 暑苦しくなんかない。

 むしろ心地よい。

 

 心から安心できる。

 

 上質なフランネル生地なんかよりもずっと暖かく柔らかい。

 

 二人の鼓動と鼓動が重なり合う瞬間、息が止まるほどの多幸感が二人を包んだ。

 

(もう、ずっとこのままで)

 

 二人一緒に固まり合ってもいいぐらいに。

 

 この時間が少しでも長く続くようにと強く願いながら。

 

 二人は肩を寄せ合ったまま空を見上げた。

 

 ちらちらと薄い煙の様な光が三角形の頂点。

 その白い線の上で瞬いていた。

 

 

「ねぇ、蛍ちゃん。ちょっと相談っていうか提案があるんだけど……」

 

 すぐ隣でちょっと複雑な表情で宙を見上げている蛍を燐は横目でちらっと見やると、誰に聞かせる風でもなく、まるで詩を詠んでいるみたいに上を向いてそっと呟いた。

 

「何、燐? 何でも言って」

 

 燐の方に頭をもたせながら、蛍は微睡んだ声を出した。

 

「じゃあ、ちょおっと耳を貸してね」

 

「耳を?」

 

「うん、あんまり、人に聞かれたくはない話だから」

 

 こんなに密着しているのだから、普通に話してもよさそうなのに。

 

「まさか、エッチな話とかじゃないよね?」

 

「もう、そんなことないよっ」

 

 燐が膨らんだ頬を押し付けてくる。

 

 もちもちとした柔らかさが頬や耳に当たってちょっとこそばゆい。

 

「それなら、話してもいいよ」

 

「うん、ありがと」

 

 燐はくすっと微笑むと、蛍の長い髪をそっと後ろに流してその小さな耳元に唇を寄せた。

 

 作り物の光よりもずっと綺麗。

 それを間近で受け止められる喜び。

 

 燐が自分だけを見て誰にも聞かせない内緒の話をしてくれることが嬉しいんだ。

 

 胸の内に抱えているもの全て。

 裏も表も丸ごと全部見せて欲しい。

 

 あなたの全てが欲しいと願う。

 

 わたしは燐よりもずっと我がままなんだ。

 きっと。

 

「あのね、蛍ちゃん……ね、け………をして、……っていうのどう?」

 

 揺蕩うように瞳を揺らしながら、燐の話に耳を傾けていた蛍だったが。

 

 それは耳を疑うような話だったので、蛍は急に目が覚めたように首を長く伸ばして燐のほうを振り返った。

 

「けっ……って、燐!?」

 

 蛍は驚きのあまり、ばっと顔を離すと耳まで赤くして小さく叫び声をあげた。

 

 これまで見たことのない表情(かお)に、むしろ燐の方がびっくりしてしまった。

 

 大きな両目を限界まで開いて、にわかに信じられないといった顔つきで燐の事を呆然と見つめている。

 

 その焦点は合っているのかどうかは分からないが、ただ燐だけを見ていた。

 

 やっぱり驚かさせてしまったか、と燐は胸中で反省をする。

 

 けれど、蛍の瞳を真っ直ぐに見て頷いた。

 

 想いが真剣であることを蛍に伝えたかったから。

 

 ()()()なんかじゃない、本当の自分の気持ちを。

 

「ごめんね。でも、わたし、これでも本気だから。蛍ちゃんを幸せにする為なら何でもするつもりだよ」

 

 決意のある燐の声色を受けて蛍は……。

 

「…………」

 

 彫像のように固まってしまった。

 

 瞬きどころか息をするのを忘れてしまったみたいに。

 

(わたし、結構大胆なこと言っちゃったよね。蛍ちゃん相手に……でも、どう、思ったのかな……?)

 

 自分で言っておきながらやはり恥ずかしくなったのか、燐は今更のように顔を赤くしていた。

 

「あはは、言っちゃった」

 

 取り繕うようにぎこちない笑みを作る燐。

 

 だがさらに恥ずかしさが増すばかりだったので、照れ隠しの為のあからさまな言葉を並べたのだったが。

 

「まあ、まだお互いの進路が固まっていないし、今すぐ返事は無くてもいいけどね……ってぇ! 蛍ちゃん!?」

 

 蛍はもう本当に倒れ込みそうだった。

 

 夜の匂いが鼻をくすぐり、愛する人の吐息が頬や髪を撫で上げていても。

 

 蛍はしばらくの間、混乱と羞恥の海にぶくぶくと溺れたままだった。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 






◆ヤマノススメNEXTSummit
割と無難なつくりで良かった──のですけど、まさか一期のスタッカートデイズでエンディングとは──ある意味再放送も布石だったのかなー? でも富士登山リベンジしてしまったから五期目は無いのかなぁやっぱり。原作のストックはかなりあるんですけどね。アニメ一作目が2013年ですから、もう結構経ちますけど、実際面白かったですし、評判も良かったみたいなのでアニメ5期も期待してます! まさかの実写もあり……かも??

◆ぼっち・ざ・ろっく!
あんまり音楽系のアニメが好きじゃない私でも最後まで楽しく見れました。ただ、声優さんの力なのかアニメスタッフの頑張りなのか、全体的なロック度が上がってましたねー。それとやっぱり主人公の後藤ひとりさん……何でしょうとても親近感というか共感する部分が多いといいますか、割とそう思っている人は多いのかなって思いますねー。もちろん私もその内の一人なんですけれどもーー。
ほぼ毎回入る謎の実写パートがちょっと気になりましたが、作画は安定しておりましたし、何より曲が良かったですねー。結構有名なアーティストから提供されているからでしょうか、エンディングも何度か変わりましたし、作中に流れる曲が少ない分エンディングで流しているようでしたねえ。
人気はあるから二期目は十分ありそうですねぇ。原作の方も全然余裕ありますしっていうか、アニメ化されたところ単行本で言うと2巻の途中までですしね。4コマ漫画は情報量が多くて読むのに時間が掛かるって言ってましたけど、アニメの方もそうなんですかねえ。何にせよまだまだ楽しみな作品でしたねえ。

◆PREY
放置していたPREYというゲームをPLAYしておりますよー。ジャンルは近未来SFFPSと言った感じでしょうか。巨大な宇宙船の中を行ったり来たりするゲームですねー。で、この手のゲームには敵がつきものでして、ティフォンと呼ばれるクリーチャーがまあ、何て言いますか、嫌悪感をぎゅんぎゅん刺激するもので、G的な感じと言えばいいんでしょうか、外宇宙からきたエイリアン的な存在みたいでなんですが、一番のザコ敵のミミックを初めて見た時はねぇ……真っ黒い外見で軟体動物みたいな挙動をするものだからもう……鳥肌立ちまくりでしたよー不覚にも。
難易度は割と高めだし、どっちかって言うとホラーなテイストですけど、割と続きが気になるゲームなのでちょくちょくプレイしております。

◆青い空のカミュ
今ですと来年の1月10日までDL版、3000円ポッキリセールー! で、お買い得になっております!
これ一本で長いお正月を楽しく過ごせる……はず! きっと! でも、やっぱりプレイしてちょっと切ない思いをしてしまうことはあると思いますけど、後悔はないと思いますー。
何より燐と蛍のやり取りだけでも楽しいですからねー。

私は今でもばりばりプレイしているぐらいですしー。この機会に是非是非ー。


さてさて、今年も色々ありましたが、来年も良い年でありますといいですねぇ。

ではでは良いお年をー。

あ、そういえば来年は兎年ということですが、私の場合ですと”CUNE(キューン)”とかいうブランドを思い浮かべてしまいますねぇ。まあ家族に集めているものがいるせいなんですけれど……。今もそのCUNEのリストバントを手にはめております。”手首”とわざわざ書いてあるのが若干馬鹿馬鹿しい感じがしますけど。これは可愛い……のかな? まあ身に付けると割と暖かいからこの時期は意外と重宝しそうな気もする……? 片方しかないのがちょっとアレですけれども。


ではー。



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point d’orgue

 
「はっ、はっ、はっ、はっ」

 午後の込み合う時間。
 人の波をかき分けながら、少女は駅構内を走って移動していた。

 別に急いで帰る用事はない、ただ身体が勝手に動いていた、と。
 言い訳をするだろう。

 いつもこうしているから、急にゆっくりと帰ると何か落ち着かない。
 そんな気がするだけで。

 最寄りの駅から家までは本当に大した距離ではないから。

 ここまで帰ってきた距離と比較したら、一歩足を踏み出すのと殆ど変わらないぐらい。

 だからエスカレーターも使わずにわざわざ回り道してまで階段を使っているんだ。

 決して運動不足解消の為のものではない、はず。

 別で運動はしているし。

 言い訳めいた思いを胸に地上に這い出る。

 瞬間ぽつりと頭に当たるものがあった。

 プラットフォームも地下道もびちゃびちゃに濡れていたからもう分かってはいたけど。

 この時期特有の雨がしとしとと降りしきっていた。

 その冷たさよりもじめじめとした湿気の方が強くてうんざりとしてしまう。

 けれど、目的地であるマンションは目と鼻の先に立っている。

 少女はレインコートのフードをぽすっと被り直すと、ばしゃばしゃと雨粒を弾かせながら二つ目の信号の先にある目的地までラストスパートを切った。

 ……
 ……
 
 最寄りの駅まで()()()()

 その最寄りの駅だってローカル線のひなびた無人駅なんかじゃなく、県下でも最大クラスの都市の新幹線だって停まる巨大なターミナルだったから。

 申し分のない物件ではあった。

 好立地(駅チカ)で、好条件(新築かつサービスも充実)で、高層階だったから結構なお値段だったのだと。

 支払った後で聞かされた。
 しかも一括払いの後で。

 感謝よりも心配の方が先に来てしまう。

 いざと言う時の思い切りの良さもそうだし、一般的とは少し違う金銭感覚にも。

 それでも純粋な笑顔を向けてくれていたから、何も言えなかった。

 ちょっとづつは返してはいるけども……わたしの分を返すにはずいぶんと時間がかかるだろう。

 固定資産税だって払わないといけないし、月々の光熱費やら水道代、日々の食費にもなるべく気を使わないとすぐにお金なんてなくなってしまう。

 だから朝は早起きしてお弁当を作っているし、夜は外食などしないで家に戻って自炊することにしていた。

 それでも大きな不満もなく生活できているのはやっぱり同居人の……親友のおかげだと思っている。

 そんな親友のお世話になっているマンションの前まで戻ってきた。

 首が痛くなるほどの高層のタワーマンションだったけど、それももう大分、見慣れてしまった。

 小一時間ほど開いていなかった傘を軽く払ってから、オートロックのドアを開ける。

 人気のない大理石風のエントランスに入ると、上の階に上がったままのエレベーターのスイッチを押した。

 何かを引っ張るようなモーターの低い音が鳴り、エレベーターが降りてくる。

 全室とも完売したらしいが、それにしても他の人と会うことがあまりない。
 
 マンション内での集まりもそれほどなく、管理的なものも全て外部に委託しているから余計に顔を合わす機会がなかった。

 案の定、エレベーターの中は空っぽであった。
 白い箱の中にひとり乗り込むと、いつもの動作で所定の階のボタンを押した。

 ──浮いているのか、それとも立っているのか。

 どちらともつかない曖昧で心地良い空間に身を委ねていると、不意にある小説のことを思いだした。
 
 そこには何でも願いを一つ叶えてくれるという箱があり、弟を亡くしたばかりの兄がその箱を開けた時に中に何が入ってるのかという話で、それを友達に言ったことがあったのだ。

 箱の中には亡くなった弟……ではなく、兄が本当に欲しかったものが入っていたということだったんだけど。

 もし今それが目の前にあったのならわたしは何を望むのだろうと。
 
 ()()()()()()()()はちゃんと中に入っているのだろうか、と。

 あり得ない妄想をエレベーターという閉鎖した箱の中で考えるのはとても奇妙な気もするけど。

 程なくして、金属製のドアがするりと開く。

 照明こそ煌々とついているが、エレベーターの外にも人気はなく、がらんとしてとても静かだった。

 降りてすぐの部屋の前まで行くと、鍵を使ってドアを開ける。

 玄関までこぼれる暖色系の温かな明かりに急に視界が開けたような、そんな彩りを感じた。

「ただいま~」

 鍵は掛かっていたけどきっと帰ってはきているだろうとの思いで声を出した。
 最近はずっとそうだったから。

「あっ、お帰りー」

 キッチンの方からだろうか、ちょっと慌てたような声が返ってきくると、続いてパタパタとスリッパを鳴らす音が近づいてくる。

 明らかに急いでいる風に聞こえるので、転びはしないだろうかと少し心配になってしまう。
 けれど、ここはじっと待つことにした。

 声だけでも十分嬉しいのにわざわざお出迎えまでしてくれる。
 その気遣いが嬉しかったんだ、とっても。

 食事の準備をしていたのだろうか、芳しい匂いが鼻腔をくすぐる。

 家族の団らんとは違う温かみ。
 それを確かに感じた。

 このマンションで一緒に暮らすようになってもう3年になるけど、不思議なぐらいに仲が良く、飽きるとか倦怠感とかのそう言った思いとは無縁だった。

 お互いを初めて認識し合えた時のように、いつだって新鮮であり続けられる。

 一方的な思いかもしれないが、それでもわたしは……。

「燐、おかえり。今日も帰ってくるのちょっと早いね」

 いつもの落ち着いた声で蛍はそう出迎えた。

 お気に入りのネコのキャラクターのエプロンを見に付けて、長い黒髪を後ろに縛っているところを見ると、どうやら料理の真っ最中のようだった。

 燐は邪魔をしたみたいで少し悪い気はしたが。

(でも、何か新婚さんみたいかも……)

 実際に体験したことがないので違うのかもしれないけれど。

 そう意識したら胸の内が少しこそばゆかった。

「ただいま、蛍ちゃん」

 燐は改めてそう言った。

「雨に濡れなかった? 今日は朝からずっと雨だったよね」

「うん、平気。向こうの方はそんなに雨降ってなかったよ、こっちの方が強いほうかも」 

 そう言って燐は片手に持っていた傘をパッと玄関で広げた。

 燐が持っていったのは見た目こそシンプルだが傘の部分に雨が当たると模様が浮き出るようになっている変わり種の傘であった。

 ピンク色の傘の表面には濡れたことを示している桜色の花が咲いていた。

「でも、ちょっと濡れてない? ほら髪のところとか」

 蛍は少し心配そうな目を向ける。

 燐は何故か誇らしそうに満面の笑みを向けて言った。

「目いっぱい飛ばしてきたからねっ」

 自慢げに少し胸を張る燐。
 それを見て蛍はぽかんと口をあける。

(飛ばす? 燐は一体何を言ってるんだろ……)

 皆目見当も付かず、蛍は思わず呆れた息が出た。

「あー、もう、蛍ちゃん! またそうやってため息をつくぅ! 蛍ちゃんに会いたい~っていう一心で頑張って帰ってきたのにぃぃ」

 必死になって弁解する燐を見て蛍は罪悪感と言うよりも、愛おしさを感じて困った顔で小さくはにかんだ。

「だって、燐が変なこと言うから」

 さらっと言われて燐はむむむと歯噛みをした。

「うー、変じゃないよぉ、乗り換えの時に頑張って走ったって意味で言ったのぉ」

「あ、そういう事。でも、乗り返って」

 長距離区間は新幹線を使っているわけだし、東京はダイヤが過密してるから、すぐに次の電車が来るって燐自身が言っていたと思ったけど。

 実際にアプリで幾つかのルートを試してみたけど、歴然とした時間の差は殆どなかった。

「あのね、燐。そんなに急いで帰ってこなくても大丈夫だよ。わたしは燐が帰ってくるまで待ってるから、ずっと」

「それは……分かってるけどぉ、でもでも、蛍ちゃんにすぐに会いたかったのっ。寂しい想いをさせてるんじゃないかなって」

「もう燐ってば……さっきまでわたしと話してたでしょ?」

 蛍が言っているのは直接的なやり取りのことではなく、所謂SNS上のことだ。

 燐は長い通学時間の合間を利用して、勉強や課題に割り当てるつもりだったが、結局の所、その半分は蛍とのスマホでのやり取りに置き換わっていた。

 大したことは言っていないが、短い言葉でのやりとりがなんだか楽しかった。

 普段では言えないようなことも言い合えるし、何よりその会えない時間が何故だか不思議と恋しかったのだ。

「でもさ、何かあるか分からないじゃない。もしかしたら”カラスが、掠め取る”のかもしれないし」

 全く知らない人が聞いたら何のことかと首をひねるだろうが、蛍には燐が何を言っているかすぐに分かっていたので声を出して笑った。

「それって、オオモト様の受け売りでしょ。でも、その使い方ってちょっと間違ってない?」

「えっ、そうかなぁ、オオモト様の例えって何かむずかしいんだよね。構文っていうか」

「不思議な言い回しをしてたよね、オオモト様って。まあ、そこがあの人らしいと言えばそうなんだろうけど」

 首を捻る燐に蛍もうんうんと頷く。

 青と白の世界でのオオモト様の言葉の端々は今でも二人の脳裏に刻み込まれていた。

 たった三日間のことなのにそれでも今だ鮮明に覚えているのはそれだけあの出来事が強烈な印象を残していたということなんだろう。

 ここ最近のことなんてそれこそ倍速で進んでいるのか思うほど慌ただしいのに。

 通っていた高校を無事卒業して大学に入学をしたと思ったらもう次の進路の話になっている。

 就職か、それとも別の道に進むか。

 人生の選択肢なんてあってないようなものだった。

「それよりも燐。何か前よりも寂しがり屋になってない? 大学生になったから自立した”大人の女”になるんじゃなかったの」

 卒業する際、将来のことを話し合った時にそう燐は宣言していたのだが。

「うーん、わたしは自立してるつもりなんだけどなぁ。大学じゃ、しっかりしてるって言われる方だしっ」

「はいはい、それは良く知ってるよ」

 蛍は呆れたようにまた小さく息をこぼす。
 その仕草に燐は不満そうに顔を赤くして頬を膨らませていた。

 それぞれが別の大学へ通うようになってから、毎日がこんな感じだった。

 蛍と燐。
 二人の関係は何も変わっていない。

 ただちょっとお互いに細々とした面倒ごとが増えただけで。

 燐は自らの宣言通り、浜松から東京までわざわざ新幹線を使ってまで遠距離通学を実践している。

 向こうでアパートでも借りて住めばいいのにと説得したのだが結局聞き入れてはもらえず、ちゃんとこちらのマンションまで毎日帰ってきていた。

 普通に戻ってくるだけでもかなりの時間が掛かるのに、どんなに遅い時間になっても燐は必ず戻ってきているものだから、新しく出来た大学の友達からは割と奇妙な目で見られることもあった。

 けれど本人はまったく気にしていないようで。

「今日のデザートも買ってきたから後で一緒に食べようね」

 そう言って燐は嬉しそうに背負っていたカバンから取り出す。
 その顔は純粋そのものであり、あの頃とちっとも変ってはいない。

 遠く離れた都会の空気に触れることで、燐が変わっていってしまうのではと蛍は危惧したことがあったのだが。

「ね?」

 やっぱり何も変わってない。

 燐はいつだって真っすぐに自分を見つめてくれる。

 何か隠し事があったってそれをおくびにも出さずに自分で解決するところも変わっていない。

 それで良いんだと思う。

 全部を話す必要なんかないし、本当に困った時は燐の方から話してくれるだろうから。

 燐を信じている。

 誰よりも強く、ずっと。

「……あの時も、こうやってすぐに戻ってくれれば何も問題なかったのに……」

「ん? 蛍ちゃん、何か言った」

「ううん、別に」

 蛍は軽く笑うと、いつまでも玄関で立ち話しているのもおかしいので燐をリビングへと促した。

「一度、車で行ってみようかなぁ~、折角免許も取ったんだしさ」

 軽くうがいと手洗いをした燐はすぐに着替えるわけでもなく上着だけを脱いで、リビングの中央に置かれているビーズのクッションにぽすっと腰をうずめた。

「去年は名古屋まで行ったけど、今年はまだどこにも行けてないしね。大学生って結構忙しいよねぇ」

 そう言って、燐はカードケースから自分の運転免許を取り出した。

 まだ取り立ての免許証には、面接の時よりもぎこちない表情をした燐の顔が映っていた。

「本当だよね、休みが多いから最初はすごく楽だと思ったんだけど」

 その分、課題の量が半端ではなく多くて、更に就活の為の資格の習得やフィールドワーク等、やるべきことが次から次に現れててんやわんやになりそうになる。

 夢に描いていた大学生活は高校以上に勉強しなければならない場所だった。

「最近疲れも溜まってる感じがするし、やっぱり温泉に行きたいかなー。今は”わたし達の車”もあることだし。どこかで癒しでもないとやってらんないよねぇ~」

 燐は間延びした声で愚痴をこぼす。
 蛍は困った顔で苦笑いするしかなかった。

「そう言えば、蛍ちゃんは今どのぐらいまで講習いったんだっけ? もう路上には出たんだよね」

 がばっと上体を起こした燐に唐突に話を振られて、蛍は少し戸惑った表情で小さく頷いた。

「うん。その路上で少しつまづいてるところ」

 蛍は最近になって自動車教習所に通う様になっていた。

 燐と同じ教習所を選んだのだったが、あまり上手く行っていないようで本来の予定よりも大分遅れていた。

 教習所内での運転にはようやく慣れたが、路上での教習がどうにもしっくりいかない。

 イレギュラーな事柄が多いからなのか、蛍は仮免許取得からなかなか先へと進めなかった。

「燐は何気に凄いよね。わたしにはAT限定でも難しいのに、燐は普通の免許なのに補習もなくて一回で合格したんだもんね」

 感心する蛍に燐は照れたように頬をかく。

「それは……わたしはほら、あんまり大きな声で言いたくはないけど良くないこと(むめんきょうんてん)してたから……」

 手持ち無沙汰をごまかすように、燐はクッションを両手で掴んでむにゅむにゅとさせた。

「それは知ってるけど、それでもだよ。燐の隣に乗った事があるから自分でも割と簡単かもって思ったところがあったけど、見るとやるとじゃ全然違うんだなってことを痛感しちゃったよ」

 蛍はハンドルを握るときの動作を燐にしてみせた。

「なるべくハンドルを切らない方がいいのは知ってるんだけど……」

 そう言いながら蛍は両手をぐいっと90度の方向に傾ける。
 しかも何故か首も一緒に曲がっていた。

 何とも危なげな蛍のハンドルさばきに燐は困ったように苦笑いした。

「でもまあ、そのせいで指導員の人にちょっと変な目で見られたこともあったけどね」

 その際は愛想笑いで誤魔化したが多分バレているとは思う。

 まあ向こうにしてみれば、素直に言う事を聞いて事故も起こさなければ問題ないんだろうけど。

「確かにそう言ってたね。習う前から上手くできるのも考えものなんだね」

 蛍はくすっと微笑むと、大事なことに気が付いて小さくあっ、と声を出した。

「あっ、そうだった。ねぇ燐」

「ん、なぁに、蛍ちゃん」

 蛍が急に悪戯っぽい笑みを浮かべたので、燐は困ったように眉を寄せて聞き返した。

 蛍はふわっとした表情を作ると、きょとんとしている燐の鼻先をちょんと触れた。

 ちょっとワザとらしく見えたのだが、蛍の髪先から流れる柔らかい香りに燐は自分でも意外なほど胸がどきっとなった。

「あのね、燐。先に、ご飯にする? それともお風呂がいい? それかもしくは……」

 どこかで聞いたことのある口上に燐は乾いた笑みを浮かべてしまう。
 呆れるよりも微笑ましく感じたのだった。

「何か、蛍ちゃん毎回わたしにそんなこと聞いてこない? そういうやり取り(シチュエーション)が好きなの?」

 からかうような言葉を受けて蛍は意外そうに首を傾げた。

「あれ、燐が好きなんじゃないの、こういうのって。そう聞いていたんだけど……?」

 今度は燐が意外な顔になる。
 まざまざと蛍を見ながら問いかけた。

「……誰からよ、それぇ」

「えっと、咲良さんから」

 母親の名を出されて燐は一瞬凍り付いてしまったが、即座に首をぶんぶんと振った。

「それって完全に、ガセネタだから!」

 燐は冷静なツッコミを入れる。

 あの母は余計な事を言い過ぎだと思う。
 本当に。

(全く、自分が上手くいかなかったからって変な事を蛍ちゃんに吹き込んだりしてぇ! それにわたしは言われたい方じゃなくて……)

 蛍の顔をちらりと見る。

 その黒い瞳は何も変わっていない。
 一切の陰りもなく、純粋なまま透き通っていた。

 綺麗だった。
 あの時よりもずっと。

 一緒の時間が長くなることで余計な負担をかけてしまうのではと思ったのだが、むしろ蛍は大事なところは変わらないまま綺麗な大人になっていく、今はそんな気がしていた。

 だからこうして蛍に出迎えてもらえることが嬉しかった。

 顔だけじゃなく、心も綺麗な人に受け入れてもらえることに。

 それだけで今抱えている悩みがとてもちっぽけなものに感じられるほどだから。

「それで、燐。どうする?」

 蛍はまだ続ける気のようで、何とも微笑ましい提案を懲りずにしてくる。

 燐はやれやれと小さく肩をすくめながらぴょこんとソファーから立ち上がると。

「とりあえずお風呂は大丈夫だよ。ほら」

 そういって燐は蛍にそっと顔を近づけた。

「うわっ」

 急なことに蛍の頬が赤く染まる。
 けど燐の目的はそうではなく。

(あれ、これって……?)

 蛍は目をぱちぱちとさせる。

 柑橘系の甘い匂いが燐の髪からふわっと香り。
 蛍の鼻先を掠めていた。

「シャワーは浴びてきたから」

 少し頬を上気させてにこっと微笑む燐。

 それで蛍は大体のことが呑み込めたのか、合点が言ったようにぱんと手を叩く。

「あ、そっか、燐のサークルって、”ラクロス部”だったよね、ホッケー部じゃなくて。最近はちゃんと活動してるんだ」

「まぁ、そうだね。一応これでも練習みたいなのはしてるんだよ。今日は雨だから室内トレーニングだけだったけどね」

 燐は大学では特にサークルとかに所属する気はなかったのだが、いろいろあって今のラクロス部に参加していた。

 部と言っても殆ど同好会的なゆるいもので、大会に出て優勝するとかそこまで本格的なサークルではない。

 遊びというわけではないけど必死になるわけでもない。
 一言でいうなら微妙なサークル。

 けれどそれが燐には都合がよかったのだ。
 
 ちょっとは身体は動かしたいけど、その時間に囚われるだけなのは何かもう嫌だったから。

「まあ、軽く汗を流す程度だけどね。それでも全然人は来ないんだよねぇ、大丈夫なのかなぁうちのサークル」

 燐はため息ともつかない言葉を投げた。

 必死にやりたいわけじゃないけど、もうちょっと活気あるサークルになればいいのにとの思いがあったから。

「でも、燐、やっぱり体動かすの好きなんだね。今の所、辞めずにいるし」

「あ、うん……まぁね」

 ちょっと恥ずかしそうにする燐に蛍はふふっと微笑んだ。

「蛍ちゃんはどう、バイトの方は?」

「うん、いつも通り順調だよ。接客もそうだし、パンだって一人で焼けるようになったんだ」

「へぇ~、じゃあ今は蛍ちゃん一人に店をまかせても大丈夫なんだあ」

 燐は感心したように頷きながら聞き返す。

「流石にそれはまだ無理かも。でも目標はそれぐらいにならなくちゃって思ってはいるよ」

「最近は蛍ちゃんも料理出来るようになったし成長したよねぇ。うんうん」

 そう言って蛍の頭を軽く撫でる。
 蛍は照れくさそうに頬を少し染めて俯いた。

「それなら燐だって一人で料理出来るようになったでしょ。時間だってないはずなのに運転免許だって持ってるし。燐だって十分成長出来てるよ」

 蛍は頭を撫でられながら、燐の頭に手を伸ばしてその綺麗な栗色の髪をぽんぽんと撫でてあげた。

「それならいいんだけどね。それにしても……何かわたし達すっごく変なことしてない? お互いの頭を撫で合っちゃってさ」

「確かに、それはそうかもね」

 けれど二人とも頭から手を離すのを止めなかった。

 先に止めたらなんだか負けたみたいな気がしてるのか。
 それとも別の意味合いがあるのか。

 燐と蛍はしばらくの間互いの頭を撫で続けていた。

「じゃあさ、先にご飯にしよう。わたしお腹ぺこぺこだし」

「うん。わたしも帰ってから何も食べてない……」

 蛍は今思い出したみたいに自分のお腹の辺りを手で押さえた。

 実際に先に帰ってきた蛍はちょうどご飯の用意をしている途中だったわけだし。

「燐、ちょっとだけ待っててね。すぐにご飯の用意するから」

「あ、わたしも手伝う」

 蛍は視線を戻してキッチンへと向かう。
 燐も一緒にキッチンに向かった。

「うん。じゃあ燐は玉ねぎの下ごしらえお願いね」

「オッケー。じゃあもしかして今日はハンバーグ?」

「当たり。でも、今度は失敗しないから」

「本当に? じゃあ期待しちゃうからね。蛍ちゃんの特製ハンバーグ!」

「存分に期待してて良いよ。さっき焦げない作り方をネットで調べたばかりだから」

 自信満々の蛍。
 燐は予感と言うかデジャブみたいなものを覚えた。

 前にも蛍は同じようなことを言ったのだが、出来上がったものは黒焦げのハンバーグだったのだから。

 その時のことを思いだした燐は苦笑いしながら蛍に提案をした。

「あのさ、やっぱりわたしも手伝おうか? 二人でやった方がきっと美味しいのが出来ると思うんだ」

 相当気を使った言い方をしたが、蛍は頑として譲らないようで苦笑いしながら燐の提案に小さく首を振った。

「レシピ通りに作ればいいだけだから大丈夫だよ。下ごしらえだけしてもらえば燐は座って待ってくれていいから」

「あ、うん」

 蛍がやる気になっているから良いんだろうけど、やっぱりちょっと不安ではあった。
 
 だけど。

「分かった、ハンバーグは蛍ちゃんにお任せするっ。その代わり、他の事はわたしがするからね」

「もう、待ってていいのに」

 意を決した燐の言葉に蛍は困り顔でつぶやいた。

 いつも遠くから帰ってきてくれる燐に、少しでも美味しいものを食べさせてあげたいと言う蛍のほのかな気づかいがあったからだった。

 今日は雨も降っていたわけだし。
 温かいものを食べさせてあげたい。

(だから今日こそは何としても失敗しないようにしないと!)

 包丁を手にひとり意気込みを見せる蛍に燐は不思議そうに首を横にした。

 ふたりは一緒にキッチンに立ち、少し早めの夕食の準備をした。

 何てことの無い日のいつもの光景。

 特別なことなんて何もない。

 ただ、この変わらない時間がずっと続けばいいのにと。

 思っているだけで──。

 そう、例えばハンバーグが失敗したとしてもそれはそれで面白く思える。
 
 だって、普段の日常の何気ない出来事なのだから。

 炭素の取り過ぎはからだに良くないことは知っているけれど。

 ……
 ……

 今日の夕食は、そんなに黒くなっていない普通のハンバーグだった。

 ──
 ───
 ────




 

 それは突然のことだった。

 

「あー、もう蛍ちゃんっ」

 

 ぱしゃり、と音がしたと思ったらもう遅かった。

 燐はそちらの方を振り向きながら声をあげた。

 

「どうかしたの?」

 

「どうかしたの、じゃなくてさぁ。急に撮られちゃうとビックリしちゃうよ、やっぱし」

 

「あ、そうか。ごめんね、燐……撮っちゃったから」

 

 食後の最近の楽しみでもある甘い珈琲(アフォガート)を嗜んでいるときだった。

 

 面倒な課題に頭を悩ましていた時だったからつい油断をしてしまった。

 

 息抜きにカフェオレをかけたバニラアイスを口に入れた瞬間シャッターを切られ、燐は顔を赤くしながらその張本人である蛍に抗議の意を示した。

 

 完全に不意打ちだったし。

 よりにもよって口に入れる瞬間の間抜けな顔だったと思うから。

 

「撮っちゃったって、もう……ねぇ、変な顔になってなくない? 蛍ちゃんすぐに消してね」

 

 一方の蛍は写真の出来栄えを確認するのに夢中であり。

 燐の必死の頼みも上の空だった。

 

 それどころかむしろ。

 

「大丈夫、いつも通りの可愛い燐だよ」

 

 ほら、と小さな液晶から先ほど取ったばかりの画像を見せられてしまう。

 

 出来栄えは上々のようで、蛍の表情からそれが見て取れた。

 

「全く……別に撮られるのは嫌いじゃないけど、それなら一声かけてくれればいいだけなのに」

 

「だって、燐の自然な表情が見たいから」

 

 もっともらしく言う蛍に燐ははぁっと深いため息をついた。

 

 実際、蛍に撮られるのはまんざらでもない。

 

 むしろ、蛍が自分を被写体に写真を撮ってくれたことはちょっと嬉しかったりもする。

 それだけ興味の対象であると言う事だし。

 

 不意にと言うか、隠し撮りみたいなことをされなければ、だけど。

 

「それにしても蛍ちゃん、ちゃんとしたカメラでまた写真を撮るようになったよね。もう止めちゃったって思ってたけど。大学でも写真部っていうか、クラブ活動なんだっけ?」

 

「うん、そう。でも撮るのはもっぱら風景だけどね」

 

 蛍は当初バイトがあるから大学でのサークル活動はしないつもりだった。

 

 でも燐がラクロスを新しく始めたのをきっかけに蛍も触発された形で入部を決めたのだった。

 

 ”野外活動(ついでに写真も)サークル”、通称”野写(のしゃ)クル”に。

 

 燐と同じくそこまでサークルでの活動は頻繁でもなく、部員も蛍を入れて5人程度しかいない極々少数の集まりであった。

 

 けれどその分、和気あいあいとしたゆるめのサークルだったので、マイペースな蛍にはちょうど良かった。

 

「確か、この前山にも登ったりしてたんでしょ。山岳部みたいなハードな活動もしてるんだね」

 

 野外活動と謳っているわけだし、そういうのは合ってもいいとは思う。

 

 だが事実とは少し異なるのか蛍は苦笑いをしながら燐にこの前の事を説明をした。

 

「実際はそんなに激しいことしてないの。この間だって低い山にちょっと登っただけで後はだらだらキャンプしてるだけだったし。それにそんなにしょっちゅうでもないしね」

 

 三か月に一回程度の集まりがあるだけで、後は特に何もしていない。

 実質、開店休業状態みたいなものだった。

 

「じゃあ、今、蛍ちゃんがやってるのって自主練みたいなもん? しょっちゅうカメラ持ってるし」

 

 それに風景じゃなくて人物を撮っている事が多いから。

 

(でも、その被写体って()()()が多いんだよね。さっきもそうだし……)

 

 燐は先ほど蛍に撮られたことを気にしているのか、自身の前髪を軽くなでた。

 

 それにしても、肌身離さずというほどでもないが、蛍はスマホではなく、普通のカメラで撮っているので燐はちょっと気になるところもあるのだが。

 

 これまで何もなかったと言っていた蛍にちゃんとした趣味が見つかったのならいいことなんだろうけど。

 

「まあ、それに近いものかな。でもこれは個人的というか……趣味と言うか、うん」

 

 蛍は曖昧な言葉を並べながらファインダー越しに燐と見つめ合う。

 

 きょとんした顔してこちらを見つめているが、その顔立ちにはまだどこか大人になりきれないあどけなさが残っていた。

 

 燐の今の髪型も大きいのだろうと思う。

 

 一時期、切らずに長くしていた時もあったが、勉強の時に気が散るからと燐は受験前にバッサリと切ってしまった。

 

 おかげで今はショートカット……よりも少し長めの栗色の髪を、燐の未だお気に入りであるカチューシャで留めている。

 

 つまりは元の燐の髪型に戻ってしまったと言えた。

 

 ただ、前とは違ってちょっと大人びているところもある……とは思う。

 表面上では目立たないだけで。

 

 ただ前よりも子供っぽいと思えるところもあるけど。

 

 例えば笑顔とか。

 新しい生活が楽しいのか燐はずっとキラキラとしていた。

 

 アクセサリーとかピアスとかを見に付けていないのに、誰よりも輝いている。

 

 蛍は燐に向かってまた一枚シャッターを切ると、くすりと小さく笑った。

 

「そうだね。これは”記念”みたいなもの、かな。個人的に撮っておきたいものがあるんだ」

 

「記念、なの?」

 

 そう言われて燐は一瞬分からないような顔をみせたが、思い出したようにポンと両手を合わせた。

 

「あ、そうだったね、今や蛍ちゃんも立派な写真家だもんね。受賞記念みたいなものを撮っておきたいんだね」

 

 燐はにっこり微笑む。

 

 蛍は困った顔で小さく息をついた。

 

「写真家とは全然違うから。たまたま選ばれただけだけで」

 

「でも、凄いことだよ、フォトコンテストに蛍ちゃんの写真が選ばれたんだし」

 

「前にも言ったけどあれは偶然だから。わたしなんかよりもずっといい写真ばっかりだったし」

 

 熱のこもった燐の口調に蛍はさらっと返した。

 

 ちょうど一年ほど前、小平口町のイベントの一つでフォトコンテストが開かれていた。

 

 二つの町が合併する事もあってそれぞれの町の良い所を写真で紹介し合うという企画であり、優秀作品は新しい町のPRポスターに選ばれるというものだった。

 

 これと言って基準は設けられてはいなく、町の風景を撮った写真なら何でもいいという割とざっくりしたもので。

 

 蛍の生家でもある三間坂家の明け渡しに遅れが出ていたので、休みを利用しては度々小平口町に足を運んでいた時に、たまたまこのイベントのポスターを見た蛍がなんとなく応募してみただけのことであった。

 

「別に写真の腕がいいとかそういうんじゃないから」

 

 そう燐に弁明をしたのだが、それでも目的があるせいなのか以外にも蛍は熱心に町のあちこちで写真撮影をしていたのだ。

 

 その中で蛍がコンテスト用に選んだのは。

 

「そういえば、燐が映ってる写真にしたんだったよね。だから半分は燐のおかげかな」

 

「またもうその話をする~。あれ、すっごく恥ずかしかったんだからね」

 

 燐が恥ずかしいと言った写真は、実家であるパン屋”青いドアの家のパン屋さん”で燐が笑顔を振りまいている一瞬を切り取った写真だった。

 

 蛍としてもこれが受賞するとは思っていなかったようで、受賞された通知を受け取った時に何度も首を傾げていた。

 

 結局、大賞ではなく、”特別賞”と言う形での受賞だったのだが。

 

「でも燐、満更でもなかったじゃない。わたしなんかよりも燐の方がずっと喜んでいたし」

 

 蛍の含みのある笑みに燐は一瞬たじろいでしまう。

 

 確かに応募された作品の中に自分の写真があった時はついはしゃいでしまった。

 撮った蛍がきょとんとしてしまうぐらいに。

 

「あれは……そう! 蛍ちゃんが頑張ったってだけで、あんなのは二度とごめんだからっ」

 

 一時とは言えアイドル活動っぽいこともしていたのに、こういうのを燐が恥ずかしがるのはちょっと意外だなと蛍は思った。

 

 それがおかしくて蛍はまたくすくすと笑った。

 

「もう、それはいいからっ。それよりも蛍ちゃん、もしかして……”明日”のこと気にしてるの?」

 

 燐はちょっと声を潜めて蛍に問いかける。

 

 蛍は複雑そうな顔で燐を見つめていたが。

 

「うん……やっぱり、ね。燐の言う通りだと思うよ」

 

 と、曖昧な言葉を告げて小さく微笑んだ。

 

「緊張……とかしてる?」

 

「どうだろ、自覚とかはそんなに無いけど……燐、顔に出てた?」

 

 まるで他人事のような素振りで蛍はつぶやくと、ベッドサイドに備えられた鏡台に自分の顔を写してまざまざと見た。

 

 ……確かに暗い顔をしている。

 自分でも少し心配になってしまうほど酷い顔をしていた。

 

「大丈夫だよ蛍ちゃん。わたし達の出番なんかすぐに終わっちゃうから。そんなに気に病まない方がいいよ」

 

「そうだね、ありがと」

 

 思いもかけず燐に励まされて蛍はにこっと小さく微笑む。

 

 その声に少しの違和感を感じた燐は、つと天井を見ながらぽつりと呟いた。

 

「やっぱり気にしているのは”そっち”なんだね」

 

 最初から分かっていたことだった。

 

 二つの大きな町が合併し、新しい別の名前の町が出来る。

 普通なら良くあることなんだろうが。

 

(小平口町の場合は……)

 

 多分だけどあの町は一度、消滅した(なくなった)んだろうと思う。

 

 地図上とかいう抽象的ものじゃなく、概念的な意味で。

 

 今の小平口町の姿は恐らく。仮初(かりそめ)の姿ではないかと、燐は思っていた。

 

 蛍も多分同じ考えていると思う。

 お互いに口に出さないだけで。

 

「明日、上手くできるといいな……」

 

「何度もリハーサルもしたし大丈夫でしょ」

 

「それはそうだけど……」

 

「それにさ、わたし達の出番なんてそんなにあるわけでもないし、ちょっとぐらい失敗したって問題ないよ。合併するのは決定事項なわけなんだし」

 

 軽口をたたく燐に蛍は苦笑いする。

 

「確かにね。わたしたちがどうこう出来る問題でもないしね」

 

 少し緊張が和らいだのか優しい笑みを燐に向けた。

 

「蛍ちゃんだって学校の先生を目指しているんでしょ。大勢の人の前に立つのを慣れておいた方がいいよ」

 

 大学の志望の際、教員が目標と面接で答えたから間違いではないけど。

 

「実はまだちょっと迷っているんだ、小学校の教師になるの」

 

「そうなの!? じゃあ、もしかしてパン屋と?」

 

「パン屋さんも結構面白いから。両方ともってわけには行かないよね、やっぱり」

 

「うん。でも副業(ダブルワーク)を認めてるところもあるみたいだよ」

 

「そうなんだ……でも、赴任する学校がそうなのかは分からないよね。きっと独自のものだろうし」

 

 諦めたように俯く蛍。

 燐はその手をそっと握った。

 

「かもね。でも、迷うことは良いことだとわたしは思うよ。それだけ可能性があるってことだし」

 

 そう言って燐は真っすぐに見つめる。

 

 希望を湛えた瞳。

 数年前とは違った煌めきを燐の瞳の奥に蛍は垣間見た。

 

 とっても嬉しかった。

 燐が自分を見ていてくれることに。

 

「何かそういうの燐らしいね。でも……そうかもね」

 

 燐の言葉に蛍は曖昧な表情で頷く。

 

 けれど、何かの気付きを得たようなさっぱりとした表情になっていた。

 

 燐もそれが分かっているのか、何も言わずただ蛍を見つめ返した。

 

 ……

 ……

 ……

 

「ねぇ、蛍ちゃん」

 

「……うん」

 

 隣で寝ていた燐が目線だけバルコニーの方に向けながら小さく口を開く。

 その先では遠ざかる列車の物音が小さく窓を揺らしていた。

 

 蛍はちょっとうとうとしていたようで、眠そうな声で返事を返す。

 

 明日のことでまだ少し気掛かりな所があったと思ったのだが、睡魔にはやはり抗えないようで、つやっとした瞼を半分ほど閉じながら微睡んだ瞳で燐の横顔をぼーっと眺めていた。

 

「どうして、いつも待っていてくれるの……? わたしと違って蛍ちゃんは強いからひとりでも大丈夫なのに……」

 

 ぼそぼそとした声で燐がそう耳元で囁いてくる。

 

 自分でも何を言っているのかよく分かっていないようで、眠そうに何度も瞬きを繰り返しながら口を開けていた。

 

 燐だって実際相当疲れていた。

 

 大学生活は慣れない事の連続だったし、何より見知らぬ土地の学校でひとりだったから。

 

 今みたいに友達が出来るまでは毎日不安で押しつぶされそうだったし。

 

 それでもいつも変わらない笑顔で待っていてくれていた人がいたから何とかなっていたと思う。

 

 もし大学でも家でもひとりきりだったらきっとこうはなっていなかった。

 

 それどころか進学すらしなかったと思う。

 必要性を感じないと思うし。

 

 だから、聞いてみたかった。

 

 新しい生活もあっという間に2年がたってしまったわけだし。

 

 その、本当の──理由を。

 

「それはね。燐のことが好きだから」

 

「たったそれだけ?」

 

「うん、それだけだよ」

 

 純粋な瞳でこちらを見つめる蛍に燐は返す言葉も見つからなく。

 代わりに薄く笑みを返した。

 

 それはおんなじ気持ちだったから。

 

 好きであるからこそ帰ってくることができる。

 

 きっと待っていてくれると思っているから。

 

「もし明日さ……色々とトチっちゃったら……燐、フォローしてね」

 

 同じ布団の中で蛍が手を握る。

 不安なのか感触を確かめるように優しく擦る。

 

 燐も軽く握り返した。

 

「わたし達、前に歌だって披露したこともあったじゃない。それに比べたらなんてことはないよ、こんなの」

 

 確かにそんなこともあった。

 無我夢中だったから終わった時、放心状態だったよと燐に言われたけど。

 

「あの時は……火が出るぐらい恥ずかしかった。文化祭で燐がやった漫才よりもずっと」

 

「やっぱり、そう思ってたんだ。あの……優香との漫才のこと」

 

 漫才とは何年か前の高校の文化祭で燐と同級生の鏑木優香が二人で披露したものだった。

 

 その時、蛍はすごく面白かったと言ってはいたが、実際の所は。

 

「今だから行っちゃうけど、漫才の内容じゃなくて、燐と優香ちゃんが二人でわちゃわちゃしてたのが面白かっただけなの」

 

 仲間内ならともかく、他人に見せるレベルの漫才では無いのは確かだったが、素人ゆえの支離滅裂感が蛍を含めたクラスのみんなに大うけだっただけだった。

 

 優香はその事に気を良くして、将来は東京で漫才師(コメディアン)になると言っていたのだが。

 

「結局、名古屋の大学に行ったんだよね、優香は。まあ、何だかんだ言って根は真面目なやつだからね」

 

 その中でも相当難しい法学部に進んだみたいだし。

 

 法律家にでもなるのだろうか、あのお調子者だった優香が。

 

「トモちゃんは確かスポーツの推薦だったよね。結構な強豪校に入ったって言ってたけど」

 

 蛍の言葉に燐はあぁ、とちょっと憂鬱そうな声を出した。

 

「トモの奴、キツイ練習ばっかりで死にそうだって、いつもSNSでぼやいてるよ。見てるこっちが気の毒になるぐらい」

 

 良く一緒につるんでいた、田辺、藤井の二人も同じ大学のフィールドホッケー部に入部したのだが、やはりトモと同じく愚痴ばかりこぼしている。

 

 愚痴しか流さないグループだったので、燐はブロックしようかどうか毎回迷ってしまうほどだったが、流石に可哀そうなのでまだ付き合ってはいた。

 

 スポーツに強い大学ということはそれだけ練習もキツイだろうことは分かってただろうに。

 

 元チームメイトの不遇な環境に、燐は哀れむような深い息を吐いた。

 

「頑張ってるんだね、みんな。大変だけど自分のやりたいことをやってるって感じするよ」

 

「蛍ちゃんだってそうでしょ。町の合併の件だってずいぶんと積極的だったじゃない」

 

「あれは成り行きっていうか……それに燐だって手伝ってくれてたでしょ? だからわたしも何かしなくちゃって思っただけ」

 

「何か学園祭みたいでちょっと楽しいよね。あ、でもさ、蛍ちゃん本当にこれで良かったの?」

 

「燐、何のこと?」

 

「だって蛍ちゃん、小平口町のこと本当は好きじゃなかったんでしょ? だから行事に積極的なのがちょっと意外だなって思って」

 

「確かにね。でもこんな町でもわたしが育った町だったから」

 

「蛍ちゃん」

 

 今では三間坂の家は、”旧三間坂邸”として町の文化財となっている。

 

 増築を繰り返した挙句、つぎはぎだらけの家となっていたが、建築物としての価値はあるらしく、外観は補修され家の中には蔵の中で眠っていた、骨董品の数々がショーケース等で展示されていた。

 

 一応入場料をとるようになってはいるが、これにはもう蛍は関与していない。

 

 その代金の殆どが町の管理組合の方に行くようになっている。

 

 実際町が管理しているのだから、もう蛍がとやかくいう事は無かった。

 

 家財道具なんかも展示できるものはそのまま残してある。

 ごく一部を除いて。

 

 ”あの人によく似た”日本人形はマンションの一室にガラスケースに入れて置いてあった。

 

 オオモト様の幼い頃の面影を残した人形に、蛍だけでなく燐も何とも言えない愛着を持っていたのだ。

 

 そしてそれは未だにベッドサイドに置いてあるクマのぬいぐるみと同等に。

 

 蛍は思い出したようにクマの縫いぐるみを手を引いて引き寄せると、ぎゅっと胸元で抱きしめた。

 

 何度かクリーニングに出してはいるが、懐かしい手触りと香りはずっと残っている。

 あの時の思い出と一緒に。

 

 燐はそんな蛍の子供っぽい一面を茶化すこともなく、愛おしそうにその姿を見守っていた。

 

 

「あのさ、今更な事を言っても、燐、笑わない?」

 

「今さらなことって……あの夜のこととか?」

 

「うん、当たり」

 

 クマのぬいぐるみを抱きしめながら蛍は何故か嬉しそうに微笑む。

 燐もつられて柔らかい笑顔を作った。

 

「実はさ、わたしもちょうどあの夜のことを蛍ちゃんと話そうかなって思ってたんだ」

 

 そう燐が言ってきたので、蛍は目を丸くしながらふふっと笑った。

 

「そっか、燐もそうだったんだね」

 

「うん。”そうなることで”何かが変わることはないって分かってるんだけどさ」

 

「それでも、やっぱり気にしちゃうんだよね」

 

「そうだね」

 

 お互いに同じ気持ちであったことが嬉しかった。

 

 そこには怖さなど微塵も感じないぐらいに普通で。

 

 普段のふたりと変わらないいつもの表情で話し合っていた。

 

 そこは諦めと少し違った感覚が少女たちの間にあったからだった。

 

「じゃあさ、燐から話して」

 

 先に蛍が燐に促す。

 

「えー、蛍ちゃんからでいいよ。先に言ったのは蛍ちゃんの方からなんだし」

 

 思いのままに燐は蛍に返した。

 

「確かにそうだけど、燐の方を先に聞きたいな」

 

 そう蛍にはっきりと言われると、燐の方からはもう断るすべがない。

 

「ね?」

 

 ダメ押しのように呟く蛍。

 そう言った後、真っ直ぐに燐を見つめた。

 

 圧を掛けられているとか、そう言った感じはしないけど、曇りのない瞳でじっと見つめられると、燐はもう先に話すほか選択肢はなかった。

 

 諦めたように燐は小さく肩をすくめると、秘密の言葉を言うようなひそひそ声で話し始めたのだった。

 

「何て言うか、そんな面白い話ではないから。あの日の夜に関係する話だし」

 

「分かってる」

 

 蛍は落ち着いた声でそう答えたが、その瞳には期待の色がまざまざと見えていた。

 

(もう、全く……)

 

 今、言ったばかりなのに……。

 燐は小さくぼやくとそっと息を落とした。

 

 もっとも、話す内容はあの歪んだ夜の話なんだし、期待と言うか、そう言ったものではないことは分かっているとは思うが。

 

 蛍は怖い話でも聞くみたいに強くぬいぐるみを抱きしめながら、これから話すであろう燐の言葉に耳を傾ける。

 

 蛍が無意識に頑なな表情になっていることに気付いた燐は安心させるように軽く苦笑しながら話始めた。

 

「あのさ、蛍ちゃん、あの、”変てこなDJ”のことってまだ覚えてる?」

 

 唐突にそう聞かれて蛍は一瞬困惑した表情をとったが。

 

 誰のことを聞いているのかすぐに分かったので小さな声で答えた。

 

「ラジオから聞こえてきたあの”声”のことでしょ? それがどうかしたの」

 

 ──確か、DJゴドーとか自分から言ってた気がする。

 

 結局素性の知れない男の人、だった。

 

 全てを知っているような口ぶりでラジオから雑談やときおり歌なんかも電波に乗せて流していた。

 

 正直、余計な話ばかりをしていたような記憶が残っている。

 でも、重苦しい空気を破るには都合のいい存在でもあったから憎めなかったけど。

 

 軽い口調と喋り出したら止まらない所がちょっと難点ではあったが。

 

「うん、その……アイツさ、もしかしたら何だけど、あれも”お兄ちゃん”の一部だったんじゃないかって思ってるの」

 

「聡さんの?」

 

 蛍はちょっと怪訝そうに眉を寄せて燐に問いかける。

 

 聡はあの夜、二つの存在に別れてたと言っていた。

 

 一つは白い犬。

 もう一つはあの狂暴な猿に。

 

 燐の話だとそれ以外にもう一つ別れていたものがあったということなのだろうか?

 

 そもそも二つに分かれるということ自体、未だに信じられない事なのだけれど。

 

 そう言う意味では彼があの歪んだ夜の中で一番の変化をしていたと思う。

 

 いくら心が二つあったって、実際にそれが分かれてそれぞれ別のものになるなんてことはあまりにも現実離れしたものだったから。

 

 燐の言うように”三つ目”があってもそこまで驚かないというか。

 

 何故、今になってという疑念の想いのほうが強かった。

 

「やっぱり困惑しちゃうよね。急にそんなこと言われても」

 

 燐はしまったとばかりに髪をかきながら、困り顔で笑みを見せる。

 

 寝転がっているからなのか、その笑みはとても儚く見えた。

 

「そんなことないよ。でも、どうして?」

 

 作りものの熊の後頭部に顔を埋めながら、蛍はそう燐に訊ねた。

 

 理由は何となく分かるが、燐の口から本当のことを聞いておきたかったから。

 

「第一、声が違うのは分かってるの」

 

 燐は一旦そう前置きをしてから続きを話す。

 

 だよね、と蛍が小さく相槌を打った。

 

「けど、口調っていうか、今にして思えばあんな理屈っぽく話すのってお兄ちゃんぐらいしか見当たらなかったなって、そう思っただけなんだ」

 

「何か、確信とかあるの?」

 

「無いけど、でも、多分、そうじゃないかなっていう予感だけ……」

 

 語尾の方は小さく消えてしまったところを見ると、燐だって憶測の粋は脱しないのだとは思う。

 

 本人にそうとは聞いてないわけだし。

 きっと聞くこともないと思うから。

 

 ただ、燐はこうも続けた。

 

「お兄ちゃん……()()()だってあの世界でわたし達と普通に話しがしたいだけだったのかなって……謎かけみたいなことを言ってたのもそういう意味合いを持ってたのかなって、今更思っちゃたんだ」

 

「なるほどね。確かにそう、だったのかもしれないね」

 

 今思うと、あの別れた獣は二匹共、まともな言葉を持ってはいなかった。

 

 ヒヒが苦し紛れに最期に発した言葉だって、何というか()()()()()()()()()()()()に聞こえたし。

 

 他の人……変化してしまった町の人達もそう。

 

 顔の中で残っているパーツは口だけなのに、その口から出てくる言葉は意味不明なものばかりだった。

 

 どうでもいい事ばかり喋っていたと思う。

 肝心な事は一言だって喋らないのに。

 

「でも、まぁ、今さらこんなこと言ってもどうしようもないんだけどね。もうずっと前に終わったことなんだし」

 

 燐は眉毛を下げて少し寂しそうに笑みを作った。

 

「終わったんだよね、本当に」

 

 燐の目を見ながらそう呟く蛍。

 

 あれからもう三年の月日が経つのに、確信めいたものは未だに見つかっていない。

 

 座敷童の力が完全になくなったのかさえ分かってはいないのだ。

 

 分かっていることは燐と蛍が今でも一緒にいることぐらいで。

 

 あとは精々──。

 

「それで、蛍ちゃんはどんなことを話したいの? やっぱり座敷童のこと?」

 

 やっぱり燐には分かってしまうようだ。

 まあ、それしか話すことはないとも言えるけど。

 

 蛍は小さく微笑むと、ぬいぐるみを腕から解放して二人の枕の間にそっと乗せた。

 

「座敷童っていうか、オオモト様のこと……」

 

 それは同じ意味合いなのだが、実際はちょっと違っている。

 

 前者が概念で、後者は……いちおう人物名だ。

 

 ほんとうの名前が未だに分からないからそう呼んでいるだけで。

 

 きっと本当の名はあると思う。

 ただ、訊ねなかっただけで。

 

「そういえばオオモト様、最近ずっと見ないね」

 

「うん。それでどうしたのかなって思って」

 

「どう、って?」

 

「やっぱりさ、もう会うことはないのかな、わたし達と」

 

 結局オオモト様とはそれっきりだった。

 蛍は夜の公園で出会った時以来、もう二度と姿を見てはいない。

 

 燐に至っては懐かしいぐらいだった。

 

 幼い頃の姿の彼女に似た少女と実家のパン屋で談笑しただけで、それがオオモト様だったのかすら、今となっては判然もつかないほどだった。

 

 おとぎ話みたいにキツネに化かされた、とすら思ってしまうほどに。

 

 進学してからもふたりはそれぞれ座敷童やそれにまつわる事柄をちょくちょく大学で調べてみたのだが、コレと言ったものは今でも見つかってはいなかった。

 

 もっともこの国で一番大きな図書館に行ったところできっと何も見つからないとは思うが。

 

 実際に燐は興味本位でそこに脚を運んでみたのだが、結局ただの徒労に終わっていた。

 

「そういやさ、オオモト様ってやっぱり”大元”って言葉から来てるんだよね?」

 

 燐は分かりやすいようにシーツの上で指をなぞる。

 それで蛍にも話の意味が分かった。

 

「多分、そうだと思うよ。そういう意味で名付けられたんだと思う」

 

 ”大元(おおもと)”……物事の始まりや起こり、物事を生じさせるところ。

 

 つまるところ、あの人から全てが始まったのだと言うことになる。

 

 町にもたらされた幸運も、そのせいで起きた歪みも、全てはオオモト様から起こったものだと。

 

 だからって恨むとかそう言った感情はないのだけれど。

 

「だよね。じゃあ幸運ってそもそも何なんだろうね。幸福と幸運は違うことは知ってるけどさ」

 

「うん。結局そこに行きつくよね。幸運があったからこそ町は発展できたんだしね」

 

「じゃあさ、もし最初から幸運なんてものがなかったら?」

 

「それは……多分、町そのものが無くなると思う。幸運がなければ人もいなくなるだろうと思うから」

 

「………」

 

 明日に備えて早く眠るつもりだったのに、だいぶおしゃべりが長引いてしまった。

 

 会話の途切れた部屋で静かに雨音が窓を叩く。

 

 明日の降水確率は50%だと予想されている。

 

 できれば雨は降ってほしくはない。

 式典自体は雨天でも決行するらしいが、せっかくの衣装が濡れてしまうわけだし。

 

「今日はさ、もう寝よう。明日は、()()()()出るの早いし」

 

 ふわぁあ、とあくびをかみ殺しながら、燐はスマホのアラームをいつもよりも少し早めにセットしなおした。

 

「うん、そうだね……」

 

 蛍は微睡んだ目を擦りながら話半分と言ったところだった。

 

「何か、まだ心配ごとってある?」

 

 何となく蛍に目で訴えかけられた気がして、燐はそうっと蛍に問いかけた。

 

「そうじゃないけど……そういえばいつの間にかしなくなったねって思って」

 

 意味あり気に蛍が呟いた言葉に燐は心当たりが見当たらず不思議そうに首を傾げた。

 

「”しない”って? それって寝る前のことでしょ? 何かしてたかな」

 

 枕に頭を乗せながら首を傾げる燐に、蛍は何故か顔を赤くして答えた。

 

「ほら、前はよく、裸で寝てたじゃない。寒い日なんかはお互いの身体を抱き合ったりなんかして……」

 

 蛍は途切れ途切れに言葉を作った。

 燐も思い出したのか思わず顔を赤くした。

 

「あはは……そういえば、そんなこともしてたねぇ。エアコンの調子が悪かったわけじゃないのにね」

 

「何か、懐かしいなって思って」

 

 お互いの裸姿を想像してしまったのか、蛍と燐は一瞬顔を見合わせるも、すぐに目を逸らした。

 

 確かにあの時は寝る時にそういう事をしていた。

 

 やましい気持ちがあるとかではなく、ただ寂しかったのかもしれない。

 直に感じられるぬくもりが欲しかったとしか、今は言えなかった。

 

「じゃ、じゃあ、すごく久しぶりだけど、やって……みる? 蛍ちゃんが嫌じゃなければだけど」

 

 そう話を切り出してきたのは燐の方だった。

 

 蛍はえっ、と驚いた顔を見せたが。

 

「りんが……燐がしたいのなら、別にいいよ……」

 

「え、いや、えっとぉ……」

 

 蛍のたどたどしい言い方が妙に艶っぽく聞こえたのか、燐は言葉に詰まってしまい、歯切れの悪い言葉を連ねるばかり。

 

 駅前の高層マンションに二人が引っ越してきてもう三年が経つ。

 

 それでもどこか初々しさが残るのはきっと。

 

 どくどくと鼓動が早くなっているのが分かる。

 聞こえてしまうぐらい早い心臓の音は期待の表れから来るものだろうか、それとも?

 

「やっぱり、恥ずかしいから止めようか。それに今日はそんなに暑くないし」

 

 六月の半ば。

 夏とも春ともつかない、中間の時期。

 

 木々に止まる蝉ではなく、田畑で蛙が鳴き始める季節だった。

 

 あの時と同じ──時期。

 

 何も変わっていないと思っているのは自分達だけで、周りの人や時節は確実に先へと進んでいた。

 

 ではなく蛙が騒がしい外へ出る際も夏服を着るかどうか迷うぐらいだった。

 

 けれど、それが理由なんかではない。

 燐もそれは分かっていたから。

 

「そ、そうだね。それにむしろ裸の方が落ち着かないよね普通は」

 

 言い訳をするような燐の口調に蛍は軽く微笑みながらこくんと頷いた。

 

「じゃあ燐、おやすみなさい」

 

「うん、おやすみ、蛍ちゃん」

 

 静かに照明が落ちる。

 

 黒いカーテンの隙間から街の白い明かりが短く差し込んでいた。

 

 暗がりの中、蛍は急にある事を思いついて、まだ寝入っていないであろう隣にいる燐にそっと話しかけた。

 

「ねぇ、上だけでも脱いで、みる?」

 

「う……そっちの方が余計に恥ずかしいと思う」

 

 すぐ真横から聞こえる呆れた口調に、蛍はそっかと小さく漏らすと静かに瞼を閉じた。

 

 蛍が静かになったのを見計らったように燐も目を閉じる。

 

 それからすぐに燐の寝息が聞こえ始める。

 

 それを見て蛍は小さく笑みを作ると隣で無防備な寝姿をしている燐の頬に手を当てた。

 

 暖かく柔らかい頬にそっと唇をあてる。

 

 バレているは思うがそれでも良かった。

 だってこの気持ちは本物だったのだから。

 

 もう一度小さくお休みを言って蛍は瞼を閉じる。

 

 暗い窓の向こうではざあざあと雨が降っていたが、部屋の中では二つの穏やかな寝息が静かに流れていた。

 

 ……

 ……

 ……

 

 夢、なんだろうか。

 

 何もない真っ暗闇のなかで、テルテル坊主が一体吊るされていた。

 

 その下には小さな手毬。

 

 色とりどり糸で括られた毬が一つ、床に転がっていた。

 

 ただ、それは無残にも真っ二つに割れていて、中の鈴が小さな光を放っていた。

 

 まるで、泣いているように。

 

 

 …………

 ………

 ……

 

 




★PREY(ゲーム)
初見だったから結構時間掛かってしまったけど何とか終わった──。
で、クリアした感想ですが……賛否ありそうなエンディングだったですねー。っていうか複数のエンディングがあるタイプなのですが、最後はどれも一緒なんでしょうか。ちょっと会話の内容が変わるだけで。エンディング条件の一つに”あるスキル”を取り過ぎると一番いいエンディングに辿り着けないらしいのですけど……そんなの初見じゃ分からないぃぃぃ! しかもスキルの取り消しが出来ない仕様となっているので複数回のプレイが推奨みたいですねー。二回目は……うーん今のところないですかなぁ。結構長丁場なゲームでしたし。それに難易度も高いんですよねー。敵が強いっていうのもあると思いますし、何かクリーチャーに対する嫌悪感が先行しているせいなのか早く倒したくて雑なプレイになってしまうんですよねー。途中から難易度も落としたうえでクリアしましたしー。
実際、臨場感があって面白かったです。SFだからなのか常に視界が悪い事も相まって緊張感が半端なかったですしー。
しかし、宇宙に対して恐怖心を感じる人も出てくるかもです……船外作業なんてライトの灯りぐらいしか光がない世界だったですしね。
もう結構古いゲームなのですけど、十分楽しめましたよー。

★ヤマノススメ×黒アヒージョ!?
というコラボをやっているみたいなのです。それも埼玉の飯能ではなく、なぜか地元の千葉で……。
これは県の職員にヤマノススメのファンがいたに違いないですねー。だって原作はともかくアニメ版では千葉なんて殆ど紹介されてなかったですし。唯一出ているのは何話だかのエンディングで鋸山と思しき場所に登ったのが使われたぐらいでしたしねー。
まあ、千葉県はアニメの聖地になりきれないジレンマがあるみたいですからねー。千葉をロケ地にしたアニメも色々やっているはずなんですけどねー。何かいまいち活性化していない感じですしね。
じゃあこれで”黒アヒージョ”とやらが活性化するのかと言われたら……何ともかんとも。私も今回のことで初めて知りましたし。わざわざ声優さんを使ったCMまで作ってるところをみると結構本気なのかな? これからの展開に乞うご期待ですねー。


そういえば、昨年は虎の土鈴があった埼玉の寺院まで行ってきましたけど、ことしは関東三大不動である? ”高畑不動尊”までお参りに行ってまいりましたよー!
でも行ったのは夕方っていうかもう日は落ちてましたし、雨も降って真っ暗でしたけどねー。
おかげで全然人は居なかったですし、五重塔みたいなのはライトアップされて綺麗でしたけどよー。割と近くの方まで行ったことはあったんですが、訪れたのは今回が初めてです。賽銭箱がそこかしこにあってどれに入れたらいいのか迷いましたけどねー。

とりあえず今年も健康且つ平穏無事で過ごしたいものです。

さてさて、近頃はめっきり寒くなってきたので、いつもの珈琲に余っていたウィスキーをほんの少し混ぜています。酔うほどじゃないから大したことはないのでしょうけど、そこはかとない罪悪感を感じるのは何故なんでしょうか……?

あ、そういえば、激遅ですけど。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

それではでは~。




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Special relativity


 
 まっしろ。
 
 視界が全て真っ白けだった。

 瞼を開けたら直ぐに強い光──閃光が目に飛び込んできた。

 刺すような痛さに思わず顔をしかめて再び目をつむる。

 確かあの時もこんな感じだった……?

 空がぴかぴかと光ったと思ったら、轟音と共に稲光、落雷が落ちたんだったっけ……?

 ちょっと記憶が曖昧になったと感じて、意識を集中するように目をぎゅっとつむる。

 絡まった思考を繙いていくように、ほんの少し前の出来事を一個づつゆっくりと脳裏に思い浮かべる。

 瞼の裏側で、ちらちらした小さな光の線が渦巻き状の軌跡を描いていた。


 確か、町の合併に伴う式典の最中だった……はず。

 一旦上がったと思った雨がまたしとしと降ってきてしまい強引と言うか、殆ど押し気味にイベントは終了した。

 それでようやく一息つけたと思ったのだが……。

 それが……これか。

 いつだってかわり映えの無い──世界。
 
 気付いたらそこの地面に横たわっていた。

 こちらの都合など何も考えてくれていない、静謐で、残酷な世界へと運ばれていた。

 きっと意味のない大きな力で。

「だからって何で……何で今になって」

 薄く目を見開き、軽く息を吐く。

 不思議と言うよりもなんかもう馬鹿馬鹿しかった。

 視界がだいぶ落ち着いてきたので、今一度、辺りを見回した。

 何処までも青と白。

 それしかない世界。

 細い糸みたいな地平線の先にはきらきらと銀色に光る線路がどこまでも伸びている。

 大地だと思ったのは、静まり返った無人のプラットフォーム。
 そして、その横に立つ一軒の家もあった。

 つまり、ここが”青いドアの家の世界”だった。

「……」

 蛍は何も言葉を返すことが出来ず、ぺたんと座り込んで呆然となっていた。

 この奇妙な世界、そこにまた来ているという事実にまだ認識できないでいるように。

 もっとも近くて、限りなく遠い場所。

 来たくとも来れなかった場所までようやく訪れることが出来たけれど。

 だからって、驚きとか、感動なんかない。

 ただ、これは紛れもない現実なのだと。

 ──そして、この世界で一人であることも。

 辺りには誰の人影もない。
 自分の一番近くに居た人もいなかった。

「またひとりでここに来たんだ……」

 事実を口に出してみる。

 焦燥感とか寂しさとかは不思議と湧いてはこなかった。

 ただ、何というかひとりぼっちで居ることに何だか久しぶりな気がして。

 懐かしさのような思いを覚えた。

(あれ……?)

 置かれている状況にはそれほど驚かなかった蛍だったが、今の自分の姿をみてちょっとびっくりしたような、不思議そうに首を傾げていた。

 蛍が今、身に着けているのは学校の時の制服でも、もちろん裸でもない。

 合併の式典の時に着せられた”和装と洋装の中間の格好”だったから。

「やっぱり、夢の話じゃない」

 蛍は確かめるように自分の頭を両手でわさわさと触ってみる。

 普段着けているものよりも少し大きめの花の髪飾りは、イベントの為に吉村さんがわざわざ作ったものだった。

 モチーフは、もちろん金盞花(キンセンカ)の花 。

 だがこれは蛍が吉村に頼んだもので、強制されたものでない。

 幼い頃からずっと身に付けていたものでもあったし、やっぱり綺麗だったから、蛍は吉村が作ったキンセンカの飾りが好きだった。

 そしてそれは髪飾りだけでなく、靴や少し短めのスカートの腰の辺りにもアクセントとしてあしらわれている。

 腰に巻いた長いリボンとお揃いの彩りになっていた。

 どう見てもコスプレみたいな恰好でこの現実離れしたな世界にいることに苦笑いしてしまうが、同時にある事実にも気が付くことができた。

「ちゃんと時間は動いているみたい」

 前にこの世界に来た時はもうずいぶん前のことだったけど。

 確か、高校の最後の夏の時に行ったきりだったと思う。

 それからはこちらの世界の気配を感じることも、不可思議な概念などにも目が合うようなこともなかったから。

「…………」

 蛍はまだ空を見上げていた。

 ()()()()()()()()がもうずいぶんと久しぶりだったから頭がどうも追いつかない。

 何か、心の保養になりそうなものを目に入れておきたかった。

 ……
 ……
 ……

 蛍は遠くに視線を凝らしながら、今置かれている状況を受け入れようとしていた。

 もうずいぶんと前から自分にはもう後がないことは知っていたけど、意外にというか何かの偶然でその時は訪れなかった。

 それが必然なのかは分からない、けれどそれを忘れさせてくれるぐらいに充実した日々が続いていたから。

 だからついに──この時がきたと思った。

 町の名前が変わったぐらいで何かが変わるわけがないと言っていたのに、結局はこれこそがきっかけだった。

 他にも何らかの要因があるかもしれないけど、置かれている状況からするとそうとしか考えられない。

(やっぱり、燐の言っていたことは正しかった)

 ただ、自分一人の間だけで起きた異変なのなら、小さいものなんだろうけど。
 向こうの様子が分からないからまだ何とも言えないのだが。

 それでも、今日で”小平口町”という山間の小さな町は無くなった。

 町が死んだというのではなく、他の町と合併して名前が変わっただけ。

 そんな単純すぎる出来事で歪みのような変化が訪れるとは思わなかった。

「それしても、ちょっと安直すぎだったよね、”大平町”だなんて……」

 ぼそっと蛍は呟く。

 合併した新しい町の名前は”大平口町(おおひらぐちちょう)”。
 そう、決まったのだった。

 あまりにも捻りのない名前だと思われそうだが、元々隣町が”大森町”だったから。
 そこと合併したのだから、ある意味では妥当なネーミングだったと言える。

 大森小平口町と言う折衷案も一応出ていたようだったが、町の名前にしてはちょっと長すぎるし、言いにくいとのことで今の名前で正式決定となった。

 それに今日のことも町の名前が変わる為だけのイベントではなく、町に新しく出来たトンネルの開通と、()()()()()()()()()()が重なり合った、複合した記念式典になっていた。

 町の風力発電事業ももう定番のものになりつつあるようで、2機目が出来たと思ったらすぐに3機、4機と短期間での建設ラッシュが続いていた。

 この周辺地域は風が良く流れる為か、太陽光発電なんかよりも風力発電の方が電力の効率が良いらしくまだあと数機、建設の予定があるらしい。

 あんな細長い物が山に何基も出来ることに崖崩れを誘発するのではないかと危ぶまれる声もあったが。

 どうやらこの辺りの地域の地盤は意外なほどしっかりとしているようで、過去に何度も水害の危機にさらされたことがあったが、その際に山崩れなどの大規模な災害が起きたことは一度もなかったことが記述されていた。

 あの石碑のあった山の血のように赤い色の土も今では結構貴重な土壌だったことが調べて見て分かったし。

 元々から良い土地を持っている地域だったようだ。
 山の奥にあるというだけで。

 だが、それらはもしかすると座敷童の力──幸運の因る所なのかもしれない。

 彼女たちの遺したものが今になって町の人達に理解されている。
 そうとも言えた。

 小平口、いや大平口町はその内、山間の風車の町として売り出すのではないか、と囁かれるぐらいにこの事業は安定、発展しているようだった。

「大平口……ね。まあ、そんな大きい感じはまだしないけど」

 蛍はまだ馴染みのこない新しい町の名前に愚痴をこぼしながら、青い空に手を上げて背筋をぐっと伸ばした。

 その式典にまで出ておいてこう言うのもなんだけど、まだ当分新しい町の名称には慣れそうにはない。

 例えば、ある日を境に親しくしていた人の呼び方が急に変わってしまうみたいに。
 どこか他人行儀な白々しさを感じてしまう。

 例えがおかしいのかもしれないが。

 まあ、いつか慣れるとは思っているけど。

(そういえば、燐は、どうしてるのかな)

 ここには居ない友達のことを考える。

 前みたいに後から来てくれればいいのだろうけれど。
 もう、それにも期待できそうにない。

 何となくだがそう感じた。

 それを心寂しく思う自分もいれば、同じように飛ばされなかったことに安堵する自分もいる。

 揺れ動く二つの心を俯瞰した気持ちで見ていたが、すくっと立ち上がるとその場でくるりと身体を一回転させた。

 蛍は何か、神秘的なものになりきっているみたいに微笑んでいた。

 長い黒髪と、腰に巻いた赤い帯が白い大地の上でひらりと舞う。

 無邪気で可憐な花が、静謐で孤独な世界で一輪だけ咲いていた。

 ……
 ……
 ……

「やっぱり……何も来ない……」

 何をするわけでもなく、とりあえず無人プラットフォームのベンチに腰かけていた蛍だったが、どれだけホームで待ってても列車どころか何も訪れない事実に溜息をこぼしていた。

 そうそう思い通りに行くわけが無いのは十分わかっていたけど。

 蛍は膠着しきった心と体を解すように思い切ってぐっと立ち上がった。

 関節がぱきっと言うことは流石にないが、何かとても大事なものが音を立てたような。

 そんな思いに駆られた。

 そんな気持ちとは裏腹に風景は雲が流れ、遠くで水面が光っている。

 一幅の絵画のような情景に改めてここがいつもとは違う場所であることを頭で理解することができた。

 何にしても、だ。

「青いドアの世界にいるんだ……もう失われたと思ったこの地に」

 感慨深く蛍は思った。

 この世界は怖いとかいうよりも何というかちょっと不思議で、少しどきどきとする。

 誰も知らない秘密の場所みたいなものだったから。

(やっぱりちょっと落ち着く感じがする……それはそれでおかしいのかもしれないけど)

 明らかな異空間にいるのにそう感じ取ってしまうのはやはり知っているからだと思う。

 ちょうど三年になる。
 あの囚われた夜の世界で、唯一落ち着くことが出来た場所がここだった。

 何もない世界。

 これと言って有用なものは一つもなく、風も匂いさえもない殺風景な世界だったが、それでもあの悪夢の様な世界とは違った安らぎの場所だった。

 大きく息を吸い込む。

 ふたつの肺に良く知る空気とは少し違ったものが入り込んでいき、世界と一体になった感じになった。

 けれど、怖い感じはない、それどころかむしろ。

(心地よい……感じがする)

 ずっと失くしていたものをようやく見つけ出した時みたいに。

 静かに胸が高鳴っていた。

 ここが終着駅かもしれないのに。

「そういえば、この空」

 首を少し上げ、再確認するように蛍は空を振り仰ぐ。

 こうしてみると向こう(げんじつ)の空とそれほど変わりない。

 ただずっと晴れのまんまであることと、風も太陽もなく、ぼんやりと空の向こう側が光っているという細かな違いぐらいで。

 ペンキみたいな彩りをしているけど、空は空だった。

「とっても、青い……青くて、綺麗」

 向こうの世界が雨の日でも夜でも、ここではいつだって爽やかな初夏のように澄み渡った空が広がっている。

 きっとこの世界を思い描いた人の一番いい景色なのだろう。
 暑くも寒くもなく、程よくちょうどよい情景。

 絵に描いたような美しさと、現実感のない風景がどこまでも広がっている。

 久しぶりだからなのか、その混じりけのない青が少し目に沁みた。

 他に誰もいないことも理由なのかもしれないが。

 蛍は白い指で目元を軽く拭った。

 ……
 ……
 ……

 とりあえず──行ってみるしかなかった。

 もうそこに行くことしか出来ないとも言えるけど、身体がその方に向いていて足が自然と動いていたから。

 抗うようなことはもうない。
 きっとこれが望んでいたことだから。

 ”青いドアの家”。
 
 蛍は、その家の前に立っている。

「やっぱり、前に来た時とそれほど変わってない感じする」

 首を横にしてみても確かにそう見えた。

 前とは家の外観は少し変わっていたけれど、その呼び名は変わっていない。

 もっとも大きな変化があったとしても何も変わりはしないだろうけど。

 ずっとこの世界での家なのだろうし。

 蛍は戸惑うような素振りも見せず、空をそのまま切り取ったみたいに綺麗な青の扉のドアノブに手を掛けて、躊躇なく前へと引いた。

 鍵は掛かっていない。
 かける意味すらもないから当然だけど。

 今回は呼び鈴すらも押さなかった。

 きっといたら居るだろうし、居なければそういうものだと思っているから。

 礼儀とかそういうのは必要なのかもしれないが、()()との間にはそういった形式ぶったことすら必要ないように思えていたので。

 静まり返った玄関で靴を脱ぎ、丁寧に並べていたスリッパに足を通す。

「別に、わざわざ出迎えてくれなくてもいいのに」

 誰ともなく口をこぼすと、目的地であるリビングへと向かった。

 やはり……誰もいない。

 きっとそうだろうとは思っていた。

 もうここには自分以外誰も来れないのだと。
 
 ある種の確信を持っていたから。

「……」

 天井に備えてある、空気を循環する為のファンがくるくると静かに回り続けているところを見ると、普通に電力は通っているようだ。

 だとすれば恐らく水道も使えるだろう。
 飲む気はしないけれど。

 そういう意味では暮らすのには申し分のない所だろう、この家というのは。

 ただ、それすらも幻想なのかもしれない。

 この世界は地球上には存在しない夢の、想いの結晶体みたいなものだろうと思っているし。

 存在が消えるまでにまだ時間があるのなら、この世界の事をもう少し調べてみてもいいのかもしれない。

 それを追うものも、追われるものももうないのだから。

 蛍は習慣づくのようにベージュのソファにぽすんと座ると、当たり前のようにテレビのリモコンを手に取った。

 カチッ。
 ボタンの手ごたえは確かに感じられて電源は入ったようにみえたのだが。

 ──何も映らない。

 どのチャンネルを押してみても薄型のテレビ画面には黒しか映らなかった。

 あの不思議な車窓からの映像どころか、ノイズを具現化したような砂嵐すらも映らない。

 まるで全てが閉ざされてしまったみたいに。

 外界や周辺の情報すらも。

 蛍はその事に絶望を感じなかったが、ちょっと寂しい気持ちになった。

 何に?
 もしくは誰に対して?

 それは分からなかったが、何かとても大切ななことを忘れているのではないかとは思っていた。

 飛ばされてた時からずっと考えていたこと──。

「そうか、そうだったね」

 蛍は独り言ちたように頷くと、祈るように両手でテレビのリモコンを握りしめながら瞼を閉じる。

 そのまま少しの間じっとしてたが、急にぱっと目を開くとリモコンのボタンを押してチャンネルを何度も切り替え始めた。

 強く押したり、軽く押したりと緩急をつけてみたがそれでも画面は変わらない。

 黒い画面が黒に切り替わるだけ。
 何度やってみても同じことの繰り返し。

 それでも蛍はボタンを押すのを止めなかった。

 前もそうだったから。

 一縷の細い望みをつなぐようにチャンネルを切り替え続ける蛍。

 いつまでそうしていたかは分からない。

 そして遂にその時が訪れた。

 ──ぶつん。

 小さな音がして、急にリモコンからの反応が無くなってしまった。

 蛍は慌てて電源ボタンを押すも、時すでに遅く、黒いスクリーンは役目を終えたみたいにぷっつりと動かなくなってしまった。

 呆気に取られたように蛍はその行為を黙って見送っていた。

 しばらく経って、はぁ、と深いため息をつくと、テーブルの上にリモコンを放り投げて、ソファに深く背を埋めた。

「そっか」

 小さなつぶやきは無限運動を続けるみたいに回っている木製のプロペラにかき消されいた。

 蛍はふと、あの奇妙な”蛾”の事を思い出していた。

 今思えばあれこそが歪みの始まりであったと。

 もしあの時、あの不可思議な翅を持つ”蛾”のことを見つけなければなんて、そう思うこともあったけど、もうそれもどうでもいいことだった。

 どうせ何も変わらない。

 異変が起きてしまったことも、彼がああなってしまったことも、そして……。

(燐……)

 彼女が、世界で一番大切な人がここにいないことも。

 確か前に一人で来た時は、オオモト様が居てくれたからちょっとは気は紛れたけど、それももうない。

 ここは完全にわたしの家になってしまったのだと。
 それが分かった。

 違和感がなかったから、このリビングに一人でいることに。

 この家で独り悠久の、いや永遠の時を過ごすのだろう。

 誰か新しい、同じような性質を持った者が現れるその時まで。

 ずっと、ずっと待ち続けるのだ、意味もなく。

「……」

 何か急に肩の力がすっと抜けた気がする。

 縛られていたものからようやく解放されたような、ちょっと気が楽になった気になっていた。

 究極の絶望からくる究極の楽観的な感覚、それに似たようなものなのかも。

 幸福感とはちょっと違う気もするが。

 恐らくこういった感情は多分、一過性のものだろうとは思っている。

 もうしばらくすればこの状況にも慣れて、きっと感情すらも失うだろうから。

 あの人の──オオモト様のように。

「さてと」

 蛍は意味もなく言葉を作ると、こうしているのも飽きてしまったかのように立ちあがり、慣れた動作でキッチンへと向かった。

 あのままソファで膠着していたらそのまま溶け込んでしまうのではないかと、ちょっと思ったからだった。

 そしてそれはそんなに間違いではないことも知っていたから。

 取り立てて、まず蛍は冷蔵庫を開けようとした。

 だってそうしていたから、いつも。

(そう、燐はそうしていた)

 何故そうしていたのかは分からないけど、燐は決まってこの家の冷蔵庫を開けていたのだ。

 確かに冷蔵庫というのは好奇心をかき立てるものがあるとは思う。
 中を見るだけでその家の生活感や、習慣を垣間見ることのできるものだから。

 蛍はそこまで興味を引くわけではないが、燐がそうしていたから蛍もそうした。

 テレビがああなってしまった以上、もうここぐらいしかないとも言えるが。

 キッチンと同じ色の白い冷蔵庫の取っ手を掴んだ瞬間。

 ──急に音がした。

 それは声ではなく、確かに音。

 でも、音にしては小さすぎるというか……蛍は冷蔵庫の取っ手を掴んだままきょろきょろと辺りを見渡す。

 微かな音だったから、すぐ近くから出ているのだろうけれどその発信源が分からない。

 やはり冷蔵庫からだろうか。

 防犯的なものが備えているとは思わないけど、直近で蛍が何かしでかしてしまったのはこれぐらいしかないし。

 テレビの方からは音はしていない、むしろすぐ近くだったから──。

 そこで蛍はハッと気付いた。

 よく考えるとそれは音ではなく──。

「もしかして、携帯!?」

 蛍はへんてこりんな衣装のポケットを弄る。

 和風と洋風を掛け合わせたような、ともすればアニメか何かのコスプレ衣装みたいだったが、それでも簡易的なポケットみたいなのは備え付けてあったから。

 それこそスマホぐらいしか入らない程度のものが。

 蛍は反射的にそこに手を突っ込む。

「あっ!」

 確かに手に当たるものがあった。

 結構重量のあるスマホだったから持っていたのならすぐに気づくはずなのに。

 恐る恐る取り出してみると、そこには振動を繰り返している、いつもの自分のスマートフォンがあった。

 その正体は音ではなく携帯の振動だったのだ。

 蛍は画面も見ずにタッチパネルに触ると、催促するように震え続けるスマホの通話ボタンを押した。

 誰からの電話なのかは分かっているつもりだ。

 それでも、聞かずにはいられなかった。

 ほんとうに大事な人の名前を。

「燐!? 燐だよね!??」

 蛍は無意識に大声で叫んでいた。

 もしかしたら反応がかえって来ないのではないかと胸をドキドキして待っていたが、意外にもそれは割と直ぐだった。

「もしもし、蛍ちゃんなの!? 今どこなの?」

 ノイズ混じりの少女の声が、固く握りしめたスマホから流れてきていた。

 ──
 ──
 ──




 

 

「せーのっ、乾杯~!」

 

「うん、乾杯」

 

 ちぃんと、小さくグラスが鳴った。

 

 受話器越しから出てきた乾杯の音頭に蛍は複雑な顔で小さく笑みを作りながら、水の入れたグラスを指で軽く弾いた。

 

 グラスを合わせる相手はここにはいなかったけど、声はあったから。

 

 それまで静かだった世界に少し奇妙な生活音が生まれていた。

 

 ただ、それは透明な水しか入っていないグラスの音などではなく、スマホから次々生まれてくる明るい声がそうさせていたからだった。

 

「お疲れ様、燐」

 

 何やら変な感じだったが、燐とこうして言葉を交わせること自体が不思議そのものだったのから、蛍は特に気にするような事は口にせず、自然な口調で燐に労いの言葉をかけた。

 

 燐もそれが分かっているのか、いつもの調子で話を続ける。

 蛍が不安がるような事は微塵も口にはしなかった。

 

「あはは、蛍ちゃんもお疲れ様だったね。やっと式が終わったと思ったら”青いドアの世界”に来ちゃうだなんてね」

 

「本当にそうだね。まだ自分でも信じられないぐらいだよ」

 

 こうして青いドアの家の中にいてもまだそう思う。

 

 ただ、燐と話が出来たことで自分が本当に違う世界にいることが分かってしまったけど。

 

「でも、ちょっと羨ましいな。だってわたしも”青いドアの家”にまた行ってみたかったから」

 

 燐は衒いの無い言葉を口にする。

 

 自分の家のパン屋にまで”青いドアの家”と名付けるぐらいだからそれは燐の本心からの思いだった。

 

「わたしも燐と一緒に来れたらって思ってる。でも、燐が無事で良かったよ。そっちでは変なこととかは起きていないんでしょ?」

 

 燐の口調には切羽詰まった様なものは感じられないから大丈夫だとは思うけど。

 

 一応、聞いてはおきたかった。

 

 燐や大切な人たちが酷い目にあっているのに、自分だけこっちの世界でのうのうとしているのだったら、きっと気が気じゃなくなるだろうから。

 

「うん、もちろん。ちょっと小雨は降ってるけど、他はいたって普通だよ。停電だってしてないし、まだ夜でもないしね。町の人達がちょっと浮かれているってだけで」

 

 声を潜めて笑う燐に蛍もつられて苦笑いする。

 

 町に何の異変が起こっていないことに蛍はそっと胸を撫で下ろしていた。

 

「じゃあ、今、燐の周りがちょっと騒がしいのってそのせいなの?」

 

 他の人の声が近くからするから、野外とは少し違う気はするけど、その環境のせいなのかどうにも声が上手く聞き取れない。

 

 燐の声だけが聞きたいだけなのに。

 

「確かに、ちょっとうるさいよね、うん。今、打ち上げ会の会場にいるんだよ。蛍ちゃんの姿が急に見えなくちゃったからてっきりこっちに来てるのかなって思ったんだけど。まさかそっちに居るとは思わなかった。大丈夫、怪我とかしてない?」

 

 蛍は今自分の置かれている状況がとても恵まれていたことに気付いた。

 

 声で繋がっているだけでなく、心配までしてくれる人がいる。

 

 これ以上の幸いなどどこにあるのだろうとさえ思ってしまう。

 

 蛍は小さくお礼を述べると、心ばかりの笑みを作って燐に言葉を返した。

 

「ありがとう、燐。でも大丈夫だよ。わたしは何ともないから。そういえば、”マヨヒガ”だったっけ、打ち上げ会をやっているのって」

 

「うん、そうだよ。マヨヒガにみんな集まってる。あ、うるさいならもうちょっと静かな所に移動しよっか」

 

 燐はどこか人気のないところに行くようだったが、それを蛍はやんわりと遮った。

 

「いいよ、燐。大丈夫だから。ここでも燐の声は十分聞こえるよ」

 

 確かに少しうるさいが耳を澄ませば問題はない。

 

 こうして繋がっているだけで嬉しいのだから、これ以上余計な気を燐に使わせたくは無かった。

 

「そう? ごめんね蛍ちゃん。もう少ししたら会もお開きになると思うから」

 

 電話越しに申し訳なさそうにまた謝る燐。

 

 その声もかき消されそうな程、電話の向こうでは騒がしくしているようだった。

 

 数十人ほどの人が宴会をしている。

 そんな感じが容易に想像できた。

 

 昔、蛍の家でもそういう事をやったことがあったし。

 

 お酒を飲めるものは良いが、そうではない人は大して面白くないだろうことも。

 

(それにしても……”マヨヒガ”か)

 

 こっちの世界もそう呼ばれていたようだったけど。

 

 燐のいる”マヨヒガ”は本当に少し前まで”儀式”として使われていた使われなくなった旅館のことだった。 

 

 本当に忌まわしいと思える儀式を行っていたのだ。

 蛍の家のすぐ近くで。

 

 しかもそれにだってちゃんと意味があったのだから、何というか用意周到過ぎたのだ。

 

 ”分かっていた人達”、つまり三間坂家の者たちは。

 

 そのせいであのような歪みが起きたのだとも言える。

 

 合理性を求めすぎた故の非人道的な行為。

 

 幸運を求めるあまり底知れぬ闇を生み出していたのは自分たち自身だったのだと。

 

「蛍ちゃん? わたしの声、やっぱり聞こえづらい?」

 

「あ、ううん、そんなことはないよ。それより燐は、今何か飲んでる?」

 

 蛍は少し無理に話題を変えた。

 

 何となくマヨヒガに関してのことはあまり話したくないというか、これ以上は掘り下げたくなかった。

 

 こちらでの現実を直視してしまうことになるし。

 

 それにもうマヨヒガでは、儀式など行われていない。

 今では正式に町の旅館になっていたのだ。

 

 ”座敷童に会える旅館”として。

 

「あ、わたしはジュース、っていうかサイダーかな。ほら、町の合併記念の”大平口サイダー”。あの後、関係者にも配られたんだよ。まあ、試飲を兼ねてだろうけど」

 

 燐のその口ぶりからだと、新しい商品を広めて欲しいということで配られたらしかった。

 

 ”大平口サイダー”とは、二つの町が合併した大平口町が新しい町のPRとしてわざわざ作り出したものの一つで。

 

 同日に町の至る所で売られるようになるようになっていて、旧小平口町の唯一の名産でもあった、緑茶がふんだんに使われている、お茶風味のサイダーだった。

 

 お茶の名産地等にはこの手のサイダーは多数あるみたいだが、大平口サイダーは従来品のものよりも味だけでなく見た目の色の深さが他製品よりも濃淡になっている、との触れ込みだった。

 

 蛍はまだ飲んだことがなかったから良くは分からないが、PRでの発表だけだから信憑性はあまりないと言える。

 

 実際に飲んだ燐も。

 

「まあ、飲めない程ではないね。目新しさにはちょこっと欠けるけど」

 

 頼んでもいないのに燐はそのサイダーの感想を言ってくれていた。

 蛍はへぇー、とスマホの前で頷く。

 

「もちろん蛍ちゃんの分もちゃんと貰ってあるからね。帰ってきたらすぐに渡すから」

 

「うん……あ、でも別に燐が飲んじゃってもいいよ」

 

 本当に蛍はそう思っていた。

 けれど燐は違っていたようで。

 

「だーめ。これは蛍ちゃんが頑張った分の報酬みたいなものだから。だから戻ってきたら一緒に飲もうね、わたしも自腹でもう一本ぐらいはお情けで買うつもりだし」

 

「くすっ、もう燐ってば」

 

 要らないとまでは言うつもりはないけど、そこまで欲しいものではない。

 式典の対価にしてはささやか過ぎるし、サイダー自体にそこまで求めるものはないから。

 

 だけど。

 

「うん。分かった。じゃあ家の冷蔵庫に入れて置いてね」

 

 蛍はそう言って受話器越しに小さく微笑んだ。

 

 気持ちが暖かくなったのはもちろん町おこしのサイダーなんかではない。

 

 燐との小さな約束事に心があったかくなった。

 

 ランプが淡い光を放つように、蛍の冷えた心に”燐”というほのかな光が灯っていた。

 

「蛍ちゃんは、”お水”飲んでるんでしょ、どう美味しい?」

 

「えっ?」

 

 思ってもないことを急に聞かれて、蛍はついスマホのスピーカーに手を当てていた。

 

(美味しいかってって、そんなこと聞かれても……)

 

 燐は以前、この水をまるで”ガラスの水”と形容したことがあると言ったことがあるが、その表現は間違いではない。

 

 それぐらい透き通っていたし、それに味だって。

 

 蛍も以前、燐と一緒に飲んだことがあったが確かに燐の言っていたように”ガラス味”にしか思えなかった。

 

 そのことを燐に聞かれたことであの時の味を思い返してしまったのか、蛍は別に喉が渇いていたわけではないのにごくっと喉を鳴らしていた。

 

 悪気があって言ったわけではないのは分かるけれど……。

 

 初めてこの、”青いドアの世界”に来たときには、燐とは違って指で舐める程度すらもしなかったから。

 

(やっぱり飲んだ方がいいのかな、一応、乾杯をしたわけだし)

 

 今の大学でもこういうのはあった。

 

 新入生の歓迎パーティーとか、サークルに所属したときなどにも。

 

 飲酒にはまだ早い年齢だったから、お茶など飲んで丁重に断ってきたけど。

 

 これは。

 

「あ、ごめんね。別に変な意味はないから無理しなくていいからね」

 

 蛍が暫く黙っていたことに何かを察したのか、気遣いをするような燐の声がスマホから届く。

 

 だがそれは蛍には逆効果のようで。

 

 蛍は燐の思いとは裏腹にグラスを取ると。

 

「じゃあ、今からちょっと飲んでみるね」

 

 そうスマホに言うと、恐る恐るコップを口につけた。

 

 最初はちびちび飲もうかと思ったのだったが、結局一気に飲んでしまった。

 

(……なんていうか)

 

 相変わらずの無味無臭。

 しかも冷たくもないから爽快感すらもない。

 

 美味しいとか不味いとか言う以前に、水と言う概念ですら怪しいものだった。

 

 飲むのを止めておけばよかったかも。

 そう、思っていたのだったが。

 

(あれ……?)

 

 蛍は目を細かに見開く。

 

 小さな舌の上で何かが広がっているのが分かったから。

 

「何か、味みたいなのが分かった、のかも……?」

 

 まだ半信半疑と言った所だが、これまで感じることのなかった味覚のようなものをこの世界の水から感じることが出来ていた。

 

「本当? どんな味だった」

 

 感情が声に宿ったみたいに燐の驚いた声が耳朶を打つ。

 

「うん、なんていうかまだ上手くは表現できないけど。そうだなぁ……ハチミツみたいなのを薄く溶かしたみたいな……そんな繊細な味がしたような気がしたの」

 

 美味しかったかどうかはさておき、甘味を感じたことは蛍にとって驚くべきことだった。

 

 この世界で味覚を得たことは一度としてなかったから。

 自分だけ感覚が麻痺しているのかと思ったぐらい。

 

「それなら良かったね。でもさ、人によって味が変わるお水ってあるのかなぁ」

 

「じゃあ燐は違う味だったの?」

 

「うーん、そんなに覚えてはいないけど……」

 

 燐は考え込んでいるのか、しばらく黙ると。

 

「たしかね、これは水! って感じの味だったと思う。普通の水の味だったなぁって」

 

 そう言って燐はスマホに向かって苦笑いをする。

 

「はぁ」

 

 それとは対照的に蛍は何とも呆れた声をあげた。

 

 けれど、燐とようやく想いが共有できたことに少しの胸のときめきも感じてはいた。

 

 ──

 ── 

 

「じゃあさ、せっかくこうして話が出来るんだし、作戦会議でもしよっか」

 

「うん? ”作戦会議”なの」

 

 蛍はグラスを軽く洗って棚へと戻すと、キッチンの上のスマートフォンに聞き返した。

 

「だって、蛍ちゃん。まだ戻れそうにない感じなんでしょ?」

 

 そう素直に燐に聞かれて、蛍はうっと言葉に詰まった。

 

 ”この世界に蛍ひとりで来た意味”。

 

 燐もオオモト様もいないとなると、やはりそういう事なのかと思ってしまう。

 

 随分前にこの世界にひとり飛ばされた時もそう思っていたが。

 

 実際は、三人とも同じ世界に居た。

 ただそれぞれが直接出会うことがなかっただけということで。

 

 でも今回は──本当にひとりきりだったから。

 

「うん……多分ね、電車ももう来ないと思う」

 

 蛍としては燐に余計な心配は掛けたくはなかったが、顔がみえないせいもあるのかもしれない。

 

 割と素直に燐に想いを吐露してしまっていた。

 

 不安な、胸の内の(わだかま)りまでも。

 

「だったら、色々な案を出してみようよ。時間はまだ全然あるんだし」

 

 スマホの前でちょこんと座る蛍に燐はそう提案をした。

 

 何てことないみたいに言う燐の声色に安堵する。

 

 気を使うような声でもなく、不安をかき立てるようなこともない。

 普段通りの明るい燐のままだったから。

 

 きっと無理をしているのだろうと思うけど、今はそれを言うことはない。

 

 スマホから流れる燐の声だけが現実で、後は全て夢の中の出来事。

 

 他に信じるものは何もない、そう言い切れることができるほどに。

 

 燐とその声に縋りついていた。

 

「テレビも映らないんだったよね? 蛍ちゃんの話だと。電気が来てないわけではなさそうなんだろうけど……」

 

「何度も試したんだけどダメだったの。前とは何かやり方とか違うのかな」

 

 もうこの世界に来てしまったことは仕方がないこととして、とりあえず試していくほかなかった。

 

 やはりと言ってよいのかは分からないが、どれだけ待っていてもオオモト様はその姿を今でも現せてはくれない。

 

 前に来た時には、もう自分の──蛍の家だと言っていたから。

 

 だから居なくなったとしてもある意味では当然なのだろうけれど。

 

 急にそう、オオモト様に言われてただけで蛍は了承すらしてはいないが。

 

 もし本当に”青いドアの家”が蛍の家になったのだと言うのなら。

 家だけではなく、この世界全てが蛍のもの……つまり”蛍の世界”になったはずである。

 

 この平面のような世界にはこの、青いドアの家ぐらいしか主だったものはなかったのだから。

 

「どうしたらいいのかな、これから」

 

 つい燐に助けを求めてしまった。

 

 あらかた試しても何の成果が得られなかったことに、蛍はため息ともつかない声をスマートフォン越しに漏らしていた。

 

 それで燐に相談というか、助言をしてもらうよう頼んでみたのだったが。

 

「そうだね……つまり、青いドアの世界に閉じ込められたってことになるのかな」

 

「そういうことになるんだろうね、多分」

 

 もしかすると最初から分かっていたことだったのかも。

 

 そう思われていても何もおかしくはないほど、こうなることが予想出来ていたのだ。

 

 ただそれが何時なのかが分からないと言うだけで。

 

 作戦会議と言ったからには燐には何か”策”みたいなものがあるのかもしれない。

 

 そう思って蛍は思い切って聞いてみたのだが。

 

「ごめん、正直わたしも……よくわからない。蛍ちゃんが青いドアの家に行ったのにも、こうしてスマホで会話できていることもまだよく分かってないんだ」

 

「燐もそうなんだね」

 

 しょげ返ったみたいに声を落とした燐に合わせるように蛍も声を潜めた。

 

「ごめんね、全然力になれなくて」

 

 期待を裏切ってしまったと思ったのか、燐は苦笑いしながら蛍に謝罪の言葉をのべた。

 

「そ、そんなことはないよ、わたしなんか急に視界が真っ白になったと思ったらここに来ちゃったなあってだけで。ただ、燐なら何か知ってるかなって思っただけだから」

 

 言い訳めいた言葉をつらつらと連ねてしまったが、何故かそれが燐には面白かったようで、ぷっと小さく噴き出していた。

 

「あ、ごめん。わたし変なこと言っちゃったよね」

 

「ううん、いいよ。蛍ちゃんのお陰で少し緊張が解けた気がするもん」

 

「それならいいんだけど……」

 

 そう言って安堵の息を漏らす蛍。

 

 どうせ誰もいない世界なのだし、それに元気のない燐の声を聞くのは耐えられなかったから。

 

「とりあえず、お互いの知ってる情報を出していこう。何かこう、条件付けみたいなのが分かるかもしれないしね」

 

「そうだね」

 

 二人はほぼ同時にスマホの前で頷くと、少し前の状況を脳裏に思い浮かべた。

 

 確か一度やんだ雨が小さく降り始めて、みんな慌てて仮設のテントや軒下に避難したときだったと思う。

 

「何かさ、カミナリみたいなのが落ちなかった? 会場の、すぐ近くで」

 

 燐は紙でも持っているみたいにぐるぐると指を回しながら、蛍にたずねる。

 

「それ、覚えてるよ! ものすごい音がしてわたしビックリしたんだよね。頭の上に雷が落ちたかと思っちゃった」

 

 そこまで雷を怖がらない蛍だったのに、あまりにも大きな音が響いて、反射的に隣に居た燐にしがみ付いていた。

 

 流石の燐もに驚いてしまったようで、蛍にぎゅっと抱き付いたままだった。

 

 多分その時だったのだと思う。

 

「蛍ちゃんに抱きついてたら、急に何か軽くなったっていうか……」

 

 燐はその時の感触を思い出すように指を蠢かす。

 

 目を閉じている間に何かのトリックが起きたみたいに蛍の気配が消えていたから。

 

「わたしは良く分からない内にここにいたんだよね。燐とは違って」

 

 二人一緒に居たはずなのに、何故蛍だけが青いドアの家に行ったのか。

 

 稲光が鳴り響き、空が一瞬白く染まったと思ったらこうなっていた。

 

「そういえばさ、町の人たち式典に随分来ていたよね」

 

 ぽつりと蛍は言葉をこぼす。

 

 合併の式典は予想よりもずっと多くの人がいた。

 

 新しい町の町長や自治会の人、その町長になりそこねた大川の顔もあった。

 

 穏やかな顔で式に参加していたが、実際の所はどうかは分からない。

 欲望みたいなものが見え隠れしているようも見えるが、別にどうと言うこともないだろう。

 

 蛍の元家政婦でもある、吉村も、蛍や燐と同じくお手伝い(ボランティア)として参加していた。

 

 燐の母親である咲良は……いつものパン屋の作業着姿ではなく、最近では着る姿を見なくなった黒のスーツ姿で参加していた。

 

 それはまあいいのだが、何故だか式典の最前列で立っていたのだから。

 

 傍目から見ればいわゆるバリキャリ風に見えるのかもしれないが、燐にしてみれば入学式や授業参観日に張り切り過ぎてしまった母親そのものにしか見えなかったから。

 

 まさに。

 

(顔から火が出るほど恥ずかしい……)

 

 とはこのことだった。

 

 明らかに浮いている、とまでは言わないにしても、他人事みたいな振る舞いをしている母親の姿に燐は何とも呆れかえってしまったわけで。

 

 ()()には一言も触れずに、わざわざ訪れてくれた顔見知りのことだけを話した。

 

「……トモなんかもわざわざ来てくれてたしね、さっきまで一緒に居たんだよ。田辺や藤井と一緒に」

 

「今は、トモちゃん達と一緒じゃないの?」

 

「あぁ、うん……部活の練習があるからって帰っちゃった。何か三人とも目が死んでいるみたいだったよ。だいぶ疲れが溜まってるのかもね」

 

「それでも練習に行くんだから凄いよね。わたしだったらとっくに辞めているとおもうよ」

 

 蛍の口調には尊敬というか、ちょっと信じられないと言った驚愕したものが含まれていた。

 

 実際蛍の所属しているサークルは顔を出さなくとも問題の無い全然ゆるめのものだったから。

 

「わたしも辞めちゃうと思うなー、やっぱり」

 

 燐も蛍と似たり寄ったりのサークルに所属してるからか、乾いた笑みを浮かべていた。

 

「それにしてもさ、人、凄く多かったよね。町にあんなにも人が集まるものなんだなって、わたしちょっと感心しちゃったぐらいだよ」

 

 小平口町なんかに特に縁もゆかりもない、二人の高校の時の同級生なんかもちらほらやって来ているぐらいだったし。

 

 合併と言う町の一大イベントだったからこその人出なのだと思う。

 

 出店も信じられない程数多く軒を連ねていたわけだし。

 

 普段出向いてくるはずのない議員の人なんかも来ていたから、相当なものなのだろう。

 

「それはわたしも。お祭りなんて何もない町だったから余計に人出が多かったのかもね」

 

 蛍が知る限り、小平口町で普通のお祭りをやっていたという記憶はない。

 

 代わりに、と言ってはなんだが、座敷童を祀っていたのだろう。

 

 秘密裏な儀式として。

 

 だがそれももう、人々の記憶から無くなったせいからなのか、新しい町は必要以上の盛り上がりをみせていた。

 

 このまま夜通し騒ぎかねない勢いで。

 

「そういえば、聡さん、結局来れなかったんだよね?」

 

「うん、そうだね」

 

 燐は少し声を落とす。

 

 やはり残念な気持ちがあるのだろう、折角誘ったのに断られてしまったわけだし。

 

「まあ、お兄ちゃんは仕方ないよ。あっちも色々忙しいみたいだし」

 

「うん……」

 

 燐に余計なことを言ってしまったと思ったが、蛍も気になっていたことだったから、あえて聞いたのだった。

 

 結局聡はこちらには戻らずにずっと北海道で農業をしていた。

 

 野菜を育てるのが面白くなってきたと、メールでは言っていたし、それに去年、燐は蛍と一緒に北海道まで会いに行ったときも実際にそうして野菜や牧牛なんかも育てていたのだから。

 

 もうこちらに戻ってくる気はないように思えたのだ。

 

 燐とは仲直り出来たみたいに見えたが、やはりそれは表面的な様で、お互いの溝は埋まらなかったようである。

 

 ただ、話すことで割り切ることは出来たみたいで、燐はもう普通の従兄として彼と接するようになっていた。

 

 未練は無くなった、とはまだ言い切れないところはあるようだが。

 

 それも時間が解決すること。

 

 そう、思っていたのだが。

 

 聡のいる北海道から帰ってきてしばらく後、何かのきっかけで燐は笑いながらこう話していた。

 

 自分はちょっと、”恋愛に夢を持ち過ぎていた”と。

 

 それはどういった感情からでた言葉なのかは分からなかった。

 

 だって、まともに恋愛をしたことがないわけだったし。

 蛍は。

 

 けれど燐の明るさはちっとも変わってはいなかったから。

 

 燐がそう言ったのならそれで良いのだと思う。

 

 前に比べて、”彼”のことを話すことが無くなった気もするし。

 

 ある一定の折り合いがついたのだと思う。

 

 それが良いかどうかは、当人たちにしか分からないとことだとしても。

 

「ねぇ、蛍ちゃん。もしこのまま……元の世界に戻れなかったからどうする?」

 

「どうって……? そうだね」

 

 不意に先のことを聞かれて蛍は頭の中で考えをまとめてみたが、それほど結論は変わらない。

 

 絶対に教師になりたいというわけでもないし、パン屋さんの方だって同じようなものだ。

 

 大学やサークルは今は楽しいけど、ずっと続くものではないし。

 

 だとするのならば。

 

「もし本当にそうなら、わたしはこのままでも良いかなって思ってる。諦めているわけじゃないけど、今更ジタバタしたってどうにかなるものでもないし」

 

「……そっか」

 

「うん」

 

 燐の答えは意外にもあっさりとしたものだった。

 けれど、蛍はそれでいいのだと思った。

 

 足掻いたってどうにもならないことがある事は蛍も燐も知っていたから。

 

 励ましとか慰めにも何の意味がないことにも。

 

「でもさ、学校の先生になる夢はどうするの? あ、それかパン屋さんか」

 

(わたしの、夢か……)

 

 自分で言うとモヤモヤすると言うか、変に空々しく思えてしまうが、他の人、特に好きな人に言われると心がふわりとあたたかくなる。

 

 燐はちゃんと覚えてくれていた。

 その事実だけで、蛍は救われた気持ちになった。

 

「あ、そうだ。ねぇ、蛍ちゃん」

 

「なぁに、燐」

 

 流石に聞こえてはこないが燐が何か閃いたような、小気味いい感じの音が耳朶を打つ。

 そんな気がして蛍は笑みを返した。

 

「じゃあ、今だけわたしの先生になってみない? 蛍ちゃんに色々教えられてあげる」

 

「わたしが燐の、せんせい?」

 

 確かに、そういうのもありかもしれない。

 そういう機会って中々ないものだし。

 

 それに、他にやることもないから。

 

 蛍は燐の突飛な提案に乗ってみることにした。

 

「うん、いいよ、何か面白そうだし。でも、教えられてあげるっていうのは、流石にちょっと変な感じするかも」

 

「あははっ、確かにね。じゃあ教えてください、先生」

 

 燐の楽しそうな声がスマホから流れてくる。

 

 燐はいつだってそうだ、わたしが楽しめるようにしてくれている。

 

 教師になる目標だってそうだ。

 

 燐がそう言ってくれたから目指しているのであって、自分では考えもしないものだったから。

 

(わたしにとって先生は、燐、なのかもしれないね)

 

 真っ直ぐすぎるところもあるけれど、いつでも真剣に向き合ってくれる。

 

 迷った時は背中を押してくれるし、本当に困った時は誰よりも頼れる味方になってくれるから。

 

 燐の方がよっぽど先生に向いている、蛍はそう思っていた。

 

「やっぱりちょっと不満?」

 

「ううん、別に不満はないよ。ただ、ちょっと……」

 

「ちょっと、何?」

 

 燐は少し声を潜めて蛍に訊ねる。

 蛍はそれに軽く愛想笑いを浮かべた。

 

「お互いに顔が見えてたほうが良くないかなって。ほら、最近じゃリモート(通信)の授業なんかもあるし。顔が見えた方が教えやすい気がするから」

 

 何かもっともらしい事を言っている。

 それは自分でも分かっていた。

 

 けれど実際の所は。

 

(……燐の顔が、見たい)

 

 声だけで”燐”という像を思い描くことは結構容易に出来るけど、やっぱりちゃんとした”今の燐”が見たかった。

 

 もうこうして話せることも最期かもしれないし。

 

 あの爽やかな朝の太陽みたいな笑顔を瞼に焼き付けておきたい。

 

 これは蛍のちょっとした我がままからの提案だった。

 

 恐らく最初で最後の、ささやかなわがまま……その願望が蛍の可憐な唇から燐に向けてそう言わせていた。

 

「まぁ……そういうのはあるよね。顔が見えてないと相手がどういう気持ちで聞いているのかって分からないし」

 

 燐はそう言うと、何か別の思いでもあるのかしばらく押し黙ってしまった。

 

 そのほんの少しの時間が妙に長く感じてしまい、蛍は無意識にスマホをぎゅっと握りしめていた。

 

 スピーカーモードにすればわざわざ手に持たなくともお互いに通話できるのだが、あえてそれはせずに、蛍は耳をスマホに密着させて燐と会話している。

 

 それは声だけでなく、空間そのものを聞き洩らさんとするみたいに。

 

 とても健気に見えた。

 

「そうしてもいいけど……あ、でも……」

 

 急に燐が喋りだしたので、蛍は一瞬びくっと身構える。

 

 スマホでこうして燐と会話するのは好きだが、話し出す前の前兆運動が見えない事には少し不満があった。

 

 急に話されるとわたわたと慌ててしてしまうから。

 

 それが蛍には少しのコンプレックスになっていた。

 

(あううっ、こんなのでわたしが教師なんか務まるわけないなぁ……これならまだパン屋さんの方が脈がありそうなのかも)

 

 燐にああいっておきながら将来の事に頭を悩ませている。

 

 そんな自分を少し可笑しく思いながら蛍は、燐の次の言葉を待った。

 

「映像のあるライブ通話だと、そんなに充電が持たないかもしれないなって思って」

 

「あっ」

 

 燐の言葉が腑に落ちたように、蛍は小さく叫んだ。

 

 確かにそうだ。

 

 声だけでなく映像までも通してしまったら確かにより多くの電力をくってしまうだろうことだろう。

 

 この世界にはスマホ用の充電器なんて気の利いたものがあるとは流石に思えないし。

 

 蛍はすっかり失念していたと、自分を少し恥じた。

 

「そ、そうだよね。だったら今の声だけでも十分だよね」

 

 そう、この世界にスマホがあり、それで燐と通話出来る事自体がある種の奇跡でもあったから。

 

 これ以上はもう何も望むまいと、蛍はそう心に固く誓ったのだったが……。

 

「そうだ、蛍ちゃん。そっちに”鏡”ってあるかなぁ? 大きな姿見じゃなくて小さな丸い縁みたいな手鏡みたいなの」

 

「えっ、鏡!?」

 

 燐に変な事を聞かれて、蛍はきょとんとなる。

 

 かがみ?

 鏡とは……いったい?

 

 燐の言葉の意味がすぐには分からず、蛍は首をかしげる。

 

 何故、鏡の所在なんか今、聞きたがるのだろうと。

 

 とりあえず、燐に言われたように部屋の中を見渡してみる……が、当然それっぽいものは見当たらない。

 

 もしかしたら、どこかの棚の中に入っているのかもしれないが。

 

「燐、鏡で何をするつもりなの?」

 

 蛍はまだ見つける前だったが、燐にその真意の程を聞いておきたかった。

 

「あ、うん、えっとさ……その鏡があればお互いの顔が見えるんじゃないかなって」

 

「えっ、どうして?」

 

 当然の疑問を燐にぶつける。

 

 燐はちょっと言い辛そうにしながらも、その事を説明してくれた。

 

 蛍はそれを聞いている間、口をぽかんと開けたままになっていた。

 

「前にさ、変な鏡を廃墟で見つけたでしょ? 実はあれをいま持っているの。だからもうひとつあれば蛍ちゃんとやり取りが出来るんじゃないかなって」

 

 もう一つある……鏡??

 

 ますます訳が分からなくなった。

 

 その鏡がこっちにもあることすら初耳なのに、それで相手とやり取り出来るだなんて。

 

 燐は一体何を知っているのだろう。

 

 ともかく蛍は、前にこの世界に来たことを懸命に脳裏に思い起こしていた。

 

 あの時はちゃんとオオモト様も居て、現れた列車には燐も乗り合わせていて……。

 

(そしてその後、停車した駅では廃墟になった町が広がってて……)

 

 そこでやっとわかった。

 

 燐が何のことを言って、どういうつもりで聞いているのかを。

 

 蛍は勢い込んで燐へと聞き返した。

 

「確か、”浄玻璃の鏡”だったっけ? 燐が言っているのって。あれってもう一つあるの?」

 

「あ、そう、それの事。多分、青いドアの家にもあるんじゃないかなって思って蛍ちゃんに聞いてみたの」

 

 そういうことか。

 蛍はやっと燐の言葉を理解することができた。

 

 あの時は、歪な塔の中でこちらと向こうを繋ぐ”窓”になっていたから、今回もそういう事ではないかとの思いで言ってきたのだろう、燐は。

 

 でも蛍にはまだ分からないことがある。

 

「でも、燐、何か根拠でもあるの?」

 

「根拠っていうかねぇ……う~ん、わたしの直感かなぁ。何となくだけどこの鏡は二つで一つなんじゃないかなって」

 

「同じものが一対あるってこと?」

 

「うん」

 

 疑問に対して素直な返事を返す燐。

 

 それを聞いて蛍はふーん、と呟いた。

 

(燐の、直感かぁ……)

 

 それを否定するつもりはないが、この世界ではこちらの現実は役に立たないのは事実だったから。

 

 蛍は燐の直感を信じて見ることにした。

 

「分かった。じゃあちょっと探してみる……あ、燐」

 

「ん? 何、蛍ちゃん」

 

「電話、切らないでおいていてね。また繋がるかどうか分からないし」

 

 切羽詰まったような蛍の物言いに燐はくすっと笑みをこぼすと。

 

「もちろんだよ。ずっとこのままにしておく」

 

 少し語気を強めてそう燐は言ってくれた。

 

「ありがと」

 

 蛍はスマホに短くお礼を言うと、青いドアの家の中を探し始めた。

 

 どこから探したらよいかは分からないが、とりあえずリビングの棚から開け始める。

 

 それは蛍の家の片付けなんかよりもよほどテキパキとした動きだった。

 

 ……

 ……

 ……

 

 まだ自分の家かどうか分からない部屋の中を引っ掻き回すのはちょっと気の引ける作業だったが、そんなことにこだわっている暇なんてなかった。

 

 こうしている間にもスマホの電池はなくなっていくわけだし、一分一秒を争うほどの事態だったから。

 

 蛍はそれこそ物を壊す勢いで調べ始めていた。

 

 普段の蛍では見ないほどの焦りぶりに、もしこの場に燐がいたのならきっと随分と驚いただだろうと思う。

 

 全身に汗をかくぐらいに動いていたから。

 

「あっ!」

 

 それは意外にもあっさりと見つかった。

 

 ただ、無造作に棚の中にそれは入っていたのだ。

 

 もっといっぱい家の中を調べないといけないだろうと思った蛍は、すっかり拍子抜けしてしまった。

 

 紫のつるんとした布にくるまれてある小さな円形のものに蛍は一目でそれだと気づいた。

 

「これがきっと鏡だよね。でも、これは……!?」

 

 何だろう。

 

 写真、だろうか?

 

 取り上げた手鏡のその下に数枚の紙のようなものが置いてあり、それぞれに画像が刻まれていた。

 

「蛍ちゃんどうかしたの、やっぱり見つからない?」

 

「あ、えっと……」

 

 燐に言うべきなのだろうか、蛍は少し迷いを見せたが。

 

「もうちょっとだけ待ってて」

 

 蛍は手にしていたスマホを棚の上にそっと置くと、その数枚の写真のようなものをまざまざと眺めた。

 

 周りに四角い縁取りがあるところから写真だと言う事が分かる。

 それもモノクロの写真が数枚、同じように無造作に重ねられていた。

 

 ただ、その写真はカメラを少し齧った程度の蛍でも分かるぐらいにピントがずれていて、どれも”ピンボケ”の状態だった。

 

 何処をどういう風に撮ったのかは分からないし、その意図も不明だったが、たった一枚だけが、鮮明に像を作り出していた。

 

 ただ、それは風景と言うよりも、ある文字を撮りたかったみたいで。

 旅行に行った記念なんかでよく撮られる類の写真だった。

 

(これって、駅の写真……? なんで、こんなものが)

 

 蛍はその写真を手に取ってみる。

 

 どこの駅だろうか、ホームだけを切り取った写真であり、他の列車などは映り込んでいない。

 

 たったそれだけの写真だけが、モノクロの世界で鮮明に形を作っていた。

 

 蛍は眉をひそめる。

 

 一目見た時から感じていた事があったから。

 

 何となくだが、見覚えのある駅の気がしてならない。

 特徴となるものが映っていないので、何処とははっきりとは言えないが。

 

 この写真からは懐かしさを覚えてしまう。

 

 それは白黒のせいなのかもしれないけど。

 

 けれどそれは今、問題ではなかったから。

 

「えと、燐、あったよ。多分これだと思う」

 

 蛍は包みを開いて中の鏡があることを確認すると、スマホの前で待っているであろう燐に報告をした。

 

 写真のことはこの際どうでもよかった。

 

 そのことを考えたってどうせ意味などないはずだし。

 変な事をいって燐を困惑させたくなかったから。

 

 一緒に見つけた写真の件は話さずに鏡を見つけたことだけを燐に言った。

 

「そう、良かった。傷とかは付いてない?」

 

「えっと、大丈夫だと思う。それで燐、これからどうすればいいのかな。今のところ自分の顔しか映してないけど」

 

 いくら覗き込んでみても鏡が映すものは蛍の顔のみ。

 

 向こうの世界が垣間見えるとか、この世で一番美しい人の顔が浮かび上がるなどと言った、お伽話的な要素などはない。

 

 周りに綺麗な装飾が施されているだけで、それ以外は至って現実的で模範的な手鏡であった。

 

「後はそうだなぁ、多分想いを込めて擦ってみるとか、話しかけて見るとか、かな? あ、でもちょっと待っててわたしも移動するから」

 

「あ、うん……」

 

 暫くの間、燐の声の代わりに動かしたりするような雑音しかスマホからは流れなかった。

 

「お待たせ、蛍ちゃん」

 

「大丈夫だよ。それよりも燐はどこかへ行くの?」

 

「行くっていうか、まだ宴会は終わりそうにないから、外に出ようと思って」

 

「外……」

 

 燐が何気なく言った言葉に蛍は思い当たるものがあった。

 

「じゃあ燐、わたしの(旧三間坂)家に行ったら? どうせ誰も居ないし、鍵だって燐が持ってるでしょ」

 

 郷土資料館として使う為の準備は大体そろっているけど、また手続き上は蛍の家なのだから。

 

 だから燐が入っても何も問題は無い。

 

 (あるじ)である蛍の許可も一応あることだし。

 

「あ、そうだね! 蛍ちゃん冴えてるなぁ。じゃあ遠慮なく使わせてもらうね」

 

「うん。燐なら問題ないから勝手に入って」

 

 マヨヒガから蛍の家までは目と鼻の先だから、どこか静かな場所をわざわざ探すまでもない。

 

 今は街中がお祭り騒ぎだし、人出もかなり多いから、田舎の道が珍しく渋滞するほどだったから。

 

 燐の家である”青いドアのパン屋さん”も合併記念の限定パンを売っているせいか、外にまで行列が出来るほとだった。

 

 どこでもお祭りムードの中、蛍の家だけが静かでひっそりとしていた。

 

 坂を登った先にあるせいか人気もつかず、深い森に佇む古城のように静まり返っている。

 

 家の外観がやけに大きいせいもあって、要塞というかまるで監獄のようだった。

 

 流石にそんな事は蛍には言わないけど。

 

 静かに話をしたい今の状況にはこの蛍の家というのは、まさにうってつけだった。

 

「じゃあ、お邪魔します~……って、やっぱり中は暗いね」

 

「電気、勝手に点けちゃっていいよ。まだ止められていないはずだから」

 

「うん」

 

 燐は慣れたような手つきで蛍の家の玄関のスイッチを入れた。

 

 暗い玄関にぱっと明かりが灯る。

 

 初夏とはいえまだ外は雨が降っていたから、夜のように暗い家にようやく明るい光が届いた。

 

「何かさ、すごく不思議だよね。燐がわたしの家にいて、わたしは青いドアの家にいるんだもんね」

 

「確かに何か変な気持ちになるね。お互いが同じ家に行けばいいだけのことなのに」

 

「それが出来ないからこんなことになるんだね。ふふっ、変なの」

 

 二人は顔を見合わせる……ことが出来なかったが、同じタイミングで微笑んだ。

 

 変な事が起こるのにも大分慣れてきた気もしたが、今回のは殊更変なことだった。

 

 互いの存在を認識し合いながらそれぞれが別の場所にいる。

 

 青い空みたいに絶対に手が届かない場所なのに、何故だかとても近くに存在を感じていた。

 

 遠いようで近い。

 

 近いようでずっと離れている。

 

 そんなどうすることもできない距離感を、燐も蛍も感じていた。

 

「さっき燐が言ってたけど、そんなお伽話みたいな方法で本当に見えるようになるの? にわかには信じられないけど」

 

「でも、物は試しっていうじゃない。とにかくやってみよう。それに”願うことは無意味じゃない”、そうでしょ」

 

 それもオオモト様が言っていたことだ。

 

 あの人の言葉はあの世界の一つのルールのようになっていた。

 

 自由だけど、何もできないあの……青と白の世界での唯一の決め事として、今でも少女二人の心に残っているようであった。

 

「分かった。じゃあ燐の言うようにやってみるよ」

 

 蛍はテーブルに布を広げて鏡の姿を露わにすると、その前で目を閉じた。

 

「じゃあ、わたしも」

 

 流石に玄関前でそんなことをするのは変だと思ったので、燐は靴をいそいそと脱いで、すぐ横の階段をトントンと上がる。

 

 その先に辿り着いた部屋──に入る前にいちおうノックした。

 

 もちろん返事は無い。

 

 ゆっくりとドアを開ける。

 

 そこにはもぬけになった部屋があるだけで、古ぼけた机とベッドが横たわっていた。

 

 燐は椅子のない机の上に鏡をそっと置いた。

 

 この鏡は最初から持っていたものではなかった。

 

 大きな落雷があった後、蛍の姿がなくなり辺りを探し回っていた時に、スカートのポケットに重さを感じて確かめたら、スマホではなくこの鏡が入っていたのだ。

 

 これが偶然によるものなのかは分からないが、そのおかげで蛍に携帯で連絡をとるという、もっとも簡単で確実な方法に気付くことが出来たのだった。

 

 燐のスマホはスカートの反対側のポケットに入っていたから。

 

 これは必然に限りなく近い偶然なんだろうと思う。

 

 そう思わないと色々と壊れてしまいそうになる。

 異変に近い出来事だったし。

 

 実際に異変は起きていた。

 蛍が青いドアの世界に飛ばされていると言う不思議な現象が。

 

 でも何故今回は、自分が”向こうの世界”に呼ばれなかったのかはまだ分からない。

 

 今、分かっていることと言えば……。

 

(蛍ちゃんをちゃんと帰れるようにしてあげないと!)

 

 この鏡にはきっとそういう役割がある。

 そう燐は睨んでいた。

 

 そうでなくてはこれがいま手元にある意味が分からない。

 

 蛍も見つけたみたいだし、きっと”窓”の役割を果たすのだろうと思った。

 

 二年前の時だって、鏡のお陰で戻ることができたわけだし、きっとそうなんだと。

 

 燐はそう信じきっていた。

 

「ふぅ……」

 

 燐は心を落ち着かせるように息を吐ききると、そっと瞼を閉じる。

 

 きっと蛍も今同じことをしている。

 

 そう信じて両手をぎゅっと握りしめた。

 

(蛍ちゃん……蛍ちゃん)

 

 燐は心の中で名前を呼んだ。

 

(燐……! 燐……!!)

 

 誰かが自分を呼んでいるような、そんな声が螺旋のように頭の中に響きまわる。

 

 誰なんだろう。

 呼びかけてくるのは。

 

 声のする闇に向かって手を伸ばした。

 

 暗闇の向こうからも一筋の白い手のようなものが伸ばされる。

 

 お互いが絡みつき、結び合い、そして完全に一つの線になったと思った瞬間。

 

 ──割かれた世界が、一つになった気がした。

 

 ……

 ……

 ……

 

「燐、燐っ!」

 

 声がした。

 

 それは幻聴などではなく鏡の横に置いた、いつものスマホからだ。

 

 もうちょっとで上手く行きそうだったと思ったのに。

 少し憂鬱そうに燐はスマホに返事を返そうとした。

 

 だが、何気なく覗いた丸い鏡のその鏡面を見て驚愕した。

 

 少し前まで普通の鏡だったそれに、少女の、ここにはいない蛍の顔が映り込んでいたからだった。

 

「燐っ、わたしのことが見える!? わたしからは燐の姿がはっきり見えるよ!」

 

 いつになく興奮したように喋る蛍。

 その姿も鏡にはばっちり映っていた。

 

 けれど燐はまだ口を開けたまま、呆然とはしゃぐ蛍の姿を鏡越しに眺めていた。

 

 まるで本当の鏡の中の出来事のように。

 

「……燐? どうかしたの? ぼーっとしちゃって」

 

 そう言って蛍は鏡に指を伸ばす。

 

 その指紋までもはっきりと鏡に映ってしまって、燐はつい噴き出してしまった。

 

「あ、燐が笑った。ねぇ、燐、声も聞かせて。まだちゃんと燐と繋がっているか自覚が湧かないから」

 

 甘えたようにねだる蛍に、燐は困り顔で口を開く。

 

 見た目だけじゃない声でも繋がり合いたかったから。

 燐はなるべく可愛い声を作って返事をした。

 

「ちゃんと繋がってるよ、蛍ちゃん」

 

 蛍の鏡に映っている燐が笑っていた。

 

「それなら、良かった。本当に」

 

 燐の覗き込む鏡には少し困った顔の蛍が笑顔で映っていた。

 

 ようやく繋がり合えたと思った。

 

 ”向こう”と”こちら”。

 

 世界を隔てているものを燐と蛍は超えることができていた。

 

 デジタルと、オカルト的なもの。

 

 その両方で。

 

 少女たちはその存在を輪郭ごと認識し合うことが出来た。

 

 本当に奇妙な接触方法(コンタクト)を用いて。

 

 繋がり合うことができたのだった。

 

「それにしても、燐……」

 

「な、何、蛍ちゃん? わたしの顔に何かついてる?」

 

 鏡に映っていた蛍の瞳が急に大きくなる。

 

 瞳の奥底まで見えそうになるほど、蛍にまざまざと見つめられている。

 

 そう思った燐は、急な恥ずかしさに思わず手で顔を隠してしまった。

 

「うん。ついてるっていうか」

 

 蛍は嬉しそうに続ける。

 

「燐もちゃんとお化粧してるんだねって。あんまりよく見てなかったから、すごく可愛いっていうか綺麗なったんだなって思って」

 

 燐の顔がますます赤くなる。

 

 蛍に限ってお世辞など言わないことは分かっているから、燐は恥ずかしさを誤魔化すように両手をぶんぶんと振り回しながら、今度は燐が蛍の顔を覗き見ていた。

 

「そういう蛍ちゃんだって、バッチリメイクしてるじゃない! まあ、いつもよりも綺麗になってるとは思うよ、すごく……」

 

「そう? わたしそんなにお化粧したつもりはないけど……」

 

「わたしだってそうだよっ」

 

 恍けたように言う蛍に、燐も張り合う様に声を出す。

 

「じゃあ二人とも綺麗になったってこと、だね」

 

 鏡の前の蛍は名案とばかりに手を叩いていた。

 

 確かに、二人ともとても綺麗になっていた。

 

 それは少女から大人の女性に変わる過程で生まれた限定的な美、などではなく。

 

 新しい環境や人との出会い。

 

 何より燐も蛍も、お互いが充実していたから。

 その健全さが、美となって表れていたに過ぎない。

 

 いわば、当然のうつくしさと言えた。

 

 本人たちに自覚が無いのが欠点と言うか、勿体ないところなのだが。

 

「う~ん、そう……事なのかな。まあ、ちょっとでもそういう要素(がいけんのよさ)があるから選ばれたかもしれないけどね。こういうの自分で言っちゃうのもなんだけどさ」

 

 自分で言って照れてしまったのか、燐の視線は上に向けられていた。

 

「ふふっ、燐でもそういうことを言っちゃうようになったんだね。やっぱり都会に染まるようになってきたってことかなぁ?」

 

「そういうのじゃないんだってばぁぁ」

 

「はいはい」

 

「全くもう……蛍ちゃんだって初めは渋々だったのに、急にノリノリになるんだもんね。コスプレみたいで嫌だって言ってたじゃない」

 

 燐は呆れたようなため息をつく。

 

 確かに蛍は楽しんでいた。

 それは恰好だけでなく、今の状況にも。

 

「確かにね、燐の言うように確かに最初の内はちょっと嫌だったけど、こっちだとそんなに気にならないよ。燐以外の人の目もないし」

 

「それはそうだね。幻想的なところだからそんなに違和感がないっていうか」

 

 けど、蛍がいるのは青いドアの家のリビングだから違和感バリバリなんだけど。

 

 燐は、蛍の後ろに映っている窓の外からの景色を見る。

 

 いつみても、綺麗な場所だと思う。

 

 どことなく現実離れしているからか、こういう格好をしてもそれほど気にならないのだろうと。

 

 あの人──オオモト様もこんな感じの格好をしていたわけだし。

 

 そういう意味ではむしろ似合っているとも言えた。

 

「燐だって、その衣装とっても似合っていると思うよ。まるで妖精みたい」

 

 そう言ってはしゃぐ蛍に燐は大きな息を吐いた。

 

 蛍が妖精と形容した燐の衣装は蛍と対になっている。

 

 違うのは色づかいぐらいで、蛍が赤をイメージした衣装に対して燐のは青がメインの色になっていた。

 

 最初は逆じゃないかと思っていたが、着てみると案外二人とも似合っていたから、割と不思議ではあった。

 

 自分のイメージとは違う(カラー)を身に纏っていることに。

 

(でも、やっぱり蛍ちゃん綺麗だな……見とれちゃうぐらい)

 

 その透明な笑みはあの頃からちっとも変わっていない。

 

 きっとどれだけ時が経っても変わらない、燐はそんな気がしていた。

 

「それにしてもさ、わたしたちって不思議な体験しているね」

 

 真正面に見つめながら蛍はそう言った。

 

「うん、最近はそういうの無かったから、もう終わったんだって思ったんだけどね」

 

 燐と蛍と向かい合う。

 

 二人は鏡越しに向かい合っていた。

 

「やっぱり、怖い? ひとりでいるの」

 

 ちょっと意地悪く笑いながら燐がそう聞いてくる。

 

 蛍は軽く笑うと。

 

「全然、怖いのはこれじゃないから」

 

 ふるふると首を振りながらはっきりとした口調で蛍はそう言った。

 

 そこには強がりなどは微塵も見えなかったから、燐は少し安心した。

 

 もし蛍が泣き叫ぶようなことになれば、きっと身を切る思いで声を荒げてしまったと思うし。

 

 とても大事な存在だから。

 大事でとても壊れやすい。

 

 そうしてしまったのは自分が原因だと思っているから。

 

 もし蛍の身に何かあれば全てを投げ出す覚悟はある。

 

 今の燐はそうだったから。

 

「わたしはね、燐。あなたが居なくなってしまうことの方がよっぽど怖いよ、燐が目の前から居なくなってしまう方が怖くてたまらないの」

 

「蛍ちゃん……」

 

 同じ想い。

 

 燐も蛍と同じ思いだったから。

 

 その想いを告白した。

 

「わたしも、蛍ちゃんがいなくなるほうが怖い。だからお願い、ちゃんとこっちに戻ってきて!」

 

 燐としては弱さを見せるつもりはなかったが、蛍の言葉に触発されたように思いを口にしていた。

 

 背負い込みすぎるのは自分の悪い癖だと自覚はしているが、蛍に対してはその全てを背負ってもちっとも痛くはない。

 

 むしろ嬉しいぐらいだったから。

 

「うん。絶対に燐の所に戻ってくるよ」

 

「本当? 絶対だよっ」

 

「うん」

 

 鏡の前で二人は笑った。

 

 約束はした。

 

 けれど、それが叶えられるものなのかは分からない。

 

 思いや願いならずっとしているけど。

 

 それだけで何とかなるなんてことは思っていないから。

 

「わたしたちってやっぱり両思いなんだね」

 

「どうして?」

 

「だってこんなに離れているのに、燐のことをすごく近くに感じられるもん」

 

 そう言って蛍はつっと指を伸ばして鏡にちょこんと触れた。

 

「わたしもだよ。蛍ちゃんのこといつもよりもずっと近くに思えてるの」

 

 燐も同じように手鏡に指を伸ばす。

 

 そこには冷たく固い鏡面しかない筈だったが。

 

「あっ!」

 

「蛍ちゃんも感じた? わたしも、何か……暖かかった」

 

「うん、不思議な温もりがあったよね。届かないはずなのに」

 

 鏡越しに触れ合った指先が熱を持っていたのは多分、気のせいなんかじゃない。

 

 確かに互いの体温を、暖かみを感じた。

 

 指先が触れ合った瞬間、ふんわりとしたほのかな温もりが体全体を包み込んでいく。

 

 そんな気になったから。

 

「こーゆーのを相思相愛っていうのかもね」

 

 燐は鏡の中で自分の指先をじっと見つめている蛍に微笑みかけた。

 

「そうだと、いいね」

 

 蛍は鏡の中でこちらを見て微笑んでいる燐を見つめながら小さく笑った。

 

(でももし、本当に想いがこのままでも伝わるのなら)

 

 蛍は顔だけでなく、その燐の小さな唇も見つめていた。

 

 指だけでも気持ちが伝わる気がしたから、もし鏡越しに唇どうしが触れ合ったらどうなるのだろうと、少し変わったことを想像していたのだ。

 

 流石にその提案を口にするつもりは無いが。

 

(でも燐とは……)

 

 蛍は自身の開かれた薄いピンクの唇を指で軽くなぞる。

 

 燐には()()()()()()()()をまだ返していないから、もしかしたら受け入れてもらえるかもしれない。

 

(あの時だって、燐の方から……した、わけだし)

 

 急な事すぎて思わず転んでしまったけれど。

 もしあの時、燐のことをちゃんと受け止めていたら。

 

「何? 蛍ちゃん」

 

 じっと見られていることに気付いたのか、鏡の中の燐がこちらを見ていた。

 

 もう少し顔を近づけてくれたらなんて、そんなことはとても言えなかったから。

 

「えっとさ、燐」

 

「うん?」

 

「その……さっき言ってたことやってみようか? わたしが燐に教えるっていうの。その為にこうして鏡を見ながら話しをしているんだし」

 

 蛍は気持ちを誤魔化すように、先ほどの燐とのやり取りの続きを申し出た。

 

 変なことを言って燐に引かれてしまうよりかはこっちの方がマシだったから。

 

 ただ、燐はついぞ忘れていたようで。

 

「え~、本当にやるつもりなのぉ」

 

 と、不満の愚痴をこぼしていた。

 

「えっ、本当にって、燐から言いだしたことだったでしょ? だからすごくやりたいのかなって」

 

「うー、そういうつもりで言ったんじゃないんだけどなあー」

 

「じゃあ、どういうつもりで言ったの」

 

「むー」

 

 蛍の鋭い指摘に燐は牛のように受話器の向こう側で唸っていた。

 

「それじゃあ、今から特殊相対性理論の講義をします。それじゃあ燐、じゃなくて、込谷君、テキストを開いて」

 

 蛍は何としても先生をやりたいようで、半ば強引に話を進めてきた。

 

「もう、テキストなんか持ってきてないよぉー。それに蛍ちゃ、三間坂先生だって、テキストもなくて説明することなんか出来るのぉ?」

 

 蛍が教師になりきっているようなので燐もそれに合わせることにした。

 

「それは、うーん……まあ、かいつまんでなら、ね」

 

 蛍はもう素に返ってしまったようで、可愛らしい舌をぺろりと出していた。

 

 子供みたいなその様子に燐は小さく肩をすくめた。

 

「もう、燐はすぐ意地悪なことを言うよね。そんなんじゃ……」

 

 蛍は呆れたため息を鏡の向こうで吐いていたのだが、その目が急に止まった。

 

「蛍ちゃん? わたしの後ろがどうかしたの?」

 

 蛍の視線が燐の後ろに辺りに注がれていることに気付いて、燐は慌てて周囲を見渡す。

 

 ……何もいない。

 

 燐の目には映らない変なものが鏡に映り込んでいるというわけではない、とは思いたいが。

 

「何が見えるの!?」

 

 燐は身を固くしてスマホを握りしめる。

 

 だが、蛍は意外とも言える事を口にした。

 

「燐が今いるのって、もしかしてわたしの部屋……だよね?」

 

 たどたどしく蛍が言うので、燐はびくっとしてしまったが、本当に何でもないことだったので、はぁと深い息をついた。

 

 なんだ、そういう事か。

 確かに蛍には言っていなかった。

 

 燐は特に意識することもなく話した。

 

「あっ、そうだよ。普通に開いていたからお邪魔しちゃった。でも本当に何にもないねこの部屋。まあ今の蛍ちゃんの部屋はマンションにあるんだけどね。って、あれ蛍ちゃん?」

 

 返事が無くなったことを不信に思った燐は鏡を覗き込む。

 

 そこには、むーと頬を膨らませている蛍の姿があった。

 

 顔を赤くして、珍しく腕を組んでいるところを見ると……。

 

「もしかして蛍ちゃん、怒ってる、の?」

 

 そんなことでと思ったが。 

 

 けれど燐にはそのように見えた。

 

 怒ることはめったにない蛍だけに、本気で怒った時は手が付けられないほどになってしまうから。

 

「だって、燐、勝手に入っちゃうし……恥ずかしいもん」

 

 蛍はぶつぶつと文句を言っている。

 

 自分から家に入ることを勧めてくれたのに、自分の部屋に立ち入るのを不服とするなんて。

 

 何やら理不尽な気もしたが、どうやら蛍は本気で怒っているみたいなので、燐は即座に追加の謝りを蛍に入れた。

 

「ごめんね、でも、何も弄っていないから」

 

 弄るだけのものもなかったし。

 

 引っ越した後だから何もないのは分かっているはずなんだけど、蛍はそれでも納得してくれないようで。

 

「燐、女の子はそういうの恥ずかしいんだよ……?」

 

 蛍は本格的に拗ねてしまったようで、ぷいとそっぽを向いてしまった。

 

(……わたしだって女の子なんですけど)

 

 燐は口から出かかった言葉を無理やり呑み込むと。

 

 こんなことをしている場合じゃないんじゃないかなあとは思いながら、とりあえず蛍の機嫌が直るまで燐は鏡に向かってぺこぺこと謝り続けていた。

 

 

 蛍の家の窓の外では遠くの山の風車が数基、ゆっくりとした動きで羽を回していた。

 

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★青い空のカミュDL版が3月7日まで半額セールですね────ぜひぜひお薦めです───ううっ、何かもう他に書くことがないなぁ……というわけで。


■刈内駅のこと。

刈内は”青い空のカミュ”の最初の方だけに名前だけ出てくる地名? で、電車のシーンで流れることから、多分駅名だと思います。ただそれっきりその名前は出てこないので物語上、何の重要性を持たない単語だとは思うのですが、それをちょっと掘り下げてみたいなぁって思います。一応狂信者ですし。
実際に刈内駅は存在しない駅です。でもモデルとなった駅はあるのかなと思います。小平口駅の外観のモデルとなった千頭駅みたいに。
名前だけしかないのでやはり駅名で調べてみたのですが、多分ですけど愛知県にある”刈谷駅”が”刈内”のモデルなのではないかと思っています。”刈”が付く駅はそんなになかったですし、舞台のモデルとなった静岡県に一番近いのはこの駅だけでしたしね。
で、私が面白いと思ったのはこの刈谷駅には一つエピソードというか事故がありまして、当時有名だった筝曲家(そうきょくか)が刈谷駅近くの列車の事故で亡くなっているんですよね。それだけですとそこまで物珍しいものではないのかもしれないですが、その事故を元にした小説が出ていまして。”東海道刈谷駅”という作品なのですが、それはその亡くなった方のご親友である、内田百閒(うちだひゃっけん)が書いた小説なのです。
その内容はと言いますと、実はまだ読んでいないので正確なことは書けないです、ごめんなさい。じゃあなぜ東海道刈谷駅の事を書いたのかと言いますと、全く別の本、”文学の中の駅”という本の中でたまたまこの作品の事が書いてあったので、これなのかぁ? と思って書いてみただけで、断定できるほどのものは持っていないのです。ただ、何となくこれが元なんじゃないのなぁって思ってます。本の内容も事故の事実と推理を交えた内容になっている……と書かれていますし。
そう言った、ちょっとセンセーショナルな背景が青い空のカミュという作品に合っている、そんな気がしてしまうのです。とても切ない話ですから。

と言うことで、長々とまだ見たことのない作品の事を取り留めなく書いてしまいましたが、そんな”青い空のカミュ”が半額セールでお買い得ですよーって話で。

何か話がループしてしまいましたが──。


あ、そういえばゆるキャン△ の連載再開しておりましたねー。めでたいですー!! 劇場版のBDも発売されますし、三期も確定しましたしねー。まだまだゆるキャン△ は終わらない!! ってことでしょうかー。

それではではではー。







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Happiness: a good bank account, a good cook, and a good digestion.


「燐、どうかな? わたし、ちゃんとした先生になれそう?」

 小さな鏡の中で一仕事やり終えたように溜息をついた蛍は、満足気に笑みを浮かべながら、早速燐にその”授業”の感想を聞いてきた。

 同じような丸い鏡に映った燐の姿は少し困った苦笑いを浮かべていたが。
 
「そうだねぇ……」

 そう言って燐は少し言葉を濁す。
 蛍は怪訝そうに少し眉をひそめていた。

「やっぱり適正ないっぽいのかな」

 蛍はやっぱりと言った感じで呟くが、それに燐は小さく首を横に振っる。

「あ、そういうことじゃなくて、さ」

「うん?」

 鏡の中で蛍は不思議そうに首を傾げていた。

 結局──燐は蛍の部屋に居座ったまま、家の主である蛍とずっと会話を続けていた。

 少し埃っぽいベッドに腰かけながら、自分の部屋であるみたいにくつろいでいる。

 ちょっと時間はかかったが、蛍本人から何とか許可を貰ったから問題はもうないだろう。

 汚したりとかしなければだが。

(確か、蛍ちゃん。小学生の教師になりたいと言っていたよね?)

 だとしたら今のは授業というよりも大学の講義のようだった。
 小学生とは明らかにレベルの違う、難しい内容だったし。

 でも。

 鏡の傍に置いた蛍のスマホから燐の明るい声が返ってきた。

「悪くは無かったと思うよ、凄く聞き取りやすかったし。何より伝えたいっていう情熱みたいなのか感じられたから」

 結局こういうのはやる気なんだと思ってる。

 蛍ちゃんはいつも優しいからちょっと心配なところもないわけじゃないけど。
 
「だから蛍ちゃんには先生になる適正は十分あると思うよ、わたしの見立てではね。ただ、”青いドアの家”にいたままじゃ先生にはなれないよね、って思うだけで」

「あぁ」

 そういうことか。

 蛍は心底納得したように掌をポンと叩いていた。

(それはまぁ、そうだよね)

 気づいていなかったわけじゃないけど。
 
 確かに、”現実”で何かしたいと思ったら、こっちの世界にいる間ではどうすることもできない。
 
 やれることと言えば、精々こうして燐と他愛のない話をしたり、お互いを見たりするぐらいのことで。

 それは、開かない家の窓から外を眺めているのと同義であり。

 つまり何の意味も持たなかった。

 蛍は疲れたようなため息を一つつくと、困った顔でこちらを見ている燐に問いかけた。

「やっぱりさ、どこかに行った方がいいのかな」

「うん? どこかって」

 もう、”何処か”には行っていると思うけど……?

 燐が複雑そうな顔をしていることに気付くと、蛍は慌てたように少し言葉を訂正して続けた。

「あ、えっと……確かさ、前に来た時は線路の、その……あっち側に行ったじゃない? だったら今度はこっちに行ってみたら何か別のものがあるのかなって」

 この世界にはコンパスのような方位を示すようなものも、”影”でさえも意味は無いから、蛍は何とか伝わらないかと一生懸命身振り手振りで燐に説明をした。

 あっちこっちと子供っぽい言い回ししかできない事に恥ずかしさと、もどかしさを感じてはいたが、それでも燐は分かってくれたようで鏡の前で腕を組みながらうんうんと理解を示すように頷いていた。

「なるほどね、確かに蛍ちゃんの言うことにも一理あるよね。うまく説明はつかないけど、確かそっちの世界の列車って、”こっち”からしか走ってこなかったもんね」

 燐も指で方向を指し示す。
 
 起点となるものがないから殆ど当てつずっぽうだけど。

 向こうの線路は確か、一本しかないことから来る列車は単線か、もしかしたら一方通行かもしれない、そう燐は考えていた。

 それは蛍も同じようで、鏡の中では小さく頷いている姿が見えた。

 ”青いドアの家の前の駅”にも、そして次の駅にも駅名などは書かれたものはなかったから、そう考察していたのだった。

 それでも──行ってみたい。

 そう蛍は言った。

 どう言った思惑から出た言葉なのかはまだ定かではないが、それでも燐はある意味では納得していた。

 例え言葉が上手く伝わらなくとも、その顔を見ればよく分かるから。

 蛍の抱えている焦りや、例えようのない不安が。
 とても痛いほどに。

「うん。でも、ここに留まっていても何の解決にもならない気がするから」

 きっぱりと蛍はそう言った。

 ジタバタする気はないと言っていた蛍が自分の意思で行動しようとしていている。

 戻れるか、戻れないかなんてそれこそ、そもそも議論すらする必要はないのだ。

 それを決めるのは本人の意思だけ、なのだから。

(やっぱり、燐だって呆れるよね。わたしだってそう思うよ)

 この世界のことは未だによく分かってないのに、違う所に行くだなんて流石に無謀すぎる。

 いくら藻掻いたって、状況は好転するとは限らないのに。

 誰にだってどうしようもできない事なのだから仕方ないんだろうけど、ただ燐にだけは背負い込ませたくはない。

 例えこの半分でも燐に肩代わりしてもらう事だけは絶対にしたくはないから。

 燐はもう色んなものを一杯背負いすぎているのだから。

 だけど、何もしないままなんてことはしたくはなかった。

 それこそ何も分からないままに流されてしまうわけだし。

 何より。

(燐が、まだ見ていてくれるから)

 限りなく遠い場所にいるけど、それでもずっと見ていてくれている。

 あまりにも細くて頼りない繋がり、だけど。

 それでも繋がっているから。

 離れていても心は繋がっている、なんて。

 そんなドラマみたいな台詞を心の底で信じてしまうぐらいに。

 きっと──この世界は作り出されたもの、と言うか()()()()()()()()()()()()()()()であると思っている。

 その、()()が分からないというだけで。

 個人じゃなくて複数の可能性もある。

 オオモト様が居なくなった時、青いドアや窓枠が消えてしまったことのように。

 色々な人の想いがつくりだした世界なんだろうと。

 一度無くなったのにもう一度作り出されたのには何かの理由があるんだと思う。

 それが無駄足だったとしても、今なら伝えることが出来る。

 自分の、最期を。

 いちばん大切な人に。

「わたしも、蛍ちゃんが色々してみるってことはすごく良いことだと思う。今のわたしじゃ何もできないし」

「そんなことは無いよ。だって、今は燐と一緒だから」

 蛍は遮るように言葉を作ると、にこりと透明な笑みを浮かべた。

 そして、そっと鏡を手に取った。

 もし、このまま手を放してしまったから簡単に割れてしまいそうな、繊細な彫刻が施された手鏡を正面に持つ。

 鏡の向こうでは燐がまっすぐにこちらを見つめている。
 蛍も鏡に映った燐を見つめていた。

 二つの視線が不思議な鏡を通して重なり合っていた。

 直に触れなくともその視線だけで通じ合っている。

 そう思わせるほど傍に感じていた。

「燐がこうして鏡の外から見ていてくれている。それだけでわたしはすごく暖かい気持ちになれるの」

「わたしもそうだよ」

 熱も音も感じない世界で、唯一の暖かな温もりが確かにそこにあった。

 不思議な鏡も、スマートフォンも。
 それぞれの役割程度の事しか果たしてはくれない。

 実存はどこまでいっても実存でしかない。
 それを証明しているかのように。

 見えない糸だけが、今の二人を繋いでいた。

「燐がずっと見てくれるなら、どこまでだって行けると思うよ」

 そう言って蛍は微笑んだ。 

「じゃあ、わたしも蛍ちゃんのことずっと見守ってる。何があっても最後までずっと見ているから」

 燐も笑みを返す。
 そこには何の飾りもない本心からくるものだと分かったから。

「うん」

 少女達は鏡越しに顔を見合わせる。

 青いドアの家と、三間坂の家。

 違う場所でありながら、その二つには不思議な共通点があった。

 蛍と燐、それぞれの存在がそこにいる。

 傍に誰も居ないのになぜだか寂しさを感じることはなかった。

「何が待ってるんだろうね、こっちの先には」

 蛍は窓の外に視線を送る。

 そちらも同じように線路がどこまでも伸びていた。

「前の時はさ、廃墟みたいな町があったから今度は近未来的な街があるのかもね」

 燐が希望的観測の軽口をたたく。
 それに蛍は苦笑いをした。

「ファンタジーな、中世的な世界なんかもいいかもね。こっちってちょっと異世界っぽく感じるところあるし」

「蛍ちゃんって、何かそーゆーの好きそうだよね。実際に読んだりしてるみたいだし」

 燐も蛍も本を読むのが好きだから、自然とそういう話になってしまう。

 忙しくしている時でも、本を読む時間だけは確保していたぐらいだった。

「何かね、そういう系のも読むようになったの。前は割と古典的なジャンルばっかりだったけど。最近は色んなの見たりしてるよ」

 自分でも不思議そうにつぶやく蛍に、燐はぴっと鏡の前で人差し指を立ててこう言った。

「やっぱりあれじゃない? 先生になるんだから色んな知識が必要ってことなんじゃないの」

 さも当然とばかりに言う燐に蛍は困ったように頬に手を当てていた。

「まあ、そういう所もあるのかもね。そういう燐はどうなの、最近は何読んでる?」

「わたしも色んな本、読んだりしてるよ。あ、でも最近は電子書籍を使うことが多くなったねぇ、やっぱり手軽だし。それに読むだけじゃなくてね……」

「他に何かあるの?」

 少し含みのある言い方を燐がしたので、蛍は細い指を頬に当ててちょこんと首を傾げた。

「ほかって言うか……これは、まだ内緒かな。そういう段階でもないしね」

「わたしにも言えないこと?」

 少し怪訝そうに眉を寄せる蛍に、燐は困り顔で答える。

「まあ、蛍ちゃんにはその内話すよ。あ、そういえばさぁ、今朝の”運転”。あれって、ちょぉっと危なかったよね。わたし、空でも飛んじゃうんじゃないかってずっとヒヤヒヤしてたもん」

「え、いきなりそっちの話!?」

 急に話が今朝の事に変わった事に目を丸くする蛍。

 そんな蛍とは対照的に、燐はにこにこしながらその続きを話していた。

「だって凄くビックリだったよ。変な絶叫マシンなんかよりもずっとスリリングだったもんね。蛍ちゃんの運転」

 そう言って燐は楽しそうに笑った。

「それは……まあ、まだ仮免中だから……」

 ぼおっと顔を赤くした蛍がもじもじと呟く。

 燐が笑ってくれるのは嬉しいけどそれが自分の恥ずかしいところだとやっぱり動揺してしまうから。

 もっと別の方法で燐を笑顔に出来たらいいのだろうけれど。

「それにしたって、あれはさぁ──」

 二人の会話は今朝、町まで向かう途中で練習がてら蛍が車を運転したときのちょっとした騒動の方へと話題を移していった。

 ……
 ……
 ……

「あのさ、蛍ちゃん。今、こんなこと聞くのってちょっとおかしいのかもしれないけど……」

 それまで快活に喋っていた燐が急に言い淀む。

 蛍は不思議に思いながらも、特に気にすることなく燐に続きを促した。

「遠慮なんかしてくて良いよ。燐、何でも言って」

 それは本当のこと。

 この不安定な状況を、それこそ奇妙なスマホから流れてくる燐の声だけが繋いでくれている。

 むこうとこちらの唯一の接点が燐、なのだから。

 少しでも長く話していたいのはそれだけではないにしても。
 何でもいいから燐と話をしていたかった。

 結局まだ、青いドアの家からも出れていないのは、多分そういうことで。

 燐と会話を続けているとやっぱり落ち着くし、楽しい気持ちもなってしまう。

 今いるところが現実かどうかなんて気にならないほどに。

 蛍のその言葉に安堵したのか燐は小さく息を吐いてからその旨を話し出した。

「ん、じゃあさ……約束ってわけじゃないけど、今夜には帰ってこられそう? わたし、その時蛍ちゃんに言っておきたいなってことがあるんだけど」

「えっ、今夜?」

 今日の夜に何かあったっけ。

 燐と大事な約束なんかしてたかな?

 うーんと蛍は首を捻る。

 何故かは知らないが、白い靄がかかったみたいに頭がうまく回らない。

 燐がわざわざ口にするぐらいだから何かとても大事なことのはずなのに。

 何度思案を重ねてみても、やはりすぐに思い当たるものがなかった蛍は、ちょっと恥ずかしくは思ったが直接燐に聞いてみることにした。

 その方が手っ取り早いし、それに話すだけの口実も出来るわけだし、と割とメリット方が大きかったから。

 蛍はわりと楽観的に考えて、鏡の前でそわそわと覗き込んでいる燐に話しかけた。

「あの……燐、今夜って何だったっけ? 何かあったんだっけ」

 いつもの軽い調子で蛍はスマホ越しに燐に話しかけた。

 けれど。

「あれ?」

 そのスマホからは何の声も返ってはこなかった。

 静かに沈黙している。

 全身が凍り付いたような底知れない焦燥感を感じ取った蛍は、スマホに向かって叫んでいた。

「どうかしたの? ねぇ……燐!!」

 それっきり、だった。

 燐の声は途絶えてしまった、まだ話の途中だったのに。
 何の前触れさえもなく。

 急に途絶えてしまったのはそれだけではなく。

「あっ、鏡の方も……!」

 鏡面に映っていた、にこやかな燐の姿も失われていた。

 普通の鏡へと戻ってしまった()()が映し出すのは、自分でも驚いてしまうほどの酷い顔をした、自身の顔だけであった。

 鏡をいくら覗き込んでみても映っているのは自分と、青いドアの家のリビングの風景だけ。

 全て無くなってしまった。
 蛍はがっくりと肩を落とす。

 喪失感というか、虚しさしかない。

 そして──もう、終わったんだと思った。

 概念的なものだけでなく、実存的なものでも。

 スマホの方だって充電が切れてしまったという単純な理由だけではない。

 何故なら、鏡の方もぷっつりと向こうの世界を映し出さなくなっていたから。

 蛍か燐、もしくはその両方か。

 何かの問題が生じたと考えられる。

(それか……時間?)

 確か、随分前のことになるが、この青いドアの家の世界には”長く留まることができない”と言われたことがあった。

 自分は大丈夫でも、燐の方がそうではなかったのかも。

 声や画像の様な実態を持たないようなものでも、その法則には抗えなかったと考えられる。

 その資格がない、と。

 何にせよ。

 向こうと……燐との接点が切れてしまったことは紛れもない事実だった。

 蛍はまだその事を直視できないのか、しばらくの間スマホを握りしめながら茫然としていたが、急にある事に思い当たった。

「鏡はダメでも、携帯だけがまだ動いてくれれば……!」

 四の五の言っても始まらないのは最初から分かっていた。

 どうせ世界に取り残されてしまうのなら。

 だったら、せめて燐の声だけでも、と。

 もう一度だけ聞きたい、いつもの元気な声を。

 たった一言だけでいいから。

 蛍は衝動に駆られたように辺りを見渡すと、鏡が見つかった戸棚や他の引き出しなど、家中をまたひっかきまわし始めた。

(充電器か、もしくは別のものでも……)

 接点になるようなものが他にある気がする。
 実存的なものが。

 無駄だと言う事は十分わかっているのはずなのに、それを止められない自分を何とも滑稽に感じる。

 人間の心理というかこれは多分、本能。

 本能からくるものなんだと思う。
 理屈なんかなくて。

 少しでも繋がりたいという単純な思いが、手や足を無意味に動かしているのだと。
 そう思った。

 例えそれがただの思い込みからくるものであったとしても。

 止めたいとも思わなかった。

「やっぱり、ない……!」

 当然だった。
 さっき見た所をもう一度探したって何かが急に見つかるはずもなく。

 これ以上のない現実を突きつけられて、蛍は万策尽きたように今度こそ立ち尽くしてしまう。

 でも。

「あっ──!?」

 蛍は最後に残った手鏡のことを穴が開くほどに凝視していた。

 ──そうだ。

 確か、この鏡が割れて元の世界へ戻ってこれたことがあった。

 その時の出来事をちゃんと全部は覚えてはいないが。

「確か、”ハリちゃん”とか、言ってたよね?」

 蛍は鏡を覗き込みながらその鏡面に軽く触れた。

 ”ハリちゃん”とは燐が名付けたものだったが、さっきまでその燐を写していた鏡からは当然何の返事も返ってこない。

 冷たいとも暖かいとも感じない、つるんとした鏡面が移すのは蛍の細い指と繊細な指紋だけだった。

「……っ!」

 蛍は唇を引き締めると踵を返すように振り返った。

 小さな鏡を手にしながらリビングの大きな窓のサッシをカラカラと開ける。

 前の家と同じような小さな濡れ縁まで出ると、そのすぐ真下の線路に目を付けた。

(きっと、これなんだ……きっと)

 譫言(うわごと)のようにぶつぶつと繰り返しながら、蛍は鏡を両手に持ちゆっくりと振りかぶった。

 蛍は、ただ一点を見ていた。

 目標である線路、の周りに散らばる小さな固い砂利に。

 ──この鏡を割ってしまえばいい。

 そう蛍は結論付けた。

 とても綺麗な鏡だから勿体なくはあったけど、スマホが反応しなくなった今もうこれしか残っていなかったから。

「──っ!!!」

 蛍は渾身の力でもって両腕を振り下ろす。

 後は簡単に鏡を放り投げるだけ。

 それだけで小さな鏡は宙を舞い、地面に当たって粉々に砕け散り、キラキラとした破片を線路上に飛び散らばされていく。

 そのはずだった。

「うっ、うっ……」

 青と白の世界は綺麗なままで、ただ沈黙を横たわらせていた。

 線路に破片が散らばることも衝撃音もなく、その鏡はまだ蛍の手のひらの中にあった。

 その代わりという訳ではないが、蛍の瞳からこぼれた涙がぽたぽたと地面に小さな染みを作っている。

 黒いヴェールに包み込まれたみたいに、これまで隠しておいた暗闇が胸の中に溢れ出してきて、蛍は自分の頬をごしごしと拭った。

 自分でも何が起きたのか良く分かっていない。

 まるで子供のように赤くなった目を蛍は何度も手の甲で擦り上げた。

 堰を切った流れは止められないみたいに、ぽろぽろと後から涙がこぼれてくる。

 とても息苦しくなって、声が形を作ってはくれない。

 嗚咽ばかりが込み上げてくる。

「う、ごめん、ごめん……ね……」

 手鏡が、蛍を映していた。

 誰に対して謝っているか分からないが、濡れ縁にぺたりと座り込んで泣きじゃくる蛍の姿を。

 もう──気づいてしまったから。

 自分の、本当の気持ちに。

 本当に欲しかったもの。
 それがまた失われてしまった。

「燐……」

 蛍はぽつりと名前を呼んだ。

 もう絶対に届くことない濁りの混ざった声で。
 
 友達で親友で、そして……。

 引っ搔き傷だらけなのにそれでも輝きを失うことのなく、前よりもずっと綺麗になった、貴方の名前を。

 傷はもう元には戻らない。
 それでも燐は戻ってきてくれた。

 ボロボロで傷だらけなのに、それでも自分よりも他人のことを気遣っていつも笑ってくれている。

 器用なのに、ちょっと不器用で、でもしっかりとしている。

 頭も良いし運動だって、なんだって出来る。

 自分とは大違いな、でもかけがえのない、ともだち。

 ううん、友達以上の存在。
 
 自分の中では比べるものもないぐらいに大切な人なのだと。

 それがやっと分かったのに。

 もう二度と失いたくはない、ずっと大事にしたいと思っていた。
 そのはずだった。

 なのにこうしてまた目の前から消えてしまうだなんて。

(燐……わたし、痛いよ……)

 胸の奥が、心が張り裂けてしまいそうにじくじくと鼓動に合わせて脈動するたびに痛みを発している。

 きっと、知らなければこんな痛みや苦しみを持つことなんかはなかった。

 だけどもう知ってしまった。
 
 優しくていつも明るく微笑んでくれるその姿を。
 
 何も持っていなかった自分が唯一守りたいと思ったものだから。

 心から尊敬していから、燐のことを。

(でも、これは?)

 この胸の苦しみはそれとは少し違う気がする。

 切なくて、甘い痛みを伴うくるしみ。

 これが恋、とかそう言ったものなんだろうか?
 実感のようなものは何一つ湧かないけど。

 やっぱり、よく分からない。

 さっきからずっと頭がぐるぐると混乱している。

 様々な思いの奔流が去来して、混ぜこぜの波形を描いていた。

「向こうに、帰りたい……」

 終わらない夜が訪れた日、燐は何度かその言葉を口にしていた。

 蛍はその気持ちがいまいちピンとは来なかったが……ようやくそれが呑み込めた。

 帰りたくて、帰りたくて、たまらなくなっている。

 ここには居ないのだから──燐は。

 あの時の悲しみが蘇ってきたように、蛍は固く冷たいスマホをぎゅっと握った。

 同じだと思った。
 あの時、落ちてきた紙飛行機と。

 不条理だったから。
 
 世界が。

 だから紙飛行機を握りつぶしてしまった。
 二度と元には戻らないほどに。

「燐……燐……!」

 もうどうにもならないことを認めてしまったように、蛍は何度も燐の名を呼んだ。

 何度も言い続ければきっと、届く。

 などと言ったことは何も考えてなく、ただ呼んでいるだけだった。

 ただ、蛍にとって本当に、一番好きな人の名前だったから。

 声が枯れて、存在が消えてしまっても呼び続けようと。

 どうせ出来る事なんて、それぐらいだから。

 線路の反対側へと行こうとしてたけど、もうそれもどうでもいい。

 ずっと、燐のことだけを考えていよう。

 どうせ、こっちの世界では無限とも思える時間が流れ続けるだろうから。

 無為に時を過ごすぐらいなら、ずっと好きな人だけを考えていれば少なくとも退屈はせずにすむだろう。

 多分、”あの人”も同じことをしていただろうし。

 何もない世界で、自分の輪郭を保ち続けていたのはきっとそういうことなんだ。

 そうする事で何かが起きるとは思わないけど。

 心がちょっとでも満たされて、楽な思いがするから。

 閉鎖された世界でずっとこうしていようと。
 蛍はそう思った。

 ……
 ……
 ……

「…………」

 いつ、来ていたのだろう。

 そう気付いた時にはもう既に背後に気配を感じていた。

 声はない。

 けれど静かな息づかいは聞こえる。

 躊躇っているというよりも、ただ静かに佇んでいる風にみえた。

 気配は確かに感じるのに、まるでそこには居ないみたいな透明感を背中に感じる。

 ──何も言わない。

 ──何も言ってはくれない。

 そうだろうな、と蛍は思った。

 多分、あの人なんだとは思っている。

 他に該当する人が居ないからなんだけど。

 でも、もしかしたら。

 ”今、本当に逢いたい人”がすぐ後ろにいる可能性だってある。

 この世界は常識とは違う世界なのだから。

 ちょっとぐらい期待してもいいのだろうと思う。

 限りなく薄い線であるが。

「……」

 それでも、蛍は振り返らなかった。

 そのどちらにしたって結局は残滓(ざんし)なのだから。

 もう過ぎ去ってしまったもの。

 それは伸びる影のように意味のないものだから。

 どんなに追いすがっても届かない空とおんなじ。

 この作り物の空とは違った、本物の空と。

 蛍は俯いた顔も上げずに背を向けて蹲っていた。

 今の酷い顔を見られたくないって言うのも確かにあったが。

 それよりも。

 背後で見守ってくれていることに胸の内で感謝をしながら、蛍は自分の気持ちが落ち着くのをじっと静かに待った。


 …………
 ………
 ……




 

「──もしもし、蛍ちゃん!? ねぇってばぁ!」

 

 燐の方でも当然同じことが起こっていた。

 

 急に蛍の声が聞こえなくなったことに疑問を感じた燐は、スマホに向かって必死に呼びかけていた。

 

 だが、何度スマホに話しかけても、蛍からの返事が返ってくることはなく、小さなスピーカーからは否定ともとれるノイズだけがとつとつと流れ続けているだけ。

 

 まさかと思い、スマホ本体の異常を確認するも特に問題となるような表示は出ていなかった。

 

 充電もまだ充分に残っていたことだったし。

 

 それに、それまで蛍の姿を映していた鏡──”浄玻璃(じょうはり)の鏡”の方も、単なる普通の鏡に戻っていた。

 

 つるんとした鏡面を何度覗き込んでみても、映るのは不安そうな燐の顔だけだから。

 

「これって、まさか!?」

 

 向こうの世界との連絡が切れてしまった、ということなのか?

 

 燐は半信半疑になりながらも、そう結論を付けた。

 

 確かにあまりにも細い繋がりだったから、いつ切れたとしてもおかしくなかったけど。

 

 でも、もうずっと……このままなんてことには……。

 

「なら!」

 

 燐は考える間もなくすっと立ち上がる。

 

 とてもじゃないけど悠長に座ってなどいられなかった。

 

 きっと、向こうでなにかあったに違いないのだと。

 

 燐はそう確信していたから。

 

 けれど、同時に今の自分に何が出来るの、とも考えてしまう。

 

 蛍が本当に青いドアの家の世界にいるのなら、何としてもそこに行かなくてはならない。

 

 でも、どうやって?

 

「うむむむ……」

 

 燐は口を閉めて状況を分析する。

 

 すぐにでも行動したいのはやまやまだったが、どう動くべきかその方向を固める必要があったのだ。

 

 闇雲に走り回った所で何の成果も得られないことは、歪んだ世界で起きた経験からよく知っていたから。

 

 体を掻き抱くように燐は両腕を組むと、目をぎゅっと瞑り、自身の内面だけに意識を集中させた。

 

 ひどく動揺しているのは間違いない。

 だからこそ落ち着く必要があった。

 

 やれることは何でもするつもりだ。

 

 向こうの世界から救い出す為ならなんだって……。

 

(それにしても……何でまだ”青いドアの家”はあるのだろう? もう無くなってもいいはずなのに) 

 

 蛍の言うように向こうの世界は今だ現実のものとして存在している。

 

 この目で確かめてないからまだ明確な判断はつかないけれど。

 

 それでも、鏡の後ろに映っていたのは確かに向こうの、青いドアの家の世界の一部だった。

 

 何度も訪れたことがあるから見間違えようがない。

 一幅の絵画のような情景は確かにあの世界だ。

 

 だとすればそれは概念的なものではなく、ちゃんとした実存的なものとして捉えなくてはならない。

 

 焦ってもどうしようもないけど、だからと言ってのんびりなんかはしてはいられない。

 

 向こうの世界で蛍はひとりぼっちになってしまったのだから。

 

 ──”青いドアの家の世界”。

 

 それは、”意識すればするほど遠ざかる世界”だと言う事は仕組みとして理解している。

 

 強く願えば必ず行けるのではと思ったこともあったが、実際にはそういうことではなく。

 

 無意識と意識の中間。

 

 願いと純粋さがぴったり重なった時に、向こうの世界を垣間見ることが出来るのではないかと燐は推測していたのだった。

 

 それでも、行ける確率は精々1%未満で、それ以外にも別の条件があるだろうとも思っていた。

 

 何らかの偶然からくる事象が完璧に一致したときだけに向こうの扉が開かれるのだろうと。

 

 それは本当に難しい条件であって。

 

 だからこそ眠っている時などの意識を失っている時に飛ばされてしまうのだと思う。

 

 睡眠時の覚醒、無覚醒を繰り返すときのあの気持ちの揺らぎが、向こうの世界との波長と重なり合いやすいのではと思っていた。

 

 何ら異変が起きていないのに、向こうの世界に呼ばれてしまうのにはそう言った一因があるのだと、燐は考えていたのだ。

 

 それともう一つ。

 

 身体が慣れてしまっている。

 

 向こうの世界の美しさ、その静かな情景、そして”味”を知ってしまったのだから。

 

 ()()()()()()と比べて、向こうは静謐で……優しいから。

 

 それと引き換えに何かとても大事なものを失いそうな感覚はしないわけでもないのだけれど。

 

 それでも惹かれてしまう。

 世界ではなく、自分の方から。

 

 その事象を証明する論文は流石に出せそうにはないが。

 多分それで間違いないと思う。

 

 自分の勘によるところが大きいけど。

 

「だったら、わたしもそうした方がいいのかな」

 

 向こうの世界との繋がりを強く望むか、それとも今すぐに寝てみるか。

 

 さっきは凄く怒られちゃったけど、ちょうどおあつらえの場所でもある。

 ちょっと古いけどベッドもあることだし。

 

 何より、始まりは”蛍の部屋”からだったから。

 

 明日を望んでいたのに、目覚めたら違う世界に来ていたのだ。

 

 夢かと思うほどの現実離れした世界へ。

 

 ただ、眠気はまだないから、眠るのにはちょっと時間がかかってしまうけど、今はまだそうするつもりはない。

 

 やっぱり蛍の事がとても心配だし、それにこれは最後の手段としてとって置きたかった。

 

「うん、そうだよ」

 

 暗い顔をしていたって始まらない。

 

 何かが起こっているのはここではなく、向こうの……蛍ちゃんの方なんだから。

 

 燐は大きく頷くと、手早く荷物をまとめて蛍の部屋を後にした。

 

 ぎしぎしと鳴る木の階段を一気に駆け下りると、靴を履くのももどかしくなるほど慌てながら三間坂の家の玄関ドアを横に開く。

 

 少し乱暴に開けた先には、まだ蒼い、初夏の午後の天気が広がっていた。

 

「青い、空だ……」

 

 今すぐにでも行くつもりだったのにその足が急に止まってしまったのは、澄み渡った空のせいだけじゃない。

 

 意思は固まったが、その行先が要として決まらなかったからだ。

 

 蛍を迎えに行かなくちゃ!

 

 でも、何処に行ったらいい?

 

 ぐるぐると同じ考えが回っている。

 

 諦める気などは毛頭ないけど、どうしたらいいのかが分からない。

 

 途方に暮れた子供みたいな、泣き笑いの表情を浮かべながら、燐は流れる雲を黙って見上げていた。

 

 けど、もうぐずぐずなんかしてはいられない。

 

 これはただの勘だが、”今日を逃したらもう明日はない”と思っている。

 

 明日なんて日はもう来ない。

 そんな予感さえ感じてしまう。

 

 とても良くないことを想像してしまったみたいに、燐は一瞬ぶるっと身を震わせると、いつまでもぐずっている両方のふくらはぎを揉み解すように両手で強く握った。

 

「──っ」

 

 軽い痛みが心を促したのか、燐は我に返ったようにキッと正面を向くと、とりあえずいま頭に浮かんだ場所まで行ってみることに決めた。

 

 確かに──いつかは別れが来るとは思っている。

 

 一緒に居て楽しいけど、やっぱり”他人”なんだし。

 

 いつまでも繋ぎとめておくものではないとは思っている。

 

 それに誰だって最後はひとりなのだから。

 

(けど、それは今日じゃない)

 

 もっと、ずーっと先の事だ。

 

 それに……お互いが納得する形での別れなんだと思っているから。

 少なくとも自分は。

 

(だから、わたしは、ぜんっぜん納得できないからねっ、蛍ちゃん!)

 

 きっとあの時の蛍だってそう思っていたに違いないだろう。

 

 だからこそもうあんなことは二度とすまいと決めたのだ。

 

 ひとりで、勝手に居なくなるなんてことは絶対に。

 

「わたし、必ず迎えに行くから! だから待ってて」

 

 自身の決意を表明するように燐が空に向かってそう声を上げた時だった。

 

(えっ?)

 

 ちょんちょん。

 とても小さい手が今にも走り出しそうとした燐の服の裾をぎゅっと摘まんでいた。

 

 折れそうなほど細い指なのに、見た目と違って力強く燐を繋ぎとめていた。

 

 一体、誰?

 

 燐はそう思う間もなく振り返った。

 

 相手がたとえ誰であろうと、適当な理由をつけて振り切るつもりだった。

 

 実際それぐらい急いでいたし、何となく苛立っているところもあったから。

 多分、自分自身に。

 

「あっ」

 

 振り返った燐は呆然と立ち尽くしてしまう。

 

 そこには居るはずのない人が立っていたから当然だった。

 

 点になった目を大きく見開いて、燐は呆気にとられたように口を開く。

 

 そのぐらいの衝撃というか、ともかくまだ動揺したように瞳は揺れていたが、何故か唇は別の生き物みたいに、たどたどしい言葉を作っていた。

 

「オオモト、様……?」

 

 黒髪の小さな少女を見て、燐はそう言った。

 

 そう呼ばれた少女は、返事を返すことも無く、ただじっとこちらを見つめていた。

 

 ……

 ……

 ……

 

(ど、どうしたら……)

 

 燐は確かに動揺をしていた。

 

 向こうの世界の事を唯一知ってそうな人に出会ったというのに、肝心な所で口が上手く動いてはくれない。

 

 確かに、渡りに船の状況ではあったが、それはむしろ別な緊張をはらんでいた。

 

 燐は上目づかいでこちらを見る少女をまざまざと見下ろす。

 

 本当に久しぶりに見た()()()()()はやはり着物姿であり、いきなり現れたことと言い、それは童話から抜け出てきたと言われても信じてしまうほど、神秘的すぎた。

 

 まさしく──座敷童の少女、が目の前にいる。

 

 緊張しないわけがない。

 現実でありながら現実感がまるでないこの状況を。

 

 それは、夢に囚われたときみたいに。

 

「あの子の所に行きたいの?」

 

 先に言葉を発したのは幼い頃の姿をした”オオモト様”の方だった。

 

 燐は戸惑った表情でぐっと唾を呑み込んだあとに小さくこくりと頷いてみせる。

 

 これは紛れもなく現実の事柄なのだと。

 その事実を呑み込むかのように。

 

(確かに、改めて見るとよく似てる)

 

 町に引っ越してきたばかりの時に会った時は知らなかったからだけど。

 

 蛍の家の倉庫に大事そうにしまわれていたあの”人形”と、目の前の少女の姿は本当によく似ていた。

 

 人形そのものが動いている、そう思われてもおかしくないぐらいに瓜二つであった。

 

 そのぐらい顔は綺麗に整っているし、少し変わった柄の着物から覗く肌も雪のように白く、透き通っていた。

 

 偶然かどうかは分からないが、蛍の家の前で現れた幼い少女の姿のオオモト様に、燐は戸惑いの表情を隠し切れなかった。

 

「大丈夫よ」

 

 何に対して言っているのか、まるで心を見透かしたように少女は静かな声でそう言った。

 

 そのことを問いかけたかった燐だったが、何かが喉に絡みついたように不意に息がつまってしまい、何も言う事ができなかった。

 

 恐怖を感じているわけではないとは思う。

 

 でも。

 この少女とどう接してあげたらいいのかが分からない。

 

 前に家で会ったときにはそんなことは気にもならなかったはずなのに。

 

 そう言った、未然の戸惑いがこれ以上少女に声を掛けるのを躊躇わせていた。

 

 少女を前にして燐は金縛りにでもあったみたいに言葉を失っていた。

 

(子供が苦手ってわけじゃないんだけどなぁ……)

 

 むしろ、好きなほうなんだけど。

 

 目の前の少女も現実──実存であると燐は受け止めざるを得なかった。

 

 もっとも前にはあの小さな口で燐が焼いた、まだあまり出来の良くないパンを何故か美味しそうに食べていたから、普通に現実感はあるのだろうけど。

 

 でもまだ燐は今の状況を飲み込めきれないでいた。

 

 そしてもう、異変みたいなものが始まってしまったと、内心で訝しんでもいた。

 

「まだ、大丈夫……それにもうあんなことはこの町では起こらないから」

 

 少女は繰り返すように大丈夫、と呟いた後、そう言葉を投げた。

 

 何の根拠がある言葉なのかは分からないし、結局それは何に対してのものなのか。

 

 燐は複雑な顔で少女を見つめていた。

 

 少女は燐にじっと見つめられていることを気にせずに話し続ける。

 

 それはもうこの世界で伝え残しがないようにと、一言一句心を込めて話していかのようだった。

 

 そんな風に燐には聞こえた。

 

「わたしは、この町から居なくなる。だから……燐、あなたの心配しているようなことにはならないわ。あなたが蛍を想い続けている限り、互いの繋がりは途切れることは無いのだから」

 

 あぁ、と。

 

 燐はやっと理解できたように嘆息した。

 

 ()()()は妖怪なんかでも、ましてや全ての元凶、”大元(おおもと)”なんかではない。

 

 色んな思いが組み合わさった”思念体”みたいなものだろう、なんて思ったことを抱いたことは確かにあったけど。

 

 それはただの思い込みだったと今は言える。

 

 だって、実際に”この子”は実存していて、同じ時間を共有している。

 

 ただ、他の人とは少し違った領域。

 普通では認識できない空間にいるというだけで。

 

 こうやってお互いに触れ合える事だって出来るし、それこそ人を好きになることだって出来る。

 

 黒く深い、儚さを湛えた瞳はこの世界のものとは違う、まるで”空”そのものみたいだけど。

 

 それ以外はいたって普通の子と何ら変わりない。

 

(まあ、雰囲気はやっぱりちょっと変わってるけど……古風というか)

 

 それも一つの個性として捉えられる。

 

 清楚で大人しそうにみえるけど、実際は結構お喋りな人だったし。

 

 そんなことよりも今は。

 

 燐は微睡みからいま目覚めたように、急いで口を動かした。

 

「じゃあ、もしかして蛍ちゃんと!?」

 

「……ええ」

 

 慌てて出た言葉はあまりにも断片的でひどく虫食い状態だったが、それでも小さいオオモト様は理解してくれたらしく小さく頷いた。

 

 その言葉に安堵した燐はようやくこの事態を呑み込むことが出来た。

 

 何故今になって自分の前にオオモト様が出てきたのか。

 その理由を。

 

(多分、この人は”切り替えてきた”のだと)

 

 そう燐は理解する。

 

 恐らく、向こうの”青いドアの家”で蛍と会ったのだが、やはりと言うか、自分の力だけではどうにもならないから”切り替えて”燐に会いにきたのだろうと。

 

 そう思ったのだ燐は。

 

 小さくなってもオオモト様の表情からは相変わらず何も伺い知る事はできないけれど。

 

 そこまで間違いではないと思う。

 

 柔和に微笑んではいるけど、具体的なことは何も言ってはくれないし。

 

(でも、わたしは一体何をしてあげればいいのだろう?)

 

 オオモト様が向こうの世界に連れて行ってくれる……というわけでなさそうだし。

 

 幼いオオモト様を覗き込む。

 

 大きな丸い瞳はどこまでも吸い込まれそうなほどに透き通っている。

 

 黒曜石を思わせる深い色の瞳は、様々な光の反射が見て取れた。

 

 その奥を垣間見た時、不意に燐の脳裏にあの白い犬の存在を急に思い起こさせた。

 

(今の、は?)

 

 結局、意図は見えてはこない。

 

 だけど、何かを伝えようとしている、そんな想いの揺らぎを瞳の奥底から感じたのだ。

 

「えっと、いいかな」

 

 燐は返事を待たずに少女の小さな手をそっと握った。

 なぜそうしようと思ったのかは、自分でもよく分からない。

 

 縋りつくわけではなく、ただ何と無しに触れてみたかったのだと思う。

 

 本当に、この人は実在しているのかどうか知りたかったから。

 

 それこそ人形のように細く、しなやかな少女の手のひらから確かな温もりが伝わってくる。

 

 燐はもう無くなってしまったと思っていた、古い忘れ物に出会ったような、不思議な既視感を覚えていた。

 

「……」

 

 小さなオオモト様からも軽く握り返してくる。

 

 その表情は変わらないが、しっかりとした強さで。

 

 真っ直ぐにこちらを向きながら。

 

「あの、オオモト様」

 

 燐は意を決したように口を開く。

 

 今更のようにこの少女の名前を問いかけるみたいに。

 

「何かしら」

 

 幼い子供のような声でこたえる、小柄な黒髪の少女。

 

 燐は過去に2回ほどこの姿のオオモト様を見たが、あれから何も変わっていないように見えた。

 

 変わりようがないのだろう。

 

 少女が最も”幸運”であったときがこの姿の頃だったのだから。

 

「どうしたら行けるんでしょうか、”向こう”へ」

 

 単刀直入に訊ねる。

 

 それでも、目上の人に話しかけるように燐は慎重に言葉を選んで話したつもりだった。

 

 もっとも切羽詰まっていたから、少し早口になってしまったけど。

 

「そうね」

 

 オオモト様は気を悪くするよな事はなく、一言だけ言うとすっと細い指を差しだした。

 

 答えの代わり? なのだろうか、燐もそちらの方を向いた。

 

 少女の白い指は、緑が生い茂る”ある山の方”に向いていた。

 

 てっきり自分の方に向けられてると思っていたから、燐はちょっとだけ安堵した。

 何に対しての安心かは分からないが、少し肩が軽くなった気がしたのだった。

 

 燐は目線を元にもどすと、少し具体的に問いかける。

 

「そこに行けば会えるのかな、蛍ちゃんに」

 

 小さなオオモト様はすぐさまこくりと頷いた。

 

 たったそれだけで燐は淀みきった空気が急に澄み渡ったような開放感を覚えた。

 

「そっか、良かった」

 

 燐はぱっと顔を明るくすると、再び少女を見つめる。

 

 適当な事を言っているとか、そう言った疑いを持ってみているわけではなく。

 

 ただ、この少女の姿を目に焼き付けておいた方が良い。

 そんな気がしたからだった。

 

「えっと、ありがとう、ございます。その、何度も助けていただいて」

 

 たどたどしくお礼を言う燐を見て、少女は不思議そうに首を傾げた。

 

 別に何もしていないと言っているかのように。

 

「いいのよ。わたしはそれぐらいしか出来ないし、それに」

 

 オオモト様はそこで言葉を言い淀むと、何かを隠すかのように小さく笑みを作った。

 

 あどけない微笑み。

 

 少女にとてもよく似合っていて愛くるしく見える。

 けれど、何故か少し寂しそうに見えた。

 

 燐は黙ってオオモト様の話の続きを待った。

 

 本当は、オオモト様の事を置いてでも今すぐにあの山の方に走り出したい気持ちがあったが、それでも待つことにした。

 

「わたしも、行くところがあるの。役目、なのかしらね?」

 

 他人事のように呟くオオモト様に、燐は少し違和感を感じたが。

 

「そう、なんですか?」

 

「ええ」

 

 燐の問いにオオモト様は小さく答える。

 

 あまりにも迷いなく答えたので、燐は”何処へ”とは聞けなかった。

 

 代わりに少女の手を優しく握りながらそっと言葉を投げた。

 

「ええっと、じゃあ、元気でね」

 

「ええ、あなたも……蛍にもね」

 

 簡単な、ややもすればあまりも素気なかったが、オオモト様も同じように返してくれたので、燐はこれでいいと思った。

 

 きっと、同じだと思ったから。

 方向が少し違うというだけで。

 

 彼女──オオモト様にも行くべき所があって良かったと本当に思った。

 

 単純な別れさえしないで居なくなってしまった人だったから。

 

 だから、会いに来てくれたのだと。

 

 最後に。

 

 良く知った柄の着物の上に、見たことのない紺色の上着を羽織っていたからきっとそうなんだろうと。

 

 自分、つまり座敷童の記憶が人々から完全になくなってしまう、その前に。

 

「もう、会うことはないんですか?」

 

 燐は一応聞いてみることにした。

 

 二度とない別れを含んでいるのは分かっていたが、それでも聞いておくべきことだったから。

 

「そうなるわね。もうこの町は変わってしまったから」

 

 それは町の名前だけのことを言っているわけではないのだろう。

 

 この町の人口や財源となる産業も、ちょっとの間にずいぶんと変わってしまった。

 

 何故かこれまで町が手を付けなかった観光にも力を入れるようになったし、町の外からの住人も積極的に受け入れるようにもしている。

 

 そして、今回の町の合併……この町は進化というか、確かに新たな変貌を遂げている。

 

 どういう方向に行くかはまだ分からないが。

 そこまで悪いようにはならないような気はする。

 

 それに、座敷童も幸運も、別の形で町に残っている。

 

 ただ、自分達の存在が町にまだ影響を与えているかどうかは分からないだけで。

 

 それは目で見えないものでもあるし。

 

 燐はつい、オオモト様の表情を窺ってしまった。

 

 前に蛍も言っていたが、”幸運の流れ”のようなものが分かるのは”この人”だけだったから。

 

 燐に無言で問いかけられていることに気付いたのか、少女は心配そうなため息をひとつこぼす。

 

 そして答えの代わりにもう一度小さく頷きながら、もう片方の手も包み込むように燐の手の上に乗せて手の甲を軽くさすった。

 

 何だかあやされているような気持ちになって、燐は少し恥ずかしくなった。

 

「オオモト様、わたしは」

 

「ええ」

 

 二つの視線が重なり合う。

 

 この先の言葉は出なかったが、少女の姿のオオモト様はくすりと微笑んだ。

 

 その笑顔を見た瞬間、不意に蛍の事が頭をよぎり、燐はせわしなく視線をきょろきょろとさせた。

 

「えっと、あのっ……わたしっ!」

 

 行かなくちゃ。

 今すぐに。

 

 頭ではそう分かっていても、何といってオオモト様と別れたら良いのかが、すぐには頭に浮かんでこなかった。

 

 このままこの人を放って置いたら多分もう二度と会えないだろうから。

 

(せめて、蛍ちゃんが戻ってくるまで待っててもらえないかなっ)

 

 蛍ちゃんだってオオモト様に言いたいことはあるだろうし。

 

 多分、燐よりも。

 

 まごまごとしている燐を見かねたのか、少女はぱっと手を放すと、少し困った表情で小さく手を振った。

 

 呆気にとられた燐だったが。

 

 それがあまりにも自然な行為、永遠の別れの挨拶という感じではなかったので、燐も掌を向けて少女に手を振った。

 

 少女達の間に言葉はなかった。

 

 けれど言葉以上に気持ちが伝わった。

 そんな気がした。

 

 燐はもう一度だけ振り返ると、今度は大きく手を振った。

 

 腰から伸びたリボンがそれと一緒にゆらゆらと揺れた。

 

 変わった格好をしている、と今更思ったのかそんな燐の姿にオオモト様はまた小さく笑うと、同じように手を振り返していた。

 

 夏の香りを全身に感じながら、二人は手を振り合って別れた。

 

 ──

 ──

 ──

 

 燐の姿が小さくなると、オオモト様はようやく手を下す。

 

 疲れたような感じではなく、むしろ見守るように小さくなった背中をまだ目で追っていた。

 

 きっと、また会えるだろうと思っている。

 それがどんな形であろうとも、と。

 

「ねぇ、()()()も、何か言ってあげればよかったのに」

 

 少女は前を向きながら何もいない空間に向けて言葉を投げる。

 

 周りには誰もいなかったので独り言かと思われたのだが。

 

「くぅん」

 

 鳴き声と一緒に、がさがさと草むらから何かが飛び出してくる。

 

 それと同時にぽんぽんと弾むような音がして、何かがころころと転がってきた。

 

 少女はそれを手で掬い上げると、胸元でぎゅっと抱きしめた。

 

 ──色とりどりの手毬。

 

 それは少女がずっと大切に持っていたものだった。

 

 草むらから出てきたのは一匹の白い犬。

 

 犬は少女が落とした毬を探しに裏山へと入っていたのだった。

 

 それが見つかったから口に咥えて戻ってきたのだけれど。

 

 雲のように真っ白な犬はあからさまに目線を落とすと、うなだれたように尻尾を下げていた。

 

「あの子たちのことが好きだったんでしょ」

 

 少女にそう尋ねられても犬は何も言わなかった。

 

 言葉は元々持っていなかったからそれでいいのだけれど。

 

 さっきのように吠える事さえもしなかった。

 

「ずっと北の方へ行くことになるわ。あなたにも分かるでしょ。あの”ヒヒ”が呼んでいるのが」

 

 そう促すよう言われても、白い犬は身じろぎもせずに少女が消えた方向をじっと眺めている。

 

 まるで伝承のあった彫像のように四肢を踏ん張ってじっと見つめている。

 

「……」

 

 その姿を不憫にでも思ったのか、オオモト様は小さく吐息を漏らすと、その白い犬の頭をそっと撫でた。

 

「あなたはこの地にとどまるといいわ。わたしは一人でも行くことができるから」

 

 そう言って犬の背の辺りを軽くぽんぽんと叩く。

 

 少女はそのまま本当に行ってしまいそうで、毬を大事そうに抱えながら犬に背を向けた。

 

「ありがとう、見つけてくれて」

 

 犬の方に顔を向けることなくそう言い放つと、そのまま自分の向かうべき方向へと歩き出していった。

 

 そのことに気づいた犬は慌てて少女の後を追う。

 

 それはちょうど燐の駆けて行った方向とは逆の道だった。

 

 けれど、急ぐと言っても少女の足は緩やかだったからすぐにでも追いついてしまったが。

 

 少女姿のオオモト様はすぐ隣に並んだ犬の姿に意外そうに驚くと、口元に手を寄せて微笑んでいた。

 

 本当に嬉しそうに。

 

「わんっ!」

 

 白い犬も嬉しそうに一声吠えると、少女の隣でトコトコと歩き出す。

 

 時折、名残惜しそうに遠くの山の方を見たが、その足取りにはもう迷いはなかった。

 

 ただ、歩きながらそのふさふさの尾っぽを大きく横に振っていた。

 

 それは、自分の名前を付けてくれた少女に別れを告げるかのように。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 

「ここ……だよね? きっと」

 

 燐はひとり呟く。

 

 まだ賑わいを見せている家の、”青いドアのパン屋さん”にも何処にも寄らずに、まっすぐにあの山。

 

 オオモト様が示した”ナナシ山”の登山口の前に立っていた。

 

(何か、少し違う?)

 

 見た目には他の野山と全く同じだけど。

 

 雰囲気というか、この辺一帯から何かが起こりそうな、そんな予感めいた思いを燐は感じとっていた。

 

「それでも行くしかないよね」

 

 他に当てがあるわけでもないし。

 

 燐は大きく深呼吸をすると、樹が鬱蒼と生い茂る暗い森の中へと分け入って行った。

 

 山の上では青い空に白くもこもことした雲がのどかに広がっていた。

 

 ──

 ──

 ──

 

 

 





 .☆.。.:.+*:゚+。 ☆祝!!”青い空のカミュ発売4周年記念!!!”★ .゚・*..☆.。.:*

■青い空のカミュ。

今年で発売から四周年おめでとうございます!!
”青い空のカミュ”、やっぱり素敵な美少女神ゲーです!!!

そんな神ゲーである、青い空のカミュも発売当時はまだぎりぎり年号も平成でしたねー。新型コロナなんてものは影も形も見当たらなかった頃でしたし。それにしても一周年記念をお祝いしたときは別の作品を書いてたわけなんですけども。今年で四周年だなんてねぇぇぇ!! 時の流れが本当に早いのです。というか青い空のカミュの二次創作をもう3年以上続けていることが私事では一番の驚きかもしれないです。
自分で言うのも何ですけど相当飽きっぽい性格ですしねー。

そういえば結構何度か言っておりますが、始めてゲームをクリアしたときは本当に呆然自失といいますか、軽い鬱にすらなった感じでしたよー。何も手につかない時だってありましたし。
でも、そう言うのも感慨深く感じます。この作品のおかげで色々な気付きを得ることができましたしね。
感謝、感謝です。本当に。

そんな”青い空のカミュ”の二次創作を書くことが出来たのも、そしてここまで続けられたのも、全てこの神作品が好きなゆえのことですよー! 偶然の出会いがここまで影響を及ぼすとはーー。毎回言っている気がしますけど、このゲームと出会えて本当に良かったです。ともすれば人生観にさえ影響を与えるほどの作品でしたからーー。誰が何と言おうと自分の中では現役のフェイバリットなゲームですよーーー四周年本当におめでとぉおぉぉぉぉ!!!!

でもちょっと前まで実は勘違いをしていてまして、今年で三周年かー、とかボケたことを思ってたんですよーーー!!! やっぱり時間が進むの早いよーー早すぎるー。今年ももう3月の終わりになりますですしねぇーーー。
来年の5周年は流石に……まあ、去年もそう言いながらもこうやって書いているわけですし。やっぱり予定は未定と言うことででっすーー。

ではでは、これからも”青い空のカミュ”を好きな一ファンであり続けたいと思いますーーできればずっと!!!


あ、そういえば四周年にして初めて発売日にお祝いできましたー!! 今までは一日遅ればかりで申し訳なく感じていましたので本当に嬉しいです。

改めまして、”青い空のカミュ”発売四周年おめでとうございます!!!


それではではーー。


あ、サブタイが以前の話と被ってしまったので別のと差し替えましたー。恥ずかしいぃぃぃー。


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Daysleeper

 
 ぐーんと鳴る低いエンジン音をなびかせて、一台の軽自動車が曲がりくねった峠道を走り抜けていく。

 伸びたヘッドライトがまだ薄暗い山間の黒い景色を丸く切り取っていく。

 昨晩からの雨で路面はじっとりと黒く濡れていたが、今は少し落ち着いていて精々小雨程度となっていた。

 朝の六時半前。

 六月の半ばの太陽はもう目を覚ましているはず。

 けれど、鉛色の厚い雲が空をすっぽりと覆い被さっていて、日の差し込む隙間もないほどだった。

 イベントは雨天決行だったから一応問題はない。

 目下の問題と言えば。

「蛍ちゃん、ハンドル切り過ぎだよ~、これじゃ車が飛んで行っちゃうっ」

 自分で運転するときよりもスピード感が増しているように思われたのか、助手席に座っていた燐は悲鳴にも似た声をあげていた。

「え、そうかな? これが普通だと思ってたんだけど」

 どういう基準かは分からないが、蛍は脇目もふらずそう答えると、教習所で習った事を頭に思い浮かべながら少し緊張気味にハンドルを握りしめた。

 その先では緩いカーブが待ち構えている。
 
 燐は、フロントガラスと蛍を忙しなく交互に見比べていた。

(確か、(こぶし)2個ほど開けてハンドルを曲げればいいって言ってたよね)

 隣の燐の顔を窺うだけの余裕は蛍にはないようで、じっと前を見据えながら何かを理解したように小さく頷いた。

 言われたことを思いだしながら、蛍はステアリングを大きく左へと曲げる。
 それはこぶし2個分どころか、燐や蛍の手なら4つはありそうだった。

「うひゃあああああ!?」

「あ。燐、ごめん」

 燐は助手席の上にある手すりとシートベルトをぎゅっと握りながら、本日何度目かの裏返った声をあげた。

 仮免で足踏みしている蛍の為にと、練習がてら運転をさせてみたのはよかったのだが。

 案の定それは間違いというか、予想以上に無謀な試みだったのだという事が分かった。

 自分が出来たのだから蛍だって出来るだろうと。

 燐は大きなため息をつく。
 けれどそんな余裕も長くは持たなかった。

「ほ、蛍ちゃん、ぶ、ブレーキぃぃ!!」

「うんっ!」

 燐の必死の呼びかけに蛍は素直に応じると、何の気なしにアクセルから足を離すとすぐさまブレーキペダルを靴の底でべた踏みした。

「えぇぇぇっ!!??」

 燐は信じられないとばかりに運転席の蛍を覗き込む。

 蛍は事態を察したようにあっ、と小さな声を上げた途端。

 がくん!

 とても嫌な感じの音と一緒に、座席の二人の体が前後に揺れる。

()()()? ()()なのぉ~~~!!??」

 体が横と流されてゆくような奇妙な感覚に、燐は困惑した声をあげた。

 だが、決して蛍の運転は悪気のある行為ではなかった。

 ただ、教習の際、(ブレーキの)踏み込みが少し浅いと、教官に指摘されていたことを蛍が忠実に守っただけことだった。

 それにしたってあまりにも極端すぎたが。

「蛍ちゃん、ゆっくり! ゆっくり曲がってぇー!」

 だがそれはもう既に遅く。

 その証拠に、ライトグリーンの軽自動車は一時コントロールを失う事となり、少女二人を乗せたままスローモーションのような動きで車が傾き始めていた。
 
 運転席側に極端に加重が乗り、自分の乗っている方のタイヤが浮き上がるのはないかと燐は戦慄の表情で凍り付いていた。

 事実、アスファルトから少しタイヤが浮き上がっていたので、二人とも刹那の浮遊感を感じることにはなってたのだが。

 蛍も自分でしたことに何か嫌なものを感じ取ったのか、大きく開いた口を手で抑えていた。

(嘘っ!? もしかして、事故っちゃう!?)

 数秒先の事を想像したのか、燐はさっと顔を青くしながらも半ば無意識に両足で座席の底を足で踏んばって抵抗する。

 浮き上がりそうになる車体を元に戻そうと試みる行為なのだが、この程度で何とかなるほど燐の身体は重くはない。

 第一、この時点でそれは無意味な事なのだが、それでもそうする他なかった。

 窓から身を乗り出して車体のバランスを保つなんて無茶な行為は今の燐の頭には到底浮かんではこなかったのだ。

「いやあぁぁぁっ!!!」

 迫りくるガードレールに蛍は目を大きく見開きながら、何をどう思ったのかステアリングをぐるぐると逆方向へと回していた。

 急ブレーキからの急ハンドルという、レースゲームですらまずやらないであろう行為の連続に、助手席の燐はおろか、運転席の蛍さえもパニックになっていた。

 パニックになっていたからの行動だったともいえるが。

 ぎゅるるるるるるー!!

 幅の小さい四つのタイヤが同時に悲鳴を上げる。

 路面が濡れていたことが幸いしたのか、車はタイヤを浮き上がらせながらセンターラインを横滑りして、ガードレール接触ぎりぎりにカーブを曲がっていく。

 もはや神業に運転だったが、二度と再現は出来ないだろう。
 したいとは思わないだろうし。

「落ち着いて、蛍ちゃん! 普通に走ればいいだけなんだからっ!」

 息を吐く間もない運転の連続に燐はまだ視界が安定しないのか、首を振りながら今更ながらのアドバイスを蛍に投げた。

「うんっ!」

 さっきから返事こそしっかりしたものを蛍は返している。

 だが、実際はまだ混乱しているらしく、今度は逆に傾いてしまった車体を無理矢理に立て直そうと、また大きくハンドルを切ってしまっていた。

「んにゃあああぁああああっ!!??」

 がたがたと身体を前後左右に揺さぶられた燐は、猫の悲鳴みたいな声を車内に響かせていた。

 ──
 ──

「はにゃああああぁぁ……」

 まだ生きていることを実感したみたいに、燐は深いため息を吐き出した。

「ごめんね燐、大丈夫?」

「う、うん……何とか、ね。ちょ、ちょっとびっくりしただけ~」

 そう言って燐は無理に笑おうとした。

 蛍は申し訳なく思い膝の上でぎゅっと握っていた。

 しとしとと鳴る雨の音と停車した車のハザードランプだけが二人の間に静かに流れていた。

「えと、本当に大丈夫だから気にしなくていいよ。誰だって最初の内はこんなもんだって。わたしだってほら、すっごく酷かったでしょ?」

 困った顔をしながら燐は自分の最初の運転の事を思い返して、俯いている蛍の肩に手をぽんと置いた。

(本当に全然だったもんね、あの時の運転は)

 今でも赤面してしまうほどの荒い運転だった。
 いきなりすぎることだったとは言え。

「でもさ、燐」

「うん?」

 ぼそりと呟く蛍に燐はちょっと気を遣った顔で見つめる。

「燐は知ってると思うけど、わたし、これでもちゃんと教習所に通っているんだよ? こんなので免許とか本当に取れるのかなって……」

 そう言われて燐はうっ、と言葉を詰まらせてしまった。
 
 別に悪い意味合いがあるわけはないけど、何というか図星というか痛い指摘であったから。

「え、えっとぉ」

 燐は適切を探すように目をくるくるとしながらさっきよりも頑張って笑顔を作った。

「ま、まあまだ時間はあるんだし全然大丈夫だと思うよ。蛍ちゃんなら絶対に免許取れるってわたし信じているからっ」

 少し目は泳いでいたが、その言葉はしっかりとしたものだったので、蛍は安堵したような深い大きなため息をついた。

 そしてぱっと助手席の燐の方を向くと、微笑んでこう言った。

「じゃあ、もうちょっとだけ運転してもいい? 何か少しコツが掴めた気がするし」

 燐は一瞬、えっ!? とした顔になったが、すぐににっこりと微笑んだ。

 あれだけの運転を披露してもしょげ返るどころか、すぐにやる気を見せる蛍に水を差すような真似なんて到底できるはずもない。

 いつだって頑張り屋さんの蛍。

 おっとりとしているように見えるけど誰よりも頑張り屋でなんでも真剣な蛍ちゃん。

 だから、心から応援してあげたい。

 ただ、ハンドルを握るとちょっと人が変わっちゃうような気もするけど……。

「うん、いいよ。蛍ちゃんの気のすむまで運転してみて。何なら帰りの運転だってしてっても良いからね、蛍ちゃんさえ良ければだけど」

 本当は途中までの道のりで燐に運転を交代するつもりだったが、蛍がそう言ったのなら燐はその申し出を断るつもりはなかった。

 むしろ勧めるぐらいだった。
 せっかく前向きになっていることだし。

「燐、ありがとう」

 蛍はにこりと微笑み返すと、すぐにで運転を再開するようで、すぐさまハンドブレーキを下ろしてギアをドライブへと入れた。

 教習の時みたいに運転前の指差し確認はするし、前も後ろもちゃんと見えているとは思うのだけれど。

 ぐいっ。

「ひゃああぁぁぁぁ!?」

「だ、大丈夫?」

 蛍はまたも車を急発進させてしまったが、それでもアクセルを抜くつもりはないのか、尚も靴底でペダルを踏み続けていた。

 無事に町につけるかどうかよりも、これから式典があるのに喉がからからに枯れてしまわないかと、そんなことを気にしながら燐はシートベルトにしっかりと指を絡ませると、蛍と自分と車の安全を祈りながらぎゅうっと力いっぱい握った。

 ……
 ………
 …………

(そういえば、そんなことがあったんだったっけ……)

 燐の話で思い出したのだけれど。

 なんかもう遠い世界の他人事みたいに思える。

 ウソというか想像の()()()()みたいに、その物事に現実感をまるで感じなかった。
 
(でも、実際にわたしが自分で運転したんだよね? この手でちゃんと)

 それにしたって、ほんの数時間前の出来事のはずなのにひどく懐かしさを感じてしまうのはやはり、それだけまだ未練みたいなのが残っているせいだろう。

 それはまるで、夢から覚めたくないとベッドの中で布団を被っている子供みたいに。

 けど、こういうのは前にもあった。

 どうしようもない状況なのに、ふと元いた日常を回帰してしまうということが。

 逃避──なんだと思う。

 もう逃げるところなんてこの世界のどこにもないのに。

 せいぜい夢の中ぐらいか。

(でも、夢なのは”こっち”だよね……)

 蛍は微睡んだ思考でそう結論付ける。

 ぼやけた視界の中でくるくると小さな羽が回っている。

 窓から入り込んだ柔らかい光が幾何学的な模様(アート)を白い天井に描いている。

 ともすれば病室にいるみたいな白と白のコンストラクトに、蛍は言葉にできない殺風景さを感じて薄っすらと目を小さく細めた。

 まだ上手く状況が呑み込めないのか、蛍がこれまでの事を一つずつ頭に巡らせようとした時だった。

「どう、ちょっとは落ち着いた?」

 不意に頭の上から柔らかい声が投げかけられて、蛍は重い瞼を動かしてそちらの方に視線を動かす。

 微睡んだ視界の隅に長い長い黒髪が光を泳がせていた。

「えっと……はい」

 まだ夢の続きを見ているような、そんな心地の良い声だった。

 それは頭が柔らかいものに包み込まれているせいもあるのかもしれない。

 けれど、やはりというか、ここはいつもと違う場所。

 人どころか生命の概念すら感じさせない静かな世界にいる。

 耳が痛くなるほど静かで、穏やかな場所に来ていた。

 ”青いドアの家”。

 つまり、それは迷い家(マヨヒガ)

 不思議な意味合いを持つ言葉はそれ自体が特定の家屋を指すものではなく、この世界全体を表しているのだと。

 そしてそのマヨヒガに居るのは、オオモト様(ざしきわらし)

 あの日、白い顔がぼそっと言ったのはそういうことだという事がようやく分かった。

 この世界自体が迷い込んでいる。
 世界と世界の狭間で。

 空の上でもなければ、地の底でもない。
 世界の裂け目の所に。

 意味も理由もなく、唐突に。
 
 重ね重ね不思議な世界だと思う、それが嫌というわけではないんだけど。

「……」

 一旦、オオモト様に向けて返事を返した蛍だったが、それでもすぐには思考は戻らなかったのか再び唇を閉じていた。

 もしかして怒られるのかな、と少し思ったが。

 むしろ柔らかく髪を撫でられたので、蛍は安心しきったようにもう少しだけ目を閉じてこの心地よい時間に微睡んでいることにした。

 どうせもうダメなんだろうし。

 だからこうして甘えるのも許してくれるのだろう。

 何だかもう、考えるのが億劫になっていた。

(それにしたってさ……唐突だよね、色々)

 普通の人とは何か少し違っていることは大分前から分かっていたことだけど、それでも何の変哲もない生活をおくっていたと思っていたから。

 こういう事態にまたなってしまうとはそれこそ思いも寄らないこと。

 たった一つの物事がこれほどまでに尾を引いて、こんなにも長く影響を及ぼすなんてことになるなんて思わなかった。

 流石に辟易としてしまう。

 けれど。

 それももう終わりなのだろうか。
 世界に閉じ込められてしまったわけだし、それに。

 片目でちらりとその人の顔を見る。

(オオモト様、も”ここ”にいるわけだし)

 視線を受けても驚く様なこともなく、オオモト様は優しい瞳でこちらを見つめていた。

 どこか無邪気で柔和な顔立ちだけど、実際は全てを見通して……いると思ってはいた。
 少なくとも蛍は。

 全ての元となった人。

 母親なのか先祖なのか、それとも、真祖? その辺はよく分からないけど。

 けれどもうそんな事もどうでも良かった。

 今更この人の正体について考えたってどうにかなるわけでもないしそれに今、現にこうしてオオモト様が居て、自分もいる。

 それだけで理由は十分だった。

 多分、迎えに来たんだと思う。
 送り出しというのかもしれないが。

 何かの本で読んだことだけど、”天国を考えるときは必ず扉がある”のだと。

 ”扉”とは、多分”青いドア”のこと。

 そのドアが閉じられたということはもう。

(とうとう終わるんだ、何もかもが)

 諦めとも安堵とも違ったため息を蛍は小さく漏らした。

(このまま眠るように消えていくのなら、それでいいのかもしれない)

 苦しむのは誰だって嫌だし。

 揺り籠に揺られているみたいにいけるのならどんなにいいのだろうとすら思ってしまう。

 今思えばあの白い人たちも、そういう微睡みの中でいったんだと思う。
 自由に何の制約もなく、行きたいところへ行くように。

 けれど、あれだって現実かどうかは分からない。

 変化した人は元のまま町にいたし、そんな記憶も一切持っていなかったようだから。

 ──全部、夢。

 というわけではないとは思うけど。

「ねぇ、蛍、あなたは覚えているかしら」

「えっ?」

 唐突にオオモト様が話しかけてきたので、蛍は閉じかけた瞼をぱちくりと開けた。

「前にもこうしてあなたのことを膝の上に乗せたことがあったのよ。あの時は蛍も燐も酷く疲れているようだったわ。でも寝顔はとても安らかだった」

 オオモト様は自身の長い髪を軽く梳くと遠くを見るようにしながらとつとつと話す。

 蛍は無言でその話に聞き入っていた。
 
 本当に久しぶりに会ったオオモト様は何だか少し、楽しそうに見えた。

「あなたとこうしているととても穏やかな気持ちになれるの。もう全部終わったことのはずなのに」

 蛍は何だか子守歌を聞かされているみたいな感じになって、微睡んだ瞳でオオモト様を見つめた。

「だからまだ眠っていてもいいの。燐もそうだけど、あなた達は自身を労わらない所がある。もう少し自分に寛容になれればいいのだろうけど……」

 オオモト様はそっと囁くような声を優しくかけた。
 それに蛍は小さく首を振る。

「もう、ずっとこのままなんでしょうか」

 蛍は少し悲しげな目でオオモト様を見返した。

 暗闇を思わせる漆黒の瞳は何も言わなくとも分かってくれそうで、でもやっぱり受け入れてくれなさそうにも見えた。

 オオモト様からの反応がなかったので再び口を開こうとしたが蛍だったが、その前にオオモト様が静かに口を開く。

 肯定とも否定ともとれる口調で。

「それは、どうかしらね」

 蛍は呆気にとられたように首をかしげた。

(でも、”どう”って、どういう意味なんだろ)

 まるで選択肢はこちらにあるみたい。

 もうこの家というか、こちらの世界に来てしまった時点で選択する余地などないはずだ。

 燐と一緒ならまだしも、ひとりきりだったし。

「そういう訳ではないのよ」

 ふるふると首を横に振るオオモト様。

 蛍はその黒の瞳を見つめながら黙って続きを促した。

 オオモト様は一旦言葉を切ると小さく笑みをつくる。

 暖かく、柔らかい微笑みに自然と蛍の顔もほころんでいた。

「前にも言ったと思うけど選択肢なんてものはいくらでもあるの。あなたはその中の一つに遭遇したにすぎないのよ。今、こうしている間にも事象は流れていってる」

「あぁ」

 そういうことか。

 オオモト様の言葉を受けて蛍はある事を思い出し納得をした。

 それは燐がかつてこの世界で自分にしか見えない異なる景色を見つけたことを言っているのだと。

 地平線の彼方に風車が連なる情景が見えたと燐は言っていた。

 だが、蛍にはそれを見ることはできなかった。

 それと同じ事が自分の中に起きている、そういうことなのだろうか。
 オオモト様の口ぶりからすると。

 けど、前には確か。

(自分は何もないって言われたと思ったんだけど)

 何も見えないということは、何も選んではいない。
 つまり、主体性のようなものが無いのだと。

 そう、はっきりと言われたのだ。
 今、目の前にいる人に。

 その事は何も間違っていなかったから、何というか反論の余地なんか一切なかったわけなんだけど。

(じゃあ、今は違うのかな? 何がわたしの真実(ビジョン)になるんだろう)

 見えているものと言えば、白い大地といつものプラットフォーム。
 それと青いドアの家だけ。

 これと言った違いは見いだせない。

 世界が変わっていないんだとしたら……自分が、ということなのか。

 だけど。

(わたしは、何も変わっていない)

 一応、大学には行ってるけど、高校の頃と特別変わった感じはない。

 ただ私服で登校しているというぐらいで。

(目標みたいなのもないわけじゃないけど、それだってどうなんだろう。それが本当にわたしのしたいこと、なのかな)

 自分で自分が分かっていないのに、何かが視えるなんてことはあるはずはない。
 そんな気がするのだ。

 だが、オオモト様はそうは思っていないのか、くすりと微笑んで話を続けた。

「あなたにはもう分かっているはずよ。何が」

 まるで、ゆったりと流れるオルゴールを聞いているときのような声の穏やかさに、蛍は無意識に目を細めた。

 瞼の裏側に木漏れ日のような光がさすと同時に、ここには居ない燐の顔がぱっと浮かんだ。
 
 それで蛍はオオモト様の言っていることの意味がようやく分かることになった。

 少し勢い込んで蛍は尋ねる。

 それこそ膝の上から上体を起こす様な勢いで。

「じゃあ、もしかして携帯電話や、あの不思議な鏡は」

「ええ、そうよ」

 急に蛍が声を上げてもオオモト様は特に戸惑うような顔は出さずに淡々と答えた。

「やっぱり、そうだったんだ」

 口に指を寄せて小さくつぶやく蛍。

 何かの確信があったわけではないけど、何となくそんな気がしていたから。

「お互いを想う気持ちが”それ”を作り出したの。繋がりたいと言う純粋な気持ちが形を伴ったものになった。例えそれが本当のものじゃなかったとしても、あなたたちにとってはそれが真実なのよ」

「これが真実……?」

 オオモト様の言葉に僅かな違和感を感じたが、蛍はあえて口には出さず別の疑問をオオモト様に投げかけた。

「オオモト様。あの、”あなた達”ってことはやっぱり……”燐”も、っていうことなんですか?」

 やはり疑問はそこに集約されてしまう。

 オオモト様の言うことで何故この世界で線路や家なんかがあり、家具までもがしつらえているのかは分かった。

 だが本当に気になる所はそこではなく、この事に”燐”が関係しているらしいと言うことだ。

 確かに自分でも薄々感づいてはいたことだったが、確信のようなものは未だに持てなかったから。

 燐が本当に”座敷童”になり替わったなんてことには。

 燐とは学校以外のとき以外は殆ど一緒にいるけど、どう見ても蛍の知っている燐のままだったから。

 別人になってしまったとか、そういうのは一切ない。

 比喩でもなんでも燐は燐のままだ。

 でも、そう見えているのは自分だけということもある。

(だって、わたしだって座敷童だから……)

 蛍は無意識に両方の手を胸の上で握っていた。

「そうね」

 蛍の胸の内を察したように、オオモト様は蛍に向けて小さな笑みを向けると、その柔らかそうな唇から囁くように言葉をぽぅんと投げた。

「あなた達二人は殆ど同じよ、それは遜色がないぐらい。けれど、悪い意味ではないわ。お互いが求めていたものになれたとでも言えることだから」

「ここも、最初は何もない世界だった。それでも思いだけは残っていたから、それを少しづつかき集めて出来た、いわば寄せ集めの世界なのよ」

 オオモト様は何かを取るように指をそっと組むと遠くに視線を飛ばす。

 窓枠の向こうではいつも変わらない青空が広がっていた。

 蛍も家の中に視線を飛ばす。

 ──確かにそうだ。

 テーブルやソファ、カーペット。
 その下のリノリウムの床も……どれも少し不自然で、でもそれがとても綺麗で。

 それは無機質な家具や家電においても同じことで、皆、純粋な色を放ちながら静かに佇んでいる。

 誰かに使ってもらえるのを待っている、というよりただそこにあるという感じ。

 芸術的な作品がそうであるように、この世界にあるもの全てが、一つの調度品であるようにきっちりと整っている。

 線で引いたように綺麗だった。
 何もかもが。

 童話か絵本の中にいると言われたらきっと信じてしまうだろう。

 そのぐらい本当に美しい世界で、それでいてページをめくるように脈絡がないものばかりだったから。

 だからオオモト様の言うように寄せ集め、なのだろう。

 そこには思いというか、意思のようなものが感じられる。

 意思とはつまり、”欲望”なんだ。

 純粋な欲がこの世界に彩りある風景を創り出している。

 だから落ち着くのだと思う。

 わたしも──”欲”を持っているから。

 きっと叶うことのない、純粋でかんぺきな欲望を。

「この家に留まるのも出るのも自由よ、最初から何も制約なんかはないの。だからもしこの世界に理があるのだとするのなら」

 ふわりと白い指が蛍の結わいた髪を柔らかくとらえる。

 愛おしいものに触れるように優しく髪を梳かされる。
 それがとても心地よくて無意識に瞼を閉じていた。

 母の胸に抱かれるというのはこういうものなのかとそれ漠然に思いながら、蛍は確かな充足を感じていた。

(それが、”意思”なんだろうな、きっと)

 どちらも同じなんだ。

 ふと脳裏に湧いた言葉はあまりにも衝動的だったとは思ったが、蛍はあえて包み隠さずにきれいな思いと共にずっと膝を預けてくれている人に向けてそっと口にした。

 きっとこれが本当の望み、なのだから。

「わたしは、お母さんの下へ行っちゃだめなんですか?」

 ”お母さん”というその言葉自体に何か違和感があったのか、蛍の唇は自然と震えていた。

 けれど、その抽象的な言葉をようやくその人に発したことが出来たので、胸のすく思いにも似た清涼感が蛍の胸中をさらりと抜けて行った。

「ダメ、ということはないわ、必ずしも」

 急な言葉にもかかわらず、オオモト様は小さな笑みを作ると蛍の前髪を優しくかき上げた。

 その時、初めてオオモト様と目と目があった気がした。

 思えばずっとこの人はこちらを見ていてくれていた。

 その姿が見えないときにでも見守ってくれていた、ような気がする。

 不快感なんかは微塵もないけど、多分わたしが最後だからなんだろうと思っていた。
 でもそれだけではないんだと。

 そして気づいた。
 今さらにもなって。

 オオモト様は、自分の母親ではないことに。

 面影というか、懐かしさみたいなのは確かに感じるのだけれど。

(この人は違うんだ──それは悪い意味なんかじゃなくて)

 むしろそれで良かったんだ。

「でも、あなたの(かえ)る場所はそこではないはずよ」

 指で指したようにきっぱりとそう言われた。

 でもそれは本当に大事なことだと思ったから蛍は何も言い返すことなく、少し曖昧な表情を浮かべて小さく頷いた。

 オオモト様は蛍をそっと膝から下ろすと、その小さな頭をソファのクッションの上に置き、ふいにつっと立ち上がった。

 何処へ行くのかと目で問いかける蛍に、オオモト様は静かに振り向いて応えた。

 振り向いた瞬間、漆黒を思わせる長い黒髪に光の粒が星のようにきらきらと流れていた。

「わたしにも進む方向が見つかったから」

 オオモト様はもう一度小さく蛍に微笑むと、音を立てることもなくリビングのドアをそっと開ける。

「あ……」

 蛍が体を起こして呼び止めようとしたのだったが、それよりも先にぱたんと戸が閉じられてしまい、部屋の中には無言の静寂が訪れていた。

 蛍ははぁとため息をつく。

 あの人はどこに行こうとしているんだろう。

 それにいつも持っていたあの手毬はどうなったんだろうか、随分と前に夜の公園で逢った時も持っていなかった気がする。

(探しに、行ったのかな……?)

 それは何処かは分からないが。

 そんなことを蛍は思い浮かべながら、でもまだソファから起き上がることはなく、オオモト様が消えていったドアの方をぼんやりと見つめながら、あの人の最後の言葉を頭に巡らせていた。

 特に重要な事ではないと思ったが、何だか妙に頭に残っていた。

「行くべき方向(ばしょ) 、か……」

 薄いピンクの唇が意思のある小さな言葉を紡いでいた。

 ──
 ──
 ──



 

「やっぱりちょっと、無謀だったのかも」

 

 その日の午後、燐は山を登りながらそう強く思った。

 

 オオモト様が指し示したと思われる山──ナナシ山はそんなに遠くじゃなかったから、登山口にはすぐに辿り着くことが出来た。

 

 ただ、良く知っている場所だったから、少し拍子抜けしてしまったというだけで。

 

 実際、この山には何か不思議な何かを感じることがあったから、オオモト様が何も言わなくとも行ってみるつもりはあった。

 

 燐が、蛍を探しに”とりあえず”向かおうとした先もこのナナシ山だったのだ。

 それが偶然かどうかは別として。

 

 実際に、”ナナシ山”なんて名前の山はこの辺りにはない。

 

 少なくとも地図上ではそう記された山は存在しなかった。

 

 もっとも、ちゃんとした名前すらない野山がこの町の周りにはごろごろしているのだけれど。

 

 ”ナナシ山”とは蛍が名付けたもので、それにもともと蛍の、三間坂家が所有している土地にあり、管理していた山だったからどんな名前を付けようがそれに異議を唱えるものなどはなかった。

 

 もっとも、そう呼んでいるのは燐と蛍ぐらいしかいなかったのだから、当然なのだが。

 

 それに管理と言ってもそれは本当に最近まで何もやってはおらず、連なる山の中腹にある”よく分からない石碑”までの道のりが荒れてしまわない様、蛍と燐で一年に二、三回程度取り決めていた事ぐらいしかやってなかったのだが。

 

 それでいて、今年はまだこの山に登ってすらいなかったから、こうして出向いて行くことはある意味では都合のいいことだったのだけれど。

 

 ただ、この山の何処に蛍の手掛かりがあるのだろうという思いはあった。

 

 長い間、手付かずだった山もあらかた探索したつもりだったし、山に良くある洞窟なんかも見つからなかったから。

 

 半信半疑な部分は正直あった。

 

 ”あの人”の言う事が必ずしも絶対だとは思ってはいないし。

 

 疑っているわけではないが。

 

 それに行くだけの価値はあると思ったから、ここまでやってきたのだと。

 

(まあ、理屈ばかりこねていたって何も始まらないしね)

 

 よくも悪くも動くしかないのだと、知っていたから。

 

 そんな不安と期待がないまぜとなった気持ちで燐は午後からの、それこそ無謀な登山へと踏み切ったわけだなのだが。

 

「だからって、こんな格好のまま登っちゃうなんて、本当に無茶苦茶だよね」

 

 そう言いながらも普通に登っている自分に呆れてしまう。

 

 流石にラフ過ぎると言うか、どう頑張って見てもゲームか何かでありそうなコスプレ衣装だったし。

 

 特にスカートとか袖の部分がこう、ひらひらとしてて少し落ち着かない。

 

 ”見え対策”のパンツを履いているとはいえ、これでは。

 

 まだ普段着どころか、寝間着(パジャマ)の方がマシなぐらい。

 

 金魚が地上で溺れているようなものだった。

 少し例えがおかしい気もするが。

 

 そのぐらい変で、場違いな感じのまま山を登っている。

 

 いくら焦っていたからってやはり一度着替えに自宅へと戻るべきだったと燐は少し後悔をした。

 

 それに、大した装備も持っていないわけだし。

 

 ただ、衣装にはちゃんとした指定はあったが、何故か履く靴にはなかったから、今、燐が履いているのはいつものトレッキングシューズなのだけれど。

 

 ちなみに蛍も、()()お揃いのトレッキングシューズを履いていた。

 

 まともなアウトドア装備なのはこれぐらいで、後は背中のバックバックぐらい。

 

(別に頭に血が昇ったとかじゃないはずなんだけど……やっぱり慌ててるのかなぁ、わたし)

 

 肝心な所でやらかしてしまうところがあるし。

 

 そーゆーのはいつまで経っても治らないもんなんだなぁ。

 

 はぁ、と自身のやるせない思いに心底呆れながら、それを頭から消すように燐は緑の山をせっせと登る。

 

 夏になりきる前の六月の山は確かな生命力に溢れていた。

 

 山の織り成す新緑の美しさだけでなく、羽虫や小鳥の小動物も活発に飛び回っていた。

 

 普段登っている山だけど、午後からの登山は流石に少し緊張してしまう。

 

 そのぐらい危険な行動だったし。

 

 なのに衝動的すぎる自分の行動を顧みると、そこまで冷静じゃないというか、全然大人になりきれてないのだと。

 

「けどぉ。これでもまだぎりぎり十代だからねっ」

 

 誰に向けているのか燐はそう言うと、ふんっと小さく息を吐いて胸を反らした。

 

 こういう所が、”燐はちょっと子供っぽいなぁ”と、大学の同級生に言われる所為なのかもしれない。

 

 取り繕った表情をとるぐらいのことは出来るけど、中身は何も変わっていないと思う。

 

 もっとも大学に行ったからってすぐに大人になるなんてことは、少なくとも自分には到底無理だということは分かってるけど。

 

「何やってるんだろ、わたし」

 

 こんな短いスカートで真剣にトレッキングをしている自分が流石に可笑しくなったのか、燐はとうとう噴き出してしまった。

 

「でも、ちょっと似てる。このスカートのふわっとした所とかそっくりかも」

 

 高校の時の制服も確かこんな感じだったっけ。

 

 まざまざと見ながらくすっと笑う。

 

 自分の大学でも服装は自由だから初めの頃はちょっと戸惑ったりしたけど、それにももう慣れてしまった。

 

 むしろ今の方が楽だった。

 服も勉強の仕方も各自の自由だったし。

 

 混み合う都会の電車の中で学生服を着ている子たちを見かけるだけで、何というか懐かしさみたいなものが込み上げてしまうほど。

 

(それでもまだ若いもん。お酒まだ飲めないし)

 

 高校の時の制服はクローゼットにちゃんと仕舞ってあるけど、さすがにもう一度着る勇気はない。

 

 今のところは。

 

 あの頃といま。

 何か、変わったのだろうか。

 

 月日だけはどんどん過ぎていくけど、何かを成しえたとか得ることが出来たとかのそういった実績の様なものは特にない。

 

 学生と言う区分の中では明確な違いはあるのだろうけど。

 

 日々を無為に過ごしているわけでもないし、日々の張り合いみたいなものも一応は感じているんだけど。

 

(でも、今はそんな事どうでもいいよね。少しでも先に行ってみないと)

 

 やっぱりまだ何も得てはいないし。

 この山でも。

 

 センチメンタルな気分に浸るのはまだまだ早すぎると思うし。

 

 燐は横にそれた考えを打ち消すように、ぶんと首を横に振ると、何か目印と言うか、手掛かりみたいなものはないかと、周囲に目配りしながら山をどんどんと登っていった。

 

「大して高い山じゃないはずのに、何かいつもよりも、はぁ、はぁ」

 

 焦りが道を険しくしているわけではないのだが、何だか疲労が早い気がする。

 

 梅雨入り前だったとはいえ夏の午後の日射のせいだろうか。

 

 登っていく度に体のいたるところから汗が噴き出してくるみたいに、暑い。

 

 樹の影が頭上を覆っているのに、それほど涼しさを感じないのは何故なのだろう。

 

 原因の分からない熱に侵されているみたいに燐は足元を少しふらつかせてしまったが、それでも歩みを止めなかった。

 

 もし、この思いが通じるのならと、淡い期待を抱きながら踏ん張って足を前へと動かしていく。

 

 ──確かな、想い。

 

 それは蛍に会いたいという、確固たる想いだけではない。

 

 単純な、”好意”という感情は確かに燐の心の中で芽生えていた。

 

 それはごく最近のことかもしれないし、互いを良く知らないとき、教室の片隅で蛍の姿を一目見た時からの想いだったかもしれない。

 

 もうずっと前から燐の中であったものだった。

 

 それには優先順位などはなくむしろ誰よりも特別で、()()()()()()()()()()従兄よりももっと大切なもの。

 

 壊れやすいガラス細工のように繊細で、でもだからこそ大事にしたい確かな思いだった。

 

(蛍ちゃん……わたしは……!)

 

 透明な笑顔で微笑んでいる親友の顔を思い浮かべながら、燐は木々の間を抜けてゆく。

 

 どれだけ行けばいいのだろう?

 なんて、疑念は一切頭に浮かべることなく。

 

 汗に濡れた額を軽く拭いながら無言で足を動かした。

 

 肺が息苦しさを訴えようとも、先へと進んで行く。

 

 たった一つのものを手に入れる為だけに。

 

「あっ」

 

 よく分からない疲労を感じながらもそれでもペースよく山を登っていた燐が不意に足を止めた。

 

 ようやく山頂へと差し掛かり、それから少しの下りが続いてちょっとは楽になると思っていた矢先のできごとだった。

 

 ちょうど遠くの山に目をやったとき、燐の目の前を青い綺麗な色をした鳥が間近を横切って行って、思わず感嘆の声を上げたのだ。

 

 燐は急いでスマホを取り出す。

 

 その鳥の名前が知りたかったのと、あわよくばもう一度飛んで来てくれればこのスマホに撮って後で蛍と一緒に見ることが出来るのとの、二つの意味合いからのものだった。

 

 とりあえず、横に持って待ち構えてみたが思い通りにはいかないらしく、鳥はもう燐の目の前に現れることはなかった。

 

 燐は小さく肩を落としながらしょうがなくスマホで検索をかけてみたのだが、なぜだか該当する鳥を見つけることが出来なかった。

 

 綺麗な瑠璃色の羽を持っていたからすぐに分かるだろうと思っていたから。

 

 不思議そうに液晶を眺めながら燐は首を傾げた。

 

「でも、カワセミじゃなかったよね? 今の」

 

 それなら自分だって分かるし。

 

 写真に収めることができたら一発なんだろうけど。

 

 何か、別の鳥と見違えてしまったのだろうか?

 

 自分の観察眼の無さに呆れながら燐がスマホから目を上げた、その時だった。

 

 ──急に世界が一変したのは。

 

 そこにあったのは見知った山の光景なんかではなく。

 

 鬱蒼とした緑の森と、古い線路が何の前触れもなく燐の目の前に現れていた。

 

 下草に埋もれるようにして古い鈍色(にびいろ)の線路とボロボロになった枕木がいつの間にか燐の靴底に広がっていた。

 

「えっ、ここって!?」

 

 燐はぐるりと視線を回す。

 

 山の影は見えず、天井(そら)は緑の木々に覆われて、全てを隠してしまっていた。

 

 線路を取り囲むように小さな枝や幹がバリケードのように辺りを覆い尽くしている。

 

 足元に伸びている錆びた線路は、もう廃線となった森林鉄道に使われていたものだ。

 

 これと言った標識のようなものは無いけど、多分間違いはない。

 

 それは確信を持って言えた。

 

 ここは確かに。

 

 あの日みた、緑のトンネル──。

 

「……どうしよう、何かちょっと感動しちゃってる。のんびりと眺めてなんかいられないはずなのに」

 

 燐はつい自分がするべきことを忘れて、突然現れた非現実的な光景に引き込まれるように見入ってしまっていた。

 

 森全体に包み込まれているみたいな、葉と枝で出来ているトンネルは今みてもやっぱり綺麗だった。

 

 ずっと見ていられそうな情景であるが、何か吸い込まれていきそうな危うさもある。

 

 探しても見つからない場所だったから確かに少し不気味な感じがするけど。

 

 それでも、今登ってきた山とは違った、別世界の光景だった。

 

 それが燐の視界一杯にずっと奥にまで広がっている。

 

 青いドアの家の世界とは違った、別の世界。

 

 そこに燐は辿り着いていた。

 

 世界から切り取られて、夜に包まれた世界と一緒に消えてしまったと思っていた場所に。

 

 どうしてこうなったのかは全く見当の付かないことだったが。

 

「このトンネルだけが町の中から無くなっていたんだよね。他は普通だったのに」

 

 青いドアの家なんかよりも全然近いはずなのに、何故か行くことが出来なかった。

 

 ”廃線跡の緑のトンネル”。

 

 それを再び見ることができていた。

 

「何だろ、ちょっと不思議な感じがする」

 

 燐は足元の感触を確かめるように何度も地面を踏み直す。

 

 それは足先から悪意の持った気配を感じ取っている、とかではなくて。

 

 輪郭を失ったときの感覚に少し似ていると思ったから。

 

 それを認知させるようにしっかりと大地を踏みしめていた。

 

 自分を認めさせるように。

 

「あれっ? でも足が」

 

 前に来た時にはこんな感じはなかった。

 

 本能的なものがそうさせているか、燐の細い足が小刻みに震えていた。

 

 さっきから地面が揺れているように感じるのは、あの奇妙な列車が来るときの予兆なんかではなく、恐れがそうさせているだなんて。

 

 これは確かな事実。

 

 認めたくは無いことだけど。

 

 立ち止まらなければきっとこうはならなかったはずだ。

 

 勢いのままトンネルの中に駆け出してしまえば気にもならなかっただろう。

 

 でも、一度立ち止まってしまったから。

 

 ──すぐには走り出せない。

 

 向こうと、こちらとの間の境界線がこの場所なのが分かってしまったから。

 

 この先に行ったら多分、もう元の世界には戻れない。

 

 そんな気がするから。

 

「ここに来て怖気づくなんてらしくないよね。だけど……」

 

 やっぱりひとりだからだろうか。

 

 思う様に足が進まない。

 

 燐は不安定な吊り橋の上を渡るようにゆっくりと歩き出す。

 

 走る事に抵抗があったとしても、歩くことぐらいは何とか出来る。

 

 まだ足は震えているけれど。

 

 蛍と一緒に見ていた景色を今は自分がひとりで眺めているから、不安に駆られてしまうのだと思う。

 

 寂しさからくるものだと言えば確かにそうなんだろうけど。

 

 燐は小さくため息を落とす。

 

 それに呼応したかのように、空を覆い隠すほど伸びた長い木の幹から透明な耳飾りのような水滴がひとつぶ落ちた。

 

 よく見ると少し前まで雨でも降っていたように、枝も葉もしっとりと濡れている。

 

「まるで、あの時のままずっと残っていたみたい」

 

 あの奇妙な夜の後から、この廃線跡のトンネルはその姿を消してしまっていたから、それでもそんなに不思議でもないのかもしれないが。

 

 歪みが終わった場所であったから、始まりでもあるのかもしれない。

 

 それは、やはり歪みの再来?

 

 もしくは別の異変なのか。

 

 どちらにしてもきっとここからなんだ。

 

 世界、ではなく。

 

 二人だけの異変(じしょう)として。

 

(そうだ、わたしと蛍ちゃんの問題なんだ、これは)

 

 一度そう認めると、不思議と身体が軽くなっていく気がする。

 

 それはいつもよりもうんと速く、そして簡単に目的の所に辿り着くことができそうな、そんな気になってしまう。

 

 単純すぎるのだろうか。

 

 でも、すっと楽な気持ちになった。

 

 その事だけに集中できるから。

 

 あの最後の日の時はどうしても悲壮感というか、どこか諦めが拭えなかった。

 蛍と一緒に居ること自体は楽しいんだけど

 

 それでも本当に楽しいとは思ってはいけないような、そんな罪悪感みたいなわだかまりが胸にずっと纏わりついていた。

 

 表面では繕うことができていたけど。

 

 それに今だって、何か黒くてもやっとしたものがずっと張り付いている気がする。

 

 このままもう会えなく無くなってしまうのではないのかと思ってもしまうし、何でまたこんなことに巻き込まれたのだろうと、憤りというか不条理さを感じていたから。

 

 やっぱり何かそう言った”因子”みたいなのが、自分の中にあるのではと疑ってしまうほどだったから。

 

「でも、そうじゃない……蛍ちゃんも、わたしも、オオモト様だって……きっとそういう事じゃないんだ」

 

 線路の上に足を乗せながら小さく、でもはっきりと頷いた。

 

 原因なんてものは元々ないのだと、全ては偶然から生まれるものなんだと。

 

 だから、その為のこの線路なんだ。

 

 そう、信じたい。

 

 先へと続く道はもうここしかないのだから。

 

 燐はトンネルのそのまた奥を見つめる。

 

 さっきから何の音もない。

 

 虫や鳥どころか、樹々の葉音や水のせせらぎさえも。

 小さな風すらもおきてはいなかった。

 

 まるで全ての生命が死に絶えたみたいに静かだった。

 

 燐は急に肌寒さのようなものを覚えて、二の腕の辺りを軽く擦った。

 

 静まり返ったトンネルの中の線路はずっと奥にまで続いていて、それはどこまでも続いてきそうだった。

 

 ずっと、ずっと。

 

 それは永遠に届きそうなぐらい。

 

 かんぺきな──世界にまでも。

 

「そういえば……あの転車台も、あるのかな?」

 

 きょろきょろと辺りを窺いながら燐はふと思った。

 

 あの時は、もう使われていない古い転車台がトンネルの出口にあったけど、今はどうなのだろうと。

 

 世界を切り替えた”もう一つのスイッチ”。

 

 それがあの転車台だった。

 

 世界を変えてしまうほどの強い力が集中していた場所。

 

 まだ残っているだろうか。

 

 もしまた、”切り替える”の必要があるのだとするのなら、そこを目指すしかないのだが。

 

(わたしは、出来るんだろうか……ひとりで)

 

 あの時の、蛍ちゃんみたいに。

 ちょっと自信がない。

 

 でもやるしかないんだ。

 

 今度こそわたしが彼女を救ってあげるんだから。

 

 本当の意味で。

 

「とりあえず、もうちょっと身体が動いてくれないと、ね」

 

 燐は再び足を止めると半ば強引に体を動かした。

 

 山登りなんかでも事前にこうして身体をほぐしておくと、なんか不思議と気持ちが落ち着いていくものだったから。

 

 太もも、ふくらはぎ、足首に至るまで足を中心に重点的にじっくりと体を解す。

 

(そういえば、トレッキングするときはお兄ちゃんと一緒にこうやってたんだっけ)

 

 もう、ずいぶんと前のことみたい。

 

 聡と一緒に色々な山に行っていた日々が、とても懐かしく感じる。

 

 少し悲しく思えるけど、割り切れる思いもある。

 

 全部過去に出来るほどではまだないけど。

 

 いつかは分かる日が来ると思っているから。

 

「うん、なんとか動けるかな、これで」

 

 両足でぴょこんと跳ねてみる。

 

 じっくりとストレッチしたおかげか、氷のように固まった体が解きほぐされていた。

 

 小刻みに震えていた燐の両足は元のしなやかな、いつもの脚へと戻っている。

 

「よし! これならって……あれ?」

 

 これでようやく緑のトンネルの中へと本格的に足を進める決意を固めた燐だったのだが、不意に視界の片隅に光るものを見つけてそこに目を凝らした。

 

 何てことはなかった。

 

 付けていた腕時計の文字盤が葉のトンネルから零れた光を反射させてただけだった。

 

 それだけの事で終われば良かったのだが、つい燐は時間を確認してしまう。

 

 意味の無い事だと分かってはいるはずなのに。

 いつもの習慣がそれをさせていた。

 

「……もう夕方になるんだ。今からだと完全に夜だね」

 

 トンネルの中をちょっとしか進んでいないのに、いつの間にかそんな時間になっていた。

 

 もしこの廃線跡のトンネルがあの時と同じものなら、かなりの距離があるだろう。

 

 あの時とは違って走って行くつもりだから、少しは短縮できるとは思うが。

 

 それでも結構な時間を費やしてしまうのは必至だった。

 

 出口なんてそれこそあるかどうかもまだ分からないんだし。

 

「でも、行くんだ。きっと、待っているはずだから」

 

 燐はぶんぶんと首を横に振ると、何を思ったのか腕に付けていた腕時計を外して線路の脇へとそっと置いた。

 

「ごめんね、後で必ず取りに来るから」

 

 燐は申し訳なさそうに置き去りにした腕時計に苦笑いを浮かべると、くるりと振り向いて錆びた線路の上をぴょんと駆けだしていった。

 

 ずっとずっと、どこまでも続いて行きそうな線路だったが、それでも燐は速度を落とさずに走り続ける。

 

(本当は、すごくお気に入りのものだったから勿体ないとは思ったけどっ……!)

 

 ずっと大切に使っていたし、機能性やデザインも含めて愛着のあるものだったから、今すぐにでも取りに戻っていきたい気持ちはあった。

 

 でも。

 

 そのぐらいの覚悟がいる。

 そう思ったから。

 

 あれは願掛けのようなものだ。

 

 それと、もし戻れなくなったとしても誰かがあの時計を見つけてくれるのならそれが痕跡となる。

 

 ここに自分がいたという証拠として。

 

 例え記憶から消えてしまったとしても。

 

 残るはずだから、それだけは。

 

 簡単には辿り着かない場所なのはよく知っている。

 

 ──青い青い空の、その更に向こうの空。

 

 どんなに頑張っても手の届かない場所にきっといるんだ。

 

 大好きな、蛍ちゃんが。

 

 

 誰も居なくなった古い線路の脇で白い腕時計が静かに時を刻んでいた。

 

 時間の概念などない空間(トンネル)で。

 

 何かの訪れを待っているかのように。

 

 

 

 ……

 ……

 ……

 

「……?」

 

 始めは風の音なのではないかと思い、特に気には留めなかった。

 

 けれど、そうではないらしいと一度でも感じてしまうと、耳から離れられなくなる。

 

 気にしなければいいだけなのについ耳をそばだててしまう。

 

 どちらにしたって重要なことなどではないから、走り続けていればいいだけなのに。

 

 なんで気になってしまうのだろう。

 

 静寂──足音──息遣い──。

 

 それこそ線路の枕木のように規則的に続いているはずだった。

 

 そんな燐以外誰の気配の感じないのに、まるでノイズのように耳朶を打ってくる、音。

 

 頭から消そうとすればするほどノイズは大きくなり、遂には燐の足を止めるほどにもなっていた。

 

「音じゃなくて、声……だよね?」

 

 自問自答しながら燐はそれをはっきり聞くために耳を澄ます。

 

 確かに、”声”なのだ。

 

 けれど、その声の主は何処にも見当たらない。

 

 もしここにいるのならば、このトンネルは一本道なのだから簡単に見つかるはずなのだが。

 

 また蛍との会話が出来るようになったのではと、急いで携帯をみてもなんの通知もされてはいない。

 

 まさかと思い、バックパックからラジオを取り出しても見たが反応はなかった。

 

 困惑する燐を嘲笑うかのように、”声”はより大きく耳に聞こえるようになってゆく。

 

 ドーム状に緑が生い茂っているせいなのか、それは四方八方から聞こえてくるようで、燐はとうとう耳を塞いでしまった。

 

 それでも鼓膜の内側からかき回されているかのように、身体の中にまで響き渡ってくる。

 

「何なの……!? 一体……!」

 

 耳を塞ぎながら当惑するような声をあげる燐。

 

 けれどいくら視線を彷徨わせても何の姿も、誰の影も捉えられない。

 

 幻聴ならばまだいいのにと思うほど、不快感だけがどんどんと強まっていく。

 

 もう限界かと思われたとき、それまで雑音だと思ったものにはっきりと声と認識出来るものが混じり始めたことに、燐は目をはっと見開いた。

 

「ソレガ、オ前ノ、望ミナノカ……?」

 

 ゾッとするような声。

 

 ──そうだ、これは。

 

 燐は思い出す。

 この不快極まりない音、その声を。

 

 サイレンのように頭に響き渡る声を認識した瞬間、燐は総毛立つ思いに駆られた。

 

 粘つくような声がねっとりと心の奥底に隠しておいた闇に触れるように。

 

 自傷の痕は消えていたが、ザックリと心についた傷はもう多分一生消えることはない。

 

 それは自分だけじゃないからまだ何とか保つことが出来ているのだけど。

 

 でも、もしまた──ひとりぼっちになったりしたら……。

 

「…………」

 

 だから、これが──本当の望み?

 

 確かに、そうだと思う。

 

 現実かどうかは置いておくとしても、これはわたしが思い描いていた可能性の、ひとつなんだ。

 

 もしかしたら本当の自分はもうなくて。

 

 ずっとあの空に囚われているのではと、そう思う……今この時だって。

 

 都合の良い夢に浸っているだけで、実際は何も動いてはいないのではないのかと。

 そう思ってしまうのだ。

 

 でも。

 

「こんな所で立ち止まってなんかなれない……!」

 

 見えない声に向けてと言うよりも自分に言い聞かせるように燐は叫ぶと、無理矢理に手足を動かして、逃げるように緑の中を走り抜けていった。

 

 ……

 ……

 

「はぁっ、はあっ、はあっ」

 

 さっきから息が酷く苦しい。

 

 余計なことを考えすぎたせいなのか、或いは別の要因があるのか。

 

 気にしないようにすればするほど、あの声が大きくなっていっているような、そんな気になってしまう。

 

 どこまで行ってもその声は遠ざかることなく、いつまでも耳の奥に纏わりついてくる。

 

 追いかけてくる声に阻まれたように燐はまた足を止めてしまっていた。

 

「はあ、はあ、なんで、こんな……」

 

 この緑のトンネルだってそうだ。

 

 どこまで行っても出口なんかはなく、実際は既に失われていて、ただ同じ場所をぐるぐると周り続けているだけなのではと。

 

 悪意のある妄想が止められない。

 

 もう後戻りなんか出来るわけないのに。

 

「オ前ノ全部ヲ滅茶苦茶ニシテヤル……!」

 

 無視していた雑音が耳の穴の奥にまで入り込んでくる。

 

 もっとも聞きたくない言葉を”それ”に吐かれて、燐はとうとう両耳を手で覆ってその場で蹲ってしまった。

 

 ドクンドクンと鼓動が早くなっていく。

 

 癒えたと思った傷がじくじくと疼いているみたいに。

 

 心の古傷をぐりぐりと言葉でもって甚振ってくる。

 

「何のためにこんなことっ!? わたしはただ、進みたいだけなのっ!」

 

 ずっと耳元で響きまわる雑音を打ち消すように燐は大きな声をあげた。

 

 それでも鳴りやむことはない言葉の暴力に辟易としながらも、燐は耳を抑えながらトンネルの中を再び駆けだした。

 

 どこまでも、どこまでも悪意はついてくる。

 

 まるであの夜の出来事を再現しているみたいに。

 

 わめいても叫んでも”その声”はどこまでも燐の後を追ってくる。

 

 顔を持ってないのに追ってきたあの、白い人影達のように。

 

「逃ゲラレナイ……何モカモ……罰、カラハ逃レラレナイ……」

 

 燐はそこではっと気づく。

 

 この声は人影ではなく、あの”ヒヒ”のものではないだろうか、と。

 

 何故、今更になってコイツの声が響いてくるんだろうと。

 燐は苛立つように唇をぎゅっと噛んだ。

 

 そんなことをしてもそれこそ意味のないことなのに。

 

(進むことを邪魔されているだけ? けど、どうして……!?)

 

 変わってしまった川の流れを戻せないように。

 もう別の流れに変わってきている。

 

 与えられるだけの幸運も、それを呼ぶ座敷童ももういない。

 

 新しい町へと変わっていくのだから。

 

 だから本当に必要なのことは。

 

 殻を破って引き裂くことなのかもしれない。

 

 幸運という思い込みの殻を破り──向き合う事なんだと。

 

 自分と言う、たった一人の存在と。

 

 だけど。

 

(でも、もうそんなことすら求めてはいない)

 

 このまま元の世界に戻れなくたってかまわない。

 

 蛍と一緒に見る情景がこの世界にないのだから。

 

 好きな人に会いに行くことに一体何の罪があると言うのか。

 

 燐は言い返したい衝動を呑み込みながら、懸命に走った。

 

(もう……あの夜の時に分かっていたことなんだ)

 

 終わらない夜の世界から逃げきることができれば、自分はどうなったって構わないとおもっていた。

 

 心はもうボロボロで疲れ果てていたし、他に支えの様なものももうなかった。

 だからこそ、彼女さえ逃げてくれれば、と。

 

 そう思っていんだ本当に。

 

(でも、そういう事じゃなくて……わたしは誰の助けにも、希望にすらもなれなかった)

 

 お兄ちゃんと、わたしは蛍ちゃんのおかげで救われたけど。

 

 わたしは誰も救えてなどいない。

 

 このヒヒの声は救いの声かもしれない。

 

 父や母、そして従兄、そして一番大事な人。

 

 誰一人助けられなかった。

 

 ヒヒの残滓が付きまとうのもそういう自分の不甲斐なさが作り出したものなのか。

 

 ……確かにそうかもしれない。

 

 自分のやったことはただの欺瞞だったんだなってことぐらいは分かっていたから。

 

 単なる自己満足。

 

 でも、あの時はそれでいいと思っていた。

 

 やっぱり妥協はできなかったから、だから結果はどうあれ自分なりに頑張った結果なんだと思ったから。

 

 ある意味での納得はいったけど、ただ虚しさが残るだけだった。

 

 でも、そういう事じゃないんだよね。

 

 まだ子供だからだったなんて、良い訳ばっかり積み重ねてきたけど。

 

 結局、何も持っていなかった。

 

 ”本当に大切なもの”とは一体何だったのか。

 

 確かめたいとかそういうつもりなんかなかったのだけれど、それがあんなことになってしまった。

 

 やり直せばいいなんて甘い考えからのものなんかじゃなくて。

 

 ただ、そうしたかったというだけだったのに。

 

 ”彼”にも”彼女”にもあんな悲しい顔をさせる為にしたわけじゃなかったのに。

 

 ただ、幸せになってほしかったの。

 できれば、みんな。

 

 わたしに関わりを持ってくれた全ての人達が。

 

(でも、同じことをしたんだと思う。わたしはお兄ちゃんと同じことを、蛍ちゃんにもしてしまった)

 

 お兄ちゃんもそうだったけど、蛍ちゃんの幸せにも自分が絡んでいることはよく分かっていた。

 

 ずっと一緒に居てあげたかったのは本当。

 でもそのせいで傷つけてしまうのはやっぱり耐えられないことだったから。

 

 だから……離れた……?

 

 拒絶に近い形になったとしても。

 

 でも。

 蛍ちゃんはその後も普段通りにわたしに接してくれている。

 

 それこそ恨まれたって、ころされたっていいはずのことをしたわたしに。

 

 それは決して、許されたとかではない。

 

 彼女は、”そうとすら思っていなかった”だけだった。

 

 何て言うか本当に純粋で、疑うということすら持っていない、とても大事な人。

 

 だから、わたしがついていなくっちゃ。

 

 何てことは、もう思ってはないけど。

 

(やっぱり違う世界の人っぽいよね、今でも)

 

 むしろずっと前よりも綺麗になったせいか余計にそう思ってしまう。

 本人に言ったらきっと困った顔をするとは思うけど。

 

 自分もそう、何だっけ?

 

 今だにそう言った自覚なんかは全く湧いてはこない。

 

 少し勘が強くなってる気はするけど、それだって全然常識の範囲だと思ってるし。

 

「不完全なコップで水を飲んだわけではないんだけどね」

 

 燐は自分で言ってくすっと笑う。

 

 笑ったら、ちょっとだけ雑音が気にならなくなった。

 

 それに気づいたのか、燐は無理に笑顔を作ってみる。

 

 でもそれだけだとやはり不自然なので、楽しいことだけを考えることにした。

 

 蛍と一緒の代わり映えしないけど楽しかった日常のことなんかを、燐は胸いっぱいに思い描いていた。

 

 きっと、何か違うものに変わったってこの思いはずっと変わることがないのだから。

 

 どちらにしたって今は。

 

(わたしの方が蛍ちゃんから離れられなくなってるよね……まあ、こうなるんじゃないかなってことは一緒に住む前から分かってたことだけど)

 

 寂しがり屋なのは多分、一生治りそうにない。

 

 でももし、そのことがこの世界に何かの影響を与えているのだとしても。

 

 迷いは一切なかった。

 

「わたしからはもう離れない。蛍ちゃんが嫌っていうまでは一緒にいるんだ、何が起こったとしても!」

 

 その為に出来ることはただ一つ。

 蛍ちゃんを向こうの世界から何としても助けてだしてあげたい。

 

 今度こそ、わたしのこの手で──何があっても。

 

(もしかしたら、また何もできないかもしれない。でも……だけどっ!)

 

 燐はばっと顔を上げると、何もない緑の空間に向かって、少し切なそうに笑顔を向けた。

 

 そして、両方の耳からぱっと手を放すと、片方の手を大きく振り上げながら廃線跡のレールの上を走ってゆく。

 

 歪んだような声はもう耳には届いていなかった。

 

 ──

 ──

 ──

 

「はっ、はっ、はっ」

 

 青と白の世界にある線路の上でも黒い髪の少女が走っていた。

 

 色々考えてみたところで、結局こうして足掻くことしか方法を知らなかったから。

 

 でも、走るのはやっぱり苦手だったから、すぐに息が苦しくなってしまうけど、自分からそう決めたのだから。

 

 歩いたってそれは別に良かった。

 

 時間なんてもうそれこそ、この世界では最も無意味なことなのだから。

 

 それでも込み上げる焦燥感はどうしてもあったから。

 

「でも、そんなに息苦しくない?」

 

 ここまで結構な距離を走ってきた気はするが、限界って感じはまだしない。

 

 むしろ走るたびに身体が軽くなっていくような気さえする。

 これなら本当にいくらでも走れそうなぐらい。

 

「本当に、足に羽が生えたみたい……」

 

 ”蛍”はそのことを内心不思議そうにしながらも、それ以上の疑問は持たずに白いレールの上を跳ねるように渡ってゆく。

 

 行き先は青いドアの家から出た反対方向、あの奇妙な電車が来た方へと蛍は進んでいくことにした。

 

 オオモト様が言ってたように、確かにドアは閉じられてはいなかった。

 

 鍵は掛かってないというより。

 

(多分、わたし自身が”鍵”だったんだ)

 

 家やドアが人の想いで出来ているのなら、その鍵もまた人の想いなのだろうと。

 

 そう思ったのだ。

 

 けれど、鍵を創ったというわけではなく、ただ、蛍がドアに触れただけのことだった。

 

 でもそれこそが鍵だったんだと思う。

 

 入るのも出るのも自由だけど、そうするだけの資格が自分にはあったのだろうと。

 

 蛍はそのことに少しの疑念も持たなかった。

 

 むしろ自分はそうであると受け入れた上で、家から出ることに決めたのだ。

 

 正しい足跡を辿っていくように、ひとつの迷いもなく。

 

 実際、この世界の基準とは──”青いドアの家”だったから。

 

 この家こそが世界の中心であり、そして終わりでもあった。

 

「だったら、始まりの前のところに行くしかない」

 

 そう蛍は決心した。

 

 例えそれが、本当の終わりであったとしても。

 

 青いドアの家に戻る考えは、全く頭に入ってなかったから。

 

「やっぱり、この先には駅があるのかな?」

 

 前に不思議なテレビで見た画像ではそういった建造物はひとつも映ってなかったけど。

 

 足元のレールは本当にどこまでも伸びていそうに地平線の先にまで繋がっていて、それこそ使われていないみたいにキラキラとした光を放っていた。

 

 それはレールだけでなく、枕木や敷き詰められた小石でさえも白く、宝石みたいに輝いている。

 

 まるで、光の道で照らされているみたい。

 蛍は不思議そうにそう思った。

 

 先の見えないレールを何のために走っているんだろう? 

 そう、走りながら自分に問いかけてみても答えはずっと同じ。

 

 同じ答えが頭の中で繰り返されている。

 

(燐と、もう一度会って、それで)

 

 そして、言いたいことがあるんだ。

 

 ──わたしと。

 

 ”わたしなんかと友達になってくれてありがとう”って。

 

 そう、燐へ伝えたい。

 

 わたしの、ほんとうの気持ちを。

 

 友達なんかよりもずっと大切な人だけど、それ以上の言葉はきっと燐を困らせるだけだから。

 

 燐は軽い気持ちであんな、”ビックリすること”を言ってくれたけど。

 

 わたしは……結構気にしてる。

 

 燐の口からその言葉が出た瞬間からずうっと。

 

 どういう気持ちが込められた言葉なのか、怖くて聞けなかったけど。

 

 それもちゃんと聞こうと思う。

 

 燐の口から直接。

 

 あなたの本当の言葉で。

 

 きっと新鮮な気持ちで燐と向き合えると思うから。

 

「だから、燐、待っててね」

 

 何もしないでじっと待っているなんて自分にはできない。

 

 燐も知っているとは思うけど、結構せっかちなんだ、わたしは。

 

 それに多分、燐も同じことをしているような気がする。

 

 ああ見えて結構頑固なところあるし、意外と似てるところあるから。

 

「気持ちも、同じだといいんだけど」

 

 そう言って蛍はくすっと小さく笑った。

 

 心がちょっと暖かくなった。

 

 ……

 ……

 ……

 

 線路がつづく白い大地の横の大きな水たまりに青い影が落ちる。

 

 流れる白い雲の影と、走っている蛍の影がきらきらと光を粉をまぶした水面に映り込んでいた。

 

 水溜まりに映る少女の姿は確かに”蛍”だったのだが、そこではちょっと違う姿で映っていた。

 

 今よりも背はずっと低く、黄色い傘を手にしながら楽しそうに歌を口ずさみながら線路の上を走っている。

 

 恐れるものなど何もないぐらいに好奇心に目を輝かせながら元気いっぱいに。

 

 ふわふわと踊るシャボン玉を追いかけているような無邪気さで、息を弾ませていた。

 

 何か、夢見ているかのように。

 

(よく分からないけど、すごく懐かしい感じがする?)

 

 蛍は走りながら小首をかしげた。

 

 前にはこうして一人で日が暮れるまで遊んでいたんだったっけ。

 

 青と白の奇妙な情景がそうさせているのか、蛍はちょっと昔を懐かしむような気持ちで心持ち足早に体を動かしていた。

 

 反対側の水の影にはもう少し成長した頃の蛍の姿があった。

 

 相変わらずひとりで楽しそうにはしているが、どこか寂しさというか空虚な感じを醸し出している。

 

 それは、燐と出会う前の、何もなかった時の”ちょっと内気だった”蛍だからかもしれない。

 

 真新しい制服を身につけているが、現実なんかよりも空想の方が捗っているようなどこか、人との関わりをもたないような印象がその俯く表情に現れていた。

 

 それでも一生懸命に走っている。

 

 息を切らせながらだらだらと走ってはいるが、それでも足を止める気は毛頭なさそうだった。

 

 それぞれの蛍には共通していることがあった。

 

 表情は異なっていたが、どの姿の蛍もただ一点を真っ直ぐに見つめながら走っている。

 

 無邪気な頃の蛍も。

 どこか空虚な感じを纏わせていた頃の蛍も。

 

 同じように前を見て走っている。

 

 何か、逃げていくものを追いかけているみたいに。

 

 だが、”本当の蛍”が様々な顔をもった自分の姿を映し出す水面に気が付くことはなく、足元を確かめたりしながら懸命に線路の上を走っていた。

 

 きっと──待っている人がいるから。

 

 ずっとずっと大切だった人が。

 

(だから行くんだ、例え全てがなくなってしまったとしても……!)

 

 

 同じだった。

 

 二人は離れていても、ぴったりと同じ方向を向いていた。

 

 一切の澱みなく。

 

 

 燐も蛍も大切な人の待つ、”かんぺきなせかい”だけを目指して線路上を走っていた。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 






□Stray
猫を操作するまったりな猫生活ゲーム──と思いきや、ディストピアな世界線の中を猫が彷徨い歩く、”サイバーパンク風ネコゲー”でした。
敵、みたいなのも一応いますし、最後はちょっと切ないエンディングだったですしねー。どちらかというと比較的短い内容でしたけど、とりあえず猫が可愛いから良し! なゲームでしたねぇ。
それと軽くネタバレになっちゃいますが、色々あっても最後は青空だったということで何かスッキリとしたエンディングでしたねー。続編がありそうな感じはしますけれどもー。っていうか欲しい感じです。

で、青空と言ったら……”青い空のカミュ”ですよね!!!
さてさて、ダウンロード版が、5月8日の17:00まで3000円セールをやっておりますー!!! 長いGWの機会に大変お買い得な、美少女ゲーム”青い空のカミュ”を是非是非お試ししてみてください!! 

ではでは、素敵なGWになるといいですねー。


それではではー!!



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 かつて、この町での林業が栄えていた頃。

 切った材木を運ぶために森林鉄道が走っていたレールの上に出来た緑のトンネル。

 それは、もう随分と前に使われなくなってしまったけど、今でも山中の奥に残っていた。

 だが、それを知るものはもういない。

 何故かすっぽりと消えてなくなっていた。
 その痕跡も記憶も一切合切を含めて。

 そんな、誰の記憶からも無くなったと思った場所に少女が一人で駆けている。

 何の為かなんてことは一切頭に浮かんでいないみたいに、真っ直ぐに前だけを見ながら、細かな砂利を蹴り上げて走っていた。

 だが、少女がいくら走っても、そのレールはどこまでも続いているように見えた。

 それはまるで別の世界までも続いているみたいに、果てのないものに感じられていた。

「はぁっ、はぁっ」

 もうずいぶん前に廃線となっていて、そして一度歩いたことのある所なのに、何でこんなに延々と、どこまでも続いている気になってしまうのかと。

 素朴な疑問が、頭をもたげてしまう。

 このまま進んで行けば本当に。
 本当にまた、会うことが出来るのだろうか。

 流石に不安になってくる。

 疲労のようなものはまだその表情には浮かんでこないが、湧きあがる焦燥感はずっと収まる気配はない。

 それどころか進むたびに嫌な感じが強くなってくる。

 でも、まだ動けているから良かった。

 山の峠でみた、そびえ立つ緑の壁に遭遇した時の打ちひしがれた思いほどの絶望はまだ感じていないから。

 だからまだ、一歩でも前に進むことだけを考えていられる。

 この先のことなんて、何も考えていないで走れるから。

「はっ、はっ、はっ」

 燐は、自分の体力の限界まで走るつもりでいた。

 いや、その限界を超えてまでも。

 例えこれで全てが終わったしても後悔なんかはない。

 分かっていたことだから。

 だって──それが本当の望み、なんだから。

 けど、それはちゃんと蛍と会えた場合の話だ。

 もう二度と会うことが出来なければやっぱり後悔してしまうだろうと思う。

 望みのないまま走り続けるのは流石に困難だったから。

 燐は懸命に腕を振り足を前に動かす。

 澱み切ったノイズに気持ちがブレないよう、ひたすら無心に。

 そんな時だった。

「んっ、わあっ!?」

 カラン。

 何かが靴の爪先に触れて、足元をそこまで気にしていなかった燐はつんのめって転びそうになった。

 廃線後のレールを辿るのにもようやく慣れてきた時のことだった。

 前ばかり見ていたせいもあったのかもしれない。

 つまずいた拍子に、その”何か”を蹴っ飛ばしてしまった。

「わわわっ、ととっ!」

 燐は咄嗟に両手でバランスを取ると、ステップを踏むようにぴょんと飛び上がってレールの上に両足をとんと乗せた。

 間一髪の所で派手に転ばずには済んだのだったが。

「はぁ~、びっくりしたぁ! 何か、変なのに蹴躓いちゃった」

 とりあえずの安堵の声を上げた燐はその対象を目で確認すべく周りを見渡す。

 何か固いものを蹴ったような感触が靴の先にあったから、何かあったのは間違いないだろう。

 それが”何なのか”が問題だった。

 ちょっと軽めの感触があったから、まさかとは思うが。

「わたしの、時計じゃないよね……?」

 恐る恐ると言った感じで燐は呟く。

 もしそれが本当に自分が残した腕時計ならば、この廃線跡のトンネルは同じところをループしているということになってしまう。

 それは一番恐れていた事態だ。

 何らかの妨害があったりした方がまだ良くて、むしろそれは確信に近づいている証拠にすらなる。

 だがこのトンネルの中が本当にループしているとなると話は別だ。

 それはどこまで行っても出口なんかは無く、同じところをぐるぐると回り続けているだけという事になってしまう。

 まるで”自分の尾をのみ込むヘビ(ウロボロス)”のように。

 良くある、迷いの森に実際に自分がいるなんてことになったら……それこそ、絶対に想像したくはない事だ。

 かと言ってこのままスルーするなんてすることは出来ない。

 どっちにしたって意味のないことだし。
 
 それにもし、この道が歪んだルートを描いているのなら何か、対策なりを講じなくてはならないだろうし。

 抜け道を探すとか、或いは何かのギミックみたいなのを解く必要がある、とか。
 そんな都合のいいものが見つかるとは到底思えないが。

 ともかく。

 燐は、見たくないものを見るみたいに大きな目を皿のようにして、砂利や枕木の裏側などの隅々にまで目をくばった。

「あ! もしかして、あれ、かな」

 レールとの間に挟まるようにあった”それ”を燐は発見すると、ぴょんぴょんとレールの上を器用に渡りながら近付いていく。
 
 それは残していた腕時計なんかではなく、細長い棒状のようなものであったので、とりあえず燐はほっと胸を撫で下ろしたのだが。

「これ。鉄パイプだ……」

 どうみてもそうとしか見えない。

 レールの上に足を乗せながら、燐は転がっていた鉄の棒を手に取ってみた。

 手ごろな長さの棒はやはり金属製で見たまんまそうだった。

「何で、こんな所に?」

 小さく呟いて首を捻る。
 
 何ともいえない違和感があった。

 よく似たものを知っていたから燐は複雑な顔をしてその鉄の棒を眺める。

 そしてその鉄パイプにはもう一つ変わったところがあった。

「でも、これ……折れてるよね?」

 金属製のパイプはちょうど中ほどの所から無残にも”くの字”に折れ曲がっていた。

 余程強い力で折り曲げられてしまったのか、見かけよりも強度のある鉄のパイプがまるで飴細工のようにぐにゃりと曲がっている。

 これはちょっとやそっとじゃ元に戻せるようなものじゃない。
 少なくとも燐ひとりの力では到底無理な代物だった。

 しかし、こうなると……この鉄パイプは本当に何の役には立たない。

 いくら曲がっているからと言って、ブーメランなんかにはできるはずもないはずだし。

「これって、わたしのせい……じゃないよね? 流石に」

 つい無意識に辺りを窺ってしまった。

 そこまで強い力で蹴ったつもりはない、と思う。

 体重だってそんなに、かかっていない……はず。

 ちょっとつまずいた拍子に、蹴とばしたぐらいだった気がしたから。

 言い訳ばかり並べてしまうけど。

「けど、何でこんなところにあったんだろ」

 一目見た時から感じてたこと。

 ここには工事のときに建てられたプレハブ小屋や、山を切り開いたような場所は今の所ない。

 列車から落ちたということでもないだろう。

 ここのレールはもうずいぶんと前に使われていないものだし、そこで走っていた森林鉄道の列車も”余程のことでもない限り”走ることはないのだから。

 それにさっきみたいに何かの拍子で転がってきたのだとしても、それを置いてあった場所は少なくとも周りにはなかった。

 それに。

 何で、こんな役にも立たなさそうなものがこのトンネルの中に落ちていたのか。

 その意味や理由は到底分からなかったが。

 そのねじ曲げられた鉄パイプを見て、燐の中でちょっと思い当たるものがあった。

 こじ付けのような感じはあったが、確かに今、燐の頭に浮かんだことだった。

(わたしも……こうやって、折れちゃったんだよね)

 身体の方じゃなくて……気持ち(こころ)の方が。

 もう思い出したくはないことだけどあの時は、そうだった。

 ひっかき傷だらけになった自分の心が、確かにぽっきりと折れてしまった。

 でももうずっと前から折れかかっていただけだったのかも、と。
 今ならそれが少し分かってしまう。

 それがあの町の異変をきっかけで完全に折れてしまっただけ。

 両親の不仲や従兄との微妙な関係性なんて、あの町の歪みの前から起こっていた出来事だったわけだったし。

 むしろ、隠していた事柄が浮き彫りとなっただけだ。

 目を背けていたことに向き合った結果なんだと思う。

 悪意とも善意とも関係がなく。

(わたしはあれから何か変われたのかな……)

 今こうして両足を地につけていられるのも、皮肉にもあの出来事があったからなんだと思うけど。

 実感の様なものがないから。

 でも、もし”アレ”がなかったら。

(多分、自分から……断ち切っていたんだと思う)

 折れ曲がった心はもう二度とは元には戻らない。

 それを知っているから。

「…………」

 無残にも折れ曲がった鉄の棒を、燐はまざまざと見つめる。

 本来はちゃんとした目的に合わせた用途があるのに、こんな姿になってしまった。

 きっと誰のせいでもないのだと思う。

 哀れで、切なく思う。

 けど。

 まだ、完全には折れきっていない。

 とても深い傷がついていて、恐らくは修復は不可能だと思う。

 それにパイプ全体にも細かな傷がついていて、もう十分にボロボロだけど。

 ──それでも待っていてくれていた。

 いつまた来れるかなんて分からないのに。

 こんなに歪に曲がっていても、きっとわたしが来るのを待っていたんだ。

 たった、ひとりぼっちで。

 置き去りにしてきてしまった大事な腕時計のことが、一瞬頭をよぎったが。

(ごめんね……本当に)

 とても大事なものでも扱う様にしっかりと両手で鉄のパイプを燐は抱きしめると、そっと折れ曲がった部分に唇を寄せた。

 大して重くないパイプだったが、中心である”芯”はまだしっかりとしている。

 もし、何かあれば振ることぐらいはできそうだ。

 そんな事はもうないとは思うけど。

 燐は折れ曲がったままの鉄パイプを元に戻そうとするようなことも、その場に置いていくようなこともせずに、背負っていたバックパックのチャックを少し開け、その中に曲がったままのパイプを放り込ませた。

 折れても長さがあるせいか、少し不格好な感じでバックパックの口からはみ出している。

 それでも本人は納得したらしく、ちょうど収まりがいったみたいにバックパックを背負いなすと、そのままの格好でレールの上をとことこと歩きだした。

 忘れかけていた大事なものをようやく取り戻したような、そんな満足気な表情を口元に小さく浮かべながら。

「そういえば……」

 ふと燐は後ろをくるりと振り返る。

 それは、何かの気配を感じたというわけではない。

 現にあの、燐を嘲笑するかのように響き渡っていた野獣のような声はもう聞こえては来なかった。

 ”顔のない白い顔の男たち”が発していたような、あの不快な甘ったるい匂いもしなかったし。

(でも、あれからかなり経つのに未だに鼻腔にこびり付いている気がするのは何故なんだろ……)

 そんなことを考えたせいなのか急に鼻がむずがゆくなり、燐は自分の小鼻の辺りを指でつまんだ。

 それでも燐はまだ後ろを振り返ったままだったが、不思議そうに首を傾げるとぽつりと言葉をこぼす。

「確か”ヒヒの声”とかって言ってたよね……オオモト様」

 少し前のことを思い出す。

 蛍の家の前で”幼い姿のオオモト様”と別れた直後、燐はオオモト様によく似た人形のことや一緒にあった地図のこと、そして、この山にぽつんと立っていた石碑について尋ねようと、すぐに元の道に引き返そうとしたのだったが。

 その道すがら、オオモト様がそのような話をしているのをたまたま耳にしていたのだ。

 小さな口元から、か細くもはっきりとした声で。

 ”ヒヒの呼ぶ声がする”と。

 それがここでの出来事を指していたのかまではその時は分からなったが、”そっちの方”へ行くと言っていたから、もしかしてと思い出し、しばらく待ってみたのだったが。

 やっぱり、オオモト様がこちらへ来ることはなかった。

 まあ、そんな予感はしていたから別にそこまでガックリすることはないのだけれど。

(だったら、信州の方とかに行ったのかな。”しっぺい太郎”のお話ってそっちの県の方でも伝えられているって聞いたことがあるし)

 荘厳な山の上の神社で祀られているらしい。

 燐はまだその神社を訪れたことは無く、ネットで見た程度の知識だけど。

 だからと言って、その伝承に沿った行動をオオモト様がしているというわけではないとは思うが。

 それを裏付けるものは一応あったから。

「サトくんも……いっしょだったみたいだし」

 久しぶりに白い犬の元気な姿を見たから、ちょっとでいいから触れあってみたかったんだけど。

 でも、できなかった。

 何となくだが、あの()()()には何か、燐が立ち入ることの出来ない特別な結びつきがあるような、そんな気がしたから。

 だからと言って不満があるわけではなく、むしろ。

 とても──楽しそうだったから。

 サトくんもオオモト様も。

 燐は違う方へ進む二人を黙って見送っていた。

 多分、もう会うことはないとは分かっていても。
 写真を撮ることすらもしなかった。

 それは、少し勿体なかった気もする。

 でももういいんだ。

 だってわたしには、やるべきことがあるのだから。

 世界で一番大事な人に会うと言う、大切な目的が。

(それに……それだけじゃなかったしね)

 久しぶりにサトくんを見てよく分かった。

 もうここには居ないお兄ちゃんをもう無関係なサトくんに重ねている自分の未練がましさが。

 わたしが彼を追い詰めてしまったのに、また追い求めようとしていることのちぐはぐな思いの揺れが歯がゆくてそして、悔しかった。

 もう終わったことなのに、何でまだ心が惹かれるのだろう。

 綺麗なままでいることはとても難しいことなんだ。
 そう、自分でもよく分かっているはずなのに。

 いや……自分で終わらせたんだ。

 その方がいいと思ったから。

 彼に迷惑をかけた自分を、許せなかった。

 その結果、聡もサトくんも自分から遠ざかっていった。

 けどそれで良いのだと思う。

 自分には引き止める資格もなかったし、もしあの異変が無かったことだったことだったとしても。

「だからやっぱり、こうなっちゃうって気はしてた。サトくんは元々”そうだったのかも”って」

 蛍ちゃんの話だと、前から町にいたみたいだったし。

 もしかしたらって思っていたから。

 それが偶然分かったってだけのことだ。

 だから。

「さよなら、サトくん……オオモト様と一緒にいつまでも元気でいてね」

 燐はその時掛けられなかった言葉を今、口にした。

 風の吹かないトンネルだったが、どこかからの気流に乗って彼らのところにまで届けばいいなと思った。

 あの紙飛行機のように。

 今、二人はどこにいるのだろう?

 助けがほしいとかではなく、別の意味合いで燐は気になった。

 ──座敷童と白い犬と関係性の方に。

「許可は取ってないけど、話しとして使ってもいいよね? ちょさくけんとかは大丈夫だと思う……多分」

 蛍にすら話していないことが燐にはまだあった。

 別にやましいことではないけど、まだその段階にすら進んでは無かったから。

「今のわたしに出来るのかな。あの町で起こったことの本をつくること」

 まだどういう形態にするかも決めてはいない。

 ただ漠然と何か、あの町の幸運やそれにまつわるお話を形として残そうとしているだけで。

 小説かエッセイ。
 何なら絵本なんかでも良かった。

 絵心は……そんなにないけど。

 いっそのこと、蛍が撮った町の原風景に、簡単な詩みたいな感じで短い文を添えてみても面白いかなと思っているぐらい。

「蛍ちゃんだって何かを残そうとしているみたいだし。だったらわたしも」

 と、密かに意気込んでいたのだったが、その前にとても大きな出来事が静かに、そして身近で起きてしまった。

「しかも、また、”六月”なんだよねぇ。夏になると何かが起こっているような気がするよ~」

 まあ、それでも去年ぐらいまでは何も特別なことはなかったんだけど。

 例えそれらが偶然なんだとしても、だ。

 これは不幸なできごとなんだと言えば確かにそうなんだろうけど、言い方を変えればそれなりに刺激があって退屈しない非日常を体験出来ているとも言える。

 要は当人たちの気持ちの受け取り方次第なんだと思う。

 どちらにしたって振り回されているのは変わりないのだし。

 ──世界はいつになっても安定なんかはしてはくれない。

 善も悪もなく、巨大な力で揺れ動いている。

 どこでどうなるのかなんて誰にも分からないで。

 だったら、どうあがいたって揺さぶられるしかないのだろう。

 小さくて弱くて、意味のない。

 わたし達は、そういう存在なのだから──。

「さてと、そろそろ行かないとね。道草しすぎちゃった」

 そう言って燐は古いレールの上からぴょんと飛び降りた。

 ぐっと踵を地面に踏み込ませると、少し力が湧いてくる気がする。

 これも一種の休憩だったのだろうか。

 空腹も喉の渇きも起きていないのだけれど。

 ずっと走ってたから、流石に下着は汗ばんでいたが、速乾のベースレイヤーを着込んでいるのでそこまでの不快感はない。

 いちおう替えのものもバッグに入っているが、まだ着替えるほどではない。

 むしろ少し新鮮な気持ちになったほどだ。

 物理的な事柄ではなく、気持ちが前へ向き直ったということの方で。

「ちょっと変わった旅のお供も出来たわけだしね」

 バッグの中からちょんと顔を出し、首を傾げたままのボロボロのパイプに向かって燐は微笑む。

 今回も、最後まで一緒にいることになりそうだ、”コイツ”とは。

「……行くよ」

 そう小さく呟くと、何かを心中で噛みしめるように唇を少し噛み。

 ──線路の間を勢いよく走り出す。

「蛍ちゃんだって、きっと、退屈してるだろうしね」

 オオモト様がそうであったように。

 自分の道を走って行く。

 立ち止まることなんかもう、しない。

「うんっ!」

 お気に入りのカチューシャよりも大きな赤いリボンを揺らしながら、燐は本当に自分の求める人のいる方へと真っ直ぐに駆けて行った。

「空は、もう見えないけど……」

 燐は走りながら視線を上に走らせる。

 もし、ちゃんと時間が動いているのなら今頃は普通に夜だろう。

 いっぱいの星が瞬いているような真夜中であってもおかしくはない。

 今、その天井は葉の緑が厚い雲のように覆い尽くしていて、昼とも夜ともつかない不思議な時間がトンネルの中で流れていた。

 まるで星のしんだ日のような薄暗さが延々と蔓延っていたのだったが。

 その中で黒い下草に覆われた古いレールだけが深淵のような暗い道の先で眩い光を放っている。

 まるで光の通り道を指し示すように、澱みなく真っ直ぐに伸びていた。

 聞こえるのは少女の軽い息づかいと、軋むような砂利を踏む音だけ。

 もし、これが逆の立場だったら。
 こんなに必死になんかなっていない。

 それじゃ駄目なんだということは分かる。

 分かったから、やっと。

 気持ちが、痛いほどに伝わったから。

(──わたしは言わなくちゃいけないことがある。蛍ちゃんに)

 焦燥感が募るほどにその想いが強くなっていく。

 先立つ気持ちが膨らみ過ぎて心臓がパンクしちゃいそうになるぐらい。

 それぐらい鼓動は高鳴っていた。

 これまでにないぐらいにずっと。
 隠してきた本当の気持ちがさらけ出されたみたいに。

 期待と不安。

 その両方が胸中でせめぎ合っている。

 それでも伝えなくちゃいけない。

 自分の。
 
 飾りのない本当の気持ちを。

 もっとも単純で、ハッキリとした言葉で。

 ただその一言、それを彼女につたえるためだけにこうして足や肺を限界まで動かして走っているんだ。

 このトンネルの先にあるものを知っているから。

(ゴールがあると思うから辛くなる……それはそうなんだよね。でも、先に何もないって思うとやっぱりそれも辛いのか……)

 意味のない自問自答を胸中で繰り広げてみたが、答えは変わらなかった。

 だからもう、このトンネルを抜けた時どうなるのかなんてことは考えない事にした。

 行ってみるしかないんだ。

 例え、這いつくばってでも。

 そうすればきっと何かが分かる。

 わたしはそれが──知りたいだけなんだ。

 どんな結果になろうとも。

 方角を指し示すコンパスはもう、自分の中にしかないのだから。


 何の音もしない。

 生命すら感じない、暗い線路(みち)を燐はたった一人で、余計な事はもう考えずにただ前だけを向いてだけ走った。

 ずっと、ずっと。

 何かが待っているだろうその先まで。

 
 ──
 ──
 ──




 

 ──どうして始めからこうしなかったのだろう。

 

 それはあの時だって。

 

 走りながら蛍はそんな素朴な疑問を頭に浮かべていた。

 

 そう、列車なんて待つ必要なんかなかったのだと。

 

 見覚えのある丸い緑の電車がプラットフォームに入ってきても別に乗る必要なんかなかった。

 

 あの時、燐の手を無理やりにでも取って、その足で線路を辿って行けばよかっただけのことだったのに。

 

(なんで……そうしなかったんだろう)

 

 今更ながらに脳裏で回帰させながら、蛍は真っすぐに伸びている白い線路を走っていた。

 

 やけに息が続くなぁと思っていたのだったが、それももう大分前に限界が来たようでそのペースは落ちていた。

 

 殆ど歩くのと変わらないぐらいにまでになっている。

 

 それは仕方のないことだった。

 

 蛍としては結構進んだつもりなのに、まだ線路はずっと先にまで続いている。

 

(長いんだよね。ほんとに……)

 

 うんざりするぐらいに。

 

 辺りの景色が殺風景なのも含めて、映画なんかで良くみた大陸を横断する鉄道のレールを見ているような、際限のない果てしなさを感じるほどだった。

 

 無謀だったのか。

 

 少し気持ちが折れかかりそうになる。

 

 それでも蛍はまだ歩みを止めるつもりはない。

 

 顔は疲労を訴えていたが、その瞳は前だけを見据えていた。

 

 それは、待っているから。

 約束なんかはしていないけど。

 

 制約とか期限とかはない。

 

 それでも、何かに追い立てられているような感じをずっと背筋に感じている。

 

 ぴりぴりとした緊張感とは違う何かを。

 

 もし、何かに追われているのだとするのならば。

 

 それは、きっと……。

 

「あっ」

 

 蛍は肩を上下させながら驚きの声を上げていた。

 

 ずっと静寂の時間が続いていたから、こうして声を出すのがすごく久しぶりに感じる。

 

 いくら独り言をつぶやいても誰にも聞かれることは無いからとても快適な世界なのに。

 

 そんなことすらもう頭に浮かんでこなかった。

 

 そんな事よりも。

 

 視界の先に見つけたのだ、線路が遠くまでずっと続く地平線の向こうに。

 

 何かの建物があることを。

 

(でも。前にも、こんな事があったよね)

 

 いつの間にか燐も乗っていた不思議な電車に揺られていた時もそうだった。

 

 窓の外に変な形の長い影のようなものを見つけたのだったっけ。

 

 結局それは、廃墟となった町の瓦礫を積み重ねて出来た歪な建造物だったのだけれど。

 

(あれって確か、”自分の家”だったよね)

 

 あまりにも変わり果て過ぎてすぐには気付かなかったけれど。

 

 今思うとあれも、いわゆる選択肢の一つだったのだろう。

 

 荒れ果てた町の姿は地震か台風でもあったみたいにめちゃめちゃになっていて、人ひとりいなかった。

 

 そんなものが、あの”青いドアの家の線路の次の駅”にあったのだから。

 

 今だって少しどきどきとしてる。

 

 またあんな変なものを見せられるのではないのだろうか。

 

 真実の一つと言うか、押し込めていた願望みたいなものを垣間見てしまうのかと。

 ちゃんと確認するまえから戦々恐々としてる。

 

 望んでいた形ではないだろうから。

 

 蛍は何とも言えない複雑な顔で眉を寄せながら白く光るレールの隙間を走る。

 

 やはりそれは歩く様な速度であったが、その視線は常に建物のような青い蜃気楼のような影にだけ注がれていた。

 

 近づいてくるたびにそれは確信へと変わっていく。

 

「やっぱり、あれって」

 

 駅舎なのかなぁ。

 

 残念というか、ありきたりすぎて。

 

 線路上で見つけたものだからある意味では当然なんだろうけど。

 

 それでも何かがあったということにちょっとだけ嬉しくはなった。

 

 殺風景な景色にも大分飽きてきたところだったし。

 

 砂漠で埋もれていた小さな泉(オアシス)を見つけた時のような、密かなときめきと不安を胸に蛍はもうちょっとだけ脚の動きを速めて走ってみることにした。

 

 はっ、はっ。

 また息が少し苦しくなる。

 

 けれども、そこまで嫌な感じではなかった。

 知っていた痛みと苦しみだったから。

 

 あの日を脳裏に思い浮かべていた、多分もう二度と忘れるの事のない光景を。

 

 沢山の出来事が映像となって押し寄せて、蛍の心に消えることのない黒い蜷局を巻き付けたあの忘れがたい情景を。

 

 あの──空に引っ搔き傷を付けたとき。

 

 空は高く日は少し暑かったけれど、それが心地よく感じられた夏の日のこと。

 

 きらめく水面と、穏やかな風が髪や肌を撫でてくれていた。

 

 とても綺麗だった。

 世界は。

 

 それなのに。

 

 蛍は涙を拭うこともせずにひとりで線路を走っていた。

 

 大事そうに何かを胸に抱いて、たった一人で走っている蛍の姿がローカル線の線路の上にあった。

 

 それは紙飛行機の形をした、一縷(いちる)の望み。

 

 残されていたノートを破り、()()()で飛ばした紙飛行機には何のメッセージも残されてはいなかったけど。

 

 その方向にさえ行けば何とかなる。

 

 そう信じきっていた。

 

 それだけの為に走り、そして近くの無人の駅舎で電車を待っていた。

 

 隣には誰もいない。

 

 たったひとりで、電車を待っていたんだ。

 ぽろぽろと涙を零しながら。

 

「あの駅舎。やっぱりちょっと似ている気がする」

 

 あの時ひとりで待った古い駅舎と。

 

 でもそれは似ているというだけで、今とは決定的な違いはあるが。

 

 それは駅の形という実存的な概念ではなく、”燐が存在している”という、今の気持ちの違いの方だった。

 

 確かに流れる時間は違うけれど。

 

 燐は、確かにいる。

 

 意識や思いを共有して互いに認識しあっているから、あの日のような黒い感情はまだ芽生えてはいない

 

 ちょっと不安げになったりもしたけど。

 

 あの空を見上げた時なんかよりもずっと傍に、すぐ近くに居るような感覚すら覚える。

 

 少しの間、燐と通話することの出来た携帯はもううんともすんとも鳴らないけれど。

 

 走る呼吸に合わせて燐の声が混ざって聞こえてくるような感じさえするのだから。

 

 比喩でも幻聴でもなしに、もしそれを例えるのだととしたら……なんだろう、心が呼びかけ合っているみたいに。

 

 それは道筋とか、指針(サイン)とか。

 

 夜の海を照らす灯台の明かりを見てるような感じで前を向いていられるから、まだ大丈夫なんだと思う。

 

 迷いも、恐れもなく。

 

 好きな人の声が先を導いてくれている。

 

 そう思って。

 

「それにやっぱり、こうして体を動かしているおかげなのかな」

 

 すごく気持ちがさっぱりとしてる。

 

 内側に蔓延っていた焦燥感とか、そういったネガティブなものが一切合切無くなっていた。

 

 憑き物が取れたとかいうのではなく、気持ちがリフレッシュした感じ。

 

 こーゆーの、”ランナーズハイ”とか言うんだっけ。

 

 ゆっくりめに走っているけど。

 

 温めの弱いシャワーを浴びたみたいに、何もかもが光のヴェールを掛けたように白く輝いて見えた。

 

 でも、少し引っかかる所もある。

 

 これは”本当に駅舎なのか”と。

 

 青いドアの家のテレビの映像ではではそんなものは見えなかったわけだったし。

 

 もっとも、この世界は一度壊れて新しくなったみたいだから、その認識はおかしいのかもしれないが。

 

 ともかく、行ってみれば分かる事だった。

 

 蛍は更に頑張って走った。

 

 あの日と違って怪我もしていないから、思っていたよりもずっと足が前に進む。

 

 勘違いしてしまいそうなほど体を軽く感じて、意外にもあっさりとそこへと辿り着くことができた。

 

「はぁ、ふぅ、はぁぁ……」

 

 ホームに登るなり膝をガックリとつく。

 

 もっとも体力のほうは蛍の思いよりも大分正直なようだったが。

 

 ……

 ……

 ……

 

「……これが」

 

 この世界ではどこも同じ作りなのだろうか、簡素な作りの白い駅舎がぽつんと立っていた。

 

 駅名を示す看板も、これといった設備も何もない。

 誰が座るのか分からないベンチが備えてあるだけで。

 

 上に小さな屋根があり、その下でホームが伸びているだけ。

 

 田舎の無人駅という言葉がとても似合っている小さな駅だった。

 

 青いドアの家のあの駅舎とも、前に燐と一緒に降りた駅ともちょっとだけ違う気がする。

 

 何がどう違うのかは分からないのだが。

 

 駅の周りに何もないから、この駅の存在意義すら分からない。

 

 そんな場所に蛍はひとりでいた。

 

 意図せずしてあの日の再現をしているみたいに。

 

「ここがわたしの目的地……なの?」

 

 自分自身に問いかけるように呟く。

 

 こんな場所に何かあるとは到底思えないし、列車が来そうな気配はない。

 

 ホームで待っていればその内来るのかもしれないが。

 その保証はどこにもなかった。

 

 時刻表ですらも貼っていないわけだし。

 

「……」

 

 蛍は口を小さく開けながら、呆然と辺りを見渡してた。

 

 本当になにもない。

 

 水溜まりが地平線の奥にまで続いているだけで、他に目に付くものなどは何ひとつない。

 

 今までと同じ、青と白の景色がどこまでも広がっているだけ。

 

 胸躍らせるような、期待を抱かせるようなのはここにはない。

 

 ──終焉の地。

 

 そのものの様な場所に立っているだけだ。

 

 何もかもが終わった後みたいな無人の駅に。

 

 無駄なことをしただけだったのだろうか。

 

 やるせない思いからなのか、蛍はぎゅっと唇をかみしめた。

 

 もしこの駅舎に少し朽ちたレトロな看板でも貼ってあったのならさぞかし似合うだろうと思う。

 

 何の期待も抱かない、世界から忘れられたプラットフォームは今の自分の心とリンクしているようで、何というか切なくなってくる。

 

 異変のあった夜から時間だけが過ぎていったが、それらは全て無為だったのだろうか。

 

 ただ日々を送り、来るべき日が訪れるのを怯えていただけだったのか。

 

 残滓がどこまでも追ってくるように。

 

 どこに逃げたって結果は変わらないのだと。

 

「そういえば……結局、持ってきちゃったけど」

 

 思い出したように蛍は呟くと、今でも愛用している肩に下げていた猫の顔をしたポシェットから小さな鏡を取り出した。

 

 青空を写し込んでいる丸い鏡面をいくら覗き込んでも、周りの景色と自分の姿しかもう映すことは無い。

 

 想う人を映してくれていた鏡はもう普通の鏡になってしまった。

 

 割ることを止めてしまった今、もう持っている意味などないはずなのに何故か手放さずに、ここまで持ってきてしまった。

 

 あの家の中で見つかったものだし、もしかしたらまだ何かあるのかもと、淡い期待を蛍は抱いていたのだろうが。

 

 この駅舎と同じく、その期待に応えることはなかった。

 

「仕方ない、か……あ、そういえばこれも……」

 

 蛍は鏡をポシェットではなく、スカートのポケットの方にしまうと、ポシェットから今度は紙のようなものを数枚取り出す。

 

 それは、鏡と同じ場所にあった染みの付いた古いセピア調の写真だった。

 

 一緒に添えられていたから何か意味があるのだろうと思い、青いドアの家を出る時に鏡と共に持って出ていたのだった。

 

 大して重い物でもなかったし。

 そこまで嵩張るものでもなかったから。

 

 写真の殆どが色あせてしまっていて何を写したものだったのかは分からなかったが、その中の一枚のだけが、一定の鮮明さを保ったまま保持されていたのだ。

 

 それはホームからの風景を切り取った写真のように見えたから、蛍ははじめあの”青いドアの家”に隣接しているホームから撮ったものなのではと思っていた。

 

 でも、もしかするとこちらの駅の写真だったのかも?

 そう思ってもう一度蛍は写真をよく見てみることにしたのだったが。

 

「……やっぱりよく分からないね」

 

 駅と写真をいくら見比べてもやはりその判別はとても付き辛い。

 

 この世界でのホームには駅名を記したような看板もないみたいだし、コレといった駅特有の特徴もないわけだから、それは当然のことなんだろうが。

 

 じゃあ、これは結局何だったのか。

 

 諦めたような溜息を蛍はつく。

 

 そして、その写真をポシェットに入れようとしたのだったが。

 

「あ」

 

 ぼーっとしていたせいか、蛍はつい手を滑らせてしまい、パラパラと写真がプラットフォームの上に散らばり落ちてしまった。

 

 風も吹かない所だから線路の下にまで飛んで行くようなことはないと思うが。

 

 それでも蛍はすぐにホームにしゃがみ込むと、急いで写真を拾い集めようとする。

 

 写真は全部で四枚程度だから、いくら慌てていてもすぐには拾い集められる数だったのだが。

 

「……これって、”オオモト様”!?」

 

 ある写真と目があった瞬間、蛍の手がぴたりと止まった。

 

 それを拾い上げると、手で見る角度を何度も変えたりしながら首をかしげていた。

 

(あれ、オオモト様じゃない、のかな……? だったら()()()……?)

 

 食い入るように写真を見つめる蛍。

 

 その表情は、”何か分からない”というより、”理解ができない”と言った感じの困惑の顔だった。

 

 蛍は写真の上で指をつっとなぞる。

 

 それが本当のものであるか確かめるみたいに。

 細い指を小刻みに震わせながら。

 

「こんな写真じゃなかったはず……なのにどうして……?」

 

 横で見ていたはずの写真が、縦に見ることで新たな発見できた……などと言った騙し絵のようなものを見たわけではない。

 

 それは、”心霊現象”などというオカルト言葉をにわかに信じてしまうほどの衝撃だった。

 

 息をすることすら忘れてしまうぐらいに。

 

「ほ、ほかの写真はっ!?」

 

 すぐに確認してみたが、新たな像を結んでいるのはその一枚だけで、他の二枚は判別不能なピンボケ写真のままだった。

 

 意味のわからなかった写真がそのセピア調のモノクロの色彩のまま、全く別の……”人物の写真”になっているなんて、そんなことが物理的に起こりうるのだろうか。

 

 いくら常識が通用しない世界だったとしても。

 

 確かに今は、AIか何かのデジタルな技法でピンボケの写真であってもある程度までは戻せるようだけど。

 

 これにはそんな力が働いたような形跡はない。

 

 それを行える端末も、その技術も、どう見たってここにはないのだから。

 

 それこそ魔法でも掛けられたみたいに目の前でぱっと切り替わってしまった。

 

 指先が触れる瞬間までは確かにボケボケの失敗した写真だったはずなのに……。

 

 現実を完全に無視したようなことが本当に……でも実際に起こってしまった。

 

 何かのトリック掛けられたみたいだったので自分の目を訝しんでしまうが、問題はそんなことなんかではなく。

 

 写真に写っていた人物の方に問題があったのだ。

 

(もし、これがオオモト様じゃないのなら……)

 

 本当にまさかだと思う。

 蛍は胸中で思っていた疑問を口にした。

 

「それって、わたしの……? ううん。そんなこと、あるはずがないのに」

 

 蛍は声を震わせながら首を横へ振った。

 

 否定した言葉を認めたくないように、写真から目を逸らす。

 

 蛍が手に持っている写真には少し変わった柄の着物を着た”ひとりの女性”が小さな椅子に腰かけて、ファインダー越しに微笑んでいた。

 

 昔ではよくある肖像的な光景の一枚なのだが。

 

 その人物に思い当たる節は……蛍には一応ある。

 

 むしろあり過ぎると言うか、あまりにもよく知り過ぎている顔だったから。

 

 愕然とするしかなかった。

 

 馬鹿馬鹿しく思えるほど、突飛すぎてあまりにも荒唐無稽なことだったから。

 

 でも、全く覚えのないことだったから、まだすぐには状況を呑み込めないようで、蛍はポケットからまた鏡を取り出すと、そこに自分の顔を恐る恐るに映し込んだ。

 

 ──不安気に瞳を揺らす顔の蛍が鏡に映っているだけ。

 

 ただ、それだけなのに、驚愕の声を上げずにはいられなかったのだ蛍は。

 

 だってそれは。

 

「これ……やっぱり”わたし”、なの!?」

 

 何か重いもので頭を殴られたような衝撃が全身を駆け巡り、蛍は一瞬自分が立っている場所かどこか分からなくなりそうになった。

 

 ぺたぺたと自分の顔の輪郭を確かめるように触りながら、それでもまだ信じられないのか写真と鏡の中の顔を何度も見比べていた。

 

 木の椅子に腰かけて柔和に微笑んでいる少女は確かに”三間坂蛍(みまさかほたる)”。

 

 その本人……と言っても過言ではない。

 

 そのくらい似ている少女だったのだ。

 まるで、生き写しの姉妹か何かであるかのように。

 

「合成とかじゃないよね、これ……」

 

 疲れたような息を吐く。

 ひどく顔色を悪くしていたが、それでもその写真からは目を離せないでいた。

 

 見れば見るほど自分にそっくりだった、気味が悪いぐらい。

 

 何で?

 どうして?

 

 当然の疑問が頭を駆け巡る。

 

 無論、蛍にはそのようなことをした記憶はない。

 

 こういった写真を撮って欲しいと誰かに言ったことも、誰かに撮られたということもない。

 

 もし、万が一燐だったとしても、必ず蛍に一言断ってから写真を撮るぐらいだし、黙ってこんな写真をフィルムに残すようなことするとは絶対に思っていない。

 

 成人式の写真だってまだ撮っていないから、このような改まった写真がある事自体が不思議でしょうがなかった。

 

 しかもわざわざこんな風にちょっとレトロな感じに加工するなんて。

 

(写真は、そのままを取るから美しいと思ってるのに)

 

 別に、”加工された写真(フォトグラフ)”を否定しているというわけじゃない。

 

 人も景色もありのままの姿が一番きれいだと自分は思っているだけで。

 

 この”青いドアの家の世界”も奥行きのあるフォトグラフか、一幅の写実的な風景画みたいなものなんだろうけど。

 

 それに……写真の子はちゃんした着物を着ているけど、そういうコスプレ写真とかにも別に興味はない。

 

(まあ、今だって……コスプレみたいなものなんだろうけど……)

 

 今着ているひらひらとした衣装なんかよりも写真の中の人の方がマシな格好をしてると思ってしまうほど。

 

 スカートだってこんなに短いわけじゃなさそうだし。

 

 まあ、普通の着物だからそうなんだろうけど。

 

「でも、これはわたしじゃない。別の誰かを撮った写真だ」

 

 それだけはハッキリとしている。

 

 だが、それ以外の答えは出なかった。

 

 疑念は頭の中でぐるぐると渦を巻いているのにそれ以上、口が上手く動かない。

 

 それは、写真を持っている手と同じく無意味に震えるだけで、声の形を作ってはくれないのだ。

 

 誰かに聞かれる心配などないのに。

 

 きっと──言うのが怖いから。

 

 多分、これは事実なんだと思うから口に出ないのだと思う。

 

 認めたくはないことだけど。

 

「でも、一度見ちゃったわけわけだし、他にすることもないから……」

 

 観念したように苦笑いすると、蛍は両手を広げて深呼吸をする。

 

 潮風を吸い込んだような爽やかさはなかったが、少しだけ落ち着くことはできた。

 

 蛍はホームに備えてあったベンチにちょこんと腰かけて、自身の膝の上に写真を広げた。

 

 改めて状況を確認する。

 

 不思議な丸い鏡と一緒に見つかった写真は、全部で四枚。

 

 その中の二枚が今はちゃんとした写真で、後の二枚はまだピンボケのままだ。

 

 ”まだ”、という言い方は少しおかしな気もするが、そうとしか形容することができない。

 

 要するにこの現象とは……。

 

「わたしの……”真実”っていうことになるのかな……?」

 

 随分と前のことだが、燐とオオモト様が青いドアの家で会話をしていた内容を頭に思い浮かべる。

 

 ──燐はその目で見ていたという光景を蛍は見えなかったという話だった。

 

 その時は自分ひとりだけが蚊帳の外にいるような気になってしまって、つい余計なことをオオモト様に問いかけてしまったけど。

 

「あの時、見えなかった景色が……フィルム越しに見ることができたってこと?」

 

 そういう事なのだろうか。

 

 燐は地平線の先に蜃気楼のように白い風車が浮かんでいたと確か言っていたっけ。

 

 けど、それは。

 

「わたしが写真を撮るようになったことに何か関係があるのかな」

 

 趣味でやってるだけだからまだそこまで詳しくはないけど。

 

 でも前に比べたら意識してレンズを構えることが多くなった気はする。

 

 まだそこまで上手くは撮れないのだが。

 

 でも、この予想もあながち間違いではないのかと思う。

 

 例え自分の存在が消えてしまったとしても、それだけは残ってくれるだろうと。

 

 そう思ってシャッターを切っているのは事実だったから。

 

(じゃあ、この写真もそういう役割で? わたしに何かを伝えるためだけに)

 

 しかし、一体、この写真は何を物語ってくれるのだろうか。

 

 看板や標識のない、静謐なこの世界で。

 

 今の蛍にはそれは到底思いつかない事だったが、考えるだけの時間だけは潤沢にあった。

 

 蛍はこの世界では聞こえない風の声に耳を澄ますように静かに目を閉じて、自身の考えをまとめることにした。

 

 白と青の眩しかった情景に、漆黒の闇が瞼の裏側の世界で生まれていた。

 

(写真の場所はこのホームだったとしても、あの人は……)

 

 実のところ、答えはもう殆ど出ていた。

 

 長い髪を後ろに下ろし、その”女の子”は今の蛍よりも少し幼く見える。

 

 座敷童として生まれた子は子供の頃の内に力が失われるとか言われていたけど。

 

 これがそう言うことなのか。

 

 蛍は小さくふぅと息を吐いた。

 

「じゃあこれがわたしの”お母さん”……? でも、こんなに若いなんてことがあるの?」

 

 ぱっちりと目を開けた蛍はその母が映る写真をつぶさに見つめていた。

 

 確かに若いと思う。

 

 ともすればこの写真の姿は、今の蛍よりも更にずっと下の可能性すらある。

 

 それに母だと言う確信を得たわけではない。

 

 目元が少し似てる気がするとか、推測みたいなことしか出来ていない。

 

 そこに血のつながりを感じるとかそう言った予感めいたものは写真からは感じ取れなかった。

 

 勘が働けばいいってものでもないとは思うし。

 

 ただ、これが全く別の”座敷童”の人だったとしても。

 

(何か、ちょっと悲しい)

 

 写真の中で微笑んでいる”少女”の姿に何とも言えず、蛍は胸が締め付けられるみたいに切なくなった。

 

 これが最期の写真なのかどうかは分からないが、何も知らずに無邪気な微笑みを浮かべる姿が、とてももの悲しく思えた。

 

 写真の中の少女の姿はとても幸せそうに見えたから。

 

 自分の身にこれから何が起こるかなど分からないみたいに、無邪気そうな笑顔を向けているから、それが余計に痛ましくみえてしまう。

 

 信頼していた町の人達に突然裏切られたようなことをされた挙句、そして……。

 

(あれっ、わたし……?)

 

 勝手に涙が頬を伝っていた。

 

 蛍は手の甲で顔をごしごしと拭くと、この写真をもっとよく観察してみることにした。

 

 姿はともかく、自分も同じ境遇で合ったことなんだし。

 

 無関係ではないだろうと思うから。

 

 それにこれがもし、本当に自分が選び取った方向の答えなんだとするのなら、何かヒントみたいなものがあるはずだ。

 

 燐の時とは違って伝える手段は具体的なのに、指し示すものが抽象的過ぎるが。

 

「結局、わたしはどうしたらいいんだろう」

 

 足りなかったパズルのピースはそこら中に散りばめられているのに肝心の、そのパズルのはめ方が分からないみたいに。

 

 何というか、途方に暮れた表情を蛍はしていた。

 

(でも。何だろ、すごく落ち着いているような)

 

 この写真に何かの信憑性を感じているわけではない。

 

 事態は何も好転したわけでもないのに。

 

 心は、さっきから妙に落ち着いている。

 

 客観的に自分と今の状況と向かい合うことができていた。

 

 青いドアの家にいた時はそれこそ子供みたいにめそめそとしてたのに、何だか嘘みたいに気持ちがすっきりしている。

 

 今だって、母親かもしれない写真を見ているのにそれほど動揺はしていない。

 

 現実感がまだないからだろうか?

 

 それとも、今の自分と同じぐらいに見えるからそんな感じが湧かないだけ?

 

 どちらも違っていて、そのどちらも当たっているような。

 

 釈然としない感じがしたが。

 

 結局のところ、”この人”が本当に自分の母親なんだとしても家族としての認識が湧いてこないんだろうと思う。

 

 面影とかそういう記憶が一切ないわけだし。

 

 それに家族と行ったら今は。

 

「やっぱり、わたし。ずっと燐のことばかり考えてる……燐に会ったら何話そうとかそんなことしか頭にない……」

 

 馬鹿みたいに思えるけど、本当にそうなのだ。

 やっぱり、一番会いたいと思う人だから。

 

 どんなときだって燐のことを気にかけてしまう。

 

 きっと、家族という存在にもっとも近いのは、燐だけなんだ。

 

 燐と一緒にいることがもう当たり前になってしまっている。

 だから家族……なんだと思う。

 

 もしかしたら、もっと他の適切な言葉があるのかもしれないけど、友達よりかはそっちの方がずっと近い気がするから。

 

 別の言い方は堅苦しいと言うか、口にするのが少し心苦しい。

 

 悪い意味ではないんだけど、自分の胸が苦しくなってしまう。

 

 少女漫画なんかでは良くクライマックスの告白シーンなんかで言う言葉なんだけど。

 

 自分で口にするのはすごく恥ずかしい、から。

 

 けど……いつかは言わなくちゃならないことだとは思う。

 

 二人の関係を終わらせる為じゃなくて、もうひとつ上の段階に上がる為に。

 

 そういう目標みたいなものがあるから。

 

 だから落ち着いていられるのだと思う。

 

 今、燐が傍にいなくても。

 

 でも。

 と、蛍は思う。

 

「こうやって写真を並べてるとなんか変な感じがする」

 

 探偵や警察の人が証拠品を前に頭を悩ませている時と同じ状況みたいな。

 

 ちょっとだけそんな風な事件性を持った気分になってしまう。

 

 多分、暢気なだけなんだとは思うけど。

 

(でも、写真は4枚あって……ピンボケなのは後2枚か……)

 

 何かのきっかけで残りの画像が浮かび上がるのだろうか?

 それともこのまま……??

 

 蛍は頬に手を当てて考え込んでいた。

 

 答えなんか到底出るはずのない、当てのない問題に向けて。

 

 ……

 ……

 ……

 

「んー、やっぱり、よく分からないね」

 

 どう考えてみても材料が足りていない。

 

 考え抜いた先の蛍の結論は、結局それだった。

 

 写真の駅がここだったとしても、この少女の写真からは何も思い当たるものがない。

 

 仮にこれが本物の写真だったとしても、それから何を導き出せばよいのか。

 

 全く見当がつかなかった。

 

 これまで検索によく使っていた携帯も今は静まり返ってしまったし。

 

(こんな時、燐が傍にいてくれたらなにか閃いてくれるのかな……)

 

 わたしと違って頭の回転も速いし、要領だって良いし。

 

 黒い液晶を眺めて蛍は軽くため息をついた。

 

 スマートフォンはもう映ってはくれない。

 

 ボタンを押しても何の反応すらなくなったのだから電池が切れたとかの単純な問題ではないことは分かってる。

 

 ただ、オオモト様の口ぶりだとこれだって自分で呼び出した? みたいだったから。

 

 想いを込めれば何とかなるのでは思ってずっとさっきからやっているのだけど。

 

 何も、起こらない。

 

 最初からそうであったみたいに、携帯は動かくなってしまった。

 

 あの鏡だってずっと普通のままだったし。

 

「やっぱり、燐とはもう……」

 

 ちくっとした胸の痛みとともに後ろ向きな気持ちがぶり返してきてしまいそうになり、蛍はぐっと顔を上げて静かな青い空を見上げた。

 

 いつまでも変わらない空と、その下にある駅とプラットフォーム。

 

 この世界のどこにでもありそうな変わり映えのない景色。

 

 なぜこんなところにまでわざわざ来てしまったのか、同じような風景が続いているだけなのに。

 

 蛍は無性に、誰かの声が聞きたくなった。

 

 幽霊なんかなく、本当の人の声を。

 

「燐」

 

 その人の名前を空に呼ぶ。

 

 青い空に溶け込んでいってしまったと思った人は戻ってきてくれて。

 

 そしてまた、別れてしまった。

 

 こういうのは何かの運命とかそういうのなのだろうか。

 

 何かをしたとか、そういうのは全然ないのに。

 

 あるとすれば偶然。

 

 それがまたこのような事態を招いてしまっただけ。

 

 だったら、今度は自分が幽霊となり彼女の傍まで飛んでいくのかもしれない。

 

 単一の、何の力もないただのクォークとなって。

 

 そこにはもう何の意味なんかはないんだろうけど。

 

 偶然の抗え切れない力がそうさせているのなら。

 

「偶然の意味、か……」

 

 蛍は急にはっと思いついたようにぐるりと視線を巡らす。

 

 確かに、それは偶然なんだと思う。

 

 この不思議な世界での出来事は全部そう見えた。

 

 だから。

 

「そっか、だから駅は何か役割があるんだ」

 

 偶然とはどこから来るものなのか。

 きっとそれは誰にも分からないこと。

 

 そう思っていた。

 

 でも偶然は何かのエネルギーが無ければ発生することなんかない。

 

 それが人だったり、モノが転がったり動いたりするから偶然が出来上がるのだ。

 

 そして偶然を感じ取ることが出来るのも人だけだった。

 

 この世界での()()は自分だけ。

 なら、動くべきものとは。

 

 レールを走る列車であり、駅だった。

 

 それは現実の世界でも同じことで。

 

 停車するべき理由があるから駅が作られるのだと。

 

 中にはもう乗り降りするのが減ってしまった駅もあるが、それでもかつてはそれなりに活気があったんだろうと思う。

 

 自分たちが使っていたローカル線もそういう今は無人の駅が多少なりにあったから。

 

「だったら、だよ」

 

 思い立ったように蛍はすっと立ち上がると、写真をポシェットにしまい込みすたすたと誰もいないプラットフォームを歩き始めた。

 

(そう、青いドアの家の駅舎も、燐と一緒に訪れた廃墟の周りにあった駅も……)

 

 それぞれ役割があった。

 

 だったらここにだって何かがあるはず。

 

 重要かどうかは無いにしろ、なにかが。

 

 だが、すぐに見渡すことの出来る小さな駅舎にはなにかがあるような感じはない。

 

 一度見て回ったから、それは分かっていたけど。

 

 だったらと思い、蛍は一度プラットフォームから降りて見ることにした。

 

 全部を隈なく見て回ったわけではなかったし、ちょっと離れたところから見ると何かが分かるようなこともあるだろうと思ったから。

 

 蛍は一応左右を確認してからホームから線路に降りる。

 

 電車が来そうな気配はないが、今みたいなよっぽどな状況だったとしても、最低限の注意だけ怠るようなことはないようにと、燐に教わっていたから。

 

 やっぱり、燐の方が先生向きだろうと今でも思う。

 

 とても優しいし、はきはきとした喋り方は天職ではないかと思うほど。

 

 そのことを燐に言ってもやんわりと否定されてしまうが。

 

(でも、ちょっと、口うるさい先生になりそうだけどね)

 

 蛍はこっそりと微笑んでいた。

 

「あれっ?」

 

 滲んだ視界に何かが映り込む。

 

 蛍は目を細めてそれをじっと見つめた。

 

 ガラスのような四角い何かがプラットフォームに寄り添うようにたっていた。

 

 それはとても見覚えのあるデザインのものだったので、蛍は何の気もなしにそれに近づいていく。

 

 最近ではあまり見る機会のないものなのだが、よく使っていた駅のロータリーにも似たようなのが置いてあったから、それほど馴染みの無いものではなかった。

 

「やっぱりこれ、電話ボックスだ」

 

 四面を透明なガラスに囲まれている少しノスタルジックな長方形の箱には緑色の公衆電話が備えてあった。

 

 今のマンションの最寄りの駅にあるのはこちらのタイプだった。

 

 小平口駅(町が合併しても駅名に変更はない)にあるのは少し凝ったデザインのものになってるけど、その機能は変わっていない。

 

 電話を掛ける為だけのものが、何もないと思われていた駅舎の隣にひっそりと立っていたのだ。

 

 何にも気付かれることなく。

 

「まだ使えるのかな」

 

 蛍はとりあえず透明なドアを開けてみた。

 

 きぃ、と小さく音がしてドアが開く。

 

 きちんと取っ手がついていたから、電話ボックスを使った記憶が殆どなかった蛍でも簡単に開くことができた。

 

 中が見えているからそこまで緊張することもなかったわけだし。

 

 それに、思った通り箱の中身も見たまんまだった。

 

「あっ」

 

 扉を開けた途端、長い間使われていなかったようなすえた臭いが流れてきて、蛍は一瞬顔をしかめる。

 

 それはどこか懐かしいというか、よく実家の客室で嗅いだことのあるような、どこか湿った匂いだった。

 

 でも、別に害があるような感じはなかったので、蛍は少し重い電話機と同じ緑の受話器を手に取ってみる。

 

 お金を入れる場所がなかったから、繋がるどうか不安だったのだが。

 

 耳に当てた受話器からは通話を促す様な、ツーという音が聞こえてきたので、とりあえず電話をかけることはできそうだった。

 

 蛍は安堵の息を漏らすと、番号が記してあるボタンを押そうとする。

 

 一瞬、指が彷徨うような動きをみせたが、今の蛍の頭に思いついたのは番号はたった一つだけだったから。

 

「んっ……えいっ」

 

 迷った挙句、その電話番号のボタンを順番に押す。

 

 もう幾度となく掛けたダイヤルだったから蛍が間違えるようなことはない。

 

 その確信があったから後はもう迷いなんかはなかった。

 

 ちゃんと押し終えた蛍はほっと溜息をつくと、両手でぎゅっと受話器を握りしめる。

 

 呼び出しを待つ間、心臓はずっとドキドキと鳴りっぱなしになっていた。

 

 もしこの時、通話が成立していたら、この心臓の音が聞こえてしまうのではないかと気を揉んでしまうほど。

 

 だが、高鳴っていた鼓動は次第になりを潜めてしまう。

 

 いくら受話器の前で待っていても、向こうからの呼び出し音がなることもなく、静寂の時間がただ流れただけだった。

 

「やっぱり……ダメなんだ」

 

 蛍はそう言って苦笑いを浮かべると、元の場所に受話器をがしゃんと下ろした。

 

 どこかで分かっていたんだろうと思う。

 

 携帯がダメでもこの電話ならと。

 

 突破口なんてものはそう簡単に見つかるものではないんだ。

 

 それでも、まだ諦めてはない。

 

 まだ考えるだけの頭はあるんだし、想いはいつだって変わらない。

 そう信じているから。

 

 一歩先に進んだ気がした。

 その後がまだ見つからないというだけで。

 

「あれ……そういえば、なんか」

 

 言葉はそこで止まる。

 

 何かとても大切なことを忘れている。

 そんな気がする。 

 

 もうちょっとで何かの答えのようなのが生まれそうな気がするのだが。

 

 どうも思考が上手く回ってくれない。

 

 なんだっけ?

 ふいに耳の奥が痒くなってきて、余計にイライラが募ってきた。

 

 こんなとき耳かきでもあればと、蛍の思考が別の方向へ流れ始めた時。

 

 いつの間に開いていたのか、ポシェットからパラリと一枚の写真が透明な箱の床の上に落ちた。

 

 蛍はむっと眉を寄せながらそれを即座に拾い上げる。

 

 

 こんな時に?

 と、少しいらいらした仕草を見せながら。

 

 だが、すぐにその表情が変わった。

 

 そこには、これまでとは違った絵姿が違うフィルムに写されていたのだ。

 

 第三のフォトグラフ画像として。

 

「あっ!!」

 

 ようやく分かることができた。

 

 こんな何でもない事が何故今まで頭に浮かんでこなかったのか。

 

 それはとても単純なことだったのに。

 

 蛍はもう一度受話器を取ると、再度公衆電話のボタンを押し始める。

 

 先ほどよりももう少し早いスピードで銀色のボタンを急いで押した。

 

 それはそのはずであり。

 

 蛍が”一番最初に覚えた番号”だったから。

 

 意識なんかしなくとも身体が勝手に覚えてくれていた。

 

 最近はあまりかける機会のない、()()()()()()を。

 

 家と言っても燐と二人で住んでいるマンションの固定電話ではない。

 

 三間坂の、まだ蛍の家に電話を掛けたのだ。

 

 それは、もしかしたらという願望と、新たな写真の画像を結び付けた結果であり。

 

 素早く電話をかけ終えた蛍は受話器を手に持ち、鳴るのを再び待った。

 

 ……

 ……

 ……

 

 やっぱり、電話は壊れているのだろうか。

 

 いつまでたっても音が受話器から返ってこない。

 

 ……苦痛な時間に耐えられなくなったのか、蛍の細い足がもじもじとし出した。

 

 さっきから電話の前で一喜一憂している自分がとても滑稽にすら感じる。

 

 自分でも、無意味なことをしているとは思う。

 

 それでも何かをせずにはいられなかった。

 

 写真から得たヒントはこれだけだったのだし。

 

 今は待つことしかできない。

 

 それに、無為な時間なんてものはこの先いくらでもありそうなのだから。

 

(せめて今ぐらいは……)

 

 微かな希望に縋ってみたい。

 

 例えこれに意味がなくとも、せめて思い出ぐらいにはなりそうだから。

 

 またも蛍が諦めかけたその時。

 

 トゥルルルル……トゥルルルル……。

 

「えっ!!」

 

 蛍は咄嗟に大きく開いた自分の口を手で抑え込んでいた。

 

 もちろん意味のない行為だったが、それほどまでに驚き、目を大きく見開いている。

 

 これまで反応のなかった受話器から電話の呼び出し音が鳴っていた。

 

 まるで初めて聞いた音みたいに、その電子音は蛍の耳朶に音叉のように何度も響き渡っていた。

 

 蛍は手で押さえた口をそれでもあんぐりと開けて、状況をじっと見守っていた。

 

 でも。

 

 この電話を誰が取ってくれるのだろう。

 

 前は数人の家政婦さんが蛍の家にいた時もあったが、今あの家には誰かが来るようなことは滅多にない。

 

 それにもうすぐ郷土資料館として明け渡すことになっているから、余計に人の出入りは期待できなかった。

 

 電話だってもうすぐ止めてしまうことも決定してるし。

 

 だから、またこうして繋がったことは奇跡だったとしても、その後が続かないのではと、蛍は危惧していた。

 

 もし、僅かばかりの可能性があるとするのならば、やっぱり。

 

(燐、なんだろうか……?)

 

 燐は家の合鍵も持っていたことだし、もしあのまま家に残っていてくれれば、と。

 そう淡い期待を蛍は抱いていた。

 

 でも……蛍は燐の性格をよく知っている。

 

 携帯での通話が出来なくなったのは燐のほうも多分同じだろう。

 

 自分よりも行動的な燐のことだ、すぐにでもどこかへ助けを求めに行ったのかもしれない。

 

 燐の自宅のパン屋さんか或いは、あの変なことばかり起きた”ナナシ山”か。

 

 どちらにしても、電話がずっとなり続けているのに取らない所を見ると。

 

「やっぱり燐も、どこかに探しに行っちゃったのかな……」

 

 オオモト様のように。

 

 もしかしたら燐と、すれ違いになってしまったかもしれない。

 

 蛍は受話器を繋いでいる、蛇腹のように巻き付いた細いコードを指でくるくると弄ぶ。

 

 その仕草は、ここからずっと遠い場所の燐に向けてのメッセージのようだった。

 

 この、やるせない思いに早く気付いてほしい、と。

 

 当然、その思いが燐に届くことはないのだったが。

 

 このまま受話器の向こうからずっと音だけが延々と鳴り続けるだけのではないかと思われた。

 

 それでもいいとさえ蛍は思った。

 

 こうして音を鳴らしていれば向こうの世界との繋がりをわずかだがまだ感じることが出来る。

 

 燐か、他の誰かが鳴りやまない電話の音に気付いてくれる可能性だってあるかもしれない。

 留守電の設定もしていなかったし。

 

 誰かが取るか、こちらが切るまでは鳴り続けていることだろう。

 

 蛍はそれこそ永遠に待つつもりでいたのだったが。

 

 チン!

 

 小さなベルみたいな音が受話器の向こう側から響いた。

 

「……っ!!!」

 

 その音に蛍は受話器の前で叫び声をあげていた。

 

 声を限界まで抑えながら。

 

 誰かが、蛍の家の受話器を取ったのだと分かったから。

 

 だが、それは。

 

(一体、誰なんだろう……!?)

 

 取ったのは分かったが、肝心の”誰”が分からない。

 

 何故か無言のままだったから、お互いに。

 

 誰かに取ってもらいたくてたまらなかったはずなのに、取ったと分かった途端、急に声を潜めたくなった。

 

 矛盾した行動なんだろうけど、なんと声をかけたらいいのかが分からない。

 

 もしそれが燐だったのなら気軽に声を掛けるんだろうけど。

 

 相手の顔が見えないことがこれほどもどかしいとは思わなかった。

 

 携帯だったら登録しておいた相手の名前どころかその顔だってすぐに分かることができるのに。

 

 だから蛍は思い込むことにした。

 

 もっとも違和感のない仮定でもって。

 

(これは多分……燐、だ。燐ならこうして電話に出てくれるはずだし、いつもみたいに話せばいい。それだけのことなんだから……!)

 

 そう自分に言い聞かせているのに声が喉から出てくれない。

 

 透明な電話ボックスの中で汗ばむぐらいに受話器を握りしめているのに、乾ききってしまったように喉が張り付りついて動かない。

 

 息をすることさえ苦しくなるほどに。

 

 だが、このまま出方を待ち続けることはとても苦痛なことだったので、蛍は腹をくくって受話器の向こうの相手に話しかけることに決めた。

 

 燐がちょっとした意地悪をしているとも限らないし、それに。

 

(一応、まだわたしの家の電話なんだしね)

 

 そう思うと少し気が楽になったのか、がちがちだった蛍の表情が少し和らいでいった。

 

 蛍は受話器を手で押さえると、一旦息を吐く。

 

 息を吸い込んだ勢いで話しかけようと思っていたのだった。

 

 まずは定番の簡単な挨拶からと思っていたのだったが。

 

 その前に。

 

「……ねぇ」

 

 蛍の小さな心臓がどきりとなった。

 

 何かの声が受話器から聞こえてくる。

 

 それは女の声で尋ねるような口調だったのだが。

 

(だ、誰の声、だった……?)

 

 蛍はその声に聞き返すよりも先に言葉を発した”誰か”を予測していた。

 

 すぐに頭をフル回転させてみたのだが、それは分からなかった。

 

 ただ、燐でないことだけは分かる。

 それだけは絶対に間違いないのだが。

 

「……」

 

 折角、向こうから話しかけてくれたのにそれでも蛍はまだ口を開かずに、次の言葉を待った。

 

 何故そうしたのかは分からない。

 

 ただ、こちらからも話しかけてしまえば折角紡いだ細い接点が切れてしまう。

 

 そんな気がして。

 

 声をまだ出さなかった。

 

 緊張しすぎて、舌が上手く回りそうにないとも言えるけれど。

 

 ともかく。

 

 細心の注意を払うように、蛍は息づかいさえ聞こえないよう、少し受話器の位置を口元からずらして待つ。

 

 身じろぎすらも抑えるように身を強張らせながら。

 

 まだよく知らない、誰かの声を聞き洩らさないよう耳を傾けて。

 

 蛍はじっと待つ。

 また電話口から声が流れてくるのを──。

 

 燐ではない、誰かの声を

 

 待っていた。

 

 

 身を強張らせる蛍の前の電話機の上に一枚の写真が乗っていた。

 

 さっき落ちた写真で、とりあえずと上に置いたものだったが、そこには。

 

 ──蛍の家の廊下に以前飾ってあった、あの”変わった形のお面”が映っていた。

 

 もう処分したはずの面が何故かモノクロの写真に映り込み。

 

 そして、笑っているようにみえた。

 

 歪な、()()()()()顔を向けて。

 

 こちらを見ていた。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 






ゆるキャン△の聖地のひとつ、ほったらかし温泉に行こうかなーーーと思っていたのでしたが、全然違う方向にある、埼玉の昭和レトロな温泉、玉川温泉に何故か来てたわけなんですが──???

入口にオート三輪が置いてあったりして確かにレトロな佇まいでした。内装もレトロ感満載で、着物を着ていても違和感がないぐらいの昭和テイストでしたねー。年代の違いなのか個人的にはちょっと馴染みの薄いレトロ感でしたけれど。
そういえば何かめっちゃ色んな種類のサイダーが置いてありましたねー。全国のご当地サイダーを網羅しているのではと思うぐらいにー。あと、銭湯なんかではお馴染みの黄色のアヒルも色んなのがありました。もちろん湯舟の方にも浮かんでおりましたしねー。

で、肝心の温泉なのですが……温泉しかなかったーーーです、はい。サウナとかの箸休めみたいな施設は一切ないストロング温泉スタイルでしたねー。まあ、これが本来の温泉の形なんでしょうけれどももも。
泥のパックが無償で体験できるようでしたが、時間が早すぎてまだ利用出来なかったです……それはちょっと残念な感じだったです。
じゃあ、微妙かと聞かれるとそんなことはなくて、まあつるつる。温質がすっごくツルツルで、いい感じでした。
何か割と未知の体験だったかもしれない。まあそこまで温泉に詳しいわけではないのですけど。
それにどうやら源泉の温度が低いらしく、それを温めて温泉にしているらしいです。

土日だけやってる朝風呂が安いので行くならその時間帯がお薦めですねぇー。私もそれを狙って行ったのですが、微妙に時間が過ぎてしまい通常の料金でしたけどー。

風呂上がりに自販機で牛乳が売っているのはもう定番ですが、ここでは食堂みたいなところで輪切りにしたレモンを浮かべたレモン水が飲めたので、それで充分満足かなーと思いました。

こういう風変りな温泉もいいですけれど、いつかはちゃんと”ほったらかし温泉”の方にも行きたいですですねー。まあ結構遠いですけれども──。

ではではー。




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Knockin' On Heaven's Door

「はぁ……」

 小さく開けた口からもわっとした熱い息を吐きだす。
 
 ……何をしているんだろう、こんなところで。

 ハンカチで額を拭いながら、蛍はぼんやりとした思考で受話器を握りながらそんな些細なことを頭に浮かべていた。

(何か……さっきから暑い)

 脈打つたびに身体の内側からかっと汗が噴き出てくる。

 それなのに手足は氷のように冷たく、握りしめた受話器に張り付いているようで。

 蛍はまた、はぁと息を漏らした。

 照り付ける日差しはあるが、それに暑さを感じられない世界なのに、さっきからずっと暑くてたまらない。

 ぽかぽかではなく、かっかとする感じ。

 ガラス張りの植物園の中か、一人用の蒸し風呂(サウナ)にいるみたいに蒸し蒸しとした熱気を肌に感じる。

(サウナは苦手だから長く入っていられないのに……)

 でも、もしかしたらダイエットとかに効果がある?

 そんな事よりも、このままだと倒れてしまいそうになる。

 それぐらいこの中いると熱く感じる。

 青いドアの家ではこんな居心地の悪さを一切感じなかったのに。

(やっぱり、あれだよね……)

 狭く、閉鎖された空間がそうさせているのは分かっている。

 空調も窓もなく、ただ透明な板で仕切られているだけだから、どうしても熱はこもりっぱなしになる。

 ちょっとした隙間のようなものはあるとは思うが、そんなのでは役に立たないのだろう。

 じゃないとこの暑さは説明がつかない。

 ただ、立っているだけなのに汗がだらだらと噴き出してくる。

 一旦、外に出ればいいのだろうが。

(電話を切ったらもう、つながりそうにない気がする……)

 まだ繋がったままの電話のことが気がかりなのか、蛍は中々出ようとはしなかった。

 蛍が息を吐くたびに、箱の中の温度がどんどんと上昇していくように感じる。
 
 いくら拭っても流れる汗が止まってくれない。

(ちょっと、息苦しい……のかも……)

 すべすべとした額から冷たい汗が滴り落ちた。

 流石に限界が来たのか、透明な仕切り板に身体をもたせて少し楽な姿勢を取る。

 それでも火照った体までは癒せない。

 意識が朦朧となりそうになり、蛍は片手を突き、倒れ込まないようバランスを取った。

 ぐにゃっとした湿気が纏わりつく様な嫌な感じに、蛍はとうとう出入り口のドアを開ける。

「はぁぁ……」

 つい声を上げてしまっていた。

 風がない世界だから、ドアを開けたところで爽快感なんか感じることはないのに。

 それでもここちよい。

 抑制から解放されたみたいに、蛍の顔がぱあっと緩んだ。

(よかった。ちゃんと開くことができる)

 ドアが開くことでまだ外の景色と繋がっていることに安堵した。

 こんなところに閉じ込められたらと思うとぞっとする。

 こちらからは見えているのに、そこに辿り着くことが出来ないなんてことは、さすがに辛いことだから。

 一枚の透明なガラスで仕切られているだけなのに、外と内とではまるで違う世界のよう。

 初夏を閉じ込めたようなクリアな”青いドアの家の世界”とは違って、電話ボックスの箱の中はじめっとした、梅雨の日の夜の森のような閉塞感を感じる。

 まるで、人ひとりがすっぽりと収まる事のできる水槽か虫かごにでもいるような。

 やるせない気持ちになってしまう。

 透明な箱で区切られているだけなのに。

 ただそれだけで世界から孤立させられているように思えた。

 ただでさえ、自分達の知る世界とは違う場所にいるのに、さらに分けられてしまうだなんて。

 そう思うと急に不安になる。

 閉じ込められたりはしないだろうか。

(ええっと……)

 蛍は何かを探しているように、ドアの隙間から外を見やる。

 その視線は青い空の景色ではなく、ずっと下の方に注がれている。

「あっ」

 蛍は受話器を抑えながら小さく声をあげると、それに向かって手を伸ばした。

「うーん!」

 片足でドアを抑えているせいか思う様に手がとどかない。

 蛍は限界まで受話器の線を伸ばすと、ドアの近くにしゃがみ込んで手を限界まで伸ばした。

 ドアのすぐ近くにあった”それ”蛍の細い指が触れる。

 固そうな感触があったが、伸ばした指を手繰り寄せるように動かしてちょっとづつ手前へと運ぶようにした。

「はぁ、はぁ」

 変な体勢だからか、思う様に力が入らない。

 それでも諦めることなく指を動かす。

 ちょっとづつ、ちょっとづつ。

 蛍は心中で呟きながら五本の指を伸ばす。

 また変なことにしてるとは思ったが、ここまで来て止める気もなかった。

 結構な重さがあったので、最悪爪が剥がれてしまうのではないかと思ったが。

(や、やっと運べた……)

 苦労のかいがあり、何とか電話ボックスの中にまで引き寄せることに成功した。

 片手で持つには結構な重さがありそうなので、足を使って動かす。

 それを正面に向けた時、蛍は目を瞬かせた。

 それは想像していたものとは少し違っていたからだった。

(あれ? これって……)

 ちょうど良い、手ごろな大きさの石みたいに見えたから、万が一、閉じ込められないようにとドアストッパー代わりにと、必死になって拾おうとしたものだったが。

 石には違えなかったが。

(大きなかたつむり……”アンモナイト”だっけ。それの化石みたい)

 小さなかたつむりの殻ならこの世界でも落ちていたけど。

 アンモナイトの化石は流石に初めてだった。

 常識が少し違った世界だとは思ったが、三億年前の生命の痕跡がこんなところでそれも無造作に落ちているだなんて。

 蛍はそっと触れて見る。

 さっきまで割と雑に扱っていたのに、急に扱いが慎重になったことを我ながら少し可笑しく思ったが。

 蛍は愛おしそうにその化石を人撫ですると、スライド式のドアの隙間に手で押して置いた。

 ちょっと申し訳なく思ったが、これならこのちょっと不思議な電話ボックスの中に閉じ込められることもなさそうだ。

 蛍は隙間で頑張っている石に向かって軽く謝る。

「ごめんね。でも、あなたのお陰でわたしは安心することが出来るから」

 小声でそう言うとにこりと微笑む。

 何だか、久しぶりに笑った気がした。

「ふぅ……」

 蛍は少し開かれたドアの間から、始めて空気の匂いを嗅いだように、少し鼻を高く上げる。

 硝子越しに見える水平線の向こうから、夏の匂いを感じ取る。

 小さい頃よくプールに入る際に嗅いだ、塩素が反応した化学物質の匂い。

 もう戻らない夏の残影を、現実とは違う世界で感じる。

 蛍は軽く息を吐くと、幼い頃の思い出を全部飲み干すように瞼を閉じて深呼吸をする。

 閉じた瞼の裏側でその記憶は情景となって、この世界にあるはずのない涼しさを微かにでも確かに感じさせた。

 少しだけ熱さが和らいだような。

 そんな気持ちになった。

 ……
 ……

 蛍はまだ受話器と向かい合っていた。

 今でも、蛍の家の電話と繋がったままだったが相変わらず無言が続いている。

 でも、と思う。

 ”青いドアの家の世界”にこんなものがあったから、初めはとても不思議だった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()が置いてあったから。

 誰もいない小さな駅舎の横にあった、少し古い感じの電話ボックス。

 いつまでも夏が続いているような世界で、その電話ボックスは青と白の情景に自然と溶け込んでいた。

 その中でじっと待っている。

 ”誰か分からない相手”が話し出してくれるのを蛍は。

 唇を引き結びながら片手で受話器を持ち、もう片方の手に握られた小さな鏡をじっと覗き込んでいた。

(やっぱり、燐じゃないの?)

 向こうの世界を垣間見えることのできた鏡は相変わらず蛍の顔しか映さない。

 もう役に立たないと思ってももしかしたらと覗き込んでしまう。

 メイクも何もかも汗で崩れてしまった、酷い自分の顔が映っているだけなのに。

 実のところ、燐かどうかはすぐに判別がつかなかったのだ。

 たった一言しか声を聞けていないわけだし。

 ただ、妙に他人行儀な喋り方をしていたから、燐じゃないと思い込んでいただけで。

 確か、女の子のような感じの声色だったけど、その声に抑揚というか生気みたいなものを感じなかった。

 機械的という表現がしっくりくるような。

 だから、また鏡を覗き込んでしまう。

 この想いが燐にもう一度届いてくれれば、と淡い期待を込めて。

 でも、やっぱり鏡に変化はない。

 丸い鏡はもう燐の姿を写してはくれない。
 映るのは不安気に揺れる蛍の顔だけ。

 普通の鏡に戻ったことはもう分かっているのに。

(あっ、そういえば……)

 蛍は何を思ったのか、その鏡を例のドアストッパーと化したアンモナイトの化石へと向けて見ることにした。

 今、蛍以外で生命の痕跡のようなものが残っているのはこれだけだったから。

 蛍は何故かドキドキしながらドアに挟まれた哀れな化石に向けてその鏡面に映るよう鏡を傾ける。

 小さな丸い鏡の中には──。

 悠久の時を超えて、生前のアンモナイトの泳ぎ回る姿が映るようなことは当然なく。

 物言わぬ化石となったアンモナイトの殻の姿が映っているだけだった。

(まあ、何も起こるはずないよね)

 分かっていたことだけど。

 だが、そこでようやく蛍はこの鏡が本当に役目を終えたことを理解することができた。

 それともう一つ。

 後になって分かった事だが、”これ”は元の場所に戻してあげるべきだった。

 そうすれば”この子だけ”は無事で済んだはずなのに。

 ……
 ……
 ……

 結構無駄な時間を過ごした気がしたが。

 それでもまだ、電話は切れてはいない。

 それは気配というか、電話機の状態で分かる。

 もし切れていたら、それを指し示す電子音が受話器から鳴るはずだし。

 多分──向こうも待っている。

 どういうつもりかは分からないが、こちらの出方を窺っている。
 そんな予感がするのだ。

 だが、そこに何の意図があるのだろう。

 もしそれが悪戯じゃないとするならば。

「はぁ……」

(何でわたし、こんなわけの分からない相手の電話を待っているんだろう? 実家(いえ)の電話番号だったから何も考えないでかけちゃったけど)

 急に馬鹿らしく思えてきたというか。

(何か少し眠い……自分から電話をかけたのに)

 ドアを少し開けておいたお陰か少し心地よくなったのか、眠気が出て来ていた。

 このままだと立ったまま眠りそうになる。
 蛍は慌てて姿勢を正すと、ふわっと口から出てた欠伸をかみ殺した。

 ……やっぱり、電話を切るべきだろうか。

 誰か分からない相手なのだし。

 現実の世界との接点が欲しかったのは確かだ。

 その相手が燐だったらどんなに嬉しかったことだろう。
 きっと、携帯の時よりももっとずっと話し込んでただろうと思う。

 燐との間で話が尽きる何てことは今まで一度もなかったし。

 でも。

 これは違う。

 相手は燐などではなく、わけの分からない、素性の知れないものが自分の家の電話に出ている。

 そしてそれは、こちらの動向を窺う様に息を潜めて待っているのだ。

 見えない目で見つめながら、暗闇の中で舌なめずりしているように。

(でも……そっちがその気なら、わたしも)

 蛍は怪訝な顔で眉を寄せると、むっと口元を引き締めた。

 電話を切れば多分済む話だったのだが、何故か蛍はそれをせず、その得体の知れないものに張り合う様に沈黙を貫くことを決めた。

 もしこの場に燐がいたらどれほど呆れかえっていたことだろう。

『蛍ちゃんって、意外と負けず嫌いだよね』

 そう言っていたに違いない。

 それは自分でもそう思うから。

 自分では全くできないことはどうしようもないが、ある程度得意なもの、特に好きなものに対しては負けたくない想いがあった。

 自分の数少ない特技というか、個性だと思っているから。

 それすら負けたら自分という存在を否定している気がしてしまう。

 でも、今こうして電話口で黙り合っているのは違う気はしてる。

 そもそも、電話に限らず喋るのはそんなに得意でもないし、むしろ緊張してしまうほうだったから。

 だったら、なぜ今、張り合う様にしているのだろうか。

 それにはある程度の理由は思いつく。

(写真には、あの変なお面が映ってたし。それは”わたしの家”って意味だよね? だから家に電話してみたんだけど)

 耳に受話器をくっつけたまま、面が映っている写真を手に取ってみる。

 家の廊下を背景にして、あの歪な顔の面がセピア調に加工された状態で写真に映っていた。

 加工されたものじゃないにしても、これはどう見ても自分の家の廊下で撮ったものだ。

 誰が写したのだろう?
 なんて疑問はこの際どうでもよく。

 問題は、あの奇妙なお面はもう全て処分してしまったから、今の家の写真ではないことだ。
 
(だったら、過去の写真……?)

 異変が起こる前とか?

 それこそあり得ない話だったが。

 だが、この古ぼけた写真が本物の過去に取られたものなら辻褄があってしまう。
 
 だからこそ、いま家に電話をかけてみるという発想が浮かんだのだし。

(でも、何であのお面なんだろう? 他に家の特徴とかはなかったのかな)

 その疑問はある。

 家の外観とかならまだ良いが、何故、あのお面だったのだろうか。

 三間坂の家の過去に行われたことを知ってしまった今、もっとも見たくないものだというのに。

 あの歪な面を見ればすぐに分かるだろうということなんだろうか。

 でも、よりによってアレは。

(あのお面なんかはどうでもいい。実際はそんなことじゃなくて……)

 面の下に隠されていた……男たちの顔。

 その下の顔を実際に見たことはないし、見たくもないが、その顔を想像をすると身の毛がよだつ思いがする。

 本当に同じ人間なのかと思うほど。
 
 ()()は明らかに好意を楽しんでいる様に見えた。

 儀式の為なんかではなく、悪戯、享楽として。

 娯楽として少女をいたぶっていた。

 だから──本当に吐き気がする。

 そしてそんな連中と同じ姓だという事実にも。

 だからその姓を捨てようと思った。

 いきなり変えたりしたら燐や周りが混乱するだろうと思って、まずあの家から手放すつもりだったが、意外にも時間がかかってしまった。

 本当はすぐにでもすべきことだったのに。

(でも、皮肉だよね。捨てようと思ったものに助けられるようなことになるなんて)

 まだ、助けられるかは分からないが、この電話だけが向こうの世界との接点であるのは事実だ。

 そういった柵みたいなものを金繰りすててでも縋るしかないのかもしれない。

 泣き言なんてものは後からいくらでも出来るのだから。

(そうか、これがわたしの”選択”なんだ)

 何を捨てて何を得るのか。

 決定権は常に自分にあったんだ、ただ気づいていないだけで。

 後は、それを選び取るかどうかだけ。

「…………」

 蛍は受話器を口元に当てたまま複雑な顔をとった。

 そして、はぁっと息を吐くと、小さな唇を無理くり動かしてようやく蛍は最初の言葉を受話器に紡いだ。

 とても静かな声で。

 逃げ場なんてものはもう何処にだってないのだから。

「あなたは……いったい誰、なんですか?」

 ──
 ──
 ──

 どのぐらい待っただろう。

 向こうの世界にあるものとほぼ変わらない緑の公衆電話の受話器からは今だ返事が返ってはこなかった。

 透明な箱の中では、お預けを食らったように体を揺らす蛍の息遣いが静かに聞こえているだけだった。

(どうしてなにも言ってはこないんだろう……)

 最初は向こうから話しかけてきたはずだったのに、それなのにそれっきり返事がない。

 気に障るようなことを言った覚えはない。
 ちょっと返事を返すのが遅くなったというだけで。

 誰なのか知りたかったからそう聞いたというだけだった。

 口調も控えめにしたつもりだったけど。

 でも返事が返ってこないという事は

「……」

 蛍は頬に指を当てて考え込んでいたが、やはり何も頭には浮かんでこないようで首を傾げるほかなかった。

 もしかしたら──オオモト様かも。

 その考えが頭をよぎったことがあったが、その線は限りなく薄い。

 声色とかそういった雰囲気的なものが違う気がするから。

 もちろん燐だってそんな感じはない。

 ちょっとした意地悪でこういう事をする可能性は無きにしも非ずだけど、それだってこんなに長く気を持たせるようなことは絶対にしないと言い切れる。

 だから燐じゃないのは最初から分かっているのだが。

(じゃあ、いったい誰?)

 結局、この疑問に戻ってしまう。

 そもそもあれはヒトの声だったのだろうか。

 そんな疑問すら浮かんでしまうほど、もう頭が上手く回ってくれない。

 ドアは開いているから、息苦しさはそこまでないけど。

 だからこそもう一度、その声を聞いてみる必要があった。

 また声を聞けば何かが分かる。
 そんな気がするから。

 蛍はあの面が映った写真ではなく、ひとりの女性の映っている肖像画のような写真を手に取る。

 燐でもオオモト様でもないとすると。

(やっぱり、この人なのかな? だとしたら……)

 だが、蛍はこの人に見覚えがない。

 自分の母親かもと一瞬思ったが、その答えに自信がなかった。

 確証もなければそれを示す根拠もないのだから当然だけど。

 顔立ちなんてものは自分では良く分からないものだし……例えば誰か、燐でも隣にいてくれたら判断してくれるのかもしれないが。

 鏡に写した自分と見比べても良くは分からない。

 ──認めたくないだけかもしれないが。

 自分と、”この人”との繋がりを。

 できれば何の繋がりのない他人ならいいと思っている。

 何故そう思うのかはわからない。

 ただ、この写真をずっと眺めているとまた不思議と泣き出しそうな気持ちに囚われてしまうのだ。

 言いようのない物悲しさがこのフォトグラフにはあったから。

 映っている女の子は普通に微笑んでいるだけなのに。

 蛍は何ともなしにため息をつくと、少し視線を遠くにした。

 パッチワークされたような高い雲が青い空にゆっくりと流れる。

 一体どこに行くのだろうか、あの雲は。

 風の吹かない世界でどこまでいくのか。

 その行方はきっと誰もしらないだろう。

 だって。
 知る必要のないことだし。

(そう、今、一番知りたいことは)

 蛍は軽く咳ばらいをすると、もう一度受話器に向かって話しかけようと思った。

 相手が誰であれそうすることしか出来ないのだし。
 その為の公衆電話なんだと思うから。

 正直言うと、この際もう誰だってよかった。

 向こうの状況は今どうなっているのか。

 燐やあの町がどうなっているのかさえ分かればそれで。

(でも、やっぱり、ちょっと怖い……)

 蛍は小さな唇を強張らせる。

 本当に怖いのは得体の知れない受話器の向こう側なんかではない。

 燐が隣にいないということ。

 それがとても怖いんだ。

 一体燐は、何を見て自分が一人でも大丈夫だと思ったんだろう?

 こんなに膝ががくがくと震えているのに。
 心臓が飛び出しそうなぐらい怯えているというのに。

(大丈夫! 燐にはすぐに会える。だから今はもうちょっとだけ頑張るしかないんだ)

 自身に言い聞かせるように胸中で何度も言葉を紡ぐと、蛍は再び口を開く。

 微かに唇は震えていたが、構わずに喉から声を絞り出した。

 この言葉が燐へと繋がるものになればいいなとの想いを込めて話す。

 そのつもりだったのだが。

「あの……えっ?」

 勢い込んで話したはずの蛍の言葉はそこで止まった。

 だが、止まったのはそれだけはない。

 思考も停止したように固まっている。

 ある一点を凝視しながら。

 蛍は今、言葉を投げたばかりの受話器を見つめていた。

 正確にはその無数に開けられた小さな黒い穴を。

 そこから穴と同じ黒いものがにゅっと伸びていたのだ。

 その穴は、そんなことをするのものではない──。

 そう分かっているのに口から言葉が出ない。

 こんなことをしている暇があるなら今にでも逃げた方がいい。

 そう分かっているのに。

 片時も体が動いてくれないのだ。

 何かの重力に引かれているみたいに。

 ()()()はどんどんどんどんと勝手に穴から出てくる。

 しゅるしゅると嫌な音を立てて。

 それは黒い糸。

 もしくは、触手。

 それはあまりにもおぞましい光景だった。

「あ……あ……」

 蛍はパニックで呻き声しか上げることができない。

 その白い手からからんと受話器が抜け落ちる。

 だらりと受話器はコードに垂れ下がったまま、それでもその黒いひも状のものは後から後から伸び出てくる。

 まるで何かの生き物のようににゅるにゅるとのたうち回りながら。

 それも一つの穴だけではなく、他の全ての穴からも出てきている。

 蛍はその異様な光景を呆然と見ながら、夏に好まれるあの食べ物のことを迂闊にも思い出してしまい気分が悪くなった。

 そういう類のものではない。

 そう、これはあの異変の時と同じだ!

(──っ!? すぐに逃げなきゃ!!!)

 そいつが足元の床にまで垂れ落ちてからようやく蛍は思考を回復することが出来たようで崩れかけた体を伸ばす。

 これが何なのかは分からない。
 分かりたくもない。

 けど、今は逃げることだ。

 それしか頭になかった。

 蛍は勢いよくドアを手で押し開ける。

 この為という訳ではなかったが、石をドアの隙間に噛ませていたから容易に出れるはずだ。

 蛍はくるりと身を翻すと外に飛び出す……そのはずだった。

「えっ、嘘っ! なんでっ!?」

 蛍がいくら力強く透明なドアを押してもびくともしない。

 何もなくとも簡単に開けられるはずなのに。

 もしかして、ドアを間違えた?
 ううん、そんなことはない。

 だってドアストッパー代わりのアンモナイトの化石を置いておいたのだから。

 蛍は急いで周りを見渡す。

 わざわざそんな事をしなくてもすぐに見つけられる大きさの代物なのだが。

「えっ……」

 それは蛍のすぐ真下にあった。

 無残にも粉々に砕かれた状態で。

(な、何が起きている、の……)

 変わり果ててしまった化石の姿にかける言葉も見つからず呆然と蛍が立ち尽くしているその間にも、黒いひもは床を這いずり回りながら伸び出してくる。

 床の隙間からもソレは出て来ていた。

 それで犯人は分かった。

 だが、それで何かが出来るはずもなく、むしろあの細いものがそんな力を持っている事実にこ驚愕した。

 その内の一つが蛍の足首にまで絡みつこうと近づいてくる。

「いやあぁぁ! こんなのっ!!」

 蛍は顔面を青くしながら半ば半狂乱となって、ドアを叩きまくる。

 両手を使って四方を囲む透明な板を全て叩きまくっていた。

 けれども、開くドアはひとつとしてない。

 蛍ははっと気づく。

 ここは外でありながら密室であり、そしてそこに閉じ込められてしまったのだと。

 まさかこんなことになるなんて。
 後悔が、蛍を呑み込もうとしていた。

 そもそも何でこの場所に入ってしまったのだろう。

 こんなのを見つけなければ。

「そうだ! あの写真……!」

 細い指を震わせながらポシェットから他の写真を取り出す。

(まだ一枚はピンボケのままだったはず! だったら何かが……)

 藁にも縋る思いで最後の写真を見た。

 だがそこには。

「うそ……」

 目の前のもの全てが信じられなかった。

 取り出した写真はピンボケどころかこれは。

 しかもそれは最後の写真だけではない。
 他の写真も全て。

「なんでっ? なんで全部、真っ黒けになっているの!?」

 まるでたちの悪い魔法にでもかかったみたいに、蛍の手にしていた写真は、全てインクで塗りつぶされたように黒くなっていた。

 それは、箱の内側全てを呑み込もうとする勢いで湧き出てくる触手と同じ、黒一色の、何の意味も持たない存在そのものに。

 きゅるきゅるきゅる。

 耳障りな音を立てながら、ソレはひっきりなしに這い出てくる。
 
 受話器の穴という穴からだけでなく、電話機の僅かな隙間からも黒い線のようなものをにゅるにゅると吐き出していた。

 タールで濁らせたような黒い水のシャワーがどぼどぼと零れでて、透明な箱の中を徐々に黒で満たしていく。

 もっともそれは水なんかではなく、何か得体の知れない化け物のようだけれど。

「ああぁ……り、燐……燐ーっ!!!!」

 蛍は力の限りに叫ぶ。

 声が枯れるまで何度でも強く燐の名を呼んだ。

 だが、その声が届くことはない。

 ここではない世界に居る燐には蛍がいくら叫び声をあげてもその慟哭は届かなかった。

「はぁ、はぁ、いや……」

 全身を振り絞って叫んだ代償なのか、蛍はその場に崩れ落ちてしまう。

 まるで、恐怖が蛍の全身を支配しているかのように。

 それなのに、蛍の大きな瞳だけは忙しなく動いている。

 何処を見たって同じ黒。

 黒しかないのに。

 身の毛のよだつような光景がうぞうぞと目の前で繰り広げられているのに、蛍は片時も目が放せないのか食い入るように見つめていた。

 もう諦めてしまったのか、四肢はだらんと投げ出されたまま、壁に寄りかかっている。

 逃げ道などどこにもない中、蛍はどこからでもあふれ出てくる黒の洪水が溢れるる様をただだた眺めていた。

 ぬめぬめとした黒いモノがずるずると這い出てくるだけの凄惨な悪夢の続きが透明な容器の中で映し出されようとしている。

「あっ、ああ……」

 もう言葉が形を作ってくれない。

 透明な景色はみんなどす黒い色に染まってしまった。

 床も天井も周りの壁もみんな黒に塗り替えられていく。

 絶対的な、黒一色に蹂躙されていた。

 もう見えなくなった景色に悲しんでいると、黒い沼となった床から触手が伸びる。

 蛍は不意を突かれる形になって、絞り出すように叫んだ。

「いやああぁぁっ!!」

 まず初めに蛍の両足が黒いものに捉えられた。

 藻掻こうとバタバタと動かした脚が太ももまでぎゅっと締め上げられる。

「いっ、たい……ぎいぃぃ!」

 蛍は肉が裂けるのではないかと思った。

 きつく締め上げる触手を振り解こうとした両腕にもすぐさま別の触手が絡みつく。

 腕のあたりに鋭い痛みを感じた蛍がすぐに振り解こうしたのだったが。

(えっ?)

 そのままふわっと身体が持ち上がったと思うと、なすすべもなく天井へと吊り下げられてしまった。

「嫌だっ! 下ろしてっ!」

 蛍がバタバタと体を動かそうとしても、その脚も手も絡めとられてしまい、一切身動きが取れない。

 とても強い力で持ち上げられているのか、蛍がどう頑張っても黒い触手はその一本と手振り解けなかった。

 それどころか、床や天井から伸びた触手はその数を増やしていき、その全てが蛍を狙っているようで。

 今や蛍は、狭いガラスの中で張り付けになっていた。

 どう抵抗しても振り解けない。

 吊り下げられた両腕が手の付け根あたりから血の気を失っていくように青ざめていく。

 痛みと混乱で頭がぐちゃぐちゃになっていく。

 これからどうなってしまうのだろうか。
 
 何一つ掴めない中で、今がとても危険な状態であることだけは分かる。

 そしてもう、どうにもならないということにも。
 
 哀れで、とても惨めな自分の姿に蛍はすすり泣く。

 何でもっと早く気付かなかったのだろう。

 ドアを開けられた時にすぐに出るべきだったのに。

 蛍の頭の中が後悔でいっぱいになる。

 もう戻らないことを思い描いてもどうにもならないのに。

 だが、それでもまだ物足りないのか、黒いソレは無慈悲にも蛍の急所にその手を伸ばした。

 ひゅっとした音が耳に聞こえたと思うと、蛍の白い首に細黒い触手が巻き付けられた。

「ぐぎっ!?」

 一瞬、何が起こったか分からず、蛍は呼吸を止められ、その可憐な唇から想像もできない異様な音を掻き漏らした。

 ガラス張りの籠に閉じ込められた哀れな小鳥は、その得体のしれない化け物に襲われるのをただ待つだけ。

 透明な籠の中が黒になるのを待っているだけとなった。

 その末路とは。

「はぐっ、はぁっ」

 気道を締め付けられる苦しみに蛍は喘ぎ声を漏らす。

 それでも懸命に息を吸い、吐く。

「がっ、あっ……あ」

 せめてこの首に巻き付けられたものを解いて欲しい。

 そう懇願したかったが、声どころか息すらもまとも出来ない状態になってしまった。

 ただこの苦しみから逃れたい。

 思考が白く途切れそうになる。

 それでもまだ辛うじて意識を保っているのか、息も絶え絶えに蛍は目だけを動かして吊るされて、無様にも宙ぶらりんにされた足元を見る。

 下には散り散りになったかたつむりの先祖の破片が小石のように散らばっていた。

 とても可哀そうなことをしてしまったと思う。

 だがそれらもじきに黒い沼の中へと飲まれるのだろう。

 自分と同じように。

 ──綺麗な世界だから大丈夫だと油断しきってしまっていた。

 もう、何をしても遅いのだろう。

 蛍ちゃんはもうちょっと疑った方がいいと、よく燐に言われたっけ。

 自身への後悔と嫌悪の黒い渦に呑み込まれそうになった蛍がようやく分かったことは。

(もしかして、これって……髪の毛!? でもっ)

 それは一体、だれ……の?
 
 蛍がそれについて考えるその直前に。

「……っ!!!!」

 透明だった箱が夜のように真っ暗になった。

 青と白しか存在しない世界で。


 そこだけが黒で見えなくなっていた。
 
 ──
 ──
 ──






 

(何だろ? さっきから何かが漂ってきてる)

 

 最初にそれに気付いた時は、何かのゴミか粉が飛んで来ていると思った。

 

 ほんの少し前に燐がその異変に気付いた時にはもう既に遅く、辺りは帳が降りたように薄暗くなり、霧のようなものに包まれていた。

 

 異常を感じた燐は立ち止まると、緑のトンネルの中を見渡した。

 

「何なの、これ」

 

 周囲が煙を焚いたみたいに黒い霧に包まれている。

 

 これでは先を見通せることが出来ない。

 

 それどころか自身も黒い煙に包まれてしまいそうになる。

 

 黒い煙はトンネルの上の方にまで濛々と立ち込めていた。

 

 それまで割と順調に緑のトンネルの中を走っていただけに、これにはショックというか唖然としてしまう。

 

 どこまで行っても変わり映えするはずのないトンネルだったから、突然出てきた綿毛のようなふわりとした粒子に最初は物珍しさを感じていたが、それがトンネルの奥からいくつも漂ってくるので流石に戸惑ってしまった。

 

 しかもワタスゲのような白い種子ではなく、炭のように真っ黒な粒だったから。

 

 燐が困惑の目で見ている間にも、その黒いものが前だけでなく天上からも振り落ちてくる。

 まるで黒い雪が舞い落ちるようにひらひらと。

 

 だがそれらは地面に触れても雪のように消えるようなことは無く、むしろその形を保ったまま降り積もっていく。

 

 それは火山の噴火で巻き上げられた灰のように。

 

 どんどんと周り黒く染めていった。

 

 その数は侵食するように増えていき、みるみるうちに周囲の葉や枝を隠すほどにまでになっていく。

 

 今や燐の周囲は緑の壁だけでなく、下草やそれに覆われていた古い線路も黒い灰で覆い尽くされていた。

 

 終末を描いた映画のように、景色が色を失っていく。

 

 それはもちろん燐の髪や服にも纏わりついてくる。

 

「嫌っ、もう!」

 

 燐は髪どころか鼻の頭にまで落ちてきた黒い埃を手で払い落す。

 

 このままここに居たら自身の輪郭さえ黒い粒子の中に埋もれてしまうだろう。

 

 その事を想像して燐は首をぶんぶんと振るった。

 

 だが、雨さえも遮ることのできた緑のトンネルなのに、なぜこれらは落ちてこられるのだろう。

 

 ふと疑問に思った燐が天井を覆っていた葉や枝をつぶさに見つめる。

 

 どこか隙間でもあるのだろうかと。

 

「あっ!」

 

 暗くてよく分からなかったのでペンライトで照らしてみて良く分かった。

 

 これの正体が一体何なのかを。

 

「緑のトンネルが……崩れていってる」

 

 天井の葉や枝がぼろぼろと崩れていき、それが黒い粉となってゆらゆらと落ちてくる瞬間を燐は確かに見た。

 

 それは、枝葉を腐らす木の病気に罹ったみたいに色褪せた葉が枝が腐食しながら落ちて来ていた。

 

 何故こうなったのかは分からないが。

 

(とにかく、いつまでもここに居たら危ないってことは分かる)

 

 だが、それらが天井だけでなく、前方からも振ってくるというのは……。

 

「マズい!」

 

 燐は短く叫ぶと、ペンライトを持ち替えて前方を照らす。

 

 思った通り黒い粉が霧のように立ち込めてその光が奥まで届くのを遮っていた。

 

 深淵のように闇が濃くなりすぎたせいというよりも。

 

「このままだと、道が無くなる!?」

 

 緑のトンネルが無くなれば空が開けて見通しが良くなる、という話ではない。

 

(ここは向こうの世界を繋ぐトンネルだから……)

 

 もしこのトンネルが無くなれば帰れなくなる。

 

 自分たちの知る世界どころか、青いドアの家の世界にすらも辿り着けないだろう。

 

 燐はもしやと思い後ろを振り返る。

 

 これまで進んできたはずのレールが闇の中に消えていた。

 

 鬱陶しそうにしていただけの燐の表情が徐々に険しくなる。

 

 退路を絶たれた以上、もう周囲を窺う必要はない。

 

 抜け道のようなものはこのトンネルには無いのだし、闇はもうすぐそばにまで迫ってきているのだから。 

 

「だったらその前にトンネルを出るしかない! そうなんだけど……」

 

 やることは分かっているはずのに、燐は逡巡するそぶりを見せた。

 

 いくら一本道のトンネルだとしても視界が遮られたまま進むのはあまりにも無謀な行為だというのを知っているから。

 

 燐はなまじ登山の経験がある分、これからとても危険なことをするのだと分かっていた。

 

 行く先の道が見通せないということは目隠しをされたまま当てもなく歩かされているのと同じようなもの。

 

 前にしか道がないのは分かっているが、視界が確保できないのはやっぱり怖い。

 

 目標とすべきものが見当たらないのだから。

 

 だからどうしたって躊躇ってしまう。

 

 だが、暗闇はその濃さを増しながら燐との距離を詰めてくる。

 

 それは得体の知れないものが燐を取り込もうとその黒い手を伸ばしてくるように。

 

 いくら手で払いのけてもその黒い靄が晴れることもなく、むしろさっきよりもより色濃くなってきているような気さえするからだ。

 

 それは霧というよりも無数の昆虫の群れか、視覚化されたノイズのようだった。

 

 以前、蛍と一緒に廃線跡のトンネルを通ったときにはこんなことに遭遇しなかった。

 ただ平坦な道が延々と続いているだけで。

 

 途中、白い顔の連中をぎっしりと乗せた列車や、無人の重機が邪魔をしたぐらいで。

 

 こんな形で足止めを食らうことになるなんて。

 

(でも……もう立ち止まってなんかいられない……!)

 

 過去じゃない。

 大事なのは今どうするかということなんだ。

 

(だったら、行くしかない!!)

 

 燐はすっとしゃがみ込むと、まだそこまで汚れきってないトレッキングシューズの靴ひもを緩みを確認する。

 

 まだ、大丈夫。

 

 これなら十分走ることはできる。

 

 後は自分がどこまで行けるかどうかの問題だった。

 

 湧いてくる黒い霧は、幸い白い顔の人達やヒヒとは違って、直接被害を与えてくるようなものじゃなさそうだし。

 

 少なくとも今は。

 

 身体に異常を感じることも今のところはない。

 

 一応、触った掌もライトでかざして見たけど、煤のような黒いものが肌に付着するような事もないみたいだったから。

 

 せいぜい視界を遮る程度のことなのか。

 

 楽観視しすぎているような気もするけど。

 

 燐は大きな息をひとつ吐くと、ペンライトを黒い霧に向けて照らした。

 

 丸い明かりが黒い壁に阻まれたみたいにぼんやりと浮かんでいる。

 

 先が見えないほどの漆黒の闇を目の前にして、燐はごくりと唾を飲んだ。

 

 それでも、転ばない程度に足元を照らすことぐらいは出来そうだった。

 

 急いで走り抜けたいのはやまやまだったが、それにはまだ危険だと判断したのか、燐はペンライトで足元を照らしながらゆっくりと闇の中に足を入れていく。

 

(すごく怖い……けど、進むしか他にないんだよね……)

 

 思考が少し後ろ向きになってしまう。

 

 レールはまだ──続いているから。

 

 そんな言い訳をしてでも、体を前に動かしたいのだが。

 

 これは……体内に入れても大丈夫なものなんだろうか?

 

 進むべき意義の前にまずそちらの方が気にかかるのか、燐は流れてくる黒い胞子に難色を示す。

 

 霧だとは思うが、その色のせいか人体に無害とはとても思えなかった。

 

(何にしても良い気はしないよ……)

 

 燐はとりあえず口にタオルを当てることにした。

 

 これでどこまで防げるのかは分からないが何もしないで黒い霧の中を歩くよりかはずっとましだ。

 

 輪郭すら失いそうになる黒い闇の中で、ねっとりとしたおぞましいナニカが蠢いたような、そんな気配のようなものを布に包まれた肌越しに感じて、燐は思わずぞわりとなった。

 

 ……

 ……

 ……

 

(本当に……光の無い世界みたい……)

 

 黒い世界に浮かぶのは自分の小さな体と、ゆらゆらと足元を照らすLEDの頼りなげな明かりだけ。

 

 それは夜というよりも、深淵。

 

 もともと暗い緑の葉で出来たトンネルに、違う性質の黒いグラデーションをかけたような。

 

 一粒の光さえ一切通さない真っ暗な世界になってしまった。

 

 燐の着ている白い装束的な衣装は、まるで黒い布にパッチワークされたように真っ黒な装飾になっていることだろう。

 

 このトンネルはどこまでもってくれるのだろうか。

 

 金属製のレールはまだ続いている。

 その殆どが黒い粉で覆われているけど。

 

 ざっ、ざっ。

 

 靴で踏みしめる度に乾いた音が鳴る。

 

 やはりこれは黒い灰なのだろうか。

 時折、視界の上にも黒いものが乗っかり、慌ててそれを払いのけているけど。

 

(火山灰とか経験したことがないから、よく分からないけど)

 

 実際のものは結構な重さもあるらしいし、万が一吸入でもしたら人体に重大な影響を与えてしまう事もあるとか。

 

 本当だったら相当に怖いことだ。

 それでも歩くことを止めないのだから自分も相当なものだとは思うけど。

 

 周りが黒いから今自分がどういう状態か分からないし。

 

 どこをどう歩いていることすらも分からなくなる。

 

 何も見えない世界をただ歩いている。

 

 唯一の目印は頼りなげなライトが照らすレールの一本だけ。

 

 怖いけど……。

 

(きっと、出口はある……そう思うしかない)

 

 トンネルの出口は当然まだ見えてはこない。

 

 そもそもそんなものは本当にあるのか。

 この黒い霧のせいか、トンネルの奥に見えていた小さな光すら見えなくなっていた。

 

 でも、と燐は思う。

 

 これは完全に直感だが、もう少し行けば何か分かる。

 

 出口じゃないにせよ、今までとは違う、”なにか”が待っているのではと思っていた。

 

 望んでいるものかどうかは別にしても。

 

 どのみち行くしか他ないのだから。

 

 燐はさっきよりも少し歩幅を大きくしてトンネルの中を歩く。

 

 暗くて不気味なのは確かだが、道はやはり一直線だ。

 

 いくら目を見開こうとも何も見えないが確実に進んではいる。

 

 体力はまだ十分にあるが、このままのペースだと多分気持ちの方が折れそうになる。

 

 一本道だから迷うことは無いのだけれど、ゆっくりとしてる余裕もそんなにない。

 

 トンネルの崩壊が始まっているのなら尚更だ。

 

 燐はもうちょっとだけペースを上げようと少し早歩きをしようとしたのだが。

 

(あれ、足が……!?)

 

 なんか、重い。

 

 沼地に脚が嵌まったみたいに、思うように前へと出てはくれない。

 

 そんなもの、ライトで照らしたときには確認出来なかった。

 

(じゃあこれって一体……?)

 

 燐は靴の先の地面ではなく、少し前におろしたばかりのカーキ色のトレッキングシューズに向けてペンライトを照らした。

 

(……ひっ!?)

 

 思わず息を飲んでしまった。

 

 まだおろしたてのトレッキングシューズは黒の付着物がこびりついて、どす黒い見た目になっていたのだ。

 

 それに見た目だけじゃない、ごつごつとしたものが靴全体を覆っている。

 

 指で触ってみるとゴムみたいな粘着性の黒い粘り気が指にまで張り付いていた。

 

 もしこれが靴だけでなく、服や髪にまでついているとしたら……。

 

 嫌な想像をして燐はぞっと身を震わせた。

 

 一応髪の毛も恐る恐る触ってみたが、靴みたいな風にはなっていない気がする。

 

 来ていた服もまだ元の色のまんまだったし。

 

 それでも予備の雨具を持っていない事は失敗だった。

 パーカーじゃなくても傘ぐらいは入れて置くべきだったと、燐は今更に後悔した。

 

 でも、さっきまではこんな事になってはいなかった。

 

 色はあれなだけでひらひらと舞う姿は植物の胞子みたいにみえて、その情景をちょっと感慨深く見ていたのに。

 

 性質が変化した、とか。

 

 周りが真っ暗だから何が起きても分からなくなる。

 

 それに同じ黒でも違うものが紛れていたのという考えも出来る。

 

 現実に限りなく近い場所だが、それでも何かが起こる場所だとは思っているし。

 

 この山もトンネルも。

 

 少し何かが歪んでいる。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 燐はもう歩くことは止めて走っていた。

 

 一歩進むたびに重くなるような足を懸命に前へと動かす。

 

 ペンライトは靴の先をずっと照らし続けていたが、それすらも視界には入っていない。

 

 ただともかく、この異様なトンネルから出る事だけを願って走る。

 

 どこまで行っても闇しかないトンネルの中を。

 

 ……

 ………

 …………

 

 

(やっぱり、あれって出口!?)

 

 暗がりの中、ずっと走り続けていた燐がいよいよ体力の限界を感じたとき、それは割と近くにあった。

 

 消えたと思った光が暗闇の中に差し込んでいたのだ。

 

 その影響なのか徐々視界が戻りつつあった。

 

 急に霧が晴れたように黒い情景が少しずづカラフルになっていく。

 

 開けていく視界に確信を持った燐はそれに向かって思いっきり駆け出す。

 

(今度は何が……あるんだろう)

 

 燐は真っ黒になったタオルで口を抑えながら、出口で待っているであろう何かを考えていた。

 

 正直もう予想は出来ない。

 

 視界が戻ってくるにつれてトンネルの全貌が明らかになる。

 

 折り曲げられた木の幹と葉でできたトンネルは、枯れているというよりも壊れかけていた。

 

 緑の葉は全て黒い灰へと変化して、裸になった木々にはガラスのようなヒビが入っている。

 

 まるであの時の空のように、出来るはずのない亀裂が周りの背景をも巻き込んで刻まれていた。

 

 燐が進むたびにそれは飴細工のように根元からぼろぼろと崩れていく。

 

 まるで映画のワンシーンのように次から次に崩れ出した。

 

 だが、足元のレールだけは錆びついたまま、出口に向かって真っすぐと伸びている。

 

 そこが終わりであることを示しているように。

 

「やぁっ!!」

 

 燐は口を隠していたタオルを投げ捨てると、崩壊していく世界に巻き込まれていく前にトンネルの外へと飛び出した──。

 

 同時にガラスの割れたような大きな音がしてトンネルを支えていた木の壁が全て崩れ落ちた。

 

 その音は落雷が起きた時の音によく似ていた。

 

 蛍が居なくなったときに聞いた音に。

 

「はぁ、はぁ、ここは……?」

 

 燐は息を荒くしながら辺りを窺う。

 

 線路はここで終わっていた。

 

 背後で起きた轟音に燐は一瞬びくっと身を強張らせて振り返る。

 

 長い緑のトンネルは跡形も消えてなくなり、その下の古いレールだけが取り残されていた。

 

 何かとても大切なものを失ってしまったような気がしたが、燐は何も言わずに前に向き直る。

 

 トンネルの先にあったものは。

 

「ここ……でいいの?」

 

 既に夜の帳が降りていたが、そこまで暗くはない。

 

 周辺はは丸く木が切り払われ、広間のようになっていた。

 

 資材のようなものが置いてあるところをみると、森林伐採の時か工事か何かで使われていた所らしい。

 

 ただ違う所といえば。

 

「転車台は……やっぱりないみたい」

 

 軽くぐるっと見渡してみてもそれらしいものは見あらない。

 

 やはりあの時とは違っているようだった。

 

 代わりに見つけたものは。

 

「まさか、海!? なわけないよね……」

 

 いくら何でもそんなはずはない。

 

 けれども、とても大きな水溜まりが燐の視界いっぱいに広がっていた。

 

 その奥では何かの建造物が立っているようにみえるが。

 

「あれって何の建物なんだろ」

 

 水辺に隣接するように立っているように見えるその建物に向けて燐はペンライトを向けた。

 

 建物の周辺には橋のようなものもあり。そこには街灯もあるようだが、何故か明かりはついていない。

 

 遠目で分かりづらいが、しっかりとしたコンクリート製の建物のように見える。

 

 それが水溜まりとほぼ同じ高さにあった。

 

 水上に浮いている様にも見えるが、恐らくそうではないのだろう。

 

 むしろその一部が見えているだけ?

 

 何となく見覚えのある光景だったが、すぐに思い当たる節が出なかったのか燐はペンライトで周辺を照らしながら、その違和感について頭を捻る。

 

(……どこかで見たような記憶があるんだけど)

 

 それが上手く思い出せない。

 

 周辺は余りにも静かだからか、それこそ要塞みたいに思える。

 もしくは刑務所のようにも。

 

 コンクリートだけで構成されているように見えるし、遊びのない無骨なデザインをしていたから。 

 

 高い塀みたいなのは見当たらないけど。

 

「そういえば、今って夜なんだよね」

 

 今、気付いたように燐は視線を空へと向けた。

 

 ずっとトンネルの中にいたせいか久しぶりにちゃんとした空を見た気がする。

 

 周りが木々で囲まれているせいか、余計に星がはっきりと目に映った。

 

 その前で薄暗い雲が流れている。

 月はその影にいるのか姿が見当たらなかった。

 

「結局ここって何なんだろ? やっぱり何かの資材置き場なのかなぁ」

 

 線路は適当な所で切られたという感じはなく、これ以上列車が進まないよう鉄道用の車止めの標識がレールの最後に設置されているほどだった。

 

 切り開かれた場所には資材置かれているだけでなく、プレハブ小屋なんかも立っていた。

 

 あの時のような転車台こそないが、明らかな線路の終点の場所だった。

 

(ここに水溜まりがあって……でも、線路は終わってて……)

 

 燐は行き詰った思考をもとに戻すべく、腕を組んで考え始めた。

 

 ここが現実かどうか分からないにせよ、状況を整理する必要がある気がした。

 

 少なくともここに蛍ちゃんはいないわけだし。

 

 この先の方針を決める必要があった。

 

 行くか。

 戻るか。

 

 でもこれ以上、どこに行ったら良いのだろう。

 

 八方塞がりになったのか、燐は少し泣きそうな顔になっていた。

 

(どこに行ったんだろう蛍ちゃん。やっぱりここじゃないのかな)

 

 オオモト様はその方向を指していたけど。

 

 あまりにも大雑把すぎるからもしかしたら間違った可能性もある。

 

 かなりの時間を無駄にしてしまったのだろうか、燐は深いため息をつく。

 

 急に体の疲れを感じた燐は、汚れてしまった顔や手を洗おうと思って、水たまりの傍にまで近づいた。

 

 静かな水面には煤汚れの燐の顔が映っていた。

 

「ホント酷い顔、こんなんじゃ蛍ちゃんに合わせる顔なんかないよ」

 

 二重の意味でそう思う。

 

 水で洗って取れるものなのかは分からないけど、今すぐにでも汚れを落としたい。

 

 燐が水を掬いあげようと顔を覗き込んだ時、小さな雫がぽたりと水面に落ちた。

 

「もしかして、わたし……」

 

 燐は手で頬の辺りを触る。

 

 そのせいで余計に顔が汚れてしまったが、触れた所がその雫によって熱くなっていた。

 

(泣いてるんだ……情けなさすぎて)

 

 他人事のような思考で、自身の酷い有様に苦笑いする。

 

 本当に今日は何をしていたんだろう、顔をこんなに黒くしてまで。

 

 この場所に来たことに何の意味があるのか。

 

 このままこの池に飛び込んで、そのまま沈んでいった方が良いとすら思えてくる。

 

(でも、まって……池があって、建物がある……?)

 

 何かピンとくるものが浮かんだのか、燐はもう一度辺りを見渡してみる。

 

 山と水。

 

 そして、それに沿うように何かの建造物が立っている場所。

 

 これらが交わる所とは……。

 

「もしかして、ここって……”小平口ダム”!? でも何でこんなところに出ちゃったのっ!?」

 

 燐が水を掬おうとしたダム湖では小さな滴が波紋を広げながら夜空を煌びやかに映し込んでいた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「……ダムってこんなに静かな所なんだっけ? やっぱり夜だからなのかな」

 

 勝手に入り込んでいるのに結構な言い草だと思うが、放流とかもされていないし、今は雨も降っていないからこんなものなんだろう。

 

 それにしたってあまりにも人気がないというか。

 

(異変が起こった夜の時みたい……)

 

 燐は自分で想像したことにぶるりと体を震わせた。

 

 月のない夜だったからそう思ってしまうのも仕方がない。

 

 湖面の周りの木々からは騒がしい虫の声が聞こえてはいるが、それ以外は至って静かな夜だった。

 

 とりあえず燐はダム湖の畔にあった小径から要塞のように角ばったダム周辺の敷地の中へと足を進めていた。

 

 小平口ダムは発電用のダムも兼ねているのですぐ近くに発電所もある関係で容易には入れないはずなのだが。

 

 立ち入り禁止の硬い門はこの日に限って何故か開いていた。

 

 そのことが燐の中に余計な異常性を持たせていた。

 

 何故開いているのかというよりも、なぜその事を気付かないのかということの方が疑問だったのだ。

 

 中には監視カメラがいくつもあるはずなのに、何故か視られているという感覚がない。

 

 単に気のせいならそれでもいいのだが。

 

 普通にダム関係の人に怒られてしまうだろうけど。

 

 しかしそういった管理している人たちが出てくる様子も一向にない。

 

 燐が結構大胆にダムの中の敷地を無断で歩いているというのに。

 

 迷い込んだひとりの少女のことなど眼中にないみたいに。

 

 だからこそ余計にこう考えてしまう。

 

 やはり何かが起きているのではないのかと。

 

 電話で蛍には特に何も起きていないと言ったけど、今はどうだか分からない。

 

 あの日だって、乗ってきた電車が小平口駅に着くまでは普通の、何の変哲もない日なのだと思っていたのだから。

 

 状況が変化していくことなんて割と普通のことだし。

 

(だから、こうしてダムにまで入ってきちゃったんだよね、多分……)

 

 何かあるんじゃないかと思って忍び込んでしまった。

 もちろん、悪戯とかそういうことをする気はさらさらない。

 

 ただ、意味を持たせたかったんだと思う。

 

 きっと何かがある。

 

 そう願って。

 

 自分のやっていることを正当化するように燐は心中で言い訳を並べながら、ダムの外側を歩いていた。

 

 それでも周囲が気になるのか慎重に歩を進める。

 

 こつん、こつん。

 

 コンクリートを床を踏む燐の小さな靴音だけが、人気のない夜の世界に響き渡る。

 

「思わず入ってきちゃったけど……なんかちょっと落ち着く。振り出しに戻っちゃったのに」

 

 燐はくすっと苦笑いするが、これは言うまでもなく不法侵入そのものだ。

 

 だが、それでもここに来てよかったと燐は思っていた。

 

 ずっと緊張感で張り詰めていた心が解き解された気持ちになる。

 

 結果だけ見れば自分のやったことは何の意味もないことだった。

 

 何の成果も得られず、ただ闇雲に走り回っただけ──。

 

 それでもやるだけの事はやったのだから。

 

 素直に今の現状を受けとめるができる。

 

 蛍は、この世界には居ないという現実を。

 

「ごめんね、蛍ちゃん」

 

 そっと燐は呟く。

 

 ダムの天端の下に見える町を遠くに見ながら夜風に身体を晒す。

 

 水分を含んだ夜風が火照った身体にとても心地よかった。

 

 あの異変の時だってそうだったが、やはり自分は無力なんだと思い知った。

 

 何も出来ない癖に主張だけは一丁前に見せている。

 

 やっぱり今でも子供なんだと思う。

 

 思慮の浅い子供なのだと。

 

(でも、蛍ちゃんはそうじゃなかった。わたしとは違って)

 

 自分が居なくなった後、ずっとずっと探してくれていた。

 

 蛍はそのことを言わなかったが、多分相当辛い思いをさせてしまったのだと思う。

 

 唐突で、無責任で独りよがりな理由であんな別れ方をしたんだから。

 

 だからもし──今夜もう蛍に会えなくても、明日また探そうと思う。

 

 明後日も、その次の日だって。

 

 ずっと、ずっと。

 

 何処にだって探しに行くつもりだ。

 

 青い空のその上の世界なら、そこまで行くつもりだ。

 どんなことをしてでも。

 

「結局、骨折り損かあ、わたし何やってるんだろ」

 

 燐は呆れたような溜息を吐くとコンクリートで固められた硬いフェンスに腕を乗せて視線を下に向けた。

 

 ダム湖とは反対側の景色では黒一色の森の中で、小さな町の明かりがぼんやりと粒のように光っていた。

 

 ランプの火屋(ほや)を並べたようなミニマムで無邪気な灯りに燐は何ともいえない安心感と切なさを覚えて、燐はまた息を一つはく。

 

 今日は朝から慌ただしかったが、それがようやく終わるんだと思った。

 

 でも、たったひとり。

 

 そう思うとちょっと泣きそうになった。

 

「蛍ちゃん……どうしてるかな」

 

 現実感を覚えたことで少し安堵が生まれたのか、燐は何の気もなしに携帯を取り出していた。

 

 スマートフォンはもう蛍とは繋がらなくなってしまった。

 

 燐がどんなに願ったって”青いドアの家の世界”には行けなかったけれど。

 

 結局、取り残されるのはどちらか”ひとり”なんだ。

 

 やるせない思いをこねくり回すように黒い画面をたどたどしく指でなぞる。

 

 無駄な行為だというのは頭で分かってはいても指が勝手に動いていた。

 

 いつもしていたことだったからもう癖になっているのかもしれないが。

 

「……やっぱり通じない、よね」

 

 呼び出し音すらならない携帯を眺めて、燐は諦めの混じった吐息を吐く。

 

 やっぱり現実なんだ。

 

 こことは違う、別の世界に蛍が行ってしまったのは。

 

 たかが電話が繋がらないぐらいでと思うだろうが、そういう事ではなく。

 

 その事実が分かるのがこの携帯電話だったというだけのことだった。

 

「……痛っ!」

 

 燐は側頭部に手を当てる。

 

 何かが頭にぶつかったとかの記憶はない。

 転びなんかもしなかったし。

 

 だったら、疲労からくるものか。

 

「何か、全身が痛いかも……嫌だなぁ、何か”歳”みたいじゃん」

 

 実際、高校を卒業してからもう二年もたってしまっている。

 

 それに時間は分からないが、ほぼ半日ほど山の中を走り回っていたとは思う。

 

 前はこれ以上、山とか走り回っていたような気がしたから、このぐらい平気だとおもっていたけど。

 

「やっぱり、ブランクがあるのかなぁ。確かに最近は運動量は全然落ちちゃってるし」

 

 そう言って燐は自分の二の腕の辺りを軽く触っていた。

 

 だからか、駅やキャンパス内ではなるべく階段を利用するようにしているけど。

 

 それだけじゃやっぱり足りないらしい。

 

 やれやれと、燐が本当に疲れからくる深いため息をつこうとしたそのとき。

 

「!?」

 

 絶え間なく響く夏の虫の声に混じって、自分以外の誰かの足音を聞いた気がして燐は心臓が急にどきまぎと鳴った。

 

 こつり……こつり……。

 

 やっぱり、気のせいなんかじゃない!

 

 ”何か”が燐の方へとやってこようとしていた。

 

 燐は咄嗟に腰を屈めると、近くのコンクリートの柱の影にその小さな身を無理くりに隠した。

 

 急に激しく動いたから体中が痛みを訴えてくる。

 

 それでも息を殺して状況を見守っていた。

 

 燐は無機質な灰色の柱に背中をくっつける。

 

 冷たいコンクリートが火照った身体にちょうどよかった。

 

(やっぱり警備の人……なのかな……見つかっちゃったらきっと怒られるよね、やっぱり)

 

 ダム施設に勝手に入ったんだからそれは当然のことなんだろうけど。

 

 できれば穏便に済ませたいから見つかりたくはない。

 

 もっともここで見つからなかったとしても、監視カメラで見られている可能性が高いのだが。

 

(わたし、また、こんなことしてる)

 

 前に人身事故の様な形で電車を止めてしまったときもそうだったけど。

 

 何でこういうことばかりになってしまうのか。

 

 自分が原因なのだとしても。

 

 だからこそ良く分かる。

 

 特別な力なんかはない。

 

 自分は──”座敷童”なんかではないと。

 

 だって、こんなトラブルばかり起こす座敷童なんか聞いたことがない。

 

 普通は文字通り”座敷”で大人しくしているものだろうし。

 

(だったらわたしは、どうしたら幸せに出来るんだろう)

 

 幸せとは、もちろん自分のことじゃない。

 

 周りの人、でももっとピンポイントな事だけを示していた。

 

(こんなことで蛍ちゃんをしあわせに出来るのかな)

 

 実際に何も達成できていない自分が情けなくなる。

 

 何も出来ていないばかりか、更なる迷惑をかけようとしているなんて。

 

 自分の行動理念に疑問をいだいてしまう。

 

 実は、何もしない方が良かったのではないのかと今更ながらそう疑ってしまうほどに。

 

(でも、こういう一方通行な想いはダメなんだよね。蛍ちゃんを幸せにする、じゃなくて。わたしも”蛍ちゃんと一緒に幸せにならないと”だよね)

 

 どっちみち出来ていないから、言い換えたって同じなのだが。

 

 叶わない願いに燐が蹲りながら懊悩(おうのう)としている間にも、それは真っすぐにこちらに近づいてきていた。

 

 少しふらふらとした動きで歩いているのか、燐のいる所までとても長い時間を感じる。

 

(早く通り過ぎちゃってよぉ! そして出来れば見つけないで欲しい!)

 

 自分勝手な願いだと思うが、それでもそう祈るしかなかった。

 

 そんな燐の頭上で急に明かりがさし込む。

 

 消えていた照明が点いたというわけではなく、雲間から白い月が顔を見せていた。

 

 月光が全てを照らす。

 

 それは柱に隠れていた少女の姿も赤裸々に暴いていた。

 

(このままじゃ絶対見つかっちゃう!)

 

 燐はぎょっとなったが、それでも動くことが出来ずにただじっと月と時間が流れ過ぎるの待っていた。

 

 足音が近づくたびに心臓が早鐘を鳴らす。

 

 いっそのこと、このまま飛び出して一目散に逃げようかなんて、そんな考えを胸中で模索していた。

 

 それだけで済めばいいが、警察とか呼ばれたらとても厄介なことになる。

 

(せっかくの大学生活が刑務所でぱあになるとか冗談じゃないよ、ほんと)

 

 飛躍した考えを頭の中に浮かべていると、燐のもっとも近くを”それが”通り過ぎようとしていた。

 

 燐は恐る恐る柱の影からそっと覗き込む。

 

 別にみる必要はないのだが、それが何かを確認することで安堵したかった。

 

 あの白い人影であるかもしれないし。

 

 だが、燐がその”靴”を一目見た瞬間、ハッとなって限界まで目を見開いた。

 

(この、靴って……!)

 

 それは良く知っているトレッキングシューズ。

 

 今、燐が履いているものと同じデザインのものでそれの色とサイズ違いのもの。

 

 限定品とかそういった特別なものじゃなく、割と普通に買えるものだが。

 

 だが、燐が本当に驚いたのはその顔を見た時だった。

 

(…………!!??)

 

 月明りが照らすその人物の横顔を一目見た燐は、すぐさま物陰から飛び出した。

 

「ほ、蛍ちゃんだよねっ! どうしてこんなところに!?」

 

「えっ? あっ……燐……?」

 

 急に燐が出てきても蛍は特に驚いた表情を見せずに、可愛らしくちょこんと首を傾げた。

 

 まるで他人事みたいな仕草で。

 

 燐はその姿を改めて見る。

 

 式典の時の格好をしているし、それにどうみても蛍本人以外しか見えない。

 

 少し汚れているというか、髪がもつれているようにも見えるが……?

 

 そんな事はどうでもいいことで。

 

 燐だってそうなのだが、なぜこんな場所に蛍が一人でいたのだろう。

 青いドアの家の世界にいると言っていた蛍が。

 

 燐は蛍に尋ねる。

 

 初めて出会ったときのように少し言葉を選びながら。 

 

「えっと、”蛍ちゃん”だよね? ……その、本物の」

 

 とても失礼なことを聞いていると思ったが、それでも聞かずにはおられなかった。

 

 胸の中のもやもやがどんとんと膨らんでいくようだったから。

 

 蛍は不思議そうに首を傾げたが、すぐに答えた。

 

「うん? そうだけど……何か燐、変なこと聞くよね?」

 

 普通に蛍の声色だったので燐はほっと胸を撫で下ろす。

 

 いつもの蛍だと思ったから。

 

「ごめん~。ちょっとからかってみただけ。だって急に蛍ちゃんが出てきたんだもん」

 

「もう、急に出てきたのは燐の方でしょ」

 

 そう蛍に返され、燐は誤魔化すように苦笑いを浮かべた。

 

 二人はいつも通りのやり取りを交わす。

 

 ちょっと変わった所で再会することなんて、青いドアの家の世界の世界や、あの不思議な緑のトンネルでのことに比べたら全然大したことない。

 

 そう思っているのに。

 

(何でわたし、まだ蛍ちゃんのことを疑っているんだろ。目の前にいるのは”蛍ちゃん”なんだよ!)

 

 そう思っているのになぜ、胸の中で不安が募っていくのか。

 

 蛍のことは誰よりも良く知っているはずなのに。

 

 無事に戻ってきてくれてとても嬉しいはずなのに。

 

「燐。今日も月も綺麗だね。まるで燐みたいに真っ白で、ピカピカしてる」

 

「えっ? あ、うん」

 

 無邪気に微笑みながら蛍は視線を空に向けた。

 

 その実在が確かなように白い月は冷たい光を発したまま何も言わずに浮かんでいる。

 

 燐は蛍の問いかけに上手く答えることが出来ずに口を開けたままになった。

 

「どうかしたの、燐。何かさっきからちょっと様子が変な気がするけど……」

 

 少し怪訝な顔をした蛍が顔を覗き込む。

 

 吸い込まれそうな蛍の瞳には一切の澱みなどは見受けられない。

 

 本当に綺麗だった。

 

 不自然なぐらいに。

 

「……かもね。ちょっと疲れちゃったのかも。ほら靴、こんなに泥だらけになっちゃってる」

 

 燐はこれ見よがしに履いているトレッキングシューズを指さす。

 

 洗う間もなかったのか靴は未だに黒い塊がこびりついていた。

 

 蛍はそれを見てくすくすと笑った。

 

「何か、泥遊びした後の子供みたい」

 

「あはは、それは確かだね」

 

 顔ではそう笑っていたが、湧きあがる不安は拭い去れない。

 

 一体何を気にしているんだろう、わたしは。

 

「あっ、ごめんね蛍ちゃん。さっきは変なこと……いっ、くしゅん!」

 

 湖面からの風が涼を運んできたのか、燐がもう一度ちゃんと蛍に謝ろうとしたのだったが、途中で何故かくしゃみが出てしまった。

 

 恥ずかしさに燐の顔が真っ赤になる。

 

 それを見た蛍は一瞬きょとんとなったが。

 

 すぐに小さく笑って燐の両手を取った。

 

「燐、すごく疲れてるんでしょ。わたしなんかの為にずっと頑張ってくれたみたいだし。だからさ……もう帰ろう? こんなところに長くいたら本当に風邪ひいちゃうよ」

 

 蛍は心配そうに燐の顔を覗き込んでいる。

 

 気遣うようにかけられるその声色が燐の胸をちくりと刺す。

 

 それは一体何故なんだろう?

 

(わたしは今……一体()()いるの?)

 

 何もなかったみたいに手を握りながら真っ直ぐに燐を見つめる蛍。

 

 その手はいつもよりも少し冷たい感じがした。

 

 

 燐は問いかけるようにそっと夜空を振り仰ぐ。

 

 白い月が二人を照らし続けているだけで、何の答えなどなかった。

 

 確かに綺麗だった。

 

 本当に何も起こっていない夜、だったのなら。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 

 





▪つなキャン△ (ゆるキャン△ つなげるみんなのオールインワン!!)

つなキャン△ は始めスマホアプリ専用だと思ってたんですよー! でもリリース直前になってPC版があることを知って、何とか事前登録しましたよー!! で、もう二週間ほど遊ばせてもらいましたが……色々書こうと思いましたが、バージョンアップが結構頻繁に行われていまして、その都度プレイ感が結構変わるんですよねー。特に今の6月30日のバージョンアップは結構劇的に変化した気がします。

プレイしたての頃はアニメのOP再現凄いーとか、ストーリー1話分がアニメ見るのと変わらない長さでクォリティー高いなーとか思ったものだったんですが、流石にそれには慣れきってしまいましたねぇ。
今の所キャンプ場は4つですし、これからのアプリということでしょうかねぇ。まだ一月も立っていないですし。ただ何故かなでしこメインのキャンプがまだ無いのがちょっとだけ気になったり。
とか言ってたら、7月入ってすぐになでしこメインの海キャンプがーー!!常駐されるキャンプ場じゃなさそうですが、これで一応5人全員のメインキャンプが出そろいましたねー。

それに少し前まではプレイ時間を結構取られるアプリだったんですけど、これもバージョンアップで改善されましたねー。ただ、個人的に早送りは3段階制の方がいいかと思います。今の仕様ですととても早くてすぐに進みますが、隠しイベントなんかが起きても爆速で駆け抜けてしまいますしねぇ。
それと、自分の環境のせいなんでしょうか。PC版の高ボッチ高原とイーストウッドのキャンプ画面がバグって表示されるんですよねー。その辺りもいつか改善されるんでしょうかー。

さてさて、長々と書いて見ましたが、つなキャン△で一番ビックリしたことは……。

DMMのランチャーの中で、DL版”青い空のカミュ”と“ゆるキャン△”のアプリが並んで表示されていることですよーー!!! これはとても感慨深いことですっっ!! だって、二つの推しコンテンツがマイゲームの中で並んで表示されているのですよー!? これはもはや奇跡と言うほかないです!!

PC版をリリースしてくれてとても感謝しております。私的な理由が大きいのですがー。

そういえば今DMMのサマーセールで青い空のカミュDL版が8月の半ばまで3000円となってますよー!! 透明な初夏の寂しさとせつなさを感じられる、素敵なゲームですので未体験の方はこの際に是非是非~。他のKAIのゲームも大変お安くなっているようですー是非にー。

ではではでは。


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Micropterus


「澄み渡った良い夜だよね。そんなに蒸し暑くもないし」

 流石にここまで来れば大丈夫だろうと、少女たちは手を取り合いながら静まり返ったダム湖の岸辺をゆっくりと歩いていた。

 蛍は燐のすぐ隣で月を見上げながら、遠い国の話でもするみたいな口調で話していた。

「燐とこうして夜の森を歩いてると何か、秘密のデートをしているみたい。人気のない、ちょっとロマンチックな感じの所だし」

 夜のダム湖になんて人なんかそうそう居ないから、それがロマンチックだとするならばそうなのだろうが。

「蛍ちゃんにそう言われると、ちょっとドキドキするかも」

 燐も同じ気持ちでいるのか、蛍に向かって微笑む。

 そんな二人を見守るように、白い月がひたひたと静かに湖面に浮かんでいた。

 蛍と燐は思わぬ再会を喜び合う間もなく、ひっそりとした足取りで小平口ダムを後にしていた。

 誰にも見つからなかったから良かったものの、一歩間違えば間違いなく警察沙汰になっていたであろう。

 むやみやたらと入ってはいい場所ではなかったわけだし。

(でも、何で開いていたんだろ……)

 出入り口のゲートが開かれていることも不思議だったが、なぜそこに蛍も居たのかが分からない。

 分からないことだらけで頭がパンクしそうになるが、ただひとつはっきりとしている事があった。

 それは……。

 燐は横目で蛍の顔を窺おうとしたのだが、不意に蛍と目が合ってしまう。

 何となく気まずさを覚えて思わず目を逸らしてしまったのだが。

(何か、蛍ちゃんにちらちらと見られているような……?)

 注がれている視線が気になるのか、燐は顔を赤くして俯く。

 それでも蛍は燐のほうを見ていた。
 食い入るように。

「……」

 どうやら蛍は燐の手の辺りを見ているようだったが、そこに何があるのだろう。

 内心首を傾げてみたが思い当たる節が見あたらない。

 普段なら別に気にはならないのだが。

(何か、すっごく気になるぅ……! わたしの方が蛍ちゃんを気にしているはずだったのにぃ)

 どちらが先とは関係ない。

 ただ、燐の方が耐えられなかった。

「な、何かなー? わたしにどこか変な所あるのかなぁー?」

 燐は裏返ったような、わざとらしい喋り方で蛍に問いかける。

 これでは変どころか、不信にとられてもおかしくはない。

(うー、だって仕方ないもん。まだ気持ちの整理だって全然ついてないし)

 だが、燐の挙動には関心がないのか、蛍はしきりに燐の手の甲のあたりを見つめながら頭を捻っているようだった。

「あ、あのー、蛍ちゃん?」

 燐の再度の呼びかけにも応じることは無く、蛍はその一点だけを凝視している。

 すこし怖くなった燐がさっと手を隠すようにすると、それで何がが閃いたのか蛍はぱっと目を大きく見開いた。

 何か分からず唖然としている燐に、蛍は小さな口からようやくその答えを言った。

「あ、ねぇ。燐って、普通に時計してなかったっけ? 今は外しているみたいだけど……」

 あぁ、成程そういうことか。

 燐はようやく合点がいった。

 細かい所をよく見ているんだなぁと感心してしまう。

 何事かと少し身構えていた燐だったが、ほっと安堵の息をもらす。

 だが、思ってもみないことを蛍に聞かれ、燐はついばつの悪そうな顔をとっていた。

 でもすぐに苦笑いを浮かべる。

「あっ、あれねー。何か途中で落っことしちゃったみたいなの。まあ……もう見つからないものだと思って諦めてるけどね」

 なんで、本当のことを蛍に言わなかったのか。
 燐自身、良く分かってはいない。

 ただ、自分でしたことだから。

 それを言うことで蛍に気の毒な思いをさせたくはなかった。

 ちょっと気を揉み過ぎなのかもしれないが。

 コロコロと表情を変える燐に蛍はくすっと笑うと、少し気づかうように言葉を投げる。

「そっか。燐が大事にしてたものみたいだったからそれは残念だったね……あ、そうだ」

 良い考えが思いついたとばかりに手をぱちんと叩く蛍。

 そして燐に向けてにこにこと笑みをこぼす。

 燐は何だか、ちょっとだけ嫌な予感がした。

「今度さ、わたしが新しい時計を燐に買ってあげる。あ、でも、別に燐が可愛そうだからとかじゃないから。今回の件で凄く迷惑をかけちゃったそのお詫びということで」

 これは名案とばかりに蛍はにっこり微笑むと、片方の目をぱちんと閉じた。

 多分、蛍としても燐に余計な気遣いをかけたくはなかったらしい。

 実際、燐と蛍の間でこういった金銭的なやりとりは最近は滅多に起こらなかったから。

 せいぜいお互いの誕生日とか、季節的なイベントの時にプレゼントの贈り合いをするぐらいで。

 それだって一緒に住んでいるから結局は無意味なことなのだけれど。

「ええっ? い、いいよ……その、悪いし」

 燐は歯切れの悪い言葉を紡いで蛍の申し出にやんわりと拒否を示す。

 大事にしていた腕時計が無くなったのは確かなことだが、それは自分からしたことであって、蛍には一切関係のないことだったから。

「燐」

 蛍は燐の手を強引に取る。

「えっ」

 燐のすぐ目の前に蛍の顔があった。

 桜色の唇が囁くように声を紡ぐ。

「全然、悪くなんかないよ」

「蛍ちゃん」

 珍しく語気を強める蛍に、燐は小さく頷く。

「だって燐、こんなに泥だらけになるまで走り回ってくれたんでしょ? ちゃんとお礼をしてあげないとわたしだって苦しいよ」

「それは……」

 燐には言い返す言葉が見当たらない。

 だが蛍は柔らかい笑顔を向けたままだった。

「それにさ、わたしもちょうど新しい時計が欲しいなって思ってたところだから」

「でもぉ……」

「でもはなし、ね?」

「……うん。ありがとう蛍ちゃん」

 ここまで言われたら燐だってもう無下に断るようなことはしない。

(状況的に言えなくなっちゃったけど……)

 時計の件は後で蛍にちゃんと話すつもりだ。
 もちろん買う前に。

 それで蛍の気が変わるとは思ってはいないが、正直に話しておきたい。

 何で、つまらない嘘なんか吐いちゃったんだろ。

 そんな自分自身に呆れたように疲れたような溜息を燐はついた。

「でも、蛍ちゃん? 何の時計買うつもりなの。やっぱりアウトドア用のやつ」

 蛍も最近はすっかりアウトドアにはまってしまったようで、服も小物も全部アウトドア系のブランドのものばかりになってきている。

 レディース向けのものは年々増えているからそれでも問題はないのだが。

 それでも、相変わらずベッドの上に飾るぬいぐるみなんかも買ってはいるようだが、その割合は以前よりかは減っているようだった。

「燐と同じのがいいな。出来ればペアで持ちたいし」

 真っ直ぐな顔でそう言い切る蛍に、燐はぽおっと胸が温かくなる。

「あ、わたしもそう思ってたんだ。お揃いだと可愛いもんね」

「カラバリがあるやつがいいな。同じものでも色が違うだけで新鮮な気になるし。いつものように燐と交換し合うことも出来るしね」

 実際、燐と蛍は同じものばかり買うからギアの取り換えっこは良くしていた。

 ただペアばっかりだとたまに色々言われることもあるけど。

「どうしたの?」

 喜ぶ蛍を見ると何も言えなくなってしまう。

 燐も以前はそうだったから。

 意識して従兄と同じものを持っていたし、彼が気に入りそうなものを選んで身に付けていた。

 そこに意味などないのだが、その時だけは確かに楽しかったから。

(それでいいとは思ってはいないけど)

 楽しそうに想像を巡らす蛍を愛おしそうに眺めながら、燐はぼんやりとそんなことを考えていた。

 ……
 ……
 ……

「ね、燐」

 蛍はひょいっと軽くジャンプすると、燐の前に回り込む。

 燐はちょっと困った顔で尋ねた。

「なぁに、蛍ちゃん」

 戻ってこられた安堵からくるのか、蛍はいつもよりもはしゃいでるように見える。

 燐は、そのことを指摘するようなことはせずに、柔らかめに笑みを作った。

 蛍は一瞬目を伏せて何故か寂しそうな表情をみせる。

 すっと燐の手を解くと、きょとんとしている燐を正面からぎゅっと抱き寄せた。

「ちょ、ちょっと蛍ちゃん?」

 急に蛍に抱き留められ燐は戸惑った顔になったが。

(……蛍ちゃん……震えてる……?)

 密着した蛍の身体が小刻みに震えていることに気付き、躊躇いがちに蛍の背にそっと手をまわす。

 蛍の頭越しに小さな声で呟いた。

「やっぱり、向こうで何かあった……?」

 そっと尋ねる。

 何としても”青いドアの家の世界”に行きたかったのに結局辿り着くことは出来ず、ひとりきりにさせてしまった。

 心細かったのだと思う。

 いくら知っている場所に居たんだとしても。

 やっぱりこことは違う、常識の通用しない世界だから。

(それに、あの世界への扉が開いたのって、すごく久しぶりなんだよね……もう何年もそんな事は起きなかったのに)

 燐は向こうへ行けなかった分、蛍からいっぱい話を聞いてみたいと思っていた。

 それはもう、山のように。
 
 蛍さえ許してくれるのなら、いくら時間をつかってもいいぐらい。

 どのぐらいの時間が向こうで流れていたのかは不明だが、”何も起きなかった”ということはあの世界に行ったときは一度切りもなかったから。

(きっと何かあったんだとは思うけど……)

 燐は蛍の背中を優しく撫でる。

 艶やかな蛍の黒髪にやわらかな月の光がかかる。

 髪の一本一本がその光によって引き立たされていた。

 燐は片方の手で二つに結わかれた髪の一つを手で優しく梳いた。

 ある程度は察することは出来ても具体的な事は何も分からない。

 蛍が打ち明けてくれない限り。

 けれど無理に訊ねる気はない。
 少なくとも今は。

「ごめん。わたしもそっちへ行きたかったんだけど、どうしても行けなかった」

「うん……分かってる。燐だって大変だったんでしょ。でも今は一緒なんだから……」

 燐にしがみ付きながら蛍は小さく呟く。

 燐の胸元に温かい吐息がかかって、不意に胸の内から熱いものが込み上げそうになり、よりつよく蛍を抱きしめた。

「わたしっ……わたしもう、蛍ちゃんに会えないのかなって、そう思ってた!」

「燐、わたしも。わたしだってそう思ってたよ!!!」

 小さな身体をきつく抱きしめ合う。

 温もりから伝わる感情が抱擁を介して伝わり合うようで。

 まるごと全部をぎゅっと抱きしめていた。

 それでようやく互いを認識し合うことができた。

 蛍も燐も。
 この世界で唯一無二の存在であることを。

(一体わたしは、何を疑っていたんだろう)

 こんなにも愛おしく、求めてくれているのに。

 疑う余地なんて最初から何にもなかったはずなのに。

(だから、これは間違いじゃない。蛍ちゃんは今ここに居るんだ)

 残滓でも何でもなく。

 実在する一人の人として。

「蛍ちゃん、わたし──」

 燐は蛍に何かを言おうとして口を開きかけたのだが。

 途中で言葉が止まってしまった。

 同時に思考も停止してしまったように固まっている。

 蛍は急に燐の言葉が止まった事に少し違和感を覚えたが、まだ涙が止まらなかったのでまだ燐の方を振り向かなかった。

(何……これ?)

 信じられないという顔で燐はそこを見つめていた。

 視線の先には蛍の細い首がある。

 レースの付いた服の上からすっと伸びた白い首筋が燐の目の前にあるだけだった。

 傷一つない美しいラインはとても色っぽく、どちらかというと童顔な蛍を大人の女性に見せていた。

 燐はそれをちょっと羨ましくも愛おしく思っていたのだったが。

 それにある異変があった。

(これって……傷!?)

 思わず燐は二度見する。

 美しかった蛍の首筋に、何かの黒い痣のようなものがあった。

 茨の棘の様な黒い痕が白い首に巻き付くように何本も線を付けていたのだ。

 歪な形のネックレスを無理やり嵌めたみたいに、首の柔肌に食い込んでるようにみえる。

 血は、滲んではいないようだが。

 それは、何かで締められた跡のようにも。

 これを蛍は知っているのだろうか?
 何も言ってはこなかったが。
 
(でも、これって何かされたときの跡、だよね……? もしかして、蛍ちゃん……)

 燐の脳裏に一抹の不安が過る。

 ちょっと様子がおかしかったことも気になるし、こんな酷い痣は燐の知る限り蛍の首についていたという記憶はない。

(だったらやっぱり”青いドアの家の世界”で何かがあったんだ……!)

 燐の想像のつかない”何か”が向こうの世界であったのだと推測できた。

 だが、本人は至って平気そうに見える。

 痛みを訴えるようなことはなかったし。

 蛍が見た目よりも我慢強いのは知っているけど。

 どうしたものかと一瞬迷いを見せた燐だったが、やはりこの件を蛍に尋ねてみることにした。

 これはきっと蛍にしか知りえないことだろうし、それに燐に隠し事なんて滅多にしないからきっと答えてくれるだろうと。

「ね、ねぇ……何か、首に傷みたいなのがあるけど……蛍ちゃん、痛くはないの?」

 なるべく言葉を選んで尋ねる。

 月明りでもハッキリと見えるから余計に気になってしまう。

 ここまでくっついてないと気づかなかった自分に呆れてしまうけど。

 一度見たらもうそこから目が離せない。

 見ている燐の方が痛々しさを感じてしまうほどの痕だったから。

「うん? 燐、どこのことを言っているの」

「ひゃあっ!」

 燐は蛍の首筋を見て言ったはずなのに、蛍はさらに体を密着させて燐の首を確認していた。

 吐息が直に首にかかってこそばゆい。

「わ、わたしの方じゃなくて。蛍ちゃんの方っ! 蛍ちゃんの首に何かが付いてるって言いたかったのっ!」

 燐は頬を赤くして指摘する。

「あ、そういう事か。通りで何もないと思ったよ。燐の首って細くて綺麗だよね、人形みたいに」

 ちゅっ。

「にゃあああぁっ!?」

 そう言ったあと、不意に蛍は燐の首に唇をつける。

 燐はびくんと体を震わせたと思うと蛍にぎゅっとしがみついていた。

「も、もう! 何するの蛍ちゃん。わたしすっごくびっくりしちゃったよぉ!」

 燐は蛍に身体を預けたまま、深い息をついていた。

(まだ心臓がどきどきとなってる……! 何で急にあんな事を……)

「あ、ごめんね。でも可愛かったからつい思わず」

「思わずって、何よ、もう……」

 燐は顔を真っ赤にしながらふいっと顔を背ける。

 それを見て蛍はあっと声をあげた。

「あ、ごめん。燐、やっぱり付いちゃったみたい」

「”付く”って……何が?」

 矢継ぎ早に蛍に謝られて燐は素っ頓狂な声で返す。

「燐の首にわたしの”唇のあと”がついちゃったみたいなの」

「跡って……まさか!?」

 燐は思わず自身の首筋に手を当てた。

「うん。ばっちりついちゃってるよ」

 何故か嬉しそうに報告をする蛍。

 燐はじとっとした目で見返した。

「もう、どうしてくれんのよぉ、これぇ……どうなってるか分からないけど、これじゃあ外にも出れなくなるぅ」

 燐は首を回して確認しようとするが自分では良く分からない。

 鏡か何かでないと。

「あ。もしかしてわたしの首についているのも、これ? だったらそれは燐が付けたんだね。いつそんなことしたの」

「もう、そんなわけないでしょっ!」

 燐はとうとう顔を膨らませて蛍に抗議した。

 蛍はくすっと笑って、燐の首に自身の頬を当てるようにする。

「なんだ違うんだ。でもちょっと嬉しいかも」

「……何のこと?」

 燐は首を傾げる。

「だってさ、この跡って燐がわたしの所有物(もの)って意味になるんでしょ。だったらこれで燐に変な虫は寄り付かないね」

 そう言って蛍は燐を離さないようにぎゅっとしがみついた。

 燐はぽかんとしたまま立ち尽くしていたが。

「蛍ちゃん、変な漫画の読み過ぎだよ、それ。教師になるんだったらもうちょっとちゃんとした本を読んだ方がいいよ……ってそうじゃなくてぇ!」

 そう言って疲れたため息をついた。

 それにしたって。

「本当に大丈夫、蛍ちゃん。一応包帯とかは持ってきてるけど」

 何かあったときの為に救急道具一式をバックパックに入れてはある。
 
 応急手当にしかならないとは思うが。

「とりあえず手当だけでもしておこう。取り返しのつかない事になると困るし」

 燐は蛍から体を離して背中のバックパックを下ろそうとしたのだったが。

「逃げちゃダメだよ、燐」

「うひゃあっ!」

 耳元に暖かい吐息がかかって思わず燐は変な声を出していた。

「逃げてるのは蛍ちゃんのほうでしょ! 今の内にちゃんと手当しとかないと、折角の綺麗な蛍ちゃんの首に痣が一生残っちゃうかもしれないよっ」

 少し大げさな言い方をしてしまったが、そのくらい燐は心配だった。

 キスマークもそうだけどこれだってあらぬ誤解を受ける可能性だってある。

 でもこの傷跡はまるで……。

(何か……紐みたいなので首を絞められたみたいに見えるんだよね。蛍ちゃんの肌って白いから余計に目立っちゃう)

 スカーフを巻くなりして隠すことは一応出来るとは思うが、隠したところでどうにかなるものでもない気はする。

 だけど。
 蛍がこれを全く知らないってことはないと思う。

 見れば見るほどこれは痣だと認識できるほど酷い跡が残っているし。

 そして、とても強い力で付けられたものだ。

 だからどうしても勘ぐってしまう。

 何故、隠しているのかと。

 ともかく、蛍の言った通り一刻も早くこの場を立ち去って帰った方がいいのだけは間違いない。

 手当てをするのだってそこまで碌な装備を持っていないわけだし。

 こういうのは早めが肝心だというのを、スポーツやアウトドアの経験で知っているから。

「ともかく蛍ちゃん。わたしの実家でいいから一緒に帰ろう? 蛍ちゃんだってすっごく疲れてるんでしょ」

 慌てた様子の燐に強く肩をゆすられ、少し困った表情をみせる蛍。

 うん、と小さく頷いては見せたが、何故かその足は止まったままだった。

 まるで足に根が張ったみたいに微動だにせず、燐を見つめながら立ち尽くしている。

「ど、どうかしたの? やっぱり傷が痛む?」

 目を丸くしながら燐はそう問いかける。

 動揺しているのかその手は少し汗ばんでいた。

「ううん、そうじゃなくて……ただ、自分でも良く分からないの」

「良く分からない、って……」

「…………」

 蛍はそう答えたっきりで口ごもってしまった。

(蛍ちゃん……)

 二人の手は確かに繋がれているのに、どこか噛み合っていない。

 それは、気持ち?
 それとも別の何か?

 少し離れている間に、こんなにも遠い存在に感じてしまうのだろうか。

 こんなに近くにいるのに。

 抗うことのできない大きな力が二人を引き裂いたとしても、視線は、想いだけは一緒だと、離れ合うことはないと思っていた。

 でも。

 ぐぅ~。

(何、今の音?)

 蛍とちゃんと向かい合おうと、燐は真剣な面持ちになったのだが。

 蛙の鳴き声のような間の抜けた音がすぐ近くから聞こえてきたので、思わず辺りを見渡していた。

「あ、ごめん……」

「え、何?」

 口を引き結んでいたと思った蛍が急に口を開いたので、燐は戸惑った表情で聞き返す。

 蛍は恥ずかしそうに顔を赤らめている。

 一体、何のことで。
 
 と燐が考えを巡らせていると。
 またぐーと音が鳴った。

 しかもそれは向かい合う蛍の方から。

 まさかだとは思うが。

「わたしの……お腹の音……」

 燐が問い返す前にそう蛍が白状していた。

「はぁ……」

 やれやれと、燐は小さく息を吐く。

「だって仕方がないじゃない。考えたらわたし、朝しか何も食べていないし」

 そう言って蛍は視線を逸らすものの、依然として燐の手は握ったままだ。

 むしろより強く握られている。

 嫌わないでと言っているかのように。

「蛍ちゃん、ちょっとだけ待ってて」

 燐は開いている片手だけで器用にバックパックを前に回すと、線ファスナーを開いて中から透明なビニール袋を取り出す。

 中には細長い棒状のようなものがいくつも入っていて、色や形から言ってもパンにか見えないのだが。

「これって、パンだよね」

 そう言って手渡された袋を見て蛍は改めて尋ねる。

 これは割と簡単に作れるパンだったはずだ。

 名前は確か。

「そう、”グリッシーニ”だよ。気軽に食べられるから行動食代わりに入れてたの。スティックバーばっかり食べてるのもなんか味気ないしね」

 それは普通の小麦色のものだけでなく、ゴマやフルーツなんかも練り込んだものもあるようだ。

「はい。これも」

 燐はもう一つ袋を取り出す。
 中には様々な色と形のクッキーが割とぎっしりと袋一杯につまっていた。

 袋は二つだけだが、それぞれかなりの量がある。

 明らかに二人分以上を想定しただけのものがあった。

 燐は何気なく取り出したようだったが、こうなることを知っていたみたい用意周到なものだった。

 緑茶の入ったペットボトルも2本分持っていたことだし。

「相変わらずパンばっかりでごめんね。おむすびとかのほうが良かった?」

 蛍は小さく首を振る。

「ううん。これ燐が作ったパンなんでしょ。だったら文句なんかは全然ないよ。わたし燐の家のパンって好きだし」

 蛍はパンの袋を開く。

 香ばしい小麦の香りに安堵感と空腹を感じた。

「だったら良かった。ちょっと遅くなっちゃったけど夜ご飯にしよう。傷の手当はその後で。それでいいかな」

「うん」

 二人は湖畔の上にレジャーシートを引いてその上に腰を下ろした。

 ようやく休めた気になったのか、たまらず蛍は深い息をついた。

 燐はそれを横目で見ながら袋を開ける。

 小さなシートの上には細長いパンとクッキー。
 それとペットボトルのお茶だけ。

 少しアンバランスとも言える組み合わせだと言えるが。

 それで充分だった。

 蛍は今日の式典の後の打ち上げパーティーに参加できなかったが、こちらの方がずっと良かったと思っていた。

 賑やかなのはそんなに好きでもないし、何より。

(燐と、二人っきりのパーティーになるよね)

 余程お腹が空いていたのか、いつも以上にパクパクと食べる蛍に燐は目を丸くする。

「蛍ちゃん、本当にお腹が空いてたんだね。まだあるからいっぱい食べていいよ」

 燐もパンを一つ取る。

 自身も打ち上げの際、居ない蛍を気遣ってあまり食べなかったから、今とても美味しく感じた。

「何か、本当にピクニックに来たみたい。夜だからキャンプみたいだけど」

 細長いパンをかりかりと頬張りながら蛍は燐の方を向いて微笑む。

 燐は自分で焼いた犬の顔の形のクッキーを蛍に見せながら屈託のない笑顔を見せた。

「あ、わたしもそう思った。でも……蛍ちゃんがいるからだろうね。今、すっごく楽しいのは」

「わたしも。燐と一緒だからすごく楽しい。ありがとう。わたしを、ちゃんと見つけてくれて」

「蛍ちゃん……わたしの方こそありがとう。こうしてまた一緒にいられることを何かの神様に感謝しなくちゃね」

「じゃあ、パンの神様とか?」

「あははっ、それいいねっ!!」

 二人は顔を見合わせてくすくすと笑う。

 本当に、幸せであるように。

 綺麗な月と星と湖。
 そして、隣に好きな人がいる。

 一切の過不足のない情景で。

 燐と蛍は少し遅くなった深夜のランチを存分に味わい、楽しんでいた。

 ……
 ……
 ……

「燐は、覚えてる?」

「何のこと」

 一息ついた蛍が不意に聞いてくる。

 燐はすぐに聞き返した。

 一体、何についてのことを言っているのだろう、と。

「ほら、あの”小平口ダム”のこと。前に燐と一緒に来たことがあったよね」

 そう言って指を差す蛍に燐はあぁと、小さく声をもらす。

「うん。ちゃんと覚えてるよ。確か、二年位前のことだったっけ? 確かめに行ったんだよね、蛍ちゃんとふたりで」

「うん。紅葉が綺麗だったね。確か燐が吊り橋ところでスマホを落としそうになったんだっけ」

「もうそんな細かい所覚えてなくていいからぁ」

 拗ねたように言う燐をふふっと軽く流すと蛍は話を続けた。

「でも結局さ、小平口ダムには何にも起こってなかったよね。決壊したような跡もなかったし」

「それはまあ、確かにね。それにもし本当に決壊なんかしてたら今頃は……」

 そこで燐は一旦言葉を切った。
 
 蛍は察したように頷くとダムのほうに視線を移す。

「大きな、水溜まりみたいになってたのかな。青いドアの家の世界で見たみたいに」

「かもね」

 二人してダムの方を見つめる。

 ラジオでは決壊したと言っていた小平口ダムだったが、実際には何も起きてはいなかった。

 もし本当に決壊していたのだったら、すり鉢状の小さな町は今頃は水の底に沈んでいたのだろう。

 何もかもを洗い流して。

「でもさ、何であんな事を言ったんだろうね」

 ダムと湖を交互に見ながら蛍が呟く。

 燐には何のことを言っているのかすぐに分かった。

「あの……ラジオのこと?」

 蛍はこくんとうなずく。

「うん。何で嘘を吐いたのかなって。ちゃんとした情報を伝えるのがラジオの役目なのに」

「それは、確かにそうだね」

 確かに何故あのDJはあんな事を言ったのかと今でも思う。

 ただ、あのラジオは過去や未来のことは言っていても、今起きていたことは言っていなかったような気がした。

 もう随分前の事だから詳細は覚えていないけど。

「あの日は雨が降っていたからダム湖だってそれなりに水位はあったと思ったけど……決壊したって程ではなかったみたいだしね」

 あの日の大雨は観測されていたが、小平口ダムが決壊したという記録はどこにも載っていなかった。

 その雨だって、梅雨の時期に例年観測されている雨量と大差ないみたいだったし。

 だからあの町には何も起きていないということになる。

 それはダムだけではなく、線路に開いた大穴や、もちろんあの、三日間に関しても。

 だけど。

「でもさ、決壊しなかったとしても雨水は溜まっていくわけでしょ。あの時の水ってどこに行ったのかな」

 異変のあった二日目ぐらいから酷い大雨に襲われたのは二人共知っている。
 だからこそどうなったのか知りたかったのだが。

 ネット上にもそれに関する情報はなかった。

 蛍は燐に問いかけられて、うーんと首を捻る。

 あの時、そう仮説を立てたのは蛍の方だったし、何とかして答えを導いて燐の期待に答えたかった。

「急に、水が消えることなんてないから、どこかで土砂崩れか何かが起きて新しい流れが出来た……とか?」

 あまりにも強引すぎる仮説だったが、それぐらいしか今の蛍の頭には浮かんではこなかったのだ。

 燐は困ったように苦笑いした。

「まぁ、結局分からないよねぇ。実際大雨が降って、川の水が増水したの間違いなかったけど、それで浸水とかの被害なんかも全然なかったわけだし」

「そこが不思議だよね。まるでさ、そっくりそのままの形で別の町に入れ替わったみたいに思ったんだよね、わたしが町に戻った時は。燐はどう思う?」

 荒唐無稽とも言える蛍からの意見に燐はふむと考え込む。

 確かにそういうのは分からなくはないが。

「パラレルワールドとかそういう系とかの? 流石に……それはないんじゃないかなぁ。量子力学でも多重世界は解釈のひとつとしてあるみたいだけど、それを証明できるものはまだないみたいだし。やっぱりそういうのは漫画とかのフィクションの中だけじゃないのかな」

「じゃあ、時間が巻き戻ったとかは? タイムリープとかそういうの」

 蛍はまだ止める気がないのか、頭で浮かんだことを次から次にあげる。

 燐は流石に少し呆れた顔になったが。

「それも漫画か小説っぽいなぁ、やっぱり。時間の流れって常に均一みたいだから」

「そうだよね。現実で証明できなかったからどんな事象も仮説以上にはならないもんね」

 蛍の意見はすぐに燐に否定されてしまったが。
 それはそうだと思う。

 それだって、やっぱり空想の粋は出ない。

(じゃあ、あの”青いドアの家の世界”は? あれこそ多重世界の一つだと思ってはいるけど)

 だが、蛍はそのことは燐に言わなかった。

 言えなかったというわけではない。

 燐だって青いドアの家の事は知っているし、向こうの世界へは一緒に何度も行ったことがあるから。

 ただ、あれとは何か、結びつきのようなのが違う気がした。

 似たような性質なのに、別の固体になってしまったみたいに。

 いや、やっぱり関係あるのかも?

 青いドアの家がある世界だって、一度壊れて元に戻ったみたいだったし。

 ”再構成された”という意味では同じなのかもしれない。

(ただ、それだとやっぱり証明するものが……)

 現実に青いドアの家の世界は持ってはこれないし。

 結論が出るようで……でない。
 
 どうどう巡りになった考えを元に戻そうと、内心蛍は必死に頭を抱えていた。

「大丈夫蛍ちゃん? やっぱりどこか痛むの?」

 つい燐は気になって傷跡のある蛍の首筋に触れようとした。

 蛍はその手をやんわりとはらって無理くりに笑みを作った。

「ちょっと頭が煮詰ちゃっただけ」

 燐は一瞬はっとなったが。

「でも、痛くなったらすぐに言ってね。遠慮なんてしなくていいからっ」

 そう言って燐は小さくガッツポーズをする。

 変わらない燐のその仕草に蛍はにこりと微笑み返した。

「でもさ、もし時間が巻き戻ってるなら、同じことを何度も繰り返しているのかな。ループっていうか」

 燐は複雑そうな顔で呟く。

 蛍も曖昧な顔で頷いた。

「そういうことになるのかな、やっぱり。だったら、いつかもう一人の自分に出会っちゃうとか」

「あ、そういう映画見たことあるよ」

「わたしも見た事あるかも。作りやすいのかもね。一人二役でやればいいし」

「役者が双子の可能性だってあるしね」

 ……
 ……
 ……

「だったらさ、今って”正解”って言えるのかな」

「えっ」

 ぼそっと呟く燐に蛍は目を見開いていた。

「だってさ、一応上手くいってるでしょ? 色々」

「……蛍ちゃんもわたしもちゃんと居て。あの異変なんて現実離れしたことは起きていない。町は合併しちゃうけどそのほうが町の発展にはいいみたいだし」
 
 燐は思いつく限りのことを列挙してみた。

 聡やオオモト様のこともあるが、今はあえて言わなかった。

 それに同意したように蛍はこくんと頷く。

「全部が全部ってわけじゃないと思うけど。燐の言うように上手く行ってるとは思う。上手く行きすぎている感じはちょっとするけど」

 燐の意見には全面的な同意を示すも、蛍なりに懸念もあった。

「わたしもそう思うよ。出来過ぎてる感じは否めないもん。シナリオっていうか……」

「やっぱり幸運の力なのかな。これって」

 ぽつりと蛍がこぼす。

「それは……」

 燐はそれ以上何も答えることが出来ず、視線を少し遠くに向けた。

 猛り狂っていた虫の声もいつの間にか止んでいて、湖畔に本当の静寂が流れていた。

 何の音もしない。

 聞こえるのは、二人の静かな息づかいだけ。

 それ以外の音は世界から全て消えて無くなってしまったかのように思えた。

 がさっ。

(あれっ、何、今の!?)

 燐は急いで意識を戻すと視線をそちらの方角に凝らす。

 一瞬何かの物音がしたかと思うと、光のようなものがこちらを照らしたような気がしたのだ。

 隣で座っている蛍をちらっと窺ってみたが、困惑したように燐の方を見つめていた。

 急に目を見開いた燐を不思議そうに眺めながら。

(これって、わたしだけしか見えない? そんな事って……)

 前例が無いわけではなかった。

 ただ、それはとても随分前に一度経験したっきりだったので、にわかには信じられないが。

(今日だけで色んなことが起きてるからおかしくはないけど。でも今のって……)

 どちらも一瞬だったが。

 光は”目”みたいだった。

 悪意を持っているかとかまでは分からなかったが、何かがこちらを眺めている。
 そんな感じだった。

「燐、何か見えるの? 遠くの山の方ばっかり見ているけど……」

 首を傾げてながら別の方にばかり見ている燐に蛍がそっと声をかける。

 自分の方を見て欲しいと言わんばかりに燐のスカートの端っこを指できゅっと摘まみながら。

 はっとなった燐は蛍と視線を合わせた。
 その顔がすぐ近くにあったので、燐は顔を赤くしながら正直に蛍に話した。

「ご、ごめん。何か見えたような気がしたの。何か、目みたいなのが」

「何かの”瞳”?」

「うん。見間違いかも知れないけど、何かこっちを見られているような気がしたんだ。動物か何かだろうと思うけどね」

 でももし、自分にしか見えない動物とかだったら?
 
 例えば、あのヒヒのような化け物とか。

(それに、蛍ちゃんの首のあざだって……)

 あれだってもしかしたら自分にしか見えない痣である可能性もある。

 蛍は認識できていないみたいだし。

 燐の手が折れ曲がった鉄パイプに伸びようとしたその時。

「確かに動物ならあり得るかもね。この辺の山って奥は結構深いから、カモシカなんかもいるような話を聞いたことがあったけど」

 ふいに蛍が山の方を見ながらそう呟いた。

「カモシカ……かぁ」

 燐よりもこの地に詳しい蛍がいうのだから間違いではないのだろう。

 急に虫の声が止んだのもそれなら頷ける。

 燐は指をぱっと引っ込めると、誤魔化すように上へにあげた。

(やっぱりわたしも疲れてるのかな。それぐらいのことでピリピリしちゃうなんて)

 燐はそのままだらんと両手をシートに投げ出す。
 
 急に眠気を感じて大きなあくびをひとつ噛み殺した。

 隣を見るといつのまにか蛍も横になっていた。

 シートの上で丸くなりながら、燐の方に身体を向けていた。

「やっぱり燐も疲れてるんでしょ、少し眠ったら」

「うん。蛍ちゃんもそうみたいだね」

 頷いた蛍も小さなあくびをかみ殺す。

(今すぐは町に戻らなくてもいいかぁ……どうせ明日は休みだし)

 燐はぼんやりした思考でそう考えると、重くなってきた瞼を薄く閉じる。

 蛍は燐よりも一息先に両方の瞼を閉じていた。

 まだ完全に寝息は立てていないがそれだってもう時間の問題だろう。

 燐だって思考は殆ど沈んでいるし。

 ただ寝入りに入る直前。

 割とどうでもいい事ばかりが頭に浮かぶ。

 身体だって冷えている気がするからこのまま寝てしまったら大丈夫かな、とか。

 お風呂に入っていないから臭くなったりしないかな、とか。

 寝るのに不必要な情報ばかりが頭をかき回す。

 それらを全部排除して眠ってしまえればいいのだが。

(そういえば、お風呂かぁ……)

 半分寝かかっていた燐がぱちりと目を開ける。

 囁き声で蛍にたずねる。

「ねぇ、蛍ちゃん。わたし達、ちょっと汗臭いかな?」

「うん……臭い……の?」

 蛍はもう完全に寝てしまったのかと思っていたが、まだ返事を返すことは出来るようだった。

 蛍は寝ぼけ眼のままで、自分の服の袖口を小さな鼻に向ける。

 燐が頼みもしないのに、その小さな鼻をふんふんとさせて匂いを嗅いでいた。
 
 蛍はぎゅっと眉根を寄せて苦々しい顔をしていた。

「う~ん、やっぱりちょっと匂う……」

 燐も自分の服の臭いを嗅いでみる。

「やっぱり汗臭い……蛍ちゃんごめんね。変な臭い体からさせちゃって」

「わたしだってそうだよ。このままじゃ寝るに寝られない」

 燐と蛍は顔を見合わせると大きなため息をついた。

 やっぱりふたりとも年頃の少女だから。
 どうしても気になってしまう。

(音なんかよりも臭いの方が敏感だって言うけど……)

 バックパックに色々詰めてはきたが、香水までは流石に持ってはこなかった。

 だがこれは香水なんかで誤魔化せるような匂いじゃない。

 部活のときにたっぷり汗をかいた時の酸っぱい匂いが身体のあちらこちらから漂っているようだった。

「まぁ、わたし達以外に誰もいないからそんなに気にしなくてもいいんじゃない」

 蛍は寝ることに集中したいのか、少し投げやり気味に言葉を投げる。

「それでも気になるっ!」

 燐はまだ諦めきれないのか羞恥で顔を赤くしてすぐさま反論をする。

(蛍ちゃんにこんな匂い嗅がせたくなんかないし)

 蛍はもう乾いた笑いしかでなかった。
 眠たさすぎて。

「……じゃあさ、今洗い流せばいいんじゃないかな。ちょうどいい所に水はたっぷりあるし」

 そう言って蛍は片手を湖の方に向ける。

 明らかに今思いついた意見だが、燐は感嘆の息をもらして大きく頷いた。

「成程ね! それもありっちゃありだね。でも……」

 しばし考え込む燐。

 どうやら羞恥と悪臭を天秤にかけているようだった。

(だって、ここで洗うってことは裸になるってことでしょ? でもこの臭いのまま寝るのも嫌だし……)

 すっかり眠気はどこかに飛んだのか、燐は少し顔を赤らめながらひとり頭を悩ませている。

 さっきだって何かの視線を感じたわけだし、人気の全くない夜だからって裸になるなんて。

「前にこういうのは露天風呂みたいなものだって言ってたの燐だったよね。だからいいんじゃないかな」

「それは、そうだけどぉ……」

 蛍の指摘に燐は痛いところを突かれたように、うっと呻いた。

(うー、確かにそう言ったけど今とは事情が違うっていうかぁ……)

 まごまごしている燐の手を蛍がそっと取る。

「じゃあ……わたしも一緒に入ってあげる」

「蛍ちゃんも? でも……いいの?」

「うん。わたしだって、変な臭いさせたまま寝るのはやっぱり嫌だもん」

 そう言って小さく微笑んだ。


(燐の臭いは好きだから平気だよって言ったら、流石に引かれちゃうだろうしね)

 ──
 ──
 ──



「どう? 燐。お湯加減は」

 

 蛍が恐る恐る尋ねる。

 

 燐は片手を入れながらうーんと首を捻った。

 

「そうだねぇ、これならちょうどいい塩梅かも……ってぇ、温泉じゃないからね、ここは!」

 

 燐は的確なつっこみを入れた。

 

「まあでも、思ってたよりかはダム湖の水は冷たくはないよ。これぐらいなら大丈夫そう」

 

 ボケをたおしていた蛍も燐の横から覗き込んで指をそっと湖面につける。

 

 確かにちょっとひやっとはしたが、凍り付く様な冷たさは指先には感じない。

 

 燐の言うように、これなら水浴びぐらいは出来そうな気はした。

 

 水の流れの遅いダム湖だとはいえ、いきなり入るのは危険だと判断した二人は、とりあえず人肌で湖の水温を測ってみることにしたのだ。

 

 それに今日の午前中までは雨が降っていたし、それに伴ってダム湖の水位も上がっていたみようだったから、相応に水も冷たいのものかと思っていたが。

 

(そこまで危惧するほどでもなかったね。まあ用心に越したことはないんだけど)

 

 どうやらダム湖には入れそうなことは確認したが。

 

「……」

 

 蛍と燐は顔を見合わせる。

 

 まだ二人とも服を着たままだった。

 

「やっぱり夜風がちょっとすーっとするね」

 

「でも、汗でべとべとだったからちょっとすっきりしたかも」

 

「ついでに洗濯もしてみる?」

 

「多分乾きそうにないと思うよ。今からだと」

 

 とりあえず上着から脱いだ蛍だったが、肌に直接感じる夜風に身を震わせた。

 

 燐はそれに苦笑いしながらもぱっぱと服を脱いでいく。

 

 入る前は恥ずかしがっていた燐だったが、結局先に全裸になったのは燐の方だった。

 

 蛍はいきなり服を全部脱ぐのに抵抗があるのか、少しゆっくり目に一枚づづ丁寧に服を脱いでいた。

 

 焦らすつもりはないが、まだどうにも気持ちの踏ん切りがつかない。

 

 小さなタオルもあることにはあるが、精々身体を拭くぐらいにしか使えないし。

 

 特に蛍に関しては、薄いタオル一枚程度では隠しきれるものではなかったから。

 

 だからまだ、迷いを見せていた。

 

 水着などは当然持ってきていないし。

 

「わたしから言い出したことだけど……やっぱり恥ずかしい」

 

 蛍は既に上下とも下着姿だったが、そこからがどうにも動けない。

 

 これ以上脱いでしまえば本当に何も隠すものが無くなってしまう。

 

 燐の後ろで隠れていようかなと、ちょっと思ったりもしたのだけれど。

 

「おーい、蛍ちゃ~ん」

 

 燐はもうダム湖の中にその身を入れていた。

 

 プールに入った子供みたいに楽しそうに手を振っている。

 

 もちろん全裸で。

 

 カチューシャすらも身に着けていない。

 

「うんー」

 

 生まれたままの姿で無邪気に手を振る燐に、蛍は頑なな笑みで小さく手を振り返す。

 

 まだ足すら水に入れていないのに、肌が少し湿っていた。

 

(何でわたし、あんなことを言っちゃったんだろう……水浴びしようだなんて)

 

 冷静に考えると相当無謀なことを言ってしまったんだと思う。

 

 別にこんなところで水浴び何かしなくても普通に家に帰ってシャワーでも浴びればいいわけなのだし。

 

 だったら、回帰でもしたかったのだろうか。

 

 あの夜の学校でのプールがとても素敵だったから。

 

 たまに夢に出てくるぐらいだったし。

 

(でも、今は夢じゃないんだよね……燐と一緒に現実の湖で裸に……)

 

 考えてみたら、異変の時の夜のプールも青いドアの家の世界の大きな水溜まりの時も。

 

 その両方とも裸で水にはい入っている。

 

 水溜まりの時は何故か途中から服を脱ぎ始めたが。

 

(何か常に水着を持ってた方が良いぐらい、いざって時に備えて)

 

 ”いざ”にしては結構な頻度で起っているような気もするが。

 

 蛍は思わずごくりと喉を鳴らした。

 

「ね、ねぇ、燐。やっぱりさ、濡れたタオルで体を拭くだけにしておこう? 誰かに見られてるかも限らないし」

 

 蛍は今更ながらに自分の発言に後悔したのか、弱々しい声で燐にそう懇願をすると、忙しなく周囲を見渡した。

 

 湖の周りを覆い尽くす黒い森は、人どころか小動物の気配さえも殺してしまっているように、無言のまま二人の少女を取り囲んでいる。

 

 さっきはカモシカかもと思ったが、実際は違うものだったのかもしれない。

 

 得体のしれない獣が二人を狙っていたのだとしたら。

 

「……っ!」

 

 時折、風に揺られて木々が騒めき立つ様子を不気味に感じたのか、蛍は剥き出しの二の腕をぎゅっと握った。

 

「タオルなんかよりも、実際に入ってみた方がいいよ。天然のプールみたいで気持ちいいし。まあ……ダム湖の時点で天然じゃないんだけどね」

 

 燐は自分で言ってつっこみを入れていた。

 

「そ、そうなんだね」

 

 蛍は他人事のように呟く。

 

 でも。

 

(燐に一緒に入るって言っちゃったし。ここは入るしかない、よね? だ、大丈夫、燐が一緒なんだから……!)

 

 胸の内に言い聞かせるように心の中で蛍は呟くと、覚悟を決めたのか最後の下着を脱ぐと、レジャーシートの上に畳まれた衣装の上にポンと重ね置いた。

 

 そして前だけを両手で隠しながら、ゆっくりと湖面に近づく。

 

 大した距離はないはずなのに妙に長く感じた。

 

 蛍が髪に付けていた、キンセンカの髪飾りとヘアゴムは既に外してある。

 

 だから最初から入る気ではあったのだが。

 

(でも、恥ずかしいものは恥ずかしいんだもん)

 

 理由にならない言葉をつぶやきながら、燐の待つ方へと足を進める。

 

 夜露に濡れた下草がちくちくと蛍の素足の裏側を刺激してきて、進むたびにくすぐったくなる。

 

 痛みともつかない変な感じに内心首を捻りながら、少し早足で燐が手を振っている湖面へと急いだ。

 

 内股だからややも転びそうになるが、蛍は何とか燐の前まで行くことが出来た。

 

「ここら辺なら浅いから大丈夫だよー。入ってきてみて」

 

 燐が手招きをして待っててくれている。

 

 ただそれだけで蛍の胸は暖かくなった。

 

 だがそれ以上、からだが前に進まない。

 

 燐はちょっと不思議そうに見ていたが。

 

「転ばないように注意してね」

 

 燐にそう促され、無言のまま蛍はこくりと頷く。

 

(蛍ちゃん……やっぱり……)

 

 表情こそは笑っていたが、燐の瞳は蛍を観察するように細かに動いていた。

 

 燐の視線は蛍の身体というよりも細い首や手、そして足元にも注がれている。

 

 もし、汚れているのが燐だけだったら、きっとダム湖には入らなかったと思う。

 

 だが蛍の、あの首に出来た痣のようなものがどうしても気になってしまうから、恥ずかしさを我慢してダム湖に入ることにしたのだ。

 

(増えてる……?)

 

 黒いアザは蛍の首だけで留まっていなかった。

 

 服を着てたから気付かなかったのもあるかもしれないが、蛍の両腕と足首の辺りにも同じような痣のが広がっていた。

 

 鉄で出来た枷を嵌めたように黒い線状のものがぐるぐると蛍の部位に巻き付けている。

 

 まるで、黒い蛇がとぐろを巻いたように。

 執拗で複雑な模様で。

 

「…………」

 

 燐は努めて冷静にそれを分析していた。

 

 自分までもパニックになったらきっと蛍は動揺してしまうだろうから。

 

(これが水で洗って取れる程度ものならいいんだけど……)

 

 もしそうでないとしたらやはり直に蛍に聞いてみるしかない。

 

 さっきもはぐらかされてしまったし、聞かれたくはないことなんだろうけど。

 

 何が手掛かりみたいなものは掴める可能性があるから。

 

(わたしに出来る事なんてその程度のことぐらいだけど)

 

 それでも蛍の傷が癒えるなら何でもしてあげたい。

 

 自分にも同じような痣が付いたとしても。

 

 蛍ちゃんを助けることが出来るのなら。

 

 燐がある種の決意を心の中で固めた時。

 

「り、燐~!」

 

 蛍が泣きそうな声で岸辺で助けを求めていた。

 

「あ、ごめんっ」

 

 燐はぶるっと首を振ると、情けない声でしゃがみ込む蛍の元へと向かう。

 

 やはり怖いんだと思う。

 

 だから燐は。

 

「ほらっ、蛍ちゃん。手、握っててあげるからっ」

 

 泳ぎを教えるみたいに、燐は水中から優しく手を差し伸べる。

 

 蛍はその手をしっかりとつかむと、足を少し震わせながら大きく頷いた。

 

「燐、絶対に……絶対に手を、離さないでね」

 

「分かってるよ蛍ちゃん。じゃあ……行くよっ。せーのっ!!」

 

「ちょっと、燐っ!?」

 

 どぼーん。

 

 燐に一気に引っ張られた蛍は一歩どころかそのまま湖の中に飛び込む形になった。

 

「わっ」

 

 ばしゃっと、小さな水飛沫があがって少女たちの頭上に降り注ぐ。

 

 二人を中心に波紋ができ、黒の鏡面にさあっと広がっていった。

 

「──っ」

 

「大丈夫? 蛍ちゃん」

 

 蛍は頭からずぶ濡れになりながら立ち尽くしている。

 

 ぽたぽたと水滴が落ちて蛍の長い前髪を濡らし、その表情を隠すほどにまでなっている。

 

「あ」

 

 燐はその姿に覚えがあった。

 

 あれは確か何年か前のクリスマスの時の──。

 

「……燐ー」

 

「ひゃあ! 蛍ちゃん、ごめんー!」

 

 蛍は前髪を垂らしたままの格好で燐を追いかける。

 

 燐は捕まらないようばしゃばしゃとダム湖の中を逃げ回っていた。

 

 その姿はまるであのホラー映画のキャラクターのようだったから。

 

「でもさ、入ってしまえば何てことないかったでしょー。だから蛍ちゃん許してぇ~」

 

「絶対に、許さないから……」

 

「ひいいいぃぃ!」

 

 そう言いながらじゃばじゃばと追いかける蛍。

 髪で前が隠れているせいかそれは言葉以上の恐怖感を燐に与えるほどだった。

 

 ひたすらに逃げる燐の後を追いかける蛍だったのだが。

 

「あっ」

 

 底がぬかるんでいたのか、足がつるんと滑った。

 

 そう気付いた時はもう遅く、ざぶんという音とともに蛍の視界が水の中にあった。

 

 しかもそこは深くなっていたらしく、手を着くことすらできない。

 

 パニックになった蛍はじたばたと手足を動かして必死に藻掻こうとする。

 

 そんなことをすれば余計に溺れるだけなのだが。

 

「蛍ちゃん、大丈夫っ!?」

 

「あ……燐?」

 

 強い力で燐が手を引っ張り上げてくれていた。

 

 蛍は一瞬何が起きたのか分からないみたいにきょとんした顔になったが。

 

「ごめん。足、滑っちゃった」

 

 燐の呼びかけに一拍おくれた後、恥ずかしそうにそう言った。

 

「はぁ、良かったぁ。蛍ちゃんの姿が急に見えなくなったから慌てて手を掴んだけど間に合ってよかったよ。水とかは飲んでない?」

 

「うん。燐がすぐに引っ張ってくれたから」

 

 蛍は水を滴らせながら頷いた。

 

「気を付けて蛍ちゃん。ダム湖はね天然の湖と違って土砂が堆積しやすいから滑りやすいんだよ。それに底にはいろんなものも落ちてるから足を切らないように注意してね」

 

「うん……でも燐、知っているなら最初から言ってくれればいいのに……」

 

「にゃはは、ごめんごめん。ついうっかり」

 

 燐は蛍に謝るとすっと手を差しだした。

 

「蛍ちゃん。今度は手、離しちゃだめだよ。浅い所なら大丈夫だから」

 

 燐の手を見ながら蛍はすこし考える素振りを見せると。

 

「でも、燐の方が先に手を離したからこうなったんじゃなかった? 燐があんなことするから……」

 

「ひいぃぃ! その顔止めて蛍ちゃん、普通に怖い!」

 

 ただ前髪を垂らしたまま、蛍が燐の事をじっと睨んでいるだけだが、それだけで燐は酷く怯えた声を上げていた。

 

「……怖くなんかないもん」

 

 蛍はぼそっと呟くと、前髪を指ですっと横にずらした。

 

「でもさ、燐。やっぱりちょっと暗くないかな。どこから深くなってくるのか全然わからないし」

 

 月は頭上で二人の裸体を浮かび上がらせているが、水底を照らすことは出来ないようだ。

 

 そのぐらい湖の底は暗く、濃くなっているとも言える。

 

 そこに何かが潜んでいても分からないぐらいに。

 

「確かにそうだねぇ」

 

 蛍の指摘に燐も同意するように頷く。

 

「ペンライトを持ってきてもいいけど……」

 

 燐の持ってきたペンライトは、ひいて置いたレジャーシートの上で小さな灯台の様に淡い光を出し続けていた。

 

 あれを持ってきたら何処に荷物や衣服を置いたのか分からなくなる可能性がある。

 

 盗られてしまうことだってないわけじゃない。

 周りは真っ暗なわけだし。

 

 もう一本あればよかったのだが、今ないものは仕方がない。

 

 燐が決断を迷っていた時だった。

 

「あっ! そうだ」

 

 燐は不意にあることを思いだすと、蛍から離れて岸の方に戻ろうとする。

 

「ちょっと燐、どこに行くの」

 

 慌てて蛍はその手を取った。

 

「ごめん蛍ちゃん。ちょっとだけ待ってて、すぐに戻ってくるから」

 

 そう言うと蛍の手をやんわりと外して、すぐさま岸辺の方へと行ってしまった。

 

「燐……」

 

 ぽつんとひとり取り残されてしまう蛍。

 

 燐が傍に居ないというだけで、静まり返った湖畔がとても不気味に感じる。

 

 待っててと言われてもこんなところで一人で待つなんてできそうにない。

 

(燐は、荷物置き場の方に行ったみたいだし)

 

 蛍もとりあえずそちらに向かうことにした。

 

 今度は滑らないよう慎重に水の中を歩く。

 

 深さは精々太ももよりも上ぐらいだからこの辺りなら問題ない。

 

 何で急に深くなっていたのかは謎だが。

 

(そういえば前にも同じようなことがあったよね。向こうの世界の水溜まりで)

 

 水溜まりと呼ぶには大きすぎだったが。

 

 少なくともこのダム湖よりも広かった。

 

「ふぅ」

 

 ひとりで湖岸まで戻った蛍は湖から上がってそこに座り込んでいた。

 

 体を拭きにシートのあるところまで戻ってもいいが、何だかもう疲れてしまった。

 

 燐はもうすぐ戻ってくると思うから。

 

 風で揺れる髪を手で抑えながら、蛍は岸辺で膝を抱えて、湖に星が落ちるの様子を呆然と眺めていた。

 

「おーい、蛍ちゃん」

 

 その背後で燐が大きな声をあげていた。

 

 手に何かを持ちながら。

 

 ……

 ……

 ……

 

「何だか綺麗だね」

 

 見つめる蛍の瞳が輝いていた。 

 

 それは月の光なんかではなくて。

 

 水の上で光を放ちながら浮いている四角い箱を眺めていたのだ。

 

「これさ、さっきも用意しておけばよかったね。持ってたのつい忘れてたよ」

 

 燐はそう言いながらぷかぷかと浮かぶそれを指でちょんと押した。

 

「これって”ランタン”だよね? こんなものいつの間に買ってたの?」

 

 光を出しているから多分そうだと思う。

 それにしたって妙な形をしているが。

 

 蛍も燐と同じようにそれを指で押した。

 

 想像よりも軽く柔らかい感触に少し驚いた。

 

「これって沈んじゃうことはないの?」

 

 両手で抱え込むように掌をかざしながら蛍が問いかける。

 

「ずっと水に浮いてられるみたいだよ。もし沈んでもちょっとぐらいは大丈夫なんだって」

 

「へぇー、見た目よりも凄いんだね」

 

 蛍は納得した声をあげた。

 

 始めはただの板のようだったから何かとは思っていたけど。

 

「折り畳み式のランタンなんてわたし初めてしったなぁ。燐、ネットのショップで買ったの? ころっとしててちょっと可愛いね」

 

 蛍は楽しそうに水に浮かぶ透明な四角いランタンを何度も指で揺らす。

 

(何か蛍ちゃん、子供みたい……)

 

 燐は小さく苦笑いした。

 

「雨の日なんかでも使えるみたいだから試しに購入してみたんだけど、それがようやく届いたんだ。ソーラー発電だから別に電源も要らないみたいだし、折り畳めるからバッグの中で嵩張らないしね」

 

 そのせいで持ってきていたのをすっかり忘れてしまっていたのだが。

 

 燐も初めて使ったが結構便利な気はした。

 

「これって、寝室になんか置いてもいいよね。柔らかくて可愛いし、間接照明みたいでそんなに明るくないからぬいぐるみと一緒にベッドの横においてもそんなに眩しくないし」

 

「うんうん。でも、こういう使い方をするとは思ってもなかったんだけどね」

 

 ぬいぐるみの件は置いておくにしても、燐も確かにそう思った。

 

 透明な四角いドームの中でLEDの光を放つランタン。

 

 それは濡れても大丈夫なだけでなく、四角いドームの所の素材は柔らかいことから簡単に折り畳むことのできる優れものだった。

 

 ただ、このまま使うと風船のように水に浮かんでしまうので、燐は手ごろな小石を見つけてそれを重し代わりに括り付けてランタンをそっと湖の中に沈めたのだったが。

 

「このでちょっとは安心かな。この光が届く範囲にいれば良いわけだしね」

 

「うん。これで水の底もちょっとは見渡せるしね」

 

 そう言って早速水の底を見渡した蛍だったが。

 

「り、燐! あれっ……!」

 

 蛍が燐にしがみついて水の底を指差す。

 

 少し驚いてしまった燐だが、蛍の差す方向に目を凝らした。

 

 白いランタンの明かりに照らせた黒いものが素早い動きで水中を横切ってきた。

 

「何? さかな?」

 

 ダム湖には魚が住み着くこともあると聞いたことがあるが。

 

 結構大きな黒い影が、二人の白い太ももの間を横切った。

 

「あ、そういえば、このダム湖って魚釣りの人が来るんだって聞いたことがあるよ。秋ごろになるとそれ目当ての釣り人が結構やってくるんだって」

 

 何の魚かまでは覚えていなかったが……確か”なんとかバス”だった気がする。

 

 産卵の時期になるとこのダム湖にやってくるらしい。

 

「じゃあ、今のがそうなのかな? ちょっと黒っぽくみえたやつ」

 

「多分。ねぇ、燐。折角だから捕まえてみたら」

 

 やはりちょっと浮かれているからなのか、蛍はまたも妙なことを言いだした。

 

 燐は小さく肩をすくめたが。

 

「前にもこういうのをやったことがあるし。ちょっと試してみようかな」

 

 確かに折角の機会だし。

 

 蛍は何気なく言ったことを燐は面白く感じたらしく、小さくガッツポーズをみせると、さっきよりも目ざとく水中を見つめた。

 

 ランタンの明かりが魚を誘発させているのかもしれない。

 

 そう思った燐はむやみやたらに動き回らずにランタンの照らす場所一点に狙いを絞った。

 

 その瞬間、燐の目先で黒い影が水底に映る。

 

「やっ!」

 

 瞬きする間もなく燐はそれ目掛けて手を伸ばした。

 

 にゅるっとした手ごたえが燐の小さな手のひらに確かに伝わったのだが。

 

「う~、結構素早いなぁ。取り逃がしちゃったよー」

 

「燐でも難しいんだね、やっぱり」

 

「まぁね。相手も逃げるからね、って! 蛍ちゃん、ほら! すぐ下にいるよっ」

 

 そう言って燐は蛍のふとももの辺りを指さす。

 

「え、どこどこ」

 

 燐の腕をぎゅっと握りながら蛍はきょろきょろと見渡した。

 

 その時、何かが股の間を通り過ぎたようなすっとした感覚を感じて、蛍は足先から脳髄まで一瞬でぞわっとなった。

 

「いやぁ! 燐、早くとって!」

 

 驚いた蛍が身体をぎゅっと押し付けてくる。

 

「そんなに押したら危ないよ、蛍ちゃん!」

 

 燐も蛍の肩を掴んで抱き留めるのだが、視線だけは魚の方に向けられている。

 

 だがくねくねと動き回る生きた魚を捕らえるのは難しく。

 

 一人では無理と判断した燐は。

 

「ほら、蛍ちゃんも一緒に捕まえてっ」

 

 そう声をかけるも蛍は燐にしがみついたままだった。

 

「わ、わたしには無理。普通に売ってる生魚も触るの苦手だし……」

 

 昆虫は良くても魚を触るのは何故か苦手な蛍は断固拒否をする。

 

「じゃあ、二人で捕まえよう。蛍ちゃんは魚をこっちにおびき寄せるだけでいいからっ!」

 

「うんっ」

 

 燐はそう指示を出す。

 蛍は頷くとばしゃばしゃと水を跳ね上げて魚を燐の方へと追い立てた。

 

「今度こそっ、えいっ!」

 

「あ、燐。今度はそっちに行ったよっ」

 

 あっちこっちと言い合いながら、二人とも深夜の魚捕りに夢中になっていた。

 

 何の道具もなくただ手掴みで野生の魚が簡単に捕まえられるわけもなく、二人の少女は水音を激しく立てながら右往左往とするばかり。

 

 多分、本気で捕まえる気はなかったのだと思う。

 

 どうせ捕まえたところで、魚はそのまま湖に戻すつもりなのだし。

 

 そう思うと、この行為に何の意味があるのかは分からなかったが、それでも夢中になっていたのは、多分。

 

(きっと、楽しいからだと思う。蛍ちゃんと一緒に体を動かすこと自体が楽しいんだ)

 

 燐も蛍も余計な汗をかいていたが、確かな充足感を覚えていた。

 

 あの日の夜のプールと時とは少し違ったものではあったが。

 

 二人の間にあったもやっとしたものが少しだけ晴れた気がしたのだ。

 

 この時までは。

 

 ……

 ……

 ……

 

「結局、一匹も捕まえられなかったね」

 

「うん。でも……楽しかったぁ」

 

 蛍は肩で息をしながらふわふわのタオルで顔を拭う。

 

 燐も濡れたタオルで軽く身体をなぞりながら汗を落とした。

 

 今日は二人ともかなり疲れているはずなのに、余計な疲労を重ねてしまったような気がした。

 

 嫌々だった蛍もやっているうちに楽しくなってはきたが、やはりくたびれてしまったのか、最後の方は泳ぐ気力もなくなり、今はレジャーシートの上でぺたんと座り込んでいた。

 

 燐も残ったペットボトルを飲みながら、蛍の隣で肩にタオルをかけて座っている。

 

「やっぱり、お魚だって全力だからね。わたし達みたいな素人が早々捕まえられるものじゃないんだよ」

 

 燐が幼い頃にやった魚のつかみ取りだって、そういった観光向けに放流された場所だったんだろう。

 

 大きさも種類も全然違うものだったし。

 

「確かにそうだよね。お魚さんだって生きるのに必死なんだもんね」

 

「もし捕まえたって、食べる気なんかは全然なかったけどね」

 

「え、そうなの?」

 

 意外そうに首を傾げる蛍。

 

「もしかして蛍ちゃん。ちょっとは食べる気だった」

 

 魚を触るのは嫌でもそれを食べるのは平気なの?

 と燐はちょっと考えてしまうが。

 

 あえて口には出さなかった。

 

「まあ、ちょっとだけね。燐ならどんな魚でも調理してくれそうだし」

 

 蛍は小さく呟くと、親指と人差し指でちょんとつまむような仕草を見せていた。

 

「それはどうかは分からないけどぉ」

 

 燐はそう優しく否定した後で。

 

「でも、食べられるようなお魚だったかなぁ? 大きさはそこそこありそうだったけど」

 

「それは大丈夫だと思うよ。釣りの人もおっきなクーラーボックスとか持ってきてたみたいだったし」

 

 それだけで判断するのはすこし難しい気もするが。

 

 とりあえず燐は曖昧に頷いてみせた。

 

「燐なら何のお魚でも捌いてくれるでしょ。で、そのお魚を使ったアウトドアをご飯作ってくれそうかなって」

 

「まあ、できなくはないとは思うけど……結局捕まえられなかったからどうしようもないけどね」

 

(魚は一匹だけってわけでもなかったのに何で全然捕まえられなかったんだろ?)

 

 確かに慣れないハンデがあるとはいえ、そこまで早い動きではなかった。

 

 むしろ悠然と泳いでいる魚すらもいたのに。

 

 燐が内心、不思議そうに首を傾げていると、掌に感触があった。

 

「ねぇ、燐」

 

「どうかしたの蛍ちゃん? やっぱりまた捕りに戻る?」

 

 結局燐も岸に上がり、まるで足湯のように足だけを水中につけている。

 

 蛍も隣で同じようにしていた。

 

 そんな燐の手に蛍は自分の手を重ねて問いかける。

 

「ううん、それはもういいの」

 

「そう? じゃあ、なに」

 

 何故かは分からないが少し舌の渇きを感じて、燐は無意識に上唇をぺろっと舐めていた。

 

 さっきお茶を飲んだばかりなのに。

 

「燐はさ……”かえりみち”って知ってる?」

 

「帰り道? あ、そうだねぇ。ちょっとだけ待って……えっと、ダム湖からだと……」

 

 唐突に蛍に聞かれて燐は少し戸惑ったが、すぐに頭を回転させた。

 

 ──今は夜だから見知った場所だとしても帰る道が分かりづらいのは確かだ。

 

 ランタンの充電はまだ残っているし、ペンライトもあるから暗がりでも大丈夫だろう。

 

(問題は、”どこに帰るか”だよね。今からだと終電も終わっちゃってるし、行くときに使った軽自動車は多分、お母さんが乗って行っちゃっただろうし……)

 

 そうなると町にある燐の実家であるパン屋か、蛍の家のどちらかを目指すことになる。

 

 どちらの鍵も持っているからどっちでもいいわけだが。

 

(まあ、実家かな。一番近いし、一通りのものはあるからね)

 

 蛍の家は家財が殆ど無くなっているし、行った所で寝る事ぐらいしか出来ないだろうから。

 野宿よりはマシだが。

 

(野宿かぁ……最悪の場合はここで野宿と言うことになるけどぉ)

 

 いくら初夏だとしてもできればそれだけは止めておきたい。

 

(せめてテントでもあれば別なんだろうけど)

 

 燐は今回は持ってきていない。

 

 シートだけで一晩過ごすのは燐だって嫌だと思っているぐらいだし。

 それを蛍に勧めるなんてもってのほかだ。

 

 一応、ブランケットのようなものもあるにはあるが。

 

(それと古い鉄パイプを組み合わせて簡易的なタープでも作るとか? いくら何でもそれはないか)

 

 その鉄パイプも折れてしまって、まともに立たせることすらも出来ないし。

 

 本当に、何のためにここまで持ってきたんだと思う。

 

(まあ、どちらにしたって朝帰りになるし、怒られそうだなぁ、また)

 

 カンカンになった母親の顔を想像した燐は深いため息をついた。

 

「どうしたの燐。さっきからため息ばかりついて。何か悩み事?」

 

 蛍が顔を覗き込んでいた。

 

「ううん、こっちのことだよ」

 

「?」

 

 繕った笑みを返す燐に蛍は首を傾げた。

 

(まあ、蛍ちゃんと一緒なら大丈夫かなぁ。うちの母親、蛍ちゃんにはすっごく甘いから)

 

 そういった算段を計算したうえで燐は蛍に話したのだったが。

 

「……流石は燐だね。でもやっぱり野宿は少し嫌だよね」

 

 やはり野宿だけは否定されてしまった。

 

 だがこれで”帰り道”は決定したことになる。

 

 あとはそれを実行に移すだけだが。

 

「じゃあ、服着たらそろそろ帰ろうか。一応身体も洗った事だし」

 

「ちょっと待って、燐」

 

 立ち上がろうとした燐の手を蛍がぎゅっと掴む。

 

「その前にやることがあるでしょ。さっきそれを燐に手伝ってもらおうとしたの」

 

 蛍は頬を赤らめて呟いた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「別に、燐は裸じゃなくてもいいんだよ」

 

「それだったら蛍ちゃんも下着ぐらい着けたら。蛍ちゃんが綺麗なのは十分分かってるし」

 

 燐はあえて茶化す様な言い方をした。

 

「でも……ほかにも痣があるかもしれないし……燐に確認してもらいたいの。わたしじゃ分からないことみたいだから」

 

「分かった。じゃあ、ちょっと見させてね」

 

 こくりと小さく頷く。

 

 燐はさっきも蛍の身体をじろじろ確認してしまったが、こんなに至近距離で蛍の裸を見るのは初めてだった。

 

「……っっっ」

 

 燐に見られている間中、蛍の顔は耳まで真っ赤になっていた。

 

「……やっぱりアザは両手と両足、首の五か所だね、でも、痛みとかは全然無いんでしょ?」

 

「うん。どこも痛くはないよ。でもさ、燐には”それ”が見えるんだよね」

 

 自分の目だけじゃ信じられないから蛍に許可を貰って、首周りだけをスマホで撮影してみたが。

 

 蛍の色っぽいうなじの画像が液晶の画面に映っているだけで、燐がみた黒い痣のようなものは映り込んでなかった。

 

(何でわたしだけ見えるの。目が変になっちゃったとか??)

 

 燐は湖の水で目を擦ってもみたりしたが、痣が消えるようなことは無く。

 

 むしろさっきよりも痣の黒い線が増えているような気さえするのだ。

 

 そんな事、当然蛍には言えるはずもなく。

 

「そういえばどんな風に燐には痣が見えてるの? スマホで書いてみて」

 

「まぁ、いいけど……」

 

 見えないから怖くない。

 そういう事なのだろうか。

 

 蛍は割りと無邪気に燐に頼んだ。

 

 燐ははぁと息を一つ吐くと、蛍の首を映した画像を黒のペイントでなぞる。

 それを蛍にみせた。

 

「あっ」

 

 それを見た蛍は言葉を失っていた。

 

「蛍ちゃん、何か、心当たりでもある?」

 

 燐はすかさず尋ねる。

 

 だが。

 

「ううん、分からない」

 

 分からないと呟いて蛍は短く首をふる。

 

 蛍に見せたら何か分かるかもと少し期待していた燐だったのだが。

 

 結局、何の進展も得られなかった。

 

 ただ、蛍はこうも呟く。

 

「わたし、どうやって向こうの世界から戻ってきたのか、覚えてないの……確かに青いドアの家に居たはずなのに……」

 

「何にも? わたしとのことも覚えてない?」

 

「燐と携帯で話したことや、オオモト様と会った事は覚えてる。でもそれ以外がさっぱり思い出せなくて。こんなこと初めてだよ。青いドアの家には何度も来たことがあるのに」

 

「そっかぁ……」

 

 自身の膝に顔を埋める蛍に燐は何も言えずただ、遠くを眺めた。

 

 ほのかな月明かりが夜の森と湖を静かに包み込む。

 

 二人は生まれたままの姿でお互いを見つめ合っていた。

 

「そういえば、花火、見そこなっちゃったね」

 

 唐突に呟いた蛍の言葉に燐は曖昧に返事をする。

 

「仕方ないよ。わたしも蛍ちゃんもそれどころじゃなかったわけだしね」

 

「ごめんね」

 

「な、なぁに、突然」

 

 突然、蛍に謝られて燐は戸惑った顔になる。

 

「だってさ、本当だったら、燐と一緒に花火を見ていたのかなって思って……だから本当にごめん。燐だって楽しみにしてたんでしょ」

 

 消えかかりそうな声で蛍はぼそぼそと燐に対して謝罪の言葉を並べていた。

 

 燐はくすりと笑うと、丸くなった蛍の背中をぽんぽんと軽く叩いた。

 

「なぁんだ、そんなこと。てっきりビックリするようなこと言われちゃうのかなって思ってた」

 

 軽く言う燐に蛍はきょとんとした顔になる。

 

「そんな事って……燐だって浴衣を着るの楽しみにしてたじゃない。結構前から準備してたし」

 

「準備は確かにね。でもあれね、わたしじゃなくて、()()()()()()()姿()()()()()()()()()ってだけなんだよ」

 

「そうなの?」

 

「うん。それにさ……花火なんか無くたってこんなにも世界は綺麗じゃない。わたしはそれで十分。だってわたしが見ていたいのは花火なんかじゃなくて”蛍ちゃん”なんだから」

 

「……燐」

 

 臆面なく言い切る燐に蛍は顔を上げて燐の方を見つめた。

 

 少し赤みを帯びた蛍の顔をみて、燐は慌ててタオルを肩にかける。

 

 そしてぴょんと立ち上がると、まだ立ち上がろうとしない蛍にすっと蛍に手を差し伸べた。

 

「蛍ちゃん帰ろ。こんなところで裸でいたら二人とも風邪ひいちゃうよ。その、痣の事はわたしも一緒に考えるから。今は帰ろっ。ねっ」

 

 燐は蛍に目線を合わせてそう言った。

 

 だが蛍は燐の手を取ることなく、ただ黙って燐のことを見つめている

 

「ねっ、蛍ちゃん」

 

 燐はもう一度声を掛けた。

 

 蛍はその手を燐の方に伸ばそうとしたのだったが。

 

「……っ!」

 

 蛍は伸ばした手の付け根を片方で抑え込むと、顔を俯かせて膝を抱えてしまった。

 

「蛍ちゃん?」

 

 急に様子が変わってしまった蛍に、燐はどうしていいか分からず困惑した表情で立ち尽くしていた。

 

(確か、前にもこんなことあった気がする……?)

 

 拒絶された──とまでは思ってはいないが、燐は何かを思い出すように、切なそうな目で自分の手の掌を見つめていた。

 

 少し重い、しんとした沈黙がゆっくり流れ始めた時だった。

 

「わたし、さっき……”帰り道”って言ってたでしょ」

 

 蛍が急に口を開く。

 

「う、うん。確かにそう言ったね」

 

「あれって、違う意味で聞いたんだよ。燐はそのままの意味でとらえたみたいだけど」

 

「違う意味って?」

 

 燐の問いには答えず、蛍は黒い空を見上げていた。

 

 白い月があったはずだが、いつの間にか厚い雲に覆われていてその姿は隠れてしまっている。

 

 蛍は表情のない顔でそれを見つめていたが、やがて抑揚のない声で話を続けた。

 

「わたしは、燐と一緒には帰れない。わたしには別の”かえりみち”があるから」

 

「別、の? 蛍ちゃん、一体何を──」

 

 燐が言い終わる前に蛍は指をすっと上に指す。

 

 そこには。

 

 月が隠れた黒い空が広がっているだけだった。

 

 燐は蛍の指さす方向を目で追いながら、もしかしてと思いその場所の名を呟いた。

 

「蛍ちゃんの帰り道って……”青いドアの家”のこと?」

 

 蛍は静かに首を振る。

 

 そして申し訳なさそうに燐を見ながら、薄い唇を小さく開いた。

 

「燐、わたしの”かえりみち”はね。空の……そのさらに向こうの」

 

 燐はごくんと唾を呑み込んだ。

 

 

 ”かんぺきなせかい”

 

 

 蛍は、はっきりとした声でそう言った。

 

 

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 

 

 





Maneater(マンイーター)

ずっと放置していたゲームだったのですが、ちょうど今の時期にピッタリな箱庭風サメゲーでしたよー!!
タイトルと内容は物騒ですけれども、思っていたよりかはグロテスクではない感じ。当然? 人間も捕食できるのですが残虐性は薄く、ブラックジョーク気味なナレーションのおかげで割とライトに鮫による殺人を楽しめます。
ストーリーはドキュメンタリー番組風になっていて、いわゆる復讐がテーマになってまして、大まかに言うと人間の都合と鮫の都合がぶつかり合う……みたいな。
序盤から敵が強いのである程度の慣れが必要になりますが、数値で分かるのでその辺りを気を付ければいいとは思います。ただ、その辺の魚や亀を食べていつでも体力を回復できる仕様のせいか、敵対行動をとる敵がかなり厄介で、序盤はワニがかなりしつこく追いかけ回すし、中盤以降は人間のハンターやシャチ、最後の方は鯨なんかと戦うことになりますしねー。特にラスボスはそれまでのごり押しが通用しない相手でしたから、攻略法が分からない内は何度も死んでしまいました。

でも、結構楽しかったですー。ゲーム内とは言え水の中を眺めているだけで涼しい気がしますし、一応陸上でも鮫は行動できるから思っていたよりも飽きないでプレイすることが出来ました。
クリアしてもまだ終わりではなく続きは一応あるのですが、そこからはDLCコンテンツになっていますのでもっと遊びたい方は買ってみても損はないかと思いますー。鮫がビームを出せたりできるようになるみたいですし。


★ゆるキャン△ SEASON3

2024年に三期放送決定おめでとうございます~!!! なのですが……うん、色々な意味でどうしてこうなったのかぁ!! 正直謎な所ではありますねー。
まさかヤマノススメのスタッフがゆるキャン△になるとは流石に思わなかったーー!! サプライズすぎですよー!! だから、アニメゆるキャン△三期は実質ヤマノススメとのコラボ作品みたいなものですねーー。で、ディザービジュアルを見た感想ですが……同じ原作なのは当然なんですけど、キャラデザが変わると全然違う印象に映りますねぇ。現時点だとキャラの性格すら違って見える──かも? 動きを見ない事には何とも分からないですが、個人的にエイトビットは絵作りが上手い印象があるので、続報に期待、ですねーー!!

最近暑い日が続きますので体調管理にはお気を付けください、ませ。

ではではーーー。



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Every existing thing is born without reason, prolongs itself out of weakness, and dies by chance.

 
 がたんごとん。

 真っ暗闇の中で規則的な音が響いている。

 何の為の音なのかは分からない。

 ただ、一定の感覚を持って流れるだけで、振動を伴った音は止むことなく続いていた。

「……」

 少し煩く感じる。

 規則的な音というよりも体を揺らす細かい振動(モーター)音の方が気になるのか、うつ伏せだった体勢をくるりと横向きに変えると、拝むように両手をぴったり合わせて、寝ていたベッドと耳との間に差し入れた。

 これで少しは穏やかに安眠できると思ったのか、少女は溜息のようなほっとした息を吐くと、少し体を丸くしながら暗く深い、眠りの世界へとまた落ちていく。

 何者にもこの静かな世界を邪魔されたくはないというように、身を固くしながら安心しきった小さな寝息を再び立てていた。

 がたん、ごとん。

 それでも振動が止む気配がない。
 少女は顔をしかめさせながらムッとした様子で重い瞼を薄く開けた。

「……ん」

 薄暗い視界にぼんやりとした明かりが目に入る。

 目が滲んでいるせいか、それは古い教会のステンドグラスのように見えた。

 そのせいか今は夜なんだと思った。

 もしくは閉じた箱の中か。

 何かの中で揺すぶられていることは間違いない。
 振動が止んでいないし。

 でも動いてもいる??

 箱の中で振動し、かつ動いているものって……。

(んっ……箱……?)

 不意に湧きあがった疑問に自問自答をしてしまう。

 だがまだ完全に覚醒していないからだろうか、特に答えもなく、頭はすぐに別の事に切り替わった。

 とりたてて、今は何時なのだろうと、無意識に左手を上げたときだった。

 背中の後ろから響く轟音と共に四角い光の群れが頭上を掠めて行ったのだ。

(何、今の……)

 あまりにも早く遠くへ行ってしまったので何だかよくは分からず、左手をあげたままただ呆気に取られてしまった。

 それが何なのかをすぐにでも知りたかったが、何かまだ身体が億劫で起き上がることが出来ない。

 重いのは瞼だけじゃないらしく、まるで体全体に固い鉄枷がはめられているみたいに何をするのにしようとも、じくっとした重怠さが全身を付きまとっていた。

 辛いと言うか、気怠い。

 とりあえず亀のように首だけをひょこひょこと伸ばして辺りを窺ってみたりしたのだが。

(あれ? 何か見たことがあるような……)

 薄暗い中で目を凝らす。

 確かに知っている気がする。

 四角い窓があり、天井の照明の下ではゆらゆらしている丸い飾り物。
 つまり、つり革があった。

 硬いと思ったベッドはやはりというか列車の座席(ボックスシート)のようで、どおりでやけに寝心地が悪いとは思ったが。

(じゃあ、もしかして……電車の中にいるの??)

 一体何のために乗っているのか。

 いや、むしろいつ乗ったのだろう。

 意味の分からず、何処に行くのか分からない列車に。

(自分から乗った? けど、そんなつもりなんかはない)

 一切覚えがないのだから、きっと強制的に乗らされていたんだろう。

 誰かは分からないけれど。

 それには何かの作為的なものが多分あるのだろうが、現時点ではそれすらも分からなかった。

 本当に何も分からない。

 ずっと挙げている左手には何も無かったので、とりあえず窓の方にぼんやりとした目を向ける。

 黒い。
 どこまでも真っ暗闇だ。

 まるで世界が闇に包まれたみたいに。

 カーテンは引かれていないようだが、それでも暗いのはやっぱり今が夜なのだからなのだろう。

 もしくはトンネルの中にいるのか。
 
 そのどちらにせよ。

 どうやら電車に乗り込み、そのまま寝てしまったんだろうと憶測する。

 知らない列車に乗って寝てしまうなんで、自分事とはいえ暢気だと思う。
 本当に。

 それすら覚えていないほど寝入っていたということなのか。

 確かに電車の中って心地よい揺れのお陰ていつもよりもぐっすりと眠れるっていうけど。

(流石にそれはないか)

 通学時に電車を利用していた時だって、たまには寝ることはあったけど、そんな記憶を失うようなことは一度もなかった。

 お酒とか飲んでいるわけでもないからそれは当然なんだけど。

(じゃあ、今のこの状況は?)

 乗り込んだ記憶もなければ、そこで寝てしまうような覚えだってない。

 つまり何一つ分かっていない。

 それは明らかに異常だった。

(……とりあえず起きてみようかな)

 色々考えていたら、ようやく目も頭も冴えてきたみたいだった。
 体にも少し力が戻っていた。

 疑問しかないが、とりあえず今の状況をちゃんと把握しておかないと。

 取り返しのつかないことになったら嫌だし。

(うん、しょっと……!)

 誰かの教えを沿うようにしながら、少女は少し無理くりに上体を起こそうとする。

 固いシートで寝ていたせいか、ちょっと動かしただけでも身体がぎしぎしと悲鳴をあげていた。

 緩慢な動きとは裏腹に心の中では焦りを覚えていた。

 さっきまでぼーっとしていた時間が勿体ないと思うぐらい。

 見たところ時計はなさそうだったので、とりあえず天井を振り仰いでみた。

 灰色がかったドーム状の天井に、これといって特徴のない丸い照明が消えかかりそうな薄暗い光を放っているだけだった。

 少し残念そうに息を吐く少女だったが、そのおかげで自分の輪郭と状況を把握することが出来た。

 やはり、良く知るローカル線の中にいるのだろう。
 多分、少し丸っこい緑のレトロな車両の客車に。

 ただそれはどちらのものかはまだ分からない。

 現実か。
 それとも、違う世界のものか。

 どちらにしてもこのまま寝そべっていたって何も始まらない。

 ただ、見覚えのある車両の中なのは確かだったし、他に何か有用な情報なんかがあるはず。
 
 そう思って周囲を良く見渡そうと思ったのだが。

「ああっ!?」

 偶然にもまた閃光が走る。

 それでようやく蛍は重い口を開けた。

 静まりきった車内で音と振動が木霊する。

 窓から零れた白い光は少女がひとり大きく口を開けている姿を煌々と照らし出していた。

 音と光の競演が矢継ぎ早に終わると、車内はまた静かに薄暗くなる。

 一瞬の出来事に、蛍は虚空に投げ出されたみたいに無力感を感じて起こそうとした上体をぱたっと倒すと、恐々とした表情で天井を見つめながら自分の体をぎゅっと抱きしめていた。
 
「どこなの、ここ?」

 ひとりそう呟いた。

 まだ状況は全く飲み込めないものの、とりあえず視界に認識出来うる何かを入れたくて、蛍はしきりに首を左右に動かす。

 薄ぼんやりとした車両の中はさっきのことが嘘のようにがらんと静まり返っていて、人の気配なんてものはどこかしこにも感じられない。

 まるで電車の形をした棺に乗せられているかのように殺風景であり、少し肌寒い感じさえさせた。

 不意に輪郭さえも消え入りそうな感覚を覚えた蛍は意を決したようにがばっと上体を起こす。

 そして誰も使っていない長い背もたれにまだ重い体を預けた。

「はぁ」

 深いため息が零れる。
 改めて周囲を見渡してみたのだが。

「わたしひとりなの? 何でこんなところに……」

 そう問いかけても、がたん、ごとんと音が流れるだけ。

 それは動いているのか止まっているのか。

 視覚から得られる情報が少なすぎてそれすらも分からない。
 
 感覚的には動いているようには思えるけど。

 それは前なのか後なのか。

 さっき光を放っていた窓は再び暗く閉ざされてしまっている。

 蛍は座席の直ぐ横のガラスに目を配りながら首をひねった。

 そして呆れかえったような溜息をまたついていた。

 誰もいない客車の座席で横になって寝ていたのは確かなのだが。

 それ以外が全く持って分からない。
 
 どういった経緯でこうなってしまったのかが。

 分からないということは──怖い。

 それを良く知っているから。

「やっぱり、他に誰もいないのかな」

 軽く呟いてもみたが、それを肯定するかのように辺りは静まり返っている。

 とりあえず姿勢を正してちゃんと座り直してみたりしたのだが。

「…………」

 ちょこんと座席に腰かける自分の姿が黒い窓に映り込んでいるだけ。
 
 前後左右に首を回してみたが誰の姿も確認できていない。

 垂れ下がったつり革が揺れに合わせてぶらぶらと小刻みにスイングしているぐらいで。

 怖いとかそういう以前にあまりにも不思議な状況だった。

 ただ、全く初めてのことではないからちょっと呆れかえってしまったけど。

 周りがあまりにも暗いからもしかしたら、ここは銀河鉄道の中なのかもとちょっと思ったりもしたのだったが、よく考えたらそんなことはあり得るはずないのだと気づく。

 そもそもそんな資格を持ち合わせていないことは大分前から知っていたのだし、何より実在しないものに縋りついたって意味のないことなのは分かっているのだから。

 妄想を繰り返したところで結果は変わらない。

 期待感が膨らむ分、落胆の度合いが大きくなるだけなのだから。

「……ッ……ピ……ッ! ……ヅ……!!」

「な、何!?」

 急に車内にわけの分からないノイズ交じりの声がどこからから聞こえてきて、蛍はびくっと体を強張らせた。

 急に自分以外の声が聞こえてきて、何が起きたのか分からず蛍は動転したようにきょろきょろと忙しなく視線を動かす。

「何が、起きる……の?」

 蛍は自然と声を潜めていた。

 なまじこういった不条理な現象を知っているから、さまざまな事柄が頭に浮かんでしまう。
 
 何が起きるのかが分からない癖にそれに対して漠然とした恐怖を感じているのだ。

 滑稽なことに。

 もしこれが本当の夢だったとしても、それでも怖いものは怖い。

 蛍がどこかに逃げた方が良いのかと一人やきもきしながら思案している間に、それまで振動を繰り返していた列車の動きが急に止まった。

「……」

 膝の上で握った拳がじっとりと汗ばんでいる。

 まるで磁石で浮いていたようにすうっと停止したので驚く間もなかった。

 あまりに急なことだったので何の心構えも出来てなかったのだが、しばらくすると悪寒のようなものを背中に感じるようになった。

 スムーズ過ぎるということはそれだけで十分異質なことだというのに。

「どこかの駅に停車したのかな」

 そんな暢気な感想を蛍は言っていたがその声は震えていた。

 わざわざ口にしなくともいい事だが、何か言っていないと頭がどうにかなりそうだったから。

 黒しか映さないガラスは停車してもなお暗いままだった。

 駅だとしたら何か照明のようなものがあるはずなのに何の情景さえも写し取ってくれない。

 それでも蛍は窓の縁に手を掛けて切り取られた深淵の中を覗き込んでいたのだが。

「ひっ……!」

 音もなく金属製のドアが一斉に開き、蛍は座席の上で転がりそうになった。

 見渡す限りのドアが両方とも開いている。

 蛍しか乗客は乗っていないのになぜ全部のドアを開く必要があるのだろう。

 心臓がどきどきと鳴り続ける。

(ここで降りた方がいい? それとも……)

 決断は早い方がいいと言われてはいるが、それでも何故か躊躇してしまっていた。

 闇しか映さない所に降りたところで、そこは闇なのではないだろうか。

 だったらここに居たって同じはずである。
 まだ照明が点いているから少しだけマシなぐらいだし。

 でも。

 蛍がまごまごとしていると、開いたドアの隙間から何かの姿を見た気がして、蛍は慌てて口を塞いで前だけを見据えた。

(何? 何なの?)

 自分は何も見ていない。
 そう自分に言い聞かせるように正面のみを視界にいれる。

 だが、見たくないと思えば思うほど見たくなってしまう。

 それは抗えない欲求だった。

(うん……落ち着いて……ちょっと見るだけだから)

 胸中でそう言い聞かせると蛍はそれを確認するべくゆっくりと視界を横にずらししていく。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 ”アレ”に気づかれないように。

 そうする事にはある種の理由があった。

(もしかして、あの顔のない人達なのかも……)

 根拠はなかったがやはりそう思い込んでしまう。

 あの時のように車内には誰も乗っていないわけだし。
 そう考えたとしても不思議ではなかった。

 状況があまりにも酷似していたわけだし。

 あの異変を体験したものならば誰だってそうするだろう。

 だがそれが出来るのは、ここにいる蛍と……燐だけなのだが。

 燐はここには居ない。

 だから蛍一人だけがそうする必要があった。

 誰も居ないわけだから異質とはとられないのだが。

(燐じゃないのなら、誰も乗ってこなければいいのに……)

 ここまできて蛍はそんな事を考えていた。

 明らかに何かの姿を垣間見てしまったのに、まだそんな往生際の悪いことを自分が考えているなんて。

 途中で引き返してくれればと、蛍は僅かな希望に縋っていたのだが。

 それは簡単に打ち砕かれた。

(ああっ!?)

 期待を裏切るように、にゅうっとドアから入ってくる白いものが視界に映り、目を大きく見開く。

 蛍は横目でそれを凝視しながら膝の上でぎゅうっと手を握って身構える。
 いつでも、立ち上がろうとするために。

 もう遅いのかもしれないが、とにかく逃げようと思っていた。

 ただもう少し、何かを確かめたかった。

 何か分かればもしかしたら対処できるかも知れないと思ったからだった。

 それがもし、もっとも会いたくない、あの白い顔の人の成れの果ての姿だったとしても。

(何だろう……あれ……何か、小さい?)

 まだ少し遠くて分からないが、ともすれば埃のようにさえ見える。

 あの顔のない”何か”ではなさそうだが、かと言ってまだ油断はできない。 

 こちらを目指してゆっくりと移動している様に見えるし。

(危害を加える気、なのかな……?)

 つい最悪の考えが頭をよぎってしまう。

 そのせいで蛍は自分で自分を追い込んでしまっていた。

 見えざるものの恐怖が心臓に牙を突き立てている。

(やっぱり逃げよう!!)

 誰も助けるものがいないのなら自分で何とかするしかない。

 蛍は対象と自分との距離を目で確認すると、一番近い左手のドアから逃げようと考えていた。

 ドアの外は何も見えず真っ暗だが、道のようなものはあるはずだ。
 そうでなければあのようなものが入ってこれるはずもないし。

 まだちゃんと”それ”を確認してはいないが、これ以上は危険だと判断した蛍は近づいて来る前にすっと立ちあがった。

 そしてくるりと踵を返すと決めていたドアから出ようと足を前に出す。
 
 その時だった。

「……!?」

 出ようと思ったドアから別の何かが姿を現していたのだ。

 何だかよく分からないが、その姿はやはり白い。

 蛍はなるべくそれを見ないように下を向きながら、急いで出ようとする。

 だが。

「きゃああぁっ!!」

 見ないようにしたはずのそれが何故か足元に居て、小さな身体をぷるぷると揺らしながら蛍の足元に纏わりつくようにしていた。

 とうとう堪えきれなくなった蛍が叫び出そうと息を大きく吸い込んだのだったが。

「あ、あれっ?」

 蛍は大きく目を見開く。

 足元に居たはずのそれが今度は蛍の頭の上の方に移動していた。

 しかもそれは得体の知れない何かだと思ったそれは、ふよふよと浮きながら蛍の上を越して車内に入り込んでくる。

(えっ? 何これ……お魚?)

 確かにそれは小さな魚の形をしていた。

 魚そのものと言ってもいいそれが、空中を泳いでいた。

 危害を加えるとかそういうのは全く関係なく、ほんものの魚のようにゆらゆらとびれを動かしている。

 何が起きたのか良く分からず蛍は瞬きを繰り返す。

 あまりにも予想だにしていない事態に何度も何度も目を擦った。
 
 だが、これらは目の前で起っていることだった。

 宙を浮く魚は蛍のことが目にもくれないようで、空中を浮き沈みしながら勝手気ままにうろうろと車内を動き回っている。

 そして蛍が確認したもう一匹の魚もいつの間にか傍に居て二匹で優雅に空中を泳ぎ回っていた。

 呆気に取られたようにそれを見ていた蛍だったが。

 それが何かようやく分かった。

「……金魚? 金魚が宙に浮いて……いるの!?」

 蛍の目にはそう見えていた。

 一匹は色鮮やかな赤と黒に縁どられた(ブチ)の金魚で、もう一匹は真っ白でヒレの大きな金魚であった。

 二匹とも普通の金魚と何ら変わらないように見える。

 もしこれがとても大きく、ともすれば蛍と同じサイズのものだったのなら、きっと今頃は飛び上がっていたことだろう。

 普通の縁日なんかでも見かける代わり映えの無い金魚がふらふらと列車内に入り込んできただけだった。

 それを追い払うようなことは無論出来ず、蛍は何とも言えない気持ちで優雅に泳ぐ金魚たちの姿を呆然と眺めていた。

 ぱくぱくと無邪気に口を開けている仕草をみるとむしろ愛おしささえ覚えてしまう。

 ただ金魚達が泳いでいるのは水の中ではなく、列車の中。
 しかも空中だったのだから。

 いまの状況は明らかにおかしすぎるのだろうが、そんなことが気にならないほど、蛍はこの小さな金魚の姿に癒しのようなものを感じ取っていた。

 このような可愛らしい異変ならむしろ現実でもあっても良いぐらい。

 そう楽観視してしまうほど、蛍はこの小さな歪みを楽しんでいた。

 だがそんな淡い思いはすぐに消え去ることになった。

 蛍はさっきから視界の奥にちらちらと映るものを見てぎょっとしてしまった。

 二匹だと思っていた金魚が開かれたドアの間から次から次に入ってくる。

「え、ちょっと待って、なんで、そんなにいっぱい入ってくるの……! この子達一体どこから!?」

 蛍が悲鳴のような戸惑った声を上げている合間にも、左右に開いたドアからふわふわと金魚が浮きながら車内に入ってくる。

 それを静止したくとも蛍一人ではどうにもならない。
 
 あっという間に車内は金魚で一杯になってしまった。

 しかもそれはここ以外の車両にも。

 さっきまで蛍以外の人影が無かった列車は宙を泳ぎ回る魚だけで埋め尽くされてしまった。
 
 まるで新しく出来た住処を喜んでいるように、ぽかんとする蛍の目の前でさまざまな色と形の金魚が縦横無尽に空中を泳ぎまわっている。

 色とりどりの金魚たちはひどく殺風景だった車内をまるで回遊するかのようにぐるぐると意味もなく動き回っていた。

 蛍がその有り様に目を丸くしていると、唯一の逃げ場だったはずのドアがやはり音もなく閉じる。

 開ききっていたドアは全て閉じられてしまった。

「あ……」

 今更ながらに蛍はドアに手をかけようとしたのだったが、無情にも列車はまた静かに動き出した。

 狐につままれたような抑揚のない声色で蛍はつぶやくと、固く閉ざされたドアの前で立ち尽くしていた。

 その周りを金魚達がふわふわと素知らぬ顔で踊っていた。

 ……
 ……
 ……

 がたん、ごとん。

 どこの線路を走っているのか不明だが、列車は無数の金魚を乗せたまま、どこかへと走り出してしまった。

 その中で唯一の人である蛍は、先ほどとは違う座席に腰かけて、気ままに車内の中を泳ぎ回る無数の金魚の群れの姿をただ唖然と目で追っていた。

 映る景色と言えばそれだけなのだから当然と言えば当然なのだろうけど。

 まるでステンドグラスを列車の窓に張り付けたように、どこを見ても色とりどりでキラキラとしている。
 
 金魚鉢の中に閉じ込められて、その真ん中から内側を見ているような、何とも不思議な情景だった。

 だがそれは、完全に思考停止と言っても良い状態で。

 自分の存在さえも忘れたように、蛍はその異常な光景を見つめていた。

 それでも不意に頭に浮かんでくることはある。

 例えば、なぜ()()は空中を泳ぎ回れるのだろう、という単純な疑問。

 列車に乗り込んできた金魚たちはすいすいと空中を泳いでいる。
 
 垂れ下がったつり革をおもちゃの輪っかのようにくぐったりして遊んでいる子もいたり、ただ何もせずぼんやりと空中に浮かんでいるだけの子もいた。

 それらは水の中の金魚ならば割と普通の行為だ。

 そう。
 水の中でならば。

(でも、この中は水じゃない。普通に息だってできるし)

 魚の群れに囲まれながらも軽く深呼吸してみせる。

 ほら、大丈夫だ。

 ただ、何となく情けない気になるのはなぜだろうか。

「……」

 蛍が訝し気に眉をひそめていると、小さなヒレをひょこひょこと器用に動かして目の前の空中を泳いでいる一匹の白い金魚をまざまざと見つめた。

(どうやって浮いているのこの子たち……あんな小さな”ヒレ”なんかで空を飛べるはずなんかないのに)

 蛍の知っている世界の常識では確かにそうだ。

 だが、その常識外のことがこの列車の中では平然と起こっている。

 だからここは……”青いドアの家の世界”であり、そこで起きていることなんだと。

 そうでなければ説明がつかない。
 この奇妙な現象の数々は。

(でもこれじゃまるで水槽……ううん、逆なのかな……?)

 あの子たちは多分、水の中からやってきたわけだし、そして列車の周りが水中だとしたら一応は納得できる。

 周りの景色が全く見えないのはそれだけ深い水中を進んでいるということになるし、金魚はそんなに深い所にいる魚ではないから、この中に入って来たのもまあ、大体何とか頷ける。

 だが、そうなると。

「何でドアが開いた時に水が入ってこなかったんだろう……? それにどうしてこんなところを列車が走っているの?」

 色々結論を出してはいるものの、結局は分からないことばかりだった。

 懊悩する蛍をよそに、その頭上を金魚がひらひらと優雅に舞っていた。

 一見するとそれは蝶のようにも見えるのだが。

 だがやはり金魚なのだ。
 何度、目を擦ってみても。

 しかも鳥が啄んでいるみたいにぱくぱくと口を開け閉めしながら飛んでいた。

(星を目指した鳥が金魚になったとかじゃないよね)

 だが、そんな童話みたいなことが目の前で起こっているのだが。

 無数の不可思議な金魚達を乗せた列車は一体どこに向かっているのだろう。

 ライトも照らさず、ずっと真っ暗な道を進んでいるようだし。

 もし自分の仮定したように水中を進んでいるのなら、この先にあるものとその目的は。

 何かの意味があって走っているのだろうというのは分かる。

 だが肝心のところがまだ分からない。

 この先に金魚達の駅や町があり、そこに帰るために乗っている、とか?

(だったら泳げばいいだけだよね?)

 勝手な妄想をする蛍を尻目に、様々な形の金魚はその行先など気にせず車内を平然と泳いでいる。

「でも、何かわたしの周りに集まってきてるような気がする」

 確かに、宙を泳ぐ金魚たちは、唯一の人間を敵対視している様子もなく、むしろ蛍の周りに集まるようにして群れを形成しているように見えた。

 現に、椅子に腰かけている蛍の周りには無数の金魚達が蛍を取り囲むようにぐるぐると一定の距離を保って回っている。

 まるで大きな洗濯機の中で洗われているみたいに。

 ふと、蛍は思う。

「もしかして、わたしの事を仲間だと思ってる? まあ確かに……金魚みたいにひらひらとした服を着ているとは思うけど……」

 やはり服装はあのイベントの時の衣装のままだったので、蛍は少し安堵したのだが、そのせいで金魚が集まっているのだとしたら何とも呆れかえってしまうことになる。

 危害を加えるような気はなさそうだからまあ良いけれど。

 ともかくだ。

(これってやっぱり夢? だってそうとしか思えないよ……こんな変なのは)

 青いドアの家の世界だとしてもこんな変なのは流石に初めてだ。

 意味も目的も、その説明すらもない。

 だから寝る時に見る夢とよく似ているのだと。

 でも、夢とも現実ともつかない出来事には割としょっちゅう遭っているとは思う。

 因果律的なものが働いてしまったのかあの、町が歪んでしまったその時から、普通の日常にも僅かな異変のようなものが何かの折に差し込むようになってしまった。

 正気と狂気が無造作に現れ出でて、ただ翻弄していく。

 実存と概念の無限のサイクルをしているように。

 だからこうして例え列車ごと水の中に落ちていてもそれほど動揺していない。

(それは諦めているとかじゃないけど、まだマシなほうだから)

 少し前に見ていた夢の方がもっと残酷でそれこそ悪夢のようだった気がする。

 ……その割にそれが何だったのか全然覚えてはいないが。

 ただ、首や手の付け根当たりが少し疼くのは一体何だろう。

 むず痒いというか、言いようのない不快感を覚える。

 さっきから何となく息苦しく感じるのはこの不可解な列車と金魚の情景なんかよりも、そっちの方が影響しているせいなのだろうか。

 蛍はすうっと深く呼吸すると、思い立ったように席を立つ。
 
 それに合わせて金魚達も少し動きを変えた。

 蛍はその事に気付かなかったようで、自分の周りを泳ぎ回る金魚を見渡しながらこう思う。

(やっぱり、綺麗……この世のものとは思えないほどだよ)

 縦横無尽に魚が飛び回っているからこの列車を水槽のように比喩したけれど。

 赤や白、斑の金魚が目の前を行き交う光景は、水族館の水槽(アクアリウム)というよりも、万華鏡(カレイドスコープ)の方が近いような気がした。

 こうして中心に立って眺めるとそれが良く分かった。

 様々な形や色、それが黒い窓に映り込み変化していく様は正しくそうだと思う。

 蛍はそれを僅かなときめきを持った目でそれらを眺めていた。

 こういった異変なら悪くないと思うほど、素敵だったのだから。

 だが、そういった兆候のようなものを前にも見たような気がした。

 それが今のこの現象とをすぐに結びつけるものかは分からないが、ここが前と同じ息ができる水の中ではないかと思う。

 そしてその中を走る列車なのだと。

 だが、それが分かったからといって今の状況に説明がつくものではないが。

(それにしたって……何で他の魚はいないんだろ?)

 さっきから車内を見渡してみても他の魚類の姿はない。

 何故、金魚だけが列車内に入ってきたのか。

 一瞬だけ流れた不可解なアナウンスといい、これは金魚の為の列車……?

 流石にそれはないとは思う、が。

 あれっきり列車は沈黙を続けたまま、古い車体をがたがたと車体を揺らしながら走っている。

 客室の中は小さな生命が溢れていたが、その中で蛍だけが床に足を着けながら、一人ぽかんと浮いていた。

 孤独という波に小さな身体を揺られながら。
 どこに流されていくのだろう。

 行きつく先なんてどうせみんな一緒なのに。

 そんな時だった──。

 かんかんかんかん。

 蛍の耳朶に不意に甲高い音が響かせてきたのは。

 我に返ったように蛍は音の方を振り向く。

 中からは聞こえてこない。
 金魚は喋れるわけがないし。

 だったら、やはり。

(──もしかして踏切なの!? そんなものが”ここ”にも?)

 特徴的なその音から、恐らくこの列車が踏切に差し掛かろうとしていると思った。

 蛍は薄くなった大きく目を見開くと。

「ちょ、ちょっとごめんねっ!」

 蛍は透明なヴェールのように空中で漂っている金魚波をかき分けもっとも見通しが良さそうな座席に飛び乗ると、黒いガラスに顔をへばり付かせた。

 電車用の信号の一体なにがそんなに気になるのか、蛍は目の前を通り過ぎる瞬間を待ちわびている子供みたいに、胸の前で無意識に握りこぶしをつくっていた。

 かんかんかんかんかん。

 どんどんと音が大きくなっていく。
 蛍の鼓動もつられて早くなっていく。

 その刹那だった。

 夜よりも暗い、漆黒のガラスの向こうにぼやっとした赤いシグナルが点滅を繰り返しているような様子が見えたのは。

 一瞬の出来事。

 蛍は少し遅れてそれを目で送る。
 
 猛スピードで離れて行く赤い光を寂しそうに眺めていた。

「こんなところにも踏み切りなんかが本当にあったんだ……」

 遠ざかっていく音が車内から完全に消え去った後、蛍は自分に言い聞かせるようにぼそりと呟いた。

 どういう目的の元で踏切(と多分遮断機も)が立っているのかは分からなかったが、常識外の事が色々起きている中、これに対してだけ妙に現実感というか切なさみたいなものを感じとっていた。

 飛び回る金魚なんかよりも良く聞いた警報器の音の方がよっぽと現実そのものを思い起こさせるのだろうか。

 蛍はちょこんと座席に座り直すと、小さく溜息をつく。

 金魚達は踏切に差し掛かっている最中も優雅に泳いでいたようで、何の反応も示してはいないようだった。

(そういえば、さっき見た強い光……)

 ふと、起き抜けのときに何度か見た、矢のように流れる光の軌跡を思い返す。

 あれは恐らく列車同士が通過した後だったのだろう。

 だとしたら他の列車があるということになる。

 ただ、その証明が出たとしてなんの意味があるのか。

 だが蛍は、他の列車が走っていることに少し安堵しているようだった。
 何故だかは分からないが。

「どこまで行くのかな……わたしは」

 戻ってくる列車があるなら終点はあるということだ。

 それを誰かに訊ねてみたいが、周りにはひらひらと揺れる金魚しかいない。

 アナウンスのようなものは目的の駅がまだ遠いのか、上部に付いたスピーカーからは一向に声は流れてはこなかった。

 ただ、もしかしたらあの行けなかった場所──この世界の果ての方まで行くのではないかと思った。

 こじつけかもしれないが、この大群の金魚の光景には微かに見覚えがあったし。

 それはあの時、不思議な水溜まりの中で見た”色とりどりの光の球”とよく似ていたから。

 光の球の群れはどこかに行ってしまったけど、こうして金魚となって戻ってきたとも言える。

 ちょっと、思い込みの強すぎる妄想なのかもしれないけど。

(でも、あの光る球って今思うとお祭りなんかで良くある水の入ったヨーヨーに似ていた気がするんだよね……色とりどりでぷわぷわしてたと感じだったし)

 近くにひらひらした金魚がいるせいだろうか、そんな考えを思い描きながら、蛍は目の前で舞い踊る金魚達を懐かしいものでもみるように微笑みながら眺めていた。

 根拠のない妄想を浸っていると、不意に欠伸が出てしまい蛍はつい大きく口を開けていた。

「ん……なんだろ、急にまた眠気が……」

 再びぶり返した睡魔に蛍は無理くりに口を閉じて噛み殺す。

 とろんとなった目を指で擦りながら、湧きあがった眠気を覚ますようにピンク色の唇をぎゅっと噛んだ。

 この先どうなるか分からないが、せめてその行く末ぐらいは知っておこうと思った。

 今更、足掻いたってもうどうしようもないし、どうせこの列車に運転手なんてものはいないのだろうから。

 このまま電車に乗り続けた挙句、結局最後はどうなるのか。

 それが知りたい。

 誰かの為などではなく、自分でそうしようと決めた。

 このことを伝えようとかそういう使命感のようなものは一切なく。

 ただそうしようと思っただけだった。

「でも、燐……」

 蛍は憂鬱そうに窓にこつんと頭を乗せて重いため息を吐く。

 きっともう会えないだろうけど、あれから燐はどうなったのだろうと思った。

 彼女だけは幸せになって欲しい。
 それだけの資格をもっているんだ、燐は。

 決して届かない思いを心の中でそっと紡ぐ。

 もう口に出すことのない想い。
 届けたくとも届かない思いは一体どこへ行ってしまうのだろう。

 あの時は紙飛行機がそれを伝えてくれた。

 けれど、今は。

 蛍は滲んだ目尻を指でそっと拭うと、少し遠くの方を見た。

 そこでは金魚たちが顔を向き合わせて何か楽しそうな話をしている、そんな風に見えた。

 きっと。

 終点はこの世界の果ての果て。

 全ての終わりと始まりがそこにはあるんだろう。

 でも、以外にも恐れなんかはなかった。

 多分、ひとりじゃなかったから。

 人じゃないけどこの金魚たちも多分、目指すところは同じなのだろうと思う。

 彼らも何かの思いがあってそこへ行くのだろう。
 何にも考えてなさそうだけど。

 でも、生きるとはそういうものだから。

(何もなく生まれて……臆病さで生き抜き……偶然によって、そして死んでいく……)

 蛍の脳裏に不意に浮かんだ言葉に誰かの面影を見た気がしたが、誰かまでは思い出せなかった。

 多分そんなに重要なことではなかったんだと思う。

 記憶とはそういうものなんだから。

「でも……ごめん」

 何に対しての謝罪なのか、蛍は自分の口から出た言葉に驚いていた。

 ちょうどその時、何の気なしに近寄ってきた赤い色の金魚の小さな丸い口を蛍はそっと指で触れようとしたのだったが。

 金魚はさっと蛍の指を躱し自分の進みたい方向へと去っていく。

 拍子抜けしたように唖然となる蛍。

 少しだけ悲しい気持ちになったが、それでいいのだとすぐに思った。

 背を向けて優雅にヒレを動かす金魚に向かって小さく微笑んだ。

 多分、こういう気持ちだったのだろうと思ったから。

 ──燐も。

 だから、許してくれるだろうと思う。

 だって。

「うぐっ……!」

 急にぐらりと頭が揺らぐ。

 列車の振動に頭が揺られたのか、強い眩暈のようなものを感じた蛍は、細かく目を眇めながら長い背もたれにどさっと身体を預けた。

 意識が深い底に沈む瞬間、閃光のような強い光がぴかぴかしながらこちらに向かってくる不思議な現象に襲われて思わず手のひらでそれを受けとめた。

 ぱっと、何かが弾ける。

 天井も座席も何もかもが無くなって、辺りには虚空を漂う金魚だけが残されていた。

 ──沈む。

 上か下かは分からない。

 引かれた方向へと身体も心も沈み込んでゆく。

 散り散りになった意識が集約したのはたった一つの言葉。

 それだけを頼りに蛍はまた深い深い夢の狭間に落ちていく。

 穏やかで落ち着いた場所(ところ)へ。

 だって。

(覚えていても、忘れていてもそれは一緒……なんだから……)

 ……
 ……
 ……

「蛍ちゃん、蛍ちゃん! 大丈夫!?」

 すぐ目の前に心配そうにのぞき込む燐の顔があった。

 蛍は一瞬自分がどこにいるか分かっていないような顔で辺りを見渡す。

 さらさらと静かに流れる水音に、どこかに置き忘れたままの懐かしい情景のようなものを感じとった。

「うん……平気」

 なぜか頬を赤くしてそう答える蛍に燐は一瞬眉をしかめたが。

「急に黙り込んだからちょっと心配しちゃった」

 そう言って燐はぺろりと小さく舌をだした。

「でも……蛍ちゃん、あんまりびっくりさせないでね。何でも話して良いから」

 燐はそっと蛍の首に手を回してぎゅっと抱きしめる。

「燐?」

 何事か分からず蛍はきょとんとするばかり。
 それどころか。

「そういえば燐、何で裸なの?」

 今度は燐がきょとんしていた。

 まさかそんなことを蛍が言ってくるとは思わなかったのか燐はつい噴き出していた。

「くすっ、暑かったから……からかな?」

「じゃあ、わたしと同じだね」

 蛍はそれで納得したのかそれ以上は何も言わず、蛍も燐の腰と肩に手を回してお互いに抱きしめ合う。

 何も遮るもののない肌と肌の触れ合いに、確かな温もりと心地よさを体全体が伝えてくる。

 確かに生きているんだと思った。

「でも、裸なんかよりちょっとは服を着た方がいいんだよ、その方が体温調整し易くなるし」

 そうは言うものの、自分だけ服を着ているのは悪いと思ったのか、燐もまだ下着さえも身に着けてはいなかった。

 やわらかな燐の温もりに蛍は深い安堵の息を漏らす。
 
 やっとたどり着くことが出来た。

「ねぇ、燐、わたし、思い出したことがあるの」

「思い出したって……どんなこと?」

「うん」

 蛍は静かに空を見上げる。

 その黒い瞳が白く輝いていた。

「なんで魚が、苦手だったのかってこと」

 星を散りばめた黒い空に白い月がその顔をまた覗かせていた。

 ──
 ──
 ──




 

「えっとぉ、”銀河鉄道”……だったっけ? 蛍ちゃん、今そう言ったよね」

 

「うん。それに乗ってたと思ったんだけど……」

 

 蛍が口にした言葉に燐は大きな目を丸くさせた。

 

 唐突に言うものだから、それに纏わる童話か創作の話をしているのかと思ったのだが。

 どうもそうではないようで。

 

 蛍は、自分でも変な話をしていると思いながらも燐に夢とも現実ともつかない出来事を話していた。

 

 燐は何でも聞いてくれるって言ってたから。

 蛍はそれに甘えてみることにした。

 

 もしかしたら、この付いた痣ともなにか関係があるのかもしれないし。

 

 ただ何か、とても大事なことがすっぽりと抜けている気がする。

 そんな喪失感のようなものが胸にひっかかっているけど。

 

 話していればそのうち思い出すだろうと思った。

 

「あ、でもね。結局、海底を走っている列車だったみたい。でも……金魚しかいなかったから海じゃなくてここみたいな湖だったのかもね」

 

 ここのダム湖も結構な広さがあるが、あそこは更に広くて深かったような気がする。

 

 その中を列車が走っているぐらいだったし。

 

「ふーん、それじゃあ”水中鉄道”だね。何だか涼しそうで今の時期には良さそうだね」

 

「確かにそうかもね。そういえばその列車の中、金魚で一杯だったんだよ。何か途中で入ってきちゃったみたいなの。しかも何もない所を泳いじゃってた」

 

「へぇー、何か変わってるね、それ。だって列車の中には水は入ってこなかったんでしょ?」

 

「それだったら不思議でも何でもないんだけどね。あ、でもわたしが溺れちゃうのか……」

 

 自分で言って蛍はちょこんと首を傾げていた。

 それを見て燐は苦笑いする。

 

「でも、”青いドアの家の世界”の水溜まりの中なら息ができるんじゃない? あそこの事なんでしょ、蛍ちゃんが言っているのって」

 

「うーん、多分、そうだとは思う」

 

 確信はないけど多分そうだ。

 そうでなかったのなら今の話は全部夢の出来事だと思うから。

 

 自分でも滑稽に思うほど変なことだらけだったから。

 

「んー、じゃあ問題ないのかもね。ついでに蛍ちゃんも一緒になって泳いだら良かったんじゃない。ちょうど夏だし」

 

「それは何かなぁ……水着もないし」

 

 それにあの時の事はそんなに良い思い出がない。

 全身筋肉痛になってしまって、数日間全然動けなかったわけだし。

 

 だが、今思うとあれは、ほんの少しの間だが魚になれたのだと思う。

 

 不思議だったのは、水だったのか自分たちだったのかは分からないけど。

 

「でもなんか、天使みたいかもね。空を飛ぶ金魚って」

 

 燐は蛍の言葉からトビウオみたいに金魚が飛び跳ねている様子を想像して、一度は見て見たいなとは思った。

 

 蛍は困ったように微笑むと小さく首を横に振った。

 

「でも、いっぱいの魚に見られているって、そんな気分のいいものでもなかったよ。確かに燐の言うように小さな天使みたいに空中でひらひらとはしてたけどね」

 

 蛍が手のひらをちょこちょこと動かしてその時の金魚たちの様子を説明すると、燐はまたしてもへぇーと唸った。

 

 それって、水族館の飼育員みたいな感じなのだろうか。

 

 慣れれば何てことなさそうだがいきなりは流石に怖いような気もする。

 しかもその金魚は自分から列車に乗り込み、宙も飛んでいたようだし。

 

 話の上でなら楽しそうに思えるが実際となると……。

 

「何か蛍ちゃん、竜宮城へ行ってきたみたい。玉手箱とかはもらってはこなかった?」

 

「流石に、それは」

 

 燐にそう言われて蛍は少し困った顔になった。

 

 でも、と思う。

 

 確かにあの中では時間の流れは感じなかったから、実際は結構な時間が流れていたのかもしれない。

 

 最後は結局寝てしまったようだから、どの程度の時間まであの電車に乗っていたのかは分からないのだが。

 

(だからって、いきなりお婆ちゃんになっちゃうのは流石にちょっと嫌だけど……白い煙なんか被ってなかった……よね?)

 

 蛍はこそっと湖岸に揺れる水鏡に自身の顔を写し込んでみた。

 

 普通のいつもの顔だと思った。

 首に縄のような跡をつけてはいるが。

 

「あ、それでかぁ」

 

「うん?」

 

 急に燐に尋ねられて少し間の抜けた顔を蛍はしてしまっていたが。

 

「さっき、蛍ちゃんが魚を触るのが苦手って言ったのは。まあ……周りがちょっと変な魚ばっかりだったら流石にちょっとは怖くなっちゃう気がするもんね」

 

(あ……)

 

 蛍は内心ほっとしていた。

 

 気を使ってくれたのかもしれないが、それでも燐が理解してくれたことは素直に嬉しかった。

 

 ひとりでいた時間がやけに長かったように感じられていたから、いつもよりも余計にそう感じてしまう。

 

 少し頬が緩んでしまったけど、変な子と思われてないだろうか。

 

 近くで見られているわけだし。

 

「それで、他にはどんなことがあった?」

 

「えーっと、ねぇ」

 

 燐が続きを促してくれたことに気を良くしたのか、蛍は夏の夜風に揺れる長い髪を手で押さえながら楽しそうに話を続けた。

 

 その隣で、燐は蛍の方を向きながら静かに耳を傾けている。

 

 彼女が向こうの世界の狭間に何を垣間見たのかは分からないが、だが仮に空想の話だったとしてもそれについて茶化すようなつもりはない。

 

 大事な人が自分に向けて話してくれているのだし。

 それに。

 

(わたしだって、同じようなこと……多分、”事象”みたいな事になっちゃったんだから。流石に銀河鉄道には乗らなかったとしても)

 

 かんぺきな世界。

 

 そこに行こうとしていた時もあった。

 いや、確かに行ったと思ったのだが。

 

 結局、行きたいと思った所には行けず、そうではない場所に行きついていた。

 

 それが良いとか悪いとかではなく。

 

 何事も思い通りにはいかないのだというのが良く分かった。

 

 求めれば求めるほどそれは遠ざかるものだし、もう諦めたと思ったことが急に近づいてくることだってあるのだと。

 

 蛍の話がひと通り終わったタイミングで燐はそっと口を開いた。

 

「何か、蛍ちゃんの話聞いてると、綺麗な海のある島にでも行ってみたくなるよ~。最近は夜だって暑くてずっとクーラー入れっぱなししてるぐらいだしさ。海外の、誰もいないビーチのある島なんか良いよねぇ。今すぐにでも避暑に行きたいぐらいだよぉ」

 

「あはは、確かに最近は異常に暑いもんね。今だって裸で大丈夫ぐらいだし」

 

 そう言って少し肩を落とす燐に蛍は苦笑いを浮かべた。

 

 高校の卒業旅行には行けたが、それだって国内だったし。

 

 海外には燐も蛍も一緒には今のところ行けていない。

 その目処すらも立ってもはいない。

 

 今はそれぞれ忙しいから、まとまった時間があまりつくれないのもあるのだろうが。

 

 なんかこう上手くいかない。

 色々と。

 

 燐はそう考えていた。

 

 今だってまだ解決していないことがまだあるぐらいだし。

 

 ついちらりと蛍の首元に視線を落としてしまう。

 

 そのつもりだったのだが。

 

「燐?」

 

 偶然にも燐は蛍と目を合わせてしまった。

 

 きょとんした顔で燐を見つめる蛍。

 

 燐は少しぎこちない笑顔を作ると、小さく首を横に振って肩をすくめた。

 

「あははっ、ごめんね。まあ……今は蛍ちゃんもわたしもちょっと忙しいけど、もう少ししたら多分落ち着くだろうから、その時は海外じゃなくてもどこかに一緒に行こう? わたし、新しい水着とかちゃんと用意しておくからっ」

 

「うん。わたしもその時に備えて何か用意をしておくよ。燐と一緒だったらどこだって楽しいしね」

 

 そう言って蛍はにこっと微笑む。

 

 燐も笑顔を向けると、違う景色でも見ているみたいに蛍の姿を少し遠くに見ていた。

 

(やっぱりあの、首や手に付いた(あざ)ってそう簡単にとれないみたい……いったい何が原因でそうなったんだろう)

 

 蛍が語ってくれた話はどっちかというと寓話的で聞いていて楽しいものだったが、結局、身体についた傷跡とは関係がなさそうだった。

 

 きっと何か、他の要因があるのだと思う。

 

 燐は自然と眉をよせた難しい表情をとっていた。

 

「ねぇ、燐?」

 

 蛍は思い切ってぱっと燐の腕をとった。

 

 燐が振り向くと少し意地の悪そうな顔で覗き込んでいた。

 

「わたしの事……嫌いになっちゃった? さっきからちょっと怖い顔してる」

 

 燐は一瞬きょとんとなったが、すぐに元の顔に戻って言った。

 

「そんなことないよー。もう蛍ちゃん~。倦怠期のカップルみたいなこと言わないで。何かわたしが悪者みたいじゃん」

 

 燐からの抗議を受けて蛍はくすっと小さく笑う。

 

 肩にかかった黒髪を指先でさらりと流すと燐の目を見ながらこう言い切った。

 

「そうだよ。燐がいけないよね。こんな可愛い彼女が傍にいるのにそれを放っておいてひとりで考え事をしてるなんて」

 

 蛍はそう素直に答える。

 燐は流石に面食らった顔になったが。

 

「可愛いって……それって、自分で言っちゃう? それに彼女って……わたしたちそんなんじゃ……」

 

「そんなんじゃない、の?」

 

 じっと蛍が見つめる。

 

 燐はその曇りのない瞳に見つめられて二の句が継げず、愛想笑いを浮かべながら次の言葉を探していた。

 

「じーっ」

 

「ううっ」

 

 何故か蛍は自分でその旨を口にしていたが、それでも燐には効果的のようでたまらず声をあげていた。

 

「だから、そうやってじっと見つめるのやめてぇ! もう、蛍ちゃんはわたしにどうして欲しいのよぉ……」

 

 ただ見つめるだけの蛍に燐はとうとう白旗を上げていた。

 

 蛍に見られていることはやぶさかではないが、こういう状況だと何というか少し圧のようなものを感じてしまう。

 

 目は口ほどに物を言うの言葉は知っているけれど。

 そんなにじっと見つめなくたって。

 

(どっちかっていうと蛍ちゃんは一途だから)

 

 燐は頬を少し赤くしながらそっとため息をついた。

 

「だからさ、燐もいっぱい話してほしい。燐だってわたしと離れている間、色々あったんでしょ? 燐のお話も聞きたいな」

 

 蛍はけろりとした顔でそう言うと、お互いの鼻が当たりそうなぐらいまで顔を近づける。

 

 素肌が密着する面積が増えて、少女の良い香りが鼻腔に届くぐらいになった。

 

 きっと蛍の視界には燐以外の景色は映っていないのだろう。

 

 そう思えるほど、蛍は燐だけを見ていた。

 

「話すって、それはまあいいけど……」

 

 燐は答えとは裏腹に少し目を逸らす。

 

 蛍はそれが分かっていたように、小さく笑顔を向けた。

 

「燐の話したいこと全部言って欲しい。やっぱりその、気になるんでしょ、わたしのこの首のアザのこととか……」

 

 少し顎を上げて自分からその痣を燐に見せるようにする蛍にぐっと言葉がつまった。

 

(蛍ちゃん……)

 

 心配しているのは燐の方なのに蛍の方にばかり気を遣わせてしまっている。

 

 その無償の優しさが燐の心を柔らかい痛みとなってぐさりと突き刺していた。

 

 蛍の純粋さはいつまでも変わらない。

 ずっとずっと綺麗なままだ。

 

 なのに何でこんな傷がついているのだろう。

 

 こんなにきれいな蛍ちゃんなのに。

 

「燐、どうかしたの?」

 

 何も言ってくれない燐を少し訝しく思ったのか、蛍がその大きな瞳で見つめながら声をかけていた。

 

「あ、ええっと、うん」

 

 燐は言葉を濁す。

 

 わたしは助けなくてはならない。

 

 多分苦しんでいる。

 顔には出さなくとも。

 

(けど、わたしに何が出来るんだろう……こんなわたしに)

 

 とても情けなく思ったが無理やりに頭を捻った。

 

 微妙に重ならない二つの鼓動は互いの気持ちのすれ違い、ではなくそれぞれの個性なのだと思う。

 

 同じようで違うから良いんだと。

 

 ぴったり全部同じだったらきっと気味悪く感じるだろうけど。

 ちょっとだけ同じなら受け止められるし共感だって出来る。

 

 それを分かっていたはずなのに。

 

(わたしは、いったい何を青眼鏡でみていたのだろう)

 

 疑う理由なんて、最初からなかった。

 

 今ここに彼女が居て、そして。

 

 ずっと笑顔を向けていてくれる。

 

 それをずっと守ってあげたい。

 

 わたしの望みとはそれなのだから。

 

 ─

 ──

 ───

 

「……」

 

 一度終わったものと。

 これから終わるもの。

 

 そこにどれほどの差があるというのだろう。

 

 きっとこうやって受け継いでいく。

 

 意味のない終わらないループを。

 

 何度も何度も。

 

 ずっと永遠に。

 

(わたしはもうこれ以上燐の手は握れない……例えどんなに心から欲しても)

 

 こんなに近くにいるのに胸が苦しくなる。

 自分から拒否したはずなのに。

 

「蛍ちゃん……?」

 

 さっきまで楽しそうだった蛍の顔色が急に変わったことに燐は不安を覚える。

 

 理由は何となく分かっていたが。

 

 蛍はそんな燐の思惑に気付いていないのか、じっと静かに痛みに耐えていた。

 

 直接、鋭い痛みが走るのならともかく、こうして真綿で首を絞めるように針で刺したようなじっくりとした痛みが首や手足に流れるのはことのほか苦しい。

 

 いっそ楽にして欲しいと思ってしまうぐらいに。

 

 さっきまで我慢出来ていた痛みが急に主張を訴えてきた。

 

 ずっと隠し通せるものだと頑張ってきたけど、それだってもう限界なのかも。

 

「はあぁぁ」

 

 蛍は諦めの混じった吐息を吐く。

 

 だがこうした所で全く楽にならない。

 むしろ痛みが鋭くなってきている。

 

(どうしよう……やっぱり燐に言った方がいいのかな? でも……)

 

 とうとう身体の痛みに耐え切れなくなった蛍が燐にどう切り出したものだろうと難しい顔で思案をしていた時だった。

 

「えっ? きゃあっ!!」

 

 不意に蛍の身体がふわっと浮き上がったのは。

 

 でもそれは。

 

 あの、意思を持った黒髪なんかではなく、もっと柔らかくて温もりのある燐の手が彼女の身体を優しく持ち上げていたのだった。

 

 女の子ひとりの力でそんな事、到底出来るはずないのに。

 

 燐はどうしてそんな事が出来るのだろう。

 

 蛍はそんな疑問を持った目で一生懸命に抱きかかえる燐の顔を見た。

 

「り、燐、危ないからっ! 早く下ろしてっ」

 

「大丈夫大丈夫。蛍ちゃん羽みたいに軽いから、わたし簡単に持ち上げられちゃったよっ」

 

 あわあわとする蛍に向けて燐は声を上擦らせながら平静を装うようににこっと笑いかけた。

 

 その割にはがくがくと足は震えていたが。

 

(これって、やっぱり運動不足なのかなぁ……これぐらいのことは部活の時にはやれてたはずなのに)

 

 高校の頃の部活の練習の時、遊びで部員同士を持ち上げ合うなんてことは休憩のときに良くやっていたはずのに。

 

 正直、蛍を持ち上げている燐の細い手足よりも、負荷がいちばん掛かりそうな腰の方が大変なことになりそうだった。

 

 折れそうとはいかないとしても、腰をやってしまいそうになる。

 

 燐はぐっと腰を上げて少しでも負荷を減らそうと試みる。

 

(ちょっと怖いけど、これなら何とかなりそう……かな)

 

 絶対に落とすような真似はしないけど、これがどのぐらいもつかは分からないが。

 

「もう、燐ってば……」

 

 蛍の方も少し怖かったが、燐が少しでも持ちやすくなるようにその細い首にぎゅっと手を回した。

 

 得てしてお姫様だっこのような恰好をする燐と蛍。

 

 だがこれに何の意味があるのか。

 

 蛍は強がる燐の顔を見て少し呆れたような顔になったが、急にはっとした表情になって唇を片手で押さえた。

 

「ど、どうかしたの蛍ちゃん?」

 

 少し崩れたバランスを元に戻しながら燐が問いかける。

 

 大丈夫だとは思うが、急に片手を離した蛍が落ちてしまわないか心配だった燐は気遣った表情を向けた。

 

 蛍はそんな燐を見て目を大きく見開いていたが。

 

「あ、ううん。何でもないよ……」

 

「そ、そう?」

 

 明らかに繕った顔をしていたが、それ以上燐は何も聞かなかった。

 

「それよりも燐、本当に大丈夫なの? 無理しないでいいからね」

 

「へーきへーき、これぐらいはしてあげないとね」

 

「これぐらいって、何のこと?」

 

 話の意図が見えずに蛍は内心首をかしげた。

 

「だって、蛍ちゃんがちゃんと戻ってきてくれたんだよ。胴上げじゃないけどちゃんとしたお祝い位してあげたいじゃない?」

 

「そんなの……別にいいよ。そんなに大したことじゃないし」

 

「そんなことないよっ。わたしにとっては全然大したことなんだからっ! それにもし……蛍ちゃんが立てないっていうのなら、わたしがこうして立たせてあげる。わたしにはそれぐらいしか出来ないから……」

 

「燐……」

 

 燐の首に手を回しながら蛍は目を赤くしながらその人の名を呼んだ。

 

 今にもこぼれ落ちそうなほど大きな瞳をさらに見開きながら。

 

 本当に愛しいその人の名前を。

 

 燐はぷるぷると脚を震わせながらも、それを諭させないように努めてにっこりと笑顔を向けてた。

 

 声も少し震えていたが、もうそれは仕方がなかった。

 自分でもどうしてこんなことをしたのか良く分かってなかったし。

 

「あっ」

 

 驚いた声を上げて下を覗き込む燐。

 

 不意に顔を覗き込まれたような気がして、蛍も慌ててそっちの方を向いた。

 

 あまりに近すぎて目を合わせづらいのか、少し伏し目がちに蛍が目を向けると、ぱっとした明かりが目に飛び込んできた。

 

「ほらみて、蛍ちゃん! わたしたち今、すっごく輝いてない!? まるでひとつの星みたいに」

 

「えっ!?」

 

 燐にそう言われて蛍は改めて自分の体を見つめる。

 

 裸のまま燐に抱き抱えられた自分の輪郭が確かに白く光っていた。

 

 もちろん燐の体も光で照らされている。

 

 染み一つ無い身体で自分よりも少し大きな蛍の身体を一生懸命に支えているすがたが光に浮かび上がっていた。

 

 まるで良く出来た少女の彫像のように。

 

 けれどそれは、特別そんな不思議な事なんかではない。

 

 レジャーシートの上のLEDの明かりと白い月、それらが二人を上下に照らしているだけだった。

 

 だが偶然にもその明かりはぼんやりとした強い明かりを放っていた。

 

 まるで星が地上で瞬いているかのように。

 

 もしこの場に蛍と燐以外の人がいたのならばきっとこの光景に目を奪われていたであろう。

 

 ただでさえ魅力的な少女ふたりが、幻想的な光を纏って湖岸の前で抱き合っていたのだから。

 

 だが、幸か不幸かここには蛍と燐以外の人間は存在しない。

 

 二人だけの世界でお互いの姿を見て微笑み合っている。

 

 だからなのか、二人はそれほど恥ずかしがることもなく、くすくすと笑い合っていた。

 まるで全てを受け入れるかのように。

 

「お帰り、蛍ちゃん」

 

 何故か出てこなかった言葉を今紡ぎ出す。

 小さく微笑んだ燐が蛍の身体をぎゅっと掴み自分の方に少し引き寄せた。

 

 瞬間、蛍はふわっとした甘い香りに包まれる。

 

 本当に欲しかった温もり。

 それが今、崩れかけた蛍の心と身体にやわらかな心地よさをを確かにあたえていた。

 

 ずっと欲しかったものは今ここに全部あったのだ。

 

「ただいま……燐」

 

 蛍も想いと一緒に燐の首にかけた指を強く握る。

 

 二人の間には月や人工的な光では届かない、小さな明かりが灯っていた。

 

「あのね燐、わたし……わたし、たぶんだけど、死んじゃうんだと思うの」

 

 蛍がまるで日常会話のようにそう呟くから、燐はつい噴き出してしまった。

 

 それがあまりにも可笑しくって。

 

「わたしだってそうだよ。だっていつかはみんな死んじゃうんだよ」

 

 ころころと笑う燐に蛍は触れることなくその話を続ける。

 

「そうじゃなくて今すぐのこと。この変な痕だってそのときに出来たものだと思うの」

 

 蛍は燐の腕に抱かれながら今初めて自分の全身を見渡していた。

 

「もしかして蛍ちゃん、痛みとか、あるの」

 

 そうではないかと思っていたが、聞けずにいた。

 

 でも今の蛍の表情からそれが分かった。

 

「うん……ごめん」

 

 蛍はそう言って俯いてしまった。

 

 黙っていたことを燐に怒られると思ったのか、蛍は足元でまだ淡い光をだしている四角いランタンを黙って見つめていた。

 

「だったらさ」

 

 燐は困った顔で笑うと、何を思ったのか蛍の腹の肉を指でぷにっとつまんだ。

 

「きゃぁっ! 燐、なにするの?」

 

 完全に不意をつかれた蛍は、可愛らしい声をあげて飛び上がりそうなった。

 

「あはははっ、蛍ちゃん可愛い!」

 

 ずっと笑い転げる燐を顔を赤くして見つめる蛍だったが、お返しとばかりに燐の無防備な両方の脇に手をさっと入れると、つるんとした腋の付け根の辺りを指でこしょこしょとくすぐった。

 

「きゃははははっ! ほ、蛍ちゃんすとっぷぅ!! 危ない、あぶないからぁ!!」

 

「えいっ」

 

 燐の静止が耳に入らないのか蛍は細い指をさらに蠢かせて これでもかと燐のことをくすぐる。

 

「やっ、やあぁっ! ご、ごめんっ、わたしが悪かったからぁ~~!」

 

 燐は情けない声をあげて蛍に対して降参の言葉を述べた。

 

「最初にした燐が悪いんだからね」

 

 そう言って蛍はくすっと笑うと、ようやく燐をくすぐるのを止めた。

 

 だが、その手は腋をするっと抜けて燐の小さな背中にまわされる。

 

 月明りに照らされた二人の身体が一つになっていた。

 

「どう? 少しは痛みが治まった?

 

「うん、ありがと」

 

 お互いの体をきつく抱きしめる。

 

 柔らかい温もりが触れ合う感覚に、痺れのようなものを全身に感じていた。

 

「ねぇ、燐どうしてこんなことをしたの? やっぱり重いでしょ、わたし」

 

「だからそんな事はないって、蛍ちゃんは軽いし柔らかいしそれに……」

 

「それに……なに?」

 

 燐は顔を赤くすると、蛍から目を逸らして白い月を振り仰いだ。

 

 ぽっかりと浮いた月は端の方が少し欠けているようだった。

 

「何かさ、連れて行っちゃうような気がしたの」

 

「連れて行くって? もしかして月のこと?」

 

「うん。蛍ちゃんやっぱり綺麗だから」

 

 振り向いて燐が微笑む。

 

 それを受けて耳まで赤くなる蛍。

 

 何か言いたいことがあるのか、小さく唇を開くと燐の前で少し体をもじっとさせていた。

 

「燐……わたしね……」

 

 蛍が意を決して話そうとしたのだったが。

 

「ごめん蛍ちゃん。もう限界~」

 

「ちょ、ちょっと燐」

 

 燐が急に力のない声を上げたと思ったら、よろよろと身体を崩して蛍の身体をシートの上にぺたんと下ろした。

 

 強い衝撃が無かったから特に痛みはないけど。

 

「燐っ、大丈夫?」

 

 座り込んだ燐に蛍は肩をゆすって呼びかける。

 

「う、うん……大丈夫、だと思うよ」

 

 燐はどこか痛くしたのか、少しひきつった笑みで小さく笑っていた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「燐、本当に大丈夫なの、どこか折れたりしてない?」

 

「あ……うん、大丈夫……だよっ……んっ」

 

 蛍はうつ伏せになった燐の体を擦っていた。

 そんな燐は吐息交じりの声で蛍の呼びかけに答える。

 

 何だか艶めかしい声を上げているようだったが、蛍の行っているのはただのマッサージだった。

 

 蛍の身体を持ち上げたのまでは良かったが、日頃の無理がたたったのか燐は腰の痛みを訴えてきたので蛍がマッサージしてあげているのだが。

 

「はぁ、わたしももう歳かなぁ……こんなんで音を上げちゃうなんてねぇ……」

 

「歳って……卒業してまだ2年も経っていないよね?」

 

 蛍は困り顔でマッサージを続けた。

 

「それでも歳は歳だよー。あー、あの頃に帰りたいなー」

 

「燐ってば子供みたい」

 

 くすっと笑って蛍はちょっと強めに燐の細い腰を肘で押す。

 

「あいたたたたっ! ほ、蛍ちゃん! わたしの腰……折れる、折れちゃうぅぅ!!」

 

 ばんばんとシートを叩く燐に蛍はくすくす笑いながらマッサージを熱心に続けた。

 

 うんしょっ、うんしょっ。

 

 燐にやってもらったことはあったけど、自分が燐の身体をマッサージすることになるなんて。

 

 稀にもないことだから結構頑張ってやってしまう。

 

 だからか余計な力が加わってしまい、ときおり燐は眉をしかめることもあったが、それでも一切文句は言わなかった。

 

 燐だって蛍が一生懸命なのを知っていたし、やっぱり嬉しかったことだったから。

 

 好きな人にしてもらうことは何だって嬉しい。

 例えそれで傷ついたとしても。

 

 いつか分かるだろうと思っているから。

 

「それにしても燐ってこんなに華奢だったっけ? ちゃんと、ご飯は食べてるよね?」

 

「うん。三食ちゃんと食べているよ。それは蛍ちゃんだって分かってる……ことでしょっ……あううう……」

 

 腰を肘でぐりぐりされると少し情けない声で燐は返した。

 

 それがまた面白く、燐が変な声で反応するたびに蛍はくすくすと笑みをこぼした。

 

 ぐりぐり。

 ぐりぐり。

 

「うーっ、ふみゅ……むぐーっ」

 

 腰や背中に蛍が力を掛ける度に猫とも犬ともつかない鳴き声を出す燐。

 

 本当に動物にマッサージしてるみたいだなと蛍は思う。

 

 小さくて柔らかいし。

 可愛らしい声色で鳴いてもくれるし。

 

 だけど。

 

(燐は、こんなに細い体でわたしの事を持ち上げてくれたんだよね)

 

 本当に凄いと思う燐は。

 

 自分が何をしてもかなわないと思うぐらい、燐は何でもできるから。

 

 それは大学へ進学しても変わらない。

 

 まだ将来の事は全然決まってないと本人は笑って言っているが、ある程度の目処が立っていることを知っている。

 

 そしてその目標は自分ではまず到達することの出来ない、とても尊いものだということも知っている。

 

 燐だからこそ出来るものだということも、だ。

 

 そう、何でもテキパキできるし本当にしっかりしている。

 

 ”込谷燐”はいつだってそういう女の子だった。

 

 けど、嫉妬なんかはしたことがない。

 むしろそんな燐を誇らしく思う。

 

 繊細な心を隠しながら誰よりも頑張る燐が大好きだから。

 

 そんな”燐”と知り合えた奇跡。

 

 それは偶然のようであり、多分必然だったんだと思う。

 

 わたしに足りないもの。

 それを全部燐は持っていたから。

 

 けれど。

 

(わたしは燐に一体何をしてあげることができるんだろう……)

 

 ずっとずっと、考えていること。

 

 でも答えは未だに出ない。

 

 燐は何だって出来るし、自分は今だってできない事だらけだったから。

 

 コレ! って言うのが無い状態が何年も続いている。

 

 だから写真なんかもちょっとやってみたんだけど……。

 

「…………」

 

「?」

 

 急に疲れたようなため息をつく蛍に燐は振り向いて首をかしげた。

 

「大丈夫、蛍ちゃん。もしかして疲れちゃった? わたしの方はもう平気だよ。蛍ちゃんがマッサージしてくれたおかげで大分楽になったと思うから」

 

 これ以上は負担になると思ったのか、燐が立ち上がろうとする。

 

 我に返ったようにはっとなった蛍は、上体をあげようとした燐の腰を両手で思いっきりぎゅっと押し戻した。

 

「ふみゅうっ!?」

 

「あ、ごめん! 燐、大丈夫?」

 

「う、うん。だいじょぶ……」

 

 燐は引きつぶされた蛙のようにだらんと両手を伸ばしながら、少し無理して笑顔をつくっていた。

 

 そんな燐に蛍は両手を合わせて謝る。

 

「ごめん。ちょっと考え事してただけだったから。本当にごめんね、燐」

 

 そう言って蛍はもう一度燐に謝った。

 

 燐は目を丸くすると、両手を顎の下に置いてまるで独りごとのように呟いた。

 

「蛍ちゃんのマッサージ、折角気持ち良かったからもうちょっと続けて欲しいなぁー。延長料金支払ってもいいからっ。なんて」

 

 やや演技がかった言葉を吐く燐に、蛍は呆気に取られていたのだったが。

 

「えっと、燐。続けてもいいの?」

 

「うん。もちろんだよ。あ、でもぉ……ちょぉっとだけ手加減してね。蛍ちゃんって意外と力があるから」

 

「そう、かな? 自分では全くそうは思ってないけど……」

 

「ふふっ、結構パワーあるんだよ蛍ちゃんは。そーゆーところは伸ばしていってもいいと思うよ。パワー系女子路線も意外にありだと思うー」

 

「……そうなんだ」

 

「どうしたの?」

 

「何か……燐に言われるとすぐその気になっちゃうなって、わたしってただ、単純なだけなのかな」

 

 蛍は自問するように言うと少し肩を落とした。

 

 急に動きを止めてしまった蛍を燐は不思議そうに横目で見ていたのだが。

 

「蛍ちゃん早くぅ~。わたしだって裸でこの体勢は流石に恥ずかしいんだよぉ~。蛍ちゃんに大事なところ全部見せちゃってるしぃ」

 

 そう言って足をバタバタとさせる。

 

 駄々をこねるような仕草をとる燐に、俯いていた蛍はビックリしてしまった。

 

「でも、燐。わたし……」

 

「くすっ、大丈夫だよ」

 

 顔を向けてにっこりと笑う燐。

 

「わたし、からかって言ってるんじゃないからね。それだけ蛍ちゃんにはいろんな才能があるってこと。だからもっと自信もっていいからっ」

 

「それはわかってる……うん。ありがとう燐」

 

 自分では気づかないことをそれを分かってくれる人がいる。

 

 それが本当に好きな人なんだろうと蛍は今、そう思った。

 

「じゃあ、もうちょっと続けてみることにするね。あ。燐、痛かったらちゃんと言ってね」

 

 蛍は指の腹を使って燐の背中から腰にかけてのラインを重点的にもみほぐす。

 

 それは燐の予想よりも強い力だったので。

 

「ほ、蛍ちゃんっ! わたしっ、手加減してって言ったよね?」

 

 さっそく痛みのようなものを言ってくる燐。

 再度確認をするように蛍に問いかけたのだが。

 

「うん。だから手加減しながらじっくりと燐の体をほぐしてあげる。ちゃんと隅々までね」

 

「い、い、いやーっ!!!!!」

 

 燐の断末魔の叫びが静かな夜の湖畔に木霊していた。

 

 その声に驚いたのか、木の影からじっと様子を窺っていた二匹(つがい)の獣はガサガサと微かな葉音を立てながら漆黒の森の奥へと消え去っていった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「はふぅん……」

 

 奇妙なため息を一つ吐くと、燐は腰に手をあてて、ゆっくりと左右に回す。

 

 ズキズキとした痛みもなく、腰を伸ばしたりしてもぎこちない感じはない。

 

 心配していたようなものは特になさそうだった。

 

「……うん。大分マシになった気はするね。ありがとう蛍ちゃん。蛍ちゃんの献身的なマッサージのおかげだよ」

 

「ふふっ、どういたしましてだよ。燐が元気になって本当に良かった」

 

 燐はぺこっと頭を下げる。

 蛍もぺこりと頭を下げ返していた。

 

「でもね、燐」

 

 蛍は少し真面目な顔で言う。

 

「やっぱり無理をしちゃダメだと思う。もし、腰をやっちゃったらしばらく動けなくなるって良く聞くし」

 

「わたしも、それは良く分かっているんだけどねぇ」

 

 確かに、何であんな無茶をしてしまったんだろうと自分でも思う。

 

 部活もそうだが、トレッキングの時なんかでも散々言われたことでもあるから、燐だって良く知ってはいることではあった。

 

 あの頃に比べて運動量だって落ちていることぐらい知っているのに。

 

「ねぇ、燐。まだ横になっててもいいから、もうちょっとここにいよう? わたしもずっと付き添ってあげるから」

 

 難しい顔をしている燐に蛍がそっと声を掛ける。

 燐は顔をぱっと戻すと蛍に向かっていつもの笑顔を向けた。

 

「もう大丈夫だと思うよ。痛みも残っていないし、やっぱりマッサージが効いたんだと思う」

 

「そう? なら良かった」

 

 蛍はほっと一息つく。

 

 あんな事で怪我なんてさせたら、本当に申し訳なくなってしまうし。

 

「それよりもさ、蛍ちゃん」

 

 燐が裸のまま顔を覗き込んでくる。

 

 考えて見たら二人共ずっと裸のままだ。

 

 まあ、裸の方がマッサージし易かったからそれは良かったのかもしれないけれど。

 

「うん? どうかしたの?」

 

 蛍は妙に意識してしまったのか冷静な言葉とは裏腹に、耳まで真っ赤になっている。

 

 何かを期待している。

 とかではないと思う、多分。

 

 実際、燐もそういうつもりは無いみたいで。

 

「蛍ちゃんのさ……体の方の痛みの方は大丈夫なのかなって……さっきまですごく痛がってたみたいだから」

 

「あっ」

 

 燐にかかりっきりになっていたせいか、自身の体の痛みの事をすっかり忘れていた。

 

「えっと」

 

 蛍は胸に手を当ててみる。

 

 脈拍はさっきよりかは落ち着いてる。

 でも肝心の痛みは……。

 

 ……何となくだが、少し痛みが和らいでいるような気がする。

 またすぐにぶり返しそうな気配もするけれども。

 

 だが、そこはまでは口に出す必要はない。

 これ以上、余計な心配を燐はかけられないし。

 

(だけど……)

 

 燐が心配そうにこちらを見ているのは目を閉じていても分かる。

 

 これ以上黙っておくことはもうできないと判断した蛍は、とりあえずさっきのことを燐に聞いてみることにした。

 

「今のところは、大丈夫みたい。そういえばさっき薬みたいなのがあるって燐、言ってなかったっけ? もしあるなら塗ってもらったりした方がちょっとはいいのかも」

 

 それは隠さずに言った。

 

 どうしたって燐に迷惑をかけてしまうのなら、すっぱりと話した方が少しは楽になると思うし、何か対応策みたいなものに繋がるならと思ったからだった。

 

 だが、求めていた燐の答えは蛍の予想とは違って何故か歯切れの悪いものだった。

 

「あー、薬ねぇー。ううーん」

 

 燐は急に気まずそうな顔になっていた。

 

 燐の様子が変わった事に蛍は内心首を傾げる。

 何でだろうと。

 

(そういえば……)

 

 燐が何かの薬を持ってきているのなら、マッサージなんか頼まずにそれを使えば良かっただけなんじゃないだろうか。

 

 蛍は今更ながらにそう疑問に思った。

 

(じゃあ燐は本当は持ってこなかった? だったら何であんなことを)

 

 蛍が不思議そうな顔で小首をかしげて考え込んでいると。

 

「えっと、大丈夫、ちゃんと薬はあるから」

 

 蛍の懸念を感じ取ったのか燐はあっけらかんと言った感じでそう言ってくる。

 

「……燐?」

 

 何かを感じとったのか、燐が顔を近づけるのと同時に蛍は腰を少し引いていた。

 

 ちょっと怖いというか、今の燐からはいつもと少し違うものを感じたからだった。

 

「蛍ちゃん」

 

 ぺろりっ。

 

「ちょ、ちょっと、燐!?」

 

 燐が顔を近づけてきたと思うと、座り込んだ蛍の首筋にピンク色の舌を這わせて痣のあるところを舐めてあげてきたのだ。

 

 全く予想だにしていなかったことをされて、蛍は大きく目を見開いて燐の事を見る。

 

 まさかとは思った。

 さっきとは少し声色が違うとは思っていたけど。

 

 慌てて後ずさりするも、その手を燐にしっかりと捕まれる。

 

 そんなに強い力ではないけれど、何故か有無を言わさぬような、少し強引なものを燐のその手から感じ取っていた。

 

「……っ」

 

 燐にぎゅっと手をつかまれると蛍としてはもう動けなくなってしまう。

 それに悪気はないことを知ってるから。

 

「動かないで蛍ちゃん、わたしがちゃんと癒してあげるからっ、ちゅっ……」

 

 燐は蛍の耳元で囁くと、柔らかい唇を首筋に押し当てて、囲むように広がっている黒い痣の部分を口で吸った。

 

「んんっ……!」

 

 刺激に蛍が吐息を漏らす。

 

(何、これ……むずむずして……何か、変な感じ)

 

 蛍は未知の感覚に身もだえする。

 

 燐はその反応に良くしたのか、上目遣いに蛍の顔を見つめると少し強めに舌で舐め上げた。

 

「ん、ちゅぷっ……ちゅっ、ぺろっ……」

 

 燐は余計な事は一切考えずにただ一心に舌を動かす。

 

 その動きは蛍の傷を癒すと言うよりも何か別の目的があるみたいに熱のこもったものだったから、たまらず蛍は口元を手で押さえていた。

 

 意図しない変な声が口から漏れそうになっていたから。

 

「ね、ねぇ……り、燐……そんな、こと……しなくて、いいからぁ……!」

 

 蛍はそう抗議の声を上げるも、本気で嫌がるような素振りは見せていない。

 

 むしろ所在無げに宙をかいていた蛍の左手を燐がぎゅっと握ってくれてたことに安堵してしまったぐらいだったのだが。

 

 燐の手に違和感を感じた。

 

(あれっ? もしかして……燐も緊張してる、の……?)

 

 燐に手を握られたとき、自分の手が震えているのかと思ったが、確かに燐の手が震えていた。

 

 強く握るとそれが良く分かる。

 

 確かに手のひら全体が小刻みに震えている。

 それに少し汗をかいているのか湿り気も感じる。

 

 けれど燐はそんなことはおくびにも出さずに瞼を伏せて好意を続けていた。

 

(燐だって、怖いはずなのに……)

 

 そうまでする意味があるのだろうか。

 蛍にはそれが分からなかった。

 

 その想いの程が知りたくて、蛍は瞳を滲ませながら燐の事を見つめる。

 

 首を舐めているからか、ここからでは頭しか見えないが。

 

(あっ)

 

 ふと、燐と目があってしまう。

 想いが通じたのだろうか、そう蛍は思ったのだが。

 

「すごく綺麗……今の蛍ちゃん。このまま全部食べちゃいたいぐらい」

 

 燐はその言葉の通り、かぷっと蛍の首に噛みついた。

 

 無論、歯を立てるようなことはせず、蛍の白い首筋を口の中で包み込むようにしながらはむはむと、あたかも食べているみたいに唇と舌を上下に動かしていた。

 

「も、もぉっ……っ!」

 

 そういう事じゃないのに。

 

 燐に理解してもらえず蛍は胸中で不服を訴えたが、痛みとも快楽ともつかない感覚に燐の手を握りしめながら身悶えする。

 

(燐の気持ち、を……知りたいだけっ……なのにっ……)

 

 じれったくなったのか、蛍は燐の手をぐっと握りながらその手を強引に自分の左の胸に乗せた。

 

「……!」

 

 不意に手がむにゅっとした柔らかいものに包まれる。

 

 燐は再び顔をあげて蛍の方を向いた。

 

 どくんどくん。

 蛍の豊かな乳房のその下で、心臓が早鐘を鳴らしているのが燐の掌越しに伝わる。

 

 それでようやく蛍が何を伝えたいのかを理解することができた。

 

 蛍の方を見ているつもりで実際は何も見ていなかったのだと。

 

「あのっ、蛍ちゃんっ」

 

 まざまざと燐はその顔を見つめる。

 

 あどけない、まだ少女のままの瞳で。

 

「……燐」

 

 どくんどくんどくんどくん。

 

 改まって見つめられるととても恥ずかしい。

 変な声なんかもいっぱい聞かれちゃっているし。

 

 でも。

 

 今の正直な気持ちを伝えたいから。

 

「わたしだって、すごく緊張してるんだから……燐と同じで」

 

 自身の胸に燐の手を押し付けるようにしながら、蛍は精一杯の顔で微笑み返す。

 

 燐は急に熱が冷めたようにはっとなると、少し視線を逸らしてぼそっと呟く。

 

 蛍よりも顔を真っ赤にさせながら。

 

「ごめん、わたし……こういうのしたことがなくって……」

 

 燐の告白に蛍は意外そうに首を傾げる。

 

「そうなの? 燐はそういう経験があるんだと思ってた」

 

「そんな事はないけど……あ、もしかして。蛍ちゃん、わたしのこと遊んでるって思ってた!?」

 

「うん。ちょっとだけ、うふふ」

 

 もう、と拗ねた顔で口を尖らせる燐に、蛍は困った顔で微笑んでいた。

 

 ついさっきまで少し怖い顔をしていた燐がいつもの調子に戻った事に蛍はちょっとだけ安堵していた。

 

(燐、別人のようだったもん……けど、何だろ?)

 

 胸のドキドキが収まらないのは。

 

 疼きが……止まってくれない。

 

 むしろ強くなっている気さえ、する。

 体の内側が脈に合わせて甘い疼きを訴えてくる。

 

 まるで、もっとと言っているみたいに。

 

「あ、あのさっ……蛍ちゃん……」

 

 上目づかいで見ながらおずおずと燐が訊ねる。

 蛍は夢見心地のような目で燐を見ていた。

 

 さっきよりも息が荒くなっている気がする。

 燐はそう思ったが、構わずに聞いてみることした。

 

「そのっ、まだ、これ以上しても……大丈夫? もし嫌だったらすぐに言って欲しいの。わたし、蛍ちゃんの嫌がる事したくないから」

 

 燐はそう言って蛍の胸の上に乗せられたままの手を解くと、今度は蛍の手首に舌を伸ばした。

 

「えっ、燐?」

 

 蛍は驚いて燐に何か言おうとしてたのだったが、燐がまるで子犬のように自分の手の付け根辺りをぺろぺろと熱心に舐め回すものだったから、つい言葉が止まってしまった。

 

 言葉の代わりに開いた手で燐の髪を優しく撫でる。

 何だか変な光景だと思った。

 

(犬っていうか、”サトくん”と遊んでるみたい)

 

 ぺろぺろ、ちゅうっ。

 

 燐の小さな舌が蠢くたびに、蛍は内心そう思ってしまう。

 

 ──蛍は長い事サトくんの姿を見ていない。

 

 ”幸運をもたらす白い犬”の話はいつしかあの町であまり聞かなくなってしまった。

 

 一説ではどこかへ別の場所に行ってしまったとか、あるいはもう死んでしまったとか色々言われていたが、実際に見ていないのだからどれも分かりようがなかった。

 

 もしかしたら燐なら何か知っているのかもと思い、後で聞こうとしていたのだが。

 

(はうっ……燐……サトくんっ……!)

 

 ピンク色の舌が這いずり回るたびに意識が白くなる。

 

 甘美な痛みを伴いながら。

 

 燐も奉仕からくる快楽のようなものを感じ取っているのか、蛍と同じく息づかいがどんどんと荒くなってきていた。

 

「んっ……蛍、ひゃん……そっちの手も、じゅる……出して……」

 

 燐にそう懇願され蛍は燐の頭を撫でていた手を放し、両手を揃えて燐の前に差しだしていた。

 

 とてもいけないことを燐にされている気がして、蛍は頬を紅潮させながら、恥ずかしそうに顔を横に背けていた。

 

(何かこうしていると燐に拘束されているみたい。黒い鎖に繋がれているみたいに……)

 

 蛍が両方の腕を反対側にしてぴったり合わせると、確かにそこには黒い一本の線が出来ていた。

 

 その痛々しい様子に燐は胸が張り裂けそうになったが、それでも舐めることは止めないらしく蛍の顔色を窺いながらぺろりと舌で舐める。

 

「ひゃあぁっ!」

 

 ぞくっとした刺激に蛍は小さな叫び声をあげる。

 

 だが、強い痛みを覚えたという訳じゃない。

 

 むしろ、甘く痺れるような、ちくっとした痛みが電流みたいに身体全体に広がって、蛍の脳裏に甘い痺れを起こさせていた。

 

(わたし……気持ち、いい……の? こんなの……が……?)

 

 まだ良く分からない感覚。

 

 首が舐められた時もそうだったが、燐が何かをするたびに動悸が早くなっていく。

 

 吐き出す熱い吐息が止まってはくれない。

 

 針で刺されたような鋭い感覚と綿毛で包まれているような甘い快楽が交互に身体を襲ってくる。

 

 そういう体質なのかと自分自身を疑ってしまうぐらい。

 

 燐は、蛍の反応を見ながらぺろぺろと強弱をつけて蛍の手首に付いた黒い痣の上で舌を転がしていた。

 

 舐めるだけじゃない、吸い取ったり、軽く歯の先端をあてたりもして、動きに緩急をつけていく。

 

 それは、付いた汚れを落とすと言うよりも、絡みついた糸を優しく解くような繊細な舌づかいだった。

 

 手首に落ちた水を舐めとるように、丹念にその痣を舌でなぞる。

 

 穢れた鎖を断ち切るような激しい感情は胸に秘めたままで。

 

 癒すというよりも愛撫に近いであろうその行為に、蛍は唇を軽く噛んで耐えていた。

 

「あ、あっ……り、燐! りん……ん、んんっ!」

 

「んっ、ちゅっ……ほたる、ちゃん……ちゅう、じゅるっ」

 

 裸の体を寄せ合いながら艶めかしく嬌声を上げている二人の少女の姿が、黒い大きな水鏡に映り込んでいた。

 

 全てが死んだように静かな夜の中において、燐と蛍の声だけが唯一のものであるように。

 

 止むことなくそれは続けられていた。

 

(わたし……どうしてこんな事してるんだろう……?)

 

 燐だってさっきから頭では分かっていたが、自分でもその行為を止めることができない。

 

 止めるだけの理由が頭に浮かんでこなかったんだと思う。

 

(きっとわたし、怖いんだ。それを忘れるために蛍ちゃんに一方的に思いをぶつけているだけ)

 

 蛍が向こうの世界(かんぺきなせかい)へ向けた言葉を呟いたとき、燐は言い様のない不安を感じた。

 

 それは蛍という存在だけでなく、この世界自体のことにも。

 

 そう。

 

 ──もう、にどと朝は来ないのではないだろうか、と。

 

 あの時だってそうだったから。

 

 夜が来れば朝が来る。

 当然だと思っていたことがあの日には起きなかった。

 

 代わりに出てきたのはあの、顔のない白い人影の群れ。

 

 町の住民の成れの果てのようだったけど、それだっておかしすぎる事象だった。

 

 あれに至るまでのプロセスが未だに全く分からない。

 

 そう、分からないと言うことは──怖いんだ。

 とても。

 

 今だって果たして町は自分たちの知っている町のままなのかは不明なのだし。

 

 このまま町に戻ったらあの時の歪んだ夜の日が再現されているとも限らない。

 

 もう終わったと思った奇妙な現象がまた起き、それが立て続けに起こってしまったとなると、臆病じゃなくともやはり疑ってしまうのは当然だろうと思う。

 

 そして多分、”座敷童”というのは人を指しているのではなく……。

 

(あの町そのものが”座敷童”なんだと思っているから)

 

 きっと終わりようがない。

 

 幸運もそして、不幸も。

 

 それが先か後かというだけで。

 

 ずっと繰り返し続けるのだろう。

 

 何度も何度も。

 

(蛍ちゃんについている”コレ”もきっとそういう類のものなんだろうと思ってる。だから)

 

 運命とか宿命とかでこういう”酷い痣”が付いたのなら、それを取り除いてあげたい。

 

 例えどんなことをしてでも。

 

 傷つけてしまったとしても。

 

 ぺろっ、ぺろっ。

 

 燐は蛍の両手を逃げ出せないようにしっかりと手で掴みながら、細い首と手首の痕の両方を、それぞれ交互に舐め回した。

 

 臭いを嗅ぐようにして鼻を押し付けながら舌を必死に動かす。

 

 ぴちゃぴちゃと自分の発する水音がやけに大きな音となってに耳に届くが、あえてそれに蓋をして舐めとる行為だけに集中する。

 

「こうしてれば……うちゅっ……少しは、ちゅっ……気が紛れるからっ」

 

 燐は独り言のように呟いていた。

 

 あの町はどうなっているかは分からないが、ここだけは何も起こっていない。

 

 そう、せいぜい僅かな異変というか、裸の少女二人が真夜中の湖岸で折り重なって吐息を吐いているだけのことが起きているだけだった。

 

(わたしが今やっていることは現実? それとも夢……?)

 

 自分が分からなくなりそうになる。

 

 夢にとらわれ過ぎない方がいいとずっと前に言われたことがあるけど。

 

 それはどっちも同じだと思う。

 

 どちらかに固執し続けるから戻れなくなってしまうのだと。

 

(じゃあわたしは蛍ちゃんという夢に囚われているんだね……本当に欲しかった甘い夢に……)

 

 燐は唇を蛍の窄まった臍に這わせる。

 

「り、燐っ……そこは……はうっ!」

 

 そのまま一気に足首まで舌を這わせようとしたのだが、つい可愛かったから唇をちょんとつけてしまった。

 

 そこは不思議と樹の蜜が滴っているような甘い香りがした。

 

 ぺろりと舐めると蛍は背筋をのけぞらして可愛らしい喘ぎ声をあげる。

 

 まるでそこが性感帯であるかのように。

 

(このまま溺れたっていい、もしこのことで二人の関係が壊れたとしても、わたしは全然構わない……)

 

 後悔なんてものはもう頭にはない。

 

 ずっとずっと、奥深くまで沈み込みたかった。

 

 どこまでもどこまでも。

 

 ”三間坂蛍”という少女の中の奥にまで。

 

 暗く透明な意識の底に。

 

 たとえもう、戻れなくなったとしても。

 

 それはきっと本心で求めていたことだったのだから。

 

「わたしがこの痕……全部消してあげる……綺麗な蛍ちゃんの肌にこんな酷い痣なんかは似合わないもん」

 

 そう言って燐は蛍の足首に付いたミミズのような黒い痣を舐め回した。

 

「燐……そんな所……汚いよっ……ううっ……」

 

 蛍は薄く瞼を開きながら、また月が隠れてしまった事に小さく感謝をする。

 

 見られていたらきっと恥ずかしかったし、それにこんな姿、誰にも見せたくはなかったから。

 

 燐だけにしか見せない、二人だけの時間を。

 

「んんっ……」

 

 燐に舐められたところが甘く痺れる。

 蛍はくすぐったそうに少し身をよじった。

 

 それを逃がさないように燐は蛍の脚を両手で抱え上げをぎゅっと掴みながら丹念に足首を舐めまわす。

 

 拭き取るというよりも毒素を吸い上げるように唇をすぼめて、蛍の両方の足に何度も唇の雨を降らせた。

 

(燐、わたし……心臓が……パンクしちゃうよ……胸のドキドキが、ドキドキが強すぎて……)

 

 それでも蛍は燐の行為を受け入れていた。

 

 同情とかではなく、確かな愛情を感じ取っていたから。

 

 もしかしたら欲情もあったかもしれない。

 

 ずっと奥深くに隠しておいた、自分すらも自覚できていない秘めた願望が、不意に表に出てきてしまったのかもしれないと。

 

(わたしはっ)

 

 そう理解した瞬間、心の中でぱっと火花のような熱い想いが湧きあがるのを感じた。

 

 文字通りぱあっと胸の奥から全身に向かって一気に広がって、さあっと跡形もなく消えてしまうものかもしれない、衝動的な想い。

 

 例えそれでも良かったのだ。

 

 この瞬間だけは、自分の意識を燐だけにしておくことができるから。

 

 だから、独り占めできている。

 

 彼女の母親でも無論、”彼”なんかでもなく、自分が全てを独占していられる。

 

 もし、幸福というものが目に見える形になるのなら、きっとこんな滑稽なものになるのだろう。

 

 刹那的な快楽をただぶつけ合うだけの、もの。

 

 これがよく分からない男の子相手だったら、多分拒絶してただろうけど。

 

(けど、それが燐だったら……)

 

 そんな妄想を蛍はわりと良くしていた。

 

 実際、燐はそういった意味合いでの女子の人気なんかもあったし、本人も男の子のような恰好をしていた時期があると言っていたから。

 

 そんなに逸脱した妄想ではないと思う。

 

 それがこんな形で叶うとは思わなかったが。

 

 想像していたものとはちょっと違う気はするけど。

 

 これはこれで良かったと思う。

 

 好きな人に好かれるのはこの上なく幸せなことなんだと理解できたから。

 

 身も、心も。

 

「燐っ……! 燐っ……!!」

 

 ただ名前を呼ぶだけでこんなにも心が熱くなるのに、こんなことまでしてくれるなんて。

 

 心の奥底の産声。

 それを聞いた気がした。

 

 その音は熱い吐息となって蛍のお腹の奥の大事なところを響かせていた。

 

 そこはまだ誰にも一切触れられていないのにとても熱く、脈打っている。

 

「燐……そこは、だめだよ……流石に恥ずかしい……から……」

 

 蛍は顔を真っ赤にしながら弱々しい懇願の声を上げる。

 

 多分燐は違うことをしようとしている。

 

 とても恥ずかしくて本当に好きな人にしかさせないようなことを。

 

「蛍ちゃん……やっぱり、ダメ?」

 

 燐の囁き声に蛍は無言でこくこくと頷く。

 

 でもそれは拒否じゃないむしろ逆の……いみあい。

 

 男の子だったら多分わからない。

 

 けど、燐なら分かる。

 

 だって同じ女の子だし、それに。

 

 燐にだったら分かってもらいたかった。

 

 わたしの本当の気持ちを。

 

「……っ!!」

 

 見られて、触れられて、そして舌が動く。

 

 嬌声が静寂に響き渡る。

 

 疵を癒すという行為は完全に別のものへと変わっていったが、それは成り行きからのものだったのか、ただ蛍からの強い抵抗はなかった。

 

 何をされても快楽と歓喜しか感じなかったし、羞恥は確かにあったがそれ以上に強い想いの前では特に意味をなさなかったのだ。

 

 愛の前には何も成り立たないように。

 

「……蛍ちゃん?」

 

「わたしも……燐にしてあげたい」

 

 蛍は燐の手をすっと放すと、今度は蛍の方から燐を求めた。

 

 蛍だって同じ思いだったから。

 

 ふたりは体勢を変えたりしながら互いに想いを高め合っていく。

 

 こうして慰め合うことに何の意味があるのかは分からない。

 

 でも、だからこそ止められなかった。

 

 意味がないのは最初から分かっていたことだったから。

 

 何かのスイッチが入ったように、燐と蛍はの輪郭さえも擦り合わせる。

 

 どんなに願おうとも一つのものになることなんかは出来ないと分かっているのに。

 

(でも、身体が……)

 

(……想いが)

 

 求めあっていたことだったから。

 

 燐と蛍は絡み合い、重なり合って溶けていく。

 

 お互いの名を切なそうに何度も何度も呼びながら。

 

 いくら指を組み合わせてもまだぴったりとはならない。

 

 それでも、たったひとつの存在となるべく。

 

 どこまでも深く繋がっていく。

 

 撹拌されてぐずぐずになるまで。

 

 どろどろに溶けあっていた。

 

 時間も場所も忘れた世界で。

 

 少女は一つの完璧になるべく、どこまでも交じり合っていた。

 

 暗い空が真っ白くなるまで。

 

 ずっと。

 

 …………

 ………

 ……

 

 山から下りた風が静かな湖面を揺らす。

 

 裸のまま隣で眠る蛍に上着を掛けると、透き通った朝の風が蛍を起こすまで、燐は長い黒髪をずっと撫でていた。

 

 ずっとずっと。

 

 このまま撫でてていたかったけれど。

 

「やれやれ。結局、野宿になっちゃったね」

 

 解けた長い黒髪の感触を楽しみながら、まだ寝ている蛍にごめんと謝っていた。

 

 昇った光がたおやかな少女達の肢体を白く照らす。

 

 朝から日は強く、少し痛いぐらいだった。

 

「あのさ、蛍ちゃん」

 

 燐は初夏の風のような声色で問いかける。

 

 その声は眠る蛍の耳には僅かに届いていないようだった。

 

「わたしが、向こうに行くよ。もともとわたしが行く所だったんだ。だから本当の帰り道はそっちだと思うの」

 

 蛍の長い黒髪を指先でくすぐる。

 

 この温もりでさえ届かない所に行くはずだったのに。

 何故、戻ってこれたのだろうと今でも思う。

 

 答えは結局分からなかったけど。

 

「やっぱり、体の(あざ)、全部消えてるね」

 

 蛍が眠っている間に身体のあちこちを見てみたが、あの黒い棘のような傷あとは蛍の肌の上から跡形もなく消えて無くなっていた。

 

 もっとも酷く蛍の首に纏わり付いていた跡も一切合切無くなっており、いつものように細くすらっとした蛍の首筋が戻ってきていた。

 

 まるで、全ての問題がクリアになったみたいに。

 

 何もかもが元通りになっていた。

 

 たった一つの事。

 燐が付けた唇の跡だけはちょっとだけ残ってしまったが。

 

 でもそれはすぐに消えるだろう。

 

 自分の事を忘れてしまうように。

 

 でも、と燐は思う。

 

「やっぱりさ、わたしが付けたのかなぁ、あの痕って。だって蛍ちゃんのこと誰にも渡しなくないって思ってたから」

 

 蛍が寝ていることを良いことに燐はそう告白をした。

 

 結局こういう形でしか伝えられなかったけど、きっと届いていると思う。

 

 例え今でなくとも。

 

 いつか、ずっと後に。

 

「でもね、わたしは全然後悔なんかしてないよ。だってわたしは蛍ちゃんから色んなものをもらっちゃったんだし」

 

 燐は屈託なくにひひと笑ってそっと蛍の頭を撫でる。

 

 ちょっと下品な言い方をしてしまったが、それでもいいと思う。

 

 もう伝えられるだけの事は全部伝えたと思っているし。

 

 結局自分にできる事なんて大したことはなかったけど。

 

「大好きだよ蛍ちゃん。いつまでもいつまでも、ね」

 

 燐は起こさないよう、蛍の顔にそっと近づく。

 

 やわらかい頬に唇をちょんと当てようと思った。

 

 最後の、別れの挨拶として。

 

 だが、その時ふとある物が目に入り、燐は首を傾げた。

 

「ん、あれ、何だろ?」

 

 蛍の荷物の上にあったネコの顔のポシェットの隙間から何かがはみ出ていた。

 

 なにかの紙切れのように見える。

 

「蛍ちゃん、ちょっと、ごめんね」

 

 燐はついそれを手に取ってしまっていた。

 

 勝手に見たら悪いとは思ったが、その前に手が勝手に動いていたのだ。

 

 好奇心からくるものだろうか、それとも別の……?

 

 ただの白紙のように見えるその紙きれを燐は不思議そうに眺める。

 

 だが、すぐにはっとした表情になる。

 

「これって、写真?」

 

 何でこんな所でと思ったが、燐はその写真をくるっと裏返した。

 

 ただ、蛍は写真を撮るのを趣味にしていたから、最初燐はそれほど驚かなかった。

 

 だが、そこに映っているものを見た途端、燐は大きく目を見開き、まるで凍り付いたように固まってしまっていた。

 

 そして何かを逡巡するように考え込んでいたのだが、はぁと深いため息をつく。

 

「なるほどね。そういうことだったんだ……」

 

 ようやく納得出来た気がする。

 

 なぜ自分だけが青いドアの家の世界へ行けず、あんな変な痣が蛍に付いてしまったことにも。

 

 写真に写っていたのは蛍だった。

 

 ただ、その写真は蛍一人では()()()()()()()()()()()()()()()()()()() ()

 

(じゃあ、蛍ちゃんはたった一人で)

 

 燐は一瞬、悲しそうな目で天を振り仰ぐと、小さな呼吸音を立てながら丸くなって眠る蛍を複雑そう顔で眺める。

 

 生まれたままの姿で無防備に眠る蛍を見て、燐は小さく笑みをこぼした。

 

 いつまでも変わらないなぁ蛍ちゃんは、と。

 

「でも水臭いよ。ちゃんと言ってくれればいいだけなのに」

 

 そういって燐は柔らかな蛍の頬を軽く指でちょんとついた。

 

 本当に大事だったもの。

 

 それはすぐ近くにあって、本当に壊れやすいものだった。

 

 だからその手を離した。

 

 これ以上触れなければ、関わり合うことが無くなれば。

 

 ずっとそのままでいられるだろうと思っていたから。

 

 ずっと綺麗なままの形で。

 大事な思い出の一部として。

 

 ずっとずっと。

 残り続ける。

 

 でも、そういうことじゃなかった。

 

 手が実際に触れていなくとも、心が、想いがそれを縛り付けてしまう事だってある。

 

「それを分かっていたはずなのに、ね」

 

 あの時分かっていたこと。

 それをもう一度繰り返しているだけかもしれない。

 

 でも、それでも。

 

「楽しかった、ずっと。それは本当だよ」

 

 やり直したかったわけじゃない。

 ただ、確かめてみたかっただけ。

 

 でも、もうそれももう分かったから。

 

 燐はもう一度柔らかい目で蛍を見やると、すっと立ち上がった。

 

 空は青く、日は燦々と登っている。

 

 絶好の日和だと思った。

 

 あの時と、同じように。

 

「やっぱり、わたしが居る場所はここじゃなかったよね」

 

 そう。

 

 ずっとずっと、空の上の向こう。

 

 燐は宙の上に描いた道筋を辿るように、透明な視線を上へと向ける。

 

 行くべきところはもう分かっていた。

 

 一度行きかけた場所なのだし、迷うことはもうない。

 

 ただ、無責任なことをしているとは思う。

 

 想いをぶつけるだけぶつけて勝手にひとりで居なくなるのだから。

 

 好意を抱いていることはお互いわかっている。

 

 でも、そうしないと今度こそ本当に大事なものを失ってしまう。

 

 色々なことがあったけれど、それでもかけがえのない時間を過ごせたんだと。

 

 だから本当に良かった。

 

 いつか絶対に来るものがほんの少し早くなるだけ。

 

 ──そうだ。

 

(わたしの大事なものは、蛍ちゃん。ずっとずっと蛍ちゃんだけだよ)

 

 たったそれだけ。

 

 色々な人々と関わりを持ち、様々な出来事に巡り合ったとしても。

 

 ほんとうに大事なものはただ、一つだけ。

 

 複数のものはもってはいけないし、それは多分ほんとうに欲しいものなんかではない。

 

(あの日、線路の上で手を離した瞬間(とき)から)

 

 僅かに残っていた残滓の欠片。

 

 それは本当に些細なことだったけど、それでもずっと思い続けることができたのだ。

 

 それだけの為にここまで来たんだと思う。

 

 本当に、長い夢を見ていたんだと。

 

 長くて、そしてとても幸せな夢の時間を。

 

「じゃあ、もう行くね」

 

 燐はそう言って軽く手を振った。

 

 悲しくなんかはない。

 寂しさも心を打ち震わせるものではなかった。

 

 ただ、もう一度だけ振り向こう、そう思った。

 

 蛍の方を。

 

 本当に往生際が悪いのだと心底呆れてしまったが、それでも最期に一目だけ見ておきたかった。

 

 それだけで大丈夫だと思うから。

 

 本当に好きだった人の姿を目に焼き付けていればきっと……。

 

「ふえっ!?」

 

 振り返ろうとした燐の指が柔らかい何かに包まれる。

 

 ぎゅっとした強い感触。

 それは。

 

「ダメ」

 

 ぐっすりと寝ていたはずの蛍が膝を立て、這いつくばるようにして燐の小指を握っていた。

 

 折れそうに細い指で。

 

 だが、その力はとても力強く、起き抜けとは思えないほど、しっかりと燐の指を握りしめていた。

 

 燐は小さく首を振ろうとしたのだったが。

 

「燐、ダメ、なんだから……! この手はもう絶対に離さない……離さないんだからっ!」

 

 蛍はピンク色の唇を小刻みに震わせながら言葉を紡ぐ。

 

 揺れる瞳の奥に蛍の強い決意の色を感じ取った燐は何も言うことができず、黙ってそれを受け止めていた。

 

 蛍の強い欲望の色。

 

 燐はそれを初めて見た。

 

 誰よりも強い欲望を秘めた蛍の本当の灯火を。

 

(でも 蛍ちゃん……)

 

 大きな目を赤く腫らしながら燐だけを見つめている蛍。

 

 燐も蛍だけを黙って見ている。

 

 二人の少女の瞳の奥には一つの共通しているものがあった。

 

 それは──傷だらけであること。

 

 燐も蛍も同様に深く傷つき、それはどんなに互いを癒しても決して消えるものではない。

 

 細かい無数の引っ掻き傷と、裂けるように深い一つの傷。

 

 そのどちらとも少女の心を簡単に打ち砕くだけの強い傷だった。

 

 それでも完全に砕けなかったのは。

 きっと。

 

「……」

 

「……」

 

 澄み渡った空が、遮るもののない少女達の輪郭を白く縁取っている。

 

 伸びた影が二人の間に黒い奇妙な線を作っていた。

 

 視線を遮る壁のように。

 

 けれど、蛍と燐の視線は変わらない。

 

 互いの姿をいつまでも見つめていた。

 

 雲間から射した光が視界を困難にさせたとしても。

 

 ずっと、ずっと。

 

 ただ見つめ合い、互いに手を握り合っているふたつの肢体は、光を浴びてきらきらと輝いていた。

 

 現実というひとつの世界から切り離された幻想の絵画のように。

 

 ふたりだけの青い空の世界(カミュ)が。

 

 

 いま、ここにあった。

 

 ──

 ───

 ────

 





今年の夏は大好きなチョコミント系のものを食べたり飲んだりする機会が結構あった気がしますねぇ。特にチョコミント系のアイスは割と食べたような気が……その中でもほんの少し前に食べた”チョコミント胡麻豆腐”が思いのほか忘れられないと言いますか、名前の割には? 美味しかったんですねぇ。見た目はチョコプリンかババロアにしか見えないのですけど、しっかりミント感が残っていてすうっと胃の中まで爽やかになりましたよー。リピートしても良いぐらいです──が、豆腐感はほぼ無く完全にスイーツでした。

それしても今年の夏は猛暑続きでしたねー。本当に大丈夫なのかとたまに疑ってしまうぐらいに暑かったです。原付とか乗っててもアスファルトから蒸気のような暑さが立ち登ってくる様子が見えてしまうぐらい。そのせいなのか今年の夏は割と事故のようなものが多かった気がします。あまりの暑さに機械類なんかも故障が出てしまうのかもしれないですねー。

そんな暑さにもこんなに続くと流石に少し慣れたなーって思ってたのですが……そろそろ涼しくなってくる時期のはず──なんですけどねぇ。どうやらまだ暑さは遠くに行ってくれないようです……もう残暑という言葉が形骸化しているような気も? この分だと9月も暑くなりそうですしねー。一般的な寒暖差適応レベルがわたしにはまだまだ寝苦しい夜が続きそうです。かと言って昼間は更に暑くてもっと寝れないのですがー。
本格的に暑さが終わるころには秋を飛び越えて冬の気配が来ていそうな気がします。


そういえば”つなキャン△”まだやってはおりますが……何かもう凄く進化っていうか短い期間で別のゲームになっている気がしますねー。メインだったキャンプは更に簡素化されて、今では艦これの遠征みたいな事になってしまいましたねぇ。とても楽ですけどキャンプをするという概念すら無くなってしまったというか……スマートなのはいいのですけれどもー。

代わりに充実されたのは期間限定のイベントですねー。特にいきなり始まった松ぼっくりを集めるイベントは思いのほかやりまくってしまいましたよー。PCなのでマウスとキーボードでやっていました。コントローラーも使えたら良かったんですけどねー。
でもこういった遊べるミニゲームがあるのはいいのですけれど、何か別ゲーとなりつつある予感が。その内アクションメインのゲームになってしまったり……とか? 流石にそれはないかー。

で、ゲームと言えば”ヤマノススメ”もゲーム化しますねぇ! 最初知った時はまさかとは思いましたが。
原作アニメともに結構前から始まった作品でしたし、ここに来てこんなことになるとはー。しかもスゴロク風ゲームみたいですし、若干、ゆるキャン△のコンシューマーゲームに似ている気もしますけどどうでしょうか。ただ販売元のサイトを見て見ると……何か、ヤマノススメだけが若干浮いているような気がしますね……絵柄というか、(全体的な)雰囲気的意味合いで。
そう言えば最近、外国人の富士登山でのことが少し騒がれていましたね。観光バスで大量に乗り付けていきなり登山をしてしまうという所謂、”弾丸登山”のことが。手っ取り早いと言えばそうなんでしょうけれども。で、その報道を聞く度にどうしても”ヤマノススメ”の事が私の頭をよぎってしまうのですよー! アニメでは大丈夫だったんですけど、原作では一回目の富士登山のときに主人公たちは弾丸登山で登る計画をしてしまうんですよねー。そのせいで主人公のあおいは途中でリタイアすることになってしまうんですけども。あ、別にこの作品の影響のせいと言っているわけではないのですが、やっぱりそれだけ弾丸登山は危ないですよー。ということでー!!


まだまだ暑さに気を付けつつ──それではではではではではー。


追記ですが。

★青い空のカミュDL版が10月10まで70%OFFセールの2574円になっておりますですねーー!! これまでの最大級の値下げ額かもしれないです。しかも9月28日まで使える初回購入者クーポンと併用すると何と2000円程度で”青い空のカミュ”が購入できるようなので、この機会に是非プレイしてみるのも良いかと思われますー。
更に、KAIの他のゲームは何とワンコインの500円セールとなっているみたいですので、そちらも合わせて是非是非~。


にしても、今回はいつも以上に遅筆だった上に、ちょっと微エロが入っちゃったような気がするので、もしかしたら後半部分は修正するかも……? やっぱりしないかもですが。

結局修正はしないでむしろ加筆しちゃったわけですが。


相変わらず気まぐれ且つ怠惰すぎてすみません。


それではーーではーではー。




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Might Love Myself


 しゃわしゃわしゃわしゃわ。

 夏の終わり際、遅咲きの蝉の声が背の高い杉林の中で木霊のように響きまわっていた。

 山が見下ろす麓に佇む一宇の荘厳な寺院。

 ──少女は犬と共にそこへやってきた。

 古寺の一番奥にある本堂の前に立ち、複雑そうな表情を浮かべながら何やら逡巡しているようだった。

 短く切り揃えた前髪の下のくりっとした大きな瞳を瞬かせながら、手を頬に沿えて困惑したように首を傾げていた。

(お寺って……どういう参拝方法だったかしら……)

 和柄の着物を着ているのに、それはどうだろうと思われるかもしれない。

 だが、この少女が知らないのも無理のないことだった。

 覚えている限り、神社仏閣などに参拝したことはなかったし、少女はむしろ()()()()()()()()()()()()()の人だったのだから。

 それでも少女は考える。

 自分が良くされていたであろうと思うその作法を頭の中で思い返す。

 宗派とは関係なく、一般的なやり方を。

(確か……()()手を打って……頭を下げる……だったはずよね? うん)

 その場で軽く試してみる。

 それでしっくりきたのか、少女は可愛らしい着物姿にそぐわないガッツポーズを小さく作ると、その意気込みを露わにするかのように、本堂へと続く階段をしっかりと足で踏みしめるように一段一段上がっていく。

 その様子を旅のお供である、白い犬が境内にぺたんと座り込みながら少し暇そうに眺めていた。

 少し緊張しながらお賽銭を投げ入れると、軽く瞼を閉じて手を合わせた。

「……」

 瞼の裏に浮かぶのは暗い部屋での記憶。

 自分も過去にこんな風にされていたのを思い出した。

 だがそれはこんな厳かなものなんかではなく、むしろ真逆の欲望の熱をぶつけるようなものだったから。

 だからわりかし早めにぱちっと瞼を開けた。

「終わったわ。待たせてごめんなさいね」

 下で待っていた犬にそう報告をする。

 特にそんな事をする必要はないのだが、この犬に関係する伝承がある神社だったから。
 しかも、この辺りはこの犬の生まれ故郷のようだったし。

 一応、そうしておいた方が良い気がしたのだ。

 やはりというか。

「あなたも分かっているのね」

 パタパタと尻尾を振っているから多分、分かっているんだろうと思う。

 さっき見た時は大きな欠伸をしていたみたいだったけど。

「奥にお墓もあるようだけど、そっちに行ってみる?」

 頭を撫でながらその方を振り返る少女。

 本堂のすぐ横にささやかながら、その犬のお墓があるようだった。

「わん!」

 犬が一声鳴いたのを了承と受け取ったのか、少女は犬を伴いながら石でできた小さなお墓の方へと歩き出す。

 白い犬もその後ろに付いて歩いた。

 ……
 ……
 ……

「どう……? 何か感じるものがあって?」

 苔生した墓石の前で暫く瞼を閉じていた少女──オオモト様は静かに口を開く。

「……」

 問われた白い犬──サトくんは頷くことも、首を振って否定することもなく、ただじっと石の墓の方を見つめていた。

 少女の姿のオオモト様は軽く息をこぼす。

「……わたしも、そうだったから分かるわ。お墓なんか見ても何も感じなかったから」

 少女がそう呟くも、白い犬は相変わらず祀られているお墓の方を眺めている。

 丸い黒曜石のような瞳には何が見えているのか。

 その表情からは何も伺い知る事はできそうになく、白い犬はただじっと見つめていた。

 自分、もしくはそれにまつわる由来を持つ、石を積んだだけの簡素な墓の方を。

(そういえば……)

 ふと、思い出したことがあった。

()()()を模した姿の木でできた犬の像もさっき置いてあったわ。今のあなたとは全然似ていなかったけど」

 そっと犬の頭を撫でつけながら言葉を掛ける。

 ちょうど犬がこちらを見ていたのに気付く。

 何かを訴えかけてくるように黒い瞳でじっと見られた。

「その目は何かしら」

 少女は少し困った顔になる。
 まさかだとは思うけれど、一応聞いてみた。

「もしかして、自分の方が賢くて可愛いと思っているとか?」

 少し半信半疑にそう尋ねた。

「わんわん!!」

 犬は一際大きな声で二度も鳴いた。
 あたかも強調するかのように。

 都合の良い時だけ吠えるのね、そう言って深いため息をつく。

「ふふっ、でも……そうね」

 得意満面な表情のサトくんを愛おしそうに微笑みながら見やると、オオモト様は少し遠くに視線を移した。

 新緑が映える小高い山の上で一羽の鳶がゆっくりと旋回しているのが見える。

 少しあの町の情景に似ているなと思った。

 ようやく自分から離れられたあの町に。

 あそこで一体自分は何だったのだろう。

 幸せだったのかそうではないのか、それすらも分からなかった。

 求められるままに与えてきたつもりだったし、本当に大事なものはずっと大切にしまって置いたはずだったから。

「実存と概念は得てして違うものになるのよね。どこかで抽象的な要素が入り込んでしまう。それが意図していないものであったとしても」

(そう、わたしが……ずっとそうであったように)

 誰かの造った抽象(イメージ)の中にずっと囚われ続けていた。

 違うと否定してもそれを頭から押さえつけられるように、身も心も蹂躙され続けた。

 その結果、大事なものすらも見失いそうになって。

「……」

 今、この神社にはそれなりに参拝者が訪れていたが、何故かこの墓の周りだけは誰も寄り着くことがなかった。

 ここだけが辺りとは違った趣になっていると言っているみたいに。

 そうしたことに耐えかねたように白い犬が少女の足元に擦り寄り、くぅんと小さく鳴いた。

 十分だと思ったのか、それとも別の意図があったのか。

 その一声で滞った空気が一瞬で元の流れに戻ったように、少女の表情も元の柔和な表情に戻った。

「そうね。とりあえずやることは済んだし」

 少女は柔らかい表情で微笑むと、踵を返してその場から離れた。
 
 犬もくるりとお墓に背を向けて、とことこと歩き出した。

 そんな、一人と一匹のすぐ横を同じように参拝に来た家族連れが通り過ぎていく。
 
 仲睦まじそうな男女とその手に連れられたの幼い少女が他愛もない会話をしながら、入れ違うようにお墓の方へと向かっていった。

 母に手を繋がれていた幼い少女が犬の方に手を振っていた。
 それを横目で見ながら本当に幸せそうだと思った。

 何の問題などないみたいに。

 犬と少女は振り返ることなく先の道を行く。
 
 そこには何があるのだろう。
 
 またあの歪な夜か?
 それとも……。

「何かしら?」

 不意に服の袖が引っ張られる感覚があったので振りむいた。

 何てことはない、サトくんがオオモト様の着物の袖を軽く咥えていた。
 
 どこかへ連れて行こうとしているのか、引き留めているようにも見える。

 直ぐに思い当たる節が見当たらなかったので、犬が連れて行こうとしている方向にちらりと目を向けた。

 そこには少し大きめの社務所のような建物があり、お守りや御朱印と行った、()()()()()()()()()を取り扱っている受付のようなところだった。

 どうやら犬はそこに少女を連れて行かせようとしている様子で、ずりずりと後ろ足で石畳を引っ掻いている。

 何が目的なのだろう。

 お守りとかそう言ったものは、この旅の目的に一切何の役にも立たないというのは、もうずっと前から知っているのに。

 今、手元に残っているのは精々この、手毬ぐらいで。

 それだってもう何の意味も成さない。

 これをくれた人に戻そうとかそういったものもなく、ただ持ち歩いているというだけで。

 目的とは一切関係の無いものだった。

(まあ、今のわたしだってそうなのだけれど)

 何の意味があってここまでやってきたのか、そこまで楽な道のりでもなかったはずなのに。

 ぐいぐい。

 こちらの思惑も知らず白い犬は尚もぐいぐいと服の袖を引っ張ってくる。

 あんまり引っ張られると服の袖が伸びてしまいかねないので、白くふわっとした犬の喉元を細い指でくすぐりながら、頑なに引っぱろうとしてくる犬に優しく尋ねた。

「なぁに、何か欲しいものでもあるの?」

「うー、わんっ!」

 以外にも即答だった。

 犬はぱっと咥えた口を放すと、その売店のような建物の方を見て、くるりと丸まったしっぽを横に振る。

 だが、売店と言ってもそこには食べ物のようなものは売ってはおらず、この子が欲しがりそうなものは見当たらないのだが。

 まさかだとは思うが。

「もしかして……あの犬のおみくじを引いてみたいの?」

 小さな犬の形をした土鈴。
 その中に紙のおみくじが入っているらしいが。

 そんなものを欲しがるとは到底思えないが。

 だがサトくんは。

 こくんこくんと、まるで人のように無言で頷いてみせた。

 何故が吠えるようなことはせず。

 多分、周りからみたら相当滑稽な事をしていると思う。

 人が犬に話しかけるということは稀にはあっても、受け取り側の犬がそれを理解できていることなどまずありはしないのだから。

 理解している様に思い込むことはあっても。

 だが、この犬は少々変わった生い立ちのせいか、人の言葉を一応は理解できているみたいだけれど。

(ただ、全部ではないみたいね)

 都合のいいところだけ理解できているようで、そんなところも含めて妙に人間臭い犬だとは思う。

 よくもわるくも。

「本当に?」

 確認するように犬の耳元で囁く。

 うんうん。

 犬はまた頷いてる。

 どうやらそれは本当のようだった。

 売店に用事があるのはよく分かったが、まさかおみくじが欲しいとは思わなかった。

 しかも自分の姿に似たおみくじが欲しいなどと。

 それは少女としては到底あり得ない事だ。

 自分に似たものを欲しがるなんてことには。

 だが、サトくんにはそう言った思いなどはないようで、まるで自分自身のことを誇りにでも思っているみたいに、びしっと四つ足を伸ばして澄ましたような顔で売店の方を見ている。

「……」

 オオモト様は白い犬のその様子に少しの違和感を覚えていた。

(ここに来た時、ちょっと変かなとは思ったけど)

 まさかだとは思うが、神の使いにでもなったつもりなのかしら。

 そんな記憶などもう一切残っていないだろうに。

 だが、その凛々しい姿が普段とは違ってあまりにも滑稽に見えたので。

「良いわよ、あなたに買ってあげるわ」

 そう軽く苦笑いすると、少女は白い犬に促されるまま、売店の方へと向かっていった。

 木でできた厳つい像なんかよりもこちらの方がよっぽどサトくんに似ていると思ったからだった。


 ちなみに、おみくじは小吉だった。


 ……
 ……
 ……



 

「この暑さだと、溶けてなくなってしまいそうになるわね」

 

「……くぅん」

 

 秋はもう目の前だというのに、真夏のように強い日差しの中、オオモト様は蛇の目を日傘のように差し掛け、沸き立つ白い雲の下を同じように白い犬と共に歩いていた。

 

 方角は分かっていたが、ちゃんとした行く当てなんかはなかった。

 

 とりあえず、伝承のある犬が祀られているという神社には行ったのだけれど。

 

(そこからがまだはっきりとは分からなかった……こんな遠出なんて、大分、久方ぶりの事だったし)

 

 あの町というか、しがらみから抜けだしたのはそれこそ本当に何時ぶりの事だろうか。

 

 けれど、何かに縛り付けられていたということではない。

 町を出るだけの理由がなかったというだけ。

 

 たったそれだけの事だけでずっと足止めをされていた。

 

 きっとすぐにでも出るべきだったはずなのに。

 

 だから急に自由になるとどうしていいのか分からなくなる。

 

 ちょっとした悪戯のつもりであの町の周辺ぐらいにまでは足を運んでみたけれども。

 

(それでも、こんなに遠くまで来たことなんて一度もなかった)

 

 とりあえず一帯が見下ろせそうな小高い山に登ってみる。

 

 けど、それだけではやはりよく分からない。

 

 本当に大切なこととは目には映らないことだから。

 

 だったら何故こんなところにまで登って来たかというと。

 

「くーん」

 

 いつの間にか戻って来た白い犬が、小さな声を呟くようにあげて傍で座り込んでいた。

 

 少し周辺の様子をみてくるようにと、お願いをしてみたのだけれど。

 

 頭を垂れてぺたんと尻尾を下げている様子で大体の様子はわかるが。

 

「そう、やっぱりあなたでも良く分からなかったみたいね」

 

 オオモト様はそう言って犬の頭を軽くぽんぽんと撫でてあげた。

 

 それはそうだと思う。

 

 この子(サトくん)だって、精々その嗅覚で気配を感じとる事が出来るぐらい。

 

 それだってヒヒが活動していなければ何一つ分からない。

 

 わたしに至ってはそんな力すら持ち合わせてはいないのだから。

 

 何時ぞやの、夢見(ゆめみ)で視たというだけで。

 

 それに別にヒヒは妖怪とかそういう類のものでもないし、ましてやそれを退治しようなどとまでは考えてもいないのだから。

 

 やれることといったら事が大きくならない内に警鐘を鳴らすことぐらいだろうか。

 

 またあの歪みが起きないための助言というか注意を促してみたり、それに付随した僅かばかりの行為ぐらいか。

 

 どちらにしても効果を得るものではない。

 

 根本的な解決には程遠い。

 

 むしろただ、引っ掻き回すだけなのかも。

 

 誰だって始めは半信半疑なのだろうから。

 

「だからって事が起こってしまってからではもう遅いのだけれど」

 

 仕方がないと言えるのだろうか。

 

 オオモト様はそっと言葉を風に乗せる。

 

(また、同じことは繰り返したくはない。それは分かっているのだけれど。せっかくまだ、こっちの世界にいることができているのだし)

 

 山の麓から吹く風は、熱波のような生ぬるい地上の風とは違った心地よさを肌に与えてくれる。

 

 神社の時は違った涼しさ。

 

 見知らぬ土地の臭いと風がとても新鮮だった。

 

 その風の影響なのか、一足先に蜻蛉が辺りを飛び回っていた。

 

 犬の頭の上にもその内の蜻蛉の一つがふわりと止まり、そこで長く綺麗な翅を休めていた。

 

 犬は首を振ってそれを振り落とそうとしている。

 

 オオモト様はそれを愛おしそうに眺めながら、透明な笑みを浮かべていた。

 

 ……

 ……

 

 少女の黒髪が朱色に染まる。

 白い犬の毛並みも焔のように揺れていた。

 

 焼けるような夕陽が山の影に落ちようとしている。

 

 綺麗な横顔を夕焼けに晒しながら少女は呟く。

 

「ねぇ、わたし達はここで……いったい何が出来ると思う?」

 

 ……

 ……

 ……

 

 涼しくなってからこの町を探索をしようと思ったのだが、それがそもそもの間違いであったと気づいたのは後のことだった。

 

 厳密にいえばそこまで悪い事ではない。

 

 ただ、もし、”そうしなかったのなら”どうなっていたかということだ。

 

 選択はつねに連続して起こるものだから、”もし”なんていう曖昧なものを追及したところで何の意味もない事は知っているけど。

 

 県境を越えた先にあった町──河悟町(かわごちょう)

 

 そこは山間にある小さな町だった。

 

 多分、ここだろうと思う。

 

 昼間、資料館のようなところで少し調べてみたら、割と前の町とその有り様が似ていると思ったからだった。

 

 周りは高い山に囲まれており、人口はさほど多くはない。

 近くには大きな川も流れ、それに沿って走るローカル鉄道も通っていた。

 

 河悟町はかつては農業や林業で町を支えていたが、今では大きな会社の工場の誘致に成功し、それが町の財政の大半を担っているようだった。

 

 一見すると、この辺りの地域ではそんなに珍しくもない話にも思えるが。

 

 かつてこの町にも隣町との合併の話が持ち上がったのだが、それを巡っての住民の反対運動が起き、色々あって結局今に至っても実現できていないらしい。

 

 何故、それをそんなにも頑なに拒むのかと言ったら。

 

「やっぱり、お金なのかしらね」

 

 それはすなわち幸運。

 

 小さな灯篭(ランタン)を片手に持ち、オオモト様はぼそりと呟いた。

 

 夜の帳が落ちるのを待ってから、改めてこの町を見て回ることにした。

 

 昼間の顔だと普通の町にしか見えなかったし、何なら町の住人もごく普通の人にしか見えなかった。

 

 特に何かに怯えているようにも、何か特殊な秘密を共有しているような素振りも見受けられない。

 

 何か適当な話でもしてみようと、たまたま外にいた住人にのこのこと近づいて行ったときも、先に声を掛けてきたのは向こうの方からだった。

 

 その人は高齢の女性だったが、知らない町で迷子にでもなったと思ったのか結構親身に話しかけてくれていた。

 

 それどころか軒先にも案内してもらい、冷たいお茶なんかを貰ったぐらいだった。

 

 少し親切すぎるかなとは思う。

 訝しいとはまでは感じなかったが。

 

(まあ、この子も一緒にいたしね)

 

 中型犬とは言え、犬を連れていたから警戒心が薄れたのだろうとも考えられる。

 

 それは癒しとはちょっと違うとは思うけれど。

 

「でも、あなたのお陰も多少はあるのかもね」

 

 じっと見られていることに気付いたのか、サトくんは歩きながら無邪気にこちらを見あげていた。

 

 こっちが町の外からきたよそ者だと分かっているようなのに、その人口調がとても柔らかったせいなのか、悪意のようなものを言葉尻には全く感じなかった。

 

 確かに不自然なぐらい親切だったとは思うけれど、そこは疑っていいものじゃない気がする。

 

 最初の先入観だけですべてを判断してしまうのは流石に早計すぎる考えだから。

 

 ただ──何かにじっと見られているような焦燥感みたいなのは街の中でずっと感じてはあったのだが。

 

 それだって、いざとなったらこの子が何とかしてくれるだろうと思っていたから、そこまで気にはとめていない。

 

 この子が、ちゃんと役に立ってくれるかは別としても。

 

 ただ、この町にも旅館やホテルのようなものはあったが、それらを利用するつもりはなかった。

 

 町に観光に来たわけではなかったし、それに……。

 

(この子とわたしだけじゃ多分、泊まらせてくれそうにないしね)

 

 宿泊するだけのお金はあるのだが、それでも多分無理だろうとは思う。

 わざわざ試すまでもなく。

 

 だから日が暮れてくるまで山の上で暫く待っていたのだけれど。

 

 りーんりーん。

 

 川沿いの草むらから、小さな羽虫の音色が涼し気に響いている。

 

 この町を調べてみるつもりはあるのだが、何処をどう調べていいのかの見当はまだ付いていない。

 

 したがって当てずっぽうで見て回るほかなくて、手あたり次第に夜の町並みを見てはいるのだが……。

 

「……きっと、意味のないことをしているわね」

 

 そう簡単に夜な夜なへんなことをしているとは思えない。

 

 あの町と似ているからと言って、あのような”秘密の儀式”が行われているとは限らないわけだし。

 

 仮にそんな現場に出くわしたとして一体何をするつもりなのか。

 

 ”その人”を助ける?

 

 頼まれてもいないことなのに?

 

 そもそもこの町にも自分のような、座敷童(ざしきわらし)が存在しているのだろうか。

 

 概念ではなく、ちゃんとした実存としての。

 

 もしくは、町の何処かで人身御供のようなものが行われているような痕跡などが何処かで見つかるとか。

 

「はぁ……」

 

(何とも、馬鹿馬鹿しいというか……)

 

 本当に自分は一体何をしているんだろう。

 

 柄にもない探偵ごっこみたいなことまでしているし。

 

「それにしてたって」

 

 こんなにも疲れやすかっただろうか。

 

 もっと昔はそれこそ一晩じゅう野山を駆け回っても平気だった気がしていたのに。

 

「肉体があるって、わりと不便なものね」

 

 そう呟く少女を白い犬は不思議そうに眺めていた。

 

 こうして必死に考えを巡らせて走り回っても、結局それは仮定でしかない。

 

 それになぜ、あの町で自分に起こったことを無理矢理に照らし合わせようとしているのか。

 

 そんな自分自身の考えの浅さにほとほと呆れかえる。

 

 仮に同じようなケースだったとしても、同じような方法が使われているなんてことはあり得るはずなんかないのに。

 

 こんな探偵まがいのことをしても、この町に来たばかりで全てのことを把握する事なんてできるはずもない。

 

(小平口町で起こったことを理解することすら、とても長い時間がかかってしまったというのにね)

 

 それなのに結局自分では何もすることができなかった。

 

 押しとどめていた心の内が黒く蹲ったような感覚を覚える。

 

 少女はそっと息を吐くと。

 

「今日はもう……この辺にしておきましょうか」

 

 そう言って不思議そうに首を傾げる白い犬の頭を軽く撫でた。

 

 見た感じ町は平穏に包まれていると思う。

 それをむやみやたらにかき回すつもりなんかはない。

 

 今できる事なんてたかが知れているのだし、とりあえずこの町の大まかな位置関係なんかは把握できたと思うから。

 

 これをもとにして、本格的に調べるのは明日以降にしようと思う。

 

 焦ったってどうにもならないことはもうずっと前から知っていることだったから。

 

 とりあえずするべきことは。

 

「何か、食べた方がいいわね。あなたは何が食べたい?」

 

 もふっとした犬の首元に手を這わせながら尋ねた。

 

 サトくんは何かを考えるような思慮深い目で暗い空を見上げていたと思ったのだが。

 

「うーッ!!」

 

 その目つきが急に変わった。

 

 何かを察知したのか白い犬は全身の毛を逆立てると低い唸り声を上げながら、黒々とした藪の奥を睨んでいる。

 

 つられてオオモト様もそちらの方にすぐさま視線を送る。

 

 空と森の境界線すらも分からないほど真っ暗闇の中で、それでも視線を凝らす。

 

 何かを覗き見るように。

 

(これは? 何かの目……?)

 

 確かにこちらを見ている。

 

 そう見えたのだ、少女の黒い瞳には。

 

 視線の奥にあるふたつの目は真っ赤に染まっていた。

 

 夜に獣の目を見た時とは違う、血のように赤い瞳の色。

 

 異質なその瞳に魅入られてたように、オオモト様は身じろぎもせずにただ立ちすくんでいた。

 

 サトくんはピンと尻尾を立て、暗闇に向かって威嚇をする。

 

 だが、少女は一歩足をその闇の前に踏み出していた。

 

「あなたが……ヒヒ、なの?」

 

 まともに対峙するのは初めてのことのはずだが、オオモト様は何故か少し親しみを持った声色で闇の中にそう呼びかけていた。

 

「…………」

 

 当然、何の返事もかえってはこない。

 

 ただ不気味にこちらを見つめているというだけで。

 

 これまであまり表情を崩さなかった、少女の瞳に焦りの色のようなものが見えるようになった。

 

 何か得体の知れない空気がこの場所を支配している。

 そんな気になったからだった。

 

「うーっ! わんわんわんわん!!」

 

 淀んだ空気を切り裂くように、サトくんはオオモト様の前に立ち、漆黒に包まれた森の奥に向かってけたたましく吠えたてた。

 

 その瞬間、がさっと草木が揺れたような大きな物音がする。

 

 やはり何かがいる。

 幻覚とかそういったものではない、何かが!

 

「わんわんわんっ!!!!」

 

 相手が動揺したと感じたのか、勢いの付いた犬は更に吠える。

 

 すると、今度は物音の代わりに。

 

「くまっ!!??」

 

「えっ……くま??」

 

 何か、変な声がした。

 

 サトくんとオオモト様は思わず顔を見合わせる。

 

 これは、お互いの出したものではない。

 

 確かめようと少女が細い足を一歩踏み出す前に、サトくんの方からその草むらに一目散に飛び込んでいった。

 

「待って……!」

 

 オオモト様もその後に続く。

 

(何が、居たと言うの?)

 

 あのヒヒ以外に。

 

 赤い目と声は同一のものが出していたのだろうか。

 

「はぁっ、はあっ」

 

 なんにしても、見て見ない事には始まらない。

 

 けど。

 

(どこまで行くつもりなの……?)

 

 はぁ、はぁ。

 

 黒い草と樹々の中に消えていったサトくんを追って、オオモト様はランタンを手で振りながらその跡を追った。

 

 光が照らす先で白い尻尾をみつけて、ようやく安堵の息を吐いたのだったが。

 

「あっ」

 

 その草むらを掻き分けるとそこにはサトくんと……ひとりの少女がいた。

 

 ──

 ──

 ──

 

「そう……人間だと思った。けれどそれはどちらかと言うとわたしと似たような存在」

 

 それはつまり……。

 

「くまままっっ!!??」

 

 急にたたき起こされた。

 

 隣で丸くなって寝ていたサトくんもそのけたたましい音にぴくぴくと耳を反応させて、大きな目を開けた。

 

 目を覚ますと全く知らないぼろぼろの天井だったから驚いてしまったけれど。

 

 そっちの声に驚いていた。

 あまりにもうるさくて奇っ怪な声だったから。

 

 オオモト様は仰向けになりながら軽くため息をつくと、古ぼけた布団を手で捲り上げた。

 

「全く……何かしらね、”あの子”は」

 

 サトくんもそれに同意したように、目覚めの一声吠えると、まだ寝ぼけた顔で上体を起こそうとする少女の布団に潜り込んだ。

 

 そう──わたしはわけのわからない人物の家に一晩泊まることになってしまったのだ。

 

 本当に偶然の出会いだったが、ある意味では偶然ではなかったのかもしれない。

 

 それぐらい変わった人間……いえ、()()()()()()()()だった。

 

 本人の言うところだと。

 

 わたしは、まだ信じきってはいないのだけど。

 

「……どうかしたの?」

 

 起き抜けのせいか、やや不機嫌そうにオオモト様は尋ねる。

 

 実際ここでの寝心地は最悪だった。

 

 家というにはぼろぼろすぎで、これではほとんど外で寝ているのと変わりない。

 

 戸締りすらまともにできないから外、仕方なく犬も傍に置いておいたのだけど。

 

 これでは古民家というよりも廃屋の方が正しいだろうと思う。

 

 何故こんなところに招待したのか、その辺りもひっくるめてこの子に聞きたかった。

 

 この奇妙な格好の”くま”に。

 

「あっ、”ざっきぃ”。何か寝ていたら急に床が抜けて驚いてしまったんだよ~! まったく立て付けの悪い家クマね」

 

(この子は。一体何なの……)

 

 昨夜からずっとくまくま言っているが、彼女は別に本物の熊という訳じゃなさそうに見える。

 

 身体は毛むくじゃらどころか、人間の少女のような細い足を破れた床板に突っ込ませて、朝からぎゃんぎゃんと喚いていた。

 

 多少、”それ(クマ)”っぽい格好をしているというだけで。

 

「あなたが、壊したんじゃないの? ”クマ”とか言っていたみたいだし。それに、さっきから何のことを言っているの?」

 

 正直、この子の言っていることがさっぱり理解できない。

 

 素性もその口調も含めてとても異質な存在だとしか思えなかった。

 

「だって、キミは座敷童なんでしょ? だから”ざっきぃ”。どうくクマっ?」

 

「どう、って……」

 

(どうしたらいいのかしら)

 

 オオモト様は深いため息をついていた。

 

 開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。

 

 これはヒヒなんかよりもある意味よっぽど手ごわい相手だと思った。

 

 だが、この”くま”と名乗っている子もヒヒのことを追ってきたらしい。

 

 というか、わざわざ遠くの山から退治に来たと言っていたようだが。

 

「むぅっ、何をじろじろ見てるクマか? クマは足柄山から来たくま。正真正銘のクマなのよ」

 

 外見とは違って勘が鋭いのか、大きな口を開けて頼みもしないのにそう名乗る……くま。

 

 これで二度目……いや何度も同じことを聞いているような気さえする。

 

 出会った時からそうだったから。

 

 ”はるばる足柄山(金時山)からやってきた正義の熊こと、くまちゃん”なのだと。

 

 正直って、ややこしすぎる。

 

 熊が自ら熊だと言っていること事態が相当おかしいのに、そこにわざわざ語尾にクマを付ける必要性などあるとは思えない。

 

 何処をどうみたって人間の、それも普通の女の子にしか見えないのに。

 

 こんな細い体躯(からだ)のどこにヒヒと対峙するだけの能力(ポテンシャル)が備わっているというのか。

 

(そうね。大体、背恰好はわたしと同じぐらいかしら……だからどうだって話なのだけれど)

 

 はぁ、とオオモト様はまたため息をついた。

 

 朝っぱらからとても疲れてしまった。

 

 この不可思議な少女といい、このぼろぼろの家屋といい、それこそ変な妖怪みたいなのに幻覚を見せられているのではないだろうか。

 

 むしろそっちの方がマシなぐらい、そのぐらいこの状況は不条理極まりないものだった。

 

 自分のような存在が、ついオカルトを信じてしまう程。

 

「ねぇ、ここって、あなたの家ではないのでしょう? もしかして無断で使っているの?」

 

 この、”くま”に案内されたのは町から外れた深い森を登ったところにある、一軒の古びた家屋だった。

 

 だが、最初に入ったときから明らかに違和感というか、生活感みたいなものがまったく感じられなかったから。

 

 これは多分、空き家で間違いないと思う。

 

 それも随分と前に放置されていたような、そのぐらい外も内も朽ちていた。

 

 だとしたらやはりこれは。

 

「ふ、不法侵入じゃないクマよっ。別に何も盗ってなんかいないしっ」

 

「それでも不法侵入には変わりないわ。なんでここが自分の家だって言ったの?」

 

 ずいっと首を伸ばして問いただす。

 

「だ、誰か来たら出ていくつもりだったクマっ。これぐらいは許容範囲だとは思うクマだよっ!」

 

「それはどうかしら……?」

 

 すんっとした表情でくまを見下ろすオオモト様。

 

 この自由奔放な振る舞いは確かに野生の……それも本能的なものだとも言えるが。

 

 あまりにも傍若無人と言うか。 

 

 何故かこの子が妙に癇に障る。

 相性的なものだろうか。

 

 そのぐらい今のこの現実は到底受け入れがたいものだったと言えた。

 

「むー、サトくん~!! お前のご主人様は見た目通りヒステリックなやつクマぁ~。こんな可愛いくまちゃんをいじめるなんてぇ~」

 

 傍できょとんした目で見ていたサトくんをくまは無理やり抱き寄せ、わしゃわしゃと白い犬の身体を撫でていた。

 

 こちらの相性も最初は良くない感じに見られたが、何故かすぐに打ち解けていた。

 

 サトくんは嫌がる素振りもみせずに、くまのされるがままに撫でられ続けている。

 

 呆れかえっているとも見えそうだが。

 

「わたしは……民子(たみこ)よ」

 

「んっ、くまっ!?」

 

 くまが”ざっきぃ”と呼んだ少女がぼそっと呟いたので、くまは素っ頓狂な声をあげる。

 

 見るとオオモト様は珍しく恥ずかしそうに顔を背けていた。

 

 出会った時から何故かつねに怒っていた昔の座敷童の風貌をした少女の別の一面を、”くま”はようやく垣間見たような気がした。

 

「わたしの、ちゃんとした名前……」

 

 こうしてちゃんと名乗ったのは本当に何時ぶりだろうか。

 

 実際、名前なんて随分前に意味をなさないものになっていたし、もうそれすらも捨ててきたようなものだったから。

 

 こうして自分の口から出てくること自体に驚いていた。

 

 バラバラになったものを今更拾い集めたような、気恥ずかしさというか。

 

 ずっと薄暗かった部屋にランプの火をそっと灯すように。

 

 誰に対してのものかは分からないが、気遣うような気持ちで打ち明けてしまっていた。

 

 ただ、両親がつけてくれた名だとは思うが、その音の響きにまったく覚えがない。

 

 一度きりしか呼ばれてはいないわけはないと思うが、単語としてみても深い記憶を呼び起こすような衝撃を感じなかった。

 

(それこそ今更だわ。誰かに名前で呼んで欲しいとも思ったこともないし)

 

 ただ、その変な呼び方をされるよりかはずっとましとだというだけで。

 

 別に疎外感を覚えたとかでは決してない。

 

 ”オオモト様”何て呼び名だって全然好きではなかった。

 

 恭しくそう呼ばれているだけで、扱いは全く酷いものだったし。

 

 ただ、あの子には”サトくん”と言う名前があるのに”わたし”には名前なんかないと、この子に言ったからそう呼び名をつけたんだろうけど。

 

 それを不憫というか、哀れに思ったのだろうか。

 

 センスはあまりないようだけど。

 

(まあ、”サトくん”だって、燐が付けた名前で呼んでいるだけなのだけれど……)

 

 そう。

 

 わたしは自分では何も決められなかった。

 

 ちゃんとした名前があったはずなのに、俗称というか”オオモト様”と呼ばれてること認知してしまっていた。

 

 ただ、流れてるだけの存在。

 幸運の象徴として。

 

 その結果……全部なくなってしまった。

 

 名前だけじゃなく、両親も生い立ちも、自分の存在意義すらも。

 

 全てなくなり流れて行った。

 

 だから、わたしはこれからもずっと。

 

(流れるだけの……)

 

「お民ちゃん」

 

「えっ」

 

「お民ちゃんだね。キミは」

 

「……」

 

 はっとなった。

 

 不意に胸の奥に何か強い光のような、ピンと弾んだ音が聞こえた。

 

 ずっとずっと。

 

 本当に忘れていた、呼び名。

 

 誰にそう呼ばれていたのかすら思い出せないほどずっと前。

 

 そう呼ばれていた時が合った気がした。

 

(もしかして……あの人にも)

 

 きっとそうだ。

 

 ずっとずっと忘れることの出来なかった人。

 

 決して忘れたくはなかった人にそう、呼ばれていたんだと思う。

 

 その人の前ではきちんした本当の名を名乗り、自分の事をそう呼んでほしいと言ったような、そんな気がする。

 

 ”オオモト様”なんかではなく、ひとりの”少女”として。

 

「でも、割と普通クマね。”お民ちゃん”って」

 

 けろりとした表情で顔を見つめられる。

 

 つい口走ってしまったことに今更羞恥を覚えたのか、オオモト様は顔を真っ赤にさせた。

 

「それはそう。だってわたしは普通の子、だから」

 

「ふーん、普通くまか」

 

 くまは瞳をきらりとさせるとにやっとした笑みをつくる。

 

 その視線にお民と呼ばれた少女の顔が更に赤くなった。

 

 けれど不思議とそんなに悪い気はしなかった。

 

(むしろ、何か憑き物が取れたようなすっとした感じすらする)

 

 蛍や燐、サトくんにさえ言えなかったことをこの摩訶不思議な少女に打ち明けたことに、何故か清々しさを覚えてしまう。

 

(こういうのを充足感というのかしらね。わたしが感じたことのないもの)

 

 とても意外だと思う。

 

 こういう情感というか心の動きを楽しむことができる自分自身に。

 

 消えたと思っていた感情の一部を、深い奥底から拾い上げたような。

 

 宝物を見つけたような気持ち。

 

 それはきっと、本当に大切なもの。

 

「えっと……」

 

 照れたように指を弄びながらさっきとは少し違った視線で”くま”の方を振り向いた。

 

 まだ分からないことだらけで信用できる要素は少なく感じるが、そこまで悪い相手ではないのではと思う。

 

 ちょっと言動や行動がおかしいというぐらいで。

 

 だが、くまの少女はそんな想いで見られているとはつゆ知らず。

 

「くまくまくまぁ~。お前は可愛いくまねぇ。よしっ、家来にしてやるクマ!」

 

 先ほどまでのことがどうでもいいように、妙な言葉を発しながら再びサトくんと戯れている。

 

 そのせいで、彼の綺麗な毛並みはぐちゃぐちゃになってしまい、流石にこれにはサトくんも参ってしまったのか、こちらに助けを求めるように悲しい目でみつめている。

 

 その有様にオオモト様──いや、民子は。

 

(勝手に……決めてないで欲しい)

 

 わたしの所有物という訳ではないけれど。

 

 でも。

 

「ふふっ」

 

 口に手を当てて微笑んでいた。

 

 まだ状況は全く整理できていないが、何故か楽しいと思った。

 

 本当に良く知らない誰か一緒で、まだ全然分からない事だらけだけど。

 

 この廃屋だって、よく見たらあちらこちらに蜘蛛の巣が張っていて、よくこんな所で寝ることが出来たものだと感心してしまう。

 

 それぐらい酷い状況であるにも関わらず、平気で笑っていることがおかしい。

 

 全部が全部、愛おしい。

 

 消滅することも、成長をすることもなく、こっちの世界で存在しているという不条理。

 

 想いの欠片だけで構成されているわたしの存在意義とは。

 

 それはきっと、この時なのかもしれない。

 

 奇妙な仲間と一緒いる今のこの瞬間こそが。

 

 多分、幸運なんだと思った。

 

 

 爽やかな朝の風が破れた窓からすうっと入り込む。

 

 ここには何もない。

 

 ただ、空は高く何もかもが自由だったから。

 

 だからこそ気持ちのいい朝を迎えていると言うのが良く分かった。

 

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 





うむむむー。
先週あたりに久しぶりに原付を動かそうとしたら、いきなり左(後輪)ブレーキに少し違和感を感じたのですよー。ですがまあ、普通に走れているしブレーキも一応効いているようだったから、後でいいかなーと思って放置したのですが……原付が停車する直前にタイヤがロックしてしまい、慌てて潤滑剤を散布してみたのですが効果なしで、結局バイク屋に連絡する羽目になったんですよー!!!
で、バイク屋のある所まで1.6キロほど原付を押す羽目に……その日はとても暑くて、重くて、死に倒れそうだったぁー!!!
で、何とか見てもらったところ、どうやらブレーキが固着していたみたいで、もっとも最悪なドライブベルトの切断とかではなくて本当に良かったですー。もちろん修理費は掛かりましたが。日頃のメンテナンスがとても大事だとということが分かりましたねぇー。



★ゆるキャン△ SEASON3

ついに新しいゆるキャン△が動き始めましたねー!!
新たな映像だと前シリーズとの違いがよりはっきりとしますね。何かみんなやけに可愛くなったというか、特に志摩さんは目尻が少し下がったデザインのせいか、前よりも表情が柔らかくなった感じが……ちょっと大人になった感じかも?
実はヤマノススメ4期のようにこれまでのあらすじをダイジェストのようにやってから完全新規展開かとおもったんですが、最初からSEASON2の続きをやるみたいですねー。公開されているのもアルコールストーブ作りのお話と千明の散髪になっていますし。

何にしても来年から始まる新シリーズが楽しみですねーー!!!


ではではではーーー。




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Selenarctos


「ふわあぁっ」

 ぺたりと床に座ったまま、シャボン玉を膨らますみたいに大きく口を開けたくまがピンと四肢を伸ばして欠伸を噛み殺した。

 その声に民子(たみこ)──オオモト様は振り向く。

 そういえば今朝はこの”くま”の声で早くから起こされてしまった。

 だからか、普段は少し表情の乏しいオオモト様の顔がぶすっと膨らんでいた。

 それには白い犬──サトくんも同意見の様で、散々弄られた白い毛をもじゃもじゃと逆立てたまま、不機嫌そうな顔でしっぽを丸めて座り込んでいた。

 状況からするとみんなまだ眠たそうみえたのだが。
 
「はぁ……やっぱりおなか空いたクマね」

 ぐーと言う間の抜けた音とともにくまがため息とともに呟く。

 服の上からお腹を押さえながら、空腹を訴えかけている自身の鳩尾の辺りを恨めしそうに見つめていた。

「そうね」

 小さなため息と一緒にオオモト様は言葉をこぼした。

 何とも暢気な仕草に呆れたというか、明らかに空き家みたいな家だろうから、どこにも食べ物なんてないだろうにと。

 軽く家の中を見渡してみてもそれらしいものはとてもありそうにない。

 ただ、良くある田舎の日本の家屋的な建物ではなく、むしろ古びた洋館の様だったから、そこまで廃れたような雰囲気は感じられなかった。

 作りがしっかりしているというか、傷んではいるものの、そこまで荒らされたような形跡はない。

 部屋の中には壊れたアンティーク調の家具や調度品、もう動かなくなった柱時計なんかも残されてあった。

 でも、どのぐらい前からこの屋敷はここにあったのだろう。

 割と部屋数もありそうだったから、結構な家柄の者が住んでいたような気がするが。

 無論、電気なんかは通っていない。
 水道なんかもダメだろうと思う。

 辛うじて天井からぶら下がっているガラスの照明が良く落ちてこなかったものだと感心してしまうほど、ボロボロに朽ちていたから。

 ただ、もう少し、この中を探索してみたい気もする。

 好奇心がそそられるというよりも。

(何となくだけど、懐かしい感じがするのよね、この家……)

 オオモト様がきょろきょろと家の中を見回していると。

「これって何クマ?」

 いつの間にかくまが勝手に人の荷物を開けていた。
 
 それを見たことがないのか、掌に乗せたまま無垢な表情で首を傾げている。

(本当に不思議な子……まるであのふたりと出会った時みたい)

 そんなことを言ったらきっと怒られるとは思うが。

「これは手毬よ。こうして使うのと」

 クマの手から受け取ると、天井に向かってぽうんと放り投げた。

 さまざまな色でかがられた毬はくるくると回転する。

 色彩を伴った幾何学模様がその度に様々な表情に変化した。
 万物が流転していくように、幾度も顔を変えながら。

 それを何度も繰り返す。

 昔やった時のように。

 あの時は同じような子供たちの前でやっていたような気がする。

 みんなくるくると変化する毬の模様をみて楽しんでいた。

「なんか、懐かしい感じがする玩具くまね」

「……そうね」

 ぽうん、ぽうん。

 色とりどりの毬が回転し織りなす模様をくまは黙って眺めていたのだが。

 ぐぅ~。

「やっぱり何か食べないとだめクマ~」

 と、情けない声を上げた。

「じゃあ、何か食べに行きましょう」

 オオモト様は手毬をぽんと手で受け止めると、くまにそう提案をした。

「行く行く行くクマっ!!」

 くまが大きく手を上げる。

 サトくんもそれには同意のようで、立ち上がって一声、わんと鳴いた。

 屋敷の周りを取り囲む鉄格子のような門をくぐって外へ出た。

 その鉄の門もとうの昔に破かれており、いくらでも穴が開いているから誰だって入りたい放題だろうが、こんなところに好き好んではいるものなど誰もいないだろう。

 こんな幽霊屋敷みたいなところに。

 オオモト様は一瞬、屋敷のほうを振り返ったが、すぐに向き直して下界へと続く山道を歩いて行った。

 二人と一匹が崩れた空き家から出て行ったあと。

 随分と昔に止まっていたはずの傾いた柱時計の長い針がかちりと動いた。





 

「よく分からないのは、さ」

 

 ぱくりとパンケーキを頬張った後でくまは尋ねる。

 

「ほんとうに”ヒヒ”何て言うのが居たという事実くまね。ねぇ、キミは実際に見たんでしょ? 白く大きな猿の姿を」

 

「確かにわたしはヒヒの事を知っているわ。けれどちゃんと見たことはないの」

 

 赤い着物を着た少女は小さく頷くと、白い指で出来立てのハッシュドポテトを両手に持ちはむはむと小分けに口の中へと入れた。

 

 お腹が空いたとくまが嘆き散らかすので、朝からやっていたファストフード店に入ったのはまあいいのだが。

 

(ほんとうにまだ、誰も居ないのね)

 

 田舎の方の町だからむしろ朝は早く、割と人がいるのかと思ったがそうではなかったらしい。

 

 確か、有名なチェーン店のはずなのだが、店内は朝の冷え切った空気と同じでがらんとしていた。

 

 そのせいで二人の少女の声が閑散とした店内に響きまわってしまうことになるのだが。

 

「そうなの? でもヒヒは実在しているんだよね」

 

「ええ、それはそうよ。でもそれを良く知っているのはわたしじゃなくサトくんの方ね」

 

「なるほどクマ。後でサトくんにも聞いてみるクマ」

 

 くまくまと良く喋る少女の問いに静かに頷く。

 

 この少女の語尾が少し変わっているのには特にもう突っ込む気はなかった。

 

 ただ、他の人が聞いたらさぞかし困惑するだろう。

 

 ただでさえ、人気の少ない朝の客がこんなへんてこりんな会話をしている少女ふたりだなんて、おかしく思わないほうがおかしいだろう。

 

 まあ、ただお喋りをしに来ただけではないから、そこまで客としての心象は悪くはないとは思うけれど。

 

「そうね。あの子が話してくれるのならそうしてみればいいわ。話さなくとも分かることがあると思うし」

 

 紙製の白いナプキンでさっと口元を拭うと、口直しの炭酸ドリンクを紙製のストローできゅうっと啜った。

 

 以前はプラスチック製だったストローは、紙を丸めて作ったペーパーストローへと変わってしまったようだった。

 

 環境への配慮からこうなったらしいが……どうにも味気なく感じる。

 

 中身は一緒なのにとても奇妙なことだとは思うけど。

 

「……中々やるクマね」

 

「どうかしたの?」

 

 くまにぽかんと口を開けて見つめられていたの問いかけるオオモト様。

 

 目を丸くしている所を見るとよほど不思議なものでも見たらしい。

 

 そんな変なものがどこにあるのかと。

 

「見た目の割に良く食べるねよね、キミは。明らかにキャパオーバーしていないクマ?」

 

「? 無理をしているように見えるかしら」

 

 きょとんとする少女にくまは呆れたように肩をすくめて注文したドリンクを一気に飲み干した。

 

 ちゅうううぅぅ。

 

 気恥ずかしいというか、少しみっともない音が僅かばかりのBGMを流している店内に響き渡る。

 

 カウンターから遠い座席とは言えこれは結構うるさく感じるだろう。

 

 見た目通りの元気な少女らしいといえばそうなのだろうが。

 

 ──この、”くま”と名乗った少女からは、いわゆる普通の”野生の熊らしさ”のようなものは微塵も感じられない。

 

 だからただの愛称なのではと思っている。

 

 服装だって袖の無い綺麗な空色のワンピースを着ているし、足元だって年齢相当と言ってもいいパステルカラーの小さなスニーカーを履いている。

 

 はきはきと声の元気な少女にはピッタリの動きやすい服装だった。

 

 流石に毛むくじゃらのものを手足に着けているような様相をしてはいない。

 

 それに()()()は流石に付けてなさそうだった。

 

 上着の下を見てはいないからその辺りはまだ不明なのだが。

 

 アクセサリーとしては付けていても問題なさそうな気はする。

 

 曲がりなりにも自らを”くま”と名乗っていることだし。

 

(まあ、強いて言うのなら、あれぐらい、かしらね)

 

 少し赤味の掛かった長い髪の上のカチューシャだろうか。

 そこに毛糸で作ったような丸い動物の耳がちょこんと乗っている。

 

 せいぜいそれぐらいで他は殆ど人間と言ってもいい。

 

 ()()()()()()をしているだけなのかもしれないが。

 

 自分と同じように。

 

「あなたの方がとても変わっているわ。あなたみたいな子は今まで見たことがないもの」

 

「そうクマか? キミのほうがよっぱど変わっていると思うけどね。色々と」

 

「そうなの?」

 

 オオモト様は他人事のように小さく口を開けたまま首を傾げる。

 

 何か、はっきりとわかるおかしなところでも自分にあるのだろうか。

 

 ”くま”と名乗る不思議な少女から見ても。

 

 まあ、それは今更かもしれないことだけど。

 

(おかしいのは”外見”じゃなくて”中身”ということかしらね。この子からも不思議なものを感じるし。これは偶然じゃなく、出会うべくして出会ったものなのかもしれない)

 

 偶然と必然の違いなんてものはないに等しいわけだし。

 

 奇妙な縁というか、何か宿命的なものを感じる。

 

 こんなことを考えること自体がとても珍しいことだとは思っているけど。

 

 ぱくり。

 

 揚げたじゃがいも(ハッシュドポテト)を無造作に口に入れた。

 

 もう二個目……三個目だったかしら?

 良くは覚えてないけど。

 

「流石に、食べ過ぎなんじゃないクマか? 見かけによらず大食漢すぎるクマぁ」

 

 くまは呆れたように呟いた。

 

 くまの前のテーブルにはSサイズのドリンクと食べ終わったパンケーキ一つ分のトレイしか置かれてはいなかったが、オオモト様のテーブルの前にはポテトやバーガーを包んでいた紙屑がいくつも散乱している。

 

 ドリンクは何故か3つ分もあり、その内の2つは既に氷だけになっていた。

 

 食べ過ぎという言葉が全く似合ってしまう有様ではあった。

 

 それでもまだ足りないのかちらりとカウンターの方を窺う黒髪の少女。

 

「まだ、食べる気かクマ?」

 

 もう呆れてなにも出ないくまは肩をすくめて両手を頭の後ろへと回した。

 

「そうね」

 

 だが、くまの思いとは裏腹にオオモト様はまだいけるとばかりにメニューを見だしていた。

 

 もう勝手にしてくれと言わんばかりに向かいの席に座る少女は両手で頭を挟み込んで興味なさそうに閑散とした店内を見渡していた。

 

 ……

 ……

 

「そういえばさぁ」

 

 クッション性のある背もたれに寄りかかっていたくまの少女がぴょこっと上体を起こして尋ねる。

 

 細い両肘で顔を押さえながら、テーブルの上でにこにことした顔を作っていた。

 

 そのことに少しの違和感を感じたが、座敷童の少女の方は取り立てて気にせず、先ほど注文したばかりのエッグマフィンをその小さな口の中へとパクリと放り込んでいた。

 

「キミって、”オオモト様”って呼ばれているんだっけ? あの町で」

 

「……」

 

 表情は変わらなかったが、つい手が止まっていた。

 

 何故そのことを知っているんだろうという疑念が、向かい合う緋色の目をもつ少女をまっすぐに見つめる視線となって表れていた。

 

「おどろいたクマ?」

 

「ええ、少し」

 

 得意満面に鼻を鳴らすくまにオオモト様は素直にそう頷いていた。

 

「実は……クマ」

 

 勿体付けているとばかりにワザとらしく咳ばらいをすると、何故か少し慎重に話始める、くま。

 

 黒髪の少女の表情は相変わらずだったが、それでも手にしたマフィンを食べるつもりは無いようで、何かを察したようにそっとトレイの上に戻していた。

 

「ボクもざっきぃの居た、小平口町に行ったことがあるんだクマよ。知っていたクマか?」

 

「いいえ、知らなかったわ。あなたがあの町にまで来ていたことなんて」

 

 これが初めての出会いだと認識しているのだから当然なのだろうけど。

 

 まさかあの町にまで来ていたとは思わなかった。

 

「あ~、でも今は名前が変わったんだよね。近くの町と合併したって聞いたけど……? 確か大平口町とか言ってたっけ」

 

「そう、みたいね」

 

 ややぶっきらぼうに答えるオオモト様に少し意地の悪い笑みを浮かべるくま。

 

 まるで全てお見通しのように。

 

「くまままっ~、キミがあの町を出たのはそれが理由だったりとか。割と可愛い所があるクマね」

 

「そんなつもりは無いわ。ただ、たまたまそうなったってだけで」

 

「もしかして、偶然ってことが言いたいのかい? もぉー、素直じゃないクマねぇ」

 

「……違うって言っているのに」

 

 口に手を当ててほくそ笑むクマに、オオモト様は溜息を吐くと、食べかけだったマフィンを一息に頬張った。

 

 ……

 ……

 

「それで、あなたの方はどうなの?」

 

「どうって、クマ?」

 

 そう言ってオオモト様は自分の事を指さす少女の方へと向きなおった。

 

 丸い大きな瞳と視線がぶつかる。

 

(昨日の夜にみたときは狒狒(ヒヒ)のものと勘違いしてしまったけれど)

 

 どれが”本当の目”だったんだろうかと思う。

 

 闇の中から見ていたのは、獣が獲物を狙うような鋭い目つき。

 

 目の前にいる少女が発していたとは到底思えないような敵意を持った二つの瞳だった。

 

「ねぇ。結局あなたは何者なの? まさか、本当の熊だなんて言わないとは思っているけれど」

 

 この”クマ”に対して駆け引きなんて無用だと思ったから単刀直入に訊ねた。

 

 何か、人とは違うものを感じてはいるが、それが何なのかがはっきりしてこない。

 

 野生の熊というよりも、ヒヒやサトくんのような獣とは違ったモノに近い気はする。

 

(むしろ、自分と似たような存在……人でないもの……)

 

 頭に付いている”耳”は単に飾りではないのだろう。

 

 くまが何かする度にぴくぴくと動いているみたいだから。

 

「くまはれっきとしたクマだよ。何なら親しみを込めて”くまリン”と呼んでもいいクマよ」

 

 ぷにっとした頬に指を当ててにこっと微笑むくま。

 だがオオモト様は申し訳なさそうな顔で。

 

「ごめんなさい。それは遠慮しておくわ」

 

 即時否定されてしまい、流石のクマも呆気に取られた顔になったがすぐに表情を戻すと何かを察したように少し顔を近づけてきた。

 

「むー? もしかして。ボクのこと……ぬいぐるみのクマかなにかなんて思ってないクマか」

 

「……」

 

 これはどうやら図星だったらしくオオモト様は口を噤んで黙ってしまった。

 

 野生の勘というやつだろうか。

 

「もー、違うクマ、違うクマ、違うクマ──!!」

 

 くまはぐるぐると手を回して全力で否定をする。

 

 奥に引っ込んでいたファストフードの店員がこちらを振り向いてびくっとなっていた。

 

「ボクは由緒正しい”ツキノワグマ”なんだクマー!! ヒグマやグリズリーとは違うクマよっ。むしろアイツ等は敵クマっ! がうっっ!!」

 

 熊だと必死に言い張る少女は両手を上に突き出して襲い掛かるようなポーズを取った。

 

 正直、どっちでもいいと思う。

 

 この子が言えば言うほど余計に胡散臭さが増していく気がするから。

 

「……その顔はとても信じられないと言う顔クマね」

 

 はぁ、とくまは小さく息をこぼすと。

 

「ちょうどいい機会だから素敵なくまのエピソードをざっきぃに存分に語ってあげるくまっ! 耳の穴を綺麗にしてよく聞いておくクマクマっ!」

 

 ソファの上に立ち上がってびしっと指を差すくまの少女。

 

 明らかな営業妨害だったが、何故か店員からの注意等はなかった。

 

 多分、厄介な客として相手にされていないのだと思う。

 

 指を差された黒髪の少女は無言でそれを受けとめながら、口の中のマフィンをもぐもぐと咀嚼させた。

 

 ついでに両方の耳の穴に軽く指を入れて、掃除しているような仕草も一応とった。

 

 いちいちリアクションと声が大きいのには、少し疲れてしまうが、この少女の素性がが知りたかったのは確かだった。

 

 なので口を挟むつもりは毛頭ない。

 

 どうせ自分は朝食をただ食べているだけなのだし。

 

「そうクマねえ……あれはいつの頃のできごとだったか……」

 

 くまはふんすと腕を組みながら過去の記憶を思い出そうとして、遠くを見るような仕草をとった。

 

 よくよく見て見ると本当に綺麗な子だとは思う。

 

 こうして黙っていて、しかも語尾に”クマ”をつけなければの話だが。

 

(……)

 

 オオモト様はその事には何も触れずに、黙ってくまの話に耳を傾けることにした。

 

「昔、とある偉い人が何人かの猟師と一緒に山に狩りをしに来たんだクマ。で、最初は仕留めやすい鹿やウサギを飼っていたんだクマよ。けど、欲が出てきたのかもっと手ごたえのある大きな獲物を狩りたくなってきたんだクマ。まったく人間とは本当に欲深いクマねぇ……」

 

「じゃあ、その時のクマがあなたなのね」

 

 最後の方は余計な言葉だとは思ったが、さっさと結論を言うオオモト様にくまは顔を赤くしてぷくっと頬を膨らませた。

 

「流石に話を端折りすぎだクマ~! ここからが面白くなるところだからもうちょっと我慢して聞いてて欲しいクマっ。あ、何なら飴玉でも食べるくま?」

 

 本当にポケットからアメ玉を差し出すくまにオオモト様は無言で首を振った。

 

(それにしても、面白くなるって……それに何だかくまに子ども扱いされているわね)

 

 だからって、おとぎ話でも聞かせるつもりかしら。

 

 少し訝しそうに眉根を寄せながら頬に手を当てた。

 

「ここからが抱腹絶倒、空前絶後なんだクマよ~。最後までよく聞クマっ」

 

 くまはこれからが本番とばかりに紙製のカップに残ったコーラを氷ごと一気に飲むと、ばりばりと噛み砕きながら話の続きをした。

 

 表現が少し古めかしいとは思ったが、その辺りは少し自分に似ている。

 

 座敷童の少女は本心からそう思った。

 

「確かに、”クマ”が狙われたんだクマ。でも勘違いしないで欲しいクマっ。たまたま罠にかかっただけなんだクマよ。普段だったらあんな間抜けなことにはならないクマねっ」

 

 聞いてもいない事ばかりべらべらと喋るくまに、流石のオオモト様も少し呆れた息を吐いた。

 

 この分だと本題に入るにはまだ更に時間がかかるだろう。

 オオモト様は小さく肩をすくめると、静かな声で仕方なしに合いの手を入れた。

 

「それで、その”賢い熊ちゃん”が()()()()()()にかかった後にどうなったの?」

 

「それは……うん……クマぁ……」

 

 そうオオモト様に問われたくまだったが、何故か恥ずかしそうに指をすり合わせながら、うーと唸ると視線を横へと泳がせていた。

 

 ずっと流暢だったくまの口が急に止まってしまったことにオオモト様は首をひねる。

 

 何があったんだろう、と。

 

(この子のことだから簡単に脱出したという訳じゃ……なさそうね)

 

 よく見るとくまの細い指が微かに震えていた。

 唇をきゅっと噛みしめ何かを堪えるように俯いている。

 

 多分、これ以上は言いたくはないのだろう。

 

 自分から語っておいて何か変な気はするが。

 

 本当は思い出したくはない事とはそういうものなのかもしれない。

 

「く、くまっ!?」

 

 オオモト様はテーブルの上の少女の手のその上から重ね合わせるようにぎゅっと握った。

 

 何故そんなことをしたのかは自分でもわかってはいない。

 

 けれど、そうしたいと思っていたのだ。

 この時は。

 

(同情……とは違うわね、きっと。この場合”共鳴的”というべきなのかしら)

 

 彼女との何が惹かれ合っているのか。

 その辺はよく分からない。

 

 今はこの子にそうしてあげたいという思いが浮かびそれを実行に移しただけのことだった。

 

 きっとそれだけ。

 

 まだよく分からない子だし。

 

「あなたにも色々あるのね。これ以上は無理に話さなくてもいいのよ」

 

 少し言葉を選んで話す。

 

 何かはあるのかとは思っているけれど、嫌な思いをさせてまで聞きだしたいとは思っていない。

 

 見た目以上に心中では複雑な思いがありそうなのが分かっただけでも十分だと思った。

 

 けれど。

 

「それは、くまも分かってる……だけど」

 

「?」

 

 くまは添えられた白い手をぎゅっと握ると。

 

「ここからが面白いところなんだクマっ! だから聞いてやっぱり欲しいクマ!!」

 

 顔どころかシートから立ち上がって、雄たけびのような声でそう言っていた。

 

 それこそ小さな()()のように。

 

 急な変化に開いた口がふさがらないオオモト様をよそに、くまはもう勝手に続きを話し始めた。

 

 先ほどよりもより雄弁な口調で。

 

「絶体絶命のくまちゃん!! だがその偉い人の連中は何故か途中で狩りを止めて立ち去ってしまったんだクマ」

 

「クマが不思議そうにそれを見送っていたその時だったクマっ! そこに何とっ!!」

 

「……ちゃんと聞いているクマか? ここからがくまの重要なところクマよ」

 

 律義に確認を取るクマ耳少女に固まったままの黒髪の少女はこくこくと頷いた。

 

「そんなとき、雲間から金色の光を差し込み、くまの体を照らし出したんだくまっ。そうしたら大きな熊の体は可愛らしい人間の少女の姿に変わっていた……という話だったんだクマ! さあ、存分に泣いてもいいクマよ。ハンカチならいくらでもあることだし」

 

 そう言ってくまはテーブルに備えてあった紙製のナプキンで自分の目元を拭う。

 

 明らかに出し過ぎているようで、きちんとそろえて置いてあった白いナプキンは一度で半分ほどなくなっていた。

 

「どうって……」

 

 どう答えたらいいのだろう。

 

 お話は、まあまあそこそこ面白かったとは思うけれど。

 

(どこまで信用したらいいものかしら)

 

 オオモト様は困惑気味に少し困った顔になった。

 

 いわゆるツッコミどころが分からないという状況だった。

 

 だが、少しでも共感するところがあったのだから何か言ってあげないとはいけないと思う。

 

 例え荒唐無稽で雲を掴むような話であったとしても。

 

「どうくま? すっごく驚いたクマでしょ?」

 

 元クマとおぼしき少女が身を乗り出して感想を求めてきた。

 

 言い寄られた少女の方は眉根を寄せて少し考え込むような素振りを見せると。

 

「そ、そうね。面白かったわ」

 

 そう小さく口を開いた。

 

 何とも不思議すぎる話だったので、取り立てて言えることと言えばそれだけだったのだが、向かい側に座る少女は明らかに不満げな顔をしていた。

 

「がう~、それだけだったクマかぁ。もっとこう、ものすんごく感動して号泣ものだったっ!! とか、映画化決定!! とかの具体的な感想はないかくまっ」

 

 自称、くまが変化した少女は、あれこれ言いたい放題に言葉を並べていた。

 

 それだけ自分で言えばもう十分な気もするが。

 

「ごめんなさい。話がまだ良く見えてなくて」

 

「う~ん、確かにちょっと難しい話だったかもね。まあ……いちどじゃ理解できないのと思うのは無理ないクマね」

 

 自身でだした結論に納得したのか、くまはうんうんとひとりで頷いていた。

 

 オオモト様は深くため息をついた。

 

「ともかく、朝食が良いのなら出ましょうか。お腹の虫も収まったようだし」

 

 ……

 ……

 ……

 

「そういえばサトくんは? てっきりくまたちと一緒に食べるものかと思ってたのに」

 

 きょろきょろと見渡しながらくまがたずねる。

 

 白い犬の姿は二人がファストフード店で朝食をとっている間、一度も見かけることは無かった。

 

 オオモト様はそれほど気にしていないようで、前だけを見て呟く。

 

「あの子はひとりでも大丈夫よ。わたしなんかよりもよっぽど要領がいい子だし」

 

 山から下りてくる際に白い犬はさっさと何処かへ行ってしまった。

 

 何か不穏なものを感じたというよりも、ひとりで行動したかったのだと思う。

 元々そういう子だったし。

 

 どうせすぐに会えるだろうと思っていたから引き留めるようなことはしなかった。

 

 

 二人は異変を感じた河悟町(かわごちょう)から少し離れた隣の町までやってきていた。

 

 こちらもあの町と同じく、のどかな感じの田舎の町とか見えない。

 

 高い山々とどこまでも続いて行きそうな田園風景にまばらに家が建っているだけ。

 

 何かの製品工場なんかも多少はあるようだが、別段おかしな点なんかは見受けられない。

 

 典型的な山間の町。

 

 そうとしか形容できなかった。

 

「やっぱり無意味なんじゃないかクマ。この分だとこの地域一帯の町を調べかねないみたいになるクマよ? 徒労も徒労だクマ」

 

 呆れたようにそう言い放つくま。

 

 その割には一緒に付いてくる辺り、案外律義なのかもしれない。

 

 暇を持て余しているのかもしれないが。

 

「まあ、確かにそうね」

 

 そう同意を示す様な発言をするオオモト様だったが。

 

「でも、分からない以上は見て回る他ないわ。じっと黙って待っていたって何かが改善されるとは思わないもの」

 

「それはそうかもしれないけどぉ……ざっきぃは大丈夫なのクマ?」

 

「大丈夫って何が?」

 

 ”ざっきぃ”と呼ばれたことにまだ違和感があるのか、少女は少し眉を寄せてくまに聞き返す。

 

 恥ずかしさを我慢してまでわざわざ本名を名乗ったのにとは思ったが、どうせそう言ってもこのくまは聞き入れそうにないのでそれはもう黙っておくことにした。

 

(少しだけ残念な気持ちもあるけれど、どういった思いなのかしらね、これは)

 

 まだ知り合って日の浅いこの子に一体何を期待しているのだろうか。

 

 そんなことは無駄何てことは充分に分かっているのに。

 

「まだ朝ご飯しか食べてなかったからだよっ、もうとっくにお昼過ぎちゃったジャン」

 

 そう不満げに言うクマだったが、オオモト様はさっさと歩き出していた。

 

 熊耳を着けた少女はスキップでもするようにその後ろについて歩くと、すぐにその隣に並び立った。

 

「ねぇ、ざっきぃ、そろそろ何か食べようよぉ。この辺りにおいしいお店があるって、さっき言ってたクマよぉ」

 

 オオモト様の腕に縋りつきながら懇願するくま。

 

 くっつかれると暑くてたまらないのでオオモト様は少し眉をひそめた。

 

「くまは、街の人達にそんな事ばかり聞いていたわよね。ご当地がどうのって」

 

「それは、聞き込みの常とう手段クマっ。当たり障りのない話からその真意を探るって言う、探偵ものならの盤石の定番的行動。能ある熊は爪を隠す、クマっ」

 

 えへんと胸を張るくま。

 オオモト様は一瞬面食らったような顔になったが。

 

「それで、その成果は得られたのかしら」

 

 オオモト様は軽くくまに微笑んだ。

 

 冷たいような感じはなく、むしろ少し楽しんでいる風で。

 

 くまはむぅ~と唸ると。

 

「まあ、釣果は上々といったところくまね。魚影は見えた感じがしたくま」

 

「そう……魚影ね」

 

 分かりやすい威勢を張るくまにくすっとオオモト様は含んだ笑みをみせた。

 

「そんな事よりも、ざっきぃ~、早く何か食べよう~。さっきからくまのお腹ぐうぐうなってるくまよ~。このままだと、お腹の中の猛獣が目を覚ましてしまうクマぁ~」

 

「……あなたのいうクマって、そういう事だったのね」

 

 オオモト様は納得したのか手を小さく叩いて頷いていた。

 

「ボクはそんなに食いしん坊じゃないくまっ。むしろキミの方がいっぱい食べてたじゃないかっ」

 

「そうだったかしら? 別に普通ぐらいだと思っているけど」

 

「あれは普通の量じゃなかったクマよ。ざっと四人前ぐらいはぺろりと食べていたくま……ざっきぃは見かけによらずガッツリ系くまね」

 

(がっつり……? どういう意味かしら?)

 

 あまり聞き覚えの無い単語にざっきぃと呼ばれている座敷童の少女は首をかしげた。

 

 ただ音の響きから何となく意味は分かる。

 

 なので、反論するように呟いた。

 

「でも、わたしは朝しか食べないから」

 

「……っ!!! マジくまかっ!!?? 死ぬクマよっ!!」

 

 ただでさえ高い声をだすくまが今日一番の声で叫んでいた。

 

 傍で叫ばれたオオモト様は片手で思わず耳を抑えていた。

 

 きーんとした耳鳴りが脳髄を突き抜けて反対方向にまで抜けるまで少し時間がかかるほどだった。

 

「……っ!」

 

 立ち眩みみたいに一瞬くらっとなった身体を細い両足を踏ん張って支える。

 

「はぁ」

 

 オオモト様はひどく疲れたように深く深呼吸をする。

 こめかみが少しズキズキとした。

 

「……それぐらいじゃ死なないわ……もっとも、生きているかどうかすら自分ではわかっていないけど」

 

 そう言った後でまた深い息を吐いた。

 

 頭上の日差しなんかよりもずっとしんどい。

 音の強さと言うものを肌で感じたのはこれが初めてのことだった。

 

「そんな婆臭い言っていないでさっさと食べに行くクマっ。人間らしく美味しいものを食べれば些細な悩み何て吹き飛ぶよクマ」

 

「わたしはそういう事を言っているわけじゃ……」

 

 ぐいぐいと背中を押される。

 見かけによらず強い力だったのでおもわずつんのめりそうになった。

 

「細かい事は食べながら聞いてあげるクマ。さっき聞いた話だとこの辺りに美味しいソースカツ丼を食べさせてくれるお店があるって言ってたから、さっそく行ってみるクマっ!」

 

「あなた、もしかしてワザとこの辺りを歩かせてたんじゃ……?」

 

「バレたクマ? まあまあもし美味しくなかったら町の人達が嘘を吐いていたことになるクマ。つまり”疑わしい証拠”ってことクマ。だからそれを証明しにいクマーー」

 

 もっともらしい詭弁を並べながら、なおも背中を押すクマにオオモト様は内心呆れかえっていたが。

 

「分かったわ。でもこのままだと転んでしまうから押さなくともいいのよ」

 

「そうクマかっ!」

 

 くまは急に背中を押す手をぱっと離すと、くるりと身体を柔らかく翻して、オオモト様の手を取った。

 

 くまの細い指に包まれて、不意に胸の奥があったかくなった。

 

 白くしなやかな指先はまるで人形のよう。

 けれどそこには確かな温もりがあって、ずっとこうしていたい衝動にすら駆られる。

 

(わたしが本当に欲しかったもの……それはまさかこんなことなの?)

 

 内心訝しくなる。

 

 もうずっと遠い時を過ごしてきた気がするけど、それの答えがこんなことだったんだろうか。

 

 本当に単純で。

 

 ごく、ありふれたことが。

 

「どうしたクマか。急に立ち止まって?」

 

 いつの間にかとても大きな二つの瞳に顔を覗き込まれていた。

 

「えっと」

 

 初めて恥ずかしさを覚えたように、少女は口ごもる。

 

 たおやかなその仕草は、その少女特有の艶のようなものをふんわりと漂わせていた。

 

「さあさあ、ぼんやりとしてないでこっちに行くクマ。善は急げクマっ」

 

「あっ!」

 

 ぐいっと強い力で手を引っ張られる。

 

 体ごと持っていかれそうになり、オオモト様少し慌ててくまの引っ張る方へと足を動かした。

 

 くまはそんな様子に満面の笑みを浮かべていた。

 

 それは燦々と登る日差しよりもずっと眩しく見える。

 

(もし、あの時のわたしに同じぐらいの友達が出来ていたら……)

 

 こんな感じだったのだろうか。

 

 少し引っ込み思案で人見知りなわたしを無理やりに引っ張り回していくみたいに。

 

「あの、二人みたい」

 

「……どうかしたクマ?」

 

 くすっと笑みをこぼすオオモト様にくまは振りむいて首を傾げていた。

 

「いいえ、何でもないわ。それより急がなくていいの? そんなに美味しいお店だとしたら、お昼時には売り切れる可能性もあるんじゃないかしら?」

 

 そうくまに促す。

 

 ちょっと強引すぎるかもと思ったが。

 

 くまに思っていたよりも効果的だったようで。

 

「た、確かにっ!! それは十分あり得ることクマね」

 

「ええ、だから少し急いだほうが……」

 

 オオモト様が喋り終わる前にクマは走り出していた。

 

 手を引かれたままその後を必死について行く黒髪の少女。

 

 着物と下駄(ぽっくり)という出で立ちでは走るという行為に適しているとは言えない。

 

 けれども、少女は一生懸命について行く。

 

 まるで、幻想から出てきたような容姿のくまの引いていく先にこそ、自分の本当に求めていたものがあるみたいに。

 

 真っ直ぐ前だけを見つめて。

 

 ──

 ──

 ──

 

「ふい~、美味しかったくま~。()()も美味しかったクマだけど、デザートで頼んだアイスがまた格別だったくまねぇ」

 

 くまは店を出るなり満足気にそう呟く。

 

 オオモト様は少し楽しそうにその様子を眺めていた。

 

「ええ、確かに。落ち着いたいいお店だったわ」

 

「そんなに混んでいなくて良かったクマね……っていうか、ざっきぃ~」

 

 くまがにやにやと見つめている。

 

「何も食べないと言いながらアイスだけは頼んでいたもんねぇ。やっぱりデザートは別腹なのかなー?」

 

「そういう訳じゃないわ」

 

 オオモト様はくまの顔を見ないでそう言った。

 

「ただ、店に入って何も頼まないのは失礼だと思ったから頼んだだけよ」

 

「そうクマかぁ~。その割には三つもアイスを食べていたようだけれど~」

 

 さらに顔を近づけてくる。

 

 まったく、この子には情緒というものが少し足りていない気がした。

 

 黒髪の少女ははぁ、と息を漏らした。

 

「今日は暑かったから……それだけよ。あなたこそ、朝とは打って変わっていっぱい食べていたわね。”くま”はそんなに食べないんじゃなかったの?」

 

 ちょっとしつこく感じたのか、オオモト様はくまに対してチクリとした口調で返す。

 

 他人に対してこんな風にムキになる事自体、そうとう珍しいことなのだが。

 

 本人はその事に全く気付いてはおらず、少し意地悪そうにクマにそう問いかけていた。

 

「お、美味しいものはいっぱい食べるのが道理なんだクマっ! それに本来の熊はもっともっといっぱい食べるんだから、むしろくまは全然小食な方のクマさんなんだよ」

 

 ”くま”の言う”熊”とは本当の方のクマの方だろう。

 

 あれらと比較したら確かに小食とも呼べるだろうが。

 

「それにしても本当にデザートだけで大丈夫なのかぁ? 後でお腹が空いて倒れてもしらないクマよ」

 

「心配しなくても大丈夫よ。むしろちゃんとした食事がとれるだけありがたい方だわ。それにお茶も美味しかったし」

 

 オオモト様はこの時期に冷水などではなく、熱いお茶を飲んでいた。

 

 冷たいアイスと熱い煎茶だったから、組み合わせはそこまで悪くはないだろうけど。

 

(やっぱり、ざっきぃって……)

 

 くまは珍しく口をもごっとさせて、出掛かった言葉を飲み込んでいた。

 

 急に変な行動をとったクマにオオモト様はそっと声を掛ける。

 

「もしかして、胸やけでも起こしたの? ドングリでも拾ってきた方がいいのかしら?」

 

 お昼の際、くまはかなりの速さで丼を平らげていたから気になってはいた。

 

 彼女の言う本来の熊だったら、消化を助けるために小石や木の実を飲み込んだりする事を聞いたことがあるから聞いてみたのだったが。

 

「もうそんなんじゃないクマっ! 心配なのはくまのほうじゃなくてざっきぃの方だクマっ!!」

 

「わたし、が?」

 

「そうクマよっ! くまの聞いた話だと小平口町の座敷童はあまり良い扱いを受けていなかったと聞いてるんだ。ねぇ……それってやっぱりざっきぃの事を言っているんだクマ? だとしらキミは……」

 

「…………」

 

 くまの質問にオオモト様は何も言わなかった。

 

 ただ、そっと目を伏せるだけで。

 

 

 蒼く、澄み渡っていた空があかね色に染まっていく。

 

 逢魔が時。

 

 何があってもおかしくない時刻。

 

 空だけは至る土地が変わってもなにも変わりはしない。

 

 意味もなくただ過ぎていくだけ。

 

 あの町でもここでもわたしの居場所などどこにもないのだろう。

 

 訪れる、夜の闇と共に消えてしまいそうになる。

 

 それでも、良かったのだけれど。

 

「……うん」

 

 くまの少女はそう小さく頷く。

 

「ざっきぃ、そろそろ帰ろうか。続きはまた明日一緒に調べればいいクマ」

 

 消えかかった僅かな輪郭を繋ぎとめるように、つないだ手をぎゅっと握りしめる。

 

 手の温もりなんかよりも、その言葉が嬉しかった。

 

 ただ、普通に声を掛けてくれたことが。

 同じ視線で。

 

「そうね……うん」

 

 わたしはそう頷いていた。

 

 そんな気なんて、一切頭には浮かんでいないというのに。

 

 多分、この子のことが気に入ったんだろうと思う。

 

 それはいつまでのものかは分からないけど。

 

 ──

 ──

 ──

 

「ほんとうに探しにいくつもり? いくらキミでも今から森の中に入るのはおススメできないクマよ」

 

「それは分かっているわ、だけど……」

 

 オオモト様はそれだけを言うとランタンを片手に、使い捨てられた廃墟から暗い夜の森へ出かけに行こうとする。

 

「それにあの子は賢い子くまよ。それはよく分かってるんでしょ?」

 

「うん」

 

 廃墟となった拠点に戻り、しばらく待ってみたのだが白い犬──サトくんはまだ戻ってはこなかった。

 

 あの子が見かけ以上に賢い子だというのはわざわざ言われなくても分かっている。

 

 だからこそ、戻ってこれない事情があるのではと思ってのことだった。

 

「くまはここで残っていて。入れ違いになるかもしれないし」

 

 釘を押すようにくまにそう言って急いで外へと出て行こうとしたのだが。

 

「もぉ、仕方がないクマねぇ」

 

 クマはひょいとオオモト様の手からランタンを取ると、代わりにその手を自分の手で握った。

 

「くまも一緒について行ってあげるクマっ」

 

「けれど、それだと……」

 

「大丈夫。サトくんは例え入れ違いになってもちゃんと待っててくれる子クマ。まだ少ししか知り合ってないけどそういうのは自然と分かるんだクマ」

 

「くまはあの子の気持ちとか、言葉とか分かるの?」

 

「それは流石に無理クマよ」

 

 あっさりとそう答える。

 

「けど、気配というか雰囲気でそういうのが分かるクマね。共鳴とか周波数とかそういう感触? その辺はボクも良く分かっていないクマ」

 

「そうなのね……でもありがとう。あなたがそう言ってくれると安心するわ。もうちょっとだけ彼を待つことにする」

 

「うんうん、やっぱり信頼関係は大事クマだねっ」

 

「そうね。あの子の事、もっと信用してあげないといけないわね」

 

 オオモト様はくすっと笑うと、くまの頭にすっと手を置き、柔らかくその頭をぽんぽんと撫でた。

 

 同じぐらいの背丈同士だから何か変な感じだったが、そうしてあげることが何故か不思議と自然な感じがしたのだ。

 

 クマっ、と”くま”は一瞬ひるんだような声をだしたが、その後は普通に撫でられている。

 

 獰猛な獣があやされた時のように、くまはやけに従順だった。

 

「何か……恥ずかしいクマね……」

 

 くまは頬を赤くして頬を掻く。

 それでも手を払いのけるようなことはしない。

 

「そう? そういえば、あなたのこの、”耳”って本物なの」

 

 さわさわさわ。

 

「ひゃあぁっ!?」

 

「あ、ごめんなさい。痛かった?」

 

 これまで聞いたことのない悲鳴のような声をあげて抱き付いてくるくまに、オオモト様は少し驚いてしまった。

 

「痛くはなけど……そこは敏感だから、あまり触らないで……クマ」

 

 とても柔らかくふわふわしてたから、やっぱり作り物の耳かと思ったのだが。

 

 くまの反応からするとどうやら本物のようだ。

 

(でも、普通の耳はちゃんとあるのよね?)

 

 オオモト様は内心不思議そうに首を傾げていた。

 

 しばらく二人はくっついてじっとしていたが、やがてくまがおずおずと口を開く。

 

「と、ともかく……キミが探すっていうのならボクも同行する。これでもボディーガードぐらいにはなれる自信はある、クマよ」

 

 くまがオオモト様の顔をみてそう言ったときだった。

 

「わんわんわん」

 

 二人の会話を縫って犬の吠え声が耳に届く。

 

 良くみると白い犬が二人のすぐ傍で座りこんでいた。

 

 あまりに近い声だったから、もしやとは思ったが、こんなに近くにいたなんて。

 

 彼なりに気を使ったつもりなんだろうか。

 

「あら、戻ってきてたのね。今、あなたのことをくまと一緒に探しに行こうとしていたところだったのよ」

 

 オオモト様はぱっと顔を明るくすると、その場でしゃがみ込み、犬の小さな頭を撫でてあげた。

 

「そうだぞっ、サトくん。ご主人様にあんまり心配かけちゃダメなんだクマっ」

 

 くまは両腕を組んで諭すようにびしっとサトくんを指さしていた。

 

 この場合のご主人様はどちらのことを指しているのかは分からなかったが。

 

 だが当然、白い犬の方にはまったく伝わってなく、オオモト様に撫でてもらえていることに喜んでいるのか、くまの方を見ることなくぴょこんとした尻尾を左右に大きく振っている。

 

 その様子にくまは、むーと少し不満げに頬をぷっくりと丸くしていた。

 

「ちゃんと戻ってこれていい子ね」

 

「わんっ」

 

「……」

 

「……全くもうっ、しょうがないサトくんクマねぇ。うりうりうりっ」

 

 とうとう根負けしたのか、くまはオオモト様の隣でぴょんと両足を揃えてしゃがむと、絹のようにふわっとしたサトくんの顎のあたりを両手でもしゃもしゃと撫でまわした。

 

 少女達に頭だけでなく全身まで撫でられて、さぞご満悦と言った感じのサトくんだったのだが

 

「あっ」

 

 犬はもう一度わんと一声鳴くと、二人の手からするっと離れて、少し先の道でこちらを振り返る。

 

 オオモト様はピンときたのかそっと呟いた。

 

「ついてこい……あの子はそう、言っているみたいね」

 

「キミに分かるクマか!? サトくんの言ってる事が」

 

「ええ、多分。ただ、あなたとは違う感覚とは思うけれど、そう言っている風に思えたの。もっとも、こういう事が分かるようになったのは他の人達のおかげなんだけど」

 

「それって、ざっきぃと友達の人クマか?」

 

「友達……そうね」

 

 少女は曖昧な言葉でくまにそう言った。

 

(ともだち……なのかしらね? あの子達と)

 

 蛍と、燐。

 

 あの異変の後から、二人とは何か特別な結びつきが生まれたような気がする。

 

 微妙に噛み合わないけれど、それがむしろ心地よいような。

 

 単純に接触を重ねたせいなのかもしれない。

 それが例え間接的であったとしてもだ。

 

 これを”異変”という言葉で片づけるのは何かが違う気もする。

 

 もっと大事で、でも壊れやすいもの。

 

 水のように澄みきった関係性が蛍と燐のとの間で築かれている。

 

 そう思っているのだ、わたしは。

 

 勝手な事だとは思っているけれど。

 

(そうでないと、わたしが未だ実存している事の定理が成り立たない……とっくに概念となってしまっていいはずの存在なのだから)

 

 だが、もし別の理由があるのだとすれば、それは。

 

 オオモト様はちらりとくまの方を見た。

 

 本当に不思議な子だと思う。

 自分で言うのもなんだけど。

 

 明らかにこの世界から浮いているのは確かだ。

 

 その辺りは自分と同じだと思う、けれど。

 

「何しているクマっ、サトくんが行っちゃうクマよっ!!」

 

 そう声を掛けられてはっと目が覚めた。

 

 確かにくまの言う通りサトくんはさっさと山道を進み始めている。

 

 下山方向ではなく、さらに深い所へと行っているようだ。

 

 その後についてくるのが当たり前のように、どんどんと暗い森の中へと小さな身体を進めていく。

 

 暗い中、辛うじて見える白い尾っぽがその微かな目印だった。

 

「さあ、行くクマよ。サトくんにくまの本当の脚力というのを見せつけてやるくまっ!」

 

 謎の意気込みを見せるくま。

 

 まだぼんやりとしているオオモト様の手を取ると、掌でぎゅっと包み込みながら、明かりを前と照らして森の中へとその細い足を進めようとした。

 

 だが。

 

「待って、くま」

 

「? どうかしたかクマ。戸締りは不要クマよ」

 

 それはそうだろうと思う。

 

 勝手に住みついているだけなのだし。

 

「そうじゃなくて」

 

 オオモト様は首をふるふると横にふった。

 

「あなたにはあまり関係のないことよ。だから無理してついてこなくとも大丈夫だから」

 

 少し冷たい言い方をしているとは思ったが、これははっきりと伝えて置くべきことだった。

 

「……」

 

 くまは複雑そうな顔をして振り向くと、両手を伸ばしてオオモト様の両頬に無造作に触れた。

 

 何事かと思ったが、細い指が頬を摘まんで軽く横に伸ばされる。

 

 少女の整った顔が、少し歪な顔になった。

 

「もー、そんな事をいうものじゃないくま。もう友達なんだから一緒に行くのは当然なんだくまよ」

 

 そう言いながら何度か頬を横に引っ張られる。

 

 手加減しているのか痛みとかはない。

 むしろ何故だかほっとするようなあったかい気持ちにすらなった。

 

 友達という言葉の響きにはまだそこまで実感はないけど。

 

「ありがとう」

 

 オオモト様は安堵したようにそれだけを口にした。

 

「それに、ざっきぃにさっきお昼を奢ってもらったのもあるし。何か役に立たないとクマの名が廃るクマね」

 

 指を放すと同時にそう言ってくまは微笑む。

 

 透き通った仕草は獰猛な獣なんていうよりも年相応の少女。

 

 それ以外にしか見えなかった。

 

「でも、朝ごはんもあなたの分をわたしが出してあげたのよね?」

 

 くすりと笑うオオモト様。

 

「む、むぐうっ! そ、その分もなんとか頑張って埋め合わせするっ。覚悟して待っているといいクマぁ」

 

「ええ、待っているわ。いつまでも」

 

 ふたりの少女は顔を見合わせると、待ちかねているように少し遠くでウロウロとしている白い犬の元へと手を取り合って走って行った。

 

 ……

 ……

 ……

 

「ふぅ。結構遠くまで来たね。ざっきぃ~、大丈夫クマか」

 

「ええ、何とか……」

 

 鬱蒼とした森の中でもちゃんと案内してくれるから、迷わずには来れているとは思うけれど。

 

「はぁ……なんでまた、山登りをしているのかしらね」

 

 割と結構な時間、今日も夜の山を歩くことになった。

 

 ここまで足を滑らさずに何とかこれたけど、オオモト様の息は進むたびに荒くなってきていた。

 

 一方のくまとサトくんはと言うと。

 

「後ちょっとだよ~。ファイトクマ~」

 

「わんわんわんっ」

 

 オオモト様とは違い、とても元気だった。

 

 サトくんは分かるが、くまが全く疲れを見せない所をみると、自身でも言っている様にただの普通の少女ではないらしいというのが良くわかる。

 

 もっともはじめて出会った時も、ひとり暗い森の中で潜んでいたのだからちょっと変わった子ではあったことは確かだったけど。

 

 それにしてもぐんぐんと山を登っていく様子は犬であるサトくんと同じ……いやそれ以上に軽快な動きに見えた。

 

 こうなると熊の子というのを信じざるを得なくなる。

 

 もっともそうなった所で今の状況には何の影響も持たないのだけど。

 

(やっぱり、肉体があるせいからなのかしら……)

 

 今、とても苦しく思うのは。

 

 けれど前にもそう思ったことがあった。

 それこそ何度でも。

 

 その時に比べたら全然大したことはない。

 

 山道を歩くことが辛く感じるのはただ単に慣れていない事と、土地勘が無い事だと分かるから。

 

 それにちゃんとした目的があるし、何より。

 

「ざっきぃ~!! もうちょっとだけ頑張れ~」

 

 そんな自分を待ってくれている人がいる。

 もちろん犬も。

 

 そう思ったら辛いどころかむしろ楽しみすら覚えるほどだ。

 

 辛い山登りの後は綺麗な景色がある。

 

 その事を分かっていたから。

 

「ほらっ! あれっ!」

 

 見晴らしの良さそうな高台に陣取ったくまが指を差す。

 

「はぁ、はぁ」

 

 オオモト様は荒くなった息を整えながらそちらを見下ろした。

 

 実際は大分前から分かっていた。

 

 少し湿った緑の臭いに混じって流れてくる、とても印象の強い臭い。

 

 ともすれば鼻を刺すような臭いだったそれは、足を前に進める度により強くなってきたから。

 

 この辺りには多分、”あれ”があるのだろうとは思った。

 

 ただ、精々手を入れる程度のものぐらいに思っていたから。

 

 少し驚いていた。

 

 すぐ下では、ちょろちょろと流れる小川のその横で白い湯気を立てている水たまりがあった。

 

「やっぱり、これ……」

 

「そうクマ。ここは温泉だねっ!! サトくんはこの秘湯をくま達に教えたかったんだクマ!」

 

 くまはよしよしとサトくんの頭を撫でる。

 

 確かに、あの家ではお風呂なんかにはまず入れそうにはないけれど。

 

「そう、わざわざ、これを知らせに……」

 

 石で囲まれた温泉と思わしき白い水溜まりからは湯気が立ち昇っている。

 

 だが少女は、まだ呼吸をすることに必死でまだよく訳が分からず、ぼんやりと崖の上で立ち尽くしていた。

 

 ……

 ……

 ……

 

「ねぇ、くま? あなた本当に入るつもり」

 

「とーぜんクマっ! せっかくこんな所まで来たんだから入らないのはとてももったいないクマよ」

 

「確かにそれはそうかもしれないけど」

 

 周りを石で囲ってあるところを見ると、人が利用している温泉だろう。

 

 だが、看板も脱衣所もない。

 

 くまの言う所によると、主に山で狩りを営んでいる者が入る、無料の温泉らしいとのことだった。

 

 確かにそんな気はする。

 

 山深い所にあったし、こんな所じゃめったに人もこないだろうから脱衣所なんかも必要ないのだろうと。

 

 だからといって、全く気にならないわけではないのだが。

 

「んー、ざっきぃ。どうかした?」

 

「その……ちょっと」

 

 少し戸惑う表情をみせるオオモト様を見て、くまはぽんと両手をはたいた。

 

「ははぁーん、さては人の目が気になるのかクマぁ~。ざっきぃって意外といやらしいクマねぇ。だったら……くまが脱がせてあげるクマ」

 

 くまがにやにやしながら両手をワキワキと蠢かせてこちらににじり寄る。

 

「別に、そんなこと頼んでいないわ」

 

 オオモト様はまだ脱いでもいない細い身体を無意識に手で隠した。

 

 だが、くまが引き下がるようなことはなく、むしろ。

 

「ふっふっふっ、キミはとっても脱がせやすそうな着物を着ているよねぇ……くまがぱぱっとひん剥いてあげちゃうクマぁ!」

 

 分かりやすいセクハラ発言をくまは口にすると、素早い動きでオオモト様の着物の縁に手を掛け、腰のあたりに巻いた紫の帯をしゅっと解いた。

 

 オオモト様は古典的な漫画のようにくるくると回りながら服を脱いでいく……そういうようなことは全くなく。

 

「はぁ、もう」

 

 諦めきった深いため息をつくと、観念したように残った着物を自分からすっと脱いでいた。

 

 ……

 ……

 

「ふぅ、五臓六腑に染みわたるクマねぇ……」

 

「ふふっ、そうね」

 

 色々葛藤はあったが結局くまと一緒に温泉に浸かっていた。

 

 周りにはそういう手作りの温泉みたいな池が大小いくつかあり、中には水と変わらない程冷たいものや、とても入れそうにないほど熱くなっている場所もあった。

 

 色々厳選してみた結果、オオモト様とくまはその内のひとつにの温泉に入ることにしたのだった。

 

 ちょうど少女二人が入るには手ごろな大きさの温泉。

 

 乳白色のお湯の温度は熱くもぬるくもない湯加減。

 

 特にまだ今は夜が少し暑いのでこのぐらいで丁度良かった。

 

 くまもこれには満足しているようで、お湯の中で足を伸ばして、楽しそうにばちゃばちゃと軽く水しぶきを上げていた。

 

「わふぅ~」

 

「んっ? サトくんは、温泉って大丈夫クマか」

 

 二人の間で鼻声をあげるサトくんを指さすくま。

 

 オオモト様は犬の頭にぽんと手を乗せて小さくほほえんだ。

 

「この子は割と何でも大丈夫よ。犬にしては順応性がとても高いのかもしれないわね」

 

 その言葉に機嫌よくしたように、サトくんは黒い目を細めて情景を楽しんでいるようだった。

 

「確かに、サトくんは見た目よりも逞しそうだからねぇ……ざっきぃとは違って」

 

「そういう意地悪言わないで、くま」

 

 くまのからかいにオオモト様は桜色の唇を少し尖らせてもう、と呟いた。

 

「それにしてもいいお湯だよねぇ。浮かぶ月も綺麗だし。こんな時、お酒でもあれば最高クマなんだけどねぇ」

 

「あなたはお酒飲めるの?」

 

 くまの意外な告白にオオモト様は少し目を見開いた。

 

「当然クマっ。こう見えてくまは結構いける口なんだクマ」

 

「そう……少し羨ましいわ」

 

「ざっきぃは、お酒ってぜんぜんだめ?」

 

「ええ全く。でも、わたしはお茶の方が好きだから……」

 

「そうクマか。ボクは洋酒でも何でも大丈夫クマっ」

 

 

 小さなせせらぎの音だけが流れる。

 

 硫黄が立ち込めているせいなのか、虫どころか小さな動物さえもここには寄って来なかった。

 

 月だけが浮かぶ、静謐な時間。

 

 二人と一匹は静かに夜と温泉の情景を楽しんでいた。

 

「でもその割には朝は色んな飲み物を頼んでいたクマだよね」

 

 からかい気味にくまはそう言った。

 

 オオモト様は顔を赤くして呟く。

 

「わたし、ああいうハンバーガー店ってまともに入ったことがなかったから……でも普通のお茶がいちばんだわ」

 

 ドリンクはともかく、特にパンのメニューは、燐の家のお店の方が美味しかったとオオモト様は思っていた。

 

 そこまで不味いと思ったわけではなかったが、ただ、あそこほど美味しいパンを焼く店はないと思っていたから。

 

「そういえば、あなたの肌ってとっても綺麗ね。とても元が熊とは思えないわ」

 

 オオモト様はそっと言葉を紡ぐ。

 本当にそう思ったから自然とそう声が出ていた。

 

「もう~、普通の熊だって可愛いクマよ。でも、ありがとう。キミも、お人形さんみたいにとっても綺麗だと思うクマクマよ」

 

 くまの言葉にオオモト様ははっとした表情になる。

 

 けれど、複雑そうな顔で俯くと小さな声でそっと泡のように呟いた。

 

「人形……確かにそれはそうね」

 

「? まあ、それぐらい白い肌をしているってことクマよっ」

 

 くま一瞬不思議そうな顔になったが、先ほど言われたことを思いだしたのか、すぐに顔を真っ赤にして慌てたような素振りをみせていた。

 

 それは多分、温泉の成分のせい、だけではないと思う。

 

 ただ、どこをどう見ても人間にしか見えなかったくまの一糸まとわぬ姿を見て、オオモト様はより確信をもってくまが人の子なんだと思った。

 

 金色の髪に均整の取れた顔立ちと折れそうに細い長い手足。

 どこを見ても本当に綺麗だと思う。

 

 流石にしっぽは無かったが、頭につけている耳付きカチューシャは付けたままだった。

 

 いくら何でも脱着可能だとは思うけど。

 

 ただ、一つだけ気にかかることはあった。

 

 それを口に出していいものかとオオモト様は頭の中で逡巡をしたが、それはくまとの間に無用な気がして、そのまま聞いてみることにした。

 

「ひとつ、聞いてもいいかしら」

 

「んー、くまのこと?」

 

 こくんとオオモト様は頷く

 

 それだけで察したようで、少し寂しそうに笑うくま。

 

「もしかして、見られちゃったクマか? クマの身体の傷のこととか」

 

 その勘は当たっていたようで、オオモト様は申し訳なさそうな顔でくまに謝罪をした。

 

「ごめんなさい。つい目に付いてしまって。でも、あの痕って」

 

「うん。そうだよ、銃弾の痕。あ、でも今は人間だから銃創(じゅうそう)って言った方が良いクマなのかなぁ」

 

 くまはそう言って月を振り仰ぎながら小さく笑った。

 

 ずっと明るく振舞ってくれていたからそこまで気にはならなかったけれど。

 

(この子にだって色々あったのね。人とは少し違うというだけで)

 

「ねぇ、キミはさっきの話って覚えてる? くまが捕まったっていう時の話」

 

「じゃあ、その時に?」

 

「うん」

 

 俯いて両手でお湯を掬う、くま。

 

 手の中の白く濁った湯の中に少し悲し気な熊耳を着けた少女の顔が映っていた。

 

「くまが一切抵抗できないように身体中に銃弾を撃ち込まれたんだクマ……張り付ける為に鉄の杭を何本も打ち込まれて……」

 

「そう……それは辛かったわね」

 

 悲しそうな顔をするオオモト様を見て、くまは取り繕って笑顔を向けた。

 

「でも、今は殆ど完治したんだクマよ。くまの住んでいた山にも傷に効く温泉があったから」

 

 くまはお湯の中に手を入れて自身の脇腹を軽く撫でた。

 

 流石にもう痛むようなことは無い、が。

 

「まあ、罠にかかった上に多勢だったからどうしようもなかったんだクマ。でも、身体の痛みはなくなってもその事はずっと心の中に残っている。いつまでも消えない、引っかき傷となって」

 

「……今でも人の事を?」

 

「ううん」

 

 くまは首を横に小さくふった。

 

「人間にいっぱい傷つけられたけど、助けてくれたのも人間だったから……だから、ちょっと複雑クマ」

 

「それは、そうね。わたしもそうだったから」

 

 町の人達に散々辱められたのは事実だけど、その想いを解放してくれたのもまた人だった。

 

 燐と蛍。

 

 彼女たちは色々な事をわたしに教えてくれた。

 

 だから守ってあげたい。

 できればずっと。

 

 そして、彼の事も。

 

 愛おしそうに犬の頭を撫でた。

 

 一緒に温泉に浸かっているから犬の毛は濡れていたが、むしろ洗って綺麗にしてあげようと、少し強めに頭だけでなく身体も擦ってあげた。

 

「きゅーん、きゅーん」

 

「くすっ、大丈夫よ。溺れたりなんかはしないから」

 

 変な鳴き声を上げて足をバタバタとさせるサトくんにオオモト様は思わず噴き出していた。

 

「サトくん可愛いクマぁ」

 

 くまは暴れるサトくん後ろから抱きかかえるとその後頭部に顔を埋めていた。

 

「可愛いわよね。本当」

 

「まったく、クマっ」

 

 少女たちは顔を見合わせてにこっと微笑んでいた。

 

 ……

 ……

 

「ねぇ、くま。そろそろ上がりましょう。あなた達だって流石にお腹が空いたでしょ?」

 

 オオモト様はそうくまに声を掛ける。

 

 けれど、その返事が返ってこなかった。

 

「……くま?」

 

 くまはオオモト様の声が耳に届いていないのか、小さな鼻を突き出して周囲の臭いを嗅いでいるようだった。

 

 硫黄の臭いにも大分慣れたとはいえ、他の臭いを嗅げるほどではない。

 

 それだけ強い臭いがこの一帯には発生していたのだから。

 

 けれども、くまは目を閉じて匂いを嗅ぐだけの行為に集中しているようで。

 

 口すらも閉じて、すんすんと鼻だけをぴくぴくと動かしている。

 

 それは熊というよりも犬かキツネがしていそうな仕草に見えた。

 

「くんくん……あっ?!」

 

 くまが小さく叫ぶ。

 

 何事かと思ったオオモト様の手を掴み自分の方へと引き寄せると、くまは声を潜めてこう言ってきた。

 

「何かが来るクマ……!!」

 

「なにって?」

 

「まだ分からない。けど、こっちを目指しているみたい……」

 

 そうくまは言ったが特に物音のようなのは耳に聞こえてはいない。

 

 小さなせせらぎが流れるというだけで、辺りはしんと静まり返っていた。

 

「気のせい、とかじゃないの?」

 

 オオモト様も手を口で隠してぼそぼそと尋ねる。

 

「いや」

 

 すぐに答えが返る。

 

「人でも獣でもない、一度も嗅いだことのない臭いがしたクマ」

 

 くまは小さくそう否定をすると、その臭いがした方角を睨みつけるように暗い森の奥を眺めている。

 

()()()()()犬よりも嗅覚が優れているとは聞いたことがあるけど……”くま”もそれができるの?)

 

 これまで見たことのない、緊張しきった顔で匂いのする方角をじっと見つめているくまの横顔をオオモト様はまざまざと見る。

 

(でも……それなら……いったい何が来るというの……)

 

 何かが引っ掛かる。

 

 もしかして、”それ”を自分は知っているのではないだろうか。

 

 人でも獣でもない存在が確かにいたという事実を。

 

 ──わたしは知っている。

 

 ぞわっとしたものが背中を這いまわっているような言いようのない奇妙な感覚が、お湯で火照っているはずの体を急速に冷やそうとしているようだった。

 

 確信はない、けど。

 

 用心に越したことはない、そう思った。

 

 二人とも無防備な、裸でいるわけなのだし。

 

「ともかく上がりましょう!」

 

「うんっ、クマっ!」

 

 くまとオオモト様は顔をみあわせて頷くと、濡れそぼった身体のまま温泉から這い上がり、互いの着ていた衣服を引っ掴んだ。

 

 まず先に上着だけでも羽織ろうとした。

 

 肌にべったりと張り付いて少し不快だが、この際気にしてなんかいられない。

 

 下着や何かは後からでも着ることができるし。

 

 無理矢理に着物の袖に腕を通した、その時だった。

 

「うーっ! わんわんわんっ!」

 

 不意に威嚇するような犬の吠え声が耳に飛び込んできて、何事かとオオモト様は振り返る。

 

 何もいない。

 

 そう思ったのだが。

 

「えっ」

 

 真っ黒い輪郭をもった”ナニカ”がいつの間にかそこに立っていた。

 

 足音も気配もなく、ゆらゆら揺れながらこちらを見ている。

 

 ”闇”そのものが実態を持っている。

 

 そう感じた。

 

「お民ちゃん!! 後ろに下がるクマっ!」

 

 殆ど全裸のままのくまがオオモト様の身を隠すようにその前に立つ。

 

 サトくんもその横に並び立った。

 

 くまは下がるようにオオモト様に目で合図を送る。

 

 だが、少女の黒い瞳にはくまの少女の姿もサトくんも映っていなかった。

 

 見ているのはただ。

 黒い人影だけ。

 

 その輪郭に見覚えがあったから。

 

 ううん、そんな不確かなもんなんかじゃない。

 

 だって……

 

(あれは、”わたし”だから……)

 

 背恰好は大分違うけど、あれはまさしく()()()()()()自分。

 

 座敷童としての力が殆ど消えかかり、幸運をもう呼び込めなくなった時の、()()()()姿()()

 

 何故それが実存をして、そして目の前に立っているのか。

 

 これは鏡なんかじゃない。

 

 ましてや過去や未来の姿でもないのだ。

 

 わからない。

 

 本当に何も。

 

 何が起きた事すらわからなかった。

 

「……」

 

 黒い影は長い髪をさらりと横へ流すと、凍り付くような冷たい声でこう言った。

 

「アナタヲ、迎エニ来タノヨ……」

 

 一瞬、呼吸が止まった。

 

 どくんどくん。

 心拍数が跳ね上がり、動悸がどんどんと早くなる。

 

 息が苦しい。

 

 倒れてしまうぐらいに。

 

「お前なんか呼んだ覚えないクマっ! さっさと帰れクマっ!!!」

 

「わんわんわん!!」

 

 くまとサトくんが吠えたててもソイツは怯みすらしない。

 

 むしろソイツは、笑っていた。

 

 白い犬でも”くま”でもなく、その後ろにいる座敷童の少女に向けて。

 

 顔を歪ませて、にたりと笑った。

 

「ネェ、”タミコ”……?」

 

(あ……)

 

 そういう事か。

 

 ──あの目。

 

 てっきりくまのものだと思っていたけれど、それはただの勘違いだった。

 

 ヒヒの目とは違い殺気を漲らせているというよりも、何も映さない赤い虚無の瞳。

 

 それがコイツの目だったのだ。

 

(そして、もう一つ分かったこと……)

 

 それはヒヒの影を追って、わたし達がここまで来たと思っていたという事自体がおかしかったということ。

 

 追ってなどいない。

 むしろ自分たちは追われているほうだった。

 

 あの町の欲望や想い。

 

 その残滓にずっと追われていたのだ、何一つ気づくことなく。

 

 箱の中に残った、最後の歪み(グリッチ)

 

 幸運と不条理。

 

 その大元(おおもと)として。

 

 

 小さな手毬がころころと転がり、深い穴へと墜ちていく。

 

 そんな喪失感が不意に胸の奥を貫いた。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 





先日、久しぶりに埼玉県飯能市にやってきました。お目当てはもちろん天覧山ー!!! なのですが、何か登山口近くの商業施設が創業祭をやっていたようで、結構混み合っていましたねー。まあ、天覧山自体に登る人は全然でしたけれども。その日の午前中に雨が降っていた影響があるとは思いますが。山頂までの道も泥でぬかるんでましたし。

で、ヤマノススメの作者の人って実は千葉県出身らしいですね。今は埼玉県の所沢に在住しているらしいですけど。だから千葉とコラボしてたのかああああって思いましたよ、今更~。
でも、作品に千葉要素そこまでなかったなあ……まあ、有名な山って千葉に全然ないですものねぇ。


ゆるキャン△SEASON3の放送予定日も決定したみたいですねー。

2024年の4月からみたいです。流石に1月の開始はなさそうかなとは思ったですけど、それでも4月かあ……3期発表の時期からしても早い気がしますねー。
最近は季節の中休みと言いますか、ちょっと前まで暑かったのに急に寒くなったりしますしねぇ。そういうのに体が慣れてきたころにはもう来年なんてことにぃぃぃ。何か全てが早く感じますねぇ。季節とか時間の流れとか。

そういえば最近巷で人気のスイカゲームのハロウィンバージョンで出てくるメロンが、ゆるキャン△のなでしこ顔っぽいんですよね~。わたしだけでしょうか?


ではではではではではーー。

追記──です。
全然、気づいていなかったんですけど、ハッピーハロウィンセールということで青い空のカミュのDL版が70%OFFになっておりました──!!! 気付くのに遅れてしまって本当に申し訳ありません……が! このキャンペーンは11月15日までやっているようなので、まだまだハロウィーンは終わらない??? ってことですかねぇ。
気になる方は是非是非に~。

では~。



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For Whom the Bell Tolls

 
 暗闇の中、赤々とした火の粉がちりちりに飛び交っていた。

 深い森に囲まれた廃屋のすぐ傍で、小さな炎がぱちぱちと音を立てながら、火柱をを上げている。

 立ち昇る煙と焼け焦げた臭いの中心で煌煌と燃える緋色の光が、夜の森に確かな熱量でもってその存在を浮かび上がらせていた。

 ただ木を燃しているだけの原始的な行為。だが不思議とそれに癒されるような感覚もある。

 妙に落ち着くというか、暖かみを感じるというか。

 一種のナイトソングのような働きをしているのかもしれない。

 その辺りにあるもの全てを燃やし尽くすものなのに。

 癒しでもあるし、恐怖でもある。

 矛盾とも言える意味合いかもしれないが、それこそが自然であり、同時に一つの結果でもあった。

 こうして脅威から逃げ帰ってきたという事実の。


 黒い髪の少女は焚き火の前の灌木に座り込みながら、強い炎の揺らぎをただ漠然と見つめていた。

「こうして火を見つめていると不思議な感じになるわね。何だか普通にキャンプをしにきているみたい」

 住まう家はすぐ目の前にあるのに少し変な気分にはなるが。

 せっかく火を焚いたのだから何か焼いたりすればいいのかもしれないが、ただ眺めているだけでもそれはそれで良かったようだった。

 こうして焚き火の前で座っているだけでささくれだった気持ちが落ち着いていくような気がするから。
 
 つい先ほどまで酷くざわついていた黒い情景が、確かな拠り所を見つけたように静かに安堵しているように思える。

「ねぇ。”くま”? あなたもこっちへ来たら。温泉で湯あたりしたかもしれないし、それに、あの子だって寂しがっていると思うわ」

 そう言って白い犬の方を見る。

 興奮していたのか、けたたましく吠えたてていたサトくんも今はリラックスしているのか、火の前でお腹をぺたりとつけて大きな瞼を細めていた。

 もう一方の少女だけが、焚き火に背を向けて切り株の上で腕を組んで腰を落としていた。

 よっぽどのことなんだろうとは思うが、未だ臨戦態勢のように時折、暗い森の奥深くを覗き見ているいるようだった。

 まだ辺りを警戒しているようであるが、これでは気の休まることはないだろう。

 折角の焚き火の前だというのに。

「やっぱり、クマだから火は少し苦手なのかしら。あなたはそんなことなさそうに見えたのだけれど」

 そう呟いたオオモト様は火に小枝をくべる。

 人気のない山だからと言ってこんな事をしていたら色々と問題になるとは思ってはいる。

 ただ、庭先に焚き火をするだけの竈の残骸があったから、それを組み直して火を起こしただけのことだった。

 薪になる木の枝は森の中に落ちていたし、着火剤となりそうな松ぼっくりもそこら中に転がっていたから、以外にも簡単に火を起こすことはできた。

 もっともそういう器具を一切持ち合わせていなかったから、最初の火が付くかどうかは一つの賭けみたいなものだったのだが。

「何とか、上手くいった」

 火が種木に燃え移った時、思わず笑みが零れてしまった。

 尖った石同士を擦り合わせるだけのもっとも原始的な方法だったが、上手い具合に火花が飛び散りこのような炎を作り出すことができたのだった。

 その後、その辺りに落ちていた薄い木の板で素早く仰ぎ、運よく炎を定着させることが出来たのだったが。

 このまま静かに朝が来るとは流石に思わない。
 あんな事の後だったし。

 何もかも忘れて眠る事なんて、到底できないだろうとは思ったから、少しでも暖かくなろうと、火を起こしてみたのだけれど。

「もし、さっきの事を気にしているのだとしたら、それは間違いよ。あれは……そうね、事故みたいなものだわ」

「で、でもっ!!!」

「くま?」

 急にくまが荒げたような叫び声をあげたのでオオモト様は少しびっくりしていた。

 良くしゃべる子だとは思ってたけど、ここまで動揺したような声を出すとは流石に思っていなかったから。

「何も……何にもできなかったクマ……くまは百獣の王なのに……」

 そう呟くとまた俯いてしまう。

 百獣の王は流石に言い過ぎだとは思うが、くまなりにショックな所があったのは言わなくとも分かってはいた。

 その強さに自信があったのだろうとは思う。
 実際に人を超えたものを持っているとは思ったし。

 恐らくヒヒ相手でも一人で何とかなるだろうと思っていたのだろう。

 ただ、その相手がいわゆる獣やきちんとした身体を持っていればの話なのだろうが。

「ねぇ、”アイツ”って……」

 ぽつりとくまが背中越しに話しかけてくる。

 小さく丸くなった背中はこの少女の悲しみというか、やるせなさが伝わってくるようだった。

「アイツは一体、なんだったわけ? ボク、あんなのこれまで一度も見たことがなかったよっ! あれこそがヒヒなんじゃないのっ!?」

 困惑したくまの声だけが夜の森に響く。

 それがあの得体のしれない黒い影と対峙したときのくまの印象だった。

 静かにオオモト様は口を開く。

「アレは、ヒヒとは違うわ、概念の違うもの。でも……或いは救いでもあるかもしれない。その為に現れたのだと思う……わざわざ目の前に」

「救いって……いったい何のこと?」

 オオモト様はくまの問いには答えずに、短く切りそろえられた前髪を白い指で弄びながら、細い木の棒で薪木を動かす。

 ぱちっとした強い火の音と煙が同時に沸き起こり、小さな渦を空中に描いた。

(けど、それにしたって、あれは……まるで自分……そのものだった)

 見てくれのことだけを言っているわけじゃない、一目見ただけであんなに心が動かされたことは自分が知る限り一度だってない。

 人々にどんなに蔑んだ目で見られたって、心ない言葉の暴力や実際に力を振るわれた時だって、あんな思いを抱いたことなどなかった。

 あの──湧きあがるような嫌悪は。

 こんな思いを生物どころか物にだって抱いたことない。

 自身の成り立ちにさえもなかった感情のうねり。

 胸の中を掻きむしるような疼きが、止まらなかった。

(それだけ……()()は)

 嫌忌する存在。

 二度と思い返したくはない事象だったとしても。

 ずっと残り続ける。

 それはまさしく黒い灰のように。

 ……
 ……
 ……



 

 

「ネェ……ホラ……オイデ……?」

 

 ソイツは黒い手を伸ばしてこちらへと近づいてくる。

 

 足音はしない。

 だからと言って浮いているような感じもない。

 

 むしろ地面に引っ付いているように、ずるずるとにじり寄ってくる。

 

 その周りは禍々しいものであるかのように黒い()()で覆われている。

 

 そして、白くひび割れた顔面。

 それはまさしくあの歪んだ姿の白い影の者達の再来の様相であった。

 

 ただ、その姿が女性……いや、自分──座敷童とそっくりであると言うだけで。

 

 あとはただ、それだけ。

 

(けれど、何で……今になって)

 

 このような存在が生み出されてしまったのか。

 

 ()()()()()()()の幼かった時の頃の姿をした少女が身を強張らせながらそれをみる。

 

 本当に、今更な事だった。

 

 あの町ではもう作られた幸運など必要もなく、役目がやっと終わったとばかりに町を離れて出たばかりのことなのに。

 

(時間は関係ない。きっとそう言いたいのね、()()()は)

 

 見れば見るほど無様な姿をしていると思う。

 

 ただしそれは容姿のことではなく、その顔、瞳の色のことだ。

 

 禍々しい色。

 

 かつての自分を模したものが、あのヒヒと同じ目を湛えている。

 

 その事実に胸の奥がざわざわとする。

 

 目を背けてもどうにもならない、絶対的な現実のものとして。

 

「……お前は、一体何者なんだっ!」

 

 暫く沈黙を貫いていたくまの少女が静かに口を開く。

 

 どうみても求めていた存在ではない。

 だったら一体これは何なのか。

 

「ナニモノデモナイ……ナニモ、カモ……」

 

 こちらの問いかけに応えることなどないと思ったから、くまもオオモト様もこれには驚きの色を見せていた。

 

「スベテハ……ワタシト共ニイル……イツモズットイッショ……」

 

「何のこと言っているクマ」

 

 静かにくまが吠える。

 

 オオモト様は何かを感じ取ったのか眉をぎゅっとひそめた。

 

(じゃあ、やはりあの気配は……誘い出す為のだけものだった……? でも……)

 

 何故かコイツが嘘を吐いているようにはみえない。

 

 そういう、知能的なものが欠如しているのは、あの異変の時に変化した人達と同じな気がしたのだが。

 

 コレは何かが違う。

 

 ひとつの目的があるのは確かなようだが、それは人の持つ欲望とは異なるもののような気がする。

 

 もし、そうなら。

 

「わたし達の前にきたのは”そういう事”だと言うことなの? ヒヒと同じように、あなたと一体となる為だけに」

 

「ヒヒと同じって!? それってどういうことクマか、ざっきぃ!」

 

 振り返ってくまが訊ねる。

 

「多分、これはそういうもの。幸運の反対は不幸……つまりは不条理だということ。それが形を成して大きくなろうとしている、それだけの存在」

 

「でもそんなのっ、何の意味も──」

 

 くまの言葉が言い終わる前にソイツが口を開く。

 

 ねちゃあっとした耳の奥に張り付くような粘っこい声で。

 

「ソウヨ、タエコ……役目ヲ終エタアナタガ成スベキコトナノ……犯シタ罪カラハ、絶対ニ逃レラレナイ……」

 

 少し悲しい口調でそいつはそう言った。

 

 罪?

 

 やはりそうなのだろうか。

 

 自分の存在そのものが罪だと、誰かに言われたことはある。

 

 良かれと思ってやっていることなのに。

 

 少女は俯いて足元を見る。

 

 こんな小さな身体では得られる幸運も少しなのだと言われたことがあった。

 

 だからこそあのような目に自分はあったのだと。

 

 それが罪、だったのだろうか。

 

 望まぬ生命をこの身に宿してしまった事柄が。

 

「なるほど……良く分からなかったけど、大体の事は分かったクマ」

 

「……くま?」

 

 オオモト様は顔を上げる。

 くまが手を広げて庇うように立っていた。

 

 サトくんもその横に並ぶ。

 

 大事なものを守り抜くように。

 

「ざっきぃは渡さない。くまがお前を地中深くに埋めてやるっ、クマ!!」

 

「わんわんっ!!」

 

 ふたりは同時に吠えた。

 

「………大キナ力ノ前ニハ小サナ波ナド簡単ニ消エテシマウ……特ニ、半端ナ獣ナンカデハ」

 

 ククッと嫌な笑みをみせる黒い影。

 

 自分の姿でそんな事をしているという嫌悪が、少女の心中を黒くざわつかせた。

 

「だったら!」

 

 澱み切った空間を突き破るようにくまがパンと手を叩く。

 

 大きな丸い瞳をぎらりと輝かせながら。

 

「大きな力にはそれ相応の責任が伴うことを、くまが証明してやるクマっ!!!」

 

 漆黒の衣を纏った得体の知れない何かに向かって少女が吠えた。

 

「ボクの力、しかと見せてやるっっ!!!」

 

「……!!」

 

 オオモト様は驚愕の表情を浮かべた。

 傍にいるサトくんも黒い目を大きく目を見開く。

 

 それはくまが唐突に放った言葉に対してのものなんかではなく。

 

「クマあああぁああぁ!」

 

 くまが雄叫びをようなものを黒い人影に向かってあげていると、少女の長い髪がキラキラと金色に光を放っていたからだった。

 

 しかもそれだけではない。

 

 細い髪の毛の一本いっぽんから細かい光の粒子がふわりと浮かび上がっている。

 

 まるで星の欠片が弾けたときのみたいに、ふわふわと漂いながら少女の周りで光を放っていた。

 

 くまと言う少女の引力に引かれているかのように。

 

 きらきらと、月の明かりに照らされた少女の姿はあまりにも神秘的で、普段表情をあまり崩さないオオモト様でも、これには息を飲むほどだった。

 

(これが、くまの本当の姿なの? ツキノワグマって、こういうこと……?)

 

 くまが月の光に導かれたと言っていた事とはこれだったのだろうか。

 

 金色の髪の少女。

 

 それはまるで金の糸で出来ていると言ってもおかしくはないほど綺麗な髪をしている。

 

 こんな夜でなければ、とても美しいものとして見とれているだけだっただろう。

 

 だが今は。

 

 オオモト様はちらりと”くま”と”ソイツ”を交互に見る。

 

 金色の光を放つ少女の姿を見ても、ソイツは怯むことなく静かに佇んでいる。

 

 恐れを抱くような様子すらなく、ただ不気味に薄ら笑いを浮かべているだけだった。

 

 まるで、些末な事だと言っているみたいに。

 

「うーっ、行くクマっ!!」

 

 そう宣言した後で、くまが踊り掛かる。

 

 もちろん武器などはもっていない。

 

 だからと言って、普通の熊のような鋭利な爪や牙などをこの少女は持ち合わせてなどいなかった。

 

 裸の状態で飛び掛かっていく。

 

 あまりにも無防備で無策な行為に思えたのだが。

 

「たあああぁっ!!」

 

 一見、気の抜けるような掛け声を上げたくまは勢いよく右腕をぶるんと回す。

 

 その瞬間、たっと地面を蹴って飛び掛かる。

 

「クマクマ流星拳(ぱーんち)っ!!!」

 

 懐に潜り込こんだくまは勢いよくパンチを繰りだす。

 

 もちろん、良く知る”普通の熊”のような毛むくじゃらの手などでもなく、肉球もついていない。

 

 か細い少女の腕のままで右ストレートを繰り出していた。

 

 手持ちの武器がない以上、それしかなかったとも言えるが、それでもその辺りにある石や枝を投げつけるようなこともせず、くまはいきなり直接攻撃を仕掛ける。

 

 だが、それは目にもとまらぬ速さだったので実際に何発の拳を繰り出したのかを把握することは、見ていたオオモト様には分からなかった。

 

 何か妙なことを叫んでいたこともあったし、恐らく相当数な拳を瞬間的に繰り出したのだろう。

 

 華奢な見た目とは裏腹なくまの拳がそいつの体を貫いた──。

 

 それは、ある意味間違っていなかったのだが。

 

「くまままままっ?!」

 

 その拳は虚しく宙を切っていた。

 

 勢いがつき過ぎたのか、バランスを失いかけたくまが両手をばたばたと振って驚愕の顔で振り返った。

 

「……ドウシタノ? ネェ……」

 

 闇のように黒い人影は揺らめくこともなく依然として平然なまま、くまの方を見ようともしないで、さっきと変わらずオオモト様の方だけを見てぶつぶつと呟いている。

 

 くまの攻撃が一切当たっていないのだからある意味では当然の事なのだろうが。

 

 当事者であるくまは違った。

 

「がううううっ! コイツぅ!!!」

 

 (かわ)された上に無視までされたのだから、温厚そうにみえていたくまの沸点が一気に頂上まで上がる。

 

 熊耳カチューシャを着けた少女は、細い体をぐっと屈めると、くるりと腰を捻り、今度は足元を狙った鋭いキックを見舞う。

 

 ぶうん。

 

 とても重いものを振り回したときのような風を切るような音がして、くまの回し蹴りが今度こそソイツを捕らえるはずだった。

 

 せめて足払いぐらいは出来るだろうと、低い姿勢での不意を突いたくまの攻撃だったはずなのだが。

 

 が、またしてもヒットしない。

 

 ただ足を思い切り振り回したみたいに、か細い脚がすうっと地面すれすれに弧を描いただけになっていた。

 

 あまりの手ごたえの無さに、くまは再びバランスを崩して倒れそうになった。

 

 体幹のバランスが良いのか、それでもちょっとよろめくぐらいで、反動を使ってすぐに立ち上がったのだったが。

 

「わんわんわんっ!!」

 

 その瞬間、それまで様子を窺っていたサトくんが、ソイツの死角から回り込み続いて攻撃を仕掛ける。

 

 突進したサトくんが黒い輪郭の首元にがぶりと牙を立てて噛みつくつもりだったのらしいのだが。

 

 すかっ。

 

 あのヒヒすらも噛み砕いた白い犬の牙もソイツには通じない。

 

 ()()()()()噛みついたみたいに、ただ口をパクっと開け閉めしただけになった。

 

 しかもそれだけではなく。

 

「うわぁっ、サトくんっ!?」

 

 サトくんは噛みつく対象をなくし、ちょうど反対方向に居たくまにそのまま体当たりする格好となってしまった。

 

 すんでの所でくまが犬の体を抱きかかえたので、何とかぶつからずには済んだが。

 

「きゅうぅん」

 

 一体何が起きたのか分からず、腕の中で項垂れるサトくん。

 

 くまとサトくんは不思議そうに顔を見合わせた。

 

 オオモト様はその様子を固唾を飲んで見守っていたが。

 

(やはり……これは……)

 

 あのふたりの行動を見て分かったこと。

 

 それとは。

 

「な、何だこいつ……実態がないのかクマっ!?」

 

 同じ答えをくまも導いたようで、サトくんを胸に抱いたまま、大きく目を見開いてソイツを凝視していた。

 

 幽霊か幻覚の類ではないかと二人が疑うのも無理はない。

 

 人影はまるで深淵で出来ていると言ってもおかしくない程、霧のように掴みどころのない存在だったのだから。

 

 いくら鋭い牙や拳を持っていたとしてもその肉体がなければ意味はない。

 

 即ちコレは存在そのものに意味がないと言える。

 

 それなのにこいつは。

 

「所詮ハ獣ネ……単純デ、本当ニ哀レナイキモノ、クスクスクスクスクス……」

 

 気味の悪い声で嘲笑を繰り返す黒い影。

 

 行動の全てが無意味である、そう言っているように。

 

 実際にそうだったのだから、誰一人ぐうの音も出ないのだけれど。

 

「わぉん!」

 

 サトくんはたまらずくまの腕からからぴょんと飛びのくと、オオモト様の傍まで素早く戻った。

 

 その前に立ち、姿勢を低くして脅威を威嚇する体勢へと移る。

 

 かなわないことを知ったのか、その唸り声はさっきよりも幾分元気が無くなっているように見えたが、それでも気丈に四つ足を踏ん張ってソイツを睨みつけていた。

 

 あのヒヒにですら勇敢に向かって行った白い犬がこうして逃げ帰ってきたのだから、余程の事だったのだろう思う。

 

 やれると思ったことが通用しなかったことへの失望感。

 

 それがサトくんの小さな背中からはっきりとわかる。

 

 はっきりと分かるぐらいに小刻みに震えていて、立てていたしっぽが力なく垂れ下がっていたのだから。

 

 これは本能から来る恐怖だ。

 

 そしてそれは多分、自分も感じている思いだ。

 

 もうそういうのには慣れたと思っていたのに、圧倒的な現実感となって襲い掛かってくる。

 

 実態を持たない筈の存在から。

 

「……足掻イテモ無駄……生テイテモ……」

 

「うぅーっ!」

 

 犬がいくら唸り声をあげても、黒い影は一切怯むことなくゆっくりと間合いを詰めてくる。

 

 少しづつ確実に。

 影がどこまでもついてくるようにねっとりとした動きで。

 

 地面まで垂れ下がっている髪と思しき長い影を引きずっているのに、気にするような様子もない。

 

 その気配だけでなく、周りにある音や概念すらも存在を無くしているように、ソイツの周りだけが違う空間で出来ているようだった。

 

 どういった方法でそんな事が出来るのか、それを確かめる術もそのような余裕すらもない。

 

 黒く陰鬱な輪郭をもつ存在の歩みを止める方法はもうない。

 

 サトくんも低い唸り声をあげるだけで、ソイツが近づいてくるたびに後ろ足をじりじりと下げるを得なくなっている。

 

 オオモト様も一歩、二歩と後ろに下がる。

 

 体を持たないソイツが近づいてきたところで何もできないのは分かっているというのに。

 

「……っ」

 

 オオモト様とサトくんが焦燥感のある表情でじりじり下がりながら指をこまねいていると、一際大きな声が暗い森の中に響き渡った。

 

「ま、まだ負けと認めたわけじゃないっ、勝負はこれからだクマっ!!!」

 

 くまはこちらの方を見ろと言わんばかりに腹の奥底からの叫び声をあげると、素早い動きでオオモト様とサトくんの前に立つ。

 

 少女の咆哮が月が浮かび上がった夜空に響く。

 

 どうやらくまはまだやるつもりのようだった。

 

 明らかに攻撃が通用しないのに、これ以上一体何をするつもりなのか。

 

 単なる意地で言った可能性もある。

 

 その証拠に少女の両足は震え、全身から冷たい汗が噴き出ていた。

 

(まさか、怖がっているの? 何よりも強いボクのはずなのに……どうして……?)

 

 そのせいだからだろうか、さっきから呼吸が少し荒くなってきている。

 

 くまは戸惑った表情で握った掌を広げる。

 

 汗がずっと止まらない。

 

 向こうからの攻撃なんかは一切ないというのに。

 

(くま……あなたは……)

 

 くまが自分で住んでいたと言っていた山で、どれほど強さをもっていたのかはしらないが、恐らくこの少女はここまで怖いもの知らずで来たんだろう。

 

 実際、野生の熊は森の中では天敵と呼べる存在などないと言っても過言ではない程の強さがあるのだから。

 

 それは人間も含めた他の動物では相手にならないほどものが。

 

 だから多分、この”くま”も例外ではないのだろう。

 

 先ほどの攻撃にしてみてもとても早い動作であり、おおよそ普通の人間の力では、まず出すことできない代物ではあった。

 

 まともに当たればそれこそひとたまりもない攻撃ばかりなのだろう。

 

 細い樹ぐらいなら簡単になぎ倒せそうに見えるほどだったから。

 

 ヒヒを退治にするために来たと言うのはあながち間違いではないとは思う。

 

 それだけの能力と意思をもって、この少女ははるばるこんなところにまでたった一人でやってきたのだ。

 

(でも、この相手は)

 

 実際にこうしてこの黒い存在と対峙したことは一度もなかったが、あの人影から流れてくる波長というか気配の感じ方が他の生物とは全く異なっているように思える。

 

 ”死を司るもの”というわけではないと思うが、だからと言って生と呼べるようなものは、この人影からは一切感じ取ることができない。

 

 そういう意味ではあのヒヒなんかよりもよっぽど質の悪い存在であり。

 

 まともやっても適う事のない相手であるのは分かっているはずなのに。

 

 これは──生きとし生けるものとは異なる存在なのだから。

 

 けれど、それは。

 

(それは、わたしだけかと思ったけど……これも多分そうなのね……だからこそ、わざわざあんな姿で)

 

 成長し、大人になった姿の”座敷童”。

 

 けどそれは、本当に最期の姿でもあったはず。

 

(そう。次の座敷童を産み落としたわたしはその輪郭を失ったはず……だった)

 

 なのにまだこうして現世(ここ)にいる。

 

 ただそれは不安定な形だったから、場合によってはそれこそ大人の時の姿に戻ることだってあったけど。

 

(でも……”コレ”とは違う。多分、ただ真似しているだけ。仲間かなにかと勘違いさせるために)

 

 それこそ本当に無意味だ。

 

 だが、こちらを求めている。

 

 それこそがこの存在の意味であるかのように、ケタケタと下卑た喜びを湛えながら。

 

(本当に、不快な存在)

 

 あの時の悪夢の続きを見せられているような気分になり、思わず少女は顔をしかめていた。

 

 ……

 ……

 

(行く……行くんだ!)

 

 くまは震える体を叱咤して睨みつける。

 

 どちらが前だか後ろだか分からないぐらいに真っ黒な体をしているソイツに。

 

 嫌悪しか感じない。

 けれど、負けたくはない。

 

 たった一つの想いだけが崩れかかっていたくまを奮い立たせていた。

 

「行くぞ、クマーー!!」

 

 そう拳を振り上げたのだが。

 

「待って」

 

 その手をオオモト様が掴んでいた。

 

 たまらずくまは振り返る。

 

「な、何で、止めるクマっ!?」

 

 本気だったくまは虚を削がれた形になり、少し苛立った表情でオオモト様を見やった。

 

 睨んでいると言ってもいい強い目線だったのだが。

 

 オオモト様はくまの視線を受けても表情一つ変えずに小さく首を横に振るだけ。

 

 これ以上は無理だと言っているように捉えたくまは、黒い影を無視して困惑気味な抗議の声を上げようとしたその時だった。

 

「もう……行きましょう。()()()()相手にする必要ないわ」

 

 そう言ってぐいと手を引っ張る。

 

 そのくまの手は驚くほど冷たかった。

 

 緊張というか得体の知れない焦燥感がそうさせているのだろう。

 

 思ってもみなかったことにくまはついそのままオオモト様に引っ張られていた。

 

 だが、このまま背を向けたらアイツが向かって来るんじゃないだろうか。

 

 隠し持っていた牙で。

 

「で、でもっ、アイツがっ!?」

 

「いいから。くまはすぐに服を着て。どうせ今は何もしてはこないわ」

 

 言い捨てるようにしてそう言われて促される。

 

 そんな少女二人の後を黒い影がゆっくりと付いて行く。

 

 何処までも逃がさないと言っているように。

 

「わんわんわんっ!」

 

 サトくんがその前に後ろ向きに立ち、後ろ足を一生懸命使って小石と砂を巻き上げ続けた。

 

 それは温泉の水分とちょうど混じって、白い噴煙の状態を作る。

 

 偶然の煙幕にあっけにとられたくまだったが。

 

「さぁ、あの子が頑張っている今のうちに」

 

 オオモト様はランタンを引っ掴むと、さっきよりも強くくまの手を引く。

 

 湯気を出している温泉の間をぴょんと駆け抜けた。

 

「ま、まってよ、ざっきぃ~。まだ服をちゃんと着ていないクマぁ~」

 

 くまは服を半分引っ掛けたまま、オオモト様の後をよろめきながらついて行く。

 

 腕を引っ張られているからそうするしかないのではあるが。

 

 それでも手を振り解いて、再びアレに向かって行くような気概はもうなかった。

 

 時折、ちらちらと後ろを振り返るぐらいで。

 

 二人の少し後ろでサトくんが警戒しながらもゆっくりとついて行く。

 

 ただ、そんなことをするような必要はもうなく、オオモト様の言うように黒い輪郭をもつ人影はこちらに追いついてくるようなことはなく、どんどんとその姿が引き離されていく。

 

 それ以上足早になることも、追いすがるような声を出すこともなく。

 

 その姿はあっけなく小さくなり、次第に暗闇と見分けがつかなくなるほどに視界から溶けていった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「まだ、怒っているの?」

 

 そう問われても、くまは一向にこちらを振り向こうとしない。

 

 やはり勝負に水を差されたのが不服なのか、むくれ返ったままだった。

 

「くぅん」

 

「仕方がないわ。彼女にだって意地があるのだろうしね」

 

 気を使うような声をあげたサトくんと顔を見合わせると、そっとため息をつく。

 

 実際、ちょっと強引だったかもしれない。

 

 けれど、あんなのと戦ったところで何の意味もない事だけは分かっていた。

 

 だってあれは、生物というよりもむしろただの背景。

 

 そう思うしかない存在だったのだから。

 

「あ、あのさっ」

 

「うん?」

 

 くまが背を向けたまま再び声をあげる。

 

 不意なことにオオモト様はちょこんと小首をかしげた。

 

「ざっきぃは、何であんなことをしたの? 危ないとか思わなかった?」

 

 横目でこちらをちらちらと窺いながらそう訊ねられる。

 

 ちょっと可愛らしいとか思ってしまった。

 

「あれは危ないというよりも、意味がないと思ったの。くまだってそれは分かっていたんでしょう」

 

 そう問い返されてくまは一瞬息がつまったように顔を膠着させた。

 

「それは、でも……やっぱり危ないクマよ! 獣相手ならまだしも、得体の知れない相手に背を向けるだなんて」

 

 くまは渋々肯定しながらも自分の意見をはっきりと口にした。

 

 そういう経験があるのだと思う。

 

 敵に背を向けることは屈辱というよりも、恐らく死に近い行為なのだろうという考えが。

 

 くまのその言葉にオオモト様はふふっと小さく笑って返す。

 

「くまは、優しいのね」

 

 そう言われてくまは一瞬訳の分からない顔になった。

 

「なんで、ボクが?」

 

「だって、そんな風に怒ってくれるのはあなただけよ。だからこそ優しいって思ったの」

 

 屈託なくそうオオモト様に言われ、くまはようやくこちらに体を向き直した。

 

「別に、そんなつもりじゃない、よ……ただそうやって自分を蔑ろにするのは良くないと思ったってだけで……」

 

「確かにそれはそうね。今後は気を付けることにするわ。それにしても以外だったわ」

 

「何のこと?」

 

「くまがあんなに積極的だとは思わなかった。やっぱり何かを感じ取ったの?」

 

 そう言ったオオモト様をの顔を見ながらくまは複雑そうな顔になる。

 

 確かに耳の奥が少しぴりっとした感じにはなったが。

 

「感じ取ったっていうか、多分、本能的なものが出てしまったんだと思うクマ。それだけ危険な臭いがプンプンとしてたから」

 

「そう……本能ね」

 

「多分、あの匂いを感じた時から分かっていたんだと思う。危険性を持った何か変なものが近づいて来てるってことが」

 

「それがあなたの本能を呼び起こしたということね」

 

 オオモト様は納得したように頷く。

 

「キミだってそうなんでしょ? だから逃げるように言ったんじゃないかクマ?」

 

「それはどうかしら……でも」

 

 くまの問いにオオモト様は考えるような素振りを見せた。

 

「でも結果として、わたしにも本能のようなものがあったということね」

 

 オオモト様は赤い炎に視線を移しながら少し他人事のように呟く。

 

 あんな事が無ければもっと静かで長い夜を過ごすことが出来たはず。

 

 眠っていた本能を目覚めさせるようなこともなく。

 

「だったら、アレは本能に訴えかけるということね。それは良くも悪くも。だけど、歪みが正されたとしてもしこりは残り続けるものだから」

 

 そう、あれは多分歪みを正すためのものだ。

 

 それが脅威となって目の前に現れただけなんだと。

 

 後を追ってこないのはその必要がないから。

 

(その時が来ればきっと……)

 

 またアレは姿を現すだろう。

 

 それがずっと先、あるいはほんのすぐ先の時間かもしれない。

 

 過去の時間には戻れない。だからこそあのような存在が居るのだろうと思った。

 

 けれど、そんな事よりも。

 

(わたしの中にもまだ……残ってた……)

 

 もうずいぶん前に無くしたと思っていた、人としての思いや心、感情の欠片のようなものが。

 

「ふふっ」

 

 自嘲するようにそっと小さく微笑む。

 

 くまは少し不思議そうにオオモト様の方をみたが、特に気にするようなこともなく同じように小さく笑う。

 

 少なくとも今は静かだったから、ふたりは焚き火を眺めながらしばらく安堵の時を過ごした。

 

 ──

 ──

 ──

 

「本当はさ……別の目的でこっちの方まで来たんだよね」

 

「そうだったの」

 

「うん」

 

 月が差し込む部屋で沈黙が訪れる。

 

 焚き火を消した少女たちは、古びた家屋に入り寄り添いながら一夜を過ごしていた。

 

 薄汚れた毛布と布団しかなかったが、ぽかぽかと体が火照っていたから丁度良いぐらいだった。

 

 冷たい月が夜の寒さを感じさせる。

 

 暗く深いあの深淵の目のように。

 

「最近さ……人里にまで熊が降りてくることが増えているようだから、その原因を探ろうと思って、こっちの地方にまで来てみたんだよね」

 

 くまの話にオオモト様は目線だけを向けて頷く。

 確かに最近はそういう傾向が続いているようだけれど。

 

「じゃあ狒狒(ヒヒ)のことは?」

 

 そう問われてくまはちょっと申し訳なさそうに笑う。

 

 布団に横になっているせいからか、さっきよりかは幾分落ち着いているようだった。

 

「ヒヒのことはまあ……どっちかっていうと物見遊山的なものの方だったのかもしれないクマ。でも、もし山に良くないものがいて、そのせいで熊や動物達が追い出されているのだとしたら……」

 

「原因が知りたかっただけなのね」

 

「うん。そうクマ」

 

 なるほどと思った。

 

 ヒヒを退治しに来たとくまは言っていたから、てっきり力試しみたいなものかと思っていたけど、ちゃんとした別の目的があったのだ。

 

「やっぱり優しいのね、くまは」

 

 オオモト様が投げかけた言葉にくまは少し顔を赤くして天井を眺めた。

 

 少し歪んだ木目はあれが嗤っているようにも見えた。

 

 意味の分からない化け物が。

 

 くまはふぅと長い息を吐くとぽつりと呟く。

 

 諦めというか少し重い言葉で。

 

「でも、アイツには全然かなわなかった」

 

「……」

 

「結局の所、奢りだったんだろうね。ヒヒか何かは知らないけど山を穢しているものがいるなら懲らしめてやろうだなんて、そんな大それた事をボクは無謀にもやろうしていた」

 

「そんな浅はかな考えでのこのこやって来た自分が腹立たしい、よっ……!」

 

 消えかかりそうな声でそうくまは呟いた。

 

 見た目以上に相当ショックだったんだろうと思う。

 

 それは部屋の端の方で丸くなって寝ているサトくんも同じで、アイツからしてみればただ吠えているだけの犬と同義だったのだから。

 

 暢気そうにしているが、思いは多分逆だろう。

 

 今すぐにでもあの場所まで舞い戻って、再戦したい気持ちがあるのかもしれない。

 

 敵いっこないとは分かってはいても。

 

 ……

 ……

 

「そういえばね」

 

「……うん」

 

「わたしの友人がね。前にアレに遭ったみたいなの」

 

 唐突に口を開いたので、一瞬何のことが分からなかったが。

 

遭遇(あう)って、さっきの”アレ”のこと?」

 

「ええ」

 

 すぐに理解してもらった事にオオモト様は軽く微笑みながら頷いた。

 

「山に立っていた石碑の辺りで見たらしいわ。ソイツは森の奥から地響きを鳴らしながらやってきたらしいけど、何をするわけでもなく消えてしまったそうよ」

 

 友人の一人である蛍から聞いた話を要約してくまに伝えた。

 

 石碑自体の存在は前から知っていたが、直接訪れたことはなかったから、事のあらまししか分からないけれど。

 

「それって、ボク達が出会った奴と同じなのかな。地響きまでは出してなかったけれど」

 

「そうね」

 

 むしろ蝸牛のようにべたべたとした歩き方をしているように見えた。

 

 もしかしたらあの人型に見えている部分は()()()()()()()で、本体は別にあるのかもしれないが。

 

 全ては想像の域を出ない。

 

 でも、とオオモト様は言葉を付け加える。

 

「わたしは今回のものと同一だと見ているわ。姿かたちは違うようだけど」

 

「それが分かるクマか?」

 

 ちょっと信じられないという口調でくまが訊ねる。

 

 オオモト様はそっと目を伏せる。

 

 残った思念というか、歪みの残滓が寄り固まって出来たもの、そう思っていたけれど。

 

(もしかしたら、あっちの方が本当の姿なのかもしれない……わたしこそが消える存在で)

 

 あの町で起こった幸運と歪み。

 

 どちらが正しいというわけではなく、ただ起こってしまった事象。

 

 その狭間で流され、揺らいでしまったもの達が作り上げたのが、アレや今の町なのかと思ったけれど。

 

「うおー! クマぁー!!」

 

 すぐ隣で急に大声を出されて、考えを巡らせていたオオモト様は何事かと目を大きく瞬かせた。

 

 白い犬も憂鬱そうに瞼を開ける。

 

「負けた負けた負けたクマー!!! でも次は絶対にリベンジクマぁーー!!」

 

 くまは布団にもぐりながら、もぞもぞと両手だけを上に突き上げて、壊れた窓から見える月に向かってそう宣言をした。

 

 サトくんもそれに触発されたように、空を振り仰ぎながら高い声で遠吠えを繰り返していた。

 

 獣とそうでないもの? の叫び声が闇夜に響き渡る。

 

(やっぱり悔しいのね。くまもサトくんも)

 

 何とも騒がしい夜になってしまったが、その気持ちは何となく分かる。

 

 それに静かに月や星を愛でる夜も好きだけど、こうして騒がしいのもとりたて嫌いではなかったから。

 

 オオモト様は嫌な顔一つせず小さく微笑んでいた。

 

 それにしても。

 

 力があるものは常に鎖に縛られているような気がする。

 

 負けられない、負けたくはないという呪縛に。

 

 だって、負けを認めたら一番強いものではなくなってしまう。

 

 弱肉強食という概念の中では弱いモノから必然的に食われてしまうものだから。

 

(わたしも、食われてしまうのかしら……アレに……)

 

 先ほどまでの仄暗い考えがぼこっと浮かび上がり、黒髪の少女ははぁと疲れた息を吐いた。

 

「それにしても、あなたの戦う姿、とっても綺麗だった。何も着ていなかったからよけいにそう見えたのかもしれないわね」

 

 オオモト様は小さく肩をすくめると、先ほど目で見ていたことを口にした。

 

 それはくまにとってはとても意外なことだったから、雄叫びを上げたまんまの丸い口をぽかんとしてオオモト様の方を見つめていた。

 

(本当に、綺麗……)

 

 しなやかに躍動する少女の体のラインが闇に浮かび上がる姿は本当に美しい。

 

 無防備で全く無駄のない動きは一種の芸術品といってもおかしくないぐらい。

 

 そのままガラスに閉じ込めてずっと眺めていたいぐらいだった。

 

「そ、そうクマか……?」

 

「ええ、綺麗だった」

 

 少し眉をひそめたくまだったが、念を押されたように言われたので、無邪気にえへへと照れ笑いを浮かべた。

 

 そんな透明な少女にオオモト様は布団の縁で口元を隠しながらくすりと笑みをこぼす。

 

(そっかー、ボク綺麗だったかー……あれ、でも……?)

 

 くまは内心首を傾げる。

 

 何かとてつもなく恥ずかしい目にあったような気がする。

 

 しかもそれは気なんかじゃなく、現実的なものだった?

 

 くまはおずおずといった感じでオオモト様に話しかけた。

 

「あのさぁ、ざっきぃ……もしかして、ボクのハダカ、見ちゃったのか……クマ?」

 

 そう尋ねられて黒髪の少女はきょとんとした顔で見つめ返す。

 

 さっき、そう言ったはずなのに、といった表情で。

 

「ええそうよ。だってくま、キチンと服を着ていなかったでしょう。ずっと動き回っていたけど、寒くはなかったの?」

 

「ええっとぉ……ちょっと待って」

 

 オオモト様の方に掌を向けてちょっと考え込むくま。

 

 確かに、温泉にのんびりと浸かっている時に現れたから、服を着ている暇なんかはなかったけれど。

 

 でも。

 そういうことじゃないような?

 

「寒くはなかったみたいなんだけどさぁ……」

 

 くまはぼろきれのような布団の端をぎゅっと掴んだ。

 

 すると何かが分かったのか急に頭まで布団を被り、顔を覆い隠す。

 

 急な変化にオオモト様は心配して尋ねる。

 

「どうかしたの、やっぱりまだ寒い?」

 

 その手を握ろうとオオモト様はくまの布団の中に手を入れたのだが、何故か手を引っ込められてしまった。

 

 訝しそうに見るオオモト様にくまは布団を丸く被ったまま、仕方なしにぼそぼそと応えた。

 

「ううっ……だって、すごく恥ずかしい……」

 

「恥ずかしい?」

 

 くまの言葉を反芻する。

 

「ぼ、ボクの全部、ざっきぃに見られちゃったわけだしぃ。恥ずかしさにしんじゃうクマままままぁ!!」

 

 一通りくまは叫ぶと、その照れた顔すらも布団の中に埋めてしまった。

 

「……」

 

 オオモト様は呆気に取られたように少女が丸まった布団を見つめた。

 

(ううううっ……!! 誰にも見せたことなかったのにぃ……!!)

 

 今思うと、確かにアイツの言うようにちょっとはしたなかったのかもしれない。

 脚なんかはおもいっきり広げていたような気がするし。

 

 完全に全部見られてしまった。

 

 大事な所なんかも多分丸見えに。

 

 くまの少女は湧きあがる羞恥心に耐え切れず、耳まで顔を赤くしながら布団を頭から被り蹲った。

 

 オオモト様はそれをきょとんした様子で眺めていたが、やがて小さくため息をつくと、くまに背を向けて軽く瞼を閉じた。

 

 サトくんも疲れたような欠伸を一度すると、ふわふわした尻尾に顔を埋めて目を閉じる。

 

 やっと静かになったことの合図のように、ちりちりと小さな虫の音が耳に届くようになった。

 

 ……

 ……

 ……

 

 月が廃屋を照らしつける。

 

 しんと静まり返った家の中で、心地よい夜の帳が二人と一匹……いや、三人の中にゆっくりと降りてきていた。

 

 くまの布団はまだ丸くなったままだったが、今はもう静かになっている。

 

 小さく唸り声をあげていたようだったが、多分寝てしまったのだろう。

 

 今夜は大分疲れただろうから。

 

「……」

 

 あえて、聞こうとはしなかった。

 

 多分、一晩寝ればくまの機嫌だって直るだろうとそう思っていたから。

 

 そう、だったはずなのだが。

 

「……ねぇ」

 

 始めは独り言のような呟きだったから、オオモト様は試しに片目だけを開けてみた。

 

 ぼそぼそとしたものだったし、もしかしたら寝ぼけて出た言葉も知れない。

 

 昨日だって、くまの寝言で起こされたようなものだったし、多分そうだろうと思った。

 

 だが。

 

「ね、ねぇ、ざっきぃ~」

 

 布団を頭から被ったままのくまにゆさゆさと揺り起こされる。

 

 それで自分に話しかけていることがようやく分かった。

 

(やっぱりまだ、起きていたのね)

 

 オオモト様は小さく目を擦ると、くまが気にしているだろう事を思ったままに言った。

 

「大丈夫よ。月明りだけだったし、それに本当に綺麗だったから」

 

 くまを安心させるつもりでそう口にしたオオモト様だったのだが。

 

 くまは、はううーっ! と唸ったっきり、また布団の中に全身をすぽんと埋めてしまった。

 

 あっ、と小さく呟くオオモト様だったがもうすでに遅く、くまはその目線すら合わせてくれなくなっていた。

 

 どうやら今の言葉は余計だったらしい。

 思わず口元を手で押さえたが、それこそ遅かった。

 

 オオモト様は差し込む白い明かりを見ながら、そっと息を吐きだす。

 

 暗雲のような黒い存在が居なくなったせいだろうか、吐き出す息が少し白く見えたような気がした。

 

 それだけ今の空気が澄んでいるということなのかもしれない。

 

 山と森と、その息づかい。

 

 世界の均衡とはこのような成り立ちなのではないだろうか。

 

 何かが不足しているというよりも、あるがままのものを守っていくような感じが。

 

 この家にもそれなりに幸せな時間があったのだろう。

 

 もう人の住まなくなり、捨てられた家にも。

 

(でも、今はわたし達が住んでいるわ。勝手に入り込んだだけなのだけど)

 

 誰かが遺してくれたものが、別の事の役に立っている。

 

 幸福、幸運とはそういう些細なことの積み重ね……そうであって欲しいと願う。

 

 座敷童という概念がもう生み出されることなどないように。

 

「……責任」

 

「……えっ?」

 

 隣で沈黙していた丸い塊がはっきりとした言葉を出してきたので、思わずそちらの方を振り向いた。

 

「ぼ、ボクの裸見ちゃったのなら……責任、とって欲しいクマ」

 

「……」

 

(そ、そういうものなのかしら?)

 

 オオモト様は内心で首を傾げた。

 

「……そうじゃないとボク……このままだと恥ずかしすぎて、ざっきぃの顔なんかまともに見れないもん……」

 

 くまはちょっと甘えた言い方をした後、それっきり黙ってしまった。

 

 オオモト様は自分に返事を待たれていることに気が付くのに少し時間がかかってしまい、何で急に黙ってしまったのかと不思議がっていた。

 

(責任……)

 

 それはわたしが取らなかったものだ。

 もうずっと前に考えることをやめていたもの、放棄したとも言えるものだ。

 

 わたしは自分から何の責任を取ろうとは思わなかった。

 

 全ては平等であると思っていたし、良いことも悪い事もそれぞれに意味なんてものは無いと思っていたから。

 

 けれど、綺麗なものに何かしらの対価を払うのは当然なことのような気もする。

 

 芸術品とかそういうのに造詣は詳しくないけれど、あの子は、”燐や蛍”と一緒でとっても綺麗だったから。

 

 責任を取る事とはちょっと違うとは思うけど、くまに対しては行為と呼べるものを抱いているのは確かだったから。

 

(そうね……わたしも何かを返してあげないと)

 

 サトくんが居なくなったときもそうだったが、この子のことももっと信頼してあげないと。

 

 小さな体で守ってくれたわけなんだし。

 

 胸の内で納得したようにそう呟くと、理解出来たように首を小さく上下させた。

 

「分かったわ。じゃあ……くま」

 

「う、うん」

 

 オオモト様は囁くような声でくまにそっと呼びかける。

 

 その声に身をびくっとさせたのか、こぶのように膨らんだ布団が大きく揺れた。

 

「また、明日朝ごはんを一緒に食べに行きましょう。それでいいかしら?」

 

 隣で丸くなっているくまにそう訊ねる。

 

「……」

 

 くま暫く黙っていたが。

 

「なんか安っぽく聞こえる、クマ」

 

 にゅっと布団から顔だけを出し、少し不満げな声でそれだけを呟く。

 

 そう返されて、オオモト様は不思議そうに目を丸くさせた。

 

「そうかしら? 誰かと一緒にとる食事は責任を伴うものだとわたしは思ってる。それがましてや好きな人となら尚のことだわ」

 

「……偶然、かもしれないのに」

 

 くまは殆ど布団を顔に入れたままくぐもった声でそう問い返す。

 

 オオモト様はにこりと微笑みながら、紡いだ糸のような繊細な言葉で返した。

 

「わたしは、あなたとの出会いに何か特別なものを感じてるわ。偶然か必然か何てことは問題ではないの。くまといるのがとても楽しい」

 

「…………!!」

 

 その言葉にくまは顔を真っ赤にすると、またさっきのように布団の中に引っ込んでしまった。

 

 やっぱり、まだ恥ずかしいのか。

 それとも。

 

 とりあえず、応じてくれたのは良かったが、どうやらくまが求めていた答えとはこれも違うようだった。

 

 くまは食事ではなく、別の何かを期待していた?

 

 その辺りはまだ良く分からないが。

 

「だったら……」

 

「うん?」

 

「まあ、一緒に行ってあげてもいい……クマ。でもいっぱい夕食を食べそこねたからいっぱい食べちゃうかもしれないけど」

 

 そう言ったきり、くまは本当に黙ってしまった。

 

 オオモト様は穏やかな目でくまの方を見ていたが、上体を布団の中に入れるとまた静かに瞼を閉じた。

 

 月光が見守るなか、少女たちは長い夜からの眠りにつく。

 

 きっとまた朝は来ると思う。

 

 ただ、それが求めていたものとは同じかどうかまではまだ、分からなかった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「やっぱり、降ってきちゃったみたいクマね」

 

 溜息とともにくまはそう言葉を漏らす。

 

 確かに、四角い窓の向こうでは、どんよりとした灰色の雲が空を覆い隠していて、はっきりとわかるぐらいの大粒の雨がぴとんぴとんと振ってきているようだった。

 

「ざっきぃが言ってた通りクマね。朝の内はあんなに晴れ晴れとしてたのにねぇ」

 

「そうね」

 

 オオモト様も残念がった声でため息を吐いた。

 

 その吐息にはさっき食べたストロベリーパフェの甘い香がまだ少し残っていた。

 

 昨日と同じファストフード店で朝食を済ませたのち、またふたりは周辺の街の探索に出かけていた。

 

 あんなのが現れてしまった以上、もうヒヒの痕跡や町の調査などまったく意味のない行為となってしまったが、それでもじっとしているわけにもいられず、特に当てもなくぶらぶらと街中を彷徨う羽目になっていた。

 

 観光ガイドを見て色々回っていたのだから殆ど旅行と言ってもいいほどで。

 

 それでもお腹は減るようだったから、お腹を押さえるくまと一緒にとりあえず近くのファミリーレストランへと入り小一時間程経った時のことだった。

 

 灰色の雲が厚く垂れ込め、空からぽつぽつと雨が降ってきたのは。

 

 タイミングよく店内に入れたとも言えるが、そこが何となく腑に落ちないのかオオモト様は窓の景色を見ながら眉根をきゅっと寄せていた。

 

「これじゃあ今頃あそこだってびちょびちょになっているよね。あーあ、せっかく良いねぐらを見つけたと思ってたのにクマぁ」

 

 そうぼやいたくまは、コップだけ置かれた綺麗なテーブルの上で顔を突っ伏していた。

 

 その仕草にオオモト様は軽く微笑むと、薄暗くなった窓の方を眺めながら珍しく頬杖をついていた。

 

 サトくんとは途中でまた別れてしまったが、多分、何処かで雨宿りしているだろうから心配はないとは思うのだが。

 

(だったら、何なのかしらねこの胸騒ぎは……)

 

 確信はない、だけど。

 

 不穏なようなものを覚えてしまう。

 

 状況がそうさせているとも言えるかもしれない。

 

 黒い輪郭を持った自分そっくりの存在が目の前に現れた瞬間から、何かが大きく変わってしまった。

 

 そう思えてしまう。

 

 全てを結び付けて考える行為はおかしい事だと思っていても、どこかでそれを否定している自分がいることを知っているから。

 

 どうしても心が波立ってしまう。

 

 平穏にしようと思えば思えるほど胸の奥でそれはふつふつと強くなっていく。

 

「ねぇ、ざっきぃ、今日はどうする? とりあえず手ごろな洞穴でも探そうか」

 

 くまが熊らしいことを言いながらぐでんとした表情で尋ねる。

 

 いつも元気だったから何でも楽しめそうな感じがしてたけど、この様子だとどうやらくまは雨は苦手らしかった。

 

「わたしは寝られそうなところならどこでもいいわ」

 

 少しぶっきらぼうにそう答えるも、オオモト様は考えることがあるのか、また張り付いたように窓の外へと視線を移した。

 

「まあ、確かにぃ」

 

 くまも恨めしそうに窓の外の景色を見ながらまたため息をつく。

 

 そのせいか窓が少し曇り始めていたが、そこに指を添わせて何か描こうとすら今は思わなかった。

 

「アイツ、今夜も出てくるのかな?」

 

 重ねた腕に顎を乗せながらくまがぼそっと呟く。

 

 もう二度と遭いたくはないような存在だったのに、待ちわびているような口ぶりになっている事に少女は気付いていない。

 

 それはとても滑稽な事なのだが、二人共このまま無事に夜が迎えられるとは思ってすらいなかった。

 

 一度視てしまったら、もう見て見ぬふりなんかできない。

 

 アレは確実にここに居るんだし、いきなりこの場に現れることだって何ら不思議でもない。

 

 肉体のようなものがないのだったら、如何様な場所にだって現れることが出来るだろうから。

 

 どうも落ち着かないのはきっとそのせいだ。

 

 何を食べていても、誰と話していても。

 

 ふとした瞬間にさっと影が差す。

 

 どうしていても気になってしまうのだ。視線というか見えないところまで探っている意識の混濁に焦燥感を覚えてしまう。

 

 もう無視はできない。

 無視したくとも。

 

 アイツは確実に這いよってくるだろう。

 

 どんな事をしてでも。

 

 そんな予感がしてしまうのだ。

 

「だったら」

 

 オオモト様から言葉を切り出す。

 

 このままここで蹲っていたって時間は平等に流れていくものだから。

 

「今夜は別のところで泊りましょうか」

 

 急にそう提案されて少し戸惑った顔をしたくまだったが、”別の”と言われたことにぱあっと顔を明るくさせた。

 

「なら、高級な旅館かホテルがいいクマねっ! まあ、それはどっちでもいいけど……美味しいご飯と出来れば温泉があればいう事なしクマねぇ……あ、あともちろんお酒もっ!!」

 

 付け足した言葉は少女がおおよそ口にすることではなかったが、このくまは見た目通りの少女ではなかったのでさして問題はないだろう。

 

 実際に問題だったのは。

 

「ごめんなさい。そのどちらでもないの」

 

「何だ、そうクマかぁ……」

 

 くまは分かりやすくがっくりと肩を落とした。

 

「でも、良い所なのよ、あそこは」

 

「それって、どんなところクマか?」

 

 ワクワクとした表情でくまは尋ねる。

 

 まさかそんな所を提案されるだなんてことは思ってなかったから。

 

「”青いドアの家”と言って、そこでは雨が降ることもないし、ずっと穏やかな所なのよ」

 

「……」

 

 一応、くまは頷いてみせたが、それは何故かぎこちないものだった。

 

 オオモト様は構わずに話を続ける。

 

 くまの仕草に疑問はないとうか、それすらも目に入っていないみたいに。

 

「でも、誰でもという訳ではないの。多分、あなたなら大丈夫と思うわ」

 

 その言葉を聞いた途端、くまはぎゅっと表情を固くすると、オオモト様から少し距離を置いて、座りながら両手でバツの字を描いて首をぶんぶんと振っていた。

 

「……くま? どうかしたの」

 

 突然変な行動をとったくまに首を傾げるオオモト様。

 

 くまはやれやれと言った感じで肩をすくめた。

 

「どうかしたのって、ねぇ……」

 

 くまは思わず手元にあったコップに手を伸ばし、その中身をごくっと口の中へ入れた。

 

 氷ごとをがばっと飲み込んでしまったことで、口の中がキインと一気に冷たくなる。

 

 思わず悶絶しかけそうになったくまだったが。

 

「ほら、これで」

 

 オオモト様が綺麗な柄のハンカチを手にしてその口元を拭おうとした。

 

 くまは複雑な顔でそれを受け取ると、自身の口周りをさっと軽く拭いた。

 

「だってさぁ、ざっきぃの話からだとさ……」

 

 一息ついた後、くまはオオモト様にお礼を言ってハンカチを畳んで返すと、恐々と言った感じでこう言葉を紡いだ。

 

「そこって、”死んだ人がいく世界”なんでしょ? だったらボクはまだ遠慮しておくクマ」

 

 そう言われてオオモト様は一瞬、はっとした顔になったが。

 

「それは」

 

 否定とも肯定ともとれるような曖昧な言葉を口にすると、窓の外を見ながらしばらく黙ってしまった。

 

 くまもちょっとつまらなそうに反対の窓の方を見る。

 

 少女たちは互いの存在にしばし目を背けた。

 

 降り続く雨がさっきよりも強くなってきたような気がした。

 

 

 ざあざあと雨が降りしきる。

 

 少し古い店内にはその音は聞こえては来ず、クラシックのBGMとわずかな雑談の声色が低いノイズのように流れていた。

 

(もし、これがアイツのしていることだったとしたら……)

 

 直接的なことはできそうにないが、こうした間接的な事柄。例えば気候の動きを早めるようなことはできるような気はする。

 

(……もしかしたら、この先も)

 

 大きなガラスの窓外を振り仰ぐ。

 

 厚い、灰色の雲は本当に自然のものなのだろうか。

 

 何もかもが疑わしく思えてくる。

 

 誰かのせいという訳ではないのに。

 

 二人の少女の間には少し重い、距離のある空気が流れている。

 

 暗い空なんかよりも。

 

 そっちの方がよほど憂鬱な事柄であった。

 

 ──

 ──

 ──

 

「それにしても、だよ」

 

「うん」

 

「本当に、こっちの方にいるとは思わなかったよぅ。一応、方角は分かっていたとは言ってもさ。これって相当な確率での偶然なんじゃない?」

 

「確かにそうだね」

 

「ねぇ、やっぱり……運転変わろうか? こんな雨の中じゃ視界なんて相当悪いだろうし」

 

 ちょうど信号待ちをしたところでそう声を掛ける。

 

 峠道を越えたこの辺りならコンビニぐらいはあるだろうし、そろそろ休憩を取った方がいいからと思ったからだった。

 

「ううん」

 

 問われた少女は首を小さく横に振る。

 

「山道だったらともかく、街中ならまだ平気だよ。それに燐だってあの夜の時、雨の中運転してくれたんだし」

 

「まあ、そんな事もあったけどさぁ」

 

 仕方ないことだったとは言え、一時、無免許で運転していたことを言われ、恥ずかしそうに燐は頬をかく。

 

 この分だと言っても効かないだろうと思った燐は。

 

「いつだって頑張り屋さんだもんね、蛍ちゃんは」

 

 そう言って小さく息をついた。

 

 呆れているというか、これはもう性分なんだろうなぁという意味合いでのものを。

 

「そういえば、もうすっかり乾いちゃったのかな? 何かずっと大人しくしているみたいだけど」

 

 蛍はちらりとバックミラーを窺う。

 

 軽自動車の後部座席には一匹の白い犬が嬉しそうに尻尾をぱたぱたと振りながらちょこんと座り込んでいた。

 

「それにしても驚いちゃったよね。ずぶ濡れのサトくんが現れたときなんかさ」

 

「本当だよ。燐が気付いてくれたから良かったけど、歩道を歩いていたからそのまま気付かずに素通りしちゃうところだったよ」

 

 二人の会話が分かっているのか、犬は小さくワンとほえた。

 

「やれやれ、サトくんはいつも暢気だなぁ」

 

 呆れかえったような燐の呟きに蛍はふふっと微笑んでいた。

 

「でもさ、サトくんがいたってことはやっぱり一緒ってことだよね?」

 

「まあ、多分ね。一緒に話していたのを見たから」

 

「燐が、覗き見たんだっけ?」

 

「もう、人聞きが悪いなぁ。たまたまだった耳にしちゃっただけだもん」

 

「ふふっ、何か燐、子供っぽい」

 

 ステアリングを握りながら蛍はあははと声を出して笑っていた。

 

「まだお酒飲めないから子供だもん」

 

 燐はむーと頬を膨らませていた。

 

 少し雨足が強くなったのか、蛍はワイパーの振る頻度を調整する。

 

 しゅこんしゅこん。

 左から右に雨粒が切り払われていく。

 

 山が近いせいだろうか、ここまで本降りになることは予想していなかった。

 

「でもさ、少しの間に運転が上手くなったよね。大分余裕が出て来たっていうかぁ……蛍ちゃん。やっぱり呑み込みが早いよね、本当」

 

 感心したようにそう言う燐。

 蛍は前を見ながら少し頬を赤くした。

 

「そ、そんな事はないよ。燐の教え方が上手なだけで、やっぱり今だって緊張してるよ」

 

「ん~、そうかなぁ? でも、さっきから蛍ちゃんにばっかりずっと運転させてるよ。いい加減、疲れてなんかこない?」

 

「えっと……」

 

 蛍は一瞬何かを言おうとしたが、それを飲みこんで小さく笑みを作った。

 

「大丈夫。だってわたしは燐を守るって決めたんだから」

 

「……そっか」

 

 それだけを蛍に言うと、雨煙に覆われた黒い山の頂を助手席の窓から覗き見る。

 

 昼間だというのにもう大分暗い。

 

 日も差していないから車内でも肌寒さを少し感じて、先ほどから空調を入れている。

 

 フロントガラスが曇らないよう霜取り(デフロスター)にスイッチを入れたままで。

 

「ねぇ、サトくん、オオモト様ってどの辺にいるのかな。ちゃんと案内って出来そうかな?」

 

 燐は先ほどまでずぶ濡れだった白い犬に、物は試しと聞いてみた。

 

 タオルを何枚か使ってしまうほどずぶ濡れだったから、始めは一体何の生き物かが分からないぐらいだったが。

 

 今はすっかりとふわっとした白い毛並みの犬に戻っている。

 

 意外と吸水性の高い毛でおおわれているんだ。

 そう蛍は思った。

 

「わん!」

 

 サトくんは元気よくそう返事をする。

 

 だが以外にも燐は眉をひそめた。

 

「なんかちょっと適当だなぁ、さっきもそう返事をしたでしょ?」

 

 燐の問いにサトくんは今度はわんわんと二回答える。

 

 回数の問題ではないとは思うのだが。

 

「やれやれ、この分だと全部の場所を見て回る必要がありそうだね」

 

 当てにならないとばかりに燐はスマホに手を伸ばす。

 

 蛍は口に手を当ててくすくすと笑っていた。

 

「燐、まあそう言わずにもうちょっと走ってみようよ。そうすれば何かが分かるかも」

 

 そう言って蛍はしっかりを前を向いて運転に集中するようにした。

 

 免許は何とか取れたが軽自動車のボディの前後にはまだ初心者の証である若葉マークがついている。

 

 人を乗せているのだから油断してはいけない、教習所でもそう習ったばかりだし。

 

 特に大事な人が一緒に乗っているのだから。

 

 誰よりも、大切な人が。

 

「そうだね……オオモト様、元気でいると良いけど」

 

 ちょっと不吉(フラグ)なことを口にしてしまったと思ったが、何となく胸騒ぎのようなものを覚えていたから。

 

(何だろう? この不快な感じって。まるであの時みたいだ)

 

 最後に会った時に、ヒヒがどうこうと話していたのを知っていたから少し気になっているのかもしれない。

 

 燐はやきもきした想いを抱えながら、黙って運転に集中している蛍に温かいお茶の差し入れをどのタイミングで渡そうか考えながら、その横顔を少し楽しそうに眺めていた。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 





■Wolfenstein: The New Order

今年話題のゲームのひとつだったベセスダのStarfieldではなく、積んでいたウルフェンシュタインを今更やってみたりー。ちなみにPreyも同じメーカーからの発売だったみたいですねー。そういうのは全然知らなかったのですけど。

結構古いゲームだから美麗グラフィックのなのに自分のPCスペックでも動きはぬるぬるでした。ただ、ゲームの設定項目が今のゲームと比べるとやたらと少なかったですねー。
1940年代から60年ぐらいの架空の世界が舞台のようですが、何故かロボットや人造人間とかのオーパーツ気味なものが出てきて、結構SFしてたような気がします。一応月面なんかにも行ったりしましたし。
クリアまで14時間前後程度でしたので、ちょっとボリュームが少な目だったのかな? ただ、ストーリーの序盤で分岐がありますので、二週目なんかも一応楽しめますけれど。
とにかく主人公が不死身かってぐらいにタフだったのが印象的でしたねー。シリーズで色々あるようですが、日本じゃあまり人気がなさそうなのかな? 若干知名度が低い気がしますねー。


そういえば、ようやく念願のiphoneに機種変しましたー……iphone SE3ですけどもー。
しかしそれでもそれまで長年使っていたandroid携帯とはあまりにも性能が違いすぎるー!! むしろ快適すぎて使うのを躊躇してしまうぐらいかも。まあ、単に新しいスマホで浮かれているだけで、一月もすればすぐに忘れちゃいそうなんですが。

しかし、もしかするとiphoneSE4が発表されそうな時期にSE3にしてしまうのは何か勿体ないような気もしましたが、いつ出るか分からないものを待ちわびるよりも、今欲しいものを買うのもたまには良いのかなーとか思います。それに次機種は多分値上がり傾向になりそうですしねー。自分にはこの辺りのが妥当なのかも。
ただ、結局コスパを考えたらiphone位しかないのかなーって思ってしまいます。最新の機種じゃなくても十分なスペックがありますし、OSのアップデートもしてもらえますしねー。下取りなんかも安定してるほうですし……まあ、ブランド的なものもあるのかもしれないですけれどもぉー。


ゆるキャン△ SEASON3

やっぱり、情報が徐々に解禁されていくとそれなりにワクワクしてきますねぇー。でも話の展開の都合とは言え、いつものメンバーではなく次のメインビジュアルがゲストの綾乃であるのは少し意外だったかもー。でも可愛いからいいかぁ。
来年はSEASON2の再放送もあるようですし、4月からの予習と製作会社が変わったことへのビジュアルの違いも含めて、振り返り視聴してみるのもありかもしれないですねー。


それでは、ではー。


追記っき~。

来年2024年の1月9日まで”青い空のカミュDL版”が85%OFFの1500円になっておりますですよ~!!!
本当にお買い得なので、もしまだプレイしていない方がおりましたらこの超お得なウィンターセールの機会にぜひぜひお試しください~~。

今回こうして紹介するのが遅くなってしまったのは、セールのことを全然知らなかったという訳ではなくて(まあちょっとは入っておりますが……)、ある事情により更新が出来なかったのです。
大した理由でないですけど、その辺りの事は次のお話のあとがきの時にでも~。

ではではでは~。




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These Are The Days Of Our Lives


「ここで良いんだよ、ね?」

 恐る恐るといったかんじで燐はそう尋ねた。

 蛍はちょっと困った顔で返す。

「うん、多分。だってさっきからサトくんはこの家の前でほえているし」

「それはそうなんだけど……」

 ここまで案内をしてくれたサトくんが急にこの家の前で立ち止まり、呼ぶように何度も吠えているのだからきっと間違いではないのだろう。

 だからと言ってこれは……。

(まるで、お伽話とかに出てくる魔法の使いの家みたいだね。これじゃあ)

 燐にはそうとしか見えなかった。

 白い犬──サトくんの案内するままに車を走らせていた先は、全く人気のない峠道だった。

 とても狭い山の道であり、おおよそ車一台がぎりぎり通れる道幅しかない。

 向こうから対向車なんか来たらまず避けられないだろう。

 ガードレールなんかは当然なく、その道の片方は崖だったのだから。

 まだまだ初心者の蛍はおっかなびっくりでハンドルを握るはめになってしまった。

 更に雨も強く降っていたのだから、少し余裕のあった蛍の顔にも次第に顔を緊張に漲らせることになる。

 けれど、蛍は決して弱音を吐くことはなかった。

 それでも何とか道の途中までは行くことが出来たが、そこからは軽自動車でも無理そうなほど狭苦しい、殆どけもの道と行ってもいい山道だったので、そこに車を置いて徒歩で登ることにしたのだった。

 それにしたって、犬が導く方に車を走らせるなんてことは、まず普通はしない。

 サトくんを良く知る、蛍と燐だからこそできる芸当であった。

 しかもそれを提案したのは運転をしている蛍だったのだから、燐は何も言わずにそれに従っていたのだ。

 サトくんはひょこひょこと、それこそ何も恐れずに軽快に前へと進むが、少女たちの胸中は複雑なものあった。

 こんな所に一体なにがあるのかと。

 ざくざくと、濡れそぼった枯れ葉の絨毯を踏みしめた先にあったのは、ある建物。

 むしろその成れの果てと言ってもいい廃墟と化した家が一軒あるだけだった。

 それを見つけた燐は、嬉しそうにこちらを振り返るサトくんに内心ため息をつきながら、とりあえずその家の玄関に声を掛けてみることにしたのだった。
 
 もしかしたら、中に人がいる可能性だってなくはなさそうだし。

 まともな人ならここに人が住んでいるとは思わないだろうが。

「えっと、こんにちはー。誰か、いますか~? えっと、オオモト様って……います?」

 冷たい雨が降りしきる中、燐はボロボロになっていた家屋の前で少し曖昧に外から呼びかけた。

 呼び鈴のようなものはあったが、蔦が絡まっておりとてもじゃないけど使えそうにはない。

 それだけ長い間放置されているとも言えるのだが。

「……」

 当然、返事はない。

 それが必然であるかのように、その家からは人の気配なんてものは一切感じ取れなかった。

(まあ、こんな所にいるはずがないよね? いくら何でも)

 だって、この家も柱もあまりにも朽ちてしまっている。

 もし仮に住む場所がなくなったとしても、こんなぼろぼろの家で寝泊まりする理由なんてないはずだ。

 何か重いものでも落ちたのか、家の屋根だって大きく傾いているし、外から家の中が丸見えになってしまうぐらいに窓枠もなければ壁だって所々穴だらけなのだから。

 おおよそ人の住めるような環境ではない。
 ましてやこの天気では尚更だろう。

 多分中は雨漏りだらけだろうし。

 それにしたって、見知らぬ県境の町まで来て、こんな雲をつかむようなことをやっているなんて。

(まあ、偶然会えればいいかなって位だったし、ここから何が出来るわけってでもないけどさ)

 流石に滑稽に感じてしまう。

「ねぇ、サトくん。本当に()()()()()()にオオモト様がいるの?」

 蛍は半信半疑といった表情で案内してくれた白い犬に訊ねる。

 普通の犬ならそんな人の言葉なんて理解できるはずもないのだが。

 サトくんはわんと一声答える。

 無邪気にほえるサトくんに、燐と蛍は思わず顔を見合わせた。

 騙されたなんてことは全然思ってはいないが、流石にこれは間違いであってほしいとの思いは多少ある。

「犬の鼻って、雨が降っているとあんまり利かないとかいう話じゃないんだっけ?」

 そういうようなことを本か何かで見たような気がした蛍は燐にそう尋ねる。

「わたしもそういうのは耳にしたことはあるけど……実際はどうなんだろね」

 まともに犬を飼ったことがない二人にはその程度の知識しか持ち合わせていない。

 尻尾をふるサトくんの頭を撫でながらそれとなく尋ねてはみるが、答えは当然返ってはこなかった。

「もしかして、ちょっと前までオオモト様がここに居たけど今はいないとか?」

「その可能性は普通にあるかも」

「他に周りに何かありそうな感じはないしないよね」

「うん。きっとここだけだね」

 知らない土地だからだろうか、この家を見ているだけで何となく心細く感じる。

 蛍は無意識に自分の二の腕の辺りを軽く擦っていた。

 燐はもう一度周囲をぐるりと見渡してみたが、ここ以外の民家はなさそうだった。

 ただ、ぽつんと一軒取り残された家屋があるだけで、周りには木が生い茂っている。

 表札もなくなっていたことから、一体誰が何の目的で建てたものかは分からない。

 それを知った所でどうなるものでもないとは思うのだが。

 狭い道の先に建っていたのだから、相当な変わり者が立てた家なのだろう。

 例えば、他の人に住んでいる所を知られたくはない理由があるとか。

 割と大きめの家のようだったから、ただ単に住むためだけの家でなく、何か事業でもやっていたような可能性もある。

 もっともその辺りの事を示す様なものは取り立てて見当たらないけれど。

「えっと……お邪魔します~」

 燐は一応そう言ってから、持っていたペンライトで中を照らしながら廃墟へと足を入れた。

 軽く部屋の中を照らしてみたが、やはり何も見当たらない。

 良くある落書きや、誰かが忍び込んだような形跡を示す様な痕跡のようなものは見当たらなかった。

 全くもぬけの殻のように見える。

 使わなくなって捨てられた、かたつむりの殻のように。

 ただ、何か布団のようなものが無造作に部屋の隅に置かれてはいたが、これはおおよそ布団と呼べるような感じの代物ではない。

 まだあの時、燐と蛍が入った保養所に残されていた布団類の方がよっぽどマシなぐらいだった。

 こんな所で寝泊まりなんかしていたら、今朝みたいな寒い時には凍り付いてしまうことだろう。

 今だってこの雨のせいか、この家の中に居ると悪寒を感じてしまうぐらいだった。

 多分、この辺りは朝でも夜でもぐっと冷えるのだろう。
 レンガで作ったような暖炉の残骸もあったし。

 標高の高い山ばかりに囲まれている地域の山の中腹にあたる場所みたいだから、他の家屋が見当たらないことから、やはりここは人の住む環境にはあまり適していないようだった。

「やっぱり誰も居ない?」

 蛍もペンライトを片手に家の中に入ってきていた。

「まあ、見れば分かると思うよ。これだと」

 燐は肩をすくめて首を横に振った。

「だよね」

 わざわざ確かめる必要もないことだろうが、自分の目で確認しておきたかった。

 万が一という事もあるし。

 足の踏み場もないということはないが、部屋の中はガラクタが散乱していた。

 家具が残っている所を見ると、持ち主は引っ越しをして居なくなったという訳ではないらしい。

 そのほとんどが朽ちてはいるが。

「それにしても、アンティークっていうのかなこれ。ここの家具とかちょっとモダンな感じがして割と好きな方かも」

 恐らく、家の内装に会うように洋風のものを使っていたのだろう。

 だが、それもここまで崩壊していたらそれはもう見る影もない。

 それに触っただけで崩れてきそうなほどだったから。

 家の内も外も見た目以上にボロボロだった。

 建物としての体制は殆ど果たしていないし、家具だってその役目を果たしてなどいない。

 ましてや雨露を凌ぐことすらできていないのだから。

 それは雨漏りなんてレベルではなく、どこかしこもびっしょりと濡れている。

 それっぽい建物の残骸が積み重なっているだけで。

(何か、どこかで見覚えがあるような?)

 既視感のようなものを不意に覚えた蛍は、周囲をペンライトを照らしながら内心首を傾げていた。

「本当、これじゃ誰もいるはずがないよね。空き家にしたってこんなボロボロじゃ」

 蛍は諦めたように深いため息を吐いた。

 先に中を覗いた燐の様子と、この建物の外観からしてそうではないかとは思っていたが、自分の目で見てそれが良く分かった。

 一応、家の中を一通り見てみたが、やはりオオモト様はここには居なかった。

 二階なんかもあったが、上に続く階段は使い物にならない程朽ちていて、とてもじゃないが登りたいとは思わない。

 むしろ天井が剥がれ落ちてきそうな気すらしてくるので、探索もそこそこに退散してしまったが。

 結局──何も分からなかった。

 もう少しこの辺りを調べてみてもいいのだが……多分、何も得られるものはもう何もないだろう。

 折角サトくんが案内してくれたと言うのに。

「あのさ、この家、なんだけどさ……」

 家の外から出た燐が唐突に口を開く。

 それが少し重い感じの口調だったので蛍は黙って耳をかたむけた。

「多分なんだけど、随分と前からこうなっていたみたい。朽ちた感じとか劣化の具合とか見てるとそう思えるの。だからさ、もしかしてここは」

 その先の言葉を燐は言わなかったが、蛍には言いたいことが分かった。

「森に住む動物とかが使ってるんじゃないか、ってことが言いたいんでしょ」

「うん、そう考えるのが妥当なのかもって」

「まあ、そうだよね。人の住んでいた感じはしなかったものね」

 以前は違ったのだろうが、あの荒れ具合だと精々キツネかタヌキの小動物がねぐらに使っているぐらいにしか考えられない。

 もし、サトくんが今の自分の住処を案内してくれたと言うのならある意味では納得のいくことなんだけど。

 これは仕方ないことなんだと思う。

 間違っているかどうかなんて行ってみたいと分からないものなのだし。

 蛍ははぁっと息を吐いた。

 吐き出した息が、雨と周りの空気のせいなのか、一瞬すうっと白くなる。

 少し、気温が下がってきたように感じた。

 ……
 ……

「ねぇ、燐。これからどうしようか? ここでオオモト様がくるのを待ってみる?」

「うーん、それでも良いけどさ」

 こんな人気のない所に本当にオオモト様が来ているのだろうか。

 町や人からも取り残されたような寂しい場所に。

 しかもここには廃墟となった家屋しかないのだ。

 いくら普通の人とは違う存在だったとしても、こんなうら淋しい場所に居なくてはならないことなんてないはずだ。

 ただ、現実から剥離された場所という意味ではあそこと少し似ている気もする。

 ここではない世界にぽつんと立っていた、あの”青いドアの家”と。

(でも、ここまで朽ちてもいないし、中はちゃんと整理整頓されているけどね)

 比較する事自体が間違っている気もするが。

「確か、オオモト様ってお金持ってるんだよね? 蛍ちゃんの話だと」

「うん、前に公園であった時に渡したの。だって、オオモト様のおかげでみんな栄えたんだから、オオモト様に渡すものでしょ? そう言ったんだけど」

「全部は受け取ってくれなかったんだっけ」

「うん、少しの路銀だけで十分だからって……」

 蛍は寂しそうに笑う。

 欲のないオオモト様らしいと言えばそうなのだろうが。

「でも、民宿とかに泊まれるぐらいは持ってるんだよね?」

 そこまで少額ではないとの思いで燐が訊ねる。

「うん、そのぐらいは受け取ってもらったけど……無駄遣いとかはしそうにないしね、オオモト様は」

 蛍はその時の様子を思い出す。

「確か、お財布に入るぐらいでいいって言われたんだけど……」

 そう言ってオオモト様が見せてくれたのは、本当にこじんまりとしたお財布だった。

 蛍は自分が前に使っていた、可愛らしいきつねの柄の付いた巾着に入るだけのお金を詰め込んで渡したのだった。

 でも、それだってもうかなり前の事だ、無駄遣いなんかは到底しそうに見えないオオモト様だから、多分まだ残っているはずだが。

「さすがに電子マネーとかは使ってくれそうにないもんね。今はそっちの方が色々と便利なんだけど」

「まあそれは無理っぽいよねぇ」

 燐の軽口に蛍は困った顔で笑う。

 燐は内心ほっと胸を撫で下ろすが、ある別の疑問を口にした。

「じゃあ、やっぱりこんな所に居る理由なんてないとは思うんだけど」

「確かにね。何か別の理由でもあるのかもね」

 流石にこの辺の人達はオオモト様を見て、座敷童とは思うわけがないし。

「その辺はどうなの、サトくん? オオモト様もときおり来るのかなぁ?」

 燐は犬用のおやつを食べさせながら、それとなくサトくんに聞いてみた。

 だが、サトくんは食べるのに夢中で燐の声が耳には届いてはいないのか、こちらを仰ぎ見ることなくむしゃむしゃと貪り続けていた。

 さっきご飯は食べさせたばかりなのだが、とても食欲旺盛だった。
 
 もっともきちんと答えてくれるとは思ってはいないけれども。

「とりあえずさ、サトくんがどうするかで決めてみない? サトくんがここに留まるならわたし達も一緒にってことで」

 蛍はそう燐に提案する。

 実際、当てになるのはサトくんだけなのだし、今はこれしかないと思った。

 それがどこまでのものかはまだ分からないが。

「うん、わたしもそれに賛成。むしろ蛍ちゃんが言わなくてもわたしからそう提案するつもりだったよ」

「そっか、燐とわたしって考え方が一緒だよね」

「まあ、一応、相思相愛なんだもんね」

 燐は特に意識せずに言ったつもりだったが、その言葉に蛍は顔を真っ赤にしていた。

(燐と一緒に暮らすようになってもう随分と経つけど)

 未だにこんなことぐらいで胸が高鳴るなんて。

 とても大切な人だから全然悪い気はしないけれど、いつまでこういうのが続くのだろうとふと考えてしまう。

(できればずっとこのままが良いな。燐と一緒に色んな所に行ったり、一緒に何かの商売なんかも始めたりして……)

 それこそパン屋さんを一緒にやってもいい。
 未だに就活の方は迷っているけれど。

 それこそ永遠という言葉がもっとも近いところにまでも続いて行けばいいと思う。

 きっと叶わないことだという事は誰よりも良く分かっているのだから。

「それじゃあ、サトくん。今の内にいっぱい食べててね。地面が濡れてて臭いを辿るのは難しいと思うけど、サトくんのお鼻だけが今は頼りなんだから」

「うんうん、頑張ってサトくん」

 少女ふたりの応援が自分に向けられているの事が分かったのか、サトくんは嬉しそうにしっぽをぶんぶんと振って見せる。

 いまいち伝わってなさそうとは思ったが、それでもサトくんなら何とかしてくれそうに思えた。

 サトくんはいつだって味方だったし、それに。

(このまま黙って帰るなんてことは到底できそうにないから……)

 ここまでこれたのは偶然だったとしても、それだけを頼りにすることはできない。

 それこそまたあのような歪みを引き起こしてしまうことになる。

 縋ることの出来なくなった最後に残った希望。

 座敷童の存在……その幸運という概念を。

「わんわんっ!」

 突然、白い犬が吠えたと思ったらそのまま走り出してしまった。

 突然のことに、燐と蛍は呆気に取られてしまい、つい呆然と見送ってしまった。

 二人は思わず顔を見合わせた。

「多分、そっちの方にいるじゃないかな」

 蛍はサトくんの行動に納得できたように呟くと、行ってしまった方を振り返る。

 瞬間、雨粒がぱあっと横に広がったようになり、蛍と燐との間に小さな虹がかかったみたいになった。
 
「燐、行こう! きっとそこにいるよ」

「う、うんっ!」

 蛍の言葉に燐は力強く頷く。

 もう消えかかってしまったと思ったものが、しっかりと繋がれた。

 それは薄氷のようなものであったとは思う。

 幾つもの傷がつき、ひび割れ、そして壊れたものかと思っていたのだけれど。

 まだ──繋がっていた。

 多分目を凝らさないと見えない程の細い糸のせいなのだと思う。

 何か言葉にするほどの強さは持っていないけど。

 確かな温もりが、小さな掌を返してはっきりと伝わるから。

 二人は手を取り合ってその後を追う。

 何があってももうこの手は離さないだろうとの強い思いで、燐は蛍の手をぎゅっと握った。

「待ってよサトくん~!! 何処まで行くつもりなのぉ!」

 燐はつながれた手の温もりを感じながらを白い犬の背中に呼びかける。

 どうやらサトくんは一緒に来た道の方ではなく、全く別の、森の中の方へと入って行きそうになっていたのだから。

「このままだと、森の中に……あれっ」

 少し先を走っていた蛍は声をあげた。

 深い森の中と入ってしまいそうなその手前でサトくんがぴたりと立ち止まっていたのだった。

 その前には何か、人だろうか誰かがいた。

 どうやらサトくんの知っている人の様で、警戒することなくその人物の前で座り込んでいるように見える。

「何か、見えるの?」

 燐ははぁっと息を吐きだすと、蛍の隣に並んで走る。

 その方向に燐も目を向けた。

 確かに誰かいる。
 だがそれは。

「ねぇ、蛍ちゃん。あれって誰だか分かる? オオモト様じゃないみたいだけど……」

 燐は指を差しながら、蛍にも確かめてみるよう促してきた。

「えっと」

 蛍は必死に足を動かしながら燐と同じようにそこにもっと目を凝らす。

 そこまでの距離ではないのだが、走りながらだと視界が少しぶれて、対象への判別がしにくい。

 荒く息を吐きだしながらも目を眇める蛍。

「なにかさ、子供みたいにも見えない? サトくんと比べても背が小さくみえるよ」

「言われてみればそうかも」

「ただ、燐の言うように、オオモト様とはちょっと……違う感じはするけど……」

「うん。地元の子なのかな?」

 サトくんがとても懐いているようにみえるから、面識自体はあるのだろうが。

 普通の犬と比べても賢い子だとは思うけど、一目見ただけで走り出したのなら余程知っている間柄だと言える。

 何やらサトくんに話しかけているようにも見えるし。

 そう考察する燐のすぐ横で蛍が走りながら驚愕の声をあげた。

「ねぇ、燐? 今のって聞こえた?」

「えっ、何のこと」

「今ね、”クマ”とか言っていたような気がしたの。それって、もしかして”あの熊”の事かなって……」

「……っ!」

 燐は軽く呼吸を止めて声のする方へと意識を集中してみた。

 確かに何か話し声がする。

「……から……くま…………くまが……」

 まだ遠くて上手く聞き取れないが、蛍の言うようにそれっぽい単語を言っていることが燐の耳にも届いた。

 まさかとは思うが、あの子がこの付近に熊がいることを知らせに来た、とか。

 だがそれをサトくんに言って分かるものなのだろうか。

(ともかく、何処かに避難しなくっちゃならないよね!)

 さっきの古い家屋でもいいのかもしれないが、出来れば車まで戻ったほうがいいだろう。
 その方が色々と安全だし。

 そう燐は結論を出すと、素早く背中のバックパックを下ろして、中から少し大きめのスプレー缶を取り出す。

 それはクマ除けのスプレーで、まだ一回も使ったことはないが、きっと役には立つのだろうと思う。

 使い方を誤らなければだが。

「あっ、そうか!」

 蛍はようやく思い出したように腰に着けたポーチからキーケースを取り出す。
 そこにはクマ除けの鈴が括られていた。

 蛍はそれごと手にもって思いっきり上下へと振る。

 真鍮で出来たベルからリンリンと音が鳴る。

 こんな綺麗な音色で本当に熊が居なくなってくれるのだろうか。

 蛍は半信半疑の思いでそれを懸命に振った。

「早くこっちへー!!」

 その隣で燐はそう呼びかける。

 もし熊がこの辺りまで降りてきたのなら、一秒だって惜しい。

 もうちょっとサトくん達に近づいても良いが、森に近い場所にいるから変に動くと刺激してしまうことになる。

 いくらサトくんだとしても野生の熊とはまともに戦えるものでもないし。

 それに。

(もう、お兄ちゃんでも何でもないしね。今のサトくんは)

 仮に彼であったとしても熊なんかとはやらせるわけにもいかないわけだが。

 二人の声と音に気付いたのか、サトくんともう一人の子がこちらを振り向く。

 こちらに気づいてくれたのは良かったが、戸惑っているのか、こちらを見ているだけで一向に動いてはくれない。

 また何かをサトくんと話しているみたいだったが。

「ほら~、こっちまで走ってきて~!」

 カラカラと鈴を鳴らしながら蛍も声を張り上げる。

 緊急事態だからか、蛍は滅多に見られない大声をあげていた。

 ただ、熊を除けるために鈴を鳴らすというよりかは、群れから逸れてしまったヤギや羊を呼び戻すような呼びかけの仕方だった。

 だが、それが功を奏したのか、それまで動かなかったサトくんがこちらに走ってくる。

 そのすぐ後ろにはその子もついてきていた。

 とりあえず安堵の息をつく二人だったが。

「やっぱり車まで戻る?」

「その方がいいよね。流石にあそこだと心もとない感じがするし」

 蛍も同じ思いであったようで、やはりあの家では頼りにならないと思ったのだろう。

 確かに、あんな古い空き家なんかでは熊は何事もなかったかのように入ってくるだろうし、家の周りに門みたいなものも全くなかったのだから。

 だったら乗ってきた軽自動車の方が全然マシだと思うのは当然だ。

 サトくんともう一人ぐらいなら乗せることが出来るスペースはある。

 ただ。

「オオモト様はやっぱり居ないよね」

 蛍はきょろきょろと辺りを窺うが、その姿は当然ない。

 まさかだとは思うが、熊と遭遇していなければ良いとは思う、そもそもこの辺りに居そうな感じはしないけど。

「とりあえず今はここから離れよう。蛍ちゃん走れる?」

「それは大丈夫」

 ちょっと息が上がった程度だから車を停めた所までは走れるとは思う。

 あの峠道をまた通らなくてはならないのが一抹の不安ではあるが。

「あのさ、今度はわたしが運転するよ。結局蛍ちゃんばっかりにさせちゃっていたし」

 燐は助手席から蛍の運転を黙って見ていたが、内心ではずっとはらはらとしていた。

 まだ初心者なのにひどく無茶なことをさせてしまったと。

 だが、燐の申し出に蛍は軽く首を振る。

「ううん。今日はわたしが運転するって決めたから」

「そう、でも無理しないでね」

「それは分かってる。でも……隣に燐がいるからここまでちゃんと運転できているって思ってるの。だから」

 申し訳なさそうに言葉を作る蛍に燐は小さく微笑んだ。

「それこそ大丈夫だよ。わたし蛍ちゃんのこと誰よりも信じているから」

「うん。ありがと、燐」

「わんわんわん」

 二人が笑みを交わしているところに、サトくんが向かってきていた。

 そのすぐ隣にはサトくんと話していたその子が張り合うようにして全速力で駆けてくる。

「わわっ」

「きゃあぁっ!」

 あまりの迫力に蛍も燐もつい身を固くして抱き合っていた。

 そのまま激突するのではないかと思った蛍はつい瞼を閉じる。

 だが。

「ゴールっ!!! これはボクの勝ちクマねっ」

 そこでは少女が一人ぴょんぴょんと両手をあげて飛び跳ねていた。

 無邪気に喜んでいるところを見るに幼い少女のように見える。

 その横でサトくんが抗議の声をあげていた。

 少女は人差し指をぴょんと立て小さな口元で横に振る。

「甘いクマ。勝負はつねに非情なんだクマよ。今のはどうみてもボクのほうが先に到着していたもんねっ。ねぇ、ボクの勝ちだったよね?」

(まさかだとは思うけど……サトくんと競争でもしてたの? この子が??)

 それは本当にあり得ないことだ。

 サトくんの全速力に人間のそれも幼い少女が着いてこれるどころかそれを追い越すなんてことは。

「え、えっと……?」

「……」

 どうやら自分たちに結果を聞いているようだが、蛍も燐も戸惑ったように膠着している。

 突然やってきて、そんな事を言われても何がなにやら分からない。

 実際、この子は一体何なのだろうか。
 やたらと人懐っこい少女だなとは思うけれど。

「あ、そうだ、聞きたいことがあるの」

「?」

 立ち直ったのは蛍の方が早かったのか、急に声をあげた。

 そんな事はどうでもいいことで。
 もっと肝心なことがある。

「熊が来るって言ってなかった? さっきそんな事を言ってたのを少し耳にしたんだけど」

 急を要しているせいか蛍はいつもよりも早口でそう少女に捲くし立てる。

 問われた少女はぽかんとした顔で蛍の顔を見つめていたが。

「そ、そうクマよ。だからこうして”ボクがここまでやってきた”んだクマぁ!」
 
 どんと小さな胸を張る少女。

「えっと……」

 蛍は少女の言っていることの意味が全く分からず口をポカンと開ける。

「もう、そういう事じゃなくってさあ、”野生の熊”がこの辺りに出没したんでしょ? だったら早く何処かに逃げなくちゃ」

 そう言って燐がちょっと強引に少女の手を掴む。

 折れそうに細い手の体温はとても高く、燃えるような熱さがあった。

 少女の方は平然といった感じで目をぱちっとさせる。

 そして燐の顔を見てにこっと笑うとこう言ってのけた。

「だからさっきからそう言っているクマよ。みんなのアイドルくまちゃんがこうしてやってきたクマぁ! あ、ねぇ、キミ達って観光客だよね? もう何か美味しいものでも食べたクマか」

(何にこれは……言葉は通じるのに)

 言っていることの意味が何一つ分からない。

 燐も蛍と同様に茫然と立ち尽くす。

 
 風に揺られたのか、蛍の手の中の鈴がちりんと鳴った。

 
 ──
 ──
 ──
 



 

「じゃあ、喧嘩しちゃったからオオモト様を置いてきちゃったの?」

 

 燐はその女の子と目線合わせながらそう聞いた。

 

 ようやく落ち着くことの出来た燐だったが、この少女から聞いた話はまだとても信じられるものではなかった。

 

 だが、それで大よその事を飲み込むことができた。

 

 この少女のこととか、オオモト様の行方なんかを。

 

「別に、ケンカしたとかじゃないクマ。ただ、急に変な事を言いだしたのは確かだったから……」

 

 少女は初め燐に問われて語気を強めてそう言っていたのだが、終わり際の方は歯切れが悪くなったように少し言葉を落としていた。

 

 この少女の言葉だけでオオモト様との関係性を大体伺い知れたとも言える。

 

 きっと悪気があってのものではないのだろう。

 少し言葉が噛み合わなかったというだけで。

 

(何か微笑ましいっていうか、ちょっと懐かしい感じがする)

 

 自分にもこんな頃があったんだろうと。

 

 それに、この子ならオオモト様の友達になりそうっていうか、もう十分なっているような気がするし。

 

「その、”変なこと”って」

 

 二人の頭上に傘を差し掛けながら今度は蛍が質問をする。

 

 何だかちょっと変わった感じの子にみえたから最初はちょっと戸惑っていたけれど、今はもう大丈夫。

 

 頭に熊の耳のようなものを着けているというだけであとは至って普通の子……だと思う。

 

 どうせ作り物だろうし。

 

 ただ、さっきのサトくんとの駆けっこみたいなのはよく分からないが。

 

 それにこの女の子は、ついさっきまでオオモト様と一緒にいたと言っていたから、ちょっとは安心できる。

 

 その少し変わった少女は両手をばたばたとさせながら質問ばかりする二人に対し、こう話をした。

 

「なんかさ”青いドアの家”がどうこうって言いだしたんだよね。そしたらさ、なんか自分でも良く分からないんだけどぉ、急に背筋がゾクゾクって走ったんだクマよ。ぴゃぴゃってぇ」

 

 ”くま”と名乗った少女は形容しがたい言葉を並べると、自身の腕を二人に見せつけた。

 

 これが少女の言う”ぴゃぴゃぴゃっとしている”ということなんだろうか。

 きめ細やかな肌に小さな鳥肌のようなものがぽつぽつと立っているけれど。

 

 要するに何らかの嫌悪を感じとったということらしい。

 

 この少女独特の言い回しに燐と蛍は何とも困惑した表情を浮かべた。

 

 最近の子はこういう言い方をするのだろうかと。

 

 でも。

 と蛍が話を続ける。

 

「そんなに嫌なの? その、青いドアの家のことが」

 

 少し身を乗り出してくまにそう問いただす。

 

 何か圧のようなものを今の蛍から感じ取ったのか、くまは燐の方にすすっと近寄るとコソコソと耳打ちをした。

 

「なにか、怒らせるようなことを言ったクマか?」

 

「あー、ええっとぉ」

 

 どう説明したらいいのかなぁ。

 

 燐は何とも言えずつい頭をかいていた。

 

「えっとね、それだけ蛍ちゃんは”青いドアの家”のことが好きだったってことだよ」

 

 多分間違ってはいない。

 そう思って燐はくまにそう答えたのだが。

 

「燐、そうでもないよ。むしろ今は、少し怖いっていうか」

 

(あの世界を、わたしは信じきれていないのかもしれない……)

 

 蛍は意外な歯切れの悪い言葉を口にした後、少し寂しそうに俯いてしまう。

 

 何かを堪えるように。

 

「蛍ちゃん? えっと……」

 

 何故か燐は自分が悪い事をしてしまった気分になり、自身の鼻の頭を指で撫でたりしながら、何とかこの重くなった空気をとりもどそうと頭の中でもがいていた。

 

「さ、サトくんは”この子”と友達なんだよね? それでさっき仲が良かったんだ」

 

 とりあえず手短な所でサトくんに話を振ってみる。

 

 どうやらこのくまという少女もオオモト様を探しているようだったから、自分達とは利害は一致しているはずだ。

 

「きゅううん」

 

 サトくんは申し訳なく鳴くと首を左右にふるふると横に振ってみせた。

 

 やはりこの雨では犬の鼻は利かないらしい。

 

「ボクの方も全然ダメなんだよね。やっぱりこの雨いつもとちょっと違う気がするんだよ」

 

「……? 雨に違いとかってあるの?」

 

 変わった事を口にしたので燐はすかさず口を挟んだ。

 

 この少女の背丈と言い、口調と言い。

 

 かなり年下の、それこそ低学年の少女に話しかけているようだったが、そんなことはどうでもいいことだろう。

 

 今大事なのは現在の事実だけだ。

 

 オオモト様が居なくなってしまったという事象の。

 

「そういえば”ざっきぃ”が言っていたクマ。これは意図的に作られた気象かもしれないって」

 

 ざっきぃとはオオモト様のことらしい。

 

 ”座敷童”と言われるよりかはマシなのだろうか。

 

 オオモト様が許可しているらしいから多分良いのだろうけど。

 

「じゃあこれはさっき言ってた”変なの”が降らせている雨だっていうの?」

 

「多分……まあその辺りは本人に聞くしかないクマね」

 

 燐と蛍はまた顔を見合わす。

 

 どうにもこの少女の話も分かりづらい。

 

 少し変わった子は言葉の選び方も独特な感じがする。

 

 それにしても、気象を操るなんてそんな現実離れしたようなことが本当にあるのだろうか。

 

 一時的ならまだしもずっと雨を降り続けさせることなんてそれこそ不条理すぎる。

 

 荒唐無稽にも甚だしいことだから。

 

「でも、何でそんなことをしたと思っているの?」

 

 もっともな疑問を燐はくまにぶつける。

 

 割と現実的でないことには慣れてしまっている燐と蛍だったが、そこには何らかの意図のようなものがある気がしていたから。

 

 今回の件ももし”そういうこと”なら何か理由があるはずだ。

 

 おおよそ理解できないようなことであったとしても。

 

 だがくまの答えはそうではなかった。

 

「全然分からないクマ。肝心な事は何も教えてくれなかったし」

 

 その答えに燐はう~んと唸ってしまった。

 

 オオモト様の話が難しいのか、この子の話の理解度が良くないのか。

 

 確かにオオモト様の言葉は理解できるのにちょっと時間を有する事は知っているけれど。

 

 蛍もどうしていいか分からず、自身の長い黒髪を弄んでいる。

 

 実際、何らかの手掛かりが欲しかったから、突然現れた不思議な少女にも何とか対応することができたけど、これではなしのつぶてと同じだ。

 

 くま少女の方も何か手掛かりが欲しくて使っていた空き家までわざわざ戻ってきたようだったから、そこに居た二人の人間に対して少なからず警戒心みたいなものはあったようだった。

 

 その割にはとても無邪気に振舞っていたようだったのは、やはりサトくんのお陰らしい。

 

 だが、結局オオモト様の行方は分からずじまいだった。

 

 一応の出会いはあったことから、決して徒労ではないのだろうけど。

 

「でもまさか本当にあそこに住んでいたとはね。先に見つけたのは”くまちゃん”の方だったの?」

 

 とりあえず燐も蛍も少女をそう呼ぶことにした。

 

 いくら名前を聞いても”くま”としか言ってくれないし、本人もそう呼んでもらうことを望んでいたようだったから。

 

 本名はちゃんとあるとは思うが、今はそれほど気にするべきことではない。

 

「そうクマよ。あれはくまが見つけた家なんだクマっ。誰も使ってないみたいだったから住み家として使ってあげてたんだクマ」

 

 そう言い切る”くま”。

 

 自信満々な言い草に蛍はつい噴き出してしまった。

 

(何となくだけど、この子も普通とはちょっと違う気がするんだよね。何か特別というか)

 

 蛍はその思いが湧きあがった事に少なからず戸惑いを持っていた。

 

 それは自分と境遇というか思いが似ているように感じたから。

 

「じゃあさ、オオモト様といつ頃別れたの? ちょっと前まで一緒だったんでしょ」

 

 このままだと埒が明かないと思った燐は具体的な方向へと話を変えた。

 

「うーん、本当にちょっと前のことクマよ」

 

 燐の質問にくまは人差し指をほっぺにむにっと押し付けて少し上の方を見る。

 

「ボクがトイレから戻ってきたらもう居なくなっていたんだよね。店員さんに聞いたら先に支払いを済ませて出て行っちゃったって言われたから、慌てて後を追ったんだクマぁ」

 

 でも何処に行ったのか分からなかったから、とりあえずここへ戻ってきたのだと。

 

 そこにサトくんも居たからきっと一緒だろうと思ったら、代わりに自分達がいたということらしい。

 

 なるほどね、と燐は胸中で呟いた。

 それなりに理由はあったらしい。

 

 とても単純な理由だけど。

 

「なら、見つかるはずだよ。急に居なくなるなんてありえないもん」

 

「そうクマかっ」

 

 燐にそう言われてくまの瞳が輝く。

 

 宝石のような無垢な少女の瞳に燐は何故か懐かしさのようなものを感じた。

 

(わたし変なこと言っちゃったかもなぁ。急に居なくなるなんてないなんて……)

 

 自身に起きたことを思い返し、燐は自分で言ってて恥ずかしくなった。

 

 あり得ないと思う事すらがそもそもの発端だというのに。

 

 震える燐の肩を蛍がそっと手を置く。

 

「蛍ちゃん」

 

「大丈夫だよ。わたし達も一緒に探すから、ねっ、燐」

 

「あ、うん」

 

 ささくれ立ちそうだちそうだった心が少しだけ温かくなったような気がした。

 

(そういえば、また、”雨の日”なんだ……)

 

 夏頃に起きた出来ごとを蛍はふと振り返る。

 

 あの時も急に振り出した雨に驚いていたら、いつのまにか青いドアの家の世界にいた。

 

 雨の日ばかりに何かが起きるという訳ではないが、随分前に向こうに飛ばされた時も、雨がふっていたような気がする。

 

 前は好きだった雨の日が、少し憂鬱な感じに思えるようになったのはきっとそのせいだろうと思うが。

 

(狐の嫁入りなんて言葉があるけど……流石に偽物の雨が降っているとかはないと思う)

 

 さっきあの子が妙な事を言っていたように。

 

 だけど。

 

 あの異変の起こったときに降り続いていた雨なんかにも同じことがいえるのだろうか。

 

 ……

 ……

 ……

 

「──で、キミ達は何をしているクマか?」

 

「うん? 何って……」

 

 二人が何処からか大きな荷物を持ってきたと思ったら金属製の杭をカンカンと地面に叩きだしたので、不思議そうにくまが問いかけた。

 

「今ね、わたし達が入るテントを立てているんだよ」

 

 小さな子に説明するように言う蛍の言葉にくまはなるほどと手を打って合点した。

 

「やっぱりここで待ってようって思ってね」

 

 雨が止んでくれたおかけでテントを張りやすくなったのは良かったが、地面が流石にぬかるんでいるので、この廃墟と化した敷地の周辺にテントを立てることに決めた。

 

 この家の周辺の土は案外状態はよく、これなら金属製のペグを打ってもテントがヘタレる心配はないと思う。

 

 何もないと思った所に意外とも言える副産物があった。

 

「流石にこの家の中で待っているのはねぇ。車の中で待っているのも何か違うし」

 

 蛍がため息を吐きながらその家を見る。

 

 実際ここまで車を運ぶことはできそうにないから、これしか方法がなかった。

 

「それにしても、よくこんな所で寝泊まりなんかしてたよね。寝心地とか最悪じゃなかった?」

 

「わたしだったら多分無理かも」

 

 燐も蛍も感心したように頷いているが、以前この二人もこことは違う廃墟で寝泊まりしたことがある。

 

 もっともあそこはちゃんとした保養所の後のようだったし、そこまで年月も経っていない。

 

 それに、床はともかくシーツなんかも一応残っていたから、ある程度の居心地は確保できていた。

 

 だが、この空き家はその基準すら満たせてはいないと思う。

 

 多分、野宿とあまり変わらないだろう。

 

「そんなことないクマ! ここだって住めば都なんだクマー!!」

 

 不満げに頬を赤くしたくまがほえる。

 

 この少女の言いたいことはよく分かるが、残念なことに燐と蛍には到底当てはまりそうにない。

 

 だからこそのテント設営なのだが。

 

「わたし達はもともとキャンプをしにこっちの方に来たんだよね。だからテントなんかの一式も車に入れてあったんだけど」

 

「ちゃんとキャンプ場にも予約をとってたんだよね。車がつかえるオートキャンプ場で」

 

「じゃあ、それはどうしたんだクマ?」

 

「さっき予約を取り消してもらったからその辺は大丈夫。あ、蛍ちゃんそっちをもってて」

 

「うん」

 

 蛍にテントを支えてもらいながら燐はアルミ製のハンマーで残りのペグをうつ。

 

 かんかんと小気味よい音が閉ざされた暗い森の中に響き渡る。

 

 結局ここまで人らしい人といったら、この”くま”と名乗った少女ひとりだけだった。

 

 雨が降っていたせいもあるだろうが、それにしたってここまでこの辺の人を見かけることがないなんて。

 

 何となく焦燥感に駆られた燐は、いつもよりも早めにテントの設営を済ませることにした。

 

 いつ雨がまた降ってくるとも限らないわけだし、それに。

 

(嫌な予感っていうか、何かが起きるようなそんな気がするんだよね……不吉な事かどうかはまだ分からないけど)

 

 この手の勘が働くことが割と多くなった。

 

 全部の事が分かっているというわけじゃないけど、大筋での予感が的中してしまうことが多々あったのだ。

 

 自分では対策の立てようがないので、せめてなるべく悪い方向には考えないようにしているのだけれど。

 

 それだって意味のある行為とは思っていない。

 

 どうしたって思考は自分では完全に制御できるものではない。

 訓練を積めば出来るのかもしれないけど、その方法が分からない。

 

 大学の授業で心理学科を専攻してみたけれど……特に有用な手立てはまだ見つかっていない。

 

 授業が難しいという弊害があっただけで。

 

 だからもし悪い予感を想像してしまった時は”そうならないように”自分で努力するしかないのだ。

 

「最後にフライシートを被せてっと。うん。これでいいよね。とりあえずテント一つ出来たね」

 

 今回は簡単に立てられるテントは持ってこなかったからちょっと手間取ったけど、こっちの方が大きさも強度も満足できるものだった。

 

「燐、今回テント立てるの結構早かったんじゃない?」

 

 この少し硬めの地面のせいだろうか割とスムーズに設営出来た気はする。

 

 風もそんなに強く吹いていなかったことから、思ったよりも早く出来たのだろう。

 

 それに。

 

「だったら、蛍ちゃんが手伝ってくれたおかげだね。早く出来たのは」

 

「わたしはただ支えていただけだから。燐が頑張ったからおかげからだと思う」

 

 そう言って蛍は微笑んだ。

 

「はいはい、クマクマ」

 

 苦笑いする蛍と燐を見て、くま呆れたため息をついた。

 

「それにしても、結構大きなテントを立てたんだクマね」

 

 くまは設営し終えたばかりのテントをぐるっと見渡す。

 

「まあ、これでも定員は四人のテントなんだよ。簡単に組立てられるのもあるけど、多少手間がかかっても大きい方が快適なんだよね。スペースはちゃんと確保できるし、中に色々とものが持ち込めるから」

 

「車だったから立てる手間を考えなければ大きくても問題ないわけだしね」

 

 このテントの中に、持ってきた荷物全部とシュラフを横に並べてもまだまだスペースに余裕はありそうだった。

 

「どう? あなたも一緒に中に入る?」

 

 テントに目が釘付けになっているくまに蛍はそう声を掛けた。

 

 そわそわとしているところを見ると興味はあるとは思うのだが。

 

 くまは意外にも首を横に振った。

 

「ボクはこっちの家でいいクマ。せっかく見つけたねぐらなんだし無下にはできないクマ」

 

 明らかに今のテントよりも居心地が悪そうに思えるのだが、言葉の通り特別な思い入れがあるようで、くまはぼろぼろの家の方を指さした。

 

「まあ、あなたがそれで良いって言うのなら良いんだけど」

 

「全く問題ないもん。余計な気遣い無用クマっ」

 

 蛍の呟きにくまは大きく頷く。

 

 表情を見る限り、どうやら本気のようだった。

 

「だったらまあ、無理にとは言わないけどね。じゃあ蛍ちゃん、中に荷物運んじゃおっか」

 

「うん。じゃあくまちゃん。わたし達テントの中にいるから、何かあったら遠慮なく声を掛けてね」

 

「やっぱり入りたくなったら、遠慮なく声かけていいからね」

 

 くまのような小柄な少女が入るぐらいは全く問題ない。

 

 もし仮に、ここにオオモト様も一緒に入ることになっても、それほど苦労はないだろう。

 

 ()()()が快適に過ごせるだけの共有はこのテントには十分にあったのだから。

 

「それは絶対にないから。くまはあの家を一人で守るって決めたから」

 

 再度の呼びかけに意固地とも言える態度をとる少女。

 

 何というか、こうなると梃子でも動きそうにない感じにみえる。

 

 無理強いをするのは良くないわけだし、仕方なく二人は諦めることにした。

 

「サトくんはどーする? お外でオオモト様を待ってるつもりなの?」

 

「わんっ」

 

 燐が軽く頭を撫でるとサトくんは元気よく吠える。

 

 どうやらそれぞれお気に入りの居場所があるらしかった。

 

 侵害されたくはないテリトリーみたいなものが。

 

「じゃあ燐、わたし達はどうしておく?」

 

 心配そうにのぞき込む蛍に燐はう~ん、と軽く腕を組んだ。

 

「まあ、まだすぐに寝るわけでもないし、テントの前のドアは開けておこうか。何かあったらすぐに分かるし。あ。今すぐ着替えるのならちゃんと閉めておくけどね」

 

「着替えはまだいいよ。だからまだ閉めずに開けておこう」

 

 これでようやく三者三様の腹づもりは決まったらしかった。

 

 共通していることは、オオモト様をここで待つということだけ。

 

 どこかに探しに行くわけでもなく、あくまでここにやってくるという憶測の上で待ち続けることになる。

 

 それに異論はなかった。

 

 ただそれが何時の事になるのかが分からないというだけで。

 

「ねぇ、燐」

 

「うん?」

 

 とりあえず一通りの荷物をテント内に運び入れたところで蛍が話しかける。

 

 もう雨は今は降っていないが、灰色の雲はあいかわらずどんよりと空を覆い隠していた。

 

「そういえばさ、あのお話のゴドーって結局来なかったよね」

 

「その”ゴドー”って……もしかしてあれのこと?」

 

 それが何に対して言っているのか燐はすぐには分からなかったが。

 

 ちょっと考えたら直ぐに分かることだった。

 

「そっか、蛍ちゃん最近劇を見たんだっけ?」

 

「あ、うん。それでさ、この状況ってそれと少し似てるのかなって思ったの」

 

「まあ、確かにね。待っているわけだしね。わたし達みんな」

 

 蛍が最近観たというのは”ゴドーを待ちながら”の演劇のことだった。

 

 前にこの話をしたのは随分前のあのバス停でのこと。

 

 その時は話の概要は知っていても実際に作品を見たことがなかったから、興味を持った蛍は一度演劇の方を観て見たいなと思ってのことだった。

 

 それがようやく叶う日が来たのだが。

 

「やっぱりさ、ちょっと変わっていたと思うよ、内容は。でも、演劇向けだと思う。重くも軽くもない平坦なテーマって感じで」

 

「それ何となく分かる。不条理劇って言われているけど基本はコメディだしね。見せ方っていうか演じ方次第な所があるのかもね」

 

 テキストを勝手に改変したら怒られるらしいし。

 

 燐はこの作品が劇としてなるなんておかしいと思っていた口だったが、それから見方が変わったのか肯定するような意見を今はだしていた。

 

「わたしが観た劇もそんな感じだった。悲壮感なんかはなくて、くすっと笑えちゃうような演じ方をしてたね。見終わった後、すぐに誰かと感想を言い合いたい感じだったよ」

 

「実際にそうしてたじゃない?」

 

「まぁ、そうだったね」

 

 蛍はその時、すぐに燐の携帯にかけた時の事を思い出し軽く笑った。

 

「でも、結局さ、ゴドーって何だったのかな。神様とかそういうのでもないみたいだし」

 

「そうみたいだよね。解釈を求めちゃダメな作品って批評もあるぐらいだし、本当に受け取り方次第の作品なのかもね」

 

「そうだね」

 

 ……

 ……

 

「ねぇ、蛍ちゃん。ゴドーじゃないけど、オオモト様ってここに来ると思う?」

 

 今度は燐が蛍に素朴な疑問をぶつける。

 

 ゴドーのお話とは別として、オオモト様は本当に現れてくれるのだろうかと。

 

「うーん、どうだろうね。でも燐はあの時に見たんでしょ? オオモト様がサトくんと一緒に歩いて行くのを」

 

「そうなんだけどさ。今思うとちょっと自信ないのかも」

 

 記憶なんて常に曖昧なものだし。

 

 ましてやあの人の場合、それが幻想だとしても何もおかしくはないことだから。

 

「じゃあさ、賭けでもしてみるとか?」

 

「賭けって……?」

 

 蛍にしては珍しい事を口にしてきたので、燐は少し驚いた。

 

「もちろん、オオモト様が来てくれるかどうかって事柄で、だよ」

 

 悪戯っぽく笑う蛍。

 

 所謂、賭け事とは全然無縁のように見えるけれど。

 実は好きだったとか?

 

「でもさ、それでは賭けにならないと思うよ」

 

「どうして?」

 

「だって、わたしも蛍ちゃんも同じ答えじゃないのかなあ。だから賭けにならないってこと」

 

「それは、まだ分からないかもよ」

 

 そう言った蛍のすぐ後ろから声がした。

 

「そうクマっ。何事もやってみないと分からないクマよ」

 

「ふえっ?」

 

「やっぱり、来ちゃったじゃない」

 

 驚いた蛍のすぐ横で、少し呆れた目をした燐がくまを見る。

 

 あの信念のようなものは何だったのかと問いただしたいが。

 

「まあ、どう見ても居心地悪そうだから仕方がないよ。じゃあ、くまちゃん。何かお菓子でも食べていく?」

 

 蛍がそう言ったので燐は肩の力を抜いた。

 

 そんな事にムキになったってどうなるものでもないし。

 

「ほら、温かいココアも作ってあげるよっ」

 

 歓迎するような燐と蛍の口ぶりに何故かくまはむむっと頬を膨らました。

 

「もう、さっきから子供扱いしないで欲しいクマっ。こう見えてもくまは──」

 

「くまちゃんって……本当は幾つなの?」

 

 見た目通りなら小学生ぐらいだとは思うけれど。

 

「まあ、細かい事は言いっこなしクマよ」

 

 くまは自分から言って振って置いて誤魔化すように咳ばらいをひとつした。

 

 何ともあからさま過ぎるくまの態度だったが、蛍も燐も困ったように顔を見合わせるだけで特に何も言わなかった。

 

「わんわんわんっ」

 

「あ、サトくんも中に入って来ちゃったね」

 

 やはり一人は寂しかったのか、くるっとなった尻尾を振りながらサトくんがテント内にとことこと入り込んでくる。

 

「あっ、ずるいぞサトくんっ。くまが先にテントに入って豪遊するんだからっ」

 

 さっき言っていたことは何だったのか、白い犬を押しのけてでもくまが先にテントに入ろうとする。

 

 サトくんも負けじとくまに張り合うようにテントの入り口で身体をぶつけ合っている。

 

 この二人はいつもこうなのだろうか。

 

 燐は怪訝そうな目でくまとサトくんをの様子を見守っていた。

 

「何なのこれ。別にどっちが先でも同じなのに」

 

「サトくんと、張り合ってるね」

 

 同じレベルで争う二人に蛍と燐はほとほと呆れるほかなかった。

 

 ……

 ……

 ……

 

「何かさ、こうして見てるとフツーの女の子って感じしかしないね」

 

 テントの中で大の字で寝るくまを見ながら蛍がくすりと笑う。

 

 その寝ているくまにブランケットをそっと掛けてあげた。

 

「まぁ、見た目はそうだよね。何か変な事を口走ってたようだけど」

 

「熊の神様とか言ってたよね? それか王様とか?」

 

「何かさ、話だけ聞いてると、昔話のキャラみたいだよね、くまちゃん。そういう設定とかなのかな」

 

 お菓子の食べっぷりとその速さだけみれば確かに熊というか猛獣そのものだとも言えるが。

 

「でも、くまちゃんさ、サトくんと本当に仲良さそうだったよね」

 

「うんうん、何か似た者同士って感じがするよね。さっきだって一歩も譲らない感じだったし。実は親友を越えたライバル関係なのかも」

 

 何だか漫画みたいな言い方になっていたが、今のこの二人にはぴったりだと蛍は思った。

 

 サトくんもくまのすぐ隣で一緒に寝ているわけだし。

 

「確かに、見た目よりもワイルドだったしね。初めは外国人の女の子なのかなって感じしてたけど」

 

「わたしも、もしかしたら日本語通じないんじゃないかなって、ちょっと思っちゃった」

 

 そう言って燐はぺろりと舌をだす。

 

「でもさ、あの子。親と一緒じゃないみたいだったね」

 

「うん、遠くの山から来たって言ってたからね。どこまで信じて良いものか分からないけど」

 

「でも、悪い子じゃないと思うよ。サトくんと仲がいいし」

 

 サトくん基準で考えて良いものかは分からないが、確かにそんな悪いような感じはしない。

 

 むしろ無邪気すぎて危なっかしく思えてしまう。

 

 無知というか天然的すぎて。

 

「燐も昔はあんな感じだったのかな?」

 

 蛍は燐の顔を見てくすりと笑う。

 

 何となく蛍に馬鹿にされているように思った燐は抗議の声をあげた。

 

「えー、流石にそんなわけないよぅ。わたしあそこまで図々しくなんかないもん」

 

 燐はぷいっと横を向く。

 

 そんな子供っぽい仕草が何か似ているなあと蛍は思った。

 

「それに……変な語尾だってつけてなかったし」

 

 燐はぼそっと呟く。

 

 くまの言葉遣いは聞いているこっちが恥ずかしくなるような、妙な羞恥を覚えてしまう。

 

 だが、蛍は燐とは少し違うようで。

 

「可愛いよね。”クマクマ”って言ってて。小さい子ってクマのことが結構好きだよね。わたしもクマのグッズ結構持ってるからその辺ってちょっと分かるかも」

 

 くすりと笑う蛍に燐はやや呆れたようにいった。

 

「子供っぽくすぎない? わたしが同じぐらいの時でも、いくらなんてもそんなことは言わなかったよ」

 

「えっ」

 

「うん?」

 

(つい最近でも、燐とそんな言葉のやり取りをしてた気がするけど……?)

 

 きょとんとなって見つめる蛍に燐は小首をかしげた。

 

 

「そういえばさ、蛍ちゃん」

 

「なぁに、燐」

 

「あぁ、うん……そのさ……」

 

「うん?」

 

 何故か恥ずかしそう言い淀む燐に蛍は首を傾げる。

 

「その……ちょっとお腹空かない?」

 

 その言葉に蛍は目を大きく見開いてきょとんとする。

 

「だってさぁ。あの子達、美味しそうに食べるんだもん。せっかくわたし達がもってきたおやつだったのに全部食べちゃってるしぃ……」

 

 満足そうに寝ている二人を見ながら燐が恨めしそうにつぶやく。

 

 サトくんはともかく、この少女も何も食べていなかったのだろうか。

 

 一人でこんな所にまで来て、満足に食事もできないなんてちょっと可哀想な気もするが。

 

「でもさ、オオモト様と一緒にファミレスに居たって言ってたよね? それでももうお腹が空いちゃってたとか?」

 

 流石にファミレスで何も食べてない事なんてないだろう。

 

 だが、まだ日暮れ前だからもしお昼を食べたとしたら、そこまで時間が経っていないことにはなるが。

 

「まあ、一応”クマ”みたいだからね。わたし達とは胃袋の性能が違うのかも」

 

「くすっ、そうだね」

 

 燐と蛍は顔を見合わせてくすくすと笑った。

 

「実はね、わたしもちょっとお腹が空いたなって思ったの。そういえばお昼はコンビニのおにぎりしか食べてなかったじゃない? だから小腹が空いちゃったかもって」

 

「なぁんだ良かったぁ。てっきりわたしだけかもって思っちゃった」

 

 燐はほっと胸を撫で下ろす。

 

 そのタイミングでお腹の虫がぐーとなった。

 

「ふふっ、燐のお腹も催促してるみたいだね」

 

「もー、そんな事言わないでよぉ!」

 

 蛍にからかわれて燐はつい大きな声を上げてしまっていたが。

 

「燐、しーっ。くまちゃんたち起きちゃうから」

 

 燐の唇を蛍の指先が止めた。

 

「あ、ごめん……そうだったね。じゃあさ、蛍ちゃん。外で何か作って食べようか。もうお腹ぺこぺこだし」

 

「うん。そうしよう」

 

 二人は頷くと、犬と少女を起こさないよう、そっとテントから抜けだした。

 

 テントの前のファスナーを閉めてから、料理の作業に取り掛かった。

 

 だが、料理と言ってもそんな大層なものではないが。

 

 ──

 ──

 ──

 

「何をしているクマか」

 

「わあっ!?」

 

 カップの中のお湯の具合を見ている時に不意に話しかけられたので、蛍は心臓が飛び上がるほど驚いてしまった。

 

 何もこぼしたりしなかったから幸いとはいえるが。

 

 蛍ははぁっと安堵の深いため息をつく。

 

(こういうドキドキは本当に心臓に悪いよ……サプライズとか苦手だし)

 

 まだドキドキといってる。

 

 蛍は自分の胸に掌を当て、何とか高鳴りを抑えようとした。

 

「だ、大丈夫クマか?」

 

「う、うん。なんとか」

 

 くまが心配そうに声をかける。

 

 どうやら驚かせすぎたと思ったようで、ちょっと申し訳なさそうな顔になっていた。

 

「それにしても起きちゃったんだ。随分とぐっすりと寝てたと思ったけど」

 

 少し落ちついた蛍はそう少女に訊ねる。

 

 どうみても熟睡していたように見えたから、そうそう起きないとは思っていたのだけれど。

 

「何かいい匂いがしたから起きてしまったんだクマ」

 

「えっ、そうかな?」

 

 お湯を沸かしていただけなのに。

 どこにそんな臭いがしていたのだろう。

 

「ほらっ、それクマ」

 

 くまがテーブルの上を指さす。

 

「ああ、これのこと? でもまだこれビニールがかかっていると思うんだけど」

 

「ふっふっふ、くまの鼻は誤魔化されないクマっ。ずばりお蕎麦を食べるつもりクマね! くま達に黙って」

 

 そうびしっと言われた。

 

 確かにそうなのだが。

 

「あはは、まあ確かにそうするつもりだけど、でも凄いねこの蕎麦からは全然臭いなんかしないよ」

 

 蛍はまだビニールにかかったままの蕎麦の袋を鼻に当ててみた。

 

 やはり何の臭いも感じられない。

 

 こんなに鼻に近づけても分からないのに、何故この子には分かったのだろうか。

 

「どうしたの蛍ちゃん。何か変な声が聞こえたような気がしたけど?」

 

 そう言って燐が駆けてくる。

 

 燐はまた軽自動車まで戻り、別の荷物を取ってきたのだった。

 

「って、げげっ!」

 

 燐はつい口から出てしまった。

 

「もー、げっ、はないクマっ! 内緒でご飯を食べるなんてずるいクマぁ」

 

 そういってくまに睨まれる。

 

「だってもうお腹いっぱいでしょ? わたし達軽い食事しかとってなかったから」

 

「そんな事はないもん。ご飯は別腹なんだクマっ」

 

「それってスイーツなんじゃ……?」

 

 たまらず蛍はツッコミをいれた。

 

「はあ、もう仕方ないなぁ。じゃあちょっとは食べさせてあげるっ。でも全部食べちゃダメだからね」

 

 一応念を押してから燐はしぶしぶ了承をした。

 

 くまは両手をあげて喜んでいるが。

 

(本当に分かってるのかなぁ? わたしも相当甘いみたいだよね)

 

 蛍に自分に似ていると言われたことを引きづっているのか、燐は少し後悔の入った吐息を吐きだした。

 

「折角だからくまも手伝ってあげる。食べてばっかりじゃ熊が廃るって言うからねっ」

 

(そんな言葉ってあったっけ?)

 

 蛍はもう突っ込むこともせず、困った顔で苦笑いしている。

 

「手伝わなくても大丈夫だよ。お湯が湧いたらお蕎麦と材料をいれて少し煮込むだけだから」

 

「そうクマか……」

 

 くまはやや大げさにガックリと肩を落とす。

 

 だが。

 

「それにしても材料といってもちょっとショボい感じがするクマね。お肉とかは入れないクマか?」

 

 テーブルの上にあるのはお湯を沸かしているバーナーとクッカーとメインであるお蕎麦。

 それとスーパーで買ったような竹輪と葱が少しあるだけだった。

 

 確かにくまの指摘のように少し貧相な感じもするが。

 

「でも、このお蕎麦は途中の道の駅で買ったものなんだよ。ほらこっちの方ってお蕎麦が有名なんでしょ?」

 

 実際はお蕎麦が有名な場所はここより少し離れた場所のようだったが。

 

 この辺りの地域で買ったものだから美味しければ問題ないだろう。

 

 燐の話に納得したようにくまはうなずく。

 

「確かに地元っぽい人に聞き込みをしたときにそんな話を聞いたような気がするクマ。どーやらソースカツ丼だけじゃなかったみたいクマね」

 

 いつの間にかくまはこの辺りのグルメ情報に詳しくなっていた。

 

 そういう趣味でもあるのかと蛍は少し訝しんでくまのことを眺めていた。

 

「本当はさ鴨肉やキノコなんかも入れれば良いんだけど。今回はこれを入れようと思ってさ、今持ってきたんだ」

 

 そう言って燐が見せたものとは。

 

「それって缶詰クマかっ!?」

 

「そう鯖の缶詰! これを入れるとぐっとコクがでて美味しくなるんだよぉ。ほらほら~」

 

 燐は鯖の缶詰を両手に持ち、くまの目の前で揺らしたりしてみせた。

 

 それを見て、おぉーとくまが叫ぶ。

 

 蛍は柔和な表情で二人のやり取りを見ていたが。

 

「でも、燐。それってネットからの知識なんでしょ? さっき熱心にスマホを見てたみたいだけど」

 

「あはっ、バレたぁ。でも本当に美味しいみたいだから試してみようよ、ねっ」

 

「まあ、燐がいいっていうなら良いんだけどね」

 

 蛍は諦めたようにそう言うと、沸騰したお湯の中に蕎麦と一緒に付いていた()()と麺、そして具材をまとめて入れた。

 

 二、三分ほど茹でた後、器に盛り、最後に鯖缶の中身を半分ほど入れると……簡単鯖缶蕎麦(さばかんそば)の完成ー!!

 

 そうなるはずだったのだが。

 

 ずるずる。

 

「うんっ、確かに鯖の風味がきいてて結構おいしいクマね。鯖缶を入れただけでこんなに変わる物なんだ」

 

「そうそう、お好みで七味や卵を乗せても美味しいよね……って、何でくまちゃんが先に食べてるの? しかもそれってわたしの分なんだよっ」

 

 そう言ってくまの食べている器を取り上げようとする燐。

 

 だがくまは素早く身を翻すと、蕎麦と箸を持ったままささっと逃げ出してしまった。

 

「ボクは毒見係だから仕方がないクマっ!」

 

「仕方なくなんかないのっ! 返せー、蕎麦泥棒ー!」

 

 ぐるぐるとテントの周りで追いかけっこをする燐とくま。

 

 そんな二人の様子を蛍は静かにお蕎麦啜りながら楽しそうに眺めていた。

 

「やっぱりあの二人って似てるよね。サトくん」

 

「わんっ!」

 

 いつの間にか起き出したサトくんと一緒に蛍は今のこの情景を楽しんでいた。

 

 オオモト様がいないことだけが残念だけれど、それでも今は。

 

 秋なのに春のようにふんわりとした緩い暖かさを肌に感じ取っていた。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 

 






むぅぅぅぅ~。
ということで、まさかの年末なのにコロナに感染してしまいましたよーー!!! 医者からもこの時期珍しいとか言われる始末だったのですが?? 第五類になったっていうのはそういう事なんでしょうか? 外どころか家でもマスクをしていたのにこれはないですよねぇ……で、五日ほど苦しんだ後、何とか熱は下がったのですが、未だに咳が続くんですよねーーー多分、これは今年中には完治しそうにないのかも。ただでさえ風邪が長く続いてしまう体質ですし。
それにしても、まさか本当にコロナを罹ってしまうとは思わなかったから結構ショックだったですねー。

皆様もどうか体調には気を付けて、暖かくしてお過ごしください。そして何か異常を感じたら直ぐに病院で診てもらうことをおススメします。今はコロナや風邪、インフルエンザも検査ですぐに分かるようですしねー。

それでは今年もお疲れさまでしたーーーではではでは、良いお年をーー。






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== blackout ==


 ここまで結構な道のりを歩いてきて汗をかいてしまったからか、恥じらいなどはどこかへいってしまったようだ。

「はぁ~、気持ちいいねっ! 山登りのあとの温泉は本当に最高だねっ」

 燐は、つい安堵の声が漏れていた。

「本当、あったかいね」

 蛍は燐の後ろにこそこそと隠れながらそろそろと温泉に浸かった。

 クリームのような乳白色の湯舟に肩を沈めると、ようやく落ち着いたのか深い息をもらした。

 山の奥だからか、もの静かで──自分達以外誰もいない。

 その代わり脱衣所ような必要なものもなかった。

「ねぇ、クマちゃん。本当にこんな所にオオモト様がいるの? オオモト様って温泉好きなイメージがないんだけど」

 ここまで案内してくれたガイドに燐はその真意を訊ねてみることにした。

 天然の露天風呂としては最高のロケーションだけど、目的はそれじゃなかったから。

 それに、そこまでオオモト様の人となりを知っているという訳ではないが、あの人にはそういった秘境の温泉にわざわざくる、こだわりのようなものは無いような気がする。

 もっとも何でもいいというわけではなさそうではあるが。

 その小さなガイドは燐の横で唇を尖らせた。

「くまだってまだ良くわからないんだクマ。ただ、思い当たる場所がもうここしかないから……ぶくぶくぶくぶく……」

 湯に顔の半分ほどまで埋めたくまはぶくぶくと泡で誤魔化していた。

「つまり、行き当たりばったりってことかぁ……はぁーあ、期待して来て損しちゃったかなぁ~」

 溜息をついて両手を頭に回す燐を見て、蛍はくすりと小さく微笑んだ。

「でも、燐。ここってサトくんが見つけてくれた温泉なんでしょ? 人気も無くて静かだし、何か風情があってわたしは好きだな」

「あ。それはわたしも。オオモト様はともかくとして、秘境の湯としては最高の場所かもしれないね」

「うん。だったら苦労して来た甲斐は一応あったね」

 白い湯に浮かぶ紅く色づいた葉を指でつまみ上げながら蛍がにっこりと微笑む。

 そのまま旅行用のポスターにでも使えそうな画になるぐらいに、美しい光景だった。

「わぉん!」

「サトくんも楽しそうにしてるね。自分で見つけたからかなぁ」

 蛍たちが浸かっている温泉の横にある、小さな湯舟の中をサトくんがばしゃばしゃと駆けまわっていた。

 よほどこの場所が気に入ったのだろうか、蛍と燐が見たことのないぐらいにぐるぐると湯舟の中ではしゃぎまわっていた。

 それを見て燐は何か思いついたのか、パンと手を叩く。

「あ、だったらさ、ここを”サトくんの湯”にしようよ。特に名前もついてないみたいだし」

「それ、いいね。サトくんもきっと喜ぶと思うよ。良かったねサトくん」

 蛍にそう言われたサトくんはわんと吠えて答えた。

 それを見た二人は湯につかりながらくすりと微笑んでいた。

「何を勝手に決めているクマか。ここは”くまの湯”に決定してるクマっ」

 沈んでいたくまが腕を組んで仁王立ちをしていた。

「いつ決まったのそれ?」

 呆れかえった顔で燐は尋ねる。

「ついさっきクマ」

「それじゃあ、わたしと同じじゃない」

 燐はやれやれと肩をすくめる。

「それに、”くまの湯”ってどこかで聞いた事あるかも」

 確かスキー場か何かの近くの温泉だったような。

 そう蛍からも言われてしまう。

「うー、くまに黙ってみんな勝手なことしてー。こうなったら著作権侵害で訴えてやるクマっ!!」

「絶対に通らないと思うよ、それ」

「だよねぇ」

 燐に同意するように蛍もうんうんとうなずく。

 くまはまた頬を風船のように膨らませていた。

 ……
 ……

「でもさ、それにしたってこんなところに温泉が湧いているとは思わなかったよ。実際に行かないと分からない事って結構あるもんだね」

 感心したように蛍はつぶやく。

 くまは何も言ってくれなかったから初めはどうなることか思ったけど。

 こんな素敵な温泉との出会いが待っているなんて。
 テントで待っててなくて良かったと蛍は本心から思った。

 もっとも燐が行くのなら蛍がついていかない理由はないのだが。

「確かにね。地図にも乗ってなかったから、本当の秘湯なのかも。けど、つい最近できたような古い感じもそんなにないし。地元の人ぐらいしか知らない穴場なのかもね」

「確かにそんな感じはするね。脱衣所とかもなかったから」

 そのせいで蛍は恥ずかしがって入るのを拒否していたが、燐の再三のお願いもあってようやく湯船につかることになったのだ。

「でもさ」

 蛍はちらりとくまの方を見る。

「こういう温泉があるなら、ひとこと言って欲しかったかも。一応水着があったんだけど、持ってこなかったから意味なくなっちゃった」

 困ったように苦笑いする蛍。
 隣で燐もうんうんと同意を示した。

 何故かこういう裸になるようなことが妙に多いから、念には念を入れて水着持ってきていたのだけれど。

(結局、車に置いてきちゃったんだよね。まあ仕方のないことだけど)

 まあ、水着は水着で着るのがちょっと面倒くさいけど。

「だからって今から取りに戻るのも、ねぇ」

「絶対に湯冷めするし面倒だと思う」

 蛍はきっぱりとそう言った。

「あーあ、せっかくさ、可愛い水着を用意してたのにねぇ。蛍ちゃんなんかそれこそもうすっごく大胆なものを」

「もう、燐ってば。わたしのだって別にフツーのものだし、それに燐と同じものにしたはずでしょ?」

 カラーこそ違うが、燐と蛍は脱ぎぎしやすいアウトドアの用の女性水着をいざという時の為に買っておいていたのだ。

 それだって、持ってこなければまったく意味の無いものなのだが。

「でも、蛍ちゃんはさ、サイズが合うのがなくって、結局メーカー取り寄せになっちゃったんだよね。やっぱり、蛍ちゃんクラスのサイズものって中々ないんだよねぇ」

 燐はからかうように小さく笑う。

 蛍は温泉とは別で顔を真っ赤にしていた。

「それだったら、ふんどしが良かったんじゃないかクマ? あれは機能的だしサイズも選ばないクマよ」

「……上はどーするのよぉ」

 全く着るつもりは無いが一応聞いてみた。

「それはサラシか、まぁ、何も着ける必要ないんじゃない? お風呂なんだし。上ぐらいは問題ないクマよ」

「そうでしょうねぇ、はいはい」

 それでは結局無意味ということになる。

 燐は湯舟のなかで呆れたため息をついた。

「んもー、そんなにくまを責めないで欲しいクマっ。大自然のサプライズを感じて欲しかったんよっ」

(それに……”アイツ”がいる可能性もあったし……)

「ん? くまちゃん何か言った?」

「ううん、別にクマ」

「まあ、わたしはそこまで気にしないけどさ。蛍ちゃんがちょっと嫌がっていたから言ってみたってだけで」

 燐は横目で蛍の顔をうかがう。

 見つめられた蛍はぽっと顔を赤くしていた。

「そ、そうだね。水着なんか着てたらもったいない感じの天然温泉だから、多分持っててもわたしも着ないと思うよ。うん」

 二人は顔を見合わせてあははと苦笑いした。

「じゃあ……問題ないってことじゃん……クマー」

 結局、何の議論だったのか。

 くまはまた温泉の中にぶくぶくと小さな顔をうずめた。

 ……
 ……
 ……

「それにしてもさ、結構脚にきちゃってたよね……流石に」

 ふくらはぎを湯舟の中でマッサージしながら燐が愚痴を零す。

「本当だよね。すぐそこだって言ってたから軽い気持ちでついてきちゃったけど。燐、ごめんね。わたし足手まといだったでしょ」

 そう言って蛍は申し訳なさそうな顔をした。

 燐はそれを手を振って否定した。

「そんなことはないよ。わたしだって大分疲れちゃってたしぃ」

「燐でもそうなの?」

 蛍は小首をかしげた。

「まぁね。でも蛍ちゃんだって、前よりもずっと体力ついてきたと思うよ。さっきだって結構速いペースだったのにちゃんとついてこれていたわけだし」

 大学のアウトドア系のサークルに入ってからの蛍は以前と比べてもとてもしっかりしてきたと燐は感じていた。

 そういった知識もそうだけど、ちゃんとペース配分も考えられるようになっている。

 トレッキングでの時計の見方を心得たのだろう。

 だから一人で山に行ったりする蛍をそこまで心配しなくなっていた。

「それは……燐が途中で何度も待っててくれたおかげだよ。わたし一人だったらもっと遅れてたとおもうよ」

 誇張なしにそうだと思う。

 こんな知らない森の中でひとり取り残されたりしたら、動けなくなるだろう。

 燐が一緒だったから頑張れたのだと。

 そう、燐さえいてくれたら。

「おかげで先に着いたボクたちはだいぶ待ちくたびれちゃったよねぇ~。サトくんっ」

「わんわんわんっ!!」

 下の湯舟でサトくんとじゃれ合っていたくまが蛍と燐の会話に割り込んでくる。

 どうやらはしゃぎ過ぎたようで、サトくんはまた全身がずぶ濡れになっていた。

 ふわふわとした白い毛並みを取り戻すにはまたタオルが数枚ほど必要になるだろう。
 
 白い毛を体じゅうに張りつかせたまま、まだまだ元気いっぱいといった様子のサトくんに、燐は困ったように苦笑した。

「サトくん。また毛並みがぐちゃぐちゃになってるよ~。でも、本当に楽しかったみたいだね。後はこれでオオモト様が来てくれたらなあ」

 サトくんの小さな鼻に指でちょんと触れると、燐はもう一度辺りを見渡す。

 風すらも届かない場所なのか、本当に静かなところだった。

 静謐と言う言葉に色をつけるのなら、きっとこんな彩りのある景色なのだろう。

 紅葉した、赤と黄の落ち葉。
 
 飾り気のない天然の露天風呂。

 そして、ミルクのようなきめ細やかな乳白色の温泉。

 老舗の高級旅館なんかよりも贅沢な時間と景色が、小さなせせらぎが流れと一緒にさらさらと流れていた。

「冬に来てもよさそうだよね。雪景色の露天風呂ってロマンあっていいよね」

「夏でも良さそうじゃない? あ、春も桜の花びらが舞い落ちて良さそうかも」

「じゃあ、いつでもいいってことだね」

 二人は妄想をしながら秘湯の風呂を楽しむ。

「そういえばさ、この辺りに源泉とかあるのかな? 何かさっきよりもちょっとお湯が熱くなってきたような気がする」

 そう言って蛍はぽこぽことした泡が湧き出ている川底に掌をかざす。

 その瞬間強い熱気を感じて慌てて手を引っ込めた。

「あっ、そういえばそうだね。地熱とかが影響してるのかな」

 蛍の言葉に意識を戻した燐は、同じように川底に手を伸ばした。

 確かに熱いお湯が沸きだしている。
 もし、この上にお尻なんか乗せていたらきっと火傷してしまうだろう。

「確か、こういう川のそばの温泉ってスコップなんか使ってで温度調節するみたいだけど」

「持ってきてないから自分たちで石を動かすしかないよね。湯舟を作ったときみたいに」

 そう言った道具は大きい荷物と共に置き去りのままだったから。

 周りの石を動かすしかないのだ。
 
 ふたりの素手だけで。

「じゃあもうちょっと湯舟の方を外に調節しようか」

「うん……けどさ、こういうのもわりと面白いよね。自然と共同で温泉を作ってるって感じがして」

「まあ、ちょっと面倒だけど、自分好みの温泉がつくれるって言うのはいいよね。形なんかも自由自在だし。ブッシュクラフト感あるかもね」

 くすくすと笑いながら、二人は協力して石の湯舟を川岸のほうへと少しずらす。

 隙間から冷たい川の水が流れ込み、さっきよりもちょっとだけお湯が温くなったような感じがした。

「あ、そうだ、燐。ちょっと待ってて」

 蛍は妙案とばかりに手を叩くと、湯舟に体を入れたまま自分の着替えがある方に手を伸ばす。
 
 オレンジ色のポーチから取り出したものとは。

「折角だからさ、写真に撮っておこうよ。この場所ってあまり知られてなさそうだし、SNSにあげたら反響がありそうだよ」

 蛍は呆然とこちらを見つめる燐に向かってカメラを構える素振りを見せる。

 燐はやっぱりと言った顔でため息をついた。

 蛍は、スマホとは別のカメラをここまで持ってきていた。

 防水防塵処理の施された、無骨なデザインの赤色の小さなカメラ。

 性能の割に軽くてコンパクトだから、蛍が出かけの際にはいつも持ち歩いていた。

 部屋の中でも使うほど気に入っているようでもあり、その場合、被写体は専ら燐になるのだが。

「蛍ちゃん~。こんなところで写真なんか撮ってネットにあげたらそれこそ炎上しちゃうよぉ」

 温泉の写真だけならともかく、裸の燐もファインダーに入れてしまったら、炎上どころかアカウント停止にすらなるだろう。

 そんな事は分かっているとばかりに蛍は小さく首を振る。

「大丈夫、個人的に使うだけだから」

 そう言って蛍はぱちりとシャッターを切った。

 いくら蛍と言ってもこれは明らかに盗撮行為になるのだが。

「個人的って何よー。ねぇ、蛍ちゃん、後でちゃんとデータ消してよねぇ」

「うんうん。分かってるよ。じゃあもう一枚だけね」

 本当に分かっているのか、蛍はまたカメラのシャッターを一枚切った。
 それどころか。

「あ、燐。もうちょっと右に……あ、それぐらいで……カメラは意識しないでいいから。燐は何もしなくても可愛いからね」

「いやいや、可愛くなくて全然いいから。それより本当に消してね? じゃないとわたし、蛍ちゃんのこと幻滅しちゃうかも」

 カメラから手を放さない蛍は普段よりも少し饒舌だった。

 そんな蛍に燐は冷静なツッコミを入れる。 

 二人だけの撮影会をしていると、下の方から声がした。

「ボクならいつでもオーケーだよー! ほらほら、ポーズだってバッチリ決めちゃうクマっ!」

 こちらの会話が聞こえていたのか、横の湯船からくまが手を振っている。

 素知らぬふりをしているサトくんをよそに、変なポーズをひとりでとっていた。

 これには蛍も閉口してしまう。

「さすがに、くまちゃんはねぇ」

「だよねぇ、それこそ蛍ちゃんが警察に捕まっちゃうよ」

 苦笑いしてため息をつく二人。

 そんな中、くまはばちゃばちゃとお湯を飛ばしながらポーズの練習をしていた。

 ──
 ──
 ──




 

「すごくいいお湯だったよね。お肌がつるつるになった感じがするよ」

 

「まあ、お湯の性質は分からなかったけど、美肌とかの効能とかあるのかもね。しばらく手を洗うのが勿体なくなるかも」

 

「うふふ、だね」

 

 温泉から上がり、着替え終えた燐と蛍は、余韻がまだ残っているのか、頬を紅潮させながら帰りの道をゆっくりと歩いていた。

 

 ふたりの手には登りにも使った、折り畳み式のトレッキングポールが握られている。

 

 その少し前方にはサトくんが、そしてちょっと離れた後方に”くま”がいた。

 

 サトくんも帰りの道を知っているからと、見た目幼いくまが殿をかってでたのだった。

 

 くまはしきりに辺りを気にしているようで、時折立ち止まると、何かを警戒するように周囲を見渡していた。

 

「ねぇ、くまちゃん。さっきからどうかしたの? 何か気になるものでもあった?」

 

 気になった燐が傍に寄って尋ねる。

 

 怖いものなど毛頭なさそうに見える少女が、一体何を気にしているのだろう。

 

「べべべべべ、別にぃ。な、何も気にしてないよっ、クマっ!」

 

「あ、そう」

 

 急に大声を出されてしまったので、聞いた燐の方が驚いてしまった。

 

(っていうか、明らかに動揺しているよね、くまちゃん……)

 

 少し訝し気な目で見つめる。

 

 だが、もし自分たちに何か変なことをするつもりならもっと早くにするだろうし。

 

 疑うだけ意味ない気がした。

 

(流石に、怖いなんて言えないクマ……これでもくまは百獣の王なのだし……)

 

 もちろん自称ではあるが。

 

 それでも誰にも負けたくはない気持ちはあった。

 

 例え相手が化け猿や妖怪の類であっても。

 

 自分自身にもそういった”他とは違うナニカ”があると知っているから。

 

 そんな想いを巡らせている時、ふいに頭に手が乗せられた。

 

「にゃあっ!」

 

「ええっ、熊じゃなかったの?」

 

 燐は何気なくくまの頭にポンと手を乗せたが、まさかの鳴き声にまたも驚いてしまった。

 

「んもぅ、ボクはくまなんだクマ……急に変な事しないで欲しい。びっくりだから」

 

 くまは囁くような声色で呟く。

 

 それは恥ずかしがっているようにも見えた。

 

「あ、ごめんね、つい触りたくなっちゃって」

 

 燐としてはサトくんの頭を撫でるような気持ちで触れたのだが。

 

 そう素直に燐は謝ると、少し柔らかい声でくまに話した。

 

「あのさ、テントの時も言ったけど、もし何かあったら遠慮なく言って欲しいな。これでもくまちゃんのこと友達だと思ってるし」

 

「くまと……ともだち?」

 

「うんうん。わたしもそう思ってたよ。くまちゃんとは友達になれそうな気がするって燐と言っていたんだ」

 

 いつの間にか蛍もサトくんと一緒に傍に来ていた。

 

「わんわんわん」

 

「ほら、サトくんもきみとは友達だって言ってるよ?」

 

「それは本当クマかぁ? サトくんはある意味でくまのライバルだからねぇ」

 

 そんなくまのからかうような台詞にサトくんはわんと答える。

 

 実際の熊と犬の関係は分からないが、このふたりは良いコンビなのではないかと蛍と燐は思っていた。

 

 温泉での様子もそうだったし。

 

「あ、そういえば! ボク、ふたりに聞きたいことがあったんだクマ!」

 

「それって、どんなこと?」

 

「答えられる範囲ならなんでも答えるけど……」

 

 突然のくまの問いかけに燐と蛍は戸惑いつつも頷いた。

 

 改まって何を聞かれるのだろう。

 

(もしかして、燐とのこと……かな? その場合なんて答えたらいいんだろう)

 

 仲の良いともだち?

 それだけなのだろうか。

 

 何を期待しているのか、蛍は目を大きく開いて胸をドキドキとさせていた。

 

 だが、その期待とは裏腹にくまの問いは全く違うものだった。

 

「あ、あのさ……キミ達って、ボクのハダカ見た……クマ?」

 

 燐はえっ、とした顔になった。

 

 蛍は蛍で期待と違ったものだったので、何と言ったからいいかわからず、まだ湿り気のある長い髪を撫でていた。

 

「どどど、どーなのかクマ? クマ?」

 

 くまにとって余程重要なことなのか、目をぐるぐると回しながら同じ言葉を繰り返していた。

 

 二人は目を見合わせると苦笑いを浮かべた。

 

「そりゃあ、温泉に入ってたんだもん。誰かの裸ぐらいはちょっとはみちゃうよねぇ」

 

 ひとりごとみたいな燐の呟きに、蛍は曖昧な笑みで同意する。

 

「う、うん。ごめんね。もしかして……見ちゃいけないものだった?」

 

 あんなに自分から積極的にポーズを取っていたのにと思ったが。

 それを蛍は口にはださなかった。

 

 二人の言葉にくまはガーンと言った表情を見せたが。

 

「も、もしかして大事なところも見えちゃったクマか?」

 

 恐る恐る尋ねられる。

 

「えっと、大事なところって?」

 

 蛍は確認の意味で聞いてきたのだが、それは余計な一言だったらしく、くまの顔は真っ赤になっていた。

 

「だ、だだだ大事なところは……大事なところクマっ。その……女の子の大事なところ……」

 

 自分からそう言うとくまは両手を振ってその場で飛び跳ねる。

 

 くまの頭の上のふわふわの耳が動きに合わせてぴょこぴょこと動いていた。

 

 温泉に入っている最中も外さなかったようだから、それは本当に大事なものなのだろう。

 

 くまのアイゼンティティがどうこうとか言っていたようだったし。

 

「えっとねぇ、確か……見えなかったとは思うけど……?」

 

「うん、わたしもみなかったと思う」

 

 二人にそう言われてようやく納得ができたのか、くまは溜まっていた息をはぁと全部はきだした。

 

「でも、そんなに見られたら困るものなの? 女の子同士なのに」

 

 その割には結構無防備な動きをしていたように思う。

 

「そりゃあ気にするクマっ」

 

 そう言い切るくま。

 

「だって、見られちゃったら……その相手とけ、け、けっこんするしかなくなるからクマっ!!!」

 

 そう告白をするくまに燐は今度こそ開いた口が塞がらなくなった。

 

 それは蛍も同じらしく困ったような顔で立ち尽くしている。

 

 この時代にそんな事を言う子がいるなんて、と。

 

 しばらく黙っていた二人だったが、燐は耐えきれずとうとう噴き出してしまった。

 

「もう、それっていつの時代のことよ。わたしそんなの聞いたことがないんだけど」

 

 蛍も申し訳なさそうに苦笑する。

 

「ごめん。わたしも。流石にそんな”しきたり”みたいなのは聞いた事ないなぁ。でもね」

 

 蛍は俯くくまの手を取った。

 

 顔を上げたくまは蛍を見つめる。

 

 小さな掌からその思いが伝わってくるようだった。

 

「しきたりっていうか変な儀式みたいなのはわたしの住んでいた町にもあったの。だからそんなに気にしなくてもいいんじゃないかな。結婚って、女の子にはとても大事なことだと思うし」

 

 そう言って蛍はちいさく微笑んだ。

 

(蛍ちゃん……やっぱり、まだ……)

 

 もう忘れそうになっていたことだが、それは確かに本当に少し前まであったことだから。

 

 幸運という概念を実存として結び付けるための儀式。

 

 今だって想像しただけでおぞましくなる。

 

 本当に身勝手で乱暴なことをずっと密かにおこなっていたのだから。

 

 そんな事に縛られてしまうのは無意味だとこの子に説いてあげたかった。

 

 強制されてまですることなど何の意味もなく、ただ歪みを引き起こすだけのものなのだから。

 

「ま、まぁ、見ていないのなら、問題ないクマね」

 

 蛍の目を見ながらくまはそう言うと目をぱちっとさせた。

 

「確かに、そんなに気にする事でもないことなのかもね。それに見られたのだって、ざっきぃが初めてだったし」

 

「”ざっきぃ”ってオオモト様のこと?」

 

 横から燐がたずねる。

 

「そうクマよ。まあ、あれは不可抗力みたいなものだったから仕方なかったんだけど。とりあえずは胸の内に留めておくだけにするクマ」

 

「くまちゃんがそう言うのなら、いいんだけど……」

 

 何となくだが、変な空気になってしまった気がする。

 

 少女達から少し離れたところに居た、サトくんが暢気にあくびを噛み殺していた。

 

 それでようやく動き出すきっかけができた。

 

「ま、まあ後方はくまが守るから、”燐”と”蛍”は気にせずに行くクマ。ほら、さっきからサトくんが待ちくたびれてるよ」

 

 くまが指さすサトくんの首にはいつものバンダナではなく、小さなLED式のランタンが括りつけられていた。

 

 サトくんは嫌がりそうだと燐は最初は思ったが、以外にもちゃんと身に付けてくれたようだ。

 

 何とも複雑そうな表情を浮かべているが、気持ちとは裏腹にぴかぴかと辺りを照らしてくれている。

 

 その様子を蛍はパレードみたいと早速写真に収めていた。

 

「うん。これならネットに上げても大丈夫そうだね。今はちょっと無理みたいだけど」

 

 温泉の辺りまで登って来てからというもの、携帯の電波は全く入らなくなってしまった。

 

 今でも田舎や高い山の頂上など電波が届かない地域も一部まだあるようだが。

 

 燐と蛍はそれぞれ別のキャリアなのにそれでも電波が届かないのだから、ここもそうなのだろう。

 

「まぁ、そういうのはテントに戻ってからでいいよね。あの辺りまで降りれば普通に携帯を使う事ができるだろうし」

 

「多分そうだけど、でも、今日中に投稿したいっていうわけじゃないから」

 

 そういう蛍だったが、自身のSNSへの更新は割と頻繁なほうだった。

 

 もともとそういうのは得意じゃなかったはずだったが、趣味で撮った写真を試しにSNSに投稿してみたら、本人の予想に反してその写真の投稿は反響が大きかったので、それ以来蛍はSNSでの投稿にすっかりはまってしまったようだった。

 

 変な事に巻き込まれなきゃいいけど、と燐は少し気を揉んでいたのだが。

 

 本人が楽しそうにネット上でやりとりをしているので、気にはしつつもこの件は水を差さないでおくことにした。

 

 もう分別のある大人なんだし。

 

 まだ、ぎりぎり十代で大学生だけれど。

 

「けど、ああやって光ってるサトくんを見てると、やっぱり光る首輪が欲しくなるなぁ。ねぇサトくん、買ったら首に付けてくれる?」

 

 燐はくすくすと笑いながら、前に動画で見た七色(レインボー)に光る犬用首輪の事を思い出し、サトくんに聞いた。

 

 ポメラニアンほどじゃないけどサトくんもふわふわで真っ白だったから、夜はぺかぺかと光ってさぞかし似合うだろうと。

 

 それこそ動画にとってもいいぐらいに。

 

 だが。

 

「きゅうん、きゅうん」

 

 サトくんはいやいやと首を左右に振ると、ぷいと燐にそっぽ向いた。

 

 やっぱりねと苦笑いする燐。

 

 そんな他愛の無いやり取りも蛍はカメラの中に収めていた。

 

 

 お昼頃に出発したはずだったのに、少女たちが温泉に浸かっている間にすっかり夜となり、辺りは薄暗くなっていた。

 

 月は空に浮かんでいるが、その白い月明かりだけでは夜の森では心もとない。

 

 燐と蛍はヘッドライトを頭につけ、夜の山道をゆっくりと下る。

 

 ペンライトの方は手ぶらのくまに渡した。

 

 くまは物珍しそうにライトを点けたり消したりしながら後ろをついてくる。

 そこまで珍しいものではないと思うのだが。

 

 新しい玩具を与えられた子供の様にはしゃぐくまを見て燐は笑みをこぼす。

 

 確かに蛍の言うように自分にもこういった時があったのだろうと。

 

 もう随分遠くなってしまった無垢で無邪気だったころが。

 

 ……

 ……

 ……

 

(降りだから楽なはずなのに……)

 

 ──帰りの道がとても遠い。

 

 周りが真っ暗なせいもあるのだろうが、本当にこの道で合っているのかと、そんな疑問ですら浮かんでしまう。

 

 湯冷めしないように限界まで服を着込んできたせいか、やけに体が重く感じる。

 

 外は寒くなっているはずなのに、体の内側は熱いから妙なギャップがあった。

 

「大丈夫、蛍ちゃん」

 

 蛍の足取りが少し重くなってきていることで察したのか、燐が声をかけた。

 

「うん。大丈夫。けどさ、こんな道って通ったっけ? なんだか知らない道をあるかされているような気になるよ」

 

 蛍は正直にそう言った。

 

 土地勘がないことがこんなに不安になるなんて。

 

 それは燐も同じだったようで。

 

「確かにね。わたしもさっき、こんな岩の股の間をくぐって来ちゃったっけって思っちゃったぐらい」

 

「燐でもそういう風に思うの? わたしなんかよりも登山の経験ずっと豊富なのに」

 

「ちょっとは経験あるけど、それでも怖いものは怖いから、だから気を付けないとね。油断して滑落や遭難なんてそれこそよくある事だし」

 

 燐は軽く笑みをつくる。

 

 暗がりでも分かる燐の横顔に蛍は何故か既視感を覚えた。

 

「慎重に越したことはないからね。ゆっくり行こっ」

 

「うん」

 

(あれ、でも今の燐って……)

 

 ちょっとだけ”(さとし) ”みたいだった。

 

 多分、意識しているわけじゃないとは思うけど。

 

 そんな感じがした。雰囲気だろうか。

 ほんの一瞬だけど。

 

 わざわざ燐に言う必要はないと思うが、少し胸がチクリといたくなった。

 

 何故だかは分からないが。

 

 ……

 ……

 

「あれ、燐、どうかしたの」

 

 蛍は前を行く燐に話しかける。

 

 急に立ち止まった燐が妙な声を上げたのが気になり、傍に寄って燐の顔を覗き込んだのだが。

 

「あっ……と、ごめん」

 

 折に触れたように燐が口を開く。

 

 だが、そう言ったきり、燐は深い闇の方を見つめて動かなくなった。

 

「何か見える? さっきからそっちの方ばかり見てるようだけど」

 

 ヘッドライトの明かりからでは特に何も見当たらない。

 

 燐と見ている方向が違うのだろうか。

 蛍はちょっともどかしげに頭を動かす。

 

 頭につけた明かりは狙いが上手く定まらない。

 

 何となくイラっとした蛍は燐と体を密着させて強引にその方向へと視点を合わせようとした。

 

「ど、どうしたの蛍ちゃん、急に体を密着してきて」

 

「あ、えっと……」

 

 燐はそう問われて蛍は一瞬きょとんした顔になったのだが、すぐに顔を赤くした。

 

 自分だけ見てて欲しいとはとても言えず、蛍は燐の服を指で引っ張りあげた。

 

「えっと、蛍ちゃん? さっきからどうしたの。もしかして疲れちゃった?」

 

 そう燐に心配される。

 

「あれっ、やっぱり何か」

 

 燐がまた声をあげたので、蛍ももう一度そちらの方を振り向く。

 

 だが、そこには大きな木が一本生えているだけで他にはなにもなかった。

 

 何かの動物が潜んでいそうな感じはするが。

 

「今さ、何か……小さな人影みたいなのが見えた気がしたの。もしかしたら誰か登ってくるのかなーって思って」

 

「それ、本当?」

 

 燐の横に立ち蛍は目をかざしてみる。

 

 蛍の目にはなにも見えない。ただ闇が蟠っているだけで。

 

 ひんやりとした空気のせいか、何もない空間がなんとも不気味に感じる。

 

 ヘッドライトの明かりだけがを頼りなのだが。

 

「多分、わたしの見間違えだと思うよ。こんな時間から山登りする人なんて滅多にいないだろうし。山頂で日の出を迎えるにしても早すぎると思うしね」

 

 ただ、燐にもどこがこの山の山頂なのかは分からないし、日の出が見えそうな場所なんてとても知らないけれども。

 

「そうだよね」

 

 言い聞かせるように蛍は呟く。

 

「でも燐、大丈夫? 燐だって疲れているのなら適度に休んでいいってさっきくまちゃんが言ってたけど」

 

 行くときは結構スパルタな感じで鼓舞していたくまだったが、帰りは一転して燐と蛍を気遣うようになっていた。

 

 彼女の中で何か変わったのだろうか、それとも別の何かがあるとか。

 

「もう、蛍ちゃん。そんなに気を使わなくてもいいからね。これでもわたし、結構タフなんだから」

 

「それは良く知ってる。でも燐って見た目よりもずっと繊細だから」

 

「それは蛍ちゃんの方でしょ? ひとりでいろいろ決めるし、どっちかって言うと決断早い方だから、わたしちょっと心配になっちゃう」

 

「そうかな? けど、燐だって結構大胆にしてるでしょ。無理してないか、わたしだっていつも心配だよ」

 

 これだけ長く一緒にいてもどうしたって気遣ってしまう。

 

 そういうのが”重い”というのは二人ともよく分かっていることなのに。

 

「そっか、でもわたしは、大丈夫だよ」

 

(そう、わたしは残ることに決めたのだから……かんぺきな世界には行かずに)

 

 そう言ってガッツポーズをつくる燐だったが、蛍は小さく笑って首を横に振った。

 

「燐は、小さなガラスの小瓶みたいだから、ずっと大切にしてあげないとね」

 

「そんな、”割れ物注意”みたいにしなくても大丈夫なのにぃ~」

 

 燐は蛍の気づかいを軽く否定するも、それほど悪い気はしていないのか、怪訝と言うよりも喜びの方で顔を歪めていた。

 

 蛍も燐に好意が分かってもらえて小さく微笑む。

 

 だって、自分の中の優先順位というのは燐がいちばん上なのだから。

 

 ずっとずっと──。

 たいせつにしてあげたい。

 

 もう二度と、あんなことが起きてしまわないように。

 

(そう、わたしが守るんだ。きっと他の人には、ううん。わたししかできない事なんだから)

 

 ……

 ……

 

(結局、ここにもいなかった……ざっきぃも……アイツも)

 

 燐と蛍が歩く後ろで、くまは考え込むように腕を組んでいた。

 

 さっきから見てはいるのだが、どちらも一向にその姿を現さない。

 

 彼女はあんな事ぐらいで行方をくらますような感じではない。

 

 そしてアイツは……。

 

(”アレ”は本当によくわからない。そもそも存在していたんだろうか?)

 

 実体が無かったせいか、その印象すら薄く思える。

 

 けれど、絶対的な存在感はあった。

 

 生き物の定義すら曖昧な存在。

 

 多分、アレは。

 

「……やっぱりさ、さっきからちょっとおかしいよね、くまちゃん」

 

「うん……何か、探してるっていうか」

 

 実際、オオモト様を探しに山に行くときから少し様子が変だった。

 

 一人張り切って山を登って行ったと思ったら、急に立ち止まって周囲を見渡したりをしていた。

 

 その挙動は二人からみてもとても落ち着きのないものだった。

 

 それでも元気いっぱいだった少女が、帰りの道すがらで急に息を潜めたようになっている。

 

 警戒しているというか、少し怯えている風にも見受けられる。

 

 それは一体何なのだろう。

 

 さっき、ちょろっとこぼしてたことと言い、やはり何かを知っているのだろうか。

 

 燐と蛍がまだ知らない。

 とても重要なことを。

 

「もしかして……ヒヒがいる……とか?」

 

 オオモト様とサトくんがあの町を離れる際に燐がこそっと聞いてしまったこと。

 

 ”ヒヒが呼んでいる”と。

 

 蛍にもその事は話してあるから、燐に腕を絡めながら不安げな表情を浮かべている。

 

「ねぇ、燐。やっぱり聞いた方がいいよね。なんか一人で悩んでいるようだし」

 

「うん。わたしもそう思っていた」

 

 オオモト様がいなくなった件もあるし、既に何かが起こっているような気配は肌で感じている。

 

 歪みというには小さく、でも絶対に見過ごせない出来事が。

 

 大平口町ではなく、こんな見知らぬ土地でおこっているのだ。

 

 それに、このままテントまで戻ったとしてもきっと何も起こりそうにないだろうし。

 

 燐と蛍は意を決して、くまに真相を訊ねてみること決めた、そのときだった。

 

「…………」

 

 不意にふたりの目の前に人影が現れたのは。

 

 音もなく()()()現れたのだから、さしもの二人も口をぱくぱくとさせて固まっていた。

 

 急に声がでなくなった燐は、小さな口の代わりに両目を大きく見開く。

 

 やはりさっき一瞬見かけたのは見間違いではなかったことを脳に証明させるように。

 

「あれっ?」

 

「あの、もしかして、オオモト……様、ですか?」

 

 たどたどしく声を出す二人。

 

 突然、こんな所に現れたオオモト様にどう対応したらいいか分からず、たた呆然と見つめ合う。

 

 二つの強いライトの明かりを受けてもその人はたおやかに微笑んでいた。

 

「あぁ、良かったぁ!」

 

 燐は肺から空気を送り出すと、ようやくほっと胸を撫で下ろした。

 

 ずっと探していたものが見つかった時のような充足感。

 

 それが感情を刺激して、燐はつい泣き出しそうになっていた。

 

「良かった……オオモト様……」

 

 蛍は薄っすらと目尻に涙を浮かべている。

 

 これまでどこにいたのかは分からないが、とにかく出会えてよかった。

 

 ここに来たのは間違いではなかったとくまとサトくんに感謝した。

 

「それで、今まで何処にいたんですか。わたし達ずっとオオモト様のことを探していたんですよ」

 

 息を弾ませて燐がそう尋ねる。

 だが。

 

「……」

 

 何故かオオモト様は何も答えない。

 

 それどころか燐と目を合わせなかった。

 

 余程、言えないような大変なことがあったのだろうか。

 

「わたし達、さっきまで、山の上の温泉にいたんです。オオモト様もここに来たって言ってたから」

 

「……オンセン?」

 

 やっと一言だけ口を開くオオモト様。

 

「ええ、そうなんです。くまっていう子とサトくんが案内をしてくれて」

 

「オオモト様はこれから温泉に行くつもりだったんですか? 今からだと真っ暗だと思いますけど」

 

 月と星は出ているけれども。

 

「もし、オオモト様が行くならわたし達もついて行こうか? 蛍ちゃんどう?」

 

「うん。燐が行くのなら」

 

 久しぶりにオオモト様と親し気に話す蛍と燐。

 

 よく知った仲だからこそできる他愛のないやり取り。

 そう思っていたのだ。

 

 この時までは。

 

「──ソイツから離れるクマッ!!」

 

 突然大声を上げられて、二人ははっと我に返ったようにそちらを振り向く。

 

 その声を出したのは、やはり”くま”だった。

 

 何か興奮しているのか、小さな肩を上下させ今にも飛び掛からん勢いでまくしたてる。

 

「それは、”ざっきぃ”なんかじゃない……只の化け物なんだ!! だから早く下がって!」

 

 不意にそう言われ燐は不思議そうな顔をする。

 

 蛍はぎゅっと手を握った。

 

 それまでの陽気で年相応な振る舞いをしていたくまが急にはっきりとした口調に変わっていた。

 

 まるでこれこそが少女の本来の姿であるかのように。

 

 サトくんもくまと同意見であるのか、オオモト様の背後から威嚇の為の低い吠え声をあげている。

 

 あのヒヒと対峙したように、まさかのオオモト様を睨みつけていた。

 

 くまとサトくんのあまりの変わりように、燐と蛍は戸惑った表情でたちつくす。

 

 それまでの空気が急に変わってしまった。

 

 その人が来たことによって。

 

 本当は喜ぶべきはずのことなのに。

 

 何故、あんな事を言ったのか。

 

 くまとサトくん、そして()()()()()

 

 それぞれは再会を喜ぶことなく、互いに距離を取っている。

 

 ただ離れているというより、出方を窺っているような。

 

 それは目に見えない緊張感を張らんだものだった。

 

 少なくともくまの達の方からはそんな気配をひしひしと感じさせる。

 

 一方のオオモト様は黙って静観しているようだ。

 

 まるで事態を把握しているかのように正面だけを見ている。

 

 全く事情が呑み込めない燐と蛍だけは、どうしたものかと互いに目を合わせた。

 

「な、何を言っているの。だってこの人は……」

 

 やっと口を開いた燐は途中でちらりとオオモト様の方を見る。

 

 何かちょっと雰囲気的なものが違うなぁとは思うけど、この人だったらそんなに不思議なことではないことだ。

 

 初対面からどうにもつかみどころのなかった人だったし。

 

 何か、あったのだろうとは思っているが。

 

(そう……あの時の蛍ちゃんみたいに。きっと、すぐには話せない事情があるんだ……)

 

 蛍もやはりオオモト様の弁護の方についた。

 

「この人は、オオモト様だよ、くまちゃんだって、それは知っているんじゃなかったの」

 

 蛍はぽつぽつと言葉を区切りながらくまに向かってそう言うと。

 

「だから大丈夫だよ、ね?」

 

 諭すように軽く笑みをくまに投げた。

 

「……ふぅん。ボクの言うことが信じられない、そういうことクマか……」

 

 くまはぷくっと頬を膨らませたが、自らを落ち着けるようにちいさく肩をすくめた。

 

 この時はこれで分かってくれたと思ったのだが。

 その後のくまの行動はあまりに突飛的だった。

 

 何か、おかしくなったと思うほど。

 

 くまは一瞬、サトくんの方をみたと思うと。

 

「だったら、その目を覚まさせてやるクマぁ!!!」

 

 自身の服のポケットにおもむろに手を突っ込んだくまは、こちらに向かって何かを投げつけてきた──。

 

 ──

 ──

 ──

 

「──蛍ちゃん、オオモト様っ! 危ないっ!!!」

 

 咄嗟に燐は蛍の事を正面から抱きしめた。

 

 すぐ来るであろう衝撃を背中で受けとめようと思ったのだが。

 

 何故かそれは一向に訪れない。

 

 蛍は燐に抱きしめられたまま目を大きく見開いていた。

 

 その少女の──”くま”の方を一点に見つめながら。

 

 くまには罪悪感とかそういうのはまるでなく、むしろ疑問が確信に変わったかのように唇を舌でぺろりと舐めている。

 

 どういうつもりなのだろう。

 蛍は不意に眉を寄せた。

 

 一方の燐は。

 

(あれ? どこも痛くない?? もしかして外れちゃったとか……?)

 

 身体の何処にも痛みや衝撃がこなかったことに燐は内心首をかしげていた。

 

 さっきからばくばく言ってるのは自分と蛍の心臓の鼓動だ。

 

 小石のようなものをいきなり投げつけられたから、やっぱり動揺をしてしまう。

 その為の庇う行動だったのだが。

 

 単純に見間違えたのだろうか。

 

 だが、それはそうではなかったようで。

 

「燐……あれ……」

 

 蛍が燐の耳元で囁いて、そこに指を差す。

 

 本当に一瞬だったが、蛍には弾道が見えていた。

 何を飛ばしてきたのまでは分からなかったが。

 

 落下点を見つけることはできた。

 

 だがその指先は震えていて、方向は燐や蛍よりも後ろの方をさしている。

 

 もっと正確にいえば”ちょうどオオモト様とのサトくんの間の地面”に蛍の指は向けられていた。

 

「あれって……」

 

 燐は石か何かと思い込んでいたから、ライトで照らさないときっと分からないだろうと思った。

 

 だが、それは意外にもはっきりとわかった。

 

 差し込んでいた月明りがその対象を綺麗に照らしだしていたから。

 

 燐は蛍からそっと体を放しそれを拾い上げようとしたのだが、その前にサトくんがぱくっと口で咥えてしまった。

 

 そのままサトくんはとことことこちらに近寄ると、呆然としている燐の手のひらにそれを器用に乗せた。

 

 燐の掌には綺麗な包装紙に包まれたキャンディーがひとつだけあった。

 

「もしかして投げたのってコレ……なの?」

 

 まざまざと小さな飴玉を見つめる。

 

 駄菓子屋なんかでよくありそうな赤と白のストライプの包装紙に飴はくるまれていた。

 

 恐らく、コーラ味だろうか。

 

 無論、そんなことは問題ではなくて。

 

「な、なぁんだぁ、わたしてっきり……」

 

 燐はほっと息をつく。

 

 かなりの速さで投げてきたみたいだったから、石じゃなくとも何かボールみたいなものかと思っていた。

 

 だがそれがただの飴玉だったなんて。

 

 すっかり勘違いをしてしまったことに、燐は顔を赤くする。

 

「もう、危ないじゃない! 当たらなかったからいいものの、そういうことしちゃダメって教わらなかったぁ?」

 

 眉を寄せた燐はくまにそう抗議をした。

 

 ちょっと危なっかしくみえる子だとは思ったけれど、まさかこんなこともするなんて。

 

 流石にちょっとカチンときてしまった。

 小さな飴だまとはいえ、食べ物を無下に扱っているわけだし。

 

 だが当の本人は反省するようなこともなく、むしろ指をさして叫んでいる。

 

 何かの証明が今なされたみたいに。

 

「ボクの狙いは正確なんだクマっ! だからソイツが異常なんだ! いい加減気付くクマっ!」

 

 歯がゆさともどかしさがないまぜとなった表情でくまは声を荒げながら、ポケットから取り出した飴玉を何個も投げつける。

 

 それらは全て”オオモト様”を目がけて投げているのだが、その一個すらも当たらない。

 

 ぽとぽとと地面に落ちていくだけで。

 

 オオモト様の周りにだけ、キャンディーが散らばっている。

 

 確かに身体をすり抜けているように見えるのだが。

 

「もう止めってってばぁ!」

 

「きゃあっ!」

 

 燐と蛍がばたばたと手を振り回すだけで、肝心の相手は微動だにしていない。

 

 そっちは全く狙っていないというのに。

 

「くっ、そぉ……! やっぱり当たらないのかぁ」

 

 くまはぎりぎりと歯ぎしりをした。

 

 二つの瞳は燐と蛍ではなく、背後のオオモト様だけをガンと睨みつけている。

 

 何かの仇のように。

 

(狙ったって……? 一体、何を言っているの、くまちゃん……)

 

 飴玉による投擲がようやく止んだ後で、蛍は頭を抱え込んでいた手を恐る恐る下げた。

 

 そのまま口に当て、くまの言葉の意味を考える。

 

(わたし達じゃなくて、オオモト様に向かって飴を投げたって言っていたけど……)

 

 でも、それこそ何のために。

 普通に手渡しすればいいだけの気がするけど。

 

 それにしたって投げるのは乱暴だし、結局、受け取ってもらえなかったようだけれど。

 

 ちょっと落ち着くことが出来た蛍は首を傾げながら、くまとオオモト様を交互に見やった。

 

 だが燐はまだよく分からず話を続けていた。

 

「さっきから何の話をしているの? もう少しで当たる所だったんだから加減ってものをさ──」

 

 燐が途中までそう言いかけたその時だった。

 

 それまで黙っていたオオモト様がまた口を開いたのは。

 

「ドウシテ……」

 

(……えっ!?)

 

 傍で聞いていた燐はぎょっとなった。

 

 驚きと衝撃が足元から脳髄まで一気に駆け上がった。

 

 それは今まで聞いたことのないオオモト様の声──いや、忘れたくとも忘れられないあの、人とは違った”ナニカ”の声だったから。

 

 正確にはあれらよりもう少し高い声なのだが、そんな事は全く問題ではなく。

 

 今、目の前にいる人が獣のような声を発していたことが問題だったのだ。

 

 ──信じたくはなかった。

 

 だが、”この人”が喋り続ける度に疑問が確信に変わっていってしまう。

 

 これは一体、誰なのだろうと。

 

「何故、ソンナニ野蛮ナノカシラ……コノ獣人間ハ……ヤハリ……デキソコナイダカラ……?」

 

「…………!!」

 

 蛍は思わず両手で顔を押さえた。

 

 その細い足はがくがくと小刻みに震えている。

 

 確かに聞いたのだ。

 あの人の唇から出た言葉を。

 

 綺麗だった人の口から零れだしているのは、聞いただけで耳の奥底が粘つくような、おおよそ人が出せるような声ではなかった。

 

 ヒトと獣の中間──すなわち、人でないもの。

 

 人かどうかの定義など意味がないと言っていた人が、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 頭では固くなに拒否しても、事実としてそれを理解させられてしまう。

 

 耳から流れてくる現実の音として。

 

 これは燐や蛍じゃなくとも、とても信じがたい光景であった。

 

「あ、あなたは、オオモト様……なんですよね? そのままの」

 

 気丈にも蛍はそう尋ねていた。

 

 良く知っている人だし、それに自分とは肉親関係に近い存在だと思っているから、そんな事をわざわざ聞くのは失礼だとは思ったが、そう思うよりも先に口が動いていたのだ。

 

 きっと何か、聞き間違いであると、その小さな望みにかけて。

 

 だけど。

 

「……ソウ、ナリタイト思ッテルワ。ドンナコトヲシテデモ……」

 

 ニタリとそいつが嗤った。

 

 端正に見える顔を歪ませて下卑た笑みを浮かべてこちらを見たのだ。

 

「ひっ!」

 

 蛍は、一歩、二歩と後ろに下がる。

 

 何故だろう。

 

 確かにその時は、よく知っているはずの人に見えたのに。

 

 なぜ今、違ったものに見えているのは。

 

 ”おとなの姿のオオモト様”だったものが、別の、知らない女性に変わっている。

 

 顔立ちどころか雰囲気ですら全く違う、人の概念から外れたものに。

 

「あれは、何?」

 

 燐は自分の目をごしごしと擦る。

 

 燐はそれの顔ではなく、来ている黒い衣服のその下をみて驚愕する。

 

(えっ、嘘っ!? 足が宙に浮いてる!!??)

 

 月明りが照らす石の地面にはそれの影があり、その少し上で()()の白い素足が重力に逆らうようにして浮いていたのだ。

 

 何度まざまざと見つめ返しても、そうにしか見えない。

 

 人でない”何かが浮いている”としか。

 

(オオモト様じゃないんだ……じゃあ、これがもしかして……くまちゃんが言っていた……”アイツ”なの?)

 

 くまがたびたび口にしていたのはこれの事だったのだ。

 

 それは、長い長い黒髪をもち、複雑な模様の黒い着物から見えるのは生気を失ったように真っ白い肌。

 

 そして。

 

(空虚な……光のない黒い瞳……)

 

 蛍にもようやくはっきりと分かった。

 

 オオモト様ではないという事実……いや真実をやっと理解することができた。

 

 そして、あの子が何のためにそんな事をしたということにも。

 

「燐っ!」

 

「蛍ちゃん?」

 

 蛍はすぐさま踵を返すと、まだ立ち尽くしている燐の腕をとった。

 

 そして一気に丘の上にまで駆けだす。

 

 まだ理解が追い付かない燐も反射的に後について走り出す。

 

 向かう先には、くまとサトくんが待っていた。

 

「早くこっちにくるクマっ!!」

 

 蛍は燐の手をぎゅっと握ったまま、いつの間にか来ていたサトくんとくまの方へと走る。

 

 二人がこっちに来たことを確認したくまはサトくんと一緒に走り出した。

 

 急な逃走劇に、燐は走りながらくまに問いかける。

 

 まだよく状況は上手くのみこめないが、最初から知っていたようだったし、今はとにかくあれから逃げる事と情報が欲しかった。

 

「な、何なのあれっ! てっきりオオモト様かと思ったら、まるっきり別人なんだけどぉ!?」

 

「あれは、きっと物の怪(もののけ)クマ。ボクも最初見た時は何かと思ったけど……多分間違いないがないよっ!」

 

 その言葉で燐は合点がいった。

 

 くまが言っていたのはこれのことだったんだと。

 

「でも、もののけって……妖怪ってことでしょ? そんなのが現代にいるなんてこと……」

 

 あるはずがないのだが。

 

 蛍はつい後ろを振り返っていた。

 

 こうして離れてみるとそれが良く分かる。

 

 オオモト様と見間違えたことがおかしいと思えるほど、異質な存在がすぐ近くに居たのだと。

 そのことに身震いすら覚えてしまう。

 

 ただ、あの歪んだ夜のときも町の人達は所謂”のっぺらぼう”状態だったから妖怪的なものはもうすでに目にしていたとは思うが。

 

 それにしたって”アレ”はそれとも違う。

 

 纏っている空気のようなものがこれまで目にしてきたどれとも違う。

 

 ヒヒや白い人影のような分かりやすい”意思”が感じられなかった。

 

 だからもののけと形容したのだろう。

 

 言い得て妙だと蛍は走りながら思った。

 

「じゃあ、さっき飴を投げつけたのも、その為?」

 

「そう。だけど、出来れば当たって欲しかったんだよね、ふつーに」

 

 くまは呆れたような顔を見せる。

 

「でも、アメなんか投げて何になったの? そういうのが苦手ってわけでもないだろうし。それに”妖怪”って……」

 

 妖怪というか、見た感じでは、ただゆらゆらと揺れているだけのようだった。

 

 ちょっと宙に浮いているせいなのかもしれないけれど。

 

「あ、そういえば」

 

 そう言って燐はスカートのポケットをごそごそと漁ると。

 

「これ、返すね。もうあんな事しちゃダメだよ」

 

 燐は拾い集めた飴玉の一つをくまにひょいと投げて返す。

 

「んっ。さんきゅー、クマ!」

 

 くまは燐に一応お礼を言うと、元気よくそれを受け取った。

 包み紙を素早く解き、口の中に飴玉を放り込むつもりだったのだが。

 

(あ、割れちゃってるクマ……まあ、ボクが投げつけちゃったから、それは当然か)

 

 苦笑いを軽く浮かべると、砕けてしまった飴玉を丸ごと口の中へと放り込み、小さな歯で一気にばりばりと噛み砕いた。

 

 これはこれで美味しかったのだからいいのだけれど。

 

 それにしても、アイツは──。

 

「アイツは……多分、”だいだらぼっち”クマ。それを見せる為にポケットにあった適当なものを投げつけたんだけど、やっぱりそれは事実だったクマね」

 

「だ、ダイダラボッチぃ!?」

 

 突拍子のない単語に燐と蛍の声が重なり合う。

 

「見たのは初めてだったけど、多分、間違いないクマ」

 

「わんわんっ」

 

 くまの言葉にサトくんが同意する。

 

 だけど。

 

「で、でもダイダラボッチって確か巨人……なんでしょ? どうみてもあれはわたし達と同じぐらいだよ?」

 

 妖怪にはそこまで詳しくはない燐だったが、その名前ぐらいは知っていた。

 

「ダイダラボッチは、姿形を自在に変えることが出来るクマ。だから、実体がない。それは知っていたはずだったのに……」

 

 くまの終わりの方の言葉は小さく、とてもか細いものになっていた。

 

 くまにしてみれば昨晩のことはまさに悪夢でしか言いようがなかったから、できれば違う風な結果になってもらいたかったのだが。

 

 誤算ではないにしろ、その結果はある意味予想通りなものだった。

 

(それどころか、アイツ……ざっきぃにまで化けられるなんて)

 

 まだ狐やタヌキような輩の方がマシだ。

 

 もし聞いていたことが本当なら、殆ど死なないようなものみたいだし。

 

 サトくんもそれを本能で知っているのか、だいだらぼっちに攻撃をすることもなく、自分達といっしょに逃げている。

 

 何か弱みを握られているわけでもないのに手も足も出ないのは、それまで敵なしだったくまやサトくんにとってはかなりのショックであり、そして二度目の逃走でもあった。

 

 特に対策などは立ててなかったわけだし。

 

 できれば出会いたくない相手であった。

 

(じゃあもしかして、わたしと燐が()()()で出会ったヤツも、それ、だったの……?)

 

 蛍は懸命に足を動かしながら、その時のことを思い返す。

 

 石碑の近くで燐と一緒に見たのが多分そうなのだろう。

 

 じゃあ、青いドアの家で自分が遭ったのものは?

 

「……」

 

 あれの正体は、今でも掴めていない。

 

(けど、もしそれも”だいだらぼっち”の仕業だったのなら……?)

 

「わんわんわんっ!」

 

「ど、どうしたのサトくんっ」

 

 急に後ろで走っていたサトくんが吠えたてたので、蛍はそちらを見る。

 

 あれから結構走ったのだから、もうアイツは視界からはいなくなったものだと蛍は思い込んでいた。

 

 だがそれは甘い考えだったようだ。

 

「──ね、ねぇ、燐! なんかこっちに近づいてきてない!?」

 

 蛍は燐の手を強く手を握ってそう言った。

 

「それって本当なの、蛍ちゃん!」

 

 蛍の真意を確かめるまでもなく燐も振り返る。

 

 そこには。

 

(あっ!)

 

 確かにアイツがこっちへ来ている。

 

「サア、コッチヘオイデ……」

 

 何かぶつぶつと口にしながらこっちに向かってきているようだった。

 

 結構、全力で走っているというのに何故追いついてこれるのか。

 

「あんなに走ることができるなんて聞いてないクマっ!! ()()()()()()そんな様子まったく見せなかったはずのにぃ!!」

 

 くまはヒッと唸るとそう叫んだ。

 

(じゃあやっぱりアイツは浮いているの? ダイダラボッチってそんな事ができる妖怪だったっけ? でも、それでなくっちゃまるっきり説明がつかないよっ!)

 

 半狂乱になりそうな心を押しとどめて、燐は懸命に前だけを向いて走った。

 

「ねぇ、燐、どうしよう!?」

 

 隣で蛍が叫ぶ。

 

「う、うん」

 

 燐は曖昧な返事を返すことしかできない。

 

 くまは首を捻りながらぶつぶつと何かを言っているが、その間もアイツが真っ直ぐにこちらに向かって近づいてきている。

 

 黒と闇しかない世界で、少女たちは追い詰められた獲物のように暗い深淵の中へと追い立てられようとしていた。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 






☆明けましておめでとうございますー! 今年もよろしくお願いします。

と、すでにもう1月……いや2月なのですが、今年も高畑不動尊にてお参りをしてまいりました。

お堂の前に、高尾山のひっぱり蛸のように撫でると良さそうな像が(慈覚大師?)置いてあったので、とりあえず喉の辺りをぐりぐりと撫でておきました。相変わらず喉の調子が悪いみたいなので。



■つなキャン△

まさか長期メンテに入ってしまうことになるとは思わなかった──ですよー。
私は一応サービス開始直後からほぼ毎日ログインしていた勢だったのですが、コロナに罹ってからというもの、そのログインすらやる気力もなくなって、結局今になっても復帰しなくなってしまっいまいした。
まあ、これは、つなキャン△がどうこうという話ではなくて、単純に体調悪い時ってそれまでしていたゲームすらしたくなってしまうといいますか、むしろもっと単純なレトロゲームの方をやりたくなっちゃうんですよねー。個人的な性癖? だとは思いますが。

ただ、つなキャン△がこういうことになってしまったのはシステム的な問題と言いますか、思ってた”ゆるキャン△のゲーム”と違う、と感じた人が結構いたのかなーって思いましたね。
ずっとやっていた人達は、私も含めてみんなゆるキャン△が好きでやっているんだと思います。だからキャラ的な要素として見てる人は多いとは思いますねぇ。その辺りニーズを満たせてなかったのかなって感じがいたしますねぇ。結局、使えるキャラはいつもの5人だけで、あとは衣装違いだけでしたし。まあオリキャラが出てくるよりはいいとは思いますが。
でも、キャラゲーっていうのは本当に難しいとは思います。上記にあげたレトロゲームだって昔のキャラゲーは結構酷いゲームばかりでしたからねー。イメージすら全く合ってないものもあったりしますし。

実際、つなキャン△は他のソーシャルゲームと比べてもかなり緩めの難易度設定になっているとは思いますが、その分作業感が強めに感じてしまった感はありますねぇ。
後、キャンプをしているという感じが伝わりきれなかったのも……実際、ゲーム内のキャンプはほぼ放置で成立してましたからねぇ。ストーリーが終わったら、後はイベントを淡々とこなすだけになっておりましたし。


さて、これから約二ヵ月間長期のメンテに入るようですが、どう変化するのでしょうか。ちょうどアニメ三期が始まる時期に再開するようですし、良い感じでリニューアルスタートを切れることを期待してまったりお待ちしております。

それにしても……不調な時は何をしてもダメだという事ですねー。やっぱり病は気からという事で。


それではではではーー! 今年もよろしくお願いします。





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Phenomenon


 なんでなんでなんでなんで。

 どうしてこんな事になっているんだろう。

 ただ普通に週末の秋の紅葉愛でながら、トレッキングとか、キャンプとかのアウトドアをしたいなって思ってきただけなのに……!!

 何故こんな不可思議な出来事になんか、また巻き込まれているのだろう?

 これがもし何かの歪み──何かに対しての異変なのだとしたら。

(一体いつまでこんなことに振り回され続けなければならないの……わたし達……)

 そんなどうしようもない疑問が蛍の頭をぐるぐると悩ませる。

 いくら逡巡したところで解決の糸口なんか全くつかめないとは思う。

 それでも考えなくてはならない。
 こんな理解不能で理不尽なことにも。

 そう思ったときだった。

 音もなく”ソイツ”が暗い林の奥から現れたのは。

「…………!!」

 思わず息を止める。

 出来ればドキドキと鳴る心音すらも止めたかったが、それはとても無理なことだったから。
 唯一出来ることをした。

 光すらも通さないのか、黒く、影のような姿は月明かりに照らされても尚、真っ暗なまんま。

 一見、背の高い女性のような風貌をしているが、血のようにどす黒い瞳はとても人のもつものではない。

「……」

 呻くような声どころか僅かな足音すらもしない。

 あまりにも静かすぎるから、樹木の影が伸びているだけと錯覚したほどだった。

 それはまるで、周りの木々や草が”ソレ”という存在を避けようとしているみたいに、一切の物音すらもしなかったのだから。

(本当に地面から浮いているんだ……)

 草の隙間からみただけだが確かに地面から十数センチほどのところで黒い草履のようなものを履くソイツの足が浮いていた。

 当初は燐がいったことをすぐには鵜呑みにはできなかった蛍だったが、まざまざと目の前で見せつけられてしまって、やっと理解ができた。

 あまりのショックの大きさに、二つの瞳をこぼれるほど見開きながら、片手で口を抑えて声を出さないよう必死にこらえている。

 隣にいる燐も草木の影から静かに様子を窺っていた。

(アイツ、こっちに来ちゃったんだ……早くどっかに行っちゃえばいいのに……!)

 蛍の手を握りながら大きな瞳だけを燐は忙しなく動かす。

(”ダイダラボッチ”って言ってたようだけど……くまちゃんは)

 結局それは何なのか。

 そして何でそんな事を、あの子は知っていたのか。

 首根っこを捕まえてでも、その辺りを問いただしたかったのは確かだったが、そんな余裕はもうどこにもなかった。

(だいだらぼっち、って言ってるんだし、”ぼっち”なんじゃないかとは思うけどさ)

 そんなどうでもいい事しか今の燐の頭には浮かんでこなかった。

 危機はもう──すぐ目の前にまで来ているというのに。

 それこそ、手を伸ばせば触れてしまえそうな距離にまで。

 もっとも──触れられるかどうかは分からない。
 何しろ相手は全てを霧のようにすり抜けてしまえるようだし。

 だから今はこうして、ちょうど目についた灌木の後ろで二人で蹲りながら、何処かへ行ってくれるのを期待して隠れて待つことしかできないのだ。

 結局、あの時と同じことをしている。燐は他人事のようにそう思った。

 だが、こうして隠れるしか選択肢はなかった。

 どうせ逃げた所でこれはどこまでも後を追ってくる。
 燐も蛍もそんな気がするからだった。

 息を潜めて迫りくる脅威をやり過ごすのがいちばんだというのを本能の経験のところで分かっていたのだから。

 燐と蛍が、異形のものに追いかけられるのは初めてのことではない。
 だか、それが何になるというのだろう。

 二人よりも屈強な人だって、身の丈以上の危険を感じたら、逃げるか隠れるかしかないだろう。

 だって人はそこまで強くはないのだから。

(コイツって何なんだろう? わたし達を追いかけて一体何の得が……)

 そう、コイツの目的が未だはっきりとしない。

 自分達を見つけて、一体どうする気なのだろうと。
 疑問が頭をもたげてしまう。

 そして、どういう動きをしてくるのか、それも全く予想がつかない。

 燐のもう片方の手には、例のクマ除けのスプレー缶がしっかりと握られていた。

 武器になるものと言えばこのぐらいしかなかった。

 トレッキング用のポールを投げつけたところで何の効果もないだろうし。
 
 気を逸らせるぐらいで。

 けど、これだって何の意味はないだろうと、燐は思っていた。

 良くてせいぜい一瞬怯ませられるぐらいだけ。
 それすらも出来ない可能性の方が多分強いか。

 だって相手はクマでもなければ、顔のない人影でも、あのヒヒでもない。

 まだどういう存在だかよくは知らないが。

(危険な感じだけは、ビンビンと来るんだよね……命まで取られるかはまだ、分からないけど)

 こういった”人外的”なモノに限ってやけに鼻が良かったり、何かの方法で気配を感じることが出来る場合が多い。

 あのヒヒがそうだったのだから、きっとこいつもそんな能力的なものを持っている気がする。

 当てずっぽうじゃなく、匂いとか温度とかそう言った変化を感じ取ることが出来るとしたら。

(…………)

 全く動くことが出来ない。

 想像しただけで全身の血が凍るようなそんな気持ちになる。

 それでも隠れ続けなければならない理由があった。

(それは普通(シンプル)に怖いから、だと思う……まだ危害を加える相手かどうかは分からないけど)

 だが、そうなってからでは遅いことは二人とも知っている。

 相手の名称や目的が分かったって、対処法とかを知っているというわけではないのだから。

 そもそも妖怪のようなのが居るだなんて聞いていないわけだし。

 もっとも知っていたら、わざわざ来ることなんかないはずではあるが。

 ソイツがぴたりと立ち止まった。

 すぐ近くに気配はあるのに何も感じない。

 時が止まったみたいに思えた。

(な、何、あれっ!!)

 燐は零れるぐらいに目を大きく見開きながら蛍の手を強く握る。

 何事かがあったと思い、蛍が恐る恐る薄目を開けようとした、そのときだった。

 みしりと空気を圧縮したような嫌な音がして、アレがまたカタチを変えていた。

 これまでに見たどんな奇怪な出来事よりも信じがたい光景が目の前で起こったのだった。

(あんなのもう、ただの化け物だよ……!)

 蛍は再び目を開けてしまったことを後悔したのか、すぐに瞼を閉じた。

 暗がりだったからとは言え、オオモト様と見紛うぐらい整った女性の顔をしていたと思っていたものが、ぐにぐにと輪郭を変形させていた。

 まるで出来損ないのモンタージュ写真を寄せ集めて丸めて出来た粘土のように、顔立ちだけでなく、手や足の輪郭すらも変化させていたのだ。

 それはどんどんと上へと伸びていく。

 昆虫が変態を繰り返すように、思うがままの姿へとそのかたちを変えていく。

 もっとも適切で合理的な姿へと。

(どこまで、大きくなるつもりなのっ……!)
 
 人の影そのものが意思をもっている。
 そう思われたとしても過言ではない。

 ──こんなのを目にしてしまうと。

 黒い姿の巨人が急にそこににゅうっと現れたみたいに、極端に細長くなった体躯(カラダ)をゆらゆらと燻らせながら、ソイツが周囲を見渡している。

 キリンか何かのようにと比喩したいところだが、とてもそんな気には起きさせてはくれない。

 あまりにも醜悪すぎて。

 あのヒヒですら凌駕するほどの大きさと不気味さだったのだから。

 見上げている二人の首が疲れてしまうほどの高さにまでなっていた。

(こんなのもう、相手にできるはずないよっ……!!)

 蛍だけでなく燐もぎゅっと目を固く閉じ、寄り添い合うように身を縮こませた。

 この時ばかりは全く無関係な、石ころのような無機物になりたいとさえ願ったほどだった。

(あんなのに見つかったら、わたし達……)

 本当にどうなってしまうのだろう。

 もう、逃げだすことも助けを呼ぶことも出来ない。

 コレが何処かへ行ってくれるのを願って待つだけ。

 その程度のことぐらいしかもうできないのだ。

(すごく息苦しい……胸が張り裂けそうになる……)

 ただ少しの時間が過ぎるのがとても長く感じる。

 不意に今いる現実を確かめたくって、腕時計で時間を確認してみたくなるが、そんな事すらも危うく感じられて、燐は開けそうになった目を途中で閉じた。

(早く、行って、行ってよぉ……! もうっ……)

 この状態はいつまで続くのだろう。

 結局、こういった現実離れしたような脅威に対しては過去の経験や知識など何の役にも立たないというのは頭では分かっていたが。

 こう、たびたび変な事象が現れてしまうと、否応なしにその事を理解してしまう。

 それは頻度が多いとかそういうのではなくて。

 あれだけの経験をしても、何の対策も立てられていないという事実に情けなくなってしまうのだ。

 心構えが多少あったって、そこに行動が伴わなければ、それは何をしていないのと同義だ。

 理不尽だとは思うけれど。

「…………」

 ダイダラボッチは何も言わずに首だけを長くして、草むらや木の間を覗き込んでいる。

 草食動物が首を伸ばして餌を探すような可愛らしい仕草なんかものではなくて。

 そこだけが別の生き物のようににゅるにゅると伸び、人の顔のようなものだけが宙に浮かんで周囲を見渡しているのだ。

 どこか既視感を覚えさせる光景だったのだが、目を閉じている二人にはそれが何なのかは分からない。

 ただ、何かをしているというのは気配で分かってしまう。

 声のようなものはないが、すぐ傍でぴりぴりと何かを探るような気配が肌を通して何度も流れてきていたのだから。

 殺気というか、ちょっとでもその先端に触れたらまるごと無くなってしまうような、嫌悪感が満ち満ちていた。

 下手に動くと大変なことになる。
 それだけはハッキリしていた。

(……ひっ!?)
 
 気配を伴った風が蛍の柔らかい頬をぬるりと撫でた。
 
 全身が総毛立ち、蛍は思わず叫び声をあげそうになる。

 ”蛇蝎(だかつ) のごとく嫌う”というのはきっとこのことだろう。

 ホラーゲームのような有り様に巻き込まれているのだから当然の反応だと思う。

 一秒。

 二秒。

 刻々と時間は過ぎていっているはずなのに。

 一向にその時は訪れない。

 見つける気がないのか、それともただ……弄ばれているだけなのか。

 果たしてそのどちらでもないのか。

 何故かこちらだけを見ていない。
 そんな気がしてしまう。

(どうしたらいいの……わたし達……この状況で)

 緊張のピークはもうとっくに過ぎている。

 正直、今すぐにでもこの場から飛び出して、一目散に逃げだしたくなるほどに。

 警鐘を打ち鳴らすように、心臓が早鐘を鳴らし続けている。

 あまりにも五月蠅いから胸を突き破って出てきてしまうのではないかと、いらぬ危惧を抱いてしまうほど、明らかな焦燥感を感じ取っている。

 それは二人とも同じようで、燐も蛍も歯を食いしばり、冷たく汗ばんだ互いの手をぎゅっと握りしめていた。

 喉が張り付いてきているのか、蛍は生唾を飲み込む。

 この音ですら向こうに伝わってそうに思えるが、もう何度もやっている無意識の行為を止めることができない。

(もしかしたらあの時、電話ボックスから出てきたのも……コレだったの……?)

 直近で起きた()()()()()()を蛍はそう結び付けていた。

 青いドアの家の近くにあった、あの電話ボックス。

 突然、受話器の穴という穴から這い出てきた黒い触手こそ、コイツなのではないのだろうと。

 一度そう考えてしまうと、やけに辻褄があってしまうように思えるものだから、蛍は怪訝に眉根をよせながらも想像が止まらなくなる。

 それがただの妄想であればいいのだろうが。

 ……
 ……
 ……

「蛍ちゃん」

 あれからどれぐらいの時間がたったのだろう。

 軽く肩を叩かれた蛍はぱちっと目を開けた。

 開けた瞼の先には困った顔で苦笑いする燐の顔が見えた。

「多分、もう大丈夫だと思う」

 固くなった表情を燐が崩している所をみると、どうやら本当にあの黒い存在は去っていったようだった。 

 ようやく蛍は深いため息をつく。

 その途端、これまで何故か聞こえなかった、風や小さな生物の声が耳に届くようになった。

 ただ単純に隠れるということ。
 それがこんなにも難しいことなんだというのを改めて思い知る事になった。

「ねぇ、燐……あれは何処に行ったの」

 まだ灌木の影に蹲ったままの蛍が問いかける。

 燐もすぐに出ようとはせずに横目で周囲を窺いながら、小さな声色で囁く。

「ごめん。わたしもずっと見ていたわけじゃないの」

「燐もそうなの?」

「うん。だからいつの間にかいなくなっちゃってた」

 燐のその言葉に蛍は複雑そうな顔をする。

 安心していいのか悪いのか。

 だが、ともかくふたりとも無事なのだから良しとするしかなかった。

「おーい! キミたち無事だったクマかぁ?」

 がさがさと下草を踏む音が聞こえたかと思うと、白い犬を連れ立ってくまが手を振りながら呼びかけているのが見えた。

「んー、こっちー」

 燐は、何故か釈然としない表情で手首だけをぱたぱたとさせて返事をした。

「燐、どうかしたの?」

 その仕草に心配になった蛍が顔を覗き込む。
 どこか痛めたとかの様子ではなさそうだが。

「うん……」

 燐はそう言って少し下を向いて俯いた。

 心なしか唇が震えているようにみえる、確かにあんなことがあった後だから無理もないのだが。

 実際蛍も未だ立ち上がることが出来ずにいた。

「だってさ、あんなノー天気な感じでくるんだもん。流石に調子狂っちゃうよぉ」

 途中でサトくんと達と二手に分かれたのはよかったが、結局こちらの方ばかりにあの化け物がやってきてしまった。

 燐はその事を非難しているというよりも。

「もしかして、燐。拗ねてるの?」

 何気なく言った蛍の言葉に燐は肩をすくめる。

「もう、わざわざ言わないでよ~蛍ちゃん。ちょっと恥ずかしいじゃん」

 そのあとで。

「これでも……怖かったんだよ、わたし。平気そうにみえるかもしれないけど」

 小さくぼそっと呟いた。

 蛍は苦笑しながらも安堵する。

 燐も自分とおんなじなんだなって。

「こういうのって、いつまでも慣れないもんだね。怖いことなんてそれこそ嫌になるほど体験しているはずなのにね」

「けど、慣れたら慣れたで何かそれは違う気がする」

「そうだね……そうだと思う。わたし達はきっとこのままで、いいんだよね」

「うん、多分ね」

 二人はまだ表情を固くしたまま、互いのことをそう慰め合った。

 ──
 ──
 ──




 

「それで……ふたりは、どうするクマ?」

 

 そうくまが聞いてきたのは、あの打ち捨てられた廃屋のすぐ近くにまで降りてきたときだった。

 

 多分、そこまで考えて発した言葉ではなかったのだろう。

 

 だがそれは、いずれ言わなければならないことでもあった。

 

 別離(わかれ)の言葉として。

 

 

 ──アレがいなくなった後。

 

 白い月が照らす小高い丘の上で、少女たちは少しの間、議論というかこれからのことを話し合った。

 

 確かにオオモト様の行方は気になるのは確かだが、それよりももっと大事というか直近での危機があったから。

 

 後ろ髪を惹かれる思いを断ち切って、出来る限り速やかに下山を目指す方針となった。

 

 出鱈目に山の中を逃げ回っていたと思っていたのだが、実は案外そうでもなかったようで。

 

 登った時に付けて置いた目印を、少女たち一行は難なく見つけることができていた。

 

 何故だかコンパスは効かないままだったが、サトくんの鼻のお陰で暗い夜でも道を踏み外すことはなかった。

 

 特に何か壊れるようなこともなく、誰一人怪我もない。

 

 くまが投げたあめ玉はひとつ残らず砕けていたようだが。

 それだって皆に配って既に消化してしまった。

 

 唯一の心残りはやはり、オオモト様のことぐらいで。

 

 それこそが肝心なことなんだけど。

 

 身の危険を冒してまでもやることではない。

 

 この山には遭難するよりももっと恐ろしい怪物が住んでいたのだから。

 

 ”くま”は当初はサトくんよりも更に嗅覚が優れていると豪語していたが、結局先頭をサトくんに譲ったまま、自身は隊の殿を務めていた。

 

 そのおかげなのか、あれから自分たちを追ってくるようなものは一切出てはこなかった。

 

(諦めたのなら、いいんだけど……)

 

 まだ安心はできないだろう。

 

 あの手の存在は神出鬼没をモットーとしているぐらいに突飛に現れてくるものだし。

 

 油断している所をばくっとなんて、それこそホラー映画なんかでは良くある展開だから。

 用心することに越したことは無いのだ。

 

 燐は小さい頃からのアウトドアの経験からそう思っていた。

 

 皆、無言のまま、小一時間ほどかけて山をゆっくりと降りる。

 

 ひどく疲れてしまったが、ようやく見知ったような所にまで出ることができた。

 

「やっと、ここまで戻って来ることが出来たね」

 

 少しでも見慣れた場所に来たことでようやく安心がいったのか、蛍はほっとしたような安堵の声をだしていた。

 

「全くだよ。一度ならず二度までも逃げ帰ることになるとは思わなかったクマ……」

 

 珍しくくまも疲れたようにぼやく。

 

 その横でサトくんも緊張から解き放たれたようにぺたりと座り込んでいた。

 

 確かにあんなのと遭遇、それも連日でそうなったのなら、辟易とするのも仕方がないだろう。

 

 そんな時に、くまから浴びせられた言葉がそれであった。

 

 

「えっ」

 

 完全に意表を突かれたように燐はちょっと変な顔で振り返った。

 

 流石に疲れたから自前のテントでゆっくり休むか、今日ぐらいは軽自動車の車内で寝泊まりしてもいいかもしれないなぁと思っていたとこでのくまの問いかけだった。

 

 突然そう聞かれて、燐も蛍も呆然としていた。

 

「えっと……どうするって?」

 

 まだよく頭が回らないのか、燐は少しなおざりに質問をくまに返す。

 

 こうしてここまで降りることはできたのだから、とりあえずは目的は果たしたと言える。

 

 当初の目的を果たしていないからという事だろうか。

 

 くまの質問のその意味は。

 

「……」

 

 蛍は心配そうに燐を見つめる。

 

「まぁ、はっきり言っちゃうと”ざっきぃ”の事クマね」

 

 燐も蛍もやっぱりという顔をした。

 

 騒がしいくまが下山中、やけに大人しかったから少し気にしてはいたけど、それはどうやら”オオモト様”のことを考えてくれていたからのようだった。

 

「それで、どーするクマ。今日はもう遅いから寝るとしても」

 

 同じような質問を繰り返す。

 あえてその先のことは言わないつもりらしいが。

 

 こちらに選択を委ねられている。

 そう思った蛍は。

 

「ねぇ、燐。ちょっと」

 

 蛍は燐にそっと近寄ると、服の端っこを指で引っ張った。

 

「どうしたの、蛍ちゃん」

 

 燐も同じように小声で尋ねる。

 

「うん……」

 

 燐がそう聞いても蛍はそれだけしか言わない。

 

 何が言いたいのかを察することはできるのだが。

 

「あっ、ごめんくまちゃん。ちょっとだけ蛍ちゃんと向こうで話してくるね」

 

 くまの返事も聞かずに燐は蛍の手を引いてくま達から少し離れる。

 

 ちょっと行った所に一本の木立が立っていたのでその下へと言った。

 

 そこを頃合いと見た蛍は、口に手を当てて燐に話しかけた。

 

「ねぇ、燐はどうしたい?」

 

「それって……」

 

 くまと全く同じ質問をされて燐は言葉を濁す。

 

 言っている意味は分かるのだが、蛍とくまでは少しニュアンスが違うような気がしたから。

 

 蛍は小さく息を吐くと、下山の最中にずっと考えていたことを燐に打ち明けた。

 

「わたし達、もう帰ったほうが良いのかな? このままここに居たらまたアイツと会いそうだからから、くまちゃんだってそう言ったんだと思うの」

 

「それは」

 

 確かに、そう考えるのが妥当だと思う。

 

 くまだってアイツには手を焼いているようだったし、その上自分達まで守ることになったとしたら。

 

 くまは自信がないのだろうと思う。

 

 あんなに小さな子だからと言ったら失礼だとは思うけど、くまちゃんは自分たちが考えているよりもずっと強く、そしてあのダイダラボッチは多分、それ以上に強い存在なのだろう。

 

 それは燐も、薄々感じていたことだった。

 

「蛍ちゃんの言う通りだと思うよ。わたし達のことでくまちゃんやサトくんに迷惑をかけているんだと思う」

 

「じゃあ、燐。やっぱり……」

 

 そう言って蛍は俯いた。

 

 蛍はあの町で”座敷童”という存在だったが、その力はもう殆ど残されていない。

 

 ずっと前にオオモト様にその事を聞いた時には、まだちょっとはその力は残っている、とのことだった。

 

 でも、最近のことは聞いていない。

 

 もし会うことができたらその事を聞いてみたいと思ったのだが。

 

 人間(ヒト)か、座敷童(バケモノ)か。

 

 今のわたしは一体どっちなんだろうと。

 

(オオモト様を探すお手伝いをしたいのはやまやまなんだけど……)

 

 だからって足手纏いにはなりたくない。

 なら、どうするのが正解なのか。

 

 オオモト様を心配に思う気持ちはみんな一緒だと思う。

 

 もし自分たちがここから居なくなったって、()()()()()ならきっと大丈夫だとは思うし。

 

 だけど、それでも。

 

「ごめん、蛍ちゃん。わたし……やっぱり、もう少しだけここに残りたいなって思ってるの」

 

 これは自分の我儘だ。

 

 そもそも、ここに来ることだって直感で決めてしまったわけだし、また蛍ちゃんを振り回していると思ったから。

 

 こういう所はいつまでも変わらない。

 

 変わりたいと思っているのに。

 

「燐」

 

 蛍はそんな燐の頬を柔らかく両手で包み込んだ。

 

「燐が謝る必要なんてないよ。こんなこと誰だって予想がつかない事なんだし。それにわたし達、二人一緒でしょ?」

 

「だけど、蛍ちゃんはそれでいいの?」

 

 そう言いかけた言葉に蛍が首を小さく横に振った。

 

「燐。それこそ愚問だよ。わたし一人だけが帰るなんてこと絶対にないから」

 

「ん、そっか」

 

 蛍の決意の固さを知っている燐だからこそ、それだけを言った。

 

 もうずっと前に、森の中に消えていったサトくんを探しに行くとき話し合ったことを思い出す。

 

 あの時も、今でも、何も変わっていない。

 

 脅威に対しての圧倒的無力感。

 それは今だって同じだ。

 

 前に出来なかったことが、今になって出来る……それはあり得ない事ではないけど。

 

 それはごく普通の、現実的な事例(ケース )での話だ。

 

 こういった非現実的な、それも悪夢のような出来事に対して、まったく普通の人に一体何ができるというのだろう。

 

 精々逃げ回ることぐらいしかできないのが現状で。

 

 立ち向かうなんてそんな大それたことはまずできるはずもない。

 

 白い人影やヒヒ。

 

 或いは何か人外的なものに対してだって、わたし達はいつだって非力でしかない。

 

 少し違った力を持つ子たちだって、あの脅威の前で無力だったみたいだし。

 

 自分たちではとてもじゃないが歯が立つどころか、前にしただけで足が竦んでしまうほどだったし。

 

 あの子は直接言わなかったが、もう逃げた方がいいと思うのは当然というか必然だと思う。

 

 これはもうただの人探しなんかではなく、あの日起こった歪みと同じ。

 

 不条理な事が起きているのだ。

 

 でも。

 

 燐は真っすぐに蛍を見つめた。

 

「何もできないかもしれないけど、それでも何かしてあげたいんだ。大切な人だから」

 

「うん、そうだね。わたしにとってもオオモト様はとても大事な人だよ」

 

(でも、一番大事なのはあなたなんだよ。燐)

 

 そう、とても大切な人なんだ。

 

 あの狂った世界でずっと見持ってくれていたのはオオモト様だけだった。

 

 何でも知っているようで、実はそうではなかったひと。

 

 だから今度はわたし達が助けてあげたい。

 

 何が起きたのかまだ良くは分かっていないけど。

 

 あんな、”歪みそのもの”のようなのと遭遇してしまったわけだし、このまま放っておくことなんてできない。

 

 何も出来ないのだとしても、それが理由で帰るなんてことはしたくはないから。

 

「まあ、くまちゃん達は反対するだろうけど」

 

 そういって燐は笑った。

 

 ようやく笑顔を見せた燐につられたように蛍も笑った。

 

 そして自分の思いを声に綴る。

 

「まあ、そうだよね。でも、燐。本当にありがとう」

 

「えっ、何のこと」

 

「燐がそう言ってくれてよかったなって思ったの。もし意見が違ったらちょっとだけ悲しいだろうなって思ったから」

 

「そんなわけないよ。だって蛍ちゃんとわたしは”両思い”なんだから」

 

 その言葉に蛍は意外そうに目を丸くする。

 

「覚えていたんだね。もう燐はてっきり忘れちゃってたかと思ってた」

 

 そう言ってにっこりと微笑む蛍。

 

 透き通るほどに透明な笑顔はずっと変わっていない。

 

 大事なものはいつもすぐ傍にあった。

 

「蛍ちゃんってば、疑り深いなぁ~。少しはわたしのことを信用してよ~」

 

 燐はすこし口を尖らせながらも微笑んだ。

 

 ……

 ……

 

「ふむふむ、なるほどね~。キミ達の言いたいことはよっく分かった」

 

 くまは二人の話をひとしきり聞くと、顎を手に乗せてうんうんと頷いた。

 

 傍から見れば小さい子に話を聞かせているようなものだった。

 それは、間違ってはいないのだが。

 

 蛍と燐はくまの次の言葉を待った。

 

 何故だか緊張を感じているのか、二人とも拳をぎゅっと握っている。

 

「その上でくまが決断を下すクマっ!」

 

 くまはびしっとふたりを指さす。

 

 幼い少女の声が暗い夜の森に響き渡った。

 

「”ざっきぃ”のことはくま達に任せるクマ! だからキミたち二人はもう帰るクマ!」

 

 あまりの声の大きさに蛍たちだけでなくサトくんもすっかり驚いていた。

 

「いや、だからわたし達……」

 

「オオモト様のことが心配なのっ」

 

 燐と蛍はたまらず口を挟む。

 

 だが、くまは聞き耳が持てないのかひとりで続きを喋り出した。

 

「でも、ボク達だけでは限界があるクマ。だからもし、キミたちが残るっていうのなら覚悟を決めてもらうしかないクマっ」

 

「えっと、その……覚悟って?」

 

 そう言った後で、蛍ははっとなった。

 

 だが、もうそれは遅かった。

 

 くまはにやりと口元の端を少し歪めてこう宣言した。

 

「それは、”ワンフォーオール、オールフォーベアー”の精神クマっ!!」

 

 ああ、やっぱり。

 

 蛍は聞いてしまったことを後悔しているのか、自身の額に手を乗せていた。

 

 またしても蛍と燐は呆気に取られたように口を大きく開けた。

 

 ただ、一応言葉は伝わっているようだった。

 何やら変なことをくまは言っているようだが。

 

 実際、虫のいい話をしているとは思っているから、燐も蛍もそのことには何も言わないのだが。

 

「えっと、それで、くまちゃん。本当に良いの? わたし達がここに居ても」

 

「それはもちろんクマっ」

 

 燐の問いにくまは即答する。

 

「だって、山は誰のものでも、ましてやアイツのものなんかではないし、みんなで護っていくものだから」

 

「それがくまちゃんの考えなんだね」

 

「そうクマ。あと、”熊に二言はない”クマよ」

 

 さっきまでの疲れはどこに行ったのか、元気よくピースを見せるくまに蛍は乾いた笑みを浮かべた。

 

「けど、二人とも学生さんなんでしょ? 学校は大丈夫クマ?」

 

 くまにそう心配されて、ふたりは顔を見合わせた。

 

 見た目小さな子に自分達でも忘れていたような現実的なことを言われてしまった、と。

 

「まあ、学生って言ってもわたし達大学生だしね。ちょっとぐらいはまあ休んでも良いとは思うんだよねぇ」

 

「その辺は自己責任になるよね。普段ちゃんと講義受けているから、燐の言うようにちょっとぐらいなら大丈夫だと思うよ」

 

「単位さえ落とさなければ、ね」

 

 この辺りは高校の時と比べて自由だからいいけれど。

 

 進級とか、卒業の時に、大変なことになるぐらいで。

 

「そーなんだ。まあキミたちがそう言うのなら安心クマね」

 

 くまは分かっているのかいないのか、感心したような声をあげていた。

 

「あんまり、サボったことないからちょっと罪悪感はあるけど」

 

 そう言って燐は苦笑いをする。

 蛍もちょっと困ったような顔になった。

 

「それはわたしも……あ、こんなことなら出来そうな課題、いくつか持ってくればよかったね」

 

「それは確かにそうだね。あちゃぁ、勿体ないことしちゃったかなぁ」

 

 スマホだけでもやれそうな課題はあることはあるが、それでもテキストは必要になってくる。

 

 旅行にまで勉強を持ち込むのはどうかと、そう言った課題や何やらを家に置いてきてしまったことがここにきてアダになってしまうとは流石に思わなかった。

 

 今更取りに行くなんて言う訳にもいかず。

 

「まあ、帰ってからやればいいよね。燐、一緒にがんばろ」

 

 蛍は諦めの混じった声をあげた。

 

「そういう事になるね。いつまでここに居るかはまだ分からないけど」

 

 燐ももう覚悟を決めたように言う。

 

「だったらさ、買い出しとかもいかないとだよね。食べるものとかそんなに持ってきていないし」

 

「うん、そのあたりのことは後で決めよう。とりあえず今は一休みしたい気分かも」

 

「そうだね。わたしも疲れちゃった」

 

「ボクもお腹が空いたクマ」

 

 二人のやりとりの合間にくまがお腹を抑えて割り込む。

 

 確かにまだ今日は夕食をとっていなかった。

 

「じゃあ、とりあえず戻ろうか。ここにいてもまだちょっと気が休まらない感じするし」

 

 ちょっとでも見知ったものを目に入れておきたい。

 

 そう思った燐は両手で蛍とくまの背中を軽く押して促した。

 

「うん。そうだね。サトくんもお腹ペコペコみたい」

 

「わんわん」

 

 蛍の呼びかけにサトくんも駆け寄ってくる。

 

 テントを張った廃屋の庭まであとちょっとなのだから、もう何も起きるはずはないとその時は思っていた。

 

 ……

 ……

 

 後は平坦な道だけだから、そこまで気を張る必要はない。

 

 けれども後ろを振り返りたくなるのは、それはもう条件反射的なものだった。

 

 それにしたって少女たちの足取りはとても緩やかなものであった。

 

 くたくたになっているというよりも穏やかな感じで談笑しながら歩いていた。

 

「やっぱりさ、蛍ちゃんは現役だから違うよね。慣れてるっていうかさぁ、わたしのようなブランクのあるのとは……何て言うか対応力とかが違う感じするもんね」

 

 ちょっと妙な言い方をした燐だったが、そこには誇張など一切含まれてはいなかった。

 

 だが、蛍はそんな燐の言葉にむずがゆくなった。

 

「なぁに、燐。急に心にもないこと言って。わたしの事、からかってるんでしょ」

 

「そんなことはないって、もう~。わたしの言葉ってそんなに軽いのかなぁ」

 

 燐は不思議そうに首をひねる。

 

 そんな燐の仕草に蛍は小さく微笑んだ。

 

「だって、燐は別に引退したとかじゃないし……山歩き(トレッキング)は、燐だって今でもしてることでしょ?」

 

「うん、まあ、そうなんだけどさ。けど、目覚ましいなぁって思って」

 

「何が?」

 

 今度は蛍が首を傾げた。

 

「蛍ちゃん。何でもできるなぁって思って」

 

 そう言って燐は、蛍のほっぺを人差し指の先でちょんと押した。

 

 不意な出来事に蛍は小さく口開けて頬を赤くする。

 

 けれど悪い気なんかは全然なかった。

 

「それは燐の方でしょ。車の免許も簡単にとっちゃうし。大学の方だっていくつも専攻を受けているみたいじゃない」

 

「免許の方は、まぁ色々あったからだしね。蛍ちゃんも知ってることだけど」

 

 燐は軽く笑って話を続ける。

 

「わたしの事は良いからさ、蛍ちゃん、本当にのみ込み速いから何でもできるんだなぁって改めて思った。やっぱり、わたしの好きな人だけの事はあるよ、うん!」

 

 そう自信満々に燐は頷いた。

 

 蛍は更に顔を真っ赤にする。

 

「もう、燐ってば……」

 

 苦笑する蛍だったが、それ以上の言葉は出てはこなかった。

 

 うれしかったから、ほんとうに。

 好きな人に自分を認めてもらえることが。

 

 蛍は不意に燐を抱きしめたいという衝動に駆られたが、くまやサトくんが見ている手前、流石にそれはしなかった。

 

 恥ずかしいとか言うよりも、きっと燐も困るだろうし。

 

「はうっ、やっぱり夜は冷えるね~、顔が凍りそうだった」

 

 急に前方から吹き上げてくる風に、燐は胸元まで下げていたジャケットのジッパーを慌てて上まで引き上げた。

 

「もう冬も近いからね。温かいものが恋しくなる、っていう季節だね」

 

 つい忘れていたことだが、山の上の方にはまだ雪が積もっていないというだけで、気候的にはもう冬と殆ど変わらないのだった。

 

 その事を見越して中に余分に一枚着込んでいたけれど、それでもやっぱり寒い。

 

 温泉に入ったまではよかったが、その後のことで余分な汗をかいてしまい、すっかり熱が奪われてしまったのだ。

 

 下山後によくある事とはいえ、この汗冷えは背中がぞくっとするほどの悪寒を少女達に覚えるほどだった。

 

「何か暖かいものが食べたいよね~。何がいいかな?」

 

 燐はそう言うが、蕎麦はもう食べてしまったし、テントの中にあるものと言えばカップメンぐらいしかない。

 

 野菜やお肉なんかの食材は、車のトランクのクーラーボックスの中だ。

 

 そういった物が食べたければ停めてあるところまで戻らなくてはならない。

 

 そこまで大した距離ではないが。

 

「おでんとかわたし好きだな。具材とかは持ってきてないけど」

 

 そう言って笑うと、蛍は燐と手を繋ごうとした。

 

 それは無意識にというか、二人の間ではごく自然なものとして、ずっとしていることだった。

 

 だが。

 

(あれっ? 燐の手ってこんなに小さかったっけ?)

 

 それにとても熱い。

 

 汗ばんでいるというよりも、内側から熱を放出しているような感じだ。

 

 幾度となく燐の手を握っているから分かる。

 

 これは。

 

「う~、ボクも寒いから手を繋いでほしいクマ。熊は冬が苦手なんだクマ……」

 

 それは、くまの手だった。

 

 確かに普通の熊は冬に冬眠するようだけれど、”こっちのくま”はそうしないのだろうか。

 

「まあ、それはいいけど……何で強引に手を繋いでくるのぉ。言ってくれればちゃんと手を繋いであげるのに」

 

 そういう燐の片手はくまがしっかり握っている。

 

 そしてもう片っ方の手は。

 

「えっ、わたしと……?」

 

「そうクマ」

 

 くまはいつの間にか二人の間に入り込み、燐と蛍、双方の手を取っていた。

 

 いつもと温もりが違っていてちょっと残念そうなのか、蛍はちょっと戸惑ったような顔になった。

 

 けれどこれはこれで良いことなのだろう。

 

 もし希望である、小学校の教職に就いたのなら、こういうことはしょっちゅうありそうな気はするし。

 

 まだ幼そうな子の行動を知っておくのもいいと思ったからだった。

 

(けど、小学校っていうか、なんか幼稚園みたいだけど)

 

 本人が聞いたら怒りそうなことを蛍は想像しながらくまと仲良く手を繋いていたのだが。

 

「むー、くまはそんなにこどもじゃないクマ」

 

 気が付くと少しむっとした表情でくまが蛍の方を見ていた。

 

 口に出ててしまったのだろうか。蛍は誤魔化すように長い髪をくるくると弄った。

 

「何、どうかしたの?」

 

 横から燐が声を掛ける。

 

 くまはひとつ息をつくと、燐と蛍の顔を交互にみながら呆れた顔で尋ねた。

 

「まったく、キミ達はボクのことをいくつだと思っているクマか? くまのこと変な目でみてるような気がするしぃー」

 

 訝し気な目でくまが見つめてくる。

 

 蛍は図星を差されたようにうっ、と小さく唸る。

 

「そ、そんなことないよね。燐っ」

 

「う~ん、そうだねぇ」

 

 蛍は燐に同意を求める。

 だが燐は思ったままのことを口にしていた。

 

「わたしさぁ、くまちゃんのこと、小学生ぐらいかなぁって思ってるんだよねぇ。だから親御さんとか、そーゆーの大丈夫なのかなぁってちょっと心配しちゃってる」

 

 きっぱりと言う燐に、くまはまた息をちいさく吐いた。

 

 肩を落としたようなその様子に、燐と蛍はくまの頭越しに顔を見合わせた。

 

 オオモト様じゃないけれど、このくまもやはり何か人とは違うのだろうか。

 

 何か片鱗のようなものは時折見え隠れしているようだが。

 

「あ、ごめんね。その……わたしもてっきりその位なのかと。ねぇ、くまちゃん、眠くなってない?」

 

 蛍は申し訳なさそうな顔でそうたずねた。

 

「もう! だからボクはそんなんじゃないクマぁ──!」

 

 我慢の限界に達したのかくまは叫び声をあげた。

 

「はいはい。そのお話は後でちゃんと聞くからね。今は何か温かいものでも食べよ。くまちゃんもお腹空いてるんでしょー」

 

 くまが叫び終わる前に燐がぽんと、手をくまの頭に乗せる。

 

 たったそれだけでくまは大人しくなり、一言、うんと言って頷いた。

 

(やっぱり燐は凄いなぁー。わたしと同じで一人っ子のはずなのに)

 

 さっきから思っていたことだが、この子の扱いを燐は良く心得ていた。

 

 同い年なのにしっかりして見えるのは、燐のこういった小さい子への気遣いとかに現れているのだと思う。

 

 未だ物怖じしてしまう蛍には感心しきりであった。

 

 

「わんわんわん」

 

 先に行ってたサトくんがこちらを振り向いて知らせていた。

 

「あ、ちゃんとテントあるみたいだね。良かったぁ」

 

 とりあえずほっとする。

 

「中は普通に大丈夫だったみたいだね」

 

 一応、盗難とか気にしていた燐は胸を撫で下ろした。

 

 思えば、キャンプ場でもないこんな所にまで来る人などいないのだろう。

 

 荷物がちゃんとあるか確かめてみたが、それは杞憂であった。

 

「とりあえず何か食べようかぁ。すぐ食べられそうなのは大したのないけど。せっかくだから何か作ったほうがいいよね? ねぇ、蛍ちゃん」

 

 燐はテントの中に上半身だけを入れながら蛍にそう聞いてみた。

 

 けれども。

 

 何故か、返事がすぐに返ってこない。

 

 すぐ傍にいるはずなのに。

 

「えっと……蛍ちゃん? ……くまちゃん?」

 

 外で待っているはずの二人に声を掛けながら、燐は四つん這いの姿勢のまま後ろを振り返った。

 

 そこで待ってたのは。

 

「わん!」

 

「あれ、サトくんだけ……なの。蛍ちゃん達は?」

 

 周りをライトで照らしてみるが、誰の姿もみえない。

 

 停めておいた車までふたりで行ったのだろうか。

 

「暖かい鍋物が食べたいって言ってたしね」

 

 鍋も持ってきてある。

 

 そういった重いものなんかは、軽自動車のトランクや後部座席に置いてきてあった。

 

 ちょっと高いキャンプ道具なんかも鍵の掛かる車の中に置いてあったから。

 

 多分、取りに行ったのだろう思う。

 

「でもさ、黙って行っちゃうなんて、ふたりともちょっと薄情だよね。サトくん」

 

 健気に座って待っているサトくんの頭をわしゃわしゃと撫でた。

 

「それにしても、ちょっと遅いなぁ。やっぱりわたしも行けばよかったか」

 

 色々持ってきてあるから、引っ掻き回している可能性もある。

 

「くまちゃんも一緒みたいだしね。おもちゃと勘違いしそう」

 

 好奇心旺盛にそこらじゅうをひっくり返すくまに、慌てふためく蛍の姿が目に浮かんだ。

 

 そんな妄想をして燐はくすっと笑う。

 

 これはもう少し時間が掛かりそうな予感がした。

 

 ただ、こうしてぼーっと待っているだけなのもなんなので、燐はその辺にあった木の枝と松ぼっくりを集めて焚き火を起こした。

 

 焚き火台の上には赤い光が煌々と燃えている。

 

 焚き火こそが冬のキャンプの醍醐味だと燐はつねづね思っていた。

 

 とりあえず、燐は三人分のチェアとテーブルを用意した。

 

 飾りつけのLEDもテーブルの周りに見栄えよく配置させている。

 

 映えを意識したコーディネートは自分と蛍、そしてくまに向けてのものだった。

 

 それは少し早いクリスマスを意識した色合いになっている。

 

(こんな風に今年も蛍ちゃんとクリスマスを迎えられたらいいな。オオモト様やくまちゃん達とも)

 

「あ、もちろんサトくんも呼ぶからね。今年は一緒にクリスマスしよっ」

 

「わんっ」

 

 本当に分かっているんだろうか、この子は。

 

 けど返事をしてくれたからきっと来てくれるだろう。

 先の楽しみが増えた。

 

 ほんの少し先の出来事(イベント)に思いを馳せながら、燐は本当に楽しそうに飾りつけをしていた。

 

 綺麗に彩られたテーブルにはもうすでに食器も並べてある。

 

 とてもカラフルな柄の皿だったが、その中はもちろん空だった。

 

 テーブルの中央には金属製のボウルが置いてあり、中にはスナックバーやお菓子などが沢山詰め込んである。

 

 これなら料理を待っている間にでもちょっとでも摘まむことができるだろう。

 

 つまみ食いされたくま向けての燐の対策であった。

 

「どう、サトくん美味しい? わたしはさっきからお腹が鳴りっぱなしだけど」

 

 燐はチューブ状の餌をサトくんに食べさせながら、ひとりお腹を鳴らしていた。

 

 ひとりでこっそりと食べることもできたのだが、燐はまずそれをしない。

 

 蛍とくまが戻ってきて、料理が完成してから一緒に食べると燐は決めていたから。

 

「けど、わたしだって食べちゃいそうになるよ~。そうやってサトくんが美味しそうに食べてると」

 

 あまりにも美味しそうに食べるから、燐は何度、涎を拭った事だろうか。

 

 ぐーぐーとお腹は勝手になるし、焚き火を焚いていても寒さは増してくるしで、割と見た目以上に散々だった。

 

「わんわんっ」

 

 白い犬は最初の一本をペロッと平らげ、二本目を催促するようにじっと見つめながらぱたぱたと尻尾を振っている。

 

 そんな可愛らしい仕草をされると、”おあずけ”なんてとてもできやしない。

 

 燐はくすっと苦笑いすると、またサトくんに”ちゅるちゅる”をあげようと思ったのだったが。

 

 その手がとまった。

 

「あら、こんなところにいたのね」

 

 不意に声が掛けられて、燐はびくっと身を震わせながら振り向く。

 

 そこには。

 

「…………っっっ!!??」

 

 体だけでなく心まで凍り付いたように燐は固まっていた。

 

 居るはずもないというか、居て欲しかったというか。

 

 何時ぞやのように傘をちょこんとさして、その人がそこで佇んでいた。

 

 夜と同じ色の黒髪を短く切り揃えた少女がこんな真夜中に、それも雨も降っていないというのに紅い色の蛇の目を刺している。

 

 知らない人が見れば、異様ともとれる光景なのだろうが。

 

「あっ」

 

 この一言だけで後の言葉が続かない。

 

 燐はどうしていいのか分からず、とりあえず目の前で首を傾げているサトくんを胸元でぎゅっうと抱きしめた。

 

 ずっと探していた人が急に現れたのだから、ある意味正常な反応とも言えるのだろうが。

 

(けど、また……”アイツ”かもしれない……!!)

 

 どうしてもその疑念が頭を掠める。

 

 角度を変え、目を眇めてみて見ても、本物かどうかなんかは分かるはずもない。

 

 何より情報が少なすぎるのだ。

 

 あの”ダイダラボッチ”と言われているものについての。

 

(そういえば、サトくんはっ!?)

 

 燐は胸に抱いている白い犬の表情を上から覗き込む。

 

 だが、きょとんとした顔で少女の方を見つめるばかりで、威嚇するように牙をむくような様子はない。

 

 こんな判断方法はどうかと思うが、本物であると言ってもいいのだろうか。

 

 燐はまだ判断がつかないでいた。

 

「ねぇ、燐」

 

 幼い姿のオオモト様に名前を呼ばれ、燐は全身の筋肉を膠着させた。

 

 あの、ダイダラボッチとかいうのが自分の事を知るはずもないし、これである程度の断定ができるとは思うのだが。

 

 燐はただ不安そうに見つめ返すだけで、返事を返すようなことはしない。

 

 幼い少女は大方の事情を呑み込んだように、可愛らしい瞼を閉じて深いため息をついた。

 

「”アレ”に出会ったみたいね。あなた達は」

 

 その問いの答えの代わりに燐はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 幼さの中にどこか落ち着いた声色は確かに”オオモト様”だと思うし、柔和で少し憂いを湛えた表情は特有のものだから多分間違いはないと思う。

 

(でも、姿も声も真似れるのがいたから……)

 

 あんなの化け物を知ってしまったら、もう何を信じたらよいのか分からなくなる。

 

 しかもアイツはこともあろうか、今目の前にいるオオモト様に化けていたのだから。

 疑うなという方がおかしく思えてくるのだ。

 

 胸の中の疑念は晴れないどころか、更に大きくなってくる。

 

 燐は意を決したようにオオモト様の姿をした少女に質問をした。

 

「あのっ、()()()()()っ!!」

 

「なにかしら?」

 

「その、わたしと一緒に蛍ちゃんと、くまちゃんって子もいたんです。その二人が何処に行ったのか、オオモト様は……その、知りませんか?」

 

 自分勝手な物言いをぶつけている、そう思ったが、言葉が止められなかった。

 

 オオモト様は自分の質問に答えてくれなかったことに憤るような様子もなく、不思議そうに首を傾げていた。

 

「ああ、それなら。ここに居るわよ」

 

 まるでよくある日常のように答える。

 

()()って?」

 

 燐の問いにオオモト様が白い指をすっと差したのは、ぼろぼろになったあの廃屋であった。

 

「この家? けど……ここは……」

 

 テントのすぐ近くにあったからそんなに間違いでもない。

 

 ただ、中は玄関どころか窓ガラスや床板なんかもボロボロで、おおよそ人が生活できるものではない。

 

 こんな所に居るぐらいならと、庭先にテントを立てたほどだったから。

 

 くまならともかく、蛍がそんな所に自分から行きたいということはないと断言できる。

 

 ここに来たときに、家の中を確認したわけだし。

 

 だが、燐が驚いたのはそこではなかった。

 

 そんな家はどこにもなく、その代わりに別の家、いや元の家の姿に戻ったというべきなのだろうか。

 

 まだ普通に住めそうな大きな家が、あの廃屋の代わりにいつのまにか立っていた。

 

 燐たちが持ってきたテントはその庭であった部分にしっかりと建てられているのに、だ。

 

「みんな、あなたのことを待っているわ」

 

「えっ、待ってるって!?」

 

「多分、中で食事の準備をしていると思うわ。燐に美味しいものを食べさせてあげたいって蛍ははりきっているみたいだけど。くまはどうかしらね」

 

 くすりと微笑むオオモト様。

 燐はまだ目を大きく開いて見つめているだけ。

 

 言葉を探しているというよりも……疑っている。

 これは夢なのではないかと思うほどに。

 

 がらがらと音を立てて何かとても大事なものが足先から崩れていくような感覚があった。

 

 もしサトくんすらもいなかったからきっと本当に崩れてしまっていただろう。

 

 そのぐらい燐の心は不安定なままだった。

 

「さぁ、外は寒いでしょう。中にお入りなさいな」

 

 そういって燐の前にオオモト様の白い手が差し出された。

 

 折れそうに細い指は本当にオオモト様の手、なのだろうか?

 

 そして、この家とは。

 

 玄関ドアの色と窓枠といい、これではまるで。

 

「青いドアの、家……?」

 

 燐は唇を動かしてその名称を口にする。

 

「あなたがこの家に付けてくれた素敵な名前ね。わたしも気に入っているのよ」

 

 燐は思わずオオモト様の方を振り向いていた。

 

 瞳と瞳が交じり合う。

 

 その刹那、オオモト様は目を細めて微笑んでいた。

 

 無垢で透明な笑顔は何も疑う余地など微塵もないみたいに、静謐なものだった。

 

 同じ血を引いているのであろう、蛍のことを燐の脳裏に思い起こさせるほどに。

 

 それなのに。

 

 なぜ、この手の震えが止まらないのだろう。

 

 その震えは燐の胸元で抱っこされているサトくんにも確実に伝わっていた。

 

 燐を心配したのかサトくんは、不意にぺろりと燐の頬を舌で舐めていた。

 

 偶然にもそれが気付けの役割を果たし、辛うじて燐は自分を取り戻すことが出来た。

 

「あ、サトくん……わたし……?」

 

 ぶれていた目の焦点が元に戻る。

 

 けれど、状況は何も変わっていない。

 

 探していたはずのオオモト様が目の前にいて、青いドアの家がその後ろに立っている。

 

 どこまでが現実で、どこからが夢なのか。

 

 何一つとして燐には理解は出来なかった。

 

(蛍ちゃん、わたし……わたし怖いよ……!)

 

 そう、怖い。

 

 知っているはずのその人の、黒檀のような黒い瞳が。

 

 堪らなく怖いのだ。

 

 何時、また変貌するかも分からない。

 

 好きだったものが崩れていく様はどうしようもなく悲しくなる。

 

 それを一度となく二度も目にすることになったら、きっと。

 

(立ち直れなくなると思う……何を信じていいのか分からなくなって)

 

 それは、あの青い空の時のように。

 

 けど、きっと頭では分かっている。

 

 逃げ出しても拒んでもそれは必ず見なければならないことだから。

 

 だから燐は。

 

(だけど……もう!)

 

 キッと顔を上げると、真っ直ぐに前を見つめた。

 

 視線の先には柔らかく微笑むあの人がいる。

 

 ただ、それだけ。

 

 

 それだけだった。

 

 

 ──

 ───

 ────

 

 





とうとうPCの液晶モニターが壊れてしまったので、サブのモニターでちょっとの間、頑張っておりましたが、あまりにも小さかったので結局新調することにしましたー。

で、思い切って27インチのモニターを買ってみたのですが、何ていうか……こんなにも変わるものなんですねぇー。それまで22インチの液晶を使っていたせいもあるんでしょうけど。何か、これまで見たものが違って見えると言いますか……月並みな言い方になるのですが、世界が変わったように見えましたよー!! 27インチでFHDとは言え画面が大きいのはやっぱりいいものです。迫力がありますし。
そして最近のディスプレイは本当に薄くて軽いー、しかもそれでいて見やすく作業領域も増えたのだから凄いものです。

これで、青い空のカミュのプレイも捗りますですよー!! もちろん今でもプレイしているんですよねー。”青い空のカミュ”は自分の原点であり頂点でもありますからねー。
真新しいモニターで美麗なグラフィックとシナリオを新鮮な気持ちでプレイさせていただいております。

──のでしたが、また新しいモニターに変えてから一月も経っていないのに何かもう大きさとかそれほど気にならなくなってますねぇ……むしろデスクにまだ余裕があったから、もっと大きくて解像度の高いモニターでも良かったかもーとか思ってしまう始末なのですが?? 
人の欲というのは本当に果てしないものなのですねぇー。何か分かったような言い方になってしましたが。

そういえば最近はインスタントコーヒーばかり飲んでたのですが、またちょっとめんどくさいペーパーフィルターの珈琲に戻ってきちゃってました。こっちの方が安かった──とは置いておいて、やっぱり香りが全然違いますよねぇ。口に含んだ感じもインスタントよりも深い気がしますし。

ただ、すぐに飲めるわけではないからやっぱりちょっと面倒に思うことはあります。飲むたびにフィルターを変える必要がありますし、何より余分なゴミが出てしまいますからねー。まあ、淹れ終えた後の粉とフィルターは脱臭の役割を果たすようですけれど。
けどその分、味わいがあるっていうか、インスタントでは出せない”風味”のようなのがあると思うのです。そういうのって結構大事なのかなって思います。素人が言う言葉ではないのでしょうけど。
もっとも、本格的に美味しい珈琲を求めるのならば、豆から選んでごりごりと挽く珈琲の方がいいのでしょうけれどもー。

追記──なのですが。青い空のカミュのDL版が3月17日まで、なんとなんと83%OFFの1500円で販売されております! 気になる方は、今すぐFANZAのサイトへれっつごー!!!
……って、これ完全に宣伝なのですが? 大丈夫なんでしょうかこんな所でやって……?

まあ、それこそ今更なことなんですけどー。


それではではではではーー。




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Bear in the Blue Sky


「ここは、一体……どこだクマ?」

 誰ともなしに呟く。

 貫くような光に目を眇めながら、見開いた先に広がっていたのは透き通るような青い天井だった。

 熊の耳を付けた少女は自分の頭がおかしくなってしまったと思い、大きな目を何度も擦る。

 けれど、景色は切り替わることなく、どちらの目で見ても青を映し出したままだった。

「もう朝……って感じじゃないね、これは」

 だからと言って昼だという訳ではない。

 時計は持っていなくとも、それぐらいは感覚で分かる。

 朝には葉の湿ったような匂いが。

 夜には夜のしっとりとした風と香りが、鼻をぴくぴくとくすぐることは知っているから。

 けれど今は、どちらの匂いもしない。

 むしろその概念すらもなくなったみたいに小さな鼻には何の香りも届かなかった。

 ともすれば、生きている実感すらも忘れさせるほどに。

「もしかして、ボク、しんじゃった……?」

 少女はちょこんと首を傾げる。

 だが、首だけなく手も足もまだ動く。

 屍となったにしては、肌も髪もつやつやとしているみたいだった。

 それじゃあ……いったい何なのだろう?

 当然の疑問がぽかりと頭にうかぶ。

 青と白しかない、天国みたいな世界がどこまでも広がっているいう事実をどう受け止めればいいのか。

 何かそれっぽい人影とか、門なりあればよりはっきりと分かるかもしれない、が。

「ううっ、目痛ぁ」

 まだ目が少し痛むのか少女は顔を歪めた。

 そしてこの静寂──。

 自分以外に出す音が全て消えてしまっているかのよう。

 しんだのは自分ではなく、世界の方ではないのかと疑うほど、何もかもか白い静けさに溶け込んでしまっていた。

 孤独を催す静けさにまだ慣れないのか、少女はそっと目を伏せると、丸い指で両耳を塞ぐ。

 もちろん上についている耳ではなく、本物の耳をつっと塞いでいた。

 暫くの間その状態でじっとする。

 危機に陥った時、闇雲に動くのは悪手であることを少女はその類まれなる野生で知っていたから。

 とくん、とくん。
 
 自分の心音が体の内側からとんとんと響いている。

 その身に流れる血も脈も、薄く開けた口から洩れる軽い息づかいさえもはっきりと分かるようになってくる。

 それは確かめてみることでもないが。

 それだけに大事なことでもあった。

 まだ生きている。
 そう自分は。

(そう、だよね。やっぱり……)

 少女は生への喜びを静かに噛みしめながらすうっと目を開いた。

 青と白のその境界。

 どうやら、固いコンクリートの上で横になっていたようだ。

 どこかの駅、みたいとも思えるところで。

「あれ……は?」

 何かが蹲っている。

 白い白い大地の上で、自分と同じように何かが横たわっているのが確認できた。

 何となく見覚えがあるもののような気がしたので、少女は躊躇うことなくそれへと近づいた。

 ……
 ……
 ……
 
「起きる……クマ、クマクマ……」

 耳元で声がする。

 ゆさゆさと何かが体をゆすっているようだ。

 これは手、かな?

 けど、誰の?

 心地よい微睡みから無理やり覚まそうとする動きに、つい煩そうに眉根を寄せた。

(あれ……何だったけ……?)

 何がが起きたんだろうか。
 よく覚えていない。

 疑問を頭に浮かべようとするも、その間にも無造作にぺたぺたとおでこの辺りを集中的にその手は触ってくる。

 不気味という感じは不思議とないけれど、ちょっと慣れ慣れしく思えた。

 ぺたぺた。

 それは暖かいのか冷たいのか。

 むずがゆく感じたのか、鬱陶しそうに身体を少し捻った。

「ちゃんと生きているんだから、早く起きるクマ」

(何、燐……?)

 変な喋り方してるけど、前みたいにふざけているんだろうか。

 変な口調でもっともらしい事を言われているような気もするが、何かが違うような気もする。

 ともかくまだ起きたい感じではない。

 気持ちいいから。

「こちょこちょこちょ~。起きないとくすぐっちゃうクマよ~」

 何だか不穏な事を言っているような気がするけど……?

 仕方なく唇を少し開けた。

「……なに? ……もう、朝、なの?」

 同時に重い瞼を薄く開く。

 散々揺さぶられたからだろうか、景色が波のようにゆらゆらと揺れていた。

 目覚めるとか以前に、ちょっとでも気を抜くと胃が裏返りになりそうだった。

「蛍は意外とお寝坊さんクマね。起きてしゃんとするクマ」

 さっきから呼んでいる声なのだろうか、キンキンとした声が頭上から降り注ぐ。

 自分のことを知っているようだけど……誰だっけ。

 何だか昏倒していたみたいに、頭の中は白くぼやけているからかよく思い出せない。

 フイルムの途中でハサミを入れられたような、ぶつ切りの感覚が頭の中をもやもやと覆い隠していた。

(そうか、これ夢だ……夢なら、まあ……べつに気にするものでもないのか……)

 どうせすぐに忘れることだろうし。

 開きそうだった瞼を静かに閉じると、微睡んだ意識に流されるように蛍はまた夢の世界に舞い戻ろうとする。

 誘ってくるのはいつだって”向こう”なんだから、だったら今度は違う夢がいいかなって、少し無茶な注文を付けながら、一番寝やすい体勢をとった。

 ちょっと地面は固いけど、このぐらいならまだ何とかなる。

 いつも燐と一緒に寝ているベッドも確かこれぐらいの硬さがあったと思うから。

(いつも……? そういえば、燐はどうしたんだっけ……?)

 休日にトレッキングする約束をして、それから……。

 天然の温泉に入って、テントまで一緒に戻ったような気はしたのだが。

(……この声……燐じゃないよね……?)

 じゃあ一体誰なの。

 何もかもが判然としない。

 蛍は夢の中に完全に戻ってしまう前に一応聞いてみた。

「ね、ねぇ……燐、は?」

 やけに重い体を横に動かして蛍は問いかける。

 その答えが届く前に、蛍の方が大きな声を上げていた。

「はうううっ!?」

 ごろんと仰向けになった拍子に片手で思わず目元を覆った。

 眩しい。

 とてつもなく──眩しい。

 一瞬で目の前が真っ白い閃光に包まれて、蛍は苦虫をかみつぶしたようにぎゅうっと眉根を寄せた。

 隣で見下ろしていたくまは蛍がバタバタを足を動かして悶絶しているのを見て流石に驚いたのか、口を大きく開けていた。

 それは叫び声に対してというよりも、何もない地上で溺れているかのように見えたからだった。

 くまは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、目を抑えて悶絶している蛍の頬を指でちょんちょんとつついた。

「キミはカナヅチなのかクマ? ここは何処なのか早くくまに説明してよね」

 急かすようにくまはそう言うと、小さな掌を蛍の目の前に差し出した。

「ちょ、ちょっと待ってっ……!」

 だが、蛍はまだその手を取ることが出来ない。

 眩しさに目が慣れないのか、片目を開ける事すら満足にできてはいなかったのだから。

 蛍の狼狽えたような仕草を見て、少女はころころと呆れた笑い声をあげる。

 それでも目が慣れるまで、蛍の傍でじっと待っていてくれていた。

 ──
 ──

「えっと、ごめんねくまちゃん。もう大丈夫みたいだから」

 慣れたとばかりおもってたんだけど、気持ちだけで身体の方はそうではなかったらしい。

 蛍は恥ずかしくなって顔を赤くして俯いた。

「別に、気にしてないクマ」

 言葉の通り本当に気にしていないようで、蛍が申し訳なさそうに手を合わせても、くまはにこにこと笑っている。

 実際、くまも目覚めた時は似たようなものだったから。
 それを蛍に言うつもりはなさそうだが。

「そんなことよりもっ、さ」

 人差し指をたててくまは蛍を指さした。

「ここは地球のどこなんだクマぁ。太陽が昇ってるのは分かるけど、こんなところは見たことがないクマあああぁ!!??」

 両手を水平に伸ばして、くまががおがおと驚嘆した表情(かお)で叫んでいた。

 驚くのも無理はないなと蛍は思ったが、それを説明するのにはまだ少し時間がかかるだろうとも同時に思っていた。

 ふたりの視界の先では青白い地平線がゆらゆらと揺れている。

 背後には先が見渡せない程の巨大な水溜まりが幾重にも広がっていた。

 白い大地と水と、そして。

「何故か線路もあるクマ」

「うん……」

 言いづらいことを口にするように蛍はぼそっと呟いた。

 銀色に光るレールはいつまでも錆びるようなことはなく、本当にどこまでも続いていきそうで、くまが小さな背をぴょこぴょこと伸ばしてもその先までは見通せなかった。

「それにしたってボク達以外、人っ子ひとりいないクマねぇ。まるで無人島にいるみたい」

 何故かくまは「やっほー!」と声を上げていた。

 まるで、アトラクションにはしゃぐ子供みたいだなぁと、くまの様子を微笑ましく眺めていた蛍だったが。

(また……ここに来てたんだ)

 見渡して溜息をつく。

 そこまでの驚きはもうない。
 むしろ呆れというか諦めがでてしまうほどだ。

 いつだって唐突だから”ここ”は。

 何もないけど、何かある場所(せかい)

「──”青いドアの家”の世界」

「ん? 何か言ったクマか?」

 少し怪訝そうにくまが振り向く。

「うん。”青いドアの家”のある世界に来ちゃったんだなって」

「ふぅん」

 言葉の意味を理解しようとしているのか、くまは腕を組みながら白いプラットフォームの上をぐるぐると歩き回ったかと思うと、急にあっ! と叫び蛍に指を差した。

「それって、前に”ざっきぃ”が言っていたことのことクマか!?」

 急にくまが大声を上げたことで蛍は一瞬びくっと膠着したが、たどたどしく言葉を続けた。

「う、うん……きっと”オオモト様”が言っていたのはここの事だと思うよ。他に知らないし」

「そっか、ここがかぁ……じゃあ、天国じゃないってことクマか? ボクの背中に翼とか生えてないクマだよねぇ!?」

「う、うん。わたしだって生えていないし」

 くるりと小さな背中をこちらに向けるくまに蛍は少し曖昧に頷いた。

 そうだったらちょっと可愛いかもと思ったが、どちらの少女の背中にもついていない。

 残念なことに。

 まあ、あったところでそれで空を飛べるとは到底思えないけど。

「なら、良かったぁ……」

 見た目によらず気にしていたのだろうか、心底ほっとしたようにくまは息をついた。

 蛍はそれを見て少し眉を寄せて苦笑いをする。

 もしここがこの子の言うように本当に天国という名の場所だったのなら、きっと誰もが来たがるだろうと蛍は思った。

 そのぐらい静謐で綺麗な世界だった。

「ん、じゃあ……ひょっとしてあれが”青いドアの家”というやつクマか」

 そう言ってくまはそこにあったものに指を差す。

 蛍はこくんと頷いた。

「ふーん、あれがね」

 くまは素っ気なさそうな顔でその”青いドアの家”を見つめた。

 蛍もその横でぼんやりと眺める。

 だがその視点は家とは別の、少し上のほうに向けられていた。

「そうなんだけど。でも……」

 何故、こっちに来てしまったんだろう。
 兆候とかそういったものは一切なかったと思うのに。

「もしかして、ここって来たら戻れない所だったりする?」

「大丈夫だと思うよ。わたしも何度かこっちに来てるけど戻れてるし」

 少し怯えた声を出すくまに蛍はハッキリとそう言った。

「けど、何かの理由があるのかなって……」

 偶然なのだろうか、やっぱり。

「それは確かにボクも気になるところだよ。明らかに違う世界に来たと思ったし」

 くまの言葉に蛍は意外そうに目を大きく開けた。

「くまちゃんも、そういうのって分かるの?」

 この少女はこの世界に来るのは多分初めてのことだろう。

 その割にはやけに落ち着き払っているというか、それほど慌てているような様子はない。

 もともとの順応性が高いのかもしれない。

 野生の熊、よりも強い熊らしい。

 その真意のほどは分からないが、ともかく物怖じしない少女だと言うのは良く分かっていた。

「例えばさ、ほらっ」

 そう呟き、くまが空を振り仰ぐ。

 その方向は直視できない程眩しい日差しを降り注いでいる空、なのだが。

「あれってさ、本物の太陽じゃないよね? それっぽい光を出しているだけで、”ぽかぽか”なんか全然していないし」

 確かめるように少女は両方の掌を空へとかざす。

 その通りだと蛍は小さく微笑んだ。

「くまちゃんの言う通りだと思うよ。空や太陽だけでなく、水や地面もわたし達の知っている世界とは異なっているとおもうの」

 蛍は困った風にそう答えた。

 くまは蛍のほうを振り向く。

「この世界のこと知っているみたいだね。もしかして……これはキミ(ほたる)の仕業クマか? キミの事を普通の人とちょっと違うみたいには感じてたけど」

 そう問われて蛍はドキリとなった。

 野性的な勘みたいなものを持っているのか、くまはこの世界が作り物であることがすぐに分かっていて、そして蛍もそれに関係していることを見抜いているようだった。

 さらに、この少女は自分の正体も少なからず知っているらしい。
 もっとも、それらはオオモト様が話したかもしれないことだが。

 まあ、疑ってしまうのは分かる。

 もう収まったと思った非日常的な事が周りで何度も起きているわけだし。

 ここまで異変と隣り合わせなるなんて思わなかった。

 いつになったら終わってくれるのだろう、このどうしようもない不条理は。

(けど、話さなくっちゃね。ちゃんと)

 こんなところでトラブルなんて起こしたくはない。
 隠しても無駄だろうし。

 蛍は正直に話すことにした。

「別に隠していたってわけじゃないけど、オオモト様と同じなんだ、わたし。でも……もう、そんな()()()はわたしには残っていないとおもうから」

 もし残っていたとしても大した影響はないだろう。

 幼い頃に持っていた(と思われる)幸運を呼び寄せる力は、自分の意思ではなく無意識で呼ぶようだったし。

 その力だってもう大分弱っているはずだ。

「だったら誰が……あのダイダラボッチがやった……とかは??」

 少なくともアイツはあの時にはいなかった。
 だとするのなら別の誰かがボク達を?

「ごめんね。わたしにも分からない。ここにいる理由も意味も。何も知らされていないの」

 もう大分慣れてきてしまった事とは言え、その割はこの世界の具体的な存在理由を知らないのだから、不可思議に対する不満と言うか軽い憤りさえ覚えるほどだった。

 だが、二人がいくら考えたって分かるはずもない。

 世界の構造なんてものは、大小関わらず理解できた所で何も変わらない。
 そういうものなのだから。

 小さな頭を悩ませれば悩ませるほど、それは無駄な時間を過ごすことになるだけ。

「んー、まあ、どうでもいいか、とにかく早く戻る方法を考えないとね」

 くまは一早くそれを理解したのか、言い聞かせるようにつぶやくと、未だ不思議そうに首を傾げている蛍の横をすり抜けて、覗き込むような仕草をしていた。

「で。これが、ざっきぃの言っていた、青いドアの家か……ふーむ、中々の物件クマね。ボクの住処に良さそうな感じの家クマ」

 普通の会話のようなくまの言葉に蛍は呆気にとられたように口をぽかんと開けた。

(まだ、何を考えているのか分からない子だけど)

 一人じゃないからだろうか。

 思ってたよりもずっと心が落ち着いている。

 見た目幼く見える子と一緒だから、自分がしっかりしなくちゃって思っているからだろうか。
 背筋がすっと伸びていた。

 だけど。
 
 燐だけが──いない。

 今度も一緒には来ていないようだ。

 一応、サトくんもいないみたいだが、それは何となく理解できる気がする。

 燐が居ないことはショックというか。

(あの町に帰ってきたときみたい)

 ぽっかりと穴が開いたような。

 そんな寂莫(せきばく) した想いが蛍の体の中を何度も通り抜けていく。

 好きな人がいないことが寂しい。

 そこまで悲観的にはならないにしても。

 内心では雨を降らせていた。

 この世界では青空しかないのに。

(でもすぐ、逢えるよね、燐……)

 きっと、いつもの時みたいに。

 僅かな希望を抱きながら、静かに思いを募らせている蛍だったのだが。

「ボクは、死なないクマーー!! だってくまはクマだからっ!!!」

 突然、変な声が聞こえて慌ててそちらを振り向く。

 そこには。
 いつの間にか線路上に降りて両手を広げて立っているくまがいた。

「えっと……何しているの、クマちゃん?」

 蛍は恐る恐る尋ねる。

 一体、何の悪戯(あそび )をしているのだろうと。

「何か線路があるとこういう事をしてみたくならない? もし電車が来たらこういう風に立ちはだかって叫びたくなるような……ドラマか何かでこーゆーのをやっていたはずクマ」

「はぁ」

 どうやら、くまは何かを勘違いしているみたいだ。

 だが、現状を維持するので精いっぱいの蛍にはそれを指摘するだけ余裕はなかった。
 なので。

「その、ごめん、遠慮するね。それと電車は来ないと思うから」

「そうクマか、ちょっと残念」

 蛍はくまに手を貸しながら、酷く疲れたような深いため息をついた。

 ──
 ──
 ──



 

「この”青いドアの家”って、蛍と燐が建てたって本当!? だとしたらもの凄いことクマっ!! 趣味(DIY)なんてレベルじゃないクマよ」

 

 玄関の中に入るなり、くまはぱあっと感嘆の声をあげた。

 

「まあ、そんなに褒めるようなことではないんだけどね」

 

 蛍は苦笑いを浮かべる。

 

 初めは半信半疑のくまだったが、青いドアの家の中はくまが想像していたよりもずっと普通の家だった。

 

 塵一つない、という表現がしっくりくるほど、玄関もリビングもモデルルームのようにさっぱりとして小綺麗だったのだから。

 

 こんな立派な一軒家を少女達が建てたとしったら、興奮をしてしまうのは当然のことだった。

 

「綺麗な内装に、それに吹き抜けもちゃんとあって。う~ん、いい仕事してるクマねぇ。キミの将来は大工か建築士クマか?」

 

「だから、そういうのじゃなくて」

 

 多分褒められているのだろうけど。

 

 別に掃除をしているわけでもないし、そもそもこの家だっていわゆる建築とは正反対の性質のものであったのだから。

 

 本当に自分達だけで建てたのなら凄いことだと思う。

 

 だが、この家は世界とともに、そこに合っただけだった。

 

(オオモト様の言っていたように、ただ、そこあるだけの家……それだけの存在)

 

 むしろ青いドアの家こそがこの世界の存在理由であって、その他はただ彩るだけの風景なのかもしれない。

 

 そう思ってもそれほど差し支えない気はするほど、この青いドアの家は唯一の存在感を放っていた。

 

 家以外の他の場所に足を運んだこともあったけど、結局はこの家に自然と戻ってきてしまう。

 

 はじまりも。

 おわりも。

 

 全てがここから続いているだけ……なのだろうか。

 

「そういえば、くまちゃんってこっちに来たのって初めてなんだよね?」

 

 唐突に訊ねられてくまは大きくて可愛らしい瞳を丸くさせた。

 

「さっきも言ったと思うけど、そりゃあもちろんの事クマっ」

 

「こんなところに、しかも突然来ちゃったからくまだってビックリ仰天だよ。これは、くまも木から落ちるってものだよ」

 

「やっぱり、そうだったんだね」

 

 くまの答えづらい表現のことはさて置いておいても、だ。

 

(けど意外っていうか……なんだかちょっと変な感じはしてる)

 

 燐とならともかく、この子といっしょにこの世界にいるという事にそれほど違和感を覚えないのはなぜなのだろうか。

 

 静謐でありながら、どこかメルヘンチックな世界観とこの子の不思議さがぴったりマッチしているというか。

 

 奇妙な言動を繰り返す”くま”が、何かの童話の主人公みたいに思えてしまう。

 

 無垢で疑うことをしらない少女と、異世界を旅しているような。

 

「わたしはもう慣れちゃってるから、ここに来たって間違い探しをしているのと同じだしね」

 

「いわゆるベテランって事クマか……じゃあ、先輩ってことになるクマね」

 

 かしこまって口調でそう言われて蛍はあははと軽く笑った。

 

「そう、なのかな? 全然自覚はないし、(世界の事を)全く分かっていないけどね」

 

 それでもこの家の間取り程度のことぐらいは分かっていたから、鍵がかかっていないことを確認すると、蛍はくまに先だって青い玄関ドアを開けていた。

 

 そして、勝手知ったる家のように中へと入ると、慣れた手つきでスリッパを取りだして、くまを家へと招き入れたのだった。

 

 まだ誰もいないということは知っていたから、特に気遣うようなことをする必要性はなかった。

 

(そう。精々、わたしが分かっていることと言ったら……)

 

 蛍は広めのリビングのテーブルの上にあったリモコンを手に取ると、何気なく電源ボタンを押した。

 

 ぷつん。

 

 糸が切れたような音がして、大きな液晶テレビに電気が入っていることが確認できる。

 

 だが、それだけだった。

 

「やっぱり何も映らない、か……」

 

 半ば分かっていたように蛍は溜息をつく。

 

 そういえばもう随分とこの画面にまともなものは何も映っていない事に気付いた。

 

 それが何だと言われたらまあ、答えようもないが。

 

「受信契約をしてないからじゃない? それか設定があっていないとか」

 

 見た目によらずもっともらしいことを言いながらくまも蛍の隣でぽすっとソファに腰かけた。

 

 普通ならばくまの言っていることは正しく、映らない理由のおおよそもその問題だとは思うが、それらの事柄はこの世界では理由にすらなっていない。

 

 良く知る現実的な範疇はまるっきり通用しない世界なのだから。

 

 それでも指摘のように一応あった設定ボタンを蛍は押してみるが、やはりというか何の反応もない。

 

 電源とチャンネル以外のボタンはあってないようなものであるようだ。

 

 そのチャンネルだってどこを押してもまともに映ることは無いのだから、ぶっちゃけて言えば今はただの暗く光るパネルと同じだ。

 

 だから本当に何のためにあるのかは分からない。

 

 家屋そのものは新しくなったようだが、家の中というか機能自体は劣化しているみたいだった。

 

「まあ、こんなもんだよね」

 

 諦めたように電源を切る蛍。

 

 その後ろで。

 

「こんな所に冷蔵庫があるクマっ。そうなると、中が気になってしまうのは熊の本能……いや、(さが)クマね」

 

 ワザとらしく自問するように言いながら、いつの間にかくまはソファを飛び越えてキッチンの方へ移動していた。

 

 多分、遠慮することなく冷蔵庫を開けるつもりだろう、むしろそれ以外はないと言ってもいい。

 

 少女の性格からして。

 

 蛍はそれを見てちょっと困った顔になった。

 

 だからと言って制止するつもりなんかは無い。

 むしろ。

 

(やっぱり、冷蔵庫の中身って誰だって気になるんだ……)

 

 蛍は、最初にここに来たときの事を思い返していた。

 

 興味深そうな目で冷蔵庫のドアを開けていた、燐のことを。

 

 でも、この子のようにそこまで露骨なことは言わなかったし、最初は遠慮していたけれど。

 

「さてさて、中身は何かな~。レアものが入ってるといいけどぉ」

 

 楽しそうに自作の歌を口ずさみながら、好奇心いっぱいにくまは冷蔵庫のドアに手を掛けた。

 

 上手く届かないのかちょっと背伸びをしているが、冷蔵庫のドアは意外にも呆気なく開いた。

 

「どう? 何か入っていた?」

 

 蛍も傍にきて尋ねる。

 

 燐や自分以外の人が開けて見たら何が入っているのか。

 

 そこに少しは興味があったから。

 

 まあ、誰が開けたところで中身に変化はない。

 

 そう思っていたのだが。

 

「おおっ、こ、これはっ!! もしかしてあのっ、お菓子ではないのかクマっ!!!」

 

 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら中を覗き込んだくまが、おもむろに手を伸ばして何かを掴んだ。

 

 てっきり空っぽだろうと思った蛍は軽く口を開けたままになった。

 

 何やら袋状のものが小さな手で握られている。

 

 果物やケーキなどとは違って、ぱっと見で分かるほどの異質なものが出てきたことに蛍はちょっと驚いていた。

 

「それって一体何なの?」

 

 思わず二度見をしてしまう。

 

 それはおおよそ冷蔵庫には入っていないようなものだったから。

 

「あれれ? 蛍は見たことないクマか? これは”おも~る”クマよ! でもまさかこんな所にあるなんてっ!」

 

 ……何だったっけそれ。

 

 すぐには思い当たらなかった蛍は思わず首を捻った。

 

 何となく、その名を耳にしたことはあるが、そこまで驚くほどのものではなかったような気はする。

 

 蛍の知っている限り、確かその辺で売られているような”普通のお菓子”だった気がした。

 

 なので、飛び上がるように驚くくまが余計に不思議だった。

 

「おぉっ!! しかもカレー味とはっ! これはまた……”せーてんのへきれき”ってやつクマねぇ。これは……くまが美味しく食べてあげないといけない案件クマねぇ」

 

(どんな案件?)

 

 どういった理由からは知らないが、どうやらくまにはこの”おも~る”というお菓子に確かな有難みを感じているようだった。

 

 まるでガチャのSSRが出た時みたいに。

 

 どう見ても普通のスナック菓子の、普通のカレー味だというのに。

 

 深いため息をつく蛍にくまは両手をあげて異議を申し立てた。

 

「キミにはこれがどれほど貴重なものかを分かっていないクマクマっ!!」

 

「そうなの? 普通に売ってるお菓子じゃなかったっけ?」

 

 蛍の言葉にくまはぶんぶんと首を横にふった。

 

「これはメーカーが製造中止にしてしまったもう”幻のお菓子”なんだクマよっ」

 

「昔はおやつと言ったら、このおも~るこそが、子供たちのマストアイテムだったのにぃ……全く、時代の流れというのはとても残酷なものクマ……諸行無常ってやつクマねぇ」

 

 くまはちょっと遠くを見ながら瞼に手を当てて、よよよと泣きまねをしていた。

 

「そうなんだ、知らなかったよ」

 

 蛍にははちょっと分からないが、そこまで言うものならそれなりに価値のあるものなのだろう。

 

 でも、と蛍はある疑念を口にする。

 

「だったらもう食べられないんじゃないそれ? 賞味期限とかとっくに切れてそうだよ」

 

 その指摘にくまは軽く胸をどんと叩いた。

 

「冷蔵庫に入ってあったから大丈夫っ!! この世の食べ物は全部冷蔵庫で保管しておけば大体はダイジョブって教えられたクマからっ!!」

 

「それは……流石に危ないとは思うよ。最悪、お腹壊しちゃうかも」

 

 間違った根拠を蛍が軽く否定をするも、それはくまの横の耳には届いていないみたいで。

 

 その、おも~るのパッケージをまじまじと眺めながらぶつぶつと呟いていた。

 

「この、おも~るはボクに食べられたがっている……その為だけにこの暗い箱の中でじっと待っていたんだクマ。なんて健気な奴クマぁ」

 

「気のせいじゃないかなぁ。お菓子が喋るはずもないし」

 

 喋ったら喋ったでそれは怖いのだけれど。

 

 蛍は申し訳なさそうな顔で苦慮を呈したが。

 

「でもっ。それを丁重に頂くのが礼儀ってものクマ。生殺与奪……そういうことで、いただきます~。あむあむっ」

 

 何のかんのと言いながら、蛍の制止も空しく、くまは早々に袋を開けると、その中の一つを取り出してぱくりと食べてしまった。

 

 香ばしいカレー風味の臭いが、清潔だったリビングにふわりと広がった。

 

 こんな色彩の失ったような現実離れした世界で、その香りは一際はっきりと分かる実存となった。

 

「本当に大丈夫なのかな」

 

 蛍は内心頭を抱えた。

 

(けど……まあ、大丈夫、なのかな)

 

 普通だったら危ないとは思うけど。

 

 ここは常識の通用しない世界だし。

 彼女だったら何となく大丈夫というか、そんな感じがする。

 

 これといった根拠はないけど。

 

 それに、今思えば、あの冷蔵庫からは変わったものばかり出てきたような気がしたから。

 

 ちょっと変な形のスナック菓子をぱくぱくと美味しそうに食べるくまを見て、蛍は唇に指を当ててくすりと苦笑いした。

 

 ……

 ……

 ……

 

 もっしゃもっしゃもっしゃ。

 

 白と青の静謐なリビングに何とも言いようのない咀嚼音が流れている。

 

 テーブルの上に置かれた少し大きめのお皿には、先ほどの”おも~る”がこんもりと山のように盛られていた。

 

 くまはそれを当然のようにそれを手掴みすると、むしゃむしゃと美味しそうに食べている。

 

「ねぇ、くまちゃん、美味しい?」

 

 蛍は目の前に置かれた水の入ったコップにすら手を付けずに、心配そうにくまの方を見ていた。

 

 くまは口いっぱいにお菓子を頬張りながら、何度も頷く。

 

 どこまでも元気なくまに蛍は困った表情で苦笑した。

 

「はぁ……」

 

 まるで実家のようにくつろぐくまとは対照的に、蛍はソワソワとソファの上で今だ落ち着かないでいた。

 

 蛍の知っているこの家のルーティーンならば、そろそろあの人が出てきてもおかしくはないはずなのに。

 

 随分待っても、一向に現れるような気配はない。

 

 向こうの世界に居ないのならば、てっきりこっちに来ているかと思っていたのだけれど。

 

 その当ては見事に外れてしまったようだ。

 

 時間すら意味のない世界だからどれほどの刻が過ぎたのかはまだ分からないが。

 

 窓の外では白い雲が平坦に流れていた。

 

 燐やサトくんは一体どうしたのだろうか。

 

 それだけが気がかりだった。

 

 ……

 ……

 ……

 

 本当に何もない世界。

 

 レールがあったって殆ど意味ないし、この大きなモニターだってまともに映らない。

 

 冷蔵庫の中にはまあ、それなりなものはあったが、それだってどうでもいいものが入っているだけ。

 

 からっぽのまま、からっぽの世界に飛ばされている。

 

 それは今に始まった事ではないけれど。

 

 大学の進路だっていまだに宙ぶらりんのままだ。どっちつかずの状態で誤魔化している。

 

 今さらになって、進路を変更しようかなんて思っているぐらいだし。

 

 学校の教師を続けながらでも、その業務に差し支えなければ、軽い副業位は一応できるようだけど。

 

 そんな中途半端なことでいいのだろうか。

 

(オオモト様にだってそう言われていたのに)

 

 あの人は、別の何かを求めなさいと言っていたんだと思う。 

 

 一つのものにいつまでも執着などしていないで、と。

 

 多分、燐も同じ意見だろう。

 

 そう思い、下手なりにカメラを構えて見たりもしたんだけど。

 

「ねぇ、キミもちょっと食べる? 王道のカレー味だから美味しいクマよ」

 

 顔を覗き込んできたくまに無邪気な顔でそう勧められた。

 

(多分、きっとわたしも昔は美味しそうにこのお菓子を食べてたんだろうなぁ)

 

 こんな他愛のないお菓子なんかを。

 

 ちょっとノスタルジックな気分になる。

 

 もし燐の言うように、自分もこの頃に戻れたら多分、こんな悩みなんてなかったことだろう。

 

 悩みがあったとしても、それほど気にしていなかった。

 

 きっと、何かがすぱっと解決してくれるだろうと、根拠のない思いを抱いていただろうから。

 

 少女漫画に出てくる主人公みたいに。

 

「クマちゃんは、怖いものってあるの」

 

 蛍は不意に疑問を投げた。

 

 唐突な質問に、くまは持っていた”おも~る”を落としそうになるが、素早くそれを指で弾くと宙に浮くスナック菓子をぱくりと口の中で受け止めた。

 

 くまはぺろりと唇を舐めとると。

 

「もちろんボクにだって怖いものはあるクマよ。例えば……そう! 今はこのおも~るが怖いクマ。こんなに美味しくて食べるのが止まらないのだから、あとで体重計に乗るのが怖くなる~、クマクマ?」

 

 どこかで聞いたような根田(ねた)を口にしながら、くまはひょいひょいとおも~るを放り投げては口内へと運ぶ。

 

 蛍は何とも呆れかえってしまい、何も食べてもいないのに口をぱくぱくとさせていた。

 

「まあ、これは冗談だけどね」

 

 そう言って茶化した後、黄色い菓子をを手にしながらくまは続ける。

 

 蛍は口の中がからからになったのか無意識にコップを取り、水を一口飲んでいた。

 

「まあ、くまはこれでも由緒正しき熊だからね。だからボクよりも強い相手はやっぱりちょっと怖いというか。まあ、そういうのは滅多にいないけど」

 

 得意そうな顔で指先でつまんだ菓子をくまはぱくっと食べる。

 

 この分だと本当にぺろりと全部食べてしまいそうだ。

 

 まあ、蛍としてはそれは願ったり叶ったりのことなのだが。

 

 その事を口にすることはなかった。

 

「じゃあ、あの”ダイダラボッチ”とかいうのは? やっぱり怖い存在なのかな」

 

 それなりに聞きたいことではあったから、蛍はストレートに訊ねる。

 

 それでこの少女がどういう反応をするのかと言うより、結局あれは何なのかという、そっちの意見の方が知りたかった。

 

 くまはう~ん、としばらく首を傾げていたが、何か思いついたのか人差し指をぱちんとたててこういった。

 

「確かに”ヤツ”にはくまの攻撃はなにも通用しないっぽいから、怖いと言えば怖いのだけれどもぉ……」

 

「まあ、次はくまが勝つ……のではないかと思う?」

 

 自分でそう言うも疑問を顔に浮かべている。

 

「何か、対策でもあるの?」

 

 他人事のように言うくまに蛍は更につっこんだ質問をする。

 

 結局、それがいちばん大事なことだと思ったから。

 

「そこはほら、くまの野生のパワーで何とかするのだっ!! 野生に勝る力無し、クマっ!!」

 

 そう言って高らかに吠えるくま耳の少女。

 

 蛍は溜息と一緒に小さく肩をすくめた。

 

「要するに、対策無しってことだね」

 

 そんな気はしていたからまあ、そんなに気にはしていないのだけれど。

 

(オオモト様もきっと、こんな感じでこの子の相手していんだろうなぁ)

 

 オオモト様とくまのやり取りを勝手に想像した蛍は内心で苦笑いした。

 

 だが、そのオオモト様は現れていない。

 

 てっきり、彼女が自分たちを呼び寄せたのものだと思っていたのだが。

 

 蛍がちらりと視線を戻すと、くまが袋を片手で持ち、残り菓子をがーっと口の中に全部入れていた。

 

 蛍に呆れられてくまはやけになった?

 

 何だか酷く無駄な時間を過ごした気がした。

 

 

「それにしてもこのテレビって、何時になったら映るのかねぇ。もう電気屋さんを呼んだ方がいいんじゃないクマ?」

 

「だから、そういうのじゃ……」

 

 お気に入りのお菓子を食べ終えてやることがなくなったのか、暇を持て余したくまはそれを解消させてくれそうなテレビの方に興味を戻していた。

 

 蛍はくまに何度もこのことを説明をしたのだが、中々理解してはくれないようで、その度にため息をこぼしていた。

 

 ただ、のみ込みが悪いという事ではなく、単に思い込みが強いだけなのだろうと思う。

 

 揺るがない何か強い芯みたいなものが、この小さな身体に宿っている。

 

 少ないやり取りの中でだが、蛍はそう感じとっていた。

 

(その辺も含めて燐とちょっと似ているなとは思うんだけど……)

 

 頑固なところもよく似ているから、打ち解けやすいかもと思っていたのだけれど。

 

 それは全くの誤解だった。

 

「ちょ、ちょっとくまちゃん!?」

 

「もしかしたらこのテレビって、叩けば直るのかなって思って……」

 

 くまは本当にやるつもりなのか、ぐっと拳を握ってテレビと向かい合っていた。

 

 昔のブラウン管テレビならともかく、今の薄い液晶では直るとか以前に先に壊れるだろう。

 

 ましてやこの少女は一応”くま”と名乗っているわけだし。

 

 見た目と力が違う事は薄々分かっていたから、蛍は何としても止めさせることにした。

 

「くまちゃんが叩いたら壊れちゃうよ、これ」

 

 まあ、映らない時点で壊れているようなものなのだとしても、わざわざ”壊す”のとは違う。

 

 一切の望みがないというわけではないのだと思うし。

 

「まあ、それは何となく分かる気はするクマ。なんたって百獣の王だしっ」

 

 そう言ってくまは軽くガッツポーズを作ってみせた。

 

 本気なのか冗談なのか、よく分からない。

 

 ただその仕草は燐が良くやるものと良く似ていた。

 

「壊したら多分怒られると思うから、止めようね」

 

 誰とは言わなかったが、蛍はそういってくまを嗜めた。

 

(けど、こんなのじゃ学校の先生なんてとても無理だよね。ただ教えるぐらいなら出来そうかと思ったんだけど)

 

 今は教師って色々大変みたいだし、やっぱり向いていないんだろうか、自分には。

 

「えいっ、このっ! いい加減、くまの言う事を聞くクマっ」

 

 テレビを壊すことは早々に諦めたようだが、何故かくまはテレビを観ることに固執しているようで、リモコンを手放そうとはしない。

 

 それだけ暇を持て余しているということなのだろうか。

 

 確かに何もないところだし。

 

 連打する勢いでボタンを押すくま。

 

 このままだとリモコンも壊れてしまいそうだと危惧した蛍は慌てて口を挟んだ。

 

「ちょっと待ってくまちゃん」

 

「むー、何のようかクマ。くまは今忙しいんだクマ」

 

(どう見ても暇そうにしているけど……)

 

 折角手にした玩具を取り上げようとしているみたいにくまはむーとほっぺを膨らませた。

 

 その視線を気にも留めずに、蛍は少し口角を上げてくまに笑いかけた。

 

「ちょっと貸してもらえないかなぁ。わたし前にこのテレビを直したことがあるんだよ」

 

(一応、ウソは言っていないと思う)

 

 映像が視れさえすれば直ったことだと思っているし。

 

 繕った笑顔を見せる蛍をくまは訝し気に見ていたが。

 

「キミのお手並みを拝見する、クマ」

 

 そう言ってくまは渋々リモコンから手を離した。

 

「ありがとう」

 

 蛍は軽く一礼すると、両手でリモコンを持ってはぁーっと深呼吸する。

 

(確か、前は想いを込めて押したら映るようになったんだったよね?)

 

 でも、それだってちゃんと映ったのはたった一度きり。

 

 だから多分、無理かもとは思う。

 

 それでも蛍は目を閉じ、まるで神聖なもののようにリモコンのボタンをぽちぽちと押した。

 

 本当に自分が見たい景色を心の中で強く思い描きながら。

 

 ぴっ、ぴっ、ぴっ。

 

 目まぐるしくチャンネルが変わる。

 

 けれどどのチャンネルもノイズばかりで、これといって画面に変化はない。

 

 灰色の砂漠を彷徨っているみたいに、無機質な景色だけが無意味に画面に映し出されていた。

 

 くまも最初はちょっと期待していたが、飽きてきたのかソファに座りながら大きな欠伸をしていた。

 

「やっぱり……ダメなのかなぁ」

 

 蛍が諦めたようにテーブルにリモコンを置く。

 

 するとすかさずくまがリモコンをぱっと取って尋ねる。

 

「どうしたんだクマ? ボクと同じことをしていたようだけど」

 

「あぁ、うん……」

 

 この子と玩具(リモコン)を取り合うようなことをする気はもうない。

 

 きっと誰がやったって同じ結果だろうから。

 

「前にね、チャンネルを色々変えてみたら、たまたま向こうの世界が見えたことがあったの……”窓は無数にあるから”ってオオモト様に言われてたから」

 

「ざっきぃが……」

 

 その言葉にくまはしばし黙り込んでしまう。

 

 蛍は内心でしまったと思っていた。

 

(わたしって、どうも説明が下手だなあ。よくこんなんで入試の時の面談になんか通ったよね)

 

 自虐してしまうが、その辺りのことは自分でも不思議だった。

 

 燐には”蛍ちゃんらしさが出てそれが良かったんじゃない?”って言われたけど。

 

(それって結局、何も無いってことだよね……自分でも分かっていることだけど)

 

 ただ、オオモト様が言ってたことをこうして伝えることが出来たのなら、それはそれで目的を果たしたのではないかと思う。

 

 特に何も意味をなさなかったとしても。

 

「ふーん。窓、クマ……ねぇ」

 

 そう呟き、熊耳を付けた少女は軽く周りを見渡した。

 

 確かに”窓”だけなら、言っているようにリビングには大きな窓がある。

 他の部屋にも沢山あった。

 

 でも。

 

(きっと、そういうことを言ってるんじゃないんだろうね。ボクの憶測だけど)

 

 だとすればやはりこれか。

 

 ──みえるものと、映すもの。

 

 両方満たしているのは多分、これだけだろうし。

 

「まあ、大体分かったクマよ」

 

 くまはリモコンをひょいと上に投げると、蛍が何かを言う前に反対の手でキャッチした。

 

 口を開けっ放しの蛍に向かって軽くウィンクを飛ばすと。

 

「ここはくまに任せておくクマ!」 

 

 そう言ってリモコンを再び弄りだす。

 

 自分の拙い言葉が上手く伝わっているか不安だったが、一応は理解できているようで蛍はほっと安堵した。

 

夕陽(ゆうひ)の滝で習得した、ボクの55連打を見せてやるクマ。これでクリアー間違いなしクマよ!」

 

「そんな、ゲームとかじゃないんだから、って──」

 

 意気込むくまとは対照的に、蛍は呆れかえった表情で息をつく。

 

 やはり伝わりきれていなかったのだと。

 

「クマぁーーーー!!」

 

 くまはテーブルにリモコンを置くと、細い指を使ってチャンネルのボタンだけをひたすら連打している。

 

 その振動はすさまじく、テーブルから床にまで伝わって蛍の足元にまで流れてくるほどだった。

 

 可哀想だがこのリモコンはもうダメだろうと、蛍は半ばあきらめきっていたのだが。

 

「あっ」

 

「クマっ?」

 

 蛍が小さく叫んだのと同時にくまは連打を止めて顔をあげた。

 

「何か、変わったクマか?」

 

「えっと……」

 

 蛍は口に手を当てる。

 

 幸いリモコンは破壊されていない。

 これでも少しは手加減したということのなのだろうか。

 

「その、早すぎてよく分からなかったからもう一度お願い。あ、でももう少しやさしくね」

 

「オッケー。じゃあ半分の27.5連打でいくクマ。がおぉっー!」

 

 掛け声こそ勇ましいものだったが、蛍の言う通りのソフトタッチでチャンネルを変える。

 

 それでも早すぎる指の動きだったのだが。

 

 蛍は画面だけでなく、くまの指の動きにも注目していた。

 

(そういえばゲームか。もしかしたら何かの法則とか、コマンドとかってあるのかな……)

 

 前の時には特に意識とかはして押していなかったけど。

 

 何らかの数字の組み合わせとかあるのかもしれない。

 もしくは押す順番とか。

 

(例えば……素数、とか?)

 

 仮にもし、そうだったとしてそれらは何を意味しているのだろう。

 

 全てが必然、いや偶然の範疇であるのだろう、きっと。

 

(ねぇ、燐……わたしは一体どうしたらいいのかな。こっちに来てはいるけど)

 

 燐はまたこっちに来たいと言っていたのに、結局来たのは自分の方だった。

 

 それは一体何故なのだろうか。

 

 そんなことなんか全然願ってなんかいないのに。

 

 そんな時だった。

 急に画面に明らかな変化が見えたのは。

 

「……ちょ、ちょっとくまちゃん!? ストップしてみてっ」

 

 つい蛍は鋭い声を出していた。

 

 くまは指の動きをぱっと止めた。

 

 片手を上にあげたまま、何事かと蛍の方を見つめている。

 

 蛍はこくりと静かにうなずくと、視線を画面のほうに向けるように目で促した。

 

 二人の視線が、画面に注がれる。

 

 一瞬、ただの黒い画面かと思われたのだが。

 

「燐っ!!??」

 

 蛍は思わず叫ぶ。

 

「あっ、サトくんもいるクマっ!! それと、あれは……」

 

 くまはテーブルに寄りかかるようにしながら画面に顔を寄せていた。

 

 あまりに近すぎて影が出来てしまい、蛍はやきもきしながらも自らも画面へと近づいた。

 

 モニターの中はこことは違い夜の森の風景を映し出していた。

 

 映っているのは燐と、サトくん。それと……誰かの後ろ姿だけ。

 

 燐はサトくんを胸に抱きながら何やら話しているように見える。

 

 その音声はここまで届いていないが。

 

「声は……」

 

 蛍はリモコンの音量ボタンを上げてみた。

 

 だが、いくら音量を上げても向こうの音声が入ることはない。

 確か、前もそうだった気もしたが。

 

 今はそんなことよりも。

 

「燐と一緒にいる人って、多分”オオモト様”……だよね?」

 

「……」

 

 そうくまに訊ねてみたつもりだったのだが、くまは画面を見つめたっきりで、うんともすんとも言ってはくれない。

 

 黒髪に赤い着物を着ているみたいだから、多分間違いはないと思うのだが。

 

「ね、ねぇ、くまちゃん? あの変なのが”化けている”なんてことはないよね」

 

 蛍がそう尋ねても返事は返ってこない。

 

 じれったくなった蛍は少し語気を強めてくまに問いただした。

 

「あれは、オオモト様じゃないの!?」

 

 くまは否定とも肯定ともつかない、迷いのある表情でぼそっとつぶやく。

 

「分からない……ここからじゃ」

 

 そう言ってくまは横目でモニターの方をみた。

 

 画面では燐と”何かが”向かい合う形の映像だけが延々と写し出されていた。

 

 まるで制止しているみたいに動きがない。

 

 よく分からないのは画面が暗すぎるのもあるのだろうが。

 

「疑わしいような疑わしくないような……カメラさん、もっとアップにするクマっ」

 

 燐とサトくんの背後ではランタンの明かりだろうか、ほのかな灯りが点いているだけ。

 

 燐の表情だけはある程度分かるが。

 

(燐? 何だかちょっと困惑してる……?)

 

 相手と言い争っている、という訳ではないようだが。

 

 どういった原理で向こうの世界が見えているのかは相変わらず不明だが、せめて見える角度を変えてほしいとくまだけでなく蛍も願った。

 

 

「これって、今の映像なのクマか」

 

「多分……」

 

 このテレビはリアルタイムの情景だけを映していた気がする。

 

 あの列車からの景色や、犬と猿の争いなんかも全て、今と同じ時間で起こっていた出来事だけをこのモニターに映している。

 

 だからこれは今の映像だろう。

 確信を持ってそう言える。

 

「だから、燐は今……」

 

 そこからの言葉が続かない。

 

 これは別に凄惨な映像なんかではなく、むしろただ燐が”誰か”と話しているだけ。

 

 そうとしか見えないのに。

 

 何故、こんなにも身体の震えが止まってくれないのだろう。

 

(けど、もしこれがまたあの”化け物”だったりしたら……!)

 

 時間で言えばちょっと前にそれと遭遇したばかりだから、蛍がその考えに至るのも無理のないことであった。

 

 むしろそう思うことの方が当然というか、もっともらしい流れにすら思える。

 

 不穏な気持ちはどんどんと胸の中で膨らみ続けている。

 

 蛍の細い身体を突き破ろうとしているほどに。

 

 蛍はたまらずくまの手を取っていった。

 

「ねぇ、くまちゃんっ!!」

 

「えっ、は、はいっ!?」

 

 突然、息が触れ合うほどに顔を寄せられ、図らずもくまはぎょっととなった。

 

「その、今すぐに……願って欲しいの」

 

「ね、願うって?」

 

 戸惑いながら返事を返すくまの手を蛍は更に握る。

 

 それは少女の細い指が折れそうになるほど強く握られた。

 

「燐の……燐の元に行きたいって、二人で願えばきっとそこに行けるはずだからっ!!」

 

 そう、今度だってきっと……きっとできるはず。

 

 そうじゃないと燐が。

 

「ちょ、ちょっとは落ち着くクマっ。何を言っているのかボクには全然分からないよっ!」

 

 けれど、蛍は頑なに手を放そうとはしない。

 

 むしろ一縷の望みとばかりにより強くその小さな手を握っていた。

 

 今の蛍には冷静さというものが著しく欠けているようだった。

 

「と、ともかくっ、もうちょっとボクでも分かるように説明してっ。出来る事なら何でも協力するからクマぁ」

 

 くまは泣きながらぶんぶんと手を振るった。

 

 癇癪のような振る舞いをみせるくまを見て、蛍はようやく自分のしていることを理解したのか、きょとんとした顔でぱっと手を離す。

 

 くまは少し警戒するように蛍をじっと見上げていた。

 

 やっと我に返った蛍は。

 

「あ。ご、ごめんね。わたし、燐の事が心配になっちゃって、つい……ほんとごめん」

 

 もう一度謝罪をした。

 

 くまは半べそをかきながらこくんとうなずいていた。

 

 ……

 ……

 

「つまり、願えば何でも叶う世界ってことってクマね」

 

「うーん、まあ、そういうことになるのかな。何でもってわけではないと思うけど」

 

 蛍は落ち着きを取り戻したようで、くまとソファの上で向かい合いながらこの世界についての事柄を話していた。

 

「じゃあ、こうして手を繋ぎ合った方が、その願いが叶えやすいってことクマか?」

 

 差し出された蛍の手をくまはしげしげと見つめる。

 どうみてもそんな力は感じないが。

 

 疑いながらももう一度手を繋いだ。

 

「まあ、わたし達がそうしてきただけなんだけど」

 

 多分関係ないのかもしれないが、それでもこうした方がより強く願いを込められる。

 

 そんな気がしていたから。

 

「じゃあ、もう一度ちゃんとやってみるクマ」

 

「ありがとうクマちゃん」

 

 蛍は再度お礼を言うとくまの手を痛くないように少し強く握った。

 

 くまは蛍に教わった通り、手を握りながらそっと瞼を閉じる。

 

 蛍はそれをみて小さく微笑むと、自身も静かに瞼を閉じた。

 

「後は願うだけだよね?」

 

「うん……お願い」

 

 二人の少女は向かい合いながら手を繋ぐ。

 

 余計な事を考えず、同じ思いを心の中で願いながら。

 

(そういえば……前にも……)

 

 これとまったく似たような状況が前にあったことを不覚にも蛍は思い出してしまった。

 

 緑の葉で出来たトンネルでのことだった。

 

 蛍は直ぐに頭の片隅から消したが。

 

「…………」

 

 ──ともかく今は帰ることだけを考えればいい。

 

 燐がいる、現実の世界へと。

 

 ……

 ……

 ……

 ……

 ……

 

「はぁっ…………ねぇ、無理なんじゃないかな、これ……」

 

 先に音を上げたのはくまの方だった。

 

 心底疲れたように溜息を吐いている。

 

 肉体的には人並み以上のものを持っているくまも、精神的な疲れには弱いらしい。

 

 一般的な少女と同等か、もしくはそれ以下のようだった。

 

「そう……かもね」

 

 蛍も疲れてしまったのか、くまの意見に同意をしめす。

 

 ずっと二人で願い続けていても、二人はリビングに留まったままだった。

 

 少女達が諦めの声を漏らしてしまうのは仕様がないことであった。

 

 画面では相変わらず燐と黒髪の少女が向かい合っている。

 

 ずっと音声は聞こえない。

 

 けれど、和やかに再会を喜んでいるようには到底見えないのだ。

 

 少なくともこの画面上からは。

 

 くまがテレビに顔をぴったりくっつけるつもりで見てみたがそれでも分からなかった。

 

 改めてくまは蛍に謝罪する。

 

「いいよそんなこと。くまちゃんのせいじゃないし」

 

 そう言う蛍だったが、内心では依然、焦燥感が渦を巻いて駆け回っている。

 

 ここから戻れないかもしれないとかよりも、燐の身に危険が迫っているかもしれないという危惧の方に確かな焦りを感じていた。

 

(せめて、燐と連絡を取れればいいのだけなんだけど)

 

 少なくとも最悪の事態だけは回避できると思う。

 

 そう思い着ていたウェアやズボンのポケットを全て引っ掻き回してみたのだが、()()()何も入っていなかった。

 

 一応、くまの衣服も調べてはもらったけれど、結果はおなじ。

 

 リビングの引き出しやクローゼットなんかも開けてみたけれど、家の中には何一つですら見つからなかった。

 

 これはつまり。

 

「ボクたちは閉じ込められたってことクマね」

 

 事実上ではそういうことだった。

 

 ただ、窓だって普通に開くし、玄関のドアだってカギは掛かっていないとは思うが。

 

 隔離された世界に閉じ込められていることは確実だった。

 

「燐……」

 

 仮にこれが本物のオオモト様だったとしても、それをここから見守ることしかもうできないのだろうか。

 

 焦りが波のように引いてしまったのか、蛍は画面の正面のソファに座り直す。

 

 それはそれである意味幸せなことなのかもしれないが、もしそうじゃなかった場合は悲劇を目撃してしまうこととなる。

 

 蛍にとってそれはとても耐え難いことであった。

 

 好きな人が目の前で恐怖におののく姿を見て歓ぶものがこの世にいるのだろうか。

 

 少なくとも自分はそんなことに愉悦を感じたりなんかしない。

 むしろ身を引き裂かれる思いに駆られるだろう。

 

「あれは何クマぁ!? さっきまであんなのなかったよっ」

 

 窓の方を見ながらくまが指を差しながら素っ頓狂な声をあげていた。

 

 蛍の関心は液晶のモニター画面の燐だけに注がれていたのでそれほど気にはしなかったのだが。

 

「ほら、蛍。見るクマよ。あんなのなかったはずクマ」

 

 服の袖を引っ張って呼ぶので、ちょっと眉を寄せて蛍は横目でそちらを見ることにする。

 

 燐から目を離すつもりはなかったのだが。

 

「あっ!」

 

 蛍は思わず立ち上がっていた。

 

 確かにこれなら向こうにいる燐と連絡が取れるかもしれない。

 

 けれど、それは。

 

「……」

 

 逡巡するように蛍は口に手を当てて考え始めた。

 

 窓の外にあったものは電話ボックス──そのちょっと古いデザインの透明な箱の中には緑色の公衆電話が付いていた。

 

 確かにそれには見覚えがあった。

 

 だが。

 

 青いドアの家に入るときも、白いプラットフォームにもなかったものが、今、家の傍に立っている。

 

 結構大きなものだから見落とすはずもない。

 

 だとしたら、そういうことだとでもいうのだろうか。

 

(もしかして、願った結果があれだってこと!?)

 

 伝えるという意味だけを解釈したのなら、それほど間違いではないのだろうが。

 

 でも、蛍はもう知ってしまっている。

 

 何も考えずにあの透明な箱に入り、その結果とても酷い目に遭ったということを。

 

 あの時の出来事は今だハッキリとは自分の中で認識できていないが、少し考えただけでもあの時の恐怖が蘇ってしまう。

 

 電話ボックス自体はそれほど珍しいものではないから、前に来たときに入ったときと同じものかはまだ分からない。

 

 傍目には何の変哲もない電話ボックスにか見えないわけだし。

 

 普通の世界ならば。

 

 だが、例え記憶が覚えていなくとも、この身体が覚えているのだ。

 

 閉鎖の中で行われた狂気と恐怖を。

 

「どうしたの? 顔が真っ青になってるクマ」

 

 くまに顔を覗き込まれた。

 

 蛍は急に恥ずかしくなって顔を赤くして少し俯いた。

 

「え、えっと……確かにあれなら連絡とれるかもね。電話が通じれば、だけど……」

 

 何故か、お茶を濁すような言い方をされて、くまは首を傾げた。

 

「何を暢気な事を言っているんだクマか。今の内にやれることをやっていた方が良いと言ったのはキミの方クマよっ」

 

 口を尖らせてくまが抗議する。

 

 確かに、そう言って蛍はくまに協力を仰いでいたのだった。

 

 それでもあの透明な箱にはいるのにはまだ葛藤があるのか、蛍はもじもじと手をこまねいて、電話ボックスと画面を見比べている。

 

 一体何の迷いがあるというのか。

 

 好きな人が大変な目に遭うかしれないというのに。

 

 業を煮やしたくまは叫んだ。

 

「じゃあ、携帯の番号を教えるクマっ! ボクがひとっ走りしてきてあげるっ!」

 

 そう言ってくまはペンを挟んだノートを蛍の前に強引に差し出す。

 

 くまの申し出に呆気にとられた蛍だったが。

 

「これって、ノート? どこで見つけたものなの?」

 

 そのノートとペンを指さして問いかける。

 

 さっき二人で一緒に家の中を探した時にはこんなものがあったって言ってはいなかったのに。

 

 するとさっきまで少し興奮気味だった少女が急にしおらしくなって呟いた。

 

「ぼ、ボクにもよく分からないクマ……何か気付いたら手に持っていたというか……う、ウソじゃないクマよっ!」

 

 頬を紅くしてそう弁明をするくま。

 

 嘘を言っているような感じはない。

 

 むしろ、この少女はこれまで嘘なんか一度も吐いたことがないようなとても純粋な目をしていた。

 

 純粋で無垢で可憐な……穢れの無い少女。

 

 自分とは大違いだと思った。

 

 燐にはずっと変わっていないねってお世辞を言われるけど。

 

 そんなことはないとはっきり断言できる。

 

 見た目は自分じゃ分からないけれど、内面では前よりももっと、ずっと、狡く、汚くなっている。

 

 わたしは分かるんだ。

 だって、自分のことだし。

 

(そうだよね……じゃあ、わたしの出来ることといったら……)

 

 蛍は差し出されたノートをぱらぱらとめくる。

 

 ごくありふれた大学ノートは真新しいものみたいに、ページは真っ白なまんまだった。

 

 蛍は最後のページに燐の携帯の番号をペンでノートに記すと、そのページを破り丁寧に畳むと、呆然と見ていたくまの手にそれを握らせた。

 

 手に握られたものを見て、くまは理解したように頷くと。

 

「よしっ、じゃあくまが──」

 

「ちょっと待ってくまちゃん」

 

 一目散に駆け出して行こうするくまの手を引いて蛍は制止させると、静かな声色でこう言葉を紡いだ。

 

「わたしが、電話を掛けに行くよ」

 

「え、だったらこれは?」

 

 くまは紙の入った掌を開く。

 

 外からの光が反射したのか、白いちいさな紙切れが何故かとても大切なものみたいに光ってみえた。

 

「それは、わたしに何かあった時のためにくまちゃんに渡したの。燐のことをお願いする為に」

 

「お願いって……」

 

「じゃあ、頼んだからねっ」

 

 くまの問いに答えることなく、蛍はリビングから飛び出していった。

 

「あっ、ちょっと、ねぇっ、”蛍”っ!」

 

 あまりに急なことに流石のくまも呆気に取られたが、はっとなって蛍の後を追った。

 

 何故かは分からないが、そうしないといけない気がしたから。

 

 蛍はもう玄関で靴に履き替えていた。

 

「まだボクの話が──」

 

 そう言いかけたくまだったが、振り返る蛍を見て何も言えなくなった。

 

 別に怖い顔をしていたというわけじゃない。

 むしろ柔らかい笑顔を蛍は向けていた。

 

 それが逆にくまから言葉を奪っていたのだ。

 

「…………」

 

「ねぇ、くまちゃん。燐の事をみていてほしいの」

 

「わたしは、きっとすぐに戻ってくるから」

 

 吹き抜けの玄関に蛍の静かな声だけが響く。

 

 蛍はまだきょとんとしているくまに軽く手を振ると、青い色のドアを躊躇うことなく開ける。

 

 開いた玄関から白い光が溢れていた。

 

 蛍はその中に出て行ってしまう。

 

 静まり返った玄関には耳付きのカチューシャを付けた少女ひとりだけが取り残されていた。

 

「……なんなの、もう、勝手なこと言ってさ」

 

 つまらなさそうにそう言葉を投げると、腕を頭に回しながら、それでも言われたようにリビングへと戻ろうとする。

 

 だが、くまの細い足が途中で止まった。

 

(もしかして……キミは)

 

 くまは蛍が出て行ってしまった青い玄関のドアの方をもう一度見つめる。

 

 あの顔は笑っていた?

 

 それとも、泣いていたのだろうか?

 

 こちらを振り返ったときのあの笑顔がやけに頭に残る。

 

 なんであんな綺麗な表情が出来たのだろうと。

 

「まあ……そこまで気にすることではないのかもね、すぐに戻ってくるって言ってたし」

 

 軽く首を振ると、楽観的な思いを抱きながらくまは誰もいないリビングへと戻った。

 

 目と鼻の先にあるものだったし、それに電話ボックスは透明なのだから。

 もし何かあったって、すぐに分かるだろうと。

 

 くまはぽすっとソファに横になる。

 

 誰もいないからだろうか、この家のリビングがやけに広く見えた。

 

 気のせいだとは思うけど。

 

「……」

 

 けど、見ててほしいって言われても、ねぇ?

 

 さっきから画面が全然動いていない気がするんだよね。

 まるで一振りの絵画か写真みたいに。

 

 せっかくテレビに映っているんだからもうちょっと動いたりして、こっちにアピールすればいいのに。

 

 そんな暢気なことを考えながらくまはぼーっと画面を見ていたのだが。

 

「やややややっ!?」

 

 くまはソファからぴょんと飛び上がると、モニターに指を差す。

 

 画面が真っ暗だったから、てっきり電源が切れて何も映っていないと思ったけれど。

 

 そうではなかった。

 

「みんな、いつも間にか居なくなっちゃってるクマぁ!!??」

 

 テレビの画面からサトくんも燐もいなくなっていた。

 

 そしてあの、”民子ちゃん”っぽい後ろ姿も忽然と居なくなっていたのだ。

 

 壁掛けのモニターからは黒い画面だけが映し出されている。

 

 くまは口をあんぐりと開けてモニターを見つめていたのだが。

 

「あれっ、これって……!?」

 

 困惑したように大きな瞳をぱちくりとさせる。

 

 テレビの端から端まで見つめていたときに分かったのだが、画面の上のほうに何か、影らしきものが映り込んでいたのだ。

 

 最初からあったのかまでは分からないが、四角いドアらしきものが見えたので多分、何かの建物ではないかと思う。

 

 視点が固定されたままなのでそれが何かまでは分からないが。

 

(もしかして、この中にみんな入っていったとか……?)

 

 あり得ない事ではない。

 

 むしろそうとしか、今のくまには思えなかった。

 

 そしてそれは。

 

「これは! これはっ……!! うむむむむむっ」

 

 くまは小さな顎に手を当てて考える。

 

 これは多分、相当一大事なんじゃないだろうか。

 

 あいつの正体が何であれ。

 

 くまは早速そう結論を付けると、外の電話ボックスの中にいるであろう蛍に向かってすぐに呼びかけてみることにした。

 

 きっと彼女もそれを望んでいるだろうと思ったから。

 

 リビングのガラス戸をがらりと開けると、くまは息を吸い込んで外に向かって叫んだ。

 

「おーい! 何か変な事が起きてるクマーー!! だから早く」

 

 戻ってきて──。

 

 そう言葉を続けようとしたんだ……ボクは。

 

 だけど。

 

 ()()がない。

 

 確かにすぐそこの場所にあった電話ボックスが忽然と無くなっていた。

 

「な、何これっ!! どーゆーことっ!?」

 

 くまは裸足のままぴょんと地面に飛び降りると、血眼になって素早く周囲を見渡した。

 

 けれど、あの長方形の箱は何処になかった。

 

 視えていたと思っていたものが、すっぱりと消えて無くなっていた。

 

 何の痕跡すらも残さずに。

 

 そしてそれは、電話ボックスだけでなく、ついちょっと前に玄関から出て行ったはずの蛍の姿もなかった。

 

 まさかだとは思うが迷った可能性もあるかもと、一応くまは家の周りをぐるりと走って一周してみたのだが。

 

 いない、どこにも。

 人も、モノも。

 

 こんな、だだっ広いだけの世界の一体どこへ行ったのだと言うのか。

 

 何かにかどわかされたとしか思えない。

 

 神隠しにでもあったみたいに──。

 

(……それって!?)

 

 少女ははっと息を飲む。

 

 どくんどくんと嫌な感じの音が小さな身体の内側から早鐘を鳴らしている。

 

 小さな紙きれを握っていた手のひらは冷たい汗で湿っていた。

 

 まさか……?

 

 見た目、綺麗な所だったから警戒心なんて抱かなかったけれど。

 

 それは間違いであり……そして。

 

「じゃあ、ここが、()()()()……ってこと、なのっ!!??」

 

 そう少女に問われても答えるものはもうどこにもいない。

 

 

 ただ、呆然と立ち尽くすだけ。

 

 

 青と白しかないツートンカラーの何もない世界で。

 

 

 ひとりぼっちの少女が空を見上げていた。

 

 

 ────

 ───

 ──

 

 

 

 

 






 ── 青い空のカミュ発売五周年おめでとうございますー!!! ──


ということで、個人的大人気作品”青い空のカミュ”が発売してからもうなんと五年なのですよーー!!! いやーもう五年も経ってしまったのかーーーという思いの方が強いですねーやっぱり。四周年のときはもうお祝いなんて無理かなってちょっと本気で考えてたんですよーこれでも。だから今年もこうして無事に祝うことができたことを感謝しております。ずっと好きを続けられて良かったなぁって。

あ、そういえば公式HPがしばらくの間見れない時期があったのですけれど、いつの間にか直ってて良かったです。でも、何かモニターを変えたせいでしょうか、全体的に見やすくなったような気がする??? ただの気のせいかもしれないですけれど。


mono。
ゆるキャン△だけでなく、monoもアニメ化するんですねーー!! これも結構ビックリ案件だったかも。まだ多分先になるとは思いますけど、ゆるキャン△のアニメ同様こちらも楽しみですねぇ。

そういえば、ゆるキャン△SEASON3のアニメで出てくる新一年生のキャストも公開されましたねー。ってことは結構アニメの方も先に進む感じみたいですねー。”さらばしまりんだんご”ぐらい行きそうな予感がしますがーーどこまでアニメ化するか楽しみですねー。急遽発表されたパズルゲームも気になりますし、まだまだゆるキャン△は終わらない!! って感じします。

もちろん、青い空のカミュもですっ!!

六周年もこうして何かお祝い出来たらいいなぁ。


それでは、ではでは~~。

 追記ー。

DL版”青い空のカミュ”が5月7日までの期間、”1500円(いちごー)”セールみたいですねー。もしまだよく知らない方がおりましたら、是非この機会にお手に取ってみてください。
DL版なのですがっ。


ゆるキャン△ SEASON3~。

先ほど第一話を観させていただきました──。
前半オリジナルのリンの過去話なのは2期を踏襲している感じがします。割と無理のない展開で良かったですね~。
後半はおおよそ原作通りの流れですかねぇー。キャラデザが前期までとの違いで最初はちょっとむうっと来る方もいるかもですが、個人的には割と好感触だと思いました。
特に、声優さんが続投っていうのは結構大きいと思います、ホントに。

ゲームのつなキャン△も一応再開しましたし、今年のゆるキャン△も変わらずまったり堪能できそうですねー。


それではでは~。







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