放課後だけの関係 (からあつ)
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放課後だけの関係
「じゃあね仁美! また明日~」
大げさに手を振りながら、騒がしく廊下を掛けていく友人たちに小さく手を振り返した。同時に自然とため息が漏れる。今日も一日騒がしい奴ら。そんな奴らと別れるこの瞬間は、いつも肩の荷が下りたような気持ちになる。
別に嫌な奴じゃないし話も合う。普通に遊びに行くし友達なんだと思う。それでも何となくあいつらと一緒だと居心地が悪いと思うのはなんでだろう。
入学と一緒に色を抜いた髪をかき上げながら、あいつらが降りていった階段を背に教室へ戻る。誰もいない、掃除が終わってきっちり整列した机の列を縫って自分の席へ座る。
窓際の後ろから二番目。授業中に居眠りしたりスマホをいじったりしてもバレないお気に入りの席。そして、放課後窓の外を眺めると部活動に励む生徒たちの姿が目に入る席。
あいつらと帰ると疲れるからっていうのもあるけど、私はここで一人放課後の風景を眺めるのが好きだ。夢や目標に向かって頑張っている人を見ていると、自分とは別世界の住人のように思える。自分と地続きの存在とは思えないそんな彼らは、より一層私が独りでいることを認識させてくれた。
「あんまり好きじゃないんだよな。みんなでいるの」
風にたなびくカーテンに煽られながら、誰もいない教室に向かってポツリと呟く。
集団でいるのは好きじゃない。でも、女子高生にとって一人でいるのは『面倒くさい』。相手の自己満足のために逆に構われたり、そうじゃなければ噂や陰口の格好の的。一人でいるにはそれなりの労力が必要なので、それすらも面倒くさい私は今日も好きでもない相手と笑い合っている。
卒業して、進学して、就職しても、たぶんこの構図は変わらない。きっとこの先も女という生き物は一人でいる奴を安々と放っておいてはくれないだろう。そう考えるとますます面倒くさくなってため息を重ねたくなる。
やりたいことも別にないし、これといって好きなものも特にない。それでもって周囲の奴らは面倒くさい。
そんな人生、続けて楽しいのかな。無意識に窓の外の空を見上げてしまう。
―――ガラリ
廊下側の戸が引かれる音が無人の教室に響いた。ビクッと首をすくめて音の方へ向き直ると、一人の生徒がこちらを見て突っ立っていた。
いや、本当にこっちを見ていたのかはわからない。だって目の前の女子生徒は目に覆いかぶさるほど前髪を伸ばしていたのだから。
いきなり現れた訪問者に驚いてぼうっと見続けてしまったが、別に話しかける用事もないし再度窓の外へ視線を移す。どうせ忘れ物でも取りに戻ったんだろ。ほっとけばいなくなるはず。
走り込みをやらされているサッカー部に視線を落としながらそう思っていたのに、当の本人は何を思ったのか私の後ろの椅子を引いた。
私の後ろの席。つまり窓際の一番後ろの席。
わざわざそこに座る? これだけ席が空いてるのに?
不機嫌さを隠すつもりもなく、前髪をかき上げながらそいつの方へ振り返ってきつい視線を送る。
「何か用?」
ぱっつんに切りそろえた前髪に、耳の上で結んだ肩まで届くツインテ。誰だか知らないけどサブカル系のオタクって感じか。
「別に用はないけど」
根暗そうな見た目の割に、不躾な態度に怖じ気づく様子もなさげに答えた。
「じゃあ何でこんな近くに座んの? 気が散るんだけど」
「ここ私の席だから」
サブカル女は当然でしょ? とでも言いたげだった。
後ろの奴なんか気にしたことなかったから、いつもこいつが私の後ろに座っていたかなんて覚えていない。ただそんな変な嘘つく理由もないだろうから、私がこいつのこと知らないだけなんだろうな。
別に興味なかったからな。クラスメイトや学校の奴らのことなんか。
「あっそ、じゃあ好きにすれば?」
セーターのポケットからスマホを取り出し「メンドくさいから話しかけないで」と言ってやる代わりにいじり始める。
私の言葉やあからさまな仕草を気にする様子もなく、後ろの席の女はガサゴソとカバンの中をあさり始めた。別に聞きたくもないのに、教室が静かなので何をしているのかがわかってしまう。
ノートか何かを机に広げた。
筆箱のジッパーを引いて、取り出したシャーペンをカチカチとノックする。
シャーペンの芯が紙をなぞり、その部分に黒い痕を刻んでいく…。
この音って、絵でも描いてる?
つい反射的に顔を上げたくなる衝動に駆られるが、なんとか好奇心を押し込めて画面のフリックを続けた。
マジ…? 放課後の教室で一人絵描いてるってだけでもなかなかアレだけど、人が、しかも目の前の席に仲がいいわけでもないクラスメイトがいる中で描き始めるってどういう度胸してんの?
まぁ空気読めない系の奴なんだろうと思い直して意識をスマホの画面に戻す。
ツイッター、ライン、インスタを覗いても目立った更新はない。そりゃそうだ、さっき別れた奴らは今頃カラオケかゲーセンあたりにでも行ってるんだろうし…。
ネイルで飾った指が、目に留まった投稿に対して事務的に「いいね」を押す。
こちらから避けておいて、一人が好きだと気取っておきながら居場所を求めてSNS上を彷徨う自分に気がつき、思わず自嘲がこぼれた。
スマホをポケットに戻し、私はまた窓に顔を向けた。ガラスには私の不機嫌そうな顔が映っていた。
開け放った窓からふわりと秋の風が入り込んで髪をさらう。校庭のイチョウがザアザアと心地いい音を鳴らしている。いつの間にか日も傾き始めて空も夕焼けに染まり始めた。
ああ、もうこんな時間か。ほほ杖をついて鼻からため息を漏らす。今日もなにもないまま一日が終わったな。
そう思った瞬間に、意表を突かれた。
「あの、さ」
背後から掛けられた声に引きよせられるかのように反射的に振り向いてしまった。
「ちょっと、スケッチさせてもらってもいいかな?」
こちらが返事をする前に、後ろの席の女は質問を投げかけてきた。それもめちゃくちゃ変な。
「はぁ?」
そんな言葉が頭に浮かんだものの、その言葉が口から飛び出すことはなかった。人って突然訳わかんないこと言われると頭真っ白になるもんなんだね。
「…好きにすれば?」
数秒黙ってから出たのはそんなセリフだった。
まぁ、別に断る理由もないし。
「ありがとう、普通にしてくれてていいからね」
そう言うとそいつはシャーペンを走らせはじめた。静まり返った教室には再びシャーペンの音だけが響いた。さっきまでと何も変わらないはずなのに、この音が自分に向けられているとわかっている今のほうがよっぽど居心地が悪い。
向かい合うのも気まずいし、だからといって背中を向けているわけにもいかない。普通にしてればいいと言われたので、横顔が見えるように髪をかき上げて窓の外に顔を向けた。
十分ほど姿勢を維持していると、背後からシャーペンを机に置く音と共に「できた」という小さな声が聞こえた。
チラリと机の上を見ると、スケッチブックには風に髪をなびかせた私が描かれていた。
「上手く描けてるかな?」
そいつはスケッチブックと私の顔を見比べながら、わずかに口の端を持ち上げた。
「上手いんじゃね。思ったよりつまんなそうな顔してて笑えるけど」
「そう?」
私の言葉に眉をひそめながら自分の絵を睨みつける。
「夕日に照らされたあなたの横顔がカッコいいと思ったんだけどな。そういう感じに描けなかったかー」
「まぁ私がそう思っただけだし。別にどうでもいいんじゃない? 普通に上手いと思うし」
そう言いながら鞄を肩にかけて席を立つ。いつもは何となく部活をやっている生徒たちもまばらになるまで意味もなく残っていたけど、今日はもういいかなって思った。あいさつもなしに教室を出る。
廊下を歩きながら、嫌でも先程までの出来事を思い返す。
「いきなり地味なやつに話しかけられて、スケッチしていいか聞かれた」なんて言ったらウケるだろうけど、それをあいつらの笑い話のネタにされるのは気に入らなかった。
今日のことは、私の中だけにしまっておこうと思った。
「あんたってさ、いつもここで絵描いてたの?」
私も結構教室に残ってたんだけど、とスマホをいじりながら問いかける。
「ううん、前までは美術部に入ってたけど、辞めたから教室に来た」
「ふぅん、何かあった?」
「作品をコンクールに出さないならやめろって言われてさ。私、イラストしか描かないから部でも浮いてたし」
あの日から毎日のようにスケッチブックを見るが、たしかにこいつはアニメっぽいイラストばかり描いていた。全然興味は持てないけど、別に下手だとは思わない。
「それにもう三年だし。普通に活動してても引退だけどね」
もう三年…今年に入って何度も聞かされた文句。大学や短大、専門学校や就職。学校の殆どの生徒は進路を決めて、そのゴールに向けて頑張っている。私といえばやりたいことも見つけられず、今日も進路指導の教師から分厚い資料を嫌というほど渡されたばかりだ。
別に放課後部活に励む奴らを眺めて再確認しなくたって、今この瞬間も私は十分孤立していた。
「あんたは絵の勉強でもするの?」
「うん、専門学校に申し込むつもり」
「いいね、やりたいことがあるって」
「何か好きなものとか…やりたいことってないの?」
「教師みたいなこと言うね」
つい吹き出してしまう。
「好きなことも得意なこともないし、見た目の通り勉強も嫌い。そもそも人と一緒にいるのも好きじゃないし」
前髪をかき上げて、足元の資料で膨らんだ鞄から目をそらす。
それでも今までは何となくやってこられた。学校で友達と話す時間も嫌いってわけじゃないし、放課後一緒に遊ぶのも楽しい。学校行事は何だかんだで盛り上がる。
でも、これから先そんな毎日は続かない。生活のために仕事をしなくちゃいけないし、友達だっていつでも会えるわけじゃなくなっていく。ちょっと息苦しくても居心地のいい今の生活は、あと半年もせずに終わってしまうのだ。
「ほんとさ…これからどうやって生きていこうかな」
生きる手段だけじゃない。生きる目的すら見つけられない自分は、本当にこの先やっていけるのか。最近は寝る前にそんなことも考えてしまう。
そいつはしばらく黙っていたかと思うと、少し間をおいてカバンをあさり始めた。
「私も見た目通り根暗だから…人にアドバイスなんかしたこと無いし、上手いことなんて言えないけど…」
机に差し出したのは、一枚のDVDのパッケージだった。しかもアニメの。
「好きなものが見つからないって言うなら…私の好きなものをオススメすることはできるよ」
「私にアニメ見ろって? ちょっと無理なんじゃね?」
「うん、でも私にできることは他に思いつかないし、気に入らなければ見ないで返していいから」
会った日から一つもビビったりキョドったりしなかったのに、今はモジモジと机の下でスカートの裾を握りしめている。
マジで経験のないんだろうな。こういう話。
「まっ、そこまで言うなら気が向いたら見るわ。愚痴って悪かったね」
鞄にDVDを突っ込んでから二言三言言葉を交わすと、今日はそのまま教室を出ることにした。
資料は校舎裏の焼却炉に全部捨てた。
あいつに借りたDVDを見た。
アニメなんて小学生ぶりにちゃんと見たけど、まぁ、その時に比べるとキレイに動くなぁという感想。
ストーリーはよくわかんないけど、寝たり途中で止めたりしない程度には見れたし、寝る前の1時間を使った分は楽しめたかな。
ヘッドホンを外してから首を振ってくしゃくしゃになった髪をまとめる。久々に引っ張り出したゲーム機からDVDを取り出して、パッケージに収めようと手に取った所でジャケットが目に入った。
宇宙空間に浮かんだ地球をバックに、マントを羽織った女の子と神経の細そうなメガネの男が描かれたそれを眺めながら、先程まで見ていた内容を反芻する。
ストーリーはよくわかんない。絵もキレイだなぁ程度にしか思わなかった。
唯一心に引っかかっているのは、主人公のメガネの声。
どこか世の中を達観した風だったのに、あるシーンでは子供のように声を詰まらせて泣き、別のシーンでは戦うことを覚悟した雄叫びを響かせていた。
世の中全てに期待なんてしていなかったそいつは、その時女の子のために本気になった。ストーリーはわからなくても、それが声の迫力だけでビシビシと伝わってきた。
「…寝ようかな」
部屋の照明を落としてからも、そのシーンが耳にこびりついて中々寝付けなかった。
次の日に見終わったDVDを返して、その場であいつの用意していた続きを借りた。
次の次の日も続きを借りた。
次の次の次の日には見終わってしまったので、次の次の次の次の日は他のおすすめを借りた。いつの間にかあいつとDVDのやりとりをする放課後が日課になっていた。
とは言っても、内容は相変わらずよくわからないからあいつの感想には付き合ってやらないんだけど。
「ストーリーのここがいいとか、このキャラがすごいとか、そういう話もしたいんだけどな」
私の返したDVDを鞄にしまいながら、後ろの席で頬を膨らませた。
「ごめんね、やっぱりそういうのはあんまり興味ないから。実際前借りたやつの内容殆ど覚えてないし」
「じゃあどんなところが気に入ったわけ? 貸したアニメの」
ごろりと机に半身を預けながら投げかけられた質問に、私は改めて何でだろうと思案してみる。
演技、声…最初はそういったものに惹かれたのは確かだ。ただこいつの言うようなイケボ(たぶんいい声って意味だと思う)だからとか、演技が上手いからとか、そういった理由じゃなさそう。じゃあ私は、どんな演技に、声に惹かれた?
考えながらふと気づく。そういえばどのアニメのどのキャラクターも、目的のために必死だったな。
目標のため、信念のため、意地のため、誰かのため、世界のため、信じる正義のため…私が見たアニメのキャラクターたちは誰もが何かのために努力し、傷つき、もがき苦しんで、そんな必死な姿に釘付けにされていた気がする。
…そっか、そう思わせたのが…演技なんだ。
言うまでもなくアニメのキャラクターたちが実際に何かのために努力し、傷つき、もがき苦しんでいるわけではない。それはあくまで設定だ。でも『このキャラクターはこんな生い立ちで、こんな考えを持って、こんな信念を持っています』なんて文字を並べたとして、そんなものに共感できるだろうか。
キャラクターという受け皿に、視聴者が共感するような生き様を、背景を注ぎ込んで活き活きと動かす。私はそんな技術に惹かれたんだ。目標も目的も何もない空っぽの私だからこそ、そんな存在にリアリティーを感じさせる演技の数々に。
「いや、声優ってすごいなって…思ったかな」
言葉にするのが面倒だったので、それらの上澄みだけを汲み取ったやんわりした感想を伝えた。そんな私の答えでも一応は納得をしたのか、後ろの席では「確かにねー」と頷きながら名前は見た覚えのある声優の凄さを語っていた。いくつかは共感できたので素直に相槌を打った。
空っぽのキャラクターを活き活きとさせる職業…か。
机の上に投げ出した専門学校の案内がちらりと目に入る。看護、保育、環境ナンタラや情報云々と並ぶ学部に混じって小さく、本当に小さく載った演技・声優の文字。
「…目的がないままよりはいいか」
焼却炉に捨てて帰るつもりだったその冊子を、クルリと丸めてから鞄に押し込んだ。
それから卒業までのしばらくの間、声優という仕事について勉強し、専門学校や養成所を調べ、相も変わらずあいつから借りたアニメを見た。
普通なら一番の難所だろう親の説得も元から期待されてなかったせいか呆気ないほど簡単に済み、専門学校を卒業するまで相当の学費も援助してもらえることになった。自主練の時間を考えたとしても自由な時間は多そうだし、バイトもすれば一人で十分生活できるだろう。練習や配信なんかの声を家族に聞かれるのも嫌だしね。
ここまで準備をしておいて、それでも声優になりたいかと聞かれると頭をひねってしまう。でも、自分でもキャラクターに命を吹き込んでみたい。人生に何の目標もなかった私には、それだけで声優の勉強をする理由になる。
「アニメ貸すもこれで最後だね」
二月の冬の日、窓の外では珍しく雪が降る教室であいつがDVDを差し出す。
「ありがと。おかげでこの1年間退屈しなかったよ」
借りていた物を返してから、新たに渡された物を受け取る。いつもならここであいつから二言三言雑談が挟まるのだが、今日はなぜか押し黙っている。私の方も釣られて無口になった。
外の喧騒すべてを雪が飲み込んでしまっているのか、教室には勝手に付けたストーブが燃える音だけが横たわり、時折思い出したかのようにゴポリと灯油を送り込む音が響いた。
壁にかけられた時計が何度かカチリと音を刻んだところで居心地が悪くなって席を立つ。
「じゃ、私帰るから。自主登校始まる前には返す」
いそいそと教室の後ろに並んだロッカーの前を通り、扉の取っ手に指をかけたところで背中に声をかけられた。
「進路…何か決まった?」
雑談じゃない。はじめからこれを聞くために来たんじゃないかと思うほどハッキリとした声色だった。
「…一応ね」
背中越しに返す。
声優を目指していることは、こいつにも黙っていた。特に理由があるわけじゃないけど、そういう浮いた業界に興味があると知られるのは、なんとなく気まずかったから。
「そっか、ずっと心配だったから良かった」
「悪かったね、気まぐれの愚痴をマジにさせちゃって」
「ううん、私も好きなアニメ布教できたし」
「なにそれ」
思わず吹き出してしまう。
「あんたも頑張りなよ。イラストか何か私にはわかんないけど」
「ありがとう。そっちも好きなこと頑張って」
あいつから投げかけられた言葉が胸を締め付けたように感じたけど、それに気づかないふりをして教室を後にした。
暖かい教室とは打って変わって、雪の降る校庭は厚手のタイツを突き抜けるような寒さだ。マフラーに顎を埋めて、雪の積もった場所を避けながら帰路へつく。
この窮屈な環境から出られて、やりたいことも見つかって、そのための準備も順調に進んでる。
それでも名残惜しいようなこの気持ちは、一体何なんだろう。
最期に借りたDVDは何となく見る気になれなくて、結局再生もせずあいつに返した。
「最後だしカラオケ行こうよ!」
「うん! その後はファミレスでダベる感じかな」
「エミも彼氏と会った後合流するってさ」
卒業式後のホームルームが終わり、私たちの3年間が終わった。
目の前を行く女たちはさっきまで泣きじゃくっていたというのに、もう普段の放課後のようなやり取りを始めている。「卒業式で泣いて別れを惜しむ」というところまでが彼女たちにとって儀式の一部なのだろう。
私は別に高校に思い出はないし、そもそもこれからのことで頭がいっぱいで悲しむ暇もなかった。
一人暮らしする部屋は決めたけど引っ越しの準備は何も終わっていない。養成所に入ったら毎日私服なんだから、最低限ワンシーズン分は買っていかなきゃ。テキストを始めとした教材も揃えていく必要もあるし…。
スマホのToDoリストを睨みつけながら歩いていると、チラリと視線の端で知った顔を捉えた。
顔を上げて目に入ったのは、校門の前に立ったあいつだった。
卒業式だというのに相変わらず前髪を伸ばしたツインテールで、黒とピンクのキツイ色合いをしたリュックサックに卒業証書を差し込んでいる。両親だろうスーツ姿の男女と誰かを待っている風だった。
こうして会うのも最後か。
そう思うと目の前の奴らよりは思うところはあるけど、別に友達ってわけでもないし最後を惜しむ間柄でもないでしょ。
横を通り過ぎる時に目が合ったので、目線を外して小さく手をふる。
何かを言いたげな顔だったような気がした。でもこっちは友達と一緒であっちは親と一緒と、気まずい雰囲気になりそうだったので無視した。
卒業後のこと聞かれても面倒だしね。
それでも校門から遠ざかるにつれて、頭の中では疑問がどんどんと膨らんでいく。
今どんな顔をしてる?
誰を待ってたの?
…もしかして―
そんな考えを振り切って、先を行く背中を小走りで追いかける。
例え「そう」だとしても、別れの挨拶なんていらないよね?
私とあんたは、放課後だけの関係だったんだから。
「お疲れ様でーす。お先しまーす」
ユニフォームを適当に畳んでロッカーに仕舞うと、バイト先のファストフード店を後にする。
学校が終わって18時から24時まで、6時間シフトの週4勤務。まぁ給料も悪くないし、他の店員も客も他人に興味がないみたいなので気が楽だ。
帰ってアニメを見て、お風呂に入って寝る。シフトが入っていない日はバイトの時間がそのまま自主練と勉強。刺激のない繰り返しの日々だけど、好きなことをやっている分高校の頃みたいに退屈することはない。
それでもアニメの話しかしない学校の奴らとは相変わらず合わないかな。一応あいつが貸してくれたDVDのおかげで何言ってるかはわかるから相槌くらい打てるけど。
周りに合わせずに済んで、やりたいこともやってて、環境としては望んでいたものが手に入ったはずだった。それでも気になることがないわけじゃない。
この業界、どう考えても声優という仕事の需要に対して志望者の供給量が多すぎる。
狭き門だということは充分承知の上だったが、何十人もいる生徒の中から一体何人が将来声優と名乗ることができるんだろう。
そしてそれは私も一緒。私も今は一山いくらの価値すら無い声優志望の学生。レッスン以外で声を当てるなんてこと出来るのはいつになるか…。
疲れた頭でぼうっと考えながら歩いていると、カバンの底でスマホが通知音を響かせる。
明日の授業のことで連絡でも来たのかな。最近友達と連絡を取り合うこともなくなり、スマホはすっかり授業の連絡通知機兼SNS閲覧装置になりつつある。
メッセージを送ってきたのは知らないアニメアイコン…いや、キャラは知らないけど絵柄には見覚えがあるような。
『聞いたよ! 声優の養成所に入ったんだって!?』
緑色の背景に浮かぶ吹き出し。
―――あいつからだ。
どうにかして私のアカウントを見つけだし、さらに声優志望ということすら調べたようだ。
何? イラストは諦めて探偵学校でも入った?
『私も絵の勉強してるんだ』
あ、諦めてないっぽい。
「そっか、卒業する前に言ってたもんね」
狼狽えたり懐かしがるのは格好悪いと思って、あえてそっけなく返す。
『せっかくだからさ、一緒に何かやってみない?』
ぞわりと首筋に鳥肌が立つのを感じた。
「何かって何すんの? アニメ作るとか言わないよね?」
『今セリフとかしゃべり系の同人CDとか人気なんだよ。私がイラストと脚本担当するから、声当ててよ』
同人音声か。確かに同じクラスの子たちがそんなものの話をしていたような気がする。それに講師も「声優の仕事は何も吹き替えだけじゃない」なんて言ってたっけ。
初めて訪れた声優活動の誘いに、柄にもなく胸が高鳴る。売れるか売れないかなんて問題じゃなかった。ついに空っぽの私もキャラクターに命を吹き込むことができる。人の心を揺らすことができるかもしれない。
「いいよ、今度打ち合わせしよっか」
どう答えるか数分悩んだ末、震える手で了承の意思を伝えた。
『それじゃ、お互い学校が終わった放課後に会おうよ!』
あいつは『あの時みたいに』と続けた。
「…そうだね」
画面の向こう側のあいつにそう呟くと、OKサインを掲げたスタンプだけ送ってスマホをバッグにしまった。
雑居ビルの合間から覗く夜空を見上げ、限界に達した緊張と一緒に思い切り息を吐きだした。酔っ払いたちの喧騒の中でも、自分の鼓動が通行人に聞こえてしまうんじゃないかと思うほどにドキドキが止まらない。
どんなシナリオになるんだろう。どんなキャラクターなんだろう。私はどんなふうに演じるんだろう。
表現したいこと、こだわりたいこと、話し合いたいことはいくらでもある。
今度会うのはあの教室の、二つ並んだ特等席ってわけにはいかないけど…
あんたとの放課後だけの関係は、もう少しだけ続きそうだね。
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