歩いて帰ろう (夏目咲良)
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1話

ここは、ガキの頃から憧れ続けていた場所。

 

 グラウンドを淡く照らし出すカクテルライト。

 

 電飾で煌びやかに輝き、そびえ立つスコアボード。

 

 大都会の異空間。野球場(スタジアム)。

 

『……に変わりまして、本田。打者(バッター)本田。背番号99』

 

 アナウンスの後の『誰?』というようなざわめきと僅かばかりの歓声と拍手。

 

それが名前も知らない新人に対する儀礼的なものだと分かっていても、

 

本田翔太郞は鼓動が高まるのを抑えきれないでいた。

 

 今夜のことは一生忘れない、翔太郞は緩みそうになる表情を引き締めるべく、

 

頬を二回両手で叩いた。

 

「ヨシッ!」

 

 そして、ネクストバッターズサークルから立ち上がり、打席へと向かう。

 

 暦は四月。球春とは名ばかりの肌寒い日が続いているというのに、球場は

 

超満員で、いつもとは違う熱気に包まれている。

 

 大学野球の聖地と言われるこの球場は、翔太郞の所属する東京ペンギンズの

 

本拠地のはずだが、日本一のファンを持つと言われる相手、大阪ライガースとの

 

対戦では敵地(アウェー)と化す。観客席の8割はライガースファンに占領されて

 

おり、ペンギンズファンがいるのはライトスタンドのわずか一角だ。球場の雰囲気が異様なのもこのせいだろう。

 

「デカい背番号の兄ちゃん、そんな背中重とうてバット振れんのか?」

 

「どうせ、柿原の球は打てんのや!突っ立ってるだけでええど!」

 

 バックネット裏もこんな状態で相手ファンからの野次がハッキリと耳に届いた。

 

 翔太郞は苦笑した。関西弁というのは普通の台詞でも乱暴に聞こえるが、

 

その中に何となくユーモアと温かみを感じるから不思議なものだ。

 

 翔太郞が日頃、聞き慣れているからかも知れないが、嫌いでは無い。

 

 そういえば、と翔太郞は視線を一塁側に向けた。

 

 彩夏は来てくれているだろうか?一軍昇格は昨日、急に言い渡されたものでチケットを手配する余裕なんて無かったが、電話越しの彩夏は飛び上がりテーブルに膝を

 

ぶつけるくらい喜んでくれて、バイトが終わったら駆けつけると約束してくれた。

 

一塁側のスタンドに必ずいると。

 

 翔太郞の両目1.5の視力をもってしても、スタンドにいる人間の顔なんて

 

見えはしないが、彩夏の顔を思い浮かべてみる。プロ初打席、自分が活躍したら

 

どんなに喜んでくれるだろうか。

 

 カッコいいとこ見せねえとな。

 

 翔太郞は右打席に入り、ゆっくりと足元を均しながら、視線をマウンドに向けた。

 

 今夜のライガースの先発は、よりにもよって、いや、幸運にもと言うべき

 

だろうか。

 

 柿原達也。

 

 翔太郞と同じ三年目だが、面識はまるで無い。当然だ。柿原は夏の甲子園の優勝投手でドラフト1位。一年目から先発の一角を任され、現在はチームのエース。

 

県大会ベスト16が最高でドラフト5位、三年掛かってやっと、一軍に上がった自分とは格が違う。

 

 だが、同じ戦場(グラウンド)に立った以上、そんなことは関係ない。相手が誰

 

だろうと立ちはだかるヤツはぶっ倒すだけだ。

 

 柿原の顔には何の感情も浮かんでない。いつものように、淡々とロージンバッグを手に馴染ませて投球の準備を行なっている。こっちの名前を知っているかも怪しい

 

ものだ。

 

 だったら、忘れられなくしてやるよ。

 

 翔太郞は構えをとった。バットを頭上に大きく掲げ、左上腕で口元を隠すバッティングフォームは見る者によっては奇異に映るだろう。実際、今までいろんな大人に矯正されそうになったこともある。でも、その都度、結果で黙らせてきた。

 

 柿原がプレートを踏み、ゆっくりと振りかぶった。今の時代、珍しいクラシカルなワインドアップモーション。夜空を掴むように伸びた両腕が175㎝と野球選手としては小柄なはずの柿原を大きく見せる。そこから胸の高さまで左足を上げても、軸のブレが無い美しいフォームだ。

 

 翔太郞は、ヘルメットのツバと左上腕をスコープに柿原の右腕をポイントした。投球に合わせて左足を大きく上げる。狙い球は直球一本。初球は必ずフルスイングする、そう決めていた。

 

 柿原の左足が力強く地面を捉え上半身を牽引、それに連動して右腕が鞭のようにしなった。

 

 その指先から白球が放たれる瞬間、物語(ベースボール)が始まる。



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2話

時刻は、午後7時半を廻っていた。

 

 川澄彩夏(かわすみあやか)は息を弾ませながら、一塁側内野席に続く階段を

 

駆け上っていた。キャップからはみ出たボブヘアが乱れ、肩が上下する度に

 

ショルダーバッグとストラップに括り付けたラジオが揺れた。

 

 大丈夫だよね?まだアウトになってないよね?

 

 つけっ放しにしていたラジオからは雑音ばかりで状況は分からない。翔太郎は

 

『試合終盤に代走とか守備固めなら出番あるかも』と言ってたけど、まさか、

 

こんなに早く出番が来るなんて、思いもしなかった。

 

 彩夏はバイト先の先輩を呪った。本当ならゆっくり試合開始の6時に間に合うはずだったのに、今日に限って遅刻しやがったのだ。

 

 ようやく、階段の終わりが見える。視界が一気に開け、眩いカクテルライト、

 

芝生と土のコントラストが目に飛び込んできた。急いでいたことも一瞬忘れ、息を

 

飲む。何度、球場に足を運んでも、このグラウンドを一望するこの瞬間だけは何物

 

にも変えられない。

 

「ママー、大きなツバメさん」

 

 通りすがりの、母親に抱えられた女の子が彩夏を指差してきた。

 

「コラッ、どうもすいません」

 

 頭を下げる母親に彩夏もぎこちなく笑いながら、会釈を返す。

 

 女の子はなおも彩夏を見つめていたが、やがて、興味を失ったかのように、

 

明後日を向き、母親と席へと戻って行った。

 

 正確に言うなら、女の子の興味を引いたのは彩夏自身ではなく、その装いだろう。

 

 東京ペンギンズのマスコットキャラ、『ギンペイ』を模したキャップと

 

肌寒かったので羽織ってきたファンクラブ限定のパーカー。野球に興味が

 

無ければ、見えなくもないかも知れない。 

 

 ……ツバメじゃなくて、ペンギンなんだけどなあ。

 

 ちょっと、複雑な気分だった。

 

 突如、沸き上がった歓声とガシャン!という金属音に彩夏は我に返った。数秒後に流れる『ファールボールにご注意ください』というアナウンス。スコアボードを

 

見ると、カウントのランプが全て点灯している。

 

 屋外に出たからか、ラジオが再び実況を始めていた。

 

『……プロ初打席の本田、フルカウントから3球連続でファール、ツーナッシング

 

から粘り、良くここまでもってきました!』

 

『初球を思いっ切り空振りしたんですが、そのおかげで力が抜けたみたいですね。

 

面白い同期対決になってきました』

 

『マウンド上の柿原、次で10球目。徐々にタイミングが合ってきたように

 

感じますが、球種は何を選ぶのか?』

 

 席を探している場合じゃない、彩夏は通路に立ったまま、ゲームを見守る。

 

 翔太郎が一度打席を外し、間合いを取った。

 

 落ち着いている、いつもの翔太郎だ。表情までは分からないが、その所作に彩夏は安心した。打てる、根拠は無いが、不思議な自信が沸き上がって来る。

 

 小学校の時からずっと見てきた、本田翔太郎というヤツは必ず期待に

 

応えてくれる。

 

「本田ぁ!いてもうたれ!」

 

 両手をメガホン代わりに彩夏は思いっ切り叫んだ。近くの席にいた人がギョッと

 

して振り向くけど、気になんてしない。

 

 彩夏の声は、翔太郎に届かないだろう、それでも、懸命に『気』を送り続ける。

 

 プレイ再開。

 

 ゆっくりと、柿原が投球動作に入り、翔太郎がバットを大きく掲げた。グラウンドのボルテージが一気に高まる。

 

 ボールが放たれた次の瞬間、怒号と悲鳴で球場が揺れた。

 

……え?

 

 何が起こったのか、分からなかった。

 

 ホームベースの横で身体を折り曲げるようにして、翔太郎が倒れていた。

 

 嘘のように、球場全体が静まり返り、そこから少しずつざわめきが戻って来る。

 

「……今の、頭に当たったんじゃね?」

 

「……ヤバい倒れ方したよね?」

 

 誰かが呟くのが聞こえた。

 

 心臓の位置がズレた気がした。暑くなんて無いのに、全身から汗が噴き出て来て、

 

彩夏はその場にしゃがみ込んだ。

 

『……柿原はマウンド上で呆然としています。ホームベース付近にコーチ、

 

トレーナーが来ました。大丈夫でしょうか?本田、動けないようです!』

 

 ラジオは非情に状況を伝えてくるが、彩夏の耳には入らない。

 

「……っとアンタ!……じょうぶか?」

 

 誰かの心配そうな声が途切れ途切れに聞こえる。

 

 波打つ心臓と冷えていく身体を抱きしめながら、震えることしか彩夏には

 

できなかった。



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3話

7月下旬。

 まだ、明るくなっていないというのに、既に大気は熱を帯びていた。

 やがて、地平線から昇った朝陽が地上の生命達に牙をむき始め、今日も灼熱の

一日が始まる。

 欅(ケヤキ)が立ち並ぶ歩道をヒグラシの声援を受けながら、本田翔太郎は

走っていた。

 全身から噴き出た汗がトレーニングウェアを濡らし、肩に掛けたバットケースの

重みも気になってきた頃、翔太郎は目的地であるいつもの公園に入った。

 人通りの少ない公園内をペースを落とさず進み、滑り台が備え付けてある砂場の

前でようやく足を止める。

 翔太郎は上着を脱ぎ、Tシャツ姿になると、軽くストレッチをして、クールダウンした。その時、付け根辺りまで焼けた自分の腕に気付き、自嘲する。

 結局、今年も二軍なのか。

 降り注ぐカクテルライト、暴力的とも言える歓声、ヤジ。一軍でしか味わえない

ナイトゲームの記憶は、少しずつ薄れていく。

『ビビッてんのか!本田!』

『引っ込め!ボンダ!』

『ボンダぁ!これで二十五打席ノーヒットだぞ!一人でノーヒットノーラン

喰らう気か!?』

『無理無理。アイツがヒット打つのはペンギンが空を飛ぶより難しいって』

『……プロ初打席で死球喰らって、即登録抹消だもんなあ、可哀そうだけど、

持ってないんだよ、アイツ』

 ファンの期待は、時間と共に怒りに変わり、失望となって消えていく。

 本田から凡打(ボンダ)。名前に刻まれた濁点が、胸に突き刺さり、容赦無く心を抉った。

 いや、まだこれからだ。

 翔太郎は、屈辱の記憶を拭うと、砂場に立ち、バットを構える。

 『砂場で素振りをすると、足腰の鍛錬も一緒にできる』

 高校時代にやっていたある大打者を真似た練習方法で、ここ最近、早朝に二軍の

寮を抜け出してやるのが、日課になっていた。

 一日でも早く結果を出す、その切っ掛けを掴もうと必死だった。

 ゆっくりと一振り、一振り、確認するように振る。 アウトカウント、ランナーの有無、球種。 いろんな場面、いろんな相手投手が頭に浮かんでは消えていく。

――突如、すっぽ抜けた球が頭部を襲ってくる――

――頭が真っ白になって、左手首が疼き出す――

「……ハア、ハア……」

 翔太郎はバットにすがりつくように、砂場に膝を付いた。

 「……クソッ!」

 右拳を砂に叩きつけ、呪詛を吐き出す。

 怪我はとっくに治っている。何も問題なんて無いはずだ。 なのに、インコースを攻められたり、バットとボールが当たる瞬間に自分のスイングを見失ってしまう。

 あの死球が翔太郎の心に『恐怖』という楔(くさび)を打ち込んだ。

 体力や技術は、練習で鍛えることができる。

 怪我はいつかは治る。

 しかし、折れた心は簡単には戻らない。

 そして、大切な人との絆も。



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