swordian saga (佐谷莢)
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原作以前
プロローグ——覚醒


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 ぼんやりとした視界は、蒼穹そのものに染まっていた。

 雲ひとつどころか、空そのもの以外に何も見えない。

 そう、空以外……

 

「!?」

 

 瞳がまん丸になるまで見開き、勢いよく飛び起きようとして。

 

「~~!」

 

 失敗した。

 全身に走る激痛に声もなく硬直し、そのままどさりと地面に背中を打ちつける。

 その衝撃は無論全身に響き、彼女の意識は再び遠のいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくして。

 揺らぐ意識を安定させ、深呼吸を何度も繰り返した彼女は、周囲の状況よりも先に己の体の様子から探ることにした。

 四肢に欠損はなし、損傷過多であるものの全身の神経系列に目立った問題はない。

 損傷内容は挫傷、裂傷、擦過傷、ついでに倦怠感。

 出血程度は、軽くは無いが命に関わるほどでもない。

 どうやっても片目が開かないことが気になったが──反対が使えるのでよしとする。

 瞳に映るのは、空ばかりではない。

 その空を囲むように茂る木々。

 横たわった体を受け止めているのは、温もり溢れる大地と自然そのままにすくすく育った雑草郡である。

 どこかはわからないが、少なくとも雪国ケテルブルク周辺ではない。彼女が知る限り、ケテルブルクでさえなければこのような場所、いくらでもあったはず。

 此処まで確認して、彼女は初めて唇を震わせた。

 

「……なんで。生きてる?」

 

 そう。先ほどまで、極寒世界の地下に潜り込み、世界の命運をかけた決戦を前に、結果として敗北──間違いなく死亡した、ハズだった。

 未だに痺れが残る左手で、頭に触れる。どこもかしこも、損傷はない。

 ふと、違和感を覚えて視線を移動させる。

 最低限整えられた爪、か細い指。

 何の変哲も無い自らの手があることを確信していた心は、あっけなく裏切られた。

 

「……何、これ」

 

 爪にも、指にも問題はない。指が一本当たり前のように増えたとか減ったとか、そういうこともない。

 問題は、手の甲だった。

 左手の甲を覆わんばかりに水晶じみた丸いモノが張り付いている。

 表面はゆるやかにして滑らかな弧を描いており、どうやら彼女が以前、時折だが利用していたカラーレンズを巨大化させ、乳白色という色素を沈殿させたような物体だということが判明した。

 爪を立てて直ちに剥がそうとしても、左手が鈍い痛覚を訴えるばかり。

 ともかくこのだるい体を何とかしようと、彼女は三度(みたび)唇を震わせた。

 

「……命よ、健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──

 

 展開された譜陣が、だらしなく横たわった体に敷かれる。

 吹き上がる輝きが全身を包み込み、刻まれたすべてをまんべんなく癒す──はずだった。

 

「……あ、れ?」

 

 回復どころか、譜陣すら生まれない。輝きの欠片も、発生する気配は無い。

 音程を外したか、それとも。もう自分の体は譜歌を奏でることもままならないほど消耗しているのか。

 ……後者であるような気がしてならない。

 再び、空しかない天井を見上げて、首を傾げる。

 いつも見慣れていたはずのあれは、一体どこへ消えてしまったのか。

 

『……ねえ』

 

 耳の奥で声がした。

 とうとう幻聴まで、と自分を取り巻く不自然な環境を嘆いて瞳を閉ざす。

 譜石帯のない空、発動しない譜歌、なぜか生きている自分。

 これは誰が脳裏に描いた夢なのだろう。それにしても中途半端な夢だ。

 どうせ夢なら、彼にも傍にいてほしかったのに──

 

『ねえ、そろそろ応えて』

「このあたり……かしら。先ほどの歌声は……」

 

 再び遠のく意識の中、妙に近くで女の甲高い悲鳴が、聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 血まみれの女性を見るなり、フィリア・フィリスはお約束のように悲鳴を上げた。

 

「な……な……!」

 

 ふたつのおさげを揺らして、おそるおそる足を踏み出す。

 物心ついたときから神殿を出たことがなく、巡礼の経験もないフィリアにとって今しがた耳に届いた歌声はとても新鮮に感じた。

 それでなくても、歌といえば賛美歌しか知らない彼女である。

 興味を覚えて近寄った先に、このような光景を眼にすることになろうとは、想像もしなかっただろう。

 

「あ、あの……」

 

 自分の悲鳴を耳にしても、ぴくりとも反応しない女性に、おそるおそる声をかける。

 手を伸ばせば触れる距離に到達しても、彼女に変化はない。

 端整な、見慣れない顔立ちの女性だった。

 ともすれば少女と呼べるようなあどけなさすらあり、その身に散らばる緋色の雫さえなければ、まるで眠っているかのような表情である。

 そよ風に弄ばれる髪は神殿のような白亜とはまた違う、極寒の日にうっすらと中空を舞う雪の色。

 すべてのボタンがなくなった外套に身を包んでいるが、武器を持っているようには見えない。さりとて、護衛の人間とはぐれた巡礼者にも見えない。

 そばに荷袋が転がっている辺り、旅人ではないかと予想はできたが──

 そこへ。

 

「おい、どうしたんだ?」

 

 青年を過ぎ、壮年に近づきつつある男の声と共に茂みが鳴る。現れたのは、フィリアの同僚にして同じ司祭、バティスタ・ディエゴの姿だった。

 魔物が跳梁跋扈するこの世の中、このストレイライズ神殿近郊の山林でもそれは例外ではない。戦いの術を持たないフィリア司祭が薬草摘みに出るため護衛にと、彼は借り出されていた。

 彼は立ち尽くすフィリアと、その傍らに横たわる女性を見て瞬時に状況を把握している。

 

「ははあ。行き倒れか、魔物に襲われたか……死んでるのか?」

「ええと……」

 

 その言葉に、フィリアは思い出したかのように倒れた彼女の首筋へ手をやった。

 

「あ、おい!」

「……脈は、あります」

 

 その後、彼女は二人の手によって、神殿へと搬送されている。

 しかしこれは、かの二人しか知らない話。

 

 

 

 

 



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神殿滞在編
第一夜・混乱——ここは、どこ? わたしは……



ストレイライズ神殿、救護室。後のパーティメンバー・フィリアとの邂逅。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ったく、お前はほんとーにお人よしだな!」

 

 心底呆れたような男のダミ声が、鼓膜に突き刺さる。

 嫌な目覚ましで覚醒した彼女だったが、次なる声で癒された。

 

「ですが、あんな傷だらけなのですよ? ほうっておくことなんてできません」

 

 高音ではあるが耳に優しい、柔らかな女性の声。

 憤怒に満ちた怒鳴り声がまったく想像できない、慈愛に満ちた声音だった。

 

「あのなあ。世の中には金目当てにだまし討ちだってやらかすような奴だっているんだぜ? お前が近づいた途端、ぶすり、なんてやられたらどうするつもりだったんだよ」

「それは……ですが、実際にそんなことはされなかったではありませんか。ひどい怪我で、ぐったりしていて……」

 

 続く会話を一応聞き取りつつ、眼を開ける。そこに目も覚めるような蒼穹はなく、ただ白い天井があった。

 一眠りしたせいか、あの倦怠感は綺麗になくなっている。あのときは起き上がれなかった激痛も、今はそれほどではない。

 ゆっくりと体を起こして周囲を見回せば、そこは消毒液の匂い漂う救護室らしき場所だった。

 遠近感がつかめないと思っていたら、片目に包帯が巻かれている。

 そのまま体を見下ろしてみると、患者着を着せられ包帯だらけにされていた。どうやら、誰かが治療してくれたらしい。

 治療者はさぞ驚いただろう。何せ、この体には──がいるのだから。

 などと考えつつ、自らの身体を見下ろして。彼女は固まった。

 

「……あれっ?」

 

 かけられていたシーツを蹴る。

 着せられた患者着をはだけ、まじまじと自分の腹を覗き込んだ。

 

「……え?」

 

 どれだけ凝視しても変化はない。それにいぶかり、思い切り頬をつねった。

 

「……どうして」

 

 つねった頬はじんじんと痛みを訴え、これが夢でないことを切々と訴えてくる。

 とうとう彼女は患者着を肌蹴て、巻かれた包帯を取り外し始めた。

 乾いた血液はガーゼに張り付いており、べりべりと音を立てては傷口を広げていく。

 突如彼女が狂気に陥ったわけではない。

 

「……なんで?」

 

 命を抱えていた腹。見慣れた古傷。それら一切は、綺麗さっぱり消えていた。

 どこのガーゼを剥がしても生傷の治療痕が垣間見えるだけで、古い傷など影も形もない。どれだけ見つめても、ぺたんこになった腹が膨れるわけもなく。

 

「どういうこと……」

 

 血まみれの包帯に囲まれて茫然自失となっていた、ちょうどそのとき。

 遠慮がちなノックが聞こえた。

 

「あ……」

「失礼しま……きゃああぁっ!」

 

 なぜか聞き覚えのある、ソプラノの悲鳴が今度こそ鼓膜に突き刺さる。

 直後、バタバタという粗雑な足音と共に先ほどのダミ声が響いた。

 

「どうしたフィ……ごっ!?」

「いけませんわバティスタ! 覗きは犯罪です!」

 

 春に芽を出す、若葉色の髪が揺れる。

 ふたつのおさげに丸眼鏡をかけた少女は、手にしていた経典らしき本を振りかぶり、バティスタとやらに殴りつける動作をしてから素早く扉を閉めた。

 自分の悲鳴を聞いて駆けつけた人間にひどい仕打ちである。

 そんな感想など露知らず、少女はふぅっ、と額に浮いたらしい汗を拭った。その手に何も持っていないことから、殴ったのではなく投擲した様子である。

 バティスタとやらの頭に角が当たっていないことを祈りたい。

 

「まあ、わたくしったらお見苦しいところを……って、駄目ですよ! 包帯を取ってしまっては!」

「ああ、えと、ゴメンナサイ」

 

 腰に手を当てて叱りつける少女の仕草が可愛らしい。

 一度呆然とした頭はなかなか正気を取り戻さずに、それだけを思う。

 

「でも、お気づきになられてよかったですわ。ご気分はいかがですか?」

「……悪くは、ありませんが」

 

 思った以上に動揺している自分を抑えて、現状把握に脳を働かせる。

 まずは現在地だ。

 

「ここはどこですか?」

「ストレイライズ神殿です。あなたはすぐ近くの森の中で倒れていたんですよ」

「……すとれ……?」

 

 己の脳を最大限フル稼働させてその名を検索するも、まったく該当しない。

 神殿ということは、よく知る宗教団体とは一線を画した、土着の信仰における崇拝対象か何かを祀っている場所なのだろうか。

 考えてみても埒があかないため、素直に尋ねる。

 

「神殿とは、何の」

「女神アタモニ様を祀る総本山です。セインガルドでは国教ですので、名前くらいは聞いたことがおありと思うのですが」

 

 女神アタモニ。別にこれはいい。

 聞いたことこそないが、仰々しい名がつけられていない崇拝対象などおそらくない。

 しかし、続く言葉を理解しようとして彼女は完全に混乱した。

 セインガルドにおいては国教。

 国教とはそのまま、国家が認めて国民に対し信奉するべきと指定した宗教を指す。

 つまりセインガルドというのは一国家なのだろうが、そんな国など彼女は知らない。

 国という言葉さえなければ、地方名か何かだろうと誤解できたが、聞いてしまった以上そんな逃避には陥れない。

 

「女神アタモニ……? セインガルド……?」

 

 思わず首を傾げた彼女の様子を見て、おさげの少女は驚いたように口元へ手をやった。

 

「なんということでしょう……記憶を失われているのですね。お可哀想に」

 

 優しげな眉が、悲しげに歪められている。大きな丸眼鏡の奥に鎮座する無邪気な瞳が、ひとつだけ瞬いた。

 口元にあったたおやかな手が、素早く彼女の手を取る。

 

「申し遅れました、わたくしはフィリア・フィリス。このストレイライズ神殿で司祭を務めております。お名前を覚えておいでなら、お教えください」

「……」

 

 考えたのは、ほんの一瞬だけだった。

 

「……フィオレンシア・ネビリム」

「え?」

「フィオレと呼んでください」

 

 偽名ではない。亡き母が自分にと考えてくれた、本来失せるべき名だった。

 フィリア・フィリスはフィオレの沈みがちな様子を、不安のためと受け取ったらしい。「大丈夫ですわ」と声をかけつつ新たな治療を申し出てくれる。

 素直にそれを受けながらも、フィオレはさりげなく、左手の甲を撫でた。

 手袋越しだが、硬質な存在が確かに感じられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二夜——現状の確認

 ストレイライズ神殿周辺でいざこざ。強くてニューゲーム状態ですが、読み書きできない常識わからないとハンデつき。
 
 なお「コンタミネーション」の詳細につきましては「The abyss of despair」二十唱参照です。
 読むのが面倒な方は、「何らかの方法で複数武器を体の表層に収納している」と認識してください。


 

 

 

 

 

 

 

 

 鬱蒼と茂る森の中。怖気の走るような悲鳴が木霊する。

 断末魔に眉ひとつ動かすことなく、フィオレは己の手をしげしげと見つめた。

 その手に握られているのは、三本の棒手裏剣である。

 とある秘術で彼女が常に持ち歩いていた、得物のひとつだ。

 

「……どうして、使えるんだろう」

 

 この秘術──コンタミネーション現象を利用した融合術──某若年寄はすまし顔で多用していたが、実際は凄まじく難易度が高い。

 普通の人間が試みれば、拒絶反応を起こして精神崩壊しかねないほど、危険な代物である。フィオレなどは、もともと施してあった特殊な刺青で身体を強化して、ようやく使用可能だったものだ。

 それが今は、当たり前のように使える。

 手の中の棒手裏剣を収納し、傍に落としておいた剣を拾い上げた。

 それは、乾いた血の色を有する魔剣である。鍔の部位には緋色の宝石がはめ込まれているが、お世辞にも宝剣には見えない。それ自体が呪いを孕んでいるかのように、見る者を威圧する光を放っている。刀身の切っ先は斧刃を背中合わせにしたような形状で、なんとも禍々しい存在であった。

 その不気味さに比例して、優れた譜術武器であると同時に──剣とは思えない威力を有する。具体的に例を挙げるなら、この剣は鋼鉄すら真っ二つにしてしまうのだから。ちなみにフィオレは、この剣で斬れなかったものを記憶していない。

 物騒な剣もまた収納する彼女の眼前には、数頭の魔物が事切れていた。

 どこからともなく岩石を調達してきては投げつけるという大猿型の魔物。全長は子供ほどで、傘の下ではなく口に見える器官を有してそこから胞子を吐き出すという面妖な茸型の魔物。単なる凶暴な巨大虫など。

 種々様々ではあるがそれもけして強敵というわけではない。

 彼女がフィリアに発見されてから、七日がたつ。

 出血量のわりに傷自体がそれほど深くはなかったフィオレは、体力を回復させるという名目のもと、散策をしていた。その最中、魔物との交戦と相成ったのだが。

 事切れていた魔物の体が光り、ちゃりんちゃりんと何かが転がる音が聞こえる。

 音源へ眼をやれば、魔物たちの見目はそれぞれ大型の猿、巨大なだけの茸、やはり巨大なだけの昆虫へと変化していた。その傍らには、少額のガルドと数枚の何かが転がっている。

 ガルドを小袋へ突っ込み、フィオレはそれを拾い上げた。

 現在フィオレが、何故か左手の甲に張り付けている物体──レンズと呼ばれるものと形は酷似しているが、無色透明だ。

 魔物がガルドや、時折所持していた物品を落とす。これはフィオレにとっても珍しいことではないが、その後息絶えた魔物が音素(フォニム)に還らず、骸が変異して奇妙なエネルギー体の結晶を落とすなど、これまで生きていて見たことはおろか、聞いたこともない。

 しかし彼女は混乱することもなく、ぽつりと呟いた。

 

「……夢じゃ、ないんだよね」

 

 ──七日もたてば、環境の激変に気づかぬはずもない。

 己の肉体のあまりの変わりように混乱したフィオレを再び戸惑わせたのは、救護室の壁にかかっていた、暦表だった。

 否、まずフィオレは、それが暦表だと理解しておらず、『あれはなんですか』と救護室の人間に尋ねて度肝を抜いている。

 記憶喪失、ということで理解はされたが、それが何なのか教えてもらって、今度はフィオレが度肝を抜かれていた。

 フィオレの知る暦表は、すべてフォニスコモンマルキス、という文字で構成されている。

 壁にかけられていたそれが──何だかよくわからない記号で埋められているそれを、まさか暦表だとは思っていなかった。

 驚いたのはそれだけではない。

 その暦に記されていたひとつの月に換算される日数が、異常に少なかった。

 誰もいないときを狙って、月ごとに区分けされているらしい暦表をぺらぺらめくったことがある。だが、どの月も日付が半分程度しかなく、やはりフィオレの読める文字が存在しない。

 ここで彼女は恐ろしく稚拙な仮説を打ち立てた。

 まさか自分のいるこの場は、俗に異世界と呼ばれる地ではないかと。

 世界樹ユグドラシルがその巨大な幹に生やす無数の枝、その中に存在する自分が生を受けた一本の枝から、違う枝へ移動してしまったのではないか──

 無論、世界樹ユグドラシルというものが本当に存在しているかどうかは知らない。ただ、世界の在り方についてそんな仮説があるのを、どこかで耳に挟んだだけだ。

 普段なら、ちらりと思考をかすめても、そんな馬鹿なと一笑に付するだけ。

 だが、文字や暦の在り方が違うというのも尋常ならざる事態だ。

 ここが異世界でないか。そんな疑惑は、時が経つにつれ彼女の中で次第に認めがたい事実へと変貌していく。

 記憶喪失と勘違いされていることをいいことに、フィオレは何かと自分に気をかけてくれるフィリアに様々な知識の教授を申しこんだ。

 文字の読み書きを初めとする、主に日常生活に必要な知識。その中には、ガルドのこと、魔物のこと、レンズのこと、レンズに関する様々な事柄。果ては千年前に起きたという天地戦争、なるものから、アタモニ神のことまで。

 現在知識の方は、日常生活を送るに支障がないほど、身についている。

 しかし、文字の読み書きはそうそう簡単に覚えられるものではなく、現在は子供向けの本をどうにか朗読できるようになった有様だ。わからないことばかりではあるが、戸惑ってばかりはいられない。

 まずは、目の前の問題に集中するべきである。

 

「やっぱり、普通の武器が欲しいなぁ」

 

 再び小道を歩き出して、希望が唇から漏れる。

 黒塗りの短刀や手裏剣各種、譜術媒体にもなる魔剣と、武器に困っているわけではない。

 ただ、短刀を除く三種は人前で使うのに支障がある。何せ、何もない場所からいきなり武器が現れるのだ。

 一応の言い訳というか理由付けは考えてあるが、やはりここは使い慣れた片刃剣……できれば刀タイプの武器が欲しい。

 歩きながら考えていた矢先、首筋にちりっ、とした感覚を覚えて、立ち止まる。

 がさがさっ、と茂みが割れた。

 現れたのは──

 

「なんだ人間か」

「なんだとはご挨拶だな。お嬢ちゃん」

 

 瞬く間にフィオレを取り囲んだのは、いずれも一般人からかけ離れた面相、風体、ついでに雰囲気をかね合わせた男たちである。

 現在、フィオレの見た目はほぼ丸腰だ。仮にではあるが、神殿に属している者としてストレイローブとかいう制服を身にまとっている。

 彼ら野盗にしてみれば、格好の獲物だろう。

 思わず本音が零れ出た唇を戒めるように撫で、フィオレは猫かぶり──常時敬語の状態へと移行した。

 

「何か御用ですか?」

「おお、御用だとも。ちぃーっとばかり大人しくしてくれりゃあ、悪いようにはしないぜ」

 

 目の前を塞ぐ男の視線が、フィオレの顔を、体をじろじろと眺め回す。

 今、フィオレは目に異常ありということにして眼帯をしていた。しかし、彼らがそれを気にしている様子はない。

 ふと、何気なく男の手が動く。

 目ざとくそれを見つけたフィオレは、反射的に背後へ裏拳を見舞った。

 

「おぶっ!」

 

 確かな手ごたえと共に、フィオレの背後へ迫っていた男が仰向けに倒れていく。

 顔面を押さえて悶絶しているあたり、狙った場所へばっちり決まったのだろう。

 男たちは途端に色めき立った。

 

「てめえ、何しやがる!」

「そのままそっくり返します。人の背後に立って鼻息荒げられちゃ、誰だって一撃見舞いたくなりますよ」

 

 しれっ、とした顔で宣うフィオレに、眼前の男は早くも本性をむき出しにしている。

 

「ちっ……! 人が穏便にさらってやろうと優しくしてやりゃ、舐めやがって! お前ら、このアマを捕まえろ!」

 

 さらうに穏便もくそもあるか。

 闇雲に掴みかかってくる男たちを冷静に捌きながら、フィオレはふと思いついた。

 ダメでもともとである。これで失敗したならば、もう使うのはやめるつもりだった。

 

「其の荒ぶる心に、安らかな深淵を」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 あの時失敗して以降、使っていなかった譜歌を謡う。

 

「なぁんだそりゃ!? 新手の念仏か何かか!?」

 

 などと、相手に罵倒されることを覚悟で謡ったのだが。

 

「う……」

「なぁんだ、こりゃ……」

 

 野盗どもは、あっさりと深淵へ突き落とされた。

 仲良く折り重なって豪快ないびきを披露する彼らを見下ろすも、フィオレとしては複雑な気持ちを抑えられない。

 

「……つかえ、た?」

 

 思わず周囲を見回すも、何もない。

 あの時と変わっていることといえば、場所と体調と使った譜歌の種類──

 

「!」

 

 唐突に、フィオレの中で仮説が打ち立てられる。

 周囲は鬱蒼と茂った木々が立ち並んでいるのだ。つまり、昼だというのに薄暗い。そして今使ったのは、第一音素(ファーストフォニム)──闇の属性を持つ譜歌。

 まさか──

 今すぐに試してみたい衝動に駆られつつも、野盗たちを放置して近くにあった荷車を物色する。

 商隊でも襲ったのか、元々彼らの仕事道具なのか、様々なものが積まれた荷車から荒縄を取り出し、彼らの捕縛に尽力をつくした。

 その上でダークボトルを探し出し、地面に叩きつけて全力で走り去る。

 この世界で人殺しがどのように扱われるのかわからない今、安易に人間を手にかけるわけにはいかない。さりとて、放っておくこともできない。

 ガルドといい、こういった道具といい。なぜか、世界には彼女の知る物も多々存在している。

 今の状況に整理がついたら、異世界の存在について研究してみるのも面白いかもしれない。

 むさ苦しい悲鳴を背に受けながら、フィオレはそんなことを考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三夜・出会い——運命がつくかは、さておいて

 ストレイライズ神殿周辺・バザー(仮)原作においてこんな場所は存在しません。
 神の眼事変以前、あるいは十八年後は、そうでもないかもしれませんが。


 

 

 

 

 

 

 

 全力疾走の末、神殿へと帰りついたフィオレは、そのまま神殿の周囲をぶらついていた。

 神殿の周囲には巡礼者向けなのか、行商人が地面に布を敷いたり簡易天幕を設置するなどして、何やかやと売っていたりするのだ。

 多くはミニチュアサイズのアタモニ神やその偶像が彫られた文鎮やら聖印、神殿関連のなんだかよくわからないグッズだが、中には武器防具を並べている商人もいる。

 護衛にきた人間が不慮の事故で武具を破損してしまった場合を想定しての商売だろう。あるいは、神殿に住む僧兵対象か。

 フィオレの目当てがまさにそれだった。

 流れの行商人ならば、何か掘り出し物をおいてある可能性がある。

 ……もっとも、それはあくまでフィオレの勝手な推察であって、まったく的外れである恐れもあるわけだが。

 この世界で刀は、とある島国特有のものであるらしい。少なくとも、存在しないわけではないのだ。

 やはり駄目元で、フィオレは簡易天幕の中にいた行商人に尋ねた。

 

「片刃の剣はありますか?」

 

 壮年の行商人は億劫そうにフィオレを見て、それから自分の前に並べてある商品に視線を走らせている。

 

「片刃の剣、ねえ……そういうのは扱っていないんだが、これはどうだい?」

 

 行商人がどこからともなく取り出したのは、並べられていなかった一振りの細い棒状だ。

 緩やかな弧を描いた刀身を包む白鞘拵えの長刀である。その鞘には不要なほど緻密な装飾が施されており、地味ではあるが目を見張るほど凝った作りをしている。その装飾が目立たぬようになのか、白鞘拵えのそれは黒く塗られ、艶も消されていた。

 しかし、それはフィオレが注意深く観察した結果の話。

 ただ見ただけでは妙に小汚い、ただの棒っきれにしか見えなかった。本気なのかわざとなのか、行商人はひどくぞんざいな手つきで長刀を扱っている。

 

「刃はついてないが、これならねえちゃんの細い腕でも振り回せると思うぜ?」

 

 ……どうやら、冷やかしか何かだと思われているらしい。

 行商人の揶揄に取り合わず、改めてまじまじと棒状を見やる。

 単なる木刀なら、こんな装飾はいらないはずだ。

 ましてや、何かが収まっていることを示すかのような切れ込みはいらない。

 

「そうだな……財布まるごとでいいぜ」

「本当にいいんですか?」

 

 そんな条件で、まさか購入するとは思っていなかったのだろう。商人は目を点にしているが全く気にすることもなく、フィオレは持っていた小さな袋を放った。

 普段なら逡巡するところ、現在フィオレは先ほど狩った魔物が落としたものしか持っていない。レンズも入れておいたため、総額で五十ガルド強というところか。

 もちろん商人は、財布の中身を見て機嫌を損ねていた。

 

「……しけてんなあ……」

「財布丸ごとでいいと言ったのはあなたです」

 

 もはや商人にはとりあわず、初めて棒状を手に取る。

 持った感覚は、やはり何かを内包する鞘だった。

 

「おいおい、そいつは……」

 

 竹光でないことを祈りつつ、ゆっくり引き抜いたその切っ先は──

 

「……悪い冗談ですね」

 

 しっとりとした鋼の輝き、それも幻想的な淡紫が刃を妖しく煌かせる。

 もちろん、両刃だというオチはない。

 

「片刃の剣は、扱っていないなんて」

 

 やはり行商人は、この刀を木剣と同レベルで管理していたようだ。刀身は艶やかなまでに美しいが、全体的に埃っぽいし、柄には泥すら付着している。早々に手入れをしなければ、刀が泣くというものだ。

 音を立てて鞘に収め、くるりときびすを返す。

 そのまま天幕を出たフィオレの背中を、商人の焦声が追いかけた。

 

「お、おい! 待てよ、嬢ちゃん!」

 

 何気にねえちゃんから嬢ちゃんに年齢ランクが下がっている。

 無視して神殿へ戻ろうとして、駆け寄ってきた商人に目の前を塞がれた。

 

「なんですか」

「俺としたことが、値段を間違えちまってな。後金を払ってもらうぜ」

 

 とんでもない屁理屈である。

 気持ちがわからないわけではないが、さりとて応じることはできない。

 

「そんな話は聞いていません」

「なら返してもらおうか」

 

 じりじりと迫る行商人が、見た目から想像もできない俊敏さで突進を試みる。

 しかしそれはあくまで見た目を考えればの話、見切れぬほどのものではない。

 ひょい、とそれを避ければ、彼は通りがかりの司祭へ盛大に抱きついていた。

 

「きゃあああっ!」

 

 不幸なことに、司祭は女性だったらしい。

 若葉色の髪を注連縄のようなふたつのおさげにした、真っ白な司祭服に丸眼鏡の──

 

「って、フィリア?」

「フィオレさん、やっと見つけました」

 

 慌てて離れた商人を押しのけ、フィオレのもとへ駆け寄る。

 あまり男性と接したことがないらしい彼女にとって、今のことはかなりショックだったのだろう。もともと白い頬が、かなり青ざめていた。

 

「どこへ行ってらしたんですか。散策に出るといってなかなかお帰りになられないから、魔物に襲われたのではないかとわたくし、気が気でなくて……!」

 

 どうも、彼女の顔色が悪いのは今の出来事だけが原因ではないらしい。よくよく見れば、眼鏡の奥のつぶらな瞳もかなり潤んでいる。

 すみません、と謝る間にも、事態は更にややこしくなっていた。

 

「何事だ!」

 

 悲鳴を聞きつけてきたのか、数人の僧兵が駆けつけてくる。

 彼らはフィリアの姿を認め、小さく敬礼をしてから事情の説明を求めてきた。

 

「この人が、司祭に抱きつきました」

 

 すかさず口を開いたのはフィオレである。

 不名誉な事実を突きつけられた商人は、はっと我に返って反論を言い立てた。

 

「ちょ、ちょっと待て! 元はと言えば、あんたが金を払わないから……」

「人聞きの悪いことを言わないでください。渡したではありませんか。財布ごと」

 

 泥棒呼ばわりに、警備担当の僧兵、並びにフィリアが気色ばむ。すぐさま反論を立てれば、彼は言い返せずに沈黙していた。

 しかし、居合わせた者でもない限り、事実はわからない。

 

「フィオレさん。お金を払わないというのは……」

「つい先ほどのことです」

 

 フィオレは素直に事の次第を説明することにした。

 こういうとき、下手に隠し立てをすると疑われるのが世知辛い世の中である。

 

「財布の中身丸ごとで、商品を売ってくれるというので財布を渡したんです。そうしたら、足りないから後金を払えと言われました。払えないなら商品を返せと」

「確かに財布は受け取ったよ! だが、中身が五十ガルドしか入っていないじゃないか!」

「財布を丸ごとと条件をつけたのはあなたで、正確な額は言わなかったではありませんか。財布を渡した時点で、売買は成立しているはずです」

 

 納得がいかないとわめく商人。応じられないと屁理屈を返すフィオレ。

 往来で始まったゴタゴタに、ラチがあかないと僧兵が割り込んだ。

 

「あー、ところで。商品とは?」

「これのことです」

 

 惜しげもなく、購入した刀を差し出す。

 刀、と言っても手入れがされていないせいで小汚く、当たり前だが刀身は曲がっている。おそらくは変な木剣の類にしか見えないのだが。

 僧兵は問題となっている商品を一目見るなり、行商人をなだめにかかった。

 

「ただの木剣が五十ガルドで売れたんだ。儲かった方じゃないのか?」

「違う! 俺もそうだと思っていたんだが、あれはただの木剣なんかじゃなかったんだ」

 

 では何なのかと尋ねられ。彼はうろたえながらも、フィオレを見た。

 

「おい、嬢ちゃん。そいつを貸してくれ」

「……いいですよ。持ち逃げしないでくださいね」

 

 ひょいっ、とフィオレから件の刀を手渡され、彼は戸惑いながらも柄に手をかける。

 ──しかし。

 

「あ、あれ?」

 

 一生懸命、鞘から刀身を出そうとしているらしいが、刀は一向に抜ける気配を見せない。

 当然といえば当然だ。

 まっすぐな刀身の剣ならば、単に引っ張っただけでも──場合によっては、逆さにしただけで抜くことができる。

 しかし、今彼が手にしているのは刀だ。

 刀は緩やかな弧を描いているため、ただ引いただけでは抜けない。もちろん、逆さにしても簡単に抜けるものでもない。

 努力すること、数分。彼よりも先に、僧兵が音を上げた。

 

「ほら、ただの木剣じゃないか。まったく、こんなもので若いお嬢さんからぼったくろうとするんじゃないよ」

 

 商人から刀を取り上げ、フィオレへと手渡す。

 幸いなことに、行商人が無茶をしていたにもかかわらず、刀に致命的な損傷は無い。

 

「待ってくれ!」

「あんまりつべこべ抜かすようなら、許可証を取り上げることになるぞ」

 

 許可証とは、おそらく神殿の周囲で商売を行うことに対するものだろう。

 更に僧兵は、この件はもう終わったものとして、違う事柄を聞きに回っていた。

 

「それとは別に、フィリア司祭に痴漢行為を働いたことに関して……」

 

 行商人と僧兵が言い争う間に、二人は一人の僧兵によって神殿へと導かれていた。

 年若い僧兵は心なしか、笑顔全開で二人に話しかけてくる。

 

「災難でしたなあ、お二方。フィリア司祭、お怪我はありませんか?」

「ええ、大丈夫ですわ。少し驚きましたけれど……」

「まったく、司祭に抱きつくなど破廉恥極まりない! それにフィオレさん。神聖な神殿の周囲でも、ああいった輩はいるのです。これからも気をつけてくださいね」

「はい。ご迷惑をおかけしました」

 

 フィリアと同じように、丁寧に応対すれば、僧兵は犬が尻尾でも振るかのようにぶんぶん首を振っている。

 

「迷惑だなんて! お二人に何事もなくてよかった。それでは!」

 

 神殿の目前までたどり着き、僧兵は笑顔で警備に戻っていった。

 僧兵を見送りながらも、フィリアは見当違いな心配をしている。

 

「あの方、お顔を赤くしていましたわ。風邪でしょうか?」

「さー。どうなのでしょうねー」

 

 こじらせるようなことにならないといいのですが、とさっぱりわかっちゃいないフィリアの横顔を見つめつつ、フィオレは小さく嘆息した。

 

「そういえば、もうお勉強の時間ですわ。さあフィオレさん、まずは例文の書き取りを──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四夜・勃発——前兆

 ストレイライズ神殿、大聖堂付近にて。バティスタと喧嘩して、勝ちました(過去形)
 眼が覚めてから初めての、まともな戦闘でもあります。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フィオレが神殿に滞在するようになって、三十日──フィオレの感覚では半月、ここの暦に合わせるなら一ヶ月が経過した。

 購入した刀は、フィオレによって丹念に手入れされ『紫電』と刻まれた銘が発見できたほどである。刀身の美麗さから名づけられたことがよくわかる銘だった。おそらく名の知れた刀匠の作品なのだろうが、それを探る術は今のところない。

 この頃、フィオレはフィリアによる詰め込み教育で、どうにか一般の書物を解読することができるようになっていた。

 そろそろ、神殿を去る頃合である。

 日常生活に支障がないほどの一般常識を得たから、というのもあるが……

 

「よお。フィオレじゃねえか」

 

 フィリアが作成した書類を届ける最中、背中に声がかけられる。

 内心で嫌な顔をしつつも振り向けば、そこには鍛錬帰りであるらしいバティスタが立っていた。

 司祭であるバティスタとは、フィオレが神殿に世話になることになってから早々、フィリアから紹介されている。

 そのときから「記憶喪失のわりに、名前は覚えているんだな」などと嫌味を言われているために、フィオレはあまりいい印象を持っていない。

 その男が何のつもりなのか、積極的にフィオレと接するようになっていたのだ。

 記憶喪失を疑っているわけではない、「そろそろ出て行け」と言わんばかりの圧をかけるでもない。

 ただの好奇心やその他による興味なら、フィオレもあまり気にしなかっただろう。好奇心や興味で近寄ってくる人間など、珍しくもなんともない。珍しいのは『記憶喪失』であるフィオレ本人だ。

 だが、バティスタから興味や好奇心といったものは感じられない。

 何というか、明確な目的のもと、フィオレのことを探っているような感覚なのである。

 日常会話など、ふと口を滑らせて変に勘ぐられても嫌なので、あまり接触しないようにしていたのだが……

 

「お使いか?」

「フィリアから、アイルツ司教に届けるよう言付かっております」

「そりゃ奇遇だな。俺も司教様に用事がある」

 

 なんと、同道を共にすることになってしまった。

 長い廊下を連れ立って歩くうち、バティスタが唐突に口を開く。

 

「こないだお前らに絡んだ行商人、揉めに揉めた挙句、許可証取り上げられちまったらしいぜ」

「……そうですか」

 

 言わずもがな、フィオレに刀を売り、フィリアに抱きついた武器商人のことだ。

 あれから彼に接触はおろか、何かを聞かれるということもなかったが、そういうことになっていたとは。

 

「可哀想なことをしてしまいましたね」

「んん? そうなのか」

「原因はどうあれ、結果としてそのようなことになってしまったのは、残念なことです」

 

 彼がいれば、紫電の出所を特定できたかもしれないのだから。

 それでなくてもフィオレが悪知恵を働かせなければ、彼は今も神殿の周囲で商いに精を出していたはずだ。

 彼の自業自得であることは、明白であったが。

 

「そういやぁよ、その眼。まだ治らねえのか?」

 

 いきなりの話題転換に、少々戸惑いつつも片手で眼帯に触れる。

 現在フィオレは、医療用ではなく手製の白布で作った眼帯を身につけていた。

 この眼では、否応なく目立つ。

 以前から好奇の目で見られることに嫌気が差していた彼女は、ここではみだりにひけらかすまいと常に眼帯をつけるよう心がけていた。

 この質問について、答えることはひとつだ。

 

「けっこう、目立ちますから」

 

 何が、とは、あえて言わない。

 その答えに、しばらく口を閉ざしたバティスタだったが、やがて気を取り直したように彼はまたもや口を開いた。

 

「んでだ。例の話なんだが……」

「その件に関しては、すでに決着がついているはずです」

「まあそう言うなって。何もわからねぇままここから追い出されても困るだろ?」

「ええ、困ります。ですから今、フィリアより一般常識を教わっているんです」

 

 例の話、とは極めて単純である。

 彼は、フィオレに僧兵となってアタモニ神の信徒にならないか、と勧誘しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 事の起こりは、これより以前──揉め事を起こして二、三日たったある日のことである。

 紫電のことを通じてフィオレには戦いの心得があると知ったとき、フィリアは鍛錬場で体を動かしてみないか、と彼女に持ちかけたのだ。いわく、体力作りに外をふらふら出歩くより危険は少ない、とのこと。

 たとえ不意打ちであったとしても、神殿周囲に生息する魔物にやられるほど衰弱していない現在だが、仮にも自分の心配をしている人間に対してそれをそのまま言うのは憚られた。

 その提案を受け、鍛錬場へと赴いた際。フィオレはそこで、バティスタと試合をすることになった。

 きっかけは、それまで鍛錬場に足を踏み入れたことのなかったフィリアがバティスタの姿を見つけ、鍛錬場使用の許可を願ったことにある。

 その頃彼はフィオレに対してかなり懐疑的であり、胡散臭そうな眼でじろじろ見られた上、また救護室に入り浸りたいのか、とせせら笑われた。

 外見で判断する人間はけして少なくない。まして男尊女卑の思想がうかがえる人間なら、尚更である。

 それを踏まえて、言葉を発した。

 

『余所者に使う資格はない、と言うなら仕方ありませんね。どのみち、フィリアの同僚殿を衆人環視の前で叩きのめすわけにも行きませんし』

 

 この言葉が効を奏し、バティスタの神経を思いのほか逆撫でている。

 

『上等だ。二度とそんな口、利けないようにしてやる!』

 

 激怒した彼は木刀をフィオレに投げつけ、鍛錬場の試合用舞台へ上がるように言い渡した。

 もちろん、日頃のフィリアに対する態度から、女性を軽視する傾向にあるこの男を怒らせ、やる気にさせるために投げつけた言葉である。

 魔物や野盗相手では余裕であったが、長年特殊な疾患に悩まされ続けてきた彼女にとって、発作の再発が一番の心配の種だった。

 ここは思い切り体を動かして、今一度発作に耐えられるかどうかを試したいところである。

 あの発作を自分から、わざわざ味わいたいとは思わない。しかし、もしものことを考えると、重大な場面で発作に耐え切れず、失神でもしてしまったそのときはもう眼にも当てられない。

 いくらバティスタが怒り心頭の状態でも、あくまで試合だ。最悪、とどめを刺される前に周囲の人間から止められることだろう。

 幸いなことに、この試合の規定では相手が降参を告げるか、審判が止めに入るか、相手を舞台外──場外に出すことで試合は終了する。

 フィオレは木刀を下段に構えて佇み、バティスタは修練用の鉤手甲のようなものを装着し、軽く腰を落としている。軽く爪先立ちになっているあたり、フットワークに自信がありそうだ。

 もっともフィオレとて、防御は紙切れ並み、回避は羽虫並みのつもりなのだが。

 

『シッ!』

 

 先手必勝とばかり、機先を制したのはバティスタだった。

 一番の目的が打たれることであるフィオレが相手につき、当然である。

 横薙ぎの一撃を体をそらして避け、続く上段蹴りをしゃがんで回避。そのまま振り下ろされた踵落としが脳天を直撃する前に、フィオレは軸足の脛を突いてバティスタを悶絶させた。

 簡単にバランスを崩した彼はばったりと倒れ、うんうん唸りだす。

 

『……大丈夫ですか?』

『ってっ、ってっ、てめえぇ……』

 

 なかなか起き上がろうとしないバティスタに追撃することもなく、とりあえずフィオレは話しかけてみた。

 痛むらしい脛を撫で擦りつつ、うっすらと涙目でフィオレを睨みつけている。

 ……あまり見ていたいものではないが、眼を離して隙を突かれるのも癪だ。

 

『だから防具をつければよかったのに』

『うるせぇ! てめえですらつけてねえんだ、男の俺がつけられるか!』

 

 試合では防具の使用も許可されているが、普段通り戦うためにフィオレはそれを辞退した。

 それを目の当たりにしたバティスタも、同じように防具なしで試合に臨んだのだ。

 ようやく立ち上がったバティスタだが、闘志は失われていない。

 ──ここからは、難しくなる。

 何せバティスタに打たせる場所は決まっているのだ。そこへ攻撃するよう、仕向けなければならない。

 上段からの振り下ろしを紙一重で避け、そのままカウンターで腹に突きを見舞う。

 狙った一撃を打たせる前に、多少でも攻撃しなければ不自然だ。

 これ以上余計な負傷をさせないために、十分手心を加えた一撃にした、つもりだった。

 ところが。

 

『ぐへっ』

 

 木刀の先端は面白いように鳩尾へ埋まってしまい、彼はもんどりうって転倒しかかった。そしてどうにか踏みとどまる。

 心情的には「まだ倒れるな」と支えてやりたいところだが、仮にも対戦相手である。そして、彼はどうやらフィオレより年上らしい。近寄ることさえためらわれる。

 思いもよらなかったこの事態を目の当たりにしてフィオレが脱力している間に、彼はどうにか立ち直った。

 

『ふ……くっくっくっ。この野郎……涼しい顔で見下しやがって。女だからと甘い顔した俺が間違っていた。もう一度救護室送りにしてやる!』

 

 誰が涼しい顔をした。アンタがいつ甘い顔をした。という突っ込みはさておき、ちょっと予定は狂ったがこの気迫を利用しない手はない。

 左右からの攻撃を木刀で弾き、体勢を崩したところで追撃ではなく、背後を取りにかかる。

 そのまま脳天に唐竹割りの一撃を加えたくなるほど、無防備な姿ではあったが耐えなければならない。

 木刀を下げ、歯を食いしばる。

 待ち望んだ瞬間は、思いの他早く訪れた。

 凄まじい勢いで首を振ったバティスタが、フィオレの立ち位置を掴んだのである。

 

『このっ!』

 

 放たれた裏拳は、正確にフィオレの胸を打った。

 ところが。

 

『……?』

 

 ……苦しく、ない。

 今までと同じように、はずみで発作が襲ってくると思っていたのだが、その兆候がまったくない。

 そういえば、目覚める以前まで常時体を支配していた倦怠感が、このところまったく影をひそめていた。

 まさか、眠っている間に完治したのか。

 随分前に余命宣告を受けたことさえ忘れて、フィオレは完全に舞い上がった。

 

『何をにやついてやがるっ!』

 

 顔に出てしまっていたのか、バティスタが吼え、飛びかかってくる。

 緩む唇を引き締めて、フィオレは木刀を握り直した──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果、彼女はバティスタを場外へ叩き落した。それに至るまで、かなり時間をかけたために体力が尽き、衰えていた体が悲鳴を上げている。

 それでも、発作の気配は微塵として感じられなかった。

 勝利にではなく、判明した事実に高揚していたフィオレは、その後彼に何があったのかを知らない。

 ただわかっていることは、試合を終えて翌日。

 彼は急に物腰柔らかな態度となっていきなり「僧兵にならないか」と切り出したことだ。

 

「そもそも、私は女神アタモニを信仰していません。そんな人間が僧兵になるなど、許されるわけがないではありませんか」

「別に僧兵は信者ばかりじゃねえぜ。孤児だから神殿に預けられて、成り行きでそのままここで働いている奴だっている。なあに、一生ここで働けとは言わねえよ。僧兵ならそれなりに給金も張るから、ここを出て行く前に路銀を溜めるもの手だと思わねえか?」

「その提案が間違っているとは思いませんが、私がここに滞在することでそれなりに消費されるものがあるはずです。フィリアは気付いていないようですが、私の存在はけして歓迎されていません。あなたが知らないわけでもないでしょうに」

「そりゃお前がフィリアの手伝いするだけでただ飯食らってるからだろうが。僧兵として働くなら、誰も文句はねえよ」

 

 バティスタはいつになくしつこかった。

 普段なら「用事があるから」とでも何とでも言ってさっさと立ち去るのだが、今はそれができない。

 ついに、フィオレは相手を怒らせることにした。

 いけ好かない相手とはいえ、フィリアの同僚相手にあまりしたいことではなかったが、この話題から逃れられるならなんだっていい。

 

「あなたも変わり者ですね。自分を負かした人間に、そんな親切を言うなんて」

 

 どうせ怒り出すだろうと思って意図的に口にしなかった、試合のことを口に出す。

 しかし、意外なことに彼はわずかに沈黙しただけで、激情の気配をうかがわせることはなかった。

 それどころか。

 

「お前がここに残るのは、俺にとっても都合がいいんだよ……いつかぜってー泣かしてやるからな」

 

 つまり再戦を望んでいるという、もっともらしい理屈をこねる始末。

 さてどうしたものかと首をひねった矢先。

 

「──」

 

 書類を抱える手が、ひどく疼いた。

 正確には左手の甲、正体不明のレンズが張り付いている場所である。

 これまで隠してきたため誰に見咎められることもなく、またフィオレも誰かにこのことを話すつもりはなかった。

 現在は、眼帯と一緒に作った布製の手甲で覆っている。

 発作の代わりとばかり、神殿の中を歩いていて時折襲われた現象だが、それはほぼ一瞬のこと。

 気付いたときには、左手の奇妙な感覚など、綺麗に失せている。

 

「おや、フィオレくんにバティスタではないか」

 

 横合いからの声に反応すれば、そこには経典を抱えているアイルツ司教の姿があった。

 出てきた方向を見る限り、大聖堂に行っていたらしい。

 すかさず、フィオレは一歩進んで頭を下げた。

 

「こんにちは、アイルツ司教。フィリア司祭から書類を預かっております」

「ああ、ご苦労様。フィリアにも、そう伝えておくれ」

「わかりました」

 

 再び一礼し、ついでにバティスタへも目礼を行う。

 そしてフィオレは素早くその場を後にした。

 廊下の角を曲がり、誰もいないことを確かめてからそっと手甲を外す。

 そして彼女は息を呑んだ。

 乳白色だったレンズが、黎明の光を放っている。

 しかしそれは僅かな間、光はあっという間に弱まり、もとの乳白色に戻っていった。

 ……一体何に反応したのだろう。

 気味の悪さをそこはかとなく覚えつつ、来た廊下を見やる。

 今まで環境の激変に適応するのが精一杯で放置してきたが、そろそろこのレンズと向き合うべきかも知れない。

 とりあえず、彼女はフィリアに届けたことを伝えるべく、きびすを返した。

 

「フィリア、アイルツ司教がご苦労様、と」

「助かりましたわ、ありがとうございます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五夜・勃発——事件

 ストレイライズ神殿・大聖堂奥。今回のクロスオーバーにおける首謀者と、出会います。
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある日の、午後のこと。

 フィリアから任せられた雑事を終わらせ、自由時間をもらったフィオレはレンズの異常を感知した廊下まで来ていた。

 思い返してみれば、左手が疼いたのはすべてこの付近だったような気がする。まったく見当違いな場所でも発生はしているが、神殿の間取りをよく見ればすべて大聖堂付近だ。

 反対に、これまでバティスタやアイルツ司教と何度か接触しているが、それだけで疼いたことなど一度もない。つまり大聖堂と、左手のレンズは何らかの関わりがあるかもしれないのだ。

 何となく嫌な予感がしないでもないが、虎穴に入らずんば虎児を得ず。慎重なだけでは何も手に入らない。

 確認のため、一応レンズを確認しながら大聖堂へ近づく。

 一歩進むごとに仄かな光を灯し始めたレンズは、やがてあの黎明の色を帯びはじめた。

 

「ビンゴ」

 

 あとは一直線に廊下を進めば大聖堂、という地点でレンズを隠す。

 礼拝は午前中で終わっているが、仕事などで参加できなかった神殿の人間がいる可能性が高い。その場合探索は後日になるが、考えてみれば大聖堂へは一歩たりとも足を踏み入れたことがないのだ。信者のふりをして、どんなところか見てくるのもありである。

 意気揚々と足を踏み出したフィオレだったが、次の瞬間盛大に縮み上がった。

 

「あらっ、フィオレさん?」

 

 すっかり聞きなれた、淑やかな声音が耳朶を打つ。

 振り向けばそこには、経典を抱えたフィリアの姿があった。

 相変わらず、質素で地味な格好をしているが、素材の良さはまったく失われていない。野暮ったいおさげをほどいて眼鏡を外せば、かなり見られる美人だというのに──

 

「そちらは大聖堂ですけれど、迷われたのですか?」

「いえ、私これまで大聖堂に行ったことがないので、ちょっと見学させてもらおうかと……」

「そうでしたか。わたくし、これからお祈りに行くところなんです。ご一緒しましょう」

 

 ……考えてみれば、フィリアは礼拝に参加できなかった信者筆頭である。生真面目な彼女のこと、フィオレとほぼ同時に時間ができたのだから礼拝を考えたところで、おかしなことは何もない。

 いきなり探索計画を挫折しながら、それでも調査の下見のためにフィリアと同道することになる。

 本日はよく人と鉢合わせる、と思いながら歩くうち、ふとフィリアが話しかけてきた。

 

「そういえば……フィオレさんは何か思い出したりはしていませんか?」

「いえ全然」

 

 もとより記憶を失ってなどいないため、こう答えるしかない。

 即答したフィオレに対し、フィリアは「……そうですか」と小さく返している。

 妙に歯切れの悪い彼女に対し、フィオレはとりあえず慌てさせてみた。

 

「何かお悩みでも? ちなみに、胸を大きくするには牛乳の多量摂取ではなく、愛する男性に揉んでもらうのが一番かと」

「そっ! そんなこと、悩んでません! もうっ、フィオレさんたら……!」

「では便通をよくする方法ですが……」

「違いますったら! 便秘なんて患ってませんっ」

 

 からかってワンクッションおいたところで「では、どうしました?」と本題に入る。

 長い沈黙を経て、フィリアはうつむきがちに言葉を紡いだ。

 

「……わたくし、最近フィオレさんにとっては不愉快なことを、考えるようになってしまったんです」

「ふむ」

 

 素直というか、馬鹿正直と言うか。何かを勘ぐる前に、そんな感想が脳裏に浮かぶ。

 そこまで苦しそうに告白するなら、黙っておけばいいのにと考えて──それができないからこそ、フィリアがフィリアたる所以でもあると考え直す。

 

「私、何か粗相でも働きましたか?」

「いいえ」

 

 フィリアは首を振って否定した。

 おさげが首の動きに合わせて跳ねて、踊る。

 

「このままフィオレさんが記憶を取り戻さないで、ずっと神殿にいてくれればいいのに、って──」

「……」

 

 純粋にして真摯な思いが、ぐさりと心に突き刺さった。

 バティスタに勧誘されたことは、彼女に話していない。現在全面的にフィオレの世話をしてくれているフィリアがそれを聞いてどう思うのか、あまり考えたくなかったというのが大きな理由だ。

 アイルツ司教がふと零した話によれば、フィリアは両親が神殿の人間であったために神殿生まれの神殿育ちで、それゆえに人見知りの激しい少女なのだという。

 歳若い彼女が司祭という立場にいるのも、おそらくは生まれたときから信者であり、それなりの能力を有していたからだろう。

 しかし外部から来た人間はそれを知らない。なぜこんな小娘が、と早すぎるフィリアの出世を妬み、嫉む人間も少なくないようだ。

 それゆえか、生来の引っ込み思案か。彼女には気を許せる同年代の友人があまりいないのだという。

 そういえば、フィリアが親しげに話しかけるのは専らバティスタや、親しげではあるものの敬意を払うことは忘れていないアイルツ司教に対してのみ。両親は、数年前の不幸ですでに他界しているという。

 フィオレが来てからフィリアはいい方向へ変わりつつあると、いつかバティスタが言っていた。

 だから残らないか、という説法を繰り出した彼の話はスルーしたが、本人の口からこんなことを言われると、実に心苦しい。

 彼女はバティスタと違って打算も何もない、ただ自らの正直な思いを吐露しているだけなのだ。何とも返しがたく、フィオレが沈黙を余儀なくされたことを、フィリアは珍しく敏感に察知した。

 普段は、他人の反応などあまり省みていないようなのだが。

 

「ごめんなさい、おかしなことを言ってしまって。フィオレさんだって、記憶をなくして大変なはずなのに……」

「正直なことを申し上げれば、あなたが大変わかりやすくお教えくださったおかげで、今はそこまで大変ではありません」

 

 白磁のようなフィリアの頬が、うっすらと色づく。

 その愛でたくなる初々しさに眼を吸い寄せられながらも、フィオレはあえて突き飛ばす、辛辣な言葉を吐いた。

 

「ですが、いずれ私は神殿を出ることになると思います。余計なことと存じますが、心の拠り所をひとつにするのは、あまりいいことではありませんよ」

 

 心の拠り所をひとつだけにするのは、あまり苦しむことはない。選択の余地がないのだから。

 しかしそれだけ拠り所に対する依存は激しくなり、いざ拠り所を失ったとき、立ち直れなくなってしまう。

 それはフィオレ自身が体験した、ひとつの地獄だった。もしあの時、心の拠り所がそれひとつであれば、幼かったフィオレなど身も心も簡単に潰れていただろう。

 

「フィオレさん……」

「蛇足でしたね」

 

 フィリアから眼をそらし、たどり着いていた大聖堂の扉を開く。広がった視界は思いの外明るく、想像よりも狭かった。

 そういえば、ここよりもっと入り口に近い地点に広々とした礼拝堂がある。

 おそらく聖堂が神殿関係者用、または特別な式典用、礼拝堂が平信者や参拝者向けのものなのだろう。差別かもしれないが、この聖堂には高そうな絵画や彫刻、使用されている燭台など高価なものが多い。下手に一般人を入れてトラブルを招いても大変だ。

 趣としては、どことなくフィオレの知る宗教団体総本山の礼拝堂によく似ている。

 現在大聖堂にいる他人が、経典を手に祈りを始めるフィリア一人であることをいいことに、フィオレは中の様子をつぶさに見て回った。

 一心不乱に祈りを捧げるフィリアの様子を盗み見つつ、ちらりとレンズを確認してみる。

 先ほどから疼きは収まる気配を見せない。一応そこらじゅう歩き回ってみたものの、黎明色の光が宿る、それ以上の反応は見込めなかった。

 思えば、目を覚ましてからずっと張り付いているものなのだ。これの正体が掴めれば、何故フィオレがここにいるのかもわかるかと思ったが、そうそううまくはいかないらしい。

 フィリアの手前、あまり露骨な探索を繰り返すわけにもいかない。

 今日はここまでか、と祭壇に寄りかかった、そのとき。

 

 ──かち。

 

「!?」

 

 妙に心地いい音が聞こえてきて、慌てて祭壇から身を離す。

 しかし、時すでに遅し。

 

 ゴゴゴゴ……

 

「きゃああっ!」

「フィリア!」

 

 急に地響きがしたかと思うと、床が動き出した。

 運の悪いことにそこにはフィリアが立っており、あまり運動が得意でないという彼女は、ぽっかりと開いた穴の中に落下してしまっている。

 否、穴ではない。

 礼拝用の長椅子を避けるように開いたのは、地下へと続く階段だった。

 おそらく、床が動き出したことで平衡を保てなくなったフィリアは、そのまま足を踏み外してしまったのだろう。

 思わぬ発見だが、フィリアを巻き込んでしまった。とにかく、救出せねばなるまい。

 それほど長くもない階段を駆け下りるも半地下だけあって暗く、いかに夜目がきく彼女でも光に慣れた眼で歩き回るのはつらい。

 できない確率が高いことがわかっていながら、フィオレは上階より降り注ぐ光に手を差し伸べ、そっと呟いた。

 

「……レム、欠片をください」

『それでは、駄目』

 

 以前と同じように、第六音素(シックスフォニム)を結集させようと手をかざすも、反応はない。

 代わりに、頭の中で声がした。

 感覚としては念話──チャネリングに近く、あの時の幻聴と同じようなものに聞こえる。ただし声質はまったく異なるが。

 

『誰!?』

『ここで光を統べるは私、ソルブライト。レムでは、応えられない』

 

 同じく念話で誰何の言葉を放てば、幻聴──ソルブライトの意思が返ってきた。

 その忠告に従い、もう一度挑戦する。

 

「ソルブライト、欠片をください」

 

 今度こそ、第六音素(シックスフォニム)の塊とほぼ同質の光球が出来上がった。

 フィリアは、思いの他すぐ近くに倒れている。

 

「大丈夫ですか?」

「いたた……足を、挫いてしまいましたわ」

 

 抱き起こせば、彼女は右の足首をさすって痛みを訴えた。

 フィオレとしては、奥を探索したい。しかしフィリアをそのままにしておくわけにもいかず、探索は諦めて彼女を救護室へ運ぶことにした。

 常に携帯している短刀を取り出し、即席の添え木にして破り取ったローブの裾で固定する。

 

「救護室までお連れします。背中におぶさってください」

 

 背を見せてしゃがみこむも、フィリアは返事をしない。

 いぶかしがって振り向けば、光球に照らされたフィリアは顔面蒼白で肩を震わせていた。

 

「フィ、フィオレさん、あれ……」

 

 改めて、フィリアの見ているものを視界に映す。

 それは、巨大な鉱石に見えた。質の悪い紫水晶のような色をしており、なぜかふよふよと宙を浮いている。

 巨大鉱石は、まるで今初めて二人の姿を認めたかのように停止した。

 次の瞬間、鉱石の中心が淡く明滅し、五回ほど繰り返された、そのとき。

 

「ЁЖЗИЙК……Я!」

 

 巨大鉱石が一際大きな輝きを放ち、なんと火炎弾を打ち出してきたのだ。

 鉱石のくせに生意気である。

 そんなことを思いながら、怯えているフィリアを両手で抱え上げた。

 

「きゃあ!」

「失礼っ」

 

 ──身体強化の譜陣は肌から消失していたのに、極端な筋力低下がなかったことは確認済みである。

 加えて彼女の華奢な体格ならば、長時間はともかくとして、少し移動するだけなら特に問題はない。

 迫り来る火球は標的を捉えることなく、入り口の階段を焦がしている。

 

「これは……! まさか、晶術!?」

「しょ……? 何ですかそれは」

 

 どうして譜術が、と口走りそうになって、フィリアの言葉を復唱する。

 混乱していないわけではなかろうに、フィリアは滑らかに知識を引き出した。

 

「レンズに宿るエネルギーを使って様々な事象を引き起こす技術の総称です。通常、魔物が宿すレンズに含まれるエネルギー……一般的に晶力と呼ばれているのですが、ひとつひとつは本当に微々たるもので、一度晶力を引き出せば消滅してしまいます」

「ふむふむ」

「ですが千年前の技術では、そのエネルギーを束ねることができたり、あるいはエネルギー含有率の高いレンズを使って、人間でも晶術を扱っていたらしいんです。魔物はそもそも生命力、精神力ともに人間を圧倒していますので、少量のレンズでも晶術の使用が可能なんだとか」

「つまり、現時点であれを無力化するには、破壊するしかないと」

 

 真面目に聞いた割に、単なる薀蓄の域を超えなかったフィリアの解説で出した結論に基づき、光球を操る。

 フィリアを抱えたまま、彼女は半地下の奥──聖堂とは正反対の方角へ駆け出した。

 

「フィオレさん!?」

「あれを聖堂に出すわけにはいきません」

 

 そんなことをしたら、聖堂を火災に導いてしまうだろう。

 どのみち大聖堂では障害物が多すぎて戦いにくい。半地下の奥に開けた場所があるのだ。

 奥にある扉が気になるところだが、それは後でよろしい。

 

「フィオレさん、後ろ!」

 

 フィリアの忠告を受けて、真横へ跳ぶ。

 今度は大根ほどもある氷柱が何本か、床に突き刺さっていた。

 

「其の荒ぶる心に、安らかな深淵を!」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 立ち止まったことをきっかけに【第一音素譜歌】夢魔の子守唄(ナイトメア・ララバイ)を謡う。

 鉱石に耳があるとはどうしても思えなかったが、ものは試しだ。

 譜歌は運良く相手はすべての機能を停止させており、中心の明滅も止まっている。

 

「……やっぱり」

 

 ちゃんと発動している。ここが暗いから──闇が、存在するからだ。

 あのとき【第四音素譜歌】楽園に鳴り響く福音(ヘブンズ・リザレクション)が発動しなかったのは、発動に必要なだけの音素(フォニム)がなかったからではないか。

 この先、発動にどれだけ必要なのかを調べておいた方がいいだろう。

 そんなことを考えつつふたつ並んだ扉の前に到達し、そばの柱の陰にフィリアを下ろした。

 

「フィオレさん……」

「なるべく巻き添えにしないよう心がけますが、万一のことがあります。いざとなったらこの柱を盾にしてくださいね」

 

 不安を隠さないフィリアの手を強く握り、柱から飛び出す。

 譜歌は効いていたものの、バタバタと走る足音のせいで、巨大鉱石は瞬く間に奪われた機能を取り戻していた。

 明滅が続き、再び火炎弾がフィオレに迫る。

 それを避け、床に着弾したのを見てとったフィオレは、すかさず集中した。

 闇があるから夢魔の子守唄(ナイトメア・ララバイ)は発動した。炎があるなら──

 

「天界より降り注ぐは裁きたる白き雷。咎人を等しく薙ぎ払え!」

 ♪ Va Nu Va Rey, Va Nu Va Ze Rey──

 

 虚空より生まれた輝きは巨大鉱石に容赦なく降り注ぎ、ぴしりぴしりとわかりやすいヒビを刻んでいる。

 最後の閃光が収まった後、巨大鉱石は中心の核を覗かせ、今にも壊れんばかりにヒビだらけとなっていた。

 これまで鞘に収めていた新たな武器・紫電を抜き放つ。

 幻想的な淡紫が、闇の中でぼんやりと浮かび上がった。

 

「ЦЧШЩЪЫ……ЭЮ!」

 

 どうもバリエーションに乏しいらしく、再び巨大鉱石は氷柱を三本ほど放っている。

 追尾してくるならともかく、火炎弾も氷柱も動きは直線的なもの。避けられないフィオレではない。

 

「はあっ!」

 

 詠唱の直後、硬直する鉱石に肉薄し、露出した核に刺突を見舞う。途端。

 

 ぱぁんっ! 

 

 巨大鉱石は盛大に破裂した。

 破裂する直前、一際強く輝いた核に気付いて、フィオレはその場を素早く離れている。

 幸い、自爆したとかそういった類のものではなかったらしい。

 巨大鉱石そのものは砕けて破片が積み重なっており、傍には数枚のレンズが転がっている。

 紫電を収め、レンズを拾い、フィオレはようやくフィリアのもとへ駆け寄った。

 

「終わりましたよ」

 

 柱の影に隠れて震えていた彼女は、フィオレの顔を見上げて、ホッとしたようにため息をついている。

 

「そういえばフィオレさん、あの扉は何でしょう?」

「さて、もう使われなくなった倉庫か何かでしょうか……?」

 

 さて戻ろうとかと話した矢先。彼女の好奇心に従って、扉に近づく。

 フィリアの手前、何もない素振りを貫き通したが、左手が疼きを通り越して燃えるように熱い。

 知らず左手を握り締めて、フィオレは扉に手を伸ばした。

 

 ──バタンッ

 

「わ……!」

 

 扉に触れた瞬間、まるで向こう側に誰かがいたように勢いよく扉が開く。

 しかし向こうには誰もおらず、代わりに巨大な宝石のようなものが鎮座していた。

 

「これは──!」

 

 黎明の色を有する極大レンズ、である。

 何故そう思えるのか。何故なら、フィオレの左手の甲に張り付いているものと、感じる力がほぼ同一なのだ。

 一体このレンズと、フィオレに張り付いてとれないレンズとの関係は──

 狼狽するフィオレには、「どうしたのですか?」とかかるフィリアの声すら届いていない。

 魅入られたように一歩、足を踏み出す。そのとき。

 

 キンッ

 

『ようこそ、来訪者よ──』

 

 脳裏にそんな声が聞こえて、フィオレの視界は瞬く間に白く染まった。

 

 

 

 

 



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第六夜——新たなる旅立ちは、かなり慌しく

 神殿編終了。フィリアとは一旦お別れ。悲しまないで、出会えばいつかは別れるものだから。
※作中の異端審問は、「魔女狩りにおいて行われた異端審問」を意味しています。実際の異端審問とは異なりますのでご注意を。


 

 

 

 

 

 

 

 

『……お願い』

 

 ふと、気付く。そんな声が聞こえたからだ。

 

『歪む世界を止めて。どうか……もとの道に……』

 

 ()だなー。

 正直な感想がそれだった。

 そもそも、どうして自分がここにいるのかさえわからないのだ。それさえわからずに、何故一方的な願いだけ聞かなければならないのか。

 眼を開くとか、息をするとか、そんな感覚さえない世界の中で。

 彼女はつらつらとそんなことだけを考えていた。

 

『疑問には、答える。彼らと、契約を結んで。あなたには、その資格が……』

 

 途切れ途切れの声が、次第に明確な言葉を紡いでいく。

 彼らって? 

 

『この世界の守護者たち……彼らは人を通じてしか、干渉できない。あなたがいなければ、ただ見守ることしかできない。だから……』

 

 世界──星の守護者ということは、精霊のような存在だろうか。

 

『アーステッパー、アクアリムス、フランブレイブ、シルフィスティア、ソルブライト、ルナシェイド。願わくば、彼らとの契約を。真実を知り、歪む世界を……』

 

 何がなんだかさっぱりわからないが、応じない限り知りたいことは一生わからない気がしてならない。

 ところで、この声は誰なのだろう。

 ソルブライト、とは違うようだが……

 

『私……ア……』

 

 

 

 

 

「フィオレさん!」

 

 ハッと眼を開ける。

 いつのまにかフィオレは床に倒れこんでおり、悲鳴染みたフィリアの声が耳朶に突き刺さった。

 弾かれたように起き上がり、彼女を見る。フィリアは柱によりかかったままで、ほっとしたように胸へ手をやった。

 

「驚きました。いきなり倒れられて……」

 

 感じからして、それほど時間は経っていないらしい。

 部屋の奥にある極大レンズから目をそらして、扉を閉めた。

 

「一体何があったのですか?」

「……詳細は、司教様に聞いたほうが良さそうです」

 

 フィリアを背負い、一目散に大聖堂を目指す。

 まずは救護室へ行ってフィリアの捻挫をしっかり治療してから、司教に話を──

 というフィオレの目論見は、あっさり砕け散った。

 何故なら。

 

「これは、どういうことなのだ!?」

 

 半地下から大聖堂へ続く階段を駆け上がった途端、ぽっかりと開いた入り口を見つけておろおろしているアイルツ司教に遭遇したからだ。

 

「アイルツ様……」

 

 おそるおそるその名を呼んだフィリアの声に、彼は実に素早く反応した。

 しかしフィオレも、彼に尋ねたいことがある。

 

「おお、フィリア! それにフィオレくんも……君たちは奥で何を」

「司教、あれは何ですか?」

 

 不躾な問いにフィリアが批難の視線を寄越すも、気にして入られない。

 彼は酢でも飲んだような顔つきになって、フィオレを見つめている。

 

「……見てしまったのか!」

「私は。でも、フィリアは見てません」

 

 なぜ半地下の入り口が開いているのかについて、正直に語った。

 フィオレひとりならともかく、フィリアがいる以上隠し立てしてもあまり意味がない。

 事の詳細を聞き終えて、アイルツ司教は「……何ということだ」と呟いた。

 

「あれは……あれは、この神殿における最高機密なのだ。女神アタモニの、ご神体なのだよ」

 

 フィリアから聞いた話だが、通常レンズは手のひらサイズ、一抱えはあるもの、とにかく巨大なものと三種類に分けられていて、後者になればなるほど貴重であるらしい。

 そこまで納得したフィオレだったが、この後で驚きに眼を見張る事態へと陥った。

 

「ご神体に近づき、あまつさえ眼にした部外者は例外なく異端審問にかけられてしまうのだ! ご神体を汚したと称されてな……」

「そんな! そんなの、あんまりですわ!」

 

 異端審問という、穏やかな神殿に似合わぬ響きに対し、驚きに言葉を失くすフィオレ、批難の悲鳴を上げるフィリア。

 フィリアは更に弁明を連ねた。

 

「フィオレさんはご神体を汚してなどいませんわ! だって、わたくしの見ている前で、扉を開けただけで……」

「声が大きい!」

 

 衰えの見える老躯に似合わぬ一喝で、フィリアを黙らせる。

 

「幸いこのことを知っているのは我らのみ。……フィオレくん」

 

 アイルツ司教に向き直られ、フィオレは迷いの見えるその瞳をしっかと見つめた。

 何となく、その先は予想できるものだが。

 

「すまないが、今すぐ神殿を出てくれ。ここは私が閉めておこう。さあ早く……!」

「わかりました。フィリアを運んでから、すぐにでもお暇します。願わくば、事後処理に手を抜かないでください」

 

 フィリアを担いだまま大聖堂を出て、一直線に彼女の部屋へと向かう。

 突然の出来事で眼を白黒させているフィリアを寝台に座らせ、すぐにフィオレは自分のあてがわれている部屋へと向かった。

 大概眠るか荷物置き場くらいにしか使っていなかった部屋から荷物一式を取って、フィリアの部屋へときびすを返す。

 ノックをしてから部屋に入れば、彼女は事態を把握したらしい。寝台に座ったまま、おろおろしていた。

 

「ああ、どうしましょう。あの時わたくしが、扉の事なんか気にしなければ……」

「過ぎたことをくよくよ言っても仕方ありませんよ」

 

 支給されていたローブを脱ぎ、懲りずに回った神殿周辺のバザーで購入した男物の被服を纏う。

 最後にボタンが取れたまま繕ってもいない外套を着込んで、フィオレは荷袋をがさごそ漁りだした。

 

「これから、どうなさるのですか?」

「神殿を出ます。手近な村に寄って、落ち着いてから今後のことを決めようかと」

 

 とにかく今は神殿を出ることで頭がいっぱいである。異端審問にかけられるなど、御免蒙るのだから。

 やがて彼女は、自らの荷物袋から何かを取り出した。

 ひとつは、小さな包み。もうひとつは──

 

「理論上なら、これでも発動するはずなんですよね」

 

 一人でそんなことを呟いて、フィオレはそのままそれを握りしめた。

 その唇が、かすかに旋律を紡ぎだす。

 

「命よ健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──

 

「これは──!」

 

 輝く譜陣がフィリアを包み込んだ。足首の鈍痛が、見る間に消えていく。

 立ってみてほしいと言われ、フィリアはおそるおそる、彼女の肩を借りて立ち上がった。

 

「まだ痛いですか?」

「い、いいえ。まったく……フィオレさん。あのときも、この歌を歌っていませんでしたか?」

「聞いてたんですか」

 

 恥ずかしそうに答えながらも、返事ははぐらかす。

 跪き、フィリアの足から短刀を回収して、フィオレはもうひとつの包みを手に取った。

 

「あとひと月ほど、先のことですけど」

 

 何気なく手渡され、フィリアは首を傾げながらもそれを解く。

 出てきたのは、珊瑚でできた髪飾りだった。

 真っ赤なふたつの球状で、束ねた髪を留められるようになっている。

 

「フィオレ、さん──」

「生まれてきてくれてありがとうございます、フィリア。おかげで私、あなたと出会うことができました」

 

 つぶらな瞳を見開き、驚きを隠さないフィリアに微笑みかけ。

 彼女はただ一言、告げた。

 

「お元気で」

 

 くるりときびすを返し、静かに扉を閉める。

 

「まっ……」

 

 一歩踏み出しかけ、フィリアは初めて自分が裸足であることに気づいた。

 フィオレが持ってきてくれていた靴は、寝台の傍らにある。

 なりふり構わず追いかけることもできただろうが──それでは何事かと騒がせてしまうだろう。アイルツ司教の心遣いも、無駄になってしまう。

 もう自分の思慮が足りないせいで、彼女に迷惑をかけたくなかった。

 ──でも。追いかけるだけの理由があるなら? 

 さ迷っていた瞳が、ある一冊の本に止まり、細い腕がそれを取る。

 大急ぎで靴を履き、フィリアは今度こそ扉を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 珍しく、神殿のエントランスに人はいない。

 司教の忠告通り、足早に出て行こうとしたフィオレは、とある人物に呼び止められた。

 

「フィオレくん!」

 

 先ほど聞いたばかりの声。見やれば、そこにはアイルツ司教の姿があった。

 手には、小さな筒のようなものを携えている。

 

「何か?」

「きっと渡すことになるだろうと思って、準備しておいたものだ。受け取ってくれ」

 

 筒の口を引き抜くようにして取れば、中には仰々しい書状が入っている。

 中には、数行の文面といくつかの印が捺印されていた。

 

「これは?」

「簡易ではあるが、身分証明書だ。君の身分はストレイライズ神殿が保証する。アタモニ神の加護があらんことを──」

「って、それは信者の方にやってあげてくださいよ」

 

 聖印を切ろうとして、本人に止められる。

 いきなりのことで、彼女は多少混乱していた。

 接触してきた謎の意識のことでまったく気にしていなかったが、いくらなんでも不自然な話だ。

 

「どうして、こんなにも気を使ってくれるんですか? 発覚した時点で僧兵を呼べば、それで済んだものを」

 

 フィオレとアイルツ司教との関連など、ほぼないに等しい。保護された記憶障害持ちと、そこの代理責任者という関係でしかなかったはず。

 あとはフィリアのお使いで幾度か顔を合わせただけで、直接会った回数は片手で足りる。

 どうしてこんなにも、気にかけてくれるのだろうか。

 

「……君が来てからというもの、フィリアは随分明るくなった。両親を不幸な事故で亡くし、何年も塞ぎこんでいた彼女を君は励ましてくれていたんだよ」

 

 もちろん、フィオレにそんな意図はない。

 彼女と接する最中、こんなに可愛いのに表情が固すぎる、と勝手に心の中で難癖をつけたフィオレは、とりあえずフィリアをからかった。

 時に冗談を交え、時に計算づくでからかって、笑顔を、怒りを、感情を引き出させた。

 意図して行ったのは、それだけだ。

 あとは面白半分にからかったり、とある質問を妙なところまで突き詰めて困らせたり、彼女が研究している事柄に首を突っ込んで混乱させてみたりと、そんな他愛もないちょっかいを出していたくらいである。

 すべて理由は、フィオレの気まぐれだ。彼女を思いやってのことではない。暇があると途端に今の状況を考え込んでしまい、それを無意識に恐れたフィオレの不安(ひま)潰しとも言える。

 ともかく、この件に関して言えるのはひとつだけ。

 

「……単なる偶然です」

「偶然でも、あの子の心は随分癒されたよ。私もあの子も、それに感謝している。……できればアタモニ神の信徒となって、神殿で暮らしてほしかった」

 

 いくら望まれても、心の中だけはどうしようもない。

 礼を述べ、神殿出口へと向かった、そのとき。

 

「フィ……フィオレさ……!」

 

 荒い吐息で切れ切れに呼ばれ、今度はなんだと視線を走らせて──フィオレは眼を見張った。

 細い肩で苦しそうに揺れ、息が完全に上がっている。ずれる眼鏡もそのまま、小さな胸を片手で押さえたフィリアが、そこでようやく立っていた。

 治ったばかりの足で、ここまで全力疾走してきた、というのが容易に想像できる。

 フィオレの姿を認めて、覚束ない足取りで二歩、三歩と歩みかけるも、その膝はがくりと崩れた。

 

「フィリア!」

 

 その体が床へ叩きつけられる寸前、全速力で駆け寄ったフィオレが抱きとめる。

 脱力した手から、一冊の冊子が転がり落ちた。

 

「何をやっているんですか、もう──」

「……これを」

 

 続くフィオレの言葉を遮り、フィリアは取り落とした冊子を彼女に差し出した。

 息は荒いままだが、抱きとめられたその体を早くも自分で起こし、立ち上がっている。

 

「持っていってください。この辺りは不慣れでしょうし……」

 

 受け取った冊子は、ほぼ全世界を描いた地図帳だった。

 地域分けされた大まかなものから、地域別の詳細な地図まで各種。この世界の地形がさっぱりわからないフィオレにはかなり重宝する代物である。

 

「あ、ありがとうございます……」

「今度お会いするときは、誕生日を教えてください。私も、お返しに何かお贈りしたいと思います」

 

 気丈な微笑みに見送られ、フィオレは今度こそ神殿を後にした。

 やがてフィオレの後姿が小さくなり、ついに見えなくなる。

 

「フィリア……」

 

 気遣うアイルツ司教の声が遠い。

 微笑みはとうに消え失せ、こみ上げる思いが、心をきしませる。

 押さえきれない涙を頬に伝わせ、フィリアは嗚咽を殺してただ、顔を覆った。

 彼女が動けるようになったのは、まだ、もう少し後の話。

 

 

 

 

 

 

 

 



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無職彷徨編
第七夜・出会い——またしても、人ではないけど


 inアルメイダ。作中の「シストル」はシターンの仏語読みです。
 シタールとは別物ですよ? 


 

 

 

 

 

 

 

 慌しくストレイライズ神殿を出て近郊の森を抜けたフィオレは、とある村に立ち寄った。

 斜面を利用した多層構造の村で、巡礼者向けなのか、宿屋や露天商がそれなりに立ち並んでいる。

 適当に宿を選び、簡素な部屋の中。フィオレは外套を椅子にひっかけ、寝台に寝転がった。

 白布で作った眼帯を毟り取り、ぺいっと放る。眼帯はひらひらと宙を舞いながら、下ろした荷袋の上にだらしなく広がった。

 久しぶりに両眼を使って、すぐに目蓋を下ろす。

 しん、とした部屋の中、外のざわめきがどこか遠かった。

 ふと、腰に差したままの存在に気付いて手探りで外す。

 手入れの成果として、こ汚い木刀から威風堂々たる異国風の片刃剣へ変身を遂げた紫電は、当たり前だが大人しくフィオレの手の中に収まっていた。

 ここへ至るまで紫電の活躍は目覚ましく、違法スレスレながらいい買い物をした、とつくづく思う。

 フィオレとて、普通の剣が使えないわけではない。普通の剣と言っても形の違いから重さ、サイズの違いまで千差万別だが、基本的な扱い方は体に叩き込まれている。

 それでも、メジャーな両刃、肉厚の剣はフィオレにとって重い。格下の相手ならともかく、互角、格上の相手に対して合わない装備は、つけこまれる隙を提供しているようなものだ。

 紫電は、かつて所持していた家宝の血桜に並ぶ良刀だとフィオレは評価している。

 さて愛すべき新武器の手入れをしなければと起き上がって──手入れ用の布を、誤って寸断してしまったことを思い出した。

 普通の布ではいけないわけではないが、手入れ専用の布であることが望ましいし、フィオレに余計な布地の持ち合わせなどない。

 更に神殿前で最低限仕入れた携帯食料も底をつきかけているし、レンズもそれなりに溜まっている。

 ストレイライズ神殿からこの村までは、おざなりだが街道が敷かれていた。だが、これからもそうとは限らないから方位磁石もほしいところだ。

 贅沢を言うなら、財布がほしい。

 仕入れるべきものを仕入れるべく、フィオレは放ったばかりの眼帯をつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 施錠を確認して、宿を後にする。

 そこでフィオレはよろず屋のおやじに、生涯初めてレンズを換金してもらった。幸いにもそこで手入れ用の布、方位磁石、適度な携帯食料、簡易ソーイングキットの入手に成功する。よろず屋の名は伊達ではなかった。

 問題は財布だが、適当な巾着袋でもよし、どうしてもなければ適当な布を買って自分で縫ってしまえばいい。

 軽い気持ちで、フィオレは露天商の立ち並ぶ通りをふらふらと出歩いた。

 小さな村だけあって『活気溢れた』とは形容しがたいが、それでも巡礼者だろうか。通る人々が絶えることはない。

 とある露天にて、良さそうな巾着を見つけ、どうしようかと立ち止まり、ひたすら眺めていた矢先。

 品物が置かれた布の端に、ふと気になるものを見つけた。

 雫型、あるいは涙滴型の共鳴胴に長い棹が取り付けられており、二本の弦が対になった計十二弦の演奏弦が張られた、弦楽器と思しき物体である。

 幼い頃、似たような楽器を興味本位でいじったことがあるのだが、似ているようで似ていなかった。

 基本的な構造は同じであるものの、件の楽器はもっと太っていた──共鳴胴が洋梨を半分に割ったような形だったはずである。

 

「あのー……」

「なんだい、買うのかい?」

「それはまあ置いといて。この楽器ってリュートですか? 随分痩せてますけど」

 

 店番をしている老女は、先ほどから店のまん前で突っ立っていたフィオレを胡散臭げに見上げてきた。

 買うのか買わないのか、はっきりしろと言わんばかりに目を眇めていたが、フィオレの問いに一応答えている。

 

「これはリュートの仲間、マンドリンなんかと一緒に派生したシストルという楽器だよ。あたしがあんたくらいの頃はこれで歌って、小銭を稼いだもんさ」

「へえ……」

 

 老女の許可をもらって、楽器を手にとった。

 軽く爪弾いてみれば、調弦は甘いものの、まずまず音は合っている。

 全体的に古びた感じは否めないが、がらくたというわけではない。

 

「なんだい、あんた。素人じゃないね」

「リュートに触ったことがあるだけで、れっきとした素人です」

 

 形は違えど、演奏をするという感覚が懐かしい。

 フィオレがそれなりに手馴れた手つきで奏でるのを見て何を思ったのか、老女はひとつ提案を持ち出した。

 

「どうだい。それ、買わないかい?」

「は?」

「買うならこの巾着と専用ケース、交換用の弦をつけてあげるよ」

 

 老女が提示したのは、先ほどまでフィオレが熱心に見ていた赤い巾着袋、紐でまとめられ専用のケースに入った何種類かの弦、手製と思われる布と革製の持ち運び用ケースに500ガルドという値段。

 ちなみにこの金額は、フィオレのとった宿で換算すれば約四日分に相当する。

 中古の楽器どころか普通の楽器すら、標準価格のわからないフィオレだったが──

 

「いいんですか? 売り物ですらないのに」

 

 そう。この楽器に値札はついていない。

 おそらく老女が、弾かなくなった今でも若き日の思い出として手入れを怠らず、傍に置いておくほど大切にしておいたものだろう。

 それを見ず知らずの旅人に売るとはどういう了見か。

 老女はおだやかな微笑を浮かべて、首を真横に振っている。

 

「いいんだよ。あんたが弾いているところ見たら、まだ現役なのに私と一緒に隠居させるのは可哀想になっちゃってねえ。時々でいいから弾いてあげておくれ」

 

 ……それとなく、強制的に購入させられそうなのは気のせいだろうか。

 老女の笑顔には何も含みあるものはないのに、ついつい疑ってしまうフィオレンシア・ネビリム27歳の午後だった。

 とはいえ、この楽器が気に入らないわけではない。フィオレはあっさり500ガルドを支払った。

 用を果たしたということでもう宿に戻ってもよかったのだが、宿でこの楽器をいじれば騒音迷惑となるだろう。

 フィオレは老女の承諾を貰って、露天の隣に座りこんだ。

 まずすべきは調弦だが、一度演奏した方が全体的に弦の様子を把握できるだろう。

 どうせここは、ざわめき絶えぬ大通り。フィオレひとりが多少騒いだところで問題はないはず。

 ボイストレーニングなどはしていないが、それでも譜歌を使っていたのだ。

 音程をしくじれば譜歌は発動しないのだから、そこいらの陶器が割れるようなことはないだろう。

 数度の深呼吸を繰り返して、フィオレはシストルを奏で始めた。

 

 

 

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze

 Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze

 

 Va Rey Ze Toe, Nu Toe Luo Toe Qlor

 Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey

 

 Va Nu Va Rey, Va Nu Va Ze Rey

 Qlor Luo Qlor Nu Toe Rey Qlor Luo Ze Rey Va

 

 Rey Va Nu Qlor Toe Rey Rey──

 

 

 

 

 やはり、なんとなく音がずれている感じがする。これは音叉を手に入れて、しっかり調弦したほうがいい。

 結論付けてから、フィオレは伏せがちだった顔を上げた。

 

「!?」

 

 そして、硬直を余儀なくされる。

 現在フィオレの眼前には、十数人クラスで人が集まっていた。

 大人から子供まで、地元のわんぱくそうな子供もいれば、巡礼者らしき一団も垣間見える。

 ──演奏中、何となくざわめきが増えたような気はしていた。

 巡礼者の集団が新たに村へ到着したか、くらいにしか考えていなかったのだが、これは一体どういうことなのか。

 苦情を言うためにこれだけ集めてしまうほど、自分の歌声は聞くに堪えないものなのか。

 

「ちょいとあんた」

 

 かつてない衝撃を覚えて、そんなことをぐるぐる考えていたフィオレの思考を正気づかせたのは、あの老女の声だった。

 

「ただ歌っただけじゃだめよ。こうしなきゃ」

 

 言って、フィオレの前に底の深い器らしき物を置く。

 木製のボウルに見えるのだが、次の瞬間。

 

 ちゃりん

 

 誰が投げ入れたのか、ガルド硬貨がボウルの中に収まる。

 それを皮切りに、拍手とガルド硬貨がぽんぽんと飛んできた。

 

「……えーと。これは……」

「こっちじゃね、弾き手や歌い手の技量を評価したガルドを投げてから拍手ってのが一般的なんだよ。皆あんたの歌を評価したくてガルドを持ってたのに、入れ物がないからどうしようか、立ち往生してたんだ」

 

 それを尋ねたのは、ボウルに硬貨が溜まり、これ以上フィオレが歌いそうにないと判断した聴衆が散っていった後のことである。

 老女は、当初の無表情がまったくうかがえない、ほくほくとした笑顔でボウルの中のガルドを数え終わった。

 フィオレに財布を出すよう要求し、「全部で百七ガルドね」とわざわざ換金してくれたらしく、小銭ではなく百ガルド硬貨と七枚の一ガルド硬貨を入れてくれる。

 

「それにしてもあんた、なかなかいい声を持っているじゃないか。明日もここで歌わないかい?」

 

 なぜここまで親切なのか。

 どうもフィオレが偶発的に行った路上ライブのおかげで集客数が増し、結果として彼女が売っていた小物もかなり売れたからのようである。

 それを物語るように、露天の品物はずいぶん少なくなっていた。

 丁重に断れば、彼女は残念そうな顔を隠さないものの、それ以上は何も言わない。

 

「それにしても、珍しい歌だね。何を言ってるのかさっぱりわからないのに、耳に心地よかったよ。どこの歌なんだい?」

「……オリジナル、です」

 

 誰の、とは言わない。

 上機嫌の老女と別れて、帰途につく。

 宿へ帰りついたフィオレはというと、共同の風呂に浸かって体の埃を落とし、早々部屋へ引き上げていた。

 来たばかりと違い、今すぐ眠ってしまいたいくらいの疲労が彼女にのしかかる。

 ──考えてみれば、疲れているのは当たり前だ。

 このところ、修練や勉強をしていたとはいえ、だらだら過ごしていた神殿を出て、気を張っては魔物と交戦、路上演奏など久しぶりのこと、慣れないこと続きなのだから。

 机に置かれたシストルを取って、フィオレは小さく息を吐いた。

 楽器の演奏も、意味のない単なる歌唱も、本当に久々である。そこそこガルドが稼げることもわかったし、これからは多少、嗜んでみようか。

 そんなことを考えながら、フィオレは刀身が黒く塗られた短刀を取り出した。

 鞘を払い、シストルの胴の裏にがりがりと紋様にも似た文字──フォニスコモンマルキスを刻む。

 嗜むと決めたはいいが、持ち歩くとなると両手が塞がれてしまうのだ。それでは咄嗟に刀が抜けない。

 専用ケースとやらで背負うには少々取り回しに難があるため、コンタミネーションを使って体に収納しておこうという魂胆である。

 件の若年寄がどうしていたかは知らないが、フィオレは対象に特殊なフォニスコモンマルキスを刻んでいた。こうすればフィオレにとって、かなり負担が軽くなるのである。

 負担が軽い分、彼女は棒手裏剣、笹の葉型手裏剣、更にあの魔剣を収納しているわけだが、今回はそこに弦楽器が加わるのだ。

 流石にこれ以上収納物を増やしたら、フィオレの体に変調をきたすだろうと予想できるため、今回が打ち止めだろうが。

 そもそもこの世界で、物質を音素(フォニム)と元素により分ける儀式が成功するのかも危うい。

 することなすことが始めての世界、神殿に滞在時と継続して『ダメでもともと。なら試してみよう』の精神がフィオレに染み付きつつあった。

 

「──求めるは汝。我が血、我が肉、我が力たれ」

 

 活性化した音素(フォニム)の流れに合わせ、彫ったフォニスコモンマルキスが明滅する。

 シストルを音素(フォニム)と元素の組み合わさった塊にした後、収納場所と決めた背中へ近づけた。間違えて腹に収納しようものなら、すでに収められている魔剣と元素同士がフィオレの体の中で反発しあい、無事ではいられないだろう。

 問題のシストルは、何事もなくむき出しの背中へ収められた。

 幾度か繰り返し、コンタミネーションが正常に働いていることを確認する。

 ──ふと、フィオレは鏡で自分の背中を見た。

 古傷、加えて数種類もの人体強化譜陣が刻まれていたはずの背中は、まっさらなキャンパスのように白い。

 

「……」

 

 大きく嘆息をして、フィオレはそのまま寝台に寝転がった。

 はしたない上に行儀は悪いが、今の彼女はかなりやさぐれている。

 これまで自分の生きてきた証がないことに対する喪失感、古傷はともかく肉体強化の譜陣がなくなっているのに、これまでと遜色なく戦うことができることへの疑問。

 むしろ例の疾患が失せた、あるいはなりをひそめているために体が軽い。

 余命幾ヶ月と宣告されていた身、現在健康であることはきっと喜ぶべきことなのだろうが、どうしても手放しで喜ぶことはできなかった。

 ──達のこともあるが、問題を追及すれば、ここはどこなのか、世界レベルの疑問に及んでしまう。まさしく八方塞がりだ

 唯一の突破口は、神殿の地下で接触した思念体の言葉である。

 フィオレを『来訪者』と呼び、切々と願いを訴えた思念体。契約者となって星の守護者──精霊と思しき存在と契約を交わせと。そうすればフィオレの疑問に答えると、思念体は言っていた。

 

 つまりこれからは、守護者を探さなければならない。ノーヒントで。アテもなく。

 

 通常、そういった存在を各地の村や街の人間に尋ね回ったところで当たる確立は大いに低い。宗教色の強い地域なら、触れただけで余所者などあっけなく排除、あるいは弾圧される。

 従って古い資料などを検索するのが安全で正確な情報を得る可能性も高いのだが、そういった資料が大量に保管されているであろう知識の塔はストレイライズ神殿のすぐ隣。知らん顔で戻ることはできない。

 嘆息をつき、もうかなりよれよれになってしまったサラシを胸部に巻きつけ、フィリアからもらった地図を開いてみた。

 この村の名はアルメイダ。一番近くにあるのがダリルシェイドなる、ここセインガルド地方の首都である。

 南西にはハーメンツというアルメイダと規模は変わらない──しかし、神殿のお膝元とも言えるアルメイダと違って余所者は目立つ、閉鎖的な村だと思って差し支えないだろう。

 そこから更に南へ進めば極寒にして常雪の大地、ファンダリアだ。

 関所的な意味合いを兼ねてだろうか、セインガルドとファンダリアを区分けするようにジェノスという街があり、南下すれば首都ハイデルベルグ、更に南下すれば港町スノーフリアが存在する。

 とりあえず、探索は現在地でもある第一大陸から始めるべきだ。

 現地で情報を集めるにしても初めに雪国で頑張るか、気候の安定しているであろうセインガルドに逗留し、路銀を稼ぎつつ一般的で社会的な常識を身につけるべきか。

 第二大陸だの、第三大陸だの、只今鎖国中だとかフィリアに習ったアクアヴェイルとかいう島国密集地域は当然ながら後回しだ。

 さてどうしたものかと悩むうち、本格的に眠くなってきた。

 寝台に潜り込んで考え続ける間にも、夜は更けていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八夜・接触——どちらさま?

 アルメイダ近辺。お初となる守護者=精霊結晶との接触。
 本来デスティニー2にてお目見えする精霊結晶・シルフィスティアさんにお越しいただきました。


 

 

 

 

 

 

 

 

『ねえねえねえ』

 

 そんな声が聞こえた。

 あの時と同じ、妙にあやふやで、それが音かどうかもよくわからない声。

 意識する感覚も同じだった。

 眼を開けるどころか、自分が存在するのかさえ意識できない世界の中で、声が続く。

 

『ねーねーねーねー。返事してよぅ』

 

 どこか子供じみた話し方。フィオレの知る風の意識集合体・シルフに酷似していた。

 

『しる、ふ?』

『あー。やっと応えてくれたぁ』

 

 突如、土から顔を出したばかりの新芽にも似た緑の色を宿した光が、一点に集中する。

 その中から現れたのは、金の髪をふたつにくくる、愛らしい少女の姿だった。

 背には翅脈の透ける四対の薄い羽を備え、まるで物語の中で描かれる気ままな小妖精(ピクシー)にも似た可憐さを有している。

 先ほどの光と同じ色をした小人が着るような可愛らしい衣装をまとい、同色の羽つき帽子をちょこんと載せていた。

 

『あなたは?』

『初めまして! ボク、シルフィスティア! この星の風を司る者なの。よろしくー!』

 

 テンション高い。

 どこか子供じみた、どころではない。子供そのものの話し方である。口調はともかく、見た目も声の質も少女のものだが。

 第三音素意識集合体・シルフが言っていたように、風を司る者ということは存在が風そのものということであり、姿かたちも精神も、自由自在だということだろうか。

 

『そーゆーこと! で、キミが彼女に選ばれた来訪者なの?』

 

 ……!? 

 

『彼女に選ばれた? どういうことですか』

『あ。え~っと……来訪者、だよね? ボクたちと契約する』

 

 気色ばんで問いただせば、シルフィスティアは途端にしどろもどろと話をそらした。

 彼女の存在も疑問の範疇である今、好機である。

 

『誤魔化さないでください。それに彼女というのは、私に接触した存在のことですか』

『あ、う~、え~っと……』

『言いよどむということは、私に隠しておかなければならないことなんですね?』

 

 矢継ぎ早に言葉でたたみかけるフィオレに対し、両手を伸ばして「待った」というポーズをするシルフィスティアに、守護者としての威厳は欠片もない。

 元からそんなものは存在しない、という可能性はさておいて。

 

『隠しておかなきゃいけないことなんてないよぅ。ただ、ボクたちはキミと契約を交わすたび、ひとつだけ質問に答えていいことになってるの。地水火風光闇、すべての守護者と契約を交わして、初めてすべての質問に答える許可が出る。ボクに聞くことは、本当にそれでいいの?』

 

 今度はフィオレが黙る番だった。

 おそらく、彼女と呼ばれたあの思念体がすべての守護者と契約させようと、そんなことを通達したのだろうが……

 つまり彼女は守護者を総括して意思を伝え、それを頷かせるだけの力を持っているということだ。それだけ守護者より高位な存在である可能性が高い。

 

『どうせ今答えることはできないから、考えといてね。ボクはそこから南西の方角にいる。詳細はか……そのレンズで探知できるから。それじゃ!』

「待っ……」

 

 伸ばした手の先は虚空。

 すぐそばの窓から差し込む光は朝日のもの、遠くからは小鳥のさえずり。

 フィオレは寝台に横たわったまま、天井に向かって手を伸ばしていた。

 

「……」

 

 夢にしてはかなりリアル、どころか、少女──シルフィスティアの声が未だ耳の奥に木霊している。

 

『そこから南西の方角』

『レンズで探知』

 

 寝るときも欠かさず巻きつけてある布を外してみた。

 乳白色のレンズは、何を知らせるでもなく沈黙している。

 そこはかとない不安を感じないでもないが、せっかくご招待を受けたのだ。応じない手はない。

 次なる目的地へと旅立つべく、フィオレはシーツを蹴って起き上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 路銀節約のため、ロールパンにチーズというわびしい朝食を齧りつつアルメイダを出立する。

 えんえんと続く美しい砂浜を横目に見ながら、海岸線沿いを南東に下っていけば、やがて大きな街が見えてきた。

 おそらくあれが、ダリルシェイドだ。

 内陸に足を向ければ、地図にはない湖が遠目に見える。

 周囲は見通しのいい草原で、道らしい道はない。

 ただ、車輪の跡と、フィオレの知らない動物の足型と思しき跡がそれなりに見受けられる。辻馬車の類だと思われるが、何の動物を使っているのか、その跡は奇妙な楕円だった。

 地図を片手に、西へ進んでいく。

 やがて正午に差し掛かった頃。巨大な湖の付近にさしかかった、そのとき。

 

「……!」

 

 左手に、奇妙な感覚を覚える。

 人っ気のない湖周囲、手甲を外せば張り付いたレンズはあの黎明の光を放っていた。

 レンズに意識を集中させて、疼きの根源を探れば──北にそびえる山脈が、最も怪しいように感じられた。

 山の天気は変わりやすい。

 どこまで進まされることになるのかはわからないが、慎重に行こうと、フィオレは昼飯代わりの乾パンを口の中に放り込んだ。

 ふもとへ近づくにつれ、疼きはどんどん熱さへと変わっていく。

 ひょっとしたらもう近いのかも、と思っていたフィオレの眼前が、突如として急変した。

 

「!」

『ようこそ、ボクの聖域へ』

 

 ボロボロの小さな橋が、谷底から吹き上げる強風にさらされている。

 先ほどまで山脈のふもとを目指していたはずのフィオレは、いつのまにか山頂付近らしき桟橋の手前に移動していた。

 幻なのか、それとも実際に転移したのか。

 その場にしゃがみこみ、自分の踏みしめる大地に触れて。立ち上がり、不規則に駆け抜ける風に腕を差し伸べ。

 それでフィオレの結論は出た。

 

「なるほど。あなたがここへご招待くださったようですね」

『ちぇ、あんまり驚いてなーい。せっかくサプライズで迎えにきたのにぃ』

「与太話はけっこう。早速お尋ねしますが……あの思念体は歪む世界をどうにかしたい、と言っていましたね。それと私があなた方と契約を交わすことと、どんな関係があるのですか?」

 

 守護者だのなんだの言っていたが、属性を司っている以上フィオレの認識は精霊でしかない。

 ならば彼らの世界のことは、彼ら、あるいはこの世界の人間がどうにかすべきではないのか。

 フィオレの問いに、シルフィスティアはしばし黙りこくり、そして姿を見せた。

 その愛らしい顔の眉間には、見事な皺が寄っている。

 

『……言いたいことはわかってる。世界が歪むとわかっていて、それを正したいと思っているならボクたちがどうにかするべきだ、ってことでしょ?』

 

 首肯するフィオレを見下ろして、それまで己の羽でふわふわ漂っていたシルフィスティアは彼女の眼前へ降り立った。

 目線は、フィオレよりもかなり下だ。

 

『彼女も説明したと思うけど、ボクらは人を通じてしか、この世界に干渉できないの。下手に手を出したら、自然界に働く力の均衡が崩れて大災害が起こっちゃう』

「なら、私である意味は? 私を選定した、その意味は?」

『……それ、質問ふたつめにならない?』

「私が尋ねたのは、あなた方の願いと契約をかわすことの関係です。どうして私でないといけないのか、を尋ねているんです」

 

 かなり無理のあるこじつけで何としても情報を引き出しにかかるフィオレの必死さに、シルフィスティアは「ま、仕方がないか」と割り切った。

 

『キミにしてみれば、聞きたいことなんて山ほどあるだろうし……キミを選定したのはね、他に的確な人間がいなかったからなの』

「的確な人間って、資格が必要なんですか?」

『もちろん! だってさ、変に野心旺盛な人間にボクらの力を使われてみて? この世界、あっという間にめちゃくちゃにされちゃう。聖職者とか、心根が清いだけってのもダメ。体も心も強くなきゃ、ボクらの力を制御しきれないよ』

『それはわかります。でも……私の心根は特別清くないし、強いという評価も疑問だらけなのですが』

 

 実に情けない気持ちで、しかし彼女にとって純然たる事実を告げるフィオレに、シルフィスティアは小さく首を傾けている。

 

『それに関しては、一定の水準に達してる、って考えてくれればいいよ。今のキミには何を言っても無駄そうだし……でも、いくらなんでもそれは過小評価だと思うな』

 

 シルフィスティアの呟きを受けて。後半に、フィオレの興味がひっかかった。

 

「過小評価って、あなたは私が今まで何をしてきたのか、どうやって生きてきたのか、知っているんですか?」

『おっとぉ! それは関係ないよね』

 

 流石に屁理屈をこねるわけにもいかず、黙る。

 シルフィスティアは心なしか勝ち誇ったように、話題を急転換させた。

 

『話に戻るね? 願いと契約のことだけど……ボク達は、歪む定めにあるこの世界をどうにか正したい。その望みを叶えるために、キミを──あえて言い方を悪くするけど、キミを利用する。ボクたちを使役するにふさわしい資格を備えているから。キミなら、きっと事実を見据えてくれるから。その代わり、ボクらは契約の際キミの疑問に答え、以降はキミの力になるよ。何でも言うことを聞く、のは難しいけど。でもボクらは、キミがボクらの願いを叶えてくれると、それだけの力があると確信してるから契約を望むの。キミが何よりも欲しがっている情報をエサにね』

 

 自嘲的な響きを残して沈黙したシルフィスティアに、フィオレは容赦なく皮肉をぶつけている。

 ここまであちらの本音をぶっちゃけられたのだ。ここで建前を抜かすのは精神衛生上よくない。

 

「精霊とも……星の守護者ともあろうものが、随分せせこましい手段を使うんですね。たかだか人間に対して」

『……否定はしないよ。でも、それだけこっちが真剣で、切羽詰まってるんだってことは理解してほしいかな』

 

 その言葉を最後に、沈黙が漂う。

 谷間を行きかう風は激しさを増し、更につり橋を揺らした。

 やがて。口火を切ったのは、フィオレである。

 

「汝らの意に沿う」

 

 うつむきがちだったシルフィスティアの顔が上がる。

 風を司る守護者が見たのは、凛々しく目元を引き締め、誓いの言葉を唱えるフィオレの姿だった。

 

「汝らの願いがため、我にその加護を……我に力が、貸し与えられんことを。願わくば契約が、無事に果たされんことを──」

『その心がある限り、ボクはあなたの友であり続けるよ。あなたに変わらない風の加護があらんことを』

 

 シルフィスティアの差し出された手に合わせて、フィオレは左で握手に応じた。

 重なった手を軸に不可視の力場が発生し、シルフィスティアの姿が除々に薄れていく。

 その姿は光の粒子へと姿を変え、左手に張り付いたレンズに、吸い込まれていった。

 

『契約終了! これからヨロシクね、フィオレ!』

 

 シルフィスティアの調子は、まったく変わっていない。

 ただし彼女が意思を発する際、レンズは美草色に染まっている。

 

『ちなみにボクの本体、この谷底のどこかにあるからボク自身は基本ここから動かないよ。力そのものと幻の姿だけ貸すんで、そこんとこヨロシク!』

『……幾度よろしく、を繰り返せば気が済むんですか』

 

 契約は済んだからもういいだろうと、チャネリング──念話に切り替えた。

 彼女は多少驚いたように沈黙したものの、今度は笑いを含んでいるような声音が聞こえてくる。

 

『……へぇ~、精神感応の応用で念話なんて、やるね。さすがボクらのご主人様! それじゃあ、用事があったらいつでも呼んでね~』

 

 その言葉を皮切りに、景色が一変した。

 気付けばボロボロのつり橋が消え失せ、巨大な山脈が眼前にそびえるふもとに立っている。

 左手のレンズに触れ、手甲で隠してから太陽の位置を見上げれば──思いのほか時間が立っていた。

 このままハーメンツへ行くか、ダリルシェイドへ戻るか。

 地図を眺めて検討することしばし。

 ダリルシェイドより遥か東には、小規模のようだが村がある。

 そこを探索してからハーメンツを経由し雪国へ行こうと、フィオレは来た道を戻り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九夜・運命の出会い——やっっと人間にレベルアップだ

 ダリルシェイド到達。家政婦(メイド)、坊ちゃん+剣。
 黒丸部分はご自由な解釈をどうぞ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽はどんどん傾きつつある。

 沈みゆく太陽が夕陽に成り代わるよりも早く、フィオレはダリルシェイド入りを果たした。

 首都だけあって、神殿やアルメイダとは比べ物にならないほど広く、それだけ行き交う人の数も半端ではない。

 まず宿を探して、それからまともなものを摂ろうとフィオレはうろついていた。

 しかし。

 

「ねえ。俺と一緒にお茶でもどう?」

「すいませんいまいそいでます」

 

 かけられる声の多さが半端ではなかった。

 これまで、目立つ容姿のせいで誘われたことがなかったわけではない。

 それは片目を隠している今も変わらず、神殿でなんちゃって巡礼者に「一緒にお祈りしない?」と言われたこともあれば、アルメイダで地元の若者数人に話題捻出のためか、根掘り葉掘り自分のことを尋ねられもした。

 片目を隠しているのに、彼らは奇妙に思ったりしないのだろうか? 

 好みの男性をうっとり観察……もとい熱い視線を送ったことはあっても、気恥ずかしさが先立って当時積極的に親しくなろうと思わなかったフィオレに、ナンパする人間の思考は理解できなかった。

 眼帯のせいで目立っていること。

 男になりきれていない異装が他人の目にはかなり奇異に映っていること。

 きょろきょろ周囲を見回してるせいで、土地勘のない人間だと露呈しているから絡まれやすいということに、彼女はまだ気付いていない。

 そのとき、目の前に妙ににやけた面の小男が現れた。

 

「!」

 

 咄嗟に回避すれば、舌打ちと共に男はとっとと去っていく。

 これほど大規模な街なら珍しくない、セコい当たり屋といったところだろう。

 すぐに興味を失って立ち去ろうとした、その時。

 

「痛ぃってぇ~!」

 

 凄まじくわざとらしい、野太い悲鳴が聞こえた。

 思わず視線を寄せれば、僅か後方で何やら騒ぎが起きているらしい。

 

「……やめてくださいっ」

 

 間髪入れず女性の悲鳴が聞こえ、迷わず近づいてみる。

 人々が遠巻きにして見守る中心にいたのは、三人の男と一人の女性だった。

 三人の男、は正直どうでもいい。にやけた面、品性のひの字も見当たらない態度、いかにもちんぴらチックな雰囲気はほぼ同一である。

 問題は、三人に絡まれる女性だった。

 フィオレとは段違いの、成熟し且つ楚々とした美女である。

 つぶらな黒い瞳は愛らしく、立ち居振る舞いも可憐で、ただ綺麗なだけの美人よりか魅力的だ。

 瞳と同じ漆黒、ストレートロングの髪はフリルのついた純白のヘッドドレスでまとめられ、その華奢な身を包むのは茄子紺のワンピースにやはり純白のエプロンだった。

 どこからどう見ても、いいトコの家政婦(メイド)さんに見える。

 

「あんだぁ? 人にぶつかっておいて謝りもしねえのかよ、おねえちゃん?」

「いてえ、いてえよ、アニキ……!」

「ああ、こりゃひでえ。骨が折れちまったのか?」

 

 髭面が家政婦(メイド)さんを捕まえ威嚇、小男が肩を抑えてうずくまり、まぶしい頭がそんな小男の様子を見ている。

 こっちでもあっちでも、当たり屋が考えることはそう変わらないんだなと思いつつ。フィオレは人垣を割って彼らに近寄った。

 そんなフィオレに気付いて、髭面が家政婦(メイド)さんの腕を掴んだままじろりと視線を寄越す。

 

「あ? なんだよ。ナンパされにきたのかい?」

「たわごと抜かす頭があるなら、もう帰ってクソして●●ってから寝ろ」

 

 好色でブキミな笑顔を見せられ、フィオレは思わず本音をぶちまげた。

 凄まじく冷静な暴言に、髭面は目をテンにして阿呆のようにフィオレを見ている。

 

「……ではなくて。このイカレポンチが、そんな美女に手ぇ出す前にいっぺん鏡見ろよ」

 

 用意した建前が失せ、またもや本音が垂れ流された。

 そろそろ何を言われているのかに気付いて、顔を真っ赤にし始める髭面を制して、フィオレはどうにか言葉を繕っている。

 

「……でもなくて。明らかに嫌がっているではありませんか。そのイカくせぇ……オホン。けして清潔ではなかろう手を離してあげてください。ダメですよ、そんなステキな恋人がいるのに浮気なんて」

 

 右手で何かを握るような仕草のち、上下に動かした。

 初め何を言われているのかわからなかった髭面は、フィオレの卑猥な仕草で何のことなのかを知ったらしい。

 フィオレの創作でしかない仕草で何のことだかわかるチンピラを褒めればいいのか、哀れむべきか。

 

「ケンカ売ってんのかこのアマっ!」

「当たり前ではありませんか」

 

 明らかに相手をバカにした口調である。髭面は何もかも忘れてフィオレに殴りかかった。

 無論、そんなものをわざわざ受け止めてやる義理はない。

 最小限の動きで避けて、前傾姿勢になったところで足を出す。

 

「うぎゃっ」

 

 すかさず家政婦(メイド)さんを近寄り、有無を言わさず見物人に押し付けた。

 

「あ、あの……」

 

 家政婦(メイド)さんはともかく、見物人の何人かはフィオレの意図したことを察し、彼女を人ごみの中へ保護してくれる。

 そのままフィオレも逃がしてくれそうな見物人に無言で首を横に振り、家政婦(メイド)さんの姿が見えなくなったところできびすを返した。

 先ほどまで肩を抑えて呻いていた小男、その面倒を見ていたつるぴか頭が、盛大に転んだ髭面のもとへ駆け寄っている。

 

「ぼ、ボス、大丈夫ですかい?」

 

 ボスと呼ばれた髭面は、鼻を押さえながらも立ち上がった。

 押さえた手の隙間から、赤いものがぽつぽつ零れている。

 

「……嬢ちゃんよ、鼻の骨が折れちまったじゃねえか。どうしてくれんだよ?」

「勝手に転んだくせによくもそんなことが言えますね」

 

 家政婦(メイド)さんにはおねえちゃんだったのに、フィオレには嬢ちゃん。

 そこはかとなく打ちひしがれながら、フィオレはぬけぬけと屁理屈をはいた。

 本当に鼻の骨が折れているかどうかはさておき、髭面を転ばせたのはまぎれもなくフィオレの仕業。しかし、殴りかかろうといきなり突進をしてきたのは髭面だ。

 その勢いで思い切り地面と熱い接吻しただけのくせに、人のせいにしないでほしい。

 

「人を転ばせておいてなんだその態度は!」

「ひとになぐりかかろーとしてそのたいどはなんだー」

 

 怒鳴り声の屁理屈をかなり棒読みの屁理屈で返され、髭面の額に血管が浮く。

 しかし、彼はもう勢いで行動はしなかった。

 

「ああ痛え。医者にかからなきゃならねえな。でも金がねえんだよな」

「大丈夫。おうちでねていれば時間が治療してくれますよ。きっと」

「なんでそうなるんだよ! 転ばせたてめえが治療費出すに決まってんじゃねえか! わかったらさっさと出すもん出しやがれぇっ!」

 

 それも束の間。

 フィオレの度重なる棒読み攻撃にあっさりと堪忍袋の底を抜いて、フィオレに掴みかかってくる。

 とりあえず。彼女は免罪符を出しておくことにした。

 

「きゃああー」

 

 ゴスッ

 

「ぎえっ!」

 

 のんびりと悲鳴の代名詞を口にしながら、迫る髭面の脛を蹴る。

 怯んだところで「こないでー」と言いつつ、がら空きの顎を掌底で狙う。狙いは違わず、髭面の顎を垂直に撃ち抜いた。

 結果として、髭面は白目を剥いて失神している。

 

「あああ! ボス!」

「何しやがる、このメスガキ!」

 

 今度はガキ呼ばわり。

 腰に差していた大振りのナイフを抜いた小男に対し、フィオレはあえて素手で対峙している。

 

「いやあー」

「へグッ」

 

 ナイフを無茶苦茶に振り回す小男の手首を狙い、上段蹴りを試みた。

 ちょっと狙いが外れて小男の顔面に長靴(ブーツ)の先がめり込んでいるが、ナイフは落としたから結果オーライというやつだろう。

 

「そこまでだ!」

 

 誰かが治安維持部隊の類でも呼んだのか、割と近くで制止の声が聞こえる。

 頃合か、と、フィオレは落ちていた買い物籠を拾って、家政婦(メイド)さんを逃がした辺りへ駆け寄った。

 そのまま人ごみに入り込んで、声を張り上げる。

 

「さっきの! さっきの雄豚三匹に囲まれて立ち往生してた家政婦(メイド)さん!」

「は、はい……」

 

 するすると人を避けながら呼べば、思いの他近くに彼女はいた。

 あんな連中のことで面倒ごとに巻き込まれるのはごめんである。

 フィオレは彼女を招いて、大通りの角をひとつだけ曲がった。

 そこで初めて、家政婦(メイド)さんと向き合う。さらされた恐怖にか、瞳はかなり揺らいでいた。

 

「あ、あの。助けていただいて……」

「これどうぞ」

 

 それなりに膨らんでいる買い物籠を渡す。

 幸いにも口を縛ることが可能なタイプであるため、中身が紛失した危険性は皆無だが、取り落としているにつき損傷している危険性が大だ。

 

「あ、ありがとうございます」

「いいえ。何となく見過ごせなかったもので」

 

 頭を下げる家政婦(メイド)さんに中身のチェックを促し、興味にかられて籠の中をのぞこうとした、その時。

 

「……貴様。マリアンに何をしている」

 

 えらく殺気立った低い声。

 発生源を見やれば、そこには少年と思しき人影が一人、立っていた。

 柔らかそうな黒髪を品良く整え、露草色に金地で縁取られた上着をまとった少女に見紛う美少年である。

 事実、フィオレはその低い声さえなければ少女だと思っていただろう。

 落ち着いた朱鷺色のマントに、さぞやほっそりしているだろう両足を覆うは白のズポン。

 細腰に巻きついた幅広の白ベルトには、麗々しい曲刀が下げられている。

 それだけなら、まだ、わかるのだが。

 少年が紫闇の瞳を吊り上げ、フィオレを睨んでいるのは何故だろう。

 マリアン、と呼ばれた女性に視線をやれば、彼女ははっ、と我に返った様子で少年に訴えでた。

 

「リオン様、これは」

「マリアンは黙っていてくれ」

 

 しかしすげなく訴えは却下される。

 とりあえず、家政婦(メイド)さんの名がマリアンで、この少年と知り合い……というか、主従関係じゃなかろうかというのは推測できた。

 

「でも……」

「黙って下がっているんだ」

 

 ぴしゃりと言いつけられ、マリアンは素直に引っ込んでいる。

 ちょっと待てい、と突っ込みたいが、それどころではない。

 

「ええと。私は無実です」

「何かやらかした奴はみんなそう言うんだ」

 

 マリアンには何もしていないことを主張してみるも、鼻で笑われてしまっている。

 そこで少年は、怪訝そうに眉をしかめた。

 

「何だ貴様は。女のくせに男装しているのか」

「男装? していたつもりはありませんが、男に見えますか?」

「まったく見えないな」

『むしろちょっと凛々しくて、可愛い感じがしますよねえ』

「!」

 

 鼓膜を震わせず、声が聞こえる。

 脳裏で声が聞こえた──チャネリング現象発生にフィオレは敏感に反応していた。

 声質は、少々軽めの優男風か。

 フィオレの動揺などまったく気付いていない様子で、少年は話を続けている。

 

「そんなことはどうでもいい。雪色の髪に、白布の眼帯……野次馬の言っていた、奇妙な扮装の小娘とは貴様のことだな」

「あなたのような不躾小僧に小娘呼ばわりされる謂れはありません」

「なんだと……?」

 

 小僧、という単語に反応したのか。

 少年はみなぎる敵意に殺気まで添えて、なんと剣の柄に手をかけた。

 

「先程街中で揉め事を起こしたらしいな。どういうことなのか説明してもらうぞ、来い」

「行く気がしません。任意同行なら拒否します……あれ? そういえば、この街では子供を警備隊に雇ってるんですか?」

 

 ふと思い立ち、首をめぐらせてマリアンを見やる。

 彼女が答えるより早く、少年は実力行使にうって出た。

 

「減らず口を……連行に応じないのなら、取り押さえるまで!」

 

 鋼の擦れ合う音が響く。

 遠巻きに見る民衆のざわめきを受けながら、少年は優美な曲刀を構え、フィオレに斬りかかった。

 フィオレの視線はマリアンに向いており、リオンを一瞥する気配も無い。

 反応しきれていないのか、それとも──

 その時。鋼が鋼に触れる、涼やかな音が響いた。

 

「もしもし? えっと……マリアン、さん?」

 

 フィオレは相変わらず彼女のみを見ている。

 マリアンは驚いたような顔を浮かべ、フィオレの疑問に答えた。

 彼女の視線の先には、顔をそらしたまま黒刃の短刀で少年の剣先を押さえているフィオレの姿がある。

 

「リ、リオン様はセインガルド王国客員剣士であらせられます。それで、市街の見回りを……」

「客員、というと、お抱えですか。それも腕を見込まれての……なら、油断はしないようにしましょうか」

「っ! このっ!」

 

 ふんふん、と頷くその傍で、少年は幾度もの刺突を試みた。

 しかし、短刀の切っ先にことごとくあしらわれ、歯がたたない。

 フィオレが見ているのは彼女から左側。右目は眼帯で塞がれているのだから、死角であるはずなのだ。

 それなのに、その特殊な防御に髪一筋ほどの隙もない。

 不意にフィオレが、ひとつしかさらしていない瞳にリオンを映す。

 同時に短刀を強く押し込まれ、剣先がぴくりとも動かなくなった。

 そこで初めて、フィオレは少年の剣を目にしている。

 曲刀(カトラス)の刃に細剣(レイピア)の柄を合わせたような、宝剣と称しても差し支えない優美な剣だった。

 刀身の付け根に丸い飾りが張り付いている様子から見て、本来は宝剣だったかもしれないが……刀身はしっかりと実戦向きのように見える。

 

「……綺麗な剣ですね」

『そーお? ありがと~って、聞こえるわけ……』

「作成者ですか? 剣を褒められて礼を言うなんて」

『!』

 

 この近くにいるのか、絶句から動揺がくっきりと伝わってきた。

 ふと年若い剣士を見やれば、彼もまた驚いたようにフィオレを凝視している。

 

『坊ちゃん、この子……!』

「お前、シャルの声が聞こえるのか!?」

 

 ふと、リオンの持つ剣を見やれば、鞘に納まりきらない丸い一部分がゆらゆらと明滅していた。

 よもや──この剣が、念話を発しているのだろうか。

 

「ああよかった。幻聴では、ないのですね」

 

 内心の動揺を押し殺し、笑みすら浮かべてみせる。

 一方少年はといえば、更に表情を険しくしていた。

 

「資質持ちとなれば、ますます逃すわけにはいかなくなったな……」

「シシツ?」

「答える義理はない!」

 

 多少は落ち着いたのか、先ほどよりかキレのある刺突を、懐刀の先端で抑えることに成功する。

 しかし少年は、引き戻すことをせずそのまま停止した。

 

「あのう。何をやる気になっているのか知りませんが、ここはひとつ穏便に……」

『……そそり立つは剣の山。串刺しとなりて己が罪を知れ!』

「グレイブ!」

 

 説得を試みるも、少年の一声でかき消される。

 リオンの持つ剣、先ほど明滅を見せていた部分がカシャリ、と開き、中から日車草色の球面が顔を出した。

 まるでフィオレの左手に張り付いた、レンズのよう……

 

「!」

 

 整備された石畳が隆起する気配に、跳んで後退する。

 石畳を押し退けて出現した土くれの槍が、たった今フィオレの立っていた場所を貫き、役目は果たしたと言わんばかりに土へ戻った。

 盛大な土煙が視界を遮る、その一瞬。土煙をくぐるようにリオンが眼前に現れる。

 曲刀が翻り、それはそのままフィオレへ──

 意識している暇はまったくなかった。

 刃が迫るのを感じながら、体勢を低くし、短刀を握りなおして。

 

「っ!」

 

 短い悲鳴と共に、少年は石畳に転がった。

 

『うわ、坊ちゃん! しっかりしてください、坊ちゃあん!』

 

 切羽詰った声が、フィオレの脳裏に響き渡る。

 そこで彼女は、やっと何が起こったのかを把握した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十夜「あああっ! 私はこんな、いたいけな少年になんてことを!」

 ダリルシェイド往来にて、客員剣士様との攻防(ファーストコンタクト)。全国のリオンファンごめんね、刺さないでね。
 まだ原作始まってもいないからレベルは低いし、現時点で別作品のラスボスとタメ張れる女と同等に競るのは無理あるんだわきっと。


 

 

 

 

 

 

 

 いたいけな少年が、いきなり斬りかかってくるわけがない。

 もちろんフィオレは、そんなことは言わなかった。

 

「リオン様っ!」

 

 代わりに、少年からマリアンと呼ばれていた家政婦(メイド)が人垣を作っていた二人に駆け寄ってくる。

 しかし彼女は倒れ伏した少年に縋ることはなく、なぜかフィオレの元へ来た。

 

「何をしているんですか! 早く止血を……!」

「止血って、どこを?」

 

 え? と疑問符を浮かべるマリアンに対し、一見無造作ともとれる仕草で少年に歩み寄る。その実、不用意に間合いへは踏み込まない。

 彼は今現在失神している。それは断言できるが、いつ目を覚ますのかはわからないのだ。至近距離になればなるほど、先ほどの、譜術に酷似したモノを使われたら回避がしにくくなる。

 力の抜けている手から曲刀を引き剥がし、鞘を取り上げて収めた。一瞬見えた日車草色の球面はシャッターのようなものに覆われ、今は何の反応もない。

 それをマリアンに投げ渡してから、フィオレはようやく少年の体に触れた。

 首の後ろを掴んで起こし、ぐったりと脱力した体をフィオレ自身にもたれかかせる。

 マリアンは、つぶらな瞳を更に見張って独り言のような呟きを零した。

 

「刺されて、ない……?」

「刃物は使ってませんから」

 

 咄嗟のことでまったく加減はしていないが、あの時フィオレは懐刀の柄で少年の鳩尾に突きを入れている。他人の目からは、フィオレがリオンの腹を刺したように見えただろうが。

 主本人かあるいはその息子か、とにかく彼が無傷だったことに、ほっと息をつく彼女をほったらかし、フィオレは少年に覚醒を促した。

 

「大丈夫ですか? もしもーし!」

 

 頭を打った、あるいは頭皮に傷がないかを確認しつつも声をかける。

 しかしリオンは、それらしい反応を返さない。珍しいことに、きっちり当身が効いてしまったらしい。

 一般人ならともかくとして、戦闘を心得る人間ならば大概、外部から刺激を受ければ目を覚ますものだが……

 目覚める気配のない少年にうっすらとだがクマが浮かんでいるのに気付いて、寝不足だったのかもしれないと勝手に思い込んだ。

 

「起きませんね。水でも浴びせますか」

「ちょっと待ってください、それは……!」

「わかりました。では港が近くにありましたね。手っ取り早く海に投げ込みましょう」

「それはもっとダメです!」

『それダメ、却下! 可愛い顔して何エグいこと企んでんのさ!?』

 

 今度はダブルで駄目出しをくらう。

 マリアンが音ではない声に答えないのは、いつものことなのかあるいは聞こえていないのか。

 ……甲乙つけがたい。

 

「仕方がありませんね。いくら何でも素っ裸にすれば目覚めないわけが」

「ちょっとー!」

『うっひょー! 坊ちゃん早く起きて、見知らぬ女の子に往来で辱められちゃうよー♪』

 

 何故そこではしゃぐ、謎の声。

 冗談だとわかっているから、であってほしいところである。

 念話は無視して、フィオレは涙目で猛抗議するマリアンに向き直った。

 

「じゃあどうしろというのですか」

 

 代打案を促すフィオレに、マリアンは軽く目をこすって深々と頭を下げた。

 

「その前に、我が主人の非礼をお許しください。最近寝不足で、少し気が立っていたご様子で……」

「あなたに謝られても仕方がありません。それで?」

「ひいては、その……お屋敷までご同行願いたいのですが」

 

 そうやって丁寧に言われれば、彼の始末……もとい、身元預けも兼ねて、フィオレに断る理由はないわけで。華奢な少年を背に負い、人々のざわめきを尻目に、二人はこの場を後にした。

 そしてたどり着いたのが王城だったら、流石のフィオレも肝を冷やしていたことだろう。客員剣士だけあって、少年の主が国王そのものであってもけして不思議ではないからだ。

 幸いなことにマリアンの先導で行き着いた先は、閑静な高級住宅地の中心であって、王城そのものではない。

 ただし、その規模は周囲と比較しても呆れるほどに広大だった。

 敷地面積そのものが半端でないらしく、周囲をぐるりと自然な目隠し──人工的な林が覆っている。

 その林がなくなったと思ったら今度は見上げるほどに高い壁、そして今、マリアンはやはり巨大な門を護る二人の警備員に話を通していた。

 当初、リオンを背負うフィオレはずいぶん奇異の目で見られているが、マリアンの話が通ったらしい。

 マリアンの招きに応じて、フィオレは入門が許された。そして中に足を踏み入れて、なぜか望郷の思いに駆られる。

 規模はどうだったか、よく覚えていない。

 しかしこの広大な庭、丹念に手入れされた芝生、庭師によって華やかに彩られた花壇、そして中央にでんと構える屋敷など、それらの光景は在りし日のガルディオス邸を彷彿とさせたのだ。

 

「あ、あの?」

『そういえば、名前聞いてないや。ねえねえお嬢さん、名前教えて~?』

 

 お嬢さんではないにつき、答えられない。そして名前を尋ねるときは先に名乗れ。

 

 立ち止まったのも束の間、声を無視してすぐに彼女の傍へと歩む。

 マリアンは正面玄関の扉を開き、フィオレの到着を待っていた。

 

「ところで、こちらはどこのどなたのお住まいですか?」

「ここはですね……」

「オベロン社総帥、ヒューゴ・ジルクリスト様のお屋敷じゃよ」

 

 中に入ろうとして立ち塞がっていたのは、ふさふさした白髪に同じ髪質の眉が特徴的な執事(バトラー)風の男性だった。

 見た目や口調と比例してその背筋はしゃんとしており、よくよく見れば老齢特有の皺の量も少ない。作り物か生まれつきか、柔和な面持ちには愛嬌がある、といえよう。

 フィオレのように見た目だけ若いのか、それとも老けて見えるだけか。

 

「オベロン社……って、レンズ製品の」

「その通りです。ようこそ、お客人。儂はこのお屋敷で執事たちの長をしております、シャイン・レンブラントと申します」

「……申し遅れました。フィオレです」

 

 進み出てきた警備員(ガードマン)にリオンの身柄を引き渡し、応接間に通され、待たされることしばし。

 ただし、出された茶がすっかり冷め切り、夕日が沈みきった現在に至るまでの時間がしばしか否か、判断に迷うところである。

 当初こそふかふかの長椅子に大人しく座っていたフィオレだったが、だんだんしびれを切らして今や長椅子にだらしなく寝転がっていた。

 謝罪とかもういいから、こっそり抜け出して宿を探したほうがいいかな、と検討し始めたそのとき。

 扉の外で足音がした。直後、規則正しいノックに引き続き、純銀製の取っ手が鳴る。

 そのときにはもう、フィオレは素早く起き上がってクッションの乱れも直していた。

 現れたのは、あのレンブラントとかいう執事長、マリアン、そして──

 

「お待たせした。彼女たちから事情を聞いていたのでな」

 

 藍鼠色を基調とした、折り目もぴしりとしたオーダーメイドのスーツをまとう壮年の男性だった。癖のある漆黒の髪を長めに伸ばし、細く切れ長の瞳が楕円の眼鏡の奥でフィオレを見ている。

 貫禄を漂わせる髭はともかくとして、その痩躯や特徴はどこぞの誰かを思い起こさせた。

 おそらく、彼は。

 

「オベロン社総帥を務める、ヒューゴ・ジルクリストだ」

 

 自己紹介を受けて、フィオレは自発的に長椅子から立ち上がった。

 

「フィオレです。フィオレンシア・ネビリム。ただの旅人」

「ふむ……? まあ、楽にしてくれ」

 

 促され、再び長椅子に腰を下ろす。

 その正面にヒューゴが座り、二人が傍に控えたところで彼が口を開いた。

 

「お待たせした上に申し訳ないが、何があったのかを君の立場から説明してほしい」

 

 このこと自体は、あまり不思議なことではない。物事というのは人物によって随分違ってくるものだ。

 しかし、フィオレはそれをあまり歓迎していない。

 

「あまり、お子さんの悪口を親御さんに言いたくないのですが」

「フィオレンシアさん。リオン様は、ヒューゴ様直属の部下で……」

「そうですか。じゃあ、そうなんでしょうね」

 

 マリアンの言葉を受けて、あっさりと前言を翻す。

 そう言い張るなら、別に事実を暴こうとは思わない。

 

「えーとですね……」

「待ってくれ」

 

 何があったのかを話そうとして、他ならぬヒューゴ氏自身に制止される。

 

「何故、リオンが私の息子だと思うのかね?」

「年齢的に辻褄は合い、特徴も親子関係を否定するほどでもなく、あと彼が若すぎるから、です」

 

 興味をひいてしまったのなら、殊更隠しておく理由はない。

 フィオレは端的に自分の推測を口にした。

 

「成長期の男の子は著しく体格が変わるもの。どれだけの素質があろうと、幼い頃から訓練を叩き込んでも、体の変化に実力があろうとなかろうとついていけなくなります。従って、彼が客員剣士になったのはごく最近のことではないかと推測できるんです」

 

 かく言うフィオレも、成長期において体に訪れる変化で結構な苦労を背負った記憶がある。

 急に脂肪がつきやすくなるわ、月ごとのお客様に悩まされもしたし、変に情緒不安定にもなった。

 体験こそしていないが、少年の成長期による不安定期の事例を目にしたことがある。男性とて、成長期の変化がないわけではない。

 女性ほど目に見えて劇的なものはなかったが、それはフィオレがそう思わなかっただけなのかもしれないのだ。

 

「客員剣士は本来望まれてなるもので、募集するものじゃない。若ければ若いほど国王やその付近の方々たちに、実力を見せなければならないのでしょう。所縁……国王やその付近の方々とある程度の関係を持っていなければ、そんなことはできません。国内外唯一レンズを扱う大企業の総帥として、あなたはどれほどの人脈をお持ちなのでしょうね?」

 

 時折、ちらりとヒューゴ氏の表情を見やれば、特にこれといった感情は浮かべていない。

 興味津々といった様子で、フィオレの話に聞き入っている。

 取るに足らない推測を聞くだけ聞いて、あとで否定し倒す腹積もりか。それとも、面白い創作だと純粋に楽しんでいるのか。

 

「彼を客員剣士とするために、私はあなたがそのシナリオを組んだものと思っています。彼が幼少の頃から、今に至るまで。彼は限りなく宝石に近い原石のようですから、お披露目さえすれば問題はなさそうですし」

「その際……他の人間に紹介された彼を、私が雇っているだけかもしれないぞ」

「彼が違う人間に紹介されたのなら、何故その人間が彼を雇わないのですか? それなりの地位を持ち、おそらく国王の信頼を得るためにしたことでしょうに。貴重な戦力を、国王より総帥のあなたにコネを作るためにあえて流出したと? おかしな話ですね」

 

 否定要素を持ち出してきたため、遠慮なく論破させてもらう。

 異論はないらしく、反論はされなかったが、代わりにこんな質問が飛んできた。

 

「……まだ、息子だと思った理由を話してくれないのかな?」

「あなたほどの地位を持つ方が、家族でもない幼子を屋敷に住まわせれば、あなたの人格が疑われてしまうのでは? 見目麗しい少年ですし」

 

 少々下賎な話の内容に、免疫がないのか控える二人がかすかに表情を歪ませる。

 当の本人はといえば、わずかに沈黙を保ってどうにか質問をひねり出した。

 

「ふむ。それならば何故、マリアンは『リオンは私の部下』だと訂正したのかね? 君の推測と矛盾するが」

「人脈、裏取引、親の七光り……いわゆる贔屓ではないかという嫌疑から彼を護るためではないかと。そうなると、今の彼の名も本来のものとは違ったりするのかもですねー」

 

 そこで言葉を切るも、ヒューゴ氏に反応はない。

 そろそろ話をもとに戻そうと、フィオレは話のシメに入った。

 

「まあ、これらはすべて私の勝手な推測です。真実はどうあれ、お気に触ったことがあるなら、謝らせてください」

「いや……謝る必要はない。ほぼ事実だからね」

 

 これにはフィオレが拍子抜けしている。

 彼は思いのほか、あっさりと事実関係を認めた。

 

「……意外です。お偉い方であればあるほど、都合の悪いことはけして認めないもので、認めるべきではないものですが」

「そこまで理論立てて推測されてしまったら、もう見事だと脱帽するしかない。君の予想は概ね事実と変わらないのだよ。『リオンが客員剣士である』その情報だけでそこまで考えが及ぶとは」

「そんなことはありません。オベロン社がどんな大企業か、あなたがどこの誰なのかもわかっていましたし」

「話の流れとして、君がその情報を知るのは必然だったと思うよ」

 

 そして彼は何事もなかったかのように、当初の話の続きを促している。

 ……早まったかもしれない。

 フィオレから見た事起こった事の次第を説明しながら、内心で焦燥がじりじりと燻っていた。

 思わず素直に自分の思ったことを話してしまったが、もし彼らがこの事実の隠匿を重要視していたとしたら? 

 流れの旅人を人知れず消すなど、彼にとってそれほど造作もないことだろう。本当に人脈は豊富なようだし。

 とはいえ、別に後悔があるわけではない。喧嘩を売られたら、買ってやればいいのだ。

 護るものがない以上、好きなだけ暴れることはできる。

 僅かに、ほんの少しだけそれを寂しく思いながらも、フィオレの説明は続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十一夜——寄る辺なき旅路の終わり

 ジルクリスト邸にて。当てのない放浪に、早くも終止符が打たれる。
 精霊結晶は「swordian saga」における造語、正しくは具現結晶です。



 

 

 

 

 

 

 

 

「この度は息子が多大な迷惑をかけた」

 

 事の次第の説明を終えた後に、ヒューゴ氏は潔く頭を下げた。

 その姿に、フィオレの脳裏ではやはり警鐘が鳴り響いている。

 おかしい。お偉いさんというのはもう少しプライドというものがあるはずだ。一体、何の陰謀が蠢いているというのか──! 

 ふと窓の外を見やれば、夜闇の向こうに輝く星の瞬きが見え隠れしている。

 これで用事は終わったかな、とフィオレは立ち上がった。

 

「それでは、私はこれで失礼します。まだ今夜の宿を決めていないので、そろそろ探しに行かないと」

「ならば、部屋を用意させよう。今日はここを宿だと思ってはくれないか」

 

 どんだけ高級な宿なんだ。フィオレは心の中でそう突っ込んだ。

 

「じゃ、今懐が寂しいので踏み倒しますね」

「いやいや、もちろんそんなつもりはない。詫びも兼ねて、夕餉を振舞わせてほしいと思っていたところだ」

 

 咄嗟に断る理由が出ない。

 口封じされるのではないかという疑念に支配されている今のフィオレに、角の立たない辞退の仕方など、思い浮かぶわけもなく。

 結果、受け入れてしまったところで控えめなノックが聞こえる。

 応対に出たマリアンが、何かしら伝えに来たらしいメイドと、一言二言交わし合って。

 彼女はくるりとこちらを向いた。

 

「晩餐の準備が整ったそうです」

 

 最期の晩餐、という単語が脳裏でぺこりとお辞儀する。

 しかし誰もそんなことに気付くはずもなく、ヒューゴ氏は嬉々として立ち上がった。

 

「そうか。ではフィオレ君、広間へ案内しよう」

「は、はあ……」

 

 この屋敷の主直々にエスコートされ、フィオレは広間とやらへ連れ込まれた。

 ──フィオレの体には、毒も薬も効かない。

 正確には「効きにくい」のであって、致死量ともなれば多少は影響を受けるし、効かないことを前提に作られたものなら、それなりの効果を示す。

 それでもこれまで、完璧に動けなくなったり命の危険性を感じたことはないが、それはあくまでフィオレと名乗る以前の話。今も同じ状態なのかどうかは、さっぱりわからない。

 確かにフィオレは、神殿における薬草の治療でまったく効果が現れず、仕方がないからこっそりと譜歌で癒したことがあるのだが……ちなみにそのとき、あまりにも急激に治ったために「アタモニ神のご加護」がどうとか、フィリアが吹聴したのはいい思い出だ。

 とか何とか、彼女が現実逃避している間にも広いテーブルの上に様々な料理が載せられていく。

 ふと我に返ったそのときには、すでに準備は済んでいた。

 神殿での質素な食事とは一線を画した、どれもこれも明らかに玄人の料理ばかりである。きっとお抱えの料理人がいるに違いない。

 なかなか食事に手をつけようとしないフィオレを、戸惑っているとでも勘違いしたらしいヒューゴ氏がフォローに入る。

 

「まあ、そう固くならずに。あまり格式に気を取られず、自由にやってほしい」

 

 こう言われてしまえば、いつまでも戸惑っているわけにはいかない。

 

「では、ご厚意に甘えて。お先に」

 

 略式の印を胸の前で切り、両手を組んで短く命への感謝を呟く。神殿で暮らしていて、いつの間にかつけてしまった食前の癖だった。

 食器同士を合わせないよう、食器と皿をあまり接触させないように白身魚のソテーを切り分ける。

 常に背筋はきっちり伸ばしたまま、咀嚼はあくまで優雅に、がっつくなぞもっての他。

 こちらもまた、主家と機会があった際に粗相がないように、と幼少時に叩き込まれたテーブルマナーがしっかりと反映されていた。

 なんだかやるせなくなりつつも、ソテーはかなり美味しい。

 悲しいかな、マナーを守り続ける姿勢のまま食事を続けていると、視線を感じた。

 最後の一切れを飲み込んでから顔を上げれば、どこか驚いた様子のヒューゴ氏。

 そしてフィオレから左の位置には目を見張っている少年──

 

「って、いたんですかリオンとかいう客員剣士」

「……やっと気付いたのか」

 

 少年は明らかに蔑む調子で鼻を鳴らした。

 理由はわかる。自分を負かした人間と食事を共にするのは、かなり気分が悪かろう。それでも腹が減るのは健康な証拠だ。

 リオンのことはさておき、フィオレは正面を向いた。

 

「ヒューゴさん。私は何か粗相でも働きましたか?」

「いや、そんなことはない。思った以上に礼儀作法に精通していると、感心してしまったよ」

「同感だ。ところでお前、どこの家出少女なんだ」

 

 横合いから割り込んだ問いに、フィオレは思わず顔をしかめている。

 背筋を伸ばしたその状態から、首だけをギギギ、とリオンとかいうクソガキ……もといオベロン社御曹司に向けた。

 

「イエデ、ショウジョ?」

「図星か? 声が震えているぞ。どこぞの名家でもなければ、娘にそんな礼儀作法を教えはしないだろう」

 

 言いたいことはわかる。わかる、のだが……

 

「あの、あなたまさか、私がどこかの貴族令嬢だとでも思っているんですか?」

「その可能性もなくはない、と思っただけだ」

 

 大ハズレである。ただ、そんないい身分の人間たちと長く付き合ってきただけだ。

 とある貴族に騎士として仕え、さる王家に侍女として仕えていた経験があるために、礼儀作法自体は見苦しくない程度に習得しているのだが……

 そんなことをバカ正直に話すわけにはいかない。

 

「えーと、これは、ほら。見よう見まねというやつです」

「お前はヒューゴ様に促されて初めに手をつけたんだろうが。どうやって僕たちの真似をするんだ」

「そうではなくて。ほら、庶民の娘が奉公に出て、家政婦(メイド)として上流社会の礼儀作法を垣間見ることくらいはありえるでしょう」

「つまりお前は奉公に出たことがある、ということか?」

 

 そのくらい察しろよ。このニブチンが。

 などという暴言を「そう思ってくださって結構です」と切り返し、こぞ……お坊ちゃんを黙らせる。

 その間に、フィオレはポテトグラタンに手をつけた。

 えぐみがカケラもない、ほこほことしたジャガイモがホワイトソースに絡んで、微笑が浮かんでくるほど美味しい。

 やはりここでも食器と皿をぶつけないよう慎重に、しかし少しだけペースを上げて食事を再開していると、ふとヒューゴ氏から声がかかった。

 

「君は、アタモニ教の信者なのか?」

「いいえ、違います。先ほどのあれは、神殿でお世話になっていたとき、通例だった食前の挨拶みたいなもので」

「神殿というと、ストレイライズのことかな? アルメイダの東にある」

「はい。少し前まで、そこでお世話になっていました」

 

 ふむ、とひとつ頷く。

 そして彼は今現在、フィオレが何故旅の身であるのかの説明を求めてきた。

 どこからどこまで話すべきか、一呼吸のうちにそれを構成して。

 余計なことは言わない、あくまで流れに沿うことにする。あとは、ほんの少し、望みを混ぜて。

 

「ヒューゴさんは、星の守護者なる存在をご存知ですか?」

 

 ナプキンで口元を拭い、食器を小休止サインの位置に置いて話し始める。

 その様子を見て長くなるとでも思ったのか、リオンはそのまま食事を続け、ヒューゴ氏は同じように食器を小休止の位置に置いた。

 

「星の守護者というと……地水火風光闇、各属性を司り自然界を統べる者たちのことかな。俗に精霊結晶と呼ばれてはいるが、存在が確認されたことはない」

「私は彼らを、彼らの聖域を探しているのです。ダリルシェイドに来たのは、守護者に関する情報がほしくて」

「……?」

 

 想像通り、ヒューゴ氏は不思議そうに疑問を口にしている。

 

「ストレイライズ神殿にいたのなら、知識の塔のことを知っているはずだ。なぜそこで探そうとしないのだ?」

「そのことを調べる前に、出されてしまいましてね。神殿の近くに倒れていた得体の知れない記憶障害者を、いつまでも世話することはできないらしいです」

 

 記憶障害、という単語に、ヒューゴ氏はおろかリオンも興味を惹かれたらしい。あえて気付かぬ振りで、言葉を続けた。

 

「守護者のことは神殿で知りました。何でも、誓いを胸にすべての守護者と契約を結ぶことができれば、ひとつの望みが叶うのだと」

「……それは、初耳だな」

「事実か、あるいはただの伝説か。行く場所も帰る場所もない以上、記憶探しに伝説の探求も一興かと思っています」

 

 手を伸ばして色彩も鮮やかなクリスタルグラスを取り、わずかに体を横にして口元を隠しながら一口水を飲む。

 疑念のこもった視線を寄越してくる少年に、フィオレはあえて向き直った。

 

「言いたいことは想像できます。記憶障害なら奉公の話も、ただでさえ薄い信憑性が更に薄くなった、と言いたいのでしょう?」

「その通りだ。虚言を認める気になったのか?」

「私が神殿付近で発見されてから、一ヶ月と少し経過しています。その間に何も思い出さなかったわけではありません」

 

 多少の疑念はあるものの、黙ったところを見ると納得はしたらしい。

 再びヒューゴ氏を見やれば、彼は何か思うことがあるらしく、沈黙している。

 駄目でもともと、空振り上等、フィオレはあえて情報の提供を望んだ。

 

「どんな小さなことでもかまいません。守護者について、何か知っていることがおありならご教授願いたく思います」

 

 癖なのだろうか。

 顎を軽く撫でながら沈黙を貫いていたヒューゴ氏は、思いもよらない返答を寄越した。

 

「私はこれでも、考古学に精通していてね。その手の資料なら、この屋敷にも大量に保管されている」

「そ、そうなのですか?」

 

 これには、手がかり発見の喜びより驚愕と戸惑いが先立った。

 大企業総帥が、考古学に精通。

 趣味で考古学に従事する人間に資金援助してるならわかるが、資料を自宅に保管してしまうほど、入れ込んでいるということだろうか。

 フィオレの心情を、何となく察知したらしい。ヒューゴ氏は微苦笑を零して解説してくれた。

 

「こう見えても、オベロン社を立ち上げるまでは凡庸な考古学者でね。古代文明研究がため、世界各地に赴いては発掘調査を繰り返したものだよ」

 

 あの頃は若かった、と言わんばかりにありし日の思い出を語るヒューゴ氏は、かなり苦労をしてきたらしい。懐かしげな表情を浮かべつつも、うっすら涙目になっているのは気のせいだろうか。

 ふと我に返ったらしい彼は、話をもとに戻した。

 

「閲覧を許可して差し上げたいが、ひとつ条件を呑んでもらいたい」

「……条、件?」

 

 その単語から、いやにキナ臭い匂いがするのは気のせいか。

 条件とやらを聞こうかどうしようか迷って、フィオレはヘタれることにした。

 君子危うきに近寄らずとはよく言ったものである。

 

「……いえ。遠慮しておきます。偉い人が庶民に優しい時は、大概下心があって……」

「その条件というのはだね」

「人の話を聞いてくださいよ」

「私の部下になってもらいたいのだよ」

 

 彼がその一言を紡いだ瞬間。

 彼女の時は、完全に凍結した。

 

 フィオレは、彼が何を言ったのかまず理解できなかった。

 ……コノヒトイマナニイッタ? 

 たっぷりと沈黙と凍結を続けて。

 フィオレはぐるんっ! と首をめぐらせ、リオンを見た。

 彼はスープ皿にスプーンを突っ込んだまま停止している。

 

「りっ、リオン! お父様がご乱心ですよ、早くお医者様を!」

「面と向かって失礼なことを抜かすな! それに、僕はヒューゴ様の部下であって息子じゃない」

「ああ、そういやそうでしたね。えーと、上司が得体の知れない輩を、あなたの部下だか同僚だかに据えようとしてますよ。異論を唱えましょうよ、さあ」

「なんで僕をけしかけようとするんだ。貴様が条件とやらを呑まなければいいだけの話だろう!」

「……」

 

 正直、資料とやらを見たい気持ちはあったが、背に腹は変えられない。今しがた話した目的がある以上、ひとつの場所に留まり続けることは不可能だ。

 それに──フィオレと名乗る今、誰かを主として奉りたくなんかない。

 

「その手がありましたね。申し訳ありませんが、その条件では涙を呑んでご辞退申し上げます」

「まあ、待ってくれ。まずは私の話を聞いてもらいたい」

 

 ここで、フィオレはある違和感に気づいた。

 ヒューゴ氏はリオンと直接話をしていない。それどころか、ほとんど彼を見ていない。

 部下に対しての態度を取ってるとも思えなくもないが、そもそも部下と同じテーブルについたりするだろうか。

 リオンはフィオレが事実を知らないと思っているから、万人に対しての設定を言っただけで、流石にこの屋敷の使用人たちは事実を知っているだろう。

 でなければ、マリアンが慌てて訂正したりはしない。

 

「フィオレ君。過程はどうあれ、結果的に君はこのダリルシェイドの往来でリオンと交戦し、勝利を収めているね」

 

 寸分も狂いない事実である。

 フィオレは頷き、一言添える程度にしか発言できない。

 

「偶然です」

「そう謙遜しないでくれ。野次馬たちから多数の情報が寄せられている。それによれば、リオンを片手であしらっていたとか」

「あしらったのではなくて身を護っていただけなのですが」

 

 あれだけ時間がかかっていたのは、事情を聞く傍ら自分の手の者に情報を集めさせていたのか。

 可能性は限りなく高かった。

 

「偶然であろうとなかろうと、ただの旅人に陛下も認めた客員剣士が敗れたとなれば様々な波紋が生じるのだよ。少なくとも、客員剣士の地位を与えた陛下が黙っていない。君も言った通り、リオンは早熟だ。客員剣士として正式な地位を拝命した際も今も、一部の人間に反感を買っている。ただ一度の敗北で失くすものは多い」

「……理解はできます。それと私がヒューゴさんの部下になるのと、何の関係が?」

「君をリオンの剣術指南役として招いたことにしたいのだよ」

 

 確かにそれならば、フィオレがリオンを負かしたところでさほど違和感はない。

 それに伴う事情などは、おそらく適当にでっち上げ……事実を捏造……否、彼が仮定のシナリオを創作するのだろう。

 黙るフィオレに、ヒューゴ氏は続ける。

 

「無論それに伴って、君はこのダリルシェイドに逗留し続けなければならない。それなりの保障はさせてもらうつもりだ。もし守護者の情報を得て現地へ赴きたいと望むなら、全力でサポートさせてもらおう」

「……私を剣術指南役に据えたからというだけで、セインガルド王は納得されるのですか?」

「無理だろうな」

 

 ヒューゴ氏は首を横に振った。

 

「事実関係の確認のため、君は王城に召喚されるだろう。リオンと同じように、君も若い。おそらく試されることになる」

「そこで私が、あっさりとあなたの期待を裏切る危険性を考えないのですか」

 

 皮肉たっぷりに揶揄してみせるも、彼は小揺るぎもしていない。

 自分の目に狂いはない、と言いたげに、初めてこの席でリオンへ目をやった。

 

「私は息子の実力を過大評価もしないが、過小評価もしていない。その隻眼で、細腕でリオンをいなしたとなれば、見ずとも実力は測れる」

「ヒューゴ様!?」

「案ずるな。彼女は我々の浅知恵などとうに看破している」

 

 客間での会談に立ち会っておらず、事情を知らないリオンが声を上げる。

 それをあっさりと事実を教えることで黙らせたヒューゴ氏は、返事はいかに、と促した。

 何だか妙な話になってしまったが……損得だけで考えれば、フィオレに損はない。むしろ情報源が得られ、更に路銀の、生活の心配をしなくて済む分、得である。

 何か引っかかるものを感じ取らなくもないが、断ったところで心当たりがあるわけでもなく。

 長くもない逡巡と打算の末に、フィオレは自由を売り渡すことを決意した。

 

「私はあなたに忠誠を誓うことはできません。ですが、自分のしたことに対する責任を取らせていただこうと思います」

 

 返事を聞き、ヒューゴ氏は満足げに笑みを浮かべた。

 

「契約成立だな」

「ただし、指南役の件については本人が納得するならお受けする。できないのであれば、真似事しかしない。本人に意欲が望めず押し付ける形となってしまうなら、時間の無駄です」

 

 フィオレとて、他人に教えたことがないわけではない。むしろ、リオンのようにひねくれたガキ……もとい素直じゃない子供ならば本腰を入れて教えたことがある。

 ただしそれは、彼にやる気……フィオレの言うことに素直に耳を傾ければの話だ。

 穴の空いた袋に砂を詰めたところで袋は一杯にならず、底の一部が砕けた花瓶に水を注いでも活けた花は枯れてしまうだろう。ザルで水を汲むようなものだ。まったく意味がない。

 しかしヒューゴ氏は、それをちっとも理解していなかった。

 ちらりとリオンを見やり、目配せをしてから「リオン」と追い討ちをかけるように声をかけている。

 そしてリオンは、しぶしぶながら、という心情を隠そうともせず、フィオレに頭を下げようとした。

 

「あのー……」

「なんだ」

「そこは、本音をぶっちゃけてくださいませ」

 

 その言葉を受け、戸惑ったようにフィオレから目をそらす。

 そのまま黙り込んでしまったリオンの代わりとばかり、ヒューゴ氏が割って入ってきた。

 

「ほう、フィオレ君は私がリオンに無理やり承知させていると思うのかね」

 

 かなり威圧的な調子である。

 自分がルールだと言わんばかりの態度は、もちろんフィオレの反感を買った。

 

「どっからどう見てもそうではありませんか。お二人にどんな力関係があるのか存じ上げませんし介入しようとも思いませんが、今は私と彼の問題です。口出ししないでもらえますか」

 

 テメーはお呼びじゃねえんだよ。黙ってやがれ。

 意訳をすればそんな内容の批難は、もちろんヒューゴ氏の反感を買っている。

 しかし彼は、フィオレがもっとも反論しやすいパワー・ハラスメントを繰り出してくれた。

 

「口の利き方に気をつけたまえ。今この瞬間から私は君の雇い主だぞ」

「わかりました。では、今の無礼な振舞いでさぞやご気分を悪くされたでしょう。どうぞ、解雇してください」

 

 途端にヒューゴ氏の旗色が悪くなる。

 資料などを惜しいと思わないでもないが、基本的にフィオレはいつクビにされても困らない。

 この場合、本当に困るのはヒューゴ氏だけだ。リオンの問題は、そのまま上司である彼にしわ寄せがきてしかるべきである。

 そもそも話を持ちかけたのはヒューゴ氏であり、フィオレはそれに応じただけ。

 それを逆手にとって主人面するとは、傲慢もいいところだ。

 

「あなたが無理やり命じたところで、本人にやる気がなければ時間の無駄であることに変わりはありません。初めにそう言ったつもりだったのですが、ご理解いただけなかったようですね。残念です」

 

 彼が黙ったのをいいことに、今度は嫌味を混ぜてもう一度説明してやる。

 そして、再度リオンに本音を引き出させた。

 

「そんなわけです。あなたの意志を聞かせていただけませんか?」

 

 沈黙が漂う。

 ヒューゴ氏の様子を伺いつつ、彼は幾度かの逡巡を経てようやく口を開いてくれた。

 

「……気が進まないに決まってる。なんで僕が、女に指導なんか……」

「それはあなたがどんな形であれ、私に負けたから、です」

 

 そんなことをわかっている、と言いたげにフィオレを睨むリオンの眼に偽りはない。

 ともあれ、本音が聞けたならフィオレにとっては上出来である。

 

「そう思うなら仕方がありません。あなたがその気になるまでは指導の真似事……ひたすら組み手でもして誤魔化すことにします。ヒューゴ『様』何か異存でも?」

「……いや、ないな。個人的には、きちんと指導してもらいたいところだが」

「そればかりはご子息の性格によります。この状態で何か教えたところで、ご子息が聞き入れるとは思えない」

 

 負けたままでよしとするか、はたまた、再戦を胸に向上心を芽生えさせるか。

 休んでいた食事を再開し、今度は特製のドレッシングがまぶされた野菜サラダに手をつける。

 野菜は甘く、ドレッシングは爽やかな風味があるものの、少しばかりクセが強かった。

 ここの主人の好みなのかもしれない。

 

「さて……今陛下はファンダリアに赴いておられるから、この件を耳にされるのは二日後辺りか。それから早くて翌日には、召喚状が送られてくるだろう」

「ファンダリア……セインガルドとは地続きの第一大陸、雪に覆われた地域ですか」

「その通りだ。それまで『剣術指南』を行ってもらいたいわけだが、もうひとつしてもらいたいことがある」

「何でしょう?」

「被服の新調だ」

 

 被服の、新調。

 言われて、フィオレは自分の姿を見下ろした。

 外套はすでに脱いで荷物の中。今身に着けているのは、男性ものの白シャツに鼠色のボトムスだ。

 確かに新品でもなければ高級品でもないこれは、彼にとってみすぼらしく映るかもしれないが。

 

「……そんなに見苦しいですか? 神殿で、えーと、『レンズ洗濯機』使ってますけど」

 

 動けるようになって後、フィオレは血まみれになっていた衣服を洗おうとして、フィリアにたらいの貸与を求めたことがある。

 

『フィリア。たらいって貸してもらえませんかね?』

『た、たらい!?』

『はい。洗濯したいので』

『……』

『フィリア?』

『ご、ごめんなさい。何でもないんです。あの、フィオレさん。神殿にはレンズ洗濯機というレンズ製品を備えておりまして──』

 

 あの時、吹き出すのを懸命にこらえていたフィリアの顔はなかなか忘れられない。

 フィオレにとっては馴染みの洗濯譜業は流石になかろうと思って、たらいをあえて貸してくれと頼んでみたのだが。

 

「見苦しい、という問題ではないのだよ。法に触れるわけではないが、少なくともダリルシェイドで異装は禁則(タブー)にあたる」

禁則(タブー)……ですか。異装というと、男性は女装、女性は男装してはいけないと……」

 

 頷くヒューゴ氏に、無駄とはわかりつつもリオンにしたものと同じ質問を向けてみた。

 

「男に見えますか? この格好」

「いや。それはない。だが、君の場合は異装というより、素材とも相まって性別がよくわからない格好をしているからな。旅人ならそれで構わないのだが、この屋敷を出入りし、王城へ招かれる可能性がある以上は、ある程度常識に添う服装を求める」

 

 男性は男性とわかる格好に、女性は女性とわかる格好をしろ、ということか。

 その土地にはその土地の規定というものがある。

 それに従えと言いたいのもわかる。わかる、が……

 

「面倒だからいっそ男として偽るというのは」

「声でバレてしまうから却下だ」

 

 それについてはどうにかできるものの、続くヒューゴ氏の案に打ち消されている。

 

「オーダーメイドには少し日数が足りないのでな。既製品で我慢してもらうしかない。それについてはリオンをつけよう。リオン、彼女が変なものを選んだら容赦なく却下してやれ」

「わかりました」

 

 何となく楽しそうに見えるのは気のせいだろうか、ジルクリスト父子よ。

 ──と、ここでフィオレはとあることに気がついた。

 

「……そういえば、言っていませんでしたね。私はフィオレンシア・ネビリムと名乗っています。フィオレとお呼びください」

「別に僕は、お前の名前に興味なんか……」

「そんなわけでフルネーム、お教えいただきたいのですが」

 

 この先、おそらく要らない知識というものは存在しない。気付いたときにわからないことは聞いておかなければ。

 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とはよく言ったものだ。

 

「……リオンだ。リオン・マグナス」

「わかりました。マグナス、ですね」

 

 オベロン社総帥ヒューゴ・ジルクリスト。

 その部下かっこ息子かっこ閉じ、にして王国客員剣士リオン・マグナス。本名不明。

 この二人のことは、これから独自で調べる腹積もりである。

 人間は高い地位であればあるほど主観的な話を聞いただけでは、人となりはわからない。地位のある人間なら尚更、あまり行いに非道なものが認められるなら、早めに立ち去ろうという魂胆だった。そのためには、目当ての資料を一日も早く閲覧する必要があるだろう。

 とりあえず今は、そんなことはおくびにも出さず。未だに懐疑的な目でフィオレを見るリオンに、彼女は頭を下げた。

 

「それでは、明日からよろしくお願いします」

「……」

 

 それに答えることなく、彼は無言で席を立っている。

 

「リオン様、食後のデザートが残っておりますが……」

「今日はいい」

 

 給仕をしていた家政婦(メイド)に声をかけられても、彼は素っ気ない。さっさと退室してしまっている。

 そんな彼が食べた跡をちらりと見やって。フィオレは思わず「なるほど」と呟いた。

 

「何がだね?」

「失礼ながら、ご子息の体格はあまり恵まれているように思えなくて。栄養不足なわけはないだろうに、何の理由がと思っていたのですが……味覚がお子様なんですね」

 

 彼が座っていた席の前には、当たり前だがいくつか皿があり、隅に何かが必ず乗っている。

 それは付け合せのパセリだったり、ニンジンだったり、ピーマンだったりと、いずれも野菜に属するものばかりだった。野菜サラダに至っては、手をつけた跡すらない。

 彼は痛いところを突かれたように「……うむ」と呻いている。

 

「あの子は生まれたときに母親を亡くしていてね。私も立場が立場だったから、躾などはついあの子つきの家政婦(メイド)に一任してしまったが……強くものを言えないせいか、見事偏食になってしまった」

「……すみません、立ち入った話を」

 

 つまりはあんたのせいか。

 表面上殊勝に謝りつつも、フィオレの心中は突っ込みに溢れていた。

 母親の姿がないと思っていたら、やはりそういうことだったらしい。

 飾られた生クリームもなめらかなコーヒーゼリーを頂きつつも、垣間見えたこの屋敷の複雑な関係に少々辟易する。もっとも、かつてフィオレを取り巻く人々とて、関係は複雑怪奇そのものだが。

 

「そういえば、酒類(アルコール)の類はどうだね?」

「……多少なら」

 

 神殿にそんなものは料理酒の類しかなく、従ってアルコール摂取も久々ではあったが、とりあえず相伴に預かっておく。

 止まり木を見つけたはいいが、止まった先は鳥かごの中か、あるいはトリモチ付きか。

 怒涛の一日が、終わりを告げようとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※リオンの偏食設定は、原作を参考にしているのと同時に彼の華奢な体格の理由付けとして「無類の野菜嫌い(ただしマリアンの手製系列は摂取可)」とさせていただきました。


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ダリルシェイド滞在編
第十二夜——招くは堕落、主な原因は生活状況の一変


 ジルクリスト邸にて新生活スタート。貧乏根無し草から一転、超贅沢な生活へ。
 あくまで彼女にとっては、であって、ヒューゴサイドとしてはごく普通の対応しているのですが。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、目を開く。

 その瞬間目に入ったのは、窓枠の端から昇りつつある朝日の姿だった。目をこすりながらも起き上がるが、体の下が柔らかすぎて失敗する。

 今現在フィオレが使っているのは、あまり使われていなかったであろう客室のひとつ……ではなかった。

 なんと、フィオレがヒューゴの話を受けた瞬間用意された、彼女専用の私室だという。

 部屋には埃どころかチリひとつなく、カーテンやシーツ等に黄ばみのような汚れもない。家具一切に放置されていた感も使い古しの感もなく、備え付けのソファやクッションなどにも、嫌な匂いはなかった。

 なんでも、ヒューゴ氏と酒を酌み交わしている間に彼が手配させたのだという。

 振舞われた酒類(アルコール)はかなり度が高かった。それでいて口当たりのいい蒸留酒を、ヒューゴ氏の薦めるまま彼と共に呑み進めた記憶がある。

 

「リオンは付き合いが悪い上に、酒が飲めないタチでな」

 

 こちらでは、未成年に酒飲ますのは犯罪じゃないのだろうか。

 なぜかヒューゴ氏は随分なハイペースで、つまみも摂らずに呑んでばかりいた。

 それに付き合う形でフィオレも杯を空けているのだが、彼はどんどん顔を赤くしていた気がする。

 

「うむ、君はかなり強いんだな。娘ができたみたいで嬉しいよ」

 

 脈絡がない上に実年齢を明かしてしまいたくなるコメントだったが──もうこの時点で彼は極度の酩酊状態にあり、それからいくらも立たないうちに潰れてしまっている。

 その後でこの部屋へと案内され、微酔状態にあったフィオレは疲れも手伝い、そのまま寝台に潜り込んで眠ってしまったのだ。

 そんなわけで今、部屋の状態をチェックしていたのだが。

 先ほどまでフィオレが寝こけていたのは、某王家の姫君が使っていたような天蓋付の巨大な寝台なのである。羊毛がふんだんに詰め込まれているであろう巨大枕、大量のスプリングが埋め込まれているマットと、混じりけがさっぱり見当たらない絹のシーツ。

 このような寝台、ベッドメイクしたことはあっても、使ったことは一度として、ない。

 窓際には書斎机と椅子が共に設置されており、引き出しの中には筆記用具一式が取り揃えてある。

 他に何か入っていないかと引き出しを次々に開けていくうち、コンコン、と規則正しいノックが響く。

 

「おはようございます、フィオレンシア様。よろしいでしょうか?」

 

 入るように促せば、そこには昨日、フィオレがヒューゴ氏に雇われる原因を作った張本人──マリアン・フュステルが立っていた。

 彼女のフルネームなら、リオンを運ぶ道すがら教えてもらっている。

 

「様はなしにしてもらえますか? 体裁を保ちたいなら無理にとは言いませんが。それと、長いからフィオレでお願いします」

「わ、わかりました、フィオレ……さん」

「どうも。おはようございます、何か御用ですか」

「お湯浴みの用意が整っておりますので、もしよかったら朝食前にいかがですか?」

 

 頼んだ覚えはないのだが、昨夜疲れて入る気もしなかったフィオレに気を使ってくれたのかもしれない。その心遣いに甘えて、フィオレは即決で優雅に朝風呂を浴びることにした。

 ところが。

 

「……あの、フィオレさん。お怪我をなさっているのですか?」

 

 脱衣所でささっと衣服を籠に放り込んだ後、広い湯殿に足を向けたとき。

 廊下で控えていたはずのマリアンのそんな声を聞いて、フィオレは湯殿と脱衣所を隔てる扉を少しだけ開けた。

 そこでは、かの家政婦(メイド)さんが困惑した顔で籠を見ている。

 

「いいえ、今は塞がってるはずです。血糊でもついていましたか?」

「いえ、その。これ……」

 

 扉の隙間から覗いてみれば、マリアンが手に取っていたのは、よれよれになったサラシであった。

 確かに、だいぶ幅の広い包帯に見えなくもない。

 

「ああ。それは胸に巻きつけて抑えるための布です。手頃な替えがないので洗わないでほしいのですが」

 

 マリアンがフィオレの脱いだ服に目を留めたのは、間違いなく洗濯をするためだろう。しかし今それをされると、着るものがなくなる。

 その旨告げると。

 

「それにつきましては、ヒューゴ様からこちらを身につけていただくよう仰せつかっております」

 

 ……またあのおっさんか。

 さっと湯を浴び、髪を洗って素早く身支度を整える。

 上がりたて、バスタオル一丁のまま改めてみればそれは──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脱衣所を出てすぐ、控えていたマリアンの表情から意図的に目をそらし、広間へと先導してもらう。昨晩も訪れたとはいえ、来たこともない浴室からは流石に行けない。広い屋敷の廊下を歩き、広間へと辿りつく。

 そこにはすでに、ジルクリスト父子が席についていた。

 

「おはようございますおふたかた」

「ふむ」

「……」

 

 かなり気だるそうなヒューゴ氏は小さく頷き、何やら言いかけたのか、リオンは口を半開きにして硬直している。

 マリアンに促されるままに、昨日と同じ席についた途端、ヒューゴ氏が口を開いた。

 

「おはよう、フィオレ君。思った通り、とても似合っているよ」

「おほめにあずかりこうえいですよヒューゴさま」

 

 リオンが何かを言いかけ、しかし口を閉ざして食事を再開し始めている。

 フィオレが現在身につけているのは、何を隠そうこの屋敷のメイド服だった。

 マリアンの着ているものとは多少異なる、桃色のワンピースに紺色のフリル付エプロンである。

 何でも、彼女はこの屋敷の家政婦(メイド)長であるために、デザインが違うのだとか。

 

「……フィオレ君。目がまったく笑っていないのは気のせいかな?」

「いーえ。きのせいなどではございませんよヒューゴさま」

 

 うふふふっ、と微笑みかけるも、藍色の瞳はまったく緩まず。

 

「いや、なんだ。昨日のような格好で出歩かれるとやはり目立ってしまうかと配慮してな。さりとて、適当な女性の服も調達できず……」

「ねえ、ヒューゴさま」

 

 額に光るものを滲ませながら言葉を連ねるヒューゴ氏が、びくっ、と肩を震わせる。

 明後日の方角を見ていた彼が、ゆっくりと首を動かして視界に納めたフィオレは、その手に小さな何かを持っていた。

 そして紡がれたのは、意外過ぎる一言。

 

「焼き林檎、お好きですか?」

 

 その言葉の意味を、彼女以外の人間が理解する前に。

 一条の閃光が走ったかと思うと、今まで皿に盛られていた兎林檎からやたらと香ばしい香りが漂いだした。

 

「あんまりおいたが過ぎると、そこの林檎以上に焦がしますよ」

 

 フィオレの持ったフォークが伸びて、林檎の一片に突き刺す。

 その時初めて、ヒューゴ氏は兎林檎が焼き林檎になっていることに気付いた。

 先ほどとはまるで違った微笑を浮かべて即席の焼き林檎を頬張るフィオレの手には、フォークしかない。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれフィオレ君! 今のはなんだ?」

「さあ。なんでしょうね」

 

 不可思議な現象を前にしてヒューゴ氏が声を荒げるも、フィオレはそ知らぬ顔のまま。ふたつめの林檎に手を出している。

 

「今のは……晶術、か?」

 

 代わりに掠れた声を発したのは、リオンだった。

 信じられないようなものを見る目で、フィオレを見つめている。

 

「どーなんでしょー」

「誤魔化すな。今持っていたのはレンズだろう。それから保有エネルギーを引き出し、晶術を発動させた。……違うか」

 

 しばしの沈黙。

 咀嚼しつつわずかに考える素振りを見せてから、フィオレはフォークを置いてリオンに向き直った。

 

「手品です」

「……は?」

「奇術でもいいです。あなたがいかにしてその原理を推察しようと、それは自由なのですが。私から言えるのは、それだけです」

 

 リオンの眼前で何も持っていない手のひらを見せて、握りこむようにしてからコンタミネーションを発動させる。

 いつのまにか握っていた棒手裏剣を見て、彼は眼を白黒させていた。

 再び拳を握って、再度収納。何も持っていない手のひらを見せられ、彼はキツネにつままれたような顔をしていた。

 

「……その変な手袋の中……か?」

「まあ、普通はそう考えますよね」

 

 手甲を脱いでやろうかと考えて、やめる。

 今は食事の最中だ。これ以上は無作法にあたるし、それ以前にできることではなかった。

 リオンはリオンで、タネがわからずに不満そうな表情を隠せていない。

 

「しかし、君はその格好をしていてなお、それらを外そうとしないのかね?」

 

 ヒューゴ氏の指すそれら、は間違いなく眼帯を指しているだろう。あるいは布製の手甲か。

 服装どころか必須の持ち物にまでケチをつけられ、フィオレは頬を膨らませた。

 

「……別にいいではありませんか。私が何を身につけていようと」

「手甲はともかくとして、そんな歪な眼帯をしていては美しい顔が隠れてしまうだろう。そうだな……オーダーメイドで」

「いりません、つけません。別にいいです、結構です。ご子息の方がよっぽど──そうだ、隠れているが故の錯覚です」

 

 粛々と断りを入れて、香茶か珈琲かを尋ねるマリアンに前者を頼む。

 お茶の味は、知らない茶葉である上に香りがキツく、フィオレの好みとは正反対の位置に属するものだった。

 

「……そういえば、昨夜言い忘れましたが」

 

 陶製の茶器を受け皿へ戻しつつ、ヒューゴ氏に顔を向ける。

 何事かと顔を上げた彼に、フィオレはストレートな問題をぶつけた。

 

「お金がありません」

「安心したまえ。無駄遣いしないようリオンに持たせはするが、服飾関連ならば何をどれだけ買おうと君の自由だ」

 

 先ほどクビにされてもおかしくないような無礼を振舞ったにもかかわらず、えらい高待遇である。

 破格待遇はまだ終わらない。

 

「それと。君の月給のことなのだが……」

 

 何かが入った封筒をマリアン経由でフィオレに渡す。

 中に入っている羊皮紙に目を通せば、そこには雇用契約を結ぶ文面と共に、十分すぎるほどの額が記載されていた。

 

「滞在費等を差し引いた金額を記していただきたいのですが」

「それならばすでに抜いてある。その分コキ使われると考えてくれ」

「コキ使うって、私にはあなたのほしがるような知識など一切持ち合わせておりませんが」

「いや、君に頼むのは主に護衛や、危険排除等肉体労働だな。商売上様々な場所へ赴くのだが、護衛にかかる報酬が結構馬鹿にならなくてね。リオン一人では荷が重い、かといって経費惜しさに護衛を減らせば危険きわまりない」

 

 それならば許容範囲ではある。フィオレは納得して、後で提出するとの旨を伝えた。

 何故ならフィオレは未だ、文字の読み書きをすんなりとは行えないからだ。

 アルメイダを出発した朝、フィオレが齧ったものとは比較にならないほど香ばしい焼きたてのロールパンを生ハムとチーズで頂き、野菜サラダを綺麗に完食する。

 

「僕は午後から客員剣士の仕事がある。午前中は買い物に付き合ってやるから、支度をしたらエントランスに来い」

 

 席を立とうとして、ぶっきらぼうにリオンからそう言われ。

 了解の意思を示して、フィオレは広間を後にした。

 

「……さて。いくらなんでも、これで徘徊するわけには……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十三夜——懐かしきその名は

 ジルクリスト邸~ダリルシェイド内。シャルティエとご挨拶、大昔の記憶の採掘。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 準備を済ませ、エントランスへと至る。リオンはまだいない。

 来客用のソファに座っていようかなと視線を移動させた際、フィオレの眼は玄関として機能するエントランスに、およそそぐわないものを見つけた。

 来客セットで据えられた硝子製の重そうなテーブルの上に、昨日眼にしたばかりの剣が鎮座している。

 曲刀(カトラス)の刃に細剣(レイピア)の柄を合わせたような、宝剣と称しても差し支えない優美な剣。

 昨日リオンが佩刀し、抜剣したものに相違なかった。そしてフィオレの記憶が確かなら、この剣は──

 

『やあ、おはよう。よく眠れた?』

「……ええ。疲れがなくなる程度には」

 

 脳内に響く念話に戸惑いつつも、肉声で返す。

 いつの間にか露出した日車草色の球面をのぞかせて、剣は狼狽気味に球面を輝かせた。

 

『やっぱり僕の声が聞こえてるんだ? 坊ちゃん以外の人と話すなんて、久しぶりだよ』

「……」

 

 会話にうち興じようかとして、ふと口を閉ざす。

 この念話、どうも万人に聞こえるものではないからにして、肉声で返せば独り言を抜かしているようにしか見えないだろう。かつて、その現象を幻聴と信じきっていた仲間達の姿が目に浮かんだ。

 あれとは少し違うが、剣に話しかけるのは明らかに精神異常者の行いである。ここでは普通を装いたい。

 

『どうしたの?』

 

 いぶかしげに尋ねてきた剣に軽く首を振り、かつて教え子と幾度か繋いだチャネリング──精神を繋ぐホットラインを手繰り寄せようとして、はたと気付く。

 果たしてこの剣に、フォンスロット──物質に存在する音素(フォニム)の要点──というものが存在するだろうか。

 フィオレの可能とする念話は、フォンスロットが一定の状態にある個体にしか通用しない。

 こと人外に関してフォンスロットの状態のことは、初めて第四意識集合体・ウンディーネと契約を交わしたときからすっかり失念していた。おそらく肉体を持たない彼女たちはフォンスロットが常に解放されている状態にあたると思われ──

 そんなことはどうでもいい。どうにかして、この剣と念話ができないものか……

 

『もしもし~?』

「すみません、ちょっと待っててください」

 

 言いながら、フィオレはくるりときびすを返してあてがわれた部屋へと駆け戻った。

 荷袋の中を引っ掻き回して、目的のものを探す。

 

「……あった」

 

 ほどなくしてフィオレが手にしていたのは、手のひらに収まるほど小さな小箱である。開けば、その中にはひとつの指環が鎮座していた。

 純銀製の地金には繊細な彫刻が施され、三日月型の台座を満月にせんとはめ込まれた蒼い石が澄んだ輝きを静かに放っている。

 まったくの赤の他人同士で、チャネリングの使用を可能とする、この指環なら。

 指環を装着しつつ、エントランスへ舞い戻る。リオンはまだ来ていない。

 

「ふう」

『何? 忘れ物?』

『……昨日の無礼を許してください。認識しておきながら、あなたの声に応えなかったことを』

『!!』

 

 今度こそ、精神を研ぎ澄まして念話を試みる。

 指環のせいか、それともそんなものは関係ないのか、剣の動揺がはっきりと感じられた。

 成功、である。

 

『な、え、何!?』

『私は、フィオレンシア・ネビリムと申します。フィオレとお呼びください。ひいては、あなたのお名前をお尋ねしたいのですが』

 

 昨日リオンからは「シャル」と呼ばれていたが、それがフルネームとは限らない。

 

『あ……僕は、シャルティエだよ。ソーディアン・シャルティエ。ピエール・ド・シャルティエの人格がコアクリスタルに宿ってる』

『……ソー、ディアン?』

『知らないかな? これでも、一応天地戦争を終わらせた兵器なんだけど』

 

 そんなことは重要でない。フィオレが反応を示したのは、ソーディアンという呼称についてのみである。

 天地戦争を勝利へ導き終結させた六本の剣の話なら、フィリアから聞いたことがあるのだが……ソーディアンという呼称、どこかで……どこだったか……

 しばらく考え込んだ結果、フィオレは唐突にぽん、と手を打った。

 

「そうだ、ソーディアンサーガ。人格の宿る剣が……ん?」

 

 違うことを考えながら、ふと感じた視線に気付いて、ひょいと斜め後ろを伺う。

 エントランスを見下ろすことのできる、二階部分の廊下。そこで、ヒューゴ氏とリオンが向かい合って何事かを囁きあっていた。

 仕事に関する内密な打ち合わせであれば、声を潜めていても別段不思議はない。

 しかし、ならばなぜフィオレは、自分に視線を感じたのだろうか。

 二人が仕事だか私事だか話をしているだけなら、フィオレが感じられるほどの視線を寄越したりはしないはず。

 

『ねえねえフィオレ。これって精神感応の応用だったりするの? 君器用だねえ』

『お褒め頂き光栄です。えーと、シャルティエ。リオンから聞いているかもしれませんが、諸事情によりここでお世話になることになりました。これからどうぞ、よろしくお願いします』

『そうなんだ、よろしく! ……って、昨日坊ちゃんが、「変な女が寄生することになった」とか何とかぶつぶつ言ってたけど、君のこと?』

「何をぶつくさ呟いているんだ、シャル」

『うひゃあ!』

 

 気付けば、階段を降りきったリオンがこちらへ近づきつつあった。

 彼はフィオレをおかしなものを見る目で一瞥し、彼女の視線から隠すようにシャルティエを佩刀している。

 おそらくそれは、フィオレがメイド服の上から元より所持していた外套を羽織っているからだろう。

 その間にもシャルティエは『坊ちゃん! 窓から投げ捨てるなんてひどいじゃないですか! 僕はちょっと聞いただけなのに!』と、何故彼が、来客用のテーブルの上にいたのかを想像できるような文句をほざいていた。

 

「うるさい。──さあ、さっさと行くぞ。僕は暇じゃないんだ」

「……変な女で悪うございましたね」

 

 半眼になって呟いてやれば、リオンはかすかに狼狽した様子でフィオレを見ている。

 

「まあ、いいです。個の認識だけはどうにもなりませんし……では、とっとと参りましょうか」

 

 扉を開いて、庭園へと足を進める。朝特有の瑞々しく清冽な大気で心地よく肺を満たしながら、まずは門の外へと出た。

 リオンは、佩刀したシャルティエと何やかや話しながらもその後に続いてきている。

 

『──ですね。坊ちゃん、ファイト!』

「だ、誰があんな──!」

「リオン。あなたは彼とのお話に、そんなにも大きな声を必要とするのですか?」

 

 フィオレの皮肉を受けて、彼はシャルティエを横目で睨みながらも、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 彼らがどれだけ言い争おうがどうしようが、フィオレの関わることではない。しかし、言いつけられた用事を放棄されても困る。

 

「それで、お前はシャルの言葉がわかるんだな?」

「どのように解釈してくださっても結構です。さて、適切な服飾店へ案内していただけますか?」

「何で僕が──」

「私が昨日、ダリルシェイドに初めて足を踏み入れたから、です。お忙しいのでしょう? 早めに済ませるためにも、ヒューゴ様が満足しそうなところでお願いしますね」

 

 考えてみれば、ヒューゴ氏が資金をリオンに預けたのは、こういう意図もあってのことかもしれない。

 彼はあきらめたようにひとつ嘆息すると、「こっちだ」と無愛想に促して歩き始めた。少し離れて、その後をついていく。

 時間帯が朝であるがために、大通りであっても人の通りは昨日ほど多くない。おかげで、多少離れていようと小柄な彼を見失うことはなかった。

 歩きながらも、フィオレの思考は別のことに囚われている。

 ──先ほど、シャルティエなる剣は自らをソーディアンと称していた。

 特殊な六振りの剣型兵器が天地戦争を終結に導いた、とフィリアから聞いていたが、まさかソーディアン、などというとは。

 名称にこだわるのには、理由がある。何を隠そう、フィオレは以前に「ソーディアン」が登場する物語を読んだことがあるからだ。

 

 その名も、「ソーディアンサーガ」

 

 夢見る田舎者が人格を宿す剣と出会い、自らの身に降りかかる運命をその手で切り開いていくという、壮大な物語である。

 どのあたりが壮大かといえば、その物語には田舎者二世が父親に憧れ、世界どころか世界を取り巻く「時」をまたにかけて旅する「続・ソーディアンサーガ」なる物語が存在するところか。

 よく覚えていないが、「ソーディアンサーガ」はかなり斬新な内容だったと思う。

「続・ソーディアンサーガ」の内容は気に入ったが、当時はタイトルが少し気になった。

「ソーディアンサーガ」はタイトル通り、かなりソーディアンが出張っている。

 しかし「続・ソーディアンサーガ」にはほとんど、ソーディアンは登場しない。まったく登場しないわけではないが、基本的には田舎者二世が主人公の物語だ。

「ソーディアンサーガ」の続きの物語なので仕方ないとも思うが、多少看板に偽りあり、という感覚が子供心に拭えなかった。

 ──そう。フィオレがふたつの物語に心を躍らせたのは、十五年以上昔のことである。故に詳細はあまり記憶に残っていなかった。

 名称どころか人格を宿す剣、という辺りまで同じなのだから、何たる偶然かと微笑ましく思うしかない。

 と、フィオレが呑気にも追憶に浸っていた、その時。

 

「何をする!」

「威勢がいいねえ、お嬢ちゃん。でも人にぶつかっておいてその態度は──」

 

 少年の声と、どこかで聞いたような台詞が聞こえて、正面に意識を集中させる。

 そこには、肩を掴まれそうになって振り払うリオンと、どこかで見たようなつるぴか頭が言い争っていた。

 こんな朝っぱらから、オシゴトゴクロウサマなことである。しかも、リオンのことを少女だと勘違いしている様子。

 といえども、フィオレとてあの敵意に満ちた声がなければ少女だと思っていただろうが……

 

『フィオレ! 何高みの見物決め込んでるの、助けてよ!』

『リオンの技量が見たかったのですが……まあ、仕方ありませんか』

 

 にやけた顔でリオンを見つめるつるぴか頭を横目で見やりつつ、フィオレは手近な日陰へ手をやった。

 

「其の荒ぶる心に、安らかな深淵を」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 光と共に生まれ、光に相反するものなら第一音素(ファーストフォニム)に当てはまる、というのは僥倖である。

 粛々と紡がれた譜歌により、つるぴか頭はバタン、とその場に突っ伏してしまった。

 

「今のは──」

「こいつらですよ。昨日、マリアンに絡んで私と引き合わせた輩は」

 

 その傍には、事の次第を見守っていた小男の姿もある。もう一人が見当たらないが、悔い改めたのか、単にダウンしてるだけか。

 リオンの質問を遮って彼女の名を出せば、彼はあっさりと興味をフィオレから今しがた己に絡んだ二人組へ移しつつ、シャルティエの柄に手をかけた。

 

「……なるほど、貴様らか。最近目に余る行為を街中で繰り返している輩は。一人見当たらないようだが、どこにいる?」

「ひっ!」

 

 眼光鋭く睨まれ、突如倒れた相方を心配する小男はすくみあがっている。しかしすぐに、「……くそ! ガキが粋がってんじゃねえ!」と短剣を抜き放った。

 その直後。フィオレは持ち前の「女のカン」が警告を発しているに気づく。

 荒い息遣いを間近に感じて、フィオレはすぐさま後方へ回し蹴りを放っていた。

 

「げうぅっ!」

 

 長靴(ブーツ)の頑丈な踵が、フィオレに迫っていた男の脇腹にめり込む。

 鍛えようのない場所への蹴打に悶絶する男の髭は、昨日見たことがあるような気がするものだった。

 

「もう一人ならこちらに」

「よし。残るは貴様のみだな」

 

 短剣を構える小男の額に、びっしりと脂汗が浮かぶ。

 実力の詳細はわからないが、傍観したところで大事には至らないだろう。

 そしてリオンは、しきりに口元を動かしつつもシャルティエを抜き放ち──

 

『天使の金槌よ、彼の者を遊惰に誘え!』

「ピコハン!」

 

 叫んだ。

 突拍子もなく小男の頭上に「トンカチのようなもの」が現れ、それは小男の脳天に狙い違わず落下する。

 

「うぁっ」

 

 ピコン☆とふざけた音を立てて、「トンカチのようなもの」は消滅した。

 あえなく直撃をくらった小男はといえば、綺麗に失神している。

 

「今のは……」

『驚いた? これは晶術だよ。ソーディアンが使いこなせるようになると、こーゆー特殊な力が使えるようになるんだ』

 

 そんなことは承知の上である。

 問題は、どうして譜術にも存在する「ピコハン」をリオンが使えるのか、なのだが。そんなことを真っ正直に聞くわけにはいかない。

 兎にも角にも、これで当たり屋どもの身柄確保には成功した。

 

「こっちだ」

 

 その頃、リオンは騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた警備隊の人員数名を誘導している。

 着色も何もされていない無骨な胸鎧に、顔が見える類の兜。

「市街警備隊」の腕章がなければ、その姿は王城の門に立っていた兵士と何ら変わりない。

 

「リオン様、これは一体何の「本日午後拿捕の計画にあった三名を確保した。詰め所での事実確認、及び取調べを希望する」

 

 淡々と事情を説明するリオンの口調に澱みはない。この手の報告にはかなり手馴れているのだろう。

 ふと、リオンの口から零れた単語が気になった。

 

「今日、午後?」

『うわー、坊ちゃんラッキーでしたねえ。これで午後のお仕事終了じゃないですか』

 

 やはりこれのことだったか。

 たかだかちんぴら三人のために客員剣士を動員するとは、近隣が平和だからすることなのか。あるいは単なる嫌がらせか。

 どうしてそう思うのか、それは。

 

「……ふん、熱心なことだよな。そんなに俺たちと協力する仕事が嫌かよ」

「誇り高き客員剣士サマだもんな。警備隊の真似事なんか、まっぴらごめんってか」

「あーあ。これで手柄はあのチビひとりのものかあ。んで、警備隊の面子は丸つぶれ。ったく、やってられっかよ」

 

 ……とりあえず、リオンが清々しいまでに彼らから嫌われていることはわかった。

 おそらくは、日頃の行いという奴が原因だろう。

 とはいえ。彼が動員されるまで積極的に動こうとしなかった警備隊にも、問題はあると思うが。

 

『なかなか複雑な環境に置かれているのですね、彼は』

『そうなんだよ、わかってくれる!? 坊ちゃんはあんな性格だし、周囲は自分たちの無能っぷりを棚に上げまくった挙句坊ちゃんに嫉妬しまくるわでもうサイアクって感じ! 傍にいる僕はいつもヒヤヒヤさ、このままじゃ胃に穴が空いちゃうよ!』

『あなた、胃なんて器官はお持ちでないでしょう』

『あ、わかっちゃう? 言葉のアヤって奴さ、僕もともと人間だしー』

「……うるさいぞ、シャル。何をぶつぶつ言ってるんだ、とうとう妖精と交信ができるようになったのか」

 

 そろそろ耳障りになったのか、ちんぴら回収に警備隊へ指示を飛ばしていたリオンが、愛剣に語りかける。

 真実を知らないシャルティエは、狼狽もあらわに誰ともなく言葉を発した。

 

『え? 坊ちゃん、聞こえないんですか』

『私の念話は、あなたにしか届けていません。故に、彼には私の語った言葉など知る由はないのです』

『嘘ォ!? じゃあ僕、傍から見た坊ちゃんみたいに独りで話してたことに!? ずるいよフィオレばっかりー!』

「……フィオレだと?」

 

 リオンからすれば確かに独り言オンパレードだろう。それはシャルティエに話しかける少年にも該当するのだが。

 愛剣に向けていた疎ましげな視線が消え、彼はフィオレを実に懐疑的な眼で見やった。

 

「お前、シャルに何をした?」

「別に何も。ところで、あの三人の連行に忙しいようなら、お財布だけお受け取りしますが」

「……いいや、手続きならすぐに終わる。詰め所の前で待っていろ」

 

 ヒューゴ氏の言いつけに背くのはまずいと思っているのか、それとも彼女が信用ならないのか。おそらくは両方の意図を持ってして、リオンはフィオレをも詰め所に連行した。

 ここで逆らう理由もなく、詰め所前に設置された噴水のへりに腰掛ける。

 行き交う人々を眺めながら、フィオレは手慰みにある秘術を発動させていた。

 指の先に小さな譜陣が発生し、音素(フォニム)の集まる気配と共にそれはある形を組み上げていく。ゆらゆらと、音素(フォニム)は一匹の蝶の姿を作り出した。

 

「わあ……!」

 

 通りすがりの子供が、歓声を上げる。

 フィオレの指先から生まれた蒼い蝶は、吹き抜ける風を受けてふうわりと舞い上がった。

 吹き抜ける風は雪色の髪をなびかせて、さらさらと音を立てて梳いていく。蝶の行く先を見守る藍色の瞳は優しく、しかし他者の入り込む余地はない。

 水の奏でる単調な音色も涼やかな噴水前で、ただ腰掛けただけのフィオレはさながら、一枚の絵であった。

 

『……綺麗な人ですよね』

 

 フィオレがどこで待機するのか。

 それを確認するだけのために彼女の姿を追っていたリオンは、シャルティエの言葉ではっと我に返った。

 見れば、ちんぴらたちを連行していたはずの警備隊たちも、その光景に気を取られている。

 糸がほつれ、ボタンがすべて取れたみすぼらしい外套も、意味ありげな眼帯も、乱れた髪をかきあげるその優雅な所作の前にはまったく気にならない。

 が。

 

「……ふん。見た目がどうだろうと、胡散臭いことに変わりはない」

『それを言ったらおしまいなんですけど……』

 

 彼が彼である由縁であろうか。リオンは見た目にだまされる性格ではなかった。

 

「さあ、いつまで突っ立ってるつもりだ!」

 

 警備隊の面々に活を入れ、詰め所へと促す。

 

「ねえねえ、それって手品?」

 

 一人の少年が、母親の制止も聞かずにフィオレへ話しかけた。

 メイド服の上に外套という不思議な組み合わせ、意味ありげな眼帯までしている彼女は、普通に考えれば奇妙な存在でしかない。しかし、子供はそんなことを気にしなかったのだろう。

 蝶の舞う様を追っていた視線が、駆け寄ってきた少年に移った。

 片方しかない藍色の瞳が、珍しく緩む。

 

「さて、どうでしょうね」

 

 紅も差していない唇が軽やかに言葉を紡ぎ、フィオレはちょい、と指を動かした。悠然と空を舞っていた蝶が、何かに呼ばれたように身を翻し、彼女の元へと急降下する。

 蝶が少年の眼前へ通り過ぎたとき、好奇心が疼いたのだろう。少年は無遠慮に蒼く輝く蝶へ手を伸ばした。

 蝶は木の葉のように少年の手をすり抜け、無事に主の元へと降り立つ。不意にその手が開かれ、蒼の蝶は驚いたように、白魚のような指先へとしがみついた。

 直後、開かれた指先が蝶を包み込むように捕らえ、容赦なく握りつぶす。

 

「あっ!」

 

 そして少年の前にさして大きくもない手が開くが、その中には何もなかった。

 その仕草で、完全に手品だと勘違いしたらしい。瞳を輝かせてアンコールを唱える少年の手を、やっとこさ近寄ってきた母親が捕まえ、おざなりな目礼を送って立ち去る。

 駄々をこねながらも去っていく少年にひらひらと手を振って、フィオレはおもむろに噴水と向き直った。

 ──これまで、左手に張り付いたレンズと共に生活を送ってきて、いくつか気付いたことがある。

 それを試すには、絶好の機会だった。小石を拾って、左手で包み込む。そしてフィオレは噴水に乗り出し、その左手をたゆたう水面に浸した。

 張り付いたレンズに意識して、大量の第四音素(フォースフォニム)を集結させる。

 十分に音素(フォニム)が集まったのを感知して、今度は手のひらの小石に音素(フォニム)を投射した。しばしして、左手を引き上げる。

 ゆっくりとずぶぬれの手を開けば、そこには海を凝縮したような深い蒼を宿した輝石──歪ではあるが、間違いなくアクアサファイヤそのものがあった。

 フィオレが生を受けた世界「オールドラント」は、闇、地、風、水、火、光すべての属性を内包する「音譜帯」に包み込まれている。そのため、基本的に場所を選ばすに各音素(フォニム)が必要な「譜術」の行使が可能だった。

 しかし、この世界にはそれがない。

 故にフィオレは、各属性を自力で調達しなければ剣術等、体さえあれば可能なモノしか使うことができない。

 どうにか自分の体からひねり出せないものか、と試してみて、成功したのはオールドラントであっても未知の要素であった第七音素(セブンスフォニム)、そして一般的ですらなかった第零音素(ベースフォニム)。それも慣れていないせいか、異様なまでの疲労感を覚えている。

 今しがた蝶を形成した「空蝉」は、本来フィオレの分身を生み出し、自由自在に操る秘術だ。本来は、これも肉体強化用譜陣の刺青がなければ使うことなどできはしないが、本当は使えないはずのコンタミネーションが成功したのである。

 だったらできないことはないだろうと四苦八苦重ねて──狭いところの探索用に役立てばいいな、くらいの、小さくて脆い蝶を自在に動かせるようになった次第だ。

 それもこれも、すべてはフィオレの左手にはりつき、未だ剥がれる気配を見せないレンズの賜物である。

 巨大彗星の衝突によってこの星にもたらされたレンズには、普通に感知できただけで六属性すべてのエネルギーが等しく宿っている。

 通常手に入るレンズはその等しさゆえに保有エネルギーはごく僅かなものだったが、どうもフィオレに張り付いてやまないレンズは別格のようだった。

 保有エネルギーが豊富、というわけではない。それだったらどんなによかったことか。

 この乳白色のレンズ自体に、保有するエネルギーはない。正確にはフィオレが引き出せるようなエネルギーはない、ということになる。

 代わりとしてこのレンズ、対象となる自然物から属性そのものを引き寄せ、使用することができるのだ。

 ただし、その属性エネルギーを留めておくことは不可能で、すぐに使わなければ勝手に拡散していく一方である。

 そのために、集めた属性のエネルギー……この場合は晶力と称すべきか。

 その晶力を何かに宿して使うことはできないかと考えて、フィオレはオールドラントに存在する鉱石を思い出したのだ。各属性を司る音素(フォニム)がふんだんに宿る石、研磨すれば宝石に化ける存在を。

 そこで単なる石ころに、第四音素(フォースフォニム)たる「水」属性を宿せないかと試したみたところ、見事成功した。アクアサファイヤもどきは、そのままフィオレの手のひらに鎮座している。

 とはいえ、少し放置しておけばまた石ころに戻るかもしれない。アクアサファイヤもどきを外套の隠しにしまった、そのとき。

 

『フィオレ、お待たせ!』

 

 シャルティエの声に振り向けば、件の御曹司が詰め所から出てくるところだった。噴水から離れて、リオンのもとへと歩む。

 一体何があったのやら、眉目秀麗な眉間には立派な皺が寄っていた。

 

「お仕事ご足労さまで「おい、お前噴水で何をしていた?」

 

 フィオレの言葉に耳を傾けることなく、皺が寄った眉間をそのまま、質問が飛んでくる。

 少々突飛な質問にフィオレが目を白黒させていると、シャルティエの言葉が割り込んだ。

 

『坊ちゃん! いくらフィオレとのことでからかわれたからって、そんなにへそを曲げなくてもいいじゃないですか』

『私とのこと?』

『手続き中あの無能連中がさ、「逢引中すみませんでしたねぇ」とか何とか言っちゃってさ! 立派なデートだってのに、まるで悪いことしてるみたいに揶揄しまくるんだよ!』

「……シャルティエ。あなたは逢引もデートという言葉の意味も曲解しています」

 

 シャルティエの言葉を聞くうちに怒りが再燃したのか、少年の白皙の頬に赤みが差す。

 彼が怒りを爆発させないうちに、とりあえずシャルティエの言葉だけ訂正することにした。

 

『何が違うっていうのさ?』

「逢引は一般的に男女の密会を指します。デートは、日時や場所を決めて恋人と行動を共にすることを指すんです」

『……つまり?』

「やってることはあんまり変わりませんが、我々には該当しませんよ。それに、あなたがいるではありませんか」

『へ?』

「これではまかり間違っても、逢引もデートもあてはまりませんね。二人きりではないのですから」

 

 シャルティエを黙らせ、リオンに目をやる。眉間の皺こそ消えているが、頬の赤みはまだ消えていない。

 それを、これまで会話から隔離されていた怒りからだろうと推測したフィオレは、彼の質問に答えるべくリオンと向き直った。

 

「えーと、噴水で何をしていたか、でしたね。どうしてそんなことを聞くんですか?」

「……お前の左手が濡れているからだ。よもや、噴水の中のガルドを取ったとか言わないだろうな」

「へ?」

 

 改めて、噴水の中を見る。

 先ほどはまったく気付かなかったが、確かに噴水の水溜りの中は何のまじないか、ガルド硬貨が沈んでいた。

 

「ああ……ホントだ。これって何かのおまじないですか?」

『この噴水に背を向けて、後ろ向いたままガルド硬貨を投げて入れることができたら恋が実る……だったかな? そんな噂が一時期ありましたよね、坊ちゃん?』

「律儀に答えるんじゃない、シャル。そんなことより……」

「そうですね。こちらの用事も手早く終わらせましょうか」

「違う! 盗んだガルドを噴水に戻せ。みっともない」

 

 フィオレはわざとらしく話題を終わらせようと試みる。

 しかしリオンは、実に不名誉な誤解をしていた。

 

「ガルドなんて盗んでません」

「じゃあ、その左手はなんだ。水遊びでもしていたというのか?」

「ガルドを取ったなら、腕のところまで濡れてるはずでしょうが」

 

 ほら、と左腕を突き出してみせる。

 フィオレが浸けたのは手首までであるからして、もちろん腕までは濡れていない。対して、噴水を取り巻く人工池の深さはそれなり。人それぞれであろうが、フィオレならば肘より先まで沈めなければ、ガルドに手は届かないだろう。

 じろじろと左腕とフィオレの顔を眺め、挙句に左腕が濡れていないか、入念にチェックして。その手が左手の甲に触れそうになったとき、フィオレは咄嗟に振り払った。

 途端に鼻白むリオンに、素早く先制攻撃をしかける。

 

「よく知りもしねー女の手を握ろうなんて、坊ちゃん結構セッキョクテキなんですね」

「な!」

「しつこくてねちっこい男は往々にして嫌われますよ」

 

 何か言いたそうに口を開こうとしたリオンが、「ちっ」と剣呑な舌打ちを打って脳裏に浮かんだであろう文句を取り下げる。

 何を言ったところで、時間の無駄だということを悟ったのだ。

 

「お前の軽口に付き合っている暇などない! さっさと行くぞ」

「仰せのままに」

 

 横柄に命令する少年に、フィオレは慇懃な会釈で応えている。

 それで溜飲が多少は治まったのだろうか、リオンはフン、と小さく鼻を鳴らして歩き出した。

 やっと訪れた沈黙と思いきや、何かを面白がっているようなシャルティエの念話が、二人の耳ではないどこかに届く。

 

『でもさ、坊ちゃんに手握られそうになって振り払うなんて、フィオレって結構純情なんだね』

『どういう意味ですか』

『え、だって。フィオレって男に言い寄られても、あっさり手玉に取っちゃいそうな──』

「うるさいぞシャル。黙ってろ」

 

 かすかに怒気の漂う少年の言葉を受けて、シャルティエはあっさりと口を閉ざした。どうも、文字通り剣の主たるリオンには絶対服従らしい。

 機嫌によってあっさり手放してしまうほど短絡的な人間が主人では、致し方のないことか。

 

『訂正します。彼は複雑な環境に置かれていますが、あなたもまた特殊な環境に置かれているのですね。ご足労さまなことです』

『……えーと』

『お返事は結構ですよ? 本当は、いくつかお尋ねしたいことがありますが、彼の機嫌が直ってからに──』

「おい」

 

 念話に集中していたフィオレは、そのぶっきらぼうな声音で念話を断念せざるをえなくなった。

 眼前には、唇を一文字に、表情に使用される筋肉ほとんどをひきしめた少年の、切れ長の眼が射るような眼差しでフィオレを見据えている。

 

「何か?」

「お前、一体どうやってシャルに話しかけている? さっきから気味が悪い」

「ご安心を。ごく普通にシャルティエへ話しかけるあなたも、十分不思議な人ですから」

 

 もちろん彼は安心などしていない。納得など、もってのほかだった。

 

「それのどこが安心できるんだ。話をそらすな」

「では、手品の一種ということでお願いします」

「お願いするんじゃない。手品だと主張するのはかまわんが、今後一切それでシャルに話しかけるな」

 

 上流社会に身を置く人間にありがちな、横柄な物言いである。もちろんフィオレは拒否を示した。

 

「お断りします。そんなことをあなたに強制される筋合いはない」

「僕はシャルのマスターだ」

「……?」

 

 どうしてこの会話の流れからそんな言葉が彼から飛び出るのか。

 不思議でならなかったものの、フィオレはどうにか言葉の真意を探り出した。

 

「ええと。そんなに大事なら金庫にでも入れて保管しておいたらいかがですか?」

『坊ちゃん、イマイチ通じてないみたいだから話しますよ? えっとフィオレ、僕たちソーディアンはマスターと呼ばれる使い手を得ることで力を発揮するんだ』

『武具である限り、その条件は絶対だと思います』

『いや、そうじゃなくてさ。そりゃ剣の形はしてるけど、それだけじゃないんだよ』

『晶術のお話ですね。それで、どうして私があなたとの会話を制限されなければならないと? リオンの剣であると同時に、あなたはあなただと思うのですが』

『……!』

 

 なぜか絶句するシャルティエに首を傾げつつも、少年へ目をやる。

 今度は不機嫌であることを隠そうともしていない。

 

「まあ、シャルティエが何を言いたいのかは何となくわかりました。今後あなたの前で不必要な念話を使うのは避けましょう」

「……念、話?」

 

 フォローのつもりで言った言葉を耳聡く捕まえられ、フィオレは内心で頭を抱えた。

 案の定、リオンは容赦なく追及をしかけてくる。

 

「念話とはなんだ。それでシャルに話しかけていたのか?」

「あ~、ええと。その……申し訳ありませんね。説明できるほどの語彙力を持ち合わせていないので」

「貴様、説明が面倒だからはぐらかそうとしてるんじゃないだろうな。明らかに今、何かを考えただろう!」

 

 しつこく食い下がる少年に、「しつこい男は嫌われる」と返そうとして。

 シャルティエの声が脳裏に響いた。

 

『でもさ、僕もちょっと不思議に思ってたんだよね。精神の波長が合う人間なら、僕たちの声を聞くことができるけど、逆に僕だけに思念を送ってくるなんて、そうそうできることじゃないよ。どうやってやってるの?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 思わぬところで表題が出てまいりました。
 なお、オールドラント(アビスの世界)において「ソーディアンサーガ」は「続・ソーディアンサーガ」と共に存在が明記されています。


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第十四夜——お召し替えとお馬さん

 

 

 

 

 

 

 

 

「──ここだ」

 

 リオンに促され、一歩足を踏み入れる。

 ずらりと居並ぶのは、色彩も鮮やかな衣装の山だった。

 

「……そうですね。買い物が終わったあと、あなたのお手並みを拝見させてもらおうと思っていました。それで私に勝つことができたら、お教えしましょう。そっちの方がやる気出るでしょうし」

 

 そう言って、とりあえずフィオレは二人の追及を断念させている。少々予想外の事態ではあるが、これはこれで最大限に利用したい。

 そんなわけで、二人と一本は当初の予定通り、フィオレの所望した服飾店へとたどり着いていた。

 好き勝手に店内を物色しようとする彼女の外套を掴み、リオンはにこやかに近づいてきた店員に一言二言、何かを告げる。

 

「……はい、かしこまりました」

 

 店員は一礼したのち、店の表へと出て行った。

 何事かとその所作を見ていたフィオレだったが、「物珍しげにするな、田舎者」とリオンに一喝され、未だに掴まれていた外套を脱ぎ始める。

 自由に動けるようになってから、フィオレはリオンの手から外套を取り返した。

 

「何をしたんですか?」

「人払いだ。それと、財布にこんなメモが入ってる」

 

 人払いって。

 その身勝手さに呆れるよりも早く、某王家の姫君も同じようなことをしていたという追憶が浮かんで消える。彼女の場合、客を装った妙な人間に害されても困るから、周囲の人間による配慮で結果的にそうしていた。

 だが、果たして客員剣士にして、レンズ会社御曹司の身分を隠す彼にそんなものが必要か否か。

 内心で呆れながらも、突きつけられたメモを受け取る。そこには、非常に個性的な字で何かのリストが記載されていた。

 

「必購入。男性物不可。服飾下着類。可購入。靴類装飾類その他……」

「それだけは最低限買えという意味だろう。さあ、とっとと選ぶんだ」

「こんなに買い込んだら、予算が足りなくなるのでは」

「いらん心配だ。選んだら僕に見せろ、妙なものを買ったら僕に叱責が来るんだからな」

「……わかりました。まあ要は、女性らしく見えればいいんですよね」

 

 またもや横柄に言いつけられ、財布を押し付けられる。開けて中身を見てみれば……数えるのが嫌になるほど万単位のガルド札が詰まっていた。

 とにかく、何があるのか見て回る必要がある。フィオレは店内をぐるりと見回して──

 何かを手に取り、早々に試着室へと入っていった。ごそごそと、衣擦れの音がする。

 

『……坊ちゃんが見立ててあげればよかったのに』

 

 彼女が試着室へ入ったのを見るや否や、主人にしか聞こえないほど小さな声量で、シャルティエは囁いた。

 

「僕に人形を着せ替える趣味はない」

『あ。やっぱり坊ちゃんもそう思ったんですか。なんかもー、等身大のお人形さんみたいですもんね』

「……あんな胡散臭い人形があってたまるか」

 

 朝、何の陰謀かヒューゴ邸家政婦(メイド)の制服で現れた彼女の姿が浮かぶ。

 フィオレの怒りようを見るにヒューゴが仕組んだらしいことは彼にもわかったが、ヒューゴが言った言葉は満更世辞でもなかった。

 誰の趣味、とは言わないが、機能性も考え、家政婦(メイド)長以外の家政婦(メイド)の制服は、総じて丈が短い。袖もまくる必要がないよう半分以下で、つまるところ露出率が高かった。

 一見して細身で華奢だが、よくよく見れば余分なものは綺麗に殺がれている。疵ひとつない肌はきめが細かく、猫のようなしなやかさをうかがわせていた。

 しかし、単なる女の腕や足を見ただけでそこまで仔細に観察していた事実を──あまつさえその光景をまぶたに焼きつかせてしまったことを、彼は密かに恥じていた。

 そんなものは毎日、家政婦(メイド)たちのもので見慣れているはずなのに。少なくとも剣士である。それだけでどうして、あの手足に視線を吸い寄せられたのか。

 

「……リオン?」

 

 涼やかな声音が耳朶を打ち、彼は我に返って正面を見た。

 そこには、試着室と店内を隔てるカーテンから頭だけ出したフィオレがいる。

 

「いかがなさいました? 顔が赤いですよ」

「お、お前には関係ない! 放っておけ」

「一概に関係がないわけではありませんが……まあいいでしょう。それで、この格好はいかがですか?」

 

 試着室のカーテンが割れ、メイド服から一転、選んだ衣装に身を包むフィオレが現れる。

 その姿を見た途端、リオンは片手を額にやった。

 

「……お前、人の話を聞いていたのか?」

『しかもそれ、ここで選んだ奴じゃないよね』

「あ、やっぱりわかります?」

『そんな擦り切れそうな生地の服なんてここにあるわけないでしょ!』

 

 そう。試着室から現れたのは、男物の白シャツに鼠色のボトムスをベルトで纏めた、邂逅時と変わらぬフィオレの姿だった。黙ってむっつりしていれば、少年に見えなくもない風体である。

 二人の批難を聞いても、フィオレは眉ひとつ動かさない。それどころか、ちちち、と気障ったらしく指を振っている。

 

「ですから、女性っぽくすればいいんでしょう? そんなわけでこれを」

 

 ぱさりと音を立てて、肩に何かを羽織り、腰には素早く巻きつける。満を辞して装着されたのは、短めのボレロにアシンメトリのスカート……パレオだった。

 フィオレの言い分では、ボレロはともかく男が好き好んでパレオなんか巻くわけないと。

 その辺りは、リオンとてわからないでもなかったが。

 

「大丈夫ですよ。本当にダメなら、ヒューゴ様が何か用意なさるでしょうし」

「そういう問題か! まったく……」

 

 くるりと店内を見回したリオンが、顔を赤くしながら女性物の被服を手にして試着室に放り込む。

 それを着ろと指図してしばし。現れたフィオレの姿は。

 

『流石坊ちゃん。フィオレ、そっちの方が断然可愛いよ!』

「流石って、マネキンからひっぺがしただけじゃないですか」

「……それにしろとは言わないが。そういったものなら、ヒューゴ様の文句はないはずだ」

 

 互い違いでちらりと見える、裾のフリルも愛らしいアシンメトリのワンピースに、アンティークレースがふんだんにあしらわれた丈が長めのカーディガン。脛まである編み上げの長靴(ブーツ)と相まってはいる。

 相変わらず白布の眼帯と手甲が異彩を放つものの、先程の異装まがいに比べればなんでもない。当初の奇抜さは完全になりを潜めている。

 しかし身に着けている当人は、非常に憮然とした面持ちを浮かべていた。

 

「リオン。あなたはこういうのが好みなんですか?」

「そんなわけがないだろう! 好みだったところで貴様に着せるか!」

『僕はこっちのほうがいいな~』

「じゃあシャルティエの好みですか。動きにくくてたまらないんですがね」

 

 肩を回し、体をねじり、その都度被服を縫製する生糸の悲鳴を察知してやめる。こんな状態で立ち回りでもしたら、柔な作りの被服である。破損、損壊は免れない。

 それをリオンに申し付けるも、ならば似たようなものをもう一着購入しろと言って聞かず。すったもんだの挙句、二人は互いの条件をすり合わせることにどうにか成功した。

 

「わかりました。普段はこちらの格好でいます。ですが仕事の際はあちら、私が選んだ方を制服と称して着用します。それは譲れません」

「……いいだろう。その旨ヒューゴ様に報告しろ」

 

 服類に及ぶ買い物が終了したところで、フィオレは渡された財布を取り出した。口を開けようとして、ふとその場から一歩下がる。

 先ほどまで財布があった場所に、素早くリオンの腕がやってきた。

 

「ねえリオン。強奪はやっぱり罪だと思うのですが」

「つべこべ言ってないで財布をよこせ。予算を確認させるために渡したんだ、くすねられては困る」

「……」

 

 噴水でのガルドのことといい、財布の件といい。とりあえず金銭面ではまったく信用されていないらしい。まあ仕方ないかと内心で頷きつつ、差し出された手に財布を置く。

 実に素早く回収されたそれをとって、リオンは数枚の一万ガルド紙幣を数えもせずに釣り皿へ置いた。

 

「釣りはいらん。その代わり配達してほしい。場所は……」

 

 なんと、それほど多くもない荷をヒューゴ邸へ運んでおくよう店員に言いつける。

 先程の言葉を実行しろと言わんばかりに、普段着として着るよう約束した被服だけタグを切って寄越すよう言付けた。

 

「承知いたしました。代わりに、今お召しのものを配達いたしましょうか?」

「……そうですね。お願いします」

 

 正直業腹だが、新たな装備に慣れておくのは大切なことである。フィオレは手早く着替えを済ませ、それまで着ていたメイド服を外套と共に手渡した。

 高級服飾店を出で、次に向かったのは手芸店である。

 とにかくメモに書かれていたものを求めさせようとしていたリオンを説き伏せて、フィオレが是非にと志願したのだ。もちろん、リオンに行きつけの手芸店などはない。

 そのため、彼を引き連れてフィオレが自力で聞き込みを続け、思いの他簡単にたどり着いていた。

 

「ついてきます? それとも、財布を預けてくれますか?」

 

 入り口でそれを尋ねて、彼は悩んだ末に一万ガルドをフィオレに渡している。

 すぐに戻ってくる、と告げて、彼女は速やかに店の中へ入っていった。

 そしてしばし……と経たず。

 

「お待たせいたしました」

 

 フィオレは一抱えの小包を携えて戻ってきた。

 

『って、ホントに早っ!』

「買いたいものは決まっておりましたので」

 

 リオンに財布を開けるよう求め、釣り銭を返す。釣り銭の量からして、それほど高価なものを買ったわけではないらしい。

 

「さて、引き上げましょうか」

「……メモにはまだ未購入のものが残っていたはずだが」

「別に要りません。どうしても必要だ、と言いつけられたものは買い終わったことですし、戻りませんか?」

 

 もともと自分の用事ではないリオンに異存はない。二人は連れ立って帰路へとついた。

 好奇心なのか、目的を持ってなのか。フィオレはきょろきょろと忙しなく首を動かしている。

 そのまま無様に転んでしまえばいい、と思う反面、彼女の連れである自分にも衆目の視線が集まるのかと思うと、気が気でない。

 ただでさえ二人は、道行く人の視線を過剰に集めている。彼女がそれを承知しているかどうかは、定かでないが。

 

「あまり余所見してると、転ぶぞ」

「ご安心を。いざとなったらあなたに抱きつきます」

 

 一応注意喚起してやろうと声をかければ、間髪いれず憎たらしい返事が寄越される。感情のまま睨みつけようとして、彼はフィオレの横顔を見やり──再び眼をそらした。

 リオンにとって、端整なだけの顔など鏡で見慣れている。女性であっても、彼にとって彼の想い人以上に美しいと思える異性はいなかった。

 それなのに、突如として現われた彼女の顔を見るだけで、なぜここまで気恥ずかしいような思いに駆られるのか。自分で自分が不思議でならない。

 確かに、姿形だけを評価するならば、フィオレは間違いなく美人の部類に相当する。舞い散る新雪のような髪は歩むごとに柔らかくたなびき、その顔立ちにケチのつけようはない。

 あえて言うなら、切れ長だが垂れ目気味の瞳は、美人特有の近寄りがたさを綺麗さっぱり失わせている。惜しむらくは外されない眼帯だが、それはかえって彼女に謎めいた雰囲気をまとわせていた。

 リオンはそれを胡散臭いと称しているわけだが、それがミステリアスな魅力を構築しているのだから、タチが悪い。

 外套を脱いだ今は殊更によくわかる、細身にしてなお女性らしいなよやかさを備えた体躯。

 出会った際の出で立ちの理由がわかるほどに、フィオレには外見における他者への威嚇要素が微塵にもなかった。

 しかし、リオンが一番彼女のことを気に食わない点はここにある。

 フィオレはリオンに目を合わせる際、多少視線を下げていた──おそらく、背中を合わせれば一目瞭然だろう。彼女はリオンよりも、多少だが上背がある。往来で自分を負かしたことと同じくらい、それはリオンにとって屈辱的な事実だった。

 彼女に対して、刺々しく接する理由はそれだ。だが、それと気恥ずかしさは到底結びつかない。

 

「──ねえリオン」

 

 そんなことを考えていた彼であったが、意識の端に涼しげな声音がひっかかり、彼は思考から醒まされた。

 

「あれ、なんですか?」

 

 リオンの返事を待たずして、フィオレは誰何の声を上げている。指を差すのが非礼だと知っていてのことか、彼女が示すのは視線のみ。

 だが、フィオレの視界に映っているものといえば、花屋前で呼び込みをする看板娘、道端で談笑する年配の女性、荷物が次々と乗せられていく荷車、それを引く役目にあるだろう鹿毛の馬、二匹の犬と散歩する老人の姿と、特別に不思議なものはない。

 

「何のことだ」

「ほら、あの、四本足の。体高高め、茶色くて面長で、耳が尖っていて、わりかし首が長くて、頭と首の後ろにふさふさした毛が生えてて、動くたびにカポカポ面白い足音を鳴らす動物らしいモノ」

『……えっ』

 

 ひとつずつ、丁寧に特徴を挙げ連ねるフィオレの言葉には、疑問以外なにひとつ余計なものは含まれていない。

 しかし、尋ねられた内容が内容なだけに衝撃は凄まじく、リオンもシャルティエも彼女が何を言ったのか、脳内で幾度も幾度も確認して……ようやくリオンが口を開いた。

 

「……まさか、お前は馬のことを言っているのか?」

「馬っていうんですか、あれ。へ~……」

 

 リオンの反応などおかまいなしで、遠目から心底物珍しげに馬を観察するフィオレの眼には、好奇心と興味以外の感情はない。

 

『フィ、フィオレ。ひょっとして、馬を知らないの?』

「私の記憶にあんな生き物はいませんね」

 

 シャルティエの言葉にもあまり気を払っていないらしく、そのまま肉声で答えている。

 完全に奇人変人を見る眼でリオンが無意識に距離を取ろうとした際、昨晩の会話が脳裏を横切った。

 

「あ、ああ、そうか。お前は、記憶障害と言っていたな。覚えていない、だけか……」

「記憶にないことだけは確かです。ところであれ、触っても大丈夫ですかね?」

「……やめんか、子供じゃあるまいし」

 

 今度は触れてみたいと言い出したフィオレの腕を掴む。そのまま帰路へ強制的に促そうとしたリオンだったが、フィオレとて負けていない。

 リオンの腕を逆に掴んで、単純な綱引き合戦へと陥る。

 

「いいじゃないですかちょっとくらい。触るのが駄目なら、近くで観察くらい……」

「不用意に近づいたら危険だ。あれに踏まれたら足なんか簡単に砕けるぞ」

「大丈夫ですよ、靴には鉄板仕込んでありますから」

「そういう問題じゃない! どうしても触りたいなら、今度厩舎に連れて行ってやる。とりあえず街中で馬を刺激するような行動は取るな。周囲の人間に迷惑だ」

 

 暴走した馬ほど、止めるのが難しいものはない。

 未練がましく振り返るフィオレの腕を引いて、半ば引きずるようにどうにかその場から去ることに成功する。

 残念そうに嘆息するフィオレだったが、気を取り直したらしく自発的に歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




リオンの身長は原作開始時において159㎝。
対して、フィオレの身長は現時点で162㎝。
彼が苛立つのも、まあまあしゃーなしなのです。


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第十五夜——勝利の美酒とは大人のお味。なので今回、勝負ナシ。

 ジルクリスト邸庭園、再びリオン+シャルティエとお手合わせ。アビスの世界、馬の役割を果たしているのは奇蹄類ウマ科の生物ではなく、トカゲもどきなのです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 馬なる生き物に触れることを諦めたフィオレが、リオンに先導される形でヒューゴ邸へと帰路につく。そのまま沈黙を伴って歩く二人だったが、双方それを何ら苦としていない。

 リオンはもちろん、「馬を知らないフィオレ」という存在に記憶障害の恐ろしさを痛感しており、フィオレは初めて眼にした馬についてのことを考えているからだ。

 記憶障害と偽るフィオレの記憶には、本当にあの生き物に対する知識がない。

 リオンとシャルティエの手前、あまり表には出さなかったつもりなのだが。その内心では腰を抜かさんばかりに驚いていた。

 何故なら、フィオレも馬と称される生き物を知っていたからだ。ただしフィオレの知る馬は、頭が大きく図太い尻尾を持ち、二足歩行で足は速いが気性は大人しいというトカゲモドキである。先ほど見た『馬』とは似ても似つかない。

 あえて眼を背けていた『この世界』に対する興味が湧き起こる。

 凄まじいまでの不安と、比例してくすぐられる好奇心。

 やはりヒューゴ氏の提案を受け入れたのは早計だったか。それよりもまず知るべきことがあったのでは、と考える内。

 

「……おい」

 

 耳に心地のいい低音が、鼓膜を震わせる。

 フィオレを先導していたリオンが妙に歯切れの悪い口調で尋ねてきた。

 

「お前、昨晩ヒューゴ様と酒を飲んでいたらしいな」

「ええ。それがどうかしましたか?」

 

 そういえば、常識として飲酒はどのくらいの年齢から許されるのだろう。例え見逃せない年齢であったとしても、一応雇い主から誘われた身として、彼から咎められる謂われはないはずなのだが。

 などと、彼が何を言いたいのか予測を立てていたフィオレだったが、思いもよらない事柄を聞かれて、返答に窮した。

 

「何瓶か、空けていたようだったが……大量に飲むほど美味いのか? あれは」

 

 ……正直な感想としては、彼はこっそり飲酒した経験があるのでは、と疑いたい。それも、昨晩フィオレがヒューゴ氏と共に嗜んでいた蒸留酒に近いものを。

 個人差もあるだろうが、初めて蒸留酒を口にして美味い、と思う人間は稀だろう。その前に高いアルコールが口の中、喉の奥を灼くような感覚に襲われる。

 どうにか飲み下したところで、待っているのは臓腑に染み渡るような灼熱感だ。味だのなんだの考える前に気分が悪くなること請け合いである。

 空いた片手で軽くこめかみを押さえて、フィオレはどうにか口を開いた。

 

「……個人的には、美味しいと思いますよ。ただあれは舌で味わうというより、喉の奥で味わう感覚が強いですけど」

「だが、それだと喉が熱くて気分が悪くなるじゃないか。どうすれば飲めるようになるんだ、あんなもの」

「あなたの場合はアルコールよりも偏食をどうにかしたほうがいいと思いますけど……」

 

 やっぱり飲酒経験があるのか、と心の中で突っ込みつつも、本音をブチまげる。

 リオンはもちろんムッとしたようにフィオレを睨むが、それに言及するより早く、彼女は言葉を続けた。

 

「アルコールを飲み慣れていない人間は、大概そうです。初めから蒸留酒なんて嗜もうものなら、慣れるころには立派な中毒になっていると思います」

「どうすれば慣れることができるんだ?」

「度数の低いもの、例えば混酒(カクテル)とか、果実酒を薄めたものとか、そういったものを飲んで体を慣らすことですね。もっとも、あまりに身体的に幼ければ体に悪影響が出るのは間違いありませんが」

 

 フィオレの言葉に珍しく素直に頷いていたリオンだったが、最後の一言を聞いて唇を尖らせている。

 その仕草は、これまで見ていた彼のどの仕草より、年相応のものだった。

 

「僕を子供扱いするな。そんなことを言うならお前にだって、悪影響とやらが出ているんじゃないのか」

「私にも、ですか。私はいくつに見えますか?」

『うーん、坊ちゃんよりちょっと年上に見えるから、18とか、19とか』

「僕も同意見だ。それがどうかしたのか」

「……いいえ、どうぞお気になさらず」

 

 在りし日の仲間たちに聞いた年齢より若干上がっていなくもない、が……それでも外見だけサバを読みまくっているのは明らかだ。

 ただでさえこの世界、一年が巡るのはフィオレの親しんだ暦より半年分早い。単純計算で、フィオレはこの世界において実年齢の二倍、生きていることになる。つまり、この世界においてフィオレは御歳54歳。

 完璧な老婆、とまではいかないが、ただでさえ中年増の身。おばさんと呼ばれることは構わなくともおばぁさん、は少々傷つく。

 

『で、結局いくつなの?』

「さあ」

 

 とりあえず、年齢の話は保留にすることにした。世の中にはタイミングというものがある。

 

「個人的には、身体的な成長が完全に終わるまで飲酒をお勧めできません。でも、どうしてそんなことを?」

「……別に、何だっていいだろう」

 

 今度はリオンが口ごもる番だった。

 何となく予想はつくが、彼の言うとおりである。「それもそうですね」と、フィオレはあっけなく食い下がった。

 そのまま、特に会話をかわすことなく高級住宅街を抜け、ヒューゴ邸へと帰還する。その時、再びフィオレが口を開いた。

 

「ところでリオン」

「なんだ」

「いつまで私の腕に握りしめているおつもりで?」

 

 どうも無意識であったらしい。指摘された途端、リオンは即座にその手を離した。さっそく皺がよってしまった袖を伸ばしつつ、開かれた門から庭園へと至る。

 昨日フィオレをいぶかしがっていた警備員二人だったが、今日は中から出てきたせいもあるだろう。当たり前のように通してくれた。

 庭園の中ほどへ差し掛かったところで、フィオレは彼を呼びとめた。

 

「リオン」

「今度はなんだ」

「今この場で手合わせを望みます。構えてください」

 

 勢いよく振り返ったリオンはひどく驚いたような顔をしているが、フィオレはもちろん本気である。

 その頃にはもう、漆黒の刃を持つ短刀を抜いていた。

 切っ先はリオンをしっかりと捉えており、途端に鋭さを帯びたその眼は油断なく彼の所作を余すことなく観察している。

 

「これで僕が勝ったら、念話とやらの正体を白状するんだな?」

「構いませんよ。私はあなたの実力が知りたいだけなので、積極的な攻撃は仕掛けません。ただし、咄嗟の攻撃は私にも制御しかねますのでご了承ください」

 

 多くの戦士がそうであるように、フィオレとて常に考えて攻撃しているわけではない。

 普通に攻撃を仕掛けるならともかく、カウンターの類はほとんど反射的な行動で、意識して抑えられるものではなかった。

 

「勝敗のつけ方ですが……どんな手段を使ってもかまいません。私に血液と同等のものを流させたら、あなたの勝ちとします。制限時間は、あなたの体力が続く限り」

 

 納得したように頷き、麗しの少年剣士は愛剣を抜き放つ。

 それが、突如持ちかけられた手合わせの始まりだった。

 

「いくぞ!」

 

 曲刀が風を切り裂き、フィオレに迫る。街角で行ったのと同じように、刃同士を合わせることでリオンの動きを封じようとしたフィオレだったが、それはリオンの予想範囲内のことだった。

 漆黒の刃からわずかに軌道をそらし、火花を散らしてシャルティエの切っ先は防御を突破する。しかし。

 

「ぐっ!?」

 

 切っ先が火花を散らしたのを見るや否や、フィオレは半歩踏み込みながら体勢を半身に切り替えていた。

 そして突っ込んできたリオンの首元へ懐刀を握った腕の肘を突き出し、彼の喉を盛大に詰まらせている。

 

「……ふむ」

 

 耐え切れず咳き込むリオンに追撃することなく、フィオレはただ距離を空けている。

 刺突そのものの速度に関しては申し分ない。以前の失敗を繰り返さない、その判断も悪くはない。ただし、彼は見かけ通り打たれ弱いようだった。今も患部に手を当てて咳き込むだけで、それ以外の行動が見受けられない。

 迎え撃つ角度を見て、突きの角度を瞬時に修正したその動体視力に文句はない。が、回避、あるいは防御されたらどうするべきかを考えていないように見える。

 あの時とは違って冷静なのだから、考えられないわけではないと思うのだが……

 首へのダメージから立ち直ったらしいリオンが、今度は下段へと構えなおす。

 

「たああっ!」

 

 気合も高らかに繰り出された斬撃を、フィオレは冷静に捌いて退けた。

 やはり、斬り込む速度は一定水準以上のものがある。手数の多さ、切り返し、踏み込みなども、荒削りながらも磨けば更なる向上が期待できると断言できた。しかし、ここに至るまで決定的なまでに、悲しいまでに彼の弱点は見てとれる。

 斬撃の手数は多いものの、拍子抜けするほどに軽いのだ。

 これでは肉体に刃先が到達したところで、皮を裂くのが精一杯だろう。肉を、骨を断つことはできまい。その軽さときたら、フィオレが鼻歌交じりに片手でどうにかできるほどである。

 この速さに加えて手数の多さなら、二流剣士程度はきりきり舞いにさせて翻弄し、相手の消耗程度で本命の一撃を確実に入れてしまえば、それで終わるのだが……ある一定以上の相手には通用しない。

 むしろ派手に動き回る相手をそのまま、自分は最小限の防御で持久戦を続ければ、勝手に相手は体力を消耗してくれる。まことにあしらいやすいといえよう。まさに今、フィオレはそれを実践しているのだから。

 これは腕力の問題だけではない。致命的なそれに重ねて、重心や体重のかけ方、タイミングなど、全く考慮がされていない──我流の域を出ていないのだ。

 こうしている間にも、リオンの息は上がっていく。見る間に消耗の色が見て取れ、前髪の間から垣間見える額には、汗がじわりと浮いていた。

 彼にとって都合が悪いことに、フィオレはリオンの様子だけを見ていたわけではない。その太刀筋を余すことなく観察してはいくつかのパターンがあることに気付いており、一見複雑に見える斬撃の連なりは、彼女にとって決まった型をなぞらえる剣舞と化していった。

 こうなると、捌く側のフィオレも単調に踊るのと大差なくなる。

 そのことに気付かぬまま終わるか、それとも気付いて戦況を変化させんと目論むか。結果として、彼は後者を選んだ。

 

「……っ!」

 

 攻撃が通じないことにか。形のいい唇を噛み締め、一度大きく間合いを取る。

 上がった息を深呼吸ひとつで整え、彼は口元を忙しなく動かし始めた。

 

『坊ちゃん!?』

 

 シャルティエの反応は、それだけ威力の大きな晶術を使うつもりなのか、はたまた違う理由か。

 どちらにせよ、呑気に傍観するわけにはいかなさそうだ。同時に、フィオレもまた詠唱を始める。

 今彼を仕留めるのは容易いが、積極的な攻撃はしないと断言した以上、フィオレには防御か回避しか選ぶことはできない。

 

「母なる抱擁に覚えるは安寧──」

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──

 

 譜歌を紡ぐフィオレと同時に、彼の晶術も完成した。

 

『つぶては空を駆け、我が敵を殴打せん!』

「ストーンブラスト!」

 

 どこからともなく現われた拳大の石が数個、四方八方からフィオレに向かって殺到する。

 どれだけ素早く振り回しても、所詮は短刀でしかない得物ですべてを叩き落とすのは至難の技だろう。

 その直後、【第二音素譜歌】不可侵の聖域(フォースフィールド・サンクチュアリ)が発動した。描かれた譜陣より立ち上る半透明のドームは、飛来する石つぶてを弾いて彼女の足元へ転がしていく。

 驚愕にリオンが目を見開く間にも、譜陣は消滅した。彼は半ば独り言のように、かすれた声で今の現象の説明を求めている。

 

「……今のは、なんだ」

「手品では納得できませんか?」

「当たり前だ!」

『ぼ、坊ちゃん、落ち着いて……』

 

 ここに至って、彼はとうとう癇癪を起こした。シャルティエの、混乱しつつもなだめるその言葉も、さっぱり耳に入っていない。

 

「先ほど当たり屋を眠らせた時といい、今といい! 一体何をしたんだ、今のは晶術ですらなかったはずだ! そもそも、普通の人間が晶術を使うなど聞いたこともない!」

 

 彼が混乱するのも無理はないだろう。何せ今使ったのは、フィオレが生を受けた世界でさえマイナーなものなのだから。だが、それを答えてやる義理はない。

 声を荒げる彼に対し、フィオレは殊更冷静に言葉を放った。

 

「それで終わりですか」

「……何だと」

「私はあなたの技量が見たくて、手合わせを申し入れたのです。あなたはあなたの保有する実力を、出し切りましたか?」

 

 彼の疑問に答えてやる義理はない。条件を満たせない以上、先ほどの疑問に答える義務すらない。

 あえてリオンの言葉を無視する形で、フィオレは手合わせのことについて言及した。

 

「自らの常識に縛られることが、どれだけの油断を招くのか。今の経験に基づいてそれを学習することを望みます。それと、今の質問にお答えすることはできません。理由はどうぞ、勝手に解釈してください」

 

 そう言って、フィオレは懐から鞘を取り出し、短刀をその中へと納めている。

 その光景を前に、リオンはその眉間に縦筋を刻んだ。

 

「何のつもりだ。まだ僕は戦える」

「承知の上です。ですが──「お二方!」

 

 屋敷の正面玄関が開き、丈の長いエプロンドレスに身を包んだ女性が姿を現した。そのまま彼女は、二人のもとへ駆け寄ってくる。

 彼女の姿を認めて、リオンは眉間に刻まれた筋を綺麗に消し去っていた。

 

「マリアン?」

「おかえりなさいませ、リオン様、フィオレさん。昼食の用意が整っておりますので、広間へどうぞ」

 

 ふと見やれば、太陽は中天に座している。これ以上昇ることはなく、あとは地平線へ向かって降りゆくだけだろう。

 

「まあ、そういうことです。勝負なしということにしましょう。実際がどうなのかは、あなたがよくご存知であるはずですから」

「っ!」

 

 現実として、リオンは息を荒げているのに対し、フィオレは汗ばんですらいない。

 息を乱した彼に対して、フィオレは涼しい顔でマリアンに昼食の内容を尋ねている。

 あまつさえ、汗を流すようマリアンに促され、素直に頷くリオンを横目で見て薄笑みを浮かべる始末。

 運悪くその瞬間を見てしまい、激昂したリオンが声を張り上げようとしたのを知ってか知らずか、フィオレはとっとと屋敷へ向かっていってしまった。

 

「フィオレさん宛てに小包が届いておりましたので、お預かりしてます」

「ご苦労様です」

「よろしければ、こちらのお荷物もお預かりしますが」

 

 あまつさえマリアンに話しかけ、リオンの苛立ちを増幅させる始末。

 ひとり庭園に残ったリオンは、嘆息しつつも軽く前髪をかきあげた。

 

『坊ちゃん、行かないんですか?』

「シャル、心当たりはないか? あの女が何をしたのか──」

『いえ。僕にはただ歌みたいなものを歌って、そうしたらバリアーみたいなものが展開したように見えました』

 

 聞きなれない単語を耳にして、愛剣にその意味を問い質す。

 

「バリアー?」

『水の属性を持つ防護系の晶術です。昔の仲間が得手としていた晶術ですが、彼女はソーディアンを持っているようには見えないし……あんな風に全方向じゃなくて、前方のみだったはずですから、やっぱり違うんじゃないかと思います』

「謎だらけか……なぜあんな胡散臭い奴を雇い入れたんだろうな、ヒューゴ様は」

『坊ちゃんが気絶している間に色々と調べていたようですけど……彼女強かったですねー。人は見かけによらないとは、よく言ったものです』

「……マリアンの気配も、感じ取っていたようだしな」

 

 フィオレが短刀を納めたタイミングは、単なる偶然とは言いがたい。前後の言動といい、明らかにマリアンの接近を知って、彼女は手合わせの終了を告げたのだ。

 リオンとて、気配の探り方を知らないわけではない。しかし、あのような激しい稽古直後において他人の気配に気付けるほど、熟達しているわけでもなかった。

 

「胡散臭いからこそ、正体を暴くために雇い入れたのかもしれない……ヒューゴ様の目も、節穴ではなかったということか」

『……言い方はアレですけど、まあ不思議な人ですよね。強さといい言動といい』

「怪しいことに変わりはない。記憶障害……は、本当かもしれないがな」

『あれだけ不思議な反応をされると、むしろ牧場とかに連れて行ってみたくなりますね』

「……面白そうだな」

 

 その分質問攻めにされそうだということを、彼らは気付いているか否か。

 この様子だと、多分考えていないだろう。

 

『だけど珍しいですね。坊ちゃんが、他人に興味を示すなんて。いつもは必要以上に遠ざけようとするのに……』

「別に興味なんか……!」

 

 言いかけて。彼は唐突に口を閉ざした。

 リオンが来ないことをいぶかった誰かが近寄ってきたから、ではない。

 

「あんな胡散臭い女、どうすれば興味を持たずに接することができるんだ。念話とやらのこと、手品各種のこと、そしてあの強さのこと……知れば知るほど謎が増えていく。こんなに好奇心が刺激される生物はいないだろう」

『生物……』

 

 年頃の女性に向かってひどい言い草ではあるが、否定できないのはリオンが彼の主人だから、だけではない。

 

「ともかく、まずはあの女に一泡吹かせて念話とやらのことを聞き出すんだ。とぼけられる前に決着をつけたい……午後に再戦するぞ、シャル」

『はい!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十六夜——そして念願の書庫へ

 ジルクリスト邸広間~書庫。マリアンはいい人。「都合の」いい人じゃなくて、「リオンにとって」いい人。これは間違いない。
 読書=本来の目的を邪魔されて、そこはかとなくご立腹。マリアンとの会話がなければ、ガン無視で本日のイベントは終了でした。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 用意されていたサンドイッチをつまみつつ、マリアンに淹れてもらったお茶を飲む。言いつけられた仕事さえしていれば、黙っていてもご飯が出てくるとは、何と贅沢なことであろうか。

 ヒューゴ氏は仕事があるとかで明日まで屋敷には戻らず、リオンは今頃浴室だろう。今この場で昼食を摂るのはフィオレ一人のみ。

 思いの他、簡単にリオンの実力を測ることができたわけだが、出来る出来ないに関わらず、思っていた以上にバランスが悪かった。

 もし彼が教えを請うてきたならば、まず改善すべきはそこだろう。性格からしてなさそうだが。

 この時点で、フィオレは積極的にリオンに剣術を指南してやるつもりはない。目の前に転がる原石を磨くよりは、自分の都合を優先させるべきだと思っているからだ。

 興味がないわけではないが、客員剣士として招かれるだけあって、それなりの実力は有している。フィオレよりは実力も経験もなかっただけで、けして弱いというわけではない。

 言動から察して己の腕に誇りを持っているようだし、フィオレに負かされたことをさぞや屈辱的に思っているだろうが、その思いは時として人を大きく成長させもすれば極端に歪みもさせる。彼がどちらに行こうと、あまり興味はなかった。むしろ、彼自身よりは彼の愛剣に至極興味がある。

 シャルティエといったか、あの曲刀。一連の言動から鑑みるに、少なくとも視覚を備えている人格があの球状の飾り──日車草色のレンズに宿っているらしいが、一体どんな仕組みなのだろう。

 件の物語「ソーディアンサーガ」の記述を思い起こしてみる。そもそも、ソーディアンはとある戦争を終結させるために作られた剣型対人兵器で、所有者となる兵士の人格をコアクリスタルと呼ばれるものに「投射」し、知能を持ち言語を操ることが可能となった。

 この時点でコアクリスタルが何なのか、はっきりと描写はされていなかった気がする。

 ユニットがどうとか、そんなことも書いてあったような気がするのだが……いかんせん記憶が古すぎて、思い出せない。

 

「……あの、フィオレさん」

 

 マスタードがぴりりと効いた、ローストビーフの豪勢なサンドイッチをもふもふやりつつ、声の主を見やる。

 現在、フィオレの給仕をしているのは彼女一人であるからして、マリアン以外に他の人間はいない。

 口の中のものを飲み下し、たっぷり何秒か後に、フィオレはやっと返事をした。

 

「何か?」

「先ほどのお荷物は、お部屋に届けさせておきました。後ほど中身をお確かめください」

 

 はーい、と気の抜けた返事をして、席を立つ。午後はいよいよ、ヒューゴ氏の言っていた資料を見せてもらおうと思っていたところだ。

 広間へ向かう最中見つけたレンブラント老に、すでに話は通してある。昼食後、鍵を受け取る約束なのだ。

 

「ごちそうさまでした。美味しかったです」

「あ……あの!」

 

 そのまま出ていこうとして、呼び止められる。くるりと振り向けば、盆を抱えるようにして立つマリアンの姿があるだけだ。

 まだ何か告げるべきことがあるのだろうか。

 

「リオン様の……ことなのですが」

「彼がどうかしましたか」

「その、共に行動をされて、ある種の奇行を目にされたかと思います。ご自分の剣に話しかけられたり、至極冷酷な言葉をかけられたり、と……」

 

 前者は間違いなく奇行だが、後者は単に性格的なものではないかとフィオレは思っている。否定することはしないが。

 

「ええ、ありましたね」

「精神的な病を患らわれているわけではないのです。一種のその、癖というか。ですからどうか、そのことに偏見を覚えないでください。あの方は一度機嫌を損ねると、抑えがきかないところがございますので……」

 

 しどろもどろと語るマリアンに、フィオレは内心微笑ましさを覚えていた。

 何のことかと思いきや、主人の息子……否、彼女はリオンの世話役を命じられていると言っていたから、主人そのものか。

 そのフォローを語るとは、主人思いというか、何というか。家政婦(メイド)の鏡と言えば聞こえはいい。しかし、フィオレの中ではある種の邪推が渦を巻いていた。

 

「ご忠告ありがとうございます。そのことでしたら多少見聞きしておりますゆえ、どうかご心配なさられぬよう」

「は、はい……」

「そんな注意喚起してしまうほど、彼のことが心配ですか?」

 

 敬語を向けられることに慣れていないのだろうか。

 どこか戸惑ったように頷く彼女に、悪戯心と好奇心を持って尋ねる。

 マリアンはわずかな沈黙を挟んで、再び首肯した。

 

「あの方は、自ら進んで孤独であろうとしています。奇行であったり、わざと他者を排除されるような言動を取って、反感を買ったり……お傍で見ていて、時に痛々しくなるほどに。本当はとても素直で優しい子なのです」

 

 少年の言動の端々が痛々しいのは同意しよう。しかし、素直で優しい、ときたか。あれのどこにそんな要素があっただろうか? 

 確かに、彼女にしか見せないその面を間近で見ていたら、そう思うのも仕方ない気もするが。

 

「……失礼を承知でお尋ねします。それはあなただけなのでは?」

「そんなことはありません」

 

 一瞬の間も置かず否定したマリアンを見て、どこかがっかりするような気分に陥る。

 リオンがマリアンに対して、特別な心を持っていることは明らかだ。でなければ、街中で絡まれている自分の家の家政婦(メイド)を目にして、あそこまで頭に血を上らせないだろう。

 もともとフェミニストじみた性格なのかと思いきや、なかなか冷静冷酷冷徹にして冷めた少年なのだ。

 その彼が、マリアンを前にしたときだけは意識して引き締めている眼が和らげている。普段の突き放すような態度が、一転して年相応のものとなる。それが親愛なのか愛情なのか、それはまだわからない。

 思春期の少年という偏見だけで考えれば、可能性が高いのは後者だが。しかし、彼の心が向けられた当の本人には、あまり伝わっていないらしい。

 

「今までにも、リオン様に正統な剣術を、と思われたヒューゴ様は、何人もの指南役を雇われました。しかし全員、リオン様の態度に問題があると言って、ご辞退されてしまったのです」

「新しい指南役である私に、彼を理解してもらいたい、と?」

「お願いしたく思います。これ以上あの子……いえ、リオン様には孤独であってほしくないのです。私のようなものがリオン様の心配など、出すぎた真似であることはわかっていますが」

 

 いい人だー。

 フィオレは掛け値なしでそう思った。とはいえ、安易に頷くような、軽率な真似はできないが。

 

「お話はよくわかりました」

「では……!」

「少なくとも、あなたがどれだけ彼のことを想っておられるのか。新参者である私がどれだけ彼を理解できるのか、それは未知数なのですが。ヒューゴ様より雇われている以上は、精いっぱい努めさせていただきたく思いますよ」

 

 今度こそ、きびすを返して広間を出る。彼女はその足で、レンブラント老が待つと言っていた鍵の保管場所──管理室へと赴いた。

 もちろん初めて赴く場所ではあるが、レンブラント当人から道順を聞いているため、問題はない。同時に、道順を辿る最中でどこに何があるのかを把握していく。

 どちらかといえば挙動不審につき、目撃した数人の家政婦(メイド)がヒソヒソと立ち話を始めるものの、気にしないことにした。ここで言い訳なぞ始めたらなお怪しい。

 そんなこんなで、管理室へとたどり着く。そこは窓のない小部屋で、各部屋の鍵が硝子ケースの中で厳重に保管されていた。

 

「これが、書庫の鍵でございます」

 

 古びてはいるがよく手入れされた、大きな鍵が手渡される。

 鈍色に光るそれの頭には檸檬色のリボンが通されており、大きさのせいかずっしりと重い。

 

「ありがとうございます」

「それと、こちらがお部屋にあった金庫の鍵、こちらがキャビネットの鍵です。部屋には毎日メイドが掃除に入りますが、そういった他者に触られては困るものの保管にお使いくださいませ」

 

 それぞれ、金色の鍵と銀色の鍵が渡される。

 部屋に鍵がついていないことから、荷袋などは机の引き出しを外したその奥へ放り込んでおいたが、これからはあの箪笥型の保管箱へ入れろということか。

 ただ、彼のすぐ近くにマザーキーらしき鍵があるのが気になる。依存はしないほうがよさそうだ。

 ともかく、礼を言ってまず自室へ戻る。机の上にふたつの小包が置かれており、掃除はすでに済んでいるのか、乱れていたはずの寝台は整えられ、シーツも交換されていた。

 ただ──仕掛けておいたあるモノまでなくなっているのが気がかりだ。それは、机の引き出しに挟んでおいたフィオレ自身の髪である。

 掃除をするだけならおそらく触れられないはずだが、仕掛けておいた髪は影も形も見当たらない。

 幸いなことに、もともとカラだった引き出しに動物の死骸が詰まっていたとかそういったこともなく、すべての引き出しを外して初めて取り出せる位置に放り込んでおいた荷袋も無事だったが、楽観はできなかった。

 ともかく、荷物を整理するのは後にして、小包類はそのまま、机の奥に荷袋を再度放り込む。

 それからやっと、彼女は書庫に赴きその扉を開いたのだった。

 部屋自体はおろか、立ち並ぶ本棚の規模は広く、書物保護のためか、分厚いカーテンが下ろされている。

 知識の塔に比べればもちろん劣るが、民間の学者が保有する量としては異常とも思える蔵書量だった。ぐるりと回ってみれば、それなりに整頓されていることがわかる。

 歴史、地理、考古学、伝承──他にも様々なものが収められているものの、優先するべきはそのあたりだ。

 カーテンを引っ張り、書物に影響がないような位置で日光を取り入れる。薄暗い書庫に明かりが差し込んだところで、選んだ本を手にとった、その時。

 コンコンッ、と性急なノックがしたかと思うと、唐突に扉が開いた。

 

「ここにいたか」

 

 聞こえたのは、変声期を過ぎた少年の心地よい低音である。声の質からリオンであることは明らかだったが、今のフィオレに断言はできない。

 何故なら彼女の目はすでに、見開きの頁へと張り付いていたからだ。

 

「何か御用でも?」

「大有りだ。貴様に再戦を申し込む。僕が勝ったら、念話のことを白状してもらうぞ」

「……」

 

 のぞかせた藍色の瞳で頁を追いながら、フィオレは長々とため息をついた。

 突っ込みどころが多すぎて、どれから指摘したものかと悩む。

 

「おい、聞いているのか!?」

「うるせぇなわめくんじゃねーよ。耳に障る」

『!』

 

 かぶり続けていた猫が取れて、ドスの聞いた声音でつい本音が飛び出した。

 驚きで絶句しているらしいリオンに向けて、一応説明を述べておく。

 

「失礼。言い忘れていましたが、私は普段猫をかぶっています。ふとした瞬間に猫は逃げますが、気にしないでください」

「そ、そういう問題か……」

「そういう問題です。で、再戦についてなのですが」

 

 手にした書物の頁が進み、細い指先が羊皮紙を撫でた。今に至るまで、フィオレの瞳は一度たりともリオンを映さない。

 

「あなたは先ほどの条件で──攻撃をしない私に、勝利するおつもりですか」

「!」

 

 動揺の気配を察するに、彼は念話のことを聞きだすつもりで言ったらしいが、彼が言ったのはそういうことだ。

 先ほどあしらわれ続け、なおその屈辱を繰り返すつもりなのだろうか。

 

「そ──それは……」

「どうして私が先ほどの条件を出して手合わせを望んだのか、わかりますか? あなたの実力を測るためであって、その前に昏倒されても困るからです」

 

 ぺらり、とまた頁がめくられる。文字の羅列を追いつつも、フィオレの意識はしっかりとリオンに向けられていた。

 黙りこくってしまった少年に、重ねて言葉を突きつける。

 

「そんなことも考えられないくらい、念話のことを知りたいという気持ちはわかりました。ですが、再戦を望むのなら条件を変えさせていただきます。それでも?」

「……その条件が、あまりに常軌を逸脱したものでないのなら」

 

 そこで初めて、フィオレはリオンの姿を認めた。

 藍色の瞳には、僅かながら驚きと、珍しいものでも見るような意味合いが見て取れる。

 

「なんだ、その眼は」

「生まれつきです。難しい言葉をご存知だなと思いまして」

「……お前、僕を馬鹿にしているのか?」

「そう聞こえたならば謝罪します。あくまで正直な感想ですが」

 

 開いていた本を閉じ、フィオレは少し考えるような仕草をしてから、条件を言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十七夜——頼まれたと思ったら、子供に手を出す変態扱いされました。

ジルクリスト邸中庭~リオンの部屋~私室。やる気こそまったくありませんが、それでも仕事として認識している模様。




 

 

 

 

 

 

 

「くそ……!」

 

 ぐっ、と両腕に力を入れて。リオン・マグナスは己の身体を起こした。

 これでもう、何度目になるだろうか。徐々に傾きつつある太陽を背に、少年は疲労の色を隠しきれなかった。対して、対峙する相手にそんな気配は微塵もない。

 リオンが身動きを始めた時点で腰かけていた木箱から立ち上がり、非常に億劫そうに手にしていたものを置いている。

 少年の望んだ再戦のため、二人は花壇のような障害物がなく、他人の眼もない中庭へ移動していた。

 彼女が出した条件。それは、今度は仕掛けもするし、反撃もする、というものだった。

 宣言の通り、彼女はシャルティエを振るう少年に対し生真面目に応戦し──当て身を打ち込んではリオンを気絶させ、その間に持ち出した蔵書の読書にふけっている。

 蔵書を五冊ほど抱えてきたり、庭の隅に転がっていた木箱をわざわざ持ってきた辺りおかしいとは思っていたが、まさかこんなことに使うとは。

 

「私はできるだけ早くここの蔵書を読破してしまいたいんです。雇い主のご子息とはいえ、あなたに費やす時間はありません」

 

 一度目、昏倒したリオンがシャルティエの声で目覚めた時。彼を放置して読書に集中する彼女に、抗議した彼に寄越されたのは、そんな無味乾燥な返答だった。「ちょっと浅かったかなー」とのたまいつつ、今度はリオンを投げ飛ばす始末。

 薄い胸板に受けた衝撃で、一瞬ではあるものの、肺が叩き潰されている。地面へ叩きつけられた彼に待っていたのは、フィオレによる追撃──当て身だった。

 彼が昏倒している間にも、フィオレはきびすを返して少し離れた場所に放置された書物の交換に行っている。そんなことが何回も繰り返され、現在フィオレは五冊目の書物を読破中だった。

 書庫より持ち出しを願い、彼女に許可されたのは五冊まで。今この場において、もう彼女が眼を通すべき書物はない。

 一方で、幾度も地面へ叩きつけられ転がされたリオンは、土埃にまみれていた。

 

「……そろそろ、わかる頃だと思うんです」

 

 起き上がったリオンに対し、連なる文章の羅列に視線を釘付けたフィオレが唐突に口を開く。

 書物を片手に立ち上がった彼女は、そのまま短刀を引き抜いた。鞘をくわえていた口から、ぽろりとそれが地面に転がる。

 

「戦術も立てず、がむしゃらに仕掛けることがどれだけ無意味で危険なことか。これが実戦だとしたら、あなたは幾度お亡くなりになられていることでしょうね?」

「……っ」

「そんなことは承知と仮定して。大切なのはその教訓を、どうやって生かすことか」

 

 右の手に短刀、左手に書物。視線を書物へ釘付け、短刀を絶えずリオンに向けたその状態を維持したまま、フィオレは一端口を閉ざした。

 体中の土埃を払いもせず、リオンは愛剣を握りしめたまま、次の言葉を待っている。

 彼女の言葉を聞こうとしているのではなく、悠長に話している隙を突こうという魂胆か。

 

「どうして私に勝てないのか、そろそろ考えてみませんか?」

「……僕がそのことを欠片も考えていないような口ぶりだな」

「まったくその通りです。本当に考えていたなら、そんな無様な姿にはならなかったでしょうに」

 

 紛れもない侮辱が、リオンの憤怒に油を注ぐ。

 これまで眼を背けてきた敗北という屈辱と、幾度もあしらわれ、力が及ばないことに対する怒りが、彼の中でない交ぜとなった。

 屈辱と怒りが憤怒の炎を燃え立たせ、リオンの理性を徐々に焼き焦がしていく。

 ふと、フィオレが口を噤んだ。書物の頁に視線を走らせていた彼女の眼が、書物から切り離される。パタン、と音を立てて書物は閉じられた。

 それを後生大事に抱えてきびすを返したのは、読破し終えた証拠である。一見無防備な後姿は、明らかなリオン軽視の印だった。少なくとも、彼はそう感じている。

 考えるよりも早く、リオンは弾かれたように特攻した。気配も足音も隠さなかったが、何しろ距離が距離だ。気付くよりも前に、シャルティエは彼女の背を捕らえていることだろう。

 視界はあっという間に彼女の背中で埋め尽くされ──

 

「それなんですよねー」

 

 刺されたことによる悲鳴でもなく、咄嗟の回避による呼吸音でもなく。のんびりとして、どこか呆れさえ含んだ声音が耳朶を打った。

 気がつけば、フィオレの背中が右端に移動している。

 軌道修正ができないリオンは、シャルティエを構えたまま、すんなり突進を回避した彼女の隣を通過して。

 

「!」

 

 咄嗟に止まれない足が勢いよく何かにひっかかり、盛大に転んだ。何度も横たわることになった地面が、急激に近づいてくる。

 顔面から硬い地面に突っ込むことを覚悟して、リオンは強く歯を食いしばった。

 

「屈辱、怒り、劣等感。それがある限りは、何も考えられないでしょうね」

 

 急激に首が絞まり、「ぐ」と勝手の喉の奥から音が零れる。状況はすぐにわかった。

 リオンが地面と接吻寸前であることを知ったフィオレが、彼の首根っこを捕まえて説教をかましたのである。子猫のように掴まれて、リオンは当然暴れだした。

 

「離せ!」

「いいですよ」

 

 フィオレは淡々とその要求に従っている。彼を捕まえる手を離し、地面に膝をついたリオンを省みず、悠々と書物を置きに向かった。

 そうして、帰りは手ぶらで戻ってきて……立ち上がろうとしないリオンの眼前に、腰を下ろす。

 

「立てますか?」

 

 覗き込むように尋ねられ、リオンは返事もせずに立ち上がった。そのまま顔を背け、彼女から逃げるように走り去っていく。

 その背を見送って、立ち上がり──フィオレは後ろを見やった。持ち出した五冊の本は、中庭の端に放置されていた木箱を持ってきて、その上に置いてある。

 そのすぐ前に、丸い飾りを刀身の根元にあしらった曲刀──シャルティエが転がっていた。転んだ拍子に手放した愛剣を、彼はそのまま屋敷へ戻ってしまったのである。

 普段ならば置いていかれたことに悲鳴を上げるだろう彼は、リオンの心情を思いやってだろうか。終始沈黙を貫いていた。

 フィオレの仕打ちに何かを思ってか、彼女にも何かを話しかけようとしない。とはいえ、この場に放置するのはいただけない。

 後で彼の部屋に届けてやればいいと、フィオレはシャルティエを拾い上げた。

 

『思っていた以上に、守ることが苦手なんですね』

 

 戯れに、シャルティエへ話しかける。殊更返事が欲しかったわけではない。

 ただ、リオンの相棒たる彼に話しておきたいことではあった。

 

『攻撃は最大の防御、という理論はけして間違っていないと思いますし、私も大概同じ戦法をとっているんですけど。何であれひとつのことに囚われすぎるのは、危険です』

『……どうして?』

 

 押し殺したようなシャルティエの言葉に、フィオレは書物を回収しながら答えている。

 

『それが崩れたときの衝撃は私たちに多大な影響をもたらすからです。その影響に乗じて、自らを高めることができるのであればそれでも構わないのでしょうが、生憎私はそれに耐えられるほど強くない。人という生き物の大半がそうだと、私は思っています』

『坊ちゃんもそうだ、って言いたいの?』

『あなたは彼が、数少ない例外に属すると思いますか? 私は思いませんね』

 

 転がる短刀の鞘を拾い、屋敷へと戻る。

 抜き身のシャルティエを伴って書庫へ赴き、丁重に書物を本棚へと戻した。

 

『……あの、さ。さっきは何で、いちいち坊ちゃんを怒らせるようなことばっかり言ったの?』

『意図して怒らせようと試みたから、ですが』

 

 あっけらかんと自分の目論見を告げるフィオレに、シャルティエは嘆息と共にその真意を聞き出そうと試みている。

 

『やっぱりそうなんだ……おかしいなとは思ってた。だけど、どうして坊ちゃんを怒らせる必要があるのさ』

『彼が私を倒すほどの実力を身につければ、私の役目はお終いです。弟子より弱い指南役など、何の役にも立ちませんから。そして私は、晴れて自由……もとい解雇』

『それで、坊ちゃんをやる気にさせるために? 意味あるのかな、そんなの』

 

 シャルティエの声はどこまでも懐疑的だが、フィオレには自信があった。それはすべて、彼女の経験則によるものである。

 もちろん「彼」の場合と異なる点は多々あるだろう。それでも、これだけは言える。

 

『私をより憎たらしく思わせれば、それなりに上達は早まるでしょう。ましてや成長期の男の子ですから、特に身体能力は思うように伸ばせるはず』

『……なんで、そんな風に断言できるの?』

 

 ふと、シャルティエの声に含まれた懐疑の念が一層強まった。

 記憶障害を自称した彼女にしては、あまりに違和感のある発言だと思ったのだろうか。

 

『怒り、悲しみ、憎しみ、嫉み……その他負の感情は、時に抱いた本人をも破滅させるほどの力を持つと、知識の塔で学びました。人体についての仕組みも多少ね』

『ふぅーん……』

 

 どこまでも疑わしげなシャルティエの態度に苦笑しつつ、リオンの私室へと赴く。

 書庫で新たな書物を借り、それを私室へ置いてきたために夕日と化した太陽は半分以上沈んでしまっていた。

 

「リオン、入りますよ」

「……」

「リオン?」

 

 三回ほど扉を叩き、返事はないが突入する。在室は気配でわかったものの、返事がないのは先ほどのことを引きずっているせいか。

 何にせよ、罵詈雑言を浴びる前にシャルティエを置いてさっさと戻るつもりでいた。

 扉を閉め、薄暗い部屋を見渡す。許しも得ずに踏み入った先は、フィオレの私室とさして変わらない殺風景な部屋だった。強いて違う箇所を挙げれば、本棚にみっしりと書籍が詰まっているところか。

 

『坊ちゃん?』

 

 そして部屋の主はというと、無言のまま寝台でうつぶせになっていた。着替えた際に汗を流したのか、華奢な体はシンプルなバスローブに包まれている。

 シャルティエが常に収まっている鞘は、机の上に置かれていた。気配からして、寝ているわけではない。

 フィオレに侵入されたとわかっているはずなのに、先ほどから大人しいのはなぜか。

 ……何となく、心当たりはあった。

 

『坊ちゃん、どうしちゃったんですか、坊ちゃん!』

 

 心配するシャルティエを鞘へ収め、彼の枕元へ向かう。リオンの肩を強めに叩けば、彼はびくりと体をすくませ、のろのろと顔を上げた。

 気だるげだった瞳が、自分を覗き込むフィオレを目にして即座に力を帯びる。

 

「……何の用だ」

「シャルティエをお届けにあがりました。鞘に収めておきましたから」

「……用が済んだら、さっさと「出て行きますよ。でも、後もうひとつ。明日、私のせいで起きられないと文句をつけられても嫌ですから」

 

 横たわりながら虚勢を張る少年の枕元を離れ、「失礼」と一声かけると、彼女は寝台に上がりこんだ。

 ギシッ、と寝台が、二人分の体重を受けて苦情を零すかのように鳴る。

 

「なっ、何を──!」

「やらしい誤解をなさらぬように。そのガチガチに強張っているであろう筋肉をほぐして差し上げるだけです」

 

 言うなり、フィオレはうつ伏せになったリオンの胴にまたがった。

 それ以上の抗議が上がる前に、まずは背中を揉み解し始める。

 

「う……」

 

 ──以前にも、こんなことがあった。

 とある事情でフィオレが教えていた少年が、彼女による修練を初めて受けて迎えた翌朝。体中が痛くて起き上がれないと少年は訴えたのだ。

 当時のフィオレは、それを怠慢による仮病だと思っていたのだが……彼の体の強張りようを知って、重度の疲労を引き起こしていたことを知る。

 それからというもの、少年の体が修練に慣れるまで彼女は毎夜、酷使させた筋肉を丁寧にほぐした。もちろん素人であったがゆえ初めはかなり手間取ったのが、試行錯誤を経て、最終的には一国の王女も気にいるような腕前に仕上がっている。

 今のリオンが筋肉痛を起こしているかは定かでないが、少なくとも慣れない手合わせで精神はおろか、身体的にも消耗しているのは明らかだ。施しておいて損はないだろう。などという目論見のもと、彼に按摩を施し始めたのだが。

 嫌がって暴れるだろうと予想していたリオンの反応だが、意外にも大人しく揉み治療を受けている。抵抗する気力もないのか、それとも早くも効果が上がっているのか。

 特に強張っている腰の辺りを押す際、艶っぽい吐息を零したのを聞くと後者だと判断していいのだろうか。不気味なほど静かにしているリオンの太腿、ふくらはぎに按摩を施し、足の裏のツボをいくつか押していく。

 

「……っ」

「痛いですか?」

「痛い、ような、気持ちいい、ような」

「正常な感覚です」

 

 足の裏全体を揉みこむようにしてから、細い両肩に手をやった。思った以上に弛緩──リラックスしている。

 両肩から二の腕、肘から先にかけて筋肉そのものをほぐすように揉んでやり、最後に頭に手をかけた。

 

「頭、触りますよ」

「?」

 

 柔らかい猫毛の、艶やかな黒髪がフィオレの指先に絡まる。伝わってくる彼の戸惑いに答えるかのように、指の腹でツボを刺激し始めた。

 押されるたびに、抑えきれない吐息を零すリオンが、彼に被る。最も「彼」は、心地がいいという素振りを見せたがらなかったが……

 

「まだどこか、強張っているような箇所はありますか?」

「……肩」

「ん?」

「肩が少し、張っている感じがする」

 

 リオンの体からどき、フィオレは彼に起き上がるよう指示した。とても素直に従う少年をちょっぴり不気味に思いながら、寝台に腰掛けさせ、肩だけを揉んでやる。

 フィオレが彼を起こしたのには、とある理由があった。しかしリオンのほうは、そんなことはまったく考えていなかったに違いない。

 だんだん反応が鈍くなってきた少年が眠りこけてしまうことを恐れていたのだが。彼はあろうことかフィオレにもたれかかり、船をこぎ始めたのだから。無論のこと、彼女はそれを許さなかった。

 

「リオン、目を開けて。夜眠れなくなりますよ」

「……」

「リオン! シャルティエも何とか言ってください。主の危機ですよ、このままじゃ発情した私の餌食になってしまいますよ!」

『……いや。本当に餌食にするなら、そんなことは言わないでしょ』

 

 まったくもってその通りである。フィオレにショータ・コンプレックスの趣味はない。

 説得に飽きたフィオレは、ついに実力行使にうって出た。

 

「起ーきーろー!」

 

 先ほどまで揉んでいた肩を乱暴に揺すぶり、少年の覚醒を計る。功は見事に奏し、リオンはうっすらと、紫闇の瞳を開いた。

 ぱちぱち、と繰り返された瞬きの先で、険しい眼をしたフィオレの姿が眼に入る。

 

「……なっ!?」

 

 彼女の姿を認めるや否や、リオンは両肩の手を振り払って距離を置いた。

 いくらなんでも、今しがたの出来事を忘れているとは思いたくないが……顔が赤くなっているところを見ると、心配はいらないだろう。

 

「これで私の用事は終わりです。それだけ機敏に動けるなら、もう大丈夫ですね」

 

 リオンが口を開くよりも先に、フィオレは身軽に寝台から飛び降りた。そのまま速やかに扉に手をかけている。

 

「あ、おい……!」

「それでは、失礼いたします」

 

 怒鳴られるのはごめんとばかり、フィオレは扉をくぐり抜けた。

 雪色の髪が翻り、その姿が視界からなくなる。リオンは片手を伸ばしたその状態から、ゆっくりと片腕の力を抜いた。

 切れ長の瞳が軽く伏せられ、くるりときびすを返す。彼の視線の先には、鞘に収められた自分の愛剣が鎮座していた。

 

『坊ちゃん。体の調子はいかがですか?』

「……悪くは、ない。さっきまであんなに体が重かったのにな……」

 

 これまで、リオンは他人に触れられることを嫌がり、按摩や揉み治療を受けたことがない。それゆえの効果なのか、施術者がフィオレであったからなのか。

 体中を包んでいた倦怠感は、熟睡後の爽やかな目覚めであるかのように霧散してしまっている。

 

「記憶喪失のくせに、どうしてこんなことまでできるんだ?」

 

 リオンの疑問には答えられない。そんなことは、彼女でなければ答えられないだろう。ただ、彼女が言っていたことと今やったことは、多少の矛盾が生じている。

 何せ、口ではリオンの指南役など単なる厄介ごと程度にしか考えていないようなことを言っていた。

 それなのに実際は彼の不調を気遣い、丁寧な治療まで施していったのだから。それも、他人に触れられることを嫌がったリオンが暴れる可能性を考慮して、だ。

 手合わせでの態度だけなら、彼女の言葉は信用に足るものである。しかしこうなると、考えられるのは。

 

『……やっぱり、飴と鞭ってやつですかねえ』

「シャル?」

『あ、いえ。何でもありません』

 

 そのとき。コンコンッ、というノックが聞こえ、静かに扉が開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リオンの私室から廊下へ出たフィオレは、うーんっ、とその場で大きく伸びをした。

 書庫の鍵を返却すべく保管室へと赴きながら、軽く肩を鳴らす。他人に揉み治療を施すなど、久々だった。

 リオンとの手合わせのこともあってか、少々腕がだるいような気がしないでもないが、これくらいなら睡眠で回復するだろう。

 彼のことはこれでいいとして、まだフィオレ自身の問題が残っていた。

 蔵書の読破のこともそうだが、ヒューゴ氏いわく精霊結晶と呼ばれているらしい、彼らの聖域探索である。

 リオンとの手合わせ中、とある一冊に気になる記述があったのだ。その一冊だけそのまま、残り四冊を交換して私室においてある。

 そんなことを考えつつ、夜は大概保管室に詰めているというレンブラント老に鍵を返却し、私室へと戻った。

 すっかり暗くなった部屋の中、レンズ式の照明スイッチを押すと、部屋の中はまるで昼間と同じくらい明るくなった。これなら、本を読むにも支障はない。

 現在、フィオレが聖域を確認し、契約を結んだのはシルフィスティアのみ。その中で、特に探すのが困難だと思われるのは光を司るソルブライトと、ルナシェイドという闇を司る守護者たちだった。なぜなら、彼らはどこにでも存在するからだ。

 第一音素(ファーストフォニム)第六音素(シックスフォニム)──闇も光も、闇に至っては影さえあれば音素(フォニム)を集めるのはたやすい。

 故に、彼らの聖域とはどこにでも可能性があるため、資料もなしに探すならばそれこそしらみつぶししかない。

 逆に特定がしやすいのは、火を司るフランブレイブ、水を司るアクアリムスである。

 火は自然界においてそうそう発生しやすいものではないため特定は容易いし、水とて範囲は広いが、ある程度絞れることは絞れる。そんなことをいちいち挙げていけば、大地も風も探しにくくてたまらないのは同じだ。

 今回フィオレが発見したのは、おそらく大地の守護者アーステッパーについての記述である。

 残念なことに聖域のことについてはカケラも記載はないが、かの精霊結晶を崇め奉っていたとかいう部族についてのレポートだった。

 さっそく、書物に挟んでおいた髪を外し、問題の記述をじっくりと読み返す。

 事務机の中に装備されていた筆記用具を遠慮なく取り出し、問題の精霊結晶について触れてある部分を書き出し、その特徴を挙げていった。

 ……何分古い資料で、更にレポートを書いた学者の個性が文章に溢れて垂れ流さんばかりになっているが、推察するにこうだ。

 アーステッパーはシルフィスティアのような個体ではないらしい。複数の小人の姿をした精霊たちの集団を、総じてアーステッパーと呼ぶようだ。あるいは、意志を持つ小人一人一人がアーステッパーなのか。

 更に突き詰めていけば、部族が生活を営んでいたのは、温暖な気候に恵まれた地であるという。

 この時点で雪国ファンダリア、大半が砂漠だという第二大陸カルバレイスは除外された。

 半漁半農が可能という辺りセインガルドが当てはまらないことはないが、辺境の大陸という記述を鑑みれば、地図上では南西に位置するフィッツガルドという第三大陸が唯一該当する。島国密集地域であるアクアヴェイルを大陸と呼ぶような学者はおそらくいない。

 以上のことをまとめて持ち歩いている手帳に書き記し、息をつく。

 見つけた記述からわかるのはこのことくらいだが、こうして記録しておけば似たような記述を見つけたとき、比較することもできる。記しておいて損はないはずだ。

 読書で疲れた眼を揉みつつ、筆記用具を引き出しの中へ放り込む。

 そしてフィオレが次に手をつけたのは、届けられた小包だった。フィオレが自主的に購入した裁縫箱と生地類数種である。

 サラシに使用する生地がこちらでも普通に販売されていたのは僥倖だった。そのままならとんでもない長さのそれを裂き、端のほつれを整えて手頃な長さにまとめておく。

 問題は普段着の方だ。『制服』案が通ったのはいいとしても、このままにはしておけない。

 見栄え重視で間接部位に遊びがないその場所に鋏を入れて、目立たない箇所に同じような色味の生地を当てて、地道に縫い付けていく。ただ縫い付けるだけではいけない。あの目敏いヒューゴ氏に難癖つけられぬよう、慎重かつ丁寧に。

 一度袖を通して出来具合を確認していた、そのとき。

 コンコンッ、というノックが聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼します、リオン様」

 

 一人の家政婦(メイド)が、一礼して静々とリオンの私室に入室する。

 その姿を認めて、リオンは無意識に微笑みかけた。

 

「マリアン」

 

 リオンとは似て異なる長い黒髪が、照明の光を受けて天使の輪を描く。

 この屋敷にて家政婦(メイド)長を務める、彼の母の面影を宿した、愛しい想い人。

 立場をわきまえているがゆえに、人前では敬語を貫く彼女を前にして、リオンは年相応の素顔に戻った。

 

「そんな呼び方はやめてくれ。今は、誰もいないんだ」

 

 ──そう。フィオレが推測してみせたように、リオン・マグナスは彼の本名ではない。

 ヒューゴ・ジルクリストの実子たる本名を、彼は自分の慕うマリアンにだけ、呼ぶことを求めていた。

 

「エミリオ。大丈夫?」

 

 エミリオ・カトレット。

 ジルクリスト姓の戸籍が抹消されて以降、彼に残されたのは母クリス・カトレットの第二子であることを示す、その姓だけだった。

 普段の刺々しさが消えてなくなり、無邪気に首を傾げるリオンとは正反対に、マリアンの瞳は焦りにも似た光が宿っている。

 

「大丈夫って、何が……」

「隠さなくていいのよ、エミリオ。今、あの……フィオレ様が、いたでしょう?」

 

 何故彼女がそれを知っているのか、考えることもなく、リオンはひとつ頷いた。

 そもそも彼は、目の前の彼女が何を言おうとしているのかも、察していない。

 

「いたけど、それがどうかしたのか?」

「……何も、されてない?」

 

 それを聞かれて、リオンは回答に迷った。何もされていないことはないが、素直に告げるには何となく恥ずかしく感じたのだ。

 フィオレにマッサージをしてもらい、それがとても気持ちよかった。

 その事実を他人に告げるのは、想い人相手だからこそ、思春期の彼には戸惑うにあたう内容だったのかもしれない。

 しかし、マリアンはその沈黙を、違う意味としてとらえたようだった。

 

「やっぱり、何かされたのね? あなたの剣を持って入って、しばらく出てこなかったから……」

 

 つまりマリアンは、フィオレがリオンの私室に入室してから出てくるまで、見張っていたということか。

 そんなことに気付けないほど、リオンの思考は彼女のことで占められていた。なぜなら、マリアンは何とも言わない彼に抱擁を送っているからである。

 しかし、次の一言で、リオンは冷水をかけられたかのように我に返った。

 

「いやなヒト、本当にいやな女ね」

「……マリアン?」

「エミリオを何度も地面に突き飛ばして、アザだらけにして。怪我をさせても謝りもしない。今度は一体何をしたの?」

 

 彼女の口から他人の悪口を聞いたのは、初めてのことである。いつもならリオンが愚痴を言い、それをなだめるのがマリアンだったはずなのだが。

 他人の目がない中庭での出来事を彼女が知っていることにも驚いたが、何より彼女が他人への中傷を口走ったことに、彼は驚いていた。

 リオンの驚愕に気付かぬまま、マリアンはそのまま、言葉を続けている。

 

「あなたが望むならあんなヒト、追い出すこともできるのよ? ヒューゴ様に頼んで、今までと同じように……年端もいかないあなたに良からぬことをしたなら、尚更」

「マリアン!」

 

 耳元で囁くマリアンの言葉を大声で遮り、リオンは困惑したように抱きしめられたまま首を振った。

 リオンの声は、普段とはまるで違う彼女に脅えるかのように、震えている。

 

「違うんだ。あいつはただ、僕が筋肉痛で苦しんでいたからそれを治しただけで、良からぬことなんかされてない。あいつのことは確かに気に食わないけど、そんなこと言わないでくれ。マリアンからそんなもの、聞きたくない……!」

「エミリオ……」

 

 リオンの叫びに近い懇願を聞いて、彼女は戸惑ったように、彼から身を離した。

 瞳を潤ませ、興奮に頬を染めているリオンに、マリアンは優しく微笑みかける。

 

「ごめんなさい、エミリオ。私、勘違いをしていたみたい」

 

 その笑みは、間違いなく本来のマリアンのもので。リオンは安心したようにほっと一息ついた。

 

「でも、つらくなったら必ず教えてね。私はいつでも、あなたの味方だから」

 

 そして彼女は、本来の用事であろう夕食の準備ができたことを告げ、一礼して退室した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──失礼します」

 

 フィオレの返事を受けて入ってきたのは、茄子紺のワンピースに純白のフリルつきエプロン、同じく純白のヘッドドレスをまとった家政婦(メイド)長だった。

 リオンと同じ用件を手短に告げられ、フィオレは端的に答えている。

 

「わかりました。すぐ向かいますので、どうぞお先に」

 

 あとほんの僅かな工程を終わらせようと手を早めて、彼女はとある違和感に気付いた。

 扉を開けたまま入り口に立つマリアンが、なかなか動こうとしないのだ。

 

「先に行っていてください、マリア……」

「リオン様に、何をしたのですか」

 

 強く問い詰める調子で、マリアンは口を開いた。そのあまりにも聞きなれない声音に、フィオレは眼を見開いて彼女を凝視している。

 よくよく見ればそのつぶらな瞳には強い批難が浮かんでおり、ある種の怒りまで感じられた。

 

「何って……」

「答えてください。あなたは指南役の立場を利用して、リオン様に何を……!」

「……何をしたと思っているんですか、あなたは」

 

 頭を抱えて、逆に問い質す。態度からして、妙な誤解をしている可能性が高い。

 

「先ほど、あなたがリオン様の愛剣を持ってリオン様の私室に入っていくところをお見受けしました」

「確かに」

「その後なかなか出てこず、しばらくしてからようやく出てこられましたね」

「その通りです。それで、あなたはその間、私が彼に何をしたと思っているんですか?」

「とぼけないでください!」

 

 そして彼女は、やっと自分の推測を暴露してくれた。

 

「あなたに何度も突き飛ばされ、痛みに呻くリオン様が動けないことをいいことに良からぬことを……!」

「揉み治療が、ですか」

「え?」

 

 やはりそういうことだったか。

 途端に押し寄せる頭痛と戦いながら、フィオレはえっちらおっちら説明を始めた。

 

「私は、普段使わない筋肉を酷使されて、筋肉痛だか疲労だかで身動きが取れなかった彼に按摩、揉み治療を施しただけです。それ以外は何もしておりません、断じて。大体、あんな子供に、一体何をしろというのですか」

 

 半眼になって真相を告げるフィオレの勢いに押され、マリアンが半歩ほど引く。

 その顔を隠すように背け、ついに彼女は深々と頭を下げた。

 

「も、申し訳ありませんっ、失礼いたしました!」

 

 そのまま脱兎の勢いで走り去っていくマリアンを、うんざりとした眼で見送り。

 フィオレは長々とため息をついていた。

 

「……密度濃かったな。今日」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「彼」の詳細につきましては、「The abyss of despair」四十四唱辺りご覧ください。でもできれば全部読んで下さい(宣伝)


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第十八夜——リサーチおあデェト?

 ダリルシェイド、野外演習場。まさかのまさかの、ヒューゴさんとのおデート(笑)
※原作において野外演習場並びにそれらしい建物は存在しておりません。七将軍達の設定は、原作に出来るだけ添う形で紹介しております。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから比較的平和だった晩を過ぎ、迎えた翌々日の昼食の席にて。

 フィオレはヒューゴ氏から、仰々しく飾り立てられた紙切れを渡された。

 

「召喚状……」

「うむ。明日、我々と登城するよう陛下からの命令だ。大概のことは私から説明する。君は予想される腕試しに注意を払ってくれたまえ」

「わかりました。参考までにお尋ねしたいのですが、腕試しというのは具体的に何をするものと思われますか?」

 

 召喚状と引き換えに署名済みの契約書を渡し、ヒューゴ氏が満足そうに頷いたところで質問を続ける。

 彼は契約書を懐へしまいこむと、軽く顎へ手をやった。

 

「生憎、ここにはフィッツガルドのような闘技場はなくてな。従って、力量試しに魔物と戦わせるようなことはできない。リオンの時と同じく、人間相手……七将軍の面々が御前で手合わせをするのではないかと思う」

「七将軍? 兵士でも将校でもなくて、将軍自らがお相手をなさるのですか?」

「リオンの時はそうだった。何せ客員剣士招聘の試金石だからな。そのリオンの指南役として話を通すから、君も同じように考えておいたほうがいいだろう」

「なるほど。それで七将軍とは、どのような方々なのですか?」

「そうだな……」

 

 ヒューゴ氏の細い眼が、黙々と食事を摂り続けるリオンを見やる。

 その視線に気付いていないわけでもなかろうに、彼は知らん顔を貫き通した。その態度を見てか、もともと腹は決まっていたのか。

 ヒューゴ氏はやけに爽やかな顔でフィオレに微笑みかけた。

 

「今日は確か、リオンが彼らとの合同演習をする日だな。実際に彼らの顔を見てきたらどうかね」

「……そんなことできるんですか?」

 

 対するフィオレは胡散臭そうにヒューゴ氏の顔を眺めている。

 合同演習とやらがどこで行われるかは知らないが、おそらくは軍関係者の施設か場所だろう。普通、そんなところに一般人は入れない。

 しかし。彼はフィオレが予想だにしなかった答えを取り出していた。

 

「大規模な軍事演習はともかく、七将軍たちの演習は一般に公開されていてな。普段は遠目からしか見ることができない彼らと直に言葉を交わし、触れ合う場として人気を博している」

 

 軍人の演習を、一般公開。

 その言葉はフィオレを唖然とさせ、同時に現在がどれだけ穏和なのかを思い知るに事足りなかった。緊迫した時代を生きていたフィオレにとって信じられない愚挙だし、はっきり言って平和ボケもいいところである。

 確かにそうやって、近寄りがたい軍人に対しての偏見をなくすことによって発生する利益は少なくない。だが、それによって発生する不利益はあまりにも大きくないだろうか。

 昨日と本日の午前中、自由行動をとっていたフィオレはダリルシェイドの散策に出ていた。

 街並み把握、治安状態、ついでに近隣の情勢をも聞きこんでいるのだが、思ったとおり本当に平和というわけではない。

 第二大陸カルバレイス、第三大陸フィッツガルドはセインガルドとの仲は概ね良好である。いずれも貿易を中心としてのことだが、このふたつはいい。

 アクアヴェイルも除外である。もしアクアヴェイルが突如大陸欲しさに攻め込んでくるとしたら、一番手近な大陸はセインガルドだ。しかしセインガルドの根付く第一大陸はファンダリアと共にあるため、攻め込んだ瞬間、アクアヴェイルはけして小さいとは言えないこの二国を敵に回すことになる。統率者が狂気にでも陥らない限り、それはありえない話だろう。

 問題は、同じ第一大陸に居を構える隣国ファンダリアだ。国王が表敬訪問するだけあって冷戦状態ではないらしいが、近年何らかの理由で、微妙な影が差しているのだという。

 理由は定かでない。ただ、国同士というのはほんの小さな理由で勝手に仲違いするようにできているため、これはある種の必然である。

 そんな微妙な状態の中で、軍の要であろう将軍たちの姿を一般公開してしまうとは……民に安心させるための策なのか、ファンダリアに対する余裕なのか、国王及び軍上層部がそれだけあっぱっぱーな状態なのか。

 ──そんなことはどうでもいい。

 国のことは置いておくとして、フィオレにとっては好機にあたる。何せ、白兵戦におけるこの国最高の軍事力を見ることができるのだから。

 ……一般人監修のもとともなれば、遊び半分で行われる可能性も高いが。

 

「そうなのですか。それは一見の価値がありそうですね」

「ここで口頭による彼らの紹介をしてもかまわないが、実際に顔を見てからのほうが何かと都合がいいだろう。どれ、私も同行しようか」

「……はい?」

 

 リオンを尾行してでもその演習施設とやらへ行く気になっていたフィオレは、その言葉を聞いてマヌケにも聞き返した。

 これには誰もが意外だったようで、給仕の家政婦(メイド)たち並びにリオンまでもが、彼に視線を釘付けている。

 

「……ご公務のほうは?」

「先ほど、大口の契約を終わらせてきたばかりでな。時間があるといえばある。リオンに逐一説明してやる暇もないだろうしな」

 

 一同より浴びせられる視線をものともせず、オベロン社総帥はすました顔でそう言ってのけた。

 フィオレとしては、強いて断る理由などない。

 

「左様でございますか。それなら『お疲れ様でした。ゆっくり体をいたわり英気を養ってください』と申し上げるべきですが」

「かまわんよ。座ってばかりの仕事が多いのでな。たまには動かなければそのうち腐る」

 

 そのまま腐ってしまえ。

 不意に浮かんだ黒冗句をけして口に出すことなく、フィオレは顎に指を当てた。

 

「……個人的にはかまいません。そのことでヒューゴ様の今後に差し支えがないのであれば、お願いいたします」

「私の心配をしてくれるのかね?」

「明日には謁見し、七将軍の誰かと手合わせをするであろう私がヒューゴ様と共に見学へ行ったことが知られたら、あなたは彼らから多少なりとも不興を買うでしょう。あなたの立場が傾けば、とばっちりをくうのは私です」

 

 基本的には勝手にすればいいと思う。ただし後々そのことで都合の悪い事態が発生し、自分のせいにされても気分が悪いと思う程度だ。

 あくまで合理的な話を続けるフィオレの顔を、まるで観察するかのように眺め。

 ヒューゴ氏は手元のコーヒーを一口飲んだ。

 

「決まりだな。支度が終わったらエントランスで待機してくれたまえ。演習施設までは私が案内しよう」

「かしこまりました、ところでヒューゴ様。今朝方確認したところ、私室のクローゼットに見慣れない被服が大量に保管されていました。マリアンに尋ねたところ、あなたからだと伺いましたが」

「その通りだ。客人の、しかも年頃の女性が二着しか被服がないなど、雇い主たる私の常識を疑われるのでな。必要ならば私が用意するものと思っていたのだろう? ならば何の問題もあるまい」

 

 ……確かにフィオレは、リオンを言いくるめる、もとい納得させるためにそう口にしている。

 苦い顔をしてリオンを見やれば、彼は口元に和えかな笑みを刻みつつ、焼きプリンなる本日のデザートに手を伸ばしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高級住宅街を出て大通りを過ぎ、郊外へと続く道をヒューゴ氏の先導で行く。

 すでに道は整備されてこそいるものの石畳ではなく、周囲は人の手で整えられた木々が行儀よく並んでいた。

 普段ならば徐々に人の気配が少なくなっていくであろう場所だったが、今日はかの催しがあるからだろうか。大通りと同じくらい人が溢れかえっていた。

 子供連れも多く見られ、遠くではイベントに便乗してか、食べ物屋の屋台による客寄せ合戦が繰り広げられている。

 初めて訪れる場所につき、しきりに周囲を観察していたフィオレは、不意に視線を感じて正面を見た。今の今まで先導していたヒューゴ氏が、なぜか立ち止まってフィオレを見ている。

 リオンの姿はない。公開演習に伴う打ち合わせがあるため、彼は二人よりも先に屋敷を出て行った。

 

「何か?」

「……時に、その帽子には何か意味があるのかね?」

 

 ヒューゴ氏がため息をつきながら指摘したのは、フィオレが被っているキャスケットのことだった。情報収集を行う際、素顔をごまかすために購入したものだ。

 大きめのサイズを選んでいるため、素顔が判然としない。特に眼の辺りは完全に隠せているし、必要とあらば髪すら納めきれる。それがヒューゴ氏には気に入らないらしい。

 

「まったく、ただでさえ端整な顔が眼帯で隠れてしまっているというのに、拍車をかけなくてもいいではないか」

「何を着けようと、そんなの私の勝手です」

 

 服装のことといい、眼帯のことといい。どうもヒューゴ氏は、他者の見た目を気にする傾向にある。

 現在の服装──普段着については「それならば問題ない」と深く頷いていた。制服のお披露目も行ったが、渋い顔をしながらも「まあ、いいだろう」としぶしぶ承知している。

 眼帯の下がどうなっているのかを聞かないのは上流社会風のマナーか、彼個人的なモラルの問題か。どちらにせよ、眼帯そのもののデザインには口出しをしてきているため、うるさいことこの上ない。

 他者に不愉快な思いさえさせなければ、どんな格好をしていても自由だと思うフィオレとは、きっと相容れない考え方をしているのだろう。あるいは、これが旅を生業としていた人間と、社会に身を置き規律を重んじる常識人の考え方の違いか。

 ただしフィオレとて、本当は好きでキャスケットを身につけているわけではない。

 彼女が思っていた以上に、この街──とりわけ情報が手に入りやすい繁華街では声をかけられやすかった。声をかけられるということはそれだけ人目につくということ、すなわち顔が割れるということ。わずらわしい外的要因を軽減するための手段と考えれば、妥協せざるをえない。

 そうとは知らないヒューゴ氏が、嘆息ひとつで気分を切り替える。

 再び歩き出した二人の向かう先に、目的の場所があった。悪天候の際は絶対に使えないであろう、野外演習場である。隣にはそれなりの規模を有した建物が並んでおり、悪天候時はそちらを使うのだとヒューゴ氏は説明した。

 野外演習場はぐるりと観覧席に囲まれており、まるで闘技場の類のように真ん中──演習場であろう更地を見下ろすことができる。

 入り口は警備兵によって管理され、多くの市民たちが左の扉に通っていく中、フィオレはヒューゴ氏につき従って右の扉へ通った。

 

「左が無料、右が有料なんだ。以前試しに左の扉をくぐったことがあるのだがな、スリ、当たり屋、軽食の押し売りに行儀の悪い客など、まったく落ち着かなかったぞ」

「それはまた……」

 

 災難だったと慰めるべきか、少し賢くなったと嫌味を言うべきか。

 扉の右左の違いについてフィオレに説明する傍ら、ヒューゴ氏はそんな豆知識で自らの好奇心の強さを大らかに語ってくれた。ヒューゴ氏の実体験を証明するかのように、仕切られた壁の向こう側からは喧騒が伝わってくる。

 老若男女、様々な人間が道中歩いていたのを考えると、大変な騒ぎになっていることだろう。対して二人の歩く通路は、人の行き来こそあっても静かだった。奥へと歩む人々の身なりは全体的に良さげ、子供の姿があっても躾が行き届いているからか、歓声を上げたり走り回ったりはしない。

 

「さ、こちらだ。お先にどうぞ、レディ?」

 

 冗談めかして、ヒューゴ氏が扉を開く。お言葉に甘えて扉をくぐると、眼下に演習場が広がっていた。対岸には、人がごった返す一般席が見える。

 一般席の煩雑さとは打って変わって、特別席は椅子のひとつひとつが広く、ゆったりとしていた。

 客層がまったく違うせいか、静寂はないが騒然ともしていない。優雅なものだ。特に席が決まっている様子はなかったので、最前列へと赴く。

 演習場では、すでに演習が始まっていた。その中には落ち着いた桃色のマントを翻す少年の姿もあり、彼は豊かな白髪の壮年男性と仕合をしていた。

 

「──今、リオンと手合わせをしているのがグスタフ・ドライデン将軍だ」

 

 フィオレの座る席の隣に来たヒューゴ氏が、彼女の視線を追ってだろうか。そんな説明をし始めた。

 

「豪放磊落な性格でな。多少頭の固い御仁ではあるが、陛下や民からの信頼は厚い」

「此度の演習で参加されている方々は、リオン以外七将軍の方々ですか? お一人多いように思いますが」

 

 眼下の演習場内にて確認できるのは、リオンを抜いて総勢八人の軍人たちだ。七という数字が使われているからには、人数だとばかり思っていたが……

 そんなフィオレに疑問を、ヒューゴ氏は丁寧に説明してくれた。

 

「手合わせに参加していない人間がいるだろう?」

 

 演習場の隅で、全員の手合わせを睥睨するように男が一人、立っている。

 銀灰色の髪に鋭い切れ長の瞳。体格は中肉中背の域を出ないが、威風堂々たる立ち居振る舞いに一分の隙もない。

 

「フィンレイ・ダグ。ダリルシェイド七将軍を結成し、セインガルド王国軍の頂点に立つ大将軍だ。弟の面倒をよく見る穏やかな人柄だが、ひとたび戦場に立てば『鬼神の如し』と称されるほどに豹変するらしい」

「弟思いのお兄さん、ですか……」

「その弟が、黒髪の男と手合わせしているアシュレイ・ダグだ。若くして一軍の将に抜擢された後、立て続けに功績を上げ、王から信頼を得ている。堅実無比な戦術を得意とし、他の将軍や部下からの信頼も厚い。ただし、兄に対し尊敬の念と共に、劣等感を抱いているフシがあるな」

 

 確かに、茶髪の男性は手合わせにおいてもかなり手堅く攻めている。実際に剣を交えることを考えて、正攻法で攻めればかなり時間がかかること請け合いだ。

 

「アシュレイ将軍と手合わせをしているのがアスクス・エリオットだな。七将軍内では最年少らしい。もとは流れの傭兵だが、セインガルド王直々に才覚を見出され、フィンレイ大将軍により登用された」

「大出世してますね」

「この男に好意を寄せているらしいと専らの噂を持つのが、ミライナ・シルレル嬢だ」

 

 ヒューゴ氏が示したのは、桃花色の髪を揺らし果敢に模造剣を振るう、若い女性だった。

 

「見ての通り、七将軍における紅一点だ。上流貴族の出なのだが、男児に恵まれなかった家庭事情と我が子を将軍にしたいという父親の我侭に答え、社交界に進んだ姉たちとは別の道を選んでいる。気品ある外見とは裏腹に軍人らしく格式ばった男性的な言葉を使っているためか、セインガルド国王軍では人気№1らしい」

「みたいですね。あんなところに応援の旗がある」

 

 フィオレの視線の先には、でかでかと『ミライナ様ファイト!』と描かれた巨大な旗が揺れている。個人で作ったものとは考えにくく、ファンクラブか何かの団体製作のようだ。

 ちなみにこういった旗や段幕の類は彼女一人に留まらず、中にはリオンを応援するものもあったりする。ご苦労様なことだ。

 

「彼女と剣を交えているのが、七将軍最年長、ニコラス・ルウェインだ。セインガルド王即位以前から将軍の地位にあり、七将軍の中では最も実戦経験が豊かだとされる。その剣は老いてなお鋭いと聞くが……寄る年波には勝てんらしいな。最近ではこういった演習にもあまり参加はされないらしい」

「なるほど。後進がいるのかいないのかはわからない、と」

「噂によればリオンを考えているようだが、こちらに打診されたことはない。そして、余所見をしては観客席の女性に騒がれている金髪の男がロベルト・リーンだ」

 

 時折、金切り声じみた歓声が上がると思っていたら、彼の投げかける笑顔やらウインクやらが元凶だったらしい。

 

「主に辺境警備の任に就いており、外見通りの伊達男で女性から多大な支持を集めているな。非常に友好的な性格で、陛下だろうと同僚だろうと一般市民だろうと、分け隔てなく接するという」

 

 淡い金髪に甘いマスクという、確かに伊達男なのだが……フィオレの個人的な第一印象は軟派な優男といった評価だ。平たく言えば、好みではない。

 

「そして、最後の一人が彼と手合わせをする斧使いだ」

「何だか見慣れないお顔立ちですね」

 

 彼が指すのは、色黒で筋肉質、がっちりとした体型の壮年手前といった風情の男性だ。フィオレが見慣れているセインガルドの人間とは、少々顔立ちが異なっている気がしないでもない。

 それをヒューゴ氏に言えば、彼はさもありなん、といわんばかりに頷いた。

 

「ブルーム・イスアード。彼はもともとアクアヴェイルの近衛師団長を務めていたらしい。が、指導者の交代によって解任されたらしくてな。セインガルド王の強い要望を受けて、亡命同然の形で七将軍の座についたそうだ。聞くところによると大酒豪なんだとか」

 

 ヒューゴ氏による説明が終わった途端、どこからともなく銅鑼が鳴り響く。それに合わせて彼らはぴたりと手を止め、速やかに演習場から建物内へと戻っていった。

 入れ替わるように一般兵士らしき人間たちが現われ、場内の掃除を始める。

 今度は何が始まるのかと見ていれば。やがて行われたのはリオンを含めて計七名による総当り戦だった。

 欠員は二人。大将軍フィンレイと、最年長のルウェインである。二人は前座的にして型通りの試合風剣舞──少なくとも、フィオレにはそう見えた──をして、早々に下がってしまった。

 そして、本格的な試合が始まる──のかと思いきや。始まったのは、あまり緊迫感の感じられない試合のような見世物だった。使う剣は刃を潰した試合用、手合わせのときより力がこもっていないように見えるのは何故だろう。

 けして単調な動きではなく、攻め手と守り手が示しあって試合風に見えるため、観覧席はきちんと反応している。理由は大方想像できた。一般公開につき、あまり血生臭くしたくないのだろう。

 彼らにとっての本番はほとんど手合わせの時だけで、この試合はあくまで見世物なのだ。ヒューゴ氏に確認することもせずそう思い込むことで、フィオレは自分を納得させていた。

 いくら見世物であっても、振るわれる個々の剣の型は異なる。ということは、そちらは実戦となんら変わりないわけだ。参考には、なる。

 萎えそうになった気持ちを無理やり前に向かせ、フィオレは各人の動きの仔細を観察し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十九夜——謁見

 ダリルシェイド・王城。セインガルドを統べる国王陛下とのご対面。
 実は彼には固有名がありません。リメイク(PS2)発売のときに新しく設定されるかと思いきや、まさかのノーネーム継続。
 PS時代からファンダリアの現国王様にはイザーク・ケルヴィンという立派な名前があるのに……おいたわしや(笑)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日のこと。ヒューゴ氏、リオンと共に登城したフィオレだったが、急遽ヒューゴ氏の提案で、時間差による謁見をすることになった。

 おそらく事情を説明する際、フィオレがいては都合の悪いことがあるのだろう。彼の創作に興味がないフィオレにとっては、どうでもいいことだった。

 お呼び出しは、思いの他早く来た。謁見の間からヒューゴ氏が呼ぶのを聞いて、粛々と足を進めていく。

 初めて足を踏み入れる謁見の間は、知っているものより規模が小さかった。真正面の数段上がった場所にセインガルド国家の象徴らしきマークが掲げられ、その前に玉座がふたつほど並んでいる。

 誰かが、鋭く息を呑むような、そんな音がした。

 向かって右に、ヒューゴ氏から何を吹き込まれたのか、それともこれが地なのか、厳しい表情のセインガルド王。左は……噂に聞く王女であろうか。

 王妃は病に臥せっていると聞くし、王に愛妾や後宮の類はいないと聞く。見受けられる年齢からして、間違いないだろう。

 玉座の両脇には、驚いたことに七将軍に大将軍を合わせた計八名が待機していた。玉座の正面から少し脇にずれた位置にジルクリスト父子が立っており、フィオレが来るのをただ黙って待っている。

 

「お初にお眼にかかります。ただいまご紹介に預かりました、フィオレンシア・ネビリムと申します。どうぞお見知りおきを──」

 

 玉座へと上がる段の手前で跪き、深く頭を垂れる。

 剣帯に固定してある紫電が、床に当たってこつり、と鳴った。

 途端、セインガルド王のいぶかしげな視線がフィオレへと注がれる。

 未だ頭を垂れているフィオレには、彼がどういった顔をしているかはわからないが、確かに視線は感じられた。

 

「ヒューゴから大方の話は聞いた。そなたが、此度リオン・マグナスの剣術指南役を引き受けし者か?」

「はい。相違ありません」

 

 どういった話をしたのかは知らないが、とりあえず否定はできない。

 ゆっくりと肯定を示せば、王はますます混乱した様子でフィオレを見下ろした。

 

「やはり解せぬ。儂には、この者が客員剣士の指南役に相当するとはどうしても思えぬ」

「本人を前に言うのも何だけどさー、俺にはミステリアスな美少女にしか見えないかな。あんまり凄腕には見えないよ」

 

 王の言葉を肯定したのは、リーン将軍である。それを皮切りに、控えていた側近たちまでもが口を開いた。

 

「あのリオン殿を片手であしらったなど、信じがたい……」

「彼もまだ若い。あの見目に気をとられたのではないのか?」

「それに、あの髪。あの髪色は、ファンダリア王家の血脈に酷似している。よもや隣国の間諜(スパイ)という疑いも……」

 

 好き勝手な憶測が、さざなみのように広がっていく。それらを静めるかのように、ヒューゴ氏が発言した。

 

「戸惑われるのはもっとものことにございます、陛下」

 

 コツコツ、という足音が近づいてきて、ヒューゴ氏はフィオレの傍らに移動している。足音がひとつでないことを考えると、リオンも同様なのだろう。

 

「リオンとて若輩の身、御身に客員剣士の招聘を提案した際はひどく戸惑われたことを私は忘れていません。どうか彼女も同じように試されることを望みます。さすれば、事実が見えてくるでしょう」

 

 先ほど側近が呟いたことを聞いていないわけではないはずだ。それなのにフィオレの素性について何一つ聞いてくるところがない辺り、王はヒューゴ氏の説明に納得しているのだろう。

 それだけヒューゴ氏の話術は優れているのか、あるいは国王が、それだけヒューゴ氏を信頼しているのか……噂を聞く限りは微妙なところだ。

 国王は、ヒューゴ氏の提案を聞いて控える将軍たちに目をやった。

 

「手合わせ、か。なるほど面白い。確かに、外見からは測ることのあたわぬ実力が見えもしよう」

「お望みとあらば、リオンとの再戦をご覧にいれ……」

「待たれよ、総帥」

 

 ここぞとばかり、何故か提案を始めたヒューゴ氏の言葉を、白髪の豊かな壮年……ドライデン将軍が制止した。

 

「失礼だが、リオン殿との手合わせでは八百長の疑いがある。リオン殿の際と同じく、七将軍との手合わせがふさわしいでしょう」

 

 ……その言葉を聞いて、フィオレがヒューゴ氏のささやかな謀を察している。

 リオンとの再戦は、彼が本気で望んだことではない。フィオレを七将軍と手合わせさせるべく、わざと提案したようだ。

 それを証明するように、視線だけで見上げたヒューゴ氏の口元は、わずかに歪んでいる。

 そのヒューゴ氏が、不意に彼女を見下ろした。

 

「なるほど、そうお疑いならば好きにすればよろしい。時にフィオレ君、七将軍の方々との手合わせならば、どなたとの手合わせを希望するね?」

「どなたでも、殺してもいいのなら何人でも」

 

 この不遜としか取りようがない発言に、謁見の間は再びざわめきに包まれている。

 七将軍の面々は一様に絶句し、側近たちは「身の程をわきまえぬ小娘……」だの、「命が要らないのか」だの、「自分の言っていることがわかっているのか」だの、やはり好き勝手な言葉が飛び交った。

 ヒューゴ氏がどんな顔をしているのかはわからないし、知ろうとも思わないが、そろそろ発言してもいい頃だろう。

 垂れていた頭を敢然と上げ、対面する一同を視線だけで見渡す。片方のみ覗く藍色の眼に見据えられ、ざわめきはほどなく自然に消滅した。

 

「不躾と知りながら申し上げましょう。このような局面、第一印象において不利益を被っているのは他ならぬ私です。リオンの名誉のため、ヒューゴ様の目が節穴ではないと証明するためにも、陛下の納得に足る結果を出したく思います。どうぞ遠慮なく、手合わせに基づく条件を提示なさってください」

 

 しぃん、と場が静まり返る。フィオレの突拍子もない言葉、しかしその眼差しを突きつけられた国王はしばし沈黙し……「よかろう」と告げた。

 

「ならば、これからそなたには七将軍全員との手合わせを行ってもらおう。結果次第では大将軍との手合わせも所望する。無論のこと勝利を求めるが、戦闘が不可能である状態、あるいは流血が認められた時点で手合わせは中止だ」

 

 驚いたのは、当の将軍たちと側近たちだ。傍らのリオンも、表向き変化はないが、驚愕の念が伝わってくる。

 

『フィオレ、大丈夫なの!? あの人たち全員と手合わせなんて……!』

『まあ、見ていてください』

 

 シャルティエの心配も他所に、フィオレは泰然としていた。

 

「陛下、我々全員との手合わせとは……」

「儂は求められた条件を述べたまでだ。よもや異論はあるまいな?」

 

 大言壮語の代償を払わせるが国王の意図だろう。しかしフィオレとて、何も考えずに発言したわけではない。

 

「御意にございます」

 

 国王の冷たい眼差しを正面から受け止め、フィオレは再び頭を垂れた。

 とはいえ謁見の間で試合をするわけにはいかない。一同は、城内の中庭へと移動した。

 当初は戸惑っていた七将軍たちも、移動する最中で覚悟は決まったのか、皆一様に真面目な顔をしている。

 しかし、移動中姿を消していたフィオレが現われたのを目にして、やはり一様に眉を顰めた。

 口火を切ったのは、ヒューゴ氏である。

 

「……フィオレ君。それはなんだね」

「モップです」

 

 そう。それは、城内の掃除をしていた家政婦(メイド)から管理場所を尋ね、勝手に拝借してきた長柄付きの雑巾だった。

 何の愚行かと見守る一同の前で、フィオレは雑巾の部位を外し、長柄だけにしている。

 

「……お前。まさかそれで試合をしようなどとは思っていないな」

「他の何に使えというのですか。雑巾を振り回さないだけマシだと思ってもらいたいですね」

「ふざけるな!」

 

 国王の手前だろうか。発言を極力控えていたリオンが、ここへ来て爆発した。七将軍を初めとするその他面々も、大いに頷いている。

 

「七将軍の方々に失礼だと思わんのか、貴様は! 腰のものは飾りか、そっちを使えばいいだろう!」

「こっちを使わないなんて言いませんが、基本はこのモップで」

「お前……!」

「──それとも。七将軍の方々は、モップを振り回す小娘とは戦えないと? 勝っても自慢にならない、負けようものなら恥でしかないなら、それも仕方がありませんか」

 

 リオンから視線を外し、嫌みったらしく大きめの声で独り言をのたまった。もちろん、それは彼らのプライドをいたく刺激している。

 

「安っぽい挑発だな」

 

 その言葉を受けて進み出てきたのは、黒髪の若い男……アスクス将軍だった。

 

「そうでもしないと、その気になっていただけないでしょう。馬鹿にしているわけではないんですよ」

「抜かせ。挑発には乗ってやる」

 

 乗ってやる、と口で言っている割には、かなりご立腹の様子である。

 

「それはそれは、ありがとうございます」

「……リオンを負かしていい気になっているなら、後悔させてやる。七将軍を舐めるな」

「あなたこそ。その発言から、彼を大いに見くびっていることがよくわかりますよ」

 

 何はともあれ、先鋒は彼であるようだ。

 少し離れた場所で勝負を見守る先ほどの顔ぶれの横で、順番を話し合っているらしい将軍たちの姿がある。

 審判役を務めるのは、ルウェイン将軍だった。つまり、彼は手合わせに参加しないらしい。殊更参加してほしいと思ったわけではないが。

 中庭の中央で、二人は対峙した。片や愛剣を引き抜き、片や木製の長柄を持って半身になっている。

 

「よろしくお願いします」

 

 礼儀正しく頭を下げるフィオレに対し、アスクスは無言でそれを見ただけだ。先ほどの挑発を思えば、当然の態度である。

 

「両者、準備はよろしいな? では、始め」

 

 短く合図がなされたそのとき、アスクスは気合も雄々しく突貫した。

 所詮はモップの柄でしかない相手の武器を切断し、そのまま相手の体を捕らえようと剣を大上段に振りかぶって。

 

 ──確かあの若年寄は、こういう風にしていた。

 

「瞬迅槍!」

 

 突き出されたモップの先端で顎を強かに打たれ、剣を振りかぶったままぐらりと体勢を崩す。

 勢いを考慮して狙った刺突によって脳震盪を起こしたアスクスは、そのまま仰向けに倒れた。残心を終えたフィオレは、その様子を冷めた眼で見つめている。

 謁見の間に続く、二度目の沈黙。開始早々決着のついてしまった勝負。沈黙に耐えかねてでもなかろうに、フィオレは嘆息をついて、ちらりと審判を見やった。

 

「……白目むいて倒れていらっしゃるのですが。追撃しても、よろしいですか」

 

 あまりにも早い彼の敗北に呆然としていたルウェイン将軍が、はっと我に返り、アスクスの容態を看る。

 待機していた救護兵に敗者を回収させ、ルウェイン将軍は第一番目の勝負に終わりを告げた。

 

「リオンを片手であしらったこと、多少現実味が帯びましたでしょう」

 

 視界の端で、ヒューゴ氏がそんなことを王に告げているのがわかる。

 対して何と答えるか、耳をそばだてるより早く、二人目の七将軍がフィオレと対峙した。

 

「アスクスの奴をあんだけあっさり倒すとは、やるじゃないかお嬢ちゃん」

「お褒め頂き光栄に存じます、おじさん。もとい、リーン将軍」

「おじさんじゃない、お兄さんだ!」

 

 彼が年齢を気にしていることは、市街での情報集めでリサーチ済みである。

 しかし……これではやりにくくて仕方がない。

 意気揚々と剣を抜くリーンに対し、フィオレは国王に向かって発言した。

 

「お願いがあります国王陛下」

「……申してみよ」

「一対多数の試合を許可していただきたい」

 

 フィオレによる、無謀にしか聞こえない提案に、一同はまたも目を白黒させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十夜——エンカウント、スペシャルエンカウント!

 続・ダリルシェイドin王城中庭。腕試しは続きます。
 平和ボケ中(偏見)の軍人なんぞに遅れを取ってたまるかと、内心で勢い込んでいますが、はてさて。


 

 

 

 

 

 

 

 

「……まあいい。許可しよう」

 

 苦虫を噛み潰したかのような国王の許可を受け、ルウェイン、アスクスを除いた七将軍がフィオレと対峙する。

 彼らにとっては、侮られたという印象なのだろう。しかし当のフィオレに、そういった他意はない。

 単純な話、一対一でずるずると続けられては、フィオレの体力が続かないだけである。

 この後はおそらく、大将軍との試合が控えているのだ。彼の体捌きだけきちんとは見ていないフィオレにしてみれば、無駄な体力は使わず、なるべく万全の状態で挑みたい。

 アスクスをあれだけ簡単に撃破できたのには、当然理由がある。

 演習場で戦い方を見たというのが一番大きいが、このところ平和だから……すなわち将軍たちが実戦に出るような非常事態がない。

 こと戦闘に対して勘が鈍っている、なまっている状態だからあそこまで簡単だったのではないかと考えている。

 その点に関しては、他の将軍とて同じだ。個々のクセはあっても、差異はない。問題は、大将軍と誉れ高いフィンレイ将軍だ。大将軍と言われるくらいなのだから、一筋縄ではいかないだろう。

 ともかく、彼のもとへたどり着くには、この五人をまず撃破せねばならない。

 その上で、確認するべき事柄があった。モップの長柄をその場に落とし、視線を動かす。

 その先にいるのは──

 

「その前に、ミライナ将軍にお尋ねしたいことがあります」

「……私に?」

 

 いきなり名指しされ、困惑する彼女にかまうことなく。フィオレは無手を示してずんずんと歩み寄った。

 

「はい。とても重要なことなんです、正直にお答えいただきたいのですが」

 

 彼女の眼前に立ち、「失礼」と一言声をかけてその耳元で質問事項を囁く。

 その瞬間、ミライナ将軍は柳眉を逆立て、頬を真っ赤に染めてフィオレを怒鳴りつけた。

 

「ぶ、無礼者! 私を侮辱するか!」

「私は大真面目です。答えないことを答えと受け取ってもよろしいですか?」

「そんなわけがなかろう!」

 

 憤然と肩をそびやかす将軍の答えに満足したらしく、フィオレはきびすを返してモップを落とした位置まで戻っていく。

 長柄を拾い上げる彼女に、リーン将軍が興味津々、声をかけた。

 

「一体何を聞いたんだい?」

「ああ、それは「言わなくてよろしい! そなたも女なら恥じらいを知れ!」

「……ミライナ将軍のご意向に従います」

 

 答えようとして、噛みつくように怒鳴るミライナ将軍の言葉にかき消される。

 澄ました顔でしれっと黙秘を告げれば、リーン将軍は「ちぇ」とさして残念でもなさそうな顔で引き抜いた剣を構えた。

 

「でもさあ、聞かれた内容によっては相手の出方がわかるじゃないか。わざと卑猥な質問してミライナちゃんを集中させまいと……」

「私はお腹の中に誰かいないか尋ねただけです」

 

 問答無用の殺し合いならともかく、ただの腕試しで胎児を害するのはいただけない。

 単なるフィオレの杞憂で終わったからよかった。遠慮をする必要はない。

 

「では、各々準備はよろしいな? ──始め」

「はぁっ!」

 

 号令が出された途端、ミライナ将軍は鋭い気合と共に細剣(レイピア)を繰り出した。

 彼女は瞬発力に秀でているという。確かに、それさえ見切られなければ先手を取って攻め込むことができるのだから、今この場においても生かさない手はないだろう。

 だが。

 鋭い音を立てて、細剣の切っ先が長柄の金具──モップの留め金で弾かれた。

 瞬発力ならばフィオレとて自信がある。それに伴う動体視力も、咄嗟の判断も。

 でなければ、リオンの剣技を片手であしらうなど、できることではない。

 

「くっ──」

 

 遅い。

 慌てて引こうとするミライナ将軍に合わせて一歩踏み込み、真ん中を掴んだモップの長柄を旋回させ、すり抜け様、後頭部に一撃見舞う。

 瞬発力というか、この場合は機先を制するやり方か。そういった戦法を得意とする者はえてして打たれ弱いものだが、彼女も例には漏れていないらしい。

 声も無く昏倒したミライナ将軍を省みることなく、左右同時攻撃を仕掛けてきたアシュレイ、リーン両将軍の両脇をくぐるように駆け抜けることで回避した。

 紫電や懐刀ならともかく、モップの木製長柄で真剣の一撃は受けられない。

 後ろに控えていたイスアード将軍が、驚愕に目を見開いているのがわかる。速度を緩めぬまま接敵し、右袈裟に打ちかかると見せかけて、左下からはね上げた。

 その際は、持ち手を長柄の真ん中から少しずらすことを忘れてはいけない。でなければ、一撃に十分な威力が備わらないのだ。持ち手を長柄の真ん中に持つ意味はもちろん、重力分散による速度強化にある。

 すくいあげるように放った一撃は、イスアード将軍の右手首に直撃し、彼は小さく呻いて得物を取り落とした。

 今度こそ右袈裟の一撃が将軍の首筋に叩き込まれ、あえなく彼もその場に伏している。

 ヒューゥ、と軽い口笛が飛んだ。

 

「やるねえ、お嬢ちゃん!」

「お褒めの言葉とお受け取りしましょう」

 

 真後ろからきた囃子声に惑わされず、その場から離脱して初めて己の背後だった場所を見る。

 気配の在り様そのまま、二人はそれぞれ正反対の位置へ移動していた。

 あのままフィオレがリーン将軍の言葉だけに反応していたら、背後から一発入れられていたに違いない。

 

「覚悟!」

 

 フィオレが動くのをやめて戦場を見渡した途端、ドライデン将軍が横合いから切りかかってくる。それを避けたフィオレは、しばしその場所で回避に徹した。

 逃げようと思えば逃げられるが、それでは鬼ごっこが続くだけ。あまり体力を無駄にしたくないフィオレにとって、この状況における最良の戦法は……同士討ちを狙うことだ。

 足を止めてドライデンの攻撃から、のらくらと逃げるフィオレに気付かれぬようにか、将軍二人はじりじりと間合いを詰めてくる。

 一応フィオレの死角にいるのだが、気配を消していないので、あまり意味は無い。むしろ、罠に誘うにはちょうどいい。

 

「俺は左から行くぜ」

「僕は右から……」

 

 そんな会話まで丸聞こえである。

 二人が中庭の芝生を蹴って、フィオレに仕掛けようとした、そのとき。

 それまで一貫してドライデン将軍の剣から逃げていたフィオレは、一瞬の隙をついてその背中へと回り込んだ。

 

「な!?」

「うお、じいさん避けろ!」

「危ない!」

 

 残念なことにドライデンは回避に成功しており、同士討ちで彼がリタイアすることはなかった。しかし、好機であることには変わらない。

 そのまま突っ込んできた二人のうち、より体勢が崩れていたリーン将軍の脳天に、大上段からの振り下ろしを見舞う。

 木っ端が頭蓋を殴打する、鈍い音が響いた。

 

「ガッ!」

 

 直撃を受けて芝生に沈むリーン将軍を踏み越え、そのままアシュレイ将軍に接敵。勢いを殺さず、刺突の連打を将軍に浴びせる。

 

「うくっ……」

 

 不意のことで受け損ね、一打がまともに入ったところで手首を打ち払った。アシュレイの剣がすっぽ抜け、高々と宙を舞う。

 剣が滞空している最中に、がらあきの鳩尾へ長柄の先端を容赦なく押し込まれ、彼も戦闘不能の憂き目となった。

 まるで降参するかのように、弾かれたアシュレイの剣は芝生に突き立つことなく、転がっている。

 残るはただ一人。

 フィオレの視線の先には、ドライデン将軍が覚悟を決めたような目で、彼女を睨み返している。

 しばしの睨み合い、互いに足を踏み出しかねて──ほぼ同時に、相手に向かって走り出した。

 

「ぬおぉっ!」

 

 剣を振りかぶられる。角度からして、肩口に切りかかるようなその一撃。

 その所作を見て、フィオレは剣の間合いぎりぎりで停止した。

 

「なっ!?」

 

 盛大に剣が空振ったところで、悠々と顎を打ち抜く。

 奇しくもアスクスと同じ形で倒れたドライデン将軍を見下ろし、フィオレは初めて深呼吸をした。

 

「そっ、そこまで!」

 

 死屍累々と倒れている七将軍の面々に、控えていた救護兵が駆け寄っていく。

 急に聴覚が戻ってきたかのように、手合わせの見物人──謁見の間にいた側近たちはもとより、通りがかった文官や貴族たちまでいる──が聞き取りにくいざわめきを発する中で、ただ一人ヒューゴ・ジルクリストが大仰な拍手をしてみせた。

 

「いかがですかな、陛下? これにて、彼女の実力は証明されたように思いますが……」

「まだ私との手合わせが残っているはずだが」

 

 今の今まで沈黙を保ち、王の傍に控えていた男が進み出る。

 七将軍たちが白を基調とした軍服を揃いでまとっているのに対し、彼は露草色に金地で縁取られた軍服を……

 

「ん?」

 

 どこかで見たようなコントラストに、首を傾げてふと視界に入ってきたリオンを見やる。

 デザインこそ違えど、二人は同じ色合いの装束に身を包んでいたことが判明した。

 いくらなんでも、大将軍と客員剣士が同じ立場ではなかろうが、同じくらい特殊な階級なのだろうと推測できる。

 

「……なんだ、人をじろじろ見て」

「いえ、別に。失礼いたしました」

 

 気を取り直して、手にしていた長柄を無造作に放り出した。

 芝生の片隅に転がるそれを拾い上げ、リオンはいぶかしげにフィオレを見やっている。

 

「……お前、本当は長柄の武器を振り回すほうが得意なんじゃないだろうな」

 

 答えは否。フィオレは槍も棍も基本的な扱いしか知らないし、技術に至ってはさわりの部分しか会得していない。

 ──あの大将軍は他の将軍らと違って、これまでのフィオレの一挙手一投足をつぶさに観察している。フィオレが姿を見せたその時から、侮るような風情もなかった。

 長柄を使ったのは、本来フィオレが扱う剣術及び体捌きを見られたくなかったが故。

 これで条件は同じ。フィオレにも大将軍にも、優位となる条件はそれぞれが元々備えているものしかない。

 そんなことをわざわざ口にする理由も無く。

 

「扱い方を知っているだけで、得手としているわけではありません。私が本来の使い手なら、皆さんそんなものでは済みませんよ」

 

 達人であれば得物自体が比べ物にならないほどの重量と化しているし、本来の衝撃も力の上乗せの仕方も、フィオレとは比べるべくもないだろう。

 従って、打たれた場所が頭であったりした日には、よくて内部の血管が破裂、最悪頭蓋骨陥没で生きているのが難しいはずだ。武器に比べて軽いモップを用いたのは、手加減することなく、彼らに後遺症が残るようなダメージを与えないためでもあった。

 そんなことをしている間にも、救護兵によって意識を取り戻した七将軍たちが中庭の隅……王やヒューゴ氏、側近たちのいるスペースへと移動していく。

 アスクスを筆頭とするであろう、刺すような視線がフィオレに集中するものの、負け犬の遠吠えに近いそれを気にするフィオレではない。

 

「さて、準備はよろしいかな?」

 

 朗らかに、しかし好奇や戦意のない交ぜになった切れ長の瞳がフィオレを射る。

 その視線を真っ向から受けて、腰の柄に片手を添える。

 

「リオン君に言ったことが事実なら、本領発揮ということか?」

「──なんとでも」

 

 フィンレイの背負っていた大剣が引き抜かれ、よく手入れされた刃が陽光を浴び、ぎらりと輝いた。

 対してフィオレはそのまま、身動きひとつしない。

 

「では、始め!」

 

 ルウェインの力のこもった号令にあわせて、先に動いたのはフィオレだった。

 芝生上を跳ねるように、細身の体が軽やかに疾走する。

 迎え撃つフィンレイの姿は、どんどん大きくなり──

 

「ふっ!」

 

 眼前で、断頭台のごとき先端の鋭い平刃が空を切る。

 直前で大剣の間合いを読んだフィオレが回避したため、不気味に空気を切り裂く音だけが過ぎていった。

 剣が流れたその一瞬、フィンレイの懐に飛び込む。そこで初めて、フィオレは音高く抜刀した。

 本来ならばわき腹を思い切り抉ってやるところ、峰打ちにする予定である。抜刀してそのまま、峰でわき腹を薙ごうとして、フィオレの動きを察知してか、大剣が思いのほか早く戻ってきた。

 襲撃を諦め、大剣を受け流そうと紫電を手元へ引き寄せる。しかし。

 

(重い!)

 

 反撃の一打は予想よりも遥かに切れが良く、そうそう受け流すことを許してはくれなかった。

 このままだと紫電が折れる。急遽懐刀を抜き、両手で完全に大剣を防ぎきってから一足飛びに間合いから飛び出した。

 

「ほぅ。変わった剣だな、色付きか」

 

 右手に紫電、左手に懐刀。双方ともに片刃の刀に属する剣であり、ダリルシェイドの一般的な武具屋に並んでいないことは確かである。

 特に紫電は、その幻想的にして特異な淡紫の輝きが衆人環視をどよめかせた。

 

「あげませんよー?」

「将軍の名にかけて強奪はせんよ。それに、私には少し軽そうだからな。安心してくれ」

 

 軽口を叩きあい、フィオレは懐刀を収めて、再びの対峙。

 次に仕掛けてきたのはフィンレイだった。力強く芝生を踏みしめ、大剣を振りかざし向かってくる。

 どういった剣技を使うのか、どういった体捌きを得意とするのか。それがわからない以上今ここで情報を仕入れようとしても無駄だ。

 腰を落として、半身になりながら紫電を握り直す。フィオレが迎え撃つ形で、両者は交錯した。

 

「絶氷刃!」

 

 凍気を振りまく大質量の一撃が降るかと思いきやフィオレはそれを軽やかに回避し、返す刀で蜂の針のように鋭い攻撃が襲いかかろうと、フィンレイはそれを幅広の大剣で防いでしまう。

 どうにか防御の隙間を見出そうとフィオレが攻勢に出るも、フィンレイの防御は固い上に巧みで、一撃たりとも通さない。

 フィンレイもまた大剣をまるで普通の剣であるかのように操るが、フィオレの体捌きは鼠のように身軽で、到底捕らえられるものではなかった。

 火花を散らして睨み合った両者の武器は、双方が同じように普通の武器ではないせいだろう。傷ついた様子は見受けられない。

 

「おおおっ!」

「っ!」

 

 無意識の気合が零れる中、両者の拮抗は続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十一夜——こんな茶番に付き合ってられるか

 ダリルシェイド王城内。腕試し自体はまずまずの結果。
 しかしその実、初めから最後まで、ヒューゴの手のひらの上でした。

※王族からの不興を買えばどんなことになるのか。
「The abyss of despair」第九十八唱~第百六唱辺り、苦い記憶として残っています。


 

 

 

 

 

 

 

 

 紫電一閃。

 研ぎ澄まされた刃が振り抜かれ、煌く流星の如き光がすぐ傍に一瞬を描いていく。

 注視すれば残像すら見えるのではないか。そう思わせる神速の剣閃が、息をつかず襲いかかってくる。

 

(はや)い……!)

 

 交えるたびに攻守が逆転し、めまぐるしく転換する仕合の最中。大将軍フィンレイ・ダグは内心で舌を巻いていた。

 フィオレンシア・ネビリムと名乗る、ジルクリスト総帥の新たな手駒。

 常人離れした見忘れぬ風情、一国の王を前にして萎縮する様子も見せないその胆力と、未だ計り知れないその高い実力に。

 謁見の間に現れたそのときから、挙動や足運びで素人でないことだけはわかっていた。見目で気を引き、リオンを下したわけではない、とも。そも、あの少年がそんな理由で油断をするとは思えない。

 部下たる七将軍達との腕試しを目の当たりにして、素人などとんでもない。幾度もの修羅場をくぐり抜けてきた猛者であることが窺えた。少なくとも彼はそう確信している。

 この若年で一体何があれば、ここまで完成された交戦技術を披露できるのか。奇跡を通り越して異常にすら思う。

 そして最も驚異的なことに、彼女は全力を出していないし、この仕合に集中しきっているわけでもない。フィンレイに仕掛け、時に護りに徹しながらも、常に周囲へ気を張っての警戒を怠っていなかった。

 世界は広い。よもやこんな女が存在するとはと、畏怖にも近い感嘆を覚えると共に。彼はこの手合わせに高揚を覚えつつあった。

 国王の厚い信頼と、保有する実力を以てして七将軍を束ねる大将軍。王国軍において彼と剣を交えることができるのはほんの一握りだ。それでも仕合は対等ではなくて、彼はいつでも指導する立場。全力を出し切る機会など、国同士の争いごとから遠ざかっての昨今、あるはずもない。

 それが今や、いきなり現れた余所者に部下たち七将軍を蹴散らされ、彼自身もまた翻弄されている。

 面白い。痛快だ。こうなればとことん戦いたいし、意図的に隠されているであろうその実力の底を見たい、と。

 対峙するひとつだけ覗いた瞳、青より暗いその色が不意にぱちりと瞬いた。予備動作も無しに間合いを大きく取られ、その柳眉が困惑したように歪む。

 

「──何か、可笑しなことでも?」

「いいや。気にしないでくれ」

 

 図らずも浮かんでいた笑みを消し、将軍は目元を引き締めて大剣を正眼に構えた。

 一方で、フィオレは大将軍が浮かべた笑みの意味をいぶかしんでいる。

 

(何にやけてたんだろ)

 

 知らない内に被服を破いて、肌の一部──臀部とか、その辺りを露出させてしまったのだろうか。

 そうだとしたらこの場で腹を切りたいくらいの恥だが、フィンレイ以外に笑みを浮かべている者など、誰一人としていない。

 強いて言うなら、リオンがこっちを見て何だかぼんやりしているような、なかなか決着のつかない手合わせにヒューゴが苛々しているような、そんな風情が見て取れるだけだ。

 他の面々は勝敗の予想が付かない仕合に、野次馬も含め、固唾を呑んで見守っているように見える。

 ──フィンレイが人知れず手合わせを楽しんでいることなど、フィオレには察しのつけようもない。

 何十合と噛み合い、競り合い、刀と大剣が打ち合うその様を見て。追憶が、彼女の脳裏を去来していたからだ。

 遠い過去を懐かしんでいる場合ではないのに。不機嫌そうなヒューゴのことは抜いても、そろそろ決着をつけるべきなのに。

 絶え間なく剣戟を重ねて、彼の関心を買っていることなど露知らず、フィオレはただ攻めあぐねていた。

 わざわざ確かめるまでもないことだが、フィンレイ・ダグは大将軍としてふさわしく強い。正確には、強いと呼ぶに値する交戦技術を備えている。故に、仕留めるつもりで仕掛けなければ、かすりもしないだろう。事実、振るう斬撃のことごとくが弾かれて通用しないのだから。その踏ん切りが、つかない。

 当初はどこでもいいから軽く引っかいて少量の流血を促せばいい、と高をくくっていたフィオレには大きな誤算である。

 殺生が嫌だ、などと世迷い言を抜かすつもりはない。それでも手合わせで命を奪うなど褒められたことではなし、それが一王国の要あろう人間相手なら尚更だ。

 更に。

 ちらりと中庭の端を見やる。王の隣で両手を祈るような形で組み、落ち着かない様子で観戦している王女。

 聞くところによれば、彼女は今現在フィオレが剣を交えるフィンレイの、婚約者であるらしいのだ。つまり、息子のいない国王にとっては、そう遠い未来ではないだろう世継ぎ。

 下手に手を出して、王族の不興を買うと後が大変だということは、身をもって知っている。

 どうしたものか。この強さなら、致命傷にはならないだろうと高をくくって、殺すつもりで仕掛けるか──? 

 

『……フィオレ、ごめんっ』

 

 ふと、奇妙な感覚に囚われた。

 シャルティエに囁かれたような気がして、そちらを見やる。なんとなしにリオンの姿を確認したフィオレは、驚愕に眼を見張った。

 何と彼は、鞘に納まったシャルティエの柄を握り、口元を忙しなく動かしていたのだ。

 コアクリスタル、と本人が言っていた日車草色のレンズが淡く明滅して……

 悠長に観察している場合ではない。ここが室内でなく、むき出しの大地がある中庭で良かった。

 

「母なる抱擁に覚えるは安寧!」

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──

 

 迅速にフィンレイから離れ、譜歌を紡ぐ。

 突如として奇妙な行動に出たフィオレに奇異の眼を向けていたフィンレイだったが、次の瞬間、彼は目を瞬かせた。

 整備されている芝生に存在するわけがない岩石が数個、宙を飛んでフィオレに飛来する。しかし石は、フィオレを中心に組みあがった半透明のドームによってすべて弾き落とされた。

 フィオレの眼は、明らかにリオンを睨んでいる。しかし──すぐ視線を外して顔を背けた。

 

『雇われはつろうございますね』

『……っ』

 

 リオンの傍には、ヒューゴが立っている。おそらくは、彼の指示だと思われた。

 譜歌の使用によって無防備になったフィオレに、大剣が振りかざされる。回避不可能なまでに迫った切っ先を前にして、彼女は紫電を捨てた。

 

 パァン! 

 

 快活な殴打音が、沈黙の中、余韻にひたる。

 紫電を手放すことで両手を自由にしたフィオレが、振り下ろされた大剣を白羽取りしたのだ。両者の動きがしばし止まる。フィンレイが停止していることをいいことに、フィオレは軽く指を動かした。

 やがて、まるで我に返ったようにフィンレイが、大剣を手元へと引き戻す。あっけなく大剣を解放したフィオレは、審判役たるルウェイン将軍に手のひらを突き出した。

 突然のことで戸惑うルウェイン将軍に、フィオレの冷ややかな言葉が告げられる。

 

「……わかりませんか? 私、出血しているんですけど」

 

 よくよく見れば、親指からその付け根にかけて、真紅の雫がじわじわとにじみつつあった。

 見る見るうちに血液が滴り始めたその様子を見て、将軍は即座に試合終了を宣言する。

 

「お手合わせ、ありがとうございました」

 

 どこか呆然としたように大剣の切っ先を下げたフィンレイに一礼し、無傷の左手で地面の紫電を回収した。

 傷ついた指先を口に寄せる。したたる鮮血をすすり、血行を圧迫する目的で強く縛った。

 血止めをしながら、王の傍で控える七将軍のもとへと歩む。急展開に眼を白黒させながら、衆人環視は彼女の一挙手一投足を見守った。

 やがてその足が、待機していた七将軍たちを前にして、立ち止まる。ぴんと伸びた背筋をそのまま、フィオレは深く頭を下げていた。

 

「先ほどは大変失礼いたしました。過ぎた挑発だったと、反省しております。お手合わせ、ありがとうございました」

 

 負傷した手を後ろに隠し、しっかりとした声で謝罪と礼を口にする。

 特に何の返事も期待していなかったのか、姿勢を正した彼女はそのままきびすを返した。

 

「善戦したな。救護兵に言って治療を……」

「退出の許可をいただければ、自分でします」

 

 ヒューゴに声をかけられ、フィオレは表向き慇懃に対応した。しかしその眼は、おそらく故意だろう、冷ややかな眼差しを雇い主に注いでいる。

 その眼を咎めることもなく、ヒューゴはフィオレに許可を出した。

 それには軽い会釈で答えたフィオレが、今度は王の眼前まで歩む。

 

「──それでは、御前を失礼いたします」

 

 頭を下げ、最低限の挨拶をしてから。彼女はリオンの手からモップを回収して中庭を去った。

 

 

 

 

 

 

 中庭では、人目がありすぎる。

 通りがかりの見物人たちの問いたげな視線を他所に、一同は再び謁見の間へ移動していた。

 彼女に勝利したフィンレイ将軍はもとより、卒倒させられた七将軍たちも回復が早かったため、同席している。

 ただしそれは、彼らが優秀な軍人だから、ではない。

 フィオレが本来の得物を使っていれば重症間違いなしだった一撃が、故意に威力を弱められていた──手加減されていたからだ。

 誰も、何も言おうとしない。言うべきこと、聞くべきことは山とあるはずなのに、誰もが口を噤んでいる。

 七将軍たちが同時に抱く、ありえなかった敗北に対するうしろめたさ。それに伴う、七将軍へ向けられるだろう国王の叱責と嘆き。

 ヒューゴが七将軍をも凌ぐ戦力を手に入れたことへの驚愕。

 そして。

 

「……ジルクリスト総帥」

 

 降り積もる沈黙をいち早く破ったのは、先程からちらちらとヒューゴに視線をやっていた、フィンレイ大将軍だった。

 

「彼女は……何者なのですか」

 

 フィオレンシア・ネビリムと名乗る娘の正体。

 一名をのぞくとはいえ、七将軍全員と対峙し、理想的な勝利を収めた。

 且つ、その直後大将軍フィンレイとほぼ互角の戦いを繰り広げ、息に乱れもない彼女のことが、彼は気になってしかたがないのだろう。

 搾り出すかのようにして発されたフィンレイの言葉を、ヒューゴは軽く切り返した。

 

「人であること、女性であることに間違いはないと思われますが」

「そういうことでは……!」

「ヒューゴよ。フィンレイの質問に答えてはくれまいか」

 

 声を荒げようとするフィンレイを抑えるように、玉座から国王が口を挟む。

 国王とて武人だ。これが武芸に関してまったくの素人ならば、七将軍の不手際を責めるだろう。小娘一人相手に、何をしているのか、と。

 しかし彼自身、足に不自由を負うまでは剣を握っていた人間なのだ。

 七将軍の敗北は、彼らの不手際ではない。相手が悪かったのだと思わせるほどに、フィオレの戦いは凄まじいものだった。

 動作のひとつひとつがさながら流水のごとく滑らかで、捕らえようがない。そして仕掛けるときは獣のように速いのだ。気付いたら、そこに彼女の得物が迫っている。

 初手の刺突など、遠目から見てようやく、いつ繰り出されたかわかるものだったし、アシュレイに放った連撃は、あの細腕では信じられないほどに打撃音は重かった。

 今頃彼の腕には、青痣のひとつも出来上がっているだろう。

 

「正直、儂も目を疑っている。そなたがあのような娘をリオンの指南役に据えたと聞いたときは耳を疑ったが……本当に、陳腐とわかっていながら、正体を聞くしかできん」

「正体のほどは、私にもわかりかねます」

 

 国王の言葉を受けて、ヒューゴはさらりと事実を口にした。

 

「本人いわく、記憶障害なのだとか。行き倒れていたところを神殿にて発見、保護され、しばらく世話になっていたことも確かめさせましたので、偽りではありません。あの髪色から皆様方も疑われたとおり、ファンダリア王家縁筋……ファンダリア王族の落胤ではないかと、私も勘ぐりました。ただの庶民にしては、おかしなところが多々ありましたのでね」

 

 それは、この場にいる全員が薄々感じ取っている。

 国王陛下に対する礼儀、他者に対する礼節、それらに基づく、付け焼刃とは程遠い言動……上流社会に身を置いていなければ到底身につくことはない、いやしからぬ品性。

 

「現在調査を進めてはおりますが、現段階では該当する人物はおりません。仮に御落胤であったとしても、あのような技術を保有する理由にはなりますまい」

 

 結局は、そこへたどり着くのだ。

 もし彼女が人知れずファンダリアの王城で暮らしていたとしても、いかにしてあの剣技を身につけたのかは、説明はできない。

 

「事実が知りたければ、本人から聞き出すしかないでしょう。記憶障害と告げられて以降、思い出したことが何もないわけではないらしいので」

「総帥自身は、気にならないのですか?」

 

 それを尋ねたのは、これまで言葉少なに傍観していたブルーム・イスアード将軍だった。

 その質問を、ヒューゴは首を横に振って否定している。

 

「無論、私も幾度か、何かしらを聞きだそうとしました。酔わせて口を軽くさせようかとも企みましたが……いずれも失敗に終わり、あれの機嫌を損ねるだけの徒労に終わっております」

 

 それはまるで、フィオレを怒らせることを恐れているかのような言葉だった。

 それを聞き咎めたのは、彼自身よりフィオレを紹介された国王である。

 

「ヒューゴ。そなたはあの娘の雇い主であろう。雇い主であるなら、その威厳を……!」

「あのじゃじゃ馬は、どうも縛られることを嫌うようなのですよ。私に雇われていることなどあまり気にかけていない。いつ解雇されようと構わないような顔をしているし、機嫌が悪くなれば露骨にそれを露わとする。強引に従わせようとすれば、早々に見切りをつけられ、失踪しかねないのです。面倒でも、加減を見て少しずつ飼い慣らさねば。もしもあのような人間がファンダリア軍に渡れば、それこそ脅威にしかなりません」

 

 隣国ファンダリアのことを引き合いに出され、一同に緊張が走る。表向き友好国であっても、平然と悪口を言い合えるような仲ではない。

 片や、天地戦争終結直後に興り、代々統治を担ってきたケルヴィン家が一貫した王政を敷いてきた、由緒正しい最古の国家。

 片や、現在セインガルド王が王座につくまでは数々の内乱を経て成立した王朝なのだ。新興国家と一言で言い切るほど歴史は浅くないが、それでもファンダリア王家には確実に劣る。

 その成り立ち、歴史からファンダリアに対し、国王が少なからず劣等感を抱くのは無理もないことだ。

 ヒューゴの一言により、国王の意識は完全にフィオレという一個人からそちらへと流れた。

 

「確かに、あの者が他国の手に渡らず、ヒューゴの目についた幸運を感謝せねばなるまい。リオンよ、セインガルドを担う者として、礼を言うぞ」

「……もったいないお言葉にございます」

 

 同席していたリオンが苦々しげに頭を下げる。

 彼としては、思い出すのも忌々しい出会いだったのだから、それはしょうがない。

 もっとも、先ほどの手合わせを見て以降、そんな感情はほとんど残っていないのだが。

 

「して、ヒューゴよ。儂からひとつ提案がある」

 

 そして国王から発せられたのは、彼にとって容易に予想できる内容だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




アルバート流シグムント派の剣は速さが命。手数の多さは二の次です。
見切られたら最後、殺られるだけなんで、剣速だけはカンストされている状態。
とはいえ手合わせ中は本気ではないので、まだギアは上げられます(笑)


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第二十二夜——街頭デビュー

 ダリルシェイド市街。鬱憤を晴らす憂さ晴らし。大声出すとストレス発散になりますよね。
 この行いが後に黒歴史と化すことを、このときはまだだれもしらない(笑)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃。険しい顔で王城を出たフィオレは、屋敷に戻らず街中に出てきていた。その足で向かったのは、以前市街探索に出て眼をつけていた大型楽器店である。

 ささくれた気分のまま店内を物色し、とある一角でフィオレはようやく足を止めた。

 小さなもの、大きなもの、むき出しのまま飾られたもの、ケースに入れられ、ずらりと並んだもの……以前シストルを触っていて、そのうちに手に入れようと思っていた数々の音叉である。

 手頃そうな音叉の品定めを始めつつも、指先の痛みは追憶を引き起こした。

 

(…………負けちゃった)

 

 白羽取りした際、大剣に軽く指を食い込ませて作った裂傷は、無論のことそうひどいものではない。

 敗北した事実は変わらないが、それを気にするのはヒューゴ氏の仕事で、フィオレがいつまでもうじうじ悩むことではないはずだ。

 勝負に横槍を入れてきたリオンのことも、今は何とも思っていなかった。考えてみれば、事実はどうあれ屋敷から一歩外へ出れば彼はヒューゴ氏の息子ではなく、雇われの身なのだから。いつクビにされても構わないフィオレとは立場が違う。そんな背景を考えれば、彼やシャルティエに怒りを覚えたところでどうしようもない。

 フィオレの心をもっとも刺激したもの。

 それは、フィンレイとの手合わせにおいて促されるまで決着がつけられなかった、フィオレ自身にあった。

 あの場で──フィンレイだけでなく七将軍たちとの手合わせで判明したことだが、彼女の体は思った以上になまっていたのである。

 ここ最近平和な暮らしに浸りきっていたせいだろう。リオンとの手合わせなど運動のうちに入らないし、神殿を出た直後の旅路でこれといった苦労をした覚えもない。

 神殿近隣の森で眼を醒ます以前までは、そこそこ命のやり取りをしていたのだから、必然だと思う。

 しかし、これからそんなことではいけない。ジルクリスト邸の蔵書によって、いくつか守護者たちの聖域に目星をつけつつあるのだ。

 シルフィスティアは友好的にも自ら聖域へ招き、契約を交わしてくれたが、他の守護者たちが必ずしもそうだとは限らない。

 死力を尽くさねば聖域にはたどり着けないのかもしれないし、守護者が必ず平和的に契約を交わすことを望むとも断言はできない。

 非常事態が発生したとき、自分の力不足で切り開けないというのは、フィオレにとって最大の屈辱だ。後悔したくないと願う以上は、それが可能な限り叶えられるよう、努力をするべきなのである。

 

 進まなければ。一歩でも、這いずってでもいい。立ち止まらないために。

 

 そんなことを悶々と考え込みながらも、フィオレは小型の音叉を購入した。

 まずするべきは──謁見やら手加減を強いられた手合わせなど、慣れないことをして疲れた自分を、癒すことだ。有体に言えばストレス発散に当たる。

 音叉を手にしたフィオレは、以前にも来た噴水のところへやってきていた。詰め所を背にする形──以前腰掛けた場所とは正反対の場所を陣取る。流石のフィオレも、警備隊の詰め所目の前で騒音公害をやらかす度胸はない。

 そう。フィオレはこの場所で、シストル片手に歌唱をするつもりでやってきたのだ。

 まずは、痛みの薄れない裂傷を癒す必要性がある。

 

「命よ、健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──

 

 控えめな歌声は、噴水の奏でる単調な音色にかき消された。

 しかし、浮かび上がった譜陣はフィオレの指先に刻まれた裂傷を跡形もなく消し去っている。

 彼女がこの場所で歌唱練習をすると決めた理由はここにあった。

 噴水による流水の音があるのだから、多少は騒がしくしたところで大丈夫だろうという腹積もりである。最も、制止されれば無理に続けるつもりもなかったが。

 シストルを取り出し、音叉の二股部分を指で弾いて、取っ手を耳の穴へ差し込む。和えかな響きが尾を引いているうちに基礎となる音階を合わせ、調律を済ませた。

 キャスケットをひっくりかえして自分の眼前に放る。おひねりが欲しいわけではないが、これで小銭稼ぎ目当てか何かに見えることだろう。

 

 ♪ 世界はもろくて 人は弱くて 時間は慈悲を知らなくて──

 

 シストルをかき鳴らし、数節の伴奏の末に、フィオレは細い喉を振るわせ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「フィオレンシアと言ったな。あの娘を、客員剣士として招きたい」

 

 国王の提案は、ヒューゴ氏のみならず、その場に居合わせさえすれば予想可能なものであった。

 七将軍相手に堂々たる戦いぶりを披露し、大将軍フィンレイに敗れはしたものの、互角の戦いを繰り広げた強者。おまけに物腰優雅にして端整な麗人なのである。

 大規模にして国内外唯一の企業総帥、国王の信頼に足るヒューゴ氏とはいえ、彼だけの手駒にしておくには惜しいと考えるのは、造作もないことだった。

 暗にお前の手下を寄越せと言われたヒューゴ氏は、内心の思いを欠片も出さず、軽く考えるような素振りを見せている。

 

「陛下がそのように所望したと、伝えてはおきましょう。しかし、嫌がるようでしたら別の手を考えねばなりますまい。何事も無理強いはよくありませんからな。その方法、私めに任せてはいただけませんか?」

「うむ、許そう。従来の指針に触れぬことを期待する」

 

 ようは、客員剣士としての待遇を変えず、口八丁手八丁で説得しろという意味だ。しかし、それは彼にとって許容範囲内の達しである。

 自分の目論見がうまく通ったことに誰からも見えぬよう唇を歪め、ヒューゴ氏は慇懃に頭を下げた。

 

「時に総帥、その彼女についてだが……出身地すらも聞き出してはいないのか」

 

 一度は終わった話題を、浮上させたのはイスアードである。

 どこかピンポイントな彼の質問に、同僚であるアスクスが口を開いた。

 

「そういえば、あいつが入ってきた時点でなんか驚いていたな。あの顔に覚えでもあるのか?」

「……顔や姿の特徴だけを挙げれば、私は彼女を知っています」

 

 驚きの証言に、国王やヒューゴ氏はもちろんのこと、一同が彼の言葉に耳をそばだてる。

 

「しかし、私の知る限り彼女は刀を振り回すことはおろか、虫も殺せぬような深窓の令嬢でした」

「令嬢……なら、あのような礼節を知る態度にも納得がいくな。イスアード、なぜそれを早く言わない」

 

 ミライナの咎めるような視線を受け、イスアードは言葉を重ねた。

 

「おそらく別人だと思ったのだ。髪の色は違う、あのような眼帯に覚えもない、様子が違いすぎるし、あの剣技の冴え……現年齢を考えれば、少々幼すぎるようにも見える」

「髪の色は染められる。眼帯は、まあ、こけおどし。様子の激変は記憶障害のせいにするとして……やっぱりあの強さだけは説明できないかな。ミライナちゃんみたいな事情もなかったんだろ?」

 

 そんな推測を並べ立てるも、リーンの意見はイスアードの首肯によって推測の域をでない。

 一方でアシュレイは、フィオレの携えていた武器のことを思い出している。

 

「でもあの刀は、アクアヴェイル産の剣のことですよね? あの人は二振りも持っていたじゃないですか」

「基本的に刀を扱いが学べるのはアクアヴェイルだけだ。私の知る女性でなくとも、アクアヴェイルの出身ではないかとは思っていた」

「ときにイスアードよ。お前の知る女性の名、素性は?」

 

 国王の質問を受け、彼は多少ためらいながらも、自分の唯一当てはまる彼女の素性を述べた。

 

「名は、エレノア・リンドウ。数年前に命を落とした、アクアヴェイル連合公国モリュウ領子息の婚約者だった女性です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ♪ 望んだように 微笑むだろう 「私は星のもとに逝く」と──

 

 一曲歌い終わって。フィオレは居心地悪そうに、それでも大きく息をついた。

 アルメイダの村でもそうだったように、フィオレの眼前には足を止めた聴衆がわだかまっているのである。

 その数は、アルメイダのときと到底比較にならない。流石セインガルドの首都、暇人が多いとでも思うべきか。

 他人に聞かせるために、あるいはガルド稼ぎに歌ったわけではないが、それでも形式は保っておくべきだと思われた。

 

「……御静聴、ありがとうございました」

 

 上ずる声を抑えて、聴衆に向かって頭を下げる。

 今まで不気味なくらい静かに聴いていたのだ。文句をつけるために集まったわけではないだろう、と予測したのだが。

 ぽふっ、と音を立てて、キャスケットの中に何かが収まる。それは、10ガルド硬貨だった。

 それを皮切りに、いくつもの硬貨がキャスケットの中に投げ入れられる。

 始まった拍手は漣のように広がるものの、謁見の間で感じたような不快さはない。聴衆による、単純な、本当に単純な賞賛の印だった。

 聞いていて心地のいい波音の間から、「アンコール!」という掛け声のようなものまで聞こえる。

 

「暇人ですね、こんな素人の歌を更に聞きたいと叫ばれるとは」

 

 本気でそう思いつつ、フィオレは聴衆に向かってそう言い放った。

 途端、拍手が鳴り止む。

 

「でも、褒められて悪い気はしないので、違うものを歌いたく思います。それでもよろしいですか?」

 

 返事の代わりだろうか、拍手が聞こえてきた。

 

「拍手を肯定とお受けします。違うのでしたら、文句なり立ち去るなり、なんなりと」

 

 勝手にそう決めつけて、フィオレは再度、シストルを構えている。

 響き始めた歌声を前に、文句も、立ち去る人間も、少なからずフィオレは気付かなかった。

 ──そして。異なる三曲を思う存分熱唱したフィオレは、空腹を覚えた時点で噴水の前から立ち去っている。

 気付けば太陽は中天を通り過ぎ、後は傾く一方だ。

 大声を出してすっきりした、と言えばすっきりはした。しかし何とはなしに、重いものがある。

 それはフィオレの腕に抱えられた、キャスケットの中身だった。

 違う曲を披露したせいなのか、大きめのキャスケットから零れんばかりに小銭がひしめきあっている。しかも、これがすべてではない。

 静聴に感謝し、帰ろうとしたフィオレの前に、数人の若者が小銭の入った袋を差し出したのである。こんなには受け取れないと言ったフィオレに、彼らはキャスケットまで届かなかった分を拾ってきた、と言い出したのだ。

 フィオレにはわからない話だが、それだけ人が集まっていたのだろう。噴水の音で聞きづらかったろうに、物好きな話である。

 ともかく、フィオレは若者らを労い、労働の対価と称してその小銭を押し付けてきた。受け取るべきフィオレがどう使おうと、それこそフィオレの勝手である。

 路地裏でキャスケットの中身をハンカチで覆い隠して、彼女は屋敷へと帰りついた。正面玄関を開こうと手を伸ばし、勢いよく開いた扉を前に思わず飛び退る。

 現われたのは、漆黒の猫毛に凛とした切れ長の瞳を持つ少年──リオンだった。

 

「あ──と。ただいま戻りまし……」

「どこに行っていたんだ」

 

 フィオレの姿を認めるなり、半眼になって彼女を睨む少年に挨拶をしようとして、不機嫌な声に尋ねられる。

 正直に行動を報告する義務もなく、フィオレは適当にぼかして答えた。

 

「街中にいましたが、それが?」

「治療はどうした。帰宅許可を出せば自分で手当てをすると抜かしていたのは誰だ」

 

 そういえば、そんなことを言ったような気がする。

 それに合わせて謁見の間でのこと、腕試しのことを思い出して、フィオレは嫌な気分を振り払うように軽く首を振った。

 

「治療に関しては済ませてあります。そんなことを気にするなんて、心配してくれたんですか?」

「誰が!」

「そうですか。安心しました」

 

 打てば響くようなリオンの返事に、フィオレは心から安堵している。

 ──アレの息子に心配されるなんて。恥なんてものじゃない。

 奇妙なその返事に、リオンはいぶかしげに眉をひそめている。

 

「……どういう意味だ」

「雇い主の命令とはいえ、迷いなく不意討ちを仕掛けるような人間に、心配なんか願い下げだという意味です」

「!」

 

 辛辣な言葉を浴びせられ、硬直するリオンの隣をすり抜け、私室へと戻った。

 まずは、この重たい荷物をどうにかしなければ。

 

「マリアン。両替とかってどこで出来るんでしょうか」

「ど、どうなさったのですか、この小銭の山。噴水から、お拾いに?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






※原作においてエレノア・リンドウさんは過去の方として存在します。しかしその容姿は明記されておりません。
 世の中には自分と同じ顔の人間が三人はいるとも言いますので、そんな感じの解釈をお願いします。


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第二十三夜——少年は成長という名の階段を上る

 ジルクリスト邸。仄かにデレるリオンに過去のこともあって、たじたじしているだけ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 昼食の席にて。

 マリアン手製のラタトゥイユ──野菜を摂っているとは思えないほど丁寧に煮込まれた代物──に舌鼓を打っていたフィオレは、どことなく心ここにあらずといった風情のリオンに話かけた。

 

「リオン。あなたに何も用事がないのなら、午後に以前と同じことをしたいと思います。何かご都合ありますか」

 

 フィオレに声をかけられ、リオンはびくりと体を震わせるものの、即答はない。先ほどのことを引きずっているのだろうか。

 何かを言いかけては口ごもる、奇妙なリオンの仕草を観察して数秒後。

 珍しく食事の席で帯剣していたリオンは、シャルティエの柄を軽く撫でたかと思うと、いきなり立ち上がった。

 表向きはただ平然と、内心ではなんだなんだと冷や汗かいて見守る中、彼は覚悟を決めたような顔つきでつかつかとフィオレのもとへ歩み寄ってくる。

 そして彼は、フィオレのすぐ傍で立ち止まり……大きく頭を下げた。

 

「お願いします。僕に剣術を教えてください」

 

 直後。がたごとっ、と音を立つ。

 そのことにいぶかしがったリオンが、顔を上げた先に見たのは、椅子を蹴倒して全力で引いているフィオレだった。

 それでいて、その表情は不吉な現象でも目の当たりにしたかのように、引きつっている。

 

「リオンが、こんな殊勝な態度で教えを乞うなんて……明日は世界の黄昏でしょうか」

「どういう意味だ!」

「それだけありえない事象だと思った、私の本音という解釈でお願いします」

 

 兎にも角にも、フィオレは落ち着きを取り戻すかのように椅子を戻した。

 よほど焦ったのか、前髪の隙間からじわりと滲む汗が見える。

 

「ええと……剣術指南の件ですね。わかりました、承りましょう。もともとそのために雇われている身です」

 

 そこで一度、フィオレは言葉を切った。

 思考を巡らせるように黙り込み、それほど時を空けず再び口を開く。

 

「最終的には私の腕を越えていただきますので、その自覚を持ってください。内容としては、実戦形式でお教えすることになると思いますので、それなりの覚悟を求めます」

「わかりました」

 

 一瞬間を置くものの、リオンは従順に頷いてみせた。それを見て、フィオレは再び顔を引きつらせている。

 その視線に耐えられなくなったリオンは、気まずげにボソリと呟いた。

 

「……なんだ。僕が敬語を使っちゃおかしいか」

「陛下やヒューゴ様という、目上の人間に向かってあなたが言うのは何の問題もないのですが。私に向けられるとやはり、違和感ありまくりです。むしろどちらさまなんですか」

「本当に失礼な奴だな……!」

「言動については謝罪します。ですが、指南のことといい、その敬語といい、一体何があったんですか?」

 

 この時点でフィオレが危惧していたのは、フィオレの戦いぶりを初めて目にしたであろうヒューゴ氏に、はっきりと剣術指南を乞え、と命ぜられたのではないか、ということである。

 態度に反抗的なものが見られないものの、もし真相がそうだったとしたら。ヒューゴ氏を折檻……もとい、全力で「誠意ある話し合い」を求める必要があるからだ。

 途端に目をそらし口ごもるリオンに、もしや、という疑念が渦巻く。

 そんなフィオレの疑いを綺麗さっぱり取り払ったのは、妙に楽しげなシャルティエの声だった。

 

『フィオレ。坊ちゃんがヒューゴ様に無理強いされてる、とか思ってない?』

『思っています。そうなんですか?』

「シャル!」

 

 焦ったように声を荒げたリオンが、何やら顔を真っ赤にしながら剣帯を外しにかかる。シャルティエを鞘ごと外してフィオレに押し付けると、リオンは足早に広間を出て行った。

 残されたのは、驚いたようにリオンの背を見送るマリアンと、フィオレ、その手に押し付けられたシャルティエである。

 

「……ご馳走様でした。おいしかったです」

 

 広間で話を聞く気になれず、マリアンに止められながら使用済み食器をキッチンへ片付けて、フィオレは私室へと戻った。

 私室へ一歩入るなり、シャルティエが上ずったような声を上げる。

 

『わあ、坊ちゃんより先にフィオレの部屋へ入っちゃった♪』

『どうしてそこで、リオンが出てくるのか、甚だ疑問ですが……』

 

 埃避けに、わざわざ借りてきたシーツで覆った寝台に腰を下ろした。

 改めて、シャルティエの話を聞くことにする。

 

『それで、お教えくださるのですか? リオンのあの態度のこと』

『ふふふ、聞きたい?』

 

 もったいつけるような彼の言葉に、奇妙な不安を覚えつつも肯定した。

 すると。

 

『じゃあ、念話のこと教えて? そうしたら、教えてあげるよ。坊ちゃんの、トップシークレットv』

「……」

 

 シャルティエを携えたまま、無言で立ち上がる。

 窓辺へ歩み寄り、乱暴に開けた窓からシャルティエを──

 

『うわーあああ、ちょっと待ったー! いや、待ってください! お願い、キレた坊ちゃんみたいな真似しないでプリーズ!』

 

 振りかぶって。シャルティエの懇願に心を動かされたわけではないが、放り投げるのはやめておく。

 フィオレは呆れた眼でシャルティエのコアクリスタルを見下ろした。

 

『リオンの入れ知恵ですか、それともあなたの独断ですか。答えによっては、リオンには無理やりオトナの階段を登ってもらいますけど』

『な、何をするつもりさ! そんなんじゃないよ、ちょっとした僕のお茶目だよ!』

『そうですか。では、あなたをばらっばらに分解することにします。覚悟なさい』

『いやああっ! 助けて坊ちゃあーん!!』

 

 嘘をついている可能性はなきにしもあらずだが──

 疑ったところで事実はわかるまい。ここは信じておくことにする。

 

『ま、冗談は置いといてですね。念話というのは、チャネリング現象のことを指します。精神同士を特殊な方法で接続し、精神感応の応用のような形で意思を交わらせることが可能になるんです。と言ってもこれはオマケみたいなもので、真骨頂としては精神を交えた相手の目を借りたり、その気になれば相手の体を自在に操ることも可能なんですね』

『……へ?』

 

 どうしてもリオンの変化の理由が知りたかったわけではないが、別にこれを隠し通さねばならない理由はない。いい加減面倒くさくなったフィオレはそう説明した。

 話を促した当の本人は、意外さにだろうか、戸惑いを隠せていない。

 

『え、えーと『私は条件を満たしましたよ。さあ、教えてください』

 

 促され、シャルティエはおずおずと語りだした。

 

『知っての通り、坊ちゃんも僕も、手合わせに同席したわけだけど。君の戦いぶりを見て、坊ちゃんかなり君のこと見直したらしいんだよ。見直したというか、こう……影響受けたような感じ?』

『それは困りましたね。私のようになってしまうのはいただけませんよ』

『だけど、あのくらいの年の男の子って、いいな、って思ったものに影響されやすいんだよ。あんな風になりたい、って。で、余りある実力を持ちながら礼儀正しく、それでいて自分の非は素直に認めて潔く頭下げる君の姿は、見事坊ちゃんの心にクリティカルヒットしちゃったわけだよ。僕だって素直にカッコいい、って思ったし』

 

 ……どうも、詳細が過ぎる。これは彼の想像ではなかろうか? 

 いぶかしげなフィオレの様子に気付かぬまま、シャルティエは話を続けた。

 

『それだけじゃない。純粋に、君の戦いを見て憧れちゃったんだよ。君が坊ちゃんと手合わせしたときは、まるでそんなことなかったけど。他人と戦ってるところ見て、初めて巧さがわかったっていうか──純粋な腕力そのものに自信がない坊ちゃんだからこそ、参考に値する戦い方だったと思う』

『……おだてたところで、私の機嫌は直りませんよ』

『そんなんじゃないよ! 今までヒューゴ様が連れてきた指南役の連中は、単なる形だけのお座敷剣法とか、でっかい剣を力任せに振るうだけとかの奴が多かったから。僕も一緒になってついいびり出しちゃったけど、君になら任せたい、って思うし』

 

 一体どうやっていびったんだろう、という純粋な疑問は話が逸れるからさておき。フィオレはシャルティエを抱えて立ち上がった。

 

『私には、それがあなたの想像でしかない気がして、ならないのですが。ともかく参考にはなりました。お手数をおかけしましたね』

 

 そのまままっすぐ、リオンの私室へと赴く。ノックを三回ほどすれば、すぐに部屋の主が顔を出した。

 その顔は無愛想でありながら、どこか頬が色づいているようにも見える。

 

「シャルティエの話したことが、彼の想像の域を出ないことを強く望みます」

 

 シャルティエを差し出しながら、フィオレは開口一番、それを告げた。

 

「あなた自身がどのような意図を持って、私から何を学ぼうとするのか。それはまあどうでもいいんですが、昨日より遥かに苦しい目に遭うことだけは確実です。それをお忘れにならないように。それでは、普段お使いの武具、防具の類があるならそれも持参して、中庭へ来てください」

 

 一方的に要求を突きつけ、きびすを返す。その足で中庭へ向かいながら、フィオレは唇を噛んだ。

 ──自己満足に等しい贖罪のため、自立を促すと共に自らを憎ませようと育てた少年のことが、脳裏をよぎる。

 憎むべき人間を憎ませようとした。たった、それだけのことだったのに。フィオレは失敗した。

 気づけば少年は、憎しみを向けられる手頃な立場にある対象に憎悪を燃やしていたのだ。本来なら、フィオレに向けられるべき憎しみをたぎらせて。

 結果として考えるならば、そこまで悪い結果だと考えてはいない。人間的に成長するきっかけになった、という見方すらできる。

 フィオレが問題としているのはその過程だ。

 途中まで、彼は順当にフィオレを恨んで、憎んで、殺したいと思っていたはずなのだ。

 一体何をどう間違えて、そうではなくなってしまったのか。それがフィオレにはわからない。

 彼女にとって、少年の存在は負い目だった。どんなに謝っても償っても、けして許されざるべき罪だったはずなのだ。

 フィオレは未だ、気付いていない。

 彼女が少年に対し、自分を憎ませようと企んだ。そのことを知られ、更にその真意を少年に知られたからこそ、企みは瓦解したのだということを。

 リオンに対して、そんな負い目こそないものの。フィオレは不安に駆られていた。

 ただ剣術を教えるだけだ。いつか企んだようなこともする必要はない。私情を絡めることなく、淡々と教えればいいだけのはずなのだ。リオンが自分を憎んでいればやりやすくなるだろう、とフィオレが勝手に思うだけで、そう仕向けることが必然ではないのに。

 頭ではわかっているのに、心が動揺するのは、素直でない少年に剣術を指南するという、以前の状況と酷似しているからなのだろうか。

 そうこうしている間に、フィオレは中庭へたどり着いていた。

 吹き抜ける風の中、壁に立てかけられていた竹箒を手に取り、深呼吸をする。

 何を怖がっているのか。あの時とは、状況が似ているだけだ。こと剣術指南に関して、フィオレが余計なことをする必要はない。

 ただ、ヒューゴ氏から正当に解雇されるため、ひたすら彼を鍛えればいいだけの話である。

 考えてみれば、おかしな話だった。過ぎた話を蒸し返して、状況の酷似に不安がって。いつからこんな、神経質になってしまったのか。

 リオンが何を思おうと彼の勝手だ。フィオレはフィオレの目的のために動けばいい。誰も彼もを利用して、知るべき事実を探せばいい。

 そこまで考えて、ふと気付く。

 知り合いの青年を思い出すからなのか。類希な原石だからか、それとも別の理由なのか。

 リオン・マグナスを名乗るあの少年に、いつの間にかフィオレは入れ込んでいたのだ。

 彼が素直になったことに対して、こんなにも動揺してしまうほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





※ラタトゥイユとはフランス南部プロヴァンス地方、ニースの野菜煮込み料理だそうです。
 玉ねぎ、ナス、ピーマン、ズッキーニといった夏野菜をにんにくとオリーブ油で炒めて、トマトを加え、オレガノ、バジル、タイムなどの香草とワインで煮込んだものだそうですが、見事に野菜オンリーですね。
 こんな代物をリオンに食わせるなんてマリアンすごいなあ。


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第二十四夜——称号取得「リオンの剣術指南役」

 続・ジルクリスト邸。

※チャネリングとは、常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の霊的存在・神・死者(霊界人)・宇宙人・未来人など)とコミュニケーションをすることである。
 と、ウィキペディア先生はおっしゃっておりますが、原作ではその名を冠するアイテムがあり、装備させると(通常は1Pキャラクターのみ操作可能なのですが)装備キャラクターの操作が可能となる代物です。
 オリジナルキャラクターは前作「The abyss of despair」五十五唱辺りから酷似した現象を起こし始めたため、今作ではこのように絡めてみました。
「うん、わからん」という方は「主人公であるオリキャラは、声帯を使用せずにソーディアンやその他人外に話しかけられる」と認識してくださいませ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眼を白黒させて、フィオレの背中を見送ったリオンはシャルティエに視線をやった。

 

「……シャル。あいつに何を言ったんだ?」

『僕から見て、どうして坊ちゃんがフィオレにいきなり頭を下げたのかという推測です。推測だとは言わなかったんですけど、やっぱりバレちゃったみたいですね』

 

 フィオレに言われた言葉を、心のうちで繰り返し、要約を試みる。

 シャルティエの言葉は信じていない、ということ。覚悟しろ、ということ。準備ができたら中庭に出ろ、ということ。

 フィオレの言うような、戦闘用に特別装備する武具も防具も何もないリオンは、シャルティエを剣帯に下げ、中庭に向かった。

 

『あ、そういえばですね。念話のことちょこっと聞きだせましたよ』

「! 本当か!?」

 

 すれ違った家政婦(メイド)が、突如リオンの発した声にびくりと肩をすくませる。

 そんなことにすら気付かず、リオンは足を動かしながらも、詳細を語るようせがんだ。

 

『とは言っても、単なるさわりだけでしたけどね。念話というのは、チャネリング現象のことだ、と言っていました。精神同士を特殊な方法で接続し、精神感応の応用のような形で意思を交わらせることが可能になる……と言うのが彼女の弁です』

「チャネリングというのは?」

『僕が知っている限り、チャネリングっていうのはアイテムの一種です。装備者を意のままに操るとかいうものなんですけど、ひょっとしたら、それにちなんだ名前がつけられているのかもしれませんね』

「全然関係ないように思えるが……」

『それがですね。そのチャネリング現象の真骨頂は精神を交えた相手の目を借りる……相手が見ているものも自分で見れるようになったり、果ては相手の体を動かしたり、というものらしいんです』

 

 聞けば聞くだけ、わけのわからない話である。しかし、ひとつ気がかりなことがあった。

 

「シャルがあいつと念話できるということは、チャネリング現象とかいうものが発生しているということになるな。シャルは大丈夫なのか? あいつに操られたりなんてことは……」

『何言ってるんですか。僕は自力で動ける身じゃないんですよ? それに、フィオレにそれができるとも限らないし』

「そうか……それで、どうやってそんな現象を起こしているんだ?」

『さあ、そればっかりは。念話とは何なのか、を教えてもらっただけですし』

「……そうか」

 

 頼りない返答を聞き。リオンはがっくりと肩を落とした。

 主の明らかな落胆を見て取って、シャルティエは慌ててフォローに走っている。

 

『あああっ、坊ちゃん元気出して! これから聞いていけばいいんですよ、これから!』

 

 ──二人の会話から察する通り、リオンは念話の習得を切望していた。彼個人としては、剣を教えてもらうよりそちらを優先してほしいくらいである。

 シャルティエと声に出して言葉を交わさざるを得ないリオンは、それなりに人目を気にしているのかもしれない。

 中庭に通じる扉から外へ出て、フィオレの姿を探す。彼女は、簡単に見つかった。なぜか芝生に座り込み、腕を組んで唸っている。

 その後姿に近寄ろうとして、リオンの脳裏にシャルティエの囁きが響いた。

 

『ね、坊ちゃん。ちょっと脅かしてみませ──』

「先ほどのことといい、今といい。思った以上にふざけた性格をしているんですね。シャルティエ」

 

 リオンにしか聞こえない程度の囁きを聞かれ、シャルティエは『ぎくぅ!』とわざとらしく心情を声にしている。

 その声はどこか凄みを帯びていて、怒っているようにも感じ取れた。

 

「リオン」

 

 その声音で名を呼ばれ、彼は多少声を震わせながらも返事をしている。

 

「な、なんだ」

「今から打ちかかります。避けないで、シャルティエで防御してください」

 

 言うが否や──フィオレは立ち上がると同時にリオンへ殴りかかった。素手ではなく、長柄の何かを振り回しての攻撃である。

 七将軍、及びフィンレイとの手合わせで何とか彼女の動きを目で追うことができたリオンは、がむしゃらにシャルティエを引き抜いた。

 何かと、シャルティエの刃が激しく噛み合う──

 かと思いきや。

 何やら爽快な音を立てて、衝撃はいずこへと消えていった。

 

「……やはり駄目みたいですね」

 

 眼前には、得物を振り下ろした姿勢のままのフィオレがいる。

 彼女が眼を向けているのは、半ばから切断された竹であった。

 そして初めて、リオンは彼女の背後に散らばっているものを目にしている。

 

『ってこれ、フィオレ。僕の代わりに竹箒を分解しちゃったの?』

「シャルの代わり?」

『あ、その。えーと……』

「先ほどふざけたことをのたまってくれたので、脅かしてみただけです。あなたとの修練用に、殴ったところで問題なさそうなものを試してみましたが……流石に植物で、天下のソーディアンと渡り合うのは無謀でしたね」

 

 嘆息しながらも、フィオレはリオンとすれ違った。

 リオンが視線を追った先で、彼女は警棒並みの長さになった竹の棒を回収している。

 

「稽古用の得物については熟慮しておくことにして。今回は、あなたの回避・防御能力がどの程度のものなのかを調べてみたく思います。今から私が仕掛けますから、応戦するなり、回避するなり、防御するなり、お好きにどうぞ。ただし、紫電で──真剣で斬りかかりますから、死なないよう注意してくださいね」

 

 一応私はシャルティエ自身を狙いますが、という補足も忘れていない。

 リオンが承諾したのを受けて、フィオレは腰の紫電を引き抜いた。

 その銘にちなんだと思われる淡紫が、対峙する二人をも魅了する。

 

『ねえフィオレ、この刀すごく綺麗だよね。もともと持ってたの?』

「ご安心を。あなたも十分綺麗ですよ。これは神殿で、流れの商人から購入したものです」

 

 刀が閃き、正眼に構えられた。リオンが構えたのを十分確認し、フィオレは軽く足を踏み出している。

 

「参ります」

 

 シャルティエよりも遥かに華奢な刃が、リオンの手元へと吸い込まれていく──

 

「……やる気、あります?」

 

 心底呆れ返った。そんな心情を隠そうともしない、苛立ちさえ含んだ声がリオンの鼓膜に突き刺さる。

 刃を交わした、その直後。交わしたままの姿勢から微動だにせず、フィオレはひとつだけさらした眼でリオンを見やっていた。もはや睨みすらしていない。

 フィオレの握る紫電はリオンの眼前に張り付いており、対してリオンが握っていたはずのシャルティエは、どこにもない。

 たった一合、刃をかみ合わせたと思った次の瞬間、なんとリオンはシャルティエを手放してしまったのだ。

 今やシャルティエは、中庭を囲う雑林のどこかに転がっているか、あるいは幹や根元に突き刺さっていることだろう。

 一方でリオンは、紫電を眼前に突きつけられ硬直していた。先ほどまでシャルティエを握っていた手を、無意識にか片一方の手でかばっている。

 フィオレの眼から逃げるように視線をそらしたリオンから、紫電を下げた。

 弾かれたように身を引くリオンに、顎をしゃくってシャルティエを取ってくるよう指示する。

 素直に愛剣を探しに行ったリオンの背中を見送って、フィオレは長いため息をついた。

 ──想像以上に筋力が低い。

 まずは全力をもって一撃を振るい、彼がどう反応するのか、小手調べ的な意味合いを込めていたわけなのだが。まあ反応できたことは評価しよう。

 曲がりなりにも今現在のフィオレが全力を出し切った一撃だ。当然それなりに速度も、重さも乗せてある。

 彼の身体能力ではおそらく回避はできまいと思っていたが、やはり回避ではなく防御を選んでいた。

 回避しようと思ったが間に合わなかった、というマヌケな結果にならなかった、このことも評価はするべきだ。

 しかし、受けきれず衝撃を流すこともできず、得物を弾き飛ばされたというのは……あまりに情けなくはないだろうか。

 確かに彼の腕は細い。手の大きさも、お世辞にも大きいとはいえない。

 まだまだ成長しきっていないのだから、当たり前ではあるが……以前教えた少年はそんなことがなかっただけに、フィオレは自分でも気づかぬほど戸惑っていた。

 やがて、シャルティエを手にしたリオンがフィオレのもとへと戻ってくる。

 気まずそうに黙りこくる少年に、彼女は言葉を選びながら慎重に話しかけた。

 

「あなたが怒り出すことを承知でお聞きします」

「?」

「──男の子ですよね?」

『ぶっ』

 

 シャルティエは間髪いれず、吹き出している。

 無論のこと、彼は怒り狂った。

 

「他の何に見えるんだ!」

「いや……全力だったとはいえ、私の一撃にも耐えられないとなると、ちょっと疑ってしまって。そうですよね、喉仏ありますし」

 

 まじまじとリオンの喉もとを見つめるフィオレの眼前で、性別を疑われた少年は怒りに顔色を真っ赤に染めている。

 シャルティエは未だ、言葉を発さない。

 必死になって笑いをこらえているのか、あるいは声にできないほど爆笑しているのか。

 

「喉仏以外は女に見えると……?」

「大丈夫、声も男の子ですよ。人間、顔かたちが整いすぎてると中性的になってしまうものです」

 

 某若年寄の顔が思い浮かぶ。

 今現在のアレを女と間違える輩はいないと思うが、幼い頃の姿は性別の区別がつかなかったと、元同僚のナルシスト偏執狂が遠まわしに言っていたような気がした。

 しかし、目の前の少年もその腰にぶら下がる人格も、見当違いなことを口にしている。

 

「……自画自賛か?」

『フィオレ、男の子に間違えられたことあるの?』

 

 半眼になるリオン、こちらは普通に疑問として尋ねてきたシャルティエに、フィオレは思わず苦笑した。

 

「私のことではありません。故意に変装したことはあっても、間違えられたという記憶はありませんし。私は喉仏なんて器官を備えておりませんし」

 

 そんなことはさておき。

 フィオレは唐突に紫電を突き出した。

 

「それでは緊張もほぐれたところで、先ほどの質問に答えていただきましょう。やる気、あります?」

 

 雰囲気が豹変する。

 和やかだった顔つきが瞬時にして引き締まり、フィオレはどこか冷たくリオンに尋ねた。

 気圧されたように、ただ首肯するリオンを見て。嘘はないだろうと判断しておく。

 この際虚実はどうでもいい。

 

「そうですか。では、今どうして防御したんですか?」

「……回避は、難しいと思ったから。シャルティエで、防御を……」

「──攻撃の受け流し方はご存知ですか?」

 

 リオンは首を横に振っている。よもやとは思っていたが、やはり知らなかったらしい。

 

「フィンレイ将軍と私の手合わせを見ていたとは思うのですが、私は幾度かあの大剣を弾いています。それはご存知ですよね?」

 

 思い出しながらか、リオンは間を置いて首肯した。

 

「私は腕力に自信がないので回避に重きを置いていますが、それでも回避が間に合わない時はどうしても防御せざるをえません。でも、ただ力任せにこの紫電の刃で相手の剣を受け止めたら、強度の問題ですぐ折れてしまいます」

 

 陽光が紫電の刃を舐める。その様を見せながら、フィオレはシャルティエを指した。

 

「私はソーディアンのことをよく知りませんが、もしも特殊な金属でできていて、破損などとは無縁だったとしても。今のあなたのように弾き飛ばされてしまったら、もう無意味だと思うんです」

「……うるさい」

「そんなわけで、握力を鍛えると同時に一般的な防御方法をお教えします。あなたのそれは、我流の傾向にあるようなので」

 

 リオンの剣技、全てが全て我流だとは思わない。剣術における基礎は出来ているようだし、そうでなければ他者に通じる我流など、考え付くはずがないのだ。

 おそらく、幼少の頃はきちんとした剣術指南役をつけていたのだろう。

 しかし今その指南役がいないということは、何らかの事情か、リオンのほうが強くなってしまったか。

 今しがたは思い切り呆れてしまったが、全体的な評価としては、弱点が多いというだけで筋は悪くない。

 いまいち磨ききれていない原石、というフィオレの見立ても、満更間違ってはいないようだ。

 

「では、まずは攻撃の受け流し方から──」

『ねえフィオレ』

 

 いよいよ、本格的に指導を始めようとした矢先。シャルティエがどこか、おずおずとした様子で言葉を発した。

 

「何か?」

『あのさ……怒ってないの? 僕たちが、大将軍との手合わせで、不意討ち仕掛けたこと』

「ああ。あれですか」

 

 シャルティエのおしゃべりを諫めない辺り、リオンも気にしていたのだろうか。

 黙して耳をそばだてるリオンにも聞こえるよう、フィオレは肉声で返事をしていた。

 己の目元を指差して。

 

「小さなことでいちいち怒ってばかりいると、皺ができるんですよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十五夜——称号取得「セインガルド客員剣士見習い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヒューゴ氏から手渡されたものを見て、フィオレは首を傾げた。

 形状は、少々大きめのループタイである。

 地金は銀。中央にでかでかと、どこかで見たような十字の紋章が彫られており、名のある職人が手がけでもしたのだろうか。緻密にして繊細な意匠だった。

 まるでその彫刻を保護するかのように、水晶らしき透明な鉱石が張りつけられている。

 

「これは何ですか?」

「これは……その、なんだ。これを身につけていれば王城への出入りが許される。伝え忘れていたのだが、国王陛下から君に登城命令が出ているのだよ」

「……えー」

 

 フィオレは心底嫌そうに眉をしかめた。

 

「昨日の今日で、一体何の用事がおありなのですか?」

「うむ……まあ、それは行けばわかるだろう。くれぐれも遅刻したりすっぽかしたりしないように」

「ヒューゴ様はいらっしゃらないので?」

 

 遅刻にすっぽかすなということは、すなわちそういうことなのか。

 それを尋ねると、予想に反して彼は首を横に振った。

 

「いや、私も同席はする」

「では、別にこれは必要ありませんね。昨日はヒューゴ様同伴という形で入城できたことですし」

「実は緊急の用事が入っていてな。謁見の時間には間に合いそうにもないので、遅刻という形で出席する。リオンも同席させるが、生憎客員剣士という身分だけでは同伴者の入城はできない。事情を話したら、これを身につけさせるように、との達しがきたのだよ」

「首輪つけられてるみたいで、嫌なんですけど」

「……く、首に巻くのが嫌なら、提示という形を取り給え」

 

 そんなやりとりの後、フィオレはリオンに伴われて王城まで来ている。

 直前でループタイを取り出し、「よろしいですか?」と一声かけて、フィオレは無事城門を通過した。

 取り出したループタイを仕舞うべく、城門の内側で立ち止まる。

 そのフィオレに、門番担当の兵士らしき会話が届いた。

 

「なあ、陛下はまた客員剣士を招いたのか?」

「あの坊主に続いて今度は小娘……? 客員剣士ってのはいつから年齢制限がついたんだ?」

 

 ……また? 

 何やら、聞き捨てならない台詞がちらほらと聞こえる。

 詳細を聞こうかとフィオレが彼らに声をかけようとしたそのとき。

 

「おい、何をぐずぐずしている」

 

 いつになく足の遅いフィオレに、少し苛立ったようなリオンの声に引き戻される。

 

「お先にどうぞ。何やら彼らが気になることを……」

「後にしろ。陛下を待たせるつもりか」

 

 後ろ髪……正確には被服を掴まれてだが、フィオレは謁見の間直前まで連行された。

 その頃にはもう流石に諦め、引っ張られてよれた袖を直している。

 

「リオン。服を引っ張るのはやめていただきたいのですが」

「嫌ならもう少し真面目な態度を取るんだな。それこそ、ここへ訪れたばかりのときのように」

 

 どことなくツンケンとフィオレをいなしながら、彼は謁見の間に繋がる兵士に、取次ぎを頼んだ。

 ほどなくして、二人は揃って謁見の間へと足を踏み入れることになる。

 並んだ玉座に王女の姿はなく、内務大臣や文官といった側近たちの姿もない。

 あるのは国王陛下本人、そして七将軍全員と大将軍一人という面々だった。一体何の用だというのだろうか。

 玉座の数段下付近でリオンが立ち止まり、一礼する。その隣でフィオレは跪き、頭を垂れた。

 客員剣士であるリオンと同じように振舞うには、たぶん位が足りないだろう。

 

「国王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく。して、本日は何用でございましょうか」

「うむ。用件に入る前に──以降かしこまる必要はない。立ち上がり、(こうべ)を上げるがよい」

 

 国王のそんな言葉を受け、フィオレは内心でいぶかしがりながらも従った。

 通常、このような場で目上の人間と眼を合わせるのは無礼に当たるが、頭を下げずに眼を合わせないのは、かなり失礼な気がする。フィオレはきちんと眼を向けることにした。

 幸い、真っ直ぐな視線を寄越されても咎められる素振りはない。むしろ満足げに頷いてすらいる。

 ところが、国王がフィオレの姿を見やって数秒後。彼は眉をひそめて質してきた。

 現在のフィオレは昨日と変わらぬ姿。服装を咎められる謂れはないはずだが……

 

「フィオレンシアよ。お主、どのようにして王城へ入った? ヒューゴに渡すよう言付けたものが見当たらぬが」

「それでしたら、こちらに」

 

 懐から取り出したループタイをかざして見せる。それを見て、王はますます戸惑ったように眉をひそめた。

 

「何故身に着けない? よもや気に入らぬと申すか」

 

 ええその通りです。首輪みたいで嫌だから、とは答えない。

 王族の不興はもう、出来る限り買わない。

 

「──戦いに身をおくものとして、首に何かを下げておくことはできるだけ避けたいと思っています」

 

 チョーカーのように、文字通り首輪じみているものならまだいい。

 以前身に付けていたロケットペンダントのように、服の下に仕舞えるものも許容範囲だが。

 このループタイのように提示しなければならず、且つゆとりがあるものでは、敵に掴まれる、何かにひっかけるなど事故が懸念されるわけだ。

 それで首が絞まるような、間抜けな事態に進んで陥りたくはない。

 それを切々と訴えるも、何故か横槍が入れられた。

 

「昨日の戦いぶりじゃあ、そんなドジ踏みそうにもなかったけどな」

「お褒め頂き大変光栄です。でも基本的に私は、組み付かれたら負けるんですよ」

 

 リーン将軍の茶々を聞き流して、そんな訳です、としめくくる。

 渋い顔をしている王の脇を見て、フィオレはループタイの留め具に何が刻んであったのかに気づいた。

 どこかで見たと思ったら、あの彫刻はセインガルドのシンボルマークだったのである。

 一方で王は、言い分に納得はしたらしい。それ以上咎めだてする風情はなかった。

 しかし。

 

「して、ヒューゴからの言伝は聞いておろうな? その返事を聞かせてもらいたい」

「……?」

 

 ヒューゴ氏からの、言伝。

 いぶかしがって記憶を検索するも、そんなことを言われた記憶はない。

 フィオレは即座に反論した。

 

「そのような言伝に覚えはありません」

「なんと。忘れたと申すのか?」

「そうではなく、ヒューゴ様からそれらしいお言葉を受けておりません。今一度、言伝の内容を繰り返していただけませんでしょうか」

 

 聞いた聞かないの問題よりも、先に言伝の内容を聞いておく。

 この手の問題はこじれると厄介なため、早めに流しておくのが鉄則だ。

 幸いにも国王は、その話題について追及しようとしなかった。

 

「ヒューゴの奴は何を……まあいい。フィオレンシア、そちを客員剣士に招こうと「謹んでご辞退申し上げます」

 

 国王に皆まで言わせることもなく、フィオレは早々に辞退を表明している。

 今のがあまり褒められた態度でないことは承知の上だ。しかし、ことこの件に関して答えは決まりきっている。

 不思議なことに、国王は渋い顔をするだけで無礼を咎めようとはしていない。あるいは、無礼を咎めたところで無意味と思っているのか。

 

「……理由を聞こう」

「第一に。私はすでにヒューゴ様に雇われております。雇用主を二人にすることはできません。もしもヒューゴ様がそれを承知で命ぜられるならば、契約書を破棄していただく必要があります」

 

 ピン、と背筋を伸ばしたまま、フィオレは次なる理由を淡々と述べた。

 

「第二に、私が記憶障害と診断された身である、ということをご考慮願いたく思います。記憶喪失であった人間は保有する記憶を取り戻した瞬間、記憶を失くしていた間の記憶をすべて失うという事例が報告されているんです。私がそうならないとも限りません」

 

 忠誠どころか、よく知りもしない人間にただ仕えるなんざ御免被る。

 ヒューゴ氏には自分がしたことの責任と、それなりの利益が見込めたから、あえて配下と成り下がったのだ。

 それ以上でもそれ以下でもないのに。

 

「加えて。私はあなた様にとって何処の馬の骨とも知れぬ輩でしょう。出身地も、己の素性も、何一つ明かせぬ人間に、そのような地位を与えてもよろしいのですか?」

 

 言外に、たとえ思い出したところでそれを伝える気がないことを表明しておく。

 そもそも記憶障害が偽りなのだから、思い出すことなど何もないが。

 

「以上のことから、私に客員剣士という待遇は、もったいなきお言葉に存じます。身分不相応であると、お考え頂きたい」

 

 本心を欠片も見せず、彼女は辞退理由を丁寧に並べている。

 意外にもまともな理由を聞かされた国王が、反論することも叶わず黙り込んだ、そのとき。

 

「まあ、待ちたまえ。そう結論を急ぐことはなかろう」

 

 重厚にして渋みのある落ち着いた声が、謁見の間に響き渡る。

 背後を窺えば、そこには不遜な笑みをたたえた壮年男性──ヒューゴ・ジルクリストが立っていた。

 

「ヒューゴよ。そなたはフィオレンシアに儂からの言伝を伝えなかったのか?」

「まこと申し訳ありませぬ、陛下。客員剣士についてそれとなく尋ねたところ、あまりにも絶望的な返事をよこしたもので……」

 

 そういえば再び晩酌の席に招かれた際、フィオレが客員剣士になったらリオンをしのぐ活躍ができるだろう、とかいう例え話をされた記憶がある。

 そのときフィオレは「何が悲しくてそんなことをしなければならないのか」とか、「この国に所属する気はない」「ただ偉いというだけの人間に仕えたくなんかない」と適当なことを返したのだが、あの流れで国王からの言付けなど話せる状態ではなかった。

 場の雰囲気の問題ではない。ヒューゴ氏は話を進める前にまたも潰れてしまったのである。

 先天的に弱いのか、フィオレのペースに付き合っていたせいなのか。

 ではどうするのだ、と言いたげな王を他所に、ヒューゴ氏はフィオレに向かい直った。

 

「どうしても私を客員剣士にしたいのでしたら、契約書を──」

「いや、君の気持ちを尊重しよう。その件について無理強いはせんよ」

 

 燃やせ、と告げようとして彼から発せられた言葉に、フィオレは意外さを覚えている。

 口を噤んで、彼の次なる言葉を待った。

 

「代わりにと言ってはなんだが、客員剣士見習い──リオンの部下としてはどうかね」

「み、見習い? リオンの部下?」

「そうだ。とはいえ、表面的なものではあるがな。客員剣士に許されるだけの権限は渡そう。その代わり、客員剣士として行動する際はリオンの指示に従ってもらう。これならば陛下のご意向に従い、君は主を二人にする必要はない。リオンの上司は私なのだからな」

 

 何だかややこしい上に騙されているような気がしないわけでもないが、国王の顔色はまるで名案を聞いたように明るい。

 ここはヒューゴ氏の手前、ご機嫌取りをしておいた方が得策か。

 フィオレは短く了承の意を返した。

 

「──ときに、フィオレンシアよ」

 

 国王はどこか視線を泳がせながら、再びフィオレに質問を始めた。

 

「そなた、エレノア・リンドウなる者を知らぬか?」

 

 いきなり場に緊張が走ったような気がする。

 どうしてイスアード将軍が軽く喉を上下させたのか、首を傾げながらもフィオレは即答した。

 

「いいえ、存じ上げません」

「そうか……」

 

 そして漂う落胆の空気。

 フィオレ本人としては戸惑うしかないのだが、他に誰一人として同じような状態の人間はいない。

 全員グルだと考えるのが自然だが、それを口に出したところでどうにもならないだろう。

 

「──ご用件がお済みでしたら、私はこれで」

 

 もともと落ち着かない謁見の雰囲気が更に重くなったのを感じて居づらくなり、退出を告げようとして。

 

「いや、客員剣士──見習い就任早々ではあるが、二人に七将軍との合同任務を申し付ける。そのためにリオンに同伴してもらったのだ」

 

 遮られた。

 ……何か釈然としないものを感じないでもないが、仕事は仕事だ。話を聞くことにする。

 

「実は、このダリルシェイドとハーメンツの境にある……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




まさかの部下扱い。剣の師にして配下とは、これ如何に。
称号、ぞくぞくゲット中です。多分、いや間違いなくまだまだ増えます。


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客員剣士見習い編
客員剣士見習い初任務~メコリア湖に潜む巨大水竜の謎に迫る! 前編


 副題:原作中空気な七将軍達にもそっと出番を。
※作中の地名・集落・魔物等々はすべて原作には存在しません。
 


 

 

 

 

「ダリルシェイドとハーメンツの境にあるメコリア湖に、ドラゴンが棲みついたとの通報があった。ドラゴンは湖畔の集落に『災禍を免れたくば、純潔の花嫁を差し出せ』と要求しているのだという。事実関係を確認し、早急に事態を収拾せよ」

 

 すでに生物学者を擁した調査隊を現地に派遣してあるのだという。彼らからの報告を聞き、討伐に向けて対応しろということだ。

 七将軍と、彼らを束ねる大将軍が謁見の間にいたのは、この任務命令も兼ねていたかららしい。

 何か質問は、というところで、フィオレはひょいと、挙手をした。

 

「何だね? ドラゴンについての詳細は後々説明するが……」

「討伐、捕獲、村人あるいは花嫁の安全。どれを優先しますか?」

 

 フィンレイの揶揄じみた言葉には取り合わず、優先順位を尋ねてみる。

 討伐が優先されるなら被害を厭わずに済むし、捕獲なら生きてさえいればいいのか、あるいは五体満足の状態で引きずってくる必要があるかを確認する必要がある。

 その質問に、国王はしばし沈黙した上で回答を出した。

 

「……一に村人らの安全、二に討伐、三に捕獲だ。討伐も捕獲も叶わぬなら、撃退という選択肢も考えよ」

「かしこまりました」

 

 となれば、後はそのドラゴンの詳細と地形を考えて戦術を組み立て……いや、リオンの命令に従えとあったから、それに逸脱しない程度に行動するべきか。

 近隣住民の避難を考慮だの、兵士の編成だの、七将軍たちから二、三の質問が終わってから、一度解散となった。

 任務期間がどれだけ長くなるのか不明であるため、各自遠征準備をし、現地集合という形を取るらしい。

 リオンに促され、一度屋敷へと戻ったフィオレは、さして手間も要らない支度を整え、エントランスで待機していた。

 それというのも、準備が終わったらそこで待っていろというリオンの言葉があったからである。

 荷袋を足元に、壁に寄りかかって持参した書物を眺めていたその時。

 

「マリアン!」

 

 普段の調子とは明らかに異なる、リオンの明るい声音がフィオレの耳にも届く。

 何かと見やれば、フィオレのいる玄関口から奥……階段のところで、マリアンとリオンが何やかやと会話にうち興じていた。

 やりとりの詳細こそ聞かないようにしていたが、間違いない。リオンは明らかに、彼女に対して頑なな心を開いている。

 マリアンのほうは、普段フィオレやヒューゴに使うものとは大幅に異なった、まるで年の離れた弟に接するような砕けた話し方をしていた。

 彼らの立ち位置から、フィオレのいる位置は死角に当たる。

 おそらく、マリアンは二人きりだと信じてあの話し方をしているのだろう。普段はリオンに対しても格式ばった敬語なのだ。

 やがて彼らは会話に終止符を打った。マリアンは階段を上がり、リオンはエントランスに足を踏み入れる。

 そこで彼は明らかに、フィオレの姿を見て戸惑った。

 ──甘酸っぱ過ぎて、からかう気にもなりゃしない。

 パタン、と書物を閉じ、荷袋へ押し込む。

 それを担ぎ上げようとして、リオンのほうから何かが飛んできた。

 

「……これは?」

 

 片手で受け止めたそれは、丁寧に梱包された厚みのある三角形である。

 柔らかさからしてサンドイッチっぽいが……

 

「マリアンが僕たちに作ってくれた弁当だ。食べてすぐ移動するのは体に悪いから、現地で食べればいいと」

「食べ物を投げないでください」

 

 これだから金持ちの坊ちゃんは、と呆れつつ、ひょい、と上階を見やれば。マリアンは柔らかくはにかみながら会釈をしている。

 その曇りなき笑顔を見て、フィオレはこれで幾度目かもわからない違和感を覚えていた。

 リオンへのわいせつ疑惑から幾度となく顔を合わせているが、まるで彼女はそんなことなど無かったかのように振舞っている。

 演技であるならばそれでも構わないのだが、まったく演技に見えないのが問題だった。どこぞのブラックロリータのように裏表が激しいだけか、とそれとなく観察していたが、そんな気配はまるでない。

 まるで、あのときのマリアンが別人だったと思わせるほどに。

 そんな疑いはさておいて。

 

「ありがとうございます、マリアン。行ってきます」

「行ってらっしゃいませ。お二方の帰還をお持ち申し上げております」

 

 ひらり、と手を振り、外へと出る。

 そのまま街の外へ出ようとして、リオンに止められた。

 

「時間短縮に馬を使う。ヒューゴ様所有の馬は軍の厩舎に預けてあるから、そっちへ行くぞ」

 

 馬と聞いて、一度虚空を見上げて。

 フィオレは、ぽん、と手を打った。

 

「あれですか。あの茶色い四本足に尖った耳で面長の」

「ああ、あれだ。言っておくが戯れる暇はない。大人しく僕の後ろに座っているんだな」

 

 どうやら相乗りはさせてくれるらしい。フィオレとしては徒歩でついてくるよう、強制されるのかと思ったのだが。

 そんなことを不用意に口にして、本当にそうされても困るため、余計な口は噤んでおいた。

 リオンの先導で、厩舎とやらへたどり着く。

 家畜臭独特の匂い漂うそこは建物と広場が一体となった場所で、すでに何人かの七将軍たちが馬の調整を行っていた。

 

「リオン。馬の足の裏についている金具は何ですか?」

『あれは蹄鉄だよ。馬の蹄の底に装着して、蹄の摩滅、損傷、あと滑るのを防ぐんだ』

 

 リオンに尋ねたつもりだが、なぜかシャルティエの声が脳裏に響く。

 彼が知らないと見越して、フォローに回ったのだろうか。

 

『ありがとうございます、シャルティエ……あっ』

『どうしたの、忘れ物?』

「失礼しました、リオン様。今のあなたは私の上司でしたね」

 

 すっかり忘れ去っていたし、ヒューゴ氏も表面的なことだと言っていたが、ケジメは必要だ。

 突如、父親と同じ様付けをされたリオンには表向き何の反応もない。無視しているのか、別に文句はないのか。

 そうこうしている間に、調教師らしき初老の男性が、一頭の馬を引き出してきた。

 

「……わぁ」

 

 フィオレがこんな感嘆を零したのは、初めて馬を間近で見たから……ではない。

 初めて市街で眼にした馬よりも遥かに、眼前の馬は巨大だった。

 フィオレの知る馬には、役割に応じて違う種類があてがわれる。軍馬、輓馬、荷馬などが一般的だ。

 おそらくこちらの馬も同じで、以前見たのは荷馬、今眼前で悠然としているのが軍馬なのだろう。大きさだけでなく、筋骨隆々としていて見るからに逞しい。

 

「おい、ぼけっと突っ立ってるんじゃない。邪魔だ」

 

 リオンに注意を喚起され、慌てて巨大な黒鹿毛から離れようとした。すると。

 

「ほう。君は馬が珍しいのかい?」

 

 近寄ってきたのは、銀灰色の髪をひとつにくくったフィンレイ・ダグだった。

 先ほどの軍服姿に肩当てや胸当てなど、動きを阻害することがない軽鎧を身につけている。

 

「珍しいです。私の記憶にこのような生き物はいないので」

「なら、私の愛馬に少し乗ってみるか? いきなり遠乗りはつらいだろう」

「いいんですか?」

 

 なんとこの黒鹿毛は彼の愛馬で、しかも試乗させてくれるらしい。

 フィンレイは、昨日の敵意など微塵にも感じさせない顔で頷いた。

 

「君、彼女を乗せて「じゃあ、ちょっと失礼しますね」

 

 世話人の男性が馬具を取り付けるや否や、フィオレは黒鹿毛の鼻面を軽く撫で、ひょいっ、と乗っかっている。

 黒鹿毛は慌てたように身動きし鼻を鳴らすも、フィオレが軽く手綱を引いただけで、すぐに落ち着いてしまった。

 

「……た、鬣には触らないようにしてくれ。そいつはそこを引っ張られるのが嫌いなんだ」

「タテガミってどれのことですか?」

「「!」」

「鬣は首の後ろに生えている毛のことだ」

「このふさふさした毛のことですね。了解です」

 

 轡、鐙、鞍──乗馬において必須の馬具に、フィオレが見たことのないものはない。一応裸の馬を御する術は持っているが、こちらの馬にそれが通じるとは限らないのだ。

 用心しいしい、フィオレは黒鹿毛に歩き出すよう、動作での指示をした。少し間をおいて、黒鹿毛はゆっくりと歩き出す。

 その行き先を広場に向け、広場を周回させるよう仕向け、常歩、速足、駈足からの踏歩変換、襲歩……全力で走らせた。

 馬を御する技術も、こちらの馬にほぼ通じる。そのことを確認して、フィオレは速度を緩めさせ、厩舎のほうへと行き先を向けた。

 その途中、尻尾を動かすことはできないかと合図を送ってみる。

 通常馬を御するのに使わないが、斥候などに赴いた馬が、後方に向かって尻尾でサインを送るという技術だ。

 流石に、まるで髪のようにふさふさした尻尾を動かすことは出来ないのか。戸惑うように鼻を鳴らされただけで、応じてはくれなかったが。

 黒鹿毛を操り、飼い主のところへと辿りつく。

 少し離れた場所で身軽に飛び降りると、フィオレは黒鹿毛をフィンレイのもとへ引いていった。

 

「ありがとうございます。とても参考になりました」

 

 驚きに眼を見張っているフィンレイに、ではなく、初老の調教師に手綱を渡してリオンのもとへと向かう。その時。

 

「──ちょっといいかな?」

 

 淡い金髪に甘いマスク、白を基調とした七将軍の証である軍服をまとう男が立ち塞がる。

 ロベルト・リーン将軍を前に、フィオレはあくまで事務的に尋ねた。

 

「何か?」

「いやあ、小さなことなんだけどさ……」

 

 人懐っこい、悪く言えば軽薄な笑みを浮かべながらフィオレに近づく。

 反射的に下がろうと後方に意識をやっていたフィオレは、その瞬間、すべての動きが凍りついた。

 

「昨日の手合わせで、ここんとこ怪我してなかったか?」

 

 彼は、フィオレの右手を掴んでその指先を軽くなぞったのである。

 ──全身がどうしようもなく総毛だったのを、フィオレは確かに感じ取っていた。

 

「っ!」

 

 悲鳴をどうにか呑み込めたものの、反射的な動きだけはどうしようもない。

 誤魔化しようもないほど身震いしたフィオレは、思い切り手荒くその手を振り払った。

 予想だにしなかった反応だったのだろう。リーンは驚きをあらわにしている。

 刹那、自分の手を取り戻したフィオレは胸元で抱きしめるようにしてから、すぐに顔を上げた。

 

「ご、ごめんなさい。少し、驚いて」

「あ、ああ……」

「怪我のことですけど、あれは手品なんです。本当に怪我をしていたわけではありません。お騒がせしました」

 

 十分なほどに頭を下げてきびすを返し、その場を離れるようにリオンの傍へと歩んでいく。

 彼はフィオレの反応をいぶかしがっていたものの、驚いたような、呆れたような調子で小さく息を吐いた。

 

「どうかしたのか? また猫が逃げたか」

「……まあ、そのようなものです」

 

 この言葉に嘘はない。事実、フィオレはあの瞬間、素の自分を隠していなかった。

 今頃になって膝が震えるような感じになっているし、額にはじんわりと汗が浮かんでいる。異性恐怖症──自身より年配の男性限定──はフィオレの努力不足もあって、治る兆しは無い。

 ヒューゴ氏所有の馬も、先ほどの黒鹿毛には及ばないが、軍馬らしく大きな葦毛だった。

 専属の馬飼によって馬具数種を取り付けられ、仕上げとばかり馬櫛でたてがみを手入れされている。

 手布で汗を拭き、さあ出発というところで。

 

「もう一頭用意できますが、いかがなさいますか?」

 

 当初、フィオレが乗馬できないという前提のもと、一頭の用意しかしていなかった馬飼の男性がそんな提案をしてきた。

 リオンを見やれば、彼は実に不満そうな顔で見返してくる。

 

「……何故僕を見る」

「この件に関してはあなたの指示に従ったほうがよさそうだと思いまして」

 

 この厩舎に預けられている軍馬は、すべてヒューゴ氏の所有だということもあるのだ。下手に貸してくれと言って、何かあった時に言い訳はできない。

 かくしてリオンは首を、真横に振った。

 

「確かに手綱の捌き方はなかなかのものだったがな。慣れないことをさせて目的地に到着してから使い物にならないでは、目にも当てられん」

 

 なんとも小憎らしい物言いではあるが、子供はこのくらい生意気なのがちょうどいい。

 多少の疲労もあって、フィオレは黙認することにした。

 

『とか何とか言っちゃって。フィオレ、拗ねることないよ。こう見えて坊ちゃん、優しいときは優しいからね!』

「シャル!」

 

 押し殺した声で叱責し、少々赤くなった顔がフィオレを睨む。

 それまで厩舎の壁にもたれていたフィオレは、弾みをつけて立ち上がった。

 

「勘違いするなよ。別に僕は、お前の心配なんか……」

「はい、そうですね。じゃあ参りましょうか。二人乗りでは、遅くもなるでしょうし」

 

 見やれば、パラパラと七将軍の面々が部下を引き連れて出立している。

 自分の言い分が無視された形の少年は、これ以上言っても墓穴を掘るだけと悟ったか、何も言ってこなかった。

 荷袋を鞍の後ろにつけ、リオンの背中に張り付くようにして乗る。

 

『……将軍に手を握られるのはダメで、坊ちゃんと密着するのはいいの?』

『お子様ですからね』

 

 本人に聞かれたらかなりの確立で怒り出す言葉に、シャルティエはただ吹き出すしかなかった。

 

「お前ら! 何をコソコソくっちゃべってるんだ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リオンとの相乗りで早駆けすること、少し。

 二人はメコリア湖湖畔に位置する、メコリアの集落──現地入りを果たしていた。

 殊更語ることはしなかったが、つい最近フィオレが風の守護者と接触すべく歩いた街道は程近い。

 リオンの姿を見て出迎えた兵士に馬を預け、その際一人の兵士が、急遽セインガルド王国軍の詰め所として接収した集落の集会所に案内を申し出る。

 彼らの態度は、至極丁重なものだった。

 リオンの活躍に起因してか、客員剣士という地位がフィオレの思う以上に高いのか。いずれにしても、フィオレにとってはあまり好ましいことではない。

 到着した途端、彼らは年若い客員剣士と相乗りするフィオレの姿を気に留めていた。気にするなというほうが難しいだろう、フィオレの姿には特徴がありすぎる。

 現在の状況を尋ねるリオンに、それは調査隊の人間から聞いた方が早いと兵士は返し、そのまま道中沈黙が続いているのだが。

 とうとう耐え切れなくなったのか。兵士はリオンの後ろにつき従って歩くフィオレに視線を寄越した。

 

「……時に、リオン様。こちらの女性は?」

「客員剣士見習いだ。自分の身は自分で護らせるから、気にしないでいい」

 

 彼としては、兵士はフィオレを護衛対象として見るべきか否かを問われたと思ったのだろう。その返答は簡潔にして素っ気ない。

 何か言いたげにこそしているが口を噤んでいる兵士に、フィオレは口を開いた。

 

「お初にお目にかかります。客員剣士見習いにしてリオン様の部下、フィオレンシアです。以後お見知りおきを」

「あっ、いや。これはどうもご丁寧に」

 

 軽く目礼をすれば、兵士はしどろもどろとただ頭を下げ返している。彼にしてみればそれで十分だったのか、それ以上は何も尋ねられず、ただ足を動かすのみとなった。

 やがて、兵士に先導されて二人は集落の中央辺り──周囲の民家に比べて大きめの建物に案内される。

 両開きの扉の向こうにはそれなりに広い空間が広がっており、何人もの兵士たちが忙しく動き回っていた。

 その奥に据えられた黒板前で、七将軍の面々が新たに到着した二人を迎えている。

 

「よう、来たなお二人さん」

 

 開口一番、からかうような調子で声をかけたのはリーンだった。

 

「遅刻してしまいましたか?」

「いんや。まだミライナちゃんにアスクス、ドライデンの爺さんが来ないんだ。待機しててくれよ」

 

 示された椅子に腰掛け、黒板に書かれた文字を追う。

 そこには、ドラゴンについての生態、特徴、主な弱点などがおざなりに書かれていた。

 

「作戦会議は三名の到着をもって行う。それまで、各自これに目を通してもらいたい」

「──だ、そうだ。長くなるから、楽にしていてくれ」

 

 フィンレイの言葉に伴い、イスアードがフィオレをちらちら見ながら言う。

 室内での外衣着用は、彼にとって目障りに映るのだろうか。

 外衣を外し、椅子の背に引っ掛け。フィオレは懐から、厚みのある三角形を取り出した。

 

「……ここで食う気か?」

「いつ何が起こるかわからないんです。有事の際使い物にならないのでは、目にも当てられないのでしょう?」

 

 腹が減ったという本音をオブラートに包み、早駆けで少々形の崩れたサンドイッチに齧りつく。

 ぷりっぷりのシュリンプを咀嚼しつつも、黒板に書かれた文字に眼を走らせて、フィオレは内心で驚いていた。

 フィオレの知るドラゴンという種族と、生態や特徴、弱点など大幅に異なる点はない。

 突き詰めて調べればきっと異なる点を見つけることができるだろうが、フィオレの知るドラゴンとここでの実物はそう変わらないようだ。

 黒板の文字を舐めるように追っていくと、不意に隣でがさがさという音が聞こえた。

 見やれば、リオンもまたサンドイッチの包みを広げている。彼はフィオレの視線に気付いて、ジロリと視線を寄越した。

 

「……なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え」

「思うことは多々ありますが、言いたいことは特にありませんね」

 

 含みのあるフィオレの言葉につっかかるリオンを無視して、再び黒板へ眼を戻す。

 湖に潜伏できることから水棲である可能性が高いこと、目撃証言から大きさは民家ほどもあるということを確認し、更に逆鱗についての箇所に眼を通していると。

 突如、カァンカァンカァン、と半鐘らしき金物を叩くような音が響き渡った。

 

「今のは?」

「警鐘の音と聞いたな。何かあったときに鳴らされるものらしいが、まさか……」

 

 アシュレイの質問に、ルウェインがいぶかしみながらも答える。

 それを聞き、フィオレはサンドイッチを口に押し込み、外衣を羽織って外へ出た。

 周囲を見回せば、常駐していた兵士は湖畔方向へと集まっていき、それまで出歩いていた地元の人々が、慌てて民家へと避難していく。

 フィオレと入れ替わりにやってきた兵士が、息を切らせながらも扉を開いて入って行った。どうせ何かが起こった、という報告だろう。

 しかしフィオレは、そんなものを悠長に聞いてはいられない。

 もむもむと口を動かしながら兵士の集まっていく方向へと足を向ければ、集落からほんの少し離れた湖畔の船着場へとたどり着く。

 そこに至るまでに、湖から身を乗り出すようにしているドラゴンの姿はつぶさにわかった。

 水面から首だけを出している状態なので、全長はわからない。しかしその首は非常に長く、頭が垂れているところが狗尾草(エノコログサ)を思わせた。

 その身を覆う鱗は水の色をしており、水棲ではないかと考えられている理由に納得がいく。

 船着場から離れて少しの、波打ち際。

 手出しこそしていないが、取り巻くように待機する兵士の間をすり抜けて現場へたどり着けば、そこにはドラゴンと対峙する先客がいた。

 ミライナ、アスクス、ドライデン。

 三者三様、到着したばかりなのか。騎乗した状態で剣を引き抜き、ドラゴンを睨んでいる。

 上陸阻止、あるいは攻撃され次第、応戦する構えなのだろうが、彼らはドラゴンがブレス──特殊な吐息攻撃を仕掛けてきたとき、どうやって回避する気なのだろうか。あんな風に馬を並べてしまっては、咄嗟の回避も難しいはずだが……

 想定される惨劇を防ぐべく、紫電は抜かずに傍観に徹しておく。

 フィオレからは後頭部しか見えないが、三人とてただ黙ってドラゴンを威嚇しているわけではあるまい。

 そのとき。

 

「状況は!?」

「あ、アスクス将軍、ミライナ将軍、ドライデン将軍のご到着時、突如湖からドラゴンが姿を現しました。お三方はすぐさま戦闘の準備に入られましたが、ドラゴンには何の反応もなく……」

 

 フィンレイの言葉に、一兵卒にしか過ぎない青年の、緊張した声が聞こえる。

 詰め所の彼らも来たらしいということがわかったところで、ついにドラゴンは動き出した。

 ちらりちらりと煩わしげに動かしていた、縦に虹彩の入っている瞳。それが自分に向かって立ち向かう気満々に見える三人に、釘付けとなる。

 ドラゴンの首が大きく反り返り、その口ががばり、と開くのを見て、フィオレはその場にしゃがみこんだ。

 左の手で足元の地面に触れる。

 

「母なる抱擁に、覚えるは安寧──」

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──

 

 しならせた首がばね仕掛けのように元の位置へと戻り、反動で吐き出すかのようなブレスが三人に襲いかかる。

 やっとその動作が何を示すのか、気付いた彼らが逃げようとして、互いの馬を接触させた。

 発生した譜陣がそんな彼らを包み込み、ブレスを正面から散らしていく。

 ふと、煙のようなブレスが半透明のドームから流れて、湖の淵に触れた。

 淵は見る見るうちに凍りつき、更に散らしたブレスの影響か、気温が一気に低下していく。

 

「なるほど。触れれば壊死しそうな冷却ブレス、吐くんですか」

「何を呑気な」

 

 足音と共に、リオンが傍へとやってきた。

 そろそろ強制的に解除されてしまう半透明のドームは、幸いなことにブレスが途切れてから、その姿を霧散させる。

 

「あれの正体を尋ねに来たんですか?」

「手品なんだろう。そのことはいい、どうにかして撃退することはできないのか」

「……」

 

 まず脳裏に浮かんだ案を、とりあえず口に出した。

 

「仮に、あれの腹が減っていると仮定しましょう。そこいらの民家から童女を徴収して与えれば、湖が真っ赤に染まって撃退できると思います」

「却下だ」

 

 そろそろフィオレの軽口に耐性がついてきたのだろうか、彼の返事は素っ気ない。

 少々寂しい気分に浸りながらも、次回策を検討する。

 まず、何故ドラゴンは姿を見せたのか。

 腹が減っているのか、ここいらに人が増え、騒がしいからか、あるいは大量の人間の匂いに誘われたか。そういえば、現われたドラゴンは花嫁を……

 ふと一案を思いついたフィオレは、湖の淵へと足を運んだ。

 周囲の兵士や七将軍が注視する中、フィオレはドラゴンに臆することなく淵に踏み入り、湖の中まで進んでいく。

 

「おい、お前何を……!」

「何か御用ですか」

 

 足を膝まで湖に浸からせ、フィオレは首をもたげたドラゴンの眼前で話しかけた。

 ドラゴンに人語で語りかける。その行為に周囲がどよめく中、フィオレは話しかけるのをやめない。

 

「花嫁を寄越せ、などと言う頭脳があるくらいです。私の言葉くらい、理解できるでしょう? 何の御用ですか、お腹でも空いたんですか?」

 

 ふしゅるる、とドラゴンの、吐息を洩らすような音が間近で聞こえる。

 いつでも逃げ出せるよう警戒を怠らないフィオレは、不意に不快な耳鳴りがするのを感じた。

 

「っ!?」

『……キ……カ。コンセ……オ……カ……ヒ……ミノ、ホジ……ャ……』

 

 背後で呻きを上げながら、ばたばたと人の倒れていく音がする。

 振り返りたいが、この状態においてドラゴンから眼を離すことができるほど、フィオレの肝は太くない。

 かなり聞き取りにくい上に、砂を噛むような雑音が混ざっているが、どうやら念話の類であるらしい。

 たとえ素養がなくとも、他者の意識へ強制的にねじ込んでいるため、全員に聞こえる代償として、誰かが呻いて倒れているのだろうか。

 その荒っぽさが、素養を持ち曲がりなりにも念話を習得しているフィオレにも、悪影響として耳鳴りがするのだと思われる。

 

『……ク、クククッ。ウ、マソウ、ダ』

『フィオレ、逃げて! 食べられちゃうよ!』

 

 途切れ途切れでさっぱりわからないが、最後の一文だけは理解できた。

 シャルティエの警告を聞くまでもなく、フィオレはその場の離脱を図っている。

 

『ニガ、サヌ!』

 

 フィオレが駆け出すのを見るや否や、ドラゴンはヒレのように平べったい前足を持ち上げ、水面を激しく叩いた。

 膝まである水が大きくうねり、フィオレの足を鈍らせる──つもりだったのだろうが。

 

「とうっ」

 

 水面が叩かれた瞬間、フィオレは陸に向かって飛び込むようにヘッドスライディングを試みた。

 結果、全身ずぶ濡れとなった代償に無事、陸地へと到達している。

 しかし、そこで広がる光景は思いのほか、フィオレを脱力させてくれた。

 兵士、七将軍は全滅。野次馬だろうか、遠巻きの地元住民も倒れ伏している。

 どうにか立っているのは長老らしき杖をついた老人と、シャルティエを抜こうとして頭を抱えているリオンのみ。

 フィオレでさえ不快な耳鳴りが止まらないこの念話、先天的な素養のある人間でなければ、耐えられるものではなかろうが……

 そんなどうでもいいことを考えつつ、フィオレは虚空へ左手を差し伸べた。

 吹き抜ける風から晶力を引き寄せ、練り上げていく。

 

「天空を踊りし雨の友よ。我が敵をその眼で見据え、紫電の槌を振り下ろさん……」

 

 詠唱と共に、フィオレの足元で譜陣が展開された。

 譜陣は詠唱が進むにつれてその輝きを増し、ロゼット状に開かれてフィオレを覆わんばかりに眩くなっていく。

 ドラゴンが大口開けて迫るその一瞬、フィオレは術を解き放った。

 

「インディグネイト・ヴォルテックス!」

 

 突如としてドラゴンの周囲に譜陣が展開し、召喚された雷雲が一斉に帯電を始める。

 うろたえたように動きを止めたその隙を、フィオレは見逃さなかった。

 本来は雷の嵐が対象を四方八方から嬲り倒すも、湖への影響を考えてそれはなしにしておく。

 代わり、放たれない雷性エネルギーを上空へと詰め込んだ。

 やがて溜め込まれたそれがフィオレの意志に応え、槌を振るうが如く対象へと降り注ぐ。

 大口を開けた、ドラゴンの口の中へ。

 

『ギャアアアアアアッ!』

 

 妙に鮮明な悲鳴が、フィオレの脳裏にも直撃する。

 彼女自身は眉をしかめるだけで済んだものの、どうにか荒っぽい念話に耐えていたリオンは、ついに足元を危うくさせた。

 

『ああっ、坊ちゃん! 気を確かに!』

 

 ドラゴンから眼を離さず、リオンの体を支えてやる。

 気休め程度にしかならないだろうと思いつつも、フィオレは自分の身につけていた銀環を、少年の細い指へ押し込んだ。

 念話をする上で重要な接続器官(コネクタ)を代用できるこの指環ならば、多少は苦しみが緩和されると思ったのだが……

 指に落とし込まれたその瞬間、リオンは苦悶の表情から一転、夢から醒めたような顔つきになって自分の足で立った。彼は不思議そうに自分の変調を確認している。

 その激変ぶりを見て、フィオレは小さく感嘆を洩らした。

 

「……なるほど。素養はそれなりに備えているんですね」

 

 口腔を通して内蔵に雷を注ぎ込まれ、黒い煙を吐きながらドラゴンはゆっくりと沈んでいく。

 それを見届け、フィオレはリオンの指から銀環を抜き取った。

 何か言いたげなリオンを制して、フィオレは銀環を中指に着けている。

 

「さて。彼らを起こしましょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兵士たちが、湖に沈んだはずのドラゴンの死骸を潜水で探す。

 その光景を、フィオレは膝を抱えるようにしながら眺めていた。とはいえ、好きで眺めているわけではない。

 当初、ドラゴンを沈めた張本人としてフィオレも捜索に参加しようとした。そのつもりで湖に近寄ったところ、リオンに止められたのだ。

 口答えしたところを上官命令で待機を命じられ、フィオレは半眼になりつつもその指示に従った。

 

『そうむくれないで。坊ちゃんだって、悪気があって待機命令出したわけじゃないんだよ? あくまで、客員剣士と兵士の違いを明確にするため……』

『仕留めたかどうかわからないから、この眼で確かめたいんです。それなのに行くな、なんて言うのは横暴だと思います』

「シャル。こいつに話しかけるんじゃない」

 

 フィオレの不機嫌がうつったのか、苛立つリオンの言葉に、シャルティエはなす術もなく黙り込む。

 事態に収拾がついた後、フィオレはもちろんリオンの、七将軍たちから質問という嵐に見舞われた。

 どうやってドラゴンのブレスを防いだのか、何故フィオレは普通に動くことができたのか、ドラゴンに何をしたのか。

 更にリオンからは、銀環の正体についても厳しい言及が突きつけられている。そのすべてに対して、フィオレは事実を言わなかった。

 

「さあ。存じ上げませんし、分かっていることも、お話しできる事柄はありません」

 

 その後、現状を報告させるために呼んだ調査隊は、まず死骸の有無を確認してもらえないかと訴え出てきたため、現状の確認はその後で行われることになった。

 沈黙が、その場に静寂を呼び込む。

 会話はひたすらに無く、聞こえてくるのは兵士たちの捜索にあたってのざわめき、湖の水が風を受け、寄せては返す波が生まれる音。

 ただし、フィオレとて漫然と作業風景を眺めていたわけではない。

 

『ときにシルフィスティア。水中に潜れませんか? 私の目になってもらいたいのですが』

『ん~と、ね。できないことはないけど、疲れるよ。動けなくなるのは困るでしょ』

 

 つまり、ただ疲れるのではなくてその場から動けなくなるほど、疲労困憊状態になるということか。

 

『アクアリムスなら、簡単なんだけど』

『契約を済ませろ、ですか……あなたは、あのドラゴンが何を言っていたのか、わかりますか?』

『……わかる、よ。だけど、内容は教えられない』

 

 またか。

 シルフィスティアは急に押し殺したような声音になると、黙り込んでしまった。

 これまでにも、フィオレはジルクリスト邸の資料を独自で解析しては、シルフィスティアにヒントを求めている。

 しかし彼女は──守護者たちに性別があるのか否かはさておいて──他愛のないおしゃべりにはうち興じてくれても、守護者たちの聖域や関連する情報の確認となるとたちまち黙り込んでしまうのだ。

 フィオレ自身に関することも、苦しそうに口を噤む。

 それはシルフィスティアの意志なのか、あるいは例の彼女の意向なのか。

 契約してほしいなら、せめてどこへ行ってどうすればいいかくらい教えてほしいところなのだが。それを言わないということは、何か事情があるのだろうと勝手に勘ぐっておくことにしている。聞いたところで教えてくれるとも限らない。

 それともこのこと自体が、すでに力試しの要素に組み込まれているのか。

 普段はおしゃべり好きな彼女が黙するということは、あのドラゴンはフィオレにとって何か重要な情報を保持していたことになる。

 

 もしもあのドラゴンが生きていたとしたら、どうにか情報を引き出せないものか──

 

 フィオレは脳裏で首を振った。それは無理だ。

 自衛が理由であれ、フィオレはあのドラゴンに危害を加えている。ドラゴンの生存率を含めて、会話をするなど絶望的であろう。

 ──と。ここで初めて、フィオレはリオンから寄せられる熱視線に気付いた。

 眼だけを動かして見やれば、隣に立つ少年は作業風景ではなく、フィオレの左手を見ている。

 彼は、先ほど自分が身に着けさせられた銀環を凝視していた。もしかしたらこれが念話を可能にしているのではないかと、そんな幻想を抱いているのかもしれない。

 間違ってはいないが、それはあまりに短絡的な思考だ。

 その気になれば、確かにこの指環で素養のない人間でもシャルティエの声を聴かせられるかもしれない。

 ただし、彼が望むのは念話の発信であって、受信ではないだろう。念話の発信は感覚的な要素が多く、教えられることなどほとんどない。

 加えてこの技術はこの世界発祥のものではなく、その上フィオレ自身、念話とはこれこれこういうものだ、と断言はできないのだ。

 高かった陽が降下の一途を辿り、誰かさんの髪を髣髴とさせる夕日が湖を染め上げる。

 フィオレたちはその間ずっと作業を見守り続けていたものの、結局発見には至らなかったらしい。

 太陽が山の向こうに沈みきったそのとき、作業中断の合図が響いた。

 

「リオン様!」

 

 そこで伝令の兵士が、フィンレイから発令された詰め所への集合伝達を持ってくる。

 何でも、調査隊が現状に至るまでの報告をするらしい。

 そこまで聞いて、フィオレはくるりとリオンに向き直った。

 

「じゃあ、リオン様。行ってらっしゃいませ」

「どうしてそうなるんだ。お前も行くに決まっているだろう」

「ははは、いやだなあリオン様。面倒くさいからに決まっているではありませんか。後で重要なところだけ教えてください」

「そんなことを聞かされて誰が納得するか。うだうだ抜かしてないでさっさと来い」

 

 本当は、将軍級の人間がいる中で、ノコノコと新参者にして客員剣士とはいえ見習いが、当然のようにいるのはいかがなものか、と思ったのだが……これでリオンに強制されたという事実ができた。

 二の腕を掴まれて連行されること少し、集会所へと戻る。

 奥まった一画、黒板周囲には今度こそ七将軍と大将軍が揃っていた。

 黒板の前には、調査隊の面子らしき白衣の男が立っている。

 彼らを前にして、リオンはようやっとフィオレの腕から手を離した。

 

「遅くなりました。これが駄々をこねまして」

 

 珍しく頭を下げたリオンを見て、むくむくと悪戯心がもたげる。

 伸びをするようなフリで腕を伸ばせば、ちょうど拳の辺りで鈍い衝撃を感じた。

 突き刺さるような視線を感じてそろそろと首を元の位置へ戻せば、後頭部を押さえて睨むリオンとしっかり眼が合う。

 

「何をするんだ、貴様……!」

「よかったですね」

 

 感情大爆発五秒前という様相のリオンに、フィオレは感情の伴わない笑みを送った。

 

「私が刃物を持っていなくて」

「!」

 

 言いながら、笹の葉の形をした手裏剣がフィオレの手の中に現われる。

 気配に気付けとまではいかない。

 髪に触れるか、でなくても頭に触れた瞬間少しでも引くような素振りがあれば、拳の感覚が教えてくれただろう。それがなかったのだ。

 つまり彼は、フィオレの拳にあったあの衝撃をもって初めて、自分の後頭部に異物が迫って──正確には自分から近づいていたことを知ったということになる。

 数えていくつめかもわからない、リオンの弱点。それは周囲の気配に対して鈍感になりすぎること。

 常に気を張っていることなど、人間にできることではない。フィオレが望むのは、無意識下において異変を察知できることだ。

 気配を探るのではなく、気配の存在、その状態を認識、あるいは知覚すること。

 幼い頃から屋敷の中で暮らしてきた彼には、望むべくもなかったか。

 

「──っ」

「お待たせいたしました。これまでの状況、そして現状の報告をお願いします」

 

 フィオレの失望を感じ取ったのか。絶句した少年にそれ以上省みることなく、彼女は調査隊の人間と思しき彼らに声をかけた。

 突如現われた年若い二人に戸惑うものの、将軍たちが何も言わないことを見てか。白衣の男性が小さく咳払いする。

 

「では、これまでの状況をご説明いたします。ことの発端は……」

 

 あまりまとめられていない報告、理解しにくい学術用語が飛び交う中、フィオレは使われていない黒板に近寄り、白墨を手に取った。

 ドラゴンが現われた経緯は不明。地元の民らの証言は眉唾ものが多い。

 発見は数日前、水辺で遊んでいた娘たち数人行方不明事件が発生。捜索のため、地元の漁師らが湖に出たところ、故意に姿を見せたと思われる。

 ドラゴンは肉片付きの娘の骨と、まったく無傷の娘──ただし変わり果てた水死体を船上に放り出していったという。

 それを持ち帰って長老に報告が行ったところ、長老の脳裏に奇妙にして受け入れがたい要求が響いたらしい。

 実際には集落に住む全員に同じ要求が送られているのだが、長老を除いて誰一人正確な意味を理解した者はいなかった。

 集落としても、いきなりセインガルドそのものに泣きついたわけではない。

 傭兵を雇っての討伐はもちろんのこと、ドラゴンの専門家なる人間も招いて撃退できる可能性という可能性は追求した。

 結果は、惨敗。死体が増えただけだったという。

 花嫁を差し出さなければならない時期は刻々と迫り、もはや躊躇する暇はないと、国に助けを求めたのだ。

 そして現状へと至るらしい。

 ここで調査隊が一端言葉を切り、なぜかフィンレイ将軍が言葉を発している。

 

「先ほどは、記憶障害だということも忘れて無理な詰問を重ねて悪かった」

 

 いぶかしげに振り返ったフィオレが見たのは、気まずげにしているものの、言うべきことをきちんと語ろうと奮闘するフィンレイの姿だった。

 

「詳しいことは聞かないが、あのドラゴンがどうなったかと考えるのが妥当か、聞かせてほしい」

「……実際のところは、不明ですね。死骸は見つからないし、リオン様は探しに行かせてくれないし、今の私にはあのドラゴンが生きているのか死んでいるのかもわかりません」

 

 白墨の粉を払うようにしていた手が止まり、再び白墨を手に取る。

 先ほどまでは端に箇条書きでこれまでの経緯をまとめていたのが一転、黒板の空いているスペースを使ってフィオレは何かを描き始めた。

 

「ただし、晶術モドキを受ければ、大抵の生き物に生存は不可能です。今回現われたドラゴンは水棲だということでしたが、鱗で弾かれた上、湖の生物に影響が出ても困るだろうと思って、大口開けたところ目がけて放ったんですね」

 

 白墨が大幅に目減りし、フィオレの手が止まる。

 再び白墨を手放したフィオレが描いたもの。それは彼女に襲いかかった際、初めて全体像を見ることができた、水棲ドラゴンの全体図だった。

 全体的に小さな頭、長い首、巨体を支える四肢はひれのように平べったく、尻尾は首よりも長い。

 これはフィオレが確認していないためであるためなのか、全体図の下部にはきちんと『攻略対象予想図』と記されている。

 その図を見やって、リーン将軍がひゅう、とかすれた口笛を吹いた。

 

「巧いなあ。記憶を失う前は画家さんだったのかい?」

「さあ、どうなのでしょうね」

 

 リーンの言葉をさらりと受け流し、フィオレは払いきれなかった白墨の粉を手巾で拭き取っている。

 

「ちなみにその……晶術モドキを人間が受ければ、どうなる?」

「黒焦げになって死にます。ショック起こして死ぬかもしれませんが、絶縁体で身を覆っていれば、おそらくしのげるでしょうね」

「おそらく、というのは?」

「絶縁体を身につけた人間に撃った記憶がないので、憶測で答えています」

 

 リオンの質問に、フィオレは淡々と答えた。

 白い指先が、立体感を出すためかわずかに陰影をつけた巨体の表面を指す。

 

「私は水棲ドラゴンの生態なんてよく知りませんが、ドラゴンの鱗が強固なものである、ということくらいなら知っています。絶縁体の要素を含んでいたら困るということもあって口に──内臓へ雷撃に相当するものを見舞ったのですが、潮の流れ等がない湖で見つからないとなると、耐え切ってしまったのかもしれませんね」

 

 そこでフィオレは身を翻し、元いたリオンの傍へと戻った。

 現場に立ち会っていなかったであろう調査隊の人間が、話についていけず眼を白黒させているところに、追撃をかける。

 悪気があってやっているのではない。必要があるからやっているのだ。

 

「このように──現状の確認が済んだところで、あのドラゴンの生態や弱点等、お教えいただきたいのですが」

 

 戸惑いながらも続けられる調査隊の考察を聞きながら、フィオレはシルフィスティアに協力を求めていた。

 

『シルフィスティア。私の目になって湖周辺を巡ってください』

『了解!』

 

 視界を閉ざせば、一瞬の暗闇を破って月明かりに照らされた湖の様子が現われる。

 静寂に閉ざされた湖には、見たところでは何の異常もない。

 幻想的な風景を楽しみつつ、調査隊の考察を聞いていると。

 

「おい、寝るな」

 

 耳元でいきなり声がして、億劫そうに眼を開ける。

 ちらりと横目で見やれば、リオンが形のいい眉をひそめてフィオレを睨んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




忘れ去られがちですが、異性恐怖症は別に治っておりません。

しばらくは客員剣士見習いの活動記録と、その他をお送りします。
原作開始はかみんぐすーんです。よろしくお願いします。


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客員剣士見習い初任務~メコリア湖に潜む巨大湖竜を駆逐せよ! 後編

 仮称レイクドラゴンはオリジナルモンスターです。
 形状モデルは言わずとしれた未確認生物代表格:ネス湖の怪獣さんを採用しています。
 近年は証拠写真もニセモノばかりと断定されて、湖のDNA採取には「古代竜ぽいのはない。でかくなりそうなウナギのならあるよ」という結果になり、目撃情報もここしばらく寄せられていないとか。
 あまりの消息不明っぷりに死亡説やらバカンス説が囁かれる昨今ですが、存在しないことを証明するのは至難の業なんで。イギリス・スコットランド北部ハイランド地方にある、イギリス最大にして縦長の淡水湖ネス湖へのお出かけの際は、マイカメラを装備の上、挑戦してみては如何でしょうか。


 

 

 

 

 

 

 くちくなった腹は眠気を呼び、湖面を揺らす冷たい風は、綿菓子のように甘い睡魔の誘惑をハリセンでひっぱたくが如く追い払う。

 漆黒の夜空に浮かぶ大小の月、たゆたう湖面にて寄り添う水月の親子を眺めながら、フィオレは湖周辺を歩いていた。

 調査隊の考察を聞き終え、とどのつまり、わかりやすい弱点などはないらしいという結論に至る。現時点ではっきりしているのは、フィオレが手品と主張する晶術もどきしか決定打はない、ということだ。

 対策としてはこれといった話し合いもない中、仮名レイクドラゴンをどうにかして陸地に引っ張り上げ、地上戦でフィオレの手品とリオンの晶術で致命打を与えつつ、総力戦を仕掛けるしかないだろう、との結論に至る。

 肝心の陸地へ引きずり出す方法としては、ドラゴンが要求した花嫁を差し出すその時に、花嫁を囮にできないかという案が提出された。

 

「いっそのこと、囮の花嫁役をフィオレンシアちゃんがやるってのはどうだ? ドラゴンが油断して、ばっくりやろうとしたところの隙をついて……」

「無理ですね。匂いで気付かれ、あの冷却ブレスを吹かれて、氷漬けにされるのがオチだと思います」

 

 そんなふざけた提案も出されたが、フィオレ本人が一蹴している。

 調査隊の考察によれば、あのドラゴンはかなり嗅覚が鋭いのだとか。

 骨を残して食った娘とまったく手付かずだった娘がいたということは、あのドラゴンは食べるまでもなく純潔がそうでないかを知る術を持っていることになる。

 もしも嗅覚によって純潔か、そうでないかを判別できるのだとすれば、その作戦結果は火を見るより明らかだ。

 そしてフィオレが純潔でないこと以前より、あのドラゴンはフィオレの匂いを覚えていることだろう。

 これといった案も出ないまま、時間だけが過ぎていき。これ以上の議論は時間の無駄と中断され、遅い炊き出しの夕飯を頂いて、今に至るのだ。

 本当は、ドラゴンとの交戦で疲れただろう、ということで集会所二階の仮眠室を使うよう将軍たちから言われていたのだが……もとより眠る気なんかさらさらなかったフィオレは、湖の見回りを志願した。

 

「またお前は勝手なことを……大将軍が休めと言ってくださったんだ。素直に従わないか」

「まっぴらごめんで御座います。そんな上司命令は聞けません。眠くなったら戻ってきますから」

 

 結果的にリオンの不興を買ってしまったが、あのドラゴンがどうなったのかのほうが気になる。見張りは兵士の仕事だから、有事に備えて休息を取るべきだと彼は主張していたが、気になって眠れないなら同じことだ。

 月明かりは明るく、松明を持たなくとも出歩くことはできた。湖周辺ではそこかしこに兵士たちの簡易宿である天幕(テント)が張られ、すぐそばに篝火が焚かれている。

 歩哨の兵士たちがちらほらと見受けられる中、主に湖を監視しながらそんな彼らとぶつからないよう、すれ違った。千鳥足な割に酒類(アルコール)の臭いがしないのだから、タチが悪い。

 船着場を通り過ぎ、将軍たちと昼にドラゴンと対峙した地点を過ぎ、娘たちがいなくなったという現場の水辺に着き。

 フィオレは唐突に足を止めた。

 こんな人気のない場所だというのに、いつまでもいつまでもついてくる足音と気配が五つ、あったからである。

 残念ながら──そろそろ帰ったほうがいいらしい。

 きびすを返したフィオレは、早足でもと来た場所へと戻り始めた。

 突然のことでうろたえる五つの影があるが、気にしない。彼らが足を止めている間に、その間をすり抜けて船着場の方角へ戻っていく。

 

「お、おい、待てよ、お嬢ちゃん」

 

 後ろからそんな声がかけられるも、お嬢ちゃんなどという年ではないにつき反応はしない。

 あんな人気のない場所でひと悶着起こっても厄介だし、このまま集会所へ戻ってもついてきたなら、それはそれで見ものだ。

 最も、彼らがそんなものを許すはずもなく──

 船着場の辺りへと戻ってきたときに、フィオレは五人の人影に取り囲まれた。

 

「……何か御用ですか?」

 

 突破は不可能でないにしても、このまま斬りかかる選択肢は取れない。

 男たちは皆、動く際にがちゃがちゃとやかましい音を立てている。一様に兜を装備したシルエットからして、常駐している兵士か何かだろう、と推測できた。

 

「おおありだ。よくも俺の言葉を無視しやがったな」

「そりゃすいません。小娘一人の尻を追いかけ回すような変な集団に用事はないんです」

 

 妙な因縁をつけられるものの、フィオレは彼らを不審者呼ばわりすることで自分の正当性を主張している。

 別に間違ったことは言っていないはずだ。

 

「誰が変な集団だ!」

「違うんですか?」

 

 うまく怒りだしたのをいいことに、おちょくりながらも内心で息をつく。

 何故彼らがフィオレをつけ回したのか予想がつくものの、面倒くさい相手に違いはなかった。

 何せ、問答無用で殴り倒すという選択肢が取れない。これからフィオレは、七面倒くさい問答に精を出さなければならないのだ。

 

「違うに決まって──!」

「待て。そんなくだらない言い争いをするためにコソコソ付け回したわけではない」

 

 怒気に満ちる正面の男をなだめたのは、その隣に立つ男だった。声からして、壮年辺りというのがわかる。

 フィオレのおちょくりを間に受けず、落ち着いている理由がよくわかった。

 

「見慣れぬ様相をしているが、どこの誰だ?」

「本日付で客員剣士見習いとなりました、フィオレンシアと申します」

「客員剣士……? と、いうことは、あのリオン・マグナス様の部下ってことか」

 

 フィオレの言葉に答えたのは、音の出所からして真後ろに立つ男である。

 真後ろの男のみならず、リオンの名が出た途端、兵士たちの雰囲気は一変した。

 

「だから相乗りで来たってのか? つまりこのお嬢ちゃんは、馬にすら乗れないってことか」

「そんな小娘に何ができるんだよ?」

「違うものに乗るのが巧けりゃ、それでいいんじゃねえか?」

 

 後方で展開される下品な会話に、フィオレは大げさなため息を隠していない。

 挑発だと思うのが妥当なのだが、一体全体フィオレを怒らせて彼らに何の益があるというのか。まったくわからなかった。

 従って、単なる欲求不満ではないかなー、と推測しておく。

 

「お下劣ですね。品性を疑います。それで、用事というのはそれで終わりなんですか?」

「客員剣士とはいえ見習い程度、それも新入りが、七将軍様に大将軍様が詰めている集会所に立ち入れるわけがないだろう」

「……あなたの考える客員剣士の地位がどんなものなのか知らないので、何とも答えようがありませんね。でもそんなことを尋ねられるということは、実際どうだったのかをご存知なのでは?」

 

 客員剣士がどんな存在なのかは、ヒューゴ氏からある程度聞いている。

 正式な仕官ではないながら、それに準じる待遇が約束された剣士。それはすなわち彼らのような兵士とそう変わらないのではないかと思うのだが、どうも違うらしい。

 ヒューゴ氏いわく、兵士に留まらない実力の持ち主だからこそ客員剣士が務まるとか何とか。

 最も、リオンを見ている限り実力はともかく、年齢的に兵士となる条件を満たしていないから、客員剣士という特殊な方法で仕官しているのではないか、と勘ぐりたくもなる。

 それだけリオンは優秀だと思うのだが、同時に幼いとも思うのだ。

 

「だからこそわざわざ尋ねているのではないか! 人をからかうのも大概にしろ!」

「──まったくもってその通りだ」

 

 ようやっと、年かさの兵士が苛立ちの片鱗をのぞかせたところで、聞き慣れた横槍が入る。

 気配で彼の接近を感知していたフィオレは、軽く肩をすくめた。

 月明かりのもとだからだろうか、彼がそれに気付いた様子はない。

 

「月夜の散策ですか。優雅ですね」

「そんなわけがないだろう。そこいらの兵士を暇つぶしの道具にするんじゃない」

「ヒドイワりおんサマー。インネンツケラレタダケデスノニー」

「……頭が痛くなるからやめろ」

 

 土を踏む音と共に現われたのは、いつになく仏頂面の幼い上司だった。

 囲まれているフィオレを一瞥するなり、ずかずかと遠慮なく踏み入ってくる。結果として、フィオレを囲んでいた兵士はあっけなく散らされた。

 

「それで? この体たらくはなんだ。さっさと説明しろ」

「見回りしてたら付け回されました。新入りが集会所に立ち入りを許されていることが気にくわないらしいのですが……何が言いたいのかは、まだ不明ですね」

 

 それを聞くなり、リオンはもともと険しかった眼を更に険しくさせて一同を睥睨している。

 

「お前ら、どこの隊のものだ。階級と所属を述べろ」

「な……!」

「答えられんのか? なら集会所までご同行願おう、将軍たちに照合してもらう。任務中に現地で厄介ごとを引き起こすような連中を連れてきたのはどなたなのか、責任の所在をはっきりさせねばな」

 

 それを聞くなり、彼らは口々に舌打ちをしたかと思うと、蜘蛛の子を散らす勢いで逃げ出した。

 あっけないまでに逃げていく彼らの背を見送りつつ、リオンと向き直る。

 

「こういうとき、権力って絶大な効果を発揮しますね」

「ああ。お前みたいな奴にはまったくの無駄だがな」

「いや、まったく。それはさておき、ありがとうございましたリオン様」

 

 もののついでのように礼を述べられ、彼はきびすを返しかけた背中をくるりと反転させた。

 切れ長の眼は明らかに半眼となっている。

 

「心にもないことをぬかすな。耳障りだ」

「そんなことはありません。おかげで、彼らと事を構えずに済みました。新任早々こっそりと死体の後始末なんて……ああでも、湖に落とせばそれで済みましたか」

 

 爽やかに物騒なことを言ってのけたフィオレだが、これは紛うことなき事実だ。事態の如何によって、フィオレは何かせざるをえなかっただろう。

 リオンが硬直しているような気がしないでもないが、些細なことである。

 

「……まあいい。戻るぞ」

 

 不本意ではあるが仲裁してもらったということもあり、フィオレは大人しくリオンに従った。

 湖面を背にして集落の中心に歩みを進めていると。

 

「……何に乗るのが巧ければいいんだ?」

「は?」

 

 ぼそぼそとした声にふと隣を見やれば、リオンは思わしげな表情を浮かべてフィオレを見ていた。

 

「お前の後ろにいた兵士たちがそんなことを言っていた。馬に乗れなくても、違うものに乗るのが巧ければいいとか何とか……下劣だと答えていたということは、お前には何なのかわかったんだろう?」

「……あぁ、さっきの」

 

 妙にタイミングよく現われたかと思えば、事前の会話を聞いていたらしい。そんなに小さな声でもなかったから、あるいは向かってくる最中に聞こえたのか。

 純真というか穢れてないというかお子様というか。まあ、育ちもさることながら、この年にして猥談に精通していても嫌だが。

 

「あなたがオトナになれば、自ずとわかることですよー」

「僕を子ども扱いするな! お前だってそう変わらないくせに……!」

 

 婉曲的表現を使ってなだめてみるも、彼は予想通りの反発を見せた。あまつさえ薄い唇を子供のように──実際子供だと思うが──尖らせている。

 大人になったらわかる。幼少時のフィオレはこれで大体様々な不条理に対して一時的に納得できたのだが、彼には通用しないようだ。

 幼少時のフィオレは、自分が何の力も持たない子供だということを知っていた。

 リオンはそれを知らないのか、あるいはそれを認めたくないのか。

 知らなくていい、という言葉は、彼女自身さえ納得できなかった言葉だ。使ったところで効果は期待できないだろう。かといって、事実を告げるのは論外である。

 さてどうやって誤魔化そうか、リオンの視線を受けて思案を始めた、ちょうどそのとき。

 巨大な水しぶきが湖面を叩く、そんな音が聞こえた。

 二人して歩みを止め、振り向く。

 すでに船着場からは離れてしまっており、二人の目から見えるのは変わらぬ兵士たちの天幕や篝火だけだが……

 今のは、兵士がふざけて仲間を湖に突き落としたとは考えられない。人一人の質量で発生する水しぶきとは、明らかにかけ離れている。

 そして──警鐘が鳴り響いた。

 

「……リオン様」

「わかっている。行くぞ!」

 

 歩哨の兵士たちがぞくぞくと船着場へと向かっていく。そんな彼らを追い抜くように、二人は駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 たどり着いた船着場で、惨劇は起こっていた。

 水辺際に焚かれていた篝火はなぎ倒され、月明かりのもとで天幕が無残にも潰されている。中に人がいないだろうか、確認を思い留まらせる元凶がのそりと動いた。

 月光を弾く水色の鱗、長く狗尾草(エノコログサ)を思わせる首、一軒家を遥かにしのぐ巨体。

 口元から零れる吐息は、己の涎をも凍らせている。

 巨大なひれの如き前足が動いたかと思うと、その下から鎧姿の人型が放り出された。

 

『ミツ……ゾ、ホジ……ャ』

 

 不快な耳鳴りがし、隣でリオンが小さく呻く。

 集まってきた兵士たちだろうか、再びバタバタと人の倒れていく音がした。

 

『シャルティエ、ちょっといいですか?』

『な、何?』

『あれが何を言っているのか、わかったら復唱して欲しいんです。私には雑音がひどすぎて、何を言っているのかさっぱりわかりません』

 

 もしかしたら、という希望の元、シャルティエに依頼したのだが。彼は主人を気遣いながらもドラゴンの言葉を復唱してくれた。

 

『ええと、見つけたぞ、保持者……かな?』

『保持者?』

『そんなの僕にはわかんないよ。で……』

『……ドコ、ソ、クロ……テ、ヤル!』

『今度こそ、食ろうてやる!? 坊ちゃん、しっかりしてください! 逃げないと──!』

 

 それだけわかれば十分である。フィオレはシャルティエに感謝の念を送ったと同時に走り出した。

 水辺に沿って、移動する形──船着場から離れるようにして。

 

『待ってフィオレ! いくらなんでも、無茶だよ……!』

 

 シャルティエの声は、ドラゴンがブレスを吐き出す音でかき消された。全力疾走でどうにか逃げるものの、あっという間に周囲の気温が下がっていく。

 しかし、あの場に留まり続けることはできなかった。

 陸地方面に逃げようものなら、それこそ船着場や民家、ひいてはリオンや兵士たちを巻き込んでしまう。

 目指すは、娘たちが行方不明になった現場だ。あの辺りなら、集落からそれなりに離れており、陸地に引き込むことが可能である。

 それまでにフィオレひとりで倒せればいいのだが……おそらく、無理だろう。

 船着場を離れ、先ほども通り過ぎた昼間の現場まで到達した。全力疾走を続けて、目的の場所に着いたとき力尽きても困る。

 体力配分のために少し速度を落とした、その時。

 水際が大きくうねったかと思うと、あの長い首が飛び出してきて、フィオレに襲いかかった。

 

「くっ!」

 

 前方へ体を投げ出し、転がる。

 それまでフィオレが走っていた場所にずらりと並んだ牙が迫り、そのまま地面へと突っ込んだ。それも驚くほど束の間、ドラゴンは何もなかったように地面から頭を引き抜いている。

 その痕は綺麗に抉れており、その口から大量の土砂がボタボタと垂れた。

 そして──吐き気がするほどの血臭がする。

 

「ソルブライト、カケラを!」

 

 そんな場合じゃないと思いつつ、月明かりに左手を差し出した。土砂に向かって光球を浮かべる。

 想像通り、その土砂は涎と、赤黒い液体にまみれていた。

 おそらくフィオレが昼間はなった一撃で、口の中がもうボロボロなのだろう。

 

『……レ……オノ、レ……!』

 

 光球に照らされた眼球は血走り、縦の虹彩がフィオレを睨んだ。

 完璧に逆恨みだと不条理を内心でぼやくものの、すぐに光球をその目にぶつけ、目くらましをかけてから戦術的撤退を再開する。

 しかし、口腔に特大の雷を叩き込んでも逆上するだけの相手に、果たして何が通じるのやら……

 浅瀬のすぐ向こうでは、ドラゴンがフィオレと平行して潜水をしている。

 今度はいつ飛びかかられるのやらとヒヤヒヤしながら、フィオレは目的の場所へ到達した。

 先ほども通った、ドラゴンが娘たちを襲いかかった現場である。

 そこは見通しのいい浅瀬が広がっており、ピクニックにちょうど良さそうな広場に面していた。昼間ともなれば、丈の低い草地が広がっているのがわかるだろう。

 フィオレが足を止めたのに気づいてか、ドラゴンはまたもや首による突撃を仕掛けてきた。

 昼間の二の舞とならないためか、巨大な口はしっかりと閉ざされている。

 どちらにせよ、距離的な関係で詠唱をする暇などない。フィオレは今度こそ陸地に向かって走り出した。

 捉えられないとわかってなのか、長首による突進は急停止している。

 この一瞬が、勝負でもあった。もしドラゴンが水中から出てくるのを躊躇すれば、その時間がそのままフィオレの詠唱時間となる。

 それに気付いたドラゴンが逃げるでもよし、意を決して陸地へ上がってくれば、いくらなんでも水中のように動き回ることはできないだろう。となれば、フィオレの唱えた譜術の餌食となるだけだ。

 闇が広がり大量の水がたゆたい、風が吹き荒れ足元に大地があるこの状況で、使える攻性譜術などもちろん限られるが。

 

『サ……カァ!!』

 

 大質量の何かが、湖面から這い上がるような水の音がする。構わず詠唱を続けようとして、月明かりが急に途切れた。

 反射的に天を仰げば、そこには件のドラゴンが、空中を舞っている。しかしそれは束の間のこと。

 見る見るうちに、その姿はフィオレの視界を覆い──

 巨体が大地を蹂躙した。

 着地の瞬間、破壊こそされなかったものの地震発生の如く、大地は震え上がる。

 すぐ傍にいたフィオレといえば、大地に走った衝撃云々以前に、着地直後発生した衝撃波によってなす術もなく吹き飛ばされた。

 視界がぐるぐると回転し、土や草の匂いが鼻につく。

 幸い投げ出された先が柔らかい草地だったから良かったものの、これが岩の乱立するような場所だったら、叩きつけられて即死だったかもしれない。

 それでも受身が取れなかったため、すぐには立ち上がれない。

 横たわったまま視線を巡らせた先にいたのは、自分で吹き飛ばしたフィオレを探すかのように首をさまよわせるドラゴンだった。それほど遠くないのだが、夜目はあまり効かないらしい。

 そこへ。

 

「いたぞ、あそこだ!」

「囲め!」

 

 急激に増える人の気配、ざわめき、鎧同士が重なり合って奏でる鋼の音。

 おそらく、騒ぎを聞きつけて七将軍たちが部下を引き連れ、集まってきたのだろう。

 しかし、人員を集めたところで何ができることやら……

 

「フィオレ!」

 

 丈の低い草を踏み荒らす、耳に心地のいい低音が彼女の名を呼ぶ。

 不思議と切羽詰って聞こえるその声の持ち主は、思いの他早く近くまで来ていた。

 

『いました、坊ちゃん!』

「どこだ?」

『もう少し東の……ってフィオレ、大丈夫!?』

『……ええ。何とか生きています』

 

 どうにか動くようになった体を起こせば、そこにリオンが駆け寄ってくる。

 立ち上がった際の立ちくらみをこらえていると、彼は自分の小物入れからグミを取り出した。

 

「……どうにか、陸地に上げたのはいいんですけど、水面からいきなり跳んできましてね。吹き飛ばされました……」

「そんなものは見ればわかる、損傷は?」

「戦えます、ご安心を」

 

 手渡されたグミを、少しの逡巡を経て口に放り込む。

 甘酸っぱいアップルグミの味が口に広がるものの、それだけだった。

 フィオレの体に毒は効かない。それは同時に薬も効かないということであり、グミやボトル系の治癒もフィオレの体はまったく反応しないのだ。

 それは、どうやらここでも同じらしい。

 一息ついて、戦場を見やる。そこでは兵士に囲まれたドラゴンが、唸り声を上げながら体全体で暴れていた。

 巨体のせいで身動きこそ取れないが、ひれ状の前足や後ろ足、そして首に尻尾を振り回しているため、兵士はまるで人形のように放り投げられている。

 それをかいくぐり、巨大な鱗の間に剣やら穂先やらを刺しているのだが……あまり効果が上がっているようには見えなかった。

 

「とにかく僕たちも行くぞ」

「……戦士よ勇壮たれ。鼓舞するは勇ましき魂の選び手」

「?」

 

 打つ手もないのに、突撃してどうするというのだろう。

 フィオレとしては試してみたい手があるのだが、それは後でも伝えられのだ。

 今は先に、死傷者を少しでも減らす策を取るべきである。

 

 ♪ Va Rey Ze Toe, Nu Toe Luo Toe Qlor──

 

 凛としたフィオレの歌声が阿鼻叫喚の戦場に涼やかな風を送り込んだ。それは比喩でも何でもなく、兵士の一人一人を優しく包む。

【第三音素譜歌】戦乙女の聖歌(バルキリーズ・ホーリーソング)──風の盾を対象にまとわせて身体能力の上昇を見込むものだ。

 かなり広範囲に設定したため、効果そのものはごくごく軽微なものではあるが、ないよりはマシである。

 レンズの力を通したからなのか、第三音素(サードフォニム)が豊富に漂っていたからなのか。本来効果範囲をいじれば体への負担が大きいはずの譜歌を使っても、これといった疲労は感じられなかった。

 もちろんフィオレにも、リオンにも、風の加護は降りている。

 

「今のは……」

「おまじないです。行くのは構いませんが、彼らと同じように鱗の下を攻撃しますか? 何の策もないなら、ちょっと試したいことがあります。協力してください」

 

 リオンの耳元に口を近づけ、作戦を囁く。何も言わず聞き終えて、彼は疑わしげにフィオレを見た。

 先ほどの譜歌が影響しているのか否かは、定かでない。

 

「水棲のドラゴンなんだぞ、本当にそんなものが通用するのか!?」

「さあ。ダメならダメでいいです。弱点がわからないのですから、色々やってみましょう」

 

 それもそうだと思ったのか、彼はあっさり作戦への協力を承諾してくれた。

 四方八方から、鱗の下の肉に槍や剣を突き刺されて、ドラゴンは狂乱状態へと陥っている。

 あの巨体からすれば人間の剣も槍も針のようなものだが、人とて針を何本も刺されたら痛い。

 その疼くような痛みを想像しないようにしながら、兵士たちの視界確保のために立てられたであろう、篝火に近寄った。

 すぐ傍には、大将軍に待機を命じられたのだろうか。ミライナ将軍が歯噛みしながらも、戦況を見ている。

 彼女はフィオレの姿を認めるなり、目を見開いた。

 

「そなた、無事であったか!」

「ええこの通り。ちょっと失礼しますね、確認したいことがあるんです」

 

 誰が落としたものか、戦場に転がっていた槍を拾って携えていたフィオレは、石突を篝火にくべた。

 木製の石突は、簡単に炎を宿している。

 それを高々と掲げ、フィオレは暴れるドラゴンへ注意を払いながらも駆け寄った。

 後ろの足付近には、今ちょうど振り払われたために誰もいない。そこを狙って、フィオレは燃え盛る石突を鱗に押し付けた。

 直後。

 

『グギャアアッ!』

 

 鮮明な悲鳴が、フィオレの脳裏に突き刺さる。奮闘していた兵士らも頭を抱えて動きを止めるものの、ホーリーソングの加護か、誰一人として倒れない。

 今の悲鳴から考えられるのは、水棲のドラゴンだけに、鱗が乾くのは苦痛なのではないか、という推測だ。

 石突をそのまま鱗に押し続けていると、不意に鱗が発火する。慌てたように後ろ足が蠢き、鱗の発火はあっけなく鎮火された。

 しかし今までいいように吹き飛ばされていた兵士が、初めて見たドラゴンへの有効打を真似しない手はなく。

 彼らは自発的に篝火へと殺到した。

 

「火をくれ! あいつに一泡吹かせてやる!」

「慌てるな、今松明を……」

「──の敵討ちだ!」

 

 もう死んでしまった人間がいるのだろうか。

 一時は大混乱に陥った篝火周辺だったが、ミライナ将軍並びに駆けつけた七将軍たちの奮闘でどうにか収拾はつき、更にリオンが集めてきた量産型の槍が即席の松明に姿を変えていく。

 

「奴の鱗に松明を押し付けろ! あの鱗は発火しやすいようだ、あのドラゴンを火葬してやれ!」

「間違っても味方に押し付けるんじゃないぞ!」

 

 ドライデン将軍の重厚な指示がはやる兵士たちに軍隊の団結を思い出させ、フィンレイの軽口が彼らにある程度の余裕を与えている。

 そんな彼らを横に、フィオレは支給された松明片手にドラゴンを見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 夜更けへと移行する時間の中、ドラゴンは苦痛の中でのた打ち回っていた。

 大将軍の号令のもと、動ける兵士たちが一斉にドラゴンへ松明を押し付けたのである。

 手足を、首を尻尾を振り回し暴れるも、兵士たちは怯むことなく松明を押し付け、手放したり炎を消してしまったところで新たな松明を、火の補充へと走っている。

 王国軍優勢の戦場から少し離れた場所で、フィオレは手にしていた松明を地面へ突き刺した。

 左手を揺らめく炎ぎりぎりのところにかざし、レンズを使って第五音素(フィフスフォニム)を収束させていく。炎の中に手をいれることができるほど、フィオレは我慢強くない。

 左手が炎を掴んでいないせいか、第五音素(フィフスフォニム)収束は随分時間がかかった。これでようやくあの術を発動できるか、と思った次の瞬間。

 

「よせ!」

 

 横合いからなぜか制止の声が聞こえたかと思うと、松明を思い切り蹴飛ばされた。

 それだけならまだよかったのだが、炎に掲げていた左手が勢いよく取り上げられている。

 驚きから集中力を欠いたレンズから、あっという間に第五音素(フィフスフォニム)は霧散した。

 

「……」

 

 まだまだ修行が足りない、と思いつつ、左手首を握る少年を目に映す。

 彼は眦を吊り上げてフィオレに怒鳴りつけた。

 

「姿が見えないと思ったら、何をしているんだ貴様は!」

「……」

 

 おそらくリオンには、フィオレが左手を燃え盛る炎の中へ入れようとしていたか、あるいは自分の手を炙っているように見えたのだろう。

 事情を説明していないのだから、仕方ない。彼の行動は、責められない。

 それはいいとして、どうすれば怪しまれずに譜術が使えないかを考えて──

 

「聞いているのか!」

「いいえ。それよりちょっと、黙っててくれます?」

 

 掴まれている左手を捻って、リオンの手を外させる。

 どうせ彼からはもともと怪しまれているのだ。ちょっとくらいその怪しさが増えたところで、彼に何ができるでもない。この際気にしないことにした。

 転がった松明は、即席のものであるが故に鎮火してしまっている。

 フィオレは懐の小袋から小さな輝石を取り出した。

 以前、噴水で行ったことと同じように、炎から小石を核にして作ったハイランドルビーもどき──第五音素(フィフスフォニム)「火」の属性を宿した鉱石である。

 あれからアクアサファイヤもどきも同様に石ころに戻る気配はないが、果たして本当に使えるのか。実験してみることにした。

 左手でハイランドルビーもどきを握り、先ほどと同じように第五音素(フィフスフォニム)を集めていく。すると、先ほどよりは遥かに早く発動に必要なだけの晶力が集まった。

 これからは、ハイランドルビーもどきのみならず、各属性を宿した石を大量にストックしておいた方がいいのかもしれない。

 

「炎帝に仕えし汝の吐息は、たぎる溶岩の灼熱を越え、かくて全てを滅ぼさん──サラマンド・フィアフルフレア!」

 

 視線の先には、鱗を次々と焼かれて苦悶と共に暴れ狂うドラゴンの姿がある。

 そんな中、展開した譜陣が体中を焦げ付かせたドラゴンを取り巻いた。

 地面から吹き出した灼熱がドラゴンを蒸し焼き、更に発生した火焔の柱が渦となってその断末魔をもかき消している。

 問題は味方識別のされていない兵士たちだが、彼らは譜陣が発生した時点で驚いて身を引いているし、対象をあのドラゴン限定にしておいたのだ。よほど運が悪くなければ、巻き込まれはしないだろう。

 やがて火炎の竜巻は、唐突に鎮火した。後に残ったのは、鱗をすべて焼き払われ、カラカラになったドラゴンの骸である。

 そして骸は最期の命の輝きであるかのように発光し、その場に大量のレンズを出現させた。

 レンズの出現は、魔物の命が尽きた証である。

 初めは戸惑っていた兵士たちも、それを見て勝利の確信が広がっていき、最終的には大喝采へと発展した。

 それに水を差さない程度に将軍たちが浮き足立つ兵士たちをまとめていく。その最中で、リオンはちらりとフィオレをみやった。

 

「……今のは」

「手品です」

 

 臆面もなく、フィオレはそう言い切っている。

 渋い顔をしているリオンに、フィオレはにやっと笑いかけた。

 

「怖くなりましたか?」

 

 彼が普通の少年ならば、そろそろ胡散臭さを通り越して恐怖を覚える頃だろう。巨大なドラゴンに決定打を与えたのは、まぎれもなくフィオレ本人なのだから。

 しかし彼は、様々な意味において普通の少年とは一線を画していた。

 

「……誰が。言っておくが、脅えさせてうやむやにしようとしても無駄だからな」

「それは残念です。思い切り怖がっていただければ、それだけ解雇が早まると思っていただけに」

「ふん。いつかその化けの皮を剥いでやる。覚悟しておけ」

「精々実行されないことを祈りますよ」

 

 軽口を叩きあいながら、フィオレは怪我人を一箇所に集めているスペースへと歩みを進める。

 そこでは勝利の余韻もそこそこ、衛生兵たちが総出で怪我人の治療に当たっていた。

 不幸にもドラゴンに踏まれ、どうにか息をしている者、ブレスを受けたのか体中に霜を宿して、呼びかけに答えてはいるもののすでに虫の息の人間など、重篤状態と診断されてか放置されている。

 軍隊の常として、助けられる者から助けるのが鉄則ではあるが、これではダリルシェイドまで戻るのに相当の人間が死体担ぎに借り出されるだろう。

 ひょっとしたらフィオレも手伝わねばいけないかもしれない。そんなのは、お断りだった。

 転がっていた一抱えもあるたらいを拾い、その中になみなみと湖の水を満たしていく。

 その桶を重体者グループの前へ持っていき、フィオレは彼らに背を向けた状態で、たらいの水面に触れた。

 

「命よ健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze, Rey Va Ze Rey──

 

 譜陣の展開する気配、それに伴う背後のどよめき。

 ちらりと見やれば、それまで呻くこともできなかった重体者たちが不思議そうに続々と起き上がった。

 それまで眼を真っ赤にしていた自分たちの友人を、きょとんとした目で見つめている。その間が抜けた顔といったら、ない。

 フィオレはクツクツと忍び笑いを洩らしながら、速やかに空っぽのたらいを放置してドラゴンの骸のもとへと歩いていった。

 レンズが散らばる中、一際異彩を放つものが転がっていることに気付いたからだ。

 蒼く柔らかな質感を持つ鉱石らしきもの、である。拾い上げてみると涼しげな見た目に反して、どこか温かな感触だった。

 その手触りが気に入り、片手で転がしながらひょいと振り向く。

 彼女のすぐ背後には、リオンが片手を伸ばした状態で固まっていた。

 

「何です? その手」

「……お前、今度はどんな手品を使ったんだ? 虫の息だった連中が次々起き上がって、ちょっとした騒ぎになっているんだが」

「発生した珍現象すべての根源にされても困ります」

 

 暗に自分のせいではない、と主張して否定しているように聞こえるが、実際のところ彼女は虚言を吐いていない。

 

「まあいい。さっき大将軍殿から撤収命令が出た。詰め所に戻るぞ」

「後始末の手伝いはしなくていいんですか?」

「残る仕事はほとんど力仕事だからな。業腹だが、僕たちでは役に立たん」

「なるほど。夜はきちんと寝ないと、背が伸びないことを心配されたわけではないんですね」

 

 フィオレとしては、リオンの背丈のことを揶揄して言った一言だったのだが……彼は想像以上に食いついてきた。

 

「何!? そ、そうなのか?」

「……」

『坊ちゃん……反応が良すぎてフィオレが引いてますよ』

 

 持っていた鉱石をポケットに押し込み、作業の邪魔になる前に歩き出す。

 リオンがそれに応じたことを確認して、フィオレは顎に指を当てながらその質問に答えた。

 

「バランスよく栄養取ることももちろん大事ですけれどもね。『寝る子は育つ』という言葉があるように、肉体的な成長において背丈を伸ばすなら、眠っている間に分泌される物質が必要不可欠なんですよ」

「つまりたくさん眠ればいいということか?」

「いいえ。健康的にしっかりと睡眠を取るのが大切なんです。ただ睡眠時間が長ければそれでいいという問題ではありません。あとは……遺伝子の問題ですね」

『だからなんでそんなこと知ってるの』

「知識の塔で人体の構造に関する書物を読み漁りましたからね。記憶障害に関連した資料はないかと……結局参考になるものは皆無でしたが」

『人体の構造じゃあ、無理な気がするけどね。せめて精神の構造とか』

「真っ先に当たりました。でも眉唾なものが多かったから読破は断念したんです。様々な知識に触れたほうが、何がきっかけになるかわかりませんし」

『なるほどねー。だから、変な雑学とか知ってるんだ』

 

 死闘の余韻残る慌しい現場を尻目に、二人と一本は帰路に赴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 固い床が、頬に当たって冷たい。フィオレが眼を開けると、窓の外は黎明の光に満ち溢れていた。

 むくりと体を起こせば、そこが集会所二階に据えられた仮眠室であることを思い出す。

 軍隊であるが故に女性の数は少ない。それが仮眠室の使用が許される将校ともなると本当に一握りではあるが、それでも皆無というわけではなかった。

 そのため二階にある広間を衝立で区切り、区分けはされているが人数分の毛布が置いてあるだけと待遇は同じである。

 無論寝心地など期待できるはずもなく、フィオレは早々に眼を醒ましたわけだが、周囲の人間たちはそうでもない。

 ミライナ将軍を始めとする見知らぬ女性将校たちは、それぞれ穏やかな寝息を立てて眠っている。

 そんな彼女たちを起こさないように部屋を出て、フィオレは集会所の外へと出た。何のことはない。顔を洗いたいだけである。

 当初は湖まで行こうとしていたのだが、その途中で人影を見つけた。

 人影は愛用らしい大剣を掲げ、素振りを繰り返している。朝稽古か何かだろうか。

 やがてその人物は、通りがかったフィオレを見つけて素振りを止めた。

 

「おはようございます、フィンレイ将軍。精が出ますね」

 

 会釈して通過しようとしたところで、フィンレイが首にかけた手布で汗を拭う。

 

「おはよう。散歩かい?」

「ちょっとそこまで、顔を洗ってこようかと」

 

 ちょい、と湖を指し示せば、彼は小さく眉を跳ね上げて、ある一点を差した。

 

「あちらに井戸がある。そっちを使うといい」

 

 内心で思うことがなかったわけでもないが、礼を言って素直に井戸へと近寄る。

 釣瓶を使って井戸の清水を汲み上げていると、大剣を鞘に収めたフィンレイが近寄ってきた。

 

「……手合わせの時から、気になっていたのだが」

 

 顔を洗うとなれば、当然フィオレは眼帯を外す。

 中身が気になるのかと、わずらわしげにしていたフィオレだったが、彼を見やってそれが被害妄想じみた思い込みであることを知った。

 フィンレイは、フィオレに対して無防備に背を向けている。

 

「私は君が片目で戦っているとはどうしても思えない。その目は、本当に使っていないのか?」

「いいえ、そんなことはありません」

 

 フィンレイが背を向けているのをいいことに、フィオレは手甲を、そして眼帯を外した。

 白布で作った眼帯には目立たないが無数の穴を開けてあるため、実はまったく見えていないわけではない。そして、本当に必要な時はシルフィスティアに頼んで、死角のカバーを頼むこともある。

 本当の達人は心眼というものを持ち、盲いていても常人と変わらぬ、あるいは常人以上の立ち居振る舞いを可能とするらしいが。フィオレはまだ、その域には至っていなかった。

 

「やはりか」

「ところで本日はどうなさるんです? ドラゴンがあの一体とは限らないから、湖の捜索にでも出ますか?」

「それは調査隊の仕事だ。ただ、村人たちの証言から元凶はあのドラゴンで間違いないらしい。念のため調査隊には残ってもらい、我々は帰還する。もう少ししたら、皆にもそれを伝えるつもりだ」

「そうですか。わかりました」

 

 手早く顔を洗い、持参した厚手の布で水分を拭ってから眼帯を身につける。

 中指の付け根で手甲を固定し、軽く伸びをして、肩を回して、屈伸、柔軟をした後。未だに背中を向けて突っ立ったままのフィンレイに声をかけた。

 

「お水が要り用なら汲みましょうか」

「いや……ここへ来る途中、アシュレイとアスクスを見なかっただろうか」

「どなたもお見かけしておりません。お約束でも?」

「いい機会だから朝稽古を、と頼まれたのだが。来る気配がなくてな……」

「ああ、そうでしたか。では、お二人が来られるまで軽く手合わせでもします? この後朝稽古するつもりだったので、丁度いいといえばいいのですけれど」

 

 それを聞いた途端。フィンレイは勢いよく振り向いた。

 待ちぼうけをくらっていたからか。先程までの、かすかな不機嫌さを滲ませていた朝特有の茫洋さが綺麗に失せて、意外そうにフィオレを見ている。どこか楽しげに見えるのは、気のせいだろうか。

 

「──いいのかい?」

「質問の意味が分かりかねます。大将軍であるあなたに手合わせを申し入れるのは、上司にお伺いを立てねばならないことですか?」

「いいや、そんなことはない。君にその気があるのなら、是非に」

 

 最早隠しもしない、獰猛にして好戦的な笑みを前にして、フィオレはふぅ、と軽く息をついた。

 

「腕試しの時になんかにやにや笑ってると思ったら。やっぱり楽しんでおいででしたね」

「バレてしまったか。この立場にいると、なかなか全力を奮う機会がなくてね」

「左様でございますか。双方怪我のないよう、お手柔らかにお願いしますね」

 

 鬱憤晴らしか、そうでないのか、ちょっと測りかねるが。運動ではなくて、修練するなら丁度いい。

 滑らかに抜き放たれた大剣を前に、フィオレもまた抜刀する。

 朝特有の清冽な大気を深く取り込んで、研ぎ澄ませた集中を束ね、踏み込む──

 

 

 

 

 

 

「兄さん! 遅くなってごめん!」

「すいません、フィンレイさん。アシュレイがなかなか起きなくて……」

 

 フィンレイの弟アシュレイに、アスクス。武器を携えた二人が現れたのは、それからしばらく経ってからのことである。

 

「あっ、お早うございます、お二方「隙あり!」

 

 走ってきた二人に気づいて声をかけるフィオレ。その余所見をしているフィオレに、嬉々として大剣を振りかざすフィンレイ。

 二人が見たのはそんな光景だった。

 空気を切り裂き、勢いよく迫る大剣を危なげなく捌ききる。そして軽く距離を取ったフィオレは、あっさり納刀していた。

 それを見てフィンレイは、いかにも不機嫌そうに鼻を鳴らしている。

 

「お二方、いらっしゃいましたよ」

「……ああ」

「お手合わせ、ありがとうございました。それでは、私はこれで「よければまた、手合わせ願えないだろうか」

 

 乱れた息を深呼吸で整え、額の汗を拭って去ろうとするフィオレを引き止めるように。渋面のフィンレイはそう尋ねていた。

 それを聞いた二人は、驚くしかない。

 

「「!」」

「お手合わせくらいならいつでも、と言いたいところではありますが。私の都合やスケジュールを管理しているのはヒューゴ様なので、都合のよろしい時、アポイント取って貰えますか?」

「わかった。打診してみよう」

「では、失礼します」

 

 くるりと踵を返して、すれ違い様に二人にも会釈をし。雪色の髪をなびかせて、昨日着任したばかりの客員剣士見習いは集会所へと戻って行った。

 

「二人とも」

「ご、ごめん、兄さん」

「……まったくだ。もう少し、遅れてもよかったんだぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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番外——Murder will out(悪事は必ずばれるもの)

 ジルクリスト邸。前回の湖竜退治より十数日が経過しています。
 日常の一ページに、なにやら暗い影がよぎったような気がしましたが気のせいだった模様です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ない。

 机の上、ソファの上、テーブルの上、飾り棚の上、窓際、寝台の上、床の上。

 放置した可能性すべての場所を探し、フィオレはため息をついた。

 何のことはない、探しものをしていたのだ。

 本当に大切なものなら、上記の場所に放置しておくようなことはしない。それほど重要ではない、むしろ要らないものだが、いきなり消えるのは気味が悪かった。

 フィオレが探していたもの。それは、本日例によってストレス発散──噴水前で歌を謡っていたら、押し付けられた小箱だった。

 可愛らしい包みで綺麗にラッピングされたそれを、フィオレは見知らぬ若い──しかし身なりは明らかに貴族のものだった──男性から「貴女のファンです! 受け取ってください!」という言葉と共に比喩抜きで押し付けられた。

 毒針が仕込まれていたら嫌だったので受け取らなかったのだが、男性はそれに気付かず脱兎の勢いで駆け去っている。

 いつもストレス発散の場所を貸してくれる噴水の供物に捧げようかと思ったが、中身が同業者の嫌がらせで変なものだった日には仇を恩で返すこと請け合いだ。

 確認のために持ち帰ってきたのだが、リオンとの剣術指南があったため、すっかり忘れていた。

 ふと気付いて放っておいた机の上を探すも、見当たらない。

 

「これで八回目か……」

 

 面妖なことに、フィオレの私室にてどうでもいいものが紛失するのはこれが初めてではない。

 厳重に保管してあるものを紛失したことがないが、その辺に放り出しておいたものはよく消えるのだ。もう気のせいでは済ませられない段階である。

 主に、というか。これまで紛失したのはすべてフィオレに贈られたものだ。

 本日噴水前でも発生した出来事のように、ここ最近フィオレは様々な人間からよく贈り物をもらっている。

 主な差出人は、フィオレが顔どころか名前も知らないような上流社会の青年たちだ。時たま雇い主から──ヒューゴ氏の気まぐれと思われる──貰うものもあるが、大概の場合フィオレは『こんなものを渡されても困る』と言って突っ返している。

 受け取るのは、そのまま置き去りにされたもの、突っ返す暇もくれない贈り物ばかりだ。中身は宝飾品か装飾類であることが多い。

 掃除の際、ゴミと間違って廃棄されてしまった、とは考えにくかった。一見してゴミとはわからないもの……開封さえしていないものがほとんどだからである。

 つまり、考えられるのは神隠しか、ブラックホールに吸い込まれたか、怪盗レンジャーズ……レンズレッドレンズブルー、レンズグリーンレンズゴールド、レンズピンクレンズオレンジの六名から結成される泥棒集団……に盗まれでもしたか。あるいはフィオレの私室へ掃除に来た家政婦(メイド)が盗っていったか、可能性は様々だ。

 今のところ実害らしい実害はない──意図不明の贈り物が消えたところで痛くも痒くもない──が、もし事がエスカレートして実害に及ぶまでに至るのは、困る。

 さりとて、私室をわざわざ掃除してくれる家政婦(メイド)たちを悪戯に疑いたくはない。

 ソファに寝転がって考えるうち、ひとつの提案が既決される。はずみをつけて飛び起きて、フィオレはそのまま私室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もはや習慣と化しつつある、リオンとの剣術稽古中。

 

「あ!」

 

 リオンが仕掛けた刺突を捌いた瞬間、フィオレは大声を上げて彼を脱力させていた。

 

「なんだ、大声で出鼻を挫く作戦か?」

「いや、ちょっと忘れ物です。しばらくお待ちくださ──いや訂正。素振りでもして体を暖めておいてください」

 

 何か忘れたと思っていたら、私室の机の上に資料室から持ち出した書物を置きっぱなしにしてきている。

 ここ最近フィオレが自発的に気をつけているせいか盗難事件はないものの、油断をするべきではない。

 リオンを置いてエントランスに駆け込み、三段抜かしで二階へ続く階段を駆け上る。

 そのまま走って私室へ──

 その扉は、開けるまでもなく開いている。おそらく掃除をしているのだろう、となれば隠す意味がないから、持っていくのがベストか。

 

「ちょっと失礼。忘れ物を……」

 

 取りに来た、と続けようとして、フィオレは眼を見張った。

 箒とちりとりが床に転がり、はたきがその上に落ちている。

 掃除を目的とした道具すべてを手に取ることなく、女──家政婦(メイド)は、机を見下ろしていた。

 亜麻色の巻き毛をヘッドドレスでまとめた、勝気な印象のあるなかなかの美人である。年の頃は十八、九あたりか。見かけたことはあっても、名前は知らなかった。

 惜しむらくは少々つり上がり気味の目が、勝気と同時にきつめの印象を他者に与えている。垂れ気味の眼を持つフィオレとしては少しうらやましい。

 振り返った彼女の顔は、どこか呆然としていた。いや、そんなことはどうでもよろしい。

 フィオレが注視したのは、彼女の手元である。

 机を上から覗き込むようにしていた彼女の手には、フィオレがうっかり机の上に放置しておいた書物があった。

 その書物が、ひどい有様になっている。表面はインク壷をぶちまげたかのように真っ黒く染まっていた。これではもう二度と、記された文字を読むことができないだろう。

 事故でない証拠にその手にはインク壷が握られており、更に頁を引き裂こうともしていた。そもそも事故なら、もう少し不自然な体勢であるはずだ。

 フィオレによる沈黙は、わずかな時だった。

 

「何をしているのですか」

 

 眦が吊りあがっていることを承知で、家政婦(メイド)に詰め寄る。

 その気迫に押されたかのように、彼女は書物から手を離した。

 

「それは私の私物ではなく、ヒューゴ様の蔵書です。それを故意に破損させて、何のつもりですか」

「……気に入らないのよ、あんたが」

 

 敬語での詰問が悪いのか、それとも何か他の原因か。家政婦(メイド)はまるでリオンがするように鼻を鳴らすと、開き直りを始めた。

 吊り上がり気味の瞳が、挑発的に細められる。

 

「いきなり屋敷に転がり込んできて、記憶障害だか何だか知らないけど、あんな高待遇で雇われて……リオン様にまで気に入られて」

「末期ですね。あれで気に入られているように見えるとは。目医者様にかかられたほうがよろしいのではないですか?」

「うるさい! 私が触ったなんて証拠はないわ。一番怪しいのは許可を受けてまで蔵書を持ち出したあんたよ。いい気味だわ、せいぜいクビにされないよう、ひれ伏して謝ることね!」

 

 これが世に言う逆切れであろう。家政婦(メイド)は一度手放した書物を乱暴に掴んだかと思うと、フィオレに向かって投げつけた。それを受け止めている間に、その脇をすり抜けて逃走している。

 驚いたことに、駆け寄り様掃除用具を回収していた。これでは誰が書物を汚していったのか、彼女にもう一度会わない限り、フィオレには特定ができない。

 受け止めた書物を、慎重に開く。フィオレが来る以前、散々乱暴に扱われたのだろう。頁のそこかしこは破れて、インクでどろどろに汚されている。

 その場に座り込み、投げられたことで外れて散らばった頁に手を伸ばし、フィオレはひとつ、息をついた。

 

「これでクビになるのなら──ちょっと、試してみましょうかね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋敷で働く者たちの朝は早い。

 広い屋敷の換気から始まり、各部屋のシーツ回収から洗濯、調度品の手入れ点検や買出し、時には調理の下拵えに借り出されたりもする。

 午後は各部屋の掃除に洗濯物回収からベッドメイキングなどなど、朝から晩まで息つく暇もない。

 この日も、まずは屋敷内の換気──すなわち屋敷中の窓開けから始まるはず、だったのだが。

 どういうわけか、ジルクリスト邸に雇われ、この日出勤した家政婦(メイド)、及び執事(バトラー)たちはだだっぴろいエントランスに集められていた。

 

「緊急集会だなんて、一体何があったのかしら?」

「久々だよな。この間はフィオレンシア様のことだったけど……」

 

 家政婦(メイド)執事(バトラー)たちの似たようなざわめきが、上階に現われた人物を見て一斉に静まる。

 家政婦(メイド)長マリアンを従えた彼らの雇用主、ヒューゴ・ジルクリストが現われたからだ。

 彼は上階から家政婦(メイド)たち、執事(バトラー)たちを見下ろすと、唐突に静寂を断ち切った。

 

「諸君。本日わざわざ集まってもらったのは他でもない。ある連絡を早急にする必要があったからだ」

「メアリ・アンソン。前へ出なさい」

 

 ヒューゴの視線を受け、マリアンがどこか悲しげに、その名を呼んだ。

 おずおずと進み出たのは、亜麻色の巻き毛をヘッドドレスでまとめた、勝気そうな娘である。

 彼女──メアリの姿を視界に収めたヒューゴは、まるで昼食のリクエストをするかのように、あっさりと言った。

 

「本日をもって君はクビだ。もう来なくても──いや、君は住み込みか。荷物をまとめ、実家へ戻りたまえ」

 

 宣告を受け、たっぷり沈黙が漂ったところ。

 他の家政婦(メイド)たちが、執事(バトラー)たちがざわめきだし、メアリ本人は声を震わせて抗議した。

 

「な、ど、どうしてですか! なんで、いきなり……!」

「心当たりがない、と言うのか? 恥知らずにもほどがある」

 

 主人から冷たい視線を受け、びくっ、と体を震わせる。

 心当たりがないわけではない。しかし、ここにはあの女の姿はないのだ。

 言い逃れが、絶対に出来ないわけではない。何とか訂正を、温情を──

 内心の、フィオレに対する憎悪を押し隠し。メアリは身をすくませて上目遣いに彼を見上げた。

 

「ひょ、ひょっとしてあの書物のことですか? 本当に申し訳ありません。私、必死に謝ったんですけど、土下座までしたんですけど、許してもらえなくて……」

「ほう。土下座か」

 

 いつになく、冷たいヒューゴの声がエントランスに響く。

 メアリの言い分など、カケラも信用していないことがつぶさに感じ取れた。

 その声に堪えられなくなったように、メアリはぐっと、顔を上げた。

 上階でヒューゴの傍で控えるマリアンは悲しげに瞳を伏せており、味方にはつけられそうにない。やはりヒューゴ本人の心を動かさなければ──! 

 

「フィオレンシア様がヒューゴ様に何をおっしゃられたのかはわかりません。ですが、私は誠心誠意……!」

「やめたまえ。嘘の上塗りほど見苦しいものはない。そして──彼女は書物の件に関して何も言っていない」

「え?」

「これを提出した後にただ一言、『躾がなってない』と言っただけだ」

 

 そのときヒューゴは、初めて己が手に携えていたものを掲げた。

 彼が持っていたのは、レンズ式映像記憶装置における記憶端末である。

 装置そのものに接続することで、映像、それに伴う音声の記録が可能になる代物だ。

 当然ながら非常に高価な代物だが、ここはそのレンズ製品を扱う企業総帥の豪邸である。そんなものが何台かあっても、おかしくはない。

 

「再生しろ」

 

 やってきたレンブラント老が機材をその場に下ろし、映写機を回す。まっさらで広い壁に、映像が映し出された。

 一見して、誰の部屋だかわからないほど殺風景な部屋である。角度からして取り付けられていたのは寝台の上──天蓋のところから斜め下の映像が流されていた。

 映像の端に映る事務机の上には、古びた書物が置かれている。

 そこへ扉の開く音が響き、メアリの入室が確認された。メアリは持っていた掃除道具をすべて床へ置き、いきなり事務机の引き出しを開き始めている。

 すべての引き出しの中身を覗き見、入っていた羊皮紙の束をくず入れに突っ込んだ。かと思えば、今度はクローゼットを盛大に開いている。

 彼女は胸ポケットから出した細長い何かを、入っている衣服に突き刺した。映像からして正体は針。

 それが済んだかと思えば、今度はキャビネットに、更には金庫に手を伸ばしている。ここは流石に開かないものの、彼女はしつこく努力していた。

 そしてメアリの手が、書物へとかかった。乱暴な手つきでぱらぱらとめくっていき、適当なところで開いておく。その手が迷いなく事務机に置かれていたインク壷を取ると、逆さにした。

 蔵書は黒く染まっていく。それにとどまらず、その手が頁を引き裂こうとした、そのとき。

 

『何をしているのですか』

 

 部屋の主が、姿を現した。

 角度からして表情はわからないが、その特徴はヒューゴより客人として扱え、と屋敷にて雇用されている全員に告知されたフィオレンシア・ネビリムであると断定できる。

 フィオレの表情がわからない代わりに、机を背にしたメアリの表情は事細かにわかった。

 その行いを非難するフィオレに、メアリはふてぶてしく開き直っている。仕舞いには、本を投げつけて逃げる始末だ。

 投げつけられた本を手に、私室に残されたフィオレは、丁重に資料の状態を確認していた。投げられた際に散らばった数枚を座り込んでかき集め、小さく何かを呟いている。

 くず入れに押し込まれた羊皮紙を取り出しては、一枚一枚選別し、再び引き出しへ戻していった。

 そしてフィオレが映像から消える。直後、記憶媒体の映像も終了していた。

 

「それで」

 

 沈黙がエントランスを支配する。そんな中、顔面蒼白のメアリを見下ろし、ヒューゴは呟くように言った。

 

「君がいつ、土下座などしたのかな?」

 

 その言葉を聞き、自分のしたことを明確な形で突きつけられたメアリは、しゃっくりのような悲鳴を上げている。

 しかしすぐに、彼女は深く頭を下げた。

 

「も、申し訳ございません! どうか解雇だけは、私の家には、私の稼ぎを当てにしている家族が……!」

「幸い、彼女は類希なる修復技術を備えていてね。書物こそ無事修繕されたが、君が犯した行為は許しがたい。書物のことはもちろん、あのように部屋を荒らし、服に針を仕込んだことも、だ。今後同じようなことをされても困るし、そんなことをしでかす者など私でも部屋に入れたくはない。賠償を求めないだけマシだと思ってくれ。君が汚した蔵書は、君に与えていた月給の十年分の価値があるものだ」

「こ、このようなこと、もう二度と……!」

「更に、彼女は自分の部屋に置いてあったものをいくつも紛失している。その数は八つ。その中には私から受け取ったものもあるようだ。この映像を見て、彼女はマリアンに君の部屋はどこかと尋ねている」

 

 ──そう。この映像を見た後で、フィオレはリオンに事情を説明してマリアンにつなぎを取ってもらった。

 フィオレの私室を荒らすのにひどく手際がよく大胆だったことから、もしかしたらという憶測のもと探ってみたところ。メアリの寝台の下から未開封の宝飾品が出てきたのである。

 

「結果、君の部屋からはフィオレ君宛の包装品が四つほど出てきたよ。そのうちの一つは、確かに私が彼女に与えたものも混じっていた。更に市街の質屋を何件か調べて回ったところ──君は過去四回ほど、別々の店舗に、高額の宝飾品を持ち込んだらしいな」

 

 報告書らしい羊皮紙を眺めながら、彼は相変わらず冷たい視線を投げかけていた。

 悪事を盛大に暴かれた彼女は、力尽きたようにペタン、と座り込んだ。

 

「この窃盗事件に関して、フィオレ君は特に君から賠償を求めようという考えはないらしい。だが私としては当然、泥棒を雇い続けることはできん」

「……ヒューゴ様……」

「生憎私は、ひれ伏しても土下座をされても考えを改める気はない。もう一度言おう、出て行きたまえ。皆、彼女の荷造りの手伝いを」

 

 その場にうずくまり、泣き出した家政婦(メイド)の姿をシルフィスティアの視界を通じて見ていたフィオレは、閉じていた眼を開いた。

 エントランスの光景が、途端に書庫のものへと切り替わる。

 哀れさを誘う状態ではあるが、これが現実だ。同じようなことを繰り返されても困るのが事実である。

 幸いにも今回は、フィオレの持つ技術でどうにかなるものだった。だが、常にそれで解決するとは限らない。

 ああいう手合いをいつまでも野放しにしておけば、遠からず後悔させられる日がくるのだ。

 フィオレは立ち上がり、気分転換にと天地戦争について記された書物を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 




あとがきっぽいもの。

 とある日の出来事。深い意味はあんまりない。
 屋敷の人間たちにとってフィオレがどんな存在だろうか。裏設定的な感じで考えていたら突発的に出来上がった話。
 裏設定として、メアリさんはクレスタの出身である。両親健在だが下の兄弟姉妹が九人ほどいるため出稼ぎ中。リオン坊ちゃんラブ。
 ①ガルド=⑩円らしいので、彼女のお給金は月25000ガルド。日本円にして二十五万。年収は三百万。
 つまりフィオレが読んでいた蔵書は三千万の価値が! (驚愕)

 閑話休題(そんなことはさておき)

 両想いはおろか、告白できなくたっていい。あなたのお傍でお仕えできればそれで幸せv な、日々だったはずがフィオレ出現によって崩壊。
 毎日毎日リオンの剣術指南で彼のそばに張り付いているわ、それが終わればリオンの部屋に入ってマッサージ、仕事などでも同時任務が命ぜられる場合が多い。
 嫉妬するなという方が無理な話です。でも、何かをすればそれだけのことが自分に返ってくるものだ、というお話。


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聖域探索~判明! リオンのわかりやすい弱点~アクアリムスとの邂逅

 リオンが船酔い体質になったのは、リメイク(ps2)からです。
 無印(ps)のデスティニーでは再三船に乗っていたにも関わらず、そういった描写はなかったように思います。彼が乗り物に酔ったと申告があったのは、飛行竜乗船時のみ。
 もしかして人知れず苦しんでいたんだろうか……あるいは単に彼の属性≠設定が追加されただけなのか。
 真偽は定かでないので、ここのリオンは「極度の船酔い体質である」ということにさせていただきました。
 参考までに、胃腸が弱い・自律神経が不安定・貧血・神経質なタイプな人間は乗り物酔いをしやすいと言われています。
 彼はきっと、一番最後ですね。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 港にて。フィオレは眉間に縦筋を三本ほど刻んだリオンと共に、定時連絡船の到着を待っていた。

 港は活気ある喧騒に包まれているものの、リオンの表情は普段以上に無愛想である。

 時々思い出したように舌打ちをしたり、陰気な調子でシャルティエに話しかけるその様子は、完全に不審者のそれだった。

 彼の機嫌をこれ以上損ねないよう、というよりはあまり関わらないよう「港を見学してくる」と言ってその場を離れ、フィオレは小さくため息をついている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今朝方のこと。フィオレは一枚の羊皮紙をヒューゴ氏へ提出した。

 彼は何も言わずそれに眼を通し──細い眼がフィオレを射抜く。

 

「聖域の探索か。ここに来て以降何も報告がないから、てっきりあきらめたのかと思っていたぞ」

 

 ヒューゴ氏の言葉も、仕方の無いことだった。

 レイクドラゴン討伐以降、フィオレはリオンの剣術指南からストレス発散、客員剣士見習いとして依頼される魔物退治野盗捕縛、時折命じられるオベロン社関連の護衛仕事、と日々活動的な生活を送っている。

 資料による聖域探索を忘れたわけではない。身を入れてやっていなかっただけだ。

 ところが最近になって、とある資料にかなり有益な情報が載っていた。

 思っていたよりは居心地が良かったここの生活に区切りをつけるべく、目的を思い出す意味でこの度遠征を決意したのである。

 ちなみに差し出したのは休暇届であった。

 

「そんなわけで、ちょっくらカルバレイスへ行ってきます」

「カルバレイス? あの土地に守護者がいるというのかね」

「その件に関してかなり詳細な資料を手に入れました。カルバレイスという土地柄に関してはそれなりに予習をしてあります。かなり排他的だそうですね」

 

 第二大陸、カルバレイス。

 セインガルドとは大幅に異なる熱帯性気候で、大陸の大半が砂漠で占められているという。

 

「ああ。天地戦争について知識はあるかね?」

「──彗星の激突により、舞い上がった粉塵が太陽光を覆い氷河期を招いた。生き残った人類は、粉塵より更に上空へ天上都市なる第二の大地を作り上げたが、僅かな特権階級にしか移住は許されなかった。それは地上の民と見下された当時の人々の反感を買い、やがて戦争が勃発した──と、私は認識していますが」

「うむ、それは戦争の発端だな。最終的に地上の民は天上人たちを捕虜とし、戦争は終結した。捕虜となった彼らが追いやられるように移住させられたのがカルバレイスだ。だからカルバレイスの人々は地上側の子孫である他国人を無条件に嫌う傾向にある」

「戦後長く続いた差別と迫害の歴史があって、彼らは心を閉ざしてしまったのではないのですか?」

「そういう解釈もできるな。そして他国人は、排他的なカルバレイス人との交流を避けてしまうという悪循環が存在することも確かだ。従って、現地での聞き込みには期待できないぞ」

 

 承知の上である。そうでなければカルバレイスという土地を知った上で、積極的に行きたい、などとは言い出さない。

 そのことを伝えると、ヒューゴ氏はふぅ、と息を吐いた。

 

「本当は止めるべきなのだろうが、契約でも取り決めてしまったからな。いいだろう、行ってきたまえ。渡航に関してだが──」

「それも調べました。一応カルバレイスには定時連絡船があるらしいですね。今日にもそれで向かおうかと」

 

 当初の目的である許可をもらったにつき、さっさと出かけようとフィオレは早々に退室を図っている。

 しかし、ヒューゴ氏に肩を掴まれてそれは阻まれた。

 掴まれた瞬間、肩が震える。

 

「……何か」

「まあ待ちたまえ。全力でサポートすると言った手前、このくらいはな」

 

 さりげなく肩の手を外して睨むフィオレを涼しげな顔で見下ろし、彼は自分の執務机の引き出しを開けた。

 分厚い封筒を渡され、開けてみれば定時連絡船の無料招待券と、数えるのが面倒な程度にはガルド札が入っている。

 フィオレは無料招待券だけを引き抜いて封筒を突っ返した。

 

「旅費くらい自分で出しますよ。こっちはありがたく頂いておきますね」

「話は最後まで聞くものだぞ、フィオレ君。カルバレイスに行くなら、チェリクのバルックにこれを配達してほしい。そちらの封筒の中身は旅費兼特別報酬(ボーナス)の前渡しだ。カルバレイス人の中には他国人に対して物価を吊り上げるような嫌がらせをする輩もいる。緊急時用にとっておくといい」

 

 そう言われてしまえば、反論もしにくい。

 結果として、フィオレの手元には分厚い封筒と、細かい封蝋が刻んである薄っぺらい封書を渡された。

 更にヒューゴ氏の支援は続く。

 

「それと、女性の一人旅は危険だからな。リオンを護衛に連れて行きたまえ」

「本気で言ってるんですかそれ」

「ああ、本気だとも。指南役に招いたとはいえ、君の見た目はか弱い女性そのものだからな。変なトラブルを頻発されても困る」

「……彼の嫌そうな顔が眼に浮かぶのですが」

「嫌がるだろうな。だが、リオンのことに関して一応知っておいてもらいたいことがある。バルックへの届け物を運ぶ任務とでも嘯いて連れて行くがいい」

 

 リオンのことに関してだけは、反論する暇も与えずに。

 ヒューゴ氏はもう一枚の無料招待券をフィオレに突き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、冒頭へと至るのだが。

 時計台で時刻を確認したフィオレは、ごく軽量の荷物とリオンの待つ船着場へと向かっていた。

 到着した連絡船の傍らで、憂鬱そうに船を眺めているリオンと、その足元にフィオレの荷物がわだかまっている。

 

「お待たせいたしました」

「……ああ、待った」

 

 どこか恨めしそうに返事を寄越すリオンと共に連絡船へ乗り込む。

 船内は閑散としており、それはカルバレイスへ行く人間はあまりいないことを示していた。

 ヒューゴ氏から支給された無料招待券は個室つきで、個別の船室が振り分けられているものの、今フィオレはリオンの船室にいる。

 カルバレイスに行くと聞いた瞬間機嫌が悪くなり、任務の内容も何も尋ねてこなかったリオンに説明するためだ。

 

「今回はカルバレイス支部のバルックという方にこちらの封書を渡して来い、というお使いなんですが……リオン、聞いてます?」

「……聞いている」

 

 彼の船室に入った時点で、彼の異常は察していた。

 乗る前はただひたすら不機嫌で苛立っていたというのに、出港して現在、彼はひどく怠惰で憂鬱そうにしている。

 色白な顔は青ざめており、一目で絶不調であることが見抜けた。何かあったのか、と尋ねたところで彼は素直に答えないだろう。

 ただでさえ弱みを見せたがらない少年のこと、先ほどの不機嫌さも相まって不用意に怒らせるのは得策ではない。

 シャルティエに尋ねるのもいいかもしれないが、生憎と彼の声はリオンにも届く。こっそり答えてもらうのは難しいだろう。

 従って、何もなかったように接するのがおそらくベストだと思っていたのだが。

 

「……うぷ」

 

 どこか潮の乱れがあったのだろうか、ぐらりと船が揺れる。

 それに合わせて小さく呻くリオンを見て、フィオレは封書を持った手で軽く額を押さえた。

 

「リオン。ひょっとしなくても、船酔いですか?」

「……」

 

 返事はない。ただ、フィオレの視線から逃れるように座っていた椅子ごとそっぽを向いただけだった。

 違うことなら違うとはっきり言うこの少年のこと、こんな態度では白状しているも同然である。

 

「酔い止め──成分表からしてめちゃくちゃ苦そうですが、飲めますか?」

「嫌だ」

 

 飲めない、ではなく嫌だときた。そっぽを向きながらも、彼は気持ち悪そうに口元を抑えている。

 偏頭痛を覚えながら、フィオレはリオンの首根っこを掴んで船室から引きずり出した。

 

「何をするっ……」

「甲板に強制連行します。吐き出すなら吐き出すで海原のお魚にあげなさい」

 

 弱々しい抗議に耳も貸さず、フィオレはつかつかと廊下を歩いている。

 階段になって初めてリオンに振り返り、その細い腰を掴んで担ぎ上げた。

 幸いにも人目はないが、当然彼は暴れている。

 

「やめろ!」

「くやしかったら私が担げないくらいでっかい男になりなさい」

 

 短い階段を登りきり、甲板に至る。絶好の航海日和な空はまぶしく、一面に広がる大海原は思いのほか穏やかだった。

 しかし、ここに穏やかではいられない人が一人。

 

「……!」

 

 解放された瞬間、その場に蹲ってひたすら吐き気に耐える少年を見下ろし、フィオレは小さく息をついた。

 ヒューゴ氏が意味ありげに言っていた『知っておいてもらいたいこと』は、これのことだったのだろうか。

 

「ちょっとこちらへ」

 

 リオンの腕を掴んで立ち上がらせ、手すりによりかける。

 彼は苦しそうに手すりにしがみつきながら、フィオレを睨みつけた。

 

「気持ち悪いからって下ばかり見てると余計に気持ち悪くなりますよ」

「……」

「で、いかがですか? 吐き出せるならさっさと吐き出したほうが身のためです」

「……吐き出せと言われて……吐き出せたら、苦労は無い」

 

 確かに。

 今でこそ違うが、フィオレも特殊な疾患によって──正確にはその薬の副作用で吐き気にはさんざん苦しめられていた。気分が悪く嘔吐感はあるものの、内蔵の動きはないということか。

 

「そうですか。では、歯を食いしばってください」

「……待て。何を、するつもりだ」

「一発殴って胃を刺激します。大丈夫、のた打ち回るくらい痛いだけで内臓に損傷はあたえませんから」

 

 無論のこと、彼は逃げ出した。

 

「あっ、リオン。どこへ行くんです」

「貴様がいないところだ! 人を無理やり連れてきたかと思えば、何を無茶なことを言い出す!」

「冗談に決まってるじゃないですか。でもそんな風に走り回れるなら、まだ余裕がありますね」

「……お前の冗談は、冗談に聞こえない……」

 

 冗談、の一言に足を止めたリオンは、再び手すりにしがみついた。先ほどの元気はどこへやら、胸を押さえて苦しそうにしている。

 そんなリオンを前に、フィオレは自分の水筒を取り出した。備え付けのコップに中身を注ぎ、リオンに向かって突き出す。

 

「……なんだこれは」

「まあとりあえず飲んでみてください。多少はマシになるはずです」

「酔い止めじゃないだろうな……」

「酔い止めはこっち。これは酔い止めが効かなかったときのことを考えて持参したものです。ちなみにマリアンに淹れてもらいました」

 

 港で売られていた粉末を見せつつ、コップをリオンに手渡した。

 彼は躊躇するものの、マリアンが淹れたものと聞いておそるおそる口をつけ始める。

 一口、口へ含み飲み込んで。彼はひとつ、目をしばたかせた。

 

「……ミントティー?」

「ご名答。民間療法ですけどね」

 

 目の醒めるような爽やかな香気が鼻をくすぐり、清々しい後味が口腔に広がる。

 引かれるように飲み干す頃には、彼の気分はかなり改善されていた。

 その様子を見て、フィオレはぽつりと呟いている。

 

「……マリアンの愛が効きましたね」

「は!?」

「何か入れましょうか、って聞かれたから、『愛を込めて淹れてくださいね』ってお願いしたんですよ」

 

 リオンからコップを回収し、水筒を再び自分の腰へと下げた。

 乗客は船旅に慣れている人種か、それ以外の理由か。二人以外に甲板に出ているのは、黙々と作業に従事している船員だけだ。

 

「無理やり連れ出してすみませんでしたね。ところで話、聞いていましたか?」

「バルックに手紙を届けるんだろう。まったく、なぜそんなことを僕が……」

「それが終わったら、私はちょっと用事があるのでしばらくカルバレイスに滞在します。あなたは先に帰っていていいですよ」

 

 それを告げると、リオンは唐突に口を噤んでいる。かと思えば、彼はまこと懐疑的な眼でフィオレを見やった。

 

「……何を企んでいる」

「来週、マリアンの誕生日らしいですね。せっかくだから珍しい花をプレゼントしようかと」

 

 嘘ではない。

 しばらく留守にすると彼女へ伝えに行った際の雑談の中で、誕生日が近いことを偶然聞き出したのだ。

 そのことは知っていたらしく、リオンに驚くような素振りはない。

 その代わり、軽くひそめられた眉が何かどうでもいいことを考えているような、そんな気配があった。

 やがて、その薄い唇がいぶかしげな質問を紡ぐ。

 

「……カルビオラビオラか?」

「は?」

 

 フィオレは一瞬、彼が何を言い出したのかを計りかねた。

 そもそも、カルビオラビオラが何なのかもフィオレにはわからない。

 

「花を採りに行くんだろう? カルバレイス産で珍しくて、保存が効く花といえばそのくらいしか……」

「ああ、植物の名称ですか。じゃあそれも探してみましょう」

「だがお前も物好きだな。そんなもの、取り寄せればいいだろうが」

「……」

 

 唐突に、夕日色の髪を腰まで伸ばした鼻持ちならない青年の顔が浮かんで消える。

 フィオレは微妙な笑みが浮かんでいるであろう自分の表情をあえて隠さずに、リオンを見やった。

 

「……そこはそれ、育ちの差でしょうね。庶民の私には取り寄せるなんて感覚はないし、仮にも贈り物なら自分の眼で確認した最高のものを差し上げたいんです。他人の目で選定されたものを、譲り渡すように贈りたいとは思いません」

 

 そもそもフィオレがついでに探そうと思っていたのはデザートローズ──砂漠の薔薇だ。

 あんなものを取り寄せようと思うなら、よほど信頼できる業者でもない限り完璧な形のものは望めないだろう。

 生まれながらにして恵まれている彼に、それを理解させようとは思わなかったが。

 フィオレの内心が、微妙な笑顔を通して彼に伝わったのだろうか。どこか不機嫌そうに甲板を立ち去る少年を見送って、フィオレは天を仰いだ。

 その唇から、大譜歌と呼ばれた旋律が零れ出す。

 

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 

 

 ミャアミャアと、海鳥が鳴く。

 船にぶつかっては飛沫となって消える波間の音を合間に喉を震わせながら、フィオレは手すりによりかかった。

 何もない青い空は、ストレイライズ神殿近郊の森で眼を醒ました際の記憶を彷彿とさせる。

 これまでのことを思い返しながらも、フィオレは最後の一節を謡いきった。

 

 ♪ Rey Va Nu Qlor Toe Rey Rey──

 

 ふぅ、と息をつく傍ら。ふとした疑問が脳裏をよぎる。

 守護者と接触するには、聖域にたどり着くだけでいいのだろうか。

 シルフィスティアのときは、彼女が導いてくれたおかげで聖域を探索するには至らなかった。

 冷静に考えてみれば聖域の場所が明らかになるのを避けるため、尚且つ契約は問題なく結べるように、との配慮だったのかもしれないが、それでも事実は変わらない。

 しかし、今回は違う。資料によれば、カルバレイスに聖域があるのは火の守護者・フランブレイブだ。今度は聖域を目指してひたすら突き進むのみである。

 果たしてそれだけで、フランブレイブは契約を交わしてくれるだろうか……

 言い知れない不安が、フィオレの心を包み込んだ、次の瞬間。

 

「……!」

 

 左手に急激な疼きを覚え、フィオレは周囲を確認しながらも左手の甲を確認した。

 手甲の隙間から覗いたレンズが、黎明の光を放っている。

 これは──

 

『フィオレ、よくわかったね』

『な、何を、ですか?』

『その歌がボクたちを目覚めさせ、活性化させること──偶然にもかなり近くにアクアリムスの聖域があるし』

 

 そういえば、アルメイダでも大譜歌を謡って、その夜シルフィスティアが接触を図ってきた。

 ある程度聖域が近い位置で大譜歌を謡えば、あちらからフィオレの位置を探ってくれるというわけか──! 

 

『フィオレ……フィオレンシア・ネビリム……』

 

 明らかにシルフィスティアのものではない、凛とした女声が脳裏に響く。

 

『呼んでるよ、行かないの?』

『もちろん、行きます!』

 

 シルフィスティアの問いに答えたその瞬間。フィオレの視界は一変した。

 視界すべてが青い。まるで全身が海に包まれているような──

 否。フィオレは海中にいた。すぐそばを、名前もわからない色とりどりの魚群が悠然と通過していく。

 息は問題なくでき、手足が滞りなく動くということはシルフィスティアが風の結界で覆ってくれているのか、あるいはアクアリムスが何か──

 

『ようこそ、聖域へ』

 

 声がするほうを見やれば、足が大地へついた。まったくわからなかったが、今の今までフィオレは海中を漂っていたらしい。

 珊瑚礁が乱立し、魚介類のみならず様々な海洋生物が育まれるその場所に、ところどころか欠け、苔むした祭壇のようなものがある。

 祭壇の上には、わだかまる青い光がポツンと浮いていた。それも僅かな時のこと、光は一点に集中し、徐々に人の形を成していく。

 やがて現れたのは、蒼穹の長髪を優雅にたなびかせた女性の姿だった。

 簡素な白い衣をまとい、シンプルにして長大な槍をその細腕に携えている。

 

『私はアクアリムス。この世界の水を統べる者。守護者の一柱として、あなたとの契約を望みます』

「シルフィスティアから大半は聞き及んでいます。唐突で申し訳ありませんが、契約を結ぶ代償として答えていただきたい」

『私に答えられることならば……』

「この世界は何ですか? どうして私の知る世界とは、こんなにも異なっているんですか?」

 

 今の今まで、深く考えることを意図的に忌避してきた疑問だった。

 深く考えてしまえば、思考の渦に呑み込まれ、二度と浮かんでこれそうになかったから……

 

『……あなたの想像通り。ここは、あなたが生を受けた世界ではありません』

「じゃあ、何ですか? 同じ時を並行する異世界(パラレルワールド)とでも言うのですか? その割には時間の流れ方がどうも均一でない気が……」

『世界樹の幹はひとつでも、そこから生える枝葉がすべて同一であるとは限らない。時間という概念は人たる存在しか見出さない以上、時の川に対する考え方も同じこと』

 

 世界樹ユグドラシルがその巨大な幹に生やす無数の枝、その中に存在する自分が生を受けた一本の枝から、何かの手違いで違う枝へ移動してしまったのではないか──

 いつか聞き、そして自分で立てた荒唐無稽な仮説がここへ来て急に現実味が増す。

 しかし同時に、それは新たな疑問を発生させる呼び水ともなった。

 それを尋ねる前に、アクアリムスは慈愛に満ちた微笑を浮かべながら手をそっと差し出している。

 

『私は、あなたの質問に答えました。さあ、契約を──』

「……汝らの、意に沿う」

 

 まるで握手に応じるかのように左手をその手に重ね、フィオレは誓いを口にした。

 確かに彼女はフィオレの質問にひとつだけ答えている。これ以上無理に聞いても、答えてはくれないだろう。

 

「汝らの願いがため、我にその加護を。我に力が貸し与えられんことを。願わくば契約が、無事に果たされんことを」

『その意思がある限り、あなたへの忠誠を誓いましょう。限りなき水の恵みが、あなたと共にあるように』

 

 重なった手を軸に不可視の力場が発生し、アクアリムスの姿が除々に薄れていく。

 その姿は光の粒子へと姿を変え、左手に張り付いたレンズに吸い込まれていった。

 瑠璃の色がレンズに宿る。

 

『契約完了。これからよろしくお願いします、フィオレ』

『あなたも、力そのものと幻の姿だけ貸してくださるのですか?』

『その通りです。何かご不満が?』

『力はともかく、幻の姿に何の意味があるのかと……』

『よ、用事がありましたら何なりと。それでは』

 

 アクアリムスはどこか慌てたように言葉を詰まらせると、早々にフィオレを船上へ送り返した。

 今回は、呼ばれて押し問答を繰り広げなかったからだろうか。太陽の位置はそれほど変わっていない。

 予期せぬことではあったが、契約は無事取り交わすことができたのだ。そして彼らの聖域を探すための手段も、確立することができた。

 左手の甲に触れ、知らず頬を緩める。これだけでも遠出した甲斐があったと、内心でフィオレは上機嫌だった。

 そこへ。

 

「ねえねえ、どこから来たの?」

「チェリクに行くの? それとも、カルビオラ?」

「大部屋にはいなかったから、個室ですよね? どこのお部屋なんですかぁ?」

 

 姦しい声が聞こえ、くるりと階段を見やる。

 そこからは、現地の人間だろうか、よく日に焼けた娘三人と彼女たちに囲まれている誰かが現われた。

 女に囲まれているということは男性、それも色男である可能性が高いだろう。

 それにしても彼女たちの背が高いのか、囲まれている人間の顔がわからない……

 

「……ぷっ」

 

 盛大に吹き出すのを懸命にこらえて、再び大海原の側へ向く。

 女性三人をはべらせながらも仏頂面で黙り込んでいたのは、誰あろうセインガルド王国客員剣士、リオン・マグナスご当人であった。

 幸いにも、彼の視界にフィオレは映っていなかったらしく、彼が何かを言い出す気配はない。

 だがしかし代わりに。

 

『坊ちゃん、いましたよフィオレ』

「……どこだ?」

『ほら、あの甲板のところの……』

 

 シャルティエが要らないことを言って、彼はフィオレの存在に気付いてしまった。

 

『シャルティエ。どうしてそう目端が利いてしまうんですか。せっかくリオンが逆ナンでうはうはできるチャンスなのに』

『君、坊ちゃんがそういうの好きじゃないってわかってて言ってない?』

『もちろん。でも女の扱いくらい知っておいて損はありませんよ? これから嫌でもそういったトラブルに巻き込まれるでしょうし』

『これから、じゃなくてもう巻き込まれてるよ、現在進行形で! 早く助けてよ、坊ちゃんまた船酔いしちゃったんだから!』

 

 それは一大事である。フィオレは慌てて振り返った。

 階段から三人の娘を取り巻いて近寄ってくる少年の顔色は、普通に見える。無理をしているようにも見えない。

 フィオレの姿を見、リオンが彼女のもとへ近寄ろうとわかった三人はといえば、面白くもなさそうな顔でフィオレを睨んでいる。

 しかし、それを気にする二人でもなかった。

 

「……?」

「別に船酔いはしてない。少し気分が悪いだけだ。それでお前、今までどこにいたんだ」

「どこって……」

 

 ちょっくら海底らしいところにあったアクアリムスの聖域へ。とは答えられない。

 

「別にどこでもいいでしょう。気分が悪いなら船室でお休みになられたらいかがです?」

「……あの連中を連れて行けというのか」

 

 シャルティエに話しかけるような、押し殺した声で囁くリオンは横目で彼女たちを見ている。

 フィオレを探して船を歩いていたら、逆ナンパにひっかかった、というところだろうか。

 

「いいではありませんか。いっそ、社会勉強に部屋へ連れ込んで、オトナへの階段を全力で駆け上がってみては?」

「……それを本気で言っているようなら、僕の全力を持って貴様を海の藻屑にするぞ」

 

 その言葉に謝罪を口にしかけて、ふとやめる。

 リオンの眼は未だに不機嫌そうな彼女たちを見ていた。ここはリオンと関係があるように見せるよりは、こちらのほうが……

 さりげなく、紫電の柄に手を触れる。彼は承知しているとの意思表示に、シャルティエの柄に手を触れた。

 彼としては、手っ取り早く彼女たちを追っ払え、気分転換にもなるだろうとの踏んでのことだろう。

 

「……面白い。できるものならやってもらおうではありませんか」

「上等だ。今度こそ、念話とやらのことを教えてもらう!」

『ちょ、ちょっと坊ちゃん!?』

 

 会話の最中に引き抜かれた得物を手に、二人はほぼ同時に甲板を蹴った。

 唐突に始まった剣戟を前に、どう見ても一般人にしか見えない彼女たちは悲鳴を上げて避難している。

 それを十分に確認してから、フィオレは通常稽古で行う剣戟を誘った。

 これは準備運動代わりに毎回行うもので、彼とは幾度と無く繰り広げられている。

 とはいえ、その内容は十合ごとに攻め手と受け手を入れ替える、ただの剣舞とそう変わらないが──素人目では、刃物を振り回した喧嘩にしか見えないだろう。真剣使用につき、気を抜いたら怪我をすることだけは確実なのだ。

 

「ちょっと、何よアレ!?」

「やばくない? もう関わんないほうが……」

「あ、まずい!」

 

 観衆と化した彼女たちが、何やかやと声を上げている。

 いきなり喧嘩を始めた男女を目にした割には、何か違う方向に焦っているように見える──と思っていると。

 ドカドカと乱暴に階段を駆け上る音がして、三人の男たちが甲板に現われた。

 上半身裸あり、スキンヘッドあり、上背あり、共通して目つきが悪いと一目でカタギでないことがよくわかる。それゆえに、視覚的恐怖効果も十分上乗せされていた。

 

「おうお前! 俺の女に何手ェ出してやが……あ?」

 

 男たちは現われるなりそんなことをのたまい、激しい剣戟を繰り広げる二人を見て唖然としている。

 

『フィ、フィオレ、どうすんのこれ?』

『無視です。そのまま続けるよう、リオンに言ってください』

 

 リオンの動きが鈍り、シャルティエが戸惑ったように声を上げる。

 続行を促して、フィオレは再びちらちらと娘たち三人、新たに現われたむくつけき男たち三人の観察を続けた。

 

「おいおい、なんだこりゃ?」

「身なりのいいお坊ちゃん見つけたと思って声かけてたんだけど、一瞥もくれなくてさ。あれよあれよという間にここへ来て、女に話しかけたと思ったらおっぱじめて……」

「こりゃあ無理だな。止めさせて怪我しても割に合わねえ」

 

 次々に、舌打ちやら愚痴やらを吐き捨てつつ、男たちは娘たちを伴ってぞろぞろと階段を下りていく。

 剣戟の最中に遠ざかる足音を確認して、フィオレは大きく間合いを取った。

 リオンが仕掛けてこないことを確認してから、剣戟終了の合図として刀を納める。それを見て、彼もまた腕を下げた。

 

「新手の美人局だったみたいですね。鼻の下伸ばさず見破るとは、やるではありませんか」

「別に美人局だとわかったわけじゃない。あんな得体の知れない連中など、言葉を交わす気にもならん」

 

 それについては同意である。

 ともあれ、彼女たちのおかげでどこにいたのかを問い詰められなかったのだから、多少はこのめぐり合わせに感謝するべきなのかもしれない。

 二人して船室へ向かいつつ、フィオレは内心でほくそ笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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聖域探索への旅路~カルバレイス探訪記~フランブレイブ+αとの邂逅

 

 

 

 二日間の行程を経て、連絡船はチェリク港へ到着した。

 これはカルバレイス地方へ近づくにつれ、何度となく口にしていたことなのだが。

 

「……暑い」

「ふん。鍛錬が足りんな」

「汗だく人間が何をおっしゃる」

「……」

 

 気候のことを調べた時点で砂漠での行動に支障がないよう装備を整えてきたのだが、それでも暑いものは暑い。日焼け防止にキャスケットも被っているため、暑さは倍増だった。過度に日焼けすると肌が火傷に近い状態になるため、ここは耐えるしかない。

 用意した陽射しよけ外衣に、耐暑用の譜陣を刺繍できればよかったのだが。刺繍の譜陣に譜力を込めるために必要な、砂状にした譜石が用立てられなかった。

 

「とっととバルックのところへ行って、帰るぞ」

「そういうわけにも行きません。私は、えーと……カルビオラオラとかいうものを探さないといけませんから」

「……カルビオラビオラだ」

 

 活気ある港を抜け、比較的静かな街中へ足を踏み入れる。

 当然ながらセインガルドにあるような民家とは大幅に異なり、風の通りがいいよう、かなり簡素な構造になっていた。

 おそらく、家の造りが簡素なのはもっと違う理由だろうが。

 

「話に聞く通り、生活水準は全体的に低いみたいですね」

「ヒューゴ様からあらかた聞いているようだが、ここの人間に善意を期待しても無駄だからな。バルックは広場に面した場所でオフィスを構えているらしい。広場を探そう」

 

 小さく頷いて、フィオレはリオンの先導に従った。

 やがて広場に出た二人は、井戸の向こうにそびえる一際立派な建物を目にすることになる。

 周囲の建物からすれば、圧倒的に浮き上がっていた。

 

「おそらくあれだな。行くぞ」

「まておまえら!」

 

 二人が足を踏み出しかけたその時、わらわらと現われたのは十人弱の子供たちである。

 先ほどまでは影も形も見当たらなかったはずだが、一体どこからわいて出たのやら。

 

「何か御用ですか?」

「おまえたち、外国人だな?」

 

 とりあえず尋ねてみたフィオレに、子供たちは各々装備していた竹箒や熊手を向けて威嚇を始めた。おそらくあれで、家の中に入り込んだ砂を払うのだろう。

 

「そうだと思わなければ……威嚇はありえませんね」

「外国人にオレたちの広場は通さないぞ!」

「さっさとかえれ、がいこくじん!」

「そうだそうだー!」

 

 とりあえず、この国の排他主義が子供たちにもしっかりと根付いていることがわかった。

 広場が通れないとなると迂回するしかないが、リオンは煩わしい、といった風情で竹箒や熊手を振りかざす子供たちを見やっている。

 装備品を振り回すだけならともかく、足元の砂を投げつけられた日には退散するしかない。

 

『どうしましょうか、この子達』

「そうですね。実力行使でどうにかしましょう」

「は?」

 

 リオンの視線を尻目に、フィオレは彼らの前に進み出ると人差し指を立てた。警戒態勢に入る子供たちになぞ眼もくれず、秘術を発動させる。

 指先に小さな譜陣が展開し、音素(フォニム)の集まる気配とともに形を成していき──やがて生まれたのは、大型の蒼い蝶だった。

 中空へ舞い上がった蝶は、きつい日差しを受けて羽根を煌かせながら、ひらひらと広場を舞い始める。

 

「ちょうちょだ!」

「何でいきなりちょうちょが……!」

「あんなの見たことねーよ」

「つかまえろ!」

 

 もはや、彼らの眼中に二人の姿は無い。

 子供たちの視線を独り占めにした蝶は、右へ左へのらりくらりと逃げ惑う。

 

「ささ、今のうちに」

 

 リオンの腕を引いて広場を横断したフィオレは、バルック基金オフィスと思しき建物前まで赴くと、広場に振り返って唐突に指を鳴らした。

 その瞬間、蝶の姿は掻き消え、子供たちの悲鳴とも歓声ともつかない金切り声が響いて、なんというかうるさい。

 子供たちが二人の姿を捉える前に、フィオレは正面扉のノッカーを掴んだ。

 

『今のって……』

「手品です」

 

 見たこともない鳥の頭を模したノッカーで人を呼ぶと、家政婦(メイド)らしい女性が応対に出る。

 ヒューゴ氏の使いであることを伝え、バルック氏との面会を求めると、女性は少々戸惑いながらも二人をオフィス内へと招きいれた。

 オフィスと言っても社員の姿は見当たらない。代わりに、吹き抜けの別室で応対に出たのとは違う家政婦(メイド)姿の女性が調度品の手入れをしているだけだ。

 ちょうど出払っているのか、もともといないのか。

 

「バルック様にお取次ぎいたします。少々、お待ちくださいませ」

 

 一方、応対に出た女性は二人を玄関に通すなり一礼して奥へ歩み去っていく。片手間に外衣を脱ぎながら、フィオレはぽそりと呟いた。

 

「……涼しいですね」

「冷房が効いているからな」

 

 一体外の気温とどれだけ違うのやら、汗をかいた体には少々肌寒い。

 キャスケットを取って額の汗を拭い、待つことしばし。

 

「お待たせいたしました、どうぞこちらへ」

 

 家政婦(メイド)の先導に従い、二人は奥の部屋……ではなく階下へと案内された。半地下の構造なのか、冷房に慣れた体には自然な涼しさが感じられる。

 応接用なのか、机や椅子が目立った一階とは異なり、地下は本棚がいくつも設置されていた。

 隙間なくびっちりと書物が詰め込まれているあたり、ここの主は知識人なのか、読書家なのか、あるいは暇人なのか。

 やがて階下奥の部屋にたどり着き、家政婦(メイド)が規則正しくノックを試みる。そして通された部屋の中に、目的の人物がいた。

 髪を後ろに撫でつけ整髪料らしい香油で整えた、三十代後半と思しき男性である。彼は浅黒く厳めしい顔に快活な笑みを浮かべ、事務机に座っての作業を中断して立ち上がった。

 

「ヒューゴ様の使いというから、誰かと思えばリオンじゃないか。久しいな」

「ああ。変わりは無いか」

『お知り合い……ですか?』

『そりゃあね。だってヒューゴ様の部下だし、坊ちゃんも一応オベロン社の人間だから』

 

 この口ぶりからして、シャルティエも知っている様子である。

 続けられる二人の会話をただ聞いていると、バルック氏の視線がフィオレに向けられた。

 

「ところでリオン、こちらのお嬢さんは?」

「……ヒューゴ様が新しく雇った部下だ」

 

 自分の剣術指南役と言わない辺り、彼の心の葛藤が感じられる。

 このまま黙っていても少年は自分の紹介なんぞはしないだろう。フィオレは一歩、前へ出た。

 

「初めまして、フィオレと申します。とある縁でヒューゴ様の配下となりました。以後お見知りおきを」

「そうだったのか。ようこそ、バルック基金本部へ。私はオベロン社カルバレイス支部長、バルック・ソングラムだ」

 

 自己紹介の後、彼は軽く笑みを浮かべてリオンを見やっている。

 

「てっきり、リオンが婚約者の紹介に来たのかと思ってしまったよ」

「なっ! 何を馬鹿げたことを……!」

 

 冗談八割、本音は二割と言ったところか。

 しかしリオンはそうとは受け取っておらず、顔を赤くして絶句してしまっている。

 普段は大人びた振る舞いが目立つリオンだが、こういったところは年相応だ。

 少年らしい純情さを目にして、フィオレは目元を緩めて苦笑した。

 

「……何が可笑しい」

「口に出すと侮辱になるので、黙秘しておきます」

『え? 何さそれ』

『可愛い、って思いました。男性にその言葉を向けるのは、侮辱に等しいと聞き及びましたので』

『あ~、確かに。それは言われたくないね、男としては』

「一体何を思ったんだ、白状しろ!」

 

 詰め寄るリオンの額を中指で弾き、彼が額を抱えて呻く間に。フィオレは手荷物から厳重に梱包してある封書を取り出した。

 さて手渡そうとした、その時。

 何かに耐え切れなくなったように、バルック氏は豪快な笑声を放った。

 

「いや、失礼。リオンが同年代に対して、こんなにも打ち解けてる様子を見るのは初めてでね。なんだか安心してしまったよ」

「打ち解けてなんかいない。この女がことあるごとにふざけるのが悪いんだ!」

「ムキになるのは図星を突かれた証拠だな」

 

 リオンはもちろん怒り出し、フィオレはフィオレで、何気ないその一言に脛を蹴られたような衝撃を負っている。

 同年代。リオンと。

 

「……バルックさん。私は、リオンと同年代に見えますか」

「見えるが、何を落ち込んでいるんだね」

「いえ。どうぞお気になさらず」

 

 本来なら、年齢より若く見られることを喜ぶべきなのだが……ここまでともなると、大幅にサバを読んでいるようで嫌だった。

 そんなことはさておき。

 

「ヒューゴ様からこちらを預かっております。お納めください」

 

 手にしていた封書を、事務机越しにバルック氏へと手渡す。

 彼が封書を受け取った瞬間、さっさと帰ろうとしたフィオレはリオンに袖を掴まれた。

 

「それでお前は、何をとっとと帰ろうとしているんだ」

「私は配達しろと言われただけで、返書を持ち帰れとか、そういうことは言われてません。どうせあなたはこれから直帰するんです。返事などがあるならば、あなたが持ち帰ってくれてもいいでしょう」

「おや、君はまだ用事があるのかね?」

 

 引き出しを開けて何かを探していたバルックに尋ねられ、フィオレはそのまま応じている。

 

「はい。こちらで少し、探し物をしようかと思いまして」

「探し物?」

「デザートローズと、カルビオラビオラという花です」

 

 それを聞いて、彼は不思議そうにフィオレの顔を見返した。

 

「……デザートローズは、鉱石の類のはずだが」

「語弊がありましたね、確かにその通りです。あともうひとつありますが、とりあえずはそのふたつを探そうかと」

 

 その言葉を聞いて、バルック氏は軽く顎へと手をやった。

 

「とりあえず、先にこちらを読んでしまいたい。少し待っていてもらえないか」

「……」

 

 ここで絶対に嫌だ、とは言いにくい。フィオレが了承を返すと、彼は事務机の呼び鈴に手をやった。

 待たせるのもなんだからと家政婦(メイド)を呼んで、手前の応接室に通される。

 

「デザートローズ、とはなんだ?」

「別名砂漠の薔薇と呼ばれる、見た目は薔薇の花弁の化石じみた鉱石です。砂漠の地下において地下水が蒸発した際、塩類が結晶化してそういった形になるらしいのですが、かなり繊細でしてね。破損したものを差し上げるわけにもいきませんから」

「なるほど。だから自分で探しに来たのか」

「そういうことです」

 

 その時、「失礼いたします」という声がかかり、家政婦(メイド)が入室してきた。

 盆の上に載せたティーセットを運んで、フィオレの傍らに佇んだ、次の瞬間。

 

「あ……!」

 

 がちゃん、と陶器同士が擦れ合う音が響き、盆の上からティーカップが転げ落ちる。

 なみなみと注がれた香茶が、フィオレに降り注──

 

「……ふぅ」

 

 とっさに盆を奪い取ったフィオレは、どうにか頭から香茶まみれになることを避けた。

 幸いにも盆は縁のあるもので、ティーカップから零れた香茶はしっかりと受け止められている。

 フィオレは固まっている家政婦(メイド)に無言で盆を突き出した。

 

「も、申し訳ありません!」

「……気をつけてくださいね」

 

 そそくさと、家政婦(メイド)はティーセットを抱えて立ち去っていく。

 ざまあみろ、とばかりあからさまな嘲笑を浮かべているリオンを見ないように、フィオレは立ち上がって本棚に歩み寄った。

 何の気なしに背表紙を眺めていて──ふと、眼に留まった一冊を手に取る。

 ぱらぱらと眺めていると、手持ち無沙汰になったリオンが近寄ってきた。

 

「他人の本棚を覗き見るなど、悪趣味だぞ」

「他人の目に触れるような場所に置いておく方が悪いんですよ」

 

 少年が何の気なしに覗き込もうとしたところを、わざと閉じる。

 ムッとした表情で睨んでくるリオンを見やり、フィオレは何をどうするべきかしばし悩んだ。

 

「見たいんですか? あんまりお勧めはしませんけど」

「……貸せ」

 

 フィオレが差し出した本を奪うようにして受け取ったリオンが、頁をめくる。しかし次の瞬間。

 

「~~!」

 

 彼は一瞬にして頬を朱色に染めると、乱暴に書物を閉ざした。

 そこを狙って、手早く本を取り上げる。

 

「……大丈夫ですか?」

「な、な、な、なんてモノを平然と見とるんだ貴様という女は!」

 

 フィオレが興味本位に閲覧し、リオンを真っ赤にさせているもの。それは無修正の春画(ピンナップマグ)だった。

 当然、頁の中では一糸纏わぬ、あるいはあられもない格好をした女性が蔓延っている。

 

「たかだか絵ではありませんか。しかもあんまり上手くない」

「たかだかって……!」

「ま、あなたには早すぎましたか」

 

 書物を本棚へ収め、リオンを促して速やかにソファへ移動した。

 その直後、問題の書物の持ち主バルックが現われる。

 

「失礼。待たせてしまったかな?」

「いいえ。おかげで面白いものを見せていただきました」

「?」

 

 にこやかなフィオレ、顔に上った血液がなかなか引かないリオンを交互に見つめ、彼は不思議そうにこそしているが言及はしなかった。

 彼は一通の封書を手にしている。

 

「ヒューゴ様からの通達、確かに受け取った。こちらを総帥に提出してほしい」

 

 封書を受け取ったフィオレは、そのままリオンに手渡した。

 

「じゃあこちら、お願いしますね」

「……」

 

 彼は釈然としない表情のまま受け取っている。

 

「ところで、フィオレ君……と言ったね。カルビオラビオラにデザートローズを探しに来たとあったが、アテはあるのか? もし良ければ、カルビオラビオラの群生地や、デザートローズを取り扱う業者を紹介しないでもないが」

「いいえ結構です。お心遣い、感謝いたします」

 

 にこやかに微笑みつつも、フィオレはばっさりと協力の申し出を断った。

 このバルックという人間には何の恨みもないが、それでもあのヒューゴの部下なのだ。協力してもらう代償として、フィオレの行動を逐一把握されても困る。

 断られたバルック氏はといえば、特に気を悪くした風でもなく、持っていた書物を開いていた。

 

「しかし、デザートローズか……願いを叶える石とも呼ばれ、心から望んだ願いを叶えてくれるという伝承があるのだな。宝石言葉は『愛と知性』」

「宝石言葉? お前、今鉱石と言っていなかったか」

「宝石だって元は鉱石、単なる石っころに過ぎませんよ」

 

 リオンによる横槍を、さらりとフィオレが流す。

 その様子をまたもや面白そうに見やっていたバルック氏は、リオンに険しい視線を向けられ、慌てて表情を改めた。

 

「それにしても、大丈夫かね? カルビオラビオラはこのカルバレイスに広く分布している花だからすぐに見つかるだろうが、デザートローズは専門の業者しか採れるところを知らないものだが……」

「そこはそれ。カルビオラも含めて、適当に散策してみます」

 

 マリアンへの贈り物とはいえ、どうしても手に入れなければならないわけではない。

 そんな気軽さから、フィオレは楽観的な見解を示したのだが。そのお気楽な発言に、リオンが眉をひそめている。

 

「お前、カルビオラにも行くつもりなのか? 今回の任務は単なる手紙の配送だろう、あまり時間をかけると叱責が来るぞ」

「何をおっしゃるんです。私はヒューゴ様にちゃんと休暇を願い出ていますよ。だから、しばらくは滞在できます」

『えー、フィオレずるーい。観光するなら坊ちゃんも誘ってくれればよかったのにぃ』

『別に観光なんてしませんよ。あくまで、任務のついでです』

「まったく、やりたい放題だな。お前は……」

「人間一人が使える時間には、限りがあります。限られた時間を有効に使っている、と解釈してほしいですね」

「あー。話が盛り上がっているところすまないが、いいかな?」

 

 リオンが呆れたため息をついたとき、バルック氏がなにやら咳払いをして、一枚の羊皮紙を取り出した。

 

「リオンが休暇届を出さなかったから、こちらで書類を用意しておく。彼女が行方をくらまさないようきっちり監督しろと、言付かっているんだが……」

 

 冷房から送られる冷風が、まんべんなく応接室にも巡る。

 冷風以上に冷ややかな視線を意図的に無視しながら、フィオレは内心で悪態をついていた。

 

(ちっ。あのヒゲオヤジ、ロクなことしやがらねえ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チェリクからよりもカルビオラに近い、大規模なオアシスにて。

 カルビオラビオラの群生地を見つけたフィオレは、しばし足を止めてその光景を見つめていた。

 

 

 

 ほぼフィオレのせいでカルバレイス滞在を余儀なくされたリオンの冷たい視線に耐えつつ、その日はバルック氏の厚意に甘えて、一夜の宿を提供してもらう。

 カルバレイス滞在中は宿代わりにしてくれても構わないとのことだったため、フィオレはリオンにバルック邸で待機するよう言い渡してから、明け方近くにチェリクを出た。

 無論、大陸の大半を占める砂漠を横断して行動するためである。

 そのために、昨日のうちから道具屋の主に嫌味を言われつつも、竹箒を一本購入しておいたのだ。この箒を何に使うのか、と言われればひとつ。移動手段である。

 かねてから、ひとつ試してみたいことがあったのだ。

 朝日が顔すら出していない早朝。誰もいない広場にて、眼前に箒を置き、フィオレは左手の甲を見やった。

 

『シルフィスティア。これに宿ってみてくれませんか?』

『や、宿る?』

『はい。この箒で空を飛びたいんですけど、できませんか?』

『……』

『シルフィスティア?』

『面白そうだね、やってみる!』

 

 ──そして、フィオレは数回の飛行練習の末に、なんとか箒での移動が可能となっていた。

 よく物語などで、魔女が魔法の箒を用いて移動する場面があったりするが、実はものすごく高度な技であることがここに実証されている。

 細い棒の上に跨ってバランスを取ることは相当難しいし、そしてこれを維持しなければならないのだ。

 跨り続けていることで、まるで初めて長時間の乗馬をしたかのように股が痛くなる。

 アクアリムスの協力もあってあっさりと質のいいデザートローズを手に入れたフィオレは、飛行による疲労に逆らおうとせず、目についたオアシスに降り立った。

 幸いにも常駐している現地人や流れの商人などはおらず、フィオレは人目もはばからず、ゆったりと休憩を取っている。

 その最中、歩き回っているところ──冒頭へと至った。

 ここへ至るまで、フィオレはこの大陸がいかに住みにくい地であるかを肌で学習している。

 明け方は肌寒いだけだったが、太陽の上がってきた日中は、フィオレが以前経験した砂漠越えよりも過酷なものだった。

 おそらくは、熱帯性の気候の問題だろう。フィオレが唯一知っていた砂漠は、ここまで蒸し暑くはなかった。

 曲がりなりにも飛んでいたため、徒歩よりはずっと距離を稼げているのだが……

 カルビオラビオラの群生地にて立ち止まったのは、その花の華麗さに驚いてのことではない。

 かの花はフィオレの想像よりも遥かに小さく、可愛らしくも花束(ブーケ)には向かない野の花だったからだ。無理やり花束にしたところで貧相になるだけである。植木鉢にするのは論外だった。ダリルシェイドの気候では育つはずもない。

 押し花にして栞に──マリアンは読書をする人間だっただろうか? 読書を頻繁にしない人間に栞を送ったところで、無用の長物にしかならないだろう。

 そもそも予定にはなかったとはいえ、せっかくリオンが存在を教えてくれたのだ。どうにか、生かす術はないかとその場で思案して。

 

「そうだ」

 

 フィオレはぽん、と手を打った。

 カルビオラビオラをポプリに加工して、デザートローズとセットで贈ればいい。そうと決まれば、採取を敢行する。

 十分なだけのカルビオラビオラを摘み取り、フィオレは本命の聖域探索にうって出ることにした。

 周囲に魔物が存在しないことを確かめてから、すぅ、と深呼吸の後に。

 誰もいないオアシスで、静かに旋律は紡がれる──

 

 

 

 紡がれた旋律はオアシスに響き、余韻を残して消えていく。

 何の反応もないことを残念に思いながら、フィオレがその場を後にしようとした矢先。

 すぐ傍の茂みが鳴り、思わずフィオレは飛び跳ねるように後退した。といえども、茂みの中から相変わらず気配は感じない。

 茂みはまるで、中で何かの生物が動き続けているかのようにして鳴り続いた挙句──

 唐突に茂みは割れ、ひょこっ、と頭のようなものが出てきた。

 

「……!」

 

 紫電の柄を握り、いつでも動けるよう警戒を強める。

 それは真っ赤な蜥蜴に見えた。大きさは一抱えほど。単なる現地の動物ではない証に、深紅の鱗の奥で小さな炎がゆらゆらと揺れている。

 興奮状態、あるいは戦闘体勢になったとき、その炎が鱗のひとつひとつを包むのではないかと容易に想像できた。

 こんな緑豊かなオアシスを炎上させてしまう危険性、更に炎上したオアシスの中でフィオレが焼け死ぬ危険性も否めないが、だからといって不用意には動けない。

 爬虫類独特の瞳がぎろぎろと動き、フィオレの行動を逐一監視しているようにも見える。

 ただ柄を握りしめ、警戒することしばし──膠着は唐突に終焉を迎えた。

 

『フィオレ、魔物ではありませんよ』

「え?」

 

 意識されなかった呟きが、音となって大気を震わせる。その瞬間、蜥蜴は、かぱりと口を開いた。

 

「……」

『そのコね、フランブレイブの使者。フィオレを召喚して聖域まで呼ぶにはちょっと遠いから、道案内するって』

 

 つまりシルフィスティアやアクアリムスは、フィオレを召喚して聖域へ招いていたと、そういうことか。

 柄から手を離し、改めて蜥蜴を見下ろす。深紅の鱗持つフランブレイブの使者は、くるりときびすを返し、再び茂みの中へ分け入っていった。

 

『フランブレイブの使者なら、名乗ってくださればよかったのに』

『それは無理だよ。守護者本体ならともかく、火蜥蜴(サラマンダー)みたいな下位精霊に精神感応は使えない』

『なら何故、アクアリムスはこの……火蜥蜴(サラマンダー)が魔物でないと?』

『敵意や殺気の類がなかったことも理由のひとつですが、何よりレンズの存在が感じられなかったので』

『アクアリムスは、生物の体内にレンズの有無がわかるのですか?』

『創生より、私はすべての命の母たる海と共に在ります。命にとって、レンズなる彗星の欠片は異物でしかありません。ですから、そういった不純物を感じ取ることは可能です』

 

 なるほど、と頷く。フィオレとしては、相手が生物でさえあれば血液という液体を通して探ることができるのでは、くらいにしか思っていなかった。ちなみに根拠はない。

 のてのてと歩いていく火蜥蜴(サラマンダー)が、やがてオアシスから出て行く。

 日差しの厳しい砂漠を歩いていくことしばし。途中運悪く出会ってしまった魔物との戦いに、火蜥蜴(サラマンダー)は不参加だった。

 かといって先に行くような真似はせず、フィオレが戦っている様子を、じっ、と見つめているような風情である。

 生意気にも火炎弾を放ってくるハゲワシを切り伏せ、返す刀で三つ首の毒蛇をなます斬りにすると、火蜥蜴(サラマンダー)は再び歩み始めた。

 どうでもいいが、こんなにも遅い歩みで、一体どうやってフィオレのいる場所までやってきたのだろうか。あの歌を紡いでから、それほど時間は立っていなかったというのに。

 

『ボクたち守護者や下位精霊にとって、地表での距離ってあんまり関係ないからね。今はフィオレの足に合わせてるだけだよ』

『地表での距離は、関係ない……?』

『そ。ボクもアクアリムスも、力と幻の姿だけ貸すって言ったでしょ? 本体は基本的に聖域から動けないからね』

『つまり、力を貸してくれるときだけ私のところに来てくれているということですか。どうやって移動しているんですか?』

『うーんと、ね……』

『この星の至る所には、特殊な道が張り巡らされています。その道を使えば、私たちは一瞬にして移動することができる、という解釈でよろしいかと』

 

 アクアリムスの説明にふむふむと頷きつつも、歩みを続ける。

 太陽の動きからして、二時間ほど経過しただろうか。すっかり汗だくになったフィオレの眼前にそびえたったのは、カルバレイス地方のほぼ中心地にある火山の一角だった。

 ここまで来ると、カルビオラよりジャンクランドという貧民街に近い。ここから帰るとなると徒歩では一日以上かかるだろうが、左手の竹箒で何とかすることにする。

 

「ひょっとして、これから登山しないといけないんですか?」

 

 それを尋ねると、先導していた火蜥蜴(サラマンダー)がぐるり、とフィオレの顔を見た。

 その口が、かぱ、と開かれるものの、先ほどと同じく、何を言っているのかはまったくわからない。音らしい音も聞こえず、フィオレに蜥蜴の読唇術など使えない。

 だからなのだろうか。シルフィスティアがタイミングよく訳してくれた。

 

『我らが太守──フランブレイブのことね。今からフィオレを召喚するって』

 

 彼女の声が聞こえ、理解した直後。フィオレの視界はやはり一変した。

 眼前にあった火山が消え、どろどろの状態でボコボコと不吉な音を奏でる溶岩が、すぐ傍で垂れ流されている。

 あまりの暑さに、先ほどまで汗だくだったフィオレの体から汗という汗が消えた。雫、水分が綺麗に蒸発してしまったのである。

 軽く額を拭ってみれば、乾いた汗の残した結晶がざりざりと皮膚を滑った。

 フィオレが立っていたのは、溶岩の海に孤立した小規模の島である。

 そんな島の中央に、赤と橙が混ざったような光が漂っていた。

 一点に凝縮された光から守護者が姿を現す。そこまではシルフィスティアたちと同じだったが、現われたのは、それまで人に近い形をしていた彼女たちと一線を画した姿だった。

 かろうじて人型ではあるものの、人の姿とは程遠い。

 巨大な体は全身が甲殻に包まれており、かろうじて角が生えている辺りが頭だとはわかるものの、どんな表情をしているのか、まったく検討がつかなかった。

 その背には、シルフィスティアと同じように翼がある。正確には翼のようなもの、であって、形状も彼女のように可愛らしいものではない。

 体を包む甲殻と同じようなもので構成されているそれは、確かにフランブレイブの体を中空に浮かせているものの、果たしてその翼を使ってのことなのかはまったくわからなかった。

 

「あなたが、フランブレイブ……!」

『如何にも』

 

 わかっていながら思わず問いかければ、無骨な念話が帰ってくる。

 声の質としては人間年齢で五十代と言ったところか。ヒューゴ氏並に渋くて落ち着いた声だった。

 

『我が名は、フランブレイブ。この世界の焔を司る者だ』

「契約に際して、私の質問に答えていただけますか?」

『……』

 

 どうしたことだろうか。てっきり肯定が返ってくると思っていたのに、フランブレイブの返事はない。

 降り積もる沈黙に辟易し、フィオレはとうとう口を開くことにした。

 

「シルフィスティア、アクアリムス。両名に告ぐ」

『え? 何?』

「私に召喚されてください」

 

 フィオレの求めに応じ、新芽にも似た緑が、大海原の蒼がそれぞれ光となって瞬く。

 輝きから、彼女たちの幻が現われた。

 

『あ、わかった! そゆことだね』

「フランブレイブ。私はあなたが何を思って沈黙しているのかわからないし、その理由を知っていい資格があるとも思っていません。でも、同じ存在の彼女たちにならば話せることではないかと推測しています。相談みたいなことはできませんか? 必要なら、私を外してくれてもかまいません」

『如何しました? あなたとて、この場にフィオレを召喚したのは、伊達や酔狂でもないでしょうに』

 

 アクアリムスの質問に応じるように、フランブレイブは──あるのか否かはまったくわからない──重い口を開いた。

 

『……来訪者が気分を害することを覚悟で尋ねよう。シルフィスティア、アクアリムス。お前たちは本当に納得しているのか』

 

 フランブレイブの問いに、アクアリムスは沈黙し、シルフィスティアは可愛らしく首を傾げている。

 

『納得って、何に?』

『契約のことに決まっている』

 

 その言葉を聞いて、アクアリムスは物憂げな表情のまま、フランブレイブに尋ねた。

 

『……あなたは、フィオレを認めないということですか?』

『彼女に認められたとはいえ、この者が私利私欲に走らぬという保障がどこにある!』

 

 フランブレイブの激情に駆られた念話が、フィオレの脳裏にわんわんと響く。

 守護者にも感情があるらしい、とどこか違うことをぼんやりと考えていたフィオレは、ただその会話を静観した。口を出したところで、ややこしくなるだけだからだ。

 今のところわかっているのは、もともとフィオレ自身でさえ促されたものにも関わらず、守護者たちによる契約云々は、全員が全員望んでいることではない、ということである。

 

『フィオレはボクたちと同じ存在と接触したことがある。契約を交わしてその力に触れたけど、力に溺れたり暴走させたりなんてことはなかった。何が不満なのさ?』

『それは誓約の名の下に保たれた均衡だ。此度は状況が違う。来訪者には何の制約もない。我はこのカルバレイスの地において、来訪者がお前たちの力を使ったことを感じ取った』

『シルフィスティアに無機物へ宿るよう頼み、私に地下水脈の場所を尋ねただけではありませんか。命を悪戯に害するような暴力行為も、あなたの案じた私利私欲の行動でもない。それに何の問題が?』

『わからないのか? 我らは守護者ぞ。そのような瑣末時にいちいち助力を乞われては叶わん。来訪者よ、汝は我らを何だと心得ているのか!』

 

 突如話を振られ。フィオレはつい思ったとおりのことを言ってしまった。

 

「この世界のあらゆる自然を司る守護者、そして、私がここにいる理由を作り出している者だとも思っています。要するにフランブレイブは、私の用事で使われることがイヤなんですね?」

 

 フィオレの指摘に、それまでの剣幕はどこへやら。フランブレイブは急に押し黙ってしまった。

 代わりにシルフィスティアが、アクアリムスがなるほど、と言わんばかりに首肯を繰り返している。

 

『ああ、そうだね。要約すると、確かにそうなるよね』

『フランブレイブは火の守護者。野営などの火種を要求されることは多々ありそうですね。確かに、その度に呼び出されてはいい迷惑でしょうが……』

 

 当の本人そっちのけで、守護者二柱による好き勝手な談義は続く。

 

『でもー、それってやっぱりフランブレイブの我侭だよね。だったら何に関してなら力を貸すのさ、敵の殲滅とか? それは暴力や野蛮以外何でもないよね』

『契約を交わすことによって、フィオレは確かに欲しい情報を得ます。最終的には全てを知ることができるでしょう。しかし私たちは、私たちの都合で彼女に望みを託すという勝手な期待を押し付けているんです。その代償だと思えば、容易いことではありませんか?』

『……』

 

 彼女たちによる説得は、フランブレイブに大きなため息をつかせた。

 それも束の間、今度はフィオレに向かって話しかけてくる。

 

『来訪者よ。汝は納得しているのか? 我らは汝を、情報という餌でいいように使おうとしているのだぞ』

「私は欲しい情報を得るために、あなた方と交渉しているに過ぎません。私もあなた方を利用しようとしているんです。それをお忘れなく」

 

 それを伝えると、フランブレイブは組んでいた腕を解いた。

 直後、その腕が一閃される。炎が地面を走り、瞬く間に炎による魔法陣が完成した。

 同じ地表に立っているフィオレに詳細はわからないが、譜陣と同じく、幾何学的な文様が連なって描かれていることくらいはわかる。

 フランブレイブとの契約に必要なものなのか、あるいは──

 

「シルフィスティア、アクアリムス。ありがとうございました」

『もういいの?』

「後は、私たちの問題のようですから」

 

 フィオレの意思に応じ、彼女らの姿が掻き消える。二人きりとなったその場において、フランブレイブが再び口を開いた。

 

『感謝を捧げよう、来訪者。千年の時を経て再び彼女らと(まみ)えたことを』

「私は何故あなたが契約をためらうのか、知りたかっただけです。それを尋ねることができるほど事情に精通していませんからね。それで、契約はどうしますか? どうしても嫌なら出直します。あなたの所在も判明したことですし」

 

 素っ気ないその言葉に、フランブレイブは角を揺らしている。

 ひょっとするとかぶりを振っているのかもしれない。

 

『本来は我らが契約を乞うところ、そのようなことをして後であの二人に何を言われるかもわからん。ただその前に──』

「その前に?」

『汝の実力を見せてもらいたい。我が炎を御しきれるのか、この目で確かめたいのだ』

「……それはかまいませんが、具体的には何をすればいいのですか?」

 

 何となく予想はついていながら、フィオレはおそるおそるそれを尋ねた。

 まるでそれに答えるかのごとく、炎の魔法陣が強く燃え盛り──唐突に炎が失せる。

 そして現われたのは、真紅の鱗に覆われた蜥蜴のように見える、生き物だった。

 先ほど道案内をしたサラマンダ-ではない。何故なら。

 

『簡単なことだ。我が下僕を、この場で調伏してもらいたい』

 

 真紅の鱗のひとつひとつに炎が宿っており、フィオレとは比べるのも愚かしいほど巨大なその体は、先日討伐したレイクドラゴンにも似た姿を有していたからだ。

 つまり、フランブレイブの僕であるこのドラゴンと、戦って勝てという。全然簡単なことではない。

 溶岩がゴボゴボッ、と唸る音を聞きながら。フィオレは半眼になって呻いた。

 

「また七面倒くさいことを……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日中において、太陽は殺人的な日差しを容赦なく浴びせてくる。

 日が落ちれば凍死することも珍しくない、ある種の生き物を除いて非常に暮らしにくい土地、カルバレイス。

 そんな苛酷な環境でも、生まれ育った子供たちは元気だった。

 

「わあ、なんだあれ!?」

「でっかい鳥ーっ!」

 

 バルック基金オフィスの、応接室にて。

 合意の上とはいえフィオレに置き去りにされたリオンは、バルックの許可を得て借りた書物に視線を走らせながらも、その姦しい歓声に眉をひそめた。

 すぐそばが広場だというせいで、子供たちが子供らしく遊び回り、時に通りかかる旅人に罵声を浴びせて追い払うその様子は、事細かに聞こえてくる。

 それは日中でも、日が暮れようとしている今も、変わらなかった。

 

「……明日も、こんなところで休暇を無駄に潰せというのか」

『暇でしたね。やっぱり、明日は僕たちも出かけましょうよ』

「……どこに行けというんだ。こんなところを無目的にウロウロするくらいなら、本でも読んでたほうがましだ」

 

 昨夜のうちに決まったことだが、フィオレはあくまで自分ひとりでの行動を望み、カルバレイスを発つ予定の期日までには戻ってくると約束している。

 不測の事態があった際、ヒューゴ氏から自分へ問われるだろう責任を理由にリオンがそれを渋った際、彼女は言った。

 

『私があなたの信用に足る人間でないことは重々承知しています。だから、私の腕を信用してくださいませんか? 必ず帰ってくるとの約束に、これをお預けしますから』

 

 そう言って、フィオレは定期連絡船の無料招待券の半券と財布を渡している。

 これがなければカルバレイスで生きていくことも、出て行くこともできないのだから納得しろということらしい。

 それを受け取って、リオンは彼女の単独行動の許可を出したのだが──

 

「鳥じゃない!?」

「魔女だー!」

 

 回想をしていた彼の思考は、甲高いその声でぶっつりと途切れた。

 

『魔女って……何が出たんでしょうね?』

「僕に聞くな」

 

 あまりに騒がしいその声に、そして「魔女」という単語に興味を持って、広場に面したベランダへ向かう。

 沈みゆく夕日に照らされ、広場に集まる子供たちは揃って天を仰いでおり、その口は皆、意図的に揃えたが如くポカンと開かれていた。

 輝く橙の色に染まる空の彼方に、確かに何かが飛行している。

 シルエットからして、大型の鳥類とは程遠い。そもそも羽ばたきのような動作がなく、ただ飛んでいるだけなのだ。

 大空を舞う特殊な影は、広場を難なく通り過ぎ、やがて街外れの方角へと消えていった。

 

「何だったんだろう、あれ!?」

「あっちの方に行って……あ! 降りた!」

「行ってみたいけど、もう暗くなっちゃうよ」

「手伝わねえと、夕飯抜きだもんなー……」

 

 雑談を交わしながら、子供たちはぞろぞろと自分の家へと帰っていく。

 その様子を何の気なしに眺めていると、不意にシャルティエがこんな提案をしてきた。

 

『ね、坊ちゃん。行ってみませんか? 街外れ』

「行ってどうする。魔女とやらの正体を確かめるのか」

『単なる見間違いじゃなさそうですし、もし新種の魔物とかだったらおちおち休んでいられませんよ。それに、マリアンへのお土産話にもなるじゃないですか』

 

 確かに、彼女に「カルバレイスはどうだったか」などと尋ねられ、ずっとバルック基金に引きこもっていた、では話にならない。

 リオンはバルックに外出の旨を告げると、本日初めて外へと出た。そして、シャルティエと共に街外れへ至る。

 チェリクそのものからは街外れでも、港から程近いそこは同じような建物が並んでいた。おそらくは、貿易商人たちの所有する倉庫だろう。

 暗がりは多いが、整然としているおかげで探索はしやすい。怪しい影はないかと、リオンが周囲に視線を走らせていた、その時。

 

「……リオン?」

 

 ここ最近、すっかり聞き慣れた声を耳にして、彼は素早く振り返った。そこには、なぜか竹箒を担いだフィオレの姿がある。

 どこか不機嫌そうにしている彼女の姿は、ひどく汚れていた。普段は整えられた髪はばさばさにほつれ、自然体のまま放置されている。

 よく見ると髪の端がわずかに縮れており、外衣のあちこちに煤のようなものが見受けられた。

 

「何があった?」

「苦戦しました」

 

 ぼそりと、それだけを言って。フィオレは軽く眼を伏せたかと思うと、リオンの脇を通り過ぎて、すたすた歩き始めた。

 

『ちょ、ちょっとフィオレ!』

「何ですかシャルティエ」

『何で竹箒なんか担いでるのさ!? まさかそれに乗って広場の上とか滑空してないだろうね!?』

「ほう。あなたは人間が箒に跨って空を飛ぶことができると、本気で思ってるんですか。それとも天地戦争時代はそんなことが可能だったんですか?」

 

 言いながらも、彼女は担いでいた竹箒を倉庫の脇に投げ捨てている。

 リオンはフィオレが答えたことを復唱し、再度尋ねた。

 

「おい。本当にそれに乗って飛んだりしてないだろうな」

「あなたまで。人間が箒に乗って空を飛べるなんて……」

「誤魔化すな。人の質問に答えろ」

 

 リオンの追求を受けて、フィオレはその場に立ち止まる。

 振り返ったその顔には呆れと、皮肉げな笑みが浮かんでいた。

 

「よっぽどバカにされたいらしいですね」

「違うなら違うと答えればいいだろう。何故それをしないんだ。違うと答えれば、嘘になるからじゃないのか」

「どうして私が、虚言をためらわないといけないんですか?」

「そんなこと僕が知るわけないだろう」

 

 いつになくしつこく食い下がってくる少年をわずらわしげに見やる。

 事実を告げることは簡単だが、問題はその後だ。事実をすべて告げてやるわけにはいかない今、どうやって納得させたものか……

 

「仮に私が箒に乗って空を飛んでいたとして。そんなこと知ってどうするんです? ヒューゴ様に、あなたが雇ったのは魔女もどきだから解雇しろとでも進言しますか」

「別にどうもしない。お前の言動におかしなところがあるから、はっきりさせようと……」

「私の言動が怪しいのは、今に始まったことでもないでしょうに。何か企みがあるとお疑いでも?」

「……僕が、お前のことを知りたいと思っちゃいけないのか」

 

 どこか拗ねたような物言いが、やけに笑いを誘う。

 作り物である皮肉げな笑みが瓦解したことを知って、フィオレは彼に背を向けた。

 

「あなたが何を思おうが、それはあなたの自由です。ただ私には、その願いを叶える義務はない」

『……そうだ、フィオレ。質問変える。なんで竹箒なんか担いでたの?』

「私が昨日購入したからですが」

『何であんなの買ってきたのさ?』

「ちょっとした実験です。内容は他言できません」

 

 のらりくらりと、シャルティエの追及を逃れていく。やがて彼もまたあきらめたのか、まったく違う質問を取り出してきた。

 

『そういえば、見つけられた? カルビオラビオラとデザートローズ』

「ええ。この通り」

 

 そう言って、フィオレは腰に提げていた布袋から小型の花を一輪と砂礫の結晶をつまんでいる。

 リオンの手に乗せてやると、彼らは珍しがってしきりに眺め回した。

 

『へえーっ、これが! どこで見つけてきたの?』

「カルビオラビオラ──こっちの小さな花は、ここから程近いオアシスに群生していました。デザートローズは干上がったオアシス──地下水脈があって、地下水が地面ににじみ出ていて、尚且つ蒸発しやすいところを手当たり次第当たってみたんです」

「……どうやって探したんだ、そんなところ」

「ダウジングで」

『だ、ダウジング?』

「地下水脈を探すために発展した、人間の潜在能力を具現化する技術……だったか。よくそんなことを思いついたな」

「知識があったからやってみたら、たまたまうまくいった──という表現が妥当ですね」

 

 記憶障害なのに、という意味合いがひしひしと感じ取れる彼の言葉を、フィオレはまたもや最もらしく回避する。

 実際は、確かにダウジングを試みようと即席で振り子を作った。

 しかしそれだけで探すのはあまりにも規模が広すぎたため、アクアリムスに地下水脈の存在を教えてもらう、という裏技を展開している。

 暮れなずむ街の中、やがて彼らはバルック基金オフィスへの撤収を決めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灼熱の太陽が、カルバレイスの大地をじりじりと焦がす。

 バルック氏の許可を得て、平たい屋根の日陰部分にカルビオラビオラを干したフィオレは、手団扇で扇ぎながら室内へと戻った。

 その瞬間から涼風が吹きつける。

 カルビオラビオラにデザートローズの採取、そしてフランブレイブとの契約を終えたフィオレはバルック氏から借りた本を片手にポプリを作ろうとしていた。

 

「えーと、花を乾かして、香油を作って、その後は……」

 

 階段を降りながら「自家製ポプリの作り方☆」と銘打たれた本の内容を読み進める。やがて次に必要な作業は、花が乾くまで待つことだと判明した。

 本来ポプリとする花は、滅菌消毒が目的ゆえに一ヶ月は時間をかけなければならないらしいが、カルバレイスの気候なら三日の日差しはセインガルドの一ヶ月分に相当するだろう。

 本棚へ資料を戻したフィオレは、あてがわれた部屋へと戻った。

 ここチェリクで購入した小箱に収めてあるデザートローズを確認する。

 水に触れればあっというまに溶解する儚い鉱石は、水分を含んだ風に当てても同じことが起きるらしい。カルバレイスなら屋外でも平気なデザートローズだが、セインガルドでどうなるかはわからない。

 綿に包まれ、厳重に梱包されたデザートローズが採取した当時と同じ形を保っていることを確認し、再び蓋を閉める。

 そしてフィオレはいきなり暇になった。

 このところ、といっても三日ほどではあるが、行っていない剣術指南を誘ってみようか、とリオンを探す。

 オフィス内を歩き回っていると、かの少年剣士は三人の家政婦(メイド)に囲まれ、お茶を振舞われていた。

 

「カルバレイス産のお茶はとてもまろやかなんですよ。ミルクをたっぷり使うものが多くて……」

 

 否。お茶を振舞われているというより、幾種類もの包みを広げているところを見ると、試飲をして誰かさんへのおみやを選別している、といった風情か。これは邪魔できない。

 それならば、と。フィオレは彼に声をかけることもなく、書類を見比べていたバルック氏に外出の旨を伝えて、オフィスを出た。

 玄関を開けた直後、乾いた熱風が吹き付ける。日差し避けに持参したキャスケットを装備して、フィオレはすぐ眼前の広場へと赴いた。

 ダリルシェイドにあるような公園とは大幅に違い、しつらえた遊具どころか、ふんだんな草木もない。ただ、共用らしい大きな井戸と、何もない砂地が広がっているだけだ。

 フィオレの予想に反して、人はいない。てっきり一昨日のように子供たちがわらわらと現われるのではないかと思っていたのだが、家事手伝いか何かなのか、広場は静寂に包まれていた。

 広場の端にあった木々の下──ちょうど陰になっている場所へ移動し、根元に座り込む。

 そしてフィオレはコンタミネーションを発動し、シストルを取り出した。

 指慣らしを終えて、軽く首を回す。軽い深呼吸、数節の伴奏を経て、フィオレは以前と同じように喉を震わせ始めた。

 何かに夢中になっている時間ほど、無意識になりやすい時間はない。人は常に思考する生き物であり、フィオレにとって無意識の時間は睡眠の次に癒しだった。

 日頃何かと考え込むことが多い頭を空っぽにして、自分の好きなことだけに集中する。

 そんな時間が欲しくて他人の迷惑省みず、思う存分趣味に走っているのだが、今回は違う目的も有していた。

 幸いなことに、これまでダリルシェイドではこの行為を一度として咎められたことはない。最近では「次はいつライブをするのか」と複数の人間から尋ねられるほど、それなりに好評なのである。

 ならばこのカルバレイス地方唯一の港町チェリクでは、どんな反応が返ってくるのか。

 取るに足らない他国人の戯れと聞き流されるかもしれないし、うるさいと石を──否。砂を固めた泥団子や、一掴みの砂を投げられるかもしれない。

 ダリルシェイドにおいて、一部の人間からは野蛮人とまで評されているカルバレイス人は、あちらで受けている音楽を果たして解するか否か。

 ストレス発散を兼ねた実験だったが、このまま人がいないとなると単なるストレス発散で終わりそうだ。

 それならそれでいいかと無意識に考えていた、その時だった。

 広場の向こう側から、何人かの子供たちが現われる。

 彼らは口々に何かを言いながら、フィオレのほうへと駆けてきて……ある一定の距離まで差し掛かると立ち止まった。

 無言のまま顔を見合わせ、おずおずと近寄ってくるその様は野生動物じみていて結構面白い。ちなみにフィオレは歌唱中だ。そのまま謡い続け、最後の伴奏まできっちりと終える。

 手を止めて大きく息を吐き出し、遠巻きにフィオレを見ている子供たちに向かって言葉をかけた。

 

「こんにちわ」

 

 正常な会話の基本は挨拶である。

 彼らは今しばらく逡巡していたものの、ぱらぱらと近寄ってきて「こんにちは」と口々に返した。

 

「使わせてもらってますよ、広場。誰もいなかったのでね」

 

 文句がないことをいいことにまたもやシストルをかき鳴らし、違う曲を謡いだす。

 彼らは戸惑ったように突っ立っていたが、やがてフィオレの周り──日陰になっている場所を集まり、行儀よく座っていった。

 子供たちを周囲に置きながら、フィオレは二曲目を思う存分熱唱している。

 その曲を終えて一息ついたところで、子供たちの中でも特に幼い少女が、フィオレの足元へとやってきた。

 

「おねえちゃん、ぎんゆうしじんってひと?」

「いいえ、違います。でも、よくそんな言葉知ってますね」

「前にもきたの。赤いひらひらした服で、おっきなおぼうしにおっきな羽をつけた、ぎんゆうしじんのおにいさん」

「おもしろいお歌だったよねー」

 

 少女たちは顔を見合わせてくすくす笑っている。

 面白い歌というのは旋律がコミカルだったのか、あるいは歌詞が面白おかしい内容だったのか。

 

「ねえちゃんの歌はキレイだよな」

「もっかい歌ってくれよー。さっきの、あの蒼い大空は……ってやつ」

 

 少女の一言がきっかけで、一昨日の態度はどこへやら、子供たちはわらわらと寄ってくる。

 現金なもんだと苦笑しつつ、フィオレは珍しくリクエストに答えた。

 

 ♪ あの蒼い大空は誰のもの きっと、誰のものでもない……

 

 

 

 

 歌唱を終えたフィオレが、一息ついて軽く辞儀をする。

 思いの他静かに聴いていた子供たちは、さかんに拍手を重ねてくれた。

 

「さて……私は帰ります。それでは」

 

 図らずも実験は終わったのだ。

 年端もいかない子供たち、というひっかかりはあるものの、大人が現われなかったのだからしょうがない。

 

「もう帰っちゃうの?」

「一緒に遊ぼうよ!」

 

 年の頃は十歳程度か、そんな少年少女にシストルを抱えていない手を引かれて辟易する。

 振り払うのも何だが、この暑い中到底応じる気にはなれない。前屈気味になりながら、どうしようかと悩んでいた、その時。

 

「えーい!」

 

 幼い掛け声、後に頭が涼しくなる。

 いきなり視界が開けたかと思うと、少し離れたところで誇らしげに少年が腕を掲げていた。

 その手には、見慣れたキャスケットが──

 

「って、何をいきなり窃盗に走っているんですか。返しなさい!」

「へっへーん。返してほしかったら、こっこまっでお~いで~!」

 

 少年は実に素早くその場を離脱しており、離れた場所で挑発的にキャスケットを振っている。

 汗のにじんだ額を拭い、フィオレはシストルを背中へと押し付けた。

 

「そこで立ち止まっていてくれるなら、動きますけどね……」

 

 大きめのキャスケットを取り払ったところで、フィオレの素顔が炎天下にさらされる。

 とりあえず少年のいるところまで歩いて近寄るも、少年や彼を取り巻く子供たちは歓声を上げて逃げてしまった。

 広場の外へは出ていないため、ちょうど鬼ごっこのような形になるのだろうか。

 

「そこの少年! 速やかに私のキャスケット、返しなさい!」

「や~だよ~、っだ!」

 

 とりあえず呼びかけてみるも、予想通り効果はない。

 そこへ、先ほどの少女たちが歩み寄ってきた。

 

「ゴメンね。コグにいちゃん、おとなをからかうのが大好きなの」

「……あなたのお兄様でしたか。どうにかなりませんか?」

「ならないの。ぎんゆうしじんのおにいさんも、おぼうしを取られて走りまわったの」

「際ですか」

 

 童心に返って付き合ってやるのが人情というものだろうが、生憎暑さのせいでそこまで余裕がない。全力で取り返して、帰ることにした。

 その場で軽く屈伸をし、足の筋を伸ばす。軽く伸びをしてから、キャスケットを持つ少年に照準を定めた。

 

「返さないというなら、実力行使です」

「へへーんだ。やれるものならやってみ……えっ!」

 

 少年としては、相手は他国人にして慣れない砂地だから、きっと遅いはずと踏んでいたのだろう。

 しかし、フィオレは足場がどうであろうと全力疾走の仕方を知っている。

 戦いながら、の場合は集中力が続かないためあまり使えないのだが、ただ走るだけならまったく問題はない。

 予想外の速さに呆然とする少年の手から、フィオレはあっさりとキャスケットを取り返した。

 

「じゃ、私はこれで……」

「く、くっそー! 皆! 今度はこのねーちゃんがドロボーだから捕まえるんだ!」

「ええっ!」

 

 いつからそういう話になったのか。

 しかしコグ少年は子供たちグループにとってのリーダー的存在の様子である。子供たちは嬉々としてフィオレに群がってきた。

 ここでバルック基金オフィスに逃げ込んだら、やっぱり卑怯者になるだろうか。

 とはいえ、実行してこの子供たちをオフィスに招待してやるわけにもいかない。フィオレは広場の中を限定に逃げた。

 

「うわー、あのねーちゃん速えー!」

「怯むな! 挟み撃ちにするんだ!」

 

 本当に挟み撃ちにしてくるからすごい。

 追いかけるグループがやがて二分化し、追いかける側と待ち伏せする側に分けられる。

 その手際は見事と思いつつも、フィオレは待ち伏せするグループへ突撃を試みた。そして、その手前で真横に跳ぶ。

 勢い余ってヘッドスライディングしたフィオレの背後で、急には止まれない追いかけグループが見事待ち伏せグループと衝突した。

 

「……」

 

 起き上がると、背後では蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。

 わんわん泣き出す子供、転んだ状態から起き上がり、砂を払う子供払ってやる子供、頭から砂地に突っ込んでジタバタしている子供と、多種多様である。フィオレ自身も、砂まみれだ。

 口に入った砂を吐き出しつつ、キャスケットを頭に載せる。とりあえず子供たちを放置して帰る、という選択はなしだ。

 砂を払っているだけの子供は置いておくとして、擦過傷が見られる子供数人を連れて、井戸へと向かう。

 傷口を冷たい水で洗い流すと、まだ幼い子供たちはぴーぴー喚きだしたが気にしない。代わりに、桶一杯に溜めた井戸水の中へ左手を突っ込む。

 

「命よ健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──

 

 まっさらな砂地に光の譜陣が敷かれ、子供たちから次第に泣き声がおさまった。

 

「もういたくないよ!」

「ふしぎー」

 

 怪我をしたはずの箇所を互いに見やっては首を傾げる子供たちをさておいて、空になった桶を井戸の中へ放り込んでおく。

 

「これに懲りたら、もう見知らぬ人間相手に無茶はしないほうがいいですよ」

「べつに、知らない人じゃないもん」

 

 砂を払い終わった子供たちがやってきたのを見て、フィオレは立ち上がった。

 偉そうに説教を垂れてみたところで、フィオレからキャスケットを奪い取った少年は頬を膨らませている。

 

「一昨日のことですか?」

「それもそうだけど、ちげーよ。『隻眼の歌姫』ってねーちゃんのことだろ?」

 

 眼帯してるし、と少年はフィオレの顔を指差した。

 指を差されたフィオレと言えば、彼が何を言っているのかさっぱりわからない。

 

「隻眼の歌姫? どなたですか、それは」

「ダリルシェイドの噴水のところで時々うたってる、なぞめーたビジョって水兵のおっちゃんがニヤケ顔で教えてくれたんだ」

「おれたちは見たことないけど、雪っていう白くて冷たくて触ると溶けるものみたいな色の髪に、藍色の眼で眼帯してるって……」

「おねえちゃんのことじゃないの?」

 

 子供たちが口々に言う特徴はすべて当てはまるものの、そのまんまな二つ名だけは聞いたことが無い。

 やがて太陽が頂点へたどり着き、子供たちは各家の手伝いにと帰っていく。その姿を見送って、フィオレはバルック基金オフィスの玄関扉を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 原作中にこそ特別な描写はありませんでしたが、余所の国を嫌う風潮のある国はこんなものではないかと。
 歳経た人々は心を閉ざし、若者は「外人になら何をしてもいい」というような感覚が根付いている気がしました。御国を愛していれば無罪になる、という奴でしょうか。
 ただどの国であっても、ヒトでも動物でも、子供は基本的には愛らしい生き物なんですよね。
 善意も悪意もなく、無邪気で純粋だからこそ、周囲の色にあっさり染まってしまい、似たような大人が増殖してしまうという厄介な種でもあるのですが。

 ちなみに家政婦(メイド)がフィオレに香茶を零しかけたのは、わざと。
 バルックさん宛てのお手紙(てまみ)には、眼帯の下が見れないか、試してほしいと指示がありましたとさ。


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番外——evil eye.(魔眼)

 ダリルシェイド内セインガルド城謁見の間にて、ひと悶着。
 時期的にはカルバレイスから戻ってきてしばらくしてからの出来事です。
 今回は番外編にして、ちょっぴり不穏な話。


 

 

 

 

 

 

 

 

 ある日のこと。

 

「どちらさま、ですか?」

 

 謁見の間、という場所を考慮しての、できるだけ穏便に言ったつもりだった。

 しかし、周囲は彼女の意に反して困惑を隠していない。

 

「そんな……どうしてっ、そんなことを言うの!?」

 

 その中で、最も戸惑いをあらわとしたのはフィオレの眼前に佇む女性だった。

 年の頃は中年に差しかかった頃か。あまり慣れているようには見えない化粧に、登城しているということもあってなのか、きらびやかに着飾った正装が何とも言いがたい。

 フィオレの発言で、明らかに取り乱したらしい婦人の肩を支えたのは男性だった。ただし、その言動からして婦人の夫ではない。

 

「落ち着いてください。彼女は記憶を失っているのですよ」

 

 そう言って婦人を落ち着かせたのは、二十代半ばと思われる青年だった。こちらは婦人と違って、堅苦しい正装をきちんと着こなしている。

 幼少より英才教育を受けた貴族なのだろうか。女性に対する作法やささやかな立ち居振る舞いを見ても、違和感はない。

 一方で、婦人はどこか足捌きがたどたどしかった。あまりこういった場に慣れていないのか、出なくなって久しいのか。特に無作法というわけではないのだが、隣の青年と比較すれば間違いなく礼儀は悪い。

 謁見の間に喚び出され、思い起こすもおぞましい言葉を聞かされたフィオレは、唐突に現われた二人をとりあえず観察した。

 

「ふむ……フィオレンシアは、そこな婦人に覚えはないということか」

 

 玉座からの声に振り返れば、セインガルド国王は渋い顔でフィオレを──否、フィオレの後ろに佇む、婦人の傍の男性を見やっている。

 

「本人はこう申しているが、そのあたりはどうだ? ジェイル卿よ」

「陛下。ただいま申し上げましたように、彼女は記憶障害を負っている身。──の顔に覚えがないのも、致したかのないことでしょう」

 

 国王の疑惑の声を、ジェイル卿と呼ばれた青年はにこやかに切り返した。

 

「今一度申し上げましょう。ここにおわすご婦人は、フィオレンシア・ネビリムと名乗る本名ユナ・オーエンの実母です。それは二人の髪の色が証明しています」

 

 

 

 ──フィオレンシアよ。お主の母だと名乗る者が現われた。記憶にはないかも知れぬが、真偽がつかぬ以上無碍に追い返すわけにはいかん。会ってみてやってくれ。

 

 

 

 思い返すもおぞましい言葉が、意に反して脳内で繰り返される。

 こみ上げてきた吐き気に耐えながら、フィオレは再び、婦人と向き直った。

 

「ああ、懐かしいわ……」

 

 確かに婦人の髪色は、フィオレのものと大幅に似通っている。

 ただ、目鼻立ちや身長、体格に共通点はなく──うっすらと浮かべている涙の奥の瞳は薄い茶。

 似通るのは髪の色しかない、と言い換えたほうが正しい。

 

「そうは言うがな。どこの世界に、実の母に対してどちらさまかと尋ねる娘がおるのだ」

「記憶喪失の者が身内に対してそのような発言をすることは珍しくありません。やはり、忘れているのでしょう」

「さあ、お母さんにもっと顔を見せて頂戴」

 

 国王陛下とジェイル卿とやらの話を他所に、婦人はふらふらと、どこか不思議な足取りでフィオレに迫った。

 泣き笑いのようでありながら、その瞳はどこか泳いでいる。

 そのまま抱きつこうとしたらしい婦人を、フィオレは後退るようにして避けた。

 未だ名前もわからない彼女は、悲しそうな、あるいは恨めしそうな目でフィオレを見つめている。

 

「それに……儂にはどうしても、その者とフィオレンシアの間に血脈があるとは思えぬ。かかわりがあるのは髪色のみではないか」

「ですが、トンビが鷹を産むということもございます。陛下もご存知でしょう、娘はえてして父親似であることを」

「だが、そのご婦人の夫……フィオレンシアの父にあたる人物は見当たらぬようだが」

「夫は、亡くなりました。数年前に、病で……」

 

 自分の父が、数年前に、病で? 

 悲しみに押しつぶされるように、その場に崩れかけた婦人だったが、フィオレは何もせずその光景を眺めていた。

 

「……そんな平和な死に方じゃない」

 

 口の中に消えていったその呟きを、フィオレ以外の誰が聞き取れようか。

 一度として父と呼ぶことはなかった、血筋だけの父は、ずいぶん前に殺された。

 戦争の勝利の証に、その御首と愛剣を奪われて。

 その光景をフィオレ自身は見ていないが、そう聞かされたときの祖父の顔は忘れない。

 到底、忘れられるものではない。

 

「フィオレンシアくん……いや、ユナくん。君の気持ちはわかるよ、突然母親が現われたって誰だかわからないし、混乱もしてるよね? 今すぐ彼女を母親だとは思わなくていい、これから少しずつ互いを知り合って、いつか思い出せることができれば……」

 

 再び婦人を助け起こしたジェイル卿と呼ばれた青年が、フィオレに向かってそんなことをつらつらと語る。

 そのためには彼女を庇護する自分の屋敷に何たらかんたら、その際には是非自分との交際を云々かんぬん言っているが、初めからフィオレはその意味を汲み取っていない。

 何故なら彼は「ユナ・オーエン」に言っているのであって、「フィオレンシア・ネビリム」に言ってはいないのだから。その言葉を聞く意味などない。

 

「──どうだい?」

 

 ジェイル卿の声が聞こえなくなって、フィオレは初めて息をついた。

 早く、この不愉快な気分を払いたい。

 

「陛下。用件とは、この件だけでございますか?」

「う……うむ。その通りだが」

「それでしたら失礼いたします」

 

 玉座の国王に一礼し、唖然とする周囲には目もくれず、きびすを返す。

 そのまま呆然と見送ってくれるかと思いきや、そうはいかないらしい。

 

「待って、ユナ! あなたは忘れているだけなの、あなたは私の娘なのよ!」

 

 私の、娘。

 その言葉を聞いて、フィオレは思わず立ち止まった。

 無視を貫くべきだったと思っても、もう遅い。思いの他、自分が出した声は掠れていた。

 

「……十七人目」

「え?」

「あなたで、十七人目です。私の身内であると、名乗り出た人間は」

 

 ──そう。これまでフィオレが記憶喪失であることを知り、それにつけこむように身内を騙った人間がいなかったわけではない。

 超有名企業の総帥に見込まれ、世話を受けているだけならばともかく、あれよあれよという間に見習いとはいえ客員剣士として平然とセインガルド城へ招かれる身分にいるのだから。

 そんな人間を身内として迎えることができれば、そのお零れを頂戴できるのでは……

「もしも」という僅かな可能性にかけて、つまらない騙りをしでかした人間たちを、フィオレはうんざりしながらも退けてきた。

 それがここ最近、急激に増えつつある。だが、このジェイル卿とやらのように国王の目の前で感動の再会を仕組む輩はいなかった。

 それだけ事実である自信があったのか、それとも国王の御前を通すことによって、一刻も早く既成事実化させたかったのか。そんなことは知ったことではない。

 

「自分は父親だ、母親だ、兄弟だ、姉妹だ……果ては、恋人とか婚約者とか、そんな騙りの言葉はもう聞きたくありません。お気の毒ですが、私はあなたの娘さんではないです」

「か、騙りだなんて酷いわ! 私は、本当に……」

「本当に? 何ですか?」

 

 情に訴えられてどうにかなることではない。

 冷たい眼差しで続きを促された婦人は、瞳を潤ませながらも言葉を続けた。

 

「嘘ではないわ。証拠はその目……私の娘は幼い頃に、右の目に怪我をしたの。以後、あの子は、ユナはその目を隠すようになったわ。そのことで随分いじめられて、男の子のように剣を持つようになって……」

「怪我」

 

 なるほど。そのような娘を持つのであれば、勘違いしていても仕方がない。

 普段ならば、ここが謁見の間でなければ、この婦人が一人で現われ、事情を述べたのであればフィオレは淡々と応じることができただろう。この場所に傷なんかない、と。

 しかし、この場合においてフィオレはひどく心を乱していた。うんざりが通り過ぎて、イライラが募っていたとも言い換えられる。

 そんなことをする必要はない、と叫ぶ理性を押し退けて、フィオレは婦人の眼前に立った。

 幸いにもジェイル卿は、国王と話していたために婦人に背中を向けている。今フィオレの顔を正面から見ているのは、彼女だけだ。

 

「これを見ても、まだそんなことが言えますか」

 

 言って。フィオレは久々に、人前で眼帯を外した。

 その目を、まじまじと見据えるよりも早く。

 

「──きゃああっ!」

 

 母だと名乗った女性は、悲鳴を上げてのけぞった。

 結果として腰を抜かしたように座り込むも、その顔から恐怖と脅えは消えない。

 本当に偶然でしかないのだが、気がついてからこの目立つ瞳を隠しておいてよかった。

 これはストレイライズ神殿の知識の塔で知ったことなのだが──この世界、左右の色が異なる瞳を『魔眼』と呼び、忌み嫌う風習があるのだ。

 魔眼についての風聞は数あれど、すべて不幸を引き寄せる逸話ばかり。

 過去に何があったのかはわからないが、ただの偶然でそんなものに巻き込まれるのはごめんだった。

 

「人違いだと、ようやくわかっていただけたようですね」

 

 気付いたら握りしめていた眼帯を持ち直し、素早く頭の後ろで結わえる。

 婦人からの返事はない。彼女は顔を青くして、目を泳がせ、震えている。

 不思議なことに、胸がすっとするどころか、奇妙なもやもやがわだかまるばかり。

 

「それでは」

 

 そう言って、フィオレは今度こそ謁見の間を後にした。

 後悔するようなことはない、と自分に言い聞かせるようにしながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

「して、ご婦人。彼女の瞳は、どのようなものでしたかな?」

 

 足音高くフィオレが退室して以降、謁見の間の沈黙を破ったのは王の傍らに立っていたヒューゴだった。

 

「ヒューゴ殿。人違いだとわかって傷心のご婦人にそれは……」

「いいえ、ご心配には及びません、将軍閣下」

 

 それを言ったのは、誰あろう婦人の付き人であったジェイル卿である。

 彼は座り込んだ婦人を立たせながらも、どういうことかと事情説明を求める国王と、控えていたドライデン将軍に向かって平然と言ってのけた。

 

「この度、客員剣士フィオレンシアの身内と偽らせたはヒューゴ殿のご依頼にございます。こちらはれっきとした私の叔母、エナ・オーエンです」

「どうぞ、お見知りおきを」

 

 ジェイル卿の紹介を受けて、婦人──エナは青い顔色のまま小さく会釈をしている。

 これに驚いたのは、二人だけではない。

 

「なんと……そなたら、フィオレンシアを謀ったというのか」

「一体何のつもりか。いかなあなたといえど、これは少々悪趣味ですぞ」

 

 国王と将軍、そしてはっきりと言葉にならないものの、周囲の困惑と反感は間違いなくヒューゴに注がれている。

 しかし、当の本人は至って涼しい顔だった。

 

「不愉快な気分にさせてしまったことは、謝罪いたしましょう。しかしオベロン社の力をもってしても、恥ずかしながら彼女の身元をはっきりさせることが未だにできずじまいなのです。そこで急遽、何か特徴を見逃しているのではないかと思いつきましてな」

「それで、あのような狂言を働いたと申すのか。ジェイル卿まで巻き込んで……」

「僭越ながら陛下。私とてフィオレンシア殿に好意を抱く男の一人です。あの眼帯の下がどうなっているのか、興味がありましたゆえ、ヒューゴ殿の計画に加わった所存でございます」

 

 記憶喪失ではあるが、思い出したことがある。そう公言していても、フィオレはその内容を口外したことはない。

 この度の騒動は、彼女を不愉快にさせ、冷静さを奪えば何かわかるのではないかというヒューゴの奸計だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 謁見の間を出た先にある廊下。

 その端の壁に身を預け、シルフィスティアの力を借りていたフィオレは、一部始終を見届けて身体を起こした。

 結局、あのジェイル卿の叔母は謝るばかりで何も話さなかった。魔眼のことを他言すれば、自分に人為的な災いが降りかかると思ったのだろうか。

 

 ──本当に、何かの力を有していればよかったのに。この瞳が異端視されればされただけ、それを思う。

 

 この異なる色の瞳が、魔眼と呼ばれるだけの特殊な能力を持っていれば、フィオレはきっと今以上に傲慢でいられただろう。

 自分は特殊な力を持っている。そんじょそこらの、普通の人間とは違うのだと。そんな風に自画自賛ができれば、傲慢である以上に──面の皮の厚い人間にもなれたはずだ。

 こんな些細なことで、何か思うようなこともなかった。

 非生産的で、考えたところでどうしようもない「もしも」を振り払い、城下町へと赴く。

 気分を晴らしたい──歌を、謡いたい。

 

 

 

 

 

 

 





普通の人は特別に憧れて、特別な人は普通を望んでしまうもの。
隣の芝生はいつだって青々としているようですよ。


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番外──He that will do no ill, must do nothing that belongs thereto. (悪事をすまいと思う者は、悪事と思われることをしてはならない)


 副題:原作中空気な七将軍達にこそっと出番を。
 ダリルシェイドの片隅にて、時間軸は「番外──evil eye」直後のお話。
 
 称号「うわばみでザル」は健在の模様です。


 

 

 

 

 

 

 

 

「よう、来たな」

「……あなたですか。この怪文書の差出人は。いえ、あなた方、ですか」

 

 そう言って、フィオレは手にしていた封書をぐしゃりと握りつぶした。

 

 

 

 

 ことの始まりは夕方のこと。

 王城での出来事を、騙り屋の戯言を脳裏から振り払うべく街頭での歌唱を終えて帰ってきたフィオレに、困り顔のマリアンから封書が渡された。

 

「くれぐれも、フィオレさんに手渡すように、と……」

 

 買い物中いきなりそれを渡してきたのはエプロンドレスに買い物籠を下げた女性で、その様子から貴族に仕える家政婦(メイド)ではないかと思われたという。

 よもやあの茶番を仕組んだ貴族──名前なんか覚える気もない──の差し金かと、フィオレは持ちうる武装すべてを所持してこの場所に赴いた。

 待ち受けていたのは、七将軍の一部──アスクス・エリオット、アシュレイ・ダグ、ミライナ・シルレル、ブルーム・イスアード。比較的若い組だった。

 あの貴族の関与は、杳として知れない。しかし、この面子ならば呼び出した目的は、おそらく。

 指定された場所である、繁華街の喧騒から離れた路地裏のバーの前。

 到達した時点でアスクスから声をかけられて、冒頭に至る。

 彼らの姿を認めた途端、すわお礼参りかと臨戦態勢に入ったフィオレを見て、アシュレイは怪訝そうに眉をしかめている。

 

「おい。えらく殺気立っているようだが、何て言って呼び出したんだよ」

「お前の秘密を知っている。バラされたくなければ、指定の場所へ来い。この封書にはそう記されていました」

 

 刺々しく言い放ち、彼女は握りつぶした封書をそのままアシュレイへ放り投げた。

 丸めた紙を投げつけられた形の彼がくしゃくしゃになった中身を改めている間にも、フィオレの視線は一同の挙動を油断無く見据えたままだ。

 ともあれ、彼らの言動から封書の仕掛け人がアスクスである、と断定したらしい。

 

「あなたが私の何をご存知なのか、それは聞かないことにします。いつぞやの雪辱に、囲んで袋叩きにするおつもりですか」

「いや、そういうわけじゃ「今宵の紫電は血に飢えています。喧嘩なら、言い値で買って差し上げますよ。お釣りは、あなたの首でよろしいですね」

 

 アスクスの言葉などほとんど聞かず、鯉口が鳴り、藍色の瞳に剣呑な光が宿る。

 いつになく好戦的なその態度に驚きを隠すことなく、アスクスは両手を突き出して牽制した。

 

「待て、待てってば。そういうつもりで呼び出したんじゃねえよ」

「じゃあどういうおつもりで? 冗談でも笑えませんが」

「なんだよ、変にイライラしやがって。あの日か?」

 

 火に油が注がれた。

 こんなくだらない挑発に怒髪天をつきたくなる己の今の短気さに辟易しながら、瞬時に沸騰した心を宥める。

 フィオレが何かするより前に、頬を赤くしたミライナが、アスクスのこめかみを愛剣の柄頭で殴りつけていたからだ。

 

「いきなりなにすんだよ!」

「このゲスが、何を抜かす! これだから下品な傭兵上がりは……!」

「ミライナ、落ち着け。アスクス、言葉が過ぎるぞ。そしてフィオレンシアは帰ろうとしないでくれ」

 

 痴話喧嘩に発展しかねない二人を抑え、どさくさに紛れて帰ろうとしたフィオレを制したのはイスアードだった。

 一応はその言葉を聞きいれ、黙して彼を見やるフィオレだったが。次なる言葉に眉をひそめている。

 

「立ち話もなんだ。中へ……」

「私は立ち話で結構です。そんなに長いお話をなさるつもりですか」

 

 フィオレにしてみれば、敵陣の真っ只中へノコノコと踏み入るようなものだ。躊躇う以前の話である。

 その内心は察知したようで、促したイスアードはあっさりと引き下がった。

 

「……アスクスがあなたにとって不愉快な方法で呼び出したことを謝罪しよう。必ず呼び出してみせると言った彼を信用したこちらの落ち度だった」

 

 彼が頭を下げるのを見て、それを抑えるようにしながらアスクスが「……悪かったよ」とバツが悪そうにしている。

 存外素直に謝られて、フィオレは困惑していた。

 イスアードの話は続く。

 

「それとは別に。あなたの身元に関するかもしれない情報を提供したいと思う。ジルクリスト総帥から聞いていると言うなら、話はここで仕舞いになる。騒がせたお詫びに一杯おごらせてくれ、という話になるが」

「あの屑……もとい。ヒューゴ様から?」

 

 瞳から剣呑な光が消えて、困惑の色が深くなる。

 まるで口を滑らせたかのように口元を押さえる所作から、彼女がけしてヒューゴと関係良好でないことを如実に示していた。

 

「……案外、仲悪いのな」

 

 アシュレイの呟きなど耳に入れずに、フィオレは何事もなかったかのように振舞っている。

 

「いえ、それらしい話は存じ上げません。しかしそれなら、こんな回りくどいことしなくても」

「ジルクリスト総帥を通じて話を通してもらおうとしたのだが、必要ないと門前払いされた。やはり、総帥の独断だったか」

 

 イスアードからアポイントがあったなど、聞いたこともない。フィオレに話を通すよりも早く、雇い主判断をしたヒューゴが却下したのだと思われる。

 ただ、現在のフィオレはヒューゴに身柄を預けているような状態だ。彼の体裁に応じてフィオレの行動が管理されるのはある意味必然で、そんな背景を考えれば、勝手なことを、と腹を立てる意味はない。

 

「そう……でしたか。わかりました」

 

 もしこれが奸計の内だったとしても、武装のすべては未だ手の内。必ずや切り抜けてみせる。

 しかし願わくば、これらを行使しない事態を望みながら、フィオレはイスアードの背中に続いてバーに入った。

 

「──いらっしゃい」

「邪魔をする。五人だ」

 

 薄暗く落ち着いた雰囲気の中。

 顔なじみなのか、七将軍の面々が入ってきても動じないマスターは、にこやかに「奥のテーブルへ」と応じた。

 繁華街にある酒場のような喧騒はなく、代わりに室内の端に据えられたピアノから、しっとりとした音色が響いてくる。

 雰囲気に呑まれるでもなく、室内の詳細を事細かに窺っていたフィオレは、示された上座を固辞して下座の末席──入り口に一番近い席を陣取った。

 

「さてと。何呑みます?」

 

 着席するなり、イスアード達から何を注文するのかを聞き出したフィオレは、マスターに促されてやってきたバーテンドレスにつらつらとそれらを申し付けた。

 

「お客様は……」

「とりあえず水ください。後で注文します」

「おいおい、常識ねえなあ。それとも呑めないのか?」

「このお話だけはどうしても素面でお聞きしたいのです。駄目なら、そうですね……カルヴァドスのポム・プリゾニエールを瓶ごと。ないならアクアビットのリニエをストレートでお願いします」

 

 ──正直、一度剣を交えただけ、あるいは何となく共闘したようが気がする程度の、殆ど知らない連中と酒を飲むなど抵抗はある。

 ヒューゴ氏の晩酌に付き合っているのは、実益と仕事の一環──ヒューゴ氏への唯一のご機嫌取り──であると解釈しているからだ。

 しかしそれはそれとして、イスアードが話そうとしていることには興味がある。

 間違いなくフィオレの身の上とは係わり合いの無いことだが、ヒューゴ氏が知っていてフィオレに意図的に寄越そうとしなかった情報とは、果たして。

 

「──あなたは、私がアクアヴェイルの出身であることをご存知だろうか」

「はい、伺っております」

 

 幸いにもイスアードは、つまらない前置きなどは挟まずに、彼の知るエレノア・リンドウについて包み隠さず話してくれた。

 

「エレノア・リンドウ……以前陛下が、覚えはないかと訊ねてきた名ですね」

「ああ。エレノア様本人ではないにしても、あなたには血脈の縁があるのかもしれない。私はエレノア様と直接の知り合いではなかったから、ご家族の詳細はわからないのだが」

 

 アクアヴェイル、エレノア・リンドウ。これはいいことを聞いた。

 縁も所縁もないことはわかりきっているが、しかし。

 いつかこれを下地にして、アクアヴェイルへ行く、と言い張れる機会がくるかもしれない! 

 国交なきアクアヴェイルへ行くにあたって、カルバレイスと違い、見習いとはいえ客員剣士の地位は足枷となるだろう。

 今の立場が煩わしくなった時にでも、きっと有効活用できるはずだ。思った以上に有益な情報である。

 あまりよくは思っていないだろうフィオレにわざわざ情報提供してくれたイスアードに、彼女は大きく頭を下げた。

 

「貴重な情報を、ありがとうございました」

「何か、思い出したりはせぬか?」

「それは何とも。でも、アクアヴェイルに関してはもう少し積極的に調べてみたいと思います」

 

 気遣わしげなミライナに軽く会釈して、立ち上がる。

 情報を隠していたヒューゴは業腹だが、折檻などしている時間が惜しい。

 即刻、アクアヴェイルにいるかもしれない守護者に検討をつけて、来るべき日に備えなければ──! 

 決意も新たに出て行こうとしたフィオレを止めたのは、運ばれてきたアルコールを口にしつつ、やり取りを見守っていたアシュレイだった。

 

「おいちょっと待て。聞くだけ聞いてさようならは、ちょっと虫が良すぎるんじゃないか?」

 

 そっちが呼びつけたくせに何言ってんだこいつ。

 この本音をそのまま口にすれば、いさかい発生は必至。フィオレは大人の対応を努めた。

 

「情報料をご希望でしょうか? あいにく今手持ちが心許なくてですね、今度のお給料日にでも……」

「人の話聞いてくれよ。俺達、お前に大敗したろ」

 

 腕試しの話だろうか。その話はフィオレにとっても不愉快だった話である。

 これまでアシュレイが茶々しか入れてこなかったこともあり、フィオレは意地悪く返していた。

 

「負け犬の遠吠えですか。吼えたら吼えただけ恥をかくのはあなたですよ」

「ぬかせ。お前に勝負を申し込む。腕試しじゃなく、飲み比べで、だ」

 

 飲み比べ。

 その単語を聞きつけて、フィオレは己の口元が歪むのを抑えられなかった。

 イスアードの話で冷えたはずの頭が、若干茹だってしまったのだろう。しかしもう、とめられない。

 

「マスター。在庫で一番度数がきついお酒を二本ください」

 

 一応用意してくれたカルヴァドス一瓶とアクアビットのストレートを確保しつつ、それを頼む。

 マスターは突拍子もないフィオレの頼みを、なんら動じることなく頷いてくれた。

 

「飲み比べなら、御代は負けた方に請求させてもらうよ」

 

 どこか面白そうにそう言って、バーボンを二本カウンターに置く。

 四つの薔薇がラベルに描かれた意匠の一本をテーブル──アシュレイの眼前に置き、もう一本は所持していた棒手裏剣を突き刺して栓を引っこ抜いた。

 乱暴に開けたせいで内側に落ちたコルクの欠片も厭わず、そのまま口をつけて、煽る。

 

「おい、ちょっ」

 

 度肝を抜かれたらしいアシュレイ、あんぐりと口をあけてその光景に見入る一同を余所に、フィオレは瓶の中身を綺麗に飲み干してしまった。

 コルクの欠片を含んでしまったようで、舌先にはりついたそれを親指になすりつけている。

 それを手巾でふき取って、空になった瓶をテーブルへと置いた。

 

「呑まないんですか?」

 

 いくつかのグラスを携えたまま固まっているバーテンドレスからコルクスクリューを拝借し、アシュレイの眼前に置いたバーボンを懇切丁寧に開栓してみせる。

 その音で我に返ったらしいイスアードが、空瓶を手にとって静かに戦慄した。

 

「……度数が、43度なんだが」

「そうですね。強いお酒をお願いしたのですから、それくらいは」

「そ、そなた大丈夫なのか!? そんな強い酒を一息で飲み干すなど、体に悪いぞ!」

「ご心配なく。飲み比べでしたよね。さあどうぞ」

 

 唖然とする一同に眼もくれず、まるで水でも飲むかのようにくい、とアクアビット──ジャガイモの蒸留酒が入ったグラスを空ける。

 ポム・プリゾニエール──丸々一個の林檎が瓶の中に納まったカルヴァドスを開栓しようとして、その口元が笑みの形を作った。

 

「飲み比べをご所望ということは、それなりに自信がお有りなんですよね。同じことしろとは言いませんし、一対一とも明言していませんから。よろしければ皆さんでどうぞ」

 

 つまるところフィオレは、勝負が飲み比べになったところで多対一はかまわないと言う。

 林檎の蒸留酒であるカルヴァドスをまるで林檎ジュースでも飲むかのような気軽さで嗜む辺り、まだまだ余裕が伺えた。

 香りを楽しみつつ「手が止まってますよー」と煽る辺り、バーボン──フォアローゼズを前に戸惑うアシュレイらを肴にしている風情だ。

 それに気づいたアシュレイは、気を取り直したようにマスターへくってかかった。

 

「おい、マスター! 仕込みだよな、そうだと言ってくれよ!」

「いや、私は何も……そちらのお嬢さんと会ったのは今が初めてだし、むしろアシュレイさん「なあ嘘だろ、手品だよな? 俺は信じねえぞ、バーボン一気飲みしてケロッとしてる小娘……ンなもんいたらバケモンじゃねーか!」

 

 入り口に一番近い席を強引に陣取ってよかった。

 カルヴァドスを楽しんでいたフィオレが、急に立ち上がる。

 瓶ごとその場を離れた彼女は、奥まったテーブルから離席して、カウンターの端の椅子に座り込んだ。

 

「席料払います。酔っ払いに絡まれるとせっかくのお酒がまずくなってしまいますので」

「おいこら、俺はまだ酔ってな「飲み比べの最中です。酔ってないならそちらをどうぞ。降伏ならいつでも受け付けます」

 

 もはやアシュレイに一瞥することもなく、フィオレは「何かつまめるものください」とマスターに頼んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小皿の上に、角切りの林檎がころころと転がる。

 ポム・プリゾニエールを順調に飲み干し、残るは瓶入りの林檎を前にして。

 紫電による居合いで瓶の上部を寸断したフィオレは中の林檎を取り出そうとして、マスターに止められた。

 

「手が汚れてしまいますよ。よろしければお切りしますが」

「フィオレンシア。私も食べてみたいのだが、いいだろうか」

 

 テーブルから離れてやってきたミライナにかまわないと返答し、一口大に切ってもらった林檎を差し出す。

 

「思ったより食感が瑞々しいな……」

「意外とぶにっとしていないものですね。林檎本来の旨味とか色々アルコールに取られて、お酒の味しかしないようですが。あなたもいかがですか?」

「いいんですか? ありがとうございます」

 

 食べたことがないようで、興味津々に覗き込んできたバーテンドレスにも勧め、ついでにどうかとマスターにも差し出す。

 その足でフィオレは、そのままバーボンを片付けているはずの彼らの元へ歩み寄った。

 

「よろしければお口直しにどうぞ」

「……ああ、ありがとう」

 

 テーブルの中央には四本の薔薇が描かれた瓶が直立しており、中身は四分の一にまで減っていた。

 フィオレの感覚でいえば残り一口程度だ。しかし、それを囲む周りの面々はといえば。

 

「Zzz……」

 

 アスクスはすでに突っ伏していびきをかいており、イスアードは特にこれといった変調もなく、フィオレが持ってきたサイコロ状の林檎に手を伸ばしている。

 アシュレイは虚ろな目でひたすら中身入りのグラスを攪拌しており、ミライナに至っては瓶に見向きもせず、「場末の酒場じゃあるまいし、ここで寝るな」とアスクスを起こしにかかっていた。

 

「もう呑まれないのですか? あなたはまだまだ平気そうですが」

「これはアシュレイが仕掛けた勝負だ。ミライナも不参加を表明したし、私も援護するつもりはない。アスクスは下戸だから、人数の内には入らないだろう」

 

 驚いたことに、瓶の中身はほとんどアシュレイの胃袋に収まっているらしい。

 グラスを空けて息を荒げるアシュレイは、ここでようやくフィオレの姿を視界に入れたようだ。

 大きくため息をついて、半眼で絡んできた。

 

「お前……苦手なことはねーのかよ」

「苦手なこと? そうですね……街行く人と何人キスして回れるか、という勝負でしたら、私は諸手を挙げて降伏しますが」

「あほか!」

 

 見知らぬ人間との過度なスキンシップ。

 フィオレにしてみれば、割と本気で告げた苦手科目なのだが、からかわれたとでも勘違いしたのだろうか。

 彼は椅子を蹴倒して騒々しく立ち上がり……抜剣した。

 

「!」

「アシュレイ!」

「抜けよ! お前だってそのつもりで来たんだろ! あんな無茶な呑み方でバカみてえに大酒あおって、足腰立つはずがねえ。こないだの雪辱戦だ!」

 

 足腰立っていないのはアシュレイの方である。足取りが怪しいのは、周囲が薄暗いから、だけではないはずだ。顔は酔いと怒りで相当赤くなっているし、何より言動が完全に酔っ払いのそれだった。

 しかし、これを言葉で収めるのは難しい。何せ彼が切っ先を向けるのはフィオレ自身。

 傍観者として理性ある相手を手八丁口八丁で煙に巻くならいざ知らず、絡まれている当人が酔っ払いを論破して、矛を収めさせるのは至難の業である。火に油を注いで収拾のつかない事態になるのが関の山だ。

 ──少し、頭を冷やしてもらおう。

 

「どうやら、引くに引けないようですね。ここではお店に迷惑です。表に出てください」

「上等だ! 兄さんの前で恥かかせやがって、覚悟しやがれ!」

 

 うるせぇそんなもんてめーの実力不足が原因だ他人のせいにすんじゃねーよ未熟者。

 

 毒づくのは胸中だけに留める。何せ相手は店内で武器を手にした酔っ払い。下手に怒らせて暴れさせるわけにはいかない。

 肩を怒らせて、アシュレイが店外へと出て行く。

 その背中を見送って、フィオレは粛々と席に戻った。

 

「フィオレンシア?」

 

 本当に席料を払って確保したカウンターの席を再び陣取る彼女に、イスアードが声をかける。

 よもや本当に足腰が立たないのかと心配するミライナだったが、フィオレによる返答を聞いて彼女は呆れていた。

 

「は? なんで私まで出て行かないといけないんですか? 迷惑だから表に出て頭を冷やしてきてください、と言ったつもりでした。私も多少お酒入ってますので、色々言いそびれたような気がしますが」

 

 とどのつまりはアシュレイを舌先三寸で締め出しただけで、勝負に応じる気なんかさらさらない。

 言外にフィオレはそう言ってのけた。

 そうこうしている内に、アシュレイはもちろん戻ってきている。

 あまり頭を冷やしたようにも見えないが、彼の前を何故かフィンレイが先行していた。眉間に皺が寄っている辺り、あまりご機嫌麗しくは見えない。

 大将軍の登場を目にして緊張が走っているらしい七将軍らなどおかまいなしに、アシュレイが怒り心頭といった様子で叫ぶ。

 

「おい! てめえ、フィオレンシア! 表へ出ろと言いながらてめえは何をやってんだ!」

「黙れ酔っ払い騒ぐな。さっきのは頭を冷やせと言い忘れました、すいません。あと、こんばんは。お疲れ様です、大将軍」

 

 最早たちの悪い酔っ払いとあまり変わらないアシュレイには一喝してから謝って、大将軍には一応挨拶をしておく。

 客員剣士見習いとしても、上司リオンに恥をかかせないほうがいいと席を立ち、粛々と会釈した。

 アシュレイが手にしていた剣は現在フィンレイが鞘ごと手にしている。その様相から察して、おそらく彼は。

 

「軍服をお召しということは、お仕事の最中か見回りでしょうか。それとも、挙動不審なアシュレイ将軍が通報されたから、お越しになられたんですか?」

「お前なっ! ヒトとしてやっていいことと悪いことがあるだろ!」

 

 フィンレイがここにいる理由を尋ねるも、顔を真っ赤にしたアシュレイに遮られる。

 剣は没収されているし、万一暴れられても彼との境にはフィンレイが立っているから大丈夫かと、フィオレは応戦を試みた。

 

「アシュレイ将軍によれば私は化け物らしいので、ヒトとしての倫理なんか知らなくていいですよね」

「バケモン言ったのはお前の腹の中だけだ!」

「フィンレイ将軍。弟さんが私を腹黒扱いしてくるんですが無視してよろしいですか。不敬罪で逮捕とかされません?」

「に、兄さんは関係ないだろ! 卑怯だぞ、このカタ「口を慎め」

 

 ここでようやく、口を挟む余地が出来たフィンレイによってアシュレイが黙る。

 騒然としていた店内がようやく落ち着きを取り戻し、どうなることか、とハラハラした様子で手を組んでいたピアニストがマスターによって促され、ピアノの音色が戻ってきた。

 

「何があったのかを説明してくれ」

 

 フィオレは即座にアスクスを見やったが、彼はミライナに肩を揺さぶられながらも爆睡している。

 イスアードは目をそらして黙しているし、アシュレイは何も言おうとしない。

 たっぷりとした沈黙が積もるより前に、フィオレが口を開いた。

 

「私が彼らに……お招き、頂きまして。イスアード将軍がエレノアさんのことを教えてくださったんですよ。ついでにアシュレイ将軍が以前の雪辱戦ということで、私に飲み比べを申し込んできました」

「アシュレイが抜剣したまま、剣呑な様子で周辺をうろうろしていたのは?」

「そんなのご本人に聞いてくださいよ、そこにいらっしゃるのですから。酔いに任せて喚き散らしている模様ですので迷惑千万です。お引き取りいただけると、平和的に済むのですが」

 

 アスクスの呼び出しが原因で、フィオレから喧嘩をふっかけそうになったことは伏せておく。

 これは昼間のことで頭に血が上っていたフィオレの落ち度だ。

 あの出来事がなければもう少し冷静に──否。そもそもこんな呼び出しには応じなかっただろうが。

 しかし。

 

「お前だってこれ見てやる気満々だったじゃねーか!」

 

 アシュレイは未だに持っていた封書を掲げて出して、無言のままフィンレイに取り上げられていた。

 文書を一瞥したフィンレイが、あまり機嫌の良くなさそうな目で一同を睥睨する。

 

「……イスアード。フィオレンシアの言が事実だとして、何故このような文面なのだ? フィオレンシアを脅して呼び出したように見えるが」

「それは……」

 

 すべての元凶は未だ夢の中。イスアードに答えられるわけもない。

 ふと、文面の内容を思い出したフィオレは、アスクスの突っ伏すテーブルへ近寄った。

 ミライナに了解を貰ってから、アスクスの背中に氷を一欠片、放り込む。

 

「うおっ!?」

 

 結果として、彼は即座に目を醒ましてくれた。

 爽やかな目覚めからは程遠いかもしれないが、こればかりはどうしようもない。

 

「おはようございます、アスクス将軍。起き抜けで申し訳ありませんが、私の秘密ってなんですか?」

 

 飛び跳ねるように起き上がり、身を揉むようにして背中から氷を取り出したアスクスは、元凶であるフィオレを睨みながら眼帯を指した。

 

「その目。潰れてるわけじゃねえんだろ?」

「……確かに。潰れてはいませんね」

「大将が話しているところを聞いたんだ。お前の眼帯は虚仮威(こけおど)しだってな」

 

 虚仮威(こけおど)し。底の見え透いたおどし。実質はないのに、外見だけは立派に見せかけることにもいう。鹿威(ししおど)しとは関係ない。

 いわく、大将軍が王女殿下と庭園にて雑談中、フィオレの話になった際の一会話らしいが。そんなことはどうだっていい。

 

「あなたにお前呼ばわりされる謂れはありませんが、それは否定しません。教えてくださってありがとうございます」

 

 つまるところ、偶然にも大将軍も一枚噛んでいたということになるのか。

 このとき同時に、フィオレは心から安堵していた。

 彼らはフィオレの左右の眼の色が違うことを、虹彩異色症(オッドアイ)であることを知らない。

 あの貴族の関与がないことを、はっきりと悟って。

 

「……この文面になったのは、少なからず大将軍が関わってらっしゃる、ということですね」

 

 ここでアスクスがようやくフィンレイがいることに気づいてあたふたしているようだが、フィオレの知ったことではない。

 言外に、呼び出されたのはあんたのせいだ、と抜かされて、フィンレイもまたうっすら焦っている。

 

「あ、いや、それは」

虚仮威(こけおど)しねえ……ああいえ、なんでもありませんよ。リオン様の尊敬するお方にして、未来の国王陛下の所行に物申すなど、そんな恐れ多い」

「その「文面の件はこれでよろしいですね。そろそろ私はお暇させていただきます」

 

 唐突に懐中時計を取り出したフィオレは、再度イスアードに「情報提供ありがとうございました」と礼を述べる。

 気分を害したのか、とミライナは問うが、フィオレは首を振って否定した。

 

「実は私には門限が制定されておりまして、不用意な夜間外出は控えろと言い渡されています。今回は床についたふりをして出てきましたので、発覚する前に戻ろうかと」

 

 口ではそう言っているものの、一方的に言い放ち、さっさと勘定をすませようとする辺り、不機嫌なのは明白である。

 しかし、迷惑料を含めて払おうとしたフィオレを制したのは、刃傷沙汰になりかけたにも関わらず、苦笑を湛えただけのマスターだった。

 

「いやあ、アシュレイさんがこんな悪酔いしてるところなんか初めて見たよ。いろいろ事情があるんだろうが、悪い人じゃないんだ。飲み比べもお嬢さんの勝ちのようだし、御代はアシュレイさん持ちということで」

「そうだな。マスター、迷惑料を含めてきっちり請求してくれ」

 

 アシュレイ本人は何か言いたそうにしているが、フィンレイはそう言って弟の言い分を黙殺している。

 少々気は引けるが、ここは言い分を呑もうと、フィオレは財布を懐に収めた。

 

「……話は変わるが。幾度かジルクリスト総帥を通して手合わせを申し入れているのに、悉く断る理由を聞きたい」

「ヒューゴ様の都合が悪いから、でしょうね。そのお話が私のところまで来たことがありませんので」

 

 そういえば、以前そんな話をしたような気がする。フィンレイとの手合わせはフィオレにとっても修練になるから、話が来たなら断るつもりはなかった。しかし音沙汰がないことから、やはり大将軍は忙しいのだろうな、と少し残念に思っていたのだが。

 

「なに?」

「エレノア・リンドウさんのことも隠したくて、イスアード将軍からのアポイントも勝手に蹴っていたようですし。でもまあ、ヒューゴ様にも事情はお有りでしょうから。私の方からその辺りの改善を申し入れることはできませんが、次回の……合同演習、でしたか。あれの立ち入り見学を許可頂ければ、その時にでも」

 

 これには即答ができないようで、検討する、との返事をもらう。

 どのみちしばらく先のこと。実現しようが妨害されようが、どちらでもいい。

 

「それでは、私はこれで」

「弟が迷惑をかけた。ジルクリスト邸まで送っ「いえ結構です。婚約者が心を痛めるような行動はお控えあそばせ、将軍閣下」

 

 突如として冷え切った声音が、氷点下まで下がった視線がフィンレイに突き刺さる。

 豹変といっても過言ではない様子の変化に、彼らが戸惑いを見せるより早く。

 

「失礼します」

 

 硬くかしこまった物言いを残して、フィオレはバーから退散した。

 常闇にただ一点、白々と輝く天空のクロワッサンを見上げて、酒臭い息をつきつつ、キャスケット帽を深くかぶる。

 フィンレイとフィオレが、夜中に二人で歩いていた、などと。王女殿下の耳に入らないこともないだろうに。

 

「どうしてこう、恋人が傷つくとか思わないんだろ」

 

 男と女では根底から感性が違う。そんなことはわかりきっているし、説いたところで理解が及ぶとも思えない。

 しかし、嫉妬深いと噂に高い王女殿下の恋人と、二人きりで深夜の街中を歩くなど、ごめん被る。

 真偽も詳細も不明だが──ある夜、泥酔して動けなくなってしまった街娘を見回り中の大将軍が保護。自宅まで運んで送り届けたところ、その目撃証言だけで勘違いした王女がひと悶着起こし、いざこざを経て街娘一家は、ダリルシェイドからクレスタへ移住したと聞いている。

 西瓜畑の中で靴紐を直すべきではないように、林檎の木の下で帽子を被りなおすべきではないように、疑われるこうどうはなるべく避けたい。

 王族(えらいひと)から不興を買うと、ロクなことにならないのだから。

 

「……戻ろ」

 

 周囲に怪しい影、もしくは絡んできそうな酔っ払いがたむろしていないことを確認して、速やかに帰路につく。

 このところ頻繁に発生するようになった成長痛で、痛みに耐えかねた際はフィオレが就寝中であっても、頭を下げてまで按摩をねだるようになってしまった少年が、空っぽの寝台を見つけて騒いでいませんように、と、流れ星に願いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 



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セインガルド建国記念式典~称号取得「隻眼の歌姫」~きな臭いきざし

 ダリルシェイド、セインガルド建国記念式典前編。別名ドレスアップ回。
 前回のお話より大分経過しています。
 後のパーティキャラクター・ウッドロウがちらっとだけ登場。


 

 

 

 

 

 

 

 

「セインガルド建国記念式典、ですか」

「うむ。ひと月後、我がセインガルド国建国記念日というものがあってな。昼は記念式典を行い、夜はそれに伴い祝賀会を執り行う」

「……はあ」

 

 セインガルド王城、謁見の間にて。

 リオンともども登城命令の下ったフィオレは、国王直々にそんな説明を受けていた。

 状況は以前と大幅に異なり、謁見の間には七将軍はもちろん、内務大臣など側近や、護衛の衛士たちの姿さえない。

 フィオレたちが謁見するとわかった時点で、人払いがかけられたのだ。

 一体どんな極秘任務を押し付けられるのかと思いきや、ただ一人国王の傍で控えていたヒューゴ氏から、唐突に「建国記念式典のことについてだが」と切り出されたのである。

 つまるところ、その式典に関して何か仕事を言い渡されるのだろうが……

 

「なるほど。会場警備任務ですね」

 

 実は内心、まったくもって「なるほど」などとは思っていない。そんな内容では、何故人払いなどかけるのか。

 まさかその式典の席で、後ろ暗い任務を遂行しろ、という達しでもする気か。

 例えば、どこぞの反王政貴族も参加するからこっそり暗殺、などは……

 

「それもあるのだが、フィオレンシアよ。お主に特別任務を申し付ける」

 

 予想通りである。戦々恐々としながら、その内容を聞いたフィオレは──

 

「お主には、『隻眼の歌姫』として出席してもらいたいのだ」

「…………は?」

 

 盛大な肩透かしを食らった。

『隻眼の歌姫』というのは、少し前にカルバレイス地方チェリク港町にて初めて耳にした単語である。

 何でも、ダリルシェイドの噴水前でストレス発散をするフィオレの二つ名らしいのだが、カルバレイスから帰ってきて以降積極的に情報を集めていないので、詳細は知らない。

 とりあえず、フィオレは小さく咳払いをした。

 

「……えー、質問、よろしいでしょうか」

「なんだ?」

「『隻眼の歌姫』とは、その、私のことでしょうか」

「これは妙なことを。お主以外の誰が居るというのだ?」

 

 あの二つ名は、国王にまで浸透していたのか。

 頭痛を覚えるフィオレだったが、国王はまったく気付いていない。

 

「本来ならば宮廷楽師長に一任するところ、国賓として招聘するファンダリア国王よりそのような注文が参られたのでな。ここ最近巷で話題となっていた隻眼の歌姫だったが、その正体は謎に包まれていた。調べてみたら、君だということが判明した、というわけだ」

「……ほぉ」

「もっとも、隻眼という辺りですでに見当はつけていたがね。君にあのような特技があるとは知らなかった」

「単なる趣味です。素人芸です。むしろ隠し芸です。そんなのに公式な場で謡わせる気ですか。どうなっても知りませんよ」

 

 飄々と、そんなことを重ねて抜かす雇い主を睨んでやりたい衝動を抑え、フィオレは続く国王の話に耳を傾けた。

 

「式典においては我がセインガルド国歌、そして国賓に敬意を表し、ファンダリア国歌を斉唱してもらいたい。祝賀会においては、舞踏会の前座として独唱会を行ってもらう」

「それ以外は覆面警備ですか? 来客にまぎれて、場内での」

「うむ。中でもリオン、フィオレンシア両名には国賓の警護を担当してもらう。警護対象はファンダリア国王、そして王太子殿だ。ただし、フィオレンシアはリオンのパートナーとしての参加を求めるゆえ、武器の携帯は認められん」

 

 男性であれば、儀礼用の剣ということでこっそり武器を持ち込むことはできるのだが、女性にそれは認められないだろう。

 つまりフィオレはあくまでオマケ、ほとんどリオンに任せるということか。

 

「じゃあリオン様、頑張ってくださいね」

「職務怠慢は認めん。ひと月後までに隠し持てる武器を揃えたまえ」

 

 あわよくばリオンに全責任を押し付けようとして、しっかりとヒューゴ氏のクギが打たれる。

 拒否権がないことを知っていて、フィオレは悪あがきを試みた。

 

「お恐れながら陛下。問題がございます」

「ふむ。申してみよ」

「私はセインガルド国歌を知りません」

「宮廷楽士に教授を依頼しよう」

 

 国王に聞いたはずなのだが、何故かヒューゴ氏が口を出している。

 めげることなく、フィオレは続けた。

 

「ファンダリア国歌も知りません」

「私のほうで調べておこう。君は修得に集中したまえ」

「相応の礼装……」

「まずは採寸からだな」

「つ、つまり潜入警護ということは、舞踏会にも出席しろということですね。私はそのような上流階級における作法を存じ上げませ──」

「専門の教師を見つけてある。君ほどの運動神経の持ち主ならば、ダンスのステップなぞひと月もあれば十分習得可能だろう」

 

 否定要素をことごとく封じられ、詰まったフィオレが黙する。

 そこへ国王が、満足げにヒューゴを見やった。

 

「用意周到だな、ヒューゴよ」

「お任せください。必ずや次の式典も、つつがなく終わらせて見せましょう」

 

 優雅な一礼が至極憎たらしい。が、これ以上言い訳を続けて醜態をさらすのはフィオレである。

 ここはもう黙っているしかない。

 

「先ほどフィオレンシアも申しておったが、隻眼の歌姫として招くにあたって相応の礼装はこちらで用意しよう。別室に服飾設計士(デザイナー)を待機させてある」

「……あの、警備をするにあたって支障がないよう、異装での出席は……」

「認められん。それでは潜入警護を行うリオンが目立ってしまうのでな」

 

 確かに、こういった公式な行事や夜会などは基本的に男女のペアでの参加が上流社会においてのマナーだ。

 例外が許されるのは国賓や来賓など、限られた招待客のみ。つまり男だろうと女だろうと、一人でいる時点でひどく目立ってしまう。その時点で招待客に紛れ込むことはできない。

 

「どなたか女性の協力者を……」

「適当な人材がいないからこそ、君に白羽の矢が立てられたのだ、といい加減察してくれないか」

「ミライナ将軍とかは」

「彼女は別件であと半年はダリルシェイドに戻ってこれない」

 

 やっぱりかドチクショウ。

 独唱会の詳細な内容についてはまた今度と、フィオレはヒューゴ氏らと共に謁見の間を辞した。

 リオンは客員剣士としての任務があるためここで別れたが、フィオレは特例として短いながら休暇をもらっている。

 何でも、式典当日に隻眼の歌姫として恥をかかぬよう、相応の礼儀作法も習わされるらしい。

 

「……不満そうだな」

 

 ヒューゴ氏の先導で移動する最中、かの人はぽつりとそんなことを呟いた。

 

「ええ、不満です。客員剣士見習いとしてならばともかく、なぜよくわからない二つ名を定着させられた挙句、その名で仕事をしなければならないのですか」

「自業自得だと言ったほうが、納得しやすいだろう」

「……」

 

 隻眼の歌姫と呼ばれる所以は、フィオレがダリルシェイドの街中でストレス発散を試みたことである。

 街中で目立つ行動を行い、そして有名になってしまったという点においては、確かにフィオレの自業自得だ。

 せめてもの、フィオレは不吉な皮肉を放った。

 

「噂の一人歩きが過ぎて、国賓の方々を落胆させた挙句、廻り巡って国交に亀裂が生じないことをお祈り申し上げますよ」

「ならば祈るだけでなく、君自身の努力を求めよう。その点に関して私は何の支援もできないからな」

 

 もとよりそんなもの、期待はしていない。

 殺伐とした雰囲気のまま、ヒューゴ氏によって王城の一室へと案内される。

 

「粗相はするな」

 

 その一言で、ヒューゴ氏とは別れ。フィオレはノックの後に扉を押し開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜のこと。

 フィオレは夕餉を済ませた後、最近恒例となりつつあるヒューゴ氏の晩酌に付き合っていた。

 他愛もない無駄話を交わしながらも、何年ものなのか、ラベルがかすれて読めない葡萄酒の大瓶は中身を減らしていく。

 ラベルがかすれているだけあって、相当熟成が進んだものだった。

 馥郁たる香り、芳醇な味わい。そして熟成された分だけ上乗せされる度数。

 その美味さに初めは押し頂くようにして飲んでいたフィオレだったが、ヒューゴ氏に遠慮するなと言われて以降、遠慮だけはしていない。

 

「ところで、フィオレくん」

 

 どこかろれつの回っていないヒューゴ氏の言葉を受けて、フィオレはピスタチオの殻に爪を立てつつ顔を上げた。

 ヒューゴ氏の顔はすっかり色づいており、ほろ酔いをとうに過ぎていることがよくわかる。

 

「飲みすぎですよ、ヒューゴ様」

「聖域探索は、どうなったのかね」

 

 さりげなく大瓶を遠ざけようとして、その手を掴まれる。

 ぞわ、と悪寒が走り、その感覚から逃れるために瓶を遠ざけるのは断念した。

 

「……残念ながら、ガセでした。詳細な地名がかなり合致していたから、期待はしていたのですが」

 

 嘘ではない。

 フランブレイブとの契約を済ませた後に、フィオレは持参した資料の存在を思い出して紐解いた。

 現地で手に入れた地図と記載されていた地名は合致していたが、肝心のフランブレイブの聖域だと思われる場所は大幅に異なっていたのだ。

 それに──そもそも、彼に対して契約が成功したか否かを報告する義務はない。

 

「そうか……」

 

 そんなフィオレの内心にもちろん気付くことなく、ヒューゴ氏はただ黙してグラスを煽る。

 ヒューゴ氏の瞳が一層深く揺らいだのを見て取って、ついにフィオレは立ち上がった。

 

「そろそろお開きに致しましょう。これ以上はお体に触ります」

 

 これが久々の晩酌であれば、こんなことは言わない。

 しかし、彼はここ最近になって急に晩酌のペースを増やしたのだ。

 あまり強いわけでもないのに、何か精神的に不安定になるようなことでもあったのだろうか。

 昼間における彼本人、あるいはヒューゴ氏を取り巻く近しい人々に、そんな雰囲気はまったくなかったのだが……

 

「……しかし君は、本当に強いな。私以上に飲んでいるはずなのに、まったく酔う気配がない」

 

 ほんの少しだけ残っている大瓶の中身を処理し、グラス、つまみ受けの小皿を炊事場に運んで洗浄しておく。

 晩酌の後片付けをテキパキとこなしていくフィオレを見ながらだろうか、ヒューゴ氏はそんなことを洩らした。

 

「体質です。褒められるようなことではありませんよ」

「……私にも、君のような強さがあれば、こんなことには……」

 

 もはやフィオレの言うことなど聞いてはいないらしい。ヒューゴ氏は頬杖をつくような形になって、もごもごと呟いている。

 こんなことというのは、現在の醜態を指しているのだろうか。

 寝ぼけているに近い状態でそんなことを言っているのではないかと思っていたフィオレだったが。次の、消え入るような一言が妙に耳に残った。

 

「……すまない。クリス、ルーティ……エミリ、オ」

 

 ごと、と音を立ててヒューゴ氏はテーブルに突っ伏した。見やれば頬杖は外れて、彼は寝息を立てている。

 広間を出て、目に付いた執事(バトラー)の青年に、ヒューゴ氏を私室へ運ぶよう頼んで。フィオレは自室へと戻った。

 クリス。ルーティ。エミリオ。

 いずれも人の名だと思われるのだが、聞いたことはない。リオンの母を娶る前に、何人か泣かせてきたのだろうか。

 ……エミリオは男性名のような気もするが、些細なことだろう。ヒューゴ氏の性嗜好など心底どうでもいい。

 しつらえられたソファに座り、少し前に購入したアンティークランプに炎を灯す。

 布に包んで砕いたレンズの欠片を取り出し、左手に握って炎にかざした。以前は小石を用いていたのだが、同じレンズであることによる相性の問題なのか。こちらのほうが属性を定着させやすいということに気付いたのだ。

 出来上がった親指大のハイランドルビーもどきを手のひらで転がしていると、扉が叩かれた。

 

「どちら様で?」

「僕だ」

 

 ランプを吹き消して応対に出れば、そこにいたのは普段とは違う部屋着のリオンである。

 彼がこの時間にフィオレの部屋を訪ねてくるなど、明日は雨かと思われるほどに珍しいことだった。

 

「明日雨を降らせるのはやめてほしいんですけど」

「そんな願いは空に言え。それよりお前、酒臭いぞ」

「さっきまで呑んでましたからね」

 

 そんな雑談を経て「で、何か御用ですか?」と尋ねれば、彼は急に口を濁し始めた。

 先ほどまでハキハキと皮肉を吐いていたのが嘘のよう、もごもごと、どこかで見たような物言いで話を始める。

 

「……その、今日は、修練をしたな」

「しましたね」

「それで、その……少し、筋肉が張っているような感じがするから……」

 

 この言葉で、彼が何を言わんとしているかはわかった。

 しかし、おいそれと応じてやることはできない。

 

「その程度なら眠れば自然に回復します。時間も時間ですし、無理にアレを受けなくてもいいですよ」

 

 剣術指南をする日に限り、必要があるならば次の日に支障が出ないよう続けてきた按摩。

 彼にはすこぶる好評のようだが、そろそろ日付が変わろうとしているのだ。早く床に着かなければ、明日に響く。

 まさかそれを言うために、起きていたわけでもないだろうが……

 

「別に無理なんかしてない。明日に引きずるのが嫌なだけだ。別にそのためだけに起きてたわけじゃないからな。この間お前に渡された兵法書が思ったより面白くて、読みふけっていたらこんな時間になっただけで」

「……はあ。左様でございますか」

 

 引き下がりそうにない。あきらめてリオンの部屋へ行くことにした。彼は按摩の最中によく寝入るため、自分の寝台は使いたくない。

 その途中。ふと先ほどのことを思い出して、尋ねてみる。

 

「ところでお尋ねしたいことが」

「なんだ?」

「えーと……「クリス」「ルーティ」「エミリオ」この名を聞いたことはありますか?」

 

 三名を出した途端。彼は鋭く息を呑んで立ち止まった。

 その反応からして、知らない名ではないということがよくわかる。

 それにしても、普通とは程遠いこの反応。この屋敷ではタブーとされる名だったのだろうか。

 

「……どこで、それを」

「それは言えません。他人のプライベートを暴露する趣味はないので」

 

 酔っ払ったあなたのお父様が謝罪を口ずさみつつ洩らした、とは言わない。

 地雷を踏んでしまったらしいと判断し、これ以上のことを尋ねるつもりもなかった。

 

「し、知らない。聞いたことも、ない」

「左様でございますか」

 

 後はただ、深夜であるが故に人気のない廊下を、行くのみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あっという間に、ひと月は過ぎた。

 

「あ。無理です無理。他人が刃物持ってすぐ傍をうろついているのに、じっとしていろなんてコワいです。無理」

 

 式典に合わせて髪を整えろと命じられ、フィオレは全力で拒絶した。

 特別手当と一月分の給与を返上するから勘弁してくれとまで頼み込み、どうにか免除してもらうに成功している。

 とはいえ、述べたことは建前の割合も大きい。

 

「なんでそう変なところで臆病なんだ」

「臆病で結構。髪は女の命です。たとえ玄人の方であっても、見も知らぬ他人にいじくられるなんて、考えただけでも吐き気がします」

『潔癖だなあ……まあそういうの、嫌いじゃないけどね』

 

 上記騒動に加え、衣装合わせ、礼儀作法講習、カモフラージュ用舞踏の実践練習に仕込み武器の修練。

 これら全てから解放される期日とあって、嬉しくも憂鬱な一日となることは確実だ。

 セインガルドの建国記念日とあって、ここ数日は王都たる市街も、浮き足立ったような雰囲気が漂っている。昨夜などは慎ましいながらも前夜祭が催されていたところだ。

 式典自体は、以前ヒューゴ氏に連れられていった野外演習場で行われる。間を置いて夜、王城で祝賀会が開かれるらしい。

 事前の打ち合わせどおり、フィオレはジルクリスト邸私室にて式典用にあつらえられた衣装に袖を通していた。

 ローブ=モンタントと呼ばれる女性用昼式礼装……ではあるが、オーダーメイドにつき、一人でも着脱可能な仕様になっている。

 袖は手首まで、肩も背中も覆われた立て襟の大人しい礼装ではあるが、最低限着けろと指導された装飾類がわずらわしい。

 絹の手袋に持ち前の指環は必需品として、イヤリングにチョーカー、ブレスレットにウエストのくびれを強調するためのベルトチェーンなど、不用品は盛り沢山である。

 これでも随分譲歩させた。

 近頃の流行だから、とピアスを付けるためだけに耳たぶに穴を開けさせられそうになったり、礼装の丈が足首まであるため、見えるわけがないのに見せるだけがお洒落ではない、とアンクレットを追加させられそうになったり、更に常にバランスを取れ、といわんばかりにティアラを載せられそうになったりと、あの服飾設計士(デザイナー)には苦労させられている。

 衣装のデザインにおいて随分注文をつけたのだから、彼女にしてみればちょうどいい意趣返しだったのかもしれない。

 簡素なコルセットを身につけ、礼装をまとっていく。変装するだけのために身につけたはずの技術で顔に化粧を施し、最後に髪を整えた。

 髪を結っている最中、扉が叩かれる。

「どうぞ」という声で入ってきたのは、すでに礼装に身を包んだリオンの姿だった。

 

「ちょっと待っててくださいね。今終わりますから」

 

 髪を結い上げ、ティアラの代わりに支給された髪飾りを差し込む。姿見で問題ないかを確認して、改めてリオンと向き直った。

 

『……はー……』

 

 儀礼用の剣と称されているのだろう。無意味な装飾が目立つ鞘に収められたシャルティエのため息が聞こえる。

 

「ため息が出るほどガッカリしたんですか?」

『そんなわけないじゃん! そりゃあ君の事、初めて見た時からキレーな人だなあ、とか思ってたけどさ』

「それはどうもありがとうございます」

『あ、どういたしまして。じゃなくて! もう、王城で見かける貴族のご令嬢なんかメじゃないよ。ミス・ダリルシェイドなんてあったら絶対優勝しちゃうって!』

「勝手に変なコンテストを開催しないように」

 

 鼻息荒く力説するシャルティエをいなし、フィオレは彼の主人たるリオンに目を向けた。

 彼はもちろん化粧などせず、漆黒のタキシードに白のドレスシャツ、シャルティエを収めた装飾過多な鞘に豪奢な剣帯と、正式行事へ出席するに相応しい礼装をまとっている。

 

「随分注文つけて動きやすくはしましたが、やはりそちらには叶いませんね」

「あ、当たり前だろう、そんなこと……」

 

 瞬きをひとつして、彼はそんなことをしどろもどろと返した。

 声がかすれているあたり、風邪でも引いているのだろうか。

 

「こういうとき、殿方は気楽ですね。装飾類はつけなくていいし、踵も高くないし」

『そういえば、眼帯も変わってるね』

「いつものものだとヒューゴ様がうるさくてかないませんので」

 

 よく言えばシンプルな、悪く言えば無味乾燥な白布の眼帯ではなく、若草色の上質な生地に可憐な鈴蘭の刺繍が施された眼帯を身につけている。

 当初はヒューゴ氏が独断で、緻密な宝石細工があしらわれた煌びやかな眼帯を作って寄越してきたのだが、その細工のせいでかなり重たかったので、遠慮した。

 ヒューゴ氏の面子のため、夜会には着けることを約束している。

 

「そろそろ行くぞ。表に馬車を待たせてある」

「了解」

 

 一見してそうは見えない仕込み武器を手に、リオンの背中を追ってエントランスの階段を降りる最中。その姿が七五三みたいだと思ったのは、フィオレだけの秘密だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 野外演習場。

 この日のために設置されたのであろう即席の舞台上にて、フィオレはセインガルド国歌、並びにファンダリア国歌を謡い終えた。

 式典の開始から両国歌の斉唱まで、事前に知らされたプログラムから滞りも何の支障もなく進んでいる。

 これで司会者の言葉に従い、フィオレが舞台上から退場する手はずになっているのだが──なぜかその言葉がない。

 フィオレ自身には何の落ち度もないはずだ。

 司会者の言葉に従い、リオンのエスコートを受けて舞台上へ上がり、演奏に合わせた歌唱を披露したのである。

 ちなみに、エスコート役のリオンは舞台へ登る階段のところに待機中だった。

 歌唱による余韻はおろか、演奏による余韻すらとうに終了しているのだ

 聴衆たる式典の出席者たちは何の反応も示さないが、それも時間の問題である。

 何かトラブルでもあったのかと、作法をかなぐり捨てて、かすかに身じろぎをしたその時。

 

「……公賓、隻眼の歌姫による国歌斉唱でした。ありがとうございました」

 

 拡声器の使用により、よりはっきりとわかる、妙にどもったような司会者の一言で、フィオレはようやく舞台から降りることができた。

 その場で聴衆に一礼し、拍手に包まれながら五段ほどの階段を降りる。

 差し出されたリオンの手を取り、国賓席の近くに指定されている公賓席へと移動した。

 移動するその最中のこと。

 

「何かあったんですか?」

 

 あの不自然な沈黙を尋ねれば、リオンは同じように声を潜めて答えた。

 

「別に何もない。何かあったのか?」

「あったではありませんか。謡い終わっても演奏の余韻がなくなっても、あの司会者はしばらく無反応でしたよ」

「……そうか?」

 

 フィオレの予想に反して、リオンの反応は鈍い。

 時間に対する感覚のズレに、彼らとしてはあのくらいの沈黙を置くのが普通なのかもしれない、とフィオレが思い直したその時。

 

『仕方ないよ、そんなの。演奏している連中を除いて、坊ちゃんを含めてみんなフィオレの歌に聞き入っていたんだから』

 

 シャルティエの横槍が入った。

 

「特別なことはしてませんよ。普通に、丁寧に、とちらないよう、しっかりお腹から声出しただけで」

『もう、意味わかってて言ってるでしょ? 君も坊ちゃんと同じく、天から二つも三つも与えられてる人間なんだねえ』

 

 シャルティエに促され、そっと周囲の人間たちの顔を見る。

 どこか放心状態になっている人間もいれば、フィオレを興味津々に見やっては、傍の人間とひそひそ言葉を交わす人間もいた。

 最も、フィオレたちが演習場に到着したその時から、理由はわからないが視線は集めてしまっている。

 おそらく宮廷楽師ではない『隻眼の歌姫』の噂で、隻眼を装うフィオレに注目が集まったのだろうと予測した。

 

『僕たち、注目の的ですよ!』

 

 何ぞと抜かすシャルティエの言葉以降、視線を気にするのはやめたため、さっぱり気付いていなかったが。

 着席した直後から、式典の内容には眼もくれず絶えず周囲に気を配る。

 この一ヶ月、空いた時間を使って情報収集に明け暮れた結果、キナくさい情報がいくつか手に入ったのだ。

 いわく、ファンダリアとの蜜月関係が気に入らず、国賓が来るこの時期を利用して、隣国との国交断絶を狙っている集団がいるとか何とか。

 国と国とを仲たがいさせることは、結構たやすい。国賓を招いた国が粗相を働くだけで、簡単にヒビが入るのだから。

 国交断絶を狙う輩としては、例えばこの式典を中止させるだけのことをしても目的は達成に近くなる。国賓に害を及ぼすようなことがあれば尚良し。

 不審者の侵入は会場警備の人間が担当することだが、不測の事態が発生した時、フィオレたちが遅れを取ろうものなら、より重い責任が二人の肩にのしかかる。

 それだけは、何としても避けねばならない。

 ヒューゴ氏の顔に泥を塗ることなら積極的にやったって構わないが、その責任によって、セインガルドという一国家に身柄を縛られる事態だけは避けなければいけない。フィオレには、個人の目的があるのだから。

 ──などというフィオレの私情が挟まりまくった心配を他所に、式典は無事終了した。

 国賓の席から、国王と王太子が退席する。会場外において彼らを警護するのは、此度の式典と祝賀会警護の任務に当たるダグ兄弟の管轄だ。

 彼らが一歩外へ出れば、式典における潜入警護任務は終了である。

 最後まで気を抜いてはいけない。彼らを見送るまでが警護と、フィオレがこっそりと二人に視線を向けた、その時。

 

「!」

 

 運悪く王太子と目が合った。瞬きをひとつして視線を外すも、未だ視線を向けられているような気がしてたまらない。

 情報収集において、以前フィオレが初めて登城した際、囁かれた事柄も噂のひとつとして存在していた。

 髪の色が似ているという理由で、フィオレが隣国王家の落胤なのではないかという、事実無根のものである。

 現ファンダリア王には一人息子しかおらず、王妃は大分前に崩御されているらしい。

 王の血筋に連なる人間がいないわけではないが、遠縁ゆえに新雪のような髪色の持ち主は現国王、そして王太子の二人しかいないのだとか。

 つまり、落胤だとしたら現国王以外に当てはまらない。

 ……と、このように考えていくと彼がフィオレを注視する理由など、考えるだに愚かしく感じられるのは気のせいだろうか。

 やがてつつがなく彼らは退場し、ようやくフィオレは息をついた。リオンと共に『隻眼の歌姫』として退場し、馬車発着所まで目指す。

 

「……あの王太子、お前を露骨に眺め回していたな。あの噂のせいか?」

「おや。ご存知でしたか」

 

 この日に向けて特別休暇が当てられていたフィオレならばともかく、この少年はきちんと客員剣士として割り当てられた任務をこなしていた。

 そういった噂を仕入れるような暇があったとは思えないが……

 

家政婦(メイド)たちが話していた。ファンダリア王達は、お前が落胤でないかを確かめるために、『隻眼の歌姫』を指名したのではないかとな」

「それはそれは。奇妙なお話で」

 

 マリアンに聞いたわけではないらしい。

 彼はマリアンが情報の発信源だと、よく「マリア……」と言いかけて訂正する。

 

「可能性が国王陛下ご自身にしかない以上、ご自分で確認とはおかしな話です。身に覚えがあるとしても、見目や話で真偽が判明するようなことでもないのに」

「僕もそう思ったんだがな。そうでもないらしいぞ」

「え?」

『王妃が崩御されてから、今の王太子の乳母との関係がどーたらこーたらで結構つじつまが合う話だったんだよねー。ファンダリアでは密かに流行った醜聞だったらしいよ。国王との関係を噂された乳母は、ちょっと前にあった内紛に巻き込まれて、命を落としたとかで』

 

 積極的に情報収集していたフィオレではあるが、その話は聞いたことがない。

 その話について、とにかく言えることは。

 

「……人をダシに、よくもまあそんな噂が次から次へと……」

『で、フィオレ。実際はどうなの?』

「とりあえず言えるのは、私は雪国出身の人間ではありません、ということですね」

 

 確かに産みの母にしてこの名をくれた女性は雪国出身だが、それだけだ。

 じゃあこの噂は事実無根なんだね、というシャルティエと呑気なおしゃべりを興じつつ、馬車乗り場へ到着した矢先。

 ジルクリスト邸より出立した、見覚えのある馬車のすぐ近くで、人だかりが出来ていた。

 公賓とはいえ、フィオレたちは一般の招待客らとほぼ同時……しかも会話をしながら退場しているため、随分遅れてしまっている。

 人だかりの服装からして招待客、すなわち上流社会の人間たちが成しているものだと思われるが、さて、人だかりの中心には誰がいるのやら。

 人だかりの大半は、腰から下がひらひらしている。つまり、貴族の令嬢たちが中心に形成されているようだ。

 警備兵が何人か集まってはいるものの、解消には至っていない。

 

「女性が集まっているということは、人死にではなさそうですが……」

「馬車に乗ればわかることだ。行くぞ」

 

 人だかりに注目を寄せ、立ち止まる招待客の間を縫うように馬車へと向かう。

 徐々にすり抜けるのがきつくなってきた人ごみの中、どうにか馬車へとたどり着いた。

 ちらりと隣の馬車を見れば、なんと国賓送迎用の馬車である。今回の国賓と言えば、彼らしかいない。

 

「どうせ彼らとは夜にもう一度顔を合わせるんだ。観察したいとは言うなよ」

「言いませんよそんなこと。それよりか、小休憩したいです」

 

 何のつもりでジルクリスト家所有の馬車の隣でいつまでも出発しないのか、気にはなるが二人の知ったことではない。

 御者の男性に出立の準備をするようリオンが話しかけた、その時。

 不意にフィオレは彼の上着の裾を小さく引いた。

 

「なん……」

「失礼。すぐ戻りますから、黙っててくださいね」

 

 ちらりと周囲の人間を見回し、フィオレはそっと隣の馬車へと駆け寄った。

 幸いにも、馬車の傍に立っていた人物たちには気づかれていない。裾をたくし上げたかと思うと車輪に足をかけ、一気に箱型荷台の屋根部分によじ登る。

 制止の声を上げようとしたリオンだったが、次の光景に思わず言葉が詰まった。

 その両手が大きく広げられ、飛んできた何かを慎重に抱きとめる。次の瞬間に弧を描いて飛来した火矢を、なんと片手で掴んだのだ。

 それも束の間。

 その二つを持ったまま屋根から飛び下りる。唖然としているリオンのところまでやってくると、早く馬車を出すよう囁いた。

 フィオレが携えていたのは、中に妙な色の液体が入っている瓶と未だ炎を宿している火矢である。

 事態を素早く汲み取ったリオンは、彼女を荷台へと引き上げた。搭乗者を確認した御者が、手早く馬を操ってジルクリスト邸へと出発する。

 箱型の荷台の中、馬車の中とは思えないようなふかふかのソファに腰を下ろしたフィオレは、狂ったように火矢を振っていた。

 液体が入った瓶は、リオンに預けられている。

 

「……駄目ですね。液体が染み込ませてある布に着火しているせいか、消せません」

「この瓶の中身も同じものだと思うか?」

「燃えていない部分の染みが同じ色だから、可能性は高いと思います」

 

 間違っても馬車に火をつけないよう慎重に火矢を扱いながら、瓶を取り落とさないよう厳重に抱えているリオンに提案をした。

 

「この火矢はともかく、こちらの可燃性だと思われる液体が何なのか、国立研究所で解析できないでしょうか? 組織的な犯行なら、証拠の一環に繋がるやもしれません」

「……そうだな。国立研究所へ行ってくれ。屋敷へはその後だ」

 

 王城そばにある国立研究所にて事情を話し、瓶の中身の調査を依頼する。そして二人はようやく屋敷へと帰りついた。

 が、リオンはせわしなく正面の扉を開けている。

 

「僕はこれから、さっきの放火未遂を報告してくる。あれから何も起こらなかったとは限らないし、お前が国賓送迎用の馬車によじ登ったことも目撃されているだろうからな」

「それでしたら、研究所に行った後で直行を命じてくだされば……」

「今回僕が表向きに任せられているのは『隻眼の歌姫』の世話役だ。潜入警護のことを将軍達はご存知だが、下っ端は知らない。お前を伴っていけば兵士たちに怪しまれる」

 

 つまり、フィオレには待機を命じるということだ。

 いつもの客員剣士姿になったリオンが、シャルティエを伴って再び馬車へと乗り込んでいく。

 その様子を私室の窓から見送ったフィオレは、結っていた髪を解いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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セインガルド建国記念式典~絢爛豪華、狂乱戦慄の夜会~王城への襲撃

 ダリルシェイド、セインガルド建国記念式典後編。引き続きお仕事は続きます。
 後のパーティキャラクター・ウッドロウとちらっと接触。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時の川は静々と流れ、世界はやがて黄昏の時を迎えた。

 逢魔が時を過ぎ去れば、じんわりと月が仄明るい光の衣をまとい、瞬く星々が漆黒の空を彩る。

 夜空と呼ばれる天然のタペストリは、古来より人々を魅了してやまない。

 フィオレもまた、けして届かぬ世界の天井に魅了された一人だった。

 それは両眼をさらすのが何ら問題なかった頃も、現在も変わらない。

 こうして星空を眺めると、知識の塔で触れた書物のことを思い出す。星図を眺めては、フィオレの知る星の位置と変わらないことに内心驚き、星座にちなんだ物語に触れては、

 

「あんな点のような星を無理やり線で繋げて、形を捏造して。更に物語まで作るとは、人間という生き物は妄想の塊ですね」

 

 などと抜かしては、フィリアを絶句させた記憶が一番新しい。

 フィオレは現在、ジルクリスト邸の私室ではなく、王城の一室で支度を整えていた。

 あれからすぐにリオンは戻ってきており、事の次第をフィオレに説明してくれている。

 何でも、式典による野次馬の中で弓矢を構えた人間がいたらしく、取り押さえる前に一矢放つことを許してしまったらしい。

 放火を未然に防いだフィオレのことを改めて報告したリオンは、彼女への労いを言付かっていた。

 

「それはよろしいのですが、そろそろ登城準備をお願いします。王城の一室に控え室を用意してもらったので、そこで身支度を整えようかと」

 

 別にフィオレの我侭ではない。

 祝賀会の前座に独唱会の開催が決定されているため、リハーサルなどの手間を考えて用意されたそれをありがたく使うつもりだったのだ。

 それが、太陽が傾きかけた頃のことである。

 ココンッとノッカーが鳴ったかと思うと、扉が開いた。

 現われたのは表向き『隻眼の歌姫』パートナー兼エスコート役であるリオンである。

 彼の姿は、昼間とそれほど変わらない。強いて言うなら、白かったドレスシャツが黒いものへ変わっていることか。

 

「……!」

 

 了承も得ずに扉を開いたということは、それなりに気が急いているのだろう。

 この時間帯にあまりぐずぐずしていると、不測の事態が発生したとき対応が後手に回ってしまうから、仕方のないことなのだが……

 控え室の中にいたフィオレを一目見た瞬間、彼は瞬時に頬を紅色に染め、その整った鼻から赤いものを滴らせた。

 

「やはり、あなたには刺激が強すぎたようですね」

 

 扉を閉め、鼻を押さえるリオンに手巾を持たせて手近な椅子に座らせる。

 頭だけを少し前方へ傾けさせ、背中を背もたれに押し付けると、フィオレは小さな鼻をしっかりと摘まんだ。

 

「ここの位置で鼻、摘まんでてください」

 

 リオンの手を取って自分で圧迫止血をさせ、その間に備えつけられていたレンズ式冷蔵庫から、なぜか入っていた氷嚢を取り出す。

 持ち込んだ厚手の布を巻きつけて鼻の根元に押し付ければ、彼は冷たそうにみじろぎをした。

 

『し、刺激っていうか何ていうか……何で昼間と服装が変わってるのさ!』

「殿方と違って、女性は昼と夜とでは纏うものが全然違うものなんだそうです」

 

 主人の代わりにか、逆切れのような抗議を放つシャルティエに飄々と答える。

 彼の言うとおり、フィオレは現在昼間とはまったく違う礼装に身を包んでいた。

 ローブ・デコルテと呼ばれる女性用夜式礼装……ではあるが、こちらもオーダーメイドにつき一人でも着脱が可能になっている。

 

『しかも、何でいつもより胸あるわけ!? フィオレ、ひょっとして隠れきょにゅ「下世話な詮索はお断りです」

 

 肩も背中もむき出しであるために、コルセットどころか下着……戦闘時には邪魔な胸を押さえるサラシすら着用は許されない。

 ゆるりと下がった裾の両端には大胆な切れ込みが入っており、歩くたびに太腿が見え隠れという、同性からは反感を買うこと間違いない仕様になっている。

 昼間は使えなかった足技が使用可能になるため、フィオレに文句は無い。

 首に巻きついていたチョーカーが大胆に開いた胸元を彩る豪奢なネックレス、眼帯が宝石細工のあしらわれた、ヒューゴ氏からの贈り物に変更している以外、変わっていないのはわずらわしい装飾類の類だけだ。

 

『うう……昼間が清楚で綺麗だっただけにギャップがはげしいよー。色っぽいよ妖艶だよ僕だって体があるなら速攻で鼻血吹く自信あるよー。いつものフィオレはどこー?』

「シャルティエは、色っぽい女は苦手なんですか?」

『嫌いじゃないけどさあ……僕は、普段のフィオレのほうがいいな』

「私も、これはやりすぎだと思いましたがね。まあ王太子殿下に擦り寄るなら、ちょうどいいかと」

「……何?」

 

 これまで黙して会話を聞いていたリオンが、不意に声を上げて氷嚢を払った。どうやら出血は止まったらしい。

 

「警護するなら近くにいたほうが楽ではありませんか。この格好なら『玉の輿を狙う図々しい庶民』と他の招待客も目的を勘違いしてくれるでしょうから、他の殿方から誘われることもないでしょう」

 

 こういった夜会の場において、パートナーを伴うのは必然だ。

 しかし会場内においてダンスが始まったら、誰と踊ろうがそれは自由である。

 

『でも、危ないよそれ。その色香に負けて相手が本気になっちゃったらどうするのさ? 君の腕っぷしなら物理的には逃げられるかもだけど、国際問題になったらまずいよ』

「噂によるリサーチによれば、王太子殿はなかなか理性的な方だそうですので、それはないかと。社交界の場では気に入らない女でも、無碍に扱うのはマナー違反ですし」

 

 転がった氷嚢を拾い上げ、レンズ式冷蔵庫の冷凍室に保存する。

 椅子にかけておいた薄手のケープを着けると、少しだけ寒さは和らいだ。

 冬に向かおうとしているこの時期、フィオレの格好では普通に寒い。

 いくら女性は肌を見せれば見せるほど正式だとされていても、ここまでの格好の令嬢はいないだろう。いくらなんでも。

 立ち上がったリオンと共に会場へ向かおうと、フィオレは控え室の扉を開けようとして……リオンに遮られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 隻眼の歌姫による独唱会は、本人の独断によるものではない。

 事前に開催側との綿密な打ち合わせによって作成されたプログラムによって構成されており、演奏の類は宮廷楽師たちが担当するのだという。

 そのため、事前に持ち歌の楽譜提出を求められていたが、フィオレはこれを拒否した。

 好きで拒否をしたわけではない。歌唱曲の楽譜など彼女は始めから持ち合わせておらず、今から作っていたのでは到底間に合わないためである。

 そのため、演奏を担当する宮廷楽師たちはフィオレの練習に合わせての変奏曲作成を余儀なくさせられた。

 幸いにも、彼らはフィオレの不手際を笑顔で許してくれたが、真相は定かでない。

 そんなわけで。フィオレは今、本来宮廷楽師が日々培われた歌声を披露するための舞台上で、図々しくも歌声を披露しているわけだが。

 

 

 ♪ 幸せはまるで舞い散る雪のように儚くて

 ほんの小さな欠片でふと気がつけば消えてしまう……

 

 

 そら恐ろしくなるほど、祝賀会の会場たるホールは静まり返っている。

 沈黙の中で演奏と、ただひとつ人間の声──フィオレの歌声が響き渡っているのだ。

 現在会場の照明は落とされており、舞台上のみが際立つかのように照らされている。

 フィオレの位置から国賓の姿は確認できないため、不測の事態が発生した際は、リオンのみが動かなければならない。

 シャルティエもいることだし、昼間より更に動きにくく、本来の武装すらないフィオレを頼りにするほど、彼は腑抜けていないとは思うが。

 

 

 ♪ 降り積もる雪は 当たり前の日常

 地面へ落ち黒ずむ雪を誰が愛でるだろう 誰が振り返るだろう

 新雪は幸せ 降り積もる雪は日常

 どうか、気付いてください

 幸せはほら、あなたのすぐ傍に──

 

 

 ファンダリアに捧げる、雪をモチーフにした歌唱曲が終了する。

 この歌は急遽、ファンダリアの何かをモチーフにして新曲を作れ、というヒューゴ氏の命令に従ったものだ。

 言いつけられたその夜、彼の愛飲する蒸留酒に下剤効果のある植物の種を磨り潰して混入してやったのは若気の至りだと主張してみる。

 あれから彼は数日間、腹を下したとかでおかゆの類しか食べていなかった。その間晩酌も控えていたのだから、いい薬だとも主張してみる。

 プログラムにあった全ての曲が終了し、フィオレはその場で一礼した。ずっと照明を浴びていたため、薄着がかえって快適である。だが、それはきっと束の間だ。

 薄暗かった照明が灯り、会場内が照らし出される。遅ればせながら響き始めた拍手を聞きながら、フィオレは閉じた緞帳の中で大きく息をついた。

 

「お疲れ様!」

「……お疲れ様、です」

 

 演奏を担当した楽師たちと労いを言い合うも、酷使した喉は少しかすれている。

 何せ、これだけ連続して喉を歌唱のみに使ったのは初めてなのだ。

 舞台袖で持参した茶をすすっていると、リオンが迎えにやってきた。

 

『お疲れフィオレ。すっごく良かったよ! 僕、久々に感動しちゃった!』

「それはようございました。でもまだ、お仕事はあるんですよ」

「……国賓たちの受けはよかったぞ。歌姫の面目躍如だが、もう一働きしてもらうからな」

 

 普段通り無愛想で、フィオレからそれとなく視線をそらしているリオンが、潜入警護を思い出させる。

 わかってます、と応じて、フィオレは会場へと足を踏み入れた。

 途端、招待客たちの視線がフィオレたちに殺到する。

 先ほどまで舞台で独演会だった人間が目の前に現われれば、それはしょうがない。

 公賓『隻眼の歌姫』の席は、国賓席のすぐ近くだった。警護も兼ねてだろうが、これでは嫌が応にも目立ってしまう。

 しかしそれをリオンに訴えたところで、彼には何も出来まい。

 独唱会の後は、セインガルド建国記念を祝しての祝辞が述べられる。

 国賓、そして何人かの来賓の人間が次々に舞台へ呼ばれ、上がっていく中、フィオレはこれ幸いと休憩をしていた。

 祝賀会は晩餐会を兼ねているにつき、貴族たちの晩餐に相応しい宮廷料理が用意されている。あまり食欲はないが、祝賀会はまだ終わらないのだ。必要最低限を、つまむ。

 無理に詰め込んでも醜態に繋がるし、この礼装は薄手につき、腹が膨れたらそのまま見えるため、非常に格好悪い。更にこのような場では、女性は提供された食事を残せば残すほど礼儀だ、と聞いたような気がする。

 やがて、フィオレとしてはもう少し長くても構わない祝辞、そして答辞が終了した。

 司会者の口からそれが伝えられ、ほどなくして流れていた演奏の調子が変わる。祝賀会が舞踏会に変わった瞬間だった。

 なし崩しに祝賀会が終わり、後は社交的な意味合いの強い夜会とそう変わらないものだと思ったが──

 

「何をボーッとしている。王太子が動いたぞ、目を離すんじゃない」

「そんなこと言われても、不用意に彼らを直視すると眼が合うのですから、仕方がないではありませんか……」

 

 彼に言われるまでもなく、それとなく国賓たちの様子をうかがっていたのだが、王太子に目を向けると五回に一回の割合で眼が合うのだ。

 試しに一度、眼をそらさず見つめていたら動じることなく微笑まれてしまったため、以降彼の観察は自粛していた。

 リオンに促され、中央のダンスホールへ歩む。彼とは体裁程度に一曲踊った後で、リオンはそれとなく国王の、フィオレは露骨に王太子へと近寄り、警護を続ける手はずだ。

 現在国王は着席したまま、王太子はセインガルド王息女……フィンレイの婚約者である王女の手を取っている。

 王女の未来の夫であるにもかかわらず、彼は会場警護を理由に出席していない。ということは、王女は王太子のパートナーにあてがわれていたりするのだろうか。

 となると、べったり張り付く、というのは少し難しくなる。売りたくもない媚を売るよりは、死角から監視をしつつ警護という形を取った方がいいだろうか。

 そんなことを思いながら、思いの他単調だったステップを踏み終える。

 演奏が終了し、次なる曲へ移行する最中、フィオレはリオンの手を離そうとした。

 しかし、何を思ったのか彼は手を離そうとしない。それどころか離れようとしたフィオレの手を握り、引き寄せる有様である。

 手はずと違うその行動に、いぶかしがってリオンを見やった。相変わらず視線はずらしたままで、彼は口元を小さく動かしている。

 ──シタガエ。

 ざわめきの中、かすかに届いたのはそんな指示だったように思う。どうせもう二曲目が始まろうとしているのだ。

 今から振り払ったところで、王太子のところへはいけない。

 ──ギョイ。

 聞こえたかどうかはわからないものの、フィオレは再びリオンの手を取った。

 

 

 

 二曲目が終了し、ようやく手はず通り二人が離れた。途端。

 

「こんばんはリオン様。あなた様もご出席されていたんですね」

「どこの誰とも知れぬ歌姫の世話役など、たいへんな役目を押し付けられて」

「気晴らしにわたくしと……」

 

 リオンはあっという間に貴族令嬢に囲まれた。なるほど。彼はこれの気配に気付いて、別行動をためらったのだろう。

 幼いながらも眉目秀麗な外見、年不相応の実力にストイックな性格もあってか、親の七光りなどなくとも、リオンには年齢貴賎問わず女性から人気があった。これでヒューゴ氏との血縁が判明したら、資産狙いの街娘も急増することだろう。

 しかし、彼の心配をしている余裕はない。

 王太子の警護があるからとか、そういう理由ではなく。

 

「お初にお目にかかります、隻眼の歌姫!」

「覚えておいでですか? 以前噴水にて緋色の薔薇を捧げた……」

「フィオレンシアさん、わたくしめと今宵舞踏など……」

 

 フィオレ本人も、どこの誰だかわからない御曹司たちに手を取られそうになっていた。

 そんなことを許したら最後、礼儀作法として踊ることを拒否してはならない。

 持参した扇を広げて引きつる口元を隠しつつ、空々しい笑顔で誘いを回避していく。

 ようやく一息ついたとき、フィオレはホールの壁際、窓付近に立っていた。

 三曲目の演奏が始まっており、中央の辺りで様々な男女が入り乱れている。王太子の姿といえば。

 

「どなたをお探しかな、レディ?」

 

 ──そう。驚いたことにこの男、御曹司連中から逃げるフィオレの後を追って、ここまでついてきてしまったのである。

 驚いた仕草を見せながら、フィオレは片足を軽く引いた宮廷式の辞儀をした。

 

「初めまして、隻眼の歌姫。私はファンダリア国イザーク王第一子、ウッドロウ・ケルヴィンと申します」

「フィオレンシア・ネビリムです。どうぞフィオレとお呼び捨てください。この度はこのような場にお招きいただき、まこと光栄と存じております」

 

 本音は余計なことしやがってこの野郎、といった状態だが、いつぞやの時とは違う。

 そんな本音をブチまげようものなら、あっという間に国際問題へと発展するだろう。

 にこやかに猫をかぶりつつ、フィオレは初めてこの王太子をまっすぐ見つめた。

 フィオレのものよりも青みがかった髪が夜風を受けて軽やかになびき、水の色をたたえた切れ長の瞳がフィオレを見下ろしている。

 噂どおり容姿端麗にして英姿颯爽な立ち姿は、よく雪焼けした肌とも相まって、凛々しき貴公子といった風情だ。

 ──この色男ぶりなら、フィオレが擦り寄ったところで不思議ではあるまい。

 本当は初対面の人間に呼び捨てられたくないのだが、ここは演技だ。

 

「どうか気になさらないでください。音に聞こえし隻眼の歌姫に、一度お目にかかりたかったという我々の我侭に過ぎないのですから」

「お恥ずかしゅうございます。お耳汚しとならぬよう、精一杯努めさせていただきました」

「耳汚しなどと、ご謙遜を。天上の歌声とも、船乗りをその歌で魅了する人魚と喩えるのもためらわれる素晴らしいお声でした。是非我が国の民に聞かせたい」

「わたくしのような者には、過ぎたお言葉でございます」

 

 自分で言っていて、トリハダが立つような慣れない会話を続けていく。

 そろそろフィオレの方も、お世辞を連打する必要があるだろう。

 

「噂に聞き及んだものではございますが、王太子殿下は見聞を広めるがためファンダリア各地を旅されているとか。勇敢であらせられますのね」

「勇敢など。私はただ、周囲の迷惑も省みず落ち着かない放蕩者でしかありません」

「玉座にお座りになっているだけでは見えないものなど、それこそ山のようにございます。されど王は納める民のため、山の如く泰然としていなければなりません。雪焼けをされるほどに地べたを歩き、民の営みを間近に見るあなたの目はとても澄んでいます。こうして、吸い寄せられてしまうほどに」

 

 意外そうに僅かばかり目をみはっている王太子──ウッドロウの瞳を見上げ、微笑みかけた。

 口元がひきつりそうになったのを我慢したのは、ご愛嬌である。

 普段お世辞など言い馴れていないフィオレの言い方が、逆に嫌みったらしくなってないといいのだが……

 再び見つめあったその時、三曲目の演奏が終了する。

 それに気付いた彼は、すい、と優雅にフィオレへ手を差し出した。

 

「……私と踊っていただけますか? フィオレさん」

 

 ──とうとう、この時が来てしまった。

 はっきり言えば警護のためであっても、ご遠慮申し上げたい。

 護衛対象がすぐ近くにいるのはいいが、視線を合わせたり表情を調整するなど、かなり労力を使うのだ。

 しかし、断れるはずもなく。

 

「喜んで」

 

 目論見どおりの展開になぜか達成感はなく、差し出されたその手に触れた。

 大きな手のひらは見かけよりもゴツゴツとしており、彼が見せかけだけの優男でないことを物語っている。

 そのままダンスホールへとエスコートされれば、人々にざわめきが駆け巡った。当然だ。

 ファンダリア王太子殿下が公賓とはいえ、どこの馬の骨とも知れぬ娘と踊ろうというのだから。

 扇を広げて隣人とヒソヒソと言葉を交わしながら視線を寄越す婦人のすぐ傍を通過し、ダンスホールにて向かい合う。

 そのまま始まった舞踏を、フィオレはどうにか無事に乗り切った。

 ここまで顔面筋肉を酷使したのも久々のことである。もちろんそちらにかまけて踊り損ねるということもない。

 その辺り、多少ウッドロウのリードに救われた点が多々あるのは業腹だが……足をもつれさせてばったりぶっ倒れるよりはずっとマシである。

 最後のフレーズが終了し、互いに一礼をし合うその瞬間。リオンがいるはずの方角を見やれば、なぜか彼の姿はない。

 ダンスホールは国賓席のすぐ近く、フィオレの近くに二人がいることを確認して、会場のさりげない見回りに向かったのだろうか。

 そう思って顔を上げると、ウッドロウの上背の向こうに件の少年がおり、数人の令嬢に声をかけられていた。

 雰囲気からして断っているようだが、なかなか相手もしつこいようである。

 少年自身のためというよりは、警護を怠けられては困ると急遽、助けに行こうとして。

 

「失礼」

 

 ウッドロウに再び手を取られてしまった。間違いなく彼に視線を向けていたせいである。

 彼のエスコートによってダンスホールから連れ出されたフィオレは、国賓席の近くであることをいいことに、少年の救出を見送ることにした。

 ここで無理やり王太子殿下と離れようとしても、角が立つだけだろう。

 

「時にフィオレさん」

 

 会場内を歩いていた給仕の青年よりグラスを二つ受け取り、そのひとつをフィオレに差し出しながら、ウッドロウは声を不自然に潜めた。

 

「あなたは、あなた自身に関する噂をご存知ですか?」

「……存じております」

 

 すっとぼけてやろうか、という考えがちらりとかすめるも、彼らの誤解を解くにはちょうどいいかもしれない。

 微炭酸のアルコールが揺れる細い筒型のグラスを受け取り、フィオレは肯定を示した。

 

「ですが、私は「セインガルド王より、多少のことは聞き及んでおります。記憶をなくされているとなれば、その可能性は高い。どうか、場所を変えてお話できませんか?」

 

 すぐに否定しようとして、王太子に遮られる。ここで自分は違うと主張してみたところで、その場しのぎの嘘と取られかねない。

 しかし、だからと言って国賓と二人きりになるつもりはなかった。

 さてどうしたものかと思いつつ、踊った直後で乾いた喉を潤そうと渡されたそれに口をつける。

 途端。

 

「!」

 

 淡い琥珀色のそれを一口飲んだ瞬間、強烈な違和感を覚えた。すぐさま吐き出したいのをどうにかこらえる。

 フルートグラスを携えたまま、フィオレは笑顔を作ってウッドロウに一礼をした。

 

「──王太子殿下。私は、雪国出身の人間ではありません。どうかそのことを、お心に留めておかれますよう」

 

 その後は、きびすを返して未だに令嬢に囲まれたリオンのもとへと赴く。

 鼻白む令嬢を押し退けるように彼の耳元に行き先を告げると、フィオレはわき目もふらず夜風の吹き荒れるバルコニーへと向かった。

 月の光が朧に満ちる中、王城に面した庭や城下町の光景がぼんやりと浮かび上がる。

 その幻想的とも言える光景を一瞥もせず、フィオレはグラスの口を真下に向けた。

 ちょうどその時、尋常でない雰囲気を察したのか、リオンはシャルティエを伴ってバルコニーに姿を現している。

 

「どうした」

「……しくじっ、た」

 

 敬語が完全に抜けているフィオレの言葉など、これまで数回しか聞いたことがない。

 混乱するリオンに、フィオレは空になったグラスを突き出した。

 よくよく見てみれば、フルートグラスのふちに白い粉状のものが張り付いている。

 

「これは……」

「何か、の。薬、だと。そっ、こうせ、いの麻痺、か、何か、ですかね」

 

 ぶつ切りの単語は、ろれつが回っていない証拠だろうか。

 よく見ればすでにフィオレは自分の足で立てず、バルコニーの柵にもたれかかっていた。

 

「まさか、王太子がお前に薬を盛ったとでも言いたいのか」

「……そ……なこと、は。誰も、言ってません」

 

 リオンにグラスを投げるように預け、両手で柵を掴みにかかる。

 何度も深呼吸を繰りかえすフィオレを見かねて、リオンはむき出しの背中を軽くさすった。

 

「……リオン様、国賓の警護に戻っていただけませんか。大丈夫ですから」

「間の抜けたことを言うんじゃない。隻眼の歌姫の世話役が、本人を放って戻れるか」

「……じゃあ、戻りましょう。本当は、もう少し、頭を冷やしたいところですが」

 

 柵にもたれかかっていた体が、緩やかに起こされる。

 柵と体に挟まれ、たわんでいた胸がもとの形を取り戻したのを間近で見てしまい、リオンは視線をそらした。

 夜風にさらされ冷えていたはずの体が、みるみるうちに火照っていくのがよくわかる。

 フィオレはといえば、先ほどまで力なく柵によりかかっていたのが嘘のよう、しっかりと背筋を伸ばしてリオンに手を差し出した。

 

「?」

「グラス。預かっていてくださりありがとうございました。おかげで割らずに済みました」

 

 なめらかに話す言葉も、繊細なフルートグラスを取る手つきも、もう普段の彼女と変わらない。

 

『フィオレ。ホントに大丈夫なの?』

「体内に入れたのは少量ですし、薬も溶けきっていませんでしたからね。効き目は薄いかと」

 

 ……これは嘘の割合が多い。

 少量なのは本当だが、あの威力からして薬はほぼ溶けきっていた。

 体を動かしにくくさせる程度の麻痺など軽い毒ならば、フィオレの体にほとんど影響はない。

 しかし、毒も薬も効かないはずのフィオレに一瞬でも効果を表したとなれば、かなり強力な毒であることは確かだ。

 毒の混入者が誰なのかも気になる。一番怪しいのはウッドロウ王太子だが、彼はふたつのグラスを同時に給仕の青年から受け取っていた。となれば──

 物思いにふけりながら、バルコニーから会場へと戻った。そのとき。

 

 ガシャーン──……

 

 盛大な音を立てて、すぐ近くにあった窓が叩き割られた。

 ガシャガシャと硝子の破片を踏みしめて現われたのは、頭の先からつま先までを黒で覆い尽くした人間である。体格からして男か。

 その人物だけに留まらず、同じような格好をした人間が次から次へと侵入してくる。長剣、鈍器、棒杖など、種類は様々なれど明らかな武装をしていた。

 とりあえず思ったことは──近衛兵は何をしているのやら。

 

「その場に膝をつけ! 動けば即座に殺す!」

「国王、我々の要求を無視した相応の報いは受けてもらうぞ!」

 

 事前に何があったのかは知らないが、不測の事態であることには違いない。

 会場内を見渡せば、国王は自分の護衛に囲まれていた。国賓の二人はというと──なんと。

 中身と砕けたグラスが散らばる床の傍にウッドロウ王太子が蹲っており、イザーク王が息子の身を案じるかのように、その傍らに跪いている。

 その周囲を何事かと招待客が集まっており、幸いなことに黒子たちに捕まった、などという不運な人間はいなかった。

 代わりといっては、何なのだが。

 

「さあ、お二方。俺たちと一緒に来てもらおうか」

 

 あの給仕の青年が歪んだ笑みを浮かべて、持っていた盆をその場に投げ捨てている。

 隠し持っていたナイフをちらつかせ、イザーク王を促した。

 その彼へ、黒子が二人ほど駆け寄っていく──

 

「リオン様、国賓行きます」

「わかった。あっちは任せろ」

 

 短い打ち合わせを済ませ、フィオレは駆け出した。

 

「そこの女! 動くなと言って「やかましっ」

 

 進路変更をして近寄ってきた黒子の首筋を、腰に提げていた扇で打ち据える。

 通常の扇ではありえないほど重い打撃音を響かせ、黒子はあえなく卒倒した。

 

「ちっ」

 

 それを見た給仕の男が、露骨な舌打ちを放つ。蹲った王太子をイザーク王に担ぐよう命令を始めた。

 男とフィオレの距離は、まだ遠い──しかし。

 

「ぐあっ!?」

 

 突如給仕だった男が悲鳴を上げてナイフを手放した。これまでナイフを握っていた手には、先端を尖らせた鉄の棒──棒手裏剣が突き刺さり、貫通している。

 男が痛みに呻いている間に、フィオレは現場へとたどり着いていた。

 普段ならば一息に間合いを詰める歩法を知っているものの、今の靴では難しい。

 

「いきなりやりたい放題をしてくれましたね。何が目的ですか?」

「っ、てめえみてえな小娘に、ンなこと誰が教えるかよ!」

 

 つまり。彼らは何か明確な目的をもってしてこのような暴挙に出たのか。

 予想はしていたものの、暴言に唾吐きというコンボを見舞われたフィオレは静かに宣告した。

 

「交渉決裂。これより武力行使に移ります。文句はありませんね?」

「御託はいい、速やかに確保しろ!」

「了解」

 

 無事な左手でナイフを拾い上げた男に対し、フィオレは携えていた扇を持ち直した。

 

「そんな扇で何を……!」

「こうするんですよ」

 

 突き出された刃を、閉じた扇で軽く弾く。もちろん、こんな芸当はフィオレだからこそできるわけではない。

 羽根やら絹やらで覆われているが、その正体は銀製の扇……鉄扇ならぬ銀扇である。

 堂々刃物を持つことができないので、持っていて怪しまれないものを偽装してみたのだ。

 慣れない武器とはいえ、こんな相手に手間取るわけにもいかない。ナイフを弾かれてたたらを踏んだ男の顔面を力いっぱい張り倒した。

 

「ガッ!」

 

 とどめに扇で顎を打ち据え、昏倒を促す。

 すぐそばのテーブルからテーブルクロスを引き抜き、細く切り裂いて男の身柄を拘束すると、フィオレは未だ蹲る王太子に歩み寄った。

 

「失礼」

 

 唖然とした様子でフィオレを見つめるイザーク王の傍に座り、ウッドロウの容態を診る。

 想像通り、彼はフィオレが体験したもの以上の感覚に苦しめられていた。

 世の中、何が起こるかわからないものである。

 フィオレは国賓席のテーブルの下から、会場準備中に文句を言われながら仕込んでおいたパナシーアボトルを取り出した。

 夜会開始前、フィオレの準備があまりにも遅かったのは、これに起因する。

 幸いにも王太子に盛られた毒物は、パナシーアボトルの効果により消失したようだ。

 

「ご気分はいかがですか」

「君は、いったい……「大丈夫そうですね」

 

 とりあえず不調は訴えられなかったことを確認して、幼い上司に眼を向ける。彼は数人を相手取りながらも、確実に一人一人を片付けていた。

 フィオレの剣術指南のためか、これが彼自身の才覚か。それは誰にもわからない。

 給仕の男が未だ昏倒しているのを確認して、リオンのもとへと駆け寄る。

 

「状況は?」

「王太子殿下に薬を盛ったと思われる一名を確保。国賓お二方は無事です」

「よし……一気に片付けるぞ」

「了解」

 

 左右同時から切りかかってきた黒子を、一人ずつで担当していく。

 一手一手、手順を踏みながら確実に相手を倒していくリオン、手順などまるで無視、反応を許さない素早さで次々と急所に打ち込んでは昏倒を促すフィオレ。

 二人の戦いは、あっけなく幕を閉じた。

 リオンがシャルティエの柄で相手の鳩尾を突いたのと、フィオレの上段蹴りによる顎への攻撃──脳震盪を起こさせ失神させたことで、勝負はついたのである。

 

「警備兵の連絡は……」

「これだけ騒いでも来ないということは、外でもてこずっている可能性が高い。連中を捕縛したらここを離れず、こもるぞ。ここを手薄にしてまた狙われても困る」

「かしこまりましたかっこ

 

 そのまま篭城を続けること、少し。

 外での攻防を終えた兵士たちの登場により、二人の肩の荷はようやっと下りたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※お酒におクスリを混ぜて飲ますのは、犯罪になりかねない行為です。真似はなさらないでください。
 場合によっては命に関わるため、しょうがなく植物の種子で代用した、と彼女は申しています。

 興奮して鼻血が出る、というのは漫画的表現といいますか、普通はあまりならないそうですが、
【興奮する→心臓がドキドキする→血の巡りが良くなる→もろい血管が裂ける→鼻血ポタポタ】
 程度の解釈でお願いします。


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絡みつく鎖、きしむ絆

 ダリルシェイド王城。
 セインガルド建国記念式典直後のお話。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まとったケープをなびかせ、フィオレは王城の廊下を歩いていた。

 てんやわんやのうちに祝賀会は終了し、招待客のほとんどはそそくさと家路へと着いている。

 国王、国賓、招待客の安全を確保してから会場内の事後処理を行っていると、リオンがフィンレイ将軍に連絡をしてくると、姿を消したのだ。

 会場内に兵士たちがやってきた時点で、外は鎮圧が済んでいると考えるのが普通である。フィンレイ大将が下っ端兵士のようにその辺りをふらふらしているわけがないから、待機場所はわかっているはずだ。

 それほど時間がかかることでもないのに、リオンは戻ってこない。

 ひょっとしたら王城周囲の警備に借り出されてしまったのかと、フィオレは自分で探しに行くことにした。

 

「失礼します」

 

 外へと繋がる廊下を抜け、急遽設置された王城警備本部の天幕に足を踏み入れる。

 そこにはフィンレイ将軍とアシュレイ将軍というダグ兄弟、応援なのか、アスクス将軍が机を囲んでいた。

 フィオレを一目見るなり、その表情に狼狽の色が浮かぶ。

 

「ど、どうなされました、レディ?」

「レディ、じゃないですよ。お疲れ様です、御三方」

 

 時間をかけてそれらしく結い上げた髪は、交戦の影響でほつれている。化粧も崩れているはずだ。それにもかかわらずレディ、とか言い出した辺り、招待客の一人か何かと勘違いしたのだろう。

 格好が格好だからという説もある。

 

「フィ、フィオレンシアか!?」

「他の誰に見えるというのです。酔狂でこんな眼帯つける人間はいないでしょう」

 

 顔を見合わせている三人を尻目に、フィオレはさっさと本題に入った。

 

「い、いやあ吃驚した。俺はてっきり「そんなことはさておいてですね。リオン様をお見かけしませんでしたか? フィンレイ将軍に連絡を、と告げてから姿が見えないのですが」

「……あ、ああ。リオンなら先ほど、確かに報告をしていった。表の仕事がまだ終わっていないからと、戻っていったが」

 

 戻ったということは、行き違いになってしまったのだろうか。

 礼を言って、天幕から出て行く。

 すれ違う兵士の視線を感じながらも、フィオレは足早に祝賀会会場へと向かった。

 その途中で、ふと、シルフィスティアの存在を思い出す。

 

『シルフィスティア。瑣末時で申し訳ありませんが、私の目となり耳となってください』

『いいよー。ボクはフランブレイブと違って、殺戮よりこっちのほうがいいもん♪』

『……しつこいぞ、シルフ』

 

 開いた窓の傍に立ち、フィオレは瞳を閉ざした。

 一瞬の暗闇が拓け、吹き抜ける夜風に視界を委ねる。

 フィオレが歩くより数百倍の速度で、王城の一室一室が見て取れた。

 祝賀会会場にはおらず、隻眼の歌姫に用意された控え室にもいない。

 先に帰ってしまったのかと思い始めた時、王城の奥まった一室が垣間見え──見つけた。

 漆黒の猫毛に、礼装そのものは似合っていても幼さの抜けない少年。

 紛れもないリオンは、何故か表情を強張らせて正面を見つめている。

 色を失いつつある小さな唇が、言葉を紡いだ。

 

「ヒューゴ様。それは──」

「聞こえなかったのかな、リオン」

 

 きまぐれな風をなだめて操り、部屋の全体を見て回る。

 少年の目の前に立っていたのは、フィオレの雇い主でもある彼の父だった。

 関係を隠した親子は向かい合い、一度交わされたであろう会話をもう一度、復唱している。

 その内容を盗み聞いた途端、フィオレは血相を変えて術を打ち切った。

 

『シルフィスティア、ありがとうございます』

『う、うん』

 

 守護者への感謝もそこそこ、大急ぎで現場へと向かう。

 あまり王城に寄り付かない今までが災いし、なかなか一目散に目的の場所へと行けない。

 直前の光景を頭に思い浮かべては似たような場所を探し、間違え、それを繰り返してフィオレはようやく彼らのいる一室へたどり着いた。

 ノックなどはしない。ノブを回して突入しようにも、鍵がかかっている。

 

「ええい!」

 

 髪の中に仕込んだピンを探す手間も惜しんで、フィオレは扉を蹴りつけた。この精神状態では、ピンを使っての開錠も失敗していたかもしれない。

 いくら鍛えていようと、体格自体は細身、そして体重もそこまであるわけではないフィオレの蹴りでは、扉はそう簡単には壊れない。鍵の部分を重点的に蹴り、それでようやく扉は壊れた。

 乱れた息をそのまま、押し込みをかけるかのように侵入する。

 照明はなく、月明かりの差し込む部屋の中。

 初めに眼に入ったのは、数人の男に押さえつけられ、礼装を無残に切り裂かれたリオンの姿だった。

 それを眺めるように離れたところで突っ立っていたヒューゴも、その場の人間たちも、一様に目を見張ってフィオレを注視している。

 抵抗しようとして弾かれたのか、抜き身のシャルティエが壁に突き刺さっていた。

 

「……お探し、しましたよ」

 

 そう、言おうとした。

 曲がりなりにも王城の一室を占拠して、一体何のプレイを愉しんでいるんだと。

 理性的に、この狂った状況をまず把握せんと、一同に冷や水を浴びせるべく、言葉を探して。

 フィオレの口から出てきた言葉は。

 

「ふざけんじゃねえ、この屑野郎!!」

「!」

「クソッタレが! テメエはそれでも人の親か!」

『フィ、フィオレ……!?』

「金持ちなんだからなんとでもなるだろ、適当に人雇って満たせよ、そういうのは! なんで自分のを使うんだよ、使う必要があるのかよ! こっちは欲しくて欲しくて欲しくて、気が狂うくらいだったのにっ!」

 

 ひとしきり、被っていた猫も放り捨てて、怒鳴りつける。

 まぎれもない本意──しかし過去のこと──を何も知らない他人にぶつけて、一足先に落ち着いたフィオレは、息を吐きながら油断なく周囲を見据えた。

 凍りつく一同を睥睨して、未だ押さえつけられているリオンから目を背けたくなるのをこらえて。

 

「失礼、取り乱しました。で、何妖しげなプレイに勤しんでいるんですか。そーゆーのは王城の一室ではなくて、しかるべき場所でお願いします」

「……その王城の一室を破壊しておいて、君は何を言っているのかな」

 

 どうにか驚愕を振り払ったらしく、ヒューゴ氏が押し殺したような声音で口を開く。

 リオンを取り押さえる男たちを視界に入れたまま、フィオレは彼に眼をやった。

 

「歪んだ欲望を満たそうとする変態に言われたくありません。汚らわしい」

「歪んだ欲望とは失礼な。私は、言うことを聞かない私兵に仕置きを加えているだけなのだよ」

「変態だということは認めるんですね。そんな輩を雇い主として許容していたなんて、己を恥じます。むしろ恥を知ってください、色気違い」

 

 大真面目な顔で罵倒するフィオレに、ヒューゴ氏はまともに顔を歪めて、しかし視線をそらした。

 

「……言葉遊びはその辺にしておいてもらおう」

「随分と悪趣味なおしおきですね、その理由とは?」

「私の命令を聞けないと抜かしたのでな」

 

 ということは、国賓を危機にさらした先ほどのことを言っているわけではないらしい。

 てっきりそのことかと思っていたフィオレは、思考を切り替えた。

 

「短絡的ですね。その命令の内容は?」

「君にそれを告げる義務はない。出て行きたまえ、君はリオンに更なる屈辱を与える気か?」

「元凶が何を偉そうにブツクサと呟いてやがる。寝言は寝てから言え、こないだ腹下して寝ゲロしたヒゲ」

「何?」

「なんでもありません。続けるおつもりならどうぞ。私は未成年への性的虐待を看過しませんし、ケダモノを人扱いする気もありません。むしろ、ヒトの危害を加えるケダモノは駆除しませんと」

 

 威圧的に睨みつけてくるヒューゴに、毅然とフィオレが立ち向かう。武装こそ非常に心許ないが、下がるという選択肢はない。

 いざとなれば、奥の手すべてを用いての武力行使も、今の彼女は厭わないだろう。

 膠着状態を嫌ったか、ヒューゴはちらりと視線を流した。

 視線を受けて、リオンを抑える男の一人が短剣を取り出す。

 

「そのリオンが、どうなってもいいと?」

「どうぞ」

『!』

 

 刃をリオンの頬に押し付けるのを認めて、フィオレは即答した。

 シャルティエの、息を呑むような気配が伝わってくる。

 

「これは不思議なことを言うな。救おうとするリオンが殺されるのはかまわないと?」

「これで晴れて私はクビなのですね。大変喜ばしいことでございます。下衆で姑息な雇用主とは縁が切れ、そのご子息とも永遠(とわ)にさようなら。今まで大変お世話になりました。これであなたは陛下に覚えめでたい手駒をふたつも、失うのですね。いい気味でございます。ざまあみさらせ。稀有で貴重なソーディアンマスターの手駒を喪って、素質を持つのかもしれない私には綺麗に見限られて。そこの有象無象達に何ができるのでしょうか? ああ、あなたの特殊な趣味にはお付き合いできますね。精々絡ませて愉しめば宜しいんじゃないでしょうか。さあどうしたのですか。お手々が止まっていますよ。その少年の頬を、刻まないのですか?」

「……」

 

 ヒューゴ氏は沈黙したまま、リオンの頬に刃を押し付ける男も、動こうとしない。

 硬直を余儀なくされた彼らを前に、フィオレは震える手で扇を広げて口元を隠した。

 嘲笑を隠していると、思わせるがために。

 

「彼を盾にすれば、私を従順になるとでも思ったんですか? アテが外れちゃいましたね」

「……ならば。私がリオンに何をしようと、君の関心の外ではないのか?」

「その通りです。けれど、目の前の不愉快な光景を野放しにしておく趣味はない」

「ならば今一度言おう、出て行きたまえ。それならばこれ以上、見なくて済む」

 

 ……ああ。思いの他、頭が沸騰している。

 こんなくだらない口論を断ち切ることもできないなんて──

 きびすを返して、蝶番の壊れた扉から部屋の外へと一歩出る。

 

『フィ、フィオレ!?』

「其の荒ぶる心に安らかな深淵を」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 廊下に闇がわだかまっていることをいいことに、第一音素譜歌にて睡魔をけしかける。

 バタバタと人の倒れる音を聞き、フィオレは振り返った。

 部屋の中にいた人間たち全員が無防備に弛緩し、呑気な寝息を立てている。

 使ったのは、対象無差別威力数倍にした【第一音素譜歌】夢魔の子守唄(ナイトメア・ララバイ)だ。

 ヒューゴ氏はおろか、リオンも寒そうな格好でつっぷしている。

 振り払っても振り払っても浮かんでくる光景に必死で眼をそむけながら、フィオレは壁に突き刺さっていたシャルティエを手に取った。

 手に取ったと、思っていたのだが。

 

 カツンッ

 

「あ……」

 

 シャルティエは床へと投げ出された。

 差し込む月明かりに、よく手入れされた刃が輝く──

 

『さあお嬢ちゃん、あっちのねえちゃん達みたいに死にたくないだろ? 服を脱いで、四つん這いになろうな』

『ガキのくせにしっかり着込んでやがるなあ。メンドくせえ、切っちまえよ』

『おい、邪魔するなって……ああ、もったいねえ。このへたくそ、傷が付いちまったじゃねえか』

『これから傷物にするんだ、たいして変わんねえだろ』

「っ!」

 

 今はもう、跡形もない傷が痛む。

 あんなにきれいな剣ではなかった。血糊と人の脂肪がべったりと付着した、錆すら浮いていた剣だ。

 リオンの姿を見たせいだろうか、あの時の光景がこんなにも鮮明に浮かんでくる。

 

『……フィオレ?』

「……おしおき、終わりましたよね」

 

 最早念話を使うことすら厭うフィオレが、意志を放つ剣に力なく尋ねた。

 否、尋ねてなどいない。自分に言い聞かせるように、再度呟いた。

 

「終わったんだから、連れて帰ったところでかまいはしませんね」

 

 シャルティエを手に取り、鞘へおさめる。

 男たちの中で埋もれているリオンを引きずり出し、まとっていたケープで礼装を切り裂かれている少年の体を包んだ。

 壊れた、否、壊した扉についてだが、後で難癖つけられても困る。

 使えば状況は打破できても、かなり消耗するだろう。そんな風に後先のことを考えられないほど、フィオレは切迫していた。

 

「始まることも終わることも知らず、時空の狭間にて揺蕩(たゆと)うものよ。時の川をさかのぼることを許したまえ」

 

 今や自らの体にしか存在しない第七音素(セブンスフォニム)を用い、扉を中心に譜陣を描く。

 光が走るようにして完成した譜陣は、一際強く輝き──あっという間に消失した。

 輝きの中に埋没していた扉を動かせば、ひしゃげていた蝶番もへし折れていた錠も、何事もなかったかのように機能している。

 一気に重くなった体を引きずるように、フィオレは少年を背中で背負った。肩に担ぎ上げるような元気は、今のフィオレにはない。

 どうにか控え室まで戻った時。フィオレは背負っていたリオンを寝台に横たえると、そのまま膝をついてしまった。

 

『大丈夫? 顔色がすごく悪いよ……?』

「……慣れないことして、疲れちゃったんですよ。早く、リオンを屋敷へ連れて行かないと」

 

 そのためには、少しでも体にかかる負担を減らす必要がある。

 シーツをリオンとシャルティエの上にかけ、フィオレは身につけているものをすべて外した。

 日が沈む前、王城へやってきた格好──少しでも目立たぬよう、普段着として購入した衣装を身につける。

 そして、礼装や装飾類を支給されたかばんに詰め込んだ。これを引き取るのは明日でいい。

 シーツを取り上げると、リオンは変わらぬ様子で寝息を立てていた。ちょっとやそっとでは目覚めないほどに威力を高めたものだ。これは仕方ない。

 ケープを回収すると、切り裂かれた礼装の下から発達しきっていない肢体が覗く。

 その姿と、あどけない寝顔が、フィオレの心を鋭く抉った。

 数人がかりで押さえつけられ、素肌をあらわにした彼の姿が脳裏から離れない。

 もう少しフィオレの到着が遅れていれば、あれ以上のおぞましい経験がこの細い体に刻まれていたかと思うと、吐き気がした。

 ヒューゴへの怒りでも、戸惑いでも、ましてやリオンへの哀れみでもなく。

 忘却の彼方へ追いやれない過去が、フィオレの頭を沸騰させていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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月の真下の帰り道

 ダリルシェイド。
「絡みつく鎖、きしむ絆」直後の話。


 

 

 

 

 

 

 ──温かい。

 リオン・マグナスがまず感じたのは、柔らかな温もりだった。

 不自然な体勢を強制されているのに、不快ではない。常に体が揺れているのは何故なのか、時折首筋を撫でる冷たさは何か……? 

 ひんやりとした夜風は、深い眠りについていた少年を覚醒へと導いた。

 拭っても拭っても、首筋の冷たさはなくならない。それから逃れるように、体をすり寄せ──温もりの正体を知る。

 

「……な、あっ!」

「──ああ。お早いお目覚めで」

 

 すぐ傍から発せられる、どこかぼんやりとした声。

 ここ最近でずいぶん聞き慣れた声の主は、先ほど彼を見捨てたはずのフィオレのものだった。

 それでも揺れは止まらない──フィオレの歩みは止まらない。

 リオンは、幼子のように背負われていた。

 フィオレが常日頃身につける外套で包まれており、わずかな柑橘系の香りが鼻をくすぐる。

 それが彼女が好んで使う香水だとわかった瞬間。どうしようもない恥ずかしさを覚えて、リオンは反射的に降ろせと叫んでいた。

 

「別にかまいませんけど、大丈夫ですか?」

「な、何が」

「ちゃんと足元、というか周囲を見ましょう。屋根の上とか、歩いたことあります?」

 

 言われて、顔を上げる。

 見回せば月が随分近くに感じられ、知っているはずの道が、地面が遠かった。

 ──そう。あろうことかフィオレは、高級住宅街の家々の屋根を伝いながら屋敷への帰路についていたのである。

 

「な、ちゃ、ちゃんと地面を歩け馬鹿者!」

「建国記念を祝して、王城の周囲も市街も人が多かったのでね。あなたを担いでいるところで絡まれても嫌だったので」

「この辺りなら、そんなこと──」

「あなたを背負ったまま、行きずりの強盗と立ち回りはできません」

 

 つまり、屋敷に着くまで降りる気は毛頭ないらしい。

 リオンは内心の狼狽を押し隠し、拗ねたふりをしてフィオレの背中に体を預けた。

 隣接する屋根を伝い、時にリオンを背負ったまま跳躍し、フィオレは歩みを続けている。リオンにかからないようにとの配慮か、前に垂らしている三つ編みがその度に跳ねた。

 手持ち無沙汰な両腕を動かし、目の前の肩を掴む。

 どうにも座りが悪く、ちょうどいい位置を探して彷徨わせていると、フィオレが口を開いた。

 

「私の首に手を回して交差してください。間違っても、首は絞めないように」

 

 言われてようやく、おずおずと腕の位置を固定させる。

 フィオレとますます密着する形になってしまい、自らの意志とは異なる鼓動が伝わらないよう、祈るしかなかった。

 当のフィオレは、彼の内心など一切構った様子はない。

 

「オンブに慣れていないようですね」

「……背負われた覚えなんか、ない」

「?」

「乳母役だった家政婦(メイド)に抱き上げられたくらいだ」

「なるほど」

 

 ぽつりぽつりと戸惑う理由を語るリオンに、彼女はただそれだけを答えた。

 沈黙が再び訪れる。

 細い背中だ。身を預けるのに不安が生じる程度には。しかし不安定なはずの屋根を歩くフィオレの足取りはしっかりとしており、彼女が優れた平衡感覚の持ち主であることを、まざまざとリオンに見せつけた。

 少なくとも、彼は背中に人一人を乗せて屋根の上をこのように歩くことは出来ないだろう。

 ──どうして、こんなことにまで優れているのか。

 剣術のみならず交戦技術の豊富さ、巧さ。

 その在り方に一部の隙もなく、こうしてただ歩いている時もまるで気が抜けていないのだ。もしリオンがこの状態のまま刺そうとしても、彼女は即座に彼を振り払うことができるだろう。

 長いとはけして思わない付き合いの中で、知りたくもなかった彼女の情報を嫌々ながらに知った。

 物事に対する構え方は腹立たしくなるほど泰然としており、水鏡のような表情はほんのわずかな波紋程度にしか乱れたことはない。

 先だってのような激しい感情の発露を、見たことが無いわけではない。彼女は笑いもするし怒りもする。しかしそれは、常に刹那の出来事だ。

 気のせいかと思うほどに、夢であったかのように、スイッチを切り替えたかのように。表に出した感情を、彼女はけして引きずらない。

 記憶を失っているはずなのに十分豊富に値する知識量に、彼の常識では理屈に見当すらつかない不可解な手品。

 雑学なら尋ねればいくらでも教えてくれるのに、彼が本当に知りたいことは何一つ答えようとしない。

 自分とそう変わらないはずなのに、なぜここまで余裕綽々であれるのか。

 出会い、このときに至るまで。比べられているわけでもないのに、劣等感だけがどんどん育っていく。

 認めがたい憧れも、これまでまったく見えてこなかった、彼女自身への興味も。

 しかし、真っ正直に尋ねたところで、またはぐらかされるのは自明の理だった。

 

「無様でしたね」

 

 苦い嫉妬の念から目を背けていると、不意にフィオレが口を開く。

 叱責とは程遠い独白に近い調子ではあったが、それはまるで呪いのように、じわじわと彼の心を蝕んだ。

 

「まさか、単なる一般人の集団にあんな遅れを取るなんて思いもよりませんでした。怪我のひとつもしているのかと思ったら、そうでもないし」

「っ!」

 

 それはつまり、彼女に自分の裸を見られたことを意味する。

 羞恥で頬の血を上らせる彼などまったく気遣う調子もないまま、言葉は更に続いた。

 

「あの連中が手馴れていたのか、あなたが油断していたのか、あのド屑の命令だったのか……ああ、それはありませんか。あなたは命令拒否であのような仕置「やめろっ!」

 

 声音は普段のまま、何の感情も込められていないからこそ、紛うことなき事実が浮き彫りになる。

 それをそのまま突きつけられることに恐怖したリオンが怒鳴ると、フィオレはぴたりと口を閉ざした。

 

「なら何ができたというんだ。抵抗の末にヒューゴ様の配下を傷つけ、殺すのか? 命令が聞けない、と言う時点で僕に非がある。仕置きをされるのは、当然……当然に、決まって……」

「そんなわけありませんよね」

 

 激昂した呼気荒い声音が、徐々に尻すぼみになっていく。

 それに合わせて、フィオレはさらりと否定を口にした。

 

「私が同じ立場だったとしても、できたのは……逃亡くらいでしょうか。最も、私の主はあんな人でなしではありませんでしたが」

「……は?」

『ある、じ?』

 

 さらりと零された言葉は、リオンとシャルティエを混乱の渦に突き落とした。

 つまり彼女は、以前誰か、上流貴族か何かに仕えていた──

 

「まあ、そんなことはさておいてですね。以前から不思議でした。なぜあのような屑に仕えることができるんですか? この世からご退場願うのはまあ、最終手段として。武力行使を伴って何かしら訴えるくらいはできるでしょうに」

 

 それを考える暇もなく、フィオレの質問が続く。

 聞き捨てならないその言葉を聞き、リオンは意味もなく訂正を求めていた。

 

「……取り消せ。ヒューゴ様への侮辱は許さない」

「わかりました、取り消しましょう。なぜあなたは唯々諾々とヒューゴ様にお仕えするのですか? 親子だから、とか、跡継ぎだから、とか、あなたが望んでいることだとばかり思っていましたが、どうも違うご様子ですし」

「……お前には関係ない」

「そうですか。それもそうですね」

 

 いつになくしつこいフィオレではあったが、リオンに拒絶され、未練らしい未練もなく口を閉ざす。

 降り積もる沈黙の中で、再び音を発したのはリオンだった。

 

「……どうして、助けた」

 

 リオンの知る彼女は、けして善人というわけではない。基本的には他人に無関心で、打算が絡まぬ場合は、助けるも見捨てるも気分次第の気紛れ屋だと彼は思っている。

 殺生に関しては、無益にして無駄を好まない代わりに、容赦がない。

 良心や仏心を容易に出さず、これまでためらうという素振りをリオンは見たことがない。

 そして、滅多なことで嘘を言わない。ヒューゴに言った言葉も、彼女の中では事実なのだろう。

 そんなことは百も承知のはずだった。

 自分とて、嫌々ながらヒューゴの命令でフィオレより剣術指南を受けている。

 見捨てられた、という思いは錯覚、言い知れない寂しさは気のせいだと、彼は自分に言い聞かせている。

 ヒューゴの言うとおり、フィオレはあそこで出て行き、離れればそれで彼女の都合はついた。

 それを曲げて、どうでもいいはずのリオンを助けた理由は──

 

「私はあなたを、子供だと思っているからです」

「……!」

 

 その答えは、今のリオンを逆上させるに十分すぎる一言だった。

 言われて、その言葉を理解した瞬間。頭の中が真っ白になるような感覚に襲われ、自分の腕に力がこもる。

 その腕が、目の前のうなじを締め上げるその前に。

 真下から吹き上げる風に気を取られ、リオンは咄嗟にフィオレにしがみついた。

 

「……ィスティア。緩衝材をお願いします」

 

 それも刹那のこと。

 トン、と硬い音が響いたかと思うと、彼は唐突に温もりから引き離された。

 自分の足が硬い石畳に触れたことで、初めてフィオレが地面へ飛び降り、背中のリオンを下ろしたことを知る。

 くるりと振り返ったフィオレは、ただ淡々と口上を述べた。

 

「訂正はしません。謝罪も。他人がどう思おうと、私はあなたを大人だと思っていないんです。そして子供を護るのは、大人の義務だと思っている。だから助けました。私の独りよがりな都合でね」

 

 これといった感情も感じられないまま、再び口を閉ざす。

 まるでリオンが訂正を求めて喚くのを待っているかのように静かに佇む様子が気に入らず、片方だけの眼を睨みつけた。

 

「……そんなことはわかっている」

 

 苦虫を噛み潰したかのような、リオンの声音。それを聞いてほんの僅か、藍色の瞳は見開かれた。

 以前からわかっていたことだ。

 彼女の言動に不愉快を覚え、安易に不満をぶつけただけ、自分の幼さを思い知らされる。

 それだけならばよかった。彼女が自分を子ども扱いするなら、勝手にすればいいと。

 見目や功績だけで自分に対し熱を上げる、何も知らない令嬢や街娘たちに対するように、無関心であればよかったのだ。

 それができなかった。理由は、わからない。

 無視をするに身近すぎるからなのか、彼女を見ていて胸をかきむしりたくなるような焦燥感に襲われる、感情の正体が関係しているのか──

 

「……自覚しているなら話は早い」

 

 僅かに見開かれていた瞳が、もとの大きさに戻っていく。

 そんな些細な動作がわかるほどにフィオレを凝視していた自分に気付いたリオンの心境を知って知らずか、彼女は静かに言葉を紡いだ。

 

「お励みください。私がヒューゴ様に解雇される日を、楽しみにしています」

「……お前に言われるまでもない。精々寝首をかかれないよう、気をつけるんだな」

 

 対峙する二人を、夜風が撫でていく。リオンを包んでいた外套がはためき、即席の三つ編みがなびいた。

 その拍子に紐が解け、月明かりに染められた髪がばさりと広がる──

 

「戻りましょうか」

 

 不意の突風にさらわれた絹のリボンを惜しむことなく見送りながら、フィオレは歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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そして咲かせた、罪の花

 ダリルシェイド。
「月の真下の帰り道」直後のお話。


 

 

 

 

 

 

 

 

 ジルクリスト邸までリオンを送り、フィオレは再び王城へと戻ってきた。

 かばんを引き取りにきたわけではない。

 高級住宅街に王城の塀が隣接していることをいいことに、屋根を伝って侵入する。控え室の窓はリオンを背負って帰還する際に開けてあるため、ぬかりはない。

 誰一人として気付かれずに、フィオレは先ほど、彼らがひと悶着起こしていた一室へと向かった。

 譜歌の効果はとっくに切れている時間だ。

 扉を開けば、その音で目を醒ましたであろうヒューゴ氏とその配下と思われる男たちが、低く唸りながらも体を起こしている。

 

「……リオンをどこへやった」

「お家へ帰しました」

 

 腕組みをして彼らを見下ろすフィオレは、ただそれだけを短く伝えた。

 ヒューゴ氏の顔に苛立ちと、わずかな戸惑いが見て取れる。やがて立ち上がった彼は、軽い手振りで配下たちを撤収させた。

 

「それで君は、何の用なのかな? 私たちを起こすためだけに、わざわざ戻ってきたわけではあるまい」

「──普段はあなたに従順なリオンが、命令を聞かなかった。一体どんなご無体な命令なのか、お聞きしたく参上しました」

 

 本当は、知っている。

 しかしそれを、そのカラクリを彼に教えるわけにはいかない。

 ヒューゴ氏は明らかに信じていない顔で、興味深げにフィオレの顔を眺め回している。

 

「……そうだな。君の上司である客員剣士、リオン・マグナスの代理として、部下たる君に命じよう」

「何なりと」

「大将軍、フィンレイ・ダグの殺害だ」

 

 その言葉を聞き。フィオレは一呼吸の沈黙をおいて、尋ねた。

 

「一体何のために?」

「君が知ることでは──」

「フィンレイ将軍と、あなたのことはね。それで、彼にそれを言いつけた真意は何ですか。彼が将軍に対してそれなりの尊敬を抱いていることは承知の上でしょう。そんな風に反発心だけを育てて、どうするんですか」

 

 そんな質問は予想だにしていなかったのだろう。

 明らかに驚いた顔のヒューゴ氏ではあったが、そんな驚愕はすぐに霧散させている。

 

「心情面を考えればな。だが、私の手駒の中でリオンは、最もフィンレイの信頼を得ている。相応しい人材を選んだつもりだ」

「マリアンをエサに、随分思い切ったことさせようとしましたね。あなたはご子息をブタ箱へ放り込みたいのですか? リオンがしくじれば、疑いはそのままあなたへスライドされるというのに」

「……君には関係のないことだ」

 

 これである。確かに彼らは親子だ。

 目には見えないが、切っては切れない何かが、彼らを繋いでいるのだろう。

 あるいは縛り付けている、か。

 

「ああ左様でございますか。で、方法の選択と日時指定等、ご注文は?」

「これを使え」

 

 ヒューゴ氏が差し出したのは、手のひらに隠しきれるほどの小瓶だった。

 中には、透明な液体が揺れている。

 

「刃物の塗布でいいですか、布に染み込ませての吸引ですか、それとも服毒ですか?」

「気体による吸引では失敗する可能性が高い。刃物を使うなとは言わないが、それを使ってとどめを刺すことが前提だ。いいな」

 

 ──ここで頷かなければ、彼はリオンにこれを実行するよう、強制するのだろうか。

 結果がどうあれ、彼は心を病むだろう。精神に傷がついた少年に、現時点以上の向上は望めない。

 彼が弱体化してしまえば、フィオレは契約を果たせず、飼い殺しの憂き目に遭う。と。

 

「御意」

 

 リオンとフィンレイ。天秤にかけるまでもない。

 内心の打算を胸に、承諾して。

 フィオレは小瓶を受け取った。

 

 

 

 翌週のこと。祝賀会襲撃の噂に揺れるダリルシェイドに、ひとつの訃報が駆け巡る。

 セインガルド国王軍の頂点に立ち、ダリルシェイド七将軍を結成した大将軍、フィンレイ・ダグが惨殺された、と──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……将軍は当日早朝、日課とされている城下町の見回りに赴かれました。これは軍に籍を置く者、あるいは城下町にて、深夜営業の酒場などに出入りする人間であれば、誰もが知っていることです」

 

 謁見の間において、報告書を読み上げる兵士の声が響き渡る。

 ヒューゴ氏のお供として付き添いを命じられたリオンとフィオレは、彼の傍らに控えてその報告に耳を傾けていた。

 他にもミライナを除く七将軍、故フィンレイ将軍の婚約者だった王女、更に彼直属の部下数名が揃う中。ここ連日に及ぶ調査結果が、一同に知らされる。

 

「将軍のご遺体は、軍専用の厩舎付近にて発見されました。植え込みの中へ押し込まれるように放置されていたため、発見が遅くなったのはそれが原因だと考えられます」

「……して、遺体の様子は」

「将軍は、愛剣を手にしておられました。剣には血糊がこびりついており、激しい戦闘が行われたものと思われます。延髄、胸部、腹部、頚動脈に鋭利な刃物で斬りつけられた跡があり、背中に至っては十数箇所に及んでおりました。更にご遺体を調べましたところ、将軍の体からは神経系を麻痺させる毒素が検出されております」

「つまりフィンレイを襲った賊は、複数の上に毒まで使いおったということか!」

「卑劣な……!」

 

 報告を聞くにつれ、王女のすすり泣きが謁見の間に響いた。

 その隣で国王は憤然と玉座から立ち上がり、王の怒りに縮こまる兵卒に怒鳴りつけている。

 冷静に見えて、彼の内心は相当揺れているのだろう。何せ一人娘の婚約者、ひいては自らの後継者を殺されたのだから。

 故フィンレイ将軍惨殺事件の報告を終えて、兵卒は粛々とその場を辞している。

 侍女に支えられ、ここ数日ですっかりやつれた王女が同じく謁見の間を辞する中、沈黙が漂った。

 

「……まさか、大将がやられるとはな」

 

 沈黙を破ったのは、リーン将軍である。

 普段はおちゃらけた印象の強い彼だが、珍しく軽口は叩かれない。

 

「どこの卑怯者が企んだんだか。アクアヴェイルかカルバレイスか、まさかファンダリアってことはないよな?」

「おいおい。国内の人間って可能性はゼロかよ」

 

 そう発言したのは、アスクス将軍である。

 普段国王陛下に対しては似合わない丁寧な口調であるが、年上とはいえ同僚に対して口調は荒い。

 

「いくら建国記念で浮ついた雰囲気だったとしても、国境警備隊に手を抜け、なんて指示は出てないはずだ」

「とはいえ、この時期は大勢の人間が国内やダリルシェイド入りを果たしている。その中に紛れて賊が入り込んだところで気づくことができたかどうか──」

「気付けてないだろうが。実際こうして被害は出た」

「彼に反感を抱いていたダリルシェイド在住貴族や、将校たちがいなかったわけでは」

「祝賀会襲撃を企んだ組織との関連は……」

 

 謁見の間において、七将軍による喧々諤々の議論が繰り広げられそうになったそのとき。

 玉座に座る国王が、腕の一振りでそれを停止させた。

 

「──フィンレイを失い、そなたらの動揺は儂も味わっておる。しかしそれを表へと出せば、この国は更に揺れるであろう……この件において許可を出そう。七将軍全員の介入を許す」

 

 フィンレイを喪ったこととは別種の動揺が、謁見の間を揺るがした。

 とある湖畔の集落でドラゴンの猛威を最大戦力で抑えるべく、七将軍全員を派遣した時とは違う。

 それだけ王は、この事態を重く見ていることの証だった。

 

「ありがたきご決断でございます」

 

 真っ赤になった目を伏せて国王に一礼をしたのは、かの大将軍の弟であるアシュレイその人である。

 

「私は、兄をこのような卑劣な手で殺めた人間を許さない。必ずや、賊供の首をはねて見せます!」

「うむ──リオン・マグナス、そしてフィオレンシア・ネビリムよ」

 

 ふと、玉座の国王から名を呼ばれる。

 フィオレはリオンと共に控えていたヒューゴのそばを離れ、玉座の正面へ移動した。

 

「記念式典及び祝賀会での働き、足労であった。遅くはなったが、褒めて遣わそう」

「ありがたきお言葉にございます」

 

 リオンの形式的な礼に倣い、フィオレもまた頭を下げる。それを認め、国王が小さく手を振る。

 その意味を瞬時に汲み取った侍従長が、すぐ傍にあった盆を取って国王へと差し出した。

 平たい盆に載せられていたのは、見たこともない豪奢な封蝋の押された便箋だ。

 その封蝋に傷をつけることなく、封書は開かれている。

 

「今朝、ファンダリアより隻眼の歌姫宛に届いたものだ。早々に準備を申し付ける」

 

 促され、封書を改める。開いた途端、特殊な香木が放つ香りが鼻を掠めた。

 内容を確認したフィオレは、困惑気味に顔を上げている。

 

「今は……このようなものに応じている場合では、ないのでは」

 

 それは、隻眼の歌姫に是非ファンダリアにて出張公演を行ってほしい、という招待状だった。

 同封されていたのはファンダリア王族の持つ特別通行手形であり、所持していればジェノスの国境はおろか、ハイデルベルク王城の立ち入りまで許されるのだという。同行者も、また然りであるらしい。

 こんなものをセインガルド国経由で送ってきて、掠め取られたらどうするつもりだったのか。

 それだけ平和ボケしているのか、セインガルドを友好国と取っているのか、それとも侮っているだけだろうか。

 もっとも、ファンダリア王族が建国式典及び祝賀会に出席したのは、近い将来結ばれるであろう同盟締結の段取りのためという噂があるのだから、特に不思議な話でもないのだが。

 フィオレの言葉に、国王は重々しく頷いた。

 

「そなたの申す通りだ。しかし、だからと言って起こった事実そのものを伝えることもできぬ。フィンレイの逝去が知られれば、不穏分子がどのように動くやも……今だからこそ、向かってもらう」

「ヒューゴ様の承諾が得られるのであれば、なんなりと」

 

 恭しく承諾の意を示すヒューゴを見、国王は頷いている。そして彼はリオンに目を留めた。

 

「リオン・マグナスよ。そなたに『隻眼の歌姫』の護衛を命じる。本来ならば隻眼の歌姫を取り巻く情報を考慮し、十分な人員を用意したいが……現状においてそれはできぬ。そなたならば、務まるものと信じているぞ」

「はっ。客員剣士リオン・マグナス。隻眼の歌姫が警護、ここに承りました」

 

 フィンレイの訃報、二人に下された任務命令を以って、謁見は終了する。

 七将軍たちは会議室へ行くため。ヒューゴ氏の供として登城した二人は、同氏と共にジルクリスト邸へと戻るために謁見の間を辞そうとした、そのとき。

 見張りの兵士の制止を振り切って現われたのは、先ほど侍女に支えられてその場を辞した、王女の姿だった。

 その形相は蒼ざめていながら鬼気迫るものがあり、涙に潤んだ瞳は尖りきった視線をただ一人の人間に向けている。

 

「いったい何事──」

「お父様。フィンレイを殺めた不埒者の名が、わかりましたわ」

 

 表情とは裏腹に凛とした声音が、謁見の間に響き渡った。

 衝撃の走るその場を見計らったかのように、王女を取り巻くようにして数人の兵士たちが現われる。

 

「お許しください、陛下。しかし、卑劣極まりない方法で大将軍閣下を殺害した人間が、神聖なる御前にて大きな顔をしていることが許せんのです!」

 

 七将軍の誰一人として咎めだてしないということは、彼らは故フィンレイの私兵か、王女付きの兵士たちなのか。

 それはいいとして。彼ら及び王女の視線がフィオレに集中しているのは、気のせいなのかそれとも。

 

「フィオレンシア・ネビリム! ファンダリア王家が落胤にして、汚らわしい暗殺者! もはや言い逃れは聞かぬ、己が命にて、犯した罪を償うがいい!」

 

 ……気のせいではなかったらしい。

 王女を囲む兵士群は一様に腰の剣を引き抜くと、フィオレに向かって突きつけた。

 一同は、驚愕と衝撃をもってフィオレと彼らを交互に見ている。

 フィオレが知る限り、たった一人を除いて。

 わざとらしく視線を向けると、ヒューゴ氏はこれ見よがしに唇を歪めていた。

 あの夜のお返しというわけなのか、彼が王女に情報を流したのは、間違いなさげである。

 それにしても、絶妙なタイミングというかなんと言うか……

 感心するのは後でも出来る。となれば、自分でどうにかするしかない。

 そのとき。

 

「……王女殿下。客員剣士フィオレンシアが、兄上を殺害したという根拠を、お聞かせ願えますか」

 

 そう言って進み出てきたのは、目を真っ赤にしたままのアシュレイである。

 犯人の首を刎ねると宣言していた彼のこと。もしも本当にそうだと判明した日には、本当にフィオレの首を刎ねるつもりでいるのか。

 フィンレイとのつながりで彼とも親交があるのか、王女は気安く頷いている。

 

「そういった目撃情報が寄せられたのですわ。目撃者の詳細は明かせませんが、とにかくその者の証言によりますと、当日早朝の軍専用厩舎付近にて、巡回をしていたフィンレイにそこなフィオレンシアが近寄り、話しかけたというのです」

 

 驚いたことに。王女によって語られたのは、ほぼ事実そのものだった。

 見回り中のフィンレイに、散歩中を装ったフィオレが挨拶ついでに立ち話を行う。

 ところがその後フィオレの動きが止まり、いぶかしげにフィンレイが近寄ったそのとき。

 フィオレは懐に忍ばせていた短剣で、彼を刺した。自分に向けられた刃物を見てだろう、フィンレイは応戦しようと武器を抜いたが、それよりも早く、フィオレは彼の懐へ潜り込んでいたという。

 

 あばら骨を避けて、心の臓を一突き。フィンレイは大剣を手にすること以外、抵抗できなかった。

 

 やがて、フィオレにもたれるようにして倒れた大将軍と共に膝をつき、まるで看取るようにその場に留まっている。

 その後、フィンレイが完全に動かなくなったのを見て取って、彼の体をまるで数人がかりで斬りかかったように細工した。

 そして近くの植え込みを切り裂いて遺体を隠したフィオレは、何処かへ走り去ったのだという。

 

「さあ、反論はあるか? 何とか言ってみろ!」

「何とか──もとい、思い切りましたね。当時私が、どこにいたのか調べもせずに」

 

 勝ち誇ったように叫ぶ兵士を一瞥して、フィオレはアシュレイの背中を眺めながらため息をついた。

 どこでどう情報を集めたのは知らないが、頑張った方だと思う。

 王女が話したことは大体が事実だ。フィオレはそうやって、フィンレイを殺害した。

 ……ただ。

 そんな事実だけを突きつけて、どうにかなると思ったら大間違いである。

 当然のことながらそんなフィオレの心情には気付かず、兵士はただ訝しげな表情を浮かべた。

 

「何だと?」

「普通なら、そんな早朝時は自室で眠っていたと答えるものですが……私は当時、厩舎にいました」

「厩舎……つまり貴様、現場のすぐ近くにいたと認めるのだな?」

「もういい、フィオレンシア。これ以上無益な会話を続けさせるな」

 

 自分のいいようにしか受け取らない兵士に辟易してなのか、アシュレイ将軍のそばにやってきたのはアスクス将軍である。

 

「アスクス?」

「落ち着け、アシュレイ。確かにフィオレンシアは俺たちを、大将軍ともやりあった。だが、今回は違う。それは俺とリオンが証明できる」

「なんだって……」

 

 戸惑うアシュレイに背を向け、アスクスは王女にも兵士にも一瞥をくれることなく、玉座の国王と向き直った。

 

「陛下。当日早朝、フィオレンシアは軍専用の厩舎にて、リオンと共に乗馬訓練を行っておりました。私が見たのは、訓練後にベンチに座って休息をとっている彼女の姿ですが……それはこの私、アスクス・エリオットが証明します」

 

 ──凍るような沈黙が、謁見の間を支配する。

 王女にも兵士にも視線をやらず、フィオレがヒューゴ氏へと眼を向けると。

 口元の歪みはどこへやら、彼は忌々しげに薄い唇を噛んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







 フィンレイ・ダグ。
 ダリルシェイド七将軍を結成し、セインガルド王国軍の頂点に立つ大将軍となった人物。
 王の娘を娶り将来を約束されていたが、国王に対する発言力強化を目論むヒューゴに暗殺された。
 生涯無敗という輝かしい戦績と共に、セインガルド王国史にその名を刻む。
※ゲーム中には登場しない、設定だけが存在するキャラクター。

 と、手持ちの資料にありましたので、原作でも空気な七将軍達と共に、原作以前のエピソードに参加していただきました。
 ここで彼は、原作の史実に則りログアウトします。伴って、七将軍の出番も非常に少なくなるでしょう。
 ありがとう。君達のことは、忘れない。


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ファンダリア探訪記——前編

 go toファンダリア。前回のお話直後。
 リオン+シャルティエと共に再び外国へのお出かけ。
 お招きに応じて向かったわけですが、何も起こらぬわけがなく。
※ちなみにウッドロウは出てきません。


 

 

 

 

 

 

 

 緑溢れる草原をいつしか過ぎ、ひんやりとした冷気を孕む風が吹き抜ける。

 大将軍暗殺事件直後、ファンダリアへ招かれたフィオレはダリルシェイドを離れ、護衛にとつけられたリオンと共に一路、北の大地を目指していた。

 途中、ハーメンツを経由してファンダリア地方を臨む。

 進むに連れて気温は低下し、周囲にはちらほらと白くわだかまるものを見かけるようになってきた。

 

「どうやら、雪は知っているようだな」

『あーよかった。あの白いものは何ですか? って聞かれなくて。記憶障害だってわかってても馬鹿にしちゃいそう』

 

 同道する二人が好き勝手言っているが無視。

 沈黙が金とはよく言ったもので、下手に何か抜かしても余計なことにしかならないだろう。

 旅装に身を包み先行くフィオレを見やってか、シャルティエが尋ねてきた。

 

『それにしてもさ。何で送迎断っちゃったの? せっかくヒューゴ様が四頭立ての馬車を用立ててくれたのに……もしかして坊ちゃんと二人きりになりたかったとか?』

『何でこんなお子様と二人きりになって喜ばないといけないんですか。人を変態扱いしないでください』

 

 シャルティエ用に念話で素早く呟いてから、リオンに聞かせるためだけに口を開く。

 

「セインガルドからファンダリアまでの道のりも、ファンダリア国内も歩いて見て回りたかったからですよ」

「何を見て思い出すかのきっかけ作り、といったところか?」

「そんな感じでいいんじゃないでしょうか」

 

 二人と一本、どうでもいい雑談を時折交わしつつ、基本的には口を閉ざしたまま進む。

 大将軍暗殺について、リオンは一切触れてこなかった。

 犯人をフィオレであると国王の前で断定したものの、他者の、それも七将軍の一人という地位と信頼のある人間の証言により、あっさりひっくり返され。

 盛大に要らない恥をかいてしまった王女殿下はすっかり臥せってしまい、その側近達はタチの悪いガセネタに踊らされ、傷心の姫を謀ったとして、もれなく処罰の憂き目に遭っている。

 

「……娘が、すまなんだ。虚言に踊らされ、言いがかりのような侮辱を」

「大切な方を亡くしたとあれば、平静ではいられないでしょう。どうか王女殿下をお気遣いください」

 

 フィオレが知っているだけでも、リオンは故フィンレイを敬い、慕っていた。

 もしフィオレが彼を殺めたと知ったら、彼は何とするだろう。

 そして、正面切って問われたならば、何と答えたものか。おそらくそれはそのときの状況によるだろうが。

 しかし、そのときはまず間違いなく、今の関係は砕けて散るはずだ。

 ──そうなったらそうなったで、契約完了となる──リオンはもとより、ヒューゴから離れる日がより一段と近くなるはずだから、アリといえばアリなのだが。

 フィオレの薄汚い内心など露知らず、少年は手元の地図を見やって、方角を確認している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 セインガルドとファンダリアを隔てる国境の街、ジェノスにて。

 フィオレは久々に雪に覆われた街の光景を見た。

 

「この街がジェノスだ。ファンダリア地方とセインガルド地方の関所にもあたる」

「この街を管理しているのはどちらの国ですか?」

「どちらでもない。街自体は自治区にあたる。周辺の土地は国境線に基づき、それぞれの国が管理しているという形だ。そのため、自治区といえど双方の国より様々な支援を得てこの街は成り立っている」

 

 人々は一様に分厚い防寒具を纏い、家々の屋根はきつい傾斜を備えながらも積もる雪を背負っている。

 当然足元に土はなく、行きかう人々の靴裏でいっぱいだ。

 

「何をぼさっとしている。風邪を引きたいのか」

「いいえ。好んで己を傷つける趣味はありません」

 

 越境手続きをしてきたリオンが戻ってきたところで、厚手の外套を羽織る。

 丈は足元まで、内側は羊の毛でまんべんなく覆われた外套は防寒の役割を完璧に果たしていたが、代わりに重たくて徒歩の旅には明らかに向いていなかった。

 馬車での送迎を前提にヒューゴ氏が用意したものであるからして、それも仕方ないのかもしれない。

 セインガルド側の関所を抜け、ジェノスの街を横断するようにしてファンダリア側の関所に入った二人だったが。そこで思わぬ言葉を聞いた。

 

「陛下が隻眼の歌姫を招いた? そんな話は聞いていないが……」

 

 ファンダリア国王の持つ国璽と同じ封蝋付きの書状、そして特別通行手形を見ても、常駐していたファンダリアの兵士はそう言い放ったためだ。

 招待を受けると返信したのは、セインガルド国王陛下の名において数日前に成されている。

 ヒューゴを経由していない以上、彼からの意趣返しとは考えにくい。

 

「まずいな。どこかで情報の行き違いがあったのかもしれない」

「郵便事故か、あるいは国王の名を騙る不埒者がいるのか……なんにせよ」

 

 好都合である。

 

「なんにせよ、なんだ?」

「出直しましょう。いきなり押しかけては不敬に当たりますし、偽者による何らかの工作だったりした日には眼にも当てられません」

 

 これからもこれまでも。態度に出すことはしないし、誰にも洩らさぬようにはしているが、フィオレは激しい寒暖に対してかなりの苦手意識を持っている。

 特に雪が積もるほどの寒冷地に対しては、母の悲惨な最期を思い起こし、生きている理由の九割七分を占めていた従者の解雇を言い渡された、苦い思い出の地でもあった。

 精神的にも肉体的にも本調子ではなし、加えて招いたのはフィオレが落胤でないか、疑っている連中、ひいてはフィオレの身の上を知りたがっている連中だ。積極的にお近づきになりたい理由はない。

 今回引き受けたのは国王の顔を立てるため、そしてフィンレイを殺したのは間違いなくフィオレなのに、如何なる手段を用いてアリバイを用意したのか知りたがるヒューゴが煩わしくて逃げてきたのが理由に当たる。

 それでもファンダリアに長居したいとは思わない。それくらい、常冬のこの大地は寒かった。

 しかし、そんなこととは知らないリオンは難色を示している。

 

「しかし……」

『でも面倒じゃない? 今からでも連絡してもらうことはできないのかな』

 

 こんなクソ寒いところで何日も滞在するかもしれないなんて、冗談じゃない。

 聖域探索に赴いたカルバレイスでさえ、あの暑さには早々辟易して予定よりずっと早く引き上げてきたというのに。

 その本音は胸中だけで毒づいて、妥協案を提示する。

 

「なら、こうしましょう。このままハイデルベルグへ赴き、ご所望の出張公演はその辺で行います。その後陛下にご挨拶だけでもできないか伺って、無理なら引き上げる。駄目だと仰った方に言伝を頼めば、こちらの体裁は保たれるでしょう。よしんばお目通りが叶ったところで、長居はご迷惑ですからね」

 

 これなら、もしもこの招待状が偽物であろうとイザーク王に恥をかかせることはなし、本物だったとしてもいきなり行ってその場で会わせてもらえるとは思えない。

 間違いなく門前払いをくらうはずだ。そうなったら招待状と手形を門番あたりに預けてとんずらすればそれでいいや、とも思っている。

 それを予期してなのか、リオンはあまりいい顔をしていない。

 しかし、今回の彼の任務は隻眼の歌姫の護衛であって、対ファンダリア国における国交マネジメントではないはずだ。

 何かしらあれば隻眼の歌姫の意思を尊重した──責任をフィオレになすりつければいいと唆して、リオンの説得には成功する。

 ぶつくさ呟くのはシャルティエだ。

 

『せっかくなんだから観光してけばいいのに……』

「此度の旅費は国庫より融通されたものです。他人の財布で遊んで回るなんて、楽しくないでしょう」

『その考え方は変だよ。懐が痛まないから気兼ねなく遊べるんじゃないの』

「せせこましいことを抜かすな、シャル。しかし、お前にしては随分マトモな言い分だな」

『リオンがお目付け役じゃ息苦しくてかないませんよ。それに「お仕事ですからね。速やかに終わらせないと」

 

 念話と肉声を使い分け、シャルティエを黙らせてリオンの皮肉は無視する。

 方針が決まればやることはひとつ。

 リオンにファンダリアへの入国手続きを任せて、慣れない雪国での喉慣らしをするべく、フィオレはジェノスの広場でシストルを取り出した。

 

 ♪ ちらりちらり はらりはらり

 鈍色の空 鈍色の雲

 吹き荒ぶ風に煽られ きみは空を舞う──

 時に淡く 時に鋭く

 空の使者よ 雨の友よ

 降り積もる白の絨毯は 清らかに気高く──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日のことである。

 ファンダリア王の封蝋入り書状、そして特別通行手形を持っていたことで逆に怪しいとされ、本国に一報入れるとファンダリアへの入国許可が下りなかった二人は、ジェノスに足止めを余儀なくされたのだが。

 

「……遅い」

 

 宿の食堂で朝食を摂り終えたリオンが、眉間に縦筋を刻んでぽつりと呟く。

 各々部屋を取り、翌朝食堂で合流と約束したフィオレが、いつまで経っても現れないのだ。

 

『珍しいですね。フィオレが寝坊なんて……様子を見てきましょうよ』

 

 どの道もう、彼に食堂で待つという選択肢はない。

 業を煮やしたリオンが足音高くフィオレのとった部屋の前に立つ。

 リオンが扉を叩く音、そして、

 

『フィオレ、起きてる?』

 

 シャルティエの呼びかけに対して、部屋の掛け金を外す音がした。

 しかし扉は開かない。

 

「……おい?」

『ちょっと待った坊ちゃん! 着替え中だったらまずいですよ……! あれ? でも開けられて困るなら鍵は外さないかも』

 

 反射的に止めるシャルティエを無視して扉を開く。

 その先にいたのは、部屋に備え付けられた鏡を覗き込むようにしているフィオレだった。

 扉の開く音に振り向き、軽く会釈する。

 

「……おはようございます」

 

 しかしその声に覇気はない。

 ぼそぼそと、彼女らしからぬはっきりしないその第一声を聞かされて、リオンは無性に腹が立った。

 もともと待たされて不機嫌だった少年は、いつになく辛辣な言葉を浴びせている。

 

「何をグズグズしているんだ。起きているならさっさと降りてこい」

「……はい。すみません」

 

 すでに支度は済んでいるようで、フィオレは粛々と荷を抱えている。

 瞳はどこか茫洋としており、リオンを見ているようで見ていない。

 動作も寝起きだからなのか、機敏とは言いがたかった。

 

「さっさと食事を摂れ。ただでさえ行程に遅れが出ているんだ。終わったらハイデルベルグへ向かうぞ」

「いえ、結構です。このまま宿を引き払って関所へ向かいましょう」

 

 気遣ったはずのそれを一言のもとに却下され。

 自分の気持ちを無視されたような気分に陥り、少年のこめかみに四つ角が浮いた。

 

「僕には必ず食べるよう強制するくせに……!」

「あなたは成長期なのですから、ご自身の体格をご不満に思うなら、今のうちに栄養をたっぷりあげるよう意識してください。とは言いました。強制した覚えはありません」

「自分はどうなんだ! その貧相な胸に、栄養をやらんのか」

 

 ぷっ、と呼気を吐く音がする。

 彼女の胸元を指差したリオンには、こらえる間もなく吹き出したフィオレの顔をきちんと見てしまった。

 

「何が可笑しい!」

「いえ、そんな冗談も言えるようになったんだなって。でもね。夜会の時、私見て鼻血出した方の言うことではないですよ」

『そうですよ坊ちゃん。あんなきわどい服じゃ詰め物どころか下着も着けようがないですし。フィオレはめちゃくちゃ着痩せするタイプなんですよ、多分』

「少なくとも私は体格には困っておりませんのでね。では参りましょう」

『ところでさ。珍しくお化粧してるけど、どしたの?』

 

 シャルティエの指摘に、リオンはそこで初めてまじまじとフィオレの顔を見つめた。

 ほんのりと頬に朱が散り、口元にうっすらと紅を差している辺り、彼の言葉通り化粧をしている模様である。

 記念式典や祝賀会の際ほどかっちりとしたものではないが、それでも普段はない女性らしい艶やかさがあった。

 夜会のことが話題に出たせいか、リオンの脳裏に国賓の姿が浮かぶ。

 貴族令嬢達もしばらく話題にしていた、威風堂々、貴公子然とした王太子の姿を。

 

「──もう王太子に媚を売る必要はないぞ」

「もうあんなのやだ。やりたくない」

「は?」

 

 誰か部外者が喋りでもしたのか。

 聞いたこともない幼い言い草に、リオンは思わず聞き返した。

 フィオレはといえば、小さく咳払いして何事もなかったかのように言い繕っている。

 

「もう一度やれと言われても御免でございます。他国の国王様に謁見するかもしれないんですよ。相応の準備はして然るべきです」

 

 その準備をしていて、遅くなったのだろうか。

 それはきちんと聞かぬまま、関所へと到達する。

 何故なら。

 

『可愛い! 今の言い方可愛い! もう一回言って、僕の心のメモリーに焼き付けるから!』

「いや、今のはその、猫が逃げまして」

『いっつもこうだったら猫なんてかぶらなくていいのに!』

「そうですか。では──嫌がる女に無理強いすんじゃねえやボケ」

 

 興奮したシャルティエによる漫才じみたやりとりのせいで聞きそびれたから。

 頭にはフードを被り、片目に眼帯、口元にはマフラー、足元まである外套をきっちりと着込んでいるフィオレに、関所を通るのだから顔は出せと言いつけて、再度手続きに入る。

 

「昨日ファンダリア国王の書状、並びに特別通行手形を預けた者だが」

「ああ、はい。少々お待ちください」

 

 幸いにも連絡が通ったのか、二人は無事入国の許可が下りた。

 

「では、こちらをお返ししますね」

「国王陛下にお話が伝わったにしては、随分早いですね。急だったでしょうに」

 

 書状、特別通行手形の返還。

 そして万一のためにと通常の通行証も発行してもらい、それを手にしたフィオレが訊ねる。

 

「ええ、国王陛下はご多忙ゆえ、代理より許可が下りたとのことですが」

「代理の方ですか。王太子様ですか?」

「いえ。ウッドロウ様は見聞の旅に出ておいでです」

 

 その瞬間を、リオンは確かに見た。

 ウッドロウ王子がいないと聞いて、フィオレが小さくガッツポーズをしたのを。

 受付嬢はそれに気づいた風情もなく、フィオレに話しかけてきた。

 

「ところで昨日、広場のところで歌ってらっしゃいませんでしたか?」

「ええ、何か問題でも?」

 

 フィオレの顔から喜色が消える。

 

「私ちょうどお昼休みで聴かせてもらったんですけど、とても素晴らしかったです。ジェノスでは吟遊詩人の方は珍しくて。人も沢山集まってましたよね」

「こちらでは珍しいことなのですか。通りで妙にじろじろ見られると思ったら。禁止されているのかと思いました」

「あ……でも、広場の一角とはいえ大勢の人が集まっていて、何事かって驚いている人もいました。短い時間だったので、通報はなかったようですが」

「──教えてくださってありがとうございます。もう二度とやりませんので、ご安心を」

「えっ、そういう意味じゃないですよ!」

 

 また始まった、とリオンは胸中でひとりごちた。

 聴衆の耳をあっさり虜にしておきながら、迷惑だとの声を聞きつければ、即座に歌うのをやめてしまう。

 それが本気の苦情ではなくやっかみによる野次だろうと何だろうと、素直に聞き入れてしまうからタチが悪い。

 こいつが騒ぐから隻眼の歌姫が歌わないと、野次を飛ばした吟遊詩人を数人がかりで暴行したとして過去、リオンはダリルシェイドの住民を何人か捕縛している。

 あからさまな野次に取り合うなと注意しても、幾度か繰り返されるならともかく、一度や二度では本気かやっかみか、区別はつかないと返されている。

 犯罪を助長してしまうなら金輪際やめたほうがいいかと相談される始末だ。

 そんなことをリオンの一存で決定させるわけにはいかない。

 現在は警備隊の詰め所前、噴水付近でのみ、歌唱を行っているようだ。

 警備隊の目があるためトラブル抑止になり、尚且つ噴水があるため、ある程度まで近寄らなければ聞こえない。騒音公害にはならないと踏んだ模様だ。

 

(まったく……)

 

 謙遜も程度が過ぎれば嫌味になる。

 どれだけ腕が立とうと、何に優れようと、率先してそれをひけらかすことをしない彼女の控えめな性格を知っているリオンでさえ鼻に付くのだ。

 ふっと現れた見知らぬ人間に、聴衆を根こそぎ取られた吟遊詩人達にはどのように映ることか。

 フィオレ本人はそれらを一切感知せず──あるいは一切合財を無視して──何事もないように振舞っているから、被害は被っていないとわかるが。

 

「ハイデルベルグで同じことしたら、捕まりますかね?」

「そんなことはないと思いますけど、心配ならしないほうが」

「その手がありましたか。悩みますねー……」

 

 雑談からここへきて、今回の目的をためらいだした彼女に思わず苦言を入れる。

 

「何故悩む必要がある。出張してほしいと、お前は乞われた側だろう」

「いやあ、一応許可取った方がいいような気がしてきました。騒音公害、あるいは土地の不法占拠、考えてみると軽犯罪要素は沢山あります。ファンダリアの法律、よく知りませんし」

 

 一理あるが、招待しておいて犯罪者にされるわけがなかろうに、と少年は若干楽観的に物事を考えている。

 ともかく入国許可は下りた。

 関所の執務担当との雑談を切り上げ、いざファンダリアに向かうべく彼女が身支度を整えようとしたその時。

 バタンと音を立てて、ファンダリア側の扉が開いた。

 

「邪魔をする」

 

 入ってきたのは、長身痩躯の男性である。

 防寒着を兼ねているのか、厚手の軍服を纏っているということは。

 その正体を誰何するより早く、常駐していた兵士が敬礼した。

 

「ビーグランさん、お疲れ様です!」

「おう、お疲れ。隻眼の歌姫が来たと聞いてな。あんたがそうか」

「ええ、初めまして。フィオレンシア・ネビリムと申します」

 

 外套を着込む手を止め、フィオレは礼を失さない程度に会釈した。

 ビーグランと呼ばれた軍人は自己紹介するでもなく、彼女のてっぺんから爪先まで、余すことなくジロジロと見ている。

 明らかに値踏みされているにも関わらず、フィオレは平然としていた。

 他人の注目を一身に浴びて歌唱を行える胆力の持ち主である。男一人の無遠慮な視線など、ものともしないだろうが……

 ひとしきりフィオレを観察し、ちらっとリオンを見やったところで。

 彼はふん、と鼻を鳴らした。

 

「なるほど。確かに髪の色は陛下達によく似ているが、顔はそうでもないな」

「当たり前じゃないですか、他人ですよ? 似ていたほうがおかしな話です」

 

 この言動から、彼が何を勘違いしているのかは明らかである。

 それを正すためだろう。フィオレは表向き朗らかに訂正を入れた。

 ビーグランは、返答があったことにも驚いた様子で彼女を見返している。

 

「……隻眼の歌姫、だよな。陛下の、落胤の」

「違います。それは悪質なデマですので、認識を改めてください。よしんばイザーク王に本当にご落胤がいらっしゃったとしても、それは私ではありません」

 

 一刀両断、有無を言わさずばっさりと否定する。

 普段より二割増しで言い方に容赦がないのは、無遠慮な視線の意趣返しなのか。

 認識を改めろ、とまで言われたビーグランは、かなり混乱した様子で何故か弁明を始めた。

 

「……オレの聞いていた話と大分違うな。隻眼の歌姫は「そうですか。誤解が解けたでしたら喜ばしいことです」

「いや「何故あなたがそんな勘違いをなさっていたのか、そうなるまでの経緯でしたら結構ですよ。そちら、通していただいてよろしいですか?」

 

 話を遮り、そこをどけ、とやんわりとだが言い放つあたり、やはり何か思うことあってか。

 フィオレのそこはかとない不機嫌を悟ったか、ビーグランは軽く苦笑しながら外を示した。

 

「オレはあんたを迎えに来たんだ。外に馬車を用意させてある」

「……左様でございますか。では、お願いします」

 

 如何にビーグランが名乗りもしない無礼者でも、送迎を拒絶するのは礼を失すると思ったのだろうか。

 フィオレはあっさりとそれを受け入れた。

 そこで初めてリオンを指し示し、紹介を始める。あくまで慇懃に振舞うつもりでいるらしい。

 

「こちらはセインガルド王国客員剣士、リオン・マグナス様です。セインガルド王の命により、此度は私の護衛を勤めてくださいます」

「噂に聞く客員剣士か。もう一人いるんだろう? 置いてきたのか」

「──いいえ。あなたの目の前にいますよ」

 

 言葉の意味が飲み込めなかったらしい彼を置き去りに、手間をかけた、と受付嬢に一礼している。

 気を取り直したビーグランの先導によって雪上馬車を前にし、フィオレはぼんやりとこれより行く街道を眺めていた。

 見渡す限り、一面の銀世界である。晴天だが積もった雪が融けゆく気配はない。

 日差しが雪に反射してまぶしいのか、瞳を細く眇めている。

 

「おい、どうかしたのか」

「……ええと」

 

 雪上馬車を見て、リオンの顔を見て、また一面の銀世界を見やって。

 言葉もなく、しかしその場から動こうとしない。

 すでにビーグランは御者と話をつけ、フィオレが乗り込むのを待っている。

 護衛であるリオンが先に乗るわけにもいかず、箱型の荷台へ乗るよう促した。

 

「馬車が嫌なら初めからそう言えばいいだろう」

「いえ、そういうわけでは」

『ひょっとしてお腹空いてるの? 何も食べてないし』

「いや、そうでもなくてですね」

「ならさっさと乗れ。グズグズするな」

 

 寒いと言って、顔を隠すようにマフラーを巻きつけていては、何かを伺い知ることなどできようもない。

 半ば押し込むようにフィオレを馬車に載せ、一同はハイデルベルグへ出立した。

 躊躇していた割にはあっさりと馬車へ乗ったフィオレは、出立するなり窓に手を伸ばしている。

 箱型の荷台の中、窓を開ければ間違いなく冷風が室内を蹂躙するだろう。

 寒がって今もマフラーを外さないくせに、わざわざ冷やすようなことをするなと彼が苦言を吐くよりも前に。

 

「あれ?」

 

 外開きの窓は、一向に開く気配を見せなかった。

 立て付けが悪いのか、とビーグランが変わって窓を開けようとした、その時。

 

「すみません、凍りついてしまったみたいです」

 

 物音と会話で、荷台の中の状況を察したらしい御者の一言により、ビーグランも手を離す。

 

「今朝は、窓が凍りついてしまうほど冷え込みましたか?」

「そんなことはないが、さては整備さぼりやがったな」

 

 御者からの返事はない。

 ビーグランいわく、一度凍りついた窓などを放置すると窓枠が変形し、結局立て付けが悪くなってしまうのだという。

 外の景色を楽しみ損ねたフィオレは、気を取り直したように座りなおし、そのまま目蓋を下ろした。

 

「おい、ふて寝するな。はしたない」

「ふてくされていませんし、寝ていません。人聞きの悪いことを仰らないでくださいませ、リオン様」

 

 ビーグランと行動を共にしてからというもの、フィオレはリオンにまで慇懃に──元からそうだが、いつも以上に他人行儀な態度を取っている。

 ビーグランにリオンと既知の間柄だと知られたくないのだろうか。

 何となくそれを察したリオンが黙り込み、同乗していたビーグランも自分から口を開こうとしない。

 結果。馬車内は完全な沈黙が降り積もった。

 

『……き、気まずい……』

 

 シャルティエは呟くものの、リオンは部外者の前で返事をしないし、フィオレも反応を示した気配はない。

 牽引する馬の息づかい、御者が馬を操るかけ声、雪上仕様の馬車が雪の敷かれた街道を行く音。

 それらを除く沈黙を破いたのは、目蓋を下ろしてしばらくじっとしていたフィオレだった。

 ぴくりと体を震わせたかと思うと、まるで弾かれたかのように起き上がり、切羽詰ったような声を上げる。

 

「すみません。降ろしていただいてもよろしいですか?」

「そりゃ構わんが……いきなりどうしたんだ?」

「ちょっと気になることが」

「……? まあいい。止めてくれ」

 

 ビーグランの言葉で馬車が止まり、箱型の荷台から降りたフィオレが馬車の後方を伺う。

 針葉樹の森のただ中を行く街道は曲がりくねっていて、周囲の様子はおろか、来た道も杳としてしれない。

 

「どうした」

「あちらの方角から何か来ます。野生の四足獣だと思われますが」

 

 おもむろに足元の雪をすくい、手のひらで押し固めて球状にし始める。

 遊んでいる場合かと叱責するより早く、フィオレは大きく振りかぶったかと思うと雪玉を放り投げた。

 ゆるい弧を描いて雪玉が宙を舞う。すると。

 

「ギャンッ!」

 

 曲がり道より姿を現した、数頭を引き連れる四足、中型、獰猛な野生動物。俗に狼と呼ばれる獣の鼻先に、雪玉は落下した。

 当然のことながら雪玉は四散している。

 その後の狼の様子を怪訝な目で見やり、ビーグランもまた馬車から降りてきた。

 

「……よく、わかったな。狼に追われてる、なんざ」

「お褒め頂き光栄です。確か狼って、飢餓状態だと家畜にも襲いかかるんでしたね。よかった、追いつかれて馬が暴れた挙句街道外れて、迷子とかにならなくて」

「……いやに具体的だな」

「ちょっと前に読んだ童話にそんな場面がありました」

「それであの狼どもは、何でのた打ち回ってるんだ?」

「雪玉に香辛料を仕込みました。あの生き物、嗅覚が優れているようですね。牽制になればいいとは思っていましたが、あそこまで効果があるとは」

 

 効果があるどころの話ではない。

 よくよく見れば、狼の周辺には赤い粉が散っている。その様相から、唐辛子の粉末を雪玉に仕込んだものと思われた。

 言わずもがな、狼は犬と祖先を同じくし、嗅覚の鋭敏さに人は遠く及ばない。

 その敏感にして繊細な鼻先に唐辛子の粉末が散れば、悶絶どころの騒ぎではなかった。

 ビーグランどころかリオンとシャルティエも絶句する中、フィオレはしれっと鼻先を雪に突っ込んでは七転八倒する狼を見やっている。

 

「あれは人も襲うんですよね。今の内に始末した方が」

「いや、必要ない。しばらくは動けんだろうからな」

 

 そうですか、と彼女は存外素直に狼に背を向けた。

 その視線の先には、御者台に座ったまま、煙草をくわえている御者がいる。

 紫煙をくゆらせるその姿に、リオンはふと違和感を覚えた。

 停車していることをいいことに一服している、ように見える。

 しかし今しがた、彼の御する輓馬は狼に狙われていたのだ。

 知らなかったとしても、こんな平静──何事もなかったような風情でいられるものか。

 更にフィオレの視線は、ビーグランと呼ばれた軍人にも向けられている。

 自己紹介もなく訊ねもしなかったため、彼が何者なのかは未だ把握していない。

 国境に常駐する兵士から敬礼されていたということは、それほど地位の低くない、国境警備隊に属する者と思われるが……

 

「お待たせしてしまいましたね。参りましょうか」

 

 ビーグランが二人の視線に気づくよりも早く、フィオレは再び馬車へ歩み寄る。

 ところが。

 

「あ」

 

 唐突にその足元を縺れさせたかと思うと、まるで雪上に突っ伏すかのように転倒した。

 

「!」

 

 踏ん張る素振りもしなかった辺り、普段の立ち居振る舞いを思えば信じられない愚鈍さである。

 

『坊ちゃん……さっきから思ってましたけど、フィオレの様子が変ですよ』

「雪に慣れていないにしても、明日は雨か雪だな」

 

 護衛対象である隻眼の歌姫が転んで雪まみれになっているのに、肝心の護衛が何故か棒立ち。その表情はまるで信じられないものを見たかのように驚愕で彩られている。

 その光景に首をひねりながらビーグランは彼女に歩み寄った。

 

「おい、大丈夫か?」

「……どうも」

 

 聞いていた話通り、ファンダリア王族に通じた髪の色、整った風貌の持ち主。

 そして彼の持った印象より遥かに気丈だった「隻眼の歌姫」は、言葉少なくのろのろと起き上がった。

 すぐに立ち上がらない辺り、新雪に足を取られたままなのか。

 

「あの客員剣士は何を吃驚しているんだろうな」

「転倒した私を見て、だと思いますよ。指差して笑われなかっただけマシでございます」

「雪に慣れていないなら仕方のないことだ。笑うことじゃないだろ」

「……」

 

 転んだ拍子にマフラーが緩んだのか、フィオレはまるで恥じらうようにうつむいてそれを直そうとしている。

 そのままそこかしこについた雪を払い、差し出されたビーグランの手をためらいながら掴んで、立ち上がろうとして。

 

「!」

 

 ──ビーグランが異変に気付いた。

 

「お、おい。あんた──」

「いっ、今だ、やっちまえ!」

 

 叫んだのは、煙草を吸い終わった御者である。

 次の瞬間、雪を背負った木々の陰から次々と現れ、三人と馬車はあっという間に囲まれた。

 これが盗賊や追剥の類と断定できたならば、リオンとてすぐさま降伏勧告のちに撃退、あるいは捕縛するべく迅速に動いただろう。

 しかし、現れたのは。

 

「よぉし、ビーグラン! そのまま娘を抑えておけ!」

「隊長!?」

「何をぐずぐずしている! ええい、ネルギー、行け!」

「はい!」

 

 三人を囲んだのは、ビーグランと同じ防寒着を兼ねた厚手の軍服を纏う、軍人と思しき男達だった。

 突然の勧告に、そして突拍子もない命令に心底まごまごしているビーグランを盾に、迫る男の手から逃げる。

 

「ファンダリア王族の面汚しめ、大人しくしろ!」

「……何の話をしてるんですかっ」

 

 身に覚えのない中傷らしいそれを否定するも、いまいち言葉尻に力がない。

 引き続きビーグランを盾にしながら、彼に問う。

 

「お知り合いですか、こちらの方々は」

「……国境警備隊、俺の属している隊だ」

「副隊長、何やってるんですか! 俺じゃなくてそっちの娘ですっ」

 

 どうやら彼は、副隊長であるらしい。

 盾にされたことで向かってきた青年を押し留めるビーグランは、まだいまいち事態を把握していないようだ。

 そんな彼に、もちろん彼の上官はご立腹だった。

 

「何をしている! 貴様も聞き及んでいるはず、この娘はイザーク王の落胤だ、さっさと捕らえんか!」

「隊長、彼女は落胤ではないと主張している! 悪質なデマで迷惑していると……!」

「血迷ったか! そんな出まかせを頭から信じるなど……捕らえろと言ったら捕らえろ、それとも貴様、上官に逆らうか!」

 

 状況を鑑みるに、ビーグランによって穏便に場を収めるのは難しいようだ。

 それを察してシャルティエを抜いたリオンだが、当然兵士達はそれに気付いて警戒を強めている。

 それらを蹴散らすより早く、フィオレが動いた。

 ちらとリオンを見やるも、兵士の密集具合を見て突破を諦めたらしい。

 ビーグランが盾になっていることをいいことに、その場から素直に飛びのく。

 距離を取って近くの大木を背にしたのは、背後を取られないためか、あるいは別の理由か。

 

「王族って、寝ぼけるのも大概にしてくださいよ。人違いです」

 

 時間稼ぎか、荒事に持ち込みたくないのか。

 大木に寄りかかっているようにしているフィオレが、再度弁明する。

 その姿の何か、勘に触ったのだろうか。

 隊長格は眦を吊り上げて怒鳴り散らした。

 

「フカシこいてんじゃねえ! お前、イザークの隠し子なんだろうが!」

「いや違いますって。その根拠は何ですか、髪ですか? ジェノスで歩いていた方にちらほらいらっしゃいましたが、全員イザーク王と所縁があるのですか」

「むぐっ……」

「髪の色と噂だけで決めつけられて、迷惑千万です。こちらの副隊長殿も顔は似てない、とおっしゃっておいでですよ。国王陛下の隠し子が表沙汰になって困るのでしたら、私は違いますので他当たってください」

「……ええい、私は騙されんぞ! そんなものは何の根拠もない戯言だ!」

「あなたの言葉にだって根拠なんか皆無ではありませんか」

「黙れ黙れ! 記憶喪失が何を抜かそうと、信じるに値せんわ!」

 

 話が通じない。

 今にも掴みかかってきそうな軍人を前に、彼女は諦めたように息をついた。

 

「……狙いはなんですか。イザーク王の汚点と思しき私を消すだけ、ですか」

「はっ、察しがいいではないか。セインガルドに重用された貴様、そして最年少客員剣士と名高いそこの小僧が死ねば、セインガルドとファンダリアとの「あ、もういいです。聞きたくありません。わかりました」

 

 長々とした口上に飽き飽きしたような風情で、正確には渦巻く陰謀を聞きたくないようで遮る。

 

「セインガルドとファンダリア間が友好的では都合が悪いのですか。ならイザーク王達の馬車に放火したり、祝賀会で襲撃を仕掛けてきたのは」

「そうとも、我々の同志が計画を実行に移したものだ。その様子ではうまくいったようだな」

 

 放火は未然に防いだし、襲撃も防げこそしなかったが、成功したわけではない。どちらも実行犯達は確保、今もまだ拘留中である。

 わざと誤解を招くよう放たれたフィオレの誘導は成功したようで、隊長格は機嫌を良くしたようだ。

 満足そうに、しかし小物臭漂ういやらしい笑みを隠せない。

 

「くっくっくっ。順調だ。この分ならば、大将軍の暗殺も成功していることだろう」

「!」

「大将軍……フィンレイ将軍の暗殺だと!」

 

 国賓への禍根を残すほどの危害はどうにか防いだものの、それだけは確かに実行されたことである。

 途端に色めき立つリオンの、その過剰反応に気を良くしてか。

 隊長格はにやにやと嘲笑を浮かべて、己の髭をしごいた。

 

「んん? その様子、奴は死んだか。次期セインガルド国王候補を失い、奴もさぞや真っ白になっていることだろう。ははは、これはめでたい!」

「貴様ぁっ!」

 

 ──この隊長格がフィンレイを殺したわけではないことは、リオンとて承知している。

 しかし、勝ち誇ったように下卑た高笑いを上げる男を前にして、頭に血が上るのは止められない。

 

「あとはあの王女だな。さすれば国王は実子すらなくし意気消沈、王妃亡き今新たな子も望めまい。セインガルドは荒廃の一途を……!」

 

 自分の妄想で興に乗ったようで、ぺらぺらとまくしたてる隊長格に歯ぎしりすらしながら、リオンは訝っていた。

 フィオレは何をしているのか、と。

 一見無駄な弁解と見せかけ、繋げた誘導は見事、隊長格に自らがセインガルド内において狼藉を働いた組織との繋がりがあると吐かせた。

 レンズ製品を取り扱うオベロン社総帥の子飼いでもある二人は、一般庶民が手にできないような様々なレンズ製品を支給されており、その中には会話を録音し、記録可能な代物もある。

 隊長格の妄言は、リオンとて記録済みだ。

 もう充分なくらいの証拠を手にしたのに、いつまで経っても彼女は何も仕掛けようとしない。

 普段ならば、我に大義ありとの証を得た時点で──もうとっくの昔に乱闘へ持ち込み、息ひとつ乱さず制圧してみせるというのに……! 

 焦れるリオンの意識に水を差したのは、シャルティエの囁きだった。

 

『坊ちゃん、フィオレが』

「……なんだ」

『この連中を制圧できるかどうか、坊ちゃんに聞いてくれと』

「どういう意味だ」

『できるのか、できないのか。それをまず答えてほしいと』

 

 隊長格の指示なくして動く気はないようで、国境警備隊の面々は抜剣したリオンを警戒したまま。

 彼らの向こう側で今だ大木を背にして佇むフィオレを睨む。

 しかし彼女はその視線に気づかない。

 ビーグランが抑えている男がいつ自分に来るのか、それだけを気にしているように見える。

 

「……そのくらい造作もない。自分の身は自分で護れと伝えろ」

『はい。フィオレ──』

 

 シャルティエがリオンの返答を繰り返す。

 直後、音無き返事を聞いてシャルティエは慌てたように反論した。

 

『いや、確かにそうだけど! ホントにもう、今日はどうしちゃったのさ!』

「どうしたんだ」

『あの、えーと。私の護衛で来たくせに、仕事しろこの……だそうです』

「この、の後はなんだ」

『えーと……やだよ、勘弁してよ、だからヤだってば! 絶対坊ちゃん怒るって!』

 

 彼女が何を言ったのかは、事が終わった後に聞き出すことにして。

 リオンは晶術を行使するべく集中した。

 何かしらフィオレと揉めていたシャルティエだったが、すぐ主の意に沿い詠唱に入っている。

 

『つぶては空を駆け、我が敵を殴打せん!』

「ストーンブラスト!」

 

 おざなりではあるが整備されている街道、それも針葉樹の並ぶ並木道にあるはずもない岩石が、密集している警備隊の面々にいくつも飛来する。

 ソーディアンの存在は御伽噺レベルで、晶術の知識については一切持ち合わせていない彼らは当然浮足立った。

 

「な、なん……うわあっ!」

 

 晶術使用による硬直を一呼吸で脱したリオンは、彼らの動揺に付け込むように突貫した。

 

 

 

「相手の意表は突くものです。卑怯? 卑劣? 姑息? 負け犬の遠吠えですね。誇りなき戦なれば、勝者こそが正義。敗者はただ踏みにじられるのみです。どの道死んだら何も言えません」

 

 いつかの模擬仕合にて対峙した折、いきなり足元の雑草を引き抜いたフィオレを思い出す。

 何をしているんだと言う前に、抜いた草を投げつけられた。顔面に散る、草の根に付着した土を払う間に間合いを詰められ、そのまま成す術もなく一本取られ。

 卑怯卑劣姑息その他罵倒を繰り返したところ、そんな返事が寄越された次第である。

 フィオレとしては、いきなり目潰しを仕掛けてくるような敵もいないことはないから、常に捌けるよう冷静たれと言いたかったようなのだが。

 その忠告よりも先に少年は、そういった戦術もあるのだと学習していた。

 学ぶことは真似ること、学習の基本は模倣である。

 元々我流傾向が強かったリオンの考え方は、プライドが突っ張った、もとい誇り高い性格とは裏腹にかなり柔軟で、それ故に応用の躊躇もなかった。

 

 

 

「このっ……!」

 

 混乱から回復した警備隊の一人が飛びかかってくる。

 その顔面に、リオンは手にしていたひと掴みの雪を叩きつけた。

 

「どわっ!」

「雑魚が」

 

 その隙に悠々と当て身を入れ、慣れない雪上、足元を滑らせないよう注意深く立ち回る。

 

「このガキ!」

「安い挑発だ」

 

 国境警備隊が主に相手取る魔物、獣、でなければ密入国者の類である。

 対して、客員剣士である彼が相手取ってきたのは頭が回り腕の立つ犯罪者か、あるいはリオンより遥か高みに立つ指南役だ。

 多勢に無勢、は事実である。

 しかし覆せない絶対など、この世に存在しない。

 結果としてリオンは、フィオレが突破することを諦めた警備兵群を、誰一人殺めることなく鎮圧した。

 しかし。

 

『フィオレ、大丈夫!?』

「……」

 

 見やれば、フィオレは未だ抜刀すらしていない。

 ネルギーと呼ばれた青年はフィオレを拘束せんと迫り、ビーグランは隊長格と対峙している。

 

「隊長、もうやめろ! セインガルドと敵対して何になる! いつかの内乱じゃないんだ、また国を疲弊させたいのか!」

「セインガルド如き新興国家なんぞと友好を深めてなんとする。国益なぞ見込めん、併合するならまだしも……」

「このっ、くのっ、ちょこまかと!」

 

 副隊長であるビーグランは隊長の説得を、未だ隊長の命令を遵守する青年の手から、フィオレはひたすら逃げの一手を打っていた。

 いつもなら。当の昔に。

 ネルギーなる青年は、彼女に指一本触れる前にしばき倒されているのに──! 

 此度のフィオレは、客員剣士見習いではなく、隻眼の歌姫。

 セインガルドの民でこそないが、それでもかの国を通して招待された、いわば国賓に準拠される位置にいる。

 そんな立場の人間が、正当防衛であっても直接他国の人間を害すれば、どういうことになるのか。

 そのことも忘れて、ついにリオンは彼女を怒鳴りつけた。

 

「いつまで遊んでいるつもりだ! さっさと片付けないか!」

 

 リオンの怒声を聞いてなのか、それとも違う理由か。

 身を翻したにも関わらず、迫るネルギーの手は、フィオレのマフラーの一端を掴んでいた。

 

「捕まえ──!」

「!」

 

 青年が喜色も露わに、手にしたマフラーを手繰り寄せんとする。

 顔に巻きつけるようにしていたそれを、蜥蜴が尻尾を切るかのように。

 フィオレは手早くマフラーを放棄した。

 

「!」

 

 露わになったその顔を見て、思わず息を呑む。

 林檎のように赤い頬。心なしか潤んだ瞳。

 口元は忙しなく大気を求めて白い息を吐き、ろくろく動いていないのに額から玉のような汗が噴き出して、おとがいまで滴っている。

 よくよく見れば身体全体が細かく震えていた。

 おそらく被服の下も大量に汗をかいており、大気の冷たさから増して身体を冷やして、悪循環に陥っているものと思われる。

 

「な……!」

 

 固まる彼には頓着せず、フィオレは無言でリオンの元へ駆け寄ってきた。

 ──まるで助けを求めるように。

 

『様子がおかしいと思ったら、風邪引いてたの!? お化粧も、顔色悪いの隠してたってこと!?』

「……」

『想像に任せるって、じゃあそういうことなんだよね。何で言ってくれないのさ!』

 

 シャルティエの金切り声を、うるさいと咎める暇もない。

 フィオレを追ってきたネルギーではあったが、今しがた仲間達を蹴散らしたリオンを前に足を止め……抜剣している。

 

「くそっ!」

「安心しろ、すぐにカタをつけてやる!」

 

 ──隊長格は二人とも消すようなことを言っていたのに、フィオレだけは捕まえようとしていたのは、如何なる企みがあってのことか。

 

「隻眼の歌姫を渡せ、小僧!」

「断「私をモノ扱いしないでくださいっ」

 

 リオンの後ろに立つ──彼を盾にしたまま、口だけは減らない。

 

『フィオレ、そこは黙って護られようよ! せっかく坊ちゃんがやる気になってるのにっ、どうして気を削ぐようなこと言うのさ!』

「……」

『ガラとかそういう問題じゃなくてーっ』

 

 張り詰めた空気を瓦解させるシャルティエの一人漫才──正確にはフィオレも何か言っているのだろうが、リオンには聴こえない──にもめげず、リオンは無事ネルギーなる青年を下した。

 振り返れば、もう立つこともままならないのか。憮然とした面持ちのフィオレが、その場にへたり込んでいる。

 無言のままその額に手を伸ばすも、逃げる素振りはなかった。

 

「熱があるな。かなり高い」

「……」

「朝からなんだろう。寝坊したのも、不審な行動も……どうして何も言わなかった」

 

 フィオレは答えない。

 肩で息をしながら、リオンの視線を逃れるように明後日の方角を向いている。

 

「おい」

「……リオン」

 

 とりあえず自分に顔を向けさせようとして、呟くように名を呼ばれる。

 へたり込んだまま腕を掴まれ、そのまま引っ張られると同時に。

 

「伏せて」

「な、何をするんだ、離せ!!」

 

 膝が折れたところで地面に引き倒され、その上に乗られた。

 咄嗟のことで振り払い損ねたリオンを、まるでその全身で覆うように突っ伏し、その手がリオンの耳を、覆い隠すように包み込む。

 

(熱い……!)

 

 彼の耳に押し付けられた手も、のしかかる肢体も。

 雪上に触れた瞬間は凍るように冷たかった背中が知覚できなくなるほどに、その体は熱を帯びていた。

 鬱蒼と茂る、粉雪を纏った針葉樹林に。

 覆われて尚、鼓膜を揺さぶる轟音が木霊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 今回のタイトルはシンプルにしてみました。
 元のタイトルは「ファンダリア探索訪問記録──フィオレの異変~リオンの困惑──前編」


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ファンダリア探訪記——後編

 続・ファンダリア。
 森の中の街道で、更にその先のハイデルベルグで、ドンパッチが続きます。
 風邪を引いたオリジナルキャラクターのブレーキが壊れて絶賛大暴走中ですが、何、気にすることはない(笑)
※ちなみにウッドロウはやっぱり出てきません。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳をつんざくような轟音が、長く音を引いて止む。

 その直後、四肢を突っ張るようにしてフィオレが跳ね起きたことによって、押し倒されたリオンはあっさりと解放された。

 

「……業腹ですが、助かりました」

 

 不快という感情を隠さないまま、その身を纏っていた外套を放り捨てる。

 丈は足元まで、内側は羊の毛に満遍なく覆われ、フード付きのそれからぱらぱらと何かが払われて散った。

 キラキラと光る結晶──硝子の破片。

 

「火焔瓶みたいなものを立て続けに投げられたようです」

 

 リオンが何か聞いたわけではない。

 しかしフィオレは、リオンの顔をじっと見据えたままそれを告げた。

 

「耳は無事ですね? 私が塞いだのですから、そうでないと困りますよ」

「何?」

「もう察しているでしょう。爆発の余韻で、耳が機能していません。一時的なものと思いますが」

 

 驚愕を露わにするリオンから目を離し、周囲を睥睨する。

 耳を揉みながら警戒するフィオレだが、その言葉は信じ難かった。

 

「耳が聴こえないだと!? タチの悪い冗談だ、こんな時に変な悪ふざけはよせ」

 

 聴こえないのか聞き流しているのか、フィオレは彼を見やりもしない。

 聴覚のハンデを補うようにきょろきょろと周囲を見回し──

 

「ちっ。まだ起きてやがる」

 

 音高い舌打ちを聞いて、リオンが発生源を見やり、彼の挙動を見たフィオレもまた続く。

 言い争っていた隊長格とビーグランは、直撃を受けたのか仲良く失神しており、踏まれても目を覚ます気配はない。

 彼らを踏みしめて現れたのは、毛皮をふんだんに纏い、各々好き勝手な武装をした、むくつけき男達だった。

 どんなに目をこらしても、軍服を着ているようには見えない。軍人に求められるある程度の品行方正さも伺えない。

 ということは隊長格の援軍ではなく、ファンダリア軍の街道沿い見回り警備兵でもない、ただの無関係なならずものなのか。

 しかし、無関係なならずものが、軍人同士が揉めているからと、いきなり火焔瓶を投げつけてくるわけがなく。

 

「おう、そっちの小娘か!? 隻眼の歌姫、椿姫ってのは!?」

『椿姫? ……そう、あの男が言ったんだ。何のことかって? そんなの僕だって知りたいよ』

「って、聞くまでもねえな。その髪、その眼帯、噂通りの美貌……のワリにゃあ、大分ガキだな」

 

 下卑た笑いが、嘲笑が、細波のように広がっていく。

 普段、フィオレは自らをあからさまに嘲られても頓着しない。取るに足らない悪口雑言など、まともに取り合う価値もないと切って捨てているからだ。

 それでも腹を立てたと思わしき場合、相手には何らかの報復処置が働く。

 例として、ヒューゴ氏に、

 

「髪を切るだけだ。それが怖いだと? 君がそんな臆病者とは知らなかったよ」

 

 などと、せせら笑われた直後。

 抜く手も見せずに、彼の髭は半ばから切断された。

 

「ヒューゴ様、これが怖くないんですか。凄いですねー尊敬します~」

 

 そんなことをのたまいながら、彼女はいつの間にか手にしていた鋏を振り上げて、笑顔のまま詰め寄った。

 

「どうしたんですか、なんで逃げるんですか? 他人が刃物持って傍をうろついても、怖くないんでしょう? ましてや臆病者の持つ鋏なんか」

「し、失言だった。撤回する。だから鋏から手を離したまえ!」

「ふーん、撤回ですか、そうですか。お断りします」

 

 結局フィオレは、ヒューゴ氏からきちんと謝罪されるまで彼を追い回し、その髪に何度か鋏を入れた。

 クビにならなかったのが不思議なまでの暴挙だが、そこはヒューゴ氏も己の非を認めたためか。

 ヒューゴ氏が記念式典にも祝賀会にも出席しなかったのは、切られた髭やら髪やら、それを繕うためのカツラや付け髭に都合がつかなかったためらしいが……そんなことはどうでもいい。

 腹を立てれば、たとえ雇い主相手でも容赦しないフィオレが、彼らとリオンを交互に見ているだけで何もしない。

 つまるところ、それは。本当に耳が機能していない証拠である。

 

「加えて国王様の隠し子ってか。さあて、あの賢王はてめえにいくら払うかな!?」

「!」

「椿姫の正体は、あのオベロン社の総帥様どころか、セインガルドの将軍たちまでたぶらかした高級娼婦って話だ。ちっとくらい味見してもかまわねえよなあ?」

「お頭ばっかりずりぃっすよ。俺達にもやらせてくださいよ~」

 

 ──今。フィオレの耳が聞こえなくて、よかった。

 

『よかった、です。フィオレの耳が聞こえなくて』

 

 怒りに震えるシャルティエの声を聞いたようで、彼は慌てて言い繕った。

 

『え? いや、なんでもないよ! ただ、耳が汚れちゃうような嫌なこと言ってるからね、アイツら! 君に聞こえなくてよかったってこと!』

 

 気にしないで! と彼は叫ぶが、フィオレは不思議そうな表情で闖入者を見やっている。

 しかし、問題はそんなことではない。

 お頭と呼ばれた男が引き連れる十数人に対して、リオンはフィオレを護りながら戦わなければならない。

 更に。

 

「そそる顔してるなあ……へへ、いい声出すんだろうなあ」

「おれっちは、あっちの小僧がいいなあ」

 

 冷たい大気とは関係なく、寒気のするような会話を交わす不埒者も多数、いる。

 類は友を呼ぶとはよく言うが。

 

「とんだ変質者どもだ……!」

 

 シャルティエが黙ってしまったからだろうか。

 フィオレは心底嫌そうに顔を歪めているリオンの顔を見、舌舐めずりすらしているならずものを見、いまいち掴めない状況を探っている。

 その眼が今だ倒れ伏す警備兵達を見やって、ぽつりと呟いた。

 

「──片づけちゃいましょうか」

「?」

「いくら隊長がトチ狂っているからとはいえ、ファンダリアの軍人を殺して回るのはまずいと思いましたが……あの連中なら問題なさそうですね。消してしまいましょう」

 

 固まるリオンに構う様子もなく、ならずものに向かって歩を進める。

 その足元が妙にふらついているのは、おそらく雪のせいだけではないだろう。

 

「何をしているんだ、戻れ!」

 

 フィオレは止まらない。

 リオンの声を聞いた様子もなく、顔を赤くし、額に汗を浮かべたまま、ならずものたちへ近寄っていく。

 そのまま、お頭とよばれたならずもの代表の前に立ち。

 

「──」

 

 思わず駆け寄ろうとしたリオンが、白の大地に散った赤を見て、停止する。

 

「?」

 

 馬車の車輪と馬の蹄鉄、更には何人もの足跡で薄汚れた雪の上を、何かが転がった。

 

「!」

 

 丸みを帯び、毛皮の帽子にくるまれたひと抱えもあるそれは──お頭と呼ばれたならずものの、頭部だった。

 いつのまにか、フィオレは刀身に淡い紫を宿した刀を手にしている。

 止める間もなく歩み寄ったフィオレは、抜く手も見せず斬りかかり、一撃で首をはねてしまったのだ。

 刀を一振り、血糊を払い。銘と同じ紫電一閃が、再びならずものを襲う。

 悲鳴も上げず、しかし大量の出血を伴い、倒れ伏した仲間を目の当たりにして。

 彼らは浮足立つのがとても遅かった。

 

「な……」

「え……」

 

 幻想的な銀世界。

 静けさに浸る針葉樹の並木道が、白と赤と骸に彩られる。

 現実を認めた直後。

 鼻の下を伸ばして猥談すら興じていた彼らは、顔面蒼白になって逃げ惑った。

 

「ヒィッ!」

「た、助け……!」

「クソ、椿姫が戦えるなんざ聞いてねえぞ!」

 

 中には、どうにか事態を飲みこみ、立ち向かう者もいる。

 逃げる者から屠っていくフィオレの背中に斬りかかろうとして、ナイフを持つその腕が血飛沫を伴い、地面を転がった。

 気のせい、だろうか。

 その一瞬、フィオレが二人いたように見えたのは。

 

「魔神剣!」

「ぎゃあああっ!」

 

 まるで猫が鼠を追うように、逃げようとした者から優先的に仕留められ。

 抵抗を許さない一方的な殺戮は、唐突に終焉を迎える。

 

「……ント流、奥義」

 

 血肉の詰まった袋を幾度となく切り裂いて、その身を深紅に染め上げた刀身が虚空を薙いだ。

 

「次元斬」

 

 一拍の間を置いて、唯一凶刃から逃れ、こけつまろびつ走っていた男の胴体が、真ん中から寸断されて真白の大地に沈む。

 この場に立つのが二人だけになって、フィオレは糸が切れたかのように崩れ落ちた。

 

『フィオレ!』

 

 肩で息をしながら、ガタガタと明らかに身体を震わせながら。刃にべったり張り付いた血糊を、雪で拭って鞘へ収めていた。

 走り寄り、自分の外套を脱いで、フィオレへ被せるように着せる。

 そのままリオンは、よろめく彼女の腕を引いて馬車の箱型荷台へ押し込んだ。

 

「リオン「何か言う前にまず顔を拭いて着替えろ。風邪が悪化する」

「あの「お前はそのまま中で待っているんだ。勝手に出てきてみろ。もう二度と口を聞かないからな!」

 

 かいている汗だけではない。

 普段の二割にも満たない体捌きでの交戦で散った返り血は、フィオレの全身を濡らしていた。

 返り討ちにならなかったのが不思議なくらい、負傷していないのが奇跡に思えるほど、彼女にしてはひどい泥試合だったのである。

 何か言おうとしているフィオレを完全に無視して、背中を向ける。

 できることなら扉を封鎖してしまいたい。

 しかしこれから国境警備隊の連中と話をつけなければならない彼に、そんな暇はない。

 唯一話の通じそうなビーグランから起こすべく、彼は馬車から離れていく。

 一方、乱暴に閉められた扉を見つめたまま。フィオレは己の頬を拭った。

 返り血がついていたのか、汗に混じった朱が袖をその色に染める。

 血飛沫が散る袖を更に汚してしまい、フィオレは小さく嘆息した。

 

「……なんで、あんな泣きそうな顔なんだろ」

 

 音こそ聴こえるようになってきた。

 しかし麻痺した耳は未だ、人の言葉を解さない。

 読唇術に多少の心得があってよかった。

 唇を注視しなければならないし、注視できたところで単語しか読み取れずとも、役には立っている。

 

「顔、着替え、風邪、悪化」

「勝手、二度と、口」

 

 汲み取れたのはこれだけ。

 他の判断材料はリオンの、怒っているような泣き出しかけのような表情。

 己の解釈に間違いがあったら、後で謝るしかないかと諦めて。

 フィオレは取り出した手巾で顔を拭いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちらりちらり。はらりはらり。

 空中を泳ぐように舞う風花が、吹き抜ける風に煽られる。

 出発当時の青天は何処へやら。鈍い色の空の下、どこもかしこも雪に覆われた街の大通りを、二人は歩いていた。

 ──あの後。

 ビーグランを起こした彼は、当て身から目覚め相次いで起き上がってきた国境警備隊の面々と、再び対峙した。

 しかしリオンを目にした彼らは、彼が拍子抜けするほどあっさりと降伏し、粛々と縄についている。

 正確には、彼の周囲に散らばる「ならずものであったもの達」を目の当たりにして。

 

「こ、この者達は!」

「先程火焔瓶らしいものを放り込んできた闖入者だ。何か不都合でもあったか」

「この辺り一帯を縄張りにしていた追剥連中だ。お前がこれをやったのか」

 

 果たして、これをフィオレがやったと話して、彼らが信じるかどうか。

 信じようが信じまいが、どうでもいい話だ。

 

「……だとしたら、どうする」

「い、いや……そうだ。隻眼の歌姫は? ひどい熱だったじゃないか」

「馬車の中で待たせてある。そんなことより、お前の隊はどうやってここまで来たんだ? まさか歩いてきたわけじゃないだろうな」

「国境線上の警備に使う犬ぞりを使ったのだと思う」

 

 まずハイデルベルグへ向かわなければ、彼らを糾弾することもままならない。

 ビーグランともども彼らを王都へ向かわせ、リオンもまたフィオレを押し込めた馬車へ戻った。

 ──彼らが失踪する可能性を考えなかったわけではない。

 フィンレイが死んだことを嘲笑った隊長格は許せないが、それよりも優先することがあった。

 まずは護衛対象である隻眼の歌姫──フィオレの安全を確保する。

 体調を崩していることに気付けなかったのは彼の落ち度だが、それを申告しなかったフィオレにも非がある。

 まずはそこを言及しなければと、馬車に戻ったリオンは第一声を出しかけて……口を閉じた。

 血に塗れた姿をどうにか改め、リオンの外套に自らを包むようにして、フィオレが横になっていたからである。

 狭い座席にどうにか収まらんと丸くなっている姿は、狭い箱に身を押し込める猫を彷彿とさせ、逃げ惑うならずものを斬って捨てた殺人鬼とは似ても似つかなかった。

 

『坊ちゃん、怒るのは後にしましょう。今は休ませてあげなくちゃ』

「……ふん。まったく、仕方のない奴だな」

 

 吹きさらしの御者台に飛び乗り、馬を走らせ、ファンダリア王都ハイデルベルグに至る。

 馬車を停止させ、リオンが御者台から降りたその時。

 扉が開いたかと思うと、箱型荷台からフィオレが降りてきた。

 

「起きたか。大丈夫なのか?」

「……ええ。何とか聴こえるようになってきました」

 

 あれだけ赤かった頬が目立たなくなっている辺り、化粧──白粉でもはたいたのか。

 宿で休めと促すリオンに首を振って、フィオレは無理やり彼に同道した。

 

「彼らは、言うことを聞いてくれましたか」

「降伏には応じたから、ビーグランと共にハイデルベルグへ移動させた。逃走の可能性もあるが、今は任務を優先する」

 

 リオンの危惧に反して、ビーグラン率いる国境警備隊の一隊は、ハイデルベルグ城前にて待機していた。

 先に辿りついていた副隊長の仕事なのか、一般隊員達が次々と連行されていき、ビーグランと隊長格だけが残る。

 

「自首したのか」

「……そういうことになる」

 

 ビーグランが硬い表情のまま答え、繋がれた隊長格はそっぽを向いたまま。何も語ろうとはしない。

 そのまま連れて行こうとしたビーグランだったが、フィオレによって制止される。

 

「おい?」

「確かめたいことがあります。尋ねても素直に答えてはくれないでしょう」

 

 そこでフィオレは、おもむろに城門を警護する門番に向き直った。

 

「突然ですが、国王陛下にお目通りを願います」

 

 そこで封書と、特別通行手形を見せる。

 それを見た門番が、何かを言う前に。

 

「馬鹿め、それは我らが用意したものだ。そして特別通行手形など、そんなものは存在しない!」

「やっぱりそうでしたか。こちらの国璽を偽造したのはこの連中です」

 

 やはり発端からして、これは罠だった。

 それがはっきりしたからだろう。

 フィオレは門番に対し、淀みなく用件を並べ立てた。

 

「彼らは王の名を騙り、セインガルドを通して私を呼び出し、襲撃を仕掛けてきました。更には先日行われたセインガルドの建国式典において様々な狼藉、妨害活動に関与していると思われます。もう一度言いますね。国王陛下にお目通りをお願いします」

 

 止める暇もあらばこそ。

 フィオレは偽の招待状とありもしない特別通行手形を持ち、そのまま王城の奥へと歩みを進めた。

 

「突然の訪問、ご無礼をお許しください」

 

 あれよあれよという間に謁見の間まで入り込み、目を白黒させているイザーク王に、自分が今ここにいる事情を一通り説明し。

 

「──そんなわけですので、こちらは証拠物件としてお納め……流石に無理ですね」

 

 いくらなんでも、手渡すわけにはいかない。

 後で受け取ってほしいと、フィオレは手近な侍従に渡そうとした、その時。

 

「それには及ばない。我が国の民が、多大な迷惑をかけた」

「陛下!」

 

 側近の制止も聞かずに、国王は玉座から離れたかと思うと、フィオレから直接、それを受け取ったのである。

 

「……?」

「で、では、私どもはこれで。御前を失礼いたします」

 

 おそらく、王はフィオレの手に触れたのだろう。少々訝しげな面持ちを浮かべていた。

 まるでイザーク王の視線から逃れるように謁見の間を辞して、速やかに城門を後にする。

 休みはしたものの、突撃隣国の謁見は心労がかかったのか。フィオレは呼吸を乱しながら、浮かんだ汗を拭っていた。

 風邪もさることながら、それが年配の男性と接触したことによる異性恐怖症の弊害であることを、リオンが知る余地はない。

 

「……意外だったな。ファンダリアの落ち度をねちねち責めるかと思っていたが」

『私はあなたの娘じゃない、誤解を解いてくれって言いだすとかねー』

「そんな余裕、ありませんよ……そりゃ建国式典の襲撃犯との関連をはっきりさせたいところですが、ファンダリアの面子もあるでしょうし。今後の国同士の問題であるはずです」

「……フィンレイ将軍の、暗殺の件についても、な」

 

 フィオレは何も言わない。

 通りがかった酒場の前で寄りかかるようにして、一息ついている。

 ──今なら不意討ちを仕掛ければ。彼女から一本取ることも可能ではないか。

 そんな考えが脳裏をよぎるも、ならずものを魚でも捌くかのようになます切りにして回った光景を思い出し、首を振る。

 

「……どうして」

「?」

「どうして何も言わなかったんだ」

 

 一息ついていたフィオレが、顔を上げた。

 何故かそれを直視できず、リオンは目を背ける。

 非があるのはフィオレも同じはずなのに。何故、こんな後ろめたい気持ちになるのだろう。

 

「──起き抜けは、ここまでひどくなかったんですけどね」

 

 フィオレは存外、素直に理由を話した。

 体調が悪かったことは自覚していたが、話すほどではないと判断し、無理をしないよう心がけてはいたらしい。

 それが急変したのは、馬車に乗る直前だったという。

 

「ビーグランには知られたくなかったんですよ。敵か味方か、いまいちわからなかったもので」

『だったら僕に言ってくれれば……』

「シャルティエ、男性でしょう。言い出しにくかったんです。弱みを見せたくない、という意識もあったと思います」

『へ? なんでさ、体調不良に男も女も関係ないでしょ?』

 

 関係ある体調不良だったのだから、どうしようもない。

 移動中に窓を開けたがったのは、周囲の様子を探るため。

 襲われても手を出さなかったのは、国際問題への発展を考慮した結果。

 

「まあ、招待状が偽物だったわけですから。いらない配慮でしたね」

「なんであんな無茶をしたんだ」

「無茶?」

『ならずものを、無理してバッサバッサ斬って回ったじゃない! あんな血塗れになって……!』

「特に無理はしてませんよ。まあ、なりふりは確かに構っていませんでしたが」

 

 寄りかかるのをやめた彼女は、そのままリオンから離れるかのように歩き始めた。

 特に目的があるわけではないようで、あっちへ行ったりこっちを向いたり、ふらふらと歩いて回っている。

 

「おい、どこへ行くつもりだ。そろそろ休んだ方が……」

「まあ、もう少しだけお付き合いください」

 

 歩いていた足が止まる。

 そっと曲がり角の先を伺い、それから身を乗り出した。

 宿から軍服姿が三人出てきたかと思うと、駆け足で大通りに向かって去っていく。

 

『なんか、さっきから軍人の姿が妙に多いですね』

「人捜しでもしてるんじゃないですか」

「捜されているのが僕たちというオチはないだろうな」

 

 歩き出そうとしたフィオレの足が止める。

 ここで初めて、彼女はちらっとリオンを見やった。

 

「……おそらくそうだと思われます。あなたにしては、鋭いですね」

「どういう意味だ!」

「そのままです。見つかったら多分王城へ連行されると思いますので、ほとぼり冷めるまで潜みましょう」

 

 先程から当てどなく歩き回っていたのは、それから逃げ回っていたかららしい。

 

『別に捕まるわけじゃないでしょ。いいじゃない、本当に招待受けたって。そのつもりで来たんだから』

「招待とは限りませんよ。事情聴取で拘束に近い扱いかもしれませんし、それは割と捕まるようなものです。招待だったところで、また落胤がどうのこうのと面倒なことになってしまいます。今の体調では満足に謡えそうにもありませんし……あの襲撃犯達のことを問い詰めたいなら、わざと見つかってみますが」

 

 口ではそう言っているものの、それを嫌がっているのは明白で。

 それを実行することは躊躇われた。

 

「……いや、いい」

「そうですか」

 

 それならこちらへと、フィオレは街の郊外に向かって歩き始めた。

 

「そうそう、椿姫なんですけど」

「!」

「思い出しました。戯曲のタイトルです。ひと月の内、二十五日は赤い椿、残り五日は白い椿を身に着ける高級娼婦が、真実の愛を見つけてどうたらこうたら」

 

 つまり、自分は商売女と揶揄されたのではないか、とフィオレは推測していた。

 まったくもってその通りだ。

 だからこそ、それ以上話を進ませまいと、シャルティエは誤魔化すように話題をシフトさせた。

 

『だ、だから椿姫なんだね。何でいつも赤い椿じゃないんだろ』

「……白椿中は、お仕事ができないからだそうです」

 

 ほんの僅か、言い淀む。

 その間を不思議に思いながら、リオンも話に加わった。

 

「休みたい時に白椿を飾るのか。風流だな」

「そうですね。うん、そんな感じです」

「……?」

 

 ざくざくと、雪を踏みしめる音だけがする。

 この沈黙を嫌うように、またもシャルティエが声を上げた。

 

『そ、そうだ。さっきは誤魔化されちゃったけど、なんだってあんな無茶したの!』

「手っ取り早かったでしょう? 残虐にした分だけ、国境警備隊達も残骸を見て従順になってくれるだろうと判断したまでです。今の私は手加減できるほど、余裕があるわけでもありませんし」

 

 唐突に立ち止まり、きょろりと周囲を見渡す。

 付近に民家はなく、建造物の類もなければ植物もまばらだった。

 もちろん人気もないが、王都の近辺だからだろうか。野生動物や魔物の気配もない。

 

「……この辺でいいですかね」

「何がだ」

 

 フィオレは答えない。

 しかし答えの代わりなのか。

 振り返ったフィオレは、紫電を握っていた。

 

「!」

 

 反射的にシャルティエを引き抜き、距離を取る。

 フィオレはその場から動かない。

 

「……何のつもりだ」

「私はあなたの剣術指南役として雇われています。それはご存じですよね」

「ああ」

「あなたが私に勝てば、私は指南役より外される。ですので」

 

 手にしていた紫電が翻る。

 切っ先がリオンを指し、ひとひらの雪が張り付いた。

 

「一戦交えましょう。今のあなたの実力を、測ります」

『そんなの、今やらなくったっていいじゃないか! 具合が悪いんでしょ? 坊ちゃんの実力ならセインガルドに戻ってからでも、君が体調戻してからだって』

「私の具合が悪い今だからこそ、です」

 

 まさか、体調不良に付け込んで勝ちを拾えと言うのか。

 そう決めつけて瞬時に沸騰し、馬鹿にするなと怒鳴りつけたリオンだったが。

 

「──そんなわけないでしょう」

 

 冷たい冷たいフィオレの声音が、水を差すどころか氷水をぶっかける。

 

「今、私は手加減できません。それは先程あなたが見た通りです。抑えも利かないから負傷も覚悟してください。とはいえ、体調が悪いのは事実ですから」

 

 こうして立っているだけで、息の荒いフィオレの消耗は見てとれる。

 もしかしたら、勝てるかもしれない。

 先程もよぎった、悪魔の囁きを振り払い。

 リオンもまた、シャルティエを構えた。

 

「……もし。もし、僕が勝ったら」

「もちろんそのことはヒューゴ様に報告します」

「そんなことはさせない。そんなもの、認めてもらえるわけがないだろう」

「……では、何かお望みで?」

「お前の体調が戻るまでファンダリアから出ない。国王陛下の招きがあるならば従い、王城で静養してもらう。それで落胤の誤解も晴らせばいいだろう」

「絶対に嫌です。覚悟なさい、降参と言うまで手は止めません」

 

 ピリピリと、冷たい空気が張り詰めていく。

 対峙は一瞬。

 二人は同時に大地を蹴った。

 鋼と鋼が、耳に障る調べを激しく奏で、重なり合う。

 

「瞬迅剣!」

 

 手加減しない。否、しないのではなく、できない。

 彼女はそう言っていた。

 

「魔神剣!」

 

 確かに。普段ならば、たとえ暴徒鎮圧でも剣技など使わない。

 それがリオンとの稽古中であっても、だ。

 

「虎牙破斬!」

 

 それが今。彼女はリオンと対峙して、持ちうる剣技を惜しげもなく振るっている。

 それが。

 

「……っ!」

 

 普段の四割増しで、疾い。

 初動がまったく読めず、気が付けば色を宿した刃が眼前にある。

 これまでの修練で叩き込まれた「咄嗟の」防御。

 それをリオンが己のものとしていなければ、彼の命はとうにない。

 太刀筋そのものを目で追えずとも、「見たことだけはある」その事実は幸いだった。

 

『フィオレ、ちょっと、待ってよ! 太刀筋が全然見えないんですけど! 本気出しすぎだよっ!』

「」

『今出せる全力だからって、そういうことじゃなくて! こんなの当たったら即死だって!』

「」

『まだ死んでないよ! 勝手に殺さないで!』

 

 シャルティエが勢いよく喚き始めた時点で、フィオレは間合いを取って切っ先を下げている。

 その間、リオンはシャルティエをいさめることも忘れて慄いていた。

 これがフィオレの本気──他者の無力化ではなく、命を奪う剣か、と。

 空気を切る音が非常に遅く聞こえ、比例してその剣閃は注視すれば目を灼くほどに疾い。

 どれほど研いだ刃より鋭く、こんなものに狙われたら凡人は何が起こったかもわからず絶命するしかないだろう。

 故に、思う。

 これに斬られたならば、わけもわからず、苦しむ暇もなく、走馬灯すら拝まずに逝けるだろうと。

 打ち合ってたったの五合で、すでに気圧されていることを悟られるわけにはいかない。

 リオンは努めて冷静に、いつものようにシャルティエをいさめた。

 

「──うるさいぞ、シャル。集中しろ」

『だって坊ちゃん! フィオレ、冗談抜きで本気ですよ! 殺気まで飛ばして、坊ちゃんに何の恨みがあるのさ!』

「聞きたいですか?」

 

 想像だにしなかった答えが、あっさりと白い息と共に放たれる。

 剣の主に黙れと言われても黙らなかったシャルティエをあっさりと黙らせて、フィオレは切っ先を上げた。

 

「私だって人間ですからね。思うことなんかいくらでもありますとも。口に出したって不毛なだけですから、言葉にしたことはありませんが。聞きたいですか?」

『い、いいえ』

「よろしい。私だって罵詈雑言吐きたいわけではありません」

 

 いつになく聞き分けのいいソーディアンに、軽く頷いて。

 彼女は再び愛刀を構えた。

 まるで首をもたげた蛇のように、ほんの一瞬だけ間をおいて。

 

「っ!」

 

 何の迷いもなく、開いていた間合いを詰め、一足飛びで斬りかかってくる。

 雪に足を取られて転んだとは思えない踏み込みが、深くえぐるような足跡を雪上に刻んだ。

 リオンにとって幸いなのは、フィオレが体調を崩していること。

 手汗で手元が滑り、重心の置き換えが僅かに狂った斬撃に本来の重さはない。

 それゆえ、防御さえ間に合えばそれが突破されることもなかった。

 

『坊ちゃんが大怪我したら、君だって困るでしょ!?』

「いいえ。なんで困らないといけないんですか?」

 

 そして今、フィオレは立っているだけで体力を消耗している。

 体捌きは鈍りこそしていないが、一呼吸ごとに目に見えるほど、動きを止めているのが何よりも証拠だった。

 このままフィオレの体力が尽きるまで凌ぐか。

 あるいは、一呼吸ごとに手を止める、その隙に仕掛けるか。

 はたまた──真っ向から打ち負かすか。

 普段の彼ならば、これらのどれでもない選択をするだろう。

 これらすべては、フィオレも当然予測しうる選択肢である。けして有効打ではない。

 それどこか、罠が仕掛けられている危険すらあった。

 

『……大人は子供を護る義務がある、って言ってたくせに……!』

「」

『今は雇い主のご子息様、って、尚のこと傷つける対象じゃないでしょー!』

「孤月閃!」

 

 しかし今は交戦中。

 まるで先ほどのやり取りは準備運動だとでもいうかのように、少しずつだがリオンは追い詰められつつあった。

 他者を屠る。そのためだけに振るわれ、見たこともある剣技から、過去、彼が一度たりとも見たことがない剣技を彼女は振るいつつある。

 そんなものの軌道など、読むどころか見ることは叶わない。

 先手を打つなど夢のまた夢、防御だけではやはり限界があり、対応はどんどん遅れがちになっていく。

 このままでは、敗戦必至。その未来を回避するべく、彼が選んだのは。

 

「はあっ!」

 

 真正面からの、応戦だった。

 打ち合い、刃を交わしたその時から一撃が軽かったのは彼とて承知している。

 鍔迫り合い、無理にでも押し切って、一撃。

 その華奢な身に、故に回避に特化した彼女に、入れることができたなら。

 衰弱しているフィオレはおそらく耐え切れず、沈む。

 

『これだけやればもう十分でしょ、坊ちゃん実力ついたでしょ、もうやらなくていいよねフィオレ! ねえ、フィオレってば!』

「……」

 

 模擬仕合だろうと稽古の剣戟でも、リオンは一度として彼女に入れたことはない。

 フィオレはあらゆる技術を口頭で伝え、模倣させ、教えるだけ教えておいて後は実戦で試せと言うばかりで、彼女自身を実験台にはしないからだ。

 いわく、見ても聞いてもなぞっても、結局その時点では付け焼刃にしかならないのだから。

 自分なりに教えを解釈し、己の内で有効な技術として昇華させなければ、特に役には立ちはしない。

 だから指南役であっても、自分の保有する剣術をそのまま教えるようなことはしないと、いつか言っていた。

 

「時の狭間にて揺蕩(たゆと)う者よ、奏でし調べに祝福を」

 ♪ Rey Va Nu Qlor Toe Rey Rey──

 

「!」

 

 すわ応戦しようとしていたリオンから大きく間合いを取り、左の手を己の胸に当て、高らかに謡う。

 聞いたことこそないが、以前聞いたものに酷似した、ただの歌唱ではない、手品と称される何か。

 何が起こるのかと戦々恐々と身を硬くしたリオンだったが、予想に反して何も起こらなかった。

 彼の身には。

 

「……シャル?」

 

 気づけば、シャルティエが声を発さない。

 人の身であれば唾を飛ばして喚き散らしていた彼は、口を塞がれたかのように黙りこくってしまった。

 ちらと見やれば、淡い光が灯っていたはずの日車草色のコアクリスタルは完全に光を失っている。

 

「シャルに何をした!」

「あまりにもうるさいから静かにしていただいただけです」

 

 ──内心でフィオレもまた、驚いてはいた。

 一定時間、対象そのものと近接する周囲の時を停止させる譜歌──ただし対象は無機物に限られる──は、ソーディアンのコアクリスタルすらも適応されるのかと。

 

「もうシャルティエを使って私の集中を殺ぐのはナシです」

「僕はそんな──!」

「つもりがあろうがなかろうが、彼を止めなかった時点で同じこと」

 

 ゆらりと刀が構え直されたその時。

 次の瞬間にはもう、フィオレの姿は眼前にあった。

 

「!」

「真空破斬!」

 

 防御──しきれない。

 どんなに目を凝らしても初速の見えない切り払いは、刃そのものこそ沈黙したシャルティエの刃によって止められたが。

 伴う真空の刃は千々に乱れ飛び、胸に、腹部に、腕に、被弾した。

 

「がっ……!」

 

 目にも鮮やかな血潮の粒が、宙を舞ってフィオレに降りかかる。

 のけぞった彼を追撃するべく、彼女は足を踏み出した。

 しかし。

 

「っ」

 

 がくっ、とその膝から力が抜ける。

 驚きに目を見張り、片膝をついたフィオレではあったが。大きく息を吐いたのち、すくっと立ち上がった。

 真空の刃は、どれだけ鋭かろうと実体はない。それゆえ入りも浅く、皮膚を軽く裂いた程度だ。大事には至らない。

 それがわかっているから、だろう。

 上体を起こしたリオンに近寄り、そのまま。

 

「……」

 

 無言で紫電を振り上げた。

 一拍の時を経て振り下ろされた刃が、再びシャルティエと交錯する。

 重なり合った、その瞬間。

 

「あっ」

 

 ぼとりと、まるで椿が落ちるかのように、その手から愛刀が滑り落ちる。

 勢いのまま、体勢を崩したフィオレはそのまま。

 水平にかざされたシャルティエの前へ、まるで首を差し出すかのように──

 

「この馬鹿者!」

 

 最早是非もない。

 フィオレを支えるべく、リオンはシャルティエを放り出した。

 両肩を掴み支えようとして、勢いに負けて雪上に寝転ぶような形になる。

 ──リオンに覆い被さる形になっていたフィオレは、よどみなく懐から抜いた短刀を、彼の喉元につきつけていた。

 

「──!」

「馬鹿で結構。降参するまで手は止めないと宣告しましたから、覚悟は『降参!』

 

【第七音素譜歌】静なる時縛り(タイムストップ・バインド)、一定時間の経過で、シャルティエは再び活動を再開している。

 己の時が凍結されていたことを知ってか知らずか、フィオレの暴走を止めるべく、彼はその言葉を連打した。

 

『そんな状態じゃ言いたくても言えないから僕でもいいよね、降参! 降参ったら降参! 降参降参降参!』

「……ちぇ」

 

 至極物騒だが、非常に幼い遺憾の意を示して。

 フィオレはあっさりと懐刀を納めた。

 身を起こそうとして失敗して、ごろんと雪上へ再び寝そべる。

 

「命よ健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──

 

 いつかも聞いた、重傷の兵士達を瞬く間に癒した旋律。

 歌声が響いた直後、光の譜陣が敷かれ、リオンの負傷は瞬く間に消えた。

 

「……おい?」

『フィオレ?』

 

 リオンが、シャルティエが、何かを言っている。

 残り少なかった体力を余すことなく使い切ったフィオレは、雪原を布団にしてそのまま眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、目を開ける。

 むくりと起き上がった身体は寝台に寝かされていて、額に乗せられていた手ぬぐいがずるりと落ちた。

 室内は暗く、鎧戸の落とされていない窓から和えかな月明かりが差し込んでいる。

 ふと見やれば、寝台の脇に誰かがうずくまっていた。

 漆黒の猫毛、幼くも眉目秀麗な面立ちの少年──リオン。

 彼は寝台の端に両腕を組んで、それを枕に寝入っていた。

 サイドテーブルに水の張ったたらいが置かれている辺り、看病してくれたのだろう。

 殺されかけても尚その献身に──多分仕事だからだろうが──彼が何故か握りしめている眼帯は取り戻しておくだけにしておく。

 学習能力の高い彼ならば、間違いなく身に付けるはずだ。わざと隙を作って不意をつく、正々堂々から遠く離れたこの技術。

 未来はともかく、今の彼の外見ならば間違いなく有効な手段である。

 やりようによっては、フィオレすらも騙すことができるだろう。

 眼帯を取り戻し、深く眠りについていることを確認して、もうひとつあった寝台に横たえる。

 フィオレのように風邪を引かぬよう、きちんとその身体を毛布で包むようにして。

 粉のように細かい雪が、月明かりに反射してきらきらと輝いた。

 思わず見とれて、更に窓辺に近づいて。

 そこでフィオレは、己の顔に描かれた髭に気づくことができた。

 

「……こんにゃろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 元のタイトルは
「ファンダリア探索訪問記録──少年は二回ほど、押し倒される──後編」
「ファンダリア探索訪問記録──シャルティエは七度降参を叫ぶ──後編」
 
 甲乙つけがたかったです。


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第二十六夜——生じ始めた亀裂

 ダリルシェイドにて、原作以前最後のエピソード。
 悩みに悩んでリオンの誕生日異変。
 サンダーソニアの花言葉は「愛嬌」「祈り」「共感」「望郷」「祝福」「福音」「純粋な愛」
 今回は「祝福」で。


 

 

 

 

 

 

「誕生日?」

 

 外はカリカリ、中はふわふわのバターワッフルを咀嚼。後に飲み下したフィオレは、彼女が口にしたその言葉を、そのまま繰り返した。

 招待状、そして国王の勅命を受けて訪問したファンダリアから帰国後。数日が経過した昼過ぎのことである。

 自室で拝借した資料の読書を敢行していたフィオレは、とある人物の訪問によって中断せざるをえなくなった。

 とある人物の正体こそ、現在フィオレの正面ソファに腰掛ける家政婦(メイド)長マリアン・フュステルである。

 最近、彼女は二重人格ではないかと思わせる性格の激変を、フィオレは目の当たりにしていた。

 昼間は優しげで儚げで、細やかな気配りに朗らかな人柄と、一家に一人ほしくなる家政婦(メイド)の鑑なのだが。

 夜になると鏡で映したかのように真逆となる。

 真逆といっても、ガサツで力強くなるわけではない。

 他者に対してはわからないが、フィオレに対して凄まじくツンケンと扱ってくれるのだ。

 

「フィオレ様。洗濯物に下着が見当たらないのですが、同じものを毎日着けないでください。不潔ですよ」

「下着くらい自分で洗いますからほっといてくださいませ」

 

 様付けはやめてくれと言ったのに、夜だけそれを無視するし。まるで初めから、そんなこと言われていません、といった風情である。それが態度に留まらず、給仕やら何やら、業務にまで私情らしいものを加えてくれるから困る。

 それも、リオンやヒューゴ氏はもちろんのこと、他者のいる場所ではきれいに隠しているのだから始末が悪い。

 そうされるだけの心当たりがないわけではないため、一応放置して、夜中は彼女に近寄らないよう努力しているが……

 

「フィオレさん、お茶はいかがですか? お茶請けにバターワッフルを焼きまして」

「リオンは出かけてませんでしたっけ」

「はい。ですが……いかがでしょうか」

 

 そんな彼女から、お茶を誘われた。

 普段ならばリオンを交えて中庭でのお茶会だが、生憎と本日は曇天。

 更にリオンは所用で留守のため、フィオレは私室でのお茶会を提案したのである。

 不定期で時間が許せば開かれるささやかな茶会ではあるが、フィオレはほとんど参加したことがない。

 ごく時たま、リオンへの些細な嫌がらせのために参加したり、読書に疲れた時の気分転換など、基本的に気乗りがしなければ参加はしなかった。

 今回参加の理由としては、昼間の彼女に嫌がらせをされることはないからと、少し小腹が空いていたことにある。

 そんなわけで彼女の茶と手製のお茶請けを堪能していたフィオレは、持ちかけられたその話に耳を傾けた。

 

「はい。きたる来週は、リオン様の十六回目の誕生日であらせられます。ですから、お祝い差し上げたいと」

「どうしてそれを私に? 私が今、当の彼に何をしているのか、知らないわけではないでしょう」

 

 現在フィオレは、以前とは比べ物にならないほどの修練を彼に課している。その内容は苛烈にして陰湿、見ている者が制止を望むほどに過酷なものだった。

 剣術向上のもと行われていた模擬試合で、フィオレが使うのは鉄製の棍だ。真剣で斬り殺す心配がなくなった代わり、彼女はまったく手を抜かず、更には寸止めをやめた。

 必然的にリオンの体は青痣で埋め尽くされ、治りかけてもその上から殴られるために、完治した形跡はない。

 疲労が溜まっていてもどんな精神状態でも、フィオレの繰り出す攻撃から身を護らなければならないため、集中が乱れて直撃したことも少なくない。

 

「……!」

「今のは護れたでしょうに。集中が足りません。とりあえず、立ちましょうね」

「……」

「無視ですか? 足は無事なんですから立ちましょう。それとも、立てないようにならないと、立てることの有り難みがわかりませんか?」

 

 一歩間違えば虐待になるであろうその指南を、しかしフィオレは真面目に取り組んでいた。

 息の根が止まる手前で手を止めているし、後遺症を残す危険性の怪我を負わせた場合は責任持って治療し、疲労を残さないためのアフターケアも手を抜いていない。

 当初は、シャルティエが反発した。当たり前ではある。

 

『ひどいよ、やりすぎだよ! 坊ちゃんが何したってのさ! こないだのことまだ怒ってるの!?』

 

 無論、彼は何もしていない。顔にヒゲを描かれたのは業腹だが、子供の可愛い悪戯の範囲である。

 問題は大人の方。度重なるヒューゴ氏のアレな行いにだんだん嫌気が差してきたフィオレが、可能な限りピッチを上げただけだ。しかしちょっと急激に上げすぎたきらいはある。

 そのため、リオンが音を上げればその都度加減する、と告げたが。当の本人は彼を黙らせ、ただ黙々と修練に励んでいる。

 この頃、少年の体は急激に変化しつつあった。

 打撲を負った箇所は日を追うにつれ徐々に自己治癒が進み、結果として身体の強化に繋がっている。

 ただひ弱で細かった体は、少年から青年へと移行する成長期と合わせて、小柄ながらもしっかりとした体躯を形成しつつあった。

 最近の心配事としては、好き嫌いが激しいせいで、十分な栄養が摂取できていないせいか。身長の伸び悩み、伴って、体重があまり増加していないことくらいか。

 とはいえ、外見にはあまり困っていない彼のこと。少々背が低いなら低いで、それを生かした戦法を教え、仕込むだけだ。

 ただその前に今は、いまいちしっかりしていない土台を強化・補強する。

 大まかではあるが、このことはリオンに伝えてあるため、彼自身は納得して素直に修練に励んでいるが。一番身近な他人であるシャルティエが未だにぶうぶう文句を垂れるくらいだ。マリアンが何も思わないわけがない。口には出さないが、夜限定の嫌がらせはこの辺りが起因していることだろう。

 そのことを指摘すれば、マリアンは柔和な顔立ちを歪めてうつむいた。

 注がれた香茶の水面に、悲しげな彼女の顔が映る。

 

「……僭越ながら、フィオレさんの指導は行き過ぎだと、私も思います」

 

 マリアンの顔が、ゆっくりと上がる。

 その表情は、未だ悲しげではあるものの、どこか達観していた。

 

「けれどもあの方は、もう子供ではありません。あの方が、そしてヒューゴ様が納得されていることですから、私はその決定に従います」

 

 初めから最後まで、フィオレには何一つ同意できる内容ではない。

 包み込むように持っていたカップをソーサーに置き、フィオレは改めて口を開いた。

 

「あなたが納得しているか否かは、この際問題ではありません。あまり私を良く思っていないだろうリオンが、私から誕生した日を祝われて喜びますかね? それを私に教えるよりも、あなた個人からの祝福で彼は満たされるような気がしますけど」

「そんなことはありません。あの方をこれだけ長く指導されたのは、フィオレさんただ一人です。嫌いな人間の指導を、益があるからという理由だけで続けられるものでしょうか?」

 

 まだ一年も経っていないのに、これが一番長い期間なのか。やっぱりリオンの人格に問題があるんじゃなかろうか。

 そして、彼のそれは半ば強制されたものなのだ。

 一応彼の自由意志だとフィオレとしては信じたいが、あれからヒューゴ氏と何もなかったわけではないだろう。

 あえてそれを彼女に話そうとは思わないが。

 

「では、私からの祝福は、当日の訓練をハードなスペシャルバージョンにするということでー」

「フィオレさん!」

「冗談です。当日の訓練は急遽中止ということにしましょう。一日、彼に自由な時間を差し上げるということで。これなら何か、お祝いする余地がありますよね」

 

 適当な冗談を絡めて、微笑んでみせる。

 おそらく初めから、それを頼みに来たであろうマリアンは表情を明るくさせ、フィオレに一礼した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 刃を潰され、ほとんど鉄の棒切れと変わらない試合用の剣が、がっちりとかみ合う。

 しかしそれは一瞬のこと。剣を握る少年はすぐさま距離を取り、押し切られるのを避けた。力任せに押し切ろうとした相手はといえば、ほんの僅かではあるが体勢を崩している。

 それを見逃す少年ではなかった。

 慎重に間合いを計っていた足が、一転大胆な踏み込みを見せる。

 そして、ただ一点に切っ先は突き進んだ。

 

「そこまで!」

 

 頚動脈を叩き潰す勢いで放たれた一撃が、ピタリと停止する。

 必殺の一撃を捌けない。それが露呈した時点で、試合は終了していた。

 

「勝者、リオン・マグナス!」

 

 対峙する二人を見守っていた審判役が、声高らかに宣言する。

 ただ鋼が交差する、その音だけが支配していた場の緊張がほぐれた。

 ほうっ、と息をつく音、人々の奏でるざわめきが煙のように漂っていく。

 ダリルシェイド王城、中庭。

 七将軍が一人アスクス・エリオット相手に始まった手合わせは、挑戦者たるリオンに軍配が上がった。

 ゆるゆると引かれた剣の先にいるアスクスは、バツが悪そうに観客の狭間にいた仲間から顔を背けている。

 剣の主はといえば、どこか茫洋たる面持ちで立ち尽くすのみだ。

 フィオレはつかつかと対峙する二人に歩み寄った。

 

「お手合わせ、ありがとうございました」

 

 未だ勝利の感触が確かめきれていないかのような少年の後頭部に手を添えて共に頭を下げ、そそくさと退場し。規則的というよりは機械的に足を動かすリオンを誘導し、試合用の剣等武器防具保管所へと至る。

 自分の手で借りていた武器を返却させたにもかかわらず、リオンが我に返ることはなかった。

 さてどうしたものかと、出口へ向かうリオンの後を追うと、彼は再び立ち尽くしている。

 フィオレを待っていたわけではない、我に返ったわけでもない。

 

「見ていたぞ。腕を上げたな、リオン」

 

 いつの間にやってきたのか。ヒューゴ・ジルクリスト氏が、保管庫から出てきたリオンに労いをかけていた。

 当然フィオレには、リオンの表情はわからない。

 それでも彼が喜色を浮かべているように感じたのは、フィオレの気のせいだろうか。

 

「以前リオンがアスクス将軍との御前試合で敗北に喫したことを知ったのだな。剣術指南役の面目躍如といったところか。これならば、陛下も満足されることだろう」

 

 ──そう。今回リオンがアスクス将軍と手合わせをすることになった理由は、彼にある。

 日々の訓練を見て何か思ったのか、それとも単なる気まぐれか。

 

「リオンの実力が本当に向上しているかを証明して見せろ」

 

 と言い出したのだ。

 もちろん、過去の御前試合に関してのことは情報を手に入れてある。

 合同訓練及び合同任務において、アスクスの腕は知っていた。

 出会った当初ならばともかくとして、今のリオンにかなわない相手ではない。それを確信していたからこそ、この手合わせをセッティングした。

 結果は上々、フィオレとしては文句もないが賞賛もない。彼の現在の実力としては順当で、驚くほどのことではなかった。

 今の調子からして、おそらくリオン本人としては、まったく自覚していないようだが。

 

「ご満足いただけたようで何よりです」

「ああ。しかし君には困ったことになったかもしれないぞ」

「?」

 

 奇妙なことを言い出したヒューゴ氏に首を傾げて見せれば、彼に口角を歪めて言い放った。

 

「これで私は、ますます君を手放したくなくなった」

「……そのお話は、リオンが私に勝つまで、当初の契約が果たされるまで保留です。もう忘れてしまったんですか?」

 

 近頃になって、ヒューゴ氏はフィオレと新たな契約を結びたい、としきりに口にしているのだ。

 守護者との契約については何一つとして話していないが、それでもフィオレの態度からそろそろ自分の所持する資料だけでは縛りきれないことに気づいているのだろう。

 事実としてフィオレは、ジルクリスト邸に滞在する意味を失いつつあった。

 書庫のめぼしい資料をあらかた読みつくした今、潮時であることは間違いない。

 最近になって幾度となく繰り返されるやり取りの後に、リオンを伴って王城を後にする。

 ちらりと彼を見やれば、まだ勝利の美酒に酔っているのか、リオンは何も話さない。あるいは何かを思ってのことか。

 ──と。ここでリオンはやっと口を開いた。

 とはいえども、話しかけた相手はフィオレではなかったが。

 

「……信じられるか、シャル。あのアスクス将軍に、僕が……」

『これがあの訓練の賜物なんでしょうか。僕は、あんまり認めたくありませんけど』

 

 街中につき、かなり声は抑えられているがそれでも会話はフィオレの耳にも届く。

 今になってじわじわと勝利した自覚が沸いてきたらしいリオン。それを喜びつつも、これまでフィオレがしてきたことを肯定したくないらしく、複雑そうに応じるシャルティエ。

 二人の会話は続く。

 

「今までの指南役が上品過ぎただけだろう。苦難なき稽古など、何のためにもならない」

『それはそうかもしれませんけど、フィオレはやりすぎなんですよ! 初めの頃なんか何回も虫の息になったじゃないですか、痙攣だって何度起こしたことか! 見守ることしかできない僕の身にもなってくださいよ』

「リオンが音を上げたら、軽くしてあげます。いい加減ぴーぴー言うのはやめてもらえませんかね」

 

 このままではいつまでたっても話が切り出せないと、フィオレは自分から口を開くことにした。

 不意に話しかけられ、リオンもシャルティエも驚いたように息を呑んでいる。

 それも束の間のこと。リオンは間髪いれず噛み付いてきた。

 

「ぴーぴー言っているのはシャルだ。僕には何の文句もない。人聞きの悪いことを言うのはやめろ」

「それでも、言わせているのはあなたです。シャルティエが安心できるよう、もう少し頑丈になれませんかね坊ちゃん」

「何だと!」

「違うんですか? 違うなら何が違うのかを教えてください」

 

 気色ばむリオンだったが、フィオレとしてはこれ以上応じる気はない。

 このままではいつまで経ってもラチが明かないと、フィオレは早々に切り上げることにした。

 図星を突かれ、黙り込む彼に本題を告げる。

 

「ともあれ、本日はお疲れ様でした。試合に勝ったご褒美として、今日明日の訓練はお休みです。思いきり羽根を伸ばしてきてください」

「……?」

 

 不意にそんなことを告げられ、彼は当然のように困惑した。

 規則的に動かしていた足を止めてフィオレの顔をまじまじと見つめている。

 

「ですから、夜と明日の訓練はなしです。私も久々に、思いっ切りゴロゴロしますから」

『それって職務怠慢じゃ……』

「ヒューゴ様からの許可は下りています。明日は客員剣士の職務も安息日ですし、たまにはいいでしょう。それと」

 

 シャルティエの呆れたようなツッコミを受け流し、フィオレは小箱を取り出した。

 無理やりくくりつけられている釣鐘型の花、淡い橙色のサンダーソニアがふらりと揺れる。

 

「生まれてきてくれて、この日まで生きていてくださって、ありがとうございます。これからも、これまで自分が得てきたもののために、頑張ってくださいね」

「……は?」

 

 訳がわからず、ただその音を洩らしたリオンに小箱を持たせて、開いたその中に鎮座していたのは、純銀製のチョーカーだった。

 銀のプレートを首の後ろで固定するだけというシンプルなもので、唯一の装飾として漆黒のオニキスがあしらわれている。

 リオンはいぶかしげにフィオレを見やった。

 無理もない。彼の誕生日は明日なのだから。

 しかし、明日はマリアンが彼に対して祝福する手はずである。余計な差し水はしたくなかった。

 

「何のつもりだ」

「わからないならそれでいいし、わかっていて聞いているなら、答える義理はありません」

 

 フィオレの返事は素っ気ない。

 戸惑うリオンを置くていく形できびすを返した彼女ではあったが、突如くるりと振り返った。

 

「要らないなら売り飛ばすなり何なりどうぞ。ただこれからは首も狙いますので、不慮の事故で殺すのも何かと思っただけです」

 

 トン、と自分の喉もとを指し、今度こそフィオレは屋敷の方角へ足を進めていく。

 その後残された彼が何を思ったのかは不明だ。

 しかし再び、フィオレが屋敷にて彼を眼にしたそのとき。

 彼の喉元には、あのチョーカーが光っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十七夜——きしみゆくのは歯車か、絆か

 ダリルシェイド・ジルクリスト邸。
「生じ始めた亀裂」の直後。



 

 

 

 

 

 夜のこと。

 

「明日は、いよいよリオン様のお誕生日ね!」

「私、お茶会用のクッキーを作ろうと思うの。リオン様、食べてくれるかなあ」

「私はねえ、新しいハンカチ! いつも訓練で汗をおかきになられるから、それで拭ってくだされば……」

 

 ──以前、リオンのファンだという街娘が、頬を赤くしながら手作りの菓子を彼に差し出した時。少年は一瞥もせず、何事もなかったかのように無視して通り過ぎた現場に居合わせた記憶が蘇る。

 クッキーが嫌いなのかと訊ねたところ、「何が入っているかわかったもんじゃない」と露骨に嫌そうな表情を浮かべていた。

 不必要なまでに大きな声で──差し出してきた街娘に聞こえるように、はっきりと。

 

「お前だって、贈られた花束を噴水に供えたり、拾得物扱いして詰め所に届け出たり、断ったりしてるじゃないか」

「私のことは関係ないでしょう。だったら顔見て断りなさい。嫌みったらしい方ですね。そういうところ、ヒューゴ様そっくりです」

 

 己の普段の行いは棚に上げて。

 すったもんだの挙句、仏頂面ではあるが「すまない、受け取れない」とだけは言わせた。

 対応の仕方は天と地ほどの差異あれど、他者の好意を無碍にしているのはフィオレとて同じ。出くわしたから思わず口を出してしまったが、介入するべきではなかったと、きちんと謝ってはある。

 過去に何かあったのか知らないが、とりあえず見知らぬ他人の手作り料理を嫌がる傾向にあるようだが。この場合は新米とはいえ、見知った顔の相手だから多分大丈夫だろう。

 ハンカチというか手巾(しゅきん)手巾(てぎれ)とも読むことから「手を切る」=「縁切り」別れを意味することもあるのだが。

 リオンがそれを知っているとも限らないし、明確な理由に基づく贈り物ならどのような代物でもマナー上ではセーフのはず。

 わざわざ教えたところで今更変えられないだろうし、気分を萎えさせることもないだろう。

 

家政婦(メイド)長は何を贈るのかしら? 被らないといいなあ」

「リオン様、ちょっとでも笑ってくださるかしら?」

「笑ってくれなくたって、喜んでくださるならそれでいいのよ!」

「明日、晴れるといいわね」

 

 かしまし……もとい、明日の一大イベントを話題に華やかな家政婦(メイド)たちの横をすり抜け、資料室を後にする。

 書物を返却し、自室へ向かっていたフィオレは、ふと廊下にわだかまる影を見つけた。

 影は扉にすがるようにしてその中を覗いている。あそこは確か、ヒューゴ氏の私室であったはずだが……

 通り道につき、徐々に影との距離は縮まっていく。

 次第に、音が聞こえてきた。

 まさかと耳を疑った直後、その声をはっきりと聞いて、影に素早く忍び寄る。

 ──嫌な予感は的中した。

 影の正体は明日誕生日を迎えるリオンであり、彼はフィオレが傍にいることにも頓着せず、じっと扉の隙間から部屋を覗いている。

 否、その体勢のまま固まってしまったというべきか。

 細い隙間である。

 フィオレがその中を見ることは叶わなかったが、先ほどよりも確実に、洩れた物音の正体が突きつけられた。

 

 寝台が断続的にきしむ音。

 女のむせび泣くような、嬌声。

 合間に響く、湿ったような吐息。

 

(こんな宵の口からサカってんじゃねーよ……)

 

 それらをなるべく聞かないように務めながら、フィオレは後ろからリオンの目を塞いだ。

 目隠しをされても、リオンは何の反応も示さない。

 何の用事でここにいるのか知らないが、このままここにいたところで、後々厄介なことになるだけだ。

 

「──子供が……他人が、見ていいものではありません」

 

 声をかけられたにもかかわらず、彼は身動きひとつしない。

 そんな彼を強引に担いでその場を離れようとした、そのとき。

 

「……うっ……」

 

 腕の中のリオンが、小さく声を洩らした。苦しげにして特徴的な音である。

 それを耳ざとく聞きつけたフィオレは、迷わず全速力で洗面所へ向かった。

 洗面所の個室に連れ込み彼を降ろせば、大体予想通りの行動をリオンは取った。

 そっぽを向いて耳を塞ぎ、口で呼吸を続けて終焉を待つ。

 げほげほと咳き込む少年の背中をさすり、終わったところを見計らって洗面台へ連行すれば、彼は促されるまま、大人しく口をすすいだ。

 再びリオンを抱え上げ──今度は胃を刺激しないよう横抱きして、洗面所を後にする。

 彼の性格を考えるなら、私室まで送って一人にしてやるのが一番いい。

 しかしそれはあくまで彼の性格を考えるなら、だ。

 彼の心に渦巻く、渦巻いているであろう感情を彼自身、あるいはシャルティエに制御しきれるだろうか。

 フィオレの独断と偏見と、わずかながらの彼らとの付き合いという経験に即して答えるならば、否だ。

 リオンはどれだけ少年らしからぬ殺伐とした思考の持ち主であっても、実質は大人ぶった子供に過ぎないし、シャルティエには物理的実力行使能力がない。

 

(……どうしたもんか)

 

 どうするべきか、はっきり定まらぬまま彼の私室へと至る。

 照明を灯そうとして、リオンの様子を気遣った。

 幼児のように抱えられていても、先程から暴れる様子もなかった──泣いていないことはわかっているが、それでも顔を見られるのは恥ずかしかろう。そしてフィオレも、今のリオンの顔を見たいとは思わない。

 寝台に腰掛ける気にはなれず、ソファに下ろそうにも、今のリオンと正面から向かい合いたくなどない。

 迷った末に、フィオレはそのまま壁際に座り込んだ。

 フィオレの肩に顔を埋めたまま、彼はぴくりとも反応を返さない。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 そんなわけがないとわかっていながら、ついつい口に出た愚問に、彼はのろのろと顔を上げた。

 かすれた声で、独り言のように呟く。

 

「どうして……どうしてマリアンが、ヒューゴ様と」

 

 ──やはりか。

 男女の秘め事を目の当たりにして、ショックを受けたのかと思っていた。あるいは、父親が明らかに母ではない女を抱いていることに対してか。

 ただ、普段動じることの少ない彼のこと。それでも戻してしまうほどのショックを覚えたということは、まさかとは思っていたが……彼女が関係していたらしい。

 彼がマリアンに対してどのような感情を抱き、向けているのか。憶測でしかないが、フィオレは知っている。

 親愛、愛情、思慕、恋慕……少なくともこれら全てが当てはまるだろう。

 彼の親に関する境遇としては、父親は存在こそするものの、生活の保証という最低限の役目しか果たしておらず、母親はすでに他界していると聞いた。

 そんな環境の中で物心ついてからの彼の世話役である彼女は、ほぼ彼の母であるに等しい。更にリオンは、マリアンを一人の女性として明らかに愛している。

 けして経験豊富とはいえないが、自分の中にある異性への愛情を、一人の男に捧げてきたフィオレだ。そのくらいのことなら気付くことはできた。

 母であると同時に愛する女性を実の父親に寝取られ、あまつさえ、その現場を目の当たりにしてしまったとなれば、その衝撃は計り知れない。

 真実を知らないフィオレには、推測しか話せないが。

 

「夜伽を望まれて、応じたから、では?」

「マリアンはそんな女じゃない!」

 

 当然のことながら、彼は激昂して喚いた。

 ただし、その激昂は見ている側が切なくなるほどに、弱々しいものだったが。

 

「推測ですからね。あなたの仰る通りかもしれないし、違うのかもしれません」

「何だと……」

「そんなに気になるなら、今からヒューゴ様の寝室に乗り込んで真相を聞き出してはいかがです? まだ間に合うと思いますよ」

 

 そんなことができるわけがないと知りながら、ついそんなことを口走る。

 言葉にした瞬間に後悔した──これではあの若年寄と変わらない。

 

「まあ、これは冗談ですけど」

 

 慌てて訂正するも、強張ってしまった少年の表情は揺らがない。

 余計なことを口にしたと反省しながら、フィオレは本題を突きつけた。

 

「何が起こったのか、あなたが何を見たのか、何が真実なのか。それはこの際どうでもいいです。問題は、あなたの気持ち」

「……気持ち……」

「あなたは彼女に、何を望んでいるのですか?」

 

 こればかりは、推測できても真実はわからない。愛の形は、気持ちと時間と共に変化していくものだ。

 フィオレは愛した男にありのままでいることを望んだが、彼もそうだとは限らない。

 人の心を察することはできても、真実だけは絶対に知り得ないのだ。

 少なくともフィオレは、そう信じて疑っていなかった。

 沈黙が漂う中、リオンは己の答えを探し当てたらしい。

 

「僕は、マリアンに……笑っていて、ほしい」

「自分の……もとい、傍にいることは望まないのですか?」

「常に傍にいることが、彼女にとっての幸せにはならないかもしれない……あの笑顔を、僕は失いたくない」

「──なら沈黙すればいい。そうすれば、何も変わらない」

 

 答えは出た。

 それならば、彼が見たことはすべて己の胸の内に留めておけば、それでいい。

 ただし、彼女と接するにあたって、これからリオンは死ぬほど苦しみ、葛藤を味わうことになるだろうが。それはこのことを知ってしまった彼に課せられた新たな試練で、フィオレの知ったことではない。

 フィオレの答えに納得してなのか、リオンはフィオレが言ったことを口の中で復唱しつつ、じっとしている。

 状況を忘れているのか、フィオレから離れようとしなかった。

 

 ──知ったことではない。その一言に尽きる。

 

 ただ、関わりがあるだけの赤の他人だ。世話を焼く義理などない。

 いくら弟子と同等の存在であったとしても、それは強制されたものなのだから。

 かつてフィオレと名乗る前に指導した子らとは違う。介入すべきではない。

 そう、わかっているつもりだった。

 

「本当に、それでいいんですか?」

 

 腕の中の少年が、びくりと震える。

 

「それでは何も、変わらないんですよ」

 

 言うべきじゃない。こんなこと、したり顔で説教できる立場にない。

 わかっていても、己の口を閉ざすことはできなかった。

 なぜなら。

 

「このままの関係は維持できても、あなたは何も得られない。望むものは何一つ手に入らない」

 

 まるで──かつての自分を見ているかのようだったから。

 理由は違えど、「すべては主のため」沈黙し、行動を制限し、成り行きに任せて流される笹のように動いた。

 そして行き着いたのは、それら全てが裏目に出る結果だったのだ。

 

 後悔はしないと誓った。

 だから後悔していない。

 

 その場その場で最善だと思う行動を起こした結果だと、受け止めるより他はなかった。

 拒絶すれば、今までの自分をすべて否定することになるから。

 ただ──それでよかったのかと思うことは、ただの一度もない。

 だからこそ、理性の制止を押し切って尋ねた。

 彼自身が、後悔しないために。

 

「……いい、んだ」

 

 しかし、それは愚問であったと、フィオレが思い知ることになる。

 

「何も、要りはしない。マリアンさえいてくれれば……僕は、何も望まない」

 

 その一言で、フィオレは確信した。

 これは、かつての自分が抱いていた盲目的な信条と同じものだ。

 愛情の種類に差異はあれど、それ以外はほぼ同じ。

 他者に何を言われようと、けして翻ることはない、と。

 

「……それがあなたの存在理由だとするならば、何が起ころうと貫き通してください。他の何を押し退けてでも、それが護れるように」

 

 それでも。

 大切な何かが唯一であるこの少年に、フィオレは危惧を抱かざるをえなかった。

 大切な誰かを護ること。それが唯一の望みなれば、さぞその想いは強固なものとなろう。

 しかし、人の想いはいつか砕かれる。

 どんな想いであろうと、生まれた以上は消滅もまた必然だ。

 果たしてそのとき、彼が立ち直るための「支え」は果たして存在するのだろうか。

 あるいは、その想いが砕かれた時。二度と立てなくなってもかまわないくらいに、思っているのかもしれない。

 そんな悲壮さを、フィオレは何となく感じ取っていた。

 そしてその姿に対して思う気持ちが、フィオレの腕に現れる。

 身勝手な想いだと思った。

 押し付けることになると、わかっていてやった。

 腕の中の少年をあらん限りのいたわりを持って抱きしめ、言葉もなく硬直する彼の耳元で囁く。

 

「つらいことですよ。知っているのに、何も言えないのは」

「……」

「ここで全部、吐き出してしまいなさい。私は何も見ないし、何も聞かない。溜め込むのは、毒にしかならな……」

 

 言い終わらないうちに、少年の腕が一層強くフィオレにしがみつく。

 服に噛み付き、嗚咽を殺して肩を震わせるリオンの頭を、フィオレは飽きることなく撫でていた。

 

 ──いつの間にか、ほんの僅かに開いた扉へ眼をやりながら。

 

 

 

 

 

 嗚咽がなくなり、肩の震えも止み。

 健やかな寝息が聞こえてきたところでフィオレは伏せていた眼を開いた。

 時刻は、夜半あたりか。触ってもいない扉は、もう閉まっている。

 嘆き疲れて眠ってしまった少年を寝台へ移そうとして、フィオレは困ったように眉を動かした。

 リオンの腕が外れない。

 これが普通の少年ならば多少強引にでも剥がすのだが、まがりなりにもリオンは剣士だ。

 現在フィオレの腕の中で眠っていることすら奇跡に近いのに、これ以上は目を醒ましてしまう危険性が跳ね上がる。

 さてどうしたものかと考えていると。

 

『──フィオレ』

 

 遠慮がち──おそらく主を起こしてしまわぬようにとの配慮だろう。

 囁きに耳を貸せば、それまで机に鎮座していた鞘入りのシャルティエが、淡くコアクリスタルを輝かせてフィオレに話しかけてきた。

 

『何が、あったの? マリアンが、ヒューゴ様とか何とか……』

『──夜、男と女が床を共にしていた。それを見てリオンが、激しく動揺しただけですよ』

 

 シャルティエの詳細な年齢は知らないが、それでも男女の秘め事を知らないとは思えない。

 図らずも聞いていたであろう会話の内容に絡めて簡潔に話せば、彼は一瞬の絶句を越えてまくしたてた。

 

『は!? マリアンが、ヒューゴ様と寝てたっての!? 何それ信じられない!? そりゃマリアンは、坊ちゃんの気持ちなんて全然知らないだろうけど……!』

『落ち着いてくれませんか? リオンを起こしたいなら、続けてくださってもかまいませんが』

 

 それもひとつの手段かと思っていたが、彼の眠りを妨げるのは気持ち云々前に成長によろしくない。

 ただでさえ背は伸び悩み、体格も同世代の少年たちより遥かに劣っているのだから。

 フィオレの咎めを聞き入れ、シャルティエはすぐにトーンを落とした。

 

『……そりゃ、家政婦(メイド)とご主人様じゃあ、断るに断れなかったかもしれないけどさ』

『まったくもってその通りだと思いますよ。私が見たわけじゃないので、勘違いの線がなきにしもあらずです。それに過ぎたことですから、下手につついてやぶ蛇にならないようにしてくださいね』

『わかってるよ、そんなこと』

 

 そこで、シャルティエからの言葉が途切れる。

 再び沈黙が訪れた中で、外れないリオンの腕をどうしようか、悩みだしたそのとき。

 

『ねえ、フィオレ』

 

 唐突に、シャルティエが口を開いた。

 

『どうして坊ちゃんに優しくしてくれるの?』

「……は?」

 

 ただそんな、マヌケな音が口から漏れる。

 しばらく何も言えなかったフィオレではあったが、次に出てきたのは答えではなく、質問であった。

 

『それ、本気で聞いてるんですか? 特にあなたは、あんなに文句言ってたのに。毎回の訓練で倒れるまでしごく私が、リオンに優しくしてる?』

『訓練の時はね。でも今は? 恋した相手の浮気……じゃあないけどさ、それに近いもの見て苦しんでる坊ちゃんを、慰めてくれたじゃない。それで坊ちゃんは安心して眠ってるんだよ。これを優しいって言わないで、なんて言うの?』

『打算です。訓練の時、痙攣を起こしかけたら即座に介抱するのと同じように、心が乱れてはどんなに優れた戦士でも戦いに集中できませんから。アフターケアでもいい』

『またまた、照れちゃって。フィオレったら、可ー愛いv』

『あなたがどう思おうが、これが事実ですよ。これから先、リオンがこのことで深く傷ついて心身ともに弱体化してしまったとしたら、困るのは私です』

 

 それだけ、だ。

 たとえ違っていたとしても、それだけでなければいけない。

 これから先、リオンと共にいるという未来はないのだから。

 すでに踏み込むべきではない領域に、自分は足を踏み入れている。これ以上進んだら、つらい思いをするのは自身なのだ。

 そんなフィオレの内心など、もちろん露知らず。

 シャルティエはからかうような調子で提案した。

 

『ふふっ、じゃあさ。せっかくだから、泊まってく? 坊ちゃんの腕が外せないなら、一緒に寝ちゃえばいいと『……それもそうですね。おやすみなさい』

『思うよ、って、ええっ!? マジ!?』

 

 睡魔の訪いにより、思考能力が普段の半分以下に低下していたフィオレは、シャルティエの提案に乗っかってリオンを抱えたまま寝台に潜り込んだ。

 横になり、自分に楽な姿勢を見つける。

 そのまま、フィオレの意識は遥か深淵へと落ち込んでいった。

 

『ホントに寝ちゃったよ……』

 

 そんなシャルティエの声を、脳裏に聞きながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋に昇りたての朝日が差し込む頃。

 リオン・マグナスはまどろみの中で、自分の傍に異物があることに気づいた。

 異物といえど、不快はない。ほのかに、嗅覚をくすぐる芳しい香りがした。

 手を伸ばせば柔らかくて温かな、心地のいい感触が返ってくる。

 その感触が気に入って、腕を回し、足を絡めて引き寄せようとした、そのとき。

 

『……坊ちゃん、朝からダイタンですね……』

 

 幼い頃より聴き慣れた相棒の声で、覚醒を促される。

 ぱっちりと開かれた切れ長の瞳に異物の正体が映った途端。

 

「!?」

 

 彼は弾かれたように起き上がり、まじまじとそれを見つめる。

 彼の寝台の上にいた異物。

 それはリオンの剣の師にして部下たる客員剣士見習い、フィオレと名乗る客人扱いの居候だった。

 リオンの枕を抱え込むようにしてうつ伏せになり、耳を澄まさなければ聞こえないほどではあるが、確かに寝息を立てている。

 

「ど、どうしてフィオレが、ここに」

『昨夜、なかなか坊ちゃんがフィオレを離そうとしないから、業を煮やして一緒に寝ちゃったんですよ』

「年頃の女がすることか、それは……」

 

 高鳴る鼓動を抑えて寝台から降りようとして、ふとリオンはあるものに目を留めた。

 枕の下に挟まっていたのは、あまり上質とはいえない生地で作られた白布の眼帯である。

 それは、フィオレが常に身につけているものと酷似していた。

 抑えたはずの鼓動が、再び高鳴る。

 つまり今のフィオレは、素顔なのだ。

 

『ぼ、坊ちゃん? どうしたんですか?』

「これを見ろ」

 

 急に停止した主を心配するシャルティエに、リオンは握った眼帯を掲げて見せた。

 はっ、とシャルティエが息を呑む。

 

『そ、それって……』

「そうだ。常日頃から不思議に思っていた。こいつの目がどうなっているのか……うまくすれば弱みを握って、念話のことが聞き出せるかも」

「──発想そのものは悪くないです。とゆーか、まだ諦めてなかったんですね」

 

 掲げていた眼帯が、あっという間に取り上げられる。

 可能な限り素早く振り返ったリオンが見たのは、すでに身につけた眼帯を頭の後ろで固定しているフィオレの姿だった。

 

「そんな悪巧みを企てられるということは、元気になったようですね。安心しました」

 

 起きたてでくしゃくしゃになっていた髪が、手櫛で軽く整えられる。

 つややかな長髪が揺れ動くたび、あの香りがふんわりと鼻腔をくすぐった。

 

「さて、昨日お話したとおり今日は訓練なしです。しっかり骨休めしてくださいねー」

 

 そう言って。フィオレは大きな欠伸をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リオン・マグナス十六回目の誕生日当日、早朝のこと。

 図らずも朝帰りをやらかしたフィオレが廊下を歩いていると。

 

「おはようございます、フィオレさん」

 

 漆黒のつややかな長髪に、柔和な面立ち。

 昨晩ヒューゴ氏と一夜を共にしたと思われるマリアン・フュステルが、朝日もかくやと思わせる笑顔で一礼していた。

 声を聞いた途端、聞かなかったはずの艶やかなあえぎが耳の奥で木霊する。

 

「おはようございますマリアン」

 

 咄嗟にそんな返事を口にするものの、信じられないほど棒読みになっていた。

 無論のこと、マリアンは不思議そうに首を傾げている。

 

「フィオレさん、お声の具合が……」

「いえ何でもないですどうぞお気になさらず」

 

 言いつくろったところで、棒読みは直らない。

 これはいけない話題を変えねばと、本日の天気について話そうとした矢先。

 

「……?」

 

 彼女の奇妙な違和感に気付いた。

 目の前に立つ女性がマリアンであることは間違いない。

 間違いはないのだが、この違和感は……

 違和感は唐突に正体を現した。

 

「えーと、その格好は……もしかして本日は、休日なのですか?」

「いえ。私はお屋敷の住み込みではなく通わせていただいているので、出勤はいつも私服なのですが」

 

 前髪を押さえるのはフリルのついたヘッドドレスではなく、木製と思われるカチューシャ。

 昨夜ヒューゴ氏が堪能したと思われていた肢体を包むのは、茄子紺のワンピースに純白のエプロンではなく、ハシバミ色のカットソーに膝下のロングスカートである。

 リオンが見たらさぞかし瞳を輝かせるだろう新鮮な彼女の私服姿に、そして判明した事実に、フィオレは思考を凍結させていた。

 

「そうだったんですか……」

「ところで、どうしてこんなに早くからここに? 本日のリオン様の訓練はないのでは」

「普段の習慣ですよ。たまには自主鍛錬でもいいかなと」

「そうでしたか。それでは、私はこれで」

 

 心配げにリオンの訓練中止を示唆するその声に答えて、適当に流す。

 マリアンがその場を去り、ようやくフィオレの思考は解凍された。

 マリアンは住み込みではなく、通い。

 つまり彼女は夜に家政婦(メイド)をしていない。そもそも、夜屋敷にはいない。

 

(……じゃ、あれは誰)

 

 ならば、今までフィオレが接してきた『昼とは性格が真逆のマリアン』は誰だというのだろうか。

 最近は近づかないようにしているものの、彼女の顔が思い出せないわけではない。

 昼のマリアンと、顔の造詣はまるっきり同じ──

 本当に別人なのかもしれない。

 そんな、他人に聞かれたら即物笑いの種にされるであろう仮説が立つ。

 

「まさか──ね。さ、自主練自主練」

 

 フィオレ自身、そんな馬鹿なとあっさり消してしまった仮説だ。残業を課せられてイライラしていたとか、そんなところだろう。

 昨夜の件については、リオンが見間違えただけの可能性が高かった。長い黒髪の従業員(メイド)など、マリアンを除いても十人以上はいる。

 そんな風に己を納得させて、フィオレは私室へ寄った後に、屋敷の庭へと足を踏み出していた。

 いつもの──花壇や庭木の手入れをする庭師の邪魔にならないよう、裏庭で整理運動をしようとして。

 いつもの光景を眼にした。

 

「……リオン?」

 

 そう。この時間帯には誰もいないはずの裏庭に、少年が一人黙々と整理運動をしていた。

 傍らには愛剣のシャルティエが立てかけられている。

 

「本日は訓練なし、と言ったはずですが……」

「自主訓練だ。お前と同じ事をして何が悪い」

 

 ──どうやら、聞こえていたらしい。

 未だこちらに顔を向けないことをいいことに、フィオレは小さくため息をついた。

 マリアンに何を言われるかわかったものではないが、本人の意思ならば仕方がない。

 肩を回し、身体の筋を調整し、軽く身体をほぐしたところで、フィオレは屋敷の外へと赴いた。

 ──ダリルシェイド内をぐるりと巡るロードワーク。

 そのまま街の外へと出で道中魔物との交戦を繰り返しつつ海岸にて剣舞を行う。

 自主訓練をしているリオンも同じコースであるがために、自主訓練なのだが普段の修練と大差ない。

 本当に普段通り体を動かして、十分な汗をかいて。

 客員剣士の、あるいはヒューゴ氏の私兵としての仕事がない場合、ほぼ一日は修練に費やされるのだが。フィオレは普段通りの時間で剣舞をやめてしまった。

 

「さて……私はこの辺で切り上げますよ」

「そうか」

 

 つられてやめたリオンが短くそれを承諾し、フィオレに背を向けて再び自主訓練に戻る。

 ──やはり、マリアンと顔を合わせたくないのだろう。

 マリアンの話が事実なら、昨晩リオンが見たのも誤解なのだろうが。フィオレが口を挟める問題ではない。

 聞いた限りではリオンはただマリアンの笑顔に、彼女の平穏な日常の姿に変化がなければそれでいいと思っている。

 追及を受け恐れ戦くか、開き直ってアバズレ同然の発言をする彼女なぞ見たくないだろう。誤解ならそんなこともないのだろうが、誤解でない可能性もまた、なきにしもあらず、だ。

 体を動かしてもやもやが少しでも解消されるならそれでいいか、と判断して。フィオレは彼に背を向けて、立ち去った。

 そのまま特に寄り道をするでもなく、ジルクリスト邸へと至る。

 戻ってきた途端の、出来事だった。

 

「フィオレさん! リオン様はご存じありませんか?」

「今朝方からお姿が見えなくて……」

 

 マリアンを筆頭に次々と家政婦(メイド)達に声をかけられ、ありのままを正直に話す。

 リオンなら体がなまるといけないからと、自主訓練に出かけてしまったと。

 

「まさか、今日は教えないから自主訓練してなさいってリオン様に言ったんですか?」

「そんなことは一言も言っていません。ゆっくりしろと言っても聞かないんですよ。どうしたものでしょう」

 

 フィオレに絡んだ厄介事を起こして、家政婦(メイド)が一人解雇されたのはつい最近の出来事だ。

 それ以降、この屋敷で働く家政婦(メイド)執事(バトラー)達は厄介事を起こさないためにもフィオレには付かず離れず、それこそ客人に対してのように接してきたのだが……ことがリオンのことになると、話は別らしい。

 リオンが自主訓練に向かったのはフィオレに責任があるのでは、と言わんばかりに声を上げる年若い家政婦(メイド)達。

 表向きそれを支援はしないものの、内心ではどうなのか。家政婦(メイド)長たるマリアンはそれを止めないで、ちらちらフィオレを見やっている。

 彼女らの態度にすぐ辟易したフィオレは、屋敷でまったりすることをあきらめて街へと繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 宵の口とは深夜になりきらない時間帯のこと。
 投稿時間くらいだと思われます。


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第二十八夜——錆びた歯車の、きしむ音

 inノイシュタット。
 もちろんこんなイベント、原作にはないわけですが。
 原作開始のオープニングイベントとして「貧富の差が激しい」「桜が咲き誇る」「闘技場がある」この街の紹介をば。
 特別ゲストとして、本来の登場は大分先。
 原作ではスタンとのデートイベントが用意されている「イレーヌ・レンブラント」さんにお越しいただきました。
 彼女は第十夜、第十六夜にてちらっと現れた「シャイン・レンブラント」さんの娘さんです。
 べ、別にデートイベント自体ばっさりカット予定だからって、出番増やしてあげたわけじゃないんだからねっ! (笑)


 

 

 

 

 

 

 

 

 暖かな風が、ふんわりと吹き抜ける。

 あおられた木々の枝からはらりと離れ、花びらはあっという間に空へ吸い込まれていった。

 桜の木の下には、死体が埋められている。だからこそ、こんなにも淡い桃色の花が咲く。

 いくらなんでも迷信に違いない言葉だが、これが本当だとしたら、この例えにも間違いはないはずだ。

 この街は、まるで桜の木だと。

 

 

 

 ノイシュタット港を経て、フィッツガルド大陸最大の都市に至る。

 

「フィッツガルドの最果て、天地戦争時代終了直後に建立したと思われる神殿にて新たなソーディアンが発掘された。正式名称はソーディアン・ディムロス。伝承によれば地上軍中将を努めたディムロス・ティンバーの人格が投影されているという」

 

 表向きは、神殿内より発見された発掘物の警護。

 真の任務はソーディアン本体の護衛という面倒な仕事にして、初の単独任務を請けることになったフィオレは第三大陸へと上陸した。

 ソーディアン発見の知らせを経て飛行竜の派遣が決まった際は、フィオレにも船員同様搭乗が許されている。

 しかし、それはあくまで護衛役という任務中の話。

 更にヒューゴ氏からオベロン社のノイシュタット支部長と面会しろと命令されているため、派遣が決まって調整されている飛行竜よりも早く船で移動してきたのだ。

 最も、調整さえ終われば飛行竜は半日でセインガルドからフィッツガルドへ移動できる。飛行竜はとっくに現場へ到着しているだろう。

 何を思って重要であるはずの任務ついでに支部長と会え、などと抜かしてきたのか。

 今の今まで疑問に思っていたことだが……もしかしたらこの光景を見せようとしてのことかもしれない。

 そんなことを思うほどに、目前の光景は奇妙なものだった。

 もう何日も着たきり雀なのだろう。よれよれの衣服を身にまとった少女が一人、裸足のまま桜の花びらが舞う公園を彷徨っている。

 否、彷徨ではない。少女は細い片腕に小さなカゴを携えており、その中には小さな野の花が摘まれていた。

 貧困にあえぐ中、少しでも生活に華やぎや慰めを求めて摘んできたわけでもなく、食用でもないらしい。

 何故なら。

 

「お花……買ってください、お花……」

 

 少女はか細い声で、公園で呑気にくつろぐ人々に呼びかけていたからだ。

 大人たちはそれに哀れみの視線を向けるでも、気まずそうに視線をそらすでもない。

 たまに応じる声はといえば、聞くに堪えないものばかり。

 

「ごめんなさいねえ。家にはそんな、みずぼらしいものを飾るところはないの」

 

 つばの広い白い帽子、上質な絹の手袋をつけ、羽扇子を広げた「貴婦人」のつもりらしい中年女が嘲笑を浮かべている。

 驚いたことに、少女へ同情の視線を向ける者は皆無だった。

 良くても目をそらし、その姿を視界に入れまいとするくらいだ。

 中には臭いから近寄るな、と大声で罵倒する大の大人までいる。

 大人げないとフィオレが呆れている最中、事件は起きた。

 

「……何ジロジロみてるんだよ、貧乏人!」

 

 やっと幼児が少年らしくなってきたような、生意気盛りの鼻がかった怒声が飛ぶ。

 見やればそれは、氷菓子片手に花売りの少女を睨む、富裕層と思しき少年だった。

 彼が持つのはおそらく、フィッツガルドの特産……と言っては少々おこがましい、アイスキャンデーだろう。

 氷菓子を販売する屋台傍のベンチを陣取り、そのすぐ隣には姉と思われる少女の姿もあった。

 どちらも件の氷菓子をしがんでおり、身なりもよく、金持ちに育てられた子供と言った風情で、間違っても良家の子女ではない。

 あの氷菓子そのものの値段は知らないが、食うや食わずの毎日で日々食べることさえままならない少女には高嶺の花なのだろう。

 それ故、ついじっと見つめてしまったのではないかと容易に推測できた。

 当の少女といえば、慌てて目をそらしている。

 

「大体、なんで貧乏人がここにいるんだよ、目障りだなあ!」

「やめなさい、見苦しいわよ」

 

 癇癪を起こした子供のように、座ったまま地団駄を踏む弟をたしなめたのは隣の姉だ。

 しかしそれは、少女をかばおうとしてのことではない。

 

「貧乏人相手に目くじらたてるなんて、優雅じゃないわ」

 

 そう言って少女をけなす姉であったが、不満そうに頬を膨らませる弟を見て、考えを改めたらしい。

 なぜなら。

 

「けど、姉さま……」

「こうすればいいわ。ほら!」

 

 何を思ったのか、身奇麗な少女は食べかけの氷菓子を花売りの少女めがけて放り投げた。

 否、放るのとは違う。

 投げつけるようにしたせいか、氷菓子はあっという間に地面を転がり、砂まみれになって少女の眼前へとたどり着いた。

 

「同じのを買ってらっしゃい」

「は、はい……」

 

 そして傍に佇む家政婦(メイド)と思しき服装の女性へ横柄に言いつけ、視線を花売りの少女へと向ける。

 

「ああら、どうしたの? 食べたかったんじゃないの、それ?」

 

 少女は小さな手を握りしめたまま立ち尽くし、凍りついたままだ。

 その目はどこか、責めるように二人へ向けられている。

 

「そんなに欲しいなら、走ればよかったのにね。犬みたいに」

「まったく生意気だなあ。貧乏人のくせに気取るなよ!」

 

 少女が黙っていることをいいことに、身奇麗な少年は足元に転がっていた石を拾い上げた。

 

「あっち行け! 公園から出て行けよ、貧乏人!」

「公園じゃないわ、この街からよ。ああいうのがいると、迷惑なのよね」

 

 ついには二人がかりで石を投げ始めた姉弟を前に、花売りの少女は必死で逃げ惑う。

 それでも見て見ぬ振りを続ける住人たちを目の当たりにして、フィオレは足元に転がってきたものを拾い上げた。

 投擲された石が、ベンチに激突する。

 

「わぁっ!」

 

 自分のすぐ横を掠めてベンチに被弾した石を見、花売りの少女が投げ返してきたのかと睨んだ少年の姉の目は当然のように丸くなった。

 少女は頭を抱えてうずくまっており、到底そんなことができる状態ではない。

 その代わり、そんな少女の傍には見知らぬ旅装の人間が立っていれば、困惑するしかないだろう。

 しかし、その旅装の人間が数個の小石を手のひらに転がしていることを見て取った姉は、即座に眦を吊り上げた。

 

「何するのよ! いきなり石なんか投げて、危ないじゃない!」

「危ないとわかっているなら、何で人に石なんか投げるんですか」

 

 すっかり脅えてしまっている少女をかばうように移動しながら、小石を足元に捨てる。

 

「てっきりこの街では人に石を投げる風習があるのかと、つい参加してしまいましたよ」

「そんなわけないでしょ、頭おかしいんじゃないの!?」

「──そのままそっくり返しますよ。食べ物は投げるわ、きいきいうるさいわ、人に平然と石を投げる野蛮人風情が」

 

 驚いたことに、フィオレが何を言ったのか彼らは正確に理解したらしい。

 野蛮人呼ばわりされて、二人は顔を真っ赤にして怒っている。

 

「誰が野蛮人ですって!? 私たちは代々フィッツガルドで……」

「ボス猿のもとで育ったんですか? 道理で猿に似てると思ったら、子孫なんですね」

「さ……! そんなわけないじゃない! 私たちのお父様は偉いの、貴族なの。この街でいっちばん偉いのよ!」

 

 それがどうしたと突っ込みたいのは山々だが、大の大人である自分がこんな、年端もいかない子供相手にムキになってはいけない。

 そんなわけで、そこではなく違うところをなるたけ優しく突っ込もうと、心に決めたフィオレだった。

 

「ほほー。そこまで言うからにはさぞや立派なキゾクのお父様なのでしょうねえ」

「あ、当たり前でしょ!」

「でも教育には失敗した、と。ま、こんな片田舎でふんぞり返ってるキゾク崩れの成金じゃあ、仕方なさそうですね」

「な、何ですってぇ!」

 

 親を、身内をけなされて怒らない人間はあまりいない。

 自身も身内を想う心を持つからこそ、意味があると信じている悪口雑言を使う。

 

「違うんですか? 貴族という生き物は幼少より貴族としてふさわしい知性なり品性なりを身につけるため、日夜習い事に明け暮れているはずです。真っ昼間っからこんなところで菓子かじってる余裕も、人に石投げつけるような卑しさもあるわけないんですよ。誇り高い貴族ならね」

「そ、それは……」

 

 もともと、無理のある理屈だ。

 少し方向性を変えて品性の話にすりかえれば、姉弟はあっという間に口ごもった。

 これが少し大きくなると「それがどうした」と開き直って意見のゴリ押しをしてくるようになる。

 それをしないということは、未だ彼らは幼いということの証だ。

 最も、だからこそ──矯正の余地があるから、フィオレは彼らと会話をしているのだが。

 

「金で身なりというか、みてくれだけを整えた有象無象が成金でなくてなんですか。貴族という言葉を調べて、出直してきてください」

「うっ……うるさいわね。庶民のくせに、私たちにお説教なんて!」

 

 正論を言われる、あるいは図星を突かれると怒り出すのは人間共通である。そして彼らは、沸点すら低いようだった。

 新たな氷菓子を買ってきた家政婦(メイド)の制止を振り切り、姉が再び石を拾い上げる。

 怒らせすぎたかと、これ以上の話し合いは見込めないものとしてフィオレが少女を保護しようとした、そのとき。

 

「やめなさい!」

 

 それまで誰一人としてこの事態への介入を避けていた中、凛とした女性の声が響き渡った。

 見やれば、公園の入り口には肩を怒らせた一人の女性がこちらへ向かってくる。

 小奇麗な身なりからして、姉弟と同じ上流階級だ。

 淡いラベンダー色の長髪にフィオレのコンプレックスを刺激するような妙齢の美女ではあるが、その柳眉は険しい。

 女性の姿を確認したその瞬間、姉弟の態度は一変した。

 

「まずい……イレーヌ様だわ」

「姉さま、逃げよう!」

 

 止める暇もあらばこそ、姉弟は石を投げ捨てるなり一目散に逃げ出した。

 氷菓子を握ったままだった家政婦(メイド)らしき女性は、しばし悩んだ後で溶けかけの氷菓子を近くのゴミ箱へ放り、姉弟の後に続いている。

 

「お怪我は、ありませんか?」

「う、うん。大丈夫。ありがとう、助けてくれて」

「目障りでしたので、つい介入してしまいました」

 

 姉弟が去ったのを見届け、頭を抱えてうずくまっていた少女を助け起こす。

 転がっていたカゴを持たせると、少女はペコリと頭を下げた。

 少なくとも、あの姉弟よりは礼節を知っているようだ。

 そこへ。

 

「ミコ、大丈夫? 何もされてない?」

 

 女性が、遅ればせながら少女に駆け寄る。

 少女と目線を合わせるために膝をついており、高価そうなスカートはたちまち砂にまみれたが、彼女は何ら気にしていない。

 

「大丈夫です、イレーヌ様。何でもありません」

 

 ──少女が明らかな嘘をついたと同時に、その名前にひっかかりを覚える。

 イレーヌ……とは、どこかで聞いたような。

 

「そう、良かった」

 

 一方で、イレーヌと呼ばれた女性は少女の嘘に気付くことなく、ほぅっと胸を撫で下ろしている。

 しばし黙って二人のやりとりを眺めていたフィオレだったが、唐突にぽん、と手を叩いた。

 ──良かった。これでこの、胸糞が悪くなるような街から早々におさらばできる。

 

「イレーヌ・レンブラントさんですか?」

 

 彼女と少女の会話が途切れたところで狙って話しかければ、少々いぶかしげな肯定が帰ってきた。

 フィオレとしては、いぶかしげだろうが何だろうが、本物でさえあればそれでいい。

 

「お初にお目にかかります。セインガルド王国客員剣士見習い、フィオレンシアです。ヒューゴ様からハトが届いているかと思いますが……」

「客員剣士……! あなたが、リオン君の!?」

 

 剣術指南役と言いたいのか、部下兼同僚と言いたいのか。

 彼女が何に対して驚いているのか詳細はわからないが、おそらくその辺りだろう。

 適当に肯定しようとして、フィオレは危うく踏みとどまった。

 

「ヒューゴ様から伺っているわ。リオン君の……婚約者だと」

「それは明らかに悪意を孕んだ悪質な冗談なので、認識を改めてください。お願いします」

「え……でも」

「異論は聞きません。私はリオンの婚約者とかではないです。ともあれ、私がこれからどこへ行けばいいのか教えてください」

 

 あの野郎、帰ったら一発殴る。物理的には無理でも、そのくらいの恥かかせてやる。

 そんな後ろ向きな決意を胸に秘め、用件を聞き出そうと試みた。

 意地の悪いことに、フィオレが面倒くさがって支部長との面会をサボろうとする光景が目に浮かんだのか、ヒューゴ氏はフィッツガルドより先の行程は支部長から聞け、と言い放ったためである。

 しかし、そこで思わぬ障害が立ち塞がった。

 

「お姉ちゃん、どこかへ行っちゃうの?」

「もともとこちらへは仕事の都合で立ち寄っただけですので」

 

 あどけない瞳を向けてくる花売りの少女に対し、事務的に答えれば、少女はたちまち悲しそうに顔を歪めた。

 

「助けてくれた、お礼……」

「別に要りません。助けたくて助けたわけではなし、結果的にあなたが恩義を感じているだけです」

「……?」

 

 秘技、屁理屈をこねて煙に巻く。

 意図的に難しくなった話をどうにか理解しようと少女が困惑していることをいいことに、再びイレーヌへ視線を戻す。

 彼女はどこか呆れたように、二人を交互に見つけていた。

 

「して、イレーヌ女史。例の場所の詳細を……」

「確かに私は、ヒューゴ様からその言付けを受け取っているわ。けれど、報告によると作業はあまりはかどっていないみたいなの。そう急ぐ必要はないと思うわ」

「それはあなたの勝手な判断だと思います」

 

 首を傾げる少女を横目に、イレーヌが意味ありげな言葉を紡ぐ。

 嫌な予感に、フィオレは彼女の認識を否定した。

 しかし、それに怯むような人間では、到底オベロン社フィッツガルド支部長など務まらないらしい。

 

「いいえ。ちゃんと現場責任者から報告を受けているわ。あなたも長旅で疲れているでしょうし、是非この街でゆっくりしていってください。私はこれから会議があるので、目的地については夕方、ここへ来てくれればいいわ。ねえミコ、その間このお姉さんにノイシュタットを案内してあげて?」

 

 よどみなく、まるで芝居で決められた台詞を口にするかのように紡がれた言葉に反論するよりも早く、イレーヌは花売りの少女に目配せを送っている。

 ミコというらしい少女は、パッと顔を明るくさせ……すぐにしょんぼりと下を向いた。

 

「でも、あたし、これを売らないと……」

 

 ──イレーヌの策略に乗せられるようでシャクだが、ここでこれ幸いと彼女たちと別れるのは得策でない。

 ひとつため息をついて、フィオレは財布を取り出した。

 チラとカゴを覗けば、小さな花が幾束も入っている。

 

「いくらですか?」

「え? ひ、ひとつ五ガルド……」

 

 少女の手からやんわりとカゴを取り、いくつ入っているのか確認をしてから、相応のガルドをカゴに入れて少女に返す。

 持ちきれないほどの花を抱えてその場に座り込むと、フィオレはその場で加工を始めた。

 

「えーと。確かここをこうして……」

 

 なにぶん大昔の記憶であるため多少うろ覚えな部分はあるが、それでも指が覚えていたらしい。

 花同士の茎を連結させるようにして作った首飾りを、少女の首にかけてやる。

 

「あ、ありがとう……」

「花を売るなら、こうした方がまだ売れると思いますよー」

 

 そして余った花で作った花冠を、イレーヌの頭に乗せる。

 まさか自分に来るとは思わなかったらしい。

 まともに面食らっているイレーヌの顔を見て、ミコは声を上げて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここが中央の広場でね、あっちへ行くと闘技場があるの!」

 

 ミコに手を引かれ、ノイシュタット観光は続く。

 闘技場の入場及び観戦は有料だということで外観だけを見て、街の様々な場所を練り歩いた。

 できればイレーヌの住所を教えてもらいたかったのだが、あの身なりにして事前に聞いていた肩書きから察するに、一般庶民ではないだろう。案内をしてもらうのは憚られる。

 第三大陸最大の都市、と称されるわりに、ノイシュタットは狭く感じられた。

 そして、こうして観光目的で街を歩けば、やはりよく見えてくるものがある。

 街の構造は、はっきりと上下に分かれていた。地形の問題だけではない。

 上段に富裕層、下段に貧民層とあからさまに住居が区分されているのだ。

 どこの街にもスラム──貧民窟は存在するものだが、ここはハンパではない。

 何しろ、街全体がそれほど大規模でないことに加えて、上段と下段に分かれていることから、推して知るべしと言ったところか。

 そろそろ日が傾く頃、紹介してもらったミコたちの知り合い達と共に、待ち合わせ場所の公園へと赴く。

 イレーヌの姿はない。彼らを招き寄せてアイスキャンデーを振舞えば、彼らはおずおずと、しかししっかりとそれぞれ食べてみたい味を挙げ連ねた。

 

「タダではあげません。お礼を言った子にだけあげます」

 

 そしてフィオレも初挑戦したわけだが……砂糖水に色と香りをつけて凍らせたら、こんな風になるのではないかと思うばかりである。

 何度も食べたいと思うものではない。

 

「でも、いいの? こんなに沢山……」

「観光案内のお礼、ということにしておきましょうか」

 

 幸い、アイスキャンデー自体はそれほど高くはなかった。最も、安価でもなかったが。

 食べ終わったアイスキャンデーの棒に「あたり」と彫られていることに気付き、どうしようか悩んで末に荷の中へ放り込む。

 ミコにあげてもよかったが、そうそう食べられないものをもう一度だけ、というのは酷だ。下手をすれば犯罪者にしてしまう。

 

「さて、私はここでイレーヌさんを待ちます。皆さんはお先にどうぞ」

 

 その言葉で、それぞれのねぐらへ帰っていく彼らの背中を見つつ、フィオレはシストルを取り出した。

 六分咲き──満開ではない桜の木が、落日に照らされ黄金の色に染め上げられる。

 

 

 

♪ 今でない時、ここでない場所

 桜は一本咲いていた

 その頃桜はどこまでも 真白の花を咲かせていた──

 

 

 

 何か定まったルーツがあるわけではない。「桜の木の下には死体が埋まっている」という迷信にちなんではいる。

 

 

 

 

♪「白は私たちの色だ。桜は泥棒だ」

 天をたゆたう雲が言う

 その雲が降らす雪もそれを言う

 風も土も水も 太陽さえも 皆それを信じてしまった

 桜は何も言わずに 黙って一人で立っていた

 

♪ 桜は悪者にされた

 桜の周囲だけ風はやみ 水はどんどん干上がってしまった。

「泥棒をやめれば、また恵みをあげる」

 桜はただじっと耐えるしかなかった

 どうすれば色を得られるのか 知る由はなかったから

 

♪ 道に迷った旅人が、桜のもとに現われた

 旅人は足を縺れさせるようにして桜の根元に倒れこんだ

 赤い雫が土に染み込む──

「そうだ。この人から、色を貰おう」

 そう考えたのは お腹が一杯になってからのことだった

 

♪ 雫は土を 根を 幹を通って花を咲かせた

 赤い雫の気配を ほんの僅かに残した……

 淡い桃色の 花だった

 

 

 

 特に意味はない。暇つぶしの即興だった。ところが。

 ほうっ、と大勢の人間が息をつくような音を聞き、それまで桜の木と向かい合っていたフィオレはくるりと振り返った。

 そして、いつかも味わった驚愕に包み込まれる。

 そこには、公園で思い思いくつろいでいたと思われる人々と、帰ったはずである子供たちが並んでいたのだ。

 

「……えーっと」

「フィオレお姉ちゃん、『隻眼の歌姫』だったの?」

 

 反応に困ったフィオレを更に困らせたのは、目をきらきらさせた少女の一言である。

 そう呼ばれているのは事実だが、そう呼ばれることは不本意だ。否定をしようとして。

 

「確かに、眼帯してるもんな」

「だったら教えてくれればよかったのに」

「リクエストしたら歌ってくれるかな?」

 

 なしくずしにそういうことにされてしまった。まあ、間違いではないのだが。

 子供たちの言葉はもちろん周囲の人々にも勿論届いており、「隻眼の歌姫!?」「王都で有名な、あの……」という囁きが広がっていく。

 失礼な言い草だが、こんな辺境の地にまでこの名が広がっているとは思いもしなかった。

 なんにせよ、このまま黙ってイレーヌを待つことはできそうにない。

 フィオレは長々と息を吐いて、シストルを手に取った。

 フィオレに歌唱続行の意思あり、と判断した聴衆が、口々にリクエストをさえずる。

 結局イレーヌが現われるまで、フィオレはリクエストに応えたり、握手やらサインやらを訴えられては却下したりを繰り返していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう……そんなことが」

 

 夜。

 ようやっとやってきたイレーヌに招待された、彼女の住まいにして邸宅、その大広間での夕食にて。

 昼の詳細を求めたイレーヌは、何故か感極まったように口を閉ざした。

 お抱え料理人による夕餉はすでに済ませており、向かい合って座る二人には香茶と珍しい茶菓子が供されている。

 ティーカップを包み込むように持ち、しばし黙していたイレーヌは、丁度茶菓子を口にしたフィオレをまっすぐ見つめた。

 

「ねえ、フィオレさん。あなたはこの街を見て、どう思ったの?」

「桜みたいな街だと思いました」

 

 その返事を聞き、イレーヌはどこか思わしげに瞳を伏せている。

 その表情から、彼女が誤解していることは容易に推測できた。

 

「桜……確かにこの街は、咲き誇る桜のように華美だわ。でも」

「おや不思議なことを。死者の養分を吸い上げて咲く花が、毛虫にうじゃうじゃたかられる花が、どうして華美なだけなんですか」

 

 新たな茶菓子を手に取ったフィオレを、イレーヌは驚いたように見つめている。

 オレンジの風味が効いたクッキーをしっかりと堪能し、フィオレは香茶を一口すすった。

 

「観光して、はっきりわかりました。この街には中流階層がいない。あなたのような上流と、あの子達のような下流にはっきり分かれてしまっている。この街には市長に当たるような方はいないんですか?」

「……はっきりと肩書きを持つ人間はいないわ。ここは自治区だから、街の有力者たちが自発的に……」

「あー、なるほど。だからこんな異常事態がまかり通っているわけですね」

 

 この言葉、フィオレにはけして他意はない。

 対外的にはセインガルドの属国であるこの地が、ある種の無法状態であることを異常だと感じたわけだが。そこに王国の人間が介入していないのなら納得がいく。

 

「……それは、どういう意味かしら?」

「割と大きな、しかも大陸ひとつを代表する街だから、セインガルドの人間が派遣されて管理しているのかと思いました。でもそうではないから、この状態を維持しておけるんですね、と言う意味です」

 

 感情がなくなった声に殊更反応は見せず、フィオレはカップをソーサーに戻した。

 何のことはない。ちょっと力を持っている一個人が、いかんせんひとつの街を管理するなどたやすいことではないのだ。

 表面上の治安が保たれていることを考慮すれば、まだいい方なのかもしれない。

 煙を巻かれた形のイレーヌは、ふぅっと息を吐いた。

 

「……この街は、異常よ」

「そうですね」

「本来行われるべき流通が、一部の人々の私腹に収まっている……このままでいいわけがないわ」

「もし変えたいと思っていらっしゃるなら、全体的な意識改革が必要ですね」

 

 彼女が何を悩んでいるのかは知らないが、そんな話を真面目に展開する意図はない。

 本当に適当に返しただけのフィオレの言葉だったが、イレーヌは何故か反応を見せた。

 

「……意識、改革」

「大人はともかくとして、あんな子供にまで差別意識が根付いていることを考えれば、まずは私塾を開いて倫理のお勉強から始めたほうがいいんじゃないですか?」

「差別意識……それを、改革」

「そうですよ。子供とはいえ人に石ころ投げつけるなんて、未開の原人じゃないんですから。割と親の顔見てみたい……」

 

 そこでふと、フィオレは顔を上げた。

 ただの談笑だったはずが、イレーヌは何やら思いにふけっている。

 自分の言葉をそのまま鵜呑みにされても困ると、フィオレは話題を変えることにした。

 

「ところで、明日私が向かうべき場所のことなのですが」

 

 携帯していた地図帳を広げて適当な質問をすれば、イレーヌは思案をやめて笑顔で応じてくれた。

 ノイシュタットの、夜が更ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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原作開始
第二十九夜——油がたらり、流れてつたう


 ソーディアン・ディムロスが封印されてた神殿だか遺跡付近~飛行竜。
 
「swordian saga」シリーズ始まって以来、話数にして何と四十四話目にして。
 Tales of Destiny、主人公スタン・エルロン。満を辞してのご登場です! 


 

 

 

 

 

 厳重に梱包されたソーディアンが、飛行竜に積み込まれていく。

 ノイシュタットから遠く離れた辺境の地、半ば風化しかかっていた神殿に、ソーディアンは安置されていたらしい。

 イレーヌが言っていた通り作業は難航しており、フィオレより数日早く到着していたハズの飛行竜には、未だ発掘物は積みきれていないと聞いたときは驚いた。

 今回の発見は秘密裏に事を進めねばならず、そのため安易に人員を増やせないとあっては、納得するしかない。

 考古物の扱いなど、素人に毛が生えた程度であるフィオレは手伝うことなく、周囲の警戒に当たっていた。

 それまで警備に当たっていた飛行竜の船員たちを力仕事の手伝いに行かせたため、問題はない。人手が多少ではあるが、増えた分だけ作業効率は上がるはず。

 どの程度進んだのか、一度確認に戻ろうと、飛行竜が鎮座した遺跡前へと行こうとして。

 珍客が現われた。

 

「あのー!」

 

 背後から声をかけられ、振り返る。そこに立っていたのは、作業員でも船員でもなく、一人の青年だった。

 獅子の鬣を思わせる金の蓬髪を無造作に流した、軽鎧の剣士風である。

 漂う気配は柔らかく、白い軽鎧はどこまでも白い。

 身のこなしからして素人ではないが、駆け出しといったところだろうか。

 

「何か?」

「あの、あれって飛行竜ですよね? セインガルド王国の……」

「その通りですが」

 

 ──この時点で、フィオレの意識は緊張せざるをえなくなった。

 飛行竜がセインガルド王国の所有する天地戦争の遺産であることは、割と有名なことだろう。それはいい。

 問題は、この青年が堂々と姿を見せて、何を企んでいるかということだ。

 単なる興味本位ならそれでいいのだが、言葉巧みにフィオレから情報を引き出そうとするのならば──警戒をしなくてはいけない。

 盗みを働くのに素顔を晒してしまっては危険も跳ね上がるものだが、そう思わせておいて逆に安心させる手口なのかもしれないのだから。

 しかし。

 

「セインガルドに行くなら、俺も連れて行ってほしいんです!」

 

 訴えを聞き、意味を理解し。フィオレは思わず青年を凝視した。

 どちらかといえば丸みを帯びた空色の瞳、それなりに端整で純朴な顔立ち。

 無邪気な瞳には困惑が、日焼けした頬はうっすらと赤みが差しているが、そんなことはどうでもいい。

 ……まさか、承諾を得て飛行竜に乗り込み、騒ぎを起こしてドサクサのうちに強奪を企んでいるのだろうか。それとも本気で、セインガルドへ行きたいだけなのか。

 現在のフィオレの顔を他者が見れば、十中八九「鳩が豆鉄砲を受けた」ような顔と評するだろう。

 青年の腹の内やらおつむの問題を考慮しつつも、フィオレは純粋に驚かされた。

 しかし、いつまでも固まっていられない。

 

「……私の一存では、お答えできません」

 

 そう言って、フィオレは飛行竜のすぐ傍に建てられた仮設天幕を指した。

 

「あそこに、飛行竜の艦長殿がおられます。乗船許可なら直接交渉をどうぞ。くれぐれも荷物にまぎれて密航なんかしないように」

 

 乗船許可が出る可能性など零に近いが、それでも自らの一存で追い返すのは忍びない。

 戸惑いながらも礼を言って去っていく青年を他所に、フィオレは作業現場である遺跡の入り口へと歩んでいった。

 ──この後の再会も、起きるべくして起こった悲劇も。

 今は、誰も知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 飛行竜がフィッツガルドの地を離れて以降、不審者がいないか、おかしなものはないか。フィオレが頻繁に艦内をくまなく歩き回っていた、その頃。

 倉庫で居眠りをしていた青年──密航者は、寝ぼけ眼をこすりつつも己の置かれた状況を知りつつあった。

 

「艦長!」

「何事だ、騒々しい」

 

 身を潜めていた倉庫から連れ出され、一際大きな扉をくぐる。

 その先に、艦長と呼ばれた人物は革張りの椅子を陣取っていた。

 

「怪しい奴を発見しました。下の倉庫に隠れていまして……」

「何! 倉庫に隠れていただと!?」

 

 倉庫、という言葉を聞いた瞬間。艦長は椅子を蹴立てて立ち上がった。

 尋常ならざるその様子に密航者どころか船員すら動揺を見せる中、艦長はその空気に気付いた様子はない。

 

「あの客員剣士は何をしている!」

「不審物がないか艦内を見回るので、倉庫の中を確認してほしいと我々に頼まれまして。そこでこいつを発見しました」

「ふん……おい、お前! 何者だ」

 

 明らかな興奮と、不機嫌さを漂わせて居丈高に問い質す艦長に、密航者の青年は大いに怯えていた。

 

「え、えと……」

「ほら、名前は?」

 

 何者かと聞かれて何とも答えようがないと察したのか、彼を連行してきた船員の一人がまずそれを聞く。

 

「あ、あの……スタン・エルロンっていいます……」

「で、どこから来たんだ?」

「フィッツガルドのリーネ村からです……」

 

 尋問の最中、スタンと名乗る密航者が武装していることに気付いた船員が武装を解除させるも、艦長の機嫌は良くならない。

 それどころか、不機嫌が募っているようにも見える。

 

「それで、どうしてこの飛行竜に乗ったんだ!」

「俺、セインガルドへ行きたかったんです」

 

 しかし艦長は、まったく聞く耳を持っていない。

 それどころか激昂して、机を力任せに叩く始末だ。

 

「ウソをつくな! アイツを奪いに来たんだろ! さあ、本当の事を言え!」

「本当に、セインガルドに行きたかっただけなんです。信じてください」

「あくまでもシラを切ろうってんなら、こっちにも考えがある」

 

 密航者の、密航者らしからぬささやかな主張を聞いてもなお、艦長は納得しなかった。

 それどころか。

 

「おい、体に直接聞いてやれ! 何がなんでも吐かせろ!」

「わかりました!」

 

 実力行使を命じる始末である。

 飛行竜とはいえ、基本的に船員とは体格や腕力を求められるものである。加えて、艦長の命令には基本的に逆らえない。

 二人の船員も一瞬戸惑ったものの、すぐに気をとりなおして青年を取り囲んだ。

 

(やられる!)

 

 帯剣していた祖父のお古の剣は没収されている。

 まとう軽鎧はあくまで急所を守るためのもので、すべての外傷から身を守ってくれるわけではない。

 だからといって嘘をつくなどと考えにも及ばず、彼が覚悟を決めて歯を食いしばった、そのとき。

 ちょっとやそっとの悲鳴など聞こえそうにもない扉からノックが響き、即座に開かれた。

 現われたのは、白布の眼帯で片目を覆い、腰に細身の長刀を提げた細身の女性──フィオレである。

 その出で立ちと、羊毛より遥かに白く、静かな色の髪には青年にも覚えがあった。

 

「あ、あの時の──」

「これはこれは。客員剣士にしてこの艦の護衛を任された身でありながら、私の部下が不審者を連れてくるとは何事ですかな?」

 

 スタンの言葉を遮り、艦長は嫌味ったらしく皮肉を吐いている。

 フィオレはその言葉に一瞬眉を動かすものの、それ以外表情を動かすことはなかった。

 ただ。

 

「この艦の護衛? そんなものを任された覚えはございませんね。あと、私は客員剣士見習いです」

 

 淡々と反論を述べている。

 その涼しげな声音は、先ほどまで極度の興奮状態であった艦長に冷や水を浴びせるかのように、どこまでも理性的だった。

 

「私は、この艦に積まれたモノを護るよう仰せつかっているだけです。結果としてこの艦も護らなければいけないというだけですので、お忘れになりませんよう」

 

 あっさりと艦長を黙らせた上で、彼女は初めてスタンを見やった。

 否、視界に入れた、と言ったほうが正しいのかもしれない。

 

「またお会いしましたね。くれぐれも荷物にまぎれるな、と注意したつもりでしたが……」

 

 しかしその眼差しは真冬の海を思わせる冷たさで、その声音も冷ややかなものである。

 艦長と同じく冷や水を浴びせられた気分になったスタンは、それでもしどろもどろと言い訳を始めようとした。

 

「あ、いや、その……」

「ま、今となってはどうでもいいです」

 

 うなだれるスタンから目を離し、艦長ではなく手近な船員に事の成り行きを説明させる。

 真顔で一言一句を聞いていたフィオレであったが、どこか頭痛がしたように頭へ手をやると、再びスタンを見やった。

 その瞳からは冷ややかさが消え、隠してもいない呆れが見え隠れしている。

 

「それでは、お間抜けな密航者さんにはダリルシェイドに到着するまでの時間、雑用を……甲板掃除でもしていただきましょうか。見張りをつけて。無事この艦がダリルシェイドに到着したら、無罪放免ということで」

「無罪放免!?」

 

 その単語に、過剰なまでに反応したのは言わずもがな艦長だった。

 

「たかだか密航如き、可愛いものではありませんか。何も盗っていないのでしょう?」

「そんな作り話をあっさり信じるなどと……!」

「作り話と決め付けているのは疑心暗鬼になっているあなただけです。申し訳ありませんが、明らかな物証があるか現行犯でないと、窃盗罪での捕縛はできません」

「しかし……!」

「それに、甲板掃除なら不審な動きを見たと思った瞬間、突き落とせますし。後腐れがないでしょう、その方が。できないなら私がやりますんで、呼んでください」

 

 さらりと放たれた物騒な一言に、青年はおろか、船員までも絶句させられる。

 そんな彼らの心情など知ったことではないとばかりに、フィオレは「さて」と呟いた。

 

「密航者の件はこれでよろしいですね。私は見回りに戻ります。それでは」

 

 きびすを返し、さっさと艦長室を後にする。後には一陣の風が残るのみだ。

 それまでどこか気圧されていて、ろくに反論もできなかった艦長は、彼女の姿がなくなった途端、蹴倒した革張りの椅子を自分で起こし始めた。

 

「危機感の足りない……これだから女子供は」

 

 椅子に腰かけ文句を垂れる艦長を背に、フィオレからスタンの身柄を渡された船員は、粛々と艦長室を後にした。

 直後、ほうっと息を吐き出す。

 

「しかし、君も災難だね。こんな時に密航するなんてツイてないよ」

「どういう事です?」

 

 艦長の目がなくなったからなのか、初めからただの密航者だと思っていたのか。スタンの目付け役を言い渡された船員は、気軽に彼へ話しかけた。

 その気持ちに甘えてか、それとも天然なのか。スタンは無邪気に説明を求めている。

 

「言ってたろ? 大事な物を運んでるって。そのせいでみんなピリピリしてるんだよ」

「そ、そうですか……」

 

 おそらく艦長の剣幕を思い出してだろう。スタンは曖昧に同意を示した。

 暴力を振るわれそうになり、まるで止めに入ったかのように乱入してきた女性の存在を思い出す。

 

「そういえば、あの子は誰ですか? 艦長さんも、口出しできないみたいでしたけど……」

「ああ、あのお嬢ちゃんは客員剣士だよ。本人も言ってたけど、この艦の輸送品を狙ってきた盗人を斬り捨てるなり捕まえるなりする……まあ、早い話が護衛さ」

「あんな女の子が、ですか!?」

 

 それを聞き、スタンは自分の常識をひっくり返されたが如く仰天した。

 その気持ちはわかると言いたげに、船員は驚くことなく頷いている。

 

「まあ、珍しいよね。あんなに若くて綺麗な子が……最も、昔と違って今は、有能な人間なら例え子供でも重用するらしいからね。珍しがってもいられないよ」

「へえー……」

 

 そこで彼は、今しがた聞いた聞き慣れない単語の意味を尋ねることにした。

 

「ところで、客員剣士って何ですか?」

「簡単に言えば、王国軍に所属する傭兵みたいなものかな。正規の兵士ではないけれど、その腕を見込まれて王様直々に招かれた特殊な身分なんだよ。兵士よりは上で、将軍よりは下だったかな」

「そうなんですか……」

「さ、そろそろ行こうか」

 

 子供でも少女でも、腕を認められれば国に仕えることができる。

 自分の目的のために、できれば彼女から詳しい話を聞きたいと、彼は呑気にもそれを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十夜——歯車はきしみつつも、動き始めた

 in飛行竜──正式名称ルミナ=ドラコニス。
 原作主人公スタンと力を合わせて、襲撃され墜ちゆく飛行竜より大脱出の巻。
 主人公に引き続き、この物語のキーパーソン。
 安置されていた神殿より移送され、倉庫でお眠り遊ばせていたソーディアン・ディムロス、堂々見参! 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの青年が隠れていた場所がソーディアンの安置されているすぐ近くの倉庫と聞かされたら、艦長の過剰反応も致し方ない。

 ソーディアンの有無を確かめ、何事も起こっていないことを確認して、フィオレはかび臭い倉庫を後にした。

 発見当初の状態維持とはいえ、鎖に固定しただけで覆いもかけないとは無用心すぎるのではないかと思ったが、口出しできることではない。

 とにかくもう一度見回りをせんとフィオレが艦内を歩き回っていた、そのとき。

 突如として、耳障りな警報が鳴り響いた。

 不審者が発見されたが、取り押さえられず救援を呼ぶための警報……かと思ったが、どうも違和感がある。

 その場に立ち止まったフィオレは、左手に手をやると、シルフィスティアに語りかけた。

 

『シルフィスティア。私の眼になってください』

『はいはーい』

 

 閉じた目蓋の裏側に、巨大な飛行竜の全貌が見える。

 しかし、どうも様子がおかしい。

 飛行竜の周りに、奇妙な点々が見え隠れするのだ。

 雲ではない、それをじっと見据えれば……その正体は、雲霞の如き大量の魔物だった。

 よく見ればコウモリに似た魔物が人型の魔物をぶら下げ、次々と飛行竜に乗り込んでいる。飛行竜が推進力を跳ね上げ加速しようと、振り払えるのはほんの一部だ。

 船員総勢で退治しようにも撃退しようにも、あまりに絶望的過ぎる数だった。

 

『──ありがとうございます』

 

 シルフィスティアに礼を言ってすぐさま通常の視覚を取り返す。そしてフィオレは、一目散に倉庫を目指した。

 この艦のこと、船員たちのことを思えば、管制室へ向かって応戦を諦めさせ、避難を促すのが正しい。

 ただしフィオレは艦長ではないし、任務のこともあった。今すぐソーディアンを回収し、それから管制室へ向かう。

 管制室より倉庫の方が近い、フィオレの居場所からすれば、それが一番合理的な判断だった。

 階段を駆け下り、後は道なりに進めば途中に倉庫がある。

 すでに侵入を果たしていた魔物を躊躇なく斬り捨て、進んでいた最中のこと。

 不意に前方から何者かがやってくる気配を感じ取り、フィオレはその場に立ち止まった。

 魔物が待ち伏せをしないとも限らない。足音があるということは人型の魔物か、気配を消して待つこと、刹那。

 

「うわぁっ!」

「……あれ?」

 

 予想通り、相手は角を曲がってこちらへやってきた。

 そこへ紫電を突き出せば容易に狩れると思った相手は、悲鳴を上げつつもそれを回避している。

 そう。鳴き声ではなく、悲鳴。

 現われたのは、金色の蓬髪をなびかせた、密航者の青年だった。

 甲板にいたはずにつき、もはや生存は絶望的だろう、とさっくりあきらめていたフィオレではあったが、どうにか生き延びたらしい。

 初めて出会った生存者に、それを労おうかと今一度彼を見て。

 フィオレは自分の顔がまともに強張るのを感じた。そして──ほぼ反射的に、青年へ紫電を突きつける。

 

「な……」

 

 青年が実は、魔物だった。その正体を見破った──からではない。

 彼のその手には、先ほど見回ったとき確かに安置されていた、ソーディアン・ディムロスが握られていたからだ。

 連想してこの青年が元凶、あの大量の魔物を呼び寄せたのでは、と脳裏をかすめるものの、決め付けるのは早計だ。

 一瞬たりとも気を抜かず、フィオレは青年に対して尋問を試みた。

 青年は何が何やらわからない様子で、とりあえず両手をあげている。

 

「ちょ、ちょっと……」

「斬り捨てられたくなかったら、素直に答えなさい」

 

 紫電の切っ先をゆるゆると下げ、フィオレは腕を伸ばして青年の首筋に手を当てた。

 びくっ、と震えた瞳をまじまじと見据える。

 嘘を言えば脈は乱れ、視線は泳ぎ気味になるはずだ。

 

「あなたはその剣が目的だったのですか?」

「ち、違う! さっきも言った通り、俺は……」

「弁解はいりません。ならば何故その剣を持っているのですか」

「か、甲板で掃除をしてたら、魔物に襲われて……武器がなきゃ戦えないから、予備の武器はないか探していたら、倉庫でこれを見つけて……」

 

 青年の瞳は揺らがない。脈も、血の流れこそ速まるものの、乱れはない。

 嘘は言っていなさそう、だ。しかし、このままにはしておけない。

 

「事情はわかりました。でも、その剣を持って帰らないと私の首がすっ飛びますので、返還を要求します。応じないなら実力を行使しますので、覚悟なさってください」

 

 そう言って手を伸ばしたその瞬間。

 フィオレは再び身体を強張らせた。

 

『スタン、お前は私のマスターだ。それを告げて堂々としていろ!』

 

 芯の通った、張りのある男の声が脳裏に響く。

 その声に対し、スタンは声をひそめるでもなく剣に顔を向けた。

 

「あのな。そんなこと言って、納得してもらえるわけが……」

『この女がソーディアンを知っているというなら、それなりの知識もあるはずだ。そしてそれを証明する手段もある。さあ』

 

 おそらくこれが、ディムロスの声なのだろう。

 覚醒したということは、彼にマスターが現われたという証であり、そのディムロスと対話するスタンは……マスターに選ばれた、のだろう。

 彼と会話を可能としていることが、確かな証だった。

 

「あ……あの。俺……」

 

 ディムロスに促され、スタンはおずおずとそれを伝えようとする。

 そんなことをされても時間の無駄につき、フィオレは新たな譲歩案を提示した。

 

「あくまで手放さないというのなら、同道を申し入れます。ただし、逃亡の意思ありと判断した場合は問答無用で強奪しますので、留意してください。お返事は?」

「え? えーと……」

『私を──剣を渡さないというなら、一緒に来いと言っているんだ。ただし、逃げようとすれば剣を奪うと言っている』

「わ、わかった。ついていくよ」

「よろしい」

 

 ディムロスの通訳で内容を理解したらしいスタンは、こくこくと頷いている。

 ソーディアンを取ってくるだけのつもりだったのに、随分時間をくってしまった。

 

「私はフィオレ……と申します。あなたは?」

「スタンです。スタン・エルロン」

「スタン。今から船首へ行って、それから甲板にある脱出ポットで避難します。道中魔物と遭遇することが想定されますので、死にたくなければ気を抜かないでください」

 

 ソーディアンさえ無事なら、どっちでもいいんだけどね。

 薄情な本音は胸の内で呟き、ディムロスを携えたスタンを伴って艦内の移動を始める。

 階段を上がった途端、それまで船員の死骸を弄繰り回していた魔物たちが一斉に向かってきたものの、思いの他早く決着はついた。スタンはソーディアンマスターになった直後であるにも関わらず、ディムロスの言に頷きながらその特性を大いに生かし、時折炎を剣身に宿して怯ませ、戦いを優位に進めたから、である。

 それにはあえて触れずに、無駄な戦闘はできないと、スタンをせかして管制室へと急ぐ。

 道中何度も交戦を強いられ、どうにか管制室へとたどり着いた。

 

『こちらダリルシェイド管制局! 飛行竜、ルミナ=ドラコニス、応答せよ!』

 

 先ほどからそんな通信が船首全体に響き渡っているのだが、誰一人としてそれに応じようとはしない。

 何故ならすでに、船首にいた人間すべてが事切れていたからだ。

 当然ながら、辺りは血まみれ、血臭が満ちている。

 

「ひ、ひどい……」

「入り口を見張ってください。魔物が押し入ってこないように」

 

 スタンに出入り口の守護を頼み、計器に倒れこむようにしている船員を床に寝かせる。

 繰り返される通信に答えるべく、フィオレは通信用のスイッチを押し込んだ。

 

「こちらルミナ=ドラコニス。ファンダリア上空を航行中、大量の魔物の襲撃を受けて損傷。詳細は不明。修復及び航行続行は不可能と思われるため、これより離脱します。最悪でも例のものは投げ落としますので、回収に来てください。場所は……」

「危ない!」

 

 スタンの警告を受け、フィオレは咄嗟にその場から飛びのいた。

 通信機は魔物が投擲した斧に破壊され、バチバチと悲鳴を上げている。

 見やれば鉄製の扉は壊され、集まってきた魔物たちが入り口に詰まっていた。

 今はまだいいが、なだれ込まれたら全滅は必至だ。

 

「下がってください!」

 

 押すな、というように背後の魔物に文句を言っているような人型の魔物を、一刀のもとに仕留める。

 無造作に血飛沫を払い、二体、三体と屠っていくものの、ジリ貧もいいところだった。

 

「フィ、フィオレさん。何か手伝えることは……」

 

 譜術を使えば一網打尽だろうが、あまり消耗したくないのが本音だ。さりとて単純にスタンに代わってもらったところで状況は同じ。

 フィオレは眼前に飛び出してきた魔物の翼を斬り落とすと、スタンを招き寄せた。

 

「さっきみたいに、ディ……ソーディアンの刀身を、晶術で熱することはできますか?」

「できるか、ディムロス?」

『造作も無い』

「できるなら、そうしてください。強行突破します」

 

 もう、時間がない。

 半分映らないモニターから、どんどん飛行竜が地上へ墜ちていくのがわかる。

 船員たちに避難指示を出せなかったのは痛かった。ソーディアン確保が先決だったとはいえ、後悔が残る。

 久々に味わった後悔は、苦い血の味がした。

 スタンの意思か、ディムロスの力か。

 ソーディアンの刀身が赤く煌いたと同時に、二人は入り口めがけて突貫した。

 これ幸いと襲いかかってきた魔物たちは、主に表面積のあるソーディアンに触れて、一時的な退避を余儀なくされている。

 

「先導します。走って!」

 

 そのまま甲板まで駆ければ、脱出ポッドを備えた甲板──スタンが掃除をしていたのか、破砕したデッキブラシの転がる甲板へとたどり着いた。

 膨大な数の船員を要する飛行竜には、備えられている脱出ポッドも半端な量ではない。

 しかし、その大半が面白半分にだろう、魔物に破壊され、黒い煙を上げている。

 まだ無事に見えるポッドの前に、一人の船員が立ちはだかっていた。

 早く逃げればいいものを、船員は何故かポッドに乗り込む気配を見せない。

 

「あいつ……!」

 

 複数の魔物に囲まれ、次第に船員は疲弊していく。

 スタンとフィオレによる救援は間に合わず、やがてコウモリ型の魔物に食いつかれ、ばったりと倒れ伏した。

 船員の断末魔に、表情のないはずの魔物が笑っている。そんな気がした。

 

「畜生っ!」

 

 船員に駆け寄り声をかけるも、すでに反応はない。

 歯を食いしばってうなだれるスタンを置いて、フィオレは彼が護っていたポッドに近寄った。

 健闘あってか、作動は可能のようである。

 スタンを呼んで脱出を図る……つもりだったフィオレはしかし、大きく肩を落とした。

 我慢の限界だったのだろう。彼は肩を怒らせて艦内へ戻ろうとしている。

 

『スタン、脱出しろ。本当に墜ちるぞ!』

「いいや、俺は戦う! あいつらを叩きのめすんだ! ディムロス、俺に力を!」

 

 あまつさえディムロスに止められるも、怒りで頭に血が上ったか、聞く耳を持っていない。

 望み通り置き去りにしてやろうかと思ったが、ソーディアンのことを考えると、そんなわけにもいかなかった。

 

『ええぃ、この……!』

「自殺願望がおありならどうぞ。ただ、どうしてもそうしたいならソーディアンは置いていってください」

 

 魔物がこないか、周囲を見回す。

 台詞を寸断されたディムロスはご立腹のようだが、フィオレに声は聞こえないと判断してか、特にこれといった文句もない。

 

「今更遺体のひとつやふたつ、増えたところで誰も気にはしませんが……死出の旅路にソーディアンは不要でしょう」

 

 手を伸ばせば、当たり前のようにスタンは後退さった。

 武器なしで艦内へ戻ること、すなわち死に直結することは、彼も理解していることらしい。

 それでも踏ん切りはつかないらしく、スタンは顔を歪めてフィオレに迫った。

 

「フィオレさんは悔しくないんですか! 罪もない人たちが、一方的に殺されて……!」

 

 ──まぶしい。

 先ほどまでとまったく変わらない太陽の日差しが直射されているわけではない。

 理想を、正直な想いを、あからさまに吐露できるこの青年が、フィオレにはまぶしくてまっすぐ見つめることができなかった。

 

「すみません。私が弱くて」

「……!」

 

 視線をそらして、押し殺すようになってしまったこの言葉に彼は何を思ったのか、絶句している。

 構わず、フィオレは続けることにした。

 

「仮に魔物を全滅させることができたとしても、それはあなたの自己満足であって死者への供養にはなりません。魔物を一匹でも道連れにして、あなたも死者の列に加わるんですか? それはあなたの自由ですが、ソーディアンを付き合わせることは私が許しません」

「だ、だけど……」

「先ほど申し上げた通り、私の仕事はそのソーディアンをダリルシェイドまで護送し、しかるべき場所に提出すること。そのマスターが現われたことに関しては想定外ですが、私の一存で判断できることではありません。あなたが何の目的でセインガルドへ赴こうとしているのかはわかりませんが、ソーディアンを手放さないと言うのなら同行を求めます。それができないのなら、今すぐにソーディアンを渡してください」

 

 再度手を伸ばせば、彼は再三の返還要求に応じることなく、肩を落とした。

 

「……わかった。脱出する」

「ご協力感謝します」

『スタン、急いでくれ。あまり時間がなさそうだ』

 

 ディムロスの言葉にも従い、彼は素直に脱出ポッドへ近づいた。

 そこへ。

 剣呑な唸り声が、後方より聞こえる。

 説得に時間をかけすぎたか。艦内から人型の魔物が現われて、次から次へと甲板へ飛び出してきた。

 

「くっ……」

「気持ちはわかりますが、こらえてください」

 

 現われた魔物を一々倒していては、脱出なぞ夢のまた夢だ。

 今にも斬りかかりそうなスタンの袖を引き、素早く脱出ポッドへと乗り込む。

 そこへ、魔物が投擲した斧が飛来した。

 

「そこのレバーを引いて! 早く!」

「こ、これ?」

 

 幸いにもポッドは素早く出入り口を閉ざして自動発射されている。

 しかし、レールの設置された尻尾を伝っての滑空時、フィオレは耳障りな異音を感じ取っていた。

 あまり考えたくないが、あのタイミングからして投げられた斧がポッドに被弾した、と考えるほうが冷静な判断だ。

 つまり、それが意味するのは。

 そこで、フィオレは苦しげに息を吐いた。

 

「スタン……重いから、どいてください」

「へ? あ、あわわっ! すいません!」

 

 乗り込む時、急いで引っ張ったのが悪かったのか。

 巻き込むように転倒し、自分に覆いかぶさるようになっているスタンをどかせて、起き上がる。

 顔を真っ赤にしている青年は、無害そうなので放置しておくことにした。

 マニュアルに従い簡易計器を作動させるも、設置されたモニターは目障りな砂嵐をえんえんと映し続けている。

 それが示すものとは。

 

「……大変残念なお知らせがあります」

「へ?」

「ただいま絶賛墜落中です」

 

 厳かに告げられた衝撃の事実に、スタンは一瞬呆けてから大騒ぎを始めた。

 

「つっ、つつつ墜落中って!?」

「さっき何か被弾したみたいですけど、まずいところを傷つけられてしまったようですね。内部から操作して軟着陸させる代物なのに動かないし、そもそも外の様子すらわからないし……」

 

 フィオレは物憂げに吐息を零している。

 彼はおそるおそると言った様子で遠くない将来を尋ねた。

 

「じゃあ、このままじゃ……」

「地面に叩きつけられて、潰れます」

「つ、潰れ……!」

 

 遂げる最期が同じなら、艦内に残って魔物の殲滅に当たっていたほうがマシだったと言い出しかねない。

 そんなことを叫んだところで、状況は何も変わらないのだが。

 

「ディムロス、何とかならないのかよ!?」

『無茶を抜かすな』

「まあ、おそらく真下は一面の雪原ですから、大量に積もった雪の上か木々か、あるいは湖とかに落ちることを祈りましょうか。後は、保護姿勢をとってジッとしていることくらい……」

 

 フィオレの指示に従い、頭をかばうような姿勢をとってスタンは大人しくしている。

 作動するかもわからないが、一応パラシュート開閉装置のボタンを押し込み、フィオレは左手の甲に手をやった。

 本来なら大地の守護者に重力を和らげてくれるよう頼むところだが、残念ながらアーステッパーとはお目にかかったことすらない。

 

『シルフィスティア。このポッドに宿ることはできませんか? いつぞやの箒のように』

『無理。そんな重いの、持ち上げられない』

『持ち上げろなんて言いません、湖上への誘導とかはできませんか? あと、早急に私達を風で包んでいただきたいのですが』

『わかった、やってみる……けど』

 

 イマイチ歯切れの悪い守護者に、それでも力を借り。フィオレは悪あがきを試みることにした。

 正式な手順でポッドを動かすことは諦め、どこか一箇所でも動かないかなあと適当に動かしてみる。

 どこかひとつでも推進力が働かないか試み、逆噴射ができないかと計器を弄くり、その末に僅かながら、モニターを再生させることに成功した。

 そうしてフィオレは、ポッドが凄まじい勢いで降下していること、あと数秒もしないうちに湖に着水するだろうということを知り、咄嗟に身体を丸めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





Q:シルフィスティア(湖に落ちるよう誘導するなら、なんでアクアリムスに声かけないんだろ……?)

A:墜落死を回避しようと焦っていて、そこまで考えが及んでいない。人間焦ると、通常の半分も頭が動かなくなってしまうものです。


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第三十一夜——クソ冷たい雪の上で

 fall in ファンダリア。
 あんまりいい思い出のない雪国に不時着陸、当たり前のように遭難中。
 スタンのファーストキッス(多分)をいただいたのちに、ウッドロウとの再会。

 非常に気まずい雰囲気が漂いますが、何、気にすることはない。


 

 

 

 

 

 近くで誰かが怒鳴っている。

 その五月蝿さに──その声に孕まれた緊急性を感知したフィオレは、ほんの僅かに目を開けた。

 

『……スタン! しっかりしろ! この馬鹿者がっ! スタンっ!』

 

 近くだと感じたのは、ディムロスの声が脳裏に響いていたせいか。四肢の損傷はないかと身体を動かそうとして──感じた寒さに身体が震える。

 動かしても問題ないことを確認してから、フィオレはそろそろと起き上がった。

 眼前に広がるのは湖で、流氷と共に壊れた脱出ポッドがぷかぷかと浮いている。

 真横に横たわるのは、ソーディアンを握りしめた青年、スタンだ。

 守護者に助けてもらったのか、彼に助けてもらったのか。とにかく溺れず、無事に上陸は果たせたらしい。

 しかし、命があることに安堵している場合ではない。

 早く身体を温めないと、今度は凍傷の後、凍死コースだ。

 

「スタン、起きてください。スタン?」

 

 動かぬスタンの脈を確認すれば、船員たちとは異なりしっかりと心臓は稼動している。

 びしょぬれなのは二人とも同じだ。湖に着水したのだから、それは仕方がない。

 しかしどれだけ呼びかけても、スタンはぴくりとも動かなかった。

 

「……まさか」

 

 鼻と口に手をかざす。耳をそばだてて呼吸の有無を確認して、確信した。

 この青年、水をしこたま飲んだらしい。心臓が動いていても、このままでは窒息で死ぬ。

 スタンの顎を持ち上げ鼻を摘まむと、覆い被せるように口と口を密着させた。

 息を吹き返さないことを確認し、気道確保のち、あばらを折らないよう細心の注意を払って胸を押す。

 

「っ!」

 

 ゲホゲホと、勢いよく水を吐き出したスタンの呼吸が、荒くなってから正常を取り戻す。

 どうやら、呼吸が止まってそれほど経過していないらしい。

 墜落死を免れた点も考慮して、幸運な青年である。

 と、そこで。フィオレは我に返った。

 

「しまった……!」

 

 唇を押さえて歯噛みする。

 出会って間もない若者の唇を奪ってしまったこと、ではない。

 それよりも更に重大なことを、フィオレは失念していた。

 

「ほっといてソーディアンだけ持って帰ればよかったのに」

『人命救助を悔やむんじゃない!』

 

 ディムロスのもっともな突っ込みは聞かなかったことにして、試しにソーディアンをその手から抜き取ってみる。

 反応は何もない。このまま黙って立ち去れば、もはや面倒もないだろう。

 立ち上がり、周囲を見回す。

 あまり人の立ち寄らない場所なのか、周囲は雪化粧の施された針葉樹が立ち並ぶばかりだ。

 とりあえずこの濡れた身体を温めなければならないが、火を起こそうにも、湿った薪では難しい。

 ──と。

 眼帯から水気を絞っていたフィオレの視界に、山小屋らしき木造の屋根が見えた。

 煙突じみたところから煙が上がっているのを見るに、人がいる。

 意図的に身体を細かく震わせて寒気に耐えていたフィオレが、無意識に足をそちらへ運ぼうとしていた、そのとき。

 

『おい、まさか本当にスタンを置いていく気ではあるまいな? いや、しかし、運ぶのは無理があるか……』

 

 この時点で、フィオレはディムロスと積極的に会話をしようとは思っていない。

 彼と親交を深めるよりは、考えたいことがあったからだ。

 無言で己の剣帯にディムロスを差込み、横向きにしたスタンの隣に寝転ぶ。右足と右腕を引き、寝返りを打たせるようにしながらスタンの体の下に潜り込み、肩を股下に差し込んで、体勢を整えてからふらつきつつも立ち上がった。

 

『!』

 

 重心の移動を利用した無理のない持ち上げ方ではあるが、それでも軽鎧を含めた彼の体重が軽減されるわけではない。

 加えて相手も濡れ鼠だ。わずかに体温が感じられるとはいえ、フィオレの体温もあちらにもっていかれている。

 ただでさえ消耗した身体に、それはとんでもない重みを伴ってずしりとのしかかってきたが──フィオレは一歩、足を踏み出した。

 

「……」

 

 眠い。重い。寒い。

 何せ、一歩足を踏み出す毎に体力が消耗するのである。

 荷物さえ背負ってなければ滑らかに足を運ぶこともできようが、今はどうしても足元は簡単に埋もれた。

 一息吐き出すごとに、真っ白な息が視界を遮る。この分では鼻息すらも白いだろう。

 先ほどの質問に答えなかったことを答えとみなしてか、ディムロスもまた沈黙したままだ。

 自分の体重よりも重量のある荷を担いで、雪上の移動は困難を極める。集中なくしてできることではなく、彼とおしゃべりをしながら歩けるほど、体力的な余裕もない。

 意識的に急いだ甲斐あって、スタンを担いだフィオレはどうにか木造建ての一軒家までたどり着いた。

 煙突から変わらず煙は立ち上っているし、周囲の雰囲気も無人のそれではない。

 何より、雪には靴跡がいくつも残っていた。

 靴跡の大きさを見て──三人程度、だろうか。

 亀のように鈍い歩みだったせいで、フィオレもスタンも服が凍りかけている。早く対処しなければ、凍傷になってしまうだろう。

 その場にゆっくりとスタンを下ろし、ぜぇぜぇと息を切らして一軒家へと続く階段を上る。雪国の民家は雪が積もりすぎて埋まってしまうために、床を高くしているという。ここも同じ理由だろう。

 呼び鈴や、ノッカーのようなものは見当たらない。意を決して、フィオレは分厚い扉を叩いた。

 しばらくして、応対の声がかかる。

 施錠を外すような音も聞こえず、現われたのは一人の老爺だった。

 

「急病人を抱えて立ち往生しています。お湯をください。できれば火に当たらせてもらいたいのですが」

「そりゃあかまわんが……」

 

 いぶかしげな老爺に礼を言い、スタンを背負いに戻る。

 その様子に何を思ったのか、老爺は突然「ウッドロウ!」と叫んだ。

 

「……へ?」

 

 振り返るも、老爺の姿はすでにない。

 フィオレの記憶では、ウッドロウというのはファンダリア王国の第一王位継承者の名だ。

 彼にちなんで名づけられた老爺の息子か、孫の名か。

 身動きをするたびにパリパリと音を立てる被服に負けず、スタンを運ぶため近寄った、その時。

 

「どうしたんですか。アルバ先生」

 

 確実に聞いたことのあるバリトンに、身体が強張った。

 まさか、まさかと思いながら振り返れば、そこには。

 アルバ、というらしい老爺に連れられ、雪色に青みがかった髪の青年が現われる。

 見慣れぬ蒼の軽鎧姿だが、間違いない。

 ファンダリア王国第一王位継承者にして唯一の王太子、ウッドロウ・ケルヴィンが民家の玄関から、フィオレを見下ろしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パチパチと、くべられた薪の爆ぜる音が響く。

 どうもあのアルバという老爺は、急病人がいるということで寝台を提供してくれるつもりだったらしい。

 大の男がぶっ倒れているのを見て、フィオレに担がせるのは酷と見た彼が、ウッドロウを呼んだのだろう。

 

「君は……」

 

 都合の悪いことに、ウッドロウはフィオレの顔を忘れていなかった。

 知り合いかと尋ねるアルバとウッドロウの視線に耐え切れず、ついつい「……ご無沙汰しております」などと、フィオレは返してしまったのである。

 老爺はもちろん、ウッドロウがどこの誰なのかを知っているらしい。驚いた顔をして、それでも病人を寝かせるのが先と、フィオレたちを自宅へと招いた。

 まずはスタンの、濡れたを通り越して凍りつき始めた鎧と衣服を剥がし、毛布に包んで寝かせている。

 次にフィオレは、防水布製荷袋から持参していた私服に着替えて、暖を取らせてもらっていた。

 ついでに二人の服を乾かしているのだが……すぐ傍でウッドロウが待機している。

 見張りなぞしなくても何も盗りはしないが、そんなことが心配で張り付いているわけではないだろう。フィオレは未だ、今に至るまでの経緯を一切、彼らに話していないのだから。

 アルバ氏は、ウッドロウに何か言われたのか別室にいる。

 沈黙に耐え切れず口を開いたのは、ウッドロウが先だった。

 

「……失礼だが、君の事は大体調べさせてもらった」

「落胤がどうとかいうお話でしたら、以前否定させていただきましたが」

 

 幸い、ディムロスはスタンの傍に待機させてある。この話を聞かれることはない。

 再三の否定に、ウッドロウは頷くものの、話は終わらなかった。

 

「出自不明の隻眼の歌姫にして、セインガルド王国客員剣士の君が、何故ここに? あんな、遭難も同然の状態で……」

「私まだ見習いです。任務中ですので、詳細をお話しすることはできません。ただ、彼は一般人ですので何があったのかなら、聞けばすぐに答えてくれると思いますよ」

 

 アルバ氏に対して話すのであれば、『旅の途中道に迷い、誤って湖に転落した』などと適当な嘘をつけばいい。湖に転落したのなら、防寒具等はとっくに湖の底だろうと解釈してもらえるはずだからだ。

 ただ、今彼が話したように、フィオレがセインガルドの客員剣士に準ずる立場であることを知っている相手に、この嘘は通じない。そもそも何故ファンダリアにいるのか、という尋問から始まってしまう。

 だからといって、此度の任務は極秘のものだ。相手が隣国の王家の人間であることも鑑みれば、話せることなど一切ない。

 ただそれはフィオレ個人、というか客員剣士の事情であって、偶然居合わせただけのスタンは別だ。

 だから、事情が知りたいならスタンのところへ行ってくれ、と遠まわしに伝えたつもりなのだが……

 

「……ふむ」

 

 ウッドロウは顎に手を当てて何か考える仕草をするだけで、動こうとはしなかった。

 手持ち無沙汰に衣服を触って、どうにか乾ききったことが判明する。

 制服は荷袋に戻し、思索にふけるウッドロウに一声かけてから、フィオレはスタンの眠る寝室へと赴いた。

 外と内を隔てる扉とは違い、客室と廊下を区切る扉はかなり薄かった。そのため、耳をすまさずとも中の会話がつぶさに聞こえてくる。

 何を話していたのか、聞こえてくるスタンの声には濃い動揺がにじんでいた。

 

「そ、そうだったのか……」

『スタン。あの女には礼を言っておけ』

「わ、わかってるよ。当たり前だろ」

『それだけじゃない。あの細い体でお前を担いでここまで来たんだ。一瞬、お前を置き去りにする気かと焦ったが』

「それじゃあ、尚更だよな……会いにくいけど」

 

 何を躊躇しているのか知らないが、だからといって二度と会わないわけにもいかない。

 会話が適当に途切れたところで、ノックをする。

 

「起きたんですか?」

 

 返事は──ない。

 確かに話し声が聞こえたはずなのだが。

 不審に思ったフィオレは、そのまま扉を開けた。

 

「スタン?」

 

 彼は寝台に横たわっていた。うつ伏せになっているため、その顔は確認できない。

 身体を冷やさないように、と提供された毛布をきっちりと巻いておいたはずだが、かなり乱れている。単なる寝相ではない。

 そしてその、わざとらしい寝息からして……狸寝入りだろう。

 小さく息をついて、サイドテーブルに持ってきた衣服を置く。

 そしてフィオレは、すぐ傍の寝台に立てかけられたソーディアン・ディムロスを手に取った。

 

『……む?』

 

 初めて見たわけでも触ったわけでもないのだが、こうして手にとってじっくりと見たのは初めてだ。

 幅広で肉厚の刀身に、重厚な質感のある拵えである。

 ともすれば宝剣にも見間違えるシャルティエとは大きく異なり、意匠こそ珍しいが実戦で使われる武器そのものに他ならない。

 意思を発する、あるいは晶術が繰り出される際ちらりと見えた朱色のコアクリスタルは、今はシャッターじみた代物で外界から保護されている。

 

「炎を出してたけど焦げてはない、異常はなし……って、うわ」

 

 ふとそれに触れた際、フィオレはディムロスが全体的に固まった埃やらこびりついた塵やら、それら汚れに染み付いた血糊やらで汚れていることに気付いた。

 血糊は戦闘で仕方がないことだが……発掘班はこんな塵や埃さえも、破損の原因に繋がると見て取り除かなかったのか。いや、綺麗にするのは後回しで、まずは状態を維持しようとしていたのかもしれない。

 

「水に浸かったはずなのに、汚れがこびりついてる……こんなんでよく戦えたなあ。割とすぐ使いこなしてたみたいだし、案外才能あるのかも」

 

 手入れ用の布、磨き油、先端を布で包んだ針金で手持ち無沙汰にディムロスの手入れをしながら、フィオレはぼんやりと飛行竜での出来事を思い起こしていた。

 通常、魔物はあのように結託して、自分たちより遥かに巨大な魔物を襲うことはない。

 飛行竜は魔物ではないが、あのような様相からして、魔物が自分たちの与しやすい獲物だとは考えないだろう。

 異種族同士たる魔物が結託する例を知らないわけではないが、あれは生粋の魔物使いがいたから可能だった話だ。よもや、こちらにも魔物使いなる人種がいるのだろうか。

 刀身を磨き、血糊を剥がし、細工の隙間に詰まっている塵芥を取り除き、軽く叩いてこびりついた汚れを落とす。

 シャッターの隙間にどうしても針金が入らないことに苦慮し、諦めようとしたそのとき。

 音を立ててシャッターが開いた。朱色のコアクリスタルが、むき出しになる。

 

「……おお、開いた」

『スタンではこのような手入れを期待できんからな』

 

 ソーディアンに視覚、聴覚以外の感覚などないものと思っていたが、これはこれで気持ち悪かったりするのだろうか。

 一通りの手入れを終えて、フィオレは改めてコアクリスタルを見つめた。

 そして、チャネリングを起動させる。

 

『さて……ソーディアン・ディムロス。聞こえますか?』

『な、なんだ!?』

『聞こえているようですね。あなたはそこの青年をマスターに選んだようですが、あなたは現在セインガルド王国管理下に置かれています』

 

 当然、ディムロスは驚愕をあらわにした。

 もし身体があれば、周囲をきょろきょろ見回していたことだろう。

 仕組みを話す気にもならないので、黙殺する。

 

『地名なんか言われてもわからないでしょうから、今現在第一大陸を治めている国とでも解釈してください。で、天地戦争時代、地上軍に勝利をもたらしたソーディアンをあちらとしては国宝みたいに思っているようなんですね』

『お前が話しているのか? チャネリング現象など、一体どうやって……』

『ご存知でしたか。単なる手品です、とお答えしておきましょう』

 

 彼が知っていてシャルティエが知らないというのは、一重に地位の差なのだろうか。

 そんなことを考えてふと、左手の甲に違和感が走る。

 

『手品だと? そんなことがあるものか!』

『現時点で話せることはお話しました。これ以上のことはまだ口外できません。ではまた、後ほど』

 

 それが無視できないほどに強くなっていくのを感じたフィオレは、ディムロスとの会話を中断して退室した。

 途中、すれ違ったウッドロウに構うことなく廊下の窓から外を見るようにしながら、そっと手甲を外す。

 ──気のせいなどではなかった。

 手の甲に張り付いたレンズは、普段の乳白色を消して黎明の色に輝いている。

 この近くに、守護者の一柱がいる──! 

 すぐにでも確かめたいが、スタンはすでに目覚めているのだ。

 ディムロスを脅かすようなことを言ってしまった手前、目を離すのはためらわれる。

 その時。

 

「どうかしましたかの?」

 

 声をかけられくるりと振り向く。

 後ろ手に手甲を直しながら、フィオレはアルバと向き直った。

 

「いえ、天気はどうなのかと。私たちが来た頃、少し雪がちらついておりましたので」

「今は落ち着いているが、山の天気は変わりやすいからの──おお。おぬし、もうよいのか?」

 

 ふと、アルバの視線が向こうへ流れる。

 その視線を追えば、そこにはウッドロウとディムロスを持ったスタンが立っていた。

 何故か、その顔は赤い。

 

「はい、おかげさまで」

「それはよかったのう。ときにお嬢さん」

「はい?」

 

 風邪でも引いたのかと彼の顔を見つめると、素早く視線がそらされた。

 ムッとする前にアルバに話しかけられ、そちらに意識が集中する。

 

「湖の方で子供を見かけませんでしたかの? 桜色の髪に弓矢を持った、お嬢さんよりは年下の……」

「いえ、当時周囲を見回した限りで人影は見ていません」

「ということは、やはり裏山か。ウッドロウ、探してきてはくれんかの」

 

 唐突な話運びに、何の話かとフィオレが聞くよりも前にスタンが口を挟む。

 すると、いつものことなのか。ウッドロウが事も無げに事情を説明してくれた。

 

「ああ、先生の孫が外出しているのだが、どうやらまだ戻らないらしい。私がこれから行って探してくることになった」

 

 その一言に、スタンが協力を申し出る。

 ウッドロウは先ほどまで眠っていたスタンを気遣うも、顔色と比例して彼はやる気満々だ。

 これは──好機である。

 

「それなら、私もお手伝いしましょうか。人探しなら人手が多いほうがいいでしょう」

 

 人探しなど、その気になればシルフィスティアの力を借りてあっという間に終わらせられる。

 その間スタンがしばらくウッドロウと行動してくれれば、フィオレは契約を試みることができるのだ。

 

「私が見ていないだけで湖の方へ行ったかもしれませんから、探してきます。その間にお二人は裏山を探してきてくだされば」

「それならぜひお願いしようかの。もうじき日が暮れるでな、少しばかり心配でのぉ」

「わかりました。ではよろしく頼むよ、二人とも」

 

 示し合わせて、一軒家を出る。

 裏山へ向かう二人を見送るでもなく湖へ向かえば、思った以上にあっさりたどり着いた。

 体調低下中スタンを担いで歩いたため、長い距離を歩いていたように錯覚していたらしい。

 周囲を肉眼で見回すも、アルバから聞いた特徴を持つ少女はおろか、人影すら見当たらない。

 ならば──契約できないかを試すまでだ。

 眼前の湖は、厚い氷が割れている以外に異変は見当たらない。

 フィオレたちが乗っていた脱出ポッドは沈んでしまったのか、影も形も見当たらなかった。

 冷たい風が吹き荒れる中、フィオレの声が響いて消える。

 

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze

 Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze

 

 Va Rey Ze Toe Nu Toe Luo Toe Qlor

 Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey

 

 Va Nu Va Rey, Va Nu Va Ze Rey

 Qlor Luo Qlor Nu Toe Rey Qlor Luo Ze Rey Va……

 

 

 

 

 





Q:アクアリムス(私なら水だけ排除することもできるのですが……)

A:ディムロスの、というか他者の前で分かりやすく守護者の力を用いることに抵抗を感じたため。
シルフィスティアの助けは、わかりにくいし多分バレないだろう、という目算あってのこと。
アクアリムスのことを忘れていたわけではありません。


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第三十二夜——銀世界の中心で、契約を叫ぶ

 トーンの山小屋付近。
 スタン&ウッドロウとは別行動中、契約を試みます。
 今回は──
 自宅の近所で迷子になれる、更にはケヤキとお話できちゃう(自称)ませた言い草、小難しい四字熟語を使いたがりな大人に憧れちゃうお年頃。
 後のパーティ参入可能キャラクター、チェルシー・トーンがちらっとお目見えです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ♪ Rey Va Nu Qlor Toe Rey Rey──

 

 最後の一節を謡いきり、大きく息をつく。

 雪に音が吸い込まれてしまったが如く、響いたはずの譜歌はあっさりと散った。

 反応がないのを見て、ここではなかったかとレンズを確認しようとして。

 

「っ!」

 

 手甲に手をかけた瞬間、フィオレは強烈な立ちくらみに襲われた。視界が真っ暗に染まり、平衡感覚が突如として狂う。

 その場に座り込み、それらが収まるのを待つこと、しばし。

 一瞬にして、フィオレの周囲は吹雪の吹き荒れる豪雪地帯となっていた。

 眼前に広がっていた静謐な湖は姿を消し、代わりに小さな祠が立っている。

 その向こうに垣間見える光景は地上のものだ。

 つまりここは、ファンダリアのどこかの山頂なのか。

 

『よくぞ参られた』

 

 威厳に満ちた声が響いた途端、荒れ狂っていた吹雪はすんなりと収まった。

 見やれば祠の中から、直視することも耐えがたい光そのものが姿を現す。

 今までの守護者と同じく、光は徐々に人の形を取った。

 現われたのは、金色の鎧をまとう有翼の女性の姿だ。

 キリッと引き締まった双眸と広がる白い翼、揺るぎない表情から気高さと同時に近寄りがたい雰囲気を覚える。

 それよりも何よりも。

 今しがた聞いた声を、フィオレは以前にも聞いたことがあった。

 

「あなたが、ソルブライトですか?」

『さよう、この世界を満たす光の統括者。私は守護者の一柱として、来訪者フィオレンシア・ネビリムとの契約を望む』

「契約に際してお尋ねします。『彼女』とは、何者なのですか?」

 

 ──以前フィオレは、フランブレイブとの契約に際してとある質問をぶつけてみた。

 内容は、「何故自分はここに存在しているのか」

 アクアリムスの質問で、ここが自分の生きてきた世界とはまったく異なる場所だということはおぼろげではあるが理解はした。

 しかし、それならば異世界の住人たる自分を、彼らは一体どうやって呼んだというのだろうか。

 フランブレイブの答えは、至極単純だった。

 いわく、「彼女の仕業だ」と。フィオレの召喚は彼女が行ったことであり、その詳細はわからないという返事だった。

 フランブレイブがこの調子なら、他の守護者に聞いたところで満足のいく答えは得られないだろう。

 そう思ったフィオレは、「彼女」と呼ばれる存在の正体を探ることにしたのだ。

 果たして、答えは──

 

『彼女は、我ら守護者を束ねし統括者。人の言葉で指すならば、神そのもの』

 

 この答えを聞き、フィオレは正直落胆していた。

 彼女がそのような存在であることは薄々わかっていた。

 しかし、フィオレとていい年を重ねた大人なのだ。

 相手が神だからといって身にかかった理不尽すべてを納得できない。

 だが、これはフィオレの尋ね方も悪かったと反省するべきだろう。

 

「汝らの意に沿う」

 

 自らの羽を使って浮遊していたソルブライトが、地面へと降り立つ。

 伸ばされたその手を取って、フィオレは誓いを言葉にした。

 

「汝らの願いがため、我にその加護を。我に力が貸し与えられんことを。願わくば契約が、無事に果たされんことを」

『その瞳の輝きが曇らぬ限り、汝への協力は惜しまない。輝ける祝福は、常に汝の道を示すだろう』

 

 契約の証である握手らしき行為の末、ソルブライトは光の粒子となって左手のレンズに吸い込まれていった。

 手甲を外せば、真昼の太陽にも似た色がレンズに宿っている。

 

「これから、よろしくお願いしますね」

『承知した』

 

 再び、視界は暗転した。

 眼前の光景は、氷が割れて流氷の漂う湖のものへと変化している。

 これといった障害もなく、無事契約を交わし終えたフィオレはチェルシーなる少女を探そうと、シルフィスティアに呼びかけた。

 

『シルフィスティア。もう一度お願いできますか?』

『おっけー!』

 

 こうも呼び出されてはたまったものではないだろうに、彼女の声からそんなものは微塵にも感じられない。

 その心の広さに感謝をしながら、フィオレはゆったりと両眼を閉ざした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、ウッドロウと共に裏山へチェルシー探しを行っていたスタンはというと。

 

「へーっくしょい!」

 

 豪快なクシャミを連発していた。

 対するウッドロウは微笑ましげに眺めているだけで、くしゃみはおろか、鼻をすするようなことすらしない。

 

「ウッドロウさん、こんなに寒いのによく平気ですね……」

「私は生まれも育ちも雪国だからね。今日は暖かいくらいだよ」

「俺には十分寒いです……へーっくしゅ!」

 

 クシャミついでに鼻を垂らすハメになってしまい、近くの雪をかき集めて鼻をかむ。

 今の彼には死ぬほど冷たかったが、近くに水場がない以上手鼻をすれば、ディムロスが怒り狂うことは確実である。

 明らかに雪国慣れしていないスタンに苦笑いをしながら、ウッドロウはさりげなく質問をした。

 

「時に……先ほどは聞き損ねたのだが、何故あのようなことになったんだい?」

「実は乗っていた飛行竜が魔物に襲われて、フィオレさんと一緒に脱出したんです」

 

 フィオレの名を口に出した途端、脱出ポッドに乗り込んだ直後の出来事を思い出して、スタンは顔を熱くした。

 けしてわざとではないとはいえ、彼女を押し倒すようにしてしまった際の感触は、未だ残っている。細身であっても、女性特有の柔らかさはこれまでの彼には知り得ないものだった。

 僅かに鼻をくすぐった柑橘系の香りは、食欲よりも心臓の鼓動を早めている。

 しかし、そんなスタンの異変などウッドロウにとっては瑣末時であったらしい。

 否、彼によりもたらされた情報に驚愕しすぎて、気付けなかったと称するが正しいか。

 

「飛行竜が襲われただと? それは本当か?」

「は、はあ……」

「そうか……それは大変な目に遭ったな」

 

 それまで飄々としていた人間が急に語気を荒げたのだ。その様子にスタンは驚くものの、彼はすぐに我を取り戻したらしい。思わしげではあるものの、その苦労を労った。

 フィオレは、彼を一般人だと言っていた。確かにあっさりと事の成り行きを話してくれたが、謎はつきない。

 よほどのことがなければ使われない、飛行竜の航行。

 スタンの持つ、ソーディアン……その形状からおそらく、炎を司るディムロス。

 客員剣士の存在と、何故か同乗していた一般人。

 更にスタンの証言と、二人の置かれていた状況を推察して、ウッドロウは結論を出した。

 極秘任務……おそらくソーディアンの発見を受けて護送を命じられたフィオレが、何かしらの理由で乗り合わせたスタンと知り合い、何らかの経緯を経て推定ディムロスは、スタンをマスターと定めたのだろう。そうでなければ、一般人であるスタンが飛行竜に乗っていた説明がつかない。

 持ち前の放浪癖で民草の生活を知っていても、スタンが密航者であることまでは考えが至らないウッドロウであった。

 残る謎といえば。

 

「しかし、飛行竜が襲われるなどと……珍しいことがあるものだな」

「そうなんですか?」

「レンズで凶暴化したとはいえ、彼らはもともと野生の動物だ。自分たちより巨大で強そうな存在に襲いかかることはまずない」

「確かに……野生の狼なんかも、家畜とか羊とかしか狙わないですね。犬や人には滅多に姿を見せないし」

「ほう。君の実家は牧場を経営しているのかい?」

「牧場ってほど大きくはないんですけど……」

 

 そのまま話題はスタンの出身の話になり、道中和やかな雰囲気が続く。

 その最中にも二人はチェルシーを探して歩いていたのだが、人影はおろか魔物すら現れない。

 

「……妙だな」

「そうなんですか?」

「静か過ぎる。この辺りには凶暴な魔物が多く生息しているのだが……」

 

 手持ち無沙汰にスタンがディムロスの柄に触れた、そのとき。

 がさがさと音を立てて、茂みが割れる。

 飛び出してきたのは大型の熊と、獰猛な目つきをした兎型の魔物だった。

 

「!」

 

 瞬時に各々の武器を構えた二人だったが、何故か魔物は襲いかかってこない。それどころか、二人を無視してあさっての方向へと逃げ去っていく。

 

「え……」

「どういうことだ? まるであれは、何かから逃げているような……」

 

 呆然とその背中を見送る二人をすり抜けて、数匹の魔物や動物が駆け去った。

 更に、事態が呑み込めない二人に追い討ちをかけるように。

 

「きゃあああっ!」

 

 少女の姦しい悲鳴が、辺りに木霊した。

 その声量からして、ここから程近い。

 

「今のって、まさか……!」

「行こう、スタン君。彼女に何かあっては、先生に申し訳が立たない」

 

 頷きあい、二人は雪の道を駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その頃、フィオレもまた道ならぬ道を走っていた。

 ただし、一人ではない。

 

「何ですかあれはどちら様ですかあなたはとりあえず降ろしてくださぁーいっ!」

「無理です」

 

 桜色の髪に、小型の弓矢。

 この寒空の下、軽装備にも程がある薄着でケヤキの巨木の下に座り込んでいた少女が大声で喚く。

 そう、シルフィスティアの視界を通じて見つけた少女は、フィオレが駆けつけた際、魔物に襲われていた。

 そこを助ければよかったのだが、巻き添えを出さずに倒すのは無理だと判断したフィオレは、少女を肩に担いで撤退していたのである。

 ただの動物型の魔物やその群れであれば、片付けるのも造作もないことだったのだが……

 少女の悲鳴と苦情を無視して、ちらと後ろを顧みる。

 積もった雪を蹴立て、林立する木々をなぎ倒して二人を追ってくるのは、白銀の鱗をまとう巨大なドラゴンだった。

 いつぞや倒した湖竜(レイクドラゴン)と見かけこそ違うが、何やら頭の痛くなる念話でのたまっていることは確かである。

 残念なことに湖竜(レイクドラゴン)よりも微弱なものであるため、少女が頭痛を訴えることもない代わり、フィオレには意味のある言葉として理解することもできない。

 ドラゴンの巨体では狭すぎる道を通っているために距離は稼いでいるが、このままではフィオレの体力が尽きる。

 せめて、どこか広い場所で仕掛けたいものだが……

 担いだ少女が喜色の声を上げたのは、そのときだった。

 

「あっ、ウッドロウ様!」

「どこですか?」

 

 少女が瞳を輝かせて見つめる方向には、確かにウッドロウ本人と並走するスタンがいる。

 迷うことなく、フィオレは茂みを割って二人の前に飛び出した。

 

「フィオレさん!?」

「二人とも、ちょうどいいところに」

 

 二人の前に姿を現すのと同時に、強引に担ぎ上げた少女を降ろす。

 

「ウッドロウ様! こんなところで会えるなんて欣喜雀躍の極みですぅ!」

「チェルシー!?」

「やっぱりこの子だったんですね。急を要していたので問答無用で連れてきてしまいましたが」

 

 人違いでないことにほっとして、すぐに表情を引き締めたフィオレは来た道を、そして今いる場所を見やった。

 先ほどまでフィオレが疾走していた道よりは広い。十分とはいえないが、いくらかマシだ。

 

「何があったんですか?」

「追いかけられています。お腹が空いているんでしょう」

 

 スタンの質問に適当に答えつつ、紫電の柄を握る。

 フィオレが睨む先を見て、二人もまた状況を悟っていた。

 

「あ、あれって……」

雪竜(スノードラゴン)か! こんな人里近くで現われるとは……!」

 

 なぎ倒される木々の悲鳴が徐々に近づいてくる。

 雪竜(スノードラゴン)がここまでやってくるのにまだ時間があると察したフィオレは、紫電の柄から手を離してスタンを見た。

 

「スタン。ディムロスを貸し……渡してください」

「え? でも……」

「すぐにお貸ししますから」

 

 貸してくれと言いそうになって、自分の立場を思い出す。今は彼にソーディアンを貸与している形なのだ。それを忘れてはいけない。

 おずおずと差し出されたディムロスの柄を持ち、フィオレはコアクリスタルに左の手をかざした。

 ──驚いたことに、フィオレが求めた第五音素(フィフスフォニム)は一瞬にして集まっている。

 きっと手甲の下のレンズは、朱色に染まっていることだろう。

 流石はソーディアン。内包されている晶力がハンパではない。

 

「炎帝に仕えし汝の吐息は、たぎる溶岩の灼熱を越え、かくて全てを滅ぼさん──サラマンド・フィアフルフレア!」

 

 一瞬にして展開した譜陣が太い足で爆走する雪竜(スノードラゴン)の真下に出現した。

 大地から吹き出した火炎がドラゴンを取り巻き、白銀の鱗が一瞬にして真紅に染め上げられる。

 普通だったら、木々に炎が燃え移って森林火災を誘発させてしまうところ、幸いここは雪国。積もった雪が即座に炎を消している。

 

『な⁉︎』

「こ、これは……!」

「ウッドロウ様、いきなり火が!」

「うわー! ディムロス、お前そんなこともできるのか?」

『あれは「はい、どうぞ」

 

 何かを言いかけたディムロスの声を黙殺して、フィオレは再びスタンにディムロスを手渡した。

 突如炎に包まれたドラゴンは悲鳴を上げながら、のた打ち回るようにして身体を冷やしている。

 

「さて、それじゃあその子を連れて避難してください。どうにかしてみますので」

 

 返事も待たず、フィオレは今度こそ紫電の柄を握って突貫した。

 隙だらけの雪竜(スノードラゴン)に接敵し、鱗の隙間から内側の柔らかな組織に刃をこじ入れる。

 無論、相手が大人しくそれを受けてくれたわけではない。

 不意に感じた火傷以外の痛みからフィオレの存在を感知し、爪を振りかざしてくるものの。その大振りな挙動から軌道を読んだフィオレはすんなり回避している。

 

「スタン君、チェルシーを連れて離れていてくれ。私は彼女の援護をしよう」

「あ、それなら俺も……」

 

 弓を取り出し矢を番えるウッドロウに対し、スタンもまたディムロスを構える。

 しかし、彼は首を振って前線を指した。

 

「下手に近づくのは危険だ。最も、彼女と同じことができるなら話は別だが……」

 

 順調に攻撃を仕掛けるフィオレに対して、起き上がった雪竜(スノードラゴン)は周囲を飛び回る蝿を叩き落すような勢いで暴れている。

 しかし、まとわりつくように戦うフィオレには一切届いていない。

 一見、ただ軽やかに戦うフィオレではあったが。足を取られがちなはずの雪上を、まるで普通の地面であるかのように駆けるあの動きがどれほどのものであるのか。それがわからないスタンではなかった。

 

『スタン、後衛で晶術を使え! 私はただの剣ではないのだぞ』

「じゃあ、フィオレさんが使ってたのを……」

『あれは無理だ。今のお前が使える晶術を使うぞ』

 

 粛々と引き下がったスタンではあったが、ディムロスの助言を聞いて晶術の詠唱を始めている。

 

「ウッドロウ様、私もお手伝いします!」

「チェルシーの腕は確かだが、その小さな弓では鱗を貫けない」

「じゃあ鱗じゃないところを狙います。えい!」

 

 弓匠の孫である彼女は、確かにその名に恥じない射を披露した。

 ウッドロウが止める間もなく、彼女は携えていた矢を見事、雪竜(スノードラゴン)の片目に命中させていたのである。

 

「ガアアアッ!」

 

 当然、雪竜(スノードラゴン)は大いに怒り狂った。

 咆哮を重ねながらがむしゃらに腕を、尻尾を、長い首を振り回し、太い足で地団駄を踏む。

 攻撃のパターンが読めなくなったフィオレが躊躇した途端、持ち前の嗅覚で雪竜(スノードラゴン)はフィオレに飛びかかった。

 

「っとぉ!」

 

 まるで熱烈な抱擁を求めるかのように、その巨体を生かした倒れこみを、飛び込み様前転をするように回避する。そこへ、スタンの放った火球が雪竜の頭部へ命中した。

 実に素晴らしい追い討ちなのだが、当の本人はどこかつまらなさそうに手にした剣を見やっている。

 

「なあディムロス。なんかショボいぞ」

『ショボい言うな! あれさえ見ていなければ、お前にとっては十分驚天動地だろう!』

「きょうてん……?」

『ひどく驚く、という意味だ!』

 

 身体があれば、おそらく顔を真っ赤にして言い募るだろうディムロスとスタンの漫才はさておいて。くったりしている尻尾を伝い雪竜(スノードラゴン)の背中を駆け上がる。

 ウッドロウが弓で気を引いているうちに、フィオレは首の辺りまで駆け上がると紫電を逆手に持ち、力いっぱい突き刺した。

 そしてそのまま、肉の繊維に合わせて引き裂くように、飛び降りる。

 

「……!」

 

 喉を裂かれたがために、断末魔さえもない。首が千切れかけた雪竜は、無言で大地に倒れこんだ。

 残っていた雪が血に染まるよりも前に、巨体が発光する。そして、湖竜(レイクドラゴン)を撃破した際のように、大量のレンズが転がった。

 雪と泥にまみれた己と、返り血がこびりつく紫電を見やり。フィオレは大きくため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 



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第三十三夜——戦い疲れて、日が暮れて

 トーンの山小屋近辺。


 

 

 

 

 

 チェルシーを発見し、ついでのように雪竜(スノードラゴン)を倒した一行は日暮れが近づいているということで、帰路についていた。

 

「さっきはすみませんでした」

「問答無用で担ぎ上げるなんて、あなたは人攫いですか! ……って言いたいところですけど、助けてくださったので帳消しです。ありがとうございました」

 

 そこで、見慣れないフィオレとスタンが誰なのかをチェルシーが問う。

 ウッドロウに簡単な経緯が説明され、合わせるように簡単な自己紹介が始まった。

 

「スタン・エルロンです。よろしく」

「フィオレと申します。以後お見知りおきを」

「弓匠アルバの孫、チェルシー・トーンと申します。僭越ながら今後ともよろしくお願いします」

 

 こうしていると多少大人びた少女なのだが、ウッドロウと接するその姿は単なるませたガキにしか見えないから不思議だ。

 

「フィオレさん、『せんえつ』ってどういう意味か知ってます?」

「……でしゃばってごめんなさい、という意味合いで使う言葉です」

 

 実年齢こそ知らないが、明らかに少女よりは長く生きていそうな青年が尋ねてくるから、余計にわけがわからなくなるわけだが。

 一般常識とは異なり、生活することに直接関係のない知識──いわゆる教養は、個人の生まれによって必要かそうでないかが大きく異なる。

 例えばリオンは、オベロン社御曹司という立場から幼少より、英才教育を受けたと聞いた。だから現在では、年齢にこそ似合わないが、どこに出しても恥ずかしくない品性や教養を身につけている。

 飛行竜の中で聞いたスタンの出身地は確か、辺境の村であったはずだ。ならば教養どころか読み書きすらも、それほど必要としないのが常であろう。

 そうやって考えていくと、この少女もどこかでそれなりの教育を受けたということになるが……

 いずれにしても自分には関係のないことだ。

 フィオレは考えることをやめた。

 

「ときにフィオレ君。先ほど君が使ったのは一体……」

「手品です。奇術でもいいですよ」

 

 ウッドロウによる質問をさらりとかわし、雪道を歩きながらも思索にふける。

 スタンと共にディムロスをダリルシェイドへ、王城へ届けるのは決定事項だ。スタンは要らないかもしれないが、ディムロスのマスターということでセットにしておこう。

 むしろ、フィオレが考えているのはその後のことだった。

 

『……おい、フィオレとかいったな』

 

 ソーディアンの護送という役目こそ果たしているが、飛行竜に搭乗していた船員はもれなく見殺しにしているし、飛行竜がどうなったかもわからない。

 その責任を取って何をやらされることか。考えるだに面倒くさい。

 ただ──昔の軍師は言った。『最大の危機こそ、最大の好機である』と。

 

『おい』

 

 つまりこの失態も、見方を変えれば好機にもなる。

 今でこそ客員剣士見習いなどやっているが、フィオレ自身が志願してこの職に就いた覚えはない。

 もとを正せばリオンとのいさかいにおける責任を取るために、半ば成り行きでこの仕事をしていたのだ。

 ならば、この機会に──

 

『聞こえているのだろう。返事くらいしたらどうだ、小娘!』

「おい、ディムロス……」

『考え事の最中に喚かないでいただけますかね』

 

 うんざりとした、という意思表示を隠しもせずに、視線をスタンの腰の辺りに寄せる。

 刀身の根元に埋め込まれたコアクリスタルは、朱色にピカピカ煌いていた。

 

『今し方使った晶術は何だ。あんなもの、私が生きていた時代にも見たことがないぞ!』

「いや、そんなこと俺に言われても……」

『だから、手品だとご説明申し上げたではありませんか。奇術でもかまいませんが』

『言い方を変えただけだろうが! そんなもので私を煙に巻けると思うな』

「えーと「ウッドロウ様、スタンさんは先ほどから何を呟いていらっしゃるのですか?」

 

 前方をウッドロウと共に歩む少女が、不思議そうに首を傾げている。

 これはまずいと、フィオレはスタンのスカーフをくいくい、と引いた。

 

「スタン、声をひそめてください。二人に頭が可哀想な人だと思われますから」

「うっ」

 

 流石に精神弱者扱いは嫌なのか、一時的にスタンが黙り込む。

 しかし、ディムロスの言葉は止まらない。

 

『チャネリングでは他者に聞こえぬか……先ほどの晶術といい、この現象といい。貴様、ただものではないな』

『いやあ、それほどでも』

『褒めているわけではない!』

「なあディムロス、お前さっきから誰に怒鳴ってるんだよ?」

 

 先行く二人には聞こえないよう、いくらか声を潜めたスタンがディムロスに語りかける。

 それでようやく、彼はフィオレへの追及の手を緩めた。

 

『この女に決まっているだろう』

「フィオレさんにか? どう見ても話してるようには見えないんだけど……」

『先ほどから何らかの手段を使って私と交信をしているのだ。他者には聞き取れぬ高度な技術を使ってな』

「そ、そうなんですか?」

「さぁて、どうでしょうね」

 

 少なくとも、フィオレは念話に関して高度な技術などとは思っていない。

 あれから常備するようになった指環のおかげで、フィオレ自身にはあまり負担がかからなくなった──難しくなくなったのは確かだが。

 

「あの、フィオレさん」

 

 まだ何かあるのかと横目でスタンを見やり、すぐにフィオレは彼と視線を合わせた。

 そうするべきだと思う程度には、真剣な眼差しがそこにあったからだ。

 

「……何か?」

「遅くなっちゃいましたけど、助けてくれてありがとうございました。ディムロスから聞いたんです。墜落してから、何があったのかを」

 

 なんだそんなことか。

 何を言い出すのかと内心で勘ぐっていたのが、あっさりと霧散した。

 

「困った時はお互い様です。私が困っていたら、今度助けてくださいね」

 

 暮れなずむ夕日が、ゆっくりと山の向こうへ消えていく。

 その様を眺めながら、フィオレはさらりと彼に告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 湯煙の篭もる浴室。

 沸かしたての熱い湯に、井戸から汲み上げた冷水を差して適度な温度になったところで、フィオレは全身を湯船に浸けた。

 無論、湯船に入る前に身体の汚れは洗い落としてある。

 冷え切った体に染みとおる暖かさを噛み締めつつも、フィオレはため息をついた。

 ──比較的近距離で遭難だか迷子になっていたチェルシーをどうにか見つけ、戻ってきた時にはすっかり日が暮れている。

 祖父と孫の漫才じみた再会の後、ジェノスを経由してセインガルドのダリルシェイドへ行くつもりだと告げたフィオレたちに、アルバは言った。

 

「しかし、今日はもう遅いからの。一晩泊まって、出発は明日にしたらどうじゃ?」

 

 その言葉は、フィオレたちと共にジェノスを経由し、ファンダリアの国許──間違いなくハイデルベルグだろう。

 家族の下へ戻ると言い出したウッドロウにも向けられたから、さあ大変。

 

「おじいちゃんもたまにはいいこと言うんですね! そうしましょうウッドロウ様、スタンさんたちもお疲れでしょうし!」

 

 早いところディムロスをダリルシェイドに届けてしまいたかったが、実際の話、夜中に雪山を出歩くのは危険だ。ということで、その言葉に甘えることになった。

 けしてチェルシーの目が、否を唱えることを許さなかったわけではない。

 かつての知り合いのブラックロリータほど腹黒くはないだろう……と、思う。

 ウッドロウに向けるその眼は、間違いなく恋する乙女のものだ。

 微妙に恋に恋してる風情もあるが、少なくとも資産目当てという裏があるようには見えない。

 そして、チェルシーの言葉があながち間違っていなかったわけではなかった。

 仮にもドラゴンと一戦交えたのだ。疲れないほうがどうかしている。

 そんなチェルシーの好意もあって、風呂を貸してもらった。

 とはいえど、自分で金を払っての宿泊ならともかく、好意で泊めてもらった民家の風呂に長居をするつもりはない。

 防水布製の手甲をつけて眼帯を巻きつける。

 湯船から上がり、洗い場で付着した水滴を拭って脱衣所へと出ると。

 

「あ! もう上がっちゃったんですか?」

 

 そこにはすっぽんぽんのチェルシーが立っていた。

 天使の羽を模した髪飾りを外した少女は、残念そうに唇を尖らせる。

 

「いいお湯でしたよ」

「それはよかったんですけどぉ……ちょっと残念です」

 

 あんな狭い浴槽に、二人は入れないだろう。

 なんならウッドロウの入浴中に乱入でもすればいいのにと思っていると、チェルシーは急にフィオレをまじまじと見つめてきた。

 ちなみにフィオレは、胸部に手早くサラシを巻いている。

 

「あのぉ、どうしてそんな風にぐるぐる巻いちゃうんですか?」

「邪魔だからです」

 

 豊満の部類に入る胸を完全にサラシで固定する。

 服を着込んでしまえば、動くだけで揺れるものはもう揺れない。

 

「チェルシーも、出るところが出てきたら同じことはしないといけないかもしれませんよ」

「えっ!? ど、どうしてですか?」

「ここが不必要なまでに出っ張っていると、弓を引くのに邪魔になりますから。女性のみで構成されたとある部族は、邪魔だからという理由で片方の乳房を切除してしまう風習まであったそうですよ」

「ええ~!」

 

 驚きに固まる少女を置き去りに、フィオレは脱衣所を後にした。

 事前に約束していた夕餉の手伝いをし、数刻後スタンと共にご相伴に預かることにする。

 和やかな雰囲気の中、ふとアルバ老人が呟いた。

 

「しかし、雪竜(スノードラゴン)が現われるとはな……ここらも物騒なことになってきたものじゃの」

「ということは、あのドラゴンはこの周辺に棲んでいたわけではないのですか?」

「ファンダリアのどこそこに現れた、という噂を時折聞く程度じゃ。この辺りで見たことは一度もなかったのう」

 

 アルバ老人が言い出したのをいいことに、根掘り葉掘りと尋ねてみる。

 噂につき詳細はわからないものの、発生時期はあの湖竜(レイクドラゴン)との戦いよりも大分前だということがわかった。

 あの時よりも前だというと、フィオレがまだ神殿で記憶喪失のフリをしていた頃だろうか。

 あるいは──フィオレがこの世界に招かれた、その時か。

 

「風の噂によれば、セインガルドにも同じようなドラゴンが出現したと聞いたが、それは本当なのかい?」

「本当ですよ。もう、退治されましたけど」

 

 ウッドロウによる質問を、かなり省略した形で答える。

 事実ではないが、嘘でもない。

 この話に食いついてきたのは、スタンである。

 

「へえー。それってやっぱり、セインガルドの軍が?」

「ええ。そのドラゴンは湖に棲みつき、周辺集落を脅かしていたんですけどね。集落からの救援要請を経て、セインガルド軍が討伐しました」

「脅かしていたって、ドラゴンが集落を襲ったんですか? そんなことしたら、救援要請を出すより前に滅ぼされちゃいそうな気がするんですけど……」

 

 次に尋ねてきたのはチェルシーだ。

 確かに、フィオレの言い方ではそのように受け取れてしまうだろう。

 

「脅かしていたといっても、単に暴れたわけではないんですよ。雪竜(スノードラゴン)とは違ってそれなりに知能がありましてね」

「知能? 頭がよかったんですか?」

「はい。そのドラゴン……仮称として湖竜(レイクドラゴン)と呼ばれていますが、皆殺しにされたくなかったら、乙女を寄越せと要求したんです」

「ドラゴンがしゃべったんですか!?」

 

 これに驚いたのが、スタンだった。

 つい最近意志を持つ剣と知り合った彼では、誤解をしかねない。

 

「ドラゴンというひとつの種族でも、色々ありますから。人の言葉を解するほど長生きしたんでしょうね」

「乙女を差し出せって……ドラゴンが女の子要求して、どうするんですか」

「美味しく頂いたんでしょう。そもそも、湖の周辺で遊んでいた女の子たちがいなくなったのを漁師さんたちが捜していたところ、いきなりドラゴンが現れて遺体を船の上に放り出していったそうですから」

「遺体? 捕食されたのではないのかい?」

「ひとつは、女の子の骨。もうひとつは、傷ひとつない女の子の水死体だったそうです」

 

 どうして同じ女の子なのに違うのか、イマイチわかっていないスタンが首を傾げる。

 しかし他の面々には通じたらしく、チェルシーなどは大げさな過剰反応を示していた。

 

「ええー! それじゃあもしも、あのドラゴンに棲みつかれていたら私、生贄になっていたかもしれないんですかぁ!?」

「さあ……あのドラゴンにそんな知性があれば、暴れてわめいて私たちを追いかけ回したりしなかったと思いますけど」

 

 真面目に答えれば、その可能性は零だ。

 理由は先ほど言ったとおり、あのドラゴンに人語を解するほどの知性はなかっただろうから、である。

 

「本当に賢かったら、走ったりしないで空から追跡するでしょう。真上からかじりつかれたら、人間には逃げられません」

「た、確かに……」

 

 なんにせよ、スノードラゴンを倒した今は単なる推測でしかない。

 もはやそんな脅威は存在しないことを主張づけるように、フィオレは話題を変えた。

 和やかな時が、過ぎていく。

 

「ところで、ここからジェノスまでの行程ですが……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




『ドラゴン退治』
 普通に考えればとんでもない話なんですが、誰も突っ込もうとしない理由。

 チェルシー:ウッドロウの戦いっぷりしか見ていないため、ウッドロウを褒め称えたり助けられたこと自体についてはお礼をいうものの、スルー。
 ウッドロウ:オリキャラの過去の活躍について大まかに聞いているため、これほどのものかと驚いてはいるものの、あえて問い質すようなことはしない。
 スタン:そもそもドラゴンの強さというものをよく知らないため、物語で聞くドラゴンの凄さと実際のドラゴンの有様にギャップという勘違いを覚える始末。
 アルバ:弓匠と呼ばれるほどの人物につき、実は弓矢で楽にドラゴンを仕留めるほどの達人なので、それほどスゴいことだと思ってない。(多分)
 そして作中誰も気づいていませんが。今回出てきたドラゴンは幼竜、ドラゴンパピーなので喋ったり飛んだりはできない。そもそも知能がまだ育っていなかった。以上。異論は認めない(笑)

 チェルシーが風呂場に突撃してきたのは、オリキャラの眼帯の下がどうなっているのか。見てきてくれとウッドロウに頼まれたため。


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第三十四夜——仕切りなおして、新たなる旅立ち

 トーンの山小屋~ファンダリアの山道~ジェノス。
 チェルシー及びウッドロウとはここでお別れ。
 入れ替わるように。

 レンズを探して東奔西走、ガルドに目がない金の亡者。
 その本意を内に秘め、ソーディアン・アトワイトと共に我が道を突き進む! 
「鬼のルーティ」「強欲の魔女」ルーティ・カトレット! 
 そんな彼女の相棒をつとめるは、料理が得意で暑いの苦手、コドモが多いデスティニー女性陣のお色気担当(……多分)。
 何もかもが新鮮で楽しい、いつもにこにこ大酒豪。
 どこぞのエセ記憶障害とはわけが違う、本物の記憶喪失、マリー・エージェント! 
 二人+一本、出番でーす! 


 

 

 

 

 

 翌朝。

 一宿一飯の恩ということで、安直に現金を渡そうとして普通に断られ。代わりに、薪割りやら水汲みやら、貸与してもらった寝室や風呂の掃除やら労働をこなしているうちに、昼近くになってしまった頃。

 ようやくスタンが起きてきたがために、ウッドロウを含む一同はトーン邸を後にした。

 

「ウッドロウ様。きっとまた、ここへお越しくださいね」

 

 フィオレたちの出発に合わせてジェノスへ向かうウッドロウに、チェルシーはしばらく拗ねてみせている。

 しかし、いつまでもそれでは子供っぽいとでも思ったのか、気を取り直したように一礼した。

 

「チェルシーは、一日千秋の思いでお待ち申し上げております」

「いちじつ……?」

『非常に待ち遠しい、という意味だ。一日が千回分の秋のように思える、という意でもある』

「あー、その気持ちはちょっとわかります」

 

 スタンが『一日千秋』という単語に首を傾げ、ディムロスがしぶしぶながらも翻訳している。

 でかい態度に似合わず根は親切なのか、あるいはおせっかい焼きなのかと思いつつも、フィオレはチェルシーの言葉に賛同していた。

 

「好きな人と共に過ごしている時間ばかりがあっという間に過ぎて、それ以外は途端にゆっくりと感じるから、不思議ですよね」

「やだ、もう、フィオレさんたらぁ。そんなにはっきり……」

「では行こうか」

 

 一応本心を隠しているつもりなのか。チェルシーは両手を頬に当てて恥じらうものの、ウッドロウはさらりと流すばかりだ。

 彼女の祖父にして自分の師匠が目の前にいるのでは、まともに相手をすることも、無碍に扱うこともできないのだろう。

 

「お世話になりました」

「気をつけての」

 

 二人に見送られ、一路ジェノスへと向かう。

 途中これといった障害もなく、三人は無事にジェノスの門を潜り抜けた。

 過去一度だけだが、フィオレはこの街を訪れたことがある。

 それを知ってか知らずか、先頭を歩いていたウッドロウはくるりと振り返り、街並みを指した。

 

「ここがジェノスの街だ。セインガルドへ行くなら、北の門を抜けるといい」

「色々と、お世話になりました」

 

 確かに彼の先導がなければ、ほぼ一本道だったとはいえ、手間取ったことがあったかもしれない。

 フィオレも、同様に頭を下げる。

 それを見て、ウッドロウは雪焼けした顔を淡くほころばせた。

 

「何、気にすることはない。旅の無事を祈っているよ」

「はい。ウッドロウさんも、お元気で」

 

 片手を挙げて、ウッドロウが背を向ける。

 そのまま振り返ることもなく、彼は南の門の方向へ向かって去っていった。

 その時。

 

『行ったな』

 

 不意にディムロスが、ぼそりと呟く。

 その言葉に、スタンはひょい、とディムロスを手に取った。

 その顔は、どこか怒っているようにも見える。

 

「なんで一言も話さなかったんだよ」

 

 ──そう。道中、スタンは幾度かディムロスに話しかけている。

 しかし彼は何を思ってか、一言たりとも返しはしなかったのだ。

 あまりにフィオレが彼の追及をそらし続けるため、拗ねてスタンに八つ当たりをした──わけではない。

 そもそも彼によるフィオレへの追求は、はぐらかし続けたことにつき昨日のうちから諦めさせている。

 

『ウッドロウという男、信用ならんぞ』

「なんでだよ。いい人じゃないか」

『聞け! あいつは我が存在に気付いていた。只者ではない』

『確かに、ただの人ではありませんけれどね』

 

 なんせ、ファンダリア王族唯一の王太子である。民間人とはあまりにも違う立ち居振る舞いにディムロスがそう思うのも、無理はなかった。

 ただ。

 

『私にとっては貴様も、只者ではないのだがな』

 

 フィオレをも疑わしく思っているために、彼はなかなかそれに気付きはしないだろうが。

 そういえば、ディムロスはフィオレが客員剣士見習いであることを知らない。

 あれだけわかりやすく事情を説明すれば自ずと察するだろうと思っていたのに、チャネリングによる驚愕のために聞いていなかったのだろうか。

 

「何にしたって、あの人がいい人だってことは確かだよ」

 

 現在この場にいない人間をいぶかしんだところで、不毛だということはわかっていたのだろう。以降、ディムロスがウッドロウについて何か言うことはなかった。

 それはさておき、考えなければならないのはこれからのことだ。

 まずは自分の生存報告と、ディムロス確保の報告を済ませてこなければ。

 

「スタン。私はちょっと用事があるので別行動を取りたいと思います。観光を兼ねてくださっても構わないので、本日の宿を確保しておいてください。隣接している酒場で合流しましょう」

「え? このまま北の門へ行かないんですか?」

「はい。トーンさんのお宅をもう少し早くに出られたのならこのままハーメンツの村まで頑張るところなのですが、もうあまり日が高くないので」

 

 セインガルド領に入ってしまえば、多少夜中に移動したところで危険はない。

 しかし、これからジェノスを出て万が一、セインガルドに入る前に日が落ちたら、任務完遂どころかまた命が危うくなる。これ以上の面倒は、正直避けたかった。

 遠回しにスタンのせいだと言い放ち、宿代を持たせてディムロスもろとも放流する。

 もしもフィオレに不信感を抱くディムロスがスタンに逃亡を命じたところで無駄だ。通行証を持たないスタンでは、この街から出ることはできない。

 ……少なくとも、正攻法では。

 その足でセインガルド側の詰め所に向かい、客員剣士の証たるループタイを見せて伝書鳩の貸与を申し出る。

 幸い貸してもらえることにはなったのだが、検閲が当たり前だと聞かされて、その内容に苦心した。

 何故なら、生存報告だけならまだしも、こんなところで迂闊にソーディアンの名を出すことははばかられたからである。

 極秘任務と言い張って検閲をパスすることも考えたが、もともと客員剣士という特別職は平の兵士にとって印象が良くない。こんなところでいさかいを起こすのも気が引ける。

 悩んだ挙句に、フィオレはこんな一文をひねり出した。

 

『リオンたちへ。現在任務続行中です。もう二、三日で手土産持って戻ると思いますので、捜索隊は不要ですよ』

 

 文末にフルネームを入れて、ダリルシェイドまで送ってもらう。これならば、事情を知る人々には十分だろう。

 作り笑顔で詰め所を去り、道具屋を探して消耗品を買い足す。

 自分では使わずとも、怪我をしやすい同行者がいるだけでいつのまにか使ってしまうのだから、その場の勢いとは恐ろしい。

 あまり時間をかけたつもりはなかったが、すべて終わって外へ出るとすでに日が傾いていた。

 スタンを待たせてしまったかと、急いで酒場へ向かう──が。

 店内に入りくるりと周りを見回しても、金髪の青年は影も形も見当たらなかった。

 

「……?」

 

 不思議に思いながらも、奥の空いている四人掛けのテーブルを陣取る。

 とりあえず暖まろうとジェノスの地酒を頼んだ。しかし注文の酒が届いても、彼は現われない。

 もしや迷子にでもなっているのかと、フィオレは風の守護者に呼びかけた。

 

『シルフィスティア。あなたの視界を貸してください』

『はいよー』

 

 緩やかに目蓋を閉ざした後に、真上から見たジェノスの風景が映る。

 どこもかしこも雪の敷き詰められた街の中。

 どこを視ても彼がいないことを知り、フィオレが青くなったのはそれからまもなくのことだった。

 もしや本当に、逃亡したのだろうか。

 しかし、どこに、どうやって? 

 あの性格からして、通行証を持つ観光客から強奪したなどと考えたくはないのだが……

 そのときのこと。

 

『ねえ、あのツンツン頭の男の子を捜してるの?』

 

 不意に話しかけられ、フィオレはびくりと身体を強張らせた。

 普段フィオレのすることに関して滅多に干渉してこない守護者──シルフィスティアに声をかけられたのだと、気づく。

 

『……そう、ですが』

『じゃあ、この街の周辺も見てみようか。フィオレたちが入ってきたあの門なら、出入りは自由だったでしょ?』

 

 そういえば、先ほどからぐるぐると街中だけを見回っていた。

 理由は思いつかないが、何らかの事情で外へ出たのかもしれない。

 シルフィスティアに感謝を告げて、フィオレは捜索範囲を広げた。

 これは風の視界を見慣れているフィオレにとっても負担の大きな作業だったが、単身街の外へ飛び出すよりも遥かに効率がいい。

 

『無理しないで、ゆっくり視野を広げていけばいいよ。あんまり急激に視界を広げると、頭が痛くなるでしょ?』

『確かにその通りですが、もし逃亡していたら早急に追いかけなければ……』

 

 昼間に通ってきた道を逆戻りするように、視界を移動させていく。

 何の変哲もない道が続いていく中で、突如シルフィスティアが声を上げた。

 

『あ! そこの右手、何かあるよ!』

 

 シルフィスティアの意志が働き、フィオレの意思に反して視界が移動する。

 木々に隠れてわかりにくいものの、確かに行き止まりだと思っていた道の先には洞穴のような空洞がぽっかりと覗いていた。

 周囲の地面をよくよく見てみれば、足跡が確認できる。

 ともかく一度、視野を広げようと真上から見下ろせば、すぐ近くには人の気配も感じられない廃墟──遺跡じみた建物が建っている。

 視界の片隅でうろうろしているのはセインガルドから派遣された兵士だろうか、巡回を行っているようだった。

 ただ常駐はしていなかったようで、彼らはすぐに遺跡から出てきた仲間と合流し、ジェノスの方角へ立ち去っていく。

 

『……ねえフィオレ、思ったんだけどさ』

『何ですか?』

『フランとの契約は済ませたよね? それならあの、ディムロスって人間の人格が宿ったコアクリスタルの波動を追いかけることはできると思うよ。込められた晶力はフランブレイブに属するものだし』

 

 ……そういうことはもっと早く思いついてほしかった。

 一端シルフィスティアの視界を外して、フランブレイブを呼ぶ。

 契約時に渋るほど瑣末時に呼ばれることを嫌がっていたため、気は進まないが状況が状況だ。

 

『フランブレイブ。あなたの力が大量に込められたレンズの足跡を辿ってほしいのですが』

『……わかった』

 

 シルフィスティアとは違い、朗らかな了承こそ得られなかったものの。フランブレイブの仕事は早かった。

 ただちにシルフィスティアと視界を連動させ、フランブレイブによって可視状態になったコアクリスタルの足跡を追う。

 ゆらゆらとした曖昧な線は、確かにシルフィスティアによって発見した洞穴に入っていった。

 そのまま追いかけようとして、フランブレイブに止められる。

 

『コアクリスタルが野外に出た。そのまま追いかけるよりは視野を広げた方がたやすく発見できる』

 

 忠告に従い、再び上空から周囲を観察する。

 果たして、先ほど見かけた遺跡の入り口から見慣れた金髪のツンツン頭が見受けられた。

 ただし。彼一人だけではない。

 

(……んん?)

 

 洞穴へと続く足跡の種類からして一人でないことは想像していたが、なぜか彼らは三人連れだった。

 一人は、小麦色の肌をした大柄な女性である。

 背中と腰に大小の剣を提げており、明るい色の蓬髪を馬の尻尾のように束ねていた。雪国に見合わない、妙に露出のある格好が特徴的だ。

 そしてもう一人、露出ならばこちらも負けてはいない。

 短い黒髪に、どちらかというと挑発的な格好をした少女である。

 チェルシーといい彼女といい、若いとあまり寒さも気にならないのだろうか、同じように腹を出していた。

 武装といえば、腰に提げた小剣が一振り。

 何やらスタンに突っかかっているようだが、対応するスタンの様子からして気心知れた知り合いには見えない。

 三人ともジェノスの方角へ歩いていくところを見ると、スタンの逃亡を手伝ったわけでも、そもそもスタンが逃亡したわけでもなさそうだが……

 ともあれ、これでフランブレイブの力を借りる必要はなくなった。

 

『ありがとうございました、フランブレイブ。今後ともよろしくお願いします』

『……』

 

 ふん、という文句とも呼気とも取れそうな音を残して、フランブレイブの気配はなくなった。

 

『どうする? 会話も聞きたい?』

『いえ、このまま監視をお願いします』

 

 彼らの会話を聞くことは、今まで何をしていたのか推測する材料になる。しかし、聞いたことによってどこかでボロを出し、怪しまれても面倒だ。

 とりあえずこのまま逃亡しないかを観察しようとして、より近くに視界を移す。

 ようやく彼ら一人一人の顔を判別できるような距離になって、フィオレは不意に鼓動が早まるのを感じた。

 スタンの顔を見たから、ではない。

 黒髪の少女の、気の強そうな横顔が、上司兼教え子の顔と被ったのだ。

 よくよく見てみれば、特徴といい顔立ちといい、似通るところはかなりある。もっとも、肉眼なら怪しまれる距離でまじまじと観察しなければ、そうは思わないだろうが……

 そうこうしているうちに、三人は行きとは違う道のりを経てジェノスの門へたどり着いた。──セインガルド寄りの。

 

『え!? 通行証なんか必要なの!?』

『はあ? あんた何言ってんの』

 

 表情からしてそんな会話がかわされたことが予想される。

 とにかく彼が街の中へ戻ってきたことに確認して、フィオレはシルフィスティアの視界を切り離した。

 

『助かりました。ありがとう』

『ん! またね~』

 

 通常の視界に戻り、フィオレは心から安堵のため息を洩らした。

 先ほど運ばれてきた壷の中の地酒を、ついてきた柄杓ですくって飲む。

 そこへ。

 

「あ~、寒い寒い。どこが空いているかしら~?」

「あ、そうだ。俺待ち合わせしてるんだよ。えーっと……」

「待ち合わせ? あんた一人旅じゃなかったの?」

 

 複数の足音、男女のしゃべる声。

 早口の少女と話す青年の声に聴き覚えがあったフィオレは、ちらりと出入り口を見やった。

 そこで店内を見回していたスタンに発見される。

 

「遅くなってすいません。ちょっと色々あって……」

「そですね、確かに遅かったですね。ナンパしてきたんですか?」

 

 何食わぬ顔でからかえば、彼は紅潮し、黒髪の少女が即座に反発してきた。

 

「違うわよ! 誰がこんなボーッとした男に引っかかるっていうの?」

「それもそうですね」

 

 とにかく立ち話もなんだと、三人を招き寄せる。

 注文を取りに来たウェイトレスに空のグラスを頼み、フィオレは立ち上がった。

 

「初めまして、フィオレと申します。お二方は?」

「……ルーティよ。こっちはマリー。見た目じゃわかりにくいと思うけど、レンズハンターをしているわ」

 

 レンズハンター。

 オベロン社がレンズを買い取っているため、レンズを集めて売却し生計を立てている人間の総称だが、その実情は旅の何でも屋に近い。

 何故ならその昔、魔物を狩れば手に入るレンズと交換にガルドが手に入るため、レンズハンターが爆発的に増えたことがあるらしいのだ。

 レンズを定価で買い取っていたら、割にあわない。

 そう判断したオベロン社総帥殿は、レートを設定することでレンズの過剰供給を抑えたらしい。

 そのため、レンズだけで食べていくことが難しくなった彼らは何でも屋や遺跡荒らし、時には犯罪スレスレの所業を働いて生計を立てている、というのが現状なのだという。

 平たく言ってしまえば、犯罪者予備軍である可能性がかなり高い。

 現にフィオレは、そんなレンズハンター崩れを若き上司と共に捕縛したことがある。

 

「へえ、そうなんですか」

 

 ただ、顔色は変えない。

 彼女がまっとうなレンズハンターである可能性もまた否めないし、もし犯罪者であったとしても、基本的に現行犯でなければ捕縛はできない。

 それでも、そうでもなくても、極秘任務中にフィオレの身分を話す気にはなれなかったが。

 

「ところで、ナンパでないならどのような経緯で?」

「えっと、それがですね……」

 

 そんなことどうでもいいじゃない、と言いたげなルーティを制し、しばしスタンの説明に耳を傾ける。

 ひょんなことからマリーと知り合ったスタンは助けを求められ、ジェノスから少し離れた遺跡へと向かった。

 そして遺跡の罠にかかっていたルーティを救出し、そこへ現われた野盗らしき人間を撃退したところ、礼がしたいということで共に戻ってきたという。

 

(……野盗……?)

 

 顔にこそ出さなかったが、フィオレはここで激しい不安に駆られていた。

 スタンが遺跡にいたと思われる時間帯、フィオレは上空から遺跡を眺めていたのだが、野盗の姿など見ていない。

 遺跡から現れたのは、セインガルドから派遣されている兵士たちだけだ。

 しかし、まさか兵士たちを野盗と間違えるとは思えない。

 スタンとマリーが入ったと思われる、木々に隠れていた洞穴付近に人影はなかった。

 つまり、兵士たちの知らない抜け穴なのだろう。

 そこから出入りした可能性が、ないわけではないのだが……

 

「へえ、そんなことがあったんですか」

 

 兎にも角にも、ディムロスがスタンをそそのかして逃亡を企てなくてよかった。その一言に尽きる。

 店員が運んできたタンブラーを配り、フィオレは柄杓を取った。

 

「この寒い中、お疲れ様でした。お近づきの印に、一杯どうぞ」

 

 壷の中の地酒をタンブラーに注ぎ、勧める。

 フィオレが軽々とあおったのを見て、一同もタンブラーに口をつけた。しかし。

 

「うわっ」

「きっつーい……」

「うん、美味しいぞ♪」

 

 嬉々として飲み干したのはマリーのみ、他二人は咳き込み顔をしかめている。

 

「お口に合いませんでしたか?」

「フィオレさん、これ、クラクラするんですけど……」

「あたしパス。マリー、飲み差しでよければあげるわよ」

 

 無類の酒好きなのか、上機嫌のマリーにタンブラーを渡して、ふとルーティはフィオレの顔をまじまじと見つめた。

 

「何か?」

「気のせいかしら? あたし、あんたの顔を知ってるような気がするのよね」

「奇遇ですね。私も、あなたのお顔には見覚えがあります」

 

 ただし本人を見かけたわけではなく、知り合いに顔が似ているだけだが。

 しかし、こうして肉眼で観察すると、ますます似ているような気がする。

 けして顔の造りが同じというわけではないが、髪の色や質、瞳の色まで酷似していた。

 

「え、何? ひょっとして、どこかで会ったことある?」

「いいえ。知り合いに似てるな、と思っただけです」

 

 拍子抜けしたように、ルーティはなーんだ、と大仰に肩をすくめている。

 あの幼い上司と被るわけではないが、彼が絶対しないであろう仕草だけになかなか新鮮だった。

 

「えっと……スタンとは、どういう関係?」

「つい最近知り合いました。今は、ダリルシェイドまでの同行者同士です」

 

 恋人同士だという答えを予想していたのだろう、ルーティはまたもや拍子抜けしたらしい。

 明らかに気が抜けた様子で、軽く頬杖をついた。

 

「なぁんだ、それならそうと早く言ってよ。こっちは痴話喧嘩に巻き込まれるかも、って身構えてたんだからね」

「それは失礼しました」

 

 一区切りついたところで、地酒を再びあおる。

 自分のタンブラーになみなみ地酒を注いだフィオレは、明らかに物欲しげな顔で壷を見つめていたマリーに柄杓を渡した。

 

「ところで、二人ともダリルシェイドへは何しに行くの?」

「セインガルドの兵士になりたくて」

 

 スタンは即答するものの、フィオレはそれができない。何せこちらは客員剣士見習いであることを隠しているのだ。

 黙考して、フィオレは口を開いた。

 

「それは言えません。あなたも、レンズハンターならわかってくださいますよね?」

 

 その一言で、ルーティはフィオレが目論んだ通り秘密厳守の依頼を受けているとでも思ったのだろう。

 軽く頷いて、あっさりと納得してしまった。

 まあ、けして嘘ではないのだが。

 

「まあいいわ。ところでスタン、あんたのその剣見せてくれない?」

 

 ──危うくフィオレは、口に含んでいた地酒を盛大に吹き出すところだった。

 スタンは躊躇しているものの、ルーティは上目遣いになって「だめ?」と可愛らしく尋ねている。

 もしやこの少女、ソーディアンの存在と価値を知っているのでは……

 まさか持ち主を前にして堂々と強奪はしないだろうが、事実を知られるのは危険すぎる。

 

「えっと……」

「スタン、ダメです。きっぱり拒否してください」

 

 隣に座るスタンのわき腹をつついて、彼女らに聞こえない程度の声で警告する。

 かくしてスタンは顔をしかめて、躊躇し続けた。

 

「いや、これは……その……」

「じゃあいいわ」

 

 しかし、このままでは話が続かないとでも思ったのか。

 彼女はおもむろに、腰に提げていた曲刀を引き抜いた。

 そしてそれを、スタンの眼前に置く。

 

「この剣、持ってみて」

「これ?」

 

 スタンが持ったその剣を見て、フィオレは知らず眼を見張った。

 曲刀というほど刀身は反っておらず、大きさは小剣程度。

 細身で軽そうなその意匠は、ディムロスやシャルティエと酷似した代物である。

 そして彼らと同じように、刀身の根元に張り付いた球体は……

 

「しゃべっていいわよ、アトワイト」

『初めまして、スタンさん』

 

 ソーディアンたる、証だった。

 話しかけられたスタンは、ディムロスのことを反射的に忘れていたらしい。

 

「だ、誰だ!?」

 

 マリーが不思議そうな視線を送ることにも気づかず、辺りをきょろきょろと見回している。

 一方で、ルーティは確信がいったというように声をあげた。

 

「やっぱり! アトワイトの声が聞こえるのね!」

 

 やっぱり、というのは……彼は別行動中に晶術を用いて戦う、あるいは彼女らの前でディムロスと会話をしたということか。

 一方、一千年の時を経て戦友と再会したディムロスはというと。

 

『アトワイトなのか!?』

『その声は、ディムロス!?』

 

 今更ながら戦友との再会に気付いている。

 ソーディアンには視覚が搭載されていたはずなのだが、あまり機能していないようだ。それとも、ディムロスが寝起きにつきぼんやりしていただけか。

 その割には、アトワイトと名乗る女声も今気づいた、というような声を上げている。

 ということは、普段はあまり視覚はきちんと機能させていないのかもしれない。

 

「思った通りだわ! あんた、ソーディアン使いね!」

「どういうことなんだよ。説明しろよ、ディムロス」

 

 はしゃぐルーティはそっちのけで、スタンはディムロスに説明を求めている。

 その辺りはどうでもいいので適当に聞き流しながら、フィオレは今の状況を整理した。

 ソーディアン・ディムロスに続いて、ソーディアン・アトワイトまで現存していたということ。

 更にアトワイトはすでにマスターを定めていて、そのマスターは素性の知れないレンズハンターで……

 このルーティという少女が、ソーディアンの存在と価値について重々承知である可能性が濃厚になった、ということか。

 現存のソーディアンについて、公にはシャルティエとイクティノスのみが確認されている。

 シャルティエのマスターはリオンであり、イクティノスはファンダリアの王族が歴代マスターを務めているらしい。

 行方知れずなのはディムロスを除外してアトワイト、クレメンテ、ベルセリオスと聞いたから、彼女がアトワイトを所持しているのは把握されていないのだろう。

 となれば、国によって発見された場合マスターもろとも確保される危険性がある。

 しかし、こんな無防備で今までよく発見されなかったものだ。

 フィオレは内心で、少女の幸運に乾杯していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十五夜——旅は徒然、一期と一会

 ジェノス~ハーメンツ。
 ルーティとマリー、そしてアトワイトを加えて。
 短いながらも、楽しい楽しい「四人+二本」旅の、始まりです。


 

 

 

 

 

 

「ねえ、取り込み中で悪いんだけど……」

 

 ディムロスがスタンをマスターと定めた理由について、何か両者の了解に齟齬があったらしい。

 ジト目でディムロスを睨むスタンに、ルーティはなだめるかのように声をかけた。

 

「なんだよ!」

「あたしたちと手を組まない?」

 

 不意にそう切り出されて、スタンは「え?」と目を丸くしている。

 目的地を告げたにもかかわらず、そんな風に切り出され、フィオレは不快感を隠さず口出しした。

 

「先ほど、私たちはダリルシェイドに行く用事がある、とお話したはずですが」

「わかってるわよ。だけど、その後のこととかは別に予定ないでしょ? 旅は道連れ世は情け、って言うじゃない。マリーもそう思うでしょ?」

「確かにな。一人よりも二人、二人よりも四人。旅は大勢のほうが楽しいぞ」

 

 そんな、大量に酒が入っている人に言われても。

 この提案に対してなら、フィオレの心は決まっている。

 

「今は長期契約中ですので、私はご辞退申し上げます。スタン、あなたはどうしますか?」

 

 一応ここは、ディムロスとスタンが別々になることを想定して答えさせたほうがいいだろう。

 ソーディアンマスターだからといって即兵士になることができるわけではない。

 しかし。

 

「どうする? ディムロス」

 

 彼は何故か、ディムロスに意見を求めていた。

 当然のように、彼は困ったような返事を寄越している。

 

『どうすると言われてもな……』

 

 そこへ。柔らかだが、けして甘ったるくはない女声が聞こえた。

 

『ディムロスがいてくれれば、心強いと思うわ』

 

 ソーディアン・アトワイト……投影された人格の名は確か、アトワイト・エックス。

 天地戦争時代は女性ながら衛生兵長を担っていた人物で、当時地上軍最高幹部の一員だったラヴィル・クレメンテの主治医でもあったという。

 彼女のソーディアンチーム参入は高齢だったクレメンテの目付け役として認められたものであるらしく、唯一晶術での治癒や援護を可能とするらしい。

 そしてこれは俗説だが、地上軍中将だったディムロス・ティンバーとは恋仲であったという。

 それがソーディアンに人格を投射した当時なのか、あるいは激戦の最中に生まれたものなのかはわからないが、まあこれはどうでもいいだろう。

 本当の問題は、新たなソーディアン発見でも、新たなソーディアンマスター発見でもない。

 戦後、使い道がなくなったということで封印されたはずのソーディアンが意識を回復させ、ひとところに集まろうとしている。

 この現象こそ、何かの予兆ではと危惧するべきだ。

 ともあれ、ディムロスの消極的な肯定でスタンの心は決まったらしい。

 

「わかった、手を組もう。ただし、悪事に手を貸すつもりはないよ」

「あったりまえじゃない! 捕まるようなことを、あたしがするとでも思ってるの?」

 

 喜色満面のルーティだったが、スタンは疑わしげに彼女を見やるばかりだ。

 直後、彼はフィオレの顔色を伺うようにおずおずと尋ねた。

 

「……えっと、かまいませんよね?」

「ダリルシェイドでの私の用事が済めば、どうぞご随意に」

「ごず……?」

『好きにしろ、という意味だ。フィオレ、わかっていてスタンを混乱させるようなことを言うな』

「それは申し訳ありませんでした。少しでも彼の知識が増えればいい、と思ったまでですが」

『む。確かに、その通りだ……』

 

 答えて、ルーティの顔を見てから、しまった、と思う。

 後々のことを考えれば、聞こえないフリをしていたほうがよかったかもしれない。

 

「ちょっと! あんたもソーディアンの声が聞こえるの!?」

「ええ。まあ。一応」

 

 顎を落とさんばかりのルーティを見ないようにしながら、未だにスタンの持つアトワイトに挨拶をする。

 彼女は戸惑いながらも、周囲から寄せられる視線に気付いてコホン、と咳をした。

 

「ま、まあ、ダリルシェイドまでよろしくね、フィオレ。さて、そうと決まったらこれからのことなんだけど……」

 

 話を聞けば、彼女たちはハーメンツに用事があるらしい。

 ジェノスからダリルシェイドへ直接向かうにはそれなりの距離につき、道中補給や休憩を兼ねて寄ろうと思っていた村だった。

 

「通り道にあるんだし、寄ったってかまわないわよね?」

「はい。用事があるというのなら、休憩を兼ねて寄りましょう。ハーメンツで補給を済ませれば、それからの行程がぐっと楽になりますし」

「決まり! それじゃあ、あたしは今夜の宿をとってくるわ。フィオレは……」

 

 その前に、スタンに頼んだ部屋の確認をしておく。

 彼によれば、個室が取れなかったためツインの部屋を二つ、借りてきたらしい。

 

「じゃ、あたしたちの部屋を確保してこようかしら」

 

 そう言って、ルーティはアトワイトを回収した後に母屋である宿屋へと向かっていった。

 道中アトワイトとなんやかや話していたが、害はないだろう……多分。

 残されたマリーはというと、ジェノスの地酒「呉越同舟」を堪能している。

 

「と、ところでマリーさんはどうして、冒険の旅に出たんですか?」

 

 沈黙が苦手なのか、スタンがとってつけたように尋ねた。

 対して、マリーは軽く首をひねっている。否……傾げている。

 

「私か? 私は……思い出せないのだ」

 

 思い出せない。

 その一言に、フィオレは条件反射的に自分がそうだと言い張っている言い訳を思い出した。

 すなわち、それは、本物の。

 

「え?」

「覚えていないのだ。私には、ルーティと会ってからの記憶がすべてだ」

「それってば、記憶喪失ってヤツじゃあ……何か手がかりはないんですか?」

 

 重ねて尋ねられ、彼女は短剣を手に取った。

 シルフィスティアの視界を通じ、初めてマリーを見たときは腰の辺りに下げていた、あの短剣である。

 

「これが誰のもので、なぜ私が持っていたのかは知らない……だが気がつくと、私はこの剣を持っていた。唯一の手がかりなんだ」

 

 いつしか真剣な眼差しで短剣を見つめているマリーに罪悪感を覚えたのか、スタンは軽く頭を下げた。

 

「すみません、なんか変なこと聞いちゃったみたいで……」

「気にするな。記憶がないというのも、案外楽しいものだぞ。何しろ、見るもの聞くものすべてが新鮮なのだからな」

 

 しかしマリーは破顔しながらも、彼の心情を察してかフォローに回っている。

 そのまま談笑を続ける二人を眺めつつ、フィオレはマリーの言葉を反芻していた。

 確かに、一般常識を含む一切合財の情報がなければ見るもの聞くもの触れるもの、すべてがただ新鮮に感じられるだろう。

 その都度襲いかかってくる、不安をものともせずにいられれば。

 何も知らないという点に関しては、フィオレもまた記憶喪失と変わらなかった。

 今はともかく、あの瞬間は。

 マリーもまた、ルーティと出会い、今の自分があるからこそ、言えることなのではないかと思う。

 

「スタンも一度、なってみたらわかるぞ」

「いや、それは遠慮しておきます……」

「あはは、それが賢明だな」

 

 そこへ、ルーティがアトワイトを伴って戻ってきた。

 

「いかがでしたか?」

「ダメ、もう満室だからーって断られたわ。フィオレ、悪いけどスタンと相部屋になってくれない?」

 

 そんなルーティの申し出に、スタンは真っ赤になってあたふたしている。

 見ていて面白いが、放っておいても話は進まない。

 

「え、え、でも」

「スタン。あなたは自分の我侭で女の子に野宿させるつもりですか」

「いや、だったら俺が外で……」

「で、凍死するんですか?」

 

 そんな問答が二言三言続き、最終的にスタンはフィオレと相部屋で一夜を過ごすことを承知している。

「ただし」とフィオレは念押しをした。

 

「私に痴漢を働こうものなら、手足をもいで鼓膜破って目玉くりぬいて声帯切ったあと、丸刈りにして豚小屋で暮らしてもらいますんで」

「……それ、大昔のえっぐい処刑方法じゃない……」

 

 ──そして、何事もなく一夜が明けたわけだが。

 フィオレが起き上がり、軽く湯浴みをし、支度を整えても、スタンが眼を醒ますことはなかった。トーン宅でもそうだったが、どうやら彼はひどい低血圧であるらしい。

 あの時は無理やり起こさず自然に起きてくるのを待ったが、同行者がいる現在、今回はそうもいかない。

 さてどうやって起こしたものかと考えていると、扉が叩かれた。

 返事をして開けば、そこには準備を整えたルーティとマリーが立っている。

 

「おはようございます」

「なんだ、起きてるじゃない。なかなか来なかったけど、どうしたの?」

「……スタンが起きなくて」

 

 二人を通し、現場を見てもらう。

 女性二人が入室しても、スタンはいまだに夢の中だった。

 ひとしきりルーティが彼の名を叫ぶようにして呼ぶものの、まったく目覚める気配がない。

 マリーが呼んでもそれは同じで、ルーティは腹に据えかねている。

 

「あっきれた! あんた、寝起きが最低ね!」

「……へ、何……」

「いーから起きなさいって言ってるの!」

 

 耳元で喚くルーティの声も、あまり効果がないらしい。

 見かねたフィオレは、おもむろに窓を開くと積もっていた雪を一掴み取った。

 そして、寝ぼけ眼で怒鳴るルーティに生返事をしているスタンの首筋に、素早く押し付ける。

 

「……うひゃああっ!」

 

 これは効果があったらしく、彼は速やかに目を醒ました。

 

「おはようございます、スタン」

「あ、お、おはよございます……」

「おはよございます、じゃないわよ! さっさと支度なさいっ!」

「あれ、なんでルーティがここに……部屋は別だったよな」

 

 ──すったもんだの挙句。

 どうにか出発可能となった一同は、一路セインガルド側の門へと歩いていった。

 ここでフィオレが、正規の通行証でないループタイを三人に見せることをためらい、通行証を忘れたふりをする一場面もあったが……些細なことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからしばしして。

 一同は何事もなかったように、ハーメンツへとたどり着いていた。

 道中、フィオレと相部屋になったスタンをルーティが冷やかしたことから始まり、出身地の話になってスタンが田舎者認定を受けるなど、様々な事柄が発生している。

 その最中、ふとフィオレはハーメンツでの目的を尋ねた。

 

「時に、ハーメンツへはどんな用事で向かわれるのですか?」

「ちょっとね。とある遺跡で回収してきたブツを、依頼人に渡すの」

 

 ……とある遺跡というのは、彼女がスタンと知り合ったであろう、あの遺跡のことだろうか。

 あの遺跡を兵士が巡回していたことはかなり気になるのだが……現時点でどうにかできることではない。

 それよりも、ハーメンツでそんな好事家といえば、フィオレには一人しか心当たりがなかった。

 

「……それはもしや、ウォルトという人物ではありませんか」

「あら、当たり。もしかして、あいつの依頼とか請けたことある?」

「ありませんが、その筋では有名な方ですから」

 

 この頃、フィオレの意図的な受け答えにより、ルーティに旅の何でも屋か何かと思わせることに成功していた。

 とはいえど、けして嘘はついていない。

 それよりか、彼女がウォルトの依頼を請けていたとは……これは少々まずい。

 以前彼は、レンズハンターくずれを利用して国の管理する遺跡から奉納されていた宝を盗んだのではないか、という嫌疑がかかったことがある。

 その時は、自分はレンズハンターに珍しい骨董品を買わないか、と持ちかけられただけだと言い逃れたのだが、その際フィオレは上司と共に顔を見せてしまっている。

 故に、ルーティたちに同行して彼と顔を合わせれば、色々厄介なことになることが目に見えていた。

 

「それでは、いってらっしゃい。私は宿を取って待機しています」

「そう? じゃ、行ってくるわ。よろしく~」

 

 ひらひらと手を振る彼女たちの背中を見送り、きびすを返す。

 一軒しかない宿に入って部屋を取ろうとするも、予約が入っているのであと一部屋しか貸せないらしい。仕方なく、二人部屋だというその部屋の鍵をもらい、腰を落ち着ける。

 今頃商談を行っているであろう、彼女たちの様子を探ろうかとちらりと考えたが。正直面倒くさかったので放置する。

 寝台に寝転がり、眼帯を取った。

 久々に一人になって、浮かんできたのは守護者たちのことだった。

 飛行竜をむざむざ乗っ取られたのは業腹だが、あの出来事がなければソルブライトとの契約は不可能だった。

 仮に解雇されて世界中を旅したとしても、あのようなピンポイントな山奥など、そうそう立ち寄りはしないだろう。

 これで残すは、アーステッパー、ルナシェイドの二柱となった。

 かの二柱との契約が終われば、何かが変わる。彼らの願いとやらも、きっとわかるはずだ。

 しかし、彼らはどこに聖域を持っているのだろうか。

 シルフィスティアはセインガルド領、アクアリムスは海、フランブレイブはカルバレイスだったし、ソルブライトはファンダリア領だった。

 これら聖域の場所を考えるに、彼らもまたどこかの大陸ひとつを受け持ち、守護しているのかもしれない。

 残っている大陸といえば、フィッツガルドだ。この世界にはアクアヴェイル公国という国も存在するが、大陸ではない。それでも、島国の密集地域をひとつと定めて陣取っている可能性は大だ。

 ただ、フィッツガルドはともかくアクアヴェイル公国など、セインガルドに所属する身では絶対に訪問できない。彼の国とセインガルドは、ファンダリアとは違って国交断絶状態にあるのだ。

 もし、アーステッパーとの契約に成功し、残る守護者はルナシェイドとなった場合。客員剣士を辞してでもアクアヴェイル公国へと行くべきなのだろう。

 そうする義務があるだけ、フィオレは守護者たちの世話になっている。

 

 ──ここまで考えて、ふと気付く。

 

 そういえば、現在フィオレは客員剣士を辞めさせられてもおかしくない失態を犯していた。ならばそれにかこつけて、この際すっぱり辞めるのも手かもしれない。

 これまでわかりやすい失態はなかったが、今回の大きな失態を受けてヒューゴ氏も、フィオレを手元に置いておく必要性を失うかもしれない。

 根付いた考えから、ぴょこりと芽が出る。

 初めはただの思いつきだったのが、フィオレの脳裏で立派な論理展開へと急成長を遂げた。

 ひとしきり考えをまとめて、起き上がる。

 そういえば補給を忘れていたと、フィオレは宿の外へと出た。

 現在フィオレは、一同の中で道具係を担当している。それほど急がない行程、前衛をマリーとスタンが担当するため、フィオレは必然的にしんがりを担当しているのだ。

 後方から奇襲を受けた場合を除いて、戦況を眺めているだけという位置である。

 本来はアトワイト……治癒晶術の使えるルーティが支援に回るところ、彼女は大体前衛二人が倒した魔物のレンズを拾っているため、とっさの回復をフィオレが請け負っているのだ。

 特に文句はない。むしろ、楽をさせてもらっている。

 小さな雑貨屋をめぐり、彼女らから預かる道具の不足分を買い足して広場へと出ると。

 

「フィオレ!」

 

 通りの向こうから、満面の笑顔でやってくるルーティと普段と同じように見えるマリー。

 そして何があったのか、微妙な顔をしているスタンが現われた。

 

「その様子ですと、うまくいったようですね」

「ええ、大成功よ! それでね、なんか部屋を予約してくれてたみたいなの」

「やっぱり。予約で埋まっているから、一部屋しか貸せないって言われました」

「そうなの? なら心配いらないわ。ここの部屋は全部ツインだから、今日はスタンと相部屋しなくて済むわよ」

 

 今にもスキップを始めそうなルーティが、ホクホク笑顔で宿へと向かう。

 それに続くマリーを見送って、フィオレはスタンに向き直った。

 

「……何か、ひと悶着ありましたね?」

「ひと悶着なんてもんじゃありませんでしたよ……」

 

 宿へ向かう道すがら、スタンの話を聞く。

 ウォルトの住まいはフィオレも知っての通り、ハーメンツの村を見渡せるような小高い丘の上にあった。

 そこへ訪問したところ、不法侵入者と間違われて彼の護衛に一発殴られたのだという。

 スタンが。

 

「呼び鈴くらい鳴らしましょうよ」

「だって、ルーティが勝手にずかずか上がりこむから……」

 

 依頼自体は、スタンが見る限りあっさりと済んだらしい。

 問題は、品を受け取ったウォルトが満足して報酬を払った、そのときだった。

 

「ちょっと! たった五千ぽっちのはした金で納得するわけないでしょ!」

 

 オークションにかければ五万はくだらない、と言い放った挙句、彼女はウォルトの金庫からもう五千ガルド、引っ張り出したのだという。

 そして依頼人が宿を予約していることを知り、ありがたく使わせてもらうと意気揚々引き返し……先ほどに至るというわけだ。

 

「……それ、強盗行為と違いますか?」

「止める暇もなかったんですよ……」

「それじゃあ官憲に通報されて、逮捕されたっておかしくないですよ」

 

 他人事ながら、フィオレは彼女たちの行く末が心配になってきた。

 どんな事情があるのかなど勿論知らないが、こんな無茶を繰り返していれば断言してもいい。絶対に捕まる。

 どんなに不幸な事情があろうと、この土地が法治国家である限り、悪事を働いて許されることは少ない。

 やるとしたら、見つからないようにしなければ駄目だ。

 

「どーしようディムロス。俺、やっぱり手を組むの、断ったほうがいいかも……」

『同意だ。アトワイトが黙認しているところを見るに、何らかの事情があると見ているが……あの無茶ぶり、後悔しない程度にしっかり考えたほうがよさそうだぞ』

 

 ぼそぼそと今後を相談する二人を微笑ましく思いつつも、フィオレは宿へ行こうとした。そのとき。

 

『ところで──フィオレは確か、私をセインガルドという国に護送しなければ首が飛ぶと言っていたな。そんな重要な任務を民間人に任せるとは思えないのだが、何者だ?』

「そういえば言ってたな。えーと……確か、客員剣士、って呼ばれていたような」

 

 不意に呟かれたディムロスの言葉に、フィオレは足を止めた。

 直後答えたスタンの言葉に、ディムロスは驚いたように声を張り上げている。

 

『客員剣士だと!? あの若年でか!』

「え、でも、傭兵みたいなものなんだろ?」

『客員とは、本来招かれた者を指す。下っ端の兵士から出世したのではなく、一足飛びで特殊な地位を得たようなものだ。そして、その地位はけして低いものではない』

 

 その言葉に、スタンはまともに驚いたような顔をしてフィオレを見やった。

 

「つ、つまり……?」

『お前が仕官を望み、出世を望むなら、もっとも親しくなるべき者が今目の前にいるということだ』

「──あーあ。バレちゃいましたか」

 

 ありえなかった話ではない。

 彼には何から何まで隠していたわけではないし、むしろこれまで気付かれなかったことが奇跡のようなものだ。

 だから、フィオレは誤魔化さなかった。

 

「な、なんで隠してたんですか? ウッドロウさんたちにも、ルーティたちにも……」

「今私が、極秘の任務を請け負っているからです。客員剣士見習いといえど軍の一員、どこで恨みを買っているかわからないのに、自分の所属をぺらぺら明かせません」

 

 もっともだと思ったのか、スタンからもディムロスからも反論はない。

 そのまま畳みかけるように、フィオレは言葉を続けた。

 

「確かに私は、セインガルド軍の一員として七将軍ともお話できます。通常なら口添えも可能でしたが、飛行竜墜落のこともあって今はかなり微妙な立ち位置にいるんですよ。だから、その話は無事任務を終わらせてからにしてください。いいですね?」

「二人とも行かないのか?」

 

 スタンの返事を得るよりも前に、マリーから呼ばれ、ドキリとする。

 今の会話を、彼女は聞いていただろうか? 

 聞いていただけなら構わないが、このことをルーティに話されたら……色々とまずい事態が勃発しそうな予感がする。

 嫌な予感を覚えつつも、ハイテンションのルーティに怒鳴られ、三人は宿へと向かった。

 

「ちょっとあんたら! 早く来なさいよー!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十六夜——ハーメンツの惨劇(?)~リオンのターン!

 ハーメンツ。
「四人+二本」旅、終わりました。
 そしてリオン&シャルティエ、久しぶりー。

 ごめんね、リオン。姉に勝てる弟はいないの。


 

 

 

 

 翌朝。

 支度をしていたフィオレの耳に、隣室の金切り声が飛び込んできた。

 

「起きなさいよ、ほらっ!」

 

 直後、何かが落ちたような音が響いて静かになる。

 しばらく話し声のようなものが聞こえてから、バタバタと忙しなく移動する音がして、それから静かになった。

 

 

 

「ところで、フィオレ。あたしたちが預けた消耗品なんかを、一度返してほしいんだけど……」

 

 昨晩そう言い出してきたということは、おそらくマリーがルーティに、フィオレの正体を話したのだ。

 否応なしにディムロスが国に献上されることか、あるいは違うことを感じてなのか。

 出足が遅くなることを承知で低血圧のスタンを起こしにかかったということは、おそらく彼とディムロスという戦力を手放したくなかったからだろう。

 このまま放置すれば逃げられる。

 それがわかっていて、フィオレがのんびりしている理由は窓の外の光景にあった。

 フィオレがいるのは二階の真ん中にあたる部屋なのだが、ただいま宿前にはセインガルド軍仕様の装備をまとった兵隊がずらずらと集結しつつある。

 十中八九、ルーティの追っ手だ。

 おそらく彼女のフルネームはルーティ・カトレット。悪質な詐欺紛いを主とする、有名なレンズハンターくずれの名だ。

 その行いは近年目に余るものとされ、治安部隊がそろそろ捕縛するべきとの検討案を出していた。

 その検討案が可決されたか、あるいはジェノスでの遺跡荒らしの件のみか。いずれにしても、彼女らはフィオレが手を下すまでもなく捕縛されることだろう。それから、今回の遠征を担当した責任者に事情を話せばいい。

 そんなわけで。

 フィオレは彼らが捕縛──あるいは遠征してきた捕縛部隊が蹴散らされるまで、高みの見物を決め込むことにしていた。

 その代わり、ルーティたちの逃亡を許しそうになった場合を想定して、すぐにでも飛び出せるよう準備だけはしておく。

 捕縛部隊がどの程度の兵士を連れてきたかわからないにつき、捕り物がどのような結果に終わるのかは、まったくの未知数だ。

 やがて階下──受付の辺りから喧騒が聞こえてきたと思うと、宿屋「やすらぎ館」の扉が荒々しく開いた。

 現われたのは、ルーティ、マリーの二人である。

 少し間をおいて、スタンが現われた。

 

「ルーティ! フィオレさんがまだ……!」

「あーもう、うっさいわね! それどころじゃないでしょ!」

 

 彼らの顔を知っていたのか、前口上も降伏勧告も何もなく「囲め!」という指示に従う兵士たちの動きに迷いはない。

 包囲網を抜けるのが無理だとわかった途端、ルーティは素早く抜剣した。

 

「こうなりゃ強行突破よ! マリー、アトワイト、ついでにスタン、いくわよ!」

「マリーさんも、ルーティを止めてください」

 

 スタンはこうも訴えるが、彼女は武器を構えて含み笑いをするばかりだ。

 

「くっくっくっ。さあ、来るなら来い!」

「ええっ!?」

 

 道中知ったことだが、マリーは交戦時において、かなり気を高ぶらせる性質にあるらしい。

 マリーの態度を挑発とみた兵士たちが、じり、と包囲網をせばめる。

 もはや止められないと悟ったのか、ソーディアンたちも諦めを口にした。

 

『仕方ないわね……』

『覚悟を決めるしかなさそうだぞ』

「くっ……」

 

 このままでは一方的にやられてしまうと判断したスタンが、決死の覚悟でディムロスを抜く。

 その態度に投降の意志なし、と判断した捕縛部隊もまた各々武器を手にし、戦いが始まった。

 ──その戦況を見て思う。これは、楽をできそうにない。

 一見互角に見える戦いだが、それは捕獲部隊の数が多いせいだ。時間が立つにつれ一人、また一人と倒れていく。

 血飛沫の量が少ないところを見ると、実力差があるゆえに手加減ができているらしい。これは喜ばしいことだ。

 彼らを殺せば、それだけ罪の重さが増す。

 やがて。

 

「あたしたちにケンカ売るには、百年早いんじゃない?」

 

 倒れ伏した兵士達を油断なく見回して、ルーティは勝ち誇ったように見下している。

 

「ええい、何をやってる。相手はたかが三人だというのに!」

 

 隊長格の装備を持つ男が不甲斐ない部下を叱咤するものの、遠巻きに見ているだけではその資格はない。

 これはそろそろ出るべきかと、フィオレが窓に手をかけた、そのとき。

 

「どけ!」

 

 横柄な少年の声がした。

 人垣を割るようにして現われたのは、黒髪に朱鷺色のマントをたなびかせた小柄な少年──リオンである。

 窓を全開にしようとして、傍観を貫く。

 彼が捕縛に向かったのなら安心、というわけではない。

 それでも十中八九成し遂げると思っているが、相手は単なる賊ではなくソーディアン使いだ。これまでその点においても優勢だった彼が、同じステータスを持つ相手ではどうなるのか。

 正直、見ものだった。

 

「あ、あなたは、リオン様ッ!」

「チッ、役立たずどもが……」

 

 十数日ぶりに見る彼は、明らかに苛ついた様子で隊長格を、倒れた兵士たちを睥睨している。

 もともと鋭かった目つきが更にきついものになっている辺り、機嫌が悪いのは明白だ。

 任務に駆り出されて、マリアンの作ったプリンでも食べ損なったのだろうか? 

 

「おい、まわりで寝ているばか者ども、とっとと起きろ。やつらは僕が片付ける」

 

 命に別状はないものとはいえ、戦闘不能の状態まで追い込まれたのだ。早々に従える命令ではない。

 荒れてるなあ、とフィオレが苦笑して見守る中、兵士たちは動ける者が自力で動けない者を助けて道をあけている。

 その道を悠然と歩いてスタンたちと対峙したリオンは、堂々と言い放った。

 

「国軍に反抗する馬鹿どもが。大人しくしていれば手荒な真似はしない。さもなくばどうなるか……わかっているだろう?」

 

 挑発にしか聞こえないが、一応降伏勧告である。念のため。

 無論、それに応じるルーティたちではなかった。

 

「ふーん。大した自信じゃないか」

「ガキは引っ込んでなさいよ!」

 

 マリーは不敵に微笑み、ルーティはまるで応じるかのような挑発を送っている。

 珍しく、リオンは怒りをあらわとしなかった。ただし。

 

「警告に従わないと言うならそれでもいい……」

 

 唇の端を皮肉げに歪め、彼は腰に下げたシャルティエを抜き放った。

 

「悪人に人権はない。実力行使だ!」

 

 そして、戦いの火蓋は切られた。

 前衛として突出したマリーの刃を、正面から受け止めることなく易々と受け流す。

 これまで攻撃を受け流されたことがあまりないのか、マリーは切り返しをしくじって大きく体勢を崩した。

 そこへつけこむようにリオンが仕掛けるも、同じく前衛を務めるスタンに邪魔をされ、一歩引く。

 そのまま二対一の剣戟が展開されるが、彼はまったく動じていなかった。

 ──マリーもスタンも、けして弱いわけではない。

 流石にレンズ拾いなどはせず、二人が負った傷を癒すルーティの手際も、悪くない。

 しかし、おそらく我流であろう二人の剣技に対して、リオンの剣術は洗練されていた。

 我流剣技は時として正統な剣術を上回る場合があるが、それは両者の実力が拮抗している場合にのみ、ありえることである。

 加えて、歴然とした対人戦にスタンがついていけなくなっている。具体的に指摘するなら、思い切りが明らかに不足していた。

 対人戦に不慣れなせいか、人を斬ることに抵抗があるのか。

 おそらく両方だ。

 

「うあっ」

 

 やがてリオンがそこを見抜いたのか、単に運が悪かったのか。柄頭でこめかみを打たれ、スタンが昏倒した。

 マリーも、ほとんど打ち合うことなく素早く斬り込んでくるリオンに対して、次第に劣勢となっていく。

 残るはルーティだが、剣による交戦術を習得していたとしても、リオンに勝るほどのものとは思えない。

 勝敗は決したかと思われた。

 が。

 

「マリー! 『プランビー』行くわよ!」

 

 後衛のルーティが指示を飛ばした途端、マリーは不思議な行動に出た。

 劣勢であるにもかかわらず、ほとんど特攻のような体当たりをリオンに仕掛けたのである。

 当然、彼はそれを避けているが……それは予想済みだったらしい。

 マリーはそのまま彼の横を駆け抜けて、大きくその場を飛びのいた。

 

「必殺、エナジーブレット!」

「!」

 

 エナジーブレット:オベロン社開発のレンズ兵器。地面に着弾後、直線状の電撃を放つ。

※魔物退治専用につき、取り扱いには注意されたし。

 

 ……いくらなんでも、魔物向けに作られた兵器を人に向けるというのは、いかがなものか。

 どこか他人事でそんなことを思いつつ、まだ傍観を続ける。

 大地を駆け抜ける雷の直撃を受けたリオンは、成す術もなく地面に突っ伏した。

 

「偉そうな口きいてるくせに、てんで弱いじゃないのよ!」

 

 動けないリオンをせせら笑いながらも、彼女はマリーとスタンの治癒を忘れていない。

 むくりと起き上がったスタンはというと、ただいま絶賛痺れ中のリオンを見て途方に暮れていた。

 

「セインガルドの兵隊を倒すなんて、俺はこれからどうすればいいんだ……」

「なーに、弱気になってんの! さ、とっとと逃げるわよ」

 

 ──もう見逃せない。

 粛々と窓を開け放ち、棒手裏剣を手に取る。

 未だ電撃を垂れ流す物騒なレンズ兵器めがけ、狙い定めて投擲した。

 結果、エナジーブレットは爆発するようにして破砕される。

 

「きゃっ」

「な、なんだ?」

 

 ようやく電撃から解放されたリオンが立ち上がる頃、フィオレは窓から地面に降り立っていた。

 身体をひねって無事着地、そのままリオンの眼前まで歩む。

 本人は隠したようだが、フィオレはしっかりと見ていた。

 鋭かったリオンの眼が、ほんの一瞬真ん丸になっていたのを。

 

「毛先が焦げてますが、大事ないようですね」

「──無事、だったのか」

 

 兵士たちの半数以上がフィオレの顔を、そして事情を知っていたらしい。

 どよどよと、周囲に動揺が広がっていく。

 

「ええ。どうに『フィオレ──ッ!!』

 

 にこやかに答えようとして、突如脳裏に響いた悲鳴じみた叫びに、フィオレはつい顔をしかめた。

 それはルーティたちも同じようで、スタンなどは反射的に耳を塞いでいる。

 

『この声は……』

『フィオレ、フィオレフィオレ! 良かったよぉ、生きてたよー! ああ、僕の祈りは天に通じたんだきゃっほーい! ねえねえ大丈夫? ちゃんと足ある?』

『シャルティエじゃないの!?』

 

 異様なテンションで喚き散らすシャルティエの声を聞き、かつての戦友たちは驚きを隠せない様子で声の主を当てた。

 

『あの、シャルティエ『んもー、すっごくすっごく心配したんだからねっ! 飛行竜は行方不明になっちゃうし。管制室に届いた最期の通信は魔物に襲われて途切れたってことで生存者は零、つまり君も死んだだろうって結論付けられたときは坊ちゃんと二人でもう絶望しまくったんだよ! でも生きてたし、怪我もないみたいだし、元気そうだから結果オーライ! 身体があったら即行抱きしめて二度と離さな「やかましい!」

 

 彼はどうやら、リオンが不機嫌になっていたことを忘れていたらしい。

 状況も何もかなぐり捨ててまくしたてたシャルティエは、主の靴底でコアクリスタルを踏みにじられるという仕置きを受けている。

 

『わああ、すいません! でも、坊ちゃんだってフィオレが生きてて安心したでしょ?』

「……ふん」

 

 その仕置きが、さほど痛手を与えていないことを知ってか、リオンはすぐに愛剣を拾い上げた。

 その目がようやく、フィオレを真正面から映す。

 

「細かいことはあとで聞く。それで、自分の失態の報告のために戻ってきたのか?」

「鳩は届いてないみたいですね。私はちゃんと、任務続行中ですよ」

 

 フィオレが見やるは、スタンが未だに握るものだ。

 交戦の最中に気付いたのだろう。リオンは理解したように頷くものの、納得には至っていない。

 それを彼が口にするよりも早く。

 

「フィオレ……あんた、そいつと知り合いなの!?」

 

 ほぼ会話に置いてきぼりだったルーティが、ようやく口を挟んだ。

 無言で肯定するフィオレに、ルーティの口調が一層厳しくなる。

 

「じゃあ、こいつらにあたしたちのことを通報したのも……」

「違います。何がきっかけでこんな騒ぎになったのか、私のほうが知りたいくらいです。ルーティ、あなたは何をしたんですか?」

 

 逆に詰問され、彼女は気圧されたように口を噤む。

 代わりに口を開いたのは、リオンだった。

 

「そんなことも知らずに行動を共にしていたのか」

「四六時中彼女らと行動を共にしていたわけではありませんのでね」

 

 答える気配のないルーティから聞き出すのはあきらめて、改めてリオンに尋ねる。

 しかし、リオンの返答は返答になっていなかった。

 

「それが知りたければ、こいつらを捕縛しろ」

「おや、もう戦えませんか?」

「……まだ痺れが残っている。動かせる兵士も少ない。逃げられる前に、確実に確保するんだ」

 

 上司たる彼からそれを命ぜられれば、今はまだ拒否をすることはできない。

 フィオレは小さく息を吐いてからくるり、と彼らに向き直った。

 

「フィ、フィオレさん……?」

「だ、そうです。大人しく降伏してくださればそれでよし。反抗、逃亡の意思があるなら力づくで従わせます。いかがしますか?」

 

 おそるおそる、と言った調子のスタンに、そしてルーティたちに淡々と降伏勧告を告げる。

 しかし、兵士はおろかリオンをも倒した彼女たちに、聞く耳はなかった。

 それどころか、これまで事実を黙っていたことに対し激昂している。

 

「あんたが軍の狗だったなんて……あたしたちを騙したのね!?」

「騙してません。黙っていただけです。私がいつ、あなたたちを謀るような嘘をついたと仰るのですか?」

 

 残念ながら、フィオレは彼らに一切虚言を吐いていない。

 ただ、事実を言わなかっただけだ。

 

「ごちゃごちゃうっさいわよ! 邪魔するようなら、容赦しないんだからね!」

「おい、ルーティ!」

 

 構えないスタンはそっちのけで、マリーとルーティが共に戦いを挑んでくる。

 マリーが前衛、ルーティが後衛……リオンと同じ手を使うつもりか。

 

「今までフィオレは、ほとんど戦うことはなかったな。だが私は、きっとお前は相当な使い手だと思っていたぞ」

「マリー! なにくっちゃべってるの、集中なさい!」

 

 ルーティの注意も聞かず、マリーは不敵な笑みを浮かべている。

 特に返す言葉もなく、フィオレは紫電の柄に手をかけた。

 

「いくぞ!」

 

 剣を掲げ仕掛けてきたマリーだったが、いかんせんフィオレはその太刀筋を見知りすぎていた。

 初撃をあっさりとかわし、彼女がたたらを踏んだところを悠々と懐にもぐりこむ。

 

「う……!」

「おやすみなさい。すぐに起こしてあげますから」

 

 紫電の柄を、鳩尾に深くめりこませる。

 前のめりに倒れこんだマリーの身体を肩で受けるようにしながら、ちらりとルーティを見た。

 

「マリー!」

 

 叫ぶルーティの手には、アトワイトではなくエナジーブレットが握られている。

 しかし、今放てばマリーを巻き込むことになるのは承知の上だろう。今すぐの投擲はない。

 肩から腕へ、脱力したマリーの頭を移動させ慎重に、しかし素早く地面に降ろす。

 フィオレがマリーから離れたのを見て取ったルーティは、ほぼやぶれかぶれにエナジーブレットを投げた。

 そこで地面に着弾するのを眺めていたら、リオンの二の舞だ。電撃を浴びれば、フィオレとてただではすまない。

 エナジーブレットが地面に辿り着くよりも先に、紫電を一閃させる。

 居合いと同じ要領で振るわれた淡紫の刃は、かのレンズ兵器をまっぷたつにしていた。

 エナジーブレットの残骸が、地面に転がる。

 

「……!」

 

 ルーティの手が、剣帯へと伸ばされる。

 アトワイトを抜く気なのだろうと判断したフィオレは、それよりも早く間合いを詰めてルーティに接敵した。

 そして──紫電の柄頭でルーティの顎を狙う。

 

「きゃあっ!」

『ルーティ!』

 

 脳が揺さぶられ、動きの止まったルーティの首筋に手刀を叩き込んだ。

 マリーと同じように意識をなくし、倒れるルーティを抱きとめて丁重に地面に寝かせる。倒れた衝撃で目を醒まされても厄介だ。ルーティを抱えたフィオレに「隙あり!」と斬りかかるような真似など、スタンはしないだろう。

 改めて、未だ棒立ちのスタンを見た。

 彼は、信じられないようなものを見たような、あるいは現実が見えていないかのような眼をしている。

 

「……」

「どうなさいますか? ちなみに、降伏するなら受け付けますよ」

 

 それ以外を受け付けるつもりはなかったのだが、スタンはゆっくりとフィオレと視線を合わせた。

 その瞳には、間違いようもない批難が浮かんでいる。

 

「……降参するのが利口なのはわかっています。だけど」

 

 殊勝な言葉とは裏腹に、彼はディムロスを構えて雄々しく叫んだ。

 

「女の子に暴力をふるったあなたを、俺は許せない!」

「そうですか。いくら怒ってくださっても結構です」

 

 女性に暴力を振るうべきではない。

 その考えは、フィオレとて賛成できる。

 しかしそれは武力を持たない一般人相手の話であって、実際に武器を持ち敵意を向けてきた相手に対して、フィオレは相手を女性とは思わない。

 ──敵として、認識するからだ。

 

『よせ、スタン! 今のお前では、逆立ちしても勝てる相手ではないぞ!』

「逆立ちなんかして勝てるわけないだろ!」

 

 そういう意味ではないのだが……面白いのであえて突っ込みはしない。

 ディムロスを構えて突進してくるスタンを真っ向から受ける素振りを見せながら、フィオレもまた足を踏み出した。

 その際突進の軌道を読み、ぎりぎり当たらない位置まですり足で移動しておく。

 

「えっ!?」

 

 そしてスタンは、盛大にフィオレの傍を走り抜けていった。

 スタンが脇を駆け抜け様、足を突き出す。

 結果、彼は足を取られてあっけなく転んだ。

 

「うわぁっ!?」

『何をしているんだ、馬鹿者!』

「確保、お願いします!」

 

 彼の手からディムロスが離れたのを見るや、フィオレはそちらを回収し、残った兵士に指示を出す。

 かくして、彼らはあっという間に御用の身となった。

 捕縛の際に目を醒ました彼女らといえば、マリーは興味深げにフィオレを見つめ、ルーティはふてくされたようにフィオレと、取り上げられたアトワイトを交互に見ている。

 

「で?」

「こいつらはジェノス付近にあるセインガルド管理下の神殿に入り込み、あまつさえ奉納されていた宝を奪って逃走した。その際、止めに入った兵士たちに負傷させてな」

 

 ……嫌な予感が当たってしまった。

 しかし、大切なのはそれだけではない。

 

「それだけですか?」

「何?」

「今回彼女達の捕縛に至ったのは、それだけが原因ですか、と尋ねています。知らないなら知らないでもかまいませんが」

 

 それだけだというのなら、まだどうにでもなる。

 悪質レンズハンターコンビに密航者。

 罰せられる理由は確かにあるが、処罰はともかく処刑は免れるだろう。

 リオンの返答は、なんとも微妙なものだった。

 

「確かに今回はその件で逮捕命令が出ている。しかし、ルーティ・カトレットといえば、悪質な詐欺紛いや遺跡荒らしの嫌疑がかかっていたはず。余罪で罪が重くなるのは明白だ」

 

 あまりいい返事ではないのだが、判断材料としては申し分ないため、よしとする。

 問題はどのような屁理屈で彼女たちの罪とフィオレの申し出を絡めていくかだが……

 そこへ。

 

「フィオレンシア様、生きておられたんですね!」

 

 歓喜と興奮の入り混じる、そんな声をかけられて我に返る。

 見やった先には、スタンたちを捕縛した、軽傷はあるものの、まだ動ける捕縛部隊の兵士たちだった。

 

「ああ、はい、何とか。お騒がせしました。色々ありまして」

 

 リオンと違い、フィオレは人間関係を殊更悪化させるような真似はしていない。

 進んで良くしようともしていないが、誰に対しても同じような態度しかとっていないため、兵士たちも気軽に話しかけてきたりはするのだ。

 こんな風に心配されるなど、夢にも思っていなかったが……

 

「そうだな、次は貴様の番だ。何が起こったのか、詳細を話せ」

「そうしたいのは山々ですが、いつまでもここに居座るのは迷惑です。場所を移しましょう」

 

 いつしか野次馬は多くなり、村人たちは遠巻きに何事があったのかを囁き合っている。

 宿場前ということもあって、迷惑極まりない。

 

「怪我人が多すぎて移動は難しいな。動ける人間が手分けして運ぶか……それとも、手品とやらを披露するか?」

 

 揶揄するようにリオンは言うものの、近くに必要なだけの第四音素(フォースフォニム)が得られそうな水場はない。

 少し歩けば池があったはずだが、そこまで行って水を汲んで帰ってきてから使うとなると、怪しまれるタネをつくることになる。

 ここは人海戦術を取ろうかと思ったそのとき、フィオレの視界に、アトワイトが飛び込んできた。

 ディムロスでもできたことを、アトワイトにできないとは思えない。

 おもむろに拾い上げ、左手をコアクリスタルにかざす。

 

『え?』

 

 ディムロスのときと同じだった。

 少し意識しただけで、必要な分の第四音素(フォースフォニム)は、一瞬にして集まっている。

 ──これなら、手元になくても発動したかもしれない。

 

「ちょっと、アトワイトに何を……」

「命よ、健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──

 

 ルーティの苦情は無視して、せっかく集めた第四音素(フォースフォニム)が散らばらないうちに集中を高め、謡う。

 まるでテーブルクロスを広げたかのように滑らかに描かれた譜陣は、負傷者全員を余すところなく包み込み、癒しの輝きが放たれた。

 

「──これで動けるようにはなったでしょう」

 

 軽く左手の甲をさするようにしながら、ふと思い出したようにアトワイトを地面に降ろす。

 動けるどころかほぼ全治した兵士たちが、粛々と撤収を始めた。

 

「……フィオレンシア、って呼ばれてたわね。あんたまさか、隻眼の歌姫……!」

「ありましたね、そんな仰々しい二つ名。私が名乗ったものではないのですが」

 

 どんな噂を聞いているのやら、ルーティは酢でも飲んだような顔つきでフィオレを見ている。

 

「確かに、噂と特徴全部当てはまるけど……! ぬかったわ、それがわかっていたらジェノスでもここでも歌わせたのに!」

「隻眼の歌姫……?」

「そーよね、あんたは知らないわよね。隻眼の歌姫っていうのは、セインガルドで評判の歌い手よ。その歌声は伝説の人魚ローレライにも勝るといわれ、噂じゃただの歌だけじゃなくて他人の傷を癒したり、眠らせたりする奇跡も起こすらしいわ。正直眉唾だったけど、本当だったのね……!」

「そこまで大したものではありませんよ。あなただって他者の負傷、癒せるではありませんか」

「あたしはアトワイトがいるからできるのよ! あんたはそうじゃないでしょうが!」

 

 フィオレにとっては、きちんとした理屈から成り立つ立派な術技である。

 奇跡扱いは文化の違いという奴だろう、多分。

 兵士たちの大半が撤収した後、いよいよ罪人の護送用馬車が届けられる。

 これまで行動を共にしていた者として、最後まで責任を取れとばかり三人の護送をリオンに言いつけられるも、フィオレは首を横に振った。

 

「申し訳ありませんが、ここで少しやらなければならないことがあります。先にダリルシェイドへ戻ってくれませんか? ディムロスとアトワイトの搬送も同じく」

「何をするというんだ」

「まだ宿代払ってないんです」

「踏み倒す気か、さっさと払ってこい!」

 

 立腹したリオンが怒鳴りつけ、ついでのように兵士たちに完全撤収を命じる。

 ちなみにこのやすらぎ館は、原則先払いツケは認めない決まりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




PS版のお話になりますが、リオン戦は確定負けイベントではあります。
しかし彼に勝つ方法がありまして、それが作中ルーティの用いたエナジーブレッド作戦ですね。
アワーグラスとエナジーブレッドをできるだけ持って戦いにのぞみ、全て使う勢いでリオンに勝利できる模様。
リオンに勝利した一同は作中のようなことをのたまい、その後は悪名を轟かせた……的なモノローグを挟んでエンディング。ある意味ゲームオーバーですね、それ以上お話は進みませぬ。

これはこれで、リオン生存ルートなんですかねー。


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第三十七夜——下準備、そして……

 ハーメンツ~ダリルシェイド。
 色々と手を回し、お縄となったスタン達+リオン&シャルティエの後を追うように王城へ。
 客員剣士見習いを辞めようと画策して……


 

 

 

 

 

 

 

 

 宿へ戻ろうとしたフィオレだったが、かけられた声に足を止めた。

 

「フィオレさん、俺たちどうなるんですか?」

「罪人の行き着く先はひとつに決まっている。せいぜい首を洗って待っているんだな……最期の時を」

 

 フィオレが答えるよりも前に、軽く前髪を払ったリオンがさらりと不吉な言葉を紡ぐ。

 その言葉で真っ青になったスタンだったが、彼はそのまま兵士によって無理やり馬車に積み込まれていた。

 

「罪人って……おい、待てよ!」

「ちょっと、変なところ触んじゃないわよ! お金取るわよ!」

 

 スタンの言葉はともかく、ルーティの言葉は聞き流せない。

 リオンの咎めを無視して幌をめくれば、ルーティは縛られたまま兵士を足蹴にしている真っ最中だった。

 

「たとえ犯罪者であろうと、取り押さえるための過度な暴行は控えてくださいね。一応彼らは私の知り合いですから、もみ消しはさせませんよ」

 

 見張り役の兵士に、そして現場責任者であろう隊長格の男に言いつければ、彼らは不満そうな様子を隠さないものの、了承はしている。

 もっとも、彼女は転んでもただでは起きない性格だ。万が一そんなことが起ころうものなら、フィオレに助けを求めるまでもなく、相手から賠償金をむしりとるだろうが。

 

「いいか、神殿が近いからって寄り道なんかするなよ。お前が生きていたことはまぎれもなく僥倖なんだ。さっさと戻ってこい!」

 

 一体何に怒っているのやら、そんなカリカリしたお小言を残して。リオンを含む兵士たちが、捕縛した三人を幌馬車に押し込め、ハーメンツを去った頃。

 フィオレはやすらぎ館へ戻ることなく、村を見下ろせる小高い丘の上の屋敷へと足を運んだ。

 その最中。旅業中と思われる男性二人の会話を耳に挟む。

 

「聞いたか? ストレイライズ神殿の様子が最近おかしいらしいな」

「ああ。聞くところによると、魔物に襲われて全滅したらしいな。周辺はシーンとしてるんだってよ」

「一体何が起こってるんだか……」

 

 ストレイライズ神殿と聞き、真っ先にフィオレが思い出したのは鮮やかな新緑色のおさげに、愛らしい丸眼鏡の女性司祭のことだった。

 今すぐに向かいたい。

 しかし、その衝動に従えばスタンたちの首が危うい。

 若干の不安を覚えながらも、フィオレは立派な扉の精緻な彫刻──熊の顔を象ったノッカーを掴んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 セインガルド首都、ダリルシェイド。

 すぐそばに城下町を構える王城の、薄暗い地下にて。

 ダリルシェイドに到着したあと、三人は速やかに地下牢へと放り込まれた。

 スタンのぼやきに過剰反応したルーティが逆切れに近い調子で喚き散らし、それがうるさいと看守が怒鳴りつける。

 壁を隔てた諍いが一段落した、そのときのこと。

 看守がばたばたと走る音、それに伴って数人の歩く足音が聞こえる。

 それからすぐに、彼ら三人は牢獄から出された。

 

「どこに連れてくつもり?」

「陛下の御前だ」

 

 処刑場か裁判所か、そのあたりを覚悟していたのだろうか。

 答えを聞いたルーティは、更なる情報を得んと看守につっかかった。

 

「はぁ? 一体何が始まるってのよ」

「答える義務はない」

「何それ。使えないわねえ」

 

 知らないのか、知っていて答えないのか。

 看守は彼女の挑発に感情を動かすことなく、彼らを衛兵に引き渡した。

 数人の衛兵に伴われ、城内を移動する。

 三人がたどり着いた先は確かに、セインガルド国王のおわす謁見の間だった。

 正面には国王の座す玉座があり、数段下には彼の腹心たる七将軍たちが並んでいる。

 その傍らには、見慣れぬ中年男性と、付き従うようにして立つ客員剣士リオン・マグナスの姿もあった。

 しかし、フィオレの姿はどこにもない。

 彼女の姿を求めて、スタンはぐるりと周囲を見渡した。

 降伏勧告を無視したこともわかっている。どうにかしてほしいなどと、頼むのもおこがましい。

 ただ、無性に彼女の顔が見たかった。

 

「フィオレさん……」

「陛下の御前だ。慎め」

 

 せめて知った顔であり彼女の上司だというリオンに所在を尋ねようとスタンが声をあげようとするものの、衛兵に小突かれ黙る。

 その隣では、ルーティが変わらぬ調子で口を開いていた。

 

「王様じきじきに、何の用かしら?」

「自分がしたことを、よく思い出してみることだな」

「あら、あたしが何かした? 皆目見当もつかないわ。ねぇ、スタン?」

「え、え?」

 

 衛兵がスタン同様、無礼な態度を戒めようとして、国王の言葉にそれをやめる。

 しかし、厳格なその言葉にもルーティはどこ吹く風だった。果ては隣にいるスタンに話を振って、体よく誤魔化そうとする始末だ。

 当然、普段家臣たちにかしずかれている国王に、そんな無礼な態度の耐性があるわけがなく。

 

「このたわけ者めが!」

 

 国王の一喝に、謁見の間の空気はピン、と張り詰めた。

 

「王国管理の神殿を荒らし、あまつさえ街で暴れまわるなど言語道断! 覚悟は出来ておろうな!」

「そ、そんなあ……」

 

 確かにスタンとしては、前者は知らなかったこと、後者は仕掛けられたから応戦したまでのことだ。腑に落ちないのもしょうがない。

 とにかくこのままでは、三人の処刑が決定してしまう。

 フィオレはすたすたと謁見の間へと近づいた。

 兵士が何事かを言いつつ押し留めようとしてくるが、それを聞く耳はない。

 

「お待ちくださ「審議の最中、ご無礼をお許しください」

 

 視界の片隅では、ヒューゴ氏が何やら進言しようとしていたらしい。

 わかってはいたが、これから行うことで頭がいっぱいだったフィオレは気にせず、その言葉をブッた切った。

 当然、いきなり謁見の間に現われたフィオレに視線が集中する。

 

「おお、フィオレンシアか! よくぞ戻った」

「ご無沙汰しております。国王陛下」

 

 普段呼ばれない限りは登城することがなかったフィオレの姿に、国王はしっかりと気を取られていた。

 その横でヒューゴ氏が、発言を切られた不快さを隠しながらもフィオレを見ている。

 

「フィオレさん……」

 

 スタンも、ルーティも、マリーも見ていることはわかっていた。

 しかし視線は向けない。

 彼らに構っている余裕はなく、フィオレは一直線に御前へと足を運ぶ。

 そのまま彼らに背を向けて、フィオレは姿勢を低くした。

 否。

 跪くを通り越して、その場に平伏し、額をほとんど絨毯につけるようにする。

 屈辱的だとは思わない。

 フィオレなりの、誠意の表れだった。

 

「フィオレンシア、何を……」

「飛行竜の件、大変申し訳ありませんでした。陛下の期待を裏切り、おめおめと生きて戻って参りました……」

 

 ドライデン将軍の狼狽する声、周囲に控える七将軍たちのざわめきにかき消されないよう、それでいて反省の念が消えない声音で謝罪を申し入れる。

 

「し、しかし、そなたはソーディアンを無事持ち帰ってきたではないか。飛行竜の件は不幸であったが、その責は艦長にあってそなたにはない。よってその謝罪は筋違いでは……」

「いいえ。確かに私の任務はソーディアンを無事護送することでした。しかし、飛行竜で失われた命を護りきれなかったことは、私が至らなかった結果でもあるのです。ご遺族の方々の感情からしても、一人生きて戻ったことは許されることではありません」

 

 ここで故意に、額を絨毯にすりつける。

 次に顔を上げたそのとき、フィオレの額は赤くなっているはずだ。

 少々マヌケだが、それだけ謝罪の意志が強いことが伝わればそれでいい。

 

「……よって。この責任を取るべく、私は客員剣士を辞めます」

 

 誰もがついてきていないだろうこの展開に、何より国王自身がついてくる前に。粛々とつけていたループタイを外してその場に置く。

 

「今までお世話になりました……御前を失礼いたします」

「ま、待て! そなたの言い分はわかった。しかし、責任を取って辞めるなどと、乱暴な……」

「ご心配なさらずとも、私の代わりなどいくらでもいます。そこにいるソーディアンマスターたちのように」

 

 立ち去ろうとする寸前、止めに入った言葉は、フィオレは思い描いていた通りの展開を紡いだ。

 ここで始めて、スタンたちの傍で立ち止まり、彼らを指し示す。

 

「何?」

「詳しい経緯は報告書に残しておきますが、こちらの青年はソーディアン・ディムロスに選ばれた新たなマスターでございます」

 

 おそらく今、初めて明かされた事実なのだろう。

 国王陛下を含む一同は、ざわつきながらもスタンを見ては周囲と囁きを交わしている。

 それよりも何よりも。国王は予想とは違うことに驚いていた。

 

「ソーディアンは……そなたではなく、どこの馬の骨ともわからぬその男を選んだというのか!」

「陛下、それをおっしゃるなら私とて条件は同じです」

 

 そのあたりはむしろ、出身がはっきりしている──身元がわかっているスタンのほうが圧倒的に優勢だ。

 予定にはなかった台詞をつい口走ってしまい、フィオレはこほんと咳をした。

 ──フィオレがソーディアンの声を聞けると知っていて、ディムロスと引き合わせ。ソーディアン・マスターに仕立てることでこの国に縛る気だったのかと、ヒューゴに詰め寄ったところで話が逸れるだけ。

 

「古の大戦にて、英雄と呼ばれた人格の持ち主たちが認めた者たちを、安易に処断してしまってもよろしいのですか? 失礼ながら先ほどのご発言は、いささか誤解があるものと思います」

 

 これぞ、フィオレが考えていた筋書きである。

 辞めることをまず始めに持ってきて、それを言われたら感情論で切り返し。更にうまいことスタンたちのことを引き合いに出して、とりあえず即処刑という事態だけは避ける。

 後は、彼らが立ち回ることだ。

 

「なんと?」

「王国管理の神殿……とおっしゃられましたが。私が見た限りあの神殿に兵士の常駐はなく、ほとんど無人の様子でございました。兵士はといえば、ジェノスからやってきた兵士数人がちらりと巡回し、そのままジェノスへと帰っていく所存です。あれでは王国が管理しているなどと、一般庶民には到底わかりかねます。現にジェノスの住民たちに聞き込みましたところ、国はあの神殿をいつまで放置しておく気なのかと、首を傾げておりました」

 

 嘘はついていない。

 住民全員ではないが、フィオレが夜中のうちに酒場で聞き込んだ限りでは、あの廃墟がセインガルドで管理されているものだと、誰も知らなかった。

 故にフィオレも、兵士が巡回していたのは単に野盗の根城になっていないか、見回っているだけかと思っていたのだが……

 

「ドライデンよ、どういうことだ」

「ほ、報告書にはそのようなこと、何も……」

 

 おそらく神殿が荒らされたという報告で、常駐していた兵士たちをなぎ倒して宝を強奪していった、というような説明がなされたのだろう。

 話の違いすぎに彼もまた、動揺を隠していない。

 

「ただ、彼らが神殿に侵入し、あらゆる障害を突破して宝を持ち去ったことに関しては間違いなく事実です。その後で知り合ったとは言え、私にも落ち度がありました。そこで」

 

 フィオレは、これまで外衣の中に隠していたものを取り出した。

 棒状の、古めかしく地味だが意匠の凝った杖──

 

「そ、それはあの神殿に奉納されていた!」

「責任もって、回収して参りました。どうぞお納めください」

 

 ドライデンに渡し、彼を経由して国王の手に渡る。

 どうせすぐ侍従に預けてしまうだろうから意味はなかろうが、形式の問題だ。

 

「確かに、贋物ではないな。そなたこれをどこで……」

「申し訳ありませんが、お話できません。そして街中での乱闘の件ですが、これは一重に捕縛部隊の落ち度だと思われます」

 

 リオンたちと別れて以降、ルーティの商談相手だったウォルト氏と面会し、持ち帰ってきたのである。

 当初彼はシラを切っていたが、それならこれまでの嫌疑等の取調べも兼ねて王国の査察部隊にお越しいただく、と通告したところ、彼は快く返還に応じてくれた。

 最も、それは今回の件に限らず、過去の商談がバレたら危ないからだろうが……

 何にせよ、そんな裏話を披露するには時間がもったいない。

 幸い、国王はフィオレの話題そらしにそのままついてきてくれた。

 

「捕縛部隊の……?」

「今回は無事済んだものの、もし彼らが本当の凶悪な犯罪集団だったなら、住民に被害が出ていたでしょう。何故なら捕縛部隊は、彼らの泊まっていた宿に直接乗り込んだのですから。こういった場合、目標が郊外まで出たところを確保するのが定石なのに、今回は何故か村のど真ん中で降伏勧告を行っておりました。これは明らかに失策です。誰であれ、いきなり武器を向けられたら応戦するしか己は守れません。私だってそうします」

 

 ──ここまでは順調である。

 今のところ、フィオレの予想を大きく裏切る展開はない。

 このまま一気に話をつけてしまおうと、フィオレは再び口を開いた。

 

「以上のことから、彼ら三人をただ処分するのはあまりに早計かと思います。セインガルドの兵士とも互角に渡り合える腕があるのですから、罪の分だけこき使うのはいかがでしょうか? 最も、これ以上は客員剣士見習いを辞める身ゆえ、口出しできる立場にございませんが……」

「待て、フィオレンシアよ。責任を取って辞める、と言うお主の言葉こそ早計だ」

 

 再び辞任を示唆すれば、今度はドライデン将軍が口を出してきた。

 叶うなら国王とサシで話をつけたかったが、この場合は仕方がないだろう。

 

「その通りだ。客員剣士を辞めるなどと、ヒューゴも看過はできぬだろう」

「陛下のおっしゃられる通りだ、フィオレ君。それを決めるのは君ではなく「そんなことはありません」

 

 国王から話を振られ、ヒューゴ氏がもったいつけたようにフィオレの説得を始めた。

 しかし、そんなものを素直に受け入れるフィオレではない。

 

「そもそも私は正規の客員剣士ではなく、ただの見習いだったのですから。正規の客員剣士となる昇格試験のため、私にはソーディアン護送の単独任務を課されました。それがこの結果です。このような失態を犯して、あなたの顔にも泥を塗ってしまった。本当にすみません。せめてもの、私に取れる責任は、今の地位をお返しすることだけです」

 

 事実でしかないその言葉をつらつらとつきつけられ、ヒューゴ氏が黙る。

 これで反論がでないようなら、フィオレの完全勝利だ。

 後は、ジルクリスト邸でヒューゴ氏と直接交渉をし、目的を完遂するべく動けばいい。

 誰もが言葉を失い、フィオレが勝利の確信をした、そのとき。

 

「……フィオレ」

 

 不意にその名を呼び、一同の視線を集めた者。

 それは、これまでヒューゴ氏の傍に控え、黙って事の成り行きを見ていたリオンだった。

 

「何ですか、リオン……様?」

「さっきから聞いていれば、無茶な話を次から次へと……一体何があった?」

 

 ──親が親なら息子も息子か。親子揃ってロクなことをしない。

 このことは、できるだけ国王その他に聞かせたくなかったのだが……

 

「何があった、とは?」

「……今のお前は、妙に気が急いているように見える。何か不測の事態が発生したから飛行竜の件にかこつけて、客員剣士をやめたがっているようにしか見えないぞ」

 

 まったくもってその通りである。

 これだから突発的な状況に流されない冷静な奴は、と内心歯軋りをしていると、不意にシャルティエの声が聞こえてきた。

 

『ねえフィオレ、一体何があったの? 僕たちそれなりに付き合いあったと思うけど、今までそんなに焦ってるような君は見たことなかった。僕らには、手伝えないこと?』

『……焦っていることは認めましょう。手伝えるか否かは、わかりかねます』

 

 念話でそれだけを答えて、小さく息をつく。

 そしてフィオレは、覚悟を決めた。

 

「実は道中、ストレイライズ神殿にて異常が発生していると聞きました。魔物の襲撃に遭い、全滅したと……神殿にはお世話になっておりますゆえ、心配なのです。一刻も早く、噂の真偽を確かめたく思います」

 

 そのためにヒューゴ氏と長期休暇、あるいは契約破棄の交渉をしたかったのだが……フィオレはそのままそういった目論見があることを白状する羽目になった。

 そんな勝手な話を持ち出されて、憤慨するかと思いきや、かの総帥は思わしげに顎へ手をやっているだけだ。

 そして、思いもよらない一言が飛び出した。

 

「奇遇だな。私もそれを、陛下に進言しようとしていたところなのだよ」

「……?」

「先ほど、君の登場であえなくご破算となったがな」

 

 何の話だか、さっぱり検討がつかない。

 フィオレが戸惑っている間に、ヒューゴ氏は国王へと進言を始めていた。

 

「改めて提案いたしましょう。彼らを、客員剣士フィオレンシアと共にストレイライズ神殿に派遣しては」

 

 ということは、ヒューゴ氏も神殿の異常に気づいていたということか。

 あるいは、ダリルシェイドにはとっくにそういった報告が寄せられていて、誰を派遣させるのか思案中だったか……

 渡りに船とはこのことである。しかし。

 

「ヒューゴ様、私は……」

「君の意見はわかったが、しばらくその件は保留だ。君が神殿から戻ってきた頃、審議も終わっているだろう」

 

 反論はいくらでもあるが、今は神殿の方が先だ。

 神殿行きが確定したことで、満足しておくことにする。

 

「しかし、それは今し方任務を終えたばかりの彼女には酷です。罪人三人を監督し、あまつさえあの神殿へなどと……」

「責任者としてリオンをつけましょう。そして、囚人監視用に作らせたこの装置を取り付けさえすれば、逃げる心配はありません」

 

 イスアードの言葉を即座に却下し、ヒューゴ氏は衛兵にスタンを抑えるよう言いつけた。

 何をするつもりなのか、おもむろに取り出した額冠(ティアラ)らしきものをスタンの額に無理やり取り付ける。

 

「ふむ。これでもう、縄を解いても大丈夫でしょう」

 

 言うとおりに、衛兵が彼の縄を解く。

 一応警戒のためか、衛兵に取り押さえられたスタンを指しつつ、ヒューゴ氏は説明を始めた。

 

「さて、この装置は遠隔操作によって激しい電撃を発生させることができます。それでは、お目にかけましょう」

 

 手元にある小型レーダーの取り付けられている操作盤を起動させる。

 瞬間。

 

「うわぁっ!」

 

 バチバチッ、という電撃特有の異音と共に、スタンが悲鳴を上げてその場にぶっ倒れた。

 

「「スタン!」」

 

 二人分の悲鳴は関係なかろうが、ヒューゴ氏はすぐに電源をオフにしている。

 倒れたスタンの容態を見てみるが、幸いにも外傷はないし、痺れが残っているようでもないらしい。

 つまり、人体に対してかなり強力な電撃なのだろう。

 電流とは弱ければ弱いほど体内を駆け巡り、強ければ強いほど体の表面にはじかれるものである。

 

「今は加減をしていますが、無理やりに外そうとすれば、致死量の電流が発生します」

「なるほど、逃走を試みた時にはその装置で抑制するのだな」

「その通りです。監視役が二人もいれば、十分かと」

 

 納得している素振りを見せるものの、しかし国王はどこか逡巡していた。

 その様子にいち早く気付いたのは、やはりこの人である。

 

「何かわけがあるようですな? ですが、黙っておいでではわかりかねます」

「わかった……皆の者、ここでの事は他言無用だ。ヒューゴよ、神の眼の名を聞いたことはあるな?」

 

 ヒューゴ氏の言葉も最もだと思ったのか、国王は存外あっさりと事情を話し始めた。

 それにしても、神の眼とは……

 

「あの、古の伝説の天地戦争における最終兵器ですな」

「そうじゃ。それがストレイライズ神殿の地下に安置されておる」

 

 ──ストレイライズ神殿の地下に、安置されている!? 

 ヒューゴ氏がなんかわざとらしく尋ね返しているようだが、そんなことはどうでもよかった。

 ということは、フィオレが一度垣間見た、ご神体と聞いたアレが……まさか。

 声が掠れていることはわかっていたが、聞かずにはいれなかった。

 

「その……神の眼とやらは、どのような、代物なので?」

「直径六メートル、これまで確認されている中で最大級の大きさを誇るレンズだ」

 

 レンズと聞いてルーティが瞳を輝かせたような気がするが、ささやかなことである。

 間違いない。

 フィオレが守護者と契約するきっかけを作った、あれが神の眼だ。

 今の今までまったく気にしていなかったが、違う意味でも胸騒ぎがしてきた。

 フィオレの異変など一切気付かれることなく、話は進んでいく。

 

「ちょっと、そこのおっさん。神の眼だか悪の眼だか知らないけど、ちゃんと報酬をくれるんでしょうね? そうでなきゃ、こんなのやってられないわよ!」

 

 額冠(ティアラ)を取り付けられ、ようやく捕縛の縄から解放されたルーティは、ヒューゴ氏に報酬は出ないのか、と迫っていた。

 流石に国王にそれを要求するのはためらわれたらしい。

 

「おい、お前、罪人の分際で! 口を慎め!」

「何よ!」

 

 すかさずリオンがたしなめるも、こうなったルーティが黙るとも思えない。

 応じようとしたリオンだが、他ならぬヒューゴ氏に押し留められている。

 

「元気のいいお嬢さんだな。命だけでは報酬が足りないというらしいが……ルーティ君、だったね? 今は約束できないが、成功報酬ということでは?」

 

 ──ヒューゴ氏からルーティの名を聞いて、ひとつ思い出したことがある。

 確か彼は、以前酔いつぶれた際にその名前を呼んだ。

 すまないとか何とか抜かしていた気がするが、名前が同じだけの偶然だろうか? 

 フィオレの疑惑をよそに、やはり話はどんどん進んでいく。

 

「君たちが見事に任務をやり遂げたなら、私の方から報奨金を出すことにしよう。それだけ責任の重い任務だ。何か励みがなければ、やる気も起きないだろう。陛下。それでかまいませんかな?」

 

 ヒューゴ氏の問いに、国王はさらりと肯定する。

 自分の懐が痛まないからか、それともヒューゴ氏の言うことをいちいち最もだと思っているからなのか。

 

「決まりだ。後で私の屋敷まで来なさい。君らに渡しておくものがある。私の屋敷はダリルシェイドで一番大きな建物だ。間違うことはあるまい」

「ヒューゴ様。一番ではありません。何番目かは知りませんが、絶対に」

 

 ここでフィオレは、かなり投げ遣りに彼の言葉を否定した。

 ヒューゴ氏は面白そうに、それは何故かを尋ねる。

 

「ダリルシェイドで一番大きい建物はこの王城でしょう。あのお屋敷も大概広うございますが、王城よりは大きくないでしょうに」

「ふっ、それもそうだ。それと……」

「まだ何かあるの?」

 

 いい加減うんざりしていたらしいルーティに、彼は自己紹介を忘れていなかった。

 

「私はオベロン社の総帥、ヒューゴ・ジルクリストだ。覚えておいてくれたまえ」

「げ、オベロン社総帥って……まさか、あのオベロン社!?」

 

 そういえば、レンズハンターである彼女にとってオベロン社は大切な顧客である。これ以降、彼女がヒューゴ氏に対して不必要な無礼を働くことはないだろう。

 何か用事でもあるのか、ヒューゴ氏が粛々とその場を辞する。

 その間に、リオンはフィオレが先ほどその場に置いたループタイを拾い上げた。

 

「これは僕が預かっておく。とはいえ、すぐ返すことになるだろうがな」

『そうだよ、フィオレ。ただでさえ今軍部は人手不足だってのに、そうそう簡単に辞めさせられるわけないじゃん』

「で、あたしたちは一体、何をやればいいのよ!」

 

 これまで一切のやりとりに口を挟めなかったルーティは、改めて依頼の内容を問いている。

 もっとも、国王を眼前にしても不機嫌さはまったく隠されていないが。

 

「お前たちには二つの任務を与える。一つは神殿の状況視察だ。大司教マートンに会って、事情を聞け。ただしマートンが不在ならば、誰でもいい」

 

 万が一、ということなのだろうが、いきなり誰でもいいとはまた乱暴な話である。状況がわからないのなら、仕方がないことだが。

 ちなみにフィオレは、マートンの顔を知らない。

 

「で、もうひとつは?」

「もし何かが起こっていた場合、全力をもって阻止することだ。手段は問わない」

「何かって、何です?」

 

 あまりに抽象的過ぎる言葉にスタンが詳細を尋ねるものの、国王の言葉はそっけない。

 

「それは現場の判断だ。その辺りはリオンの指示に従ってもらう」

「なんだってこんな子供の言うこと聞かなきゃいけないのよ。フィオレじゃ駄目なわけ?」

「じゃあルーティは、リオン様が言ったことを私が復唱すればそれでいいんですか?」

 

 ごねるルーティにそれを問えば、フィオレ本人からそんなことを言われるとは思ってもいなかっただろう彼女が沈黙する。

 苦笑して、フィオレはルーティの説得に当たった。

 

「リオン様は私の上司です。私よりも客員剣士としての経験は豊富ですし、腕も確かですから、まず心配はありませんよ」

「ふーん……それはそれは、とっても頼りになることで!」

 

 一応納得はしたようだが、リオンに嫌味を吐くことは忘れていない。

 半眼になったリオンに気付いていない国王は、確かめるように彼らへと言い渡した。

 

「神殿は王都ダリルシェイドから北東へ行った山の奥にある。ヒューゴの屋敷で旅の用意を整え次第、神殿に向かうのだ。よいな?」

「はい、わかりました」

 

 素直に答えたのはスタンだけである。

 フィオレもリオンも小さく頷いているだけ、ルーティもマリーもろくに返事をしていない。

 しかし国王はそれを咎めることなく、散会の宣言をした。

 ぱらぱらと謁見の間から人々が移動し、その中に混じるようにしてスタンたちを伴い歩く。

 やがて王城の外へと出てから、フィオレは初めてくるりと振り向いた。

 

「さて。スタンは初めてでしょうから、本来ならダリルシェイド城下町を案内してあげたいところですが、状況がそれを許しません。ヒューゴ様のお屋敷へ、参りましょうか」

「フィオレ」

 

 事務的にこれからの目的地を告げれば、何かマリーが普段と変わらぬ様子で話しかけてきた。

 しかし、妙に華美な額冠(ティアラ)のせいで微妙に真剣になりきれていない。

 

「助けてくれてありがとう、感謝する。お前の弁護がなければ、私たちはそのまま処刑されていただろう」

「……それは言わないでください。あなたたちのことを思ってしたことではありませんから」

 

 あれだけのことをすれば、フィオレが無条件に彼らを助けたように思うだろう。

 しかし真実は、フィオレのエゴによるものなのだ。

 

「っていうと……?」

「色々あるんですよ。平たく言えばあなたたちのことを、利用させていただきました。その報酬として、命だけは助かるよう便宜を計らっただけなんです」

 

 不思議そうに首を傾げるスタンに、かなりはぐらかして真実を伝える。

 しかし平たくしすぎたのか、ルーティにからかわれる始末だ。

 

「そんなこと言っちゃって。実は照れてない?」

「──事実ですよ」

 

 冷たい視線にさらされるよりはずっとマシだ。害があるわけでもなし、放置しておくことにする。

 そこへ。

 

「おい、いつまで無駄話をしているつもりだ」

「ああ、すみませんリオン様。行きましょうか」

 

 上司に冷たい声をかけられ、謝罪をしてから彼らを連れて歩き始める。

 ダリルシェイドは神殿での異変などどこ吹く風で、いつもと同じように賑わっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十八夜——垣間見える本性

 ダリルシェイド~ジルクリスト邸。
 ヒューゴさんの怒りが大爆発です。こっぴどく怒られます。
 わぁい、ひゅーごさんこわーい(笑)おこなの? 激おこなの? 



 

 

 

 

 

 

 

 

 リオンと共に、三人をヒューゴ氏の屋敷へ連れていく。

 その最中、それまで沈黙を貫き通していたシャルティエがぽつりと呟いた。

 

『フィオレ、なんか妙に親しげだよね』

『は?』

『だから、そいつらとさ。さっきの命乞いといい、今だって最短距離じゃなくてさ、わざわざ大通り歩いて観光案内っぽいことしてるしさぁ……』

 

 確かにその通りだが、何故彼はこんな妙に湿った声なのだろうか。

 そこで、ソーディアンマスター二人が反応した。

 

「この声って、あの時も聞こえた……」

「あのガキが提げてるソーディアン? 何独りでブツブツ呟いてんのよ」

『そーか、君らには聞こえるんだ。僕はソーディアン・シャルティエだよ。独り言なんか言ってないさ、フィオレと話していただけだよ』

 

 シャルティエの言葉に、もちろん二人はそろって首を傾げている。

 

「フィオレさんと? けど、何も言ってなかったような……」

『フィオレ、普通に話してくれない? この連中が納得できるように』

「別にかまいませんけど、それがどうかしましたか?」

 

 彼らからすればまったく脈絡のない言葉なのだが、もちろんシャルティエにとってはそうではない。

 

『坊ちゃんや僕と扱いが違うから、どういうことかなって。少なくともそいつらよりは、僕らの方が付き合い長いはずなのにぃ……』

「シャル。情けないことを堂々と抜かすな。フィオレが誰と親しげだろうが、僕たちの知ったことじゃないだろうが」

『だって坊ちゃん、僕は寂しいですよ! 今まで誰にでもそっけない態度だったからそういう性格なのかと思っていたら、ちょっと見ない間にあいつらとふっつーに打ち解けてるし! だったら常日頃からやーらかい印象のフィオレがいい!』

 

 ……これは、嫉妬のようなもの、という解釈で構わないだろうか。

 苦笑いを隠さずに、フィオレは飄々と答えた。

 

「つり橋効果ってやつですよ」

『へ?』

「男女二人がよく揺れるつり橋を一緒に渡ると、恋愛感情が芽生えやすくなるというやつか。何の関係があるんだ?」

「私は魔物に占領されて墜ちゆく飛行竜からスタンと協力して、命がけの脱出を果たしました。そしてルーティやマリーとは、直接対決をしています。異常事態を共にしているから、それだけ打ち解けるのも早いんですよ」

 

 我ながらわかりやすい説明だとフィオレはこっそり自画自賛しているが、シャルティエの追求は止まらない。

 

『坊ちゃんとだって直接対決してるじゃん。契約前にも、契約中でも……』

「契約中はあくまで修練です。契約前のあれは単なる諍いでしょう。ついでにリオンは社交性が低いので、一般人と同じように考えるのは間違っていると思います」

「……おい」

 

 リオンの不満そうな突っ込みは気にしない。

 幸い、リオンのことはシャルティエが一番よくわかっているらしく、それに関しての異論はなかった。

 それがリオンの機嫌急降下に拍車をかけている。

 

「まったく、無事に帰ってきたかと思えば、相変わらず口の減らない……」

 

 自覚はしているのか、くってかかることはせず口の中でぶつくさ呟くばかりだが。

 

「リオン。まさか心配してくれたんですか?」

「誰がお前のことなんか! ただ、その……知らせを聞いてマリアンが、心配していたから……」

「そうですよね。私がいなくなれば小うるさい指南役がいなくなって清々したでしょうに、お気の毒です。マリアンには後で謝っておきましょう。シャルティエも、心配かけてごめんなさい……いいえ。心配してくれてありがとう。次があったら、もう少し上手くやりますね」

『次なんて無くていいよ、もう……』

 

 そうこうしているうちに、一同はジルクリスト邸へと到着した。

 

「ふわ~、でっかいなー……」

「さっすがオベロン社総帥、いいところに住んでるわねえ」

 

 スタンは大口を開けて屋敷の全貌を視界に収めようとし、ルーティは周囲が閑静な高級住宅地であることを見抜いて皮肉気に口元を歪めている。

 それを見て、フィオレはまたもや既視感に駆られた。

 ルーティのその様子は、今違う屋敷の小型犬を撫でようとしたマリーの注意をするリオンがよく浮かべるものと酷似しているのだ。

 世の中には同じ顔の人間が三人はいるという。その類ということで、いいのだろうか。

 気を取り直し、フィオレは門番に近寄ると事情を話した。

 幸いヒューゴ氏から連絡はいっているらしく、あっさりとスタンたちの同行は許される。

 先頭を切って玄関を開いたリオンの第一声は、どこか苛立っているような声音だった。

 

「マリアン!」

 

 二度三度と呼ぶが、姿はおろか返事もない。

 

「ね、マリアンて誰? あいつの恋人?」

「ここの家政婦(メイド)長のことです」

 

 興味津々で、しかしこっそりと尋ねてきたルーティに小さく答える。

 と、リオンはここでマリアンを呼び出すことは諦めたらしい。

 

「いないのか?」

 

 確認するように言い、エントランスを歩き始める。

 その後に続いて二階へ続く階段を歩ききったところで、レンブラント老を見つけた。

 

「レンブラント爺か。マリアン、いやヒューゴ様はどこにおられる?」

「おや、坊ちゃん、いらっしゃい」

 

 ……部外者がいるというのに、この呼び方はいかがなものかと思う。

 いらっしゃい、という言い方でかろうじて誤魔化しているが、いい加減名前で呼ぶクセをつけたらいかがか。

 リオンもまた、その呼び名に憤慨している。しかし、理由は違うものだ。

 

「その呼び方はやめろと言ったはずだぞ」

「ヒューゴ様は書斎の方におられますぞ」

 

 しかし彼は一向に気にしていない。

 そのやりとりが引き金となり、これまで笑いをこらえていたルーティはあっさりと吹き出してしまった。

 

「アハハハ~、坊ちゃん、だって!」

 

 もちろん癇癪を起こした彼は、なんとヒューゴ氏から預かっていた額冠(ティアラ)操作盤の電源に触れている。

 しかし今ルーティが立っているのは階段だ。

 こんなところで電撃を食らおうものなら……

 

「きゃぁっ!?」

 

 咄嗟に手を伸ばしてルーティの腕を掴む。

 失念していたわけではないが、ルーティは現在感電中だ。

 そしてフィオレの手袋は、防水できても絶縁体仕様ではなかった。

 よって。

 

「んぎゅっ!?」

 

 勝手に悲鳴が喉の奥から飛び出し、身体が硬直する。

 しかしながらそのために、ルーティが階段から転げ落ちることはなかった。

 

「口の利き方には気をつけろ!」

「……リオン。多分それは、あなたの鬱憤を晴らす道具ではないと思いますよ……」

 

 静電気で逆立ったような気がする髪を軽く撫でつけ、ルーティの腕を引いて立ち上がる。

 彼はまったく悪びれる様子はない。

 

「罪人をかばうような真似なんかするから、そういう目に遭うんだ」

「……知らない人は幸せですね。ちょっと、羨ましいです」

 

 ついしみじみと、そんなことを呟いた。

 こういうとき、知らないことがどれだけ幸せなのかを思い知らされる。

 たとえば電撃を受けたことに対する苦痛。たとえば階段から転げ落ちた際の危険。

 経験であれ知識であれ、知らなければ注意を払うことも難しい。

 リオンがムッとしているのをわかっていて、フィオレは言葉を続けた。

 

「日頃の行いがこうだから、いつまで経っても子ども扱いがなくならないんだ、ってことをそろそろ学習してくださいませ」

「ときにフィオレンシア様。ヒューゴ様がお呼びですので、至急書斎へ向かってくださらんか」

 

 リオンを黙らせたところで、レンブラント老からそんなことを言われる。

 嫌そうな顔を隠さず、フィオレは了承を告げた。

 

「まったくだ。馬鹿をやっていないで、いくぞ」

「お待ちくだされ。ヒューゴ様はフィオレンシア様が戻り次第、一人で書斎へ来るようにとおっしゃられました。リオン様とお連れの方々は、大広間にてお待ちください」

「フィオレだけを……? 何故だ」

 

 怪訝な顔をするリオンだが、その理由まではもちろん知らないレンブラント老は首を傾げるばかりだ。

 

「普通に考えれば、謁見の間でのことでしょうね。勝手なことばかりしたから、さぞやお怒りになられていることでしょう」

「え……そうなんですか!? すいません、俺たちのせいで……」

「私が勝手にしたことです。謝罪は結構ですよ」

「自業自得だろう。精々叱られてこい」

 

 痺れた体を軽くさすり、片手を振って独り書斎へと赴く。

 廊下を曲がり、少し歩いて突き当たった先にて。フィオレは扉を叩いた。

 

「フィオレです。ただいま戻りました」

 

 すぐに入るよう促され、書斎へと足を踏み入れる。

 入ってすぐの、衝立のように設置されている本棚を避けるように進んだ先、ヒューゴ氏は佇んでいた。

 ちなみに後ろを向いている。

 

「──何故、呼び出されたのかはわかるか?」

「……雇い主たるあなたの意志を確認せず、独断にて客員剣士の辞任を陛下に迫ったこと、深くお詫び申し上げます」

 

 入るよう促された時といい、今の声音といい。

 ヒューゴ氏はこれまでに見たことがないほど不機嫌だった。

 今回はフィオレの非しかないため、ここは素直に謝り倒しておくことにする。

 しかし、彼はフィオレの予想を遥かに上回る質問を繰り出してきた。

 

「それはいい。あの国王があの程度の失態で君を手放そうなどとは考えるわけがない。私が問題としているのは、その先だ」

 

 ……気のせいだろうか。

 どこか、普段のヒューゴ氏とは声が違うような気がする。

 ここで初めて、彼はフィオレと向き直った。

 

「もしも私が神殿行きを考えていなかった場合、君は客員剣士を辞め……私と交わした契約を破棄してでも、目的を達するつもりだったのか?」

 

 窓から差し込む逆光のせいで表情はわからない。

 ……気のせいだろうか。

 ヒューゴ氏の瞳が、金色に輝いたような気がしたのは。

 

「長期休暇を申請するか、それが認められないのであれば、破棄を要求するつもりではありました」

 

 ヒューゴ氏の意図がいまいち読めず、事実を告げる。

 すると。

 

「ふざけるな!」

 

 叩きつけられるような怒声が木霊したかと思うと、フィオレは身体が宙に浮くのを感じた。

 ──否、違う。

 反応できないほど素早くヒューゴ氏に胸倉を掴まれ、背後の本棚に押し付けられたのだ。

 肺に急な圧迫がかかったせいで息がつまる。

 側頭部に鈍い衝撃を覚えたかと思うと、フィオレは無様に書斎の床へと倒れこんだ。

 とはいえ、総帥の書斎には上等な絨毯が敷かれている。

 自分がされたことと同様に、絨毯の毛足の長さに驚いていると、ループタイを引っ張られて顔を上げさせられる。

 今この場でようやく、フィオレはループタイを外すのを忘れていたことに気づいた。

 

「契約の破棄など断じて許さん! 二度とそんなことを考えるな」

 

 いくら凄まれても、未来は誰にもわからない。

 故に、安易には頷けない。

 

「聞いているのかっ!?」

 

 血走った眼、怒りのためか真っ赤に染まった顔色、口角から泡を飛ばす勢いでまくしたてるその傍で、衝撃でバランスをくずした本棚から書物が派手に飛び出していく。

 直後、物音を聞きつけたのだろう。

 バタバタと廊下を走る音がして、ノックもなしに扉が開いた。

 

「大丈夫ですか!? 何かあっ……」

「この馬鹿者、いきなり開けるんじゃ……」

 

 ──競争における脚力はスタンのほうが上らしい。

 飛び込んできたスタン、それをいさめるリオンの声が止まる。

 本棚は派手に倒れて書物が散乱し、総帥は尋常とは程遠い様子で倒れたフィオレの顔を上げさせ、凄んでいるのだ。

 絶句するな、というほうが無茶な話である。

 ともあれ、このままでいいわけがない。

 少し遅れて二つの足音が止まった瞬間、フィオレはヒューゴ氏に掴まれているループタイを短刀で切断した。

 

「え……えっと」

「お話は済みましたね? それでは、私は報告書を仕上げますので、また後ほど」

 

 床に転がるループタイだったものをそのまま、足早に書斎を後にする。

 今頃誰もがバツの悪い思いをしているだろうが、知ったことではない。

 それよりも、フィオレの頭の中は今しがたの出来事に囚われていた。

 

(……いってて)

 

 受身を取り損ね、まともに打ち付けてしまった身体をさする。

 ルーティを通して電撃を浴びた直後で、身体は確かに麻痺気味だった。

 それでも、若い頃考古学に勤しんでいたがどうだか知らないが、男性とはいえど一般人に掴みかかられて避けられないというのは、恥以外何者でもない。

 真相を知れば、間違いなくリオンは馬鹿にするだろう。

 それはいい。よくはないが、実害はない。

 それよりも、問題はヒューゴ氏だ。

 あの変貌ぶり、マリアンに続いて彼にも二重人格の疑いがでてきた、ということなのか。

 これまで、常識的に考えればフィオレは彼を怒らせるような真似をいくつもしでかしている。雇われた当初から長居をするつもりなどさらさらなかったから、早いうちから彼に嫌われるよう心がけてきのだ。

 その真意を気取られぬよう、契約破棄のことに関しては一切触れてこなかったが……まさか、あれほどの過剰反応を見せるとは。

 あの形相の変わりようを思い出すと、あの瞬間だけ別人と入れ替わっていたと考えたほうがまだ納得できる。

 

「まさか──ね」

 

 そんな馬鹿馬鹿しい、妄想にも等しい推測を払いのけて、先ほどから鈍痛の走る側頭部を撫でる。そこは指で触れてわかる程度に膨れていた。髪に隠れて詳細はわからないが、おそらく出血はしていない。

 私室へと戻り、そしてフィオレは、引き出しを開けた。

 まずはあの、思い出すだけで憂鬱になる飛行竜での出来事を報告書にまとめなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






「おこ」→「激おこ」→「激おこぷんぷん丸」→「ムカ着火ファイアー」→「カム着火インフェルノォォォオオオウ」→「激おこスティックファイナリティぷんぷんドリーム」→「憤怒バーニングファッキンストリーム」→「大噴火レジェントサイクロンフレアァァッ」
 調べてみて初めて知りました(笑)「おこ」って、こんなに種類豊富なんですね。
 ヒューゴさんの中身は多分「激おこスティックファイナリティぷんぷんドリーム」状態です(笑)


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第三十九夜——出立前夜~真夜中の茶会

 ダリルシェイド、ジルクリスト邸、夜。
 ヤなことの後には甘いもの。
 スタンとリオンと、ささやかにお茶会を。


 

 

 

 

 

 それまで羊皮紙の上を踊っていた羽根ペンを、ペン立てに差す。

 作業にひと段落つけたフィオレは、腕を伸ばして伸びをした。

 報告書作成などというそう難しくもない作業に、何故これだけ時間がかかるのか。それは、一重にフィオレの個人的な事情による。

 実を言うとフィオレは、こちらの世界の文字を完全に習得したわけではない。簡単な文字の読み書きならいざ知らず、軍部に提出するような正規書類をそらで作ることはできないのだ。

 これまでは見習いとしてリオンと合同の任務を請け、当然のように責任者であるリオンが書類を作ってきた。それを横目で眺めていたために何を書けばいいのか大体はわかるのだが、それだけでは無理があったらしい。

 仕方なく、まずはフォニスコモンマルキス──フィオレがこれまで使ってきた文字で原文を完成させた。後は辞書を使い、こちらの世界の文字に意訳するだけだ。まあ、それが一番時間のかかる作業なのだが。

 ふと部屋の中を見回せば、すっかり暗くなっている。気付かぬうちに、フィオレは手元のランプだけで作業をしていたらしい。

 鎧戸を閉めてカーテンを引き、レンズ式の照明を灯そうとして……やめる。

 もうひと頑張りするために気分転換をしようと、フィオレはキッチンへ向かって歩き始めた。

 その途中、リオンの私室前に佇むスタンを見つける。

 ──フィオレたちがヒューゴ邸にやってきたのは午後、それも夕方だ。

 ヒューゴ氏との話を済ませてすぐ私室にこもったフィオレにはわからないが、何も知らせがなかったことからして、出発は明日へ延期ということになったのだろう。

 

「こんばんは、スタン」

 

 今まさにドアノブを掴んだスタンに声をかければ、彼はびくっと身体を震わせてフィオレを見た。

 

「あ、こ、こんばんは」

「リオンに何か用ですか? 扉を開く前に声をかけるかノックした方がいいですよ」

 

 しかし彼は、なぜか声かけもノックをする様子もなくドアノブから手を離している。

 そしてフィオレに話しかけた。

 

「フィオレさん、大丈夫ですか? あの時、結構大きな音がしたから……」

「勝手なことするなって、一発はたかれただけです。なんともありませんよ」

 

 実際は頭部にタンコブをこさえているが、実害がない限り支障があるとは言えない。

 それよりかリオンに用事があるのではと問い質してみるも、彼は首を横に振っている。

 

「フィオレさんの部屋を探していたんですよ。それで、リオンなら知ってるんじゃないかってディムロスが言ったから……」

「ああ、無事戻ってきたんですか。よかったですねディムロス。国宝と称されて、使われもせず宝物庫とかに閉じ込められなくて」

『まったくだ』

 

 どうして国宝級の代物をヒューゴ氏が預かっていたのかはまったくわからないが、罪人を監督する客員剣士たちの責任者ということで、国宝ではなく罪人の武装として預かった可能性が高い。

 

『スタンたちが妙に心配していたが、何かあったのか?』

「少々越権行為をしましてね。それが雇い主の気に障って、こっぴどく怒られたんですよ」

『……スタンたちが処刑されそうになったところを、話術を用いて弁護した、という話か?』

「処刑かどうかはわかりませんし、私の目論見を通すための方便です。スタンたちの身だけを案じたわけではありませんよ」

 

 自分のしたことながら、こそばゆい気分になる。

 そろそろつつくのはやめてもらえないかな、と辟易したところで、話題を変えた。

 

「あなたやリオンがここにいるということは、神殿への出発は明日ですか」

「はい。フィオレさんのこともそうだけど、今日はもう日が暮れるし、任務に向けてえーと……エーキを養ってほしい、ってヒューゴさんが」

 

 理屈はわかるのだが、囁かれていた神殿の状態を思い出し、焦燥の念に駆られる。

 一瞬にして心を乱したフィオレだが、そんな様子に気付いた風もなくスタンは続けた。

 

「そういえば、報告書って終わったんですか?」

「いえ、あと一息です。流石に疲れたので、お茶でも飲んで休憩しようかと」

「そうなんですか? でも家政婦(メイド)さんたち、もう寝ちゃってるみたいですけど」

 

 彼はフィオレが、人にしてもらわねばお茶を淹れることもできないとでも思っているのだろうか。

 否、そうでなければ家政婦(メイド)のことなど言い出さないだろう。

 

「でしょうね。自分で淹れるんですよ」

 

 半眼になるのをこらえて言い返せば、腹の立つことに彼は素直に驚いていた。

 

「スタンも一緒にいかがですか? お茶くらいなら振舞えますよ」

「いいんですか? じゃあ、俺も……」

「……さっきから、人の部屋の前で何をしているんだお前ら」

 

 突如として扉が開き、スタンが飛びのいたことで返事が途切れる。

 時間からして、明日のことを考えてもう床についているだろうと思っていたリオンが、不機嫌面で顔を出した。

 その姿は普段と変わりないが、マントは外されシャルティエも不在だ。

 

「まだ寝てなかったんですか」

「当たり前だ。明日神殿まで赴くのに、ルートを確認しない馬鹿がどこにいる」

 

 そんなに神経質にならなくとも、幾度かあの周辺に足を運んだことはある。

 それなのに今更ルートの確認をしているということは、つまり眠れないということでいいのか。

 

「緊張感を保つのも大事ですが、糸が切れても困ります。お茶でも飲んで、気分転換しませんか?」

 

 フィオレの誘いに、彼はしばし沈黙してからくるりときびすを返した。

 しかし、すぐに戻ってきて部屋から出る。

 腰には、シャルティエが提げられていた。

 

「そういえば、お前宛に見舞いの品と称していくつか菓子折りが届けられていたな。処分を手伝ってやる」

「左様ですか。ありがとうございます」

 

 そういえば、作業中洗面所へ行った際に家政婦(メイド)がそんなことを言ってきたような気がする。

 駄目になる前に皆で食べてくれ、と言ったが、届け主が手をつけていないのに勝手に開封はできない、とか何とか言っていたような。なら開封しておけば問題ないか。

 などとつらつら考えていると、今度はシャルティエが口を開いた。

 

『ところでさ、フィオレ。書斎で何があったの? すっごい音がしてたけど……』

『ヒューゴ様から怒られただけですよー』

『ホントに怒られただけ? だってフィオレ、倒れてたじゃん。ヒューゴ様に殴られたりとか、突き飛ばされたとか、ない?』

 

 ──こういった時、いかに普段おちゃらけていても、彼は伝説のソーディアンチームの一員なんだと気付かされる。

 見ているときは、しっかり見ているのだと。

 

『……だから、怒られたんですってば』

『否定しなかった……てことはやっぱり、殴られたか何かされたの!? 大丈夫!?』

 

 徐々に声のトーンをあげるシャルティエを、普段ならうるさいとリオンが怒り出すところだ。

 しかし、彼はなぜかシャルティエではなくフィオレを睨んでいた。

 

「僕の前で念話とやらを使うのはやめろといったはずだぞ。それで、何があった?」

「ねん……?」

『前にも話しただろう。フィオレは何らかの手段を使って、声を使わず我々ソーディアンに話しかけることができる。チャネリングの応用だが、リオンはそれを念話と呼んでいるのだろう』

 

 スタンの疑問をディムロスが晴らすものの、リオンはそれを否定している。

 こういった時、彼の性格ならいちいち反応はしなさそうなものだが……

 

「こいつが念話という単語を使ったから、こちらも話を合わせるために使っているだけだ。それで」

「……スタンたちにはお話しましたが、勝手なことをするなと怒られて一発はたかれただけです。神殿の異変に比べれば、些細なことでしょう」

 

 だんだんわずらわしくなってきたにつき、話題を強制的に終了させる。

 しかし、シャルティエはまだまだ黙らない。

 

『やっぱり! そうだと思ったよ、でなきゃあ君がそうそう倒されることなんてないもんね! でもフィオレ、いくら相手が雇用主だからって黙って殴られちゃだめだよ。避けるのなんか簡単でしょ』

「……さてと。何を頂きましょうかねー」

『あーっ、はぐらかすの禁止!』

 

 未だにうだうだ呟くシャルティエを無視して、キッチンへ入る。

 水を張ったケトルを火にかけ、その間にフィオレは準備をしていた。

 用意したワゴンの上にティーセットを並べ、茶葉が種類別に収納されたバスケットを取り出す。

 更に部屋の隅に積まれていた菓子折りを適当に取り出してテーブルに放った。

 

「シャトーガーデンのバターマドレーヌに、ラビットダンスのこうさぎサブレ。リリーホワイトのチョコクッキーにロード・シャンゼリゼのラングドシャ。こんなもんでいいですね」

「夜中にどれだけ食べるつもりだ、お前は」

『そうだよ。夜中に食べると太るんだよ』

「これからいやでも消費しますから、問題ありません」

 

 各菓子を一種ずつ取り出し、小型の籠に盛って二人の前に並べる。

 最後に自分の分を取って、フィオレはとある菓子を見つけた。

 

「あ、麗月堂の半月羊羹発見。もらっておきましょう」

 

 さりげなく茶請けのレパートリーを増やし、蓋が騒ぎ始めたケトルを持ち上げ、代わりに手鍋を置く。用意したティーカップに湯を注ぎ、素早く中身を手鍋に移した。

 移してすぐに、手鍋の底からポコポコと気泡が浮かぶ。レンズ式加熱機の電源を落とし、適量の茶葉を投下して蓋をした。

 待つこと少し、適量より少し多めにミルクを注いで撹拌しつつ、再びレンズ式加熱機の電源を入れる。沸騰する直前に手鍋を持ち上げ、茶漉しを通してティーカップに注いだ。

 ソーサーとセットで二人に提供する。

 

「ロイヤルミルクティーでございます。お眠りになる前ということでミルクを多めにしてみました。どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

「……聞き流した方がいいぞ。まともに付き合うと肩がこる」

「その時は、責任もって揉み解してあげますよ」

 

 妙に気取ったフィオレに合わせてなのか、スタンが妙に緊張した様子で礼を言った。

 それを見かねてなのか、リオンが呆れたように忠告するも、フィオレは軽口で返している。

 

『にしても、フィオレってホント小器用だよね。何やっても手際いいし、今の言い方だってすんごく堂に入ってるし。一体どこの名家で家政婦(メイド)やってたのさ?』

 

 異世界の一国家の首都、王城にお住まいの姫君のところで侍女を五年ほど。

 もちろん、そのまま答えたら面倒くさい事態は避けられない。なので。

 

「淑女のたしなみです」

 

 適当にお茶を濁す。

 そのまま自分の茶を淹れていると、何やらひそひそ声でシャルティエの呟く声が聞こえてきた。

 

『坊ちゃん、疑惑再浮上ですよ。あんなこと言い出すってことは、本当に名家のご息女なのかも……』

「知るか」

「あ、おいしい」

 

 シャルティエの言葉をリオンが一蹴する隣で、スタンが紅茶に口をつける。

 リオンもまた一口含み、相変わらずの辛口批評を呟いた。

 

「……飲めなくはない」

 

 自分で飲んでみると、茶葉を少なめにしたことが災いしたのか、ミルクの味が出すぎている。

 それでも、牛乳があまり好きではないらしいリオンが飲めるならば幸いだと、フィオレは茶菓子を手に取った。

 

「フィオレさん、お茶淹れるの上手いんですね」

「わかるんですか? あんまり飲み慣れてるようには見えませんが」

 

 失礼な話だが、彼の出身から察してあまり嗜好品に縁があるとは思っていない。

 最悪、変な味だ、飲めないの二言で終わっても仕方がないと思っていたところだ。

 しかし、そんな予想に対して彼は嬉々として茶をたしなんでいる。

 

「マナーとかは知らないんですけど、妹が料理好きでお菓子とかよく作るんですよ。それで一緒に紅茶とか飲むんですけど、それよりずっと美味しいです」

「それは一重に茶葉の高級さが違うからだと思いますけど」

 

 あるいは淹れ方が自己流か、保存方法がぞんざいなだけか。

 文句を言っていたわりにはしっかりと茶菓子を平らげたリオンの茶がまだ残っているのを見て、砂糖壷と小匙を渡す。

 

「いれすぎ厳禁です。太らないかもしれませんが、歯に穴があきますよ」

「うるさい」

 

 次いで、自分の茶を飲み終えたフィオレが再びケトルを取った。

 湯を沸かす傍ら、違う茶葉を取り出して先ほどとは異なる手順で淹れていく。

 そもそも使っているカップは先ほどのものではなく、取っ手のない円筒形だ。

 

「不思議な形ですね、そのカップ」

「またアレを飲むのか。つくづく物好きな奴だ」

 

 興味深そうに見やるスタンに対して、リオンは呆れたように肩をすくめている。

 

「アレって?」

「濁った緑色の茶だ。アクアヴェイル産のものらしいが、渋くて飲めたもんじゃない」

「へぇ~……フィオレさん、俺にも淹れてもらえますか?」

「いいですよ。お試しサイズでどうぞ」

 

 そう言って、フィオレが取り出したのは白い陶器の猪口だった。

 ティーポットがそのまま平たくなったような形の茶だし──急須で注ぎ、スタンに出す。

 

「玉露でございます。お熱くなっておりますので、お気をつけくださいませ」

「どれどれ?」

 

 まるで夏、池に繁殖した藻みたいな色だと内心で思いつつ、フィオレの手前一口飲む。

 彼の感想は──

 

「渋い……かな? 結構さっぱりしてて飲みやすいけど」

「舌が死んでるんじゃないか」

 

 リオンの感想と見た目から想像したよりはまともな味に、スタンは首を傾げながらも飲み干した。

 リオンは本気なのか冗談なのかわかりにくい一言を放つも、すでに二人は気にしていない。

 

「気に入ったなら、もっと飲みますか? こっちの羊羹と一緒に食べると最高ですよ」

「じゃあ、頂きます」

 

 リオンには理解が得られなかったアクアヴェイル産の茶が好評なのが嬉しかったのか。

 フィオレは同じ円筒形の湯呑みを取り出して菓子と同時に提供している。

 

「この……ヨーカンっていうの、不思議な触感ですね。柔らかくてすごく甘い」

「お気に召しませんか?」

「いえ、お茶がさっぱりしてるから、合いますね。うん、美味しい」

「それはよかった」

 

 スタンの口に合ったのが嬉しいのか、話の合うことが嬉しいのか。

 フィオレは明らかに嬉しそうに羊羹を口に運んでいる。

 

『……なんか、複雑じゃないですか?』

「何がだ」

『だぁって、あんなにニコニコしてるフィオレ見たことないですし……坊ちゃん、これってジェラシーって奴ですかね。なんか、妙に腹が立ってきました』

「……」

 

 確かに、ここまで雰囲気の柔らかなフィオレは珍しい。

 これまでリオンはフィオレと接してきて、負の感情以外がむき出しになったところなど見たことがなかった。

 いつも事務的に淡々と、時として感情など存在しないのではないかと思わせるほどに涼やかな、悪く言えば冷たい印象しか知らない。

 ちらり、とスタンと談笑するフィオレの顔を見やる。

 へらへらしているわけでもなければ、にやにやしているわけでもない。ただ、表情を緩めているだけだ。

 それなのに、別人かと思えるほど雰囲気が和らいでいる。

 その瞳がスタンのみを映していることが、異様に腹立たしくなった。

 彼女が隣に座っているのをいいことに、円筒形のカップ──湯呑みを取り、くい、と傾ける。

 

「あ」

 

 一口飲み、その味を知ったリオンは驚いた顔で見やるフィオレをじろりと睨んだ。

 

「この間僕に飲ませたものと、味が違うじゃないか」

「そりゃそうですよ。あっちとは種類も値段も違います」

 

 気に入ったのなら、ということなのか。彼女は無言のまま切り分けた羊羹を薦めている。

 一口サイズのそれを口に含んで、リオンはがたりと立ち上がった。

 

「ひとつ貰うぞ」

 

 それはつまり、彼もまた緑茶が気に入ったという証だ。

 淡く微笑んだフィオレは、一人前の緑茶を用意してリオンへと渡した。

 

「やっぱり、異文化であっても美味しいものはわかるんですね」

『っていうと?』

「この間のものより、こっちのほうが遥かに高級で高値なんですよ」

 

 そもそも、アクアヴェイル産の物品はカルバレイスを経由しているため、手に入りにくい上に関税がしっかりとかかっている。

 これは、現在アクアヴェイルとセインガルドが国交断絶状態であるが故だ。

 それでも鎖国していたアクアヴェイル独特の文化を好む人間は多いのか、出すものさえ出せば大抵のものが手に入る。

 茶葉であったり、湯呑みであったり、急須であったり、猪口であったり。

 渡される給金の大体を細々とした日用品以外には使わず貯めこんでいるフィオレだが、こういった嗜好品に対してまったく金に糸目をつけていない。

 

「そんなことはどうでもいい。お前、未だに僕への報告がないだろう」

「今現在、鋭意報告書作成中ですが」

「すぐ任務に入るのに、そんなものを読んでいる暇はない。この場で何があったのかを話せ」

 

 確かにその通りである。

 彼の言い分に納得したフィオレは、先ほどまで作っていた報告書の原文をそらで唱え始めた。

 その中では、一応スタンのことを真実そのままに練りこんである。ここで誤魔化したら、後々不利になるのはフィオレだ。

 嘘をつくのが上手いとはお世辞にも言えないスタンの性格を考慮した結果である。

 ウッドロウのことは「ジェノス付近の一軒家にいた民間人」ということにした。「住んでいた」ではないので嘘ではない。

 ここで王族の名を出しても、話がややこしくなるだけだ。素直に伝えるつもりはなかった。

 つらつらと語られるフィオレの報告を一言一句聞き、話のくだりがハーメンツにさしかかったところで、リオンは口を挟んだ。

 

「その辺りはいい。しかし、飛行竜が大量の魔物によって襲撃されたというのはどういうことだ。しかも明らかに違う種類だとわかる魔物が、連携して……」

「さっぱりわかりません。人為的だとして、可能性があるのは魔物使い(モンスターテイマー)くらいだと思います」

「魔眼持ちの仕業だとでもいうのか? 馬鹿馬鹿しい、単なる迷信に決まってる」

 

 納得のいく議論はないまま、話題は更なるものへと転化する。

 時折スタンが口を挟むことで脱線した話題はそのまま忘れ去られ、夜も更けたところでお開きになった。

 片付けの際、フィオレが出がらしの濃いお茶を淹れて私室へ持ち込んだのは、無論のこと徹夜のためである。

 

「……まずい。休憩しすぎた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十夜——懐かしき旅路~そして神殿へ

 ダリルシェイド~アルメイダ。
 諸々の準備を済ませ、箒に乗ってひとっ飛び。
 一同を追い抜かして、一人で悩んで悶々として、カオスな事態を招いて、皆を威嚇する、と。


 

 

 

 

 

 

 

 次の日のこと。

 一行はストレイライズ神殿へ向けて出立するべく、ジルクリスト邸庭園に集合した。

 ディムロスに怒鳴り起こされたらしいスタンに、せっかく贅沢な客室を提供されたのに、外せない額冠(ティアラ)のせいで快眠ができなかった、とぶーたれているルーティ。

 ジルクリスト邸の花壇で咲き誇る花々を愛でるマリーに、緊張感の見られない彼らの態度を見るや、額に四つ角を刻んだリオン。

 

「で、なんでフィオレがいないのよ」

「報告書を仕上げていないからだ。あいつのことだからすぐに追いつくだろう。だからきりきり歩け」

「命令するんじゃないわよ。偉そうに」

『一応、客員剣士って偉いんだけどね』

 

 至極まっとうな反論をするシャルティエだが、不機嫌なルーティにそんなものは通じない。

 

「フィオレが偉いのは認めるわ。地位はあんたの部下で見習いだかなんだか知らないけど、誠意を見せてくれたもの。だまされたのは癪だけど、考えてみれば嘘はつかれなかったわけだし」

『どうしてそこでフィオレが出てくるのさ』

「いくらフィオレの上司で先輩で、客員剣士として優秀だったとしてもよ。無闇に高飛車だったり暴力的な奴に、素直に従えなんて無理よ無理。反対の立場になって考えるとか、できないのかしら?」

 

 ルーティの持論もけして間違ってはいないのだが……彼女の立場では、逆効果だった。

 

「犯罪者の立場なんか、誰が考えるか」

「喧嘩売ってるのクソガキ!」

「喚くな、ヒス女」

 

 先ほどから、ジルクリスト邸の庭園から一歩も出ていないのがよくわかる。

 辞書を片手に羽ペンをがりがりと羊皮紙の上に走らせるフィオレは、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 客員剣士見習いになって以降、幾度となく世話になってきたせいか、手垢で汚れてぼろぼろになっている頁をめくり、締めの一文を書き連ねる。

 せっかくまだリオンがいるのだ。利用しない手はない。

 

「リオン!」

 

 窓を開け放ち、書類を携えてひらりと身を躍らせる。

 声に反応して頭上を見上げたスタンが、あんぐりと口を開けたのが見えた。

 身体をひねって彼の眼前に着地し、そのまま報告書を突き出す。

 

「誤字脱字チェック、お願いします」

「……」

 

 否とも応とも答えず、リオンは突き出された報告書を受け取る仕草もないまま、書面を覗き込んだ。

 数十秒後、唐突に書面から視線を外してフィオレを見る。

 

「そのまま提出して恥をかいてこい」

「じゃあ検閲のサインください」

 

 持参した羽ペンと検閲済みを認める書類を差し出し、リオン・マグナスの走り書きを頂戴した。

 そしてくるりときびすを返す。

 

「あれ、報告書できたってことだよな? だったら、もう少し待ってれば一緒に行けるんじゃ」

『無理だよ。報告書できたってまだやることあるんだから。ヒューゴ様からも検閲サインもらって、軍部に提出して、受理してもらわないと終わらない。それにまだ旅支度してないだろうし、待ってたら半日は経つね』

「そういうことだ。あいつもそれは承知の上だからな、構うなと言っている。行くぞ」

『……この面子で大丈夫なのか?』

 

 ディムロスの、心なしか不安げな一言を最後に、彼らはジルクリスト邸を出たらしい。

 優雅に読書をしていたヒューゴ氏の書斎を蹴り開けてサインをもらい、軍部に提出するべくフィオレが再び外へ出たそのときに彼らはいなかった。

 街中を突っ切り、軍本部に提出して受理証を得る。

 それを持ち帰り、フィオレはやっと旅支度を始めた。

 軍本部からジルクリスト邸に移動中、フィオレは城下町にてストレイライズ神殿についての情報を収集している。

 はっきりしたことは一切わからないが、神殿の巡礼者から聞き出した情報によると、確かに何らかの異常事態には陥っているらしい。

 普段は神殿の出入り口を護る僧兵の姿どころか、普段神殿内にて活動する神官たちの姿が一切見られなかったようなのだ。一番大きいのは、それまで神殿の周囲で商売を行っていた者たちの姿もなくなっていた、ということである。

 つまり神殿内部ではなく、神殿に関するすべてに異常が発生したということなのだろう。

 

(……やっぱり、ムリかなあ)

 

 人がいないということを聞き及んだ時点で、抱えた焦燥とは裏腹に、フィオレは最悪の事態を想定していた。

 特に彼女は、いかに清らかな心の持ち主とはいえ、身を護る術を心得ていないのだから。本来真っ先にあきらめるべき対象なのである。

 せめて事実さえ知ることができればいいと願いながら、フィオレはジルクリスト邸の物置から手頃な箒を取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シルフィスティアの力を借りて、疾風に身を任せること、しばし。

 箒にまたがり続けていたせいで股関節が悲鳴をあげてきた頃、とある村が見えてきた。

 フィオレが神殿を出て、初めて足を踏み入れた人里──アルメイダだ。

 上空から見下ろした限りでは、リオンたちは見当たらない。まあ当たり前かと思いつつ、少し離れた森の中に着地する。

 箒をどうしたものかと思いつつ、村へ足を向けた。

 アルメイダは、フィオレの記憶となんら変わりない。あれからどれだけ経ったのか、それを考えれば自然なことである。

 初めて泊まった宿、初めてレンズを換金したよろず屋、今ではフィオレの背中に眠るシストルを手に入れた露天商の立ち並ぶ通り。

 何一つとして、変わらない。

 強いて言うならば、道を行き交う人が少なくなっていることだろうか。村人にひきこもりが増えたわけではない、旅装姿の人間が見かけられないのだ。

 やはり、神殿の異変が響いているのだろうか。

 極力考えないようにしていた事柄が、不吉な想像と共に浮かんでは消える。

 人の姿がないというのは外側から見ただけのことなのか。それとも内部まで入ってのことなのか。

 

「──ストレイライズ神殿って、今どうなってます?」

 

 気付けばフィオレは、ストレイライズ神殿に関する情報を集めて回っていた。

 書類を提出がてら外出した際、かなり杜撰な聞き込みから得た情報とあまり差異はない。

 ない、が……聞けば聞くほど不安が広がっていく。

 この村でリオンたちと合流するつもりだったが、今すぐにでも神殿へ駆けつけたい。

 そんな願望が、フィオレを支配していく。

 ただ、たった一日でダリルシェイドからストレイライズ神殿へ行ったとなると、ただでさえ怪しまれている我が身。ますます怪しまれること請け合いである。のっぴきならない状況ならばまだしも、ただ焦って自滅するのは避けたかった。

 こんなことではいけない、頭を冷やさなければ。

 宿の前、段差の場所に腰かけ、シストルを取り出す。

 それなりに使っていたせいか、手に入れた当時張られていた弦は一本たりとも残っていない。フィオレが新しく張り替えたもののみが今はシストルを形成している。

 指を鳴らし、音程を確かめ、指を馴染ませて。歌唱はないまま、旋律だけの演奏を始めた。

 旋律とはいったものの、実際はそんなに大したものではない。気分転換を図りたい時によくやる、指遊びに近いものだった。

 頭の中を空っぽにするために、思いつきを気まぐれにシストルで表現する。もちろん、きちんとした旋律ではない。もしも聴衆がこれを聞けば、少なくともガルドはもらえないだろう。

 奏でているうちに、何かひとつ気に入った旋律を見つける。

 その旋律を吟味し、変奏し、その間に適当な歌詞を考えればひとつの曲が出来上がるわけだ。

 歌詞が浮かばなければ旋律止まりだが、フィオレにとってはなんら困ることはない。

 強いて挙げるなら、その旋律を思いつきでまたもや作ってしまうことが多々あるため、マンネリに陥りやすいことか。

 

 

 ♪ 色あせぬ星屑 優しき木々の囁き

 揺れる水鏡に 想いは募るばかり

 

 大切なものほど 失えば苦しいのに

 繰り返す痛みに 慣れることなど無く

 

 戻らぬは刻ばかり 後悔に意味はなく

 過ぎ去りし想い出 紡がれぬ夢物語り

 

 

 そして、どうとでも意味が取れる曲が出来上がったわけだが。

 気がつけば、一人変わったことをしている旅人が珍しいのか。それとも隻眼の吟遊詩人もどきに惹かれてか、人だかりができている。

 

「……あの人だかり、なんだろう?」

 

 人だかりの向こうから聞こえた声に、フィオレは素早くシストルを背中へ収納した。

 荷袋を背負い、人だかりを迂回するように彼らへ近づく。

 幸いにも、フィオレの聞き違いでもなければ人違いでもなかった。

 

「あれ、フィオレさん!?」

「遅かったですね」

 

 まともに驚くスタンに、飄々と近づく。

 人だかりに興味があるのかちらちらと視線を動かしているマリーに、スタン同様驚くルーティ。

 仏頂面が張り付いているようなリオンに、ソーディアンたち。

 

「ちょっとあんた、なんでもうこんなところにいるわけ?」

「だから言っただろう。こいつならすぐに追いつくどころか追い越しかねないから、さっさと歩けと」

 

 日が暮れようとしているこの時間にたどり着いたのは、フィオレのことを案じた彼らがわざと歩く速度を落としたものらしい。

 話題をそらすように、聞き込みがてら予約しておいた宿に一同を案内する。

 そしてフィオレは夕食の席で、ダリルシェイドとアルメイダにおける情報収集の結果を話して聞かせた。

 

「……そんなわけで、具体的に何が起こったのかは一切わかりません。その代わり、何か異変が起こったことだけは確定でいいと思います」

「すべては、実際に神殿へ乗り込まなければわからないということか……」

 

 妙にしんどそうに、リオンがぼやく。

 その様子に首を傾げたフィオレが何かあったのかを尋ねると、何のことはない。

 道中のやりとりがストレスだった、との内容だった。

 

「神経質な方ですね。知ってましたけど」

「お前の神経が図太いだけだ! こいつは聞いたばかりのストレイライズ神殿の方角を忘れるようなニワトリ頭なんだぞ」

「忘れちゃったものをどうのこうの言っても仕方がないでしょう。人間なんだから物忘れくらいします。でも、もう忘れないでくださいね」

 

 そーだそーだ、と、こっそりフィオレに声援を送るスタンにひと睨みくれて、リオンは兎型にカットされた林檎に手を伸ばしている。

 

「ところでルーティ、マザコンて……」

「だぁーってこいつ、あのマリアンって家政婦(メイド)長のこと義理の母親みたいなもんだーって言いながら意識してるのバレバレだし。違うっての?」

「いえ。実際の母親が子供にどういった態度を取るものなのか。それに対して子供はどのような反応を返すものなのか。私にはよくわからないので何とも言えません」

 

 その一言に、ルーティはつぶらな瞳を見開いてフィオレを凝視した。

 一方で、どうして彼女がそんな態度を取るのかわからないフィオレが言葉を続けている。

 

「ところでマザコンと、ただ親を慕う気持ちの違いを教えてください」

「へ? そ……そんなの知らないわよ! だけど、マザコンてのは基本的にどういった形であれ、母親に依存しているヤツのことを指すわ」

 

 依存という言葉を聞き、フィオレは内心で納得してしまった。

 確かに、リオンはマリアンに依存している。マリアン本人というよりは、マリアンという存在そのものに対してだが、言い訳はできない。

 しかし、それをフィオレがする必要はなかった。

 なぜならスタンが、フィオレが発した一言に興味を示したからである。

 

「そういえばフィオレさんて、出身はどこなんですか?」

「さあ。どこなんでしょうか」

 

 答えながら思う。

 ついに彼らに、これを吹き込んでしまう時が来た。

 なるべく嘘はつきたくないのだが。

 

「……って、どういう意味よ」

「なんだ、教えてなかったのか」

 

 怪訝そうにルーティが眉をしかめる中、リオンは意外そうに呟いた。

 そこでシャルティエのお節介が発動し、フィオレの美徳、というか我侭は護られる。

 

『フィオレ、記憶喪失なんだよ。ちょっと前、神殿の近くで発見される前までの記憶がなかったんだってさ』

「「ええ!?」」

 

 驚きに固まるスタンたちに構わず、リオンはその様子を見ることもなく淡々としている。

 

「あれからどのぐらいになる?」

「そうですね……半年過ぎて、一年は経っていないかと」

 

 指折り数えて、経過した年月を答えた。短かっただろうが内容は濃い。

 何せ、様々なことがありすぎた。

 意外そうにこちらを見るマリーが、絶句しているルーティたちよりも早く口を開く。

 

「そうだったのか。驚いたな」

「まあ、何も思い出していないわけではないので……」

「記憶喪失でも、何かを思い出すことができるのか?」

「人によりけりだと思います」

 

 ここで、凍結していた二人の時間が唐突に動き始めた。

 まず口を開いたのは、ルーティである。

 

「ハァ!? 何それ、初耳よ!」

「そりゃ、言ってませんから」

「水臭いわねもう、どうして教えてくれなかったのよ!?」

「聞かれませんでしたから」

「……確かに、聞いてないけど……」

 

 頬を膨らませてぶちぶち呟くルーティを、なだめに入ったのはアトワイトだった。

 

『ルーティ、落ち着いて。また記憶喪失者に会ってびっくりしたのはわかるけど……』

「半年と少し前に神殿をうろついてれば、フィオレを手なづけてレンズハンターにできたのに! ついでに噂の歌声も、行くトコ行くトコで披露させたのに……」

 

 取らぬ狸の皮算用もいいところである。フィオレは彼女に構うのをやめた。

 対照的に、マリーの件で耐性ができたらしいスタンは比較的冷静だ。

 

「そうだったんですか。じゃあ、神殿のことを色々言ってたのは……」

「神殿で一時期お世話になりましたので」

『しかし、その神殿は奇妙な状態に陥っているのだろう? 何事もなければいいが……』

 

 ふと、ディムロスの物言いを聞いて、ひっかかる。

 ソーディアンは天地戦争の勝利を掴むため開発された代物だ。その戦争で最終兵器だった神の眼が絡んでいるのかもしれないのに、この落ち着きようは……英雄と呼ばれし人格の賜物なのだろうか。

 万が一の可能性を考えて、フィオレは直接尋ねてみることにした。

 

『……ディムロス。もし、神殿の異変に神の眼が絡んでいるとしたら……』

『神の眼! 神の眼だと!?』

『神殿の異変に神の眼が絡んでいる!? ストレイライズ神殿には、神の眼があるということなの!?』

 

 ……万が一の可能性を考えて、正解だったらしい。

 その一言を口にした途端、ソーディアンカップルの様子は一変した。

 表情があれば、激変が拝めたことだろう。

 

「なんだよ、いきなり」

『どういうことだ、説明しろ』

『これから赴くストレイライズ神殿には、神の眼が安置されているんです。神殿の異常に関わっているかどうかはわかりませんが』

『なんてことなの……』

 

 公共の場につき、任務内容を他者に聞かせないがためにディムロスのみに対してチャネリングを使ったつもりだったが、アトワイトにも届いていたらしい。

 彼はすぐ、スタンにくってかかっていた。

 

『スタン! なぜ黙っていたんだ!』

「知らないよそんなの。ヒューゴさんから説明されたろ?」

『聞いていないぞ!』

 

 様子の激変は、普段物静かな印象を与えてきたアトワイトも同じである。

 やはり、あの神の眼に対しては過敏に反応せざるをえないのだろう。

 

「何なのよ、あんたたち。いきなりゴチャゴチャと……」

『ちょっとルーティ。あなた、これがどんなに重大なことかわかっているの!?』

「あたしは神の眼とかいうのを手に入れて、ヒューゴのヤツから報酬を受け取るだけ。これはあんたたちに関係ないでしょ」

『関係ないですむ問題ではないぞ!』

「落ち着けよ、ディムロス」

『これが落ち着いていられるか!』

 

 ……どこから突っ込めばよいものやら。もはや完全に世界はフリーダムと化している。

 特にルーティは勘違いもいいところ──というより、自分に都合のいいような解釈しかしていない気がするのは気のせいか。

 しまいには今すぐ神殿へ行け、と言い出したディムロスたちを何とかなだめて、早めに就寝させた。

 緊急事態が発生した際、取り乱した人間がいると一緒になって取り乱す人間と、その様子を見て必要以上に冷静になる人種がいる。

 フィオレは後者に属する人間で、飛行竜脱出時と同じく、この頃すっかりと落ち着いてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。一同はペースを上げて神殿へと赴いた。

 ディムロスたちが理由も言わずに急かす……という理由もあったが、最大の理由は一同にフィオレが加わったから、というものである。

 これまで、団体行動時には常にしんがりを歩いていたフィオレだが、今回は勝手が違う。

 正体不明の遺跡に潜るわけではないので、移動で体力を使っても探索はたかがしれているのだ。

 と、いうわけで。

 

「あの、フィオレさん。ちょっと歩くの、早くないですか……?」

『何を抜かす。これでも遅いくらいだ、情けないぞスタン!』

 

 加えて、今はディムロスたちの気が急いているという点もあるのだ。利用しない手はない。

 フィオレが倒れていた神殿周辺の森林を足早に抜け、遥か眼下にストレイライズ神殿を臨む。

 これまで魔物が飛び出してきても一瞬にして斬り捨て、省みもしなかったフィオレは初めて足を止めた。

 昨夜こそ落ち着いていたフィオレだったが、ここへ来てまったく余裕がなくなっている。

 進む最中で余計な口を叩くことはできなかったし、妙な胸騒ぎが不安に拍車をかけていた。

 見下ろした神殿を遠目から見る分には、なんら異常はない。

 そこかしこに人が倒れているわけでもなければ、血溜まりが見えるわけでもないのだ。

 ただ──胸騒ぎも、不安もなくならない。

 

「フィオレ、ちょっと休──」

 

 これまで、フィオレの異様な雰囲気に圧されてか何も言えず、息も絶え絶えについてきたルーティが何かを言いかける。

 眼を向けると、なぜかルーティは黙りこくった。

 

「あ、あはは、何でもな……」

「休憩を取りましょう。ひらけているこの場所なら、襲撃に気付きやすいし」

 

 彼女だけではなく、彼らも、そしてフィオレ自身も、移動に体力を使いすぎたことは重々承知している。

 神殿を見下ろすその位置で座り込んだのをみて、背後の彼らもまた腰を下ろし始めた。

 

「……ちょっと、一体どうしちゃったのよ。朝からなんか様子がおかしいと思ってたけど」

「僕が知るものか」

 

 ルーティがこそこそと、この面子ではフィオレをよく知るであろうリオンに苦情を申し立てるものの、彼もまた戸惑いを隠していなかった。

 

『無茶言わないでよ。僕らだって、あんなフィオレ見るの初めてなんだから』

「付き合い長いんじゃなかったのかよ?」

「お前らに比べれば、という話だ」

 

 彼ら三人が話しこんでいる間に、マリーは一人、神殿を見つめるフィオレに近寄った。

 気配と足音を感知したフィオレが抜刀しかけて、その正体を知って再び神殿を見下ろす形となる。

 

「──フィオレ」

「何ですかマリー」

 

 そこでようやくマリーが何をしているのか気付いたルーティが制止しようとするも、すでに時は遅し。

 彼女はフィオレの隣に座っていた。

 

「心配なのか? 神殿の知り合いが」

「はい」

 

 即答はしたものの、実のところフィオレが心配しているのはそれだけではない。

 守護者たちとの契約が完了次第はっきりすることだったが、フィオレがこの世界に招かれたことと、あの神の眼がまったくの無関係でないことは薄々感づいている。

 何せ、今までは存在しなかった手の甲のレンズは守護者たちに反応し、そしてあの神の眼にも強く反応したのだ。

 場合によっては、あの神の眼こそが『彼女』の本体である可能性もある。

 それが今は、なくなっているのかもしれないのだ。

 冗談ではない。

 あれが紛失すれば、おそらく命尽きるまで、この世界を彷徨うことになる。

 この世界にとって異質な存在であるフィオレがこの地で死することを守護者たちが許すとも思えないし、フィオレとてそんなものはごめんだった。

 

「気持ちは察するが、焦るだけでは何もならない。神殿でちゃんと調査ができるように、休んでおくべきだ」

「休んでいますよ」

 

 事実、フィオレは座り込んで楽な姿勢をとっていた。

 けしてリラックスしているわけではないが、身体に余計な力は入れていない。

 しかし、マリーは首を横に振った。

 

「そんな風にずっと緊張していたら、疲れるぞ」

「そればっかりはどうにも。緊張を解くのは、ことが終わってからにしますよ」

 

 ようやくここで、フィオレは笑みのようなものを浮かべてマリーを見ている。

 普段無口なマリーが何を思って話しかけてきたのかは知らないが、少し冷静になれたのは感謝するべきだろう。

 こういった時、フィオレは自分の大人げのなさを嫌になるほど自覚していた。

 ひとつの感情ばかりが先行して周囲を省みれないのは、視野の狭い子供の特徴である。

 事実、あの若年寄はこういった感情の先走りを垣間見せたことはあっても、けして長引かせることはなかった。

 この悪癖が、自分が歳相応に見られないことに拍車をかけているのだろうと、フィオレは分析している。

 理解こそしている。しているが、わかっていても治せないことが、ことさら自分の幼稚さを際立てているようで。

 フィオレは小さく、ため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十一夜——彼女の行方~彼女の焦燥

 ストレイライズ神殿到達。
 久々の神殿ですが、それどころではありません。
 移動中もそうでしたが、着いてからもかなり暴走気味です。
 フィリアの安否や、如何に。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巡礼者たちも神殿関係者も使う道を行き、神殿前へと到達する。

 見下ろした際と同じく、神殿は静かだった。否、静か過ぎた。

 

「妙だな……」

「あんたもそう思う?」

「どのへんが?」

「静かすぎる」

「そうね、人の気配が感じられないわ」

『もうみんな、死んでいるのかもしれないな……』

「行きましょう」

 

 考えたくもない言葉がディムロスから発せられ、それを振り切るようにフィオレは歩き始めた。

 

「ディムロス、なんてこと言うんだよ!」

「それを調べに来たんだろう。それと、あまりフィオレを刺激するようなことを言うな。こっちにとばっちりが来るんだからな」

 

 敷地内にある建物も、好き勝手を抜かす仲間達も無視して、一直線に神殿へと向かう。

 常ならば両脇に僧兵が常駐している出入り口をくぐり、エントランスを見渡した。

 物言わぬ骸がゴロゴロ……していたわけではない。ただ人がいないだけで、無造作に破壊されているような様子もない。

 見知った荘厳さと、見知らぬ無人の気配が、同居している。

 気味の悪さにフィオレが眉をしかめていると。

 

「フィオレさん!」

 

 スタンたちが追いついてきた。

 

「感傷にひたるのは勝手だが、独断行動を取るんじゃない」

「そうですよ。何があったのかもわからないのに、危険じゃないですか」

「──すみません」

 

 棒読みになっているのをわかっていて、フィオレは彼らに背を向けた。

 注意をされて拗ねているわけでもなければ、膨れているわけでもない。

 唐突に、どこか扉を叩くような音がしたのだ。

 

「誰かいませんか……?」

 

 気のせいではない証拠として、そんな呟きが聞こえる。

 更に神が何たら言っているが、それはどうでもいい。

 しかしこのようなことをのたまうということは、聖職者である可能性が高かった。

 

「おい、言ってるそばから貴様という奴は……!」

「──その声、アイルツ司教ですか」

 

 エントランス上部、主に神殿関係者が使う、知識の塔への通用口。

 階段を登って声をかければ、扉の向こうにいると思われる相手は驚きに声を跳ね上げた。

 

「誰かいるのですか!? 私は確かに、アイルツと申しますが……」

「ご無沙汰しております、フィオレです。数ヶ月前、神殿に世話になっていた」

「フィオレさん!? どうしてここに……」

 

 それを説明すれば、また無駄に時間が経過する。

 まずは扉を開けるよう指摘するも、どうやら立てこもっているわけではないらしい。

 

『結界が張られているな』

 

 ディムロスの言葉に従って見回せば、確かに扉の周囲には奇妙な儀式道具めいたものが宙を浮いている。

 

『これは……大昔に使われていた代物ね』

『どこかにある結界石を壊さなきゃだめだよ』

 

 ソーディアンズはそう言うものの、少しでも時間のロスを省きたい。

 どこかにあるものを探して広い神殿内をうろうろするなどと、そんなことをしていられる気持ちの余裕は今のフィオレにはなかった。

 

「ちょっと下がっていてください」

「おい、何をするつもりだ。シャルの言うとおり、結界石とやらを……」

 

 リオンの言葉など一切聞かず、フィオレはすでに集中を始めている。

 果たしてこの世界に、第零音素(ベースフォニム)が存在するかはわからない。

 それでも、試さずにはいられなかった。

 

「奏でられし音素よ。紡がれし元素よ。穢れた魂を浄化し、万象への帰属を赦さん──」

 

 結界装置と思わしき物体に向けた手の中に、仄かな輝きが灯る。

 そのことにより、ある事実を知ったフィオレだったが、動揺する素振りは見せずに術を編み上げた。

 発生した譜陣がフィオレ──術者本人と、対象の儀式道具の真下に出現する。

 

「ディスラプトーム!」

 

 光を宿した手を、足元の譜陣へと押し付けた瞬間。

 譜陣は眩い輝きを放ち、誰もの視覚を奪い去った。

 

「うわっ」

「きゃあっ!」

『おい、今度は何を……』

 

 咄嗟に目をかばえなかった約二名が悲鳴を上げるものの、効果範囲が狭く限定されていたためなのか、輝きはすぐに消滅している。

 視界が晴れたそのとき、フィオレを除いた一同は驚きに目を見張った。

 不気味な髑髏が、それを護るよう浮遊していた球体が、扉の直前を陣取っていた魔法陣が、消失している。

 

『……結界が、消失しているわ。まるで初めから何も、なかったみたい……』

『フィオレ、今のは初めて見たよ! ほんとに君の手品って、一体……!』

「失礼します」

 

 思った以上に平気な身体を動かし、スタスタと扉に近寄って取っ手に手をかけた。

 開いた扉の先には、荒々しく開かれた扉にか、それともフィオレ自身にか。とにかく驚いた顔をしたアイルツ司教が立っている。

 他にも数名の、神殿関係者と思しき人間が不安そうな顔でこちらを見つめているものの、フィオレが最も見たかった顔はない。

 フィオレが内心で落胆している間に、リオンはアイルツ司教に話しかけていた。

 

「司教か。大司教のマートンはどうした?」

「マートン様は……大司祭グレバムの造反により、命を落とされた……」

「で、例のものはどこにあるの?」

 

 アイルツは苦渋に満ちた表情と声音でそれを伝えるも、ルーティはまったく空気を読んでいない。

 司教は突然切り替えられた話題に、目を点にしている。

 

「は? なんですって?」

「ルーティ。それなら私が知っていますから、聞き出さなくとも結構です」

 

 ならば早く確かめに行こう、とせかすルーティをなだめて、フィオレは混乱しているアイルツに頭を下げた。

 

「突然の訪問と、仲間の無礼をお許しください。私たちはセインガルド国王の勅命を受け、神殿にて発生した異変の調査に参りました。それを踏まえてお話いただきたいのですが……フィリアは、今どこに?」

 

 その名を出した途端、アイルツ司教の顔色が変わる。

 あまりいい報告は聞けないとの推測はできたが、それだけでは諦める気にはなれなかった。

 が、しかし。

 

「……フィリアなら、この騒ぎが起きる少し前に、グレバム様に呼ばれて大聖堂へ行ったのを見たわ」

 

 答えたのは知識の塔一階の司書を務める女性神官である。

 フィオレもその顔には覚えがあった。

 ──何せ彼女はフィリアの同期であり、若くして司祭の地位に立つフィリアに何かと陰口を叩いていた人間達の一人だったから。

 

「その直後よ。いきなり神殿に魔物が溢れて、その騒ぎでマートン様は……! フィリアは普段、グレバム様に何かと目にかけられていたから「フィリアがいないからって好き勝手抜かさないでください。司祭が大司祭に近しいのは当たり前のことではありませんか、平神官と違って」

「な、何ですって!」

「何か違うことでも? ともあれ、情報提供ありがとうございます」

「何よ、フィリアの金魚のフンだったくせに! 何を偉そうに……!」

 

 彼女の言っていることが本当だとすれば大事である。

 いくらでも浮かんでくる仮定をすべて振り払い、何か喚いている司書を完全に無視して、フィオレはくるりときびすを返した。

 

「行きましょう」

「ま、待ってください!」

 

 アイルツ司教の制止など聞かず、有無を言わさぬ勢いで知識の塔から出て行く。

 しかし、彼はフィオレの腕を掴んで立ち止まらせた。無論のこと、それを許せるフィオレではない。

 無言のまま荒々しく振り払い、一同に困惑を与えてから平静を装って何用かと尋ねた。

 

「まさか、ご神体のところへ行くつもりでは」

「そこ以外のどこに行けと言うのです」

「しかし……」

「神殿に異変があった時点で、あれに異常がないかを調べるのは当たり前のことでしょう。そしてフィリアが連れて行かれているんです。というか、それを知っていて今の今まで放置していたあなたを軽蔑します」

 

 もしも知らなかったというのなら、彼は司書に何故それを言わなかったのか、小一時間は問い詰めていることだろう。

 それ以上アイルツに取り合うことなく、大聖堂へと足を向けた。

 途中、結界石とやらを探せば見つけていたであろう神官の骸が転がっているのを何度となく発見する。いずれも神殿内を闊歩していた魔物に食い荒らされており、死因もわからない悲惨な状態となっていた。

 その中には当然、フィオレも覚えている人間たちだったものも含まれている。

 ──フィリアも、そうなっているのかもしれない。

 彼女はフィオレと共にご神体に至るまでの道を発見している。そこに目をつけられ、案内させられたのではないか、とフィオレは検討をつけていた。

 嫌な想像を振り払うように、行く手を阻む魔物を斬り捨てては進む。

 

「ひぃっ!」

 

 結局ついてきたらしいアイルツが残骸を、斬り捨てられた魔物を見て悲鳴を上げているようだが、気にしない。そんな余裕はない。

 たどり着いた大聖堂は、特に何の変化もなかった。どこか破壊されているわけでも、ご神体に通じる地下道が開いているわけでもない。

 

「ほら、何もないでしょう。ですから……」

「実物を確認しないことには何ともいえません」

 

 どう見ても行き止まりでしかない大聖堂を見回して首を傾げているルーティらを尻目に、あの時偶然近づいた祭壇まで進む。

 自分が寄りかかった場所を思い出して、調べてみると。押し込むような形の突起がひとつ、ぽつんと存在している。

 迷うことなくそれを押し込んだ、その時。

 

「ああっ、罰当たりな!」

「な、なんだ!?」

 

 あの時と同じような地響きが起こり、床が動いてぽっかりと地下道の入り口が姿を現す。

 身を翻して階段を下り、薄暗い地下道を通り抜けて二つ並んだ扉の前に到達した。

 ──以前は大聖堂に近づくだけで反応したのに、ここへ至っても手甲のレンズの反応はない。怖々と扉を開けた先に、かつてフィオレの見た光景は存在しなかった。

 台座は部屋の壁もろとも半壊しており、水路によって周囲にたゆたっていた水は床に伝ってダダ漏れしている。

 残されているものといえば、台座から少し離れた場所に、等身大の石像がぽつんと立っているだけだった。

 

「そんな、ばかな……」

 

 アイルツはただ呆然と台座を眺め、他のメンバーもどうやら神の眼がなくなっているらしい、という事実に気付き始める。

 そんな中、フィオレは一人、黙して石像に歩み寄った。

 もともと置かれていたものかもしれない。しかしこの、特徴的なおさげ髪は見覚えがありすぎた。

 

「フィリア……?」

「なんですって!」

 

 その出来栄えときたら、まるで生きているかのよう。

 特定の魔物が持つ石化の視線に魅入られたのだろうとわかっていながら、その精緻な彫刻にフィオレが思わずその名を呼ぶと、アイルツもまたすっ飛んできた。

 仲間たちも、またぞろ集まってくる。

 

「例の知り合いか?」

「……生きているのなら」

 

 石化は、命を永遠に保持しておく手段にはならない。ある一定の時を過ぎてしまうと、石化は本物の石像を作ってしまう。その時は、状態異常を快癒するパナシーアボトルを使っても石化は解けない。

 そして、神殿の異変が発生してから今日までの経過時間を考えると……彼女の生存は、絶望的だった。

 

「……どいてろ。パナシーアボトルを使う」

 

 リオンもそれを予想しているのだろうか。躊躇しているフィオレを押し退けて、パナシーアボトルを取り出す。

 しかし、それが使用されても。

 フィリアの様子は、なんら変わることはなかった。

 

「……」

「フィオレさん……」

「確か、あの神官は敵の仲間だと言っていたな。仲間割れでもしたというのか……?」

 

 呆然とフィリアを……石像を見つめるフィオレとアイルツを尻目に、リオンは独自の推察を語っている。

 

「ねえアトワイト、どうにかならないの?」

『……確かに私にプログラムされた晶術の中には、石化を解除するものもあるわ。だけど、今のあなたに扱えるほど簡単なものではないし、使ったところで、完全な石像を元の人間には戻せないの……』

「そんな……」

 

 その瞬間、フィオレの中で何かが切れた。

 

「……認めない」

「え?」

「冗談じゃねーよ、クソッタレが! ふざけた真似しやがって!」

「ふぃ、フィオレさん!?」

 

 勢いよくその場に膝をつき、壊れた水路から床に零れる水に両手を押し付ける。

 ──これまでフィオレ自身の力、後付された身体強化の刺青の力を使っても、どうしても発動させられなかった術がある。

 かつてはフィオレが存在していたオールドラント。

 世界を構成していた、第一から第七の音素(フォニム)に基づく意識集合体達。その一柱、第四音素意識集合体ウンディーネより賜った、あらゆる状態異常を快癒する術だ。

 如何なる術であれ、道理に従わず無理やり起動させれば、身体を構成する音素(フォニム)と元素のバランスが崩れて、肉体は自壊し精神は崩壊する。

 しかしそれは、オールドラントにいた頃の話。

 世界の理もよくわからない、自分の存在さえもがあやふやなこの状態で、使えばどうなるのか。まったく検討はついていなかった。

 それでも、ためらうことはとうに意識から飛んでいる。

 彼女を助けたい。彼女が息をしてくれれば、また笑ってくれればそれでいい! 

 

「命よ、あるべきままに。常なる流れ、健やかたらんことを──!」

 

 左手の甲に張り付いたレンズに、十分すぎるほどの第四音素(フォースフォニム)が宿る。

 立ち上がり、フィオレは祈るような想いで、まるですがるかのように手をかざした。

 両の手のひらから、頼りないほど仄かで、柔らかな光が零れてフィリアを包む。

 光が当たるその場所から、彼女を覆い尽くしていた灰色の外殻は徐々に消滅した。

 しかし。

 

「……っ」

 

 使えたことには驚いたが、やはりフィオレ自身も無事には済まなかった。

 神経をむき出しにされて撫で回されているような、寒気を覚えるような痛みがじんわりと現われ始めている。

 その痛みがピークに達し、指先にぬるりとした感触を覚えた時。

 懐かしい声が、金切り声で再生された。

 

「いけません、大司祭様! それに触れては──!」

「フィリア!」

 

 アイルツが彼女に駆け寄ったのをいいことに、強烈なめまいを自覚して立っていられなくなったフィオレがその場に崩れ落ちる。

 それを支えてくれたのは、スタンだった。

 

「しっかりしてください。あの子、助かりましたよ!」

「……よかった」

 

 小さく息をつき、スタンに礼を言ってから自分の力で立ち上がる。

 記憶が混同しているのか、混乱しているフィリアをアイルツが落ち着かせている間に、ルーティがやってきた。

 

「あんた、一体何したのよ。手が血だらけじゃない」

「ちょっと無茶をしただけですよ。指先の毛細血管がいくつか、破裂したようです」

『それはちょっと無茶、じゃないわ! 毛細血管の破裂なんて、よほど身体に負荷のかかるようなことをしない限りありえないわよ』

 

 ソーディアンとマスターともども、ブチブチ言いながら治癒晶術を行使している。

 治療を終え、少し気力を回復させたフィオレは、改めてフィリアに話しかけた。

 彼女はリオンから尋問されているものの、未だに落ち着きを取り戻していない。

 

「たっ、大変なんですっ! でも、まさか、大司祭様に限ってそんな……ああ、なんという事を……」

「いいかげんにしろ! お前の長話に付き合っている暇はない!」

「落ち着いてくださいリオン様。威圧してどうするんですか」

 

 額に四つ角を刻んで怒鳴るリオンをなだめて、フィリアと視線を合わせた。

 途端、フィリアのつぶらな瞳がまん丸に見開かれる。

 

「フィオレ……さん!?」

「はい。ご無沙汰しております、フィリア」

 

 積もる話は置いといて、とにかく何があったのかを──彼女の上司である大司祭が何をしたのかを尋ねた。

 

「この部屋に安置されていた、ご神体を──いいえ、神の眼を持ち出したのです!」

「何っ!」

『神の眼を持ち去っただと!』

『そんな、まさか……』

 

 ──結局、そういうことなのか。

 彼女の証言とアイルツの証言を照らし合わせて、この度の騒ぎはグレバムとかいう人間の所業になる。

 

『神の眼を取り返すんだ。あれは人間の手に委ねるべきものではない』

「取り返せって言われたって、そもそも、その神の眼ってのは一体、何なんだよ?」

『神の眼はな、この世界を滅ぼしかねないだけの力を秘めた巨大レンズなのだ!』

「世界が滅ぶって? そんな、おおげさな……」

『かつて、この世界はその神の眼の力によって滅亡の危機に直面したのだ』

『この辺境の神殿の地下に封印されていた物を……まさか、奪われるなんて……』

 

 神の眼が持ち去られたと聞き、ディムロスもアトワイトも一刻も早く取り戻すよう主張している。

 しかし、そんな主張をせずとも、この事態を看過しておくわけには行かない人間がここにいた。

 

「案ずるな。このままグレバムとか言う奴の勝手にはさせない!」

 

 任務が絡んでいるからだろうか。

 珍しくリオンは語気を荒げてソーディアンたちの不安を払拭している。

 

「だが、これでお前らが自由の身になれるのは随分先になりそうだな」

「はあ、仕方ないわね……乗りかかった船だもん」

「わかった。行こう!」

 

 続くリオンの皮肉気なもの言いだが、場合が場合だと判断しているためにルーティはため息交じりの同意を呟いている。

 マリーも特に文句はなく、スタンもまた新たなる決意を固めていた。

 何にせよ、協調性を養うのはいいことである。

 そこへ。

 

「あ、あの……」

 

 おずおずと、か細く可憐な声がした。

 一同が目を向ければ、そこには石像と化していた少女の姿がある。

 

「わたくしも、連れていってくださいませんか?」

「敵のスパイを連れて歩く趣味はない」

 

 しかし、リオンは考えるまでもなく却下を下した。

 とりあえず。

 

「スパイと決め付ける理由を述べてみてくれませんか?」

「こいつは敵の部下だったんだろう。裏切らない危険性がどこにある」

 

 彼の言っていることに矛盾はない。

 スパイと決め付けるのは早計で、正しくはスパイになる危険性がある人間、だが。

 そこでフィリアは気丈にも、尖るリオンの視線を真っ向から受けて言い募った。

 

「わたくしは大司祭様を止められなかったことに責任を感じているんです。お願いです、どうか一緒に行かせてください」

「わかりました。じゃあ、行きましょうか」

「おい、勝手に決めるんじゃない!」

 

 二つ返事で了承したフィオレに、もちろんリオンは怒っている。

 しかしフィオレとて、単なる私情でそんなことを言ったわけではない。

 

「リオン様。私はグレバムとかいう大司祭を知りません。言葉を交わすことはおろか、顔を見たこともないんです。何を言いたいのかは、わかりますよね?」

 

 つまり、この面子だけでグレバムを追うことは、不可能ではないが難しい。

 当初フィオレは似せ書きや特徴、そしておおまかな性格などを神殿関係者から聞き込んでいくつもりだった。

 しかし、グレバムが上司であったフィリアを連れて行くのであれば、影武者を掴まされることはなくなる。

 加えて性格なども多少はわかるだろうから、やりようによっては裏をかくこともできるのだ。

 対してリオンは、疑惑の目をフィオレに向けている。

 

「……お前、こいつの望みを叶えるためにでたらめを抜かしているんじゃないだろうな」

「それは違います。フィオレさんの滞在中、彼は巡礼の旅に出ておりましたから。フィオレさんは一度たりとも、大司祭とお会いしておりません」

「司教様が嘘を言っていないことは、神殿関係者から聞き込めばすぐにわかることです」

 

 しかしあっという間に言い返され、押し黙るしかない。

 その間に、フィオレはフィリアに眼を向けた。

 

「と、同行はむしろ歓迎しますけど。私たちは間違いなくグレバムと戦うことに……ひいては神の眼を巡って、殺し合いに繰り広げるやもしれません」

「!」

 

 殺し合い、と聞きつけて、フィリアは表情をはっきりと曇らせている。

 フィオレのわざとらしい言葉に、ルーティもまた同意した。

 

「そうよね……いいの? かつての上司が死ぬところ、見るかもしれないわよ」

「はい。覚悟はできております」

 

 しかし、フィリアの意志は揺るがない。

 まっすぐにルーティを見返し、しっかりと頷いて見せた。

 その眼を見て、マリーもまた頷いている。

 

「いい眼をしている。嘘やごまかしを言っている眼じゃない」

「そうね。その根性、気に入ったわ。連れて行きましょ」

 

 スタンは表立ってこそ同意をしていないが、そのひたむきな態度に惹かれてか、意見はルーティとそう変わらないらしい。

 一対多数がわかっていてか、フィオレの意見を最もだと思ったのか。

 リオンは小さくため息をついたかと思うと、おもむろにフィリアを見た。

 

「おい、グレバムの奴を大司祭と呼ぶのはやめろ」

「え?」

 

 唐突な命令にフィリアは目を丸くしているものの、彼の言葉は止まらない。

 

「あいつは僕たちの敵だ、わかったな!」

「──意訳、同行するならそれくらいは受け入れろ、ですか」

 

 同行を許してもらえたことがわかり、フィリアはホッとしたように微笑んだ。

 しかし、それならそれですることがある。

 

「さて、それではまず情報の共有からですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




実際にはパナシーアボトルで何とかなっています。
ひょっとしたら石化で延命措置、コールドスリープ的なこととかできるかもですが、この作品の中でそれはできないということで。


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第四十二夜——二度目の旅立ち

 ストレイライズ神殿~ダリルシェイド手前。
 フィリアを仲間に加えて、まずは神の眼紛失の報告を行うべく、ダリルシェイドを目指します。
※フィリアは、今の時点ではパーティ入り(戦闘参加)せず、同行者という形です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 神の眼は奪われ、大司教マートンは殺害されていた。

 王命を受けている彼らには、まずはこの事実を国王へ報告する義務がある。

 それでも、神殿で行うべきことは多い。

 

「旅支度をしてきてください。その間に、こっちはやることをやっておきますから」

 

 生存者の確認から亡骸の回収・弔いに、神殿内に入り込んだ魔物の排除。

 それらを行う間フィリアには出立準備を急がせ、フィオレは亡骸の回収班に加わっていた。とはいえど、そのまま回収できるような亡骸など無きに等しい。

 魔物に食い荒らされていることもさながら、遺体は何日も放置されていたのだ。

 リネン室から大量のシーツをかっぱらい、それで亡骸を包んでひとところに集めるよう指示をする。普段それを使っている神殿関係者からは大ブーイングが放たれたが、知ったことではなかった。

 折りよく、ダリルシェイドを出る前に軍部で申請しておいた救援隊が到着する。

 その隊長に事情を話し、残っていた仕事の引継ぎを終えて、フィオレたちは神殿前の門扉に集合した。

 

「さて、長い付き合いになると思いますので紹介でもしておきましょうか。こちらはストレイライズ神殿司祭、フィリアです。神殿付近で倒れていた私を保護し、色々面倒を見てくれた恩人でもあります」

「フィリア・フィリスです。どうかよろしくお願いします」

 

 時間が惜しいので歩きながらの会話である。

 そのまま、フィオレは一同の紹介を続けていた。

 

「黒髪で目つきが悪いのがリオン様、私の上司で正真正銘のセインガルド王国客員剣士です。小さいとか面と向かって言うと怒りますからご注意を。あと普段冷静ぶってるくせに結構短気なので、おちょくったりしないほうがいいと思います。その腰に下がっているのがソーディアン・シャルティエですね」

「これが、ソーディアンなのですか……」

 

 紹介文句がお気に召さなかったのか、リオンは半眼でフィオレを見ている。

 構うことなく、フィオレは続けた。

 

「黒髪で露出過多なのがルーティ、筋金入りの守銭奴です。小銭を落としたら回収は不可能だと思ってください。所持するのはソーディアン・アトワイト。我慢できないような怪我を負った際は彼女に申告してください。アトワイトは治癒を得意としていますから……有償か無償かはわかりかねます」

「ちょっと、筋金入りの守銭奴って……」

「違うんですか?」

『まったくもってその通りよ。とってもたくましい子に育ってくれたわ』

「ええ、ええ、どうせあたしはがめつい女。なんか文句ある?」

「いえ別に。吝嗇は美徳です」

 

 やはり紹介文句を気に入らなかったルーティが噛み付いてくるものの、特に謝る理由はない。

 彼女は自他共に認める「筋金入り」の守銭奴である。

 

「続けますよ。金髪の戦士風はスタンです。基本的にはいい人なんですが、どこか抜けているところがあるのは否めません。リオンいわくトリ頭なんだそうです。あと、ド田舎のご出身だそうで。彼の腰にさがっているのがソーディアン・ディムロス。つい最近までセインガルド王国が認める国宝でした」

「フィオレさん、抜けているって……」

 

 スタンもまた文句があるらしいが、フィオレは彼女の可愛らしい勘違いに気を取られていた。

 

「こ、国宝! スタンさんは間が抜けてド田舎出身ですのに、国宝を貸与されるほどの方なのですか?」

「いえ、ディムロスが彼をマスターと認め、事態が事態だから貸与が許されています。戦闘中、いきなり炎が発生したら彼の仕業ですので、いちいち騒がないでくださいね」

 

 最後に、フィオレはマリーの紹介を始めた。

 散々けなされた三人は、果たして彼女がどのような紹介をするのかを注目している。

 

「馬の尻尾みたいな髪形の大柄な女性はマリーです。やや好戦的なきらいがあります。料理の腕前が玄人級で、彼女とは安心して、楽しいお酒が飲めます。記憶喪失らしいので、好奇心旺盛な面があるようですね」

「マリーさんも記憶喪失なんですか!」

「ああ。よろしくな、フィリア」

「なんでマリーだけマトモなのよ……」

 

 そんなことを言われても、フィオレの認識がこうである以上、賛美することもけなすこともない。

 

「最後になりましたが、改めて。フィオレンシア・ネビリムと申します。現在はオベロン社総帥、ヒューゴ・ジルクリスト氏に雇われの身ですね。少し前まで客員剣士見習いでしたが、今はクビになるかならないかで揉めています」

「オベロン社の……?」

 

 神殿を出てから何があったのか、尋ねるフィリアにそれを答えようとして。

 脳裏の声に邪魔をされた。

 

『ねえフィオレ。どーして僕の紹介が名前だけなのさ。アトワイトもディムロスも、特徴とか紹介してるのに……』

「フィオレさん、どうかしましたか?」

「いえ、ソーディアン・シャルティエに紹介についてのクレームを頂きまして……えーと、フィリア。リオン様がいきなり小型のピコピコハンマーを発生させたり、大地から土塊が飛んできても、それはシャルティエの仕業ですから」

 

 シャルティエは満足そうに口を閉ざすものの、フィリアは頭上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げている。

 それも束の間、彼女は目を見開いてクエスチョンをエクスクラメーションに変えていた。

 

「ソーディアンが意志持つ魔剣という伝説は、事実だったのですね!」

「いえ、魔剣かどうかは存じ上げませんが」

「では、神の眼にも自我がある、というのは本当なのでしょうか?」

 

 どこの文献から仕入れてきた情報なのだろうか。

 ソーディアンの声を聴くことはできないらしいフィリアが手近なソーディアン──アトワイトに向かって話しかけている。

 

『神の眼が自我を……? 聞いたことはないわね』

 

 その言葉に、ディムロスもシャルティエも同意を重ねた。

 彼らが知らないのか、それともそれが事実なのか。

 

「ソーディアンたちは知らないと言っています。でも、私もそれはないと思いたいですよ」

「どうしてですか?」

「もしも、神の眼に自我があるとしたら。今回の騒ぎは神の眼も承諾してのことになります。グレバムが何を企んでいるのか知りませんが、ろくでもないことだけは確かでしょう。それに神の眼が賛同したなどとは、考えたくありません」

 

 神の眼が『彼女』の本体だと仮定した場合、その説は正しいということの証明になるのだが。

 そういったことを考えると、間違っていてほしい。

 何となく沈んだ話になってしまったことに気付いて、フィオレは話題を修正した。

 神殿を出てからのことをつらつらと話しつつ、旅慣れないフィリアを気遣ってアルメイダに寄りながら、ダリルシェイドへと向かう。

 

「おい、もう少し早く歩けないのか」

「す、すみませ……「いいですよもっと早く歩いても。あなたが彼女を背負ってくださるというのならね」

 

 旅することに慣れていない人間の同道が、どれだけ一同の足を鈍らせるか。それはフィオレとて重々承知している。

 更に、行きの道はフィオレが先行していたのでほとんど足を止めることなく進んでいたが、フィリアの同道によりフィオレは責任もって、彼女の護衛を引き受けた。

 そのため道中の交戦はスタンたちが受け持つことになり、必然的に交戦の時間も長くなっている。

 

「痛ててて……」

「行く時、フィオレに頼りすぎたわね。もうちょっと楽に戻れるかと思ってたけど」

 

 突貫したスタンの傷を癒しながらも、ルーティが小さく弱音を零した。

 その光景を見据えてフィリアが唇を噛んでいるのに気付かぬフリをしつつ、周囲の警戒に専念する。

 やがて、明日はダリルシェイドにたどり着けるだろうと見据えた野営の場にて。フィリアはとある願いを申し出た。

 

「あの……わたくしにも、戦わせていただけませんか?」

 

 ──果たすべき役割の違いはあれど、目の前に傷つく人間を見ながら、のうのうと護られるだけに満足しない。

 彼女がそんな誠実な人柄であることは、フィオレがよく知っていた。そうでなければたとえ命の恩人であっても、彼女に対してこれだけ入れ込むほどの好意は持たなかっただろう。

 もちろん、一同は困惑を覚えている。

 

「戦わせてくれって……フィオレから聞いたけど、あんたそんな経験ないんでしょ?」

「それはそうなのですが、わたくしだけフィオレさんに護られて、皆さんに負担がかかるのは耐えられません。積極的に戦えなくとも、せめて自分の身は自分で守りたいんです」

 

 スタンがなだめても、マリーが説得にあたっても、彼女は頑として譲らない。リオンはといえば、責任を取れといわんばかりにフィオレに視線を送っている。

 一方フィオレは、荷袋を漁って小さなフラスコを取り出していた。

 

「フィリア、これを」

「これは……?」

 

 手渡されたフィリアの手の中で、フラスコに収められた正体不明の液体はゆらゆらと揺れている。

 

「どうしても戦うと、あるいは自分の身は自分で守ると言い張るなら、そこの茂みに思い切り投げつけてください。間違っても取り落とさないでくださいね」

 

 有無を言わさぬフィオレに気圧され、フィリアは言われたとおり、思い切り振りかぶってフラスコを投げつけた。

 ──予期していたことだが、あんまり飛距離は伸びていない。

 フィリアが体勢を崩しながらもフラスコを投げた直後、彼女をかばいながら一同にも下がらせる。

 茂みに着弾し、フラスコが割れて中身がぶちまげられた、途端。

 

 ドンッ! 

 

「きゃっ!」

 

 轟音、吹き付ける風が圧力となって吹きつける。

 顔を上げれば、フラスコを投げつけた茂みは炭の欠片だけが残り、大地もろとも吹き飛ばしていた。

 もしもこれを生物に投げつければ、一瞬にして命を奪えるだろう。

 

『ななななな、何今のー!』

「フィオレさん、今のって……」

「ヒドラジンと硝酸……いえ、劇薬同士を混合して生成してみた液状の爆薬です。思ったよりちょっと威力が小さめですが、自衛には丁度いいでしょう。威嚇にもなりますし」

「威力が、小さめ?」

「あれのどこがよ!?」

「私の想定よりは小さかったというだけです」

「すごい爆発だったな。巻き込まれたら、ただではすまないだろう」

 

 ただ混乱するシャルティエやあまりの威力に引いているスタン、驚きのあまりフィオレにくってかかるルーティに対し、マリーは茂みと、爆発の衝撃でコルクの破片だけ残ったフラスコのなれの果てを見ていた。

 そして、フィオレはどこか脅えたように茂みを見つめるフィリアを諭している。

 

「自衛するということは、相手を傷つけないことにはなりません。相手を傷つけるなら、自分も傷つくことを想定しないといけないし、それは当然殺し合いに発展することです」

「……!」

「殺す覚悟と殺される覚悟のお話は長くなるので今は割愛します。その覚悟があったところで、交戦技術を持たないあなたが本当に戦うのだとしたら、私ではこれくらいしか思いつきません。お望みなら生成方法をご教授しますが、やめた方がいいと思います」

「で、でも……」

「気持ちを察しないわけではありませんが、人には向き不向きがあるんです。下手に怪我をされても、ルーティとアトワイトの負担が増えます。わかってください」

 

 重ねてそれを言われ、フィリアは不承不承ながら頷いた。

 最後まで口出ししなかったリオンは、嘆息気味にフィオレを見やる。

 

「妥当な判断だな。てっきり本気で護身術でも仕込むかと思っていたが」

「それもいいですね。検討しましょう」

 

 ただし、彼女の身体能力を考慮するなら、本当に基本的なことしか教えられないだろうが。

 爆破されたと称するにふさわしい茂みを見入るフィリアに声をかけ、まずは筋力を測ろうと腕相撲(アームレスリング)を申し込んだ。

 おっとりと応じたフィリアではあったが……この後、フィオレは思わぬ驚愕に襲われることになる。

 

「フィオレさんて、腕相撲弱いんですね……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけですよね。

殴るなら殴られる覚悟を。
罵るなら罵られる覚悟を。
殺すなら殺される覚悟を。

当たり前のことです。やられて困ることは自発的にするもんじゃない。
やられそうになったら、やっちまえばいいんじゃないですかね。


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第四十三夜——隻眼の歌姫、本領発揮?

 ダリルシェイド。
 神の眼を追うために、ごたごたしています。
 フィオレは称号「ドラゴンスレイヤー」をすでに取得していました(過去形)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日のこと、一同はようやくダリルシェイドへと到着した。

 一刻も早く国王とヒューゴ氏に報告しようとするリオンに、フィオレはこんな提案をしている。

 

「どうせ彼らは神の眼を取り戻せ、と告げるだけでしょう。ならば、ダリルシェイドを離れる段階になってから報告に行ったほうがいいと思います。謁見申請は手間取りますし」

「……まあ、いいだろう」

「でも、どうやって神の眼の行方を探るんですか?」

「待ってください。それについては、わたくしに心当たりがあります」

 

 リオンがその意見を受諾したところで、スタンがそれを尋ねる。

 フィオレがそれに答えるよりも早く、フィリアに一同の視線が集まった。

 

「心当たりって?」

「最近、グレバムは頻繁にカルバレイスの神殿と連絡を取っていました。騒ぎの起きる前日にも、四頭立ての大きな幌つき馬車を手配していましたから、きっと……」

「カルバレイス……なら、足は船ですね。近隣でそんな巨大なものを積み込める船が接岸できるのは、ダリルシェイド港だけです」

「よし。手分けして港で聞き込むぞ」

 

 ──数刻後。予定の時間に集合した一同は、得た情報の照合を行っていた。

 カルバレイスへ向かうルートの途中にある魔の暗礁、なる海域で巨大な怪物が見られたこと。そのため、現在カルバレイスに向かう船はすべて停船しているとのこと。

 そして──

 つい最近、巨大な石像らしきものを搬入した業者がおり、異常なまでに積荷に気を配っていたということ。

 

「それよ!」

「それ、誰から聞いたんですか、マリーさん?」

 

 マリーの案内により、暇そうにたむろしていた船員のもとへと赴く。

 詳しい話を聞いてみると、その船はカルバレイスのチェリク港に向かったらしい。危険だと忠告したらしいが、なんでもその海域は時間をかけて迂回するため、平気だと該当船の乗組員は答えていたという。

 それならば。

 

「カルバレイスへ船を出してはいただけませんか?」

「今は無理だよ。怪物騒ぎがあってから、カルバレイスへは出れずじまいさ」

「そこを何とか……」

 

 スタンが食い下がるものの、船員は相手にしてくれない。しかし、ここであまりにしつこくするとへそを曲げてしまう危険性がある。

 ここは一旦引いて、国王に直談判しようと提案しかけたその時。

 フィオレは思わず吹き出すところだった。

 

「どうしても、っていうなら、隻眼の歌姫を連れてくるんだな」

「隻眼の……歌姫?」

「どっかで聞いたような……」

 

 これまで神殿の外に出たことがないフィリアはもちろん知らず、捕縛された際初めてその名を耳にしたスタンはよく覚えていない。マリーは特に何を言うでもなく、静観していた。

 対照的に、黒髪コンビは薄笑いすら浮かべている。

 妙に似ているのは気のせいか。

 

「へぇ~、なんで?」

「ウチの船長が大ファンなんだよ。それに、隻眼の歌姫の正体は、初の女性客員剣士にして『ドラゴンスレイヤー』なんて言われてるらしいじゃないか。魔の暗礁に出る怪物はドラゴンに酷似しているらしいから、襲われたら退治してもらえるだろ?」

「ど、どらごん、すれいやぁ?」

 

 ストレス発散中の自分どころか、客員剣士としての自分にも珍妙な二つ名がつけられていることを知り、フィオレは思わず声を上げた。

 その発言についての詳細を求めれば、ルーティは訳知り顔で答えている。

 

「だってあんた、ちょっと前にひとつの集落を滅ぼそうとしてたレイクドラゴンってのをブッ倒したんでしょ? 公式発表では七将軍に率いられしセインガルド軍の勝利、ってことになってるけど、登用されたばっかりの客員剣士が活路を開いたって」

『確かに、少し前にもファンダリアでスノードラゴンと呼ばれた白竜をほとんど自力で倒していたな。レイクドラゴン云々はさておいても、フィオレにそれだけの力があることは確かだ』

 

 ディムロスが余計なことを言ってルーティたちを唖然とさせるものの、まったくもってその通りである。

 しかし、冗談ではない。

 幸い船員はその「隻眼の歌姫」の顔は知らないようだ。さっさと退散するに限る。

 

「そ、それじゃあ、どうしようもないですねっ。出直しましょうかっ」

「何言ってんのよ。隻眼の歌姫ならここにいるじゃ……もが「彼は私の顔を知らないようですし、こういうときこそ権力の使い時でしょう」

 

 余計なことを言い出したルーティの口を物理的に塞ぎ、その耳元にひっそり囁いた。

 ぶっちゃけた話、「私は隻眼の歌姫です。だから言うこと聞きなさい」などと抜かす図々しい真似をしたくない。そもそも、隻眼の歌姫などと名乗った覚えはないのだから。

 しかし。敵は一人ではなかった。

 

「おい。船長とやらはどこにいる?」

「そこの船の甲板さ。交渉するなら呼んできてやるよ」

 

 面白いことになるとでも思ったのだろうか。彼は素早くその場を離れ、瞬く間に船長を連れてきた。

 その行動力ときたら、リオンに批難を浴びせる余裕さえない。

 

「丁度よかったわ。こっちにいるのが、隻眼の歌姫にして客員剣士のフィオレンシアよ。同乗するから、カルバレイスまで船を出してくれない?」

 

 しかし。連れてこられた船長は、指し示されたフィオレを見るなり鼻で笑った。肩をすくめて、呆れたように首を振っている。

 

「おいおい、冗談はよせ。確かに隻眼だが、彼女はドラゴンスレイヤーと呼ばれるような女傑だぞ。こんなほそっこくて貧相なわけがない」

 

 その暴言に、フィオレはむしろ安堵を覚えた。ファンと船員が言っていた割には、顔は知らないらしい。

 これ幸いと退散しようと一同に眼を向けて。フィオレはルーティにずいずいと迫られた。

 

「何安心してるのよ! あんた、騙り呼ばわりされて悔しくないわけ?」

「全然。そもそも『隻眼の歌姫』なる二つ名は私が名乗ったわけではありませんから。そういった意味では、私とて騙りになります」

 

 船長が頷かないなら仕方ない。堂々と、権力行使を訴えることができる。

 しかし、そう上手く事が運ぶことはなかった。

 

「あー、もう! 屁理屈こねてないで歌っちゃいなさいってば、ほらほら」

「あ」

 

 何を思ったのか、いきなりルーティは傍の木箱に飛び乗ったかと思うとフィオレを引っ張り上げてしまった。

 そのままよく通る声で、とんでもないことを言い始める。

 

「さーさーさー、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。隻眼の歌姫が、出張ライブを開くわよ!」

「ちょっと、ルーティ!」

 

 隻眼の歌姫、と聞いて、港が瞬く間にざわめき始めた。中にはフィオレの顔を知っている者がいるらしく、どんどん人が集まってくる。

 

「どうするんです、これ」

「いいじゃない。海の男って結構迷信深いのよ? 昔の船乗りはね、男を惑わす人魚対策に吟遊詩人を絶対船に乗せてたくらいなんだから。それにあたしも、一度はちゃんと聞いてみたかったし」

 

 彼女の場合、ライブによってどれだけのガルドが集まるのかしか興味がない気がするが。しかし、ここで謡うことを拒否しても遅い気がする。

 嘆息して、フィオレはシストルを取り出した。

 

「な!? どこに持ってたのよそんなの」

「さてねえ」

 

 フィオレがシストルを取り出した時点で、集まった聴衆は一斉に拍手を始めている。軽く調律をし、指慣らしにかき鳴らす頃、賑やかだったはずの港は静寂に包まれた。

 潮風の吹きつける音、規則的に寄せては返る波の音が響くのみ。

 

「ルーティ、降りた方がいい」

 

 マリーの手招きに従い、彼女はそっと木箱から降りた。同時にフィオレも、木箱に腰かける。

 ひょいと足を組んで、シストルの位置を安定させて。フィオレは周囲の激変に狼狽している船長へと話しかけた。

 

「何かリクエストあります? これを聴いたら、カルバレイスまで船を出してくれると断言してくださるような」

「え、あ「ありませんか。では、好きにさせていただきましょう」

 

 丁度、出来上がったばかりの曲がある。アルメイダの村で突発的に出来上がった旋律に、歌詞を重ねただけのものが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 余韻を響かせて、シストルの音が波間に消える。構えていたシストルを降ろして、フィオレは小さく息をついた。

 

「──ご静聴、ありがとうございます」

 

 呟くようにそれを告げた瞬間。

 抑圧されていた空気が一斉に開放されたような、そんな歓声と共に拍手が沸き起こる。そういえば忘れていたと、キャスケットを取り出して裏返すと、待っていましたとばかりに四方八方から小銭が飛んできた。

 当然、ルーティは歓声を上げてキャスケットから零れたガルドを素早く集めている。

 

「ルーティ、それはフィオレさんにって投げられたものだろ」

「わーかってるわよ、そんなこと。けどやっぱり都会だけはあるわね。気前が全然違うし、何よりフィオレの知名度が違うわ」

 

 拍手をしながらもスタンはルーティを注意し、しかしルーティにやめる様子はない。

 

「フィオレさんて、歌がとっても上手なのですね……」

「うん。噂以上だ」

 

 うっとりしているフィリアに、マリーは生真面目に同意している。表向き何の反応もないリオンに目配せをして、フィオレは木箱から降り立った。その際、シストルは素早く背中に隠している。

 目配せの意味を悟った彼は、くるりと船長に向き直った。

 

「身の証は立てた。何か問題でもあるか」

「い、いや……しかし本当なのか? 彼女が、ドラゴンスレイヤーというのは」

「ドラゴンスレイヤーかどうかはさておきですね」

 

 度肝を抜かれたような顔で、しかし再びフィオレの姿を見て不安を隠さない船長に、フィオレ自身が交渉を試みる。

 

「もし、件の海域で怪物とやらが出たら、私たちが何とかします。詳しいお話はできませんが、事は一刻を争うのです。断るのなら遠慮なく断ってください。別の船を探します」

 

 遠回しに「とっとと答えろ」「こっちは急いでるんだ」「変わりはいくらでもいるんだからな」と連ねて、返事を迫る。

 

「そういうことなら……出してやってもいい。ただし「交渉成立ですね。後日、国王陛下から何らかの形で報奨が与えられることでしょう」

 

 当初鼻で笑った名残か、妙に上から目線で何か条件をつけようとする船長の言葉など聞かず、フィオレはそのまままくしたてた。

 

「つきましては今日中に出航したいので、半日差し上げましょう。その時間でカルバレイス行きの準備を整えてください」

「半日!?」

「では、よろしくお願いします。ああ、半日より早くても構いませんよ。早ければ早いほど喜ばしい。準備が整ったら、オベロン社総帥ジルクリスト邸までご一報ください」

 

 反論の余地などもちろん与えない。

 言うだけ言って船長の所有する船の名を確認したフィオレは、一同を引き連れてさっさとその場を後にした。

 

「フィオレンシア様、今度こそサインを……!」

「握手してくださーい!」

 

 その声を背にしたフィオレは、無論わき目も降らずに駆け出している。

 リオンにひそりと一言囁き、フィオレは独り、速度を上げた。といっても、単純に足運びの速さを変えたわけではない。

 木箱の乱立する港内、素早く手近な木箱の上に飛び乗り、人ごみを避けて城下町への移動を図ったのである。

 ただし、目立つことこの上ない。

 

「フィオレさん!?」

『随分人気があるのだな、あいつは……』

「追う必要はない。こっちだ」

 

 木箱から露天の屋根へ、俊敏にして派手な移動をおっぱじめたフィオレに、フィリアが声を上げる。

 そのままフィオレを追いかけかねない彼らを率いて、リオンはゆっくりと港の出口に向かい始めた。

 

「一体どうなってるんだよ?」

「どうもこうもない。『隻眼の歌姫』の追っかけを撒くためにあいつがよくやることだ。王城門で落ち合おうと言っていたから、そっちへ行くぞ」

 

 ルーティが声を張り上げ始めてからフィオレが謡い終えるまで、密度が異常に上がっていた港からあっという間に人がいなくなる。

 移動がしやすくなった港から城下町へ、そして王城前までたどり着いた一同よりも先に、フィオレは佇んでいた。

 ただし、先ほどまでガルドの詰まっていたキャスケットをしっかりと被っているために、表情は判然としない。きゅ、と一文字に結ばれた形のいい口元が覗くのみだ。

 一同の姿を確認したフィオレが、ひょいとキャスケットを取り払う。片方だけの瞳は、少なくとも機嫌が良さそうには見えなかった。

 

「毎度のことながら、面倒ごとを起こすのは一流だな」

「あなたは口だけは達者ですね。早く腕前のほうも達者になってください」

 

 もはや恒例となりつつあるリオンの嫌味をあっさりといなす。そしてフィオレはリオンに一瞥もくれず、ある人物と向き直った。

 

「ルーティ。真面目な話をひとつ、いいですか?」

「へ? 何?」

「何じゃありません。私を『隻眼の歌姫』だの、『ドラゴンスレイヤー』なる客員剣士だの、吹聴するような真似は今後一切しないでください」

 

 至極真面目、否真剣な表情で、ルーティに言い含める。結局キャスケットから零れたガルドを懐に入れてしまったルーティは、口を尖らせて反発した。

 

「えー、なんでよ」

「ひとつ、私は『隻眼の歌姫』なんてこっ恥ずかしい二つ名を名乗った覚えはありません。『隻眼の歌姫』と言われて該当する人間であることは認めますが、それを触れて回ることでもないでしょう。ふたつ、私はこれまでに客員剣士見習いとしてもそれなりのことをしてきました。どこでどんな風に影響があるのかわからないのに、厄介ごとの種を振りまきたくないんです。みっつ、これは最大の理由なんですが……私たちは人を追っているんですよ? いちいち騒ぎになるようなことをしでかしてどうするんですか」

 

 理路整然と諭されて、ルーティに反論はない。つまらなさそうにしているが、理解していることは伺える。

 しかし、ルーティがそれを承諾するよりも早く。

 

「それについては同感だ。今回はあの船長を納得させるための方便として見送ったが、今度ガルド目当てにそんなことをしてみろ。その前に黙らせてやる」

 

 額冠(ティアラ)──発信機付囚人監視装置の操作盤をちらつかせつつリオンが脅せば、彼女は振り払うかのように首を振って承知した。

 

「あー、もー、わかったわよ! 二人して言わなくったって、あたしだってあれはちょっとまずかったかな、くらいは思ったってば」

「ちょっとではありませんが、ご理解頂けたなら結構です」

 

 騒ぎすぎて衛兵たちから胡散臭い目で見送られつつも、リオンとフィオレによる顔パスで謁見の手続きを取る。

 ほどなくして、一同は謁見の間へ踏み入ることを許された。壇上では、セインガルド国王がまんじりともせず一同を見下ろしている。

 

「よくぞ戻ったな」

 

 落ち着いている風を装ってはいるが、見覚えのない同行者が一人増えていることに頓着していない辺り、内心は相当不安定なのではないかと思わせた。

 そんな国王の胸の内を知ってか知らずか、リオンは淡々と神殿で起こった出来事を報告している。明らかになった事実を前に狼狽する国王にフィリアを紹介し、彼女は切々と上司の行いを告白した。

 

「なんということだ……」

 

 憂うように天を仰いだ国王は、すぐさま神の眼の奪還──フィオレが想像した通りの指令を下す。間髪いれず、リオンは次なる報告をした。

 

「その件につきましては、神の眼が偽装され、カルバレイスへ持ち出されたという情報を手に入れました。船の確保も完了しておりますゆえ、準備が出来次第出発したく思います」

「ふむ、そうか。実に見事な手際だ、褒めて遣わそう」

「ありがたき幸せ」

「何手柄を独り占めしてるのよ。その提案も船の確保も、ほとんどフィオレがしたんでしょうが」

 

 感心したような国王に、リオンはただ頭を垂れて礼を言う。

 余計なことは何一つ言わないリオンに、ルーティが聞こえるような声音で文句を垂れた。

 

「ルーティ、お静かに。部下の手柄は上司の手柄なんですよ」

「……時に陛下。フィオレンシアの客員剣士剥奪に関する審議の結果は、如何様な結果になりましたか?」

 

 ルーティのぼやきを黙殺し、リオンは珍しくフィオレについての質問をしている。

 そういえば出発前にそんなこともあったなあ、と他人事のようにフィオレは思った。

 

「フィオレンシアの処遇だが、客員剣士見習いとしてリオン・マグナスの監督下において行動することを命ずる」

「かしこまりました。現状維持ですね」

「うむ。審議の結果、護送の任をこなした実績と飛行竜の消失を許したその失策の責任を相殺させることが決定した。ただしこの任務を見事達成すれば、そなたは一人の客員剣士として認められることになる」

 

 認めないでいいです、そんなもの。

 もともと国王に忠誠など誓っていないフィオレにははた迷惑な話だが、今は怪しまれることなく神の眼が追えることをよしとする。

 

「つきましては、協力者のご紹介を……」

 

 船籍と船長のことを告げてさりげなく報奨をねだり、一同は速やかに王城から引き上げた。そのまま、ジルクリスト邸へ向かうことにする。

 

「それで、あのヒューゴっておっさんに報告終えたらどうすんの?」

「協力要請をした船……シャルンホルスト号でしたか。出発準備完了の一報が届くまで、待機ですね」

 

 一言で待機といっても、これからカルバレイスへ向かうとわかっているのだ。それなりの準備を整える必要がある。

 その旨を彼女らに伝えれば、ルーティは明らかに何かを企んでいる笑みを浮かべた。

 

「そっかー、準備かー。そうよね、色々準備しなきゃねー……必要経費請求しなきゃ」

「罪人にそんなもの出せるわけが……」

「そのたくましさは多分、称えるべきだと思います。出してもらえるかは不明ですが」

 

 そんなことを言い合っている間に、ジルクリスト邸に到着する。一直線に向かった書斎の扉の向こうに、ヒューゴ氏は佇んでいた。

 

「戻ったか。して、首尾はどうだ?」

「神の眼はグレバムという大司祭によって、神殿より持ち去られた後でした」

「そうか……やはりな」

 

 ここで、フィオレは奇妙な違和感に囚われた。

 セインガルド国王はあれだけ動揺して見せたというのに、この落ち着きよう。神の眼に対してそれほど危機感を抱いていないのか、まるで知っていたかのような反応である。

 もっとも、彼は神殿にて異変が発生していたという情報は掴んでいたのだ。ある程度予想していたとしても、不思議ではないのだが……

 しかし、フィオレ以外はヒューゴ氏の発言に、これと言って不審は覚えていないらしい。

 

「申し訳ありません! わたくしの力が及ばないばかりに、このような事態に……」

 

 フィリアなどは、事前からヒューゴ氏が何者なのかを聞いているとはいえ、馬鹿正直に頭を下げている。

 もちろん、ヒューゴ氏は不思議そうに彼女の紹介を求めた。

 

「ん? リオン、そちらのお美しいお嬢さんはどなたかな?」

「フィリア・フィリス。グレバムの女だった司祭です」

 

 ガン! 

 

 ──リオンが何を思ってそう言ったのかは、一切わからない。嫌味のつもりで言ったのかもしれないし、あるいは本気でそう思っていたのかもしれない。

 しかし、それらをフィオレが思ったのは右手が衝撃と痛みを訴え、リオンが声にならない呻きを上げて頭を押さえたあとだった。

 

「何を……!」

「何大真面目な顔で笑えねぇ冗談こいてやが……じゃなくて。殴ったことは謝りましょう。でも、その手の冗談は嫌いです」

 

 完全な不意打ちで拳を振り抜いたため、リオンは涙目になっている。変な殴り方をしたせいで痛めた拳をさすりつつ謝るものの、生理的に潤んだ彼の目は明らかに脅えていた。

 いけない。落ち着かなければ。

 小さく深呼吸をして、食いしばっていた顎の力を緩める。

 過去同じような侮辱を吐かれたことがある、というだけで過剰反応するなど、幼稚もいいところだ。

 

「──フィリアはグレバムの元部下だそうです。責任を感じて、協力を申し出てくださいました」

「な……何はともあれ、よろしくお願いしますよ。フィリアさん」

 

 フィリアが頷いたのを確認し、ヒューゴ氏は一同を見回した。その際、一瞬だけフィオレに寄せられた視線がどことなく怯んでいるのは気のせいか。

 気のせいだとしても、彼から嫌忌の念を抱かれることは悪いことではない。むしろ、喜ばしいことだ。

 

「諸君らは神の眼の発見に全力を尽くしてくれたまえ」

「それにつきましては、すでに港で情報を手に入れました。神の眼はカルバレイスへ運ばれたようです」

「何、カルバレイスだと?」

「はい。陛下へは報告済み、すでにカルバレイスへ向かうための足は確保いたしました。後は船の出発準備完了の報告を待つのみです」

 

 カルバレイスへ移送されたとの情報については、至って普通の反応である。このまま国王と同じくリオンの手際を褒めるかと思われたが。

 彼はそうすることをせず、唇の端を歪めてフィオレを見やった。

 

「随分と手際がいいな。さてはフィオレ君の入れ知恵か」

「入れ知恵とはまた人聞きの悪い。まるで私が悪いことをしたみたいではありませんか」

「どうせ陛下にもリオンがそう報告したのだろう。そしてリオンの評価は上がる……と。部下の鑑だな、君は」

 

 流石はリオン父。嫌味のレベルもハンパではない。どうやって見抜いたのかは知らないが……

 ふと、フィオレはあることを思い出した。

 

「そうだ、ヒューゴ様。イレーヌ女史とお会いしてきましたが、変なことを吹き込まないでください。誤解をしておいででしたよ」

 

 今更のようにノイシュタット支部長と面会を済ませてきたことを報告する。すると、ヒューゴ氏は軽く眉を上げてフィオレを見た。

 

「私の後添えの方が良かったかね?」

「てめぇ顎かち割られてぇのか──ではなくて。笑えない冗談ですね。二度と言えないよう、顎を砕いて差し上げましょうか?」

「き、君も真顔で冗談を言うべきではないだろう。報告がなかったので、てっきり飛行竜の位置を自力で突き止めたのかと思っていたぞ」

「護送のことでバタバタしていましたし、あなたはおかんむりでしたし」

 

 当時を思い出してチクリと嫌味を吐くが、ヒューゴ氏はまったく気にしていない。むしろ、目を細めて奇妙な形に唇を歪め……とんでもない一言を放った。

 

「何を言うんだね。あんなに熱烈に抱き合っていたというのに」

「覗いていたのはあなたですか。いい趣味してますね。もとい。いつのことかは存じませんが、それこそ巨大な誤解というものです」

 

 報告のために、リオンとフィオレが一同の前に出ていたことが唯一の幸いである。

 二人が何を話しているのか、気付いたらしいリオンは絶句して耳を赤くしており、フィオレは咄嗟に切り返したものの、棒読みじみてしまったことは否めない。

 ヒューゴ氏はやれやれと肩をすくめたが、それ以上その話題に触れることはなかった。

 

「いいか、必ず取り戻すのだぞ。神の眼の奪還なくしての帰還はかなわぬと思え」

「わかりました。取り戻せなかったら失踪しますので、よろしくお願いします」

「いいか、必ずや戻ってこい。神の眼の奪還は任務であるからして、今の君たちにはもはや義務と化しつつある。わかったな」

「……は、仰せのままに」

 

 神の眼が奪還できなかった、という理由でそのまま行方をくらませばいいのでは、と思い始めたフィオレに、ヒューゴ氏が釘を刺す。

 一方で、リオンはそんなやりとりなど気にすることなく、生真面目な返答をしていた。

 

「マリアンも、お前の無事な帰りを待っているぞ」

「──はい、必ずや神の眼を持ちかえってご覧にいれます」

 

 一瞬、逡巡の間があったことをヒューゴ氏は気付いただろうか。

 彼としてはマリアンのことをちらつかせて、モチベーションを上げたつもりなのだろうが……

 あの晩以降、リオンはマリアンに対して以前までのような無邪気な心で接していない。それまで人目をはばかりながらも気兼ねなく甘え、心を許していたのに、かなり余所余所しくなってしまった。

 確かにその態度の変化は、思春期に差しかかった少年の素直になれない様のように見えなくもないが……

 

「そうそう。これからカルバレイスへ行くんだから、支度金くらいは経費で出してちょうだいよね」

 

 ルーティのその一言で、我に返る。

 厳正なる話し合いの結果、リオン、フィオレは各自所持金で、残り四名はヒューゴ氏のポケットマネーで旅支度を整えることになった。

 

「カルバレイスは、砂漠地帯が大陸を占める酷暑の地と聞きますわ」

「じゃあ、麦藁帽子は必須ね。熱中症で倒れたらたまったもんじゃないわ」

 

 ……その最中の会話から、妙な気楽さがうかがえたのは頼もしいと思えばいいのか、不安に思うべきか。

 観光旅行ではない、と店内で怒り出したリオンを宥めつつも、フィオレは嬉々として猫耳つきのフードを広げているマリーを眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十四夜——船の旅、魔物注意報

 ダリルシェイド~カルバレイス近海。以前アクアリムスと契約した付近です。
 ヒューゴに手を握られてブルッてます。
 こらえることができるようになったあたり、異性恐怖症は治っているのか、悪化しているのか。


 

 

 

 

 

 

 

 

 よほど暇だったのか、あるいは気をきかせてくれたのか。

 カルバレイスまでの航行を頼んだ大型帆船「シャルンホルスト号」は、正午を過ぎた辺りに出航準備完了の知らせをくれた。

 とうに準備を済ませていた一同は速やかに港へと移動し、いよいよ出発と相成った、その時のこと。

 

「待ちたまえ」

「あ、ヒューゴさん」

 

 バタバタしていた港に現われたのは、供を数人連れたオベロン社総帥だった。彼は一直線にフィオレへと向かってきている。

 

「何か用ですか」

「見習いとはいえ、監視役としての責務を果たせないのはいかがなものかと思ってね」

 

 差し出してきたのは、リオンが持っている額冠(ティアラ)の操作盤と、同系器の代物だ。きちんと発信機探知用のモニターまで搭載されている。

 

「一基あれば十分だと思いますが……」

「私としては、近頃不穏当な発言を繰り返す君にこそ装着してほしいと思っているのだがな」

 

 はいはい、といなしながら、仕方なく受け取ろうとしたその時。

 ほんの一瞬、指が触れたかと思うとその手をわしっ、と掴まれた。

 

「!!!」

 

 喉奥から好き勝手に飛び出そうとした悲鳴と、反射的に振りほどきそうになった衝動をどうにかこらえて、あくまで丁重に操作盤を受け取る。

 

「──ふむ」

「……わざわざお届けくださり、ありがとうございました。それでは」

 

 震えの止まらない左手を隠してきびすを返す。

 乗船してから手を見やると、未だに鳥肌が消えていない。何を思ってしたことなのか知らないが……意味不明というか、おぞましいというか。

 甲板には出ないで、船室のひとつに設えられている食堂兼休憩室で待機する。どうせ出たところで、あの顔を見たら嫌な感触を思い出すだけだ。

 

「何かお作りいたしましょうか」

 

 声をかけてくるバーテンに小さく首を振って、フィオレが今になって脂汗を浮かべつつ、震えながら端の席で寝くたばっていると。

 騒がしい、複数の足音が近づいてくる。すぐに、休憩室の扉が開かれた。

 

「あれ、フィオレさん?」

 

 予想通り。足音たちの正体は、スタンたちで相違なかった。

 何故か彼らは、一様に奇妙なものでも見たような顔をしている。

 

「どうかしたんですか?」

 

 これまで突っ伏していたから、顔に痕でもついているのだろうか。それを聞くも、一同は首を振って否定している。

 

「顔色が悪いぞ。もう船酔いか?」

「いえ。ちょっと色々ありまして……」

 

 ヒューゴ氏に手を握られて精神的負傷(トラウマ)をほじくり返された、などとは流石に言えない。そんなことをしたら、彼らは興味津々に謂れを尋ねてくることだろう。

 適当に濁して、フィオレは立ち上がった。

 

「さーて、天気でも見てきましょうかね」

 

 魔の暗礁のこともそうだが、海に魔物が出ないわけではない。その時、戦闘員が一人や二人、甲板に居ても困りはしないだろう。

 首を傾げる一同には背を向けて、休憩室を後にして階段を昇り、甲板へ出る。

 本日は晴天にして風が強く、すでにダリルシェイド港は遥か彼方だ。今のところ沿岸に沿って航行しているため見渡す限りが海、というわけではないが、明後日の方角には水平線が伸びている。

 開けた甲板にはちらほらと作業をしている船員たちはいるが、乗客が一同だけにつき閑散としていた。

 ──これなら、騒音公害にはならないだろう。船員たちが文句を言ってきたら、やめればいいだけの話である。

 フィオレは、背中からシストルを取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バーテンに頼み、ミントティーをしきりに口にしていたリオンは、唐突にカップをソーサーへ戻した。

 

「そろそろだな」

「へ、何が?」

 

 のんびりとした船旅に、窓の外を眺めていたスタンがそれを聞く。

 しかしリオンは返事することなく席を立った。

 

「ちょっと、何がそろそろなのよ」

「お前らには関係ない」

 

 そっけなく食堂を後にするリオンにムッとしたのか、ルーティがそのままついていく。同じくリオンの言動に興味を覚えた一同は、ぞろぞろと船内を移動していた。

 

「関係ないって……そもそも何がなのか、言ってくれなきゃわからないだろ?」

「そうよ。まずは何のことなのか説明しなさいよね」

 

 表立って意見することはなくとも、マリーもフィリアも不思議そうにしている。自分にくっついてきた一同を見回して、リオンは呆れたように鼻を鳴らした。

 

「ついてくるなとは言わないが、静かにしろ。気づかれたらそこで終わりなんだからな」

「だからー、何がなのよ」

『だから静かにってば』

 

 核心をなかなか話そうとしないリオンに業を煮やすルーティが、更に声を跳ね上げる。これはまずいとでも思ったのか、ついにシャルティエが口を出した。

 

『あなたのマスターは何をしようとしているの、シャルティエ?』

『んー、強いて言うなら盗み聞きかな?』

「シャル!」

 

 人聞きの悪い物言いに、リオンから叱責が飛ぶ。しかし、彼はしれっとスルーした。

 

『あ、お静かに坊ちゃん。えーとね、フィオレのことなんだけど、ちょっとした癖みたいなのをこないだ気付いてさ』

「癖?」

『嫌なことがあったり、気分転換がしたいときとかに、一人で歌ったりするんだよ。楽器を演奏してるだけのときもあるけど』

「それをこっそり聞くってことか? そんなことしなくても、頼めば聞かせてくれるんじゃ」

『甘い』

 

 スタンはそう言うものの、シャルティエはきっぱりそれを否定している。

 

『フィオレってほとんどリクエストとか聞かないんだよ。あれは自分が好きで歌ってるんだから、ってね。で、街中で歌う時は大体噴水の傍とか、自分の歌声が聞こえても迷惑じゃないところでやるんだよ』

「あんなに評判なのに?」

『聞くことを望まない人にとっては騒音でしかない。本当は迷惑なことなんだから配慮しなきゃいけない、っていうのがフィオレの持論。慎み深いっていうか、遠慮がちっていうか……もう少し自信持ってもいいのに』

「そうでもないな。少なくとも、僕はあいつの歌が迷惑だと話す人間を知っている」

 

 シャルティエの言葉を覆すかのようなリオンの言葉に、ルーティが驚いた。

 

「そうなの? やっぱ人それぞれなのかしら、あたしは好きだけど」

「あいつはこれまでダリルシェイドにいた吟遊詩人たちにひどく恨まれている。妬まれていると言った方が正しいな。比べ物にされた挙句、聴衆の耳が肥えたせいで、日銭を稼げなくなったとかで犯罪に走った輩が何人もいるぞ」

 

 個人的な好みの問題ですらなかったことに一同が脱力している傍から、リオンは甲板へと続く階段に腰掛けた。しばし耳を済ませてから足音を殺して甲板へと出る彼に、一同も慣れない忍び足を強いられて続く。

 しかし、その苦労はあっさりと報われた。

 階段に背を向けて、フィオレは帆船のへりに腰掛けている。奏でる楽器の詳細はわからないが、港で持っていたものと同じものだろう。

 

 ♪……

 

 フィオレは一心にシストルを奏でていた。波飛沫が船体に当たるその音に、旋律は響いて消えていく。

 それでも、必要を求められた時とは明らかに違う──伸びやかで楽しそうな、そんな雰囲気が伝わってきた。

 まるで呼応するかのように、船はすいすいと進んでいく。

 ──やがて弾き疲れたのか、フィオレは演奏をやめて大きく伸びをした。

 

「戻るぞ」

 

 盗み聞いていたことを知られないためなのか、リオンは早々に甲板を後にしている。黙ってその後に続く一同だったが、食堂へ戻る頃にはすでに口火が切られていた。

 

「でも凄かったな~。フィオレさんて強いだけじゃなくて、あんな特技も持ってるんだ」

「わたくしも、感動しました。できることならもう一度、きちんとお聞きしたいものです」

「うん。今まで聞いたどの吟遊詩人より、フィオレは巧いと思うぞ」

 

 和気藹々と──この日は何事もなく、平和に過ぎ去っていった。

 事件が起こったのは、次の日のことである。

 第二大陸の影がちらほらと見えてきたときのこと。甲板でふらふらしていたフィオレはフィリアからもらった地図と景色を比較して、いよいよ魔の暗礁にさしかかったことを把握していた。

 空の機嫌は、といえば、明らかに悪い。海の天候も読みづらいものではあるが、それでも昨日の晴天からは考えられないような曇天である。おまけに波まで荒くなってきた。

 

「この分だと、時化るかもしれません。危険ですので、船室までお戻りください」

 

 魔物との交戦ならともかく、操船に関しては知識があるだけの、完膚なきまでに素人である。

 素直に戻ろうとして、フィオレは急に船の速度が遅くなったことに気付いた。

 帆布がはためく音に頭上を見やれば、あっという間に帆が畳まれていく。風が徐々に吹き荒れていく中、時化に備えるのかと大して考えていなかったフィオレだったが、脳裏に響いた声に思わず硬直した。

 スタンが頓馬なことをしてディムロスが怒鳴るでも、ルーティが無茶をしてアトワイトに鋭く注意されるでも、シャルティエが一言余計に言ってリオンに物理的な叱責を受けて悲鳴をあげるでもない。

 

『フィオレ。何かがあなたに近づいてきます』

 

 珍しいことに、アクアリムスの警告が聞こえたのだ。珍しがっている間にも、彼女の警告は続く。

 

『何か、とは?』

『敵意は持っていないようですが、レンズの存在を感知しました』

 

 と、いうことは。ダリルシェイド港で耳にした、化け物とかいうオチなのだろうか。情報によれば海蛇みたいな首に、ドラゴンに酷似した姿だったとか……

 

『それと、あなたに近づくレンズの存在とは別に、違うレンズを海底にて感知しました。現在あなたが行動を共にする特殊レンズたちと、波長がとても似ています』

 

 特殊レンズたちということは、フィオレの左手の甲に張り付いているものではなく、ソーディアン連中のことを指しているのだろうか。

 つまりこの付近で、ソーディアンが沈んでいるとでも……

 

「ぜっ、前方に巨大生物発見! 急停止します!」

 

 見張り台に立つ船員の大声で、舳先を見やる。

 確かに何か、巨大な生物が帆船の進行を妨げるように首をもたげていた。

 アクアリムスの言うとおり、襲いかかってくる気配はないものの、船員たちにそんなことは関係ない。

 一斉に舳先から避難していく彼らを尻目に、フィオレは舳先へと向かった。舳先から身を乗り出すまでもなく、巨大生物は確認できる。

 一目見て、フィオレは奇妙な既視感を覚えた。

 まるで亀の甲羅にトゲを生やしたような、無骨にして硬そうな甲殻に、ドラゴンと称するにふさわしい造詣の首が、まるでこちらを覗き込むように鎌首をもたげている。

 

『あのー、邪魔なんで、退いてもらえません?』

 

 通じるなどとは欠片も思ってもいなかったが、ものは試しとはよく言う言葉だ。襲いかかってこない以上、手を出すのは引けたため、フィオレは念話による会話を試みた。

 そして、予想以上の成果を得ることになる。

 

『うむ。すまんがそうもいかんのじゃよ』

 

 ──声色も口調も、好々爺じみた返答が寄越される。

 フィオレの送ったメッセージに驚く様子もなく、ただ日常会話のようにさらりと返された。

 ここで驚いたら、負けた気がする。

 

『それは何故ですか?』

『ここ最近、妙な気配が現われおってのぅ。気になっておったら、ちょうど儂の好みが通りかかったんじゃ。ここはひとつ、老骨に鞭打ってアタックしてみようかと思っての』

 

 ひく、と頬が引きつりそうになった。平常心を装い、声色は変えないことにする。

 

『ほお、そうなのですか。ですがこの船に交尾を挑んでも無駄ですよ。無理やり迫るなら、どんな手段を使っても撃退させていただきますので』

『むう……いきなり話しかけてきおったかと思えば、豪快な娘さんじゃのう。じゃが、儂とて無機物の相手はご勘弁じゃ』

『では、何だというのですか』

『お前さんもえらい別嬪じゃが、儂の指名はもちっと清楚な娘さんじゃよ』

 

 何抜かしてんだこいつは。

 いい加減不毛な会話を断ち切り、相手の正体と目的を問い質そうとして。

 

「なんだ、こいつは!?」

『何故海竜がこんなところに!』

 

 船員の知らせを受けたのか、スタンたちがやってきた。念話を打ち切るも、海竜とは何なのかを聞く余裕はない。

 

『あなたたちの歯の立つ相手ではないわ』

「ンなこと言ったって、こんなところじゃ死ねないわよ! ねえフィオレ、あんたどうやってこんなの倒したの!?」

 

 正確にはこれではなく、似たような種類なのだが……それを言ったところでどうしようもない。

 とりあえず、混乱しているらしい彼女を落ち着かせてみる。

 

「襲いかかってきたなら応戦します。でも、こちらから仕掛けるのは……下手に逆上させて船を壊されでもしたら、たまったものではありません」

「その前に船壊されたらどーすんのよ! 元も子もないじゃない!」

「待ってください!」

 

 内輪でもめ始めた一同を静めたのは、フィリアだった。どこかおぼつかない足取りで舳先に乗り出し、小さく「聞こえる」と呟く。

 

「フィリア、危ない!」

「大丈夫ですわ、スタンさん……わたくしを、呼んでいる」

 

 その言葉で、フィオレは先ほどの会話を思い出した。まさかこの海竜とやら、フィリア目当てに現われたというのか。

 今のフィオレには、何も聞こえない。

 つまりあの声は現在、フィリアにのみチャネリングを使っているということなのだろうか。

 確かにチャネリング現象を完璧に操れるなら、それも可能なのだが……

 

「馬鹿なことはやめなさい!」

「フィリアは大丈夫だ。みんな一緒に行くぞ」

「マリー、何言ってんのよ!」

 

 ルーティは無茶にしか見えない行動をいさめるものの、マリーは何かを感じ取ったのか、舳先に乗り出し海竜へ向かうフィリアに続く。というよりは、フィリアのことを信じ、彼女のことを護るために全員で向かおうとしているのだろうが。

 中指につけていた銀環に触れ、どうにかフィリアが聞いているであろう声を聞けないか、と調整してみる。

 その間に、フィリアがマリーと共に首を突き出した海竜の背に乗り込んだ。いかなる構造なのか、甲羅じみた背中の一部が開いて二人を体内に導いていく。

 直後、フィオレは既視感の正体に気付いた。

 あの質感といい、雰囲気といい。あの海竜は、飛行竜に酷似しているのだ。おそらくあれに自我は存在しない。半機械、半生物の飛行竜と同じく、操り手がいるのだろう。

 しかし、一体誰が……

 ここでフィオレは、先ほどまで自分が会話を交わしていた相手のことを思い出した。

 

『……まさか、あなたの手引きですか?』

『彼女らについてくれば、わかることじゃよ』

「人が乗ったりできるなんて、飛行竜みたいだな」

「あーもー、スタンまで!」

 

 スタンも飛行竜のことを思い出してか、とにかく放っておけないとばかりに身を乗り出す。

 やぶれかぶれだとばかりにルーティが続き、残るは客員剣士の上司と部下だけとなった。

 

「お、おい、何をしているんだ。早いとこあの怪物を……」

「おい船長、二時間経っても戻ってこなかったら船を出せ。いいな」

 

 リオンは大きなため息をつきながらも、彼らの後に続いている。「とんだ疫病神だ」などとほざきつつ放っておかない辺り、一同の中で唯一敵の情報に精通した彼女を手放すわけにはいかないとでも思っているのかもしれない。

 

「そーいうことらしいです。ヨロシク」

 

 ちゃくっ、と手を立て、フィオレは幼い上司の後に続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




他のソーディアンマスターにも聴こえない声に導かれているっぽいフィリア。
一体誰の仕業なんですかねえ(棒読み)


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第四十五夜——導く声に、行軍は進み。まみえるは……?

 船上~??? 
 フィリアに、正確には謎の声に先導される形で謎施設の奥へ奥へ。
 新たなソーディアンマスターの誕生です(←ネタバレ)


 

 

 

 

 

 

 突如として姿を現し、フィリアを餌に一同を収容した海竜は海中へ潜水した。

 なぜそれがわかったのか。

 一同を収容したスペースには、分厚い硝子のはめこまれた巨大な窓が設置されていたからだ。

 

「わ、割れたりしないだろうな……」

「これで割れたら、海竜の名が泣くと思います」

 

 これまで海面近くにのみ移動していたというわけではあるまい。いくらなんでもそれはないだろう。

 フィオレの予想通り、スタンの心配は杞憂に終わった。

 窓の外の風景が、海中ではなく海底へとさしかかる。建物らしき影がちらりと見えたかと思うと、海竜は唐突に停止した。

 しばらく何かの稼動音が響いて、最後に一同を収容した階段とは違う位置にある扉からぷしゅ、と空気が抜けたような音がする。扉の先が海水の詰まった場所ならば、そんな音はしない。

 フィオレが動くよりも先に、先ほどから放心状態に近いフィリアが扉の前に立つ。扉は音もなく開き、彼女はスタスタと先に行ってしまった。

 慌ててフィリアの後を追った一同だったが、その先に広がる廃墟じみた光景に足を止めさせられる。

 

「ここはどこだ?」

「なんか、海に沈んだ街みたいね……」

「その割には天井があるし、空気もあるみたいですけどね」

「今の街とは随分造りも違うみたいだから、あながち間違ってないとは思いますけど」

 

 スタンのフォローに、ルーティはそこはかとなく嬉しそうだ。耳をすませばチャプン、チャプンと浸水しているような音が聞こえることから否定はしないが……

 一方で、海竜による移動中にも、苛々を足で示していた我らが正規客員剣士はフィリアを呼びつけた。

 

「おいフィリア。まだ呼んでいるのか?」

「ええ、この都市の奥の方です。隣の部屋は浸水しているから、遠回りをしたほうが安全だそうですわ」

「わかった。行ってみよう」

 

 ここまでくれば最早反対する理由もなく、一同は速やかに移動を始めた。しかし、一同の行く手を阻むのは、元がなんだったのかもわからない瓦礫ばかりではない。

 

「魔神剣!」

「獅子戦吼!」

 

 海底に沈んで久しいのだろう。住み着いていた魔物たちが、闖入者たちを前にしてわらわらと現われたのだ。

 

「フィオレ、フィリアの護衛に徹するな。前衛はスタンとマリー、中衛にルーティとフィリア、しんがりに僕とお前でいくぞ」

 

 どうもここの魔物たちは頭が回るのか、一行は幾度となく挟み撃ちの憂き目にあっている。

 これではフィリアをただ後ろに下げただけでは危険すぎ、さりとて、フィオレにつきっきりで彼女の護衛にさせるのは各自の負担が重くなるとみたリオンが、戦闘隊列についてそう指示を出した。襲いかかってくる魔物の数の多さに、フィオレも異論はない。

 ──と。フィリアの先導で進むうち、ふと思いついたフィオレは念話を発動させた。とはいえど、謎の声に対してではない。

 

『ディムロス、アトワイト、シャルティエ。お尋ねしたいことがあります。あなた方はこの建物に見覚えはありますか? 例えばさっき回った部屋とか、医務室みたいに寝台が並んでいた部屋とか』

『何故そんなことを聞く』

「ディムロス?」

 

 念話を使っていたにつき、いきなり声を上げたディムロスをスタンが不審そうに見やる。しかし、フィオレはそれを無視した。

 

『そういえば、かつての地上軍本部兼大型輸送船は天地戦争終了後、負の遺産として海中に沈められたとか、文献にあったんですよね。ひょっとしたら……と思ったまでですが』

『そうなの? 私たちは戦争終了後、とある問題発生のために早期に凍結されたの。だから戦後処理のことはよく知らないわ。まだ審議中だったのよ』

「アトワイト……? ひょっとして、フィリアが聞いてる声と話してるの?」

 

 問題発生、という点に興味を覚えるものの、それで話をそらすわけにはいかない。フィオレはぐっと我慢して、その興味を振り払った。

 

『でも、地上軍本部がどんなところなのか知らないわけではないでしょう?』

『確かにここ、間取りが本部に似てると思うよ。でも、随分荒れちゃってるし……断言はできないかな』

 

 どうやら三人とも、本気でわからないらしい。しかしここが地上軍本部であった可能性は上がった。

 アクアリムスがもたらした情報と、シャルティエの証言。

 これらを組み合わせて浮かび上がるのは、新たなソーディアンの存在である。海中に投棄処分された地上軍本部と共に、ソーディアンも沈めたというのは、ありえないわけではない話だ。

 どうしてフィリアを呼んでいるのかはさておいて、気になるのはソーディアンの正体である。

 

『時にシャルティエ。ソーディアンチームにおいて、最年長者は誰ですか?』

『え? えーっと……僕が一番若かったから階級も低かったな。次にアトワイトで、ディムロスとベルセリオスが同世代同格の中将。で、イクティノスが三十路で情報将校なんて呼ばれてたっけ。一番偉くて最年長だったのはクレメンテ老だよ』

 

 階級のことなど誰も聞いていないのだが、どうでもいいので聞き流した。

 

『最高幹部の一人、ラヴィル・クレメンテですね。彼がソーディアンチームに参戦したから、アトワイトも主治医としてやむを得ず参戦したと聞きますが』

『……そう、ね。それがどうかしたの?』

『女好きだったりしません? おさげに眼鏡で、清楚な若い女の子が好みとか』

『ぶっ』

 

 フィオレとしては至極真面目に聞いたつもりである。しかし、それを聞いた途端、ディムロスが吹き出した。

 また珍しいものを聞いてしまった気がする。

 

「ディムロスー、なんなんだよ、さっきから。いきなり話し出して今度は吹き出して……」

「あんたもよアトワイト。妖精さんの声でも聞こえるようになったの?」

「どうせまた、フィオレが話しかけたんだろう。放っておけ」

 

 もはや注意をしたところで、聞かないときは絶対に聞かないことに気付いたのだろう。リオンは早々に諦めて、言外に気を抜くなと注意を促している。

 そんなことよりディムロスが吹き出した理由が知りたかったのだが……残念なことに問い質すことはできなかった。

 

「ねえ、ちょっと前から不思議だったんだけど、その念話ってフィオレはどうやってやってるの? 腹話術とは明らかに違うみたいだし」

 

 ルーティの素朴な質問に、フィオレはひょいと中指の銀環を外してみせる。純銀製の地金には繊細な彫刻が施され、三日月の装飾を満月にするかのようにはめ込まれた蒼石が鎮座している代物だ。

 そして、チャネリングの使用による術者の負担を、大きく軽減してくれる代物でもある。

 

「これを使ってちょっとした手品を」

「手品って……じゃあ、これ使えばあたしにもできるの?」

「どうでしょう」

「じゃあやり方教えてよ。試してみるから」

「なら、ソーディアンマスターではない私に……いえ、マリーに、晶術の使い方を説明してください」

 

 無論、ソーディアンを持たない者に感覚的な晶術の発動方法など早々簡単に教えられるわけがない。

 ルーティは真っ向から反論した。

 

「あのね。そんなの口で説明したってわかんないでしょ」

「それと同じことです。盲いた人間に空の高さを伝えられないように、感覚的な要素が多すぎて、未熟な私にはとてもご教授できそうにありません」

「……あんた、謙遜も度が過ぎると嫌味にしか聞こえないわよ。そんな未熟なあんたに負けたあたしは何なの」

 

 言葉が過ぎたか、半眼で睨みつけてくるルーティにフィオレは銀環を指に戻しつつ眼を泳がせた。

 

「……半熟?」

「あんたねー!」

「フィオレ! ヒス女からかってないで足を動かせ!」

「ダレがヒス女よ、このクソガキ!」

 

 結局リオンに叱られ、一同は再び中枢を目指す。そうこうしているうちに錆びついて開かない扉に遭遇した。

 ここを、道中スタンが見つけてきたツルハシを使ってこじ開ける。その先に、これまでの部屋とは明らかに異なる部屋を発見した。

 先ほどまで踏破してきた部屋は、ところどころが崩れ、錆びついた廃墟色が強かったのだが。ここは部屋全体にうっすらと光が通っている。

 使途不明ではあるが仄かに光る機材からして、未だ稼動中であることを思い起こさせた。あるいは、何者かが故意に稼動させたのか。

 

「ここが中枢か?」

 

 きょろきょろと見回すスタンに反応することなく、ここまでやってきた原因であるフィリアは迷うことなく奥へ足を進めた。

 その後について歩くも、その先には壁しかないように見える。

 しかし。

 

『よく来たの、フィリア・フィリス』

 

 ここへ来て、ようやくあの声がフィオレの脳裏にも響いた。

 ただしフィリアは、驚いたようにきょろきょろと周囲を見回している。

 

「え、誰ですの?」

 

 今までこの声に導かれていたのではないのかと突っ込もうとして、それはディムロスに遮られた。

 

『その声は!』

『クレメンテ老じゃん。ひょっとしてフィオレの想像通り?』

『お久しぶりです、老』

 

 ここへ来てソーディアンたちが口々に、千年振りであろう仲間とも再会を口にしている。

 しかし、クレメンテの返事はつれないものだった。

 

『なんじゃ、お前らか。ムードぶち壊しじゃの……』

 

 そんなものは初めからない。

 内心でそう突っ込んで、初めて眼前の壁に埋め込まれているものに気付く。眼前の壁の中、埋め込まれている半透明のケースの中に、一振りの剣が収められていた。

 シャルティエやアトワイトはもとより、ディムロスをも凌駕する幅広で大型の剣である。

 しかし、天地戦争での代償なのか、それともこういった意匠なのか。その刀身にはヒビが入り、ひどい刃こぼれが目立つ。

 フィオレの視線を追ったのか、自力で見つけたのか。スタンもまた驚いたように壁の中を凝視した。

 

「ソ、ソーディアン!?」

『いかにも。儂の名はクレメンテ。正真正銘のソーディアンじゃ』

「なるほど。海竜を操り、フィリアをここまで誘導してきたのはあなたの仕業ですか。その様子ですと、今何が起こっているのかも承知のご様子ですね」

 

 そうでなければ、ソーディアンがマスターを求めて仲間と合流する理由などわからない。クレメンテはフィオレの言葉に肯定を示した。

 

『おおよその見当はついておる。じゃが、これはちと誤算じゃったの』

『誤算?』

【のう、ソーディアンチーム諸君。そこな隻眼の別嬪さんが、何者なのかはわかっとるかの?】

「!」

 

 キン、と耳鳴りが走る。

 思わず耳を押さえるも、他のマスターたちにそんな様子はない。いきなり耳を押さえたフィオレに、不思議な視線を送るだけだ。

 

【フィオレが何者なのか、だと?】

【私たちは知り合って日が浅いから、何も知らないに等しいけれど……シャルティエは?】

【う~ん……改めて言われると、わかんないかなあ。不思議なところばっかりかも】

 

 耳鳴りの隙間から垣間見るような感覚で聞こえる声は、いつもの彼らの声音と変わらない。

 たまらず中指に手をやって調整をすると、耳鳴りはあっさりなくなった。彼らの会話は続いている。

 

【ふむ、そうか。で……】

『そんなことよりもクレメンテ。神の眼が奪われた』

 

 本題からそれまくっていることに苛立ったのか、ディムロスはかつての上司の口上を遮って事実を伝えた。

 可愛げのないことに、クレメンテは動揺する素振りすら見せない。それどころか。

 

『まったく次から次へと。英雄暇なしじゃの、この世界は』

『目覚めて早々呑気だねー』

 

 飄々と、冗談めかしての返答にシャルティエすらも呆れている。

 

『わかっておる。じゃからの、儂も目覚めることにしたのじゃ。フィリアという、新たな使い手を選んでの』

「わ、わたくしですか!? わたくしに、そんな力は……」

 

 彼女は一体、何を思って導かれたというのだろうか。自分を指して謙遜するフィリアは、何を思ってかフィオレを見やった。

 

「マスターに選ばれるのでしたら、フィオレさんがいいと思います。フィオレさんでしたら賢者に知識の泉、一騎当千の剣士に伝説の剣ですわ」

 

 両方とも、ただでさえ優れたものに更なる効果的付与が加わることを指す。

 しかし、フィオレは嘆息しながら反論した。

 

「フィリア。自分が嫌だからって人になすりつけないでください」

「わたくし、そんなつもりは……」

「なら、クレメンテの話を聞きましょう。反論はそれからでも遅くはありません」

 

 フィオレの言葉に納得したのか、フィリアは壁の中に収まったソーディアンと向き直る。

 

『儂の声が聞こえるじゃろ? ならば問題はない。お主には眠れる才能があったんじゃ。儂はそれを、ちょいと呼び覚ましただけじゃよ』

「でも、何故わたくしなんかを……フィオレさんならもともとソーディアンの声を聞いていますし、戦い方も十分ご存知ですし……」

 

 だから、引き合いに出さないでほしい。

 するとクレメンテは、至極まっとうな返答を彼女に寄越した。

 

『やっぱり使い手は、若くて美人な女の子がいいからのぉ』

「なるほど」

 

 これには、頷かざるをえない。

 フィオレは思わず声に出して、深く頷いていた。対するフィリアは目をテンにしており、ルーティは納得に値していない。

 

「はぁ? それならフィオレにだって該当するじゃない。マリーはその、眠れる才能とやらがなかったと考えて」

「それは一重に、クレメンテの感性でしょう。なかなかに的を射た審美眼をお持ちではありませんか」

『フィオレ、何で急に上機嫌になってるのさ』

 

 久々に歳相応に扱われて機嫌をよくしたフィオレに、シャルティエはおかしな態度だと疑惑の声をあげている。

 一方クレメンテは、かつての仲間たちから呆れと冷たい声を浴びせられていた。

 

『クレメンテ……あなたという人は……』

『千年前から一切変わっておりませんね。本当に、お元気ですこと』

『そんな目で見んでくれ。ほんの茶目っ気じゃよ』

 

 ソーディアンの目はないはずだが、感じるはずもない視線を向けられた気でもしたのだろうか。

 ともあれ、選んだ理由はそれだけだったらしい。クレメンテはこほん、と咳払いをして、再びフィリアの名を呼んだ。

 

『さあ、フィリアよ。儂をその手で取るがいい』

 

 しかし、フィリアは胸の前で両手を組み合わせたまま微動だにしない。

 ちらりと背後のフィオレを見て、彼女はその声に従うことなく質問をした。

 

「なら、教えてください。なぜフィオレさんではいけないのですか?」

「あの、フィリア。いちいち私を引き合いに出さないで……」

「フィオレさん。わたくしは、ソーディアンマスターになるのが嫌でそう言っているわけではありません。果たすべき役割が違うこともわかっています。でも、皆さんの足手まといにはなりたくないんです」

 

 その言い分に矛盾があることを、彼女はわかっているだろうか。

 足手まといになりたくないのなら、単純にクレメンテの力を求めればいいだけの話だ。そもそもクレメンテは、如何なる方法を使ってか、フィリアを選んだのだから。

 それを指摘するも、フィリアは頑なに首を振っている。

 

「ソーディアンの力を得ることは、確かにわたくしが戦いの術を身につけると同義だと思います。けれど、わたくしがソーディアンを持ったがためにその力を使いこなすことができなかったら? 当初フィオレさんがおっしゃっていた通り、ルーティさんの負担を増やすだけに終わったら? それこそ足手まとい以外、何でもありません」

「……つまり、猫にガルドなのではないかと」

『それはいくらなんでも、要約のし過ぎだと思うわ……』

 

 アトワイトのぼやきを無視して、思いつめた表情で立ち尽くすフィリアにフィオレは淡々と語りかけた。

 わざわざ優しくしたところで、意味は変わらない。

 

「仮に私がクレメンテを持ったところで、宝の持ち腐れでしょうね」

「え?」

『……そうかな。フィオレだったら、結構あっさり使いこなしちゃうんじゃない?』

 

 いらないことを呟くシャルティエに「外野はお静かに」とひと睨みくれる。

 

「いいですか? 私は基本的に接近戦の方が得意なんです。確かに大剣を振り回して敵を蹴散らすのも嫌いではありませんが、あんなヒビが入った切れ味鈍そうな代物ではおそらく非効率的でしょう」

『ひどい言われようじゃのう』

「否定しますか? ソーディアン・クレメンテといえば、天地戦争において豊富な晶術を用いて雑魚を蹴散らし、神の眼と共に玉座にふんぞり返っていた天上王の元へチームを導いた、という武勇伝が有名ですが」

 

 うろ覚えの記述だが、どうやら間違いはないらしい。あるのなら、当人から訂正がくるはずだ。

 そんなわけで、とフィオレは話を締めくくった。

 

「私がクレメンテのマスターとなった暁には、間違いなく前衛あるいはしんがりに穴が空きます。だったら手隙のあなたに、後方支援をお願いしたほうが効率的ですよ」

「……その結果、わたくしが力に振り回されるようなことになったとしても、ですか」

「私はクレメンテの……いや、天地戦争を制した英雄の見る目を信じます。そして、あなたがそんな人間だとは思っていない。自分にはできないと決めつけて、楽な道に逃げる人だとはね」

 

 フィオレの言葉に、フィリアはつぶらな瞳を閉じてじっと聞き入っている。そしておもむろに、壁の中のソーディアンへ手を伸ばした。

 半透明の隔壁に白い手が触れたと思った途端、隔壁が音を立てて消失する。

 その現象に一瞬戸惑った様子を見せたものの、フィリアはすぐに納められていた大剣を手に取った。

 

「クレメンテ。わたくしは、あなたを受け入れます。あなたのもとへ導かれたように、わたくしに正しき道を示してください……!」

『うむ、フィリアや。学ばねばならんことも多いが、頑張るのじゃぞ』

「はい!」

 

 グッ、と力強く柄を握りしめたその様子からも、フィリアが決断したことが見て取れる。ようやくまとまった話に、リオンが小さく吐息をついた。

 

「終わったか? ならとっとと船に戻るぞ」

「新たなソーディアンマスター誕生祝に、戦闘の手ほどきを伝授したいところですが……流石にそんな、悠長なことは言ってられませんね」

 

 まずは自衛手段から、ということでその辺りの指導はクレメンテに任せ、一行はもと来た道を辿って帰路についた。

 その最中にも、フィオレの中でクレメンテに対する疑惑は消えていない。何せ彼は、かつての仲間たちと再会した早々、フィオレの正体について聞き及んできたのだ。

 しかも、神の眼が盗まれる以前より、何らかの異常を察知していたようなことまで口にしている。

 彼が何かを知っていることは、間違いない。

 これからは折を見てそれを探っていかなければと考えつつ、フィオレは出会い頭に触手を伸ばしてきた魔物を一刀のもと斬り捨てた。

 絶命した魔物がレンズを排出し、床に転がる寸前。突出したルーティが、掠め取るようにレンズを回収していく。

 

「いっただきぃ!」

「こんな時にまでレンズを拾うな!」

「一億ガルドくれたら、考えてあげてもいいわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





と、いうわけでクレメンテが参入しました。
PS版での会話なので、ラディスロウは都市扱いですね。
まだ続編出てない頃の作品ゆえ、致し方なし。


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第四十六夜——ちくちくぬいぬい

 カルバレイスに向かう最中の、船の中での出来事。

 フィリアの立ち姿では、クレメンテは常にむき出しで持ち歩いているようですが。
 実際に街中を歩くとき、常識的に考えてそりゃねーだろと考えた結果がこれです。


 

 

 

 

 

 

 海竜まで戻った一同は、再び船長及び船員たちに度肝を抜かせつつも無事、シャルンホルスト号に帰還した。

 途中、海竜が何故動いているのかの説明を求めるとクレメンテいわく、「ベルナルドは素直じゃからのう」とのこと。飛行竜にルミナ=ドラコニスという名がつけられていることと同様、それも海竜の名前なのだろうか。

 更なる詳細を訊ねれば、クレメンテがこれまで収められていた施設の機材を通じて海竜のプログラムを少々いじり、送り迎えを自動操縦で行っていたらしい。更に彼は、目覚めてから動作確認をするべく、海竜を頻繁に動かしていたらしいのだ。

 とりあえず、噂の真相は突き止めた。

 

「おお、怪物が帰っていく……」

「お約束どおり、『何とか』はしました」

「感心している暇があったらカルバレイスへ急げ!」

 

 こっちの都合で寄り道したというのに、なんとご無体な。

 ストレスなのだろうか。普段より若干我侭なリオンにこっそり苦笑しながらも、フィオレはフィリアを……正確には携えられたクレメンテを見やった。

 その視線に気付いたフィリアが、何事かとフィオレを見返してくる。

 

「いくら切れ味鈍そうでヒビが入っているとはいえ刃物です。適当な鞘を拵えるまで、布か革で巻いておきましょうか」

 

 そんな提案をして、フィリアと共に船を練り歩く。

 船員たちに不必要な布か、あるいはなめし皮のようなものはないかを聞いて歩き。最終的に二人は予備の帆布を作る際、大量に余る麻のハギレを手に入れた。

 

「これをそのまま、刀身に巻きつければよいのでしょうか?」

「一応それで役割は果たしますが、咄嗟に使えませんし不恰好です。繕って装着できるようにしましょう」

 

 休憩室に裁縫道具を持ち込み、クレメンテの刀身を測って型を作る。麻布を何枚もその形に切断し縫い合わせ、更にその上から巻きつけるような形に布を縫い付けて、重厚な刃を包み込む形を目指した。

 出来上がる直前のこと。

 

「痛ッ!」

「船が揺れるから、致し方ないですね」

 

 人差し指から針を生やす、痛そうなフィリアの手を取って丁重に針を抜く。

 フィオレの所持する裁縫道具は、半年以上前に購入したものだ。頻繁に使っているため錆びなどはないが、あまり清潔ではない。

 薬箱を持参して正解だった。

 

「ふぃ、フィオレさん!?」

「はい?」

 

 フィリアの抗議も聞かないで赤くなった指先をぱくりと咥え、傷口を舌で押さえて出血を促す。

 ちゅ、と音を立てて取り出した指先をアルコールで湿らせた脱脂綿で拭い、綿紗(ガーゼ)で覆って包帯の切れ端で固定した。

 何やら真っ赤になっているフィリアには触れないで、『おお』とか『愛いのう』とか『やはりフィリアにして正解じゃ』とか独り言をぶつぶつ言っているクレメンテを仮鞘に放り込む。

 

『……のう、お嬢さんたちや。これじゃと何も見えんのだが』

 

 初めから一時的な間に合わせのつもりで、やっつけ仕事で終わらせようとした。

 つまり大雑把に作ったせいか、クレメンテは出来上がった筒状の袋にすっぽりと入り込んでいる。結果、柄の一部が顔を出しているだけだった。

 

「それは後で調整します。ところで、どうやって持ち歩きます? 腰に差したら重さで腰紐がずり落ちると思いますよ」

 

 しかも、フィリアがもともと身につけていた腰紐は装飾用のもので、無理やり剣を手挟んだら破損する恐れがある。両手で持ち歩く、というのは論外だ。

 協議の結果、ショルダーバックのように肩にかけることにして、負担がかからないよう幅広の肩紐を作り、フィリアの身長に合わせた。

 あらかじめ肩の辺りで調節できるよう肩紐は長めに作成し、実際にフィリアが立って本人がちょうどいいと思う位置で結ぶ。

 

「こんなもんですかね。実際に歩き回ったら不都合が出ると思いますが、ちゃんとした鞘を手に入れるまでの辛抱です。カルバレイスで時間を見つけて、新調しましょう」

「わたくしは、このままでもいいと思いますが……」

「ンな不恰好な状態で歩き回ったらソーディアンが泣きますよ。抜剣するたびにほつれる鞘なんて」

 

 内側をなめし皮や蝋で補強しているのならともかく、外側も中身も重ねて縫い合わせただけの麻布だ。抜くどころか持ち歩くだけで、ソーディアン自体の重さにより破れていくことだろう。

 一度フィリアにクレメンテを支えてもらい、コアクリスタルが露出するよう鞘の長さを調節する。

 

「こんなんでいかがでしょう」

『うむ、苦しゅうない。にしてもお前さん、器用じゃの』

「淑女のたしなみです」

 

 実のところ欠片もそんな自覚はないが、過去への追求をはぐらかすにはかなり有効な方便だ。少なくとも、フィオレはそう思っているから多用している。

 

「とりあえず、カルバレイスに着くまでに武器を持ち歩くことに慣れておいてください。本当は抜剣や晶術の練習もしておいてほしいところですが、後者はともかく前者はそれをするだけで急ごしらえのそれが壊れます。くれぐれも、そっと取り出してくださいね」

「はい、わかりましたわ」

「あとは知識ですね。晶術を使うことに関しては、経験からしてスタンよりはルーティやリオンに聞いたほうが効率的かと」

 

 手元を動かしながらそんなアドバイスをしていると、噂をすれば影。それまで各々行動していたであろう面々が、休憩室へと集まってきた。

 時間帯からして、夕餉のためだろう。

 

「へぇー、これをあのハギレで作ったんですか。凄いなあ」

「で、あんたは何をやってるの?」

 

 分厚い布の袋に包まれたクレメンテを取って眺め回すスタンをさておき、ルーティが言うのは肩紐を手にしきりに手元を動かすフィオレである。

 

「このままではあんまりにも無骨なので、せめて彩りをと」

 

 言いながらも手を動かし、全体を見回して糸を切り、結ぶ。スタンからクレメンテ入りの鞘を受け取り、再び肩紐を取り付けた。

 そして判明したその図柄に、マリーがほう、と声をあげる。

 

「刺繍か。これは蔦、かな?」

「正解です。あんまり見られるものではありませんが、すぐ廃棄するものなら別にいいかと」

 

 出来上がったのは、フィリアの神官服の裾に描かれたものを参考にした図柄である。こちらもやっつけにつき、下絵も刺繍もあまりいい出来ではない。遠くから薄目で見れば、見られないこともないかもしれないが。

 

「そんなことありません。何から何まで、ありがとうございます」

「私にしてもらったことを考えれば、些細なことです」

 

 散乱した小道具を裁縫箱へ片付けつつ、さらりと返せば、それに興味を持ったのは不恰好な麻布製の鞘に包まれたクレメンテだった。

 

『んん? してもらったこととな?』

「フィオレさんは、わたくしがこれまで住んでいた神殿の近くでお倒れになっていたのですよ。その後記憶喪失だと判明しましたので神殿で保護したところ、親しくなりまして」

『ほぉ、記憶喪失。ほおー』

「……なんですか、その含みのある言い方」

 

 あまりにもわざとらしい感想に、ついつい噛み付いてしまう。予想通り、彼は飄々と返してきた。

 

『いやあ。浮世離れしとるようには見えたが、記憶喪失とな。それにしては随分、儂のことに熟知しておったのう』

「そりゃもう、何か手がかりはないかと文献を片っ端から読み漁りましたので。おかげで役に立たない雑学も色々仕入れました」

『……ほほう』

 

 今、僅かに沈黙があったような。発見当時のことといい、今の言動といい、追求はしたいが、フィオレとて埃を叩けばいくらでも出てくる身だ。表立っての追求は難しい。

 そんなことを思いつつ、リオンたちの到着を待って、夕餉兼フィリアとクレメンテ参戦を祝う乾杯が行われた。

 最も、明日にはカルバレイスに到着するということで、それは慎ましやかに終わったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜。

 割り当てられた船室のひとつ、フィリアと相部屋で休んでいたフィオレは、ふと聞こえてきた会話に何気なく耳を傾けた。

 

【……ときに、クレメンテ。あなたはフィオレのことを気にしていたが、何か心当たりでもあるのか】

 

 声音と口調からして、ディムロスのものである。

 そして耳鳴りがするこれはどうやら、ソーディアン同士のみで行う相互通信であるらしい。

 同じ船に搭乗している程度ならば、ある程度距離があっても可能だということなのだろうか。

 

【まあ、のう。お主がそれを気にするということは、あのお嬢さんに対して思うことがあるんじゃな?】

 

 自分の名が出された時点で、まどろんでいたフィオレの意識は完全に覚醒した。同時に、水を向けてくれたディムロスに深い感謝を捧げている。

 この二人の会話に、もれなく他のソーディアンたちも加わってきた。

 

【何なに? フィオレがどうしたって?】

【彼女に関しては、私も不思議な現象を目撃しています】

【何があったのかの?】

 

 クレメンテの問いに、二人は一瞬の沈黙をおいてそれぞれの体験を語っている。

 

【チャネリング現象を、何らかの補助を使って故意に起こしていることもあるが、何より私の晶力を搾取して、プログラムされていない晶術に似た現象を起こしたことがある。無論何だったのかを問い詰めたのだが、手品の一言ではぐらかされてな……】

【それは私も同じです。それと、彼女は巷で「隻眼の歌姫」と呼ばれているのだけれど、幾度も奇跡に近い現象を起こしているわ】

 

 自業自得であることは確かだが、そこまでして起こりうるすべての現象を解明したいか、ソーディアン諸君。

 フィオレとて同じことをされたら疑問を抱くに決まっている。しかし、フィオレすらも完全には把握していない要素もあるのだ。それを抜いても、すべてを話すことなどできなかっただろう。

 

【奇跡、とな?】

【歌で怪我を治したり、眠らせたりとかでしょ? 僕が知る限りではドラゴンと戦ったときに高密度の雷を発生させたり、ドラゴンのブレスから味方を護るバリアーみたいなのを展開したりとかもある。全部手品で誤魔化されたけどね】

 

 シャルティエから詳細を聞いていたクレメンテは、すべてを聞き終えてふむ、と呟いた。

 

【やはりか……まあ、それも仕方あるまいて】

【何故だ】

 

 それについてはディムロスに同意する。何故フィオレの事情など一切知りえないはずの彼が、そんな風に思うのか。

 その問いに、クレメンテは思いもかけない一言を一同に発信している。

 

【先に告げておこう。あ奴の起こす事柄に対し、いちいち言及するでない】

 

 無論のこと、彼らは反発した。

 

【どうして。確かに無理やり問い詰めたところで、意味ないだろうけど……】

【クレメンテは、彼女の正体について心当たりがあるのですか?】

【それはお主らも知ることと同じじゃ。それ以外は何もない。そして、おそらくは無関係じゃて】

 

 ひどく意味深な一言である。しかし、この一言で彼らは一様に沈黙した。

 ソーディアン一同の共通知識として、フィオレに関するかもしれない情報があったというのか。

 それにしては、フィオレと初めて対面した彼らにそれらしい反応はなかったのだが……それだけどうでもいいことだったのかもしれない。

 

【……ならば、何をもって】

【それについてじゃが、お主ら天上王のことは覚えておるな?】

 

 その単語がクレメンテの口から出た瞬間、通信内の空気が完全に固まった。確か、その単語が示す人物の名は──

 

【忘れようにも、無理よ。天上王ミクトランのことなど】

【うーん……あれから千年くらい経ってるけど、未だにはっきり覚えてるよ。まあ、凍結されて目覚める間のことなんてほとんど覚えてないから、当たり前だけど】

【ミクトランが、どうしたというのだ。まさか彼女は、奴の】

【落ち着きなさい、ディムロスや。子孫だの血縁だの、そういう話ではない】

【ならば──】

 

 ならばなんだというのか。

 クレメンテから発されるであろう答えを望んで、フィオレが小さく唾を飲んだ、そのときのこと。

 

【うむ。捕らえた】

(へ?)

 

 そんな言葉がクレメンテから発された途端。

 抗う、という意志が発生するよりも早く、フィオレの意識は闇に呑まれた。

 

 

 

 

 フィオレの意識が深淵へと突き落とされた頃。

 突如として意味不明な発言をしたクレメンテに一同は騒然となっていた。

 

【何をなさったのですか、老?】

【なぁに。儂らの通信回線にハッキングしてきた輩がおっての。強制排除しただけじゃよ】

【ハッキング……? どうやってさ! 当時天上側にも盗聴できないよう、複雑化に複雑化を重ねていたってのに】

 

 さらりと言い切るクレメンテに、嘘だと思いたいのかシャルティエが反論する。しかし、彼の発言が覆ることはなかった。

 

【事実じゃよ。まあ、本人にはバレんようやったからな。つい寝てしまったとでも思うじゃろ】

【……ハッカーの正体は、やはりフィオレなのか?】

【やろうと思ってやったわけではなさそうじゃがな。無意識に儂らの会話を拾ってしまったんじゃろうて】

 

 どうしてこうも、次から次へと仮説が立てられるのか。それをディムロスが尋ねるよりも早く、クレメンテは説明した。

 

【おぬしらは早々に凍結されたから知らんじゃろうが、ミクトランの亡骸からは通常、人が備えるわけがない器官が発見されておる。何故あ奴がそんなものを持っていたのか、そもそも何故それが存在するかは、儂にはわからんかったが】

【……それで?】

【おそらくフィオレは、それと同じものを持っておる。本人からとフィリアから聞いた話、そしてお主らから改めて聞いた話を統合すれば、十中八九間違いない】

 

 当然のこと、ミクトランの亡骸から発見された器官の詳細についてソーディアンたちは質問している。

 そしてその詳細を聞いたとき、彼らはその衝撃にしばし、閉口していた。

 

【そんなことが……】

【下手に真相を聞きだそうとすれば、第二のミクトランが生まれかねん。フィリアの話を聞く限り、その可能性は零に等しいと思っておるがの】

【まあ、フィオレって捻じ曲がってるように見えたかと思えば結構真っ直ぐだし、真っ直ぐかと思ってみれば割と歪んでるような気がするし。可能性がないわけじゃないけど】

【シャルティエ。フォローになってないわ】

【無理に排除せんでも、今の一言で馬脚を現していたかもしれんなあ】

 

 当人がいないことをいいことに、放たれた暴言も何となく重い。

 フィオレが最も知りたかった情報は隠されたまま、夜は明けた。

 

「なんであの時寝ちゃったんだろう……!」

「ど、どうしたんですかフィオレさん! 枕に頭を埋めてバタ足の練習なんて……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




果たしてクレメンテはソーディアンズに何を語ったのか。
そしてこの辺りの伏線、回収できる日は来るのでしょうか。

……回収できるといいなあ。


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カルバレイス探訪編
第四十七夜——極寒極暑の交差する地にて~嬉しくない再会と嬉しい再会



 カルバレイス。
 バルック及び現地の子供達との再会。

 乾燥した暑いところでは極端な薄着をしておいて、日差しを遮るコートみたいなものを羽織ると効果的だとどこかで聞き及びました。
 実際のところは砂漠を旅する予定の方、試してみてくだせえ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事実を知らないフィオレが己の未熟さに悔やんでのた打ち回り、それを新種の奇病ではないかと心配したフィリアが船医を呼んでこようとしたため、押し留めようとして勢い余って押し倒した日の正午。

 ついに彼らを乗せたシャルンホルスト号はカルバレイス地方に到着した。

 

「それで、滞在期間はどれくらいになる?」

「私たちが戻ってくるまで、です」

 

 苦情は一切聞かないまま、下船する。

 一応船上で任務内容を大雑把に説明、乗船前にセインガルド国王からの勅命状を渡しておいたからには置き去りということはないだろう。前もってヒューゴ氏から請求、二つ返事で支給された支度金も預けてあることだし。

 やがて下船準備を終えた各々が、搭乗口付近にて集合する。

 ルーティと共に下船してきた猫耳フード付き外套を羽織るマリーは、待っていたフィオレを見るなり怪訝そうな顔つきになった。

 

「フィオレ、その格好はどうしたんだ? 変装か?」

「酷暑対策です」

「暑さ対策って、見てるこっちが暑くなるんだけど……」

 

 熱射病対策の麦藁帽子を被り、常時軽装備の彼女でも、慣れない暑さに汗をにじませている。

 比例して、フィオレの外見は確かに暑苦しかった。

 大きめのキャスケットで頭部はおろか、顔の半分も隠れており、ゆったりとした袖のない砂色の外套で身体を覆って、一切肌を見せていない。まるで極寒の地を旅する姿である。

 これには、最後に下船してきたスタンも同意した。

 

「そうですよフィオレさん。暑くないんですか?」

「全然」

「嘘ばっかり。絶対この下は、汗をかきまくって……な!?」

 

 外套の袷をつまみ、ぺらんとめくったルーティだったが、次の瞬間顔色を変えている。その手を慌てて離したかと思うと、切羽詰った調子でフィオレに言い募った。

 

「ちょっと! もうちょっとなんとかなんないの!?」

「なりません」

 

 当のフィオレは涼しい顔のまま。動じる気配は一切ない。

 

「フィリア! あんたフィオレと同室だったから、この下の格好どんなのか知ってるでしょ! なんとか言ってやりなさい!」

 

 突然自分に矛先が向けられ、しばしおろおろしていたフィリアだったが、やがて意を決して彼女と向き合った。

 

「ルーティさんの格好とそう変わらないと思います」

「そーゆーことじゃなくてぇ!」

「どういう格好なのかな……」

 

 しかし、スタンがぽつりとそれを口にした途端。フィリアは態度を豹変させてスタンに言い含めた。

 

「す、スタンさん!? ダメですよ、めくってみようとか、そんなことを考えては!」

「へ!?」

「いけません、そんな破廉恥な……! 何をお考えなのです、汚らわしい!」

 

 だんだん収拾がつかなくなってきたところで、一同の入国手続きをしてきたリオンの姿を見つける。

 騒ぎが起こったことの発覚を嫌って、フィオレは興奮状態のフィリアを落ち着かせ、何事もなかったように装った。

 

『ただいま~。あれフィオレ、どうしたのその格好?』

「酷暑対策に薄着をして、日焼け対策に外套羽織ったんですよ」

「シャル、そんなことはどうでもいいだろう。それよりもバルック基金に行くぞ。今回の騒ぎに関して協力を取り付けに行く」

 

 ダリルシェイド港よりは活気のない港を通り抜け、市街に到達する。

 地元の人間とは一線を画している一同に自然と視線は集中した。

 

「なんか俺たち、すごく目立ってるような……」

「カルバレイスの人々は、他国人を嫌う傾向にありますから」

 

 それは何故かを尋ねるスタンに、フィリアがカルバレイス地方の特徴を語る。

 以前訪れる機会を得た際、それについては把握していたフィオレが聞き流していると、フィリアの話を横から聞いていたらしいルーティが大声で感想を言った。

 

「何よそれ、単なる逆恨みじゃない。自分たちで喧嘩売っといて、それが原因で差別されたからって異国嫌いになるなんて……」

「それはルーティが、カルバレイスの人間じゃないから言えることですよ」

 

 セインガルドと極度に異なる気候のせいか、好意的とは程遠い視線を向けられていることがストレスになっているのだろうか。

 明らかに機嫌のよくないルーティをいさめれば、彼女はフィオレに噛み付いた。

 

「どうしてよ。それにあの戦争からどれだけ経ってると思ってるのよ。未だにそんな大昔のことを引きずるなんて」

「それはカルバレイス人も思ったことだと思います。大昔のことなのに。今の自分たちが起こしたことではないのに。どうして未だに迫害され、差別されなければならないのかとね」

「別にあたしが差別したわけじゃ……」

「彼らにとって、異国の人間は先祖たちをこの土地に押し込めた人々の子孫です。その認識に、国も個人もありません。今しがたあなたが『自分たち』と言ってカルバレイスの人々すべてを指したようにね」

 

 結局のところ、どっちもどっちと言ったところか。個人どころか国家レベルで取り掛かったとしても、早々簡単に解決できる問題ではない。

 過去は過去、個人は個人と、各々が開き直らなければどうにもならない話だ。どちらにも非があるこの問題、関わる必要も関わる価値もなかった。

 不平を綺麗に言いくるめられたルーティといえば、返す言葉もなく膨れている。

 

「……あたし、あんたのそういう理屈っぽいところキライ」

「私は、そんな風に拗ねるルーティが大変愛しいです」

 

 真顔でそう返せば、彼女は膨れっ面をやめてぶー、と吹き出した。

 ほとんど重なって、シャルティエが『ぶー』と吹き出す声も聞こえる。

 

「あたし、そんなシュミないわよ!」

「奇遇ですね。私にもありません」

「貴様らいい加減にしないか!」

 

 そろそろ定番になりつつあるリオンの怒鳴り声で話題が強制的に終了され、一同はいつかフィオレとリオンの歩いた道を通って広場に到達する。

 周囲の民家とは大分趣の異なる建物から、空気読めない感がひしひしと漂ってきた。

 あの時とは違う時間帯だからか、子供たちの姿はない。

 慣れた手つきでノッカーを鳴らし、正規の手順を踏んでバルック本人への面会を求める。あっさりと通された先で、マリーが心底くつろいだ様子で伸びをした。

 

「涼しいな。生き返ったようだ」

「そうよねー。なかなか気が利くじゃない」

「客が来たからつけたわけではなさそうですがね、レンズ式空調機」

 

 でなければ、建物に残った暖気が多少なりとも感じられるはずだ。以前訪問した際は寒いくらいだったが、現在の格好は直接風が当たらないため、問題はない。

 それまで汗だくだったスタンも、性質上動きやすさとは無縁な神官服を着込んだフィリアも、心地良さそうに吐息をついている。

 家政婦によって通された先に、いつか見た顔はいた。

 

「よく来てくれたな、お二人さん。半年ぶりになるか」

「ご無沙汰しております。お変わりはありませんか」

「ああ。フィオレ君も、その美貌に変わりはないな」

 

 半年程度で劣化していたら、病気か何かを疑うべきだ。

 差し出してもいない手を取られそうになり、素早く身を翻す。

 滞在時に知ったことだが、彼は礼儀を重んじる余り、過剰なスキンシップを取りたがる傾向にあるようだ。そんな輩と好んで接触したくはないが、仕事は仕事。

 つれないフィオレの態度に苦笑をしつつも、彼はくるりと一同を見回している。

 

「それにしても、今日は随分大所帯だな」

「気にするほどの連中じゃない」

 

 さっさと本題に入ろうとしてなのか、リオンにとっては何気ない一言だった。

 しかしその素っ気なさが、ないがしろにされた印象を一同に与えている。

 

「そんな言い方ってあるかよ!」

「ふん。お世辞を言ってどうなるものでもない」

 

 スタンは怒るものの、本当の事──スタンたちが此度の任務に協力している理由を言わないだけマシである。

 彼らの心象をよくしよう、との配慮ではなく、明らかに事態を混乱させないためだけではあるが、その辺りは評価すべきだ。

 

「えーと。彼らは今回の任務において、セインガルド国家及びヒューゴ様、ついでに私から協力を求められた協力者たちです」

「フィオレさんから?」

「フィリアには一応、頼むつもりでいましたので」

 

 正確には「事情を聞くだけのつもりだった」だが。

 時間の無駄だとでも言いたげなリオンを無視して、一同の紹介をする。最後にスタンの紹介をした後、彼もまた自己紹介をした。

 

「バルック・ソングラム。オベロン社カルバレイス方面支部長などという、身に余る職務を拝命している。以後よろしく」

 

 うぜぇ。

 眉ひとつ動かすことなく、フィオレはそう思った。スタンなどは生真面目に頭を下げているが。

 

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「ほう……まだ若いのに、いい目をしている。荒削りだが、今後が楽しみというところだな」

「バルック、そのくらいにしてくれ。のぼせあがるだけ……「ああ、バルックさんもそう思いますか?」

 

 リオンの言葉を遮って、バルックの言葉を肯定する。

 途端に眉間に筋を入れたリオンを省みることなく、「君もかね?」と尋ねるバルックに、フィオレはにこやかに返答した。

 

「私は実際に彼の剣を見ていますから。大雑把で、ガサツで、猪突猛進過ぎるところに眼を瞑れば、悪くないと思っていますよ」

 

 これがフィオレの、スタンに対する正直な評価である。

 実際体格や体力などはフィオレどころかリオンより恵まれているし、筋力などリオンはともかくフィオレとは比べるべくもない。素質は十二分にあるのだ。ただ、経験値が足りな過ぎるだけで。

 リオンはといえば、納得して眉間の皺を消している。

 

「ほほう。リオンの剣術指南役であるフィオレ君にそこまで言わしめるとは」

「おや、ご存知でしたか」

「以前受け取った総帥の封書の、近況報告面でね。信じられないだろうが、リオンに同行している女性は彼の剣術指南役だと」

 

 また余計なことを。ある意味当然のこととは知りながら、再びヒューゴに辟易の念を覚えたそのとき。

 

「バルック。悪いが今日は、こんなくだらない話をしにきたわけじゃない」

 

 ようやっと、リオンが本題を切り出した。

 何か変わったことはないかと尋ねる彼に、バルックは事務机の前へ戻ると、散乱していた書類を引っ掻き回し始めた。

 

「そうだな……フィッツガルドのイレーヌから報告があった程度だ。なんでもレンズの運搬船が、謎の武装船団から頻繁に襲撃されているらしい」

「謎の武装船団?」

「レンズの運搬船? レンズ製品の運搬船、ではなくてですか」

「ああ、そうだ」

 

 彼はリオンとフィオレの、違う質問両方を肯定している。報告書らしい書類を斜め読みしながらも、あまり役に立たない情報を提供してくれた。

 

「正体はまったくつかめていないが、明らかに我が社のレンズが狙われているようだ」

「変わった武装船団ですね。製品に加工する前のレンズを奪っているんですか」

 

 極端な話、魔物を殺害した際出現するレンズはオベロン社がすべて買い取ってくれる。逆を言えば、オベロン社しかレンズをガルドに変換できる場所はない。

 レンズの加工、製品化に関してもオベロン社がすべてを担っているため、大量のレンズが手に入ったところでオベロン社に提供しなければガルドにはならない。

 実際にそんなことをすれば、オベロン社に対して何者が大量レンズ強奪に関わったのか、諸手を上げてアピールしているようなものだ。そんなことをして何の利益になるのか。

 フィオレが首をひねっている間にもリオンは質問を重ねた。

 

「なるほど。神の眼については、何か聞いていないか?」

「神の眼!?」

 

 その単語を口にした途端。それまで朗らかに一同の応対をしていた彼は、様子を一変させた。神の眼がどれだけ危険性を帯びているものか、知っている者の反応である。

 レンズを扱う会社の幹部だけあって勉強しているのか、それともこのオフィスに溢れる本が証明する通り、知識人であるだけなのか。

 いずれにせよ、フィオレには奇妙な光景に映った。

 

「おいおい、よしてくれ。悪い冗談だ」

「冗談なんかじゃない。神の眼が、グレバムという大司祭の手に渡った。奴はこっちへ向かったんだ」

「そんな話は聞かないが……」

 

 当たり前である。聞いていたら聞いていたで問題があった。

 

「あなたの記憶の限りで、このチェリクから巨大な荷物が搬送されたことはありませんか?」

「一応これから調べるが、確か数日前にカルビオラ行きの乗合馬車が貸切にされたことがあったな。関係者以外に船乗り連中が何人も手伝いに借り出されていたようだから、君たちはそっちをあたってみてくれ」

「わかりました」

「頼んだぞ」

「ああ、そうだ……こちらに滞在するなら、このオフィスを自由に使ってくれ。使用人たちには通達しておく」

 

 バルックの申し出に甘えることにして、一同は港へ戻るべく移動を始めようとした。

 しかし。

 

「またあの灼熱地獄に戻らなきゃいけないのね……」

 

 ルーティはひどく憂鬱そうに外へ続く扉を眺めている。

 一同がカルバレイスの地を踏んだのは正午だ。これから、一日の中で最もきつい日差しが注がれる時間である。

 ルーティの言葉に苦笑いしながらも、フィオレが外を見やった時。暑さのあまり歪んで見える広場の中で、いくつかの人影を見つけた。

 以前来たときのことを思い出し、一計を講じる。

 

「皆、ちょっと休んでていいですよ」

「え? いいんですか?」

「何を勝手なことを……」

「眼の届くところにいます。少し時間がかかると思いますので」

 

 そう言って。フィオレは一人、バルック基金の外へと出た。

 むわっ、とした熱気が身体を包み込むものの、普段の制服よりは暑さを感じない。

 そのまま広場へ歩いていくと、いくつかの人影──数人の子供たちが、フィオレの姿に気付いた。

 

「あっ、外国人だ!」

「でも、あれって……」

 

 駆け寄ってきた子供たちを見下ろし、帽子を取る。そのまま無駄にうやうやしい一礼をして、フィオレは彼らに微笑みかけた。

 

「こんにちは。この眼帯に、覚えはありますか?」

「やっぱり! 隻眼のねーちゃんだ!」

 

 数人だと思っていた子供たちは、現在集合中であったらしい。

 どんどん集まってきた彼らに、フィオレは自分がここにいる理由を話して聞かせた。

 

「そんなわけで、でーっかい荷物に覚えはありませんか? 大人たちが総出で運び出さなければならないような、見上げるほどの」

「でっかい荷物かあ……」

 

 子供たちがわいわい話し合うのを、フィオレはただ黙って見ていた。

 せかしたところで正確な情報は手に入らないし、そもそも彼らから有益な情報が得られると確信して尋ねたわけではない。ただ、見ず知らずの人間よりは素直に話してくれるんでなかろうか、という希望的観測から接触を試みただけである。

 しかし。フィオレの予想を遥かに超えて、遅れてやってきた子供の一人が挙手をした。

 

「──知ってるよ。少し前に、カルビオラに運んだから」

「は……運んだのですか!? 具体的に言うと、直径六メートル程度の代物なんですが」

「リョウのパパ、乗合馬車の元締めやってるからな」

「セインガルドの神官が、カルバレイスの神殿に巨大な荷物を搬送すると言っていたからね。頂くものはきちんと頂いたよ。その辺り、父に抜かりはない」

 

 グッジョブである、リョウパパ。

 道徳的にはさておいて、敵の資金が減るのはよいことである。

 

「そういえば、僕も見た……」

「あたしも、あたしも!」

 

 その一言を皮切りに、次々と子供たちの証言を手に入れる。少々幼い子供の証言も混じっていたため確証は得られないが、かなり重要なヒントであることは間違いない。

 そろそろ切り上げようと、フィオレはごそごそ懐を探った。

 

「ありがとうございました。貴重な情報のお礼に、情報料を差し上げましょう」

 

 しかし、子供たちの表情に喜びはない。不思議に思いつつも財布を取り出した、その時。

 

「たー!」

 

 突進を仕掛けられ、避けることで意識をそらされた際に財布をひったくられる。

 瞬く間に駆け出す一人の少年を素早く見つけ、フィオレもまた駆け出した。

 フィオレとて、この事態をまったく予想していなかったわけではない。流石に財布を狙われるとは思わなかったが、場合が場合である。真面目に取り返すことにした。

 密集する子供たちをすり抜け、一人駆ける少年を追う。外套をはためかせ、足幅(コンパス)を生かして走ったフィオレは、少年の脇に腕を伸ばした。

 そのまま持ち上げて、捕獲する。

 少年──コグは、二、三度足をばたつかせてから素直に財布を渡してきた。

 

「くっそー! 前より早くなってないか!?」

「あなたも素早くなってますよ。それで、今度は私がドロボーになるんですか?」

 

 コグ少年が瞬きを繰り返した後で、ニッ、と笑う。

 悪戯好きな印象に拍車をかける八重歯が、日に焼けた肌と相まって何とも子供らしかった。

 

「みんな! 今度はねーちゃん追っかけるぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十八夜——夫婦喧嘩と夏の餅は犬も喰わない。親子喧嘩は……?

 続・カルバレイスのチェリク。
 原作ミニゲーム「鬼ごっこ」再現中。


 

 

 

 

 

 

 

 

 十数人はいるだろうか、子供たちに追いかけられてフィオレは広場を走り回った。

 待ち伏せ組と追いかけ組に分かれて仕掛けてくるかと思いきや、コグ少年は子供たちに合図を送っている。

 これは──

 くるりと進行方向を変えて、手近な木によじ登る。枝らしい枝こそないが、表面がごつごつしているので登るにはまったく問題がない。

 

「落とせ落とせー」

 

 そんなことを言いつつ数人の少年が木を揺らしにかかるものの、所詮は子供の力。フィオレを振り落とすほどの衝撃は与えられていない。

 それよりか。てっぺんまで上り、広場全体を見下ろしたフィオレは戦慄を覚えた。

 少年の指示により、ほとんどの子供が広場に散開していたのである。あれでは避けるのが難しく、そのまま逃げ回るだけではあっという間に捕まってしまうことが予想された。

 

「くっそー、降りてこーい!」

「はいはい」

 

 地団駄を踏みながらそんなことを叫ぶ少年に苦笑して、フィオレはあっさりとその身を投げた。

 ノーム、否アーステッパーとの契約こそしていないため重力制御こそできないが、それほど高くはない木の上、受身は取るのはたやすい。柔らかい砂地であることも、幸いした。

 何の予備動作もなくいきなり飛び降りたフィオレに子供たちは目を白黒させているが、それは正直どうでもいい。

 

「さて、そろそろ私はお暇します」

「えーっ、勝ち逃げかよ!」

「今回は仕事でこちらに来ました。仲間も待たせていることですし、遊び呆けるわけにはいかないんですよ」

 

 それなりに距離があるとはいえ、バルック基金オフィスに残してきた彼らの視線を感じないわけではない。

 あの幼い上司をこれ以上苛立たせないためにもそれを告げると、集まってきた子供たちは互いの顔を見合わせた。

 

「じゃあ、これからカルビオラに行く?」

「いいえ。実際に運んだと思われる関係者を探して、そのついでに武具を扱うお店を探して、それからカルビオラへ行きます」

 

 子供の証言だけではイマイチ不安である。自分たちが嘘を言っているとでも思うのか、と憤りだすかと思われたが、彼らはまたも互いの顔を見合わせた。

 代表としてなのか、コグ少年がフィオレの前へとやってくる。

 

「それならさ、俺たちの知り合いにもそのでっかい荷物を運ぶの、手伝ったおっちゃんがいるから。その人のところに連れてってやるよ」

「いいんですか? 遊ぶ時間が減りますよ」

「そんなのどーでもいいよ。それに、俺の家も武器防具屋やってるんだ。お客さん一人、ゲットだぜ!」

 

 ニカッと笑いつつ親指を立てて、また懐かしいフレーズを口にしてくれる。

 彼らの心意気を買うことにして、フィオレはすぐに戻ってくるからとバルック基金へと戻った。

 玄関をくぐるや否や、広場に面した窓へ鈴なりになっていた一同に声をかける。

 案の定、広場での会話を聞けるはずもない彼らは疑問符を浮かべた。

 

「フィオレさん、どうしたんですか? いきなり子供たちと遊びだして」

「以前知り合った顔と親睦を深めるついでに、神の眼の情報をゲットして参りました」

 

 コグの台詞が伝染したようだ。

 首を傾げるスタンを含めて、一同に事の成り行きを説明する。更にこれから証言の裏づけを取りに行くと言って、フィオレはフィリアに手招きをした。

 

「そんなわけでこれから行ってきます。つきましては、フィリアにご同行を願います」

「わたくしに?」

「神殿関係者を連れて行ったほうが相手の口も軽くなるでしょう。そして、あの子供たちの中に武器防具店を経営しているところの子もいます。クレメンテに、ちゃんとした鞘を拵えてまいりましょう」

「わたくし、別にこのままでも……」

 

 フィリアは小さな声で不服を唱えている。しかし、その声はリオンの却下によってかき消された。

 

「そういうことなら僕も行こう。場合によっては、そのまま準備を整えて移動を始める」

「じゃあ、あたしも。涼しいを通り越してなんか寒くなってきちゃった」

「俺もそろそろ、冷えてきたし……」

 

 そんなこんなで結局、全員で聞き込みをすることになる。

 バルック基金からぞろぞろ現われた一同を見て子供たちは動揺するものの、フィオレの仲介によって彼らはすぐに気を取り直した。

 

「どっちから先に行く?」

「聞き込みが先です。でっかい荷物を運んだお知り合いがいそうな場所へ案内してください」

「じゃあ港。おっちゃんは水兵だから」

 

 移動中、彼の話す「おっちゃん」についての情報を仕入れておく。

 彼の名はジェイクといい、カルバレイス出身の船乗りであるらしい。酒好きで喧嘩っ早く、よく武器屋を訪れるため、その家の子供であるコグと知り合ったそうな。

 ちなみに、以前「隻眼の歌姫」についてコグに教えたのもジェイクだと彼は言った。

 嫌な記憶を掘り起こしてしまったが、こうして他国人に冷たいカルバレイスでの情報収集がスムーズに進むのは、彼のおかげでもある。子供に変なことを吹き込んだのはそれでチャラにすることにした。

 港につき、数人の子供たち──道案内には不向きだとして、大部分の子供たちは広場に残った──と共に歩く一同はひどく目立つ。

 

「ヨソモノが子供達を誘拐している!」

「そんなんじゃねーよ!」

「ばあさん、とうとうボケちまったのか?」

 

 道中、干し魚を広げて商いをしていた老婆が騒ぎ出したが、子供達がその場で否定しているため、騒ぎにはなっていない。

 この地方の古い人間からすれば、信じがたいことなのだろうが……

 子供たちは数人がかりで周囲を見回すも、ジェイクとやらを見つけられないらしい。

 業を煮やしたコグは、近くにたむろしていた水夫の一人を捕まえた。

 

「なあ、ジェイクのおっちゃん知らねえ?」

「あいつなら、例の星に行ったぜ」

 

 誰かに刺されてお星様になったのかと思いきや、例の星とは「星空の砂漠」というコグの両親が営む武器防具屋のことらしい。

 嫌な予感がしながらもその店舗へ案内され、コグの先導で扉をくぐった。

 

「とーちゃんとーちゃん!」

「なんだ、お前か。帰ってきたなら裏口から……ん?」

 

 子供の顔を見て、それから一同の顔ぶれを見て、店主の表情が曇る。

 ある程度予想はしていたが、やはり生粋のカルバレイス人らしい。

 明らかな他国人の顔ぶれである一行を見て、彼は何事もなかったかのようにカウンター越しに子供の顔をのぞきこんだ。

 

「どうかしたのか?」

「ジェイクのおっちゃん知らない? 港で聞いたら、ここに行ったって」

「あー、もう戻っちまったよ。カトラスを新調しようかどうしようか、大分悩んでたけどな」

 

 嫌な予感的中。どうやらタイミングは最悪だったらしい。

 

「残念。すれ違ってしまいましたか」

 

 わざと聞こえるように呟けば、店主はジロリと発言者であるフィオレを睨んだ。

 先ほどまで子供に対していたものとは大幅に異なり、客というより侵入者でも見るかのような目である。

 

「なんだあんたら。ジェイクに何の用だ」

「聞きたいことがあるだけです。それとは別に、入用のものがあるのですが」

 

 冷やかしにきたわけではないことを表明するも、店主はフンとそっぽを向いて吐き捨てた。

 

「お断りだ。ヨソモノに売るものなんか、うちにはない」

「そうですか、お邪魔しました」

 

 あまりの言い草に憤る気配を見せた一同──主にスタンやルーティを手で抑えて、きびすを返す。

 しかし、それに納得しない人間が一名ばかりいた。

 

「何だよそれ! せっかく俺が連れてきたのに、なんでそういうこと言うんだよ!」

「ヨソモノがお嫌いなんでしょう」

 

 至極明朗なフィオレの言葉だったが、激昂しているコグは聞いておらず父親にくってかかっている。

 それに対して、店主の態度はなんとも素っ気ないものだった。

 

「お前が連れてきたのか」

「そうだよ!」

「こういうのを連れてくるな。客を連れてくるのはいいことだが、ヨソモノなんかに関わるんじゃない。ろくなことがないぞ」

 

 過去に何があったのやら。どうやら骨の髄まで他国人嫌いであるような父親と、まっすぐで思ったことはすぐ口に出す子供。

 このまま放っておいても、そうそう決着はつかないだろう。

 どんな決着がつくのか知りたくもないし、そこまで付き合う気もなかった。

 そこで。

 

「ちょっと外で待機していてください」

 

 父親と激しい口論を交わすコグと自身を除いて、全員を店舗の外へ出す。

 そして、店内の暗がりに左手を伸ばした。

 

「其の荒ぶる心に、安らかな深淵を」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 第一音素(ファーストフォニム)「闇」に属する譜歌を謡い、口論する親子をあっという間に眠らせる。

 寂れた──否、他の客がいない店内で本当に良かった。

 健やかな寝息を立てて大の字になっているコグを揺り起こし、父親を起こしてからくるよう言いつけて外へ出る。ほどなくして、彼もまた外へと出てきた。

 

「いかがでしたか? お父様の様子は」

「うん……なんか、周り見て夢でも見てたのかなーとか何とか言ってた」

 

 誤魔化すことには成功したらしい。しかし、コグの顔色は悪い。

 

「ごめん。父ちゃんが他国人嫌いなのは知ってたけど、あんなこと言うとは思わなかったんだ。お客さんには愛想いいし……」

「あなたが気にすることではありません。それよりかジェイドとかいう人のところへ」

「ジェイクな。でも俺、恥ずかしいよ。親が友達の悪口言うなんて」

 

 子供は親の背中を見て育つものらしい、と聞き及んでいた。彼の場合、彼の父は立派な反面教師だったということか。

 ある程度予想できたことだ。事前に確認を取らなかったフィオレにも責任はある。

 理不尽な事柄に対して耐性のないスタンたちへ事前に打ち合わせをしておかなかったことも災いした。ともあれ、彼の悔恨は悪いことではない。

 

「なら、あなたはああいう大人にならないでください。それまでに何があったとしても、生まれや育ちで人を差別するような人間にならないと心に決めてくださるなら、これから先嫌な思いをする人間は減るでしょうから」

「言われなくったってならねーよ、あんな分からず屋なんかに」

 

 どうやら気を取り直してくれたらしい彼に再び案内を頼んで、フィリアを見やった。

 あれから武器の携帯に慣れたらしく、もう足取りがふらついたりはしていない。

 

「そんなわけで、鞘の新調はもう少し後になりそうです。外から来た船乗りには優しそうな、港の店を探してみましょうか」

「は、はい……」

「ところでフィオレねーちゃん、武器屋に何の用事だったんだ? 武器の新調か?」

「仲間の武器の、鞘の調達です。今は間に合わせですが、これではあまりにも難なので」

 

 無邪気に尋ねるコグ少年に、フィリアの持つクレメンテの鞘を示す。

 彼は鞘というより筒状の袋に近いそれを見て、ぷっ、と吹き出した。

 

「何だこれ。だっさ!」

「な、失礼な……!」

「素人が間に合わせで作ったものです。正直なのはいいことですが、感想は勘弁してください」

 

 珍しく額に青筋を浮かべたフィリアをなだめて、フィオレは苦笑した。

 やはり子供は子供、素直一直線である。落ち込んでいた彼に笑顔をもたらしてくれた辺りは、役に立ったといえよう。

 フィオレの言い分に納得したのか、彼はそれ以上鞘の外見には触れなかった。

 

「鞘の新調かあ。俺は他の武器屋のことはよく知らないけど、ジェイクのおっちゃんなら何か教えてくれるんじゃないかな」

「聞き込みが先ですけれどもね」

 

 再び港、船着場を中心に子供たちはうろちょろと歩いて回る。

 そして今度は、子供の一人が甲高い声を上げた。

 

「いたよー!」

 

 カリンの声に集えば、港の端で一人の男がたそがれていた。

 特徴的な水兵服に、頭部をすっぽりと覆うバンダナ。一見するとその辺の船乗りと違いがわからないが、初対面であるフィオレにはわからない特徴があるのだろう。

 ジェイクなる人物は、子供たちの呼びかけに対して気さくに反応している。

 

「あ? お前らか。何か用か?」

「ちょっと前にさ、でっかい荷物をカルビオラに運んだろ? その時のことをこのねーちゃんたちが聞きたいんだってさ」

 

 何も言わずとも説明されてしまった。あながち間違っていないから、あなどれない。

 ジェイクは一目で他国人とわかる一同を見やり、そしてコグに示されたフィオレを見てヒュイッ、と口笛を吹いた。

 

「こいつは偉い別嬪さんだな。セインガルドで有名な『隻眼の歌姫』によく似てる気がするが、俺に何か用かい?」

「似てるんじゃなくて「初めまして、お伺いしたいことがあります。最近、セインガルドから運ばれてきた巨大な積荷をご存知でしょうか」

 

 何か言いかけるコグの口を物理的に塞ぎ、事務的に尋ねる。彼は存外、素直に首肯した。

 

「ああ、知ってるよ。何でも神殿に奉納される神像だとか何とか。あんなにでかいものを国外から運び込むなんて、非効率なこと考えるねえ」

「──間違いないな」

 

 細かいことを根堀葉掘り聞き出し、カルビオラにある神殿へ運び込まれたことが断定される。

 神官服を着たフィリアもいたことで、彼の中では巡礼の旅の類だと思われたらしい。フィリアがそれを聞かれて、曖昧に言葉を濁していた。

 

「巡礼の旅か、なんかかい?」

「え、ええ、まあ。そんなところですわ」

「気をつけていきなよ。最近はこの辺も、あんまり治安はよくないからねえ」

「はい、ありがとうございます」

 

 首尾よく聞き込みを終えたかと思われた、次の瞬間。

 

「ありがとな、おっちゃん。それじゃあ──」

「ちょっと待て、あんたら。せっかく教えてやったのに、礼のひとつもでないのかい?」

 

 このまま誤魔化せるかと思っていたが、世の中そう甘くはないらしい。一同のほとんどがその図々しい物言いに眉をひそめ、子供たちが不安そうに両者の顔色を伺う中。

 フィオレはひとつ咳払いをした。

 

「それもそうですね。では、情報料として何をお望みですか?」

「隻眼の歌姫の生歌がいいな。俺は彼女のファンでね」

 

 ニヤニヤ笑っている辺り、どうやらわかってて言っているらしい。嘆息して、フィオレは応じることにした。

 

「ここで、ですか?」

「どこだって構わないぜ。慣れない気候で本調子じゃないなら、セインガルドに戻ってくれてもいい」

「そんな暇はありません。だそうですので、皆は報告と準備に回ってください」

 

 外套の中で背中に手を回し、シストルを取り出す。その傍ら一同に指示を出すも、一同はおろか子供たちすら動こうとしない。

 

「リオーン、行かないのか?」

「お前らこそ、足を動かさないか」

「意地張っちゃって。フィオレの歌を聴きたいんでしょ?」

「そういうルーティさんも、微動だにしていませんわ」

「フィリアもな。私は聴きたいから、構わないが」

 

 港の片隅で、二桁にわたる人間が固まったまま動かない。これではカルバレイスでなくとも、奇異の視線にさらされること請け合いだろう。

 時間の有効な使い方を諦めたフィオレは、手近な木箱に腰掛けた。

 

「リクエストはありますか? 三曲までなら応じます」

「なら、『海の蒼 空の青』と、『箒星』と……」

 

 どこぞの船長とは違い、ジェイクは本物であるらしい。フィオレの顔どころか、フィオレ自作曲のタイトルまですらすら挙げた。

 軽く調弦を済ませて、深呼吸を繰り返す。軽く眼を伏せて、フィオレは脳裏の旋律をなぞり始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 船旅での移動中、暇なときに嗜んでいたせいか。ろくな発声練習もしていないわりにミスもなかった『ジェイクへの礼』を終える。

 ジェイク、一同、子供たち以上に拍手が多かったのは聞かなかったことにして、フィオレは外套の中にシストルを仕舞った。

 

「──情報提供、ありがとうございました」

 

 腰掛けていた木箱から立ち上がり、再びジェイクに対して頭を下げる。

 拍手にかき消されてほとんど聞こえていなかっただろうが、その態度からフィオレが何を言ったのか悟ったのだろう。

 

「いやあ、久々に聴いたがよかった。記念にサインして……」

「お断りします」

「じゃあ握手を「嫌です」

 

 誰から頼まれても断ることにしているのだ。これ以上時間を割くつもりはない。そのまま立ち去ろうとして、フィオレはとあることを思い出した。

 

「そうだ。友人の剣の鞘を新調したいんです。『星屑の砂漠』以外で、他国人に優しく腕のいい武器屋をご存知ではありませんか?」

「あ、ああそうか。コグの案内で行ったんだな? あそこは輪にかけて地元贔屓だからな……よし。そういうことなら、俺が紹介してやるよ」

 

 約束を取り付けたところで、子供たちに重ねて礼を言う。

 バルックへの報告とカルビオラに向かうべく準備を代表でリオンに頼み、フィオレはフィリアを伴って一同と別れた。

 ジェイクの先導で、武器屋へ向かう矢先のこと。

 

「フィオレねーちゃん、頼みがあるんだ!!」

 

 ついてきたコグ少年が、何やら瞳をきらきらさせつつこんなことをほざいた。

 

「頼み?」

「うん。俺と握手して!」

 

 満面の笑みを浮かべて、両手を突き出され。フィオレはさっ、と両手を後ろ手にやった。

 

「……理由をお聞きしても?」

「ねーちゃんと握手した手でジェイクのおっちゃんと握手したら、ホウシュウくれるんだって!」

 

 子供に何を依頼しているんだ。

 コグを警戒しつつ、先導しながらちらちらこちらを伺うジェイクにくってかかろうとして、もにもにと手に柔らかい感触が走る。

 

「へっ?」

 

 ちらと見やったその先には。

 

「よしっ、ナイスだ、カリン!」

「えへへ、フィオレおねえちゃんの気を引いてくれてありがと、おにいちゃん」

 

 にこにこと無邪気な笑みを浮かべるカリンが、後ろに回したフィオレの手を思う存分撫でくり倒している。

 ふと、その笑みが消えて、少女は不思議そうにフィオレを見上げた。

 

「ねえ、おねえちゃん。ここだけがすごくカタイけど、どうしたの?」

 

 当たり前である。カリンが指すのは左手の甲──乳白色のレンズが張り付いたその場所だ。

 

「カタイ?」

「……裏拳用にちょっと仕込んでいるだけです。こんな風に、使うんですよっ!」

 

 早速とばかりカリンの手を握りにきたジェイクに裏拳を入れ、少女の手には水筒の中身をぶちまけ、きっちり拭う。

 ジェイクから報酬を貰い損ねてがっかりしている二人には先ほど渡す予定だった情報料の50ガルドを握らせ、悶絶するジェイクにおろおろしていたフィリアに、グミを渡すよう促して。

 すったもんだの挙句、無事クレメンテの鞘を手に入れた二人はバルック基金へと戻り、一同と無事に合流している。

 その時点ですでに日は落ちていたため、カルビオラへの出発は明け方へと延期された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





サイン拒否は、悪用防止と自分の名前の綴りをちょいちょい間違えるのを自覚しているので「自分の名前間違えてるダッセ」と言われたくないため。異世界出身だからしょうがないね。
握手を拒むのは、もちろん左手甲のレンズの存在を気取られないため。あと、たとえ片手であっても手が塞がった状態で見知らぬ他人との接触を嫌がる傾向にあります。咄嗟の対処ができないという理由。


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第四十九夜——砂漠行軍~正しいソーディアンの使い方講座

 カルバレイス大陸チェリク~カルビオラ移動中。
 ソーディアンってどうやって使ってるんだろう? 考察した結果が下記。
 ラクダを使って砂漠横断中、正体不明の何かに襲われています。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつての第二大陸、カルバレイスは熱帯性砂漠気候に属している。

 フィオレは過去訪れた経験から知っていたが、火山を多く有していることもさながら、平均気温は高くて降水量が極端に少ない。

 なるほど、地元の人間が「監獄島」などと呼ぶ理由もわかる。もとは特権階級であったかつての天上人たちも、ここへ移送された直後はひどく苦労したことだろう。

 生活自体がそれなりに安定している現在とて、とても豊かには見えないのだから。

 

『……しかし、どことなく罪悪感を覚えんでもないのう』

「クレメンテ?」

 

 新たな鞘に収められたものの、フィリアの熱烈な希望によりフィオレが作成した刺繍入りの肩紐で持ち運ばれるクレメンテは、ぼそりと呟いた。

 

『戦後処理の際、思いの他多かった天上方の捕虜たちを隔離することは、地上軍上層部……儂らが決定したことじゃ』

「ということは、ディムロスたちもご存知で?」

 

 しかし、身体があれば当人はかぶりをふっていたことだろう。

 

『いや、我々はとある理由により、早期に凍結されたからな……唯一クレメンテだけは、再び目覚めた際当時の状況を知る者がいないのは困る、と言い張っていたが』

『年寄りの冷や水とかなんとか、散々言われてたけどねー』

『それはさておき、じゃ。当時は無用な争いを避けるため、良かれとして行ったことじゃが……まさか千年後、このような事態に陥っているとはのう』

「悔やむだけなら誰でもできます」

 

 沈んだ声音を発するクレメンテに、フィオレはわざわざ冷たい一言を浴びせた。

 念話を使わない会話につき、ソーディアンの声が聞こえる一同は非難の視線をフィオレに向けている。

 

「そんな言い方……」

「勝戦国と敗戦国の区分けをすることがそんなにいけないことですか? 戦争終了後じゃ、人材足りないわ、物資足りないわで捕虜を養う余裕なんかなかったでしょう。非があるのはあなた方が守った地上を引き継いだ人々だと思います。勝った側であることをいいことに、差別と迫害を何百年と重ねてしまったのですから」

『……なぐさめてくれとるのかの?』

「私は思ったことを言っているだけです『慰めが欲しけりゃご自身のマスターにお願いしてください』

 

 妙に意外そうなクレメンテの声音が癪に障って、フィオレは砂を蹴るように足を踏み出した。

 ──そう。現在一同は、カルバレイス地方に広がる砂漠を横断中なのだ。

 幸いなことに、この砂漠には日差しを凌げる大規模なオアシスが数箇所存在する。予定通り歩くことができるなら、日中の厳しい日差しを長時間耐えることも、夜中の厳しい寒さに耐えて行軍することも避けることができるのだ。

 ただし、それができるのはよほどこの地を旅することに慣れた熟練者でしかないと、バルックは教えてくれた。

 そのため、数頭のラクダで移動する乗合馬車が存在する。しかしこの乗合馬車は、地元民等と同乗しなければならないので、他国人が利用するとよくトラブルが起こるのだという。

 さりとて、二頭立ての荷台を借りるのは他国人料金につき、かなり割高だ。

 そこで、親が乗合馬車の元締めであるリョウ少年は、一同に秘策を授けてくれた。

 

「うわっ!」

 

 先を行くスタンが、突如として悲鳴をあげる。すわ魔物の襲撃かと辺りを見回しても、そんな気配はない。

 

「スタン、如何しましたか?」

「こいつ、またヨダレを吐き出して……」

 

 まつげが長く半開きの瞳に、ユーモラスな顔つき。

 背中に瘤と一同の荷物を負うこの四足の生き物は、少人数で砂漠越えをする際、貸し出されるラクダである。

 馬車は高いがラクダならそれほどかからず、数頭借りて大体のペース配分を考えれば、自分たちのペースでカルビオラにたどり着ける、と入れ知恵してくれたのだ。

 本来他国人には適用されないサービスだがリョウ少年の口利きで、彼の父親は一同に三頭のラクダの貸与を認めてくれた。荷物を常に持ち歩かず済むし、いざとなれば二人一組のタンデムで移動が可能である。

 更にラクダは常に同じルートを歩くため、カルビオラまで最短距離で誘導してくれる。

 

「あたしなんて口の中カラカラだってのに、よくツバなんか吐き出せるわね」

「無駄話をする余裕があるならまだまだいけるだろう」

 

 少し前に水筒の水が切れた、と騒いだルーティがラクダの生理現象にまでケチをつけ始め、それにリオンが言わなくていいコメントを発する。

 また騒ぎ始めた二人を投げ遣りに仲裁して、フィオレはふとルーティの腰に下がっているアトワイトへ眼をやった。

 

「そういえばルーティ、アトワイトで飲料水を抽出することはできないんですか?」

「へ?」

「ほら、大気中の水分を凝固させるとか、アイスニードルの応用で氷の塊を出すとか」

 

 フィオレにとっては何気ない一言だったのだが、ルーティはしばらくポカンとした後で苦笑いを浮かべている。

 

「何言ってんの。ソーディアンにそんな、便利な機能ついてるわけ……」

「アトワイト。できないんですか?」

『可能よ。通常プログラムされている晶術をそのまま使うのではなく、アレンジして具現化できればね』

「やっぱり。前にディムロスの刀身にただ炎を宿す、という芸当をしてもらいましたから、やりようによっては……とは思っていましたが」

 

 一人納得するフィオレではあったが、当人にとってはそれどころではない。

 

「何ですってぇ! どうしてそんな重要なこと黙ってたのよ!? それさえ知ってたら、こんな重たい水筒なんか、わざわざ買ったりしなかったのに……!」

『ソーディアンに頼りすぎるのはどうかと思うわ。それに、慣れないことして疲れた挙句、移動ができなければ皆に迷惑がかかるでしょう』

 

 ドケチ根性を発揮するルーティに、マスターを思いやり尚且つ正論を放つアトワイト。勝者は比べるべくもない。

 こんなやりとりは日常茶飯事なのか、それともこれがルーティたる所以か。彼女はすぐに気を取り直した。

 

「まあいいわ。やってみるから、やり方教えて」

『具体的なやり方はないわ。さっき言ったとおり、既存の晶術をアレンジするというマスターの技量がものを言うの。さ、頑張って』

「面倒くさいわね……」

 

 歩きながらも試行錯誤を重ねているルーティだが、なかなか上手く事は運ばない。

 ついに業を煮やした彼女は、何を思ったのかアトワイトをフィオレへ突き出した。

 

「ねえフィオレ。ちょっとアトワイト使って、晶術使って」

「……へ?」

「あたし、アトワイトを使いたての頃加減がわからなくて、アイスニードル使うつもりが氷の塊降らせたことがあるのよね」

 

 つまり、フィオレにわざと晶術を失敗させて氷を手に入れるつもりか。果たして声が聞こえるというだけの、マスター以外の人間に晶術は発動可能なのか。

 受け取ったアトワイトにそれを尋ねるも、彼女の返事はさばさばしたものだった。

 

『さあ……私も前のマスターとルーティにしか使われたことないから、わからないわ。いい実験になるし、何よりあの子が納得しないから、試してみましょう』

 

 いいのかそんなんで、と内心思いつつ、フィオレもまた好奇心を刺激されている。

 懐刀を持つように逆手で握って、おもむろに尋ねた。

 

「さて、それじゃあ晶術とはどのように発動させるものなのですか?」

『まずはソーディアンとの一体化よ。私を持つ手を意識して、ソーディアンを体の一部だと思って』

 

 言われるままに柄を軽く握りなおし、意識的に力を抜く。

 すると、どこかが繋がったような感触と共に、ソーディアンを持っているという感覚が消えた。直後、まるで流し込まれるかのように何らかの情報が脳裏をよぎる。

 しかし、それは束の間のこと。記憶として留まるよりも早く、情報はあっという間に霧散している。

 

『フィオレ……あなた、本当に小器用ね』

『な、何のことですか?』

『思いのほか、すんなりと一体化したわ。今のあなたの視界を私も借りることができるのだけれど、とても筋がいいわよ』

 

 ほめられてもあまり嬉しくない時は、なんと返したものか。

 次なるアトワイトの指示はというと、これからプログラムされた晶術の起動を試みるため、彼女と共に詠唱しろ、とのこと。

 なるほど、プログラムされた晶術の起動をソーディアン自身が行う辺り、個人の知性と意思を宿した意味が見え隠れしている。

 おそらく晶術というのは、元祖とされた譜術と同じく複雑な代物なのだろう。

 譜術は時代と共に簡略化されたが、晶術はソーディアンというデバイスを用いて発動しやすくさせたのだろう、と予想できた。

 譜術は簡略化の結果、威力の減少に繋がったが、ソーディアンはひとつの人格が起動にのみ労力を注ぐため、実質は一人の人間が手間暇かけて発動させているようなものだ。威力低下はありえないだろう。

 そして使用者(マスター)の音声を鍵として起こしうる現象を具現化させる、と。アレンジで具現化がどうのこうの言っていたことを考えると、音声だけではない何かの要素も必要なのかもしれない。

 

『飛来せよ氷柱。我が敵を貫け』

「アイスニードル」

 

 何となく仕組みを理解したフィオレが、アトワイトの詠唱に従って氷矢を出現させる。ところが。

 

「え!?」

 

 何もない虚空に向かって放たれた氷柱は、砂の大地につき刺さって動きを停止する。

 それだけならば、まったく問題なかったのだが……

 

「アトワイト、あんた新しい晶術でも思いついたの?」

『それにしてもこのような術、アトワイトに組み込まれていたかのう』

 

 放たれた氷柱は家屋の柱ほどの大きさもあり、その十数本と通常ルーティの用いるものと明らかに格が違っていた。

 

「えーと……」

『ルーティ、望み通り氷が出たわよ。これを砕いて水筒に入れれば、水に不足しないと思うわ』

 

 戸惑うフィオレを他所に、アトワイトは淡々とマスターに所望の品の出現を報告している。

 

「アトワイト?」

『昔のあなたと同じよ。加減ができなくて肥大化させちゃったんだわ。とはいえ、普通の氷と変わらないから水分補給に問題はないわよ』

 

 彼女自身から何の問題もなかったことを告げられ、一同は嬉々として発生した氷柱を砕きにかかった。

 リオンさえも参加する中、未だ水筒に余裕のあるフィオレは手の中のアトワイトを見下ろす。

 

『……ホントですか?』

【嘘は言っていないわ。最も、ソーディアンは資質のあるどの人間が使っても同じ効果を発揮するわけじゃない。持ち主の素養によっては、基礎の術でも威力は大幅に異なる……この辺りで察してくれると嬉しいわ】

 

 ルーティに聴かれまいとして、だろう。アトワイトによる特殊通信に、フィオレは耳鳴りを我慢して頷いた。

 そうして、氷を砕こうしてかとアイスピックはないかと道具袋を漁るルーティに、アトワイトを返そうとして。

 足が動かなくなった。

 

「!」

 

 ソーディアンを扱ったことによる疲弊ではない、砂漠横断による疲労でもない。

 何かに足を捕まれたのだと察知した瞬間、フィオレは思わず持っていたアトワイトを足元に突き刺した。

 砂を刺したような感覚はなく、確かな手ごたえが返ってくる。

 

『フィオレ、アトワイト、気をつけて。その辺になんか潜ってるよ!』

「今頃そんなこと言われても困ります」

 

 シャルティエの警告に突っ込み、まずその場から離れようとして。深々と突き刺さったアトワイトの刀身を引き抜こうとしたそのときに、足元がおぼつかなくなる。

 咄嗟に平衡感覚を取り戻そうとして、フィオレは自分の身体が軽くなるのを感じた。

 否、軽くなるのとは違う。浮き上がった、が正しい。

 

「フィオレさん!」

 

 叫ぶスタンの声が遠い。

 それもそのはず、フィオレはアトワイトもろとも大空を舞っていた。

 足を掴んだ何者かをアトワイトを刺して、それを振り払おうとする力が強すぎて吹き飛ばされた──そんなところだろう。

 滞空中、飛ばされた勢いを利用して身体を捻り、無傷で着地する。思いの他吹き飛ばされたようで、柱ほどあった氷柱はアトワイトよりも小さく見えた。

 

【二人とも無事か!】

【私もフィオレも大丈夫よ。けれど、今のは一体……】

 

 ソーディアン二名による会話の最中にも、フィオレの足を掴んだと思しき何者かは砂地から姿を現した。

 

「……また、面妖な」

 

 フィオレが思わずそう呟いたのも、仕方がない。

 全長は見上げても視界に収まりきらないほど──これまで相対してきたドラゴン達と遜色なく、造詣も同じものを思わせる程度。

 それでありながら、手足らしいものはどこにもなく、まるで蚯蚓(ワーム)のような身体である。それでいて、顔と思しきあたりに一対の触手らしきものが生えていた。

 鯰のヒゲを思わせるそれの片方の先端が千切れているということは、まさかあれでフィオレの足を掴んだというのだろうか。

 

『ク……ククク……ミ……ゾ、ホ……』

 

 そして、湖竜(レイクドラゴン)を思わせる意味不明の言葉。

 相変わらず、何かを言っているのはわかるが、意味がさっぱりわからない。そもそも、単語の切れ端しか聞こえない。

 そういえば以前、シャルティエにあの謎の念話解読を依頼したところ、彼はあっさりとそれをやってのけた。念話を行うに当たって譜業で多少範囲を広げているとはいえ、人間の可聴音域とソーディアンの可聴音域はかなり違うようである。

 アトワイトにそれを頼もうとして、しかしそれは彼女の警告によって遮られた。

 

『ぼやぼやしないで、くるわよ!』

 

 そんなことは百も承知である。

 何事かを喚きながら迫りくる砂竜からかなりの余裕をもって逃れ、フィオレはアトワイトを携えたまま抜刀した。

 砂竜はそのまま地表を滑ることなく、吸い込まれるかのように地中へ潜り込んでいく。追って尾の辺りを斬りつけるも、見事に弾かれた。

 鱗らしいものがないくせに、頑丈な皮膚である。

 

『アトワイト、あれが何を言っているのかわかりますか?』

『え? 「見つけたぞ、保持者」と言っていたような……』

 

 保持者。またその単語が出てきた。

 まさかフィオレが手の甲に宿している、このレンズの保持者と言っているのだろうか。特別に持ち歩かざるをえない代物などこれくらいだが、断定はしかねる。

 それを言うなら紫電もそうだ。そして、フィオレがこの世界に招かれる前まで携帯していたものも、条件に当てはまる。

 そんなことを思いながらも、フィオレは一同と合流するために移動を始めた。

 しかし。

 

『来るわ!』

 

 独特の地鳴りで気配を察知したフィオレと同じく、アトワイトの警告が脳裏に響く。

 大急ぎでその場から離れると、真下から砂竜が大口を開いて姿を現した。

 

「ん?」

 

 そこで、フィオレはとあることに気付いた。

 砂竜の眼球があるべき場所に、それはない。顔の造りは竜なのだが、本来目があるべき場所は何もなく、はっきり言って不気味だった。

 その代わりといってはなんだが、周囲をふんふんと嗅ぎまわるような真似をして、フィオレの位置を掴んでいる。

 再び仕掛けられた突進を回避しながら今度は胴の一部を斬りつけるも、結果は同じだった。

 

「どうやら、私の武器では歯が立たないようですね」

 

 現在は仕舞っている魔剣なら、まだ重さで殴るように攻撃できるかもしれないが、アトワイトの前でそれはためらわれる。

 奥の手はいくつも用意しておくべきものだが、それは好きな時にいくらでも使っていいわけではない。

 ならば。

 紫電を鞘に収め、アトワイトを持ち替える。

 

「そなたが涙を流すとき群がりし愚者は、白に染め上げられし世界の果てを知る」

 

 コアクリスタルに左手をかざし、瞬く間に集まった第四音素(フォースフォニム)「水」の元素を練り上げた。

 

「セルキーネス・インブレイズエンド!」

 

 肉眼で確認できるほどの冷気が集結したかと思うと、周囲一体が凍りつく。

 本来対象を氷漬けにし、そのまま氷塊の杭で串刺しにする術がこのような効果を発揮したということは、術に囚われるよりも早く地中へ逃げたのだろう。

 今度こそ、とフィオレが再び集中を始めた、そのとき。

 

『……他には何が使えるの?』

「アトワイト?」

『シャルティエやディムロスから、聞いたのだけれど。その気になれば、あなたは……晶術に類似した技を使えると聞いているわ』

「何が使えるって」

『え?』

「何が使えるって、聞いたんですか」

 

 集中を乱された不快さを隠そうとしないまま、フィオレは投げ遣りに聞き返した。

 なぜか答えようとしないアトワイトに対し、不審に思いつつも言葉を続ける。

 

「ドラゴンを負傷させる程度のもの……おそらくあなたは、高出力の雷や立ち上る炎柱を私が発生させたと聞いたのだと思います。違いますか?」

『そ……その通りよ』

「そんなもの、熱砂の中に住んでるような生き物に効くと思いますか?」

『いいえ』

「それが答えです」

 

 そこまで答えて、ふと先ほどの質問を思い出す。

 何が使える、というのはフィオレが使って見せた属性について尋ねたのだが、アトワイトは『晶術に類似した技』について揶揄されたとでも思ったのだろうか。そうでなければ、あそこで黙り込んだ理由などない。

 言葉足らずで誤解させてしまったのかどうかを確認しようとフィオレが口を開こうとしたところで、アトワイトの言葉に寸止めされた。

 

『そうね……砂地に生息するような生き物なら、水属性の晶術が有効と考えるべきだわ。フィオレ、あなたの手品ではなくて私を使うつもりはない?』

「提案自体は喜んで受け入れますが、あなたは治癒や補助メインのソーディアンであって、攻性晶術は不得手なのでは?」

『確かに、かの天地戦争で私に望まれた役割はそれだったわ。敵地に乗り込んだ際は皆の負傷も激しくて、攻撃に参加する余裕なんかなかった。それでも、皆無ではないの。ルーティにはまだ扱えないけれど、あなたなら発動できるかもしれない』

 

 ソーディアンの晶術発動に関する、マスターの条件を激しく聞きたい。

 そんな思いに駆られながら、フィオレは承諾を示した。

 やがて砂煙が発生し、再び蚯蚓じみたドラゴンが姿を現す。しかし全長のほとんどが砂地に潜ったままだ。一度は全長を見せたというのに、それは何故か。

 その理由を考えついた直後、フィオレは集中するのをやめて全力でその場から飛びのいた。

 

『フィオレ!?』

「いくらなんでも、熱砂に埋められたら問答無用で死にます」

 

 それまでフィオレが立っていた場所から、砂竜の尾が勢いよく飛び出す。

 顔の部分だけ地表に出し、それで気を引きつつフィオレの位置を探り出して、尾で捕らえる腹か。

 見かけによらず、なかなか頭の回る生き物である。

 

『チィ……! チョ……マカト』

『「ちぃ、ちょこまかと」だそうよ』

「それが人間の利点ですから」

 

 軽口を叩きながらも、事態の進展にフィオレは頭を悩ませた。

 アトワイトを使うには意識的に集中する必要がある。それにはしばらく無防備にならざるをえない。そうするには、相手の隙を作る必要がある。

 隙を作るとなると、目潰しが一番効果的だが。どうやら相手の視力は退化しているか、あるいは初めから視覚を備えていないようだ。

 ならば視覚に代わる、相手の優れた器官を直接攻撃する必要があるのだが……

 妙案を思いついたフィオレは、すぐさま実行に移した。

 

『フィオレ、何をしてるの!? 一旦逃げて、皆と合流したほうが……!』

「どうしても勝機を見出せなければ、その案を採用します」

 

 逃げるどころか砂竜の顔と胴体の一部が生えている地点へ駆け寄りつつ、尾の追跡を避けていく。

 巨大な顔が眼前に迫ったところで、隠し持っていたあるものを取り出した。

 チェリクを出る際、その珍しさからぼったくりだとわかっていても購入した──ドリアン。

 熟れたそれを食べようとすれば独特の臭気で涙すら出ると知ったフィオレは、好奇心から非常事態の水分補給、という名目で一番熟れていないものを選んできたのである。

 それでもフィオレの知識が正しければ、今の時点でも中身を取り出せばとんでもない臭気が発生するはず。そして、いくら固い棘に覆われているといっても所詮は果物。

 砂地の高速移動に耐える竜の皮膚より固いわけがない。

 

「それ!」

 

 思い切り振りかぶり、投げつけた。棒手裏剣のような適度な重さもない、加えて投げにくいドリアンは放物線を描いてドラゴンへと迫る。

 本当は激突の勢いで割るような形にしたかったのだが、憂う必要はなかった。

 なぜなら砂竜は、眼前に舞ったそれを邪魔だといわんばかりに、髭らしきもので打ち払ったからである。

 鞭のようにしなったそれに耐えられるわけもなく、ドリアンはまっぷたつどころか四散した。

 

『ギャアッ!』

 

 どうでもいいが、悲鳴がはっきり聞こえるのは意味を成さない音だからなのだろうか。原型を留めない元ドリアンは、しっかりとドラゴンの顔にかかっている。

 投げつけた時点でそれなりに距離を取ったフィオレの鼻にもその臭いが届いているということは、浴びたあちらは鋭敏な嗅覚が災いして、さぞや大変なことだろう。

 もはやフィオレのことなど忘れたかのように、全長を砂丘へ投げ出して七転八倒する砂竜の動きに注意しながらも、フィオレはアトワイトを構えた。

 

『あなた、ドリアンなんてどこに隠し持ってたの!?』

「細かいことは気にしない」

 

 手放した際、自動的に切り離されていたアトワイトとの一体化を試みる。

 アトワイトというソーディアンを持っている感覚が消え、それを確認した彼女の詠唱が脳裏に響いた。

 

『祈りを捧げるは母なる海。地上の災禍を嘆き悲しみ、その涙はすべてを押し流す』

 

 精神力の使用、と称するが正解か。アトワイトのコアクリスタルが鮮やかに輝けば輝くほど、気力がごっそり取られるような感覚に陥る。

 その脱力感に耐えながら、フィオレは最後の一文を詠唱しきった。

 

「タイダル、ウェイブ!」

 

 唱え終えた途端、周囲が蒼一色に染まる。かすかに聞こえた潮騒は直後耳元で聞こえ、穏やかだったはずの波は一瞬にして白い牙を剥いた。

 未だに嗅覚への刺激でのた打ち回る砂竜に、発生した津波形の衝撃が余すところなく直撃する。

 その一撃だけで、決着はついた。もともと水とは無関係な生態だったのだろう。津波の飛沫に触れただけで、砂竜の皮膚はただれたような状態になっていた。

 それが津波サイズで押しつぶされるようになったのだから、たまらない。

 砂竜の巨大、否、長大な体躯が直視に耐えない状態となって絶命した。

 ルーティが狂喜乱舞しそうな大量のレンズが出現するその様を眺めつつ、座り込む。

 

『やったわね……』

「そですね」

『久々に使ったけれど……』

 

 云々かんぬん何かを抜かすアトワイトの声など適当に流して、フィオレは力なくその場で横になった。

 けだるさを少しでも緩和させるため無意識に行ったことだったが、きつい日差しにも関わらず睡魔の誘惑が迫りくる。

 ころころと転がってきた何かを手にしたまま、フィオレはあっさりと、その誘惑に身を委ねた。

 

「きゃー! 何このレンズの山! いっただきぃ!」

「……うるせー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十夜——束の間の休息~かと思いきや。重大事実、発覚

 カルバレイス、オアシスで休憩の回。
 スタンといちゃこらして、リオンと密談して。
 




 

 

 

 

 

 

 

 

 一同との合流時。ルーティの歓喜に満ちた甲高い歓声で眼を醒ましたフィオレだったが、彼女にアトワイトを返しても気怠さは消えなかった。

 おそらく、マスターではない人間がソーディアンを使ったことにより、極度に疲弊したのだろうとクレメンテが見解を示している。

 これ以上時間の浪費をするわけにはいかなかった一同は、体調不良中のフィオレをラクダに乗せて、一路オアシスを目指した。

 ラクダの背に揺られて睡眠を取った彼女は、目的地についたその時はすっかり英気を養っていたが、それまで行軍していた他五人はたまったものではない。

 緑溢れる広大なオアシスを見るなり、気が抜けたように座り込んでしまったルーティに、リオンの嫌味が引き金でまた騒ぎを起こす──ことはなかった。

 体格からしてあまり体力に恵まれていない彼もまた、嫌味を吐く余裕がなかったと思われる。

 力なく座り込むルーティをラクダに押し上げ、一同を誘導しつつもフィオレはそう解釈した。

 

「フィオレ、もう、大丈夫なのか?」

「ええ、おかげさまで」

 

 普段から無口なのは知っていたが、小麦色の肌に似合わず暑気が苦手らしいマリーと言葉少なに言葉を交わし、オアシスに踏み入っていく。

 泉のほとりに建っていた無人の休憩所で一同がくたばっている間に、フィオレはラクダ三頭の世話に取り掛かった。

 泉まで引いて水を飲ませ、その間に餌を詰めた袋を首にくくりつける。満足したラクダが、地面に首の袋を押し付けるようにして餌を食べ始めた。

 一同から徴収した水筒の中身を汲みかえて休憩所へ戻り、水筒を配ってから再び休憩所を出る。

 一心不乱に餌袋に首を突っ込むラクダを休憩所の隣にある厩舎へ入れ、フィオレはおもむろに外套を脱いだ。

 

「……ふいー」

 

 何を隠そう、外套の下は年を考えない、ルーティ並みの軽装備である。

 サラシとそう変わらないチューブトップ──腹部はむきだし──と、太腿丸出しのホットパンツ。

 通気性が抜群なかわりに青少年への悪影響は強そうだ。何せ、同性にも騒がれるほどのものなのだから。

 そして極めつけに、砂色の外套には耐暑用の譜陣を刺してある。第六音素(シックスフォニム)、光を動力源に第四音素(フォースフォニム)、冷気へ変換し発生させる代物だ。再びカルビオラへ行く、とわかった時点で準備していたものである。

 作製に必須である砂状の譜石は、砕いてすり潰したレンズで代用できた。フランブレイブの聖域へ行く前に何故気づけなかったのかと、己の未熟を責めるしかできない。

 ばさばさと外套をふるって、付着していた砂を払い落とす。編み上げの長靴(ブーツ)を脱いで隙間から入り込んでいた砂を落とすと、そのまま素足を泉に浸けた。

 むくみかけていた足を入念に解して、軽く足をばたつかせる。指の間をすり抜ける水の感触が心地よくて、フィオレは知らず息をついた。

 キャスケットを外してひさしについていた砂を払い、中に押し込んでおいた髪を取り出した。

 帽子で保護していたために砂こそついていないが、適当にまとめたせいかひどくよれよれになっている。櫛を取り出して丹念に梳いていると、休憩所の扉が開く音がした。

 ちらりと見やれば、そこには疲労の色濃いスタンが立っている。

 こちらを見て驚いたように顔を赤くしていることに気付いて、そういえば外套を脱いだままだったことを思い出した。

 

「もう少し休んでいても、リオンは怒らないと思いますよ」

「あ……ええと、フィオレさんがいないな、と思って」

 

 つまりそれは、休憩が必要なくなって手持ち無沙汰になったから出てきたというわけだろうか。梳いた髪をまとめて、今度はきちんとひとつに束ねる。

 生い茂った木々で殺人的な日差しは柔らかな木漏れ日と化しており、少々肌をさらしていても問題はないはずだった。しかし、今はスタンの目がある。フィオレが片手間に外套を羽織ると、彼は少々ホッとしたようにそらしていた視線を戻してきた。

 

「これからどうするんですか?」

「昨夜お話した通り、これから夕方まで小休憩ですね。ここから次のオアシスまでの距離は比較的短いから、二人一組でラクダに乗って凍えないよう注意して進むと……だから、しっかり休んだほうがいいですよ」

「ラクダかー……俺、乗ったことないんですよね。羊ならあるんですけど」

「それはそれで貴重な経験だと思います。ただ、応用としてラクダは無理そうですけどね」

 

 一応それは、事前のリサーチで組み合わせを考えてある。

 とりあえず騎手は乗馬経験のあるリオン、フィオレ、ルーティあるいはマリーだ。後はラクダの負担にならないよう、体重が偏らないようにして相乗りすればいい。

 更に、相乗りをしても騒ぎを引き起こさないような組み合わせを考える必要がある。余計ないさかいを起こしてラクダを脅えさせないためだ。

 それら要素を考えていくと。

 

「多分スタンは、私と一緒に乗ることになると思います」

 

 全体にかかる負担を考えれば、ベストなのはスタンかフィリア、どちらかが騎手を務めることである。しかし、二人とも乗馬経験がないのだからしょうがない。

 あるいはリオン、ルーティ、マリーに騎手をやってもらうとしたら、ルーティの後ろに乗るのは必然的に一行の中で最も体重のあるスタンだ。

 日頃から八割がたルーティの口火でじゃれあいの多い二人である。内容はただのじゃれあいでも、傍目から喧嘩しているように見えるほど強烈なじゃれあいでは、ラクダを誤解させかねない。

 

「私もあんまり得意ではありませんし、乗るのがラクダじゃきっと勝手が違うと思います。乗り物酔いするかもしれませんから、覚悟しといたほうがいいですよ」

「そうですか? さっきは全然、そんな感じじゃなかったような……」

「そりゃ引っ張られていたからですよ。牽引されているのと騎乗して操るのは大分違います」

 

 ぐだぐだと、どうでもいい会話を交わしながらふと、浸した足に触れるものを見る。

 透明度の高い泉の中、生息していたであろう魚がフィオレの足をツンツンとつついていた。

 少し足を動かせばすぐに逃げていくものの、少し眼を凝らせば似たような種類の魚が幾匹も泳いでいる。

 これを逃す手はない。

 

「スタン、お腹空いてませんか?」

「え? 空いてないこともないですけど」

「保存食だけじゃ味気ないですし、私はお腹が空きました。あれを釣りましょう」

 

 梳いたばかりの髪を数本抜き、それらを編んで釣り糸の強度を確保。携帯用道具袋を探り、手入れしていないせいで錆びが浮いている釣り針を取り出す。

 手近な岩をひっくり返して名前もわからない虫を釣り針に突き刺し、それを即席の釣り糸に結び付け、更に重りをくくりつけて泉へ放り投げた。

 

「て、手馴れてますね……」

「それはどうも」

 

 淑女の嗜み、とは言わない。これは旅人の嗜みであるはずだ。立ち上がり、フィオレは水中の魚の動きを見ながらくいくいと釣り糸を動かしている。そんなスタンの感想に、フィオレは生返事をせざるをえなかった。

 ただの虫が落ちてきたかのように蠢く釣り針に、一匹の魚がばくりと食いつく。

 そのまま引こうとしたフィオレをスタンが制止した。

 

「フィオレさん、まだ駄目です。釣り針を飲み込んでからでないと」

「でも、それだと虫が魚の中に収まってしまいますよ」

「内臓はあきらめましょうよ。それで逃げられて警戒心持たれたら、釣れなくなりますよ?」

 

 流石田舎育ちである。気を取り直したように立ち上がったスタンは、魚の様子をじっと見詰めてから唐突にフィオレへ合図をした。

 

「今!」

 

 釣り糸を手繰り寄せれば、しっかりとした手ごたえが返ってくる。

 暴れる魚を力づくで引き寄せて釣り上げれば、普段何を食べているのか。まるまる太った一匹の魚が元気よく身をくねらせていた。

 髪の強度を確かめ、時に数本足しながら六匹ほど釣り上げる。泉の傍で焚き火を熾し、適当に捌いてから串刺しにして塩をすり込んだ魚を焼いていると、その匂いにつられてか、休憩所にいた面々が次々とやってきた。

 そのまま早めの夕餉を摂った一同は、落陽を眺めながらラクダに乗り込み、オアシスを後にしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼間とは一転、極寒の砂丘を越えてカルビオラ寄りのオアシスにたどり着いたのは、深夜のことだった。

 オアシスに設置された休憩所は地元の人間が管理しており、使うことはできない。ラクダだけは預かってくれるというので厩舎に入れ、水場付近で熾した焚き火に見張りを立て、各々休む。

 乗りなれないラクダでの移動で昼以上に疲れたのだろう、休む一同は早々と寝息を立てていた。

 唐突に、むっくりと起き上がったフィオレを心なしか眠そうな目で見やったのは、焚き火番兼見張りのリオンである。

 

「なんだ。まだ交代の時間じゃないぞ」

「知ってます。別件で、ちょっとお話が」

 

 寝起きとは思えぬ機敏さで立ち上がったかと思うと、フィオレは無造作に薪代わりの枝切れを焚き火に放り込んだ。そして、リオンに手招きをして焚き火から離れていく。

 しばし戸惑っていたリオンだったが、やがてシャルティエを携えて立ち上がった。

 もしものことを考えてなのか。耳を澄ませるだけでは絶対に会話を聞き取れないであろう距離でありながら、一同の安否を気遣えるようフィオレは彼らの姿をじっと見つめている。

 藍色の瞳からは、普段通り何の意図も読み取れない。

 

「何の用だ」

「あなたは、本当にルーティのことを知らないんですか」

『!』

 

 質問を投げかけた瞬間、リオンの腰に提げられたシャルティエが息を呑む様がはっきりと聞こえた。

 当の本人はといえば、いぶかしげにしていた雰囲気を消すに留まっている。

 

「……何の、ことだ」

「とぼけるのはご自由ですが、それでは白状しているようなものですよ。エミリオ」

 

 しれっ、と追い討ちをかければ、彼は今度こそ固まった。紫闇の瞳には動揺が走り、月光で垣間見える表情はわかり安すぎるくらい強張っている。

 しかし、それも束の間。

 彼は瞳から動揺を追いやって、警戒もあらわにシャルティエの柄に手をやった。

 

『坊ちゃん!?』

「どこで、それを知った」

「ヒューゴ・ジルクリスト本人ならびにクリス・カトレットの遺品から……と、お答えするのが正しいでしょうね」

「!」

 

 話はこの任務どころか、ソーディアンの護衛を引き受けるより以前へさかのぼる。

 酔いつぶれたヒューゴ氏が呟いた三つの名を忘れかけた頃、フィオレは私室の事務机から一冊の日記を発見した。

 ご丁寧に記入されていたのは、「クリス・カトレット」なる人物名である。

 もともと事務机ならびに私室の持ち主だったのだろうかと、フィオレは軽い気持ちで鍵のかかったそれを開いた。

 日記帳における最初の頁は、生活こそ豊かなものではないが優しい夫に我侭を言いまくり、幸せな新婚生活にノロケまくる新妻の思いで埋め尽くされている。あまりの不愉快さに、一度は読むのを断念したくらいだ。

 しかし、後半になっていくにつれてそんな雰囲気は瓦解していく。

 娘に恵まれてしばらくのこと。夫の様子が急変していく様子が事細かに綴られていた。

 その詳細こそ、戸惑い流される妻の視点でしかないためにまったく参考にはならなかったが、決定的な一言が日記には記されている。

 

『弱いお母さんを許して。お父さんから護ってあげられない私を、あなたを孤児院へ預ける私を許して。ありし日のあの人が見つけてきた剣、アトワイト。どうか私の娘を、ルーティを守って……!』

 

『生まれてくるのはエミリィかしら、エミリオかしら。どうかあの人が、あんな恐ろしいことを言い出しませんように。この子の顔を見て、以前のあの人に戻ってくれるなら……私は何も、いらないのに』

 

 日記帳の持ち主の名、この中に記された、彼女の子供たちの名。

 ヒューゴ氏の口にしたその三名の名を持つのが誰なのかは、完全に判明した。

 ルーティ・カトレットはクリス・カトレットならびにヒューゴ・ジルクリストの実子であること。

 リオンの本名はエミリオといい、彼は正真正銘ルーティの実弟であろうことを。

 前者はともかくとして、後者は日付から逆算しての推測だった。リオンが他人の空似である可能性がなかったわけではない。

 それ故、本人にカマをかけてみたのだが──結果は上々といったところか。

 一方でリオンは、抜刀こそしないものの警戒心をあらわにフィオレに問い質した。

 

「……それを僕に聞いてどうするつもりだ」

「別に何も。自分の持つ情報がどこまで正しいのか、知りたかったんです」

 

 チリチリと、空気が震える。

 そこはかとない緊張感をむしろ楽しみながら、フィオレは小さく咳払いをした。

 

「それを確認するのに人払いをしたことで、今後の私の出方は察してください」

「……勝手にすればいい。ただし、任務に差し支えるような行動は控えろ。貴様の上司として命令する」

「仰せのままに」

 

 話はそれで終わりだと、態度で示すかのように。フィオレはすたすたとリオンの脇を過ぎて、一同のもとへ歩んでいく。

 ──無駄だと分かっている。間違いなく通用しない。それでも。

 その無防備に見える背中に、リオンは気配を殺して斬りつけた。

 

「ああ、そうだ」

「!」

 

 鋼と鋼が噛み合い、音高く空気は震えた。

 抜く手も見せず、フィオレは懐刀でシャルティエを受けている。

 フィオレは左手でごそごそと懐を探った。やがて、目当てのものを見つけたらしい。左の手を軽く柄に当てたフィオレは大きく踏み込んでリオンとの間合いを詰めた。

 鍔競り合うような対峙になったところで、フィオレは短刀を手放してリオンの手首を掴んだ。

 漆黒の刃が砂丘に転がる頃、手首をひねられたリオンもまたシャルティエを取り落としている。その手が半分開いている間に、フィオレは持っていた何かをリオンに押し付けた。

 

「あげます。敵を作りやすいあなたが少しでも生き延びることができるよう、祈っていますよ」

 

 無理やりそれをリオンに握らせて、短刀を拾い上げる。

 そのまま今度こそ、その場を後にしたフィオレの背中を眺めながら、リオンは当惑したまま手の中のものを見下ろした。

 ひとつの石から荒く削りだしたような、かろうじて人型とわかる代物──リバースドールである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





砂竜が落としたリバースドールは、リオンにあげる、と。
ヒューゴさんが呟いていたのは、「セインガルド建国記念式典~称号取得「隻眼の歌姫」~きな臭いきざし」の回ですね。


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第五十一夜——零れた本音と占い師の言葉

 カルバレイス、カルビオラ到着。
 見知らぬ少年を助けて、神殿に探りを入れて、占い師の言葉に腹を立てて。



 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の昼、一同は何事もなくカルビオラに到着した。

 地図からして砂漠のど真ん中であることを覚悟していたが、オアシスを切り開いてコミュニティを作り、そのまま時代の流れに沿って街へと移行した印象が強い。

 豊かな水源に、ちらほら見受ける緑の気配。大通りの向こうにでんと構えるは、寺院を思わせる大きな建物だった。

 

「あれがカルビオラの神殿か?」

「周囲の建物と建築様式が明らかに異なっています。断言はできませんが、おそらくは」

「にしても、あれが立派なせいで周りの建物がえらいショボく見えるわね。まあ、もともとそうだけど」

 

 マリーの質問に答えつつ、ルーティの感想を聞いて小さく肘でつつく。

 どんな感想を抱こうと彼女の勝手だが、もう少し声のトーンを落としてほしい。

 

「とにかく、行ってみればわかりますよ」

「待て。そんなことをすれば、追っ手の存在をわざわざ教えてやるようなものだ」

 

 セインガルド港での手法を繰り返そうとしてだろう。さっそく神殿へ行こうとしたスタンを、リオンがいさめた。

 

「じゃあどうするんだよ」

「何のためにフィリアを連れてきたと思ってるんだ。巡礼者だと思わせて、神像だと思われている積荷のこと、お前の上司だったグレバムのことをそれとなく聞き出してこい」

 

 もともと、彼の中でフィリアの役割はそれでしかなかったのだろう。よどみなくリオンは彼女にそう命じた。

 しかし。

 

「一人で行かせる気かよ! 本当にグレバムが潜伏してたら、危ないじゃないか!」

「そうよ。いくらクレメンテがついてるからって、有無を言わさずとっ捕まったらたまったもんじゃないわ」

 

 フィリアの身を案じる二人がブーイングを放つ。

 当の本人は何を言うでもなく勃発した争いに双方をなだめようとおろおろしており、マリーは傍観どころか我関せずとカルビオラの街並みを物珍しげに見回している。

 リオンはリオンで逆らわれたことに対し、今にも額冠操作盤を取り出さん勢いで額に青筋を浮かべていた。

 とりあえず、敵方の総大将であろうその名を怒鳴るのはやめてほしい、スタン。

 さてどうやって仲裁したものかと口を開こうとして、噤む。ふと、子供の甲高い声が聞こえたような気がしたのだ。

 

「フィオレもそう思うでしょ……って、ちょっとどこ行くのよ!」

 

 ルーティの言葉を尻目に、フィオレは唐突に走り出した。

 先ほど見かけた水源のほとり、小さな人影と異形の何かを風精の視界を通して発見したからである。

 何事かと思ったのだろう。後ろこそ振り返っていないが、一同は争いを中断して追いかけてきた様子だった。砂を蹴る音が人数分聞いて取れる。

 カルビオラの街を囲う塀の一部が壊れており、街に入る際見た水源のほとりと繋がっている。

 その先に、少年と……少年に迫る魔物の姿があった。

 少年は、自分より小さいとはいえ魔物相手に罵詈雑言をふるっている。しかし、効果はないようだ。

 本来知能を持たない、動物の形をした魔物は、それでも雰囲気から自分の悪口を言われていることがわかったらしい。じりじりっ、と少年に詰め寄っていく。

 その光景を見て、我先に駆け出したのはスタンだった。

 

「何してるんだ。危ないじゃないか!」

「……邪魔しないでよ!」

 

 その声に、僅かな喜色を浮かべた少年だったが、スタンの様子からして他国人であることを見破ったらしい。顔をしかめて、ぷいとそっぽを向いた。

 

「街は俺様が守るんだい! ヨソモノの力なんて借りれるもんか!」

「……なんか、むかつくガキね」

 

 とはいえ、これがカルバレイスに住まう子供の本音だろう。やはり親から受けた影響というのは、計り知れない。

 どうでもいいが、魔物を前にしてそっぽを向くのは危ない……と思っていた矢先に、その心配は現実のものとなった。

 そんなことを言っている場合じゃないと、スタンは子供を避難させようとして、少年はそれに力の限り抵抗している。

 その間、魔物が空気を読むはずもなく。

 互いしか見ていなかった二人に、魔物──シースラッグなるなめくじ型の魔物、そしてカトルフィッシュなる空中を漂うイカのような魔物が襲いかかった。

 

「さがりなさい!」

 

 咄嗟にその間に割り込み、紫電を一閃する。

 小さいからといって油断すると酸の塊を吐いてくるシースラッグの一刀両断は成功するものの、紫電は一振りの刀でしかない。二体の、サイズが違う魔物を一度に倒すのは無理だった。

 シースラッグに構っている隙に、ゲソに似た触手がフィオレの腕に絡みつく。瞬く間に噛みつかれ、血潮が吹き出すのを感じながら本体に刃をつきたてた。

 

「フィオレさん! 大丈夫ですか!?」

「何をしているんだ。馬鹿者」

 

 動脈をやられたらしく、傷口の大きさにしては出血が止まる気配はない。

 素早く血止めをしてから、フィオレは少年を見やった。

 

「な、なんだよ! あんなの俺様一人で全部倒せたもん!」

「その様子からして、お怪我はなさそうですね」

 

 妙に顔色が青いことから出血でもしているのかと思ったら、そうではないらしい。それなら心配することは何もなかった。

 少年は何を言われたのかを把握し損ねた様子である。一瞬遅れて、答えは返ってきた。

 

「な……何言ってるんだよ。あんたは怪我したじゃないか」

「街を守るために、一人で魔物に立ち向かったんですよね。だったら、ヨソモノがどうなったところであなたの知ったことではないでしょう」

「……そっ、その通りだよ! 余計なことするなよな、ばーか!」

 

 その場から脱兎の勢いで立ち去った少年を見送るでもなく、ただ言葉をなくして少年を追いかけようとするフィリアをいさめる。

 

「フィリア、子供は素直な生き物です。大人になったらそうではいられないのですから、今のうちくらい好きにさせてあげなさい」

「ですが……なんて礼儀のなっていない……!」

「文化の違いでしょう」

 

 フィオレはそれ以上、少年に関心を寄せることはなかった。寄せるだけ無駄だとわかっているあたり、白状なものである。

 

「ルーティ、早くフィオレの治療を」

「わかってるわよ。だからマリー、レンズ拾っといてね」

 

 流石に自分で拾うことはしないが、それでも拾わせるあたりが彼女らしい。アトワイトを引き抜いたルーティが、手馴れた様子で集中を始める。

 

『癒しの光よ、ここに集え』

「ファーストエイド!」

 

 アトワイトのコアクリスタルが煌き、患部は光に包まれて瞬く間に完治した。

 水源に腕を沈めて血糊を流し、水滴を拭き取って元通り袖を直す。左腕でなかったことが不幸中の幸いだ。

 

「チェリクといい、今といい。お前が子供好きだなんて知らなかったな」

「いえ、どちらかといえばお子様は苦手です」

『じゃあなんで助けたのさ? 見ず知らずの、礼儀知らずの子供でしょ。ほっといたって……』

『魔物に食い荒らされた骸を見たくないからですよ。胸糞悪い。あと「子供が不審死を遂げていたら、まず疑われるのは魔物かヨソモノでしょう。厄介ごとの種は潰しておきませんと」

 

 皮肉のような揶揄を吐くリオンにはそれらしいこと言って誤魔化し、念話の声を──零れた本音を聞きつけたソーディアンたちは沈黙を余儀なくさせ。

 フィオレは話を元に戻した。

 

「さて。神殿での聞き込みに関してですが、私もフィリアが巡礼者のフリして尋ねたほうがいいと思います。でも、単独行動は誰であれ危険なので、私たちは入り口で待機していましょう。怪しまれたら、フィリアに雇われた護衛として振る舞うことにして」

 

 少し考えれば誰でも考え付くことなのだが、昨夜のやりとりがリオンの思考を未だに沸騰させているのだろうか。

 そうだとしたら、すまないことをしたかもしれない。

 そんなこんなで、一同を納得させて神殿へと赴く。エントランスより奥へ行く通路に立ちはだかる僧兵と思しき門番二人に、フィリアはごく自然に話しかけた。

 

「すみません、わたくしはセインガルドから巡礼に参りました司祭です。いくつかお聞きしたいことがあるのですが」

「これはこれは司祭様。遠路はるばるご苦労様です」

 

 僧兵は、神殿の階級からすれば神官と同じ位置である。

 格上のフィリアが懇切丁寧に尋ねてくるのを好ましく思ったのか、門番はにこやかに応じてくれた。

 

「こちらの神殿に神像が運ばれたとお聞きしましたが、ご存知ですか?」

「いやー、デマを聞かされたのでしょう。そのような話は聞いたこともありません」

 

 門番の言葉に、フィリアはただ「わかりました」と頷いている。

 

「では、グレバムはこの神殿を訪ねませんでしたか?」

「いやー、大司祭様なんか来てないですな」

「……そうですか、それは残念です」

 

 それ以上食い下がることなく、フィリアは神殿に背を向けた。すたすたと、一同のもとに帰ってきて開口一番、口にする。

 

「怪しいですわ」

「えっ?」

「わたくしはグレバムとしか言っていません。なのに、あの男はグレバムが大司祭であることを知っていましたもの」

 

 と、フィリアは言うが、いまいち通じていない。

 その証拠にスタンの表情はいぶかしげなまま。ルーティもまた、疑問を口にしている。

 

「大司祭の名前くらい、知っててもおかしくないんじゃないの?」

「まったく、無知な女だな。大司教や司教じゃないんだ。他の神殿の連中が、たかだか大司祭の名前なんか知っているものか」

 

 などとリオンは言ってルーティをムッとさせているが、考えてみれば一般人がそんなことを知っているわけがない。

 

「神殿での階級は、上から順に大司教、司教、大司祭、司祭、神官です。大司教や司教は限られた人間にしか与えられない称号ですので数が少なく、一神殿の中では代表格と言っても過言ではありません。ただ、司教と大司祭の隔たりはかなり広いので、ぶっちゃけた話大司祭なんていくらでもいるんですよ」

「へぇ~、フィリアは司祭だから……神官よりは偉いんだね」

「さっすがフィオレ。馬鹿にするだけで自分の常識でしか話をしない誰かさんとは大違いね」

 

 嫌味のお返しか、ルーティは殊更嫌みったらしく当てつけている。

 額に青筋を浮かべて再び操作盤を取り出そうとしたリオンをなだめて、フィオレは脱線した話を修正した。

 

「まあ、じゃれあうのは後にしてもらうとしてですね」

「「誰がじゃれあって……!」」

「連中がグレバムと何らかの関わりがあるのは間違いなさそうです」

「だったら、あいつらを問い詰めれば……」

「無駄だな。所詮奴らは雑魚に過ぎん」

 

 気を取り直したリオンに、フィオレもまた頷く。

 

「僧兵は神官と同じ階級です。多分上からそういった通達がなされているのでしょうね」

「なら、夜中に忍び込んでみるってのはどうかしら?」

 

 閃いた、とばかりに提案したルーティの意見に、反対する人間はいない。

 ただし。

 

「こそ泥じみた真似をするのは業腹だが、仕方がない。あくまで神の眼探索が目的だ。余計なことはするなよ」

「何よそれ。まるであたしがこそ泥みたいじゃない!」

 

 今度こそ腹に据えかねたルーティが声を張り上げ、じゃれあいを通り越していさかいに発展させてしまう。

 その最中で、言い出し損ねたフィリアがおずおずと挙手をした。

 

「それならわたくし、今日は神殿に泊まって参りましょうか? それなら夜中に、こっそり裏口の鍵を開けられますが……」

「心遣いは大変嬉しいのですが、虎穴に入ってそのまま虎に食べられたら眼にも当てられません。今夜に備えて宿屋で休んでおきましょう」

 

 適当なところで二人のいさかいを中断させ、地元贔屓ではない、あくまで営利目的の宿を探す。

 巡礼者は神殿で寝泊りするだろうが、巡礼者には護衛の人間がつきものだ。護衛の人間を受け入れるような宿が、きっと一軒くらいはあるはずである。

 こういった場合地元の人間に尋ねるのが一番効果的なのだが……残念なことにこの地においては、有効ではないだろう。

 ところが。

 

「すみません。この辺りに、宿屋とかってありますか?」

 

 少し眼を離した隙に、スタンは真昼間から街頭で水晶玉を覗き込んでいる女性に声をかけていた。

 おそらく占者の類だろう。女性は顔を上げて、声をかけたスタンと、そして一同をまじまじと見回している。

 

「あら……あなたたち、不思議な顔をしてるのね」

「それって外国人ってオチなんじゃ……」

「いいえ、そうじゃなくて」

 

 不覚にも、フィオレも同じことを考えていた。しかし、違うとはどういうことなのか。

 占い師というからには、やはりどうとでも意味の取れるお告げを抜かして、ガルドをせしめる腹積もりか。

 深入りさせないために、フィオレがスタンを引き戻そうと近寄った、そのとき。

 

「……あなたたちの未来に、大きな失敗と這い上がれない絶望が見えるわ……」

「!」

「どういうことだよ、それ!」

 

 どうとでもとれないどころか、そのものズバリ不幸になるでしょう、ときたか。

 普通こういった職種の人間は相手が喜ぶようなことを言って気を引くものだが、もちろんスタンは怒っている。

 本物かもしれないが……そう思わせることが目的なのかもしれない。

 

「覆いかぶさる闇は二度と拭えないわ。運命は変えられない……」

 

 おどろおどろしい声音でそれを告げられ、さしものスタンも黙り込む。そこへ。

 

「闇を拭える人間なんていません。だから人は、闇に怯えながら太陽を見て生きるんです」

「フィオレさん……」

「運命は確かに変えられません。自分で切り開かなければならないものですから。ご忠告、ありがとうございました」

 

 彼の隣に立ったフィオレは、そう告げて占い師を黙らせた。

 つもり、だったのだが。

 

「あなたは、月だわ。太陽に恋焦がれながら、それでも周囲は闇ばかり。暗黒を晴らすことは叶わず、いつまでも自分だけが輝いたまま」

「……私は人間です。あと、月の周りには星屑が輝くものですよ。ご存じないのですか?」

 

 読んだ本の受け売りなど、やはりするものではなかった。

「ソーディアンサーガ」の一節、僅かに覚えていた記述を口にしてみたのは心地よかったものの、ひどい暗喩で返されてしまっている。

 ほとんど負け惜しみでどうにかそれを言うと、フィオレは有無を言わさずスタンを引っ張った。

 

「ちなみに、他国人にも優しい宿屋はそこの角を右に曲がって真っ直ぐ行って、二つ目の角を左に曲がるとあるわよ」

「……そりゃどうも!」

 

 ほしかった情報はタダで手に入ったから、よしとする。

 こっぴどく負けたような気分に陥りつつも、フィオレはそのまま一同を促して「そこの角」を右に曲がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





ゲームプレイ中にも思ったことなのですが、あの占い師、マジで何者なんでしょうか? 
ゲームスタッフの回し者だと思ったのは、私だけでいいです、はい。


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第五十二夜——そして発生した怪現象

 カルビオラの神殿へ潜入。
「どぅるんがー」は原作準拠です。(PS版)
 ここで仲間達と、ひと悶着が発生します。


 

 

 

 

 

 

 

 

 街中の宿屋にて、一斉に午睡を取った一同は夜が更けるのをひたすらに待った。

 酷暑対策をしていたフィオレは酷寒対策にと、外套の下に通常の制服をまとっている。これで、手をかじかませることなく戦えるというものだ。

 やがて夕陽は闇を呼び、夕闇は夜を手繰り寄せる。

 昼間うっすらと現われていた月が朧な光を放っているのを見て、フィオレは深々とため息をついた。

 

『あなたは月だわ。太陽に恋焦がれながら、それでも周囲は闇ばかり。暗黒を晴らすことは叶わず、いつまでも自分だけが輝いたまま』

 

 いくら見知らぬ他人の吹いた出鱈目だと自分に言い聞かせても、この言葉が脳裏から離れない。何せ身に覚えがあるのだから。

 周囲の闇を晴らすことができない、つまり誰も変えることができないという点に関して、フィオレは月だ。

 愛した人がその人らしさを貫く、その様を変えることができずに看過した。ただ変わっていっただけなら全力でそれを止めに走り、そして最悪の事態を回避するべく、なりふり構うことなく動けただろう。

 だが、行く道が開けば開くほど、その人らしいと感じずにはおれない行程を、彼の人は歩んだ。

 自分が惚れたその人柄を、世界のために目的のために。そして自分のために変えることを、フィオレは無意識に拒んでいた。

 月の光は太陽の光を反射して放たれるもの。けして月が、自力で光を放っているわけではない。

 フィオレが月だとすれば、愛したのは太陽だ。その太陽に、昼が真っ暗になることを承知で夜昇ってほしいなどと、頼むことはできない。

 目的を思うのなら、なりふりなど構うべきではなかったのに。その人らしさと目的は、天秤にかけてはいけなかったのに。秤はいつも、均等の位置を保っていた。

 今更悔やんだところでどうしようもないことは百も承知だ。

 それでも、滅多に振り返ることはなかったこれまでの道に想いを馳せつつ、宿屋へと戻る。

 すると、思いもかけない事態がフィオレを待っていた。

 

「どこをほっつき歩いていたんだ。もう出るぞ」

 

 出迎えの言葉は、不機嫌な上司の一言である。

 しかしフィオレは、違う事柄に気を取られてほとんど反応していなかった。

 

「な……」

「フィオレさん、どうかなさいましたか?」

「スタンが、起きてる。出かける前は確かに寝てたから、後二時間は待機だと思ってたのに……!」

 

 リオンなどは「何をくだらない」と言い出さんばかりだが、フィオレにとっては衝撃の事態である。

 まさか一同が午睡を取っている間に、贋者を入れ替わったのではと馬鹿げたことを勘ぐっていた、その時。

 

『ああ。確かに天変地異の前触れかと、疑いたくもなるだろう』

 

 彼の腰に下がる剣を見やって、目が覚める。

 ディムロスがこう言うのならば、目の前のスタンは本物で、よほどのことがあったから起きているのだろう。

 

「いったいどうやって起こしたんですか?」

『リオンの電撃だ』

 

 こんな風に聞くと、まるでリオンが電撃を放ったかのように感じるから不思議だ。

 つまるところ、額冠(ティアラ)の行使なのだろうが……近頃道具の使い方が微妙に目的からずれているのは気のせいだろうか。

 確かあの額冠(ティアラ)は逃亡防止のためであって操作盤の持ち主の鬱憤晴らしや、寝起きの悪い罪人のちょっと強力な目覚ましではないはずだが。

 

「眼を醒まさなかったから起こしたまでだ。何の問題がある」

「いいえ何も。それでは参りましょうか」

 

 一度宿を出る前から、すでに準備はしてある。寝静まっている宿の中、ひっそりと夜の街へと繰り出す。

 一部の酒場で馬鹿騒ぎをしているのを除き、街の中は静かだった。

 まるで生きているのは一同だけであるような、そんな錯覚を思わせる。

 

「ところで気になってたんだけど。どうやって入るわけ?」

「それならお前の出番だろう」

「は?」

 

 尋ねたつもりが自分の出番になっている。話の見えないルーティが首を傾げたその時、謎は解けた。

 

「鍵開けのひとつやふたつ、やってみせろ。それでも悪質レンズハンターくずれか」

「……あんた……絶対あたしを馬鹿にしてるでしょ……!」

 

 とんでもない暴言に、もちろんルーティは怒りの炎をメラメラと燃え立たせている。

 しかし、相棒たるマリーの一言によって炎は瞬く間に鎮火された。

 

「そうだぞ、リオン。ルーティは詐欺やぼったくり、ゆすりたかりや言いがかりをつけたことはあるが、空き巣なんかしたことはない。精々遺跡に潜り込んで、宝箱の鍵をこじ開けるのが精一杯だ」

『そうね。古い宝箱の鍵と扉の鍵では、勝手が違うと思うわ』

「ルーティの知られざる罪状追加は置いといてですね。その辺についてはすでに解決済みです。行きましょう」

 

 不思議そうに顔を見合わせる一行を引きつれ、フィオレは事前に確認しておいた神殿の裏口へと足を運んだ。

 

「ここは……神殿の裏口?」

「はい。明るいうちに確認しておきました。ついでに、通行手段もね」

 

 その言葉に、何を勘違いしたのか。スタンは意気揚々と扉に手をかけた。そして、開かぬ扉に気付く。

 

「あれ? 開きませんよ」

「施錠されているんでしょうね」

 

 扉の前に座り込み、鍵穴に針金を押し込む。

 暗い中手探りだけで知らない鍵を開けるのは至難の技だが、明るいうちに鍵穴を調べ、あまつさえ一度開錠を試みたフィオレには造作もない。

 小さく何かが引っかかる音、確かな手ごたえを覚えたフィオレは素早く針金を抜き取った。そして、実にあっさりと扉を開ける。

 

『って、フィオレそれ、犯罪だよ!? なんでそんな、あっさりと……』

「何言ってるんですか。神殿に忍び込むことも不法侵入という立派な犯罪ですよ」

 

 おそらくどころか、きっと難なく開けてみせたことに問題があるのだろう。

 一同は揃って同じ表情をしていた。驚きと、そして一抹の疑いを。

 

「えっと、フィオレ。真面目な話、なんでそんなことできるの?」

「できるような気がしたからやってみたら、意外にあっさりと。犯罪者だったんですかねえ」

 

 その言葉に、以前フィオレが記憶を失っているという与太話を思い出したのか。それ以上問い詰められることはなかった。

 代わり。

 

『本当に小器用な女だな……』

「お褒め頂き光栄です」

 

 ディムロスの感想に冗談めかしてそう答え、蝶番が鳴らないよう慎重に扉を開く。もちろん神殿内は暗く、明かりなしには歩行も難しいほど闇が立ち込めていた。

 これは流石に難しいかと、フィオレが明かりを準備しようとした、そのとき。

 

「!」

 

 前方から、足音が聞こえる。神殿の床を踏む、硬質で規則正しい音が、ふたつ。

 フィオレは迷わず扉を閉めた。

 

「へ、どうしたんで……」

「シッ!」

 

 フィオレの不審な行動に、声を出したスタンの口を物理的に塞ぐ。彼の唇がダイレクトに触れるが、そんなものに気遣う余裕などない。

 やがて、扉一枚隔てた先の会話が聞こえた。

 

「今、扉が開いていなかったか?」

「確かめてみよう」

 

 スタンの口から手を撤収し、全力で扉を押さえる。会話を聞いていたらしいリオンとマリーが加勢し、裏口は無事開かずの扉と化した。

 

「なんだ。気のせいか」

 

 思いの他さっくり戻った二人の様子を、扉の隙間からこっそり伺う。

 昼間フィリアの応対をしていた、赤と青の神官服をまとい、明かりを携えた僧兵か何かだと思っていたのだが……

 ここで見逃してはまずいと、眼帯を取り払う。常備によって暗さに慣れていた緋色の眼は、はっきりと見た。

 一切の明かりを持たず平然と歩く、二人の背中のシルエットを。

 警備の人間だから夜目が利くとか、住居ですらある神殿の中だから目を瞑ってでも歩けるのだとか、そういう修行なのだとか、馬鹿げた理由付けが浮かんで消える。

 おそらくあれは──

 

「ここの人間、もう人じゃなくなってるのかもしれませんね」

「え?」

 

 ぼそりと呟かれた言葉を、聞き漏らさずに反応したのはフィリアだった。しかし、それに構うことなく今度こそ扉を開く。

 そのままフィオレは歩き出した。

 

「行きましょう。私が先導します」

「って、こんなに暗くちゃ道わかんないでしょ? それに、どこをどう行けばいいか……」

「そこはそれ。しらみつぶしに探っていきましょう。幸いそこまで大きな神殿ではありませんし、案外大聖堂に秘密の地下通路があるかもしれませんよ」

 

 ちらりと一同を伺い、何の反応もないことに安心して歩き始める。眼帯を外したために、視界はすこぶる快調だった。

 昼間と同程度、といえば誇張だが、それでも物体の輪郭くらいはくっきりと見える。

 

「止まります」

 

 その一言で、一斉に足音がやんだ。小さな、それでも全員に届くよう通る声で囁く。

 

「ここから先は右手の壁に手を当てて進んでください。五歩くらい歩くと通路が狭くなります。更に進むと分かれ道になるので、壁に手を当てたまま進んでください」

「わかりましたわ……」

 

 歩き始めて、全員分の足音を確認してそのまま進んだ。すると。

 一同の足音とは違う靴音が聞こえる。

 目をこらせば、先ほど裏口を確認しにきたであろう二人組が歩いているのが見えた。二人組は一同に気付くことなく、左手の通路へと消えていく。

 

「ね、フィオレ。この壁触ったまま進めばいいの?」

「いえ。壁から手を離して、真っ直ぐ進むと壁があります。その壁を触って、左に進んでください。柱に触ったら降りる階段があるので、注意してくださいね」

 

 ちらちらと一同を見やり、手探り状態で全員が間違いなく来るのを確認してから一人、階段を下りる。

 そこは、淡い光がぽつんと灯る地下牢だった。

 どうして神殿に牢屋が、と疑問に思う暇もなく、牢屋の奥から何らかの会話が聞こえる。

 とにかく、少量とはいえ光のあるこの状況に警戒して眼帯をつけ、その会話を聞き取ろうと耳を澄ませたところで。

 

「うわ、ったっ!」

 

 ごてん、と妙な音がする。どうやら階段を踏み外したらしい。声の質からして犯人はスタンだ。

 この音と悲鳴にも気付けぬほど、二人組はマヌケではなかった。

 

「誰だ!」

 

 野太い誰何をあげて、地下牢の入り口に殺到する。彼らがまず目にするのは、無様に転んだスタンではなく先行しているフィオレだ。

 ここで騒がれるわけにはいかない。

 

「あ、ここは少し明るい……」

「烈破掌!」

 

 駆けてきた二人が顔を出した瞬間、圧縮した闘気を開放することでまとめて吹き飛ばす。その間に、フィオレは紫電を抜き放った。

 

「気付かれたか……仕方があるまい」

「ったく、面倒かけさせないでよね」

 

 フィオレの挙動で事態を知ったか、抜刀の音が次々と響く。

 しかし、全部で五つあるはずのその音は、三回で止まった。

 

「……?」

「ちょっとスタン、フィリア。何ボケッとしてるの」

 

 まともに吹き飛ばされて、壁に叩きつけられたために一度は倒れ伏すものの、二人は呻きながら起き上がる。

 その様を視界に収めたまま見やれば、両者は武器を構えることなく呆然と、フィオレが対峙する相手を見つめた。

 

「え……人間、だよな。しかも丸腰の……」

「どうして問答無用で攻撃なさったのです? 野蛮ではありませんか!」

「私はもともと野蛮な人間ですよ。そして多分、あれは普通の人間ではありません」

 

 地面に転がされた際の埃を払い、二人は完全に立ち上がった。そして、いきなり吼える。

 

「どぅるんがー! よくもやってくれたな。怪しい奴、死ね!」

 

 その、奇っ怪な咆哮が上がった途端。二人は猛然と、まるで獣のように飛びかかってきた。

 眼は爛々と輝き、大きく開いた口からは舌と唾液が零れている。おそらく奇妙に発達した犬歯のせいで閉じきれないのだろう。

 振り上げ、鉤爪のような形になった指の先からは、鋭く尖った本物の爪が見えた。

 

「獅子戦吼!」

 

 明らかな速度は上昇されているが、所詮はただの突進。

 先ほどと同じように吹き飛ばせば、高々と宙を飛んでいた彼らに耐える術はなく、今度は壁に全身を打ち付けていた。

 

「やっぱり……レンズを飲んだようですね」

「何?」

「魔物は基本、レンズを取り込んだ動植物という認識がされています。知識の塔で保管されていた文献の中に、人間がレンズを摂ったらどうなるのかとありましたが……真実だったとはね」

 

 暗視能力を身につけ、身体能力が急激に上昇する。それに伴って肉体も多少の変化が訪れるが、その激変に耐えうるようにか、理性や五感も麻痺するのだという。

 ただ気になるのは、連中がこの場でレンズを摂取してそうなったのではなく、自分の意思で変化したことなのだが……今はそれを追及するべきではない。

 先ほどと違い、無意識に防御することもできなかったのか。あるいはクリーンヒットしていたのか。

 再び叩きつけられた壁の傍で悶絶する二人にとどめを刺すべく、近寄ろうとする。

 しかし。

 

「待ってください、何するつもりですか!」

「何って、とどめを……」

 

 切羽詰ったスタンの制止に、フィオレは立ち止まって答えるだけに留めた。

 いくら痛みに転げまわっていても、敵から眼を離すのは危険だ。

 

「まだ何もしてないのに、レンズを飲んでもう人間じゃないから、殺すんですか」

「何もしてないだと? お前、この連中がフィオレに飛び掛かったのを見ていなかったのか」

「そうだけど、だから殺すなんて……」

「そうですわ。いきなり殺すなんて、ひどすぎます」

 

 背後で、言い募るスタンとリオンの言い争いが勃発する。フィリアも加わったそれを聞きながら、内心でフィオレは安堵していた。

 二人はとんでもない勘違いをしている。それが今、わかってよかった。

 徐々にヒートアップしていく口論を背に、フィオレはどうにか身体を起こした二人に歩み寄った。そのまま、身構える隙も与えず抜き身の紫電を一閃する。

 

「げぐっ」

 

 一拍遅れて、頚動脈がすぱりと裂ける。

 ひ、と喉の奥から妙な音を洩らした赤服の神官もまた、同じような場所から吹き出す血潮に押されるように、ばたんと倒れた。

 通気の悪い地下のこと、むせ返るような鉄錆の匂いはすぐに充満する。

 

「な、なんてことを……」

 

 とさ、という音がした。フィリアが腰を抜かしたらしい。

 特に省みることもせず、フィオレは血糊を落として、紫電を鞘へ収めた。

 殺したその手で助け起こされるのは、彼女とて望まないはず。

 

「フィオレさん! どうして……!」

「あなたはひとつ、とんでもない勘違いをしている」

 

 タンタンッ、と軽快に床を蹴る音がして、すぐ背後にひとつの気配がたどり着く。

 淡いとはいえ照明が存在するこの場なら普通に動けるのだろう。振り返らずに、フィオレは言葉を続けた。

 

「私は、相手が魔物だから殺すんじゃない。敵だから殺すんです。魔物だろうと人間だろうと、敵であるなら容赦はしない。容赦なんて油断はできない」

「だからって、人間を殺すなんて……」

「人間だけが特別か」

「え?」

「ならあなたは、自分に斬りかかってきた人間を殺さないで、生かしておくんですか? そして、あなたが殺されるんですか? それじゃあ何の意味もないでしょう」

 

 相手が人間であることにこだわるスタンにそこはかとなく苛々させられながら、問答は続く。

 正論を言われて閉口したかと思われたスタンだったが、思わぬ援軍が現われた。

 

「殺さなくても、フィオレさんくらい強ければ気絶させることなんて簡単でしょう!?」

「……それこそ、とんでもない勘違いです」

 

 張り上げられたフィリアの言葉に、とどめを刺した神官たちが完全に動かなくなったのを確認してから、フィオレは振り返った。

 レンズを飲み、身体能力が向上しているのであれば、生命力も強くなっているだろうと、警戒していたのである。

 口元に情けない薄ら笑いが浮かんでいることはわかっていたが、到底修正する気にはなれなかった。事実、滑稽で仕方ないのだから。

 

「私は強くなんてない。私が強かったら、確かに敵の命を思いやれるでしょう。命だけは助けてやりたいと、失神させた後縛ってその辺りに転がしておくくらいのことは、するかもしれない」

「だったら……」

「でも。そうやって生かしておいた敵が、仲間の手によって再び参戦してきたら。私たちの人相風体、あるいは戦い方を知って気付いた弱点を突いてきたら。敵に囲まれて危機に陥ったそのとき、新手として現われたら。私たちは、どうなりますか」

 

 何のことはない。どれだけありえるのかもわからない、『もしも』に対する恐怖で、フィオレは敵の命を貪るように奪っているのだ。

 相手を確実に葬ること。それこそが、フィオレの弱さの証。

 本当に強いなら、誰一人として……自分を含め、傷つけることなく物事を解決に導けるだろう。

 ただフィオレは、そんな人間を物語の中でしか知らない。自分にできるとも思えない。

 そんな人間に、なりたいとも思わない。そもそも、それができる者が人間だとは思っていない。

 

「それらの可能性を考慮したら、そんな恐ろしいことはできない。私は相手の命よりも、目的と我が身と仲間の命のほうが大事です」

 

 斬り捨てた二人が、レンズを排出する。そんな気配を感じながら、フィオレは小さく目蓋を伏せた。

 

「理解は求めません。多分その考え方こそが、人間として同族に対し抱く、『正しいもの』なのだと思います」

 

 絶句してしまった二人からの言葉を求めることなく、フィオレは次に告げなければならない言葉を模索した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 暴力は、常に恐ろしいものだ。たとえそれが正義のためであっても。
 暴力は、弱さの一つの形である。それでも。

 殴っていいのは、殴られる覚悟がある奴だけ。
 奪っていいのは、奪われる覚悟がある奴だけ。
 殺していいのは、殺される覚悟がある奴だけ。
 その覚悟が無いのならば──……


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第五十三夜——強者の理屈はまかり通る。そうして歴史は構築された

 カルバレイス神殿、潜入の回。
 ひと悶着に終止符を打って、最奥へ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 人に。正確には人に類する者に手をかけたそのことを弾劾したスタンとフィリア。真っ向からそれに反論するフィオレ。両者の言い合いに、ルーティらはおろかリオンも迂闊に口を挟める雰囲気にない。マリーもまた、黙して見守っている。

 それを重々承知の上で、フィオレは更なる問答を繰り出した。

 

「もしも、今しがたの状態に二人が陥った時。二人とも、戦いや自衛ができても、相手を殺せないのだとしたら……セインガルドに戻っていただきます」

 

 唐突な、それでも話し運びから十分予想できた言葉に、スタンは息を呑み、フィリアは大きく目を見開いた。

 

「そ、そんな……」

「誰がなんと言おうと、例えリオン様が反対しても、私がそうします。人を殺す覚悟もない人間を、連れて行くことはできない」

 

 現在、神殿の中に……敵陣に侵入していることは重々承知している。しかし、フィオレには言葉を止めることはできなかった。場合が場合でも、このことだけははっきりさせるべきだと、確信していたから。

 

「最終的な敵はグレバムという人間であって、魔物ではないんです。そのときに、とどめを刺すことに躊躇して隙を付け込まれるようなことがあったら、眼にも当てられません。あなたたち自身だけじゃない、こっちにもとばっちりが来ます。それだけは、避けなければならない」

 

 当初任務を受けさせられることを嫌がっていたルーティだったら、これ幸いと便乗してきたかもしれない。

 しかし、そんなおふざけを許さないほど、場の空気は緊迫していた。

 

「何より……私はあなたたちの死を看取りたくない。そんなことをするくらいなら、どんなそしりも聞き流します」

「同感だ。死ぬのは勝手だが、ソーディアンを敵に引き渡すようなことをしてもらっては困る」

 

 そろそろ、進まない話を前にしてイラつき始めたのか。

 これまで話の運びを看過していたリオンがフィオレの傍へやってきた。

 

「黙って聞いていれば、勝手なことばかり。人間だから殺すな? これのどこが人間なのかは、さておいてだな。魔物だろうと人間だろうと敵は敵だ。放置しておけば後で泣きを見るのは貴様らなんだぞ」

「あんたそれ、フィオレが言っていたのとそう変わらな「フィオレはあえてとばっちり、などと軽く言っていたがな。前衛で戦うことが多いスタンが、相手を仕留めきれずに後ろへ逃がしてしまったら、犠牲になるのは中衛の誰かだ。自分の失態で誰かが死ぬ。お前はそれで、後悔しないのか」

「それは……今のことと関係ないだろ」

「関係ないだと? お前、トドメを刺そうとしたフィオレに話しかけたな。それでフィオレがお前に気を取られ、あまつさえ奴らがフィオレに襲いかかったら、どうだ? 本当に関係ないと言い切れるのか」

 

 これまで戦闘経験のないフィリアは仕方がないとでも考えているのか。

 リオンは少なからず剣技を知り、これまでも魔物をその手で屠ってきたスタンをねちねちと責めた。

 

「幸いこいつはそんな間抜けではなかったがな。これから先人間と戦い、トドメをためらうような真似をしてみろ。即刻セインガルドに戻って……」

「リオン!」

 

 自分が言い出したことだとはいえ、それはあまりに性急すぎる。

 リオンがスタンを責める様を見て、自分の狭量さを見せつけられたような気がしたフィオレは、彼の口上を遮った。

 

「……今すぐに、答えを出さなくともいいんです。ディムロスたちや、ルーティたちにも意見を聞いてみて、じっくり考えてください。納得のいく答えを出した時……カルバレイスから出るまでに、これからどうするのかを教えてください。その間は、自衛だけしていてくれればいいので」

 

 こうなると、戦闘時の立ち位置にも変更せざるをえない。

 これまで中衛だったフィリアはそのままでいいとして、問題は前衛に置いておけないスタンをどこに移動させるかだ。

 しばしリオンと話し合い、それまでしんがりだったフィオレが前衛へ、入れ替わるようにルーティを後ろに下がらせる。

 ひと段落着いたところで、こんなところまで見回る必要があったのかと、フィオレが地下牢を見回していると。

 

「……誰か……ここから出してください……」

 

 か細いそんな声が聞こえ、音源を探る。

 手近にいたリオンを招いてそちらへ向かうと、明らかに衰弱した様子の壮年男性が鉄格子にもたれていた。身にまとった神官服からして、犯罪者には見えない。

 

「どうした」

「どうしたもこうしたも、大司祭を名乗る男たちに閉じ込められたのです」

 

 詳しい話を聞き出せば、大司祭の名はグレバム、というらしい。

 その男は、彼らが大聖堂で祈りを捧げていたところ、巨大な神像を持って来訪。そのまま聖堂は一味に占拠され、神官ら一同はこの地下牢に押し込められたというのだ。

 少々展開が突飛だが、周囲をよく見れば鉄格子の中には同じような状態の神官たちが何人も見え隠れしている。

 ちなみに、何故神殿に地下牢があるのかというと、少し前まで街で悪さを働いた犯罪者の拘留にも使用されていたとのこと。

 調べた限りで統治者がおらず、半ば自治区と化していたカルビオラではせん無きことなのだろう。もっとも、今は市長がいるとかで、専門の設備が建てられ、これまで放置されていたとか何とか。通りでかび臭いと思った。

 敵の戦力は少なく見積もっても三十人、それなりの徒党を組んでいるであろうことが判明し、神官は改めて出してほしいとの願いを口にする。

 しかし、何故か気が立っているらしいリオンはその願いを素早く却下した。

 

「こいつらが、連中と仲間でない証拠はない」

「いくらなんでも、考えすぎだと思いますが……」

「出したところでどうなるんだ? ただでさえ、あの連中がお荷物になるかもしれないんだ。もう足手まといはごめんだぞ」

「ああ、それがありましたか。申し訳ありませんが、この神殿は未だ彼らの占領下にあります。そちらの決着をつけたら必ずやお迎えにあがりますので、しばしお待ちを」

 

 ちなみに一味が持ち込んだ、巨大な神像はどこに置かれたかを知らないかと尋ね、話の流れで大聖堂に地下への通路があることが判明する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃。

 フィオレがリオンを連れて牢屋の奥に消えたことを確認して、ルーティはスタンを見やった。

 

「な、何だよ」

「さっきフィオレが言ってたでしょ。あたしたちの意見も参考にして、納得がいくまで考えろって。余計なことばっかり言うリオンは連れて行ってくれたことだし、せっかくだから足りない頭で考えてみれば?」

 

 二人の、実にシビアな言葉に半ば放心状態となっていたスタンだったが、ルーティの言葉によって気を取り戻した。

 

「フィリア、あんたもよ。聞かれる前に言っとくけど、あたしはフィオレの意見の方が正しくて、あんたたちがものすごく世間知らずに感じたわ」

 

 普段なら、その言い方のきつさによって相手の気分を損ねるだけだっただろう。しかし、スタンは、それはなぜかと尋ねるのみだった。

 

「殺さなきゃ、こっちが殺される。そうだと思わないのは、今まであんたたちが恵まれていたから。だからよ」

「マリーさんは?」

「私は……多分、記憶があった頃は似たような環境だったのだろうな。戦うことはすでに知っていた。その中で、人を殺すということもまた常識だった気がする」

「常識……」

 

 これまでの人生からはかけ離れ、そしてありえないことだったのだろう。フィリアはどこか血の気が引いた様子で、軽く額に手を当てた。

 

「外の世界は、わたくしが思っていた以上に不潔で、野蛮な場所だったのですね……」

 

 フィリアの言葉は聞かなかったことにして、スタンはソーディアンたちにも水を向けている。

 

「ディムロスや、クレメンテはどうなんだよ」

 

 現在剣に人格を宿しているとはいえ、彼らは軍人だ。軍人の思考からしても、ルーティと同意見であることは間違いない。

 しかし、彼らの言葉は流石、天地戦争の英雄と称されるべきものだった。

 

『倫理的に即して言うなら、間違いなくお前の言っていることは正しい。フィオレが言っていることは異常だ』

「え……!」

『じゃが、それは状況が通常のものであれば、の話じゃな。今おぬしらの置かれたこの状況は、果たして通常と言えるのかの?』

「そ、それは……」

 

 思いもよらぬ賛同にスタンは表情を輝かせたが、続くクレメンテの言葉に絶句せざるをえない。

 フィオレの言葉と同じく、それは真理の匂いがした。

 

『不思議なことにの。わしらが生きた時代は、フィオレの意見が正しく、スタンの言葉は身の程知らずの抜かす、理想論に過ぎんかった。相手が同じ人間であろうと、あちらはこっちを、同じ人間などとは思っておらんかったからの。しまいには味方にも、天上軍の人間は人間などではない、という認識が浸透してしまった』

「でも、それは戦争だったからでしょう? 戦争という状況において、異常は平常に、平常は異常と化すものだと言われていますわ」

 

 フィリアの、当然と言ってしかるべき疑問を前に、しかし彼らは冷静だった。

 

『ふむ。フィリアにとって、この状況は戦争とは違うのかの』

「わたくしたちは、グレバムを追っているんです。グレバムから神の眼を取り戻すことは、戦争とは違います」

『戦争とは、戦い争うこと。すなわち武力によって勝敗を定めることじゃ。自己の目的を達するがため、武力を行使する闘争状態とも言える。昨今では大規模になったそれを戦争と証するらしいが、それは大きな誤りじゃよ』

『残念ながら状況は異常そのもの。リオンもフィオレも、一切の常識や良心を捨てる覚悟だろうな』

 

 しかし、二人はなかなか納得する素振りを見せない。ここでふと、ディムロスが自分自身を喩えに出している。

 

『ならば尋ねよう。私は天地戦争において王を護らんと立ち塞がる何人もの兵士を斬り、血飛沫を浴びながら天上王と対峙した。そして、ソーディアンチーム……数人がかりで天上王を殺害した。お前は私を、人殺しだと罵るか?』

「そんなことしないよ。だって、戦争だったんだろ? それに、先に仕掛けてきたのはあっちだったって言うじゃないか。そのまま放っておくことなんてできなかったし、必要なことだったんじゃ……」

『先に仕掛けられた戦い。放置はできず、必要なこと。それで人殺しを看過されるべきと考えるなら、お前にフィオレを批難する資格はない。フィオレもまた、それを理由として戦っている。いや……戦友を護るためでもあるのか』

 

 フィオレがあえて言わなかった、人殺しの正当化。ともすれば言い訳のように感じるが、それはどこまでも事実でしかなかった。

 今度こそ絶句したスタンに追い討ちをかけるかのように、クレメンテがぼそりと呟きを発している。

 

『しかし、驚いたの。てっきり、甘ったれたことを言うなとばかりに二人をなじり、考えを無理やり改めさせるもんかとはらはらしとったが……実に冷静に諭し、更に選択権を与えたとは』

『おそらくフィオレも、スタンの言い分が正しいと心の底で思っているのでしょう。だけど目の前の現実を前に、それを嫌々歪めている。あなたたちの指摘は、さぞや彼女の心をえぐったことでしょうね……』

 

 人の身体があるならば、沈痛な表情を浮かべただろう。アトワイトの独り言によって、両者は一様にはっと息を呑んだ。

 そこへ。

 地下牢の床を歩く音が重なって、一同のもとへ姿を現した。

 

「お待たせしました。どうもこの神殿は、グレバム一味によって乗っ取られているようですね」

 

 淡い灯明に照らされ、奥の牢屋に赴いていた二人が帰還する。

 場の微妙な空気に軽く首を傾げながら、フィオレは言葉を続けた。

 

「今しがた、本物の神官たちが閉じ込められているのを確認しました。どうも聖堂にいるようなので、これから向かいます」

「う、うん、ご苦労様。それで、また手探りで進むの?」

「いえ。見回りの神官は片付けましたし、あまりにも非効率なので明かりを用意します。ちょっと待っててくださいね」

 

 もとよりそのつもりだったのか、背負っていた荷袋から携帯用のカンテラを取り出して手早く明かりを灯す。

 四角いカンテラのシェードを降ろして進行方向だけを照らすようにし、それを掲げるようにしながらフィオレは立ち上がった。

 

「では、行きましょうか……って、スタン、フィリア。どうかしましたか?」

 

 明かりをつけてはっきり見えるのは、どこか沈んでいるように見える二人の表情だ。

 これまでの経緯など一切知らないフィオレは、あ、と小さく声を上げた。

 

「ひょっとして、この臭いで気持ち悪くなってしまいましたか? それなら早く行きましょう。上の方が空気は澄んでいるはずですから……」

「違うんです!」

 

 世間知らずな二人の言葉で傷ついただろうに、それをおくびにも出さない。

 それどころか彼らを気遣うフィオレの言葉に耐えられなくなったように、スタンは大声を上げて言葉を遮った。

 いきなり切羽詰ったような声を出されて、眼を白黒させているフィオレにつかつかと近寄り、スタンは勢いよく頭を下げている。

 

「すみません、フィオレさん。俺、なんか勘違いしてたみたいです」

 

 あまつさえ謝られ、わけのわからないフィオレに駄目押しが続く。

 

「ごめんなさい……わたくし、フィオレさんのお気持ちも考えず、自分の感情を優先させてしまって……」

 

 震えるようなフィリアの声が、地下の牢屋にしんしんと響く。

 眼鏡の奥のつぶらな瞳から涙すら浮かんでいるのを見て、フィオレはぎょっとしたように二人を交互に見た。

 

「……あの、それってさっきの、人を殺すか殺さないかという話ですか……?」

 

 二人がこっくり頷くのを見て、それから二人とリオンを除く一同を見やる。

 

「……何を言ったんですか」

「あたしもマリーも、自分の考えを言っただけよ。とどめを刺したのはアトワイトたちね」

『間違ったことは言っていないわ』

『うむ』

 

 流石にこれだけでは、何を吹き込まれたかはわからない。うなだれる二人に、とりあえずフィオレは最重要事項をつきつけた。

 

「えーと。反省だけならサルにもできます。私がほしいのは謝罪でなくて、あなたたちの出した結論です。その様子ですとまだ決まっていな……」

「いいえ。わたくしは、戦います!」

「俺もです。もう覚悟は決めました」

 

 少々潤んでいるとはいえ、きっぱりと言い切ったフィリアの眼。

 迷いを断ち切ったような、どこか清々しくもあるスタンの眼。

 それを聞いて、それを見て。フィオレは提げていたカンテラをスタンに渡した。

 

「隊列を戻しましょう。リオン様、構いませんね?」

「もともとはお前が言い出したことだからな。元に戻すなら、反対はしない」

 

 大聖堂がどこにあるのかは、すでにリオンが閉じ込められていた神官から聞きだしている。前衛の人間にナビゲートしつつ、一同は難なく大聖堂へと到着した。

 しかし。

 

「真っ暗だ……」

 

 大聖堂は同じく闇に包まれており、更に気配を感じない。

 カンテラのシェードを全開にして周囲を確認するも、何かがいる気配はなかった。

 

「ここには誰もいないみたいだけど」

「本当に隠し部屋があるなら、やつらはそっちだろう」

「そうだな。入り口を探してみよう」

 

 そうと決まれば明かりの確保だ。ステンドグラスや窓にかかっていたカーテンを取り払い、聖堂の全体的な視界を向上させる。そして、それらしい仕掛けを見つければいい。

 それをリオンが指摘し、一同がその準備に取り掛かったとき。フィオレは一人、祭壇の周囲を探っていた。

 以前嗜んだカルバレイスに関する文献の知識が正しければ、フィオレの予想も当たっているはずである。

 カンテラの明かりに頼りつつ、ストレイラズ神殿とそう変わらないデザインの祭壇をごそごそ探っていると、指が何かの突起に触れた。それをぐっ、と押し込む。

 すると、足元が震えるほどの地響きが発生し、見る見るうちに足元の床が動いてぽっかりと、地下への入り口が現われた。

 まずは光源確保と動いていた一同からは、微妙な雰囲気が形成されつつある。

 気まずい沈黙に包まれていた中、それを破ったのはリオンだった。

 

「セインガルドの神殿と同じ仕掛けとはな……馬鹿にしているのか!」

「誰をですか。真面目に答えさせていただくと、この神殿は当時のカルビオラ市長がセインガルドとの貿易を望んだ際、交換条件として建てさせたものなんですよ」

 

 憤慨しながらやってきたリオンをなだめるためにもそんな説明をすれば、意外なことにスタンが食いついてくる。

 

「へえー。貿易って、何をですか?」

「毛織物が中心らしいですね。今考えると神の眼用緊急時の隠し場所確保が目的だったのでしょうが、いちいち新しい仕掛けなんか考案するのは手間で、同じ仕掛けでないといざというときに混乱するからでは?」

 

 リオンからの返事はない。何をぴりぴりしているのかさっぱりわからないが、今はそれどころではなかった。

 このときすでに、フィオレは神の眼がここには存在しない可能性を視野に入れている。なぜなら、フィオレの手の甲に張り付いたレンズは、一向にそれらしい反応を示さないからだ。

 ストレイライズ神殿では、大聖堂に近づいただけで反応していた。つまりそれだけ含有エネルギーが凄まじく、故に感じ取りやすいのだろう。それが今、ここへ来ても一切反応しない。

 とにかく事実を見極めるのが先だ。

 再びカンテラの四方あるシェードを三つ下ろし、進行方向だけを照らすようにする。そのまま地下へ足を踏み入れた先に、いつか見た光景が広がっていた。

 神の眼がすっぽり収まる巨大な台座、その周囲を囲う水路、たゆたう清水。

 ストレイライズ神殿にて強奪されたあとの光景とは一線を画した、ただ神の眼が存在しない保管場所がそこにある。

 

「ここは……」

「神の眼があった部屋、そっくりじゃないか」

 

 フィリアの呟きの後で、スタンがそれを呟いた瞬間。部屋全体に明かりが灯った。

 

「そこで何をしている!」

 

 そんな一喝が飛んだかと思うと、バタバタと人が駆けてくる音がする。

 台座に近寄る階段の下には、神官服をまとう僧兵と思しき人間が数人、それを従えて豪奢な法衣を着た中年男が一同を睨んでいた。

 唯一の出入り口には、同じように数人の僧兵が詰めている。袋のネズミ、という単語がフィオレの脳裏をよぎった。

 

「ネズミが紛れ込んでいたか。まさか、こんな所までかぎつけてくるとは……」

「ええ。あんまり香ばしいのでついついここまで。あまりに入りやすかったので、幾度罠ではないかと怪しんだことか。その様子ですと単なるうっかりだったみたいですね」

「だが、残念だったな。お前らが探しているモノは、もうここにはないのだ」

 

 フィオレの一言に中年男は青筋を浮かべるものの、見ればわかることを告げている。

 これが嫌味のつもりなのだろうか。この饒舌ぶりでは、やり方によってこちらの得たい情報を得ることも可能そうである。

 

「ということは、やはり神の眼はこの神殿にあったのですね」

「その通り。だが、グレバム様の手によって再び運び出されたのだ」

「ふむ。ではあなた方はグレバムの一味であると……」

「やはりグレバムが、ここにいたのですね!」

 

 グレバムがいたという明らかになった事実を前に、フィリアが前へと出た。彼女を目にして、一人の神官が指を向ける。

 

「む、貴様は昼間の女だな。怪しいとは思っていたが、やはりニセ司祭であったか!」

「こんな小娘が司祭なわけがないとは思っていたが……」

「ニセモノはあなたたちの方ですわ! 正体を現しなさい!」

 

 それは彼らを、見回りをしていた僧兵たちと同じようなものだと思っているのか。あるいは本気で神官ではない──自分と同職の人間でないと思っているのか。それはわかりかねる。

 しかし、神官たちを戸惑わせ、怒らせるには十分だった。

 

「ニ、ニセモノだとっ! 我々はれっきとした神官だ!」

「ならば何故、悪事を働いたグレバムに加担するのです! 悪事は罪であり、この世のすべての所業は神が一切お見通しなのですよ!」

「我らはグレバム様の思想に、神の眼が世界を制する、という言葉に恭順を示したまでだ」

「──ふっ、あはははっ」

 

 白熱する、同じ宗教に身を置いた人間同士の口論に、馬鹿にするような笑声を放つ者がいた。

 誰であろう、フィオレである。

 一息で真剣な空気を破壊された一同としては、黙って彼女を見やるくらいしかできない。

 

「世界征服ぅ? いい大人が何を妄想してるんですか、恥ずかしい。今時そんなこと、五歳の子供でも憧れませんよ」

「ふっ、精々嘲るがいい。何しろ我々には……「あーっはははは。莫迦だ、莫迦がいるー」

「指差して笑うな! いいか、我々には神の眼があるのだ。大いなる神の力の前では、人間なぞ無力……」

「おやおや不思議なことを。『人間』が何抜かしてらっしゃるんですか?」

「我々は愚民どもとは違う。言うなれば、神の寵愛を受けた選ばれし存在「うわあ恥ずかしい。寵愛だって。あんなこと真顔で抜かしてますよ、あのおっさん。生きてて恥ずかしくないんですかね?」

「人の話は最後まで聞け!」

 

 実は結構生真面目な人間なのかもしれない。こんなおちょくりで、顔を真っ赤にして怒っているのだから。

 この状態ならばそれなりに情報が得られるだろうと、フィオレはそろそろ真面目になることにした。

 

「で、追っ手を恐れて神の眼をまたもや持ち出し、こそこそ逃げ出したグレバムは今どこに?」

「あの方ならば、貴様らなぞ手も届かぬような地へ行かれた。我々はただ、待てばいいのだ。グレバム様のモンスター軍団が、世界を席巻していくのをな」

 

 ここが勝負どころである。フィオレはわざとらしいまで大げさに、声を張り上げた。

 

「もんすたーぐんだんん!?」

「そうだ」

 

 勢い余って棒読みになってしまったが、中年男は気にしていない。

 それどころかその反応に気をよくしたのかにやり、と笑ってぺらぺら話し出す。

 

「モンスターの命の源が何か知っているな? そう、レンズだよ」

 

 答えてもいないのに、彼のおしゃべりは止まらない。その間、フィオレは真剣に耳を傾けていた。

 

「オベロン社の輸送船を襲ってレンズを奪い、それを材料にモンスターを生産する」

『そんな技術、現代に残っているはずがなかろう!』

 

 クレメンテの言う通りである。しかし、技術はなくとも神の眼を使用することによって、それが可能だとしたら? 

 一同の表情を見て何を思ったのか、中年男は忍び笑いを洩らしている。

 

「くっくっくっ……そうなれば後は時間の問題だ。弱体化した国々を、グレバム様が神の眼の力で制圧していくのだ」

 

 一応これは、神の眼で魔物を生産しそれを使役→国に喧嘩を仕掛け疲弊させ→そして国獲り→全部の国を獲って世界征服完了! という流れなのだろうか。

 短絡過ぎるにもほどがあるが……彼は十分なほど、情報を吐いてくれた。一方で、リオンはやれやれと頭を振っている。

 

「驚きだな。フィッツガルドでレンズ輸送船を襲っていたのが、グレバムだったとは」

「大国セインガルドへのレンズ供給を妨害する。それだけでも意義はある。更に奪ったレンズはモンスターの生産に使われるのだ。一石二鳥とはまさにこのことよ」

「……真偽はさておいて、有益な情報が手に入りました。後で検討しましょう」

 

 ぼそ、と隣のリオンに囁き、彼が軽く頷いたところで、中年男はパチン、と指を鳴らした。

 控えていた僧兵たちが、一斉に各々の武具を構える。

 

「おしゃべりはここまでだ。グレバム様の邪魔をさせるわけにはいかぬのでな」

 

 つまりそれは、控えさせた僧兵たちをこちらへ大挙させるつもりか。むざむざそんなものを待つ義理もなく、フィオレは言葉もなく紫電を抜き放った。

 そのまま肩の辺りで床と平行するように構える動作に移り、そして。

 

「轟破炎武槍!」

 

 練り上げた剣気が真紅の輝きを放ち、切っ先から一直線に放出される。

 突っ込んできた僧兵群を真っ向から散らしたところで、戦いの火蓋が切って落とされた。

 

「魔神剣!」

 

 立ち位置が相手より高所であることを利用し、リオンはその場から地を走る衝撃破を発生させている。

 ひとつ遅れて前衛組が突出し、彼らが僧兵と切り結ぶ間に中衛の二人は詠唱を終わらせていた。

 

『老、参ります!』

『おう! ──立ち昇れ白塵。氷精の舞、その目に焼きつけよ!』

「「アイストーネード!」」

 

 打ち合わせておいたのか、ルーティとフィリア──アトワイトとクレメンテがほぼ同時に同じ晶術を起動する。突如として吹き荒れた凍てつく嵐は僧兵らを凍えさせ、その隙をスタンやマリーが逃すはずもなく。

 戦いは、圧倒的なまでの優勢なまま終わりを告げた。

 

「ふん、ザコどもが」

「でも、あんな強襲されたらあたしだって耐え切る自信ないわよ……」

「余裕ぶってべらべらくっちゃべってるからいけないんですよ。相手の注意を引いている間に、他者に不意討ちさせるくらい、子供にだってできるのに」

「だが、おかげで行き先は決まったな」

 

 それにしても、幸運だった。彼ら全員がレンズを摂取していたのなら、暗視が可能だったはずだ。

 それをせずにわざわざ明かりをつけてこちらに視界を提供してくれたということは、暗視ができない人間が少なからずいたということ。

 フィオレの予想としては、あの豪奢な法衣の中年男ではないかと思っている。

 誰一人としてそれに気付いた様子はないが、言ったところで無闇な混乱を招くだけだ。余計な十字架を背負ってほしいとも思わない。

 真実をそっと胸に秘め、フィオレはもと来た道を戻り始めた。

 

「おい、どこへ行くんだ」

「閉じ込められた神官たちを解放しませんと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 人による人殺しは、許容されるべきではない。
 無用な殺戮も、血を血で洗う凄惨な争いごとも、叶うならば避けるべきである。
 ただし正論が通るのは、対話で解決できるのは、平和な世界の(コトワリ)であって。
 そうでなくなったその時、人は(ケダモノ)であった頃の(コトワリ)を思い出す。
 すなわち武力による闘争を、選択してしまうものなのだろう。
 我々は言葉も心も通じない相手を同じ人と認識はしないから。


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第五十四夜——壮絶なる寄り道

 カルバレイス大陸、首都カルビオラからジャンクランドへ。
 現時点でジャンクランドへ寄る理由はありません。原作でも行く予定はありませんからね。
 しかしどうにか、かの地をピックアップできないかなーと模索した結果。
「寄り道」してもらいました。


 

 

 

 

 

 閉じ込められていた神官たちを解放し、事情を説明してだんまりを決め込んでもらう。

 幸いにも、周辺の聞き込みから地元から敬遠されていた神殿の異常に気づいている住民は見つからなかったので、一同はそのままチェリクへ戻ることになった。

 

「またあの砂漠を横断しなくちゃいけないのね……」

 

 げんなりとしたルーティの声を聞きつつ、ラクダ専用の宿舎に足を向ける。

 ここカルビオラでは、チェリクから出された乗合馬車を引いてきたラクダ、あるいは商人が荷物運びのために連れていたラクダを預かる専用の宿舎が設けられているのだ。

 無愛想な主人に預け証を渡し、ラクダが戻ってくるのを待っていると。

 

「ま、待て、ラクダ泥棒!」

「!」

 

 預かり所で待機していたのは、一同以外誰もいない。

 つまり、奪われようとしているのは一同がコネを使って借りたラクダである可能性が高い。

 

「何があったんだ!?」

 

 弁償という打算よりも、切羽詰ったその声に反応してスタンが預かり所から飛び出す。

 止めるタイミングを逃したらしいフィリアがそれに続き、残る面々も放っておくわけにはいかずに宿舎へ赴かんとすると。

 

「うわあっ!」

「大人しくしろ!」

 

 いたのは、ラクダを連れて逃げようとするラクダ泥棒と、それを追うスタンではない。

 何故かスタンに刃物をつきつける覆面の男と、手馴れた様子で彼の武装解除をする数人の覆面姿だった。

 刃物をつきつける覆面の声は男だが、武装解除組の老若男女は一切わからない。少し離れた場所に、三頭のラクダを連れた男が遠巻きにその様子を見ている。

 先ほど主人に言われてラクダを引き出しに行った男で、脅されている様子も、ラクダを連れて行こうとする様子もない。

 

「スタンさん!」

「この馬鹿、何やってんのよ!?」

 

 一方で人質に取られたスタンを心配し、一方ではその囚われのお姫様ぶりに呆れて怒鳴りつけている。

 スタンの不甲斐なさはさておいて、とにかく状況を動かそうと、フィオレは覆面男に眼を向けた。

 

「金品ですか、私たちの命ですか、それともラクダですか?」

「──貴様に用はない。そこの女、お前は神官だな」

 

 しかし男はフィオレの質問に答えることなく、フィリアに話しかけている。

 脅えた様子で頷くフィリアを男の視線から遮るように背中へかばい、フィオレは言葉を続けた。

 

「宗教がらみですか、それとも女がほしいだけですか?」

「どれでもない。神官ならば、医術に関してそれなりの知識があるだろう」

 

 医術。

 くぐもった声からその単語を聞き取り、フィオレはなおも言葉を続けた。

 

「お医者様なら、この街にだっていないわけがないでしょう」

「奴らは高額な金銭を要求する。ラクダとこの男の命が惜しければ、我々と共に来てもらおうか」

 

 何気なくスタンの命が二の次にされているが、それは従わなければまず、スタンの耳でも削ぐつもりなのだろうか。

 とにかく、このままの状況でほいほい条件を呑んでやるわけにはいかない。

 

「それは、フィリ……私の後ろに立っている神官だけに言っているんですか?」

「そうだ」

「私たちの同伴を許すなら考えてあげます。彼女単独で連行はさせません」

「……いいだろう」

 

 また勝手なことを、と言い出しかねないリオンだが、状況が状況だ。呆れたように嘆息してから頷いている。

 覆面男がラクダ三頭を連れて歩き出し、スタンを取り押さえディムロスを抱える数人がそれに続いて歩き出す。

 しかし、もちろんスタンは黙って言うことを聞いていない。

 

「くそっ!」

「スタン、今は我慢してください。どうしても嫌なら代わります」

「……い、いいです。我慢します」

 

 覆面男はどんどん街外れの方角へ歩いていく。

 医療知識を持つ者が必要で、対価が払えないとなると病に罹った貧民窟の住人か、と考えていたフィオレだったが、やがてその考えを改めた。

 男の行く先には、大型の幌付き馬車が二台、用意してあったのである。

 

「ちょっと待ってください、どこへ連れて行くつもりですか」

「……ジャンクランドだ」

「ジャンクランドですって!」

 

 聞き慣れない集落の名らしきそれを聞き、悲鳴じみた声をあげたのはルーティだった。

 

「知ってるんですか?」

「天地戦争時代の古代産業廃棄物廃棄場……大昔のゴミ捨て場だったところよ。貴重なジャンクが眠ってるって噂だけど、それ以上に危険なものも埋まってて、身体壊して本国へ逃げ帰ったレンズハンターが沢山いるらしいわ」

「そんなところに、医者が必要な者などいるのか?」

 

 そもそも、そんな場所まで連れて行かれるなどとは聞いていない。

 再び歩き出そうとした覆面の背中に、フィオレは言葉を投げかけた。

 

「か、患者はどのような状態になっているのですか!? それを聞かないことには、この街から動くことはできません」

「見ればわかる。とにかくついてこい」

「見ればわかるって……」

「こいつの命が惜しくないのか」

 

 業を煮やしたか、覆面男は合図ひとつでスタンを取り押さえた数人に、刃物を出させている。

 それには頓着せず、ようやく振り向いた男に対して話を続けた。

 

「この街で、患者を診るのならば構いません。ただし、患者が怪我をしていたならそれなりの医薬を必要とするでしょう。この街ならすぐに手に入れることができます。しかし、ジャンクランドでカルビオラと同じ条件、同じ気安さで薬の調達ができますか? 知識があっても、必要な薬がなければ医者でさえまったくの役立たずとなるのですよ! と、彼女は言っています」

「フィ、フィオレさん!?」

 

 背中のフィリアの抗議を無視して、男の動向を探る。

 これでそのまま、無理やり一同を連れて行くほど馬鹿ならさっさとスタンもラクダも取り戻すべきだ。これ以上命令に従ってやる必要はない。

 スタンがちょっと負傷するかもしれないが、ルーティとアトワイトがきっと何とかしてくれるだろう。

 しかし、男は逡巡を示した挙句に口を開いた。

 

「……んだ」

「聞こえません」

「つ、妻が……その、子供を……」

 

 奥さんが将来を悲観して、子供を刺したとでもいうのだろうか。しかし、それならとっくに手遅れのはずである。

 しばらくして、男は意を決したようにはっきりと、言った。

 

「俺の妻が、もうじき出産する。だが、ジャンクランドにはその手の知識を持つ人間がいない。それで……」

「──」

 

 それを聞き。フィオレはくるりと、フィリアを見やった。彼女はなんとも言えない表情で、フィオレを見返している。

 

「……フィリア。出産経験というか、出産に立ち会ったことはありますか?」

「い、いいえ……フィオレさんは?」

「小さい頃。奥様……じゃない、知り合いのお母様が出産なさると聞いて、祈りを捧げたことなら」

「……俺、羊の出産とかなら、手伝ったことありますけど……」

 

 スタンは呟くが、残念ながらこの場合は参考にもならないだろう。そのまま流れで一同の顔ぶれを確認するが、皆一様に微妙な顔をしている。

 そのときだった。脳裏で、救いの声を聞いたのは。

 

『私は一応、知識も立ち会ったこともあるけれど……』

「ナ、ナイスよアトワイト!」

「知識だけなら私もないわけではありませんが、困りましたね。胎児に影響するから薬の類はほとんど使えませんよ」

『そうね。必要なのは母親の気力、へその緒を切る清潔な刃物、それから清潔な布を沢山。いざという時帝王切開に切り替えられるよう、滅菌した刃物と縫合用の針と糸、それから技術くらいかしら。私は自然分娩の流れしか知らないけど』

「剣じゃあどうしようもないしね……」

 

 やがて内輪でこそこそ話し始めてしまった一同に、今度こそ業を煮やした男が無理やり一同を積み込み始める。

 ことの重大さにその場を流された一同だったが、実際のジャンクランドが近づいてくるに連れて、その厳しい環境を肌で知ることになった。

 

「うっ……」

「こ、これって」

「これが噂の悪臭ね。よくこんなところに住めるもんだわ……」

「まったくですわ。わたくし、何だか気分が悪くなって参りました……」

 

 リオンすらも眉を歪める悪臭に、フィリアは露骨に体調不良を訴えている。一同を見張る覆面の、露出した目が一同を睨むが、それに脅える人間などどこにもいない。

 馬車の幌内から追い出され、住民たちからの視線にさらされながらジャンクランド内を連れ回された。

 密閉された幌から出た分悪臭も強くなり、すでにフィリア自身が医者を必要としているような状態になっている。

 彼らがここへ来て覆面を外さないのは、ひょっとしてこの悪臭のせいか。手布を鼻に押し当てて、フィオレは本気でそう思った。

 ふと、後ろを歩いていたフィリアにがし、と抱きつかれる。

 気分が悪くて倒れそうになってしがみついた……わけでないことはすぐに判明した。

 

「フィオレさんから、いい匂いがしますわぁ……」

 

 うふふ、とどこか裏返った声音を耳元で聞かされて背筋が凍る。

 やんわりと振りほどき、その場で香水をふりかけたハンカチをフィリアに渡せば、彼女はどこか虚ろな目でそれを鼻に押し当てた。

 

「だ、大丈夫かしら……」

「おい、僕にもそれを寄越せ」

「あ、俺にもお願いします」

 

 一同の様子、主にフィリアの様子をちらちら見やりながらも男は足を止めない。

 この状態からして不安に思っているのだろうが、今更後には引けない感がにじんでいた。

 やがて、男は一軒の小屋を前に足を止める。

 

「ここだ」

 

 ここへ来ていきなり暴れられても困るのだろう。これまで男に協力していた人々もまた、一同を囲むように入るよう促してくる。

 中は閑散としており、一目で貧しい暮らしが伺えた。対価が払えないというのは、満更嘘でもないらしい。

 部屋の奥に置かれた寝台の上には下腹部の膨れた女性が横たわっており、脂汗を浮かべてしきりに唸っている。

 その傍には母親だろうか、中年女性が入ってきた一同を見てぎょっとしていた。

 

「な、なんだね、アラン。その人たちは……医者を連れてくるんじゃなかったのかい」

「医者は用立てられなかったが、神官を連れてきた。さあ」

 

 さあ、ではない。

 再び視線を向けられてびくっ、と身体を震わせるフィリアの肩を叩き、てくてくと彼らに近づいていく。

 フィリアではなくフィオレがやってきたことで何かを言おうとした男──アランを素通りして、フィオレは中年女性と対峙した。

 

「こんにちは。見てお分かりの通り、私たちは医者じゃありません。仲間の一人が神官だったので、知識があるだろうと無理やり連れてこられました」

「な……なんだって!?」

 

 もちろん動揺する中年女性は、何を考えているんだと言わんばかりにアランをキッ、と睨みつけている。

 そのまま喧嘩に発展しそうになったところを抑えて、フィオレは続けた。

 

「説明するつもりがなさそうだったので、こちらから自己申告させていただきました。それでも私たちに彼女を診させるつもり……「ああっ!」

 

 口上の最中、苦しげに呻き意識があったかもわからない妊婦が突如として悲鳴をあげる。

 アランをまさに一喝しようとしていた女性は、大慌てで妊婦を覗きこんだ。

 

「ど、ど、どうしたんだいメリル!」

「お、お母さん……今、ばしゃっ、て……あ、あああ、痛い……」

 

 先ほどまで苦しげに呻いていたのが一転、痛い、痛いとしきりに口にしている。その変貌に、主に男性陣が混乱を始めた。

 

「おい、大丈夫なのか、メリル!」

「あ、あなた……痛い、痛いの……」

「どうしちゃったの、いきなり」

「……破水して、陣痛が始まったっぽいですね」

「つまり?」

「いよいよ出産が始まるってことです」

 

 それを聞き、それまでただ心配顔で妻の腰をさすっていたアランは一変。飄々としているフィオレに掴みかかった。

 アランの手が宙を切るも、本人はまったく気に留めていない。

 

「何を呑気な……!」

「他人事ですから。無理やり連れてこられた人間としては、当然の反応でしょう?」

「……た、頼む。妻を助けてくれ!」

 

 ぐっ、と言葉に詰まったものの、背に腹は変えられないのかここにきて彼は大きく頭を下げた。

 

「その前に。これまでここで出産をした人間がいないわけではないでしょう? どうして産婆さんの一人もいないんですか」

「今まではいたよ! だけど、半年前にポックリ逝っちまったんだ!」

「なるほど」

 

 それで謎は解けた。溜飲が下がったところで、次は妊婦自身の承認が必要である。

 妊婦の母親が胡散臭そうにフィオレを見やる傍で、フィオレは妊婦の顔を覗き込んだ。

 

「……?」

「初めまして。私はお医者様でも産婆さんでもありませんが、それなりに知識はもっているつもりです。このままあなたを放っておいてもあまりいい結果は出そうにないので、お子さんが生まれてくるお手伝いをしたいと思います。よろしいですか?」

 

 妊婦の母親は明らかに嫌そうな顔をしているが、フィオレにとっては妊婦自身の協力のほうが必須である。

 冷たい妊婦の手を取り、ぎゅ、と握りしめる。

 妊婦はぼんやりとした顔をしていたものの、ほんの僅か、きゅ、と握り返した。

 

「……お……願い、します」

 

 契約成立である。

 ひとつ頷いて、フィオレはくるりとアランとメリル母を見た。

 

「適温のお湯と、清潔な布を沢山集めてきてください。私の仲間たちがお願いしても、ご近所さんたちは耳を貸してくれないでしょう。あなた達もです」

 

 とりあえず小屋の住人とそれまで一同を囲んでいた人々を追い出し、出産の支度に取り掛かった。

 

「スタンとリオンは玄関を見ていてください。マリー、妊婦さんの体勢を変えるので手伝って。ルーティとフィリアはこのナイフ、滅菌消毒をお願いします」

 

 苦しがる妊婦の体勢を変える──それまで横たわっていたのを、寝台に腰掛けるような状態にさせる。

 

「ヒッヒッフー、と三回に分けて息を吐いてください。フー、の後に息を吸ってくださればそれで結構です。あとスタン、リオン! 玄関見張るのやめて衝立になりそうなものを探してきてください!」

「は、はいっ!」

 

 男性陣がいなくなったのを確認し、外套を脱ぐ。

 それを妊婦の腹にかけて膝を立てさせると、フィオレはしかるべき場所を覗き込んだ。

 

「ルーティ、アトワイトを貸してください」

「わ、わかったわ」

 

 アトワイトを受け取り、フィオレとの視覚共有ができるよう精神を同調させる。彼女はフィオレが診ているところを確認したようで、ふむ、と頷いた。

 

『これならすぐに陣痛がくると思うわ。それにしてもあなた、落ち着いているのね』

「は?」

『呼吸や動悸は早まっているのに、それを誰にも気づかせていない。私も、精神を同調するまで気付かなかったわ』

『……気が散るようなこと、言わないでください』

『ときにあなた、クリステル胎児圧出法は知っているかしら』

『……ち、知識の上でなら』

 

 知っている。具体的な方法はわからないが、何となくなら、知っている、が。

 妊婦の腹の上に乗って人力で胎児を押し出すなど、できればしたくない。下手を打てば母子ともども殺してしまう。

 

『そう、知っているのね。良かったわ。必要に応じて対処しましょう』

『できれば、そんな事態にはならないでいただきたいのですが』

『その通りよ。でも、妊婦の状態からしてけして楽観視はできないの。覚悟だけはして。できないのなら、土壇場であなたが怖気づいたなら。誰に変わってもらうかだけは考えておいて』

 

 人命が関わっているからだろう。アトワイトの声は冷たさが滲むほどに真摯だった。

 アトワイトの余計な一言を忘れるように、陣痛で苦しむ妊婦に良いとされたマッサージを繰り返す。

 運ばれてきた即席の衝立で周囲からは見えないよう施した。調達させたタライに湯を張って両手を消毒する。

 なるべく自然分娩を手伝うだけにするつもりだが、いざと言うときのことを考えると、とてもではないが準備は怠れない。

 ルーティたちに用意してもらった滅菌済みのナイフを手元に置き、妊婦の心の支えにしようと思って呼んだアランが思ったより動揺しているので立会いはやめさせ、仲間内の女性陣だけを小屋の中に残す。男性陣は、付き添うと言い張るアランと妊婦の母親を外で抑えておく役だ。

 本当は、フィオレがヘマをしたときにすぐ逃げられるよう準備しておいてほしかったのだが……背に腹はかえられまい。

 やがて陣痛の間隔が短くなってきたらしく、妊婦の苦しむ声がひっきりなしに響く。

 その声が痛々しく届いたのか、一際吼えるようなアランの怒声を聞きながら、フィオレは額の汗を拭った。

 その時。

 

「う、あ、ああっ……ひいっ、痛いっ、やあっ!」

「気をしっかり持って、呼吸を止めてはダメです」

「いやっ、いやあああっ! 痛いいいぃいっ! 触らないでぇぇっ!」

 

 何か気に障ることがあったのか。

 彼女は突如として甲高い悲鳴を上げ、手足をバタつかせて駄々っ子のように身を捩った。

 狭い寝台の上。落下すれば母体も胎児も、その衝撃でどんな影響があるかもわからない。

 

「ちょっと、ちょっと! 暴れないでよ!」

「お、おお、落ち着いて、落ち着いてくださ……!」

「ルーティは左、フィリアは右! 肩を抑えてから腕を抑えてください! マリーはそのまま足を抑えて、蹴られないよう気をつけて!」

 

 力の限り泣き叫び、こんな力がどこに残っていたのかと暴れる妊婦を総動員で物理的抑制にかかる。

 とはいえ、縛り付けるわけにもいかない。そのまま抑えるに留めるが……このまま彼女が力尽きるまでこうしていなければならないのか。

 よしんば力尽きたところで、彼女に出産をする気力、体力が残っているのか……!? 

 

『まずいわ。激痛で錯乱している……痙攣は起こしてないようだけど、落ち着かせないと』

「錯乱!? 鎮痛剤は!?」

『そんなものはないわ。あったとしても、胎児にどんな影響が及ぼすか。生まれてきた瞬間に心臓麻痺でも起こされたら、蘇生手段はないわよ』

「……なら、ほんのちょっと眠ってもらって……!」

『あなた何をするつもりなの!? 妊婦に当身なんて、正気の沙汰じゃないわ』

「一時的に静かに大人しくなっていただくだけです! 当身がダメなら、ちょっぴり感電させて……」

『落ち着いて! どうしてそう手っ取り早い暴力に訴えようとするの!? 本当にもう、フィオリオと全然違うんだから……!』

 

 慌てるフィオレに諭すアトワイトも、やはり冷静ではない。

 かつて一度も聞いたことが無いその名を聞いて、フィオレはハタと冷静を取り戻した。

 

「……フィオリオ? って」

『まさか、あなたに落ち着いてと諭す日が来るとは思わなかったわ』

 

 訊ねるも、アトワイトは答えない。今はその場合ではないかと、質問は保留にしておく。

 とにかく今は、今尚暴れる妊婦をどうにか落ち着かせることだ。

 

「眠らせたらどうなりますかね?」

『眠り産は安産だとも言うけれど、あれは陣痛の痛みをまぎらわすため、脳内麻薬の分泌が著しい事例だわ。強制的に眠らせても、有効かどうかは……』

 

 にっちもさっちもいかない。

 妊婦は正気に戻る気配もなく、すでに息も絶え絶えになりながら、わあわあと泣きじゃくり、触らないでと怒鳴る。

 どうにか、当て身も感電も眠らせるのもナシで、落ち着いてもらわなければ──

 

 ♪ 心安らかに歌いましょう

 愛おしいこの子に会うために

 

「!?」

 

 女性陣が軒並みぎょっとしたような風情でフィオレを見やるが、致し方ないことだろう。

 彼女を抑えながら、フィオレは突然歌いだしたのだから。

 

 ♪ 可愛くて柔らかい温かくて小さな生命

 あなたが幸せであるように

 この祈りを捧げましょう

 いつもどんな時も遠く離れようと

 時の流れを超えてずっと

 

 心なしか、暴れていた彼女が動かなくなった気がする。

 それでもフィオレは、歌うのをやめなかった。

 

 ♪ 寄せては返す漣

 小鳥の囀り

 穏やかなせせらぎ

 あなたへの祝福は

 こんなにも美しい

 世界からの贈り物──……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が昇る。その様を見ながら、フィオレはラクダの背に揺られていた。

 結局──ジャンクランドへ連れて行かれたときは夕方近くなっていたから、ほとんど徹夜したのと変わらない。

 神殿に忍び込んだときは睡眠を取ってあったからこそ、平気で行動ができた。

 眠い眼をこすりつつ、うーんっ、と伸びをする。

 

「にしても、凄かったなあ」

「ああ。私は多分、産声を初めて聞いたぞ」

 

 ──そう。幸運なことに、すべてが終わった時には母子共に健康な状態だった。

 赤ん坊を受け止め、産声が上がらなかった時は肝が冷えたが、尻をひとつ引っぱたいて口の中の羊水を吐き出させ、産声を──呼吸をさせている。

 

「あたし、妊婦が苦しがるのも怖かったけど、どっちかっていうとフィオレの怒鳴り声のほうが怖かったわ」

「ごめんなさい、フィオレさん。わたくしもですわ……」

「あんなに穏やかな歌のあとだったから、余計にな」

 

 あそこで妊婦に力を弱められては非常に困る。

 そのために、フィオレは歌い終わった直後あえて傲慢に、暴れ疲れて息も絶え絶えな妊婦を怒鳴りつけたのだ。

 

「母親になるくせに、ぴーぴー泣くな! 泣きたいのは子供で、あんたじゃない!」

「力抜くな! ちゃんといきむ! 子供を外に出さない気!? 生まれてもいないのに、過保護にするな!」

「寝るな! 目を開けて! ほらもう、頭が見えてるよ!」

 

 後で絶対旦那から怒られるだろうなー、と思いつつしたことだが、結果としてアランと接触せず脱出できた──回避できたからもう考えることはしない。

 フィオレが最も恐れていた事態──へその緒が首に巻き付いていたり、頭からではなく足から出てくる逆子だったり、予想外のアクシデントにより帝王切開で子供だけは取り出さなくてはいけない、というような事態発生はなくて、今更ながらホッとした。

 母親も子供も無事で、野次馬や本人、旦那や妊婦の母親が喜んでいる隙をついて一同も無事ジャンクランドから脱出、フィリアも元に戻っている。

 それでも一人、渋い顔をした人間がいた。

 

「まったく、とんだ寄り道だったな」

『まあまあ、そう言わずに。もしフィオレがしくじっていたら、袋叩きにされてたかもしれないんですよ?』

 

 それが十分にありうる状況だったから怖い。

 出産後、野次馬たちが話していたのを盗み聞いたのだが、あの妊婦の子供は十月十日を過ぎても生まれなかったらしい。

 誰もがみんな十月十日ぴったりに生まれてくるわけではないが、それでもトラブルの元になる可能性は大だった。出産前の母体も健康そのものではなく、あまり出歩くことのなかった病気がちな女性だったという。

 本当に何もなくてよかった。

 再びラクダの上でうとうとしながら、フィオレはそっと、ラクダの首にもたれかかった。

 

(誰も死ななかったんだから、いいよね。とっとと忘れよう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






※作中で間違った対処があったとしても、素人がわからないなりに頑張った結果です。
フィクションとして、お目こぼしを要求します。異論というか、突っ込みは聞きません(笑)


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ノイシュタット逗留編
第五十五夜——桜舞う街で~チャンピオン様がお通りだ


 物語は新たな舞台へ、inノイシュタット。
 顔見知りとは再会を果たし、新たな面子には喧嘩を売り。

※ちなみにフィオレは、ガチで子供達のことを忘れています。色々あったからね。

 あ、そうそう。この後仲間になるかもしんない人。
 あろうことかフィリアにフォーリン・ラブ@ファーストサイト(一目惚れ)しやがった筋肉達磨こと、マイティ・コングマンが登場しまーす(超なげやり)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すったもんだの挙句、無事ラクダを返却し、チェリクの子供たちと別れの挨拶、ついでにバルック氏にも別れを告げて。

 一同は一路、フィッツガルドへと赴いた。

 

「フィッツガルドといえば、スタンの故郷があったわね。どんなところなの?」

「どんなところと言われても、おれが知ってるのはリーネ村だけだからなあ。ノイシュタットはちょっと……」

「ノイシュタットを知らないって、じゃあどうやってセインガルド……違うわね、ファンダリアまで来たってのよ。泳いできたわけじゃないでしょ?」

 

 この会話で、図らずも飛行竜の密航をルーティにばらしてしまったスタンだったが、幸いルーティは笑い飛ばすだけで「密航者」という不名誉なあだ名はつかなかった。最も、「田舎者」も十分不名誉だが。

 カルバレイス仕様だった服装──外套を脱ぎ、極端な薄着もやめたフィオレはいつも通りの制服をまとっている。

 航海中、しきりにミントティーを嗜むリオンを横目で見つつ、以前見せた爆薬を戦闘に役立てたい、と申し出てきたフィリアに調合を教えていると、あっという間に時間は過ぎた。

 少し前にも訪れたノイシュタットは、以前となんら変わらないように見える。

 遠くに見える淡い桃色の花を咲かせた木々、賑わう闘技場、日当たりのいい閑静な住宅街と、日陰が多く暗い顔をした人々が徘徊する貧民窟。

 その姿は、本当に、以前となんら変わりない。

 

「ノイシュタットに着いたらどうするんだ?」

「イレーヌを訪ねるんだ。彼女はフィッツガルド方面の責任者だからな。レンブラントの屋敷に行けば会えるはずだ」

 

 彼女と顔なじみであるリオン、そしてついこの間彼女に面会したフィオレを先頭に港から街中へ入っていく。

 そこで、とある風景と出くわした。

 

「……そこ、どいてよ」

 

 一同も歩もうとしていた道の先、そう広くもないそこを一人の少年が立っている。

 その少年の行く手を、一組の少年少女が阻んでいた。少年少女の年齢、背丈は少年と同程度であり、また服装も似たようなものである。

 違いといえば、少年はその手に荷物を抱えていることか。

 困惑する少年に、道を塞ぐ少女が何かを含むような物言いで話しかけた。

 

「あーら。お金持ちのお坊ちゃまがわざわざ港でお買い物ねえ。まるで召使いみたーい! きゃっきゃっ!」

 

 少女の耳障りな笑い声に、隣の少年は便乗するように少女へ話しかけた。

 

「違うよぉ、お姉さま。こいつはお坊ちゃまじゃなくてみなしごなんだよ。お母様が言ってたけど、こいつら親がいなくて、お金持ちの奥様に引き取られたんだ」

 

 ……なるほど、そういうことか。

 道端で展開する、いかにもわかりやすい光景に、フィオレはそのまますたすたと歩んだ。

 弟の言葉に、姉はちらちらと少年を見やりながら、わざとらしく頷いている。

 

「ああ、そうだったっけ。どうりで私たちとは違うと思ったあ。あんたもあんたの姉さんも、なんかこうみすぼらしいのよねえ」

「そしてあなたたちは邪魔なんですよね」

 

 立ち止まることもなく歩いていたフィオレは、瞬く間にその場へとたどり着いた。

 それまで少年にしか眼中になかったのだろう。姉弟はぎょっとしたようにフィオレを見上げている。

 

「私にもそこの少年にも、そしてあなたたちにも道を通行する権利はあります。だから退くか譲るか消えるかしなさい」

「あーっ! こないだの、お説教女!」

 

 誰も、その場に残りつつ指をさせなんて言ってない。

 行儀のなってない少女を見やって、フィオレはひとつため息をついた。

 

「指を差して大口開けているとアホっぽく見えますから、やめたほうがいいですよ」

「う、うるさい! 誰がアホなのよ誰が!」

「誰がお説教女ですか。どなたとお間違えか存じ上げませんが、とにかく私が通れないではありませんか」

「嘘だ! その眼帯、人違いなんかじゃない!」

 

 なんと姉だけではなく、弟の方もフィオレを知っているらしい。

 もしかしたら、本当に面識があるのかもしれない。

 とはいえ、ここ最近で様々な出来事に直面しているのだ。些細なことなど覚えてはいられない。

 因縁をつけてきた姉弟にそれ以上関わることはやめて、フィオレはそれまで自分と姉弟に挟まれていた少年を見下ろした。

 

「地元の子ですよね? 良かったら、下の道から進む方法など……」

「……隻眼の、歌姫様?」

 

 見上げてきた少年の眼は、確かにフィオレを見知っている。

 ここにも覚えのない顔が、とめまいを覚えたフィオレだったが、咄嗟の言葉が口に出た。

 

「誰ですか、それは」

「……じゃあ、フィオレンシア様?」

「そんな風に呼ばれるいわれはありません」

「フィオレお姉ちゃん!」

 

 そう呼ばれて、ようやく記憶の糸を手繰り始める。

 飛行竜での出来事よりも前、イレーヌとの初対面よりは後、彼には姉がいるらしい……

 

「……そうだ。ご無沙汰していましたね、カルマ。イリーナは元気ですか?」

 

 以前、ミコという少女にノイシュタットの街を案内された際、紹介された彼女の友人だ。確か、リオンとそう変わらない年齢の姉イリーナを慕っていたはず。

 

「お久しぶりです。僕のこと、覚えていてくれたんですね」

「いやー、わかりませんでした。格好は違うし表情は暗いし」

 

 ちくっ、とつついてやれば、彼は酢でも呑んだような顔つきになっている。

 しかしフィオレはそれに気付いた素振りを見せず、更に話しかけた。

 

「で。なんであなたの前には障害物が立ちはだかっているのだと思いますか?」

「誰が障害物……!」

「……僕に、本当のお母様がいないから?」

 

 姉の怒鳴り声を無視して答えを促せば、彼は少々うなだれつつもそう言った。

 その言葉に、フィオレもひとつ頷く。

 

「なるほど。なら、私もそこの道を通るのは無理ですね。あきらめましょう」

「えっ?」

 

 あっけないほどにフィオレはきびすを返して、元の道を戻り始めた。

 往来で、子供といさかいを始めた彼女に一同は困惑を隠していない。

 

「ちょ、ちょっとぉ! 何なのよさっきから、通せだのやっぱやめるだの……!」

「親がいない人間を通せないのなら、私には通れません。それだけです。それでは、精々親のいない人間に対する通行障害に精出してくださいね」

 

 カルマを連れて、一同をちょいちょいと招き寄せて、すたすたと下の貧民窟に通じる道へと降りていく。

 何やら騒いでいる姉弟を省みることなく進んでいくと、後方から声がかかった。

 

「フィオレ。その子は誰なんだ?」

「ご紹介しましょう。ついこの間故あって知り合った、カルマです。好きなアイスキャンデーは……抹茶味でしたっけ? 渋いなあ、と思って覚えてたんですけど」

 

 尋ねてきたマリーにさらっ、と答えるものの、残念ながらこの程度しかしらない。

 好きなアイスキャンデーまで暴露された少年はといえば、かえって緊張がほぐれたのだろう。小さく吹き出して、少々はにかみながらも自己紹介をした。

 

「初めまして、カルマです」

「じゃあ、あのむかつくクソガキ二人とも知り合いなの? あっちは知ってたみたいだけど……」

「さあ。覚えていないので、知り合いではないとお答えしておきましょう」

 

 ルーティの質問にフィオレはそう答えるものの、あまり納得している風ではない。

 そこへ、カルマ少年の助言が入った。

 

「えっと……ミコに石をぶつけてきたとき、助けてくれたんです。ミコは、そう言ってました」

「ああ、そんなこともありましたねえ。目障りだったのでつい介入してしまったのは覚えていますが、人に石を投げるような低俗サルモドキ、私は知りませんね」

「低俗サルモドキ……」

 

 このさりげない毒舌を計算づくで浴びせられれば、たとえ大人だろうと怒りを覚えずにはいられないだろう。

 話術を使って相手の感情を操作しようと試みるフィオレを知っているだけに、一同は戦慄を覚えざるをえなかった。

 

「じゃあ、その、親がいないって言うのは……」

「そのままの意味です。二人とも、あまりいい死に方ではありませんでした」

 

 こちらは好奇心だろう。スタンにそう答えれば、ルーティが「この馬鹿、何聞いてんのよ!」と一発はたく音が聞こえる。

 その一撃は、フィオレからのものと考えてもらうことにした。

 貧民窟の大通りを賑やかに通過する彼らに、道端でうずくまっていた子供や大人が暗い目でちらり、と見てはまた伏せてしまう。

 しかし何事も起こる様子はなく、一同は再び街中の、大通りへ戻ってきた。

 ありがとう、と再び頭を下げて去るカルマと別れ、一同もまたレンブラント邸を目指す。

 本当はカルマが現在住まう家までついていって、彼らの暮らしが本当に改善されたのかどうかを知りたいのだが……リオンに怒られるよりも前に、フィオレにも優先するべき懸案はある。

 残念ながら、見送るだけにした。

 

「イレーヌお嬢様でしたら、ただいまレンズショップにいらっしゃいますが……」

 

 上がりこんでいきなり「イレーヌはどこだ」と事情も知らせずそれだけを聞くリオンに、レンブラント邸の家政婦(メイド)は困惑しつつも素直に答えている。

 困惑しているということはリオンの顔を知らない、比較的新参の家政婦(メイド)なのだろう。それにしても、もしリオンが彼女を狙うような不埒者だったら、一体どうするつもりなのだろうか。

 この場合は根掘り葉掘り事情を尋ねて、不審な点を見つけたらその時点で悲鳴のひとつでもあげて警備員を呼ぶほうが賢いのだが……そんな面倒くさいことにならなくてよかった。

 レンズショップの看板を探すこと、すぐ。

 驚いたことに、目的の看板はレンブラント邸のすぐ近くにあった。支部長だけあって、何か不測の事態が発生した場合を想定してここにレンズショップを置いたのか。あるいは単なる偶然か。

 兎にも角にもレンズショップの扉をくぐる。

 扉の正面にはカウンターが設置され、その脇のスペースにある硝子ケースの中には高価なレンズ製品が飾られていた。いかにも金持ちが好みそうな展示方法である。

 もちろんリオンはそれらに眼もくれず、まっすぐカウンターへ歩み寄った。

 

「いらっしゃいませ。この度は我がオベロン社レンズショップをご利用いただき……「イレーヌはどこにいる?」

 

 その不躾な一言に、マニュアル通りの挨拶が止まる。

 応対に出た社員の女性は、何事かと目を白黒させながらもイレーヌの役職を呼んだ。

 

「し、支部長。こちらのお客様が、支部長をと……」

「あら、リオン君じゃない。まあ、フィオレちゃんも! お久しぶりねえ」

「……ちゃん?」

 

 イレーヌは、案外すぐ近くのデスクで何やら事務作業を行っていた。

その気安さに社員の女性は動揺するものの、自分の出る幕でないことだけは悟ったらしい。すぐに姿勢を正してカウンターの立ち位置をイレーヌに譲る。

 フィオレの呟きに構うことなく、リオンはずばりと本題を告げた。

 

「輸送船が襲われていて大変らしいな」

「そうなのよ。もう、困っちゃって」

 

 バルックの言葉が事実なら相当な被害額が予想されるのだが、イレーヌはまるで「夜にお隣さんが煩くて」程度の軽さで答えている。

 それだけオベロン社が大企業なのか、あるいはイレーヌがおおらかなだけか。

 

「その話についてなら、こんなところじゃなんだから奥へどうぞ」

 

 ちょっとここをお願いね、と社員らに告げ、イレーヌはカウンターの入り口を開放した。そのまま、店の奥にある部屋へと案内される。

 おそらく会議室か何かに使っているのだろう、ここなら社員がうっかり聞いてしまうこともない。

 

「紹介が遅れたわね。フィッツガルド支部を統括しているイレーヌ・レンブラントです……ところで、そちらの方々は?」

「スタンにルーティ……フィリアとマリーだ」

「はじめまして。スタン・エルロンです」

「ルーティよ」

「フィリア・フィリスと申します」

「マリー。イレーヌ、よろしく」

 

 驚いたことに、ここではリオンが進んで一同の紹介をしている。名前だけしか紹介できていないものの、カルバレイスでの態度とは段違いだ。

 同じようないさかいを繰り返して面倒なことにしたくない、と考えた可能性は、あえて考えないでおく。

 

「ええ、よろしく。ところでリオン君、それを知っていて私を訪ねてきたというのは単なる陣中見舞いかしら? それとも、どうにかする手段を持ってきてくれたの?」

「いい作戦がある。僕たちがおとりになり、海賊どもをおびき出す。そこを一網打尽にする。どうだ、乗らないか?」

「……簡単に言ってくれるわね」

 

 本当にあっさりと、武装船団への対処を提案したリオンに、イレーヌは小さくため息をついた。

 しかしそこで否定を口にしない辺り、リオンとの親交の深さが伺える。

 

「相手はかなりの手利きよ。ここ一ヶ月で、何隻やられたと思ってるの?」

 

 この言い草も、無謀さに呆れるというよりはリオンの無茶ぶりを気にしている程度であり、本気で止めようとする気配はカケラもない。

 

「敵の親玉だけを捕らえればいい。所在さえ判れば、いくらでも手のうちようはある」

「確かにあなたたちの武勇伝はここフィッツガルドにも届いているわ。湖に棲むドラゴンを倒したくらいなら、あるいはと思うけれど……」

「けれど?」

 

 二の句を告げかねていたイレーヌだったが、フィオレの一言ですんなりと、おそらく彼女の本音を語ってくれた。

 

「でもリスクが大きすぎるわ。あなたたちに何かあったら、ヒューゴ様から叱責を受けるのは私なのよ」

「大丈夫ですよ。ヒューゴ様が、そんな人情味溢れた真似をするはずがないではありませんか」

 

 これまでフィオレの知るヒューゴ氏の性格から真顔で答えれば、イレーヌはなんとも言いがたい表情を浮かべてリオンを見やった。

 当然のことながら、リオンからの異論や苦情はない。

 

「ヒューゴ様のことなら心配しなくていい。問題は、おとり用の船を出してもらえないかどうかなんだ」

「そんなことないわ。特にフィオレちゃん。定期報告でヒューゴ様はあなたのこと、高く評価していたわよ。定期的に晩酌にも付き合ってくれていて、まるで娘ができたみたいだと……」

「酔っ払いの与太話はこの際どうでもいいです。で、いかがです?」

 

 無論、フィオレにそんなものを聞く耳は持たない。

 早々に答えを促されたイレーヌは、しばしこめかみに指を当てて考え込んだ。

 そして。

 

「……仕方ないわね。背に腹は変えられないもの」

「それじゃあ!」

「とはいっても、おとり用の船なんてすぐには用意できないわ。少し待ってもらうことになるわよ」

 

 イレーヌが船を用意する間、一同は準備を済ませて彼女の家で待機するという結論に至る。

 ほぼ恒例となった小競り合いが発生したのは、道中準備のために店頭を回ろうとした矢先のことだった。きっかけは、マリーによる「アイスキャンデー」に対する興味からである。

 フィオレがカルマ紹介の際、口にしたことによって、食べてみたいと思うマリーに味方するはスタン、ルーティ。

 いつイレーヌが準備を終えて知らせにくるかもわからないのだから、こちらも早めに準備を済ませてレンブラント邸で戦いに備え、休んでいた方がいいと言うリオン。

 そして常日頃から両者のにらみ合いにおろおろするフィリア、手出しも口出しもせずにそれを眺めるフィオレ。

 

「何よ! あたしたちはあんたの手下じゃないの、アイスキャンデー買ってくるくらい、いいじゃない!」

「手下云々の前に、今は任務中だ! 勝手な行動は控えろ!」

 

 こういった状態に陥っても、優先するべき出来事がない場合は傍観しているのだが……この怒鳴りあいは何とかならないものか。本当は早めに仲裁をするべきなのだが、それではいつまでたってもリオンの社交性の低さは改善されない。

 他人と関わることは比較的平気なのに、親しくなることは無意識に拒絶するリオンの悪癖をどうにかしようと、フィオレはあえて放置していた。

 先ほどの、イレーヌに対して一同を紹介したということは彼らを「こき使うべき罪人」から「行動、目的を共にする仲間」という認識を強めたことは間違いないだろう。

 しかし、それを表に出さないリオンと、裏を読むことを知らない彼らが仲良しこよしの関係になるのは、十年以上の時を必要とするかもしれない。

 それはさておき、往来で怒鳴りあう一同は衆人環視の注目の的だ。そろそろ納めるべきかと、フィオレがにらみ合う二人に声をかけようとした、その時。

 

「チャンピオン様のお通りだ! 全員注目!」

 

 雑踏からそんな叫びが聞こえて、自然と人ごみが割れていく。

 現われたのは、取り巻きを何人も引き連れた禿頭の巨漢だった。

 浅黒い肌に、筋骨隆々とした身体を見せ付けるかのごとく上半身は裸。腰には獅子の顔を模した幅広のベルトを巻いている。下半身はゆったりとしたズボンで覆われているものの、全身が鍛え上げられた筋肉の塊であることがよく伺えた。とりあえず、あれではろくに泳げないだろうと思われる。脂肪が極端に少ないと、人の身体は水中に浮かばない。

 誰もが道を譲る中、往来をうろついていた数人の孤児はこぞって闊歩する巨漢に群がっていった。

 

「わーい、コングマンだ!」

「チャンピオンだー!」

「よう、おめえら。今日もしぶとく生きてるな? 明日も明後日も、生き残ってみせるんだぜ!」

「「はーい!」」

 

 そういえば、前にミコから闘技場に関連してそこを牛耳るチャンピオンの話を聞いたような気がする。

 武器防具使用可の闘技場において、己の拳のみで頂上の座を掴み取り、その座に居座り、強者を束ねる存在を。

 周囲の反応が歓迎と嫌悪の半々なのは、彼が下流層側の人間だからか。

 巨漢はしばし子供たちと戯れてから、それまでの雰囲気を一変させて一行に近寄ってきた。

 間近で見ると、見上げるほどに巨大だ。

 

「街中で騒ぎを起こしている連中というのは、おめぇらか?」

「……仲間内で言い争っていただけです。他の方に迷惑をかけた覚えはございませんが」

 

 小競り合いこそ一時的に停止しているが、誰一人として応対に出ようとはしない。仕方なく、フィオレがそう告げる。

 しかし、巨漢は納得することなく大仰に首を振ってみせた。

 

「喧嘩するな、たぁ言わねえよ。だがな、わざわざノイシュタットに来て揉め事を起こすんじゃねえ」

 

 ……偶然通りかかっただけなのか、それとも誰かに通報されてしまったのだろうか。

 わからないが、これはぐうの音も出ない。そのため。

 

「……だ、そうですよ。二人とも、落ち着きましたか?」

 

 主に騒ぎの原因となっていた二人に話を振る。二人が拗ねたようにそっぽを向き、とりあえずこの場は納まったかと思われた、その時。

 

「こ……これはぁっ!」

 

 突如として、巨漢の声色が裏返る。今度は何事かと見やれば、彼は──その巨体にしては実に──素早く、彼女の元へと駆け寄った。

 そう、ことの成り行きを見守っておろおろしていた、フィリアの眼前へ。

 

「え?」

「やあ、そこの可憐な眼鏡のお嬢さん」

 

 片膝をつき、実に気障なポーズでサワヤカな笑みらしいものを浮かべている。ただ、元のつくりが強面なだけにフィリアはときめいたりはしなかった。

 自分を指差し、ただ戸惑うばかり。

 

「わ、わたくしですか!?」

「今、俺様のハートにビビッと来ましたよ。あなたこそ、俺様の理想の女性だ!」

 

 三つ編み、眼鏡、美少女、清楚な風情、それでいて神官の衣装。

 どれが彼の心にクリーンヒットしたのかは、彼のみぞ知る。もしかしたら全部かもしれないし、クレメンテと趣味が合うかもしれない。

 ただ、これまでの生活からして、あからさまなナンパなどという行為からは無縁だったのだろう。ただひたすらに戸惑うフィリアを完全に置いてけぼりにして、巨漢はぺらぺらとまくし立てた。

 

「一緒に栄養ドリンクなんてどうです? もしくはヒンズースクワットとか……」

『……しびれるような、口説き文句じゃのお』

 

 これで引っかかる女がいるなら、是非面を拝みたい。

 ただ、見かけによらず、巨漢は彼女の気を引くために上手くもない言葉を使っていて、腕づくで連れて行くような真似をする気配はなかった。

 これなら、未だ浮世離れしている面のあるフィリアにはいい社会勉強か、とフィオレが静観を貫こうと思った矢先。

 

「おい、チャンピオンがそう言ってるんだ。さっさとお供しないか!」

「きゃっ」

 

 フィリアが戸惑っているのに腹を立てた取り巻きの一人が、気をきかせてのつもりか、フィリアに迫る。

 だが、フィオレが動くよりも先に行動を起こした男がいた。

 

「おめえは黙ってろ!」

 

 フィリアを口説く、チャンピオンその人である。

 そこで、巨漢の視線からやっと解放されたフィリアが駆け寄ってきた。

 

「フィリア?」

「あ、あの……もう行きませんか?」

 

 どうやら、すでに限界を迎えていたらしい。こういったことにまったく耐性がない彼女の目は、うっすらと潤んでいる。

 自分でどうにかさせたかったが、本人がそう言うなら仕方ない。

 

「フィリアはあなたに興味がないそうです。それでは」

「待ちやがれ!」

 

 さりげなくフィリアの肩を抱き、一同にアイコンタクトを送ってこの場を離れようとする。

 しかし、それで諦める男ではなかったようだ。

 

「何ですか。しつこい男は嫌われますよ」

「おめえ、フィリアさんの肩を抱いて歩くなどうらやまし……いや、女同士で何やってやがるんだ!」

「女同士のスキンシップです。えい」

 

 何の前触れもなく、フィリアを抱きしめる。

 むぎゅ、とハグしてすぐに離すも、見せつけられた巨漢は禿頭の先まで赤くして怒鳴りつけた。

 

「ぬわぁーっ! フィリアさんといちゃつくなど、うらやまけしからん! 女ぁ、名を名乗れぇ!」

「人に名を尋ねるなら、まず自分から名乗りなさい」

「俺様を知らねえとはとんだ田舎娘だな!」

 

 一瞬せせら笑う。しかし、彼は存外素直に答えてくれた。

 

「ノイシュタット闘技場チャンピオン、マイティ・コングマンだ! さあ名乗れ!」

「なんで私が、あなたに名前なんて教えなければならないんですか。私の名前はそこまで安くありません!」

「むがあぁっ!」

 

 とうとう禿頭の先から湯気を出し始めたコングマンとやらの怒りぶりに引きながら、ルーティがつっかかってきた。

 

「怒らせてどうすんのよ!?」

「穏便に断ったところでつきまとわれる率大です。ここはきっぱり振っておきましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十六夜——桜の舞い散る下で


 続・ノイシュタット。
 闘技場チャンピオン相手にストリートファイトを敢行。
 別名馬鹿をやっている回。よくよく考えてみると非常に無謀なことしてますね。
 フィリアに対する愛(like)の成せる業か!? (イヤイヤイヤ


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日常茶飯事と化していたじゃれあいの末、うっかり関わってしまった筋肉達磨はフィリアにフォーリンラブ。しかし、当の本人に応じる気配はまったくないようだ。

 しかし振るとなると、いくらフィオレが何かを言ったところで聞き流される可能性が高い。

 もしもフィオレが男であればフィリアの恋人のフリをして撃退するところだが、コングマンに女だと認識されている以上、不可能だ。いや不可能ではないが、鼻で笑われるだけな気がする。いくらなんでもフィリアのファーストキスかもしれない唇を奪う気にはなれない。

 スタンにそんな器用な真似ができるとも思わないし、リオンはアテにならない。

 というわけで。

 

「フィリア。ちょっと黙っててくださいね」

 

 耳元でこそっと囁き、さりげなく位置を移動。コングマンや取り巻きからフィリアの口元が隠れる角度に、フィオレが立つ。

 そして、フィオレの長い一芝居が始まった。

 

「フィリア、あのコングマンてチャンピオン、どう思います?」

【汗臭い筋肉達磨だと思いますわ】

「えっ!?」

 

 最近使うことのなかった声帯模写でフィリアの声を盗み取れば、もちろんフィリアは驚愕した。

 しー、と仕草だけでフィリアを黙らせ、次なる台詞を口にする。

 

「私も同意見です。じゃあ、付き合うなんて嫌ですよね?」

【絶対にお断りです。そもそもわたくしは神にすべてを捧げていますの。いわば神の妻ですわ。俗世の汗臭い男なんて、考えたこともありません】

「フィ、フィオレさん。女神アタモニは、そこまで戒律に厳しい教えでは……」

「そもそも女神なら妻にはなれないんじゃ……」

 

 そういえばそうだった。しかし、言ってしまったものはしょうがない。くるりときびすを返して、フィオレは締めくくった。

 

「だ、そうです。潔く諦めなさい」

「ふざけたことを抜かすんじゃねえ! どーみても、テメエが言わせてるんだろうが!」

 

 正確にはフィオレが一人芝居をしているだけで、言わせた覚えはない。まあ、似たようなものだが。

 

「なら、どうすれば納得するんですか?」

「まずはおめえがフィリアさんから離れることだ」

「それはできません。フィリアに何をするつもりですか」

「おめえこそ、フィリアさんのなんだ? 人の恋路にしゃしゃり出てくるんじゃねえ!」

 

 正論だ。

 それもそうだと思いつつ、フィリアに目を向ける。

 しかし彼女は、涙目でふるふると首を振るばかりだ。挙句、フィオレの袖を掴んで離さない。

 

「仕方がありませんね……何を言っても無駄のようですので、撃退します。異論があるなら何とか言ってごらんなさい」

「俺様に喧嘩を売るとは、いい度胸だと褒めてやろう。だが俺様は、女を殴る拳は持ち合わせていな……「逃げるのですか、チャンピオン?」

 

 ぴくり、とコングマンの眉が動く。

 やはり、この手の相手にそういった単語は禁句らしい。だがフィオレとて、聞き分けの悪くて往生際の悪い人間は好かない。

 加えてフィリアにこともあるにつき、敵と見なして対処することはすでに決めていた。

 

「そりゃ、女に負けたなんて恥晒し以外の何者でもないでしょうね。それじゃあ戦うことすらできないわけだ」

「なら俺様の闘技場で……」

「ほほう。闘技場なら勝てるんですか? あ、そうか。あそこはあなたの独壇場ですから、舞台に何か仕掛けてあって、あなたが必ず勝てるよう仕向けてあるんですね。じゃあ、往来じゃ戦えませんねー」

 

 自分で言っていてとんでもない理屈だと思うが、相手を怒らせる──冷静さをなくすための手段だ。

 案の定コングマンは、それまでとは明らかに違う怒りの表情を浮かべた。

 

「なんだと!? おめえ、それ以上抜かしてみろ。女だからといって容赦はしねえぞ!」

「初めから手加減して下さいなんて頼んでません。言ってもわからない、引き際も知らない、紳士から程遠く道程臭い野蛮人め。遠慮なくかかってきなさい」

 

 これ以上ない挑発に、コングマンは言葉もなく戦闘体勢に入っている。

 さあここで、ガス抜きをする必要がある。

 

「あー、でもー、こんな往来で喧嘩をしては他人に迷惑です。だからといって闘技場なんて行くこともできませんから、そこの公園に移動しましょう」

 

 小競り合いを起こすきっかけも作った、アイスキャンデーの屋台が出ている公園へと場所を移動する。

 

「フィ、フィオレさん。本当にあの大男と戦う気ですか!?」

「ええもちろん」

「だったら俺が代わりに……!」

「お気持ちだけ頂きましょう。私が売った喧嘩の尻拭いなんか、死んでもさせません。スタンはこれで、ルーティたちにあれを買ってあげてくださいね」

 

 止めようとするスタンにはガルドを握らせて、ルーティたちにこっそり件の氷菓子を買うなら今だとそそのかして。フィオレは、憤然とやる気十分のコングマンと対峙した。

 

「どうやら武器をお持ちでない様子で。私も刃物は使わないことにします。その代わり、私が勝ったらフィリアに付きまとうのをやめること」

「フィオレさん!?」

 

 フィリアの悲鳴じみた制止を聞かず、フィオレはボレロを脱いだ。そこに仕込んだ暗器、懐の短刀、更に腰から紫電を外してすべてフィリアに預ける。

 

「それで俺様が気圧されるとでも……!」

「行きますよ?」

 

 こんな馬鹿馬鹿しい戦いに長々と時間を使うつもりはない。すぐに終わらせるつもりだった。

 助走抜きの接敵にコングマンが構えるよりも早く、手前で急制動をかけてその背後へ回りこむ。

 そして、全力で膝裏を蹴った。

 

「ぐわっ!」

 

 どんな巨木であろうとも、根っこを傷つけられればひとたまりもない。

 たまらずぶっ倒れるコングマンの背中に乗り──背中に飛び乗った瞬間から怖気が止まらない。

 癒える気配もない厄介な異性恐怖症に辟易しながら、それでも試みた裸締めを、早々に諦めた。予想以上に彼の首は太く、腕を巻きつけるのは困難だと判断したためだ。

 代わり、手拭を取り出してその首にくるっ、と巻きつけた。一気に首を絞めて、失神させようと企んだのである。

 無論、大人しくそうなってくれる相手ではない。

 

「このっ!」

 

 巻きつけた時点で起き上がろうとし、その手が手拭にかかるよりも早く力一杯締め上げる。この時点でコングマンの取り巻きたちからブーイングが飛んでいるが、刃物を使わないだけ勘弁してほしい。

 やがてコングマンが立ち上がり、フィオレはこれ幸いと手拭を握りしめたまま、背中側へぶら下がった。

 無論手拭はコングマンの首にかかったまま。彼はフィオレの体重分、首だけで手拭の圧力に耐えなければならない。

 これならすぐに落ちるだろうと思っていたフィオレだったが、何の弾みか手から力が抜ける。

 

「ぬおっ!」

「おっと」

 

 尻から地面に降りそうになって、慌てて足から着地する。振り向けばそこには、手拭を思い切りブン投げてバランスを崩しているチャンピオンの姿があった。

 もしあのままぶらさがっていたら、手拭ごと投げ飛ばされていただろうか。

 とにかく相手はまた体勢を崩しているのだ。つけこまない手はない。

 

「烈破掌!」

 

 圧縮された闘気が技主の意により暴発、相手を吹き飛ばす技は見事に功を奏した。

 体勢の崩れかあるいはもとより回避が苦手なのか、まともに受けたコングマンの巨体は弧を描いて地面にへばりつく。

 頭を振りつつ起き上がるコングマンを見て、フィオレの脳裏にある技が浮かんだ。

 今こそ、あの技の使い時かもしれない──! 

 

「空破特攻弾!」

 

 疾走で接敵、絶妙のタイミングで地を蹴り、起き上がろうとしているためにちょうどいい位置にあった顎めがけてヘッドバッド……頭突きを敢行した。

 頭蓋骨が顎にぶち当たり、目の奥に火花が散ったかと思うと衝撃、のちに鈍痛がやってくる。とっさに距離を取るのが精一杯で、コングマンが健在なのかも伺えない。

 他人の技なんて見よう見まねでパクるもんじゃないと思い知ったフィオレがしばらく立てずにいると、足音が近寄ってきた。

 軽い足音にして後ろからなので、コングマンではないだろう。予想通り、のろのろ顔を上げるとそこにはフィリアが立っていた。

 何故かその顔色は、蒼白になっている。

 

「だ、大丈夫ですかフィオレさん!?」

「……」

 

 雨でも降ってきたのだろうか、額にかかる髪が濡れているような気がした。とりあえずコングマンはどうなったのだろうと見やる。

 彼は大の字になってぶっ倒れており、取り巻きによって介抱されている真っ最中であった。

 

「戦闘不能……私の勝ちでいいですね」

「まずは治療が先です! ルーティさん!」

「そうよ、何呑気なこと言ってんの。あんた今血まみれなのよ?」

 

 言われて額に手をやれば、フィリアから「患部に触れるな」と怒られるも出血を確認する。

 顎に強い衝撃を与えると脳が揺さぶられ、人間は失神するようにできていることから比較的頑丈な頭蓋骨で殴ってみたのだが……あまり効率的でないことはわかった。

 やがて、取り巻き立ちの介抱によってチャンピオンは目を覚ましたらしく、巨体がむっくり起き上がっている。

 

「あ!」

「すぐに戻ってまいりますから」

 

 ルーティの治療から抜け出して、フィオレはコングマンのもとへと歩み寄った。

 取り巻きたちからの敵意に満ちた視線など気にせず、いぶかしげにフィオレを見るコングマンに一礼する。

 フィオレとしては、コングマン本人との禍根が絶てればそれでいい。

 

「流石チャンピオンですね。初めのアレに耐えるとは、思いもよりませんでした」

 

 これはフィオレによる、正直な感想である。あのような戦いにも柔軟に対応してきたことは、評価しなければならない。

 もちろん、相手が嫌味に思わないよう言葉に気をつけて。

 

「何の根拠もなく、闘技場での戦いを八百長呼ばわりしてごめんなさい。また今度、そうでないことの確かめに参りますね。それでは」

「……おめえ、見かけによらず熱い女だな。フィリアさんを見習って、もう少しおしとやかになったらどうだ?」

 

 負け惜しみか本音なのか、よく知らないコングマンの声音から読み取ることはできない。フィオレは苦笑して、前者の解釈を取らせてもらった。

 

「私がおしとやかになったら、誰も護れませんから。しつこく付きまとう男を、仲間に近づけさせないことも、ね」

「……おめえはいい女だなあ。俺様のタイプじゃあねえが」

「大変に光栄なことです。それでは」

 

 落ちていた手拭を拾い、額を押さえてきびすを返す。

 ルーティやソーディアンたちからは「無意味だった」と愚痴られ、スタンやフィリアからはもう二度としないでくれとたしなめられ、マリーには「やはりフィオレは強いな」と上機嫌に言われ、更にリオンからは淡々と「時間の無駄だったな」の一言でばっさり切り捨てられる。

 額の皮膚は薄いため破れやすく、すなわち傷口も開きやすい。アトワイトの治癒晶術で完全に癒してもらってフィオレだったが、安静にしたほうがいいとのフィリアの主張により強引にベンチに座らせられ、アイスキャンデーを食べさせられた。身体を、血流を冷やすことで治りかけの皮膚に負担を与えないがどうのこうの言っていたが……

 最後の一口を食べようとして、桜味のアイスキャンデーに花びらがつく。そのまま口に含んで、フィオレは思い切り咀嚼した。

 頭にきぃん、と頭痛が走る。

 

「……あイテテテ」

「だ、大丈夫ですか? ルーティ、もう一回ファーストエイド……」

「いやそっちじゃなくてですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






※文中の誤字は故意です。ツッコミは受け付けておりません(笑)
「空破特攻弾」本来の使用者はTales of The abyss アニス・タトリン(トクナガ)です。


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第五十七夜——望まなかった再会・起

 ノイシュタットにて。風呂イベントはスルーして、スタンといちゃこら(ver.2)した後にいよいよ海へと繰り出します。
 いよいよあの人の再登場が近づいてきたわけですが……はてさて。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 半ば強制的に食わされたアイスキャンデー「桜味」を食べ終え、フィリアに預けていた諸々を返してもらい、一同は再びレンブラント邸へと向かった。

 すでにイレーヌの使いによって事情を知っている家政婦(メイド)によって室内に通され、客間へ案内される。

 彼女の話によれば、まだ準備完了の報告は来ていないとのこと。

 そこで、ルーティが一同を労うために茶の準備を始めた家政婦(メイド)に声をかけた。

 

「あのさ、お風呂借りれない? せっかく時間が余ったんだし、たまにはのんびりお湯に浸かりたいんだけど」

「かしこまりました。少々、お待ちくださいませ」

 

 流石は貴族邸宅を守るハウスキーパーである。ルーティの注文に顔色ひとつ変えることなく、もう一人の家政婦(メイド)に茶の用意を任せてさっさと退室していった。

 嬉々としてマリーを風呂に誘うルーティは至極嬉しそうで、やはり女の子なのだなあと思わせる。スタンも同じような感想を抱いたのか、意外そうにルーティを眺めていた。

 しかし。

 

「いや。私は遠慮しておこう」

 

 マリーに素っ気なく断られ、彼女はたちまち頬を膨らませた。

 

「なによ……あんた付き合い悪いわね。じゃあフィオ「やめときます。人の家のお風呂で血流良くなって流血沙汰なんて洒落になりませんし、それにこれから消耗品の買出しに行きますので」

 

 理路整然と理由を説明されて、それもそっかとルーティは納得している。しかし何より、フィオレには他人の前で裸になぞなれない理由があった。

 眼帯をつけて防水布を手に巻き風呂に入ろうものなら、彼女に何をされることやら。どさくさにまぎれて奪い取られたらと思うと、後始末を考えるだに面倒くさい。

 現に。

 

「ちょっと残念。その眼帯の下、どうなってるのか見たかったのに」

 

 などと悪戯っぽく言われても、曖昧に流すしかない。

 これから風呂に入る際はこれまで以上の警戒が必要なようだ。そして当然、彼女も誘われた。

 

「フィリアは、入るわよね!」

「え、あの……」

 

 否、強制された。

 

「わ、わたくしもちょっと……そうですわ、フィオレさんのお手伝いを」

「フィオレ、リオンを荷物持ちに連れてけば大丈夫よね? 決まり決まり! さあ、行きましょ!」

 

 折り良くあるいは悪く、先ほどの家政婦(メイド)が湯浴みの支度ができたと報告に来る。上機嫌のルーティに連れられて、二人は客間から出て行こうとした。

 そこへ。

 

「そうだ、ちょっとスタン!」

「なんだよ」

「覗くんじゃないわよ」

「だ、誰が覗くか!」

 

 風呂場の場所も知らないのにどうやって覗けというのか。そういえば何かの物語に「覗き英雄」とかいう女性の天敵みたいな英雄がいたっけな、などということを思い出す。

 スタンはそんな初歩的なことにも気付かず、顔を赤くしていた。二人を見送り、出された茶を申し訳程度に口つけて、立ち上がる。

 

「それでは私、ちょっと買出しに行ってきますね」

「……僕を荷物もちに連れて行く気か?」

「あれはその場の勢いだと思います。どのみち、買出しに上司をつき合わせる気にはなれませんね」

 

 口には出さないが、正直リオンと一緒にお買い物なんて嫌だ。

 きびすを返して行こうとした矢先、何故かスタンが挙手をした。

 

「あ、じゃあ俺、手伝いましょうか?」

「そうですか? では、手分けしていきましょう」

 

 スタンと連れ立って、レンブラント邸を出る。

 買出しリストを見て主に港で購入するもの、街中で購入するものを分けて書き出し、別行動に移った。

 港にて、船乗り用の干し肉や干し魚等の保存食の購入をしていた際、波止場でイレーヌの姿をちらりと見受ける。おそらく船長との交渉をしているのだろう。

 これは早々にお呼びがかかりそうだと買い物を済ませて、スタンの行った店へと向かうと、そこではスタンが片手に買い物袋、片手にリストを持って唸っている最中だった。

 

「スタン?」

「あ、フィオレさん。買い物終わりました?」

「ええ。どうかしたんですか?」

「一通り買ったんですけど、リストのここ」

 

 何が気になっているのか、彼の持つリストを覗き込む。

 彼にはもともとの買出しリストを渡してあり、港で買うものはすでに棒線で消してある。彼が指しているのは、棒線を引いてあるものだった。

 

「どうしてむしくいリンゴなんて、わざわざ買ってくるのかなって……」

「普通のリンゴ買うより安上がりだからです」

 

 驚くスタンに、市場における事情を語る。とはいえど、これはフィオレの想像でしかないものだが。

「むしくいリンゴは2G、普通のリンゴは30G。大きさは変わらないしちょっと穴が空いてるだけで十分の一以下なんです。消費者って見た目をすごく重視しますから。それで捨てるのはもったいない、けど身内だけでは処理できないから格安で売ってるんですよ」

「ルーティが喜びそうですね」

 

 疑問の解けたスタンと共に、残っている買い物を終わらせる。

 出ようとしたところで、フィオレは建物内にある違う店に目を向けた。目に留めたのは、SPバーガーと題して売られている軽食である。

 コングマンと不慮の決闘をしたせいなのか、フィオレの腹具合はそれなりに空いていた。

 しかし、港で見た光景もある。早めに帰ったほうがよかろうと、フィオレは自分の都合を後回しにしようとした。

 そこへ。

 

「フィオレさん、お腹空いたんですか?」

「まあ少し。でもそろそろ、船の準備もできている頃でしょうから」

 

 回れ右をしようとするフィオレに、スタンは少し考えるような素振りを見せてから彼女を引き止めた。

 

「ちょっと待ってて下さい」

 

 言うなり、SPバーガーの店舗に近づいて何事かを言う。彼は瞬く間にふたつの包みを手に入れて戻ってきた。

 

「道草がダメなら、食べながら戻りましょうよ。俺も腹減ったし、腹が減っては戦もできない、ってね」

 

 食べ歩きは苦手なので、やめておこうと思ったのだが……ここでそれを言っても無粋なだけだ。ありがたく、スタンの心意気を頂戴する。

 少しペースを落としながらも腹を満たして、互いの口の周りを確認し汚れを指摘しあった。そして、レンブラント邸へ戻る。

 風呂へ行っていた二人も客間へ戻ってきており、そこはかとなく血色が良い。

 

「お帰りー。こっちはいいお湯だったわよ」

「そうですか。今夜が楽しみです」

 

 買ってきた消耗品を道具袋に補充しつつ、フィリアが淹れてくれた茶をすする。そこへ。

 

「失礼致します。イレーヌ様より、港に来られたしとのことです」

「よし。行くぞ!」

 

 家政婦(メイド)の報告に、これまでシャルティエを手入れしていたリオンが立ち上がる。

 和気あいあいとおしゃべりに興じていた一同も、その言葉に顔を引き締めて頷きあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意気揚々と、フィオレも先ほどやってきた港にたどり着く。

 人の行き交う港を過ぎて波止場へと到着し、先ほどイレーヌを見た場所へやってくると、彼女は船長と思しき人間と何らかを話し合っていた。

 

「イレーヌ!」

 

 リオンの呼びかけに彼女はすんなり応じ、それまで話していた人物のもとを離れて一同のもとへと歩み寄ってきた。

 

「来たわね。呼び出しておいて、悪いのだけれど……」

「何か問題でもあるのか」

 

 イレーヌの表情は憂いが目立ち、その物言いもどことなく歯切れが悪い。何かトラブル発生かと尋ねるリオンに、彼女は言いにくそうにそれを告げた。

 

「船長が作戦に、どうしても同意してくれないの。正規の軍人が討伐するならともかく、客員剣士なんて軍人もどきの子供たちにそんなことができるものか、って……そんなことするなら闘技場チャンピオンを連れてこいなんて、無茶なことを」

 

 軍人もどきの子供たち、というくだりで、リオンの額に四つ角が浮かぶ。

 彼の堪忍袋が久々に切れそうになっていたため押し留めて、フィオレは自分で船長との交渉に向かおうとした。

 その時。

 

「チャンピオンのお通りだ! 全員ちゅうもーく!」

 

 どこかで聞いたような口上と共に、港に筋骨粒々の巨漢が姿を現した。どうやらこれは日常茶飯事とは違うらしく、港にたむろしていた人間たちは一様に唖然とした表情を浮かべて彼を見ている。

 一瞬にして注目の的となったマイティ・コングマンは何故か一直線に波止場へとやってきた。

 とりあえず、その威風堂々とした姿に怯んだフィリアを背中に隠す。

 そのまま一同のことになど気付かずに行水でも始めてくれればよかったのだが、世の中都合よく運ぶ事柄などは少ない。

 

「ぃよう! また会ったな、フィリアさんとその付き人娘!」

「……フィオレと申します。何か御用ですか?」

 

 何の皮肉だと思いきや、そういえば名乗ってなかったなあと思い出す。

 フィリアを背後にかばいつつ半眼でそれを問えば、彼は無意味なポージングを始めた。

 

「なーに、フィリアさんが困ってると聞きつけてなあ。いてもたってもいられず、はせ参じたわけだ」

「……ははぁん」

 

 とりあえず、フィリアが個人的に困りだしたのはコングマンが現われてからのことなのだが、その言い草でピンとくる。

 くるりときびすを返して、フィオレが向かったのはそれまでイレーヌと話をしていた船長だった。慌てたのはフィリアで、ちょこちょことフィオレの後をついてくる。

 やっと邪魔者がいなくなったということで喜色を浮かべていたコングマンは、彼女に話しかけようとしてか、そのままついてきた。

 

「それで、この筋肉達磨にいくら渡されたんです?」

「な、とんでもない! 私はただ、搭乗する戦闘員たちの詳細が先ほどチャンピオンといさかいを起こした一行とよく似ていたから知り合いに相談したんだ。多分そこからチャンピオンに話が流れたんじゃないかと……」

 

 どんな言い訳を聞かされようと、怪しいことこの上ない。

 フィオレから半眼の視線を向けられようと頑張っていた船長だったが、話の終わる頃には尻すぼみとなり、最後にはようやく本音を語った。

 

「……私は、マイティ・コングマンのファンなんだ。これまでチャンピオンとしての彼に群がる女など彼自身が払いのけてきたが、ようやくチャンピオン自身が女性に興味を……長年一人身だった彼にそろそろ潤いのある生活もいかがだろうかというところで、何なんだね君は。人の恋路に口出しする前に、自分はどうなんだ」

『むう……そこなタコ助に関する部分はおいといてじゃ。人の恋路に水差す奴は、馬に蹴られるのがオチじゃと昔から有名じゃぞ、フィオレ』

「超巨大なお世話です。その恋路とやらが一方通行なのだとしたら、実質的な危害が及ぶ前に力になるのが、友人として正しいあり方だと私は信じています」

 

 失礼なその言葉に、腹立ちをぐっと抑えて冷静に対処する。

 傍らでフィリアが「フィオレさん……」と胸打たれたように手を組み合わせているが、応ずるにあたらない。

 なぜなら、今すぐ彼女が嫌がるであろうことをしなければいけないからだ。

 

「それはさておき、おとりの船の出港に関しては、ここにチャンピオンがいるのですから出していただけますね」

「えっ!?」

「それはまったくかまわない。ただし、チャンピオンの乗船が条件だ。チャンピオンなら、たとえ武装船団が現われたとしてもきっと、守ってくれるからな」

 

 これには閉口して、リオンを招き寄せる。更にイレーヌも呼んで協議をした結果、コングマンにも事情を明かして助っ人として雇うことにした。

 報酬は、船に乗っている間フィリアと共にいられること。

 ただし彼女が望んだ場合は、第三者とも四六時中顔をつき合わせていなければならない。無論、フィリアはフィオレの傍を離れようとしなかった。

 そのため。

 

「潮風で髪の毛がべたべたしますわ……」

「やあ、それは大変ですねフィリアさん。何なら、俺様がその美しい髪を梳かして差し上げ「頭がまぶしいくせに乙女の髪を扱うなんて、無茶な申し出をしてきますね」

 

 フィオレが海上の監視を行う間も、二人はセットでくっついてくる。定期的にマストに登っては降りてくるを繰り返していたフィオレは、再び甲板に降り立った。

 

「おい、俺様とフィリアさんの愛の語らいに横槍入れてくるんじゃねえ」

「それのどこが愛の語らいなのですか。寝言はお眠りになってからどうぞ」

「はん。自分に縁がないから邪魔をする気か? もてない女はつれぇなあ!」

「なるほど。あなたは今までそうやって、他人の恋路をことごとく潰してきたんですね」

 

 自分に都合が悪いからといってそういった邪推をするのは、自分も同じようなことをしていると告白しているようなものだ。

 そんな疲れる会話を繰り返していた時。遠くで、何かが爆発する音が聞こえた。

 気付いた様子もなくうだうだ抜かすコングマンを無視して、甲板の先端へと駆け寄る。海上を見渡せば、近辺の海面に何かが飛び込んだような水柱が立ち上がった。

 これは──

 

「どうやらおいでになられたようですね。フィリア、皆に警告をお願いします!」

「は、はい!」

「フィリアさん、お供します!」

 

 純白の神官服姿と、むさ苦しい筋肉の塊が甲板から姿を消す。

 襲撃の気配に船員たちが色めき立つ中、フィオレはシルフィスティアに視界の拝借を頼んでいた。

 空気とは裏腹に穏やかな潮風に、視界を同調させる。少し視野を広げて全方位を見やれば……見つけた。

 武装船団と思われるは、計四隻。進行方向から来た船は、少しずつ進行位置を変えてきている。移動しようとする位置を予想すると……二隻はそのまま、残る一隻ずつはおとり船の左右から挟みこむような形で近寄ろうとしているのがわかった。

 となればまずは、敵船自体の無力化が先である。

 まずは宣戦布告とばかりに一発打ち込んできたらしく、続く砲撃はない。だが、おそらくすべての船に砲撃等の装備が積まれていることだろう。

 なら話は簡単だ。搭載されている火薬が濡れたら、それらは使い物にならない。

 舳先へ立ち上がり、両手を真下の海へかざす。集うの気配を感じ取りながら、フィオレは詠唱を始めた。

 

「穢れなき海原の乙女よ。そなたの清らかなる歌をもて、我が敵を水底へ沈めん──」

 

 フィオレの足元に譜陣が輝くが、周囲に変化はない。普段ならば幻想の海原が召喚されるところ、ここはすでに海だった。

 更に、フィオレは未だ視界を風に委ねたまま。術者が発動場所をやっとこさ認識できる程度なのだが、遠隔操作による譜術発動は、これまでフィオレが試してみたいと願っていたことだった。

 怪しむ人間が間近にいない今、試さない手はない。

 

「セイネレウス・タイダルウェイブ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十八夜——望まなかった再会・承

 ノイシュタット港~近海。乗り込んだ敵船の中で、まさかのガールズトーク(笑)



 

 

 

 

 

 

「待ってるだけってのも退屈だよな……」

「呑気なことを言ってられるのも奴らが襲ってこない間だけだ」

 

 一方で、船室にて襲撃を待つ一同はぐだぐだしているしかなかった。もしかしたら、相手にも罠であることを感づかれたかもしれない。

 暇に任せた後ろ向き思考によるそんな憶測をリオンが口にする頃、バタバタと廊下を駆ける音がする。

 続いて息を切らせたフィリアと、彼女を心配するコングマンの姿に一同も色めき立った。

 

「どうした?」

「襲撃です! 船の近くに砲撃されて、水平線の向こうに姿を現しましたわ!」

「あの女、フィリアさんを使いっぱしりにするなど……!」

 

 コングマンが違うところで怒りをあらわにしているが、それを気にするリオンではない。

 

「フィオレはどうしたんだ?」

「甲板に残って敵の動向を監視していますわ。わたくしには、皆さんに警告をと……」

「そうか。僕たちも行くぞ。フィリア、いざというとき詠唱ができないでは話にならん。水を一杯飲んで、一息ついてから来い」

 

 彼としては純粋に、戦いになってからのことを心配して言ったことだろう。

 フィオレが聞いていれば仲間の体調に気を使うリオンを見て、彼の成長ぶりを実感していたかもしれない。

 一同が甲板へ出ようと、階段を上がろうとしたその時。

 

「うわあああ!」

 

 何者かが、奇声を上げて階段を転がるように下りてくる。フィオレの健闘むなしく、敵の侵入を許してしまった──わけではない。

 なぜなら、その人物の正体は。

 

「……船長?」

「おい、何があったんだ」

 

 一同も顔を知る船長は腰を抜かしたような状態だった。これでは階段を下りるどころか、まともに歩行することも困難だろう。

 そんな彼の表情は、何というか──化け物でも見たような、表情だった。

 

「あ、あんたらの連れの……あの娘は一体、何者なんだ!?」

「何者って……」

「あいつが何かやらかしたのか?」

 

 リオンの問いに、船長は目を見開いたままがくがくと頷いた。

 

「やらかした、どころじゃない! あの娘は、まだ大砲すら届かない距離のある敵船に津波をけしかけたんだ!」

「……は?」

 

 あまりに荒唐無稽な話に、一同は口々にその可能性を否定する。しかし、ソーディアンたちはあえてノーコメントを貫いた。

 

「つまり……フィオレが怪しい手品を使って、相手の船を沈めたと言うのか?」

「沈めてはいないが、相手の船を海水漬けにして砲撃等の使用を不可能にした。まだ船の舳先に立って何かをしようとしてるんだ! 気味が悪い、早くやめさせてくれ!」

「やめさせろって、別にこの船を沈めようとしてるんじゃなくて、敵船に攻撃してるんだろ? なんでそんな……」

 

 スタンの呆れたような正論に、しかし船長は納得した様子を見せない。更に、こんなことまで言い出した。

 

「あんな眼帯をつけて、まさか魔眼ではないだろうな? 自由自在に津波を起こすなど、ローレライの化身か! どちらにせよ気味の悪い……まるで、かの有名な白椿姫ではないか」

「白椿姫?」

 

 これまでそんな単語は聞いたこともない一同代表、マリーがそれを尋ねる。すると船長は、まるで彼女に対する恐怖心を忘れようとするかのように語り始めた。

 

「し、知らんのか? 老婆のような白髪の、それが気にならんくらいの美女らしいんだが……男を篭絡することに長けていてな。噂によれば、あのオベロン社総帥のヒューゴ氏もその毒牙にかかり、その女を囲っているんだとか」

 

 いきなり見知った人間の名を出されて、スタンやフィリアなどはわかりやすいほどにドキマギしている。しかし、船長は気づいた様子もなく話を続けた。

 

「その美貌を利用して国王陛下まで騙しているんだとか、あの大将軍フィンレイ・ダグが誘いにのらなかったことを理由に殺したとか……いやはやとんでもない悪女だよ」

「……その悪女と、どうしてローレライが通じるんだ?」

「白椿姫は、奇妙な妖術まで使うらしい。何もないところから雷を落とすわ、瞬く間に怪我人を治しちまうとか……歌で他人を眠らせることもできるらしいな。そうやって殺した男の魂を集めるのが趣味なんだとか。もう人間じゃないんだろうよ、そこまで行くと。セインガルドは大丈夫なのかねえ?」

 

 彼は、リオンがどこの客員剣士なのか聞いていないのだろうか。あるいは今しがたの出来事が、聞いたはずの事柄を船長の脳裏から綺麗さっぱり拭ってしまったのかもしれない。

 とりあえず用事を思い出したらしい彼を放って、リオンはいち早く甲板へと上がった。

 

「あの、リオン……」

「妖術がどうのという話以外は、事実無根だ。少なくとも僕は知らない。言うまでもないことだが、あいつには洩らすなよ。女が不機嫌になると、総じて厄介だ」

 

 何かを言いかけるルーティにそう言い捨て、甲板を上がりきる。しかし一同の見た光景は、船長の驚愕がよくわかる光景そのものだった。

 

「天空を踊りし雨の友よ。我が敵をその眼で見据え、紫電の槌を振り下ろさん……」

 

 光で描かれた魔法陣を足元に展開させ、左の手を中空へ掲げたフィオレがその腕を振り下ろす。

 

「インディグネイト・ヴォルテックス!」

 

 魔法陣が消え失せ、随分近くまで来ていた敵船団付近に突如、稲光が生じた。

 敵船団は、すでに満身創痍と称するにふさわしい。突き出た砲門は一見被害がないように見えるも、使われていないことから何らかの障害が発生しているのが明白だ。

 すでに視認できる相手の甲板は、嵐にあった直後のようにずぶぬれで、魚さえ元気に跳ねていた。船長の言葉は、あながち間違いではなかったらしい。

 やがて、敵船付近で雷撃の乱舞が発生する。雷は敵船のマストを引き裂くものの、帆布に火が点くようなことはなかった。

 だらり、とありえない垂れ下がり方をしているあたり、ずぶぬれになっている──沈没していないのが奇跡なほどの規模の津波を受けたと解釈できる。

 それまで一同に背を向けていたフィオレが、くるりと振り向いた。額にうっすら汗をかいており、それなりの疲労が伺える。

 

「遅かったですね」

「お前が張り切りすぎなんだ。少しは待つということをだな……」

「待っていたら、この船が乗っ取られるだけでしたので」

 

 フィオレが示すものを見て、リオンが目を見張る。それは、甲板のいたるところに転がるレンズだった。

 その量たるや、ルーティが嬉々として拾い始めるのを、やめさせる心の余裕もない。

 

「何があったんですか?」

「もう少し接近するまでは待とうかと思っていましたが、あの旗艦を取り巻く船から鳥獣系の魔物が、他の魔物をぶら下げて襲撃してきましてね。手加減できませんでした」

 

 思い出したのは、飛行竜での惨劇だった。放置すれば、あの光景が繰り返される。

 余裕ぶって一同を待つことができず、取り巻きの船を沈めることを覚悟で全力攻撃を仕掛け、親玉がおそらく乗っているであろう旗艦だけは無力化のみにとどめた。

 結果として、幽霊船じみた三隻とそれを従えていた旗艦が眼前を漂っている。

 

「今船長に言付けました。これよりあの旗艦への接舷を試みます。これ以上やると沈めてしまうかもしれませんので、直接乗り込んで親玉を捕らえましょう」

 

 小さく息を乱して、これからの行動をすらすらと提唱する。

 普段ならば一同の不自然な態度に気付いて首を傾げただろうフィオレだったが、気付かないのか気にする余裕がないのか。それを追求することはなかった。

 

「なお、敵船内の移動中は私の代わりにコングマンに戦っていただきます。コングマンにはマリーと共に前衛を担当してもらい、スタンとリオン様にしんがりを勤めていただきましょう」

「ああ? なんで俺様がおめえの代わりなんぞ「あなたの後ろには常にフィリアが待機しています。あなたが手を抜けば、それだけ彼女を危険に晒すことになる」

「ご安心を、フィリアさん! ノイシュタットのチャンピオンであるこの俺様が、あなたを守ってみせましょう!」

 

 フィオレが戦わないと宣言した理由こそ、これまで一同が船長を相手にしていた間の時間にあるのだろう。

 そのことで、リオンが怠慢を指摘することはなかった。

 

「いいだろう。親玉と事を構えるまでには体力を回復させておけ」

「了解」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて船がゆるやかに動き出し、するすると旗艦の脇に密着する。船員の一人が渡し板をかけ、一同は素早く敵船へと乗り込んだ。

 乗り込んでみると、その船が受けた混乱具合がよくわかる。何しろマストや帆布の至る場所は焦げているのに、船内は水浸しなのだ。どんな嵐が来ようとも、こうなることはないだろう。

 予想以上に迎え撃ってくる船員も少なく、思い出したように魔物が飛びかかってくる程度である。

 そんな中、この男の活躍は大きかった。

 

「グレイトアッパァァァ! ロンブショルダァー!」

 

 フィオレとのストリートファイトでこの技を繰り出していれば、結果も違っただろうと思える技を次から次へと披露していく。

 素手による拳闘はマリーが行くより遥かに早く、そして交戦は終了した。一同は武器も構えずそのまま歩むことを余儀なくされている。

 

『ほっほ。流石はチャンピオンとまで呼ばれる男。豪快じゃのう』

『いやー、確かに。これはどっちかっていうとラッキーだったんじゃない?』

 

 クレメンテもシャルティエも勝手なことを言っているが、忘れてはならない事実がひとつ。

 

「そうですね。フィリア、ありがとう。あなたがこちらにいるおかげで、私たちは実に頼れる人材を味方につけたのですから」

「そうよねー。ねえ、真剣に考えてみた方がいいんじゃない? チャンピオンよチャンピオン。見かけも性格もあーだけど、お金は沢山持ってそうだし。なによりあんたにぞっこんだし」

 

 冗談交じりの言葉だったが、そんなルーティの言葉に対してもフィリアの表情は微妙の一言に尽きた。

 

「わたくしは……その。愛されることは確かに素敵なことですが、愛し愛されるのが恋愛の醍醐味だと文献にはありますわ。正式なお付き合いをするのなら、やはりそういった関係になってからでないと」

 

 もっともらしいことを言っているが、裏返すとコングマンのことを恋愛対象として見ることはできない、という意味になる。

 なんにせよ、恋愛は本人たちの自由だ。コングマンがフィリアにアプローチするのも、それをフィリアが拒絶しようと、不正解は存在しない。

 

「そうおっしゃるルーティさんは、いかがなんですか? どなたか気になるお方は……」

「あたし? あたしの恋人はガルドよ。ガルドを愛してるの!」

 

 明らかに冗談なのだが、彼女らしい。マリーも前衛に立つのは諦めたのか、いつの間にかにこにこしながら話を聞いている。

 男性二人はといえば、背後からの奇襲がないかと警戒しており、いつもなら呑気にくっちゃべってるんじゃないと怒る少年もそんな余裕はないらしい。

 

「マリーさんは?」

「私は……そういったことを思い出そうとすると、頭も胸も痛くなるんだ。きっと何かがあったんだと思う。だから、それがはっきりするまでそういった感情を覚えることはないだろう」

 

 記憶喪失である彼女にならば、ありうる話だと思う。

 普段は好奇心旺盛で、ふと気付くとどこぞでうろちょろしているマリーだが、女性としての魅力はパーティ随一だ。失ったのが忌むべき記憶でないことを願いたい。

 そして、話の流れから当然。フィオレにも、彼女は話を振ってきた。

 

「フィオレさんは、何か思い出しませんか? 殿方との、甘く切ない思い出などは……」

「私、バツイチです。だからそういうのは「えっ!」

『えええっ!』

 

 きっとそんな反応が返ってくるだろう。覚悟はしていたフィオレだが、予想の斜め上をいくような反応に少々戸惑った。

 何故なら、いち早く反応したのはスタン、次いでシャルティエだったからである。その反応の良さに、同じように驚いたであろう女性陣は固まっていた。

 

「……なんですか、その反応は」

「え、だって。バツイチってフィオレさん、結婚してたけど離婚したってことですよね……」

『その若さでバツイチって、政略結婚でもしたことあるの!? 相手が気に食わないから永遠にお別れしちゃったとか……!』

 

 永遠にお別れ。

 胸の奥に鋭い痛みを覚えながら、フィオレは違うことに腹を立てた。

 

「殺してません! 納得は、ちょっと、してもらえませんでしたが……なるようにしてそうなったというか、その」

 

 運命に立ち向かい、切り開くことができなかったから。そう言いかけて、不意によぎった懐かしい顔触れに想いを馳せる。

 たとえこの瞬間に帰ることができたとしても、堂々と会いにいくことはできない。姿をさらして会うことができなくても、一目元気な姿が見れればそれでいい。

 それでも一番見たい顔は、おそらく失われてしまっているのだろうけれど……

 

「その方のこと、あの……好き、だったのですか?」

「いいえ」

 

 考え事の最中に話しかけられ、フィオレは思い切り首を振った。

 

「愛していました。私が私である限り、身も心もその人のものでありたかったから」

 

 熱くなる頬、自然とほころぶ口元を俯いて両手で隠す。それでも隠しきれない色づいた耳を見て彼らが何を思ったのかはわからないが、一度灯してしまった想いだけはどうしようもなかった。

 ふと、フィリアが懐を探る。何を取り出したのかと思えば、彼女は数個のフラスコを取り出していた。

 そして。

 

「……わたくし、ちょっとあの船長を木っ端微塵にして参りますわ」

「はぁ!?」

 

 突如としてそんな宣言を初め、フィオレは目を点にせざるを得なかった。

 更に。

 

「いいわね。親玉とっ捕まえる前哨戦に、派手にやってきましょ」

『ルーティ……』

「止めるな、ディムロス。俺も行ってくる!」

『……もはや、何も言うまい』

「すぐに戻ってくるからな。フィオレは、ここにいてくれ」

「マリーまで……何を言っているんですか」

 

 ここまで来ておいて、彼らは何を言っているのだろうか。何故かそれに、比較的常識人たるソーディアンたちまで止めないとは。

 しかし、結果として船長木っ端微塵計画は未遂に終わった。

 

『坊ちゃん、僕たちも……』

「戯言はそこまでだ。お前ら、何のためにここまで来たのか忘れるんじゃない!」

 

 どうやら正気だったらしいリオンに一喝され、騒ぎは静まる。

 何のことだかわからずじまいだったフィオレだが、教えてくれない辺りに事情を悟ったのだろう。追求はしなかった。

 

「何をボーッとしてやがるんでぃ、おめえら!」

 

 ダミ声で怒鳴られ、ふと前方を見やる。そこでは戦闘続きのコングマンが、見事なタフネスぶりを披露して全戦全勝を納めていた。

 向かってきた魔物や人間は一掃されており、狭かった通路は見事に道が拓けている。気持ちを切り替え、労おうとしたフィオレがふと口を閉ざした。

 フィリアやスタンらしんがりの人間が眉をひそめるのも関わらず、フィリアの後ろへと回る。

 そして。

 

【お疲れ様です、コングマンさん。ここまでこれたのは、一重にあなたのおかげですわ。本当にありがとうございます】

「えっ!?」

 

 フィリアの声、口調を真似てしゃあしゃあと彼女の後ろから出てくる。一同は唖然としているものの、コングマンはまったく気にしていない。

 むしろ、それまで闘志をむきだしにしていた目には感激のあまりか、涙すら浮かんでいる。

 

「フィ、フィリアさんが、俺様に……」

 

 気持ちが言葉になっていないようだが、喜んでいるようなので問題ない。もちろん、声も口調も真似された本人は、くいくいとフィオレの袖を引っ張った。

 

「フィ、フィオレさん、先ほどといい、今といい、これは……」

「声帯模写です。ついさっきも披露したでしょう? 私のひそかな特技だったりします」

 

 しれっと流して、そのままフィリアの声で先を促す。

 新たな敵を見つけて、うおおと爆走するコングマンの背中を見送り、フィオレもまた悠々と歩き始めた。

 

「……びっくり箱みたいな人間よね、あんた」

「ならルーティは、塩と砂糖が間違われたケーキですかね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※フィオレは不名誉称号『×1』取得しました。


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第五十九夜——望まなかった再会・転〜重要参考人の確保

 ノイシュタット近辺海上、武装船団の親玉との対峙。親玉は、あの人でした。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コングマンという名の局地的人型台風の後に続いて、一同は旗艦の深奥へと進んできた。

 

「さて、そろそろ終着点が見えてもよさげですけど……」

「うらあ!」

 

 派手な音を立てて、コングマンが前方の扉を蹴破る。

 そこは船長室と思しき船室で、書斎机の上には世界儀、両隣には本棚が並び、壁には海図が張りつけられている。しかしそこはもぬけのカラ。誰一人として存在しない。

 隠れているのではなく本当に誰もいないらしく、気配も何もなかった。

 

「逃げられたか?」

『いや……部屋の隅を見ろ』

 

 面倒なことになった、と一同が動揺するよりも早く、ディムロスが部屋の違和感を示唆する。彼が示した先には奇妙な装置が存在を主張しており、不可思議な明滅を放っていた。

 

「あれは……」

『昇降機ね、おそらくは緊急脱出用の。上階に通じているんじゃないかしら』

「じゃあ、この上に親玉がいるんだな!」

『とっくに逃げ出していた、っていうオチじゃないといいんだけど……』

 

 試しに部屋の中にあった羽ペンを昇降機に放り込み、罠がないかを確かめてフィオレが乗る。アトワイトの言うとおり、確かに昇降操作用の突起があった。

 意気揚々と乗ろうとして、最後にコングマンが足をかけたその時。

 ぶー。

 

「誰でぃ、決戦前に屁なんぞこきやがったのは」

「重量オーバーっぽいですね」

 

 本気か冗談かもわからないコングマンの一言に反応せず、フィオレはため息をついた。

 考えてみれば、船長専用の緊急脱出装置だとするなら、それほどの過重には耐えられないはずだ。むしろ、六人も乗れたのは運がいいほうである。

 

「仕方がありません。コングマンには後で昇降機を使っていただきましょう。幸い、操作は難しくありませんし」

「ああ⁉︎ てめえ、オレ様を置き去りにする気【すみませんコングマンさん。ちょっとだけ、待っていてください】

 

 ぶつくさ呟くコングマンに、再びフィリアの声を使ってなだめて、一同はいよいよ上階へ移動することになった。

 

「今のブザーで、間違いなくこちらの存在に感付かれたでしょう。すぐ戦闘になっても対処できるようにしてください」

 

 右の手を昇降操作盤に這わせて、フィオレはそっとリオンに、正確にはシャルティエのコアクリスタルに手をかざした。

 

「──行きます」

 

 昇る突起を押し込み、すぐに集中を始める。シャルティエでは初の試みだったが、フィオレの所望した第二音素(セカンドフォニム)──大地の元素は確かに存在していた。

 

「母なる抱擁に、覚えるは安寧──」

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──

 

 ほんの僅かな時間、狭い昇降機の中で澄んだ旋律が震えて消える。その余韻が、完全に消えるよりも前に。

 

「──()ぇっ!」

 

 突如として爆音が響き、視界は煙幕じみた煙で充満する。

 多少の振動はあれども、一同が無事だったのはフィオレの【第二音素譜歌】不可侵の聖域(フォースフィールド・サンクチュアリ)が発動したからだ。

 無論のこと、相手がそれを知るはずがなく。

 

「何!?」

 

 煙が晴れて、譜歌の効果も消滅する。

 とりあえずわかったことは、今の砲撃で昇降機が壊れたこと、船内であるにも関わらず、可動式の砲台を向けられていたということだ。

 

「ルーティ!」

「わかったわ!」

 

 あれから練習したとかで、今では瞬時に真水を発生させることができるルーティが、フィオレの意図を汲み取ってアトワイトを掲げる。

 瞬く間に砲台は水浸しとなり、乱闘には邪魔な障害物と化した。

 対峙する先に、数人の部下を従えた相手を見る。その姿を認め、フィリアが驚きもあらわにその名を叫んだ。

 

「バティスタ!?」

「フィリアか……それに、フィオレか?」

 

 フィリアのものとは用途も様式も異なる、おそらくは防具の一種であろう眼鏡。武闘派修道士のまとう神官服に身を包んだ男が、そこに立っていた。

 

「おい。こいつは何者だ?」

「私の同僚だった司祭です。フィオレさんとも、その……面識があります」

 

 フィオレを発見した当時、その場にいたことを話すのをためらったフィリアが言葉を濁す。

 

「まさかお前が追ってくるとはな。大人しく石像になっていればよかったものを!」

「そうですね。殺さず石像にして、尚且つ放置してくれたことについては、礼を言わねばなりません。おかげで私は、もう一度彼女と会えた」

「フィオレさん……」

 

 石像、という単語で当時の恐怖を思い出したのか、フィリアの顔が僅かに引きつった。そのまま、不安定なまま戦闘になだれこまれても困る。

 そう判断したフィオレは話に割り込んだ。

 

「風の噂で、どこぞの国の客員剣士に成りやがったと聞いたが……まさかグズのフィリアと一緒になって現われるとはな。女同士で気色の悪いこった」

「……あなたは、神の眼の在り処や、フィリアの上司であったグレバムなる人間の行き先をご存知ですか?」

 

 フィリアに対する暴言は記憶に留めておくだけにして、最重要事項の確認にかかる。予想通り、バティスタから有益な情報は得られなかった。

 

「どこの誰かもわからなくて、途方に暮れた挙句神殿に寄生してた女が偉くなったもん「何か、勘違いしているみたいですね」

 

 鼻で笑った彼の挑発に、耳を傾けてやる義理などない。バティスタの声を掻き消し、フィオレは事務的に告げた。

 

「私が今まで何をしていたとか、あなたがどんな罵倒をしようが、それはどうでもいいことなんです。重要なのは、あなたが神の眼……ひいてはグレバムの潜伏場所を知っているか否か。今すぐその情報を提供するなら、見逃してあげてもかまいませんよ。あなたのような捨て駒如き、それ以上の用事はありませんから」

 

 ゆっくりと、幼子に話しかけるような調子でフィオレは淡々と話しかける。穏やかなその言葉の中にまぎれた挑発を、バティスタは聞き逃さなかった。

 

「ハッ、挑発のつもりかよ。捨て駒なんぞ言われて俺が怒り出すとでも……」

「ああ、ごめんなさい。間違えました。あなたは捨て駒ではなくて、雑魚でしたね」

「……なんだと?」

「釣り用語では外道とも言います。私たちの目的は神の眼……グレバムであって、それ以外はすべて雑魚、で分類しておりますので」

 

 表面上はあくまでにこやかな、しかしその唇から紡ぎ出される言の葉たちはひとつ残らず、バティスタの挑発及び侮辱の意味に使用されている。

 バティスタはそれまでの余裕をすべて放り出し、のほほんとしているフィオレを睨んだ。

 

「てめぇ……一度俺に勝ったくらいでいい気になってるんじゃ「雑魚に勝ったくらいでいい気になんてなれません。私、弱いものいじめは好きじゃないんですよ」

 

 朗らかな言葉の端々ではなく、全体から剣山のようなトゲが突き出てはバティスタに突き刺さる。もはや、挑発合戦の勝敗は火を見るよりも明らかだった。

 怒りのあまり顔色が変わっているバティスタは、それでも最後の抵抗とばかりに口を開いた。

 

「……お前らが知りてぇことなんざ、教える義理はねえ。俺に勝ったら教えてやるよ!」

「では、絶対にあなたを殺さないようにしなくてはいけませんね。難しいと思いますが、皆頑張りましょう。人間、手足の二、三本くらいなら、千切れても死にませんから」

「てめぇっ!」

 

 とどめとばかりに、フィオレが一同をわざとらしく見渡す。その隙をついてなのか、バティスタは一直線に彼女へと詰め寄った。

 その手にはいつか見た修練用のものではなく、鉄製と思われる鉤手甲が装着されている。フィオレがその攻撃に応戦するよりも先に。

 

「させない!」

「しゃしゃり出てくんじゃねえ、小僧!」

 

 マリーと共に突出したスタンが、バティスタの鉤爪を受け止める。二人がかりの攻撃をいなしながら、バティスタは鉤手甲でフィオレを指した。

 

「お前ら、そこの隻眼の女を殺れ! そいつさえ片付ければこっちのもんだ!」

 

 狭い船室の中、バティスタの指示を受けて各々の武器を構えた神官らしき格好の数人が、フィオレに殺到する。

 その目は例を漏れずして一様に血走っていた。レンズを飲み込んだ人間が有する、特徴のひとつである。

 あの眼鏡が邪魔でわからないが、おそらくバティスタもそうなのだろう。遠目から戦いぶりを確認するに、以前より明らかに身体能力が高い。

 フィオレに負けて以降、一層修練に励んでいたようだが、技のキレやら小手先の技術程度ならまだしも、根本的な身体能力はそう簡単に上がるものではない。

 

「アシッドレイ……」

 

 とうとう晶術まで使い始めた取り巻きの一人を、リオンがシャルティエで黙らせる。

 そのまま詠唱を始めた少年を守るように切り結べば、待ちかねた声が聞こえてきた。

 

『そそり立つは剣の山。串刺しとなりて己が罪を知れ!』

「グレイブ!」

 

 見計らったところで大きく後ろへ下がれば、それを追おうとした取り巻き数人が先端の尖った石柱に貫かれる。

 百舌のはやにえ状態で吊るされた仲間に取り巻きが気を取られている間に、現役客員剣士+見習いコンビは見事取り巻きらを片付けた。

 ──四対一ならばすぐに片付くと思っていたが。どうやらマリーもスタンも剣を持たない相手は勝手が違うらしく、大苦戦を強いられている。ルーティは二人を癒すので忙しいし、今のフィリアにマリーやスタンを巻き込まず、コンスタントに晶術を打ち込むのは難しい。

 すぐに救援に向かおうとしたところ、バティスタは彼らから間合いを取ったかと思うと指笛を鳴らした。ばたん、と扉が開いたかと思うと、先ほどと同じような面子の取り巻きがあっという間に押し寄せてくる。

 どれだけ人材が残っているのか知らないが、殲滅する気もなければ、取り巻き駆除に体力を費やす暇もない。

 

「獅子戦吼!」

 

 言葉もなく襲いかかってきた取り巻きらをまとめて吹き飛ばし、フィオレはそれまでバティスタと交戦していた面子を呼んだ。

 

「こちらをお願いします。くれぐれも、晶術は使わせないように」

「わかった」

 

 そのまま一直線にバティスタへと向かう。歪んだ笑みを浮かべて迎え撃つバティスタに、紫電を振るった。

 

「りゃあっ!」

 

 無論それを大人しく受けるバティスタではなく、鉤手甲の爪で防御される。

 押し合いなどする気は毛頭なかったフィオレがあっけなく飛び退ったその時、後方のリオンが詠唱を済ませていた。

 

『つぶては空を駆け、我が敵を殴打せん!』

「ストーンブラスト!」

 

 バティスタの頭ほどもある岩がばらばらと降り注ぐ。

 以前よりも遥かによくなっているフットワークと動体視力を生かして軽々と避けていくバティスタだったが、もとよりそれを直撃させるつもりなどリオンにはない。

 

「ふっ!」

 

 鼻歌すら歌いそうな勢いで華麗に避けていたバティスタの隙をついて、懐まで潜り込む。小回りの利く懐刀を取り出して一撃加えようと見せかけ、鉤手甲を絡めとった。

 

「何っ!?」

「もらいっ!」

 

 瞬時に抜刀した紫電が、バティスタの肩を貫いて翻る。

 そのまま足へ向かった紫電は、他ならぬフィオレの手で引き戻された。

 絡め取ったと思っていた鉤手甲はあっさりと見捨てられ、バティスタは素手で殴りかかってきたのだ。その一撃を紫電で防御する。

 相手は無手、こちらは刃物。当然、痛い目を見たのはバティスタだった。

 

「ちぃ!」

「浅はかな奴だな。そんなちゃちい手が、こいつに通用するか」

 

 リオンに罵られた挙句利き手に傷を負ったバティスタだったが、どこに隠し持っていたのか予備の鉤手甲を装備している。

 短刀を懐に戻し、紫電を正眼に構えた。

 バティスタとの対峙中、リオンがすり足でやってきたあたり、今度は接近戦における手数の多さで攻め込むつもりらしい。そんな彼を見て何を思ったのか、バティスタは口元に下卑た笑みを浮かべた。

 

「噂通り、男をたぶらかすのがうまいなあ。あっちの小僧も、もう食っちまったのか?」

 

 先ほどの挑発合戦で負けたのに根に持っているのか。彼は奇妙なことを口にし出した。

 この手の挑発は、相手にしないのが一番である。が。

 

「オベロン社総帥、セインガルド国王並びに大将軍、果てはファンダリアの第一王位継承者まで……大分知れ渡ってるぜ。お前の百戦錬磨ぶりはな」

「?」

 

 バティスタの言っている意味がわからず、フィオレは混乱した。

 これまで関わってきた権力者たち、という共通点を除いて何の脈絡もない。百戦錬磨というからには、フィオレが何かをしたと彼は暗喩しているようだが……

 

「刺突爪拳!」

 

 考え事をさせて気を散らす目的だったのだろう。繰り出された攻撃を前に、フィオレの疑問はすっかり消し飛んだ。

 繰り出された術技を受け流し、今度は真一文字に紫電を振るう。

 残念ながら、斬れたのはバティスタの神官服だけだった。

 そこへ。

 

「フィリア・ボム!」

 

 それまで取り巻きを相手にしていたはずの少女が、突如としてバティスタにフラスコを投げつける。

 初めて爆薬を自力で調合してから、大分威力を軽くさせたそれをフィリアはそう呼んではばからなかった。

 威力が軽くなったといっても、爆薬は爆薬である。フラスコが割れて中身が四散した直後、バティスタは成す術なく吹き飛んだ。

 更に。

 

「ファイアボール!」

「アイスニードル!」

「フィオレさんになんてことを言うんですの! 『雷よ、迸れ!』ライトニング!」

 

 とどめにはフィリアが放つライトニング。

 殺してはいけない、という前提のもと、全員が初歩の晶術を使っているが、バティスタは大分悲惨な様子になっている。

 しかし──見かけがそうでありながら、むっくり立ち上がって衣服の埃を払う辺り、まだまだ余裕があった。

 

「フィオレさんの侮辱は、わたくしが許しません!」

「大分こいつに感化されたみてぇだな、フィリア? 男だけじゃなくて女まで毒牙にかけちまうのか。とんだいんら「黙れと言っているのがわからないか。聖職者の皮を被った下衆が」

 

 しまいにはリオンまで加わる始末。

 何のやりとりをしているのか、まったくわからないフィオレは、己を貫くことにした。

 

「さて。今更ですが、他の船はとっくに潰してあります。今降伏するなら、これ以上危害は加えませんけど」

「どうだかな。危害は加えなくても、貞操の危険があるぜ」

 

 貞操の危険。

 その言葉を聞いて、フィオレは思い切り混乱した。

 

「て、貞操? 男性で、貞操……えっと、奥さんがいらっしゃるので?」

「とぼけてるつもりかよ。純情そうな顔しやがって、その見てくれでどれだけの男をだまくらかしたんだ? 白椿姫さんよ!」

 

 最後の一言に、フィオレは遅まきながらもバティスタの皮肉に満ちた言葉を思い出す。そして、これまで投げかけられていた言葉の真意を悟った。

 

『天使の金槌よ、彼の者を遊惰に誘え!』

「ピコハン!」

 

 固まりきった空気の中、仕事を忘れていなかったのがリオンである。

 玩具の槌がバティスタの脳天を直撃した瞬間、フィオレは紫電の鞘を手に取った。

 

「ぬがっ!」

 

 紫電の刃であれば、ぱっくりと顔面が割れていただろう。

 斬り上げるように走った鞘に顎を殴打され、ぐらりとバティスタの体が揺れる。隙だらけの胴体に刺突を放てば、鞘は見事鳩尾に突き刺さった。

 

「ぐぅっ……」

 

 どう、と倒れた身体が動き出す気配はない。

 勝利を収めたことを確認して振り返るも、一同は総じて気まずそうにしている。

 そんな彼らの様子に小さく嘆息して、フィオレは第一声を発した。

 

「さて。ふん縛りましょうか。あとフィリア。誰かと一緒にコングマン、連れてきてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※フィオレは不名誉称号『白椿姫』取得しました。


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第六十夜——望まなかった再会・結~凱旋

 ノイシュタット港~倉庫。
 バティスタをぶっ飛ばした挙句ふんじばったとはいえ、不名誉称号寄越された挙句セクハラされて黙ってはいられません。十六倍返し(水責め)です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 従来は積荷をまとめるための荒縄をスタンが見つけてきて、意識を飛ばしているバティスタの拘束を粛々と行う。

 その頃には階下で動かぬ昇降機を前に散々暴れていたコングマンも合流しており、フィオレはその間に汲んできた海水入りのバケツをひっくりかえした。

 瞬時に目を醒ましたバティスタはといえば、自分の状況を瞬時に理解して歯噛みしている。

 

「ちぃ、ぬかったわ!」

「さぁ、約束ですわ。グレバムはどこです!?」

 

 事前に彼が放った言葉の責任を取らせようと、フィリアが凄む。

 怖くも何ともないからか、あるいはもとよりその腹積もりだったのか、または状況が理解出来ていなかったのか。

 バティスタが放ったのは、フィオレの予想と特に変わらないものだった。

 

「グレバム? 誰だそりゃ? 知らねえなぁ?」

 

 フィオレが尋ねたのは神の眼の在り処、そしてグレバムの行き先だ。よって、グレバム自体を知らないと言い張るのはまず答えになっていない。

 はぐらかすつもりなのか何なのか知らないが、とにかくこういった不誠実な人間に縁のない彼らには効果があったようだ。

 

「なんだと!」

「そんな、約束が違います」

 

 スタンは憤り、フィリアは困惑する。

 純真な彼らをあざ笑うかのように、バティスタはふてぶてしく罵倒した。

 

「フィオレに感化された割には、甘ちゃんなままだな。約束ってのは、破るためにあるんだよ!」

 

 無茶苦茶な発言に、フィリアは返す言葉を持たない。

 フィオレであれば聞く価値もないと聞き流すところだが、彼女にそれができるかどうか。

 だが、フィリアが長くそれに囚われることはなかった。

 

「ふん、いい言葉を知ってるじゃないか。陸に戻ったらゆっくり尋問してやる。覚悟しておくんだな」

 

 バティスタの言を単なる強がりと取ったリオンがそれを宣告する。

 こういった場合、彼がコングマンばりのがっちりむっちり筋肉質、強面の巨漢だったらバティスタはさぞかし震え上がっただろう。だが、細面にして小柄な紅顔の美少年がそれを言っても、やはりあまり威力はなかった。

 

「ふん、ガキがいきがるなよ!」

「ふん。僕を甘く見ると痛い目をあうぞ」

 

 こんなことを言い返してしまう辺り、やっぱりお子ちゃまだとフィオレは思ってしまうのだが……言ったところでどうにかなることでもないだろう。本人がそうだと自覚しない限り、精神は成長しない。

 ともかく目的は果たした。

 バティスタを連れてノイシュタットへ戻ろうとして、ひと悶着を起こす。

 

「ん?」

 

 ふと、何かに気付いたらしいバティスタが突如、目を剥いて喚きだした。

 

「おい、てめえ、フィオレ!」

「今度は何ですか」

「お前、あのでっけえおっぱいどこにやっちまったんだよ!」

「ぶっ」

 

 吹き出したのは誰だろう。

 固まるフィオレには目もくれず、しかしフィオレの胸部をまじまじ見詰めながら、バティスタはのたまった。

 

「そんなに痩せたようにも見えねえし、無茶なダイエットが胸から痩せてくもんでも限度ってもんがあんだろ! まさか邪魔だからって切っちまったのか? なんつうことすんだよ、てめえは!」

 

 どうしよう。なんで怒られてるのかがわからない。

 場を惑わすための演技であるはずだ。それは間違いない。

 しかし、演技とすれば素晴らしく秀逸な、鬼気迫るバティスタの迫力にフィオレが押されている間にも、彼は勝手な思い込みで嘆いている。

 

「あんな立派なブツを……もったいねえ。まさかお前フィリアに惚れてモノにするために男になろうとして「それだけはありません。私はノーマルです。女の人に興味ないのでご安心を」

 

 顔を真っ赤しているフィリアにきっぱり否定することで百合疑惑を払拭する。

 これ以上不名誉で事実無根の思いこみをされる前にと、手を打った。

 

「あ? いや待てよ。そんなぺたんこ胸で一体どうやって男を誑か……」

「言いたいことはわかりました。あなたが欲求不満だということも。とりあえず、黙りましょうね」

 

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 第一音素譜歌を謡って、どうにか静かにさせる。

 何か言いたげな仲間達を黙殺し、フィオレは目についた積荷移動用の台車にバティスタを積み込むよう頼んだ。

 バティスタを載せた台車を押して、凱旋を果たす。知らせを聞いてなのか、フィッツガルド港にはイレーヌが一同の出迎えに来ていた。

 

「どうだ、イレーヌ。こいつが海賊の親玉だ」

「リオン君、ありがとう。みんなも、よく頑張ってくれたわね。なんてお礼を言ったらいいか……」

 

 台車の上でぐーすか眠りこけるバティスタにはほとんど目もくれず、イレーヌが一同の顔触れを見回してホッと一息つく。

 そこで、フィオレはとある不自然な態度に気がついた。

 彼女は一同の顔を見やるものの、コングマンの顔だけは見ていない。身長さがあるだけに、彼の顔を見るには見上げなければならないのだが、そんな動作は一切なかった。

 省略しただけかと思いきや、コングマンもイレーヌなど見ていない。イレーヌ同様チャンピオン凱旋の知らせを受けてか、早々に一同を離れて取り巻きたちと何やら会話をかわしている。

 何か確執があるのか、気になりはしたが。おそらくフィオレが気にしたところでどうにもなりはしない。

 

「へへ、そんな……」

 

 一方、年上のお姉さんから惜しみない賛辞を頂いてか、スタンが頬を緩めている。が、すぐに彼は眉を歪めて困ったように横を見やった。

 そこには、デレデレするなと言わんばかりにルーティがわき腹をつねっている。

 そんなやりとりに気付くことなく、リオンは極めて事務的にイレーヌへある要求をしていた。

 

「イレーヌ、お前の家の部屋をひとつ借りるぞ」

「別にいいけど、何をするつもりなの?」

「こいつの尋問だ。色々吐いてもらわねばならないからな」

「ちょっと待った」

 

 男一人を台車で運ぶのは目立つため、空の木箱を調達してきたフィオレがうずくまって寝入るバティスタにそれを被せる。

 ちょうどこれからのくだりを話していた会話に、フィオレは割って入った。

 

「なんだ」

「貸してもらうなら、部屋の一室じゃなくて街外れの倉庫とかにしてください。汚した時が面倒でしょう」

「……僕は尋問をするつもりなんだが。部屋が汚れるほどのことをするつもりは」

「じゃあ、バティスタが失禁したり脱糞したり嘔吐したりして部屋を汚した場合、リオン様が片付け掃除をしてくださるということでよろしいですね? 私はしたくないので」

 

 フィオレと名乗るよりも、過去のこと。

 軍籍に身を置き、汚れ役に身を徹していた際の経験から、情報スパイなどから尋問を試みても、なかなか吐かないのは当たり前のことだった。

 ただ吐かないならまだしも、尋問官の不快を誘うため、動けないなりに嫌がらせをすることは多い。

「わかった、吐く」と言って胃の中身をその場に垂れ流す。糞尿を垂れ流しては臭気攻撃。尋問官に掃除させて始終ニヤニヤしているなどと、常軌を逸した輩は多い。

 バティスタがそうでないことはもちろんフィオレも祈っていることだが、あの開き直り具合。そこまでの凶行に及ぶ可能性がなくはないのだ。

 大真面目な顔でそれを言われ、彼は黙りこくった後でオベロン社レンズ製品を納品しておく倉庫の空きはないかをイレーヌに打診している。

 彼女は苦笑を浮かべつつも、肯定した。

 

「ええ、いくつか。でも、そこを貸し出すならフィオレちゃんにお願いがあるの」

「私に? 何を」

「今すぐにとは言わないわ。時間ができたとき私の趣味に付き合って欲しいの。詳しいことは、そのときに話すわ」

 

 フィオレとしては今すぐにでもその呼び名を改めて欲しいのだが……まあ、そっちがそうならこちらもこう切り出すだけである。

 

「その時点で、私も何らかの見返りを要求すると思います。異論はないならば、ご随意に」

 

 未だ取り巻きや孤児たちに囲まれているコングマンを自然と置き去り、一同はイレーヌ先導のもと空き倉庫へと案内された。

 そこはノイシュタットの街外れに位置し、近くにはやはり倉庫らしい建物がただ整然と並んでいる。

 人気もなく物寂しい雰囲気の中、イレーヌがその中のひとつの扉を押し開けた。

 

「ここは、ついこの間まで輸送用レンズを溜めていた倉庫よ。今は使っていないから、汚しても大丈夫。……あまりそういうことはしてほしくないけど」

 

 だだっ広い倉庫には確かに備品らしい備品もなく、隅に空の木箱やら樽が転がっている程度である。

 イレーヌのお墨付きが出たところで、フィオレはさっそく台車の上の木箱を蹴飛ばした。

 

「どわぁっ!?」

 

 くぐもった悲鳴が、木箱が外れたことで鮮明に聞こえる。

 流石に今度は混乱したのか、しばらく周囲を見回していたバティスタだったが、一同を見るなりいきなり悪態をついた。

 

「言っとくが、何をしたって無駄だぜ。なにしろ、俺は何も知らないんだからな」

「本当に知らないかどうかは直にわかる。……フィオレ」

「マリー、ちょっと失礼しますね」

 

 凱旋の最中に行った打ち合わせの通り、フィオレはマリーへと近寄った。

 これまで取り出したこともなかった額冠(ティアラ)の操作盤をマリーの額冠(ティアラ)にかざす。

 

「綺麗な飾り、取るのか?」

「ちょっと、なんでマリーのだけ外すのよ。あたしのも外して!」

 

 操作盤のレンズに反応し、額冠(ティアラ)が音を立てて装着者を解放する。

 フィオレの手にある額冠(ティアラ)を名残惜しそうに見送るマリーとは正反対に、一部始終を眺めていたルーティが騒ぎ始めた。

 マリーにつけていた額冠(ティアラ)を受け取る傍ら、リオンは嘆息気味にルーティを示している。

 

「フィオレ、そいつを渡してやれ」

「リオン様、それは……」

「やった! フィオレ、それ貸して♪」

 

 それほど気をつけていなかったが故に、ルーティは半ばひったくるようにフィオレから操作盤を受け取った。

 瞬間。

 

「きゃああぁっ!?」

 

 操作盤を手に取った瞬間、額冠(ティアラ)から例の電撃が放たれる。

 はずみで取り落とした操作盤を、フィオレは間一髪で受け止めた。

 

「な、なんだぁ?」

「以前お伝えしたでしょう。自分で取ろうとすれば、致死量の電撃が発生すると」

 

 無理やり額冠(ティアラ)をつけられると同時にそんな光景を見せられ、バティスタは初めてうろたえた。

 

「な、何をつけやがった!」

「あの女と同じものだ」

 

 間髪いれず、リオンが自分の操作盤を取り出す。

 動作確認を兼ねてか操作すると、バティスタは奇声を上げて飛び上がった。

 まだ縛られているというのに、器用なものである。

 

「さて、ここから先はこちらで処理します。鍵の貸与を願えますか、イレーヌ女史?」

「わかったわ。あまり、無茶はしないようにね」

「皆も、ご苦労様でした。尋問はこちらで済ませておきますので、各自休憩をどうぞ」

 

 遠回しに人払いをするも、フィリアはバティスタの様子が気になるのか、なかなか出て行こうとしない。

 が、これからすることを考えるに同席を許可するわけにはいかなかった。

 よって。

 

「そうだフィリア。今回の出征で使った消耗品、買い足しておいてくれませんか? リオン様と一緒に」

「あ、でもわたくしは……」

「おい、どうしてそこで僕が出る。尋問はどうするんだ」

 

 無論のことフィリアは逆らおうとし、リオンも眉間に立て筋を刻む。だからと言ってフィオレも、自分が言ったことを曲げる気はない。

 

「さっきは私が買出ししてきたんです。それに、必要経費を入れた財布をフィリアに預けてもよろしいんですか?」

「……すぐに戻ってくる。くれぐれも、殺すなよ」

 

 音を立てて、倉庫の扉が閉まる。

 古めかしいレンズ式の照明が天井で揺れる中、倉庫はしぃん、と静まり返った。

 

「こ、この飾りで拷問する気か?」

「いいえ。あなたはグレバムのことは知らないんですよね。当然、その行き先も」

「はっ。知らねえなあ。まーったくもってわからんなあ!」

 

 バティスタは憎たらしい肯定を返してくる。

 正直なところ、フィオレはバティスタを尋問、あるいは拷問して情報を引き出そうと思っていない。

 非常に短い期間であったが、フィオレはバティスタとひとつ屋根の下──広い神殿内だが──共同生活をしている。従って、どんな人間かも多少は知っていた。

 単純な戦闘能力はさておき、僧兵として神殿に身を置いていた彼は曲りなりにも聖職者だった男。そこそこ我慢強く、それ故我が強く、己の意見は強く主張し曲げることは滅多にない、頑固者。

 従って、こちらの言うことに素直に従う姿もまた想像し難いし、正直バティスタに対してたとえ尋問でも労力なんか注ぎたくない。

 

「じゃあもう聞くことなんてありません」

「は?」

「私、あなたの声聞くのも割と嫌なんで」

 

 バティスタを搬送する際、ついでのように持ってきた台車に歩み寄る。

 大きなひとつの樽に入っているのは、何のことはない。港で汲んできた何の変哲もない海水だ。これから行う尋問によって気絶を免れないだろうバティスタを起こすための、気付け用の水。

 

「な、なんだ。何をするつもり「黙れ」

 

 樽内にたゆたう海水を左手で弄びながら、集中する。

 ばしゃん、と音を立てて、バティスタの声は途絶えた。

 後はぼこぼこと、気泡がひたすら水面に浮かんで割れる、そんな音だけしか響かない。

 現在バティスタの首から上は、彼の頭より一回り大きな水球に覆われていた。第四音素(フォースフォニム)──水に属するを直接操り、作成した水球をバティスタの頭に被せたのである。

 

「!? !?」

「よくもフィリアにあんな暴言吐き捨てやがったな」

 

 縛られたまま身悶えするバティスタを嫌そうに見やり、紫電の一閃で縄を切り裂いた。

 両手が解放されたバティスタは顔を覆う水球を剥がそうと顔面をかきむしるが、その手はひたすら水をかくだけ。

 水球を剥がすには、水そのものを飲み干すか、フィオレの集中を乱すか。どちらかしか手段はない。

 息継ぎ無しでこれを飲み干すのは至難の業、酸欠で苦しむバティスタに何かを考える余地はないだろう。やがて肺の中の空気を絞り出したか、悶えていたバティスタがぐったりし始めた。

 気泡の割れる音が途絶えたところで、集中するのをやめる。

 ばしゃんと音を立てて水球ははぜ割れ、バティスタを全身濡れ鼠にした。

 

「ゲホ……ゲェホッ、ガホッ!」

「人を売女呼ばわりしやがって。てめぇは何だってんだよ。商売女を下に見れる身分か、ああ?」

「ゲヘッ、ゲェッ」

 

 無防備な腹を踏みつけ、たっぷり飲んだ水を吐き出させる。水中毒による死亡事故防止のため、だ。

 流石鍛えていただけあって、バティスタはすぐに意識を取り戻した。

 自力で大体水を吐きだしたところで、息も絶え絶えなバティスタが何かを言おうとしている。

 

「て、てめぇ……」

 

 しかし、させない。

 同じ質問をえんえんと繰り返し、同じ苦痛を与える。それはもっとも効果がない、優しい尋問方法だ。同じ苦痛を与えられても人間の体は適応を知っている。いつしか同じ苦痛は感じなくなるようヒトの体は作られているのだ。

 ただし、フィオレの知る限り。呼吸をせき止められる苦しみは、その限りではない。

 

「黙れ、と言ったでしょう」

 

 樽の中の海水に触れて、再び水球を被せる。今度は覚悟していたようで、彼はぐっ、と息を止めた。

 そしてフィオレに掴みかかってきたが……呼吸のできない彼に後れを取るわけがなく。

 

「烈破掌!」

 

 大量の水を飲んで吐きだした直後という、ふらふらの状態で避けられるわけもない。

 あっさり吹き飛ばされて、壁に叩きつけられたことで、彼は頬の中に溜めていた空気を解放してしまった。

 

「! !」

 

 無言のパントマイムで何かを訴えているようだが、フィオレはそれを理解するつもりがない。

 黙っているからまあいいかと、フィオレは目をそらして再びバティスタが完全に動かなくなるまでを待つ。

 パントマイムを終えたのか、力尽きたのか。パタンと突っ伏すが、何か芝居臭い。ほったらかしておく。

 やがて大きめの気泡が割れる音がしたかと思うと、バティスタの体がびくびくと痙攣を始めた。

 水球を割って腹を踏むと、ぜいぜいと肩で息しつつ、思いだしたように水を吐く。

 

「──っ」

「そうそう。黙って大人しくしててください。で、リオン様の尋問にはちゃんと答えてください」

「こ「はいおかわりですねどうぞ」

 

 水球を作成し、その形を維持したまま、対象に固定させるのは何気に難しい。エネルギー源の水そのものも、大量に必要とする。非常に効率の悪い小技だ。

 例えば戦闘中にできることではないが、気が散るような要素もない倉庫の中なら、何とか繰り返せる。

 バティスタが何かしゃべろうとするたびに水球を被せ、ぐったりするまで放置、飲んだ水を吐き出させて、それを幾度か繰り返し。

 やがて、バタンと音を立てて倉庫の通用口が開いた。

 

「おい、ずいぶん静かだが殺していないだろうな?」

 

 現われたのは、荷袋を抱えたリオンである。

 その後ろでは、買い物袋を抱えたフィリアがおずおずと中を覗きこんでいた。

 

「見ての通り」

「何か吐いたか?」

「特には」

 

 水くらいしか。

 荷袋をフィオレに投げ渡し、つかつかとバティスタに歩み寄る。

 びしょ濡れではあるが一見無傷であるバティスタを見て、彼はただ問い詰めただけだとでも思ったのだろう。

 

「僕はフィオレのように甘くはないぞ。さあ、覚悟はいいか?」

 

 そして始まった不毛な尋問を横目に、フィオレはバティスタの悲鳴を聞いて身をすくませるフィリアの隣で消耗品の補充を始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十一夜——逃亡者の行く先は~月夜、ぼっちのさみしい逃避行


 ノイシュタットin倉庫。リオンがバティスタ拷問中now。
 家畜の悲鳴だって聞いていて気分のいいものじゃないのに、それが人間のものだったら尚更。精神汚染度半端なく高いです。
 ゲームがゲームなら、毎ターンSANチェック入りますね。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男の悶絶する声が木霊し、髪や人体の焦げる悪臭が倉庫内に漂い始める。

 やはり、イレーヌの家の一室を借りなくてよかった。あれだけ広い邸宅なら防音仕様の部屋のひとつやふたつ、あるだろうが、この悪臭だけはどうにもならないだろう。

 

「ぐぉぉぉぉぉ!」

「どうだ、吐く気になったか?」

「さ、さぁ、な……うぐぅぅ……」

 

 実際に行っていることは尋ねること、操作盤の単純操作しかないが、特殊な性癖を持たない人間に人の悲鳴や苦しむ様を見せられ続けるのは、予想以上に精神をすり減らす。

 当初こそ平然とした風を装って尋問していたリオンだったが、ここへきてすでに声色は、飽きにも似た疲労が漂っていた。

 

「我慢は身のためにならないぞ」

「知らないものは、知らな……ぐわぁぁぁ」

 

 一応緩急はつけているが、すべて同じ電撃の苦しみだ。バティスタ自身も、明らかにその痛みに慣れ始めている。

 さてそろそろかなと、フィオレはリオンの傍へと歩み寄った。

 

『フィオレ?』

 

 リオンが持つ操作盤に手を伸ばして、最大出力を設定する。額冠(ティアラ)はそのまま、操作盤の出力命令に応じた。

 

「ぐわあああっ!」

 

 そのままバタンとぶっ倒れるバティスタを見届け、操作盤の電源を落とす。

 当然彼は、振り払うようにしながらフィオレの行いを批判した。

 

「何をする!」

「これ以上続けたら壊れます」

 

 何が、とはあえて言わない。

 バティスタ本人もそうだが、それまで気になるから、という理由でその場に残ったフィリアも、聞きがたい悲鳴と耐えがたい悪臭によって意識を飛ばしている。

 何より、その様を直視し続けたリオンの精神も、確実に汚染されているだろう。

 

「そろそろ、同じことの繰り返しはやめましょう」

「だが……!」

「こちらに提案があります。まずは、外へ出ましょうか」

 

 フィリアを残し、リオンの腕を引いて倉庫を出る。無論、バティスタが確実に失神していることを確信してのことだ。

 倉庫の外へと出て、肺の空気を入れ替えるように深呼吸を繰り返す。リオンもまた一息ついて、じろりとフィオレを睨んだ。

 

「それで、提案とは何だ。くだらない内容なら、尋問を再開するぞ。今叩き起こせば意識が朦朧としているはずだから、大分吐きやすくなってるはずだ」

「仮にバティスタがグレバムの居場所を吐いたとしましょう。私たちはその場所へ向かうとして、バティスタはどうしますか?」

 

 尋問によって軽い興奮状態に陥っているのだろうか。

 鼻息荒く尋問の再開を主張するリオンに、フィオレはこれまでの懸念を告げた。

 

「イレーヌの部下を借りて、セインガルドへ連行……」

「あまり確実な方法ではありませんね。バティスタがここまで電撃に耐えることを考えると、あの額冠は護送中あまり役に立たないかもしれません」

『でも連れて行くわけにはいかないし、用済みだから殺すっていうのはフィリアから確実に反発がくる。じゃあ、どうするのさ?』

 

 考えていなかったのか、本気でそう思っていたのか。それはわからないが、少なくともシャルティエは、妥協してでもリオンの意見で押し通すつもりだったらしい。

 

「それはですね……」

 

 ほんの僅かに身をかがめ、リオンの耳元に囁きかけようとしたところ。彼は蜂を振り払う勢いで飛びのいた。

 

「?」

「な、なんだ。普通に話せ」

「誰が聞いているかもわからないのに、迂闊な真似はしませんよ」

 

 再び近寄ろうとするも、彼は警戒心もあらわにフィオレを近づけさせようとはしない。その様子はどこか、女性恐怖症であった彼を彷彿とさせた。

 

『では、シャルティエ。伝えてください』

『えー、面倒くさくない、それ?』

「……シャルを使うな、早く話せ」

 

 シャルティエを間に入れようかと企むも、まず張本人が面倒臭がっている。さてどうしたものかと沈黙したフィオレは、ふとあるものの存在を思い出した。

 それは、常に自分の指に装着してある銀環の存在である。

 これをリオンに身につけさせて念話を使えば、念話での意思疎通が可能となるのでは……

 ただ、フィオレの身につけている銀環を使うとなると、フィオレ自身チャネリングを発生させるのに一苦労しそうである。

 

「仕方ないですねえ……」

 

 腰の小袋を探って、あるものをつまみ出す。フィオレの指にひっかかっているのは、わずかに石竹色がかった銀環だった。

 地金には繊細な彫刻が施され、三日月型の台座を満月にせんとはめ込まれた緋い石が澄んだ輝きを静かに放っている。

 ──そう。銀環は、フィオレが現在身につけているものと同じ造詣だった。

 違うのは、地金に珍しい銀を用い、はめ込まれた石が同種の色違いということだけ。

 この指環もまた赤の他人同士で、チャネリングの使用を可能とすることだ。同時に、この指環をしている者同士は特殊な措置を経ずして、相互のチャネリングを可能とする。

 おもむろにリオンの手を取り、その細い指に銀環を滑り込ませた。

 

「これは、あのときの……!?」

『バティスタはともかく、フィリアや第三者が聞いている可能性が否定できません。少しの間だけですから、我慢してください』

 

 慣れない感覚により発生した頭痛にか、眉を歪ませるリオンの手を掴んだままようやっと、提案を話す。

 

『バティスタの処遇ですが、これ以上尋問を試みても不毛です。うまいこと発信機つきの額冠(ティアラ)を身につけさせたのですから、これを違う意味で活用しましょう。バティスタを逃がし、泳がせるのです』

「!」

 

 どうやら通じてはいるらしく、リオンがはっとしたように顔を上げる。それにフィオレは、小さく頷いた。

 

『今夜いっぱい、私はこの倉庫に張り付いていましょう。バティスタには自力で脱出したと錯覚させます。逃亡したバティスタはレーダーで悠々追跡すればいい。何か異論はありますか』

 

 リオンの指から銀環を抜き取り、首を傾げて見せる。最後の問いに対してだろう。リオンは肯定した。

 

「……そう、だな。わかった。お前の提案を採用する。ついては……それを寄越せ」

 

 リオンが指すのは、フィオレが回収した銀環である。

 それは何故かと問えば、彼は限りなく視線をそらしながらぼそぼそと呟いた。

 

「それがあれば……不測の事態に、連携が取りやすいだろう」

「今夜の件でしたら、心配は要りません。こちらで対処しておきますので、リオン様はお休みください。ちなみに」

 

 まだ何かを言い募ろうとするリオンに、にっこり笑ってクギを刺す。

 

「声無き声を聞くことはできるようですが、自分の意思を伝えるのはまた別です。そんなわけで貸与はしません。譲渡も無理です。今は囁かれるのが嫌だということで使いましたが、今後よほどのことのことがなければ使いませんからね」

 

 名残惜しげに、リオンはフィリアの手元を見ている。珍しく物欲をあらわにしたリオンを思ってか、シャルティエが横槍を入れてきた。

 

『えーっ、それはないよ。せっかくぼっちゃんが珍しくおねだりしたんだから、ほだされてくれてもいいじゃない』

「駄目ですよ。そんなのただの甘やかしではありませんか」

『うー……それじゃあ、交換条件は? 例えば坊ちゃんから借りができたら、とか一本取ったら、とか』

 

 食い下がるシャルティエの熱意に、普段なら戒めるリオンは何の反応もしていない。おそらくフィオレの肯定を待っているのだろう。

 その素直でない様子をついうっかり愛でそうになりながら、フィオレは小さく苦笑した。

 

「そうですね。では、リオンが私に勝ったら、ご褒美に譲渡するとの案を検討しておきましょう。最近実戦がとみに増えたから目に見えて上達はしてきましたが、まずは私の動きにしっかりついてきましょうね」

 

 旅の最中ではあるが、修練だけは欠かしていない。

 カルバレイスへ向かう折などは、二人の修練風景を見かけたスタンが「自分も混ぜてほしい」との申し出をフィオレが受け入れたりもしていた。

 もっとも、自分の扱う技を伝授するような真似はしていない。我流戦法の目立つスタンに剣術の基礎、それに基づく応用を教えるくらいだ。どうしても知りたければ欲しければ盗め、の一言で退けている。

 ならば早速、とばかりにシャルティエを構えたリオンを押し留めて、フィオレは倉庫内でくったりしていたフィリアを起こしにかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一端リオンやフィリアと共にレンブラント邸へと引き返し、身支度を整えたフィオレはこっそり舞い戻って倉庫の天井裏に潜んでいた。

 気絶していたバティスタが起き上がったのは、月が皓々と煌き始める真夜中のこと。

 雲ひとつない夜空のもと、明かり取りの窓から月光を浴びていたバティスタは、唐突にむっくりと起き上がった。しばらくぼうっとしていたものの、ブルブルッと身体を震わせる。

 

「くそ、あのガキめ。容赦ないな!」

 

 そんな悪態をついて自分の身体についた埃を落とし、脱出口はどこかにないかと探りだす。

 倉庫内をうろうろと歩いて、彼は片隅に置かれていた姿見を覗き込んだ。

 

「あーあ、せっかくの男前が台無しじゃねえか!」

 

 ──不覚にも噴き出すところだった。

 確かに髪は焦げてチリチリに、体のそこかしこの皮膚は焼け焦げているだろうが……果たしてそんなレベルの話だろうか。

 しかし。どうやらその認識は、フィオレの勘違いだったらしい。

 

「こんな髪飾り、外してやる」

 

 何と彼は、わしっとを掴んだのである。

 記憶力がないのか学習力がないのか両方ないのか、あるいは電撃の受けすぎで記憶を一部吹き飛ばしてしまったのか。

 あえなく、彼は悲鳴を上げた。

 

「のわぁ~っ!」

 

 何故だろう。電撃を流されるその姿は苦痛に満ちているのに、漫才を見ているような気分になる。

 大きな声で独り言を垂れ流しているあたりに理由があるのか。

 

「外そうとすると電撃が流れるってわけか……」

 

 彼はルーティの行動からまったく、何にも、これっぽちも学んでいなかったに違いない。

 そんな紆余曲折を経て、彼はようやくフィオレが望んだ行動を取った。

 

「くそったれがっ!!」

 

 怒りに任せて、倉庫の専用出入り口を蹴りつける。扉は抵抗するどころか、騒音と共に屋外へと転がった。

 

「お? しめた、古くて蝶番ごと吹き飛んだか」

 

 蝶番に着眼点を置いたのは褒めよう。だが、真実は違う。

 専用扉は外開きの鍵をかける種類だったため、単純に鍵をかけずにいれば怪しまれる。そこで、衝撃が加わればすぐに壊れるよう、蝶番に細工をしておいたのだ。

 むろんバティスタは、そんなことに気付いていない。彼は嬉々として、倉庫から飛び出した。

 さて、こうしてはいられない。

 ごそごそと這って、天井裏から倉庫の屋根へと出た。眼帯を外して、月光の仄明るい光源を頼りに後を尾ける。

 これでフィッツガルド内陸部に移動するようなら決戦は間近だったろうが、彼は一直線に港へと向かった。

 波止場に並ぶ船のうち、生意気にもレンズエンジンの搭載された最新型の小型船に乗り込み……操作方法がわからなかったのか、悪態をついて出てくる。

 しかし、もともとそういった知識があったのか。やはりレンズエンジンの搭載されている、最新型ではないが比較的新しい小型船に乗り込んだかと思うと、あっというまに港から離れてしまった。

 とにかくこれで、バティスタを自然に逃亡させることには成功した。

 よもやこれで囮役となったわけでもないだろう。

 任務遂行というわけで、フィオレはレンブラント邸へと戻ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十二夜——どんちゃん騒ぎは夢の後

 ノイシュタット、イレーヌ邸にて。
 全国のリオンファン、お待たせしました! 待望の、リオンデレッデレ回でーっす(笑)


 

 

 

 

 

 

 

 

 バティスタの逃亡を見届け、レンブラント邸へ戻る。

 しかし、もちろん邸宅の至るところには施錠がなされており、どこから侵入したものかとフィオレは頭を悩ませた。

 開錠そのものは、少し時間をかければどうにかなる。が、フィオレの開錠技術にはひとつの問題があった。

 それは、少しやり方を間違えると錠そのものを故障させてしまい、本来の鍵が使えなくなるという問題である。

 カルバレイスの神殿などでは別に壊したところで気にしなかったが、流石に協力者の家の鍵を破壊するのは、ためらわれる。

 修理費など請求されても文句は言えないし、好んでそんなものを引き受けたくなかった。

 

「──とうっ」

 

 とりあえず閉ざされていた門を乗り越え、庭へと侵入する。幸い、レンブラント邸には門番や番犬はおらず、楽々と侵入することができた。

 イレーヌの好意により、一同は二階の客室を個別に提供してもらっている。

 他の仲間を起こすのは気が引けるが、事情を知るリオンならばまあ、大丈夫だろう。

 邸宅周辺に生える樹木を登り、ベランダ伝いに一部屋ずつ窓際の寝台の中身を覗きにかかった。三つ目にして、ようやく黒髪の少年を見つける。

 正直ルーティとリオンの区別がつかず悩んだが、立てかけられていたソーディアンを見てどうにか判断がついた。

 しかし、こんなことなら自分にあてがわれた個室のベランダか窓の鍵を開けておけばよかったと今更思う。しかし、忘れてしまったものは仕方ない。

 コツコツ、と硝子を叩いて音を出すものの、リオンに反応はなかった。普段眠りの浅い彼にしては珍しいことだが、昼間のこともあって疲れているのだろう。

 マスターが就寝時の際は機能を一時的に停止し、睡眠と同じような状態に移行しているというソーディアン──シャルティエに念話を使った。

 

『シャルティエ。起きてください』

『……フィオレ?』

 

 幸い彼はすぐに目覚めたらしく、保護シャッターを開いてコアクリスタルを覗かせている。

 

『やあ、おかえり』

『ただいま戻りました。つきましては、リオン様に仔細をご報告差し上げたいのですが』

『ああ、起こせって? 時間かかると思うから、ちょっと待っててね』

 

 シャルティエの言葉を不思議に思いながら、とにかく起こしてもらおうと彼の奮闘ぶりを見学する。

 

『坊ちゃん、起きてください。坊ちゃん!』

 

 普段、シャルティエがこんな風に呼びかけることはない。そんなことをせずともリオンは早起きだし、眠っていたとしても異常を感知して目を覚ます事の方が多い。

 硝子をつつく音には気付かずとも、シャルティエの声はどうにか、彼の深層意識に届いたようだ。

 身じろぎをした後、ゆっくりとリオンは寝台から起き上がった。

 

『ベランダを開けてください。フィオレが帰ってきました』

 

 最悪の寝起きなのだろうか。やけに緩慢な動作で寝台から降り、ぼんやりとした目でシャルティエを見て、ベランダに視線を移す。

 佇むフィオレに驚いた様子もなく、彼は粛々と閂を外した。

 そして、ベランダの戸を開けてフィオレを招き入れる。

 

「!?」

「……さむい」

 

 てっきり開けるだけ開けてさっさと寝台に戻るかと思いきや、紳士だ。

 驚愕し、固まるフィオレの袖を引いて入室させる。このところ、触れるどころか接近も嫌がっていた彼がどういうことなのか。

 驚くべき事態はまだ終わらない。

 

「……リオン?」

「……」

 

 フィオレの袖を掴んで部屋に引き入れたかと思うと、彼はそのままフィオレにしがみついてきたのだ。抱きしめるのではなく、幼子がするようにしがみつく。

 寝ぼけて母親に甘える年齢まで退行しているのかと思ったが、確かリオンは母親そのものに甘えたことがないはずだ。そして彼の母に似ているのはマリアンで、フィオレではなかったはず。

 マリアンと間違えているのか、フィオレだとわかっているのか。

 どの道これでは、報告をしたところで夜が明けたら忘れられている可能性が高い。

 倉庫の天井裏に張り込んだせいで、体のあちこちが痛かったフィオレは報告を諦めて、さっさと休むことにした。

 

「起こして悪うございましたね。報告は明日にします。部屋に戻るので、離してくださいませんか」

「いやだ」

 

 即答。しかも、しがみつく腕に力がこもったような気がする。嘆息して、フィオレは初めて室内に特有の香りが漂っている事に気付いた。

 ヒューゴ氏との晩酌後に気付く、馥郁たる移り香……アルコールの匂い。

 

「リオン、あなた酔ってるんですか?」

『好きで飲んだわけじゃないよ。イレーヌが武装船団を壊滅させたお祝いー、ってことで夕飯豪華にしてくれたんだよね』

「はあ」

 

 とにかくこのままでは疲れると、リオンに腕を回して寝台に腰掛ける。彼は嬉々としてフィオレの膝の上に乗り込んだ。

 

「いいにおい……」

 

 そりゃそうだろう。天井裏に潜り込んで全体的に埃っぽいとはいえ、フィオレは香水を常用しているのだから。

 フィオレはそのままシャルティエの話に耳を傾けた。

 

「……それで?」

『うーん……完璧子供に戻ってるなあ。あ、それでね? なんか知らないけど倉庫での出来事、見てたみたいなんだよ。フィリアを除く全員』

「倉庫での……?」

『ほら、尋問ひと段落させて、君が坊ちゃんに指環をつけさせたでしょ。それをずっと握ってたじゃない』

 

 何となく人の気配を感じていたために行ったことだったが、確かに功を奏したらしい。しかしこれは、リオンにとっては災難なだけだっただろう。

 

『ルーティが面白がって問い詰めて、坊ちゃんは孤軍奮闘でその話題から逃げまくって。で、何故かそこから飲み比べに突入。ルーティは坊ちゃんを酔わせて口を軽くさせようとしたみたいだけど、自分も飲みまくったからね。結局二人して撃沈しちゃった』

 

 それでどうにか寝室へ戻り、夜中に起こされてこうなったというわけか。

 明日、二日酔いにならないことを祈る。

 

「さすが姉弟。似たもの同士ということですか」

『似たもの同士っていうか、同族嫌悪っていうか……ところでフィオレ』

 

 苦笑と共にそれを零せば、シャルティエは同意する素振りを見せてその件にクギを刺してきた。

 

『そのこと、黙っておいてよね。坊ちゃんなりの考えがあって、隠してるんだからさ』

「言われなくとも。それはいつか、リオン自身が明かさなければいけないことです。野暮な真似はしませんよ」

 

 気付けば膝の上で寝息を立てているリオンをそっと引き剥がしにかかる。

 しかし、浅かったようだ。ぱちりと目を開いて、恨みがましげにフィオレを見た。

 

「……行っちゃやだ」

「また私と同衾したいんですか?」

 

 からかい混じりにそれを告げるも、彼は何のためらいもなく頷いている。

 何をされるわけでもないだろうが……されたところで彼を半殺しの憂き目に合わせるだけだが、それでもフィオレの中にはためらいがあった。

 幼いという認識はあれど、少女に見紛う美少年であろうと、リオンが男であることに間違いはないのだ。そのことは、指導する立場の者としてしっかり把握している。

 

「私がマリアンでないことはわかっていますね?」

「そんなの、見ればわかる」

「……じゃあ、何で」

 

 こうなったらとことん問い詰める。答えられないなら、実力行使をするまでだ。

 ほんのりと頬を紅色に染めた少年は僅かに逡巡しながらも、それを口にした。

 

「……聞きたいことが、あるんだ」

「はい」

「フィオレが結婚したのは、どんな男だったんだ?」

 

 顔が眼に見えて強張る。それだけははっきりとわかった。絶句するフィオレに気付くことなく、リオンの質問は続く。

 

「その指環、結婚指環なのか? 相手と、自分の……だから渡せないのか?」

「違う!」

 

 そんなわけがない。本物は、とうの昔に手放したのだから。

 思いの他荒い声になってしまったことに自分で驚いて、フィオレは小さく咳払いをした。

 

「え、ええっと、どんな人か、って……そうですね」

 

 フィオレすら驚いたというのに、リオンが驚かない道理はない。

 シャルティエともども驚愕を隠さず視線だけは外さないリオンから眼をそらし、誤魔化すようにまくしたてた。

 

「優しくて、真っ直ぐで、強い信念を持った、正義感がとても強い人でした。でも同時に不器用な人でしたね。何かと誤解されやすかったので……」

『でもその指環、同じデザインだったよね。ペアリングなんじゃ』

「私は質問に答えました! もう寝ますから、じゃ!」

 

 顔が熱い。

 それ以上、過去のことに触れられるのがどうしても耐えられなかったフィオレは、顔を背けて立ち上がろうとした。

 もはやリオンが何を抜かそうと、聞く耳を持たない。彼を膝から降ろそうと腕に力を込め……リオンを一目見て、力が抜ける。

 紫闇の色持つ切れ長の瞳はこれ以上ないくらい潤み、あまつさえ目尻から一筋、二筋と透明な雫が零れている。

 端整な顔立ちをくしゃくしゃに歪めて、リオンはぽつりと呟いた。

 

「……行かないで」

「……!」

「傍に、いて」

 

 フィオレは動かない。

 蛇の王(バジリスク)に睨まれたが如く、蛇の頭髪を持つ伝説の魔獣(メデューサ)に魅入られたが如く、動けなかった。

 頷くべきではない。首を振って、拒否をし、部屋から出て行くべきだ。

 これ以上この少年とは親密にはならないと、自分に戒めたのだから。

 必ず訪れる別れに悲しむのは少年ではなく、フィオレ本人なのだから。

 するべきことはこれ以上ないくらいはっきりしている。それなのに。心の底からわきあがってくる、この感情は……

 かつて恋をした時さえも、こんな感情は知らない。抱いたことはない。無理やり似たような事例を探すなら、かつての弟子と接している時だろうか──

 

 かつて母になり損ねた彼女が、正式に抱くことのなかったこの感情。母性愛という名がついていることを、彼女はまだ知らない。

 女性が本能として備えているその感情に、理性が太刀打ちできるわけがなかった。

 

「……泣かないで」

 

 嗚咽を零す少年の頬をつたう涙を拭う。

 その顔を胸へ押し付けるように抱きしめて、あやした。

 

「傍にいます。ここにいますから」

 

 嗚咽の止まらない少年を抱きしめたまま寝台に横たわり、慈しみをこめて頭を撫でる。彼はフィオレをじっと見つめた後で、安心したように目を閉じた。

 まもなく、すぅすぅと健やかな寝息が聞こえてくる。その寝顔を見て、フィオレは心底から息をついた。

 

『さしものフィオレも、泣く子にはかなわない?』

『いや、焦りました。まさか泣かせてしまうとは……』

 

 涙の跡が残る頬を撫で、シャルティエのからかいが含まれたその言葉に苦笑する。

 そして、フィオレは唐突に我に返った。

 リオンが無事に寝付いたのはいいが、現在フィオレもシーツの中。彼と身体を密着させていることもあり、どうあってもリオンに気づかれず脱出は不可能だ。

 そのことは、シャルティエも腹が立つほど承知していたらしい。

 

『さ、どうやって戻る? いっそ坊ちゃんも連れてく?』

『……もういいです』

 

 諦めて、そのまま楽な姿勢になる。リオンはしがみついたまま、自分は腕を枕にするような形だ。

 

『あれ、ねえ、ホントに眠っちゃうの? 坊ちゃんの色香に負けて、がばっ! とかやったりしないの?』

『私に少年を襲うような性癖はありません。あなたの目の前で何をしろとおっしゃるのですか』

『いいんだよ、僕のことは気にしなくても。気にしてくれるのは、すごく嬉しいけどさ。そんな君にだったら、安心して坊ちゃんを任せられるよ』

『いや、任されても責任取れませんよ』

『大丈夫だよ、一発やっちゃえば何とでも……あ、いや。えーと、結ばれちゃえばオールオッケーだよこういうのは』

『何にもオッケーな要素がないです。動物じゃないんですから。仮に恋愛するなら、肉体ではなく精神的なものからお付き合いを始めるべきですよ』

 

 いつまでも小うるさいシャルティエのおしゃべりを聞き流し、眼をつむる。

 リオンの寝息は、どんな子守唄よりもフィオレに安心感を与えた。

 

『……フィオレはフィオレで、寝つきいいなあ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十三夜——予期せぬ休日~慌しい日常、穏やかな非日常

 ノイシュタットにて、継続待機という名の休暇中。イレーヌに付き従ってのお買い物。
 倉庫貸与の対価を体で支払うべきとする辺り、イレーヌもなかなかしたたかですね。
 どさくさに紛れて、アクアヴェイルという外国へ潜入するにあたって、下準備を。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フィオレの眼が再び開いたのは、日が昇ろうとしているその時だった。

 リオンやシャルティエが目覚めるよりも早く彼らの部屋を出て、邸宅中を歩き回り風呂場を拝借する。

 手早く汗や埃を落としてさっぱりしてから、フィオレは何食わぬ顔で自分にあてがわれた部屋へと戻った。

 これまで仲間たちに対して一度たりとも使っていない額冠(ティアラ)管理操作盤を取り出し、レーダーの起動を試みる。赤、青の信号を放つ額冠(ティアラ)はノイシュタット内にいるが、黄の信号を放つ額冠(ティアラ)は見当たらない。

 レーダーの範囲を広げると、黄の信号はフィッツガルド領海のど真ん中にある。

 それを確認した直後のこと。

 バタバタと騒がしく廊下を駆ける音がして、忙しなく扉が叩かれた。

 

「開いてます」

 

 その返答を聞くや否や、乱暴に扉が開かれる。立っていたのは、汗だくになったスタンだった。

 

「おはようございます。珍しく早起きですね、スタン」

「それどころじゃないです、バティスタが逃げました! さっきフィリアと一緒に食事の差し入れに行ったら、扉が壊れてて……」

「そうですね」

 

 この慌てようを見る限り、リオンは彼らにこのことを話していないらしい。それも仕方ないか。

 フィオレの徹底した冷静ぶりに、スタンが言葉もなく目をテンにしている。その彼を押し退けて廊下へ出ると、すぐそこでフィリアがルーティとマリーを前に困惑していた。

 

「まさかあんた、昔のよしみで逃がしたんじゃないでしょうね!?」

「そんな、私は何もしていませんわ……」

 

 最終的にはほとんど意識を飛ばしていた人間にそれは難しい。そのやりとりを目にして、誰よりも早くスタンが飛び出した。

 

「やめろよ、ルーティ。言いがかりだ!」

「あのね、スタン。あんたがフィリアの味方だってことはよーくわかったわ。でも世の中には白黒つけなきゃいけないこともあるの!」

 

 珍しくルーティが冷静だが、ほぼ当てずっぽな辺りが彼女らしい。

 盛大な仲間割れが勃発したその瞬間、ある意味でフィオレをホッとさせる声音が割り込んだ。

 

「なんだ、朝から騒々しいぞ」

 

 現われたのは、どこか不機嫌にも見えるリオンである。軽く頭を抑えているのは二日酔いの表れか。

 そういえば、ルーティもどこか気分が悪そうに見えないことはない。

 

「聞いてよ、バティスタが逃げたのよ! それで……」

 

 フィリアが逃がした、とでも断定する気だったのか、あるいは可能性を示唆するだけか。

 ともかく続く言葉は、あっさりとリオンに断ち切られた。

 

「ああ、うまくいったんだな。昨夜の首尾はどうだった」

「上々です」

 

 何の話をしているのか、尋ねるルーティにリオンにも提案した放流作戦の概要を伝える。

 彼女は納得した素振りを見せて、それからフィリアに頭を下げた。

 

「フィリア、ごめんね。早とちりしちゃって……」

「ルーティ、早とちり」

「あー、もう。先行ってるから!」

 

 事の起こりをイレーヌに報告する、と言ったからだろう。彼女はマリーを従えて足早に食堂へと向かった。

 それに続こうとして、スタンとフィリアが足を止めているのに気付く。

 

「さあ、俺たちも行かなきゃ……」

「……わたくし、駄目ですわね。ルーティさんに疑われるような行動をしているなんて」

 

 ポツリと零したフィリアの独白を、スタンが聞き逃すことをするはずもない。

 彼に任せておけばいいだろうと、フィオレは足を止めずにその場を去った。

 

「珍しいな。お前がフィリアを放置するなんて」

「守ってるだけじゃ、その人のためにはなりませんから」

 

 たとえスタンが何を言ったとしても、それが正しいかそうでないのかを判断するのはフィリアがすることだ。

 ただでさえ、彼女はフィオレが言った言葉を、鵜呑みにする傾向にある。考えるまでもないことだが、それは恐ろしく危険な兆候だ。フィオレは彼女に、何も考えない純真なだけの人間になってほしいなどとは思わない。

 食堂手前で、彼女たちが追いついてくるのを待つ。

 それを見て何を思ったのか、リオンもその場に留まった。

 

「バティスタは、どこへ逃げたと思う?」

「レーダーでは現在フィッツガルド領海のど真ん中にいますね。ここからならカルバレイスにも、アクアヴェイルにも、セインガルドにも、名も無き小さな孤島にだって行けます。目的地が定まらず闇雲に追いかけるのは危険かと」

 

 そんなことはもちろん彼もわかっているのだろう。小さく嘆息して、取り出した操作盤をちらりと見やった。

 

「しかし、そうなると時間が余るな……」

「では、行き当たりばったりで航海しまくりますか? ミントティーばかり飲むのは飽きますよ」

 

 暗に体質のことをつついてやれば、案の定機嫌を悪くしている。眉を歪めて沈黙するリオンに、昨晩のことを思い出さないようにしながら、フィオレは努めて平常に接した。

 

「最終的な決定権はあなたにあります。好きなだけ悩んでください」

「……言われるまでもない」

 

 やがてスタンに連れられたフィリアが合流し、ようやく食堂へと足を踏み入れる。

 ルーティたちから大体の話を聞いていたらしいイレーヌは、深刻そうな憂い顔をリオンへと向けた。

 

「港から、一隻の小型輸送船が行方知れずとなっているわ。おそらく、武装船団の親玉はそれで逃亡したのでしょうね」

「ああ、そうなる。奴に行き先がわかり次第、船を貸して欲しいんだが」

「でも、親玉といえど、もう武装船団そのものはないのよ? 一から立て直せるほどの組織力はないようだし……」

 

 そういえば、彼女には神の眼に関する事柄を一切伝えていない。

 バルックの時とは状況が違い過ぎたのだから仕方がないが、ここで略奪行為の再犯性が低いからといって断念するわけにはいかない。

 

「そうもいかないんだ。あの男を野放しにすれば、神の眼の行方が永遠にわからなくなる」

「え?」

「話せば長くなりますが、少し前に神の眼が略奪されました。彼は略奪した組織の一員です。私たちはセインガルド王の密命によりそれを追って、ここまで来ました」

 

 神の眼に関する知識、その存在はイレーヌも教養の一環として存じていたことらしい。彼女は激昂したように立ち上がった。

 

「なんですって? 聞いていないわ!」

「俺たちは、奴らから神の眼を取り戻さなきゃならないんです。お願いします」

 

 スタンの懇願を聞き、リオンから滅多に聞けない台詞──「頼む」と駄目押しされて、イレーヌは小さく唸っている。

 

「……どこに逃げたのかは、わかっているの?」

「まだわからないが、アクアヴェイルである可能性も否定はできない」

「アクアヴェイル以外ならば、何の問題もないわ。でも、もしもあの国だったら……」

 

 柳眉を歪めて不吉な予感を口にするイレーヌ、辛抱強く彼女からの協力を取り付けようとするリオン。

 緊迫した空気の中、ちょいちょいとフィオレの肩をつついたのはスタンだった。

 

「アクアヴェイルって、そんなに危険なところなんですか?」

「セインガルドとは敵対関係にあります。私たちが使っていた船はセインガルド国籍ですから、運が悪ければ海軍に索敵され、領海侵犯とみなされ、問答無用で沈められるでしょうね」

 

 密かな質問に答えている最中に、リオンはイレーヌからどうにか承諾を取り付けた。

 

「もしもアクアヴェイルに逃げ込まれたら、送ることしかできないわ。本国へ戻る手段は、用意してあげられない」

「覚悟の上だ」

「とにかく、アクアヴェイルが絡んでいないことを祈るばかりだわ……」

 

 すとん、と力が抜けたようにイレーヌは椅子に座り込んでいる。残っていた報告書にざっと目を通して、彼女はふとフィオレを見やった。

 

「そうそう。倉庫を貸した交換条件に、フィオレちゃんには沢山付き合ってもらおっと」

「……その、ちゃん付けはどうにかなりませんかね」

「無駄だな。できるなら、とっくの昔に僕が実行している」

 

 気分を入れ替えるようにイレーヌの一言で朝食が始まり、フィオレは出された紅茶を一口飲んだ。

 蜂蜜とバターが添えられたパンケーキを切り分け、口へ運ぶ。出来立てであることがよくわかる、美味しさだった。

 

「それで、私は何をすればいいんですか? 趣味に付き合うとか何とか……」

「それは後でのお楽しみ♪」

 

 そう言って微笑むイレーヌだったが、何故か背筋に寒気が走る。その直感が正しいものだったとフィオレが知ったのは、そう遠くもない未来だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食後少ししてから、イレーヌに連れられノイシュタットの街を歩く。

 てっきり、以前来たときと同じように孤児の子供たちと触れ合うか、あるいは彼らに『隻眼の歌姫』として接してほしいとでも抜かすかと思っていたのだが、どうも違うらしい。

 なぜなら二人は今、間違いなく富裕層向けの通りを歩いているのだから。当然周囲は富裕層の人間たちばかり。

 

「ねえ、フィオレちゃん。お仕事用の制服じゃなくて、もっと女の子らしい服は無いの? 何なら私のを……」

「いや、いいです、持ってますんで」

 

 その中で、制服を嫌がられて普段着着用でイレーヌについてきたフィオレはかなり浮いていた。

 被服の生地に関してならば問題ないが、何せ一切の装飾品もなければ化粧の類もしていないのだ。

 だからといって、フィオレが気にしなければいけないのはただひとつしかないのだが。

 

「で、どこへ行こうと言うのですか?」

「ここよ」

 

 イレーヌが示したのは、年頃の娘たちが行き交う大型の服飾店である。

 行きつけなのか、イレーヌは慣れた様子で入店すると接客に来た店員へ何事かを告げた。店員は彼女から手渡された何かを預かると、「ではこちらへ」と戸惑うフィオレをも連れて奥へと案内する。

 通されたのは、イレーヌによって預かったカードキーによって入室可となった一般客が立ち入れないスペースで、見渡す限り大量の被服が並んでいた。

 女性物ばかりでなく、ありとあらゆる年齢向けの被服がずらりと揃えてあるのは、かなりの圧巻である。

 

「こ……ここは?」

「会員とその連れだけが立ち入り可の、ゲストルームよ。ここは一般生産品も、一流の服飾師が手がけた一点ものも揃えていてね」

「まさか趣味とは買い物で、私はそのお手伝い……?」

「正解♪ さ、これ持ってついてきて」

 

 彼女がフィオレに押し付けてきたのは、巨大なカゴでもバスケットでもない。布をかければそのまま衝立になりそうな、可動式の洋服かけである。

 そして──フィオレが再び日の目を見たのは、落ちゆくノイシュタットの夕日であった。

 ほぼ一日を彼女の買い物に費やしたことになる。

 あれからイレーヌは広いゲストルームをさんざん歩き回り、フィオレの常識からは考えられないほどの被服を選んでは確保していった。

 更に、ようやく歩き回るのをやめたと思えばゲストルームの片隅へと連れて行かれ、試着室を指差し「さ、試着してみて」などと言い出したのである。

 

「ご自分で着てみればよろしいではありませんか」

「それだと後姿とかが、わからないじゃない」

 

 そんなもの鏡で確かめればいいものを、歩く姿なども見たいとゴネる始末。

 彼女が選んだ被服すべてに袖を通し、それで厳選したものを更に彼女自身が試着を続けていたため、ここまで時間を浪費したのだと思われる。

 ただし、フィオレとて唯々諾々と従っていたわけではない。その証拠として、フィオレはイレーヌの戦利品とは別の包みを携えていた。

 きっかけはほんの些細なもの。

 購入衣装選びにげんなりしていた際、フィオレはふとある被服一式に目をとめていた。

 

「これは……」

 

 ハンガーを用いず、木彫りの人型へ着せるように展示されているそれは、セインガルドやカルバレイスとはまったく異なった趣にして異彩を放っている。正確には、ハンガーにかけられる代物ではない。

 慣れない人間が着用すれば、たちまち日常生活に支障をきたすだろう袂を備えた小袖。

 どのような体型の人間だろうと着こなせるよう腰紐で調節する類の袴。

 それらを剥がせば、細々とした小物の装着も余儀なくされるだろう。

 フィオレ本来の出身地の関係で非常に親しみ深い、俗に和装と呼ばれる特殊衣装。

 

「アクアヴェイル地方の民族衣装を参考にアレンジしたものね。デザイナーは……知らない人だわ。新人さんかしら?」

 

 取り付けられたタグを見て首を傾げるイレーヌを他所に、フィオレはとある部分に注目していた。

 アクアヴェイルなる地方が島国密集地域であること、現在のセインガルドとは冷戦に等しい状況下であることはすでに承知している。

 諸外国と距離が開いていることから、風土も文化も多少は異なるだろうということも予想はしていた。

 しかし、アレンジした民族衣装がこれとは。

 自分の額冠(ティアラ)操作盤でバティスタの行方がアクアヴェイル寄りになっていることを知ったフィオレは、その時点で逃亡先はかの地方ではないかという予想を立てていた。これでは潜入した際、今の格好がかなり悪目立ちするかもしれない。

 表向きは陳列用木彫り人形を見つめ続けるフィオレに何を思ったのか、イレーヌはその肩をぽん、と叩いた。

 

「ああ、すみません。次は……」

「フィオレちゃん。それが欲しいの?」

「へ?」

 

 視線を木彫り人形に張りつけていたことに気付いたフィオレは、慌てて首を振った。

 

「いえ、ちょっと考え事を……」

「そうならそうと言ってくれればいいのに。私の趣味に付き合ってくれたんですもの、お礼に一着プレゼントしてあげる♪」

 

 駄目だこの人、聞いてない。

 あれよあれよという間に店員を呼びつけ、木彫りの人型を丸裸にしてしまう。一応着てみろと渡され、フィオレは促されるままに袖を通した。

 

「ところでフィオレちゃん、着方はわかる? 私も一度試してみたことがあるんだけど、手順がややこしくて挫折したことが……」

 

 カーテンを開いて、イレーヌに姿を見せる。

 彼女は口を閉じてフィオレを上から下までじっくり見た後で、ほう、と嘆息を零した。

 

「そっか、着たことがあるのね。それにしてもうらやましいわ。フィオレちゃん、どんな服でも着こなしちゃうから……」

「イレーヌさんの見立てが、それだけ優れているということなのだと思いますよ」

 

 その一言に原因があるのか否かはわからないが、とにかく彼女の買い物は続いた。

 その購入物はあまりにも量が多く、店の保有する馬車を借りなければ帰れないほどである。

 包まれた被服を馬車へ積み、ほくほく笑顔のイレーヌと共に馬車へ乗り込み、数名の店員から見送られ。

 フィオレは向かいに座るイレーヌに尋ねた。

 

「それにしても、どうしてこんなに服ばっかり買い込むんです? 体がいくつあっても足りないでしょう。買い物が趣味なら食料品買ったって……」

「あら、そんなことないわ。衣装はいくつあっても嬉しいものよ。それに、私の趣味は買い物じゃなくてデザイナーの作品を見ることなの。買っているのは、気に入ったからよ」

 

 確かに彼女が購入したのは、日常生活用の平服も、どこの式典に出る予定なのだと尋ねたくなるほどの豪奢な礼服も、大量生産品ではなく一点ものばかりだった気がする。

 だから服だけではなくて、小物や装飾品も折を見てよく買うのだと、彼女はしれっと言ってのけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十四夜——休日は終わらない。なんて素敵な(ハズの)一言

 続・ノイシュタット。今度は皆でお出かけを。
 倉庫をまるまるひとつ貸してもらったことで、フィオレはイレーヌの着せ替え人形を甘んじて受け入れています。
 そんなわけで、フィオレは二度目のドレスアップ回(笑)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バティスタの位置を示す発信機は、相変わらずアクアヴェイルへ向かっている。

 イレーヌと共にレンブラント邸へと戻ったフィオレはリオンとの協議の末、これ以上軌道が変わらないようならばアクアヴェイルへの出征を彼女に提案することを決定した。

 

「そんなわけだ。イレーヌの機嫌を取ってこい」

「これ以上何をやれとおっしゃるのですか。明日はあなたが頑張ってくださいよ」

 

 協議を終えたフィオレが疲れた、と主張するように長椅子へ身を横たえる。

 咎められるかと思ったが、そこから昨夜の出来事を穿り返されると思ったのか。リオンはそれを横目で見ただけで何を言うこともなかった。

 

「僕に何をやれというんだ。女同士、何をすればイレーヌが喜ぶかくらいは想像できるだろう」

「明日は子供たちに配るんだって、焼き菓子作ってたみたいですから。そのお手伝いに行ってくればいいでしょう。ついでに子供同士、遊んでらっしゃいな」

「いきなりそんなことを言い出したら怪しまれるだろうが。あと僕は子供じゃない」

「私がやったって怪しまれますって。機嫌取りなんて下心携えていれば余計に。大丈夫、十分子供ですよ。そうやってムキになるあたりが」

「お前はイレーヌと知り合って日が浅いんだ。子供好きを装えば不自然さは隠せる。現にここの子供と顔見知りなんだろう? 僕とそう変わらないくせに大人ぶるな。そっちのほうが子供じゃないか」

「子供は嫌いです。あなたのようなひねくれているのは余計に」

「……喧嘩売ってるのか」

「おや、ようやくひねくれていることを自覚し始めましたか。大変よろしい傾向です」

 

 無言でシャルティエを手にしたリオンを見やり、フィオレも軽やかに起き上がる。

 視線を張りつけたまま同じように各々の得物を掴む二人を交互に見て、イレーヌは大仰なため息をついた。

 

「二人とも。そういう悪巧みは、私がいないところでするものじゃないかしら……」

「まあそんなわけですから。明後日には出港できるように手配してほしいのですが」

 

 二人が協議をしていたのはどちらかにあてがわれている私室などではなく、他のメンバーも集う広間である。

 夕餉を終えた食後のこと、ふとフィオレがバティスタの動向について切り出した。全員に通達するついでのように、こんな話の流れが出来上がったのである。

 

「つ……つまり、アクアヴェイルへ行くことは確定なんですか?」

「発信機から考えられる移動速度を考えると、明日の夕日が沈む頃、彼はアクアヴェイル入りします。今から進行方向が変われば、話は別ですが……可能性は低いでしょうね」

 

 食後に出されたデザートを食べていたスタンの質問に答えつつ、フィオレは占領していた長椅子から立ち上がった。

 その最中にも、剣呑な表情を浮かべるリオンから眼を離していない。

 

「それでどうなんだ、イレーヌ。どうしても嫌だと言うなら、陛下の勅命状かそれに準ずるものをこいつに取りに行かせる必要があるんだが」

「わかった、わかったわ。だからそんな無茶は言わないで頂戴」

 

 ノイシュタットからダリルシェイド間には定期船が出ているとはいえ、実際にそんなことをすれば、かなりの時間のロスになる。

 だが、時間のロスを気にしてここまで使ってきたセインガルド船籍の船を使うほど、リオンは愚かではない。

 それがわかっていてのことだろう。イレーヌは両手を挙げて降参でもするかのように頷いた。

 内心でほっと息をついたフィオレではあったが……次なる一言に、再び背筋に寒気が走る。

 

「そ・の・か・わ・り。今度は皆にお願いがあるの♪」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。イレーヌから提示された条件とは、「みんなで出かけないか」ということだった。

 詳細としては、闘技場観戦や公園まで出張っての花見など、一同の気分転換には最適な内容である。

 昨日彼女の趣味に付き合ったフィオレの様子から不安になっていた一同は、胸を撫で下ろして玄関へと集合した。

 ところが。

 

「あれ? フィオレがいないわね。どうしたのかしら」

「あいつなら、さっきイレーヌに引っ張られてどこかの部屋に……」

「お待たせ~」

 

 薄情なリオンが彼女の行方を知らせるより先に、上機嫌なイレーヌが玄関に現われた。

 にこにこ笑顔のイレーヌは階段を下りようとして、くるりと後ろを向く。

 

「そう恥ずかしがらないで、すっごく似合ってるから」

「あの、そういう問題じゃないんですけど……」

 

 階段の暗がりから、フィオレの声がした。

 それに構うことなく、イレーヌは後ろから押すように、彼女と共に階段を下りる。

 そして現われたのは──

 

「イレーヌさん、押さないで。足元が安定しなくて危な……」

 

 布製の段々──フリルが幾重にも施された裾が翻る。

 露草色を基調とし、たっぷりとした袖に細かなレースがふんだんにあしらわれた意匠のドレスをまとったフィオレが、よろめきながら現われた。

 普段は無造作にまとめられている髪はイレーヌによって形よく結い上げられ、両腕は無骨な手甲でなく柔らかな絹の手袋で覆われている。

 首周りこそきちりと覆われているが、まるでその場所で布地を使い果たしたかのように背中はむきだしだ。

 ──殻を剥かれた甲殻類の気持ちがわかるような気がする。

 耳たぶには星型のイヤリングが揺れ、更に眼帯がまるでお洒落のためにつけているかのような派手なものへと変化している。

 自分の化粧技術でどのような傷があろうと隠してみせる、と息巻くイレーヌをなだめるのに飽きたフィオレが「そろそろ怒っていいですよね?」と脅しをかけ、急遽彼女が用意したのがこれだ。

 だからといって、履き慣れないハイヒールの着用を許してしまったのは失敗だったかもしれない。

 

「あっ」

 

 咄嗟に突き出した足の先に段はなく、見事に踏み外す。

 こりゃやばい、と咄嗟に身を固くしたフィオレは、次の瞬間誰かに抱き留められた。

 

「だ、大丈夫ですか?」

「ええ。ありがとうございます」

 

 見上げれば、空色の瞳がフィオレを見下ろしている。にこ、と微笑んで一歩後ろへ下がると、彼もまた三歩ほど距離を取った。

 その顔が色づいていることに頓着しないまま、無意識に絹の手袋の位置を整える。

 

「素敵ですわ、フィオレさん!」

「……どうも。私はこの格好のせいで、階段から転がり落ちるところだったのですがね」

「フィリアさんもそう思うでしょ? 一度会った時からお人形さんみたいな子だったから、一度着飾った姿を見たくて!」

 

 等身大木彫り人形の着せ替えでもしていればいい。

 きゃいきゃいはしゃぐ彼女らを見て、フィオレは本気でそう思った。

 

「うーん……でもこれは確かに。美人局(つつもたせ)とかやったらうまくいきそうね!」

『男役がいないじゃない。あなたがやるの?』

「似合ってるぞ、フィオレ」

 

 ルーティたちは内輪もめを始め、マリーは興味津々にフィオレが身につけている小物の観察を始めている。

 男性陣はといえば、実に様々な反応をしていた。

 すでにリオンは件の記念式典にて着飾ったフィオレの姿を知っている。それはシャルティエとて同様だ。しかし、スタンや他のソーディアンたちは違った。

 

『ほほぉ……これはまた。いいのう。若い娘が着飾るというのは』

『おいスタン。貴様どこを見ているんだ!?』

「いや……フィオレさん。思ったより胸あるんだなーって」

 

 ぽろっ、と零れたスタンの呟き。そこでシャルティエがいきなり騒ぎ始めた。

 

『あっ!? スタン、まさか今のでフィオレの胸に触った!? そういえば今抑えてないよね?』

『む? 抑えるとは何のことじゃ、シャルティエ』

『フィオレね、実はかなりグラマーだったりするんだけど。邪魔だから、って普段布をぐるぐる巻いて揺れないように抑えてるんだよ。でも今結構膨らんでるから、多分……』

「シャルティエ! あなたなんでそんなこと知ってるんですか!」

 

 突如としてサラシのことをばらされ、思わず声に出して怒鳴る。すると、彼は飄々とこんなことをのたまった。

 

『あっ、やっぱりそうなんだ。フィオレ、寝てる時よく胸の辺り触ってるんだよね。気になって観察してたら、服の上から何か引っ張ってるみたいだったから、それで』

 

 確かに目が覚めたとき、サラシが解けているときが何回かあったが……無意識に解いていたということなのか。

 思わぬ事実が衝撃的で、フィオレはスタンに胸を触られたかもしれないという疑惑をすっかり頭から飛んでいた。

 幸い、今のやりとりはフィリアと一緒にはしゃいでいるイレーヌには届いていない。

 

「さ、まずは闘技場へ行きましょう」

 

 ようやくイレーヌの一言が入り、一同はぞろぞろと闘技場へと向かった。

 闘技場へと向かう道には多くの観客、観光客が立ち寄るものの、イレーヌは特別席のチケットをすでに確保していたため、チケットショップは通過。

 

「男達の熱き力と技の祭典、ノイシュタット闘技場へようこそ!」

 

 上半身裸である必要は皆無であるはずの、もぎりの男にチケットの半券を奪われる。

 イレーヌがそうしたように、フィオレもチケットを差し出した。

 ところが。

 

「む……」

 

 男はチケットではなく、フィオレを凝視している。

 イレーヌにされたものとはいえ、やはり化粧が濃ゆすぎたかと、チケットを男の顔の前で振った。

 

「……はっ! ち、チケットを拝見……うむ。ごゆっくりどうぞ」

 

 妙にうやうやしい手つきでチケットを破かれ、一同の中で最後尾にいたフィオレが闘技場内へと進む。

 その様子を見ていたらしいイレーヌは、妙にニコニコしながらリオンを見た。

 

「やっぱりフィオレちゃん、モテモテね。ねえリオン君、今のフィオレちゃんはどう思う?」

「別に。見かけがいいのは元からで、今はお前の見立てで着飾ってるから目立つんだろ」

 

 流石リオン。さりげなくイレーヌの機嫌を取ろうとする姿勢──褒めることを忘れていない。

 しかし彼女は、喜ぶどころか腑に落ちない顔でフィオレに話しかけてきた。

 

「変ねえ……リオン君のことだからきっとドキマギすると思っていたのに。いつの間にかオトナになっちゃったのかしら?」

「以前、セインガルド建国式典で私の正装を見たことがありますからね。特に目新しいものではないのでしょう」

 

 そんな事実を彼女に話せば、イレーヌは落胆を隠さず物珍しげに周囲を見回していた一堂へ闘技場の案内を始めている。よほどリオンの表情が変わったところを見たかったのだろう。

 

「さ、もう始まる頃だわ。観客席へ行きましょう」

 

 そう言って、彼女は一般席へと大移動を始めた群集に背を向けて係員の配置されている大扉へと向かった。

 一人一人のチケットを見て、特別観覧席の客だと確認した係員が大扉を開く。闘技場を囲み見下ろすような形の観客席は、ダリルシェイド郊外の野外演習場ととてもよく似ていた。案外設計は同じなのかもしれない。

 それは特別席もまた同じで、対岸の一般席は人がごった返し立ち見せざるをえない状況だが、特別席の椅子ひとつひとつはゆったりとしている上に人数そのものが少ない。

 ここの上流階級の人間はこういった見世物を野蛮と思うのか、あまり訪れていないのだろうということがわかった。

 やがて闘技場内でファンファーレが鳴り響く。拡声器でも使っているのだろう、妙に響く司会の合図と共に、試合が始まった。

 挑戦者同士が各々の得物を構えて、派手に激突する。

 確かにきちんと見ていれば血湧き肉踊る、力と技の祭典だろう。しかし、フィオレはその催しをほとんど眠って見過ごしていた。

 思った以上に椅子は大きくて柔らかく身体を預けるに最適だったし、最近あまり眠っていなかった上、特に昨夜は精神的に磨り減っている。

 無駄な礼装を身にまとっているためリラックスこそできなかったが、フィオレには貴重な休息だった。

 

「もっと強え奴はいねえのか?」

 

 突如としてそんなダミ声が鼓膜を刺激する。闘技場を見下ろすと中央で挑戦者をのしたコングマンが盛大な高笑いを上げていた。

 それまでチャンピオンとなるべく代表者となった挑戦者が現チャンピオンと戦い、敗北に喫したのだろう。

 そこで、司会者の茶々が入った。

 

「強い、強い! 流石は我らがチャンピオン、歯牙にもかけない! 先日細腕の美女に喧嘩を売られた挙句、一方的にやられたなどという噂が信じられない勇姿だ! やはりあれは、アンチチャンピオン派によるデマだったか!?」

 

 コングマンの高笑いが一気に尻すぼみになる。すでに噂になっていたか、観客達に一切の動揺はない。しかし、彼女は知らなかったようだ。

 

「あの怪物に勝った女性!? 信じられないわ、いないでしょそんな人」

『良かったねフィオレ。細腕の美女だってさ』

 

 いらないことを呟くシャルティエのコアクリスタルを中指で弾く。

 コングマンが現われ始めた頃からだろう。前に座る中年男性の後ろにおどおどと隠れるように、フィリアが身をすくめていた。

 

「もう出ましょうか。見つかっても厄介ですし」

「! そ、そうですわね、行きましょう!」

「え? 誰に見つかるの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十五夜——ぽっかりと空いたスキマ

 続々・ノイシュタット。デートイベント補完計画なので、悔いなし。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コングマンに武装船団壊滅を協力させたくだりは知っていても、それ以前の確執を彼女は知らない。

 闘技場から積極的に引き上げようとするフィリアに首を傾げつつも、イレーヌは次なる目的地、咲き誇る桜も見事な公園へと一同を案内した。

 かつてノイシュタットの異常さを鮮烈に教えてくれた中央公園。

 ここは成り行きでコングマンと対峙するために訪れていたが、その際は桜の状態に気を回していられなかった。

 初めて訪れた時は六分咲き程度だった桜は、今や見事な満開の時期を迎えている。

 イレーヌが貸してくれた日傘を手に、フィオレは一人、公園を歩いていた。現在仲間達は、イレーヌ手製の菓子を配り終えて集まった孤児達と鬼ごっこを興じている。

 イレーヌによって目的のわからないドレスアップを強いられているフィオレは、加われないことをいいことに個別行動をとっていた。

 

「……ふう」

 

 それにしても、桜を──花を、これほどゆったりとした気分で眺めるのは久しぶりだ。

 手元に小さな感触を感じて日傘をくるりと回し、樹上から花びらと共に落ちてきた毛虫を払う。

 元は人の寄り付かない荒れ果てた荒野だったフィッツガルド。セインガルド王国によって資材発掘が提唱され、結果として「豊かな」と形容される街が出来上がった。

 しかし、富める者はますます富み、貧した者は堕ちていく。実情はそれだけでしかない国は、これから先どこへ向かっていくのだろうか。

 地面に落ちて、毛虫は桜の花びらの中で身をくねらせている。その姿はどことなく現在ノイシュタットで暮らしている人々を思い起こさせた。

 この桜は、セインガルドから寄贈されたものだという。

 桜に住み着いて毛虫は高みに存在するが──成長するノイシュタットに便乗するように上流階級の人間達も肥え太った。

 落ちてしまえばこんなにもちっぽけな存在は、咲き誇る桜に寄生して、真下を通る人間を脅かす。

 ちょうどフィオレが、日傘を使っているように。

 桜がもしも倒れたら、毛虫もすべて落ちるのだろうなとフィオレがくだらないことを考えているうちに桜の並木道を通り過ぎ、海に面した展望台へと出た。

 無人というわけではなく、数人の市民と思われる人々がちらほら見受けられる。

 潮風を感じながらゆったりと眺望を楽しんでいたフィオレは、ふと耳に入ってきた高音が気になった。

 

「あなた、旅の人かしら?」

「よかったら、案内しましょうか? ノイシュタットはいいところですよ」

 

 姉妹、だろうか。

 顔立ちがそこはかとなく似ている、上級階級と思われる女性二人組が、小柄な人影に声をかけている。

 艶やかな黒髪を短く整え、朱鷺色のマントが潮風を受けて揺れている。後姿はそれだけだったが、ちらりと見えた露草色を基調とする制服には見飽きるほどに覚えがあった。

 声をかける気はなかったが、どうなるのか興味がある。

 正確には、彼がいかにして彼女らを退けるか、あるいは開き直って社会勉強を始めるのか。

 目立たぬようすすっと、近くのベンチへ行って腰掛ける。すでに会話が盗み聞ける距離、どのような結果になろうときっと見物だろう。

 海を眺めるフリをして、日傘の影から彼を見やった。

 すると。

 

「……人探しをしていただけだ。邪魔をした」

 

 何のためなのか周囲を見回したらしいリオンと、ばっちり眼が合う。

 急いで逸らしても、もう遅い。リオンは彼女達から早足で離れ、まっすぐにフィオレの元へとやってきた。

 

「何か御用で? というか、子供たちと遊んでいたのでは?」

「菓子を配る手伝いはしたんだ。それ以上付き合ってられるか」

「……逃げてきたんですか。根性のないこと」

「うるさい」

 

 そのまま、どっかとベンチに座り込む。そして一息つく少年に内心で呆れながら、実際に手伝ったことは評価した。

 水平線の向こうに、どこぞの大陸かあるいは島か、とにかく陸地の稜線が見える。波は少し高いようだが、雲がちらほら見える程度のいい天気だった。

 ……こんなにも平和で、穏やかで、貴重な時間。

 隣の少年に少し申し訳なく思う。彼の隣に座るのが、彼が想いを寄せる女性であればよかったのだが。

 こんな風に思うことも、彼は余計なおせっかいだと、きっと憤慨するだろう。

 しかし、思うだけなら自由だ。

 フィオレには、大切なものはない。

 護らなければならないのは、誰かではなくて、契約。それだけでなくてはいけない。

 ここで生まれていないフィオレに、ここで死ぬ資格などないのだから。

 

 ──還ったところで、どうするのだろう。

 

 意図的に考えないようにしていた、契約を果たしたその先。考えてしまえば、思考の渦に巻き込まれて、浮上できなくなる。

 それがわかっていて尚。ぽっかりと空いた時間はフィオレを、不安の座礁へ導いた。

 

 かつての主に会う? 

 ──刻まれていた忠誠の譜陣は失われて、彼を主と認識することもできないのに。

 

 母を殺した男を殺す? 

 ──そんなことをしても、母は戻ってこないのに。

 

 遺してきた肉親に──そんな者はどこにもいない。

 フィオレンシア・ネビリムには。

 血が繋がっているのは、戦争勃発時、開戦直後に殺された父。

 教え子に殺された──否。『教え子が起こした不幸な事故に巻き込まれて』命を落とした母だけ。

 愛した男を、捜す? 

 ──どこにいるのかも、生きているかさえ、わからないのに。

 捜す手段はある。

 しかし、夫と定めた男を理由あってとはいえ、自ら離縁を迫ったというのに。幾度となく刃を向けたのに。

 捜して、再会して、どうするのだろうか。

 流れた時間は巻き戻せない。

 今更、あの場所で、何をしようというのだろうか……

 

「おい」

 

 水平線を眺めて思索にふけっていたフィオレは、真横の不機嫌そうな声音で我に返った。

 見やれば、リオンがやはり不機嫌そうな顔でフィオレの顔を見やっていた。

 

「何か?」

「何をボンヤリしてるんだ。黙り込んで」

「考え事をしているだけです」

 

 その言葉にリオンが何も反応しなかったため、そのまま会話は終了する。

 否、反応しなかったのは言葉だけだ。よくよく見ればリオンは、水平線を見やったかと思うと周辺を見回し、ちらりとフィオレを見やる。

 何かを言い出したいような、そうでもないような。とにかくフィオレを置いてイレーヌの元へ戻る気はない様子である。

 

「リオン」

「な、なんだ」

「トイレを我慢するのはよくないですよ」

 

 とりあえず生理現象の否を確かめてみると、どうやら外れたようだ。彼は顔を真っ赤にして怒鳴った。

 

「なんでそうなるんだ!」

「先ほどからモジモジしている様子でしたので。違うのなら、謝ります」

 

 その一言で、自分の落ち着かない様子を知られたと自覚したのだろう。彼は小さく息をついて話しかけてきた。

 

「昨夜の、ことなんだが」

「はい」

 

 赤くなった顔は未だにそのままだが、怒っているわけではなさそうだ。この様子だと、僅かにでも記憶に残っているのかもしれない。

 

「……僕は、何を言った?」

「そんなのシャルティエに尋ねればいいでしょう。そんな恥ずかしそうに私から聞き出さなくても」

「真面目に答えないんだ、あいつは。だから、確認のために……」

 

 やれやれと嘆息を零しつつも、フィオレは昨夜の経緯を辿った。とはいえど詳細は語らない。何があったのかを淡々と語る。

 

「以上です。前後不覚に陥っていたのですから、気を病む必要はありませんよ」

「……ほうっておいてくれ」

 

 頭を抱えて己の膝に顔を埋めるリオンのダメージは、フィオレが思う以上に大きそうだ。髪の隙間から覗く耳は、これ以上ないほど血が集まっている。

 

「そうですか。では、私はそろそろ皆のところへ戻りますので」

「おい」

 

 ほうっておいてくれ、と言ったり、従おうとすると阻んできたり。知ってはいたがとんだ天邪鬼っぷりである。

 通常ならそのまま一人になることを望んだだろうが、今しがたの出来事──逆ナンされかけたのだから仕方がないかもしれない。

 だが、本気で戻るつもりだったフィオレは状況の膠着をよしとはしなかった。

 

「リオン」

「……わかった」

 

 促され、不承不承立ち上がる。しかし何を思ったのか、続いて立ち上がったフィオレの手を取り、彼はそのまま歩き始めた。

 その様子に、いぶかしがらないフィオレではない。

 この年頃……というか、この少年がお手々繋いで誰かと歩くなど、性格からして考えられないことである。

 

「あのう、この手はなんですか」

「こうでもしないと、また僕が声をかけられるだろうが」

 

 実に恥ずかしそうにしているものの、彼の示す先には先ほど彼に声をかけていた姉妹らしき二人が未だにこちらを見ている。

 わざわざ手を繋がずとも、女連れの男に粉をかけるなど、よほど肝の据わった女しかしないと思うが……それにしても足運びが速い。

 

「リオン、もう少しゆっくり歩いてくれませんか」

「うるさい、黙って歩け」

「踵だけ高い靴、慣れてないんですよ。だから……っと」

 

 がくん、と足元がおぼつかなくなり、その手を振り解いてバランスを保つ。見れば、細いヒールの先が石畳の隙間に食い込んでいた。

 

「面倒な靴だな……」

「同意見です。よいしょ」

 

 抜けないヒールを、一度脱いでから引き抜きにかかる。裾を引いてタイツに包まれた足を石畳に置き、ハイヒールを掴んだフィオレはふと上を見上げた。

 熱視線を感じると思ったら、それまでフィオレの手を引くように歩いていたリオンが、吸い寄せられたように視線をある一点へ張りつけている。

 

「リオン?」

「……!」

 

 声をかけられて、ようやく彼は視線をそらした。挙動不審にもほどがあるのだが、真っ赤に染めた頬はどこまでも初々しい。

 

『坊ちゃん……オトナになられて』

「どういう意味だ!」

 

 思わず、といった調子で零れたシャルティエの言葉は、看過できなかったらしい。しかしシャルティエが謝罪を口にすることはなかった。

 

『いいんですか? 坊ちゃんが今どこを見てたのか、フィオレに言っちゃっても?』

「うぐ……」

「大体予想つきますけどね」

 

 今しがたフィオレは、ヒールを抜くためにしゃがみこんだのだ。胸元が大きく開いたドレスだから、上から見下ろせば当然胸の谷間がしっかり見えたことだろう。

 とはいえ、リオンに……子供に見られたところで何とも思わない。

 無事にハイヒールを回収し、リオンと連れ立って一同が子供達と戯れているであろうアイスキャンデーの店舗前へ移動する。

 ところが、店舗前では。

 

「ト、トンガリ頭ぁ!?」

「スタン君、挑発に乗っちゃだめよ」

 

 スタンとコングマンが対峙し、スタンの後ろにはイレーヌがおり、彼をなだめている。フィリアはその傍で、ルーティとマリーは孤児達と共に事の成り行きを見守っていた。

 ただ事でないことだけは、間違いなさそうだ。

 

「どうかしたんですか?」

 

 一瞬即発の空気の中、フィオレはその中へとずんずん割り込んでいった。一応、一番近くにおり尚且つ理路整然と話してくれそうなイレーヌに話しかける。

 

「ああ、フィオレちゃん。リオン君も」

「何故コングマンがこんなところにいる? まさか闘技場でフィリアを見つけて追ってきたのか」

「その、ちょっとね……」

 

 歯切れの悪いイレーヌではラチがあかなそうだと見切りをつけて、フィオレは当の本人に尋ねてみることにした。

 イレーヌの傍を通り過ぎ、スタンの横へと移動する。何をするつもりなのかと問いたげなフィリアの視線に答えることなく、フィオレはまずドレスをつまんで一礼した。

 

「先の討伐においては助力くださり、感謝しております。そして本日、チャンピオン防衛のお祝いを申し上げましょう。……で、どうしてスタンを挑発してるんです?」

 

 考えてみれば、先日船を下りてからフィオレ自身の言葉で礼を言っていなかった。

 かなりおざなりになってしまったものの謝礼と祝福を前座に、本題へと入る。

 いきなりそんなことを言われて、コングマンはぎょろりとした目を瞬かせた。しかし、すぐに何のことなのか思い当たったようである。

 

「フィリアさんの傍に余計なのがいねえと思ったら、いやがったのか。田舎娘が一丁前に着飾りやがって、誰だかわからなかったぜ」

「私が勝ったら、フィリアにつきまとうなと告げたはずです。ノイシュタットのチャンピオンは、約束すら守れない男なのですか?」

「残念ながら今回はフィリアさんに愛を囁きに来たわけじゃねえ。チャンピオン防衛戦勝利のパレードで練り歩いていたら、とんでもねえもんを見ちまってな」

 

 鋭いコングマンの視線の先には、スタン、そしてイレーヌがいる。もしかしたらフィリアも含まれているのかと、フィオレは口を開いた。

 

「スタンがフィリアといちゃつき始めたんですか?」

「ち、違います! そんなことしてませんわ!」

「そうですよ、なんでそうなるんですか!」

「この男がつっかかってくるような場面なんて、それくらいしか思いつかなくて」

 

 一番ありえそうな、偶然でも発生すればそう見えるような場面を目撃したのかと思えば、そうではないらしい。

 コングマンは真面目な表情を崩そうとしなかった。

 

「んなことがあれば、挑発なんざすることなくトンガリ頭に決闘を申し込むだけだぜ。俺が見たのは、イレーヌ・レンブラントがそこのガキ共に菓子を撒いてたんだよ」

「そうですね。配っていましたね。それに何の問題が?」

「問題大有りだ。ふざけるのも大概にしやがれ」

 

 反吐が出ると言わんばかりに地面へ唾を吐く。

 それを見てフィリアが顔をしかめたことを、おそらく彼は知らないだろう。

 

「元はといえばテメエらがノイシュタットを荒らし、そのあおりをくってこういったガキ共が何十人とでてきちまったんだ。今度は偽善者ぶって施しか? 金持ちの道楽に付き合わされる身にもなれってんだ」

「……ようは、金持ちの施しを見て腹が立ったと。そういうことでいいですかね」

「おうよ」

 

 なるほど。イレーヌが何も言い返さないのも頷ける。大方、それで調子に乗ったコングマンをいさめようとスタンが割り込み、先ほどの展開へと繋がってくるのだろう。

 気持ちがわからないわけではないが……

 ふと、ルーティやマリーのいる方角を見る。そこでは、年齢も性別も判然としない幼い子供達が彼女らから片時も離れずじっとしていた。

 中には不安そうにマリーに抱きつく子供もいる。

 

「あなたの憤りがわからないわけではありません。確かに彼女がしていることは金持ちの施しでしょう。でも、それの何がいけないのですか?」

「何がいけない、だぁ? てめえこそ寝ぼけたこと抜かしてんじゃねえよ!」

「あなたから見れば不愉快な光景なんでしょうね。でもイレーヌ女史は、施しだの偽善だの、そう罵られることを覚悟で孤児達に自分なりの支援をしている」

 

 そうでなければ手間隙かけて手製の菓子を作ったり、彼らと仲良くなったりはしないだろう。その前に子供たちから敬遠される。大人が思うよりも子供は動物に近いのだ。

 下心を持つ大人に食べ物を恵んでもらえる、それだけの理由で懐く子供はいない。媚を売る子供ならいるだろうが。

 

「やらない善よりやる偽善、と言う格言があります。例え行為そのものは偽善であろうと、子供達は嬉しそうに笑ってくれました。彼女が作ったお菓子を美味しいって。それを偽善だから、という理由で妨げる権利があなたにあるのですか?」

 

 一方的にまくし立てられ、形勢が逆転する。

 狙っていた通り、やはり口上でのやりとりまではチャンピオンではない彼は、脂汗を浮かべてしどろもどろと反論に出た。

 

「て、手製だろうと何だろうと、孤児に、食い物をばら撒いてる時点で……」

「なら、あなたは何をしたのですか? 闘技場で活躍し、その姿を見せることでノイシュタットの人々に勇気と感動を与えると評判のマイティ・コングマン。あなたは彼女の、いいえ、他人のことをとやかく言えるほど立派なことをしたのですか?」

 

 ──実のところ、フィオレはこの問いに対してコングマンは肯定していいと思っている。

 どれだけいけ好かない男でも、様々な覇者が集う闘技場の頂点を君臨し続けるというのは、八百長でもしていない限り並大抵のことではない。

 イレーヌに噛み付いてみせたように上流階級を目の敵とし、時折街中に現われては孤児たちを鼓舞してみせるなど、彼にしかできないことは十分に実行していると思う。

 しかしそれを己の口から言うのは抵抗があるのか、コングマンは口を開こうとしない。それを見かねたらしい取り巻きの一人が、彼の前へと飛び出してきた。

 

「黙って聞いてりゃ、他所もんの分際で好き勝手抜かしやがって! チャンピオンはな……」

 

 まだ若いだろうに、コングマンとよく似た禿頭、そしてひょろりとした上半身裸。コングマンコスプレと思わしき彼がとうとうと語るチャンピオンの行いに、フィオレはひとつ頷いた。

 もとより、そう返されることを想定していたからだ。

 

「……ってなことをやっているんだからな!」

「それと同じことです。イレーヌ女史だけにできることではありませんが、彼女は自分で考えつき、個人での実行可能な支援をしているだけ。否定するだけ馬鹿らしい」

「だ、だったら……あんな豪邸売り飛ばして小さな一軒家でも買って、その差額を孤児たちの支援にあてれば」

「ではあなたは、闘技場にて入る収入の八割を孤児たちの支援に当てられるんですか? あなたが闘技場の管理者でないことと同様に、イレーヌとてレンブラント家の当主ではないんです。そんな好き勝手はできないでしょう。だから個人でできることをしているというのに」

 

 日傘をかざして、取り巻きの無茶苦茶な案を一蹴する。

 

「それで? まだ何か、おっしゃりたいことでも?」

「……っだー、やめだやめだ! ったくこれだから女はいけ好かねえ。口でまくしたてりゃあどうにかなると思いやがって!」

 

 禿頭をがりがりと掻きつつ、コングマンは口論を放棄した。これすなわち、フィオレの口上勝ちということになる。

 

「あなたに理性があってよかった。いつぶん殴られるのかとヒヤヒヤしましたよ」

「それならそれで避けて、それを免罪符に仕掛けてくるんだろうが、てめえは。まったく可愛げのねえ。その姿でおしとやかにするなら、二号にしてやるところなのによ!」

「そんなことになったら私は舌を噛みます。もしくは身投げします」

 

 すすす、とさりげなく移動し、フィオレはスタンの後ろへ隠れた。

 そんなフィオレに四つ角を浮かべつつも、コングマンはちらり、とイレーヌを見やっている。

 

「……俺様は間違ったことを言った覚えはねえ。だが、そこの田舎娘がそこまで言うくらいだ。あんたはちったあ違うんだろう。少しだけくだらない夢を見させてもらうぜ」

 

 そう言い捨てて、ノイシュタットチャンピオンは取り巻きらを引き連れて去っていった。

 誰かがほうっ、と息を吐いたのが聞こえる。

 

「喧嘩にはならずにすんだか……成長するんだな、お前も」

「コングマンが脳みそまで筋肉になってなくてよかったわね。でなきゃあんた、本当に殴られてたわよ」

「私はともかく、このドレス汚すわけにはいきませんでしたからね」

 

 リオンの嫌味を聞き流し、軽くドレスの生地を摘まんで舌を出す。

 和やかな雰囲気が戻ってくる気配を覚えながら、フィオレはこっそりとシストルを取り出した。それまでの雰囲気を払うかのように、シストルの音色が響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 彼女は元の世界に還ってどうしたいのでしょうか。

 後半、施し云々は現代社会においても問題提起できます。
 よく、どこそこの恵まれない子供達、云々、ありますが、外国の問題に首突っ込むよりはまず自国のホームレス溢れる状況を何とかしたほうがいいのではないかなと。
「可哀想」と言うだけならタダです。言わないよりも言った方が、自分は満足できるでしょう。
 でも、日本にも「可哀想」といえる状況はいくらでも転がってるんですよね。
 ホームレスはおいとくとしても日本の孤児院だってスカスカじゃないし、けして裕福でもない。
 毎日何百頭の犬猫が殺処分され、古い時代の法律に振り回された犯罪被害者の涙で川どころか海ができちゃいます。
 問題はけしてそれだけじゃないんですけどね。
 個人にできることって何でしょうね。
 募金? ボランティア? それとも、事実を知ってそれを多くの他者に知ってもらうこと? 
 事実を知る人が増えれば増えるほど、それは須く「力」に繋がるでしょう。
 でも「力」は正しく振るわれるものとは限らない。
 堂々巡りです。でもそれで、世界は沢山の歯車を絡めて回っている。


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第六十六夜——十分な休息の後に~出陣のお時間でござる

 舞台は移り変わり、ノイシュタットからアクアヴェイルへと旅立ちます。
 フィオレはともかくとしてリオンは、国家として認定された客員剣士=有名。
 ということでフィオレと共にお色直し。
 前作「The abyss of despair」で着ていた代物を着てもらいます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一日は、通常と同じく過ぎ去っていく。

 夕方、一同が引き上げる頃。操作盤のレーダーはバティスタがアクアヴェイルへ上陸したことを告げた。

 

「約束だ。イレーヌ、船を出してくれ」

「わかったわ。けれど、出発は明日の朝でいいでしょう? しばらくは船旅を強いられるんだから、ぎりぎりまで休んでいて」

 

 夜中の出港が不可能ではないらしいが、イレーヌの厚意によって一同はレンブラント邸にて歓待を受けた。

 そして、翌日のこと。

 

「さあ船長、出港して頂戴!」

「何から何までありがとうございました。ところで降りなくていいんですか?」

 

 港へ集まった一同が首尾よく船へ乗り込み、イレーヌが出港を命じる。

 ところが彼女は一同と共に乗船したまま、碇がゆっくりと持ち上げられた。

 

「ええ、最後まで見送りたいの。それにこの船、この間導入したばかりの最新型でね? 一度乗り心地を試しておきたかったのよ」

 

 もっともらしく言っているが、事実か否かは判断しかねる。

 ただし前半は事実であるらしく、最新型のレンズエンジンを備えているのだろう。それほど風が強いわけでもないのに、船はすいすいと、波をかき分けるかのように進んでいく。

 これならば、地図上の距離から図って五日は必要であろう行程を、丸二日程度に短縮できそうだ。

 それなら、するべきこともさっさと済ませておくべきだろう。まずはリオンのことだ。

 船内を歩き回り、休憩室でミントティーを嗜んでいたリオンを見つけて話しかける。

 

「なんだ?」

「突然ですが、お召替えを要求します」

『着替えしろって? なんでまた』

「それ、セインガルド王国客員剣士の制服でしょう。アクアヴェイルの人間は知らないでしょうが、状況が状況です。その格好でこちらの動きが捕捉されてもつまらない」

 

 アクアヴェイルが特殊な風土のもと、セインガルドなどとは一風変わった文化であることはリオンも知っていたのだろう。

 ならどうするのか、と言わんばかりのリオンを、フィオレは寝室用にとあてがわれた船室へ連れてきた。そして荷袋から、とあるひふく一式を取り出す。

 イレーヌの趣味に付き合った際、彼女からプレゼントされたもの──ではない。

 本当は新品のあちらがいいだろうが、どう見てもあれは女物だった。美少年で在るが故に女性に間違われる、それをけして喜ばない少年にそんなものを渡せば激怒しかねない。

 そこで。

 

「着古しで申し訳ありませんが、こちらを」

 

 フィオレと名乗るより以前に身につけていた、黒の上衣袴を取り出す。

 たっぷりとした袖が特徴的な上衣と、裾が広がっている袴──リオンにしてみれば特殊な形のズボンを渡され、彼はあからさまに困惑した。

 

「……どうやって着るんだ?」

「私が着せますから、下着残してそれ脱いでください」

 

 少年が服を脱ぐ様に興味は無い。くるり、と後ろを向く。

 布擦れが聞こえないということは、戸惑っているのだろう。フィオレはそのままの姿勢で、言った。

 

「建国式典の夜を覚えていますか? 今更あなたの薄着姿見ても、何も思いませんから」

 

 トラウマを刺激することになるかもしれない。そうは思ったが、ここで時間を無駄にするつもりもなかった。

 やがて、服を脱ぐ際発生する独特の布擦れが聞こえてくる。

 それがやんだ頃を見計らって振り向けば、つつがなく準備は完了していた。

 あまりリオンを見ないようにしながら、衣装をリオンに着させていく。身ごろの位置を合わせて布紐で固定、袴に足を通させて帯紐を締めると、彼は微妙そうな顔つきで訴えた。

 

「……腹が苦しい上にスースーする」

「後で着方をお教えしますから、ご自分で調整してください。ちゃんと着るとこんな感じになります」

『わ、坊ちゃんカッコイイ!』

「……馬鹿にしてるのか、シャル?」

「いやいや。流石元がいいだけあって、似合いますね」

 

 見目に関してなら、まったく問題ない。あとは悪目立ちしないかどうかだが、客員剣士の制服のままよりはマシなはずだ。

 

「で、着方なんですけどね」

「な……ま、待て! 何をするつもりだ」

「あなたにこういった代物の着方を説明するんです」

 

 突如として慌てふためくリオンを前に、構わず制服を脱ぐ。そして今度こそイレーヌの贈り物を取り出し、自分で着ることによって着方を説明した。

 当然のことながら、下着の類は見られても平気な部類を身につけてある。

 安心したように一息つくリオンに対し、シャルティエはブーイングを放った。

 

『ちょっとー。なんで僕にだけちゃんと目隠しするのさー』

『その質問ですべてに答えがつくと思いませんか?』

 

 現在寝台に立てかけられているシャルティエにリオンのマントがかけられている。上着を脱ぐ前、目隠しをしたのだ。

 文句のつきないシャルティエを放って、着方の実演をする。

 脱いで着る、その繰り返しによって自力で着られるようにしてから、フィオレは彼を甲板へと誘った。

 

「今度は何をするつもりだ」

「その格好でも支障なく動けるよう、肩慣らしをね」

 

 甲板上での修練など、アクアヴェイルの陸が見えない今くらいしかできない。

 もしもアクアヴェイル付近で海軍に拿捕された場合、「物見遊山気分で遠出をしていたフィッツガルドの間抜けな一般市民」を演出、その後接触してきた船を乗っ取る予定なのである。ただし、それを企むにはこちらが無力であると示さなければならないのだ。

 甲板で剣を振り回しているのが見つかったら、拿捕などされずに砲撃を受ける可能性が高い。

 最新式レンズエンジンの底力を見せてもらい、無理やり接舷を試みるのもアリだが労力は少ないに越したことはない。更に今回はイレーヌもいるのだ。大規模な争いごとは避けるべきだろう。

 抜刀から始まり、まずは準備体操にあたる剣舞から入る。

 その都度動きにくいと訴えるリオンをなだめて模擬試合を行っていると、ふらりとスタンが現われた。

 

「あ、二人ともこんなところに。イレーヌさんが探してましたよ」

「イレーヌ女史が?」

「はい。レンズエンジンの性能は十分にわかったから、今度は皆でお茶にしないか、って」

 

 全然関係ない気がするが、おそらくは彼女の暇つぶしだろう。承諾して、遅れていくよう言付けるもスタンはその場から動こうとしない。

 

「そういえば、どうしたんですか? いつもと格好が違いますけど」

「アクアヴェイル風の格好です。皆はともかく、リオンの格好は客員剣士の制服ですので、目立たないように変えてみました。私はイレーヌさんからこちらを頂きましたので、ついでに」

「へぇ~。あ、でも、アクアヴェイルはそういう格好が普通だったりするんですか? それじゃあ俺達、すごく目立つような……」

 

 無論、その辺りについては考えてある。それに、全員分の変装を考えなかったわけではない。

 だが、アクアヴェイルの服装は特殊だ。全員にそれを強いて、機動力の低下に通じるようでは眼にも当てられない。

 だから心配しなくていいと告げ、修練を中断して彼らと共に休憩室へと赴く。

 そこでは、イレーヌによって召集されたのだろう女性陣が華やかに談笑していた。

 

「あら、スタン君……まあ! リオン君、その格好って」

「こいつに無理やり着せられたんだ」

「よく似合ってるわ。にしても、よくアクアヴェイルの衣装なんてもうひとつ手に入ったわね」

 

 予想通り、イレーヌは普段とは一風違う彼を前に瞳を輝かせている。

 席を立って出で立ちの仔細を観察する彼女につられることなく、フィリアが不思議そうに首を傾げた。

 

「あの、その格好はアクアヴェイルの服装なのですか?」

「ええ、そうよ。アクアヴェイル地方独特の民族衣装。かの領地ではこの服装が普通だとされているわ」

「ということは……フィオレさん、ひょっとしてアクアヴェイルの出身ではありませんの?」

 

 何気ないフィリアの疑問を、何気なくイレーヌが答えてみせる。

 そして彼女が発した一言は、少なくともフィオレ、イレーヌ、リオンを凍りつかせた。

 ただ驚くはルーティである。

 

「ええ? いきなり何を言い出すのよ」

「だって、リオンさんが今着ているのはわたくしが初めてフィオレさんと出会ったときのお召し物ですわ。変わった衣装だからどこのご出身なのかしらと不思議に思っていましたが……」

 

 真実を聞きたいとばかりにこちらへ目を向けるフィリアには申し訳ないが、とんだ勘違いである。

 しかし。

 

「そういえばお前、これを着付けるのに随分手馴れていたな。これを着ていたということは、アクアヴェイルのどこかの領地出身かもしれないぞ」

 

 違うと断言してしまいたい。しかし、それならどこなのかという議論に発展するのは避けたい。

 そんなことを考えて次にフィオレがしたことは、おもむろに菓子を摘まむことだった。

 

「あ、美味しい」

 

 そのままもうひとつ摘まむフィオレに、イレーヌが苦笑混じりに香茶を入れて席に着くよう促す。

 話題を取り戻すためなのか口を開きかけたリオンをもイレーヌは誘い、そのまま和やかなお茶会が始まった。

 

「このナッツクッキー、美味しいですね」

「そう? 気に入ったなら、今度作り方教えてあげるわ。だから……ちゃんと帰ってきてね」

 

 そればかりは、預言(スコア)にでも頼らないとわからない。

 やがて、イレーヌが持ち込んだお菓子がなくなったことによって自然とお茶会も終わる。

 そのまま自然解散になろうとした一同を、フィオレは深呼吸をした後で呼び止めた。

 

「──ちょっと、お話があります。集まってもらえますか?」

 

 

 

 

 

 

 

 




 ゲームプレイ中、驚いたのはイレーヌさん、お見送りしてくれるんですね。
 てっきりフィッツガルド港でお別れかと思っていたのですが。
 お嬢様なのに義理堅い人です。いや、お嬢様だからかな? 
 イレーヌがいないと船員達がアクアヴェイルに近づきたがらず反乱を起こし、一同は海のど真ん中に放り出されてゲームオーバーになってしまうから……と考えたのは、私だけでいいです。はい。


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第六十七夜——秘密の暴露

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これから話すことを、イレーヌはおろか他者に聞かせるつもりは微塵にもない。

 フィオレはなんだなんだと集まった一同を、船底にある倉庫へ連れて行った。

 

「これからアクアヴェイルへ向かうにあたって、皆にお話しておきたいことがあるんです」

「どうしたのよ、改まって」

 

 そう口に出すルーティも、他の一同も、怪訝そうな風情は隠していない。リオンなどは露骨に眉を寄せている。

 大したことではないのだが、これからの同道を考えると避けては通れない。そんな気がしたのだ。

 それに、これを明かすことによって、彼らがとある勘違いをしてくれることを、密かにフィオレは期待している。

 

「アクアヴェイルへ入るにあたって、世界各国と冷戦状態であるに等しい国ですから港は使えません。アクアヴェイル出身の船員の話によると、浅瀬が多いからみだりに陸へ近寄れないし、簡易ボートは目立つから使えない。ですので、できる限りこの船に海岸線まで近寄ってもらい、泳いでたどり着かなくてはいけないそうです」

 

 未知なる国への極秘航行だけあって、船長はきちんと考えていた。

 どこからかアクアヴェイル出身の船員を調達、同乗させており、話を聞いた結果がこれだ。この船の安全も考えると、反論はしかねる。

 しかし、初めてそれを聞かされた一同は驚愕も戸惑いも隠せていなかった。

 

「お、泳ぐのですか!? わたくし、水泳はちょっと……それに、着衣水泳は下手をしたら溺れてしまうかもしれません」

「私も泳いだことはないな。鎧もつけているし」

「あ、そうか。俺泳ぐだけなら大丈夫だけど、鎧つけてたら沈むよなあ」

 

 遊撃の位置に立つルーティ、リオンはともかくとして、前衛たちのそれはどうしようもない。

 更にこれまで神殿から出たことのないフィリアは、予想通りの反応を示した。

 

「そうですか。では、ここで普段私が使う手品の種明かしをしたいと思います」

「え?」

「ところで皆は、星の守護者の存在をご存知ですか? リオンは聞いたことがあると思いますが」

 

 唐突な話の移り変わりに、ついてくる人間は少ない。話を振られたリオンが小さく嘆息する程度だ。

 

「守護者……?」

「あの与太話がどうかしたのか」

 

 そんな中、思わしげに沈黙していたフィリアが唐突に口を開いた。

 

「地水火風光闇、この星において各属性を司る存在のことですね。精霊結晶、と学者達は呼んでいますが、存在は確認されたことがないと」

「流石フィリア、ご存知でしたか。私は単純に守護者、と呼んでいますけどね」

「で、その守護者だか精霊結晶だかがどうかしたの?」

「私は彼らと、とある契約を結んでいます。だから、ソーディアンなしで様々な属性の晶術に近い手品を扱うことができるんです」

 

 さらりと明かされたその事実に、無論のこと一同は戸惑った。

 

「け、契約……?」

「ええ。なので、アクアヴェイルへ入る時にもこの手品を使います。濡れずに溺れずに確実にアクアヴェイルへ上陸できるようにしますんで、その時は慌てず騒がず、まるで当たり前であるかのように振る舞っていただきたい」

 

 以上です、と話を締めくくる。

 何とも言えない顔をしている彼らに背を向けて、フィオレは一人、出て行った。

 

「……」

 

 奇妙な沈黙が漂う。

 何を言うべきか、言わざるべきか。それを一同が考え込むよりも前に発言したのは、ソーディアンたちだった。

 

『……なるほどのう。そういうことじゃったか』

「クレメンテ?」

 

 ここへ至るまでソーディアンチーム内でフィオレのことをいぶかしんでいた面々は、解答の片鱗が見えたとばかり吐息をつく。

 

『精霊結晶が絡んでいたとはな。確かに、そうそう明かせるタネではない』

「ディムロスはその……精霊結晶ってのが何なのか、知ってるのか?」

『私自身は、今の今まで御伽噺だと信じていたな』

 

 つまり、何も知らないに等しいらしい。

 フィリアも、精霊結晶は研究対象外であったらしく、それ以上のことはまったく知らなかった。

 

『精霊結晶か……こんなことならもう少し勉強しておけばよかったな』

「シャル?」

『一応僕らの時代にも、その存在の有無が議論されたことがありました。大半の人間は信じてませんでしたし、僕も半信半疑でした。ただ、仲間の一人が言っていたんですよね。存在することよりも、存在しないことを証明するのは難しいって』

「あいつに妙な手品が使えるのは、本気でその……精霊結晶と結んだ契約の賜物だと思っているのか」

『残念ながら、それ以外に理由はつかん。逆にそれ以外の理由が提示されても、わしらは信じるより他あるまいて』

 

 詳細は一切わからないものの、とにかくヒントは得た。調べる方法が皆無ではない今、それは後々明らかになるだろう。

 と、そこへ。

 

「でも、何で今教えてくれたのかしら? こんな急に……」

『非常に考えにくいことだけれど、あなたたちを信頼している、という証かもしれないわね。あなたたちなら、笑い飛ばさず信じてくれる、って』

『今までのこと考えると、笑い飛ばすなんて恐ろしくてできたことじゃないけどね』

 

 ルーティによる疑問の提示に、アトワイトがさらっと失礼なことをいいながら、実に人情味溢れた推測を口にする。

 シャルティエがその言葉尻に乗って冗談交じりに言うも、けして外れているわけではない。

 

「でも信頼してくれるなら、眼帯の下も見てみたかったな」

 

 冗談ぽくマリーがそれを口にし、一同は苦笑を交えてちらほらと同意した。

 とにかく移動をしようと、一同は誰が言い出すでもなく船底の倉庫を出る。そのまま休憩室へ行こうとしていた一同は、船員に呼び止められた。

 

「アクアヴェイル公国の陸が見えてきました。そろそろですので、準備をお願いします」

 

 フィオレの話が正しければ、一同は簡易ボートを使うことも許されず、どうにかしてアクアヴェイルへ入ることになる。

 とにかく外を見ないことには話にならないと、彼らは一路、甲板を目指した。

 

 

 

 

 

 

 



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アクアヴェイル不法入国編
第六十八夜——海中移動~実は生涯、二回目の



 アクアヴェイル近辺海~シデン領土砂浜。
 原作中(PS版)ではスタンが単身海へ飛び込み、犬掻きっぽい泳ぎでシデン領入りしていますが、金属鎧を着けて泳げるわけがない(ファンタジーに突っ込み禁止)
 そんなわけでフィオレに奮闘してもらいました。虎の子の宝石を使い、更にへとへとになりながら、どうにかシデン領入り。



 

 

 

 

 

 

 

 

 船員の連絡を受けて、一同が甲板へとたどり着く。そこでは、フィオレがイレーヌと話をしていた。

 遠くにそびえるはアクアヴェイル諸島の陸地だろう。

 ここがどの辺りになるのか、それを話しているのだろうか。

 

「フィオレさん。ここってアクアヴェイルのどの辺りになるんですか?」

「さあ」

 

 しかし、そんな彼らの予想は木っ端微塵に砕かれた。

 実に無責任な返事をするフィオレは、手元に地図帳を携えている。その中の一頁を開いて、イレーヌに中身を見せた。

 

「今、どの辺りですか?」

「えーと……ここね」

 

 彼女が指差したのは、アクアヴェイルにいくつもある諸島のひとつ、比較的大きな領土である。

 地図上に書かれた領土の名は……

 

「シデン領……」

「知っているんですの?」

「いいえ。ですが、聞き覚えがあるんです」

 

 よもや記憶が戻りつつあるのかと、声を弾ませるフィリアには申し訳ないのだが。

 

「この刀の銘と同じなんですよね。ここの領主の持ち物とかではなければいいのですが」

 

 それを聞いてフィリアはがっくりしているものの、フィオレにとっては重大な問題だ。

 もしもこの出自不明の刀がこの領主家のものであったとしたら、返還はもちろんのこと、泥棒呼ばわりされる危険性があるのだ。

 そもそもこの国の人々から目をつけられる要素は歓迎できない。

 そのため。

 

「みだりに人前で抜かないほうがよさそうですね……そんなわけなので、街中での騒ぎは避けましょうか」

「当たり前だろうが、そんなこと!」

 

 緻密な装飾が施されているとはいえ、遠目には黒ずんだ鞘だ。

 街中ではカモフラージュを考えないわけではないが、今はまだ海上真っ只中。直後魔物に襲われない可能性がないわけではない。

 今はカモフラージュの方法でも考えておくことにする。

 そうこうしているうちに陸地の影がどんどん濃くなり、ついには甲板上での視認が可能となった。

 そして、徐々にレンズエンジンの騒音が小さくなっていく。ある地点まで来たときピタリと停止した。

 船長からの報告を受けたイレーヌがすまなさそうに、しかし反論を許さぬ態度で告げる。

 

「悪いけど、送れるのはここまでよ。今のところ海軍らしい船影はないけど、私達も早く離れないといけないから……」

 

 言いにくそうにしているが、早く行ってくれということだろう。それならばと、フィオレは懐を探り始めた。

 

「無理を言って済まなかった。気をつけて帰れよ」

「みんなも、どうか無事で……」

「ありがとうございました」

 

 口々に一同が礼を言う中、フィオレが取り出したのは海の色に輝く輝石──アクアサファイヤだ。

 アクアリムスの力を借りての海中移動は初めてのこと。いくら以前、ウンディーネの力を借りての経験があるとはいえ、こんな大人数での移動もまた初めてなのだ。

 

『アクアリムス。海を通じて、私達を陸へ連れて行ってください』

『かまいませんが、この人数ですとそれなりの消耗が予想されます。その石で、晶力を補うおつもりですか』

『その通りです。不都合がありますか?』

『いいえ。では……』

 

 手甲の下で、レンズが瑠璃色に輝く。フィオレの手の中で、輝石は音も無く崩れ落ちた。

 直後、燐光を放つ陣がフィオレを中心に展開される。

 

「こ、これは……」

「ここまでご足労さまでした、イレーヌ女史。お元気で」

 

 一同に集まるよう伝えて、彼らが怖々と譜陣に足を乗せたことを確かめるとアクアリムスに語りかけた。

 

『行きます』

 

 燐光を放っていた譜陣が、強い輝きを放つ。ふわ、と足が甲板から離れたかと思うと、一同は海の中へと潜った。

 

「うっわ!?」

「ちょ、ちょっと、溺れちゃう……あら?」

 

 結界によって、きちんと酸素は確保されている。しかし、このままでは確実に息苦しくなるだろう。

 結界を維持し、ゆっくりと前進させつつシルフィスティアに語りかけた。激しい頭痛に襲われるも、やめるわけにはいかない。

 空気の確保のほかに、彼女には頼みたいことがあるのだ。

 

「不思議だな。冷たいし、水の感触はあるのに、濡れてない」

「本当ですわ」

 

 水の感触を両手で確かめつつ、フィリアはすぐ傍を通過する魚群に目を奪われている。

 他の一同も、海面に近い海中の様子に気を取られていた。ただ一人と、もうひとつの人格を除いては。

 

『フィオレ、すごく顔色悪いよ。大丈夫?』

「お前の体調なんか知ったことじゃないが、沈没されても困る」

「……」

「おい」

「話しかけないで。集中が途切れる」

 

 急遽取り出したフリーズダイヤ──風の属性が封じられている透明な輝石を消費することで頭痛を緩和させ、空気の確保と周囲の様子を投射する。

 進む方向にあるのは人気のない海岸だ。魔物の気配もないことを確認したフィオレは、風の視界を操って上陸しようと目論む島を見下ろした。

 そこで、大規模な集落を発見する。セインガルドとは根本から異なるであろう建築様式の建物に、行き交う人々の服装は今のフィオレやリオンに近い。

 島国だからなのか、街中の至る所に水路が張り巡らされている。

 

「これは……シデン領か?」

 

 リオンが何か言ったようだが気にはしない。

 本来なら目蓋の裏に投影するのだが、今は海中移動中だ。目を閉じてそれにのみ集中はできなかった。

 街中を映す風の視界は、やがてこぢんまりとした港へ到達する。しかし港はひどく閑散としており、僻地の港だから、という理由では済ませられない静かさだった。

 これを不思議に思わないフィオレではない。再び風を操って、港全体を見回した。

 真昼間の港にしては波止場に船が並び過ぎているし、競りが行われている気配もない。港の片隅では破れてもいない網を広げた老人が、修理をする気配も見せず黄昏ていた。

 ここで思索を巡らせようとして、再び激痛が脳裏を侵食する。いたしかたなく、フィオレは虎の子のつもりでとっておいた蒼と透明な輝石を消費した。輝石が音も無く崩れ消滅するのと同じく、頭痛が失せる。

 同時に周囲を目視すれば、陸地はすぐそこだった。

 

「……なんか、港が機能していなかったようですね」

『もう大丈夫なの?』

 

 それまで張り詰めた表情で、汗さえ浮かべていたフィオレの変調に気付いたのだろう。

 シャルティエが気遣わしげに話しかけてくる。他一同は海中の様子に気を取られており、気付いた様子はない。

 

『あまり大丈夫ではありませんが、もうすぐです。魔物が現われなくて、幸いでした』

 

 もしも海中移動中に襲われていたら、逃げるくらいしかできなかったろうから。

 それまでシデン領を映していた投射画面を眼前の海岸に移動させ、周囲の様子を伺う。

 周囲に人の目や魔物が見受けられないことを確認して、一同を包む結界を一息に浮上させた。

 

『ありがとう、アクアリムス。シルフィスティア』

『それは構わないのですが……』

『ちゃんと休んでね? 今のでかなり消耗したでしょ』

 

 音もなく、水をかき分けて砂浜に足がつく。

 全ての負荷から解放され、体から緊張感が一斉に消えたせいなのか。フィオレは言葉もなく膝から崩れ落ちた。

 

「フィオレさん!?」

「……平気です。気が抜けただけですから」

 

 とはいえ、同時に彼らの力を借りるのはやはり無茶だったのだろうか。なかなか立ち上がれない。

 しかしそれを馬鹿正直に告げるつもりもなく、フィオレはそのまま砂浜に寝転んだ。

 

「おい、何をふざけて……」

「さーて。バティスタはどこかな、と」

 

 頭上であきれたように見下ろしてくるリオンなど、どこ吹く風で、フィオレは懐から額冠(ティアラ)操作盤を取り出した。

 レーダーを起動させると、淀みなく三つの額冠(ティアラ)の位置が表示される。二つはすぐ近く、もうひとつは……残念ながらこのシデンの領土にはいないらしい。

 現在位置から西側に位置する島国に、かの額冠(ティアラ)の反応はあった。

 

「残念ながら、さっきの集落にはいないようですね。とっとと隣の領に行ったほうがよさげです」

「隣の領と言いますと……」

「このモリュウ領ってところですか?」

 

 フィオレに渡された地図帳をめくり、スタンがとある頁を開く。小さく頷いて、フィオレはどうにか起き上がった。

 

「陸続きならさっさと向かうところですが、地図を見る限りかなり距離がある様子です。だったらシデンの集落で情報収集と船を用立てることにしましょう。ただし、発言には気をつけてくださいね」

 

 一同を引き連れて歩き出しながら、先ほど見た光景を思い起こす。海中移動の最中、あの位置からでもそう遠い場所にはなかった。

 現に今、フィオレが立つ場所から海沿いにせり出した波止場のようなものが見える。あれを目指して歩けば、迷わずには済むはずだ。

 

「ねえ、発言には気をつけろってどういうことよ?」

「アクアヴェイルは鎖国……各国との交流断絶状態にあるので、表向き外国との貿易をしていません。つまり、旅の者です、と言っただけでは怪しまれる可能性大です。ルーティ達の格好では尚更」

「それじゃ聞き込みができないじゃない。どーすんのよ!?」

 

 やはり先に説明しておいて良かった。集落付近で話をしていたら、この騒ぎ具合で注目が集まるだろう。

 そんな彼女の賑やかさに、ケチをつけたのはこの人だった。

 

「わめくな、ヒス女。盗み聞きされていたらどうする」

「誰がヒス女よ! 偉そうに、あんたには何か考えがあるっての!」

「当たり前だろう、お前とは違うんだ。それにお前は、フィオレが何のアテもなく動き始めるアホだとでも思っているのか」

 

 リオンにも一応考えがあるようだが、まずはフィオレの案を聞くつもりらしい。

 暗にどうするつもりなのかを尋ねられ、フィオレは足を止めた。周囲の人の気配はない。おそらくは、大丈夫だろう。

 

「先程は、情報収集に船を用立てると言いましたが、情報収集はさておいて船の確保は難しいと思います。アクアヴェイルにも商業上の理由で定期連絡線があると思うのですが、私が見た限りでは港が機能している気配はありませんでした」

「見たというのは、さっきの映像のことか」

「ええ。まずはそれを探ろうかと思いますが、これについて詳細を調べる方法も検討はつけてあります。しばらくついてきてくれませんか?」

 

 詳細を尋ねるも、フィオレは再び歩き出すだけだ。一同はそのままついていくことを余儀なくされた。

 やがて静かな港の全容が、シデンの領主がおわすだろう町並みが見えてくる。

 そこで、フィオレはくるりと振り返った。

 

「フィオレさん?」

 

 スタンが声をかけるも、フィオレは一同の姿を上から下まで余すところなく見回しているだけだ。

 やがてフィオレは、おもむろに自分の荷袋を漁ったかと思うと、何かを引きずり出した。

 手にしていたのは、カルバレイスにてフィオレが着用していた、すっぽりと体全体を覆うことができる外套である。

 そしてそれを、ルーティへ差し出す。

 

「ルーティ。まことに申し訳ありませんが、街中ではこれの着用を義務付けます」

 

 無論のこと。彼女は露骨に嫌がった。

 

「ええー! 何でよ」

「その格好が非常に目立つからです。これまで旅してきて、男性からの視線を感じたことがないとは言わせません」

 

 決して下品ではないが、ヘソを出して歩き回るのは問答無用で目立つ。これまでならまだしも、密入国中の身でいさかいを起こすわけにはいかないのだ。

 不法者といさかいを起こすならまだしも、それによって更なるトラブルを引き起こす危険を考えると、看過はできない。

 

「この格好だと、寄ってきた色ボケから色々せしめられるのに……」

「また今度にしてください。それと、不審だと思われるような行為をしようとしたら私から電撃を飛ばしますので」

 

 これには流石にスタンすら鼻白むも、それだけ真剣なことが伝わればそれでいい。きっちり着用させて、再び歩き出す。

 やがて一同は、件のシデン領へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
 常々思っていたことですが、ルーティの格好って絶対目立ちますよね? (ファンタジーに突っ込み禁止。大事なことなので二回ry)


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第六十九夜——明鏡止水~やってることは猫助け

 inシデン領。アクアヴェイル編の始まり始まり。
 まずは情報収集をしたいところですが、変に聞き込みをすると余所者感丸出しで目立ちます。
 目立たないように……と思っていたのが一転、フィオレの気まぐれで大変なことに。
 あ、ちなみに原作ではぷらぷらしていたおじいちゃんが暇だったのか、現在シデン領の様子をぺらっぺらしゃべってくれますよ。
 よく見れば格好から余所者だとわかるはずなのに、怪しいと思わなかったのですかね?(笑)
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は午後を少し過ぎた辺り。ジルクリスト邸にいた頃なら優雅にお茶でも嗜んでいたであろう頃合に、一同はシデン領へたどり着いた。

 風精の視界を借りて見下ろした際は水路が張り巡らされている、と思っていたが、実際に見てみるとまた違う。

 水路というよりは建物の周囲を堀で囲ってあるかのような風情だ。従って、街中は徒歩で行き交う人々に溢れている。

 

「……文献で見た通りですわ。とても特殊なお洋服なのですね」

「変わった建物よねえ。扉にノブがないし、動かすと壁の中に埋まるみたい」

「細い路地が多いな。迷いそうだ」

 

 案の定、仲間たちは見たこともない異文化に触れて好奇心を隠していない。

 マリーに至っては近くの食事処に立ち寄りかけて、ルーティに引き戻されている。

 

「お前ら、あんまりきょろきょろするな。よそ者だということが丸判りだろう」

「観光は後です。行きましょうか」

 

 この人数で歩き回るのは、きっと目立つだろう。だが、勝手のわからない異国で別行動を取るのも不安だ。

 風精の視界を思い起こし、フィオレはゆっくりと歩き始めた。

 

「どこへ行こうっての?」

「シデン領領主邸です。私のアテが外れていなければ、とある情報が得られるはず」

 

 大通りを抜けて進んでいくうち、一際大きく赴きも雅な建造物が見えてくる。

 あれを目指しているんだと一同に知らせれば、リオンが胡散臭そうに鼻を鳴らした。

 

「まさか、乗り込むつもりじゃないだろうな」

「まさか」

 

 そもそもフィオレが目的としているのは、人ではない。

 リオンの疑いを軽くあしらうも、フィオレはこの時点で若干の不安を抱えていた。

 やはり連れの風体がこの地の人々のものではないからだろうか。行く人来る人からの視線をやけに感じるのだ。

 鎖国中の異国への密入国という負い目で過敏になっているのならいいのだが、現に周囲を見回すとそそくさと視線を逸らして過ぎていく人々が多い。

 やはりフィオレではなくて、フィリアの神官服をどうにかしたほうがよかったのか。それとも先程の挙動不審が尾を引いているだけなのか……

 腰に提げた紫電のせいだけではないことは確かだ。何故なら紫電の鞘は、余りのサラシを巻きつけてしまったのだから。

 気にしてもどうしようもないことだけは確かである。実害があるまで、フィオレは放置しておくことにした。

 顔を上げて一直線にシデン領領主邸へ近づく。そこでフィオレは、特徴的な声を聞いた。

 

「スタン、ちょっと」

 

 おもむろに一本の大木の下へ歩み寄ると、いきなりどうしたのかと言わんばかりの一同をさておいてスタンを呼ぶ。

 やってきたスタンの腕を掴んだかと思うと、ぐいぐいとある位置へ誘導した。

 

「な、な、何ですか」

「ちょっと踏ん張っててください。間違ってもよろけたりしないでくださいね」

 

 できる限り動かないようにきつく念を押す。そしてフィオレは、いきなりスタンの背中を登り始めた。

 

「ちょ、ちょっとフィオレさ……」

「理由ですか? 樹上を見てくださればそれで」

 

 指差されて、スタンがひょいと上を見上げる。

 彼の視線、彼女の指の先、更に樹上から張り出た一本の枝の先に一匹の子猫がいた。細い枝先は子猫の体重でたわみ、子猫は恐怖で体がすくんでいるのか微動だにしない。

 少し離れたところでは子供が、子猫の名らしきものを呼んでは降りてくるよう呼びかけている。

 やがてスタンの背中を登りきったフィオレは、彼の両肩に自分の足を乗せていた。

 無論のこと、編み上げの長靴(ブーツ)は脱いで薄手のレギンスに包まれた足である。バランスよく直立したフィオレは、真上の枝に手を伸ばしてスタンに告げた。

 

「足を肩幅に開いて、衝撃に備えて下さい。今から跳びますから」

「わかりました」

 

 できるだけ膝を曲げて、文字通りスタンを踏み台に跳ぶ。伸ばした手のほんの僅か先にあった枝を両手で掴み、そのまま懸垂の要領でフィオレは首尾よく枝に乗った。

 真下ではスタンが跳躍の衝撃を受けてバランスを崩しており、リオンが呆れたように見上げている。

 大道芸か何かと勘違いでもしたのか、人が集まってきているようだが、今更後には引けない。

 今フィオレが立つ枝から、子猫のいる枝までは上下にかなりの距離がある。

 指先と足先で小さな取っ掛かりを探し、梢まで登ると子猫がフィオレの存在に気付いた。

 ここで警戒させてしまっては元も子もない。フィオレは口元を押さえて小さく咳をすると、声帯模写を披露した。

 無論その模写は、下で子猫を呼ぶ子供の声などではない。親猫が子猫を呼ぶ時に使うものだ。

 

【…………】

 

 ぴくん、と子猫が反応する。そのまま寄ってくるかと思われたが、子猫はその場に留まったままだ。迎えに来てもらえるとでも思っているのだろうか。

 子猫がいるだけでたわむ枝など、フィオレが行けば当然折れる。再びフィオレは声帯模写を行使した。

 何度か呼びかけて、ようやく子猫がそろそろと前足を動かし始める。

 フィオレはと言えば子猫を刺激しないためにか、その様子を視界の端で見守るだけだ。猫は眼を合わせると敵認定をしがちなため、である。やがて子猫が、フィオレの腕が届くところまでやってきた。

 あと一歩近寄ってきたら首根っこ掴んで捕獲しようと企んでいた、そのとき。

 何やら羽ばたきが聞こえたかと思うと、突如現われた漆黒の鳥が子猫に襲いかかった。

 確か鴉という種類だ。いきなり現われたということは、近くに巣があって卵を温めていたのかもしれない。

 脳裏の違う場所で冷静にそんなことを考えたフィオレが、バランスを崩して足を踏み外した子猫に手を伸ばす。

 結果、フィオレも樹上から落下した。

 

「危ない!」

 

 子猫が片手にしがみついていることを確認してから、落下中目星をつけた枝めがけて足を伸ばし、膝裏を引っ掛ける。

 膝裏に鈍痛を覚えはしたものの、地面へ激突するのは免れた。ただし手が子猫で埋まっている今、宙ぶらりんの現在は頭に血が上るし身動きが取れない。

 さあどうしようかなと考える内にふと下を見ると、そこにはスタンが顔色を青くして待機していた。

 

「スタン。そこにいられるとあなたが危険なのですが」

「今危ないのはフィオレさんの方です!」

「落下した人間の危険性は隕石にも匹敵します。最悪、圧死しますよ」

「でも……!」

 

 そうこうしているうちに、逆さのまま抱えていた子猫が暴れ始める。

 しっかり捕まえていたつもりだったのだが、異常な状況に耐えられなかったのか。フィオレの手から逃げ出したかと思うと、袂の中に入り込んでしまった。

 ともあれ、これで両手が使える。もし子猫が何かの拍子で零れてしまったとしても、スタンが受け止めてくれるだろう。

 しかし、膝裏を枝に引っ掛けたまま起き上がるのは人体の構造上不可能だ。そこで、フィオレはわざと、ひっかけていた足を伸ばした。

 随分増えてしまった野次馬たちから悲鳴が上がる。頭から地面へ落下しながら、フィオレは冷静にすぐそばの幹を蹴った。

 首尾よく適当な枝を掴んで停止、幹を伝ってするすると降りていく。地面にたどり着く頃、ブーツを携えたフィリアが涙目で迎えてくれた。

 

「もう、どうしていつもそう無茶ばかりするのですか! 見ているこちらはハラハラしましたわ!」

「フィリアの言う通りですよ。そりゃ悪いことじゃないけど」

 

 見なければ万事解決だ、と抜かすフィオレにスタンも加わって抗議、リオンなどは半眼で鼻を鳴らしている。

 

「お前のお節介のせいでこんな騒ぎになってるぞ。どうするんだ」

「実害が出なければ気にすることじゃありませんよ」

 

 長靴(ブーツ)を履き、目を白黒させて事の成り行きを見守っていた子猫の飼い主と思しき子供に歩み寄る。

 未だに懐から出てこない子猫の首裏の皮を掴んで引きずり出すと、少年は嬉々として手を伸ばしてきた。

 

「アッシュ!」

「……躾は、子猫のうちからきちんとしておいたほうがいいですよ」

 

 明るい灰色の子猫だから、その名も致し方ない。懐かしいその名に苦笑を零し、くるりときびすを返す。

 寄り道を一同に詫び、集まっている野次馬をものともせずに歩き出したところで、とある会話が気になった。

 

「──なあ、あの娘エレノア様に似てないか?」

「──似てるな。もっともあんな眼帯はしていなかったし、眼の色も御髪の色も違うようだが……」

 

 野次馬をかき分けるようにしながら、時折仲間達がちゃんとついてきているかを確かめながら記憶を検索する。

 アクアヴェイルのエレノアといえば、以前イスアード将軍が「何の参考にもならないかもしれない」という前提のもと話してくれた亡き人物名にあったはずだ。

 確か、本名エレノア・リンドウ。モリュウ領領主子息の恋人だか何だかだった気がする。

 それが何故だか、トウケイ、という領の領主にして現アクアヴェイル公国を束ねる大王とかいう人物に嫁がされてどうたらこうたら、ということと、そのエレノアなる女性がフィオレに酷似している、程度までは聞いたはずだ。

 彼女自身とは馴染みが薄いはずのシデンの住人がそんなことを囁くとはどういうことか。それほどまでに彼女は、ここアクアヴェイルにおいて有名な人間なのか……

 となると、フィオレが素顔を晒しているだけで目立つということになる。それは少々歓迎できない。

 自意識過剰かもしれないが、用心は重ねるものだ。フィオレは歩きながら荷袋を漁った。

 取り出したのは、大きめのキャスケットである。以前ダリルシェイドで購入したもので、サイズが合わないために目元をすっぽり覆えるものだ。

 アクアヴェイル風の衣装では違和感があるだろうが、顔を自然に隠せるものなどこれくらいしかない。

 ところが、フィオレの目論見とは真逆の方向で動き出そうとしている人々がいた。

 

「ねえ! 今の連中、あんたが誰かに似てるとか言ってたわよ!」

「ひょっとして、記憶喪失になる前のフィオレさんを知ってるのかも……」

「それは一大事ですわ。早急にその方々を呼び止めましょう!」

 

 俄然色めく彼らにまずは落ち着くよう言い渡し、有無を言わさず場所を移動する。

 存外彼らは素直についてくるが、文句を垂れるのは忘れていない。

 

「どうしてですか? それにその帽子……」

「彼らが話していた女性については、イスアード将軍──セインガルド七将軍の一人にしてアクアヴェイルより招聘された方から多少のことは伺っています。その人はもう、お亡くなりになられているそうですよ」

 

 彼から知りえた情報を、包み隠さず打ち明ける。今現在、彼女は故人なのだ。噂が立つ程度ならまだしも、近親者、血縁との接触だけは避けなければならない。

 彼女のことに関してはリオンも聞き及んでいたらしく、眉間に皺を寄せて確かめてきた。

 

「お前、本当にそのエレノアとかいう女じゃないだろうな」

「違うと言っているのに。いつになくしつこいですね」

『フィオレ、坊ちゃんの身になって考えてみて? 頼りになる剣の師が一転、虫も殺せないようなお嬢様になっちゃったらやっぱり困るよ。まあその時はなんだかんだ言いつつ坊ちゃんが護ってくれるだろうから、そんな坊ちゃんの勇姿に君が惚れてくれればそれもアリだと僕は思うけど』

「……じゃ。その時は精々、護っていただきましょうか」

 

 シャルティエの妄想垂れ流しを適当にあしらい、一同はフィオレの先導のもと、ようやく領主邸前へと訪れた。

 人の行き交いが一段と激しい大通り、フィオレの望んだものは眼前の巨大な掲示板に掲げられている。

 

「あったあった」

「何あれ? 随分見難いわねえ……」

 

 ルーティがぼやくのも無理はない。掲示板の文は縦書きで、横書きが基本の大陸ではなかなかお目にかかれるものではないだろう。

 かくいうフィオレも、こちらの文字に慣れきっているわけでもないため、縦書きでなくても読みにくい。

 眼を細めながら一生懸命黙読していると、横からスタンが内容を音読してくれた。

 

「えーと、先の出来事に起因し、モリュウ並びにトウケイの定期船、及び漁船の出港の無期限停止をアルツール・シデンの名において命ずる……これって」

「参りましたね。これでは個別交渉の余地もないではありませんか」

 

 港が静かだったということは、何か異変が生じたのだろうと思っていた。

 しかし、領主の命令として発布されているのでは、手の出しようがない。

 

「先の出来事ということは、きっと何かあったのでしょう。バティスタと何か関わりがあるのでしょうか……」

「ねーちゃんたち。モリュウの新領主のこと知ってるのか?」

 

 不意に声をかけられ、更に何かが足の周りにまとわりつく。見下ろせばそれは小さな毛玉で、よくよく見てみると和毛も柔らかな子猫だ。

 そして、内輪での話し合いが十分に聞こえる距離に見覚えのある少年が立っていた。

 まずいことに、スタンがそれに反応してしまっている。

 

「モリュウの新りょ……う」

「ああ、どこかで見たと思ったら先ほどの猫とその飼い主ではありませんか。何か御用ですか?」

 

 過剰反応しかけたスタンの額冠(ティアラ)に微弱電流を発生させて黙らせ、ずずいと前へ出る。

 スタンが急に黙ったことに首を傾げた少年だったが、反応したフィオレによって気を取り直したようだ。

 

「何って、アッシュを助けてくれたお礼、言ってなかったからさ。ねーちゃんたちさっさと行っちまうし」

「そうですか、急いでいましたもので。ちょっと腰を落ち着けたいので、お礼をする気があるならどこかいいところ知りませんか?」

 

 バティスタがモリュウの新領主という話は気になるが、下手なことを口走れば子供とて怪しむだろう。どのように切り出すのか、考えをまとめる必要がある。

 そういうことならと、少年は子猫を呼び寄せて案内を始めたのだ。

 領主邸前を離れて大通りを歩く。方角からして港寄りだろうか、同じ通りをえんえんと歩いた先。

 少年は赤い敷物が敷かれた特徴的な長椅子が設置されている甘味処へ躊躇なく足を踏み入れた。

 

「いらっしゃい。食事かい、宿泊かい……って、お前。帰ってくるときは裏口を使えって言ってるのに、この子は」

「お客さん連れてきたんだよ。適当に座っててくれな。すぐ準備するから」

 

 母親への挨拶もそこそこ、少年は子猫を伴わず店の奥へと姿を消している。

 一方母親は、少年の連れてきたフィオレたちにようやく気付いたらしい。

 

「ああ、いらっしゃい。何人だい?」

「六人です。ところで、部屋の方に空きはありますか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




猫とはいえ、アッシュが地面に叩きつけられるところを見たくなかった様子。


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第七十夜——甘味と子猫としょっぱい洞窟

 アクアヴェイルシデン領なう。
 甘いもの食べて、情報引き出させて、一同だけはたっぷり休ませて、いざ洞窟へ。
 



 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやらここは奥の建物と連なっているらしい。体よく今夜の宿を得て、今に至る。

 ごろごろと甘えてくるアッシュ、もとい子猫に適当に構っていたところで、少年は人数分のおしぼりとお品書きを手に戻ってきた。

 

「お待たせ。何にする? おすすめは炒り胡麻の団子と栗善哉だけど」

「じゃあそのお団子を人数分と白玉善哉を五人分。あと、私にわらびもちと抹茶のセットをひとつ。とりあえずそれでお願いしますね」

 

 お品書きをざっと見て、適当に大量の注文をする。

 フィオレが予想していた通り調理関係に専門の人間を雇っているわけではないらしく、少年は母親と共に奥へと引っ込んだ。

 人払いは済ませた。これでしばらく、彼らは表に出てこない。

 

「あの、フィオレさん。わたくし、そんなに入るか……」

「食べ切れなかったら私が責任持って処理します。それよりか、これから先のことなんですがね」

 

 そんなに食べたら太る、やら自分は甘いものは苦手だ、などと各自文句を言いたい面々をこの一言で退け、声を潜める。

 

「これから、どうにかして情報を引き出して見せます。適当に合わせてください。できるだけ皆に話題が及ばないようにしますから」

「どうでもいいが、勝手に注文したんだ。代金はお前持ちだぞ」

「……うまく情報が引き出せたら、おひねりください」

 

 流石にこの人数の注文分を引き受けると懐が寂しくなる。

 目立つわけにはいかない異国の地だが、こっそりと路上演奏を試みるという選択肢も考えざるを得ない。

 さて、どう切り出したものか……

 膝に乗っていた子猫が、不思議そうに首を傾げる。子猫をつまんでマリーに手渡し、考えをまとめていると三つの団子を串に差したものが二つずつ、一同に提供された。

 炒り胡麻の餡を団子にし、更に表面にも胡麻がまぶされたものである。それをひとつずつ一同に出した少年は、最後に点てた抹茶とわらびもちをフィオレに出して、ふう、と息をついた。

 

「ありがとう。美味しいですね、これ」

「だろ? 他の店ではやってない、うちのオリジナルなんだ」

 

 どうやらまだ、残る注文の品は出来上がっていないらしい。抹茶をすすって、フィオレは情報収集を始めた。

 

「ところで、さっきモリュウの新領主がどうとか言っていましたね。モリュウの領主様はジノ様であられたはずですが」

「新領主がどうとか言ってたのはそっちだろ? ここ最近噂になってるのに、知らねーの?」

 

 当然の話運びである。団子をかじりながらこちらの話に意識を向ける面々の視線を感じつつ、フィオレは堂々と言ってのけた。

 

「実は私たち、とある方の依頼でこのシデンへ来ていました。さる事情でずっとここから離れていたんです。なので、定期船どころか漁船が出れないことも、ついさっき知ったばかりなのですよ」

「依頼? 事情?」

「仕事の話なので詳細はお話できません。あなたが知る噂で構わないので、ジノ様がご子息を無視して、そのバティスタとやらを領主にした理由をお聞かせ願いたいのですが」

 

 至極不思議そうに首を傾げる少年だったが、何やら大人の事情が絡んでいることだけは察したらしい。

 この年頃の子供は好奇心旺盛だが、それでも関わるなというニュアンスが含まれていたことを感じたのだろう。

 

「オレも詳しいこと知ってるわけじゃないけどさあ……」

「あ、そうそう。まだお支払いを済ませていませんでしたね」

 

 巾着を探って、品書きをちらりと見たフィオレは団子六人分、善哉五人分、更にわらびもちセットの代金を少年に手渡した。

 不思議なことに、少年は驚いたようにフィオレの顔──正確には目元を隠す帽子を見ている。

 

「え? い、いいよ! アッシュを助けてくれたお礼なんだから、ここは……」

「じゃあ、宿代の分は甘えましょう。それで?」

「それが……ジノ様、亡くなられたらしいんだよ。何か知らないけどバティスタとかいうのが新領主になって、モリュウは今滅茶苦茶なんだとか」

 

 だから、とばっちりを恐れてシデン候は船のやりとりを禁止しているのか。それにしてもトウケイとの定期船も禁じているというのは……

 

「今の大王は知っての通り、トウケイの領主が兼ねているんだけど。なんか、モリュウの新領主に聞いたこともないような奴が着いたのは大王の一言があってらしいんだよなあ」

「領主子息を差し置いてまで得体の知れない輩に領主を一任させた。そんな領同士のごたごたからまずは民を護るために交流を一時的に差し止めた……と、言ったところでしょうか」

「難しい話はよくわかんないけど、そんな感じなんじゃねーの」

 

 わざとややこしい言い方をしているのに、これだけ理解できれば大したものである。

 おおまかな事情はわかった。あとは、手段だけだ。

 

「しかし、困りました。私たちはすぐにでもモリュウに行かなければならないのですが」

「でも、最近モンスターがよく出るようになったとかで船とか全然出てないから、駄目なんじゃないかな。魚とか食べられなくても皆我慢してるしさあ」

 

 魚がどうとかいう問題ではないのだが、この件に関してこれ以上この少年から有益な情報は見込めないだろう。

 やがて先ほどの母親が、白玉善哉を運んできた。礼を言って彼女が持っている盆を受け取り、一同に配っていく。

 

「お茶とかもらえますか?」

「はいはい、ちょっと待ってておくれね」

 

 最後の団子を食べようとして、横から噛み付いた胡麻団子を串から引き抜き、悠々食べる。

 そうやって、最後の団子に悪戦苦闘しているスタンに食べ方を教えてから、フィリアの前をちらりと見た。

 

「……手伝わなくてもよろしそうですね」

「ええ、思いのほか美味しくて」

「まったくもー、太っちゃうじゃない。あ、あたしこの芋羊羹ての食べてみたい」

「私はこのみたらし団子というのを……」

 

 フィリアは嬉々として善哉をすすり、ルーティも文句を言いながら追加注文、更にマリーも便乗している。

 スタンも順調に食べ進め、甘いものは苦手なはずのリオンなどはすでに完食していた。少年と話をしていたフィオレが一番遅いくらいである。

 とりあえずルーティは、もう少しくらい太ってもいいような気がするが……

 つつがなく甘味を食べ終え、そのまま宿へ案内してもらう。一室に一同が集まり、会議が始まった。

 

「とりあえず、グレバム本人かその協力者がここにいるのは間違いなさそうですね。いくらなんでも、バティスタ個人の力だけでアクアヴェイル大王とこんな短期間で懇意になったわけがありませんし」

「ええ。ですが、一体何があればそのような奇妙な話になるのでしょうか」

 

 バティスタがアクアヴェイルへたどり着いたのは数日前のはずだ。

 その彼がいきなり領主様になり、さらに前領主が死亡しているなどというのは、確かに奇妙な話である。

 

「大王とかいうのに神の眼をちらつかせて、味方にしたんじゃない?」

「でなければ、もともとグレバムがアクアヴェイルと通じていたということになるな。真の敵はアクアヴェイル大王で、グレバムを使って神の眼をセインガルドから盗み出した……まったく考えられない話ではない」

 

 両方とも有り得るから困る話だ。

 とはいえ、前者は大王といってもただの小物、後者はこの地でようやく決着がつけられるからどちらでもメリットはある。

 

「それで、どうやってモリュウ領へ行くんです? 島が違うから船じゃないと行けないみたいですし」

「もう一度、フィオレの手品を使うのか?」

 

 マリーの言葉に、フィオレは首を横に振った。

 あんなに疲れることはまっぴらごめんである。というだけではない。

 

「アクアヴェイルには浅瀬が多い、と聞いていましたが、モリュウ領は半端なく多いようです。更に魔物がどうこう言っていましたから」

「じゃあどうすんのよ」

「それは、これから調べてくることです」

 

 ルーティの問いに、フィオレはすっくと立ち上がった。今しがた得た情報だけを鵜呑みに動くつもりなど毛頭ない。

 

「そんなわけで、夜になったら繁華街に足を伸ばしてきます。アクアヴェイルのより詳しい情勢やモリュウへの移動方法、仕入れてきますから」

「フィオレさん一人でですか? それならわたくしも……」

「格好が目立つから却下です。唯一許可できるのはリオンですが、そんな面倒くさいことはしたくないでしょう」

 

 名乗り出るフィリアに却下を下して、座布団にあぐらをかく和装の少年を見やる。

 彼は当然だといわんばかりに、背の低いテーブル上に置かれた御付菓子に手を伸ばした。

 

「わかってるじゃないか。さっさと行ってこい。門限を過ぎて不法侵入者扱いされるなよ」

「サイテー。あんた、フィオレ一人に仕事押し付けるわけ?」

 

 相変わらずの毒舌ぶりに、そろそろ耳障りになってきたのか、ルーティが噛み付いた。

 それをリオンが涼やかに流すよりも早く、苦笑を零す。

 

「まあまあ、ルーティ。リオン様はご自分の口下手をよくご理解していらっしゃるのですよ。それに聞き込みへ行くとご自身の見目が災いしてナンパされてしまうんです。目立つだけ目立って何も情報が得られないというのは、行かないより役に立たないので」

「……」

 

 実際のところ、リオンの聞き込みはそこまでひどくはない。

 ただ、どういうことかリオンはナンパに対してそれほど耐性を持っておらず、適当に聞き流せばいいものを、おそらく舐められていることに憤慨してだろう。猫撫で声の相手に対して声も態度も荒げることが多い。結果揉め事に繋がることはけして少なくなかった。

 故に、だったら一人のほうがまだやりやすいとフィオレは思っているのだが。

 

「……頼りにならない上司ねえ」

「期待するべきはそこではありませんから」

 

 フィオレがリオンに期待すること。

 それは戦力面でのことでも、仕事のことでもない。あらゆる意味で自立を覚えることである。信用していないわけでもないし、信頼していないわけでもないが、それでも今のリオンに頼ることなど何もない。

 何ともいえない表情の面々を残して、フィオレは帽子を被った。まずは、徹夜に備えて仮眠を取る事からである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、早朝のこと。

 アクアヴェイルの朝日が昇るのを拝みながら戻ってきたフィオレは、一同が朝食を摂り終える時までぐうすか眠っていた。

 一同が朝食を摂り終えて戻ってくる頃には起きていたものの、その腹はくうくう鳴っている。

 

「あの男の子が、フィオレさんの姿がないのを不審がっていましたけれど。まだ寝ているのだと告げたら部屋でも食べれるように、と差し入れてくださいましたわ」

「それで、聞き込みのほうはどうだったんだ」

 

 笹の葉っぱに包まれたお結びをありがたく頂戴しつつ、フィオレは聞き込みの成果を語り出した。

 

「アクアヴェイルの情勢に関して、私たちに関係するのはあの少年の言っていたことくらいですかね。バティスタの名は溢れていましたが、グレバムの名は一切上がってきませんでした」

 

 関係しなさそうな情報ならいくらでも手に入ったが、蛇足だと怒られそうなので省いておく。

 そして、肝心のモリュウへの移動方法はといえば。

 

「あんまりはっきりしない上に裏道っぽいですが、一応見つけました」

「本当ですか!?」

「街近くに、モリュウへ通じる洞窟があるらしいのです」

 

 スタンが淹れてくれた緑茶をすすり、地図帳を取り出す。

 鎖国中のアクアヴェイルの地理だからか、大まかなものしか載っていないが役に立つので文句はない。

 

「私たちが上陸した海岸とは反対方向の海岸沿いに歩けば入り口があると。問題は、潮の満ち引きで水没するかもしれないということですが……」

 

 とある酒場にて接触した老人のことを思い出す。その昔、アルツール・シデン候の元で働いていたと言う老人は教育係か何かだったようだ。三人いる若君の内の一人が大変な腕白で、モリュウ領へ通じる洞窟をよく二人で探索したがどうこういう話をえんえんと聞かせてくれた。

 

「じゃあ、ちゃっちゃと進めばそれでいいじゃない」

「問題はそれだけではないのです。人が寄り付かないせいなのか、洞窟内は水棲魔物の住処となっているんだとか。程度によっては中盤辺りで魔物に囲まれ、満ち潮の時間になっても洞窟脱出が果たせなければ……」

「なければ?」

「皆仲良く土佐衛門、水没死ですね」

 

 悲惨な死は数あれど、溺死者の遺体ほど醜いものは少ないと聞く。

 何せ、水を吸ってブクブクに膨れ上がり、尚且つ呼吸ができないという苦しみに苛まれた挙句の死に顔なのだ。綺麗なわけがない。

 そんなわけで潮の満ち引きを十分知ってから洞窟を抜けようと提案するフィオレだったが、時間がかかるためなのか賛成の声はなかった。

 

「魔物くらい、どってことないじゃない。あんたがそんな理由で慎重に行こうなんて、珍しいわね。何かあったの?」

「……嫌な予感がするんです。こういう胸騒ぎに限って、的中することが多いもので」

 

 とはいえ、ルーティの言い分も最もだ。仮眠ではあるが十分睡眠も取ったし、洞窟の規模自体はそれほど大きくはない。

 それは、地図上で示されたシデン領とモリュウ領の距離でわかることだ。大人がついているとはいえ、子供が探索できるほどだ。そこまで複雑ではないだろう。

 とにかく向かわなければ話にならない。宿を早々に引き払い、一同は足早に件の洞窟へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ちなみにこの時点で、フィオレはあんまり休んでいません。慣れない土地だけど、皆はきちんと休ませたから、なんとかなんべえとタカをくくっています。
 甘いものを食べたせいで考え方まで甘くなっている認識は、手痛いしっぺ返しとなって彼女を襲うでしょう。


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第七十一夜——鍾乳洞にて、惨劇~予兆

 アクアヴェイル地方シデン領in洞窟。
 モリュウ領へ向かうべく、洞窟攻略へ。
 道中は賑やかながら和やかで微笑ましいものばかりで、胸騒ぎとはかけはなれたもの。
 それでも、嫌な予感は外れない。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 老人の話に違うことなど一つとてなく、一同は無事洞窟の入り口を発見していた。

 今は完全に引き潮であるらしく、湿ってはいるものの水溜りがある程度だ。

 

「なるほど。鍾乳洞なんですね」

「鍾乳洞?」

「これが鍾乳洞なのですか。わたくし、初めて拝見いたしましたわ」

 

 光を透かすように覗き込んだフィオレの言葉に、スタンが首を傾げた。ランタンの準備をしながら、淡々と答える。

 

「雨水、あるいは地下水の浸食によって石灰岩が溶かされて生じる空洞のことです。天井には鍾乳石が氷柱みたいに垂れ下がってて、地面には石筍と呼ばれる突起物の林立が、特徴ですね」

 

 海底に存在する通路なのだから予想してしかるべきだったが、人の手が加わっていないだけに見事な鍾乳洞だった。

 それだけ魔物の生息が予想されるから、あまりいいことではないのだが。

 

「あの岩の柱みたいなのとかあの氷柱みたいのとか、どうやってできるんですか?」

「違うところにある石灰岩が溶かされて天井を伝い、固まったそばから同じことが起こって肥大化します。岩の柱改め石筍は、天井から伝って固まらなかった水滴が地面を打って、ここまで大きくなったのですよ」

「ひとつひとつの水滴は小さくても、長い年月をかけてここまで大きなものを作り上げたのでしょう? それだけ大昔から、この鍾乳洞はひっそりと存在していたのですね……」

 

 フィリアの言っていることに間違いはないのだが、今完全に潮が引いているのだとしたら、あまりのんびりもしていられない。

 フィオレとしては潮が引き始めた頃に突入するのがベストだったのだが、今からここで一日無駄にしようと提案してもリオンに怒られるのが関の山だろう。

 

「……行きましょうか」

 

 もしものことを考えて、ちゃんと火種を用意する。ソルブライトで作った光球は、フィオレの集中が切れただけであっさり消滅してしまうからだ。

 洞窟内は薄暗く、至る箇所がぬかるんでいるせいで足場が悪い。

 しっかりとした岩場がないわけではないが濡れているせいで滑りやすく、ゆるい傾斜のかかっている入り口付近は気をつけないとあっという間に濡れ鼠になるだろう。

 その注意喚起をしようと、フィオレが口を開きかけた、そのとき。

 

「うわぁ~、何かこれぞ冒険って感じ……うわ!?」

 

 ズルッ、と変な音がした後、悲鳴が聞こえる。どうやら周囲を見回して興奮したらしいスタンが足を滑らせたらしい。

 

「……ちゃんと注意していないと、あーいうことになるから気をつけてくださいね、皆」

「スタンさん、大丈夫ですか?」

 

 不幸なことにランタンをスタンが持っていたらしく、あっけなく中の火が消えている。ランタンが壊れなかっただけマシか。

 

「まったく、魔物が出たわけでもないのに何をやっているんだ」

「これぞ冒険って、あんた今まで何のつもりで旅してきたのよ」

 

 痛そうに後頭部をさするスタンに、非情な仲間たちの追い討ちが直撃する。これが胸騒ぎの原因だとしたら、気が楽なのだが。

 気を取り直し、行軍を再開する。

 これまで洞窟を探す間も魔物との交戦がなかったわけではない。

 大陸から切り離された島国の異国だけに生態系も異なっているのではないかと危惧していたが、人の言語同様あまりそういったものがなくて安心していた。

 しかし、悠久の時を人の手が加わることなく存在し続けたこの洞窟に限って、その法則は崩れるらしい。

 現に。

 

「うっわ、何これ!?」

「こ、これは一体どんな動物がレンズを飲み込んだのでしょう……」

 

 薄暗がり、地下水が滝となって流れ地面を伝う内部にて。

 魔物と思しき生物の集団と遭遇した一同は、困惑を隠しきれなかった。

 暗闇に適応してか、目玉が異常に進化しているコウモリモドキはまだわかる。

 が、地面にのたくりずるずると身体を引きずって接近、ナメクジ型の魔物のように得体の知れない液体を吐き出してくる珍妙な魔物相手に、ほぼ一同腰が引けてしまっていた。

 かくいうフィオレも、斬ったら刃物が錆びそうであまり近寄りたくはない。そこで。

 

「フィリア、ちょっと」

「え?」

 

 しんがりから中衛のフィリアに近寄り、その手にあるクレメンテのコアクリスタルに手を伸ばす。

 

「天光満つるところに我はあり、黄泉の門開くところに汝あり」

『そ、その詠唱は!』

「出でよ、神の雷──インディグネイション!」

 

 以前、クレメンテの司る属性は雷だと聞いた。それを聞いてフィオレは本当にがっかりした記憶がある。

 ソーディアン・クレメンテは、ソーディアンの中でも晶術特化型だ。

 全属性晶術を操れると聞いたため、てっきりそのコアクリスタルは通常レンズと同じく、すべての全属性晶力が詰まっているものと思っていた。

 が、実際のところ司るは雷、という風の付属物程度にしか考えていなかった限定的な晶力のみ。そこから派生して様々な晶術に転化させているのだという。

 その派生して転化、というのがどうしても理解できなかったフィオレはクレメンテの活用を諦めてかけていた。

 そこへこの状況、水棲生物なのだからということ、いい機会だから試してみようと簡易型の譜術を使ってみたのである。

 どうしてクレメンテが驚いたように言葉を発したのかはわからないが、結果は上々といったところだろう。

 強烈な閃光がその場の誰もの視界を奪い、轟音がこだました。

 コウモリモドキも不可思議魔物も、一様に消し炭と化し、後にレンズを排出している。

 

「ちょっと驚いたけど、やっぱりモンスターに変わりはないのね」

 

 危機が去ったことを確認し、彼女はスタンやマリーを呼びつけて暗い中レンズ拾いに精を出している。

 一方で、フィオレは思いもよらない説教を受けることになっていた。

 

『なんちゅうことをするんじゃ、お主は!』

『ちょっとあなたの力を拝借して一網打尽にしただけですが』

『じゃが、あの神の雷を使うなんぞ……こんな狭い場所で使って、フィリアらが巻き込まれたらどうするつもりだったんじゃ!』

『そんなヘマしませんよ。その場合は私も漏れなく黒コゲではありませんか』

 

 結果的に無事だったというのに、尚もクレメンテは語気を荒くしてまくし立てる。珍しいなと思いつつ怒声を右から左へ聞き流していると、アトワイトが仲裁に入ってきた。

 

『落ち着いてください、どうしたのですか』

『クレメンテ老がこんなに怒るとは……フィオレ。お前そこまで危険なものを使ったのか?』

 

 守護者との契約を公言したせいなのか、クレメンテの怒り具合を目の当たりにしているせいなのか。

 ディムロスは「あれはなんだ!」と問い詰めることもなく、そんなことを聞いてきた。

 

『危険と言えば危険でしょうが、ここまで言われるほどのものではないはずです』

『でたらめを言うでない。儂でさえ、それを習得するに大分苦労したんじゃぞ。どうにか使えるようになっても制御は難しい、消費する力も激しい……』

『なんだ、ただの嫉妬じゃん。フィオレ、気にしなくていいよ。ようはクレメンテが扱いに苦労した術をホイホイ使われて悔しいだけだから』

『な、なんじゃと!?』

 

 それをきっかけに、激しいソーディアン同士の口論が始まる。

 ひょっとしてこれが胸騒ぎの原因なのか。なら平和でいいことなのだが……

 

『え、違うの? 怒り方が理不尽だったからそうだと思ってたのに』

『馬鹿を言うでない! 確かに、儂のオリジナルは使った後あれだけ消耗したというのにピンピンしとるフィオレの若さがうらやましい、とは思ったがの。これは純粋な注意喚起で……』

 

 ピンピンしているのは若さとかいう問題ではなく、発動に関するエネルギーはほとんどクレメンテ持ち、フィオレは効果範囲を定めて威力を調整しただけだから、なのだが。

 真実はどうでもいいにつき、フィオレは呆れて交互の剣を見やる一同と、終始不思議そうに首を傾げるマリーに呼びかけた。

 

「こういうとき、彼らがソーディアンでよかったですね。口喧嘩はわずらわしくても、立ち往生するようなこともない」

 

 賑やかな彼らをそのまま放置して、一同は更に奥へと進んだ。明らかな変化こそないが、進むにつれて足元が潤ってきた気がする。

 

「それにしても、何なのかしらね。さっきからよく出てくるこの気持ち悪いの」

「うーん、原型が全然わかんないな。リオンは何か、知らないか?」

「知らん。倒せればそれでいいだろう。魔物の正体なんか」

 

 魔物にも環境にも警戒する最中、リオンがごく自然に彼らと対話しているのを聞きつけて何となく和んだ。

 今更だが、旅は人の心を解放的にするものだ。内容はどうあれ、随分成長したものだと思う。

 人知れずフィオレがほんわりしていると、スタンは転ばないようひたすら足元に注意するフィリアへと話を向けた。

 

「フィリアは、何か知らないかな?」

「ええと……強いて言いますなら、前にフィオレさんと一緒に見た魔物図鑑の珍種部類で、似たような記述を見たような」

「オーガスのことですか? 最初はレンズを取り込んで凶暴化した山椒魚か何かだったのが、世代交代を繰り返すことによって生粋の魔物と変化し、今では卵生なのだとかいう」

 

 それでも倒せばレンズは得られるという、悪質なレンズハンターに捕まろうものなら家畜にされてしまいそうな生産性だと、的外れな感想を抱いた記憶がある。

 

「え、でも魔物って子供作れたっけ?」

「普通は無理です。その凶暴性ゆえに、生来の本能を思い出すより前に共食いしているらしいですからね。オーガスという魔物は等しくオーガスクイーンなる、産卵機能を持った魔物から生産されるらしいです」

 

 だからフィオレはこの魔物がオーガスでないことを祈っているのだが、やはりフィリアも同じ事を思ったらしい。しかし、一同は案外気楽なものだった。

 

「でもこの魔物、オーガスだとしたらレンズを食べてないのにレンズを落とすのよね。ひょっとしてそのオーガスクイーンとかいうの捕まえて飼ったら、レンズが定期的に手に入ったり……?」

「オーガスの卵か。美味しいのか?」

「お、美味しいかどうか、食べたことのある方はあまりいらっしゃらないのではないでしょうか。オーガス自体が魔物の中で珍種ですし……」

 

 ルーティは悪質レンズハンターらしくフィオレが思ったとおりの発想を展開し、マリーに至っては魔物の卵に興味を持つ始末。

 心強いと考えていいのか、呑気だと呆れたほうがいいのか。無論、この人の考え方は後者に属していた。

 

「まったく、呑気な連中だな。もしフィオレの言う通りあの不気味な魔物がオーガスとやらで卵生なのだとしたら、この洞窟全体がオーガスの巣だということになるんだぞ」

「あら、大丈夫よ。オーガスなんて大したことなかったし、そのクイーンとかいうのも卵産むだけで普通の奴とそう変わらないんでしょ?」

「いいえ」

 

 確かにフィオレの言い方なら、ルーティがそのように曲解したところで文句は言えない。

 しかし、それは大いなる勘違いだという認識を改めなければ彼女自身が危うい。

 

「ルーティは、動物の卵とか盗んだことありませんか? あるいは動物の子供を狩ろうとしたことは」

「ないわよ。そこまで切迫しないように生活してるもの」

「じゃあ、知らないのも無理はありませんね。どんな動物でも、母親は子供を全力で護ります。どんなに大人しくて穏やかで小さな動物でも、巣にちょっかい出されれば必ず凶暴になるものなんです。例外なのは一部の人間くらいですね」

「う……うん」

 

 フィオレの言い草に何を感じてか、彼女は戸惑いながらも納得の意を示した。

 

「オーガスクイーンは卵を産む機能を持つ、オーガスの成体だと言われています。多分そんじょそこらのオーガスよりは頑丈でしょう、卵を持っていたらそれを護るため、全力で暴れるんじゃないでしょうか」

 

 だから、できる限り出会うことなく、接触を避けて洞窟を抜けるのが理想である。

 そもそも、あの奇妙な魔物がオーガスであるかもわからないのだから、これは考え過ぎかもしれないが。

 幾度となく交戦し、危なげなく勝利を収めて先へ急ぐ。降りていくような緩やかな勾配が昇るような感じになってきた頃。

 恒例のじゃれあいは、唐突に開幕した。

 

「いい加減にしろ!」

「だってもったいないじゃない!」

 

 薄暗い洞窟内、ただでさえ戦闘に時間がかかるというのに、レンズ拾いにはもっと時間がかかる。

 しかしレンズをガルドに換金できる以上、ルーティにとってレンズはガルドと同等の価値があるのだ。

 どれだけなだめてもすかしても効果のないルーティの性格は、これまでの行程で嫌というほど思い知っている。

 それ故、リオンも手伝うことこそなかったが、看過していた。

 スタンやマリーは常時手伝い、この時ばかりは早く進みたいフィオレと、半ばつられるようにフィリアもレンズ拾いに参加している。

 人手が増えたためにかなり早く終わっている方なのだが、それでも時間がかからないわけがない。

 とうとう堪忍袋の緒が切れたリオンと、いつもの通り徹底抗戦を始めたルーティのじゃれあいが勃発したのである。

 交戦とレンズ拾いと警戒で神経をすり減らしていた一同は、これ幸いと仲裁もせず、ちゃっかり休憩を決め込んでいた。

 

「でも、こんなに騒いでモンスターを呼んでしまわないでしょうか?」

「その時はその時、自然とあれも終わるでしょう。少なくとも私には、付き合う余裕がありません」

 

 思い思い楽な姿勢で待機、体力を少しでも回復させる。その間も、いつもより少し過激なじゃれあいは続いた。

 

「それにしても、お二人は仲がいいのですね……」

 

 当初こそ仲裁しようとおろおろしていたフィリアだが、あれは喧嘩でなくじゃれあいであることを認識したらしい。

 むしろ今は、言い争う内容がくだらなければくだらないほど、微笑ましげに見守っている。

 

「そうかなー。犬猿の仲にしか見えないんだけど」

「遠慮なく意見をぶつけられるのは、それだけ心を許しているという証ですわ。まるで、本当の兄弟みたい」

 

 至極当然な意見のスタンに、迷いなくフィリアはそう言ってのけた。表にこそ出さなかったが、妙に反応してしまう自分が悲しい。

 

「フィオレさんも、そう思いますでしょ?」

「……単なる似た者同士だと思いますけどね」

 

 振られた答えを、無難なものでやり過ごす。しかし、それを看過できない人がここにいた。

 

「それは聞き捨てならんな。僕のどこがこいつに似てるっていうんだ」

 

 どうやら白熱したじゃれあいは一段落させたらしく、リオンが耳ざとくなっている。

 フィリアの言葉は、軽く流すつもりらしい。

 

「見た目の特徴。変に意地っ張りなところ。短気なところ。譲れない大切なものを持っていること。本質は優しいけど、それをあえて表に出さないようにしてるところ」

「誰が優しい「のよ!「んだ!」

 

 指折り数えてあげ連ねたところ、一瞬互いを見合わせて、互いに指を差し合い最後のところだけ同じ疑問をぶつけてきた。

 それを元にまたじゃれあいを始めるのだから、元気なコンビである。

 不毛を覚えたどちらかが一方的に切り上げるか、はたまた何かに気を取られて自然と収まれば、それはいつものことで終わっていた。

 終わらなかった原因としては、それまでルーティが後生大事に抱えていた袋──レンズ入れにある。相当長く使っていたのだろう。

 遠目からでもあまり丈夫には見えなかったそれは、内包しているレンズの重みか何かで破れてしまったようだ。

 

「あああ! あたしのレンズがぁ!」

 

 レンズがばらまかれる派手な音、甲高い悲鳴の後にルーティが大慌てでその場に這いつくばってる。

 半狂乱になって水溜りを漁りまくるルーティのたくましさに敬意を表して、フィオレはやれやれと腰を上げた。

 自業自得だとばかりそっぽを向くリオンを除いた一同が総出で拾い集めるも、彼女はつぶらな瞳を見開いてわなないている。

 

「あといちまい……」

「へ!?」

「あと一枚足りないっ! どこ!?」

 

 どうやらこれまで集めていたレンズを逐一数えていたらしく、ルーティは再び地面に座り込んだ。

 しかし、今しがたのように何枚もばら撒かれたレンズを探すならともかく、たった一枚のレンズを探すなど効率が悪すぎる。

 嘆息して、フィオレはすすっ、とリオンに近づいた。

 

「なんだ。僕は手伝わな……」

『シャルティエ。付近のレンズ反応とか、ありませんか? 地属性に闇属性まで兼ねたコアクリスタルをお持ちのあなたなら、この環境では一番強いでしょう』

 

 リオンの中指に銀環を落とし、シャルティエに話しかける。

 リオンは頭痛で言葉を失っているが、これで後々怒られることも、会話を邪魔されることもないだろう。

 今は同調をしていないのか、シャルティエがリオンの体調に気付いた様子はない。

 

『レンズ反応~?』

『このままでは日が暮れます。私はさっさと先に進みたいんです』

 

 言葉もなくリオンが睨んでくるものの、気に食わなかろうが腹が立とうが知ったことではない。

 

『うーんと、そこの……スタンがいる変わった形の岩があるでしょ? その辺にレンズ反応があるけど』

『これですか?』

 

 シャルティエの感覚を信じて、スタンのいる一角へ足を向ける。彼の言う変わった形の岩は妙に歪な形をしていた。

 平たい岩の上に一部分だけ盛り上がった箇所があり、どのように出来上がった代物なのか大変気になる。

 ランタンをかざすもそれらしい反射はなく、岩の隙間にでも入り込んでしまったのかと、何気なく歪な岩に手をかけた。その時。

 

「!?」

 

 あったかい。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第七十二夜——鍾乳洞にて、惨劇~災難

 アクアヴェイル地方シデン領~モリュウ領を繋ぐ洞窟なう。
 様々な不幸が重なって、スタンと共に一同からはぐれ、魔物の巣の中へ放り出され……



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これまで、ふとした瞬間に触れてきた石筍も鍾乳石も、無論冷たかった。

 が、今しがたフィオレが触れたこれは無機物にしてありえない体温を保っている。

 その面妖さに、反射的に手を引いたのが、災いした。

 

 ──ガアッ! 

 

 突如歪な岩だと思っていたものがむくりと起き上がり、細い四肢が生えて立ち上がる。

 前足の一部が持ち上がったかと思うと、咄嗟に身を引いたフィオレへと迫った。

 

「!」

 

 鞭のような一振りがわき腹に直撃し、衝撃で肺から空気がたたき出される。

 動きが完全に止まったフィオレを引き寄せるかのように、歪な岩だった物体はそれまで己がうずくまっていた場所から身を躍らせた。

 岩に擬態して、通りすがる生物に襲いかかる類の魔物か。

 激しく咳き込みながら前足から逃れるも、ふらつく足が止められない。ぐらり、と更なる地下へ通じる穴へ身を投じかけた、そのとき。

 

「フィオレさん!」

 

 後ろから、力強い手に抱え込まれてその場に踏みとどまる。分厚い篭手につけたその人は、言うまでもなく。

 

「た、助かりました、スタ……「スタンさん! 何をしていらっしゃるの!?」

 

 そのまま安全圏へ引きずってくれと頼むよりも前に、邪魔される。

 振り向けば、フィリアが白い頬を赤く染めて鞘つきのクレメンテを携えていた。

 

『フィ、フィリアや。ちっとばかり落ち着いて……』

「ただちにフィオレさんを離しなさい! 女性にそのような形で抱きつくなんて、フィオレさんが許してもわたくしが許しません!」

 

 確かに、今のフィオレは前かがみ、そしてスタンはそのフィオレの腰に手を回して密着しているのだ。

 助平な、あるいはその手に知識・経験豊富な人間ならば真っ先に何かを想像してしまう体勢だが……どうして彼女がそれを連想してしまうのだろうか。実は耳年増か。

 何故か、スタンもまた慌てていた。

 

「違うんだ、フィリア。俺はそんなつもりじゃ……」

「許しません、天罰です!」

 

 いつのまにかスタンの背後に回りこみ、クレメンテを盛大に振りかぶっている。

 ──まさか。

 

「馬鹿者! そんなところでクレメンテを振り回すんじゃ……!」

「お仕置きです!」

 

 リオンが声を荒げるものの、彼女は毛ほども動揺していない。

 彼女は振りかぶった鞘つきのクレメンテで、スタンをしこたま殴り始めた。

 

「えいえい!」

「ちょ、ちょっとタンマ……」

 

 どれだけフィリアが非力だろうと、掛け声が可愛かろうと、クレメンテはそれなりの質量を備えた大剣だ。

 殴られたスタンが、平然としたままフィオレを支えていられるわけもなく。

 

「うわっ!」

 

 急ぎスタンと共にその場を逃れようと試みるも、どうやらスタンが足を滑らせてしまったらしい。

 強い力で引かれたかと思うと、次には足場が消えていた。

 

『シルフィスティア、助けて!』

『はいよー』

 

 いまいち危機感の感じられない彼女の声音の理由が、次の瞬間はっきりする。

 フィオレが恐れていたよりも落下時間は短く、打ち身で済む程度の高さだったのだ。

 それでも、シルフィスティアはフィオレの願いを聞いてくれた。

 ぼふん、と音を立てて、空気の塊が二人を受け止める。

 

「うわっ、たっ、なんだぁ?」

「私の手品です。お気になさらず。それより……」

 

 考慮するは、今置かれている現状にあるだろう。

 真上にぽっかりと空いた穴から人の声が聞こえるには聞こえるが、何を言っているのか皆目判らない。

 そして周りを取り巻く異常なほどの気配。これはおそらく。

 

『二人とも、構えろ! 囲まれているぞ!』

 

 ディムロスの警告に従い、紫電を抜く。

 暗がりからもぞもぞと現われたのは、おびただしい数を誇る推定オーガスの群れだった。

 そしてその奥からは、先ほど岩に擬態していた歪な魔物まで現れる。あえて似たような動物を探すなら蛙に相当するだろうか。

 先ほどまで平たい岩だと思っていた胴体からは鋭く尖った歯列が覗き、眼球があるべき場所はかつて見た砂竜のようにつるりとしている。

 瘤を背負っているかのような突起が非情に気になるが……もしこれがオーガスの群れの母、オーガスクイーンであるならば、十中八九あれは卵を抱えている部位だろう。

 

「ちょっと待ってて! 今縄みたいなもの調達してくるから!」

 

 長くもない対峙を経て、乱闘は唐突に始まった。

 それまでスンスンと鼻を鳴らしていたオーガスクイーンは、二人が立つ方角に顔を向けて一声、吼えたのである。

 その声量たるや、二人して鼓膜の保護に走ったくらいだ。

 

「うわっ」

「食糧確保の合図か、命令ですかね」

 

 でなければ、それまで二人を取り囲んでいたオーガスらしき魔物が一斉にかかってきたりはしないだろう。

 強い酸性を含んでいるらしい液体が飛んでくるのを避けて、大きさからは考えられないような巨大な口を広げて飛びかかってきたところを両断する。

 スタンもまた、ディムロスの刀身に炎を宿して振るい始めていた。

 

「くそ、食べられてたまるか!」

「同意です。片付けましょう」

 

 やがてルーティが歓喜するほどのレンズが地面に転がり始めた頃、ようやく子供たちが殺されて怒りに猛ったクイーンが二人に迫る。

 

「私、あれの相手をします。スタンはオーガスを殲滅してください!」

「この魔物、結局オーガスでいいんですか?」

 

 そんな突っ込みは状況が落ち着いてからにしていただきたい。

 四方八方から熱烈に飛び跳ねてくるオーガスを切り捨てて、オーガスクイーンへ接敵する。が。

 いかなる理由があったのか、オーガスクイーンは前足を側面の壁に叩きつけた。

 途端、オーガスの巣であったのだろう空間が震えて、真上から湿った砂礫が降り注ぐ。

 

「わあっ!?」

『取り乱すな、落ち着いて払え!』

 

 魔物は平気かもしれないが、五感を駆使して戦っている最中の人間にはひとたまりもない。瞬く間にスタンへオーガスが群がる。

 急遽オーガスクイーンへの接敵を諦めて助けに向かったフィオレは、群がるオーガスの隙間から覗くディムロスのコアクリスタルに左手を伸ばした。

 早くしなければ、スタンがオーガスにかじられてしまう。

 

「天界より降り注ぐは裁きたる白き雷。咎人を等しく薙ぎ払え!」

 ♪ Va Nu Va Rey , Va Nu Va Ze Rey……

 

 虚空に生まれたいくつもの輝きが、群れるオーガスを黒焼きに仕立てる。左の手を地下水滴る滝へ伸ばして、フィオレは即座に譜歌を奏でた。

 

「命よ健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──

 

 蒼い光をたたえた譜陣が浮かび上がり、フィオレの擦り傷やスタンの生傷を瞬時に癒す。

 ほぼ全滅させたと思っていたオーガスだったが、オーガスクイーンの咆哮によってどこからともなくぞろぞろと集結した。

 

「これは……じり貧もいいところですね」

「仕方がありません、オーガスクイーンから倒していきましょう。時々晶術を使ってオーガスを蹴散らしてください。私も折を見て片付けます」

 

 じゃり、とレンズを踏む感覚をそこかしこで覚えながら再びオーガスクイーンへ接敵する。

 巨大な口を開いてがぶりついてくるクイーンを退け、足に、側面に、時折顔面に、あるいは尻の部位に一撃を浴びせていく。

 蚊でも払うような仕草で前足を振るわれるも、そんなものを再び喰らうフィオレではない。

 

「うっ」

 

 そんな中、増えてきたオーガスを片付けようと晶術を使おうとしたスタンの詠唱が止まる。オーガスの体当たりは避けたものの、詠唱を中断してしまったのだ。

 

「晶術使用はできる限り教えてください。なるたけフォローしますから」

「は、はい……」

 

 考えてみれば、いつもは全員で戦闘に取り組んでいるため、こういった伝達がなくても常に誰かが戦線に立ち、誰かしらフォローに回っていた。その時の感覚が抜けていないのだろう。

 

「戦士よ勇壮たれ。鼓舞するは勇ましき魂の選び手」

 ♪ Va Rey Ze Toe Nu Toe Luo Toe Qlor──

 

【第三音素譜歌】戦乙女の聖歌(ヴァルキリーズ・ホーリーソング)で少しでも守護の力を働かせる。

 再び晶術の詠唱に入ったスタンを援護するべく、フィオレは四方八方を駆け巡った。

 

『焔の民の舞、その円舞は天地を魅了するであろう!』

「ファイアストーム!」

 

 通常は雨風であるはずの嵐が、熱気と火炎を伴って周囲一体に吹き荒れる。しかし、接近戦を得意とするディムロスらしく、オーガスの一掃までは出来ていない。

 そこかしこが焦げているものの、魔物はじりじり詠唱直後で動けないスタンに迫る。

 

「くっ!」

「其の荒らぶる心に、安らかな深淵を──」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze……

 

 ただ、これだけ弱っているなら通常なら無効化されるこの譜歌も効くだろう。

【第一音素譜歌】夢魔の子守唄(ナイトメア・ララバイ)が狭い洞窟内に響き、反響して消えた。

 周囲が暗く闇が豊富なせいなのか効果は絶大で、オーガスクイーンすらもスピスピと寝息を立てている。そして何故か。

 

『馬鹿者、フィオレの手品につられるな! おい起きろ、スタン!』

「う、うーん?」

 

 スタンまで寝ていた。

 彼を巻き込んだ記憶はないのだが、一種の暗示でもかかったのだろうか。

 

「スタン、気を抜かないでください。まだ倒していないのですから、とどめを刺さなければ」

 

 寝ぼけ眼のスタンに注意喚起をしつつ、紫電の切っ先を真下のオーガスに埋める。

 レンズを排出するそばから作業的にオーガスを屠るフィオレを見て、スタンは明らかに顔色を変えた。

 それに気付いた素振りを見せぬままオーガスを全滅させ、いよいよオーガスクイーンにとどめを刺そうと近づく。

 そこで。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。もう戦えないじゃないですか、とどめまで刺さなくても……」

「今は寝ているから戦えないだけで、目を覚ませば襲ってきますよ。動けなくなるほど弱らせていないんですから」

「じゃあ今のうちに逃げましょう! フィオレさんも、早く洞窟から出たほうがいいって言ってたじゃないですか」

 

 スタンの言い分は正しい。しかし、できるものならフィオレが先に提案している。

 

「どうやって? 見たところ横穴はオーガスサイズですし、オーガスクイーンの通り道は天井の穴だけみたいですし。私たちの安全を確保してから脱出を考えるべきです」

「でも……!」

 

 妙に言い募るスタンをいぶかしげに見やり、フィオレはオーガスクイーンに向かう足を止めた。

 

「何ですか?」

「どんな動物だって、子供にちょっかい出されれば怒るものだって言ってたじゃないですか。このオーガスクイーンだって、巣に踏み込んだ俺たちから子供を護るために暴れていたんでしょう?」

 

 ……フィオレとしては、子を護る母がどれだけの凶暴性を孕んでいるのかを語ったつもりだったのだが、スタンには違う解釈に取られてしまったらしい。

 要は、子供を護ろうとした母は尊いから一方的な形で屠殺するのはどうなのかというところか。

 

「……魔物にそんな感情が果たしてあるのかどうか、までは知りません。それに、子供を護るために何をしてもいいわけないでしょう。私たちは私たちの安全を確保することが最優先であるはずです」

 

 カルバレイス神殿でのやりとりが脳裏に浮かぶ。

 あの時は答えがはっきりしていたからそれを提示するだけでよかったが、理性より感情を優先しがちなスタン相手に、この手の説得は難しい。

 

「感情があるかないかなんて、このオーガスクイーンはオーガスが殺されてものすごく怒ってたじゃないですか!」

「確かに、感情の有無はどうでもいいです。私が問題にしているのは、このオーガスクイーンが目覚めれば私たちに危害を加えてくるだろうということ。だから今のうちにとどめを刺そうとしているのに、どうしてあなたは反対するのですか?」

「危ないかもしれないから、ってフィオレさんは言いますけど、『かもしれない』んでしょう? だったら殺す意味なんて……」

「じゃあ訂正します。『危ないから殺しましょう』これでいいですね」

 

 しかし、スタンは納得するどころか更に食い下がってくる。

 交戦による疲労でだんだん面倒くさくなってきたフィオレが、スタンとの会話を放棄してオーガスクイーンに近寄る。

 その行く手を阻むように、スタンが割り込んできた。

 

「まだ話は終わってません!」

「……わかりました。言い換えましょう。『殺さなきゃ殺されます』いい加減そのことを認識してはくださいませんか?」

 

 これまでしっかり話し合ってこなかったことが悪いのか、それとも今がいい機会なのか。それはわからない。だからといって、情に流される気は微塵もなかった。

 

「そんなこと、これから試してみればわかることじゃないですか! 死なない程度に弱らせてみれば……今とどめをさしてしまえばラクだから、そんなこと言ってるんじゃないんですか!?」

 

 結論からすればその通りである。予想される苦労を命と引き換えに回避することを、きっとスタンは拒むだろう。

 だが、フィオレはこの時点でまったく違うことに気を取られていた。

 勃発した言い争いか、あるいは一定時間の経過か。スタンの真後ろに横たわっていたオーガスクイーンが小さく動いたかと思うと、大口を開けたのだ。

 口論に意識を集中させていた、スタンの無防備な背中に。

 

「スタンっ!」

 

 咄嗟にできたのは──スタンを押し退ける、たったそれだけだった。

 巨大な口腔が、鋭い歯列が、嫌な匂いのする口臭が間近に迫る。

 逃げることも防御も難しい、噛まれる前に殺すしかない。

 ところが。

 フィオレの眼前で、その口は閉じられた。

 紫電の一振りはオーガスクイーンの鼻先を斬り裂くも、未だに健在である。

 細長い四肢が折りたたまれ、本体の背中にある瘤がフィオレへと向けられた。

 いくつも楕円球が詰まったそれは、まさしく産卵した卵を抱えている器官である。

 クイーンにとっては大切なはずの、子孫が詰まった器官。

 それを敵に向けるというのは、どういうことなのか。

 いかなる力は働いてのことか、数十個はあるだろう卵が中空に舞った。

 

「!?」

 

 自分の危険を感じて、卵まで武器にし始めたのか──

 それが間違いと気付くも、直後のこと。

 至近距離で突進を仕掛けられ、成す術なくフィオレは突き飛ばされた。

 仰向けに地面へ倒され、反射的に起き上がろうとして、オーガスクイーンの巨体に圧し掛かられる。

 そして今度こそ。

 オーガスクイーンの鋸のような歯列は、フィオレの胴体につきたてられた。

 巨大な口は薄い腹筋をものともせず蹂躙し、内側の器官を引きずり出して、撒き散らす。

 鮮血が溢れて迸り、断末魔に近い絶叫が辺りを木霊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第七十三夜——鍾乳洞にて、惨劇~終局

 アクアヴェイル地方、シデン領~モリュウ領を繋ぐ洞窟攻略中。
 命に関わる大怪我……いわゆる重体ですね。たとえルーティがいたとしても、これは治療し切れなかったでしょう。
 図らずも精霊結晶「闇」を司る守護者ルナシェイドと契約を交わし、しかしそれで負傷がなかったことにされるわけではありません。
 ではどうするのか。炎を操るディムロスがいるなら、こうするしかありませんね。
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 腹部に食いつかれ、たった一口で重要な器官が根こそぎ損傷する。

 口こそ勝手な絶叫を上げていたが、この時点でまだフィオレは正気を保っていた。

 周囲で何かが這う音がする。

 現実逃避をするような感覚で見やれば、それは卵のカラを張りつけたオーガスの幼生だった。

 大きさこそ太めのミミズより少し大きい程度だが、形はオーガスそのものである。

 ──まさか、親であるクイーンが腹を破って、中の柔らかい内臓を生まれたての幼生に食べさせる気か。

 冗談ではない。

 生まれたてだというにも関わらず、濃い血臭に誘われてか驚くほどの速さで群がってくる。

 

「は、はなる、ほうよ、うに、覚えるは、安寧……」

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze……

 

 こみ上げてくる吐き気に耐え、譜歌を使う。

 吐き気に負ければ、そのまま人生が終わるだろう。

 不可侵の領域(フォースフィールド)がフィオレを中心に確立し、魔物は強制的に引き剥がされた。

 しかし、これは一時的に距離を取っただけ。

 集中が切れる、一定時間が経過すれば元の木阿弥である。

 体が熱い、燃えるように熱い。幸い痛覚は麻痺しているようだが、自覚した途端ショック死の可能性もあるだろう。

 その前に、決着をつけなければ……

 かすむ視界の中、金の蓬髪が一際鮮やかに翻る。

 白い軽鎧姿が剣を振り上げ、辺り一面に炎が溢れて、後にはミミズの干し物じみた何かがいくつも転がっていた。

 オーガスクイーンが、怒りに満ちた咆哮を轟かせ、迫り来る。

 眺めているだけではいけない。援護をしなければ。

 

「ときの、はざまに、て、たゆとうもの、よ。か、かなでし調べに、しゅく、ふくを……!」

 ♪ Rey Va Nu Qlor Toe Rey Rey……

「鳳凰天駆!」

 

 最後に見たのは、炎をまとって飛び立つ、大きな鳥の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ふと、気付く。

 体が動くどころか、眼をあける感覚すらない世界に、フィオレはたゆたっていた。

 この感覚は、知っている。

 初めて彼女と接触した、あの世界。

 息さえ必要とせず、意識だけはある……どこかで聞いたような世界。

 思考することのみが可能なこの空間にて、ひとつ思い出した。

 死後の世界が、肉体をなくして魂だけになったら、こんな風ではないかと誰かが言っていた気がする。

 死んだのかも、しれない。

 あれだけ大量に失血し、そばにはアトワイトがいなかった。

 否、完璧にアトワイトを使いこなしているわけではないらしいルーティでは、そばにいたとしても失血を食い止められないかもしれない。

 

『……来訪者』

 

 誰かが囁いた。

 彼女、ではない。

 彼女の本体と思われる神の眼が近くにあるわけでもなし、声はかなり低く、今までの体調なら聞き逃していたかもしれない。

 

『かもしれないんじゃなくて、普通に聞き逃してたよ?』

 

 聞き覚えのある声がした。

 ふと、眼前にシルフィスティアの幻が映る。

 愛らしい彼女の表情は、呆れと何かがない交ぜになっていた。

 

『せっかくルナシェイドが接触図ってきたのに、あれだもん。聞こえなかったのもしょうがないか』

 

 大譜歌を謡ったわけでもないのに、それはどういうことなのか。

 単純にルナシェイドの聖域付近まで来たから、あちらから接触を図ってきたと言うことか。

 

『謡ったでしょ? ぶつ切りだったけど』

 

 ……そういえば。

 あの戦闘では、第六音素(シックスフォニム)の譜歌を除いてすべて使っている。

 第六音素(シックスフォニム)の譜歌も、これまでの道程で一度使っていたが。

 そんなことはどうでもよかった。

 

『そうそう、契約して?』

 

 その前に、尋ねたい。

 このレンズは。左手の甲にはりついたレンズの、正体を。

 

『……神の瞳……特殊なレンズ……召喚……証……』

 

 単語ではなくて答えが聞きたかったのだが、大まかなことがわかったし尋ね返す気力もない。

 彼らと契約をする際の言葉が出てこない。まず言葉そのものが出てこない。

 とにかく、契約を交わすことの承諾をする。

 

『……その魂が在る限り、我輩はそなたと共に歩もう。優しき闇の癒しが、そなたに安らぎを与えんことを』

 

 話ができるならちゃんと話せ。

 自分の考えが丸分かりであることを承知の上で、フィオレは正直にそう思った。

 

『ルナシェイドは口下手だから。フィオレが来るまで了承用の返事を考えておいたんだってさ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フィオレが、守護者二柱との接触を図っていた頃。

 見事オーガスクイーンを仕留めたスタンは、その亡骸に見向きもせず真後ろを振り返った。

 

「フィオレさん!」

 

 当然のことながら、返事はない。

 大慌てで近寄ったスタンだったが、その悲惨な容態を見て思わず身を引いた。

 しかし、それも束の間のこと。

 食い破られたせいで中身が見え隠れするのも構わず駆け寄る。

 

『待て、迂闊に触るな。破傷風を引き起こす危険がある』

「は、はしょうふう?」

『簡単に言えば、外傷から悪質な菌が入り込み中枢神経を侵す病のことだ。もしも発症すれば、それこそ助からん』

 

 心意気は立派だが、重傷の人間に無闇に触れることが必ずしもいいことではない。

 ならどうすれば、と途方に暮れるスタンに、ディムロスは活を入れた。

 

『フィオレを起こせ、どうにかして自力で傷を癒させるんだ。アトワイトがいない今、我々では精々、傷口を焼き潰して失血を停止させる程度しかできん!』

 

 考えるだに恐ろしい治療方法である。かといって揺り動かすようなこともできず、スタンはひたすら声をかけた。

 

「フィオレさん、目を開けてください!」

『フィオレ、起きるんだ! 意識を取り戻せ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さん!」

 

 ふと、耳元で誰かの声がした。

 ……音? 

 ここで、そんな感覚は……

 

『お迎えだね。苦しいと思うけど、頑張って!』

『頑張れ……』

 

 幼女のような甲高く感じる声と、至極低くて聞き取りにくい声。

 声援を送られて、フィオレは眼を開いた。

 目の前には、空色の瞳を潤ませたスタンが彼女を覗き込んでいる。

 

「あ、気付きましたか!?」

「……っ」

 

 応えようとして、えずく。

 重傷を負った腹を確かめようとして、スタンに阻まれた。

 

「触っちゃ駄目です。早くあの歌で、治さないと……」

「……ティ」

「え?」

「ルー、ティ……呼んで……。歌は……ムリ」

 

 喉も肺も無事ではあるが、何より大切な腹式呼吸が一切できないのだ。

 従って、譜歌は使えない。

 しかし、絶句したスタンに代わってディムロスが代弁してくれた。

 

『不可能だ。縄のようなものを調達してくると言って、まだ戻ってきていない』

「そ……」

 

 もはや、念話を行う余裕もない。

 苦しげに呼吸を続けるそばから、損傷した胃から逆流してきた血液を吐き出す。咳き込めば身体に負担がかかり、重傷を負っている腹に激痛が走る。身動きをすればするほど、ますます腹に負担がかかる。

 そんな悪循環を数度繰り返して、フィオレはふと尋ねた。

 

「……スタ、ン」

「何ですか? ルーティたちならまだ……」

「怪我、は?」

 

 苦しさゆえに瞳は閉ざしており、スタンの表情はわからない。

 少し間を置いて妙に平坦な「……ありません」との肯定を聞き、フィオレはほっと胸を撫で下ろした。

 

「なら、いい……です」

「よくないですっ!!」

 

 突如として、スタンの声音が荒れた。

 地面を蹴る音がして眼を開けば、スタンが息を乱してフィオレを見下ろしている。

 

「何で、そんなことが言えるんですか! 俺のせいでフィオレさんはそんな大怪我したのに、何でそんな風に笑えるんですか!? 何で……責めたり、しないんですか」

「……せめても、治らな……意味、ない」

 

 ブツ切りの、掠れた声が自分の声として発せられた。

 ひどい声だと思いながら、淡々と言葉は紡がれていく。

 

「笑って、い、るのは……私の、理想が、貫けたから」

「……理想?」

「私、は。今、護りたいものを、護れた。誰に、どんな思いをさせても、これを達成したいと、私は、常に、願っているから」

 

 何を犠牲にしても──倫理や道徳を捻じ伏せてでも叶えたい理想がある。それを一瞬でも達成することができた。それは、幸せなことだ。

 ……ただ。そんな気分に浸っていられるのもあと僅かである。

 理想を叶えた代償が、じわじわと痛覚として現われつつあるからだ。

 

「……さ、て。そろそろ、覚悟を、決めましょうか」

「?」

「やっぱり、自分で、治します。だから、この傷」

 

 破れた着物と醜くめくれた皮と、未だ滴る鮮血でひどいことになっている腹を指す。

 きっと嫌がるだろうが、今の状態ではこのくらいしか思い浮かばない。

 

「焼いて、塞いでほし、い。あとから、まとめて、治します」

 

 この状態に慣れてきたのか、徐々に口が回るようになってきた。

 これで腹さえ塞がれば、どうにか譜歌の発動が可能になるだろう。

 しかし、スタンの答えは予想通りのものだった。

 

「い、嫌にきまってます! いくら後で治すからって、フィオレさんの身体を焼くなんて……きっと物凄く痛いですよ!」

「でしょ、うね。けど、このまま、では、死にます。なんか、寒くなって、きました」

 

 嘘ではない。大量に失血したせいなのか、先ほどから体の震えが止まらないのだ。

 これ以上放置すれば、再び意識がかすむだろう。それでは譜歌を使うどころではない。意識を失って、そのまま……

 

『……致し方あるまい。腹をくくれ、スタン』

「嫌だ! なんでディムロスはそんな冷静に……」

『同じことをしたことがあるからだ。我々の生きた時代とて、ソーディアンが考案されるまで晶術などなかったからな。傷を焼いて塞ぎ、出血を止め、一命をとりとめるという手段が、なかったわけではない。……最も、身体を焼かれる苦痛に耐え切れず発狂した者も相当いたが』

 

 また余計なことを。

 発狂、という言葉を聞いて、スタンの顔色が青ざめる。

 ブルブルと首を振って、やはり彼は否定を口にした。

 

「やっぱりやめましょう。ルーティたちだってそろそろ帰ってくるはず……」

「そう、ですね」

 

 スタンの言葉が終わるよりも早く、手を伸ばす。

 がしりと掴んだのは、ディムロスの柄だった。

 

「もう、あなたには、頼まない」

 

 一息に引き抜き、剣の腹を傷口に添える。

 精神同調を試みれば、ディムロスはすんなり応じてくれた。

 

『お願いできますか、ディムロス?』

『……女ながら、見事な覚悟だ。その意思を尊重しよう』

 

 瞬く間に、鋼の刀身が熱せられる。

 生肉の焼け焦げる匂いと苦悶がまざり、熱せられた刀身はあえなく熱気を失った。

 痛みのあまり一瞬にして、フィオレが集中を失ったせいである。

 

『すみませんね。もう一度』

『……ああ』

 

 再び同じことの繰り返し。

 目の奥でチカチカと光が瞬き、生肉が焼ける匂いはひたすら香ばしい。

 吐き気さえ催してきた体調を無視して繰り返そうとしたフィオレの手を払い、スタンがディムロスを取り上げた。

 

『スタン、邪魔をするな。長引けば長引くほど、苦しむのはフィオレだぞ』

「こんなこと続けりゃいくらだって長引くに決まってるだろ!? ……俺に任せるのは嫌かもしれないけど、なるべく早く終わらせます。だから」

 

 す、と口元に篭手を外したスタンの指が添えられる。

 

「噛んでください。噛む力が弱くなったら、やめますから」

 

 それは、意識が飛ばない範囲で自分が傷の焼き潰しを実行するということか。

 その申し出に、フィオレは首を横に振った。

 

「指、では、噛み切って、しまいます。だから……」

 

 スタンの手首をくわえ、訪れる苦痛に備える。

 小さく深呼吸して、スタンは決闘でもするかのような面持ちでディムロスを構えた。

 

「……いきます」

 

 皮の、脂肪の、肉の焦げる音がひたすら続く。

 スタンの血の味を口いっぱいに味わいながら、荒っぽい治療が終わるのをフィオレはひたすら待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ぱしゃり、と水が跳ねる。

 無事に事を済ませたフィオレは、息も絶え絶えになりながら地下水の滴る滝のそばまで自分を運ぶよう、スタンに願った。

 そこで左手を地下水に遊ばせながら譜歌を奏で、自らの治癒とスタンの手首についた歯型を綺麗に消している。

 最も、軽い怪我なら瞬時に治してしまうこの譜歌であっても。フィオレが支障なく動けるようになるには相当な時間を必要とした。

 

「スタン。体洗いたいので、あっち向いていてくれます?」

 

 そう言ってスタンの頬を染めさせ、フィオレはボロボロになった着物を脱いだ。

 その最中、自分自身の第七音素(セブンスフォニム)を使って着物を修復、それを岩にひっかけて乾かしながら血糊を洗い流す。

 備えあれば憂いなし、とはよくいったものだ。でなければフィオレは、濡れ鼠のまま着物を着ることになっただろうから。

 レンズ二枚を用いて発生させた熱風を着物に吹きつけ、自分の体はジルクリスト邸からパクってきたふわふわのタオルで水気を拭き取り、手早く身につける。

 非情に清々しい気分で「もういいですよ」と声をかけると、スタンが怖々振り向いてきた。

 

「ルーティたちは、まだなんですね」

「はい。おっそいなあ……」

 

 こんな洞窟内で縄のかわりになるようなものが見つけられるとは思えない。おそらく洞窟の外に出て探しに行っているのだろう。

 スタンが見上げる、フィオレたちが落下した穴近くでフィオレも腰掛ける。

 地下水が変わらず流れていく、そんな音を聞いていてフィオレはふと口を開いた。

 

「そういえば、人間は暗闇に閉じ込められて、一定の規則で同じ音……例えば水が落ちる音なんかをえんえんと聞かされると、三日くらいで気が狂うらしいですね」

「な、なんですか突然」

「いえね。ここは暗いし、同じような地下水の流れる音がずっと続いてるし。このまま三日間くらい放置されたら、ソーディアンも狂うのかなあと」

『そうなる前に、意識も聴覚も外界から遮断しスリープモードに移行するに決まっている。我らはそうして千年の時を過ごしてきたのだからな』

 

 本当に思い付きだったにつき、それ以上会話は成り立たない。

 魔物の気配がするでもなく、じっとしていることを退屈に感じてきたフィオレがすくっ、と立ち上がった。

 

「どうしたんですか?」

「ルーティへのおみやげに、レンズでも拾っておきましょうかね、と思って」

 

 荷袋から適当な小袋を探して、そこいらに転がるレンズを拾い集めていく。

 やはりこの時間を持て余していたスタンもそれを手伝い、地面のレンズはどんどんなくなってきた。

 ふと、レンズを摘み上げたスタンがそれを見つめながら、呟いた。

 

「そういえばフィオレさん。カルバレイスで会った占い師のこと、覚えてます?」

「……ええ、まあ」

 

 何故いきなりスタンがそれを言い出したのか。それは次なる彼の台詞で明らかとなった。

 

「あの占い師が言ってたこと、おれは信じたくないんですけど。フィオレさんが月だ、っていうのは納得できるんですよ」

 

 まさか、レンズを見て思い出したのはその真円を月に連想したからだろうか。

 それが事実だとしても、フィオレにとってはどうでもいいことである。

 

「それは、私の顔が満月のように丸くなってきているという忠告ですか? 私にとっては宣戦布告ですが」

「違いますよ! 月って、すごく綺麗で穏やかな感じがするじゃないですか」

「でも月の光は、人を狂気に導くそうですよ」

「へ?」

 

 眼を点にしたスタンには悪いが、これは根拠なき有名な話である。

 言い換えれば迷信だが。

 

「そもそも、占いを信じることがまず無意味です。大概の占い師は相手の気を引くような言葉しか言いません」

 

 あんなもの、少し人間に対する観察眼を養ってその人間の望むようなことを言ってやればそれで事足りる。

 故郷を失って、目的のない放浪の最中。潜伏していたとある街にて、路銀を稼ぐためにできることを何でもやった。

 その中のひとつに、この仕事は含まれる。

 最も、預言(スコア)が存在するあの世界ではあまりに稼げないため、すぐにやめてしまったが。

 

「そうかなあ……あ、でも、大概ってことは中にはそうじゃない人もいる、ってことですよね」

「ええ。相手の気を引く目的ではなく、本当に出鱈目を抜かす人間と、あと本物が。最も、本物なんて早々お目にかかれる代物ではありませんけどね」

「でも、もしかしたら……」

「信じるも信じないもあなた次第。良識ある占い師なら、そう言ってくれます」

 

 つまりあの占い師に良識などないだろうということが伺えた。

 しかし、スタンはまだまだ納得しない。

 

「でも、結局あの後宿を教えてくれたじゃないですか」

「嘘というのは、真実を少し混ぜると信憑性を増すものなのだそうです。本当のことを言ったから、すべて事実だ、などとは限りません」

 

 スタンが両手から零しそうになっているレンズを小袋に受け止める。その時。

 

「二人ともー、生きてるー?」

 

 上から呑気な声が聞こえてきて、明らかに人里から調達してきたらしい縄が降ってくる。

 時間がかかって当然だった。

 

「お二人とも、急いでください。何だかどんどん、海水が流れ込んできている様子で……」

 

 それはつまり、満ち潮が近づいているということだろう。顔を見合わせて、フィオレは先にスタンを上らせた。両足がそれぞれの筒に収まる袴とはいえ、なにやら不安だったというのが本音である。

 垂れ下がった一本の縄にしがみついて昇ること少し、二人はどうにか帰還することに成功した。

 

「すんごい数のオーガスに囲まれてたからどうなったかと思ったけど、元気そうね」

「流石だな」

 

 スタンの顔が引きつり、ディムロスは黙りこくっている。

 元気どころか、フィオレは本気で死にかけたのだが……わざわざ申告することではない。

 そしてルーティは、あからさまな笑顔を保持したまま本題に入った。

 

「で、レンズは?」

「はい」

 

 両手で持たなければならないほどの大きさになった袋を渡し、ルーティが狂喜している間に一人そのやりとりを呆れてみていたリオンに近寄る。

 

「お手数おかけしましたね。それ貸したことで、チャラにしてください」

「……くれればチャラにしてやらんこともない」

『何か得られるものはありましたか?』

 

 どうやら、預けている間に独特の感覚は慣れたらしく頭痛を起こした素振りも見せない。

 おそらくは、シャルティエとの交信で慣れさせたのだろう。

 しかし、この短時間で念話を使うことは難しかったようだ。

 

『そのうちまた貸してあげます。今は、返してもらいますよ』

 

 逃げようとしたリオンの手を捕まえて、取り上げる。

 それを荷袋に押し込んで、フィオレは一同に先へ進むよう、促した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※おまけ・スキット的な何か~


「フィオレさん……」
「こっち見たら岩を投げます。なんですか?」
「本当にすいませんでした。あのとき……」
「そうですね。久々に死ぬかと思いました。あなたの親御さんの名にかけて、もう二度と同じ過ちを繰り返さないと誓ってくださるなら水に流します」
「俺、両親いないんですけど」
「じゃ、お祖父様でも妹さんでも。私も、咄嗟のこととはいえ莫迦でした」
「え?」
「私は治療ができるんだから、あなたをあのまま盾にしてオーガスクイーンを仕留めた方が、効率的でした」
『……同感だが、結果論だ。過ぎたことをどうこう言っても仕方あるまい』
「それでも反省はするべきですよ。人間は痛い目を見て成長する生き物です。逆を言えば、失敗しなければ学習できない」
『たとえもう一度同じことがあったとしても、スタンを盾にするのはいただけないがな。噛み付かれる寸前、体をずらしただろう? 急所を避けるために』
「えっ? そうなんですか、フィオレさん」
「意識してしたことではありませんが、よく気づきましたね。古代大戦の筆頭英雄だっただけはあります」
『昔の話だ。今の時点で、同じことをスタンができるとは思えない。下手を打てば、一撃で噛み殺されていただろう』
「……」
「スタンは私よりは身体が丈夫でしょうから、そんなことはないとは思いますが。まあ、お互い精進していきましょう? それとこのことは、皆には内緒。いいですね?」
「はい……」
「ディムロスもですよー」
『わかっている。わざわざ告げることではない』


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第七十四夜——出会い~筋肉達磨の次はきれいな道化と

 inモリュウ領。
 死にかけてそれを乗り越えて、たどり着いたその先は。ポッと出の領主が管理しているとは到底言えない、兵士という名の無法者が跳梁跋扈するところでしたとさ。
 久々の新キャラ(パーティ参入可能キャラクター)が登場します。
 
「蒼天の稲妻」「愛と夢の狩人」「道化のジョニー」
 二つ名がいくつもあるけれど、そう呼んでいる人は皆無。コレ全部自称じゃね? 
 その名はジョニー・シデン。気ままな吟遊詩人……らしい。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鍾乳洞を抜ければ、そこはシデンの対岸に位置する島だった。

 道らしいものはないが、フィオレがシデンの歓楽街をうろついた際に手に入れたアクアヴェイル公国の拡大地図を頼って、モリュウ領を発見する。

 

「おそらくあそこにバティスタが潜んでいる。慎重に行くぞ」

 

 基本的に気をつけることはシデン領と同じ、一同は頷きあってモリュウ領へと近づいた。シデン領と同じく水路が至る所に流れており、橋も多くあることからシデン領より更に陸地が少ないのだろう。

 かの領地では見なかった小舟を操る船頭が、客を乗せてしずしずと水路を通っている。そして、ここを納める領主は城を構えているらしい。同じ公国といえど、土地が違えば色々と異なることもあるのだろう。

 ただし、セインガルド城とは完全に趣が異なっていた。それはシデンで見かけた民家の家屋から分かっていたことだ。それはいい。

 一同が眉をしかめたのは、さりげなく街に入ってからしばらく歩いてのことである。

 

「……なんか、暗い街ねえ。道行く連中が、妙に物静かなような……」

「確かに。全然活気がないような気がするな」

 

 シデン領を出てからは普段の格好だったルーティが、フィオレの外套を羽織った姿でぽそりと呟いた。

 スタンも同調し、さりげなく周囲の様子をうかがっている。

 

「そういえば、前領主がお亡くなりになっていらっしゃるのですよね。皆さん喪に服しているのでは……」

「いや、それは違うようだ」

 

 見れば、厳しい目をしたマリーがその視線を一点に集中させている。

 その先にいたのは、子供を捕まえたチンピラ三体と、今にも泣き崩れそうな母親だった。

 明らかに異常事態なのだが、道行く人々はチンピラの蛮行に衛兵へ通報するでもなく、見て見ぬフリをしている。

 そしてチンピラにしては特徴がありすぎる同じような格好をしているあたり、あれが衛兵か何かなのか。

 チンピラは、抜き身の細い曲刀──形だけは紫電に酷似した刀を子供に向けている。

 

「お許しください。その子に悪気はなかったんです」

「うるさいわい! このガキが、あろうことかワシにぶつかってきたのだ。ならば煮ようが焼こうがワシの勝手じゃい!」

 

 とんでもない理屈である。

 子供には前方不注意ではなくて、何故刃物を握っていなかったのかを叱るべきだろう。

 子供はひたすら、母を呼んで泣きじゃくっている。そして母親が、子供の助けを求める声を無視できるわけもなく。

 

「私はどうなっても構いません。お願いですから、その子だけは……」

「どうします、隊長?」

 

 自分の身を引き換えに子の無事を願う母親に、刀をつきつけるチンピラの取り巻きがわざとらしくそんなことを尋ねる。今、兄貴でも親分でもなく、隊長と言ったか。

 確かに少し格好が違うようだが、これではっきりした。一般市民にしか見えない母子をいいように威圧しているのは、本来街の治安を維持する兵士の類なのだ。

 一方、尋ねられた隊長格は意外な返答を寄越した。

 

「くー、泣かせるねえ。よし、本来なら公開処刑とするところだが、あんたの情が心に染みてしまってな……」

「じゃあ……」

 

 母親の顔に希望が灯る。

 それを十分に確認した上で、隊長格はにやけ顔も全開に言い放った。

 

「特別にこの場で無礼討ち、ということで許してやろう」

「……ぶれいうち、ってなんですか?」

「多分手討ちのことでしょう」

 

 ちなみに手討ちとは、武士が家来や一般市民を自分の手で殺すことだ。

 確かにアクアヴェイルでは刀持ちの戦士を武士と称するようだが、果たしてこの連中が武士なのかどうか。

 母親の顔が絶望に染まる。それを眺めて、取り巻き──推定ただの衛兵がくっくっく、と嫌な笑みを零した。

 

「こりゃあ格別の計らいだ。ありがたく思えよ」

「そ、そんな。なにとぞ……」

「んん? 何も聞こえんなあ」

 

 そのやりとりを見て、今にも魔神剣辺りを放とうとするスタンを手で制する。

 そして、フィオレは軽く腕を振るった。

 

「のわぁっ!」

 

 直後。それまで子供の頬にピタピタと刃を当てていた隊長格が、尻を押さえて飛び上がった。

 そのまま尻を突き出して突っ伏した隊長格を見て、衛兵が顔色を変える。

 

「誰だ! 隊長の尻に棒手裏剣なぞ投げたのは!」

 

 衛兵が周囲を見回すよりも早く、フィオレは一同のそばを離れて立ち位置を移動した。

 棒手裏剣の角度から犯人の位置を知る術を持っているかどうかは知らないが、用心はどれだけ重ねても構わないものである。

 フィオレが移動してすぐ、第二投が衛兵へと襲いかかった。

 隊長格と一緒になって刀を抜いていた衛兵が刀を取り落とし、周囲に睨みを聞かせていた衛兵が肩を抑えて呻く。

 手の甲を貫いた棒手裏剣と、肩に半ばまで突き刺さった同じ棒手裏剣を見て、自力で尻の棒手裏剣を引き抜いた隊長格が色めきたった。

 

「棒手裏剣を扱うとは……さては、反勢力に雇われた忍者だな!? 捕まえて、黒幕の正体を吐かせてくれるわ!」

 

 最早母子のことなど忘れて隊長は、衛兵二人に周囲の探索を命じている。今の内にと母子が立ち去った後、衛兵らも何処へと消えた。

 思い込みの激しさよりもまず、棒手裏剣の存在を知る彼らに驚く。ひょっとしたら、この国では割と有名な武器なのかもしれない。

 扱いはかなり難しいのだが、こちらではそんなことはないのだろうか。兎にも角にも、危機は去った。

 悠々と指を鳴らせば、血糊つきの棒手裏剣がコンタミネーションの原理により手元に戻ってくる。

 適当なぼろきれでそれを拭き取り、フィオレはようやく一同の元へと帰った。

 

「騒ぎは起こすなと言ったのに……」

「要は、こっちに被害さえなければいいんでしょう?」

 

 リオンがジト目を向けてくるも、フィオレはどこ吹く風といった風情だ。

 最近投擲術の類を使っていなかったから、久々の練習台に、と思ってやったことが知られれば何を言われることか。

 それより、住民の反応が気になる。見て見ぬフリをしていた時点で気にしていたことだが、本来こんな騒ぎが起これば住民に動揺が走るのが普通だろう。しかし。

 

「またか……」

「運のいい連中だな。俺の父親なんか、あっさり牢にブチ込まれたってのに……」

 

 騒ぐどころか、助かった母子に的外れな嫉妬さえ抱く始末。

 どうやらあのテの蛮行は、今に始まったことではないらしい。

 

「新領主になってから治安が一気に悪化したか」

「何が目的なのか知りませんが、当然でしょう。バティスタは領土の治安保持に精を出す必要などないのですから」

 

 治安を司る領主側が素行不良に走れば、取り締まる側が消えたことにより治安は崩壊する。住民が引きずられるように荒んでいないだけマシだが、それも時間の問題だろう。

 これは早期に解決する必要がある。こちらの事情もそうだが、事態の収拾が遅ければ遅いほど、こちらに責任が押し付けられる危険性がある。

 バティスタは密入国者、そしてこちらも密入国者。更に彼は、前領主をすでに殺害しているかもしれないのだ。これ以上被害が広がれば、その責任すらなすりつけられてしまう恐れがある。

 そんなことを考えつつ、敵情視察ということで城を目指して歩く。すると、一同は広場へとたどり着いた。

 住民の憩いの場と思われるその向こう側には道が続いており、おそらくモリュウ城へ通じているのだろう。セインガルド城とは似ても似つかない古風な城がそびえている。

 広場を通っていくと、その中心に人だかりが出来ていた。また衛兵の類が何かをやらかしている……わけではないだろう。

 あの母子のときは、誰も関わらないようにしていたのだから。

 

「あれ、何だろ?」

 

 スタンが興味を示して近づいていく。それに続いて歩み寄ると──歌声が聞こえてきた。

 

 ♪ 風よ もしも願いが叶うのなら……

 

「へえ、吟遊詩人じゃないの。なかなかいい声してるけど、フィオレほどじゃないわね」

 

 ルーティがそんな辛口コメントを囁きつつも、短くまとめられた歌唱が終了する。

 特殊な弦楽器の音色が余韻を奏で、吟遊詩人の朗々たる声が響き渡った。

 

「ジョニーナンバースリー、守り人のバラード。ご清聴、感謝するぜ」

「おおー」

 

 スタンが歓声を上げて手を叩き、聴衆からもパラパラと拍手が聞こえる。

 フィオレも同じように歌唱に対する賞賛を示せば、ルーティが呆れたように声を洩らした。

 

「同情?」

「十分上手いと思いますよ。ほら」

 

 拍手の後、吟遊詩人めがけてガルドがいくつか飛んできている。

「おいおい、嬉しいが物乞いじゃないぜ」と耳に心地いい男の地声が聞こえてきた。その姿は、人だかりが災いしてちっとも見えない。

 ところが、ガルドが地面に転がる華やかな音を聞いたルーティは、あっという間に眼の色を変えた。

 

「この景気悪そうな時におひねりもらってる! フィオレ、あんたも歌いなさいよ。ほらほら」

「やめろよルーティ。もらったおひねりはフィオレさんのものであって、ルーティのものじゃないだろ」

 

 至極当然のことを言うスタンだが、「つべこべ言うんじゃない!」とルーティに胸倉を掴まれて焦っている。

 

「それにここ、異国ですよ? 文化の違うこの国で私の歌が通用するかどうか、まったくわからないんですけど」

「じゃああんな感じのを歌えばいいじゃない。ないなら即興で作る」

「ルーティさん、それはいくらなんでも無茶なのでは……」

 

 フィリアまでもが口を出すが、ルーティの目はガルドマークから一向に治る気配がない。

 だめだこりゃと確信して、フィオレは軽く咳をした。

 こういう時は──ルーティに現実を見せる必要がある。

 

【悪いな、兄さん。ちょいとあんたの曲、借りるぜ】

 

 途端、人だかりがざわめき、仲間達すら驚愕に目を見張る。

 フィオレが真似たのは、件の吟遊詩人の声だった。

 そしておもむろにシストルを取り出し、先ほど聴いた曲の再現を始める。

 同じような弦楽器、そしてフィオレが音楽を形作るに際して基本中の基本である和音の存在を知っていたからこそできる芸当だった。

 

 ♪ 風よ もしも 願いが叶うなら……

 

 それでも原曲を知らないフィオレでは、歌い方の物真似はできても、伴奏が薄っぺらくなりがちである。

 そこで、即興で飾りつけるような伴奏に編曲した。

 フィオレの耳からすれば歌詞と真っ向から対立するような、非情にチャラチャラした雰囲気の曲という仕上がりである。

 

 ♪ だから! ──泣かずに、わらっておくれと……

 

 余韻を響かせるようなことはしないですっぱりと伴奏を断ち、ひとつ咳をしてフィオレは声を元に戻した。

 

「参考にして即興を作れと言われても、これくらいしかできませんね」

 

 何食わぬ顔で楽器を仕舞って、肩をすくめてみせる。

 固まってしまった空気を一刀両断したのは、ただ一人の拍手だった。そして、人だかりが割れる。

 その中から現われたのは、誰もが振り返るような綺麗な顔立ちの優男だった。リオンがあと十年もすれば、こんな感じになるかもしれない。

 ただし、まとう雰囲気は真逆だ。人当たりのよさそうな風情は、性格が現われているのだろうか。

 赤を基調とした特徴的な衣装を身にまとい、スタンのものよりは色の薄く、柔らかそうな金髪を覆うは派手な羽飾りのついた綿雲のような帽子だ。

 桔梗色のスカーフを羽飾り同様、風に遊ばせているその姿は、かなり印象強いものである。

 

「俺の曲を盗んで即興アレンジたぁ、只者じゃないな」

「お褒めの言葉として、お受け取りいたしましょう」

 

 男は翡翠色の瞳を興味に瞬かせ、フィオレを真っ直ぐ見つめている。

 相手には口元くらいしか見えていないだろうが、この場合は非情に都合が良かった。

 何故なら、男の風体を一目見て、フィオレは彼の正体に思い当たっていたからである。

 もしも顔をさらしていれば、非情にいぶかしがられたことだろう。それだけ表情が動いてしまっていることを、自覚していた。

 

「ご挨拶が遅れましたね。初めまして、ご同輩。お国の方々が心配しておられましたよ」

「……へ? 知り合いなんですか?」

「なんでそうなるのよ。今初めまして、って言ったじゃない」

 

 外野うるさい。

 表向きにこやかな表情を崩さなかったが、一瞬眉が歪んだのをフィオレはしっかり確認している。

 こう言われていぶかしげにしないということは、可能性がますます高まった。

 さてどのような二の句が返ってくるかと楽しみにしていたところ、男はふと真剣な表情になって口を開いた。

 

「……どこかで、会ったことがあるかい? 俺は妙に覚えがあるんだが」

「私にはありません。世の中には同じ顔の人間が三人はいるといいますから」

 

 などと、くだらないやりとりをしていると。

 先程母子に絡んでいた衛兵と同じ出で立ちの数人が、広場へとやってきた。

 棒手裏剣を放った犯人を捜している──わけではないらしい。

 

「モリュウ領の民よ、港へ集結せよ! ティベリウス大王陛下が帰国にあたり、お言葉をくだされる!」

 

 衛兵は言うだけ言って、そのまま違う場所への伝令か去っていく。

 広場に集まっていた人々がぞろぞろと港方面へ向かって行く中、一同は目配せしあって自然と集まった。

 

「ティベリウス……大王? ここの領主ってバティスタじゃなかったっけ?」

「大王というのはトウケイの領主で、アクアヴェイル公国を束ねる地位の人間です。つまり、セインガルド城におわす陛下のような存在ですよ。国の代表者のはずです」

 

 首を傾げるルーティに補足を加えて、フィオレは提案した。

 盗み聞きしている輩がいないかと辺りに視線を走らせるも、見た限り住民たちは大人しく港へ向かっている。

 

「あまり得策ではないと思いますが、港へ行きましょう。ここの住民が総勢で集まるとなれば、向かわないと怪しまれるかもしれません」

「ですけれど、もしモリュウ領主としてバティスタが同席していたらどうしましょう。権力を持っている今、兵士に取り囲まれたら脱出は難しいのでは……」

「そうなったら、まずは撤退です」

 

 確かにその可能性は十分にあった。いいところに目をつけたフィリアにかこつけて、あらかじめ考えておいた策を一同に伝える。

 

「貴様ら、何をぐずぐずしている!」

 

 さて行こうとしたところで衛兵に見つかり、一同は大人しく港へ向かうことになった。

 港の場所なんかもちろん知らなかったが、幸い住民たちが体のいい道しるべになってくれている。

 

「あれ、あの男の人。どこへ行ったんだろう……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第七十五夜——大捕り物の行方

 モリュウ領港にてひと悶着。
 ジョニーに助けられ、一同は彼の根城である宿へ連れ込まれます。
 
 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 衛兵にせっつかれるようにしながら、港へ赴く。

 それなりに大規模な港は住民で覆い尽くされ、一同は港の入り口付近にて立ち止まらざるをえなかった。

 だが、これはかなり幸運なことである。

 もしもバティスタやグレバムがいたとしても、この群集に加えて遠目、発見される可能性は低い。

 やがて住民たちのざわめきが、兵士に促されて現われた男の出現によって、ぴたりとやんだ。

 バティスタ、ではない。

 

「フィリア。あれ、グレバムではありませんよね?」

「はい。見たこともありませんわ。アクアヴェイル大王とやらでは……」

「モリュウの民よ! まもなくだ、まもなくアクアヴェイルは統一される!」

 

 豊かではあるが艶を失った髪質や風情からして、初老の男である。だが、その声には歳不相応の張りがあり、背筋もピンと伸びていた。

 腰に差した仰々しい刀は、おそらく飾りではないだろう。

 

「その時こそ、我らの悲願をいよいよ実行に移すのだ!」

「悲願……?」

「宿敵セインガルドと、属国フィッツガルドを討ち果たさん!」

「!」

 

 それはまた、大層なお題目である。

 アクアヴェイルとセインガルド諸国の確執は知っているが、これまで冷戦状態だった状況を打破する何かを得たからこその発言だと勘ぐるべきか。

 領民から賛同は得られず、ひたすら戸惑う彼らを尻目にティベリウスとやらの演説は続く。

 仮にも領主であるバティスタを差し置いて、彼が我が物顔で演説を繰り広げているのはやはりバティスタとティベリウスが──正確にはグレバムとアクアヴェイル大王が通じているからか。

 唐突に語られたセインガルドへの侵攻、バティスタが領主となったことでモリュウ領が大王に制圧されたも同様の状態になったことの確信。

 予想以上に大きくなっていく話を前にして、フィオレがこれからのことをえんえんと考えていた矢先。

 視線を、感じた。

 

『気をつけて!』

 

 シルフィスティアの忠告に、身を翻して背後の少女──フィリアに斬りかかる。

 

「フィオレさん!?」

「……お静かに」

 

 考え事をしていたせいで気付けなかった。その代償が鈍い痛みを訴え、更にまっぷたつになって転がっている。

 どこからか放たれた二本の矢が、フィオレとフィリアを狙っていたのだ。

 自分に向けられたものは寸前で回避したものの腕を掠めており、フィリアに向けられたものを寸断したフィオレは勿論紫電を使っている。

 当然のことながら人々は驚きから身を引いており、異常事態を注視していた。

 慌てて紫電を仕舞うも、もう遅い。大王の視線はこちらへ釘付けになっている。

 そして、思いもよらない言葉を放たれた。

 

「その刀──我が朋友シデン家の家宝ではないか! 不届き者に盗まれたと聞いてはいたが、さては貴様が犯人か!」

 

 まさかまさかとは思っていたが、やはり関係があったか。

 それにしても、盗まれたと言うのは……

 

「皆の者、そ奴をひっとらえよ! 宝刀を盗み出した挙句我が物顔で使う恥知らずに、思い知らせてやるのだ!」

「話は通じそうにありませんね。撤退しましょうか」

 

 ティベリウスの一言で、港内にまんべんなく配置されていた兵士が群がってくる。

 一番近くにいた兵士が襲いかかって来るのを見て、フィオレは転がっていたものを拾い上げた。

 

 ぷち。

 

「ぐわっ!」

 

 フィリアに向けられて放たれた矢じりを拾って、眉間に軽く刺しただけなのだが……兵士は泡をふいて痙攣している。死なない程度に薄められた毒のようだ。

 おそらくフィオレが掠ったものも同様のものが塗布されているだろうが、この程度なら効果はないに等しい。フィリアに当たらなくてよかった。

 とにかく、今の「撤退」の一言で巻き込まれまいと逃げた住民に混じって、一同は港の入り口付近に待機している。

 それを確認してフィオレも走れば、兵士たちはもれなく追跡してきた。

 

「騒ぎは起こすなと言っただろうが!」

「無茶ですよ、あんな状況で」

 

 自分が引き起こしたことなら責任もってどうにかするが、あんな不可抗力的なもの。運が悪かったとしか言いようがない。

 

「それよりも、大丈夫なのですかフィオレさん! さっきの矢で、兵士が昏倒しておりましたのに!」

「異常はありません、ご心配なく」

 

 息を乱して走るフィリアの心配を遥か彼方へ追いやり、追っ手には久しく使っていなかった閃光弾を投げつけつつ、逃走する。

 一時的に追っ手を撒いたものの、モリュウの街に入ったのはつい先程。

 地の理が一切ない今、あっさり回り込まれて待ち伏せに遭い、その都度当身を打ち込むという単純作業に見舞われる。

 

「ぬがっ……」

 

 五人目を紫電の峰打ちで仕留めて、ふう、と息をついた。

 ふと一同を見やれば、走っては隠れるを繰り返した結果か、この中では一番体力がないだろうフィリアが真っ赤になって息をついている。

 

「一度二手に別れましょうか」

「え?」

「幸いなことに追われているのは私だけ。地理はわかりませんが、いざとなれば水路に潜ればいい話です。待ち合わせは……」

 

 咄嗟に思いつかなかったため、そこで一端言葉を切って。フィオレは突如抜刀した。

 幻想的な淡紫が煌き、捺印された銘の如き鋭さを持って対象に迫る。

 

「おおっと!」

 

 しかしながら、相手も相当の警戒をしていたらしい。紫電の一太刀は相手の構えた刀に激突した。

 フィオレの一撃をしのいでみせたのは、往来で母子をなぶり、住民を港へ集め、更に大王の命令を受けてフィオレを捕獲せんと集ってきた兵士姿である。

 ならば当身か始末か、どちらかをしなければならない。

 刃同士をかみ合わせるつもりはなく、紫電を手元へ引き寄せようとしたその時。

 

「確かに、紫電だな。まあ、今はどうでもいい」

「?」

 

 ふと、聞き覚えのある声が眼前の兵士から発せられる。

 次なる一撃のことしか考えていなかったフィオレの目の前で、兵士は目深に被っていた兜をはねのけた。

 柔らかそうな金髪、薄い翡翠色の眼、誰もが振り返る整った顔立ち。

 格好こそ兵士のものだが、先程の吟遊詩人でないことに気付かないのは誰もいなかった。

 

「あなたは、先程の……!」

「ちょいと、あんたらに話がある。今邪魔者を追っ払うからな」

 

 そう言って、吟遊詩人は一同を袋小路へ押し込むなり兜を拾い上げて、自分はくるりと振り返った。

 少しして、慌しい足音が数人分、聞こえてくる。

 

「草の根分けても探し出せ!」

「この辺りにいるはずだ、片っ端から調べろ!」

 

 再び兜を装着した彼は、口元で人差し指を立てて見せてから通りへと赴いた。

 そして、会話が聞こえてくる。

 

「こちらにはいないようだ」

「何? ちゃんと探したのか?」

「隅から隅まで。捨てボートを手に入れて水路を使ったかもしれ……ませんぜ」

「水路を使うとは……なかなか頭が回るようだな」

「しかし、あの見事な逃げっぷりじゃあ大王閣下におそれをなして外へ逃げた可能性が。もう街の中にはいないのかも……」

 

 やがて水路を使ったということで街の外へ逃げた可能性が高いと言いくるめられた隊長格が、衛兵らに捜索範囲を広げるよう指示を出す。

 再び数人分の足音が響き、一帯が静かになった頃、兜を脱いだ兵士姿が現れた。

 

「あ、あの、ありがとうございました」

「ああ、気にすんなって。困った時はお互い様ってな」

 

 片手間に鎧を脱ぎ、あの派手な衣装に戻りつつ、男は小さく畳まれた綿雲帽子を広げて被る。

 どこか気後れしたように礼を言うスタンとは対照的に、ルーティは懐疑的な目で吟遊詩人を見やった。

 

「お礼は言うわ。けど、兵士の装備なんてどこで調達してきたのよ」

「お前さんたち、追っ手兵士を何人か往来に転がしたろ。そいつらからちょいと拝借したのさ」

 

 こいつみたいにな、と未だに気を失っている兵士を足でつつく。

 そして、ひょい、と一同を見回した。

 

「さて、話をしたいところなんだが、ここじゃあ落ちかなくていけねえ。場所を移動したいんだが、構わないかい?」

「構います、と言いたいところですが、助けてもらった恩もありますからね。モリュウ城の牢屋でなければ、構わないとお答えしたいところです」

 

 一同を見回すも、特に反対意見はない。

 流石にリオンは渋い顔を隠していないものの、不承不承納得する素振りを見せている。

 

「サンキューな。目立たない道通るから堪忍してくれや」

 

 そして、彼について十分警戒しながら歩き始めたのだが……その土地勘は評価に値するものだった。

 兵士が闊歩する大通りは一切通らず、いつ袋小路に繋がるかもわからない細かな路地を迷わず歩いていく。

 そしてたどり着いたのは、一軒のこぢんまりとした旅館だった。

 

「いらっしゃ……「悪いな、俺の客だ」

 

 迎え出た仲居に一声かけて、吟遊詩人は歩みを止めない。

 そのまま一番奥の部屋に通されて、フィオレはうっすら眼を細めた。

 イグサで編んだマットレス──畳が敷き詰められた部屋、床の間と呼ばれる特殊な一角には掛け軸が飾られ、見事な水墨画が描かれている。

 フスマといったか、ショウジといったか。

 奥は木戸ではない特殊な引き戸によって仕切られており、いかにもアクアヴェイル風の意匠である。

 履物を脱ぐよう指示された一同が入り口で詰まっている中、一足先に乗り込んだフィオレはとりあえず外套を脱いだ。

 一同をここまで連れてきた吟遊詩人はといえば、帽子やらスカーフやらを外してリラックスしている。

 

「屋内で帽子被るな、って教わらなかったか?」

「ええ」

 

 特殊な部屋の中では履物を脱ぐように、アクアヴェイルには様々な異文化があると言っていたが、これもその内か。

 突如としてそんなことを言われ戸惑うフィオレに、吟遊詩人は嫌味のない笑顔を向けてきた。

 

「ひょっとして禿でもあったりするのかい? まあいいや、座っとけ」

 

 言われて、その場に正座する。

 ここでようやく履物を脱ぎ終わった一同が、フィオレの周囲に続々と座り込んできた。

 正座を真似しようとしたフィリアが悪戦苦闘した挙句、横座りの形になって落ち着く。

 

「さて、突然だがお前さんたち、訳ありって感じだな」

「衛兵に追われているのを見て、訳ありではないと判断するほうがどうかしています」

「そう噛みついてくれるなって」

 

 フィオレの嫌味もさらりと流し、男は話を続けた。

 ペースを崩してやる気満々で茶々を入れたのだが、手ごわい。

 

「しかもセインガルドの剣士あり、ストレイライズ神殿司祭あり、和風剣士コンビあり、きれいなお姉ちゃんあり……いわく取り合わせがバラバラだ」

「あら、見る目あるじゃない」

「自意識過剰だな。きれいな、というのはマリーのことで、お前は省略されたんだろ」

「ぬぁんですってぇ!」

 

 相手の些細な言い回しをきっかけに、またもや壮絶なじゃれあいが繰り広げられる。

 男は一端言葉を切って愉快そうに事の成り行きを見守っているが、流石にフィオレはそうもいかない。

 何せ彼は「セインガルドの剣士」に「ストレイライズ神殿司祭」がこの場にいることを承知している。

 フィリアは司祭服、そしておそらくアクアヴェイルでは珍しいスタンの鎧の型を見てそう言ったのだろうが……それが何を意味するのかが、わかっていないわけではないだろう。

 

「二人とも、収まらないなら外に出てください。この方の話が聞けません」

「あたしのどこがきれいじゃないって言うのよ!」

「そうやってギャンギャン喚くところもそうだが、まずは鏡を見ろ」

 

 注意したものの聞く耳を持たないため、双方にデコピン一撃ずつ加えて静かにさせる。

 途端に無言となり、額冠(ティアラ)に保護されていない額の一点が赤くなって痛そうにさするルーティと憮然としているリオンをさておいて、フィオレは男に話しかけた。

 

「私たちが普通の集団ではなさそうだ、とあなたが思っていることはわかりました。前置きはその辺でお願いします」

「そうだな。で、ものは相談、というか確認なんだが……お前さんたち、バティスタを追ってきたんじゃないのか?」

 

 彼がどのような推測を経て、そのような結論に達したのかはわからない。

 あるいは、そうであってほしいという望みを込めて言ったのかもしれない。

 しかし、それを察する余裕などない人物がここにいた。

 

「ど、どうしてそれを!」

「やっぱりそうか」

 

 どうも確信があって放った言葉ではないようだ。

 一人動揺し、目的を露見してしまったスタンを、ルーティが莫迦にしきった調子で零す。

 

「あんたってなんでそう、バカ正直に……」

「彼が彼である所以です。息をするように嘘をつくスタンなんて見たくありませんよ」

 

 再び仲間同士のいさかいを静めたフィオレは、小さく息をついて男と向き直った。

 どうも先程から、話の筋がそれていけない。

 

「私たちの目的がバティスタに関連する何かだったとしたら、あなたは何をお望みで?」

「何、簡単な話さ。俺に親友が奴に囚われている。そいつを助けるのに協力して欲しいんだ。どうだ、手を組まないか」

 

 何が簡単な話か。確かに内容は単純かもしれないが、いくつか不思議な点が見え隠れしている。

 あの母子の件であったように、新領主バティスタの行いに異を唱えるものはあえなく牢獄行きであるらしい。彼の親友とやらもその類だとしたら、助けたいのが人情だろう。

 だが、それにバティスタの件を絡めるのは早計だ。

 単なる住民の悪口雑言や風説の流布程度、衛兵に袖の下あたり渡せば済みそうなものである。衛兵に化ける程度の知恵はあるのだ。ただ助けたいなら、兵士の格好をしたまま潜り込んで牢獄に忍び込むなりすればいいだろう。

 それが、得体の知れない連中に恩を売ってまで協力を──人手を求めている。

 それはつまり脱出させるだけでは駄目で、根源を潰さない限り、救出したところで意味を成さないということだ。

 このように話の裏を考えていたフィオレだったが、次なる一言で我に返った。

 

「ええ、一緒に行きましょう」

 

 なんと。吟遊詩人の言葉に、スタンは即答してしまったのである。

 これは流石に見過ごせなかったらしい。

 

「ちょっと、スタン!」

「おい、勝手に決めるな」

 

 いさめようとして、ルーティにリオンの両名がスタンの決定に異を唱える。

 彼の相手は二人に任せることにして、フィオレはしばらく思索に集中した。

 

「だって、仲間は多いほうがいいじゃないか」

「そうですわ」

 

 スタンの言いたいことはわかる。フィリアが頷く理由も、わからないではない。

 多勢に無勢という言葉があるように、数の暴力が勝負を制することはよくあることだ。

 だが。

 

「だからといって、そんな素性も知れないヤツを……」

「さっき助けてもらったのに、まだそんなことを言うのか?」

 

 彼らは気付いていなかった。

 もっと根本的なところで、決定的な間違いがあるということを。

 覆せない事実を突きつけられたことで、リオンは二の句が告げない。

 

「……わかったよ。だが、バティスタを倒すのが……」

「そこで言いくるめられないでください、あなたまで」

 

 とりあえず考えがまとまったところで、フィオレは口を挟んだ。

 言いたいことなど山ほどある。

 

「どうしてですか、助けてもらったのに」

「ええ、助けてもらいました。そこは感謝するべきでしょう。でも、それとこれとは別の問題です。混同するのはおかしい」

 

 スタンやフィリアによる非難の視線が向けられるものの、そんなものを気にはできない。

 最も気にするべきところを、彼らは見逃しているのだから。

 

「親友を助けたいとおっしゃいましたね。その親友とやらが、バティスタの無茶な政治による被害者でなくて、正真正銘犯罪者だったらどうするんですか」

「あ」

 

 しーん、と場に沈黙が降り積もる。

 そんなマヌケな声を出すということは、当然バティスタの悪政被害者だと思い込んでいたのだろう。

 よもやそんなことはないだろうと思いたいし、確認してどうにかなることでもない。しかし、今の条件反射的に受け入れてしまった思考は見逃せない。

 

「そんなことすらちゃんと聞かないなんて、スタン。自分が助けられたからって犯罪者の脱獄のお手伝いをしていいとでも?」

「え、で、でも。フィリアもリオンも納得してくれたし……」

「おい、僕を巻き込むな」

「お、お話の流れからきっとそうなのでしょうと……」

 

 問い質せば、しどろもどろとなって言い訳を挙げ連ねる。

 気持ちがわからないではないが、一番考えなければならないところを流されないでほしい。

 

「同じことが何度もあるとは思えませんが、以後気をつけてくださいね。それはそれとして、気になる点があるのですが」

「気になる点? 俺の親友が犯罪者でないかどうか、かい?」

「正直なことを言わせてもらうと、それはどうでもいいことです。ただ、彼らがあんまりにも何も考えず物事を進めてしまうのは危険なことだから警告しただけで」

 

 人道的、倫理的観点からは完全にアウトでも、フィオレたちには関係ないことである。

 冷たいようだが、目的がある以上それを無視してまで誰かを気遣う余裕はない。

 そうしたいのなら、それができるようになるべきなのだ。ちょうどフィオレが、母子を兵士の蛮行から穏便に救うことができたように。

 

「私が問題とするのは、何故バティスタ討伐を目的とする私たちと、下手をすれば自分が捕まるような危険を冒してまであなたが接触してきたか、です。あと、どうして紫電のことをご存知だったのですか?」

 

 ついでのように尋ねた一言に、男の顔が一瞬だけ強張る。

 しかし、それは夢だったかのように次の瞬間には霧散していた。

 

「面白いこと聞くな。シデン領領主の名はアルツール・シデンじゃないか。その刀が同じ名だったとしても、不思議じゃないだろう?」

「ええ、確かに。でも、ティベリウス大王ですら刀の銘は口にしなかったのに、どうしてあなたは普通に出てきたのでしょうね? 知っていれば、口について出てくるものなのですが」

 

 上手く誤魔化したつもりだろうが、よくよく注意すれば綻びは見つかる程度の繕い方だ。

 吟遊詩人を名乗る男は沈黙している。

 

「私が思うに、あなたの親友の救出はバティスタが討たれなければ意味がないことだから、わざわざ私たちに接触を図ってきたのではありませんか?」

「……まあ、な」

「新しい領主が消えなければ、助けても意味がない人間……となると、最有力候補はお亡くなりになられた前領主の、子息殿」

 

 ここで、吟遊詩人はふーっ、と長いため息をついてみせた。

 浅はかで単純な推測に失望を覚え、やはりこの話はなかったことにされるかと思いきや。

 

「わかった。白状しよう。確かに今から助け出そうとしているのは、前領主ジノ・モリュウの一人息子、フェイトだ」

「前領主の息子ってことは、次期領主!? そんな大物と知り合いのあんたって……」

「帽子の嬢ちゃんにはもう察しがついているみてえだが……俺の名はジョニー。気ままな吟遊詩人さ。自称だけどな」

 

 初めて彼の名が明らかになるものの、前評判を知らない一同に意味はない。

 ただ、シデンの歓楽街を出歩いて情報収集をしていたフィオレには十分だったが。

 

「シデン領主の三男坊殿らしいです。シデン領では大変な人気者でして」

「人気者?」

「ええ。三男であるにも関わらず、この大変な時にどこをほっつき歩いているんだ、だの、少しは親父殿の手伝いをすればいいとか何とか。逆に彼のお兄様たちはどれだけ頼りないのかと思えるほどの言われようでしたね」

 

 本当は女性関係でも大変な悪評を聞いたのだが、話しても知って気分のいい話ではないので言わない。

 しかし、当の本人はフィオレが彼についてどんな情報を得ているのか、大体察しはついているようだった。

 

「意地が悪いな。そこまで知っているということは、どうせ初めて会った時から想像はついてたんだろ」

「見当はつけていました。確信を得たのは、紫電の銘を聞いてからです」

 

 ジョニー自身、並びにその親友の正体がはっきりしたことで、フィオレは結論を出した。

 

「これなら、問題ないでしょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 どうでもいいけど、領土が三つあるとはいえ、地方の島国が大陸ふたつ相手取ろうなんて無茶もいいところ。
 神の眼があるなら世界すら掌握できるから可能ではあるのですが、大きな力をアホが手にすると、本当めんどうくさいですね。


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第七十六夜——結ばれた共同戦線

 アクアヴェイル地方モリュウ領、ジョニーが取った宿の中。
 真っ黒い腹の内は隠して、話をまとめていざモリュウ城へ乗り込みます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水の流れによって音を出し、本来は害獣を音で脅かす役目を持つシシオドシが宿の裏庭でかぽん、と鳴る。

 

「さて、これで素性がどうこう言う話はなくなりました」

「それはもういい。それで、お前はどうなんだ」

「個人的な意見を言わせていただくなら、敵の根城に潜入する方法をお持ちなら提案を受け入れたく思います」

 

 先程自分が言った言葉を取り沙汰されて、リオンが不機嫌そうにフィオレの意見を問う。

 その質問に、フィオレは交換条件を取り出した。

 

「ご友人を助けたいとおっしゃられるくらいですから、当然手立てはお考えでしょう?」

「ああ。その点に関しては任せてくれていい。ただ、城の内部について案内はしかねるな」

 

 どういうことなのかと尋ねれば、ジョニーは小さく肩をすくめてみせた。

 

「新領主が来てから、街の大工連中がごっそり連れてかれてな。昨日目の下にクマ作って戻ってきたんだ。城の作りが変わっていたところで不思議じゃないぜ」

 

 それは残念だが、それでもモリュウについて勝手のわからない一同にとっては十分魅力的な話である。

 

「問題ありません。私としては、どうやってバティスタがふんぞり返っているであろうあの根城に潜入するか頭を悩ませていたところなのです。わざわざそちらから出向いてくださったことですし、是非利用したいと考えていますが」

「……歯に絹着せねえなあ。世の中にはギブアンドテイクって言葉があるってのに」

 

 利用という単語が気に入らなかったのか、黙って話を聞いていた男が眉をしかめている。

 どうでもいいにつき、放置してリオンの顔を見た。

 

「いかがですか?」

「……構わないと思う。だが、バティスタを倒すのが先だ。次期領主救出を優先することはできん」

「そこのところはケースバイケースです。もしバティスタを見つける前に発見できたなら、その時点で保護するべきだと考えますが」

「何故だ」

 

 即答はできるものの、ジョニーに堂々聞かせるのはためらわれる。

 おもむろにリオンの腕を掴んで部屋の隅まで連れて行くと、指環をはめさせた。

 

『考えてもみてください。私たちはバティスタを一度野放しにしており、尚且つ不法入国者です。できるだけ偉い方、特に次期領主には恩を売っておいたほうが、後々の交渉に差し障りが出ないかと』

「おいおい。そんなに警戒せんでも、俺はフェイトを助けられればそれでいいんだ。そっちがよほどのこと考えてなきゃ、耳は塞いどくぜ」

「大したことではないので、お気になさらず。バティスタ優先というのは賛成ですが、幸い私たちは臨機応変、と言う大変便利な言葉を知っていますので」

 

 リオンから指環を回収し、速やかに元いた位置に戻る。

 細かな話が延々と続いたせいでわかりにくかったのか、スタンが話のまとめを始めた。

 

「えーっと、じゃあこれからジョニーさんと協力してモリュウ城に忍び込む、でいいんですよね。途中でジョニーさんの親友を見つけたら助けて、見つからなかったらバティスタから聞きだすって感じで」

「そうなります。まあ、私としては人質や生きた盾にされる前にかいしゅ……保護しておきたいところなのですが」

「生きた盾ときたか。お前さん、面白い言い方するな」

 

 その言い草にジョニーは失笑するものの、フィオレはあくまで真剣だった。

 客員剣士たる者、あらゆる可能性を考慮し行動するべしとリオンから教わっている。

 

「もし、潜入中こちらの目的がバティスタ討伐だけでなく、次期領主救出を兼ねているとバレたら厄介です。あちらにとって特別に生かしていく理由がない限り、何にでも使ってくるでしょうね」

「何にでもって……戦ってる最中、ホントに盾扱いするっての?」

「バティスタとの交戦中、部下か何かに連れてこられて、目の前で指やら耳やら切り落とされるのを看過できますか? こちらの集中力は確実に殺がれることでしょう。ヒトの断末魔は聞く者の心を確実に乱します」

 

 えげつない話に一同は困惑を隠さないものの、フィオレがバティスタの立場であったら十中八九そうする。少なくとも、それでジョニーが動けなくなることだろう。

 ともあれ、起こるかどうかもわからない問題を延々話し合っていても何もならない。

 

「それで、あの城へ潜入する手立てとは?」

「ああ、そいつはだな……夜になってのお楽しみだ」

「え?」

 

 フィオレとて、昼日中堂々と潜入できるとは思っていない。カルバレイスと同じく、宵闇にまぎれて行動するだろうとは思っていた。

 だからこそ、時間のある今の内に概要を知っておきたかったのだが。

 

「ギブアンドテイクってのを忘れたのか? 情報取れるだけ取られて、先走られても困るんでな。その時まで隠させてもらうぜ」

「……わかりました」

 

 釈然としないが、そう思うなら仕方がない。しかし、まだまだ日は高いのだ。

 勝手に出歩けるのであれば、まだこれから先のことを考えて情報収集するということもできるのだが……あんな騒ぎを起こしたのだ。フィオレは勿論、他の面子も外出はするべきではない。

 

「夜になるまで、あなたのお部屋を使わせていただくことになります。よろしいのですか?」

「ああ、かまわんぜ。夜に備えてしっかり休んでくれや」

 

 言葉に甘えて、一同が思い思いくつろぎ始める。

 思い出したようにシャルティエの手入れを始めたリオンに、フィオレは視線を向けた。

 

「そうだ、リオン様。街中をうろつかない以上変装は無意味ですので、普段の格好に戻っても構わないと思います」

「……ようやくこの格好から解放されるのか」

 

 せいせいした、と言わんばかりに素早く着物を脱ぎ、客員剣士の姿に戻る。

 リオンが脱いだ着物を回収していると、シャルティエの声が聞こえた。

 

『フィオレは着替えないの?』

『私に男衆の眼前で下着姿になれと?』

 

 男物と違い、女性用の着物は制服の上から着れるほどサイズに余裕がない。

 ふざけたことを抜かすシャルティエを黙らせて、ルーティからも外套の返却を求める。

 ジョニーの言う通り、有事に備えて休もうとして、弦楽器を奏でる音がした。

 

「……あなたもお休みになられたらいかがです?」

「ちょっと待ってくれねえかい、お嬢さん? こっちは洗いざらいしゃべったんだ。そちらの事情も話さねえってのは、不公平じゃないのかい?」

 

 気持ちは察せる。しかし、自発的に伝えられる情報はあんまりない。

 そんな内心は表に出さずに、言葉を選びつつも対応する。リオンにやる気はなさそうだし、他の面子に任せたら、何を漏らすかわからない。

 

「バティスタを追う目的がある、不審者たちという秘密では足りませんか?」

「そーゆーことじゃない。俺はまだ、あんたの名前すらも知らないんだがな」

 

 そういえば、名前で呼び合うことはしても自己紹介はしていなかった。確かにこれは困るだろう。

 

「それもそうですね。今しがた、着替えた少年がリオンです。金髪の剣士風がスタン」

「そういやリオンのその格好、セインガルドで有名な客員剣士のものだな」

 

 よくご存知である。これでまたひとつ彼に情報を与えてしまったが、これは仕方がない。

 

「司祭姿がフィリア、黒髪のレンズハンター風がルーティ、その隣がマリー」

「なるほど。暑そうな格好してやがるなあとは思ったが、隠しておいて正解だ。今はちょっとでも目立つと、衛兵が絡んできやがるからな」

 

 それは何よりである。最後に自分自身を指して、フィオレはしめくくった。

 

「あなたが帽子のお嬢さん、と呼んではばからないのは、フィオレです。ちなみにお嬢さんと呼ばれるような歳ではございません」

「……んで? やっぱり帽子は取ってもらえないのかい?」

「ええ。人様の正視に堪えうるものではございませんので」

『さらっと大嘘を抜かすのはやめろ。スタンが真似をしたらどうする』

『そういうことを言うとますます興味を持たれるわよ。それに、正直嫌味だと思うわ』

『嘘っぱちもいいところじゃのう』

『そうそう。僕、そろそろフィオレの顔見たいな。今日雑魚寝すれば、寝返りで帽子取れるから見れると思うけど』

 

 ソーディアンどもうるさい。そしてシャルティエは良い助言をくれたものだ。確かにその通り、対策を取らなければならない。

 これで満足だろうとジョニーを見やってふと、フィオレは思いついた。

 

「その弦楽器、見せてもらってもいいですか?」

「ああ、構わんが……お前さんの楽器も見せてもらえないか?」

 

 了承し、背中の楽器を取り出してジョニーの楽器を手に取る。

 いきなり現われたシストルに目を見張るものの、彼は何も言わなかった。

 一方、フィオレの方は弦楽器の正体自体に興味はない。

 

「これ、吟詠奏仕様ですか?」

「ああ」

 

 聞き慣れない単語を聞きつけて、一同が首を傾げる。その中で、フィリアがその詳細を話して聞かせた。

 

「吟遊詩人の方々が諸国を旅する際、身の安全を確保するために確立した技巧のことですわ。モンスターが嫌がる音色を奏でる楽器を携えているので、よほどのことがなければ絶大な効果を発揮するとか」

「よほどのことって?」

「手負いで苛立っていたり、極度に空腹であったり……でも出くわしたその時も能力低下など効果があるそうで、昔の行商たちはこぞって吟遊詩人を雇っていたといいます」

 

 現在は吟遊詩人の数自体が減り、旅業の護衛は傭兵やレンズハンターが請け負うものとなっている。

 そのためその存在は、人々の記憶から忘れられつつあった。が、そんなことはどうでもいい。

 

「城で兵士と出くわしたら、使ってもらえますか?」

「そりゃかまわんが……吟詠奏はモンスターにしか効力を発揮しないぜ」

「反応する兵士もいると思います。少なくとも、街中で好き勝手していた連中の大半は、レンズを摂取しているかと」

 

 連中の目など一切気を払っていなかったが、魔物は生物としての本能を何よりも優先させる傾向がある。

 更に知能が高ければ高いほど弱者を排除する傾向にあるのだ。短気──理性が長続きしないところを考えると、その危険性は非常に高い。

 それを話して聞かせ、だから魔物に能力低下を促す吟詠奏を使ってみる価値があるのだと締めくくる。

 すると、ジョニーは目を丸くして拍手した。

 

「お前さん、なかなか切れ者だな。洞察力もある。女は感情で物を考えるもんだと思っていたが、世の中は広いな。それとも、セインガルドの女はみんなこうなのか?」

「……遠回しに莫迦にしてますよね、それ」

 

 封建的で男尊女卑の傾向がひどい、というアクアヴェイルの風潮は知っているつもりだった。

 しかし、実際それを口にする人間を目の当たりにすると閉口せざるを得ない。それが間違いでないから、尚のこと腹が立つ。

 フィオレの様子を見て何かを察したらしいジョニーは、慌てて言い繕った。

 

「気を悪くしたなら謝る。だが、俺は本当に驚いたんだ」

「……口は災いの元だとはよく言ったものです。それ以上何か言ったところで、どうにもなりませんよ。そろそろ、仮眠を取らせていただきたいのですが」

 

 ジョニーの楽器を返還し、シストルを回収する。

 隅に積まれていた座布団を幾枚か取って、フィオレはうつ伏せに寝そべった。

 イグサのほのかな香りが、郷愁の念をかきたてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だれかがぼうしにふれた。

 それだけを知覚して、すぐ近くの人影を認め。懐の短刀を掴み、突き出す。

 

「うおっ!」

 

 驚愕に染められた男性の声。リオンとは違う種類の、低音の美声だ。スタンの快活な、聞いていて元気の出る声とも違う。

 この声の主は、確か。

 

「ん……えっと。ジョニー、でしたっけ」

 

 帽子を被り直し、顔に巻いておいたサラシを外して口元を抑えることで欠伸を噛み殺し、突きつけていた懐刀を引いて、鞘へと戻す。

 

「何か、ありましたか?」

「あ、ああ……そろそろ、頃合いだと思ってな」

「わかりました。みんなを起こします」

 

 大きく伸びをして、睡眠によって固まっているあちこちをほぐしつつ、仮眠している一同に声をかけていく。彼はおそらくフィオレのキャスケットを外そうとしたのだろうが、そのことには触れない。

 夜と言うにはまだ早く、夕暮れというには少し遅い時間帯。

 太陽が沈みきった直後、一同はジョニーに促されて行動を開始した。

 

「城に潜入する手立て、といってもそう複雑じゃない。水路を使って侵入するんだ」

「水路ってことは、小舟ですか。でも見つからずに直接舟ごと入れるところなんてあるんですか?」

「うんにゃ。こいつを使うんだよ」

 

 ジョニーが示すのは、宿から出てきた際持ち出してきた麻袋である。外側からは中身が何なのか、想像こそつくが正体はわからなかった。

 通りを見渡せば、人の姿は少ない。同時に衛兵の姿もなく、宿屋を占拠しているのか、馬鹿騒ぎがかすかに聞こえる。

 そしてジョニーを先頭に向かった先は、水路に面した小さな埠頭だった。

 いくつもの小舟が岸辺に揺れており、傍に立っている看板には「ぴろんボート店」と書かれている。

 ぴろんといえば、シデン領にそんな名前の不思議な銅像が建っていたが……

 

「夜分に悪いな、おやっさん。舟を出してほしいんだが……」

「いよいよ決行の時ですか? よろしいですとも」

 

 店主だろうか、傍に建っていた小屋を覗き込んで、ジョニーがそんな交渉をしている。

 すでに話は通っていたのか、渋る様子も見せずに店主らしき壮年男性が出てきた。

 

「ひい、ふう……七人ですか。こりゃあ少し、大きめの舟を出しましょうかね」

「味方は多いにこしたことがねえからな」

 

 並んでいる小舟には目もくれず、店主は姿を消したかと思うと中型ほどと思われる舟を操って器用に桟橋へ停止させている。

 

「この舟で城の堀の中まで行く。その後、物見台にこいつをひっかけて、めでたく潜入だ。簡単だろ?」

「理屈だけはね。その通りにできるといいですね」

 

 更に言うなら、その物見台に見張りがいないよう祈る。

 水路を静々と進む中、店主はジョニーの仲間だと信じきっているのだろう。一同へ気さくに声をかけてきた。

 

「しかし、いい日を選んだものだねえ。満月だから明かりに事欠かないし、城も今は手薄だしさ」

「そうなのですか?」

「ああ。昼間、港で騒ぎがあってね。自分のものになるはずだったシデン家の家宝を持っていた奴がいたらしいんだよ。それで(やっこ)さん、モリュウ領の兵士まで使って捜索させているのさ」

 

 狙っていたわけではないが、結果オーライという奴か。これはジョニーの活躍を認めざるを得ない。

 それよりか、気になることがあった。

 

「自分のものに、なるはずだった?」

「ああ。大昔からシデン家に伝わる、それはそれは美しい刀なんだってね。その一振りはまさに雷の如しとか。それでティベリウスが欲しがったんだが、いよいよ引き渡すって時になって盗まれたらしいよ」

「……そういや、聞き損ねてたな。後で教えてくれよ」

 

 舟に揺られながら耳元で囁かれ、思わず背筋に寒気が走る。

 わかったから耳に息を吹きかけるなと拒絶反応を示すも、ジョニーは微笑んでいるだけだ。

 

「お前さん、耳が弱いのか?」

「強いて言うならうなじが弱いです。ここを斬られたら生きてられない……「そうかそうか。この辺か?」

 

 そのものズバリを返されて怯むかと思いきや、本当にうなじへ指を伸ばしてくる。

 腕を掴んでスタンに向け、鎧に突き指させるも効果のほどはない。

 

「ねえあんたら、イチャイチャするのやめない?」

「まったくもってその通りです。ジョニー、余裕かましてないでそろそろ真面目になるべきですよ」

「はは、否定すらナシか。クールだねえ嬢ちゃん」

 

 ルーティの言葉を受けて、フィオレも真面目におふざけをやめるよう、求める。

 昼間のやりとりで素顔を見せないフィオレに興味を持ったか、それとも純粋に遊んでいるだけなのか。

 寝起きの帽子ドッキリに始まり、何故かジョニーは、知り合って間もないフィオレによくちょっかいを出してくるのだ。

 それに対してフィオレは邪険に扱い、触れることを許さず、時には物理的な制裁を下すも、彼はまるでめげない。

 この調子では、そのうちキャスケットも剥ぎ取られてしまいそうな勢いだ。どうせバティスタと事を構える際は、そんなことに構っていられないが、先延ばしにしておきたいことではあった。

 つつがなく水路を移動し、モリュウ城直前までやってくる。

 城の周囲に人気は少なく、確かに昼間の騒ぎが影響していることがうかがえた。

 

「よしよし。予想通りだな」

「ですが、そうそう上手くは行かないようですね」

 

 ジョニーの言葉を否定したフィオレは、振りかぶって上空を見上げている。

 張り出した物見台には、二人の兵士が常駐していた。

 

「明かりもありませんし、誰もいないんじゃ……」

「いえ、二人ほどいるみたいです。明かりなしで警備が務まるということは、レンズを飲んでいる可能性が非常に高いです。始末しましょう」

 

 ジョニーが持っていた麻袋を要求し、中に入っていた縄梯子を取り出す。

 下から投げることを想定して鉤爪が先端に取り付けられているが……精々活用することにしよう。

 

「おいおい、見張りがいるんなら尚のことそいつは「スタン、これを預かっていてください」

 

 なくすのは嫌なので、帽子をあっさり脱いでスタンに預ける。誰からも背を向けた状態で眼帯も外し、懐に押し込んだ。

 そして──縄梯子を担いだまま、城壁に手をかける。

 

「お、おい⁉︎」

「隠密行動中です。お静かに」

 

 幸い堀を囲む城壁は大きな岩を組んで作られたもので、足場には事欠かない。

 物見台がそこまで高い位置になかったことも幸いして、フィオレはあっさりとたどり着いた。

 一呼吸分だけ息をつき、一息に上がる。ここからは速やかな行動が勝利へ繋がるのだ。

 

「なっ!?」

 

 突如として現われたように見える侵入者を前に、兵士は武器を構える暇もなく固まるだけだ。

 ただ。

 

「女!? 一体どうやってここまで……!」

 

 月明かりだけでそこまでわかったということは、レンズを飲んでいること確定である。

 フィオレは迷いなく、紫電を抜き放った。

 その二振りが、兵士二名からレンズを排出させる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 吟詠奏はこの話のオリジナルです。楽器で攻撃する人用の言い訳でもあります。
 もちろんゲーム中は普通の人にも攻撃は可能ですが、音波攻撃と解釈すればパーティの人間もたまったものではありません。
 ジョニーがセクハラ野郎と化していますが、シデン領で夜中に情報収集していたフィオレは、ジョニーが結構な女好きだと聞いているので総スルー状態。
 むしろ、他面子に彼の目がいかなくてホッとしています。
 その言動に内心イラッとしていますが、ジョニーは領主息子=玉体=王族に類する、と考えているため、表立って報復はしません。
 また権力を笠に着られたらたまらないから。


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第七十七夜——風雲・モリュウ城の回

 アクアヴェイル地方モリュウ領、inモリュウ城。
 領主奥方に恩を売り、ジョニーに嫌な顔させて城内攻略中。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レンズが排出された頃。フィオレは真下に舟があることを確認した。

 鉤爪を引っ掛けて縄を垂らし、眼帯を元通りつける。

 縄をギュウギュウ言わせて一番に上がってきたのは、フィオレの帽子を頭に載せたスタンだった。

 

「はい、お疲れ様」

 

 帽子をつつがなく回収、上から彼を引き上げて次に昇ってきたリオンを引っ張る。

 それを繰り返し、最後にジョニーが上がってきたのを確認して、フィオレはくるりときびすを返した。

 

「おいおい、俺は引き上げてくれないのかい?」

「いい年こいた大人が甘ったれないでください」

 

 一応、ジョニーは触っても平気な部類ではあるのだが。どさくさに紛れてどこか触る、あるいは帽子を取られそうで嫌だ。

 縄梯子とはいえ、城壁を登るという慣れない作業はさぞや困難だっただろう。早くも疲労困憊状態のフィリアを休ませて城内を確認する。

 見たところ巡回の兵士はいないようだが、油断は禁物だ。

 

「……ん?」

「どうかしたんですか、フィオレさん?」

「何か聞こえませんか? すすり泣きみたいなものが……」

 

 耳を澄ませるフィオレ同様、一同は口を閉じて聴覚を鋭敏化させる。すると。

 

 ……シクシク……

 

「!」

「な、なんでこんなトコですすり泣きが」

「ま、ま、まさか、ゆ、ゆうれ……」

「落ち着いてください。どうして肉体のない幽霊に泣くことができるんですか」

 

 パニックを起こしかけたフィリアをなだめて、数ある小部屋をひとつずつ確認していく。

 ほとんどの小部屋がただの倉庫でしかない中、中央に位置する小部屋の中に問題の泣き声が聞こえてきた。

 

「どなたかいらっしゃるので?」

 

 それまで調べた小部屋とは違い、中央に位置する小部屋には外側から頑丈な鍵がかけられている。おそらく誰かが閉じ込められているのだろうと踏んだのだ。

 声をかけられてか、すすり泣きがやむ。しばらくして、掠れた女性の声が聞こえてきた。

 

「……誰? そこにいるのは……」

「! その声、リアーナか!?」

 

 声を聞き、ジョニーが扉を蹴破らん勢いで駆け寄ってくる。

 この反応、もしや。

 

「息子は娘だったのですか?」

「そんなわけないだろう! こんな時に全力でとぼけたことを抜かすな!」

 

 フィオレとしては、次期領主は異常事態に直面して現実逃避し、その際もうひとつの人格が目覚めて女性になりきっているのではないかと思ったのだが……久々にリオンから叱責を受けた。

 

「次期領主殿ではないのですか?」

「彼女はその次期領主の奥方だ。粗相がないようにしてくれないかベイビー」

 

 リオンのように感情をあらわにこそしないが、ジョニーはジョニーで額に四つ角を浮かべている。

 笑顔ではあるが、逆に怖い。

 今のやりとりでフィリアが脅えから解放されたようなので万々歳だが、これ以上自分の株を下げる前に針金を取り出した。

 

「ちょっと待っててくださいね──」

「?」

 

 扉の前に跪き、南京錠を手に取る。

 ジョニーが不思議そうに見下ろす最中、それほど複雑な構造でもない南京錠はあっさりと開いた。

 カキン、と小気味良い音を立てた南京錠を放り投げて、扉を開く。

 

「こんばんは、次期領主奥方」

 

 扉を開き、驚きに目を見張っているジョニーの背中をつつく。それで我に返ったらしい彼は、するりと扉の中に身体を滑り込ませた。

 それまで周囲の警戒をしていた一同もまた、扉へと近づく。

 中にいたのは泣きはらした目が痛々しいものの、整った顔立ちの小柄な女性だった。

 

「よっ、リアーナ。元気にしてたかい?」

「あなた一体、どうやってここまで……」

「なぁに、外からちょいとね」

 

 必要でなさそうな会話はすべて聞き流し、周囲に警戒する。何せ、ここは牢獄でもなんでもない、物置部屋ばかりの一角なのだ。

 彼女が監禁されていたこの部屋も、物置部屋に急遽寝具と用足し壷を置いた程度のもの。罠の匂いがぷんぷんする。

 

「……この城の中も、随分と変わり果ててしまいました」

「変わってないのは外観だけか。ここまでくると悪趣味だな」

 

 大工連中云々はジョニーの気のせいではなかったか。ジョニーの案内がなくなったのは痛いが、まあまあすんなり忍び込めただけで満足しておこう。

 

「ジョニー、あの人を……」

「ああ、任せときな。フェイトは必ず助けてみせる」

 

 嗚呼、言ってしまった。

 決定的なその一言を聞いて、フィオレは小さく嘆息した。

 

「あーあ。言っちゃった」

 

 そのまま言葉を続けようとしたジョニーが、一同がフィオレを見やる。

 ゆっくりと動き出したフィオレの手は、懐に潜り込んでいた。

 

「そういうことを軽々言ってくださるから……こちらの仕事が増えるのですが、ねっ!」

 

 弾かれたように抜かれた漆黒の刃──懐刀が、そのまま壁へと吸い込まれていく。

 そのまま根元まで刃をつき立てられた壁は、なんとも不気味なうめき声を発した。

 

「きゃっ……!」

「はい、お静かに」

 

 悲鳴をあげかけたリアーナなる女性の口を塞ぐ。きびすを返して、フィオレは悠々小部屋から出た。

 おもむろに突き刺した壁側を覗き込めば、そこにいたのは黒装束をまとった二人組である。

 片方は耳から頭へ刃に貫かれ絶命しており、もう片方は背中を見せている最中だった。

 先程の会話を聞いていたであろう黒装束を、フィオレが逃がす筈もなく。

 

「……まあ、あの会話がなくたって。私たちの侵入を知ったなら、こうするより他ないのですが」

 

 放った棒手裏剣が黒装束の足に突き刺さる。

 そこをすかさず接敵したフィオレは、何があったとばかり駆け寄ってきた一同の目の前で黒装束に致命的な一太刀を浴びせた。てらてらと不気味に光を弾く紫電を一振り、まとわりつく血糊を振り払う。

 そのまま納刀する最中、フィオレは確かに見た。

 家宝を人殺しに使われ、嫌そうに顔を歪ませるジョニーの顔を。

 

「急ぎましょうか。またああいう手合いにこられても面倒です」

 

 小さく頷いたジョニーがきびすを返し、リアーナのいる小部屋へと顔をのぞかせる。

 それに続いて再び小部屋に侵入したフィオレは、事務的に短刀を回収した。

 

「じゃあ、あんたはここで大人しくしてるんだぜ」

「はい……」

 

 憔悴しきっている様子だが、今夜中に片をつければ同じこと。

 一礼をしてフィオレが退室し、ジョニーはそのまま扉を閉めた。

 

「んじゃ、そろそろ行くとしようか」

「ええ。一気に勝負をつけましょう」

 

 決意もあらわに、スタンが頷く。そのまま城内を移動しかけて、ふとジョニーがフィオレの傍にやってきた。

 

「ところで、お前さんが紫電を手に入れた経緯を聞いてもいいかい?」

「──50ガルドで買いました。購入場所はストレイライズ神殿前の露天商、流れの武器商人が木刀として私に売りつけてきましてね。それ以上のことは知りません」

 

 値段を聞いてだろうか、木刀扱いを聞いてなのか。ジョニーは言葉をなくして、偏頭痛を起こしたかのようにこめかみを押さえている。

 確かにフィオレとて、以前所有していた家宝がそのような扱いをされれば、同じような気分になったかもしれないが……

 彼の機嫌を直すためにも、フィオレは言葉を続けた。

 

「返還しろとおっしゃるなら応じないでもありません。ただ、そのお話は少なくともバティスタをどうにかしてからにしてくださいね」

「確かに親父や兄貴たちは返してほしいと言うだろうが……大王倒した後でないと意味がねえんだわ。戻ってきたところで、ティベリウスが貸せ、寄越せってうっるせーだろうからな」

 

 すべては、このアクアヴェイルでの戦いを終わらせてからということか。

 道なりに進んでいけば、おそらくモリュウ領の大工総出使って施したであろう仕掛け満載の廊下があらわとなる。

 室内だというのに至るところに水路が流れ、足場が意図的に外され一直線に進めない。

 そこいらに設置されたバルブを操って水の流れを止め、放置された簡易型の足場を動かさない限り先に進めないという面倒くさい仕掛けである。

 

「用意周到なことだ。忌々しい」

「もしわかっていたとしたら、こんなわかりやすい仕掛けにはしないでしょう。ということは、兵士たちかバティスタの運動不足解消用コースなのでは?」

 

 わけのわからない推測を挟んでリオンから睨まれながらも、うっとおしい仕掛けをやり過ごしては先へ先へと進む。

 そんな単純な仕掛けばかりであれば、まったく問題なかったのだが。

 

「この扉、開かないですよ? 鍵穴もないみたいだし……」

「多分、そこの水車と連動しているんだと思います。水を流しましょうか」

「そんなことしなくても、手で回しちゃえばいいんじゃ」

「最後に手で回していた奴はどうやって扉をくぐるんだ」

 

 仕掛けは、先へ進むたびに複雑化していく。

 その度に自作の地図と睨みあいながらバルブが設置された場所へと戻るのが、とんでもない時間のロスだった。

 それでも、まだ救いはある。

 

「略図を作ってよかったですわ。また探していたら手間ですもの」

「ええ。誰かさんの記憶力に頼らなくて正解でした」

 

 視線の先には、そんなことも覚えていられないのか、とせせら笑った某客員剣士様がいた。

 だが、設置場所がいくつもある上にどこの水路に繋がっているものか推測しなければならないことが判明して以降、積極的に略図作成に協力している。

 略図に頼り、水車を動かして扉を開く。進んだその先に、とある部屋へ出た。

 中央の壇上にはピアノに似た鍵盤楽器が設置され、奥にはまた扉がある。

 当然のように、扉は押しても引いても開かなかった。鍵穴もない。

 

「今度は水車もないし……」

「どう考えてもあのピアノもどきが怪しいのですが」

 

 くるりと振り返り、壇上を見やる。そしてフィオレは眼を見開いた。

 壇上にはすでにジョニーが、ピアノもどきと対峙するかのように指をポキポキ鳴らしている。

 

「オルガンとはシャレてるねえ。どれ、一曲披露するか」

「おい、そんな暇は……」

 

 確かにない。

 しかし、リオンの一言など気にも留めず、彼はそのままオルガンとやらに指をかけた。

 定められた旋律が緩やかに奏でられ──眼前の扉が開いた。

 

「あん?」

 

 ピタリ、とジョニーの手が止まったところで、扉は音を立てて閉まる。

 再び彼が手を動かし始めるも、扉は動かない。

 

「……失礼」

 

 オルガンを弾けば扉が開く、という単純な仕掛けではないらしい。壇上を上がり、ジョニーの隣から腕を伸ばして慎重に鍵盤に触れる。

 ついでに、このオルガンとかいうピアノもどきの性能も調べた。ピアノと形こそ似ているが、作りが違うらしくひとつの鍵盤を押してもずっと同じ音が響く。

 鍵盤を指一本で押しても、扉は開かない。

 ただの和音を弾いても、反応はなし。

 様々な試みを繰り返して、フィオレはふむ、と頷いた。

 

「どうも、ちゃんとした曲を演奏しないと開かないみたいです。しかも一度弾いた曲は効果なし……ところでジョニー、鍵盤楽器で演奏できる曲数はおいくつで?」

「そうだな。ざっと三十ってところか」

 

 微妙な数字である。

 しかもそれが、フィオレにとってあの短く感じた歌ばかりだとしたら……それが尽きてしまえばジ・エンドだ。

 この先が袋小路なら一向に構わないところ、どこに通じているかわからない以上不安だらけである。

 それならば、判断はひとつだ。

 

「私とジョニーが残りましょう。皆は先に進んでください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 あの仕掛け、本当にどうやって作ったものなのか……もともとあったものではないと思うのですが。
 水(水車)を流せば扉が開く、もそうですが、オルガンを鳴らせば扉が開くという構造も気になります。
 ゲームプレイ時もわかりませんでしたが、今もやっぱりわかりません(ファンタジーに突っ込み禁止)でも、やろうと思えば工学的には何とかなりそう(笑)


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第七十八夜——語られる真意とは

 モリュウ城攻略中、やっぱりひと悶着。

 原作でも、ジョニーと一緒に誰かが残らなければなりません。(PS版)
 そのままボス戦に突入しないから別にいいのですが……
 二手に分かれたことをいいことに皆好き勝手言っていますが、果たして真相や如何に(笑)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オルガン演奏によって道が開かれる扉を前にして。

 フィオレの放った一言に間髪いれずブーイングがあがった。

 

「フィオレさんも残るんですか?」

『妥当といえば、妥当だが……』

「確かに、そういった楽器が扱えるのはフィオレさん以外いませんけれども……」

『貴重な戦力の無駄遣いじゃの』

 

 戸惑いを隠さない彼らに対して、こちらは正直だった。

 

「つまり、こっから先はクソガキに従えっての? 冗談じゃないわ!」

「ほう。つまり貴様は、僕にこいつらの世話を押し付ける気なのか?」

『フィオレがいなくなると、これを物理的に仲裁する人もいなくなってしまうわね』

『そうだよ! 始終坊ちゃんとルーティの喧嘩に付き合わなきゃいけないこっちの身にもなってよ』

 

 またしてもじゃれあいをおっぱじめようとする二人を制し、ソーディアンたちの見解は無視し。

 事の成り行きを見守るマリーに異存がなさそうであることを確認して一息つく。

 

「私の意見に賛成しかねるなら、代替案の提唱をお願いします。何もしないで文句を言うだけなら、異論は認めません」

 

 最近、理由を語って納得させるよりこっちのほうが楽だということに気付き始めた。

 一同は一様に口を閉ざすも、それで終わるわけもなく。

 

「でしたら、スタンさんやマリーさんが代わりに待機ではいかがでしょう? もしもジョニーさんの曲数が尽きても、前衛を担当するお二人のどちらかが扉の片方にいれば、破れるのでは」

「それができるなら、残るなんて言い出さないで初めから強行突破を提唱します。フィリアはあの扉、人の手で破壊できると思いますか?」

 

 これまでの行程でもそれは同じだ。面倒な仕掛けに対して扉が破れるものなら破っていたが、扉は頑強な造りになっている。それはこの部屋の扉とて同じことだ。

 フィリアの爆薬を数十倍の威力にすれば、あるいは可能かもしれないが……侵入者がいますと大音量でお知らせしているようなもの。提唱する気にもなれない。

 

「そうだ。フィオレさんの手品であの扉を消せば……」

「疲れるから却下です。それとね、ルーティ。あなたがクソガキと呼んではばからないのは、れっきとした私の上司です。客員剣士としての経験は私以上ですから、なんら心配はないかと」

「実力はあんた以下じゃない」

 

 四つ角を浮かべて今度こそ額冠操作盤を取り出すリオンをどうにか押さえて、フィオレは言葉を続けた。

 彼女の言い分はけして間違っていないのだが、もう少し言葉を選んでほしいところである。

 

「交戦能力という意味でならね。でも、判断力や作戦指揮に関してならまったく問題ありませんよ。むしろ、そういった能力は私以上かと」

「……お前、適当なことを言って僕の機嫌を取ろうとしていないだろうな」

 

 擁護する本人から否定的な意見を聞かされ、フィオレは心の底から否定を唱えた。

 世の中には経験や、頭の回転だけではどうにもならないことが多々ある。これもその内のひとつだ。

 

「そんなことありません。私が女であなたが男である限り、演算性能に関してあなたは圧倒的に有利なんですよ」

「?」

「えん……?」

「昼間ジョニーが似たようなことをおっしゃっていましたが、男は理性で、女は感情を優先させて物を考える生き物なのです。個人的にはなるべく合理的に考えるようにしているのですが……それでも咄嗟に感情が先走ることの方が多いですね」

 

 だから誰かを不用意にかばったりして、痛い目を見るのだとフィオレは痛感している。

 どうせ自力で治癒できるのだからという考えもあるが、つい先日それで死にかけたのは記憶に新しい。

 

「それに、ここにいて敵に襲われないという保証もありません。誰かをかばいながら戦うのだとしたら、私が一番優れていると思うので」

「確かにそれはあると思う。私は先陣を切って戦うのは得意だが、誰かを護りながら戦うのは苦手だ」

 

 同じ理由でスタンも難しい、というより彼はあまり器用なほうではない。

 リオンは遊撃手、ルーティは遊撃に加えて癒し手を兼ねているためそこまで手を回せず、フィリアはむしろ護られる側だ。

 フィオレとて一番向いているのは遊撃手ではあるが、経験上前衛として中衛や後衛の盾として戦う方法も心得ている。

 

「ちなみにフィオレは、どれだけレパートリーを持っているんだ?」

「さあ。数えたこともありません」

「ん!?」

「そして私、この楽器も知らないんですよね。ピアノのように弾けば十分そうだからつい提案してしまいましたが……」

 

 試しに演奏してみるも、扉は少し間をあけて問題なく開いた。

 開いたのはいいが、曲が終わるまで演奏しなければ曲の無駄遣いである。

 

「では、いってらっしゃい。この先が袋小路で、すぐ戻ってくることを祈っています」

「そうね、ひょっとしたら水路を開くポイントがあるだけかもしれないし」

 

 どうにかこうにか一同が動き出す。

 それを見送っていると、フィリアがくるりと振り向いた。

 

「あの、できるだけそれを弾いていていただけますか? 曲が聞こえる間は、ご無事であるだろうとわかりますから……」

「いいですよ。気をつけてくださいね」

 

 快く了承し、しんがりのリオンが最後に扉をくぐったのを見て、フィオレは背後のジョニーを見やった。

 

「そういえばジョニー」

「ん、なんだい?」

「あなたはもしや、カルバレイスで腕白坊主に帽子を取られ、走り回ったことはございませんか?」

 

 ふと思い出した微笑ましい記憶を口に出す。

 すると、後ろで盛大に噴出す音が聞こえた。

 

「な、なんでお前さんがそんなこと知ってるんだ!?」

「赤いひらひらした服に、大きな帽子に大きな羽飾りをつけて面白い歌を歌う吟遊詩人のお兄さん。チェリクの子供たちは可愛かったですね」

 

 特徴を見て何となく思い出したことだったが、やはり同一人物だったか。これまでからかわれていたことを思って、少しすっきりする。

 気まずい顔をしていたジョニーだったが、やがて気を取り直したようにフィオレにくってかかってきた。

 

「大方お前さんも、同じような目にあったクチだろうが」

「私はすぐに取り返しました。足にはそれなりの自信がありましてね」

「取り返したって事は、一度取られたんだろ」

 

 いらない事に気付いてくれる。確かにその通りだ。

 苦笑して、フィオレは曲を弾き終えた。

 バタン、と音を立てて扉が閉まる。

 

「さ、次どうぞ」

「なんだ、もう疲れたのか?」

「まさか。私はもとから戦闘要員です。それとも、何か来たら護っていただけるので?」

「任せとけ! と言いたいところだが、実力が伴いそうにもねえな」

 

 備え付けの椅子に腰掛け、ジョニーが再び鍵盤に触れる。

 つつがなく、扉は開いた。

 

「それにしてもどういった仕掛けなのでしょうね。これがなければ、二手に分かれるなんて手間は省けたものを」

「そうかい? 俺は役得だと思ってるけどな」

「役得? 仕掛けを解いて進むのに疲れたんですか?」

 

 言ってくれれば休憩くらい取ったものを、我慢強い御仁である。

 フィオレの言葉を聞いて、ジョニーは深く長いため息をついた。

 

「何ですかそのため息」

「いや……お前さんのそれはわざとか、天然か。ちょいと図りかねてな」

 

 わけがわからない。

 自分から振っておいてなんだが、その真意を尋ねる気にもなれず。フィオレは扉へと近寄った。

 見た限り、わかりやすい仕掛けらしいものはない。

 

「そうだ、楔でもかませましょうか? それなら閉まらないかも」

「代わりに異常を知らせる警笛が鳴ったりしてな」

 

 それは大いにありうる。

 仕方なく、取り出した楔は仕舞うことにした。

 

「それにしても意外でした」

「ん、何がだ?」

「私が演奏している間に、隙をついて帽子を奪いにくるかと思ったのですが」

 

 こんな風に、と後ろからジョニーの帽子を持ち上げる。

 残念なことに彼の頭に一切の異常はなかった。男の癖に手入れの行き届いた髪は艶やかで、禿げてもいない。

 意外性も何もないにつき、すぐに飽きて元に戻す。

 

「あー、そういやその手があったな。じゃあそろそろ終わるから、変わってくれや」

「お断りです。それと、続きは弾かなくていいですよ」

 

 奇妙なその一言に、手を止めたジョニーがいぶかしがって振り返る。

 すでに壇上から降りていたフィオレは、彼に背を向けたまま抜刀していた。

 

「敵襲です。警戒を」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃。

 ルーティと共に中衛を歩いていたフィリアが、足を止めた。

 

「曲が……やみましたわ」

「一端手を止めたんじゃない? さっきも扉が閉まって、また開く音がしたし」

 

 しかし、ルーティの楽観的な予想は外れて一向に曲は再開されない。

 何も聞こえないのは扉が閉まっているからなのか、彼女らに何かあってのことなのか。

 

「本当だ。何も聞こえない……」

「何かあったのだとしても、今ここで戻ったら無駄足だろうが。行くぞ」

「でも……」

 

 残念なことに、一同は未だこの先にバティスタが待つのか、それとも袋小路なのかをはっきりさせていない。

 後ろ髪引かれるように立ち尽くすフィリアに、リオンは辛抱強く言葉を重ねた。

 

「こうして立ち止まっていたところで同じことだ。だったらさっさと進んだほうがいい」

「そう……ですよね。ごめんなさい、参りましょう」

 

 リオンの説得に応じて歩みを再開するフィリアではあったが、不安そうな面持ちは消えない。

 思わしげな彼女を気遣ってか、マリーが声をかけた。

 

「フィリア。二人のことが心配なのか?」

「……未熟なわたくしが、フィオレさんの心配なんて生意気かもしれません。けれど不安なんです。彼女は何一つ、話してくれないから」

 

 これまで、フィオレが取り戻した記憶に関してフィリアはそれとなく尋ねたことなど山ほどある。しかし、フィオレはそれを一切きちんと答えたことがない。

 のらりくらりとかわされて、挙句話題を変えられフィリアがやり込められる始末。

 そんなに信用されてないのか、と言わんばかりに落ち込むフィリアに、ルーティは頭の後ろで手を組んだ。

 

「フィオレにも色々あるんでしょ。それよりかあたしは、フィオレの貞操のほうが心配かな」

「え……」

「ええっ!?」

 

 驚きの声を発して驚愕をあらわとしたのは、それまでの話し相手ではなくスタンだった。

 それを奇妙な目で見るも、ルーティの言葉は止まらない。

 

「だってあのジョニーって男、フィオレのことかなり気に入ったみたいじゃない。二人きりなのをいいことに、すんごい勢いで口説いていたりしてね」

「でも、でも、顔も見てないのに好きになんてなれるのか?」

「アクアヴェイルには『夜這い』なんていう風習もあるらしいしね。顔見てないから余計気になるのかもしれないわよ? 古今東西、男は美人に弱いから結果は同じかもね」

 

 ムフフ、と含み笑いを浮かべるルーティに、スタンがますますつっかかる。

 リオンとの一瞬即発の次に多い夫婦漫才じみたやりとりに一抹の寂しさを覚えながらも、フィリアは苦笑を零した。

 一方で、くだらないとばかり黙々と進んでいたリオンはソーディアンたちの会話に気を取られている。

 

『青春じゃのう……』

『何を呑気な。この緊急時に惚れたのはれたの、どうでもいいだろう』

 

 まったくもってくだらない。ディムロスの言葉の同意に尽きる。

 が、彼らのやりとりはまだ終わらなかった。

 

『とか言いつつ、ディムロスだって同じようなクチじゃん。戦争後の二人ってどうなったんだろうね』

『クレメンテ老がご存知なのではなくて?』

『残念ながら、戦争直後はほんにバタバタしとってのう。その後隊員たちがどうなったのかは、さっぱりなんじゃよ』

『……それにしてもアトワイトはクールだね』

『私はあなたのその後が気になるわね。案外ハロルドと一緒になっていたりして』

『えー!?』

 

 緊張しているはずの空気の中で、一同の気が抜けるようなやりとりが今までなかったわけではない。

 気を抜くなと叱咤しかけて、いつもフィオレに止められていた。

 緊張でガチガチになられるよりは余計な力を抜いていたほうがいい、とフィオレの意見もあり、隠密行動中以外の時は雑談など自由にさせている。

 だからこういった無駄話自体には慣れているはずなのに、こうも落ち着かないのは何故か。

 考えるまでもなく答えを見つけて、人知れず眉間に皺が刻まれる。

 それを許して、その分を補うよう警戒にあたるフィオレがいない。

 気に食わないはずの人間が傍にいないだけで、自分はこんなにも心を乱すのかと、リオンは己の未熟さを呪った。

 それだけ彼がフィオレという人間を信じ、頼っていることを彼は一生涯認めないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第七十九夜——大乱戦の果て

 モリュウ城攻略中。
 ジョニーを護って大立ち回り……していたのですが、トラブル発生。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紫電を携えたフィオレが、手振りだけでジョニーを呼ぶ。それまで背負っていた楽器を手にした彼は、速やかにそれに応じた。

 振り向くことなくジョニーの接近を感知した彼女が、ジョニーの袖を掴んでおもむろに身を沈める。

 合わせてしゃがんだジョニーに、小さく囁いた。

 

「お静かに」

 

 そのまま左手を地面──どんな贅沢なのか、土が敷き詰められた床に手を置いて、フィオレはぽつりと呟いた。

 

「母なる抱擁に、覚えるは安寧──」

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──

 

 その譜歌が終わるか終わらないか、突如として出入り口から何かが投げ込まれる。

 勢いよく壇上に転がったそれは、着弾と同時に弾けて真っ白な煙をそこかしこに撒き散らした。

 

「やばい、煙幕か……」

「お静かにと言ったでしょう。不用意に口を開かないでくださいませ」

 

 呟きを咎めて煙が晴れるのを待つ。

 不可侵の聖域は何者も通すことなく、煙幕はただ虚しく部屋を満たした。

 

「……?」

「演奏の準備を。合図したらすぐ始めてください。それと、そこを動かないように」

 

 何事もなかったように立ち上がり、入り口を注視するその視線は帽子の下から伺えるほどに鋭い。

 やがて煙が薄れてきた頃、それまで潜んでいたであろう賊らの鬨の声が上がった。

 

「突入!」

「──今です!」

 

 叫ぶと同時に、自らも斬り込む。

 なだれこむように現われた黒装束一団に何のためらいもなく、フィオレは紫電を振り抜いた。

 短い悲鳴と血飛沫の散る音が続き、その間を縫うようにジョニーの吟詠奏が奏でられる。

 

「何だと……確かに催涙弾を使ったのに」

「おのれ、こしゃくな!」

 

 頭も口元も布で覆い隠した黒装束の呟きに、白煙の正体が判明する。

 白煙は未だ完全には消えていないのだが、フィオレはけろりと呟いた。

 

「催涙弾ですか、なるほど。通りで眼が痒いと思ったら……」

 

 軽く眼をこする仕草はするものの、影響はまったくないことが伺える。

 生来の体質に加え、幼年期に仕込まれた結果であることは本人以外に知りようがない。

 更に彼らはレンズを呑んだ身であるらしく、ジョニーの吟詠奏は確実な効果をもたらしていた。

 

「それを……やめろっ!」

 

 しかし、所詮は魔物を遠ざける程度の技術。相手を行動不能にさせるほどの威力はない。

 ただ、がむしゃらに吟詠奏を止めようとする黒装束の無防備な背中を、フィオレが見逃すはずもなく。

 ジョニーに突進していく傍から、フィオレは作業的に黒装束を葬り去った。

 斬り上げ、薙ぎ払い、翻る紫電は舞えば舞うだけ血にまみれていく。

 あの美しい刀が人に向けられたのを見たのは今しがたが初めてで、これまで飾られたことしかない紫電を平然と穢すフィオレに嫌悪すら抱いたというのに。

 振るう度紫電と共に罪を負い、戦場を駆ける様は壮麗で。命を屠るその姿すら、ただ踊っているかのようで。

 漂う血臭が気にならなくなるほど、交戦を重ねる彼女の姿は華麗で、洗練されていた。

 

「ふっ!」

 

 紫電が黒装束の首筋に埋まり、ぬらぬらとした緋色の粘液に包まれる。切れ味を鈍らせるそれを乱暴に振り払い、休むことなく紫電は舞った。

 黒装束たちとて馬鹿ではない。吟詠奏を止めるため、フィオレが障害であることは火を見るより明らかだ。

 標的をジョニーからフィオレへとシフトチェンジするも、結果として大多数が血の海に沈んでいく。

 しかしそれでも、黒装束の人数は一向に減らなかった。

 ジョニーの支援によって、黒装束の動作はそれほど鋭くない。頭が働いていないせいで少数戦力の逐次投入、という戦術において最低な策を選択している。

 しかし、戦闘要員がフィオレのみである以上、多勢に無勢という単語が脳裏をチラつき始めた。

 

「フィオレ、一端吟詠奏やめるぞ!」

「!?」

 

 返事こそないが、戦うフィオレの動揺がはっきり伝わってくる。

 長くもないが短くもない忍者刀を振り回す黒装束に一太刀浴びせて、彼女は叫んだ。

 

「死ねと!?」

「違う。扉が開けばお前さんの負担が減……「黙れ!」

 

 風を切る音と共に、ジョニーの頬をかすめて何かが飛来する。慌てて振り返った先の壁には、突き立った余韻に震える棒手裏剣があった。

 黒装束の仕業ではない。こんなものがあるなら、初めから使っているはずだ。

 

「な……!」

「今皆が交戦中だったら、どうするんですかっ!」

 

 息も絶え絶えになりながら、好機と見たらしい黒装束と相対する。

 怒りを発散するかのように斬り倒した黒装束に眼もくれず、未だしっかりと帽子を被ったままジョニーを睨んだ。

 

「もう少し考えてからものを言ってください!」

「……あのな、俺はお前さんの事を思って」

「超弩級余計なお世話です!」

 

 売り言葉に買い言葉以前に、戦闘中で気が立っている人間に道理なんか通用しない。

 高ぶりやすい感情をなだめて、フィオレは呼吸を整えた。

 怒鳴りつけられたジョニーは流石に憮然としているものの、吟詠奏を休まず奏でている。事態は少しずつ好転していった。

 当初の突入から戦闘には加わらず、黒装束に指示を出し定期的に新たな人員を導入していた赤い腕章をつけた人物が通路側に手招きをしかけ……動きが凍りつく。それ以降、新たな黒装束が現われることはなかった。

 全滅しかけたと見せて全力投入……というのが考えられなかったわけではないが、素直に察すれば新手が尽きたということだ。

 

「もう一息だな、頑張れ!」

「うるさい!」

「な、仲間割れだ。一斉にかかれ!」

 

 やりとりを見てそんな指示が飛ぶも、本来持ち得る敏捷さならばともかく、今の彼らは吟詠奏の影響下にある。フィオレが各個撃破するのはさほど難しいことではなかった。

 命令に従い襲いかかってきた黒装束の、最後の一人を血祭りに上げ、一息つく。

 そのまま片をつけようとして、フィオレはぎょっとした。

 吟詠奏が、唐突に止んだのだ。

 

「お前さんが最後ってことでいいか?」

 

 弾き疲れたのか、それとも真意があってのことか。ジョニーは勝手に演奏を止めて、黒装束との交渉を始めたのだ。

 制止の声は、誰あろうフィオレの息継ぎにかき消された。

 

「忍びが姿見せた時点で失敗「……死ね」

 

 ジョニーが何を思って黒装束との対話を試みたのかはわからない。もしかしたらフェイトなる次期領主の居所を聞きだそうとしてのことかもしれない。

 ともあれこの行動は軽率すぎた。これまで彼の吟詠奏で黒装束たちの思考力は低下し、正常な判断を下せずにいたのだから。

 吟詠奏がなくなり、思考が正常なものとなった今。

 ジョニーに忍びと呼ばれた彼が何をするのか、予測がつかないのはある意味で仕方がないのだろうか。

 フィオレが駆け出す頃、黒装束は懐へ手をやりジョニーに接敵している。

 策と俊敏さを何よりの武器とするそのテの人間に本来の力量を出されて、張り合うことはできても上回ることはない。

 対抗してできることは、本当に限られていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オルガンによって開かれた扉の先が袋小路であることを知り、一同は帰路についていた。

 

「まさか、バルブだけちょこん、と置いてあるなんてね」

「ここに来るまでに取り付ける場所があったのですね。わたくしには、わかりませんでしたが……」

「皆で探せばきっと見つかるよ。それにしても、バティスタがいる場所に通じてなくてよかった」

 

 スタンの発言は、どのように勘ぐってもフィオレが不在であることを指しているようにしか聞こえない。

 確かに戦力は多い方がいいに決まっているし、その点フィオレは申し分ない。

 条件付ではあるが、その条件さえ満たせばルーティをしのぐ強力な癒し手でもあるのだ。確かに、そうなのだが。

 彼女に対して一方的な対抗心を持った少年としては、複雑な心境だった。

 心持足は速めているものの、魔物が出るわけでも罠があるわけでもない道中を進むうち。

 

 ──ズズンッ……

 

 爆発らしき気配が、発生した。一同がいる通路にかなり震動が来たことを考えると、そう遠い場所ではない。

 そして未だに、演奏はやんだままだった。

 

「フィオレさん……っ!」

「あ、フィリア!」

 

 とうとう不安を抑えきれなくなったフィリアが弾かれたように駆け出し、当然一同もそれを追う。

 

『何があったんでしょうね?』

「さあな。あいつのことだから、大したことにはなっていないだろうが……」

 

 リオンの楽観的な予想は、見事裏切られた。

 駆け出したフィリアが扉の前に立ち、彼の師の名を呼んで扉を叩く。

 

「フィオレさんっ、ジョニーさん! 開けてください! 無事ですか!?」

 

 これまで一同が扉をくぐったのは一度しかない。その扉が硬く閉ざされ、フィリアがどれだけ呼んでも反応がない、ということは。

 尋常ならざる異常事態の発生を、予感したその時のこと。

 

「──連中、戻ってきたみたいだな」

「その様ですね。では、そろそろおふざけをやめていただきましょうか」

 

 扉脇の通風孔からそんな声が聞こえて、一同は即座に反応した。

 網目の細かい壁に張り付いて中の様子を伺う。情景こそわからないが、会話だけはしっかりと聞き取れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ一人残された黒装束が自爆を試みた際、火薬の特徴的な匂いで事前に察知したフィオレは、まず時間稼ぎを試みた。

 一人だけでも確実に消そうという腹積もりだったのだろう。ジョニーに接近した黒装束を突き飛ばすことによって意表をつき、更に足をひっかけて転倒させるという小技で行動を遅らせる。

 その隙に離れたジョニーと共に距離をとったまでは良かったが、問題はその後。

 爆発そのものから逃れることはできたものの発生した爆風が凄まじく、戦闘中は外れることがなかった帽子が吹き飛ばされてしまったのだ。

 更に転がった拍子に髪留めを破損、帽子はどういうわけかジョニーが回収してしまっている。

 たっぷりとした袖で顔を隠すようにしながら腕を掲げ、フィオレはジョニーと対峙した。

 

「早く皆と合流したいと思いませんか?」

「そいつはお前さんにもできることだろ」

「なら、帽子の返却を願います」

 

 通常なら力尽くで奪い取るところだが、顔を隠しているこの状況でそれは難しい。接近したらしたで顔を盗み見られる可能性は高い。

 目元まで隠しているにつきジョニーの顔は見ていないが、その声音には呆れが若干混じっていた。

 

「……いい加減にしとけよ。そんなんじゃあ先が思いやられる。バティスタと戦う時も、そいつを気にする気か?」

「演奏に夢中で、あなたは私が今まで何をしていたのかご存じないようですね。そして、そんなことは誰も言っていません」

「だったら、どうして顔を隠すのか。理由を教えてくれても構わないだろ? あの連中すらも納得する、しっかりとした理由って奴を」

 

 ……ジョニーの声音に冗談めかしたものはない。これは相当焦れていると考えていいだろう。

 アクアヴェイルの人間には隠しておきたかったが、これ以上はこれから先の展開にも支障をきたす。

 

「……ジョニー」

「なんだ?」

「あなたは、エレノア・リンドウなる故人をご存知ですね」

 

 フィオレに酷似した顔を持つと言うエレノア。彼女はモリュウ領主子息の、恋人であったという。

 その子息と懇意の彼ならば、彼女のことを知っているだろうし、会ったこともあるだろう。だから余計に見せたくなかった。

 

「……知っているが、それがどうしたよ」

「何を見ても、後悔しないと誓ってください。できないなら……」

「ああ、いいぜ。アルツール・シデンが三男、ジョニー・シデンの名にかけて、何が出てこようと後悔しない」

 

 一同の目的すら感づいたジョニーのこと。彼女の名を出せば、何かを察して蜂の巣をつつくような真似は避けてくれるかもしれないと、一縷の望みをこめていた。

 察してくれなかったのか、あるいは怖いもの見たさか。

 とにかくこれで、言い訳は出来なくなった。

 

「……わかりました。あなたの言葉を、信じましょう」

 

 眼帯の存在を確認してから腕をおろし、ジョニーをまっすぐ見つめる。素顔を一目見て、凍りつくジョニーにフィオレはひとつ、吐息を零した。

 予想も何もしていなかったのか、ジョニーは視線をフィオレに張りつけたまま動かない。

 キャスケットを取り戻すが先か、否かを考えて。爆発の影響で多少焦げた壇上に上り、オルガンに手を伸ばす。

 まずは一同と合流しようとオルガンを弾きかけて、フィオレは手を止めた。

 硬直から解放されたジョニーが、すぐ後ろまでやってきていたからだ。

 

「……エレノアのことは、どこで知った?」

「ブルーム・イスアードという男性をご存知でしょうか。とある縁で、そんな話を聞いたのです」

 

 そうか、と頷いたジョニーの顔は、綿雲帽子で表情は読めない。

 しかしそれも束の間。ふ、と顔を上げた彼の面には、あの朗らかな微笑が浮かんでいた。

 すべての感情が封じられた、道化の仮面にも似た笑顔が。

 

「……安心しな。お前さんはちっとも、これっぽちも、エレノアには似てねえよ」

 

 こんな髪色ではなかったと、くしゃくしゃと髪を撫ぜ、こんなもん振り回す腕力もない、と紫電をつつく。

 表面こそふざけた態度だったが、その裏に押し込められた語られぬ思いを否応にも感じ取ってしまい、フィオレは罪悪感に駆られた。

 必然だったとしても、どうしようもないことだとしても、隠しておけばよかったと思わずにはいられない。

 

「──ありがとう、やさしい人。でも……」

 

 こんなに平たくもなかった、などと抜かして胸の辺りを指すジョニーの指を捕らえ、その手の甲をつねった。

 

「あててて!」

「以後こういった行為はお控え遊ばせ。物理的に報復いたしますので」

 

 涼しい顔でやり過ごし、今度こそオルガンを弾く。少しして、パタンと扉が開いた。

 ようやく合流できた一同はといえば、戦いの余韻に満ちた部屋の惨状を見てめを白黒させている。

 

「戦いが、あったのですね……」

「ええ。もうバティスタにも私たちの侵入が知られているかもしれません。先を急ぎましょう」

 

 おそらく会話を聞いていたのだろう。一同はそれまでの経緯に一切触れず、頷いた。

 そこへ、おもむろにジョニーがフィオレの頭に帽子を載せる。

 

「?」

「一応、フェイトには隠しとけ。今でこそ奴にはリアーナがいるが、結構エレノアのこと引きずってるかも知れねえからな」

 

 承知した、とばかりに頷き、リオンから扉の先の出来事を伝え聞く。

 軽やかな身のこなし、激しい交戦後にも関わらず疲労を見せないタフネスに、ジョニーは内心舌を巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十夜——道化の仮面と血染めの玉座

 モリュウ城攻略中、懸念材料であったジョニーの友人にして前モリュウ領主息子・フェイトを救出。
 いよいよバティスタとのラストバトルに突入します。
 泣いても笑ってもこれが最後、果たして彼の行く先に待つのは死か、リンチか!? 
 ……どっちにしたってアレですね。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スタンらが扉の先にて手に入れたバルブを用い、閉ざされていた道が開く。

 オルガンの間にて襲撃されたことが関係しているのか、それから先の行程はけして楽なものではなかった。

 

「斬光蝉時雨!」「剛・魔神剣!」

「いっただきぃ♪」

「爪竜連牙斬!」「鳳凰天駆!」

「見つけたっ♪」

 

 ジョニーの吟詠奏は魔物こそ近寄ってこないものの、演奏を聴きつけた兵士がやってくる。

 更にレンズを呑んだ人間にとって吟詠奏は身体能力低下と苛立ちを誘発させるらしく、本来非戦闘員であるジョニーを標的とするため、危険極まりない。

 遊撃手が牽制し、前衛がとどめを刺し、ルーティがレンズを拾う。

 バティスタとの決戦が予想される今、後衛たちの晶術を温存して先へ先へと進むうち。

 後方から、慌しい駆け足が聞こえた。

 

「貴様ら、動くな!」

「よくもいけしゃあしゃあとこんなところまで……!」

 

 振り向いた先には、三名の兵士と黒装束、そして取り押さえられている男性がいた。

 男性はひどく衰弱しているらしく、取り押さえられている以前に自分の足では立っていられないほどふらついている。

 男性を一目見て、ジョニーは目を見張った。

 

「フェイト……? おい、フェイトか!?」

「そうだ。どうせこの男が目的だろう。動くなよ、動けばこの男の……!」

 

 兵士の口上が終わるよりも早く、何かが風を切って飛来する。それは、誰が反応するよりも早く、兵士の脳天を直撃した。

 

「が……っ!」

「うわっ!」

 

 兵士が崩れ落ちるよりも先に、次なる棒手裏剣はフェイトと呼ばれた男性を抑える黒装束に襲いかかった。

 黒装束が怯んだその瞬間をフィオレが逃すはずもなく。

 

「ぐっ!」

 

 一人強襲を仕掛けたフィオレが男性の腕を掴んで確保し、自分の背後へ押しやる。

 フィオレの動きに目論見を察知したリオンが男性を保護したことを確認して、そのまま紫電を引き抜いた。

 人質さえいなくなれば、こちらのものである。

 速やかに彼らを片付けたフィオレが、こびりついた血糊を拭って振り返った先。

 リオンによって保護されたフェイトなる人物は、ジョニーによって介抱されていた。

 

「おいフェイト、しっかりしろ!」

「ジョニーか……助かったよ」

 

 苦しそうに目蓋を開いた男性が、ゆっくりと起き上がる。周囲を見回して、まず見慣れぬ顔触れが気になった様子だ。

 

「ところで、後ろの彼らは?」

「助っ人さ。バティスタとの因縁があるらしい」

 

 一同が密入国者の集団であることを隠してくれるつもりらしく、ジョニーは紹介もそこそこ話題を変えた。

 

「しかし、なんだってこんなことに?」

「ティベリウス大王がグレバムなる人間と密約を結び、セインガルドへの侵攻を目論んでいる。それに反対したがため父は殺され、私は座敷牢に幽閉されていた」

「!」

 

 ──ようやっと。グレバムの名がここで出た。

 セインガルド侵攻の話自体はモリュウの広場にて聞いている。

 しかし、すでに違う領土の領主を抱きこみ、拒否をすれば殺害する暴挙に出るほど話は進んでいたか。

 

「このままではあなたのお父様も危険なのでは?」

「確かにそうだが、お前さんたちに聞き流せるのかい? 大変だな、やることが増えたぞ」

 

 無論、他の誰をおいてもリオンが聞き流せるはずがない。セインガルドには、彼が何に変えても護ると誓った女性がいるのだ。

 

「おい、その大王とやらは……」

「気になるのはわかりますが、その話は後でじっくりお聞きしましょう」

 

 はやるリオンを押さえて、ジョニーに支えられた次期領主を見やる。

 現状の説明を手早くした後に、提案をした。

 

「できれば奥方のところまで避難していただきとうございますが、その様子では難しいでしょう。だからといってお連れすることもはばかられます。この付近で篭城できそうな場所は……」

 

 ないだろうか、と続けようとして、口ごもる。

 帽子はしっかりと被り、背丈の関係上口元だけしか見えないようにしてあるはずなのに。何故か彼はフィオレをじっと見据えているのだ。

 まるで帽子に隠された素顔を、見つめているように。

 

「……あなたの声は、とても懐かしい。前に会ったことが……」

「元気な奴だな、リアーナがいるくせに。ナンパはまた今度にしときな」

 

 ……顔が同じで、声も同じ、だったのだろうか。ジョニーは気づかなかったのに、愛の力って凄い。

 ジョニーにからかわれ、顔を赤くして否定するフェイトの横顔を見つつそう思う。

 やがて気を取り直したらしいフェイトは、小さく咳払いをしてゆっくりと腕を上げた。

 

「ここから先、私が閉じ込められていた座敷牢があります。そこに置いていって下さい」

「大丈夫なのか?」

「こんな有様でさえなければ私も加勢したいくらいですが、我が妻リアーナの元にすら行けそうにありません。足手まといになるくらいなら、篭城します」

「……ご協力を感謝いたします。必ずや、領主様の仇は討って見せましょう」

 

 打算だらけの発言ではあったが、幸い彼はフィオレの言葉の真意に気付いていない。

 しかし。

 

「おいフィオレ、リアーナと会っただろう? 玉の輿狙っても無駄だぞ」

 

 どこぞの腹黒ロリータと一緒にしないでいただきたい。

 純粋にこの後の展開を考え、目先の都合でこのようなことを口走っているのだから。

 無論口にはしない。無言でジョニーの顔を見て、丁寧にそのつま先を踵で踏みにじる。

 

「あ痛い!」

「『会いたい』? どなたにです?」

 

 派手な悲鳴を上げるジョニーに背を向けて、さっさと歩き始める。

 その背中が遠ざかる頃、痛みに跳ねるジョニーを観察していたルーティがその肩をぽん、と叩いた。

 

「あんまりちょっかい出しすぎると、本格的に嫌われるわよ?」

「手厳しいねえ。こうでもしないと、構ってもらえそうにねえからなあ」

 

 そんなやりとりなど一向に知らぬまま、フィオレは件の座敷牢を見つけている。

 格子状の扉は南京錠が外された状態になっており、奥は簡単な寝具が転がっていた。

 一同の姿が見えないことをいいことに、シルフィスティアに頼んで周囲の様子を探ってもらう。

 すると──驚くべきことに、バティスタがかなり近い場所にいた。

 まだ見ぬ通路の先、長い階段を昇った最上部、モリュウの街を一望できる高台の中央に据えられた玉座。そこに、フィリアの同僚であったあの男がいる。

 試しに額冠操作盤を取り出すも、影武者でないことがはっきりとわかった。

 

「フィオレさん!? どうかしたんですか」

 

 握られた額冠操作盤を見てだろうか。薄笑みを浮かべるフィオレにだろうか。追いついてきたスタンがやや身を引いている。あまり見ていて気持ちのいいものではなかっただろう。

 誤魔化すよりも前に、他の面々が追いついてきた。

 

「すぐに迎えに来るから、じっとしてろよ?」

 

 目的の座敷牢を見つけて、ジョニーがフェイトと共に入っていく。それを見たフィオレは、扉の鍵を手に取った。

 

「ジョニー。やっぱり次期領主殿一人じゃ心もとないでしょうから、ついててあげてくれません?」

「は? おい待て、ちょっと待て! そのまま錠前かけようとするな!」

 

 ジョニーは大慌てで座敷牢からの脱出を図っている。その慌てっぷりに苦笑して、フィオレは南京錠を扉にかけた。

 

「幸運を」

「ありがとうございます。もう少々、お待ちください」

 

 座敷牢を離れて、くるりと一同を見回す。早速ジョニーが苦情をつきつけてきた。

 

「フェイトと一緒に監禁なんて冗談じゃないぜ」

「不愉快に思われたのなら、謝ります」

 

 そんなことよりも、集中すべき事実が判明したのだ。ジョニーの苦情を流して、フィオレは小さく咳をした。

 

「それより、朗報です。バティスタを発見しました」

「何!?」

「バティスタを、ですか? 一体どこに……」

 

 額冠操作盤を見せて、彼が天守閣にいることを一同に伝える。決戦の時を前に、フィオレは先頭を歩きながら帽子を取った。

 更に紐を取り出して襷──たっぷりとした袖が邪魔をしないよう、縛る。

 

「ジョニー。この上に行ったことはありますか?」

「ああ。天守閣兼、玉座だな。バティスタの野郎、そんな場所にふんぞり返っていやがるのか……」

 

 一歩一歩、罠がないか警戒しつつ慎重に階段を昇る。幸い何もなかったものの、あちらに悪知恵が働かなくてよかった。

 こんな長い階段の先で待ち構えるのであれば、階段に油を塗りたくるのが定石だ。足を滑らせてくれればもうけもの、気付かれたとしてもつるつるの階段を昇るのは至難の技である。

 幸いにもそういったこともなく、一同は無事天守閣へと上り詰めた。

 いつ仕掛けられても構わないよう先頭を歩いていたスタンが、ついにその姿を見つける。

 

「いたぞ!」

 

 玉座からは立ち上がり、うっすらと白み始めた空の下に広がるモリュウの街並みを、バティスタは見下ろしていた。

 一同から背を向けていた彼は、ゆっくりと振り返る。

 相変わらず防具と思しき眼鏡をかけているために表情はわからない。

 しかし、未だスタンとルーティが身につけると同じものが額に煌いているのは滑稽だった。

 

「来やがったな……」

「バティスタ、もう逃げられないぞ!」

「ガキがいきがるんじゃねえ! 俺は逃げも隠れもしねえ!」

 

 よく言う。

 きっぱり言い切ったところを悪いが、事実とは正反対だ。聞き流すも難しい。

 

「フィッツガルドでは私たちから逃げ、このモリュウではこんなヘンテコ城の奥深くに隠れ……逃げも隠れもしているではありませんか」

「うっせえ! しつこく追ってきやがって陰険女、まだ俺をいびり足りねえか!」

「ええ、足りませんね。あなたがグレバムに加担しているとわかって、フィリアがどれだけ悲しんだか。その涙の分だけ、しばきに参りました。さあ、歯を食いしばりなさい」

 

 そして、啖呵を切ったフィオレはひとつ咳払いをした。

 相手を怒らせて理性を少しでも揺さぶり、こちらのペースに持ってくる。その方法があるのにしない手はない。

 

【もうやめて、バティスタ。見苦しく悪あがきなんかしないで。微塵切りにされる前に土下座をして泣き喚き、非常に情けなく命乞いすれば『こんな奴殺す価値もない』と皆さん呆れかえって見逃してくださるかもしれませんわ】

「い、今のはわたくしではございませんが……多勢に無勢という言葉をあなたも知っているはず。無駄な血を流すのはやめましょう、バティスタ!」

 

 声だけはフィリアのものを借りるも、今回は堂々と彼女の隣で挑発を口にする。

 僅かに顔を引きつらせたフィリアではあったが、構っている場合ではないと続けてバティスタの説得にあたった。

 しかし、以前の戦闘で学んだことがあるのか。バティスタは額に四つ角を浮かべつつも反応はしなかった。

 

「見慣れねえ顔があるな。お前、ここでも男を引っかけたのか? お前の好きそうな面をしてるもんなあ!」

「あなたの挑発は単調で芸がない上に莫迦の一つ覚えですね。下品な上に面白くもない。もう少し、私を怒らせるようなことは言えないんですか?」

 

 好きそうな顔というのは、一重に美形を指すのだろうか。

 確かに過去一目惚れしたのはその要素を持つ男であった。あったが……フィオレの好みは年上で知的な男性である。

 知性派かどうかはともかくとして、触れることにまったくためらいを覚えないジョニーは該当しない。

 

「はん。まーた俺を怒らせてハメる気か? てめえこそ馬鹿の一つ覚え……」

「私はあなたをハメたのではなく、仲間と協力して生け捕りにしただけです。ご自身の記憶を都合のいいものに加工するのは勝手ですが、現実と混同するのはただのアブない人ですよ」

 

 これは挑発ではない。事実である。

 しかし、バティスタの四つ角は更に数を増した。

 

「……く……ふっふっふ。余裕だな。まさか、あの時の俺と実力は同じものだとでも思っているのか?」

「へえ、違うんですか。あの武器を両腕につけたとか? 確かに、単純な攻撃力は二倍になりますけど」

 

 それがどうしたと言わんばかりに鼻で笑って、特徴的な武器を揶揄する。

 どうあっても相手を挑発し、侮辱しにかかるフィオレとあくまで対抗するバティスタとの舌戦を前にして、ジョニーがこそっと囁きかけた。

 

「すげえな。口を挟む隙もありゃしねえ」

「無駄口叩いてないで身構えろ。そのうちキレたバティスタが仕掛けてくるぞ」

 

 その間にも、フィオレの口撃はバティスタを徐々に追い詰めつつある。

 それが奇妙な方向へ捻じ曲がるのを、誰が予想しただろうか。

 

「なわけがねえだろうが! くだらねえことを抜かすのも大概に……!」

「能ある鷹は爪を隠し、弱い犬ほどよく吼える。でっかい爪をちらつかせて、無意味に大声を上げがちなあなたには、ぴっっったりの格言ですね」

 

 まるで決められた芝居の台詞を言うように、フィオレはすらすらと慇懃無礼な一言を突きつけている。

 第二次挑発合戦の行方は、この時決着を迎えた。

 

「この、売女が……!」

「リオン様、今です」

「馬鹿が。額のものを忘れたか!」

 

 フィオレとの口論に夢中になっている隙をついて、リオンが額冠操作盤を操る。

 ほどなくして、臨戦状態に入ったバティスタの口から騒がしい悲鳴が上がった。

 

「ぐあぁぁぁぁ!」

「な、なんだぁ?」

 

 事情を知らないジョニーがいぶかしがるも、事情を話すのはスタンに任せてバティスタの様子を見守る。

 これで失神を促し捕獲すれば、あとはフェイトに引き渡せばいい。それも一つの手だ。

 しかし。

 

「これしきの電撃で……屈服する俺ではないわ!」

 

 ──レンズを摂取した生物は、その影響を受けて魔物と化す。人間も、また然り。

 確かに人間は、常時与えられる苦痛に対して慣れるという対抗手段を備えている。

 そして魔物は、理性を失う代償として身体能力を飛躍させている生物だ。

 だからといって。

 

「こんなものはもう効かんぞ! ふははははは!」

 

 その二つの要素が組み合わさったことで、内情はともかく本当に克服してしまうとは。

 確実に電撃を受けながら高笑いを放つバティスタに、一同は刮目した。

 

「う、うそだろ……化け物かっ!?」

「その精神力だけは誉めてやる。だが、いつまで続くかな」

 

 動揺するスタンにつられないリオンは流石だが、額の汗は消えない。

 本来あの額冠(ティアラ)は自力で外そうとしない限り、致死量の電流が発生することもないのだ。

 つまり、リオンやフィオレの持つ額冠操作盤を用いてバティスタの命を奪うまでには至らない。

 

「その前にお前らを殺す! 一人残らずな! さあ、来やがれっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十一夜——決戦の時~賽は投げられた!

 風雲モリュウ城の回。バティスタとのラストバトルなう。
 三下相手に苦労を重ねたものです。
 これまでの想い出が走馬灯のように流れていく……のは、仲間内では多分フィリアだけ。そのため、積極的に攻撃していません。
 ゲーム内処理だったらきっと、パーティ外でしょう。多分。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

「リオン、それを止めて。前衛三人で足止めしますので、援護をお願いします!」

 

 鉤手甲を振りかざしたバティスタが迫る。

 あちらのハンデにならないだけならまだしも、今の状態では武器どころか身体に触れただけで感電するだろう。

 そして、フィオレは以前の戦いでスタンやマリーが大苦戦した時のことを忘れていない。

 同じ事を繰り返さないために、フィオレは二人を率いてバティスタと対峙した。

 

「刺突爪拳!」

「弧月斬!」

 

 いきなり繰り出された鉤手甲による突きを相殺させるよう剣技でいなし、そのまま追撃を仕掛けんとするバティスタをスタンが牽制する。

 

「虎牙破斬!」

「虎牙連斬!」

 

 スタンの牽制を見切ったバティスタが、隙だらけの彼を狙う。

 すかさずその瞬間を狙ったフィオレの一撃から逃れるべく、バティスタがわずかに下がったその時。

 

「マリー、追撃を!」

「任せな、猛襲剣!」

 

 強烈な突進を回避しようとしたところで、剣の一撃がバティスタを襲う。それを鉤手甲で防御したバティスタは、舌打ちをしながらも三人と間合いを取った。

 こちらに対する被害がない代わりに、あちらも無傷。

 ──今のやりとりで、以前二人が彼に苦戦した理由がわかった。

 二人の攻撃は、威力がある故に出だしが遅い。すなわちそれは、動体視力とそれに伴う身体能力が強化されている相手に攻撃を見切られやすい要因だ。

 更に知能があるため、単純に攻撃を当てに行けばいつかは陥落される魔物と大分異なる。

 がむしゃらに攻めても無駄だということは初めからわかっていたこと。ならば──

 後衛たちの詠唱が完成したところで晶術の効きを確かめる。それが有効なら、前衛は彼らの壁に徹すればいいだけのことだ。

 

「行きます、ストーンウォール!」

「アイスウォール!」

「グレイブ!」

 

 石と氷の壁に挟まれて行き場をなくしたところで岩製の槍に足場を埋め尽くされる。

 足の負傷を見込んだのだが、バティスタは発生した石の壁に鉤手甲を引っかけてあっさり逃れた。

 

「効くか、こんなもの!」

「……口先だけではありませんでしたか。ですが……」

 

 晶術が効力を失くしたことで、バティスタが再び地面に立つ。

 着地を狙ったマリーの剣を鉤手甲で受けた瞬間、フィオレはその真後ろから斬りかかった。

 

「ちっ!」

「多勢に無勢というハンデに変わりはありません」

 

 このままサンドイッチにして切り刻んでやろうかと目論んだところ、バティスタは身を翻して再び間合いを計っている。

 だけかと、思いきや。彼の表情には場違いな喜色が浮んでいた。

 まさか。

 

「ジョニー、吟詠奏を!」

「おうよ!」

 

 準備だけはしていたらしく、すぐさま独特な旋律が響き始める。すると。

 

「ぬぐ……!」

「……くそ、気が散る……」

 

 そんな呟きに、フィオレは二人にバティスタの相手を任せ、きびすを返して音源へと駆け寄った。

 見たところ、後衛が背にしていた何の変哲もない壁にしか見えない。見えないが──

 接近すれば、異常なほど盛り上がっているのがわかった。

 

「轟破炎武槍!」

 

 気味が悪いを通り越して笑いさえこみ上げるその光景に、フィオレは立ち止まって剣技の行使に切り替えた。

 練り上げた真紅の剣気が刀身を取り巻き、担ぎ上げた紫電から垂直に放たれる。

 狙い違わず直撃したそこから隠れていた黒装束が吹き飛ばされ、壁と同じ柄の布が千々と舞った。

 

「ち、気付きやがったか」

「あなたが教えてくれたんです。どうもありがとう」

「バレちまったもんはしかたねえ。てめえら、まずはその女だ! 紫電を奪え! できれば殺せ!」

 

 バティスタの号令に、それまで身を潜めていたであろう黒装束たちが一斉に姿を現す。

 その姿に、ジョニーが演奏を続けながらも低く呻いた。

 

「忍びか……こいつは厄介だぜ」

「そんなに危険な連中なの?」

「実力自体はピンからキリだろうが、こいつらは毒を扱いやがるからな」

 

 先程交戦した際は一言も言わなかったのに、今回彼が冷や汗をかいているのはバティスタがいるからなのか。

 否、おそらくそうではない。

 黒装束たちは姿を現したかと思うと、一斉に耳に何かを詰め始めたのだ。

 間違いなく吟詠奏対策の耳栓だろう。

 吟詠奏の影響下ならば、単純に襲いかかってくるだけで、毒物使用などという細かい芸当はできなかっただろうが、今は違うらしい。

 現に、ボウガンを携えた黒装束たちはおもむろに矢筒からボウガン用の矢を取り出したかと思うと、鏃を携えている壷へ突っ込んだのだ。

 悠長なことだが、好機でもある。

 

「今の内に蹴散らせば……!」

「させるかよ! 超破動弾!」

 

 黙々とボウガンの準備をする黒装束に突貫しようとして、フィオレは直感でその場に伏せた。

 どのようなカラクリが働いているのやら。

 高々と跳んだ彼は、分厚い眼鏡を光らせたかと思うと、そこから……怪光線を放ったのである。

 

「なっ!?」

「ちっ、なんて勘の働く女だ」

 

 フィオレを狙った怪光線は、そのまま延長線上にいる黒装束たちを違わず命中した。

 幸い溶けるとか腐るとか消し炭になるとか、そういった視覚的恐怖を加えた効果はないものの、黒装束たちは吹き飛ばされて虫の息だ。

 偶然にも蜂の巣にされる危機は回避した。しかし、それを脱してあまりある事態が今そこにある。

 

「なんですかそれは!?」

「そのままそっくり返すぜ。船の中でどうやって大砲の弾を防いだ? どうやって俺をあんな倉庫に運んだ? 直前の歌が関係してやがるのかどうかは知らねえが、妖術使いと名高いてめえに言われたかねえよ!」

 

 返す言葉がない。

 落ち着いて考えるに、瞬時に浮かぶ説は二つ。

 ひとつはバティスタの体が今この瞬間にも魔物のものと化しており、人の器を超えつつある。だから、戦闘中にあのような怪光線を放つ器官が出来上がった。

 もうひとつ。あのフィリアのものとは似ても似つかない眼鏡は新手のレンズ製品で、装着者の意思で吹き飛ばし効果のある怪光線を放つことができる。

 

「よ、妖術使い?」

「敵の戯言に耳を傾けないように!」

 

 事情を知らないだけに置いてけぼりをくらうジョニーが面食らった素振りを隠さず復唱するものの、構っている暇はない。

 とにかく黒装束のことを捨て置ける今、いきなり怪光線を発するようになったバティスタをどうにかするべきだ。

 あれを受けたら何がどうなるのか、興味はあっても身を持って知りたくない。

 真相が後者であることを願って、フィオレは再びバティスタに接敵した。

 

「飛んで火にいる夏の虫とは、このことだな!」

「母なる抱擁に、覚えるは安寧!」

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──

 

 あんな直線的な攻撃、避けるのは容易いが安易に避けたら後衛たちが危険だ。

 先だっての黒装束のような目に合わせるのは忍びない。

 そのため。

 

「何!?」

 

 怪光線が放たれた瞬間、ハニカム構造の結界がフィオレを包み込む。怪光線はあえなく無効化され、フィオレに迫る傍から消滅した。

 

「その歌、確か船の時も使っていやがったな……」

「使ったから何だと言うのです? 私は妖術使いとまで言われている人間ですから、不思議じゃないでしょう」

 

 紫電を突き出し、鉤手甲で防御させてあらぬ方向へ持っていく。

 以前のことを思い出したか、今度こそ絡め取られまいと奮闘するバティスタを冷静に裁きつつ、フィオレは短刀を抜いた。

 

「そう来ると思ったぜ。そんな手に誰が二度もひっかかっ「こんなちゃちな手に、ひっかかる馬鹿は確かにいないでしょうね」

 

 その場で紫電を手放し、肩透かしを食わせてその間に懐刀を一閃させる。

 防具を思わせる眼鏡を固定していた帯状のツルを切り裂き、フィオレは悠々とバティスタの眼鏡を手に入れた。

 驚愕に満ちたバティスタの、血走った目がそこにある。

 

「あなた以外には」

「ぐあっ!」

 

 そのまま烈破掌を放ち、バティスタと強引に離れた後で眼鏡を見やる。

 そして判明した事実に、フィオレは嘆息した。

 

「なんだ。これ、レンズ製品ではありませんか。幽霊の正体見たり、枯れ尾花って感じですね」

「レンズ製品……?」

 

 いぶかしがるリオンに眼鏡を放り、これで怪光線を放つことがなくなったバティスタに視線を向ける。

 ところが。

 

「──きゃあっ!」

「ふははははっ、よくやった! 動くなよ、てめえら!」

 

 背後からは悲鳴、烈破掌によって壁際でへたりこむバティスタは高笑いを上げている。

 バティスタの言葉など無視して振り返り、フィオレは眼を見張った。

 先程の生き残りなのか、黒装束の一人がフィリアを取り押さえ、その首筋に刃物をつきつけている。

 と、同時に。フィオレは思い切り腕を振り下ろしていた。

 

「てめえ、動くなといった傍から──」

「ギャアッ!」

 

 バティスタの言葉が終わらないうちに、黒装束はなりふり構わず顔を覆った。

 その間にフィリアはスタンによって救出され、それを見届けたフィオレが黒装束に接敵する。

 

「フィリアを選ぶとはなかなか眼が肥えていますね。でも彼女をそんな眼で見てもらっても困るので──頂きましょうか、命もろとも」

 

 片目から生えた棒手裏剣をコンタミネーションで回収。

 そのままとどめを刺し、フィオレはバティスタを見やった。

 

「状況を考えればせんなきことでしょうが、私の恩人に手を出すのはいただけません。是非とも同じ目……いいえ、玉という(タマ)をすべて潰しましょうか」

「相変わらず、やることがえぐいな。それが公正明大な客員剣士サマのやることか!?」

「あ? 客員剣士? ああ、リオン様はそうですね。私は見習いだからいいんです」

 

 屁理屈にもほどがある。無茶苦茶な言い分に、もちろんバティスタが聞き流すことはなかった。

 

「はっ、とんでもない理屈だぜ。それがてめえの本性か」

「今更気付いたんですか」

 

 にっこり微笑んで肯定するフィオレ自身に、今の言葉は一切の否定要素がない。

 しかし次の瞬間。その作り笑顔は一瞬にして崩壊した。

 

「とんでもない女だな。親の顔が見てえぜ」

 

 その一言を聞いた途端。それまで余裕しかなかったフィオレの表情から、感情という感情すべてが消えて散る。

 その激変に気付き、親という言葉に関連してのことだとバティスタは気付いてしまった。

 一度目、二度目の挑発合戦においての報復か。彼は言葉を続けた。

 それが彼の運命を大きく変えるものだとは、誰一人気付くことなく。

 

「一体どんな育て方すりゃ、こんなじゃじゃ馬、いやアバズレに育つんだか……子供は親に似るものだとか言うしな。母親もロクな女じゃなかったってことか?」

 

 ──以前。とある素行不良姉弟の親を、悪し様に罵ったことがあった。

 自分にそれを向けられて、やはりあれは正解だったと思う。親の罵倒を聞いて怒らず、肯定する子供などいない。

 例外はあろうと、子供にとって親はそれほどに大きな存在だ。条件反射的に慕い、そうでなければ徹底して無関心になれる。

 そしてバティスタの挑発も、フィオレに対してはこれが正解だ。

 ふつふつ、と腹の底で何かがたぎる。それが久々に覚えた怒りであることを、どこか他人事のようにフィオレは自覚していた。

 

「──そういえば。大切なことを言っていませんでしたね」

「あ?」

「実は私たち、あの時と同じように戦うわけにはいかないのですよ」

 

 感情が殺ぎ落としたような、妙に平坦な言葉が淡々と流れていく。

 至極真面目な、それ故感情の乏しいひとつの瞳はバティスタを見つめていた。

 

「すでに私たちは、あなたが幽閉したであろうフェイト・モリュウと接触を持ちました。そのため、私たちはグレバムの居場所に関する情報源をすでに得ています。それが何を意味するのか、わかりますか?」

「あの坊ちゃんか。まさか仲間が見ている前で篭絡したってんじゃ……」

「そのため、あなたを生かして捕らえる意味はありません」

 

 琴線に触れたことに今更ながら気付いたのか。

 まるで茶化すように再び挑発を口にするバティスタを一刀両断するかのごとく、フィオレはそれを告げた。

 まるでお使いでも頼むかのようなその気安さが余計に傍観者、そして対象の背筋を凍らせる。

 

「更にあなたは、ここの領主を死に追いやっているでしょう」

「あの老いぼれのことか。まさかそれの、仇討ちとでも抜かすのか?」

「そのまさかです」

 

 本当にフェイトを連れてこなくてよかったと、一同の誰もが思った。冗談でも実の息子に聞かせていい言葉ではない。

 

「父を奪われた領主子息の信頼と協力を得るためにも、この日まで虐げられた領民のためにも、私たち……いえ、私は仇たるあなたの殺害を試みます」

 

 そう啖呵を切った、その時の事。バティスタは弾かれたように爆笑した。

 

「はっはっは! 笑わせるぜ、何が仇討ちだ。お前がそれを言うのか? ここへ来るまでどれだけ殺してきた? どれだけ屍、踏み潰してきたんだよ!」

「……」

「尊い犠牲か? 障害物をどかしてきただけか? 涼しい顔してどんな言い訳を考えてやがる? 無駄だな。そんなおためごかし、言うだけてめえが偽善者だと宣言しているようなもんだ!」

「……楽しそうですね」

 

 賑やかな嘲笑をやめないバティスタを横目に、フィオレは小さく嘆息した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十二夜「夢から覚めて、また夢を見よ。——醒めることのない夢を」

 モリュウ城にて。
 ついに決着がつきました。
 こうなることは、どうあっても避けられなかったことです。
 祈ることが許されるなら、逝った方々へささやかな冥福を。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おそらくは渾身の侮辱だったのだろう。

 まともに取り合われることなく一言で流されたバティスタは、ぴたりと嘲笑うのをやめた。

 

「私も、ロクな死に方しないでしょうね。罠にかかってあっけなく死ぬかもしれない、人としての尊厳すら奪われ、屈辱の汚泥にまみれて死ぬのかもしれない」

 

 誰かを殺してその未来を奪うたび、自らの人生の幕引きを思わずにはいられない。

 かつて迎えた幕引きは、それまでの行いにふさわしいものだったと信じている。此度もきっと、同じだ。

 そしてそれは、フィオレに限ってのことではない。

 

「行いはすべて、我が身に却ってくるものです。様々な犠牲の塔を築いて、一国一城の主の座を手にして、あなたは一人ここにいる。……実にいい夢を見ましたね」

 

 微笑みすら浮かべて、フィオレは告げる。

 裁きの刻を。

 

「さようなら、バティスタ。せめて憂いなく──この大地から去ね」

「ぐ!?」

 

 それまでざわざわと背筋を戦かせていた気配が、ここになって牙を剥く。

 バティスタのみならず、一同にすら戦慄を抱かせていたその正体は、フィオレの殺気だった。

 これまで向けられたことはおろか、明確に放たれることもなかったそれは見えぬ力をもってしてバティスタを圧倒している。

 蛇に睨まれた蛙のように動けないバティスタに対し、フィオレは音を立てて紫電を仕舞った。

 

「な……なんのつもり、だ」

「最期に、痛みと向き合いましょうか」

 

 凍りついた時の流れを果敢にも取り戻したバティスタは、恫喝と言うより鼓舞の意味合いを込めて叫んだ。

 

「なめるな、行き倒れ風情が! 思い知らせてや……!」

 

 いつか、往来でフィリアを巡って争った時とはわけが違う。徒手空拳で単身バティスタに迫ったフィオレは、目と鼻の先まで接近した。

 驚愕すら浮かんでいない目を眺めて、跳び膝蹴りを顎に叩き込む。

 

「が……っ」

 

 見事ひっくり返ったバティスタはフィオレを見上げた。勢いのまま、その体を長靴(ブーツ)に包まれた足が踏みつける。

 靴底に鉄板が仕込まれている足が一度わずかに浮いたかと思うと、全力で真下の物体を踏みしだいた。

 バティスタの、胸板を。

 

「かは……っ!」

 

 強制的に肺から空気をたたき出され、バティスタは苦しげに息を吐くもそれだけでは終わらない。

 骨のきしむ音がして、きしんだ箇所を全力で踏みにじる。確かな手ごたえを感じて見やれば、バティスタは仰向けのまま血を吐いていた。

 折れたあばら骨が、肺に突き刺さったのだろう。

 

「ぐ……うう」

 

 抗うように、思い出したように蠢く鉤手甲が装着された腕を、フィオレは何の迷いもなく落とした。

 切断された腕はごろりと転がり、斬り口からは直視しがたいほどの出血が発生する。

 

「ぎゃああっ!」

「フィオレさん、やめて!」

 

 血の海の中で腕を押さえてもがくバティスタが、直後肺を抑えて咳き込んだ。

 更なる喀血に……否、その惨状を見てだろう。フィリアが悲鳴じみた制止を上げる。

 その制止に、フィオレは──否とも応とも答えなかった。

 

「それは、バティスタをラクにしてやれ、という意味ですか?」

「違います! いかにバティスタがあなたの怒りに触れたとはいえ、やりすぎですわ! こんなことをなさらなくとも……」

「なさらなくても、なんですか? フィリアもまた、夢を見てるみたいですね」

 

 話の片手間、バティスタの頭に靴底を押し付ける。

 そのまま一定の角度を保って力を入れると、骨と骨がきしむ音が確かに聞こえた。

 

「フィ、フィオレ。バティスタの首がなんか、ゴリゴリ鳴ってるんだけど……」

「鳴ってますね。下手に暴れると首の骨が折れますけど、私はそれでも構いません。死にたければどうぞ。まあ、このままでもそのうち失血死するでしょうが」

 

 武闘派修道士のまとう神官服が、どす黒い赤に染まっていく。

 首を襲う激痛に呻くバティスタを視界に入れたまま、フィオレは今にも泣き出しそうなフィリアを見やった。

 

「わたくしが、夢を見ているって……」

「ラクにするなということは、生かしておくつもりだったのでしょう? それも不可能ではありませんが……私の中に生け捕りにする選択肢はありません」

「な、何故!」

「今後を思えばこそです」

 

 意外、というよりはまったく関連のなさそうな答えに、一同はいぶかしげにしている。

 バティスタはタブーを口にしたからフィオレによって半殺しの憂き目に遭っている、と思っていただろうが、間違いだ。

 怒りを覚えたことは事実だが、腹いせのつもりなど毛頭ない。

 

「え?」

「ここの領主がどのような人物だったのかは存じません。しかし、果たして領主の命を奪った男を、誰が許してくれるでしょうか」

 

 結論から言って、許されることはない。

 ジョニーから聞いた話によれば、前領主は善政を敷き領民の交流を欠かさない慕われる人柄であったらしい。

 ただ領土を治めているだけの人間でも許されるというのは難しいのに、慕われるほどの人物では不可能だ。催眠術でもかけない限りどうにもならない。

 

「少なくとも、私たちはそれを許さない人たちと接触している。彼らの気持ちが理解できないでもありませんし、何よりバティスタがここにいる原因は、私にもありますから」

 

 バティスタを泳がせると提案したその時から、他者に害が及ぶことは覚悟していた。

 不毛な尋問よりは手っ取り早いだろうと、それが災いして誰かが悲しむようなことがあればこの手で責任を取ろうと。

 そしてバティスタの殺害を決めたのは、責任を取るためだけではない。

 仮に生かしておいたとしても、彼がこの先辿るだろう運命は──少なからず生きていることを喜ぶことは出来ないだろう。

 

「そして、私には彼の命を護れない。そんなことをすれば、私たちが殺されかねない。私たちとて、外国からの不法入国者なんです。できることは限られる」

「ですが……」

「ならフィリアはどうしますか? 生け捕りにして次期領主に引渡し、引導を渡すようにと……復讐というお題目で手を汚させるのですか?」

 

 あのフェイト・モリュウという男。ジョニーと同じく優男には見えるが、身のこなしは素人から程遠かった。

 それなりの使い手と察しているが、領主子息という身分である以上、人殺しに慣れているとは思えない。

 

「身柄を引き渡されたところで、扱いに困るだけでしょうね。領主殺害に次期領主監禁の罪で処刑か、民衆に対してそれまでの圧制の鬱憤晴らしに使うか……どちらにせよ、悲惨なものではないかと」

 

 諸悪の根源を知った民衆ほど、残酷な生物はいない。怒りの矛先を求める領民の前に放り出され、なぶり殺しにされるかもしれない。

 仮に楽な処刑を施されたとしても、残った遺体がどのように辱められるかもわからない。

 

「私に何の縁もなく、ただフィリアの同僚であったというだけなら。生かして次期領主に突き出し、更に領民に『モリュウ領主を殺した輩』として吊るし上げています。そうしない理由は、一重に……フィリアの同僚で、あの日のフィリアに同行していたから」

「ご、ご存知だったのですか!? 確かにあの日バティスタは、フィオレさんを見つけたわたくしの護衛をしていて、フィオレさんを搬送したのもバティスタですが……」

「だってそうじゃないと、説明がつきませんよ。バティスタが私の……体型を、知っている理由」

 

 経過はどうあれ、フィオレはバティスタにも助けられた。だからこそ今彼は半殺しで済んでいる。

 嘆息して、フィオレは唐突にバティスタの頭を解放した。

 獣のような唸り声を上げて、バティスタは瞬時に体勢を立て直している。切断されたはずの腕が音を立てて、再生しつつあった。

 

「もう大分魔物に近いみたいですね。人の意識が完全になくなる前に、何か言い残したいことはありますか?」

「……ぜ」

 

 唸り声の隙間から、呟きが聞こえる。もう一度聞き返して、フィオレは哀れみを覚えざるをえなかった。

 

「いっぺんひん剥いて、滅茶苦茶にしてやりたかったぜ」

「哀れなものですね。理性をなくした人間はただ、壊れた本能に突っ走るものだと聞きましたが」

 

 誰のことを指しているのか知らないが、そんなことを呟かれても困る。

 バティスタの独り言は続いた。

 

「てめえの泣き顔は、さぞかしそそるんだろうな……」

「ぶさいくなだけだと思いますが」

 

 司祭だっただけに、それまで禁欲でもしていたのか。

 あるいはこれまで女に縁がなかっただけか。女に縁があったからこそ、ただいま発情中なのか。

 それは彼にしかわからない。

 半開きになった口から涎が垂れて、もともと赤くなっていた目が飛び出さないばかりに爛々と輝く。

 再生どころか元のものより異常に肥大化した腕が蠢いたかと思うと、フィオレに掴みかかった。

 

「!」

「さんざん好き勝手抜かしやがって、ちったあ思い知れ!」

 

 その腕を、斬り落とすよりも早く。

 バティスタは、自分の額からあるものをむしりとった。

 自力で外せば、致死量の電撃は発生する額冠(ティアラ)を。

 

「ぬぐわぁーっ…………!」

「が……!」

「フィオレ!」

 

 体が貫かれるような衝撃が走り、髪の焦げる嫌な臭いがする。

 遠のく意識の隅で、唐突にリオンがフィリアから何かをもぎ取った。

 それまで彼女が携えていた、クレメンテ──

 

「貸せ!」

「リオンさん!?」

「仮にも雷属性を司るソーディアンなら、電撃を遮断してみせろ!」

 

 一閃したクレメンテの刃が、フィオレの胸倉を掴んで離さないバティスタの手首から先を寸断する。

 フィオレが尻餅をつくように離れた頃。彼は全身をくすぶらせて、絶命していた。

 

「バティスタ……!」

 

 胸倉を掴んでいたバティスタの手首が、今更外れる。

 電撃の影響で、体が痺れて、動けない。

 

『……シルフィスティア、第三音素(サードフォニム)を排斥してもらってもいいですか?』

『えっと。もうちょっとこう、この世界に即した指示がほしいなあ。あと雷属性に関しては、ボクとソルブライトの半々だから』

『そうですか。シルフィスティア、ソルブライト。体内に残る雷気の排除をお願いします』

『それならオッケー』

『承った』

 

 ようやく体が動くようになり、予想だにしていなかった彼の最期に、フィオレはキャスケットを取り出した。

 毛先が焦げて黒っぽくなり、バティスタの失血に浸った髪を、キャスケットに押し込む。

 そうしてフィオレは、ようやく目元を隠した。

 

「さて、次期領主様のお迎えにあがりましょうかね」

 

 フィリアがへたりこんでいることを承知で、きびすを返す。

 ジョニーが続き、短い口論の後にリオンがルーティ、マリーの二人を連れてくる。

 最後に残ったスタンがフィリアに何事か声をかけ、一同は座敷牢へと向かった。

 

「いいのかい、司祭のお嬢ちゃんを置いてきて?」

「バティスタは、彼女の同僚でもあった男です。それまで親交のあった人間に死なれて、平然としていられるような子ではありませんから」

「だが、また人質に取られたら……」

「今度は八つ裂きにしましょう」

 

 座敷牢にたどり着き、一声かけてから南京錠の開錠を手早く行う。

 出迎えたフェイトに対して、リオンは今度こそ例の質問を試みた。

 

「おい、バティスタを片付けてきたぞ。それで、セインガルド侵攻を企むティベリウスとかいうのはどこにいる?」

「トウケイ領だが、それを聞いてどうするつもりだ」

「奴を倒す」

 

 このシンプルな回答に、フェイトは顔色を変えて止めにかかる。

 しかし、父を殺されたばかりか、自分の幽閉すらも食い止められなかった人間に、リオンに発言の撤回をさせられるわけもなく。

 

「誰がバティスタを倒したと思ってるんだ」

「そ、それは……」

「ほとんどフィオレがやったんでしょーが……」

 

 またもやルーティがいらない一言を呟き、軽い電撃をくらったのはご愛嬌ということで。

 気を取り直して、リオンは腕を組んだ。

 

「とにかく、僕たちはバティスタに勝った。相手がグレバムだろうがティベリウス大王だろうが、止められる道理はない」

「大丈夫だ。こいつらならやれるさ。なんたって、この俺がついていくんだからな」

「ジョニーさん!?」

 

 唐突なこの宣言にスタンは驚くものの、ジョニーはちちち、と指を振るだけだ。

 

「おーっと。嫌とは言わせな「嫌です」

 

 驚きこそしないが、皆まで言わせるつもりもない。

 派手なリアクション──その場でずっこけてみせたジョニーは、苦笑しながら人差し指で頬をかいている。

 

「一刀両断だな」

「まあそう言うなって。俺もティベリウスの野郎とはいろいろ……」

「──そうだ。リオン様がいるなら、ここは任せても構いませんよね。ジョニーの同行の件に関しても、あなたの判断に従います」

 

 先程から妙に淡白なフィオレの声音に閉口しながらも、リオンは黙ってその言い分を聞いていた。

 

「フィリアのところに行っています。つきましては、スタン」

「はい?」

「手を貸してください。もしくはディムロスの貸与を」

 

 僅かに逡巡して、スタンはフィオレと共に座敷牢を退室している。

 終始黙りがちだった彼女を見送り、一人事情を知らないフェイトは首を傾げた。

 

「何か、あったのか?」

「あちらさん、バティスタと色々あったらしくてね。俺にもわからんことだらけなんだが」

「それを言うならあたしたちだって同じよ。フィオレは何も教えてくれないもの」

 

 ルーティは不満げに唇を尖らせている。

 しかしその話題は、今後のことについて交渉するリオンとフェイトの会話によって、流れた。

 

「俺の、話を、聞いてくれー……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十三夜——奏でられし葬送の調べ~新たな火種


 風雲モリュウ城終了っ! ここまで長かった……! 感無量! 
 今までありがとうございました、引き続きよろしくお願いします。
 ここにきて過去の人・エレノアの身に何が起こったのかが明らかになるようですよ? 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、スタンを伴って展望台へと訪れたフィオレは、座り込むフィリアの肩に手を置いた。

 

「……フィオレ、さん」

「フィリア。バティスタの故郷はどこだかわかりますか?」

 

 どこか遠くを見るような目でバティスタの遺骸をちらと見下ろし、呟く。

 

「バティスタは、その、孤児だったそうです。気がついたら神殿で暮らしていた、と……」

「そうですか。じゃあ、ストレイライズ神殿周辺でいいですね」

「何を、ですか?」

「遺灰をどこに撒くか、です」

 

 フィリアを立たせて、バティスタの遺骸から距離を取る。

 道中手順を説明しておいたスタン、ディムロスと示し合わせて、フィオレもまたコアクリスタルに手を伸ばした。

 

「炎帝に仕えし汝の吐息は、たぎる溶岩の灼熱を越え、かくて全てを滅ぼさん──サラマンド・フィアフルフレア!」

『炎の壁の彼方に見ゆるは、死神たちの饗宴……』

「ファイアウォール!」

 

 炎の壁がバティスタの体を軸に発生し、その上から譜陣が発生する。

 地面から噴出した灼熱がバティスタの体から水分を蒸発させた。立ち上る火焔の柱が渦となってバティスタの遺骸を覆い尽くす。

 威力を調整したその晶術と譜術の後に残されたのは、カラカラになった遺灰だけだった。

 

「あ……」

「彼がわずかにでも、幸せな夢を見ただろうモリュウの海に撒いてもいいのですが」

 

 素手で灰をかき集め、布の袋に流し込む。

 自分もしようとだろう、ふらりと立ち上がったフィリアを、フィオレは手を止めずに制した。

 

「いいです。そこにいてください」

「で、でも……」

「──灰が湿気を帯びると、保存が大変ですから」

 

 こらえきれなかった涙を零すフィリアに、わずかながら罪悪感が芽生える。

 しかし、たとえ彼が額冠(ティアラ)を外さなかったとしても、この結果に一切の変化はなかっただろう。

 

「……ごめんなさい、わたくし……!」

「悲しんでいるのに、涙が零れないほうが異常です。溜め込むのは心に毒ですよ」

 

 遺灰集めをスタンに任せて、フィリアに歩み寄った。眼鏡を取り上げて腕を回す。

 それだけで、フィリアは子供のようにすがりついてきた。

 

「好きなだけ、恨んでください。どの道バティスタの命はなかったのですから」

「……」

 

 ひっきりなしにしゃくりあげるフィリアが、激しく首を横に振る。

 とうの昔になくした心を持つ少女に僅かな嫉妬を覚えながら、フィオレは彼女が落ち着くまで頭をなでていた。

 やがてスタンが遺灰を集め終え、フィリアが嗚咽を止めて顔を上げる。その目は兎のように赤くなっていたが、表情には落ち着きが戻っていた。

 

「ご心配をおかけしました。スタンさんも、ありがとうございます」

「もう大丈夫なのかい?」

「ええ」

 

 眼鏡を手に、遺灰が詰まった袋を慎重に受け取りつつ、ぎこちない微笑を浮かべる。

 そこへ。

 フェイトとの交渉を終えたらしいリオンが、ルーティらを率いてやってきた。

 

「ご苦労様です。お話はまとまりましたか?」

「──次の目的地はトウケイ領だ。そこに、ティベリウスに取り入ったグレバムがいる」

「神の眼も、多分一緒にね。ちなみにジョニーの同行については決まってないわ」

 

 前者についてはもう少し詳しく知りたいが、後者に関しては心底どうでもいい。拒否したところでくっついてくるのは明白である。

 

「出発が整い次第、出るつもりなんだが……」

「気遣いは無用ですわ。わたくしも一緒に参ります」

 

 このやりとりを前にして、フィオレは知らず胸が熱くなるのを感じた。

 残念ながらフィリアの気丈さに、ではない。

 あのリオンが……フィリアがグレバムを「大司祭様」と呼んだだけでカリカリしていたリオンが。

 敵を倒したにもかかわらずメソメソしているフィリアを、気遣っている。

 これを機に歳相応の恋愛を知ってほしい気がしないでもないが、それは余計な世話というもの。それに、意中の女性がいる以上それは望めないだろう。

 本当に、よくぞ成長してくれたものだと思う。剣の腕の上達より嬉しい気がするのは、一重に彼が人間的な成長を遂げた証だからだろうか。

 身内でもないのにおこがましいことを考える自分に嫌悪することはわかりきっている。それでも、想う気持ちは止められなかった。

 しかし、彼らの表情は一切晴れていない。

 

「んと、それはいいんだけど。すぐ準備は出来ないから、じゃあフィリア達と合流して宿で休んでようか、って話になったのね。そうしたら」

「とんでもない! と、言われたんだ。すぐ用意させるから、是非とも城に泊まっていってくれと」

「泊まっていけって……そんなに時間を確保するつもりなのでしょうか」

 

 確かに、バティスタという諸悪の根源は倒した。

 しかし、それだけでモリュウの民を虐げる兵士が消え失せたわけではない。

 様々な事後処理に追われることだろうが、船を出すのはそれが終わってから、と後回しにされてしまうのだろうか。

 

「何はともあれ、一段落はしたんだ。これから先のことに備えて、今の内にゆっくり休めばいいじゃないか」

 

 ジョニーの言葉にも一理ある。一理あるが、何となく釈然としないものを感じないでもない。

 などと考えたところで、相手が相手につき抗議ははばかられる。

 そして、どうしてもジョニーの取った宿でまた雑魚寝がしたいわけではない。

 

「お呼びがかかるまで、ここで待機というわけですか……おや」

 

 ふと天守閣から目に付いた光景に気を惹かれて歩み寄る。

 遥か眼下、城門から一組の男女が現われたかと思うとその背後から何人もの老若男女が城下へと駆け出した。

 それまで兵士によって理不尽に捕らえられていた領民を解放したのだろう。

 それを咎めにかかった衛兵が、一組の男女を目にして一目散に逃げ去った。

 街を我が物顔で歩いていた兵士らの大半は、このモリュウの人間ではなかったらしい。

 衛兵の逃走は次々と伝染していき、港はあっという間に黒山の人だかりとなった。

 いくつかの船がゆっくりと港を離れていく。

 やがてモリュウ領の人間が所有する船に手を出し始めたのか、漁師と思わしき人々と衛兵の衝突が見られるようになった。

 モリュウ領正規軍であろう兵士がそれの沈静化に集まり出し、港は混沌と化していく。

 

「確かにこれは無理そうねー……」

「ねえ皆、少し騒がしくしても構いませんか?」

 

 ルーティがボヤいたその時、フィオレは楽器を取り出している。

 唐突にこの場で歌唱演奏を思いついたらしい彼女に、一同は反対することはなかった。

 

「何か新曲でも思いついたのかい?」

「──まあ、似たようなものですね」

 

 調律をするかのように軽く弦を引っかき、大譜歌で喉を慣らす。

 それから、フィオレは一心にシストルをかき鳴らした。

 

 

 

 

 

 ♪ 夢を見て 夢から覚めて また夢を見て

 昨晩(きのう)の夢を憶えていますか いつかの夢を憶えていますか

 夢から覚めましたか 夢が冷めましたか

 上を見て夢から醒めて下を見る

 今夜の夢は何でしょう 今度の夢は何でしょう

 夢なんか見たくない 夢ばかり見ていたいのに

 夢を見て 夢から醒めて また夢を見る? 

 それでも

 僕らは夢を生きる 僕らは夢で生きる

 さあ、おやすみなさい

 貴方が素晴らしい夢を見られますように──

 

 

 

 

 

 しっとりとした回旋曲(ロンド)の旋律が、余韻を伴ってしめやかに綴られる。

 仲間内のささやかな拍手に気取った辞儀を返していると。

 

「お待たせいたしました。どうぞ皆さん、こちらへ……」

 

 聞き覚えのある女声がして、顔を上げてからしまった、と臍を噛む。

 ついいつもの癖で、辞儀をする際帽子を外していたのだ。

 一同を迎えに来たのであろうリアーナ后は、驚きを表情に浮かべて固まってしまっている。

 慌てて帽子を被るも、彼女は見て見ぬフリをしてくれなかった。

 

「エ……レノア? エレノア様、なの!?」

「いや、別人だ。ただ、俺たちが間違えるくらい似てるんでな。ややこしいしフェイトが見たら何を言い出すかわからんから、ここへ来る際隠してもらったんだ」

 

 二の句が告げられないフィオレに代わって取り繕ったのはジョニーだった。

「面倒くさいのはわかるが、もうちょい我慢してくれや」と苦言を呈するおまけつき。

 一応は納得する素振りを見せたリアーナだったが、以降はフィオレを正面から見ようとしなかった。

 

「そうなの……すみません、私はこれで。皆さんをお部屋へご案内なさい」

「あ、奥方様!」

 

 連れていた侍女にそう言いつけて、リアーナはそそくさとその場を後にした。

 大急ぎで用立てたのだろう、真ん中で障子によって区分けできる畳敷きの広間に通され、アクアヴェイル産の緑茶を振舞われる。

 好奇心は隠せないようで、ちらちらとフィオレを盗み見る侍女を、打ち合わせの名目で追い出したジョニーは、よっこらせとばかり胡坐をかいた。

 

「ねえ、あのリアーナって人。エレノアさんを知ってるの?」

「まあな。エレノアはモリュウでも名高いリンドウ家の娘で、フェイトと──交際してたんだ。モリュウの人間でエレノアを知らん奴は、まずいないだろうよ」

 

 それは困ったことになった。それでは、ますます人前で帽子を外すわけにはいかない。

 フィオレの内心など他所に、ルーティの質問は続く。

 

「あれ、でも。その領主子息と婚約してたんでしょ? なんでティベリウス大王とかいうのに寝取られちゃったわけ?」

「……どこで仕入れた情報か知らんが、そいつは嘘っぱちだ」

 

 突如として、ジョニーは朗らかな笑みを消し眉間に皺を刻んだ。

 機嫌が悪くなったのは、明白である。

 

「確かにエレノアはティベリウスの野郎に気に入られ、さらわれるように(とつ)いじまった。建前上奴の息子の嫁にってな。だが輿入れした途端、エレノアは病でこの世を去ったとか連絡があったらしい」

「それって……」

「婚約を交わしたと言っても、そのときは口約束でいずれ両家が正式な縁談を組む、って時だったんだよ。それをいいことに、ティベリウスはエレノアを寄越さなければモリュウ領に攻め込むとリンドウ家を、エレノア本人を脅したんだ」

 

 当時のことを思い出してか、ジョニーは遠くを見やるように視線を投げた。

 伏し目がちな翡翠の瞳が映すのは眼下の城下町か、はたまた故人のことなのか。

 

「そういう意味では、確かに寝取られたかもしれねえな。自分には何の相談もなしに婚約を破棄され、更にエレノアには死なれ、落ち込んでいたフェイトを慰めたのがリアーナさ」

「詳しいですね。流石、吟遊詩人」

「え、吟遊詩人とかそういう問題なの? あたしてっきり、ジョニーってばエレノアに心底惚れてたのね、とか思ったのに」

 

 あっけらかんと、本人の前で自説を唱えるルーティに、湯のみを煽っていたジョニーは盛大にむせている。

 その背中を平手で叩きながら、フィオレは帽子を取った。

 

「噂は吟遊詩人にとって飯の種、レンズハンターにとってのレンズみたいなものです。そこから面白おかしい、聞く人の興味を煽るような歌を作っておひねりを得る。あの硬そうなイスアード将軍でさえ知っていたのですから、フェイトと懇意のジョニーが知らないわけないでしょう」

 

 毛先が焦げ、バティスタの血でどろどろになっている髪を拭い、丁寧に梳く。

 続いて剪定用のはさみを取り出し、いい機会だからばっさり切ろうかと屑籠を側に寄せて刃を当てたところでフィリアに止められた。

 

「な、何をなさるんです!」

「何って、切ろうかと」

「髪は女の命と言いますでしょう。多少焦げて汚れたからといって簡単に捨ててはいけませんわ!」

 

 わたくしが整えて差し上げます、とはさみを取られ、焦げた箇所、主に毛先を彼女に剪定される。

 今度は髪を洗うと言い出したフィリアをどうにか言いくるめて、フィオレは一人、城下を歩いていた。

 運良く、現在モリュウ城の銭湯設備が使えないと判ったためジョニーに宿の部屋の鍵を借り、わざわざ風呂に入るために別行動を取ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十四夜——穏やかな時間~争いは突然に


 閑話休題的小話。ジョニーとのお買い物タイム≠デートから、街中で襲撃されることを嫌って自ら人気のない場所へ。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋付きの浴室を独り占め、じっくりと髪も体も清めたフィオレが部屋を出てきた時。

 宿の受付のところに、ジョニーが佇んでいた。

 

「お出迎えですか?」

「宿を引き払うついでにな」

 

 フィオレから鍵を受け取り、つつがなく宿を引き払って、二人はモリュウ城へと向かった。

 バティスタを撃破した直後は朝日が昇る最中だったというのに、今や太陽は頂点へ昇りつつある。

 

「出港準備がどうなっているのか、ご存知で?」

「いや、後処理にてんやわんやしてるからな。最低でも明日までかかりそうだ」

 

 モリュウの城下町は、当初の雰囲気が綺麗に払拭されていた。

 元来はこうなのだろう、横暴な衛兵によって抑圧されていた人々が本来の笑顔を取り戻し、街全体がフェイト・モリュウの領主即位に歓喜している。

 やはりフィリアは連れてこなくて良かった。フェイト・モリュウの即位に歓喜していることはすなわち、バティスタ崩御に喜んでいるということなのだから。

 モリュウ城へ続く大通りを行く道すがら、商店街に面した通りを見つけてフィオレは足を止めた。

 

「ところでね、ジョニー」

「ん?」

「ちょっと用事があるので、私は寄り道します。だから……」

「ああ、お前さんもか。俺もそうだから、気にすんな」

 

 そう言って。彼は城へ戻る大通りから、商店街の連なる通りへ足を向けた。

 彼の足は完全に戻り道に向かっていたから、そのまま帰るだろうと踏んだのだが。

 気を取り直して、フィオレもまた商店街へと眼を向けた。

 

「何をお求めで?」

「まあ、ちょっとな。お前さんは?」

「適当な武器と、髪留めを。紫電をあなたに返還したあと新たな武器が必要ですし、髪留めは壊してしまいましたし」

 

 一応残骸をかき集めて修理を試みたのだが、足りない破片があるらしく欠けたままだ。

 時の流れをいじることで元の形を取り戻すことはできても、足りない部品を再生させることはできない。

 その言葉に、ジョニーは先行く足を止めてひと時、立ちすくんだ。

 

「……ジョニー?」

「あー、髪留めのことなんだが。その、奢らせてくんねえか?」

「は?」

 

 何とも言いがたそうに、彼はごにょごにょと呟いた。奇妙な提案をされたフィオレとしては、真意を尋ねるくらいしか出来ない。

 

「髪留めが壊れたのは、俺が不用意なことをしたのが原因でもあるだろ?」

「……確かにあれは軽率でしたね。でも、別に」

「そんなわけだ。武器屋の方も、心当たりがあるから一緒に回ろうや」

 

 反論の暇もあらばこそ、ひょいと肩を抱かれて連行される。

 それなりに身長差があるからやりづらいだろうに、彼は一切気にした様子もなく歩き始めた。

 

「そんなことをしていたら、あなたの買い物ができなくなるのでは?」

「かまわねえさ。そこまで重要なもんでもねえしな」

 

 手始めに髪留めを探して回り、人目を忍んでこっそり帽子を外しては試す。

 朗報に対して浮き足立つ領民が多いのか、客が多いために見咎められることはなかった。

 問題は、女性ばかりの店内でも一切たじろぐことなく付き添うジョニーの存在である。

 ただ居たところで目立つのは必至だというのに、彼は手持ち無沙汰にいくつかの髪飾りをチョイスしてはフィオレに試すよう促し始めたのだ。

 

「こーいうのはどうだ?」

「お心だけ受け取っておきます。真面目に答えると、動きを阻害するような華美なものはお断りです」

 

 可憐な桃の花が描かれた鼈甲製の櫛を渡されて、苦笑しつつそれは棚に戻す。

 彼は話を聞いていなかったようで、次に寄越してきたのは、真っ赤な薔薇を載せた派手なカチューシャだった。

 どうでもいいが、何ゆえ彼はことごとく、花飾りが付属した髪飾りばかり渡してくるのだろう。フィオレが求めているのは髪留め──髪をまとめられる代物なのだが。

 

「これにします」

「却下。もうちっといいもんにしろって」

 

 それだけならまだしも、フィオレがこれでいい、と言ったものに対して似合わない、だのこっちの方がいい、と文句をつける始末。

 

「こっちが胡蝶蘭で、こっちが花水木な。どっちがいい?」

「予算オーバーです」

「俺が払うのになんでそうなるんだよ」

「遠回しに気に入らないと言っていることに気づいてくださいませ」

 

 ──本当は、奢ってもらうことから断るべきだった。そんなことはわかりきっている。

 ジョニーがただの、モリュウ城攻略における協力者だったなら、フィオレは申し出を一言で却下し、受け入れることはしなかっただろう。

 それをしなかったのは、彼が三男坊とはいえ、シデン領主の息子であり、モリュウ領当主の友人……権力者のくくりに入る人間だからだ。

 かつて一国の王のお気に入りに手出しを──殺そうとしたことで処刑されかけたことは、今尚フィオレの心を心的外傷(トラウマ)として縛り続けている。

 セインガルドで貴族からの贈り物を拒否できても、ここアクアヴェイルでジョニーの申し出を断れなかったのは、ここに起因しているのだろう。

 

「んじゃ、これはどうよ」

 

 早く決めなければと、大真面目に選定していたフィオレの眼前に、彼の新たなチョイスが突き出される。

 四葉が先端に煌く、漆黒の簪だ。

 緻密な宝石細工──エメラルドを加工したもののように見える。

 反射的に断ろうとして。

 

「髪留め──簪がいいんだろ? これならそんなに派手じゃねえし、よく似合うぜ」

 

 かけられた言葉に、思わず言葉が詰まった。

 

「……似合う、のですか。そう、ですか」

 

 クローバーの花言葉は「復讐」である。

 かつて母の仇を討たんと「復讐」に身を焦がし、狂わんばかりになっていた時期さえあったフィオレには、痛恨の一撃となって、言葉は突き刺さった。

 確かに、フィオレはジョニーの目の前で仇討ちをお題目にバティスタを討った。

 だから「復讐」が似合うのか、それとも。

 未だ、「復讐」を望む顔をしているのか。

 

「んじゃ、これでいいな」

 

 その高級な飾りのせいでかなり高くついたが、価格の低く地味なものばかり選んでいたフィオレを言い負かしたことを満足しているらしく、ジョニーは一切頓着していなかった。

 あるいは、領主息子であるが故に、高値だと思っていないのか。

 もう購入されてしまったものだ。いつまでもうじうじ考えていても、時間は戻らない。

 一呼吸ついて、フィオレは頭を切り替えた。

 

「ところで、新しい武器の話なんだがな。フェイトに頼めば、城に眠っている刀のひとつやふたつ、くれるような気がするんだが」

「これから船を出してくださる方にそんなおねだりはできません。それに、大切に保存されていただけのなまくらを渡されても困ります」

「それもそうか。なら次は武器屋だな。確か、向こうの通りにあったはず」

 

 ジョニーに促され、見覚えのある店まで連れてこられる。一同がモリュウ城侵入の際、手を借りたぴろんボート店だ。

 ただし、普段の活気を取り戻したからなのか。店主はもちろん他の船頭たちも、次から次へとやってくる客相手に忙しそうだ。

 

「向こうの通りまで頼む」

「へい!」

 

 店主に礼を言うことは出来ず、二人は壮年の船頭によって水路を突っ切り、時間の短縮を図った。

 

「忙しそうだねえ」

「あっしらにゃあ嬉しい悲鳴って奴ですよ。フェイト様が地位奪還してくだすって、本当に良かった」

 

 どのように話が伝わっているのかはわからないが、一日もかからず狼藉者らをモリュウから叩きだしたのは間違いなく彼の功績だろう。その手腕は称えるべきだ。

 その後、二人は恋人かなどと言い出した船頭に眼科にかかった方がいい、と忠告し。ジョニーの案内で『海神』と看板の掲げられた武器屋へ入る。

 

「いらっしゃい。何をお探しで?」

「長刀を探しています。白鞘拵えのものを、いくつか見せてもらえませんか?」

 

 応対に出た店員が、それならばと奥へと引っ込む。薄暗い店内の中で、ジョニーはぽそりと口を開いた。

 

「白鞘って、紫電と同じ様なモンじゃ駄目なのかい?」

「言っておきますが、紫電も白鞘拵えですよ。何故か黒く塗られているだけで」

 

 刀が納められているらしい桐の箱をいくつか抱えてきた店員は、「どうぞお試しください」と一角に据えられた藁束を指した。

 言葉に甘えて箱から取り出し、懐紙を咥えて吐息で刃を汚さぬようにしながら品定めする。

 紫電をジョニーに預けて実際に提げてみて、フィオレは柄に手をかけ藁束と対峙した。

 

「っ!」

 

 藁束を寸断し、切れ味を確認する。

 そのまま二度、三度と刀を手の中で転がしていたフィオレは、ため息をついて『浮雲』なる銘の刀を桐箱へ押し込んだ。

 

「駄目なのか?」

「……どうも、紫電に慣れ過ぎたみたいです。重くて切り返しがすごくしにくい」

 

 それから幾度も試してみるも、刀身が短すぎたり重かったりと、しっくりくるものはない。

 きっとこの地では刀は男性が持つものだから、それなりに重くしてあるのだろう。

 フィオレの腕力で紫電はかなり扱いやすいのだ。もしスタンあたりが紫電を振るえば、その軽さに拍子抜けすることは間違いないだろう。

 

紫電(こいつ)は、その昔地鎮祭やら神楽の舞にも使ってたとか聞くからなあ。女性でも軽々扱えるようにしたのかもな」

 

 確かに血桜も、本来実戦ではなく儀礼的な意味合いを込めて作製されたものだと聞く。

 ただ、実戦を想定したことだけは間違いないだろう。そうでなければ刃がついている理由がない。

 同じものは到底望めないから、せめて少しでも軽いものを、と思ったが。残念なことにフィオレの眼鏡に叶う品はなかった。

 

「非常に残念ですが、トウケイの品揃えに期待しましょう。だからもうちょっとだけ我慢してくださいね」

 

 結局新調することなく、丁子油と打ち粉という刀の手入れ用品を買い揃えて、店を後にする。

 当然、後半の言葉にジョニーは首を傾げた。

 

「ん、何をだ?」

「私が紫電を使うこと、です。モリュウ城では不愉快な思いをされたでしょう」

 

 領主奥方であるリアーナと邂逅した際の顔はなかなか忘れられるものではない。最もそれ以降、そんな素振りは一切なかったのだが。

 本人にも覚えがあるらしく、彼は苦い顔でフィオレを見下ろした。

 

「……気付いてたか」

「あんな風に顔を歪めて、気付かれないとでも? お気持ちは察しますが、あえて無視することにします。あなたの機嫌を伺って、誰も護れないのでは本末転倒です」

 

 誰も頓着していないが、ジョニーとてアクアヴェイル公国の一領主子息なのだ。

 フィオレは彼の機嫌を損ねることも危険だと思っている。

 しかし、これから行うことを考えればそれはささやかなこと。ティベリウス撃破は彼も望むことなのだ。

 とはいえ彼の心情を察するならば、フォローしてしかるべきである。

 

「それで、ジョニーの買い物とは?」

「ああ。夜にはフェイトも時間ができるだろうからな。久々に酒でも酌み交わそうかと」

「へえ……アクアヴェイルのお酒ですか。それは興味あります」

 

 それを聞いて、フィオレは興味津々といった風情を隠すことなく彼に同行した。

 純粋に楽しんでいるような素振りに、ジョニーは意外そうにしている。

 

「ほー。お前さん、イケる口か?」

「まあ、それなりに」

 

 イケるどころかザルと言っても過言ではないのだが、嘘ではない。

 酔えなくても、酒の味を解することはできるからだ。

 

「マリーがかなりの酒豪なんですよ。ここのお酒が口に合うかどうかは、わかりませんけど」

 

 その後も、他の面々はどうだとかジョニーやフェイトはどうなのかなど、比較的和やかな雰囲気のまま酒屋へと入る。

 幾度かの試飲を経て、二人はそれぞれ一升瓶を購入した。

 

「そんなに呑んだらリオンに怒られやしないかい?」

「それもそうですね。酔い潰しましょうか」

 

 冗談を言い合いながらも、両手でえっちらおっちらと大瓶を運んでいたフィオレを見かねてか、ジョニーが持ち上げる。

 その行動に、フィオレはふと彼を見上げた。

 

「あれ、気付いたんですか?」

「……?」

「違いましたか。まあどっちでもいいのですが……寄り道していきましょう」

 

 唐突に、フィオレがジョニーの腕を取って先導を始める。まるで恋人同士がするようなその仕草に、ジョニーは戸惑わざるをえなかった。

 

「おい、そっちは城とは逆……」

「この程度なら私一人でどうにかなります。人質にされても困りますので、少々お付き合いくださいね」

 

 こそ、っと囁き、フィオレは再び歩き始めた。

 モリュウの地理に未だ明るくないフィオレが先導しているため、あっという間に人通りの少ない閑散とした通りへと差し掛かる。

 太陽が夕陽と成り代わるその頃。突如としてフィオレがぐい、と腕を真下に引く。

 素直に従った矢先、それまでジョニーの頭があった辺りを棒型の手裏剣が通過していった。

 

「へえ、これがこちらで使われているものですか。私のものとは少し異なりますね」

 

 目標を見失い、空しく民家の壁に突き刺さったものを、フィオレはまじまじと見つめた。

 

「余裕だな」

「こそこそ隠れて飛び道具使うような輩相手なら、怖くも何ともありませんからね」

 

 現在が一応昼間であることをよいことに、シルフィスティアの視線から何がどこに潜んでいるのか、検討はつけてある。

 先程の一投も、彼女の警告があってこそあれだけ余裕でかわすことができたのだ。

 でろっとした、奇妙な臭気のする液体が塗布されていることに関しては何も言うことなく、くるりと周囲を見回す。

 フィオレ自身の視界には何も映らないが、そこかしこに黒装束が潜んでいることはわかっていた。

 状況の打破は易しい。しかしそれは、自分一人であった場合の話だ。ジョニーを護りながら打って出て、且つ無傷で城へ生還するのはどう考えても難しい。

 このままこちらからは動くことなく、ただひたすら飛んでくるであろう飛び道具を回避し続け、相手が焦れて直接攻撃してくるのを待つ。

 決着に時間はかかるが、それが一番安全な凌ぎ方だ。

 周囲に気を回しつつ、ジョニーを押すように民家の壁際へ移動する。

 壁を背にジョニーをかばうような立ち位置で、右手に紫電、左手に懐刀を取った。

 四方から飛び交う手裏剣──棒手裏剣だけではなく、鉤爪が生えた円盤状のものから手のひらに収まる程度の笄が時間差を置いて迫る。

 フィオレは左右の手に持つ武器でそれらを捌いた。

 

「うおっ!?」

「……面倒ですね」

 

 出来ないわけではないが神経は使うし、幾度も繰り返されたらきっとミスをする。

 足元に散らばる多種の手裏剣をわずらわしく蹴飛ばしながら、素直に譜歌を使おうと短刀を納めて、背中に違和感を覚えたフィオレは振り返った。

 

「……何を、していらっしゃるので?」

「いや、前にお前さんここからあの楽器出してたよな? 今は持ってないのか……」

「呑気ですねえ。少しは状況の打破を考えてはくれませんか?」

 

 手裏剣を捌いているのをいいことに、ジョニーは実に無遠慮にフィオレの背中をぺたぺた撫でている。

 一発はたいてやりたい衝動を抑えてため息をつけば、彼はしばし閉口した上でフィオレを見下ろした。

 

「それで、いつまで防戦してる気だい?」

「相手が焦れて襲いかかってくるまでです」

「消極的だな。こっちから打って出る、って案はないのか?」

「私はともかくあなたが危険でしょう」

 

 モリュウ城でオルガンの間にて乱戦に陥った際とはわけが違う。

 先制はあちら、ジョニーによる吟詠奏もないため思考能力は正常、そしてはっきりと姿を確認したわけではない。

 かといって、ジョニーを連れて各個撃破を狙ったところでいたちごっこになるのが関の山だろう。

 それらを投げ遣りに話せば、彼はポン、とフィオレの肩に叩いた。

 

「俺のことは気にすんな。遠慮なく暴れてこい」

「気にするし遠慮します。ご自分が一応玉体であることを自覚してください」

 

 玉体──王族に連なる、あるいはそれに準ずる人間を傷つけるどころか、危険にさらしただけで何が起こるのか。

 ジョニー自身が平気だと言い張ることが更に追憶を刺激して、慎重にならざるを得なかった。

 

「──いいから。今から吟詠奏で連中をいぶり出す。片付けてくれ」

「駄目です! そんなことをしたら、あなたが集中砲火を浴びるのですよ。わかっているんですか?」

 

 その言葉に、調律を兼ねているのだろう。楽器をかき鳴らしたジョニーは曇りなき笑顔を浮かべた。

 

「そうなる前に、片をつけてくれや」

 

 ある意味フィオレに命を預けた、といっても過言ではない。

 否とも応とも答えるより早く、彼は己の楽器を構えて高らかに叫んだ。

 

「行くぜ! ジョニーナンバーメドレー!」

 

 ──これは、本当に早くしないとジョニーの命がなくなる。

 そう直感したフィオレは、最早言葉を交わすこともなく弾かれたように走り出た。

 まずは──路地裏に潜む影から。

 

「ちぃっ……!」

 

 自分が狙われたことに気づき、黒装束は戦線離脱を図る。

 だが、そんな追いかけっこに興じていたらジョニーの遺体を後で見つけることになるだろう。

 その方が後腐れないかな、という考えはさておいて。

 

「手間取らせないでください」

「ぎゃっ……!」

 

 手持ちの飛び道具は棒手裏剣と笹の葉型の手裏剣。それぞれを駆使した。

 追いすがってとどめを刺す手間すら惜しいと、棒手裏剣の狙いを延髄に定めて投擲する。

 見事首の後ろに突き刺さったのを確認して、次なる標的を探った。

 狙いをつけたのは──屋根の上。

 妙に様々な角度から手裏剣が飛び交ったからおかしいな、と思ってはいたのだが。これで謎は解けた。

 

「俺の~歌を~聞け~え♪」

「く、目障りな……!」

 

 多分耳障りの間違いだ。

 実に順調に彼らの苛立ちを煽るジョニーに業を煮やして、屋根にいた黒装束が刀を手に飛び降りる。

 着地のみに集中せざるをえないその瞬間を、狙うのは実にたやすかった。

 

「もういっそのこと、俺の傍で戦ったらどうだ?」

「それもひとつの案ですね」

 

 念には念を入れ、倒れた黒装束の延髄をざっくり切り裂く。

 もし生きていたとしても、延髄を破壊されれば生命維持を含めるほとんどの活動は不可能だ。

 相手がレンズを飲んでいたとしても、構造が変わらなければ弱点は人間と同じものと考えて差し支えない。

 辺りを睥睨するも、業を煮やした黒装束がどんな最期を遂げたのかは今しがた確認されたからなのか誰一人として姿を現さない。

 再び飛び交う手裏剣群を叩き落し、ジョニーの吟詠奏が奏でられる中敵襲に備える。

 吟詠奏の効果で、黒装束らの標的はフィオレの真後ろに立つ人物であるはずだ。

 隠れているままでは仕留められず、きっともどかしく思っていることだろう。

 考えられる打開策は少ない。

 

「喰らえっ!」

 

 一瞬、壁と壁の隙間から黒装束に包まれた腕が生え、瓶のようなものを投擲する。

 火炎瓶かフィリアが使うような爆薬か、あるいは全然違うものか。何にしても、見た目が単なる瓶である以上対処は簡単だ。

 紫電を放り投げて飛来する瓶の無傷回収を試みる。

 あんな不自然な投げ方の割に確実にジョニーへ届くよう投げられているため、そこまで難しいことでもなかった。

 襲撃班とて、この瓶ひとつで相手をどうにかできるとは思っていなかったのだろう。

 これが効果を発揮した時、その隙に乗じて攻め込む気だったのか、特徴的な刀を手に五人が姿を現す。

 紫電こそ手放しているものの、フィオレの手には都合よく未使用の小瓶があった。

 使わない手はない。

 きっと一斉にかかってくるつもりだったのだろう。都合よくまとまっている黒装束らに、地面へ叩きつけるような形で小瓶を投擲する。

 勿論、フィオレがやったようなことを彼らが行うこともなく。

 茶色い瓶が地面に叩きつけられ、中身が四散する。

 直後、おそらく空気に触れることで変化を起こしたのだろう。あっという間に効果を見せた。

 

「ぬあっ!」

「馬鹿者、相手に使われてどうする!」

 

 今更怒鳴ったところでもう遅い。

 瓶の中身は真っ白な濃霧を呼び、辺り一面を白煙で包み込む。なるほど、これで視界を奪って突撃する手立てだったようだ。

 確かに悪くない手である。そんなわけで踏襲しようと、フィオレは再び懐刀を手に取った。

 幸い、位置ならば先程把握している。闇雲に動かれたところで、白煙が気配を教えてくれた。

 

「ぐあ……!」

「ぎゃああっ!」

 

 確実に葬っていたせいか、たった二人しか仕留められなかった。

 まだフィオレの接近に気付かない三人目を屠った時点で、霧が薄れていく。

 

「きさ……!」

 

 何か言いかけた四人目の喉元に棒手裏剣を放ち、口を封じた。残るは一人、一対一ならばどうにでもなる。

 やがて風の働きによって、白煙は完全に流された。それによって、残る黒装束の姿が露となり──

 フィオレは接敵することなく走った。

 黒装束は何を思ったのか、ジョニーに目がけて何かを投擲したのである。

 その射線上に飛び込み、正体を知る。

 それは、先程も見た棒手裏剣だった。粘つく異臭を放つ液体が塗布された、フィオレのものとはわずかに違う、棒型の手裏剣。

 

「馬鹿め……!」

 

 投擲されたものの正体を知ったフィオレに、黒装束が明らかな嘲笑を浮かべて迫る。

 まんまと近づいてきた黒装束を返り討ちにしたフィオレではあったが、その直後懐刀を取り落とした。

 ジョニーにめがけて放たれた棒手裏剣は、見事フィオレの左肩に命中していたのである。

 

「フィオレ!」

 

 痛痒と灼熱感に眉を歪ませつつ、周囲の気配を探る。

 シルフィスティアの視界まで借りて実際に視てみるものの、怪しい影は何一つなかった。

 吟詠奏を即座に取りやめたジョニーが駆けつける。患部を一目見て、彼は棒手裏剣を握りしめた。

 

「──抜くぞ」

 

 半ば以上まで突き刺さっていたそれを、一息で抜く。

 流血で毒を少しでも体外へ出そうと歯を食いしばって傷口を広げようとして、ジョニーに止められた。

 理由を説明しようとして、遮られる。

 

「わかってる。毒を流そうってんだろ? 今吸い出してやるから」

 

 着物の首元をはだけるように肩の部分を露出させたジョニーを、フィオレは血に濡れていない手で押し留めた。

 

「恥ずかしがってる場合か!」

「……経口感染したら、どうするつもりですか」

 

 怪我のせいで握力こそなくなっているが、幸い意識はしっかりしている。

 彼まで毒物に汚染されたら、何のためにかばったのかわからない。

 それでも納得しがたいようで、強行しようとする彼から逃れるように紫電を回収する。

 

「戻りましょうか。治療はルーティにお願いしますから」

「馬鹿、動いたら毒が回るぞ」

「動かなきゃ帰れませんよ」

 

 そのままスタスタ歩き始めたフィオレに、その様子からそこまでの重傷ではないのかと判断したジョニーが続く。

 傷口が目立たぬように、それでも血に混じった毒が抜けるよう布を押し当て、かなりの急ぎ足で帰路につく。

 ──フィオレが完全に動けなくなったのは、一同に与えられた室内の中でのことだった。

 

「うぉっとぅ」

 

 部屋に着くなり、力が抜けたように膝をつくフィオレをジョニーが支える。

 

「フィオレさん!?」

 

 小さく礼を呟くものの、最早自分で立つことすら叶わないフィオレを抱えて部屋の真ん中へ移動すると、その様子を見て何事かとスタンが駆けつけてきた。

 

「何があったんですか!?」

「街中で敵襲にあった。ところで、他の面々はどこいった?」

「まだ俺しか戻ってきてないみたいなんです。こんな時に……」

 

 スタンの言葉にうっすらと眼を開き、周囲に見やるも確かに誰もいない。かろうじて、壁際にディムロスが立てかけられているくらいだ。

 通常、フィオレの身体には毒も薬も効きにくい。効果を発揮するのは、劇薬並の威力を持った代物くらいだ。

 そういった物に対し、フィオレの身体は効果の片鱗を見せたかと思うと異常なまでに強力な睡魔に襲われる。

 そして、フィオレはそれに過去一度として抗えた試しがない。

 入り込んだ毒に対して体が反応を示し、浄化の副作用に休息を求めているのではないか、と見当はつけているが定かでない。

 事実、フィオレは現在睡魔に襲われつつある。本格的に身動きが取れなくなる前にと、口を開いた。

 

「──スタン。私の荷袋、取ってください」

 

 突如口を聞いたフィオレに驚きつつも、彼は素直に保管してあった荷袋を取ってきてくれた。

 譜歌を使おうかと思ったが、この睡魔で集中は難しい。

 荷袋から救急セットを取り出しもたもたと肩の手当てを始めようとして、包帯をジョニーに取り上げられる。

 

「結局無理してたのかよ、ったく……」

 

 スタンに座布団を取らせ、フィオレを楽な体勢にさせてから着物をはだけられた。

 薄ぼんやりと見やった左の肩は、血の色と塗布されていた毒物の色か、毒々しい緑が混ざっている。

 

「な、何ですかこれ」

「敵さん、毒を使ってきましてね。被弾しちゃったんですよ……」

 

 霞がかってくる意識を、異様に染みる消毒液の激痛で何とか抗いつつ、懐紙に包んだ棒手裏剣をスタンに渡す。

 ちゃぶ台、というらしい背が低く丸いテーブルに包んだまま置くよう指示して、治療を終えたジョニーに重ねて礼を言う。

 

「ありがとう。二人とも、手を洗ってきてもらえますか?」

「え?」

「ジョニーは私の傷に触れましたし、スタンは棒手裏剣に触ったでしょう。もしも毒が付着しているといけないので。あと私におしぼりみたいなものをください」

 

 オールドラントの毒物ならまだしも、こちらの薬学に明るくないフィオレに毒物の正体はわからない。

 フィリアやルーティ……否、アトワイトにならわかるかもしれないが、わかったところでこれからの注意喚起くらいにしかならないだろう。

 そして、鑑定を頼むべきフィオレの意識は限界に近づきつつあった。

 

「フィオレ?」

「……ちょっと、寝ます。皆のこと、気にかけといてください」

 

 荷袋の中から外套を引っ張り出し、ぞんざいに身体に引っかける。それが限界だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、夜のこと。

 一同を労うべく心づくしの夕餉が振舞われた際、未だ衰弱の抜け切っていないモリュウ領主夫妻が姿を現した。

 

「大変お待たせしました。明日、出港準備が整います」

「お、何とか片がついたか。確かに待ちくたびれたぜ」

 

 ジョニーは心にもない軽口を叩いているものの、たった一日で事後処理をほとんど終えた彼の手腕に舌を巻かざるをえない。

 しかしそんな朗報に、一同はどこか気もそぞろだった。

 

「皆さん、その節は大変ありがとうございました。ご武運を、お祈りしております」

「ところで、帽子のお嬢さんの姿が見えませんが」

 

 リアーナの優雅な辞儀が、フェイトの一言でぎこちなく固まる。

 それだけでなく、それまで夕餉に舌鼓を打っていたマリーさえその手を止めた。

 

「えーと……」

「フィオレのことか? あいつなら、部屋で寝ている。これまでずっと気が抜けなかったからな。気にするな」

「そ、そうです。きっとお疲れだったのでしょう。後でお召し上がりいただけるよう、こちらのお食事を少し、いただきますわね」

 

 口を開こうとしたルーティを牽制するように、リオンが極めてぞんざいな言い方で──しかしけして嘘ではない言葉で、お茶を濁す。

 便乗したように、フィリアもまた言葉を重ねたことでフェイトは気にかける素振りを見せつつも、納得した。

 

「そうですか。お大事に、とお伝えください。お見舞い申し上げたいところですが、女性がお休みの部屋に訪問するのは妻が許してくれないので」

「そうよ。夜に女性のお部屋へお邪魔するなんて、許しませんからね」

 

 夕餉と夫婦の会話でお腹一杯にしつつ、一同はその場を辞した。

 移動中、誰もいないことを確認してからぽそりとスタンが呟く。

 

「なんで本当のこと言わなかったんだ?」

「あの二人の様子を見ただろう。心労のタネを増やしてどうする」

「こんなことがあったから注意してくれ、って言うのも、ありだったと思うけどね」

 

 毅然と振舞っていたが、幽閉生活から解放された途端、事後処理というか後始末を押し付けられたのだ。睡眠もろくろく摂れていないだろう。

 何となく無言になりつつも、一同にあてがわれた部屋へと帰りつく。

 そのまま開けようとしたスタンを制して、フィリアがトントン、と指先で襖を叩いた。

 

「フィオレさん、ただいま戻りましたわ。開けてもよろしいですか?」

「ああ、おかえりなさい。申し訳ありませんが、もう少し待って……」

「気がついたんですか!?」

 

 返事があったことに驚く一同の中で、最も素早い反応を見せたのはスタンだった。

 スパンッ! と勢いよく襖を開き、そして飛来した物体を顔面に受けている。

 飛来した物体の正体は、投げやすいよう丸められた座布団だった。

 

「ぶっ!」

「着替え中です。速やかに閉めてください」

「あんたねえ、人の話はちゃんと聞きなさいよ」

 

 着替えと聞き、あわよくばとでも思ったのか襖へ近寄ったジョニーを押し退けてマリーが襖を閉める。

 ルーティとスタンの痴話喧嘩に似た言い合いがエスカレートするより前に、唐突に襖が開いた。

 

「お待たせしました。どうぞ」

 

 そこには、平然とした様子のフィオレがいる。

 スタンにブン投げた座布団を回収してきびすを返す姿に、弱っていた気配はカケラもない。

 ただ、奇妙な一点をジョニーが指摘した。

 

「お前さん、なんで胸にそんな詰め物してるんだ?」

『ぷっ!』

 

 ジョニーの指摘に、シャルティエが噴出す。

 ジロ、とリオンの腰を睨んで、フィオレは転がっていた自分の荷袋を抱えた。

 

「あなた方が思ったよりも早く戻ってくるからでしょう」

「……?」

 

 膨らんだ胸元のせいで、小袖が歪んでしまっている。

 それを抱えた荷袋で隠すようにしながら、フィオレはおもむろに押入れに引きこもってしまった。

 しばらくして再び押入れから姿を現したフィオレの胸元は、普段どおりすっきりとしている。

 それを見て、ジョニーの眼には玩具でも見つけたかのように輝いた。

 

「まさか、胸がないことを悲観してでっかくなったつもりに……」

「ところでフィリア、これなんですけど」

 

 猥談を持ち込むジョニーは無視。

 未だちゃぶ台の上にあった包みを手に取る。それを広げて見せると、フィリアはその柳眉を嫌悪に歪めた。

 

「これは……まさか、フィオレさんに被弾したものですか?」

「ええ。一応私は回復しましたが、変な副作用があっても困ります。なので、正体がわかるなら教えてほしいなと」

 

 懐紙に包まれた、血糊と塗布毒付きの棒手裏剣を見て。フィリアはそっと鼻を押さえた。

 仕草で懐紙に包むようフィオレに願い、小さく息を吐く。

 

「……わたくしの見立てが間違っていなければ、致死性の毒ですわ」

「致死性の毒!?」

「一歩間違っていたら、フィオレさんの命もありませんでした。ジョニーさん達から聞きましたけれど、毒を吸い出さなくて正解です。これの毒性は非常に高く、経口感染も十分可能性がありましたから……」

 

 やはりあの時、ジョニーを止めてよかった。

 一人納得したフィオレはくるりと一同を見回している。

 

「あの黒装束連中が、卑劣な手を使ってくることはわかりました。付け入られることのないよう、警戒しましょう」

 

 この話はおしまいだと言わんばかりに、購入した酒瓶を取り出してマリーを晩酌に誘った。

 途端に顔を明るくしたマリーが一同を誘い、そのままささやかな宴に発展したのはすぐ後のことである。

 

「さて、俺はフェイトのところにでも……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 


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第八十五夜——トウケイ領IN~障害も何のその

 バティスタとの因縁を絶ち、舞台はトウケイ領へと移り変わります。
 ここでとうとう、エレノアの恋人であったフェイトにも顔バレ。
 秘密とは不思議なもので、漏れてしまうと広がるのはあっという間なのですよね。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日のこと。一晩どころか一日ほどじっくりと休んだ一同は、港へと集合していた。

 ティベリウスと初の邂逅を果たし、フィオレにとってはあまりいい思い出のない港は人々が行き交い、それなりの賑わいを見せている。

 どうやら、シデンへの定期船が復活したらしい。それまで足止めされていた人々が、動き出しているのだろう。

 桟橋に横付けされている船の中で、一際巨大で黒い船体を発見する。

 黒十字艦隊、なるアクアヴェイル公国最大の海軍所属の船の傍に、モリュウ領主夫妻が佇んでいた。

 

「フェイトさん! リアーナさん!」

「皆さん、お待ち申し上げておりました」

 

 接触をスタンたちに任せて、リオンやフィオレは後方で見守るのみに留まる。

 つつがなく会話が進み、乗船するところまで話が及んだその時のこと。

 それまでジョニーの軽口に付き合っていたフェイトが、フィオレに話を振ってきた。

 

「昨晩はお見舞いもできず、大変失礼しました。お体の具合はいかがですか?」

「おかげ様で、動けるようにはなっています。ご心配どうも」

 

 隣に立つリアーナの視線に気付いていないわけもなかろうに、彼は笑顔で「それは何より」などと抜かしている。

 しかし、この気まずさもわずかなものであるはずだ。一同はこれから、トウケイ領を目指すのだから。

 ところが。

 

「あれ? お二人さん、下船しないの?」

「ええ。何のお力にもなれませんが、せめて皆さんのお見送りをと」

 

 フェイトの隣を陣取り、取った腕を片時も離さないリアーナがにっこりと微笑んだ。

 旦那はと言えば、表向き困ったようにしているものの口元は緩みっぱなしである。

 

「何ですか、あのバカップ……もとい、おしどり夫婦は」

「お前さん、つがいのオシドリが実はそんな仲睦まじくないと知ってて言ってないか?」

 

 実際のオシドリはそうだろうが、一応あの言葉はオシドリが夫婦寄り添って泳ぐ様を喩えて作られた言葉だ。

 寄り添う夫婦に対して間違っている言葉ではない。

 

「では、トウケイ領に向けて出発します」

 

 フェイトによる指揮のもと、船はゆるゆると港を離れた。

 此度の任務において、何回目か数えるのも嫌になってきた船旅の幕開けである。

 もしものとき用にと用意しておいたミントティーの茶葉をリオンに渡しておいたが、果たしてどうなっていることやら。

 きっと不機嫌だろうリオンやその八つ当たりで被害を被っているだろう一同を尻目に、フィオレは一人、甲板に佇んでいた。

 その手に楽器を、携えて。

 

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo──

 

 シストルを奏で、歌曲を口ずさむことで没頭し、一時的に考えることそのものを放棄していたフィオレは唐突にそれをやめた。

 悲しきかな、持ち前の感覚が他者の接近を鋭く感知したからである。

 楽器を後ろ手に持ち、くるりと振り返った。

 感じた気配通りの二人連れに対し、その場に跪く。

 そこに立っていたのは、本来こう接するべき二人だった。

 

「ご機嫌麗しく、お二方」

「あ……お邪魔でしたか?」

「そうかしこまらず、楽になさってください」

 

 バカップル……もといモリュウ領主本人からそれを言われ、素直に立ち上がる。

 他者との接触によりすっかり現実に戻ってきてしまったフィオレは、手持ち無沙汰にシストルを爪弾いた。

 

「この度はお忙しい中、船をお貸しくださりありがとうございます」

「いえ、今はこうでもしないとトウケイ領へは行けませんから」

 

 こうなると、イレーヌに行きの船だけ手配してもらったのが幸いだった。

 おそらくジョニーから一同の正体は明かされているだろうが、それでも堂々と他国の船籍が入った船の同道させるのは肩身が狭い。

 それはさておき、二人一緒に甲板へ出てきたとなるとやはりこの場で邪魔なのはフィオレだろう。

 名残惜しいが、今もあまりいい顔をしていないリアーナの表情から空気は読むべきだ。

 きびすを返して船内へ戻ろうとして、フィオレは立ち止まった。

 

「フィオレさん、でしたか。歌唱にとても秀でておられるのですね」

「お気に召していただけたのなら、幸いです。お耳汚し、失礼仕りました」

 

 まるでフィオレを引き止めるように、フェイトが話しかけてきたのである。

 どうでもいいが、彼は隣に立つ妻の顔を見ていないのだろうか。

 

「吟遊詩人の方、ですか?」

「いいえ。ジョニーから、私たちのことをお聞きではありませんか?」

「……ティベリウス大王に与するグレバム、なる者を追っている方々ということは承知しています」

 

 ジョニーに話した事情は伝わっているようだが、国際問題に発展しそうな一同の身分──特にリオンやフィオレに関してはお茶を濁しているようだ。

 いらないことを聞いたかもしれない。

 

「単なる趣味ですよ。吟遊詩人を名乗るなら、ジョニーのように派手な格好をしないと」

「はは、確かに。あれは派手ですね」

「派手というか奇抜というか。帽子の羽飾りなどは猫になつかれそうですが」

 

 緊急回避成功。しかし代わりに、リアーナの表情がどんどん暗くなりつつある。

 どうにかして彼女に話題を振ろうとするが、難しかった。何せ、共通する話題がジョニー関連くらいしかないのだ。

 若しくは、すでに存じている彼らの馴れ初めを聞くくらいか。

 しかしそれはエレノアが絡むにつき、あまり明るい話にはならないだろう。

 

「ジョニーの出で立ちは、昔からああなのですか?」

「……いえ。今から、四年ほど前ですね」

 

 そんなにおかしなことを聞いただろうか。答えたフェイトの表情が、目に見えてどんどん沈んでいく。

 咄嗟に原因を考えて──ふと、イスアード将軍のことを思い出した。

 彼がアクアヴェイルから亡命同然の形で国王の召喚を受けたのは、四年ほど前のことであるらしい。

 その時すでに、彼はフェイトとエレノアの関係、更にエレノアの最期を知っていた。

 ということは、ジョニーがあの格好を始めたのは、エレノアが亡くなってからのことだということか。

 これは、事情がわからなかったとはいえ失言に違いない。

 もう口は開かない方がいいかな、ときびすを返しかけた、その時。

 何の前兆もなく、船が進行方向へと傾いだ。

 

「きゃっ!」

「リアーナ!」

 

 咄嗟に平衡を保ったフィオレは、二人を置き去りに舳先へと駆けつけた。

 甲板に詰めていた水兵たちが群がる中、見やった先にいたのは。

 

「……タコ?」

 

 巨大な目玉をぎょろりと動かし、吸盤付にして骨があるとは思えない幾本もの足を熱烈に船体へ絡めている。

 否、絡んでいるだけではない。妙に船が傾ぐと思ったら、巨大な吸盤を駆使して甲板へ昇ろうとしているのだ。

 その大きさ、人間を丸かじりできるほどである。つまるところ。

 

「モ、モンスターだ!」

「落ち着いて! とりあえず、皆を呼んできてください!」

 

 その全容を、そして甲板に昇ってくるその様子を見てだろう。

 パニックを起こしかけた水兵に喝を入れて、フィオレは紫電を手に取った。

 とはいえ、あんな巨大生物を早々三枚におろすことはできないだろう。

 ならばディムロスの炎でこんがり焼き上げるもよし、クレメンテの力を借りて電撃を浴びせるなり、手段だけならいくらでもある。

 それまで時間を稼げばいいだけのことだ。

 恐れをなしたのか、指示を出されたことで正気に返ったか、あるいはこれ幸いと避難しているのか。

 異常を感じて集まってきた水兵たちは、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。

 だが、これで動きやすくなったのも事実である。当然、モリュウ領主夫妻も保護されていることだろう。

 ズルッ、ベタッ、と音を立てて乗り込んできた巨大生物に、軽く挨拶を試みる。

 

「天空を踊りし雨の友よ。我が敵をその眼で見据え、紫電の槌を振り下ろさん……」

 

 海の気配をたっぷりと孕んだ潮風に左手の甲に張り付いたレンズが反応し、第三音素(サードフォニム)に相当する晶力を引き寄せていく。

 やがて十分な晶力が集い、譜陣を展開させたフィオレはそのまま発動を促した。

 

「インディグネイト・ヴォルテックス!」

 

 帯電した嵐が大ダコを取り囲み、上空から降り注ぐ電撃の乱打が降り注ぐ。

 元来痛覚を備えないタコらしからぬ怯んだような仕草を見せた隙を乗じて、フィオレは突貫した。

 異物の接近を感じて、迫る吸盤付きの足に紫電を一閃する。

 レンズで強化されているとはいえ所詮タコの足、斬ることに特化にした刃物に敵うわけもない。

 本体から切り離されたそれは、甲板にビタビタとのたうち回った挙句動かなくなった。

 足を振り回されたら、後にここで戦うだろう前衛たちが苦労するのは目に見えている。

 足止めに専念するつもりだが、好機は逃さないつもりだった。

 覚えたのは痛覚か喪失感か、体同様巨大化した目玉がジロリ、とフィオレを映す。

 

「くっ!」

 

 複数の足がフィオレに迫り、紫電で薙ぎ払いながらもすべてを捌くことは敵わなかった。

 回避を続ける中、ふと視界に二人組が入る。

 ──あの船員ども。無能にも程がある。

 戦いに巻き込まれる心配こそなかったが、甲板上にはモリュウ領主夫妻が保護されることなく未だに佇んでいた。

 

「何をされているんです! 早く船内へ……!」

 

 言いかけて、彼らの表情に眼が行く。

 フェイトは驚愕で固まっており、リアーナはそんな夫の横顔を苦しそうに見つめながらも何かを訴えている。

 おそらくは避難を促しているのだろうが、肝心のフェイトが動かないのだろう。

 そういえば、先程。複数の足の襲撃から逃れるべく回避を続けていて、かわしきれなかった一撃に帽子を落としていた。

 すぐ回収こそしたものの、わずらわしかったために懐へ押し込んでいたのだが──

 そこへ。

 

「フィオレさん、大丈夫ですか!」

「うっわ、何よコレ!」

 

 船内へ続く階段より、スタンを先頭とする一同の姿が現れる。

 攻撃をしのぐ最中、フィオレが示した夫妻の姿をリオンが認め、ルーティとジョニーに何事かを告げる。

 彼らは素直に頷き、夫妻を速やかに船内へと避難させた。

 すっかり慣れたもので、スタンとマリーが自主的に前衛へと駆けつける。

 攻撃の手が緩んだところで、フィオレは下がった。

 

「リオン、前衛をお願いします。スタンはフィリアと一緒に、晶術を使ってください!」

「わかった」

「了解です!」

 

 リオンと入れ違いにスタンが下がり、すでに詠唱を始めているフィリアの傍で晶術発動を試みる。

 フィオレもまた駄目押しの一手を打つべく、降り注ぐ日差しへと手を掲げた。

 

『紅き流星は幾筋もの尾を引き、かの地へと降り注ぐ!』

『煌くは紫電の剣。其は鋭さを持て、天空より振りかざされん』

「遥か彼方の空へ我、招くは楽園を彩りし栄光。我が敵を葬り去れ、荒ぶる神の粛清を受けよ!」

 

 コアクリスタルはそれぞれ煌き、フィオレの足元で譜陣が展開する。

 頃合を見て前衛たちが対象から離れたのを合図とし、それぞれの術は一斉に降り注いだ。

 

「フィアフルフレア!」

「サンダーブレード!」

「アースガルズ・レイ!」

 

 炎塊がいくつも降り注ぎ、雷が乱舞し、とどめに超高熱の奔流をその身に受けた大タコはあえなく消滅した。

 

「目がチカチカする……」

「今のは豪勢だったわねー」

 

 炸裂する瞬間を見てしまったのかマリーが目をこすり、それまで船内に引っ込んでいたルーティが顔を出す。

 フィオレの素顔についてフェイトから何か言われてでもいるのだろうか。彼女や夫妻と共に船内へと入ったジョニーの顔はない。

 懐の帽子を引っ張り出して被り、フィオレはそれとなくルーティに話しかけた。

 

「ジョニーはどうかしたんですか?」

「なんかね、フェイトさんから『話がある』って連れてかれちゃったわよ。えらい剣幕だったけど、それがどうかした?」

「実は、先程戦闘中に帽子を外してしまいまして……」

「なるほどね。でもまあ、どうしようもないわよ。そんなの」

 

 なるようにしかならない、とルーティは言うものの、至極気まずい。

 今頃ジョニーが、どんな言い訳を重ねていることやら。

 流石に放っておくわけにも行かず、フィオレは紫電を納めて船内へと入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十六夜——静けさの先にて待つもの~これから毎日城を焼こうぜ?

 トウケイ領の城下町はそこそこ、さくさく城へ潜入します。
 ここでは何故か、出歩いている町民も見張りをしている兵士もいません。その理由はゲーム中明らかにはならなかったので、考察してみました。作中のフィオレの台詞です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 モリュウ領を出て、半日を過ぎた頃。

 一同を乗せた黒十字艦隊の船は、トウケイ領へと到着した。

 ──あの後。船内へと降りたフィオレは、船員たちからの聞き込みを経て船室の一室にて話していたフェイト、並びにジョニーを見つけて事の次第を説明している。

 フェイトは納得してくれたものの、やはり態度はぎこちなくなった。

 

「気にすんな。お前さんのせいじゃないさ」

「……はい」

 

 ジョニーにそう言われ、愚痴ってしまいたい己を抑えておざなりな礼を言う。

 誰が悪いわけでもないが、理不尽な扱いにフィオレとて、これが精一杯だった。

 おそらくそれに気付いてだろう。ジョニーは小さく息をついて、フィオレの帽子を取り上げた。

 

「……ジョニー?」

「なんだなんだ、しおらしい顔しやがって。フェイトにつれなくされたのが、そんなに落ち込むことか?」

「いいえ。そういう問題ではありません」

 

 確かに、ここまで来たからには彼の機嫌を損ねるとか、そういったことは問題ない。

 ただ、フィオレ自身の感情の問題だった。

 

「じゃあどういう問題なんだよ」

「極めて個人的な問題です」

 

 とはいえ、それを彼に話す気もなければ義務もない。

 あなたには関係ない、と喉元まで出てきた言葉を殺して、取られた帽子を取り返す。

 

「ところでジョニーは、トウケイ領へ赴いた経験がおありですか?」

「あー……ガキの時分に何回か行ったくらいで、そこまで詳しかねえな。精々城へはどうやって行くか、程度か」

「それは残念です」

 

 などと、今後のことを話し合っている内に船はトウケイ港へと入っている。

 いきなりモリュウの船が、しかも黒十字艦隊なる物々しい海軍仕様の船が入港したというのに、トウケイ港は静かなものだった。

 それもそのはず。港は閑散としているどころか無人で、誰一人として人の姿を確認できなかったからだ。

 

「これは……」

「戒厳令か何か敷かれてるんだろうな。薄気味悪ぃったらありゃしねえぜ」

 

 桟橋に船を止め、一同が下船する。タラップの上から、モリュウ領主夫妻が見送りに来ていた。

 

「我々はモリュウへ引き返し、増援を率いて戻ってくる。それまで時間を稼いでいてくれ」

「だったら急いだ方がいいぜ。俺たちがあっという間に倒しちまうかもしれんからな」

 

 それに、と言葉を続けたジョニーが不意にフィオレの肩を抱き寄せようとする。

 身を翻して逃れたフィオレの頭を鷲掴みつつ、ジョニーはにこやかに言ってのけた。

 

「こいつだっているしな。バティスタの時みたく、あっさりばっさりやっちまうかもしれんぜ?」

「……今すぐばっさりやられたいようですね」

 

 未だに頭を掴むジョニーの手首を払い、首根っこを掴んでツボを圧迫する。

 予想外の痛みに悲鳴を上げて逃げる彼に小さく苦笑しつつも、フェイトは続けた。

 

「それならそれで構わんさ。では」

「皆さん、どうかご無事で……!」

 

 再びフェイトの指揮により、船がトウケイを離れていく。

 それを見送り、ジョニーは珍しく語気を荒くして一同を鼓舞した。

 

「おそらく奴らは街の中心にあるトウケイ城にいるはずだ。ここまで来たら、もう小細工はいらん。一気に突破して、奴らをぶっ潰すぜ!」

「はい!」

「そうね。サクッと片付けちゃいましょ!」

 

 ジョニーの先導によって、港から街へと入る。

 モリュウ領と同じく、水路が張り巡らされた街並みだがやはり人気がなく、さながらゴーストタウンじみた雰囲気をかもしだしていた。

 

「この分だと、本当に正面突破ができそうだな。試してみるか」

 

 きょろ、と周囲を見回し、記憶を思い起こすようにしながら進んでいく。

 しばらく彼について歩くと、やがて大通りの向こうにそびえるモリュウ城によく似た外観の城がそびえていた。

 

「しっかし、見事なまでに誰もいないわね」

「住人どころか、衛兵さえいないのですね。一体何のつもりなのでしょう」

「無理やり勘ぐるなら──戦争準備、かもしれません」

 

 寂れた街並みを見回しながらぽつりと呟いたフィオレの一言に、一同はぎょっとした様子で彼女を注視した。

 

「戦争準備って……」

「モリュウ港でティベリウスとかいうのが何を言っていたのか、覚えていますか? こうやって他国どころか自国の流通をも妨げているということは、物資を備蓄しているのかもしれません」

 

 商いとは需要と供給が平衡であって初めて成立するものだ。

 需要ばかりが先立ち、供給が滞れば勿論破綻する。

 

「でも、こんな風に他の領土との貿易まで差し止めちゃったら備蓄も何もないじゃない。定期的に仕入れなきゃいつかは……」

「それだけ早期に仕掛けるつもりなのだとしたら、説明はつきます それに、自国がこんな状態で貿易なぞ続けようものなら情報駄々漏れでしょう」

 

 最も、兵士がいないのはこちらにとって有利なことだ。

 少なくともモリュウ領で起こった茶番を繰り返さなくて済む。

 セインガルドとの戦争勃発を示唆したせいだろうか、リオンの表情はひどく厳しいものになりつつあった。

 

「あくまで私の想像ですがね」

「わざわざ付け足さなくてもいい。というか、それ以外に考えられる理由がないだろうが」

「まだありますよ。ティベリウスがグレバムにだまされて奇行に走ってる、とか」

「もう少し現実的な理由はないのか」

 

 残念ながら、フィオレの中でそのようなものはない。

 真面目に考えてそれしか思いつかないのだ。

 

「例え私の想像が当たっていたとしても、ここでグレバムもろともティベリウスを討てば阻止は可能ですよ」

「……わかっている。みすみす逃す手はない」

 

 そこで、話題は自動的にティベリウスという人間自体を検証するものへと変化した。

 こうなると、住民から情報収集できないというのが悲しくて仕方ない。

 

「……しまったな。幽閉されてたから、気を使いすぎたか」

「?」

 

 唐突にぽそりと呟いた、その真意をジョニーに迫る。

 彼は後ろ頭をかきながら、驚きの情報をもたらした。

 

「ああ見えて、フェイトは結構な使い手でな。アクアヴェイル公国武道大会、なんてーのでティベリウスを下したことがあるんだよ」

「なるほど」

「ん、驚かねえな。知ってたのか?」

「初耳です。体捌きが素人のものじゃなかったから、それなりだろうなとは思っていましたが」

 

 しかし、確かにこれは痛い。

 一国の領主と切り結ぶ機会など早々なかっただろうから、そこまで有益な情報でないだろう。それでも、やはり悔やまれた。

 

「過ぎたことは仕方ないです。精々、悪知恵働かせましょうか」

 

 そうこうしている間に、水路を用いないルート──おそらく兵士の演習用通路だろう。

 だだっ広い橋の先を抜けて、一同はトウケイ城手前までやってきた。

 そのまま正門に向かおうとする一同についていくことなく、立ち止まって城を見上げる。

 身体をそらさなければ天辺が見えないほど、高い。この城をこれから昇らなければならないのかと思うと、それだけでしんどくなる。

 

「フィオレさん? どうかしたんですか」

「ねえ、リオン……様。グレバムもティベリウスも、別に殺害は構いませんよね?」

「それは、まあ……」

 

 いきなり何を言い出すのか、と言わんばかりの一同に対し、フィオレはひとつの提案をした。

 

「このお城、燃やしません?」

「「「はあ!?」」」

「ですから、彼らはおそらく城の中なのでしょう? 助け出さなければならない誰かがいるでもなし、ここで火を放てば城が全焼する頃すべて解決しますよ」

 

 土壁で燃えにくそうではあるが、木造だ。レンガ造りや石造りほど燃えないわけではない。

 そんなフィオレの提案に、一同はもちろん駄目出しをした。

 

「フィオレさん、放火は罪ですわ!」

「人殺しは罪じゃないんですか?」

 

 基本的な道徳を唱えるフィリアは、最も基本的な道徳をすでに破っていることを再認識させる。

 

「いくらなんでも、それは……」

「巡り巡って街に飛び火したらどうするんだ?」

「大丈夫ですよ。この城、堀に囲まれてるから延焼はしませんて」

 

 もちろん、フィオレは冗談交じりで……万が一賛同されたらラッキー、程度の意識で提案をしている。

 しかし、なかなか正論を取り出す人間がいない。

 ようやっとフィオレに提案を引っこめさせたのは、常識人の内に入るであろうスタンと、リオンだった。

 

「でもお城の中にも普通の人がいるかもしれないし、モリュウみたいに領主のやり方に反対して牢屋にいる人がいるかもしれません。やっぱり本人たちだけを懲らしめましょう」

「それに、グレバムの討伐はあくまで最終手段だ。もしも神の眼が見つからなかった場合、奴に居所を吐かせなければならん」

 

 それもそうだと、提案を取り下げて一同に続く。

 神の眼奪還に加え、何としてもセインガルド侵攻を阻止しなければと変な方向で意気込む少年の緊張を解せたならいいのだが。

 

『そんなに気負わないでください。私も可能な限り協力しますから』

 

 この一言で済んだ気遣いかもしれないが、こんなことを抜かすくらいならくだらない冗談でも考えたほうがましだった。

 そしてたやすく、トウケイ城への侵入を成功させる。が、すんなり進んだのはここまでだった。

 

「って、初っ端から何なのよコレ! ……きゃっ」

「餓狼弧月斬!」

 

 トウケイ城に、一歩足を踏み入れた途端。

 まるで示し合わせたかのように、種々多様な魔物が群れをなして襲い掛かってきたのだ。

 

「やっぱ、正面からってのは大胆すぎたか?」

「無駄口叩いてないで吟詠奏とやらを使え!」

 

 生意気にも武装した直立トカゲの吐き出す炎から逃れつつ棒手裏剣を放ち、中身が少なそうな脳天を穿つ。

 翼持つ小型の魔物を寸断し、中衛達の晶術が決め手となって魔物の一群は影も形もなくなった。

 

「いちいちこんなのに構っていたらキリがありません。これからはどうにかやり過ごしましょう」

 

 幸いレンズを呑んだ兵士自体は少ないらしく、ジョニーの吟詠奏が本来の意味で非常に有効だった。

 それからというもの、時折思い出したように襲いかかってくる兵士を捌くだけで事足りている。

 

「にしても、何でここに限って出てくるのが普通のモンスターなのかしらね?」

「好都合なんだ。気にすることでもないんでないかい?」

「……真面目に考えると、神の眼があるから、でしょうね。これまでオベロン社から奪ったレンズを使っているのでしょう」

 

 ここでジョニーが神の眼の詳細について尋ねてくるものの、それらはすべてフィリアが担当してくれている。

 それにしても、グレバム並びにティベリウス大王がどこにいるのか皆目検討がつかない。

 バティスタの時のように天守閣でふんぞり返っていてくれるとありがたいのだが、神の眼の傍にいるのだとしたら話は別だ。

 神の眼を探す手間が省けるのは嬉しいが、神の眼の全長は六メートルほど。

 相当の重量もあるだろうに、そんなものを天守閣に持ち込めるとは思えない。

 一応左手甲のレンズに気をかけておくものの、もし天守閣にて見つけたらどうやって持って帰ったものか。

 

「にしても、ここにも変な仕掛け満載なのね。なんでこんなもの仕掛けるのかしら?」

「……篭城用か、城内に放置した魔物が人の居住区域に侵入できないように、ではないかと」

 

 ジョニーの吟詠奏が効果を発揮する中、種々様々な仕掛けをどうにか解いて先へと進む。

 いくつもの階段を昇った先、一同は大広間へと差し掛かった。

 モリュウ城にて一同に提供された広間より尚広く、一階と中二階のそこかしこに扉が設置されている。

 外観を考えるにそれだけ分岐があるのも奇妙な話だが、更に奇妙さを引き立てているのは扉の脇に描かれた種々の動物だった。

 

「俺たちを分断するつもりなのかな……」

「こんな見え見えの手に誰が引っかかるか」

「これも仕掛けの一種だと思います」

 

 試しに手近な扉を開けて中を覗きこむも、内部は暗黒がわだかまり先は見通せない。

 同じように手近な扉に手をかけたフィリアだったが、彼女はノブに手をかけた時点で固まった。

 

「フィリア?」

「開きませんわ、こちらの扉。他は全部鍵がかかっているかもしれません」

 

 自分が開いた扉をそのまま、隣の扉を開けにかかるも確かに開かない。

 だが、フィオレが開けた扉が正解だと考えるのは早計だ。

 開いた扉を閉め、先程は開かなかった扉に手をかける。

 それまでビクともしなかった扉は、あっさりと開いた。

 

「ど、どうなってるのこれ!?」

「見ればわかるだろうが」

「ひとつ扉が開いていたら、他は開かない仕掛けなんですね。つまり、闇雲に進んでも意味はない、と」

 

 あえて適当な扉をくぐるのも手だが、待っていたのが生死に関わる罠では眼にも当てられない。

 やはりきちんと、頭は使わなければならないようだ。

 

「となると、考えられるのは描かれた動物との関連性ですね。えーと……」

「兎、馬、羊、牛、犬、鼠、猪、蛇……」

「あれはニワトリでしょうか? それと古代種のドラゴン? それから虎に、猿ですね」

 

 何か共通点があるのだろうが、何も思い浮かばない。

 比べるなら凶暴性や大きさ、あるいは寿命の長さだが比べられるのはそれだけではない。果たしてその中に、正解があるのか。

 こういう場合、一人で考えていても思いつきには限度がある。

 せっかく複数の人間がいるのだから、ここの発想を生かさない手はない。

 

「何だと思います? 正解の扉」

「そんなの決まってるじゃない。この中の仲間外れなんて、これしかいないでしょ」

 

 すでにルーティは検討をつけているらしく、てくてくとその扉まで歩み寄った。

 彼女が示したのは。

 

「この、ヘンテコリンのドラゴン! 古代種とかフィリアは言ってたけど、そもそも動物じゃないでしょ」

「確かにその通りなのですが、その……」

「発想が単純すぎる。それにこの仕掛けが魔物避けなのだとしたら、十二分の一の確立で突破されるぞ」

 

 確かにそれは、真っ先に思いついた可能性だ。

 ただ、リオンの言う通りあまりにもまんま過ぎるかな、と無意識に却下したのである。

 自分でもそう思ったのか、ルーティはぷう、と頬を膨らませた。

 

「じゃ、あんたはどれだと思うのよ?」

「それがわからないから立ち往生してるんじゃないか」

「偉そうに言うことじゃないわよ!」

 

 またもじゃれあいが勃発してしまったわけだが、放置して広間をくるりと見渡す。

 ルーティの言うことも最もだが、リオンの意見がひっかかった。

 

 魔物避けなのだとしたら、十二分の一の確率で侵入を許す。

 

 確かに、それでは魔物対策の意味がない。ならばいかにして、この仕掛けで目的を果たすのか。

 

「大体あんた、フィオレに頼り過ぎよ! 少しは上司らしく振舞ったら!?」

「僕以上にこいつに頼る貴様に言われる筋合いはない!」

 

 後ろでぎゃあぎゃあ喚く二人に一撃見舞いたいのを抑えながら、フィオレはひたすら広間を見やっていた。

 

「ホントに仲がいいんだから……」

「「どこが」」「だ!」「よ!」

「ハモりなさんな」

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十七夜——待ち受けるは別離


 トウケイ城内、先へ進むため仕掛けを解きにかかります。
 出会いあれば別れあり、生きていればいつかは死に。
 手の内にあったものは、いつのまにかポロポロと零れていく。
 それでも、この世には。絶対に無くならないものがあると思うのです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと思い立ち、手近な扉──虎の絵の扉を開く。

 相変わらず暗黒が揺蕩うその中に、フィオレは財布から取り出した貨幣を投げ入れた。

 

 ──チャリンッ

 

「10ガルドコイン!?」

 

 貨幣が床に転がる音を聞きつけ、真っ先に反応したのはルーティだった。

 リオンとじゃれあっていたのも忘れて、一目散に出入り口へと走る。

 その場でサーチガルドを行った彼女の手には、きらりと光る貨幣があった。

 

「見つけたっ♪」

 

 今度は扉を替え、再び貨幣投擲を試みる。

 またしても貨幣の転がる音が響き、「1ガルドコイン!?」と音で通貨の種類を判断したルーティがサーチガルドをするまでもなく、貨幣を発見している。

 

「すごい特技だな。音だけでガルドの種類がわかるんだ」

「そ、それより、スタンさん。何で扉の中に投げたガルドがそこに……」

「実に信じがたいことですが、空間が捻じ曲げられているんでしょうね」

 

 実際には何かのカラクリが働いているのだろうが、見ただけではこうとしか言えない。

 そんな中、自分もやってみようとでも思ったらしいジョニーがおもむろに扉を開く。

 そして、手の中のものを内部に投げ入れるも、何の音もしなかった。

 

「あれ?」

「っかしいな。確かに投げたんだが……」

 

 すっぽ抜けたか、と周囲を見回すジョニーと、探し物を手伝うスタンの間をすり抜けて扉の中を覗く。

 内部の様子はわからないが、この状況を打開するヒントがここにあった。

 

「虎穴に入らずんば、虎子を得ず──と言ったところでしょうか」

「フィオレさん?」

 

 ぽつりと呟いた一言にフィリアがいぶかしがるのを尻目に、フィオレは唐突に扉を潜り抜けた。

 一瞬の闇の向こうには、先程と変わらない光景が広がっている。

 ただし──足元にはジョニーが放ったと思しき貨幣が転がり、仲間達の姿はない。

 そこへ。

 

「おい、勝手な行動を取るな!」

「あんた、時々妙に大胆よね……」

 

 出入り口から次々と現われる仲間達を横目で確認し、先程くぐった扉に手をかける。

 しかし、鼠の描かれた扉はどこの扉が開かれているわけでもないのに、一向に開かなかった。

 

「不思議だな。部屋の先にまた同じ部屋があるぞ」

「あのガルドみたく、俺たちも元の部屋に戻されただけなんじゃ」

「いいえ。今、確実に先へ進みました」

 

 何を根拠に、と言わんばかりに胡散臭そうな目でこちらを見やるリオンを見下ろし、鼠の描かれた扉を示す。

 

「先程、私達はこの扉をくぐりました。そして今度は開かないんです。この中にある扉すべてを順番通りにくぐれば、必ずどこかに辿りつくでしょう」

「……眉唾だが、他にいい案があるわけでもない、か。それで、先程の茶番を繰り返すのか?」

「他に方法があるなら、私が教えていただきたい」

 

 これらの絵の共通点、及び順番をつけようにもしっくりくるものがないのだからしょうがない。

 とにかく一番初めが鼠だということは判明したのだ。ならば、体が小さい順で試してみようと鳥の扉に手をかけて。

 

「待て、次はそこじゃない」

 

 ジョニーに止められた。

 何か思いついたのかと尋ねれば、彼は大きく頷いている。

 

「なかなかシャレたことするねえ、敵さんも。こりゃアクアヴェイルの文化に通じてなきゃ到底わかりっこない」

「アクアヴェイルの文化……?」

 

 他国人である一同はおろか、そもそもこの世界の文化など一切知らないフィオレは首を傾げるしかない。

 そんな中、唯一書物での知識を有していたフィリアが勢いよく手を打ち鳴らした。

 

「ひょっとして、干支のことでしょうか? いえ、十二支でしたか……」

「どっちも正解だ。あれは呼び方がいくつかあるからな」

 

 とりあえず、何の話をしているのかを尋ねる。

 すると、ジョニーは妙に嬉しそうな笑顔で詳細を語ってくれた。

 

「時間や方位、それぞれに十一種の動物と幻獣──龍と呼ばれる古代種のドラゴンを当てはめて示すんだ。昔のアクアヴェイルではごく一般的に使っていてだな……」

「……えー、時刻や方角に動物などの名前を当てはめるんですね。それで、思い当たる共通点、あるいは法則などはございますか?」

 

 詳細を飛び越えて薀蓄を語り出すジョニーを制して、要点だけを求める。

 すると彼は、面白くもなさそうな表情を一瞬浮かべた。

 しかしそれは本当に一瞬の出来事。おもむろに楽器を取り出し、軽く爪弾く。

 すわ敵襲かと身構えかけるも、そうではないらしい。

 

「そう結論を急ぐなって。ちぃっとばかり聞きたいことがあるんだが……」

「フィリアは何か、知りませんか?」

 

 回れ右のち、ジョニーに背を向けてフィリアに尋ねにかかる。

 彼と接していて気付いたことだが、どうも彼は物事を回りくどく話すことを好む傾向にあるようだ。

 話し上手なのは吟遊詩人を自称する彼にとって都合がよいことなのだろうが、事は一刻を争う。ぐだぐだ話をするつもりなどは一切ない。

 しかし、彼女は申し訳なさそうに首を振った。

 

「ごめんなさい。ほとんどうろ覚えでして……」

「多少は覚えているんですね?」

「はい。はじめが鼠で、次が牛。その次が虎で、その……」

「焦らなくていいです。ゆっくり思い出していただければ」

 

 次なる牛の扉にジョニーの貨幣を投げ、戻ってこないことを確かめて次へ進む。

 同じ調子で虎の扉を潜り抜けると、フィリアは実に言いにくそうに次なる動物を言った。

 

「次は……その、多分兎だと思います」

「確か、ではなくて多分ですか?」

 

「はい。アクアヴェイル独特の言い回しで、ネ・ウシ・トラ・ウ・タツ・ミ・ウマ……というようなのです」

 この中で、頭に「ウ」がつくのは兎と馬。

 すでに馬はミとやらの後ろにあるため、そう思ったのだろう。

 兎の扉に貨幣を投げ、正解であると確信してから扉をくぐる。

 しかし、その先はどうにもならなかった。

 

「タツ、って何?」

「……フィリア。ウマの後に続く言い回しはわかりますか?」

「その先は……その……」

 

 覚えていないようだ。

 ちらり、とジョニーを見やるも、先程無視をしたためか、ふてくされた様子で、無言のまま一同について歩いている。

 動いているだけ、ましかもしれないが。

 

「ジョニーさん。フィオレさんに聞きたいことって、何ですか?」

「……ちょっとな」

 

 スタンが率先して彼の機嫌を直しにかかるものの、ジョニーはヘソを曲げたままだ。

 ないがしろにされたまま機嫌が直せないのは、一重に上流階級出身者の特徴なのか。

 

「……ジョニー。先程はすみませんでした。お詫びに、答えは教えてくださらなくて結構です」

 

 つれなくしたのは悪く思うが、だからといって彼が知りたがっていることを話す気はない。

 とにかくウマは除外されているのだ。

 開かない扉と馬の扉、それらを除外した残りの動物の絵を試そうと、フィオレが財布の紐を緩めると。

 

「……答えてくれたら許してやらないでもないぜ」

「別にいいです許してくれなくても。どうせこの件が済めば、二度とお会いすることもないでしょうし」

 

 ぼそ、と呟かれた一言をさらりと流し、試しにかかる。

 そこで、聞き逃せない一言があったのか、ジョニーは態度を改めて追求を仕掛けてきた。

 

「……二度と、会うことはない?」

「ええ。今のところアクアヴェイルには用事がありませんし、そもそも気安く遊びに来れるような場所ではありませんからね」

「……」

 

 羊の扉を開け、貨幣を投げる。

 とうとう出入り口に転がったジョニーの100ガルドコインをルーティが歓声を上げて拾おうとして、ジョニーが素早く回収した。

 

「……各国との、冷戦状態の話をしてるのか?」

「そんなところです。喧嘩別れしてしまうのは寂しいことですが、もうお会いすることがないなら好都合でしょう」

 

 犬の扉を開き、貨幣を投げる。

 今度こそ、フィオレの1ガルドを手に入れたルーティだったが、歓声は上がらなかった。

 確認作業をしているフィオレの背中を、ジョニーがひどく険しい目で睨んでいたからだ。

 

「紫電はそのまま持ち逃げする気かい?」

「この件が済んだらおかえしします。シデン領まで行くことはできないでしょうから、あなたに直接」

 

 絶句をさせるために言い放たれた辛辣な一言が、何の動揺もなく返される。

 何の痛痒も与えられなかったことに腹を立て──腹を立てた自分自身に嫌気が差しながら、淡々と確認作業を続けるフィオレのもとへと歩み寄った。

 足音か、気配か。ともかくそれを承知していたらしいフィオレが、ちらりと見やる。

 見下ろしたその顔は、相変わらず帽子で隠されていた。それを払いのけようとして。

 他ならぬ本人に、やんわりと拒まれる。

 

「故人は二度と戻りません。早めに忘れたほうがあなたのためですよ」

 

 エレノアと同じ顔をした人間が惜しくなったのか、と小声で囁かれ、言い草に怒りを覚えたジョニーだったが、怒りはすぐにしぼんで消えた。

 怒りを露にするよりも、建設的な言葉が浮かんだからだ。

 

「……もう二度と会うことはない、ってんなら。問題のことを俺に話してくれても支障はねえはずだが?」

「実にくだらないことです。でも、どうしようもないことなのだと思います」

 

 しつこく追求するジョニーから逃れるのは無駄だと思ったのか。フィオレは作業の手を止めて、彼に向き直った。

 

「誰かに間違えられるということは、自分を自分として見てもらえない、ということ。それを悲しく思った。それだけですよ」

 

 エレノア・リンドウなる女性に似ている。

 それは彼女を知る人々にとって、彼女を思い出さずにはいられない──つまりフィオレンシア・ネビリムという人間は蔑ろにされる。

 フィオレが目の前に立っていても、エレノアを知る人間はそれだけで彼女のことを思い出す。

 それは誰が悪いわけでもない。単なる偶然の産物だ。

 世の中には同じ顔の人間が三人はいるらしいし、それが別世界の人間なら尚更である。

 イスアード将軍からの情報で、それは覚悟していた。

 していたが──表に出してしまう程度には、気にしてしまったということである。

 

「さて、私は白状したのです。ご存知の情報を教えてくださると私の上司を怒らせずにすむのですが」

 

 ちら、と中二階からリオンを見やる。

 幸いまだ怒っていないようだが、これ以上引き伸ばしたら不機嫌になるのは確実だ。

 解答を得て、半ば気後れしていたようなジョニーは、はっ、と我に返った。

 

「あ、ああ。次は龍……古代種のドラゴンだな。その次が蛇だ」

「ふむふむ」

 

 念には念を入れて、貨幣を投げ入れながら先へ先へと進む。

 馬、羊と進んでいくうち、先頭のフィオレのすぐ後ろを行くジョニーがぽつりと呟いた。

 

「本当に、二度と立ち寄らないつもりか?」

「緊急の用事が出来ない限りはね。エレノアに似た顔の私には過ごしにくい土地ですし」

 

 何を真面目に尋ねるんだ、と言わんばかりの態度である。

 努めてそのように対応したフィオレではあったが、彼はそうか、と呟いたきり無言のままだった。

 気にはなるものの、すぐにその件は思考から排除される。

 猿、鳥、犬、イ──猪の扉を順繰りにくぐったその先。

 天守閣へと通じるだろう階段が、そびえていたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十八夜——頂上決戦~亀の甲より年の功? 寄る年波に勝てる奴なんていねえんだよおっ!(血涙)

 アクアヴェイル編もいよいよ大詰め。
 この地の総大将・多分エレノアを殺した人、そしてグレバムのマリオネット。
 アクアヴェイル大王ことティベリウスとの開戦勃発です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そびえる階段を上り詰めた先の、天守閣。

 据えられた玉座に、モリュウ港で一度見えたティベリウスの姿があった。

 その傍に佇む、髪を後ろへと梳かしつけた法衣姿の男も。

 

「何者だ!」

 

 彼らを護る衛兵らが誰何の声を上げるも、こめられた気合は無残に破壊された。

 そう、さっきまで機嫌が悪かったはずのこの男に。

 

「へへーん。世直しジョニー、ここに見参!」

「シデンの三男坊かっ!」

 

 ジョニーの口上を聞いた直後、フィオレは敵ながら大王を尊敬しかけた。

 何故なら、あのふざけた文言を聞いても動揺しか見せなかったからである。

 フィオレはおろか一同など、ほとんど脱力しかかっているというのに。

 

「んもう、締まらないわね!」

「へへっ、悪ぃ悪ぃ……」

「グレバム、見つけましたわ!」

 

 ルーティの叱咤にジョニーが悪びれもせず答えるのも気にした様子もなく、フィリアがついにその名を叫ぶ。

 その視線が玉座の隣にあるということは。

 

「あれがグレバムですか……」

「フィリア、お前が何故!?」

「すべてはアタモニの思し召し……」

「ティベリウス大王、奴らを!」

 

 フィリアの説法などすでに聞いていないグレバムは、すぐさま玉座の大王にこちらの処理を申し出ている。

 

「分かっている。任せておけ」

 

 どうやら大王は協力者どころか、ほとんど傀儡扱いのようだ。

 どのような事情が通達されているのやら、彼は衛兵を召集するどころか自分が玉座から立ち上がったのである。

 そして、やおら野太刀を引き抜いたかと思うと吼えた。

 

「刀の錆にしてくれるわ!」

「話し合いの余地も、なさそうですね……」

 

 ともあれ、そっちがその気ならば遠慮することはない。

 左右に控えていた衛兵が大王の盾になろうとしてか、飛び出してきたところを一閃のもとに仕留める。

 刀の正体を見切るなり、ティベリウスは眦を吊り上げた。

 

「紫電だと……貴様、さてはモリュウ港での不届き者か!」

「ほう、覚えておいでですか。どうやら耄碌はしていないようですね」

 

 怒声は確かに耳に痛いが、それだけだ。

 恫喝がこちらに通じない以上、煽れる怒りは煽っておくことにする。

 

「無礼者が……!」

「私が無礼者ならあなたは好色漢ですか? そのナリで一回り以上下の女性を──しかも次期領主の女をモノにしようとなど、お盛んなことで」

 

 紫電の血糊を払い、小ばかにするように肩をすくめてみせた。

 二の句が告げられないことをいいことに、挑発を続ける。

 

「いくら無理やり相手を作ったところで、股間のものが役立たずでは意味がないでしょうに。挙句死なれているのですから、救いようがありませんね」

「……っ、女子供の分際で、この俺になんたる口を……!」

「無礼者ですもの、仕方がありません。それに、私の目的はあくまでグレバムの方なんです。三下は引っ込んでいてもらえません? お呼びでないんですよ」

「おのれ愚弄するか! 我が奥義、受けてみよ!」

 

 やおら羽織の袖から両腕を引き抜いたかと思うと、歳の割に筋骨隆々とした上半身があらわとなった。

 そのため、反射的にノイシュタットチャンピオンを思い出してしまった自分に嫌気が差しつつ、相手の出方を見る。

 

「斬崩剣!」

 

 構えられた野太刀が、大きさを無視した素早さで振るわれる。瞬く間に襲いくる剣圧に対し、フィオレは紫電を冷静に操った。

 計六度の斬撃を凌ぎ、一息つく。

 

「奥義とか抜かした割には、全っ然大したことありませんね」

 

 干からびても、否腐っても刀の使い手ということか。

 繰り出される剣技はキレがあり、動体視力に見合った身体能力がなければ回避どころか防御も厳しい。

 つまりこの戦い、バティスタ戦と同じく普段の前衛二人を前へ出すわけにはいかなかった。

 一方、自分の奥義をけなされたティベリウス大王は何故か豪儀な笑みを浮かべている。

 

「でかいクチを叩くだけはある。小娘、名を覚えておいてやろう」

「あなたに名乗る名など持ち合わせておりません」

 

 ついでにそんな、上から目線で言われても腹が立つだけだ。

 奥義が完全に捌かれてもこんな余裕があるということは、残念なことにフィオレの挑発は効力がなかったのだろう。

 ジョニーの口上といい、フィオレの挑発といい。彼のスルースキルは敵ながら尊敬に値するのかもしれない。

 そんなことはさておき。

 

「言うではないか。小娘の分際で!」

「今の内に嘆きなさい、あなたはその小娘どもに敗北するのですから!」

 

 信じられない加速を見せて迫る野太刀を受け流し、一見隙のない体捌きの流れからどうにか綻びを見つけては攻勢に転ずる。

 どうやらその肉体美は見せかけではないらしく、一撃一撃がかなり重い。

 ルーティならばともかく、剣技に精通していないフィリアやジョニーに接敵されたら、命はないだろう。

 そして、前衛や遊撃手たちに任せようものなら守備の綻びに必ず目をつけられる……

 

「どうした、俺を倒すのではないのか?」

「獅子戦吼!」

 

 鍔競り合う最中、一瞬の隙を見つけて獅子の雄叫びにも似た放出型の闘気をぶつける。

 直撃こそしたものの、本来対象を吹き飛ばすその技は大王を三歩ほど後退させただけにとどまった。

 やはり、刀の使い手相手にはあまり通用しない。

 フィオレがそうであるように、刀の使い手は総じて闘気や剣気に属する力のことを知っている。扱い方も、それが己に向けられた際の対処法も。

 しかし、体勢が崩れたのは事実。それを好機と見たスタンが、一挙に走り出た。

 

「ちょっと待ったスタ……」

「虎牙破──!」

「小賢しい!」

 

 止める暇もあらばこそ。

 一気に勝負を決めようとしたらしいスタンだったが、あっという間に体勢を立て直したティベリウスの奥義、斬崩剣を受け損ねて負傷をしている。

 幸い、当たり所は悪くなかったようだが……

 

「ぐああっ!」

「控えよ下郎! この太刀筋すら見抜けぬ者と交わす刃など、持ち合わせて……」

「余所見とは、随分余裕ことで!」

 

 本来ならば声などかけず不意討ちするところ、相手の注意を引く意味を込めて紫電を振るう。

 目論見通り、ティベリウスは対象を即座に切り替えてフィオレの剣戟に対抗した。

 

「ぬるいわっ!」

「……っと」

 

 スタンがマリーによって回収され、ルーティの治癒が発動したのを確認する。

 直後、ティベリウスの猛攻がフィオレを襲った。

 冷静に捌いていたつもりが、先程の怒りをまだ引きずっているのか更に重くなった一撃に体勢が崩れる。

 好機とばかり、更なる奥義が繰り出された。

 

「斬光剣!」

 

 野太刀の一振りが肥大化した剣圧を発生させ、それがかまいたちの如く迫る。

 またも初見の奥義に対し、回避を徹するあまりティベリウス本人の剣戟対策がおろそかとなっていた。

 

「もらった!」

 

 もう気にしてなどいられない。身を沈め、前転するように連撃から逃れる。

 当然外れた帽子を、ティベリウスの動きに注意しつつ拾い上げた。

 その間の大王と言えば──実にマヌケな顔をしている。幽霊を見たような、といった形容がふさわしい。

 束の間ではなかったものの、彼の硬直はそこまで長くはなかった。

 やがて口元を蛇のようにうねらせ、ティベリウスが嘲笑う。

 

「その容姿……リンドウ家の縁者か。エレノアの敵討ちか?」

「違います無関係です。敵討ちなら多分ジョニーが」

「くっくっくっ、リンドウ家にこんな娘がいたとは知らなんだ。紫電をその身に携えるとは都合のいい。もろとも我が物にしてくれるわ!」

「近づくなこのヒヒジジイ!」

 

 そして、人の話を聞け。

 紫電を振りかざして牽制し、帽子を懐へ押し込む。

 そこへ、おそらく帽子が取れた辺りから詠唱していたのだろう。

 リオンの指示で後衛に徹していた一同の遠距離攻撃が一斉に飛んだ。

 

「アイシクル!」

「ファイアストーム!」

 

 無数の氷柱がティベリウス目がけて発生する中、火炎嵐が氷柱を溶かして霧を発生する。

 そこへ。

 

「剛・魔神剣!」

「プレス!」

 

 マリーの遠距離攻撃、更にリオンによる頭上からの巨石落下。

 煙幕のせいでティベリウスの状態すらもわからない中。

 とどめは彼女だった。

 

「フィオレ、下がっとけ!」

「行きます! ツインボム!」

 

 ジョニーの指示に従った傍から、フラスコがダブルで投げつけられ大爆発を引き起こす。

 こっそりシルフィスティアに頼んで、霧と爆発による土埃を払ってもらうと、そこにあったのは遠距離による総攻撃をその身に受けて倒れ伏したティベリウスの姿だった。

 虫の息ではあるものの、どうして五体満足でいられるのか。不思議でならない。

 

「フィオレさんをモノにするだなんて、万死に値しますわ!」

「確かにな。モノにしようとしてやつざきにされるのがオチだ」

 

 リオンの暴言にデコピンを見舞っている間に、ジョニーは敢然と玉座の前にて伏すティベリウスへ歩み寄った。

 

「おのれ……」

「お前に追われ、玉座を失った親父、そして傷心のままに死んでいったエレノア……己の悪事の代償を今、その身に受けるがいい!」

 

 彼としては至極真面目なことを言っていると思う。しかし、今しがたそれを受けきった気がするのは気のせいか。

 所詮他人事につき、元はジョニーの父が大王だったこと以外特に思うこともなかった。

 そこで、ふと気付く。

 もともとの目的に関連する人間が、どこにもいないことを。

 

「待て、グレバムはどこだ?」

「いなくなってる!」

 

 どうやら、戦闘中にとんずらされてしまったようだ。

 そこに、突如として轟音が響き渡った。

 この音は、まさか。

 

「なんでしょう、あの音は?」

「外よ!」

「待て、こっちだ」

 

 きびすを返して窓を捜そうとするルーティを制したのは、ジョニーである。

 彼の先導に従い、玉座後ろの扉を出た先は物見台となっていた。

 眼下に広がるはトウケイの街並みであり、誰一人として見受けられなかったはずの城下町は数十人単位の人間がいるように見える。

 だが、今はそんなことに気を取られている場合ではなかった。何故なら。

 

「逃げた!?」

「戻って来なさいよ、卑怯じゃないの!」

 

 そう。悠然と翼を広げた飛行竜が、トウケイの空を滑空している。

 そして間もなく、大空の彼方へと飛び去った。

 

「くそっ、せっかく追い詰めたっていうのに……」

「まだ手はある」

 

 スタンの悪態に、リオンがぽつりと呟いてきびすを返す。無論、ティベリウスから聞き出すつもりなのだろう。

 それに続いて、フィオレもまたきびすを返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十九夜——決着、そして離別

 アクアヴェイル編・トウケイ領制覇。
 ティベリウスは撃破したものの、肝心要の大本命にはまんまと逃げられ。
 一同はグレバムを追うべく、再び追跡行へと戻ります。
 どうでもいい話ですが、ティベリウスは何故グレバムの行き先を知っていたのでしょうか? 
「こんどファンダリア行くよー」「いてらー」という会話でも交わしていたんですかねえ。


 

 

 

 

 

 

 

 玉座へと戻れば、彼は早速尋問を試みていた。

 

「おい、グレバムはどこへ逃げた?」

「知らん……と言いたいところだが、もはや俺には関係ない……」

 

 すでに己の死期を悟ったか、ティベリウスは思いのほか素直に吐いた。

 息も絶え絶えに、グレバムの行き先がファンダリアであることを告げる。

 

「ファンダリアだと?」

「ふふふふふ……謀られたわ。奴め、はなから俺を捨て石にするつもりだったか」

 

 リオンの言葉も聞いていない様子で、自嘲気味にそう零した。

 今更ながら気付いても、もう遅い。

 まんまとグレバムの傀儡となっていた男を見下ろし、ジョニーは苦々しく吐き捨てた。

 

「……こんな男が、アクアヴェイルの大王か! ザマねぇな、ティベリウス!」

「道化のジョニーとはよく言ったものだな。この俺も、まんまと一杯食わされたわけだ」

「親父を蹴落として、この程度とはな……失望したぜ」

 

 詳細はわからない。

 だが、ジョニーの父から大王の座を奪ったティベリウスも、当初はジョニーたちシデンの人間による報復の気配がないか、動向を探っていたのだろう。

 それがいつしか、気にかけることも忘れていたという辺りだろうか。

 

「何とでも言うがいい。奴の、神の眼の力を利用しているつもりで、その実利用されていたのは俺の方だったようだ」

「セインガルド侵攻などという、夢物語に踊らされやがって!」

 

 これまで溜めてきた感情の吐露だろう。

 悪し様にティベリウスを罵るジョニーに対し、その言葉を受け入れていたティベリウスが初めて、否定を口にした。

 

「夢物語? ……違うな」

「なに?」

「これは近い将来にやってくる現実だ。暴走する悪魔を食い止められるか? セインガルドの少年剣士よ」

 

 どうやらバティスタは、フィリアのこと以外の一同の特徴を──ひいては、どこから追っ手が派遣されているのかを、グレバムに報告していたらしい。

 そうでなければ、ティベリウスがリオンの存在を知っている理由にはならない。

 

「奴はすべてを巻き込み、破壊し、食らい尽くすぞ」

「……黙れ」

 

 虫の息のくせに、セインガルド侵攻というくだりで顔色を変えてしまったリオンには気付いたらしい。

 ふざけたことを抜かすな、と言わんばかりにシャルティエの柄に手をかける彼にまるで頓着せず、ティベリウスは愉快そうに嘲笑した。

 

「たとえ俺の命がここで尽きようと、セインガルドもすぐ後を追うことになる。グレバムと神の眼によってな! くははははは……」

「黙れ下衆野郎!」

 

 ──セインガルドには、彼の愛する女性が帰りを待っている。

 そのセインガルドが蹂躙されるだろう、というのは、たとえ死に損ないの妄言であったとしても、許し難く聞き流すこともできなかったのだろう。

 少年は普段使い慣れない荒々しい言葉でティベリウスに怒鳴りつけた後、ついにシャルティエを抜いた。

 

「ぐぁーっ!」

「リオン! お前、何てことを……」

 

 スタンの言葉に、リオンは我に返った様子で己の愛剣を見下ろしている。

 付着した血糊を見て、絶命しているティベリウスを見、そして彼はバツが悪そうにジョニーを見やった。

 

「悪いな、ジョニー。お前の獲物だったな……」

「いいってことよ。手間が省けたぜ」

 

 スタンが言ったのはきっとそういう意味ではないのだろうが、今回ばかりは何も言えない。

 心に決めた誰かを護ることは、フィオレも同じように望むことだ。その想いを、否定することはできなかった。

 そこへ。

 

「ジョニー、無事か!」

 

 階段を駆け上る音がしたかと思うと、護衛を何人か引き連れたフェイトが、自身も武装をして現われた。

 流石に危険だと思ったのか、リアーナの姿はない。

 そして、息を引き取ったティベリウスの亡骸を前に息を呑んでいる。

 

「よう、遅かったじゃないか。もう終わっちまった後さ」

「倒したのか、奴を……」

 

 正確には「殺した」だが、訂正をする気にもなれなかった。

 婚約者の仇を前にして心中穏やかではなかろうに、フェイトは冷静なものである。

 そう思ったフィオレだったが、次なる会話を聞いて考えを改めた。

 

「ああ。……これでやっと、エレノアも浮かばれるさ」

「そうか……」

 

 互いに思うことがあるのだろう。冥福を願うように沈黙が漂った。

 そんな中、非常に言いにくい事の顛末を語ったのは。

 

「グレバムが神の眼を持って、飛行竜でファンダリアへ逃げました」

「なんですって……」

 

 スタンの言葉に、フェイトは驚愕も露に絶句した。

 神の眼のこと、飛行竜のことを知っているようだが、果たしてそれらがセインガルド所有のものであったことも彼はご存知なのだろうか。

 詳細な説明を省き、リオンが淡々と自分たちの今後の動向を告げた。

 

「僕たちは奴の後を追う」

「わかりました。では、アクアヴェイルが誇る黒十字艦隊でファンダリアまでお送りしましょう」

「ありがとうございます。助かります」

「なに。この程度のことしかできなくて申し訳ない」

 

 話が早くて助かる。

 一応トウケイ領の様子を尋ねてみると、ただいまモリュウ領より連れてきた人材によって鋭意対応中らしい。

 フェイトとしては民衆を味方につけてからティベリウスに挑むつもりだったようだが、これならすぐに街としての機能を取り戻すだろう。

 護衛の何人かにティベリウス討伐の結果、並びにファンダリアへの出港準備を申し付けてフェイトはおもむろにジョニーへ話題を振った。

 

「おい、ジョニー。お前も一緒に行くのか?」

「いや、俺はここに残る」

「ジョニーさん!?」

 

 スタンは驚いたように彼を見やっているものの、ジョニーにしてみればこれが当たり前だ。

 なぜなら彼はモリュウ城での借りと、ティベリウス討伐のため一同に同行したのだから。

 

「……行くと言ったり、残ると言ったり。忙しい方ですねえ」

「そこ、茶化すな。悪いな、スタン。俺にはある目標ができちまってな……」

「目標?」

「今回の事件をネタに、セインガルドとの冷戦状態を解く。最終目的は国交正常化だ。飛行竜やら神の眼やら、管理をしていたくせに悪用されてるたぁどーゆーこったと責任を追及すれば、少しは取引材料になるだろ」

「……そのやり方が正しいかどうかはわからんが、それにはまずアクアヴェイルを統一しなければならないぞ」

 

 フェイトの的確な突っ込みに、ジョニーは事も無げに頷いた。

 単なる思いつき、ではないらしい。

 

「まあ、そんなわけで今は保留だけどな。この惨状を見ちまった以上、今ここでアクアヴェイルを出ては行けない……ってことにでもしとこうか」

「だが、そうなるとお前……」

「私は支持しますよ。一領主のご子息として、あなたにしかできないこともあるでしょう。そしてここに、セインガルド側の理解者もいることですしね」

 

 フェイトが何か言いかけるのを制して、リオンの肩に手をやり考えに賛同する。

 そのこと自体に一切触れない代わり、否定もしなかったリオンはその手を払いのけた。

 

「心配するな。お前がいようがいまいが、僕達はグレバムを倒す」

「そう言ってくれると思ったよ。ま、あまり役には立てなかったが俺の歌が聞きたくなったらいつでも寄ってくれや」

 

 そうそう実現できることではないのだが、湿っぽい別れは好まないのだろう。

 その気持ちに応えて頷けば、彼はニカッと笑って見せた。

 

「それまで、ぐっばいだぜ」

「では、港の方へ。少し準備に時間がかかりますので、乗船してお待ちください」

 

 そう言ってフェイトが先導を始めた際、ジョニーを見やる。

 ここで別れるつもりなのだろうか。彼はティベリウスの亡骸を見下ろしたまま、まんじりとも動かなかった。

 やはり、こちらから促すべきか。

 

「フィオレ? どうかしたの」

「──個人的なことで、ジョニーに話があります。先に行っていてください」

 

 その言葉にジョニーはちらりとフィオレを見やり、ルーティは……何ともいえない笑みを浮かべている。

 あえて喩えるなら、やり手ババアのそれか。

 

「ルーティ?」

「え? うん、わかった。港で待ってるわね」

 

 ホラホラ行くよ! とフェイトすらもどやしつけて階段を下りていく。が、一向に扉の開閉音は聞こえない。

 それどころか。

 

「ルーティ、盗み聞きなんて悪趣味だぞ!」

「なによ、うっさいわねえ。じゃああんた達先に行ったらいいじゃない」

「私は興味あるな。リオンは行かないのか?」

「恥ずかしながら、わたくしも少し興味がありまして……」

 

 などなど。

 声量こそ小さめだが、それなりに聴覚の性能に恵まれているフィオレと、吟遊詩人という音を扱ってナンボの人間に聞き取れないほどではない。

 

「あいつら、丸聞こえだっつーの」

 

 唇を尖らせるジョニーに対し、フィオレはただ控えめな笑みを零すばかりだ。

 フェイトが来た時点で帽子を装着している彼女の口元しか見えないが、よく似た顔を知っているせいか、容易にその表情を想像できる。

 

「場所移すか? 展望台なら……」

「いいえ。皆に知られて困ることではありませんから」

 

 どちらかといえば、認識しておいてくれたほうがいいかもしれない。

 ところが何故か、それを聞いてジョニーは短い口笛を吹いた。

 

「おっ、大胆だねえ。だがそれも悪かねえ」

「……大胆? 悪くない? 何がでしょう」

「ん?」

 

 奇妙な言い回しに言及するも、彼は何故フィオレが困惑しているのかもわかっていない。

 どうやら、相互の認識に誤解が生じているようだ。

 

「互いに勘違いしている可能性大です。率直に言いましょう」

「あ、ああ」

「この度の同行、及び協力に深く感謝します。あなたがいなければ、私たちは事を運ぶのに更なる苦難を強いられていたことでしょう」

 

 帽子を取り、大きく頭を下げる。

 そこへ。

 

「何? これまでのお礼? そんなのあたしたちの前でしたっていいのに」

「しっ、聞こえるぞ」

「聞こえてるんですけどねえ」

 

 ぽつりと呟くも、これで終わったわけではない。

 改めて告げられた──しかし考えてみれば誰一人としてきちんと礼は言っていない──感謝を聞いて、ジョニーは気が抜けたように頭をかいた。

 

「あー、まあ、気にすんな。ギブアンドテイクってことで、俺も大分助けられたしな」

「それと、これが一番重要なことなのですが」

 

 言いながら、袴の帯に手をかける。そこで、ジョニーの喉がごくりと鳴った。

 

「ジョニー?」

「ああ、何でもない。続けてくれ」

 

 袴の剣帯を解き、紫電を手に取る。カムフラージュに巻いておいた布を外せば、鞘に施された緻密な装飾が露となった。

 本来の姿たる紫電を愛しげに見つめて、名残惜しげに差し出す。

 

「これまで、あなたの家の家宝は幾度となく私の力となってくれました。今度は正当な継承者たる、シデンの血脈を護ってくださるよう、願っていますよ」

 

 ──そう。ジョニーに話というのは、紫電返還の件だった。

 ここへ来る最中確かに伝えたはずだが、忘れていたようなのでこちらから持ち出したのである。

 彼が忘れているのをいいことにそのまま持ち逃げしてやろうか、と思ったのは、内緒だ。

 この後は、この街で新たな武器を求める予定である。

 急ぐ旅だが、それ以外にも買い出しなど準備をしなければならないから同じことだ。

 

「なぁんだ、そういうことだったの? とうとうフィオレに春が来ると思ったのに、期待して損しちゃった」

「お前、何から何まで勝手なことを……「さてと。バレる前に退散たいさーん」

「あ、ルーティさん!」

 

 今度こそ扉の開く音が聞こえて、人の気配がなくなる。

 ジョニーに紫電を差し出したまま、フィオレはポツリと呟いた。

 

「何か勘違いしていたみたいですね、特にルーティ。私が愛の告白をするとでも思ったのでしょうか」

「……あー。まったく、だなー」

「仮にも一領主のご子息を恋愛対象にするほど図々しくありませんよ。それで、そろそろ……」

 

 この後のこともあるので受け取ってもらえないかと打診したところ、ジョニーはひょいと紫電に手を伸ばした。

 これまで愛用していた刀が手元からなくなる。これで正当な所有者の元に返るのだからと、寂寥の念を押し殺した。

 そのまま、手を離そうとして。

 

 ぐいっ

 

「!?」

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十夜——別離と船旅と帽子

アクアヴェイル編・しゅーりょー。粛々とファンダリア編へと移行します。


 

 

 

 

 

 

 

 紫電を掴むかと思われたジョニーの手が、差し出していたフィオレの腕を掴む。

 意表を突かれたその瞬間に腕を引かれ、有無を言わさず抱き寄せられた。はずみで取り落としそうになった紫電を慌てて握り直す代償として、ジョニーの胸の中へ収まる羽目となる。

 

「ぐぇっ」

「……色気がねえなあ」

 

 咄嗟に振りほどこうともがいたものの、がっちり抱きしめられてしまい身動きが取れない。

 

「……あの、ジョニー」

「んー?」

「これは一体何の真似」

「いやなに、別れのハグって奴さ。元気でな。一緒に旅ができて、楽しかったぜ」

 

 とか何とか彼はほざくものの、いつまで経っても解放される気配がない。ともすれば紅潮しそうな頰を、震えそうになる身体を叱咤して、努めて平静を演ずる。

 怖いわけではないが、非常に、気恥ずかしい。皆撤収済みでよかったと、フィオレは心から安堵した。

 

「……っ」

「そう嫌がるなよ。潔癖症なのか?」

「いえ、そういうわけでは」

「じゃあ構わないよな」

 

 こういった時、男と女の歴然たる力の差を痛感する。

 もしも敵対、あるいは嫌悪を持って接する相手ならば持ちうるすべてを以ってして徹底抗戦をするのに、ジョニーはその範疇に入らないのだ。もしこれをヒューゴにやられたら、フィオレは何か考える余地もなく刃物を手にして徹底抗戦の構えをとっていたことだろう。

 その事実が、今はもどかしい。

 こうなったら彼が満足するまで我慢するしかないか、と諦めかけ、急に頭へ妙な感覚を覚える。

 気付けば帽子は取り払われ、ジョニーはフィオレの髪に顔を埋めていた。

 

「人の頭のニオイかいで楽しいですか?」

「頭じゃなくて、髪な。にしても冷静だなお前さん。こーいう時はちっとくらいドキッとしたってバチは当たらんぜ」

 

 鼓動の話をしているなら、実はとっくにフル稼働している。普段より早い脈を打つ心臓の気配を悟られていないのは幸いだった。

 しかし、今の言い草は奇妙である。

 

「バチが当たらない、というのは?」

「そのまんまの意味さ」

 

 わけがわからない。

 ただ、それを問い質すのは何故かはばかられた。

 知りたいが怖いような、それ以上踏み込んだら底なし沼にはまりそうな……

 

「──そろそろ、怒ってもいいですよね」

「わかった。俺が悪かった」

 

 声音が豹変したことで、いよいよフィオレの機嫌を損ねたと判断したのだろう。それまでの態度を翻し、ジョニーは緩やかに拘束、否抱擁を解いた。

 間合いを取りつつ帽子を拾い上げようとして、ジョニーに先を越される。

 キャスケットを片手で弄びつつ、彼はフィオレの顔を見つめていた。

 

「何ですか?」

「お前さん、今ので何とも思わなかったのか?」

「お別れのハグに、一体何を思わなければならないのですか」

 

 もう会うこともないだろう、と寂寥の念を覚えればいいのだろうか。

 困惑を隠さないフィオレの解答に、ジョニーは盛大なため息をついて肩を落とした。

 見ていて妙に腹の立つそのため息は何なのかと、今度こそ問いかけようとして。

 

「決めた。今のハグで気分を悪くさせたのと、これまでエレノアの面影を勝手に重ねて悪かった」

「へ?」

 

 会話の運びにまったくついていけず、フィオレはただ間抜けた音を洩らす。

 やっぱり重ねていたのか……とちょっぴりイラッとしたのはこれよりしばらく経ってからのこと。今はただただ、首を傾げることしかできない。

 それすらも気にした様子はなく、ジョニーは驚くべき一言を放った。

 

「その詫びに、紫電はしばらく貸しとくぜ。まだ必要だろ? グレバムとかいうのを追いかけにゃならねえんだから」

「ジョニー……」

「貸すだけだからな。ちゃんと返しに来いよ? 持ち逃げした日にゃ、地の果てまで追いかけてとっ捕まえてやるからな」

 

 ほれ、と帽子を渡される。

 それを受け取りつつも、フィオレはその申し出に否を唱えることはしなかった。

 対グレバム戦において馴染んだ武器があることは、非常に心強いから。

 

「──お気遣い、感謝します。もう一度お会いしましょう……私が生きていたら」

「おいおい。冗談でもそういうことを抜かすもんじゃねえよ」

「生きていれば必ず嘘をつきますから、せめて必要のない時くらい誠実でありたいんです。でも、紫電だけは必ずお返ししますよ。これだけはお約束します」

 

 紫電を剣帯へ戻し、帽子を被る。

 抱き寄せられた際、わずかに崩れた胸元や襟を直し、フィオレはそっと右の手を差し出した。

 

「お元気で。ご同輩」

「お前さんもな」

 

 しっかりと交わした握手は、ほんの一瞬のこと。

 きびすを返し、階段を下りて扉をくぐる。その間、フィオレは一度たりとも振り返らなかった。

 片時も離れないジョニーの視線を、何故だか見てはいけない気がしたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フィオレが一同と合流したのは、それから少し後のこと。

 先にトウケイ城から出た一同は、一度は港に戻ったものの、ファンダリアへ行く準備に相応の時間がかかるとの通達を受けて各自買出しに出ていた。

 

「消耗品の買出しと、各自必要なものを揃えてくる。あなたが来たら、そう伝えてほしいと……」

「わかりました、ありがとうございます。私は船室で待機していますね」

 

 甲板上にてフィオレの帰りを待っていたらしい夫妻に礼をいい、フィオレはそれまで使っていた船室へと戻った。

 他人がいない間に素早く着替え、この短期間で大分くたびれてしまった着物から元の制服姿へと戻る。

 夫妻への配慮から、帽子はそのままだ。

 フィオレ個人の買出しなら帰り際済ませてあるにつき、再びトウケイの街を歩く必要はない。

 そして、紫電と懐刀の手入れをしていると。

 ぱたぱた、と軽い足音が聞こえて、規則正しいノックの後に扉が開かれた。

 

「おかえりなさい、フィリア」

「フィオレさん」

 

 手入れを終えた紫電を慎重に鞘へ戻し、脇へ置く。それを見て、フィリアは軽く首を傾げた。

 

「あら、その刀。ジョニーさんにお返ししたのではないのですか?」

「グレバムをとっちめるまで貸してくださるそうですよ。ただ、必ず返しに来るように念を押されてしまいました。今度来る時は、カルバレイスを経由しないと」

 

 それを聞いて、フィリアはおもむろに頬を染めたかと思うと、それを隠すように手を当てた。

 なぜに彼女が照れる必要があるのか。

 

「フィリア?」

「あ、いえ、何でもありませんわ。ええと、もうじき出港するそうです」

 

 そのまま逃げるように、甲板へ言ってくる、と退室してしまった少女を見送って、フィオレは小さくため息をついた。

 

 ──とんでもない思い上がりをすれば、ジョニーのため息も、フィリアの今の態度も、理由をつけられる。

 

 思い上がりが的を射ていたとしても、応えられるわけもないから気付かないフリをするのは、やはり逃避になるのだろうか。

 などとつい考え始めて、すぐ頭を振って考えることをやめる。

 思い直す余地もない、ひとつしか答えのない問題を考えたところで、不毛なだけだった。

 

「あ、フィオレさん。着替えたんですか」

「ええ、もう変装の必要はありませんし。それに、これから雪国へ行くんです。体温調節しておかないとね」

「ちょっと残念です。あの格好、すごく似合ってたから……」

「なーにフィオレにちょっかい出してんのよ、スカタン!」

 

 はにかみつつも着物姿を惜しむスタンに、ルーティがつっかかる。

 トウケイ領に差し掛かった頃からだろうか、何となく彼女とリオンのじゃれあいが減り、代わりにこの痴話喧嘩が多くなったような気がした。

 鬱憤晴らしのターゲットを同じ立場の彼に変えたか、あるいは勘ぐらないと気付かない何かか。

 いずれにしても、リオンの機嫌を損ねることが少なくなったのは、多分よいことだ。

 

『それは僕も同意かなー。フィオレのあの格好は僕も好きだった。今のも凛々しくていいけどね』

『ほっほっほ。シャルティエ、お主一千年経ってようやく女子の良さがわかってきたかの?』

『僕はフィオレのことが気に入ってるんであって、クレメンテみたく若けりゃいいってもんじゃないの!』

 

 一千年前……戦争中、というか軍に所属している間は階級的な意味合いで絶対にありえなかったであろうこの会話を聞いて、彼らもこっそりと苦笑している。

 

『やはり、シャルティエは変わったな。怖いものがなくなったというか』

『クレメンテ老にあんな物言いができるなんて、人は変われるものなのね……』

 

 オリジナルの彼がどんな性格なのか、何となく想像できる会話である。

 そんな和やかな、ファンダリアへの道中。

 気温が徐々に下がり、一面銀世界の大陸が垣間見えたある日。一同が休憩室に集まっていた時のこと。

 

「グレバムに逃げられるなんて……もう目の前にいたのに」

「過ぎたことを言っても仕方ないじゃない」

 

 スタンが当時を思い出してぼやいたその言葉に、ルーティが珍しく慰めにも似た言葉を返す。

 

「そうですわ」

「奴の行き先はわかっているんだ。ファンダリアで決着をつければいいだけの話……」

「チェック」

 

 それにフィリアが同調し、リオンもまた言外にくよくよするな、といったニュアンスの一言を寄越した際、フィオレはナイト──チェス盤の駒を動かしていた。

 こんなものがあるから余興にどうか、とバーテンに薦められ、ルールを知っている者同士、リオンとフィオレが対戦中だったのである。

 

「そうだよな……」

「く、これは……」

「さて、いかがなさいますか?」

 

 スタンが納得する脇でリオンは焦り、フィオレは盤上を悠然と眺めた。

 その隣では、マリーが興味津々に対決の行く末を見ている。

 

「ポーンでナイトを……いや、そうするとクイーンがそこに行くだけか。逃がすにもビショップが逃げ道を塞いでいるし」

「うるさい、気が散る」

 

 こういった理詰めの遊戯は、戦術を考える上でいい訓練になる。

 さすがに盤上の戦い方をそのまま生かすことはできないが、先のことを考える癖がつけられるからだ。

 フィオレも、幼少時は似たような遊戯を幾度も試みた経験がある。

 このところは、身体だけでなくおつむを鍛えることも視野に入れつつあった。

 そもそもの性能が悪くない彼には、どうしても必要というわけではなかったが。

 

 ズンッ……! 

 

「なんだ?」

 

 突如として、明らかに波の揺れとは異なる震動が響く。

 これ幸いとかどうかはわからないが、勝負そっちのけで立ち上がったリオンは甲板へと行きかけた。

 そこへ。

 

「お騒がせして申し訳ありません」

「あ、フェイトさん!」

 

 休憩室の扉を開いて現われたのは、自分の名代として妻をトウケイ領へ置いてきたフェイトである。

 何かあったのかを尋ねると、彼は険しい表情をそのままに報告した。

 

「敵の艦隊が現われました。おそらくファンダリア王国の所有する艦隊だと思われますが、遠目にもモンスターの姿が確認されています」

「ということは、ファンダリアはグレバムの手に……」

 

 落ちた、と考えていいだろう。

 彼の国の王族たちを思い起こす。彼らは今、どうしているだろうか。

 フェイトらのようにどうにか生かされているか、あるいは。

 

「大変だ。俺たちも手伝います!」

「いえ、それには及びません」

 

 リオン同様スタンも立ち上がるも、フェイトはきっぱり首を横に振った。

 気勢を殺がれたスタンとしては、食い下がる他ない。

 

「でも……」

「これでも、アクアヴェイル最高の艦隊なのです。すぐに蹴散らしてごらんにいれます。ご心配なら、操舵室で様子を見ることもできますが」

 

 何となく、トウケイ領へ向かう最中の事件を思い出す。

 巨大とはいえ、タコ型の魔物一匹にあんな動揺をしていた水兵たちに任せていいのか、という不安は確かにあった。

 しかし、それを口に出すのははばかられる。モリュウ領主の言葉が信用できない、と言っているも同然なのだ。

 そこで。

 

「では、私は行きます。お手並み拝見といったところですか」

「あたしも行こっと。暇してたしね」

「じゃあ俺も……」

 

 結局、全員で観戦することになる。

 結果的にフェイト・モリュウの言葉は正しく、黒十字艦隊は圧倒的な戦力の差をもってして無事、勝利を収めていた。

 

「これで障害となるものはなくなったな」

「はい、これからスノーフリアの港へ入港します」

 

 それを聞いて、フィオレはこっそりと彼に尋ねた。

 

「アクアヴェイル船籍の船が入港して、大丈夫なのですか」

「敵艦隊はすべて片付けましたから、今はそれどころではないはずです。他の船はここに待機させますし、我々の乗船している船はそこまで大きなものでもありませんから」

 

 つまり、混乱に乗じてちゃっかり事を済ませるつもりか。

 彼がその気ならばまあいいかと、フィオレはそこで食い下がった。

 そして、操舵室から休憩室へと戻ったそのとき。先ほどと変わらない盤上を見て黙りこくるリオンに、再びこれを尋ねる。

 

「さーて。リオン、どうします?」

「……くっ、仕方ない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ファンダリアといえば、飛行竜から落っこちて入国した因縁の地。結局追いかけっこで世界一周してしまいました。
 ただ追いかけているだけでは詮無きことですが、ちったあサポート入れてくれよセインガルド。もしくはストレイライズ神殿関係者……あ、フィリアがいたか。

 そして黒十字艦隊。ミニゲームとはいえ、敵艦隊の撃退をスタン達に頼むんじゃない!(笑)
 作中フェイトが格好いいこと言ってますが、これは創作です! 実際は「撃退手伝って」と言われてミニゲーム突入です! 
 別に撃退できなくてもゲームオーバーになりませんが、軟弱すぎるだろうアクアヴェイルが誇る黒十字艦隊! 格好いいのは名前だけか!(新年早々文句ばかり抜かしておりますが聞き流しを要求します(笑)


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ファンダリア決着編
第九十一夜——さよならアクアヴェイル、こんにちわファンダリア


 ファンダリア編突入! 
 フェイトとはさらっとお別れして、様子が不思議ちゃんと化しているマリーを心配しながらチェルシー(疲労困憊)、ウッドロウ(意識無し)との再会です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから半時も経たない内に、一行を載せた船はスノーフリアの港へ入った。

 桟橋に船をつけるも、それに目をつける人間は誰もいない。

 それどころか、港は民間人にしか見えない人間がちらほらいるだけで、軍人の姿などはどこにもいなかった。

 そもそも海上のみの警備に徹していたのか、あるいは総出で出てきて海の藻屑と消えたのか。

 ともかく、警戒も注目もされていないのは好都合だった。

 冷たい風が吹き荒れる寒空の下、桟橋にて集う。

 

「ずいぶんと、お世話になりました」

「いえ、お気になさらずに……私のほうこそ、命を助けていただいた身ですから。これから協力できないのが残念です」

 

 スタンの礼に、フェイトはかぶりを振っている。

 別れの時が粛々と迫る中、ふとスノーフリア港を見回していたマリーがふらっと歩き出した。

 これまでも、こういったことがなかったわけではない。

 今後にまつわる重要な話をしていたところで、興味がなかったのかどうかはわからないが急に彷徨をおっぱじめる姿は幾度か見かけたことがあった。

 当初こそ注意していたルーティではあったが、現在それを咎めるようなことはしていない。

 何にでも興味を示し、ひとところにいられないのは記憶障害者の特徴のひとつであることをフィリアに聞かされて以降、それも仕方がないと割り切ったようだ。

 ただし、目だけ離していない。

 

「グレバムは必ず、俺たちが倒してみせます」

「ご武運、お祈りしています」

「あんたも元気でね。あんまり奥さんを泣かすんじゃないわよ」

 

 ルーティにしてみれば、揶揄する気満々で言った一言だろう。

 しかしフェイトは、大真面目に頷いて見せた。

 

「ええ、もちろんです。それでは……」

 

 マリーの行方を気にしつつ、黙礼のみ済ませる。

 船員たちにすれば敵地に乗り込んだようなものだからだろう。慌しく出立する船を見送る暇も惜しんで、ルーティが港へと向かっていった。

 

「あたしちょっと、マリーの様子見てくるわ」

「心配ですわね。ここファンダリアへ近づくにつれ、雪が降るのを見ては心ここに在らず、といった様子ですし……」

 

 アクアヴェイルへ戻りゆく船を見送った後で、港内を散策する。彼女たちは、港の端で何らかの会話を交わしていた。

 しばらく様子を見ていると、二人連れ立って戻ってくる。

 

「もう、感傷的になったからってなんでふらふら出歩く必要があるのよ」

「ああ、すまない」

 

 ルーティには謝りながらも、フィリアの言うとおり、どこかぼんやりしているようにも見える。

 これまで世界中を回ってきても、マリーはいつでも好奇心旺盛で、目に見えるものすべてが新鮮だと態度で語ってきた。

 しかし今回、雪国へやってきてそれがない。

 以前雪国の郷土料理に覚えがあるようなことを唐突に語っていたように、彼女が雪国の出身である可能性が大分高まった。

 そんなことを考えていてふと、視界の端で真白の何かがちらつく。

 

「雪だ……」

「あっ、ほんとだ」

「これが、雪なのですか。わたくし、本物を見るのは初めてですわ」

 

 すでに帽子を外しているフィオレを見やって、フィオレさんの髪の色ですわね、などと今更確認された。

 そして、フィオレを見やったフィリアがいぶかしげに小首を傾げる。

 

「フィオレさん、お顔が険しいですわ。いかがいたしました?」

「いえ別に」

 

 唐突なこの降雪を見て、嫌な光景を思い出してしまっただけだ。

 船上で幾度か見かけた風花とは明らかに異なる、大粒の雪がしんしんと降り注ぐ。

 その光景を見て、マリーはぽつりと呟いた。

 

「雪が降りだすと……なんだか、昔のことを思い出せそうな気がする……」

「そうなんですか?」

「ああ。でも、何だか切ない感じだ……」

 

 いつになく、マリーがしおらしい。

 その手は唯一の手がかりと言ってはばからない、あの短剣に添えられていた。

 その様子を見てか、スタンが誰に尋ねるでもない言葉を口にしている。

 

「悲しい過去だったら……過去の記憶なんて思い出さない方がいいんでしょうか?」

「スタン、それは違うな」

 

 マリーはやけにきっぱり否定しているが、それは人それぞれの話だ。

 誰しも彼女と同じ強さを持っているわけではない。

 丁度フィオレが、今しがた思い出した記憶を、事実ごと消してしまいたいと願ったように。

 

「そうですね……すみません。俺もマリーさんの記憶が戻るように応援しますよ」

「スタン、ありがとう」

「あんた、マリーは応援してフィオレは応援しないわけ?」

 

 思い直したスタンが取り繕うようにマリーを元気づけ、それをルーティにからかわれる。

 そんなことはないと怒って見せながらも、スタンは律儀にフィオレへ謝った。

 

「すいませんフィオレさん、そういうつもりじゃなかったんです。なんか、この頃フィオレさんが記憶喪失だって忘れがちで……」

「問題ありませんよ。私は何も、思い出せていないわけではないのですから」

「それより、あたしそろそろ凍えそうなんだけど……」

 

 ルーティの申請によってまず落ち着こうと、港を抜けてスノーフリアの街へと繰り出す。

 一年の半分以上が雪に覆われる豪雪地帯、ファンダリア。

 その玄関口であるスノーフリアはすでに雪化粧を済ませていた。

 今の季節が丁度盛りなのか、地面を歩けば足跡か、雪にも建物にも積もった雪が被っている。

 

「う~っ、寒々っ」

 

 一同の中でも一際露出度が高く、それほど脂肪も備えていないルーティが震えるのを見て、ふとマリーを見た。

 普段仏頂面のリオンでさえ防寒具の購入を提案してきたというのに、ここへ来てマリーは一度たりとも「寒い」と言っていない。

 これは……

 

「桜だ」

 

 これまでとは違う意味合いで周囲を見回していたマリーが、突如としてそんなことをのたまった。

 これを聞きつけたルーティは、勿論反論している。

 

「はあ? こんなに寒いのに、なんで桜なのよ。大体ファンダリアに桜なんて……」

「でも、あそこ」

 

 マリーが指すのは内陸に通じる出入り口付近だ。無論桜は咲いていない。しかし、マリーがそう発言した理由が確かにあった。

 スノーフリアに入る直前で、頭をうなだれ立ち尽くす少女がいる。

 桜色の髪を天使の羽を象った髪飾りでまとめているが、ところどころがほつれていた。ルーティばりの軽装姿に薄っぺらいマントを羽織っているが、まるで落ち延びてきたかのようにボロボロだ。

 肩を大きく上下させている辺り、全力疾走で駆けてきた様子だが。

 

「フィオレさん、あれって!」

「どこかで見たような子ですね」

 

 雪が降ってきたせいなのか、通りを出歩く人間は少ない。

 家路に急ぐ人々が誰一人として気にかけない少女に近寄れば、その足音を聞きつけてか彼女は弾かれたように顔を上げた。

 

「った、助けてください!」

「やっぱり、チェルシーじゃないか!」

 

 開口一番、相手が誰かもわからない状態で助けを求めたのはやはり、ジェノス奥地にて住まうアルバ老爺の孫、ウッドロウになついていたチェルシーだった。

 突如として自分の名を呼ばれ、つぶらな瞳がぱちくりと瞬く。

 

「え、何でわたしの名前を……って、あなたはいつぞやの行き倒れさん!」

「行き倒れ? スタンが?」

「ルーティたちと出会う前に、色々ありまして……」

「それに、奇術のお姉さんまで! これぞ天のお導きですぅ!」

 

 胸の前で手を組んで感激をあらわにしたかと思うと、すぐ必死な表情になってスタンとフィオレの腕を引っつかむ。そしてぐいぐい引き始めた。

 

「ど、どうしたのチェルシー?」

「助けてとか言ってましたね。暴漢に追われているなら、街中に逃げるべきではないかと……」

「わたしじゃないんです! 早く、早く行かないと、ウッドロウさまが……!」

 

 その一言に、彼女の格好を合わせて事情を悟り。フィオレはぐるりと一同を見回した。

 

「緊急の用事みたいです。移動しながら事情を聞きましょう」

「……仕方がない。行くぞ」

「今から!? あたしちょっと、上着買ってからにしたいなあ……」

 

 控えめながらも、最もな希望を口にするルーティに着ていた外套を渡して、フィオレはチェルシーと共に歩き出した。

 

「で、何があったんです?」

「おじいちゃんのお使いで、王都へ行ったんです。その時、大きな竜が飛んできて……」

 

 お使いの内容は、新調した弓をウッドロウに送り届けること。

 王太子の師匠の孫娘である彼女は、弓を届ける際ウッドロウにそのことを話したらしい。

 それを聞いた彼は、念のため様子を見に行くと告げ、そのついでにチェルシーを途中まで送ってくれることになったそうだ。

 ……そして、信じられない出来事が起こった。

 ハイデルベルグの外れに降りた竜から人やら魔物やら次々と現われ、あっという間に王都を占拠したのだという。

 

「それでどうにか逃げてきたんですね?」

「はい……でも、わたし。ずっとウッドロウ様のお荷物で、わたしがいなければ、もっと早く逃げられたはずなのに……」

 

 目が赤いような気がするから、まさか罠かと内心勘ぐっていたのだが、チェルシーのそれは、どうやら生理現象の現われであるようだった。

 妙に鼻声だったのも、凍えていただけではないのだろう。

 

「追われているのは自分だけだからって、わたしにはスノーフリアで助けを呼んできてくれって……」

「わかりました。そういうことなら、尽力をつくしましょう」

 

 これまでの説明──特にショックだったのか、大変重要なハイデルベルグ襲撃付近がかなり抽象的だった。

 推測を挟みながら事情を悟らねばならなかったことを鑑みるに、ウッドロウならば情報源として最適だろう。

 少なくとも、チェルシーにすべて話させるよりはマシなはずだ。

 

「それで、ウッドロウがどこにいるのかはわかるのか?」

「この先の、ティルソの森だと思います。あそこでウッドロウ様と別れたから、多分……」

「つまり、具体的な位置はわからないのか」

 

 予想してしかるべきことである。フィオレは唐突にその場に立ち止まった。

 流石にこれは、移動しながら出来ることではない。

 

「って、何をしてらっしゃるんですかフィオレさん! 早く行かないとウッドロウ様が……!」

『シルフィスティア、緊急事態です。視界を貸してください』

『うん、わかった!』

 

 目蓋の裏に、風の視界を投射する。

 見下ろしたティルソの森は雪を抱えた木々が鬱蒼と生い茂り、探すのは困難かと思われた。

 しかし、静まり返った森に響く戦いの調べは、どこまでも騒がしく。

 

「……思ったより近くてよかったです」

「え?」

 

 唐突に目を開いたフィオレが、呟くなり疾走を始めた。

 驚いた一同も慌ててそれに続くものの、慣れない雪道に足を取られたか、森を前にしてフィオレについてきていたのはチェルシー、そしてマリーだった。

 

「マリーはここに残って、皆を待っていてください。で、私たちの足跡を辿って合流してくださいね」

「わかった」

 

 もしそちらでウッドロウらしき人間を見かけたら、これを渡して身の証を立て、保護するようにと有無を言わさずチェルシーの髪飾りを取る。

 あう、と少女は頭を抑えるものの、ウッドロウを探すのが先と文句はなかった。

 ただ。

 

「髪飾り……可愛い」

「あ、あげませんからね!」

 

 渡された髪飾りをしげしげと眺めるマリーに念を押している間にも、フィオレはどんどん先へ行っている。

 少しでも通りやすいようにか、おざなりに整備された道を使わず、フィオレは木陰に隠れるようにしながら奥へ奥へと進んでいった。

 

「そんなずんずん進んで、ウッドロウ様と行き違いになっちゃったら……」

「お静かに」

 

 立ち止まり、木陰に身を隠して道の向こうを指す。

 騒然とした気配が近づいてきたかと思うと、すぐに数人の人影が確認できるようになった。

 雪色に青みがかった髪、細身の長身に、瞳と同じ蒼の軽鎧。時折迫る矢を捌くために剣を手にするものの、逃走を続ける青年。

 しかしその様子は、まさに満身創痍と呼ぶべき有様だった。

 

「ウッドロウ様……!」

「駄目です。また足手まといになりたいのですか」

 

 青年を追うは、雪国仕様の武装なのか。

 特徴的な防寒を目的とする帽子に、分厚い外套を羽織った姿がざっと十人ほど。

 

「じゃあどうするんですか……!」

「追っ手が多すぎます。少し数を減らしましょうか」

 

 借りますよ、と一声かけてチェルシーの弓矢を手に取る。

 彼女用にか、一般的な弓より軽く、かなり小さかったが、フィオレの望む遠距離射撃は十分間に合いそうだ。

 最近はついぞ触っていなかったが、ウッドロウに当たらなければそれでいい。

 

「……ヴォルテックライン」

 

 つがえた矢に第三音素(サードフォニム)──電撃をまとわせ、放つ。

 それは狙い違わず、挟み撃ちにしようとウッドロウの前へ回り込みかけた一派に命中した。

 

「ぬがっ!」

「な、何だ!?」

 

 殺傷能力こそ低いが、感電させて行動不能に追い込むこの技は非常に有効である。

 続けて、フィオレは矢筒から同時に三本の矢を取り出した。

 雪に覆われてこそいるが、その真下には必ず大地がある。

 

「ストローククエイカー」

 

 第ニ音素(セカンドフォニム)、地属性を含んだ矢が、兵士ではなく地面に向かって放たれた。地面に突き刺さった矢は宿された第ニ音素(セカンドフォニム)を起因に、衝撃波を発生させる。

 突然の襲撃にうろたえる兵士たちは、警戒するように固まっていた。

 これで当てられなければ、チェルシーからへたくそと罵られても反論はできまい。

 

「フィオレさん、心得があるんですか!? 剣を使えて、弓も使えて、奇術まで使えるなんて……!」

「淑女のたしなみです。さておき、これで何とか捌けるでしょう」

 

 チェルシーに弓矢一式を返還し、少女をその場に置いて突貫する。

 姿なき襲撃者の姿があらわになったことにか、残る兵士は下卑た笑みを浮かべた。

 

「馬鹿め、わざわざ姿を見せるとはな!」

 

 何故か勝ち誇る兵士が剣の先を向けるのは……とうとう雪の中に倒れ伏したウッドロウである。

 真下の雪が吸った命の雫は、目が痛くなるほど鮮やかだった。

 

「この男の命が……っておいっ! 人の話を聞かんか小娘!」

「これだから最近の若い者は……」

 

 悠長に降伏勧告に近いものを発した兵士たちだったが、悠長に聞くほどの時間を設けてやれない。

 紫電の一閃を受けて、彼らはことごとくウッドロウと同じような体勢になった。

 どこもかしこも真っ白だった森の中、赤い花が点々と咲き始める。

 

「……おしまい、っと」

「おーい! 二人ともーっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十二夜——敵側ミッション:ウッドロウをおびき出せ!

 チェルシーと共にウッドロウを助け出したはいいものの、残党を残したことが災いして再び騒動に。
※作中、ウッドロウをおびき出すくだりは創作です。人質にとられた可哀想な少年はいませんのでご安心を。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 きっちりとどめを刺したことで兵士五名が生き絶え、レンズを排出する頃。

 行動はともかく、戦闘不能となっていた兵士たちの反応は素早かった。

 

「てっ、撤退だ!」

「ふん、逃げ足だけは速い奴らだな」

 

 どうにか追いついてきた一同の先頭に立っていたリオンは、携えていたシャルティエを納めている。

 その脇では、スタンがチェルシーと共に倒れ伏したウッドロウへ声をかけていた。

 

「ウッドロウさん、しっかりしてください!」

「ウッドロウさまぁ、目を開けてください!」

「で、結局ウッドロウって誰なの? スタンとフィオレの知り合いで、チェルシーの……?」

 

 雪道に慣れていない所作からして、ルーティがこの国の出身者でないことはわかっている。

 やはり他国の王族の顔など普通は知らないものなのだろうか。

 とはいえ、彼女に今そんなことを教えるような暇はない。

 

「スタンが飛行竜に密航したのはご存知でしょう。その後のごたごたで、お世話になったのですよ」

 

 素性ではなく彼との関連を教えて、フィオレは左手甲のレンズに意識を集中させた。

 

「命よ、健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 ♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──

 

 幸い周囲に雪──水に属する第四音素(フォースフォニム)は溢れている。

 立ち上る譜陣の輝きがウッドロウの傷を一瞬にして癒すものの、彼が目を覚ますことはなかった。

 

「あ、あれ?」

「かなり衰弱してます。私の奇術じゃ怪我は治せても、衰弱は治せません」

『それは晶術も同じよ。早くあたたかいところで休ませないと……』

 

 短い話し合いの結果、スノーフリアの街を知るチェルシーと財布を持ったフィオレが先行して宿を確保、ついでに一同の分と、部屋を暖めておく。

 残った面々が出来るだけ早めにウッドロウを運ぶということで、二人は再び疾走することとなった。

 

「フィオレさんて、雪道に慣れてるんですね」

「足場の悪い場所の走り方を知っているだけですよ」

 

 といっても、フィオレが知っているのは足場の悪い場所も通常通り走ることが出来る、特殊な走法だ。

 砂上でも雪上でも泥上でも応用が聞くため、厳密に言えば雪に慣れているわけではない。

 

「街に入ってすぐ手前に……あそこです!」

 

 チェルシーの先導に従い、「暁の社」なる宿で病人用に個室をひとつ、予算の関係で大部屋ふたつを借りて暖炉に火をくべる。

 部屋が十分に暖まった頃一同も到着し、ウッドロウは速やかに寝台へと運び込まれた。

 彼が目を覚ましたのは、それから半日経ってからのことである。

 

「お気づきになられましたわ」

「そうですか。わかりました」

 

 自分が看病すると言い張るチェルシーを、彼女自身も相当疲弊していることを理由に大部屋で寝かしつけ、交代でウッドロウの看病を続けていた。

 とはいえど、リオンは看病を嫌がったためマリーと共に買出しに、スタンはルーティに引っ張られて上着を買いに出ている。

 丁度、フィリアの番になったところで目を覚ましたらしい。

 彼女の報告を聞いて例の個室へ赴くと、一時的に一人にされていた彼はわずかに身体を起こして途方に暮れていた。

 

「ここは……」

「失礼します、王太子殿下」

 

 規則正しいノックの後、フィオレは殊更慇懃に声をかけた。

 もう少し休ませてあげたいが、用が済めばいくらでも休める。こちらは一刻を争うのだ。

 

「君は……隻眼の歌姫が、どうしてここに」

「大変ご無沙汰しておりました。お疲れのところ申し訳ありませんが、此度起こった騒動の詳細をお聞きしたく存じます」

 

 再会の挨拶もそこそこ、そのものズバリを尋ねる。

 しかし、そう簡単に話は進まなかった。

 

「……どうして君がここにいるのかは、後で尋ねることにしよう。チェルシーを知らないかい?」

「彼女なら別室でお休みです。あなたを看病すると言い張っていましたが、疲れていたのでしょうね。ぐっすり眠っていますよ」

 

 それを聞いて、彼は心底安心したように寝台へ身を預けた。部屋の中のクッションをいくつか取って、即席の背もたれにする。

 すると、彼はにこりと微笑んだ。

 

「安心したよ。彼女の身に何かあったら、先生に顔向けできないからな」

「……チェルシーから大体のことは聞きましたが、一応あなたからの説明もお願いしたく思います」

「それを話せば、どうしてこのファンダリアにいるのか、答えてもらえるかな?」

 

 今フィオレが答えなかったとしても、スタンが答えるだろう。

 ならば素直に情報を提供してもらったほうが賢い。

 

「……構いませんよ」

「チェルシーから大体の事を聞いたなら、話は早い。見ての通りだ。ハイデルベルグは総攻撃を受け、私は彼女と共におめおめと落ち延びてきた」

「相手が何者なのかは、わかりますか?」

「セインガルドだと思い込んでいたよ。相手は飛行竜を用いてきたのだからな。だが、兵士の姿はなくモンスターばかり。人間の姿といえば、何故か我がファンダリア特有の防寒具を兼ねた鎧をまとう兵士だったな」

 

 ここで一度言葉を切ったウッドロウは、一度外していた視線をフィオレへとやった。

 

「そしてセインガルドの仕業ならば、君が私を看病する理由はないだろう。見つけた時点で首を取ればそれで済む話だ」

「……まあ、ある意味ではセインガルドが元凶とも言えるのですが」

 

 改めてフィオレがここにいる理由、そして思い当たることがあるのかを尋ねられる。

 その質問に対して、フィオレは一切の事情をぶち曲げた。

 更なる情報を引き出す、という目的もそうだが、何より事実を隠して怒らせずに済む自信がない。

 彼は寸分の非もない、被害者なのだから。

 グレバムへ制裁を、そして神の眼を回収せんがため各地を回っていたことを説明し、此度ファンダリアを訪問したくだりを語る。

 そこで、ウッドロウから神の眼について尋ねられた。

 

「神の眼……あれは、神の眼というのか」

「ご存知なのですか?」

「それらしいものを、巨大なゴーレムが数体がかりで運んでいるのを見た。おそらくは、王城にあるだろう」

「……つまりそれは、かのハイデルベルグ城が連中の拠点となっている、ということですか」

 

 カルバレイスの神殿しかり、アクアヴェイルのトウケイ城しかり。どうしてこうもグレバムは、豪華な隠れ場所を好むのか。

 小悪党は小悪党らしく、人里離れた小さな洞穴にでも隠れて震えて最期を待っていれば迷惑がかからないものを。

 そこへ。

 

「お目覚めになられたって、ホントですか!?」

「ええ。今はフィオレさんが事情のご説明を」

 

 扉の外からそんな会話が聞こえたと思うと、ノックもなしに扉が開く。

 そこには、喜び勇んで入室するチェルシーに続いて、出かけていた面々の姿があった。

 

「ウッドロウ様、大丈夫ですか? どこか痛いところとか、あ、そうだ。お粥作りましょうか?」

「無事で何よりだよ、チェルシー。特に身体に不調はない。これならすぐにでも……」

『まだしばらく安静よ。しっかり休息を取らなければいけないわ。あれだけ激しく衰弱していたのだから』

 

 アトワイトの言う通りである。

 衰弱とは、半日程度の安静だけでどうにかなるほど軽い症状ではない。

 とはいえ、思いの他元気そうであるからして、もう心配はいらないだろうが。

 

「失礼ですが、逃亡中何かお召し上がりになりましたか?」

「一応、保存食の類を口にしていたが……」

「なら、胃腸が極端に弱っていることはなさそうですね。一応消化しやすい、栄養のあるものをとってじっくりお休みいただければよろしいかと」

 

 ならばわたしが手料理を、と鼻息荒く挙手をするチェルシーだったが、そうもいかない。

 一見元気一杯の彼女だが、いくらウッドロウにかばわれていたとはいえ、疲弊していないわけがないのだから。

 

「駄目です。チェルシーも念のため安静になさってください」

「大丈夫です。わたしはあれだけ寝たんですから」

「今現在安静中の人間と同道を共にしていたのはどこの誰ですか。心配せずとも、食べれるものを見繕って差し上げますから」

 

 ぷう、と膨れるチェルシーではあったが、ウッドロウの窘めもあって存外素直に頷いた。

 ただし、従うだけには終わらない。

 

「でも、ウッドロウ様に変なものお出ししたら許しませんからね!」

「じゃあ、何を作るか決めておきましょうか。えーと……確か港で蟹ありましたね」

 

 適当に記憶を巡らせて口走れば、マリーがそれに答えた。

 フィオレは街へ移動する最中ちらりと見ただけだったが、話の途中から彷徨を始めた彼女にとってはそうではないらしい。

 

「ああ。この辺りでは沢山取れるみたいだな。丸々太ってて旨そうな蟹だった……」

「じゃああれを買ってきて蟹雑炊でも作りましょうか。厨房はここで貸してもらって……二人とも甲殻類は食べられますよね?」

「そんな簡単に言うけど、あれ一匹でいくらか知ってんの?」

 

 などと、二人の病人食どころか夕飯談義に発展しかけたその時のこと。

 不意に外が騒がしくなったのを感じて、フィオレは窓の外を見やった。

 一階に併設されている酒場の喧騒から遠ざけるため、取った部屋はすべて二階である。

 窓に面した広場を見下ろすと、ちょっとした人だかりが出来ていた。

 人だかりの先、スノーフリア出入り口付近にたむろするその姿は──

 

「フィオレ君、窓を開けてもらえないか」

 

 外の喧騒にどうやら気付いてしまった挙句、ウッドロウも厳しい面持ちを浮かべている。

 瞬く間に寒気が侵入し、暖気に慣れたルーティが寒いと訴えかけて。

 

「ウッドロウ・ケルヴィン! この街に逃げ込んだのは判っている、大人しく投降せよ! さもなくば、この小僧の首を叩き落すぞ!」

「ママーッ!」

「お、お願いです。どうか命だけは、なにとぞ……!」

 

 ダミ声でがなりたてていたのは、ティルソの森で撃退した雪国仕様の防寒、武装済み兵士だった。その数、五人。

 先程の生き残りが、このままおめおめ戻れないと逃げ延びたウッドロウの捜索に来たのだろうか。

 緊迫した空気の中、おそるおそる言葉を発したのはルーティだった。

 

「……ねえ、フィオレ。ケルヴィンって、まさか」

「そのまさかです」

「へ? どゆこと?」

 

 イザーク・ケルヴィン王の名は知っていたらしく、ルーティは驚愕をそのまま顔に出している。

 話についていけてないスタンにルーティが説明すれば、スタンはおろかフィリアも声を出して驚いた。

 そして、出会った当初から疑いをかけていたこの人も。

 

『こ、この男が王族!?』

「一応資質だけは受け継いでいる。先生のところでは嫌われていたようだが、よろしく頼むよ、ディムロス君」

『あ、ああ……』

 

 珍しく、驚愕も困惑も隠さないディムロスに苦笑を禁じえない。

 その気配を目ざとく感づいた彼は、くってかかってきた。

 

『フィオレ! お前、知ってて黙っていたな!?』

『ええ勿論。言う必要もありませんでしたし、あなたは私もお疑いでしたので』

「ウッドロウ様!」

 

 それに、彼がソーディアンの声を聞く資質持ちであることは今初めて知ったのだ。それはあまり関係ないだろう。

 返す言葉もなく、再びディムロスが黙りこくった時。チェルシーが悲鳴じみた制止を上げた。

 見やれば、ウッドロウは寝台から降りようとしている。ああは言っていたものの実際はかなりしんどいようで、顔色は悪い。

 彼にしてみれば、外の光景を放って養生などできはしないだろう。どうにかする手立てがないわけではないが……はっきり言って気が進まない。

 しかし。

 

「……行かなければ」

「駄目ですよ! そんな体で出て行ったら、今度こそ殺されちゃいますぅ!」

「……私は生き延びるために、逃げも隠れもしている。だがこの国の王族として、民を盾にすることだけはできない……」

 

 その言葉に、フィオレは躊躇していた心を捨てた。

 起き上がったウッドロウの手を取り、癒しきれなかった腕の傷に──うっすらと滲む血潮に、唇を這わせた。

 

「!?」

「私がどうにか誤魔化して参りましょう。ですから、養生なさってください。あと、これを借りますね」

 

 唇についた血液を舐めとり、弓矢一式を指す傍ら、眼帯の上から包帯の余りで片目を覆う。それから、久しぶりに秘術を発動させた。

 

「Rey Ze Luo Qlor Toe Nu Va Rey。望むのは……」

 

 体内の第七音素(セブンスフォニム)を取り出し、練り上げ、自身を包み込む。

 雪の色を宿した髪にほんのわずか、青みがかった。細く締まった肢体が、鍛えられた男性のそれへと変貌する。

 立ち上る譜陣の輝きが消える頃、唖然とする一同を見てから姿見を見やった。

 色黒で精悍な顔立ち、すらりとした長身、革の着込みに身を包んだ姿。

 問題なく、フィオレはウッドロウの姿を模写していた。

 

「ウ、ウ、ウッドロウさ……」

「しっ」

 

 動揺しまくるチェルシーを鋭く制して、弓矢一式をひっ掴んできびすを返す。

 手っ取り早く窓から飛び降りてしまいたいが、潜伏場所がばれてもまずい。

 廊下に誰もいないこと──誰もが広場での騒ぎに気を取られていることを確認して、裏口らしき場所からこっそり宿を出る。

 そのままぐるりと建物の陰を通って、宿からまったく別方向へ移動し、そこから広場へと向かった。

 広場では、相変わらず兵士が少年の腕を掴んで剣を向けている。

 

「聞こえるか、ウッドロウ王子! このチビの命が惜しければ……」

「その少年を離せ、外道が!」

 

 移動中、装着した矢筒から一本矢を取り、弓に番え──引き絞らず番えた状態で往来へと出た。

 姿だけはまぎれもないウッドロウに、少年に剣をつきつけた兵士がニヤリと口角を吊り上げる。

 

「現われたな。恥も外聞もなく王都から逃げ出した腰抜けが!」

「逃げも隠れもしよう、しかし民を盾にだけはしない。私に用事があるのなら、狡い真似をせず要件を伝えたらどうだ」

 

 こんな感じの話し方だったろうか。微妙に覚えていない。

 顔面の筋肉を厳しく張り詰めさせたまま、内心で汗をかくフィオレなどおかまいなしに、兵士は口上を並べ立てた。

 

「ならば武器を捨てろ。さもなくば……」

「笑わせる。お前は武器を捨てさせなければ、腰抜け風情も捕まえられない三下か?」

 

 しまったつい本音が。

 あまりの笑い種に素で挑発してしまったものの、ここで相手の気を静めても不自然だ。

 このまま突っ走って怒らせ、その隙に少年を助け出してエスケープの道を模索する手段を取る。

 

「腰抜けをおびき出そうと罪もない少年に手をかけるのか。人の皮を被ったケダモノめ。救いようもない、愚かで哀れな雑魚だな」

「ぬぐ、きっさま……!」

 

 王族出身だということでかなり上品な、婉曲表現を用いても怒りを煽ることができたのは僥倖だ。

 相手の沸点が低いのか、あるいはリオンがよくやるような「鼻で笑った」ウッドロウは、それだけ腹の立つ顔をしているのか。

 どっちなのかはどうでもいい。問題は。

 

「ウッドロウ殿下ってあんなお上品な顔立ちなのに、ワイルドな一面をお持ちなのね!」

「下郎の挑発などものともせず、なお気高くあられるわ。素敵……!」

 

 贋者です、念のため。

 背景は、理不尽にも城を追われた悲劇の王子だ。

 それを知ってか知らずか、どうも野次馬の熱視線で背中が暑い。

 一方、野次馬の囁きを聞いてか兵士は逆上寸前だった。

 

「おのれ、優男風情が……!」

「もう一度言おう。その少年を解放するんだ。さもなくば……」

「さもなくば何だというのだ」

「射殺する」

 

 告げられた宣戦布告に、少年を抑えた兵士──どうも隊長格であるらしく、自分はそのまま部下に取り押さえろとの号令を出す。

 布告に構うことなく少年を解放しなかった隊長格を見て、フィオレは一切の情けを捨てた。

 

「アストラルレイザー!」

 

 借姿形成中の上、近くにソーディアンたちがいない今は保有する術技に限りがある。とりあえずは、弓だけでの応戦にかかった。

 チェルシーのものより、そして通常のものよりかなり長大で重たい弓を振り回し、近寄る兵士を薙ぎ払い、一撃を浴びせる。

 致命傷から程遠くても、牽制できればそれでいい。

 そうやって開いた道をずんずん進み、フィオレはあっという間に少年を抑えたままの隊長格へ近づいた。

 ──素早さは、長身に付随する体重のせいもあってかかなり落ちた。しかし、これなら本来フィオレの肉体ではできない力技が使える。

 借姿形成、という名のついたこの術は、見せかけの幻ではない。

 自分を形成する音素(フォニム)と元素を特殊な術で組み替え──つまるところ体組織そのものを変異させる。

 すなわち、筋力なども模写したその姿に比例して変化するのだ。

 例えば、大の男を素手で殴り倒すという荒技なども。

 

「な、あっ……!」

 

 これまで異性を模写することは不可能だったことなど勿論忘れて、フィオレは唖然とする兵士に詰め寄った。

 痛烈にして痛快な、打撃音が響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十三夜——大立ち回り∽推察と推測・それから成長


 挑発してブン殴って、さっくりその場からは逃走。常套手段ですね。
 また人質取られたら、彼女はどうするつもりだったのでしょうか……? 
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 渾身の力で殴ったせいか、兵士はあっけなく地を転がっている。

 接敵したその瞬間、少年を力づくでもぎ取ったために解放には成功した。

 すぐさま、母親の元へと返す。

 

「あ、ありがとうございます……」

「すまない。私のせいで、知らずに済んだ恐怖を知ってしまったな」

 

 しかし、こうしてばかりはいられない。

 謝罪もそこそこ、フィオレはそのまま走ってスノーフリアから飛び出した。

 

「お、追えーっ!」

 

 咄嗟に自分の外套を引っつかんできて良かった。寒空にして雪の敷き詰められた道を駆けながら、外套を羽織る。

 ウッドロウの体は思った以上に大きく、身体を包みきれないが仕方ない。

 矢筒の位置を調整し、弓を背負って両手が自由になったところでフィオレはちらりと背後を見やった。

 もはやスノーフリアに未練なしか、全員が全員ウッドロウの姿を追いかけに来ている。

 

 ──よかった。これで、終わった時は堂々と街へ戻れる。

 

 そのまま疾走速度を上げると、先程やってきたティルソの森、とやらが見えてきた。

 身近で手頃な樹に登り、指先がかじかまないよう暖めながら兵士たちの到着を待つ。

 やがて、数分と立たないうちに兵士たちが現われた。

 風が強いため「ウッドロウに扮したフィオレ」の残した足跡はとうに消えてしまっている。

 それを見て、兵士らは歯噛みした。

 

「おのれ、ウッドロウめ……てこずらせおって」

「まあいい。この森に逃げ込んだのは分かっている。本隊と協力し、いぶりだそう」

「だが、協力者の存在が気になる。やはりスノーフリアに潜伏しているのだろうな」

「それはウッドロウを狩った後、それを餌におびき出せば」

 

 そりゃ困る。目撃者はいないことだし、やはりここで口封じするべきか。

 枝上にて、矢を番えて弦を引き絞る。できれば一撃で仕留めたいが、初撃はともかく全員を一撃で仕留めるのは難しいだろう。

 ならば、逃げられないよう仕向けるべきか。

 一呼吸分集中、狙いを定めて弦から手を離した。

 

 ──トンッ

 

「あが……」

 

 放たれた初撃は見事、兵士の首を貫通した。

 悲鳴もなく倒れ伏した兵士を見て動揺する彼らに、時間を与えず二撃が飛来する。

 

「うわぁっ!」

「く、奴の仕業か! 一体何処に潜んで……」

 

 左足を貫通した兵士を他所に、隊長格はなおも周囲を睥睨し続けた。

 その最中、残る無傷の兵士もそれぞれ足を負傷し、残る無傷の兵士は隊長格のみとなる。

 

「ち、動けるのは俺だけか。仕方ない、本隊に救援を要請して……」

 

 言いかけて、彼の動きが止まる。

 飛来した矢の角度が一定であることに気がついたのか、彼は狂ったように上方──樹上の様子を気にし始めた。

 好都合にもほどがある。

 矢をつがえ、引き絞った状態で待機することしばし。そろそろ腕が疲れてきたところで、隊長格と眼が合った。

 

「見──」

 

 放たれた矢が、空に映る彗星が如き緩やかな角度で飛来する。

 直後、フィオレを発見したことでまっすぐこちらを見ていた隊長格の片目は、あえなく潰された。

 一見硬いが、その実柔らかな眼球を突き抜けた先には脳髄がある。

 

「た、隊長ッ!」

 

 さて、これで増援を呼ばれることも逃げられることもなくなった。

 隊長格がフィオレを見つけたことで、連鎖的に彼らもウッドロウの姿を発見している。

 足を引きずって逃げようと試みる彼らの背中に、フィオレは悠々と弓を引き絞った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見事少年を救い、そして脱兎の如く兵士から逃げた騒動直後。

 一連のやりとりをただ呆然と眺めていた一同は、野次馬が散り散りになる頃に正気を取り戻していた。

 

「……また、手品か」

「奇術じゃないんですかぁ?」

「似たようなモンなんじゃないの」

 

 これまで散々、フィオレの手品には驚かされてきた一同だが、これには度肝を抜かれている。

 何せ、いきなりウッドロウの姿になり、彼の声を真似、彼自身であるかのように振舞ってみせたのだから。

 

「口調はともあれ、話していることはほとんどフィオレさんの挑発でしたけれど……」

「何をおっしゃるんです! ウッドロウ様だって同じことを言ったに決まっています!」

「そうなんですか?」

「どうだろうな……」

 

 まるで自分の分身を見せられたような気分になっているウッドロウとしては、苦笑いをするしかない。

 

『また増えましたね、フィオレの謎』

「今更だがな」

「フィオレは、不思議に思ったりはしないのかな? ああいった手品の類について、どうして使えるのか……それはもう思い出しているのか?」

 

 ふとしたマリーの呟きに反応したのは、この中で唯一事情を知らないチェルシーである。

 

「思い出すって、何ですか?」

「フィオレ君は記憶喪失らしいんだ。自分の出自などいくらか思い出していることもあるらしいが」

「……ウッドロウ様。どうしてそれをご存知なのです?」

 

 妙に詳しい彼の言い様をチェルシーが疑わしげに尋ね、それに関してまったく後ろ暗いことがないウッドロウが説明する傍ら。

 ソーディアンたちは内輪で今しがたの現象について語り合っていた。

 

『あれは……何の守護者と契約すれば、あのようなことが可能となるのだ?』

『むう、光の守護者と契約すれば姿を消すくらいなら……とは思っていたが』

『姿を変えるのは……やっぱり光かしら? 光の屈折率を操って』

『それでどうにかできるのって、やっぱり姿隠すくらいなんじゃ』

 

 チェルシーへの説明が済み、ソーディアンたちが会話を交わしているのを聞いてウッドロウは沈黙している。

 そこでふと、クレメンテが切り出した。

 

『そういえば、お若いの。ウッドロウといったかの?』

「あ、ああ」

『儂はクレメンテじゃ。ファンダリアにはイクティノスがおったはずじゃが?』

 

 自己紹介を兼ねて仲間の行方を尋ねるクレメンテに対して、ウッドロウは沈痛な面持ちを浮かべている。

 

「……残念ながら、イクティノスは敵の手に渡ってしまった」

「敵の手に!? グレバムも、ソーディアンを使えるんですか?」

「たとえ資質持ちでなくても、向こうには神の眼があるんだ。ソーディアンが一本加わったところで、絶対的な戦力の差にそれほどの変化はない」

 

 これを聞き流せなかったのは、これまで共に旅をしてきた面々である。

 今までにないリオンの弱気ともとれる発言を聞いて、まずルーティが噛み付いた。

 

「何よ、それ。まるで負けるの前提みたいな言い方……」

「そうだよ。やってみなくちゃわからないじゃないか」

「ああ。確かにその通りだ」

 

 二人が言い募るその言葉を、リオンは否定することもなくすんなり頷いている。

 その素直すぎる態度に、やはり一同は驚愕した。

 

「リ、リオン? ええと」

「あの、何でもかんでも否定して頭から馬鹿にしてかかるクソガキが……ちょっとどうしたのホント!?」

「リオンさん、失礼を承知でお尋ねしますが……奇妙なものでもお食べに」

 

 マリーですら、言葉をなくしてリオンを凝視している。

 四者四様、それぞれの反応だが一貫して驚愕をしているその絵面に、彼は眉間に皺を寄せた。

 

「なんだ、その反応は」

「だってリオンが、俺たちの意見にケチつけないなんて珍し……」

「そうよ。いっつもあんたが頭ごなしに否定して、それにフィオレが仲裁に入って……」

 

 彼らは気付いただろうか。

 その一連の流れを、リオンもまた気づいていたということを。

 今はフィオレがいない。

 だから、話が進まなくなることをわずらわしく思ったリオンが言いたいことをあえて飲み込んで、先へ続けようとしたことを。

 

「そんなことはどうでもいい。やってみなければわからないのは確かだ。それでも、神の眼の可能性……危険性を理論的に考えた場合、グレバム対僕たちという構図は一気に逆転する」

「神の眼の危険性……わたくしたちがわかっているだけでも、魔物を量産し、意のままに操りますわね。それを目の前でされたら、確かにクレメンテたちの力をもってしても」

「こちらが疲弊させられるだけだ。勝算も何もあったものじゃない」

 

 そのことは、神の眼について予備知識のない彼らも承知のことだ。しかし。

 それを一瞬にして行い、あちらにも何の隙ができないわけがあるだろうか。

 

「そうされる前に仕掛けて、神の眼を使わせる余裕も与えなきゃいいじゃない」

「相手は王城、それも奥深くに閉じこもっているだろうな。僕たちが侵入して気付かれないわけがない。侵入に気付かれた場合、どうしても機先を制するのは不可能だ」

 

 冷静に考えればその通りだ。グレバムは、一同に追われていることを間違いなく自覚しているのだから。

 

「じゃあ、どうするんだよ」

「お前らの腰に下がっているソーディアンは飾りか。仮にも天地戦争を左右し、神の眼を操った天上王に勝ち得た兵器だぞ」

『実際に戦ったのは僕たちのオリジナルですけどね』

『……まったくだ』

 

 ソーディアン達の反応が鈍いのは、記憶が定かでないのか、あるいは思い出したくもない記憶なのか。

 おそらくは、後者なのだろう。

 

「そして……あんな奴に頼るのは心底業腹だが……」

「フィオレのことか?」

「そうだ。得体こそ知れないが、まず間違いなくグレバムも手品の存在は知らんだろう。決定打にならなくとも、不意をつくことくらいはできるかもしれん」

 

 話がフィオレのことに差し掛かった時点で、これまで黙って話を聞いていたチェルシーが「はい!」と挙手をした。

 

「どうしたんだい、チェルシー?」

「フィオレさんて、何者なんですか? さっきウッドロウ様の姿になった時は皆さん驚いていましたし、リオンさんも得体が知れない、なんて言ってるし。私も、スノードラゴンと戦った時はすごくびっくりしましたけど……」

 

 そのままスノードラゴンと戦った際の出来事を話し、こっそりとディムロスがその時の状況を補足する。

 何者なのかと尋ねられ、一同は閉口せざるをえなかった。

 

「何者なのか……? 隻眼の歌姫っていう、セインガルドじゃちょっと名の知れた歌姫なのよね。これは確実」

「セインガルド王国客員剣士見習いっておっしゃっていましたわね」

 

 ただしそれは、すべて神殿にて保護された以降の話だ。それらのどこにも、手品を扱える理由はない。

 最も、一応手品を扱える理由は一同に通達されているのだが。

 

「さっきウッドロウ様は、フィオレさんは少し思い出していることがある、っておっしゃっていました。皆さんには何か、お話してないんですか?」

「何にもないわ。フィリアなんか何回もそれとなく聞きだそうとしてるけど、いつの間にか話がそらされてるのよねえ」

 

 それについては、リオンに心当たりがある。

 知ってか知らずか、彼はぽそりとそれを口にした。

 

「……意図的に隠しているんだろうな。おそらく、アレが原因だろう」

「あれって?」

「セインガルドで存在やら事情やら広まり出した頃、あいつの身内を名乗る騙り屋が急増した。一時期は、連日それの対応に追われてかなり機嫌を悪くしていたからな」

 

 それで、実際の出自を明かすことに抵抗があるのかもしれないと、締めくくる。

 穴だらけではあるが事情を聞き、チェルシーはふむふむと頷いた。

 

「何となく、わかりました。話は変わるんですけど、皆さんはこれからどうされるんですか?」

「フィオレさんが帰ってくるのを待って、ハイデルベルグへ行くよ」

 

 すでにグレバムが、神の眼が王都にあるだろうということはフィオレより通達されている。

 それを聞いて、未だ寝台に横たわるウッドロウが当たり前のように言い放った。

 

「それでは私も同行させてもらおう。少なくとも君らよりは、ファンダリアの地理に詳しいはずだ」

「勿論、私もついていきます!」

「……どの道、チェルシーの実家はハイデルベルグより北だ。王都までは、同行を許してほしい」

 

 しかし勿論のこと。はいそうですか、行きましょうと答える人間はいない。

 唯一言い出しそうな人はといえば、純粋に相手の体調に気を配っていた。

 

「でも、お体が……」

「心配ない。少し疲れていただけだ」

 

 先程起き上がろうとしてひどくだるそうにしていた人間の台詞ではない。

 それでも、慣れない雪国での行軍に多少の不安は感じていたのだろうか。リオンは否を唱えなかった。

 

「僕の足を引っ張るなよ。こいつらだけでも、面倒が多いんだからな……」

「わかっている。精々、気をつけよう」

「ウッドロウ様が足を引っ張るなんて、そんなのありえません!」

 

 同行者の増加が決定したところで、思い出したように各自の自己紹介が始まる。

 あきれたようにその光景を眺めていたリオンだったが、ふと思い出したように、話が途切れたところでウッドロウに尋ねた。

 

「それで、この先どのような方法でハイデルベルグを目指すのか、考えはあるのか?」

「ああ。だが、それは彼女が戻ってきた後で……」

「いえ。そのまま話してくださって結構です」

 

 扉の外からそんな返答が寄越され、一同は扉に注目している。

 一瞬の間を置いて、扉を開いたのは雪だらけになっているフィオレの姿だった。

 雪色の髪もその面立ちも、間違いなくフィオレのものだ。

 

「ただいま戻りました」

 

 外で扮装を解いたのだろう。包帯ではなく眼帯を身につけた彼女は、微笑を浮かべてそう告げた。

 

「遅かったな」

「矢筒の補充と港に寄っていたら、ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十四夜——暖かくなった体=寒くなった懐「How much?」

 騒動を無事に治めて、一行はチェルシーとウッドロウを加えて旅立つ……はずが。
 今度はルーティが、意図せずいざこざの主犯となります。
 一ガルドを笑うものは、一ガルドに泣く! 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フィオレが仕入れてきた蟹をフィオレとマリーの合作で鍋と雑炊に仕立て、チェルシー達どころか一同が舌鼓を打った次の日のこと。

 幸いなことに、二人はすっかり体調を整えていた。

 

「ハイデルベルグへ向かうにあたって、二人も同行することになった」

「ウッドロウは因縁もあることですし、チェルシーの実家はハイデルベルグより北にありますからね。同行せざるをえないでしょう」

 

 この頃、当初は体裁を保ってウッドロウに恭しい態度を取っていたフィオレは本人の希望もあって普通に接するに至っている。

 現在は、大部屋に集まってこれから先のことを検討中だった。

 

「それで、ルートの話ですが」

「ああ。ここスノーフリアからハイデルベルグまでの道は二通りある」

 

 そう言って、ウッドロウは中央のテーブルに持参の地図を広げて見せた。

 ファンダリア全体を縮尺した地図の一点を指す。

 

「このまま西へ進み、ティルソの森を抜けてサイリルの街を越えるのが一つ目のルート」

「ティルソの森ですか……昨日あなたを追ってきた兵士たちが、森に本隊がどうたら言っていたんですよね」

「そう。グレバムの軍が展開しているため、こちらを進むのは非常に困難だ」

 

 そんな森を抜けてくるのは確かに至難の技だったろう。

 それは彼の、発見当時の様子から伺える。

 

「もうひとつはハイデルベルグの背後にそびえる山脈から街に直接潜入するルート。この街の北にある洞窟から凍結した川を遡り、ハイデルベルグの裏に回る」

「……進むこと自体難しそうですが、グレバムの軍に見つかることはない、ということでしょうか」

 

 凍った川を歩くなど、少なくともフィオレにはなかった発想だ。この国の人間でもなければそうそう思いつかないだろう。

 ただ、リオンは懐疑的な視線をウッドロウへ向けている。

 

「軍がいないと断言できるなら、何故そちらを使って逃げなかった?」

「地元の人間は、あの川を氷の大河と呼んでいる。その季節になれば川全体が凍りつき、毛皮のマントがなければあっという間に凍えてしまうほどの寒さだ」

 

 支度などに余裕が持てなかったからこそ、危険だがまだ可能性があるほうを選んだということか。

 

「ふん、通りだな。いいだろう。そっちで行く」

「となると、毛皮のマントとやらを人数分揃える必要がありますね……ルーティが着ているようなものでよろしいのでしょうか?」

 

 室内だから着てこそいないが、彼女が買ってきたと見せびらかしたのは上着ではなく、ふわふわの毛皮が裏打ちされた外套だった。

 意匠も肌触りもよく、ひどい軽装備の彼女にはちょうどいいものかもしれない。

 ウッドロウが頷くのを見て、フィオレは当然のようにその価格を尋ねた。

 

「ルーティ。それはいかほどで手に入れました?」

「ん、これ? 500ガルド! ちょっと高かったけど、たまにはね」

「よく言うよ。本当は5000ガルドだったのに、値切りにねぎ」

 

 装飾的な意味合いで毛皮がふんだんに使われているのに、安い理由がよくわかった。

 買い物に付き合って真実を知るスタンは、ルーティによってつま先を丁寧に踏みにじられている。

 無論のこと、個人によって体格は違うから合わせて買わなければならないだろう。

 一同は連れ立って宿を引き払った。

 

「ルーティの分はいらないから、少し経費が浮きそうですね」

「あのヒス女じゃあるまいし、そんなセコいことを考えるのはやめろ」

「節約は美徳です。お金持ちにはわからないかもしれませんが」

「流石フィオレ! どっかのお坊ちゃんとは大違いね」

 

 またもやじゃれあいが勃発しそうな雰囲気の中、ルーティが利用したという万屋に足を踏み入れる。

 カランカラン、とベルが鳴って、カウンターの座っていた女性が顔を上げた。

 

「いらっしゃいま──あ」

 

 奇妙な挨拶もそこそこ、女性はやおら立ち上がるとパタパタと足音の高く店内へと引っ込んだ。

 

「?」

「消耗品の買出しは済ませてある。防寒具だけ買うぞ」

 

 リオンはそう言うものの、店員がいないのでは試着もままならない。

 そこへ。

 

「──いらっしゃい」

 

 ドスの聞いた声が聞こえたかと思うと、先程女性が引っ込んだ奥から熊のような印象の大柄な男性店員が現われた。

 団体客だと交代する決まりでもあるのか、それともちょうど休憩時間だったのか。

 ともかく、こちらの用事を済ませなければ。

 

「毛皮のマントを七人分用立てたいので、試着したいのですが」

「ああん?」

 

 その、とても接客する気があるように感じられない返事を聞いて、フィオレはくるりときびすをかえした。

 

「諦めましょう。あちらさんに商売をする気はないようです」

「は、わかってるじゃねえか。そうとも、悪質な値切り連中に売ってやるもんなんざ何もねえ!」

 

 ──値切り。

 一同の視線が、ルーティへと向けられる。口笛を吹いて誤魔化す彼女の隣で、スタンが目を覆っていた。

 

「そういえば、5000ガルドの外套を500ガルドでって……」

「文句があるなら突っぱねなさいっての。何よ、ただの値切り交渉で涙目になっちゃって……それで他人に代わったってわけ? 根暗もいいところだわ」

 

 確かに文句があるなら自分で言うべきだが、それを言えない人間はけして少なくない。

 実際に何があったのかはわからないが、ルーティの態度からして彼の言い分も、最もだった。

 

「……仲間がご迷惑をおかけしましたね。お詫びに、そちらの言い値を受け入れましょう。言うだけ言ってみてくださいますか?」

 

 そういうと、店員は存外素直に毛皮のマントが並んだ一角へと案内してくれた。

 まずは一同試着して、それぞれ自分の防寒具を選びカウンターに並べる。

 その総額を店員に尋ねて、一同は言葉を失った。

 

「ごっ、ごまんごせんななひゃくガルド……!?」

「内訳は?」

 

 高すぎる、という誰かの呟きに、厄介なことをしてくれたな、とルーティにつっかかるリオン、更には店員にくってかかろうとするチェルシーを抑えて、その内訳を尋ねる。

 驚きもせず、さらりとそれを尋ねたフィオレに圧倒されてか。

 店員は一瞬言葉に詰まったかと思うと、すぐそれを口にした。

 

「まず、そっちのショートサイズが……」

 

 細かい価格を聞くに、元々の価格を十倍ほど釣り上げているようだ。

 詳細はどうあれ、ルーティが優れた交渉術で桁ひとつ値切ったことが起因していると思われる。

 とりあえず、フィオレは自分用にカウンターへ出した防寒具を横へ除けた。

 

「これで46750ガルドですね。これなら……」

「待て。これも除けろ」

 

 経費──五万程度の持ち合わせがあったフィオレが財布を出そうとしたところで、リオンが割って入ったかと思うと自分が選んだ外套を除ける。

 

「これで37800だ。節約は美徳なんだろう?」

「……いいんですか? 女性より更に脂肪の少ないあなたには、酷だと思いますよ」

「そういうお前だって、脂肪は少ないだろう」

「そんなことはありませんが、私はもともと買う気がありませんでしたから。こんな分厚いもの着たら動きにくくて仕方がありません」

 

 グレバムの軍はなくとも、魔物と出会わない可能性がないわけではない。もこもこした防寒具で遅れを取るわけにはいかないのだ。

 そのため、初めから細々とした防寒具を購入するつもりだったと伝えると。

 

「僕もそれでいい。動きにくくてかなわないのは同じだ」

 

 本人がいいと言っているのだ。それならその意志を尊重するべきか。

 本当に払うと思っていなかったのか、積み上げられた千ガルド札束に唖然とする店員を他所に、とっとと退店する。

 何ともコメントしがたいか、黙々とそれぞれの防寒具を着込む面々を前に、フィオレは感覚が薄くなってきた耳を擦った。

 

「聞いての通りです。これから私とリオン様は、マントに変わるような防寒具を仕入れて参りますので、皆は宿の酒場にでも……」

「あ、じゃあわたしお供します! 毛皮のマントはここだけしか扱ってないんですけど、マフラーとかミトンとかなら覚えがあるので」

 

 地元でもないのに何故それを知っているのかはわからないが、ともかくそれは心強い。

 そのまま案内を頼むと、おずおずとルーティが挙手をした。

 

「ルーティ?」

「……あたしも行く。その……悪かったわね。どうせ二度と来ないだろうと思って、やり過ぎたわ」

 

 お詫びに浮いた4500ガルド内でなら代金を出す、と言い出したルーティを見て、フィオレは思わずリオンと顔を見合わせた。

 

「銭ゲバヒス女が金を出すとは……明日は世界の黄昏か」

「どーゆー意味よ! それに、ダレがヒス女なのよ!」

『銭ゲバは否定しないのね』

『坊ちゃんそれ、フィオレのパクリ……』

 

 確かにフィオレは、以前リオンにそう言ったことがある。

 偶然か意図なのか、とにかく一同と別れてチェルシーの先導に従った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 彼女が案内したのは、毛皮のみならず様々な防寒具を取り扱った専門の店舗である。

 万屋とは違い、店内のいたるところに毛皮の防寒具が展示されていた。

 そして、店員の態度も恭しい。

 

「どうぞ手に取ってみてください。ご希望なら試着も」

 

 見た目が華やかなものから堅実なものまで。その言葉に甘えて、様々なものを試した。

 

「フィオレさん、こういうのどうですか?」

「あたしも一品買っていこうかしら……」

 

 手持ち無沙汰な少女二人もまた、店内を見て回っている。

 やがて、毛皮のマントを補う防寒具の購入を決めて試着をした。

 

「外に出てみたいんですが」

「それでしたら、こちらの中庭へ」

 

 絶対断られるだろうと思っていたのだが、そう言い出す客が多いのか店員は慣れた様子で扉を示した。

 そこは敷地内の一角らしく、中庭というには殺風景だが、防寒具の性能を試すにはまったく支障がない。

 むしろ、支障がないよう殺風景になっているのかもしれなかった。

 

「私は決めました。リオンは?」

「ああ。僕もこれでいい」

 

 首周りの防寒も補える毛皮のケープに、腰回りから膝あたりまでを覆う毛皮のパレオ。

 氷の大河とやらについてから着けるつもりにつき、フィオレはそのまま包んでもらった。

 リオンも似たような装備だが、パレオではなく巻きつけるタイプのレギンスを買っている。

 

「ミトンとかイヤーマフは要らないんですか?」

「その言葉、お前にそっくり返す」

 

 ミトンは紫電の柄と相性がよくないためすっぽ抜けるかもしれず、イヤーマフは耳を覆ってしまうため、周囲の物音が聞こえなくなる危険性がある。

 戦い方が似ているため、そこはどうしても被ってしまうのだろう。

 

「──4200ガルドですね」

「はい」

 

 財布を取り出そうとして、ずいっ、とルーティが割ってくる。そのままぽん、とカウンターに小銭混じりの代金を置いた。

 

「ありがとうございました」

「……大切にしなさいよー。あたしの4200ガルド」

「そうします」

 

 そこはかとなく切なそうに訴えるルーティに頷いて、帰路へつく。

 一同と合流し、さあハイデルベルグへ出立というその時。

 

「ところで、この二人はどこにいてもらう?」

「えーと、二人とも弓使いなんですよね。じゃあ前衛の後ろ、中衛の前に立っていただきましょうか」

 

 交戦時の隊列の話になって、二人の位置を決定する。

 ここならば、前衛の支援に集中でき、中衛たちの攻撃の邪魔にもなりにくい。

 そんな時、ふとフィオレはチェルシーから話しかけられた。

 

「ねえ、フィオレさん。あの、ウッドロウ様になりきった時のことなんですけど、あれって……」

「手品の一種ですよ? 奇術でもいいですが」

「手品とか奇術とか、それで他人になりきれるものなんですか? いっそ魔法とか言ってくださった方が、わかりやすいんですけど……」

「じゃあ隠し芸ということで」

 

 至極最もなことを抜かすチェルシーだが、それはフィオレにとって真面目に答える理由に当たらない。

 適当に流して、フィオレは彼女から離れたしんがりに立った。

 

「さ、行きましょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 





※作中の騒動は創作です。ゲーム中、毛皮のマントは一律895ガルドで購入することができます。(PS版)七人分だと6265ガルドですね。


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第九十五夜——雪原の道中歌


 スノーフリアを出て、氷の大河へ到着。
 この場所では毛皮のマントを装備していないと、半歩歩いただけで最大HPの五パーセントダメージが進呈されます。(PS版)なんという理不尽。
 20歩も歩けばHPも尽き、死亡するというとんでもない場所です。
 ウッドロウ達がここを通りたくなかった理由も、お察しというところでしょうね。何せ、歩いただけで凍死する場所ですから。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スノーフリアの街を出て、氷の大河とやらを目指し北上する。

 

「どこもかしこも、雪が積もっておりますのね。これが銀世界なのですか……」

「この国なら、オーロラとかも見れそうですね」

「オーロラ? 何それ」

「極寒世界のみ見られる大気の発光現象のことですわ」

 

 天高くに現われる、七色以上の色を宿したカーテン状の薄光。

 その地方の人間でもなければついぞ拝むことができないだろうその現象に、フィリアは思いを馳せていた。

 フィオレも、この世界のオーロラは見たことがない。

 東から昇り西に太陽が沈むこの世界なら同じようなものである可能性が高いが、それでも楽しみなのは言うまでもない。

 

「オーロラですか。そうですねぇ、いいお天気なら今夜辺り見れるかもしれませんよ」

「そうなのか。それなら見てみたいな」

「わたしも、こっちに来たことはそれほどないから断言はできないんですけど」

 

 少女たちの楽しげな会話が、雪の世界に吸い込まれていく。

 天候に恵まれたせいか現在は晴天で、周囲の見通しもよかった。

 至極和やかな道中ではあったが、ただ一人始終イライラしている人間がいる。

 

「まったく、能天気な連中だな……」

「平和でよろしいことではありませんか。あなたみたいにずぅっとイライラしているよりは、よっぽどマシです」

 

 これだけ積もっていると雪だるまがいくらでも作れそうだ、とはしゃぐルーティに呆れたリオンが、ぶつくさ呟いた。

 それを聞きつけて揶揄すれば、リオンはキッと視線を鋭くフィオレにつきつけてくる。

 

「あのハイデルベルグが落ちているんだぞ! これからグレバムを倒し、神の眼を奪い返すというのに呑気すぎる!」

「そうですね。これから嫌でも血塗れになるんです。自分と他人の血で……だから今くらいは、心穏やかでいさせてあげたくありませんか?」

 

 先導するウッドロウら、そしてスタンたちとも心なしか距離を置いて声を潜めた。

 少なくとも、聞いてほしいことではなかったからだ。

 

「……」

「私はもちろん、あなたにもそうしてほしいと思いますよ」

 

 僅かにでも一理あると思ったのだろう。リオンの反論はない。

 むすっ、と不機嫌な顔を隠さず黙りこくる少年の顔を、フィオレはひょいと覗き込んだ。

 

「そう独りで気負わないでください。何とかなる──いえ。必ず何とかしますから」

 

 ぷいっ、と顔を逸らしてしまったリオンだが、否定しないということは了承したということでいいだろう。

 安心したように再び行軍を始めたフィオレだが、ふと視線に気付いた。

 見やればウッドロウが、チェルシーがマリーとの料理談義に花を咲かせているのをいいことに、こちらへと近づいてくる。

 

「いかがなされましたか?」

「大変遅くなってしまい、至極恐縮だが……いつぞやの記念式典時は賊より護ってくれてありがとう。そして、フィオレ君にはティルソの森でもスノーフリアでも助けられたな」

 

 重ね重ね礼を言われて、フィオレは一度だけ、瞳を瞬かせた。

 しかし、それは一瞬のこと。普段の猫かぶりに更に猫を追加し、謙遜を口にする。

 今精神的に余裕のないリオンに喋らせたら、何を言い出すかわからない。

 

「記念式典の際は、我々に課せられた任務を遂行したまでです。むしろ、不埒者の侵入を見逃したセインガルドの警備の甘さを、どうか許してください。あなたが王都を追われたのも、グレバムの造反を、神の眼の持ち出しを看過したセインガルドにあります」

「でもさあ、ファンダリアの王子に恩を売るなんて、なかなかできることじゃないわよ」

 

 だからあなたが感謝の念を抱く必要はない、と締めにかかるも、ルーティが混ぜっかえしてくる。

 しかし、こちらにまったくの非がないわけではないのだ。

 

「それ以前に、私とスタンは彼らに保護されていますからね……あそこに民家がなければ、凍死していたと思います」

「例え私がいなくとも、アルバ先生なら間違いなく君たちを助けていてくれただろう」

「スノーフリアの一件に関しても、大変な失礼を働きました。少年を助けて兵士の注意を引くために、騙りなどという卑しいことを」

「王族の品位を貶めたわけでもなく、品行方正な演技だったと思います。しかし、どのようにしてあのような……」

 

 やっぱりそう来たか。

 手品です、の一言で切り捨てて、ひょいとチェルシーを見やる。

 マリーとの料理談義に花を咲かせていた少女だったが、先程からこちらをちらちら……正確にはウッドロウを見ていたのは知っていた。

 

「マリーも言っていましたが、チェルシーの髪飾りって可愛いですよね。どこで求めたものなんですか?」

「えっ!? あ、これはですね……小さい頃両親がくれたものなんです。ハイデルベルグで買ってきた、って言ってたかな?」

 

 そこは、ウッドロウからの贈り物と言ってほしかった。冷やかせたかもしれないのに。

 

「フィリアさんの髪飾り、すごく素敵ですよね。やっぱりセインガルドの首都、ダリルシェイドで買ったんですか?」

「これはフィオレさんが、わたくしの誕生日に、とくださったものですわ」

「フィリアのは、ストレイライズ神殿の前にあるバザーで買ったんですよ。流れの商人が、アクアヴェイルで仕入れた一品だ、って言ってました」

 

 現在、セインガルドとアクアヴェイルは国交断絶状態にある。商売取引上は、カルバレイスを経由しての輸出・輸入が可能だ。

 しかしその商人が広げていた品々は装飾品だけではなく、熱帯地方であるカルバレイスを経由したとは思えない食品の類がいくつもあった。

 髪飾りにどうだ、と売りつけてきた商人相手にそれを尋ねると、しどろもどろと言葉に詰まったため、アクアヴェイルに通じている密輸業者ではないかと思われる。

 珊瑚製の髪飾り、それも滅多に手に入らないアクアヴェイルの品ともなると、当時のフィオレでは買えないほどの値段だった。

 もう少し安くならないかと交渉を試みたところ、商人は快く応じてくれたため、現在フィリアの髪飾りとして機能している。

 そこで、ルーティがふと思い出したような顔をしてフィオレに尋ねてきた。

 

「そーいえばフィオレ。あんた結局ジョニーとはどうなったわけ?」

「どう、とは?」

「とぼけちゃやーよ。あたしたちが行った後、なかなか戻ってこなかったじゃない。何かあったんでしょ?」

「紫電を返し損ねました。すべてが終わったら返しに来いと。私がいつ死ぬかもわからないのに、呑気な方でしたねえ。そこが彼の魅力なのでしょうが」

 

 どうしてそこでジョニーが出てくるのかさっぱりわからないが、多分アクアヴェイルで思い出したのだろう。

 質問には完璧に答えたというのに、妙に不自然な笑顔でルーティは「そ、そう……」などと返している。

 そこへ。

 

「あの、フィオレさん。ジョニーさんのことをどう思ってらっしゃるんですか?」

「やさしい人でしたね。あと、いい男だと思っていますよ。幸せになってほしい、とも。まあ、あの性格ならいい女の一人や二人、すぐものにできるでしょう」

 

 彼が口にした大言壮語、実行できるといいですねえ、と遥か海の先を見やる。

 ジョニーに劣らず飄々としたその態度に、ついにフィリアが声を荒げた。

 

「フィオレさん! こういった経験に疎いわたくしですら気付いたのに、あなたが気付かないとは思えませんわ。ジョニーさんのお気持ちを……」

「ええ、気づきましたよ。私の顔を見て以降、私を故人と重ねる忌まわしいあの目なら」

 

 突如として底冷えしたフィオレの声音に気付き、びくっ、とフィリアが肩を震わせる。

 表面上はにこやかでありながら、すでにフィオレの眼は一切笑っていなかった。

 

「前にも言いましたが、私はどうも誰かと間違われることを嫌う傾向にあるようです。それでも構わないなら、どうぞ続けてください」

 

 どれだけフィオレを不機嫌にしても、彼女が構わないわけがない。

 絶句してしまったフィリアを前にして、フィオレは小さく息を吐いた。

 

「あとね、フィリア。ジョニーの気持ちはジョニーにしかわからないと思っています。私達がどんな邪推をしようとね。だから、くだらない推察はやめませんか?」

「は、はい……」

 

 言外にこの話はおしまいだ、と告げられ、フィリアは頷くしかない。

 フィオレの怒気が緩んだのを知って、ルーティがふうっ、とため息をついた。

 

「フィオレー。ことある毎にマジギレするのやめない? そりゃからかったあたしたちも悪いけど……」

「私の怒りを脅威と感じなければそれでいい話でしょう」

「……実際脅威だろうが。ヒス女とは比べ物にもならん」

 

 珍しく余計な一言を呟いたリオンに軽くデコピンを差し上げ、フィオレは気を取り直したように前方を見やった。

 

「北にある洞窟から……とおっしゃっていましたね。あれがそうなのでしょうか」

 

 視界が良好だからこそ、それらしきものが見えたのだろう。遥か彼方先、山脈がそびえる胸壁にぽっかりと開いた洞穴らしいものが見える。

 

「明かりの準備は要らないよ。洞窟自体はそれほど大規模なものじゃない」

「わかりました」

 

 カンテラの準備をしようと思って、荷袋を漁ろうとするフィオレの目論見を察知したウッドロウに助言をされる。

 すぐさま手を止めて、その分足を速める。

 雑談をやめて意識的に速度を上げた一同は、それから間もなく洞穴前へとたどり着いた。

 

「本当だ。すぐ先は開けてる」

「ただ、あまり人の立ち寄らない場所だからな。モンスターの生息率が高い。気を引き締めていこう」

「僕に指図するな」

 

 とりあえず、水先案内人の指示には素直に従った方がいいと思う。

 洞窟を抜けた先は、山脈のふもとだった。しばらく道なりに進んでいくと。

 

「何よこれ、邪魔臭いわね……」

 

 一体何が原因で発生したのやら。狭まった道のど真ん中に氷塊がこんもりとそびえている。

 周囲の木々から滑り落ちた雪がそこにとどまり、やがてここまでの大きさに育てたというのがありがちだが……

 ルーティが幾度か足蹴にするも、氷塊は砕ける素振りも見せない。

 

「スタンさん、ディムロスの炎で溶かせませんか?」

「気にすることはない。ファンダリアではよくあることでな」

 

 そういって前へと出たのは、ウッドロウである。

 彼は一枚のレンズを取り出したかと思うと、不意に拳をかざして見せた。

 瞬間、一条の光線が放たれ氷塊が蒸発する。

 

「!?」

「なんですか、それ?」

「ソーサラーリングという。レンズを消費することで、熱線を放つことができるんだ」

 

 確かにそれは、雪かきなどで大変重宝しそうである。しかし、そんなものが普及したら放火が頻発しそうな威力だが。

 思ったことを正直に話すと、彼は苦笑いを浮かべた。

 

「ああ。家の雪かきをしようとして誤って火事を引き起こした、というケースが起こったせいか、すぐにオベロン社は回収してしまったよ。私は旅が多かったから、当時は回収されたことを知らなくてね」

 

 だから今も所持しているということか。

 オベロン社の不祥事についてはリオンも知識があったのか、そういえば、と呟いた。

 

「そういえば、ファンダリアでとあるレンズ製品の自主回収を敢行していたな。今は雪かき程度しかできないよう調整され、更にレンズ消費の必要がないものが配布されたが」

「そういえば、君たちはオベロン社総帥に雇われている身でもあったな」

 

 詳しいな、と言いかけてウッドロウは納得している。

 ここへ至るまで、当初イライラしているばかりだったリオンの心境に変化があったようだ。

 何があったのかは知らないが、冷静になってくれてよかった。

 比較的和やかな雰囲気の中、山脈に生息し縄張りに侵入された怒りでか襲いかかってくる魔物と交戦を重ねつつ、道を進む。

 そして、橋を渡り小規模な崖を降りた先。

 

「すごい……!」

「見事なまでに凍ってるわね」

 

 先程架かっていた吊り橋から垣間見えたが、通常は大河であろうそこは氷上の世界と化していた。

 雪ではなく氷が一面に広がっているせいか、それまでは厚着だけで平気だった体に悪寒が走る。

 

「ううー、寒っ……!」

「毛皮のマントを着ていても、こんなに寒いのですね」

「なかったら、もう凍死できるわね」

 

 かじかむ手で荷袋を漁り、この時のために購入しておいた防寒具を取り出し、速やかに着込む。

 隣ではリオンも、しきりに手を擦りながら手早く防寒具を身につけていた。

 

「ところで、ここは本当に河なんですか?」

「見ればわかるだろう、そんなこと」

「じゃあどうして、河のど真ん中に木が立っているのでしょうね……」

 

 フィオレが視線で指すその先には、確かに数本の樹木が大河のど真ん中にそびえている。

 通常、水が流れている河ならば水流に土を持って行かれ、下手をすれば根っこごと下流へ流されるだろう。

 チェルシーですら答えの出ないその疑問に頭を捻りつつ、防寒具の上から外套を着込む。これで大分マシになった。

 

「えーと、河を遡るってことは滑って移動するんですか?」

「ああ。滑り方だが、主に重心の移動が大切になる」

「わたし、スケートって久しぶりです♪」

 

 流石に国民にとっては、身近な遊戯であるらしい。

 チェルシーは自力で滑って感覚を思い出し、ウッドロウは優雅に手本を見せている。

 そんな中、特にチェルシーがすいすい滑っているのを見て好奇心が刺激されたのだろう。

 スタンがよいしょ、と天然のアイスバーンに挑戦した。

 しかし。

 

「よっ……って、うわ!? おわあっ!」

「スタンさん!?」

 

 彼は直立したまま滑って行ったかと思うと、河の真ん中に生えていた樹木にぶつかって、止まった。

 震動で、樹木に積もっていた雪が彼に降り注ぎ、見事なアイスマンが誕生する。

 

「冷たーっ!」

「あっはははは、何やってんのよ、鈍くさいわね」

 

 ルーティは大笑いしているものの、実際はどうなることやら。

 かくいうフィオレもあまり自信はなく、極寒の世界の冷や汗はやはり冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十六夜——天然アイスバーンの罠~少年剣士たちの失態

 氷の大河を移動ちう。今度は騒動というか、アクシデント。リオンとスタンがはぐれます。が、すぐに合流します。
 スタンとリオン。これまであえてピックアップしませんでしたが、ウッドロウが加入するまでは男同士ということで二人とも結構お喋りします。主にスキットで。
 リオンは基本冷たくて、スタンはあしらわれてばっかりですが……たまには仲良さげな二人もいいですよね。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 氷の大河を目前にして、一同はやむなく足止めを受けていた。

 それはそうだ。一同の大半はこれまで、雪国での生活とは無縁だったのだから。

 

「うぁたっ!」

「きゃああっ!」

「……っと!」

 

 ウッドロウ及びチェルシーの指導の下、まず大河の滑走が可能となったのはマリーである。

 当初こそ戸惑っていた彼女だったが、今やウッドロウたちが目を見張るほど上達していた。

 彼女がこの国の出身である要素が、またひとつ浮き彫りとなっている。

 

「まったく、早くハイデルベルグへ行かなければならないというのに……」

「それはあんたが言える文句なの?」

 

 大河製のアイスバーンは無論のこと表面の凹凸が激しく、姿勢を一定に保てない。

 そのため、そもそも運動能力に秀でていないフィリアはおろか、前衛を努めるほど運動神経がいいはずのスタンをはじめ、ルーティもリオンも、そしてフィオレさえも、指導教官の出した試験に悪戦苦闘していた。

 試験内容は、先程スタンがぶつかった樹を一周し、戻ってくること。

 前方移動と曲線移動、細やかな重心移動が要求されるこの滑走ができれば、問題なくハイデルベルグへ向かうことができるという。

 

「……よいしょっと」

「フィオレさん、樹に触っちゃ駄目ですよ!」

「使えるものなら親でも使え、とはよく言ったものではありませんか」

「屁理屈こねたって駄目です。曲がりたい時に都合よく樹なんて生えてないんですから」

 

 チェルシーに不正を指摘されたフィオレが、ちぇ、とスタートラインへ戻る。

 すでに単純な前方、後方、曲線移動こそ可能としていたフィオレだが、周回だけは幾度も失敗していた。

 旋回しようとしてはバランスを崩し、何とか持ちこたえる。

 先程から行っては転びかけ戻る、その繰り返しだ。

 

「うーん……」

 

 おそらく、何かが決定的に間違っているのだろうと思う。

 だが、その間違いが何なのかさっぱりわからない。

 そこで。

 

「フィオレさん、立ってるだけじゃどうにもならないですよ!」

「チェルシー。お手本を見せてください」

 

 考えたところでわからないのなら、熟練者の動きを真似るだけだ。

 お手本? と少女が首を傾げたところで、未だに真っ直ぐ立てないフィリアの指導に当たっていたウッドロウが滑り寄ってくる。

 

「私が滑って見せよう。それでいいかな?」

 

 熟練者で人間ならそれでいい。

 そう答えれば、彼はフッ、と笑みを浮かべてスタートラインに立った。

 その間にフィオレは、邪魔にならず尚且つじっくり観察のできる場所へ移動する。

 そうこうしているうちにウッドロウが手本を始め──

 

「これでいいかな?」

「ありがとう。大変参考になりました」

 

 礼もそこそこ、彼が行っていたように意図的に体を動かしてみる。

 ひどく不自然に見えた行為だったが、どうもこれが緩やかな重心移動を兼ねていたようだ。

 

「フィオレさん、合格です!」

 

 チェルシーのお墨付きをもらってから、フィオレは何度も直立に失敗しては座り込んでいるフィリアの手を掴んで無理やり立たせた。

 

「フィオレさん、何を……きゃあっ」

「フィリア。ここは地面です。地面なら直立できるでしょう」

 

 先程から氷上であることを意識し過ぎてころころ転んでいる彼女の腰をがっちり抱き、ともすれば派手に転びそうなフィリアの姿勢を無理やり正させる。

 

「地面ではありませんわ。地面はこんなに滑りません」

「なんで滑ってるんだと思いますか? 滑っているのは地面ではないからではなくて、あなたの足が動いているからです」

 

 及び腰にがくがく震えていた彼女の足が、僅かに震えを失くす。

 言い聞かせるように、フィオレは囁きかけた。

 

「私が支えてるから絶対転びません。少し、動いてみましょうか」

 

 かくかく頷きながら、ゆっくりと足を前へ出す。

 それだけで右足と左足が正反対の方向へと導かれるフィリアを支えて、フィオレは辛抱強く指導を始めた。

 見やればリオンやルーティはウッドロウが、どうしてもその場で停止ができないスタンをチェルシーが手本を見せている。

 マリーは、時折滑ってはボーッと景色に魅入るばかりだ。

 ──結局、一同が満足に移動できるようになったのは半日経過してからのことである。

 

「やれやれ、手間取ったな」

「いやまったく」

 

 日は傾き出しているが、急げば日が落ちる前までに大河を遡り、ある程度ハイデルベルグ付近まで距離的には近づけるという。

 不安がなかったわけではないが、気が急いていたこともあって、一同は前進を決定した。

 一応滑れるようになったとはいえ、まだまだ不安の残るフィリアと手を繋いで滑る。

 先導役は道を知るチェルシー、しんがりは誰がミスをしてもサポートに回れるよう、ウッドロウである。

 チェルシーの後ろにはマリーと手を繋いだルーティらにフィオレら、続いてスタン、リオンという、珍妙な行進だった。

 

「眼鏡が吐息で、曇ってしまいますわ」

「我慢してください。今止まったらあっという間に置いてけぼりですよ」

 

 練習ではありえなかった長距離の滑走に、苦戦している最中。

 黙々と進んでいたスタンだったが、ふと零した呟きをリオンが耳ざとく聞きつけていた。

 

「……キレーだなー……」

「何がだ」

 

 一方で、ほとんど無意識の呟きだったのだろう。

 思わぬ返事を聞いたスタンがびくっと身体を震わせた。

 

「き、聞いてたのか」

「言いたくないなら別にいい」

「そ、そんなことないけど、ほら、雪だよ」

「フィオレを見ながら雪を連想したのか。回りくどい奴だな」

 

 この国なら、雪なんて何処を見てもあるだろう、などと抜かす。

 図星をつかれて、スタンは気まずそうにリオンを見やった。

 

「……フィオレさんて、綺麗だよな」

「お前、あんなのが好みなのか?」

「あんなのってなんだよ」

 

 よもや同意が聞けるなどと思っていなかっただろうが、それでも言い草にカチンときたのだろう。

 スタンはムッとしたように尋ね返している。

 

「あんなのはあんなのだ。見た目ばかり良くても、中身が胡散臭くてはどうしようもないだろう」

「……リオン、本当にそう思ってるのか?」

 

 どうせ小うるさい反論が返ってくるだろうとばかり思っていたリオンは、これを聞いて思わず彼に視線を寄越した。

 隣を滑るスタンは、あくまで真剣にそれを尋ねている。

 

「──当たり前だ」

「そっか。リオンはフィオレさんのこと好きだとか、そういうんじゃないんだな」

 

 心底安心したように、しかしほんのり頬を染めて頭をかくスタンのその様子を見て。

 彼の想いに気付けないほど、リオンは鈍くはなかった。

 彼もまた、別の女性に同一の想いを抱いているから。

 

「……物好きな奴だな。バツイチで、記憶喪失のくせに前の旦那を忘れてもいない女のことなんか」

「そりゃショックだったけどさ、でもフィオレさんらしいって思った。一途な人じゃないか」

「出自も正体も、謎だらけだぞ。眼帯の下も。実は人間ではなかったと言われても、僕は驚かん」

「もちろん知りたいけど、フィオレさんが話してくれるのを気長に待つよ。無理やり聞き出したって、嬉しくないからな」

「人を殺しても平気な、何も感じていないような女なのにか」

「それは勝手な思い込みだろ。そんなのフィオレさんに聞いてみないとわからないさ」

「お前より腕が立つんだぞ。下手をすれば、自分より弱い男は男として認めないとか言いかねない」

「俺がもっともっと強くなればいい話じゃないか」

「……怒ると怖いぞ」

「知ってる。でも、俺にとってはリオンが怒ったって、ルーティが怒ったって怖いよ」

 

 どこまでも前向きなスタンの言葉に、リオンはついに言葉をなくした。

 そこで、スタンがしみじみと洩らす。

 

「でも、だからかな。リオンがうらやましいよ」

「?」

「そうやって。俺にはほとんど思いつかないフィオレさんの悪いところを挙げられるくらい、フィオレさんのことを知ってるリオンがうらやましい」

 

 ──彼が何を言っているのか。リオンは、ほとんど理解することができなかった。

 その場でできたことといえば、ただ、彼の言葉を繰り返すだけ。

 

「……知ってる? 僕が、あいつのことを?」

「胡散臭いとか何とか言う割にはさ。付き合い長いからかな? 俺たちよりはずっと知ってるだろ。それだけフィオレさんと、なんだかんだ過ごしてきたって事じゃないか」

 

 屈託のない笑みを浮かべて、それが少しうらやましい、と締めくくる。

 視線は自然と、フィリアのサポートに徹しつつ滑走するフィオレに向けられた。

 この旅が始まる以前まで、常に冷静で、淡々としていて。

 魔物だろうと人だろうと、何を斬ろうが眉ひとつ動かさない。

 取り乱すことこそあっても、それはほんの一瞬のこと。

 ミスらしいミスもせず、時に人形のような印象から不気味さすら覚えるフィオレしか知らなかった。

 初めて感情をあらわとし、暴走したのがストレイライズ神殿手前でのことである。

 その後、時を共にするたびにリオンが知る彼女は変化した。

 否、それまで表に出てこなかった本来のフィオレが、やっと顔を出しただけなのか。

 半年近く同じ屋根の下で暮らし、共に仕事を重ねていても──リオンやシャルティエでは一切見ることがなかった顔。

 仮面を被っているような彼女しか知らなかったのに。

 果たしてそれを、知っているなどと言えるのか。

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

 そこまで考えをめぐらせて、唐突に正気に返る。

 リオンにとってフィオレは自分の部下。

 たとえ剣の師であっても任務においては自分の監督対象だ。

 なぜそんな、取るに足らない存在に振り回されなければならないのか。

 それよりも今は任務だ。

 一刻も早くハイデルベルグに到達し、グレバムから神の眼を奪い返す。

 それに尽きる。

 胸の奥の鈍い痛みから意識をそらし、これからのことを憂えていた。

 しかしそこへ、スタンのおしゃべりが介入する。

 

「でも、フィオレさんって何かジョニーさんと仲よかったよな。この旅が終わったら会いに行く、みたいなことも話してたし……」

「借り物を返しにいくんだろう」

「うーん、俺も一緒に行こうかなあ? ジョニーさんにもフェイトさんたちにも会いたいし、あの甘味っていうのも美味しかったし……」

 

 まだハイデルベルグにすらたどり着いていないのに、呑気なものである。

 リオンは鼻で笑って斜に構えた。

 

「あんな甘ったるいもの、僕はもうお断りだ」

「俺、フィオレさんが飲んでたあの抹茶っていうのも飲んでみたいんだよ。お茶がけっこう美味しかったから、あれもいけるんじゃないかなあ」

「どうだか。フィオレも少し顔をしかめていたぞ」

「……みなさーん! もう少し行った先で……!」

 

 珍しく話に花を咲かせる男性陣だったが、そのせいで前方から放たれた一言にまったく気付いていなかった。

 

「フィオレさんも? でも、飲み干してたぞ」

「菓子を食べて甘ったるくなった舌を正常に戻したんだろう。あれだけではそれほど旨くもないんじゃないか」

「あー、なるほどなー。わらびもち、って言ってたっけか。食べてみたいなー」

 

 一同が進んでいた先は、大河の行きつく先ではない。

 ハイデルベルグ付近まで河を遡り、適当なところで上陸するというものだ。

 そのため、先導するチェルシーは先立って警告し、ルーティらもフィオレらも問題なくそれに従っている。

 しかし、フィオレをタネに珍しく盛り上がっていた二人は、そのまま支流を進んで行ってしまった。

 

「スタン君、リオン君!?」

 

 ウッドロウが警告するも、それなりの速度で滑っていた二人には届かない。

 彼らの背中はあっという間に遠ざかった。

 異常を感じて全員が立ち止まるも、すでに二人の姿は枯葉より小さくなっている。

 この距離で呼び止めようと不可能なのは、わかりきっていた。

 

「ちょっと、どうしちゃったのよあの男どもは?」

「後ろから見ていて、何やら盛んに話をしていたが……」

「それで警告に気付かなかったのでしょうか」

 

 完璧主義に近い理想を持つリオンにして、信じられない失態である。

 リオンがスタンと揉めることもなく、長話をすること自体フィオレには信じがたいことだったが、驚いていてもどうにもならない。

 

「……気付くまで放置して、ここまで引き返させましょうか」

「それは難しいな。それに、もう陽が落ちかけている。多少王都から遠くなってしまっても、ひとところに固まっていた方が安全だろう」

 

 雪原用野宿装備は、一同が手分けして運んでいる。

 無論スタンもリオンも荷物の一部を担いでいるため、どちらが欠けてしまっても野宿は困難なものになるのだ。

 

「ご迷惑をおかけしますね」

「何、気にすることはない。さあ、追いかけよう」

 

 そうして、一同は再び氷の大河の滑走を始めた。

 しんがりはともかく、先導者がいなくなったのをリオンが気付くのは早く、すぐにでも合流できるかと一時は思えた。

 しかし、その場に停止するのが苦手だったスタンは行き過ぎたという事実に混乱してしまい、そのまま滑走を続けてしまっている。

 それを総出で追いかけているうちに陽は暮れ──気付けば一同は、ハイデルベルグを遥か彼方へと見やっていた。

 

「……こいつが、くだらんことを話しかけてくるから……」

「俺のせいかよ!?」

「どっちが悪いでもありません。どっちも、悪いんですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十七夜——失われた記憶の行方

 氷の大河は一応抜けて、一行は成り行きでサイリルの街へ。
 かなり辺境です。どのくらい辺境かというと、プレイ中一度も行かなくてもストーリー進行に差し障りがないくらい。
 ──そして全国のマリーファン、お待たせしました!(笑)
 今回は徹頭徹尾、マリー主人公回となっております! 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 氷の大河を滑りすぎ、気付けばハイデルベルグは遥か遠くにそびえている。

 どうにか合流した一同は、とにかく現在位置を確認しようと奮闘していた。

 

「あっちにハイデルベルグがあるんですよね。今は影も形もわかりませんが」

「そのはずだ。しかし、急に天候が悪くなってきたな……」

 

 方角だけは確認するものの、陽が暮れて周囲は暗闇に包まれつつある。

 昼間はあれだけの晴天に恵まれていたにもかかわらず、空は曇天に覆われていた。

 

「……まずいな。この分だと、本格的に降り出すかもしれない」

「ということは、野宿をすると生き埋めになるかもしれないんですか」

 

 かなり深刻そうなその様子からして、野営用テントを使ってもそうなる可能性が高いことがわかる。

 

「この辺りに山小屋のようなものはないんですか? 猟師さんが使うような」

「猟師小屋のことかい? ないことはないが、グレバム軍に接収されていると思われる」

「それじゃあどーすんのよ!? このまま遭難しろっての?」

 

 一番いいのは、氷の大河を目指した際、通過したあの洞穴のようなところを探すことだろう。

 しかし今は山脈から遠く離れてしまっている。発見できる可能性は低い。

 そんな中、一人離れたところでぼんやりと周囲を見回していたマリーが、唐突に歩き出した。

 

「ちょっと、マリー! どこ行くのよ!」

「──明かりが見える」

 

 ぽそりと呟いた彼女の行く先に眼をこらす。

 確かに、暗闇が濃くなるにつれて明かりがぽつぽつと灯されていくのがわかるが、その正体は判別できない。

 街の明かりなのか、さもなくばグレバム軍が野営中か。

 

『ルナシャドウ。あの明かりが何なのか、わかりますか』

『……街……』

 

 普段ならシルフィスティアに語りかけるところ、現在は夜。

 彼女の視界を借りたところで、夜目は効いても暗視ができないフィオレでは意味がない。

 そのため、この闇を司るルナシャドウに尋ねたのだが……相変わらず話し方が淡白だ。

 

「マリーが行こうとしている先に、集落みたいなものはありますか?」

「あるとするなら、サイリルの街だな。ティルソの森を抜けた先、スノーフリアとハイデルベルグを繋ぐ拠点だ」

 

 それはつまり、グレバム軍によって占拠されている危険性が高い。

 それでも、状況を考えるならば選ぶのはこちらだ。

 

「背に腹は変えられません。これ以上天候が悪化する前に、街へ入りましょう」

「しかし、グレバムの軍が……」

「あなたが王都から逃亡する際、自然の脅威は相手にしないでグレバムの軍勢を相手取りましたね? 私も同意です。抵抗空しく自然に殺されるより、まだ可能性があるグレバム軍を相手取りたい」

 

 ウッドロウを論破したところで、ちらりとリオンを見やる。

 彼は小さくため息をついて、投げ遣りに言った。

 

「好きにしろ。こうなったのは僕にも非がある。口出しはしない」

「潔いじゃない。クソガキの癖に」

「だが、万一の事態は想定しておけ」

 

 言われるまでもない。

 先行くマリーの背中を追って、少し。

 思った以上にすぐ近く、件の街へ到達した。

 街の関所に人気はなく、通りは人っ子一人いない。

 ただ、民家から慎ましやかな明かりが見え隠れするだけだ。

 夜だから人気がないのはわかる。しかし。

 

「なんだか……トウケイ領を思い出しますわ」

「そんなことより宿屋はやってるんでしょうねえ……あっ、マリー!」

 

 声が大きいとリオンに叱責されるも、彼女はどこ吹く風だ。

 街に着いても歩みを止めないマリーを前にすれば、それもせんなきことだろう。

 

「もう、どこ行こうってのよ。知らないところなのに……」

「……私はここを知っている」

「え?」

 

 ようやく足を止めたマリーは目を大きく見開いたルーティを前にきっぱり言い放った。

 ルーティは困惑を隠しきれない。

 

「ファンダリアのこんな端っこまで来たことないはずだけど……」

「既視感、では? 似たような作りの街をご存知とか」

「いや……気のせいなんかじゃない!」

 

 チェルシーの言葉も、マリーはまったく意に介していない。

 失われたはずの記憶を手繰り寄せるように、彼女はぶつぶつと呟き始めた。

 

「この街の名はサイリル……私はこの街に、住んでいたことがある……」

「マリー、何か思い出したの?」

「ああ……でも、まだ足りない……まだ何か、大切なことが思い出せない」

 

 口の中で呟くようにしながら、彼女はふらりと歩き出した。

 周囲を見回し、何かを思い出すようにしながら。

 

「あ、アトワイト……」

『落ち着いて、ルーティ。記憶が戻りかけて、他の事に気が向けられないんだわ』

「しばらくは、彼女の好きにさせてあげましょう。宿ならあとで探せます」

 

 それに、いきなりグレバム軍と出くわして大事になる前のフォローも必要だ。

 落ち着かず移動を続けるマリーが、とある民家前に差しかかった時のこと。

 周囲の建物とそう変わらない民家を見やり、マリーの歩みが止まった。

 

「ここ、は……」

 

 マリーが彷徨を始めたときから、何やかやと彼女に話しかけていたルーティが声をかけようとしたところを止める。

 他者の相手をして気を散らしていては、思い出すものも思い出せない。

 しばらくぼうっと民家を見ていたマリーだったが、唐突に体の向きを変えたかと思うと民家への侵入を試みた。

 ……もしや。

 

「ちょっとマリー、何を……」

「確か、ここに」

 

 やおら扉のノブを掴むも、鍵がかかっているらしく開かない。

 しかしマリーをめげることなく、扉脇の鉢植えに手を伸ばしたかと思うと、それをどかした。

 鉢植えの真下には、民家のものと思しき古びた鍵が転がっている。

 それを躊躇なく──というよりは手馴れた様子で使って、マリーは民家へと入り込んだ。

 

「鍵の場所知ってるって……ここ、マリーさん家?」

「……お邪魔しましょう。往来にたむろしていてはいつ目をつけられるか」

 

 ここに至るまで誰とも出会わなかったが、これから先もそうだとは限らない。

 一同はおずおずと、マリーのいる民家へ足を踏み込んだ。

 外観と同じく、こぢんまりとした室内に生活感は感じられない。

 しかし、今のマリーにそれを気づけというのは無理な話だった。

 

「……間違いない。ここは、私が住んでいた家だ」

「やっぱりそうなんですか」

 

 それは、先程あっさり鍵の在り処を探って見せた行動で予見できたことだ。

 一同の納得を他所に、マリーは室内に飾られていた鉢植えに触れた。

 花こそつけているが、敷かれている土に湿気はない。

 

「これはピヨピヨの花……ハイデルベルグの北の峰にしか育たない花……母に教えてもらった花言葉、『大切な思い出』……なぜこんなところに……」

 

 そうやって、彼女は思い出した事柄をひとつひとつ丁寧に確かめるように、広くもない室内を歩く。

 その呟きから推測するに、どうも肉親ではない誰かと二人暮しだったようだ。

 それも、けして気に置けない……少なくとも、愛情に近い想いを抱いた相手が。

 そして、ここで彼女はようやく一同のことを思い出したらしい。

 入り口付近でたむろう一同のもとへと戻ってきた。

 

「マリー、っき、記憶が戻ったの!?」

「大方のことは思い出した」

 

 先程よりはずっとすっきりした顔をしているマリーに対し、ルーティはすっかり落ち着きをなくしている。

 しかし、マリーはそれに頓着せず語り始めた。

 

「今から十年以上も昔、私はこの街の住人になったんだ。この家の人に命を救われて、それからこの家で……一緒に暮らすようになった」

 

 マリーの顔色からだけでは、この民家の家人と、どのような間柄だったのかは読めない。

 あえて話していないのか、あるいは思い出せないのか。

 それをあえて尋ねたのは、妙に純真なところがあるスタンだった。

 

「誰なんですか、その人は?」

「それが、思い出せないんだ……」

「じゃあ、それからどうなったんですか?」

「それも、まだ……」

 

 おそらくルーティからの尖りきった視線に気付いていないのだろう。

 再び顔を曇らせたマリーにスタンは更なる質問を重ねている。しかし、マリーは首を横に振るばかりだ。

 

「まあまあ。これまで何にもわからなかったことを思えば、大きな進歩でしょ」

「ああ。多分、この街やこの家は、私の人生で大きな転機だったんだと思う」

 

 だから心に色濃く残っていたのではないか。そう言えば、フィリアがぱちんと手を打ち鳴らした。

 

「では、マリーさんと同居されていたその方にお会いすればよろしいのですね!」

「ああ。多分すべてを思い出せると思う」

 

 仮に思い出せなかったとしても、この家の家人ならば何らかの事情を知っているはずだ。

 彼女が更なる記憶を取り戻す呼び水となることは間違いない。

 そこで、彼女は驚くべき謝罪をした。

 

「時間を取らせてすまなかった。そろそろ、行こう」

「この家に住んでる人と、会わないんですか?」

 

 チェルシーの疑問は至極まともなものである。

 しかし、マリーは考え直すことをしなかった。

 

「それはいつでもできるさ。それよりも、私たちにはすべきことがある。そうだろう、リオン。フィオレ」

「確かにその通りだが……」

「でも、せっかくだから……」

 

 リオンは単純に、ここまで足を伸ばすことになったのは自分の責任でもあることをわかっているため、行動の強制は言い出していない。

 スタンは、単なるおせっかいだろう。

 そんな彼を、割と常識人とフィオレが判断した彼女はいさめた。

 

「スタン、物事には順序というものがある。私用は最後だ。それから……」

「それから?」

「楽しみも、な」

 

 花のような微笑を浮かべる顔には、思い出すことに対する一切の不安はない。

 願わくば、彼女の記憶が幸せなものであることを、と切に思う。

 ……そもそも記憶喪失に陥るという時点で、不幸があった確立が高いのだが。

 

「でもマリー、ここの家はしばらく出入りがなかったようですよ」

「え?」

「人気がない上に埃がすごいことになっているではありませんか、ほら」

 

 おもむろにテーブルクロスをつまみ上げれば、大量の埃が宙を舞う。

 家財道具や備品など、そもそも床に積もっていた埃の足跡は一同、そして唯一歩き回っていたマリーのものしかない。

 

「そ……そうか……」

「だ、大丈夫よ! グレバムをぶっ飛ばして、神の眼を奪い返して、その後でここん家で待っていればいつかは戻ってくるって!」

 

 まるで数日放置された切花のようにしおれるマリーに、ルーティが励ましながらもフィオレを咎めるように睨む。

 気持ちがわからないでもないが、そんな目で睨まれたところで、腫れ物に触れるような扱いが彼女のためになるとは思えない。

 そこで。

 

「仕方がありませんね。ここの家人とマリーのため、掃除しましょう」

「はぁ?」

 

 唐突に大掃除を提案したフィオレに、今度はリオンも反対を提示した。

 しかし、原因の一端を担った彼の言うことなど聞けるわけもない。

 

「何をいきなり……そんな暇」

「どうせ、『何故か』この街で一夜を過ごすんです。スノーフリアで『ひどい金欠』に陥ったことですし、この家で雪をしのぎましょう。そのお礼に掃除をするということで」

 

 その言葉にスタン・リオン両名、そして金欠を間接的に招いたルーティも顔を引きつらせる。

 そんな彼らに構うことなく、フィオレはきょとんとしてこちらを見やるマリーに尋ねた。

 

「マリー、掃除道具などに心当たりは?」

「確か、そっちの隅にまとめてあったような」

「て、手伝います……」

「じゃあスタンは暖炉に火をくべてください。いい加減暖まらないとね」

 

 早速床をふこうとするチェルシーを制して、まずは埃を払い、調理器具や台所等設備の手入れを優先する。

 調度品の埃を床に落としてから床の掃き掃除、そして水拭きと思いの他放置されていた寝台関係の、できる限りの手入れ。

 それらがすべて終わった頃。慣れないことをして疲れ果てた一同は、泥のように眠り込んでいた。

 

「困りましたね」

「何がだ? 街の中だから、見張りも必要ないだろう」

 

 残っているのは昼間から特に疲れた様子も見せないマリー。

 そしてスケートはともかく、家事清掃等に対してそれなりの耐性を持つフィオレだ。

 

「もし家人が戻ってきても、あなたとその人を二人きりにしてあげられません」

「それなら気にしなくていい。皆に知られて困ることなんか、何もない」

 

 今のフィオレには、逆立ちしても言えない台詞である。

 否、以前のフィオレ──フィオレと名乗っていない当時も、同じか。

 本当にそうか、と返そうとして、やめる。

 どのような意見を言ったところで所詮はやっかみ、自称記憶喪失のフィオレとは立場が違いすぎるのだ。

 絡んだところで自己嫌悪に陥るは自身でしかない。

 喉元まで出かかった一言を飲み込むより前に、暖炉前に座り込んでいたマリーから声がかかった。

 

「フィオレ」

「なんでしょう?」

「少し前から聞きたかったんだが……フィオレは、本当に記憶喪失なのか?」

「!?」

 

 ──これはまた、核心をついた一言である。

 内心の動揺をひた隠し、対応した。

 

「……私があまりに、あなたと違いすぎるからですか?」

「いや……確かにそうは思っている。けれど、フィオレは自分を記憶喪失だと一度たりとも口にしていない気がしてな」

 

 真実をついてきた割に、根拠は十分対処できるものである。

 当たり前だ。この質問の対策なら、常日頃から考えておいたのだから。

 

「確かに、言ったことはありませんね。でも、まだ思い出せていない事柄はあります」

 

 いわゆる「何も覚えていない」「自分が誰なのかもわからない」状態を記憶喪失と証するならば、確かにフィオレは当てはまらない。

 しかし、喪失した記憶があるのは確かだ。

 あの瞬間から目覚めるに至るまで、その過程はぽっかりと抜けているのだから。

 ただ、それは人が睡眠中の出来事を覚えていないこととほぼ同じである。

 思い出すなどありえないし、望むだけばかげていることだ。

 

「そうか……」

 

 その一言を彼女がどのように受け取ったのかはわからない。

 しかし以降、マリーがその話題を取り上げることはなかった。

 サイリルでの夜が更ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十八夜——ハイデルベルグ到達~マリーさんガチ無邪気

 サイリル~ハイデルベルグ。
 道中は事実だけで、追及するチェルシーを黙らせて。
 さてさて、此度はどのようにして王城へ侵入しましょうか。
 まずは下見にと行った先、マリーの言動が大変な事態を引き起こすのでした。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──結局。

 一同が滞在している間に都合よく、家人が戻ることはなかった。

 そのことにほんの僅か、寂しそうにしていたマリーは今、ルーティの激励を受けて彼女に感謝を告げている。

 

「サイリルからハイデルベルグまではどのくらいかかりますか?」

「歩いて半日と少し、だな。この時間と天候なら、問題なくたどり着けるだろう」

 

 ただし、正面から堂々乗り込むことになるが。

 サイリルへの道中、起こった出来事に起因して、一同の話題は専らマリーの記憶に関連することばかりである。

 下手に口を開くと藪の中の蛇をつつくことになる危険性大だったため、聞き役に徹していたのだが……

 

「フィオレさんも、多少のことなら思い出しているんですよね? 出身とか。ウッドロウ様から少しお伺いしましたけど……」

「まあ、一応」

「どこの方なんですか?」

 

 そんな無邪気な瞳をこちらに向けないで頂きたい。

 はぐらかそうにも、一同が示し合わせたように無駄話をせず聞き耳を立てているにつき、適当な話題がないのだ。

 あまり失礼な質問をするなとマリーに対してはチェルシーを制していたウッドロウも、フィオレが詰まっているのを承知であえて放置している。

 仕方がない。

 

「──出身……母親は雪国の人間だと伺っていますが、父親の方は……島国、でいいんですかねえ? 私自身は、どこで生まれたのかは定かではありません」

 

 これは事実である。育った場所ならともかく、どこで生まれたのかは本当にわからないのだ。

 奇妙な返答に、チェルシーは何かを感じ取ったのだろうか。

 どういうことですか、などのそのまま突き詰めるような質問がない。

 しかし。

 

「え、えーと……雪国出身ということは、お母様はこの国の方なんですね。どういう人だったんですか?」

「さあ? 私にはわかりかねます」

 

 これもわからない。

 会話を交わすことはおろか、一度たりとも彼女に会った記憶がないのだ。

 フィオレが知る彼女の事柄は、全て伝聞でしかない。

 

「お、お母さんのことがわからないって……!」

「わからないものはわかりません。でも聞いた話では、厳しいけど優しい人だったそうです。生まれ故郷で私塾を開いていたらしいですね。今はもういませんが」

「そ、そうなんですか……」

 

 そして、経緯はどうあれ最終的に教え子の手にかかるという、無残な最期を遂げたのだが。

 フィオレの言い草から、出産で亡くなったようなニュアンスでも感じ取ったのだろう。

 チェルシーは相槌を打ったきり、以降質問をしなくなった。

 

「チェルシーは、お祖父様とジェノス近辺で暮らしていますね。どうしてジェノスでは暮らさないのですか?」

「あ、おじいちゃん……祖父がちょっと名の知れた弓匠で、教えを受けたいっておっしゃる方が結構いらっしゃるんです。街にいた時はひっきりなしにそれを言われたらしくて、嫌になった祖父があんな山奥に引っ込ん、隠居してしまいまして……」

 

 それの面倒をチェルシーが見ているのか、それとも逆か、あるいは特殊な事情があるのか。

 どうせその辺りだろう、尋ねるつもりはなかった。

 

「なるほど、だからあそこにウッドロウがいたんですね。弓匠の教えを乞いに……私はあんなところでご尊顔を拝見するとは思っても見ませんでしたよ」

「そういえばお前、報告書にそんなこと一切書いていなかったな」

「書いたって面倒なことになるだけでしょうが。事情は話しませんでしたし」

 

 それ以降、当たり障りない雑談をかわし、時に魔物との対峙を経て。

「ウッドロウ様が心配ですぅ!」と言い募り、どうしても実家へ帰ろうとはしないチェルシーと別れることなく、一同は、ハイデルベルグへとたどり着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 王都ハイデルベルグ。

 ファンダリア王国最大の都市にして、時計塔を備えた王城を抱くケルヴィン家のお膝元。

 過去一度だけ訪れたことのあるフィオレだが、城下町の様子は以前と一線を画している。

 トウケイ領然り、サイリル然り。

 グレバムはどうも住民の徘徊を嫌う傾向にあるのか、街はしんと静まり返っていた。

 無人であろうわけがないが、大通りを闊歩するのは兵士。

 民家がやけに騒がしいと思えば、兵士が侵入し、家捜しをしている。

 

「あれ、あなたのところの兵士ですか?」

「……見覚えはないが、思い違いでないことを願っている」

 

 街中を移動しながら道行く兵士をやり過ごし、民家を漁る兵士に歯噛みするウッドロウを抑えながら、王城前へと赴く。

 セインガルド城と雰囲気は似ていながら、かの城にはない重厚にして荘厳な雰囲気がかもし出されている。

 築いてきた歴史の違いか、はたまた雪国仕様であるだけか。

 

「これが王城だ」

「グレバムが、この奥に……」

 

 正体を少しでも隠そうとしてか、フードを深く被ったウッドロウの言葉にスタンが王城を見上げる。

 そこへ。

 

「ん?」

 

 巡回中の兵士なのか。

 通りで見かけた兵士姿を二人ほど連れた、隊長格らしい男が一同に目をつけた。

 当然だ。周囲には集団はおろか、人がいないのだから。

 

「おい、お前たち。そこで何をしている」

「た、ただの散歩ですよ、散歩」

 

 ウッドロウがただちにそっぽを向き、スタンが慣れない愛想笑いを浮かべて必死に取り繕う。

 怪しいにも程があるのだが、隊長格はあっさり納得してくれた。

 

「なんにせよ、あまり王城には近づかないことだな。最近は物騒になったから、ゴタゴタに巻き込まれても文句は言えんぞ」

 

 しかも忠告とは、妙に親切である。

 女性の多い集団だからなのか、はたまた言外にさっさと消えろと言っているのか。

 

「はい、わかりました。今後は気をつけます」

 

 注意されることには慣れているスタンが、今度はまったく違和感なく受け答えている。堂に入っているにも程があった。

 そして帰るよう促され、速やかに引き取ろうと一同に目配せを送る。

 ウッドロウのこともあるし、それに応じた面々ではあったがたった一人、隊長格に視線を張りつけて動かない人間がいた。

 

「……似ている」

「マリー?」

 

 彼女を促そうとしたルーティだったが、その暇もなくマリーはすたすたとその隊長格へと近寄っている。

 堂々たる足運びで隊長格と対峙したマリーを、相手は当然不思議そうに見返した。

 

「ん、何か用か?」

「お前、これを知らないか?」

 

 隊長格の顔を食い入るように見つめ、マリーは……腰の短剣を相手に差し出している。

 彼女はきっと無意識なのだろうが、見も知らぬ相手に刃物を取り出されて平然としていられる人間は少ない。

 

「だっ、ダリス様!」

「うろたえるな!」

 

 当然、連れの兵士は隊長格をおもねるように前へと飛び出しかけて、当の本人に一喝されている。

 短剣を見せるマリーは、あくまでマイペースなままだった。

 

「ダリス? お前はダリスというのか」

「そうだ……そ、その剣は!」

 

 マリーの問いにこそ平静に答えたダリスであったが、短剣を見やるや否や、態度は一変した。

 それまで平静だったのが嘘のように、彼女へ迫らんばかりである。

 

「女! 何故それを持っている! お前は誰だ!」

「ダリス様、どうしました?」

 

 何とも都合の悪いことに、あらたな見回りの兵士一団が通りかかる。

 丁度そちらに顔を背けていたウッドロウが慌てて俯くも、もう遅い。

 

「あっ、貴様はウッドロウ・ケルヴィン!」

「まずい……みんな、走れ!」

「召集、召集-っ! ウッドロウがあら……げふっ」

 

 鞘入りの紫電で兵士を黙らせるも、続々と兵士の足音が聞こえてくる。

 一同に手振りで合図、囲まれるより前にさっさととんずらしようと走り出しかけて、フィオレは思わず固まった。

 

「ダリス、見つけた!」

「マリー!」

 

 そう。どうも、雰囲気からして知っている人間……下手をすればサイリルにあったあの民家の家人らしき男を前に、マリーは短剣を納めて嬉しそうに声を上げたのである。

 そんな彼女を放っておくなど、ルーティにはできなかったようだ。

 

「ルーティ、何やってるんだよ!」

「あんた、マリーを見捨てる気!?」

 

 兵士がわらわらと集まってくる中、ルーティは頑としてマリーの傍を離れない。

 フィリアの呼ぶ声が聞こえていないでもないだろうに、スタンはぐしゃっと髪をかき回した。

 

「えーい、くそっ!」

 

 ほぼヤケクソで二人の下に戻ったスタンを、フィオレに引っ張られながらもフィリアが呼びかけようとする。

 そこを抑えて、フィオレは囁いた。

 

「スタンさん……!」

「お静かに。あの二人が傍にいるなら、居場所はすぐに探れます」

 

 瞬く間に三人が取り囲まれる中、ダリスは仲間を見捨てて逃げる一団もきちんと目で追っていた。

 ここはいいからウッドロウを捕まえろ、と号令をかけ、集まってきた兵士の半分がこちらへ迫りつつある。

 

「逃がすな、取り囲め!」

「おー!」

「──北極星にて」

 

 大通りを駆けながら、ウッドロウに故意に近づき囁きを発する。

 手振りで二手に分かれることを指示して、フィオレは天を仰いだ。

 

『ソルブライト。閃光をください』

『承りました』

「眼を閉じて!

 

 直後、眩い光が辺りに溢れ、敵味方を問わずして視界を奪う。

 背後に迫る兵士たちが一様に目を覆う中、咄嗟の指示に従った一同は悠々と二手に別れ、まんまと逃げ去った。

 合流したのは北極星の別称たる「ポラリス」の名を冠した酒場である。

 以前訪れていたことで多少ハイデルベルグの地理を知っていたフィオレは、フィリア、リオンを連れて問題なくたどり着くことができていた。

 王族といえど住民であるウッドロウ、そして住民でこそないが頻繁に行き来のあったチェルシーは三人よりも早く酒場前に待機している。

 

「御身のご無事を心より安堵いたしております」

「ああ、ありがとう。しかしスタン君たちが……」

「真に申し訳ありませんが、休憩も体勢を立て直す時間もありません。これより、三人の救出に向かいます」

 

 乱痴気騒ぎの聞こえる酒場から足早に離れ、ある場所へと向かう。

 道中リオンと示し合わせてフィリアにはこれから先のことを話しておいたが、まずは別行動だった二人に話しておく必要があるだろう。

 

「彼らの居場所がわかるのかい?」

「ええ、もう調べはついています。幸い王城に連行はされなかった様子で」

 

 フィオレの手にあるのは、罪人監視用の額冠操作盤だ。

 バティスタの居場所を突き止めた際と同じく、発信機を使って彼らの居場所を逆探知したのである。

 罪人云々を省いて伝えれば、ふとチェルシーが首を傾げた。

 

「でも、どうしてそんな発信機なんて二人は持っているんですか?」

「ちょっとした事情で」

 

 詳しく話す暇などはない。

 発信機の位置へずんずん近づいていけば、先程訪れたばかりの王城近辺へと差し掛かった。

 

「……王城に連れ込まれたのではないのか?」

「いいえ。反応はこの建物からです」

 

 フィオレが指すは、城門のすぐ傍にそびえる詰め所らしき建物である。

 物陰から見ていても、兵士の出入りが頻繁で侵入は困難とも思えた。

 しかし、立ち止まっている暇はない。

 

「あんなところ、どうやって入るんですか? ドロボウさんが警邏隊の詰め所へお仕事しに入るようなものですよぅ」

 

 チェルシーの言葉は言い得て妙だった。

 だが、ウッドロウ王子がハイデルベルグにいることはすでに通達されているだろう。

 相手に時間を与えれば与えるほど、不利になるのは目に見えていた。

 

「どうやって入るって? それはもう決まっています」

「どうするつもりなんだい?」

「こうするんです」

 

 物陰の暗闇に左の手を差し伸べて。フィオレは、瞬時に意識を集中させた。

 

「其の荒ぶる心に、安らかな深淵を」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 謡われた譜歌を耳にして、見張りの兵士がぱたぱたと崩れて落ちる。

 後は、いびきの大合唱が静かに響くだけだった。

 

「ささ、参りましょうか」

「……! 余韻の奇跡!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九十九夜——真実は、やはり残酷だった

 ハイデルベルグ、王城お隣、詰め所へ殴りこみ。
 原作(PS版)ではスタン視線だったにつき、詰め所の地下にある牢屋へ放り込まれてルーティとおしゃべりしているところでリオンに電撃を食らい、合流を果たします。
 今回のハイライトは、ついについに明らかになったマリーの過去。
 緊迫した空気の中ですが、マリーにとっては大事な人との再会の時です。
 しかし、様々な感情を置き去りに。
 歯車は止まることを知らず、神の眼を巡る冒険は佳境へと差し掛かってゆきます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見張り兵士が完全に熟睡しているのを確かめ、フィオレはずんずんと詰め所へ歩み寄った。

 

「余韻の奇跡って何かの喩えですか?」

 

 少なくとも、フィオレの知る言葉でそんな熟語はない。

 フィリアを見やるも、彼女もまた首を振るばかりだ。

 

「わたくしも初めて聞きましたわ。ファンダリア独特の言葉でしょうか」

「知らないのかね? セインガルドの『隻眼の歌姫』が奏でるという、睡魔をけしかけ負傷を癒すなど、他者に強く影響を与える旋律。人はそれを余韻の奇跡、と呼んでいると耳にしたのだが」

「初耳です」

 

 余韻の奇跡とは、なんだか豪勢な名称がついたものだ。

 

「フィ、フィオレさんが隻眼の歌姫!? わたし一度だけですけど、聞いたことがあります。結構前にジェノスの路上で演奏していらっしゃいましたよね!?」

「ありゃ、いたんですか。まったく気づきませんでした」

 

 どうでもいいので、チェルシーの困惑はスルー。

 しゃべりながらも詰め所前へ到達、そのまま何の準備もなく扉を蹴り開ける。

 兵士たちの注目を浴びた瞬間、フィオレは再び譜歌を使った。

 

「其の荒ぶる心に、安らかな深淵を──」

 ♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──

 

 武器を交えることなく詰め所一階を制圧し、くるりとリオンへ視線を向ける。

 

「三人の居場所は……」

『三人とも、地下に幽閉されている』

 

 明らかにリオンではないその声に見やれば、室内の端に三人から徴収したと思しき荷物、武装──ソーディアンが転がっていた。

 ただ、マリーの武器はあってもあの短剣がどこにもない。

 

『三人の様子は?』

『一応無傷よ。抵抗はしなかったから……でも、彼女の様子が』

「マリーのことですね。錯乱していなければいいのですが」

 

 錯乱というか、記憶の混乱というか。

 三人の荷を回収し、壁にかけられている鍵の束を取り上げて、仮眠室の隅にある階段で地下へと下る。

 薄暗い地下へ降りていくと、小さな話し声が聞こえた。

 

「だれかさんのせいで、前にもこんなことがあったな、って」

「なっ、何言ってんのよ! あ、あれは、ほら、あたしのせいじゃないわよ!」

 

 そういえば、彼らが投獄されたのはこれが初めてではない。

 からかうようなスタンの声音も、慌てるようなルーティの様子も、普段なかなか聞けるものではなかった。

 

「せっかくあのクソガキを下したと思ったら、フィオレがしゃしゃり出てきて。真打登場って言いたいのはわかるけど、カッコつけるのも大概にしなさいって、きゃっ!」

「そりゃ悪ぅございましたね」

 

 いわれのない悪口雑言に軽い電撃をお見舞いし、ルーティに悲鳴を上げさせてから階段を降りきる。

 そこは完膚なきまでに牢獄で、二人はそれぞれ檻にブチこまれていた。

 

「フィオレさん、皆!」

「助けにきてやったと思えばこれか。まったく呑気な連中だ」

 

 ボヤくリオンの手に識別札が同一の鍵を手渡す。

 リオンにはスタンの、フィリアにはルーティの鍵を渡して部屋を見回すも、マリーの姿はどこにも見当たらなかった。

 

「大丈夫だったようだな?」

「心配しましたわ」

「一時はどうなるかと思いましたけど、やっぱりスタンさんは運のいい人なんですね」

 

 口々に声をかける傍ら、二人の荷物とソーディアンを渡す。

 その間にも、牢獄に据えられた寝台に潜り込んでいないか、眼を皿のようにして探すもやはりマリーの姿がない。

 

「でも、どうしてここが?」

「お前ら、額のものを忘れてるんじゃないのか?」

「あ、そうか……それで」

 

 スタンはバンダナ、ルーティは前髪で隠しているためチェルシーは首を傾げているが、ウッドロウは何かを悟ったようだ。

 特に尋ねるようなこともしない。

 

「ところで、マリーの姿が見あたりませんが」

「そうだわ! マリーがダリスとかいうのに連れて行かれちゃったのよ!」

「そうだった!」

 

 確かに呑気な連中だとフィオレは思った。

 しかし。

 

「外に出た気配はなかったな……」

『ディムロス、アトワイト。何か知りませんか?』

『外に出ていないのは確かだ。兵士の出入りしかなかったからな』

『そういえば、彼女がしきりに何かを話している声を聞いたような……』

「ということは、上ですわね」

 

 短剣を見たダリスの反応から、それに関しての尋問か何かか。

 しかし、マリーの見目はけして悪くない、どころではないのだ。悪質な捕虜虐待の危険性がないわけではない。

 無言のうちに示し合わせて、移動する。忍び足で、それを得意とするフィオレはあっという間に二階へ到達していた。

 

「──くれぐれも静かに来てくださいね」

 

 足音で一階の兵士たちが目を醒ますから、ではない。

 二階にいるダリスとかいうのに気付かれ、マリーが人質に取られないためだ。

 あの様子では、剣を突きつけられたところで彼女が抵抗するかもわからない。よしんば抵抗したところで、危険なのは変わりない。

 幸いなことに二階は廊下部分と室内が壁で完全に区切られており、フィオレが二階部分へ侵入したことに気付いたのは誰一人いなかった。

 そもそも、二階部分は現在ダリスとマリーの二人きりであるようだ。

 壁と扉で区切られているにつき、くぐもったような話声がする。

 タイミングを見て突入しようとフィオレが扉に張り付き、ほんの僅か扉を開くと、会話がこちらまで洩れてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ダリスはマリーの持っていた短剣について問い質そうとしたところ、「自分はダリスの妻だからだ」とはっきり言い切っている。

 しかしダリスは、「自分の妻はすでに亡くなっている」ときっぱり言い切った。

 つまりあの短剣は、ダリス自身が奥方に贈ったもの、更に形見のようなものだったということなのだろうか。

 真実はどうあれ、話しぶりからしてマリーは記憶を取り戻し、あの民家の家人が自分を捕らえた軍人であると確信しているようだ。

 しかしダリスは、それを頑として認めない。

 その冷たい否定がマリーの心を傷つけないわけがないのに、彼女は冷静に、どこまでも辛抱強く対話を試みていた。

 

「ダリス、何もかも忘れてしまったのか?」

 

 第三者の視点からしても、ダリスの対応はそうとしか思えない。

 切なげに訴えるマリーの声音はフィオレすらも動揺させているのに、あの男は何も感じないというのだろうか。

 

「忘れてなどいない。俺はずっと、グレバム様に仕えてきた」

 

 ダリスの言葉には、そこかしこに矛盾が組み込まれていた。

 グレバムはセインガルドにあるストレイライズ神殿の大司祭だ。ファンダリアにいるダリスとは、まるで接点がない。

 妙な洗脳でもされたのだろうか、それを指摘するのは簡単なのに、マリーはそれをしなかった。

 おそらくは……矛盾を指摘して正気づかせるより、まず記憶を取り戻してほしい、と願っているのだろう。

 彼を見て、すべてを思い出した。その言葉は事実であろうから。

 

 やがて、四苦八苦しながらも慣れない忍び足で二階へ到達した一同の気配が近づいてくる。

 階段まで迎えに行き、唇に人差し指を当てたまま再び扉前に張り付いた。

 揶揄交じりに取り戻した記憶とやらを語れ、というダリス相手に、マリーの独白が続く。

 

 ──話は十年以上も昔に遡る。

 

 その頃、ファンダリアは動乱の渦中にあり、そのためにサイリルには自警団が組まれていたそうだ。

 そんな折、ティルソの森にて大きな戦いがあった後。

 自警団に属し歩哨任務に当たっていたダリスは、当時敗残兵であったマリーを保護し、自宅に匿ったようなのだ。

 

 嘘を信じ込ませるには、多少の事実を混ぜると効果的であるらしい。

 事実か否かはさておいて、ダリスの記憶もところどころマリーの言葉に即している部分があった。

 しかし、やはり本筋が異なるためなのか発生する矛盾を、ダリスは認めようとしない。

 しかも、矛盾を見つけたことで情緒不安定に陥りかけているらしく、マリーに暴言を浴びせて威嚇すら始めている。

 それに対し、マリーは毅然と言葉を重ねていった。

 その暴言や揶揄に、何も思わないわけがないだろうに。

 

 その四年後、ウッドロウの父であるイザークによってファンダリアの動乱は鎮められた。

 人々が待ち望んだ平穏ではあったが、自分の居場所を見失いかけていたマリーは半ば自暴自棄になっていたのだという。

 

「ダリス、お前の掛けてくれた言葉……あの言葉は、心に染みた……」

 

 そこで、おそらくはダリスと夫婦の契りを結んだのだろう。

 語る彼女の言葉の端々は、わずかに鼻声だった。

 その後四年間を夫婦として過ごすも、現在から二年前悲劇に見舞われる。

 サイリルの街が何者かに襲撃され、防戦に加わった者はことごとく殺されたそうだ。

 最後に残ったのは、彼ら二人のみ。

 

「状況は絶望的だったけど、不思議と怖くはなかった。私はお前と一緒だったから、怖くなかったんだ。一緒、だったから……」

 

 その後は、予想通り。

 彼はマリーひとりを逃がし、そこで離れ離れとなったのだという。

 結局記憶がどうこういう話はフィオレの理解の範疇を超えるものだったが、そんなことはもうどうでもよかった。

 その先の話を冷静に聞いていられなかったから、である。

 湧き上がってきたのは、見当違いにも程がある……ドス黒い感情だった。

 

 護るべき人と愛する男を天秤にかけた。

 最愛の人に幾度も剣を向け、押しつぶされてしまいそうな苦しみ、悲しみを嫌というほど思い知り、敗北した、というのに。

 自分一人を逃がしたことをつらい、と訴えたマリーに、憎しみすら感じる。

 気持ちは分かるといっていたが、それだけ愛されていたということを彼女は気付いているのか。

 

 ……違う。彼女が憎いのではない。

 

 唐突に気付いたその事実に、フィオレは足元が崩れるような感覚を覚えた。

 土壇場で護られたマリーが。

 再び愛する男と再会できたマリーが。

 妬ましい、のだ。

 

「……フィオレ?」

 

 唐突に今の自分の名を呼ばれ、息を呑む。

 ちら、と振り返ればいぶかしげな顔をしたルーティが小首を傾げていた。

 

「どうかした? さっきからなんか、様子が変だけど」

「い、いえ……」

 

 何もない、と続けようとして、ふと耳を傾ける。

 ひっきりなしに呼吸をするような、独特の息遣い。これは……

 

「どうした、終わりか?」

 

 間違いようもなく、それはマリーのすすり泣きだった。

 しかし、ダリスはそれを見てもただ続きを促すばかり。

 あの野郎は……彼女の涙を見ても、何も思わないというのか! 

 

「ああ、これで全てだ……」

「残念だが……俺は知らないことだ」

 

 その一言を聞いたが最後。フィオレは言葉もなく扉を蹴飛ばした。

 荒々しく開かれた扉に、中にいた二人がもちろん注視するも気にするような精神状態にない。

 フィオレは注目を浴びながらつかつかと、椅子にふんぞりかえるダリスへと歩み寄った。

 

「フィオレ?」

「な、なんだ貴様……」

「……この」

 

 侵入者であることは百も承知だろうに、登場の仕方があまりに唐突過ぎてそこまで気が回っていないのだろう。

 今頃になって冷静にそんなことを考えつつ、フィオレはグッ、と拳を握った。

 

「大馬鹿野郎がっ!!」

 

 振りかぶった拳がダリスの顔面へ迫る。

 フィオレ自身の怒りのせいで標準が狂ったのだろう、拳は顔面でなく頬に突き刺さった。

 

「ガッ!」

 

 当然のことながら、ダリスは椅子から転げ落ちた。

 そのまま頭を床に打ち付けたらしく、両手で頭を抱えてうずくまる。

 

「ダリス!」

「すみません、マリー。でも泣くまで()らせてください」

「待ってくれ、フィオレ。そんなことをしたら、ダリスが変な性癖に目覚めてしまう!」

「心配するところはそこじゃないでしょーが! あんな勢いで泣くまでなんて、その前に顔の形変わっちゃうわよ……」

 

 実に冷静な突っ込みをするルーティではあったが、ただいま頭のゆだっているフィオレに常識は通じなかった。

 

「女を泣かせて平気な野郎ほど、タコ殴りにしてやりたい輩はいないのです」

「……ま、それには同意するけどね」

 

 フィオレの一撃をもろに受けたダリスが、頭を抑えながらもゆっくり起き上がる。

 しかし、その様子はどう見てもおかしい。

 

「なんだ……この記憶は……」

「ダリス?」

「まさか、フィオレが殴った衝撃で記憶が戻ったのか?」

 

 フィオレ個人としては、マリーの説得がやっと効いてきたと思いたい。

 侵入者が更に増えたわけだが、ダリスはそれどころではないようだ。

 

「何か……懐かしい響き……うおぉぉ……あ、頭が……」

「ダリス、しっかりしろ!」

 

 頭を抱えて悶絶するダリスに、とうとうマリーが駆け寄る。

 ダリスは、それにも頓着していない。

 

「私は……誰だ……」

「た、隊長!」

 

 そこへ飛んできたのは、先程まで門前でのびていたであろう兵士らである。

 一人が侵入者そっちのけで駆け寄るも、やはりダリスは気にしていない。

 

「くそっ、わからん……」

「まずいぞ、マインドコントロールが!」

 

 マインドコントロール──洗脳!? 

 すぐさま兵士を締め上げて事情を吐かせようとするよりも早く。

 

「ダリス隊長。あなた様のお力で、こいつらを始末してください!」

 

 兵士の一人が、自己を見失いかけているダリスに新たな思い込みの材料を与えてしまったのである。

 わかっていてやったのだろうが、なんて余計なことを──

 

「マリー! そいつから離れて!」

「隊……長……? ……そうだ! 俺の名はダリス。グレバム様の忠実な部下だ!」

 

 そうこうしている内に再洗脳が完了してしまう。

 やっと、侵入者一同に目を向けたダリスは、部下に目を向けて高らかに宣言した。

 

「よし、お前たち、やるぞ!」

「へい!」

 

 その間に、フィオレはとっととダリスから距離を取って机の上のものを手に取っている。

 先程の警告をまったく聞いていなかったらしいマリーは、無手のまま彼にすがりついた。

 

「やめろ、ダリス!」

「うるさ……!」

 

 その彼女に、ダリスが拳を振り上げる。拳が彼女を捉えるよりも早く、フィオレはマリーを引き剥がした。

 そのまま、拳を突き出したダリスの眼前に短剣をつきつける。

 

「あ……」

 

 マリーを目にしても態度を変えなかった彼は、この短剣を目にして始めて心を乱された。

 困惑したように気勢が殺がれたところで、短剣を振りかぶり柄頭で顎を殴りつける。

 動揺に、何の防御もできなかったダリスは。実にあっけなく、床に伏した。

 

「た、隊長っ!」

「……さぁーて、と」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百夜——暮れなずむ街の~永久(とわ)の別れ


 光と影の中、去り行くあなたに贈る言葉。
「さよならは言わないよ。また会う時まで、元気でね」
 ハイデルベルグ、詰め所内部、修羅場なう(?)
 原作ではここへたどり着くまでのスタンの行動によって、この後ダリスが生きるか死ぬか、自動的にストーリーが決まります。(PS版では)
 彼の生殺与奪はスタン、つまりプレイヤーの手の内ということになりますね。
 このお話の中では、ダリスは生存ルートです。これ以上マリーを泣かすわけにはいきませんからね。
 話数にして百番目にこの話がくるとは……狙ったわけではなかったので、ちょっと感慨。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まさかいきなりやられるなどと、想像もしていなかっただろう。

 兵士二人はダリスの昏倒を目にして、完全に固まっている。

 この隙につけ込まない手はない。

 

「烈破掌!」

 

 続く一撃で兵士らをまとめて吹き飛ばし、更に机を蹴倒して追撃、戦意を奪う。

 机の上に載っていた文鎮をまともに受けて呻く兵士らに対し、フィオレは未だ手に持つ短剣をダリスへと向けた。

 

「さあ、頼みの隊長殿はこの有様ですよ。これと己の命が惜しければ、速やかに降伏なさい。下手に騒いだら、これの命はないものと……」

 

 ──この兵士達は、ダリスが洗脳されている完全な傀儡であることを知っている。

 役に立たないと分かるや否や、ダリスのことなど気にもせず襲いかかってくるかもしれないが、すでに一同は臨戦態勢を整えているのだ。返り討ちにするだけである。

 それがわかっているのかいないのか。彼らが選んだのは、自らの保身であった。

 

「敵襲、敵襲だっ!」

「ウッドロウ・ケルヴィンが現われたぞっ!」

 

 机を押し退けるや否や、脱兎の勢いで室内を飛び出す。

 すでにダリスは倒されたものとして振る舞い騒ぐ彼らを見送ってから、フィオレは真下を見下ろした。

 

「──もうお気づきなのでしょう? 騒がないでくださいね」

 

 先程気付いたことだが、ダリスが気絶していたのはほんの一瞬である。

 起き上がるよう促され粛々と従った彼は、瞳を潤ませるマリーをバツが悪そうに見やった。

 

「マリー……何故戻ってきた」

「ダリス、思い出したのか!」

「御両人、積もる話は後にしてください」

 

 彼らとしては、交わさなければならないことが山のようにあるだろう。しかし、今は場合が場合だ。

 あの兵士の騒ぎ具合では、眠らせた兵士も続々起き出すだろう。

 ぐずぐずしていては袋の鼠にされてしまう。

 

「さて、ここから通常経路を用いず脱出する術はございませんか?」

「フィオレ! どうしてダリスに剣を向けるんだ!」

 

 尋ね方こそ丁重だが、フィオレは紫電を抜いてダリスへ向けていた。

 その態度にマリーが珍しく憤慨するも、態度は翻らない。

 

「あなたにとっては、やっと再会できた大切な旦那様かもしれません。でも、私にとっては、いつ暴れ出すかもわからない敵方の捕虜です」

 

 マリーの説得か、フィオレによる物理的衝撃によるものか。ともかく彼の洗脳は解けているように見える。

 だが、何が特殊なことをしたわけでもない兵士の一言によって、彼はあっさり再洗脳されているのだ。

 警戒はするに越したことはない。

 マリーの抗議を退けて早く答えろとせかせば、ダリスはちら、と部屋の隅を見やった。

 そちらには、ただ本棚が設置されているように見えるが。

 

「……本棚の裏に、屋上へ続く階段がある」

「ここですか?」

「スタン、動かないで。この人にやらせます」

 

 もしも罠があったら目にも当てられない。

 先程からダリスに隠すこともなく疑いの目を向けるフィオレに反対するわけでもないだろうが、それでもスタンは食い下がった。

 

「でも、こんなに重そうなのを一人でなんて……」

「馬鹿が。本当に脱出経路として存在するなら、一人だろうと子供だろうと作動させられないわけがないだろう」

 

 事実、ダリスは本棚の前に立つとその中の一冊に手をかけている。

 それを引き抜いて違う場所に挿した途端、本棚は自動的に道を空けた。

 罠を解除した様子もなければ、罠が作動したような形跡もない。

 

「大丈夫そうですね。では、男性陣諸君。そこの扉を塞ぎましょうか」

 

 もちろん、フィオレ一人が蹴倒せるような机だけでは足止めにならないだろう。

 机、椅子、その他備品を積み上げて即席のバリケードを築いた後、一同は速やかに移動を始めた。

 と、そこへ。

 

「マリーさん、これ!」

 

 スタンの呼ぶ声に、ダリスと連れ添うように移動しようとしたマリーが振り返る。

 彼が手に持っていたのは、先程までフィオレが手にしていたあの短剣だった。

 

「すまないな、スタン。大事な剣をここに置いていくところだった。礼を言うぞ」

「ほら、早く早く!」

 

 ルーティの声にせかされて、屋上へと赴く。

 すでに建物の外には兵士らが結集しており、その集団をまとめる兵士長が鬨の声を張り上げていた。

 

「行くぞ! 奴らを生かして帰すな!」

「「おー!」」

「ウッドロウを討ち取った者には特別にボーナスも出るぞ!」

「「おぉー!」」

 

 彼らの給与明細を拝みたい一言である。

 俄然気合の入った彼らを鼓舞するかのように、兵士長は言葉を続けた。

 

「先程入った情報によれば、敵方には隻眼の歌姫と思しき輩がまぎれているようだ。生け捕りにするよう心がけよ! 手足は取れていてもかまわんが、首に──喉に傷はつけるんじゃないぞ!」

「……どうして王子は討ち取って、隻眼の歌姫は捕らえる必要があるんです?」

「あの兵士たちは、正規の軍人たちではなくグレバム軍に登用された即席の兵士だ。あまり品のない連中も多い。だからその……慰み者に」

「隊長と呼ばれていたあなたすらそう思うということは、グレバムは関係ないんですね」

「なあディムロス。なぐさみもの、ってなんだ?」

『!? い、いや、それはだな』

「一時の欲求を解消するためにもてあそばれる者、のことですね。『一時の欲求』は、ご想像にお任せします」

 

 てっきりファンダリアを完全に乗っ取った後、セインガルドに対する人質にでもするのかもしれないと考えたが、それには少々身分が足りないだろう。

 ではどんな理由があるのか、思いつかなかったために彼へ尋ねてみたのだが……まあ、そんな理由ならどうでもいい。

 ダリスの話す通り、兵士の中には表情をだらしなく緩める者が多数見られる。

 そんな中、兵士長は一同の気持ちがひとつになったことを確認して、拳を振り上げた。

 

「よしっ! 突撃ぃ!」

 

 あれよあれよという間に、詰め所内へ兵士がなだれ込んでいく。

 慰み者の解説あたりで血相を変えていたスタンが、やおらディムロスを引き抜いたかと思うと重々しく言った。

 

「──戦いましょう」

「駄目に決まってます」

「でも、このままじゃ」

 

 確かに戦う意志もないまま、立ち往生しているのでは危険だ。

 選択肢は戦うか、逃げるかであるが、なだれ込んでくる兵士群の相手をし続けるのは限界がある。

 逃げるにしても、ここは三階に相当する高さだ。地面までの距離はかなりある。

 しかし。

 

「まだ逃げる方法はある」

「え……ま、まさか」

 

 逃走方法はそれだと言わないばかりに下を見やるウッドロウの視線の先を見て、ルーティは素直にその方法を想像したのだろう。

 他一同もまったく気が進まない顔をしているが、ウッドロウやチェルシーはけろりとした顔をしていた。

 

「大丈夫だ。雪がクッションになってくれる」

「ご、ご冗談を……降ったばかりの雪ならともかく、積もった雪は一度凍っている危険性がありますわ」

「大丈夫ですって。ウッドロウ様の言うことに間違いはありません」

 

 チェルシーの根拠なきその発言はともかくとして、ウッドロウも覚悟を決めろ、と一同に告げている。

 雪に対してそこまでの親しみがないフィオレは、こっそりとシルフィスティアに語りかけた。

 

『シルフィスティア。私の着地点に、空気圧のクッション作ってください』

『全員分は要らないの?』

『……お願いします』

 

 こっそりおねだりを終わらせ、詰め所の裏通りを見やる。

 そこはすでに街の外で、ここから逃走すれば、そうそう気付かれはしないことが伺えた。

 

「そうと決まれば、お先に」

「フィオレさん!?」

 

 スタンに対して唇に人差し指を当てて見せ、柵のない屋上からひらりと身を投じる。

 雪に覆われた地面が間近に迫るも、シルフィスティアの根回しは完璧だった。

 雪の冷たさを感じることなく着地する。

 その場から離れて天を仰げば、他の面々がバラバラと飛び降りる最中だった。

 

「変だな。なんで冷たくないんだろう?」

「雪にしては、ちょっとおかしい感覚でしたね」

 

 しきりに首を傾げる一部が本格的に騒ぐ前に、シルフィスティアへの礼を済ませて、ウッドロウへと話しかける。

 兵士の目を誤魔化したとはいえ、やはりこのままうろうろしているわけにはいかない。

 

「これからどうするのか、当てはありますか?」

「この先に、洞窟に扮した王城へ繋がる地下通路がある。そこから王城へ行こうと考えているが」

「……どうして初めからそちらを使わなかったのかは後でお尋ねするとして、わかりました」

 

 ウッドロウがそのつもりならばその前に、済ませるべきことは済ませなければならないだろう。

 例えば捕虜の、始末とか。

 

「マリー、お願いがあります」

「ん、なんだ?」

「これから先は、捕虜の監視に集中していただきたいのです」

「え?」

 

 ダリスを指しつつ要求を口にする。

 いまいち意味を理解していないマリーをさておいて、ルーティが口を挟んできた。

 

「ちょっとフィオレ。いきなり何を言い出すのよ」

「これからウッドロウの案内により、王城へ潜入します。洗脳されていただか、何だか理解できませんが、いつ寝返るかもわからない捕虜を連れて行くわけには行きません」

 

 もっと手っ取り早い方法があることはわかっている。

 だが、そんなことを実行すればマリーに斬りかかられても文句は言えない。

 そのため。

 

「始末が一番手早く済みますが、そんなのマリーが嫌でしょう」

「当たり前だ!」

「当たり前でしょ、何考えてるのよ!」

「非道にもほどがありますわ!」

「ひどすぎますぅ!」

 

 予想通り、主に女性陣からの反対が顕著だ。

 男性陣はその勢いに押されて、反対意見が聞こえない。

 予想通りだからまったく構わないが。

 

「だからといって、ただ放流するのも気が進みません。よもやグレバム軍に戻るとも思いませんが……あまり体調がよろしくないでしょう」

 

 どうやら図星らしく、ダリスは小さく息を呑んでいる。

 正当な手段を用いず洗脳を無理やり解いたからなのか、あるいは単純に物理的衝撃の代償か。

 彼は先程から、軽く頭を抑えるような仕草をしていたのだ。

 

「その辺に行き倒れて、そのまま埋もれてくれるならかまいませんが、グレバム軍に再び回収される危険性が非常に高いです。ですから、監視役をマリーに頼もうかと」

「ええと……私はここで、ダリスを見張っていればいいのか?」

「いいえ。監視するにあたって、ハイデルベルグから離れてほしいんです。見つかったらまず間違いなく連れ戻されるでしょうから、慎重に。自宅に閉じ込めるくらいの勢いで」

「……それって」

 

 フィオレの言葉は間違いなく、マリーの戦線離脱を指していた。

 ここで初めて、リオンが否を唱えにかかる。

 

「おい、勝手なことを抜かすな! 原因がなんであれ、そいつは今僕らが監督するべき立場の人間なんだぞ。勝手に釈放なんて、そんな……」

「心配せずとも、私が責任を取りますよ。でなければ適当に言いくるめます。どうせ彼女の発信機は失われている」

 

 神の眼さえ取り戻せれば、もう客員剣士見習いなどという立場に用事はないのだ。むしろ足枷でしかない。

 いずれ不祥事を起こして退任する気でいたが、このことで少しでもケチがつけば幸いである。

 

「それにね。人の恋路にケチをつけると、馬に蹴られてしまうんでしょう?」

「フィオレ……」

「これまで道中、お疲れ様でした。グレバムは必ず、私たちでどうにかします。マリーはどうか、幸せになってください」

 

 否があるか、と一同を見回すも、リオンを除いて反論をしでかす空気を読まない人間はいない。

 

「そうね。そいつの監視は、マリーにしかできないことよ。一生かけて監視してやんなさいな。もう二度と、馬鹿なこと口走らないようにね」

「ルーティ……」

「俺たちに任せてください。グレバムは、必ず倒してみせます」

「スタン……」

 

 仲間たちの激励を受けて、マリーが再び瞳を潤ませる。

 それを見て、ルーティは軽く彼女の肩を叩いた。

 

「ほら、泣かないの。何もかもが終わったら、遊びに行くからさ。それまで元気でね」

「そんなわけです。マリーを不幸にしたら、今度こそ命はないと思いなさい」

「……肝に銘じておこう」

 

 王族に代々伝わる秘密の地下通路の場所を他者に知られるわけにもいかないだろうと、彼らを先に旅立たせる。

 何度も何度も振り返ってはダリスに慰められるマリーを、一同はいつまでも見送っていた。

 

「さて、精々生き延びましょうか。もう一度、彼女たちと会うために」

「だからあんたは、なんでそう後ろ向きなのよ……当たり前でしょ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百一夜——戦力流出~ばいばいチェルシー

 ハイデルベルグ、ウッドロウに案内されて王城へ通じる地下通路へ。
 一応一般人であるチェルシーを戦力として数えるわけにはいきません。
 ここから先は、ソーディアンマスターズ(内一人はまだ)+フィオレというパーティ編成で。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルグ外れにて戦線離脱したマリーを見送り、一同はウッドロウの案内で件の地下通路へ向かっていた。

 

「それで、どうして初めからこの通路を使おうと提案してくださらなかったので?」

「始めはそのつもりだった。氷の大河を遡った先はすぐその洞窟へ到達できたからな。だがサイリルから向かったのであれば方向から分かる通り、真逆の位置だ。それならばハイデルベルグの中の様子を知りたかったのでな」

 

 つまり、あのアクシデントのせいでここまで手間取ることになったということか。マリーの記憶も戻ったから、結果的には良かったことなのだろうが。

 洞窟に扮した地下通路は、入り口の付近こそ本物の洞窟だった。

 すぐ行き止まりである辺り、知らない者は熊の住処か何かとでも思うだろう。

 しかし、ウッドロウがとある壁の窪みを探ると、一部の岩が自動的に滑って本来の道を示した。

 一同が通過したのを見届けて、ウッドロウが再び岩に模した扉を操作する。

 どのような仕掛けなのか、するするっと音もなく扉は元の位置へと稼動した。

 

「ここまでくれば、大丈夫だろう」

「ウッドロウ様、ここは?」

「昔の王が作った地下通路だ。王城に繋がっている」

「じゃあ、この通路をたどっていけば……」

 

 勿論王城にたどり着ける仕組みであるはずだ。

 力強く頷いたウッドロウだったが、何故か言葉を濁らせた。

 

「だがひとつ問題がな……」

「城から出るのは楽でも、侵入者防止に罠満載とか?」

「私もここを通るのは初めてだから、その可能性がないわけではない。あと、噂では幽霊が出るらしいんだ……」

 

 妙におどろおどろしい声でそんなことをのたまわれ。

 フィオレは思わず吹き出してしまった。

 

「フィオレさん! 吹き出すなんてそんな、幽霊に聞かれたらどうするんですか!」

「……噂。秘密であるはずの地下通路にまつわる、噂?」

 

 その手の話が苦手であるらしいフィリアが苦言を呈するも、フィオレにとってはあまりにも馬鹿らしい一言である。

 その矛盾に気付いたのだろう。ウッドロウは意表をつかれたような顔をしていた。

 

「それで殿下。その噂の出所はどこですか?」

「……考えてみれば、昔私が地下通路の存在を教えられて直後、聞かされた噂話だったからな。幼い私が興味本位で立ち入ったりしないよう、躾の一環だったのか……」

 

 彼が今、御歳いくつであるかフィオレは知らない。だが、成人していることだけは確実だろう。そんな大昔の噂を今でも信じているとは、何というか、意外と純真だ。

 とある王族に育てられた少女のことを思い出す。彼女は血筋こそ王族のものではなかったが、王室にて隔離培養されたせいで人を滅多に疑わない=疑わずに済む性格になってしまった。

 彼のこれも、世間のしがらみを知らずに成人した結果なのだろう。

 さておき、噂は躾のための作り話だろうとの推測が浸透しかけて、フィリアがほっと一息ついた。

 ところが。

 

「では、幽霊はいないのですね。安心しました……」

「そこに居るのは誰じゃ?」

「きゃぁーっ!」

 

 突如として聞きなれない男の声が地下通路に響く。

 それを聞きつけ、フィリアは瞬く間に恐慌状態へと陥った。

 

「ゆっ、ゆ、幽霊がっ、で、で、出ましたわぁーっ!」

「落ち着くんだフィリア!」

 

 一足早くフィリアが騒いだためだろう。

 その見事な混乱っぷりから、一同はそれをなだめるのに手一杯で混乱の感染はしていない。

 フィリアを一同に任せて、ウッドロウは持っていたカンテラを通路の奥へとかざした。

 

「グレバムの手の者かっ!」

「その声は、ウッドロウ様っ!」

 

 グレバム軍に属する者ならば、彼に敬称などつけたりはしないはず。ということは。

 軍靴が地面を叩く音がして、暗がりの奥からやはり明かりを携えた男が現われた。

 年の頃は壮年手前か。

 姿格好がファンダリア軍兵士と同じものであり、防寒用のまふまふした帽子のせいでウッドロウさえも誰なのかわからなかった様子である。

 

「何者だ!?」

「は、これは失礼を。ダーゼンであります」

 

 帽子を取り、深々と一礼をする。

 白い髭を称えた柔和な面持ちは、どこかで見覚えがあった。

 ウッドロウの無事に安堵するダーゼンに、彼もまた警戒心を解いている。

 

「ダーゼンか。どうしてここに」

「襲撃時の混乱に乗じ、城下の民を引き連れて逃げ込んだ次第であります。緊急時はまず民の避難を優先させよとの、父王様のお言葉に従いました」

「そうか。ご苦労だった。ともかく、無事で何よりだ」

「このような場所で立ち話もなんです。何もありませんが、とりあえず奥へ……」

 

 思いもよらない味方の存在に、ウッドロウも胸を撫で下ろしたのだろう。

 そのまま先導するダーゼンについていこうとしたところで、リオンが小さく囁きかけた。

 

「おい、信用できるのか?」

「我が父に忠誠を誓った男だ。十分信頼に足る」

「ふん、わかるものか」

 

 ウッドロウにとってはそうなのかもしれないが、初対面であるこちらには何とも伝わりづらいことだ。

 疑わしげなリオンに、チェルシーが抗議した。

 

「ダーゼンさんはウッドロウ様の教育係でもあった方ですよ? 間違いありません」

「なるほど。殿下はあの方から、幽霊云々を吹き込まれたんですね」

 

 そうでなければ、この地下通路の存在を知っていることに疑問を抱かねばならない。

 表向き平然としているが、若干耳を赤くしているウッドロウについて、地下通路を行く。

 非常時の備蓄資材置き場も兼ねているのか、地下通路の割にいくつも部屋が点在し、着の身着のまま即席のストーブに身を寄せ合っている人々がそこかしこにいた。

 かなりの大人数ではあるが、ハイデルベルグの本来の住民数には遠く及ばない。

 

「狭苦しいところですが、こちらへ」

 

 一同が通されたのも、住民らに貸し与えられている毛布や食料などを備蓄した場所だった。それぞれが床や木箱などに腰を落ち着ける。

 まず口を開いたのは、ダーゼンだった。

 

「殿下、こちらの方々は……」

「グレバム討伐に、セインガルドより派遣された者たちだ」

 

 事情を知るウッドロウが、これまでの経緯を簡潔にダーゼンへと説明する。

 そこで彼は、フィオレらに視線を送った。

 

「お二人には見覚えがありますぞ。隻眼の歌姫に、その護衛の客員剣士……セインガルドはこんな若輩者らに任せるほど、人不足なのか」

「……おい」

「この年代の方は、とにかく年功序列でしかものを考えませんからねえ。ところで、イザーク王はどちらに? 一応ご挨拶しておきたいのですが」

 

 ダーゼンとしては、客員剣士はともかくなぜ隻眼の歌姫などと、戦いに関係なさそうな人材が派遣されてきたのは不思議でしょうがないのだろう。

 青筋を浮かべるリオンを制してそれを問いかければ、彼は音を立てて固まった。

 

「へ、陛下は、その「なるほど、そうですか。主君を護ることすら叶わなかった人間に、『こんな』呼ばわりされる謂れはありません」

 

 フィオレはともかくリオンは間違いなく若輩だ。それは否定のしようがない。

 瞬く間に顔を曇らせたウッドロウの顔色に気付いたのだろう。

 慌てふためくダーゼンをさておいて、フィオレは立ち上がった。

 

「さて、そろそろ行きましょうか。あまり相手に時間を与えるのもなんですし……」

「無礼な! イザーク王の崩御を耳にして、何の一言もないのか!」

「この度はご愁傷様でございます。急な襲撃だったとはいえ、御身の守護すらできなかった家来に囲まれていた賢王のご冥福をお祈りしましょう」

 

 見当違いな怒声を放つダーゼンを皮肉で黙らせ、フィオレはうつむきがちになっているウッドロウを見た。

 

「王太子殿下……いいえ、陛下。我々の王城侵入を、どうか許してください」

「フィオレくん、それは……」

「慣れない暮らしを強いられた民を勇気付けるのも、王の務めだと愚考します。そして、肉親を亡くしたと聞いたばかりのあなたを戦場へ引きずり込むほど、戦力が足りないわけではありません」

 

 正確に言うならウッドロウのためというより、一同のための提案だ。

 精神的に動揺している彼を無理に同行させれば、足を引っ張られるのはこちらである。

 

「チェルシー、陛下の傍についててあげてください。別に構いませんよね」

「いや、その必要はない」

 

 チェルシーが返事をするよりも、ウッドロウは立ち上がった。

 きちんと顔が上がっているものの、その目はわずかに潤んでいる。

 

「ダーゼンの非礼と共に、腑抜けた顔をさらしたことを詫びよう。父のことなら、落ち延びたそのときから覚悟はしていたのだから」

「ウッドロウ様……」

「だが、チェルシーはここに残った方がいい。これから先は、私もかばってあげられるかわからないからな」

 

 自分なら大丈夫だと言い張るチェルシーだが、他の誰でもないウッドロウからここに残るよう説得されて。彼を慕う少女が従わないわけにはいかなかった。

 とうとうウッドロウの説得に応じたチェルシーだが、膨れつつも釘刺しを忘れていない。

 

「フィオレさん! ウッドロウ様に怪我なんてさせたら。ファンダリアが黙ってませんからねっ!」

「はいはい」

 

 ダーゼンはそんな連中に謝罪などいらないとほざき、チェルシーはウッドロウへしきりにエールを送る。

 一同に出立を促したところで、再びダーゼンは苦言を呈してきた。

 

「ウッドロウ様、よもや隻眼の歌姫がイザーク様の御落胤であるとお思いではございませんか? 例えそれが事実だったとしても、セインガルド王に媚を売るような王族の面汚しに……」

「控えよ、ダーゼン! 根拠もない噂を振りかざし、あまつさえ私の協力者を侮辱するか。恥を知れ!」

 

 とうとうウッドロウの怒声が轟き、ダーゼンどころかチェルシーすらも身を竦ませている。

 百獣の王たる獅子の咆哮にも似たそれは、びりびりと鼓膜を震わせた。

 すでに部屋を出ているフィオレに詳細はわかりかねるが、相当な怒気が伺える。

 それから二言、三言を告げたウッドロウが部屋より退出した。

 彼はバツが悪そうにフィオレを見やっている。

 

「重ね重ね、身内の非礼を詫びよう。本当に済まなかった」

「……あなたに謝られても困りますよ。私が軽蔑したいのはこの国でもあなたでもなくて、あなたの教育係であったという人なのですから」

 

 深々と、潔く頭を下げるウッドロウを前にしてフォローを言わないわけにはいかない。

 その対応をしている最中、仲間たちの反応はどこまでもシビアなものだった。

 

「王子様に恩売ったどころか、王様に頭まで下げさせたわよ……」

「おそらくこういった逸話が歪められて、不名誉な噂が流れるのではないでしょうか」

 

 故に彼自身へのフォローはしても、先程の発言を許す、と繕うようなことは言わない。

 なんだかんだでチェルシーをダーゼンへ預けた一同は、地下通路入り口付近を通過して王城を目指した。

 途中、ダーゼンと同じような衣装をまとった兵士がウッドロウに対して敬礼を示す。

 

「ダーゼン殿より通達されております。この先は歴代の王たちが侵入者防止に仕掛けた罠が多数仕掛けられておりますので、重々お気をつけください」

 

 何でも、住民を引き連れて避難した際調べた結果、この通路の先から凍りついた床やら落とし穴などの罠が確認されたらしい。

 そのため、兵士がこうして一般人の進入を防いでいるのだという。

 

「ご武運を……」

 

 兵士に見送られて地下通路を進むも、氷の大河を遡る際に氷上の滑走技術をどうにか身につけた一同にとってはそれほど恐ろしい仕掛けではない。

 ときおりスタンが壁にぶつかるという喜劇を迎えつつ、一同は順調に進軍していった。

 ところが。

 

「あの石像、今にも動き出しそうですね」

 

 フィオレが指したのは、床一面が凍りついている部屋の、中央だった。

 石像の向こうには扉があり、いかにも守護者然とした雰囲気がある。

 フィオレの言葉に、微妙な雰囲気が漂った。

 

「あれを置いたのはお城の人間でしょ。グレバムじゃあるまいし、モンスターを侵入者除けにするなんて無理じゃない?」

「ルーティさん。石像型のモンスターは古来より、人が製造し操ることを可能とした種類が多いですわ」

「もし動き出したら厄介ですね。あんな滑る床の上に立っているんじゃ……」

 

 確かに、ゴーレムという剣の通じない相手であっても、後衛たちの詠唱を邪魔させないために盾役、というか気を逸らす役は必須だ。

 前衛がそれを引き受けるのが常であるが、スケートをしつつ回避というのは慣れている人間が適役である。

 この中で上級者であるのはウッドロウだけだが、必ずミスをするのが人間である。

 攻撃を散らすのがたった一人では危険この上ない。

 

「……では、私とウッドロウ、リオンが前へ出ましょう。ルーティは攻撃しなくていいです。私たちの誰かが怪我をした時に備えてください。スタンとフィリアが後衛で晶術を使い、前衛三人が攻撃を散らす」

 

 フィオレもリオンもけして上級者ではないが、未だあちこちにぶつかるスタン、ときおり危なっかしくバランスを崩すルーティよりはずっとマシだ。

 まずは本当に守護者かどうか、そして移動をするか否かをフィオレが確かめに滑る。

 守護者であっても、扉の前から動かなければ離れた場所で一斉に晶術を放てば問題はない。

 しかしそうも都合よく物事は運ばれず、ゴーレムはフィオレの接近を感知してギコギコと関節を鳴らし始めた。

 ゴーレムの表面から煙にも似た空気の流れを見つけて、警告を発する。

 

「このゴーレム、氷か何かで作製されているみたいです。攻撃を受けることはおろか、触れても危険ですね。それと後衛、晶術は火焔を用いてください!」

「わかりましたわ。クレメンテ!」

『フィリア、足元に気をつけるんじゃぞ』

「ディムロス、行くぞ!」

『ぬかるなよ、スタン!』

「あたしは待機しとくわ。誰かが怪我したら回復に専念するからね」

『ルーティ、そう言いながらサーチガルドしないで』

 

 もしかしたら氷に似た全然違う素材で作られているのかもしれないが、警告するにこしたことはない。

 幸い、前衛は誰一人としてゴーレムに捕まることなく、後衛たちの晶術連打でゴーレムは巨大なオブジェと化した。

 

「これで何とか通れそうだな」

「……まあ、仮に動いたとしても、この質量なら起き上がれませんよね」

「もう黙れ。お前が言うと全部が現実になる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 フィオレ及び一同は預かり知らぬことですが。
 ダーゼンさんの本名はダーゼン・ビーグランといい、彼の息子はファンダリア軍に在籍しています。(息子さん名称未設定は、オリジナルキャラクター)
 フィオレ、リオンともファンダリア探訪記前編にて面識有り。しかしこの回のごたごたでビーグランが所属していた隊は解体されました。
 構成面子の大半が軍籍剥奪の上強制労働を課されており、ビーグランは唯一人「自首を促した」ということで軍籍剥奪を免れましたが、ファンダリア僻地へと飛ばされています。
 そのためこの騒ぎとは無縁の状態ですが、勿論ダーゼンさんはこのことを良く思っていません。出世の道からは間違いなく外されてしまいましたからね。
 特にフィオレのことは、イザーク王の落胤(隠し子)ではないかと疑っています。
 偉い人でなくても、隠し子なんて汚点ですよね。当然いい印象はありません。
 それをいいことに、ウッドロウをたぶらかそうとしているとも勘ぐっています。
 加えて一同と出会うまでは、飛行竜が襲いかかってきた=セインガルドが敵、君主イザーク王の仇! という構図になっていました。
 以上のことから、割と悪意に満ちているダーゼンさんの言動も致し方ないことなのです。
 作中では悪印象かもしれませんが、彼はいい人なのですよ? 
 話しかけたらHPTP全部回復してくれる、一同にとってとても都合のいい人。


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第百二夜——旅の終わり~今更ソーサラーリングゲット

 ハイデルベルグ秘密の地下通路~王城地下牢獄経由~時計塔。
 この時計塔は、十八年後に飛行竜の激突を受けて大破します(ネタバレ)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 凍りついた床にて侵入者を阻むアイスゴーレムを退け、一同は扉を潜り抜けた。

 そのまま道なりに進み、唐突に現われた梯子を上った先にて。

 フィオレはとうとう、偏頭痛を引き起こした。

 

「……なんで、王族の避難経路が地下牢に」

「地下通路だからな。玉座の真下には作れなかったのだろう」

 

 囚人が気付いたらどうするつもりだったのだろうか。

 苦言を呈すると、ウッドロウは困ったように微笑んでいる。

 

「一番隅の牢屋が頻繁に使用されるほど、ハイデルベルグの治安は悪くないからな……」

「それにしたって、緊急時に玉座からこんなにも離れているところに作らなくたっていい気がするわ」

「捕らえられた王族が、一番奥の汚い牢屋に収監されることを想定したのかもしれませんけどね」

 

 なんにせよ、出た先が牢屋であることは少々問題だった。

 何故なら、牢屋の鍵というのは扉が閉まっただけで施錠されるものだからである。

 

「開錠しないと出れないではありませんか」

「別に構わないだろう、そのくらい」

「私ができなかったら、どうなさるおつもりで?」

 

 ぶつくさ呟きつつ、針金を取り出して手探りで扉に据えられた鍵穴に押し込む。

 奇妙な体勢で開錠作業に没頭することしばし、どうにか扉を開くことはできた。

 今後、これは錠前として機能しないだろうが、今は黙っていればわからない。とにかく解錠に成功はしたのだ。

 安堵の吐息をつき、扉を押して牢屋から出る。

 

「誰もいませんわ……」

「グレバムに逆らって捕まった人間がいないのか、あるいは、いたけどその場で処断されたか……前者であることが望ましいですね」

 

 牢獄内は見事なまでにもぬけの殻だった。

 一同が王城へ侵入したことを知る者がいないのは大変望ましいが、最もな理由を考えるとぞっとする。

 

「……行こう。直接グレバムを叩くんだ」

「はい!」

 

 肝心のグレバムの居場所だが、まずは玉座にふんぞりかえっていないかと謁見の間へ赴く。

 牢獄のかび臭い空気から解放されて少し、ファンダリア城の長い廊下を歩いていても兵士はおろか、人影すらも見当たらない。

 

「おそらく、正面突破を予想して兵士をエントランスに集中させているんだろう」

 

 ウッドロウの予想は正しく、エントランスへと続く扉の向こうから大勢の人の気配が感じられる。

 耳を澄ませば会話すら聞こえてくることから、あまり緊張感は伺えない。

 

「ちゃんと相手の裏をかけているといいのですが」

「この分なら大丈夫でしょ。問題は、グレバムがこっちに気付いていきなり神の眼を使ったりしないか、よ。一度に何匹ものモンスターけしかけられたら、ジリ貧決定だしね」

 

 ルーティの言い分は最もだ。隠密行動ができるに越したことはない。

 ウッドロウの案内により、一同は十分警戒をしつつ謁見の間へと到達した。

 しかし。

 

「もぬけの殻……か」

「考えてみればここの玉座、それほど広くありませんでしたね。直径六メートルもの神の眼を持ち込んだら身動きがとれなくなってしまいます」

 

 地下室などに神の眼を隠していないことは確信できる。

 これまで一切、左手の甲に張り付いたレンズに反応はなかったからだ。

 ということは、相手はおそらく神の眼を傍に置いている。

 そのことを踏まえて、ウッドロウへ尋ねた。

 

「この城内にて、一番広い場所はどこですか?」

「……私が知る限りでは、時計塔頂上だな。あそこには、父より先先代が国中の技師を総動員して作らせたという巨大な時計が設置されていてね」

 

 温暖な気候のセインガルドなどでは、太陽の位置を見れば大体の時刻が分かるため、庶民には普及していない。

 時計に類するものなどは、リオンや王城に出入りする身分の人々が携帯している程度だ。

 かくいうフィオレも、ヒューゴ氏から持たされた懐中時計をひとつ所持している。

 しかし、一年の半分以上が雪に覆われているこの大陸では、天気の良くない日が続くことなど当たり前。もちろん太陽をしばらく見ることができなくなるため、時間感覚が狂ってしまうことすらあるらしい。

 さりとて、時計は嗜好品の一種だ。そのため、ファンダリアの国民全員が必ず所持できるものではない。

 それを嘆いた先先代が、せめてハイデルベルクの住民には、と巨大な時計を掲げる時計塔を設置したのだという。

 

「ハイデルベルグの人々がいつでも確認できるようにと巨大な時計を作ったがいいが、そのメンテナンスをするためのスペースもかなり広大なんだ。時計塔自体が王城に隣接しているため、ハイデルベルグを一望することもできる」

「まさに高みの見物って奴ね……可能性大じゃない」

「そうですわ。トウケイ城の時だって、天守閣にいましたもの」

 

 確かに、可能性がないわけではない。

 そして、一度足を踏み入れたことがあるだけでこの王城にけして詳しくないフィオレやリオンには、反論する理由もなかった。

 

「何とかと煙は高いところを好むとは、よく言ったものだな」

「行ってみましょう。その時計塔やらへの道を教えてください」

「こっちだ」

 

 玉座にこびりついている血痕から意図的に眼をそらし、裏手へ移動した彼について歩けばそこには左右に扉が設置されている。

 向かって右側の扉に手を掛けたウッドロウだったが、扉が開くことはなかった。

 

「鍵?」

「フィオレさん、開けられますか?」

 

 いぶかしがるウッドロウをさておき、スタンの求めに応じて扉前に跪く。

 しかし、フィオレは鍵を一瞥しただけで針金すら取り出すことなく立ち上がった。

 

「どうかなさいましたか?」

「──鍵穴が埋められてます。違うルートを探すしかなさそうですね」

 

 隠密行動中でさえなければ扉を破壊するのだが。今強硬手段を取ろうものなら、グレバムに感づかれる危険性が非常に高い。

 しかし、フィオレの言葉を聞いたウッドロウの表情は実に渋いものだった。

 

「だが、違う道など……」

「時計塔のメンテナンスに入る技師たちが、謁見の間をわざわざ通るとは思えません。必ず他に、道があるはずです」

 

 そう断言して、フィオレは指先に小さな譜陣を発生させた。

 音素が集まる気配と共に、透けるような繊細な羽が風もなくたなびく。

 やがてフィオレの指先には、たおやかな蒼い蝶がしがみついていた。

 無言のまま、蝶を操り扉の向こうへ移動させる。

 ただいま生み出した蝶は、空蝉なる秘術を駆使したものだ。

 第七音素(セブンスフォニム)製につき、大抵のものはすり抜ける──空蝉を構成しているを崩して、障害物の向こう側で再構成することができる。

 自分で視認できない箇所を探索するのはシルフィスティアに頼むことだが、これまで彼女の視界を借りてきてひとつの結論が出た。

 それは、視界を借りる対象である風が自由奔放すぎて、細かいところまで()ることがかなわない、ということ。

 考えてみれば当たり前だ。風自身、何かを見て判断するという行為は必要のないことなのだから。あるいはフィオレの頭……認識能力に問題があるだけか。

 ともかく、誰か、何かを探すだけなら十分な効力を発揮する風の探索はこの場合使えない。

 今はもうひとつの経路を探すため、じっくり()て回りたいのだから。

 扉の向こうで再構成された蝶を操り、様々な箇所を巡らせる。

 残念ながら扉の向こうにこそ、別経路を発見することはできなかったが、階段を昇った先に違う道を発見した。

 そちらへ蝶を移動させる。すると、次なる扉は城外……時計塔に属するだろう場所に繋がっていた。

 昇降装置や吊り篭式の移動装置が備えられていることから、やはりメンテナンス技師用の移動手段があることが伺える。

 時計塔を抜けた先は再び城内へと通じており、フィオレはその経路が現在隠されているところまで突き止めた。

 

「フィオレさん?」

「こっちです」

 

 迷いなく、来た道を引き返し始めたフィオレの後を、一同がぞろぞろと続く。

 蝶の視界から自分の姿を確認したフィオレは、再び蒼い蝶を扉の向こう側へ引っ込めた。

 

「この壁に隠し扉があります」

「隠し扉?」

 

 懐疑的なルーティの言葉などまるで聞かず、手近な壁を見やる。

 これまで歩んできた道のりにおいて松明は欠かさず灯されていたというのに、なぜかここだけは消されていた。

 もしかしたら、何かを隠すためここ周辺の明かりを故意に消したのかもしれない。

 その可能性がないわけではないため、フィオレはウッドロウに声をかけた。

 

「ウッドロウ。ソーサラーリングとやらで、明かりを灯してほしいのですが」

「心得た」

 

 雪かきを通り越して放火ができるソーサラーリングに、たかだか松明に火をつけられないわけがない。

 それを見越して頼んだことだったが、それは予想外の結果に繋がった。

 ウッドロウがソーサラーリングを用いて明かりを灯した途端。それまで壁だとばかり思っていた箇所に、扉が出現したのである。

 

「な!?」

「本当だ、隠し扉が!」

「先に続いていますわ」

 

 驚くフィオレを尻目に、スタンやフィリアは無邪気に道ができたことを喜んでいる。

 それだけではすまないのが後の面々だ。

 

「フィオレ、何でわかったのよ?」

「そもそもこれは、どんな仕掛けなんだ?」

「……えーと。松明に明かりを灯せば、隠されていた扉が暴かれる。そういった類の、幻術なのではないかと」

 

 扉があり向こうに道が続いていたことこそわかっているが、よもやこんな仕掛けとは。

 モリュウ城やトウケイ城の仕掛けを思い出して憂鬱になりながら、フィリアの後に続く。

 再会した蝶を回収、音素(フォニム)に還したところで行軍を再開した。

 壁にずらりと並ぶ灯された松明の中で、火が消えているものにソーサラーリングをかざせば、どういった仕掛けなのか扉の鍵が解除される。

 そのような調子で好調に進んでいた一同であったが、先程蝶の視界で見つけた時計塔内部を見て、もちろん彼らも唖然とした。

 

「ウッドロウさん、ここは……」

「時計塔、だろうな。内部にはめ込みきれない歯車があるところを見るに、ここもメンテナンス対象なのだろう」

 

 とはいえども、ここを自力で登るなどと技師たちが望むはずがない。一直線で上まで行ける道があるはずだ。

 フィオレは先程眼をつけておいた昇降機を一同に指差した。

 

「さて皆、あれに乗っていただきましょうか。多分上まで一気にいけるはずです」

「だが、作動レバーは離れているぞ。これでは一緒に移動ができない」

「私がレバーを操作して、それから徒歩で移動します」

 

 真っ先に危険を訴えるフィリアに、守護者の加護があるから平気だ、などと適当に嘯いて。フィオレは一同が乗り込んだ昇降機の、レバーを作動させた。

 それからすぐに、徒歩での移動を開始する。

 突き出た足場を歩き、歯車に挟まれないよう身をかがめ、タイミングよく次の歯車へ移動。

 進行方向とは逆に回転するそれの上を走り、メンテナンス技師の取り付けたものだろうか、垂らされた鎖製の梯子を上り。

 昇降機で一直線に上階まで上り詰めた彼らにやっと追いついた時、フィオレは自分が乗ろうとする吊り篭が動かないことを知った。

 

「フィオレさん、どうしたんですか?」

「これ、滑車が凍りついてるみたいなんです。動きません」

 

 試しに籠を蹴ってみるも、ピクリとも反応しない。

 時間はかかるが別の道を探そうかと、思い始めたところで。

 

「フィオレくん!」

 

 ウッドロウに呼ばれたかと思えば、何かが顔面に飛来する。

 受け取ってよく見れば、それは中央に緋色の石が埋め込まれた指環だった。

 

「ソーサラーリング?」

「それを使って、滑車の氷を溶かしたまえ」

 

 中指に装着しようとして、フリーサイズの指環がずるりと滑る。おそらくこの緋色の石から熱線が放たれるだろうことを考えると、危険極まりない。

 仕方がなく人差し指に通し、親指と中指で固定するようにしてからレンズを取り出す。

 緋色の石の裏側にある、地金に取り付けられた突起を押し込むと、レンズが割れると同時に熱線が発生した。

 熱線は滑車に命中し、吊り篭式の移動装置が何事もなかったように動き始める。

 

「お待ちしていましたわ」

「お待たせしました。しかしこれ、便利ですね」

 

 ソーサラーリングを取り外し、まじまじと見やる。

 レンズ一枚の消費で、一瞬にして炎が発生するのは画期的である。

 

「だったら、この旅が終わったあとで購入するんだな」

「いや、今は改良型しか……雪かきが可能程度の熱線なのでしょう? レンズ消費があっても、私にはこっちのほうが魅力的です」

 

 ヒューゴ氏に言えば、改良前のタイプが残っているかもしれない。

 そんなことを話しながら、ウッドロウにリングを返そうとしたその時。

 

「それなら、それを差し上げようか。私には、もう必要のないものだからな」

「え?」

 

 どういう意味なのか聞き返そうとして、唐突に気付く。

 彼がソーサラーリングを手にしていたのは、一重に放浪の旅を繰り返していたから──ファンダリアの王子として、民の生活を直に知るべく旅することを許されていたから。

 イザーク王が崩御した瞬間、彼は王子ではなくなった。

 だからもう、旅の供としてソーサラーリングは必要なくなるどころか、旅そのものもできなくなるだろう。

 

「よろしいのですか? 思い出の品でしょうに」

「いや、構わない。ただ……叶うならば、引き換えに我が部下の非礼を許してほしい」

 

 抜け目ない。フィオレが彼を許していないことを、心に留めていたのか。

 一国の王からそれを言われて、フィオレは小さく肩をすくめた。

 

「そうまで言われてしまっては、許さざるをえません。ありがとうウッドロウ、大切にしますね」

 

 微笑をたたえて、儀礼的な辞儀を披露する。いつかの夜会にて、初めてウッドロウと言葉を交わした際にも見せたものだ。

 それに笑顔で返したウッドロウではあったが、その際彼は何かを呟いた。

 

「……できれば、違う指輪も受け取ってほしいものだが……」

「何か?」

「いや、気にすることはない。まずはグレバムを、倒すことに集中しよう」

「……そうですね」

 

 上部まで上りつめ、扉を開く。

 再び城内へと戻ってきた一同が進むのは、あとほんの僅かな距離だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百三夜——刻まれる時の音~Shall We Dance?

 時計塔最上階、なう。
 とうとう、本丸グレバムの元へ到達。
 第一部、神の眼を巡る冒険。最終戦です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 熱い。

 極寒の地であるファンダリアにて、ありえぬ感覚を左の手に宿しながらフィオレは足を進めていた。

 一歩足を進めるごとに、熱さが増していくような気さえする。

 手甲をとれば、おそらく一目瞭然だろう。神の眼が近くにある。

 そして──長きに渡るこの探索行に、ようやく終止符が打たれるのだ。

 

「カルバレイスではさっくり逃げられ、フィッツガルドでは替え玉掴まされ、アクアヴェイルでは後一歩のところで逃げられ……考えてみると、裏をかかれてばっかりでしたね」

「……お前、どうしてこの局面でそんな情けないことを次々挙げられるんだ?」

「事実です。受け入れることでちょっと成長できますよ。背は伸びませんけどね」

 

 道なりに進みながらも、緊張感漂う雰囲気を壊したのはフィオレだった。

 コンプレックスを刺激され、彼は当然憤慨している。

 

「お前といいルーティといい、どうしても僕を怒らせたいようだな……」

「この旅を通して少しは成長してくださった御様子で。それがわかれば私は満足です」

 

 何故なら今での彼なら、そんなことを抜かす前に怒り出していただろうから。

 様々な人々と出会い、別れ。様々な局面に直面し、それをどうにかして進んできた。

 彼と同じように、自分自身も成長していればいいな、とフィオレは思っている。最も、この旅で一番成長したのはスタンとフィリアペアだと確信しているが。

 不吉なことを口にすれば、現実になる危険性がないわけではないのなら。ならば前向きな望みを口にするべきだと思える。

 たとえ望みを言葉にすれば、叶わなくなると言われていたとしても。

 

「終わりにしましょうか。グレバムに制裁を下し、神の眼をあるべき場所へ」

 

 何気なく放たれた言葉に、一同が力強く頷いている。

 奇しくも詰め所前にて、兵士長が兵士らをまとめていた時のことを思い出す。

 僅かながらの苦笑を浮かべたその時。

 ウッドロウの声、そして左手の甲のレンズが、フィオレを現実へ引き戻した。

 

「その階段を昇った先が……頂上、だ」

 

 おそらく屋外なのだろう。冷たい風が吹き込む階段の先に、グレバムと神の眼が待ち受けている。

 ひとつ息をついて、フィオレは階段に足を乗せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──階段を昇りきった先、時計塔頂上。

 おそらくはこの真上に、ハイデルベルグを一望する巨大な時計が設置されているのだろう。

 その時計を調整するためのものか、一同が踏みしめる床にも巨大な時計が埋め込まれていた。

 一同が対峙するその先に、トウケイ領にて発見した法衣姿の男──グレバムが立っている。

 その手には、長大な刀身を備えた剣を手にしていた。

 刀身の付け根に備えた丸い飾りといい、その古めかしい意匠といい。間違いなくソーディアン・イクティノスだろう。

 

『イクティノス!』

『久しいな、皆……俺のことはいい。それより早く、こいつを』

「グレバム!」

 

 ソーディアン達の挨拶もそこそこ、姿を見つけたフィリアが誰よりも早く走り出す。クレメンテを構え、臨戦体勢こそ整えているがその声は震えていた。

 その言葉に、男はゆっくりとこちらを振り向く。

 後ろへ撫でつけた髪に、余裕綽々の笑みすら浮かんだ倣岸不遜な態度。

 間違いなく、本人であった。

 

「よくぞここまで来た、と言いたいところだが……残念だったな。貴様らの命運もここまでだ」

「それは貴様に向けられるべき言葉だ。よくも散々手間をかけさせてくれたな」

 

 すでにシャルティエを手にしたリオンが鋭くグレバムを睨めつける。

 その視線すらも鼻で笑うグレバムの背後には。

 直径六メートル級、世界最大サイズのレンズ『神の眼』が、鎮座していた。

 

「笑わせる。ソーディアン使い如きが、この神の眼の威力を己が身で知るがよい」

「そうはいかん! 我が父の仇、取らせてもらう」

「ほう、できるかな?」

 

 嫌みったらしいその笑みが、ウッドロウのみならず一同の神経を逆撫でする。

 そこへ、凛とした声が飛び込んできた。

 

「これ以上、あなたの好きにはさせませんわ!」

「おとなしく石になっていればいいものを……むざむざ殺されに来たか」

 

 どうせ石になり続けていれば死ぬというのに、ふざけたことを抜かしてくれる。

 ともかく、逃げる気がないのは幸いなことだ。彼はやる気満々で、イクティノスを振りかざした。

 

「まとめて片付けてくれるわ!」

「皆、散るんだ!」

 

 通常ならば、フィオレもこのやりとりに参加し、相手を愚弄侮蔑挑発することで怒りを引き出し、少しでも戦いを有利にしようと努力しただろう。

 今回それをしなかったのは、これが最後の戦いになるだろうと、だから真剣に戦おうなどと思ったからではない。

 全ては、身も心も包み込むような、奇妙な高揚感のせいだった。

 以前フィオレは、神の眼を前に失神したことがある。

 状況が状況だったし、再び同じことが起こるとは思っていなかったが、この妙にふわふわした感覚は何なのか。

 これは……やりすぎて、しまうかもしれない。

 

「フィオレ!? 何をボーッとして」

「どうした。神の眼を前に、心でもうばわ「……うるさいなぁ、もー」

 

 唯一臨戦態勢に入らず、また隙だらけに見えるフィオレに目をつけたのだろう。

 イクティノス片手に迫るグレバムを眺めながら、フィオレはおもむろに片手を突き出した。

 左手の甲に張り付いたレンズが、イクティノスのコアクリスタルに宿った力を搾取しにかかる。

 

「サイクロ「天空を踊りし雨の友、紫電の槌を振り下ろせ」

 

 まるで寝言でも呟いているかのような簡略詠唱だったが、それでも術はきちんと発動した。

 本来詠唱とは、そこいらに漂う小さなエネルギーを相手に影響を及ぼすほどに収束させる役割を持つ。術名を口にするのは、その名を呼ぶことで発動を促すのだ。

 だが、ここにはそもそも巨大なエネルギーの塊である神の眼がある。

 小さなエネルギーをかき集め、収束させる必要がない。そのため、簡略詠唱でも十分威力を見込めるのだ。

 しかし。発生した雷撃の嵐は違わずグレバムを包み込むも、神の眼が輝いたと同時に雷撃はかき消えた。

 

「なんだ、今のは? 子供だましにも程がある」

「馬鹿な!」

 

 以前、レイクドラゴンをも撃退した雷がいとも簡単にかき消され、リオンは切れ長の瞳に驚愕を宿している。

 フィオレはそれらに構うことなく、次なる譜術の発動を準備していた。

 今のは、イクティノスに宿っていた第三音素(サードフォニム)を搾取して発生させたものだ。

 しかし、これだけ捜し求めた神の眼が傍にあると、その在り様が手に取るように伝わってくる。

 神の眼は、通常レンズと同じく全ての属性エネルギーを内包していた。

 しかも非常に豊富であるため、おそらくグレバムはイクティノスを介し、神の眼の力を直接戦闘に用いているのだろう。

 でなければ、それまで追っ手から逃げ回っていた理由がない。

 

 ──それなら、何故真っ先にイクティノスがあるファンダリアを襲わなかった? 

 

 平時ならばすぐに浮かぶ疑問だが、今のフィオレにはそこまで考える意識がない。

 曲がりなりにも戦闘中であること、そして。

 

「炎帝に仕えし汝、その吐息にて彼奴を滅ぼせ」

 

 神の眼よりレンズを介して術を発動させるも、どうもフィオレは集中ができなかった。

 これまで生きてきて、フィオレはほとんど酔う、という感覚を知らない。薬を初めとする毒のほとんどを受け付けないフィオレの体質は、アルコールの副作用とも無縁なのだ。

 ただ、まったく知らないわけではない。数少ないその酩酊体験と、今の状態はかなり近かった。

 気分だけの問題で、勿論身体能力に影響が出るわけがないのだが。

 グレバムの足元に譜陣が展開し、発生した火炎の渦がやはりグレバムを取り囲む。

 ところが、それは一瞬にして鎮火され、何の痛痒も与えていなかった。

 

「スノードラゴンすら焦がした炎を、消しただと……!?」

「──なるほど。カラクリは、それですか」

 

 最早見間違いようもない。

 グレバムが二度に渡ってフィオレの「手品」を無効化したその事実に一同が衝撃を禁じえない中、フィオレは淡々とその理由を突き止めていた。

 今しがたの攻撃も、先程の攻撃も。

 発動し、直撃する瞬間、神の眼が一際強く輝いている。

 それに気を取られてグレバム自体がどうしていたかはわからないが、ともかく神の眼が関係しているのは間違いないだろう。

 

「となると、晶術も無効化されそうですね」

「行きます、ストーム!」

 

 試してみるとばかりに、フィリアがクレメンテを掲げる。

 しかし、グレバムがイクティノスを一閃したかと思うと、轟風はぴたりとやんでしまった。

 

「……イクティノス、もしや自分の司る晶術を無効化できるのでしょうか? だとしたら、皆より高性能ですね……」

『それは一応皆できるよ! 自分の属性の晶術なんて滅多に向けられないから、披露できないだけ!』

 

 一方でグレバムは神の眼を自由自在に操り、イクティノスの巻き起こす風でウッドロウの矢を弾きながら、スタンやリオンと斬り結んでいる。

 当然、ルーティやフィリアの晶術は神の眼によって無効化されていた。

 

「くっくっく、少しは楽しませてくれるか。だが所詮はその程度、神の眼の真の力の前では赤子同然よ!」

「……よくもまあ、借り物の力でそこまで驕れるものですね」

 

 借り物の力だからこそ、溺れていることにも気付かず勝ち誇っているのか。

 あくまで自分が格上だと高らかに叫ぶグレバムに、フィオレはげんなりと呟いた。

 そんな呟きなぞもちろん耳に入れず、真の力を味わえ、とか叫ぶグレバムの隙をついてこっそりとチャネリングを発動させる。

 対象は、神の眼だ。神の眼に意思がなければもちろん無駄なことなのだが、以前フィリアが言っていた俗説を真っ向から否定した覚えはない。

 

『少々大人しくしてもらえませんか? 私たちはそこの、ぶんぶん五月蝿いコバエを取り押さえたいのです』

『……アーステッパーは?』

 

 意識を通じさせようと試みるも、その返事はない。

 その代わり、思いもよらない意志が発せられた。

 

『みんないる。みんないるけど、あとひとり。かわすことができたなら、その時は……』

 

 その時は、何だというのか。

 戦闘中であることを完全に忘れ去っていたフィオレが、意思疎通を成立させようと本格的に集中しようとしたところで。

 

『ぐあぁっ!』

『イクティノス!』

『あの男、コアクリスタルに神の眼の力を注いでおるのか! そのようなことをして、コアクリスタルが耐えられるはずが……』

 

 コアクリスタルどころか、所持者たるグレバムも耐えられるものではないだろう。

 このまま自滅を狙うのも手かもしれないが、貴重なソーディアンを対価にせこい犯罪者を仕留めるのは割に合わない気がする。

 

「時の狭間にて揺蕩(たゆと)う者よ、奏でし調べに祝福を!」

 ♪ Rey Va Nu Qlor Toe Rey Rey──

「な、なんだ⁉︎」

 

【第七音素譜歌】静なる時縛り(タイムストップ・バインド)

 ほんの僅かな時ではあるが、神の眼が無機物である以上、取り巻く時の凍結は可能だ。

 一瞬にしてエネルギー供給を断たれたグレバムが、何が起こったのかわからずただ立ちすくむ。

 そこで初めて、フィオレは接敵した。

 

「ぎゃあああああっ!」

 

 振り抜いた紫電にまとわりつく雫を払い、絶叫と共に法衣を緋色に染める男を蹴倒す。

 力の抜けた手からイクティノスが滑り落ち、甲高い音を立てて床に転がった。

 左胸からわき腹にかけてざっくり裂かれたグレバムが、悲鳴の余韻を引いて背後の神の眼に激突する。

 そこで──時の凍結による縛りが消えた。

 それまでエネルギー供給を要求されていた神の眼に判断力などなく、求めに応じて供給を続ける。

 イクティノスのコアクリスタルがあった、グレバムの右手へ。

 

「やめろ! ……くそ、制御が……!」

 

 イクティノスを失くした今、彼がどのようにして戦闘にこの力を活用するのか見ものだ。

 最早そんなことはありえないとわかっていながら、視線が外せない。

 そんなグレバムの最期は。

 それまで追っ手から逃げ回っていた狡い輩にふさわしいであろう、哀れなものだった。

 

「馬鹿な……この、わだじがあぁっ!」

 

 まるで内側からの圧力に体が堪えられなくなったような、異様な音がする。

 それに伴いグレバムの発声も異常と化し、嫌な予感に駆られたフィオレはフィリアへと駆け寄った。

 

「スタン、ルーティを!」

「はい!」

 

 おそらくフィリアは、スタンに来てもらったほうが喜んだだろうが、フィオレの方が近くにいたのだ。背に腹は変えられない。

 異様な音を聞き、予兆を感じ取っていたのだろうか。

 すでにグレバムを見つめ、身体を強張らせていたフィリアを抱きとめるかのように、その視界を我が身で覆う。

 同じようにスタンが、固まりかけていたルーティへ駆け寄ったその時。それは起こった。

 

「ご……は……!」

 

 異様な音は一度に留まらず、やがてグレバムが人の形から程遠くなる。

 エネルギー供給は止まず、際限なくそれが続けられた結果。

 

「……!」

 

 ぱんっ、と。ありえない音を立てて、グレバムなる人間は死んだ。

 びちゃびちゃと何かが撒き散らされ、特徴的な汚臭が辺りを漂い、誰もが顔を背ける中。

 いきなりフィオレの眼前が、蒼一色に染められた。

 

「……ウッドロウ、フィリアをお願いします」

「どうするつもりだ」

「これを、彼女らに見せるつもりはありません」

 

 耳を塞いでカタカタ震えるフィリアをウッドロウに託し、フィオレはふらりと左の手を掲げた。

 ──今は己の体内にしか存在しないはずの第七音素(セブンスフォニム)を使っても、消耗した感じがしない。

 おそらくは、神の眼にどの属性にも当てはまらないはずのこのエネルギーも内包されているのだろう。

 

「奏でられし音素よ。紡がれし元素よ。穢れた魂を浄化し、万象への帰属を赦さん──」

 

 掲げた手に仄かな光が宿った。

 フィオレを中心に展開した譜陣が大きく膨れ上がり、臓物をぶちまげるどころか胃や腸の内容物にまでまみれた屍に及ぶ。

 

「ディスラプトーム」

 

 灯した光を譜陣に押し当てれば、譜陣の隅々まで光は満ち溢れ。

 誰もの視覚を、奪い取った。

 ──かちこちと、時計の動く音がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百四夜——暴走する厄災~ La Danse Macabre.


 ファンダリア王城隣、時計塔最上階。
 グレバム(しょあくのこんげん)は討ちました。しかし、これで終わりではなかったのです。
 一体誰が想像したでしょうか。
 制御者を失った神の眼が、一同へ牙むくことを。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眩い光の支配は、ほんの一瞬のこと。

 再び見やった先にあるのは、転がったイクティノス。

 そして、神の眼と名のつく直径六メートルもの巨大レンズのみ。

 無残な屍も、撒き散らされた血痕も、汚臭も。

 洗い流されたかのように、痕跡すら消えていた。

 

「フィオレさん、だいしさ……いえ、グレバムは?」

「……死にましたよ。過ぎたる力に溺れ、挙句制御を失って。イクティノスが道連れにされなくて、よかったですね」

「ああ。イクティノスは、返してもらうぞ」

 

 屍が散らばった辺りに眼をやり、ウッドロウはイクティノスを拾い上げる。

 神の眼のエネルギーを受けたショックか、コアクリスタルはシャッターにて閉じられてしまっているものの、その他の外傷は見当たらない。

 

「い、いつまでこうしてる気よ!」

「ついにやったんだ!」

 

 どのようにしてルーティの視界を遮っていたのか知らないが、ルーティに突き飛ばされたらしいスタンが惜しげもなく歓声を上げる。

 ところが、彼の相方はそれに賛同してくれなかった。

 

『喜ぶのはまだ早いぞ!』

「え?」

 

 見やれば、それまでグレバムの制御を受けていたであろう神の眼がチカチカと瞬いている。

 ある程度の年月を経て、消耗したレンズ照明器がこのように光るのを見たことがあるが、あれとは多分意味合いが違う。

 

『いかん、オーバーロードじゃ』

『このままでは爆発するわ』

「ば、爆発!?」

「冗談じゃないわよ!」

 

 喚くルーティ、取り乱す一同にリオンの周囲へ集まるよう指示。

 フィオレ自身も大急ぎで彼に駆け寄り、意識を集中させた。

 

「母なる抱擁──省略!」

 

 考えてみれば、シャルティエの力に頼らずとも神の眼が傍にあるのだから、発動は簡単である。

 ただ、あの暴走しているように見える神の眼から力を借りるのはためらわれた。

 瞬くような輝きの頻度が増え、神の眼自体に力が収縮していく。

 途端、フィオレは展開した結界の悲鳴を聞いた。

 周囲に遍く起爆を導いた神の眼の様子に、これといった変化はない。

 

『ビックバンか……! あんなものまともに喰らえば、生身の人間なぞ木っ端微塵になるぞ』

『第二撃が来るわ!』

 

 おそらく周囲の空気を圧縮し、その圧力を解放することで小規模な爆発を起こしているのだろう。

 どれだけ小規模であろうと、この周囲一帯に連鎖して起こるのなら威力は増大する上に逃げ場などない。

 回避が不可能なら、結界を展開し続けるしかない。が……

 

「あの、フィオレ。これが壊れたら、どうなるの?」

「まず、結界が破壊された衝撃で私の意識がすっ飛びます。あとは、ディムロスの言葉通りではないでしょうか」

 

 淡々と言葉を紡ぐフィオレが、爆発の余韻もなくなる前に結界を解く。

 すぐに譜陣を展開したフィオレは、ちらりとスタンの腰を見やった。

 

「でも、ディムロスがこの現象を知っているということは、もしや天地戦争で体験していませんか?」

『確かに、儂らは天上王が神の眼を用いて使用したこの術を知っておる』

 

 ──マリーやチェルシーが、この場にいなくてよかった。

 本当に、よかった。

 

「且つ、天地戦争に勝利したということは、ソーディアンマスターであればどうにか凌ぐ術をお持ちでしょう。現在イクティノスを持っているウッドロウも当てはまるでしょうから、私が……私のみが、木っ端微塵になるんでしょうねえ」

「な……!」

 

 ──そして、この術は、本来発動し続けられるタイプのものではない。

 現在起動し続けているようにそのこと自体は不可能でもなんでもないが、それだけ消耗が激しいのだ。

 現に今、フィオレは小さく息をついて片膝をついていた。

 

「ちょっと!?」

「まだ大丈夫です。けど、そのうち私が限界を迎えます。それまでに、何とかしましょうか」

 

 その前に、確認しなければならないことがある。

 フィオレだけが危険になるのか、それとも全員が危険にさらされるか。

 それがわからなければ動きようがない。

 

「それで、今しがたの私の推測は的を得ていますか?」

『ソーディアンが製作された当時、あのビッグバン対策も考慮はされていたからな。ソーディアンマスターなら対シールドが起動し、一撃は耐えられるだろう』

「イクティノス!? 生きていたのか……」

『我々に死ぬという定義はない。コアクリスタルが破壊されれば、プログラムされている人格もろとも、ソーディアンとしての機能を失うだけだ』

「……ありがとう。安心しました」

 

 状況をまるで無視したイクティノスの冷静な説明に、フィオレは思わず苦笑を零した。

 三度目のビックバンを凌いだ直後、結界が唐突に消える。

 

「フィオレさん!?」

「……クレメンテ、フィリアに傷ひとつつけて御覧なさい。くず鉄にして製鉄所送りです。イクティノス、ウッドロウに何かあったら国際問題です。必ずお守りするように」

『そりゃわかっておる。じゃが、お主はどうするつもりなんじゃ!?』

『……心得た』

「失敗しても犠牲が私だけなら、これだけ心が軽いこともありません」

 

 結界を限界まで起動し続けたところで、待つのは確実な死。

 ならば、まだ当たって砕けた方がマシである。

 しかし。

 

『馬鹿を抜かすでない! お主は自分の肉片を、フィリアに見せる気か!』

「クレメンテ! なんてことをおっしゃるのです!」

『……それに、すでに我々は先の戦争で何度となくビッグバンを受けた。シールドも、あと一度耐えられればいい方だろう』

 

 ……フィリアは悲鳴じみた叫びを上げているが、確かにクレメンテの言うことは正しい。

 先程グレバムの死骸を消した意味がなくなるからだ。

 イクティノスの言葉が正しいがどうかはわからないが、とにかく。

 

「……そういうことをおっしゃられると、いきなり無茶ができなくなるから困りますね」

 

 再び結界を展開し、次なる爆発に備える。

 爆発が静まり、次なる一撃にかかるまでの時間を正確に測り終えたフィオレは結界を消した。

 

「それで、シールドとやらはソーディアンを装備さえしていれば、勝手に起動するものなので?」

『いや……起動は我らが促すが、その間マスターは一切の行動が封じられる。禁を破れば、シールドは消滅するのだ』

「なるほど。では皆、動かないでくださいね」

「フィオレさん……!」

 

「時の狭間にて揺蕩(たゆと)う者よ、奏でし調べに祝福を」

 ♪ Rey Va Nu Qlor Toe Rey Rey──

 

 爆発の余韻満ちるその場で、再び時縛りの調べを奏でる。

 わずかな時間稼ぎの中で、フィオレは駄目押しとばかり更なる譜歌を使った。

 

「戦士よ勇壮たれ。鼓舞するは、勇ましき魂の選び手」

 ♪ Va Rey Ze Toe Nu Toe Luo Toe Qlor──

 

 気休めに近いが、これで一度くらいは爆発を受けても生きてはいられるだろう。

 生きてさえいれば、こっちのものである。

 凍結した時の支配を受けている神の眼に、フィオレはゆっくりと歩み寄った。

 

『フィオレ、何をするつもりなの?』

「あれの制御を試みます。あのエセ神官にできて、私にできないとは思いたくない」

『危険だわ! 場合によってはあなたまで、グレバムの二の舞に』

 

 その危険性を、もちろん考えなかったわけではない。

 しかし、そうでもしなければ他に何をしろというのだろうか。

 ディスラプトーム──有機物無機物に関わらず、存在する一切合財を強制的に分解し、文字通り消滅を促す譜術を使えば、有効かもしれない。

 だが、そんなことをすれば神の眼は消滅する。

 回収しろという任務に背くことになり、更にアレはフィオレをこの世界に招いた存在かもしれないのだ。行使は、初めから眼中にない。無事回収したいのなら、制御をするしか選択肢は存在しないのだ。

 そしてフィオレは、無事機能を保持したままの神の眼を取り戻したい。

 時縛りから解放されつつある神の眼に近寄る度、とんでもない圧力を感じる。それに抗うよう接近を続けて、フィオレは左の手甲を外した。

 爛々と、まるで神の眼と呼応するように輝くレンズを胸元で抱えるようにする。

 

 ──そこで。フィオレは自分の左手が、細かな痙攣を起こしている事に気づいた。

 

 抑えようとしても止まらず、押さえた右手に震動が伝わるばかり。

 確かに気温もさることながら、暴走状態の神の眼を前にして冷や汗が止まらず、寒いには寒い。

 しかし、ここまで震えるほどのものでは……

 ここで、フィオレは唐突に気付いてしまった。

 意識上自覚してはいけないことだが──恐怖しているのだ。それが、左手の震えを発生させている原因である。

 それが未知なる物に対する恐れなのか、単純に命の危険にさらされてのものなのか、その事実から必死に眼を背けているフィオレにはわからない。

 わからないが。神の眼が時の凍結を脱したこの時、脅えている暇も、原因を究明する暇も、存在はしなかった。

 

『私に交渉を持ちかけてきたのがあなたなら、直ちに暴走を静めてください。でなければ、あなたの望みは叶わない』

 

 何故なら、暴走が止まらなければフィオレはあえなく爆死するから。

 チャネリングによる交渉を試みる最中にも、神の眼の暴走は静まる気配がなかった。

 これは、覚悟しなければならないか──

 神の眼がギラギラとした輝きを放った、その瞬間。

 

『スタン、何を!』

『坊ちゃん!?』

 

 ソーディアンたちの悲鳴が聞こえ、迫り来る脅威から気が逸れる。

 カラカラに乾いていた喉から、自然と旋律が零れ出した。

 

「母なる抱擁に、覚えるは安寧──」

 

 旋律が結ばれ、結界が発生した直後に真横から衝撃に襲われる。

 咄嗟にむき出しの腕を抱えて衝撃に備えれば、受身の取れなかったフィオレは背中から床へ叩きつけられた。

 

「っ痛ぅ……」

 

 うっすら涙が浮かんでくるのを瞬きで乾かし、どさくさに紛れて手甲を付け直す。

 圧し掛かる何かに抗って上体を起こすと、金色の蓬髪が眼前に溢れていた。

 ディムロスの言葉を考慮する辺り、どうもスタンに突進で真横から突っ込まれたようだと理解したところで。

 

「何をやっとるんだ、スカタン!」

 

 覆いかぶさるスタンが、細い足の蹴打によってどかされる。

 わき腹を蹴られたせいで不気味な呻きと共にフィオレを解放したスタンは、痛そうに患部を擦りながら細足の持ち主を見やった。

 

「何するんだよ、リオン」

「こっちの台詞だ! 命の危険を冒してまでフィオレを押し倒す奴があるか!」

「そういうリオンだって、ここにいるじゃないか」

 

 まったくである。五十歩百歩とは言いえて妙だ。

 途端に詰まるリオンは珍しいが、悠長に珍しがってもいられない。

 鈍痛と、譜歌の乱発による頭痛を押し殺して立ち上がる。

 視線の先の神の眼は、それまでの様子と打って変わって、ただそこに在るだけだった。

 暴走どころか、起動の気配もない。

 

「……落ち着いた?」

「フィオレ、今度はどんな手品を使ったのよ?」

「誠意をこめた話し合いをしただけです」

 

 実際の内容は、何とも情けない、自らを盾にしての脅迫だったが。

 無論、納得はしていないルーティをさておいて、フィリアとウッドロウの生存と、無傷であることを確認する。

 これでクレメンテをくず鉄にする必要も、フィオレがチェルシーに殺されることもなくなった。

 

「さて、後は陛下の元へ神の眼を運ぶだけだな。それが済めば……」

「──それで誤魔化してるつもりですか」

 

 シャルティエを鞘に収め、リオンがいけしゃあしゃあと口を開いたところで、フィオレは氷点下の声音を発した。

 再び言葉を詰まらせるリオンと、そしてスタンを睨む。

 

「私は、じっとしていてくれと言ったはずです。そうすれば、ソーディアンマスターであるあなたたちの無事は保証されていた。どうして、動いたんですか?」

「だって……フィオレさん、震えていたじゃないですか」

 

 ……そんなに分かりやすかったのだろうか。

 その一言に、動揺を隠しきれないフィオレへリオンの追い討ちが続いた。

 

「妙に気が抜けていたり、かと思えば脅えていたり。神の眼を前にして、お前の様子は明らかにおかしかった。そんな奴に対処などを任せておけるか」

 

 確かにそうかもしれない。彼らの言葉を否定できる要素など、何一つない。

 それでも。

 

「ええ、怖かった。でも、あなたたちが動いたと、わかった瞬間の方がもっと怖かった」

 

 こんな歳にもなって、何かを恐れることは幼稚だと思う。

 神の眼を前に恐れたことは確かに恥じるべきだ。

 だが、これだけは繕うつもりはなかった。

 大切だと思う人が傷つくことを恐れるのは、当然のことだと考えているから。

 

「動いたのがそんな理由なら、脅えていることを察知させてしまった私に非がありますね。危険にさらしてしまって、すみません」

 

 理由が判明した以上、彼らを責める必要はない。

 くるりと身を翻して、フィオレは神の眼を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百五夜——凱旋の刻~船酔いはつらいよ

 ファンダリア時計塔屋上~in飛行竜。
 ここで神の眼を破壊しておけば、あんなことにはっ! (ネタバレ)
 まあ、それはそれとして。
 ここでスタンが何かに気づいたら、何かが変わっていたのでしょうね。
 最も、そんなことはありえないわけですが。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神の眼はすでに沈黙し、一同の誰一人として犠牲はない。

 そのことに内心フィオレが喜んでいると、気を取り直したらしいスタンが神の眼へと近づいた。

 

「よし、早速運び出そう」

「どうやってよ? まずは人手を借りなくちゃ……」

「待ちたまえ」

 

 探索行が始まって以来、最後まで抜けた発言がなくならなかったスタンに、ルーティが最もな突っ込みを入れる。

 しかし、普段ならそこで苦笑のひとつも零すウッドロウは、厳しい表情を崩さなかった。

 

「ウッドロウさん?」

「君たちも、神の眼の威力は見ただろう。これは人の手に委ねるべきものではない。今すぐこの場で破壊してしまうべきだ」

 

 その一言を聞き。それまで神の眼を言葉もなく見上げていたフィオレが、くるりとウッドロウを見た。

 

「ちょっと待ってください」

「そ、そんなことしたら……」

「君たちがやらないというのであれば、私が「何をするって?」

 

 おそらくは、今更ながらにスタン達の柔らかな制止の意味を知ったことだろう。

 眼前に立ちはだかるフィオレは、口元にのみ笑みらしいモノを浮かべていた。

 その口元が今、奇妙な一本調子で言葉を発する。

 

「あなたはー。私のなけなしの勇気と努力の結果をー。なかったことにしようとー。考えておいでなのですね」

「き、君の努力は認める。その勇気も称えるに値するものだ。だが……」

「それが陛下のお考えであるならばー、私如きが反対を訴えたところで何もならないでしょうー。ですから」

 

 途中から明らかな棒読みに切り替わった口上が、ぴたりと停止する。

 代わりとして、フィオレがすらりと抜いたのは、アクアヴェイルシデン領主家家宝、紫電であった。

 

「そっちがその気なら、私の屍を踏み越えてからにしてください」

 

 大真面目な顔でそれを訴えるフィオレを前に、ウッドロウは心底困った様子で一応イクティノスの柄を握っている。

 凍り付いてしまった空気を動かしたのは、リオンの一言だった。

 

「フィオレ、好きにさせてやれ。どうせ不可能だ」

「リオン君?」

「それは知っていますが、体裁上止めないとまずいでしょうに」

 

 言いながらも、フィオレはあっさり紫電をしまっている。

 どういうことなのかを尋ねるフィリアに、フィオレは事も無げに説明した。

 

「もしソーディアンで神の眼を破壊することが可能なら、天地戦争終結時、すでに神の眼は破壊されているはずです。戦争の当事者たちがウッドロウのように考えないわけがないのですから」

「た、確かに……」

「千年たった今も神の眼が現存しているということは、そういうことなのではないかと」

 

 最後の一言をウッドロウに向ければ、彼は完全に気落ちしてしまっている。

 彼にしてみれば、父親の仇をこの神の眼に奪われたようなものなのだ。それが破壊できないのは、確かに無念だろう。

 それがわかっているのかいないのか、リオンはこともなげに言い放った。

 

「セインガルド王を信頼してもらいたいものだな」

「難しいと思います」

「……神の眼はセインガルドが責任持って管理し、決して悪用はさせない」

「口先だけなら、何とでも言えますけどね」

 

 毎度のこととはいえ、彼にそれが耐えられるわけもなく。

 度重なる口出しに、リオンはとうとう怒り出した。

 

「いちいち茶々を入れるな!」

「前例ができた以上、もう一度だけ信じろ、とか言われても難しいと思いまーす」

 

 ウッドロウをちらと見やれば、その漫才じみたやりとりに彼はほんの僅か、笑みを浮かべている。

 僅かでも、笑うことができるならまだ大丈夫だろう。

 

「私たちに課せられたのは、神の眼の回収です。セインガルドへ運んだその先は、一国の陛下同士で存分に協議なさってくれればよいかと」

「……わかった。私も同行させてもらおう。そうと決まれば、人を集めねばな」

 

 そうと決まれば、やることはいくらでもある。

 無事神の眼を確保することに成功した一同は、示し合わせて各自行動を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルグの解放に、神の眼の搬送。そして、飛行竜の起動。

 急ぎ足で済ませた準備の後、飛行竜はハイデルベルグを発った。

 セインガルドの所有である飛行竜を、ハイデルベルグの人材でどう動かすのか不思議でならなかったのだが。

 幸いリオンに知識があったらしく、現在は自動操縦でセインガルドまで向かっている。

 

「通信機を使って連絡を取る。お前は外で待機していろ。誰も入れるなよ」

 

 そう言って、しばらく前に管制室に篭もったリオンは未だ音沙汰がない。

 そういえば、フィオレがディムロスの搬送にて搭乗した際、魔物の攻撃で派手に壊されていた。

 ひょっとしたらそれが尾を引いて、四苦八苦しているのかもしれないと何気なしに扉を僅かに開けた、その時。

 

『……暴走状態に陥った神の眼を、フィオレが鎮めた、と?』

「はい。詳細は、分かりかねます」

 

 ──管制局と連絡を取り合っているとばかり思っていたが、リオンの話し相手はあのヒューゴ氏であった。

 知らせを聞いたヒューゴ氏が管制局へ出向いた……否。

 今初めて連絡を取り合うのに、そんな都合良く彼が管制局へ足を運ぶとは考えにくい。

 

『やはり危険だな。手綱を取りきる術もなく、釣れる餌すらない。非常に惜しいが、予定通り人員からは外す』

「……はい」

『お前たちが帰還してほどなく、計画を実行に移す。今の内に、身体を休めておけ』

「はい……」

 

 ぶつっ、と耳障りな音を立てて通信が切断される。

 大きなため息と共にリオンが通信機器の作動を停止する音が聞こえた。

 スイッチが切られる音に合わせて扉を閉める。

 今しがた盗み聞いた意味深な会話の意味を勘ぐるより早く、扉は開いた。

 

「遅かったですね。どうかしましたか?」

「……通信機器の調子が悪くてな。接続に手間取った」

「やっぱり。ディムロス護送時、魔物に破壊されていましたから」

 

 何事もなかったかのように装うリオンに付き合って、何も知らないフリをする。

 先程の会話はもちろん気になったが、それ以上にフィオレはとあることで頭の中を埋め尽くしていた。

 それは、この飛行竜での惨事である。

 グレバムは飛行竜を手に入れた後、移動手段になればそれでよかったらしく、必要最低限の手入れしかなされていなかった。

 そのため至るところに血痕がこびりつき、その光景が苦い記憶を穿り返す。

 

「どうした。顔色が悪いぞ」

「あなたもね」

 

 リオンの言葉が揶揄か真実かはわからないが、少なくともフィオレの言葉は事実だ。

 理由は容易に想像できる。

 

「まさか、茶葉全部を使い切るとはね。長期戦を予想して、あれだけ準備したのに」

「お前だって飲んでいたじゃないか」

「船の上で一日につき、十杯以上も嗜んでいたあなたにはとてもとてもかないません」

 

 船、という単語を口に出したことで、フィオレはとある事を思い出した。

 リオンには、須く厄介な記憶を。

 

「そういえば、前にチェスで勝ってからそのままでしたっけ。勝者は敗者にひとつ、命令が下せる」

「……うっ」

「気分が悪いからって誤魔化しても駄目です。誤魔化しといえば、先の戦いで危険を省みず私の元へ走ってまいりましたね。あなたに何ができるわけでもないのに」

「……何が望みだ」

 

 フィオレが言わんとすることを無理やり尋ねさせられたリオンは、船酔いも合わせて至極不機嫌だ。

 そんなことには一切構わず、フィオレは要求をふたつほど、口にした。

 

「──お前」

「御了承いただけますね?」

 

 半ば強制的に同意を取り付け、立ち尽くすリオンに背を向ける。

 そのままフィオレは、それまで自分が待機していた管制室外の船首へと出た。

 眼下を見下ろせば、景色がどんどん流れていく。

 それまで一面にあった白い大地に少しずつ緑が混じってきたことから、もうすぐファンダリアを抜けるだろう。

 そこへ。

 

「フィオレさん!」

「こんにちは、スタン」

 

 足音を耳にして眼を向ければ、そこには旅を経て少々長くなった金色の蓬髪をなびかせるスタンの姿があった。

 フィオレの眼前へとやってきた彼は、おもむろに口を開いた。

 

「あの、ルーティ知りません?」

「ルーティ? リオンなら、中にいますけど」

 

 話を聞くに、マリーがいなくなってからというもの、そこはかとなく元気がないルーティを気遣ったフィリアが探しているらしい。それに付き合って、姿の見えない彼女を探しているのだという。

 だったらほっといてあげるのもある種の優しさだが、そう思わないのなら構うのも一つの手だろう。

 

「私は先程からここにいますが、誰も見ていませんね」

「さっきからって、何をしていたんですか?」

「リオンがダリルシェイドの管制局と連絡を取っていたので、待機していたんです」

 

 そこでふと、フィオレは何の気なしに尋ねてみた。

 特に意味こそないが、何となく気になったのである。

 

「この飛行竜がセインガルドへ到着すれば、それであなた方は釈放ですね」

「え? ええ、そうですね」

「その後、スタンはどうなさるおつもりで?」

 

 確か、スタンが密航までしてセインガルドへ向かった理由は軍の兵士になるためだ。

 人に使われる、その大変さだけは存分に味わったと思うが、それでもまだ夢を諦めないと抜かすだろうか。

 フィオレの予想と大して変わらず、スタンはすっぱり言ってのけた。

 

「釈放された後、改めて兵士に志願します。俺はもともと、そのために故郷を飛び出したんですから」

「……そうですか」

「ディムロスもいるし、フィオレさんとまた一緒に戦うことがあるかもしれませんね」

 

 純真で、眩しく思うほど真っ直ぐで、無邪気な人間だとは思っていたが。まさかここまで楽観的な思考の持ち主だとは思っていなかった。

 言いづらいが、彼のことを思うなら黙って生暖かい眼で見守るだけではいけない。

 

「……あのですね、スタン。そのつもりなら、はっきり伝えておきましょう」

「はい?」

「もともとディムロスは、セインガルド王国が所持する国宝です。資質があったとしても、一兵士の所持が許されるとは思えません」

「ええっ!?」

 

 彼にしてみれば、シャルティエの所持を許されたリオンがいることで軽く考えていたのだろうが、客員剣士と新米兵士ではその待遇にかなりの落差が出ることだろう。

 それが神の眼を取り戻した人間であったとしても、だ。

 

「あと、私は近々セインガルドを去ります。あの国に所属していては、行きたいところにも行けませんから」

「あ……アクアヴェイルに行くんですか!?」

「アクアヴェイルにも行きますよ。紫電をジョニーのお家に返さないと」

 

 まずは紫電を返すことが優先だ。

 アーステッパーとの契約を交わした途端、何が起こるのかはまったくの未知数なのだから。

 この旅で、二柱もの守護者と契約できたのは本当に運が良かった。

 残るはあと一柱、フィッツガルドにおわすであろうアーステッパーのみ。

 この後、神の眼がどのように扱われるかはわからないが、神の眼にあと一柱との契約を迫られたのだ。

 そちらを優先させない限り、どれだけ神の眼と交渉を重ねても意味がないだろう。

 

「にも、行くって……」

「ちょっとね」

 

 詳細を話すつもりはないにつき、適当に誤魔化した。

 すると、スタンはしばし黙り込んだ上でぐっ、と顔を上げた。

 何かを決意したような、そんな目だ。

 しかし。

 

「──フィオレさん、あの」

「……通路で邪魔だぞ、お前ら」

 

 管制室から出てきたリオンに、出鼻をくじかれた。

 先程見たときよりその顔色は悪く、事情を知らないスタンはさっと顔色を変えている。

 

「リオン!? どうしたんだ、大丈夫か!?」

「うるさい……僕に……僕に構うな……」

 

 本格的に酔いが身体を蝕んでいるのか、足取りは重たい。

 弱々しい憎まれ口に取り合うことなく、スタンはどういうことなのかを聞き出しにかかっている。

 

「どうしたんだよ、一体」

「酔っただけだ……」

「酔った? 飛行竜にか?」

「ああ、そうだよ……僕のことは放っておいてくれ!」

 

 よほど余裕がないのか。あっさり白状した挙句、よろめいた身体を支えようとするスタンの手を乱暴に払いのける。

 そのつらさが伺える程度に、紫闇の瞳はうっすら潤んでいた。

 これまで予防できていただけに、今回の船酔いは相当苦しいのだろう。

 珍しく言葉を荒げてスタンを拒否するも、彼がその程度でめげるはずもなく。

 

「放っておけるわけないだろ! 俺たちは仲間じゃないか」

「仲間だなんて言葉を使うな! 僕には仲間なんていない!」

 

 人間、余裕がない時こそ本性が現われるものだが、リオンのこれは非常に顕著だった。

 普段は大人ぶった、シニカルな口ぶりが見事に崩壊している。

 スタンもそれをわかっているらしく、まともに取り合おうとしなかった。

 

「いいから、掴まれよ。横になればちょっとはマシになるはずだから」

「いい加減にしろ、このお節介焼きが!」

 

 とうとう、スタンの優しさに……正確にはその優しさを甘受できない自分に限界を覚えたリオンが怒鳴りつける。

 目を丸くするスタンに気付くこともなく、リオンは搾り出すような言葉を放った。

 

「お前はいつもそうだ! まったく、付き合いきれんな! この際だから言ってやる。人は、信じていたっていつかは裏切られるんだ!」

「それが一体、何の関係があるんだよ?」

「僕は誰も信じはしない……だから、お前らも僕のことは放っておいてくれ!」

 

 いつにないリオンの暴走にスタンはただ目を白黒させているものの、あの怪しげな会話を知るフィオレはその言動の裏を勘ぐらざるをえなかった。

 つまりそれは、これから彼はこちらを──スタンたちを裏切る。

 だから少しでも心苦しさをなくすため、これまで培われた信頼を崩そうとしている……? 

 あっけにとられているスタンを押しのけ、通路の端に立つフィオレに殺人的な視線を向ける。

 何かを言いたげに小さく口元が動くも、言葉は何も発せられない。

 そのまま言葉を飲み込むようにフィオレから視線をそらした彼は、肩を怒らせずんずんと立ち去ってしまった。

 

「……リオン、いつにも増して機嫌が悪かったですね。何かあったのかな……」

「さあ。私は触らぬ神に祟りなし、という言葉を提唱したいと思います」

 

 気にかかることはかかるが、それでも下手に触れようとすればますます怒らせるだけだ。

 怒る、という感情は体力減少が伴うため、そこまで長続きできる代物ではない。

 あの少年が怒り狂った場合、鎮められるのはおそらくただ一人の女性と、時の流れのみだ。

 そこで、スタンはいぶかしげにフィオレへ視線を向けた。

 

「さっき、リオンに何も言わなかったのは、そう思ったからなんですか?」

「ええ」

「でもフィオレさんが聞けば、リオンだって答えたかもしれないのに……」

「私が何か言ったところで、火に油を注ぐようなものです」

 

 そうかなあ、とぶつくさ呟くスタンをさておき、フィオレは彼が出てきた管制室を見やった。

 その扉は、魔物に押し入られたあの瞬間と同じく、奇妙に歪んだそのまま。

 それが否応にも当時の状況を呼び起こし、フィオレは小さく吐息をついた。

 

「フィオレさん?」

「いいえ、何でもありません。それよりスタン、ルーティ探しはどうしました?」

 

 彼が本来ここへ来た理由を突きつけるも、スタンはあー、とかうー、とか適当に誤魔化すだけできちんと答えようとしない。

 彼が立ち去ろうと、ここに居残ろうと、フィオレにはどうでもいいことだった。

 そこへ、薄情なフィオレを怒るかのように突風が吹き荒れる。

 しっかりとまとめてあったはずの髪が一瞬にして乱れ、髪留めは中空にさらわれた。

 

「あ……」

 

 幸いにも、髪留めは通路に転がっている。

 それを拾おうとして、転がった先に立つスタンがそれを拾い上げた。

 

「……はい」

「ありがとう」

 

 差し出されたそれを受け取ろうとして、フィオレの指先がスタンの手のひらに触れる。

 ほんの一瞬のことであったのだが。

 

「……っ」

「あ」

 

 背中に、大きく力強い腕が回される。

 力づくで引き寄せられるのではなく、まるで壊れ物でも扱うかのような抱擁に、フィオレは小さく声をあげるしかできなかった。

 ただほんの少し、頭がたくましい胸にあたるよう固定されているだけなのに。

 突き飛ばそうと、振り払おうと思えば簡単にできるはずだが、何故か体が動かない。

 

「……あの、スタ「す、すいません。あの、えっと……」

 

 離してくれ、と口頭で要求しようにも当の本人に遮られる。

 包み込むような抱擁に力が加わり、フィオレはそれだけで息苦しさを感じた。

 全力で抱きしめられたら圧死できるのではないかと思うほどに、その力は強い。

 

「んっ」

「あ! ご、ごめんなさい」

 

 慌てて力が抜けるものの、解放される気配がない。

 こうなったら実力行使しかないと、フィオレが身じろぎをしかけたその時。

 

「……こんな時に、すみません」

 

 始めてスタンは、自発的に口を開いた。

 頭を胸に寄せられてしまっているため、その表情はわからない。

 ただ、押し当てた胸の奥の鼓動は、はっきりわかるほど早まっていた。

 

「でも俺、どうしても言っておきたいことがあるんです」

 

 吹き荒れる風が、スタンの髪を弄ぶ。

 まるでフィオレを包み込むように、蓬髪は風を受けて広がった。

 

「……俺。俺、フィオレさんのことが……!」

「とぅっ」

 

 決定的なその一言を告げられるよりも早く。

 フィオレは有無を言わさずスタンを突き飛ばした。

 何となく予想できるその言葉を、フィオレには聞く資格がない。

 そして、それ以上に。

 

「フィオレさん、ここにいらし……あら? スタンさん?」

 

 傍から見ていて間違いなく、スタンに仄かな想いを抱いているフィリアに、見せるわけにも聞かせるわけにもいかなかったからだ。

 おっとりと船内から姿を見せたフィリアは、ひっくり返っているスタンを見て、ぎょっとしたようにフィオレを見た。

 

「ど、どうなさいましたの?」

「突風が吹きましてね」

 

 受身が取れなかったのか、かなり痛そうにしているスタンに一声かけて、フィリアを連れて船内へ戻る。

 突風が頻発する船首付近、体重が軽い上面積の広い神格服を着たフィリアでは、本当に飛ばされかねない。

 

「どうかしましたか?」

「リオンさんの様子がおかしいので、何かあったのかと……」

「彼はただいま船酔いを発症しています。下手に近寄ると八つ当たりの的にされるので、飛行竜がセインガルドに着くまで近寄らぬが吉です」

 

 これまで、リオンはミントティー飲用という民間療法で、どうにか船酔いとは無縁の旅を続けていた。

 それ故に彼の体質など知らないフィリアは、目を丸くしている。

 

「リオンさんが、船酔いですか。確かにわたくしも、飛行竜に乗るのは生まれて初めてですから始めは戸惑いましたけれど」

「それよりかフィリア。ルーティを探すなら、手伝いますが?」

「いえ。フィオレさんは、リオンさんのお見舞いに行ってあげてください」

 

 フィリアからそれを促され、フィオレははっきり顔を歪めた。

 彼女はフィオレが先ほど言ったことを、聞いていなかったのだろうか。

 

「ですから、近寄らない方がいいと……」

「わたくしやスタンさんはそうかもしれません。けれど、誰だって体調が悪いときには不安定になりますわ。ですから、傍にいてあげてください」

 

 彼女の言い分は正しい。正しいが……シャルティエが傍にいるのだから、それでいい気がする。

 しかし、尚もフィリアは首を振った。

 

「シャルティエさんは心の支えになると思います。けれど、実際何かあった時に対処はできませんわ」

「まあ、そうですけど……」

「フィオレさんはどうしてリオンさんに対して、一歩引くような態度ばかり取るのですか?」

 

 答えは至極単純なものである。

 いつになく強気なフィリアの質問に、フィオレは事も無げに答えてみせた。

 

「彼が私の上司だからですが」

「……上司なのでしたら、体調管理のサポートをしてあげるのもお仕事なのでは……」

「余計なお世話だ、と悪態呟き、おべっかは沢山と罵られるだけですからね」

 

 これはけして、フィオレの想像でものを言っているわけではない。

 実際に前例があり、自分の弱っている姿が見られるのをとことん嫌がったリオンの意見を尊重しているのだ。

 それをとくとくと語り、フィリアを黙らせるも。彼女は自分の意見だけはけして曲げなかった。

 

「なら……今回の場合も、拒否されたら仕方がないと思います。でも一度だけ、様子を見に行ってあげてください。御自分のお部屋に戻られたようですので」

 

 普段消極的なフィリアがそこまで言うからには、きっと何かあったのだろう。

 フィリアの言葉に不承不承頷き、フィオレはリオンが使っている客室のひとつへ向かった。

 図らずも会話を盗み聞いた今、そしてあの不機嫌具合を考慮して顔を合わせづらかったが……不測の事態に備えて、フィリアの意見は受け入れる。

 途中厨房に寄り、手土産を携え。

 扉の前に立ってフィオレは小刻みなノックをした。

 

「……誰だ」

「フィオレです。入っていいですか?」

「…………」

 

 沈黙を答えと見なし、ノブに手をかける。珍しく、扉に鍵はかかっていなかった。

 備え付けの寝台で横になったリオンは、フィオレに背を向けている。

 ただ、先程返事があったように寝ているわけではないらしい。

 

「……何の用だ」

「ミントティーは手に入りませんでしたが、少し気分がすっきりするものを」

 

 サイドテーブルに厨房から手に入れてきたものを置き、許可も得ず椅子を持ってきて座る。

 フィオレの見舞い品に興味を持ったのか、ゆっくり身体を起こした彼にそれを渡した。

 

「……レモネード?」

「残念、単なるレモン水です。船酔いには酸っぱいものを摂ると効果的だそうで」

 

 ミントティーと同じく、気分転換による民間療法だが。

 よほど弱っているのか、素直に口をつける彼だったが、あまりの酸っぱさにか首をすくめている。

 

「……酸っぱ過ぎて、飲めたもんじゃない」

「あくまで気分転換用ですから。それと、船酔いの類は極度の緊張状態だと克服できるらしいですね」

「極度の緊張状態……?」

「はい。そんなわけで──リオン。あなたは、彼らを裏切る予定がおありで?」

 

 びくっ、と。目に見えて、彼は反応を示した。

 持っていたレモン水入りのグラスを落としそうになって、フィオレに回収される。

 

「……何を、いきなり」

「いきなり、というわけではないでしょう。スタンにあんな暴言を放っておきながら」

 

 回収したレモン水をサイドテーブルへ戻す最中も、フィオレはリオンの目を捕らえて離さなかった。

 リオンの眼は、不安なのか、図星なのか、あるいは別の感情か。不安定に揺れている。

 

「あ、あれは」

「ものの弾み、と答えますか? それが事実ならいいのですが。私には、違う意味に聞き取れましたのでね」

 

 人を信じていたって、いつかは裏切られる。

 これはリオンがどのような形であれ、他者との付き合いに感じた事実なのだろう。

 それをスタンに告げること自体は意地悪でもなんでもない、わかりにくい彼の優しさの現われなのだ。

 彼にとってスタンがどうでもいい相手なら、そんなことを言う必要はない。どうでもいい相手がいつどのような形でそれに気付き、傷つこうと、彼の知ったことではないのだから。

 だが。スタンがどうでもいい相手ではなくて、且つ起こりえる事態が迫っているのだとしたら。

 自分を仲間として扱い、無条件の優しさを向けてくるスタンに心苦しく思わないわけがない。

 リオンが普段振舞うような冷血人間だとしたら、あるいは無視できたのかもしれないが。残念なことに彼は、温かな血の流れる一人の人間でしかなかった。

 

「……どんな風に聞こえたって言うんだ」

「あなたは彼らと何かを天秤にかけ、天秤は何かに傾いた。その何かのために、あなたは将来的に彼らを裏切ることをする。何かの正体も、裏切る行動の詳細も、私にはわかりませんが」

 

 空調設備のある船内では暑くも寒くもなかろうに、リオンの顔からは血の気がどんどん引いていく。

 あまつさえ額に汗をかく彼は、酔っていたことを忘れたかのように激昂した。

 

「うるさい! お前なんかに……自分の都合だけで迷わず動けるお前に、何がわかる!」

「もちろんわかりません。あなたみたいな我侭な人の気持ちなんか、わかりたくもない」

 

 彼にとって、フィオレは確かにそうだろう。

 何にも縛られず、自由気ままに動くことができ、多少難しくとも自力であっさり我を通す。

 そんな風に、見えていることだろう。

 そもそもこの世界に居る理由すら、フィオレには強制されたものでも。そのように振舞ったのだから、見抜かれていないのは幸いだ。

 ぎりっ、とリオンが歯をくいしばる、そんな音がはっきり聞こえる。

 

「……それだけ元気なら、もう見舞いは要りませんね」

 

 激怒した彼の怒りを受け止める気などもちろんなく、フィオレは身を翻して避難した。

 扉を閉めようとして、飛んできたレモン水入りのグラスをどうにか受け止める。

 

「失せろ!」

「仰せのままに」

 

 今度こそ扉を閉め、宙を舞ったことで空っぽになったグラスを見やって。

 フィオレは小さく、ため息をついた。

 

「あれだけ怒るってことは……図星、なんだろうなあ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百六夜——唐突なる別れ~主人公が牢屋に入っとくのは最早定番~

 ダリルシェイドセインガルド王城~牢屋。
 マリーを戦線離脱させたそのときから、彼女の中ではこうなることが想定済みでした。
 知らない一同にとっては、たまったものではありませんけどね。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから数時間後のこと。飛行竜は無事、セインガルドへと到達した。

 飛行竜の仕組みがまったく分からないフィオレではあったが、一応管制室に赴き、着陸準備に勤しむリオンの手伝いをしている。

 

「……やっと来たか。さっさと手伝え」

 

 すでに彼は激昂状態も船酔い状態も脱したようで、その様子は通常時と変わらなかった。いくらか、ぶっきらぼうな気もするが、平常運転の内だろう。

 管制局職員に飛行竜を明け渡し、一同を伴って一路セインガルド城へと赴く。

 リオンによる事前の根回しにより、謁見申請は驚くべき早さで通った。

 久々に赴いた謁見の間には、居並ぶ七将軍、玉座のセインガルド王、その脇にヒューゴ氏が控えている。

 

「ただいま帰還しました」

「うむ、報告は聞き及んでおる。リオン、フィオレ、よくぞ神の眼を取り戻してくれた」

 

 そのまま控えているつもりだったフィオレの腕をリオンが掴んで進み出れば、玉座の王は尊大に、しかし確かな労いをもって言葉を述べた。

 それは、客員剣士たちに留まらない。

 

「スタン、ルーティ、フィリア。そなたらの働きも見事であった」

 

 いかなる報告が王の耳に入ったか、名前の羅列にマリーの名はない。そこへ。

 一同内において、唯一名を呼ばれなかったこの人が発言した。

 

「セインガルド王にお聞きする。その神の眼、今後はどうなされるおつもりか」

「ん? ……貴殿は、ファンダリアの!」

 

 流石に、格好が違うとはいえセインガルドへ招いた国賓の顔は忘れていなかったか。

 王は出立時に見覚えのない顔を見て顔色を変えた。

 

「はい。ファンダリア王イザークが子、ウッドロウと申します」

「これは失礼した。取り急ぎ、会談の場を……」

「いえ、その必要はありません。突然の訪問、どうか御容赦願います」

 

 相手は隣国の王子ということで、何を話すにも相応の場が必要だと考えたのだろう。

 早急に彼をもてなす用意を言いつけかけ、他ならぬ本人に止められた。

 

「既にイザークはこの世に亡く、ファンダリアは神の眼の力によって荒廃しました。もう二度と、このような過ちを繰り返すわけにはいきません」

「確かに。しかし、案ずることはない。神の眼は飛行竜からそのままこの王城地下へ移送し、封印する。未来永劫使われることはないだろう」

 

 流石にもう、神殿へ預けられることはなくなったようだ。

 しかし、ウッドロウはその言葉をそのままそっくり受け止めることはしなかった。

 

「その言葉、果たして信じられますかな?」

「貴殿も疑り深くあられる。では、如何様に?」

「神の眼の非使用及び、ファンダリアとの同盟を書状に認めてもらいたい」

「!」

 

 さらりと放たれたその言葉に、フィオレは思わず声を出していた。

 

「まだ締結していなかったのですか。私はてっきり、この間の建国記念でもう結ばれたものだとばかり……」

「夜会の襲撃があったのでな。翌日密やかに調印を行う予定だったのだが、叶わなかったのだよ」

 

 確かに、あんな事件の後では何事もなかったように事は運べないか。

 納得し、玉座の王を見やる。彼は特に迷う素振りもなく、頷いた。

 

「建国記念式典の際は、大変失礼を働いた。延期されてしまった同盟締結の調印書は、こちらで用意させていただこう」

「御英断、感謝いたします」

 

 詳しいやりとりは後に、ということで、セインガルド王はスタンを見やった。

 おそらくは、この後。彼らと別れることとなるだろう。

 

「時にスタン。おぬしのソーディアン、ディムロスだが……その剣は我が国の調査団が発見、発掘し、輸送最中此度の騒動に至った。よって返却を願いたいのだが」

「……はい。謹んで、お返しします」

 

 小声でディムロスに別れを告げ、彼は粛々と進み出た。

 足の動かぬ王の代わりに出た侍従長に渡して、ささっと元の位置へ戻る。

 

「……随分聞き分けがいいな」

「飛行竜の中で、フィオレさんから聞いたんだ。だから兵士の志願も諦めて、一端帰ろうかなって」

 

 珍しいリオンの私語に、スタンもまた御前であることがわかっているらしく小声で返す。

 そこへ。

 

「彼らの額から額冠(ティアラ)を外すのだ」

「はい」

 

 額冠操作盤を取り出し、スタンがバンダナを外したところで額冠(ティアラ)を回収する。

 その隣では、リオンが不承不承ルーティと向き合っていた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう、フィオレさん」

「やっと生き返った感じね……」

 

 ──飛行竜を降りたところで改めて突き飛ばした非礼を詫びたものの、スタンはどことなく視線をそらしてその謝罪を受け入れていた。

 何を言おうとしていたのか、フィオレの予想通りであるのならば。何とも接しにくいのが事実だろう。

 それでも今、礼を言うスタンの笑顔に曇りはない。

 

「さて……心苦しいがそれでも、責任を問わねばなるまい」

「責任?」

 

 一転して、セインガルド王の表情が厳しくなる。

 すわ、何事かと緊張の走る場に、その名は呼ばれた。

 

「客員剣士見習い、フィオレシアよ。報告に、罪人の一人をそなたの裁量で釈放したと、あった。それは真か」

「はい」

「ちょ、ちょっと待ってよ。マリーのあれは「ルーティ。もう罪人は飽きたでしょう。黙っていてください」

 

 言外に、妙なことを口走ればまた罪人に逆戻りだと彼女を脅し。

 フィオレは次なる言葉を待った。

 

「それが明らかなる越権行為であることを、承知しておるか?」

「はい」

「あれには、ちゃんとした理由があるじゃないですか! それなのに、なんで……」

「如何なる理由があろうと、越権行為であることに変わりはありません」

 

 罪を逃れようとするならば、どんな屁理屈を使ってでもフィオレは逃れにかかるだろう。

 それがないということは、つまり。

 

「上司たるリオンの許可も得ず、リオンはその場を離れていたがため対処が困難だった。責任は自分にあり……汝はそれを認めるか?」

「はい。認めます」

「フィオレさん!?」

「いちいちうっさいですよ、皆」

 

 以前、一同が罪人として引っ立てられた際とは真逆──弁護も一切の情状酌量もすることなく、フィオレは淡々と罪を認めている。

 

「ウッドロウ……陛下は、そんなことしないでくださいね」

「……リオン君には言わないのかい?」

「私の上司は、常識を知る方ですので」

 

 そのまま、静かにフィオレは玉座を見つめていた。

 それまで困惑を隠さず罪状確認をしていた王は、ふうっと息をついている。

 

「……見習いの分際で、その行為は許しがたい。本来ならば重い罪を課すところではあるが、神の眼の奪還に協力したこと、そしてこれまでの功績を踏まえ……フィオレシア・ネフィリムに十日間の禁固を命ずる。しばし頭を冷やすがよい」

「はい」

 

 最後の最後まで事情を話さなかったフィオレは、あっけらかんと刑罰を受け入れた。

 氏名苗字とも間違っていることについては、書類を申請する際にフィオレが発生させた純粋な誤字であるため、今更否定はできない。

 暴れ出すことが想定されてなのか、七将軍三人が手錠と腰紐を用いて厳重なる連行を始める。

 そのげんじゅうさに嘲笑混じりの苦笑いを隠すこともせず、フィオレは実にあっさりと謁見の間を後にした。

 それをしばし、ポカンと見送っていた一同ではあったが……遅ればせながらも怒りは発生している。

 

「見事任務を遂げた以上、こちらとしても約束していた報酬を出さねばなるまい」

「待ってください!」

 

 何事もなかったかのように報酬の話に入るヒューゴ氏相手に、まず、くってかかったのはフィリアだった。

 

「何かね?」

「そのようなものを頂けるくらいならわたくしは、フィオレさんの釈放を望みますわ! 神の眼奪還にあれだけ尽力を尽くされた方がたとえ十日間でも、いいえ一瞬たりとて牢獄に押し込められるなんて納得いきません!」

「御前でキャンキャン喚くな。ヒス女に感化されたか?」

「あんたはいつまでもそう人をヒス女ヒス女と……! そういうあんたはクソガキじゃないのよ!」

 

 拳を握って力説するフィリアをなだめにかかり、ルーティに罵倒されたリオンはぶすくれた表情を浮かべつつも冷静に事情の説明を始めた。

 

「あいつが得意の屁理屈も使わず、ただただ罪を受け入れるなんて変だと、一片たりとも思わなかったのか」

「でも、辞任してでも責任は自分がとおっしゃっていましたわ」

「あいつは自分から、禁固の刑に処せられることを望んだんだぞ」

「え?」

 

 何なら後であいつに聞けばいい、と言われ。フィリアは困惑した。

 内輪で話を始めてしまった一同にめげることなく、ヒューゴ氏は報酬の話を再開している。

 ひと悶着こそあったものの、話は無事まとまり。

 スタンのみが飛行竜にて送られることになって、彼はそれを遮った。

 

「あの、飛行竜の準備には時間がかかりますよね? フィオレさんにも挨拶したいんですけど」

「かまわぬ。そちらの準備が済み次第、発着所へと向かうがよい。此度の探索行、大儀であった」

 

 静々と謁見の間を辞し、慣れない緊張感から解放されてふうと一息をつき。

 スタンは素早く、一同と共に場を辞したリオンに尋ねた。

 

「リオン! フィオレさんはどこにいるんだ?」

「──こっちだ」

 

 事前に、彼女がどこへ収監されるかわかっていたのだろう。リオンは迷いもなく、城内部へ足を進めた。

 謁見の間に続く廊下を歩き、やがて現われた階段を下りていく。辿り着いた先は、薄暗くカビ臭い牢屋であった。

 入り口付近にて常駐していた牢番が敬礼する傍から、収監されている罪人の怨嗟の声が怨念のように響く。

 

「こんなところにフィオレさんが閉じ込められているなんて……」

「──お疲れ様です」

 

 改めて憤慨するフィリアを他所に、リオンは軍人式の敬礼をした。

 その先に、フィオレを連行した七将軍たちが佇んでいる。

 

「ああ、君たちか。ウッドロウ陛下も、このようなところにご足労様です」

「気にすることはない。戦友に挨拶をしていきたいのでな」

「あれの様子はどうですか?」

 

 リオンの質問に、七将軍たち──アシュレイ、リーン、ミライナは何ともいえない苦笑いを浮かべた。

 その様子から、何か問題が発生したようには見えない。

 

「いやー。あのフィオレちゃんが大人しく牢屋の入るなんて、明日は槍が降るかなあ。俺はてっきり、連行中にサクッと逃げられるもんかと思っていたが」

「罪人釈放については、何も話そうとしませんでした。何か事情があるならそれを話せば、厳重注意で済んだかもしれないのに」

「事情があるからこそ、話せないかもしれないが。君たちになら何か話すかもしれない。我々の方からも陛下に陳情できるから、何か知ったら教えてほしいな」

 

 そう言って立ち去る将軍たちの背中を見送りつつ。ルーティがぽそりと呟いた。

 

「なんだかんだ言って心配されてるのね。これが人徳って奴?」

「まるで僕にはないような言い草だな」

「けど、リオンがヘマやって捕まるようなイメージないよな。フィオレさんにもなかったけど……」

 

 フィオレが幽閉されているのは、一番奥の牢屋なのだという。

 そのまま道なりに進むと、他の囚人が一切いない、沈黙漂う区画へとやってきた。

 

「ここいらは、極悪と判断された犯罪者しか入れないようにしている。今は誰もいないから、フィオレを収監するのに丁度よかったんだろう」

「フィオレさんが極悪と判断されたわけではないのですね」

「あるいはそうかもしれんがな」

 

 またもフィリアが憤慨しかける。

 いい加減それをなだめようとスタンが口を開きかけて、固まった。

 

「フィ『フィリア、落ち着いて。あんまり騒ぐと、獄死した幽霊とかが出てくるかもよ』

「ゆっ、幽霊!?」

「落ち着け。どうせスタンの声真似をしたフィオレの仕業だろ」

「御名答」

 

 くすくすとささやかな笑声に、とある牢屋を覗き込めば。

 そこには悠然と紫電の手入れを行う、フィオレの姿があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百七夜——迫りくる決断の時~大変で楽しかった夢はまだ醒めない


 セインガルド王城地下牢獄。
 第三十七夜でスタン達が放り込まれていた場所、それよりずぅっと奥ですね。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 驚いたことに、フィオレは荷物を没収されたどころか武装の解除までされていなかった。

 それでも、長らく使われていなかっただろう牢屋内は埃っぽく、清潔さは望めない。

 スタンが駆け寄るも、頑丈な格子が一切の接触を遮断している。

 

「フィオレさん!」

「その様子からして、話はまとまったみたいですね。御挨拶に来てくれたんですか?」

「大体そのようなものだが……フィオレくん。君は何故、マリーさんを釈放した経緯を説明しないのだ?」

 

 にこやかに応対するフィオレに、ウッドロウが事の起こりをずばりと尋ねる。

 移動中、スタンやルーティの釈放関連について聞き及んでいただろうことが伺えた。

 その質問を皮切りに、フィリアもルーティも畳みかけるような形で納得の行く解答を求めている。

 

「そうですわ。リオンさんも、フィオレさんが幽閉されることを望んだなんて……」

「いつもの屁理屈使えば言い逃れできたのに、しおらしく投獄されちゃうなんてどういう風の吹き回しなのよ?」

 

 挨拶よりはまずそれの説明かと、フィオレは紫電を仕舞った。

 ぱちん、と音を立てて、紫電が鞘に収められる。

 

「最近マリーの記憶が戻り、彼女はファンダリアの民であることが判明したでしょう。セインガルドでファンダリアの人間が罪を犯したなんてバレたら、同盟にヒビが生じると思ったんです」

「けれどそれは、セインガルドとファンダリアの国同士のことですわ。国交がないわけではなし、他国の人間がセインガルドで罪を犯したって珍しいことではありません」

「そうですよ! 他国の人間がって言うなら、俺だってそうです」

「それはフィッツガルドが自治区で、治める人間がいないから個人の問題で許されるんですよ。ファンダリアは王国、ケルヴィン家が統治する領地です」

 

 しかも、神の眼を取り戻すという大儀をなした人間がそうともなれば、軋轢が生じるのは必死だ。

 たとえセインガルド王もウッドロウもそれを気にしなかったとしても、双方の隣国否定派には格好の材料を与えてしまう。

 もともとファンダリア側の隣国否定派は、神の眼を管理していたセインガルドの失態をこれから強く批判していくだろうが。

 

「せっかく苦労して神の眼を取り戻して丸く収まろうとするこの時に、余計な火種を起こしたくなかったんです。まあ、それは私の勘違いで同盟はもともと存在しなかったのですが」

「それはわかったけど、だからってなんであんたが牢屋に入んないといけないのよ」

「だから、そのことを黙っているためですよ。相応の罰は受けるから事情は聞かないでくださいと。この手の越権行為なんて本来は十ヶ月の禁固及び強制労働なのに、十日間の禁固なんて軽いものですよ?」

 

 至極朗らかに説明をするフィオレを一同が、特にルーティが複雑そうな表情を浮かべている。

 マリーの釈放は、確かにフィオレが提案したことだ。

 それでも、あれだけ苦労して神の眼を回収したと言うのに相殺されなかったことが不思議で仕方ないのだろう。

 

「そうそう、ルーティもウッドロウも。もしマリーと会う機会があっても、このことは話さないでくださいね? まったく必要のないことですし」

「それは一向に構わないが……ひとつ、いいかな?」

 

 ウッドロウの求めに応じ、フィオレはどうぞと先を促した。

 彼はこほん、と咳払いし……驚くべき内容を口にしている。

 

「受け取ってもらいたいものがある。これを、左手の薬指へつけてはくれないか」

「……左手の……」

 

 ウッドロウが差し出したのは、彼が城から持ち出したものと思しき小箱だった。

 音を立てて開かれたその中には、きらりと輝く指環が鎮座している。

 

「それは?」

「母の形見だ。若き父が母に贈ったものでもある」

「できません。そんな大層なものは受け取れない」

 

 奇妙な望み、そして明かされた指環の正体を耳にして一瞬のためらいもなくフィオレは拒否を示した。

 主にルーティやフィリアが固唾を呑んでやりとりを見守っているということは、そういうことなのだろう。

 即決で却下されるとは思っていなかったか、ウッドロウは眼に見えて動揺した。

 

「……ただ受け取ってくれ、という話ではないのだが」

「受け取るだけであってもお断りでございます」

 

 一瞬、格子の向こうから受け答えるフィオレの視線が脇へ流れる。

 ただ、それは僅かな間のことで隻眼の瞳はすぐに落胆を隠さないウッドロウを映した。

 

「……理由を、聞かせてもらえるかな?」

「私は、世間で言うところの魔眼持ちです。特殊な力を備えているわけでもなく、ただ左右の眼の色が違うだけですが……一応知っておいてもらったほうがいいかと」

 

 息を呑む一同を前にして、眼帯を取り外す。

 薄暗い牢獄の中でどのように見えたかは定かでないが、確かに魔眼持ちであることが伝わったことだけは、一同の顔つきでよくわかった。

 ただ、無論のことながら理由はそれだけではない。

 

「その上で。理不尽にして理解しがたく、あなたを絶望に突き落とすとわかっていても知りたいなら、お話しますが」

「あ……あの、席を外しましょうか?」

 

 プライベートなこの話にフィリアがおずおずと人払いを示唆するも、彼は首を振ってその必要がないことを示している。

 そして、彼は自らその道を選んだ。

 

「ああ。是非とも聞かせてもらいたい」

「──私は失った過去において、恋愛がなんたるかをこの身で学びました。すでに誰かのものとなったこの身が、御身にふさわしいとは思わない」

「私がそれを──魔眼も一切気にしないと言っても?」

「……期間こそ短いものでしたが、あなたは愛すべき戦友でした。けれど、私はあなたを異性として見ることはできない。それが理由です」

 

 最早フォローのしようもない、決定的なその一言を聞き。

 ウッドロウは小さく頷いて、小箱を懐へと仕舞った。

 

「残念だ。だが、決心はついたよ」

「……御理解を深く感謝します」

「いや、そちらの決心じゃない」

 

 切なげに顔を背けていたフィオレが、ちらとウッドロウを見やる。

 傷ついた雰囲気こそ漂っていたが、ウッドロウの表情は実に不敵なものだった。

 

「愛すべき戦友であっても異性として愛せないというなら、私が変わる必要はない。君の心を動かすまでだ。昔から惚れた者の負けとは、よく言ったものだろう?」

「……現実を見据えて理解してください。その一言に尽きます」

 

 前向きなのはいいことだ。

 ただ、その前向きさをとりあえずファンダリアの復興にあてがってもらいたいと、フィオレは重ねて願った。

 ウッドロウはそれに答えることなく、ただ微笑んでいる。

 二人の会話が済んだところで、おずおずとルーティが言葉を発した。

 

「……しっかし、潔いくらいばっさり切ったわね。玉の輿のチャンスなのに」

「相手を思う心があればこそです。変に望みを持たせるような言い方は逆に残酷ですし、自分の心の問題なんです。偽ることはしたくありません」

 

 ウッドロウが大人であったから、だろう。

 振られた直後であっても悲壮感が微塵にもないことから、一同の空気はギスギスすることはなかった。

 

「まあ、それはさておいてですね。フィリアはこれから、どうするのですか?」

「わたくしは、神殿へ帰ります。アイルツ司教のお力になれれば、と……」

 

 唐突なる話題転換にも、すでに慣れているフィリアは戸惑うことなくこれからのことを報告した。

 それを聞いて、ルーティは呆れたような顔をしている。

 

「あんたはまだそんなこと言ってるの? もう普通の女の子に戻ればいいじゃない」

「わたくしは、神殿の中の世界しか知りませんから。それにそういうのって、性に合ってないみたいですわ」

 

 晴れやかな笑みを浮かべるフィリアの顔に、嘘はない。

 これから彼女は神殿にて、歴史を紐解き研究に没頭する日常へ戻るのだろう。

 

「これから先、あなたに更なる発展がありますように。クレメンテ、彼女をよろしく」

『……』

 

 神の眼との対峙以降、ビッグバンなる爆発をしのぐシールドが破壊されたのか、その衝撃なのか。あれからディムロスとシャルティエを除くソーディアン達から、言葉が発せられることはなかった。

 それでも聞いてはいるだろうと、挨拶は欠かさない。

 

「ルーティは?」

 

 クレメンテの沈黙などなかったように、フィオレは彼女へと話題を振った。

 報酬がもらえたことで、彼女は故郷であるセインガルド領内のクレスタへ戻るのだという。

 

「しばらくはのんびりするわ。貰うものは貰ったからね、もうあくせくお金を集めなくてもいいもの」

「これ以降二度と、仕事中に出会わないことを祈ります」

 

 とはいえど、フィオレは近日中に客員剣士を辞める予定だ。

 最早ただ会うことも、なかろうが……

 

「あたしだって願い下げよ! もう厄介ごとはごめんだわ」

「アトワイトもお元気で。この道中、本当にお疲れ様でした」

『……』

 

 相変わらずのルーティに微笑み、そして視線をスタンへと移す。

 そして、すでに何も提げられてない剣帯を見た。

 

「やけにあっさりディムロスを返還していたようですけど……」

「俺、故郷へ帰ることにしました。考えてみれば飛び出してきたようなもんだし、リリスやじっちゃんを安心させようかな、って」

「そうですか。家族がいるなら、心配はかけないに越したことはありません」

 

 フィオレの眼からして、スタンは不思議なくらい冷静に見える。

 その眼を見つめてもしっかり視線を合わせているし、飛行竜での出来事が夢であるかのようだ。

 

「──思えば俺、フィオレさんとは旅が始まった直後から一緒にいる気がします」

「そりゃそうでしょう。飛行竜に乗る前から顔を合わせていたのですから」

 

 彼としては、あれからすべてが始まった。

 これから彼の眼前には、視界いっぱいの可能性が広がっていることだろう。

 彼の行く先に、フィオレの歩むべき道が通じているはずもなかろうが。

 

「あなたと知り合えてよかったです。でももう、密航はしちゃ駄目ですよ?」

「あ、当たり前ですよ!」

 

 遠まわしな別れを告げても、なかなか一同は動こうとしない。

 そこへ、先刻やってきていた兵士に飛行竜の整備が終わったことを告げられる。

 

「スタンさん、そろそろ行きませんと。フィオレさん、飛行竜に乗るのはスタンさんだけですから、また来ますわね」

「私も、セインガルド王との調印式があるからもう少し、セインガルドに滞在することになるかな。その間に君の心を動かせればよいのだが」

「二人ともずるいぞ!」

 

 冗談っぽく口を尖らせ、今度こそ互いに別れを告げ。今度こそ、一同は牢獄から去った。

 沈黙が訪れた監獄内にて、小さく息をつく。

 

 ──本当に、楽しくて、幸せな夢を見せてもらった。

 

 今しがたの一同だけでなく、神の眼を追う旅にて知り合った人々の顔が浮かんでは消えていく。

 そう、これはほんの一瞬のこと。

 それ以上は記憶にすら留まれぬ、夢の出来事。

 まるでフィオレがこの世界の人間であるかのように振舞った、けして現実には、なれ得ぬ夢。

 この十日間の刻を経れば、現実を直視することになる。

 それまで、ほんの僅か。夢に浸っていたいと願うかのように。

 フィオレは埃をできるだけ払った寝台へ、身体を預けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百八夜——発生した異変~夜はまだ明けない


 引き続き、セインガルド城地下牢獄。
 第一部と第二部の間の出来事。
 取り戻したはずの日常は、砂のお城のように崩れていく。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 狭い牢屋の中、できることなど本当に僅かなことしかなかった。

 周囲に収監されている囚人が居ないため、静かなのはいいことだが、沈黙を堪能できたのは入れられて二十四時間程度である。

 仕方なく楽器を取り出して弄くるも、新曲が次々出来上がる頃にはすでに飽きがきていた。

 食べるものは日に三度提供され、眠る時は周囲を警戒せずともまず出ること事体ができない。

 実に遊惰で無駄な日を過ごしていたフィオレは、とある日の深夜に起き上がった。

 このままではいけない、と気付いたからではない。

 

『……シルフィスティア?』

『やっほぅ。ご機嫌いかがかなあ、フィオレ』

 

 人魂と見紛いそうになる光球が、ふよふよとフィオレの眼前に現われる。

 喚んだわけでもないのに、そこにはシルフィスティアの姿があった。

 

『な、何か用ですか』

『夜分遅くにごめーんね。ここのところフィオレ、退屈そうだったから。気分転換にサンポでもどうかなって』

『サンポって……』

 

 シルフィスティアとは違い、実体を持つフィオレに現状でそれは不可能だ。

 おそらく彼女は、自分の眷属の視界を使って外の様子でも楽しめと言っているのだろうが。

 

『必要もないのに、こんなくだらないことであなたの力を借りるなんて……』

『──ねえフィオレ。彼女の言葉を、覚えてる?』

 

 唐突に、ふわふわしていたシルフィスティアの声音が真剣みを帯びる。

 驚くフィオレに構うことなく、彼女は言葉を連ねた。

 

『ボクらは人を通じてしか、この世界に干渉できない。だからボクも、はっきりしたことは一切言えないよ。だけど、このお誘いはけしてボクの気まぐれでも、フィオレを慰めるためでもない』

 

 シルフィスティアの言葉を聞き、即座に視界を風と重ねる。

 牢屋内の寝台に横たわったまま、フィオレは月光に包まれたセインガルド城を見下ろしていた。

 月は白々と輝き、城だけでなく城下町も遍く照らしている。少なくとも、何か大きな異常が発生した感じはない。

 城の地下に封印されているという神の眼の所在を確認するも、神の眼は一ミリたりとて動いていなかった。

 飛行竜も発着所で微動だにしていないし、宝物庫に安置されたディムロスも呑気に眠っている。

 守護者自らが出向き、警告を発するくらいだ。

 きっと神の眼、あるいは世界の危機に瀕する事態を誘発しかねない事件が起ころうとしているのだと思ったが……何もないとは。

 主だった場所を全て見て回ったフィオレは、高級住宅街へ視界を移動させていた。

 これ以上何も思いつかない以上、思いつくまで適当な散策をするに限る。

 真っ先に思いついたのは、スタンが飛行竜にて帰郷した際のこと。

 彼が挨拶にやってきたのを付き添って以降、一切姿を見せない薄情な少年のことだった。

 様々な事後処理や報告書提出など、任務自体を完遂してもやることは山盛りある。だが、それでも多少の休暇はもらったはずだ。

 ただ、陣中見舞いに来たところで交わす言葉などもちろんないわけだが。

 今の時間帯なら、緊急の任務が入っていない限り私室で眠りについている。

 それがわかっていて尚、フィオレは様子を見ようとジルクリスト邸内へ視界をやった。

 ところが。

 

(……?)

 

 私室も、住み込みのメイド達の共同部屋にも、もちろんヒューゴ氏の書斎にも寝室にも。彼の姿はない。

 姿がないのは彼だけではなかった。

 屋敷の主だった場所を見て回っても、リオンの姿はおろか、ヒューゴ氏やレンブラントの姿など、寝入る[[rb:家政婦 > メイド]]や[[rb:執事 > バトラー]]の姿は見かけても、彼らの姿がない。

 どこかに出かけているのだろうかと、いぶかしがりつつも屋敷内を巡る。

 やがてフィオレの視線は、一度たりとも入ったことがなかった地下室へ赴いた。

 何故そんなところを見つけたのか。答えは単純、扉が開いていたからである。

 風の視界を借りるフィオレには明かりを掲げることなどもちろん叶わず、真っ暗闇をなけなしの夜目で眼をこらすことになる──はずが。

 僅かな明かりがついているがため、まったく問題なくその光景を目撃することとなった。

 ヒューゴ氏、レンブラント老、そしてマリアンという面々が、地下室に集っている。

 耳を借りていないにつき、話している内容はわからない。

 だが、先頭を行くヒューゴ氏は地下室に設置されたとある箇所を操作し、隠し通路の存在に驚くことなくその内部へ侵入した。

 一体彼らは何をする気なのかと、好奇心のままついていこうとして。

 

 ──ガシャンッ

 

「!」

 

 不意に聞こえた肉声に、集中が切れて閉ざしていた目が勝手に開く。

 横たわっていた寝台から飛び起き、紫電を掴んで見やった先。

 格子がはめ込まれた入り口の扉は開いており、黒い影が三つほど蠢いている。

 何かと思ってよく見れば、それは人の形をしていた。

 ここ最近、三度の飯を運んでくる牢番と、それの補佐をしている看守二人。

 

「……何の用です」

「ちっ、感づきやがったか」

「構わねえ、やっちまえ!」

 

 話し合いも何もなく、いきなり襲いかかられ。

 フィオレは迷うことなく紫電を持たない手を掲げた。

 

「烈破掌!」

「ぐはっ!」

 

 収縮した闘気の解放をもろに受け、三人がすぐ背後にあった格子に叩きつけられる。

 こんなこともあろうかと常にまとめておいた荷物をひっつかんで牢屋を飛び出し、扉を蹴り閉めた。

 

「くそ、閉められたぞ!」

「ばかめ、こっちには鍵が……」

 

 ばかはそっちである。

 牢番が鍵束を掲げて、変な体勢での開錠を試みた。

 もちろん、フィオレは相手が変な姿勢であることをいいことに、鍵束を奪い取っている。

 

「だから、何の用です」

「くそっ、人が仕事してる間にのんびりしやがって! 今なら襲えると思ったのに……!」

 

 脈絡がないので事情はさっぱりわからないが、まあ、そういうことらしい。

 閉じ込められた三人がぎゃあぎゃあ騒いでいるのを無視して、フィオレはひとつ間を挟んだ隣の牢屋へ足を踏み入れた。

 ここが牢獄内詰め所付近であるならばわかるとして、何故こんな隅っこの牢屋にいたフィオレの、のんびりしている姿が彼らの目についた挙句癪に障ったのかはわからない。

 が、それを尋ねるつもりはおろか、脱獄する気もなかった。

 気になるのは、今しがた見た光景だ。

 今の今までフィオレが収監されていた「80」の牢屋と同じく、「78」の牢屋は使用頻度が少ないのか、積もった埃で汚れている。

 それでも、じっとしていられる場所があるだけマシだ。

 ただのベンチに近い寝台に寝転がり、乱された集中を正す。

 風の守護者はフィオレの求めに応じ、視界は再び広がった。

 目蓋の裏に映し出されたのはヒューゴ邸地下室、隠し扉前だ。

 どのような操作がなされたか、扉はすでに閉じきっている。しかし、空気が通っている場所ならば障害にはなりえない。

 単なる装飾つきの壁から、風が吹く。

 ぶつかるような感覚もなく、視界が一瞬暗闇に包まれただけですぐに新たな光景が広がっていた。

 今度は視覚のみならず、聴覚も拝借している。周囲の状況は先程よりも把握しやすかった。

 先程まで音ひとつなかったのが、視界が暗闇に包まれて以降水の流れる音がする。

 街の地下に広がる水道といえば、ひとつしかない。

 

(下水道通ったんだ……ばっちいの)

 

 秘密の通路にしてはかなりありがちであるにつき、驚きよりか呆れが先立つ。

 気を取り直して追跡を試みるも、もちろん通路は湿気ている。足跡など到底追跡できそうにない。

 かといって、下水道は街中の各所に張り巡らされているのだろう。蜘蛛の巣じみた形で道は無限に広がっている。

 

『シルフィスティア。この地下水道全域を私に見せてください』

『わかった!』

 

 快い了承のもと、怒涛の如くなだれ込む情報が脳髄に激痛をもたらす。

 それに耐えて全域の把握──ダリルシェイド外へ通じる整備用通路や、興味本位で彷徨えばたちまち迷ってしまうかのような構造を理解した上で、ヒューゴらの足跡を辿る。

 地下水道のやがて行き着く先といえば、整備用の人用出入り口か、下水が放出される海だ。

 その海に面した排水場所に、何故か桟橋が設置されていた。

 造りからしておよそ急拵えとは程遠い桟橋から、今まさに中型の高速船が発進されようとしている。

 ジルクリスト一家が総出でお忍びの旅行──と言った風情は微塵にもない。

 リオンの姿はないし、それにしては大掛かり過ぎる。

 まるで、これから行方をくらませるつもりであるかのような……

 発進されようとしている高速船から、とある人間が桟橋へと出る。

 マリアンを従えた、ヒューゴだ。

 彼は桟橋へとやってきたオベロン社社員と、何事かを話し合っている。

 

「出発準備、整いました」

「ご苦労。首尾はどうだ」

「ただいま、神の眼の搬出作業中です。飛行竜の整備も整い、間もなく出立されるかと」

 

 話し合いではなかった。

 彼は、オベロン社社員の報告を聞いて満足そうに頷いている。

 しかし、それまで順調そのものと言った様子で報告を連ねていた社員は、ヒューゴ氏の次なる質問に対して口ごもった。

 

「あれはどうなっている?」

「……その……大分前に看守をけしかけるに成功した、との連絡が入ったきり途絶えています。何らかのトラブルが発生したのでないかと」

 

 社員の言葉に、ヒューゴ氏は顔色ひとつ変えることなく懐から手のひらサイズの何かを取り出している。

 それはフィオレとリオンが持っていた、額冠操作盤に張り付いていたレーダーに似たものだった。

 レーダーのモニタには二種の光──片は白、片や黒という点が明滅している。

 白の光は一点に留まり、黒の点はそこかしこを動き回っていた。

 これは……

 

「動きはないな……まあいい。細心の注意は払ったのだ。あれに計画を知る術はない。よしんば知ったところで、最早誰にも止められん」

 

 そう鼻で笑い飛ばし、ヒューゴ氏は悠々と高速船へ乗り込んでいる。

 彼らの会話から計画とやらの推測をしていたフィオレは、高速船の出発を見送った。

 ヒューゴ氏は主だった人々を連れてひっそりと逃避行。

 そして誰かが、飛行竜を使って神の眼を運び出そうとしている。そしてリオンの姿は未だにない。

 確かに計画の詳細はわからない。だが、ただ事ではないことだけは確かだった。

 

『シルフィスティア。神の眼を』

 

 再び神の眼がどうなっているのかを知るべく視界を移動させようとして、聞こえた足音に今度は自分から集中を切る。

 聞こえたのは、数人の軍靴が床を叩く足音だった。

 

「今度はどちら様ですか?」

「我々だ、フィオレ君」

 

 軍靴が止まる音、そして彼らが携えていたであろうカンテラが揺れる。

 その明かりに、暗さに慣れた眼を眇めて扉外を見やれば、そこに立っていたのは七将軍の面々だった。

 ただし勢揃いはしていない。

 いるのはアシュレイ、アスクス、ミライナ、リーンという比較的若手の面々で、どちらかといえば年かさである人々の姿はない。

 

「何用で?」

「牢番や看守らの姿が見えないと、見回りから連絡が入ってな。今は君がいるため、もしものことがあっても対応できるよう来たんだ」

「それでそなた。いつの間に移送されたのだ?」

 

 ミライナ将軍の問いに、鍵束を見せて何があったのかを説明する。

 ひとつ隣の牢屋に説明が聞こえていたのか、否定のオンパレードが放たれるものの、無視だ。

 下手に外へ出れば脱獄扱いされるだろうと考えて動かなかったのだと、説明をしめくくる。

 フィオレから鍵束を受け取り、蔑んだような眼を看守たちへ送っていたアシュレイがふう、と息をついた。

 

「賢明な判断だ。君が投獄されていることは全兵士に通達されている。混乱が起きるのは必死だ」

「それは幸いなことですが……あなた方がここに来て、神の眼はご無事で?」

「そいつなら心配無用だ。爺さん連中は流石に休んでるけどな、リオンの奴を呼んである。神の眼の奪還者なら、安心だろ?」

 

 ──やはりリオンが出張っていたか。

 一体何を企んでいたのかをミライナ将軍が尋問する最中、詳しいことはこちらで聞くとアシュレイ、アスクスが「80」の鍵を開いて捕縛する。

 その最中、フィオレは発生してしまった事態に一人、頭を悩ませていた。

 このまま飛び出して、おそらくリオンが行っているであろう神の眼搬出をどうにか止めたい。

 だが、フィオレの脱獄により兵士たちを混乱に導いてしまったらそれこそ思う壺だ。

 どさくさにまぎれて神の眼は持ち去られてしまうだろう。

 さりとて、目前の彼らに託すのはあまりに不自然だ。よしんば行ったところで、口手八丁で切り抜けられてしまう危険性もある。

 単純な実力で考えるなら、リオンはこの四人を一度に下すことはできないだろうが。

 どうしたものか……

 最良の対処が思いつかず、看守らの連行をそのまま見送ってしまう。

 こうなったら彼らがいなくなったのを見計らって、空蝉を身代わりに脱獄してやろうかと、単純で手っ取り早い手段を選ぼうかと思ったその時。

 

「将軍! アシュレイ将軍!」

 

 慌しく監獄内を駆ける足音がして、捕縛した看守らを連行する七将軍の前に小柄な兵士が現われる。

 お疲れ様です、と敬礼する彼にアスクスが何事かと尋ねれば、彼は駆け足の割にのんびりとした調子で尋ねた。

 

「リオン様の作業なのですが、自分たちは手伝わなくてもよいのですか?」

「リオン君の? いや、特に手伝う必要は……」

 

 作業、という言い方に首を傾げたのだろう。

 彼に課されたのは神の眼の警備であって、一兵士が手伝うようなものではない。

 しかし兵士は、あやふやな返事に納得の行かない様子で言葉を重ねた。

 

「そうでありますか? 神の眼の搬出は、いくら人手があっても困らな「搬出だと!?」

 

 表情こそわからないが、彼らにしてみれば寝耳に水、といった状態だろう。

 彼ら以上に、いきなり声音を荒げたアシュレイに驚く兵士などお構いもなく、彼らは荒々しく言葉を連ねた。

 

「どういうことだ。神の眼の搬出など、我々も聞いていないぞ!」

「ですがリオン様は、王城地下に神の眼を封印するというのは陛下の方便で、自分は人の寄り付かぬ孤島の地下に再封印を命ぜられている、と。それにあたって飛行竜を用いるため整備と、神の眼の搬出を始められたのですが……」

 

 最早返す言葉もなく、将軍たちは無言で駆け去った。

 それを追うように兵士も走り、フィオレはその場でシルフィスティアの視界借用を試みる。

 そしてフィオレが見たのは、発着所にて慌しい出立を果たした飛行竜と。

 何もない、神の眼の安置されていた地下の部屋であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二部は始まらない
第百九夜——孤独な追跡行~腹が減っては戦ができぬ



 ダリルシェイド、セインガルド王城。
 シナリオ的には、ここから第二部スタートですね。
 しかしまあ、始まりません。そういうことです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、数日のこと。

 セインガルド王の名の下、神の眼が紛失した件にて召集されたソーディアンマスターたちは、ダリルシェイドの城下町を歩いていた。

 

「……そう。マリーは、元気だったのね。安心したわ」

「ダリスさんは寝込んでおられましたが、それでも回復の兆しが見えているそうで。マリーさんは甲斐甲斐しくお世話されていましたわ」

 

 ウッドロウの召集時、寄ったサイリルの街にてヴィンセント宅に訪問した際のことをフィリアより聞かされ。

 ルーティはそこはかとなく安心したような風情を見せた。

 ただ、その穏やかな表情は一瞬にして崩れ去っている。

 

「それにしても、神の眼がなくなっただなんて……城の兵士は何をやっていたのよ!」

「ルーティ君、声を抑えたまえ。そもそも神の眼がなくなったこと事体、この国では伏せられているだろう」

 

 憤慨するルーティをウッドロウがなだめるも、それで怒りが収まるなら誰も苦労はしない。

 一国の王である前に仲間という意識が強いからか、ルーティはそんなウッドロウにくってかかった。

 

「情けないったらありゃしないわ。あのクソガキはともかく、フィオレがいながら、みすみすまた盗られるなんて!」

「そういえば、フィリア。二人はどうしたんだ? 王様から言われて皆を集めたなら、ダリルシェイドへ行ったんだろ」

 

 スタンの最もな言い分に、フィリアはふるふると首を振っている。

 

「いえ……わたくしが神殿でお勤めをしてところ、使者の方が来られてディムロスを渡されたのです。セインガルドは神の眼を紛失した、至急ソーディアンマスターたちを招集していただきたいと」

「使者……?」

「はい。フィオレさんはまだ禁固中かもしれませんけど、陛下の命ならそのお役目はリオンさんに回ってくるものと思ったのです。リオンさんはいかがなされましたかと尋ねたのですが、使者の方はすぐさまお帰りになってしまって……」

 

 ともかくセインガルド王に尋ねればわかることだろうと、一同は一路王城へと目指した。

 しかし、王城へ一歩足を踏み入れて間もなく。

 

「ファンダリア国王陛下に、ソーディアンマスターの方々!? し、しばしお待ちあれ……」

 

 門番は戸惑い、急ぎ伝令を発する。

 王城手前にして待つこと僅か、すぐに一同は謁見の間へ通された。

 

「おかしい。陛下の招集であるなら、我々の訪問は彼らの耳にも入っているはずだが」

「単にあの兵士が新米だっただけじゃない? だって使者とやらは、ディムロスまで持ってきたんでしょ」

 

 ルーティの言葉に、フィリアははっきりと肯定を示している。

 しかし、ここでディムロス本人から気になる事実が取り出された。

 

『うむ……確かにそうだが、私を持ち出したのは兵士ではなかったかもしれん』

「え!?」

『宝物庫内が暗くてよくわからなかったが、鎧の音がまったく聞こえなかったのだ。明るいところに出たその時は、すでに外套を深く着込んでいた』

 

 私服姿にて極秘任務につく兵士がいないわけではないにつき、あまり深く考えていなかったのだという。

 王の命でないとするなら、フィリアの前に現われた使者は何者だというのか。

 一同がいぶかしむ間に、伝令の兵士の案内にて謁見の間へとたどり着く。

 玉座のセインガルド王はといえば、威風堂々たる雰囲気がどこか薄れ、何か焦っている風情も感じられた。

 

「陛下に置かれましては……」

「そなたらの訪問は……神の眼紛失の件についてか?」

 

 ウッドロウがまず挨拶をしようとして、まずセインガルド王が口を開く。

 招いた側であるはずの王の一言に、一同は色めき立った。

 

「陛下がわたくしのもとへ、使者を派遣されたのではないのですか!?」

「じゃあ、フィリアのところに来たのって誰なのよ?」

 

 事情の飲み込めないセインガルド王に、ウッドロウが今しがた聞いたばかりの顛末を話す。

 王は、まるで狐につままれたような面持ちを浮かべた。

 

「神の眼が紛失したことは、紛れもない事実だ。しかし私は、ストレイライズ神殿へ使者など派遣はしておらぬ」

「でも! 現にディムロスがここに……」

「なっ! それは、ソーディアン・ディムロス!?」

「守衛は何をしておったのだ! 王城の宝物庫に、盗人の侵入を許すなどと……!」

 

 スタンがディムロスを見せたことで、セインガルド王並びに側近たちは初めて宝物庫からディムロスが紛失していたことを知る。

 そのことで、ひと悶着が起ころうとしていた、その時のこと。

 にわかに廊下が騒がしくなったかと思うと、突如謁見の間が荒々しく開かれた。

 

「脱獄だ! 一同、召集せよ……うぐっ」

「……もう十日は経ったでしょう。脱獄じゃなくて刑期終了であるはずです」

 

 一人を追って飛び込んできた兵士が、当身であっけなくその場に伏す。

 当身をした人間は、小さく息をついて謁見の間へと視線をやった。

 

「驚かせてごめんなさい、皆。それは私が仕掛けたことです」

「フィ……フィオレさん!?」

 

 十日ぶりのフィオレは、なぜかひどく衰弱した様子だった。

 眼帯はそのままだが、その額には怪我でもしたかのように包帯が巻かれている。

 

「時間がないので手短に話しますが、神の眼を持ち出した実行犯はリオンです。裏でヒューゴが糸を引いています」

「ええっ!」

 

 まだ事情も知らされていない一同に、その言葉は絶大すぎるインパクトを与えた。

 謁見の間にいる誰もが沈黙する中、フィオレは淡々と言葉を紡いでいる。

 

「守護者の力を使い、ここ数日で彼らの潜伏先を掴みました。クレスタより北の孤島、表向きはすでに閉鎖された廃工場の深部に、彼らは潜伏しています……スタン、これを」

 

 尚も沈黙が漂う中、フィオレは携えていたあるものをスタンへと放り投げた。

 彼が受け取ったのは、神の眼の探索行において、散々彼らに電撃を見舞ったあの額冠操作盤である。

 操作盤に張りつけられたモニタには、ひとつの点だけが明滅していた。

 戸惑ったようにスタンがフィオレを見るも、彼は言葉もなく唖然としている。

 包帯を外したフィオレの額に、据えられた額冠(ティアラ)を見て。

 

「光っている赤い点が、これです。先行するので、早めに来てくださいね。事情の詳細は、陛下が教えてくださるはずです」

 

 再会の挨拶も何もなく。フィオレはそのままきびすを返し、謁見の間を飛び出した。

 再び廊下から騒乱の気配が伝わってくるも、謁見の間は水を打ったかのように静寂に包まれている。

 やがて口を開いたのは、人一倍早く冷静さを取り戻したウッドロウであった。

 

「……説明していただきましょう。一体何が、起こったのかを」

「う……うむ。事の起こりは、地下に安置してあった神の眼が何者かによって持ち出されたのだ」

「何者かって、わからなかったんですか!?」

 

 王城とはかくも堅固な警護が欠かされない場所というイメージによるものだろう。

 スタンの心底意外そうな質問に、王は頭が痛そうに答えた。

 

「確証こそないが、この騒動に前後して行方がわからなくなった者がいる。それが」

「リオンさんと、ヒューゴさんなのですね」

 

 フィオレの話した内容と、王の説明は一致する。

 二度と表舞台に出さないと明言しておきながら此度の失態に、ウッドロウが婉曲的表現を用いて王をなじるも、それでどうにかなる問題ではない。

 

「ヒューゴを過信しすぎていたようだ。それに対しての責苦はいくらでも受けよう。だが、今はそうも言っておれん状況にある」

「そうよウッドロウ。王様責めてる場合じゃないわ!」

「一刻も早く二人を発見してもらい、そして神の眼を取り戻してもらいたい」

 

 セインガルド王の依頼に対し、一同は一様に肯定を示している。

 これなら早々動くだろうと、フィオレは荷物整理の手を早めた。

 現在フィオレは、ジルクリスト邸の私室にて旅支度の真っ最中である。

 ジルクリスト邸には行方不明となった総帥の行方を探るべく、多くの従業員が訪れているものの、侵入そのものは容易だった。

 それまでの牢屋暮らしのせいで、衛生面を主とする様々な荷支度はまったく整っていない。

 あまりに先行してしまうのもどうかと考えたため、休憩を兼ねて私室に潜伏しているのだが……どうやらもう少し、休憩時間がもらえるらしい。

 シルフィスティアの視界ではなく、空蝉の蝶の視界から、謁見の間でのやりとりが再び伝わってきた。

 

「神の眼が奪われたとわかって、今の今まで何をしていらしたのですか」

「我々とて指をくわえて事態を看過していたわけではない。至急、フィオレシアの禁固を解き、そなたらの召集を命じようとしたのだが……」

 

 どうやらウッドロウが話を蒸し返したらしい。

 彼の追及に、セインガルド王は実に言い訳がましく言葉を続けた。

 

「飛行竜及び神の眼が紛失した直後、あやつは自殺未遂を起こしたのだ」

「自殺未遂!?」

「提供する食料摂取を一切放棄し、呼びかけてもまるで無視、死んだように眠っている、との報告が上がった。それ以前に、彼女の収監した牢に看守三名が入り込んだ、という事件が関係しているのかと思われたが……」

 

 自殺未遂云々よりも、ウッドロウがその事件について深く追求を始めてしまっている。

 これは長くなりそうだが、消費した日数の関係上、あまりのたのたしているわけにはいかないと、フィオレは立ち上がった。

 

「彼女を収監していた牢に、侵入……!?」

「囚人のいる檻の中に看守が入り込んで……まさか、囚人虐待!?」

「フィオレシアは、性格はともかくとして見目が良いのでな。狭い牢屋内にて身動きが取れぬことをいいことに、良からぬことを考えたのだろう」

 

 詳細を話されて、今度はフィリアが憤慨する。

 王はすぐに、フィオレが武器所持を許されていたため被害はなかった旨を伝えるも、神の眼といい監獄内といい警備が薄すぎるとウッドロウはやはり遠まわしな苦言を放っていた。

 神の眼は確かにそうかもしれないが、監獄は別に警護が薄くてもいい気がする。

 一同がやっと謁見の間を離れた頃、フィオレはすでにダリルシェイドから出ていた。

 ここから海中移動──アクアリムスに移動を頼むよりは、徒歩でクレスタを目指した方が消耗は少ない。

 ダリルシェイド城下町の屋台で手に入れた、焼きたてのイカ焼きとチーズのとろけるホットサンドという数日ぶりの食事を摂りつつ、フィオレはクレスタへと赴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百十夜——追いつけ追い越せ引っこ抜け

 ダリルシェイドより北東の孤島、オベロン社秘密工場海底洞窟。
 物凄い駆け足で一同より先行中。
 虎の子である秘術+αをガンガン使っている辺り、冷静に見えてまったくなりふり構っていません。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに一同には、クレスタの北にある孤島へ行くと告げてある。

 だから、彼らは王命によって港から船を使うだろう。

 クレスタ外れの海岸線にて、アクアリムスの協力を得たフィオレは、シルフィスティアの視界を借りていた。

 しかし今回彼女の視界を借りて見るのは、一同の様子を知るためではない。

 

 ──ヒューゴ、そしてリオンの現在位置を探るためだ。

 

 アクアリムスによる海中移動をしながらシルフィスティアの力を借りるのは、勿論消耗する。

 しかし、北の孤島についてから彼女の視界を借りつつ移動することはできない。

 道連れにリオンを加えたヒューゴは閉鎖されたはずの廃工場内を練り歩き、配置した社員に命じて施設を次々と復活させていった。

 今に至るまで、もちろん今も彼が神の眼を何に使うのかはわからない。

 施設を復活させているということは研究目的か、あるいはフィオレの知らない神の眼の利用方法があるのか。

 もしかしたら、神の眼を破壊するために持ち出したのかもしれない。

 神の眼を脅威としながらも、その直接的な被害に襲われなかったセインガルド国王は一種のステータスとして見ていた可能性が高いのだ。

 ウッドロウによる破壊を促す提案に拒否を示し、自分の王城の地下に封印するという発言など、そうでなければ出ない言葉である。

 ヒューゴの目的が破壊であったとしても、絶対に止めなければならない。

 フィオレをこの世界に召喚したのが神の眼だと、ほとんど確信した今、神の眼が破壊されたらもう帰る術を失うのだから。

 

『──着きました』

『ありがとう!』

 

 海岸線に到達し、譜陣が消滅する。

 水平線の向こうに小さくだがクレスタすら臨める孤島は実に小さな島だった。

 海岸のすぐ傍にそびえる工場らしき建物周辺に人気(ひとけ)はないが……裏手に回りこめば、生い茂る自然だけでは隠し切れない飛行竜の尻尾がはみ出ている。

 さて、問題はここからだ。

 通常なら、オベロン社の社員がわんさかいるであろう工場内、隠密術を駆使して移動するに限る。

 が、今回フィオレは先導役、後からスタン達がやってくるのだ。

 彼らに道を示さねばならない以上、逐一フィオレと同じことをしろと要求しても頓挫する危険性が高い。

 それならばこれがわかりやすいだろうと、フィオレは工場の正面出入り口の扉をくぐった。

 幸い守衛のような人間はおらず、侵入自体は実にあっさりと成功している。更に、通路内を歩く社員の姿もなかった。

 ただ、起動された工場が淡々と稼動を始めており、まるで巨大な生き物の内部を進んでいるかのような感覚すら覚える。

 最後に()たヒューゴ達は様々な部屋へ立ち入り、指示を出しつつ奥へ奥へと進んでいった。

 フィオレはそれを知っているから、必要な道を最短コースで進めばいい。

 しかし、スタン達はそうもいかないだろう。

 壁に巨大なラクガキでも施したいが、逆に変な誘導に使われても困る。

 頭を悩ませつつも、見覚えだけはある通路を進んでいくと。

 

「……フィオレ君?」

 

 唐突に名乗る名を呼ばれて、くるりと振り向く。

 見やればそこには、作業服姿の社員数名がとある小部屋から通路へと出てくる最中だった。

 とくにこれといった武装はない。

 フィオレの名を呼んだのは、以前レンズ製品の護送をヒューゴ氏経由で請負、道中を共にした内の一人だと思われる。

 確定でないのは、彼らの中で誰一人としてフィオレの記憶に留まっていないからだ。

 

「ああ、こんにちは」

「何故君がここに? ヒューゴ様からは何も聞いていないが……」

「そりゃそうでしょう、私は勝手に来たんですから。ヒューゴ様が神の眼をこちらへ搬送なさったと、聞きつけましてね」

 

 嘘は一切言っていない。

 あまりにも堂々としたフィオレの態度に、不法侵入者であると考えられなかったのか。

 ヒューゴはどこにいるのかを尋ねたフィオレに、彼らはあっさりと行方を教えてくれた。

 

「ヒューゴ様なら工場地下へ赴かれたよ。神の眼を封印するための場所を確認すると」

「そうですか。では、昇降機をお使いに?」

「ああ」

 

 つまり、昇降機がある場所を目指せばよいらしい。

 礼を言い、そしてその仕事を労い。

 フィオレは何事もなかったようにそのままきびすを返した。

 彼らが早めに次なる目的地へ行くことを祈る。

 のたのた通路を歩かれていては、やがてスタン達と鉢合わせになり無駄な争いが繰り広げられることになるだろうから……

 と、そこへ。

 

『来たよ!』

 

 脳裏でシルフィスティアの声が唐突に響く。

 ほんの一瞬、幻覚のように眼前をよぎったのは定期船らしい中型の帆船の船長らしき人物に礼を言って続々と下船するソーディアンマスターたちの姿だった。

 この距離ならば──

 通路に置かれていた機材の陰に隠れて、シルフィスティアに視界を借りる。

 フィオレも堂々通ってきた正面玄関の扉付近に、ひどく悪目立ちをする蝶を一羽、配置した。

 聴覚だけを連動させて再び機材の陰から出て歩き出す。

 これまでと同じようにただ通路を行く暇な社員などは皆無で、大体が部屋の機材に張り付き、何かの作業に没頭していた。この分なら、騒ぎ出さない限り無事通り抜けられるだろう。

 しかし、あの面子にそれが可能か否かは正直分かりかねる。

 スタンは驚愕をまともに表に出すし、ルーティは激情をそのまま出して発散する傾向が多く見られがちだ。

 フィリアは普段こそ物静かだが、一度パニックを起こすと、多分なだめるまで際限なく騒ぐ。

 唯一ウッドロウだけは冷静だろうが、彼に期待するのはそういうことではない。あの面子の手綱が取りきれるか否かだ。

 少々天然が入っているが、仮にも一国の王だ。

 何万といる民をまとめる立場の人間が、よもやたった三人の人間を御しきれないとは思えないが……お手並みを拝見することにしよう。

 やがて、かつての工場見学者用になのだろうか。

 工場内の詳細な見取り図が張りつけられた壁の前で、フィオレは彼らが空蝉に気付いたことを知った。

 

「──何だ、これ?」

「綺麗な蝶ですけれど、見たこともありませんわ。それに、どうしてここに留まり続けているのでしょう」

 

 スタンの手が迫り、それまで一箇所に滞空していた空蝉がふわりと舞い上がる。

 そのまま扉へ移動する蝶を見て、彼らは困惑を示した。

 フィオレは聴覚のみを己の感覚と連動させたまま、先程頭の中に叩き込んだ見取り図を元にして進んでいる。

 

「……ついてこいっての?」

「確か、あれはフィオレ君が手品で出してみせた代物だったな。時計塔への道を探す際に使っていた」

 

 隠して使っていたつもりだったが、見つかっていたか。

 ああでもしなければ活路を見出せなかったにつき一片の後悔もないが、再会した時なんと問い詰められることやら。

 ただし、その中でスタンだけは蝶の正体に頓着していなかった。

 

「どっちにしても早く行かないと。フィオレさんに追いつかなきゃ……!」

 

 その心意気はとても嬉しい。

 が、果たしてこの遠くもないが近くもない距離でそれが可能か否か。

 フィオレが歩いたその道を、空蝉にそのまま進ませて。フィオレはフィオレで、ずんずん先を急ぐ。

 御丁寧に張られていた見取り図には、昇降機としっかり書かれていた場所があった。

 先程の証言もあって、隅から隅まで探さなくていいのは大変楽なことである。

 時折、折り悪く社員に発見され足止めをくらうスタン達の様子を気にかけながら、フィオレはたどり着いた昇降機に乗り込んで作動を試みた。

 見取り図内にて、妙に大きな区画に設置されていると思ったら……昇降機自体がとんでもなく広大だった。

 足場の広さといい、規模の大きさといい。これならば積載荷重さえ気をつければ、神の眼など余裕で積み込めるだろう。

 胃が浮くかのような感覚が発生し、昇降機は最下層まで一直線に下降した。

 降り立ったところで、昇降機は自動的に上へ昇っていく。

 それなりの速度で、それなりの時間を下り続けたということは……すでにここは海の底なのかもしれない。

 水の匂いにも似た、湿った空気の中を歩けば、岩肌がむき出しになった洞窟が広がっていた。

 趣としては、シデン領からモリュウ領へ移動する際、通過した海底洞窟によく似ている。

 ただ、おそらくこの洞窟には通じる場所などはない。

 もし洞窟が崩れたら、昇降機以外の逃げ道などないだろう、ということだ。

 もしかすれば、ヒューゴの赴く先に脱出可能な何かがあるのかもしれないが。

 不吉な予感を振り払い、道なりに進んでいく。

 一見、自然が作り上げた洞窟のような風情だがそのくせ、様々な箇所に橋がかかっていたりと明らかに人の手が加えられている。

 もともと存在していた天然の洞窟を、何らかの目論見を元にヒューゴが整備した。

 そう考えるのが、一番自然だった。

 空蝉の視界を確認すれば、スタン達は道にこそ迷っていないものの、侵入者と声高に叫ばれたせいで足止め排除に余年がない。

 合流は当分先だろうとため息をついて、フィオレは懐を探った。

 取り出したのは、フリーズダイヤ。第三音素(サードフォニム)が豊富に詰め込まれた、透明な輝石だ。

 空蝉を使ったままシルフィスティアに視界を借りようものなら、たちまち頭の血管が爆ぜ割れることだろう。

 ただでさえ、空蝉の長時間起動は頭痛がするのだ。

 フリーズダイヤの消費によってフィオレ自身への負担を軽減、そして今ヒューゴ達がどこにいるのかを探ろうと試みたのである。

 

 ──目蓋の裏に映るヒューゴ氏は、手の中のモニタを凝視していた。

 

 モニタの中には、白い点と黒い点が明滅している。

 双方の位置は、それほど離れていなかった。

 

「故障か……? いや、念には念を入れておくべきだな」

 

 マリアン、レンブラント老を連れて先行するヒューゴが、くるりと後ろを見やる。

 彼の視線の先に佇むは、唐突に歩みを止めたリオンだった。

 

「どうした、リオン」

「……」

「何か言いたそうだな。私は別に構わないのだよ。お前が来てくれなくてもな」

 

 実にねっとりとした、耳を洗いたくなるような声音がリオンどころかフィオレの鼓膜にすら違和感を持って張り付く。

 嫌悪感に眉を歪めたフィオレだったが、妙な違和感に首をひねった。

 

「私はたとえ、一人でも遂行する。お前はここに置き去りにされ、滅びを待つだけだ」

 

 シルフィスティアの聴覚を自分の感覚に連動させているなら、そもそも鼓膜は使っていない。

 ならどうして今、鼓膜に変な感覚を覚えたのか……

 

「もちろん、この女もお前と同じ運命を辿ることになる。それなら本望かね?」

「汚いやり方だな」

 

 ここで初めてリオンは口を開いた。まるで吐き捨てるような、陰鬱な怒気の込められた声音がやはり鼓膜に響く。

 この時、初めてフィオレは事実に気がついた。

 フィオレはこの会話を、自分の耳で実際に聞いている。

 その証拠に、聴覚を借りるのをやめても会話は変わらずフィオレの耳に届いていた。

 

「何のためにこの女を連れてきたと思っているんだ。彼女は人質なのだよ。この女を助ける代わりに私に協力するという約束、忘れたとは言わんだろう?」

 

 やはり彼女を人質に取られていたか。今なら力づくで取り返せないわけでもないだろうに、難儀な少年である。

 シルフィスティアにおざなりな礼を述べ、フィオレは駆け出した。

 急いで現場に駆けつけるより、状況をよく見極めた方が賢いとわかっていてもはやる心は抑えられない。

 黙り込んだリオンに対して、マリアンの悲痛な叫びが洞窟内に反響した。

 

「エミリオ、やめなさい! 私はどうなっても構わない! こんな馬鹿なことに……!」

「人質は黙っているんだ。それとも、力ずくで口を塞がれないとわからないか?」

「よせ! マリアンに手を出すな!」

 

 超個人的な意見だが、とりあえずその「馬鹿なこと」の詳細希望である。

 せっかく嫌みったらしく、偶然にもマリアンが人質であることを確認したのだ。ついぽろっと言ってはくれないだろうか。

 残念ながら、以降マリアンの発言はほとんど封じられてしまった。

 

「お前の言う通りだ。マリアンを助けてくれるなら、僕はなんでもやる」

「エミリオ……」

「ふふ、わかればいいのだよ。お前がそういう態度でいれば、彼女も死なずに済む。どうして最初から素直になれないんだ、エミリオ」

「──そもそもリオンは、素直な子じゃないでしょう。親の癖に、そんなことも知らないのですか?」

 

 わからないなら、尋ねるしかない。

 肉声が聞こえるだけあって、フィオレが駆けた先は彼らが佇むすぐ傍だった。

 終着点が近いのか、それまで通ってきた洞窟とは大きく異なり、周囲に水の気配がない。

 そして、彼らが今まさに上がろうとしていたのは天然の石段ではなく、地面を直接削った階段だった。

 姿を現したフィオレを前に、ヒューゴ氏は驚く様子もなく鼻で笑っている。

 

「おや、ネズミがまぎれこんだか。いや……乗りこなし難いじゃじゃ馬か?」

「私が馬なら、あなたは虎の威を借りる狐ですね。狐の息子が虎なんて、とんだお笑い種ですが。トンビも鷹を生むらしいんで、いいんじゃないでしょうか」

 

 てくてくと、フィオレは間合いを詰めるのではなくただ歩み寄った。

 しかし彼らは、しんがりのリオンを盾にするような形でじりじりと階段を上がっていく。

 そんな彼らを前にして、フィオレは小さく苦笑した。

 

「そんな及び腰にならないでください。あなたを討ちに来たとか、そういうわけではないんです」

「ほう? 刑期を終えたばかりの囚人が、この私に何の用だと言うんだね」

「刑期が終わったならもう囚人じゃありませんよ。聞きたいのは、事の顛末でもあなたの目的でもない。神の眼の処遇にございます」

 

 フィオレが立ち止まったのを見て、彼らもまた足を止める。

 この距離ならば安心だとでも思ったのだろう。

 間合いを詰める方法など、いくらでもあるわけだが。

 

「神の眼の処遇だと?」

「ええ。あなたは神の眼に、何をなさるおつもりで?」

 

 破壊、あるいは機能停止的な意味での封印ならば、誰を殺してでも止めなければならない。

 目的がなんであれ、活用する気ならばまだ交渉は可能だ。

 果たしてヒューゴ氏は、フィオレが最も望んだ答えを出した。

 

「私が目的とするのは、神の眼の有効使用だが?」

「そうですか。私の目的は、あなたが神の眼を破壊する気ならそれの制止に来たんです。そうでないのなら、別に止めませんよ」

 

 ヒューゴの行いは止めない。

 止めないが……それで婦女誘拐に脅迫という、犯罪が行われているなら見過ごすつもりはない。

 もとよりその腹積もりで先を促す。

 しかし、彼らはフィオレに背を向けはしなかった。

 

「いかがされましたか?」

「……止めないというならば、立ち去れ。ここはオベロン社の所有する私有地だ。ましてやここは機密ブロック、レンズ製品の護送程度を請け負っていた人間が立ち入っていい場所ではない」

「それを口頭で勧告、しかも総帥自ら行うということは、本当にこの付近は誰もいないのですね。なら従おうが従わまいが、私の自由ですか」

 

 リオンやレンブラント老を見るも、彼らは黙して静観している。

 総帥の命令なしに、侵入者を排除するつもりがないのだろう。

 飄々とした態度で、しかし従う気配を微塵にも見せないフィオレに、ヒューゴ氏は苦笑すら洩らした。

 

「事の顛末も、私の目的にも興味がないと言っていなかったか?」

「言いました。興味もありません。でも、あなたが為すことによって大切に思う誰かが悲しむ要因を誘発するなら、話は別です。興味がなくとも、それを確認したいのですよ」

「……君に話すつもりはない、と私が言えば?」

「教えてください、マリアン。リオンでもレンブラントさんでもかまいませんが、ヒューゴ様は何を企んでおいでで?」

 

 もとより彼が、余裕綽々語ってくれるのを期待していたわけではない。

 この面子において被害者でしかないはずの、一番話してくれそうな彼女に頼んでみる。

 果たして彼は、部外者であるフィオレの前でも人質虐待をするのか。

 そんなことをした瞬間、大義名分発生により実力行使を敢行する。

 

「わ、私は……」

「知らないわけではないのでしょう? でなければ、リオンに協力の制止などしない」

 

 先ほどの脅しが効いているのか、彼女は口を開こうとしない。

 リオンやレンブラント老を見やって視線をそらされるあたり、何らかの事情があると見たほうがいいのか。

 

「では、ヒューゴ様にお尋ねしましょうか。あなたは神の眼を用いて、何をしようとなさっているので?」

「……リオン、何でもやると言ったな? 何が何でもあれを始末しろ。できないとは言わせん」

 

 話すだけのことなのに、ここまで嫌がるということはやはり疚しい思いありか。

 何であれ、これで交渉の余地はなくなった。

 ヒューゴ氏がリオンに命令を下した時点で、フィオレはその場を駆け出している。

 紫電を引き抜くどころか、柄に手をやらず全力疾走だ。

 護衛がリオンしかいないのなら、これほどやりやすいことはない。

 

「いやー、やめて!」

 

 全力で接敵を求めるフィオレに対し、リオンはシャルティエを引き抜いてその特攻に備えている。

 これが半年前ならば、彼はただ驚くしかできなかっただろう。

 少年は、恵まれた環境とその気概、そして授けられた素質をフルに活用して臨める限りの成長をした。

 剣術指南を行った者として、可能な限りその才覚を伸ばしたつもりだ。

 だから、彼の癖は全て把握している。

 おかげでその構え方から、フィオレのどこを狙っているのか、いとも簡単に割り出せてしまう。

 だからこそ、剣を構えた相手に単なる突進などできるのだが。

 

『フィオレ……』

 

 僅かに聞き取れたシャルティエの呟きに返すことなく、フィオレはまるで猪のような突進を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百十一夜——奏でるは、鍔迫り合う剣の調べ~きみがまもりたいのは、ほんとうに、それ?

 海底洞窟にて、VSリオン。

 ここでまさかの、十七夜のへんてこなマリアンの正体が露見します! 
 ……と、言えるほど露見してないけど。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャルティエを構えたリオンが、視界一杯に迫る。

 何の仕込みもないただの突進に対して、リオンはもちろんシャルティエを突き出した。

 狙い通りだ。

 突進に対しては斬りかかるより剣先を突き出したほうが相手に与えられる負傷の度合いが根本的に異なる。

 もともとリオンはそれを知っていたし、フィオレもまたそう言った。

 狙いすまして突き出されたそれを、刀身と平衡に突き出した手の甲で横に払う。

 

「なっ!」

 

 リオンが驚愕をあらわにするものの、理屈はそこまで驚くべきことではない。

 刃に対して垂直の先にあるものが斬れるのであって、平衡の位置なら角度さえ気をつければ、鉄の棒切れとそこまで大差ないのだから。

 切っ先を気にするあまり刃を真下に向けられて、更にシャルティエは片刃なのだ。これで皮膚を切るようなことはない。

 素手でシャルティエを払いのけ、そのままリオンの二の腕を捕まえる。

 即座に振りほどこうとする、その力に逆らわないまま足払いをかけた。

 

「!?」

 

 唐突に平衡を奪われ、転倒防止に意識をやったリオンから、まんまとシャルティエを奪う。

 続いて奪われたシャルティエに気をやった彼に投げ技を仕掛け、脇に転がしてから。フィオレはシャルティエを手に再び走った。

 何故なら。

 

「ちい!」

 

 リオンが転がされたのを見て、ヒューゴ氏が舌打ちをする。

 その瞬間、彼が何を投擲したのかを知ったからだ。

 投擲されたもの──エナジーブレットが、階段手前の地面めがけて落ちていく。

 その間際、駆け寄ったフィオレが刃をつきたてて無効化することに成功した。

 地面に突き刺さったシャルティエをそのまま、今度こそ紫電の柄に手を添える。

 投擲をしたまま固まるヒューゴ氏の表情を見やりながら階段を駆け上がり、マリアンもレンブラント老も無視して紫電を振るった。

 刹那。

 

 カィンッ! 

 

 殺害を試みるつもりなど毛頭ない。

 刃の背で殴るように振るわれた紫電が奇妙な音を立てて弾かれる。

 ヒューゴ氏の脳天を狙った一撃だったが、彼の盾にでもなるかのように、そこには黒々とした硬質の盾が存在していた。

 気絶を促すならば狙いやすいのは、鳩尾か首筋だ。

 だが、今は生きた盾となりえそうな人材が二人もいる。

 そのため少々危険だが、相手の今後の人生は気にしない方向で、脳天を狙った。

 頭を防護するため人を盾とするには、人物の後ろにしゃがむか、自分の頭の位置にまで人体を引き寄せなければならない。

 ヒューゴが戦いに秀でた人間ならまだしも、素人にそんな予備動作を与えるほど時間の余裕はなかったはず。

 そして、人の盾なら感覚はもっと生々しいものであるはずだった。

 

 改めて盾を見る。

 

 黒い艶すら帯びたそれはまるで、「厨房の黒い悪魔」が備えた硬質の外殻じみていた。

 こんなものを持っていたなら初めから警戒したのにと、ヒューゴ氏を見て……気付く。

 彼は、その手に何も持っていなかった。

 黒い硬質の盾は人が手で掲げているものではなく、横合いから伸びてヒューゴ氏を守ったのである。

 では、どこから伸びて……

 盾の発生源を眼で追って。フィオレは紫電を携えたまま眼をこすった。

 

「?」

 

 レンブラント老も、マリアンも、無手だ。武装どころか、身を守るようなものすら持っていない。

 ただ。

 マリアンは、同性も羨むような艶々とした漆黒の黒髪を持っている。

 リオンが彼女を母代わりとしてすんなり受け入れたのも、多分この黒髪が大きな役割を果たしていただろう。

 その黒髪が逆立ち、ヘッドドレスは外れて落ちて、まるで意志を持っているかのようにうねっている。

 

「!」

 

 そう。硬質な盾の正体は、マリアンの髪だった。

 髪の毛、特に女性のものは見かけに反して非常に強靭であるというのは有名な事実だ。

 だからといって、髪の毛が人一人分集まっただけでは刃を弾くに至らない。

 そもそも、ヒトの髪の毛は自由自在にうねりもしないし硬くもならず、ましてや動くなどともってのほか。

 

「な、な、な……!」

「滑稽だな。君がこれを見て混乱するのかね? 余韻の奇跡を披露し、万人に衝撃と混乱を与えておきながら」

 

 言われてみればそんな気がしないでもないが、知っているはずの人間の髪がいきなり動き出したのだ。

 驚き混乱する以外にどうしようもない。

 これをリオンが見ても冷静なままでいられるのかと思いきや、彼はようやく起き上がっている真っ最中だった。

 それまで盾の形をしていた髪がうねり、今度は曲刀じみた形へ変異する。

 たかだか髪と思えど、硬質化を可能としたのだ。形を変えただけで殺傷能力を備えたところで不思議はない。

 迫るソレから逃れて階段を飛び降りたところで、階上のヒューゴは言った。

 

「さて、行こうか。じゃじゃ馬一匹に構い続けてもいられん」

 

 言葉こそ余裕たっぷりではあるが、その実足取りは実にそそくさとしている。

 階下のリオンを省みるでもなく、三人は階段を昇りきった先へと姿を消した。

 無理やり連れて行かれるでもなく、自分から足を動かした辺り“マリアン”はおろか、レンブラント老もグルなのだろう。

 彼らが行く背中を見送るでもなく、シャルティエを回収したリオンは、フィオレただ一人に視線を向けている。

 その、悲壮にして決意をにじませた瞳が。

 今までの稽古にない緊張感と、彼の周囲にのみ漂う緊迫感が。

 どうしても、場違いな笑いを誘ってしまった。

 

「……何が可笑しい!」

「あなたって、本っ当に可哀想な子だったんですね。今更ながら、理解しました」

 

 マリアンそっくりの髪の毛お化けを人質に取られていいように扱われていたと知れば、彼はどれだけ嘆くだろうか。

 紫電をその手に持ったまま、どうしても抑えきれない笑みが零れて溢れる。

 許されるなら、腹を抱えて笑いたかった。

 少年の愚かさを、滑稽さを笑っていることに気付いてしまったのか。

 リオンは即座にシャルティエを構えなおしている。

 

「侮辱のつもりか……! お前の挑発なんか散々耳にしている。僕には、効かんぞ」

「──可哀想なのは境遇だけじゃなくて、おつむの方もですか。マリアンと離されて正気を失っていると考えたいものですが」

 

 ぎりっ、とリオンが音を立てて歯を食いしばる。

 手に取るようにわかってしまう少年の激情へ更に燃料投下するべく、フィオレは言葉を続けた。

 多分この方が、彼には戦いやすい。

 大方の事情は理解したし、感じた矛盾点に関してはこれから聞き出す。

 聞き出せるかどうかは、別として。

 

「にしても……あなたはまだ頭が回る方だと思っていましたが、解せませんね。どうして今、マリアンを連れて逃げなかったのです? 実力行使をし、今の地位を捨て己の一生を犠牲にすれば、彼女の命は保証されたでしょうに」

「計画の詳細を知らない、お前にはわかるまい。どうにもならないことなんて、世の中にはいくらでもあるんだ!」

 

 それは確かに。反論のしようもない、一種の真実だ。

 ということは、彼女を連れてヒューゴの元を飛び出したとしても、命の保証は出来かねること。

 多くのオベロン社社員を置き去りにし、神の眼を盗んだヒューゴが今更築き上げた地位──企業総帥や国王に口利きすらできる、その立場を使ってのことではないだろう。

 思いつくのは新天地創造の類だが、何にせよもうリオンと話し合う余地はない。

 

『坊ちゃん、本当に……』

「余計なおしゃべりはやめろ、シャルッ!」

 

 フィオレが考え事をしている間に、リオンはシャルティエを構えての特攻に走った。

 話し合う余地がないなら、激情を煽るだけだ。

 

「──そういえば、以前あなたは言っていましたね。マリアンに笑っていてほしいと。彼女が存在さえしていれば、何も望まないと」

 

 今度はリオンが迫ってくる。

 突き出されたシャルティエを弾き、弾かれたその場から翻る切っ先をいち早く払いのけて。

 フィオレは言葉を続けた。

 

「彼女が何をすれば喜び、あなたの望む笑顔を浮かべるのか。まったくわからなかったわけではないでしょう? どうして、あなたが笑顔にしてあげないんですか?」

 

 彼の望みは、フィオレと名乗る以前に彼女自身が抱いていた望みだ。

 対象こそ違うが、フィオレもまた一人の人間の笑顔を、その安寧を、心から望んだ。

 そして、彼が笑顔でいられるようにと、苦手だったはずの隠し事をいくつも重ねている。

 

「可哀想に。やっぱり怖かったんですね。自分の想いをぶつける前に、拒否されてしまうことを恐れて。現状維持を努めたまま、マリアンを餌に父親の傀儡を続けた。そして今、あなたは一人で、私と戦っている」

「っ、うるさいっ! 黙れ、この……!」

「私のやり方はご存じでしょうに。無理ですよ、そんなの」

 

 次々と繰り出される連撃、爪竜連牙斬がフィオレを襲うも、口撃が効いているらしく普段のキレはない。

 心の動揺がそのまま、剣筋にも出てきていた。

 その心の弱さを、フィオレは今心から安堵している。

 普段リオンが敵と認識した相手にぶつかる調子でこられては、手加減はできなかっただろうから。

 彼らのやりとりで背景を知れたこと。それが今、フィオレを救っていた。

 

「大切なたった一人を守るため、世界中を敵に回した。その意思は賞賛に値しますけど……あなたがいなくなったら、誰が彼女を守るので?」

「……ヒューゴが約束したさ。彼女の命だけは、必ず保証すると!」

「あなたが死んだら、そんな約束を守る意味はなくなりますね。またいいように弄ばれるだけでは?」

「……!」

 

 今のフィオレとて、この少年を本気で殺す気になどなれない。もう教え子を手にかけたくなどはない。

 だからこそ、フィオレは戦いの手を緩めて口撃を多用していた。

 リオンのやる気を殺ぐために、あわよくば彼を懐柔するために。

 あの夜を、完全に忘れたわけではないだろう。

 手荒く当時の記憶を穿り出され、リオンの顔色が悪くなる。

 

「……だったら」

 

 戦う手を唐突に休めて。彼は、初めてうつむいた。

 シャルティエを握る手は、フィオレの髪のように白くなっている。

 

「どうすればよかったというんだ。お前に何もかも話し、助けを乞えばよかったとでもいうのか? お前なんかに、好き勝手で気ままで、胡散臭くて鼻持ちならないお前に──!」

「……信用できない、が抜けてますよ」

 

 そこまで悪口雑言が出てくるなら、これが一番初めに来てもよかったのに。

 心情をそのまま出してしまうリオンがひどく愛しくて、フィオレは場違いな笑みを浮かべた。

 

「可愛いなあ、リオンは。敵にそんなこと話すなんて、愚か過ぎて逆に愛しい」

「!」

「そんなこと訴えられたら、敵として見れないではありませんか。これは、私の心を惑わす罠ですか?」

 

 再び上がったリオンの顔は、その手と同じく白くなっている。

 揺れる紫闇の瞳を見据えて、フィオレは淡々と言葉を返した。

 

「私なりに導き出した回答はありますが、もう過ぎたことですしね。それで、マリアンの為にがんばるのはもうやめですか?」

 

 揺れていた紫闇の瞳が、すっと細まる。

 今のリオンにできること、すべきことは、フィオレを討ってヒューゴ達に続くこと。

 だからフィオレは全力で、彼の行動を妨害している。

 おそらくそれが、やっと理解できたのだろう。彼は言葉なくして、戦いを仕掛けてきた。

 

「魔神剣!」

 

 通常、剣の一振りで発生する一条の衝撃が一息遅れて二条となり迫る。

 サイドステップでそれを避けた先、リオンはすでに詠唱を終えていた。

 

『開け、冥界の門。招き寄せるは魔を統べし者、そなたの槍に貫かれし愚者を誘え!』

「デモンズランス!」

 

 晶術特化型ソーディアンであるクレメンテを除き、他のソーディアンは大体己の司る属性の晶術しか発現はできない。

 しかし、唯一地と闇の属性晶術を扱うシャルティエは、ついに魔神の振りかざす槍すら使用した。

 巨大な魔神の残像が現われ、術者の命に従い魔神は暗黒の槍を射ち出す──

 

「母なる抱擁に、覚えるは安寧」

 ♪ Qlor Luo Ze Toe Luo Rey Nu Luo Ze──

 

 大地に膝をつき、左手を岩肌へ押し付けて譜陣を展開する。

 飛来した暗黒の槍は結界によって阻まれ、あえなく消滅した。

 

「まだだ! 飛燕連脚──」

「空を舞いし龍、地を駆けし虎。我が望みしは、頑健たる汝らの牙」

 

 地を蹴り、そのままフィオレへ蹴打を放つリオンが飛び込んでくるのを見越して、フィオレは紫電を何もない地面へ振り下ろした。

 地面に触れた切っ先を中心に譜陣が展開し、牙を模した衝撃波が天……天井へ上っていく。

 

「零式・竜虎滅牙斬!」

 

 飛燕連脚を放つべく、地を離れていたリオンに避ける術はない。

 あっという間に巻き込まれた彼は、そのまま弾かれて地面を転がった。この隙を逃す手はない。

 そのまま接敵し、倒れた彼に追撃の一手を加えようとして。

 

「くっ!」

 

 転がったまま、シャルティエを振るった一撃がフィオレに迫る。

 それを紫電で払い、がら空きの胴に当身を入れようと──

 

「っ!」

 

 ずん、と。重たい衝撃が、胸に突き刺さった。

 ぐ、と込みあがるものが口いっぱいに広がり、抑える間もなく飛び出したそれは真紅の色をしていて。

 固まるフィオレに、リオンが動き出す。

 立ち上がったリオンは、手に持った小剣にそのままちからがこもり

 

「……!」

 

 シャルティエを手放して、小剣を両手で握る少年が眼前にいる。

 その少年に、フィオレは抜き身で握っていた紫電を一閃した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第百十二夜——ついに訪れた終焉~おめでとう。さようなら

 海底洞窟、VSリオン。
 勝負の結果は、双方が相打つものでした。
 しかし、第五十夜にてリオンに渡したものが効果発動:リオンが負った重傷はリバースドールによって肩代わりされます。
 よって、勝者はリオン。
 敗者はただ、地に伏すのみ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、目を開く。

 無手のまま冷たい地面に頬をつけていたリオン・マグナスは、慌てて起き上がった。

 熱いと感じた首に触れるも、何の異常もない。

 どうしてシャルティエを手放してまで寝ていたのか。前後の記憶を探って。

 視界に入ったあるものに目を奪われた。

 

「あ……!」

 

 左胸から小剣を生やし、仰向けにごろん、と転がっている。

 被服の生地を貫いて人体に入り込んだ刃の隙間から、今もじわじわと緋色の雫が滲んでいた。

 

『ぼ、坊ちゃん……』

 

 シャルティエのおずおずとした呼びかけにもまるで反応せず。リオンはそれを、呆けたように見つめていた。

 解けた雪色の髪が、血溜まりに浸って赤く染まっている。

 だらんと投げ出された四肢にはまるで動く気配がない。

 髪がほつれているせいで目元が隠れてしまっているが。倒れているのはまぎれもなく、彼と剣を交わしていたフィオレであった。

 握りしめたその手には、血に濡れた紫電がある。

 淡い色彩の刃には、尋常でないほどの血糊がこびりついており、てらてらと不気味に輝いていた。

 痛いほどの沈黙を破り、リオンは思い出したように声を発している。

 

「……シャル。何が、あったんだ?」

『あ、え、ええっと。坊ちゃん、フィオレをその……刺したのは、覚えていますよね』

「ああ」

『その後、フィオレが坊ちゃんを斬ったんです。ほとんど反射的に、その、首の辺りを……それで坊ちゃん、血を吹き出しながら倒れたんですけど。患部が光ったと思ったら、いつの間にか塞がっていて……』

 

 たどたどしいシャルティエの説明を聞き、リオンは自らのズボンのポケットを探った。

 出てきたのは、いつかフィオレに押し付けられたリバースドールである。

 ただし、人の形をしていた鉱石は原型を留めていない。

 それを見てすべての事情を把握したリオンは、小さく舌打ちをした。

 

「……くそっ」

『坊ちゃん?』

「……人に勝っておきながら、何ですかその舌打ち」

 

 自分以外の肉声、それも聞きなれたその平坦な声に、リオンは竦みあがった。

 慌てて顔を上げ、驚愕に目を見開く。

 その様子からすでに死亡したと思われたフィオレが、寝そべったままリオンを見ていたのだ。

 先ほどまで、まるで力がなかった左手がゆらっと蠢き、眼の辺りにかかっていた髪を払いのける。

 間違いようもなく、藍色の眼はリオンをしっかりと映していた。

 

「な……な……な……!」

「先に聞いておきますけど、心臓を貫いた感覚はおありで?」

 

 まるで力を使い切ったかのように、蠢いた左手はぱたりと額に置かれている。

 巻かれていた包帯に指をひっかけるような仕草をし、包帯を無理やり剥がしにかかっていた。

 そのまま身に着けていた発信機付き額冠(ティアラ)を外すも、致死量の電流は流れない。

 あるいは、流れていても。フィオレにはそれが感知できないのかもしれない。

 実に弱々しい動きだが、その口調だけが本当に普段通りで。それがリオンの警戒を誘った。

 シャルティエを前方へ突き出しつつ、じりじりと近寄ってくる。

 そんな彼を見やって、フィオレは苦笑した。

 

「負けました。強くなりましたね、リオン」

「そんな言葉を、僕がし、信じるとでも……」

「なら、とどめを刺しなさい。それでヒューゴを追っかけるなり何なり……あなたの正義を、貫けばいい」

 

 はぁっ、と大きく、フィオレは息を吐いた。

 胃の奥に熱い何かが溢れるような、胸がむかむかするような、そんな感覚を振り払ってリオンを見る。

 少しでも、覚えておきたかった。自分を殺した、最初で最後の、弟子の顔を。

 ──たとえ、覚えておくことなどできなくても。

 

『フィ、フィオレ……平気、なの?』

「まさか。もうすぐお別れです。さようなら、シャルティエ」

 

 あの約束を果たしたいが、もうそんな余力はない。

 この、妙に蒼白な顔色の少年が覚えていればいいのだが……

 自覚することから逃げていた痛覚が、呼吸をするごとに存在の主張を始める。

 

「……何故戦わなかったんだ」

『坊ちゃん?』

「戦いました、よ?」

「お前、明らかに手を抜いていただろう。僕を無力化するために、動揺させることだけに専念して、挙句不意を突かれて……」

 

 ひどく遠い目──まるでフィオレの容態から目をそらすように話しかける少年に、フィオレは笑みを浮かべざるをえなかった。

 そんなことに気付くほどに、彼は成長しているのだ。

 教えた者として、これほど嬉しいことはあるだろうか。

 

「あなたが守るために戦っているのに、それを力でねじ伏せる気がしなかった。物理的排除ではない、違う方法を選択したから、そんな風に感じたんでしょう」

 

 刻が経つごとに、命の雫は失われていく。

 許容量を越えるその瞬間まで、フィオレは口を動かした。

 

「守るものが、ひとつしかないあなたの考え方は、ちょっと、うらやましかった……いや」

 

 世界と、愛する人の生きる地を存続させるために、最も愛すべき人へ剣を向けたこと。

 どんなに後悔してももう遅い、過ぎ去ったことだと言い聞かせても、心は納得しない。

 しかしもう、そのことを憂う必要はなくなる。

 考えることができなくなるだろうから。

 

「迷うことなく彼女を選べたあなたが、今更ながら妬ましい。あなたがいつか真実を知った時、その憂さを晴らすことにします」

「……真、実?」

 

 すでに痛覚は、無視ができないほどの規模をもってしてフィオレの体を蝕んでいた。

 伴って思考に必要な血液も酸素も、すでに足りていない。

 言いたいことがあるのに、何を言っているのか。フィオレにはもう、把握ができない。

 正確な意味を持った言葉が、紡げない。

 これだけは、これだけはと考えていた言葉が、言えなくなる前に。

 

「おい、フィオレ……」

「さよなら、リオン。おめでとう。私の誇り、私の、可愛、い……」

 

 突き出していたシャルティエを引き、見下ろすリオンの顔が一瞬見えて、急速に消えていく。

 否、目の前が真っ黒に塗りつぶされていく。

 リオンが何かを叫んでいる。

 シャルティエの、何かを叫ぶような声が脳裏に響くも、すでに言葉としての意味を理解できない。

 消えかけていたフィオレの感覚を呼び覚ましたのは、自分の後を辿らせていた空蝉の存在だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 和えかな燐光を放つ蒼い蝶に導かれ、昇降機を降りてたどり着いた地下洞窟をソーディアンマスター達が行く。

 

「こんなところに洞窟が……」

「あの深さからして、すでにここは海中である可能性が高いな。この洞窟が崩れたら、我々は海の藻屑と化すのか……」

 

 ウッドロウの不吉な言葉に、一行は沈黙せざるをえない。

 まるで何かを案じさせるその一言を、ルーティが振り払うかのように言葉を上げた。

 

「だ、だーいじょーぶよ! フィオレと合流できさえすれば、洞窟が崩れたって!」

「そうですわね。フィオレさんと御一緒なら、ドザエモンとやらにならずに済みますわ」

 

 それが何故なのかをもちろんウッドロウは尋ね、スタンが答える。

 以前アクアヴェイル公国に密入国を果たした際のエピソードを話している最中。

 

「……あら?」

「どうしたんだい、フィリア?」

「あの、ちょうちょが……」

 

 それまで問題なく先導を続けていた蝶が、ゆらゆらと揺らめく。

 もとより儚い蝶の姿だったが、それはまるで空気に溶けてしまうかのようにゆっくりと、姿を消した。

 

「ちょっとちょっと。消えちゃったわよ?」

「目的地がすぐそこなのか、それとも……」

「それとも?」

「あの蝶を操っていたであろうフィオレ君に、何かあったか、だ」

 

 それは、先ほどの不吉な発言よりも確実に一行へ衝撃を与えている。

 何も言わずにスタンが脚を早め、一同もそれに続く形で先を急いだ。

 

「スタン! 道、わかるの?」

「わかるわけないだろ! でも、行かない、と……」

 

 そんな折。ふと思い出し、スタンが取り出したのはフィオレから渡された額冠操作盤だった。

 フィオレが操っていた場面を思い出し、起動させて顔を上げる。

 

「……フィオレさん、この近くにいるみたいだ」

 

 いよいよもって、一同に緊張感が帯びる。それ以降、何の会話もなしに進んだ先。

 一同は共通の光景を目にすることとなった。

 雪色の髪を紅く染めたフィオレが、倒れている。

 その脇にはリオンが立っており、彼はその手に剣をふた振り、携えていた。

 一本は、ソーディアン・シャルティエ。もう一本は……懐刀だろうか、細やかな装飾も見事な小剣。

 それは刀身の根元まで(あか)く濡れており、リオンはそれを滑らかな動作でふり払っている。

 双方の剣を鞘へと収め、彼はようやく一同を見た。

 

「お前らか」

「……」

 

 誰一人、何一つ言葉を発しない。

 しかし、凍りついたようなこの沈黙は、すぐに破られることになった。

 

「いやああぁっ! フィオレさんっ!」

 

 絹を裂くようなフィリアの悲鳴に、はっ、とスタンが我に返る。

 その時にはもう、ルーティはアトワイトを片手に駆け出していた。

 

「アトワイト、お願い!」

『ええ!』

 

 即座にアトワイトのコアクリスタルが輝き、癒しの光がフィオレを包み込む。しかし。

 腹を抱えて、横向きにうずくまるような形で倒れ伏した彼女に変化はない。

 抱えた手の隙間からは今も命の雫は失われており、治癒を施したアトワイトがはっ、と息を呑んだ。

 

『こ、これは……』

「ルーティくん!」

 

 アトワイトの驚愕をさておき、ウッドロウの警告が飛ぶ。

 ルーティがふと前方を見やれば、そこにはシャルティエを振りかぶったリオンが迫っていた。

 

「ルーティ!」

「……っぱしょう」

 

 ぼそ、と聞き取りにくい声が、足元から聞こえる。

 かと思うと、ルーティ・カトレットは凄まじい勢いで後方へ跳ね飛ばされた。

 

「きゃあ!?」

「……まだ生きていたのか。ゴキブリ並の生命力だな」

「……」

 

 ルーティのことなぞそっちのけ、リオンは倒れ伏したフィオレに悪態をついた。

 ──すでに彼の顔を見ることすらできない。アトワイトの治癒が気付けになったのか、まだ意識は残っていた。

 ルーティの悲鳴とリオンの悪態から、保有する術技も発動したことがわかる。

 ひゅっ、と鋭利な刃の翻る音がした。

 じゃり、と耳元で地面を踏む音がして、直後スタンの声が洞窟内に響く。

 

「やめろリオン! お前、自分が何してるのかわかってるのか!?」

「……ああ、わかっているさ。お前らより、よほどな!」

 

 風を切る音がして、咄嗟に左腕を持ち上げた。

 その瞬間、腕が奇妙に熱いような、寒いような感覚に包まれる。

 複数の人間が地を駆ける音が響き、それに合わせてか。詠唱がはっきりと聞こえた。

 

『降り注げ岩塊。我が敵と定めし者を、母なる大地へと還さん!』

「プレス!」

 

 見たこともない聞いた事もない晶術につき、

 何がどうなったのかはわからない。

 しかし、追いついてきた一同に大事はなかったようだ。

 

『シャルティエ、貴様!』

『神の眼掠奪に……主の乱心に力を貸すとは、どういう了見じゃ!』

『何とか言ったらどうなの!?』

『……どうして、来ちゃったのさ』

 

 ディムロスの怒声に、クレメンテの詰問に、アトワイトの剣幕になんら応じることなく。

 シャルティエは誰に向けるでもない、自問を呟いた。

 

『その様子だと、フィオレを追ってきたみたいだけど。何でフィオレ、ここまで追ってこれたんだろう』

「守護者の力を用いて、と言っていたな。君たちがしたことは、すでにセインガルド国王の耳にも入っている。観念するんだ」

『観念……ね。するのはそっちの方だよ。もう僕らの力ではどうにもならない』

 

 言われるまでもない、諦観の念をシャルティエの言葉から伺い知り。

 事情がまったくわからない一同が混乱を示す中、リオンは淡々と種明かしを始めた。

 

「お前らはヒューゴに利用されていたんだよ。グレバムから神の眼を奪う、すべては計画通りだ」

「計画って……リオン、知ってて俺たちを騙したのか!?」

『裏切り者が。ソーディアンが神の眼の悪用を看過するなど!』

 

 激しい非難もどこ吹く風。

 リオンに一切の動揺はない。

 大切な何かを置き去りにしてしまったように、その瞳は空虚そのものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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最終夜【——紫電は返すよ、スタンがね。だから、追いかけてこないで】

 海底洞窟にて、訣別。
 リオンとの約束は、第六十一夜で交わしたもの。
 タイトルは、第九十夜に関連したジョニー宛のメッセージ。

 ルーティはここでようやく、リオンは自分の弟であること、ヒューゴが自分の父親であることを明かされます。
 アトワイトがルーティに事実を語っていたら、また何か違っていたのでしょうか。
 とはいえこの時点で、アトワイトがどれだけ事の次第を知っていたのかは、彼女のみぞ知ることですが。

 もしも、何かが違っていたとしたら。
 彼らは、己の運命を、打破することができたのでしょうか。
 そんな可能性も、彼の最期の言葉すらも、そして『swordian saga』も。
 押し流されて、お仕舞いです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 遠距離攻撃──晶術対策か、フィオレの手当てをさせないためか、あるいは何の他意もないことなのか。

 先へ続く階段脇に倒れたフィオレのすぐ傍に、リオンは立っている。

 対峙する一同はすぐにでも仕掛けられるよう固まっているが、誰一人として晶術を使おうとはしない。

 ウッドロウでさえも、流れ矢を恐れてか、弓は背中に背負ったままだ。

 そこへ。

 

「待って、リオンさん。あなたこそヒューゴに利用されているのではなくて?」

「その通りだ」

 

 どうにか話し合いで解決しようと口を挟んだフィリアの問いに対して、彼は揺るぎなき肯定を示した。

 唖然とする一同を前に、彼はただ淡々と言葉を紡いでいく。

 

「ヒューゴにとっては僕でさえ、使い捨ての駒のひとつに過ぎない」

「そんな……」

「信じらんない。そこまでわかっていて、なんであんな奴の味方につく訳? 馬鹿じゃないの」

 

 途端に黙り込むリオンに、わかっていてやっているわけではないだろうが、ルーティはいつもの調子で噛み付いている。

 しかし、それはすぐに黙らせられることとなった。

 

「……捨てられたお前には、わかるまい。大切な人を守るために、あんな奴なんかに媚をへつらう人間の気持ちなどな!」

「なんですって!」

 

 その表情に怒りを浮かべるルーティに、ウッドロウは何かの比喩だとでも思ったのだろうか。挑発に乗るなといさめている。

 しかし、孤児であることを盛大にバラされたルーティは、つかつかとリオンへ歩み寄った。

 

「フィオレをこんな目に合わせて、大切な人を守るですって? そんなに守ってやりたきゃその人と手と手を取り合って、どっかに消えちゃいなさいよっ!」

「お前がヒスを起こす時は、図星をつかれて耳が痛い時……か。捨てられたことをバラされて、お姉さまは御立腹のようだな」

「……はぁ? 何のことよ」

 

 奇妙な物言いに、ルーティの気勢はものの見事に殺がれている。

 その隙を縫うように、リオンは彼の、知りうる限りの事実を告げた。

 

「当初ヒューゴに殺害を命じられたものの、母親に託されたアトワイトと共にクレスタの孤児院に預けられたのがお前なんだよ、ルーティ」

「!?」

 

 おそらくは独力だろう、よくぞここまで調べ上げたものだ。

 このような形で事実を伝えられ、ルーティは困惑を隠さず言葉を募った。

 

「何を勝手なこと、そんなことあんたが知ってるわけが……」

「僕はヒューゴの息子だ。母クリス・カトレットの間にできた最初の娘。それがお前なんだよ、ルーティ!」

「!?」

 

 ルーティが、ヒューゴの娘であること。

 リオンは、ルーティの弟であること。

 判明した事実を前に、今度こそルーティは言葉をなくしている。

 やがてその目は、弱々しくアトワイトに向けられた。

 

「あ、アトワイト……」

『でっ、でたらめを言わないで! ルーティ、耳を貸しちゃ駄目よ!』

「ルーティには話していなかったか。薄情だな」

 

 アトワイトはどうにか否定しているものの、声音からしてそれが事実であることは、誰の耳にも明らかだった。

 シャルティエを携えたままのリオンが、ルーティに歩み寄る。

 気圧されたように一歩、後退ったルーティを見て、リオンはやはり淡々と言った。

 

「さて、優しいお姉さん……それでも僕を、殺せるかい?」

「…………」

 

 蒼白になった顔色で、ただリオンを見据えるしかできないルーティを、リオンもまた見返す。

 もはや戦うどころではないルーティをその背にかばったのは、すでにディムロスを抜いたスタンだった。

 

「やめろリオン! それ以上……それ以上、何も言うな!」

「騎士気取りか。格好いいね」

 

 鼻で嘲笑い、スタンの怒りを煽り。

 シャルティエを構えたリオンの気を引いたのは、口を挟むどころではなかったフィリアだった。

 

「リオンさん! その挑発、フィオレさんの手法を真似たものでしょう! これまでにもあなたに様々なものを授けたフィオレさんを傷つけて、お姉さまであるルーティさんさえも傷つけて! あなたは何を望むと言うのですか!」

「……よくわかっているじゃないか」

 

 すでに、道中を共にした一同を敵として認識しているのだろう。

 冷徹な目でフィリアを見やり、そして彼はフィオレを見下ろした。

 

「だがカルバレイス神殿で、こいつも言っていただろう。自分を守るために相手を殺す。それは誰かを守るために誰かを殺すことと、一体何が違うんだ?」

「……!」

 

 リオンがフィリアを絶句させている隙に、スタンは無理やりルーティを移動させている。

 リオンが動いたことをいいことに、彼はフィオレのそばへとやってきた。

 彼女はただされるがまま、リオンに目を張りつけたまま沈黙している。

 

「俺たちのことはいいから、フィオレさんを頼む」

『あ……』

 

 何かを言いかけるアトワイトの言葉も聞かず、スタンは再び一同のもとへと戻った。

 呆けていたルーティが、血塗れのフィオレを前に正気を取り戻す。

 しかし、その後のアトワイトからの言葉を聞いて、再び硬直せざるをえなかった。

 そんな中、話し合いで解決する余地はどんどんなくなっていく。

 

「僕は殺せる。大切な人を守るためなら、たとえ親でも兄弟でも、だ!」

「リオン! 俺が相手だ!」

 

 一同の中で最も厄介だと思ったのが、クレメンテによる晶術だと考えたのだろう。

 まずフィリアに対して剣を振るうも、それはスタンによって阻まれた。

 

「ス、スタンさん……」

「もしもの時は私がフォローに回ろう。君は二人のところへ」

 

 ウッドロウに促され、フィリアもまた二人の下へ駆け寄る。

 しかし、予想とは大分違うその状態に彼女は目をむいた。

 

「ルーティさん、どうして晶術をお使いにならないのです!? お気持ちは察しますが、早くフィオレさんの治療を「……ないのよ」

 

 アトワイトを握りしめたまま、ルーティが掠れた声を発する。

 尋ね返したフィリアが聞いたのは、これまで味わったこともない絶望だった。

 

「効かないの! 効果がないのよ! まだフィオレは生きてるのに、治癒晶術が反応しないくらい衰弱してる! もう、手遅れだって、アトワイトは……!」

「そ、そんな!」

『……納得してちょうだい。晶術は奇跡じゃない。人の体に働きかけて傷を癒す以上、その体が反応してくれないのでは手の施しようがないの……』

 

 破れた袋に空気を詰め込めないように、穴が空いた花瓶に水を注げないように。

 もはや二人にできることなど、氷のように冷たくなっていくその手を握るくらいだった。

 フィリアが左手を取ろうとして、僅かに動いたそれに逃げられる。

 

「フィ、フィオレさん?」

「……その声、フィリアですか。今、何がどうなっています?」

 

 目蓋が開くも、その瞳に光はない。

 苦しげな息の下、しゃべるなと抑制されても同じ質問を繰り返すフィオレに、フィリアは剣戟を奏でる二人を見た。

 

「今は、スタンさんがリオンさんと……」

「交戦中、ですか。ところで、ルーティはいますか?」

「ちょっと、あたしならここに……」

 

 伸ばされた手が、ルーティに目がけて伸びるもただひたすら空気を掴んでいる。

 眼が見えているならありえないその仕草に、ルーティは自分に伸ばされた手を取った。

 

「……あたしなら、ここにいるわよ」

「それは失礼。この手を、アトワイトのコアクリスタルに触れさせてほしいんです」

 

 その言葉に、ルーティは何故かと尋ね返すも、違う手がフィオレの手をアトワイトへと誘導させる。

 ルーティが驚いたような、そんな気配が伝わってきた。

 

「フィリア?」

「晶術が駄目ならば、隻眼の歌姫が使う余韻の奇跡がありますわ! 守護者の力を借りての、あの歌なら──!」

「命よ、健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」

 

 譜歌を使うには、最低でも喉が無事でなければいけない。

 以前は腹式呼吸ができないから、と弱音を吐いたも、意識がはっきりしている今を逃して好機はない。

 ハラワタに溜まっているであろう血液が、時折喉元までせり上がってくる。

 それを幾度も飲み下し譜歌を奏でれば、徐々に遠のいていた意識に歯止めがかかった。

 が。一度見えた死神は、獲物を逃す気などさらさらないらしい。

 

「フィオレさん! ああ、よかっ──「ごめんなさい、フィリア。先にお別れを告げておきます。ルーティも、元気で」

 

 譜歌をもってしても、一度失われた機能は二度と回復しなかった。

 痛覚こそ大分和らいでいるが、失血は止まらず視界も黒く塗りつぶされたまま。

 多少だが、動くことはできる。ただし、僅かに死期が延びた程度だろう。

 自分の体のこと、それくらいはわかっていた。

 ただ、叶うなら彼に勝利を。

 ふぅっと息をつき。フィオレは、可能な限りの銅鑼声を張り上げた。

 

「スタン! その馬鹿に、あなたの正義を示してください!」

「フィオレさん……! はい!」

 

 歯を食いしばって起き上がり、剣戟の聞こえる方面へ顔を向ける。

 いくらなんでも戦闘中に余所見はしないだろうとの予想の元、声を張り上げれば、彼の力強い返事がたしかに聞こえた。

 直後。

 

「隙あり! 獅子戦吼!」

「ぐはっ……!」

 

 目論見通り、フィオレの声はリオンの集中力を乱したのだろう。

 スタンによる、フィオレから「盗んだ」技に細い体が壁へと激突した。

 今しがたの交戦による細かな負傷と、それまでフィオレと戦っていた疲労が噴出したのだろう。

 リオンは即座に立ち上がるも、足元がふらついている。

 無論、スタンもまた生傷だらけなのだが。

 

「まだだ……まだ、終わりじゃない」

 

 シャルティエを振りかざしての牽制を続けながら、リオンは先へ進む唯一の道たる、階段を身体で塞いだ。

 

「もうよせ、リオン」

「後を追わせるわけには、いかないんだ……」

 

 弱々しいリオンの声音に、スタンが戸惑っていることがはっきりと伝わってくる。

 階段を一歩一歩昇る、その音を聞きながらフィオレはその場にうずくまった。

 

「フィオレさん!?」

 

 スタンの声が終わるよりも早く。洞窟全体が、震えだす。

 誰もが恐れおののく中で、リオンの嘲笑だけが小さく響いた。

 

「くっくっく、始まったな。僕の勝ちだ……」

「どういう意味だ」

「終末の時計は動き出した。もう誰にも止められない」

 

 これはおそらく、ヒューゴの計画が本格的に始動した、という意味なのだろうか。

 階段上でせせら笑うリオンをさておき、ソーディアン達がいち早くマスター達に危機を知らせる。

 

『いかん、崩れるぞ』

『逃げるんじゃ!』

「……スタン」

 

 それまで右手と左手をごそごそ動かしていたフィオレが、やっと目当てのものを見つけてスタンを呼ぶ。

 フィオレがほとんど手探りで行っていたこと。それは紫電の刀身を鞘に収め、鞘を剣帯から外すことだった。

 それまで一切しなかったのに、水の気配が……海水の匂いが強く感じられる。

 ここか崩れるより前に、他ならぬ彼へ頼みがあったのだ。

 

「どうしたんですか。立てないなら俺が背負って……」

「……ジョニーに渡してほしいんです。これだけは返すと、約束してしまいましたから」

 

 スタンの鎧の一部に触れ、一方的に紫電を押し付ける。

 このためだけに、フィオレは今の今までどうにか呼吸を続けてきたのだが。

 当然のこと、彼は嫌がった。

 

「こんな時に何言ってるんですか! 嫌ですよ俺は、そんなの自分で……「──二人とも、元気で」

 

 手探りでフィリアの肩を掴んだフィオレが、彼女もろとも思い切り二人を突き飛ばす。

 直後。

 大小様々な岩塊が彼女に降り注ぎ、あっという間にその姿がなくなった。

 その存在の残滓は、スタンの手にある紫電のみ。

 

「え?」

 

 フィオレが、岩礫に潰された。

 それを彼が理解するより早く。

 崩れた天井から、そして階段上から、ありとあらゆる場所から、濁流がなだれ込んだ。

 海水は濁流として、ありとあらゆるものを押し流していく。

 

「ふふ……さよなら、マリアン……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 スタン「俺達の冒険は、これからだ!」

【D】END~リオンと一緒

 はい。
 何処からどう見ても立派なBadエンドです。
 ルート「D」はdieの「D」
「A」「B」「C」ルートは存在しません。
 この後スタン達は、二人の死を乗り越えて。無事ヒューゴ(ガワ部分)に制裁を下し、神の眼を破壊してくれます。
 この後の物語は、原作同様進行されることでしょう。
 そして、18年後へ……

 そんなわけでして。
 フィオレを主人公とする『swordian saga』主人公死亡により、これにて終了となります。
 長きに渡るご愛読、ありがとうございました。
 莢の次回作をよろしくお願いします。

 







※あとがき

 なんだなんだこの不完全燃焼っぷり。
 でもこうしないと、デスティニー2にうまく繋げられないのですよね。
 デスティニー全編冒険してから、フィオレには18年程この世界で暮らしてもらって、それからデスティニー2に参戦……ってーのも考えましたよ。
 でもね。
 いや無理だろ。
 フィオレ今27歳で、18年後は45歳なのに? 
 16~20代前半の若者達と冒険するには、きびしいお年頃。
 歴代テイルズでもこのくらいの人達がいないわけではないけれど、それでも事情が違いすぎる。
 そもそも、フィオレだったら神の眼が破壊される直前にこっそり「おうちかえして!(意訳)」で、この世界にはもうイナス。きっとイナス。
 デスティニー2、フィオレ不在で始まってしまう……途中参加の展開も考えましたが、なんだかなあ。

 そんなわけで、このような結末と相成りました。
 賛否あるかもしれませんし、無いかもしれませんが、受け止めて前へ進みましょう。
 来月より新シリーズ『swordian saga second』始まります!(宣伝)
 よろしければ、お付き合いくださいませ!


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