恋人未満な九歳差 (黒マメファナ)
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言えない関係

 接客業は、己を売る戦いだと感じる。

 営業もそうなのかもしれないが、俺はその世界に身を置いていない以上、接客業にそんな印象を抱いて仕方がない。

 作り笑いを浮かべて、毎日毎日、そんな接客とバイトどもを纏めるための店長業務も並行してやらなきゃならんのだから、本当に参る。それでいながらそんな作業をできる人員は五人もいやしないんだから、嫌になって突然辞めだすのも無理はないよな。

 

「はぁ……」

 

 ──いや辞めんな。俺が困るっつーの。ばーかばーかと一言くらい文句を言ってやりたい。同エリアとはいえ別店舗だ。そんなこと言えやしないけど。

 ともあれおかげで店長がいなくなって俺はデスマーチ状態。割とホワイトだからとバイトに言いくるめていたのに一転ブラックに早変わり。もうこの店いっそ不思議なことが起こって黒い太陽に焼かれて燃えねーかな。

 

「はぁ……」

 

 当たり前のように溜息は漏れる。そりゃ話し相手がいないんだから独り言ってのもまぁ虚しいし、鼻歌か幸せを逃がすかのどっちかくらい。ひどい世の中だ。こんだけ働いても、俺の給料はあがりゃしない。そりゃそれなりに稼いでるけどな。

 

宮坂(みやさか)さーん。納品来ましたよー」

「わかった、今行く」

 

 事務所のパソコンで事務作業をしているところに、ひょっこりと黒髪をボブに切りそろえたバイトが俺を呼んだ。彼女は奥沢美咲、ウチのバイトの中でも若い方で、そして高校生にしてはそれなりにちゃんと働いてくれるヤツ。そう、奥沢は真面目で、店長代理をやらされてる俺を何かと助けてくれる、気の回るヤツだ。

 

「ホントに今日はラストまでじゃなくていいんですか?」

「お前高校生だろーが」

「はぁ、いっつも別でつけてもらってなんだかんだでいますけどね」

 

 そんなの知ってる。知ってて、たまには高校生らしく十時より前に帰れっつってんの。今日は他にもいるし、悔しいことにそんなに忙しいわけじゃないんだから。

 十時閉店のウチで高校生を十時過ぎに退勤させたなんてバレたらマジで問題なんだからな。

 

「それじゃあ、あたし、今日は九時半で帰りますんで」

「おう」

「……あのさ」

 

 彼女が何かを言いかけたところで、恰幅のいい運送のお兄さん……もう四十代だけど、お兄さんがお疲れさん、と元気に挨拶をしてくれる。

 ──今日も多そうだな。嫌になる。

 それと同時にレジヘルプの業務連絡が重なり、彼女は俺に何かを言うわけでもなく、バックヤードから出ていった。

 

「どうした! 元気ないぞ元気!」

「……まぁ、最近連勤っスから」

「店長さん、二店舗掛け持ちなんだろう?」

「ええ、そうなんです……こっちにはほとんど来ないんですけど」

 

 大変なのはあのヒトの方なんだけどな。でもあのヒトは超が三つくらいつくやり手だ。そもそも元々の経歴も、いくら大卒歴が俺の方がいいっつっても入って四年目のペーペーに比べること自体が間違ってるんだろうが、本部勤めの経験もあって、今は人員不足のココのエリアに降りてきてるだけ。そんなヒトに任せたと言ってもらえるんだから俺は頑張れてるようなもんだ。

 

「頑張れよ、宮坂さん」

「ありがとうございます」

 

 受領のサインを終え、事務作業詰めの鬱屈した気分を晴らすために伸びをしてからバックヤードから店内へと出ていく。

 すると白髪の爺さんにちょっとと呼び止められ、商品案内を頼まれた。

 ──まだバイトだった頃は、これが割と好きだったんだよな。客の話を聞いて、案内して、ありがとうと言ってもらい頭を下げる。そうしたら時々、また来てくれて俺に挨拶をしてくれる、なんてこともあったりして、そんな客の話を聞きながら笑う。楽しかった。社員になりゃ、もっとそれが多く繋がれるって思って就職したのに、俺の心は妙にカラカラだ。

 ヒトは空腹は何日か耐えられるが、渇きは何日もやってられない。急速に死に近づいていく。

 

「はぁ……」

 

 客に聴かれないようにそっと、俺はまた溜息を吐き出した。現実ってのはやっぱり、理想よりもはるかに色の滲んだものなんだなーってのは、大人になった証拠なのか。

 もう俺には理想が重すぎるほど、弱っちまってるのかな。そんなことを考え、俺は彼女の背を見つけた。

 

「納品、した方がいいよね」

「頼む」

「りょーかい」

 

 ──そんなこんなでなんとか最後まで耐え抜き午後十時を過ぎ、俺は店の鍵閉めをする。これで業務は終わりで、大学生のバイトとパートの男にお疲れ様です、と別れを告げる。ま、何人かは明日も会うんだけどな。と苦笑いをしながら電車に乗り込みほんの二駅、ほんの数分の間だけ立ったまま目を閉じて、俺は自分のマンションへと帰宅した。

 

「ただいま」

 

 自分の家のドアを開けると、おかえりと柔らかな声がした。一時間半前に見た黒のボブカット、髪留めはもうつけてないけど、俺はソイツの笑顔に水を注がれたような気分になった。

 シチューできたけど、先にお風呂にする? というあどけなく聞いてくる彼女に、俺は精一杯の笑顔で応えた。

 

「ありがとな、美咲」

「なに、急に」

「疲れたから、言いたくなるんだよ」

 

 なにそれ、と美咲はあきれ顔をする。こんな風だが、俺と美咲は別に恋人じゃない。流石に九歳離れた女子高生に手を出すほど落ちぶれちゃいない。ひょんなことがあって、俺は美咲に助けられて、美咲も俺に助けられた。だから、切れない縁になってこうして新婚ごっこを続けてるだけ。

 美咲の親御さんは美咲を大層信頼してる。だから男の家にこうしてメシを作って、あまつさえ泊まっているとしても、間違いがなきゃいい、美咲が泣いちまうことがなけりゃいいってスタンスを取ってる。それでバイト先まで受けてってのはやりすぎだと思うんだけどな。

 

「なに? あたしにムラっときたとかやめてよ?」

「ねーわ」

「ホントかなー?」

「ねーって、ガキに欲情するかよ」

 

 せめてもうちっと色っぽくなってからにしやがれと俺は美咲が用意してくれたシチューをスプーンで掬って、よく煮込まれた野菜を咀嚼する。柔らかくて、温かくて、なんつーかほっとする味だ。こんなん女子高生が出せていい味じゃねーよ。

 

「どう?」

「結婚したいくらいの味だな」

「……ばーか」

 

 お前バカバカ言い過ぎだからな。おかげで俺もふとした時に思わず口から出そうになるんだからやめろよな、ばーか! 

 冗談とはいえ二十代ももう後半になる俺が18歳未満に結婚したいは犯罪な気がするけど世の中の目は俺の家の中にまで行き届いているわけがなく、美咲が怒るだけで処理されていく。

 

「あ、そうだ。明後日休みだよね」

「そうだな」

 

 休みじゃなかったら連勤が十を超えるのでどうか休みであってほしい。ブラックに手を染めるなよ。

 美咲はそこでもしよかったらなんだけど、と前置きを置いた。別に俺は休みに出掛けるタイプだから遠慮はするなよとは思うんだけどな。

 

「暇だったらさ、ハロハピのライブ、来ない?」

「ハロハピ……美咲が着ぐるみやってる?」

「うん」

 

 掛け持ち先のキグルミバイト。いやまぁウチがサブなんだけど。そこで出会ったお嬢様となんやかんやあって今はそのミッシェルとかいうキグルミでバンドを組んでDJをしているらしい。バンドでDJってなんとなくイメージないんだけど、それは俺がバンド知識ないだけか? 

 確かに、俺はこれまで話で聞いてきたけど実際に見たことはなかった。そして興味がないわけじゃない。こうして俺を助けてくれる美咲が大切にしているものを、知りたいってのもある。

 

「ん、わかった」

「あ、ありがと……み、み……」

「ん?」

「み、宮坂さん……」

「おう?」

 

 なんでもごもごさせてんのか知らないけど、こっちこそゴロゴロ一日を過ごすって性に合わないから助かる、ありがとって言いたいくらいだ。

 春風吹く、学生は春休みという時期。美咲が高校二年生になった年、俺と美咲の環境は激変する。

 美咲が巻き込まれるものに巻き込まれ、美咲が見るものを一緒に見て、美咲と一緒に成長する。それまで俺を助けてくれるだけだった彼女が、さまざまなものが合わさっていく。

 

「で、どっちが先にお風呂入る?」

「美咲でいいよ」

「……何もしない?」

「何をする余地があったんだそこに」

「覗くとか、お風呂飲むとか」

「そんなこと思いつくとか……さては変態かお前」

「──っ、ばーか!」

 

 今はただ、こうしてじゃれあうだけだけどな。

 これがまた何かと楽しいから困る。性的対象じゃないからこそ、こうやって軽口が叩けてかつ年下だからこうして笑えるのかな、なんて思いながらただ俺は美咲がくれる幸福が多すぎて、溜息がでた。

 

 

 

 



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呼べない名前

 自慢じゃないが、いや本当に自慢にもなんにもならないが、俺と美咲の関係は簡単にヒトに話せるようなものじゃないと考えてる。

 端的に言うとやましい。そりゃあやましい。いくら俺が興味がないと言っても男女、それも()()()()()()ができる男女だ。それが一つ屋根の下で一夜を明かすんだ。ロリコンだ性犯罪者だ言われても否定はできない。だからって言われるとキレそうなんだがな。

 

「あ、おはよ、み、宮坂さん」

「おはよう美咲」

「う、うん……」

 

 でもまぁエプロン姿の美人に朝起きておはようと言われる朝は素敵だ。これでメシが美味いってんだからもっと素敵だ。あと四つ年が近かったらなんと言われようと手を出していた気がする。というか結婚してくれって言いたい。結婚して。

 

「……ばーか」

「ん?」

「口に出てる……恥ずかしいなぁもう」

 

 なんと心の声が漏れ出てたらしい。でも残念ながら女子高生に手を出すほど俺は落ちぶれちゃいないので冗談だよと注釈をしておく。

 俺の朝は本来パン派なんだけど、美咲はいつも白米を炊いて、みそ汁。なんでと問いかけたらあたしもいつもパンだから、とか言い出した。じゃあパンでよくない? 

 

「あたしが作りたくて作ってるんだから文句言わないでよ」

「いや文句はねーけど、大変だろ」

「別に」

 

 とのことなのでもう何も言わない。美味しいし、美咲が手間じゃないって言うなら俺は美咲がこうして泊まるようになって充実する朝に文句があろうはずはなかった。

 コトン、と机の上にみそ汁のお椀と白米の乗せられた茶碗が置かれた。あとは今日は気分で卵焼き、と言われた。

 

「大根おろしある?」

「……大根おろしで食べるの? それはだし巻き卵じゃない?」

「いいんだよ俺が好きだから」

「オッサンくさ……」

 

 うわ傷つく一言。もうオッサンだなんて思いたくもないんだよコッチはさ。とにかく俺は大根おろしと大根おろしで食べる秋刀魚好きなの、時期じゃないけど。というかパン派とか言いつつ俺は和食派だって美咲も知ってるだろうが。

 

「知ってる……だから……」

「ん?」

「……なんでもない、ばか」

 

 またバカって言いやがる。お前は一日に何回俺を貶せば気が済むんだばーかばーか。

 と、言いたいところだがごはん作らないと拗ねられては困るので心の中にしまっておく。美味しい。

 

「今日もありがとう、ごちそうさま」

「ん……おそまつさま」

 

 ダウナー雰囲気バリバリのクセに、こうやって律儀で頑張り屋な美咲は、俺がありがとう、と言う度に嬉しそうに口許が緩む。化粧っ気の薄い、というかすっぴんなのに肌はツヤがあって白くて、なによりそんなあどけない笑顔を浮かべる奥沢美咲という存在が、ギリギリアウトな職場環境でもなんとか生きていける支えだった。

 

「さて、元気出たし、早めに出勤してくるわ」

「回らなかったらあたしも行くからね」

「本番前の最終調整があるヤツが言うセリフじゃねーな」

「でも、夕方には終わるから……だから」

 

 そんな心配しなくても、別に死んだりはしねーっての。今日は土曜で大変なのは大変だが、その分ヒトもいるしな。昨日の納品も、美咲が大分片付けてくれたおかげでなんとかなりそうだし、俺はマジで美咲に頼り切ってるな。

 

「そんじゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 

 ──行ってらっしゃい。そう言ってもらえるだけでこんなに心軽く家を出られるなんて思わなかった。充実した朝ごはんがこんなにも俺の活力になるだなんて思わなかった。嫁がいるヤツらはこんなに充実した生活を送ってんのか、なんて冒涜的なことまで考えてしまう。

 満員電車も今日は平気だな! 

 

「──うげ」

 

 やっぱ無理、日本の満員電車最悪、いや海外の電車乗ったことねーけど! オッサンの匂いとかコロンのキツい匂いとかマジで無理! うわお前絶対カレーチェーン店でカレー食ったろ! 出勤前にカレーとか何考えてんだばーか! 

 ──結局、美咲に貰った活力は満員電車でほぼ使い果たしましたとさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食器を洗って、掃除を軽く済ませて、ほっと一息をつく間もなく、あたしは支度を始めた。今日は本番直前の確認。いくらウチがアドリブが多いと言ってもその辺はしっかりしなきゃっていうあたしの提案をちゃんと聞き入れてくれるのはほんとーに助かる。三バカの二人、薫さんもはぐみも、本番前の心構え、みたいなのはちゃんとしてるからね。

 

「戸締りよし……っと」

 

 あのヒトから貰った合鍵できちんと施錠して、あたしはリュックサックの肩の位置を直す。思わず一人でも行ってきます、と言ってしまいそうなこの部屋は、あたしのものじゃない。

 でもあたしの部屋みたいな優しさがある。それはきっと幹人(みきと)さんのおかげだ。

 ──宮坂幹人さん。あたしより十くらい……って言うといつも九、って訂正してくるくらいの歳の差がある、お兄さん。あたしがバイトを掛け持ちすることになった直接の原因のヒト。自分から望んで、だけど。

 

「はぁ……今日も呼べなかった」

 

 最近じゃ幹人さんって呼ぼうと頑張ってるんだけど、恥ずかしくなって、前の呼び方の宮坂さんって呼んじゃう。バイト中はそっちのが都合がいいからいいけど、一緒の部屋にいて、まるで夫婦……うん、夫婦みたいな感じなのに苗字で呼ぶのはなんだか嫌で。

 

「ごめんね~、ちょっと遅くなって」

「ミッシェル!」

「ううん時間ピッタリだよ、ミッシェル!」

 

 いつも見上げるくらいの豪邸……こころの、弦巻こころの家に着いてまずは着替え、黒服さんに手伝ってもらいながら早着替えを果たしたあたしは、ピンク色のクマ、ミッシェルとなって四人の前に躍り出た。なんとこの四人のうち、あたしとミッシェルが同一人物で、ミッシェルがクマのキグルミだってわかってるのが水色のふわっとしたサイドテールを揺らしてほんわか笑ってる松原花音さんだけなんだよねぇ……ホント、気付いてほしいような、そうでもないような。

 

「今日は最後の確認、ですよね、花音さん」

「う、うん……一回通して、プログラムを見直すくらい、だよ」

 

 よかったよかった。これなら幹人さんの様子を見に行けそうだ。そんな安堵をしているとこころが抱き着いてきた。

 いつもいつも、こころは楽しそうに笑う。笑顔をみんなに、世界中に届けようだなんて無茶苦茶な目標に向かって。こころはそんなヤツだ。まるで太陽と一緒に生まれてきたみたいな金色の髪と金色の瞳を輝かせて、あたしと全然変わらない小柄な身体を大きく動かして、バンドのリーダーとしてマイクを握る。

 

「今日も練習、楽しみましょうね、ミッシェル!」

「……うん、やろう、こころ」

「ええ!」

 

 ──うん、まぁ歌ってる最中に楽しくなって身体が勝手に動き出すのはどうにかしてほしいかな! 下にマット敷いてるわけでもないのにバク転とかしないでもらえるかな、ヒヤヒヤするんだけど! 

 思いっきりの良さがこころの良さ。でもまぁ、盛り上がるからよしとしちゃう自分は、もうだいぶハロハピに染まってるんだなぁとしみじみ感じてしまった。明日が楽しみになってるしね。

 

「──って、あ! 時間!」

「ふえぇ……?」

「どうしたんだいミッシェル?」

 

 夢中になりすぎて気付けばとっくに夜になってた。ああもうやばい、お店、夜のピーク始まってるよ!

 スマホも着替えと一緒に置いてきてしまったため向こうがどういう状況かもわからないままだ。ヤバいって、これでもしあたしにヘルプかかってたらどうしよう。

 

「時間? ミッシェルもしかして、もう帰らなくちゃいけないの?」

「え、あー、うん! 実はさ~、帰らなくちゃいけなくて」

「それは大変ね! それじゃあまた明日ね、ミッシェル!」

「う、うん……!」

 

 黒服さんに手伝ってもらって、またもや早着替え、スマホを確認すると連絡は来てない。けど、()()()()()()()()()()()。余裕だったら幹人さんは大丈夫だから心配しなくていいってメッセージをくれる。ヘルプを飛ばしてきたことなんて急な休みが入った時だけだ。だからあたしはいつも、メッセージが来てないことを確認してヘルプに行く。

 

「奥沢様。お困りでしたら我々が送りましょうか」

「ほ、ホントですか? お願いしますっ! い、家じゃなくて、ここから二駅先の──」

 

 そう言って住所を示す。黒服さんたちはかしこまりました。と黒塗りのツヤのある高級車を走らせてくれた。静かな駆動音がして、あたしは腕時計を見た。午後七時過ぎ、焦りが溢れてくる。メッセージを送ったけど、反応はない。接客してるのかな。ほんの十数分のことなのに、とても長く感じた。

 

「ありがとうございます!」

「お気をつけて」

「はい!」

 

 頭を下げた黒服さんを見送りながら、賑やかな店内へと入っていく。そうすると偶々納品をしていたバイトの先輩が奥沢さんと驚いた顔をした。

 きっと、あたしがあんまりにも切羽詰まった顔をしてたから。

 

「宮坂さんは……?」

「え、あ……たぶん接客中」

「ありがとうございます……忙しいですか?」

「うーん、ちょっとね」

 

 さっきまでレジ開けてたんだよ~とのんびり笑う小柄な大学生の先輩にそうですか、と告げて幹人さんを探して、ちょうど接客が終わったところを見つけてあたしは、小走りになって彼の袖を引っ張った。

 

「みさ……あ、お、奥沢?」

「どーも……状況は?」

「お前な……」

 

 露骨にそんなこと心配するなって顔であたしを見下ろしてくる。お生憎様、そんな強がりじゃなくてあたしが知りたいのはあんたの本音だっての。ちょっといいですか、とあたしは強引に幹人さんを事務所へと連れ込んだ。

 

「人手」

「は?」

「足りてないんでしょ、どーせ」

「……まだ大丈夫だっての」

「他のヒトはね、あんたは?」

 

 いつも家にいる時のような口調で、幹人さんに詰め寄る。やや斜め左に視線が動き、大丈夫に決まってんだろと言い出した。はいアウト。忙しくてなんかできてない時の顔だからそれ。ほんっと、ばかなんだから。ばーか。

 

「そんな人事動かせねーって」

「じゃあご飯奢ってよ、それでいいから」

「足りてねーだろ」

 

 七時半から十時まで、二時間半、確かに時給換算したらブラックもいいとこの違法労働になるだろうけど、別にあたしのことは気にしないでって言ってんじゃん。

 ──あたしが好きでやってるんだから。

 

「納品と? 他は大丈夫?」

「……人の話聞けよ」

「はぁ……とりあえず他のヒトに訊く」

 

 一応タイムカードは切っておく。まったく、こんなの初めてじゃないんだから、バイトのヒトもフリーターのヒトも、またかくらいな気分で見てるんだよね。宮坂さんとあたしの噂なんて流れないはずない。けどあたしは全然、これっぽっちも気にしてないし、なんならそう思われるのが……ちょっと、嬉しいし。

 

「集中集中……おはよーございまーす」

「奥沢さん? ああ、今日もありがとね」

「いえいえ、ヘルプが必要なとこあります?」

「あ、えっとね僕が八時からレジなんだけど、ちょっと納品が滞ってて」

「わかりました、引き継ぎますね」

「ありがとう」

 

 二時間、九時半までで一旦タイムカードを切って、あたしはそこから宮坂さんの事務作業の手伝いをした。

 ぶつぶつと明日本番なのに、だとか言ってたけど無視しておく。これはあたしが笑顔になるために必要だから、いーの。あたしがやりたくてやってることにケチをつけられる謂れはどこにもないから。あたしは、幹人さんを助けたいだけだから。

 

 

 

 



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返しきれない恩義

 結局また、美咲のヤツに助けられた。納品だけじゃなくて事務作業とか売り上げ計算まで、何から何まで頼りになった。つかどこでそんなスキル身につけたんだよってくらい計算も早いし、事務作業も早い。コイツ経理の事務員になれんじゃねーのと本気で思った。

 

「帰ろー」

「は、お前今日は家に帰れよ」

「やだよ」

 

 同じ電車の、けど違う車両に乗り込んで、同じ最寄り駅で降りる。明日はライブ本番だってのに、美咲のやつは俺の隣に来て合鍵を取り出した。お前んちじゃないんだけど。そして夜飯はコンビニで済ませようと思ってたのに、美咲はばーかとキーホルダーを指で引っ掛けて合鍵を回し始めた。

 

「あたしがラストまでいて、それでコンビニで済ませるなんて許すわけないじゃん。はーもうホント考えなよばーか」

「そうじゃねーよ、明日ライブ……」

「いい、明日の六時からだし」

 

 それは朝家に帰って支度すれば間に合う、という意味か。なんだってそんなに自分よりも俺を優先しようとするんだよ。

 今日くらい、俺はお前がいなくたって……と言いたいところだが、言えない。さっき助けてもらったばっかりでそれは、あまりに説得力なさすぎる。

 

「何がいい?」

「簡単なヤツ」

「ふーん、じゃあパスタでいいね?」

「おう」

 

 簡単なものリストにサラっとパスタが入ってるのかと思ったけど、この間トマト缶買ってたな、あれか。トマトソースのパスタ。さっさと時短で済ませようとするのに美味いんだよな。なんか女子に興味なさそうな顔しといて美咲の女子力ってかなり高めなのは不思議なくらいだ。

 

「ふふ」

「なんだよ」

「いやぁ? あたしのこと女子力あるっていうの、み、宮坂さんだけだから」

「そうなのか?」

 

 どうやら美咲クラスがゴロゴロいるってことなんだろうか。え、それはねーだろ流石にさ。

 こんな家事完璧な女子高生がイマドキ大量にいたら世界はもっと優しくなってるよ。俺はそう思うんだが。

 

「まぁ、こうやって料理作るの、宮坂さんだけだからね」

「……それは」

 

 俺はその言葉にはっとした。

 なるほど、それにはマジで俺から伝えなきゃいけないことがあるんだった。いつも思ってたこと、感謝の中にある、もう一つの気持ち。想い。

 

「なに?」

 

 息を大きく吸って、扉に手をかけた美咲が背中越しに振り返った。

 控えめなボブカットが揺れる。大きな瞳が俺を捉えた。月明りの下で、俺はどうしても伝えたかったことをここで伝えることにした。

 

「すっげぇ、勿体ないよな」

「……は?」

 

 なに言ってんのって顔をされた。いやだってそうだろ、そんな料理美味いのに俺にしか食べさせたことないなんてさ。あんなのもう金が取れるレベルだから、なんなら料理店なり定食屋なり開いたら毎日通っちゃうレベルだからな。

 

「ばーか」

 

 熱弁したら半眼で、なんか本気で拗ねたようにそうやって言われた。お前はすぐに俺をばか、ばかって言いやがるなばーか! 

 ──と女子高生と同じ目線でケンカをするわけにはいかない。俺はコイツの九歳上だからな。

 

「はぁ……ホントばかなんだから」

「またそういう」

「事実」

 

 下味のついていた鶏肉をトマトソースの中に落とし、コンソメを入れて味を見ながら、俺に視線を向けずにそうやって俺のことをばかって言いやがった。なんだよ、なんも変なこと言ってないと思うんだけどな。

 

「……ちょっとでも期待したあたしがバカだった」

「なんの話?」

「なんでもない」

 

 これまた視線向けずに一言、どうやら味付けは美味しいようだ。いいことなんだけど、素直に喜ぶことができない。明らかにバカにされてる。

 でも味が気になって隣に来たら来たで、なんだか口許を緩ませてもうちょい待っててと、そこでようやく俺を見た。

 

「テレビでも見てたら?」

「それは……申し訳なさすぎるだろ」

 

 だからといって、手際のいい美咲の手伝いができるかと言ったらできない。俺はこういう状況においてまるっきり何もできないんだよな。やっぱ自炊とかできないのは致命的ってわけだ。反省しよう。

 

「あたしは気にしないから」

「俺が気にする」

 

 けど、女子高生をパタパタと走らせて頼って、俺が座して待つってのは我慢できない。手伝えるだけでも手伝いたいし、なんなら美咲に頼らないでいられたら本当は理想的だ。

 ──相手は九歳下だからな。

 

「ばか……意地っぱり」

「なんだよ」

「すぐそれ……じゃあお皿出して」

「それくらいなら」

 

 そう言って食器棚を開けて取り出す。この食器棚がキレイに整頓されてるのも、実は美咲のおかげで、家主としてなんだかまずいなという気分にさせられる。仕事では店長代理として客、アルバイトやパートの力になっているのかもしれないけど、こう家に着いた途端に、ただの女子高生に頼り切る。情けないとは思うけど、どこかで俺は美咲ならいいかと思ってるんだろうな。

 

「ごちそうさま」

「おそまつさま」

「今日も美味しかった」

「そ」

 

 そうやっていつものように向かい合ってご飯を食べて、先に風呂入ってきなよと言われた。既に美咲は食器を洗おうとしてる状態で、それを少しだけ背に見てから、俺は湯船に浸かることにした。

 ──先に入って、先に寝ていてほしかった。俺のために自分の時間を使い過ぎるな、って言いたい。言えない自分の弱さに溜息を吐いた。

 

「……ばーか」

 

 浴室に響いた俺の声は、なんとなく歪んで聞こえた。もうとっくに日付は変わってるってのに、美咲は食器を洗ってきっとソファに寝転んでスマホでもいじってるんだろう。そう思うともう一度だけ、ばーかと言いたい気分になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の朝、美咲はわざわざ朝ごはんを作って、それを食べて掃除をしてからパタパタと家に帰っていった。集まりは昼からだからいいの、の一点張りで俺は結局、ロクに手伝うこともできずに美咲の家事を見てることしかできなかった。

 

「昼は……テキトーでいいか」

 

 でも一番ダメなのは、なんやかんや言いながら美咲がいなくなった途端にコレなこと。こりゃ美咲が放っておけないって言うのもわかるなと客観的に見ながらも、それを改善する気がない自分だ。

 

「……あ、そうだ。来週の会議の資料纏めないと……どこまでやったっけ」

 

 ノートパソコンを持ってきて、リビングで作業をする。店長に、会議の出席はどっちでもいいと言われたが俺としては行く以外の選択肢がない。俺だっていずれは店長になってキャリアを積んでかなきゃならないんだからな。

 時間はあと二時間。アラームをかけて、サイレントにしてたなんて古典的ミスはしないようにして、俺はパソコンに向き合う。

 やっぱり朝ごはんを食べてると集中力が違う。できるところまで進めて早二時間、アラームの音を合図に俺はキリをつけて伸びをした。

 

「でかけるか」

 

 駅で昼飯を食べてからローカル線でのんびり向かっても余裕がある時間に家を出て、思わず行ってきますと言って、左右に誰もいないことを確認してから溜息をついた。

 ──幸せ、なんだろうな。こんな犯罪ギリギリ踏み越えてるような関係で幸せって責任ある社会人としてどうなんだって話なんだけどな。

 

「懐かしいな」

 

 ローカル線を乗ると、美咲と初めて会った時のことを思い出す。俺は美咲を助けた……なんて言ってるけどそんな大層なものじゃなくて、ただ逃げ場のなかった美咲の逃げ場になっただけ。それ以来、俺は美咲に助けられっぱなしだけど。

 家事や料理をしてくれた。バイトに来てくれた。何より独りぼっちだった俺と、繋がりをくれた。

 

「なーんか、人間ってさ、正しくなきゃ生きてけないと考えちゃうかなーって、思うんだよねぇ」

「なんでキミは、そう思ったの?」

「ここにいて、あたしは生きてるって思うから」

 

 なんてね、と膝を抱えて笑った顔と会話を、俺はたぶん忘れない。忘れられない。

 忘れてる時はいつも、美咲が傍にいる時だけだ。離れたらいつも、そのことを考えてる。今日もそれを考えてるうちに、ライブハウスの最寄までついた。小さな川沿いの、でも練習スタジオも併設してるから決して小さくはないライブハウス。美咲にタダで貰ったチケットを片手に、並び始めているその熱気の一部になっていった。

 

「バイトのヤツが言ってたけど、流行り、なんだっけ」

 

 ガールズバンドは空前絶後の流行らしい。玉石混交とはいえ粒の大きなアマチュアのグループがいくつもいて、ライブハウスなんかで日夜音楽技術を磨いてる……とそれは受け売りの言葉。玉石混交ってフツー大学生言わねーだろ。俺だって使わねーよ。その熱く語られた言葉通り、ライブハウス前の熱気はすごい。これアマチュアなんだよなってくらいに開演を待ち望んでる人の多さに、俺は改めて美咲の本来の姿はすごいんだなと思わされる。

 

「さぁ、今日もみんなの笑顔を見せてちょうだい!」

 

 わぁ、と歓声が上がる。金髪の子が手を振りながら袖からやってきてくるりと前方宙返り。初見の俺にとってはいきなりのビックリパフォーマンスを披露した。

 そしてクッションもないのにキレイに着地したら、行くわよ、と瞳を輝かせ、ライトが消える。

 

「ハロー、ハッピーワールド!」

 

 再びライトが着いた時には、楽器の前にそれぞれのメンバーが立っていた。まるでマジックショーのような始まり。美咲の言葉を借りるならイリュージョンこそが、第一の魔法ってことなんだな。

 美咲、ミッシェルのDJパフォーマンスはものすごいな。というかあのキグルミでどうやって演奏してんだよと思った。

 夢のような時間、自然と笑顔になれるような時間だった。魔法にかけられたように熱気と楽しさに満ちた時間でも、一番印象に残ったのは、かわいい顔をしてえげつないパフォーマンスをするドラムの子でも、ギターが物凄く様になってる長身のイケメン女子でも、元気に跳ねる短髪のベースの子でも、一番目立つ金髪のボーカルでもなくて、ピンク色のクマのキグルミがほんの一瞬、俺の方に小さく手を振った時だった。

 ――終わったらお疲れ様ってメッセージを送っておこう。んで、明日はバイトに来てくれるから、なんか甘いもんでも買ってきてやろう。それが、俺が返しきれないものをもらってるせめてものお礼だ。

 

 

 

 



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いらない遠慮

 ライブから数日経ち、春満開のこの季節、寒々しい冬に出逢った美咲が高校二年生になった。こころ、ハロー、ハッピーワールド! のボーカルの弦巻こころとクラス離れちゃったな、なんて少しだけ寂しそうに笑った美咲に、俺はどーせ構ってほしくて飛んでくるって言っておいた。会いたいって思う気持ちがありゃ面倒なはずでも来るだろってな。そうしたら、よくわかってんじゃんばーかって言われた。なんで? 

 俺の方は、人事が変わるかと思ってたけど、そんなことはなく、俺は店長代理のまま、店長は二店舗店長のまま。当然研修とかできる状況じゃないから新入社員が入ってくる可能性はゼロ。俺はほぼ孤立無援状態な一年が始まっていた。

 

「学校終わったらそっち行くから」

「今日は六時からだからのんびり来いよ」

「すぐ行くから」

 

 ヒトの話を聞けと言うのに、朝っぱらから電話してきた内容がこれ。孤立無援状態云々を知っているせいなのか、絶対に譲ろうとしない。バンドの練習も、キグルミで商店街のイベントにも出なきゃならないのに、そんなに働いたら扶養から外れるから気を付けろよと返してやった。

 ──返事は、キグルミバイトは手渡しだから大丈夫、だそうで。それは大丈夫とは言わねーから、脱法って言うんだからな。バレたら脱税でバカみたいに払わされるからな。それは親を困らせるってことだからなお前。

 

「……わかってるよ、うるさいばーか」

「またそれか」

「うるさい、もう切るから、じゃね」

 

 最後の一言がこれ。全然わかってない反応だったなありゃと思いながらニュースをBGMにトーストにかじりついた。美咲が春休みの一週間は散々どっちに長くいたのかわからんくらいにいたからな、なんとなく家が寂しい雰囲気だ。それがあるべき姿、ってヤツなんだけど。

 

「……行ってきます」

 

 自然に言葉に出て、俺はなんとなく気分がしゃきっとした。美咲が学業に専念できるように、俺は俺のやることをやるだけだ。

 取り敢えず、まずはネットのアルバイト募集要項を更新しよう。新生活始めたてのこの一ヶ月が勝負だからな。

 今日もさっそく、それを見越したアルバイト募集の男子大学生の応募があったもんで、俺は頭に入れたプロフィールを思い浮かべた。履歴に怪しいところはなかったから、後は人柄かな、五時からの面接のためにいつもより制服をきちんと整えてきたしな。

 

「さーて、頑張りますかね」

 

 面接のことを伝えた以上、まぁ美咲が五時より前に来ることはねーだろと高をくくっての仕事だった。接客をして、いつも絡まれる……もとい散歩の途中だというのにわざわざ俺みたいな若輩者のためにご高説を垂れていただく爺さんの相手をして、たまにはなんか買ってけよと悪態をつき、昼飯にサンドイッチを食べて、あっという間に四時過ぎになり、そして。

 

「おはよーございます、宮坂さん?」

「は? 帰ればーか」

 

 嘘だろホントに。家にも帰らずに一直線に来るやつがいるかってんだばーかと言いたいのを我慢して、それだけで我慢しておく。美咲は練習帰りだし、と俺の揚げ足を取ってきた。ああそう、入学式だから午前で終わったのね、なるほどね。やっぱバカじゃねーかばーかばーか。

 

「ばか、面接までの事務作業手伝いにきただけだし」

「はぁ……」

「溜息はひどいと思うんだけど……」

 

 溜息もつきたくなる。俺の立場もわかってほしい。なにせ美咲が来ると一部のバイトやパートが嬉しそうに俺に報告に来るんだから、マジでなんにも隠しきれてない。この間主婦の方にありがたい年の差の話されたんだからなコッチはさ。

 

「それで? 今日来るのどんなヒト?」

「……理系大学生、バイト経験なしで週三12時間ほどを希望らしい」

「うーん、人柄だね、そーすると」

 

 そんなことお前に言われんでも把握してますー。

 ──花咲川女学園制服姿の美咲は近くのコンビニで買ったらしい470ml紙パックのミルクティーをストローで飲みながら事務所のパソコンで事務作業をしてる。コイツマジで社員としての俺より長く働いてる遅番パートよりできること多いよな。俺がバイトん時はできて精々発注とかそんなもんだったんだけど。つかその格好で社員ばりのことやんのやめてほしい。ギャップがすごい。

 

「あ、そーだよね。このカッコだと面接で怪しまれるよね」

「……そっちじゃねーよ」

「宮坂さんのプライドどうこうは知らない」

 

 どーせプライドなんて一ミリもないですとも。つーかさぁ、仕事中なら敬語を使っておくれ礼儀の正しい女子高生さん? 

 イヤミっぽくそう言うと美咲はミルクティーを飲みながらのまま、は? と心底バカにしたような顔をしてきやがった。コイツ……

 

「あたし今給料発生してないし」

「あのな……」

「だったら働くな、もなしね。あたしは知り合いのよしみでみ、宮坂さんを手伝ってるだけだから、今は敬語は使わない」

 

 そこ、こだわるところかよとツッコミたくなった。大丈夫面接の時はちゃんと敬語使うから、って面接ん時は出てけよ女子高生。

 明らかにこの光景を見たヤツ全員が全員、痴話げんかと言うだろう会話を繰り広げていると、業務連絡で俺の名前を呼ばれた。たぶん、来たな。

 

「せめてエプロンつけてくれ」

「はいはい。着替えるからゆっくり目に歩いてきといて」

「あいよ」

 

 なんだかんだで、作業はめちゃくちゃ捗るんだから悔しい。なんなら接客やトラブルで時間食われてもアイツが代わりにやってるってのがもっと悔しい。

 ──どうせ、採用不採用にも口出してくるんだろうな、と思いながら緊張気味の新大学生くんを迎えにいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 面接が終わり、あたしは息を吐いてから時計を見た。丁度六時前だったからあたしはタイムカードを切る。

 トントン、と机で履歴書と書類を整えた()()()()にあたしはお節介かとは思いつつ、一言だけ呟いた。

 

「採用でいいんじゃないですか?」

「そうか?」

 

 あたしの言葉に、宮坂さんは確認をするように、一応の意見を取り入れようとあたしに問い返してきた。

 ちょっと前まで帰れだとか、いらないだとか言ってたくせにガッツリ頼るつもりなんだから、なんというか、宮坂さんらしい。

 

「受け答えは緊張の範囲だと思いますし、そもそも業種に興味があるってことはそれなりにモチベーションもあるってことじゃないですか」

「……そうだな、よし」

 

 正直、あたしが口を挟んでいいことなのか、って言われたらよくないんじゃないって思う。仮にもあたしはなんの責任もない学生バイトなわけで、面接とか採用とかの人事には社員としての責任が必要で、冷静に考えれば、あたしが口を出すこと事態がおかしいことで。

 ──宮坂さんは採用を決めた。あたしの口添えがなくても決めてたかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。チリっと胸が焦げるような痛みを感じた。

 

「んじゃあ美咲はまずレジだな、販促は?」

「大丈夫」

「ならよし、接客行ってくる……ってどうした?」

 

 その痛みが嫌で、思わずあたしは宮坂さんの手を掴んでいた。チリチリする、胸が痛い。最近のあたしは、出過ぎてる気がする。

 世界を笑顔に、そんな夢に当てられたあたしの気の迷い? こころが、みんながいないと、あたしはまだまだ、こんな弱い人間なんだ。

 

「今日」

「ん?」

「やっぱり……泊まっても、いい?」

 

 弱いから、あたしはこの九歳年上の幹人さんに依存する。こころたちがいる時のあたしと、幹人さんを助けてるあたしの奥底に眠る、こころたちに、幹人さんに必要としてほしいと泣きじゃくるあたしがいる。

 ──自分の存在意義がわからなくて助けてと叫ぶあたしの頭を、幹人さんは一つの溜息と共にちょっとだけ乱暴に撫でてきた。

 

「前に言わなかったか?」

「でも……」

「好きにしろ。お前はあそこで、ただいまって言っていいし、おかえりって言っていいんだよ」

 

 ばーか、と言われてあたしは少しだけむっとした。ばーかって言いたいのはあたしだし、ばーか。

 なんて言いたいけど、その前の言葉に胸がほわんと温かくなったから何にも言わないでおく。ただいまって言ってくれて、おかえりって言っていい。あたしもただいまって言える場所。あたしの居場所だ。

 

「ごめん……あたし」

「オムライス」

「へ?」

「今日のメシはオムライス、今俺が決めた」

「……作るの、あたしなんだけどね?」

 

 そりゃそうだ、俺はキレイに包めねーもん、と子どもみたいに幹人さんが笑った。それと同時に、好きにしろって言葉より深く、あたしの胸に安堵が広がっていった。それじゃあ、今日はちゃんと時間通りに上がるとしよう。

 先に作って、お風呂沸かして、おかえりって言いたいから。

 

「ほら、もう出勤時間とっくに過ぎてる。行ってこい」

「……はいっ」

 

 あたしのアイデンティティは、それだけですっかり元通りになってた。ちょうど接客に()()()()を呼ぼうと事務所に来てたバイトの女子大生のヒトに、もう用事終わった? とすれ違いざまに聞かれた。

 ──まさか、聞いてたの? そう思って慌てたように振り返ると、彼女はさぁね、と笑って事務所に入っていった。え、なにそれ怖いんだけど。

 

「……まぁ、いいけど」

 

 あたしとの仲を幹人さんは絶対に否定するし、たぶん事実としてあたしに女としての興味なんてこれっぽっちもないんだろうけど。

 いつも言うその九歳差は、あたしの中でそれほど重要なものじゃないってことに気づくのは……いつなんだろ。あたしがちゃんと言わないと気付かなさそうなのは、なんか好意にニブい幹人さんらしいけど。ばーか。

 

 

 

 

 



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止まらない幸福

 あたしはどうしてあたしなの? どうしてあたしじゃダメなの? そんな風に泣きじゃくる。膝を抱えてうずくまる。あたしが正しくないから、正しいのはあたしじゃないから、そんな黒いモヤがあたしを覆っていく。寒い、冷たい、あたしの体温を奪っていく。

 ──それを変えてくれた。あたしに温かい逃げ道と、温かい優しさをくれた幹人さんが、あたしに正しくない生きる意味をくれた。

 幹人さんがただいま、と笑う。あたしは、それにおかえりと返事をする。

 まるで子どもみたいな夫婦ごっこをあたしと幹人さんがし始めてもう、四ヶ月が過ぎた。冬は終わって、新しい春が来て、それでもあたしと幹人さんの距離は変わらない。

 ──いつか、幹人さんは恋人を作って、あたしは夢から覚めなきゃいけない時が来る。どうしても埋まらない九歳差は、いつかあたしを突き落としていくんだ。

 

「奥沢さん、奥沢さん?」

「──あ」

 

 未来、なんていう名前だけは一人前な真っ暗闇を落ちて、堕ちて、オチテ、あたしはそこでようやく意識を現実に戻すことができた。目覚めた先には同級生の市ヶ谷さんの顔。心配そうな顔をしてあたしを覗き込んできた。

 ──既に放課後で、あたしは寝てたということがようやくわかった。そっか、今日はこころと約束してなかったから、起こされることもなかったってわけか。

 

「大丈夫か? なんかうなされてたみてーだけど」

 

 ちょっとだけ乱暴な言葉遣い、なのにお淑やかな……若宮さん風に言うなら大和撫子、みたいな雰囲気がある市ヶ谷さんは、少し誰かに似ていてあたしはほっとしたようになんでもないと首を横に振った。

 

「ちょっと悪夢を見た……みたい」

「みたいって」

「あんまり覚えてない……あ、もう忘れちゃってる」

 

 ほっとしたせいか、急激に夢の内容が思い出せなくなっていく。なんだよ、心配させんなよって言う市ヶ谷さんにあたしはありがとって返事をした。

 ──無性にあのヒトに、幹人さんに会いたい。今日はバイトもなかったけど、部活終わったら行こうかな。

 

「んしょっと、それじゃああたし、部活行ってくるね」

「おーう」

「……ありがとね、市ヶ谷さん」

 

 別に、と市ヶ谷さんはあたしから視線を逸らしたまま、手を振ってくれた。本当にありがと。そうお礼を言いながら教室を出て、あたしはスマホを取り出してメッセージを送った。今日は何が食べたい? ってそれだけ。

 それと同時に家族に泊まることを伝えた。お母さんからおっけー、ってスタンプが返ってきて、でもお礼がしたいから一回家に帰ってきてね、って続けてスタンプが送られてきた。

 あたしがお礼されたいくらいなんですけど、いつも働かされてるの、あたしだし。そんな溜息をついたところで、幹人さんから、カレー食べてーと気の抜けるキャラクターのスタンプと一緒に送られてきた。

 

「カレーかぁ」

 

 なんか前にカレー食ったやつは口臭でわかるから最悪なんだよって愚痴ってなかった? と返事をしそうになってそれをバックスペースキーをタップしてから、了解って返事を改めて送信した。ちゃんと歯磨きしてくれるからいっか。

 

「……あれ、でも今冷蔵庫の中あんまり入ってないな」

 

 あたしは幹人さんの家にある冷蔵庫の中身を思い出す。あれは実質、あたしの冷蔵庫みたいなもんで、中身なんて幹人さんは知らないと思う。じゃなきゃあの壊滅的な状況でカレーなんて言ってこないし。

 でも、他ならぬ幹人さんの要望だからしょーがない。あるだけ自分ちの冷蔵庫から野菜でも奪ってから、足らない分とカレー粉は買っていきますか。

 

「ふふ……あはは、はぁ……溜息もでちゃうよねぇ」

 

 溜息を吐くと幸せが逃げるとは言うけど、こんなに胸いっぱいの幸福感なんだもん、パンクする前に吐き出しとかないとさ。あたしはそれはそれでどうしたらいいのかわかんなくなるじゃんか。

 部活をしながらも、あたしは何回も何回も溜息を吐き続けた。夜のことを考えて、あのヒトの顔や声を思い浮かべては、溜息をついたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部活が終わって、ひとまずは言われた通りに家に帰る。泊まるねって連絡を入れるたびに思うんだけど、そんなんでいいのかウチの親は。まぁ、最近じゃミッシェル(あたし)の稼ぎは家に全部入れたおかげでお母さんのパートの時間を週二まで減らせたし、美咲(あたし)の稼ぎはちょっと貯金で残りはお小遣いだからサイフは潤ってる。その頑張りがあるからこその自由だってお父さんは言ってた。

 弟や妹には、ちょっとかわいそうなことをしてるけど。ごめんね、あんたより手のかかるヤツの相手しなきゃなんだ。

 

「はい、これ」

「おかし?」

「そうなの、宮坂さんにと思って買ってきたのよ」

 

 ふふ、とお母さんはいたずらっぽく笑ってきた。我が母親ながらあざとかわいいし。割と幹人さんもお母さんにデレデレしてることもあるくらいだしさ。くそう、あたしの母なのになんであたしにはできそうにない魅力があるんですか、それでも三児の母かこの、と言いたい。言ったら怒られるから言わない。

 

「行ってらっしゃい」

「……ったく、行ってきます!」

 

 更にカレー粉までくれたお母さんにそれだけを告げてあたしはまた外へと飛び出した。制服のままでいいかと思った理由は明日も学校だから。着替え何着も持っていくのはめんどいしね。下着とかパジャマならあっちにも置いてあるし。

 リュックを背負って、あたしはローカル線に揺られる。幹人さんは便利だからって大きな駅近くのマンションに住んでる。一人暮らし用のマンションじゃないってところで、あたしは維持費とかを心配してるんだけど、あんまり趣味もないからって。流石にあたしが負担とは考えなかった。いくらなんでも女子高生にそれをさせるヒトじゃないから。

 

「よい、しょっと」

 

 鍵を開けて家主のいないドアを開ける。おじゃまします、じゃなくてただいま、と自然と口にしてからあたしは電気を点けた。暗くて寂しげだった部屋がぱっと明るくなって、あたしの帰りを喜んでくれてるみたい。おかえりと言われてる気分。

 

「流石にちょっと早すぎちゃったな」

 

 幹人さんが返ってくるのは午後十時四十分ごろ。まだまだ時間は有り余ってて、お店に行った方がよかったかなぁと思いながら制服を脱いで、()()()()()()のクローゼットから部屋着を取り出した。着替えて、いいのにって散々言ったのに買ってくれた部屋のベッドじゃなくて、あたしは幹人さんの寝室に入り、枕が二つ並ぶベッドに飛び込んだ。

 転がりながらスマホで仕事は大丈夫? と連絡をする。連絡をしながら、あたしは幹人さんがいつも使ってる枕に顔を埋めた。

 

「……みきと、さん」

 

 彼の匂いがする。まるで彼に抱きしめられ、慰められた時のような感覚に陥る。あのヒトはいつもいつもあたしのことを恋愛対象じゃないとか女子高生に欲情できないとか言うくせに、ううん、言うからこそ、あたしの心が迷子になると絶対、まるで子どもをあやすように抱きしめたり、頭を撫でたりしてくる。だからばーかって思う。

 ──ばーかばーかって悶々と考えているとスマホが反応した。幹人さんからの返事が来た。今日は本当に大丈夫っぽそうだ。内容には、おなか減ったというスタンプが送られてきて、思わず笑っちゃう。

 

「……ばーか。帰ってきたらすぐ食べれるっての」

 

 あたしは、幹人さんに甘えてるだけなのかな。独りになるといつも、あたしは弱くなる。自分が弱いことを忘れていられるのは幹人さんの隣にいる時、幹人さんが笑顔でいてくれる時。だから、幹人さんがいない時にここにいると、いつもあたしは彼の匂いがするものを探す。枕、ベッド、ソファのクッション、それから……時々は、服、とか。そうして幸せと自己嫌悪を溜息で処理してから、あたしは幹人さんに見せるあたしになる。

 

「おかえり……宮坂さん」

「ただいま、美咲」

 

 結局今日も幹人さん、って呼べなかったけど、一緒にカレーを食べて笑い合えたから、満足できた。いつもありがと、なんて言われてコンビニスイーツも、あたしには過ぎたご褒美だった。

 

「今食わねーの?」

「うん、ホントは夜食べ過ぎると太るんだから」

「美咲は十分細いだろ」

「今はね」

 

 ソファでくつろぎながらあんだけ動き回っててカロリー過多になることあんのかよ、なんて言ってきた幹人さん。あたしはそれが悔しくてお風呂上りの頭を幹人さんの肩に乗せた。ちょっとは意識しろって意味をこめたのに、幹人さんはどうした、なんてかわいくない反応をしてきた。ちょっとは慌てたり、ドキっとしたりしろばーか! 

 

 

 

 



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避けられない邂逅

 休日、俺はフラフラと駅近くのショッピングモールで時間を費やしていた。映画を観て、お昼を食って、お金を使う代わりに有意義な休日を過ごす。まぁ趣味って言えるものもあるわけじゃないし、貯金もしていけるくらいに稼いで……もとい稼がされてるわけだし。確かに家の維持費は高いけど、それでも()()()()に心配されるような稼ぎじゃねーしな。

 

「今日は、アイツ、何作るのかな……」

 

 無意識に呟いて、俺ははっとした。すっかり来ることが当たり前になってるんだよな。

 奥沢美咲は、別に俺のカノジョでも奥さんでもなんでもない。ただ赤の他人とシラを切るには近い関係ってのは確実だ。なにせ俺の家にはアイツの部屋があって、冷蔵庫の中身だとか調味料のあるなしってのは寧ろアイツの方が詳しい。美咲専用のオーラルケアやヘアケア商品が洗面所に置いてあって、風呂上りはリビングのソファでくつろいでスマホを触ってるようなヤツ。完全に第二の家として機能してる。制服姿で行ってくるね、と言われることなんてよくある話だ。

 ──行ってらっしゃい。まさかヒラヒラ膝上スカートの女子高生にその言葉を使うなんて誰が想像できたんだろうか。おはよ、となんの気なしに挨拶をしながらみそ汁の匂いがする朝を、エプロンを外した制服姿の女子高生と過ごすなんて誰も想像なんてできやしない。

 

「なんなんだろうな、俺とアイツの関係って……」

 

 何度も考えたこと、何度考えても答えはでないけど、とにかく俺は今の生活が気に入ってる。美咲はどう考えてるんだろうか。嫌だったらこんなことしない、と思いたい。義務感に縛られてるんなら、それは、正すべきものだからだ。

 

「伸びちゃうわよ?」

「あ、ああ……そう……だな……?」

 

 ラーメンを食べながら思考の海に没していたところに、サラっとした春の日差しのような声がかかる。あまりにも当たり前のように声を掛けられたことで俺は別に誰かと一緒に来ていたわけではない、ということに気づけず反応が遅れて、一口すすってから改めて向かいの席を見つめた。

 

「……だれ?」

「あら? あなたはあたしを知らないの?」

 

 いや知りませんけど、新手の美人局かなにか? それにしては若いし見た感じ制服着てるように……制服……ううん、どう考えても見たことあるセーラー。花咲川の制服だ。確かに昼から映画を観始めてフラフラものを見てからの遅めの昼だったけど、と思ってそこでようやく時計を見たら四時過ぎてた。おやつですねもうこれは。休みの日になると時計全然見なくなるんだよね。

 ──それでも、キミは誰だと言いそうになって、俺はその子の顔をじいっと見た。流れるような金髪、楽しそうに揺れる金色の目。あどけないその顔は間違いなく、美咲のいるハロー、ハッピーワールド! のボーカル、弦巻こころだ。

 

「つ、弦巻、さん?」

「やっぱり、あたしのこと知ってるじゃない!」

 

 思い出しただけなんだけど、それでその弦巻さんがなんで俺に話しかけてきたんでしょうか? 正体がわかったらわかったでそれは不可解なところが多い。逆にキミは俺を知らないでしょう。

 

「あなたのお名前は宮坂幹人、でしょう?」

「……なんで知ってる?」

「美咲のスマホに名前があったわ」

 

 それで興味を持った、ということらしい。それで俺の正確な位置がわかるメカニズムはわからないがなんとなく、それは知らなくていい気がした。

 弦巻さんはふふふと笑ってから、ライブにも来ていたの? と問いかけてきた。

 

「まぁな」

「ありがとう、嬉しいわ!」

 

 屈託のない笑顔、キラキラってよりはもう、ピカピカって感じだ。美咲はコレとバンドを組んでるのか、やっぱダウナーでも女子高生だ。俺にはもうこんなエネルギーは浴びただけで灰になりそうだよ。

 

「それで、わざわざ来て、弦巻さんは何か目的でもあんの?」

「ええ、そうよ」

 

 こんな休日をのんびり過ごす俺んとこにわざわざ来たんだからそりゃそうだよな。弦巻さんは太陽の光を直接浴びせられるような笑顔を崩すことなく、まっすぐに俺にとって大迷惑な言葉を発した。

 

「あなたの家に連れて行ってほしいの!」

「……へ?」

 

 いやいや、お前なに言ってんのとツッコミを入れたくなった。この天真爛漫女子高生様はなんと、なにを考えたか俺の家を案内しろと要求してきたのだった。そんなに俺を犯罪者にしたいのかこの世界はと慟哭したい。叫びたい。叫んだら捕まるけど。絶対こんなの誰かに見られたら警察行きでしょ、嫌だよそんな理由で犯罪者なんて。

 

「どうして、俺の家になんて?」

「美咲がお昼に連絡していたでしょう?」

「あ、ああ」

 

 映画に行く少し前の話だな。今日は部活が終わったら行くから六時くらいって言ってた。あんまり遅くなって真っ暗になるようなら駅まで迎えに行くって送ったんだよな。返事はばーか、だったけど。

 んで、それが弦巻さんが俺の家に行きたがる理由とどう繋がるのかちっともわからない。

 

「その時の美咲、とても嬉しそうだったの!」

「だから?」

「だから、気になったのよ! 美咲にとって素敵なことがあるのなら、気になるじゃない?」

「あー、そういうこと……」

 

 つまり、弦巻さんは俺の家に美咲が笑顔になれるような素敵な、それでいてカタチのある何かがあると思ってるわけね。何にもないです。俺は案外あの家に思い入れがあるわけじゃない……って言ったらウソだけど、それも思い出とかそういうカタチに残らないものだし。

 

「弦巻さんの期待通りにはならねーと思う」

「そうなのね?」

「おう」

 

 俺はそうやって断っておいてから性格もなにもかも全然違うタイプの女子高生を家に案内することになった。

 やれやれ、美咲に連絡しておこう。部活が終わった後にでも見てくれるだろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部活は三十分早く切り上げることができた。走れば間に合うということで部活終わりなのにダッシュをしてローカル線に乗り込んだ。やればできるじゃんあたし、なんて自分を褒めたくなったところで、スマホを確認しようとしたら、あれ? と声が聞こえた。

 これは、花音さんの声だ。

 

「美咲ちゃん?」

「花音さんに、白鷺せんぱい。これから喫茶店ですか?」

「そうなのよ」

 

 吊革につかまっている先輩二人に挨拶をする。片方はハロハピのドラムのふえぇな先輩、松原花音さん。そしてその隣の腹黒……じゃなくてなんとなく女王様風味なオーラのあるヒトは花音さんの親友で、しかも芸能人でもある白鷺千聖せんぱい。こんな人がいっぱいいるローカル線に乗ってて大丈夫なのかと思ったけど、人を隠すなら人込みの中、ってことか。みんな下向いててあんまり白鷺せんぱいのことなんて見てないだろうしね。

 

「美咲ちゃんはどうしてこっちに?」

「あ、あー、あたしは買い物、ちょっとほしいものがあって」

「そうなんだあ」

 

 そんなハロハピでも痛感させられてる花音さんのふわふわオーラに癒されていると、白鷺せんぱいはなにやら意味深な笑みを浮かべてきた。え、なにこの先輩こわ。というか白鷺せんぱい市ヶ谷さんにも、なんならあの花園さんにも恐れられてるからね。あなたは何をしたんでしょうね。いえ聞きたくはないですけど。

 

「下手な演技ね、うふふ」

 

 うわー、なんだこのヒト! 魔性というか、悪魔的というか、小柄なのにそれを感じさせない大人な雰囲気があたしは苦手だ。大人っぽくない大人とかが好きなんです、あたしは。

 とにかく女子高生が出しちゃダメでしょその色っぽさ。

 

「私、実は知ってるのよ?」

「何を、ですか?」

「あなたのバイト先」

 

 ぞわっと嫌な汗が出た。いや、なんだかんだで花音さんと仲良しな白鷺せんぱいのことだからそれを脅迫の材料とかにはしない善良なヒトだろうけど。というかあんなところになんの用事だったの、別にどうだっていいけど。ただ、このヒトには勝てないなぁと思わされるから、あたしも苦手な先輩なのに変わりはない。

 

「ねえ、美咲ちゃん」

「あ、はい」

「千聖ちゃんの言ってたこと、今度聞かせてね……?」

「……はい」

 

 まー、よく黙っていられた方だと思うけどね。花音さんにはなんでともどことも言ってなかったけど掛け持ちでバイトしてることも知ってるし、こころには今日、あたしのスマホの中をうっかり見られて、バッチリ幹人さんの家に行くのバレてるし。その時の顔がものすごく不安だったけど、なんにもしてないよねこころ? と思いながら、あたしは花音さんと白鷺せんぱいに挟まれてローカル線を過ごすのだった。

 

 

 



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変わらない彼女

「通報する」

「待て待て、落ち着け美咲」

「落ち着いてる。これ以上ないくらい冷静だから」

 

 ──そして、何故かこうなった。なんで美咲のやつこういう時に限ってスマホ見てねーんだよ。というわけで美咲の顔から表情が消えたブリザード状態。そんでスマホの緊急電話番号をわざわざ俺に見せるように110にしてグレイシャルなアタックをしようとしてくる。それフィニッシュしちゃうから。マジでヤバいからやめてね。

 

「なんでこころがここにいるの!?」

「成り行き?」

「ふーん」

「あ、待って通話ボタンは押さないでくださいお願いします美咲さん!」

 

 これが怒りに染まった九つ年下に縋りつく二十代後半男の泣き叫ぶ図です。残念ながら警察は弱いものの味方なはずなのに容赦なく俺を断罪しようとするでしょう。これで女子高生の方から家に来てくれたんだって言ったら精神鑑定RTAが始まる恐れまである。あると思います。

 

「……ったく、あたしが油断するとあんたはいつもいつも」

「いつも女子高生連れ込んでない」

「通報する」

「なんで?」

 

 なんで今日こんな怒ってるの? なんかあった? 電車で嫌な先輩に絡まれでもしたか。えらく不機嫌な様子なんだけど。そう思っていたら弦巻さんが、美咲はどうしてそんなに怒っているの? と命知らずな爆弾を放り投げた。おいおいおい死んだわアイツ。

 

「別に……怒ってないけど」

「怒ってるわ! ココがきゅーってなってるもの」

 

 弦巻さんは眉間の皺を指した。その金色の太陽さんの言葉に美咲はむっとしたような顔の後に困った顔をして、それから全てをため込んでため込んで、それをはぁ~、と長い長い溜息と共に吐き出してみせた。

 

「……ごめん、美咲」

「別に、み、宮坂さんのせいじゃない、こころが来るって言い出したんでしょ?」

「そうよ!」

「じゃ、宮坂さんのごめんは意味わかんない」

「……だよな」

 

 それでも何か思うところはあるようで唇を尖らせて美咲は着替えてくると部屋に引っ込んでいった。リビングに残された俺と弦巻さんは、しばらく顔を見合わせていたが、弦巻さんがふふふっとまた春の日差しのような優しい笑みを見せた。なにこのちょいちょい見せてくる慈愛の瞳は。元気っ子だと思ってたのにお嬢様みたいな上品さもあるんだな。

 

「美咲は、とっても心配性なの」

「……痛感してる」

 

 そうやって苦笑いをすると弦巻さんは違うわと首を横に振った。何が違うんだよ、と返すと弦巻さんは美咲の向かった部屋のほうを見て、美咲は変わるのが怖いのよ、とっても怖がりなんだわって言葉を足してくれた。

 

「美咲はあなたと一緒にいられる時間がなにより大切なの。なかったら美咲じゃないくらいに、大切にしているのよ」

「……そんなにか?」

「ええ、だから、それが崩れちゃうかもって思うと、ああやって泣いてしまうんだわ」

 

 弦巻さんはすごくやさしい顔をする。ホントに美咲のことを見ているんだなって顔。俺なんかよりずっと、一年間もの間、美咲に向き合ってきたって表情で弦巻さんはだから、あなたはあなたでいなくちゃダメなのよ? と俺に視線を合わせた。

 

「俺じゃなきゃ」

「そうあなたがいなくちゃ、美咲を笑顔にはできないわ」

「言い過ぎだろ」

「そんなことないわ、あなたは……そうね! もっと単純に考えてもいいと思うの! あなたがどうしたいか、美咲に、どうしてほしいのか、まっすぐそれを伝えられたら、きっともっと笑顔になれるわ」

 

 もっと、ね。俺は今でも美咲のおかげで笑っていられてるって弦巻さんに判断されたってことか。

 間違ってない。俺が笑っていられるのは美咲のおかげだ。美咲がおかえりって言ってくれるからだ。

 

「……ったく」

「美咲」

「ん?」

 

 まだ唇を尖らせながら出てきたラフな部屋着姿の美咲を、呼んで、弦巻さんに、ごめんと謝っておく。

 ──ここからは、俺と美咲がなんとかする番だから。

 

「ちょっと」

「いいから」

 

 俺の寝室に通して、弦巻さんには聞こえないようにする。聞き耳を立てられたら無意味だけど、そういうことはしないだろうし。

 なにより、たぶん、美咲はあの子がいると怒れない。自分が大人でなくちゃいけないと思ってる。そんな気がしていたから。

 

「なに?」

「おかえり」

「……は?」

「だから、おかえりって。言ってなかったから」

 

 取り敢えず言いたかったこと。くだらないこと言って、いつもみたいに怒ってほしかった。そういう意味で言ったんだけど、美咲はぽかんと口を開けて、その顔がにやけ顔に変わった。噴き出すのを堪えるように、でも堪えきれなくて、美咲は口許を手で押さえて笑い出した。

 

「ふっ……ふふ、あんた、ホントさ、ばかだよね……ふふ」

「は、はぁ? 笑うとこじゃねーから」

 

 文句を言ってみたけどツボに入った美咲はしばらく笑い続けた。まるで安心して、堰を切ったように。

 美咲は一通り笑い、そして笑い疲れたのか、ベッドに寝ころんではぁ~、と俺を見た。

 

「ふふ……ただいま……」

「美咲……」

「まだ言いたいことあるなら言えば?」

「いやそれ俺のセリフなんだけど」

 

 あたしはないよと美咲はすっきりしたような顔でそう言ってから、けれど不安そうに俺の腕を掴んでくる。

 ──美咲は一緒にいられる時間を大切にしてる、か。そうだよな、いつまでもこうやってるわけにはいかねーし、俺だって転勤の可能性もないわけじゃねーもんな。

 

「なぁ美咲」

「ん?」

「俺、有給溜まってるんだけど」

「うん、それで?」

 

 美咲はそう問い返してくる。まるで何かを期待しているような口調だった。

 女子高生相手にこんなことを言って、まるで俺が誘っているようだという恥ずかしさがあった。でもそれ以上に弦巻さんの言葉、単純に考えるというものが俺の背中を押していた。

 

「連休取って、どっかに出掛けたり……二人で」

「二人、って強調する必要、ある?」

「……ないな」

 

 からかい交じりの返しに俺はやっぱり気恥ずかしくなって苦笑いになった。それにあたし部活もハロハピもバイトもあるんですけどー、とまで言われてしまっては俺はごめん、としか言えなくなった。

 ここにいるのも恥ずかしくてベッドから立ち上がろうと腰を浮かせた瞬間、美咲は俺の左手の指の間に自分の指を絡めて、思いっきり手を引いてきた。

 

「うわ、ちょ、美咲……?」

「あはは」

 

 支えられるはずもなく、俺はベッドに逆戻り、無様に白いシーツに倒れこんだ。文句を言おうと左側を見たら、美咲は今までにないくらいに嬉しそうな顔をして笑っていた。いつもとは違う、無邪気な雰囲気があって、不覚にもドキっとしてしまう。

 

「どこ行く?」

「え、あ……」

「どうせの連休なら、遠出がいいな。どこかに連れてってよ」

 

 しっかりと絡まった指が少し動いた。甘えるような言葉は、やっぱりいつもの美咲らしくはないけど、でも、そうだよななんて納得するところはある。美咲は、まだまだ十代の女子高生だ。大人なんかじゃ、ないんだよな。

 

「行きてーとこある?」

「み、みき……宮坂さんとなら、どこでもいい」

 

 そんな言葉、俺じゃないやつにしろよな。あと思わせぶりな発言には気を付けた方がいいと思う。四年ほど歳が近かったらお前襲われてるからな、俺に。こういう美咲が少女じゃなくて女性の顔をするたびに、九歳差でよかったと思うことがある。

 

「んじゃあ行く場所決めるから、その間に美咲は」

「ん、ごはん作るね」

 

 そう言うと美咲はもぞもぞと、何故か更に俺の近くに転がってきた。懐かしい気分になるな。美咲は不安だったり不満だったり、そういうマイナスの感情があると俺に近づいてくるってクセがある。

 ──なにせ初めて会った日の美咲は最大値のマイナスからスタートして、このベッドで一緒に眠ってるんだからな。でも肝心な距離まで近づいてこないから、俺は溜息をついて美咲のことを抱き寄せた。

 

「わっ……もう、女子高生に欲情はしない、んじゃなかったんですかー?」

「してねーよ、ばーか」

「ホントかなー」

「ホントだから、今日は一緒に寝るか?」

「は?」

「は、ってお前……」

 

 思ったよりもひどい反応をされて傷ついた。だってこのベッド、宮坂さんの匂いするもんって、そんなに臭いか? ついに俺もオッサン臭がするように……いやそんなバカなことがあるか。接客業として、さらに美咲と会ってからそれは一番気を付けてることなのに。

 

「ばーか」

「……なんだよ」

「やっぱばかだなって思っただけだよ……みきとさんはホント」

「ん? なに?」

「ほら、やっぱりばーか」

 

 後半の言葉は俺の腕に吸い込まれて俺自身に届くことはなかった。でも美咲はここで、漸く素直でかわいらしい笑顔を浮かべてくれた。そしてこころ待たせてるから、行こってあっさり起き上がる。もうその顔はちょっと前までの不安とか心配をしているようには見えなかった。

 

「それより、忘れないでよ」

「なにを?」

「デ……えっと、旅行の話」

「覚えてるよ」

「信じたからね」

 

 ──部屋を出ると、こころはいなかった。机の上には置手紙があり、美咲が笑顔になってよかった、また来るわね、という彼女らしい伝言と、それとは別にものすごく丁寧な字で、突然の訪問への謝罪と、これからも()()()()をよろしくお願いいたしますという文言が書かれていた。誰? 弦巻さんの親……にしてはおかしな言い回しだな、と首を捻っていたらいつもこころと一緒にいて色々なことをしてくれる黒服さん、と美咲が説明してくれた。マジのお嬢様だったのかあの子。

 

「そうそう、明日さ、ハロハピの練習あるけど終わったら手伝いに行くからね」

「金曜だからか?」

「そ」

 

 金曜の夜は忙しいからな。素直に言うと美咲がいてくれるのはありがたい。そしてこの言葉は()()()()()()()()()()()()()()()()()。練習終わりに買い出しをしてくれて、俺んちに置いてから来てくれるってことだ。それを言ったら俺はいつもどっちかでいいって言うから、美咲は言わないだけ。でもどっちかじゃなくてどっちもってところが、美咲なんだよな。

 

「カンタンなのでいいよ」

「今日のはもう決まってるけど」

「明日」

「……そっか、わかった」

 

 俺の言葉に少しだけ驚きが混じりながらも、はにかんだその顔は、まるで一番最初に美咲の手料理を食べて絶賛した時に似ている気がした。

 あの時から美咲の感情は、たぶん変わらないままなんだろうな。エプロンをつけて作り始める美咲は、鼻歌でも歌いそうなくらいに口元が緩んでいた。

 

 

 

 

 

 



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安定しない情緒

 朝、いつもの苦手な満員電車に乗り、ほんの数分揺られて二駅ほど。俺は通い慣れちまった店へと出勤する。今日は鍵開けじゃねーから、のんびり歩いて事務所に行くと、既に鍵開けをしていた化粧品担当の先輩がおはよーと手を振る。

 

「おはようございます駒沢(こまざわ)さん」

「ん、宮坂は今日も元気だね」

「まぁ、若いんで」

「そうね」

 

 そうねと笑う先輩は四つ年上の今年三十路突入なんだけど、そうは見えないエネルギーがあるよな。当たり前な気もするけど俺より背も五センチくらい小さくて、あんまり年上な雰囲気がしないから俺は付き合えてる気がする。年上の女のヒト、苦手だし。

 

「いや~、にしてもさぁ」

「なんです?」

「宮坂は最近ツヤツヤしてるよね~、やっぱり、コ・レ?」

「違うし言い回しが古いですよ」

 

 小指を立てる先輩に、俺はあきれ顔で返事をした。駒沢さんは美咲とも仲がいいからそういうことを言ってるんだと思う。パートさん方が出勤してきて、賑やかになる。朝礼をして、店を開けて、今日も俺の戦いが始まる。

 ──ここから、六連勤ほど。

 

「……それで、一日目から忙しくてこのザマなんですね」

「うるせー」

 

 やるぞと気合を入れてから早数時間、さっきまで制服姿だった黒髪ボブカットが俺の上から呆れ声を降らせてくる。コイツしれっと俺の前で着替えてたけどなんで平気なの? 俺は密かにお前が変態なんじゃないかって疑い始めてるんだけど。

 

「なに、コーフンする?」

「しない」

 

 ガキの下着姿でコーフンするかっての。じゃあいいじゃんと妙に納得がいかないんだけど反論もできない理論、というよりもはや暴論を振りかざしてくる。まぁもう着替えちゃってるし、気にもしてないからいいんだけど。

 

「まぁ、泊まる時は万が一見られてもいいようにしてるし」

「……どういうことだよ」

「……ばーか」

 

 なんでそこで返事がばーかなんですかねばーか。

 既にタイムカードを切っている美咲は、俺に向かってだれてないで指示くださいと冷たい瞳をしてくる。ホントこの女かわいくない。

 

「んじゃあ……レジは?」

「今日はないよ? というかなんも書いてないんだけど」

「なんで?」

 

 と首を傾げる。今日のシフト作ったの駒沢さんじゃなかったっけ。あのヒトがそんなくだらないミスするようなヒトだと思わないんだけど。

 じゃあわざと白紙? なんでこんなクソ暇な時に限って? 

 

「じゃあ、あたしの判断でいいってことですか?」

「いやそれはダメだろ」

「じゃあ指示ください」

 

 といってもやっぱり納品も足りてるから期限チェックとかその辺かなと考えてると丁度シフトを作った駒沢さん本人が事務所のドアを開けて美咲ちゃんおはよーと笑顔を浮かべた。

 その笑顔は俺にとって確実な悪意がある気するのは気のせいでしょうか。

 

「駒沢さん、あたしのシフト真っ白なんですけど」

「あーそれ? 美咲ちゃんは自分の好きなようにしてていいから」

「は? ちょっと駒沢さん」

「宮坂?」

 

 目が怖いです先輩、黙ってろってか。ええ黙らせていただきますとも。そう言って上体を起こしてパソコンに向き合っていると、美咲は意を決したようにそれじゃあ、と俺の方を見た。なんとなく予想ができてたよ、この展開。

 

「宮坂さんの作業手伝いでも、いいですか?」

「うん、いいよ。じゃあそれで、宮坂も」

「……わかりました」

 

 そう言って駒沢さんはじゃあお先、と手を振った。早番いいですね。俺なんかフルですよフル。たまには代わってほしいけど、そんなこと言ったって俺と駒沢さんじゃできることが違うので言わないでおく。

 それじゃ、と更衣室に消えていく駒沢さんを見送り、俺は溜息をついた。

 

「……なんか、ごめんね」

「美咲が謝るイミわかんねーけど」

「だって」

 

 あーあー、お前の泣き言とか迷いとか聞きたかねーんだけど。今業務中だし、万が一事務所に誰か来たらなんて説明すりゃいいのかわかんねーんだからさ。

 ──そう思いながらも美咲、と名前を呼んで、その髪を撫でちまうのはよくねーことなんだろうけど。

 

「落ち着いたか?」

「……ん」

「正直手がいっぱいだから、美咲が手伝ってくれるんだったら助かる」

「……ん」

 

 猫の手でも借りたい、というヤツだ。実際に美咲の手は頼りになり過ぎるほど頼りになるんだけどな。

 しばらく撫でていてもまだ下を向く美咲に今勤務中だ、と声をかける。

 

「今日も泊まってくんだろ?」

「……いい?」

「いつも言ってる。好きにしろよ」

「……ん」

 

 最近の美咲は妙に様子がおかしいことが多い。何かあったんだろうとは思うが、俺はそこに踏み込むだけのエネルギーを持ってない。俺にとって、美咲がかけがえのない存在だったとしても、恋人でもなんでもない、ただ夫婦ごっこをしてるだけの関係だから。

 ──いつまでも続く関係じゃないからな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は対して手伝いにもならなかったような気がする。あたしはずっと集中できなくて、どこかで上の空だった。最近、なんか情緒不安定だ。

 十時になって、お店が閉店する。事務所にあー疲れた~、とやってきたバイトのヒトがあたしを見てぱっと笑顔に変わって、美咲ちゃんもお疲れ~と手を振って、タイムカードを切った。

 

「今日も旦那の手伝いで残業?」

「旦那……別に、宮坂さんはそんなのじゃないですよ」

「あは~、照れちゃって、かわいー」

 

 大学三年生の彼女は学生バイトなのにそれなりにいるから何かとあたしを気に入ってくれてる。曰く女は三度の飯よりも恋バナ、だそうでいつもあたしと宮坂さんを()()()()()()に収めてからかってくる。あたしにはわかんないや。

 

「おい喜多見(きたみ)、早く着替えろ」

「はーい」

 

 更衣室に消えていく喜多見さんを見送って、あたしはタイムカードを切った幹人さんのすぐ近くまで行く。

 優しくて大きな手が、お疲れ、とあたたかくあたしの頭を撫でてくれる。情緒不安定になったあたしにとって、幹人さんに触れてもらうというのはそれだけで安堵感に繋がる。だからって長時間抱きしめられたり、一緒に寝るのはムリ。ドキドキしすぎてどうにかなりそうだから。

 

「……ありがと、み、宮坂、さん」

「元気出たか?」

「うん」

 

 素直に頷いたあたしに幹人さんはならよし、と笑った。太陽……には届かないけどキラキラした笑顔だった。これがあたしがあげられた笑顔なんだっていうのは、ちょっと自惚れかもしれないけど。

 ──幹人さんが初めて笑顔を浮かべた時はもっと、無理をしてる感じだった。傷ついたあたしに手を差し伸べてるくせに、一番傷だらけなのは彼だった。だからあたしはその傷だらけの手をとって、一緒にその傷を塞いできた。だからあたしも笑えるんだ。

 

「そーいえば、宮坂さんと美咲ちゃんっていつの間にか仲良しでしたけど、なんで?」

「さぁな」

「えー教えてくださいよ~、ね、美咲ちゃんも」

「ナイショです」

「うわ~アヤシイな~」

 

 口には出せないけど、まず順序が逆なんですよ。バイトをして幹人さんと知り合ったんじゃなくて、知り合ったからあたしはこのバイトを始めたんです。歳の差は離れてるし、幹人さんは地元のヒトじゃないし、でも一緒の電車に乗るしってことで、喜多見さんは頑張って推理しようとしてる。けどその順序が逆な限り絶対に分からないと思う。

 結局考えは纏まらなかったようで、喜多見さんはお疲れ様です~と帰っていった。

 

「……送ってかなくていいの?」

「喜多見を?」

「うん」

 

 喜多見さんかわいいし、こんな遅くに一人で帰らせるのはどうなのという意味を込めての言葉だったけど、幹人さんは大丈夫だろ、と駅の方へと歩き始めてしまった。なんでそんなに、とあたしは幹人さんの前に立ちふさがる。

 

「この時間に美咲連れまわす方があぶねーよ」

「そう、かもだけど……」

「それに喜多見は歩いて二分とこに家があるからな」

「……そうなの?」

 

 そう、と幹人さんはからかうように笑ってきた。

 なんで知ってるのか聞いたら、ずいぶん前に送ろうと提案してたらしい。早く言ってよばか。また空回りをしたあたしに、幹人さんはそんなことより腹減ったよとまた笑ってくる。

 

「今日は生姜焼き」

「重いなぁ」

「今日あたしはもう出かける前に食べてきてるから」

「りょーかい」

 

 確かにこの夜に生姜焼きは重い。でも、これから六連勤の誰かさんには、倒れてなんてほしくないから。あたしなりの頑張れって意味がこもってる。

 ──でも、やっぱりあたしは重いのかな、ってちょっと思うことがある。重い女は嫌だ。もっと気楽に過ごせるヒトになりたいな。重くなっても、あたしの想いが幹人さんに届くことは、きっとないんだろうから。

 

 

 

 

 

 



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考えたくない未来

 あたしは、今がすごく幸せだ。ご飯を作ってると、帰ってきておかえりってそれを迎えるのも、一緒に帰ってきて一緒にご飯を食べるのも、その後に行ってきますって手を振るのも、行ってらっしゃいって見送るのも、全部幸せ。あたしは幸せだ。十分に満たされてる。

 ──でも、幹人さんにとっては、どうなんだろう。あたしはあくまで恋人なんかじゃなくて、夫婦ごっこで、本当に幸せなんだろうか。

 

「なぁ、美咲」

「うん?」

「……実は俺さ、この間恋人ができたんだ」

 

 聞きたくない。聞きたくない聞きたくない。そんな幸せそうに笑わないで、嫌だ、やめて。

 あたしを置いていかないで、あたしを独りにしないで。あたしを、惨めな女にしないでよ。なんでダメなの? なんであたしじゃダメなの? あたしだって子どもじゃない、あたしは子どもじゃない! 九歳差だから? あたしに魅力がないから? 

 

「だからもう……こんなごっこ遊びはおしまいにしよう、美咲」

 

 ごっこ遊びでも、あたしは本気だったのに。遊んでたのは幹人さんだけだ。寄り道をしていたのは幹人さんだけだ。やめて、やめてやめてやめてやめてよ! あたしの気持ちはどうなるの? あたしの本気はどうなるの? 

 

「本気? だって美咲は──」

 

 その先は言わないで。幹人さんに言われたくないよ、あたしを助けてくれた、あたしを求めてくれたのに、それなのに! 恋人ができた途端あたしは用済みみたいに捨てられるの? 幹人さんにとってあたしが助けたってことはそんなにも軽いことなの? 嫌だよ、捨てないで、あたしは幹人さんが、幹人さんが……! 

 

「──ただ感傷を俺に押し付けてるだけでしょ? 子どもみたいに泣き縋って、それが恋だなんて勘違いしてるだけだよ」

 

 足元が崩れる感覚がした。彼は嘲笑う。あたしの恋を嗤う。あたしは突き落とされたように暗い奈落に堕とされていく。

 必死に手を伸ばしても、幹人さんには届かない。暗い暗い底まで落ちて堕ちて、オチていく。

 

「美咲? 美咲?」

 

 そこであたしの意識は現実に引き戻された。現実、とは言うけど今までのが夢だということに、あたしはしばらく気付けなかった。目を閉じては開いて、幹人さんを見る。

 ソファでうたたねをしていたことも、幹人さんがお風呂に入ってたことも、思い出せないくらいに夢に没頭していたらしい。

 

「最悪……なにあれ」

 

 汗びっしょり……ってほどじゃなかったけど、まだ心臓がドキドキと早鐘を打っていて、痛いくらいだった。夢か現か、あの夢にあったことが実は現実じゃないかとあたしは怖くなった。

 幹人さんにカノジョができて、あたしが捨てられていくのは、現実? それとも夢?

 ──幹人さんがあたしとの関係をごっこ遊びだと嘲笑っているのは、現実? それとも夢なんだろうか。

 

「みきとさん……あたしは」

「落ち着いたか? うなされてたけど」

 

 動悸が収まらない、息の荒いあたしに幹人さんはホットココアを持ってきた。ありがとう、と言おうとして、こびりついた悪夢があたしを臆病にさせる。幹人さんは心の中であたしを嗤ってるんじゃないか。そんな不信感があたしの胸に広がっていた。

 

「ごめん……」

「美咲?」

「……もう寝る」

「おい、ちょっと?」

 

 ホントは眠りたくなかった。寝れそうになかった。

 またあの悪夢を見る気がして、あたしは幹人さんにとって、ただ家事をしたり仕事を手伝ってくれる女子高生? そこにあたしが好きだなんて言ったら、あんな反応をするの? 

 ──()()、あたしが正しくないなんて言って、あたしを捨てるんだ。

 

「……ごめん、ごめんなさい……ごめんなさい」

 

 その日を最後にあたしは幹人さんの家に行くことをやめた。幹人さんに過剰に手伝いをするのをやめた。連絡を取るのをやめた。

 あたしにとってここは、帰る場所なんかじゃない。ただいまもおかえりも行ってきますも行ってらっしゃいもおはようもおやすみも、全部茶番なんだから。

 あたしも、いい加減大人にならなくちゃ。大人になって、幹人さんを解放してあげなくちゃね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──美咲が帰って来なくなった。いや、本来は美咲の家じゃないんだけどさ。でもそれでもパッタリと来なくなった。

 最初は連絡しようとした。どうした、とか何かあったのか、とか既読が付かなくてもそうやって俺の気持ち、みたいなのを伝えようとした。けど、これがもしもカレシとか気になる男ができたって言うなら、話は別じゃないかと考えた。気になる男がいて、それで冬から今までにかけて通い妻してました、なんて、言いたくねーんじゃねーのかなって。

 いくら俺と美咲に()()()()()()()()がなかったとしても、男にしてみれば嫌なヤツなんじゃないか。

 

「……やっぱり、ごっこはごっこ、ってことか」

 

 自嘲する。夫婦ごっこをしていて、俺はどうやら少しでも、この関係に何かホンモノのようなものを探していたらしい。バカげてる。相手は女子高生だ、有り得ないだろ。そう自分に言い聞かせていたけど、いざいなくなったらこんなにも、こんなにも空虚だとは思わなかった。もしかしたら、その空虚さを持っていたのは俺だけなのかもしれないけど。

 六連勤もあとちょっとだけど、俺はまるで感情が胸からぽっかりといなくなってしまったように疲れたとか、悲しいだとか、そんな気持ちを感じることもなく業務に励み、そして最終日、美咲がバイトに来る日だった。

 

「おはよーございます」

「おはよ」

 

 美咲はちっとも変わる様子もなく、ダウナーな雰囲気そのままに挨拶をして、タイムカードを切ってから更衣室へと向かっていった。

 風呂上りにひどくうなされてる美咲を見つけてから久しぶりに顔を合わせたというのに、美咲は至って何事もなかったのように接してきた。だから余計に俺のことが迷惑になったんだと察しがついた。

 

「それじゃあ喜多見は納品、結構あるからよろしく」

「りょーかいですっ」

「奥沢はレジな」

「わかりました」

 

 それならそれでいいと指示を聞き、事務所を出ていく美咲を見送り、作業に戻ろうとすると、喜多見は少し怒ったような表情で、宮坂さん? と椅子に座った俺の真横に立ってきた。

 

「美咲ちゃんとなんかあったんですか?」

「なんかってなんだよ」

「ケンカとか」

「ばーか、なんで俺がバイトとケンカしなきゃならん」

 

 寝言は寝てから言え、と鋭いところを突いてきた喜多見をあしらおうとすると、そーゆーのは今はいいです。と逆に返された。

 喜多見は前から美咲のことを気に入っていたもんな。そもそも平日とはいえ夜の時間帯を選択する女性の学生アルバイトなんてそれこそ喜多見と美咲くらいだ。それだけ会話も多かった気がする。

 

「あんなぼんやりした美咲ちゃん、初めて見た」

「そうか、いつもと変わらんように見えたけど」

「……それ、本気で言ってます?」

 

 初めて見るような表情だった。いつもにこにこ、もといへらへらしてる印象のある喜多見が怒気を声に含ませている。

 別に誰かに二人の関係を言いふらしたりしませんよと前置きをして、もう一度だけ喜多見は何かあったんですか、と聞き返した。

 

「……なんもねーよ」

「だったらどうして」

「俺が知りてーくらいだよんなこと。風呂上がったらうなされてて、心配したのに自分の部屋に引きこもって、朝はフツーに学校行ったと思ったらそのまま帰ってきてねーんだよ、そんな俺にわかるわけねーだろ」

 

 つい、つい言っちまった。でもここで誤魔化せる気がしなくて、俺は喜多見にぶつけた。その事実に喜多見は驚いた顔をしてから、やがてそっか、と呟いた。あーあ、一応仲が良いこと以上には誰にもバレてなかったんだけど、美咲と同じ場所で働いてる以上、こうなるんだよなぁ。

 

「今の同棲してるっぽい発言は、今度お食事でもしながらゆっくり訊きます」

「……おう、もう喜多見に隠すのはムリそうだからな」

「だから聞きますね、美咲ちゃんとは恋人同士ですか?」

「違う」

 

 違う、それは確実に言えることだ。俺は美咲に恋をしたら部屋を自分ちみてーにしてていいって言ったわけじゃねぇ。

 ──俺のただの感傷だ。それを美咲に押し付けてるだけのちっちゃな男だよ。

 

「……美咲ちゃんも、宮坂さんも、不器用なんですよ」

「不器用?」

「自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手すぎて、いつの間にか相手は察してくれるだろうって逃げてるんです。そんなの、伝わるわけないのに」

 

 喜多見の悔しそうな、悲しそうな言葉にああ、と納得の声を上げた。俺は美咲から気持ちを聞いたことはない。逆に、俺も美咲にちゃんと言葉にしたことはないんじゃないだろうか。

 でもそうだとしても、俺はどう伝えたらいい? 美咲はもう俺から離れていったのに。

 

「……カレシでもできたって、それこそ勝手に決めつけたことじゃないですか!」

「そうだな……」

「宮坂さんも美咲ちゃんもめんどくさいですね」

 

 めんどくさいってな。俺と美咲にも色々あるんだよ。お互いバカみたいに臆病者だからな。だから夫婦ごっこで満足してたのかもしれない。

 ──その先、俺や美咲が別のヒトを見つけた時に、いつでも壊れてもいいように。最初はそんなつもりだったんだけどな。いつの間にか、美咲がかけがえなくなっていくんだから、俺ってのは単純な男だと思う。

 

「美咲ちゃんとお話してきます。多分二人ともめんどくさい勘違いしてると思うんでっ」

 

 喜多見はそう言って事務所から出ていった。いやありがたいけど今は納品してくれた方がもっとありがたいんだけどな。

 残念ながらその思いは口に出していないため、喜多見には届くことがなく、俺は諦めて事務作業に戻っていった。

 

 

 

 



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隠せない本音

 レジ業務は暇な時はとんでもなく暇だ。退屈で、何もしてないくらいなら納品とか発注とか、事務で幹人さんの手伝いをして、それで晩御飯を……ってダメだ。

 また、幹人さんのことを考えた。自然と幹人さんの家に行くことを考えてる自分に嫌悪感が湧いてきた。

 バイトも、正直顔を合わせたくない。いつも通りの幹人さんを見てると、あたしの妄想じみた考えが事実だって突き付けられているようで、キツい。

 

「やめよっかな……バイトも」

 

 元々このバイトだって、幹人さんの状況を知って助けになればと思って応募したようなものだし。ここにいる意味もないんじゃないかって思う。同時に、あたしの生活の半分以上が失われていくような感覚が、辛い。

 でも、あたしがこの気持ちを持ってることが幹人さんにとって邪魔なら、あたしはもう、あそこにはいられないから。

 

「暇そーだね~、美咲ちゃん」

「……喜多見さん」

 

 そんなあたしの前に喜多見さんが現れた。いつも通りにこにこ、というよりはヘラヘラって言ってもいい、あんまり真面目じゃない態度なのに妙に圧力の感じる瞳であたしを射抜いてきた。

 

「サボっちゃダメですよ、納品しないと」

「納品はしなきゃだけどさ、それより美咲ちゃんかなーって」

「……あたし、ですか」

「そ、今日全然元気ないからさ」

 

 幹人さんじゃなくて喜多見さんが来たか。

 夜まで入る数少ない同性のバイト。だから喜多見さんはあたしのことをよく見ていてくれた。もともと納品とかレジ業務とかの指導をしてくれたのは基本的に喜多見さんだったし、だから一番最初に幹人さんとの関係に気づきかけてたのもこのヒトだった。

 ──ヘラヘラにやけながらさ、美咲ちゃんって宮坂さんのこと好きなの? って訊かれた時にはどうしようかと思ったよ。

 

「ケンカ中?」

「……え、いや、ケンカじゃないですよ」

「そう? だっていつもだったら視線でイチャイチャしてるのに」

「そんなことしてません」

 

 してない。して、ないよね? そもそも視線で会話なんてしてないし、あたしが残業した方がよさそうだって思った時に幹人さんが必死に睨んで帰れってオーラを出すくらい……って心当たりあったね。イチャイチャしてるつもりは全然なかったんだけど。

 

「カレシできたの?」

「できてませんよ」

 

 幹人さんはカレシじゃないってば、という意味を込めた一言。その内心が伝わったのか喜多見さんはほらやっぱり、と少しだけ怖い顔で笑ってきた。なに、幹人さんと何かありましたか? なんか出てくるの遅かったし、もしかして幹人さんが何かやらかしたとか? セクハラ? パワハラ? モラハラ? 

 そんな風に訝しんでいると、喜多見さんは急に笑いを堪えるように口許を抑え、その場にしゃがみこんだ。どうでもいいけどそれ、吐きそうになってるようにも見えますね。

 

「ふっ、ふふ……! ホント、美咲ちゃんってめんどうな性格してるけど面白いよねぇ」

「貶してますか?」

「褒めてるんだよ~」

 

 絶対嘘だ。めんどうな性格してるけど面白いって、それはあたしの中では褒め言葉に分類しないんですよ、驚くほど褒められてる実感ないし嬉しくもなんともないです。そんなことより、カレシってどういうこと? というか幹人さんと何の話したらそういう話になったんですか? 

 

「……み、えっと、宮坂さんがなんか言ってたんですか?」

「いや、あはは、美咲ちゃんがカレシでもできたかもーって弱ってたから」

「……は?」

 

 何を勘違いしてるのあのヒト。カレシ? 何がどうなってその話になったの? そう問いかけたい気持ちでいっぱいになった。

 だから幹人さんは何も言わないの? だから追いかけてこないで、あたしを放置してるの? ん? あれ、幹人さんがカレシができたと勘違いしてるってことは、幹人さんはあたしのこと、迷惑だなんて思ってないの? 

 

「ねね、今日さ、うちに泊まりに来ない?」

「……え?」

 

 唐突に喜多見さんはそんなことをあたしに言ってきた。お姉さんに話聞かせてよ、なんていたずらっぽく言う喜多見さんにあたしは疑念が絶えない。まって、幹人さんどこまで話したの? というかどういう流れでその話になってるの? 

 

「その辺も知りたければ、うちに来てください」

「……ずるい言い方ですね」

 

 ホントにその言い方はずるい。あたしはずっと、喜多見さんを羨んでる部分があるのに。今年21歳の喜多見さんと幹人さんの年齢差はあたしより遥かに縮まった五歳差。夫婦ごっこどまりの九歳差にもどかしいのに、幹人さんはいつも言うんだ。

 ──あと()()()()()()()()()()()って。幹人さんが許容できる歳差は、五歳差。だからあたしは喜多見さんが羨ましいし、どこかで妬んでるのに。

 

「今日はズルしてでも聞きたいからだよ~」

「……あたしの話なんて大して面白くないですよ?」

「面白いよ~」

 

 苦笑いをする。美咲ちゃんの恋バナーとにやける喜多見さんは、恋バナ好きでした、忘れてました。

 逃げ場はないだろうと察したからわかりました、と頷いた。どのみち、幹人さんの家には帰れないし、喜多見さんが知ってることがあるなら聞きたい。逃げ出したあたしが言うのはなんだけど、いざこうやって帰らなくなって、まるで胸に穴が開いたみたいな空虚さがあるから。やっぱり依存してるなって自嘲したくなった。

 ──これじゃ感傷を押し付けてるだけって言われて当然だよね。

 

「それじゃあレジ代わるね」

「……納品は?」

「あ……ごめんね」

 

 はぁ、と溜息をついた。普段は結構しっかりとしてるヒトなんだけど、まぁ、今日くらいはいいですよ、とあたしは喜多見さんとレジを代わった。

 ──そのあとに幹人さんのことを散々聞かされたあたしは、不覚にも泣いてしまうんだけど、それはまぁ……恥ずかしいから割愛させて。ただひとつ言っておくとばーかばーかって言いたくなった。言いたい、ホントに、絶対次顔を合わせたらばーかって言いたい。言ってやる。

 

「仲直りしたら今度は美咲ちゃんの料理食べてみたいなぁ」

「それじゃあみ、宮坂さんの家に行けば食べますよ」

「幹人さん、でしょう?」

「呼べないんですってば!」

 

 いつもは妹や弟がいるせいかな、喜多見さんはお姉ちゃんみたいな安心感があった。ぎゅっと抱きしめてくれて、大丈夫、大丈夫だよ、なんて子どもみたいにあやされて、あたしはうとうとと眠りにつきかけていた。

 

「ね、美咲ちゃん?」

「喜多見さん……? なんですか?」

美幸(みゆき)って呼んでよ」

 

 それが喜多見さんの名前を指すことはわかっていた。けど、いいんですか? と問いかける。喜多見さんはもちろん、仕事中に呼んでもいいし、バイトが終わったら呼んでほしいなって思うなって微笑んだ。

 

「私は美咲ちゃんの味方で……宮坂さんの味方だから」

「……ダメですよ、みきとさんはあたしを女として見てませんって」

「……そうだね」

 

 肯定された。やっぱりそうなんだろうなって思った。けど、それはあくまで強くそう思い込んでるだけって可能性もあるよ、と喜多見……美幸さんは精一杯のフォローをしてくれる。

 いいんだ。幹人さんがあたしを置いていってしまうわけじゃないと知ることができたから、思い込んでるその九歳差の壁を壊せるのは、あたしだけだから。

 

「美幸さん」

「んー?」

「あたし、まだ夫婦ごっこを続けます……幹人さんに、想いが届くように」

「その意気だよ、美咲ちゃん」

 

 今まで誰にも言ったことのなかった、幹人さんを好きだって想い。それを美幸さんに話しただけでこんなにも心が軽くなった。ヒトに怪訝な顔をされるだろう夫婦ごっこのことを話して、否定しなかった美幸さんに……あたしは救われていた。

 ──誰かとわかりあうこと。誰かを理解すること。誰かに理解してもらうこと。それがきっと、笑顔を届けられるってこと。こころはそれが無自覚にできてるんだなーってこともなんとなくわかった。

 

「私もライブ行きたいな。美咲ちゃんのカッコいいDJさばき、見てみたいな~」

「あはは、あたしキグルミですけどね」

 

 傷だらけだったあたしが見つけた居場所は、思わぬところで新しい縁を繋いでいたみたいだ。美幸さんは、もうあたしにとってただのバイトの先輩じゃなくなってた。

 でも、だからこそ少しだけヤキモチもあります。幹人さんが美幸さんには弱ってるところを見せたってこと。美幸さんの方が幹人さんと働いてる期間が長いからそうなのかもしれないけど、これからも幹人さんにおかえりって言うのはあたしなのに、って思っちゃうんだよね。

 ──寝る前に重い嫉妬を漏らしたあたしに、美幸さんは美咲ちゃんはかわいいな~、とまたあたしを抱き寄せて、頭を撫でてくれた。美幸さんの香りは甘くて、優しくて、ここしばらく寝るのが怖かったはずなのに、あたしはいつの間にか眠っていた。

 その日見た夢は悪夢なんかじゃなくて、約束したデートをする夢だったから、あたしは次の日の朝、すっかりその夢の内容を忘れたんだけど。まぁ幸せだってことは覚えてたから、それがうれしくてあたしは溜息をついた。

 

 



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止まらない紅涙

 翌日、幹人さんが休みということもあってあたしはさっそく、学校が終わったらそっちに行くからと連絡を送った。

 美幸さんに吐き出して、あたしはもう吹っ切れた。もう迷いたくない。迷ったら負けな気がする。

 ──とはいえ、いざ幹人さんと対面すると思うと溜息が出るんだけど。ああ、あたしはホントに意気地なしだ。

 

「美咲、なんだかお腹が痛そうな顔してるわ!」

「……そりゃどーも」

 

 実際胃が痛くなりそうなんだけど、あ、店の試供品の胃痛薬あったな……あ、でもストレス性じゃないからダメだ。ってそうじゃなくて、こころがあたしの顔を覗き込んでいた。お昼の時間、こころとはぐみと約束してたんだった。

 

「大丈夫だよ、こころ」

「そう? 彼と何かあったの?」

「……まぁ、あったといえばあった」

「え、みーくんカレシ?」

 

 ちょうどタイミングのいいところではぐみが登場、あたしはカレシじゃないってとツッコミをしながら、中庭に移動し始めた。はぐみはなんだか目を光らせてねぇねぇ、こころんの言ってたカレって誰? とあたしに疑問を投げかけてきた。うえ、はぐみって案外こーゆーハナシ興味あるんだ。しまったな。

 

「カレは宮坂幹人って名前なの、美咲のバイト先のヒトなのよ」

「そーなんだ!」

「ちょ、こころ」

「いいじゃない!」

 

 よくないじゃない! あたしはともかく幹人さんは隠してきてるのに、というかそれで今日来るとか言ったらややこしいどころの騒ぎじゃないからね? そんな風にこころの口を塞ぎながらなんとかはぐみをやり過ごしていると、そーなんだ、と後ろからほんわかした声があたしの耳朶を打った。

 

「その話、私も聞きたいなあ」

「……うげ、花音さん」

「その反応はちょっと傷つくよ……美咲ちゃん?」

 

 しまった。花音さんにも説明せずに逃げてたんだった。あれ、これ薫さんも知ることになってハロハピコンプリートの流れかな? あはは、あはははは……笑えないんですけど。

 花音さんが広げたレジャーシートにおじゃましますと座って、あたしに微笑んだ。あ、あれー、花音さんもしかして怒ってます? 怒っちゃってますよね? 

 

「うふふ」

「……すみません。説明する暇もなくて」

「いいよ、美咲ちゃんが話してくれなかったら千聖ちゃんと喫茶店に誘うだけだもん」

 

 花音さん、ヒトはそれを尋問と呼びます。とんでもなく逃げ場のない中で、あたしの味方は誰もおらず、あたしはそれとなく事情を説明した。

 はぐみは目を輝かせて、こころはなんだか穏やかな表情で、花音さんは納得しきれてない感じであたしの話を聞いてくれた。

 

「美咲ちゃんは、そのヒトのこと……好きなの?」

「はい……って言っても、それに確固たる自信があるわけじゃないんですけど」

「ううん、好きに自信とかいらないんじゃないかな……?」

 

 私だって、ドラムもそういうところから始めたわけだし、と注釈してくれる花音さん。そこにはぐみがちょっとだけ憧れているように、好きになるってどんな感じ? と訊ねてきた。うーん、そー言われるとあたしとしてもどんな感じかは言いにくいな、あたしって特殊な恋してると思うしなぁ。

 

「んー、なんだろ、ずーっと一緒にいたくなる……感じかな」

「そっかぁ」

「あたしも、その辺あんまりわかってないし……でも、好きって気持ちはホント」

「素敵だわ!」

「……こころ?」

 

 あたしの照れ交じりの言葉に反応したのは花音さんでもなくはぐみでもなく、こころだった。瞳をいつもの如く、いやいつもの二割増しくらいの太陽の輝きを宿しながら立ち上がった。え、なに? 

 

「だって、美咲の表情がとても素敵だもの!」

「……変わってる?」

「ええ! きらきらしてるもの!」

 

 こころには違いがあったらしい。すごく元気いっぱいになって、こころはうずうずしだして、ついにグッと足に力を込めて芝生の上でバック宙をした。いやいや、なんで? こころは本当に時折行動が突飛でついていけない……じゃなくて! 

 

「う~ん、なんだかとっても動きたくなったの!」

「そ、そっか……ごめん全然わかんない」

 

 そんな感じで、あたしの昼休みは半ば尋問のような質問攻めで終わっていった。花音さんには今言ったことは白鷺せんぱいにも話してもいいことを伝えて、解散した。はぐみには口止めしても無駄な気がするけど一応内緒にしといてねと言い含めておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そわそわと部屋を行ったり来たりすること数分。漸くチャイムが鳴って俺は美咲を部屋に招き入れた。

 そわそわすんのも、美咲が来てチャイムが鳴るのも、久しぶりすぎて、変に緊張しちまう。と、同時に話したいこと、という事前の連絡と、おじゃましますという言葉に少しの痛みを感じた。

 

「どうぞ」

「どうも」

 

 久しぶりに顔を合わせた気がするけど、その表情が俺の気のせいかもしれないけど、他人に感じてしまって、俺はこの胸の衝動をなんとか堪えた。

 喜多見からはなんのヒントも貰えなかった。いやほぼ答えに近いヒントとして、昨日の美咲と喜多見が一緒に帰っていくときに、じゃ、女二人で恋バナしますんで、と言われたからな。ただ、やっぱりいなくなるってわかるのは怖い。美咲が、いなくなるってことが怖い。

 

「……お茶、いるか?」

「いい」

「そっか……」

 

 でも、俺は覚悟を決めないといけないのかもしれない。美咲はあいつじゃないから。美咲は美咲の恋があるなら俺は嫌だと言う側じゃなくて応援する側じゃないといけないんだから。

 ──二人でいつも食べていた机で向き合う。長い沈黙があって、そんな静寂を切り裂いたのは、やはり話があると言った美咲の方だった。

 

「あのさ……」

「……なに?」

「この間のこと……ごめん」

 

 頭を下げる美咲に、それはいいと返事をする。あのうなされた夢が何かあったなんて思ってもないし、俺としてはその時に美咲になにもしてやれなかったし、俺がごめんって言いたいくらいだ。

 

「みき……ん、宮坂さんは悪くないよ。あたしが勝手に、夢と現実がごっちゃになっちゃっただけ」

「そうなのか……?」

「うん……実はさ」

 

 そう言って、美咲はやや震える声で夢の内容を教えてくれた。いつもの日の中で俺が突然美咲に対して恋人ができたことを告白する夢、美咲のことを感傷を押し付けてるだけの夫婦ごっこだと断じた夢を見たこと。その間に何かを隠してるような感じがあったけど、俺が予想してたこととは全く逆の言葉に、驚きの声を上げてしまった。

 

「……どしたの?」

「いや……てっきり」

「あたしにカレシができて愛想を尽かしたと思った?」

「……喜多見から聞いたのか」

 

 うん、と返事をする美咲。おのれ喜多見、アイツ美咲にべらべらとしゃべりやがって。恋バナってのも完全にブラフじゃねーか紛らわしい言い方だな。

 ──だが、その肯定で疑問、誤解、全てが氷解し、俺は笑うことができた。張りつめてたものが緩む感じがした。

 

「びっくりさせんなよ……俺は、美咲がてっきりそれで今までの関係がヤバくなったのかと」

「……それで、あたしの前ではフツーでいようとしたの?」

 

 その問いかけに俺はそりゃあな、と答えた。美咲が俺のことをなかったことにしねーと新しい恋が始められねーってんなら、俺はそういう態度を取る。そう決めてたからな。

 すると、美咲はばーかと肘をついて笑った。

 

「寂しいならそう言ってよばーか」

「なんだと? だいたいお前が──」

「──あたしは寂しかった」

 

 お前が何も言わねーから、と大人気なく詰ろうとしたところで、美咲は急に年下の顔で内心を露わにしてきた。

 じっと俺を見つめ、その瞳がだんだんと潤んでいく。涙が溜まって、頬を伝い始めていた。

 

「あたし、みきとさんに、きょぜつされた……って思って、寂しかった……っ、寂しかった……から」

「……美咲」

「どこにもいかないで……あたしの、近くにいて……みきとさん」

 

 項垂れた頭に手を伸ばして撫で、それじゃ足りないと俺は机の反対側まで行き、美咲を抱き寄せた。

 ──あの時だって、初めて美咲と会った時だってこんなにわんわんと泣いたりしなかった。堪えるように、押し殺すように鼻を鳴らしていた。それだけは鮮烈に記憶に刻まれてる。なのに、目の前にいるコイツは、まるで幼い子どものように声を上げて泣いた。俺の腹に顔をうずめて、安心したようにしばらく泣き続けていた。

 

「……あはは、こんなにめっちゃ泣いたの、久しぶりかも」

「ごめんな美咲……俺」

「いーの。あたしはもう謝ってほしいわけじゃないからさ」

「……わかった。ならもうちょっと甘えててもいい」

「ダメ、今日はご飯作んないと。どーせロクなの食べてないでしょ?」

 

 図星だったから何も言えなかった。けど、美咲も嫌がってる様子はなかったからお願いするよと笑った。

 ──じゃあパスタね。トマトソースの。そうやって目元を赤くした美咲が笑って、立ち上がって、最後に一度だけ俺に抱き着いてからいつものようにフライパンを取り出していく。

 初めて作ってくれた時と同じトマトソースのパスタは、今日は少しだけしょっぱかった気がした。

 

 

 

 

 

 

 



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収まらない狂騒

「おはよーございまー……って、おやおやぁ?」

 

 喜多見は事務所に入ってくるなり口許に手を当ててにやにや笑いをしだした。ああ、はいはい、仲直りしましたとも。喜多見の目論見通りで大変よろしゅうございますね。俺がケンカってことになるのか、とりあえずギクシャクしてた相手の奥沢美咲は、喜多見よりも早くに来て、俺の隣で事務作業に口を出している最中だった。

 

「すっかり仲良しかぁ」

「美幸さん、おはよーございます。おかげさまで」

「よかったよかった」

 

 あれ以来、美咲はふっきれたように俺の傍にやってくるようになった。今だって喜多見がいるっつうのに、俺の肩に美咲が頭を置いてるんだからな。喜多見はものすごい輝く笑顔で俺の方を見てきた。

 

「喜多見が期待してるようなことはないんだけどな」

「えー」

「ごめんなさい、期待外れで」

 

 美咲も口添えをすると、そんなことないよー、と美咲に抱き着いた。そのせいで自然と距離が近くなった喜多見から、ほっとするような甘さのある香りが鼻腔をくすぐった。美咲のなんつうか素朴な、甘いと言うよりは大分シャンプーそのままの匂いとは違う、部屋のアロマか、それともコロンかって感じの匂いだった。

 

「幹人さん?」

「なんだよ」

「手が止まってる」

 

 しまったと俺は喜多見の匂い考察から一旦抜け出していく。

 ──そうそう、美咲はあの時以来から幹人さんって俺のことを呼ぶようになった。何やら心境の変化があったのはわからねーけど、悪くはない。そして、今まで名前を呼ぶときにもごもご言ってた正体も判明してすっきりしたしな。

 

「じゃなくて、はい夕礼始める」

「はーい」

「りょーかいです」

 

 少しだけ変わりながら、俺と美咲の日常は再び動き始めた。九歳差という壁は未だ健在な俺たちは恋人未満で、せいぜい夫婦ごっこな関係だけどな。それはそれで、俺と美咲らしくていい感じだと思うけどな。

 喜多見のやつは、なーんか、思ったのと違いますね、と苦笑いをしていた。なんだよ、女子高生に手を出せってのか。犯罪者にはなりたくないんでね。

 

「ま、その辺の事情は今日、たっぷりと聞かせてもらいますね?」

 

 ──そうだった。すっかり忘れてたけど、今日はこの五歳年下のバイト、喜多見美幸が俺の部屋へとやってくる日だった。

 家のキレイ汚いは問題ない。なにせ暇さえありゃ美咲が掃除してるからな。問題はそこで話さなきゃならない内容ってのがまぁ……俺や美咲にとっては少しだけ辛い内容ってだけで。喜多見のやつはそんなことだと微塵にも考えてねーのが悪い。

 

「とりあえずレジ行ってこい」

「はーい」

 

 へらへらとしてるようで、あの時の反応はやっぱり俺が信用して仕事を任せてるヤツの一人なんだなって印象なんだけどな。接客をしながら俺はなんの気なしに、プライベートに近づいてきた喜多見を観察していた。

 すると、後ろから背骨と筋肉の間を小突かれ、俺はそのあまりの痛みに目を見開いた。

 

「いっ……なにすんだよ、みさ、奥沢!」

「別に、ぼーっとしてるんで、仕事はいーんですか~って聞こうと思っただけですよ、宮坂さん?」

 

 きちんと仕事では宮坂さんと呼び分けてくるクソ生意気な女子高生バイトを睨みつけるが、美咲はふっと鼻で笑ったまま納品へと向かっていってしまった。

 あの野郎、なんだかんだで俺が雇い主会社の責任者だってこと忘れてんじゃねーだろうな、やめさすぞこの。いやまぁ貴重な戦力だし真面目に働くしお客の反応も上々だからやめさせれそうな要素がねーけど。

 そんな裏表のある態度に俺がまた睨みつけると、今度は何故かめちゃくちゃご機嫌ですれ違いざまに俺にいつもの罵倒を投げかけてきた。

 

「ばーか」

 

 出た出た。久々に聞くとその言葉でも最高に幸せになれるから人間の脳ってマジで案外単純にできてんだな、と思った。

 なによりも美咲が俺にむかってご機嫌そうな顔をしてくるってのがホントに最高すぎて、奥さんにデレデレしてないで早く仕事してくださいとレジをやってた喜多見に怒られた。奥さんじゃなくて奥沢な。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 美咲と喜多見が参加してから、あっという間に四時間が経過した。事務作業をしてくれていた美咲が待つ事務所の扉を開き、俺はあー、と気を抜きつつの声を上げた。そろそろ五月だから客入りが増えてきてるからな、閉店間際にも結構ヒトが来る。みんなゴールデンウイークには出かけるか一歩も出かけねーかの極端な二択なんだなと思い知らされた。接客業に連休はありません。

 

「さて、じゃあ道案内よろしくね美咲ちゃん」

「りょーかいです」

「いや家主俺なんだけど」

 

 なんだかんだでこの三人で上がることが多かったが、こうして喜多見まで同じ方面を歩いて電車に乗るというのは初めてだから新鮮な気分だった。全部知ってて、事情を説明してほしいだけって喜多見が相手とはいえ、当然俺は美咲に対してぎこちない態度になってしまう。

 

「なぁ美咲、今日は何作るんだ?」

「……ふふ、ばーか」

「ばかってなんだばかって。お前はばかでも作るのかよ」

「いやいや。なんか幹人さんがいつもと違うから言いたかっただけだから」

「いやそれでばーかをチョイスする意味なくないか?」

「なんでもいいでしょ、ばーか」

「お前また」

 

 けど美咲の煽り文句がきっかけで圧倒言う間に演技をはがされ、喜多見はその様子が心底おかしかったのか声を押し殺して笑っていた。いやそこで笑われるのは納得できない。おかしな要素どこにもなかったはずなんだけど。

 

「ホントに二人は夫婦ごっこしてきたんだなぁって思ったら、笑えてきちゃいますね」

「愚かしくてか?」

「そんな怖い言い方しないでくださいよ。楽しいんですよ、見てて」

 

 楽しいも意味がわからないから。美咲はこんなんしょっちゅうですよ、なんて喜多見に言いつけていた。やめろ、俺が九歳差と同レベルでケンカしてるバカだと思われるだろ、と思ったら既に思われてる気がした。手遅れだな、こりゃ。

 

「今日は美幸さんのリクエストでハンバーグです。時間かかるんで手伝ってもらってもいいですか?」

「ホントに? 手伝う手伝う!」

 

 こねる~、と仕事中よりも更に軽い態度で喜多見は美咲と楽しげに雑談している。美咲も、ちょっと年上の姉貴ができたかのように俺といる時とは違う顔をしている。そして、俺もこうやって三人でいるのは、思いのほかテンションが上がることに気付かされた。

 

「電車代、いいんですか?」

「もちもち! ってか美咲ちゃん、定期とか使えないんだ?」

「あー、はい。だからいつも家からこのマンションまでは自転車かローカル線だし、バイトの交通費も微々たるもんですから」

「えー、なんとかなんないんですか?」

 

 なってたらとっくに申請してるっつーの、と俺は即座に返す。美咲を採用するにあたって一番店長に言われたことでもあるんだ。それをちゃんと伝えた時に、初めて美咲が俺の仕事先のバイトを希望したかを知ったんだけどな。

 

「どーやって返事したの?」

「あたしは幹人さん……当時は宮坂さんでしたけど、とにかく、その仕事が辛いなら、あの部屋と一緒で、わけさせてほしいってだけ」

「なにそれ、めっちゃイケメンな発言じゃん」

「あはは……あの時は必死でしたから」

 

 必死だったな確かに。俺も美咲も必死だった。自分自身がこの世界にとって正しくないものなんかじゃないって証明するのに必死で、だからお互いの抱えてるものを全て分割した。そんなことをしてもお互いの重荷なんて軽減できねーのに、ただがむしゃらに。

 ──と、その辺の話はハンバーグができてからしゃべってやった。マジで余すことなく全部、冬にお互いに出逢ってから今日までやってきた愚策とそれで得られた今の安息っつー結果を、つぶさに、誤魔化すことなく。結果喜多見はマジで反省したように頭を下げた。そうなるだろうと思ってた俺と美咲はほぼ同時に言ってやるんだけどな。

 

「謝ってほしくて話したわけじゃないですよ」

「俺は喜多見を信用してこの話をしたんだ。美咲と俺を助けてくれたお前をな」

 

 息の合った俺と美咲の言葉に、喜多見は笑顔を浮かべた。そして俺が先に風呂をもらい、例のごとく美咲が美幸さんの入ったお湯に幹人さん入れたくないです、なんてことを言い出したから俺が先で、美咲と喜多見が後で一緒に入った。途中で美咲の艶やかなピンク色の声が聞こえたが聞こえないフリを貫き通した。何故か美咲には顔を真っ赤にしてばかと言われたけどな。

 

「それで? 私はどこに寝ればいいんですか? ソファ?」

「いや美幸さんはあたしと一緒に寝ましょう」

「え?」

「え?」

 

 美咲が喜多見の反応になんですか? と問い返した。

 就寝の場所はなんなら美咲と喜多見に俺のベッドを貸そうかとも提案したが美咲に拒否されたため、狭いものの美咲のベッドで二人で寝るということに決まっていた。

 

「美咲ちゃんって宮坂さんと一緒に寝てるんじゃないんだ」

「ね、ねね寝てませんよ!? なに言ってるんですか!」

「そうだ、美咲はこの間が久しぶり──ぐふっ」

 

 余計なことは言わないでと鳩尾に肘を入れられた。俺としては別になんの気なしの言葉だったがどうやら喜多見としては面白い話だったようでニマニマと笑って、あれーこの間は一緒に寝たんだぁ、聞いてないなぁ、と美咲を煽っていた。

 ──二人から三人になって騒がしくなった。そして、ここに更ににぎやかしがやってくることになる。

 キーワードは金色、太陽、そして……世界を笑顔に。そうすると一冊の本が出てくるわけだ。弦巻こころ、と名前の入った本が。

 

 

 



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放っておけない仲間

 ことの始まりは、美幸さんが泊まってから少しした頃、GWが過ぎたくらいの話だった。あたしはGW中は本業のキグルミバイトにハロハピと忙しく過ごしていて、その途中にも一度花音さんに話をしたことだった。

 宮坂幹人さんという人物について。花音さんは少しだけ心配そうにあたしの話を聞いていたような気がする。そしてGWが明けて、すぐに花音さんはあたしと()()()()()()ご飯を誘ってきた。

 

「……やっぱり、私、心配だよ」

「それって……あたしのことですか?」

「うん……」

 

 箸で器用に一粒一粒豆をつまんで口に運びながら、花音さんはポツリとそう零した。正直、あたしにはその花音さんの心配、がよくわからない。確かにバイトに部活にハロハピで忙しいけど、あたしはそれをどれも楽しくてやってる。忙しいってよりは充実してる気がする。勉強は時々幹人さんや美幸さんに教えてもらえるからむしろ成績はちょっとだけ伸びたくらいだ。

 

「……だからあんまりピンとこないです。花音さんの心配が」

「えっとね……そうじゃなくてね、その、相手の宮坂さんってヒト、26歳なんだよね?」

「今年でそうですね、26です」

「……九歳差、なんだよね?」

 

 あー、えっと、なんとなく花音さんの言いたいことがわかった気がする。あたしは17歳の女子高生で、向こうは26歳の社会人。価値観も社会的責任もなにもかもがかけ離れてる9歳差において、向こうがあたしを部屋に招いているということが、花音さんには怖いことなんだ。たぶんそれ以上に女子高生と夫婦ごっこなんていう特別な関係を築けてしまう20代後半の男、ってところに怖さを持ってるんだ。

 

「大丈夫ですよ。幹人さんは()()()()から。それは確信してます」

「……そう?」

「なんなら花音さんにご飯、作りますよ?」

 

 それは遠回しに自分の目で確かめてほしいって言葉だった。あたしがいくら擁護してても、騙されてるって言われたらそれまでだし、それこそ身体の関係とかそういうのじゃないって言っても、その真実を知ることができるのはあたしと幹人さんだけだから。

 

「あたしもおすすめするわよ、花音」

「ふぇ?」

「こころ」

「あたしも行くもの、安心して!」

 

 こころ、あのさ、一ついい? あたしと花音さんを見つけて駆け寄ってきてくれたのもいいし、難しい花音さんの背中を押すような言葉をかけてくれたのも嬉しい。嬉しんだけどなんで? なんでこころが付いてくることになるの? 

 

「あたし、まだ美咲のご飯は食べれてないわ!」

「いや昼に時々あたしの弁当食べるじゃん」

「そうじゃないの!」

 

 知ってる知ってる。あの時こころは用事があったから抜けただけで、本人としてはあのままあたしのご飯食べる気満々だったもんね。でもそんなこころのおかげで迷ってた花音さんは、うん、そうだよね、と頷いてくれた。

 

「こころちゃんもいるなら……自分の目で確かめてみるね」

「はい、それじゃあ今日の部活後でもいいですか? バイトとかは……」

「大丈夫、私も今日は部活だけだから」

「あたしは家に帰ってこの間のお礼に何か渡せないか探してくるわ!」

「それじゃあチョコ系かな、あのヒト結構好きだし」

「わかったわ!」

 

 こうして、こころは2度目の、そして花音さんは初めての幹人さんの家へ訪問することになった。しょーじき、ヤキモチを妬いてる自分もいるけど、腹立たしいことに、あたしと同じく九歳差のこころと、八歳差の花音さんは対象外だろうから、まだいいけど。それより最近美幸さんと幹人さんが話してるのをよく見かける方が気になるから今度美幸さんに問い詰めて……もとい何かあったのか訊いておこう。

 連絡を受けた幹人さんは休みなのに、とぼやいていた。まぁまぁ、花音さんもかわいいから目の保養にはなるよと返すと、女子高生だろーがばかと返事が来た。うっさい、どーせかわいくないし女子高生ですよばーか! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 接客業で、俺が店長代理である以上、休みの最中であっても連絡が来ることはある。まぁ絶対に社員が俺ともう一人、もしくは時々店長のどっちかがラストまでいるからいいんだけど、それでも事務作業中でいなかったり、俺が預かってた案件だったりすると電話は来る。

 

「ああ、うん。悪いな喜多見」

「ホントですよ、マジで焦りましたから。こっちは新人研修中なんですよ?」

「悪かったって」

 

 今回はお客さんの個別注文の商品に関連するものを俺が他のメンバーにフィードバックできてなかったために、予定より早くやってきたお客さんに手間取ったという文句つきで喜多見からの電話に応えていた。お客さんは全然怒ってなかったのが幸いだったな。危なかった。

 

「もう今日もそっち行って美咲ちゃんに癒してもらおっかな~」

「今日は美咲の友達が来るんだ、悪いな」

「うへ、じゃあまた今度ですね」

「美咲に言えよ、それは」

 

 それで機嫌が回復した、というか満足したらしい喜多見はそれじゃあ失礼します、と電話を切った。一応美咲に連絡しておこう。最近新人バイトの話をよく聞くが、俺より一応同性の声を聞いたほうがいいだろうからな。

 ──そういや、美咲も先輩か。ちょっと前まで、四月のバイトが入ってくるまで美咲が一番後輩だったんだよなと思いながら俺は最近賑やかになったバイト先を思い浮かべた。合計で新人が三人。これで美咲が店に出てまで残業することも減らせるわけだ、安心安心。

 

「ただいまー」

「え、み、美咲ちゃん?」

 

 と、噂をすればなんとやら美咲の声と、何やら戸惑う声が聞こえてきた。やっぱり美咲のただいまは俺を元気にしてくれる魔力みたいなのがあるな、丁度喜多見の愚痴に付き合わされて溜息でもつきたかった気分だが、そんなのも吹き飛んだよ。

 

「お、おじゃま……します……」

「おじゃまするわね!」

「いらっしゃい、弦巻さんに……キミが松原さん?」

「あ、はい……松原、花音……です」

 

 確かに美咲の言った通りかわいい子だなとは思うけど、相手は女子高生なんで対象外です。十八歳未満じゃなくても彼女は紛れもない花咲川の制服で、見慣れてるけどまた美咲が身にまとってるのとは違って緊張感がある。なにせ一歩間違えれば警察に通報されてマストダイ、だから。

 

「花音! 緊張することはないわよ」

「いやいや、それは無茶でしょ……まぁ、花音さんはテキトーに座って。お茶出しますから」

「そうだわ! チョコを持ってきたの! この間のお礼よ!」

「お、サンキュー」

 

 チョコってのは美咲のチョイスだな、ナイスだ美咲。疲れた頭にはチョコが落ち着くんだよ。糖類だし疲れにはいいカフェインも入ってるしで俺は好きなんだよ。もちろん味もな。特にお高い、今こころが持ってるみたいなチョコをつまみながらってのは仕事の効率もよくなるから最高だな。

 

「松原さんもどうぞ? 紅茶にも合っておいしいよ」

「あ、ありがとうございます……ん、おいしい」

 

 そしてその甘さは女の子を虜にする。特に松原さんは美咲によると喫茶店巡りが趣味らしく、同時に紅茶党だ。紅茶党ってことはチョコレートは大体合うんだよな。そう思って甘味と一緒に飲むとおいしいって勧められた種類のヤツを買ってきただけはある。

 

「あんまり食べないでよ、今作ってるんだから」

「わかってるよ、これはゆっくり食べるんだから」

 

 弦巻さんはわくわくといった様子で美咲の料理を眺めてて、俺はその間に松原さんと向き直った。おどおどしていて、でも後輩であり仲間である美咲のことが心配で勇気をもってこんなところまでやってきた。その勇気には報いなきゃな。

 

「美咲は、安定してるよ」

「……え?」

「ああやっていつもごはん作ってくれて、世話を焼いてくれて、笑ってる」

「笑って……」

「めっちゃくちゃ素直に笑ってくれるようになった、あんなふうにさ」

 

 俺の指の方向に松原さんの顔が向く。弦巻さんに見られてすごいわ、なんてキラキラした瞳をぶつけられた美咲は、はいはいとか言いながら口許が緩んでいたし目尻が下がってた。弦巻さんもきっとそれがわかっているから余計にキラキラした目で見てるんだろうと思う。

 ──俺が美咲の笑顔のもとになってる。それだけは誇ろうって、ついこの間から決めてるからな。

 

「そう……ですか」

「美咲を知ってる松原さんが疑う気持ちは十分にわかるし、なんならつい最近まで俺自身も疑ってたくらいだけど……俺は、松原さんが心配になるようなことはしない」

「……信じてもいいですか? 美咲ちゃんを任せても……大丈夫ですか?」

「もちろん」

 

 まったく、美咲は愛されてんな。ちょっと妬けるよ。こんなに美咲を見てくれる先輩がいるんなら俺なんかいらなかったんじゃねーかとすら思えるくらいだ。

 でも、理想はどうあれ現実はこうしてそんな美咲を見守って心配してくれる松原さんから、美咲を託される結果になった。夫婦ごっこなんて誰にも理解なんかされねーはずのこの関係を松原さんはわかりました、って言ってくれた。それに俺は応えていかなきゃな。

 

「そろそろできるから幹人さんお皿出して」

「りょーかい」

「あ、私も」

「お客さんなんだから大人しくしといてください、こころもね?」

「わかったわ!」

 

 こうしてまた一つ、食卓が賑やかになった記憶が刻まれた。また喜多見も来るだろうし、帰りがけに送ってった時も松原さんも弦巻さんもまた来る、と言葉を残していった。特に弦巻さんは無用なお世辞とか社交辞令は使わねータイプだろうからな、また来るって言ったらまた来るんだよな。そん時はまた松原さんもよろしくと伝えておいたから、松原さんも。前の弦巻さんの時とは違って二人とも沢山話せたし、俺は満足した。

 美咲は何故か妙にソファで座ってたらくっついてきたけど、はて、俺は何かミスをしたのか。聞いてもたぶんばーかと言われるのでやめとこ、ちゃんと理由いえっつーのばーか。

 

 

 

 

 

 

 

 



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知らない昔話

 幹人さんが勤めてる会社はそれなりの大きさの会社だ。同業界は需要が高まっていく中で業務提携や吸収を進めていってる、戦国時代だって言ってた。あたしがバイトしてるお店は業界の中でも売り上げがよく、幹人さん自身も安定してるからバイトをから入ってることを聞いた。

 ──でも、その急激に伸びていく会社にありがちなのが、人材不足。特に接客業である上に社員として最低限活躍するには資格が必要ってことで、店長さんが二店舗兼任してる時点でわかってるけど、著しい人材不足だと思う。

 

「あ、奥沢さんおはよう」

深沢(ふかざわ)さんに、店長も」

「久しぶり、奥沢ちゃん!」

 

 昨日シフトを出し忘れたこともあり、あたしは一旦幹人さんの家で服を着替えてからバイト先へとやってきていた。すると事務所には珍しい社員さん、噂の店長さんがここにいた。久しぶりに顔を見た気がする。というか何か問題でも起きたんですか? 

 

「ああいや、今度のレイアウト変更は流石に僕がやんないとと思ってさ」

「なるほどです」

 

 店長、梅丘(うめがおか)さんがはつらつとした笑顔をあたしに向けてきた。歳はもう50になるっていうのに、むしろ幹人さんより元気な気がする。いや幹人さんは初めて会った時よりずいぶんエネルギッシュになったけど。

 もう一人の少し落ち着いた雰囲気の社員さんは深沢さん。幹人さんと交代で鍵閉めをしてる幹人さんより二つ年下の社員さん。深沢さんは今日のシフトにいたはず。駒沢さんもいるはずだし、社員三人ってのは人事的にどうなんだとか幹人さんがぼやいてたけど、今日はそれをするだけの意味はあったっぽいことを店長がいるということで察知していた。

 

「奥沢ちゃんは今日入ってる?」

「いえ、シフト提出しに来たんですけど」

「だったら、宮坂待ちってこと?」

「そうですね」

 

 その言葉に深沢さんが今日は喜多見さんもいないからいてくれたら嬉しいんだけど、と銀縁の眼鏡の橋をくいっと指で直した。すいません、あたしとしては貴重な休みで、しかもその喜多見さんと予定があるんで。

 この店の店長代理は幹人さんだから、シフトを作ってるのも幹人さん。次いで化粧品(ビューティー)スタッフの駒沢さんが幹人さんがいない間に入力する係で、深沢さんが研修中、あたしと美幸さんが口を出せる立場って感じだ。それにしても今日は駒沢さんもいるから社員全員集合状態かー、珍しいこともあるよね。

 

「あれ、美咲ちゃん」

「美幸さん」

「シフト?」

「もしかして美幸さんもですか?」

「うん」

 

 流石に店長と深沢さんがいる空間に長居をする趣味はないのであたしは化粧品コーナーで駒沢さんと雑談をしていたら、ひょこっと大学帰りらしい美幸さんが顔を出してきた。いやぁ、ギリギリまで予定がわかんなくてさー、と愚痴をこぼしながらシフトの紙をヒラヒラとあたしに見せてくる。

 

「こんなギリギリになっちゃったよ」

「確かにいつももうちょっと余裕めに出しますよね」

「私、結構こういうのは忘れっぽいし、もらったら出すくらいの勢いだよ」

「ですよね」

 

 そんな風に一緒にしゃべっていると、駒沢さん、と幹人さんの声が聞こえた。さっきのレイアウト変更の書類のようなものを片手に化粧品売り場にやってきた幹人さんはあたしと美幸さんの顔を見ると少し怪訝な顔をした。なにその顔、はームカっとする。

 

「シフト?」

「そうですよ」

「なんで二人で示し合わせるように」

「たまたまです」

 

 ん? あーこれはあれかな? 疲れてるからあたしがいてくれてちょっと話がしたいけど駒沢さんや美幸さんがいるから話せなくてそんな顔なのかな? 幹人さんの顔を伺うとぷいっと顔を逸らされた。じゃあ後でいじって……じゃなくて相手してあげようかな。

 その様子を見ていた美幸さんも気付いてるから、おそらくいじられることになるだろうけど。

 

「そういえばさ、よかったの?」

「なにがですか?」

「好きなんでしょ? 宮坂さんのこと」

 

 幹人さんにシフトを手渡し、去っていったところで駒沢さんがあたしに向かって爆弾を放り投げてきた。なんでバレて……るのも当たり前か。美幸さんにもバレてたわけだし、そもそもあたしがここで働いてる理由でもあるし。それでも突然言われてしまったら顔が熱を帯びるわけで。そもそも恋愛話は苦手なんです。

 だからあたしは苦笑いをしながら逃げることにした。駒沢さんも美幸さんも恋バナすきだからなぁ。

 

「あたしは苦手だけど」

「だろうな」

「……幹人さん」

 

 ジュースでも買って帰ろうとしたところに、今度は手ぶらの幹人さんが話しかけてきた。ひょいっとペットボトルのコーヒーを選んであたしにはい、と手渡してくる。お金は後でやるからって。

 

「先に買っとけばいいのに」

「持ってたんだよ、飲んじゃったけど」

「ばーか」

「おい、すぐ」

「だって今日は否定できなくない?」

 

 まったく、あたしが来なかったら補給できなかったじゃん。その辺も考えてよね、という意味をこめる。あとあたしは別にもらわなくたって買うよ。幹人さんが困ってるなら、あたしがなんとかしてあげる。

 ──だって、あたしは幹人さんが好きだから。

 

「あ、そうだ幹人さん」

「ん?」

「今日はちょっと重めだから覚悟しといてね」

「カツとかそのへん?」

「せーかい♪」

 

 幹人さんはマジか、と呟いてお腹をさすった。まぁ無理だったら明日でもいいよとは言っとく。あたしも美幸さんと妙なテンションになって作ろうと思ったけど流石に幹人さんを待ってたらお腹を壊しそうなので先に美幸さんと食べる予定なので。

 

「すっかり喜多見は常連になったな」

「嫌だった?」

「いや、俺は賑やかなのは好きだからな」

 

 やっぱり、まだまだあたしのことは保護対象くらいにしか見てない。そのおかげであたしは幹人さんの傍にいられるんだけど、それでもやっぱりあたしはごっこじゃ嫌だってはっきり自覚できたから。

 言葉でただ好きって言うだけじゃなくて、幹人さんに意識を変えてほしい。九歳差がキツいのはわかってるけどさ。

 

「そんなことより、さっき疲れてたでしょ」

「今も疲れてるよ」

「あんまりあたしに甘えてたら美幸さんにいじられるからね?」

「うるせーはよ買いにいけ」

 

 はいはいとため息をついてあたしはレジに並ぶ。そういえばレジの新人さんとはまだあんまりしゃべったことがないからしょーじき苦手だけど、美幸さんが多少話してくれたから助かった。流石、もう仲良くなってるんですね。

 

「そりゃ、夜の時間帯の指導は私がしてるからね」

「お疲れ様です」

 

 あたしの時もすごくわかりやすく教えてくれたし、高校生の頃からいるってだけはある。そうだよね、そういえば幹人さんも大学生からここでバイト四年して、だからそこで出会ってるから、長い付き合いなんだよね。

 

「あーそそ、私の指導係は宮坂さんだからね」

「……ですよね」

「ヤキモチ?」

「ちょっと」

 

 ちょっとだけです。ちょっとだけだけど、ヤキモチなんだよね。あたしは幹人さんと知り合えたのはまだ半年にも満たないくらい前だから。

 そう言うと、それじゃあ今日は私の話をしようか、と妖しく笑ってきた。それは個人的にとっても気になる。でも美幸さんの過去も十分気になる。それ以上に美幸さんから見た幹人さんが気になる。

 ──あ、でも、あれも話に入ってくるかな。

 

「実は、その話、私は全然詳しくないんだよね~」

「そうなんですか?」

「だからたぶん、面白くない話になると思うよ」

「いや、大丈夫ですよ」

 

 あたしは幹人さんのことを知りたいし、美幸さんから見た幹人さんが知りたい。だからあたしは今日、美幸さんから語られる話が楽しみすぎて仕方がない。どうしようかな、もう一品増やそうかな。

 

「それじゃあレッツゴーってことで」

「はい、わかりました」

 

 美幸さんは鼻歌を歌いながら、いつもとは違う方向に、あたしと同じ方向に帰っていく。暗くなってから一人で帰るのは正直怖かったから、こうやって、同性だけど美幸さんがいてくれると安心する。ホント、美幸さんはあたしのお姉ちゃんみたいだ。

 だから思わず、あたしは美幸さんに甘えちゃうんだけど、美幸さんはそんなあたしを嫌な顔ひとつせずに甘やかしてくれる。抱きしめてくれる時に香るほっとする甘さのある匂いが、あたしを余計にそんな気分にさせていた。

 



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塞がらない傷跡

 そんなに面白い話じゃないよ、と前置きをしてから美幸さんはあたしに自分が入ってきた時のことを話し始めた。高校二年生の夏にお小遣いを稼ぐ目的で入ったこと。最初はコンビニでもしようかと思ってたけど、募集をしてないと断られて、しぶしぶながら今の店を受けたこと。そしてその研修で幹人さんに出逢ったことを。

 

「じゃあよろしく、喜多見さん」

「はい、よろしくお願いします」

「そんなかしこまらなくてもいいよ、俺なんてテキトーさの塊だからな」

 

 当時、美幸さんは16歳、丁度あたしと同じ高校二年生で、幹人さんはその五つ上の21歳、大学四年生だった。幹人さんは資格試験に向けて勉強中で、だから美幸さんはその後、大学生になってから資格を取ったんだと言った。

 ──かくいうあたしも、少し興味が出ちゃったから、落ち着いたら挑戦しようかななんて思ってる。それはさておき、今よりもまだ気楽そうに働いていた幹人さんは初めてのバイトに緊張する喜多見さんに対して、仕事を教える合間にたくさん雑談をしてくれたみたい。今も確かにそういうところあるよね。

 

「いいんだよ。全部100パーセントやろうと思ったら疲れるから、適度に、サボることだって大事だな」

「いいんですか?」

「もちろんサボっちゃダメなとこもあるけどな?」

 

 その価値観は、あたしにとっては意外だった。あの幹人さんが、誰よりも100パーセントを目指す幹人さんが、そんなことを言っていたなんて。そんな驚きを美幸さんはそりゃそうだよと笑った。

 

「だってさ? 責任者が適度にサボってもいいなんて、それは監督不十分だよ、クビ確定」

「……そういうもんですかね」

「そーゆーもん。でも、宮坂さんは自分で頑張って頑張って、それでもその頑張りを私や美咲ちゃんに押し付けようとはしないでしょ?」

 

 宮坂さんはめっちゃヒトに頼るの苦手だからね、と美幸さんはほんの少しの寂しさをのぞかせた。あたしは家事とかそういうの頼ってもらえるけど、美幸さんは、頼ってもらったことはないんだ。そっか。

 

「なに、嬉しそうな顔してるの?」

「あ、いや……あたしのことは頼ってくれるから」

「惚気だねぇ」

「美幸さんには、負けたくないですから」

 

 それは本心だ。幹人さんが信頼してるバイトの一人で、もう四年も付き合いがある異性で、かつ幹人さんがやけに具体的に示してきた最低限の年齢、五歳差の美幸さん。あたしにとっては負けたくないって思う要素ばっかりだ。美幸さんにその気がなくても、幹人さんが心変わりすれば、あたしの存在価値は、あっという間になくなってしまうから。

 

「それはないでしょ、第一私が興味ないし」

「美幸さんになくても……」

「宮坂さんの元カノのこと、知ってるんでしょ?」

 

 身体が強張った。この話はいつも苦手だ。あたしは肺の酸素が一気になくなったような感覚に陥った。

 確かに、直接は見たことなかったけど、美幸さんと似たタイプだった気がする。だからって確定するのはよくないけど、似たタイプを好きになりそうじゃないですか。そう言った瞬間、美幸さんはそっか、と悲しい顔で言いながら、あたしが知らない事実を口にした。

 

「……え?」

「やっぱりそこまで知らなかったか」

「はい……幹人さんは、教えてはくれませんから」

「そーだよね、じゃなきゃ真っ先に私に聞くべき案件だもんね」

 

 そんなところで繋がっていたなんてと驚きが大きかった。でもよく考えてみると色々腑に落ちる点は多かった。幹人さんが美幸さんと仲が良かった理由も、幹人さんの家を知っている口ぶりだった理由も、でも幹人さんが美幸さんを恋愛対象にできない理由も、その一言で片づけられる。そんな衝撃的な前置きを受けて、そうそうとあたしが興味を示す話だと語り始めた。

 

「なぁ、美幸」

「宮坂さん? 仕事中にそれはナシって言いましたよ?」

「あ、悪い……」

「それで、何か恋愛相談ですか?」

「恋愛相談に、何かはつかねーだろ」

 

 暇だった時に事務作業中の幹人さんと休憩中の美幸さんの会話、休憩中だった美幸さんはポテトをかじりながら画面に集中していた幹人さんの言葉に、それで? と耳を傾けた。当時からよく元カノさんに関する相談を受けていたらしい。

 

「それで? おにーさまは何が知りたいのでしょう?」

「その呼び方やめろ……いや、俺はアイツと歳の差はそう変わらないじゃないか」

「そうだなぁ、確かに二つだもんねぇ」

 

 今よりも随分砕けた会話を繰り返していく美幸さんと幹人さん。これがつい一年前の話らしく、店長代理をやらされ始めた頃は美幸さんがサポートをしていたみたい。だから美幸さんはできることが多いんだな、という今更な気付きはあたしの中だけにとどまった。問題はその先だった。

 

「──年の差って、そこまで重要なことかな」

「うーん、どうなんだろうね。私は別に幹人さんくらい離れてても気にしないかな」

「俺もだな」

 

 懐かしそうに教えてくれる美幸さんが楽しそうな顔をする。どうやらあたしが思わずむっとしてしまったらしい。わかってる、この二人がそこまで発展できない理由もわかってるけど、あたしとしてモヤっとしてしまうから。

 ああもう、重要なことはそっちじゃなくて、幹人さんの言葉だ。そのセリフは、今の幹人さんからは考えられないほどにかけ離れている。

 

「そーだよ、宮坂さんは、前は年の差じゃなくて想いの強さが大事だろ、なんて言ってた」

「……そう、ですか」

「もしかしたら……じゃなくてほぼ確実に、宮坂さんは美咲ちゃんを遠ざけるためにその言葉を使ってるんじゃないかな?」

 

 ──九歳差の女子高生に手を出すほど、落ちぶれちゃいねーよ。幹人さんの言葉があたしの脳裏で反響した。

 もし、そうだとしたら、あたしがとるべき行動はもっと、もっと大きな意味を持ったものじゃなくちゃいけない。そんな気がした。手遅れになる前に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 美咲と喜多見がいなくなってからしばらくして、俺は接客中にとある顔見知りに出逢っていた。

 水色の髪をパンジーの飾りのついたヘアゴムでサイドテールにしたかわいらしい女子高生、松原花音さん。松原さんは俺を見て、あれ、ときょとんとした顔をした。

 

「──ここは、宮坂さんのお店、美咲ちゃんのバイト先?」

「そうだけど、美咲に用事か?」

 

 そんな風に、なるべく周囲にはお客さんの接客を装うように問いかけてみると、松原さんは困ったように首を横に振った。

 ──そして、苦笑いをしながら実は、と真実を明らかにしてくれた。

 

「……迷子に、なっちゃって」

「迷子」

「はい……迷子」

 

 バイト先に行きたかったらしい。バイト先ってどこから歩いてるんだキミは。どうやら極度の方向音痴らしい松原さんは迷いに迷った末にたまたまここにたどり着き、道を訊ねようとしたみたいだ。そこは賢いけど迷子になる前にできないのかそれは。

 

「……ここから駅までの道は?」

「え、えっと……わかりません……」

 

 だよね、それなら仕方ないと俺は店長と深沢に事情を説明し、道案内をすることにした。駅まで連れていけば、二つ先の電車で降りて事情を教えた美咲が後を引き継いでくれるだろうと。正直制服少女と一緒にこの夕暮れの時間帯に歩くのは気が引けるが、致し方ない。そう思って歩いていると、松原さん、というふわりとした声が聞こえた。

 

「ここで何をしているのですか? そちらの人は?」

「……あ、えと、先生」

 

 怪しいものじゃありません、と俺は事情を説明しようとして振り返り、その顔に驚いた。いや驚くのは本来おかしいんだ。

 その先生はここの周辺に住んでいた。その先生は松原さんや美咲が通う花咲川の教師だ。

 ──俺が出会わねーなんて思うほど、そいつは手の届かないところへ行ったわけじゃない。なにせ喜多見が……美幸がまだ店にいるんだからな。

 

「……久しぶりじゃねーか、杠葉(ゆずりは)、もう先輩ってつけた方がいいか?」

「なんだ、幹人くんだったのね、好きにして。松原さんは迷子?」

「あ……はい、え、えっと知り合いですか?」

 

 そいつは杠葉。俺の高校・大学での二つ年上の先輩で、今は花咲川の生物教師をしていらしゃる方だ。

 松原に先輩だと告げるとそうね、と杠葉もふわりと肯定した。苦手だな、このヒトのなに考えてんだかわかんないミステリアスな笑顔も、少し背が高めなところも、相変わらずまるでアロマみたいな優しい匂いがするところも。

 

「杠葉……先輩がよければ松原さんを駅まで連れてってやってほしいんだけど」

「ええ、行きましょうか」

「はい」

 

 最後まで()()()()()()()()()()()、杠葉は去っていった。胸が痛い。ずきずきする。棘がまだ抜けてねーことだけはわかってたけど、実際に会うとまた辛さが違うな。

 ──なんで? なんでそういうことを言うの? 幹人くんは、どうして……? 

 最後の言葉が未だに俺の頭からは消えねーんだよ。そんな何事もなかったような顔をされんのは、キツイな。

 



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戻らない時間

 ──頭が重かった。胸も痛い。そんな精神的に満身創痍になって、それでもなんとか仕事を終えて、俺は電車に乗っていた。

 二駅先、降りた先には、わざわざ三人の女性が俺を待っていてくれた。

 

「幹人さん……」

 

 一人はもちろん、俺の家でご飯を作ってくれてるはずの美咲、奥沢美咲。疲れと精神的な傷で回らない思考回路をなんと最低限回しながら、俺はなんでここにいるんだろうと考えた。迎えにわざわざ来てるなんて、雨でも降らねーとないってのに。

 

「あ、あの……大丈夫、ですか……?」

 

 そんなことを問いかけてくる二人目の女性は数時間前に別れたばかりの松原さんで、そこでようやく俺が、心配をされているのだとわかった。後ろには喜多見の姿もあって、無言で腕を組んでる。はぁ、と溜息も聞こえてきそうな不機嫌な顔色も、全部が物語っていた。

 ──美咲に教えたな? と文句を言うつもりもなかった。なにせこんな顔してたらどのみちバレることだからな。

 

「やれやれ、()()()()()に会っただけでそれじゃあ、やっぱりおにーさまが心配だよ、私は」

「その呼び方やめろって美幸……俺はもうお前の義兄(あに)じゃねぇ」

 

 前のテンションで話しかけてくる喜多見、美幸に対して、俺も前のテンションで会話をする。ホントにいつも思うけどかわいくねー義妹(いもうと)だよな。元、だけどな。

 お姉ちゃん、そうだよな、俺はお前の姉ちゃん(ゆずりは)に会っただけなのにな。

 

「……話してくれるよね、幹人さんの口から、詳しい話」

「そうだな……そろそろ逃げるのは限界だな」

 

 別に美咲に話したくなかったわけでも、秘密にしたかったわけでもない。ただ胸の棘が消えねーから、俺は話せねーってだけだ。話すとボロボロになるくらいに、俺はまだ、去年の冬の傷が消えてねーから。

 でも、美幸がしゃべって、松原さんがその存在を口にしたのなら、もう俺は語らなくちゃいけない。俺の口から、くだらない感傷を。

 

「大丈夫、私も補足するから」

「頼む、主観だけじゃアイツが悪者になる」

「もう、しょーがないおにーさまだこと」

 

 ちょっとだけおどけてくれる美幸が、今日ほどありがたいことはなかった。美咲にもそんな余裕はないだろうし、松原さんは完全に巻き込まれた形だ。だから、俺は今日だけは元義妹に頼ることにした。

 家に戻り、沈黙を一瞬支配したが、すぐに美咲が口を開いた。

 

「……喜多見、杠葉先生。花音さんと幹人さんが会った生物の先生は、美幸さんのお姉さんだったんですね」

「うん」

「気づきませんでした。いや、割と杠葉先生で覚えてたんで、気づかなかったんですけど」

「まぁ、似てるとは言われるけど」

 

 それでもまさかそんな偶然があるとは思わないよな。確かに世間は狭い。俺だって最初は美幸が杠葉の妹だったなんて気づかなかったよ。実家が近くにあることは知ってたけどさ、だからって妹がいるだなんて知らなかったし。

 

「それで杠葉は……喜多見杠葉は俺の、元カノだった。というかもう、結婚するかってところまで来てたくらいだった」

「この家がすっごく広いのは、そのせいだったんですね」

 

 松原さんがそんなことを呟いた。そうなんだよ、杠葉と暮らしてた家だからここは美咲の部屋があって、俺のベッドが無駄に広いのも、全部アイツがいたから。

 ここは元々、杠葉の家でもあったんだ。半年前まではアイツがこの家でのただいまもおかえりも行ってきますも全部がアイツと俺の中にあった。

 

「でも、フラれたんだ。去年の冬、クリスマスの日にな」

「……うん」

 

 それは美咲も知ってることだったな。美幸もそれには意外で、びっくりするほど大声で叫ばれたっけ。

 すると美幸が、まるで今思い出したかのように俺の肩を掴んだ。

 

「それでさ、幹人さんは私が幹人さんって呼ぶと怒るようになったんだよねぇ、無駄にそーゆーとこしっかりしてなくていいのに」

「でもな、もう美幸とはなんの関係もなくなったわけだし……」

「それがムカつくんだよー」

 

 確かに俺が杠葉のカレシだったと知ると美幸は妙に懐いてきた気がするけど、それが解消されても、ってのはおかしいだろうって配慮だったんだけど、どうにも美幸はそれで数ヶ月不満だったと。

 そんな話をしてると美咲がやや不機嫌な顔でコホンとわざとらしい咳払いをした。話を続けろという態度に、俺も美幸も若干縮こまって、話を進めていく。美咲が妙に怖い。

 

「……私、なんで別れたのか聞いてない」

「関係ねーと思って言ってない」

「はぁ……」

 

 溜息つかれたし。美咲もそれが知りたかったようで、俺は覚悟を決めてから当時のことを語りはじめた。

 言葉にするたびに棘が刺さる。まだ全然癒えてない、けどやっと癒すアテを見つけた傷を、俺は自分から開いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──クリスマスの数日前、俺は年末の仕事に追われていた。というかその年は何回か言ってるかもしれねーけど、店長代理をして一年目で、ばたばたしてどうにもならなかった時期で、また杠葉も学期末で忙しかった。それでちょっとすれ違って、お互いにフラストレーションが溜まってたのが原因だった。

 

「クリスマス、やっぱり仕事に行く? なんで?」

「……ああ、深沢だけに任せるのは、なんかいけない気がして」

「そんなの……前からずっとあったでしょう?」

 

 珍しく、普段は温和で、いつもフラットな態度をとる杠葉が、明確な苛立ちの感情を俺にぶつけてきた。ぶつけられてもどうしようもねーだろと思ってた俺は、そこに苛立ちで返した。どっちかが、つかこの場合は俺だよな、俺が折れなかったのが間違いだった。

 

「でも、年末調整あるし、それで仕事で問題起きたら」

「……そう、わかった」

 

 そう、わかった。その突き放すような冷たい一言に、じゃあなんでわかってるくせにイライラしてんだよと言葉をかけて、喧嘩をした。前から少し喧嘩が多かったような俺と杠葉だけど、それはいつもとは違う冷たさを含んでいた。

 

「杠葉……」

「幹人くんはさ、わかってくれないよね……私のこと」

 

 わかってくれない、なんて言われたって、俺はわかりたいと思ってたさ。でもあんまり表情が読めなくてわかんねーし、なんなら俺が杠葉に告白をして、なんでオッケーをもらえたかなんてわからないし、俺に何一切伝えてくれねー杠葉のことを、わかろうとしてるつもりだった。いや、これは今でもわかろうとしてたと思ってる。

 だけどもう石は坂を転がり始めていた。それが逆向きに動くことなんて一切、どうあったって無理なのに。

 

「──結局、行っちゃうのね」

「そりゃ、杠葉はわかったって言ったろ?」

「そういう意味のわかったじゃなかったのよ」

「……そうかよ。まぁでも別にいいだろ、クリスマスみたいな人混みがひでー時期に俺なんかと一緒歩きたかねーんじゃ──」

「──っ!」

 

 そしてクリスマス当日、なるべく平静を保とうとした言葉を放った瞬間、頬を張られた。初めてだった。初めて、杠葉の涙を見た。初めて、杠葉がこれほどの感情をぶつけているのを見た。いつだって、それこそ男女の営みの最中にすら、これほど波のある感情はなかったというのに。

 

「なんで? なんでそういうことを言うの? 幹人くんはどうして……もっと私のことをわかろうとしてくれないの?」

「……は?」

「私はっ、幹人くんが好きで……大好きだからこうやって一緒に暮らしてるし、両親にも妹にも紹介した、なのに、幹人くんは違ったの……?」

「俺は……俺だって」

「信じられない……もう、幹人くんの好きなんて、ただのごっこ遊びみたいなものじゃない!」

 

 そう言って、俺が逃げるようにして仕事に行った帰り、もう杠葉はいなくなっていた。翌日、美幸から杠葉が目を真っ赤にして帰ってきたことを連絡された。別れた、と言われたけど、という言葉に俺はそこで初めて、自分が杠葉に愛想を尽かされたことを知った。

 ──なにもかもがどうでもよくなって、俺もこの家から出ていこうか、そう思った矢先のことだった。ここから先は、松原以外の全員が知ってる話だ。美幸は聞いて泣いてたっけ。

 

「……なぁ、お前……もう夜中だけど、大丈夫か」

「……っ、ほっといて、ください……」

 

 ぐじぐじと泣きながら、人差し指についていた指輪を握りしめて、路上に座り込む少女に出逢った。

 寒空で、予報じゃもしかしたら雪が降るかもってくらいに寒いそこで、一夜を明かしたら当然人間として命の危険を感じるわけで、俺は通報しようとした。だが、袖を引っ張られ、少女は首を横に振った。

 

「……かえりたくない」

「家出か?」

「違う、けど……いまは、そっとしておいてください」

「いやそんなこと言われても、このままじゃ凍死コースなんだけどな?」

「それなら……それでいい」

 

 そんな自棄になったとしか言いようのない少女を半ば無理矢理引きずって、俺は強制的に風呂に入れて、下手くそな、いつもは杠葉が作ってくれてたから全然何がどこにあるかもわからないまま作った不格好な料理を食わせて、事情を聞いた。んじゃあ泊まってってもいい、俺も、一緒だからななんて同情と感情移入で一緒のベッド、昨日まで杠葉が寝ていたベッドで抱き合って寝た。

 

「今更かもしれねーけど俺は宮坂幹人、キミの名前は?」

「……みさき、奥沢、美咲」

 

 ここから数日落ち着くまで泊まり込みになる少女、奥沢美咲との出逢いと、そして今に至る夫婦ごっこにつながっていく。

 これが俺の傷。未だに引っかかって取れない棘の正体だった。

 

 



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正しくない恋情

 あたしは、なんて言葉をかけるのが正解なんだろう。向かいにいる幹人さんの表情がわからない。

 美幸さんは美幸さんで複雑そうな顔をしてる。義兄になるって信じてたヒトと、お姉さんの両方にそんな大事な事実を数ヶ月間、隠されてきたんだから、当然だよね。

 

「……今考えると、くだらない喧嘩だよな。俺も杠葉も、なんであんなにイライラしてたのかわかんねーくらい、くだらない」

「そう、だね。あたしは、杠葉先生の真意は、幹人さんの言葉だけじゃ測れないけど」

「そりゃ俺もだな」

 

 ともかく、幹人さんの話じゃ、幹人さんの視点でしか伝わってこない。幹人さんの想いしか伝わらない。だからあたしは美幸さんの方に視線を合わせた。

 美幸さんならなにか知ってる気がして期待のまなざしを向けると、美幸さんは幹人さんがいる右側に視線を向けながらくだらないって思ってるのも、幹人さんだけだよと指摘した。

 

「……そうですよね、あの時の先生、すごく痛そうな顔してました」

「だって、普段から幹人さんに会わないようにしてたんだもん」

「そうだよな、痛いのは杠葉だって同じだよな」

 

 その言葉にズキっと胸が痛んだ。そうだ、杠葉先生はまだ幹人さんのことが忘れられてない。勢いだけでなにも伝えれてないから当然だけど、杠葉先生の中にも幹人さんがいて……幹人さんの中にも杠葉先生がいる。

 ──二人はまだ、両想いのままだ。その事実にあたしの心臓は穴だらけになったみたいだった。

 

「幹人さんは、ヨリを戻そうとか、思わないんですか?」

 

 気付いたら、自然とそんな言葉が口から出ていた。ホントはそんなことしてほしいわけない。そのまま忘れて、あたしのことを見ていてほしい。

 花音さんも美幸さんもあたしの気持ちを知ってるから少しだけ悲しそうな顔をしていた。それをあたしが口にしなきゃいけなかったことが、苦しかった。

 

「……どうだろうな」

「宮坂さんは……先生のこと、好き、なんですか?」

「それがわかんねーんだよ……フラれてから、時間が止まったみてーにさ」

 

 好きという気持ちに似たナニカはまだ幹人さんの胸の中にある。でも、それ以上にクリスマスの日、家に帰ってきても誰もいなかった失望と、怒りをずっと抱えてるんだ。あの日の幹人さんは、手にクリスマスケーキを抱えていたから。幹人さんは申し訳ないって気持ちはあったんだ、でも幹人さんは杠葉先生の怒りを量り間違えたんだ。

 

「お姉ちゃんの怒りは、別にクリスマスから始まったことじゃないからね」

「そう、なんだろうな」

「その辺は美咲ちゃんの時に言ったことと全く同じことなんだけど」

「……そうだな」

 

 ──言葉を尽くさなかった。言葉にせずに察してほしいばかり、お互いの存在と都合の良さに甘えて、結局ちょっとしたすれ違いで決定的に関係が崩れてしまう。美幸さんが口にした言葉は、そのまま幹人さんの過去とも関係のある言葉だったみたいだ。

 

「巡り巡って、まさか二回同じミスをしてるなんて、おにーさまはドジだねぇ」

「器用だろ」

「いやそれ全然器用じゃないから」

「……ごめんなさい」

 

 あたしなんてそのミスの当事者なのにそうやっておどけられるとイラっとするんだけど。隣の花音さんがまぁまぁと宥めてくれてなかったらあたしだって言葉を荒げそうになるくらいイラっとするから。

 

「ばーか、ばーかばーか」

「そんな子どもみてーに」

「どーせ、子どもですー、ばーか」

 

 子どもって言葉は嫌いだ。幹人さんに言われると九歳差に壁を作られている気がして、泣きたくなるから。

 ばーか、ばーかって言葉で強がりたかったのに、ちょっと泣きそうになった。じわりと目頭が熱くなってきた。

 

「あー幹人さん美咲ちゃん泣かせたー」

「な、まだ泣いてませんって」

「ほら、まだってことは泣きそうになってる」

「うるせーよ外野もう出てけ」

 

 そう言って、幹人さんはあたしの手を引いて他の二人、特に美幸さんに向かって聞き耳立てんなよと忠告して、寝室の扉を閉めた。

 ──二人きりの空間、なんだか懐かしい雰囲気のまま、幹人さんはベッドに座り、あたしがその隣に座った。

 

「……ごめんな、美咲」

「なにが?」

「杠葉のこと……黙ってて」

 

 何かと思ったらそんなことかとあたしは溜息をついた。泣きそうで、もっとこう、なんだろう、優しく抱きしめて泣かせてくれる雰囲気かなと思ったら、やっぱり幹人さんからあたしに触れてくることはない。泣いてたりしたらそりゃ頭を撫でてくれたり、抱きしめてくれたりはするけど。

 

「いいよ……辛かったんでしょ?」

「そうだけど、よくよく考えたら黙ったまま、美咲を受け入れてたんだなって思ったらさ」

「……そっか」

 

 あたしは全然気にしてないよ。幹人さんの辛いこと、あたしは上手に聞き出せないから。幹人さんを傷つけてしまうから。だから、あたしがしてあげるのはいつだって、傷つける言葉なんかじゃなくて、助けてあげるだけなんだ。

 

「ね、幹人さん」

「ん?」

「杠葉、せ……さんのことで痛いのはわかってますけど……後ろを向くのはやめませんか?」

「そう……だな」

 

 幹人さんが触れられないなら、あたしが触れていく。手に触れて、腕に触れて、肩に触れて、あたしは幹人さんの頬に触れた。

 もう、杠葉さんのことを聞いたあたしは止まらない。杠葉さんが傷だっていうなら、あたしがその傷を塞いでやるんだ。

 

「あたしは、幹人さんが好きですから……前を向いてください」

「好きってな、お前……」

「年齢差なんて関係ない……あたしは感傷とかじゃなくて、本気で幹人さんが好きです」

「……美咲」

 

 忘れて、なんて言わない。忘れられないのはわかってるけど、だからっていつまでも後ろを向いても辛いだけだから。

 ──あたしは、幹人さんを笑顔にしたい。あたしなりのやり方で、あたしなりの、間違えた正しくない愛し方で。

 

「夫婦ごっこじゃなくて、あたしは通い妻でもなんでもいいから、恋人でいたい。恋人として、傍にいさせて」

「……美咲」

 

 抱きしめて、抱きしめられて、その手には確かにあたしを想う気持ちが込められていた。

 ──ああよかった、あたしは、許されたんだ。やっと零れた涙は、幹人さんが掬って、そっとあたしの唇に落としてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ!? うそでしょ?」

「嘘じゃないです。別にあたしもそれでいいし」

 

 それから一夜が明けて、あたしは喫茶店で美幸さんにあったことを報告した。あたしたちはお互いの気持ちを打ち明けた。

 そして、最後はキスをした。キスまでしたんだ。ちゃんとお互いが両想いだってことを確かめ合った。

 

「……なのに? 付き合ってないの?」

「はい」

「なんで?」

「なんで……? なんででしょうね」

 

 あたしが聞きたいくらいですけど、と苦笑いをしたら溜息をつかれた。幹人さん曰く、やっぱり俺の歳で女子高生と付き合うのはそれ相応の覚悟がいるとのこと。逃げられたっぽいけど、あのまま追いかけてもいい結果にはならなさそうだし、あたしとしては、今はまだ幹人さんと両想いで満足だし、というかむしろそれでも幸せがパンクしちゃいそうだ。

 

「はぁ……」

「いや美咲ちゃん? 溜息をつきたいのは私なんだけど」

「幸せが逃げますよ?」

「うわ今初めて美咲ちゃんに腹が立った」

 

 とにかく、幹人さんとしてはあたしのことも大切だけど、今はまだ杠葉さんの時についた傷を引きずってるから、中途半端は嫌だってこと。

 ──それにはあたしも同意だ。あたしだって、まだまだ、傷は完治してないから。

 

「そういえば」

 

 そんなことは美幸さんもわかってて煽ってきてると思うから、話題を転換する。アイスコーヒーのグラスを机に置きながら、美幸さんはどしたの、と首を傾げた。幹人さんの気持ちは確認した。美幸さんも別に杠葉さんのカレシじゃなくても、バイト先の先輩として笑顔でいてほしいって気持ちがあることも。

 じゃあ杠葉さんは? あの場にいなかった彼女は、幹人さんのことをどう考えてるんだろう。

 

「……お姉ちゃんが話したがると思う?」

「まぁあたしだったら露骨に話を逸らしますね」

「でしょう?」

 

 まぁそうだよね、杠葉さんにとっては思い出したくもない過去ってことだからね。つまり美幸さんすら、杠葉さんの本当の気持ちは知らないってことだ。はぁ、そうすると想定しうる最大で最悪の展開が回避されてるわけじゃないってことか。

 

「美幸さんはあたしのこと、応援してくれますよね?」

「うわ、美咲ちゃん腹黒だよ、それはさ」

 

 なんとでも言ってください。幹人さんにとって元カノ、美幸さんにとって家族、最悪の場合あたしは孤立無援状態になるんだから、それはなんとしてでも避けたい事態だ。それに、幹人さんが立ち直ってきた今更出てきて、はいそうですか、って渡せるほど、あたしは大切な場所にすらほどほどの人生なんて生きていたくないから。

 

「はぁ……複雑な立場」

「じゃああたしのことは応援しなきゃよかったんじゃないですか」

「私は恋する乙女の味方だもん」

「恋バナ聞きたいだけじゃないですか」

 

 あたしのツッコミに美幸さんは当たり前でしょと言い出した。美幸さんは人当りがいいし明るいのにミステリアスなところがあって、背が高いのに胸はあるしで、男性にも女性にもモテる要素がてんこ盛りなのに本人の恋バナは聞いたことないな。

 

「う~ん、高校の時に一人だけかな?」

「え、そうなんですか?」

「あ、付き合ったりとかはないよ? 高校の時にすれ違う子がいてね、名前とか全然知らなかったんだけど──」

 

 まるでここまで頑張ったご褒美と言うような感じで、美幸さんは語ってくれなかった美幸さんの恋を教えてくれた。よかった幹人さんじゃなかったんだ、と言ったら、でも今すぐ特定の誰かって言われたらなぁ、と流し目をされた。む、ライバルはこれ以上いりませんから、その昔の恋を叶えててよ、応援してるからね、美幸さん(おねえちゃん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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向き合えない二人

 あたしから見た杠葉先生は、優しい人、って感じだ。

 背は高めで、二の腕や太もも、腰回りは引き締まっていて、でもかわいらしいところもあって、くるりとカールした肩甲骨まである髪をポニーテールにしているのを解いてスーツじゃなくてふわっとしたスカートで街で歩いていたらさぞかわいいんだろうな、と思えた。

 

「では、奥沢さん、こちらの問いの答えをお願いします」

「あ、はい」

 

 生物の時間にそんなことを考えながらぼーっと先生を見てたらにこりと笑われて当てられた。うげ、聞いてないのバレた。けど生物関連はゼミで専攻してたくらいに美幸さんがめっちゃ詳しいから答えわかっちゃうんだけどね。

 すらりと答えると先生はちょっとだけ驚いたように瞬きをしてから何事もなかったようにまた続きを始めた。

 ──何を考えてるかわりにくいところも、なんだか美幸さんに似てるなぁと思いながら、あたしはその時間を杠葉先生の観察に費やしていた。

 

「……はぁ」

 

 そして費やしてたら呼び出された。なんてこった。真面目にノートも取ってるのに理不尽だ、横暴だと言いたいけど、これも何かの縁、チャンスだと思って集めたプリントを持って杠葉先生についていく。職員室に通され、先生はご苦労様と微笑んだ。画になる笑顔だなぁと思う。そんなことを考えていたら、どうしたの? と首を傾げられた。んーどうしよう、美幸さん、なんか説明してたりするのかな。

 

「いえ……えと、杠葉先生って、美幸さんのお姉さんなのを、つい最近知ったので……」

「……美幸? あら、じゃああなたはあそこでバイトしているの?」

 

 おお、一瞬だけ目が細まった。ホントに美幸さんとそんなに仲がいいわけじゃないんだね。でもあたしがそんなに知ってるわけじゃないと判断したのか、杠葉先生は家も近いのよ、なんてのんきな話をしていた。

 

「じゃあ今度買い物に来てくださいよ」

「……妹が、美幸が買ってきちゃうから、行かないのよ」

 

 下手な嘘だ。いや、あたしが全部知ってるからそう思うのかな。幹人さんのこと、美幸さんのこと、あたしは全部知ってて、実はそんな幹人さんと両想いになったのがあたしだなんて、思いもしてないだろう。

 

「美幸と、仲がいいのね?」

「まぁ、時間帯被るんで、直接の先輩、みたいな感じです」

「あら夜なのね、夜道には気をつけないとダメよ?」

 

 なによりびっくりしてるのはあたしが泊まりに来てたことに気づいてないことだよね。確かにあの日にいたはずなのに、あたしは一度も顔を合わせてなかった。それがちょっとだけ怖かった。こんなに明るい表情の先生に、暗いものがある気がして。

 

「それじゃあ、あたし……これで」

 

 これ以上足を踏み入れない方がいい。幹人さんのためとは言え、なんかあたしの手に余る存在な気がして一歩引いた。

 ──だけど、その判断は遅かった。待って、とさっきより湿気を帯びた声がした。引いたところからぬるりと、まるでおぞましいモノに足を掴まれた感覚があった。

 

「はい」

「あなた、美幸の、ううん、()()()()の……なんなのかしら?」

「……っ」

 

 愛憎渦巻く、とはこのことなのかと思う瞳だった。瞳孔がさっきよりもほんのわずかに開いて、あたしを捉えてくる。背中に汗が流れる、あたしはその言葉の意味がつかめなかった。呑まれてしまった。

 そうして、感情を拗らせた杠葉さんはお返事は貰えるのよね? と首を傾げた。どこか真っ黒な穴を覗き込んだような笑顔が、あたしの足を竦ませた。

 

「……誤魔化して通用、しませんよね」

「ええ……あなたと美幸が幹人くんの……いえ、()()()に行ってるの、知ってるから」

「お呼ばれ、じゃないんですかね?」

「誤魔化しは通用しない、と確認したのはあなたよ?」

 

 お手上げだ。しまった、ラスボスにうっかりエンカウントしちゃったらしい。そろそろ暑くなってきたっていうのに、その瞳には寒々しいものを感じた。

 というわけで、どこまで知ってるのかわからないんだから、あたしとしてはあんまりしゃべりたい内容じゃない。というか殺されそう。

 

「……まぁ、今はいいわ。どうやら私のことも知っているようだし」

 

 あ、しまった。幹人さんとの関係を疑うべきだった。本当に杠葉さんは()()()()()()()賢いし機転が利くって話、本当なんだなって思った。そしてプライベートについては秘密主義だから、逆に相手の言動から自分のことをどの程度把握されてるかはよくわかってるってことね、怖いお姉さんですね、美幸さん。

 でもさ、賢そうな言い回しで牽制するだけ。それで幹人さんを傷つけたんだってなら、言い返さないと気が済まない時だって、あたしにもあるっての。

 

「元カレさんとの関係を把握されただけで生徒にボロを出すんですね」

「……元カレ?」

 

 そこで初めて、机の上にチェーンに通された指輪が光ったのが見えた。最初はオシャレかと思ってたけど、よくよく考えたら教師という立場でそんなことするわけない。そもそもそういう意図にしては、シンプルすぎる。

 そうしたらあれは? 幹人さんがああいうのも持っていないことは知ってる。でもあれがもし、幹人さんのものだったとしたら、あたしは余計に引けない戦いに足を突っ込んでいることに、ようやく気が付いた。

 

「私は──」

「──元カノです。あなたは幹人さんの元カノです」

「……っ!」

 

 よっぽどのことがないと表情が動かないやつ、とは聞いてたけどやっとまともにあたしでも完璧に把握できる感情を出してくれた。動揺してますね。でも、これ以上は正直職員室でする話じゃないよね。

 丁度いいタイミングでこころがやってきて、あたしに向かって抱き着いてきた。ごめん、利用させてね、こころ。

 

「うわっ、こ、こころ?」

「美咲ー! 先生と用事かしらっ?」

「終わったところだよ、行こ、こころ」

「ええ!」

 

 何かを言いたそうにしてたけど、流石にあたし以外の生徒に怒りや嫉妬を見られるわけにはいかないようで、何も言わずにあたしに視線だけを送ってきた。

 でも、確認できた成果はあった。同棲して結婚を考えた恋人、ってのは思いの他簡単には他人だと思えないってこと。そりゃよっぽどのことがあったらわかんないけど、少なくとも美幸さんですらそうなんだから、杠葉さんにとってもそうだってこと。

 

「……大丈夫かしら、美咲」

「ん、そうだね」

「あたしは、杠葉先生も笑顔にしたいわ!」

 

 もう一つ。この一見能天気に見えるお嬢様は実は関係者ってこと。流石にそこまで把握はできなかったみたいだけど。こころはちゃんとあのタイミングであたしに声を掛けてくれていた。

 

「今日はバイトはないのよね?」

「うん……こころも来る?」

「ええ、花音も、呼んでいいかしら?」

「もちろん」

 

 あたしは、自分の気持ちを秘密にしすぎた結果一度、幹人さんを惑わせた。美幸さんが仲介してくれなかったら、きっと杠葉さんがそうじゃなかったらきっとあたしは今頃、あのバイトをやめてる。だからあたしはもう秘密にはしません。

 好きなヒトを誰にも渡したくないって思うなら、ちゃんと幹人さんと向き合ってあげてください。棘を抜けるのは、杠葉さんしかいませんから。

 ──あたしは確かに無条件で盗られるのは我慢できないけど、だからって幹人さんに棘を残したままなんて、絶対に嫌だから。

 

「こころ」

「なぁに?」

「先生も笑顔にしたいよ、あたしはさ……」

「そうね、世界のみんなを笑顔にするのよ!」

 

 こころの宣言にあたしは強くうなずいた。

 やっぱり、あの日こころに出逢えてよかった。あの日、こころのハチャメチャな提案を否定しなくてよかった。諦めなくてよかった。正しくないと知ってもいいものがあると知ってよかった。あたしにとって、この明るい世界全てが、こころと幹人さんに貰ったものだから。

 だったら今度はあたしが二人に、そしてみんなにその貰ったものをあげる番だから。あたしなりの世界を笑顔にする方法、見ててね。みんなの太陽(こころ)。あたしの大事な……トモダチ。

 

 

 

 



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語る必要のない幕間

 それは、語る必要がないはずの物語。俺がいて、美咲がいて、美幸がいて……杠葉がいる。それだけの物語。だから、これは俺が語る必要のない……物語には不要の閑話だ。けどどうか、知ってほしい。

 ──俺以外にも、美咲以外にも、幸せになりたいと叫んでいるヤツは沢山いることを。

 

「いらっしゃいませ……って美咲……それに松原さん」

「こんにちは」

「どーも」

 

 とある梅雨入り前のこと。そうは思えない湿度の低い快晴の休日の真昼間にもなって麗しき女子高生二人が店にやってきた。一人は現在俺と半同棲状態の……まだ一応は恋人未満な九歳差、奥沢美咲。ここのバイトでもある彼女は片手に小さな保冷バッグを持っていた。

 

「それは?」

「お昼。今週はコンビニ弁当禁止だから」

「厳しいのか優しいのか」

「優しいに決まってるでしょ? わざわざ作ってきたんだから」

 

 美咲の弁当、その破壊力に俺は思わずぐうっと腹を鳴らしてしまった。休憩まであと一時間、この我慢ができるかどうかってところだな。

 そんな俺に美咲はため息をついてくる。呆れた、なんて言いそうだなと思ったら本当に言われた。

 

「全く……これ、事務所の冷蔵庫に入れとくから」

「おう、ありがとな」

「……うん」

 

 ──そうだな、変わったところと言えば、この表情かな。前よりもストレートにわかりやすい表情をしてくれるようになった。今のは嬉しい、って感情だ。好きなヒトのことを考えて作った弁当が喜ばれてるってことへの、幸せの表情だった。

 自分で言っててすげー恥ずかしいけど。でもやっぱ、美咲はちゃんと……って言い方はおかしいかもしれねーけど、俺を想ってくれてるんだな。

 

「えと……それで? 松原さんはどうして?」

「あの……迷子に……なってて、たまたま宮坂さんのおうちに着いて……成り行きで」

「あ、そう」

 

 松原さんは相変わらずだ。そこでいるかもと思って美咲に連絡して、ここまで付いてきたらしい。迷子でここまで成り行き、という割には松原さんはなんだかにこにこしている。彼女はかわいらしくて放っておけない雰囲気は確かにあるけど、美咲よりも年上なんだなと感じるフシがある。美幸なんかでも感じるな。笑い方とか、仕草とか。美咲も十分大人びてるとは思うけど、この子はそれ以上だ。

 

「いつも美咲が世話になってるな、ありがとう」

「……でも、美咲ちゃんのためだけじゃないんですよ?」

「ん?」

「私は、そんなにイイコじゃないですから」

 

 ほらな、こういうとこなんだよ。時折、ものすっごく大人になるんだよ。八歳の差があるのにこんな顔されたらなんて言ったらいいのかわかんねーよ。俺はモテない男なんでね。経験が浅くてどうしようもねーんだけど。

 

「あの、また時々来てもいいですか?」

「それはどっちに?」

 

 家か店か。店側としては是非いらしてください、だけど。

 まぁ、家って選択肢はねーだろ、もしそうなら俺じゃなくて美咲に聞いてくれたらその日行くか行かないかって言ってくれるだろ。

 

「……どっちも、です……よ?」

「そっか」

「はい」

 

 と、丁度話が切れたタイミングで美咲がお待たせ花音さんと倉庫から出てきた。それから俺がいるのを確認するなり俺の方を見て、今日の晩は? と問いかけてきた。

 なんでもいい。俺は美咲のメシならなんでも好きだからな。

 

「わかった、行きましょう花音さん?」

「……うん」

「じゃあまたね、松原さん」

「花音です」

「え……っと?」

「──花音ですよ、()()()()?」

 

 美咲がぎょっとした顔をして、俺もえっ、と声を上げた。振り返って、スカートをふわりとひらめかせて微笑み交じりにそう言い放つもんだから、俺も美咲も二の句が継げぬ、といった状態だった。

 呼べ、という意味だろうか。松原さんはその場でにこにこと俺を見つめていた。

 

「……花音、さん」

「さんもいりませんよ?」

「花音」

「はい……それじゃあ、また会いましょうね」

 

 隣でまた美咲が驚きと、不満を顔に出した。けど俺は松原さん……えっと、花音の呼び方への心境の変化がなんなのかも、美咲のそのヤキモチにもついていけない。いや美咲が嫉妬してるのが辛うじて分かってる時点で俺は成長してる。

 

「ほほう」

「……どっから湧いて出てきた、喜多見」

「美幸」

「いいだろ、今仕事中だし」

「まぁいいけど」

「つか逆に敬語使え、お客さんに不審がられる」

「はーい、宮坂さん? これでいいです?」

 

 文句なしだ。美幸的には文句あるっぽいけどな。けど公私は分ける。俺だってちゃんと美咲のことも奥沢って呼んでるし、美咲も宮坂さんで固定されてるからな。

 んで、そんな話しに来たんじゃねーだろお前。

 

「そう、松原ちゃん」

「花音?」

「──気を付けた方がいいよ」

「は?」

「言い方悪いかな、気にかけた方がいいよ」

 

 気にかける、でも悪いけど意味がわからないとこあるんだけどな。返事は苦笑い交じりにおにーさまは妙に感情に対して反応が鈍いからね、とのこと。感情に対して鈍い……ううん、心当たりがありすぎて辛いんだけど。杠葉のこととかその典型だし。

 

「もう、今は私としてもあんまり手伝えないんだから、頑張ってよ……幹人さん?」

「わかってるよ」

 

 心配症な義妹に言われちゃ仕方ねーなと言ったら、そういうのは敏感じゃなくていいの! と何故か言われた。は? いや俺お前の隠してる感情とかなんにも掘り起こせてねーんだけど、どうやら良い返しをしてしまったらしい。ううん、辛い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら幹人さん(おにーさま)の物語が動き出そうとしているみたい。お姉ちゃんがもの凄く焦った表情で帰ってきて、美咲ちゃんのことを訊かれた。私は美咲ちゃんの味方しちゃったから、教えらんないんだと言ったら、またすごく焦った顔をして部屋に引きこもっちゃった。

 相変わらずモテモテなのに恋愛下手だ。この間も男性教師にお食事に誘われたけど断ったんだって。まぁそれは私もだけど。しょっちゅうゼミの男の子に誘われるけど、全然行かない。バイトしてた方が楽しいし、お食事相手ならお兄ちゃ……んんっ、幹人さんや美咲ちゃんがいるしね。

 

「あ、お、おはようございます、喜多見先輩!」

「おはよう」

 

 ぼーっと考え事をしていた休憩中に、五月に入ったばっかりの新人君、その中で一番やる気のある子が私に元気よく挨拶をしてくれた。

 ──彼は私の二つの意味で後輩にあたる人物だ。幹人さんにとっての私と同じ、大学とバイト、二つの後輩だ。そして、更に彼に限って言えば、高校でも一緒だったということがつい最近分かったところだった。

 

「そろそろレジ覚えたぁ?」

「まだ、自信はありません……けど」

「それじゃあ今日もわかんないことあったら呼んでね」

「はい!」

 

 これまた元気よく返事をして、幹人さんに連れられていった。

 ──やっぱり、あの子なんだなぁって思う。高校の時は名前も知らなかった彼に、私は少し、今まで感じたことのない胸の高鳴りを感じた。なんでかわからないけど、なんだか見つけたって気分になった。

 

「おい」

「あらおにーさま」

「何キャラだそれ」

「似合わない?」

「かなり」

 

 ひどいことを言うお兄ちゃんだ、あ、幹人さんだ。わざわざ義妹に会いに来てくれたのかと思ったらもう休憩終わりだろってただの上司からの勧告だった。つまんない。もっと私を甘やかせー横暴だーと喚いてみると、幹人さんは溜息をついて表情を崩してくれた。

 

「ほら、帰りに甘いもんでも買ってやるよ、美幸」

「辛いものがいい」

「……お前な」

 

 私は美咲ちゃんじゃないので甘いものより辛いものがいい。おかしも甘いのより辛味のあるチップスとかの方が好きだし。

 でも態度は甘い方がいいよ。私は優しくされたい! だから頑張って化粧とかファッションとか駒沢さんに教えてもらったし、素材はいいからってキレイになる努力を怠ったわけじゃない。私は私に対して優しい世界であってほしいから。

 

「……ねぇ、お兄ちゃん」

「なんだその呼び方」

「いいから、もしさ……私が恋煩いをしてる……って言ったら、どうする?」

 

 特に幹人さんには、お兄ちゃんにはあんまり辛くされたくない。

 家族は少し、なんていうか家族としての繋がりが薄い。お姉ちゃんと姉妹らしい話をしたこともないし、なんならお姉ちゃんがカレシと同棲するってなっても、嫁に行くかもってなっても、別れたって帰ってきても、あんまり関心がなかった。私も、あったらいけないみたいな雰囲気だった。だからこそ、お姉ちゃんは私が幹人さんと仲良くしてたことに苛立ちみたいなのを感じてたみたい。

 ──人間は死ぬ時は独りなんだ。そうやっていつも教えられてきた。

 

「人間は独りか」

「うん」

「……なんか合理主義の杠葉が生まれたとこって感じだな」

「イヤミですかぁ?」

 

 昔、そんな愚痴をこぼしたこともある。だけど、幹人さん(おにいちゃん)は笑い飛ばしてくれた。そんなわけねーだろって。私がその合理主義に嫌な気持ちを持ってることに、彼は笑っていてくれたんだ。

 

「死ぬときは独りでもさ……人間って独りじゃ生きていけねーんじゃねーの?」

「え……?」

「美幸や杠葉の父さんや母さんだって繋がりを持ったわけだろ? そんで、生まれた美幸は、杠葉って姉を通じて俺と繋がってる。これって、独りじゃねーって証拠じゃんか」

「……そうだね」

 

 優しくて甘い言葉。私にはなかった言葉。この人がお兄ちゃんだったらいいのにと

 強く思った。この人のように、誰かにとってお姉ちゃんみたいな人になりたいと思った。だから私は、新人教育には積極的にしてきたし、恋バナを沢山聞くようになった。

 ──高校三年生にはもう、そんな地位は確立してた気がする。背も高めだし、言いたいことはハッキリしてきたつもりだし、頼られたつもりだ。

 

「……話だけなら聞いてやるよ」

「ホント?」

「どうせあれだろ? 今来てる新人が気になるとかそういうんだろ?」

 

 あら、お兄ちゃんにしては鋭いなぁと思った。けど、このタイミングじゃ流石の鈍感な幹人さんでもわかっちゃうか。

 ──そう、あの子は特別。誰かのお姉ちゃんでいたいってだけじゃない。彼なら私の弱いところも受け止めてくれるかなって思ったんだ。

 

「私の理想の人って誰か知ってる?」

「知らん、どっかのアイドルか?」

「ううん」

 

 それは、もっと身近にいる人だよ。独りじゃない世界で、独りでいるんじゃなくて、誰かに寄りかかって、寄りかかってるから優しくなれる、そんな人。

 それでいて、時々酷くて泣いちゃいそうなくらい、優しい人。九歳差とかそんなの本当は関係ないって言いきりたいくせに、言い切れないところがある弱い人。

 頼るだけじゃなくて、頼られるだけじゃなくて、私はそのどっちもがほしいから。だから、とりあえずあの子にはその私の頼りたいって気持ちを察してくれることに期待することにするんだ。

 ──そのために、頼らせてもらうね、お兄ちゃん? 

 

 

 



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二人きりになれない団欒

 ──それは大学時代のダチと飲み会をしていた時の話だった。飲み会の帰り、飲み過ぎたダチを介抱していたところ、ソイツが終電を逃したと言い出した。その焦りもあってか流石にもうだいぶ酔いが醒めてきたらしく、今度は顔を青くしていた。

 

「タクシーかぁ……」

「んじゃあウチ泊まるか? 安くしといてやるよ」

「マジで?」

 

 そんな安請け合いはしたものの、ちょっと待てと一応美咲に連絡をしておく。今日は夜ご飯がいらねーことも伝えたし、それ以外に確かなんもなかったからもしかしたらいないと思いつつも電話を掛けた。

 

「え、今美幸さんと花音さんと一緒なんだけど」

「二人は泊まりか?」

「うん」

 

 まずったなと思って、頭を捻っていたところで、別に私はいいと思うよ、と美幸の声が聞こえた。

 そんなのまずいだろと思ったところで別に寝るとこ工夫するから大丈夫だよと美咲も言った。

 

「花音は?」

「わ、私は……顔は出せないと思いますけど……いいと、思います」

「あたしの部屋は鍵掛かるし平気でしょ」

 

 まずいとか女の子三人に見ず知らずの男を一緒に泊めるのが危ないだとかそんなことは言うものの、結局手だてがあるわけじゃねーってこともあって三人の厚意に甘える結果に落ち着いた。

 

「え、かわいい?」

「手出すなよ」

「いや、かわいかったら……って、わかってるよそんな顔すんなって」

 

 でもやっぱり不安だ。そう思いながら俺は自分の家に通した。

 扉を開けるとおかえり、と声がする。美咲の声に俺は後ろにダチがいることも忘れてほっと一息、ただいまと声を発した。

 

「えっと、あたしは奥沢美咲って言います、初めまして」

「え……なぁ、いくつ?」

「レディーに年齢を訊ねるのは野暮だってお前も言ってただろ」

 

 誤魔化しておく。確かに美咲は明らかに十代ですって感じの見た目だしな。美幸とは面識があるためある程度はフランクに接していた。花音は宣言通り美咲の部屋から出てくるつもりはないらしい。

 

「いいな、両手に花でよ」

「別に俺のじゃねーけど、合意の元で頼むな」

「幹人さん、冗談でも今のはないよ?」

 

 しまった。男同士のクセが抜けてねーのか俺も酔いが回ってんのか、余計なことを言っちまったらしい。美幸が物凄く怒ってる。美咲もあんまりいい顔はしてねーしな。

 水を飲みながら、客間を案内してやった。けど、美咲の部屋に三人は寝れねーだろ。鍵がついてんのも美咲の部屋だけだし、釘を刺したとは言え心配だな。

 

「いーじゃん、幹人さんは美咲ちゃんと寝れば?」

「え、ちょ、美幸さん……!」

「だっておにーさまががっちりガードしてれば手は出せないし、私と花音ちゃんで美咲ちゃんの部屋で安全に寝てるからさ」

「いやいや、待って……あたしが、幹人さんと……」

 

 それこそ間違いの元である気がするんだが、と俺も思うんだけど、美幸はそれは二人きりの時にしてとあしらわれた。意識してるから余計に一緒ってのは危ないだろ。それだったらまだ花音とかの方がいいだろ。

 

「それこそ美幸(いもうと)に手を出すつもりなんてないしな」

「……だって、どうする美咲ちゃん?」

「あたしが一緒に寝る」

「ん?」

 

 さっきと言ってること全然違うんだけど、なんなんだよ。そう怪訝に思っているのはどうやら俺だけのようで、美幸はそれじゃあね、と行ってしまった。リビングに美咲と二人、取り残される。

 

「やっぱ、あの時とは違うよね」

「……だな」

 

 あの時はお互い傷だらけで、それを舐め合うので精一杯だった。だから一緒のベッドで寝れたのかもな。俺は杠葉の温もりを求めて、美咲を抱き寄せて、美咲も安心したように寝息を立てていった。あの時アヤマチを犯さなかったのは断然、俺が杠葉一色だったからだな。

 

「幹人さん」

「ん? どうした、なんか嫌なことでもあったか?」

「ううん……ほんのちょっと、甘えたくなった」

 

 ソファでちょっとだけ近づいて、美咲は俺の肩に自分の頭を乗せた。手はしっかりと繋がれていて、その動きが前までは何か嫌なことがあったり、我慢することがあったりするとしてきたことだった。今は、違うんだな。

 

「久しぶりじゃん、二人きりなの」

「いるけどな」

「それでも」

 

 美幸はまぁ、前々からあの家に居場所がねーって感じてたみたいだからな。あんまり帰りたくねーんだとよ。それを許可したのも美咲だったな。

 その時の話は俺は知らねーことなんだけど、あれからより一層美咲と美幸の仲は良くなったよな。

 

「ずっと寂しかったところもあったんだ。幹人さん一人で待つのがちょっとね。でもこうやって二人きりになれるのも……たまにはいいなって」

「ごめんな……あと、ありがと」

「んっ……急にすんな、ばーか」

 

 ああ、なんか美咲を見てると思うな。俺は杠葉ともっと甘い同棲生活を想像していたんだ。そんなことを考えてる時点で見えてなかったんだろうけど、少なくとも俺は杠葉が同棲することでもっと砕けてくれると思ってた。彼女に告白をして私も好きだったという言葉をもっと行動にしてくれるんだと思い込んでた。

 

「あ、あのさ……」

「ん?」

「急に……じゃなかったら、いいよ」

「身構えられると困るんだけど」

 

 そんな攻防をしていると今度は美咲にヘタレと言われた。流石にカチンと来る言い方だけど、美咲は煽ったらしてくれるんでしょ、みたいな顔をしていた。ヘタレはどっちなんだか。どうにも美咲はまだ恥ずかしいらしく、自分からとれるスキンシップは手を繋いだり甘えるので精一杯らしい。だから、俺はまだ手を出すとかは考えてねーんだけど。

 

「ほら、そろそろ寝ねーと、明日学校だろ?」

「……幹人さんは休みだよね」

「そうだな」

「……サボろうかな」

 

 やめとけ。あんまり賢いとは言えねーからな。それに、ちゃんと休みを取ってあるからそん時にいくらでも甘えられるから。頭を撫でてやると、美咲は唇を尖らせてなんか違うと言い出した。何が違うんだろうな。

 

「あたしは、九歳差を意識したいわけじゃないもん」

「んーっと、どういうことだよ」

「子ども扱いは嫌ってこと」

「はいはい……いいから今日はもう寝ろ」

 

 だってな、今は子どもだって思っとかねーとお前と一緒に寝れないだろうが。

 まだそこまでの覚悟は俺にできてないから、今のところは悪いけど、前のままのスタイルでやらせてもらう。

 背を向けて広いベッドの両端で寝ることになったのだが、電気を消した途端に美咲がもぞもぞと俺の背中にまでやってきた。

 

「どうした?」

「ん……なんでもない」

「なんでもなくはねーだろ」

「いいから」

 

 仕方ねーなと俺は寝がえりを打ち腕を差し出した。美咲は少し迷った素振りを見せていたが、やがて諦めたように腕に頭を乗せて、いいよ、と頷いた。どういう意味だよと一瞬思ったけど、俺は抱き寄せてほしいという意味だと解釈をすることにした。頭を撫でて美咲を落ち着けたあの頃と同じやり方で、俺はもう傷も見えない少女を抱きとめた。

 今度は自分勝手な願いのために、ここにいてほしいという想いを込めて。

 

「キス、って意味だったのに……」

「また今度な、今日は寝てろ」

「……うん」

 

 今日はこれ以上線を踏み越えるつもりもねーからさ。だから不安がってないで目を閉じてろっての。俺はお前にとって最も信頼できるヤツになるって決めてるんだからな。美咲が本当にいいって思えるまで俺は待ってるつもりだからさ。

 

「ホントにシてないの?」

「シてないってば……」

「本当にさ、幹人さんは性欲ないのかと思うよねぇ」

「いやいや、あたしもしてほしかったわけじゃないし」

 

 ──けど翌日、美幸が美咲とそんな話をしていて、俺は顔をしかめることになった。お前らとっとと学校行けよ。ちなみに朝一の電車でダチは帰っていった。おずおずと朝ご飯は、と問いかけた美咲にカッコよく手を振ってな。サンドイッチ、今頃食ってるんだろうか。

 

「朝からそういう話すんのはやめろっての」

「今じゃなきゃいつするの?」

「俺がいねーとこ」

 

 おにーさまにも言ってるんだよ、と美幸が何故か呆れ顔をしてきた。美咲としても話を早く逸らしたいようで、もう行くからねと花音と一緒に支度をし始めていた。なんか増々美幸と美咲が姉妹に見えてくるな。いっそ本物の姉妹より姉妹だな。

 

「でしょー、わたしの妹、かわいいでしょう?」

「はいはい、その妹と一緒に学校行きたきゃとっとと支度しやがれ」

「あ、それは一大事!」

 

 最近、どうにもココが賑やかになった。美咲と一緒に暮らしてるって意識が強いところではあるけど、美幸が来て、花音がやってくるようになって、妙に暖かな空間になってるな。

 そんな家族の温もりみたいなものを感じながら、俺は三人に行ってらっしゃいと微笑んだ。

 美咲と俺がいて、今はそこに色んな人がやってくる家、それは俺が以前は感じなかった幸せだった。

 

 

 

 



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揺るがない愛情

 雨が降り続く季節の貴重な晴れ間、ううん、と唸る幹人さんを隣に置いて、あたしは470mlの紙パックのミルクティーをストローで飲んでいた。こんなのんきな状態だけど正直幹人さんにとってはあんまり良い状況じゃない。お店のスマホが鳴って、エリアマネージャーの声が僅かに聞こえた。んー、様子見に来た……という建前の元、恋人未満の大好きな彼に甘えに来たわけですが今日は構ってくれる雰囲気じゃないよね。

 

「ちょっと外行ってくるね」

「ん、わかった」

 

 電話が切れたタイミングであたしはお店の外に出た。丁度そこで美幸さんがスカートの私服姿で入店したところだった。あれ、スカートってことはバイトないのに、どうかしたのかな? と首を傾げていると美幸さんはお兄ちゃんは? と問いかけてきた。

 

「幹人さんなら今対応に追われてくるところ」

「対応?」

「アレですよ、アレ」

「あー」

 

 いつも盗難や不審者があった時の店員間でのみ使われる番号を指で示す。それで美幸さんはわかってくれたようで、それはまずい時に遊びに来たなぁって苦笑いをした。どうやら美幸さんの目的は()のようで、きょろきょろと辺りを見渡していた。

 

「さっきすれ違ったから納品だと思う」

「そっか……んんっ……別に探してないってぇ」

 

 なんでこのヒトはこんなに自分の恋愛のことになるとポンコツになるんだろう。恋愛下手なお姉ちゃんはかわいいんだよって自慢したいくらいにかわいい。ホント、あたしが落ち着いたら全力で手伝ってあげたいくらいにかわいい。なにより自分よりヒトの恋の方に興味が向いちゃうところもね。

 

「最近、美咲ちゃんに対してお姉さんできてない気がする……」

「できてますよ」

 

 よしよしとすると美咲ちゃ~ん、と抱き着いてくる。やめてここ店内だからと言うとしぶしぶ離れてくれた。美幸さんはホントに人懐っこいし、なんだかんだで末っ子だから根っこの部分で甘え属性あるんだよね。

 

「なにやってるんですか……?」

「あ、榊原(さかきばら)さん」

「おつかれさまー」

 

 四月に入ってきたバイトの榊原さんがちょっと戸惑ったような表情で近づいてきた。バイト歴的にはほんのちょっとあたしが先輩だけど年上だからお互いがお互いに敬語を使ってる。そんな彼は銀縁の眼鏡を人差し指であげながら、高めの身長で溜息交じりにあたしに向かって宮坂さんからの伝言です、と前置きをした。

 

「コーヒー買ってきてほしい、とのことです」

「わかりました」

「えー私もー」

「いいですよ、美幸さんも行きましょう」

 

 コーヒーを買ってこいってことはひと段落ついてたってことでしょう、とあたしと美幸さんは事務所に向かった。美幸さんが幹人さんと明るく名前を呼んだのに対して、彼は重苦しい溜息の後に、なんでいるんだよとだけ呟いた。

 

「美幸さんは恋する乙女だから」

「だから違うってば~」

 

 とかなんとか言いつつの目的は彼なんだから、しかも幹人さんにバレてるくらいわかりやすいんだからもう素直になればいいのに。

 幹人さんはなるほどなと言いながら伸びをした。大分お疲れなようであたしは甘さ控えめの缶コーヒーを手渡した。

 

「ありがとな」

「いいえ、大丈夫そう?」

「おう、なんとか……まぁ、始末書あるけどな」

「あらドンマイ」

 

 美幸さんがにへら~とにやけながら幹人さんの隣に座った。あ、あたしの場所、と思う間もなく、美幸さんはあろうことか幹人さんの肩に顎をのっけて柿の種をどこからか出してきて食べる? と幹人さんの唇に押し付けていた。

 

「あーん」

「なんだよ……」

「あーん」

「今辛いものは勘弁してくれ」

 

 そっか、と美幸さんは幹人さんにくっつけていた柿の種を戻し、あろうことか口に放り込んだ。咀嚼して、こんなに美味しいのに、ともう一つ口に放り込んだ。

 ちょっと、ちょっと待って、今サラっと……関節キスした。あたしが焦っていると、美幸さんと幹人さんがほぼ同時にん~? とあたしの方を向いた。すごくそっくりな仕草は本物の兄妹みたい、じゃなくてさ、二人ともなんとも思ってないの? 

 

「え、いや……えっと、間接キス……」

「ん? ああ、気にしてなかった」

「美咲ちゃんは気にするタイプか~、ウブだ~」

「かっ、からかわないでよ……もう」

 

 ヤキモチ妬かせてごめんねぇ、とそこでようやく美幸さんは幹人さんの傍から離れていった。もしかしてさっきからかった仕返しかと思ったらホントに仕返しだったみたいで、美幸さんはとってもいい笑顔でどーぞと幹人さんの隣を指した。

 

「それは納得できるものじゃないんだけど……」

「ってか二人とももうちゅーしたんでしょ?」

「えっ」

「……美咲」

 

 カマをかけられた……ということに気づいたのは幹人さんがパソコンに向かいあいながらあたしの名前を呼んだ時だった。しまったと思った頃にはさておき、美幸さんの恋バナスイッチがオンになったようで、ほうほうほうほう、とあたしに詰め寄ってきた。

 

「ちゅーしたの? いつ?」

「美幸」

「気になるんだもん」

「もん、じゃねーよ落ち着け」

 

 幹人さんがあしらってくれてるけど、この手の話は苦手だ。顔が赤くなってるのがよくわかった。

 確かに、あたしと幹人さんの仲は進展した。進展はしたけど、未だに二人の間には九歳差って壁があって、お互いの傷という触れられたくない壁があって、それでなんとかそこまで漕ぎつけたけど、どうしたらいいのかわかんない。

 ──お前の好きはなんでそんなに重いんだよって、言われてしまう気がして。

 

「美咲ちゃん?」

「……あ、えっと」

「ごめん……調子に乗っちゃった」

 

 しゅんと美幸さんは項垂れてしまった。あ、悲しませたかったわけじゃない。美幸さんの追及が嫌だったわけでもない。純粋な興味だけじゃなくて、あたしを応援してくれてるのが伝わってるから、だから嬉しいって気持ちすらあるのに。

 ──好きでどうしてそこまで悲しませられるの? と頭の中で声が響いた気がした。傷ついてるのはあたしじゃない、なのにどうして傷ついたフリをするんだ、そんな風に過ぎ去ったものがあたしの胸をナイフで抉ってくる。

 

「美咲」

「……あ、み、みきと……さん?」

「大丈夫だ美咲」

「……美咲ちゃん」

 

 フラッシュバック。最近はなくなってきてたのに、またあたしはありもしない言葉のナイフに傷ついていた。正しくないと詰られ、全部を失って……いっそ死んだ方がマシだとすら感じた。あたしが世界を笑顔にするなんておこがましいにも程があるとすら思った。

 

「美咲ちゃん、私がいるしお兄ちゃんがいる。美咲ちゃんはもう、()()()()()()()()()()

「間違って……ない」

「うん」

 

 ああ、やっぱり美幸さんはお姉ちゃんみたいだ。さっきまでの態度がなんだったのってくらい、美幸さんは優しくて、ほっとする匂いと声であたしを包んでくれた。

 杠葉先生も、近づくとこんな匂いしてたっけ。家もそんな匂いもしてたしアロマの匂いなのかな、と考えていたらいつの間にか不安や怖い気持ちが落ち着いた。

 

「ありがと……美幸さん(おねえちゃん)

「どういたしまして」

 

 にっこりと微笑んで、美幸さんがあたしの頭を撫でてくれた。幹人さんも心配そうな顔をしてくれる。

 当たり前のようなことが今更胸の中に湧き出てきた。あたしは今、満たされてるんだ。好きな人に好きでいてもらえて、あたしを理解してくれる頼れるヒトがいる。あたしにとって今が一番幸せなんだ。

 それならあたしができることは一つだ。この場所を守る。幹人さんがいて、美幸さんがいるこの前は夫婦ごっこだった家族ごっこを守ることが

 

「ねぇ、美幸さんも幹人さんのウチにおいでよ」

「ん?」

「あたしは美幸さんのこと、お姉ちゃんだと思ってるから」

「美咲ちゃん……でも」

 

 幹人さんがふっふ、と笑顔を浮かべた。そんな遠慮しなくていいのにな。

 美幸さんがあたしや幹人さんにとって安らげる相手だっていうなら、美幸さんにとっての安らぎでありたいよ。こころの理論だけど、世界を笑顔にするってのは、誰かが笑顔になって、その笑顔を誰かにあげる。そうやって世界は笑顔になっていくのよ、ってさ。

 あたしもそう思う。誰かに優しくしてもらったなら、誰かにとって優しい存在でありたいんだ。

 

「いいじゃん。つか美咲も」

「え?」

「そろそろ、誤魔化さなくていーんじゃねーの?」

「……うん」

 

 ぽん、と頭に手を置かれる。子ども扱いはちょっとむかっとしたけど、確かにそうだ。両親にはいいよって言ってもらってる。前までは誤魔化してたけど、あたしとしてはもう遠慮することがないんだから。

 

「親に話してくる」

「時期は?」

「一学期終わってからかな?」

「じゃあ私も前期終わったら準備する」

 

 そんなのんびりした当たり前のような感じで、あたしと美幸さんは幹人さんに一旦の別れを告げて、店を後にした。

 これからたくさん用意するものがあるよね、まずは空き部屋になってるところを美幸さんの部屋にしないと。そのために必要なものを買いに行こう。そのためのリストを、二人で作ることにしよう。

 ──来月が楽しみだな。三人で毎日を過ごせるようになる、その日があたしはめちゃくちゃ、楽しみでしょうがない。

 

 

 

 

 

 

 



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語られない始点

「喜多見さんと奥沢さんって、最初姉妹かと思った」

 

 始まりは新しくバイトに入ってきた男子三人組の一人、酒井くんがこぼした呟きからだった。

 私はそだねぇ、と相槌を打ちながら幹人さんに頼まれた事務作業をしているところで、早めにやってきた二人がそんなことを言って、確かに、ともう一人の本田くんが返した。

 

「んー、まぁ美咲ちゃんと私は今や姉妹と言っても過言じゃないからねぇ」

「仲いいっすよね」

「前から知り合いだったんですか?」

「どーしたキミたち? 私のことが気になるのかな?」

 

 それとも美咲ちゃんの方かな? と笑うと少なくとも奥沢さんはないですねと二人が顔を見合わせた。まぁそうだよね。美咲ちゃんかわいいし愛想も割といいし仕事ができるで最強の優良物件だとは思うけど、狙うおバカさんがここにはいなくてほっとした。

 

「宮坂さんなぁ」

「羨ましいですよ、正直」

 

 そうなんだよね、美咲ちゃんは見ればわかるしなんなら幹人さんが仕事中以外は二人そろって隠す気ないんだよね。あの二人が一緒で閉店まで残ってれば明らかにデキてることが伺える雰囲気出すからプライベートの二人は。

 

「でも僕、最初は喜多見さんと宮坂さんが付き合ってるのかと思ってました」

「それ! めっちゃ距離ちけーしこれは、って思ってました!」

「そう? んー私と宮坂さんは長く一緒にいるからかも」

 

 高校生になって、他者とのかかわりに無関心というよりも他者とのつながりを持つことが弱いと考える自分の両親の方針に嫌気が差したのがきっかけだったんだよね。だから接客業にしたんだ。そこで、私は家族のように思える相手に出逢った。ちょうど美咲ちゃんと同じ年に、私はお兄ちゃんに出逢ったんだ。

 

「二年からだからー、もう四年? そのくらい」

「四年っすか」

 

 本田くんがそんな風に感心していた。なんだか、初々しさがあっていいよねぇ。そしてなにより元気が良い。本田くんも酒井くんも、榊原くんはちょっと落ち着いた感じするけどそれでもカノジョさんラブでかわいいとこあるんだよねぇ。あとは……手塚くんかな。

 そんな話をしていたせいか、私はふと、美咲ちゃんと初めて会ったときのことを思い出した。大学二年生、成人式が終わってすぐのことだった。幹人さんに中途半端な時期だけど、とちょっと明るい顔で言われて紹介されたのが美咲ちゃんだった。

 

「奥沢……美咲です」

「……喜多見美幸です、よろしくね?」

「はい」

 

 第一印象は、大丈夫かなぁって感じだった。何せ暗い。せっかくのかわいい顔が台無しってくらいに顔には影が付きまとっていた。まるで自分を痛めつけているような顔、私は教育係に任命されたことでどう接すればいいんだろうと、幹人さんに相談したくらいだった。

 

「……ねぇ、幹人さん」

「なんだよ、みゆ……喜多見」

「呼び方……それ本気で言ってたの?」

「当たり前だろ……じゃなくて、なんだよ」

「奥沢さんとどう接してあげればいい? なんか暗くて、抱え込んでる感じするから」

「そうだなぁ」

 

 直観的に、幹人さんは知ってるんだってことはわかった。けどお姉ちゃんと別れたせいで距離を置かれて、私はそれ以上聞くことはできずに、答えを待った。うーんと腕を組んだ幹人さんは、ほんの一瞬だけ柔らかい笑みを浮かべて一言だけアドバイスをくれた。

 

「お前が思う通りでいいんだよ、少なくとも俺は喜多見の教育をやった時にはそう思った」

「……そっか」

「はい、タメ語禁止。少なくとも仕事中はな」

「わかりました……宮坂さん」

「ごめんな」

 

 謝るなら線を引かないでほしかったけど、そうでもしないと幹人さんは泣いちゃうんだと思ったら、何にも言えなかった。やっぱり家族にはなれないのかな、なんて失望も少しした。だからかな、私と美咲ちゃんの初対面は決していいようにはならなかった。

 

「ほらほら、スマイル! 接客業なんだから」

「……すいません」

「怒ってるわけじゃないよぉ、ね?」

 

 空回りしていた私は、美咲ちゃんに歩み寄ることができなくて、表面的で薄っぺらな言葉しか掛けられなかった。だから歩み寄ろうとして、その実どんどん溝が深まっていくのが日に日に明らかになっていった。

 

「奥沢さん?」

「……どうも」

「どうしたの?」

 

 そんな溝から二週間くらい経ったある日、私は半に上がったはずの美咲ちゃんが閉店後まで事務所に残っているのに遭遇した。

 最初は何かトラブルがあって帰れないのかと心配になって幹人さんを見上げたら、幹人さんははぁ、とため息をついた。

 

「残るなって言っただろ」

「別に……いいじゃ、ないですか」

「よくねーよ」

 

 おや、と思った。何やら上司とバイトの枠を越えた匂いに私はここでようやく、溝を埋めるものを見つけた気がした。やっぱり気を遣うのって私らしくないんだなってことにようやく気付けた。

 

「宮坂さんと奥沢さんって、そういう関係なんですか?」

「なんのことだ」

「お泊り、もしくは送ってくような関係?」

「違います」

 

 呆れたように否定する美咲ちゃんが、そこで初めて私を見てくれた。きっと上辺だけの言葉じゃない私を認識してくれたんだという喜びが私の胸の中にあった。同時に幹人さんが別に踏み込んでやればいいさ、みたいな顔をした。そんな表情したら増々私は怪しんじゃうからね。

 

「じゃあじゃあ、恋バナしよ美咲ちゃん」

「……え」

「喜多見……コイツは恋バナに食いつくヤツなんだ」

「そう……なんですか」

「うん、喜多見美幸は恋する乙女の味方なんだぁ」

 

 なんだその言い方、と幹人さんが笑い、くすりと美咲ちゃんが笑った。おお、初めて素直に笑った顔を見たけど、やっぱりかわいい。

 ──私はこの子と仲良くなりたいな。業務とか関係なく、幹人さんが大切にしているらしきこの子と、私はただの先輩後輩じゃない関係がほしいんだ。

 それは私がかつて幹人さんと結んだ関係のように、温かくて優しいもの。それを目指していた。

 

「みーゆーきさん」

「わ、美咲ちゃん、お疲れ様。練習終わったの?」

「ん、だから弁当持ってきたんだ」

「ありがとー! 流石美咲ちゃん!」

 

 それから数ヶ月経って、私はすっかり美咲ちゃんと仲良しになりました。今じゃかわいいかわいい妹ですよ。お弁当を机に置いて、今日は美幸さんの好物だよ、と楽しそうに中身の解説してくれる。

 

「どうしたの?」

「昔のことを思い出してたんだ」

「そっか」

「あの頃の美咲ちゃんはとんがってたよねぇ」

「とんがってたんじゃなくて、ちょっと人間不信気味だったんだけどね」

 

 事情を知らなかったとは言え、私は美咲ちゃんにちゃんと接してあげられてなかったんだよね、少なくとも最初の二週間はね。でもあの関わりがあるから、今私は美咲ちゃんと姉妹でいられるんだなって思うと後悔はしないで済んでるかな。

 

「今日は幹人さんのとこ」

「うん、今日からまた連勤あるから」

「じゃあ私も泊まろうかな」

「それがいいよ、あたしもそっちのが楽しいし」

 

 ほら、こんな感じ。微笑んでくれるとこれがまたキュートなんだよね。こうやって許してくれるんだよね、私のことをお姉ちゃんだと思ってくれるところあたりはホントにそう思うんだ。思わずにやけちゃうくらいに。

 

「ねぇねぇ、美咲ちゃん」

「んー?」

「ここなんだけど……修正した方がいいよね?」

「あ、うん。これヤバいよ」

 

 そしてなんと事務作業に至ってはキャリアのある私より優秀なのです、なんて出来た妹なんだろう。お姉ちゃん感激してると同時に戦慄してるよ。おにーさまはどんだけ美咲ちゃんに頼り切りなんだろう。

 

「流石美咲ちゃんだとは思うけど、私ココで働こうかな~って思ってるのに負けた気がしてるんだけど」

「頑張って、あたしのは幹人さんが楽をするための技術だから」

「でも私に教えてほしいくらいなんだけど」

「教えてあげるよ」

 

 流石すぎるよ美咲ちゃん。こうして甘えて甘えられて、私と美咲ちゃんは家族のような繋がりを強くしていく。

 いつか私は、幹人さんと美咲ちゃんの壁の間にある九歳差の壁を壊して、手を差し伸べてあげるからね。その日まで私は、こうして家族でい続けるんだ。

 

 



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本当ではない家族

 あたしの家族のお話。家族って言っても本当の家族じゃなくて、お姉ちゃんみたいな存在って意味だけど、家族みたいなヒト。

 喜多見美幸さんの様子が少しおかしいことに気づいた。なんか元気がない感じ。疲れてるのかなって思った。

 

「美幸が?」

「うん」

「俺には普通に見えたけど」

「鈍い」

「はぁ? 今のはムカっとした」

 

 と、そんな鈍い幹人さんは放っておいて、あたしは美幸さんのところに向かっていった。丁度ビューティーコーナーで顧客とかの情報を取り扱ってるから、オフのあたしはカウンターのところに座る。

 

「お疲れ、美咲ちゃん」

「うん、お疲れ」

「今日はどうしたの?」

 

 どうしたの? と言われてちょっと迷った。これをバカ正直に美幸さんに話してもいいのかな。案外美幸さんは隠し事上手で、隠しがちなタイプだしね。

 でもあたしとしてはやっぱり、美幸さんに元気がないならあげたい。こころに影響されまくった感じだけど、大切な家族なんだもん。そう思うと回りくどいのはよくないよね。

 

「美幸さん、最近……元気ないから」

「あ……もしかして、心配してくれた?」

「そりゃそうだよ、だって」

 

 あたしは美幸さんのこと、本っ当にお姉ちゃんだと思ってるから。

 ごっこだとかなんだとか言われても、関係ないよ。あたしは美幸さんのために何かをしてあげたい。

 

「疲れてない?」

「うーん、疲れてるというより、最近お姉ちゃんがね」

 

 お姉ちゃん、というと杠葉さんのことか。幹人さんの元恋人。そして最近幹人さんの周りに女性の影があることに遅まきながら気づいたらしいヒト。

 そんな杠葉先生がどうやら美幸さんが最近どこに通っているのかを知ったっぽそうだ。あたしの予想通り、美幸さんは姉に問いただされていることを明かしてくれた。

 

「ホントさ~、お姉ちゃんが凄い顔するんだよね……」

「あのヒト、すごい表情読めなくない?」

「そ! けど怒る時はすごく分かりやすくてさ」

「そうなんだ……でもわかる気もする」

 

 優しい雰囲気だけどそこはかとない深みを感じる笑顔だもんね。あたしも一度あの笑顔の真の怖さを目にしたことがあるからよくわかる。

 元カノってこと自体、あのヒトは認められてない。別れたとか言いつつ、全然別れたつもりもないらしい。

 

「そ、そうなんだ……お姉ちゃんが」

「そそ、表情がすっと冷たくなった感じで」

「わかる、お姉ちゃん怒ると温度下げるパワーあるよね~」

 

 しばらく杠葉先生に関するトークで盛り上がる。このお店はセーフポイントだもんね、なにせ()()()がいるから。

 そうやって言うと美幸さんは、ちょっとだけ引き攣ったような笑みを浮かべた。

 

「み、美咲ちゃんも案外挑戦的だよね……お兄ちゃん関連は特に」

「そりゃあね」

 

 幹人さんのことを好きでいるということを、幹人さん自身に認知されて、恋人未満とはいえ両想いを確認したあたしだもん。美幸さんにはない杠葉先生に対する有利があるから、なんなら美幸さん(おねえちゃん)はあたしが守ってあげる、くらいのテンションだからね、今は特にさ。

 

「頼もしい義妹だよ……」

「あはは、義姉ちゃんが強くしてくれたからね」

「よしよし、じゃあ今日はお兄ちゃんとこ行っといで」

「はーい」

 

 あたしと話しているうちにすっかり元気を取り戻したらしい美幸さんは事務所の方を指さした。今日は美幸さんと幹人さんはなんと珍しいことに早上がりの方らしく、一緒にご飯の準備をしようねって約束をしていた。

 事務所に戻り、一人でパソコンに向き合っていた幹人さんの背中にもたれかかった。

 

「重い」

「女の子に重いって言う男はモテませんよ」

「うるせーよ」

「別にモテなくていいけど」

「なんだお前」

 

 だってモテモテになったら困るし。今は幹人さんの魅力はあたしと、あとお姉ちゃんの美幸さんだけが知ってればいいんだけど。

 肩に顎を乗せていると、手が伸びてきて、あたしの頭をちょっとだけ乱暴に撫でてくる。苦笑交じりのその顔が、なんかムカつくんですけど。

 

「子ども扱い」

「甘えてくるから、リクエストに応えてるだけなんだけどな」

「……ばーか」

「今日はどうした?」

 

 どうもしてないけど、ただ美幸さんと分け合った笑顔を幹人さんにも伝えたいってだけ。あとそこのギフト券の金額間違ってる。

 そんなことを言うと、なんでそんな計算はえーんだよとため息をついてきた。

 

「美幸と何の話した?」

「女のヒミツ」

「あそう」

「うそ、杠葉先生のことちょっとね」

「……美幸のやつ、なんかあったって?」

 

 義妹想いのお兄ちゃんですこと。仕事終わったらゆっくり話してあげるとあたしが逆に幹人さんの頭を撫でた。すると恥ずかしそうにこっちを向いて、吐息がかかるくらいの近さにお互いの目線がぶつかった。

 しばらく、固まって、これはキスする流れだなとあたしは目を閉じた。

 

「お疲れ~!」

「っ! み、美幸さん」

「お疲れ、終わったか?」

「ふーん……美咲ちゃん顔真っ赤だよ~?」

「なっ……そんな、こと……」

 

 頬に手を当てたらめちゃくちゃ熱かった。逆になんで幹人さんがそんな平気そうなのかわかんないんだけど。それどころかお前のリアクションのせいで弄られるじゃねーかみたいな顔してるの悔しいんだけどさ。なんで、なんでそんな……ドキドキくらいしろって言いたい! 

 

「肩痛い、爪立てんな」

「うるっさい、ばか、ばかばか、ばーか」

「タイミング悪くてごめんね、美咲ちゃん」

「──っ、美幸さんもばーか!」

「……っ! み、幹人さん」

「知らん、というか俺はまだ仕事が終わってねーんだけど」

 

 言外にうるさいと言われて休憩用の椅子に座る。美幸さんは思いのほかショックだったようで項垂れているから変わりに備品の電気ケトルに水道水を入れていく。

 美幸さんは家からマグカップとティーバッグを持ってきてるから、その準備なんだけど。あの、ごめん……謝るからそんな落ち込まないでほしい。そんな想いを籠めてのお茶だった。

 

「へこみすぎだろ、美幸」

「だって~、だって~」

「俺なんかそんなんで落ち込んでられんくらいに言われてるからな」

 

 確かにね、あたし口癖みたいになってるかも。ばーかって。よよよ~、とわかりやすくリアクションしていた美幸さんは、紅茶を一口すすって一瞬だけ、あ、おいし、と笑顔になってからまた机に突っ伏した。忙しい人だなぁ、いつものことだけど。

 

「すっかり元気じゃねーか」

「美咲ちゃんとお話できたもーん」

「そうですか」

「あ、そういえば今日は手塚くんとお話した?」

「そ、それは今なし!」

 

 くすっと笑いが漏れた。幹人さんが楽しそうに笑って、あたしも笑って、頬が赤くなりながらも美幸さんがつられて笑ってしまう。

 ──と、そこに幹人さんのプライベートのスマホが着信を知らせてきた。

 

「……ん? はいもしもし」

「誰かな?」

「浮気?」

「幹人さんが? ないない」

「花音だようるせーなお前ら……あ、ごめん、うん今二人とも事務所にいて」

 

 浮気だった。花音さん、いつの間に連絡先を。というかこのタイミングってことは幹人さんも終わる時間を教えてくれてたってことだよね。やっぱ浮気じゃん、最悪、許せないからね流石にそれは。

 そういえば花音さんがいたのすっかり忘れてたところもあるんだよ。でもこんなカタチで思い出させてくるなんて思わなかった。

 

「あれだね、あの子のことナメてたらかっさらわれるかも?」

「やめて、これでも一応幹人さんのこと信じてるから」

「付き合ってないのに?」

「……ばーか」

「また!」

 

 なんやかんや言い合っていたら花音さんが今日一緒に晩御飯を食べることになっていた。

 ホントに花音さんは花音さんで頑張ってるんだなぁと何故か他人事のように思ってしまった。は、これが勝者の余裕? そんなこと言うから美幸さんに付き合ってないじゃんとか言われるんだよね。あれでも美幸さんだって両片思いみたいなもんじゃん。あたしと一緒ってことで。

 

「むしろあたしより進んでないよね、お姉ちゃんってさ」

「……反論できない」

 

 まだまだ美幸さんの恋路は前途多難らしい。それこそあたしと幹人さん程じゃなさそうだけど。

 結局、三人でご飯は協力して作ることになった。杠葉先生のことも大変だけどそれに関しては、というかそれに関してだけは花音さんも協力してくれることを約束してくれた。

 

「とりあえず来週の旅行、美幸さんはどうする?」

「え、行っていいの?」

「別部屋にしてるんだよ。美咲が寂しがるだろ?」

「ばか、言わなくていいっての」

「そういうことなら、行く!」

 

 こうして、一泊二日の旅行に行くことになった。夫婦ごっこをした相手との旅行じゃなくて家族旅行になるだけだし、あたしとしては、お姉ちゃんと一緒にお出かけしたかったからさ。

 すっごく楽しみだよって、それだけは本当だ。例え、この家族の関係が前の夫婦ごっこと同じ、本当のことなんか何一つない、ごっこ遊びのような間違いだったとしても。 

 

 

 

 



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救えない過去

 なんだかんだありながら旅行も終わり、美咲と美幸は夏休みに入った。

 夏休みっていい響きだよなぁ、と思う。夏に一ヶ月超の休みがあるんだもんな、こっちとしても嬉しいことにバイト勢が沢山入ってくれるからいいんだけど。

 そんなことよりも大きな問題が待っていた。俺は今、休みをもらってとあるところへと来ていた。そもそも家からそんなに離れているわけじゃないけど、心の距離はどうしても離れていた場所へと。

 

「えーっと、コーヒーでいい?」

「あ、ええ、コーヒーでお願いします」

 

 ──奥沢家客間。俺は今奥沢美咲のご両親と対面していた。こういうの、一回やっても慣れないもんだよな。しかも相手は九歳差。より胃が痛い。杠葉の時は、両親の反応としてもああそうみたいなところもあったしな。

 

「そんな畏まらなくていいのよ」

「けれど」

「そんなに知らない仲でも、ないじゃない?」

 

 んん、何か誤解のある言い方ですね。美咲と美咲の父親が物凄い顔をされてるんですけど。いやいや確かに知り合いではある。何せ美咲の母親はよくウチに買い物に来てくれる。美咲のことがあってからは俺に薬のことや世間話を振ることもあるくらいだ。それくらい()()()()()()()()()良好な関係を結べていると言えるだろう。

 

「それで、宮坂さんまでわざわざ呼んで……話というのは?」

 

 父親の方もよくついてきて買い物をするし、俺が接客をすることもレジを打つこともある。こちらも同じように良好な関係を結べてる常連の方だ。

 ──とはいえそれは店の中での話。外に出たなら、俺は娘をたぶらかし、あまつさえ家に連泊させていた張本人だ。なんも言ってねーとはいえ、そうなったら余計に()()()()()()をしてると思うのがフツーの反応だろう。

 

「あの、さ……父さん、母さん。あたし、夏休み中か、二学期前には幹人さんと、一緒に暮らしたいんだ」

「あら」

「……なに?」

 

 切り出してくれたのは美咲の方だった。流石にそれがどういう意味なのか、どれだけヤバいことを言っているのかわかっているようで、美咲の顔は俯き気味だった。

 その証拠に両親ともピタリと固まった。沈黙が恐怖を運んでくる。背中に嫌な汗を掻いてる気がする。

 

「宮坂、いや、幹人さん」

「は、はい」

「娘とは、お付き合いを?」

「えーっと、それをどう説明したらよいのか、まだまとまっていなくて」

 

 そう。一番の問題はまだ俺と美咲は付き合いをしてないということ。どうしようかわからないままここまで来てしまった。とりあえず、恋人ではないこと、恋人とするようなアヤマチは一切ないことを事前に決めていったのでそれを説明した。

 

「なるほど」

「なのにどうして?」

「……恥ずかしい話なのですが、私は一人じゃ何もできない男でして、途方に暮れていたところで、お互いの傷を埋め合うようにして彼女と出会いました」

 

 彼女の両親には一度だって話してこなかった。俺の身の上話。そして美咲との出逢いの話。特に悲しくも楽しくもない。

 単なる下らない感傷だ。でもその感傷は、九歳差という壁を越えて、俺と美咲の指に、切れない縁を結んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寒い冬の日だった。俺は息を切らして走っていた。

 いるはずのヤツがいなかった。帰ってきたら、杠葉がいなかった。たったそれだけ、それだけだけど、喧嘩をしてしまっただけに、どうしたらいいのかわからなくて、ただ探すことしかできなかった。

 

「くそ……! どこ行ったんだよ……杠葉」

 

 世間はクリスマスという空気の中、俺はいなくなってしまった恋人を探していた。スマホに連絡しても全く応答がない。相当怒ってんなということもわかって、俺はどうしたらいいのかわかんなくなっていた。

 アテがないわけじゃねぇ。けど、向こうの実家なんて連絡行っても知らんで済まされるだろうしな。悪態をついてもまったく意味がない。

 

「……アテもねーのに、なにやってるんだろうな俺は……ん?」

 

 それならいっそこんなに待ってやる意味はない。俺も出ていこうか、そんなことまで考え始めた時、俺は道路の片隅にうずくまる影を見た。雪でも降るんじゃないのかというほどの冷えた空気の中で俺は、黒髪を垂れ下がらせ、涙に顔を濡らした少女がいた。なんでこんなとこに、そう思ったらバッチリ目が合っちまった。

 

「……なぁ、お前……もう夜中だけど、大丈夫か」

「……っ、ほっといて、ください」

 

 いや放っておけるかと内心でツッコミを入れた。今日はマジで寒いんだからな。そんなカッコでこの夜中に座ってたら命の危険だってある。

 事情はさておくとして、これは良識ある大人として通報するしかねーよな、と頭を掻き、スマホを構えたところだった。

 

「……かえりたくない」

「家出か?」

「違う、けど……いまは、そっとしておいてください」

「いやそんなこと言われても、このままじゃ凍死コースなんだけどな?」

「それなら……それでいい」

 

 袖を引っ張られ、俺は少女に懇願された。家に帰れねー理由があって、でもどこにも行く場所がなくて、人差し指でおもちゃみたいな安物の指輪を触る弱々しい少女。

 凍死体が見つかったとか聞きたくもなかった。正義感とかじゃなくて、コイツも俺と同じ迷子なら放っておきたくないって感傷だった。

 ──それだけの理由で、俺はだったら、と彼女の腕を引っ張った。

 

「え、ちょっと」

「死なれちゃ気分悪いんだよ、つかめちゃくちゃ冷えてんじゃねーか! いつからそこにいたんだよ」

「……しらない」

「なら来いよ。別に子ども興味ねーけど、風呂くれーは貸してやる」

「なんで……?」

 

 なんで、なんて理由を問われても俺もわかってねーし、そんなこと訊くのはやめてほしい。こんなの、所謂家出神待ちってやつだし。その報酬にそういう少女たちが何をするのかも知ってる。たぶん、コイツもそれを知ってて強張ってるんだ。

 でも俺はやっぱり、たぶん女子高生くらいだと思われる少女と身体を対価に、って言う気にはならなかった。そしてなにより。

 

「こんな独りぼっちで死んじまうなんて、つまんねーよ」

「……うん」

 

 だから泊めるつもりは正直そこまでなかった。風呂を貸してメシでも食わせて、それからなんか事情があんならネカフェでも行けよって金を渡すつもりだった。

 それが崩れたのは、単に俺も弱ってたからだった。やっぱり俺一人じゃなんにもできねーことを思い知らされた。ただ肉を焼いただけ、んで風呂に入ってる最中に炊いてたご飯をよそって、少し焦げ臭い匂いのするそれを風呂上りのソイツの前に出した。

 

「ありがとう……ございます」

「つってもヘタクソだけどな……」

「うん、まずい」

「……うるさいな」

 

 素直な感想を言い出す少女に俺は唇を尖らせた。杠葉がいたら、ちゃんと美味い料理でも作ったんだろうか。

 いや、杠葉はそういうのに興味を示さない。料理の一つも振る舞うこともなく、風呂に入れることの一つもしなかっただろうな。杠葉は、きっと実家に帰ったんだろうなということはわかった。荷物も何もなくなっていた。いつの間にか。きっと俺が気付かなかっただけで、仕事に行ってる間に、なんだろうな。

 

「なにがあった?」

「……カレシに、捨てられた」

「は? このクリスマスに?」

「うん」

 

 食べ終わった彼女の口からはポツリポツリと言葉が紡がれていった。

 カレシの家に招待されたこと、行為を迫られ、それが怖くて突っぱねたら()()()()()()()()()、まるでそれまでの優しさが嘘だったように暴力に訴えかけてきたこと。

 

「……マジかよ」

「ん……」

「つか傷見せてみろ」

「……え、うん」

 

 肩に青あざ、それが灰皿が当たった部分らしい。そして唇を切った跡、脚の打撲、結構な傷だった。それをてきぱきと湿布やガーゼ、包帯を持ってくる。

 それを彼女はポカンとした様子でそれを見守っていた。

 

「なんか……手際、いいですね。ものも、沢山」

「一応、そういうのを取り扱ってる店で働いてるからな」

「あ……近くの」

「知ってるのか」

「母さんが、偶に買い物に行くから」

 

 投げやりな会話を繰り返し、俺は気が変わった、なんて適当なことを言って泊めることにした。対価は必要ない。いや一つだけ対価を要求したか。

 ──別に居場所がねーんならここを家だと思っていい。お前はここでただいまって言っていいし、おかえりって言っていい場所なんだって。

 

「変なヒト。ホントに何にもしないの?」

「女子高生に手を出すほど、俺は落ちぶれてないもんで」

「そ……じゃあ、信用する」

「は?」

「こっち」

 

 ベッドに寝転がり、俺に向かって手を広げてきやがった。信用するにしても無防備すぎない? と思ったけど、そっか。本来はコイツはカレシの傍にいるはずだったんだ。そう思うと、俺もそうなんだよなって思いが増した。本当だったら、杠葉と一緒に寝てるはずだったのに、そう思うと拒否できなかった。そのまま甘い誘いに乗せられ、俺たちはまるで恋人同士のように、お互いの欠けたものを埋めるように抱きしめ合って寝てしまった。

 

「……おはよう、ございます」

「おはよ……えっと、そういや名前聞いてなかった」

「確かに……あたしも」

 

 順序がおかしいよな。こうして意味は違うけど一夜を共に過ごしたってのに名前も知らない。少し、笑えた。つられたように彼女も微笑みを浮かべた。まだまだお互い傷だらけで、特に相手は凍傷気味で、傷跡とかもあってマジの傷だらけだったけど、それでも救われた表情をしてくれた。

 

「今更かもしれねーけど俺は宮坂幹人、キミの名前は?」

「……みさき、奥沢、美咲」

 

 こうして、宮坂幹人は奥沢美咲としばらく共同生活を過ごすことになった。

 お互いの傷が癒えるまで、そんな感じの約束をした。それからもう、実に半年以上の時間が経っていた。

 いつの間にか感傷はお互いを想う気持ちに発展し、夫婦ごっこは家族ごっこになっている。その始まりだった。

 



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苦味のない幸福

「……どうだった?」

「開口一番それか」

 

 俺が帰ってきたら、パタパタと駆けてくる足音があった。美咲はアイツんちに置いてきたから、家に入れるのは後一人だけ。

 やっぱこうして見ると若干似てるんだよな……なんてことを考えたのはコイツに、ましてや美咲のやつには内緒だ。

 

「み、美咲ちゃんいないじゃん」

「……おいてきた」

「え……じゃあ」

 

 美幸の顔が曇る。そりゃそうだろ置いてくに決まってる。

 本格的にこの家に住むんだったら色々必要だろう? そういうと美幸ははっとした表情をしてから漸く俺に謀られたことを察したらしい。

 

「わざとでしょ」

「せっかちなだけだろ」

「気持ちが急くに決まってるでしょ! 大事なことなんだから」

 

 大事だな、確かに大事だ。ここで失敗したら美咲が大いに拗ねることになるから。そして俺としても美幸と二人暮らしは避けたいところ。

 ──正直、俺としては覚悟が足りてない。まだ杠葉の傷が癒えてないってのもそうだし、美咲を、傷ついた美咲を傷つけずに愛する方法も……まだ。けどその二人の隙間を埋めてくれた存在がいるからこそ、俺はここまでたどり着けたんだと思う。

 

「美咲の両親も言ってたよ。美幸がいるならってな」

「……そっか」

 

 早速義妹の力になれて美幸はとてもうれしそうにはにかんだ。

 ところで、美幸? お前は許可もらってきたのか? 前期はもうとっくに終わったからどんどん私物は増えてってるけど。

 

「私の家のこと、知ってるでしょ?」

「だからって」

「そっか、なんか一応、話はしに来てたっけ」

 

 まぁ確かに勝手にすればいいみてーな反応だった。美幸にもそうなのか。杠葉も? そういうとお姉ちゃんはまた怒ったような顔してたよとため息をついた。怒ったような、か。そりゃ、今でも自分の家だと思ってればそうなるか。

 

「美咲ちゃん、明日には来る?」

「その予定だな」

「楽しみだなぁ、あ、荷ほどきとか手伝ってあげなきゃね」

 

 すごいうきうきしてるな。彼女にとってはやっと得た理想の家族みてーなもんだからな。それも仕方ないのか。

 つか明日は休みだな。美幸も美咲も合わせてくれてるが、なんか食いに行くくらいはできそうだ。

 

「辛いもの!」

「却下、お前しか食えねーだろ」

「おにーさまのケチ」

「カレシとでも食いに行ってこい」

「……カレシじゃないもん」

 

 じゃねーのかとツッコミを入れたらカウンターでいつ美咲ちゃんと付き合うのとか言われそうだから黙っておこう。

 とりあえず今日はテキトーになんか……頼むか。

 

「私が作ります~」

「美幸が、料理?」

「できるに決まってるじゃん」

 

 決まってないと思うが。いつも美咲のメシをつまみ食いするタイプじゃなかったか? 能ある鷹にしてはバカを晒し過ぎだと思うんだよな。なにおうとおどける美幸だったが、作ってくれたペペロンチーノはめちゃくちゃおいしかった。本当に料理できたんだな。

 

「まぁ、ほら喜多見家の流儀は独りで生きるだから」

「なるほどな。ただ」

「ただ?」

「……辛い」

 

 そう? とか首を傾げてるがむちゃくちゃ辛いからなこれ! 唐辛子どんくらい入れたんだと思うくれー辛いけど、と思ったら美幸はそこに更にタバスコを掛けていた。味音痴のすることだろそれ。

 

「なんか、辛味って味覚じゃなくて痛覚らしいよ」

「へ~、つまり私って痛みに強い!?」

「ううん、鈍感なんじゃないかな、美幸さんの場合」

 

 翌日、その時の話をすると美咲が苦笑い気味にツッコミを入れていた。

 鈍感って言われて不満そうに俺の顔を見んな。鈍感代表みたいなそういう反応はやめような。

 

「……間違ってないと、思います」

「花音まで」

 

 今日は引っ越し祝いってことで花音も来てくれていた。あと一人やってくると思うんだけど。そんなことを考えていると、呼び鈴が鳴り美咲が俺よりも素早くはい、と応答した。

 ──瞬間、大音量でみさきー! と声がした。今日も変わらず元気な子だな。

 

「今開ける……ったく、近所メーワクだっての」

「ふふ、かわいいなぁ」

「そう言える美幸は豪胆すぎるんだよ」

「ホント、あたしじゃ無理だよ」

「あはは、こころちゃんはいっつも元気だから」

 

 そういう美咲もふふ、とほほ笑んでるしさ。弦巻こころのことが好きな証拠なんだよ。というかあの人間性が嫌いになれる人間はよっぽど性根が腐ってるとしか言い様がないと思うんだよな。

 

「いらっしゃい」

「おじゃまするわね!」

 

 眩しい。キラキラ金髪が太陽を反射してるだけじゃなくて、もうオーラみたいなのがキラキラだ。

 美咲が入って入ってと促し、こころは靴をきちんと揃えてからまだ完全には部屋に入り切ってない荷物を見て嬉しそうに笑みをこぼした。

 

「ここが美咲の新しいおうちになるのね」

「うん」

「幹人、ちゃーんと、美咲と仲良くしないとダメよ?」

「わかってるよ」

 

 知らないはずなのに、こう的確にクリティカルを抉ってくるんだろうねこころって子は。美咲に確認したけど首を横に振っていた。でしょうね、そう簡単にしゃべっていいことじゃないししゃべれねーよな。花音にも言ってないはずだし。

 

「わわ、ほんとにキラキラだ……私は喜多見美幸! 初めまして」

「ええ、美幸ね! 素敵な名前だわ! あたしは弦巻こころ!」

「うんよろしくこころちゃん」

 

 なんか心なしか美幸もキラキラしてる。こういう踏み込んでくるタイプが好きだってことは知っていたけど、まさかここまで波長が合うとは……ところで義妹さんが若干拗ねてるけどどうする? 

 

「お姉ちゃん、浮気?」

「美咲ちゃん? 浮気じゃないよ? ホントだってホント! 私のかわいいかわいい義妹は美咲ちゃんだけだよ~!」

「ふうん、その割には……」

 

 この義姉妹コントにもだんだん慣れてきたな。花音も同じようで苦笑いをしている。

 こころはというと首を傾げてからケンカかしらと言っていた素直でよろしいことですね。それを花音が補足する……と。そういう感じでいつも過ごしてるんだなぁというくらいに自然な流れだ。

 

「おにーさまはなんで他人側なの?」

「なんでだろうな」

 

 そういう流れだからなんじゃないかな。

 ──それにしても、こういうのが前よりももっと日常になるのか。騒がしくて、もうきっとしんとした、無駄に広い部屋だなんて思うこともねーんだろうな。

 

「幹人さん、嬉しそう……ですね」

「もう、独りじゃないから」

 

 傷を埋め合うように始まった夫婦ごっこは、こうやって切れない繋がりを生んでくれた。杠葉との関係がなくなってもいつだって俺のことを家族のように接してくれていた美幸と、いつだって傍にいてくれる美咲。

 そんな美咲がくれた新しいつながりである、花音やこころも。

 

「私も……」

「うん、花音も」

「いいんですか?」

 

 何が、と問い返すとちょっと呆れたような顔をされた。なにか思うところがあったっぽいけど察せてはないな。

 けれど彼女はその呆れたような表情を崩して、それじゃあ私もと手を握ってきた。

 

「か、花音……さん?」

「私も幹人さんの傷、癒してあげたいから」

 

 まるで雨を受けた蕾が朝日を浴びてしっとりと花開くような、女性的な艶やかさのある表情でそんなことを言われると、不覚にもドキっと反応してしまう。

 すかさずこころが反対側にやってきてあたしもよ! と太陽みたいな笑顔で言ってくれなかったらしどろもどろになるところだった。

 そうだよな、世界を笑顔にするのがキミたちだもんな。

 

「……花音さん」

「私も、高校卒業したらおじゃましちゃおうかなあ……♪」

「いやいやダメに決まってるじゃん」

「そもそも四人住むにはちょっと狭いな」

「それならお隣の部屋を繋げちゃえばいいんじゃないかしらっ」

 

 無茶苦茶言ってるけどやめてよねと美咲が本気で止めてるところを見るとどうやら不可能ではないらしい……いや、不可能でしょ現実的に考えて。しかし花音もまだ大丈夫だからと必死で止めていた。

 

「……そんなことってできるの?」

「知らねーよ」

「こころちゃんって、もしかしてすごい?」

「知らねーって」

 

 俺にとってはいつも元気いっぱいの美咲の友達ってこと以外なにも知らねーんだから。あとなんか黒い服のお姉さんたちがいつもついて回ってるってことくらいかな。お嬢様なのかなーとは薄々感じていたけど、もしや超裕福? 

 

「物理的に無理じゃなきゃこころは大抵なんでもできるよ」

「そうなんだ」

 

 それを機に美咲に同じバンドの仲間たちや学校のことをたくさん訊いた。先輩も同輩も後輩もいい子ばっかりなんだなぁってことがわかって俺は少し安心したよ。

 二人の引っ越し祝いにこころが大きなケーキを持ってきて、まるで誕生日かってくらいに楽しい時間を過ごしていった。

 花音は最後まで泊まりたそうにしていたが翌日は用事があるらしくこころと一緒に黒服さんが運転する車で帰っていき、美幸ははしゃぎつかれたのか既に眠っていた。残るは片づけを終えた俺と美咲だけ。

 

「あのさ」

「ん?」

「これから……よろしくお願いします」

「なんだよ改まって」

「ほら、これからは……同居人なわけだから」

 

 アイスコーヒーを飲みながら頭を下げてくる美咲は、幸せそうに笑ってくれる。同居人、これからは美咲がこの家にいてくれる。

 そんな気分の高まりが、俺にアイスコーヒーの苦味をくれた。

 

「……幹人さん」

「よろしくね、美咲」

「……うん」

 

 苦いはずなのに、その味は蕩けるようなはちみつのような甘味があって、俺と美咲はその甘さとコーヒーの苦さをお互いで共有し続けた。

 幸せの味を、唇に乗せて。

 

 

 

 



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引けない覚悟

「おっはよー」

「おはよ」

 

 美咲と美幸がこの家に来てから、朝はとんでもなく賑やかになった。

 まず俺が起きてリビングにやってくると二人の声が部屋に優しく響いた。その日々が今日だけでないことに俺はついつい笑みを零してしまう。

 

「なにニヤニヤしてんの?」

「してねーよ」

「してたよ、ねぇ美幸さん?」

「してたー」

 

 してたじゃねーよ見えてねーだろとツッコミを入れつつ、俺は美咲の作ってくれた朝食を三人で食べる。

 夏休みの間は三人で出勤することも多くなりまた噂は広まるんだろうなぁという気がしている。俺は先に出勤するって言ってんのにコイツら基本的についてくるんだもんな。今日は休みだからのんびりしてるけど。

 

「だってしょうがないじゃん。心配だし」

「夏休みの間だけにしとけよそれ」

 

 学校が始まってもその扱いはやめろよな。俺はお前らの、特に美咲の両親ほどお前らを見てやれるわけじゃねーし、養っていけるわけでもない。美咲は既に半年以上ここで半同棲状態で泊まってを繰り返してるから百も承知だろうけど。

 

「じゃあ私は友達と遊びに行ってくるからー」

「いってらっしゃい美幸さん、夕飯は?」

「食べてくる!」

「わかった」

 

 朝食を摂り終わった後、美幸が慌ただしく出かけていった。最近とみに美幸のやつは明るくなった気がするな。昔なんて割とミステリアス的で近寄りがたいと思われてたって自己申告受けてたし、なに考えてるのかよくわからんのは事実だからな。

 

「確かに、仕事の教え方とか雰囲気とかいいんですけど、壁はあったかも」

「けど最近はどんどん明るくなるってきてる。友達なんかできて、俺たちが知ってる美幸にどんどん近づいてる」

「……嬉しそう」

 

 そりゃ嬉しい。俺の義妹はかわいくて頼りになるってことをみんなが知ってくれるんだからな。

 お義兄ちゃんだねホントにと言われて俺はそりゃそうだって返すしかない。それが俺にとってアイツにしてやれる家族ごっこだからな。

 

「美咲」

「はーい……って、なに?」

「なに……って、なに?」

「なんですかこの手はって言ってるの」

 

 洗い物をしている美咲の後ろから腰に手を回すとちょっとトゲトゲしい言葉が返ってきた。

 ──なんとなくだよなんとなく。ダメだったかなと離れようとすると、くるりと頭が上がって頬にキスをされてしまった。

 

「……最近、幹人さんは甘えんぼになった」

「そうかな」

「うん。ヤじゃないから……ううん、すき」

 

 その言葉はまるではちみつのように甘く胸の中に蕩けていった。

 なんだかんだ言いながら受け入れてくれるどころか、俺が欲しかったものよりずっとずっと甘いものくれるんだな、と思うことが、嬉しかった。

 

「あのね、でも二つだけ文句言っていい?」

「なんの?」

「一つはあたし、洗い物してるから甘えるよりか手伝ってほしいなってこと。もう一つは……いちおーあたしら、付き合ってないよね?」

「……そうだな」

「ああもうそんなしゅんとしないでよ……ほら、手伝ってくれたらいいから」

 

 なんだかどっちが年上かわかったもんじゃないな。俺のこと、優しく受け入れてくれる美咲になんだか年上のような甘さを感じてしまった。

 ──俺が求めていたのは、そういう甘さなのかな。恋人に求めてるのはそういう感じの甘さだったのかも。

 

「ん、手伝ってくれてありがと」

「どういたしまして」

 

 やがて終わりがやってきて、俺の隣に美咲がやってくる。これからどうしようか……そんなことを言うと美咲はさぁ? と首を傾げながらさっきと同じような態勢を今度はソファに座ったままする。テレビを見ながらのんびりとしていると、美咲がもぞもぞと居心地が悪そうに提案してくる。

 

「あの……さ」

「ん?」

「……このまま、のんびりするの?」

「え、おう。お昼くらいに買い物行こうとは思ってるけど」

 

 俺の提案に、美咲はんー、と考えるような仕草の後、するりと俺の腕の中から飛び出てどっか行こうよと提案してきた。

 どっか、か。なんでまた美咲はそんな提案してくるんだろう。家でのんびりじゃ何か不都合だったか? 

 

「あーもうばか鈍感」

「は?」

「いいから、出かける!」

 

 なんか怒られたのでしぶしぶ出掛けることになった。行先はショッピングモール、これはさてはデート気分だなと思わなくなかった。今まで美咲と二人で出かけることなんてそうそうなかったんだけど、その中でも特に……()()()()()()()()()()記憶にないレベルだ。

 

「美咲?」

「このくらい……いいでしょ。デートなんだから」

「デート」

「……反芻すんな、ばーか」

 

 理不尽だろそれは。デートって言われたらデートって感慨深い感じになるでしょ。反芻するでしょ普通は。

 ただ、手は離さずに美咲は恥ずかしそうに買い物、と俺を引っ張ってくる。今日は本当になんで急に一緒に出掛ける気になったんだよ。

 

「秘密」

「秘密にしておくほどの理由があるのか?」

「うっさいばか」

 

 耳まで真っ赤になるほどの秘密があるらしいと俺はそれ以上の追及を諦めた。折角美咲とのんびりした休日だったのに。どうやら美咲にはそれが不満だったらしい。あれか、甘えられるのがやっぱ嫌だったって感じかな? 

 

「それは……ヤじゃないけど」

「じゃあどうして」

「なんでわかんないかなぁこの鈍感さんは」

 

 美咲は唇を尖らせてしまう。なんで拗ねてるんだよと言っても知らない、とそっぽを向かれた。ひどくねーか?

 まぁでもコイツはあんまり表情を見せてくれねーからな。ただ繋いだ手を離さないことから怒ってるってわけじゃなさそうだ。

 

「……ホントにわかんないの?」

「まったく」

「……はぁ」

 

 溜息ついたな? 今溜息ついただろ。言葉にしてないのに俺がわかるようになってるわけなくないか?

 わかるの、と美咲はそれでも譲るつもりはないらしい。なんなら美幸さんにでも聴いてみたらと言うくらいに譲らないらしい。

 

「どっか寄り道しないの?」

「……どこがいい?」

「いや美咲の好きなとこでいいよ」

 

 好きなところかぁ、と美咲は考えてから俺の方を漸く見た。どうやら鈍感なことは無罪放免になったらしいな。

 美咲は顔をじっと見てからおずおずとここ、と指さした。カカオ豆がたくさん置いてあるお店、ログハウスのような内装とほんのりとコーヒーの香りがした。

 

「ほら、美幸さんも幹人さんもあたしもコーヒー派でしょ? こういうのあったら嬉しくない?」

「……確かにな」

 

 コーヒーは俺も香りが好きだからな。美幸もコーヒー派だし、美咲だって寝起きはよくコーヒー飲んでるからな。というか色々種類あるんだなって思った。キリマンジャロとかブルーマウンテンとか。

 

「挽き方とか豆の種類でも味が変わるらしいよ」

「ふーん。普段使ってるのは?」

「美幸さんが持ち込んだやつだから……知らない」

 

 結局美幸が詳しかったから色々訊くとして、俺たちはまた歩いているとアクセサリーショップを見つけた。

 ヘアゴム……はあんまり美咲は髪が短いからなぁ。そうすると……ネックレスとかリング? 

 

「……そんなの、見てどーするのさ」

「ど、どうするんだろうな」

 

 俺ができることと言えば想い人へのプレゼント、的なやつかな。いや俺にいるのは隣で手を繋いだままの九歳下の……美咲くらいだけど。

 美咲は俺がぽつりとつぶやいたことに過剰反応しだした。

 

「なっ、なな……」

「付き合ってるわけじゃないけどさ……ほら、だからこそカタチにしたいなぁって」

「……ばーか」

 

 なんでここでばーかって言われた? 俺が今日一番の理不尽を感じていると、美咲は顔を真っ赤にしながら今日は最初から幹人さん変だよと言われてしまった。

 ──そんなこと言われても、美幸もいるし、これから花音やこころが頻繁に来る以上、伝えておかなきゃって思ったんだから。

 

「あたし、ずっと意識してるんだよ?」

「……なにが」

「幹人さんが甘えてくれて、キスをしてくれてる日々でさ、一つ屋根の下だもん……その先を意識、しちゃうでしょ」

「……意識」

 

 それは……キスのその先とかってことだよな。

 だから今日ずっと、不機嫌だったのか。抱きしめて俺は安心しきってたけど、美咲はその先を認識していたのか。

 

「あたしは……幹人さんが好きだよ」

「……俺だって」

「じゃあ、あたしを……抱ける?」

 

 抱ける……ってな。俺にとってまだ美咲に手を出すってのはハードルが高い。

 というかこの質問があるっていうのは……美咲は俺に抱かれる覚悟があるってことだよな。ホントに、俺と美咲の年の差はあるのかどうかわからなねーレベルだよな。

 

「あたしは、幹人さんとその先に進みたい」

「……美咲」

「わかってる、正直あたしもまだ怖いし……幹人さんだって怖いのはわかるけど」

 

 そうだ。美咲は襲われかけて捨てられた。俺はまだアイツとの棘が刺さってて、伝えきれなかったって悔しさを引きずってる。

 ここで一歩を踏み出せば、俺は傷つくのかもしれない。美咲を傷つけるかもしれない。

 

「……その覚悟だって言うなら、あたしにネックレス、買ってよ」

 

 なんかとんでもない藪をつついて蛇を出してしまった気がする。

 でも美咲は真剣な目をしていて、俺も覚悟を決めなきゃいけないんだな。美咲に出逢ってから僅かに半年、けど、密度の濃かった半年に俺は、試練に遭遇してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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誤魔化せない欲求

 あたしは幹人さんのことが好き。だから一緒に住み始めてからのスキンシップは正直幸せをくれる。抱きしめてくれて、ふわりと優しい匂いがしたり……その、キス、とかもねしてくれたり。恋人って名前じゃないだけでここ数日はまるっきり恋人みたいな生活を送っていた。

 でも、だからこそ困ってることが一つだけあった。美幸さんにはもう相談してあったことなんだけど。

 

「いいことじゃないの?」

「それがよくないから」

「うん? でもおにーさまは甘え下手なんだからそれは美咲ちゃんにとって嬉しくないの?」

 

 嬉しい。でもだからこそなんだよ。幹人さんがスキンシップを取ってくれるからこその問題があるんだよ。美幸さんはん~? と首を傾げてわからないようだった。

 ドキドキするし、好きって気持ちが伝わる幸せがある一方で私は、どうしても()()()を考えちゃうんだよね。

 

「その先……って、あ」

「うん……そ」

 

 男女が好き合ったその先にあるもの。あたしが失敗しちゃったもの。

 いやまぁね、あたしがそれでヒドい目に遭ってるから幹人さんもソレを頭の中から除外してるんだと思う。あと幹人さんの中にまだ杠葉さんがいるから……って言うのも理由かな。

 

「もしかして、怖い?」

 

 慌てたように美幸さんはあたしを抱きしめてくれる。怖くないよ……平気。きっという雰囲気になって二人が裸になって、ってところまで来たら怖くなっちゃうのかもしれないけど。幹人さんは優しくて甘えんぼだから、あたしに合わせてくれるだろうしさ。

 

「じゃあ……なに?」

「覚悟を持ってほしい。部屋に二人きりで、密着するなら。愛してるって言ってくれるなら……あたしをすぐに抱けるくらいの覚悟を持ってほしい」

「……抱く」

 

 もちろん幹人さんにその覚悟があるはずがない。あの人はただ単純に触れ合いを求めてるだけだ。両親に関係を話して吹っ切れたのか、九歳差を意識することが減ったってだけ。

 ある意味じゃ子どもの恋愛だ。でもあたしはそんな子どもの恋愛ごっこじゃ嫌だ。触れられて、繋がりたい。

 

「待って」

「ん? どうしたの……って美幸さん顔真っ赤だけど?」

「美咲ちゃん自分が何言ってるか自覚ないの?」

 

 あーえっと、なんていうかこの義姉は全くもって初心だなぁ……と実感してしまった。ミステリアスで大人っぽくなりすぎるとこうなるのか。そんなんじゃカレとお付き合いした時に苦労するよ? 

 

「うぐっ……美咲ちゃんだって、苦労してるじゃん」

「あたしはまた別方面だからね」

 

 その相談はまた後で訊くことにしておいて。とにかくあたしとしては後ろから抱きしめたり、耳とか唇とかにキスしてくるなら、そういう覚悟をしてほしいってこと。

 好きだから、好きだからこそ大切にされすぎるのも嫌なんだからさ。だからあたしは幹人さんに覚悟を突き付けた。これからもこの関係を進めていくという覚悟を、中途半端じゃ嫌だってあたしの気持ちを、受け止めてほしい。

 

「……その覚悟だって言うなら、あたしそのネックレス、買ってよ」

 

 不満が爆発した、のかな。その日は美幸さんが出かけてて……幹人さんはいつも以上にくっついてくるからなんだか……その、悶々としちゃうところもあってこのままじゃ、勢いに任せて襲ってしまいそうだと思ったあたしは幹人さんを連れ出してデートをした。デートって言われるとまたさっきのを引きずっちゃうからヤなんだけど。

 ──でも結局、幹人さんは鈍感でそんなこと気付くことなく暢気にデート気分で……アクセサリーなんか見てるんだもん。

 

「俺は、美咲にとって負担には」

「大丈夫だよ」

「でも」

「覚悟がないなら……いいよ」

 

 それならそれでいい。あたしだって正直ここで急にじゃあってネックレスを買われても困るし、帰ってからどうなるかを考えると……ちょっとだけ怖い。幹人さんと元カレは全然違うってこともわかってるけど、急にくっつかれるだけでも一瞬だけビクっと反応してしまうくらいだから。

 

「ただいまー」

 

 結局、それから先はその話を一切せずに、買い物をして帰ってきた。帰ってくる頃には夕方になっていて、あたしはご飯の準備を始めて、幹人さんがお風呂を洗い始めた。

 ──はぁ、やっちゃったなぁ。幹人さん、落ち込んでるよね。どうしたらよかったのかなぁ、こんなんだから、好きになるくらいいいよねって花音さんに言われちゃうんだ。

 

「み、幹人さん?」

 

 もし、俺は美咲を抱く覚悟なんてないから、先には進めないとか言われたらどうしよう。というか幹人さんなら言いかねないとあたしは火を止めてソファに座った彼の隣にいく。

 またなんでも一人で頑張ろうとする幹人さんなんて見たくない。あたしはホントは、弱いところを見せてくれるのが、そのままの幹人さんの傍にいられるのが幸せだったのに。

 

「あの、ね……あの質問、意地悪だったと思う。でも、あたしは本気で幹人さんといられて幸せだから……幹人さんのこと、ホントに大好きで……くっつかれるのもヤじゃないし──っ!?」

 

 手を握って縋るように言い訳を並べていたら、腰に腕が回ってきてキスをされてしまう。

 いつもの甘えるようなものじゃなくて、ぞわぞわしてしまうほど激しいもの。触れるというより吸われるような勢いにあたしは何がなんだか理解できないまま受け入れてしまう。

 

「……な、なっ、なにして……っ!」

「美咲の」

「ん?」

「美咲の言う覚悟って……こういうことをする覚悟、だよな」

「そ、そだけど……」

 

 ドキっとするほど、透き通った瞳で幹人さんはあたしを見つめてきた。透き通ってるのに、その中には今まで見たことがないくらいに、男性としての欲を感じる。手つきも唇も、今までと全然違う。

 

「み、みきと……さん」

「ごめん俺さ、美咲に言ってなかったことあるんだけど……あと先に言っておくべきだったこと」

 

 手を離され、ちょっとだけ息を整えてからそれは? と問い返す。それはあたしも、それどころか美幸さんも知らない……杠葉さんだけが知ってる。幹人さんの真の男性としての顔がそこには眠っていた。

 

「俺、どうやら性欲強いらしくて……アイツに、杠葉によく文句言われてんだよ」

「……幹人さんが」

「やっぱりイメージないよな。まぁ美咲のことそういう目じゃ見てこなかったし」

 

 でも、今のは紛れもない、誘ってる触り方だった。甘く痺れるような手つきも、熱い吐息の混じる唇も、今までとは全然違う……くらくらしてしまうくらいに男女の関係を匂わせるようなものだった。

 

「忙しいとそういうことする気にもならなくてアレなんだけどな」

「……じゃあ、今は?」

 

 そんなこと言ったら、どうなるか。あたしだってそのくらいわかる。でも確かめてみたくなった。怖さよりも好奇心が上回ってしまった。幹人さんに覚悟がないのはそうだとして、それ以上に実は……彼はあたしをそういう目で見ないようにセーブしていた可能性を、そしてキスをするのは実は、あたしのリアクションを見て徐々にそのセーブしていたものを解放していたんじゃないかって仮説を、証明したくなった。

 

「メシ、作ってたんじゃないの?」

「お腹減ってる?」

「……まぁ、それなりに」

 

 じゃあ、とあたしは幹人さんの方に倒れ込んだ。抱き着いた、って言った方が正しいかな。すぐさま腰に回ってくる手、首元にキスをされる愛おしさ。

 ──怖くない。全然怖くない。なんでだろう、目の前であたしという欲に負けそうな幹人さんが、トラウマなんて全部吹き飛ばすくらいに……大好きだ。

 

「知ってる? 人間の性欲と食欲って……似た感覚らしいよ」

「……へぇ」

「もう一回訊くけど……お腹、減ってる?」

 

 最後のひと押しをしたら、あたしはそのままソファに寝転がされてしまう。あ、そういえば元カレに押し倒されて抵抗しちゃったのもソファだったなぁ。ちょうどこんな感じで、覆いかぶさってきて、あたしのシャツをゆっくりめくって……ふふ、こんなこと思い出してるのに、嫌じゃないなんてあたしも変なヤツだ。

 でもそうやってあたしを変えたのは幹人さん、目の前にカレだ。あたしはあの日幹人さんに拾われて……全部を変えられてたんだ。

 

「──めちゃくちゃ腹減ってるな……食ってもいいか?」

「どうぞお好きに」

 

 あたし初めてだからね? と問いかけるけど美幸帰ってくるの遅いだろと返されてしまう。えっといやそうじゃなくてね、ご飯が……まぁいっか。親子丼、もうできてるようなもんだから後であっためなおせば。

 痛くはなかった。全然、これっぽっちも。幸せで、大好きで大好きって気持ちにおぼれて、あたしと幹人さんは……やっと、ごっこ遊びじゃなくなったんだなぁって思うことが、幸せだった。

 ただウチにはお義姉ちゃんいるから、次からはホテルにしようね。後、シない時にああいう触り方したら殴るから。とりあえず、そんなところ。あと次のデートではネックレスを買ってくれること、ちゃんと期待してるからね? 

 

 



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必要のない憂慮

 幹人さんや美咲ちゃんと一緒に暮らすようになって、だんだんと日常に慣れてきた頃。二人が正式に付き合い始めたことを報告してもらった。

 嬉しいな。だって家族より家族みたいな温かさのあるお兄ちゃんと、そんなお兄ちゃんのことが大好きな義妹だよ? そんな二人が幸せになるために、お互いの気持ちをぶつけあえるっていうのは私の心も温かくなった。

 でも、その日から私はふと溜息を吐くことが多くなっていった。

 

「なんで?」

「……なんでだろ」

「まさか、ホントはその幹人さんのことが好きだった、とか?」

 

 違う違う。もちろん嫉妬とかじゃない。幹人さんのことは本当に恋愛感情じゃなくて、欲しかったのは恋人としての愛情じゃなくて、家族としての愛情だった。お姉ちゃんにもらいたかったものを、両親にもらいたかったものを、幹人さんに求めていた。

 それ以上の気持ちはないんだけど……どうしてかな。

 

「それよりさ美幸」

「ん?」

「その……声とか、大丈夫なの?」

「んん?」

 

 コソっと友達がそんなことを訊いてくる? 声? 

 ああ、なるほど。あの二人がね……美咲ちゃんはすっかり幹人さんの部屋で寝るようになっちゃったし、そうだよね。好き同士なんだもんえっちくらいしてるよね。

 

「全然。美咲ちゃんが知り合いになにやら相談して工事してたっぽいから防音してるかも?」

「妹ちゃんの知り合い……ってリフォーム会社かなにか?」

「うーん、違うとは思うけど」

 

 多分こころちゃんのビックリ度合いなんて言ってもわからないだろうから省くけど、私たちがバイト行ってる間に全部解決させちゃうんだから、ホントにすごいんだよねぇ。

 こころちゃんのお金持ちっぷりにはびっくりすることが多いんだよ。旅行先の紹介とかもしてくれるし、なんか無人島とかの土地をプライベートリゾートにしてるところもあるらしくて、色々ぶっとんでる。今はなんか数日くらい知り合いを連れてそっちでバカンスしてるみたいだし、住んでる世界が違うよ。

 

「……はぁ」

「また溜息だ」

「うーん」

 

 ふと溜息はついちゃうけど不満はない。私の中にある感情はいつだって二人の幸せを応援できる幸せと、家族のような暖かさに包まれる幸せの二つ。

 三人で食べるご飯も、同じところに帰ることも、おはようって言ってくれて、おかえりって言ってくれることが、幸せだ。

 

「じゃあなんなの」

「私にわかったら苦労はしないな~?」

 

 そんなくだらない話をしていると、美幸先輩、と声を掛けられる。その元気でまっすぐな声に、私はちょっとだけ話しかけてきてくれて嬉しいという気持ちを込めて手を振った。

 バイト先にもやってきた大学の、そして高校の後輩。

 

「それじゃ、サークルに顔出してくるから」

「あ、もう行くの?」

「ごゆっくり~」

 

 あ、あからさまに私と彼を二人きりにしてくれる友達に感謝しかないけどちょっと強引すぎない? とツッコミを入れたくなった。

 あーもう、そんな気をつかわなくたっていいのにさぁ、後彼の前で溜息を吐きたくないんだけど。原因を突き止める話を忘れ去るのやめない? 

 

「どうかしたんですか?」

「ああえっとね……」

 

 訊かれちゃったか~。訊かれたら答えるしかないよね、なんでもないって言ったら彼がめちゃくちゃへこむことくらいは関わってきてわかったことだからさ。まぁ当然幹人さんのことも知ってるし美咲ちゃんのことも知ってるし、二人が男女の仲だって言うのくらいは察してるもんね。

 

「一緒に? 暮らしてる?」

「うん。ほら……私の家族の話、ちょっとだけしたでしょ?」

「は、はい……」

 

 それで私はすごく満たされてるのに、なんか心にわだかまりが残ってるのか溜息ついちゃうんだよね。

 彼は、少しだけどうなんでしょう、と首を傾げてから嫉妬、ってわけじゃないんですよね? って確認してきた。

 

「違うね」

「それじゃあ……二人が恋人になって気まずい、とか?」

「気まずくもない」

 

 気まずい、かぁ。それもないなぁ、二人ともきょうだいみたいな関わりしてきたし、そんな二人に挟まれればそれだけ三人できょうだいみたいな……あ! 

 ──そういうことか。確かにそれは私の気持ちにある。

 

「罪悪感だ」

「罪悪感……ですか?」

「うん」

 

 簡単すぎる動機だったよ。私は二人の邪魔になってるんじゃないかなって思ってたんだ。

 恋人になって、恋人としての時間がほしいってなった時に私がいると、なんかイチャイチャできないなぁなんて思ってたら悪いなって。

 でも、ホントのところはどうなんだろう。幹人さんや美咲ちゃんは、どう思ってるんだろう。

 

「はぁ……」

「でも、美幸先輩に一緒に暮らそうって言ってくれたのは、奥沢さんなんですよね?」

「うん、だけどほら……その時はまだ、そういう雰囲気なかったから」

「あー」

 

 美咲ちゃんは、幹人さんや私のために温かさをくれる役割を持ってくれてる。でもそれはあくまで夫婦ごっこをしていたから。本物の恋人になった以上、その繋がりは邪魔なのかな。結局、家族ごっこは……どこまでいってもごっこ遊びみたいなものだったのかな。

 

「……あ、ごめん電話だ」

「どうぞ」

 

 ちょっと暗い思考を巡らせていたら、電話がかかってきた。美咲ちゃんから? またちょっと胸がモヤモヤとするのを抑えながら私はなるべくいつものテンションを保ったままもしもし? と電話に出る。

 

『もしもし』

「うん、どうしたの?」

『あのさ、今日はどのくらいに帰ってくる?』

 

 それがまるでどれくらいに帰ってくるか気を遣いながら幹人さんとイチャイチャするかの作戦立てのように感じて、胸がチリっと痛んだ。

 最初はあんなに幸せだった美咲ちゃんからの電話が、今は頭が重くなるくらいに、辛い。

 

「どのくらいだろー。もしかしたらご飯行くかも」

『もしかしてデート?』

「さぁて、どーでしょう?」

 

 でも電話の向こうで今日バイトだろあの子と声がする。やっぱり、傍にいるんだ。表面上は取り繕ってバレたか、と大きく笑う。

 じゃあちゃんと帰ってくる? と美咲ちゃんはちょっと怒ったように言ってきた。帰ってこない方が嬉しいんじゃないの? 

 

「順当にいけば六時には着くよ」

『そっか、あたし今お店にいるから。そっからご飯行こうよ』

「幹人さんは?」

『今事務作業中だよ?』

 

 だから一緒においでよ、と美咲ちゃんは明るく言ってくれる。その声が、そのあとでちゃんと美幸さん来るまでに終わる? という声に手伝ってくれたらすぐ終わる、というじゃれあいが聴こえてきて、私は……自分が今まで抱えていたモヤモヤが晴れていくのを感じた。

 

「二人は……デートしなくていいの?」

『デートじゃん。あたしとお姉ちゃんの』

 

 は? 俺もいるんだけど? と幹人さん……お兄ちゃんの声がする。ああ、あったかいなぁ。変わんないんだ。幹人さんと美咲ちゃんの関係は、全然変化してない。いくら二人が恋人になっても、私を含めて三人で過ごしていることが、当たり前なんだ。

 何を勘違いしてたんだろう。考えすぎてたんだろう……私がいることなんてとっくに、二人は考えてくれてたのに。

 

「それじゃあ、すぐ向かうね~」

『……うん、じゃあ待ってるから』

 

 それから私は彼を引っ張るようにしてバイト先の薬局に向かっていった。

 美咲ちゃんはどうやら私の様子がちょっとだけおかしかったことに気付いていて、それがまた嬉しかった。誰かに気付いてもらえるっていうのは、こんなにも嬉しいものなんだなぁって。

 やっぱり私は二人のことが大好きだ。お兄ちゃんのことも、美咲ちゃんのことも、どっちも大好き。

 

 

 

 

 



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どうしようもない醜悪

 ──それまでの騒動が嘘のように穏やかだった日常だったが、それもいつかは終わる時が来る。精算してない過去から逃げることはやはり不可能なもので、俺が溜め続けた借金は、ある日突然、取り立てられる時が来た。

 

「美咲、弁当」

「ああごめん、行ってきます!」

「行ってら~」

 

 ハロハピの練習に行くために部屋からパタパタと出ていく美咲を見送り、俺は伸びをして美幸があくびをする。お前は出かけなくていいのかよ、と問いかけるとおにーさまを一人にしちゃ悪いと思ってとか言われた。いらん世話を焼いてくるな。

 

「今日は折角だからお兄ちゃんとデートするんだよ」

「あっそ」

「服買いにね!」

 

 そろそろ秋物だも~ん、と美幸は着替えるために部屋に戻っていく。まだまだ秋というには暑い季節なんだが、常に季節を先取りしなきゃ売れねぇってのは辛いよな。一応俺だって販売業のはしくれだし、幾らおおまかな棚割りは上が指示してくるっつっても、店によって売れるもん売れないもんは違うってハナシなんだよな。

 

「あとさ、お昼は火鍋──」

「それは別のヤツとにしてくれ」

 

 俺の胃と舌はお前より繊細なんだ。あんまりいじめると明日の仕事に差し支えが出るっつーの。却下するに決まってんだろ。

 美幸はケチーとおどけてくる。最初はなんか遠慮してたっぽい美幸もすっかりこの調子だ。思った以上に、この緩くて幸せな家族ごっこは充実していた。

 ──それゆえに、俺は考えることをやめていた。今が幸せで、俺はそれに満足しちまってたんだ。

 

「いや~、まさか本気で一緒に選んでくれるなんて思わなかった~」

「お前が頼むからだろ」

「でも、前までの幹人さんだったら絶対店の前でスマホ触ってたのにさ」

 

 確かにそうだな。でもそれじゃあつまらないからと美咲に言われてからは、なるべく似合うのを考えたりするんだよ。いつも美幸には服選んでもらって……というか今日もこの袋ん中の幾つかは俺の服も入ってるんだよな。

 昼めしはラーメン屋にした。そのセンスはどうなのかと思うが、麻辣に惹かれたやつがいたもんでな。

 

「今度は美咲ちゃんの服探しに行きたいな~」

「それは二人で行ってこい。俺は置いてかれるだろ」

「もちろん! お兄ちゃんとのデートにピッタリな服探してきてあげる」

 

 それは美咲が真っ赤になるぞと笑っていた時だった。美幸があっと立ち止まり前方を見て、俺もそこに視線を向けて、同じように立ち止まった。

 どうしてここで出会うんだろう。そう思わざるをえない。けれど俺たちは過去に置いてきたものをないがしろにしすぎた……その報いを今受けてるのかもしれない。

 

「奇遇ね、二人で仲良く買い物? 美幸がそんな風にきょうだいというものに幻想を抱いていたなんてね」

「……お姉ちゃん」

「お姉ちゃん? 家を捨てて、()()()()()兄と呼ぶあなたにお姉ちゃんだなんて呼ばれたくない」

「やめろ杠葉」

 

 偶然、そう誰かが追いかけたわけでもなく偶然、俺たちは杠葉(かこ)に遭遇してしまった。姉であったはずの彼女、恋人だったはずの女、喜多見杠葉は冷たい目で俺たち二人を刺してくる。

 ──なんでお前たちが幸せそうにしているのかと。

 

「姉を捨てた子と恋人を捨てた男、お似合いじゃない」

「お似合いだと思うんなら放っておけねーの?」

「身内の醜態を?」

「……お前」

「たかがひと月一緒に暮らしてもう身内ヅラ? 相変わらず手は早いのね?」

 

 相変わらずってなんだ俺は奥手だ。と顔をしかめたら同じことを思ったようで美幸が何やら怪訝な顔をしていた。こんな時にそのリアクションはやめろ。確かに美咲には実質手を出してから付き合ったという見方もできれば、去年の冬からだから優に半年以上もキスすらもせずに付き合ってきたという見方もできるんだからな。

 

「はぁ……まぁいいや。借金取り立てならウチで話すか」

「お()()していいの?」

「……一応、出てっただけでお前んちだろ」

 

 それが認められるようになったのもつい最近のこと。美咲と恋人になって、杠葉のことに決着をつけねーとって話していたからこそ、この言葉が出てきた。借金の取り立てが突然やってきたのには驚くが、別にタイミングが最悪だったわけでもねーからな。

 同時に、これを解決しなきゃ俺たちの家族ごっこは、いつまで経っても本当の平穏と幸せを手に入れることはできねーんだ。

 

「そういう意味じゃないんだけど……まぁいいわ」

「美咲ちゃんにも連絡しておく。必要でしょ?」

「……そうね」

 

 多分今のタイミングで連絡したら余計なのが二人くらいついてきそうだが、まぁいいや。

 美咲たちが来るまでの少しの間、()()()()()()()()()()()()()俺たちでお互いの気持ちでも確認しとこうか。特に杠葉はそういうの苦手だしな。

 

「……私はね、家族が欲しかった。お父さんやお母さんの言っていたことは、今なら少しだけわかるけど……それでも、疲れちゃった時に寄りかかれる家族がほしかった」

 

 それを美幸は俺の中に見つけた。だから家を出てって、ここに来た。本当にこのひと月で笑ったり、くだらないことでケンカもちょっとして、でもお互いの毎日あったことを知れて、食卓を囲んで、たまにテレビの前で寝落ちした美幸がもたれてくるのを受け止める。そんな日常こそを美幸は求めていた。

 

「俺は、ケジメをつけたい。どういう風にとかは全然、逃げてたからな……わかんねーけど、やっと素直に好きって言えるやつができたから」

 

 過去にケジメをつけて、俺は美咲と一緒に、そして美幸と一緒にこれからも家族ごっこを続けていきたい。いつかは美幸が離れて、美咲と俺が本当の家族になって……でもやっぱり俺たち三人がごっこを続けたことの幸せを、未来で笑って振り返れるようになりたい。

 ──それは、杠葉にも似たようなものを感じた。でも俺とお前じゃ、どうしようもなく大人過ぎたんだよ。

 

「もっと子どもみてーに素直になれば、泣きわめけばよかったんだ。一緒にいたいって」

「そうすれば……一緒にいられたの? あの日も……あのクリスマスも」

「杠葉」

「幹人くんの好きは、奥沢さんに向けている好きも、変わらない……ごっこ遊びよ」

 

 グサリと胸を抉られる言葉だった。怒り、は少しある。けれどいつだってフラットで感情の読めねー普段の杠葉のまま、俺を抉ってきた。

 ──そのタイミングで美咲が帰ってくる。案の定こころと花音も一緒にいて、二人は熱の入りすぎる当事者たちじゃねー客観的立場としていてもらうことにした。特に花音は俺の味方をしたそうにしてたが、これ以上は杠葉に負担をかけるからな。

 全員揃ったところで、と杠葉は今度は自分から口を開いた。そして矛先を美咲に向けていく。

 

「奥沢さん」

「……はい」

「彼とは別れた方がいいわよ」

 

 場が凍り付く。美咲が教師としてじゃない、一人の女性としての喜多見杠葉から放たれた言葉は……別れろということだった。

 その奥に個人的な感情はない。淡々とした杠葉の、熱されることのないクールで確実な根拠を持った言葉だった。

 

「……は? い、いやいや、なんでそーなるんですか」

「いずれ、あなたも私と同じになるからよ」

「意味わかんないんですけど……あたしは、同じには」

 

 いえ、と杠葉は首を横に振る。同時にそれは奥沢さんのせいじゃないからとフォローも一緒に。

 いずれ同じになる。それは美咲の尽力とかには関係なく、俺が俺である限り変わらないのだと彼女は突き付けた。

 

「幹人さんが?」

「私の時と同じ。彼はあなたのことをわかろうだなんてちっとも考えてないわ。ただあなたの熱に反応しているだけ。誰にでも同じよ」

 

 そんな突き刺すような指摘に唖然とする美咲に向かって、杠葉は語りだす。俺が知らなかった。俺と杠葉の日常を杠葉から視たものを。

 ──そこにある、俺すらも知らなかった、俺の醜さを明るみにしようと。

 



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見えない真実

 杠葉、喜多見先輩は俺の高校、大学の先輩ってのは前に言ったと思う。高校の時から先輩は容姿端麗で清楚な雰囲気でありながらまるで冷たくて鉄鎧を纏っているような感覚すらあるヒトだった。男子人気はあったけど誰もお近づきになろうとするようなのはいない。そんな雰囲気の女性、それが喜多見先輩だった。

 

「先輩」

「宮坂くん、こんにちは」

「こんにちは……じゃなくてなんスかその段ボール」

「部室にあった無駄な資料よ」

 

 そんな学校のアイドルと言うべき先輩とお近づき……って言うと聞こえは悪いけど、モブとしてじゃなくて名前を呼んでもらえるようになったのは部活、いきものの飼育や観察を主に行っているという、おおよそ青春を謳歌したい高校生には人気のなさそうな部活において彼女は部長で俺が部員の一人だったということだった。

 

「持ちますよ」

「その言葉がなければあなたのことを血も涙もない冷血漢と罵ったところね」

「……言い過ぎでは?」

「女性が重いものを持っているのを知りながら横でニコニコとそれを眺めていたら、罵倒のひとつでも言いたくなるでしょう」

 

 溜息をつきながらまったく表情は動かさずに、俺を見上げる先輩はでもやっぱりキレイで、クラスメイトに先輩目的で入部したと疑われても仕方ねーなと納得しちまうほどだった。言ってることはちょっと変な気もするけど。

 

「通りがかってくれて助かったわ」

「通りがかったというかフツーに部活動しにきただけっスけど」

「それにしたってタイミングがいいわね。もう少し、持ち上げて運び始めるより早かったほうがもっと嬉しいけれど」

 

 部員の何人かは部活の掛け持ち、一人は生徒会との掛け持ち、一人は委員会との掛け持ちのため毎度顔を出す暇人は部長を除けば俺一人だったこともあり、自然と二人きりの時間と会話が増えていくものだった。

 

「暇ですね、この時間」

「暇なら勉強しなさい。理科以外の科目、それほど成績よくないでしょう?」

「……先輩も似たようなもんじゃないっスか」

「いいのよ、平均点より上だもの」

 

 よくねーと思う。このヒト万能人間みたいな顔して得意と不得意の差が激しいのは、知り合ってから知ったことだった。そんな完璧じゃないところは、近寄りがたく感じていた先輩の隙である気がして、俺と喜多見先輩は時間とお互いを知るという行為を重ねていくうちに、惹かれあっていった。

 

「──それは嘘よ。美化している」

 

 そう、語りを進めていた俺に対し、杠葉はピシャリと思い出を打ち切ってくる。嘘、とか美化してるなんてそんなつもりはねーから、と反論するがそれでも杠葉は首を横に振る。現実はもっと残酷だったと。そんな甘いロマンスなんてなかったと否定する。

 

「じゃあ」

「幹人くんを好きになったのは私。惹かれあったのではなく私の片想いだった」

「……おかしいだろ、その理屈は」

「少しもおかしくないわ」

 

 いやおかしい。なぜなら付き合ってほしいと告白したのは……誰でもなくて俺だからだ。確かにそれは嘘でもなんでもなく事実だろ。今だってその時の緊張や甘酸っぱい胸の痛みなんかを思い出せるくれーなんだから。

 

「……はぁ」

 

 だが、杠葉は俺の訴えを溜息であしらってくる。じっと俺を見つめて、本当にと呆れた口調で、表情で、俺が抱いているすべての()()()を指摘していく。淡々と、だが静かな怒りを込めて。

 

「確かに、そういう気持ちも少しはあったのかもね。でも幹人くんが私に告白しようと決めたきっかけは覚えているわ」

「その……きっかけって?」

 

 黙ってやり取りを見ていた美咲が思わずといった様子で口を挟んできた。本当に、言葉通り美咲には一切怒りを出さず、そうねと苦い顔をした。悲しい顔、それでいてただ一人、俺を詰るような表情で杠葉はその残酷なきっかけを告げた。

 

「その前に幹人くんのことを相談していたのよ。お節介で口が軽い、おしゃべりな部員にね」

「……ん、つまり幹人さんは」

「その相談を()()()()()()。私が宮坂くんのことを好きだという情報を得たことで告白をしてきたわ」

 

 タイミングの問題だろ……という反論は、喉で詰まって出てこなかった。杠葉の声には予想ではなく確信に満ちたもの。俺はその声と視線で反論を奪われたように固まってしまった。

 ──自然と、語りの主導権は彼女に流れていく。視線も、続きの言葉も。

 

「そうね、そんな打算だったなんてことも知らず、恋する乙女だった私はあなたのとても短い告白に舞い上がったものよ……とても、嬉しかったし、世界で一番幸せだとすら思っていたわ」

 

 俺からはとてもそんな風には見えなかったけどな。けど、ああそうか。その時の俺が無機質にいいわよ、というとても短い返事で付き合えたという喜びがあったのは、安堵があったのは、既に杠葉の気持ちを知っていたからだったのか。

 

「そう、奥沢さん」

「……はい」

「これが彼、幹人くんなのよ。彼は、自分を好きでいてくれるヒトが好きなの。ただ、それだけ。それ以上の感情は持ち合わせてなんかいない」

「でも……幹人さんは、あたしに」

「愛を囁いてくれた? 欲を見せてくれた? 甘えてくれた? それはあなたが許可したからに過ぎない。現に、許すまで一切、そういう触れ合いはなかったんじゃない?」

 

 美咲が何かを言おうとして閉口した。思い当たるフシがある、って感じの反応だった。思い返してみればそうだ。全部美咲が先だった。甘えたのも、好きだと囁いたのも、恋人としての情事を欲しがったのも、全て。

 

「九歳差なんて言い訳よ。幹人くんは与えられた熱をそっくりそのまま返すだけ。模倣するだけの、ごっこ遊びなのよ」

 

 そう切り捨てて、杠葉は、きっと誰にも話したことがないであろう胸の内を、思い出とともに明らかにしていく。冷たくて、いつだって錬成された鉄の塊のような無機質さを感じさせた喜多見杠葉が本当に持っていた、気持ちを。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 私が花咲川への就職を決めた頃、既に幹人くんとは数年のお付き合いをしていた。当時の彼といえば、人懐っこくて、独りで生きると教えられてきた私にとっては知らなかったもの、なにより欲しかったものをくれる大切なヒト、大好きなヒトだった。

 

「杠葉」

「なに?」

「呼んだだけだ」

「なにそれ……ふふ」

 

 居心地がよかった。幸せだった。彼の家にある一人用の狭いベッドで一緒に寝る瞬間も、普段は使われない台所で料理をするのも、名前を呼ばれるだけの小さなことでも全てが色づいていた。そんな中で彼と過ごす時間をもっと増やしたい、愛されていたい、と願っていた私が結婚を前提にした同棲という彼の提案を受け入れるのは自然な流れだった。

 

「でも幹人くん。薬剤師試験落ちたのよね?」

「……そうなんだよな」

「どうするの?」

「しばらくはバイトしてるドラッグストアで店長見習い、的なヤツかな」

 

 美幸から訊いた限りではどうやら彼はうまく息抜きもできて、けれど信頼されているようだし、所謂ブラック気味の接客サービスという業種に対して柔軟にやっていける人物だろうという信頼の元、幹人くんがそれでいいならと頷いた。今思えば無理にでも私が頑張るか一年遅らせて薬剤師試験を受けさせるべきだった、と後悔しているけれど。

 ──彼が期待に応える人物、というより()()()()()()()()()()()()()()人物だと気付いたのは丸二日あったはずの休みが一日、また一日と無くなっていった時だった。

 

「幹人さん、ずっと働き詰めだよ」

「……そう」

「お姉ちゃんからも言ってあげてよ。てかしばらく会話してないんじゃ……」

「美幸には関係ないでしょう?」

 

 ここで私も親の教育という鎖を壊せなかったのも、崩壊の一因であるのはそうよね。肝心なところで、独りでなんとかしようとしてしまった。独りでいようとしてしまった。

 結果として、その私の心を映し出したかのように幹人くんと私は同じ家にいるのに別々に暮らしているようになってしまっていた。

 

「そこからは、二人も知っている通りよ。クリスマスの時に、私はその空間に耐え切れなかった。久しぶりに一緒にゆっくりできると喜んでしまったことで逆に、我慢できなくなってしまった」

「……杠葉」

 

 私はずっと、ずっと……高校生の頃から幹人くんは私のことを愛してくれていると思っていた。でもそれは私の勘違いで、彼は十年前からずっと私の幼い恋を映し出す鏡でしかなかった。誰かを映すことでしか自分の価値を見出せない、愚かな男だった。

 

「でも、俺は……変わった。お前に出ていかれて、美咲に会って……美幸に、たくさんのヒトに教えられて」

 

 幹人くんはそんな風に首を横に振るけれど。いいえ変わってない。だって……だってあなたは今も奥沢さんの幼い恋を映す鏡でしかない。

 ──そしてなにより、まだ()()()()()()()()()()()。そうである限り、あなたはまた……あなたを愛してくれるヒトを、傷つけるのだから。

 

「もうやめにしましょう、幹人くん。幼稚なごっこ遊びはおしまい」

「お姉ちゃん、それは……!」

「私と結婚して。まだ私は、幹人くんを愛しているわ」

 

 ごっこ遊びはこれでおしまい。

 夫婦ごっこでもなく、家族ごっこでもなく、ホンモノを私が一緒に探してあげるから。だからあの時付けられなかった指輪を……銀色の約束を私に頂戴。

 ──そうしたら今度こそ、二人で一緒に、幸せになれると信じているのだから。

 

 

 



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忘れられない相愛

 まずあったのは、沈黙。驚きに目を見開いて何も言えない幹人さんと、どこかその言葉を予想していたものの、見守ることしかできない美幸さん。そして、あたし。

 ──いや知ってたよ? 未練がましく机に指輪置いてあったし、写真もあった。でも、まさかこの状況でプロポーズまでとは……その真剣さを帯びた口調はさすがに口を挟めるものじゃなかった。

 

「ごっこ遊びはおしまいにしましょう? 今度こそ……ホンモノを見つけるのよ」

「杠葉……」

 

 幹人さんの瞳が揺れる。助けを求めるようにあたしを、そして美幸さんを映していく。でもそれじゃあダメなんだってのは、杠葉さんの話で嫌というほど思い知らされた後だったから。いや、あたしだって嘘だ、そんなの勘違いだって首を振りたい気持ちでいっぱいだよ。だけど、そんな子どものワガママで論破できるほど二人が過ごした時間は短くない。

 去年のクリスマスまでの約九年……そう九年。奇しくもあたしと彼の間にある年月と同じだけ、杠葉さんと幹人さんは一緒にいたから。

 

「これ以上、誰かの鏡でいるのは……おしまいにして。そうじゃないと、幹人くんは一生ごっこ遊びから抜け出せないの」

「幹人さん……お姉ちゃん」

 

 あたしが、あたしがあの時、幹人さんに甘えなければ……美幸さんも杠葉さんも、こんなに傷つかずに済んだのかな。大好きな幹人さんを悲しませて、傷つけてきた敵だと思っていた杠葉さんの口から出てくる言葉は、どれも幹人さんを本当に、心の底からやり直したい、間違いを正したいっていう真摯な想いばかりで……ここにあたしがいることが場違いなんじゃないかと思ってしまうくらい。

 

「俺は、俺は……」

「わかってるわ。今ここですぐ、とは言わない。今日はお暇させてもらうわね」

 

 そう言って、杠葉さんはコレは預けておくね、とクリスマスのラッピングが施された箱を置いていく。中身は、彼女が机に置いてあったものと同じ、指輪に違いない。

 そして、次にあたしの方をくるりと向いて優しく、けれどやっぱりどこかあたしにだけは一線を引いたように厳しく最後の言葉を残していく。

 

「大人になりなさい、奥沢さん。そして恋に曇っていない瞳で、幹人くんを見つめることね」

「お、お姉ちゃん」

「美幸は……今までごめんなさい。あなたに家族の温もりをあげられるのなら、私が頑張るわ」

 

 ああでも……やっぱり味方ではない。どんなに憐れみを向けられてもそれは感じてしまう。難しい立場にある美幸さんを取り込まれるカタチになって、あたしは家族を奪われたように茫然としてしまって。勝利宣言に近いものをこの場の余韻に残していく杠葉さんのその横顔を、あたしは眺めることしかできなかった。

 

「美咲ちゃん」

「美咲……大丈夫?」

 

 ──いや、味方がいなくなったわけじゃない。ここには幹人さんと美幸さん以外にも二人、あたしの側に立ってくれるヒトがいるんだった。花音さんはすごく苦しそうな表情で、こころはあたしを気遣うように眉を下げながら視線を向けてくる。だからあたしはまだ、まだ自分の想いを見失わずに済んでいた。

 

「幹人さん」

「……美咲。俺は、俺は……」

 

 十年の付き合いなんだから、杠葉さんが幹人さんを指した言葉は的確で正しいものだったんだろうなぁってのは、そうだよね。このヒトは鏡のようなものだったんだ。かつては杠葉さんの想いを映して……今はあたしの想いを映してる。だから、あたしができるのは願うことだけ。杠葉さんと同じ願いを、だけど少し違ってあたしの幸せでもある願い。

 

「杠葉さんの……言う通りだと思う」

「──そう、か。そうなんだな……」

「ごっこ遊びはもう終わりにしよ。間違いなら……それを正さなくちゃ」

 

 杠葉さんは幹人さんの気持ちを全て否定した。そこに彼の気持ちなんて存在しないってくらいの勢いで、強引にその虚像を砕こうとした。あたしはその虚像を砕くってことには同意する。他者に依存しない、本当の幹人さんが言葉を紡がなきゃ意味がない。

 

「でも、あたしは知ってる。幹人さんがただただあたしや杠葉さん、みんなの気持ちを反射してるだけじゃないってこと」

「……どういうことかしら?」

 

 だって、あたしはあのクリスマスの日の幹人さんを知ってる。本気で、本当にどうでもよかった。死んだっていいとすら思っていたあたしに対して、幹人さんは()()()()()()()って言ったんだから。

 

「そんなの、別に俺は……」

「ホラ、あたしは()()()()だなんてこれっぽっちも思ってない。あの時、幹人さんはあたしを抱きしめてくれた。それ自体はあたしの寂しいって気持ちを映しただけかもしんないけど……おっきな意味を持ってるんだから」

 

 幹人さんは、怖がって鏡を置いてその後ろに隠れてるだけ。そうなるまでに何があったのかは知らないけど、鏡なだけじゃない。どこかに、本当の宮坂幹人さんがいるはずなんだ。それをあたしは知ってる。あたしはその幹人さんに触れたことがあるから。

 

「杠葉さんの言う通りごっこ遊びは終わり。あたしは……ごっこじゃなくて、幹人さんとホントの恋人に……ううん、家族になりたい」

「でも、俺は」

「え、幹人さんあたしのこと嫌いなの? いっぱいキスしてくれたし、ほら……えっちも。なのに嫌い?」

「……美咲ちゃん。なんか話逸れてない?」

 

 逸れてないですー。確かに、そこまで確認取る必要はなかったかもしれないけどさ。でも、あたしが言いたいのはただ許可されたから、ただあたしが幹人さんのことを好きでそういうことをしてほしいからした、だけだって思えないってこと。

 

「どういうことなの、美咲」

「触り方がなんかやらしいって言うか、熱い感じって言うか……うーんなんて言ったらいいんだろ」

「触り方が……?」

「ふ、ふえぇ……美咲ちゃん、そういうの、こころちゃんにはダメだよお」

 

 あ、つい。でも、あたしが言いたいのはただただ鏡として映してるだけって、思えなかったなぁってこと。

 だって、ハジメテの時……あの時の瞳をあたしは一生忘れない。あの透き通った、欲を孕んだあの瞳を……ってのを伝えようとしていたら杠葉さんに話が逸れてるわよ、と不機嫌そうに言われた。

 

「俺は、その言葉に頷ける自信がない。それも、美咲の期待に応えただけって言われれば、そうなのかもしれねーし」

「ふうん。そんなつもりであたしを抱いたの? へえ……?」

「い、いやっ! だって……俺は」

 

 もう、ホント、いつもいつも言ってる気がするけど……今日こそは力いっぱい、気持ちをいっぱいに込めて言ってやる。思いっきり嘲るように、思いっきり蹴とばすくらいの勢いで、あたしは息を吸って、そして吐き出した。

 

「ばーっか!」

「ば……なんで」

「いいじゃん。好きなら好きって言えば、どーせ、杠葉さんのこともまだ忘れられない、とか考えてるんでしょ?」

「う……なんでわかるんだよ」

「ばーか、ばか、ばーか……わかるって。あたしだって、幹人さんのことずっとずっと見てたんだから」

 

 十年には遠く及ばない、一年にもならない時間だけどあたしは、杠葉さんが見てこなかった、失った悲しみを持っていて、それがあたしや美幸さんと関わっていくうちにどんどん元気になっていく幹人さんを見てきたから。

 

「そうだな……俺は、一度だって杠葉を忘れたことなんてねーんだ」

「あたしを抱いてる時もね」

「……あなた」

 

 はいはい。黙ってますよ。忘れられるわけないよね、だって、幹人さんにとってはクリスマスのあの時、あの瞬間まで一緒にいることが当たり前で、名前を呼ばれることが当たり前で、愛し合ってるってことが当たり前だったんだから。そんなんだから、ちょっとくらい妬かせて余計なことくらい言わせろばーか。

 

「いなくなって、美咲を代わりにしていく中で杠葉があの時言ったこと、わかんねーってなったことがたくさん、ホントにたくさんあった。けどな、わかったこともたくさんあるんだよ」

「わかったこと?」

「ああ、杠葉がどんな気持ちで俺の傍にいてくれてたのか、とか。なんで怒ったのか、とかな」

 

 それ、概ねあたしと美幸さんのおかげだけど、と言うと美幸さんがそーだよ~と唇を尖らせた。うるせーじゃないよ、だって幹人さん、杠葉さんにしたミスをあたしにもしてるんだからさ! 

 

「それがうるせーっての……んで、杠葉が何を望んでたのか、俺に何を期待してたのかわかった。つい最近……あいつらのおかげだけど」

「それじゃあ、答え合わせくらいしましょうか?」

「しなくても、もうわかってんだろ……杠葉」

 

 ええ、そうねなんて言うけれどその顔は、今にも泣き出しそうだった。なにせ十年だもんね。遠回りの恋だった……って感じなのかな。やっと好きなヒトに自分の気持ちを伝えられたって安堵の涙。その瞬間だけ、あたしには杠葉さんが制服を着たあたしと同じ歳くらいの子どもに見えた。

 

「ごめんな杠葉、もっとちゃんと、デートとか行けばよかった。好きって言えればよかった」

「そうよ。あなたはいっつも、私と並ぶとスペックが、とか言い訳ばかり連ねて……一度だって、あなたに好きだなんて面と向かって言われたこともなかった」

「わかってなかったんだ。杠葉が……俺のことをどうして好きになってくれたのか。なんで……家族になりたい、とまで思ってくれたのか」

 

 そういうとこあるよね、幹人さんは。ホントに、一体杠葉さんと会う前に何があったのやら……ってのは今は関係ないよね。

 杠葉さんも親の教育で他者に甘えることができなかった、助けを求めることも。だからその想いも不満も胸に降り積もらせることしかなかった。そうして出来上がった杠葉さんの外面を、幹人さんは歪んだ形で映してしまってたんだ。

 

「──でも、俺にとって……今の俺にとって夫婦、とか家族って言われて思い浮かぶ相手は……杠葉じゃない」

「幹人、くん」

「ごっこだったのかも知れねーし、それに反論なんてできるわけねーけど、今の俺を、ここまでバカで欲張りにしてくれたのは……美咲なんだ」

 

 それだけは、杠葉の気持ちを受けたわけでも、美咲の期待に応えたわけでもない。そんな風に弱々しく笑う幹人さんに、杠葉さんは何かを言おうと口を開いて……そして、それを一旦閉じてからため息を吐いた。

 

「バカね、本当に」

「だよな」

「ええ、本当に……バカなのよ、幹人くんは」

「ごめん」

「──っ!」

 

 あーあ……うん、今だけは見過ごしておこう。十年間、あたしがまだピカピカのランドセルを背負ってた頃から今日までの時間、ずっと、ただずっと愛したヒトに、愛してくれていると思っていたヒトにフられたんだもんね。ここでむっとするのは、幾らなんでも大人気がない。いやあたしまだ子どもの範疇だからヤキモチに喚きちらしてもいいのか、あ、どうしよっかな。ここであたしもわんわん泣いて空気ぶち壊しても許される? ない? やっぱりない? 

 ──という冗談はさておくとして、杠葉さんはこのひとときだけは、愛するヒトの腕の中に納まって子どもみたいに泣きじゃくって、幹人さんがそれを優しく包み込んでいた。

 

「お姉ちゃん……よかったね」

「美幸さん」

「……ん? な~に? 私のかわいい義妹(みさき)ちゃん?」

「もうちょっとで追い出すところだったよ、裏切者(みゆき)さん?」

「うぐっ!?」

 

 モヤモヤは愛しの義姉で発散しておくとしよう。なーにが私は恋する乙女の味方だからね、だよ。思いっきり杠葉さんの訴えに流されてたクセに!

 よよよと泣きかれ、言い訳を超早口で並べてくる美幸さんをあしらっているとその様子を、目許を腫らした杠葉さんがきょとんとした顔で見ていた。

 

「……美幸、あなたってそんな風に甘えるのね。知らなかったわ」

「……甘やかしてくれるって、知っちゃったから」

「姉として謝っておくわ奥沢さん。うちの愚妹が迷惑をかけているわね」

「本当に」

「そこは社交辞令でしょ!?」

「違うわよ?」

「肝心なところで美咲を放っておくからだな」

「いやおにーさまがそれを言いますか?」

 

 雨が降って、上がって、空に虹ができているように。杠葉さんはなんだかすっきりと晴れやかな顔をしていた。きっともう、雲はかからないんだろうな。

 これで二人はやっと、過去という借金を返済しきった。随分と延滞したせいで利息がついていたけど。過去を返済して、幹人さんは未来へと向かおうとしていた。

 

 

 

 

 



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始まっていない未来

 あれから一晩経過して、少しだけ余裕を持って教室へ向かっていると後ろから奥沢さん、と声を掛けられる。透き通った声、アロマのような優しい香り、振り返るまでもなく誰かはわかっていたけど、杠葉先生だった。

 

「おはようございます」

「うん、おはよう」

「……えと、何か?」

「あなたにいいものをあげようと思って……いらないお節介かもしれないけれど」

 

 いいもの? と首を傾げたあたしに、杠葉先生は何冊かの料理本をくれた。使い込まれているようで、ところどころ汚れており、付箋がたくさん貼ってあった。

 ──いや何かわかったけどこれ重いんですけど。いや本の重さじゃなくて、本もまぁそこそこ重いけど。

 

「幹人くん、ああ見えて相当好き嫌い多いから」

「はぁ……まぁ知ってますけど?」

「……かわいくないわね。美幸の好みも入っているのよ?」

「それはありがたいです。あの二人が合わさると毎日考えるのもめんどくさいんで」

 

 幹人さんは幹人さんで……まぁ杠葉先生が言った通りだし、美幸さんは味覚崩壊してるのかなんなのかわからないけどすーぐ辛味を足そうとしてくる。餃子のタレが真っ赤になるまで豆板醤入れたうえにラー油ドバドバかけるようなヒトだし。だから辛味が介在しなくなると絶対こそこそとお夜食だもん。

 

「作る側としてはああも味をいじられるとへこむんですよね」

「そうね、特に美幸のは……何度寝ている間にハバネロを鼻に捻じ込もうと思ったことか」

 

 あはは、そりゃ面白い冗談ですね、あはははは……あは、は……え、冗談だよね? うわ目が笑ってない。怖すぎるんですけどこのヒト! 杠葉先生、時折言動がバイオレンスなのなんなの? 

 

「……ごめん、しばらくはまだ引きずっているから」

「大丈夫……ではないですけど、理解してるんで」

 

 和やかな雰囲気ではあるけど、こうして杠葉先生が関わろうとしているってことはつまり、それだけ落ち込んでるってこと。

 あたしが選ばれた、幹人さんはあたしを選んでくれた。だから、自然と選ばれなかったという悲しみを背負うヒトがいる。

 

「それじゃあ」

「はい」

「……幹人くんが幸せになれることを、願っているわ」

 

 ──杠葉先生は、あたしや美幸さん、幹人さんにとって重要な存在に位置付けられていた喜多見杠葉さんはそうしてゆっくりと、最後まで()()()()()()を名指しして言葉を送りながら舞台から降りるようにして去っていった。その背中をあたしは忘れないようにしようと、見えなくなるまで見送った。

 

「さて、今日は──」

 

 いやまぁ、すぐに授業で会うんだけどさ。あとあたしに目を付けるのはやめてもらっていいですか? 教師としてそれどうなんですか? 文句を言いに行ったら社会人と同棲している、なんて子は注意深く見守る必要があるわよ、教育者的にはねとか反論された。あなた担任じゃないですし教育者的にじゃなくて元カノ的にでしょ。

 

「ま、お姉ちゃんらしいと言えばそうかな~」

「それで済ませていいの? もはやアレ、嫁いびりの亜種だって」

「あはは、じゃあお姉ちゃんが姑さんか~」

 

 暢気に笑ってるけど美幸さんはまだ話終わってないから一度帰ってきなさいとか言われてたよ。あれ絶対怒ってたよ。

 あたしがそう伝えると美幸さんは、心底嫌そうな顔をしてからあたしに抱き着いてくる。

 

「助けて美咲ちゃん! 私のかわいいかわいい義妹(みさき)ちゃん!」

「妹的にそれはどうなのかな~とか思うんだけど」

 

 一人で頑張るところだと思うんだあたしは。そりゃまぁ……あたしの大事なお姉ちゃんだし? 帰ったら慰めたりフォローしてあげたりだとかは、するけどさ。美幸さんだってもうちょっとちゃんと、落ち着いた状態でお姉さんと言葉を交わすべきだよ。

 

「うう……うん、頑張る」

「うん、頑張れ、よしよし」

 

 ところでこのお姉ちゃん、最近特に年上としての自覚が無くなってる気がする。甘え気質なのはわかってたけど、わかってたけどさ。最初の頼れる年上のお姉さんオーラどこに置いてきちゃったの? お店? ちゃんと忘れ物は取りに戻ってほしいところなんだけどなぁ。

 

「……なにやってんだ、休憩室で」

「ん~と……百合営業!」

「誰に向けての営業だよ」

「おにーさま?」

「疑問符つけちゃうんだ……あはは」

 

 このミステリアスもどきの美幸さん、ノリと勢いで生きてるかのようにきょうだい愛もいいよねとか言って幹人さんにまで抱き着こうするからさすがにそれは止めた。ダメ、それあたしの役目。いやあたしはノリと勢いで抱き着いたりとかは……しないけど? 

 

「美咲ちゃんはヤキモチ妬きさんだな~」

「まぁ……カレシがあんなのだからね」

「あんなの……ってなぁ」

 

 ちゃんと見張っとかないとどっかふわふわ飛んでいきそうなヒトだよ? ちゃんと掴んでおかないと、届かないところにまで上っていったらもう……あたしには見上げるしかないんだから。

 

「はいはい、そこまでにして夕礼始めるからな」

「は~い」

「んじゃ、今日はチラシクーポンとアプリの電子クーポン両方あるから、対応間違えないように」

「結構います? アプリのやつ」

「そこそこ普及してきたーって感じだな。ただそれだけに使い慣れてないお客さん多いから」

「はーい、宮坂さん! なんか違うんですか?」

「なんかって言うか……ちゃんと対応しねーと何回も使えちゃうからってことだな」

 

 また、日常が始まっていく。プライベートは解決したけど、相変わらず店長代理としての宮坂さんの仕事量は半端じゃない。スマホアプリの配信を開始したことでそのイベント関連やら会員登録の進捗だとか……また色々新しいことが導入されていって、忙しいとてんやわんやになっちゃう。

 

「ねぇ美幸さんとあたし、ここでレジ代わってもいい? ……ですか?」

「ん、なんでだ?」

「ほら、まだ()()()()なん……ですよね? 美幸さんに登録の窓口のやつ、前結構入ってくれてたし」

「あー、でもみさ……奥沢には、手伝ってほしいことがあって」

「……また事務作業ですか?」

「おう」

 

 おう、じゃないよ。でも、そうやって素直に手伝いを申し出てくれるところはなんだか嬉しくなってしまう。うん、それでいいんだ。もう誰かの期待に独りで応えようと鏡を置かなくなって……大丈夫なんだよ。

 

「私がやるよ、事務作業」

「……あたしがやります。あたしと宮坂さんの二人で」

「うわ~、わかりやす……」

「はい? 何か言いました?」

「なんでもないで~す」

「美幸さんはフリーになってますけどあのヒトに発注教えてあげてくださいね? ついでにデートの約束でもしてきてください」

「それどこまで仕事の範疇なのかな!?」

 

 あたしはきっと、ここで長い間働くことになるだろう。就職まで……はどうかまだ決めてないけど、少なくとも幹人さんがちゃんと一人で仕事しても休めるようになるまで。

 お兄ちゃんだの、お姉ちゃんだの、妹だの、呼び合ってみてはいるけどあたしたち三人の関係はまだまだごっこ遊びを抜け出そうとしてるところ。だからあたしと幹人さんの関係も、まだ恋人って言うには手前を歩いてる。

 でもこのごっこ遊びは、遊びじゃなくなって……いつかホンモノになる。九歳差を越えた本当の恋人に、生まれがバラバラでも本当のきょうだいに、そして本当の家族に。

 

「……幹人さん」

「ん?」

「すき」

「……俺も、美咲が好きだ」

「うん」

 

 だからその時まで、あたしと幹人さんは恋人未満のまま。いつか家族に、夫婦になる、恋人未満な九歳差。

 ホンモノへの道を一歩一歩進んで、時々は振り返って、ケンカして仲直りをして。あたしはたくさんの時間を、このヒトと過ごしていく。ただいまもおかえりも、いってきますもいってらっしゃいも、おはようもおやすみも、愛してるも全部、このヒトに言えるあの家で。

 

 ──恋人未満な九歳差 THE END

 Thank you for reading.

 

 

 

 

 

 




※このあとがきは本編を以前(再投稿前)から追いかけてたよ~、もしくは作者さんを知ってるよ~という読者様向けへ発信しております。あしからず






――というわけで、間は空きました(原因としては過去話の展開をすっかり忘れてた)けど、なんとか完結することができました。
番外編でその後なんかも想像できてるけど、まぁ蛇足でしょうということでここでエンドマークをば。

いつもなんですけど、花のJKヒロインにしといて青春の甘酸っぱさとか爽やかさのないのって、書いてて時折どこの層向けなんだかとか考えますが、その需要にあった話を書こうとすると三話で筆を折ってしまう不思議。もう学園ドラマ系のは無理ですね。諦めました。

HPとか作るのもめんどいし知識とか新しく入れると時間もかかるってんで結局ハーメルンで続きを書かせていただいてるんですが、んー、この作品もそのうちバックアップは取りつつも消去しようかなーと思ってます。なのでまぁ公開中のPDF化はご自由に。あと売らなきゃなにしても自由ということで。

またテキトーに匿名で続きを書いたりしていこうかなと思ってます。なので運よく見つけることができた方はまた会える幸運を祈っています。常連さんはまた個別にURL送らせてもらうんで感想もソッチ、もしくはいつもの場所でくだされば嬉しいなーと思っています。
――それでは、長くなりましたがこの辺で、また会えるのなら会いましょう。


チンパンつららばり連打=ガラルヒヒダルマの皮を被った本醸醤油味の黒豆


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