世界の中心で愛を叫んだ獣 (ミツバチ)
しおりを挟む

序章 男の戰い

「―――リトルボォォォイ!

 ツァァァアアリ・ボンバァァァアアアアアアアアッ!」

 

 叫んだのは甘粕正彦。

 

 裂帛の気合一声と同時、頭上に二つの鉄塊が創形される。

 

 一方は言わずと知れた、広島を地獄に変えた破滅の具現。

 もう一方は――試験運用段階の実験において、爆破時に生じた衝撃波が地球を三周もしたという破壊神の矛。双方共に水素爆弾としてはこれ以上ないほどの知名度と威力を有する、人類が誇る大量破壊兵器である。

 

 ―――させるものか。

 

 当然、そんなものが爆ぜるのをただ座して待つつもりなど毛頭ない。

 

 印を結び、顕象させるは敵手と同じ五法が一つ――創法。

 しかし系統は形ではなく界。

 天を覆う黒雲より落ちる、二条の稲妻。それは俺の狙い通り正確に、二つの鉄塊を貫き粉砕する。

 

 広島原爆に爆弾皇帝。

 

 どちらも同じ爆弾だが、中に入っているのは火薬やニトログリセリンの類ではなく、極小の核融合反応炉である。故に臨界に至る前に破壊すれば、その真価を発揮することはない。

 必然として、二つの爆弾は役割を果たすことなく海の藻屑と消える。

 

 次はこちらの番だ。

 

 展開した創界をそのまま使用。印を結び剣指を振り下ろすと同時に、神の鉄槌めいて青白い閃光が落ちる。それから一拍遅れる形で霹靂(へきれき)が轟いた。

 

 落ちたのは(いかずち)

 

 天候や環境を操作する界の創法。その能力に特化した俺だからこその(わざ)だった。

 手応えはあった。だが同時に悟る。()()()()

 

 夢を振り絞って練り上げた渾身の大雷霆は――やはり、実に呆気なく防がれていた。

 

 戦艦伊吹の甲板に屹立する鉄塔――即ち、避雷針。

 

 雷は直撃した。ただ、その目標を大きく間違えたというだけのこと。

 

 ……どうやらあちらは、披露された手品(ユメ)の種を早々に見切ったようだ。俺は努めて無表情を維持したまま、しかし内心で舌を巻く。分かってはいたことだが、やはり一筋縄ではいかないようだ。

 

 敵手は甘粕正彦。

 俺と同じく創法に長け、そして咒法においては天と地ほどに隔絶した技量を持つ巧者。曰く、最初にして最強の盧生である。ならば遠距離戦を臨むのは愚の骨頂だと弁えるしかない。

 

 即座に思考と戦略を切り替える。

 

 甲板を蹴り、敵に肉薄する。それと同時に創形を開始――完了。

 

 掌中に顕れたのは着剣した三八式騎銃。現実で愛用していた銃器そのものの感触を握り、目標に銃口を向けて引鉄を引く。

 

 火薬の破裂音はない。

 

 何故ならこれは電磁加速砲(レールガン)。爆ぜた炸薬によって鉛弾を撃ち出す銃砲火器ではなく、電磁誘導によって生じた磁気の反発作用によって金属塊を射出する遠い未来の兵器である。

 

 俺の夢を構成するのは理論と理屈。

 夢のない夢こそが俺の夢。それこそが■■■■の人生であり、存在そのものの象徴なのだ。

 

 放たれた弾丸の速度は優に音速を超える。如何にここが邯鄲であり、相手が魔人であるとはいえ、直撃すればただでは済まないだろう。更にこの弾丸には透の解法を相乗させてある。弾道上にあるもの――その一切の強度を無視してすり抜け、破壊するのだ。被弾すれば致命である。

 

 それに対して。

 

「良いぞ、素晴らしい気概だ。鬼気迫る。やはり日本男児たるもの、そうでなくてはなァッ!」

 

 腰に佩いた軍刀を抜き、甘粕は超高速の弾丸を苦もなく斬り払った。

 振るわれた刃金には、透の解法を無効化する崩の解法が乗せられているのが一目で分かった。

 

 想定の範囲内である。

 

 元よりこれは牽制。

 本命を当てるための布石なのだから、この程度で倒せるとは端から思っていない。

 

 足を止めることなく突撃、突撃、突撃。立て続けに引鉄を引き弾幕を張りながら、戟法の迅にて電光石火の突撃を仕掛ける。

 

 突く、斬る、薙ぐ、打つ、撃つ。

 

 目まぐるしく立ち位置を変え、絶えず相手の死角――背面側へ回りながら縦横無尽に動き回り攻め続ける。

 

 その最中に――俺は、文字通りに卑劣極まりない一撃を落とした。

 

「―――なるほど。雷の次は雹か。まるで天象を司る神のようだ。惚れ惚れするよ、中尉」

 

 しかし、それも斬り払われる。

 

 一瞬前、甘粕の頭頂を砕かんと飛来したのは人の半身ほどの大きさがある氷の礫。次々と迫り来るそれを、躱し、斬断する甘粕。透の解法で存在を隠しているのに気付くとは、目敏いにも程がある。流石は最初に邯鄲を踏破した強者だと讃えるしかない……と、言いたいところではあるが。

 

 まだ、俺の策は有効であると判断する。

 

 雷の次は雹――敵はそう言った。

 その認識こそが誤りなのだと、その身に直接教えてやる。前提として――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 刹那、稲妻が俺達二人を飲み込んだ。

 

「ガ―――――」

 

 空間そのものを塗り潰す電子の奔流。その直撃を受けて、甘粕は硬直する。

 

 これは詠段。創法と解法の同時発現。

 仕組みそのものは実に簡単なものだ。何せ、登山ではこの手の()()が憑き物なのだから。

 

 自身の周囲に展開した磁界によって俺は直撃を免れたが、そうでなければ即死していただろう。神経系は残らず炸裂して心臓は止まっているだろうし、そうでなくとも脳を含めた全身の骨肉が炭化していることは間違いない。

 それほどの電流、電圧。

 よって生じた電気抵抗の熱量は地獄の炎をも遥かに上回る。

 

 邯鄲における勝利の鉄則。

 それは結局のところ、敵の死角を突くという一点に集約される。

 

 視野の死角。意識の死角。機能の死角。

 即ち見えない角度から、思いもよらぬタイミングで、構造上躱せない体勢の敵を狙い撃つ。俺はそれを実行した。敵が今この俺達を取り巻く二重の創界(わな)に目を向けぬよう、白兵戦に意識を集中させた上で――結果として、確かに型に嵌めたのだ。

 

 けれど―――

 

 倒れず、強く甲板の鉄を踏みしめて。甘粕正彦は心の底から呵々(カカ)と称賛する。

 

「は、はははははははは! 流石は雷帝(らいてい)! これがお前か。魔王(おれ)に弓引く皇帝(おまえ)(あい)か! 感服した! 全く、尊敬するよ。告白すれば、以前からずっと思っていたことなのだが。俺は、おまえという漢が愛おしくて堪らない―――ッ!」

 

 故に、神の杖をくれてやると。

 致死の傷から意志力のみで蘇生した甘粕正彦が、遠い未来の夢を紡ぎ上げる。

 

「読まれていようが関係ない、見えない一撃を叩きこむ。それはまさしく正解だ。天象を支配する皇帝の夢は、なるほど、絶対のものだろう。そこに異論はない。だが――だからこそ、俺は先達の盧生としておまえに一手教授したいと思う」

 

 だから死んでくれるなよ、と。

 ぎらぎらと双眸を輝かせて甘粕は剣指を握る。

 

 ―――瞬間。今から俺は死ぬのだと直感した。

 

 とんでもなく強力な咒法によって、何かが空に撃ち上げられた。成層圏を越えて衛星軌道上へ。その正体を透の解法で看破し、俺は絶句する。

 

 しかしそれでも体は動いた。

 

 (コイル)を回す。

 

 解法では対処不能。()()()()()()()()()()()()()

 咄嗟にそう判断した俺は、連続で結印し、偽りなく生涯最大規模の創界を形成する。

 

「―――――ロッズ・フロォム・ゴォォォォォオオオオオオオオオッド!!」

 

 遂に、神の裁きが下された。

 

 落とされた鉄槌は金属棒。

 全長六・一メートル、直径三十センチ、重量百キログラム。タングステン、チタン、ウランなどの重金属から成る合金である。小型の推進装置を備えたソレは、高度千キロメートルの低軌道上から音速を越えて飛来する。その速度は実にマッハ九・五。至極単純な運動エネルギーがもたらす結果は、問答無用の死だった。

 つまり、それは。

 天を支配した気になっている不遜な皇帝に対する仕置きとしては、些か以上に行き過ぎた蛮行であった。

 

 不可視の盾が、神の裁きを受け止める。

 

 その瞬間、俺の中で立て続けに何かが弾けた。盾を維持し造り直す度、創法の夢の負荷は血管を破り、筋繊維を断ち、骨を折り砕く。視界が赤く沸騰した。脳がぐつぐつと煮えている。心肺は当の昔に破裂していたものだから、息をすることすらとっくに忘れていた。

 酷く腹が痛む。

 十時に裂けた傷から内臓がまろび出そうだ。

 風前の灯火の如く今にも消えてしまいそうな意識をどうにか保ち、術式の維持に努める。

 

 不可視の盾の正体。それは、磁気の反発だ。

 

 たとえ神の杖であろうと、弾が物体である以上、磁力の影響は必ず受ける。それが金属ならば尚更だ。しかし断熱圧縮によって高温になっているために、磁界を維持するのが困難だった。高温に晒された磁石は磁性を失う。それと同じ理屈である。

 

 一秒を切り刻んだ果ての刹那――その瞬間毎に、創界の邯鄲を随時展開する。

 

 それが出来なければ死ぬしかない。そんなことも出来ないのなら死ねと、魔王が言っている。

 

 ……この、死ぬかどうかという瀬戸際において。

 俺が想うのは、とある少女のことだった。

 

 雪の妖精のような、可憐で美しい少女を想う。

 

 太く節くれ立った俺の指が、白金の艶を宿した銀色の髪を梳く。大きな瞳が俺を見上げた。双眸の色素は薄く、見る角度によっては黄金に輝いて見える。嬉しそうに目を細めて、彼女は俺の無骨な愛撫を受け入れていた。それが好きなのだと、華のような笑みを浮かべて。

 俺の膝に座った彼女は喜んで笑っていて、傍にいた妹達は「つぎは私の番」だとさえずった。微笑ましいその情景。遠い異国で過ごした記憶。絶体絶命の修羅場で、それが蘇る。

 

 愛おしい。

 愛している。

 

 だから―――

 

 破段・顕象――

 

 刹那、塗り潰される世界法則。理論と理屈を何よりも重んじる俺が、それらをかなぐり捨てて、俺だけの法を紡ぎ上げる。今この時――森羅万象の如くは、我が掌中に在る。

 

 ―――速く。何より速く。

 この世の総てが遅くなる。()()()()()()()()()()

 

 よって、邯鄲の理は一気にこちらに味方する。下された神の鉄槌は――時を逆巻いたように上空へと跳ね上がり、大気圏を越えて逆しまに射手を撃ち抜いた。

 

 甘粕が創形した軍事衛星が爆散する。

 

「―――美事だ」

 

 言葉通りの意味に。感嘆して、甘粕は言う。

 

「美事だ。実に美事だよ、■■中尉。第二の盧生をうっかり殺してしまったばかりなのでな、これは使うまいと予め決めて事に挑んでいたのだが……にも関わらず俺にこの技を使わせ、それを受け止め、あまつさえ撃ち返すとは。素晴らしいな、雷帝! グルジエフも良い遺産を残してくれたものだ。俺は感動している!」

 

 抱擁を求めるように諸手を広げて、甘粕は高らかに叫んだ。

 

「さあ――次は俺に何を見せてくれるんだ、■■中尉。これで終わりではないのだろう? お前が持つ夢の輝きを、愛を、勇気を、もっと俺に見せてくれ!」

 

 魔王のように傲岸に、熱を孕んだ声で滔々と訴える。

 

 甘粕正彦。

 

 第一盧生(ザ・ファースト)。最初にして最強の盧生。単独にて邯鄲を制覇した無敵の魔人である。

 俺も超人だの鉄人だの銀灰(ぎんかい)の獣だの、天象を統べる雷帝だのと称されたことはあるが、この男の前ではそんな称号に何の意味もないのだと痛烈に自覚した。端的に言って――甘粕正彦と■■■■とでは、才能の桁が一つ違う。

 

 実際、先の攻防。俺は五常楽の三段目・破段を使わざるをえなかったのに対して、相手はあくまでも二つ目の詠段しか使用していない。一段であろうと差は歴然。そしてこちらは既に満身創痍。傍目には結果が見えていることだろう。

 

 だが、戦う。

 

 何故なら、愛しているから。

 

 俺はキーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワを愛している。

 故に俺は――()()()()()()()()()()()()()()()()。その想いに嘘はない。それこそが俺が奉じる戦の真。我も人、彼も人。たとえそれが獣であろうと、故に対等なのだと信じている。

 

 獣も人も――全てを(あい)()皇帝(ツァーリ)で在りたい。それが俺の夢。

 

 だから、だから、だからこそ――たとえ、君がどんなに変わり果てていたとしても。かつてとは違う姿でも。俺のことが分からなくなっていても。それでも俺は君を見付けた。だからまだ、間に合うのだ、と……―――

 

 消えていく。消えていく。

 

 少しずつ、少しずつ。全てが胡乱に濁って喪われていく。故に今、ここに在るのはただの機械だ。だからこそ同じ音を吐き続ける。本当に何もかもがなくなってしまう――その瞬間まで。

 

 愛している。

 愛している。

 愛している。

 

 必死に繋ぎ止める。それだけは、最後まで失ってなるものかと。

 同じ言葉を繰り返す。飾り方なんて分からない、知らないのだ。

 

 愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

 

 だからどうか、()()()()()()()()()()()。君が幸福に生きられることを願っている。キーラ、キーラ、キー■、キ■■、■■■、■■■、■■■―――――ッ!

 

 人間賛歌を謡う。喉が枯れ果てるほどに。

 

 今までの戦いはただの小手調べ。盧生としての真価が問われるのは、ここからだ。

 

 愛を叫び、咆哮して。

 印を結び邯鄲を紡ぐ。■■■■(オレ)と甘粕正彦は、同時に己の夢を顕現させた。

 

「「急段・顕象――!」」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一話 明晰夢

 とある男の話をしよう。

 

 彼の名前は■■■■。大日本帝国特高警察憲兵中尉、麹町憲兵分隊副官。甘粕正彦の直属の部下であり、彼が邯鄲攻略に際し行方を眩ましてからは隊長代理を務めた男だ。

 

 端的に言って、彼は機械だった。

 

 彼が語るのは常に理論と理屈。

 そうであるが故に正しく、過たず。鋼のような理性と、氷の如く凍てついた感情で駆動する機械(システム)。情がない、血も涙もない、きっと夢すら持たない――人らしからぬもの。故にその男は他者から怖れられた。人ではないのだと噂された。

 

 曰く、超人。

 曰く、鉄人。

 曰く、銀灰の獣。

 

 そして、それは全て正しい。

 

 傍から見て、彼が生まれ育った家庭は至極平凡だった。

 心から夫と子を慈しみ愛する母。一家の大黒柱として奔走しつつも、惜し気もなく妻と子に愛情を注いだ父。とても幸福な家庭。しかしその裏側に潜んでいるのは、拭い難い狂気と呪詛だった。

 

 母にはロシア人魔術師の血が流れていたという。

 

 日露戦争における敗戦国。大日本帝国、死すべし――と怨念を滾らせる血統。血の疼き、使命。神命。それが母を狂わせた。

 

 ―――お前は日本を破滅させるために生まれてきたのだ。

 

 それが母の口癖だった。戦争が始まる前から、彼女は我が子を洗脳していた。

 無論、父のいる所でそんなことを口走ったことは一度もない。彼女は最期までよき妻として、夫の記憶に残っている。だからこそ、男は後に人でなしの汚名を負うこととなる。誰も彼もが彼のことを心の裏で糾弾し罵倒し嘲弄したのだ。

 

 日露戦争の終結後。

 日本が公権によって共産主義や社会主義を廃絶し、思想を排斥する気運が高まっていた時世。

 

 母は己の子を特高警察憲兵隊に入隊させることを思いついた。

 そしてその誤った一手こそが、彼女の破滅を決定づけたのだ。

 

 特高警察――特別高等警察とは、ある種の思想警察である。

 

 左翼、右翼。無政府主義。いずれにしろ国家を脅かすほどに行き過ぎてしまった活動家を監視し、取り締まることが彼らの役割。つまり、ロシア側の工作員であった母の宿敵である。

 ともすれば法の番人そのものと思えるが、しかし大日本帝国の全ての民がその存在を許容していた訳ではなかった。

 

 特高警察は凄まじいまでの強権を持つ。

 

 仮にもし、逮捕した輩が後の裁判にて無罪になりそうだと判断された場合。彼らは逮捕した容疑者をその場で()()し、結果として故意に死なせるという事例が数多くあった。それは紛れもなく鬼畜の所業。ならば彼らは罰せられるのかといえば――当然、そんなことはない。

 

 権力で護られた、権力を行使する存在であるが故に。

 御国を護るという合言葉の下、全ての理不尽が正当化されていたのだ。

 

 しかし彼らは神ではない。

 無論のこと、蛮行を咎める組織はあった。それが憲兵隊。特高警察と同様の業務をこなしながら、特高警察を見張り、場合によっては逮捕する権限を持つ者達である。

 

 それは、男の母にとって工作員としてうってつけのポストだった。

 

 途中――戦真館という新設の軍学校に編入する話も出たが、それは彼の母が握り潰した。学園では思想の再教育が行われる。しかも全寮制ともなれば、母が介入することは難しい。折角の洗脳が解けてしまいかねない。それでは自分の計画が御破産になると判断したのだ。

 

 母にとって幸いなことに、子は神童と謳われるほど優秀で、何より従順だった。

 

 順調に成長し、男は若くして軍人となる。

 母が希望した通りの、道具になったのだ。

 

 やがて男は特高警察憲兵へ配属された。

 

 彼は母の言いつけ通り、特高警察の立場から、母を同胞とする共産主義運動組織を援護した。

 情報の隠蔽のため、時には同僚を撃つこともあった。あるいは守るべき同士を切り捨てて、平然と処刑台へ送り込むことさえした。何十、何百もの人間を殺した。銀灰の獣という呼び名に相応しく、まるで雑草を刈る機械のように。無慈悲に、冷徹に怜悧に。誰も彼もを刑務所と処刑台に送り込んだのだ。

 

 男も女も子供も老人も関係なく。

 最終的には――己の母親さえも。

 

 彼女が望んでいた通りに――(そしき)を護るため、いつしかその存亡を脅かすものへと化生していた(はは)を抹殺したのだ。

 人体は細胞という個で構成された群体。個にして群、群にして個。故に、その調和を乱す癌細胞を早期に滅する自浄作用を持つ。男は、自らの行いをそのようなものと認識していた。

 

 つまりは、出る杭を打った。それだけである。

 

 その時父は嘆き悲しんだが、しかし男の心は凪いでいた。

 

 何の感慨もない。

 

 彼は機械だった。体は鋼で、心は氷で出来ている。

 どこまでも平等に――彼は人を殺し続けた。一切の愛も、情もなく。

 

 故に彼は、盧生ではなかった。

 

 * * *

 

 ―――夢を見ていた。

 

 遠い異国の地に私は立っている。見慣れぬ土地、知らない空と風。気温は低いが、しかし私が生まれ育った国ほどではない。街並みはそこそこ近代的に発展してはいるものの、視線を上げれば山や木々、川のせせらぎなどといった自然が身近にある。

 

 手を伸ばせば届きそう。

 

 暗く狭い場所は嫌だ。あの赤や黄に色付いた山に触れてみたい。獣が踏みしめた土を蹴り、雨に濡れた草の上を転がって。木々の隙間を縫って駆けまわれたら、どれだけ爽快だろう。

 

 獣になりたい。

 一匹の獣として、自由に生きてみたい。

 

 強くそう望む。それこそ、夢にまで見るほどに。

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「ああ――今日もいたのか、おまえ」

 

 ぶつぶつと呟く声に反応して、視線を向ける。

 

 そこに在ったのは影だ。

 黒い靄が人型で浮き上がり、三次元空間上に影法師を映し出している。それが誰なのかは知らなかった。ただ、私と同じ人間なのだろうと察してはいる。

 

 私の夢に入り込んだ異物。他人。ともすればそれは排除すべきものだ。普段の私ならば、実際にそうしているだろう。けれども今はそうしない。それどころかその存在を許容しつつある。正確には、いい加減に諦めた、という方が正しいか。

 

 夢の中では何でもできる。

 

 身体能力は言うに及ばず。超常の力の放出や、想像したものを物質として具現化させることすら可能だ。ともすればこの影を滅することなど現実よりも容易い事のように思える。が、実際はそうもいかない。

 この影は――害意ある攻撃の全てを見切り、すり抜けるからだ。

 正面切っての殴打はもちろん、不意打ちすら躱す。一切の攻撃が通用しない。ともなれば、こちらはもう白旗を上げるしかない。

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「……相変わらずなにを言っているのかまったく分からん。私と話したいならロシア語を話せ」

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「…………だから、分からんと言っているのに。……まあ、いい」

 

 自然と唇が尖ってしまう。

 そんなこちらの様子に、影は一切の反応を示さない。絶えず何かを呟きながら、独りで街を彷徨っている。

 

 物心ついた時から、私はずっと明晰夢を見続けている。

 

 つまり産まれてこの方、私は浅い眠りしか経験していないのだ。その度にこうして、誰もいない見知らぬ街に放り出されている。不気味なこと甚だしいが、実のところ、今はそう悪いものでもないと思っていた。

 

 いつ頃だったか――気が付いた時、この影は(そこ)にいた。

 

 先程の通り、最初、私はこの影の存在を認めなかった。だが攻撃が効かない上に向こうからは何もしてこないとくれば、手に余ると思うのは必然だろう。あるいは飽きたと言ってもいい。

 

 以後私は、影の存在を徹底して無視することにした。

 

 夢の中でまで他人に煩わされるのは御免だった。だから無視して、いつものように夢の世界を駆けまわっていた。その筈だ。しかし放置した存在は、喉に刺さった小骨のように気にかかる。

 

 結局、私は影の下に戻っていた。

 

 思い返せば、そいつはずっと同じ場所をうろついていた。あたかも待てと命令された犬のように。だからこそ去っていった飼い主の再来を待ち望んで、落ち着きなくも茫然と佇んでいた。

 

 ああ――こいつは、誰かを探しているのだ。

 

 そう、私は直感した。

 

 ……この夢の世界で、一体誰を待っているというのか。そんなことは最早、考えるまでもない。

 

 そもそもこの世界には、私と、こいつの二人しかいないのだから。

 

 その時私は、初めて影に触れた。それが害意のない行動であったからか、今までとは違ってすり抜けることはなかった。―――その瞬間。影が、私を視た。

 

 まるで止まっていた時間が動き出したかのように。不動の影が、沈黙を破る。

 

 首を傾けて、不思議そうに私を見下ろしている。

 そして頬に触れる私の手をゆっくりと包み込んで、何かを呟いた。

 

「■■■―――」

 

 己の意思を告げる声。それがどういった言葉なのかは分からなかったが――私は、この影の正体が私と同じ人間なのだと確信した。

 

 それからだ。

 私達が、同じ夢を共有する仲間になったのは。

 

 以来私達は、この夢の世界で逢瀬を重ねている。

 そもそも他人を煩わしく感じるのは、いちいち利害やら権謀術数やらといった処世術だのしがらみだのを考慮しなければならないからだ。だがここは現実ではない。夢の世界だ。ならば何を気にすることがあるというのか。

 

 ここでなら私は何も気にしなくていい。

 その事実が、私から毒気を抜いたのだ。

 

「なあ。おまえはこの街がどこなのか、知っているか?」

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「どうやらここは鎌倉という日本の地方都市らしい。

 なに、最近になって知ったのだよ。なにせ私は今、飛行機でその街に向かっている最中なのだから。事前に下調べをするのは当然だろう? だからこそ、始めは驚いたがね。これは夢だ。だから現実に実在する場所だと思ってはいなかった」

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「……なあ。もしかしておまえは、鎌倉にいるのか? ありえないことだと分かってはいるが、もしも現実でお前と会えるのなら。それは、私にとって、とても―――」

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「……それではなにを言っているのか分からんよ」

 

 くすりと笑みを零す。

 今の私達では、どんなに言葉を重ねても互いの意思は伝わらない。それでも話しかけてしまう自分がおかしい。そして――先程述べた台詞が、紛れもなく本心の一欠片であるということも。

 夢の中で出会った誰か(おまえ)と、現実でも出会えたら――なんて。

 

 まるでそこいらの夢見る少女のような願いじゃないか。

 

 そんな風に自嘲して。

 私の意識は、束の間の夢から浮上した。

 

「―――ん」

 

 小さく呻いて、瞼を押し上げる。

 すると二対の瞳が視界に入り込んだ。両脇から私の顔を覗き込み、端整な顔立ちが破顔する。

 

「あっ、お姉さまが起きたよ、レム~」

 

「そうみたいだね、ロム。おはようございます、お姉さま」

 

「おはようございます~」

 

「ああ、おはよう。二人共」

 

 最愛の妹達に挨拶を返して、私は凝り固まった背筋を伸ばす。

 

 現在、私達は飛行機に乗っていた。ファーストクラスの広々とした座席に深く腰掛けて、欠伸を噛み殺す。

 両隣の席に座っているのはロムルスとレムス。私の可愛い妹達。三つ子である私達姉妹は、いつ何時であろうと一緒だ。

 

「もうすぐ着陸なんですって、お姉さま」

 

「もうすぐイヴァンに会えるね。懐かしいな」

 

 口々に二人は言う。それに対して私は、「そうか」とか「そうだな」と我ながら気のない返事をしてしまった。どうやら起き抜けで頭が呆けているらしい。蟀谷(こめかみ)の辺りを指先で押さえ、気持ちを切り替える。

 

 目的地は日本の地方都市・鎌倉。

 

 空港には私達の幼馴染が待っている。そういう手筈だ。そしてこれから先、私達三姉妹はその幼馴染の家に住むことになっていた。そして彼と同じ学校に通う。全ての手配は、恙なくお父様が済ませていた。

 

 私達の幼馴染――イヴァン。

 

 それはいわゆる洗礼名で、彼の本名はまた別にある。確か、木井(きい)重信(しげのぶ)だったか。久しく会っていない男の顔を思い出そうとする。しかしどうにも上手くいかない。

 

 私はあの頃とは違う。だからきっと、彼も変わっているだろう。

 

 そんな思惟が頭を巡る。

 そしてそれはきっと正しいのだと、私は確信していた。

 

 ……その一方で、それでも変わらないものがあるのだと思いたい。私の中の彼は好ましい人間だった。不愛想で朴訥(ぼくとつ)で、けれどそれが味でもあった同い年の少年。それが失われていては、あまりにも惜しい――と、少しだけらしくないことを考える。

 

 その時、機内に着陸を告げるアナウンスが鳴り響いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 キーラ三姉妹、来日

 そして、俺の意識は眠りの底から浮上した。

 

 瞼を開けた時、網膜が捉えたのは見慣れた天井。その状態でぐるりと眼球を転がして視線を横に向ければ、壁に立てかけられた時計が目に入る。時刻はちょうど午前五時。今日も俺の体内時計は正確に動いていた。

 

 体を起こし、布団から出る。

 

 寝間着を脱いで千信館学園のジャージに着替え、洗面所で顔を洗う。そうやって完全に眠気を吹き飛ばしてから、俺は外へと向かった。

 玄関を潜ると、ささやかな寒気(かんき)が全身を洗う。

 

 今は九月。四季は夏から秋へと少しずつ移ろっていて、茹だるような暑さの余韻を残しつつもほんの少しだけ肌寒い。好ましい感触だ。別段この国の風土に不満がある訳ではないし、むしろ日本人として四季の彩りは美しく得難いものだとも思う。しかしその一方で、気温は低いくらいが性に合っているとも感じるのだ。

 

 俺は家の敷地内にある道場へ向かう。

 戸を開けて中に入り込むと、靴を脱いでから上がり(がまち)を踏んだ。

 

 現在、この道場の管理は俺が行っている。

 ……元々は先祖代々――少なくとも曾祖父の代までは辿れる――(うち)が受け継いできた道場で、本来なら当代の正当な継承者は父なのだが。やむにやまれぬ事情があり、今その管理は俺に一任されていた。

 

 なんなら売却して生活費の足しにしてもいいとすら言われている。

 

 しかしそれは良心が咎めるので、実行する気はまったくない。

 今は父からの仕送りと、日々のアルバイトで得た糧で十分に生活できている。かと言って道場を再興しようとか、そんな欲を出す気も更々ないが。

 

 いつもの習慣通り、神道の礼に則って道場に設えられた神棚に二礼二拍手一礼。その後、道場の倉庫から掃除道具を引っ張り出し、一通りの掃除を行う。

 

 それが済めば軽く準備運動だ。

 簡単な体操と、腕立て伏せや腹筋などの基礎鍛錬。そして木刀を持ち出し、大上段から振り下ろす型で素振りを行う。

 

 百を数えた所で停止。

 

 呼吸は静かに落ち着いている。一連の動作も手慣れたもので、それほど時間も経っていない。ここまではあくまで準備運動。寝起きの体を温め、その日の体調を計る意味を持つ。

 

 今日の調子は――可もなく不可もなく。

 平常、普通、特筆すべき点はなし。よって稽古を開始する。

 

 この木刀はかつて大日本帝国軍が使用していた三十年式銃剣を模したもので、長さは五十センチメートル程度と一般的な木刀と比べるととても短い。これを三八式騎銃を模した専用の木銃(もくじゅう)に装着し、その上で型稽古を行うのがこの道場の習わしだった。

 

 銃剣術。

 

 現代――いわゆる銃剣道がスポーツとして体系化されるよりも以前。第二次世界大戦を前にした大正の時代に、この道場では既に銃剣の扱いを教えていたという。近所に千信館学園の前身であった戦真館学園という軍学校があったこともあり、当時はそれなりに門下生もいたそうだが……御覧の通り、今は見る影もない。

 

 生徒はおらず。

 先生もおらず。

 

 こうして、昔の兵法書や戦真館学園の教科書を読んだだけの小僧が、自己満足極まった鍛錬を意味もなく繰り返しているだけである。

 

 先祖が遺したものを形骸として埋もれさせるのは惜しいから――といえば聞こえはいいが。さて、傍からはどんな風に見えることか、と密かに胸中で溜息を零す。

 

 ともかく稽古である。

 

 銃剣そのものが多様性に乏しく、また現代の柔剣道は歴史が浅いこともあってか。基本的には突き技しかなく、そもそも構造上それ以外の動作を行う必要性がない。

 しかし戦後且つ戦前という状況――当時は総ての民草が護国の(つわもの)であるべし、という潮流があったのだろう。この道場では実用性よりもむしろ武道的な心構えを重視していたようで、槍術や薙刀術から取り込んだ型をも技として稽古に組み込んでいた。

 

 ―――突く、斬る、薙ぐ、打つ、撃つ。

 

 単純に型をなぞるだけの稽古に意味はない。型を使うのに適切な状況など、そうそう訪れないからだ。()()()()()()。どうすれば敵を型に嵌めることができるか。そうするためには――どんな状況を、どのようにして、()()()()()()()()()()。それが型稽古の肝だ。

 

 思うに、考えずに行う型稽古などただの棒振りである。

 

 重要なのは如何に敵と己を型に嵌め、勝つかということ。必殺を期する環境への誘導と構築。それを意図してできて初めて型は技へと昇華されるのだ。

 

 ……とはいえ、それがこの現代社会で活かされる機会はまずないだろうが。

 

 自嘲して、体勢を自然にする。

 素振りとは違い、息が上がっていた。全身に汗が滲んでいる。敵を想定して行う型稽古は疲労感が桁違いだった。

 

 今日はここまでにしておこう。

 

 区切りをつけ、道具を片付ける。そしてきっちりと道場の戸締りをしてから、寝食の場である自宅に戻った。

 脱衣所でジャージを脱ぎ、シャワーを浴びてから、予め用意していた普段着に着替える。

 それから自分で朝食を用意し、十分な栄養を摂ると、時間を潰しがてらテスト勉強をする。それから頃合いを見て一段落付けてから、家の外へ出た。

 

 徒歩で駅まで移動し、電車に乗って空港を目指す。

 

 その間、俺は遠い昔の記憶を思い返していた。

 

 まだ十にもなっていない時分。

 異国の地――ロシアで過ごした頃の記憶。雪で覆われた純白の景色の中を、自分と同い年の三人の雪の妖精(スネグーラチカ)と遊んだ楽しかった日々。幼馴染との愛すべき思い出。それが俺のすべて。俺の裡には、それ以外のことは何もなかった。

 

 端的に言って、木井家は裕福ではない。

 

 母は刑務所にて服役中。

 逮捕時にやらかした内容があまりにもアレだったために各メディアで大々的に実名報道され、結果として公務員であった父は退職を余儀なくされた。そして国内での再就職は絶望的であったため、今は海外に出稼ぎに出ている。

 よって、先祖から遺された邸宅に住んでいるのは俺一人だけだった。

 

 母が逮捕されてから、色々なことがあった。

 

 善いこと、悪いこと。後者の方が多かった気もするが、一つ一つ上げ連ねれば総数そのものはあまり変わらない気もする。なにせ生きているのだ。何が起こったとしても、生きていればそういうこともあるだろう――と、そうとしか考えられない。

 

 単に思考停止しているのだと言われれば、全く以ってその通りだ。

 

 他人から向けられる好奇や誹謗中傷。あるいは憐憫。その全てがどうでもよかった。そんなものを視界に入れる気にはならないし、そもそも入る余地がない。

 

 しかし、最近はその心境にも変化があった。

 そして今の俺を取り巻く環境も変わろうとしている。

 

 事の運びそのものはありふれた話だ。

 

 俺の幼馴染の父ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフはロシアの貿易会社――取り扱っている主な商品は麻薬に人身や銃砲火器など――の大幹部である。当然、娘達はその令嬢だ。ともすれば教養のため十代の内から外国へ長期間留学するというのは今時そう珍しいことでもないと思う。

 ちなみに今のロシアの裏社会は荒れに荒れていて、幹部の身内にも危険が及びかねない状態になっているらしいが、そのことと今回の件の因果関係は一切不明だ。

 

 と――まあ、そういう事情により。木井家に新しい同居人が訪れるという訳である。

 

 キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。

 ロムルス・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。

 レムス・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。

 

 俺の母とグルジエフ氏が知古の関係ということもあり、キーラ達三人は留学の名目で来日し、そして俺の通う千信館学園へ編入する手筈となっている。それに伴って下宿先に我が家が指定された――というのが事のあらましだ。

 既に部屋の用意は終えている。

 しかし(うち)の部屋数は多くなく、彼女達の引っ越しが完了し次第俺は道場で寝起きすることになるのだが。特に不満はないし、むしろ当然の差配だと考えている。

 

 俺は俺の理性に全く自信がないし、そも信用していない。

 間違いを起こさないためにも必要な措置だと弁えている。

 

 ……そもそも保護者がいない環境が不健全だと言われれば是非もないが。

 

 などと、考えている内に。

 俺の体は機械的に動いている。恙なく電車を乗り継ぎ、県境をまたいで空港へと到着していた。

 

 さあ、再会の時だ。

 

 * * *

 

 予感があった。

 

 物心ついた時から見続けている明晰夢。その舞台は鎌倉。海を隔てた先にある極東の島国――そこにある一都市だ。そしてそこには私の幼馴染が住んでいる。その二つのことには何か関連があるような気がしてならないのだ。

 

 脳裏に浮かぶ影。

 あの影は、おまえなのか―――?

 

 そう思うと同時に、しかしそんな筈がないと頭を振る。夢見がちな妄想を否定する。所詮、あれは夢だ。私が見る夢の中に、他人の意識が入る筈がないではないか。だが一体――この予感は、なんだ?

 

 今日この日から――なにかが始まるような。そんな気がする。

 

「行きましょう、お姉さま!」

 

「ああっ、待ってよレム~!」

 

 飛行機から降り、荷物を受け取って空港の中を歩く。この先で案内人――木井重信(イヴァン)が待っている手筈だ。

 

 私達三姉妹と重信は幼馴染だ。

 

 彼の祖父は私と同じロシア人であり、また私の父と彼の母に交友があったが故に引き合わされた間柄だ。許嫁などという色気のある関係ではないが、しかしただの友人以上の仲だったと言って差し支えないことは間違いない。

 

 少なくとも、ロムルスとレムスは彼のことを心から慕っていたようだ。

 

 けれどそれも昔の話。

 彼が日本へ足ってから、私達に親交はない。電話はおろか、手紙のやり取りすらしてはいなかった。だから私は、今の彼を知らない。

 

 ……彼はどんな男になっているだろう。

 

 昔は不愛想で朴訥な、けれど誠実で優しい子供だった。だが月日は人を変える。少なくとも私は変わった。変わってしまった。お父様の後継ぎとなるべく帝王学を叩きこまれた結果として、それは私という人間を構成する人格の根元深くにまで突き刺さっている。

 自分で言うのもなんだが、今の私の性格と言動は男勝りで可愛げがない。それが悪いことだとはまったく思わないが、しかし思うところがない訳でもないのだ。

 

 私はもう、昔の私ではない。そんな私を見て――彼はどう思うだろう。

 

「……いっそ、あちらが見下げた軟派男にでも成り果てていれば気が楽になるのだがな」

 

 苦笑と共にひとりごつ。

 それに反応して、ロムルスが首を傾げた。

 

「? どうかしたの、お姉さま?」

 

「ロム。お姉さまはイヴァンに会うのを心待ちにしているんだよ」

 

「なっ!? なにを言うんだ、レムス! べっ、別に私は、そんなこと……っ」

 

 何やら妙なことを耳打ちしているレムスに突っ込む。思わず口から言葉が出たが、その語気が妙に荒い。……ああいけない。これではまるで、本当に私があいつに会うのを心待ちにしているみたいじゃないかっ!

 

 そんな私の謂れのない羞恥を他所に、ロムルスとレムスは二人で盛り上がる。

 

「ふふ、そうなのね。私も楽しみよ、お姉さま! きっとイヴァンは素敵な男性になっていると思うわ」

 

「そうかな。もしかしたら(ケダモノ)になっているかもしれないよ。狼みたいに、ロムをぱくりと食べちゃうかもね」

 

「もう、レム。そんな意地悪は言わないでちょうだいな」

 

「ごめんごめん。そうだね、きっと大丈夫だよ。私も、ロムも、お姉さまも、みんなあの頃から変わってない。だからイヴァンも同じだと思うな。―――ねっ、お姉さまもそう思うよね?」

 

 不意に、ロムルスとレムスが私の顔を覗き込んでくる。それに対して、私は曖昧に頷くことしかできなかった。

 

 ……ロムルスは小児喘息を患っていて体が弱く、レムスは生まれつきの弱視でほとんど目が見えない。だから長女である私がこの二人を護らなければならなかった。そのことを重荷に感じたことは一度もないが、しかしやはり思うところはある。

 

 二人の妹は病弱な体で。

 なのに私だけが健康体となれば――引け目に感じない方がどうかしている。

 

 だからこそ夢のことを想う。

 

 何故、夢の中で私はいつも一人なのだ。もしかして、私は一人になりたいのか。あの影はなんだ。あれは、私が無意識下で生み出した願望の産物なのか。

 

 そんな筈がない。

 

 私は妹達を愛している。私はゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフの後継だ。ロシアの裏社会に君臨する女王となるべき女だ。いずれも事実、全てが真。そこに嘘はない。

 私はキーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワだ。

 夢に逃避するなど、なおのこと輪をかけてありえん。

 

 ―――だと、言うのに。

 

「……あ」

 

 呻くように、喉から声が漏れる。

 

 かちり、と歯車が嵌まり動き出す音が聞こえた。

 

 気が付けば――そこに、影がいた。

 黒い靄が人型に浮き上がり、三次元空間上に影法師を映し出している。

 

 その輪郭が少しずつ像を結ぶ。

 

 齢は十代の後半――私達と同じ、十七歳だろう。

 しかし背はこちらよりも一回り以上大きい。百八十センチはあるだろうかという偉丈夫だ。この国の人間にしては肌が白く、黒い髪も脱色したように照明の光を反射して銀灰色に輝いている。切れ長な瞳は髪と同色で、まるで獣のような風貌だ。しかしその派手な見た目に反して、着ている服はシャツに黒の長穿と酷く飾り気がない。

 

 顔立ちは整っているが、暗黒星人と評したくなるほど陰気だった。

 

 どこか呆けた面持ちで、男は口を開く。

 

■■■(キーラ)―――」

 

 男は、影がしきりに呟いていた名を口にした。




 主人公である木井重信の名前の元ネタはスラヴ神話の英雄キイと帝都物語のフサコ・イトー及びそのモデルとなった重信房子です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。