こちら艦娘広報室 (たこ輔)
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どこまでも広がる群青を超えて

「あなたのことが好きな、私のままでいさせてよ!」

一つの悲劇から突き付けられた現実。深い悲しみの
群青に心を飲まれた青葉。変わってしまうことに不
安を抱く彼女は、自身の感情とどのように向き合う

変わるもの、変わらないもの、変えたくないものの
物語


C96にて頒布した小説の本文部分、pixivに投稿してあった作品をこちらの方にも投稿しました
メロンブックスにておまけを収録して委託してありますので気になった方はそちらもご覧ください
メロン:https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=603499


 作戦から帰投した青葉を待っていたのは悲劇でした。

 

「そんな……」

 

 告げられた言葉の衝撃。全身から血の気が引いていくのを確かに感じます。

 鎮守府に設置された医療施設。受付の方は気まずそうに視線が下を向いています。

 ほんの一瞬、目の前が真っ暗になったような錯覚。すぐに気を強く持ち直そうとしますが、足元がよろめいてしまいました。

 

「青葉!」

 

 傍にいたガサが支えてくれたおかげで転ぶことはなかったですが、どんなに頑張ろうとしても足に力が入らず立っていることができません。よろよろと近くの椅子に腰かけます。

 

「あはは、冗談がキツイですよ」

 

 笑って誤魔化そうとしても、顔が引きつってしまってうまく表情が作れない。これは夢だって何度言い聞かせようとしても、作戦で受けた傷の痛みが、これは現実だと告げてきます。

だって、だって……

 

「司令官さんが、重症……だなんて」

 

 ほんの数時間前まではいつも通り、みんな楽しそうでしたのに……。

 

 ほんのり外から漂ってくる焼け焦げた臭い。夜明けの日差しが窓の外を照らし、砕けたコンクリートの山を露にします。

慌ただしく行ったり来たりを繰り返す鎮守府の職員や艦娘たち。

深海からの脅威が残した爪痕がくっきりと、青葉の目に焼き付けられました。そしてそれは司令官さんの負傷という事実という形で心にもしっかりと刻み込まれ……

 

「あ、あぁ……」

 

うつむき、溢れ出そうな感情を必死に抑え込みます。手のひらに爪が食い込むほど強く握った拳。

 

「青葉……」

 

ガサが不安そうな表情で青葉の顔を覗きこんできますが、今の青葉には言葉でも、仕草でも返す余裕はありません。ただただ、目の前に突きつけられた現実を受け止めようと必死に呼吸を繰り返すだけ。

頭の中でハッキリと響き続ける崩壊の鐘

なんで、なんでこんな……。

 

 青葉の脳裏には数時間前の情景が浮かびます。

 

『メリー・クリスマス!』

 

 その掛け声と同時に、パン、パパンとクラッカーの弾ける乾いた音が鳴り響きます。そして舞い散る色とりどりの紙吹雪、割れんばかりの拍手と喝采。

 

 皆さんの談笑がガヤとなり、BGMとなってこの催しの盛り上がり具合をよく表します。

 今日は鎮守府のクリスマスパーティー。本当のクリスマスはもう少し後ですが、皆さんの都合が合うという理由で少し早めのお祭り気分です。

 

 そんな楽しい空気の中、青葉は人だかりから距離をとり、壁にもたれかかります。

先ほどまでカメラを持っていた片手、今度は飲み物に持ち替えて皆さんの様子を眺めていました。今は少し休憩の時間。興奮のあまりシャッターの切りすぎで疲れてしまいましたからね。

 

 鎮守府の体育館を会場に、リースやバルーン、イルミネーションライトなどでカラフルな飾り付けをされ華やかに、折り畳み机の上には種類豊富なオードブル。料理が得意な方が持ってきた手作りのものもあり、このパーティーをより豪勢なものにしてくれています。

 

……まあ、中には怪しいオーラを放っている物もありますが、それについては誰も触れません。

 

 おかげで皆さん仕事終わりの遅い時間だというのにとても良い表情で笑っていて、青葉としても撮りがいがあるというものでした。緊張した笑顔や、おちゃらけて、ふざけ合った様子。今から写真の整理が楽しみです。

 

 ただ一つ、どうしても違和感を覚えてしまうのは、那智さんや隼鷹さんをはじめとした普段お酒を飲まれる方々が、この場で手にしているのはジュースだということ。事情が事情とは言えまあ、なんか変な気持ちになってしまいます。

 

「本当はよく我慢しているって褒めるべき場所なんでしょうけど、必死に耐えている姿を見ると、おかしくってニヤケちゃうんですよね。ああ、ほら。今にも飲みたそうに手をうずうずさせています」

 

 ちょうど青葉の前方にいた隼鷹さんがチラチラと周囲を気にしています。あれはきっと、こっそり部屋に戻ってお酒を取ってくる気なのでしょう。そのたくらみは一緒にいた飛鷹さんに気取られて、お説教という形で終わりを迎えましたが。

クスクス笑いをこらえながら青葉はその様子をしっかりとカメラに納めさせていただきました。

 

「ニヤケながら写真撮っているのは、あんまりいい趣味とは言えないよ?」

 

そんな青葉に声をかける人が。見ればそこには青葉が所属する艦隊の司令官さんがいました。いつもの制服姿ではなく、ジャージの姿。そのせいで普段のキリっとした印象とは打って変わって野暮ったく見えてしまいますがこれはこれで……。

 

そんな新鮮な格好で苦笑を浮かべながら肩をすくめています。思わず写真に収めたくなるような表情、少し、心臓が高鳴るのを感じます。顔、赤くなっていないでしょうか? バレていないでしょうか?

 

ですが司令官さんは本来ここには来ないはず。なんせ

 

「当直でこれないんじゃなかったんですか?」

 

「副直の衣笠にこっちはいいから行ってこいって言われたからね」

 

どうやらガサの計らいのようです。ナイスと心の中でサムズアップ。

 

「で、ニヤケ顔のカメラマンはちょっと怪しいと思うんだけど?」

 

「これも立派なお仕事ですよ。皆さんの様子を記録に収めておくというのは」

 

「間違いではないけどさ、青葉がやってると下心を感じるんだよね」

 

「あー、ひどいです。そんな風に思っていたんですね」

 

司令官さんの物言いに青葉はプイっと拗ねます。もちろん振りですが。すると司令官さんが困ったようにゴメンゴメンと謝ってきます。そのやり取りがおかしくて青葉は表情をほころばせました。

 

青葉につられて司令官さんも笑みをこぼします。とても、幸せ。心が温かいです。いつまでもこの時間が続けばいいのにと思わず考えてしまうほどに。

 

「それにしても、すごい盛り上がりだよね」

 

 皆さんの方を一瞥しながら司令官さんは言います。それほど人の多くない鎮守府ですが、今、この体育館の中にはぎっしりと詰まっていました。おかげで熱気がすごいです。冬だというのに暖房がいりません。それどころかほんのり汗ばむほど。青葉も先ほどまでは上着を羽織っていたのですが、今では半そででも平気なくらいです。

 

 本来このクリスマス・パーティーはもっと小規模で行う予定でした。しかし気づけばどこから聞きつけたかお祭り好きな方々が話を大きくしていき、他艦隊の艦娘だけでなく提督まで参加されることになり、最後は鎮守府全体を巻き込んで……現在に至ります。

 

突発的なことでしたが、これだけの方が参加してくれたということは、大成功と言っても過言ではないでしょう。

 

「これだけ盛況なのは青葉が企画してくれたおかげかな?」

 

「青葉は何もしていませんよ。ただ、皆さんが楽しそうな表情をしてくれればと思っているだけですから」

 

「いやそれでも本当に助かったよ。さっき挨拶回りに行ったとき、上もえらくご機嫌だったよ」

 

「きょーしゅくです」

 

 司令官さんの柔らかい言葉。実はこのパーティー、青葉が考えたものだったりします。もちろん頼まれたというのもあるのですが、そもそもの理由は……

 

「大きな作戦前です皆さん緊張していますからね、こういった方法で士気を高めるのもいいんじゃないかと思いまして」

 

 青葉たちはこの後、大きな作戦を控えています。この鎮守府が管理している海域、そこに侵攻してきた深海からの脅威との一大決戦。今は小康状態ですが、近々攻勢に出る予定なのです。

 

このパーティー、実はその決起会も兼ねています。だから今回お酒は無しだったんですよね。何かあったときのために、即応体制をとっておかないといけないですから。

 

「うん、皆が楽しそうな様子を見ていると、こっちまで楽しいし、幸せな気持ちになるからね。まるでケーキの上で揺らめくろうそくの火みたいに、ワクワクと温かさを心に灯してくれるよ」

 

柔らかい表情でパーティーを眺める司令官さん。少し回りくどい言葉。かっこつけているのか、ロマンチストなのか。

 

多分、両方なのでしょう。それがとても愛おしいです。

 

そんな感情を抱きながら青葉が司令官さんを見つめていると、彼はキョトンと首をかしげました。

 

「何か変なこと言った?」

 

「いえ、相変わらずキザな言い方をするなと思いまして」

 

「そんなに?」

 

指摘され、頬を赤くさせました。可愛い。

司令官さんはコホンと咳払いをして言葉を続けます。

 

「だけどこれはボクの本心だよ。そりゃ多少は言葉を選んだけども、偽りのない……ね。だからありがとう、青葉」

 

今度は青葉が赤面する番でした。慌て飲んだウーロン茶の冷たさで冷まそうとしましたが、頬は熱を持ったまま。

司令官さんの幸せのきっかけを自分が作れたことが、青葉にはたまらなく嬉しいです。

 

「えへへ……」

 

思わずふやけた笑みを浮かべてしまうほど。

 

「で、そんな幸せの企画者さんはみんなの中に入って行かなくていいの?」

 

「休憩中ですので」

 

「そうは言うけど、さっきから遠巻きに写真を撮っているだけだよね? 楽しそうではあるけど、それほど深く会話もしていないみたいだし。もちろんそれがダメな訳じゃないけど、少し気になったから」

 

 司令官さんの指摘に、青葉は言葉を詰まらせてしまいます。優しそうな瞳で、

見るところはしっかり見ているんですから……。

 

司令官さんの言う通り、青葉はあくまで撮影係に徹し、会話も二、三回軽くする程度でした。

だって……怖いですから。誰かと深くかかわるのは。

 青葉は心のなかで呟きますが、決して表には出しません。

 

「実は人見知りするタイプなんです」

 

 なんて当たらずとも遠からずな適当なことを言って誤魔化しを試みます。

 

「そっか、意外だね。ボクはまだ全然青葉のことを知らなかったみたいだ」

 

 司令官さん。口ではそう言っていますが、絶対誤魔化せていませんねコレ。目がまっすぐこちらをみています。そんなに見つめられたらまたドキドキが大きくなっちゃうじゃないですか。

 

それはともかく、それ以上追求してこないのはきっと彼の優しさなのでしょう。だから青葉はその優しさに甘えるように、冗談めかして言葉を返します。

 

「そうなんですよ、だからこれからもっと青葉のこと知ってくださいね?」

 

「じゃあ是非、青葉のことをもっと教えてほしいな。ボクに残された時間は少ないし、少しでも多く知っておきたいから」

 

「え……」

 

 さらりと言い放たれた衝撃的な言葉に、青葉はきょとんと首をかしげます。時間が少ないって、どういうことですか?

 青葉が聞き返す前に、司令官さんが話してくれました。

 

「春になったらボクは転属する予定なんだ。今はまだ内々示の話だけどね。ここにきて二年経つし、そろそろだとは思ったけど」

 

「あー……、そうなんですね。確かに司令官さんが来てもう二年になるんですか。時の流れは速いですね」

 

 何でもないような言葉を選んでいるつもりですが、口が動揺を隠せていません。気取られているでしょうけども、そのことに何も言ってこないのも司令官さんの優しさなのでしょう。だけど今度はその優しさが……。

 

司令官さん、いなくなっちゃうんですね。確かに司令官さんみたいな幹部の役職についている人は数年で異動になりますけども……。それにしたって急ですよ。青葉にはまだ、心の準備ができていません。

 

 暗い表情は出さないようにしていたのですが、きっと表に出てしまっていたのでしょう。司令官さんが優しく頭を撫でてくれます。大きな右手が心地いい。ちょっとゴツゴツしている男の人の手。それがとても温かいです。

 

「そんな表情をされると、心苦しいよ。だけど裏を返せば、こんなボクでもいなくなることを寂しがってくれる人がいるってわかって、少し嬉しいかな」

 

「あ、ごめんなさい。司令官さんにはどうにもできないことだってわかっているのに困らせてしまって。でもっ、いなくなってしまうことが寂しいのはその……本当です」

 

無理やり笑顔を作ろうとして、歪な形になってしまいました。何かを言おうとして、でも言葉が出なくて、誤魔化すように飲み物に口をつけます。ウーロン茶の本来あるはずの渋みは、全く感じませんでした。

 

 楽しいはずのクリスマス・パーティー、衝撃の事実を聞いた後の青葉はまるで蚊帳の外に追い出されたかのような寂しさを感じます。皆が幸せに浸る中、取り残されてしまったような。

 

 司令官さんも同じような気持ちなのでしょうか。決して特別な関係ではないです。特別な感情も抱いていないでしょうが、それでも、少しでも青葉と離れてしまうことを残念に思ってくれているでしょうか。

 

 そんなことを考えながら司令官さんの顔を見ると、視線は青葉ではなく皆さんのいる人だかりの方。ちょっとガッカリした気持ちになってしまいました。

 

でもよくみればその横顔は何か決意を固めたような……力強い瞳をしていました。

 

「うん、よし。……大丈夫」

 

小さく呟きながらこちらを向きます。なんでしょうかジッと青葉を見つめて。なんだか照れてしまいます。

 

「あのさ、青葉……」

 

 司令官さんは口を開きます。一つ一つ選ぶようにゆっくりと言葉をつなげていきます。

 

「この後話したいことがあるから、二人で――」

 

 

 ――ウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……!

 

 

 そこまで言いかけたところで突然、唸るように低いサイレンが会場に響きました。司令官さんはもちろん、青葉も、周りの皆さんも即座に反応を示します。空気が緊張した、ピリピリ張り詰めたものへと変わりました。

 

「あ、提督。いたいた!」

 

「ガサ?」

 

 慌てた様子の青葉の妹艦、ガサこと衣笠が駆け寄ってきます。彼女は司令官さんと一緒当直についていたはず。

それなのにこんな場所にやってきて、何やら司令官さんに耳打ちを。気になりますが、今はそちらに集中しているわけにはいきません。

 

 数秒の後サイレンは止み、その後アナウンスが流れました。

 

「非常呼集発令。時刻……」

 

「なんだって!?」

 

「なんですとっ!?」

 

 司令官さんと青葉の驚く声が重なります。頭に『訓練』とついていない『非常呼集』ということは、本当の緊急事態が起こったということ。つまりはこの近くに敵勢力が急接近していることに他なりません。

 

詳細がわからないため憶測になりますが、小康状態だった深海棲艦の艦隊が攻めに出たのかも。

その推測は、司令官さんの叫ぶような言葉で確信に変わりました。

 

「くそっ! 落ち着いていたと思ったけど、向こうから先手を打ってくるなんて」

 

 彼は悪態をつきながらもすぐさま他艦隊の提督さん同様、駆け出します。一刻も早く指揮所について出撃体制をとらなければならないですから。

 

ですが青葉は思わず引き留めてしまいました。

 

「あの! 司令官さん」

 

なんでそうしたかは、頭で考えてもわかりません。きっと感覚的なもの。先ほど言いかけた言葉が気になったからかも。

 

 司令官さんは立ち止まり、こちらを振り向きます。普段からは想像できないほど厳しい表情。背筋がゾクリとするような鋭い眼差し。だけどすぐさまいつもの柔らかい微笑みを浮かべると、

 

「終わったら、話したいことがあるんだ。いいかな?」

 

「はい……」

 

 小さく頷きます。彼の微笑みは安心するはずなのに……。

 

「みんな、悪いけどパーティーは一時中断だよ。だけど裏を返せば禁酒生活はこれっきりってことだ。終わったらパーティーを再開しよう。もちろんその時はお酒もオーケーだからね」

 

司令官さんが冗談交じりで会場にいる皆さんに声を掛けました。すると皆さんドッと笑い出します。緊張を保ちながらも場が和んだのを肌で感じました。士気もやる気も十二分。非常事態ではありますが、対処に問題はないでしょう。

 

 だけどなぜでしょうか、再び指揮所へと駆けていく司令官さんの背中を見ていると。青葉の胸はざわついて止まりません。

 

「ほら、青葉も行くよ!」

 

「あ、ごめん……」

 

 ガサに手を引かれて青葉は司令官さんとは別の方向へ。振り向いたときに見た彼の背中が、最後の姿でした。

 

 

 

 その後青葉たちは出撃。孤独な真冬の夜空を背に響く砲撃音、上がる水柱。爆発と怒号の嵐が飛び交うとても激しく、厳しい戦いでしたが、何とか勝利を収めることができました。これで近海の平和は保たれ、めでたし、めでたし。それで終わるはずだったのです。

 

 だけども帰投してみれば鎮守府だけでなく、周囲の街が黒煙を昇らせ、焼け焦げていました。ほんの一部とはいえ、あまりにも異常な光景。作戦も終わりホッとしていたところでこの仕打ち、ここに存在してはいけない戦場の香りに一瞬にして血の気が引くのを感じました。

 

何があったのか、近くにいた鎮守府職員に聞いてみたところ、先の作戦で敵の放った艦載機がこちらに攻撃を……特攻を仕掛けてきたとのこと。

 

 その艦載機に、青葉は見覚えがありました。艦隊戦の途中、青葉たちの頭上を通り過ぎて行った新型の航空機。およそ飛ぶのに適していない丸いフォルムと禍々しい武装。

 

 追いかけて撃墜すればよかったのですが、敵の猛攻がそれを許してくれませんでした。苦渋の決断の末、見逃した敵機がもたらした災い。

 

被害は建物だけで民間人に怪我もなかったのは不幸中の幸いとのこと。

 

……ただし、司令官さんを除いて。

 

 司令官さんは本来いるべき指揮所を飛び出し、民間人の避難誘導を行っていました。その際、突っ込んできた敵航空機から民間人を庇い、重傷を負ってしまった。

 

 そして今、鎮守府の医療施設で治療を受けている最中……。

 

赤く輝く手術中の文字が、青葉の不安を駆り立てます。

 

「大丈夫だから、ね?」

 

 ガサが背中をさすって慰めてくれました。その優しさに少しだけ落ち着きを取り戻せましたが、それでも胸のざわめきは収まりません。

 

「司令官さん……」

 

 司令官さんの怪我の程度も、命に別状があるのかもわからず、ただ待つしかできません。嫌な想像ばかりが浮かんできてしまいます。

 

もし最悪の事態になってしまったら……。想像しただけで胸が苦しくなりました。それだけは絶対に嫌だと、そう思うほどに司令官さんは青葉にとって大切な存在なんです。

 

「ほら、心配なのはわかるけど、そんなに怖い顔してガチガチな姿、提督が見たら笑われちゃうわよ」

 

ガサがそっと青葉の手を握ります。やさしい、未来に希望を抱かせる言葉。それまで震えていた青葉の手がようやく落ち着きを取り戻しました。

 

「ありがとう、ガサ」

 

「私にはこれしかしてあげられないから」

 

「ううん、とても心強いよ」

 

少しだけ、彼女のおかげで微笑みを浮かべることがでしました。

どうか、司令官さんを助けてください。何度も、何度も小さく呟き祈ります。普段は信じてなんかいない神様に、必死にお願いします。

 

そして、青葉の願いに対しての審判が下されるかのように、手術中の赤ランプが消灯。

 

「! ……とと」

 

 思わず立ち上がろうとしましたが、足に力が入らず椅子に軽く尻もち。ガサに手伝ってもらってもう一度立ち上がります。

 

 青葉たちが立つのと同時に、手術室の扉が開きます。中から、青緑の手術服を着たお医者さんが出てきました。

 

「司令官さんは! 司令官さんは無事なんですか!」

 

 青葉はすぐさまお医者さんに詰め寄ります。お医者さんは青葉の勢いに押され一歩引いてしまいました。だけどすぐさま冷静な口調で答えてくれます。

 

「大丈夫です、命に別状はありませんよ。意識もはっきりしています」

 

「よかったぁ……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、それまで張り詰めていた青葉の緊張の糸が一気にほぐれていくのを感じました。全身の力が抜け、床に座り込んでしまいます。ああ、目が潤んできちゃいました。

 

「よかったね青葉」

 

ガサも青葉の肩に手を置きます。目じりに涙を浮かべ、自分のことのように喜んでくれました。

 

 司令官さんの無事に安堵する青葉とガサ。だけど、お医者さんの表情はなぜか厳しいものでした。

 

「ただ……」

 

 再びお医者さんの口が開かれたとき、青葉の心臓がキュッと締め上げられるような感覚を覚えます。この後に続く言葉が、決して良くないものだと容易に想像できたから……。嫌な汗が首筋を滑り落ちます。

 

 そして何を言おうとしていたのか、青葉たちは聞くよりも前に見て……しまいました。

 

「先生、患者を病室にまで運びます」

 

 そう言って看護師さんがキャスター付きのベッドを手術室の中から押してきました。そのベッドの上にいたのは司令官さん。

 

「指令……官、さん?」

 

 目の前の現実に青葉は言葉がうまく出ません。あまりの衝撃に、未だ青葉は立てず、司令官さんを見上げています。

 

「ああ、お帰り。無事に帰ってきてくれて嬉しいよ」

 

 司令官さんの口から最初に出た言葉がそれ。いつもの優しい笑顔で青葉たちのことを気遣ってくれる司令官さん。手術後なのに上半身を起こして青葉たちに視線を向けます。

 

だけども、いつもと決定的に違う。

 

「司令官さん……腕が……」

 

 司令官さんの着ている患者服の右袖がひらひらと揺れています。袖口から本来出ているはずのものが姿を見せません。

 

ぺしゃんと潰れた袖……そこに何もないということを嫌でも認識します。

 

「これ? 慣れないことはするものじゃないね。だけど、これ一本で人の命が救えたならお釣がでるくらいさ」

 

 そう言って笑顔を浮かべる司令官さんの表情には、明確な疲れが見えました。無理やり作った表情。

 

「それに右手でよかったよ。ほら、ボク左利きだし。それに……いや、なんでもないや」

 

 青葉の方を見ながら空元気を振りまく司令官さんの姿があまりに痛々しすぎて、青葉は何も言葉が返せません。

 

 瞬間青葉の心が一気に冷え込むのを感じます。それはまるで深い群青に飲みこまれるよう。司令官さんの失われた右腕。もうこれっきり、あの手を握ることができない。あの手で撫でてもらうことができない。これまで通りが……失われてしまった。

 

その事実がそれまであった幸せを、これまでの温かな思い出を冷たく、悲しい思い出へと変えてゆきます。

 

 そしてなにより、彼がその腕を失った原因は……青葉にあるのですから。その現実が、自身の心に十字架として重くのしかかる感覚。

 

夜明けの日差しが青葉を、ガサを何より司令官さんを悲しく照らしました。

 

 

 

 そんな、悲劇のあった夜から一週間が経ちました。

 

作戦のあった次の日には鎮守府と民間に被害が出たことはすぐにニュースになりました。新聞だけでなく、テレビにまで取り上げられ、今でこそ落ち着いていますが、当時は鎮守府の前に報道陣が押し寄せるほどの事態に。

 

それどころか度々デモが行われ、一日中喧騒がやむことがありませんでした。

 

おかげで外に出ることもままならない始末。鎮守府の外に住んでいる方たちも泊まり込みを余儀なくされ、フラストレーションが溜まった様子。

 

数日間、鎮守府の雰囲気はずっとピリピリしっぱなしで、当時は居心地がとても悪かったのは言うまでもないこと。

 

「民間人に被害が出なかったおかげで大きなバッシングにならなかったのは、不幸中の幸いでしょうかねぇ……」

 

 医療施設の屋上で新聞を眺めながら青葉は呟きます。日付は今日の物。一週間ずっとこの話題で持ちきりでしたが、徐々に注目は落ちていき、今では新聞の終わりの方、隅っこに少し書かれる程度。おそらく明日か明後日には完全に話題の中から消え去ることでしょう。

 

「でも人々の記憶から無くなったとしても、青葉の記憶からはなくならないんだよね。だからこうして今日も、勇気が足りないままなんだから」

 

小さくため息。それから自嘲を浮かべます。

 

青葉はあれから毎日、司令官さんのお見舞いに行こうと医療施設に足を運ぶのですが、顔を合わせづらくて屋上まで逃げてくるということを繰り返していました。今日が退院の日だと聞きましたが、最後までこんな調子の自分に呆れてしまいます。

 

「それにしても、隻腕の英雄ですか……」

 

新聞には司令官さんのことが書かれていました。自らの腕を犠牲にしてまで人々を守った男、と。御大層に『隻腕の英雄』なんてあだ名なまでつけて祭り上げています。正直素直に喜ぶことなんかできません。

 

 司令官さんの怪我をくだらないエンターテイメントとして扱われているような気がしてしまうのもそうですが、なによりあの時、青葉が敵艦載機を追いかける選択をしていれば……。

 

何度後悔してもしきれない、もしもの話。だけどもう司令官さんの腕は戻らない。その変わらない事実が青葉はたまらなく嫌いでした。あの手で撫でてもらっていたという思い出が、もう感じられないという事実によって悲しみとなり、青葉の心を深い群青の底へと沈めていきます。

 

「はぁ……本当にどうしたらいいんでしょう」

 

 何かすべきなのに何もできない。そんなもどかしさが青葉の気持ちを更に暗くしていきました。先ほどからため息がとまらない。

 

 ため息を吐くたび幸せが逃げていくと言いますが、今の青葉には逃げていくほど幸せのストックはないです。

 

 そんなドンヨリ真っ盛りな青葉の肩を背後から誰かが叩きました。

 

「青葉、最近寝れていないとはいえ、ひどい顔しているわよ」

 

 振り向けばそこにいたのはガサ。彼女も司令官さんのお見舞いでしょうか。疲れた表情はしていますが、それでも笑顔を浮かべようとしてくれています。辛いのは青葉だけでなくガサや回りの方々も同じなのに、青葉は自分のことばっかり……ダメですね。

 

「そんな顔、提督には見せられないんじゃない?」

 

 冗談めいたガサの言葉。だけど青葉は半笑いでしか返せませんでした。それを見て彼女はすぐさま真面目な表情に変わります。

 

「大丈夫……じゃないわよね」

 

「うん、だいぶ堪えてる」

 

 震える自分の手を必死に抑えようとします。気を抜くとすぐにフラッシュバックしてくる一週間前の光景。ガサがそっと手を握ってくれて、気持ちと共に震えも収まりました。

 

「凄い無力なのを感じたよ。なんにもできなかったって。もっと、あの時こうしておけばよかったていう後悔が……ずっと止まない」

 

「だけど、この前の頑張りのおかげで、この辺の安定は約束されたじゃない? そこは誇っていいと思うわよ。私たちが立派に使命を果たした結果なんだから」

 

 ガサの励まし。だけどやっぱり青葉がそれを素直に受け取れないのは、司令官さんのことがあるからでしょう。ただ、そうだねとだけ返します。

 

ガサの方も、特に言葉を続けてこようとはしません。

 

 そこで会話が終了してしまい。二人の間に気まずい空気が流れてしまいます。顔を合わせられない……

居心地が悪いので何とかしたいのですが、そのための言葉を青葉は持ち合わせておらず、ガサ頼み。

 

 ちらりと横目で彼女の方を向くと、ちょうど口を開こうとしていたところでした。よかった、気まずい思いは終わ――

 

「それに、せっかく安定を手に入れたんだから、この際告っちゃいなさいよ」

「ふぇっ!」

 

 ガサの突然の言葉に、それまでシリアスになっていた青葉の表情は一瞬にして驚きに変わります。ガサの表情も心なしか楽しそうで、あ、これ、からかいに来ているなと直感でわかりました。

 

わかってはいても青葉の口はしどろもどろ。

 

「な、何のことかわからないよ」

 

「誤魔化しても無駄だって。提督のこと、好きなんでしょ?」

 

 意地悪な笑みを浮かべるガサ。青葉は司令官さんの顔を思い浮かべ、思わず赤面。口にはしていませんが、これでは答えたも同然ですね。

 

 想いはありますが口にはできず、青葉はただ口をもごもごするばかり。そんな青葉にガサは追撃するかのようにニヒニヒ笑みを浮かべます。

 

「いつまでも行動に移さないと、そのうち誰かに先越されちゃうわよ?」

 

「うぇっ! そうなの?」

 

 驚きのあまり変な声が出てしまいました。司令官さん、そんなにモテるんですか? いや、青葉調べでも鎮守府内の人気はそれなりにあるはずなのですが、それほどまでとは予想外でなりません。嬉しい反面、心がざわついてしまいます。

 

「だって年もそこそこ若くて、提督の地位もある人間なんて、それだけでモテるわよ。それに真面目な性格だし……」

 

「それだけじゃなくてね、普段柔らかい雰囲気だけど、作戦の時とかキリっとしているギャップとか、ちょっと気取って大人っぽくしようとして、でもそこが余計に子供っぽく見えちゃうとことか可愛くて……あ」

 

 ガサが司令官さんのいいところを言うものですから、思わず青葉も釣られて言ってしまいました。それもだいぶん早口で。自分でも気づかないくらいに興奮していたようです。冷静、客観的になってみればどれだけ間抜けなことをしていたかがよくわかります。

 

その証拠にガサがニヤニヤした表情で見ていました。うう……恥ずかしい。

 

「ほら、そんだけ好きなら告りなよ。なんで躊躇うの?」

 

「それは……」

 

 心の底から不思議そうに首をかしげるガサ。だけど青葉は言葉を詰まらせてしまいます。だってこの気持ちは多分、ガサにはわからないでしょうから。

 

 青葉は怖いんです。司令官さんとの関係が今と変わってしまうのが。

 

青葉は、司令官さんと今の関係で十分幸せを感じられています。

 

 それなのに欲張ったことをして……青葉が気持ちを伝えても断られてしまったら、拒絶されてしまったら……一緒にいることが辛くなってしまいます。一緒にいることができなくなってしまいます。

 

仮に受け入れてくれたとしても……でも、いつかは終わりが来てしまいます。次のない、これっきりの日がきます。

 

どれだけ先かは、どんな形でかはわかりません。だけどいつか確実に来る終わり。そしてその過程で突きつけられる緩やかな衰退。

 

 それが青葉にはたまらなく怖いんです。そのことを考えてしまうと、泣いてしまいそうなほどに、心が冷たくなっていってしまいます。群青の中に感情が沈んでいってしまうのです。

 

 想いを伝えなくても終わりは来ます。だけどもそれは、想いを伝えて迎える終わりよりはずっと傷つかないで済む。

深く傷つくくらいなら、憧れのままで終わらせたいんです。青葉は。

 

だから、今が一番居心地がいい。今ある幸せをずっと続けていたい……。

 そのことをガサに伝えても、彼女はきっと困ってしまうでしょう。そもそも、青葉自身も上手く言葉にすることができません。だから一言だけ。

 

「青葉は、そこまで強くないから」

 

「……うん、わかった」

 

 ガサはそう言って小さく頷くだけで、それ以上は聞いてきませんでした。気を、使ってくれたんでしょう。その優しさが、今は心苦しいです。

 

 彼女は小さなあくびを一つします。彼女もこの一週間、作戦の事後処理でほとんど寝れていません。目元に隈ができています。それでも笑みは絶やさないようにしていて、それのできない青葉はきっと、彼女の言う通り酷い顔なのでしょう。

 

「それじゃあ、私は行くね。青葉も、あんまり思いつめすぎないで」

 

 そう言い残して中へと戻って行きました。

 

 残された青葉は屋上からの景色を眺めます。壊された施設はもう復旧作業が開始されていました。おそらく来月には修復が終わるでしょう。

 

「来月……もう、年が変わるんですね」

 

 気づけば本当のクリスマスは終っていて、お正月を目の前にしています。そして数か月もすれば司令官さんが異動してしまいます。

 

 お別れ……司令官さんとのかかわりもこれで終わり。そう思うと急に寂しさがこみ上げてきました。

 

「やだよぉ……司令官さん……」

 

 寂しさと一緒に涙までが湧き出そうになりますが、そこは我慢します。だけど、嗚咽だけは我慢できませんでした。

 

 もっと一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。今が永遠に続けばいいのに。そう思えるほどにああ、やっぱり青葉は司令官さんが好きなんです。どうしようもなく、たまらないほどに愛しさを抱いています。

 

 だけどもこの気持ちがどれほど強くとも永遠に添い遂げられるわけではありません。人は、とてももろいんです。幸せは儚いです。あの夜明けの時、それを実感しました。

 

今回は腕だけで済みましたが、もし次があったらどうなるかわかりません。

 

 そうでなくても、永遠なんてないんです。どんなに望んでも。わかっている。それに……

 

「こんな青葉、簡単に愛想をつかされちゃいますよね」

 

 自嘲を浮かべます。気持ちにも、ずっとなんてないんです。何かの拍子に簡単に変わってしまう、そんな気まぐれな物。

 

 拒絶されるのが怖くて、青葉はずっと黙っているんです。

 

 だけど、それでも、ときどき吐き出したくなるほどにあふれる愛しい気持ち。後ろめたさや罪悪感はあるけれど、それでも心が司令官さんを求めてしまう。こんなわがままな自分に困ってしまいます。

 

「この気持ちは秘めたままですけど、それでも、顔を見に行くくらいは……いいですよね?」

 

 誰に確認するでもない独り言。きっと、自分に対する言い訳なのでしょう。そんな言い訳を勇気に変えて、きっと今なら司令官さんの元に行けそうです。

 

「それに、いい加減寒くなってきました」

 

 冬の空気は青葉の身体の芯まで冷やしてしまいます。さっきから震えが止まりません。急いで室内に戻ります。

 

 階段を下りて下の階へ。廊下を歩き、司令官さんのいる病室に向かいます。足取りは重いですが、一歩ずつ確実に。

 

「こんにちは司令官さん。調子はどうですか? ……よし」

 

 顔を合わせたらどんな表情で、どんなことを話そうかと頭の中で何回もシミュレートします。

 

「そういえば話したいことの内容、教えてくれるのかな」

 

 出撃前に交わしたやり取り。結局ずっと聞けずじまいでした。一体何をお話しするのか青葉には見当もつかないので気になってしまいます。でも、あの時の司令官さんの表情はとてもまじめなものでしたから、きっと真剣なことなのでしょうが……うーん。

 

「もしかしたら愛の告白……なーんて、ないですね」

 

 自分で言って自分で否定します。そんなことあるはずがありません。期待していないかと言えばウソですが、夢の見過ぎです。そんな希望的観測は裏切られて傷つくだけ。

 

「なにより、その言葉を受け取る資格なんて、青葉にはないんですから……」

 

うつむき、溢すように口にします。群青に沈んだ心が青葉の顔に陰を落とします。また、司令官さんに会うための勇気が足りなくなってきそう。

 

早く会いたいけれども足取りは重い。そんな二律背反に苛まれながらも、なんとかたどり着いた司令官さんのいる病室前。閉じられた扉の前に立ちます。

 

 扉に手を駆けようとして、止まりました。

 

「……声が、聞こえる?」

 

 中から微かに話す声が聞こえました。一人は司令官さんってことはわかりますが、もう一人は……。誰かがお見舞いに来ているのでしょうか?

 

 青葉はそっと、音をたてないように扉をほんの少しだけ開けて、中を覗きます。司令官さんは患者が着ているような服ではなく制服姿。荷物もカバンにまとめられていて退院の準備は完了のようです。抵抗なく揺れる右袖を見ると胸が痛みますが、元気そうで安心しました。

 

 ですが……。

 

「……調子はどうかしら?」

 

「悪くはないよ。痛みもないし、しばらくはリハビリに通わなきゃだけど、なんとかやっていけそうだよ」

 

「え……司令官さんと、ガサ?」

 

 扉の向こうで司令官さんと話していたのはガサでした。ガサとはさっきまで話していましたし、お見舞いに行くのも自然ではあります。ありますが、なんだか心に引っ掛かるものがありました。

 

 このまま何も気にせず入って行けばいいのですが、それができず、青葉は二人のやり取りを覗き続けます。

 

「今日も青葉は……来ない、か」

 

「そうね、やっぱり責任を感じていると思うわ。足を運ぼうとしているけど、なかなか……ね」

 

 ごめんなさい、今ここにいます……。うぅ、いたたまれない。

 

「青葉の責任じゃないんだから、気にしなくても……って言っても、抱え込んじゃうのが青葉なんだろうね」

 

「あんな風だけど、根はまじめなのよね、うちのお姉さんは」

 

 肩をすくめて苦笑を浮かべるガサ。彼女の仕草にムッとはしますが、それ以上に自分の話をされていることが恥ずかしくてたまりません。早く違う話題になってくださいと念を送ります。

 

「ねえ、聞いた?」

 

 どうやら青葉の念が届いたようです。という冗談はさておいて、タイミングよくガサが話題を変える一言を放ちました。司令官さんがうなずいて返します。

 

「ん、昇任が無くなった話? 知ってるよ。まあ、自分の役割を放棄して勝手な行動をしたんだから、当たり前だよね。むしろ処分がそれだけで済んでよかったと思うべきだよ」

 

「民間人を守って注目を浴びたから下手な処分ができないっていうのもあるでしょうけどね。不幸中の幸いかしら? 隻腕の英雄さん」

 

「やめてよそのあだ名。これはボクの身勝手による結果なんだから」

 

「そんな……」

 

 笑って茶化すガサ。苦笑を浮かべる司令官さん。とても軽い、世間話のような感覚で話す二人のやり取りでしたが、青葉は衝撃を隠し切れません。

 

 司令官さんが昇任するなんて話、青葉は初耳でした。そしてその話が無くなってしまったことも。原因はすべて敵の艦載機が鎮守府を攻撃したこと。それはつまり、青葉の判断ミスのせい。

 

 自分のせいで大切な人の未来を閉ざしてしまった、幸せを奪ってしまったという絶望が、罪の意識となってさらに心に重くのしかかってきます。

 

「でも異動の話はなくならないのね。融通の利かない」

 

 ちょっと不満げに頬を膨らませるガサ。だけど一方の青葉は、少しだけホッとしていました。司令官さんと会うことがなければこの、青葉の心の内にある痛みが少しは和らぐのではないかと。

 

……一瞬でもそんことを考えてしまった自分が嫌いになりました。

 

「このままボクを鎮守府に置いていたって役に立たないからね。追い出すにはいい機会なんだと思うよ。まあ精々後方で電話番くらいはできるさ」

 

 皮肉たっぷりな口調の司令官さん。それに笑って見せるガサ。ここでも青葉は取り残されてしまったような孤独感を覚えます。

 

それにしてもなんだかとても楽しそうな雰囲気。もしかして二人は……。

 

 そこでふと、先ほどガサが言っていた言葉を思い出します。『誰かに先を越されちゃう』って。もしかして……。

 

「それで、どうするの?」

 

「気持ちは変わらないよ。だから、お願いしてもいいかな?」

 

 司令官さんがとてもまじめな表情をしています。まるで想いと告げるかのような。

 

「いいわよ」

 

 ガサはあっさり了承。司令官さんの変わらない気持ちを、お願いを受け入れたガサ。ああ、やっぱり。

 

「いつもごめんね」

 

「いいのよ、あなたのその頼みは断れないんだし」

 

まるでとても親密な二人がするようなやり取り。

 

「その代わり……」

 

 そう言ってガサは顔を司令官さんの顔に近づけて……。

 

 青葉の心から熱が一気に引いていきます。そう、だったんですね。二人はずっと前から……。

 

 それなのに青葉一人だけ呑気な妄想に想いを馳せて、舞い上がって。まるでピエロ、バカみたいです。

 

「うん、ガサならきっと、司令官さんを幸せにしてくれるよね。……ああ、秘めたままでよかった」

 

 青葉は呟きます。この気持ちを出してしまっていたのなら、そしてこの現実を知ってしまったのなら、青葉の心は耐えられそうもありません。だから、やっぱり、こんな気持ちになるくらいなら……。

 

 青葉はそっと扉を閉じてその場を後にしました。

 

 医療施設を出て隊舎に戻る道すがら、頬に水が伝います。おかしいですね、

 

雨が降るような天気じゃなかったはずですのに。

 

「ああ、これは……」

 

 冷え切ったはずの心が落ち着かない。今にも何かがあふれ出てしまいそう。それをこぼさないためにも歩く速度は徐々に上がり、そして駆け出します。

 

 冬の空気に溶ける白い吐息。息を切らし、吐き出してしまいそうな声を、必死に飲み込みます。

 

 張り裂けそうな胸の内。だけど耐えて、耐えて、耐えて……。あと少し、もう少しで青葉の部屋。

 

 隊舎に入ると階段を一段飛ばしで駆け上がり青葉の部屋へ。ベッドに飛び込み、そのまま頭から毛布をかぶります。枕に顔をうずめ、そして……。

 

「う……、ぁ、あ……。ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 泣き叫びました。心の奥底から沸き上がってくるモノ全てを爆発させるかのように。

 

「司令官さん、司令官さんっ!」

 

 脳みそを経由せず、ただひたすらに心から出てきた想いを喉からぶちまけます。もはや絶叫にも近いような、言葉としてはあまりに不出来な、ドロドロで、グチャグチャの感情のスープ。

 

 止まらない涙が枕を濡らしていきます。

 

「青葉は……好きですっ! 好きなんです! どうしようもないくらいにっ!」

 

 どれだけ言い訳を並べてもこの気持ちに嘘はつけませんでした。本当はあなたのそばにいたい。どこまでも、いつまでも。遠くから見ているだけじゃ満足できない。憧れだけじゃ収まらない。あなたにも、自分を見ていて欲しい。愛して欲しい。

 

 だけどそれはもう叶わない夢。その瞳に映すのは自分ではない他の誰か。全部ぜんぶ手遅れだった。自分の判断ミスが招いた結果。

 

 刻まれた記憶のころから何も変わっていない。いつも大切なものを失ってしまう。これっきりでもう、終わり。

 

 このまま深い群青の奥底に沈んで消えていってしまいたい、そんな気持ちでいっぱいになります。

 

「でも、よかった」

 

 思わず出てしまった安堵の言葉。だってこれ以上深く傷つくことはないのですから。それまでの想い出が悲しいものに変わることはないですから。だけど今生まれた悲しみは青葉を飲み込もうと容赦なく攻めてきて……。

 

「ああ、どうしようもなく弱っちいですね、私」

 

 こんな、どうしようもない自分に自嘲を浮かべます。感情を爆発させたおかげか、少しだけ気持ちは落ち着きました。

それと同時に、こんな弱い自分では、到底好きな人といることなんかできないと再認識させられます。

 

 毛布にくるまったまま横になり、ただボーっと壁を見つめています。

 

 頭の中に色々と嫌なイメージが浮かび上がっては必死に振り払おうとして、また悲しくなって涙が漏れてくる。そんなことの繰り返し。

 

 だけども次第にそれすらも無くなって、気分はもう路傍の石ころです。ただひたすらに司令官さんとの楽しかった思い出を、少し悲しみに変わってしまった思い出を思い浮かべているだけ。過去の幸せに浸るだけ。

 

「もう、司令官さんに想いを抱くのも……これっきりなんだね」

 

口にしてまた、寂しさを感じます。置いていかれてしまったような孤独感。

 

 徐々に日も沈んで、部屋の中も暗さを増していきます。しかし青葉は電気をつけることすら億劫で、ひっそり、闇の中に溶けていきました。

 

「あ、暗闇ってなんだか落ち着くね。でもやっぱり少し寂しさを感じちゃって……不思議な魅力があるね」

 

 なんて感想を口にして、ただぼんやり。

 

 そんなことをしていると、不意に扉がガチャリと開く音が聞こえました。

 

「ただいま……って、暗っ!」

 

 驚きの声を上げるのは同居人のガサ。それは部屋に対してか、青葉に対してか。……たぶん両方ですね。

 

「青葉、何してるのよ」

 

 電気をつけた後、ガサは青葉の方を見て呆れたと言わんばかりの口調で言います。そんな彼女を拒絶するかのように青葉はガバっと毛布を頭からかぶります。

 

「放っておいてよ。青葉は今ミノムシなんだから」

 

「何で拗ねているのかわかんないけど……明日時間あるかしら? 外出も解禁された休日なんだし、息抜きに遊びに行きましょ」

 

「嫌。司令官さんとよろしくやってればいいじゃないですか」

 

「提督とって……あ、もしかして見てたの?」

 

 ガバっと毛布から飛び出して青葉はガサに詰め寄ります。

 

「見てたよ! あんな仲睦まじそうなやり取りを見せられたら……青葉は……」

 

 何か言おうとして、でも言葉が出ず、青葉はすごすごとベッドに戻り、またミノムシに戻ります。

 

 すると、ガサから返ってきたのは、

 

「あっはっはっはっはっ――」

 

 気持ちいいくらいの大笑い。だけど青葉としてはとても不愉快です。今のどこに笑う要素がどこにあったのですかと毛布から顔だけ出して彼女をにらみます。

 

 お腹を押さえ、目じりには涙を浮かべるガサ。そこまで笑わなくてもいいじゃないですか。

 

「ゴメンゴメン」

 

 ようやく笑いが収まったガサが、涙をぬぐいながら謝ってきます。むぅ。

 

「大丈夫だって、青葉が想像しているような関係じゃないわ。私と提督は」

 

「信用できないよ」

 

「ホントホント、そのうちわかるわ。あの人、想像以上に真面目というか一直線な人だから」

 

 ガサの口ぶりに何か引っかかるものを感じますがこの際、置いておくことにします。とりあえず彼女の言葉を信じて特別な関係ではないと思っておくことにしました。

 

「それよりも明日、遊びに行くわよ」

 

 言い切るガサ。どうやら決定事項のようです。まあ、なんだか考えるのも疲れちゃったのでもういいです。それで。ずっと外出もしていなかったですから、気分転換にはなるでしょう。

 

 青葉は小さく頷いて頭から毛布をかぶります。今日はもう、寝ましょう。疲れました。

 

「青葉、寝るなら電気消しておくわ。私はお風呂入ってくるから」

 

そう言ってガサはパチ、パチと電気を消して部屋を出ていきました。

 

再び暗闇に包まれた室内、青葉は目をつむります。

 

「司令官さん、よかった……」

 

 司令官さんとガサがそいう関係じゃないってことが分かって一安心。まだ、青葉は想いを馳せててもいいんですね。これっきりじゃ、ないんですね。

 

 だけど春になったら司令官さんとはお別れ。そのことを考えると、気持ちを伝えることはできそうもありません。やっぱり、弱いまま。

 

 どうすればいいのか考えても答えは出ず、やがて睡魔に飲まれて青葉の意識は夢の中に。

 

……その晩、夢を見ました。

 

 とても幸せだけど、とても悲しい夢。

 

 愛しいあの人が青葉に向かって微笑んで、青葉も愛しい人に微笑み返す。そんな温かい空色の世界。

 

「……青葉」

 

大切な人が自分の名前を呼んでくれる。とても幸せ。

 

 だけどもそれは決してあり得ない幻。どんなに手を伸ばしても届かない。

 

 胸の内にある憧ればっか大きくなって、想いばっか強くなって。ふとした瞬間、拒絶されました。

 

「……!」

 

青葉が触れようとした瞬間、その人は泡となって消えてしまいました。これっきり、もう触れることも見ることも……できない。

 

これっきり、次なんて……ない。永遠にそこで終わり。

 

するとそれまでの幸せが一瞬にして崩れ去り、それがどこまでも広がる群青となり、青葉を飲み込みます。

 

「やだっ! 置いていかないでっ!」

 

足掻こうとしても、ただただ沈んでいくだけ。息ができず、心を窒息させて来て……

 

「青葉、起きなさい!」

 

 耳元で大声を出され、青葉の意識は一気に覚醒させられました。

 

 ガバっと体を起こし、窓の外を見ると日はとっくに上りきり、部屋の中を明るく照らしています。

 

 そして大声の犯人であるガサが腰に手を当て呆れ顔。服はキッチリ出かける用のものに着替え、うっすらとメイクもしています。

 

あー……、と、気まずそうに青葉が時計に視線を向けると、指し示す時刻は朝を通り越してお昼に近かったです。

 

「さすがに寝すぎじゃない。……まあいいわ。シャワー浴びてきたら? このまま外に行くには、ちょっとひどすぎる顔よ」

 

 ガサに促され。青葉はシャワー室へ。そんなにひどい顔をしているのでしょうか? 疑問に思いながら、小さくあくびを一つ。備え付けられた洗面台の鏡に映った顔を見て納得。

 

「確かに……。これは人前に出れないね」

 

思わず苦笑を浮かべるほど、青葉の顔は酷いものでした。目は赤くはれ、頬には涙のあと。髪もぼさぼさでだらしなさ満載です。昨日泣きわめいてそのまま何もせずに寝てしまったので、それもそのはず。

 

 だけど何か、それだけじゃないような気がしました。思い出せませんが、何かとても悲しいことがあったような……。

 

「無理に思い出さないほうがいいこと、何でしょうね」

 

 忘れることで自分の心を防衛しているのだと、何かで聞きました。つまりこの涙の痕は……そういうことなのでしょう。

 

 青葉は服を脱ぎ、シャワーを浴びます。シャワーの滴が肌を伝い落ちていく。

 

冷えた身体を温めてくれますが、本当に冷たいのは……

 

「これは、シャワーでは温められませんね」

 

胸元を見下ろし、呟きます。手を当ててみれば規則正しい鼓動。 

 

こんな気持ちの時でもちゃんとリズムを刻んでくれる心臓。ちょっとだけ気が紛れました。

 

「暗い気持ちはこれっきり。切り替えて、いこう」

 

シャワーを終え、濡れた身体を拭いた後着替えます。ボーダーのシャツにサスペンダーのついたズボン、コートを羽織って小さなポーチに必要なものを詰め込めば、出かける準備は完了です。

 

「お待たせ、ガサ」

 

 青葉が部屋に戻ると、ガサは窓の外を眺め、小さなため息をついていました。アンニュイという表現が似合うような表情を浮かべています。何かをつぶやくように、小さく唇を動かしていましたが、言葉は聞こえませんでした。

 

「ガサ?」

 

「あ、ごめん青葉。準備できたならいこっか」

 

 青葉の存在に気づいた彼女は一瞬慌てたような素振りを見せますが、すぐにいつものガサに。そう言って彼女は何もなかったように青葉の横を通り過ぎて部屋を出ていきます。

 

 すれ違いざま、彼女の表情に明確な疲れというか……上手く表現できない、何かを抱え込んでいるような雰囲気を感じました。

 

そうです、なにも青葉ばっかりが辛いわけじゃないんですよね。ガサだって色々と思うところがあったのでしょう。それなのに青葉は自分のことばっかり……反省です。

 

 だから今日は、めいっぱい青葉が頑張ろう。いつもガサには迷惑をかけているんだからと思いながら、ガサの後を追いかけました。

 

 その一方でふと、昨日のガサと司令官さんのやり取りを思い出します。ガサの言う通り特別な関係でないのだとしたら……あのやり取りは何だったのでしょう。

 

「――あ、ガサ置いてかないでよぉ」

 

 疑問に思いながらも先ゆくガサに追いかけるため、頭の片隅に置いておいたら追いつくころにはすっかり忘れてしまっていました。

 

「それにしても外出は久しぶりだね」

 

 ガサと並んで歩きながら青葉は口にします。この一週間ずっと作戦の後処理で大変でした。そのうえでマスコミ対応もしなくちゃいけなかったのでもう、あちこちてんてこまいでしたよ。思い出すだけでため息が出てしまいます。

 

 それにはガサも苦笑を浮かべています。

 

「対応に追われていたからね」

 

「せめてマスコミ対応だけでもどうにかできれば、もうちょっと余裕はあったのに。余計な問い合わせばっかで、時間ばっかりとられたよ」

 

「あ、なんか聞いた話だとマスコミ対応するための部署とか作るみたいよ」

 

 青葉の愚痴にガサが答えました。そんな情報初耳です。なんかガサの方が情報通っぽくて、ちょっぴり悔しいですね。

 

「前々から検討されていたみたいね。マスコミだけじゃなくて、地域の人にもっと艦娘について知ってもらうための部署を作るって話。民間との窓口の役割を担う感じね」

 

「そうなんだ。確かにもっと青葉たちのこと知ってもらって、応援してもらえるなら嬉しいね」

 

「そうね。そういうの、青葉とか向いているんじゃない?」

 

「えぇ……青葉はいいよぉ」

 

 小さく手を振って遠慮を示します。やっぱり青葉には……無理です。拒絶されてしまったら、怖いです。

 

「ふーん……そっか」

 

 ガサはそれ以上深く言ってきませんでした。きっと気を使ってくれたのでしょう。早速気を使わせてしまい、申し訳ないです。

 

 ここから汚名返上……と行きたいところでしたが、青葉から話題を振ることができず、二人して無言で街を歩きます。う、気まずい……。

 

 この気持ちを紛らわすため、視線を街の景観に向ける青葉。修復のための囲いがあちこちに見えること以外、人々の様子はいつも通り。ただ……ここからでも見える敵艦載機の墜落跡は未だに残っています。

 

 恨めしい気持ち一杯ににらみつけると同時に、心が締め付けられるように苦しくなってきました。アレは……青葉の罪の証ですから。

 

「……ほらほらそんな怖い顔しないの」

 

 気持ちが表情に出てしまっていたのでしょう。気づいたガサが青葉と腕を組み、引っ張っていきます。また気を使わせてしまいましたと、心の中でまたもや反省。ここでもなにもできないという無力感に苛まれます。

 

 それでも彼女と腕を組みながら、次こそはと意気込みました。

 

 そうして……、

 

「うわぁ、すごい人ですね」

 

 青葉たちが出向いた先は鎮守府近くのショッピングモール。年末ということもあって、人でごった返しています。こんな状況なのも、ここが深海棲艦の攻撃から免れたおかげでしょう。そしてそれをやってのけたのは他でもない司令官さん。

 

ああ、確かに人々から祭り上げられてしまうのは、仕方のないことなのかもしれません。ここにいる人たちの顔を見ればそれが分かります。司令官さんは、この人たちの笑顔を守ったんですから。

 

 そんな、司令官さんが守った人々の笑顔を見ながら、青葉たちはショッピングモールの中を散策。

 

「あ、ちょっと待って」

 

……しようとしてガサが制止。早速出鼻をくじかれました。

 

「どうしたの?」

 

「先に用事を済ませるから」

 

そう言ってガサは近くのアクセサリーショップに入っていきます。よく雑誌に広告が載っている、女性に人気のブランドのお店ですね。でもガサの好みではないはずですが……。

 

青葉も一緒に入りますが、入り口付近のショーケースに展示されている商品を眺めながら彼女を待ちます。

「こんなところになんのようなんだろ……高っ!」

 

値札を見て、思わず驚きの声。青葉の想定より桁が一つ上を示しています。青葉のボーナス一回では払いきれない値段。眺めているだけで冷や汗が出てきそう。

 

「本当にガサはこんなところに……うわ、買ってる」

 

チラリとガサの方を見ると、店員さんから商品の入った紙袋を受け取っています。恐ろしい……

 

「お待たせ。……なにしてんの」

 

「ガサの金銭状況に畏怖してるの」

 

目玉の飛び出るような金額の物を買ってのけたガサを拝みます。変なことはやめてよと、ガサは恥ずかしそうに青葉の手を取りそそくさと店を出ました。

 

「だけどよくそんな高いもの買えるね」

 

「ん、あ、いやこれは……」

 

感心する青葉とは対称的にガサは歯切れが悪いです。なんかあるのでしょうか。うーん……

 

「まさか借金!?」

 

「違うって! もー、さっさと次いくわよ」

 

ガサに強めのツッコミを入れられ、青葉はまた引っ張られます。

 

気にはなりましたが、これ以上の詮索はしないようにしておきます。ガサも、それを望んでいるでしょうし。

 

そうして今度こそショッピングモール内の散策を開始します。

 

「あ、これとか可愛くない?」

 

 そう言って青葉が駆け寄るのは、ガサが好きな洋服ブランドのお店。冬の新作がマネキンに着せられて展示されています。

 ガサには似合いそうだけども、青葉にはちょっと派手かなと思える一品。値段は……高っ! これ一着で青葉の上下が揃えられますよ。なんか今日は値段に驚かされてばっかりです。

 

そんなものをガサは普段から来ているなんてと、青葉は思わず彼女をまじまじと見つめてしまいます。

 

「……別に全部が全部それでそろえているわけじゃないわよ? 気に入った物をワンポイントに後はシンプル。それで大体おしゃれに見えるから」

 

「はえー、勉強になる。さすがガサだね」

 

「青葉が知らなさすぎなのよ。もうちょっとおしゃれにも興味を持ちなさいよ」

 

「いやぁ、ファッション情報とかは好きだけど、おしゃれとかの技術系の話はさっぱりだから」

 

 アハハと笑って誤魔化す青葉に、ガサはため息。だけどその表情は楽しそうで、青葉は一安心です。この調子で彼女に鋭気を養ってもらえれば幸い。

 

その一方でもう一度マネキンをチラリ。司令官さんはこういった女の子らしい格好は好きなのでしょうか。青葉も同じような格好をすれば少しはチャンスが……。考えても仕方のないことですね。

 

 ガサとそのお店の物を見た後は、ガサが好きな雑貨屋に行きます。本屋ではガサの好きそうな本を見つけてきます。ガサのよく行くアクセサリーショップでガサの好きそうな装飾品を勧めて、フードコートでガサの好きなジュースを買ってきて……

 

「あのさ、青葉」

 

 フードコートの隅の一席、向かい合って座っているガサが口を開きます。

 

「なんでそんなに気を遣うの? 私の都合に合わせているっていうか……。嫌なんだけど」

 

 ジュースを一口飲んだ後小さくため息をついて、半眼のあきれ顔。確かに少し露骨過ぎたかもしれません。だけどもそれは青葉の気遣いなので。

 

「そうは言われても、青葉としてはガサが楽しんでくれればそれが一番だから」

 

「青葉にはないの? 行きたいところ」

 

 ガサに言われて青葉は考えますが、なかなか思いつきません。ぼんやりとしたものはあるのですが、明確にこれと言えるものは、青葉の中にはありませんでした。

 

 そんな青葉の表情から読み取ったのでしょう。ガサが苦笑を浮かべます。

 

「まあ、青葉らしいけどね。バカみたいに人のことばっか優先して、自分のことはおざなりなの」

 

 どう考えても褒められている気がしないそれを、青葉は乾いた笑いで誤魔化します。

 

「アハハ……」

 

「クリスマス・パーティーの件だって、みんなのためにってことで頑張ったのは知ってるから。青葉の美徳よね、そういうのは」

 

「や、やめてよ」

 

唐突に誉められて照れてしまいます。ですが……

 

「だからこそ同時に思うの。なにをそんなに怖がっているの?」

 

 核心を突く一言。青葉の心を鋭く射抜きます。おちゃらけた雰囲気はこれっきりと言わんばかりに空気が冷たく。今のガサはとても真剣な眼差し。あ……。

 

 青葉は視線を逸らします。だってそれは……。何か言おうとして口を動かしますが、声が喉から出てきません。

 

 ガサはいつも青葉の本質を見抜いてきます。それがたまらなく嫌だ。

 

「そうやって気を遣うのだって、自分を押し殺してまで避けたい何かがあるからなんでしょう?」

 

 容赦ない追撃。青葉は何も返せずうつむいてしまいます。手元のジュースに目線がいきました。パチリ、パチリと弾ける炭酸がまるで青葉を表しているよう。そういえば、昨晩見た夢もこんな泡がはじけるような光景……。ああそうだ、だからとても心が悲しかったんですね。

 

 唐突に思い出した夢の内容。それが引き金となって青葉の口からこぼれ落ちます。

 

「ねえガサ。青葉ね、夢を見たの。とても幸せだったけどとても悲しい夢」

 

 小さく、ゆっくりと、微炭酸のように言葉を紡いでいく青葉。緊張で口の中が渇いていくのを感じます。だけど飲み物に手をつけません。それを飲んでしまえばもう、言葉は出てこなくなってしまうから。

 

「大きな幸せに手を伸ばした瞬間全て悲しみに変わってしまったの。心が深い群青に飲み込まれていくような苦しさ。」

 

「………」

 

「そんなことになってしまうなら、幸せを求めなければ良かったって、今ある幸せがずっと続くことだけを願っているのは……変なことかな?」

 

 言い切って。だけどバツが悪くてガサの顔を見ることができません。とても感情的な言葉。おおよそ相手に伝えるようなものではないです。拒絶されても仕方のないこと。

 

 だけどガサから返ってきたのは優しい声。

 

「……うん、知っていたよ。それくらい」

 

「え……」

 

 思わず顔を上げます。ガサの表情は呆れたような、だけど柔らかな微笑みを浮かべています。

 

「私だって、青葉と同じ艦娘なんだよ? なによりあなたの妹艦。だから……知ってる。青葉が怯えていること。全部じゃないけど」

 

「ガサ……」

 

脱力したように、背もたれに体重をのせるガサ。大きく息を吐いて、それまでの緊張をほぐすよう。

 

「というか納得。それでうなされていたのね」

 

 どうやら青葉は昨晩うなされていたみたいです。あぁ、ガサには全部バレバレなんですね。

 

「ガサにはかなわないなぁ」

 

「そんなことないわよ。私の方こそ青葉に勝てないって思うこと、あるんだもん」

 

「どんな?」

 

 青葉は聞き返しますが、ガサに笑って誤魔化されてしまいました。彼女はジュースのカップに口をつけて、それから再び口を開きます。

 

「少なくとも私はさ、艦娘の前に艦として一度終わりを経験しているからなのかもね。余計に今が夢のようだと感じることがあるの。この夢が幸せだと思うの」

 

 あ、青葉と同じだ。彼女も、青葉と同じ感情を抱いていたようです。姉妹そろって同じというのは嬉しいような、隠し事ができないことを突きつけられて恥ずかしいような……。

 

 ガサの話は続きます。

 

「だけど夢なんだからいつかは覚めちゃう。覚めた後が幸せなんて保証はないし、そうなると残る寂しさの跡が頬に感じるのがたまらなく……怖い」

 

 青葉はうんうんと頷きながらガサの言葉に続きます。

 

「だからそうやって心を守ろうとすることは……自然なことだよね」

 

「そうね。それに今ある幸せを大切にしたいという気持ちは、ステキなことだから」

 

「ありがとう。青葉たち艦娘はどうしてもリアリストにならないといけない存在だから、仕方ないよね」

 

誰に向けたか言い訳のような言葉。だけどガサは笑って返します。

 

「なにそれ。ていうか、青葉は相当ロマンチストよ」

 

「えー、ひどーい」

 

 青葉は文句を口にして、それから二人して顔を見合わせてクスクス笑います。

 

 あぁ、ガサは青葉の本質を見抜いていたのではなかったんですね。自分もそうだから、わかっちゃっただけなんだ。

 

 そのことに、少なからず安心感を覚えます。

 

「そういうわけだから、青葉が先にある幸せを求めないっていうのも……わかるわ」

 

 いったん区切り、ただ……とガサは言葉を続けます。

 

「だけども終わりを知っているからこそ、後悔なく生きたいっていう感情が私の中にあるの。可能性がある限り、未来の幸せを掴みたいって、一歩踏み出すの」

 

「ガサは強いね。青葉にはない強さだよ」

 

 妹の存在がとてもまぶしい。自分とは違い強く生きようとする姿。

 

 ガサはよしてよと頬を赤らめ照れています。とても魅力的な表情、今のは青葉の心のカメラに収めておきましょう。

 

「青葉がそういうの無理だっていうのは知ってるよ」

 

 む、失礼な。……事実だけど。

 

「だから私はついついお節介を焼いちゃうのかもね。押し付けだってわかっていても、もどかしさを感じちゃって」

 

「あ、だから色々聞いてきたんだ」

 

 ようやく合点がいきました。これまで青葉の心を聞き出そうとしていたのは、彼女なりの気づかいだったのですか。それにしては随分とずけずけ人の心に土足で入り込んでくるような行為でしたが……。

 

「推測できても青葉の口から聞けなきゃ意味がないから」

 

 抗議的な表情を浮かべていたからでしょう。ガサが弁明を述べました。まあ、そういうことでしたら仕方ないのでしょうか?

 

「だけど聞けて良かった、うん」

 

 小さく何度も頷きます。それから横目でチラリと何かを見ました。何でしょう。その表情がとても寂しそうに青葉は感じたのは、なぜでしょう。

 

 彼女の視線の先を青葉は見てみますが、そこにあるのは人だかりで彼女が何に注視していたのかは結局分かりませんでした。

 

不思議な間が青葉たちの中に生まれましたが、すぐさまガサが切り替えるように、ニヤリと口角を上げます。

 

「そんな頑張った青葉に、衣笠さんが勇気を上げましょう」

 

 ガサは芝居がかった口調でそういうと、紙袋をテーブルの上に置き、青葉の前に差し出します。彼女がさっき恐ろしい値段のするアクセサリーのお店で買っていたものでした。よくよく思い返して見れば買っていたというよりは、注文していたものを受け取りに行っていたという雰囲気でしたが。

 

「くれるの? さすがにこんな高価なもの気が引けるよ……」

 

「違うわよ」

 

わざとふざけて振る舞ったら、睨まれました。……自重します。

 

「これ、頼まれていたものなんだけども。青葉、持って行ってくれないかしら?」

 

「誰に?」

 

「あなたが一番好きな人よ」

 

「し、司令官さんは別に……」

 

 反射的に否定しようとして、ハッと気づかされます。ガサの方を見ればしてやったりと悪戯っぽい笑みを浮かべていました。

 

「私は名前、言っていないんだけどなぁ?」

 

「いや、そうじゃなくて……えっと、その」

 

 しどろもどろになる青葉を見てケラケラ笑うガサ。ひとしきり青葉の反応を楽しんだのか、ふぅと息を吐きます。

 

「ホント、残酷のことを頼んでくるわ」

 

「え……?」

 

 彼女の声は小さく、周囲のざわめきでかき消されてしまい、聞き取ることができませんでした。だけどその表情は、とても寂しそうな……。青葉のよく知っている表情。青葉自身がよくする表情。

 

 ですがガサはすぐにいつもの明るい表情に戻ると、

 

「ほら、私はもう少しここらをぶらついているから青葉は早く帰ったら?」

 

 なんか青葉を追い返そうとしています。誘ってきたのは自分なのに。

 

 自分勝手なとは思いましたが、怒る気にはなれません。だってこれは彼女の優しさなんだから。 

 

受け取り、席を立ちます。

 

「わかったよ。ちゃんと持っていくからね」

 

「ん、行ってらっしゃい。大丈夫よ。あなたが抱いている想いは本物なんだから。一歩を恐れないで、お姉ちゃん」

 

 小さく手を振り見送るガサ。ああやっぱり、彼女には何でもお見通しみたいです。だからこうして背中を押してくれたのでしょう。

 

 それにしてもこの紙袋、何が入っているんでしょうか。あそこにあったのはどれも高価なものばかり。そんなものを購入した司令官さんはいったいなにを考えているのでしょう……。

 

「気になっちゃいますね」

 

 聞いたら教えてくれるでしょうか。そんなことを考えながら青葉は帰路を急ぎました。

 

 

 

 鎮守府に帰り、青葉は司令官さんを探します。医療施設はすでに退院していますのでそこではない。年末ですが、確か司令官さんは帰省の予定はなかったはずなので鎮守府内にいるのは確か。となれば自室にいると推測して向かいます。

 

 男性用の宿舎のため、女性は立ち入り禁止なのですが、そこは青葉。こっそりと忍び込みます。

 

 幸いなことに、廊下には誰もいないためすぐに見つかってしまうことはありません。

 

 足音を忍ばせ、周囲の音に集中しながら青葉は廊下を歩きます。司令官さんの部屋は一階の入り口に近い場所。おかげであっさりとたどり着くことができました。

 

「いませんね」

 

 扉をノックしてみても反応がありません。中に誰かがいる気配もないので、留守なのでしょう。まだ安静にしてないといけないはずなのですが……全く仕方がない人です。どこをほっつき歩いているのか。

 

喫煙者でもないので、喫煙所にいることもないでしょうし、他に行きそうなところと言えば……

 

「執務室、ですかね」

 

 青葉は辺りをきょろきょろと見まわし、誰にも見つかっていないことを確認すると、足音を立てないように来た道を帰ります。

 

 青葉のスニーキングミッションは特にハプニングもなく終了。外を出ればすたすたと執務室のある庁舎に向かいます。

 

 時刻はすでに夕方五時を過ぎており、冬ということもあって外は真っ暗です。鎮守府を照らす街灯だけが、青葉の歩みを照らしてくれました。

 

 庁舎にたどり着き、中に入ります。今日は休日ということもあって、中はシンと静まり返っていました。

 

 真っ暗な廊下。その中で一つ、明かりが漏れている窓があり、その周囲だけがぼんやりと明るくなっています。あそこは司令官さんの執務室。ということは……。

 

 覗いてみると案の定、司令官さんがパソコンに向かって真剣な表情を。退院したばっかなのに、もう仕事をしています。もう少し休んだ方がいいのにと青葉は思ってしまいましたが、らしいといえばらしいです。

扉に手をかけようとして、思いとどまります。

 

 正直、この扉を開けるのが、司令官さんに会うのがまだ怖いです。どんな顔をすればいいんだろうと悩んでしまいます。

 

「大丈夫……大丈夫」

 

 だけども、でも、ガサがくれた小さな勇気を手にもう一度向き合おうと意を決します。

 

「まったく、司令官さんはワーカーホリックですね」

 

 そう言いながら青葉は扉を開けます。呆れたように苦笑を浮かべながら。これが、今の青葉の精一杯の強がり。

 

「休んでいた間の仕事が溜まってたからね。年明け前には全部終わらせたくて」

 

 苦笑を浮かべながら返してきた司令官さん。言葉を続けます。彼は片手で器用にキーボードを叩いています。もう片方の手は……だらんと揺れる袖。心がくるしくなり、思わず目を背けてしまいました。

 

「来てくれて嬉しいよ。あれ以来全然会えなかったからね。今こうしてきてくれたことで、仕事の処理にため息しか出なかったボクのやる気はすっかり回復したよ」

 

 臆面もなくそんな恥ずかしいセリフを言ってくるものですから、青葉は思わず赤面してしまいます。ま、まあ言われて嬉しくないわけではないので……。

 

 そんな恥ずかしさを誤魔化すように、青葉は紙袋を司令官さんに差し出します。

 

「これ、ガサから持って行って欲しいって言われたものです。

 

「衣笠からね。……あはは彼女もだいぶ意地悪なことをしてくれるよ」

 

 袋の中を覗きながら、司令官さんは困ったような顔を浮かべます。ガサはいったい何をしたのでしょうか。司令官さんの持っている袋には何が入っているのでしょうか。青葉、気になっちゃいます。

 

「司令官さん、何を頼んだんですか?」

 

「これ? ちょっとね。前々から注文していたものがあったんだけども、入院のせいで取りに行けなかったんだ。そうしたら衣笠がとってきてくれるって言ったもんだから頼んだけど、まさかね。まだこっちの準備はできていないっていうのに」

 

 言葉を返してはくれますが、具体的なことは全く喋ってくれません。これは、聞き出すのはなかなか難儀しそうです。だけどもこれで納得です。司令官さんとガサの医療施設でのやり取りはこれだったんですね。それを青葉が勝手に勘違いして……恥ずかしい。このことは黙っておきましょう。

 

 ただ、ガサが勝手に喋んないように後で釘を刺しておかないと。

 

「まあ、ガサはイジワルですからねぇ」

 

 司令官さんに同調しながら青葉は笑います。彼も、笑い返してくれました。

 

 たった数言ですが、気づけば司令官さんに対する気まずさはどこへやら。もっともっとおしゃべりをしていたい。この時間を続けていたいという気持ちへと変わっていました。

 

「青葉、飲み物を入れてきますね」

 

 そう言って部屋の隅にある電気ポットのもとまで。もっと一緒にいる、きっかけづくり。司令官さんがいつも使っているカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯を注ぎます。湯気と共に漂ってくるコーヒーのほろ苦くも香ばしい匂い。それを持って司令官さんのところへ帰ります。

 

「ありがとう」

 

お礼を言いながら、司令官さんは青葉からカップを受け取ります。一口飲んで、小さく吐息。その横顔は久しぶりに見たせいでしょうか、いつも以上に凛々しく思えてしまいます。思わずドキリとしてしまう、青葉好みの表情。カメラに収めたいですがここは我慢。

 

青葉が手近にあった椅子に座り隣に寄ると、こちらを向いて微笑みました。

 

「久しぶりだね」

 

 もう一度、そう言いました。ええ、本当に久しぶりです。

 

「青葉が、全然会いに行かなかったからですね……」

 

 歪な笑みを浮かべながら、目を逸らし、言葉を続けます。

 

「その……青葉のせいで――」

 

「それは違うよ」

 

 司令官さんが言葉を遮りました。

 

「青葉が何も気にすることはないよ。……とはいっても、そこで気にしちゃうのが青葉なんだろうけどね。そういう悩まなくていいところで悩んでしまうのは、青葉の優しさなんだろうね」

 

「違いますよ。ただ、臆病なだけなんです」

 

 ゆっくりと首を横に振ります。それだけで終わろうとしたのに、いつもはそれだけで済ましていたのに、今日はなぜか言葉が続いてしまいました。

 

 きっと、あなたの瞳がとてもまっすぐだったから。

 

「青葉、顔色を伺っちゃうんですよね。拒絶されるのが怖いんです。だから、その思い悩みもただの心の弱さからくるものなんです」

 

 楽しいことは好きです。誰かと楽しく話すこともできます。だけどそれまで。それ以上一歩踏み込むことが、青葉にはできません。上っ面の浅い関係が一番、心地いいんです。だってそれなら拒絶されても、深く傷つかないですから。お別れしても、これっきりになってしまっても、悲しまなくていいですから。

 

思わず暗い表情をしてしまう青葉に、司令官さんは作業の手を止めて、その手で青葉の頬を撫でます。いつもの右手じゃない、左手。辛いけれど、やっぱり嬉しいです。

 

「だけども……青葉はそのことをボクに話してくれた。拒絶されるかもって思っただろうけど。それが……ボクには嬉しいよ」

 

 ああ、やっぱりこの人は受け入れてくれた。その優しさが嬉しく、そして愛おしいです。きっとこの人なら、青葉のどんな深いところを見せても受け入れてくれることでしょう。だけどその優しさに甘えてしまっては、いけません。だって、大切に思う気持ちが大きくなると同時に、青葉の悲しみがどんどん深くなってしまうから。

 

 今が幸せであるほどそこに固執してしまう。未来へと歩むことなく、今への気持ちが深くなるほど壊れてしまった時の反動が大きくなってしまうことに怯える。

 

もうあの夜明けの感情は……味わいたくない。

 

 青葉がうつむいていると、司令官さんは小さく呟きます。

 

「ボクも、勇気を出そう」

 

あのクリスマス・パーティーの夜と同じ言葉

 

 紙袋の中をガサゴソと。小さな箱を取り出しました。手のひらサイズの、立方体。革製のいかにも高級そうな箱。

そして箱を開き、青葉の前に差し出します。

 

「これを、受け取ってほしい」

 

 それは指輪でした。小さなサファイアの埋め込まれたリング。深い蒼の石がキラキラと輝いています。だけども、なんでこれを青葉に? なにか……ありましたっけ?

 

 理由がわからず首をかしげていると、司令官さんは視線を逸らしたり、小さく咳ばらいをしたりと挙動不審です。だけども何度か頷いた後、一つ一つ言葉を選ぶように口を開きました。

 

「青葉、ボクは青葉が好きだ。だから、結婚……してほしい」

 

「……え?」

 

 言われた言葉の意味が分からず思考がフリーズ。一秒、二秒たってようやく理解し……

 

「ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

 思わず叫びました。喉の奥から、目を見開いて。思いっきり。

 

 いや、え、血痕? 事件ですか。……じゃなくて、結婚? ケッコン? カッコカリじゃなくて? 聞き間違いじゃないですよね? そもそも、

 

「唐突すぎません!?」

 

「唐突も何もだいぶ前から好意は出して……。え、衣笠からバレバレって言われていたんだけど……気づいてなかった?」

 

 困惑する司令官さん。え、ガサは気づいていたの? それなら教えてよ!

いやいや、でもでも

 

「わかんないですよ。もっと主張してください!」

 

 勢いに任せて理不尽な怒りをぶつけてしまいます。というか、

 

「青葉と司令官さん、お付き合いしてないですよね? いろいろすっ飛ばしすぎじゃないですか?」

 

 ツッコミをいれますが、問題はそこではないですね。司令官さんが青葉のこと好きって、それって両思いだったってことですか。とても嬉しい、とても嬉しいですが……。

 

「確かにその通りだね。色々と急いてると思うよ。本当はじっくりと関係を勧めていくべきだと思っているし。付き合って三年くらいかけて切り出すべきことかなと思うよ」

 

 そこまで妙にきっちりした計画たてられていると、それはそれで重い気がしますが……

 

「だけど、春になればボクは異動になってしまうから……その前にどうしても伝えたかったんだ。受け取って……くれないかな?」

 

「……っ」

 

 ――なんで、素直に喜べないのでしょう。

 

 一瞬にして心は冷静さを取り戻し、思わず目を逸らしてしまいました。司令官さんからのプロポーズ、それは夢にまで見た……いえ、夢以上のステキな言葉。だけれどもその言葉が青葉の心に影を落としてしまうのは……。

 

 ……ああ、それはきっと。

 

「はい……青葉には、受け取れません」

 

 青葉も、司令官さんのことを愛しているから……。

 

 ゆっくりと首を横に振ります。

 

「そっか……」

 

 視線を上げれば司令官さんの悲しそうな表情。胸の奥がキュッと締め付けられ慌てて弁明します。

 

「あ、いえ。決して司令官さんが嫌いなわけじゃないですよ。むしろ好きというか……両思いで嬉しいです……!」

 

 慌てすぎて余計なことまで口走ってしまい、気づいて赤面。つられて司令官さんも顔を赤くして、二人の間に初々しい変な空気が流れてしまいます。

 青葉がコホンと咳ばらいをして仕切り直し。

 

「怖いんです。青葉は、変わってしまうことが」

 

 口角は吊り上がっていますが、眉をひそめどこか自嘲するような表情で青葉は語ろうとします。言葉が、なかなか思うように出てきませんが、喉の奥につっかかったものを取り除くようにゆっくりと、心の内をさらけ出していきます。

 

「司令官さんと今まで一緒に過ごしてきて、とても幸せでした。だけど異動になるというお話を聞いたとき、共にいることができくなってしまう。それが寂しいと思うと同時に、怖いと思ってしまいました。そして……司令官さんが右腕を失ってしまったとき、もうその手で撫でてもらえないと思った瞬間、もう戻らないものができてしまった瞬間、それまであった今まであった幸せが、心が、一気に冷たくなるのを感じたんです。変化は……青葉の心を苦しめるんです」

 

「だけど、変わることは悪いことばかりじゃない。それに幸せは未来にだってあるはずだよね?」

 

 司令官さんの意見はもっともです。何も悪いことばかりではありません。ポジティブなものだって存在します。幸せだって、なにも今ばかりではない。だけど……

 

「だけどいつか終わりは来てしまうんです。緩やかな衰退を経て。それを迎えるのが、今の幸せがずっと続げばと願っている青葉には、何よりも怖いんですよ。とても、臆病なんです」

 

 青葉のもう一つの臆病。それを司令官さんに告げていきます。考えすぎだって言われるかもしれません。でも青葉は……

 

「青葉は、一度終わりを迎えています。そして同時に多くの終わりを見てきました。そうなると、それまで楽しかった思い出が、全部悲しみとなって青葉の心を深い群青の底に沈めようとしてくるんです。そんな、これっきりの感情がたまらなく怖い……」

 

 うつむき、目をつむります。まぶたの裏に浮かぶ青葉の、船としての記憶。

 

 どんなに時が経とうとも決して変わることのない群青の悲しみ、楽しかった思い出が、もう戻らないものだと感じた時の苦しみ、寂しさ……。

 

「だから、それは受け取れないです。あまりに幸せすぎて、いつか変わってしまう悲しみにしたくないですから」

 

 そうとだけ告げて、青葉は椅子から立ち上がります。予想外のことがあったとはいえ、自分の思いを告げられた。それで満足です。それどころか、司令官さんの思いも聞けて、青葉にはもったいないくらいの出来事でした。ガサには感謝しないといけませんね。

 

 執務室を出ようと扉の方へ向かう青葉。その手を掴まれ、引き留められました。

 

「放してください」

 

「それは嫌だ。この手を放してしまったらもう、二度と青葉とは一緒にいられなくなってしまう」

 

 振りほどこうとしますが、上手く力が入りません。はやく、早くここから出ないとまた、感情が……。

 

「ダメなんです青葉は、司令官さんと一緒にいれないです。これ以上傷つきたくないんです。それに、迷惑をかけてしまいますからその腕だって……昇任だって……」

 

「……っ! そんなの関係ない!」

 

 語気を強めた司令官さんの言葉。ああ、この人はどこまでも青葉のことを大事に思ってくれています。

 

 だけど、だけど青葉は……。これ以上一緒にいたら、もっと大きな幸せを感じてしまったら、いつか、いつかくる悲しみの群青に怯え続け、純粋な気持ちを抱き続けることができなくなってしまいそうで。

なにより、その腕が青葉の罪を意識させてしまいます。あまりに自分勝手なことです。だけども、青葉の気持ちが歪んでしまいそう。

 

 だから……

 

「あなたのことが好きな私のままでいさせてよ!」

 

 青葉はヒステリックに叫びます。とてもワガママで自分勝手な言葉。自分が嫌いになってしまいそう。

それと同時に、司令官さんの手をはらいました。

 

 ドアノブに手を駆けようとして、しかし、司令官さんに肩を掴まれたかと思うと、身体を半回転させられます。扉に背を向け、司令官さんと向き合う形に。

 

 司令官さんの顔を見ていると、気持ちが溢れてきそうになってしまい、目を逸らします。それでもかまわず彼は言葉を紡ぎました。

 

「青葉は変わってしまうのが怖いって言っていたよね。だから今の幸せを大事にしたいって。それは、ステキなことだ。だけどボクは未来にある幸せも掴みたい。たとえどんなに変わってしまっても、変わらないものを抱いて。ボクの気持ちは変わらない。そして変えたくないものもある」

 

とても真っ直ぐで強い言葉。

 

一呼吸置いて続けます。

 

「青葉、君と一緒にいることを、ボクは変えたくない。キミといる幸せをボクは変えてしまいたくない。そのためならどんな努力だってするさ。もちろん、君が怖がっていることについても」

 

「ダメです……ダメなんです……。青葉はあなたを幸せにできません。青葉の隣で幸せには……なれないんです」

 

それでも青葉は言い返します。大切な人をこれ以上不幸にしたくない。

 

それなのに司令官さんは、人の気持ちも知らないで自分勝手な主張ばかり。青葉を幸せで満たそうとしないでください。

 

「それは青葉が決めることじゃない。むしろボクは、青葉と一緒にいれないことの方が不幸だ。そのうえでボクはキミと一緒に未来にある幸せを掴みたいんだ。ねえ青葉、悲しいのは、苦しいのはこれっきりにしよう」

 

 ――これっきり。青葉が嫌いな感情の言葉。だけど司令官さんのそれは優しい感情の言葉。

 

言われ、思わず顔を見てしまいました。それまでの真面目な表情とは打って変わって柔らかい微笑みを。だけどもその瞳はとても力強く青葉を見つめています。

 

「だから……君の心を沈めてしまう、どこまでも広がる群青を一緒に超えていこう。ボクと一緒に未来の幸せを求めるのは嫌……かな?」

 

ちょっとだけ困ったような笑顔で。そんな表情、ズルいです。そんな顔をされたら青葉は、青葉は……。

 

 差し出された手。その瞬間、青葉の心は決壊を迎えました。

 

「うっ、あ、あぁ……。ああぁぁぁ……!」

 

 うめくような嗚咽を漏らしながら、ふらふらと。司令官さんに近づきます。そっと彼の背中に腕を回し抱き着いて、そして……。

 

「ああああぁぁぁぁぁっっっ――! 司令官さん、司令官さんっ! 青葉も、司令官さんといたいです。離れたくありません! これっきりは、嫌なんです!」

 

 泣き、喚き、頬に水が流れるのを感じました。司令官さんの背中を掴む手に力を込めます。シャツをギュッと握ります。

 

 嫌です。ずっと一緒がいいです。あなたに対する気持ちは変わりません。そして、青葉だって変わりたくありません。

 

 そんな青葉を、司令官さんは優しく抱きしめ返してくれました。左手だけで。右手は、右袖はだらんと垂れ下がったまま。

 

 それがとても悲しくて、青葉の心を締め付けて、苦しめて、群青に沈めようとしてきます。

 

 だけどもそんなことは構わないと言わんばかりに、司令官さんの抱擁はとても暖かいもの。それが余計に青葉の心を溢れさせます。

 

「ずっと、ずっと苦しかったんです。どんなに司令官さんが許してくれても、その腕を見る度に青葉は思い出してしまいます。いつも撫でてくれたその手が無くなってしまったことが、青葉の胸を締め付けるんです! 気持ちが、歪んでしまいそうになるんです! 強く……ないんですぅ……」

 

 それは青葉の罪の証。どこまでも、いつまでも青葉の心を沈める深き群青。

 

「だから……青葉のはまだ……無理なんです。それを受け取ることが、怖いんです。受け取る資格が……ないんです。自分自身が、許せません」

 

「……そっか。それはきっと、いくらボクが赦しの言葉を並べても、手を引いても解決にはならないんだろうね」

 

青葉は頷きます。これは……青葉の問題。青葉の心の弱さによるもの。

 

「未来に進むための一歩が……踏み出せないんです。司令官さんと一緒に歩き出すことが、できないんです」 

 

「なら待ってるよ。そして青葉が自分を許せるようになったとき、一歩を踏み出せるようになったとき、もう一度聞いてもいいかな? もちろんその間でもボクは、何度でも青葉に言い続けるよ。ボクの変わらない気持ちを」

 

「はい……」

 

 嗚咽交じりに青葉は頷きます。司令官さんは待ってくれると言ってくれました。

 

変わらないと言ってくれました。その気持ちがとても嬉しくて、応えられない自分が悔しくて、だから……今できる精いっぱいを司令官さんに伝えます。

 

「司令官さん」

 

 青葉は司令官さんと抱擁したまま、顔だけを離します。そして少しだけ背伸びをし、彼の顔に近づきました。

 

「君の幸せを守れなくて……ごめん」

 

「申し訳なさそうの顔、しないでください。青葉はたくさん幸せを貰いました。青葉が勝手に今に固執して立ち止まっちゃっただけなんです」

 

心臓が高鳴ります。司令官さんに聞こえてしまいそうなほど強く。

 

頬が熱いです。だけど今はもう、隠しません。

 

「でも、司令官さんに少しでも追い付きたいから、未来にある幸せを掴むため歩き出せるよう、今できる精いっぱいですけど、青葉の変わらない気持ち。青葉も……司令官さんのことが――」

 

 彼の唇に、自身の唇を近づけました――

 

 

 

「おかえり、朝帰りとはやるわね」

 

 日が昇りかけの隊舎、窓から光がほんのりと射し込んで廊下を照らします。青葉は自室に戻ってくると、すでに起きていたガサが出迎えてくれました。口では茶化しながらも柔らかい、包み込むような微笑みを浮かべています。

 

 彼女はポンと青葉の肩を叩きます。その後、何があったかは聞かず、ただ優しく抱きしめてくれました。

 

 その温かさに、出し切ったはずの涙が目じりから溢れだしてきてしまいます。

 

「うぅ……、あ、あぁ……ガサぁ、青葉は……やっぱり弱いです……」

 

「よく頑張ったね。うん、大丈夫。青葉は弱くないよ。……ちゃんと向き合ったんだから」

 

 優しく背中をさすってくれるガサの言葉。先ほどまで心は確かに幸せを感じていたのに、だけどやっぱり何もかも、深い群青の悲しみに飲み込まれていきます。どうしようもない孤独感。

 

「ガサぁ、強く、なれるかなぁ……? 歩き出せるように……、うっ……もう一度、今度はちゃんと、あぁ……応えられるように……なるかなぁ」

 

「うん、大丈夫。ちょっとずつ強くなっていこう」

 

 ガサの抱擁は、どこまでも温かったです。

 

 

 

 あれから時間はあっという間に過ぎて、気づけば春。

 

「ホントに、行っちゃうんですね」

 

 段ボールだらけの執務室。司令官さんはほとんど物の残っていない机で書類を書いていました。結局司令官さんとはあれから、無難な会話しかすることができませんでした。

 

「そうだね……。今週末には引っ越しだよ」

 

「次の異動先って――」

 

「新しく設立される広報室、だよ。左遷……っていう扱いなんだろうね。ま、この腕だし恩情をかけてもらった方なのかもだけど」

 

 力なく笑います。

 

 司令官さんは今度、マスコミの対応と艦娘のことを世間にもっとよく知ってもらうためという名目で新設される広報室の室長になるそうです。以前ガサが話していたものですね。

 

そこは鎮守府が身近にない、内陸にあるそうで……つまりは鎮守府勤めの青葉とはもう関わる可能性はないということ。

 

 そのことを考えると、自分で断っておきながら後悔の念がとても強く、青葉の心を蝕みます。ギュッと下唇を噛んでしまいます。

 

「ねえ青葉、青葉はまだ……変わらない? 変えたく……ない?」

 

 不意に司令官さんが問いかけてきました。

 

青葉の、司令官さんに対する気持ちはまだ変わりません。やっぱり、あなたのことが好きです。そして、共にいたいという気持ちも……。

 

 だけどどんなに変えたくないと思っても、もう司令官さんとは離れ離れ。結局青葉の心も、この数か月で強くなるはずもなく、いまだ彼のがらんどうとなった右袖に目を向けると、胸が苦しくなってしまいます。自分のことを許せなく思ってしまいます。心が、群青に沈んでしまいそうです。あれだけ未来にある幸せを掴もうとしても、歩き出せていません。

 

 だけど一つだけ、変わったことがありました。いつもなら適当な笑みを浮かべ誤魔化していたこの状況。今はもう……偽りなくさらけだせます。

 

「はい……青葉は今も、司令官さんのことが好きです。変わりません、変えたくありません」

 

 力強く、まっすぐ彼を見つめ、頷きました。

 

 すると司令官さんは嬉しそうに微笑みを浮かべます。そして立ち上がり、一枚の紙を青葉に差し出しました。

 

「これは……?」

 

「もしよければ、申し込んでみてほしい」

 

 その紙には『広報室勤務の艦娘募集についての通達』と書かれていました。つまりこれは、司令官さんと一緒に広報室で働く艦娘を募集しているというお知らせ。

 

思わず司令官さんの方を向きます。

 

「言ったよね。一緒にいるためならどんな努力もするって。本来は各鎮守府から選抜された艦娘が来る予定らしいけど、無理言って募集枠を作ってもらったよ。隻腕の英雄の名前も、使ってみるもんだね」

 

 申し訳なさそうな、だけどどこかイタズラっぽい苦笑を浮かべる司令官さん。

 

 募集の枠は一人だけ。つまりは全国の鎮守府から一人だけ、司令官さんのいる広報室に行くことができる。どれだけの募集があるかは分かりませんが……。

 

でも、青葉にはこれ以上ないくらいの自信がありました。

 

 きっと以前でしたら簡単に諦めていたことでしょう。だけど今は変えたくないものがあります。これっきりは、嫌ですから。

 

 だから青葉は……、

 

「青葉、やっぱり今はまだ、無理そうです。だけどまた、今度はもっと強くなります。その時は司令官さんの気持ちを……聞かせてくれますか?」

 

「何度でも。ボクの想いにこれっきりはないからね」

 

 司令官さんは優しく頷いてくれました。それから青葉の頭を撫でてくれた手は、変わらず暖かかったです。

 

「青葉、もう一つ君に渡したいものがあるんだ。この前のは断られちゃったけど。それでもせめて、贈りたいから」

 

そう言って司令官さんは青葉に小さな箱を差し出しました。あのときとは違う箱ですが、何が入っているかは容易に想像ができます。

 

「ボクのワガママを聞いて貰って、いいかな?」

 

「はい、聞かせて……ください。青葉に応えさせてください。」

 

今度はちゃんと、受けとることができました。

 

――そうして司令官さんはあっさり異動となりました。離れ離れになってしまいましたけど、青葉の心は群青に飲まれることはありません。

 

 だって……

 

「この気持ちは……絶対に変わらないですから」

 

 胸に手を当て、微笑みます。もう片方の手に、広報室への異動願いを握りしめながら。

 

未来にある幸せのために、歩き出します。

 



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雨夜に咲いた青い花

C98 にて頒布予定だった作品。pixivにも投稿していますが、こちらでも
青葉がお仕事で出会った海自のエリートに言い寄られてしまいます。ですが青葉には心に決めた人が……。そんな、ラブコメ的話になります。


 ――プルルルルルルルルルルル!

 

 

 嫌な予感が電話のベルと共にやってきました。

 

「はい、こちら艦娘広報室――」

 

 受話器を取ったのは室長である司令官さん。周りの皆さんは構わず自分の作業を続行しています。

 ……青葉を除いては。

 

「鳳翔さん、その花は何て名前なんですか?」

 

 花瓶に花を生ける鳳翔さんと雑談する体を装いながら、青葉はジッと、司令官さんの声に耳を向けていました。

夏真っ盛りの八月、クーラーの効いた涼しい室内のはずなのに、手のひらがじっとりと汗ばんでいます。

 

「これはゼラニウム、ベゴニア、スターチスね。花言葉はそれぞれ『予期せぬ出会い』、『親切』、『変わらぬ思い』よ」

 なぜだか司令官さんの出た電話に、胸のざわめきが止まりません。きっと彼の声が普段よりも低いから、眉間にシワが寄っているから。

 ごめんなさい鳳翔さん。話をほとんど聞いていませんでした。

 

「はい、はい。……わかりました。調整をかけてみますね」

 

 口調こそは丁寧に、そう言って司令官さんは受話器を置きました。ガチャリという音が広報室に響きます。

 と同時にふー、と司令官さんが深いため息を一つ。とても深く、重いです。それだけで電話の内容がどんなものだったか簡単に想像できてしまいました。

 

「みんな、ちょっと聞いてくれないかな?」

 

 司令官さんは声を上げました。皆さんの作業していた手がピタッと止まります。同時に視線は彼の元へ集中。もちろん青葉も。

 

 司令官さんは一度青葉たちの方を見まわした後小さな咳払い。どんな話が来るのか、青葉はゴクリと固唾を飲みます。

 

「今度、海上自衛隊の幕僚幹部が鎮守府の視察をしたいという申し出があった。その対応にこの広報室が当たることになったから」

 

 うわぁ……嫌な予感はこれでしたか。青葉は心の中でげんなりします。たまにあるんですよね。畑は違えど、同じ海を守る立場として海上自衛隊の人たちが鎮守府に興味を持っているという話が。そして見学したいっていうお願いが。

 他所の人を案内するというだけでプレッシャーなのに、お偉いさんの相手というのは更に気がのりません。絶対にちょっと失敗しただけで小言を言われたり、後でクレームを入れられるに決まっています。

 

 それは皆さんも同じようで、隠すことなく表情に面倒くさいがにじみ出ています。普段温厚な鳳翔さんや鹿島さんですら、渋い表情をしていました。

 

「はぁ? なんでそんなことをしなくちゃいけないのよ。その鎮守府で対応しなさいよ!」

 

 そんな中でやっぱりというか、司令官さんの言葉に真っ先に文句を言ったのは霞さんでした。彼女は机をバンッと叩きます。

 

「そーだそーだ」

 

 那珂さんも同意を示しました。青葉も頷く形で皆さんに同調します。

 

 それと共に、視線は司令官さんの右袖、空っぽに揺れるソレに向けました。事故で無くなってしまった右腕。

 

「室長さん……」

 

 鹿島さんも不安を浮かべた表情。そこには司令官さんを気遣うような雰囲気が込められていました。

 なぜ青葉たちがそこまでしてお偉いさんの対応を嫌うか。それもそのはず、前回青葉たちはそのお偉いさんの対応で嫌な目にあわされたからです。

 

 あの時の相手はどこかの地方議員だったはず。広報室内での対応でしたが、その議員の秘書がとにかく酷かったのです。青葉たち艦娘に対するセクハラはもちろん、その後の接待まで求めてきました。

 それどころか、見かねた司令官さんが注意したら腹いせに司令官さんの隻腕をなじり、あまつさえ上層部を通じてクレームを入れてきたんですよ!

 

 そのせいで司令官さんは酷く叱られたことを、ここにいる皆さんがよく知っています。思い出した今でも、胃がムカムカとしてくるほど。普段人に対して怒ることのできない青葉でも、明確に怒りを露にするほどでした。

 青葉にとって初めてのことだっただけに印象が強く、嫌な気持ちしか出てきません。きっと皆さんも同じ感情だと思います。

 

 ピリピリとした空気が広報室の中に充満。

 そんな中で、落ち着いてと冷静な口調で鳳翔さんが言い放ちました。手には花を持ったまま。確かゼラニウムでしたっけ? 花言葉は……忘れてしまいました。

 

 まるで音が存在しなくなってしまったかのように、一瞬にして静かになる広報室。この迫力はさすがベテランさんと青葉が感心していると、鳳翔さんがスッと司令官さんに対して正対します。

 

「室長、あの世界にいる人が全員、ああいう方ばかりというわけでは決してありません。ですが私たち艦娘広報室という部隊はまだまだ若輩です。あまりに不当な扱いを受けることはこれからも多々あります。それでも……」

 

「それでもやるよ。それがボクの仕事なんだから。なにより、みんながこの前みたいなことにならないようにするために、もっと艦娘について理解してもらわないといけないんだから」

 

 鳳翔さんの問いかけに、司令官さんはまっすぐ答えました。一点の曇りもない綺麗な眼差しで。あまりの眩さに青葉の頬が思わず熱くなります。

 鳳翔さんは目をつむります。青葉は思わずゴクリと固唾を飲み込みました。張り詰めた空気が、妙な緊張が漂いました。

 一呼吸。

 

「わかりました。それなら私たちも全力で当たらせてもらいます」

 

 ニコッと微笑む鳳翔さん。一瞬にして緊張した空気が緩みます。ふぅと青葉も大きく息を吐きました。

 それから、鳳翔さんの言葉を起点に、広報室の皆さんが一斉に動き出しました。

 

「まったく、上司にそんなこと言われたら私たちは断れないじゃない」

 

 ニヤリと笑いながら霞さんは椅子に座ります。それからパソコンと向き合いながら一言。

 

「その代わり、今度また同じような人が来たら、相手のこと蹴っ飛ばすからね」

 

「那珂ちゃんも加勢するよ」

 

 虚空に拳を突き出してシャドーボクシングをする那珂さん。

 

「それは頼もしいね。だけどそうならないように、ボクも頑張るよ」

 

 司令官さんが苦笑しながら、だけどどこか嬉しそうに肩をすくめて答えます。彼の言葉に、霞さんは満足そうに頷きました。

 

「それなら早速、計画案を作成するわ」

 

「那珂ちゃんは鎮守府と調整するよ」

 

 霞さんはパソコンのキーボードを叩き、那珂さんは受話器を取ります。

 

「おそらく当日は鎮守府の方で食事を取られますよね? それでしたら各種申

 請についてはやっておきます」

 

「それでは鹿島は、もう一度海上自衛隊の方と皆さんの計画で調整を図りますね」

 

 鳳翔さんは自分の席に戻ってパソコンを操作します。鹿島さんも他の皆さんと言葉を交わしながらメモを取り、それを基に受話器を手にしました。

 皆さんあっという間に各々の仕事を始めてしまいました。やる気が溢れているのが肌で感じます。それでいてとても楽しそう。すごく、ステキな空間だと心の底から感じました。広報室に勤務していて良かったなと改めて思います。

 

 こうしちゃいられません。青葉の方も自分の仕事をしようとパソコンと向き合って……

 

「はて?」

 

 思わず首をかしげます。青葉は……何をしたらよいのでしょう?

 広報室での青葉の仕事は取材係。簡単に言ってしまえば現場に行って、その情報をまとめるのが仕事。つまりは現場に行かなければ話が始まらないのです。

 

 皆さんが事前準備のために働いている中、青葉は一人スタンバイ。手持無沙汰になってしまいました。なんとなく視線は司令官さんの方へ。

 

「あ……」

 

 目が合ってしまいました。なんでこういう時に限って……、うぅ……気まずい。何か、何か言うことは何のでしょうか。

 

「先ほどの言葉、カッコよかったですよ……!」

 

 何を言っているんですかっ! 慌てるあまり本心を口に出してしまって恥ずかしいです。

 

「ん、ありがとう……」

 

 司令官さんも面と向かって言われたのが意外だったのか、目を見開いたかと思えば、恥ずかしそうに視線を背けてしまいました。

 

 青葉と司令官さんの間に微妙な空気が流れます。いつまでこの状態が続くのだろうと思っていましたが、案外すぐに壊されました。

 

「こーら、仕事中にイチャイチャしないで。クーラーが壊れたかと思ったじゃない」

 

「し、してません!」

 

 霞さんが半眼でこちらを呆れたように見てきたので、青葉は反論します。

 

「はいはい」

 

 投げやりに返されました。うぅ……。でもおかげで気まずいのはなくなったので、少し感謝です。

 司令官さんの方も改めて青葉の方を向くと、小さく咳払いします。

 

「えっと……青葉には当日の対応をしてもらいたいんだけど」

 

「うえぇ……」

 

 勢い余って変な声が出てしまいました。

あぁ、嫌な予感の正体はこれでしたか。

 

 だけども考えるまでもなく、青葉は取材係ということで鎮守府に出向いている回数はここにいる誰よりも多いです。案内や説明も脳内でシミュレートした結果、多少の予習は必要ですが問題なくできそう。

 

 とはいえ相手はお偉いさん。実際に対面したら緊張で上手くできるかどうか。今から不安で嫌な汗が流れ出てきてしまいます。

 

 普段お調子者みたいに見られやすい青葉ですが、その内ではすっごい不安を心に抱いています。それこそ群青に塗りつぶされてしまいそうなほどに深い不安を。

 

 そんな青葉に、司令官さんは優しく微笑みました。

 

「青葉がそういうの苦手なのは知っているよ。だけどもだからこそ成功したら、少しは自信になってくれるんじゃないのかな? 当日はボクも一緒だから心配しなくてもいいよ」

 

「司令官さん……」

 

 青葉のことを考えてくれているんだっていう、司令官さんの優しさや思いやりが本当に嬉しいです。

 なにより、不安の真っただ中で大好きな人と一緒にいれることほど心強いものはありません。

 青葉は小さく頷きました。

 

「ん、大丈夫ならよかった」

 

 嬉しそうなその微笑みに、思わず見とれてしまいます。青葉の心が温かくなるのを感じました。

 

「あー、いいな~。デートだ」

 

「違いますって!」

 

 茶化す那珂さんに青葉は力いっぱい否定してしまいました。

 青葉は司令官さんが好きです。司令官さんも青葉を好きだと言ってくれます。

 だけどまだ、素直に好きの形を明確にすることができません。お互いのの気持ちは知っているのに、今までと変わらない両片思い。それはきっと青葉が弱いままだから。いつも群青色の不安を抱えているから。……努力します。

 

「そういうわけだから、青葉は霞の計画作成の手伝いをしてほしいかな。当日どういう経路で回って行くかは、青葉に任せるよ」

 

「了解しました」

 

「まったく、なんで私があんたのデートコース作成を手伝わないといけないのよ」

 

「だから違いますってば!」

 

 口では文句を言いながらも表情はニヤケている霞さん。完全にからかいに来ている彼女に、青葉は叫ぶように否定しました。

 

「それにしても……」

 

 誰にも聞こえないほど小さな声で呟きました。

 まだ胸の中に嫌な予感が残っているのは……なぜでしょう。

 

 

 

 皆さんの協力のおかげで、お偉いさんへの対応準備は滞りなく終わりました。鎮守府の方も快く受け入れてくれて、あとは青葉がつつがなく終えるだけ。

 

 ……そんなわけで当日。

 

「うぅ……やっぱり緊張しますよ」

 

 鎮守府の警衛所に設置された面会室。パイプ椅子に座りながら青葉は胸を押さえます。

 心臓がバクンバクンと大音響で鳴り響き、隣に座っている司令官さんにまで届いてしまいそう。口の中もカラカラで、それなのに冷や汗はだらだらでと、始まる前から心が脱水症状になりそうです。

 

「噛んでしまったらどうしましょう。……あぁ、失礼なこととか、えっと……案内する際の文言と……もう一度計画の確認を……」

 

 口を開けばネガティブな言葉が自分でもビックリするくらいに溢れ出てしまいます。それが焦燥感を余計に煽りました。アワアワともう、何が何だか分かりません。

 カンペを読み返してもまともに頭に入ってこず、それがより焦りにつながってしまうという悪循環。

 

「緊張してるね。大丈夫だよ」

 

 そんな青葉を見かねてか、司令官さんがそっと手を握ってくれました。ちょっとゴツゴツした男の人の手。

確かに感じるぬくもりが愛おしく、青葉のがんじがらめになった緊張をほぐしてくれます。

 

 だけど同時にその温かさが青葉を落ち着かなくさせました。だって好きな人に公然と手を握られているんですよ? 平静ではいられません。

 

「司令官さん、恥ずかしいです……」

 

 小声で耳打ちをします。そばにいた鎮守府の職員さんが、生暖かい目でこちらを見ていて恥ずかしい。夏の暑さではない熱さが頬に宿ります。こればっかりはクーラーでは冷ませません。緊張とは違う汗が首筋を伝いました。

 

 しかし司令官さんはそんなことお構いなし。むしろちょっと嬉しそうに微笑んでいます。

その表情は……ズルいです。そんな顔をされてしまってはもう、離せなくなっちゃうじゃないですか。

 

 そうは思いつつも湧いてくる羞恥から気持ちを逸らそうと、青葉は新しい話題を振るため沸騰寸前の頭を働かせます。

 そこでふと、気になることを思い出しました。

 

「そういえば司令官さん、先ほどは誰と話されていたのですか?」

 

 鎮守府に到着してすぐ、司令官さんは誰かと電話でお話をしていました。その内容を青葉は聞いていませんでしたが、その時の司令官さんの表情がとても暗く、普段の優しい司令官さんと比べて怖いとすら思えるほど。緊張でそれどころじゃなかったとはいえ、ずっと心に引っ掛かっていた出来事でした。

 

「あー……、それは……」

 

 司令官さんは明後日の方を向いて言葉を濁します。言いたくないことだというのはとてもよく伝わりました。だからこそ余計に気になってしまいます。

 

 それは単なる好奇心だけではありません。青葉は司令官さんが大事です。暗い顔なんてしてほしくありません。できることならなんだってしてあげたい。

 

 だから司令官さんがどういう思いで隠し事をしているのか、気になるのです。青葉を気遣っているのか、それとも……。

 ちょっとイジワルな聞き方をします。

 

「青葉に、言えないことですか?」

 

「その言い方はズルいかな……」

 

 困ったような笑みを浮かべ。自分の右側、失ってしまった右腕に視線を向けます。

 一呼吸置いて。

 

「今は言いたくない、ことかな?」

 

 静かに、言いました。

 言いたくないことと、言いました。今はという言葉も付け足して。

 それはつまり、いつかは言ってくれることなのでしょう。それだけで聞ければ今の青葉には十分でした。

 

「それなら、いつかちゃんと教えてくださいね。青葉、司令官さんのためならなんだってお手伝いしますから」

 

「ありがとう。ボクにはもったいないくらいの言葉だよ」

 

 優しく微笑む司令官さん。やっぱり青葉は、この表情が一番好きです。

 

「だからこそ、ボクなんかでいいの?」

 

 まるで転調したかのような唐突な問いかけ。それが意味するところは、青葉の想い人が司令官さんであることへの、本人からの疑問。思わずえぇ……と困惑を浮かべてしまいます。

 

「自分からプロポーズしておいてそれを言いますか?」

 

 かつて司令官さんは青葉にプロポーズをしています。青葉の悲しみや苦しみに寄り添うという想いを込めて、「どこまでも広がる悲しみの群青を一緒に超えようと」言ってくれました。

 

「そうなんだけどね。ただ、今は保留中だから」

 

「ごめんなさい……」

 

 だけどもその時の青葉はまだ弱くて、応えることができませんでした。だから今もこの微妙な関係。

 

「それにボクはほら、御覧の通りだから」

 

 口にして、司令官さんはひらひらと右袖を揺らします。何も入っていない、空っぽの右袖。思わず顔を曇らせてしまうほど心が締め付けられます。

 

「もし青葉がこのことに気に病んでいるのだとしたら……」

 

「司令官さん」

 

 言葉を遮ります。いつもよりも強い口調で。

 

「それ以上はさすがに怒りますよ」

 

 青葉は、司令官さんが本当に大好きで、一緒にいたいんです。そのことを、たとえ司令官さんであっても否定しようとしないでください。

 

「……ごめん」

 

 申し訳なさそうに顔をうつむかせる司令官さん。なんだからしくないです。妙に自信なさげで、なんだか青葉みたい。

 もしかしたら電話の内容が関係しているのかもしれませんが、今は言えないこと。青葉は静かに待つことしかできないです。

 

 なんだか空気が微妙に湿ってしまったので、青葉はわざとらしく声を大きくして話題を変えます。

 

「……そういえば、今日来る幹部の方ってどんな人なんでしょうね」

 

「えっとね、年はボクよりも下だね。だけど相対的な階級はボクより上の、優秀な人だよ」

 

 司令官さんは平静に答えます。だけどもそれは装ったもの。青葉の気持ちに気づいて行ってくれた、わざと。おかげで湿っぽさに心を濡らされることはなくなりました。

 一方で司令官さんよりも若くて階級も上というのがどれくらいすごいのか、青葉にはイマイチ理解できないので、はえ~と感嘆を相槌として打ちます。

 

 司令官さんは言葉を続けます。

 

「人柄も……悪くはないと思うよ。自衛官という肩書の割にはちょっと軽い感じだろうけど、それでも真面目……だと思う」

 

 ん? やけに詳しいですね。青葉は違和感を抱きます。まるで知っている人のような話し方……。

 

「――っていうのを、向こうから聞いたんだよ」

 

 なんだか取り繕ったような言い方ですね。

 青葉は司令官さんの言葉選びに不信感を覚え、半眼で見つめます。

 

「……どうしたの?」

 

 気まずそうに目線を逸らす司令官さん。何か青葉に隠していることがあるようで、気になって仕方ないです。今日の司令官さんは本当に隠し事が多いです。

 しかし以前なら判別がつかず素直に引き下がっていたでしょうが、今ならわかります。今回の司令官さんの挙動は本当に聞いてほしくなさそうなことではなく、ちょっとわざとらしく、まるで釣りでもしているかのような、こちらの出方を伺っているかのような隠し方。ズルいです。

 

 むぅ、こうはぐらかされると、なんとしてでも聞き出したくなってしまいます。

 躍起になって青葉はしつこく司令官さんに詰め寄りました。

 

「司令官さん、青葉に隠し事は無駄ですよ」

 

「おや、青葉も積極的になったね」

 

「青葉だってちゃんと強くなっているんです。今度はちゃんと司令官さんの想いに応えられるよう、少しずつ積極的にもなっていきますよ」

 

「それは嬉しいことだけど、今は仕事中だから」

 

「そうやって逃げても――」

 

「青葉……近いよ」

 

 言われてハッとします。司令官さんへの追求に熱中するあまり、気づけば距離が目と鼻の先、もう少しで唇がくっついてしまいそうなほどに近づいていました。

 

 視線の外側で、職員さんが気まずそうに視線を逸らしています。

 急激に冷静さを取り戻すのと同時に、恥ずかしさがこみ上げてきます。

 

「ご、ごめんなさい!」 

 

 慌てて司令官さんと手を放して距離を取ります。恥ずかしさのあまりパイプ椅子の上で正座して縮こまってしまうほどに。

 

「いや、うん。……嬉しいよ」

 

 いつもは恥ずかしいことを平気で言ってくる司令官さんも、今回ばかりはどう反応したらよいのか困った様子で頭をポリポリ掻いています。

 それからお互い喋ることなくただただ時間が過ぎるのを待つばかり。

 

 なんでしょう、新手の拷問のようなこの空気。大変いたたまれないです。

 やっぱり青葉には無理なのでしょうか。頑張ろうとしても空回りして、青葉だけでなく司令官さんも恥ずかしい思いをして。

 

 それまで温かかった心が群青に沈んでいってしまいそうな感覚。強くなろうと決めても、容赦なく襲ってくるこの感情に青葉はまた、飲み込まれてしまいそう。

 そんな時。

 

「大丈夫」

 

 司令官さんがそうとだけ言って、もう一度手を握ってくれました。優しい表情。青葉を悲しみから救い出してくれる柔らかさ。

 

 そうです、青葉は絶対に譲れないもの――司令官さんと一緒にいるために頑張るって決めたんです。

 

「頑張ります」

 

 小さく、だけどハッキリと青葉は口にしました。司令官さんからの返答は、優しい頷きでした。

 青葉の心に、しっかりと火が灯ったのを感じます。

 うん、いけます。小さくとも確実な決意が芽生えました。

 ……それはそれとして、やっぱり緊張はするものです。

 

「えっと、本日はようこそ……」

 

 警衛所の面会室。目の前の人を前にして、さっそく青葉の口調はぎこちないです。

 約束の時間となり、鎮守府に海上自衛隊の幹部の方が来られました。

 

 対面してみての感想は、司令官さんの言った通りの印象。二十代半ばか後半に差し掛かったくらいでしょうか。若く整った顔立ちはヤンチャっぽくありますがイケメンです。自衛官という割には細身ですが、それでもしっかりと制服を着こなしており、様になっていました。そして輝く階級章。一尉……でしたっけあれは?

 

 ですが、チャラいと表現すべきなんでしょう。長めの髪など自衛官という肩書から抱く印象と比べてやや軽そうな雰囲気もあります。ですがそこがまた、女性受けの良さそうなカッコよさなのでしょうね。写真に収めれば結構な買い手が付きそう。そんな方です。

 

 ……あ、もちろん青葉的には司令官さんの方がずっとカッコイイですよ。

 

 で、そんな人を前にして、青葉は硬くなったままでした。

 

「……はじめまして。艦娘広報室の室長です」

 

 緊張で役に立たない青葉に代わって、司令官さんが一歩前に出て左手を差し出します。うぅ……面目ないです。

 

「……はじめまして。海上自衛隊の黒沢一尉です」

 

 幹部の方……黒沢一尉も手を差し出して握手に応じました。見た目に反してとてもしっかりした立ち振る舞いなのは、少々意外でした。

 

 しかしその一方で、とても友好的なやり取りなのに、なぜだか彼にも妙なぎこちなさを青葉は感じてしまいます。まるで演じているかのような……。

 

 とはいえそれは一瞬のこと。すぐに消えてなくなり、青葉の中で気のせいということで終わりました。

 

「それにしても、隻腕の英雄とお会いできて光栄ですよ」

 

 黒沢一尉は笑顔を浮かべます。

 

 『隻腕の英雄』とは司令官さんこと。かつて民間人を救った代償で右腕を失ってしまった彼へ、世間がつけたあだ名。

 だけどその名前を聞くと、青葉の心はキュッと締め上げられてしまいます。だってその事故は青葉が関わっているのですから。

 

「その話はやめてください。単にボクの未熟さが招いた結果ですから」

 

 司令官さんがやんわりと断ります。一瞬こちらに目配せをして。きっと青葉の気持ちに配慮してくれたのでしょう。

 そして黒沢一尉も何かに気づいたような表情をした後、

 

「これは失礼しました。てっきり誉め言葉だと思っていただけに」

 

 申し訳ないと頭を下げる黒沢一尉。それだけでこの人がとてもいい人だということが感じ取れました。

 

「いえ、これは単純にボクの我がままですから。さあ雑談はこれくらいにして、行きましょうか」

 

 司令官さんが仕切り直しの言葉を述べます。

 

「ここからはウチの青葉が案内させていただきます」

 

 司令官さんの言葉と共に、青葉は黒沢一尉に正対。敬礼します。よし、汚名返上のために頑張ります。

 

「それでは最初に本部庁舎へ案内しましゅ」

 

 早速噛みました。

 気まずい空気。恥ずかしさで顔が真っ赤になります。司令官さんは変わらず微笑んでいてくれますが、黒沢一尉の方は……

 

「それではよろしくお願いします」

 

 司令官さん同様微笑んでいます。大人な対応です。すごい、ここまでいい人だと感動すら覚えてしまします。てっきりチャラい見た目だから、からかわれると思っていただけに。人は見かけによらないですね。

 

 気を取り直して青葉たちは警衛所を出ました。八月の日差しが肌に突き刺さります。一気に全身から汗が噴き出してくるのを感じ、これだけで気持ちが気だるくなって仕方ないです。ですが、今はお偉いさんの手前、ビシッと決めます。

 

「いや、暑いですね。こんな日は涼しい部屋でビールでも飲みたいですよ」

 

 ……そのお偉いさんがさっそくだらけていました。シャツの胸元でパタパタと仰いでいます。それどころか帽子を脱いで団扇代わりに。偉い人らしくない、なんだか変わった人ですね。

 

 一方の司令官さんは額に汗を浮かべても決して服を着崩すことはなく、こうしてみると対照的な印象です。

 

「室長さん、女の子誘って飲みにいきませんか?」

 

 うわ、やっぱりチャラ男でした。

黒沢一尉。うーん、ものの数分でなんだか最初の印象とコロコロ変わっている感があります。司令官さんが言う通り、本当にまじめな人なんでしょうか。今は見た目通りの女の子にだらしないチャラ男にしか見えないです。

 

「そういった話は、今は控えた方がいいですよ」

 

「……はい、申し訳ないです」

 

 ただ、下位者であるはずの司令官さんが注意すると素直に聞く当たり、悪い人ではないのは確かみたいです。

 雑談を交えながら最初にやってきた本部庁舎。そこで鎮守府司令と黒沢一尉が挨拶をします。

 

 その時の彼は道中とは打って変わってビシッと決まっていたので、人の見た目ってあてになりませんね。その様子をカメラで撮影しながら、青葉は思わず渇いた笑いが出てしまいそうでした。

 

 早々に挨拶を済ませた後、本部庁舎を出ます。

 

「さぁ、堅苦しいのが終わりましたよ。ようやく鎮守府の中を見学できる。全く、こういう格式ばったの嫌いなんですよね」

 

 外に出た瞬間、黒沢一尉が大きく背伸び。ここまで来ると、この切り替えの早さはさすがとしか言いようがないです。

 そんな彼に司令官さんはこっそり苦笑を浮かべています。青葉もうっかりつられて笑ってしまいそうになりましたが、表情筋を緊張させて堪えました。

 

「えっと……それでは鎮守府の中を案内させてもらいますね」

 

 表情をもにょもにょとさせながら青葉は先導します。後についてくる黒沢一尉と司令官さん。

 ここからが青葉の頑張りの見せどころということで、気合を入れます。見ててください司令官さん。青葉、ちゃんとやってみせますよ。

 

 そうして最初にやってきたのは工廠。多くの艤装が保管、整備されている場所。自衛隊の人と言えど見せることのできない秘密の部分はありますが、それでも種類豊富な艤装の数々を間近で見るというのは珍しいことだと思います。

 

「艤装は艦娘に合わせたほぼオーダーメイドということもあって、日々の整備がとても重要になってきます。自衛隊からしてみれば非効率なことかもしれませんが、わざわざ維持に手間のかかることをしている理由としてはやはり、艦娘との相性というものがあるからなんです」

 

 現に青葉の説明を聞きながら黒沢一尉は興味深そうに艤装を見ていました。

 

「なるほどね。なかなかに興味深いことだ。ふむふむ……」

 

 ……艤装を整備していた艦娘の方に意識が向いていた気がするのは、気のせいだと思っておきます。

 次いで艦娘たちの訓練。徒手格闘や射撃訓練など自衛隊でも行われている内容もありますが、目玉となるのはシミュレーターを使っての訓練でしょう。ドーム型の施設に入ります。

 

「最新のVR機器を使っての訓練機材になります。様々なシナリオでの訓練が可能になっていまして、実戦に近い感覚での訓練ができます」

 

 まるでゲームののような感覚で行うことのできるソレは、艦娘でなくとも体験することができ、黒沢一尉にも実際にやっていただきました。ですが想像以上に難しかったようで、何度もバランスを崩されていました。

 

「いや、難しいね。艦娘は普段こんなにもバランス力が必要な中で活動してるなんて驚きですよ。だけどキミのおかげで転ばずにすんだよ。ありがとう」

 

 ……そのたびにインストラクターをしていた艦娘に対しての接触が過剰な気がしましたが、気のせいでしょう。

このような鎮守府でしか見ることのできない光景。

 

 そこに青葉の解説を加えて案内をしていきました。と言っても基本的な教本に乗っている程度のことですが。

 それでも黒沢一尉は興味深そうに反応を示してくれるので、青葉としても一夜漬けで覚えた甲斐があったと思います。

 それに、そんな様子を司令官さんが嬉しそうに見ていてくれることが、青葉にとってとても嬉しいことでした。

 

 青葉の中で成功を噛み締めながら、午前中の案内は終ります。

 休憩兼昼食ということで、青葉たちは食堂に。今日のメニューは冷やし中華。暑い夏にはぴったりのメニューで青葉はウキウキです。

 

「そう言えば、鎮守府の方は今後の方針をどのように考えていられるのですか?」

 

 食事中、黒沢一尉が尋ねてきました。だいぶ運営に突っ込んだ内容。

 おつゆが絡んだ麺が美味しいです。

 

「ボクはあくまで広報なので、言えることは少ないですが……」

 

 司令官さんが前置きをしながら答えます。

もちっとした麺にきゅうりのシャキシャキがいいアクセントになっています。

 

「戦力を確実に増強している深海からの脅威に対して、新たな装備品の開発に着手しています。それでもやはり、過剰な戦力を持てないこの国においてそれが一番の難点でもありますが」

 

 ……ん! からしを入れすぎてしまいました。鼻の奥がツーンとします。お水お水。

 

「なるほど。実は今、海上自衛隊では鎮守府との連携を考えています。護衛艦に艦娘が一緒に乗船してもらうという計画が……」

 

 なんで細切りにした卵焼きってこんなにも魅惑的なんでしょうね。ふわっふわした食感がとても幸せになります。

 

「ともあれ、深海からの脅威に対して艦娘にばかり負担を強いてしまっているのが現状です。我々としても、少しでも助けになればと考えていますよ」

 

「そのお気持ちはありがたく受け取ります。各鎮守府の方にも伝えさせてもらいますね」

 

 青葉が冷やし中華に夢中になっている間に、司令官さんたちの難しい話は終ったようです。

 

「ふー、ごちそうさまでした。……ん?」

 

 なんでしょう、お二人の青葉を見る視線が妙に生暖かいのは。

 

「青葉、食べかけでよければ食べる?」

 

「え、いいんですか? でも司令官さん足りないんじゃ」

 

「暑くて食欲がないからね」

 

「それでも食べないとダメですよ。そうだ、夏バテ防止の物を今度作りましょう。青葉、豚しゃぶとか食べたいです」

 

 いつも通りの何気ないやり取り。

 

 だけど司令官さんはチラチラと目が泳いでいて……あ。

 

 そこで青葉も気づきました。黒沢一尉が苦笑を浮かべていることに。すっかり日常の一部になって忘れていましたが、当初は『イチャついている』なんて皆さんにはやし立てられていました。

 

 それをお偉いさんの前で見せるというとは……。もしかして、とても失礼なことをしてしまったのではないでしょうか?

 

「ご、ごめんなさい。あ、司令官さん、どうぞ自分の分は食べてください……」

 

 羞恥のあまり赤面して縮こまり、消え入りそうな声をうつむきながら発します。黒沢一尉だけでなく、司令官さんまでもが苦笑を浮かべてしまいました。うぅ、穴があったら入りたい。

 恥ずかしい気持ちが一杯で終わったお昼休憩。それでもお腹もいっぱいでやる気をチャージしたところで、午後の案内が始まります。

 

 ……と言っても鎮守府はそれほど広いわけでもなく、陸地のみでいえば外周は六キロくらいしかありません。

 進行がスムーズだったこともあり、計画よりも早く全行程が終了してしまいました。

 

 その間にわかったことと言えば、黒沢一尉に最初抱いていた軽そうという印象が核心に変わったことぐらいでしょうか。道行く艦娘や鎮守府の女性職員に片っ端から声をかけ、ナンパまがいのことをしていました。

 

 そのたびに司令官さんに注意されという、コントかと思うようなやり取りの数々。思い出すと失礼ですが、笑ってしまいそう。

 

司令官さんが言っていた真面目という印象は完全に霧散してしまっています。

 

「なるほど、ウチの基地と作りは似ていますが、案外規模が小さいんですね」

 

 黒沢一尉が感想を漏らします。完全に一応ちゃんと仕事はしているというアピールのようにしか思えなくなってしまいましたが、青葉はきちんと応対します。

 

「そうですね、海上自衛隊のように大きな装備品が必要ないので、基本的にこぢんまりしていると思います」

 

「それでもその小さい中に私の知らない世界が詰まっているのですから、この視察は大変有意義なものでしたよ。今後のウチの活動にとって、とても重要な情報です」

 

 だけどもこれは本心で言っているように感じられました。やっぱり根は真面目なのでしょうか。よくわかりません。

少なくとも黒沢一尉の表情は満足そうで、青葉の案内は成功と言えるでしょう。心にブイサインを出します。

 

「うーん、時間がまだありますね」

 

 時計を見ながら青葉は呟きます。

 

 黒沢一尉の迎えが来るまでにもう一スポットくらい案内する時間がありますが、生憎鎮守府を一周してしまい再び本部庁舎前。

 

 これほど喜んでくださるのですから、もっと鎮守府を楽しんでもらいたいという気持ちが青葉にはありました。それに、司令官さんにもっといいところを見せたいですし。

 

 どこかいいところはないでしょうか。青葉は考えます。

 

 そして一つだけ思い当たるところがありました。司令官さんにいつか見てもらいたいと思っていた、青葉だけが知ってる場所。ちょうど今回が絶好のチャンスです。

 

 だけどもそこは鎮守府や艦娘の活動とは何にも関係のない場所。そんなとこにお偉いさんを連れまわしてもいいのでしょうか。不安を覚えます。やっぱり……やめておきましょうか。

 

 ……ううん! 青葉は強くなるって決めました。不安に怯えずここは思い切って提案してみます。ダメな時はその時です。

 

「あの、もう一つだけ案内したいのですが、よろしいでしょうか? 鎮守府とはその、あまり……関係のない場所になってしまいますが。すっごく、いい場所なんです!」

 

 青葉も申し出に司令官さんと黒沢一尉が顔を合わせます。そして、

 

「私は構いませんよ」

 

「だってさ。青葉、案内してくれるかな?」

 

「はい、ちょっと歩きますがこっちです」

 

 黒沢一尉の許可が貰えたということで、青葉は早速その場所へ案内しました。

 そこは鎮守府の隅っこ。潮風を防ぐために植えられた木々の林。そこを抜けた先に青葉が目的とするものがありました。

 

「これは……」

 

「凄いね」

 

 黒沢一尉と司令官さんが同時に感嘆の声を漏らします。

 目の前に広がる景色。どこまでも広がる水平線。鎮守府の中であることを忘れてしまいそうなほどの一面の蒼。

 午後の日差しを反射してキラキラと光る水面はまるで宝石の幻影のようです。

 

「まだお昼ですけど、夕方になると茜色に一面が染まってとっても綺麗なんですよ」

 

「ステキな景色だね」

 

 青葉が楽しそうにこの場所のことを話すと、司令官さんは優しく微笑みます。青葉の好きな柔らかい表情。

 

「こんな場所良く見つけたね」

 

「たまたま鎮守府内を散策していたら見つけたんです。多分、鎮守府の人もそんなに知らないスポットですよ」

 

「それじゃあここは青葉の特別なんだね。そんな特別をボクに教えてくれて……嬉しいよ」

 

「えへへ」

 

 青葉は嬉し恥ずかしで頬を赤くさせてしまいます。この場所に、司令官さんとこれてよかった。心からそう思います。

 パシャリ。青葉はカメラで司令官さんを写します。特別な場所と特別な人。青葉にとって大切なものがまた一つでき、ポッと心を温かく灯します。

 

 その一方で、先ほどから黒沢一尉がとても静かなことが気になりました。もしかして、あまり面白くなかったでしょうか?

 心配になりながら青葉は黒沢一尉の方を向きます。すると……。

 

「――!」

 

 思わず、言葉を失ってしまいました。その表情があまりに魅力的だったので。

 潮風になびく短髪。目鼻がスッと通った線の細いイケメン。だけれども、どこか幼さの残る表情はまるで無垢な子供の笑顔を彷彿とさせるほどに輝いています。夢中になって煌めく水平線を見つめる視線の純粋さは見る者を魅了させてしまいます。

 

 それまで軽薄なチャラ男な印象を抱いていたせいもあってか、あまりに意外。ギャップを感じさせられました。

 

 写真に収めれば、さぞ絵になったことでしょう。だけど青葉は撮ることができませんでした。そうすることを忘れてしまうほどに彼の横顔に見とれてしまっていたのです。

 

「……はっ!」

 

 我に返って青葉は胸を押さえます。何ですかこのバクバクと高鳴る感覚は。それに頬が熱いです。

 なんで、どうしてと訳が分からず目をぐるぐると回す青葉。

 

「はぁ~、いや、いいものを見れました」

 

 黒沢一尉は大きく息を吐きます。その声には大満足の感情が込められており、表情も満面の笑み。

 

「青葉さん、とても素敵な場所をありがとうございます」

 

「あ、はい。どうも……」

 

 丁寧にお礼を言ってくれましたが、それにこたえられる余裕がなく、青葉は適当な相槌を打ってしまいます。

 青葉はいったいどうしてしまったのでしょう。黒沢一尉への感情が、なんだか司令官さんへの想いと似ているような……。

 

「いえ、違います!」

 

 思いっきり頭を左右に振って否定。そんなはずはありません。考えただけで、自分の心が恐ろしくなってしまいそうなほどのもしかして。

 

「最後にとてもいいものが見れてよかったですよ」

 

「それはよかったです。是非とも部隊への土産話に……いえ、これについてはご内密に」

 

「そうでした。青葉さんの特別な場所ですからね」

 

 そんな青葉の心情は露知らずといった様子の司令官さんと黒沢一尉が談笑しています。

 自分の感情が訳の分からないまま、黒沢一尉への鎮守府案内は終わりを迎えました。

 

「今日はありがとうございました。とても貴重な体験をさせていただいて」

 

 黒沢一尉は笑顔で手を差し出します。

 鎮守府の正門前。黒沢一尉の見送り。後ろでは官用車が待機しています。

 

「そう思っていただけたなら幸いです」

 

 司令官さんはそう言って握手に応じました。

 そして今度は青葉の番。

 

「青葉さんも、ありがとうございます。おかげでもっと知りたくなりましたよ」

 

「はぁ……。ありがとうございます」

 

 どう反応したらいいのかわからず、おずおずと手を取りました。司令官さんよりもスラっとした、長い指の手。だけども青葉のものとは違い、確かな硬さ。やっぱり男の人の手です。

 

「それでしたら、もしまた鎮守府を見学したいときは案内させていただきます」

 

 何気なく浮かんだリップサービスを口にします。

 しかし黒沢一尉から返ってきたのは言葉ではなく行動。

 

 グイっと手を引っ張られ、彼の元へと引き寄せられます。肩と肩が触れ合ってしまいそうなほどの至近距離。

 

 彼は、青葉の耳元で囁きました。

 

「私がもっと知りたいと言ったのは、青葉さんのことですよ」

 

 甘い、ハチミツのような声音。一瞬にして心の血糖値が跳ね上がり、心臓が高鳴ります。

 

「え……ええええええええぇぇぇぇ!っ」

 

 突然の不意打ち。あまりの驚きに青葉は手を振り払って飛び退くような勢いで距離を取ります。

 

 今、いったい何を言われたんですか? 思考が追い付きません。

 何度も黒沢一尉と司令官さんを交互に見返します。黒沢一尉はニコニコとした表情。対して司令官さんは嬉しそうとも悲しそうとも判断のつかない表情。無表情ではなく、確かに感情があるはずなのに、それが読み取れない顔。

 

「よろしければ今度、遊びに行きませんか?」

 理解の追い付かない青葉に、黒沢一尉はさらに追い打ちを仕掛けてきました。それってもしかしなくてもデートのお誘いではないですか。

 

 青葉の脳みそは機能限界、オーバーフローを起こして今にも煙が噴き出しそう。

 黒沢一尉は確かに魅力的な人だとは思います。ちょっとチャラくて女の子にだらしないけど。いい人だということは今日一日でよくわかりました。

 

 だけども青葉には司令官さんという心に決めた人がいるんです。お互いの気持ちも知っています。青葉が他の人とデートだなんて、司令官さんだって嫌なはずです。

 そう思って司令官さんの方を見ると……

 

「青葉が良ければ、行ってきてもいいんじゃないかな」

 まさかの了承されてしまいました。あまりに意外なことで、戸惑うのも忘れて硬直してしまいます。

 

「……はっ!」

 

 一拍おいて我に返ります。

 青葉さえよければと言いますが、いいわけないじゃないですか。嫌ですよ。だけども相手は海上自衛隊の幹部の人。ストレートに拒否を伝えるのは憚られます。あ、もしかして司令官さんも上位者だから強く言えないだけで……、

 

 思いかけて、違和感を覚えました。それなら鎮守府で黒沢一尉がしていたナンパまがいのことも注意できなかったはずです。だけども今回それをしないってことは……。

 青葉の心にモヤモヤが立ち込めました。

 

「どうでしょうか?」

 

 再度問いかけてくる黒沢一尉。

 ここは何としてでも当たり障りのない言い訳を探さなければと脳をフル回転。

 

「あ、勤務……! 勤務がありますから!」

 

 食い気味に答えます。青葉の仕事は広報活動。そのため多くの人が休日である日が逆に働き時だったりします。

 黒沢一尉は幕僚勤務ですのでシフト制ではなく日勤のはず。つまりは休みもカレンダー通り。

 となれば青葉とは休みが合わないはずです。本当はシフト制になるのはイベント事があるときで、通常は土日もお休みなことが多いですが、そこは黙っておきます。

 

 よし、これならさりげなく断ることができたでしょう。

 そう思っていたはずだったのですが。

 

「勤務交代しようか? それとも年次休暇を使ってもいいよ。余裕はあるはずだし」

 司令官さんが言いました。まさかの味方に背後から撃たれたような気分。その発言の意図が、青葉には全く分かりません。青葉の混乱はさらに悪化。

 

 少なくともこれで完全に退路は断たれてしまいました。

 青葉がとることができる選択肢は一つ。

 

「……はい、わかりました」

 

 ただ、頷くことだけ。必死に平静を保とうとしますが、表情が今にも曇ってしまいそう。

 

「それはよかった。日程に関しては後で伝えますね」

 

 嬉しそうにニコニコしながら、黒沢一尉は車に乗り込みました。その様子を敬礼しながら見送る青葉と司令官さん。だけども青葉は全く心が入りません。

 

 車が完全に見えなくなった後、青葉は司令官さんの方を見ます。未だ感情の読み取れない表情。

 

「ボクたちも帰ろうか」

 

 優しい言葉遣い。だけども青葉にはどこか悲しく感じてしまいます。

 ……どうして?

 その言葉を言おうとして、でも言うことができません。

 

 聞いてしまったら、青葉の心が耐えられなくなってしまいそうだから。

 ただ静かに差し出された手を取ります。黒沢一尉よりも硬く、がっしりとした男の人の手。そのぬくもりが一番のはずなのに、今の青葉には少し、痛かったです。

 

 

 

「ちょっと、どういうつもりよ!」

 

 広報室に霞さんの怒号が響き渡ります。相手は司令官さん。

 黒沢一尉への鎮守府案内が終わり、広報室に帰った青葉たち。そこで事の顛末を話した結果がこれでした。

 

「対応は問題なく終わったけど……?」

 

「そういうことじゃなくて!」

 

 キョトンとする司令官さんに、霞さんはより眉間にシワを寄せます。

 

「その黒沢一尉? ……っていう人が、青葉をナンパしておいて、なんで黙って見ているだけなのよ!」

 

「そうそう、青葉ちゃん取られちゃうかもよ? チョロいんだからさ」

 

 那珂さんまで加わって司令官さんを問い詰めています。

 

 未だ実感のわかない青葉に代わって感情を発露しているお二人。いえ、青葉はチョロくないですよ、決して。心の中できっぱりと否定します。

 

「取られるもなにも、ボクと青葉はそういう関係じゃないから」

 

 冷静に返答する司令官さん。確かに青葉と司令官さんは特別な感情は抱いていても、特別な関係ではありません。だけど……

 

「だけど……!」

 

 霞さんが何かを言おうとして、司令官さんが遮ります。

 

「それなら、ボクが口をはさむことはできないよ」

 

「~~~~~~~~~~~っ!」

 

 大きく見開かれる目。霞さんが何かを言いたそうに、でも息を飲みます。まるで爆発寸前の感情を必死に抑え込んでいるような表情。

 

 確かに司令官さんの言うことは正しいです。だけど青葉は……口をはさんでほしかった。そう思ってしまうのは、わがままでしょうか。

 

「もう……いいわ!」

 

 押し殺したように、だけど少し感情が漏れてしまった言葉を残して、霞さんは司令官さんに対してそっぽを向きます。那珂さんにいたっては舌をべーっと出していました。

 

 そんな彼女たちに司令官さんは何も言いません。ただ、いつも通り微笑みかけているだけ。でもなんだかちょっぴり申し訳なさそう。そんな複雑な表情を浮かべていました。

 

「ごめん、今日は早く上がらせてもらうね。報告資料は明日作るから」

 

 そう言って司令官さんは荷物を持って広報室を出ていきました。その様子は少し急いでいる……というよりは慌てた感じ。

 バタンと扉の閉まる音。落ち着かない静かさに包まれた広報室。

 

「……ん、もうっ!」

 

 霞さんが感情に任せてゴミ箱を蹴飛ばします。カランカランと転がるゴミ箱と、散乱するゴミ。

 霞さんは感情が落ち着いたのか、大きく息を吐いた後、自分で散乱したゴミをゴミ箱に戻します。

 

「……で、あんたはいいの?」

 

 霞さんの矛先が、今度は青葉に向きました。とても鋭い目つき。それだけで心が委縮してしまいそう。

 

「え、あ……はい」

 

 視線を泳がせながら青葉は答えます。よくはないです。ないですけど……そうとしか答えることができません。

 

「他所の鎮守府の子に聞いたけど、あの人かなり女の子にだらしないって噂だよ?」

 

 那珂さんが顔をしかめて警告を口にします。……ええ、知ってます。散々目にしてきたので。

 

「青葉さん。もし本当に嫌でしたら、今からでもきちんとお断りすれば……」

 

 それまで静観していた鹿島さんが進言します。皆さん、本当に青葉を心配してくれているようで、青葉は幸せ者なんだなと実感しました。だけど……

 

「大丈夫です」

 

 青葉は答えます。なぜと言わんばかりの表情をする皆さん。

 だって、青葉が断ってしまったら黒沢一尉はきっと、ものすごく寂しそうな表情をしてしまう。……何となくですがそんな気がするのです。

 

 ただ、そのことを上手く言葉にできず、ぎこちない微笑みで返すだけ。

 それでも鳳翔さんは何かを感じ取ってくれた様子。

 

「それなら仕方ないわね。それがきっと青葉ちゃんの良さでもあるんだから」

 

 その言葉で皆さんも察してくれたようで、苦笑を浮かべたり、やれやれと肩をすくめていました。

 

「お人よしですね。でも、わかる気がします」

 

 頷く鹿島さん。

 

「まったく……仕方ないんだから」

 

 呆れ半分な気持ちが込められた苦笑を浮かべる霞さん。でも先ほどまでの厳しい感情は、その表情から感じられませんでした。やっぱり、ここの人たちはとても温かいです。

 

「でも、気をつけなさいよ」

 

 霞さんは付け加えます。

 

「そうだよ、青葉ちゃんはチョロいんだから」

 

 ……だから、青葉はチョロくありませんって、那珂さん。

 そんな青葉たちの様子を微笑ましそうに見ている鹿島さんと鳳翔さん。よかった、さっきまでの嫌な雰囲気はなくなったみたいですね。

 

 そう、青葉がホッとしていると、

 

「それにしても、あの室長は本当になんなの?」

 

 霞さんがぶり返してしまいます。吐き捨てるような口調。本人に悪気がないとわかっていても、心が苦しくなってしまいます。それは、司令官さんを悪く言われたからなのか、それとも青葉も心のどこかで彼女の言葉を同意してしまっているからなのか……。

 

「よく愛想つかさないわね」

 

 霞さんが言いました。愛想も何も、青葉はお付き合いすらできていませんけどね。

 

「実際どこがいいのか那珂ちゃん気になるな」

 

 ……おや、なんだか雲行きが変な方向に言った気がします。

 

「あ、それは私も気になります。室長さんのどこがお好きなんですか?」

 

「え、ちょ……」

 

 鹿島さんまで! 普段落ち着いていると思っていましたが、もしかして色恋話はお好きなのでしょうか……?

 

「そうそう、こうなったら飲みに行きましょう。そこで根掘り葉掘り聞かせてもらうわよ」

 

「えっ、えっ。えっ…」

 

 霞さんに捕まれ、引きづずられる青葉。他の皆さんもご一緒にぞろぞろとついてきます。完全に青葉の話を肴にする気満々な、青葉もビックリの好奇心。

 

 だけどもそんなやり取りがなんだかおかしくて、クスリと笑ってしまいます。

 それまで胸の中でモヤモヤとしていた思いが、今はどこかに隠れてしまっていました。

 

「……皆さん、ありがとうございます」

 

 青葉は小さな声で、だけどもハッキリと呟きました。

 

 ふと、道中にて鳳翔さんがボソッと青葉の耳元で囁きます。

 

「きっと室長も青葉ちゃんのこと想っているはずよ。だけども今は色々な思いを抱えているのかもしれないわね……。ふふ、男の人って案外素直じゃないから」

 

 その言葉の意味が、青葉にはわかりませんでした。だけど鳳翔さんの言葉通りだったらいいなという思いは、確かにありました。

 

 

 

 黒沢一尉への鎮守府案内が終わった数日後、正式に彼とデートをすることになりました。場所は青葉の住む街。向こうから来ていただけるようです。

 

 その当日、青葉は駅の改札近くで柱に背を預けます。

 今はお昼を少し過ぎたあたり。改札では多くの人が行き来していますが、休日ということもあって私服の人を多く見かけます。それでも中にはスーツを着た人がいて、休日出勤お疲れ様ですと、心の中で。同時に、広報室のことを思います。

 

「なんか、青葉だけ休んでしまって申し訳ない気持ちになってしまいますね」

 

 休日ですが広報室の皆さんはお仕事です。もちろん司令官さんも。

 あれから司令官さんとはあまりお話しすることができませんでした。あったとしても事務的なやり取りが精々。

 すごく、寂しい気持ちに包まれたこの数日間。心に穴が開いたとはこういうことかと実感しました。その隙間に容赦なく入り込んでくる群青が、すごく苦しい毎日。

 

「おかげで寝不足だよ」

 

 大きなあくびを一つ。もっとも、その一番の原因は今日のデートですが。

 言うまでもなく乗り気はしません。それでもぞんざいに終わらせていいものでもないです。慣れないメイクとおしゃれに悩んだせいで、始まる前からクタクタ。

 もしこれが司令官さんとのデートだったらと考えると、きっと悩むのも楽しみの一つだったのかもしれませんが……。 

 

「あ、思い出したらまた悲しくなってきちゃう」

 

 頭をぶんぶんと左右に振って考えないようにします。それでも表情がどうしても暗くなってしまいそうで……、

 

「お待たせしました青葉さん」

 

 そんな時にタイミングよく改札の向こう側から黒沢一尉がやってきました。先日の制服姿ではなく、シャツにロングパンツのラフな私服姿。アクセサリーや耳のピアスも相まってよりチャラく見えますが、それが似合ってしまっています。

 

「あ、いえ。ぜんぜん。青葉も今来たところですから」

 

「それはよかった。とっても……お似合いですよ」

 

 視線を青葉のつま先から頭のてんっぺんまで一瞬にして、滑らすように移しながら黒沢一尉はお世辞を述べます。わかっていても言われると嬉しいですが、ちょっと照れくさいですね。

 

 メイクで血色をよく見せた頬が少しだけ赤くなります。

 

「ここにいては通行人の邪魔になりますから……、あー……」

 

 言いかけて、黒沢一尉は言いよどみます。何かあったのでしょうか?

 

 何度か青葉と虚空に視線を行ったり来たりさせた後、コホンと咳払い。

 

「敬語、やめてもいいですか?」

 

 まるで喫煙許可を得るかのような、申し訳なさそう口調での申し出。

 

「はい、青葉は構いませんが」

 

「それはよかった。いや、敬語って苦手なんだよね」

 

 青葉がうなずくと同時に、大きく息を吐いて肩を脱力させた黒沢一尉。その言葉遣いも崩れます。確かに、そのチャラい見た目で敬語っていうのはなんか違和感がありましたから、こっちの方が自然体なのでしょう。

 

「それにしても青葉ちゃんが応じてくれてよかったよ。たまにの出張、女の子と遊ばないともったいないからね」

 

 いきなりちゃん付けで呼ばれ、青葉は内心うわぁ……と引きます。顔に、出ていないでしょうか?

 そしてわかってはいましたがこの軽薄な発言。青葉は早速このデートに応じてしまったことを後悔します。

 そんな青葉の内心なんて全く知るはずもなく、黒沢一尉はマイペースに話を進めていきました。

 

「ここで立っているだけじゃもったいないし、行こうか。あ、場所についてはこっちで勝手にあたりをつけているけど、行きたいところとかあったら言っていいから」

 

 黒沢一尉に先導されて、青葉のデートは始まってしまいました。

 今日の天気は曇り。まるで青葉の心模様。

 

 行きたいところがあればと言われましたが、そう思えるところが今の青葉には思いつきません。黒沢一尉に連れられるまま歩いていきます。

 

 そんな青葉たちが最初に訪れたのは駅近くにあるアーケード街です。てっきり怪しいネオンの建物にでも連れ込まれると思っていただけに、少し意外でした。

 

 だいぶ寂れてしまってはいますが、そこにいる人々の活気は全く衰えている様子のない場所。

 

「いやぁ、一度来てみたかったんだよね」

 

 楽しそうな笑顔を浮かべながら黒沢一尉はアーケード街を散策しています。まるで異国の地に遊びに来た子供のように。興味の対象があっちこっちに移りかわり、その度に興奮したように歓声をあげていました。

 

 その様子もまた、青葉の中では意外でした。

 

「そうなんですか? なんでまた……?」

 

 青葉は思わず尋ねてしまいます。どこにでもあるようなアーケード街だと思いますし、何より黒沢一尉のいる幕僚は都会。ここよりももっと魅力的な物はたくさんあるでしょうに。

 

「ここ出身の人から話を聞くことが多くてさ、興味があったんだよね」

 

 そう説明する黒沢一尉。きっと彼の部隊の人がここの出身なんですね。だとするとその人はよっぽど宣伝上手なんだろうなと、青葉は心の中で感心します。

だってここ、本当に華やかさがない街ですから。だけどそんな静かさが、青葉は好きだったりします。

 

「そうだったんですね。来てみた感想としてはどうでした?」

 

「楽しいよ。特にここにいる人がこの場所を好いているっていうのがよくわかるし」

 

 その回答はもっと意外でした。なんだか司令官さんみたいなことを言うなと、思ってしまいます。もしかして根は案外近いのかも。そんな印象を心のどこかで抱きました。

 

「あ、あそこのやつ美味しそうじゃない? 食べ歩きしよ」

 

 そう言って食べ物が売っている屋台に駆け寄る黒沢一尉。その子供っぽい振る舞いに、先ほどの考えは気のせいだったと思いなおす青葉。司令官さんはあそこまで子供っぽくないですからね。

 

 それから青葉たちは再びアーケード街を歩きました。お店をあちこち見て回ります。

一緒に行動していて感じたのですが、黒沢一尉はすごく女性の扱いが上手いです。伊達にチャラい見た目をしていないですね。自分が一方的に喋っているように見えて、巧妙に青葉から言葉を引き出してきます。

 

「……それでですね、司令官さんってばいつもは優しくニコニコしているのに、時々すっごいイジワルになるんですよ! ……あ、ごめんなさい。青葉ばっかり」

 

 それどころか気づけば青葉の方がしゃべりすぎているくらい。それを楽しそうな表情で的確に言葉を返してくるので

 

「いやいや続けて。青葉ちゃんが楽しそうに話しているの、俺は好きだから」

 

 それでいて結構、紳士的なところがあるのです。何かと青葉を優先するような言動。今している食べ歩きも、青葉の視線が長く注視している物を買ってくるという、なかなかできる芸当ではないですよ。

 

 なるほど、こんなものを見せられては世の女性は彼に対して良い印象を抱かざるを得ません。実際に青葉も、気づけばいつのまにかこのデートを楽しんでいました。

 

「これとか似合うんじゃないですか?」

 

 通りにポツンとあった帽子屋。人の良さそうなおばあちゃんが店番をしています。気まぐれに入ったそこで、黒沢一尉に似合いそうな帽子を選びます。買うつもりは一切ない、ウインドウショッピングの延長、ただの戯れ。

 

「もう少し派手な方がいいけどな」

 

 青葉が選んだものと、自分が選んだものを交互に被る黒沢一尉。彼が選んだものは青葉が選んだものより明るい色。飾りも大きく派手です。似合ってはいますが、なんだか青葉の中とイメージが合いません。そちらはむしろ司令官さんの方がよく似合いそうです。

 

「えーそうですか? 青葉のイメージはこっちですが」

 

「そう? ならこっちにするよ」

 

 そう言って黒沢一尉は青葉が選んだ方の帽子を持って会計に向かいます。

 

「え、買うんですか? 見るだけかと思っていたのですが」

 

 思わず呼び止めて聞いてしまいました。青葉としてはてっきり買う気はなかったと思っていたのですが……。

 

「見ているつもりだったけどね。だけど青葉ちゃんが選んでくれたものだから、記念に買うことにしたよ」

 

 そう言って何のためらいもなく黒沢一尉は会計を済ませてしまいました。

ちなみに、ちらりと見た値段については、知っていたら絶対に勧めない額のものでした。黒沢一尉が買わなかった方を、司令官さんのプレゼントに買っていこうかなと思っていましたが、青葉のお財布事情では無理そうです。

 

 それから黒沢一尉には、無意識で高価なものを選んでごめんなさいと心の中で謝罪しますが、当の本人は全く気にしない様子。それどころか。

 

「お礼に、今度は俺が青葉ちゃんに似合うものを選ぶよ。帽子がいい? それともアクセサリー?」

 

 なんて気前のよすぎることを言ってきます。

 その申し出があまりに恐れ多くて、青葉は反射的に首を左右にブンブン振って拒否を示してしまいました。

 

「いえ、大丈夫ですから」

 

「そんな遠慮しなくていいって。どうせ給料なんかほとんど使い道無いんだから」

 

 ニコニコとする黒沢一尉。自衛官の給与がどれほどかはわかりませんが、司令官さんのお給料は幹部の階級でありながら特別高いというわけではありませんでした。日々の買い物ですら結構悩んでいるのを青葉は知っています。

 対して黒沢一尉は全く躊躇う様子も見せません。羽振りがいいのか、それとも本当に使い道がないのか。

 いずれにしても、青葉は彼の好意に甘えることができませんでした。

 

「本当に大丈夫です。青葉にはこれで十分ですから」

 

 そう言って、首から下げた指輪のネックレスに触れます。司令官さんからもらった大切な物。二人の心の証です。

 それを見た黒沢一尉。一瞬、ほんの一瞬だけ顔をしかめて、だけどすぐさま微笑みます。

 

「それなら仕方がないか。だけど遠慮なく言ってくれていいからね」

 

「大丈夫です。それに、青葉の分は他の女の子に使ってください」

 

「おいおい、俺がそんなどんな女の子にも甘いように見える?」

 

「はい、すっごく」

 

「あはは、こりゃ手厳しい」

 

 黒沢一尉は苦笑します。つられて青葉も笑います。

 気づけば彼に対してだいぶ打ち解けていました。それこそ今のような冗談をぶつけ合うやり取りをする程度には。

 

 これには青葉自身が驚きです。こんなにも早く砕けた会話ができるようになるとは思ってはいませんでした。司令官さんの時はだいぶかかりましたのに……。

 

 これが、黒沢一尉の魅力なのかもしれません。司令官さんにはない、相手の心を開かせる眩さ。

 一方でその眩さが青葉の心に影を落とします。

 

「よし、次に行こう。次」

 

 黒沢一尉は青葉の手を取り引っ張ります。司令官さん以外の男の人に手を握られることは初めて……。だけどそこには嫌な気持ちがなくて……、だからこそそんな自分が嫌でした。

 

 青葉は司令官さんのことが大好きです。だけど黒沢一尉に対して抱いている感情が、なんだか司令官さんに対して抱いている物と酷似しているような気がしてなりません。

 

 それを自覚してしまうことが……たまらなく怖いです。なんだか青葉が青葉じゃなくなってしまうような気がして……。

 心が群青に沈んでしまいそう。

 

「……どうしたの? 気分でも悪い?」

 

 黒沢一尉が青葉の顔を覗き込みます。よほどひどい顔をしていたようです。青葉は慌てて取り繕うように心から出た言葉で言い訳します。

 

「いえ、今日は青葉だけお休みを貰って悪いので、司令官さんたちにお土産でも買っていこうかな~って」

 

 黒沢一尉はしばしジッと青葉の目を見つめます。キラキラと純粋な、子供のような瞳。ドキリとしてしまうような輝き。そんな眼差しに対して嘘を吐いてしまった罪悪感。

 

「それもそうだね。じゃあ後で買いにいこうか。それと次に行くところは高いとこだけど、高所恐怖症とかない?」

 

 ひとまず納得してくれたようです。ホッと安堵。同時に、黒沢一尉の問いに頷いて答えます。彼の口ぶりから、どこに行きたいのかは容易に想像がつきました。

 

 そして青葉の予想通り、次に訪れたのは駅のそばにある商業ビルの展望スペース。日の出が長い八月ですが、そろそろ太陽も赤く染まって地平線に沈むころ。曇ってはいますが、雲の隙間から差し込む日差しがこの展望スペースを茜色に染まります。

 

 この景色を司令官さんと見れたらな。なんてことを考えながらぼんやりと窓の向こうを眺めます。

 

「いい景色だね」

 

 息を吐きながら黒沢一尉が呟きました。じんわりと心に染みていくような声音。郷愁を感じさせる表情で、展望窓の外を、街を眺めます。

 

 そんな彼の反応に、青葉は意外だと本日何度目かの驚きを感じます。

 どうやらそれが表情に出てしまっていたようで、黒沢一尉はニヤリ。

 

「以外に思った?」

 

「ええ……はい」

 

 青葉は素直に頷きます。

 

「てっきりもっと派手なところがお好きだと思っていたので」

 

「青葉ちゃんの思う派手が分からないけれど、俺はこういった落ち着いた場所は好きだよ。なにより……」

 

 言葉を区切り、黒沢一尉はもう一度視線を街に。

 

「こうやって直接街を感じられるのが一番好きだな。愛しさすら覚えるよ」

 

 その表情が……夕焼けに照らされた顔があまりにもステキで、思わず見とれてしまいました。

 ボーっと彼の顔を見つめる青葉。黒沢一尉が青葉の方を向きます。目が……合いました。

 

「惚れちゃった?」

「……そ、そんなわけありません!」

 

 ハッとなって慌てて否定します。だけどこの頬の色は、果たして夕焼けの赤で誤魔化せているのでしょうか。

 

 ニヤニヤと笑う黒沢一尉に、青葉はプイっとそっぽを向きます。それを笑う黒沢一尉。

 とても温かなやり取り。それと同時に青葉は絶望しました。

 ほんの僅かな間とはいえ、青葉の心に司令官さんが存在していなかったのです。代わりにいたのは黒沢一尉。

 その事実があまりに青葉の心を群青に沈めようとしてきます。自分の薄情さに反吐が出そうになってしまいます。

 

「顔色が悪いよ? 本当に大丈夫?」

 

 心配そうに顔を覗き込んでくる黒沢一尉。

 大丈夫だと言いたかったです。だけど今の青葉にはそれすら言うことができず……

 

「ごめんなさい、ちょっとトイレに……」

 

 そうとだけ言い残してトイレに駆け込みます。

 個室に入り、鍵を閉め、扉にもたれかかりました。

 

「最低ですね……」

 

 思わずこぼれた自責の言葉。嫌な感情がぐるぐると心の中でかき混ぜられていきます。

 青葉が好きなのは司令官さんです。それは変わらない……はずです。それなのに、どうして黒沢一尉の言動にドギマギしてしまうのでしょうか。彼に魅力を感じてしまうのでしょうか。

 

 そして司令官さんが黒沢一尉とのデートに何も言わなかったという事実が、今になって再び青葉の心に重くのしかかってきました。

 

 その時の司令官さんがどういう感情だったのかわかりません。わからないからこそ、青葉は怖いんです。

 実はもう、司令官さんの想いは薄れしまっているのかも。青葉がいつまでも応えられないせいで。

 

「……う」

 

 自責と不安とネガティブが混ざり合い、群青のポタージュとなって溢れます。心を飲み込みます。それが、涙となって頬を伝いました。

 

「だめ……! メイク、崩れちゃうから」

 

 必死にぬぐおうとして、余計に溢れてきて。青葉の顔は、心はもうグチャグチャ

 こんな時司令官さんがいたらどうしていたでしょうか。思わず考えてしまします。

 だけど今ここにいるのは黒沢一尉で……。それがたまらなく寂しくて……。

 

「ぁ……、ぁあ……」

 

 嗚咽が漏れます。

 心に空虚な隙間が空いて、そこに容赦なく入り込んでくる暗やみ。

 フラッシュバックする、司令官さんの暗い表情。青葉とは関係のないことのはずなのに、それが今の状況と重なって……。

 

「が……ぁ、はぁっ」

 

 お腹の奥底から不快感の塊が沸き上がり、たまらず便器の中に吐き出します。

 

「うぇ……ごほっ、ぁ、ぇ……」

 

 えづきが止まりません。なんども、何度も吐き出します。

 胃の中を全部、胃液まで吐ききったところでようやく気持ちが落ち着きました。それと同時に我に返ります。

 

「あ、服! ……よかった。汚れてない」

 

 ホッと安堵。奇跡的に服は吐しゃ物で汚れることはありませんでした。だけど顔の方は……。

 

 「これはちょっと、難しいですね」

 

 便器の水を流し個室を出ます。手洗い場の鏡で自分の顔を見たとき、思わず苦笑してしまいました。

 涙で崩れたメイクで顔はグチャグチャ。まるでピエロのようです。

 こんな顔のまま戻るわけにもいきません。慌ててメイクを直そうとしますが、普段やり慣れていないこともあってだいぶ苦戦してしまいました。

 

「……こればっかりは、どうしようもないか」

 

 どうにか直すことができましたが、涙で赤くはれた目元を隠すことはできませんでした。

 だけどいつまでも待たせるわけにもいかず、諦めてトイレから出ます。

 

「おかえり。本当に大丈夫?」

 

 そう問いかける黒沢一尉の表情は嫌な雰囲気を全く見せず、心の底から心配しているもの。それが嬉しくもあり、苦しくもあります。

 

「はい、ちょっと調子が良くなかったみたいですけど、きっとお腹が空いてしまったんですね」

 

 なんて適当なことを言っても誤魔化せるはずがありません。何より目元の腫れを見て、彼が何も感じないということは、ないでしょう。不審に思うのが普通です。

 

 それなのに黒沢一尉は何も触れませんでした。ただ、

 

「そうだね。時間もいいころだし飯でも食いに行こっか」

 

 そうとだけ言いました。

 本当に彼は見た目の印象に反してとても優しいです。そんな彼に対して返せるのは、歪な笑顔だけ。

 

 展望スペースを降りるエレベーターに乗った彼に、青葉はついて行きます。

 どんなに表面上平静を装っても、心はもう、クタクタに疲れ切っていました。今はとにかく司令官さんが恋しい。そんな思いでいっぱいです。

 

 同時に、その恋しいは自分の中にある不安から逃げるためだということに、たまらなく自己嫌悪に陥ります。

 だけど美味しいものを食べれば少しは元気が湧いてきてしまう。ちょっとだけポジティブになれる。そんなゲンキンな自分が嫌になってしまいます。

 

「うん、うまい」

 

 黒沢一尉がモグモグと口を動かします。

 展望スペースのあった商業ビルの二階。レストランフロアの一店舗で青葉たちは夕食を食べています。ちょっとお値段ははりますが、街でも有名なレストラン。目の前のお肉に青葉の気持ちは少し晴れます。

 

 パクリと一口噛めば広がる肉汁。香ばしさと甘さの混ざった美味しさが口の中を包みます。少し、心に幸せが戻った気がしました。

 

「確かに、美味しいですね。食べるだけで笑顔になれるって、すごくステキなことですよね」

 

「そうだね。それに何より酒が旨い」

 

 そう言って黒沢一尉はがぶがぶとお酒を飲みます。その光景を見て思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう青葉。

 

 青葉も本当のところは飲みたいです、お酒。だけど飲んでしまったら最後、何をされるか分かりません。……とはいったものの、本当に何かされるとは思えなかったです。

 

 そう、思ってしまうほど今日一日で黒沢一尉のことを知りました。感じました。

 見た目は確かにチャラいですけども、とてもいい人なんだと、優しい人だということを、魅力的な人だということを。

 

「青葉ちゃんは飲まないの?」

 

 だけども飲んでしまったらもう、青葉はきっと自分の心に耐えられなくなってしまうから。

 

「青葉、お酒には弱いので」

 

「そっか。もし酔ったら俺が介抱してあげるけど?」

 

「それでも、です。ご迷惑をかけるわけにはいきませんので」

 

「まじめだなぁ。まあ、そんな真面目な青葉ちゃん、俺は好きだけどね」

 

 サラリと好意を伝えられて、青葉の心はドキリとしてしまいました。苦しいのに、顔が赤くなってしまいます。そんなまんざらでもない自分にまた、嫌気がさす。

 

「そ、そんなこと言われても困ります」

 

 うつむいて否定しますが、酔っているせいか黒沢一尉の軽口は止まりません。

 

「いやいや本当に。明るいし気遣いできるし楽しいしで、一緒にいたいと思えちゃうよ。こんな子が彼女だったらな~ って考えちゃうくらい」

 

「えっと、その……」

 

 これは、告白なのでしょうか。まるで雑談をするかのように言われたその言葉がどこまで本気なのかは分かりません。でも、今の青葉は嫌でも意識させられてしまいます。

 

「本当……」

 

 黒沢一尉の言葉は続きます。次はどんなことを言って青葉の心を乱してくるのでしょう。そしてそれに喜んでしまう軽薄な青葉は、どれほど自分のことが嫌いになってしまうのでしょうか。そんな思いが胸の中でぐるぐると渦巻きます。

 

「……付きに欲しいくらいだよ」

 

「え?」

 

 それまでとはうって変わって真面目なトーン。青葉はその言葉の意味を理解するのに時間がかかりました。

 

「付きって……?」

 

「簡単に言うと秘書だね。俺のいる部隊で、秘書をやってほしいってこと」

 

「それってつまり、青葉をスカウトということですか?」

 

「そうなるね」

 

「それじゃあ広報室からは……移籍ということになるのですか?」

 

 何を当たり前のことをと思われるかもしれませんが、それほど青葉にとって重要なことなのです。

 もし青葉が黒沢一尉の付きに……秘書になってしまったら海上自衛隊の所属になります。それはつまり、鎮守府とは、広報室とは、なにより司令官さんと離れてしまうということ。

 

「どうかな? キャリア的にも将来的にも悪い話じゃないと思うよ? 何より俺はすごくキミを大事にする」

 

 ニコニコと笑顔で勧めてくる黒沢一尉。

 青葉の心は決まっています。嫌だ。だけどその言葉が、すぐに言い出すことができませんでした。

 

 シト、シト。窓の外に視線を向ければ雨が降ってきました。雫が窓ガラスに当たり爆ぜます、伝って下へと落ちていきます。

 

 青葉は広報室から離れたくはありません。そもそも出世とかに興味があるわけではないです。

 だけども黒沢一尉の言葉が、表情が青葉を必要としている気持ちが本当だということが伝わってきてしまったのです。どこまでも真面目な眼差しで。

 

 そんな彼の想いを無下にしてしまうのは、とても心苦しいです。

 他の人からしたら、愚かな考えなのかもしれません。悩む必要なんかないことなのかもしれません。ただ、自分の想いを伝えるだけ。

 

 だけども青葉はこんなことでも後ろめたさを感じてしまい、ジレンマを抱えてしまうほど。想いを伝えることができないほど弱っちい存在。だからずっと司令官さんの想いにも応えられないんです。

 心の中で自嘲を浮かべました。

 そんな単純が幾重にも重なって複雑な感情のミルフィーユのせいで、青葉は何も言うことができず黙ってしまいます。

 

「無理にとは言わないけども、でも考えておいてくれると嬉しいな」

 

 優しい口調の黒沢一尉。それがまた、青葉の心を惑わせてしまう。

 結局返答ができないまま夕食は終り。食べ物の味はほとんど分かりませんでした。

 そんな残念な気持ちなままレストランを出ます。

 

「あー、雨降ってるね。雨宿りに二件目行かない? それともどこかで休憩する?」

 

 そう誘ってくる黒沢一尉。言葉こそ下心たっぷりの最低なものですが、彼の真意はすごく真面目であることが、わかってしまいます。

 

 だからこそ青葉はすぐに答えられません。付きの話も合わさり、青葉の心はすっかり外のように土砂降りです。心が、寒いです。

 

 ふと、この人なら青葉の心を温めてくれるでしょうか。そんな最低な考えすらよぎってしまいます。

 嫌なのに……。青葉には司令官さんだけなのに……。それをはっきりと口にできないでいる自分……。

 

「そうですね……」

 

 青葉は思わせぶりな仕草をとって、彼の様子を伺いました。

 会ったときよりも近い距離間。少し身をよじればお互いの身体を、温もりを感じてしまえそう。

 そんな甘い誘惑。夜に咲く花のような心の隙間を満たしてくれるような華やかさ。

 

「君を絶対、悲しませたりしないよ」

 

 優しい言葉が耳元でささやかれます。思考が痺れるような感覚。この涙の雨が止むのなら。

 

「それなら……」

 

 青葉はゆっくりと唇を動かし、出した返答は……。

 

「やあ。邪魔しちゃ悪いかもだけど、届け物に来たよ」

 

「司令官さん!」

 

 商業ビルの出口、傘をさしてそこにいたのは司令官さんでした。傘を持つ手にはもう一本、閉じた傘を持っています。

 青葉は驚きのあまり反射的に黒沢一尉との距離を取ります。

 

「どうしてここに?」

 

 青葉は叫ぶように聞きました。今日の青葉の行動は全く伝えていなかったはずですのに、どうして場所が分かったのでしょう。

 

「なんとなく……かな」

 

 何の根拠もないという司令官さん。青葉は言葉を失ってしまいます。司令官さんの恰好は仕事着であるスーツ姿。仕事後に来たということが伺えました。

 

「部下のお迎えとは、なかなか真面目な上司ですね。しかしいささか過保護すぎではないでしょうか?」

 

 黒沢一尉が言いました。猫を被った敬語。しかし言葉の端々に明確なトゲが見えました。

 そんな彼の挑発に司令官さんはどんな言葉で返したかと言えば……。

 

「迎え? ただ忘れ物を届けに来ただけですよ。傘を。青葉が濡れて風邪をひかれては困りますから」

 

 そう言って司令官さんは青葉に傘を手渡します。

 

「え、え……?」

 

 状況が分からず受け取る青葉。そうして司令官さんは踵を返すと、

 

「それではこれで」

 

 そう言って帰ってしまおうとしていました。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 思わず青葉は呼び止めます。あまりに予想外すぎる展開。混乱しっぱなしの青葉は司令官さんに詰め寄りました。

 

「本当に傘を渡しに来ただけなんですか?」

 

「そうだよ。風邪ひかないようにね」

 

 青葉の問いに、平然と答えます。先ほどまでの黒沢一尉とのやり取りだって見えていたはずなのに……怒っているのでしょうか?

 それにしては言動が穏やかすぎました。ということはつまり、やっぱり司令官さんは青葉のことなんて……。

 再び寂しいが泡となって心に浮かび上がってきます。途端に司令官さんとの距離が遠くに感じてしまいます。

 

「もう……群青は一緒に超えてくれないのですか……?」

 

 消えてしまいそうな呟き。かつて言われたプロポーズの言葉が、青葉の中で悲しく反響。

 青葉がいつまでも答えられなかったせいなのですか?

 

 にじむ涙。ぼやける視界で、冷たい司令官さんの背中を見送ります。

 ぼんやりとただただ見つめる中、ふと司令官さんのズボンの裾が目に入ります。ずぶ濡れで、だいぶこの雨の中を歩いたことが分かります。加えて傘をさしているはずなのに、背中がやけに濡れていました。

 

 もしかして、ずっと探していたのでしょうか。

 そんな考えが青葉の中によぎります。だけどもその思考を邪魔してくる黒沢一尉。

 

「さ、あんな人なんか放っておいて、俺たちも行こうか。青葉ちゃんにはあんな冷たい人と一緒より、俺の方がいいよ」

 

 なおも甘い囁きを漂わせる黒沢一尉。でもその言葉を聞いた瞬間、スッと青葉の心をまるで引き潮のような静けさが支配します。その言葉は……聞き捨てなりません。青葉の大切な人を、そのように言わないでください。

黒沢一尉に対し、初めて芽生えた明確な拒絶。心が冷静になると同時に、頭の中で何かがカチリとはまりました。

 

 首から下げた指輪のネックレス。先日の司令官さんの暗い表情と隠していること。そして鳳翔さんの言葉。

 

「……男の人って、素直じゃないから」

 

 呟いて、気づきます。司令官さんが持ってきた傘が新品だということに。わざわざ傘を届けに来たというのに、広報室の共用物品ではなく新品を用意するというのはなんだか不自然。

 

 青葉は試しに開いてみます。

 

「わぁ……」

 

 思わず声を上げました。傘の中には花束がありました。正確には一面に描かれた花の模様。

 鮮やかなそれらの中で、青葉が目についた花がありました。青紫色の、小さな花。先日鳳翔さんが広報室の花瓶に飾っていたのを覚えています。名前は確かスターチス。花言葉は……

 

「変わらない心」

 

 瞬間、青葉の心が一瞬にして晴れ渡ります。なんだ、そうだったんですね。

 青葉の心が完全に決まりました。

 

「司令官さん、少し待っていてください」

 

 司令官さんに声をかけてから、心を告げるため、傘を閉じて振り向きました。

 緊張します。怖いです。だけど……これが青葉の気持ちですと、黒沢一尉の目を見て口を開きました。

 

「ごめんなさい。先ほどの話はお断りさせていただきます」

 

「理由をきいてもいい?」

 

 黒沢一尉は驚く様子もなく、冷静に問います。青葉は、彼の目を見たままキッパリと答えました。

「一緒に、いたい人がいるんです」

 

「………」

 

 確かに黒沢一尉はとても魅力的な人だと思います。だけど……

 

「ただ、優しいだけの人です。あなたのように特別カッコイイわけでも、甲斐性があるわけでもありません。でも、優しいんです。不器用ですけど、とても」

 

 一言一言、司令官さんに対する想いを浮かべながら、言葉を紡いでいきます。

 

「私と一緒にいたいと言ってくれました。そして私の心に寄り添って、隣にいてくれる人。だけどあの人もきっと色々抱えています」

 

 失ってしまった腕のこと、今はまだ話してくれない暗い表情の答え。

 

「それでも私のために、一緒に群青を超えていこうと言ってくれました。そんな人だから私は、今度は彼の支えになりたい」

 

 まだ弱っちくて、全然彼の想いに応えることができないけれども。いつかは絶対にという決意を胸に込めて。

 

「手を繋いで隣にいたい、人がいるんです」

 

 一度に言葉を吐きすぎて息が切れてしまいます。頭が酸欠でクラクラ。

 重い沈黙。十秒でしょうか? それとも一分? でも本当は一秒も経っていないかも。そんな曖昧な時間間隔。

 

「ふぅ……」

 

 黒沢一尉が大きな息を吐きます。それから見せた表情は微笑み。

 

「よっぽど、いい人なんだね青葉ちゃんの司令官は」

 

「え、いえ、司令官さんというわけでは……」

 

 まさかの相手を言い当てられるとは思わず、焦ってしまいます。

 そんな青葉を見て黒沢一尉が笑いました。

 

「さっきまでのやり取りを見せられて気づかないわけがないじゃん。それに青葉ちゃん、意識してないかもしれないけど、俺といるときもずっと司令官の話していたんだよ?」

 

 言われて、思い返してみればそんな気が……。

 ということは黒沢一尉にはずっとバレていたということでしょうか。意識して急に恥ずかしさがこみ上げてきます。

 

「これは失礼しました……」

 

 とんだ醜態を見せてしまったと、縮こまって謝罪します。何度も何度も頭をペコペコ。

 

「いいよいいよ。それじゃあ、フラれた男は帰るとしますか」

 

 苦笑を浮かべ、肩をすくめた黒沢一尉は雨の夜に消えてこうとします。

 

「待ってください」

 

 青葉は呼び止めました。

 

「これ、使ってください」

 

 そう言って差し出したのは司令官さんが持ってきた傘。特別な花ですが、青葉にはこれがなくても十分です。

 

「濡れて、風邪ひかれてはいけませんので」

 

 黒沢一尉はしばしジッと青葉の手元を見て……優しく微笑みます。

 

「どこまでも優しいね君は」

 

 そう言って傘を開き、広げます。

 

「さて、女の子でもナンパしていくかな」

 

 そう言い残して彼は夜に消えていきました。

 青葉にはその軽薄な言葉が、彼なりの優しさだということが伝わります。

 黒沢一尉がいなくなった後、青葉は司令官さんのもとに駆け寄りました。

 

「お待たせしました、司令官さん」

 

「傘、あげたんだね」

 

「はい、雨に濡れたら八月といえど寒いですから」

 

「そうだね、だからはい」

 

 司令官さんが自分のさしていた傘を青葉に差し出します。

 

「青葉が濡れたら大変だ」

 

 優しい気づかい。だけど今、青葉が望んでいるのはそれではありません。そのことに気づいてくれないことに、青葉は頬を膨らましました。

 

「もう、司令官さんは鈍いですね」

 

「……どういうこと?」

 

 わからないといった風に首を傾げられました。

 青葉は司令官さんの傘を押し返し、そして彼と一緒に傘の下に入ります。傘を持つ手を抱きしめて、身体を密着させ、端から垂れてくる雫に濡れないように。

 

「こうすれば、一緒に入れますよね」

 

 あなたの左側、あなたの心臓に一番近い位置。鼓動がわずかに伝わる気がします。トクン、トクン。落ち着くリズム。

 

「……そうだね」

 

 そう、口にする司令官さんの表情は花のように柔らかでした。思わず青葉も花のように明るい笑顔を浮かべてしまいます。

 夏の雨夜。だけどここだけはまるで春の夜のように温かでした。

 

「司令官さん、二件目行きましょうよ。青葉、お酒飲めなかったんですよ。付き合ってください」

 

「ボクは一件目だけどね。……というか、ボクお酒弱いんだけど……」

 

「知ってます。だけどこれは罰なんですから。散々青葉の心を不安にさせた。……それとお礼です。青葉のこと、迎えに来てくれた」

 

「……そんなこと言われたら喜んで」

 

「それと、司令官さんはもっと自分の心を主張してください」

 

「青葉に言われるとは思わなかった……」

 

「何ですかその表情は! そりゃあ青葉も引っ込み思案なところはありますけど……でも、司令官さんにはもっと青葉に甘えてほしいんです」

 

 強く言い放ちます。これが青葉の気持ち。青葉の変わらない思いです。

「じゃあ……」

 

 司令官さんは言葉を区切って、青葉をじっと見ます。

 

「今夜は、一緒にいてほしい」

 

 そんな不意打ちに、青葉の顔は夜闇でもわかるくらいに真っ赤になります。

 シトシトと傘を叩く雨のリズムが、高鳴る青葉の鼓動と同じでした。

 

 

 

「おはよう、昨日はどうだったかしら?」

 

 そう言ったのは霞さん。

 次の日、広報室で青葉は皆さんに取り囲まれています。まるで尋問でもされているかのような気分。緊張で冷や汗が垂れてきます。

 

 だけども一方の皆さんは妙に笑顔。というかニヤニヤとした笑みでなんだか気持ち悪いです。

 

「そんなの聞くまでもないんじゃない?」

 

「そうね、同伴出勤までしてきたんだから」

 

 那珂さんの言葉に霞さんはイジワルそうな笑顔を浮かべます。

 

「ど、同伴出勤なんかじゃないです! た、たまたま一緒になっただけですって」

 

 必死に否定しますが、皆さんの生暖かい眼差しは変わらないまま。……うぅ、信じてもらえません。いやまあ、その通りなんですけど。

 

 ちなみに司令官さんは課業前なのに仕事を始めています。はい、いつも通りです。

 どうやって青葉が言い訳しようかと頭を必死に働かせている傍ら、皆さんはお話を勝手に進めます。

 

「まあ、いらない心配だったのかもしれないわね」

 

「そうですね」

 

 クスクスと笑う鹿島さん。何やら含みがあり、思わせぶりです。

 どういうことでしょうかと青葉が首をかしげると、彼女は一瞬チラリと司令官さんに視線を向けると、

 

「室長さん、昨日ずっとそわそわしていたんですよ。珍しく仕事が手につかないようで」

 

「そうそう、雨が降ってきたらこれだと言わんばかりに立ち上がって『傘を届けてくる!』って飛び出して」

 

 鹿島さんと那珂さんがしゃべりながら思い出し笑いを。

 

「え、そうなんですか」

 

 反射的に青葉の視線は司令官さんの方へ。

 そのやり取りが聞こえていたのでしょう。司令官さんは足早に広報室の隅、給湯スペースに行ってしまいました。

 

「あんだけ露骨なことしておいて付き合ってないは無理があるんじゃないかしら?」

 

 霞さんに詰め寄られますが、すいません。そこは本当なんです。主に、青葉のせいで。

 

「あら、素直じゃない人がここにも一人」

 

 普段は静観している鳳翔さんも、今回はなぜか混ざって楽しそうな微笑みを浮かべています。どうやらここに青葉の味方は誰もいないみたい。

 

 そんな状況にも関わらず、青葉は思わず笑ってしまいます。

 ああ、青葉はやっぱりここが好きなんです。愛する人がいて、大切な仲間がいるこの広報室が。

 

 ここを手放さなくてよかった。本当にそう思います。

 ここならいつか、司令官さんの想いに応えられるくらい、強くなれそう。司令官さんが暗い表情の訳を教えてくれるくらいに、寄り添うことができるようになりそう。

 

「これは事情聴取が必要ね。今日の仕事後に飲みに行くわよ」

 

「はい、喜んで」

 

 霞さんのお誘いに、青葉は笑顔で頷きました。

                                       終

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いい子、ですね」

 

 行きなれた居酒屋、隣で彼はそう言った。そうだね、とボクは返す。

 

「ボクは何度も救われたよ」

 

 手に持ったグラスに視線を向けて、呟くように。カランと氷が揺れる。

 飲みなれないお酒。だけど今日は特別な日。彼とこうして飲みかわすのはいつ振りだろうか。

 

「確かに、あの頃のやつれた目と比べたら、今はすごくイキイキしていますよ」

 

 彼の言葉にボクは思わず苦笑する。彼と一緒にいた頃のボクは随分と荒んでいた。心が何度壊れかけたことか。それでも今こうして艦娘広報室の室長としてやっていけるのは紛れもなく、彼女のおかげ。

 

「それに……先輩が好きになった理由が分かりましたよ」

 

 ボクを先輩と呼ぶ彼。あっけらかんと話すのだが、対象的にボクは顔をしかめた。それもそのはず。

 

「そう思うなら、なんでデートに誘ったのさ。黒沢。……いや、今は黒沢一尉かな?」

 

 隣の彼、黒沢一尉に嫌味を込めて言い放つ。みんな……特に青葉には黙っていたけども、彼とは大学時代の先輩後輩の関係だ。今では彼の方が階級が上になってしまったが、それでも先輩と慕ってくれる。

 

 とはいえ青葉にちょっかいをかけたのは、さすがにいただけなかったが。ずっと心がザワザワして仕方がなかった。

そんな黒沢は苦笑を浮かべる。

 

「階級のことはやめてくださいよ。今でも違和感しかなくて気持ち悪いです。特に先輩に敬語使われると」

 

 黒沢は照れを隠すようにグラスのビールを一気に飲み干す。そしてお代わり。

 彼はこれでもう何杯目だろうか。一杯目のボクに比べて酒にとても強い。そんな彼を時々羨ましく感じていた。

 新しくきたビールに口をつけながら、黒沢はニヤリとキメ顔で言う。

 

「それに、可愛い女の子をデートに誘うのは俺の信条ですから」

 

「いつか刺されるよ?」

 

 自分の大切な人を可愛いと評価されるのは嬉しいが、彼の軽薄そのものな信条とやらに、ボクは呆れた表情で返した。

 黒沢のこれは学生時代から全く変わっていない。それが嬉しいような、悲しいような。

 

「女の子が幸せなら本望ですよ」

 

 とてもいい顔でそう宣言する彼の今後の安否がとても心配だ。

 

「……というか、嫌なら断らせればよかったじゃないですか。俺としては先輩の方が不思議ですよ」

 

 黒沢の問いかけにボクはグラスに口をつける。こればっかりはシラフで言うことはできない。それに、これは彼に言っても伝わらないであろう感情。それを口にする。

 

「もしかしたら青葉は、負い目を感じているのかもしれないと思ってね。それによる固執なら、やめさせたかった。それに青葉を幸せにしてくれる人は他にもたくさんいる。彼女がボクに執着する必要はないと思ってね。少なくともキミなら不幸にすることはないだろう?」

 

「評価してくれるのは嬉しいですけど、相変わらずめんどくさい性格してますね」

 

 予想はしていたが、やはり笑われてしまった。

 

「そもそも先輩は自己評価が低すぎですよ。青葉ちゃんがどんだけ先輩にぞっこんか、自覚ないでしょう?」

 

「それは……まあ」

 

 彼の問いかけにグラスを揺らす。確かに彼の言う通り、ボクがどれほど青葉に好かれているかわからない。だからなのかもしれない。時々ボクの好意が押し付けなのではないかと不安になってくる。

 

 ボクが答えられないでいると、黒沢から呆れ眼。

 

「俺とのデート中に泣いてましたからね。罪悪感すごかったですよ」

 

「それは悪かったよ」

 

「お詫びに、今日はご馳走になりますからね」

 

 ボクは苦笑を浮かべながら彼のグラスに自分のグラスをぶつける。カチンと小気味のいい音。こんなボクに今でも付き合ってくれるキミにならという思いを込めて。

 

「それから、キミに悪者みたいな役回りさせちゃったみたいでゴメンね」

 

 あの夜、彼女と黒沢がどのようなやり取りをしたのかはわからない。だけどもきっと彼は損な役回りをしたのだろう。

 

「いいですよ。さっきも言った通り女の子が幸せならそれで。それに、俺も先輩のこと悪く言っちゃいましたし」

 

「……助かるよ」

 

 彼なりの優しさにも、ボクは救われていると実感する。

 

「それに、先輩の地元が見れて楽しかったです。青葉ちゃんも好きだって言ってましたよ」

 

 黒沢は言う。実は、広報室のあるこの街は、何の因果かボクの地元だ。この街に居心地の良さを感じていないので複雑なところだが、彼や彼女が気に入ってくれたのは少し……嬉しい。ここで生まれ育ってよかったと初めて感じたかもしれない。

 

「ありがとう」

 

 恥ずかしいので、彼に聞こえない声量で礼を口にした。

 そうして飲み続けていると、黒沢がふと言葉を投げかけてくる。

 

「それより大丈夫なんですか? 家の方は。今のめんどくさい考えもきっと、それが関係してるんでしょう?」

 

 ボクの手が止まる。彼はボクの事情をよく知っているが、それでも躊躇いが生まれた。青葉にも今は言いたくないこと。だけどいつかは言わなければならない、ボクが抱えていること。

 

「そっちはどうにかするよ。彼女に重荷を背負わせるわけにはいかないからね」

 

 ゆっくりと、笑みを浮かべながら返す。だけど果たしてボクは上手に笑えているだろうか。

 

「一杯いっぱいなの、目を背けても辛いだけですよ。ちゃんと甘えてください」

 

 対して黒沢は苦笑交じりの笑みを上手に浮かべている。やはり彼は器用だ。それが羨ましい。

 

「特に青葉ちゃん。先輩が甘えてくるの、待っているみたいですからね」

 

「そっか……」

 

 どこまでもボクの心を救ってくれる彼女。本当に大切な人。だからこそ、ボクは遠慮してしまうのかもしれない。

 

「大事にしてくださいよ? じゃないと今回みたいなすれ違いがまた起こりますからね?」

 

 黒沢の忠告。ボクは肝に銘じるよと口にして、グラスに口をつけた。濃いアルコールの味。これは、明日の肝臓にだいぶ響きそうだ。

                                  終

 



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外伝:レモンピールに誘われて

青葉と衣笠の退屈な休日、少しステキな出会いをする外伝的お話です



「おまたせ、青葉」

 

 青葉が雑誌を眺めながら待っていると、妹艦であるガサこと衣笠はそう言ってやってきました。

 彼女はそれから青葉の隣に座ります。

 

 土曜日のショッピングモール。フードコートの隅っこにある長机の席。お昼も終わる時間ですがまだまだ多くの人でにぎわいを見せています。

 休日ということもあって青葉たちもこのショッピングモールに遊びに来ていました。お互いお店を自由に見て回り、この場所で待ち合わせ。

 

「おかえり、ガサ。どこ見て回ってたの?」

「そろそろ季節の新作とか出るから、お気に入りのブランドのお店に行ってたの」

「そうなんだ。それで、戦利品はどんな感じ?」

 

 やっぱりガサはおしゃれさんですね。今日の服も青葉と違ってビシッと決まっています。

しかしガサは両手をパーにして青葉に見せてきます。

 

「御覧のとおり、残念ながらウインドウショッピングで終わったわよ。いつも通りって感じ。青葉は?」

 

 あらら、めぼしいものはなかったんですね。とはいえ、それは青葉も同じだったり。ガサの言葉に、青葉はジュースのストローにいったん口をつけて、それから答えます。

 

「んー、グルっとお散歩ぐらいかな。特別見たいものもなかったし」

「相変わらずな感じね。ま、行きなれたショッピングモールだしね。目新しさはそんなにないわよね」

 

 苦笑いするガサ。その瞳はどこか退屈そう。ここ最近は本当に何もなかったですからね。その感情は青葉もよくわかります。

 ガサはなにか、ま新しいものはないかと視線がキョロキョロ。

 そして彼女の目線はテーブルの上、青葉のそばに置いてあるジュースのカップに。

 

「それ、新しいフレーバー?」

「そうそう、梅シソ味だって」

 

 ちょうどすぐ近くのフルーツジュース屋さんで買った新作。随分と挑戦的な味に青葉は興味を惹かれてしまいました。だけどというか、やっぱりというか、ガサの方は微妙な表情。

 

「えぇ……美味しいの?」

「あはは……微妙」

 

 困惑した表情のガサに、青葉は苦笑を浮かべて返します。

 梅ジュースなんてものがありますから、一見すればそれと同じものを想像するかもしれません。ですがこのお店はフルーツをジューサーで細かく砕いて作っています。感覚的にはスムージーに近いでしょうか?

 

 ですから、一口飲めば梅の酸っぱさとシソの青臭さがドロリとした食感と共に口中に広がります。得も言われぬ感想。食レポする気には到底なれません。

 思い浮かべてきっと、青葉は青い顔をしていたのかもしれません。ガサは呆れ半分の表情で苦笑い。

 

「でしょうね。わかってて選ぶんだから、相変わらず珍しいもの好きよね」

「ワクワクしない? こういう妙に目を引くやつ」

「それでも限度ってものがあるでしょ。相変わらずの好奇心なんだから。それより、何読んでるの?」

 

 青葉の性格を十分にわかっているガサは、それ以上ツッコんではきませんでした。代わりに彼女の興味はテーブルの上にある雑誌に。

 彼女を待っている間、青葉が読んでいたものですね。A4サイズに五十ページくらいと薄め。

 

「ん、『レモンピール』って雑誌』

 

 口にしながら、表紙をガサに見せます。カラフルな写真と、同じくカラフルな短文が添えられた表紙。決して派手ではありませんが、どこか柔らかく温かい、そんな雰囲気を感じさせてくれます。

 ですがガサの反応は非常に淡泊なものでした。

 

「何それ、知らない」

「うん、青葉も」

「え~……」

 

 ガサが何か言いたそうに顔をしかめます。これに関しては彼女が何を思っているのか、簡単に分かりました。なので言葉を続けます。

 

「なんかね、今回で廃刊だって書いてあったから買ってみた」

「あー……なるほど。また妙に目を惹かれたのね」

「そうそう」

 

 笑顔で頷く青葉。ミーハーなんて言われるかもしれませんけど、ふと見かけた時、今回でおしまいということに、寂しさを覚えてしまったのです。

 それと同時に、せめて最後くらいは覚えておいてあげたいな。そんな気持ちを抱きました。

 

 青葉の感情、きっとガサは気づいてくれたのでしょう。もしかしたら彼女も同じ気持ちだったのかもしれません。柔らかく微笑みを浮かべます。

 

「そっか。それで。どんな内容?」

 

 ガサの質問に青葉はページをパラパラめくりながら答えます。

 

「うーん。雑貨と、生活に関するコラムっていうのかな? カワイイ小物がたくさん載っていて、それに関する小話というか、生活の知恵というか……うん、説明が難しいよ」

 

 だけど、どうにも言葉が上手くまとまりません。それはこの雑誌が持っている特色のせい。

 これは青葉が説明するより、ガサに直接確かめてもらった方がいいかもしれませんね。

 

「とにかく読んでみればわかるよ」

「えーと……『おやすみなさい、お月様。今日はどんな物語を聞かせてくれるの? ホットミルクを片手に、耳を澄ます』。『蝶の夢をみて、星の鱗粉を夜空に散りばめて。夜空の羽を羽ばたかす』」

 

 青葉から雑誌を受け取って、パラパラと流し読みをするガサ。雑誌に書かれた言葉をところどころで口にして。

 あ、この内容はステキな眠りというテーマで、快眠グッズや入眠方法が書かれているページですね。

 

「なんていうか、結構メルヘンというか、ロマンチックな内容ね」

「うん、独特だよね」

 

 ガサの率直な感想に、青葉は頷きます。

 そうなんです、この雑誌はとても詩的な表現をしてきます。レモンピールという雑誌の持つ独自の世界観。実のところ青葉は読んでいくうちにどんどんと惹かれていきました。

 

 とてもいい出会いをしたと思います。今回で廃刊になってしまうのが残念なくらい。

 ですが廃刊にならなければ出会うこともなかったということを考えると、何とも運命的です。

 そんな青葉の思い。どうやらガサには、そのことも見抜かれていたみたいです。

 

「そうね。だけど青葉、こういうの好きじゃない? 運命的な感じ、するわね」

「それはそうだけど、なんかちょっとひっかかる言い方……」

「別にバカにしているわけじゃないわよ。単純に、らしいなって思うだけ」

 

 笑って言葉を付け足すガサですが、青葉はなんだかモヤモヤしっぱなし。頬を不機嫌に膨らませます。

それに彼女の口ぶりが妙に引っ掛かりを覚えました。それじゃあなんだかまるで……

 

「む~……。そういうガサは、こういうの好きじゃないの?」

「嫌いじゃないわよ。だけど、私には合わないって思うから」

「そういうもの? 青葉にはよくわかんない感覚だなぁ」

「そういうものよ。だけどその方が青葉らしくて私は好きよ」

 

 ガサからの不意打ちに青葉は思わず赤面。慌てて言い返します。

 

「もぉ、恥ずかしいこと言わないでよ」

「あはは、ゴメンってば。だけどうん……いい内容ね」

 

 ガサはもう一度頷き、レモンピールのページをパラパラ。それからふと、声に出します。優しさの浮かぶ、穏やかな表情。

 

「『月曜日のイチゴジャム。始まりの味はちょっぴり甘酸っぱく、これから起こるドキドキを。火曜日のマーマレード。少しほろ苦い優しさ、頑張れって応援。水曜日のブルーベリー。雨模様、落ち込んだ気持ちを慰めてくれる』」

 

 あ、これは……青葉が一番好きなコラム。雑誌の一番最後に載っている、一週間を彩るトーストとジャム特集。

 色とりどりのジャムと、それを入れるビン、パンを焼く時の一工夫が紹介された記事。ガラスの中に入れられたそれはまるで、宝石のよう。

 情景を思い浮かべるだけでこんがり焼けたパンの匂いが漂ってきて……笑顔になれる、そんなステキな文章。

 

「『木曜日のピーナッツバター。優しい温もりでつつんでくれる。もう少しだよ。金曜日のチョコレート。とても甘いご褒美、キラキラ輝く宝物。土曜日はとろけるようなメープルシロップ。もうすぐやってくる、日曜日の香り』」

 

 ガサが一拍。この次に続く一節が、青葉が一番好きな言葉。今か今かと待ちわびて、心がドキドキ、ワクワクします。

まるで日曜日を待っているかのように。

 

「――『そして日曜日のレモンピール。おひさまいっぱいの匂い、新しいものを見つけに行こうと誘いに来る』」

「それ青葉が一番好きなコラムなんだ。入っているビンも可愛いよね」

 

 ガサが読み終わると同時、青葉は感想を口にします。彼女が読んでいる間、ずっとずっと口にしたかった感情。

 レモンピール、雑誌と同じ名前。同時に、締めくくる言葉。あぁ、これを書いた人は、本当にこの雑誌が好きだったんだなということが伝わってきます。それがすっごく温かい。

 ホクホクとした気持ちを抱いていると、ガサは小さく笑います。

 

「何となくそんな気がした。青葉にピッタリだって思ったから」

「え~……それ、どういう意味?」

 

 ガサの言葉、誉め言葉のようにも聞こえますが、青葉的には何か含まれているような気が……。訝しげに顔をしかめます。

するとガサが今度はケラケラと。

 

「別に悪い意味じゃないよ。ただ、これを見て青葉、お腹空かせたりしたんじゃないの?」

「そ、それは……! そんなことない……よ」

 

 必死に抗議をしますが、実のところ彼女の言うとおり。青葉はこのコラムを読んで、すっごくお腹が空いてしまいました。

だって写真で載っていたトーストが、とても魅力的だったんですから。

 

「おやおや~」

 

 ガサが何か言いたげな、目を細めてニンマリとした笑みを浮かべます。

 

「もう、ガサ~」

 

 青葉は頬を膨らませて怒ると、ガサが苦笑を浮かべながら謝ります。もう、イジワルなんだから。

 

「あはは、ゴメンゴメン。でも本当にいいとは思っているわよ。青葉に……似合ってると思……」

 

 そこまで言いかけて、ガサは言葉をピタリ。それと同時に彼女のお腹からグゥ~という音が。おっと、これは……。

 

「おやおや、ガサも人のこと言えないんじゃない?」

「……あはは、お腹空いちゃったみたい。青葉のこと言えないわね」

 

 先ほどの仕返しと言わんばかりに、今度は青葉がニンマリと笑みを浮かべます。

 恥ずかしそうに頬を赤らめ、小さく笑うガサ。

 

「それなら何か作ろうよ」

 

 すかさず青葉は提案します。実は先ほどからずっとそんな気持ちでうずうずでした。

一方のガサは意外そうな表情。

 

「あら、青葉が? 珍しい」

「もぉ、そんなこと言ってると知らないよ」

「ゴメンって。……でも、奇遇ね。私もちょうど作りたいものがあるの」

 

 おや、ガサもなんですね。

 そう思うのと同時にふと、小さな予感が浮かびます。もしかして……。

 

「そうなんだ。ところでそれって……」

「うふふ……」

 

 小さく笑うガサ。青葉の予感が確信に変わりました。やっぱり……。

 青葉は表情をほころばせます。

 お互い顔を見合わせて、それから一緒のタイミングで口にしました。

 

『レモンピールのマーマレード!』

「あははっ!」

 

 やっぱり。おんなじことを思っていたことに、青葉は思わず笑ってしまいます。

 

「私も気にいっちゃった。たまにはいいわね。こういうロマンチック」

 

 ガサも優しい微笑みを浮かべながら、レモンピールの雑誌を差し出しました。それまでのどこか退屈な雰囲気は無くなって、今はすごく楽しそう。

 それがとても嬉しくて、青葉は雑誌を受け取りながらロマンチックを口にします。

 

「うん、日曜日を先取りしちゃおう」

「賛成。さっそく買い物に行きましょう。それと、メープルシロップも一緒に買いましょう。土曜日を置いてけぼりは可哀そうよ」

「あはは、そうだね」

 

 珍しくロマンチックを口にするガサ。ちょっと恥ずかしかったようで顔を赤らめています。

 そんな彼女を笑いながら、青葉は席を立ちました。

 

「ついでに雑貨屋も寄っていい?」

 

 席を立ちながら言葉を付け足すガサに、青葉は頷きます。

 

「もちろん、レモンピールに似合う、ステキなビンを見つけに行こう」

 

 二人してレモンピールの誘いに乗って、新しいものを見つけに行きます。

 ああ、なんだかステキな予感が止まりません。

                               終



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外伝:深海のストロベリー

真夏の夜、青葉と衣笠が少し不思議な体験をする外伝的お話
静かながらも彼女たちの優しいやり取りはきっと、夏の夜風のような雰囲気を感じさせてくれることでしょう。


 それはきっと夏のせい。

 

 湿った真夜中の匂い。じっとりとした蒸し暑さが汗ばんだ肌に張り付きます。

 寝苦しさを覚えて、青葉は目が覚めてしまいました。薄暗い天井が目の前に。

 

 見慣れた鎮守府の隊舎。青葉たちが生活する部屋のもの。ですが真夜中だとちょっとだけ新鮮で、不思議な気持ち。小さなファンタジーを感じるような……。

 ですが、そんな感情は浮かび上がる前にまどろみの中へと呑まれてしまいました。

 

「いま……なんじ?」

 

 ポワポワとした眠気の泡を弾けさせながら、青葉は時計をチラリ。まだ日付が変わったばかり。夜明けにはまだまだ時間がありました。

 隣のベッドでは妹艦のガサこと衣笠がスヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てています。

 

「ん……まだ寝れる……お休み」

 

 大きなあくびを一度。それからまぶたの重さに逆らうことなく目をつむります。

 カチリ、コチリ、時計の音。耳の奥、規則正しいリズムが妙に大きく響き渡ります。

 それがなぜだか気になって、いつまで経っても眠ることができません。

 

「んー、眠いのに寝れないよぉ」

 

 小さく愚痴をこぼしながら、ベッドの上で身体をゴロゴロ。眠りやすい体制を探します。

 だけど余計に目がさえてきてしまい、青葉の意識はどんどん眠りから遠ざかっていってしまいました。

 

 加えて……

 

「あっつ……」

 

 青葉を包む夏の夜特有の空気。

 お腹に触れてみれば汗でべっとりと濡れていました。

 

「うわ、こんなになってる……」

 

 何とも言えない不快感に顔をしかめると同時に、気持ちが熱を意識してしまいます。

 どんどん内に暑いが沸き上がり、眠いなんてとっくに感じなくなってしまいました。

 

「う~……暑い」

 

 ガバリと起き上がって息を吐きます。首筋を伝う汗が気持ち悪い。

 クーラーをつけたいところですが、残念ながらこの隊舎の空調はボイラー式で、一定の期間にならないと稼働してくれません。

 我慢しようとジッとしているだけでも容赦なく浮かび、沸き上がってくる汗。耐え切れず、青葉は涼しさを求めます。

 

「窓……は開けているけど全然涼しくない……」

 

 全開にしているにも関わらず、網戸越しから夜風が入ってこないことに絶望。シンと静まり返った鎮守府に、少し薄い夜闇がただ広がっているだけの虚しさ。

 夏を意識させる景色。ムワッとした空気が伝わってきて、見てしまったことに後悔。

 

「暑いよぉ……。うーん、これだけは使いたくなかったけど……」

 

 どうしてもこの溢れんばかりの暑いをどうにかしたかった青葉は、奥の手を出すことを決心しました。

 こればかりは使いたくなかったのですが……主にガサに怒られるから。

 しかし当の本人はぐっすりスヤスヤ。こんな状況で眠っていられるのが羨ましい。

 

「とりあえず……失礼します」

 

 青葉はソロリ、ソロリとベッドから降り、部屋の隅っこに置かれた冷蔵庫の前へ。

 ガチャリと小さく開けると、冷蔵庫の中から光が漏れ出します。

 

 暗闇の中に広がる明かり。冷蔵庫から漏れだす白い冷気も合わさって、なんだかファンタジーなシチュエーションを想像させます。ちょっとワクワク。

 

「……まあ、実際はただ涼んでいるだけなんだけどね」

 

 間抜けな絵面に小さく笑いを漏らします。

 ですが冷蔵庫からの冷たい空気がヒンヤリと、青葉の顔に当たって気持ちいい。汗がゆっくりと引いていくのを感じます。

 本当は扉を全開にして全身で冷気を浴びたいところですが、そんなことをしたらガサにバレちゃいますからね。これで我慢です。

 

「これであとはアイスとかあったら完璧なんだけど……。買っておけばよかったなぁ」

 

 冷凍庫の方を開けてみますが、中身は空っぽ。暑いからと言って買い物に行かなかった過去の自分に後悔します。

 

「そういえばガサの方は何か買いに行ってたけど……」

 

 ふと、思い出します。

 すぐそばで眠っているガサは日中、買い物に行っていました。そして帰ってきたら何かを冷蔵庫に入れていましたっけ。

 青葉は開けっ放しな冷蔵庫の隙間から中を覗きます。

 

「わぁ、イチゴ!」

 

 透明なパックに入った赤い宝石。瑞々しい光沢のつぶつぶ。おいしそうなイチゴが入っていました。

 

「ガサってばなんでイチゴなんだろう……? 夏なのに」

 

 小さな疑問を口にすると、予想外の展開が。

 

「――特に深い意味はないわよ。何となく」

「うひゃっ!」

 

 それまで寝ていたと思っていたガサの声が突然聞こえ、青葉は驚きのあまり飛び上がってしまいました。

 

「ガサ! 起きてたの!?」

「起こされたの。夜中にそんな騒いでいたら、誰だって起きるって」

 

 薄暗闇の中で顔をしかめるガサ。不機嫌がたっぷりと含まれていることは嫌でも伝わってきます。

 

「……ゴメン」

「はぁ……いいわよ別に」

 

 シュンと縮こまって素直に謝ります。するとガサはあっさり許してくれました。

 

「私も、実のところそんなに深く寝れていたわけじゃなかったから」

 

 パタパタとシャツの胸元で仰ぐしぐさを見せるガサ。

 うんうんと頷いて同意を示す青葉。ガサも同じ気持ちなのが嬉しくて、声が弾みます。

 

「だよね。こんなに暑かったら寝れないよね。早く空調をいれてほしいよ~」

「だからって、冷蔵庫で涼んでいい理由にはならないからね?」

「……はい、ごめんなさい」

 

 ピシャリガサに叱られてしまいました。

 厳しい顔のガサでしたが、すぐに表情の緊張を緩め、大きく息を吐きます。

 

「まぁ、仕方ないか。……ねえ青葉。少し涼みに行こう?」

「……?」

 

 ガサからの誘い。ですが青葉は思わず首をかしげてしまいます。だって彼女の言葉の意味がすぐには理解できませんでしたから。

 

「涼むって、こんなに暑いのにどこへ? クーラー効いてるとこなんてまだないんじゃないかな?」

 

 青葉には、彼女の言う涼みに行く場所が全然思いつきません。何より、この時間の鎮守府はどこの施設も閉まっています。

 こんな状態で涼むための方法で思いつくのは……

 

「怖い話でもするの?」

 

「なんでそうなるのよ……絶対に嫌」

 

 ガサが思いっきり顔をしかめます。ですよね、ホラー嫌いですからね。

 青葉としてはとぼけたつもりでしたが、わかってて口にしたのはちょっとイジワルすぎましたね。ガサが不機嫌に頬を膨らませています。

 

「もう、そんなこと言うんだったら、イチゴあげないよ?」

 

「くれるの?」

 

「涼むためのお供。ちょっとだけ悪いことしよう?」

 

 そう言ってガサはベッドから降りると冷蔵庫をガパリ。中からイチゴの入ったパックを取り出します。とてもよく冷えていておいしそう。

 彼女はイチゴを持つのとは別の手、人差し指を立てて口元に。静かにするよう伝える仕草。

 

 青葉はガサの言う通り、静かに頷きます。

 ガサはソロリと扉の方へ行くと、それから音もなく扉を開けました。そして、

 

「ちょっと海を、見に行かない?」

 

 誘うガサの表情はイタズラっぽく。青葉は彼女の言いたいことが分かりました。

 

「確かに、こんな時間に外に出ようだなんて、悪いことだね」

 

 だけどとっても楽しそう。青葉は喜んでついていきました。

 夏の夜。薄暗い廊下はどこか不思議な雰囲気がどこまでも広がって。冒険心がくすぐられるような、ちょっとワクワクです。

 

 音をたてないようにこっそりと。隊舎の外へと出たならば、すぐ裏手にある海岸へ。

 防波堤に座ります。昼間の熱がまだ残っていて、ほんのり温かい。

 つま先でチャプン、満潮でいつもより背の高い水面を蹴って遊んでみたり。

 

「あ……涼しい」

 

 潮風に頬を撫でられて、思わず言葉が漏れ出ます。

 夜の海、全てを飲み込んでしまいそうなほどの群青がどこまでも広がる景色。ただ静かな息遣いを繰り返しています。

 

 青葉たちがいつも見ている海と同じはずなのに、今はなんだかおしとやか。

 ポツリ、ポツリと夜空の星が落とした輝きを水面に浮かべて、まるで光のお花畑。

 そしてその真ん中で、

 

「お月様が、きれいだね」

 

 零した言葉。ちょうど半分こなお月様。まるで大きなお花が咲いているみたいです。

 

「うん。すごく綺麗」

「ねえガサ。この上を滑ったら、すごく楽しそうじゃない」

 

 まるでお花畑を駆けまわるみたいで。とても、ステキな光景が浮かびます。

 ですがガサから返ってきたのは小さな苦笑い。

 

「この上って……さすがに遠すぎるわよ」

 

 見上げて呟くガサ。

 

「そうかな? 青葉たちは艦娘なんだし、艤装を着ければ簡単だと思うけど。こんなに近くだし」

 

 チャプン。指先で水面に映るお月様をはじきます。ゆらゆらと広がる波紋。

 それを見たガサはまた、苦笑い。

 

「なるほどね……。青葉、私が言ったのは空の月の方」

「あー……」

 

 言われて気づきました。小さな言葉のすれ違い。

 ガサにつられて見上げてみれば、確かにお月様はどこまでも遠く、手を伸ばしても届きそうにありません。

 

「あははっ、青葉たち、違うところ見てたんだね」

「ふふっ。そうみたい」

 

 同じお月様でも海と空、見ている方向が違ったみたいです。それだけでこんなにも感じ方が違う。なんだかおかしくて、青葉たちはクスクス笑いを零します。

 

「青葉ってば相変わらず発想がロマンチックよね」

「そうかな? 思ったことを口にしているだけだけど」

 

 褒められているのか、いまいちピンと来なくてどういう表情をしたらいいか分かりません。

 

「そうそう。だけど青葉のそういう発想、ステキだと思うよ。私にはなくて羨ましいな。」

「もう、恥ずかしいこと言わないでよ!」

 

 薄闇の中でもわかるくらい、真っ赤になって青葉は声を上げました。

 透き通るような夏の夜空に溶ける、青葉たちの声。ベタベタとまとわりつくような暑さはそこにはなく、ただただスッキリとした静寂。

 

 いつもとは違う表情を見せる鎮守府と海。他のみんなは寝静まっている、青葉たちだけの秘密の時間。

 

「そうそう忘れる前にはい。おひとつどうぞ」

 

「おひとつどうも」

 

 差し出されたイチゴのパック。青葉は一つ、つまみます。秘密がもう一個できました。

 誰かに見つかる前に食べてしまいましょうと、パクリ。

 

 ツブツブとした食感と共に、弾ける瑞々しさ。冬に食べるイチゴの深い甘さとはまた違う、さわやかな甘酸っぱさが口の中に広がっていきます。

 

「ん! 夏のイチゴって結構味が違うんだ」

 

「そうね。これはこれで……うん、いいかも。ジャムとかにしたら甘すぎなくておいしいんじゃない?」

 

 ガサの思い付きに、青葉は大きく頷いて同意を示します。

 

「それ賛成。それにしてもガサってばよくイチゴを見つけてきたね」

 

 青葉はもう一つ手に取って、眺めながら言いました。この時期のイチゴは全然旬から外れています。どこのお店に行っても、売っているのを見ることはほとんどないでしょう。

 

「あーそれね。実はたまたま」

 

 ガサは肩をすくめて、それから言葉を続けます。

 

「買い物帰りに近道のつもりで通った道に果物屋があったの。そこで見かけて、珍しくて買っちゃった」

 

 ちょっと照れくささを誤魔化すような笑顔。

 その果物屋さん、青葉も興味がありますね。外に出なかったことをちょっと後悔。

 

「そんな面白そうなものがあったなら、暑くてもガサについていけばよかったよ。でもガサの気まぐれに感謝だね」

 

「なんか素直に喜べない言い方……」

 

 今度は顔をしかめるガサに。青葉はクスクス笑います。

 笑いすぎてちょっと痛くなったお腹を落ち着かせるように、青葉は大きく息を吐いて、それから小さく頷きます。

 

「だけど、うん。こんなステキな出会いができるってことは、ガサも十分ロマンチックだと思うよ」

 

「やめてよ、そんなキャラじゃないって」

 

 恥ずかしそうに首を横に振るガサ。だけどやっぱりうん、ロマンチックです。もう一度は口にしませんが、姉妹そろって似たところがあることに、青葉は嬉しくはにかみます。

 

「だから……もう!」

 

 青葉の表情で何かを察したガサが顔を赤くさせます。イチゴよりも瑞々しい赤。

それから彼女は困ったような笑顔を浮かべて言葉を続けます。

 

「それよりも青葉は、この夏どうするの?」

 

 あ、無理やり話を変えてきましたね。それほどまでにガサは恥ずかしかったみたいです。

 でもそうですね。こんなにも暑くなってきたのですから、夏休みの予定を立てておくのもいいかもしれません。

 

 だけど……

 

「ん~、何にも考えてないかな。いつも通り、グダグダした夏休みになりそう」

 

「え~、勿体なくない? せっかくの夏休みなんだからなにかないの? 海に行くとかさ」

 

 明らかに不満げな表情を浮かべるガサ。そうは言われましても……

 

「海ならいつも行ってるじゃん」

 

「そっちじゃなくて、遊びに」

 

 だよね。わかっててとぼけてみただけ。笑って誤魔化します。

 唇に人差し指を当てて、考える仕草。それから手でフレームを作ってガサに向けました。

 

「ん~……行くのはいいけど、青葉は撮り専だよ?」

 

 皆さんの楽しい思い出が残るよう、お手伝いさせていただきます。

 そんな純粋な気持ちでの言葉でしたのに、ガサってば渋い表情。

 

「ごめん、やっぱりゴロゴロしてて」

「なんでよ!」

 

 これにはさすがの青葉も声を上げました。そんなイジワル言わなくてもいいじゃんか。

 とはいえ、ガサの言う通り。ゴロゴロしているだけはもったいないです。

 青葉も、なにかステキなことができたらいいな。そんな思いを口に。

 

「でも……なんかしたいよね。夏にイチゴを見つけるみたいなこと」

 

 そんなことを口にしながら、もう一個をパクリ。それからさらにもう一個、もう一つ……

 そんなことをしていたらパックの中にあったイチゴはどんどんと減っていき……。

 

「最後の一個、もーらい」

 

 すかさず青葉は残ったイチゴをつまみ取って、パックを空っぽに

します。

 

 この青葉の早業にガサは驚きと呆れの混ざった表情を見せます。

 

「あっ……もう、仕方ないんだから」

 

 食いしん坊という添えられた言葉は無視。

 

 最後の一個という特別感を堪能させてもらいます。ヘタを綺麗にとって、先端から口の中に入れようとして……

 

「……あっ!」

 

 指先から零れ落ちたイチゴ。ポチャンと水面に波紋を広げ……虚しく沈黙

 

「あー……、落としちゃった。残念」

 

 水面に視線を向けながら、ガックリと落とした青葉の肩をガサがポンと叩きます。

 

「ほらほらそんなに悲しがらないの。また買いに行けばいいんだから」

 

 想像以上に青葉が落ち込んでいることに、苦笑を浮かべつつもガサは慰めてくれます。

……そうですね。ポジティブにいきましょう

 

「そうだね。夏休みにしたいこと。一個決まったね」

 

 ガサと一緒にイチゴを買いに行く。青葉の心の予定帳にしっかりとメモをしておきました。

 だけどそれでもやっぱり……

 

「それにしてももったいなかったなぁ……」

 

 月の花が咲く静かな水面。覗く先は深い群青でもう、イチゴの行方は分かりません。

 青葉の心は残念な気持ちで一杯。この海のような群青色。

 

 しかし海の方の群青に、何か白いものがプカリ。浮かんできました。

 

「あれ? なんか白いのが浮いてる……」

 

 指先でつまんで見てみると、小さな黄色を取り囲むような薄い白。それは花でした。しかもこの感触は造花ではなく本物。

 

「花? ねえガサ。これなんの花か知らない?」

「んー、わかんない。でもなんか見たことあるような……」

 

 青葉が聞いてみても、ガサは首をかしげるだけ。でも、確かに言われてみればこの花、どこかで見たことがあるような気がします。

 

 どこだっけ……? とても身近なものだと思いますが。

 思い出そうとしますが全然出てきません。そうこうしているうちにまた、プカリ。

 

「あ、また浮いてきた。それもたくさん」

 

 二つ、三つ、もっと……。プカリプカリとまるで泡のように浮かぶ白い花。

 なんとなく、誘われるようにして青葉は水面に手を伸ばします。すると……

 

「わっ!」

 

 バランスを崩してしまったのでしょうか? グラリ、青葉の身体が傾きます。一瞬にして目の前にまで迫る水面。

 

「青葉!」

 

 ガサの叫ぶ声。しかしそれはすぐさまザバンという大きな飛沫の音でかき消されてしまいました。

 同時に、全身に感じる冷たさ。服のまとわりつくような感触で、青葉は自分が海に落ちたということを理解しました。

 なんて間抜けな……思わず赤面してしまうほどの恥ずかしさ。でも、どうやら海に落ちたのは青葉だけではないようです。

 

 手に感じる温もり。ゆっくりと目を開けるとゆらゆらした視界の先、ガサが青葉の手を握っていました。どうやら助けようとして、自分まで海に落ちてしまったみたい。

 嬉しいことではあるのですが、それを感じている余裕はありません。なんせ青葉たちはどんどん海に沈んでしまっているから。

 

 艤装を着けていない艦娘は普通の人と同じで、勝手に海に浮かぶことはありません。加えて口から漏れ出る泡。どんどんと息苦しくなって……

 

「わわわっ! ……あれま、息ができる。艤装もつけていないのに」

 

 慌てるあまり、手をがむしゃらにバタつかせていた青葉ですがふと、気づきます。どんなに泡を吐き出しても胸が全く苦しくならないことに。

 

「それに見て、泡が……花になってってる」

 

 ガサが泡と共にこぼした言葉。彼女の視線の先を青葉も向きます。

 ゆらゆらとたゆたう水面。月明かりのベールに覆われたそこを目指して泡が浮かんでいきます。

 

 しかもその泡たちが白い花へと姿を変えていっているのです。浮かび上がってきた白い花の正体がようやくわかりまた。泡だったんですね。

 

 それにしてもなんて不可思議な光景。

 だけど青葉たちはそのへんてこに心を奪われてしまっていました。

 

「ホントだ。よくわからないけど……でも、キレイ」

 

 薄明かりのベールに包まれた白い花はキラキラと。なんてステキな世界でしょう。まるで海の中に異世界が広がっているような。

 

「まるで宇宙の中にいるみたい」

 

 ガサのロマンチックな表現に笑みを浮かべる青葉。

 

「……なによ」

 

 口にした後恥ずかしさがこみ上げてきたのか、ガサは誤魔化すように青葉に向かって不機嫌な表情を見せます。

 

「ううん。ガサのそういうところがステキだなって」

「もう、からかわないでよ!」

 

 余計に恥ずかしさを感じてしまったようで、いよいよガサはプイっとそっぽを向いてしましました。そんな彼女の反応を青葉はクスクス笑います。

 

 カメラを持っていないのが悔やまれるほど魅力的な表情。

 それから、相変わらずこの宇宙のような海の中。不思議な世界に見惚れてしまった青葉たち、どんどん沈んでいっているのを気にも止めずに海の底。もう手を伸ばしても水面には届きそうもないほど深いところまで来てしまいました。

 

「ねえ青葉……。ずっとこの中にいるのも、さすがにそろそろマズくない?」

 

 ガサが言葉を零します。

 息ができるせいで危機感を持っていませんでしたが、彼女の言う通りいつまでも海の中というわけにはいきません。

 

「そうだね。夏の海だけど、ちょっと寒くなってきちゃった」

 

 夜ということもあって水温は昼間と比べて低いです。うっすらと鳥肌の立った肌を見せながら青葉は小さく笑います。

 それから浮上しようと両手を大きく動かしてみて……あれ?

 なんだかおかしいことに気づきました。全然水面に近づきません。

 

「ねえガサ、青葉ってカナヅチだっけ?」

 

「私に聞かれても知らないって。……だけど私も青葉とおんなじ気持ち」

 

 青葉の疑問に呆れ眼で返すガサ。だけどどうやら彼女も青葉と同じことを思っていたみたい。

 確かガサは普通に泳げたはずだから、泳ごうとして浮かぶことができないこの状況はやっぱりおかしなことのようです。

 

 試しにもう一回手を大きく動かしてみますが、やっぱり水面との距離は変わらずじまい。

 

「どうしよう……」

 

 ガサが困った表情を見せました。このまま青葉たちは沈んでいくしかないのでしょうか?

 

「うーん。いっそこのまま深く潜ってみる?」

 

 どんなに泳いでも沈んでしまうのなら、自分たちから沈んでいってしまいましょう。逆転の発想です。

 青葉としては真面目に言ったつもりだったのですが、それを聞いたガサはたくさんの泡を吐き出しながら笑い出しました。

 

「……あははっ。私、青葉のそういうところ好きよ」

 

「もう、いきなり変なこと言わないでよ!」

 

 ガサに笑われて不機嫌に頬を膨らませる青葉でしたが、彼女が唐突に恥ずかしいことを言ってくるものですから、頬は海の冷たさでも冷めないぐらい熱くなってしまいます。

 

 言った本人であるガサは先ほど青葉が恥ずかしいことを言った仕返しと言わんばかりに、小さくウインク。ますます青葉は不機嫌顔です。

 

「ふーんだ。ガサなんか知らない?」

 青葉はそっぽを向いて手を大きくかきだします。今度は水底に向かって。先ほどまでとは違い、あっさりするほど前に進む青葉の身体。ゆっくりと泳ぎ出しました。

 

「もう、青葉ってば。待ってよ」

 

 後を追うガサの言葉は苦笑いが混じっていました。

 青葉たちは真夜中の海をダイビングします。専用の器具を何もつけていないにもかかわらず、息は続き、水圧もへっちゃら。

 

 それどころか、防波堤から落ちたのですから、そこまで水深がないはずですのに、どこまで潜っても底が見えません。

 まるで、何もない世界をただただ漂っているような気持ち。

 

「ここまで何もないと、不安になってくるね」

 

「そうね、いよいよ水面の光も届かなくなって何も見えなくなっちゃったし」

 

「それでも見えるのは白い花だけだもんね」

 

 青葉たちが吐く泡。未だに白い花へと姿を変えていきます。真っ暗な海の深いところでも、その白だけはハッキリと。

 

「なんだか夢の中を泳いでいる気分」

 

 ガサがロマンチックを口にします。青葉もその表現には凄くしっくりきました。もしかしたらここは、本当に夢の世界なのかもしれません。

 

 そんな気すらしてしまうほど、先ほどから不思議の連続。

 それならばこの先には何があるんだろう。青葉は小さくワクワクします。

 

「じゃあ、夢の果てには何があるんだろう?」

 

「何もないんじゃない?」

 

「もう、ガサは夢がないなぁ」

 

「むしろ、わからないままのほうが夢があるんじゃない?」

 

「確かに」

 

 ガサの発想に青葉は納得。やっぱりガサはロマンチストですね。

 ですが青葉としてはロマンよりも好奇心です。

 

「……でも青葉は潜るけどね」

 

「だと思った。もちろん私も付き合うわ。このまま中途半端に浮かんでいるだけじゃ、何も変わらないし」

 

 そんなやり取りをして、青葉たちはさらに深くダイビング。

 更に濃い群青の中へ。

 

 このまましばらく変化のない景色を見続けているだけかと思いましたが、すぐさま変化が訪れました。

 

「……あれ? ねえガサ、なんかない?」

 

 ふと、白に混じって違う色が目に入りました。濃くてわかりにくいですが、それは緑。

 

「ホントだ。花に混じって細い緑色のものが浮かんできてる。これって……ツタ?」

 

 ガサが緑に触れながら言います。どうやら細長いツタが下の方から伸びてきているみたい。

 しかも、その先。小さな赤が微かに見えます。それまで群青しかなかった世界に現れた、目新しさ。

 

「あ、何かあるよ」

 

「青葉待ってよ~」

 

 赤に向かって一直線な青葉を慌てて追いかけてくるガサの声。

 ですが気分はまるで宝探し。ジッとなんかしていられません。

 

 緑のツタをかき分けて、赤いものに徐々に近づいていきます。青葉たちが泳いだ軌跡に白い花。

 

 きっと今はすごく綺麗な色がこの海を彩っていることだと思います。

 だんだんと赤がハッキリと見えてくると同時に、青葉はそれに見覚えがありました。

 

「……これって、イチゴ?」

 

 小さく光沢のあるつぶつぶのフォルム。瑞々しい赤はまさしくイチゴでした。そしてそのイチゴから緑色のツタが生えていました。

 

 なんでこんな海の深いところにイチゴが……? そう思う青葉でしたが、一つだけ心当たりがありました。

 

「もしかしてこれって、青葉が落としたイチゴ?」

 

 先ほど青葉が食べようとして海に落としてしまったイチゴ。それがこんなところまで潜ってしまっていたみたいです。

 

「もしかしてこのツタはイチゴからのメッセージなのかもね」

「うん、ここにいるって青葉たちに教えてくれたのかも」

 

 ガサの言葉に、青葉は頷きました。きっと落としてしまった青葉をずっと待っていたのでしょう。そう思うとなんだか、すごく……ほっこりしますね。

 

 青葉が暖かい気持ちになっていると、唐突にガサが声を上げました。

 

「この白い花、思い出した。イチゴよ」

 

 泡が形を変えて浮かんでいく白い花。どうやらそれはイチゴの花のようです。そういえば白い花が浮かび上がったのもイチゴを落としてからでしたっけ?

 

 ……ああずっと、このイチゴは青葉たちに伝えてくれていたんですね。

 

「……随分とお待たせしちゃいました。だけど、迎えに来ましたよ」

 

 ゆっくりと、青葉はイチゴに目線を合わせられる高さまで潜ります。

 優しく手に取って……だけどその瞬間、泡になってしまいました。

 

「あ……」

 

 どうして? そんな感情と共にすごく寂しいが青葉の胸に浮かびます。

 泡となったイチゴはそのまま、白い花となって浮かんでいきます。もう、手を伸ばしても届かない。

 青葉の目じりから何かが浮かんでくるような感覚。ですがすぐさま海の中に溶けていってしまいました。

 

「青葉……」

 

 ガサが何か声をかけようとして……だけど口から出てくるのは花になる泡だけ。

 

「……ごめん」

「ううん。ありがとう」

 

 何も言えずに謝るガサに、青葉は小さく首を横に振りました。その気持ちだけで、青葉は嬉しいです。

 青葉は微笑みます。

 

「きっと、イチゴも嬉しかったと思うから」

 

「……そうね。それからやっぱり私、青葉のそういうところ好きだな」

 

「んもう、変なこと言わないでよ」

 

 茶化すガサに青葉は赤くなって怒ります。だけどすぐ、二人して笑い合いました。ブクブクと、口からたくさんの泡を出しながら。白い花となって浮かんでいきます。泡になってしまったイチゴを追いかけるかのように。

 

 まるでそれに呼応したかのよう、下の方から泡が浮かび上がってきました。一つ、二つ……たくさん。

数えきれないほどたくさんの泡。そして全部白い花となって、青葉たちを包み込みます。

 

「わ、すごい」

 

 青葉は小さく歓声をあげます。視界を埋め尽くすほどの白。甘いイチゴの花の香り。

 

 心地よさにうっとりとしていて……そこで目が覚めました。

 

「……あれ?」

 

 じんわり汗ばんだ肌。身体を起こすと見知った部屋が朝の陽ざしに包まれていました。

 

 

 

 

「あれ、なんだったんだろう?」

 

 浜辺を散歩しながら青葉は口にします。容赦なく照らされる夏の日差しに、じんわりとにじむ汗。

 気が付いたらいつもの天井。自室のベッドで朝を迎えていました。

 

「青葉が見たっていう夢の話?」

 

 隣を歩くガサの言葉に、青葉は頷きます。

 昨日の夜、青葉は確かに泡が白い花になる海の中を潜ってイチゴを見つけるという体験をしました。

 

 だけどそれはあまりに荒唐無稽な話。夢と思うのが自然なことです。

 

「……ガサも見たんだよね?」

 

 ですがその体験をガサもしたと言うのですから、話は変わってきます。

 

「うん、確かに青葉が話していた内容、私も覚えているよ」

「二人して同じ夢を見るなんて、そんなことある?」

 

「でも、そうとしか言えないんじゃない? だって私、イチゴなんて買ってきた覚えないもの」

 

 そうなんです。なんと夜の海で食べたはずのイチゴですが、それを買ってきたはずのガサが、そのこと覚えていないみたいです。

 

「……確かに、私が買ってきたって夢の中では言ってたし、何となくそうだったような気がしてくるけど……」

 

 ですが、なんだか記憶がモヤモヤしているみたいで、やっぱり本当のところはわからないまま。

 

「……まあ、どっちでもいっか。きっと夏のせい。そういうことにしておこう」

 

 きっと、一番大事なのは夢とか夢じゃないとか……そういうところじゃないから。

 

「お気楽ね。私はモヤモヤしっぱなしだっていうのに。だけど青葉のそういうところ、いいと思う」

 

 肩をすくめながらのガサの言葉に、青葉は緩い笑みを浮かべます。ガサもまた、どこか呆れたような、だけど温かい微笑みを。

 

「あ……」

 

 唐突にガサがしゃがみ込みました。寄せては返す波打ち際、何かを拾ったみたい。

 

「どうしたの?」

 

 尋ねる青葉にガサは手に取ったものを見せてくれました。

 

「案外、夢じゃないのかもね」

 

 それは、白い花。小さな花弁のイチゴの花でした。

                                終

 



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外伝:あなたに青いアジサイを

8月16日に開催された「神戸かわさき造船これくしょん7」にて無料頒布したコピー本になります。
衣笠と青葉のとある街での1日。ちょっと楽しく、ちょっと優しい外伝的お話です



久しぶりに会った姉は、相変わらず元気そうだった。

 

「あ、ガサ。こっちこっち」

 

 改札の向こう側、一足先に到着していた姉……青葉は手を振りながら元気に私、衣笠を出迎える。

 

「久しぶり。元気にしてた? 広報室の仕事はどう?」

「もちろん、広報室も毎日楽しいよ。ガサも元気そうで何よりだよ。鎮守府は相変わらず?」

「そうね、変わらずよ」

 

 そんな軽いやり取りを交わす。これだけでも妙な懐かしさを感じ、私の心はくすぐったい。

 昔は同じ鎮守府で生活し、毎日顔を合わせていた。だけど今、青葉は広報室で私は鎮守府。別々の場所で勤務をしている。気軽に会うこともかなわず、青葉には口が裂けても言わないが心がモノクロになったように、少し寂しかった。

 それでも今回、たまたま夏季休暇が重なったということで一緒に遊びに行こうと私から誘い、今日に至る。

 

「今日のガサ、決まってるね。記念に一枚」

 

 言うや否や、青葉はカメラでパシャリ。私を撮る相変わらずな行動。だけどもそれが懐かしい。それに、今日は少し気合を入れておしゃれしてきたのだから、それに気づいてもらえた気がして嬉しかった。

 

「それじゃあ私も、お礼に青葉のことを撮ろっかな。カメラ貸して」

「えぇ、青葉はいいよぉ」

 

 遠慮を見せる青葉。写真を撮るのは好きでも、撮られるのが苦手なのは変わらないみたい。だけど私はそんな青葉の感情を無視して彼女の手からカメラを取る。そしてすかさずパシャリ。

 

「もぉ、やめてってば」

 

 慌てて顔を隠そうとするが、それがかえって滑稽な写真を作り出していた。言葉では怒っている風を装いながらも、口元は笑っている。そんな姉妹のじゃれ合いが嬉しくて、思わず私も表情をほころばす。

 

 ひとしきり青葉の撮影に満足した私は、彼女にカメラを返した。被写体になるのが恥ずかしかったせいか、青葉は頬がやや赤くなっている。それと一緒に、不機嫌そうに頬を膨らませているのが可愛い。

 

「撮影料の代わりに、何かおごってもらうからね」

「はいはい。ボーナスも出たからいいわよ」

「ホント? じゃあ青葉、牛さんが食べたいな」

 

 一瞬にして機嫌を直す青葉。なんてゲンキン。

 

「少しは遠慮を考えなさいよ……」

 

 私は呆れた眼を青葉に向ける。彼女は緩んだ笑みを浮かべた。

 訂正、青葉は相変わらず元気ではない。前よりも明るくなっていた。それはきっと、広報室勤務のおかげ。

 嬉しくもあると同時に、私の知らない彼女があるという事実。そんなモノクロが、私の心にはあった。

 

「……ねえガサ。ちゃんと寝れてる?」

 

 唐突な問いかけ。心臓がドキリとする。青葉が先ほど撮った写真をカメラで確認しながらの言葉。

 

「どうしたの突然。青葉が心配するようなことは何もないって」

 

 やや困惑を浮かべながら私は言葉を返す。メイク、失敗したかなと自分の顔に触れてみる。いや、大丈夫。ショーウインドウに映った顔を見ても血色に違和感はない。

 

「それならいいけど……」

 

 青葉は何か言いたげ。でも、言葉を飲み込んだ。カメラをしまう。

 一方の私はホッと安堵の息を吐く。本当、妙なところで勘がいいんだから。

 

「ねね、ガサ。早速どこか行こうよ。青葉お腹すいちゃった」

 

 青葉の表情は呑気な微笑みに戻る。その表情にどこか安心して、私ははいはいと肩をすくめた。

 

「そうね。ちょうどお昼の時間だし、どこか行きましょう」

「わーい、ガサおごりで牛さんだ」

「……それは自分で払いなさいよ。青葉だってボーナス出ているでしょ?」

「あはは……」

 

 笑って誤魔化そうとしても無駄よ。

 そんなやり取りをしながら、私たちは駅を出て商店街へと向かう。

 

「綺麗な街だね。現代的な整った街並みなのに、時々目に入るちょっとレトロな異国の風景がワクワクするよ」

 

 道すがら街の様子をカメラに納めながら青葉は感想をこぼす。石畳の道、真新しいビルに囲まれた、昔ながらのちょっと古びた建物が並ぶ商店街。だけども時々景色に紛れ込む異国の造形。そんなモダンとレトロのコントラストが不思議で、だけども楽しい。

 

「どうしてこの街にしたの?」

 

 青葉の問いかけ、一緒に遊ぶのにこの街を選んだ理由を知りたいという意図が含まれているのを感じた。

 なんでだろう。考えてみれば私もよくわかっていなかったりする。

 

「うーん。何となく、かな?」

「ガサがそんな曖昧だなんて珍しいね」

 

 意外といわんばかりの表情をする青葉。そんな物珍しいものを見る表情をしなくても。ちょっと失礼だと、ムッとする。

 

「あ、ごめん。だけどやっぱり珍しい。青葉にとってガサは、なんにでもキチンとしていたから」

 

 私の表情を見て、すぐさま青葉から訂正の言葉。眉をハの字にして申し訳なさげ。

 彼女を萎縮させてしまったことにしまったと感じ、私は反射的なものでそんなに気にしていないから大丈夫と告げる。

 それから誤魔化すように口を開く。

 

「まあ、青葉ほど気まぐれじゃないわよね」

「あー、ひどい」

 

 私がからかいの言葉を言うと、今度は青葉がムッとした。その反応が面白くて、私は思わずクスクス笑い。青葉もつられてクスクス。

 

 笑いが落ち着いた後、私はもう一度街を見渡す。いろんな文化が通りこまれたマーブル色の景色。

 

「そうね、強いて挙げるとしたら……なつかしさ、かしら?」

 

 無意識に、何処か郷愁を含んだ眼差し。私の中で何かが納得できたような感覚。

 一方の青葉が首をかしげる。

 

「ガサってここに住んでいたことあったっけ?」

「ないわよ。生まれも育ちも違う場所。知ってるでしょ? ずっと一緒だったんだから」

「じゃあなんで……?」

「きっと……衣笠という私じゃなくて、船としての衣笠が感じているのかも。私の中にある船の想い出。それがきっとここを選んだんだと思う」

 

 今となっては姿かたちのない私のルーツ。深い海の底で眠ってしまっているそれが、きっと生まれ故郷に帰りたいと願ったのだろう。

 今、それが叶えられて心なしか、胸が温かいように感じる。

 

「ガサ……」

 

 青葉の何か言いたげな表情。

 

「なんてね。それにここは美味しいスイーツがたくさんあるって聞いたから」

 

 冗談めかしてウインク。こんなロマンチックな話題、私のキャラじゃない。

 青葉もそれを察してくれたようで、わざとらしいくらいに喜ぶしぐさ。

 

「あはは、その情報は青葉にとって耳寄りだね」

「そうね、もちろん私もよ」

「でもその前に牛さんを食べに行こう。ガサのおごりで」

「まだいうか!?」

 

 すかさずツッコミを入れる。まるでコントのようなやり取りに、二人して笑いあった。

 

 

 

 

 お昼は青葉のリクエスト通り、ステーキを食べに行った。私の知っているステーキの価格より、何倍もの値段のする高級なもの。

 お肉は確かにおいしかった。口に入れた瞬間ほぐれる柔らかさ。あふれ出る肉汁の旨味と甘み。口内が幸せで満たされた。

 付け合わせのお野菜も、野菜ってこんなにおいしいものだったんだと驚かされた。

 値段以上の満足感。そして満腹感。ゆえに……

 

「ちょっと、お腹いっぱい……」

 

 青葉がお腹を押さえている。私もちょっと、内側からの圧迫感が苦しい。二人とも明らかな食べすぎ。

 商店街のベンチに座って一休み。一度大きく息を吐く。

 

「しばらくお肉は見たくない……」

 

 げんなりと青葉が零す。どうせ数時間もすれば、またお肉と言うんだろうなぁと、私は予想。それでもひとまず今は彼女の意見に同感。

 

「お肉どころか食べ物全般、今はいらないわ……」

 

 甘いものは別腹なんて言うけれど、そんなの迷信だと確信した。今甘いものを食べたら、確実に大惨事になる。

 と思ったら……

 

「え、デザート食べたくないの?」

 

 青葉はまだまだいけるらしい。思わず信じられないと言わんばかりの表情をしてしまう。

 

「え、ほら甘いものは別腹っていうし……」

 

 私の反応を見て慌てて取り繕う青葉。視線が明後日の方向を向いており、まるで説得力がない。

 

「それにしたって限度があるわよ」

 

 大きくため息。まさか自分の姉がこんなに大食いだったとは。よく見れば肉付きが良くなったような……?

 

「このままいくと、そのうち確実に太るわね」

 

 私が率直な感想を述べると、青葉は心外そうな表情。周囲の人目もはばからず、大声。

 

「そんなことないよ!」

「そうは言うけど、広報室の仕事ってデスクワーク中心なんじゃない? 鎮守府時代と比べて動いてないでしょ。実際今何キロよ?」

「う……」

 

 言葉を詰まらせる。やはり心当たりがあるようだ。へたくそな口笛を吹いて誤魔化そうとしても、それがかえって裏付けになっている。

 

「こんなんじゃ、いずれ提督に愛想をつかされるわよ?」

 

 私がイジワルを口にすると、途端に青葉が真っ赤になった。

 

「し、司令官さんは関係ないよ!」

 

 必死に否定しようとしているが、私ははいはいと笑って適当に流す。

 彼女の言う司令官……提督とはかつて私たちの上司だった人。今は青葉の勤務する広報室の室長。同時に青葉の想い人でもある。……そして、かつて私の想い人でもあった。

 

 私たちは姉妹そろって同じ人を好きになってしまった。だけど結局、私は彼を諦めた。だって彼が好きなのは青葉の方だったから。何より、私は青葉に幸せになってもらいたかったから。

 そうするのが一番いいと判断した結果。

 割り切ったつもりではいたけれど、今なお心にモノクロが残っている。

 

 それにしても青葉の様子を見る限り、提督とはまだ友達以上恋人未満な関係のままのよう。ホント、今後も思いやられると肩をすくめた。

 

「むぅ~、青葉のことはいいんだよ! この前だってちゃんとデートしたんだから」

 

 青葉が不機嫌にむくれてしまった。その反応に私は笑ってしまう。よかった。それでもちゃんと、少しずつ前に進めているようだ。

 

 青葉の方も笑っていて、このじゃれつくようなやり取りが楽しい。

 安心を感じると同時に、お腹も落ち着きを取り戻してきた。

 

「そろそろ行きましょうか」

 

 そう言って私は立ち上がる。青葉も立ち上がるが、私よりも動きが軽やか。

 

「そうだね。スイーツ食べに行こう」

「それはもう少し後にして……」

 

 元気ハツラツに甘いものを食べに行こうとする青葉に、私は心底嫌そうな顔をした。

 私のお願いで、しばらくは腹ごなしに商店街をお散歩。その時代に生きたわけではないのに、懐かしさを覚える。

 未だ活気の残るお店の数々。私たちは気になるお店を見つけるたびに立ち寄った。

 

「あ、これとかおいしそう」

 

 そんな中で、青葉が興味を持つのはやっぱりスイーツのお店。確かにどれもこれもおいしそうだけど、今のお腹には勘弁してほしい。

 

「はいはい、それは後で」

 

 そのたびに私は青葉をお店の前から引きはがす。まったく、これじゃあどっちが姉だかわからない。

 ……それ以上に、好奇心旺盛な犬の散歩をしている気分だと思ったが、口にしたらさすがに怒ると思ったので黙っておく。

 

「こっちのお店とか良さそうじゃない?」

 

 私が興味を惹かれた雑貨屋に青葉を誘う。高級さや派手さ、目新しさはないけれど、素朴で温かみのある品々。

 

「ガサって意外とこういうの好きだよね」

 

 小物の一つを取りながら青葉。「意外と」という表現で、青葉が普段私をどういう印象で見ているのかがよく分かる。

 

「悪かったわね。どうせ私には似合いませんよ。

 

 なんて、唇を尖らせてすねてみる。すると青葉は優しく首を横に振った。

 

「そんなことないよ。青葉もこういうの好きだし。ただ、青葉とガサって全然タイプが違うけれど……共通のものがあることが、嬉しいなって」

 

 私はうまく言葉を返せなかった。ただ、気恥ずかしくて照れてしまう。もう、不意打ちのようなタイミングでそんなこと言わないで欲しい。戸惑ってしまう。

 なにより、さっきまで子供っぽく振舞ってしまった私が恥ずかしい。

 それでも彼女の言葉が嬉しくて、私は微笑みを浮かべる。青葉もニコニコ。

 

「……あ、これとかよさそう」

 

 不意に青葉がキーホルダーを手に取る。花の飾りがついたもの。なんの花かはわからない。だけど綺麗な青色。

 

「司令官さんのお土産にしよっと。ガサは何か買っていかないの?」

 

 青葉に問われて、私はそうねと考えるしぐさ。

 

「私も、こっちの提督に買っていくわ」

 

 そう口にして、青葉のと似たような黄色い花のキーホルダーを手に取った。

 

「おや、もしかしてガサ……」

 

 青葉が嬉しそうにニマニマと。どうやら私の浮いた話を期待しているようだが、残念ながらそんなものはない。

 

「違うわよ。青葉も知っているでしょ? 今の提督は女性」

「そういえば。だけどガサがお土産を買っていくってことは、いい人みたいだから良かった」

 

 安心したような微笑みを浮かべる。私のところの提督は、青葉が広報室へ行くのと同時、入れ替わるようなタイミングで着任してきた。そのため彼女は新しい提督のことをほとんど知らない。

 とりわけ私は艦隊の先任をしているという関係で、提督と仕事をする機会が多い。青葉はそこを気にしていたようだ。

 

 なんせ、前の前の提督は全くのダメ上司で、その時はさんざん青葉に愚痴をこぼしていたし。

 私は大丈夫と微笑み返す。

 

「今の提督はいい人よ。同性だからかしらね、やりやすいわ。それにすごく優秀よ。それこそ前の提督よりも優秀かも。ちょっと世話が焼けるのは玉に瑕だけど……」

 

 ちなみに前の提督とは青葉の想い人、広報室の室長。

 すると青葉が妙な対抗心を見せてきた。

 

「司令官さんだってすごいんだよ。なんせ青葉たちをまとめているんだから!」

 

 それは自分で言っててどうなのだろうと思ったが、言わぬが花なのかもしれない。

 

「ま、仲良くやっているわ。年も近いから、まるで姉妹のようにやれているわ。それこそ青葉よりも姉妹しているかも」

「えー、ひどい」

 

 ショックを受けた表情。その反応がなんだか嬉しくて、私は思わず笑ってしまった。対して青葉の方は私が笑った理由がわからずキョトンと。

 笑いが落ち着いてきて、ふぅ吐息を吐く。

 

「大丈夫、青葉が心配するようなことは何もないわ。先任としてもちゃんとやっていけているし、提督と二人で恋活するくらいには毎日楽しいわよ」

「そっか、よかった」

 

 青葉は優しい表情で頷く。それから彼女はキーホルダーの会計を済ませた。私も続いて終わらせる。

 雑貨屋を出た後も、私たちは商店街を見て回った。気まぐれにお店に入っては、他愛のない会話を続ける。

 それがたまらなく楽しくて、温かかった。

 

「……さあ、そろそろいいかしらね。青葉のお楽しみ、スイーツでも食べに行きましょ」

 

 ほどなくしてようやく胃袋に空白ができたのを感じる。軽くお腹を押さえてみて、圧迫感がないのを確認。青葉の希望通り、甘いものを食べに行くことができそうだ。

 

「わーい、やったぁ」

 

 青葉はまるで子供のように両手を上げて喜びを見せる。

 

「うーん、実に迷っちゃう……」

 

 甘いお店が密集しているエリア。あたりを見回しながらうんうん唸る青葉。あちこちが美味しそうなカラーの看板を掲げており、目移り。どこも魅力で決めかねているといった様子。これは私も悩んでしまう。

 とはいえ、実のところ私はここがいいな、というあたりを付けていた。イチゴが目立つ、ミルクレープのお店。だけどそれを言わないのは……なんだか青葉に悪いから。私のわがままに彼女を付き合わせたくない。

 

 それにせっかく楽しい悩み方をしているのに、水を指してしまうのはもったいない。

 そう思いながら、青葉はどこを選ぶのかな。彼女の様子を楽しむ。

 

「……よし、決めた」

 

 唐突に青葉がうなずく。それまでどこかに心惹かれているような素振りを見せなかったので、本当にいきなり。すこし、驚いてしまった。

 そうして青葉が選んだのは、なんと私が行きたいと思っていたミルクレープのお店。まるで私の心を読んだかのようなチョイス。そこでも私は驚いてしまう。

 

「どうしたの? 早く行こうよ」

 

 キョトンと首をかしげる青葉。私は慌てて彼女と一緒にお店に入る。

 お店はまるでカスタードクリームのような印象。薄黄色の照明に照らされ、甘い匂いの充満する店内。

 ようやくできた胃袋の隙間。正直そんなに入らないだろうなって思っていた。だけども気づけば空腹を煽ってくる。

 

「これは……甘いものは別腹っていうの、合ってたかもしれないわね」

 

「でしょう」

 

 私が驚愕を口にすると、青葉は得意げな表情。

 

「私も太る覚悟をしておいた方がいいかも……」

「なんでよ!?」

 

 青葉がツッコんで、その反応に私が笑う。

 じゃれつき合いもほどほどに、私たちは案内された席に座り、メニューに視線を向ける。どれもこれもおいしそう。目移りしてしまう。あ、タルトもおいしそう。

 それでも私は初志貫徹、看板にあったミルクレープを選ぶ。

 

「んー……。青葉はこれにしよ」

 

 一方の青葉は意外にも悩むことなくタルトを選んだ。私が諦めた方をピンポイントで。

 偶然にしても、ここまでドンピシャだと驚きを隠せない。

 

「……すごいわね」

「なにが?」

 

 私は驚嘆を見せるが、青葉はなんのことかわかっていない。すぐさま興味はやってきたスイーツに移り、彼女は目を輝かせる。

 

「わ、すごい。おいしそう」

 

 子供のようにはしゃぐ青葉。私も表情には出さないが、内心テンションは上がっている。

 シンプルなクリーム色の生地と真っ白な生クリームの層。断面からは時々イチゴの赤が見え隠れ。なんだか宝探しのようでワクワクする。

 

 フォークでミルクレープを小さく切り分け口の中へ。しっとりとした生地に、ふわふわの生クリームの口当たり。柔らかな甘さが口の中を満たす。

 それから間に挟まれたイチゴの、果物特有の甘酸っぱさ。クリームの甘さをより引き立てた。

 

 しかもこのプチプチとした酸味。これは……ラズベリー。弾けた実から広がるスッキリとしたアクセントが味覚を飽きさせない。

 一口、一口が私を笑顔にさせた。

 

「ん~! おいしい~」

 

 青葉も満面の笑み。美味しいが表情からあふれている。彼女の食べるタルトも、やはり美味しそう。

 ちょっぴりうらやましく思っていると、青葉が一切れ、フォークに突き刺してこちらに差し出してきた。

 

「はい、ガサ。シェアしよう」

 

 差し出されたそれを、私はパクっとカスタードの濃厚な甘さと、砂糖でコーティングされた色とりどりなフルーツの甘さ。まるで散らばる宝石みたいにきらびやかで、口の中が楽しいで一杯に。

 

「ん、おいしいわね。じゃあ私もお返しで」

 

 青葉にミルクレープを一切れ。彼女はパクっと一口食べる。

 

「あ、こっちもおいしい。ん~、やっぱりガサの目利きに間違いはないね」

 

 嬉しそうにはしゃぐ青葉。たいしたことではないのに、照れてしまう。

 

「ミルクレープもタルトもそうだけど、このお店を選んだガサのセンスはさすがだね」

 

 ……ん? なんか今、青葉が妙なことを言ったような……。

 私がキョトンと首をかしげていると、青葉の方もキョトンとする。

 

「あれ? ガサこのお店嫌だった?」

「そんなことないわ……。むしろ行きたかったぐらい。だけどよくわかったわね。私、そんなこと一言も口にしていないのに」

 

「実はガサ、チラチラと視線がこのお店に向いていたんだよ」

 

 言われてみればそうかもしれない。自分でも気づいていなかったことに、青葉は気づいていたということが嬉しいような恥ずかしいような。

 

「だけどそれを言わなかったのはきっと、青葉のために我慢しちゃっているんだろうなぁって思ったから。青葉が決めるのを待っていてくれたんだろうなって」

 

 だから直前まで素振りを見せることなく唐突に、このお店に決めたのかと納得。となるともしかして……。

 

「青葉がタルトを選んだのも……?」

「ガサが食べたそうにしていたから。もちろん、青葉が食べたかったてのが一番だけどね。それにほら、分けっこしていろんな味を楽しむきっかけにもなるから」

 

 屈託なく笑う青葉に、私は明確なまぶしさを感じた。

 

「青葉、変わったわね」

「そう? 全然相変わらずだと思っているけど……」

 

 私の素直な驚きに、青葉は頬を赤らめ照れを見せる。

 

「なんていうか……伺わなくなったわ。その代わり、ちゃんと見るようになった」

「……どういうこと?」

 

 いまいちピンとこないと、青葉は首をかしげる。とはいえ実のところ、私自身もよくわかっていない。本当になんとなく、でしかないのだ。それくらい些細で、だけどはっきりとした変化。

 

「前の青葉ならきっと、どこがいいか、どれがいいか私に聞いてきたと思うの。それこそ自分がどうしたいかよりも先に。だけど今日の青葉は見て、考えて、そのうえでどうしたいかを答えてる。そういうとこかなって」

「よくわかんないね」

「私もよ」

「なにそれ」

 

 困惑を浮かべる青葉。だけど同時におかしいと笑みを浮かべる。確かにヘンテコだと、言った私も笑ってしまった。

 お茶を飲んで一息つく。暖かな香りがおいしい。

 ふーっと息を大きく吐いた後、青葉はちょっと寂しそうな苦笑。

 

「だけどもっと、ガサみたいに強くなりたいって……思う」

 

 青葉は私を強いという。心の強さを持っていると。

 だけども私は全然そんなことない。むしろ今は青葉の方が強いんじゃないかな。そうとすら感じてしまう。

 

「いつもしっかりしていて、仕事もできて、ガサの方が姉なんじゃないかって思っちゃうほど引っ張ってもらって……カッコイイっていつも憧れる」

 

 ポツリ、ポツリと賛辞をこぼす青葉。その言葉が嬉しくて照れてしまう。だけど……どこか素直に喜べない自分。

 それはきっと今の私が、彼女の言うような私じゃないから。

 

 青葉がいなくなってから、何も変わらない大丈夫と言っていたけれど、あれは嘘だ。本当はいろんなことがあった。

 そのことを話してしまったら青葉は、鎮守府からいなくなったことに罪悪感を抱いてしまうのではないか。そんな心配があって言えなかった。

 

 でも今の彼女なら……。なにより私自身、抱えているのが辛かったのかもしれない。誰かに話したかったのかもしれない。そしてその相手は……自分の姉がよかったのかも。だからきっと、私は彼女を誘ったのかも。

 

「ねえ青葉……聞いてくれない?」

「どうしたの改まって……」

 

 青葉の緊張した面持ち。私の感情がうつってしまったみたい。それでも私から目を逸らさない。やっぱり、変わった。

 

「嘘ついたの。本当は色々あったわ」

 

 甘いものを食べ終えたはずの口の中、言葉を出し渋る。

 

「……外、行きましょう」

 

 私は一気にお茶を飲み干し、席を立つ。このままではいつまで経っても進まない。少し気分を変えよう。

 私たちは会計を終えて外に出る。半歩後ろを青葉は黙ってついてきた。

 

 ゆっくりと商店街を抜けて、向かった先は海沿いの公園。優しい潮風が私の髪を撫でる。

 時刻は夕方。日が水平線に沈みかけ、辺りを茜色に染めている。赤レンガの建物に背を預け、私は海の向こうへ顔を向ける。

 

「きもちいいね」

 

 隣の青葉が微笑みを浮かべる。茜に照らされた横顔。とても映え、青葉でなくとも写真に納めたくなってしまう。

 それから無言。彼女は私の言葉を待っている。

 一度大きく息を吐いて、それから青葉の顔を見る。

 

「今、私たち艦娘に関わることで大きな改革が行われているの。青葉も知っていると思うけど、艦娘が鎮守府の外で自由に暮らせるようになるかもしれない。そのための準備にいつも追われているわ。みんなのために頑張れるのはすごく光栄なこと。だけどやっぱり時々……疲れちゃった。気づいていると思うけど、最近寝れてないわ」

 

 無理やり笑顔を浮かべる。けどもきっと歪な形になっているだろうな。青葉のような、魅力的な笑顔を、今の私はできそうにない。

 メイクで隠そうとしても、青葉には見抜かれてしまっていたし。

 

「いろんな提督たちや外部の人との協議。それを繰り返していくうちに先任として、艦娘たちの長としてやっていくことに少し……自身が無くなってきちゃった」

 

 協力的な人はいっぱいいる。認めてくれる人だって。だけどなかにはどんなに頑張っても、否定してくる人も。

単純な実力不足もあるが、私が艦娘だからという理由で頭ごなしに否定してくる人がいる現実。それが……辛い。

 艦娘への偏見は、まだまだ多い。その事実に私は打ちのめされてしまっていた。

 

「だから、青葉が言うような人じゃないわよ。私は」

 

 きっと鎮守府の外で働く青葉は私が感じた現実を、いつも味わっているはず。それなのに笑顔を絶やさない彼女が本当に、まぶしい。

 

 潮風になびく青葉の髪。彼女はおもむろに私にカメラを向けた。不意打ち。とっさのことで私は反応できず、朱色に輝く水平線を背景にパシャリ。

 青葉の行動の意図が読めず、困惑してしまう。そんな私をよそに、彼女は撮ったものを確認しながら、満足そうに頷いた。

 

「そんなことないよ、やっぱりガサは、青葉が思っている通り、カッコイイ。だけど今はたくさん頑張って少し疲れちゃっただけ」

 

 青葉が先ほど撮ったものを見せてくる。どんな顔をしたらいいのかわからないという感情が伝わってきそうなほどの、間抜けな表情。ああ、私ってこんな顔をしていたんだ。

 

「疲れると臆病になっちゃうから。青葉も経験あるよ」

 

 自嘲するような笑みを浮かべる青葉。彼女の経験には私も心当たりがある。

 

「あの時は慰めるのが大変だったわ。だけど、今となってはいい思い出」

 

 苦笑を浮かべる私。対して青葉は微笑む。

 

「うん、あの時はありがとう。だからそんなガサに、青葉が勇気をあげるよ」

 

 いつだか私が言った、青葉への励ましの言葉。今度は青葉が私に向けた。

 彼女は小さな包みを私に差し出す。印字されたお店の名前は、先ほど私たちが立ち寄った雑貨屋のもの。

 

「これは?」

「ガサへのプレゼント。さっき買ったものだけど」

 

 ということは花のキーホルダーか。だけどそれは……

 

「提督へのお土産じゃなかったの?」

 

 口にしながらも、私は受け取る。ガサゴソと包みを開けると、それは私の予想とは違うものだった。

 

「えへへ、実はもう一個買ってたんだ」

 

 青葉がまるでイタズラが成功した子供のような笑みを浮かべる。

 中に入っていたのはシュシュだった。青い花の飾りがついた小さなシュシュ。

 この花はさすがに知っている。

 

「……アジサイね」

「うん、ガサにぴったりだと思って」

 

 照れくさそうな青葉。

 まさかプレゼントがもらえるとは思わず、嬉しさと驚きが心の中で同居している。しかしその一方でアジサイと私、それほど相性がいいのかな? 花には詳しくないからわからない。

 

 私が疑問を抱いていると、青葉がえっとと言いよどむ。頬がこの茜色の世界でもわかるくらいに赤い。それほどまでに口にするのが恥ずかしいようだ。

 私が静かに待っていると、青葉は気合を入れるように頷く。

 

「あのね、アジサイの花言葉は『我慢強い愛情』なんだって。それがガサみたいだなって思って……」

 

 徐々に声が小さくなっていく。だけども彼女の想いが伝わった。なるほど、そう言われてしまったらアジサイと私はお似合いだ。

 我ながら損な性格をしていると思っている。大切な人のために我慢していると感じてしまうことは少なくない。

だけど青葉はそれを『我慢強い愛情』と表現してくれた。

 

 そんな、私を表したかのような花のシュシュ。渡してきた本人は優しくはにかむ。

 

「だから……いつもありがとうガサ。私たちのために頑張ってくれて。だけど時には……肩の力を抜いてほしいな。甘えてほしいな。こんな頼りない、いつもそばにいれない私だけど、ちゃんとガサに寄り添いたいから」

 

 照れくさそうな、だけどハッキリとした言葉。聞いているこちらの心がくすぐったくなってしまう。でも……とっても温かい。

 それまで重く心にのしかかっていたものがゆっくりとほぐれていく。どこか自分から孤独になろうとしていた私の心に寄り添う……アジサイの花。

 

 私の我慢は愛情だと、ステキなものだと励ましてくれるような感覚。

 私は手に持ったシュシュで髪を結った。

 

「……似合うかな?」

 

 改めて自分から聞くと、なんだか気恥ずかしい。

 青葉は答える代わりにパシャリと写真を撮った。それからニッコリ。

 

「とっても。ねえ、今度は一緒に撮ろう」

 

 写真に撮られるのが苦手な青葉からの、まさかの申し出。それが私にとってはとても嬉しくて、

 

「もちろん」

 

 私たちは夕日が沈む水平線を背にして、パシャリとカメラのレンズに顔を向けた。

 

 

 

 

「ガサ、忘れ物はない?」

 

 夜。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、気づけばもう帰る時間。夏と言えど空は暗くなってしまっている。

 改札の前で私と青葉は手を握る。

 

「大丈夫だよ」

 

 青葉の心配を、私は苦笑しながら返す。なんだかくすぐったいやり取り。だけど嫌いじゃない。

 

「青葉の方こそ、提督としっかりやりなさいよ」

「な、司令官さんは今関係ないよ!」

 

 顔を真っ赤にさせる青葉に、私はケラケラと笑った。ああ、彼女と別れるのが本当に惜しい。もっと一緒にいたいという寂しさすら感じてしまうほどに。

 そう、私は寂しいんだ。ずっと、青葉と離れ離れになってしまったことが。

 それが、私の心のモノクロの正体。

 

「はいはい、進展があったらちゃんと報告するんだからね?」

「もー!」

 

 これ以上はさすがに怒るなと、私からのからかいは終了。切り替えるようにふぅと息を吐く。

 

「本当に、ありがとう。今日会えて本当によかったわ」

 

 心からの言葉。青葉は照れくさそうに頭をかいた。だけど本当に、青葉に会えてよかった。彼女のおかげで、それまで辛かったものに対して、心のモノクロに対してもう少し頑張れそうと思えたのだから。

 

「こっちこそこそ。ガサと一緒にいれて、とっても楽しかったよ」

 

 青葉の優しい表情。私もつられて微笑む。

 まだまだ一緒にいたいと、この手を離したくないと青葉に甘えたくなってしまう。

 だけどそういうわけにはいかない。私も青葉もやるべきことがある。

 

「あ、もう行かないと」

 

 まるでシンデレラにとっての十二時。発車のアナウンスが駅に響いた。

 

「じゃあね、お姉ちゃん」

 

 手を振り、青葉に背を向ける。すたすたと改札の向こう側へ。

 

「ガサ、ファイト!」

 

 青葉の元気な声が聞こえる。

 あぁ、やっぱり私は強くない。だって涙がこぼれてしまいそうなほど、こんなにも彼女との別れが惜しい。

 

 だけど大丈夫。頑張れる。

 髪を結んでいる、アジサイのシュシュに触れる。

 だって私は『我慢強い愛情』を持っているから。

                               終



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外伝:まるでピロートークのような青葉の話

あくまで「ような」なのでピロートークではないです
ですが、それにも負けない甘い時間
公式には負けますが、それでも精いっぱい幸福を込めて
青葉と片腕のない司令官さんの、外伝的お話


うたた寝って、どうしてこんなに幸せなんでしょう。

 ――それはきっと、大好きな人が傍にいるから。

 

 

 

「ふわぁ~」

「眠そうだね、青葉」

 

 大きなあくびをする青葉に、司令官さんが微笑みかけました。

 変な顔していなかったかな? ちょっと恥ずかしさを覚えて、慌てて口元を隠します。

 

 司令官さんのお家でのんびり過ごす週末の夜。青葉は司令官さんの左側に座ってテレビを眺めていました。

 今は映画の再放送が流れています。ちょっと前に話題になったロマンス映画ですね。見ているだけでちょっと恥ずかしく、赤面してしまいそうな大人なシーンがたくさん。

 

 だけど青葉はウトウトして、司令官さんの肩に寄りかかってしまっていたみたい。座りなおして姿勢を正します。

 

「あ、司令官さん。ごめんなさい。重かったですよね?」

「そんなことないよ。それに、寝ててもいいんだよ?」

「それはもったいないから嫌です。せーかっく司令官さんと一緒にいるんですから」

 

 ポヤポヤと重いまぶたをこすりながら青葉はキッパリと答えます。

 一週間ぶりの司令官さんとの時間。寝てて終わってしまうのはもったいないです。

 

「青葉はもっと司令官さん成分、補給したいです」

 

 ……そう思ってはいるのですが、やっぱり眠たい気持ちは青葉の頭の中をぼんやりで埋め尽くしていきます。ほらまたコクリ、コクリと船をこぐ。

 

「そうは言うけど……あはは。ほら、眠そう。いいよ、寝てて。気にしないで」

 

 苦笑しながら司令官さんは優しく頭を撫でてくれました。男の人らしい、大きな手。ゴツゴツしていますけど温かくて、繊細で、とても……心地いい。

 

 気持ちよくて目を細めてしまいます。今の青葉は撫でられるワンコのよう。

 

「あぁ、頭を撫でるのはズルいです。そんなことされたら気持ちよくて……」

 

 言葉の端がもにゃもにゃと。最後まで言う前にコテン、青葉は頭を司令官さんの肩に寄せました。

 ドクン、ドクン。伝わってくる音。

 

「あ……司令官さんの鼓動、聞こえます」

 

 大好きな人の命の音。感じることができて自然と表情が緩んでいきます。

 

「ボクも青葉の重さを感じることができて嬉しいな」

 

 重いまぶたを上げて、上目で司令官さんをチラリ。幸せそうな顔に、青葉まで嬉しい気持ちでいっぱい。

 

「……いい匂いだね」

「それ、ちょーっと変態さん、みたいですよ?」

 

 耳元にかかる吐息がくすぐったくて、囁かれた言葉がヘンテコで、青葉は小さく笑いを漏らします。

 司令官さんは微妙に困ったような笑みを浮かべます。

 

「そうは言われてもね……。青葉からはお日様の匂いがするから、思わず口に出しちゃったよ」

「えへへ、まるで干したお布団、みたいですか?」

 

「そうだね。思わず抱きしめたくなるよ」

「わわわ……! ギュッとされちゃいました」

 

 司令官さんは青葉の頭に置いてあった手を腰に回して、そっと抱き寄せました。

 さっきまでよりずっと近い、密着感。

 

 司令官さんの温かさが伝わってきて、青葉は熱くなってしまいます。きっと頬に出てしまっているはず。ポカポカしちゃってますから。

 

「……うん。いい抱き心地」

 

「きょーしゅくです……」

 

 満ち足りた表情を浮かべる司令官さん。恥ずかしさがこみ上げてきて顔を見ることができません。

 だけど自然と青葉も手を司令官さんの背中に回してギュー。牛さんじゃ、ないですよ?

 

 ……幸せがじんわりと湧き上がってきます。

 

「このままどこかに持ち去って独り占めしてしまいたいくらいだよ」

 

 テレビでは主人公がヒロインをお姫様抱っこしながらどこかへ連れていくシーン。思わず青葉が司令官さんに同じようなことをされる光景を想像してしまいます。

 

 それがあまりにステキすぎて、ふにゃふにゃな笑み。

 でも司令官さんはちょっと寂しそうな表情。

 

「だけどボクの手じゃそれができない。そこまで不便に感じたことのないこの腕だけど、久しぶりに片腕になってしまった悔しさを覚えるよ」

 

 ヒラリ、揺れる司令官さんの右袖。中には何も入っていない空っぽ。

 事故で失くしてしまった右腕。

 

 左腕だけで青葉を抱っこするのは確かに……難しいです。

 

「そう……ですね」

 

 ちょっと気まずくなって視線を逸らします。

 残念……というのもありますが、それ以上に青葉の心をギュッと絞めつける苦しさ。

 

 どうしようもない現実を突きつけられたような寂しさ。

 

「でも……大丈夫です。青葉はずぅっと、司令官さんのそばにいます。だからいつでも、独占ですよ?」

 

 今度は青葉が囁きました。優しく、素直な気持ちをたくさん込めて。それはきっと自分自身にも向けた言葉。

 

 言葉はなくても嬉しそうに目を細める司令官さん。青葉も柔らかな笑みを浮かべました。

 

「それに青葉も、司令官さんを独占しちゃいます」

 

 コテン。青葉は司令官さんの膝に頭を乗せて寝転びます。硬いけれど落ち着く寝心地。

 下から覗いた司令官さんの表情は目をパチクリ、キョトンとさせていてなんだか可愛い。

 

「えへへ。青葉の……定位置です」

 

 そっと司令官さんの手を握ります。手のひらを合わせ、指と指、一本ずつしっかりと絡ませて。

 繋がった手の体温が伝わってきます。司令官さんの温もり。

 

「青葉の手、暖かいね」

 

 微笑む司令官さんにだけど、青葉は小さなあくびで返します。

 

「えへへ……。また、眠くなってきちゃいました。しばらく、こうしてても……いいですか?」

「うん、こうしてて……欲しいな」

 

 チラリ、テレビを横目で見ればクライマックス。主人公とヒロインが熱く愛を確かめ合っています。ちょっとだけ羨ましいと思ってしまいました。

 

 でも……テレビの中のロマンスにも負けないくらい、幸せで、甘い時間。

 ウトウト、幸せな気持ちでいっぱいです。

                                 終

 



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外伝:青葉と寂しいモンブラン。それから一杯の孤独なコーヒー

理由のない寂しさを感じる青葉と、片腕のない司令官の外伝的お話
想像以上に青葉が原作的イメージから乖離しています。具体的には明るくないです。



――ふと寂しい時は、なぜだかモンブランを食べたくなります。

 

「うわぁ、司令官さん。このモンブラン凄いですよ!」

 

 栗の甘い香りを前に、青葉はいつもみたいにはしゃいで見せました。

 黄金色の糸で編まれた美しいお山。その上にちょこんと乗った宝石はまさに芸術品。それでいてケーキが見せるおいしそうという思いがしっかりと湧いてきます。

 カントリー調の店内。木の温かみと落ち着いたジャズが流れ、穏やかな時間を演出しています。

 

「うん、コーヒーもおいしい。さすが青葉、いいお店知っているね」

 

 テーブルを挟んで向かいに座る愛しい人はカップを手に、笑顔で頷いてくれました。

 青葉は得意げな笑みで返します。

 

「そうでしょう。こういう情報は青葉に任せてくださいよ。……と言っても雑誌に紹介されていたんですけどね」

「いい情報をしっかりと収集できるのは十分凄いことだよ」

「えへへ、きょーしゅくです」

 

 司令官さんに褒められたのが照れくさくて、恥ずかしそうに頭をかきます。

 

「それにしても本当に凄いね。……ここがバーだって言うんだから信じられないよ」

「そうですよね。喫茶店じゃないんですから驚きですよ」

 

 そうなんです。実は青葉たちが今いるのはバー。他のお客さんたちはお酒を飲みながら楽しそうにおしゃべりしています。

 時間も夜遅く。外はすっかりお月様が顔を出してオレンジ色の幻想的な明かりが夜闇を照らしています。

 そんな中で青葉たちは夜のお茶会と言ったところでしょうか? なんだか不思議な、ちょっぴりメルヘンを感じてワクワクです。

 

「………」

 

 だけど……なんででしょう。青葉の心には隙間風。冷たい感情が吹きすさびました。

 油断すればそれまであった楽しい気持ちの灯火が消えてしまいそうで、無理やり言葉を続けます。

 

「知ってますか司令官さん。栗の花言葉って『豪華』なんですよ。まさに言葉通りですよね。これは是非とも写真に収めておかないともったいないです」

 

 寒くなっていく心を隠すように、普段の調子と変わらず……むしろ大げさなくらいに振舞う青葉。カメラでパシャリ、モンブランを撮っていきます。

 カメラのフラッシュを浴びたモンブランは込められた言葉通りキラキラとした輝き。だけどそれはどこか空虚で……寂しい。

 司令官さんは撮影を続けている青葉を眺めながら、愛しそうな視線を向けてくれます。

嬉しいはずなのに、寂しいです。

 

「撮ってばっかで食べないのは、そっちの方が勿体ないんじゃない?」

「それもそうでした。いただきます」

 

 あははと小さく笑いながらちょっぴりぎこちない動き、フォークで切り分けたモンブランをパクリ。

 

「ん、すっごくおいしいです。栗の味が濃厚ですね。フワフワのスポンジも甘すぎなくてちょうどいいです。……あ、見てくださいよ。クリームの中に細かい栗が入ってますよ。コロコロとした食感が楽しいです」

 

 言葉に嘘はありません。とってもおいしい。なのにその感情はどこか薄っぺらい。まるでよくできた食品サンプルみたい。

 それが余計に青葉を悲しくさせました。

 どうしてこんな気持ちしか出てこないのでしょう。本当はもっと喜びたいのに。嬉しさではにかみたいのに。

 今の青葉にあるのは、訳の分からない寂しさだけ。

夜の時間がそうさせているのでしょうか?

 どんなに理由を求めても、苦しいだけで何も分かりません。

 

「それはよかったね。甘いのが苦手じゃなかったら是非ともボクも食べたくなるような食レポだよ」

「やめてくださいよ。青葉もちょっと大げさすぎたかなって、恥ずかしいんですから」

 

 明るく見えるように笑ってはいますけど、凄く歪に思えて仕方がないです。

 口にした言葉と口にしない言葉があまりにもチグハグで、お腹の奥にグルグルと気持ち悪い感覚。

 

「でも本当に甘くて……おいしいです」

 

 感情が漏れかけて、慌てて飲み込みました。口の中に残る、栗の甘い後味。

 孤独ではないのに、なぜだか感じる寂しさ。形のない感情がゆっくりと絞めつけてきます。

 愛する人と一緒にいて、幸せなひと時を過ごしていて、満たされているはずなのに……。

 まだ……いったい何が足りないのでしょう。

 寂しさで空っぽになっていく心を埋めるかのように、大好きな人に触れたい気持ちが溢れてきます。

 

「手、届かないですね」

 

 伸ばした手。たったテーブル一つなのにあなたの右腕には届きません。

 虚しく揺れる右袖は、青葉に永遠に掴むことができない現実を突きつけてきました。

 どうしようもない、無力感に泣きたい気持ちでいっぱい。

 

「そうだね。だけどもう片方はちゃんと届くよ」

 

 左腕を伸ばして、青葉の手を取ります。

 温かなあなたの感触。求めていた触れ合いなのに……まだ寂しい。

 司令官さんは呑気なことを口にしましたが、表情に隠そうとしていた寂しさが見えてしまいました。青葉の胸がキュッと締め付けられます。

 この悲しい気持ちどうすることもできず、青葉はただモンブランを食べて我慢するだけ。

 あなたはこんなにも優しいのに、ただ寂しさを感じてしまう。

 

「……本当に、おいしいです」

 

 零した言葉がとてもか悲しくて。同時に何か別のものまで零れてしまいそう。

 

「――ボクにも一口、貰ってもいい?」

 

 唐突に、司令官さんが言いました。どういう風の吹き回しでしょうか。

 青葉は思わず驚きの声。

 

「え、司令官さん甘いのは……」

「うん、青葉が食べているのを見たら気になってね」

 

 目をパチクリさせ、どうしたらいいのかわからない。戸惑いを見せていましたが、司令官さんに言われるがまま、青葉はフォークを渡します。

 受け取って、先端でちょこっとだけモンブランをすくいました。口に入れて……それから苦笑い。

 

「……うん、ごめん。やっぱり甘いのは苦手だった。だけど、青葉が言っていた通りだね」

 

 そう言って司令官さんはお口直しでしょうか。コーヒーを一口。

 その様子を不思議に眺めていると、司令官さんの視線がこちらを向きます。

 

「……青葉も飲む?」

「あ、いえ……青葉は苦いの、苦手ですから」

 

 青葉は苦いのが本当にダメで、実はコーヒーなんてほとんど飲んだことがありません。

 

「そっか。やっぱりコーヒーは孤独な飲み物だね」

 

 断ってしまったことに対して司令官さんは残念がる様子は見せず、代わりに気になることを口にしました。

 

「孤独な飲み物……ですか?」

「ボクにとって、コーヒーを飲んでいる時間は孤独を感じるんだ」

 

 それってなんだか青葉とモンブランの関係に似ている。

 カップから漂う湯気みたいに穏やかに、言葉を続ける司令官さん。

 

「特に理由なんてないんだと思う。お腹が空いたからご飯を食べるのと同じようなことだと思うんだ」

「今も……ですか?」

「うん、大切な人と一緒にいるのに、どこか一人きりになってしまっていると思ってしまって……ごめんね」

 

 申し訳なさそうな苦笑い。

 おかしいことなのかもしれませんけど、青葉はその表情に安心していました。

 だから司令官さんへ返した言葉は……

 

「青葉も……飲んでみてもいいですか? 砂糖とミルクをたっぷり入れてですけど」

 

 そう口にしたのはきっと、あなたと同じ気持ちを知りたかったから。

 あなたがモンブランを口にしたように。

 新しく注文したコーヒーはすぐにやってきました。

 湯気と一緒にミルクの優しい、砂糖の甘い香りが漂ってきます。

 

「……いただきます」

 

 青葉はカップを手に持って、小さく口を付けました。ちょっぴり苦い……だけどそれ以上に甘くてまろやかな温かさがお腹の中に。

 

「おいしい……ですね」

 

 一言だけ零しました。それから大切な人と同じものを口にしているのが嬉しいのもあって、ずっとカップに口をつけていました。

 その間一言もしゃべることなく。周囲の音がよりはっきりと聞こえてきます。

 店内で流れるジャズ。他のお客さんたちの楽しそうな声。その中で唯一と言っていいほど、音のない空間がここに。

 ……ああ、確かにコーヒーを飲んでいるとき、とても静かで……まるで独りきりのよう。

 孤独を感じてしまいます。

 でも……。

 

「なんだか悪くないって思っちゃいますね」

 

 小さく笑って、モンブランを一口。モンブランとコーヒーって合うんですね。

 

「おいしいです」

 

 今度は本当の、心からの感想。

                                     終

 



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ノンシュガーが欲しくなる青葉のスウィート・ショート・ストーリー:プロローグ

C98 にて頒布予定だった青葉の短編集の一つ
青葉と片腕のない司令官さんの甘い日常です。
今回はその始まり、デートの待ち合わせ。


『花の金曜日』なんて言葉がありますが、それは青葉にとっても例外ではありません。

 金曜日は心がソワソワ落ち着かない。お仕事が終わる三十分前ぐらいになると、いまかいまかと待ちわびます。

 

 今日は仕事を早めに切り上げて、残りは週明けに。いつでも帰れる準備をします。

 十分前になればもう、数秒おきに時計をチラチラ。待ち遠しいが止まりません。

 そうして残り五分を切って……

 

「――そういうわけで、今週もお疲れ様」

 

 その言葉と共に、終礼が締められました。次の瞬間に終業のラッパ。いつもはあっという間なメローディーも、今日ばかりは長く感じてしまいます。

 

 そしてラッパが鳴り終わると同時、青葉は既にまとめてあった荷物を慌ただしく手に取ります。

 

「お疲れ様でした、お先に失礼します」

 

 そう口にして、早々と広報事務所を出ました。

 鎮守府を離れ、広報室のお仕事を始めて数カ月。毎週金曜日は青葉にとって特別です。夕暮れの街を歩く足取りも、鼻歌交じりのスキップ。心がワクワクしています。

 

「金曜日って、きっと不思議な力がありますね。ウィークエンドの魔法です」

 

 思いついた単語を口にして、その言葉のヘンテコさに思わず笑ってしまいます。だけどウィークエンドって不思議な響き。妙に気に入って何度か口ずさみました。

 

「ウィークエンド~は~――」

 

 即興の歌を口にしながら、テンション高く速足で。

 青葉が訪れたのは駅前の喫茶店。カウンターで注文したココアを受け取って、隅っこの席に座ります。

 

「うん、ちょうどいい時間。まだかな、まだかな~」

 

 ココアの甘さを堪能しながら、青葉は待ちます。ここは待ち合わせの場所。約束の時間、までもう少し。今からもう、心臓が早鐘を打っています。

 

 心がソワソワせわしない、特別な待ち合わせ。足をバタバタ宙で蹴って、まるで落ち着きのない子供みたいだと、自分でも思います。

 お店の扉が開くたび、その人じゃないかと確認。違ったと席に座りなおしてを繰り返します。待ち遠しいが抑えきれない行動。だけどもその感情がとびきり楽しいです。

 

「あー……たぶん、少し遅れてくるかもしれませんね」

 

 もしかして……と、ココアのカップに口をつけながら、青葉は予感を口にします。あの人の性格的にそんな気がしました。きっと青葉と違って仕事は残しておきたくない人でしょうし。

 

「それなら仕方ないですね。青葉はおとなしく待ちましょう」

 

 言葉とは裏腹に、未だおとなしくならない胸の高鳴り。だけどこのドキドキを、青葉は密かに楽しみます。これはきっと、幸せの足音ですから。

 

 そして青葉の予想通り、約束の時間を少し過ぎて、その人は来ました。

 

「お待たせ。待たせちゃってごめんね」

 

 息を切らせて、申し訳なさそうな表情を浮かべて。急いできてくれたことが明らか。

その人の顔を見た瞬間、ぱぁっと青葉の世界が明るくなるような錯覚。もうじき日も沈んで辺りは暗くなってきているはずなのに、まるで夜明けのようです。

 

「大丈夫です。青葉も今来たところですから」

 

 なんて、待ち合わせでお決まりのセリフを言ってみたら、苦笑されました。

 

「いや、そんな嘘はいらないって。青葉が先に帰るの見ているんだから」

 

「あはは、だけど一度言ってみたかったので。それとも、すっごく待ちましたって言ったほうがよかったですか?」

 

「それは……罪悪感が凄いから、できればやめてほしいな」

 

 今度はすごく渋い顔をされました。コロコロ変わる表情に、青葉はケラケラ笑います。

 

「冗談です。ぜんぜん待った気分はないですよ。むしろ、この待ち遠しさが愛しいと思ったくらいです」

 

「それならよかった。ボクも急いできた甲斐があったよ」

 

 こうして待ち合わせをしていたのは先ほどまで同じ事務所にいた広報室の室長さん。だけど青葉にとっては司令官さん。鎮守府時代から一緒にお仕事している人です。

 

 それ以上に、青葉の大切な……想い人。今日はなんと、そんな愛しい人とのデートの日。毎週金曜は一緒に過ごすという、司令官さんとの秘密の約束。

 

 なんで広報室から一緒にならず、こんな場所で待ち合わせをしたか。その理由は単純に恥ずかしいからです。知っている人たちにこの様子を見られてしまったら、恥ずかしさのあまり青葉は次の日から皆さんの顔を見ることができなくなってしまいます。

 だから司令官さんとの関係も、秘密です。

 

「それよりもお仕事お疲れ様です。たくさんあって大変だったんじゃないですか?」

 

 青葉は普段、司令官さんがどれだけ多くのお仕事をされているか知っています。毎日残業してもおかしくない量。それをほとんど一人でやっているんです。

 

「本当は青葉もお手伝いするべきなのですが……」

 眉をひそめて、申し訳ない表情になってしまいます。だって青葉では手伝うどころか足手まといになってしまうことが明らか。大切な人が大変な時に何もできない青葉の無力さがちょっぴり悲しい。

 

「ありがとう。だけどその言葉だけで十分」

 

 司令官さんは柔らかい微笑みで、優しく慰めてくれました。おっきな手で頭をなでなで。心と頬がほのかに温かくなります。

 

「えへへ……」

 

 思わずはにかんでしまいます。もっとこうしていたいと思ってしまうほどの心地よさでしたが、せっかくの週末。それだけで終わってしまってはもったいないです。

 

「司令官さん、さっそく行きましょうよ。今日は青葉の気になっていた映画を見たいです」

 

「わかったよ。あ、ここの会計はボクにさせてくれないかな? 遅れたお詫びってことで」

 

 ココアよりも甘いキザなセリフ。司令官さんは口にして伝票を手に取ります。ココア一杯だけじゃなくて、もっと頼んでおけばよかったなんて、小さなイタズラ心が心で舌を出しました。

 

 そんな青葉の内心を司令官さんはバッチリお見通しのようです。

 

「先に一人でデザートまで食べるなんてズルいことされたら、ボクは寂しくなっちゃうな」

 

「あはは、それは嫌ですね。それにお腹いっぱいになっちゃったら映画の途中で眠くなっちゃいそうです。なにより、青葉は楽しみは後に取っておくタイプですから。デザートは映画の後です」

 

 冗談交じりな司令官さんの言葉に、青葉は茶化して返します。ふざけ合ったこのやり取り。何気ないものだけども凄く楽しく幸せです。

 司令官さんが温かい笑みを浮かべていて、つられて青葉も笑顔に。

 

「さ、行こうか」

 

 そう言って司令官さんが手を差し出します。一瞬青葉はその手を取るか迷ってしまいました。

 だって人前で手を握るって、恥ずかしいことじゃないですか。

 だけど今日は金曜日。ウィークエンドの魔法が青葉に勇気をくれます。

 

「はい。エスコートよろしくお願いします」

 

 青葉は手を取りはにかみます。手のぬくもりがとても心地いい。

 青葉たちはお店を出て、キラキラ輝く街の中。

 

「ウィークエンドの~まほう~」

 

 思わず口ずさんだ即興歌。司令官さんがクスリと笑います。

 

「金曜日の歌です。金曜日ってなんだか魔法があるように思えません?」

 

 言われて、なるほどねと司令官さんは頷きます。それから街をぐるりと見まわし。

 

「青葉の言う通り、不思議な感覚だね。幸せな雰囲気が満ちている気がする」

 

 優しい司令官さんの言葉。そうでしょうと青葉はどこか誇らしげ。

 

「それにそう感じるのはなにより……青葉のおかげかもね」

 

「え……」

 

 不意打ちの言葉。自分の頬がみるみる熱くなっていくのがハッキリとわかりました。

 

「……きょーしゅくです」

 

 恥ずかしさのあまり、なんて返したらいいかわからず出た言葉。司令官さんの嬉しそうな微笑み。だけどどこかイジワルな……

 

「むぅ~司令官さんはズルいです!」

 

 プイっと拗ねて見せますが、すぐにクスクス笑い出してしまいます。

 こんな他愛もないやり取りの繰り返し。それがたまらなく幸せで。だけど金曜日はまだまだ始まったばかり。

 青葉たちのウィークエンドは幸せに色づいていました。

                                  終

 



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ノンシュガーが欲しくなる青葉のスウィート・ショート・ストーリー:シュガー・スパイス・シェア

C98 にて頒布予定だった青葉の短編集の一つ
青葉と片腕のない司令官さんの甘い日常です
映画を見に行った後、ファミレスでの感想会になります


「――それでですね、クライマックスのシーンすごくなかったですか!?」

 

 興奮が収まらない状態で、青葉は言葉をまくしたてます。テーブルをはさんで向かいに座る司令官さんはニコニコと青葉の話を聞いてくれていました。

 映画を見に行った後の帰り、近場のファミレスで感想会です。

 

「すっごい予算を使ってるな~っていうシーンの連続で、ずっとワクワクとドキドキが止まりませんでしたよ。最後、主人公がとどめをさすシーンなんてあれ、全部CGですよね?」

 

 青葉たちが見に行ったのは、外国のマンガが原作のヒーロー映画。世間でも話題になっていて、今年の興行収入ナンバーワンらしいです。

 

 実際、前評判の通り終始楽しいが続く、まるでジェットコースターのような映画でした。終わった瞬間、青葉は感想を言いたくてずっとうずうずするほどでした。

 

 そしてファミレスに到着するや否や、決壊したダムのように語り始め、現在に至ります。

 

「もう少しいい表現の仕方はなかったの……? いや、アクションシーンはすごい迫力だし、カッコよかったけどさ」

 

 青葉の感想に困惑する司令官さん。青葉と違って冷静です。確かにゲンキンな言葉しか出てないですねと笑ってしまいました。

 

 とはいえやっぱり、司令官さんも楽しかったようで言葉の端々が弾んでいます。そして今度は司令官さんのターンのようです。そのまま言葉を続けました。

 

「……なにより動きの一つ一つがいいよね。ダークヒーローってことで、王道な立ち回りじゃないのが特に。スタイリッシュに小気味よく動いて相手を翻弄させるアクションがらしいと思えるいい動きだと思ったよ」

 

 そうです。今回の作品はヒーローはヒーローでも、ダークヒーローもの。正々堂々としたカッコよさではなく、卑怯と罵られようとも自分の正義を貫く芯の強さがカッコいい魅力の作品でした。

 

「しかもそのキャラクター性もちゃんと理由があるのがいいですよね。それが実は……っていうギャップを作っているのもまた、すごいなーって」

 

「それなら――」

 

 青葉たちは交互に感想を語り合います。あそこがよかった、ここがカッコよかったと。言葉のぶつけ合い。だけど共通してその原動は、映画が凄く楽しかったということ。

 

 好きな人と、こんなにも感情を共有できるなんて、この上なく嬉しい。そのことが何より、青葉を笑顔にさせます。

 

 せっかく来た料理を食べるのも忘れて、青葉たちは言葉を重ね合わせました。

 

「――それでですね。ふと思ったんですが、主人公ってなんだか司令官さんに似ていません?」

 

「ボクに? ないない」

 

 唐突に湧いてきた言葉を勢いのままに。司令官さんは苦笑を浮かべます。青葉も、なんでこんなことを言ったのだろうと自分でも不思議です。

 

 ですが、次に浮かんだ言葉を零したらなんだか納得できました。

 

「大切な人のために素直になれないところとか、そっくりだと思いますよ」

 

 なるほど、青葉が感じたのはそういうところでしたか。

 

 主人公はちょっとキザに気取っていて、だけどそれは自分の本心を隠すため。ヒロイン対してなかなか素直な感情を伝えれていませんでした。司令官さんも時々格好つけることがあります。そして青葉に秘密のことが多い気がします。話していて、時々すごくはぐらかされていると感じるときがありますから。

 

 うん、確かにそっくりです。

 

「そんなことないと思うけど……」

 

 似ている認定されたことが気に食わないと、珍しく拗ねた様子の司令官さん。レアな表情に思わず可愛いとときめいてしまいます。カメラを持ってこなかったのが悔やまれました。

 

「いえ、そんなことありません。だって青葉になかなかな言ってくれないじゃないですか」

 

「えー……、ちゃんと好きだっていつも言っているけど?」

 

「ちょ……!」

 

 司令官さんからの不意打ちに、思わず青葉は赤面。その反応に、司令官さんは楽しそうな笑みを。うぅ……イジワルです!

 

「もう、なんでそういうことをあっけらかんに言えるんですか! 恥ずかしいじゃないですか!?」

 

「あはは、ごめんごめん」

 

 笑いながら謝る司令官さんは、全く反省した様子を見せません。まったくと、青葉は呆れてしまいます。

 まあ、青葉も怒った表情をしている反面、心の中では嬉しさでニヤニヤ笑みを浮かべてしまいましたが。

 

 

「……でも、好きっていう気持ちは本当だよ。これは本音。だけど、別の本音はもうちょっと待っててね」

 

 スッと、優しい表情になる司令官さん。その移り変わりに思わずドキリ。ふとした拍子に見せる、仮面の下の素顔のような雰囲気に心はほだされてしまいます。

 

 そうしてまた青葉ははぐらかされてしまいましたが、それでもいいかと思わされているのです。

 甘く、ちょっぴり刺激的な人。本当に司令官さんと一緒にいるだけで、心がポカポカ元気になります。

 

 もっともっと色々と話したりない。そんな気持ちで一杯でしたが、そろそろお腹が空いてきました。グゥっと小さな音が鳴り響き、青葉は急いでお腹を押さえます。

……今の、聞かれていませんよね?

 

 恐る恐る司令官さんの様子を伺います。大丈夫、気づかれていないようですね。内心ホッと安堵します。

 

「さ、そろそろご飯を食べようか。せっかくのご飯が冷めちゃうし。何よりボクはお腹が空いちゃったよ」

 

 ……あ、、これは気づかれてしまっていたようです。そのうえであえて知らんぷり。そしてさりげなくご飯が食べれるように促してくれています。

 

「むぅ。……まったく、司令官さんはなんでこんな優しい動きがサラリとできちゃうんですか」

 

「なんで不満げなのか、そっちの方がボクはわからないよ」

 

 青葉の理不尽な不満に困惑する司令官さん。その反応が楽しくてクスクス笑ってしまいました。ごめんなさい、からかっただけなんです。

 

 そのことに気づいたようで、司令官さんも苦笑を浮かべていました。

 

「さ、そんなことよりご飯をいただきましょう」

 

 手を合わせていただきます。ナイフとフォークを手に取ります。青葉が食べるのはハンバーグ。焼けたお肉の香ばしい香りと、トマトソースのマイルドな酸っぱい香りが混ざり合っておいしそうです。

 

 司令官さんも手を合わせた後にお箸を持ちました。司令官さんの方は生姜焼き定食。こちらも焼けたお肉とちょっと焦げたお醤油の香ばしさ、しょうがの香りが食欲をそそります。

 

「それにしても、本当にここでよかったの?」

 

 青葉がハンバーグを切り分けていると、尋ねてくる司令官さん。生姜焼きをつまみながらご飯を食べるその表情には少し不安というか、申し訳なさが浮かんでいました。

 

「なにがです?」

 

 首をかしげながら、青葉はハンバーグをパクリ。食べなれた味、安定したおいしさです。

 

「いや、せっかくなんだからもう少しいい場所をリクエストしてくれてもよかったんだけどね。給料も入ったばっかだしさ」

 

 ああ、なるほど。青葉がファミレスを選んだのを遠慮だと思われていたのですね。それが申し訳なかったみたいです。そんな司令官さんに対して、青葉は微笑みながら返します。

 

「大丈夫です。青葉はむしろ、ここがよかったですから。ここならドリンクバーもありますし、少し騒いでも全然大丈夫ですから。感想会にはうってつけな場所です」

 

「それは確かにそうだけど……」

 

 表情がまだ渋いままの司令官さん。気を使わせてごめんと謝ってきます。ホント、真面目なんですけど、こういうところで融通が利かないんですから。青葉は内心ちょっぴり呆れてしまいます。

 

 ふぅっと一呼吸。それからフォークでひょいっと司令官さんの生姜焼きを一切れいただきます。そのままパクリ。お醤油の絡んだお肉の味。しょうがのパンチが効いたアクセントと合わさってハンバーグとはまた違った和風のおいしさ。

 

 いきなりのことにちょっぴり驚いた表情の司令官さん。そんな彼に、青葉は自分のハンバーグを一切れ、フォークに刺して差し出します。

 

「はい、司令官さん。おすそ分けです。こういうのも、ファミレスならではじゃないですか?」

 

「……まったく。青葉はどうしてこういうことをサラリとできるかな?」

 

「なんでそんな不満そうな口ぶりなんですか」

 

 今度は司令官さんが理不尽な不満を口にします。だけどその表情は笑っていて、なるほど、先ほどの意趣返しですか。

 

 青葉が意図をくみ取ると、司令官さんはニヤリと笑います。つられて青葉もニコリ。このわざとらしいやり取りにお互い笑みを漏らしました。

 

 同じことで笑いあえるって、楽しいだけでなく幸せ。そんな感情が沸き上がってきます。

 

 ひとしきり笑いあってようやく一息。すると司令官さんがパクっと青葉のフォークに刺さったハンバーグを食べました。

 

「うん、おいしいね。確かにこうやって分け合える楽しさを味わえるのはファミレスならではかもね」

 

 モグモグと司令官さん。青葉が差し出していたとはいえ、あまりの不意打ち。目を丸くしてしまいます。

 

 それでも次の瞬間にはハッと我に返って、そして気づいてしまいました。これってもしかしなくても間接キスじゃないですか!? それどころか『あーん』まで!?

 

 意識した途端、急に恥ずかしさがこみ上げてきました。うわわ、なんとか顔には出さないようにしましたが、それでも内心ワタワタとしてしまいます。

 

 青葉の必死の我慢。だけど司令官さんはそんな状況お構いなしな様子。

 

「こういうのが、幸せの味なのかもね」

 

 更に不意打ちとしてキザなセリフ。もう、今度こそ青葉の顔は真っ赤です。

 

「そんな恥ずかしいセリフ、言わないでくださいよ!」

 

 照れ隠しに声を荒げる青葉。だけど司令官さんはそんな青葉の様子を見てただただ楽しそう。むぅ、なんだか負けた気がします。不機嫌に頬を膨らませました。

 

 このままでは収まりがつかない青葉。ここはひとつ仕返しを企みます。

 

「そんなにキザなセリフがお好きでしたら、映画で主人公がヒロインに言っていたキメ台詞を言ってくださいよ。それまで恥ずかしいセリフは禁止です」

 

「えー……あれ?」

 

 司令官さんの困った顔。青葉は内心ニンマリします。

 

 映画で主人公が言ったキメ台詞、敵との一騎打ちに赴く主人公を心配したヒロインに向けた言葉。すっごく格好つけたキザなセリフ、だけどそれが青葉は大好きでした。だから青葉は大好きな司令官さんに同じことを言ってほしかったりします。

 

 だけどもやっぱりとてもクサい言葉。司令官さんは恥ずかしそうに言うのをためらっていました。

 

「どうしたんですか司令官さん?」

 

「いや……まぁね」

 

 きょろきょろと視線を泳がす司令官さん。口元を押さえてこみ上げる感情を抑えるよう。こんなにも恥ずかしがる司令官さんはとてもレア。青葉は喜んでしまいます。

 

「まあいいか。いくよ……?」

 

 ようやく覚悟を決めたみたいで、コホンと一回咳払い。それでもなかなか言い出せず、口をもごもごしていました。本当に新鮮な反応。見ていて飽きません。青葉がそんなことを思った矢先に口を開きました。

 

「……オレにとって君は日常の象徴だ。日常のためなら、オレはどんなにも残酷になれる。そして必ずキミの元へと戻ってきたい。もし、オレが再びキミの前に現れた時、キミはオレを受け入れてくれるか?」

 

 キャー! 思わず黄色い悲鳴を上げてしまいそう。それほどまでに司令官さんの言葉はカッコよかったです。普段とは違う一人称のギャップ。加えて、照れが残っているのが可愛くて……。本当に、撮影するものを持っていなかったのが悔やまれます。

 

「はい、これでいい?」

 

 まだ恥ずかしさが抜けきらず、頬を赤らめている司令官さん。その表情もいいですね。普段は青葉が赤面させられる一方なだけに、今回はいつもの仕返しができて青葉はホクホクです。

 

「はい、満足です。たとえ劇中のセリフでも、司令官さんが言っていると思うと、すごくうれしくなっちゃいます」

 

 青葉はニッコリとした笑みで返しました。すると司令官さんもちょっと嬉しそう。なんだかんだ満更でもなかったみたいです。

 

「それならよかった。……今夜はキミを返したくない」

 

 青葉が喜んだのが嬉しかったのか、司令官さんはさらにセリフを言います。だけどなんか違和感。

 

「そんなセリフ、ありましたっけ?」

 

 青葉は首をかしげます。どんなに記憶を探っても、映画でそのような言葉を聞いた記憶がありません。

 

「ないよ。だってこれはボクのセリフだからね」

 

「……え?」

 

 数秒経って、青葉はようやく言葉の意味を理解します。その瞬間、あっという間に青葉の頭は茹で上がりました。それってもしかして……。

 

「え、え……? いきなりどうしたんですか?」

 

 頭では言葉の意味を理解しているのですが、それでも混乱を隠し切れません。ニコニコと笑みの浮かべる司令官さんに問います。

 

「ちゃんと青葉のリクエストを言ったからね。それならもう、恥ずかしいセリフを言ってもいいよね?」

 

 あ、自覚はあったんですね。……って、そうじゃなくて。

 

 やっぱり青葉の想像通りということで……よろしいのでしょうか?

 

「えっと。ふつつかものですが……」

 

 面と向かってのお誘い。そんな甘くて刺激的な言葉に恥ずかしさで萎縮してしまいます。うぅ……司令官さんの顔をまともに見れません。

 

 それでもチラリと上目遣い。すると司令官さんもどうやら、自分の言葉に照れてしまっているみたいでした。

 

 そんな状況がおかしくて、青葉は思わず吹き出してしまいます。つられて司令官さんもクスクスと笑いを漏らします。

 

「やっぱり、青葉といると甘くて、ちょっと刺激的な気持ちになるよ」

 

 あ、おんなじ。こんなところでも司令官さんと気持ちのシェアができて、青葉はすごく幸せな気持ちになりました。

 この幸せも、司令官さんと同じだったらいいな。心の中ではにかみます。

                                終

 



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ノンシュガーが欲しくなる青葉のスウィート・ショート・ストーリー:月が見ているスペシャリティ

C98 にて頒布予定だった青葉の短編集の一つ
青葉と片腕のない司令官さんの甘い日常です
デートの帰り道、静かな夜でイチャイチャしているだけの話です


 まばらに並べられた街灯が照らす夜道、青葉と司令官さんは並んで歩きます。

 向かう先は司令官さんのお家。もう何度も通っているはずですが、ドキドキがさっきから収まりません。

 

 改めて意識すると、恥ずかしさと緊張がこみ上げてきてしまいます。足取りもなんだかぎこちなく、度々つま先を地面にぶつけてよろめきそうに。

 

「こうやって並んで歩けるのは嬉しいね。隣に青葉がいてくれることが本当に幸せだなって思うよ」

 

「そう……ですね。青葉も、です」

 

 おかげで先ほどから司令官さんに話しかけられても、返す言葉が少なくなってしまいます。顔もまともに見れず、ずっと前方を直視。しかも司令官さんが構わず恥ずかしい言葉を嬉しそうな表情で投げてくるからなおさらです。

 

「夜になるとこの道もだいぶん雰囲気が変わってくるね」

 

「……そうなんですか?」

 

「うん、静けさがより強調されてるよ。普段は気づかないけど、今日は青葉と一緒だからかな? 新しい発見があって楽しいよ」

 

 ほらまたそういうことを言います! 青葉の頬が赤くなっちゃうじゃないですか。今が夜で本当によかったと思います。だってこの暗やみならすぐにはわからないでしょうから。

 

 それにしても司令官さんの言葉通り、何度も通った、知っている道のはずですが、普段と違って感じるのは夜が見せる表情なのか、この感情のせいなのか。たぶん両方でしょう。

 

 混ざり合って青葉に変な期待を抱かせてしまいます。

それによってさらに高鳴る心。静かな夜道と合わさって。鼓動が司令官さんまで届いてしまいそう。

 

 青葉が曖昧な返事をしないせいで、次第に司令官さんの口数も少なくなってきて……。お互い黙ったまま歩きます。ただ静かに響く二人の足音。

 

 うぅ……なんだか落ち着きません。

 沈黙に耐えられない青葉。なにか話題はないかと必死にあたりをキョロキョロ。右を見て、左を見て。だけどあるのは暗闇とちょっとの明かりだけ。これで話を広げられるほど青葉の心は冷静じゃありません。

 

 きっと気を使ってくれているであろう、司令官さんの優しい微笑みに堪えかねて、青葉は逸らすように、なにより辺りを見回していたことを誤魔化すように空を見上げます。すると目に入ったのは優しい三日月。暖かな微笑みを浮かべています。

 

 ぼんやりとした光の輪郭が、曖昧になった夜空との境界線があまりに幻想的で、青葉はポツリと言葉を漏らしました。

 

「月が……きれいですね」

 

 本当に何気ない、それ以上の意味なんて込めていない一言。だけども司令官さんはおや? と嬉しそうな笑みを浮かべてきます。

 

なんでしょう? 意味が分からず首をかしげました。だけどちょっぴり心を身構えます。だってこういう時は大抵……。

 

「それって、愛の告白かな?」

 

「な……!?」

 

 予感していたとはいえ、不意打ちの恥ずかしい一言に青葉は大きく目を見開きます。ついでに顔がとても熱い。

 言われて気づきましたが、青葉の言った言葉ってたしか、どこかの文豪が愛の告白として使った言葉らしいじゃないですか!

 

 ということは、青葉は意図せずして司令官さんに愛の告白を……!

 

「えっと、その……。それは……」

 

 噴水のように湧きだす恥ずかしさ。ワタワタと弁明しようとしますが口が上手く回りません。いえ、決して愛の告白と捉えられたのが嫌なわけではないのですが……。それでも恥ずかしいことには変わらないです。

 

 頬の熱さが限界を超えて、夜闇に赤く光ってしまいそう。そんな青葉の反応を見て、司令官さんはケラケラ笑っています。司令官さんのイジワル!

 

 ついでにこの原因を作った三日月もイジワルです。と八つ当たり。優しいと思っていた表情は、今ではどこかイジワルに見えます。

 散々笑われて、青葉は不機嫌に頬を膨らませました。

 

「ごめんごめん」

 

 司令官さんは謝ってきますが、表情が笑ったまま。青葉はプイっとそっぽを向きます。

 ちょっと困ったような司令官さんの表所を横目でチラリ。彼は一度夜空を見上げて……それからうん、と頷きました。

 

「本当にゴメンって。……だけど、うん。本当に月が綺麗だね」

 

「司令官さん……」

 

 優しい声音。それまでのからかうような言葉ではなく、本当に、心からの言葉。

 

「この月を眺めながら青葉と夜の散歩ができるのが……本当に幸せだよ」

 

 それはきっと、紛れもない愛の告白だったと思います。青葉と同じ言葉を使って。だけど青葉と違って誤魔化さず。

 

「特別なことは何もないけれど、ただこうして一緒に歩いていることがボクは、たまらなく嬉しいんだ」

 

 それでもちょっと恥ずかしそうに頬を赤らめる司令官さん。この暗やみでもそれがハッキリとわかるくらいに。青葉は彼の顔を無意識のうちに見つめていたようです。

 

 自分の言葉に恥ずかしがる司令官さんに青葉はクスっと笑みをこぼします。なんだか、それまで青葉が必死に恥ずかしさを隠そうとしていたことが、バカらしくなってしまいました。スッと心に溜まっていた力が抜けて、柔らかくなっていくのを感じます。

 

 だからこそ今度は、自然に浮かんだ微笑みと一緒に……。

 

「青葉も、こうして司令官さんと一緒に歩いているの、幸せです」

 

 特別なことは何もない夜道。だけどこうして好きな人と一緒に歩いているだけで青葉もとっても幸福です。

 

「それに気づいたんですよ。この誰もいない夜道だったらこんなことだって平気でできちゃいます」

 

 そう口にして、青葉は司令官の腕に抱き着きました。触れ合う肩。司令官さんの温かさが伝わってきます。

 我ながら大胆なことをしているという自覚はありました。顔だってちょっぴり熱いです。だけどそれ以上に……幸せ。高鳴る心臓のリズムだって心地いい。

 

 こんなにも嬉しいことばかりですがひとつだけ、残念なことがありました。

 

「……歩きにくいですね」

 

 ピッタリくっつけ合った身体。タイミングを合わせて歩かないとよろけてしまいます。まるでちょっとした二人三脚です。

 

「いいんじゃないかな。ちょっと歩きにくい方が、長く一緒に歩けるから」

 

 だけど司令官さんは嬉しそう。優しく青葉の頭を撫でました。

 ちょっとゴツゴツした男の人の手。撫でられる心地よさに青葉は思わず目を細めてしまいます。

 

「それもそうですね。だけど……司令官さんのお家に着いたら、もっと近くにいれるのかなって考えちゃうと、気持ちがはやっちゃいます」

 

 自分でもビックリするくらい大胆な発言。きっと、イジワルな三日月がかけてくれた優しい魔法。この夜道が青葉に勇気をくれたんだと思います。

 まさかそんなことを言われるとはと言わんばかりに、司令官さんが目をパチクリ。驚いた表情を見せます。それからちょっぴり照れくさそうに頭をかきました。

 

 珍しい司令官さんの表情に、青葉はニッコリ。芽生えたイタズラ心が楽しくなってしまいます。

 調子にのって青葉は言葉を続けます。

 

「司令官さんは特別なことは何もないって言っていましたが、それなら青葉たちで特別を見つけてみてはどうですか?」

 

「どういうこと?」

 

 司令官さんは不思議そうに首をかしげました。そんな彼に、青葉はニヒヒと企むような笑みを浮かべます。実は何も考えていなくて、勢いだけ。だけど口にしてみて、案外それが正解な気がしました。

 

「ほら、こうやってくっついて歩けるのも、誰もいないっていう特別があるからじゃないですか」

 

 身体をさらに密着させます。

 

「ちょ……青葉!?」

 

 青葉の行動にたじたじになる司令官さん。恥ずかしそうに口元を押さえていました。司令官さんの驚いたり恥ずかしがったりする様子が見たかった青葉の狙い通り。ご満悦です。

 

 こんなことをしている青葉自身、ドキドキしていますが同時にワクワクもしている、心の動き。

 そんな勢いのままにペラペラと口を動かします。

 

「だから、いつもは人目が気になることも、この特別なら好きなだけできちゃいますよ」

 

「なるほど、それもそうだね」

 

 すると不意に司令官さんが足を止めました。つられて青葉も。

 どうしたのでしょうと不思議に思っていると、突然司令官さんが真正面から青葉に抱き着いてきました。これには青葉もビックリ。

 

「えっ!?」

 

 思わず声を上げてしまいます。い、いくらなんでもこれは大胆過ぎませんか? 誰もいないとはいえ、往来でのハグ。青葉は青葉の頭は一瞬にして沸騰してしまいます。

 

「し、司令官さん……!?」

 

 ワタワタと腕を動かしても、司令官さんは放してくれません。それどころかギュッと密着して……。

 耳にかかる司令官さんの吐息。背筋を駆けあがってくるゾクゾクとした感覚。

 そして青葉の耳元で、司令官さんは息を吐くようなささやきを。

 

「それなら……この特別な夜を、好きにしようかな?」

 

「ぴゃっ!」

 

 思わず変な声が出てしまいました。見れば、今度は司令官さんがしてやったりと言わんばかりの表情。どうやら仕返しされてしまったみたいです。

 

「もぉ~、司令官さん!」

 

 頬を膨らませて抗議しますが、青葉の表情は自然とほころんでしまいます。だってこのやり取りがすっごく幸せだから。

 司令官さんも笑って。二人の笑い声が夜空に溶けていきます。

 青葉に特別は、まだちょっぴり刺激が強かったようです。何より……

 

「誰も見ていないなんて、嘘でしたね。ずっと、月に見られていました」

 

 イジワルな笑みを浮かべる三日月。青葉はベーッと舌を出して不機嫌を見せます。我ながら子供っぽい仕返しだと思いましたが、この三日月にはそれでちょうどいいんです。

 そんな様子を司令官さんにニコニコと見られているのはちょっと恥ずかしかったですが。

 

「……うん、やっぱり青葉と一緒だと新しい発見があるね」

 

「何か見つけたんですか?」

 

 満足そうに頷く司令官さん。彼の視線の先を青葉も見てみますが、何もありません。暗闇と道が広がっているだけです。

 言葉の意味が分からずに首をかしげていると、不意に司令官さんが青葉の手を握りました。先ほどまでと比べれば、全然たいしたことのない密着。だけども青葉の心は確かに、今まで以上にドキドキしていました。

 

 どんな反応をしたらいいのかわからず、硬直。司令官さんは構わず優しい笑みを浮かべてきます。

 

「こうして一緒にいれることが何より、特別なんだなって」

 

「きょーしゅくです……」

 

 その言葉に、青葉の頭からは湯気が沸きだしてしまいました。夜空に溶けていく白。司令官さんの顔が見れず、うつむいてしまいます。

 司令官さんはズルいです。青葉だって気づいちゃったじゃないですか。

 

「月が……きれいですね」

 

 青葉はもう一度口にします。愛の告白と同じ言葉を。だけど今度は誤魔化しません。続けざま、息を吐きだしながら言葉を紡ぎます。

 

「こんなにも月がきれいなのはきっと、司令官さんがそばにいてくれる特別が、あるからだと思います」

 

 三日月のイジワルな笑みはいつの間にか消えていました。今はただ、優しい微笑みを浮かべています。

 

「そう言ってもらえるのなら、嬉しいな。幸せ者だよ」

 

「ふふ……青葉も、です」

 

 司令官さんは三日月と同じ表情。青葉もきっと、同じ顔をしているような気がします。

 重ね合った手から伝わる温もり。

 月に見守られながら、二人並んで歩きました。

                                   終

 



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ノンシュガーが欲しくなる青葉のスウィート・ショート・ストーリー:穏やかなサプライズをあなたに

C98 にて頒布予定だった青葉の短編集の一つ
青葉と片腕のない司令官さんの甘い日常です
お家でのんびりお茶デートをする話です


「おじゃましま~す」

 

 小声で青葉は中に入ります。足音を立てないようにこっそりと。そんな様子を見て、扉を開けている司令官さんは苦笑を浮かべます。

 

「もっと堂々と入ればいいのに……」

 

「そこはほら、その方がちょっとドキドキして楽しいじゃないですか。雰囲気ですよ」

 

「よくわからないけど……、まあ、入ってよ」

 

 困惑を浮かべながらも、司令官さんはパチリと壁のスイッチを入れます。一瞬にして暗かった廊下に明かりが。急なまぶしさに目を細めましたが、すぐになれました。

 

 ここは司令官さんのお家であるアパートの一室。お誘いを受けて青葉はやってきました。何度もお邪魔していますが、こうして夜に来ると普段とは違ったドキドキが。思わず入り口のそばに置かれた鏡を見てしまいます。どこか、変なところはないでしょうか。

 そんな今更なことをしながら、青葉は靴を脱ぎます。

 

「お茶、淹れるよ。適当に座って待ってて」

 

 そう言って司令官さんは一足先に部屋の奥へ。青葉も続いて入ります。リビングとキッチンが一緒になった部屋。司令官さんがコポコポとお湯を沸かしていました。

 

「……? これは?」

 

 ソファーに座ろうとしましたが、ふと、部屋の真ん中に置かれたテーブルの上、小さな包みが目に入り足を止めました。可愛い空色のラッピングがされた手のひらサイズの小包。

 なんだろうと青葉が首を傾げていると、司令官さんキッチンから声を投げかけてきました。

 

「ああ、それね。プレゼントだよ」

 

「プレゼント?」

 

 思わず聞き返してしまいます。まさかの予想していなかった単語に、青葉は目をパチクリ。これを、青葉にですか?

 テーブルの上のプレゼントと司令官さんを交互に見ます。司令官さんはニッコリ笑っていました。

 

「プレゼントをもらうようなこと、何かありましたっけ?」

 

 思い返してみても、心当たりがありません。今日はただの平日だったはず。青葉の忘れている何かありましたかと、司令官さんに問いかける視線を向けました。

 

 すると司令官さんは柔らかい微笑み。あっけらかんとした口調で答えました。

 

「ないよ。ボクの気まぐれだからね」

 

 なるほど、それは青葉が知らないはずです。なんたってこれはサプライズだったのですから。とてもステキな、驚きです。

 

「司令官さん、ありがとうございます」

 

 青葉は穏やかな微笑みを浮かべます。だけど内心ドキドキ。だってこんな不意打ちはズルいです。心が温かくなっちゃうじゃないですか。

 

「開けてみてもいいですか?」

 

 青葉の質問に司令官さんは頷きました。それとほぼ同じくらいのタイミング、包みを手に取ります。軽くて、くしゃりとビニールが擦れる音。中身は何だろうとワクワクします。

 

 ラッピングを止めているテープをはがし、包みをほどいていきます。そして中から出てきたのは……

 

「クッキー、ですか?」

 

「うん、この前たまたま見つけてね。なんだか良さそうだったから買ってみたんだ」

 

 曖昧な購入理由を口にしながら、司令官さんがやってきます。手には湯気の立つカップを持って。

 司令官さんからのプレゼントは、小さなクッキーでした。透明なビニールに入れられて、口をリボンで巻かれた可愛いお菓子。

 

 生地にドライフラワーが混ぜ込まれているようで、散りばめられた花びらが綺麗です。なるほど、司令官さんがなんだか良さそうと思ったのも納得。

 ドライフラワーのクッキーなんて珍しくて、気になっちゃいます。なんだか良さそう。

 

「司令官さん、一緒に食べましょう」

 

 このクッキーがどんなものかワクワクな青葉は、そわそわと司令官さんを催促。司令官さんは苦笑を浮かべながら、手に持ったカップを差し出しました。まるで落ち着きのない子供に向けるような表情だと思いましたが、今の青葉はそんなことを気にしません。

 

「もちろんいいよ。そのためにお茶を淹れたんだから。だけど、ボクは甘いもの苦手だから、青葉一人で食べるといいよ」

 

「そうでした。……残念」

 

 明確にしょんぼりを見せながらカップを受け取ります。そうでした、司令官さんは甘いものが苦手なんですよね。だからこのクッキーの包みも、小さいのでしょう。青葉が一人で食べきれるように。

 

「それなら、司令官さんが食べれないことを悔しいと思うくらいに、青葉がクッキーを堪能しちゃいますからね」

 

「それは嬉しいな。それならせめて、ボクはその様子をそばで見させてもらうよ」

 

 気を取り直して、青葉は精いっぱい元気に振舞います。司令官さんとクッキーを食べれないのは残念ではありますが、たぶん一番残念なのは司令官さん自身。青葉がいつまでもしょんぼりしていてはいけません。

 

 せっかく司令官さんのお家にいるんですから、湿っぽい気持ちはもうおしまいです。

 青葉はソファーに腰かけると、カップに口を付けます。

 

「アチチ……!」

 

 唇に触れたお茶はまだ熱く、火傷してしまいそう。口に入れることができません。先にクッキーの方をいただくことにしました。

 

 リボンをほどいてガサゴソと、クッキーを一枚袋から取り出します。柴犬みたいな色の生地の中にポツポツとドライフラワーの鮮やかさ。バターのまろやかな香りはしますが、花の香りはそこまで……。想像と違っていてちょっとがっかり。

 

 だけど大事なのは味ですと、気を取り直してパクっと一口。すると次の瞬間青葉は目を大きく見開きました。

 

「ん……!」

 

「どうしたの? あんまりおいしくなかった?」

 

 青葉の反応を見て、隣に座る司令官さんが青葉の顔を覗き込みながら、首をかしげます。

 モグモグと口を動かして……ゴクン。飲み込みます。そして、

 

「司令官さん、すごいですよ! 香りがぱぁって広がりました」

 

 興奮が抑えきれない青葉は司令官さんに詰め寄ります。司令官さんは動じることなくズズズっと自分のカップに口をつけていました。

 青葉は構わず言葉を続けます。

 

「口の中に入れてクッキーがホロホロと崩れていくと、中のドライフラワーからいい香りが広がってきて口の中をいっぱいにするんです。それにすごく甘くて美味しいんですけど、この甘さってたぶん、花の香からくる甘さなんですよね。砂糖みたいな甘さは全然ありませんでしたよ!」

 

 青葉渾身の食レポ。司令官さんが興味深そうに聞いてくれます。そうなんです。このクッキー、食べた瞬間に様々な花の香りがフワッと舞い上がって口の中を満たします。そしてそれが甘さとなって幸せな感情を湧き立たせてきました。そんな、すごくステキで楽しいお菓子です。

 

「気に入ってくれたならよかったよ。そういえばそのクッキー、お茶と一緒だともっとおいしいっておススメされたよ」

 

 嬉しそうに微笑む司令官さん。こっちまで嬉しい気持ちになってきます。そして青葉は司令官さんの言う通り、クッキーをもう一枚。そしてその後にお茶を飲みました。程よくぬるくなっていたので、もう火傷しそうになることはありません。

 

「んんっ……!」

 

 青葉はもう一度大きく目を見開きました。香りのつぼみがまるで花開くよう。口の中にお花畑が広がるような感覚。甘さもよりハッキリと感じることができました。だけど同時に、優しい甘さで、甘いのに甘くないと感じる味覚の不思議。もしかしたらこれは……

 

 青葉は一つのことを思いつきます。

 

「もひふぁひへ、ひれいはんはんもふぁへれるふぁもひれまへんへ」

 

 もしかして、司令官さんも食べれるかもしれませんね。そう言おうとしましたが、口の中に残ったクッキーで何を言っているかわからなくなってしまいました。

 

 慌ててお茶で流し込みます。お腹の奥まで甘い香りが広がりそう、なんて思いました。

 そんな青葉の様子を見ていた司令官さんがクスクス笑いを漏らします。

 

「そうなんだね。だけどボクは大丈夫だよ」

 

 なおも遠慮する司令官さん。まあ、そうですよね。苦手なものを出されて平気だって言われても、警戒はしてしまうのは当然のこと。

 

 ただ、青葉の中のもしかしてが、青葉をわがままにしてしまうのです。司令官さんに同じものを食べてほしい。司令官さんにも香りが咲く感覚を味わってみてほしい。絶対楽しいですから。

 

 それはただのエゴかもしれませんが、それでも青葉は……。

 

「司令官さん、どうしてもダメですか?」

 

「その顔はズルいよ……」

 

 困ったと言わんばかりの表情を浮かべる司令官さん。青葉は上目遣いでお願いします。

 うーんと司令官さんは唸って、視線をクッキーと青葉、交互に向けます。そして最後に、自分の持っているカップを見た後、

 

「わかった。一つもらえるかな?」

 

 根負けしたと、司令官さんは人差し指を立てます。青葉が袋の口を向けると、そこから一枚、クッキーを取り出しました。

 クッキーをしばらくじっと見つめる司令官さん。ホントに甘いものが苦手だということが伝わってきます。そんな彼にかなり強引に進めてしまい、青葉は少なからず罪悪感。こんな形、よくないですよね。

 

「ごめんなさい、やっぱり――」

 

 言いかけたところで、司令官さんは目をつむり、パクリと一口でクッキーを口の中へ。少し口を動かし、そのままカップに口をつけて流し込もうとして……止まりました。

 

「どうしましたか……?」

 

 おそるおそる、尋ねます。司令官さんは吟味しているかのように口をゆっくりと動かしていました。

 それから喉仏が上下に動きます。飲み込んだようです。そして目をパチクリ。信じられないものを見るかのような表情で、青葉の持つ残りのクッキーに視線を向けました。

 

「本当だ、食べれる」

 

 思わず言葉を落としてしまったかのような。そんな雰囲気の口調。司令官さんは口元に手を当てて考えるような仕草。ポツリ、ポツリと呟くように言葉を零します。

 

「すごい……。確かに甘くないね。だけど香りが凄く甘いんだ。それでこんなに甘いって錯覚するんだ。これは……すごい驚きだよ」

 

 すごいという単語を何度も口にするくらい、司令官さんにとって衝撃だったようです。

 

「ごめん、もう一枚……いいかな?」

 

 申し訳なさそうに人差し指を立てる司令官さん。青葉はニッコリ、笑顔になります。

 

「はい。一枚と言わず、好きなだけどうぞ」

 

 クッキーの袋を差し出しました。甘いものが苦手な司令官さんがもっと欲しいと言ってくれた。その言葉が何より嬉しいのです。エゴを、押し通してよかった。

 

 司令官さんがクッキーを一枚取り出します。青葉も、もう一枚。

 二人一緒に食べる、同じもの。

 

「いいサプライズを、やり返されたよ」

 

「えへへ、そうです。司令官さんにやられてばっかは青葉、嫌ですからね」

 

 楽しそうに、穏やかな微笑みを浮かべる司令官さんに、青葉も笑顔になります。

 夜のお茶会って、こんなにいいものだったんですね。これも青葉にとってはサプライズです。

 

 ステキな……温かな時間。ずっと続けばいいのにと思ってしまうほどの幸せ。

 だけどもそんな時間はクッキーの終わりと共に終了してしまいます。

 

「……無くなっちゃいましたね」

 

 もともと一人分で数もなかったため、二人で分け合えばすぐに無くなってしまいます。袋の中は細かい欠片が残っているだけ。

 

「こんなことなら、もっと買っておけばよかったよ」

 

 司令官さんは苦笑を浮かべます。口が寂しいようで、何度もカップに口をつけていました。

 青葉も、もう少し欲しかったなという感情はあります。だけどそこはグッと我慢。だって……

 

「それは困ります。そんなことされたら青葉は全部食べたくなっちゃうじゃないですか。そうなったら太っちゃいますよ」

 

「あはは、それは大変だ。なら、このくらいでよかったのかもね」

 

 笑う司令官さんにちょっぴりムッと。だけどそれには同意でした。指に着いたクッキーの粉を舌先で舐めながら。

 

「そうですね。その代わり、また買いましょう。今度は一緒に。一人で行っちゃゃだめですよ?」

 

「わかったよ。サプライズも、ほどほどにしておく」

 

 そう口にした次の瞬間、司令官さんは何の前触れもなく青葉の指を加えました。ヌラリと、指に温かな舌の感触。指に着いたクッキーの粉を舐めとります。

 あまりに突然なこと、青葉は何が起こったのかわからずその様子をただ眺めて……。

 

 ようやく事態を認識したと同時、青葉の頭は一瞬にして沸騰。抵抗することもできず、あわあわとその様子に戸惑うだけ。

それと同時にこの指を舐めれるという感触。意識してしまって沸き上がる恥ずかしさ。なんだかイケナイことをしているようで落ち着かないです。そういえばこれ、間接キスじゃないですか!?

もう、いっぺんに事が起こりすぎて青葉の頭はショートしてしまいそう。

 

なされるがままにされる青葉。しばらくしてようやく指から口が離れましたが、ヌラッとした感触がまだ指に残っています。

 

「うん、おいしいね」

 

「司令官さん! そんなサプライズ禁止です!」

 

 満足そうな司令官さん、青葉は叫びました。

 だけどその一方でこんなにも穏やかな気持ちになれる驚きが凄く尊くて、幸せなもので、自然と笑みが浮かんでしまいます。

 

 だから……どこかでそんなサプライズを心待ちにしていて、そわそわとしてしまう青葉もいました。

 同時に、そんなサプライズを司令官さんにできたらなとも考えながら、カップに口をつけてお茶を飲みます。

 

「どうしたの?」

 

 青葉の企みを察したのかもしれませんね。司令官さんが顔を覗いてきます。だけど青葉は何でもないですと誤魔化しを。だって、口にしてしまったら驚かせれませんから。

                                  終



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ノンシュガーが欲しくなる青葉のスウィート・ショート・ストーリー:あなたの気持ちに包まれて

C98 にて頒布予定だった青葉の短編集の一つ
青葉と片腕のない司令官さんの甘い日常です
愛する人と一緒に眠る幸せを書いた話


「電気、消すね」

 

 そう言って司令官さんは部屋の明かりを消しました。

 暗くなった部屋、同じベッドに向かい合って寝転ぶ青葉と司令官さん。

 

「近い……ですね」

 

「ごめん、一人用だからね」

 

 司令官さんのお家のベッドはシングルサイズ。二人はいるにはいささか狭く、くっつくような近さではないと入り切りません。だけど青葉は、その方が嬉しいです。

 

 お風呂の後で身体はポカポカ。お布団に包まれてポカポカ。でも……この熱さはそれだけが原因ではないのでしょう。

 ぼんやりとした薄暗さの中、見える愛しい人の顔が心をポカポカ温めます。

 

「いいえ、すごく嬉しいです」

 

 青葉は笑みをこぼします。しっとりとした肌の触れ合い。同じ石鹸の香り、そばにいる安心感がちょっとくすぐったくもあります。それがとても尊く、感情を鮮やかに色づかせました。

 そっと青葉の手を握る司令官さん。温かく、ちょっと硬い男の人の手。伝わってくる安心感。

 

「眠るとき、一人じゃないのって幸せだね。夜を一人で過ごす不安がないのって、こんなにも落ち着く物なんだね」

 

 ポツリと零したその言葉に、青葉は微笑みを浮かべました。あぁ、司令官さんもそんな風に感じてくれるんですね。青葉と一緒に眠ることを、そんな風に言ってもらえるなんて。ちょっぴり恥ずかしい。けどそれ以上に心に穏やかな光が灯ります。

 

「青葉も、同じ気持ちです。すごく安心して……幸せです」

 

 落ち着いた気持ちが、青葉の感情を言葉にして出させます。小さく微笑みかけて、優しい気持ち一杯に。

 こんなにストレートに言ったことに青葉自身ちょっぴり驚き。ですがそれ以上に驚いたのが司令官さん。そして同時に照れてしまったようで。頬を赤らめています。

 

 いつもは司令官さんの方がストレートな言葉で青葉をドギマギさせますが、今日は反対。こんなやり取りも新鮮で、いいですね。クスりと、心の中で笑みをこぼしました。

 

 なにより司令官さんが照れているのが本当に可愛いです。こんな表情も魅力的でまた、青葉の中の愛しさが溢れてしまいそう。

 

「ボクも、幸せだよ。温かく、満たされているって感じる」

 

 照れ隠しに司令官さんは青葉の頭を撫でます。髪をすくような優しい手の動き。司令官さんの繊細さを表しているように感じます。

 心地よくて、気持ちよくて。思わず表情がふやけてしまいました。

 こんなにも幸福に満たされてしまったら、自然ともっと司令官さんを近くで感じたい。そんなわがままが湧いてきました。

 

「司令官さん、抱き着いても……いいですか?」

 

 たまらず青葉はおねだり。だけど司令官さんは言葉を返してはきませんでした。一瞬の不安。もしかして、出過ぎたことだったのでしょうか。

 恐る恐る司令官さんの顔を見上げると……

 

「わわっ……」

 

 青葉を頭から抱きしめてくれました。ちょっぴり驚きに手をばたつかせてしまいますが、すぐに司令官さんを抱きしめ返します。

 

 もう、イジワルなんですから。素直じゃない司令官さんに対して頬を膨らませますが、すぐに温かな気持ちでいっぱいに。今回は、許してあげます。

 包み込まれる温かさ。……というよりはちょっと暑いですね。息苦しくもあります。

 

 だけどもそれ以上、大好きな人の胸に顔をうずめることができる幸せ。

 耳をそっと胸に当てたなら、トクン、トクンと鼓動が聞こえてきます。幸せのリズム。青葉の鼓動もきっと、こんな感じなのでしょうか。そんなことを思ったりして、クスリと笑みをこぼします。

 

「命の音が聞こえますね。すごく、穏やかな気持ちになります」

 

「青葉といるからだね。青葉といるときが、ボクは一番落ち着ける気がする」

 

「きょーしゅくです。だけど青葉としては、ドキドキもしてほしいと思っちゃいます。だって青葉は今、とてもドキドキしていますから。心地のいいドキドキをしちゃっています」

 

 自分の胸に手を当てて、脈打つ鼓動を感じて微笑みます。司令官さんのより少し早い、青葉の心臓。それがたまらなく心を満たしてると実感します。

 

「そんなドキドキを、司令官さんも感じてくれたら青葉は……幸せです」

 

 あ、少し鼓動が早くなったような……。見上げてみて、司令官さんはいつもと変わらない優しい微笑み。だけどその内心はすっごくドキドキしているはず。青葉にはバレているんですから。

 

 それなのに司令官さんは澄ました態度をとったまま。そんな素直じゃない態度がすごく愛おしい。

 

「ねえ青葉。明日はどんなことをしようか?」

 

 青葉がクスクス笑みを浮かべていると、穏やかな表情でそれでも平静を保とうとする司令官さん。

 あ、誤魔化すために話題を変えてきましたね。だけどその相談事に青葉は賛成です。

 司令官さんと色々なことをして、いろいろの感情を咲かせられたら……きっとステキですから。

 

「そうですね……起きたら朝ご飯を一緒に食べて、お洗濯をして、それからえっと……」

 

 想像するだけで気持ちがワクワクしてきちゃいます。興奮して声も大きく。だけど対照的に、司令官さんはとても静か。目もトロンとまどろんでいます。

 

「それは……ステキだね」

 

 言いながら、司令官さんがあくび。大きくお口を開けて。お仕事でお疲れなのでしょう。今週も頑張っていましたから。

 それなのに青葉と一緒にいてくれて、たくさんの心が温かくなるステキをくれて。

 

 青葉は手を伸ばして司令官さんの頭を撫でます。お疲れ様の想いを込めて。

 ちょっとチクチクする髪の毛。だけどそれが心地いい。大好きは人の感触

 

「司令官さん、お疲れ様です。今週もいっぱい、お仕事頑張りましたね」

 

 ちょっと子供っぽい扱いだったかなと思いながら、それでも表したい、愛しい人に向けた感謝。あなたのおかげで、青葉の世界はキラキラ輝いています。

 

「ありがとう、青葉もお疲れ様。青葉がいて、ボクは幸せ者だよ」

 

 優しい表情。青葉の好きな、柔らかな微笑み。青葉の心に幸せを咲かします。

 

 青葉もです。そんな想いを込めて微笑み返しました。

 司令官さんは唇を動かします。囁くような小さな声で、だけどハッキリ青葉の耳に届いてきました。

 

「大好きだよ」

 

 そんなまっすぐな言葉に、青葉の気持ちが温かく、頬は熱くなってしまいます。

 それから司令官さんは目をつむって、すぐにスヤスヤと寝息が聞こえてきました。まるで電池が切れてしまったかのように、本当にあっというま。

 

「寝ちゃいましたか……?」

 

 小さな声をかけてみて、反応は返ってきません。ぐっすりと寝てしまったみたいです。

 司令官さんの穏やかな寝顔。可愛くて、見ているだけで顔がにやけてしまいます。。

 

「ふふ、司令官さん……。大好きです」

 

 いつも恥ずかしくてちゃんと言えない言葉。こんな形でしか素直に言えなくてごめんなさい。ズルい自分自身を笑ってしまいます。

 でも、この気持ちは本当です。何度言っても言い足りない。だから……

 

「おやすみなさい。また明日です」

 

 こっそり、司令官さんのほっぺに唇を当てます。しっとりと柔らかい感触。

 ずっとこうしていたかったですけど、それだと司令官さんのほっぺがふやけちゃいますから。ゆっくりと、名残惜しそうに唇を離しました。

 

 イタズラが成功した子供のように小さく笑います。このことを知ったら、司令官さんはどんな表情をするでしょうか。だけど秘密です。だって青葉も恥ずかしいですから。

 

 もう一度胸に手を当て、心臓がドキドキしているのを感じます。心地いいドキドキ。優しい火が灯ったような温かさが宿ります。

 

 そんな温もりを胸に抱いたまま、青葉も目をつむります。今週は青葉も頑張りました。フワフワ浮かび上がる睡魔に沈むように、ゆっくりと……。

 どこまでも愛しい人のことを想いながら。安らかな気持ちで眠りました。

                                 終



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ノンシュガーが欲しくなる青葉のスウィート・ショート・ストーリー:春ごこちに抱かれて

C98にて頒布予定だった青葉の短編集の一つ
青葉と片腕のない司令官さんの甘い日常です
目覚めた時、隣に好きな人がいる幸せ。ただ、それだけを書いた青葉の話です


 夢から覚めた時、目の前には幸せがありました。

 優しい朝の陽ざしが顔を撫でます。

だけどまだ眠さを残した思考、油断すればすぐさま夢へと溶けてしまいそう。ぼんやりとしたまぶたをこすり、小さくあくび。

 

「……司令官さん」

 

 まどろみの中で青葉は呟きます。愛しい人の名前を。隣で眠る、その人を。

口にすると、それだけで笑みがこぼれます。

 

 目と鼻の先、お互いの吐息がかかってしまいそうなほどの至近距離。青葉の大切な人の顔が目の前に。

 思わず表情がほころんでしまう幸福感。朝の空気は冷たいけれど、頬がとても温かいです。

 司令官さんはまだ夢の中。すやすやと寝息を立てています。今週は忙しかったかですから、きっとお疲れでしょう。もう少し寝かせておいてあげませんと。なにより、こんなにも気持ちよさそうに寝られたら、起こしてしまうのが忍びないです。

 

 だけどそれとは別にして、もぞり、もぞりと身じろぎを。

腕を伸ばして司令官さんに抱きつきました。彼の寝顔を見ていたら、なんだか無性に甘えたくなってしまいました。そんな、青葉のわがまま。

 

「んぅ……」

 

青葉のハグに反応してか司令官さんもまた、青葉の背に手を回してギュッと。きっと無意識、だけどもその抱擁が求められているみたいでとても嬉しく、ちょっと照れくさいです。

 

「ん、青葉……」

 

 しかも名前を呼ばれてしまいました。たとえ寝言でも、満ち足りた表情で呼ばれてしまったら、嬉しそうな笑みを浮かべられてしまったら、意識せざるを得ません。

 司令官さんが青葉を夢見てくれている。それもきっとステキな夢の中で。そんな事実が心をホクホクさせてしまいます。

 

「えへへ。青葉はここですよ……」

 

 そっと頬を撫でます。それからもう一度ギュ。

 同じお布団に包まれる温もり、抱きしめられる安心感。お互いの素肌を密着させる心地よさが青葉の心に幸せを咲かせました。

 

 まるで春のような暖かさ。心がポカポカ夢心地。

 そう言えば春眠暁を覚えずなんて言葉がありましたが、なるほど。

 

「これは……ずっとこうしていたくなっちゃいますね」

 

 永遠に続いたらいいのにとすら思えてしまうほどの魅惑に満ちたこの時間。早起きは三文の得なんて言いますが、それすらいらないと思えるほどの贅沢です。

 笑みをこぼして、司令官さんの体温を感じます。これは青葉が独り占めしている温かさ。

 それからもう一つ、青葉には独り占めしている物がありました。

 

「この寝顔も、青葉だけのものですね」

 

 穏やかな表情。規則正しい寝息を立てる安らかさ。普段のキリっとした表情からは想像できないほどに無垢な顔。まるで子供のような愛おしさを覚えてしまう純真な寝顔。

 それを誰よりも近い場所で独占できる喜びに、青葉はほっぺを赤くさせます。

 

「それにほら。ほっぺも、ツンツンできちゃいます」

 

 芽生えたいたずら心にそそのかされて、指先で司令官さんの頬をつつきました。ぷにぷにとした感触。細身な割にがっしりとした身体とは反対に、ここはとても柔らかい。なんだか楽しくなってきちゃいます。

 

「あぁ、大好きな人と眠れるって、すごく幸せ」

 

 目を覚ました時、愛しい人が隣にいるってすごく幸せ。

 満ち足りた感情を、吐息と共に呟きます。

 まるで夢のような出来事。まるで陽だまりにいるような、心の底から癒される時間。

だからなのかもしれません。夢はいつか覚めてしまう。それは一足先に目覚めた青葉も、司令官さんもまた同じ。

 

「ぅ、うぅん……」

 

 小さな唸り声をあげる司令官さん。まぶたを小さく震わせて、もうすぐ夢の世界から出てきてしまいそう。

 ずっとこの安らかな寝顔を見ていたかったですけど、それももう終わりです。ふわりと浮かんだ泡が水面で弾けるように、司令官さんもまた、まどろみからパチンと目を覚ましました。

 

「ん? ……おはよう、青葉」

 

 司令官さんは優しく微笑みました。まだ眠さの残る、ふやけた微笑み。つられて青葉の心もふやけさせます。

 

「おはようございます」

 

 青葉も力の抜けたはにかみで返します。それから小さなあくびをもう一度。

 

「まだ、眠いね」

 

 司令官さんは笑みをこぼしました。彼もまた、あくびを一つ。青葉のがうつってしまったみたいです。

 

「そうですね。起きたら何をしましょうかって、寝る前はお話していましたけど……」

 

 今日の予定は起きたら朝ご飯を一緒に食べて、お洗濯をして、それから……。

 そんな夢を思い描いていましたが、今はそれよりなによりも。

 

「あはは、その予定はもう少し後にズレそうだね」

 

「はい。だって……」

 

 彼を抱きしめる腕に、力を入れます。密着する身体。伝わる体温、それと鼓動。

 ドクンドクンと奏でる、司令官さんの心音。まるで子守歌のように優しいリズム。

 

「もう少し、こうしていたいです」

 

「それはいい考えだね。ボクも、青葉の温かさを感じていたいよ」

 

 そう口にして青葉の頭を優しくなでる司令官さん。大きな手のひらに包まれて、まるで春のような心地よさ。この温もりに、気持ちよさで青葉は目を細めます。

 

「そう言えば青葉、夢を見たんですよ」

 

 ウトウトと、再び青葉の意識は夢の中へと誘われます。もにゃもにゃと寝言のような呟きをポロリと。

 

「どんなの?」

 

 司令官さんの問いかけに、青葉はゆっくり目をつむります。まぶたの裏に浮かぶ光景。それはとても暗い群青。

 

「具体的な内容は思い出せないです。だけどお腹がキュッとなってしまうような……すごく寂しい夢でした。」

 

 まるで決して浮かぶことのない冷たい群青の奥底に、一人でいるような気持ち。夢の中の青葉はそんな孤独感に包まれていました。

 だからこそ目覚めたとき、隣に司令官さんがいてくれて青葉はとても救われました。

 

「怖かったね。今度はよい夢が見れるかな?」

 

 目を開いて司令官さんを見れば、彼は優しい表情でニコリと微笑みます。そんな顔を見せられては、青葉の答えは決まってしまいます。

 

「もちろんです。司令官さんが包んでくれていますから」

 

 青葉は司令官さんの胸に頬ずり。惚気てしまうほどの愛しさ。

 

「それはよかった。ボクが青葉の安らぎになれているようで」

 

 

「当り前じゃないですか。今から夢を見るのが楽しみになるくらいです」

 

 口にはしますが、実のところ青葉にとって今この時間が一番幸せです。ずっとこうしていたいけども、甘いホットミルクのような睡魔におぼれてしまいそうです。

 

 微笑む司令官さん。つられて青葉も微笑みを浮かべます。だけどそれはもう、眠さに蕩け切った、だらしのない微笑み。

 でもそんな表情に、司令官さんは愛しそうな表情をしてくれました。

 

「もう一度、お休み青葉」

 

「はい……起きた時、もう一度おはようございますができますね」

 

 小さいけれど、とても幸せなやり取り。それが再びできる喜び。

 同時に、司令官さんが青葉の額に軽いキス。心に染み込んでくる幸福感に包まれて、青葉はスヤスヤと寝息を立てました。

 あぁ、起きたらもう一度、好きな人が隣にいる幸せを味わえるんですね。そんな、春のような気持ちに抱かれました。

                                終

 



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ノンシュガーが欲しくなる青葉のスウィート・ショート・ストーリー:エピローグ

C98 にて頒布予定だった青葉の短編集の一つ
青葉と片腕のない司令官さんの甘い日常です。
短編集の内容はこれにて終了。ですが彼女たちの日々はまだ続いていきます


 青葉が起きたのは、朝よりは遅いけれど、お昼には早い時間。窓から差し込む日差しで目を覚まします。

 

「ん……、ん~」

 

 ベッドからもぞもぞはい出て、それから大きく伸び。まだ眠気が残る脳みそを起こしました。硬くなっていた全身がほぐれるような感覚が気持ちいい。

 

「おはよう、青葉」

 隣にはすでに起きていた司令官さん。優しい微笑みを浮かべます。外のおひさまにも負けないぐらいの温かさ。ポカポカと陽だまりにいるような気持ちになってしまいます。

 

「はい、おはようございます」

 

 青葉もふやけた笑みで返します。確認してみたら、口元にはよだれの跡。髪もぼさぼさでがだらしない表情。

だけど司令官さんは愛しそうな表情を浮かべてくれています。ゆっくりと撫でるよう手ぐしで、青葉の髪をとかしてくれました。

 

「えへへ……」

 

 こんなやり取りがとても幸せで、青葉の表情はいつまでもにやけっぱなし。気の抜けた笑いがこぼれてしまいます。

 いつまでもこんな時間が続けばいいのになと思えるほどの、温もりのなか浸っていました。

 

 だけどそういうわけにはいきません。なんせ、起きたらやりたいと思っていたことがあるのです。昨日の夜から離していた、青葉が司令官さんとしたいこと。

 

「司令官さん、朝ご飯を食べましょう。ちょっと遅くなってしまいましたけど、司令官さんと起きたらしたかったこと、その一です」

 

 普段、寝起きはぼんやり気味の青葉ですが、司令官さんがいるからでしょう、いつもよりテンションが高いです。声がハッキリと出せます。

 青葉のリクエストに司令官さんは楽しそうに頷きました。その言葉を待っていたと言わんばかりの微笑み。

 

「うん、いいね。ボクもお腹が空いているから朝ご飯……今はブランチかな? にしよう」

 

「ブランチ!? ステキな響きです」

 

 意味は知っています。だけど普段使わない単語に大はしゃぎな青葉。

 こんな感じかなと呟く司令官さんはベッドから立ち上がりました。青葉が自分の髪に触れると、すっかり寝ぐせは直っています。

 

 まだ頭に残っている司令官さんの手の感触と温かさ。思わずはにかみを浮かべます。

 

「司令官さん、ありがとうございます。司令官さんの寝ぐせも、後で青葉が直してあげますね」

 

「おや、ボクにもあったんだね。それじゃあ、お願いしようかな」

 

 自分の髪を触りながら確認する司令官さん。こんなやり取りができるなんて夢のようです。だけどこれは現実。頬をつねって確認します。

 

 痛いです。痛いですけど、これが幸せです。

 

「ああほら、そんなことしなくても。ボクはちゃんとここにいるよ」

 

 自分の頬をつねる青葉を見て、司令官さんは苦笑を浮かべ、そして青葉の手を握ります。

 これだけで、青葉はお腹いっぱいになってしまうような幸福感。

 

 だけどやっぱり幸福感で満腹にはなりません。グゥとお腹が鳴りました。

 笑い出す司令官さん。恥ずかしくて青葉は顔を真っ赤にしてうつむきます。もう、なんでこんなにタイミングが悪いんですか。

 

 自分のお腹に文句を抱いていると、司令官さんは微笑みながら言葉を口にします。

 

「青葉のお腹も待ちきれないみたいだし、ご飯にしよう」

 

「もう、そんな言い方しないでくださいよ。イジワル」

 

 むくれる青葉をクスクスと笑いながら、寝室を出て隣のリビングとキッチンの併設された部屋へ行く司令官さん。青葉も機嫌を直してついていきます。

 

 司令官さんが冷蔵庫を開けて……ふと、動きが止まりました。どうしたのでしょうと後ろから覗いてみると……あぁ。納得です。

 司令官さんは申し訳なさそうな表情で振り向いて、

 

「ごめん、簡単な物しかないけど……いいかな?」

 

 冷蔵庫の中には本当に簡素な物しかありませんでした。卵とちょっとのお野菜。ここにあるもので何が作れるのか。青葉はさっぱり思いつかないほど。

 だけど青葉は全然ガッカリとは思いませんでした。だって……

 

「あはは、それじゃあ後で一緒にお買い物に行きましょう」

 

 一緒にしたいことがもう一つ、増えたのですから。

 笑顔を浮かべる青葉に、司令官さんは微笑み返してくれました。

 

「さっそく何か作るから、ちょっと待ってて」

 

 冷蔵庫から材料を取り出しながら司令官さん。青葉も何かしたいなと思い、棚に置かれたコーヒーミルが目に入ります。そういえば司令官さんはコーヒーが大好きでした。

 

「それならその間にコーヒー、いれますよ。青葉、上手になったんですから」

 

 青葉はお料理する司令官さんの横で、コーヒーの準備をします。昔はインスタントしか作れなかったですが、練習してドリップコーヒーまで作れるようになりました。

 

 ミルを回して、コーヒーの豆を砕いていきます。ゴリゴリと音を立てて、香ばしい匂いが漂ってきます。ちょっと楽しい。

 その隣で司令官さんがカチャカチャ卵を溶いていきます。お湯がぐつぐつ沸騰して。キッチンで奏でられる三重奏。青葉と司令官さんの話声も加えて五重奏。

 

「何を作るんですか?」

 

「卵焼きとコンソメスープのつもりだよ。簡単なものでゴメンね」

 

 いやいや、すごいじゃないですか。青葉なんて卵焼きがスクランブルエッグになるんですよ。なにより司令官さんが作ってくれるだけですごく嬉しいんですから。

 

 そんなふうに言葉を交わしながら、お互いの作業を続けます。

 すごく……幸せな空間。まるで新婚さんのよう。ふとそんな想像をしてしまうほど穏やかな時間。恥ずかしくてとても口には出せませんが、でも、いつかは夢見た……。

 

 そんな光景に近くて、思わずはにかんでしまいます。

 

 砕き終わったコーヒーの粉をフィルターに入れて、お湯を注いでいきます。コポコポ小さな泡と共に昇ってくる香ばしく苦い匂い。

 

 それと同時に、卵の焼ける音。それだけでおいしそうが伝わってきます。

 おいしそうな匂いと音、そして隣の愛しい人。すごく……温かいです。 

 

「……よし、できました」

 

「こっちもできたよ」

 

 青葉がコーヒーをいれ終えると同時、司令官さんが卵焼きの乗ったお皿をテーブルに。その後カップにコンソメスープを注いでいきました。あっという間においしそうな湯気の立ち込める食卓の完成。

 

「コーヒー持っていきますね」

 

 カップを二つ手に持ちます。一個は司令官さんの、もう一個は青葉用。

 テーブルに置いて、それから青葉のカップにはお砂糖を。一杯、二杯、三杯と。青葉は苦いの苦手ですから。たくさん甘くします。ちょっとのコーヒーも入れてまろやかに。

 

 カフェオレの出来に満足。ウキウキした気持ちで向かい合って座ります。司令官さんの顔を見て、思わず浮かべた微笑み。司令官さんも穏やかな表情で、心地いい温もりを心に抱きました

 

 それから手を合わせていただきます。

 

「青葉の入れたコーヒーおいしいよ。毎日飲みたいな」

 

 まるでプロポーズのような司令官さんの感想。青葉は恥ずかしくなって、照れを隠すようにカップに口を付けました。

 一口飲んだカフェオレは甘く、幸せの味がしました。

                                    終

 

 



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外伝:幸せは最初のコーンポタージュ

青葉と片腕のない司令官さんの話。
寒い朝に感じる幸せの物語です。


 ヒンヤリした空気で目が覚めた朝。お布団よりも幸せなことが、匂いとなって伝えに来ました。

 

「むにゃ……ん、寒っ」

 

 見慣れた寝室。だけど自分のものではない、ちょっと特別なベッドの中。ぼんやり眠い目をこすりながら、青葉は身体を起こします。

ですが、まるで青みがかった薄暗やみ。部屋いっぱいの冷たい空気に包まれて身体を震え上がってしまいます。

 青葉はすぐさまお布団を頭からかぶりなおして丸くなりました。

 

 起きた時間はいつもと変わらないのに、窓から差し込む明かりは薄暗いです。太陽もお寝坊になってきて、おかげで空気もヒンヤリ。

 対照的にお布団の中はぬくぬく。まだ出たくありません。

 温かいお布団の中はとっても幸せ。ずっとこの中にいたいくらい。

 だけど……

 

「あれ、司令官……さん?」

 

 眠る前まで隣にいた人のことを思い出します。このベッドの持ち主である、青葉のとても愛しい人。

 昨晩、青葉は司令官さんのお家にお泊りしました。

 同じベッドで眠っていたことを考えると、顔がにやけてしまいます。お布団よりも温かい時間でした。

 

「あ、司令官さんの匂い……」

 

 お布団には愛しい人の残り香。肌触りも相まって、お布団の中はとても幸せな空間。

 ですが、その愛しい人はどこにもいません。ベッドの中は青葉だけ。

 薄暗い部屋の中は冷たくて、静かです。ちょっと怖いなんて思ってしまうくらい。

 

「どこに行ってしまったのでしょう」

 

 青葉の、寂しい気持ちが染み込んだちいさな呟き。

 その答えは、音となって教えてくれました。

 

「あ……音がする。隣から」

 

 静寂に混じって、部屋の外から物音が聞こえました。お布団の中から顔だけ出します。ヒンヤリした空気がやっぱり冷たい。

 トン……トン。ジュー……ジュー。コポコポ……。

 リズミカルに賑やかに。とっても楽しそうな合奏。それと一緒に漂ってくるいい匂い。なんだかステキなことが待っているような予感を抱かせます。

 隣の部屋から漏れ出る光が静かな、彩度の低い寝室とは対照的な鮮やかさを伝えてきました。すごく楽しそうな予感。

 まだお布団の外は寒いですが、誘われるように青葉はベッドから這い出ます。

 

「ふぁ……眠い。さむい……」

 

 お布団に名残惜しさを感じて、大きなあくび。

 パジャマから着替えるにはまだ寒すぎるのでそのまま、小さく震えながらのっそりとした足取りで隣の部屋へ。

 ガチャリ、冷え切ったドアノブをひねって扉を開けました。同時に青葉を照らす、鮮やかさ。

 

「おはよう、青葉。よく眠れた?」

 

 ――隣の部屋は凄く温かく、にぎやかで、そして明るかったです。

 それは部屋に暖房がついていただけではありません。料理をしていただけではありません。電気がついていただけではありません。

 愛しい人が……おはようと言ってくれたからです。

 

「司令官さん……。おはようござい、ます」

 

 むにゃむにゃと眠気にふやけた口と表情で青葉は返しました。

 司令官さん。青葉のとっても愛しい人が笑顔で迎えてくれます。

 見慣れた私服の上から黒いエプロンを付けた姿。家庭的な格好もすごく様になっていてカッコイイです。ちょっとドキリとしてしまいました。

 寝起きの自分を見られるのが恥ずかしくて、寝ぐせを直すように頭をかきます。

 

「ちょっとそのままでいてね」

 

 見かねた司令官さんが、青葉のそばまでやってきました。エプロンのポケットから取り出した折り畳みの櫛を広げて、優しく青葉の髪を梳きます。

 同じ髪に触れる動作なのに、どうして司令官さんにしていただけると、こんなに気持ちいいのでしょう。

 思わず目を細めてしまいます。

 

「……よし、これで大丈夫だよ」

 

 もっと、ずっとと思っても、手早く器用に司令官さんは青葉の髪を整えてしまいました。

 物足りないという思いが視線に出ていたのかもしれません。司令官さんがあやすような微笑みで頭を撫でてくれました。

 

「ちょっと待っててね」

 

 そう言って青葉の髪を梳き終えた司令官さんはキッチンの方に向き直ります。カチャカチャと片手でお料理をしながら青葉に優しく言葉を続けました。

 

「……だいぶ冷えてきたよね。青葉は寒くなかった?」

「はい、寒かったです。できることならもう少しお布団にいたかったですよ。だけどこんなにいい匂いさせられたら、青葉だって出てきちゃいます」

 

 司令官さんの優しさですっかり目が覚めた青葉。スンスンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎます。

部屋に充満したおいしそうな、司令官さんが作ってくれた朝ご飯の香り。

 司令官さんは事故で片腕になってしまったというのに、その不便さを全く感じさせないほど出来上がった料理の見た目が綺麗です。

 こんがり焼けたトースト。蕩ける黄金色のバター。色とりどりの瑞々しいサラダは花束のように華やか。カリカリのベーコンと、その上にトロトロ半熟の目玉焼きなんてもう言葉の響きだけで口の中はよだれで一杯。

 朝からこんなにステキなものを食べてしまっていいのでしょうか。テーブルに並べられた幸せに目が輝いてしまいます。

 

「すっごく、おいしそうです」

 

 はしゃぐ青葉のお腹は今にも鳴ってしまいそう。だけど聞かれるのは恥ずかしいので手で押さえます。

 

「今、スープもいれるからね」

 

 司令官さんがお鍋の蓋を開けると、クリーミーな優しい香りが湯気と共にふんわり広がってきました。

 寒い朝にホッとするような、青葉が大好きなこの匂いは……

 

「あ、コーンポタージュですか?」

「あたり。いつもはインスタントなんだけど、たまには自作もいいかなって」

 

 ちょっとご機嫌にお玉でかき混ぜる司令官さん。口にはしていませんが、自信作なんだなということが伝わってきました。

 司令官さんのとっておきに、自然と青葉のテンションは更に高くなります。

 

「青葉のはコーンとクルトンたっぷりにしてください」

「あはは、可愛いリクエストだね」

 

 小さく笑う司令官さん。興奮のあまりつい口を滑らせてしまいました。

 子供っぽいと思ったでしょうか? それとも卑しいだなんて思われてしまったでしょうか?

 口にした言葉の恥ずかしさを誤魔化すために、青葉は頬を膨らませて拗ねたように見せます。

 

「いいじゃないですか、粒々たっぷりだとなんだかちょっと幸せになりません?」

「……なるほど、考えたことなかったよ。青葉は小さな幸せを見つける天才だね」

 

 全くの嘘ではないにしろ、ただの誤魔化しのつもり。ですが予想外に感心したと司令官さんから褒められてしまいました。

 

「えへへ、そうですか?」

 

 思いがけない言葉が嬉しくて、青葉は表情を緩ませます。

 カップにコーンポタージュをよそいながら、司令官さんは優しい表情で頷きます。青葉のリクエスト通り、粒々とクルトンがたっぷり。

 

「たとえ小さくても、そうやって見つけて……積み重ねていけるのはステキなことだと思うよ」

「ありがとうございます。だけど……」

 

 言葉を区切って、一呼吸。青葉はもう一度テーブルに視線を向けます。

 おいしそうな朝ご飯。寒い朝にこんな温もりを感じられるものが食べられるなんて、とても幸せ。

 その幸せがあるのは、作ってくれた人がいるから。

 何より、大切な人と朝を迎えることができたから。

 かじかむような朝の寒さを溶かしてくれるような、暖かい……最初の幸せがあったから。

 

「青葉には、幸せの土台がちゃんとあるからなんです」

 

 司令官さんからコーンポタージュのカップを受け取ります。ちょっと熱いですが、冷たかった指先にはちょうどいいくらいです。

 テーブルに置いて、朝ご飯の出来上がり。

 優しい湯気の立ち込める、積み重なった小さな幸せの集まり。

 それができるのも……

 司令官さんの方へ向き直り、言葉を続けました。

 

「司令官さんと一緒の朝っていう、大きな幸せの土台があるから、青葉は小さな幸せを重ねていけるんです」

 

 はにかみと一緒に小さく、息を吐きます。安心感に満ちた、暖かな吐息。

 あなたと一緒だから……溢れ、漏れ出た感情。

 司令官さんはちょっと照れたように、だけどそれを隠すように微笑みを浮かべました。

 

「じゃあボクも、青葉を見習って幸せを積み重ねていかないとね。青葉と同じで、土台はとっくにあるんだから」

 

 その言葉が示す意味を、青葉はすぐにわかってしまいました。だってそれって、青葉と同じ気持ちだってことですから。

 嬉しい気持ちで顔がにやけてしまいそうになり、照れくさい気持ちで顔が赤くなってしまいそうで。

 寒い朝のはずなのに、顔がとっても熱いです。

 そして、誤魔化すように青葉も微笑みました。

 

「それでしたらさっそく、青葉がコーヒーを淹れてあげます」

 

 そう言えば、朝ご飯はまだ完成していませんでした。

 司令官さんが大好きなコーヒー。それを加えて今度こそ。

 

「青葉が淹れてくれたコーヒーはおいしいから、嬉しいな」

 

 喜びを口にする司令官さん。でもそれ以上に青葉は嬉しい気持ちで一杯でした。

 だって、ステキな朝ご飯に青葉が一品加えられる。それはつまり、あなたのための幸せを、青葉も作ることができるってことですから。

 

「ちょっと待っててくださいね。朝ご飯が冷めないうちに作っちゃいます」

 

 キッチンの司令官さんの隣に立って、青葉はコーヒーを淹れる準備をします。

 寒かった朝は、とっくに暖かくなっていました。

                              終

 



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