やはりTS転生した僕は奉仕部の一員にはなれない。 (だるがぬ)
しおりを挟む

修学旅行編
1.やはり僕がTS転生するのは間違っている。


初投稿です。原作からは修学旅行~クリスマスイベントまでで、全30話程度の予定です。ちょくちょくイベントも挟んでいけたらなと思います。


『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』

 

 通称、俺ガイル。

 僕はこのライトノベルが何よりも好きだった。

 中学生のころからハマり、何年もシリーズを楽しみに追いかけ、思春期の数年を串カツにつけるソースよりもドップリと俺ガイルに漬け込んだ。

 影響を受けたなんて生易しい表現では足りないほど、人格形成に携わったようにも思う。

 友達や彼女といった存在への淡い想いはなりを潜め、孤独に憧れるようになった。

 少し鼻につく子どもから、皮肉っぽい斜に構えたクソガキにランクアップ、もといランクダウンした。

 とにかく俺ガイルが大好きで千葉ソウルならぬ八幡ソウルを(勝手に)受け継いだ僕はいま。  

 

「やっはろ~!」

 

 総武高校2年F組の教室にいた!

 

 何が起きてる。

 朝起きて、顔を洗って、学校に来て、席に座った記憶はある。それまではいつもの僕だったし、着ていた制服は自分の学校の学ランだった。

 もちろん死んだ記憶などなく、これは転生と呼べるか定かではない。どちらかというと憑依が近しいのかもしれない。僕には総武高校生であった記憶などないのだから。

 

 いやそれよりも、これがただの夢であり現実の僕もといボケ野郎は、教室でヨダレ垂らしながら眠りこけてる可能性すらある。いわゆる明晰夢というやつだ。

  

 問題がそれだけならまだよかった。

 

 なにせ夢である可能性が大きいとはいえ、好きなラノベの世界に来れたのだ。八幡ソウルに感化された僕に元の世界の友達などいるはずもない。ゆえに未練など一つもなく、大手を振って俺ガイル世界を満喫できる。夢だったら夢だったで一生の思い出になるだろう。

 

 ただそれはこの後の大きな問題を無視した場合のお話であった。 

 

「修学旅行まじ楽しみっしょ!」

 

「おいおい、あんまりハメ外すなよ?」

 

 お調子者といった風体の男子がやや大きめの声で叫び、爽やか風イケメンの男子がそれを窘める。

 修学旅行の前。浮かれているクラスメイト。

 それはつまるところ、「彼」の学校内での立場がすでに最悪であることを意味していた。

 そしてこれから近い未来、彼の居場所に暗い影が射すことも、同時に意味していた。

 ……どうやら僕は最悪のタイミングでここに来たらしい。 

  

「ちよちよもやっはろ~!」

 

 暗くなった僕の思考を消し飛ばすように、お団子の髪のかわいい女の子が、変な言語で挨拶してくれた。

 ……いやデカイ。どことは具体的にいえないけど、やっぱデカイ。ていうか挨拶する仲なのかよ、僕らは。あとあだ名のセンスもやっぱない。

 初やっはろ~攻撃を受けた感動はそんな困惑の波に押し流されてあっけなく消えた。

 

「や、やっはろ~」 

 

 ぎこちなく挨拶を返した。なにか大きな違和感がある。いや、今すでに違和感のバーゲンセールなんだけど、それよりも聞き逃してはいけないあだ名があった気がする。

 

 ……ちよちよ? 僕が?

 

 自分の現状を確認する。

 

 教科書に書かれた名前。

 八千代(やちよ)知夜(ちよ)

 ちよちよ。

 男の名前とは思えない。

 

 足元をみて制服を確認。

 黒のタイツ、そしてスカート。

 当然だが男の服装ではない。

 

 目線を少しあげ体を見る。

 腰より上が少し膨らんだボディ。推定Cカップ。いやこれは適当。

 

 僕の自意識。

 もちろん男。

 女子の胸をついつい意識してしまう普通の男。

 

 この状況を一言でいうなればこう。

 …やはり僕がTS転生するのは間違っている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2.主人公との邂逅は存外そっけない。

 僕はいま、たいへん混乱している。

 僕は女の子になってしまった。名前は八千代知夜。

 何を言ってるんだこいつと思う者もいるだろう。だがしかし、この上半身の2つの膨らみがそれを証明していた。……まあまああるなコイツはけしからん。ゲフンゲフン。

 

 そして、この世界は、ライトノベル「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の世界だ。本の中、またはアニメでしか見れなかったキャラクター達がそこら辺にウヨウヨいる。

 

 葉山くん、戸部くん、あと取り巻きの男二人、三浦さん、海老名さん、川なんとかさん、大天使戸塚エル、おまけに相模さんとその取り巻き。取り巻き率高くない?

 由比ヶ浜結衣さん。

 そして、比企谷八幡くん。

  

 ただ、今は女体化のショックが強すぎて原作キャラに気軽に絡みにいくなんてのはできそうにない。

 そもそも、僕はまだ自分の名前しかわかってないのだ。クラスでの立ち位置も、自分の口調もわかってないのに、だれかに話しかけて妙な空気になれば、たちまちスーパー墓穴ホリダーの称号を得るだろう。

 

 本当に女になってしまったのだろうか。

 僕が乗り移ったと思われる人物がとんでもない変態で、男の癖に女モノの制服で登校している可能性がある。

 ただ、僕が女装癖のある超ド級変態コレクションだとして考えた場合。

 そんなパンチもアクも強すぎるキャラがクラスにいるのに、原作に出てこない訳がないのだ。つまり僕は女であることは確定的に明らか。

 うーん完璧な証明だ。神の証明といっていい。

 

 とにかく朝のHRまでの短い時間で自分の手がかりを掴まなければならない。昼休みや放課後の動きを決めるためにも。

 まあそのうち誰かが話しかけてくるだろう。

 朝からやっはろ~神拳を食らったということはクラス内のカーストもきっとそこそこ高いはずだ。うんうん。

 

「……」

 

 うーんうーん? おかしいな誰も挨拶すらして来ない。

 これでは神の証明どころか神の不在証明だ。

 メレオロンいいキャラだよなぁ……。

 せめて名前も出てないモブキャラ同士の友達がいると思ってたのに、この結果は散々だった。

 ただ友達がいないのはある意味では好都合かもしれない。急に中身が変わったことに勘づく人がいないからだ。

 

 仕方ないので気を取り直し、ガサゴソと鞄をあさる。他人をあてにする作戦はやめ、自分で自分に探りをいれてみた。筆箱や財布は女物というか、少しファンシーなデザインのものに変わっていたが、中身はおそらく僕のものだった。消しゴムの削れ方が記憶とそう変わらないし、ペンの種類も一緒だ。

 ただお目当ての学生証が入っていない。

 

「お、あった」

 

 小さな声でひとりごちた。見つけたのは手鏡。とにかく自分の顔を知りたかった。

 さて拝見。

 うそ……これが……私……?

 

 目は少し眠たげだが、それが表情の柔らかさを演出している。

 少しだけグロスが塗られた唇はちょこんと小さいながらも存在感を主張している。

 鼻にかかるぐらいの少し重めの前髪。

 横は肩につかない程度の長さで、左右非対称でなんとなくオシャレに見える。

 アホ毛も添えてバランスもいい。

 結論を言う。めちゃくちゃかわいい。

 登場キャラの容姿に優るとも劣らない美少女がここにいた。

 

 結局、先生が来るまでにわかったのは僕に話しかける人がいないことと、僕が結構かわいいということだった。 

 

 × × ×

 

 授業を上の空で聞き流し、考える。

 

 僕は、この世界でどうしたいんだろう。

 斜め前の席に、肘をついて窓の外をぼけーっと見ている主人公に目をやる。

 

 彼こと比企谷くんが、これから修学旅行で大きく傷つくことを、僕は知っている。

 ただ、その傷が、奉仕部の3人の絆を深める重要な過程であることも理解しているつもりだ。

 比企谷君はいつも間違える。策を弄し、欺瞞と唾棄するものに近づいてしまう。

 それでも、『本物』に近づくことを諦めない。決して諦めないのだ。

 彼は間違いなく、主人公なのである。

 

 ──僕は端役ですらない。物語に登場すらしていない。存在価値は極めて低い。

 僕がいなくとも、奉仕部の彼ら彼女らは、少しずつ自分の答えを見つけていく。そこに介入する必要が、意味が、あるのだろうか。

 

 傍観者に徹する方法は簡単だ。何もしなければいい。修学旅行から卒業までひっそりと過ごせばいい。

 むしろ余計なことをして原作の流れを変えてしまったら。奉仕部の関係を僕が壊すことになってしまったらと思うと、キャラと話すことすら億劫になる。

 まさか当事者になるなんて、思ってもみなかった。

 

 午前の授業中ずっと考えても、結局答えはでないままだった。

 

 × × ×

 

 昼休み。それは基本的には至福の時間。

 だが、今日ばかりはこの時間は苦しいものであった。

 

「ないのかよ、弁当……」

 

 自分の鞄に食べ物が一切ないのだった。

 購買にいけばいいのだろう、でも購買ってどこ?

 

 うーんわからん。とりあえず教室に居づらいので廊下に出る。

 そうだ。あそこいってみるか。確か購買も近くにあったはず。

 主人公の後ろ姿を見に行ってみよう。

 特別棟一階、ベストプレイスへ。 

 

 まだいないようだ。混んでいる購買にも行く気にならず、ブラブラと構内を練り歩く。

 そのうち、教室の近くまで戻ってきてしまったようだ。

 ん?あれは……。フラフラと吸い寄せられるように自販機へ。誘導灯に群がる蛾のように、群がった先にあるのはそう、千葉のソウルドリンク・MAXコーヒーだ。これが円環の理に導かれるってやつか。

 誘導灯ことMAXコーヒーの下には赤いランプが点っていた。 

 

「「売り切れ……だと……!?」」

 

 ん?なんか今隣からも声がしたような。

 ちらと目を向けるとそこには、猫背の目がドロッと濁った男子生徒。

 かの比企谷八幡君がいなすった。

 どうやら蛾がもう一匹釣られてやって来たらしい。

 いやまてまて! 聞いてないぞこんなとこで主人公とブッキングなんて!

 もうちょっとこう、衝撃的というか情緒に溢れた出会いがさぁ……。

 

「……いや、あの、なんかすまん」

 

 気まずくなった空気をどうにかしようと比企谷君が口を開く。

 

「ごめんちょっと待って心の準備するから」

 

 すーはーと息を整える。いやだって急に比企谷大先生とお話しさせていただく機会があるなどと思っても見なかったわけで……。うぅ緊張する……。

 もう一度比企谷君の顔を見ると、何とも言えない苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 うーんなぜだろう。別にお前と話すのに心の準備が必要なほど嫌ってる、なんてことはないのに。むしろ憧れてるから困ってるんだけど。

 

「あのー、同じクラスの比企谷君、だよね?」

  

「ん、ああ……」

 

「こ、このコーヒー好きなの?」

 

 もちろん好きなのは知ってる。でも、関わりのないやつが、自分の好きな飲み物知ってたら怖いよね。

 

「お、おう」

 

 相変わらず挙動不審だなぁ。まあ僕も人のこと言えないんだけど。さっきから緊張しっぱなしで声が上ずってる。

 

「あんたも、その、コレ好きなのか?」

 

「うん、まあね。とはいっても売り切れだし……スポルトップでも買うよ」

 

 そう答えると比企谷君のアホ毛がピコンと立った。なにそれ妖怪アンテナ? そんな機能あったっけ?

 好きな飲み物を合わせたことで、比企谷君にシンパシーを抱かせたらしい。

 

「あー、ちょっと待て」

 

「え、えっと…?」

 

 比企谷君が教室からカバンを持ってきて、中から何かを取り出した。

 あれは……MAXコーヒー!?

 いや、なんでもってんのさ……。予備とかかな……。

 

「じ、常温でもよければ、これ、やるよ」

 

「えっいいの!?」

 

 比企谷君の顔を見上げると、恥ずかしいのか顔を真っ赤にしてそっぽを向いてた。

 男相手になんで……と思ったけど今は女だ。そりゃ恥ずかしくもなる。

 まて、なんかこっちまで恥ずかしくなってきたぞ。

 

「じゃ、じゃあ、ありがたくいただくね!」

 

「お、おう」

 

 こうしてコミュ障の男同士の邂逅はどもりながらあっけなく幕を閉じた。

 彼から貰ったMAXコーヒーはぬるいまま手元にある。……これ、神棚とかに飾ろっかな。いやでも飲んだら御利益とかあるかも。

 ええいままよ!

 

 貰ったMAXコーヒーを一気に飲み干した。

 うーん甘い。喉に絡み付くような甘さだ。

 ほとんど見ず知らずの僕に、飲み物をくれた彼の甘さが伝わってくるようで、嬉しいやら恥ずかしいやらで、体中がむず痒かった。

 ……おい、男同士だぞ。でも空き缶は洗って飾っとこう。

 

「奉仕部、行ってみよっかな」

 

 原作の流れを変えようとは、まだ思わない。だけど、貰ったコーヒーの恩を返すくらいはしてもいいだろう。

 この先悪い結果を引き起こすかもしれないけど、きっと、何とかなるだろう。根拠は何一つない。

 でも人生は厳しいから、コーヒーは甘くていいのだ。だったら考えも多少は甘くていいだろう。

 まだ喉に残る甘味の残滓を噛み締めながら、そう決意したのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3.八千代知夜は依頼をしに来たわけではない。



【挿絵表示】


作成した挿絵もどきです。かわいい(確信)


 奉仕部にいくと意気込んだはいいものの、まだ学生には午後の授業が残されていた。

 

 そして午後の授業の最後は現国。原作ではお馴染みの平塚先生の受け持つ授業である。

 修学旅行はあと一週間後。一日一日迫ってくる大型イベントに、教室はザワザワと落ち着きのない様子だった。

 きっとここ最近はそうなのだろうと思う。

 

「……君たち、浮かれるのは分かるが、その後のテストで赤点をとっては元も子もないぞ」

 

 平塚先生の鶴の一声により、教室はいくらか平静を取り戻した。

 ……僕が前世(?)通っていた学校は少々ガラの悪い生徒が何人かいた。戸部君なんか目じゃないほどで、髪の色がド派手な上に授業もよくサボってた。

 それと比較すると、総武高校は腐っても進学校なんだなと思う。

 

 腐る、という単語でとある人物二人ほどを想起し、自然とそちらに視線が移る。

 修学旅行のキーマンでもあるその二人──腐った魚の目の比企谷君と、腐った女子である海老名さんの授業の受け方は対照的だった。

 

 比企谷君は肘にほぼ頭を預けており、小さげな動きだが、確実に船をこいでいる。あれ絶対あとで呼び出されるな……。

 海老名さんはというと、背筋をしゃんと伸ばし真面目に話を聞きながらノートを取っていた。……教科書のキャラでBLカップリングの妄想して鼻血出してる姿を想像してただけに、少し意外だった。ひどい偏見のようだった。ごめん海老名さん。

 

「さて、ここでこの下人は老婆の服を剥ぎ──」

 

 授業の内容は羅生門。登場人物は下人と老婆の二人だけ。……まさか男が二人いないからマトモに授業受けてるとかじゃないよな。頼むからそうだといってくれ。いつもそんな授業態度であってくれ……。

 

「待って、隼人君から服を剥がされるヒキタニ君……ぐ腐腐腐腐腐……」

 

 ……ダメだコイツ……もう手遅れだ……。

 

「今日はここまで。くれぐれも問題行動には気を付けろよ。修学旅行いけなくなるからな」

 

 二人を観察している間に授業が終わったようだ。

 この後は奉仕部に行く予定だったけど、せっかくだから平塚先生に連れていってもらいたいなあ。

 

「あの、平塚先生」

  

「ん、八千代か。どうした、君が話しかけてくるとは珍しいな」

 

 平塚先生は意外といった顔で僕を見た。どこか視線は優しげで、先生の、八千代知夜への人物像がどういったものだったのかが少し気になった。

 

 しかし、思わず声をかけたけど何を言うか決めてなかったな。『いつ結婚するんですか? 』とか聞いてみたいなぁ……。泣いちゃうからやめとこう。

 まあ、とりあえずは当たり障りのないような……。

 

「その、授業で、わからないとこがあって」

 

「ほう、どの辺かね?」

 

「結局、羅生門ってどういうお話だったのかなって。その、テーマ? みたいな?」

 

 羅生門は芥川龍之介の作品として1,2を争う有名な短編だ。仕事がなくなった男が、餓え死ぬか盗人になって生きるかの二者択一で悩むものの、餓死をしないよう仕方なくという理由で死体から髪を抜く老婆を見て、自分も生きるために仕方ないと言い放ち、老婆から服を剥ぎ闇に消える。

 

 ただし、その考察については意見が別れる。理由は、羅生門の中でも特に有名な最後の一文にある。これは芥川自身によって何度か改稿されていて、最初に発表されたものと、教科書に乗っているものでは全く違う文となっている。

 

「ふむ。まあここで教科書通りの模範解答をいっても仕方あるまい。君はどう思った?」

 

「う~ん、因果応報、みたいな感じですかね。詐欺してた人は死んだあと髪の毛抜かれて、髪の毛抜かれた人は服捕られて。なんか悪いことしたら罰があたる、みたいな」

 

 最後の一文、『下人の行方は誰も知らない』とは、下人が死んでしまったことを示唆するのではないか、と僕は考えている。ちなみに最初に発表された羅生門では、もっと直接的に『下人は盗賊になった(意訳)』と書かれていたらしい。

 

「それも1つの答えだろうさ」

 

「……なんか誤魔化された気がしますが」

 

「実際な、私はあんまり作者の気持ちを考えろ、的な物が好きじゃないんだよ。そういうのは読者側のエゴだ」

 

「……読者のエゴ、ですか」 

 

「そうだ。まあ、一般的にはこの羅生門も人間のエゴを取り扱った作品と言われるが……。私に言わせりゃ全てエゴだよ。もちろん、君のそれもな」

 

 読者のエゴ、とはあまり良い響きではない言葉のように思える。なにより僕自身が『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の読者な訳だし。色んな創作や考察なんかも漁っていたけど、それらを書いた人も、全てエゴだと切り捨ててしまうのか。少し寂しくないだろうか、それは。

 僕があまりいい顔をしていないことを察したのか、平塚先生は言葉を重ねる。

 

「君が思うほど、エゴは悪いことではないよ。何事もエゴ、つまりは自我の積み重ねだからな」

 

「正直……よく、わかりません」

 

「少し考えてわからなければ、また聞きに来るといい。君は生徒で、私は教師だからな」

 

 かっけぇ……。いや原作からかっこいいのは知ってたんだけど、面と向かってこんなこと言われたら惚れてまうやろ……。理想の教師像とはと聞かれたら即答で平塚静と答えるレベル。しずかっこいい。

 というか完全に忘れてたけど平塚先生に話しかけたのは、奉仕部に連れていって貰うためだったような。とはいえせっかく纏まった話を蒸し返せもしないし……。

 

「ふむ。まだ何か思うところがあるようだな。私はこれから職員会議だからこれ以上時間は取れないが、君がもし困っているなら奉仕部というところを訪ねて見るといい。きっと君の助けになる」

 

 平塚先生はそこで一度言葉を切り、大きく息を吸うと、ニヤリと笑いながらこう言った。

 

「なにせあそこには、私の自慢の生徒たちがいるからな」

 

 ……いやだからかっこよすぎだろ。

 

 

 × × ×

 

 

 そして平塚先生と別れた僕は、奉仕部の部室の前で、ただただ立ち尽くしていた。

 ……いやだって、最初は平塚先生に引率してもらうつもりだったし。

 全く勇気がでない。ノックをするだけの勇気が。

 奉仕部ってあの奉仕部だよ? ファン垂涎の聖地がそこにあるわけで。なんならこの扉すら聖なる扉といっても過言ではない。ここは大聖堂かよ。

 うんうんと唸っているとおもむろに肩をポンポンと叩かれた。むっ何奴!

 

「やっはろー! ちよちよ、部室の前でどしたの? 依頼?」

 

 そこには由比ヶ浜さんがいた。

 大聖堂の前に救いの女神が降臨した。

 由比ヶ浜さんは一人のようだ。てっきり比企谷君も一緒かと思ったけど……。

 

「や、やっはろー。えっと、そうなんです、依頼があって……」

 

「け、敬語?」

 

 しまった。さすがに敬語はおかしかったか……。由比ヶ浜さんとの関係性がいまだによくわからないんだよなぁ。僕とは友達……なのかな。友達いないからわかんないわ。

 

「いや、えっと、その、知らないひとかと思った!」

 

 テンパってるにしても、言い訳が酷すぎるだろ僕……。これでは不信感マシマシだ。態度カタメ油汗オオメ一丁お待ち。

 さすがにこれはウソと見抜かれても仕方あるまい。いやでも由比ヶ浜さんならあるいは……。

 

「そ、そっか。じゃあ、仕方ない……のかな」

 

 ダメみたいですね……。

 心なしか、不審な人を見るような目になっている。これで僕がかの剣豪将軍のような見た目だったら、この場で先生とか呼ばれてたかもな……。

 

「と、とにかく、相談があるんだよね」

 

「うん、じゃあ私が二人に紹介してあげるね!」

 

 そういうと、由比ヶ浜さんは扉をガラッと開けると、「やっはろー」と言いながらズンズンと部室に入っていく。さっきまで悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなるほど、気持ちのいい快進撃だ。

 せっかくなので、ありがたやーと手を合わせて拝んでおいた。

 

「今日ね、依頼人連れてきたの!」

 

 元気よく由比ヶ浜さんが宣言する。

 その後、辺りに沈黙が流れた。

 え、なにこれもう入っていいの? すっごい入りづらいんだけど……。

 小学生のころ、一度だけ転校した先で先生が「今日は転校生を紹介する」と言ったあと、入るタイミングがわからずに、生徒がひとしきり静かになるまで廊下で待ちぼうけていたエピソードをふと思い出した。あれ、いつ入るのが正解なんだよ……先生もっとわかりやすく呼んでくれよ……。

 

「あの、由比ヶ浜さん。張り切っているところ悪いのだけれど、廊下のやり取りはすべて聞こえていたわ」

 

「お前、声でかすぎ」

 

「ええ~そんなぁ~」

 

 由比ヶ浜さんのやる気に、雪ノ下さんと比企谷君がそれぞれ水を指す。まだ廊下にいる僕の、部室への入りづらさが増した。

 この空間はこれで完成していて、入り込む余地は、ない。

 

「待たせてごめんなさい。入ってきてちょうだい」

 

 雪ノ下さんの声で我に帰る。どう言い訳しようと、僕は自分の足でここまで来たんだ。腹をくくれ。

 

「えっと、雪ノ下さんは初めまして。二年F組の八千代知夜です」

 

 ペコリと頭を下げた。人の名前を名乗ることに違和感を覚えたが、これからはこれが僕の名前だ。

 

「ええ、初めまして。私は、ということはそこの二人は面識があるのかしら。……自供は早めにした方が罪が軽くなるわ、比企谷君」

 

「いや待て、同じクラスなんだから面識あってもおかしくないだろ」

 

「普段の言動からして、あなたに由比ヶ浜さん以外の知り合いがいるとは思えないわね……」

 

「いやいるから。戸塚とか、戸塚とか。あと戸塚とかだな」

 

「さいちゃんだけじゃん!」

 

 これだ。これが見たかったんだ。

 ついついニヤついてしまう。微笑ましい、というのだろうか。とにかく、奉仕部の風景というものを初めて生で見られて、僕は感動していた。

 しかし、依頼人が急に笑いだしたことが不思議なようで、三人の目線が僕に向けられる。

 そんなに見つめられると恥ずかしい……。特に女子。

 

「いや、ごめんね。仲いいんだなと思ってさ」

 

「いえ、そんなことは……」

 

「ううん、めっちゃ仲いいよ! ね、ゆきのん?」

 

「……少なくともそこの男以外はそうかもしれない、わ」

 

 雪ノ下さんの否定を書き消すように、由比ヶ浜さんが雪ノ下さんに抱きついた。うーん百合百合空間。

 

「いやもうそれはいいから……依頼内容を聞こうぜ」

 

「あなたにしては正論ね。では八千代さん、聞かせてくれるかしら」

 

 あなたの依頼を、と付け加えた。

 

 ……やばい……なんも考えてなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4.薄っぺらい彼らの依頼にも確かな信念がある。

 あなたの依頼を聞かせて、と雪ノ下さんが僕に言った。

 

 依頼、依頼かぁ……。

 自分の状況を整理する。

 僕は男で、俺ガイルの世界に転生(?)して、転生したら女になってて……。

 何言ってるかわけわかんないなこれ。

 さすがにそのまま相談するには無理がある。精神科の受診をおすすめされるだろう。

 

 さて、どういう依頼にしたものか……。

 

 もらったコーヒーの恩を返す、なんて脆い理由で僕はいまここにいる。

 それで、僕は何をしたら恩を返すことになるんだろうか。

 それは、僕の依頼を通してどうにかできるものなのだろうか。

 そして、僕が奉仕部に何らかの悪影響を及ぼしてしまわないだろうか。

 

 僕は、俺ガイルの物語に関わる決心がつかない。それは奉仕部でこうしている今も同じだ。

 戸部君の依頼は班分けのLHRの前日。クラス内での話題から、まだ班分けが済んでいないことは知っていた。

 戸部君や海老名さんの依頼の場には居合わせたくない。原作には不介入でありたい。

 

 いつの間にか用意してくれていた紅茶に、恐る恐る口をつける。

 ゴクリ、という音は僕のものではなく、奉仕部の3人が固唾を飲んでいる音だ。

 無駄に話の入りを引っ張ったせいで身構えてしまっている。比企谷君は、どんな無理難題が来るのかという顔付きだ。有り体に言えば嫌そうな顔である。

 まだ、依頼のいの字すら決めてないんだけどな……。戯言、ならよかったが紛れもない事実だ。

 

 まあ考えすぎていても仕方ない! 

 切り替えて、当たって砕けろの精神でぶつかっていこう。

 

「その男がいては話しづらい内容、ということかしら?」

 

 どうやら僕が比企谷君を見る視線から勘違いさせてしまったようだ。

 

「ん、じゃあ飲み物でも買ってくるわ」

 

 比企谷君がそういって席を立つ。

 待った。今いなくなられると困る。非常に困る。スーパー非リア大戦B(ボッチ)の僕が、美少女二人の空間に耐えられるはずもない。

 

「いや、あの、比企谷君はいて、ほしい……」

 

 立ち上がった比企谷君を追うように立ち、逃がさないようにと、思わずギュッと袖をつかむ。やっぱそこそこ身長高いなぁ。そう思い、見上げる。

 そこには、ほんのり赤く染まった顔があった。あ、完全に照れてますねこれ。僕が女子に同じことされたら、比べ物にならないほど顔真っ赤になる自信があるので人のことは言えないんだけど。ちょっと男子~チョロすぎるよ~。 

 

「お、おう」

 

 比企谷君は素直に席に戻る。お互い恥ずかしい思いをした。比企谷君はそっぽ向いてるし、僕は下を向いてる。

 迂闊だった。女子になった弊害がこんな形で出るとは。男が男の裾を引っ張っただけなのに、この展開はおかしい……顔あっつい……。

 いやまて、僕は男だ僕は男だ僕は男だ僕は男…………。

 

「コホン。そろそろ話してもらっていいかしら」

 

 雪ノ下さんの声で正気を取り戻した。たぶん。正気。のはず。おそらくは。

 顔をあげると、雪ノ下さんは凍てつくような冷たい視線で比企谷君を見ている。由比ヶ浜さんもむくれた顔をしていて、思わず比企谷君の胃が心配になった。いやあの……ほんとごめんね? 

 

「うーんと、その、依頼っていうのはね……」

 

 一度言葉を区切る。今のやり取りの間も多少頭を回して考えていた。

 やはり、僕に原作のストーリーを曲げる勇気はない。そこから条件を考えるとこんな感じになる。

 1.僕が悩んでいて。

 2.比企谷君への恩返しもできそうで。

 3.修学旅行で起きる、告白イベントの本筋に関係しない。

 そんなご都合主義の依頼内容とはつまり──

 

「女子力を高めたい、かな」

 

「「はい?」」

 

 何言ってんの? のニュアンスで聞き返してきたのは雪ノ下さんと比企谷君。なんだその薄っぺらい概念は、という視線をビシバシと感じる。心中お察しします……。女子力って単語を自分から使う女子って女子力ないよね! 

 

「おお~! それ、いいかも!!」

 

 こっちは由比ヶ浜さん。対称的な反応だった。目はキラキラと輝いている。

 こちらは女子力という言葉の受けがよかったようだ。

 

「つーことはなにか、前やった嫁度チェックみたいなやつか」

 

「そもそも、女子力というものがよくわからないのだけれど……。おそらくはそれに近いでしょうね」

 

 比企谷君が頭の悪い女を見るような視線を向けてくる。……ちょっとムカッとするなこれ。一色さんも似たような視線を向けられてたんだろうなぁ……。

 ちょっと弁解する必要がありそうだ。

 

「うーんとね、その、もうすぐ修学旅行だよね? 普段あんまり女の子と話さないから、集団行動の時に共通の話題がないと不安で……。お化粧とかスキンケアもあんまり知識ないし……部屋でも困りそうで」

 

 そう、すべては修学旅行のため。

 よく考えれば女の子なりたてホヤホヤの僕にとって、1週間後の修学旅行がどれだけ恐ろしいイベントなのかわかるだろう。

 女子だけの班行動、女子だけの部屋、女子トイレ、女子用のお風呂、その他諸々。

 このことに気づいたときは血の気が引いた。女子と一緒に京都巡ったり、一緒にお風呂入ったり、隣り合わせの布団で寝たり……。

 絶対に心臓が持たない。断言できる。

 そもそもこのままだと朝にお化粧もできないし。なんなら今日から困るまである。

 

 急な女体化による悩みの種は尽きることがない。まずこれで1つ目の条件クリアである。

 

「なるほど……。であれば、比企谷君の存在価値には疑問が残るわね。集団行動とは一番縁がない人間でしょうに」

 

「ばっかお前、だからこそやり過ごし方に一家言あんだよ。俺は黙って三歩後ろをついていくプロだからな?」

 

「なんかキモい……」

 

「嫌な大和撫子ね……」

 

 雪ノ下さんがこめかみに指を当てうんざりといった表情をする。おお、このポーズが生で見れるとは……。というかこのやり取りも原作であったやつだ。うーん奉仕部最高。

 

 ちなみにだが、比企谷君へのお礼も忘れていない。女子力ということであれば料理も教えてもらえるだろうし、そこでクッキーとかケーキを作ってプレゼントするのだ。完璧なプランである。

 これで2つ目の条件もクリア──

 

「修学旅行のためーってことなら料理とかはいらないかもね」

 

「そうね。……正直料理の依頼にはあまりいい思い出がないから助かるわ」

 

 と思ったら由比ヶ浜さんに出鼻を挫かれた。僕のお礼が……。修学旅行と言い出したのは僕なので、完全に墓穴を掘った形だ。

 

「料理も、一応教えてほしぃ……けど。とりあえずは修学旅行……かな」

 

 どうしても語気が弱々しくなってしまう。僕の悪い癖だ。自分に自信が持てない。

 ただでさえ低い自己評価が、別人になってしまったことによって風前の灯と化していた。

 2つ目の条件が本筋のはず……なのに一番前途多難に思えるのは気のせいではなかった。

 お礼に関しては考え直す必要があるかなぁ。

 由比ヶ浜さんを真似て手作りお菓子作ろうなんて安直にもほどがあったのかな。

 

「まああと一週間だしな……。てか具体的になにすればいいんだ?」

 

 比企谷君がもっともな疑問を口にする。

 問題はそこだった。奉仕部の3人には修学旅行前に負担をかけてはいけない。もしこちらの依頼に付きっきりになりそうであれば、負担が軽くなるよう誘導せねばなるまい。……できるかな。

 

「そうね……。料理以外、ということであれば由比ヶ浜さんが適任でしょう。由比ヶ浜さん、何か意見はあるかしら」

 

「ゆきのんそれ何気酷いし! えーっと、お化粧とかならとりあえずは買い物かな? 話題作りにも使えると思うし……」

 

「なるほど。外泊の準備も兼ねた妙案ね」 

 

「それは……助かるかも」

 

 由比ヶ浜さんの意見に同意しておく。

 買い物はまあ、無難なところだろう。修学旅行前を依頼のメインに据えてしまえば、特に原作の動きを邪魔することはない。

 買い物なら1日あれば充分だろうし、戸部君や海老名さんの奉仕部襲来イベントと被らないよう日程調整もできる。

 これで3つ目の条件クリア。奉仕部と関わりつつも、原作は曲げない。

 

「じゃあ、頑張れよ」

 

「あら、もちろん比企谷君も行くに決まってるじゃない」

 

「いや、それはおかしい。そもそも俺は女子力なんてもんに全くもって関わりがないからな。つーか女子力ってなんだよ。スカウターで計測とかできんの? 女子力たったの5のゴミだぞ俺は」

 

「また始まったよ……ヒッキーのこれ……」

 

 比企谷君がお馴染みの駄々をこね、お馴染みのように由比ヶ浜さんが反応する。もちろん雪ノ下さんの呆れ顔もセットだ。

 比企谷君はここから小町ちゃんの名前とか出されつつ、渋々行くハメになるのだ。これは確定的に明らかである。

 

 ここで少しだけ魔が差した。正しく差し込まれた。

 目の前で3人のやり取りを見れるのはすごく嬉しい。ただ、この場に僕がいるのを勘定に入れなければ、の話だ。ちょっとは会話に混ぜてもらってもいいんじゃないかという魔が差したわけである。

 思い立ったが吉日といわんばかりに少し体を縮めながら比企谷君の方を見る。

 

「比企谷君も、来てほしいんだけど……その、ダメ、かな」

 

 見よ、秘技上目遣い。やったの初めてだけどね。戦いのなかで成長するタイプなのだ、僕は。ちなみに死ぬほど恥ずかしい。

 

「……。……長引くなら、すぐ帰るぞ」

 

 比企谷城、陥落。会話のショートカットに成功した。

 やっぱチョロすぎませんかね……男子……。いや僕も男子なんですけどね、中身。

 

 ちなみに双方がダメージを負ったことは言うまでもないことであり、女性2人の視線が恐ろしかったこともまた、言うまでもない事実だった。

 ……これもしかして、ただの自爆じゃない? 

 

 

 × × ×

 

 

 僕は今、とてつもない後悔の波に打たれていた。

 原因は今から15分ほど前に遡る──

 

 買い物は明日以降に、ということになり僕らは雑談タイムへと移行した。

 僕はなかなか帰るタイミングが掴めずグズっていたものの、帰宅する意思はあった。そのはずだったのに。

 

『それより意外だったなー。ちよちよ可愛いから、そーいうの詳しいのかなって思ってた!』

 

『由比ヶ浜さんにどう思われてるのか、ちょっと気になってきたよ……』

 

 この中で唯一、『僕になる前の八千代知夜』を知っている由比ヶ浜さんがそう切り出した。これは以前の僕を知るチャンスだと、そう思って会話を続けた。

 帰る意思を、捨ててまで。

 

 これが間違いなく悪手だったのだ。僕は依頼が成立したことで油断していて、そして欲を出した。

 戸部君や海老名さんとのブッキングを避けるような依頼をした。物語を歪めたくなかったから。2人の依頼はそれぞれ修学旅行の班分けの前と、前日。

 今日はもう大丈夫だろうとたかをくくったのだ。

 

 コンコン、と唐突にノックの音が響く。部活の時間の終わりも近いというのに。もう、日も沈みかけているというのに。

 

『どうぞ』

 

 と雪ノ下さんが言った。僕にかけられることのなかったその言葉が扉の奥に伝わって。

 

 戸部君と葉山君がそこから現れた。

 

『ちょっと相談事があって連れてきたんだけど……』

 

 知っている言葉を伴って。

 依頼の1つは修学旅行の一週間前、それが今日であることに、このときやっと気付いたのだった。

 

 

 × × ×

 

 

 ──時間を今に戻そう。

 

 戸部君と葉山君はそうしてこの奉仕部にやってきた。

 どうして? 原作では部活の前に来ていたはずなのに。そして大和くんと大岡がいないのはなぜ? 

 疑問は尽きることはないのに、ダメだ、頭が真っ白になっている。

 僕はどうすればいい? この状況で。

 

「……来てもらったところ申し訳ないのだけれど、先客がいるわ」

 

 雪ノ下さんがそういってチラリとこちらを見る。気まずい。この場の邪魔者は僕だった。

 きっと他の人は、そう思っていないのだろうけど。

 

「だから、時間を置いたんだけどね」

 

 そうして葉山君もチラリと僕を見る。何でこいつまだいるの? ってことですかね……。今は本当にやめてほしい。やめてほしいのだが、これで1つ分かったことがある。

 僕が奉仕部の前でオロオロとしている間、きっと彼らも奉仕部の近くまで来ていて、由比ヶ浜さんと僕のやり取りを聞いていたのだ。由比ヶ浜さんの声おっきかったもんな……。

 そして一度部活が終わり間際に出直してきて、今に至るという訳だ。

 

 まったく……何が原作には不介入でありたい、だ。

 ここに来た時点で既に運命は決まっていたのか。僕の葛藤とか決意とか、そんなもん神様の鼻息で吹き飛ばされるかのようだ。

 

「なおさら礼節を欠くというものね」

 

 雪ノ下さんが葉山君にバチバチに火花を飛ばしている。

 

「悪いね。別の日に出直すよ」

 

「えっちょっ隼人クーン!?」

 

 戸部君が引き止めようとしているものの、葉山君は構わずこの場を立ち去ろうとする。

 マズイ。このまま帰られたら、もう葉山君は理由をつけて戸部君を連れてこない可能性もある。

 葉山君はきっともう、海老名さんから相談を受けている。だからこそこんなにもアッサリと引き下がるのだろう。

 食い止めなきゃ。これ以上は物語を変えてはいけない! 

 

「ま、待って! 大丈夫! もうこっちの依頼、頼み終わったから!」

 

「八千代さん……あなた……」

 

 勢いよく立ち上がって、帰ろうとしている2人に慌てて声をかける。

 葉山君も戸部君も、ていうかみんなビックリしている。そ、そんなに見るのやめてください……注目されるのに慣れてないんです……。

 

「まあまあ。ちよちよもこう言ってくれてるし、とりあえず話聞くぐらいは、ね? ゆきのん?」

 

「本人がいいのであれば、別に……」

 

 由比ヶ浜さんが懇願すると、あっさりと雪ノ下さんは折れた。心なしか表情も柔らかくなっている。ふぅ、よかった。

 葉山君も観念したといった表情で部室に戻ってくる。ついでに戸部君も。

 ん? 戸部君が依頼人のはずなのになんかオマケみたいになってない? 

 

「じゃあ戸部、話すかい?」

 

 葉山君が諦めてそう促す。戸部君は僕を見てなぜか満足そうに頷いていたが、やがて比企谷君の方を見るとうぅんと唸り始めた。

 

「いやー八千代さんはともかく、ヒキタニ君に相談とかないわー」

 

 おいコイツ正気か? いま丸く収まってたよね? ほら比企谷君……いや比企谷さんの顔見てみろよ。穏やかな心のまま怒りに目覚めた戦士みたいになってるだろ。

 見れば、柔和になっていたはずの由比ヶ浜さんや雪ノ下さんも険しい顔をしていた。葉山君は大きくため息をついている。……まあこんだけ振り回されればそりゃな。

 

「その八千代さんは、彼を尊重していたのだけれど。悪いけど二度目はないわ。出ていってちょうだい」

 

 葉山君が諌めるよりも早く、雪ノ下さんの鋭い声が飛んだ。由比ヶ浜さんも、今度は止める気がないらしい。

 先ほど僕と似たようなやり取りをしたこともあってか、原作よりも当たりが強くなっていた。これは、僕のせいだ。

 次がない、というのは僕も同じであって、比企谷君への非難となれば先ほどのように間に入ることができない。

 

「戸部。さすがに俺たちが悪いよ。こうなったらもう俺たちだけで解決しよう」

 

 あちらはもう日を改めるつもりもなく、奉仕部への依頼そのものを撤回するつもりでいる。これではダメだ……。何とかしないと。でもどうやって? 

 葉山君が戸部君の肩をポンと叩いた。原作より悪くなってしまった空気の中で、戸部君は話を切り出せないだろう。そう思っていたのだが……。

 

「いやもう後には引けないでしょ、これ。……それにヒキタニ君には夏休みに話してるからいいっちゃいいし」

 

 意外にも、戸部君は話すつもりのようだ。

 ていうかその理論だと僕はアウトじゃないですかね……。完全に部外者だし。奉仕部の3人も空気に呑まれているのか、それを指摘しない。まあ、また依頼がなくなりかけても困る。都合が悪いことは黙っていよう。

 

「……そうか」

 

 葉山君が呟く。

 もしかして戸部君がここまで意思を固めたのは、葉山君には頼れないと思っているからではないだろうか。原作にもそう取れる描写があったはずだ。

 葉山君もそれに気づいているからこそ、強くは止めれないのかもしれない。

 

「あの……」

 

 1回目。

 

「あのー……」

 

 2回目。

 

「あの、実は俺、海老名さんのこと結構いいと思ってて? で、ちょっと修旅で決めたい的なことなんだけど」

 

 限界まで引き伸ばした後、そう切り出した。

 

 そこからは概ね知っている通りの展開だった。

 比企谷君が告白のリスクを説くも、戸部君が折れることはなく。比企谷君は懲りずに、その後の関係の悪化する話もしたが、葉山君の『そのへんはうまくやるよ』という言葉で抑えられた。

 結局、依頼は受ける方針に固まった。

 ……まずは一安心といったところか。

 僕のせいで依頼がなくなったりしなくて、本当によかった。

 

「では、今日はもう遅いしこのくらいにしておきましょうか。詳しい話はまた明後日聞いてもいいかしら。明日は八千代さんの依頼があるわ」

 

「じゃあヒキタニ君、よろしくっしょ!」

 

 戸部君たちは嵐のように来て、去っていった。

 総武高校の劣等生/来訪者篇もCMに入る。何とか窮地を乗り切ったな……。深くため息をつく。

 

「悪かったな。巻き込んじまって」

 

 そう比企谷君は謝った……君は悪くないのに。

 雪ノ下さんも頭を下げて「ごめんなさい」といった。申し訳ないのはこっちだ。僕がやったのは厄介事を増やして、場を引っ掻き回しただけ。加えてため息なんかついて気を使わせてしまった。

 

「こっちこそ、ごめんね。依頼、被っちゃった」

 

「いえ、八千代さんが謝ることなど何も……」

 

 謝罪の応酬が続く。こちらが悪かった、いやいやこちらがとお互い譲ることはなかった。

 その膠着を打ち破ってくれたのは由比ヶ浜さんだった。

 

「はいはい暗い話はこれで終わり! でも、私からも謝らせて。ごめんね、ちよちよ」

 

「いやそんな、由比ヶ浜さんに謝られることなんて……」

 

「だからそーいうのは終わり! 明日の時間決めよ?」

 

 由比ヶ浜さんは僕の言葉を一方的に打ち切ると、眩い笑顔を僕に向ける。

 ……ほんと、素敵な女の子だなぁ、憧れる。いやいや、何で女子に憧れ抱いてんの? 男の自覚をもて! 

 

 複雑な気持ちを抱きつつも、明日の時間と場所を決めていく。とりあえず放課後に奉仕部集合、ということで話はまとまった。もし千葉駅集合にして、万が一僕の世界と違う地形だったら困る。

 僕は生まれも育ちも千葉だから、たぶん大丈夫だろうけど、リスクは排除するに越したことはない。

 

「では、帰りましょうか。……比企谷君、平塚先生に話をしておくわ。あなたが逃げないように」

 

「いやそんなことしねーでもちゃんと行くから……」

 

「あら、あなたにしては殊勝な心がけね」

 

「……まあ仕事だから、一応行かなきゃな。……なんで八千代さんはそんな嬉しそうなんだよ」

 

 後半はボソボソと、僕にしか聞こえないように言う。また思わずニヤけてしまっていたようだ。

 頬の緩みを指でぐにゃぐにゃと戻しつつ、僕は答えた。だってこれは、だって、ねぇ? 

 

「これが捻デレってやつかな~ってね」

 

「え、なんでその言葉知ってんの? 巷で流行ってんの? 巷から排除されてるからちょっとわかんないんだけど」

 

「ふふっ、さあね~」

 

 今日は色々あったけど、結果的にはよかったのかも。そう思えたのは、間違いなく彼のおかげだった。

 ……ちゃんと恩返ししなきゃな。

 

 そう心に誓って、3人の後ろを歩きだした。

 廊下の窓から入る外の空気はもう冷たい。けれど、心はどこか暖かい。

 さあ、この気持ちまで冷えないうちに。

 さあ、今日はもう帰ろう。

 僕の家に。

 

 

 

 

 ……ん? まてよ? 

 

「……いや僕って自分の家知らなくね?」

 

 ……八千代知夜の家、どこ?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.幕間といえど気苦労が絶えることはない。

 何とか新しい自分の家にたどり着き、その家を見上げる。

 意外や意外。そこは僕が前の世界で住んでいた家のお隣だったのだ。

 ただ、記憶の限りだとあそこは空き地だったはず……。こちらの世界では、元僕の家の方が空き地になっていた。

 

 しかし本当にここに来るまで大変だった……。鞄に学生証入ってないから身分証で住所わからないし、携帯を見てもAmazonなんかは近くのコンビニ受け取りになってるし……。

 メールやメッセージアプリの中身を見るのはさすがに躊躇したので、その近所のコンビニの半径500m以内をグルグルとさまよい、やっとこさ『八千代』の表札を見つけたときは知りもしない家に郷愁を覚えた。

 

 キーケースにあった鍵を扉に差し込むと、ガチャリと音をたてて扉が開いた。別の八千代家だったらどうしよう……という心配は杞憂であったようだ。

 ちなみにキーケースには自転車の鍵もあったのだが、駐輪場のどれが自分の自転車かわからないため早々に諦めた。おかげ様で足はクタクタである。……どうやら体力もしっかり女性準拠のようだ。

 

「た、ただいまー」

 

 恐る恐る声を出す。が、どうやら誰もいないようで返事は帰ってこなかった。家の中も真っ暗だ。

 靴を脱ぎ、玄関を上がる。とりあえず見える範囲の電気をすべてつけた。家の中が明るく照らされる。リビング、ダイニング、キッチン。1階はどこもかしこも見覚えのない内装だ。

 

 見切りをつけ、2階へと登った。自分の部屋を探す。

 ……え、もしかしなくてもここ?

 『ちよ』と書いた板がドアにくっつけられている。

 どうみても小学生ぐらいの字だし……しかもクレヨンで書いてあるし……。

 

「……お邪魔します」

 

 一応は他人の部屋であるため、そう断りをいれて中にはいる。

 部屋のなかを一望した。

 

「うっわ……」

 

 ゴチャゴチャしすぎ……。整理整頓って言葉知ってる? とつい聞いてしまいたくなるような惨状だ。脱ぎ散らかしたジャージや靴下はもちろん、教科書やノートも机の上に出しっぱなしで、およそ片付けとは縁のない部屋だった。

 それなのになぜかいい匂いがする……。不思議ですよね、女子の部屋って、本当。

 キレイ好きの僕としてはちょっと困るので、後で片付けておこう。

 

 唯一キチンと整理されているのは本棚。

 ほとんど知ってる作品だ。大体はラノベ。

 でも、あの本はきっと……。

 

「そりゃあ、ないに決まってるよね」

 

 どこをみても俺ガイルの原作は見当たらなかった。当然である。この世界にアレがあったら預言書になってしまう。比企谷君の一人称で書かれてるから預言書ともちょっと違うか。未来の日記って感じだ。孤独日記とか観察日記あたりの名前だろうな。

 もう原作を読み返せない。その事実を突き付けられて、きつい。心にポッカリと穴が空いてしまったようだ。

 

 本棚を避けるように、他のところに視線をやる。

 机の上の開きっぱなしだったノートが目に入った。どうやら日記のようだ。自分の現状を知る手がかりになるだろうと、悪いとは思いつつ手を伸ばす。日記は4月から始まっていた。

 

『4月8日』

『今日は始業式! でも学校なんてツマンないなー。私、友達いないし! あの漫画……ナンガルにハマってから無くしたの間違いかも』

 

 また本棚を見る。あんま見たくないんだけどな。

 ナンガル……これか。正式名称をナンバーズ・ガールというらしい。エクシーズ召喚されるモンスターか、もしくは最近復活した昔のロックバンドみたいな名前だ。

 表紙も見ずにパラパラと中をめくる。

 どうやら少女マンガのようだ。……あんま興味ないなぁ。次いこう。

 

『4月9日』

『今年も同じクラスだった子が何人かいた! でも話したことあるのは由比ヶ浜さんぐらいかな~』

 

 由比ヶ浜さんとは1年で同じクラスだったようだ。書かれ方からして、それほど仲良くはないのだろうか。

 

『4月10日』

『新しい化粧ポーチ買った! これさえあればお化粧はもうバッチリだね! メイク落としも手抜き用のシートタイプで安心!』

 

 日記はここで途切れている。

 ……え、こんだけ? 三日坊主とはいうが本当に三日で終わるやつがあるか。

 ただ、いくつか得られた情報はあった。欲を言えばもうちょっと情報欲しかったんですけどね……。

 

 数分部屋を見ただけだが、八千代知夜の人間像が何となく見えてきた気がする。ガサツなところもあるが、年頃の女の子だなぁと思うところもあり。はっきり言うのであれば『普通』だった。

 ……俺ガイルでよく出てくる女子ってみんな極端だからね。トップカーストの人が大半だし。川崎さんはパッと見は不良で。例外と言える相模さんはうん、まああれは……うん。

 

 考え事のしすぎで頭が疲れた……。一度、目を閉じて深呼吸をする。思えば今日はずっと頭を使ってた気がする。状況が状況だから仕方ないだろうけど。

 こんな日はもう寝てしまいたい。ベッドがおいでおいでと手を降って誘惑してくる。でも制服のままではシワがついてしまう。つまりは……。

 

「着替えなきゃダメ……ですよね……」

 

 これはご褒美ですか? いいえ、精神攻撃です。

 

 

 × × ×

 

 

 ちゃぷん。

 やたら間の抜けた音が浴槽に響く。

 着替えの次はお風呂か~。……死にたい。体を直視すると魔眼により、鼻からの出血多量で本当に死にかねないのでバスタオルを巻いている。自宅のお風呂で、だ。奇特にもほどがある。

 体を洗うときは体が目に入らないよう、鏡に背を向けてずっと上を向いていた。

 修学旅行ほんと大丈夫かなこれ……。確か泊まる部屋にはシャワーがあったはずだけど……。実は大浴場だけ……なんてことであれば浴槽を血に染めかねない。

 

 お風呂から上がり、ドライヤーをかける。いままでは適当に乾かしてただけでも、きっとこれからは髪を痛めないようにする必要があるのだろう。少し億劫だが、元の体の持ち主のことを思うと蔑ろにはできなかった。

 

 ♪~♪♪~

 携帯から謎の音楽が流れる。画面を見るとそこには『由比ヶ浜結衣』と表示されていた。

 ……まさかこの僕に女子から電話がかかってくるとは……。

 深く息を吸って、着信ボタンを押した。

 

「も、もしもし?」

 

『ちよちよ? よかった~! 番号交換してからだいぶ時間空いたから違う人になってたらどうしよ~って思っちゃった』

 

 電話越しだと、声がまた違って聞こえるのが新鮮だった。電話なんてここ数年してなかったし……親とも……。目から塩気のある水が出てきたあたりで、考えるのをやめた。

 

「あ、うん……。それで、どしたの? 今日のことでなんかあった?」

 

『んーとね。ほら、ちよちよって2年になってから全然話してなかったじゃん? 久しぶりに話したかったけど、今日の部活はちょっと時間なくて……』

 

 確かに、昔話は戸部君たちの乱入により途中で打ち切りになっていた。

 彼女は彼女なりに、友達がいない現在の八千代知夜を気にかけてくれたのだろう。その気遣いが嬉しく、そして少しだけむず痒かった。

 

「そう、だね。話したのも久しぶり……だよね?」

 

『そーだよ。 なんかちよちよって1年の終わりごろから全然他の人とも喋らなくなっちゃって! 私心配してたんだからね!?』

 

 プリプリと怒る由比ヶ浜さんが目に浮かぶようだった。本当に怒らせたときに怖いのは雪ノ下さんより由比ヶ浜さんだったりする。……気を付けよう。

 しかしなるほど。その頃となれば日記の記述とも合致する。元の八千代知夜は、ナンガルとやらの漫画にハマった結果、人が変わったように他人と接しなくなったというわけだ。そして友達を無くした、と。

 

 まるでどこかの僕みたいですね……。本人を前にやりづらいこともあって今は鳴りを潜めているが、僕も比企谷君に影響を受けまくった口なので。

 

「ごめんね、心配かけて。でも大丈夫だから」

 

『うん、今日話してみてちょっと安心した。……ヒッキーのことも知ってたみたいだし』

 

 本命はそっちだったか……。面識あるってつい漏らしちゃったもんな。口は災いのもとというかなんというか。

 どう言い訳したものかと考えていると、返事をするより先に由比ヶ浜さんがこう言った。

 

『あのね! ヒッキーね! 文化祭の後から悪い噂あると思うけど、全然悪い人じゃないっていうか! やったことは嘘……とも言えないんだけど、それも色々あってというか』

 

「うん、大丈夫! ……その辺は知ってるから」

 

 たぶん、誰よりも。何があったのかも、何をしたかも、何を思っていたのかも。

 

『そっか~良かった! ちよちよがヒッキーのこと嫌いじゃないのは、わかってたんだけど。一応、ね?』

 

 むしろ好きだよ。……おいそこの腐女子鼻血拭いなよ。そういう意味じゃないから。恋慕じゃなくて友愛の部類だから! ……誰に言い訳してるんだこれ。あ、脳内の海老名さんにか。

 

「嫌いか嫌いじゃないかで言ったら嫌いとは逆の方かな。逆の逆の逆まである」

 

『え? えーっとつまり嫌いじゃない……ってそれなんかヒッキーぽい!?』

 

 ファンボーイの本領発揮だ。ぽいと言われるとちょっと照れ臭い。

 ……でも絶対本人の前でやらないようにしよう。ぜっっったいに嫌な顔されるから。

 

『……修学旅行、一緒に楽しもうね』

 

「うん! …ってあれ?」

 

 一緒に? そう疑問が浮かんだが──

 

『じゃ、また明日ね!!』

 

「あ、うん。また明日」

 

 勢いに負けて通話は切れてしまった。

 まあ、焦らずともそのうち聞けばいいか。なにせ修学旅行までは一週間もあるのだ。……一週間『も』と言えばいいのか一週間『しか』と言うべきかは頭が痛い問題だが。

 

 すっかり髪も乾いた。

 両親がまだ帰宅していないリビングで、冷蔵庫にあった作り置きを頂く。この時間まで帰らないことはどうやら習慣化しているらしく、今日のご飯、という簡素な書き置きが一緒にあった。一人分なところを見るに、兄弟はいないのだろう。

 

 孤独は、物思いに耽る際に大変都合がいい。自分以外に誰もいないリビングで、今日一日を振り返る。

 今日はとても、なんというか凝縮された日だった。

 平塚先生と、雪ノ下さんと、由比ヶ浜さんと、比企谷君と。ついでに葉山君と戸部君も。

 夢のような一日で、ついつい現実かどうか疑ってしまう。

 

 近くの鏡を見る。うん、かわいい女の子がいるね。

 ほっぺをむにーっとつねる。まあまあ痛い。女の子なので頬を引き伸ばした顔もかわいらしさがあった。

 そっと胸をつつく。質量のある実像だ。

………………うわ。

 確かな感触から遅れて、途方もない嫌悪感がやって来た。旧劇のシンジ君バリの自己嫌悪だ。こいつなにやってんの? キモッ……。

 自分で自分を蔑まなきゃ気がすまなかった。

 

 そして、やっと確信する。

 ああ、僕は女の子になってしまったのだと。

 もう男ではないのだと。

 

 いっそ開き直ろう。もう戻らないものに思いを馳せても仕方がない。覆水は盆に帰らないように、僕もきっと男には帰れないのだ。

 だから、開き直って、肯定してしまおう。

 

 今日はもう寝ようぜ。という脳内の黒猫に従って部屋に戻る。少し寝るには早いけれど、明日の朝を思えば当然と言えた。

メイクは時間がかかるのだから。未経験とくればより一層。

 

 それに……夜更かしは美容の敵だからね。

 




読んでいただきありがとうございます。
感想やアクセス、評価など、読んでくださる方のすべてが励みになっております。

いつも10時に予約投稿していたのですが、7時に投稿出来そうだったのでしてみました。
時間は固定の方が良い気もするので、次からは早くかけても10時にするかもしれません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6.こちらが魔王を覗くとき魔王もこちらを覗いている。

昨日、ランキング総合20位ぐらいに入ってたらしいです。ビックリして椅子から転げ落ちそうになりました。

読んでいただきありがとうございます。


 2年F組は今日も今日とて騒々しい。そして、昨日よりも一層、騒がしさのボルテージが増しているのは気のせいではなかった。

 今日の午後、LHRのこの一時間は修学旅行の班決めに当てられていた。はい、四人組作ってーといった具合である。

 

 よーしお兄さん頑張っちゃうぞーという意気込みとは裏腹に、体は鉛のように重く立ち上がることはできなかった。……いやだって知り合いほぼいないから、ほら。

 グループは男女別で作られるので、女子に話しかける必要がある。まあ当然のごとくムリ。あれだけ昨日奮起したというのにこの有り様。情けないを通り越して、尊敬の念すら抱くだろう。えっへん。胸を張って偉ぶってみたが、現状は何も変わらない。

 

 他の人たちは大抵グループを決まっているようで、既に雑な談義に勤しんでいる。このままだと、コミュ障だらけの余り物班に入れられることになるだろう。

 だが余り物だけというのは、それはそれで気楽なものである。みな身の程を弁えているためだ。下手に勇気を出して友達同士のグループに単身乗り込むと、強大な疎外感を味わうことになる。これを蛮勇という。

 

 だから僕はこれでいい。これでいいのだ。いいったらいいのだ。

 

 しかしこの未来予想図はすぐに破り捨てられることになった。

 

「ちよちよ、うちの班入ろ?」

 

 由比ヶ浜さんがそう声をかけてきた。

 え? なんで?

 彼女らのグループは三浦さん、由比ヶ浜さん、海老名さんの三人は固定で、川崎さんが最後の一枠になっていたはず。

 見ると川崎さんは、別の女の子グループに入っていた。文化祭とかで関わった子なのかな。原作にないことはサッパリわからなかった。

 その川崎さんは、確か原作では海老名さんが連れてきたはず。海老名さんはどうしたんだ?

 

「それは願ってもない申し出だけど……他の人には言ってあるの?」

 

「うん、二人には朝伝えたよ」

 

 なんで僕には朝言ってくれなかったんですかね……。

 と思ったが、その今朝、始業時間ギリギリに教室に駆け込んだのは僕だった。

 いやだってメイク難しすぎるんだもん……。ちなみに、ギリギリ見れるレベルに達するまで約二時間。あれを毎朝やってる女性たちへの尊敬の念がより強くなった。

 

「そっか。じゃあ入らせてもらうね」

 

 なぜ僕が川崎さんの代わりになったのかはちっともわからなかったけど、好条件のお誘いを断ることはできなかった。

 

「うん! 優美子ー決まったよー!」

 

 そういって由比ヶ浜さんはパタパタと駆けていく。かと思いきや、途中で引き返して僕の手を握った。

 

「ほら、行こ?」

 

 え、これ行かなきゃダメなやつですか? あと、女の子が気軽に手を握るのは法律で禁止すべきだと思います。ドキドキするので。……手汗出てないといいんだけど。

  三浦さんが鋭く睨んでくる。 怖いなー嫌だなー。

 とはいえこれ以上怒らせるのもまた怖いので、大人しく二人の前に移動する。

 

「あーえっと、三浦さん。よろしく、ね?」

 

「……ふーん。まあ別にあーしはいいけど。あんたはいいの? 結衣から男子も一緒に回るって聞いてるけど」

 

 値踏みするような目を無遠慮に押し付けられる。女王様こわいっす。でも後半の気遣いは優しい。ギャップのある女の子って素敵だと僕は思います。

 

「うん、それは全然大丈夫」

 

 だって男子より女子のが緊張するし。

 

「ふーん」

 

 なんでだろう。より警戒の色が強くなった気がする。誰か助けてくれません? と思って海老名さんを見ると。

 

「チヨチヨ! それ素質ありだよ! 私と一緒にめくりめくはやはちの世界へ飛び出そう! キマシタワーーー!!」

 

 海老名さんもそのあだ名で呼ぶのかよ。しかも僕に素質とかないから。あとBLの森には一人で飛び出せ。ああ、頭痛くなってきた……。

 

「擬態しろし」

 

 海老名さんから勢いよく出た鼻血を三浦さんが拭き取る。隣で由比ヶ浜さんが「あ、あはははは」とぎこちなく笑っていた。

 

 ……この班、やっぱダメかもわからんね。

 

 ちなみにはち×とつなら余裕でいけるのだが、それは黙っておくのが賢明だろう。

 

 

 × × ×

 

 

 時は飛んで放課後。

 待ちに待ったお買い物タイムである。とはいえ少々気が重いのだが。

 なにせ僕は自主的に買い物に行くことが本当に少ない。せいぜい書店に赴く程度。親が買ってきた服着てそうって? ハハハそんなバカな。ところでゴールデンひとし君人形いる?

 

「さーて、どっから回ろっか?」

 

 ららぽに到着して早々に、由比ヶ浜さんがそう聞いてくる。

 書店! と即答しそうになったが、女子力の欠片も感じられないのはいかがなものか。少し行きたい理由もあるのだけど、別に今である必要もない、

 考えろ、女子力パワーを感じるところを。これ力とパワー重複してんじゃん。やはり力こそパワー。

 

「服とか、まず見てみたいかな~」

 

 これが僕の女子力に対する想像の限界だった。このカスめ。悲しくて涙が出てくる。

 

「そういうことなら洋服店から回りましょう。行くわよ、荷物持ち谷君」

 

 やっぱ比企谷君は荷物係だったのか……。女で良かったなぁ。都合のいい性認識に感謝感激。

 

「いや待て、初っ端から服ってのは──」

 

「ヒッキーは水指さないの! ほらちよちよ、ゆきのんも! こっちこっち!」

 

 比企谷君の言葉を遮ると、由比ヶ浜さんはズンズンと進み始めた。雪ノ下も後を続く。比企谷君も小さくため息をつくと、やれやれといった表情で歩きだした。

 

「おい、置いてかれるぞ」

 

「あ、うん!」

 

 振り向いた比企谷君の言葉で我に帰った。僕もパタパタと二人を追って駆け足になる。

 それにしても女性服ね。ちょっと興味はあった。男ならば一度はスカートを履いてみたいと思ったことがあるだろう。……あるよね? たぶんあるよね?

 なんなら今も制服のスカート履いてるけど、それとこれとはまた違うというか。なんというか、自分で選んだ女の子の服を自分で着てみたい。

 

 そう思っていたのだが──

 

「ねえちよちよ、次これどう!? あ、その次これ着てみて!」

 

「あ、うん。でもちょっと量が……」

 

「あー! これもいいかも! ね、ゆきのんもそう思うよね!」

 

「え、ええ……」

 

 絶賛、着せ替え人形中である。試着室にはベルトコンベアでも着いてるんじゃないかってほど、次々と洋服が運ばれてくる。ちなみにこれで15着目だ。

 服を選べると思っていた自分が甘かった。僕の脳内選択肢は学園ラブコメを邪魔することなく、宙ぶらりん状態だ。

 あの雪ノ下さんも勢いに押されて何も言えずにいる。だ、誰か……。

 

「た、助けて……雪ノ下さん……」

 

「…………その、ごめんなさい」

 

 謝られてしまった。こと由比ヶ浜さんのことになると雪ノ下さんは強く出られない。そうこうしている間も、由比ヶ浜さんの暴走は止まらない。

 

「これもいいかも!」

 

「ゆ、由比ヶ浜さん? そのワンピース半袖なんだけど。今ほら、季節、秋だよ」

 

「そっかー。じゃあこっちのカーディガンは!?」

 

 じゃあってなんだじゃあって。そろそろ新しい服を探すのをやめなさい! ただの試着でも神経使うんだよこっちは! 脱ぐ度に自分の体が見えないよう目閉じてるんだよ!!

 雪ノ下さんが止められないとなると、残すは……。

 

「ひ、比企谷君、タスケテ」

 

「…………人生、諦めが肝心らしいぞ」

 

 こ、こいつ! 同性の僕を裏切るとは……。許せん……! ちなみに人はこれを逆恨みと呼ぶ。勝手に仲間呼ばわりして、離脱したら裏切り者扱いとはなんたる傲慢か。でもすばやさの種奪ってった7のお前、お前だけは許さんからな。

 

 比企谷大先生とは僕の心の中での敬称だったが、今はこの限りではない。できるだけ苦しんでほしい。なお半分ぐらいはキーファへの恨みだ。これを八つ当たりという。

 様々な服に目移りを続ける由比ヶ浜さんに話しかけた。

 

「ねー由比ヶ浜さん? 男子の意見も参考にしたいなーって思うんだけどどうかな? さっきまで着てたのから、比企谷君に一番良かったの選んでもらいたいなー」

 

「っ!」

 

 比企谷君の顔が驚愕に見開かれる。まだだ、まだ笑うな。

 

「た、確かにそれは……気になるかも」

 

 ゴクリと由比ヶ浜さんの喉が鳴る。興味津々らしい。比企谷君の好きな服の傾向が気になるのだろう。

 恋する乙女の執念は時に恐ろしい刃物と化す。

 

「確かに、男性の意見も参考にすべきね。一理あるわ。そうでなくて? 比企谷君?」

 

 雪ノ下さんの顔は愉悦に満ちている。僕がけしかけたこともお見通しって感じだ。ちょっとしたデレを期待していたのだけれど、嗜虐心の方が大きかったらしい。少し残念。

 

 ただ、比企谷を追い詰めたことに変わりはない。さあどうする主人公君よ。

 そう思って表情に注視していると、なぜか先程とはうって変わって落ち着いた……どころか呆れ顔ですらあった。

 

「あのなぁお前ら……。そもそもここ来る前に言おうと思ってたんだが、最初に服なんてかさばるもん買ったら、そのあとが大変だろ」

 

「「あ」」

 

 そういえば確かに。なんかうまいこと煙に巻かれた気もするが、正論だ。雪ノ下さんは「そんなときのための荷物持ちでしょう……」と呟いていた。うまく切り返されたことが悔しいらしく、辛酸を嘗めている。この負けず嫌いさんめ!

 

「比企谷君に負担かけるのも悪いし、次のお店行こっか」

 

「そうしてくれ」

 

 全くもって計画通りではないのに助け船を出してる辺り、なんだかんだ僕も比企谷君に甘かった。

 

 

 × × ×

 

 

 そのあとは、雑貨屋でヘアピンなどを買ったり、化粧品売り場でコスメ(この呼び方はさっき知った)を買ったりして買い物を続けた。

 正直いって知識をいっぺんに詰め込みすぎて知恵熱が出そう。

 こんな僕でもファンデーションとかマスカラとかグロス程度なら知っていた。でも、コンシーラーだのフェイスパウダーだのが出てきたあたりで頭がこんがらがった。ところで、アイブロウとアイライナーとアイシャドウって何が違うのん?

 

 とりあえずメイクの基礎的な部分と、化粧水や乳液を使った簡単なスキンケアを知れただけで今日はもうお腹一杯だ。

 

「なんかあれだねーお腹へったねー」

 

 あのーもう精神的には満腹なんですけど……。

 

「そうね。何か食べていきましょうか」

 

 由比ヶ浜さんだけかと思っていたら、雪ノ下さんも同調した。

 

「じゃあチバの魂サイゼはどうだ」

 

「それ女子力ないし! ダメに決まってるじゃん!」

 

「……うす」

 

 不承不承といった顔の比企谷君。正直僕もサイゼがいいんだけど……。間違い探ししながらグリルチキン食べたい。あの間違い探し、食べ終わるまでに探しきれないこともざらにあるんだよな。難易度高すぎ。

 

「特にこだわりがなければ、ここはどうかしら」

 

 そういって雪ノ下さんはオシャレな洋食店を指差した。ふむふむ、オムライスとかある? 自慢ではないが舌は小学生並なのだ。好物もその辺の小学生と同じ。唐揚げハンバーグオムライスは、三種の神器である。

 これが全部乗ってたりするんだから、お子様ランチってすごい食べ物だよね。

 

「オムライス、あるなら」

 

「あははは……。ちよちよって結構子どもっぽい?」

 

「由比ヶ浜さんに言われるのは心外かも」

 

「それどういう意味だし!?」

 

 憤慨する由比ヶ浜さんを誰一人としてフォローすることなく、レストランまでやって来た。フォローしなかったというより、できなかったと言うのが正しい。雪ノ下さん、歩いてる間ずっと目を逸らすのもどうかと思いますよ。僕も人のこと言えないけど。

 

 案内された席に座り、各々の注文を終えて一息つく。正直疲れた。

 対面に座る比企谷君と目が合う。あちらもお疲れのご様子。心の中でサムズアップを交わした(つもり)。目を逸らされた。おい。

 それにしても女子の買い物って、思ってた10倍大変……。

 

「あー、少し、話さなきゃならんことがある。八千代さん、いいか?」

 比企谷君が疲れた顔を少し律して、真面目な顔になる。なんともまあ似合わない。

 

「うん、大丈夫。それで話って?」

 

 僕はこの状況に浮かれていて、正直にいうと何も考えていなかった。何も。どんな話をするのか、予想することすら放棄した。

 

「戸部の依頼のことなんだが──」

 

 昨日の出来事などほとんど頭になかった。すっぽり抜け落ちていた。今この瞬間までが、何よりも楽しかったから。

 

「八千代さんは手を引いた方がいい、と思う」

 

 予想はできたはずだった。目を逸らしていたことに、今さら気づいた。

 

「ちょっとヒッキー!? どういうこと!?」

 

 由比ヶ浜さんが問い詰めるに比企谷君を見る。

 雪ノ下さんは少しの間考えるように俯いたあと、何かに納得したようで、コクリと頭を縦に降った。

 

「待って由比ヶ浜さん。比企谷君は一応、八千代さんのためを思ってのことらしいわ」

 

「一応ってな……。でもまぁ大体はそうだな」

 

 大体は。きっと半々ぐらいだろう。そうだといいな、と思う。比企谷君は僕と、それから由比ヶ浜さんの立場を案じている。雪ノ下さんも、どこまでかはわからないが気付いたようだ。

 

「ヒッキー、よくわかんない」

 

 由比ヶ浜さんは納得していないようで、なおも比企谷君とこの会話を続ける。

 

「つっても説明しにくいからな……」

 

「話をした以上は説明する義務があるわ。と言いたいところだけど、その様子だと八千代さんは得心が行っているようね」

 

「まあね。比企谷君の考えは何となくわかってる。奉仕部じゃないもんね」

 

 僕は、と言外に滲ませた。

 比企谷君は、僕という部外者が関わることで海老名さんが僕──ひいては由比ヶ浜さんに悪感情を抱くことを危惧しているのだ。

 

 戸部君への協力に関して、由比ヶ浜さんだけであればまだ奉仕部の活動という言い訳がつく。

 だがそこに部員でもない僕までけしかけたとなれば、海老名さんがあまり良く思わないだろう、というのは想像に容易い。その後の影響は言わずもがなだ。

 そのことを僕は知っていた。

 

「……でも、事情も知ってるし。修学旅行、由比ヶ浜さんと一緒の四人班に入ったから、全く見て見ぬ振りってのはむしろ難しいかも」

 

「そうだったの?」

 

 雪ノ下さんが聞いているのは班のことについてだろう。どうやら知らなかったらしい。由比ヶ浜さんの方を見て、視線で説明を求めている。

 

「あ、うん。ほら、ちよちよの依頼の目的って修学旅行じゃん? だから私と一緒のグループだといろいろやりやすいかなーって、昨日帰ってから思いついちゃって」

 

 なるほど。それで誘われた訳か。不思議に思っていたが特に謎でもなんでもなかった。要は戸部君や葉山君と同じポジションと言うわけだ。

 

「それは……その通りね。実際戸部君たちもそれで比企谷君と組ませたのだし。あなたは知っていたのでしょう?」

 

「いや知ってはいたんだが……。明日戸部のやつ来るしな。方針は固めとく必要がある」

 

 明日また、戸部君が部室に来る。

 確かそういう約束だった。

 僕の立場が揺れている状態では、依頼への取り組み方も変わってくる。

 だからこそ、今日話さなければならなかったのだろう。

 

「じゃあ明日は奉仕部には行かないね。で、修学旅行中も、あんまり露骨に干渉しない。これでどうかな」

 

 要は自然に振る舞うってことだ。応援もしなければ 邪魔もしない。漂う空気のようにそこにいるだけ。

 中立、というのが一番しっくりくるだろうか。

 

 もう原作は歪みに歪んでしまっているけれど、これなら結末は変わらない……かもしれない。

 すなわち『しずかちゃんでもジャイ子でもセワシ君生まれてくる理論』だ。

 ……そううまくいくかわからないけど。

 

「悪いな」

 

 比企谷君が申し訳なさそうしている。殊勝な態度というか。似合わね~。

 そう思うのはあまり見ない姿だからか。彼にはもっとふてぶてしい顔をしていてほしい。

 

「その代わり──」

 

 だから、重くなってしまった空気を払拭するように提案を持ちかけた。

 

「また明後日からは、部室行ってもいい?」

 

「「ええ(うん)。もちろん(!)」」

 

 なぜか雪ノ下さんと由比ヶ浜さんが答えてくれた。美少女二人の明るい微笑みが、何とも照れ臭かった。

 

 

 × × ×

 

 

「じゃあ今日はもう帰ろっか。暗くなると、ママも心配しちゃうし」

 

 夕飯を食べ、日も沈みかけたことで解散のムードが漂う。

 

「そうだな。よし帰ろう。とっとと帰ろうすぐ帰ろう」

 

「なぜか、あなたが言うとその気が失せるのよね……」

 

 そう言いつつも、雪ノ下さんは帰るつもりのようで「八千代さんもとりあえずは駅でいいかしら?」と聞いてくる。

 

「あーえっと、ちょっと書店覗いてこっかなって。先帰ってくれて大丈夫だよ」

 

 少しだけ、目的があった。

 藁にもすがるような、ダメで元々な希望ではあったのだけど、それでも掴もうとする手を引くことができなかった。

 

「そう……。では、比企谷君。私は由比ヶ浜さんと帰るから。付き添いを命じるわ」

 

「は? いや俺、アレがアレでコレだから……」

 

 雪ノ下さんが予想外の提案をする。何故だ。

 もしかして僕、保護者の同伴が必要な幼児だと思われてたりする?

 比企谷君も動揺している。とはいえ、その断り方って……。

 

「大丈夫。小町さんには言っておくわ」

 

 ですよね。それで断れきれたところを、一回も見たことがない。

 雪ノ下さんはいい笑顔でニッコリ笑う。ちょっとかわいいからやめろ、とよく比企谷君が言ってるやつだ。いや思ってるだけで言ってはないか。

 

「なんで俺が……」

 

「あら、その両手に持ってる荷物を返してしまっては、八千代さんも渉猟などできたものではないでしょう」

 

 それに、と言いつつ雪ノ下さんはなぜかこちらを見て、優しげな笑顔をする。え? 僕いまから殺されちゃったりします……?

 

「女性をエスコートするのは男性の義務よ」

 

 複雑ぅ。乙女心ならぬ男心にズシリと響いた。

 こうね、一応まだ男としてのプライドがね、あったりなかったりするんですよ。あるよね?

 既にスカートだのメイクだのにまみれた、使えない男としての矜持に、サクッと止めを刺された。

 

 かわいこぶるだけなら全然いいんだけど、こう守られる側に立つというのは……。

 そんな僕の気持ちは当然誰にも理解されることなく、続く比企谷君の言葉で完全に霧散した。

 

「……はぁ。わーったよ」

 

「じゃあ、ちよちよ。ヒッキーをよろしくね!」

 

 逆じゃねえかよ……。

 

 そうして僕は内心で、比企谷君は態度で文句を言いつつも手を振る二人(雪ノ下さんは控えめで由比ヶ浜さんは快活に。かわいい)と別れ、書店に歩く。

 

 会話はほとんどなかった。

 比企谷君はやはりというか、僕を警戒しているようだ。一定の距離を開け、二人で歩いていることがわかりづらいようにしている。これは僕のための気づかいでもあるだろう。

 このまま気まずいのも嫌なので、なんとか話しかける。

 

「荷物、半分持つよ」

 

「……いや、いい。俺は荷物係だからな」

 

「ううん、ほんとはこっちが全部持つべきなんだから」

 

 そういって強引に荷物を持とうと持ち手を掴む。比企谷君は僕の行動が予想外だったようで、少しよろけた。ついでに掴んでる僕も。

 二人の手が重なった。

 目の前に比企谷君の顔がある。

 近い。静止。

 

「いや、あの」

 

 どっちの言葉かもわからず、バッと離れた。顔が赤い。なんで? 動悸、息切れ、目眩の症状。ペロッこれは……心不全? 比企谷君も僕ほど酷くなさそうではあるが、顔が赤い。

 なぜ男同士でラブコメをさせる。

 雁首揃えて待ってろよ、ラブコメの神様め……。

 

 今度こそ、書店につくまで一切の会話はなかった。

 

 そんなこんなを経て目的地についたのだが、そのなかでも更に奥深くの目的地へ。

 そう、ガガガ文庫の棚である。

 

「……意外だな。こういうの、読むのか」

 

「うん。どころか一番好きだよ。ラノベ」

 

 棚を探す。作者順だから最後の方に……。

 まあ……ないよね。俺ガイル。

 自宅にないだけでなく、書店にも流通していない。

 やっぱりこの世界にはない。

 読み返すこともできない。

 

 立ち尽くす僕を比企谷君は、不思議そうに見ている。彼には、僕がどう見えているのだろうか。もう知りようがなかった。でも、いいか。彼と話せるだけで。

 見つめ返し、笑いかける。彼にもきっと僕のこの気持ちはわからないだろう。

 彼が僕とは反対の、入り口の方に目を逸らす。

 

「あれ~比企谷君?」

 

「ゲッ……」

 

 そこには、魔王がいた。お父さんお父さん、魔王がいるよ。坊や、それは間違いなく魔王じゃ。諦めろ。

 なんでこんなとこに……。と思ったけれど、原作でもなぜかいく先々に偶然いることが多かった。

 持っている人間、というやつだ。再会の才とか絶対持ってるだろうな。じゃあ十ツ星神器なのかよこの人。

 

「ひゃっはろ~。比企谷君いけませんなー雪乃ちゃんをほったらかして知らない子とデートとは」

 

 雪ノ下さんのお姉さん、雪ノ下陽乃さんが、僕を見てニッコリと笑いかける。……先程の妹の笑みとは違い、目が笑っていない。背筋が凍る。

 

「さっきまであいつもいましたよ」

 

「そうなんだー。そっちの子は始めましてだよね。私、雪乃ちゃんの姉で、陽乃っていいます。よろしくね」

 

「よ、よろ、よろしくお願いします。や、八千代です」

 

 怖いって! 怖い怖い怖い怖い。無意識に比企谷君の影に隠れてしまう。

 

「ふーん……。お姉さん嫌われちゃったかな」

 

 そういうと雪ノ下さん……紛らわしいな。陽乃さんは比企谷君とまた話し始める。ほっ。助かった。

 

「どうですかね。俺は苦手ですけど」

 

「あっはっは。比企谷君おもしろーい。それにしてもこの子とねぇ」

 

 面白いというが全然笑っていない。底が見えない恐ろしさとはこのことだろう。

 陽乃さんは、また僕の方を見る。心まで見透かさんとするその瞳を避けるように、声を絞り出した。

 

「その、比企谷君には買い物に付き合ってもらってるだけで、奉仕部の、依頼で」

 

「ふーんそっか」

 

 まだ見られている。怯える僕を庇うように、比企谷君が少し体を動かす。

 

「……あの、こいつに何か」

 

「んーん。何もないよー。その子には、何もない」

 

 その言葉に嘘はない。こちらを探っていた瞳は、興味を失ったように虚空を見ていた。沈黙。比企谷君も空気に飲まれている。

 

「じゃあまた会おうね、比企谷君! あと、ええと」

 

「八千代ですよ」

 

 わざとらしく言い淀む陽乃さんに、比企谷君もわかってますよとばかりに答える。

 

「じゃあね、八千代ちゃん」

 

 それだけ言うと、陽乃さんはその場を去った。

 ドッと気が抜ける。腰も抜けて地面にへたりこむところだったが、なんとか踏ん張った。

 

「……なんか、すまん」

 

 比企谷君は視線を所在なさげに動かしながら謝る。彼のせいではないのに、こんな申し訳なさそうな顔にさせてしまうのは一体何度目だろうか。

 

「ちょっとビビっちゃっただけ……。むしろごめん、庇ってもらって」

 

「……おう」

 

 どんよりとした空気は消えることがない。これではもう買い物などできもしない。とはいえ、このまま帰るのも嫌だった。あの人が夢に出てきそうだ。

 

「さっきさ、呼び捨てで呼んでくれたでしょ?」

 

「あ、いやあれは仕方なくだな……」

 

 比企谷君はしどろもどろになりながら答える。

 

「比企谷君、今度、オススメの漫画貸したげる。だから呼び捨てで、呼んで?」

 

「え? いや、別にいらんから。交換条件になってないから……」

 

 小さく首を振りながら断られた。でもいい。押しに弱いのは知ってるから。あえて無視して言葉を続けた。

 

「今度、部室に持ってくね」

 

「いやだからいらねぇって……。はぁ」

 

 諦めたように比企谷君はため息をつく。ちょっと強引すぎたかな。でも、このまま帰るよりもずっといい。少しだけ、ご褒美があっても許されるだろう。

 

「帰るか。…………八千代」

 

 一色さんよりよっぽどあざとい……。これを素でやってるんだから恐ろしい。

 緩んだ頬を見られないように、顔を背けて歩きだす。

 

 帰りの荷物は、二人で持った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7.まさしく旅は道連れだが世に情けなどない。

やっっっっっと修学旅行に行きます!
おっせえよ!

お気に入り、感想、評価ありがとうございます。
これからもドシドシお待ちしております。


 それからというもの、買い物の翌日を除き、奉仕部に通う日々が続いた。

 雪ノ下さんが淹れてくれた紅茶を頂いたり、由比ヶ浜さんと一緒に雑誌を見たり、比企谷君に漫画を押し付けたりして数日を過ごした。

 

 目の前で三人が仲良く談笑する風景を見て、ああ僕はやっぱり奉仕部の『三人』の関係が好きなんだな、と改めて自覚した。

 どんな形でもいいからこの人たちを見ていたいんだなと、そう思った。

 

 ただ、戸部君の依頼についてはほとんど関与しない方針になっている。奉仕部が修学旅行前にやったことといえば自由行動のルート決めであり、同じ班の僕は聞いていても特に差し支えないという理由でそれには参加していたが、修学旅行中はアシストしない約束をしている。

 

 それもあり、僕は修学旅行での動きを決めあぐねていた。僕がいなくても奉仕部のこれからは問題ない──それはきっと、彼らと少し仲良くなった今でも変わらない。

 修学旅行で欺瞞を生み、生徒会選挙で破綻し、クリスマスイベントで再構築される。その関係性にはなんら影響は及ぼさない。

 

 本筋に関わらないことを決めた。いや、決めざるを得なかった。僕が関わる理由など、どこにもないのだから。原作を歪めることは、むしろ恩を仇で返すことになるのだろう。約束を無視してまで動くことこそ……それこそ比企谷君への裏切りになるだろう。

 

 だから、勇気が芽生えた。これから先の数ヶ月の間、ギクシャクする奉仕部の関係を心を痛めながらも見守る勇気が。

 

 

 だから、海老名さんの来るその日──修学旅行前日、僕は奉仕部に行かなかった。

 

 

 × × ×

 

 

 さて、修学旅行当日である。

 事前に決心と方向性を固めたこともあり、僕の心は幾分か身軽になっていた。僕は僕のことにだけ集中すればいいのだ。

 迫り来る女子との共同生活から、いかに鼻血を抑えるかだけを考えれる。

 うーんできるかなぁ。無理そうだ。

 

 家からの準備や道のりは特に問題なく時間通りに集合場所に。

 新幹線乗り場には、クラスのみんなが集まっていた。比企谷君や由比ヶ浜さんの姿もある。

 点呼を取り、乗車。

 最初の一人目が座るのに時間がかかったものの、葉山君が座り始めてからはスムーズに座った。

 さすがはトップカースト、クラスの王とでも言うべきか。

 

 葉山君は三人かけの窓側に座る。隣に戸部君。三浦さんが座席をグルッと回し葉山君の向かい側に座った。

 

「はいはい、結衣はそっち。私がここ。で、チヨチヨはお向かいだね」

 

「う、うん」

 

 海老名さんは半ば強引に由比ヶ浜さんを三浦さんの隣に誘導すると、一番通路側に座った。

 窓側から葉山君、戸部君、僕。向かい側が三浦さん、由比ヶ浜さん、海老名さん。

 

 そして旅は始まり──

 

「そ! れ! で! チヨチヨはどっちが受けだと思う!? やっぱり私的には駅弁の誘い受けで──」

 

 僕は海老名さんの口撃を受けていた。てかこれ何が攻めなんだよ。頭の中どうなってんの……。三浦さんもどうやら諦めてしまったようで、止めてくれない。

 

「あーなる。まぁそーいうのもわかる的な?」

 

 戸部君はわからないなら口閉じた方がいいと思う。アシストに期待してるのか、こっちをチラチラと見てきていて辛い。頑張ってはいるけど空回りだ。

 

 一歩引いた視点で見ていたからか気付いたことがある。海老名さんだ。息を切らしつつ、わりと強引に話を展開して他の人に割り込む隙を与えていない。

 原作では川崎さんのせいでラブコメ要素が排除されていたが、川崎さんのいない今は海老名さん自身が頑張っているようだ。

 

 正直言って、巻き込まれるのには疲れる。

 この場から逃げたい気持ちと、戸部君を応援してあげたい気持ちが9:1ぐらいだった。

 

「ちょっと、席空けるね」

 

 そういってスクッと席を立った。この程度なら海老名さんに怪しまれることもないだろう。トイレ! と言いづらいのが外面女の子の辛いところだ。

 まあこの間に頑張れ、青少年。

 

「すぅ……」

 

「と、つかぁ……」

 

 車両間のスペースで適当に時間を潰そうと前方に向かうと、三人席から二人分の寝息が聞こえてきた。

 戸塚君は、比企谷君の肩に寄りかかるようにして寝ていた。比企谷君は少し寝苦しそうにしているものの、その顔はどこか幸せそうだ。

 ここが……オアシスか。

 

 さっそく空いている通路側の席に座り写真を──さすがに無断で撮るわけにもいかないか。指で四角を作り、片目を閉じて記憶にしっかり刻んだ。

 

「ち、ちよちよ……? 何してるの……?」

 

 通路に立っている由比ヶ浜さん。バッチリ見られていたらしい。戸塚君が比企谷君の肩を離れてしまう。

 

「しー。起きちゃうから」

 

 適当に誤魔化した。が、時既に遅しのようで比企谷君が「んっ」と伸びをして起きてしまった。

 

「おはよ」

 

「うぉ! びっくしりたぁ……」

 

 声をかけた僕に比企谷君の背中がビクッとした跳び跳ねる。

 

「それちよちよに失礼だし……」

 

 なぜか由比ヶ浜さんが不機嫌になった。

 ちょっと騒がしくしすぎたかなーと戸塚君を見ると、むーっと小さく声を出すと軽く目を擦った。

 

「寝ちゃってた……」

 

 かわいい。かわいい男の娘って起き方もかわいいんだなぁ。

 

「……もっと寝てていいぞ。なんなら肩貸す」

 

「い、いいよっ! 八幡こそ寝てていいんだよ?」

 

 百合百合してるねー。いや? 薔薇かな?

 まあどっちでもいいか。目の前でイチャイチャしてて最高だな。だが男だ。

 

「で、お前らはなんでいんの?」

 

 目を細め、嬉しそうにしている僕を咎めるように比企谷君が嫌そうな声をした。

 僕はとくに理由があるわけでもないので、由比ヶ浜さんに視線を送る。

 

「それがね、姫菜が──」

 

 海老名さんと戸部君の会話がうまく弾んでいない話だった。まあ僕にはあんまり関係ないので奥を見る。すると、戸塚君と目があった。どうかしたの? といわんばかりに小首を傾げている。あまり喋ったことがないので気まずい。

 気まずくて目を逸らした窓の先には──

 

「あっ! 富士山!」

 

「あ、あたしも見る!」

 

 僕と由比ヶ浜さんが通路側から身を乗り出して外の景色を見る。三人分の陽だまりに四人はちょっと入れないが、かの富士山の前とあってはそんなことどうでもよかった。

 

「あ、あのなぁお前ら」

 

「ふぁぁ……すごい……」

 

 比企谷君の言葉もよく聞こえない。とにかく見たことない圧巻の景色を前に、周りの状況が頭に入って来なかった。やっぱ迫力あるなぁ……。

 

「ち、ちよちよ? そろそろ、よくない?」

 

 富士山が見えなくなっても窓の外を名残惜しく眺める僕の腕を、由比ヶ浜さんが小さく引っ張った。

 見るとその腕は由比ヶ浜さんの腕と組まれている。

 もう片方の腕は比企谷君の背中にしっかりと添えられていた。

 

「ご、ごめん! そろそろ戻る!」

 

 慌ててどちらもひっぺがし、席を立つ。この場から離れるように、由比ヶ浜さんとスタスタと歩きだした。

 

「ちよちよ、やっぱ子どもっぽいね」

 

 由比ヶ浜さんがそう笑いかけてくる。否定する余裕もなく、顔を背けた。今は心臓が暴れてて忙しい。

 

 果たして、男の子と女の子どちらに僕はドキドキしたのだろう。

 

 

 × × ×

 

 

 新幹線を降りると京都駅だ。少しの肌寒さを感じながら、今度はバスに乗り込む。これから向かうのは清水寺だ。

 初めて見る京の景色に、少しテンションが上がっていた。要はどこか浮かれている。

 

 バスが止まり、外に出て仁王門をバックにクラスで集合写真を撮る。

 

「ちよちよ、こっちこっち!」

 

 どうやら誰かの影に隠れる必要はなさそうだ。由比ヶ浜さんに圧倒的感謝。そこ被ってるよーって言ってくるカメラのおじさん怖いんだよなぁ……入学式とか本当に厄介。ボッチの敵だ。

 

 写真も無事撮り終わり、清水寺の入り口にてそんな益体もないことを考える。入場口はごった返していて、しばらく進みそうにない。

 

「ヒッキー」

 

「どうした、おとなしく並んどけよ。抜かされちゃうぞ。人生そういうもんだぞ」

 

 由比ヶ浜さんが比企谷君に声をかける。……確か胎内めぐりに行くんだったか。暗い中でお堂を巡るんだっけ? 由比ヶ浜さんと比企谷君のラブコメイベントだ。新幹線ではイベント取っちゃったし大人しくしていようかな……。と思っていたのに、由比ヶ浜さんは僕にも声をかけてくれた。

 

 言われるがままについていき、やや小さめのお堂へ。

 そこには僕ら以外に葉山君、戸部君、三浦さん、海老名さん。

 

「八幡こっちー」

 

「お、おう」

 

 そしてなぜか戸塚君もいた。

 男子は同じ班なこともあり、他の人は違和感をもっていないようだ。

 

 呼び込んでいたおじさんがペラペラと説明を始める。ぼーっと聞いていたら、葉山と三浦さんが早速暗闇の中に入っていった。あまり間隔を開けず、海老名さんと戸部君が続く。

 

「じゃ、じゃあ戸塚君、いこっか」

 

「うん!」

 

 由比ヶ浜さんの邪魔をしてはいけないと思い、戸塚君に声をかけた。急だったけど元気よく返事を返してくれてよかった。……比企谷君が残念そうな顔をしている。こっちの方がよかったのか。贅沢な。

 

「足元、暗いから気を付けてね」

 

「う、うん」

 

 中に入ってすぐ、戸塚君がそう声をかけてくれる。

 少し進むと外から僅かに差し込んだ光は見えなくなり、黒洞々たる闇が訪れる。……暗い。てか怖い。

 

「八千代さんはこういうとこ苦手?」

 

「うん……暗いのとか、怖いのとか、ダメかも」

 

 そういう戸塚君の声は、少し弾んでいる。そういえば怖いの得意って話があったな……。原作のお化け屋敷で……。え、それ明日じゃん。ずる休みって修学旅行中もできます?

 

「僕、こういうとこ平気だから頼ってね」

 

 戸塚君が自信満々にそう言う。一気に頼もしく思えた。男の子、なんだよなやっぱり。同じ一人称を使ってるのに、どこか自分の方が弱々しく見える。

 そのまま進むと、ライトアップされた石が見えてくる。確か、石を回しながらお願い事をするんだったか。

 ごりごりごり、と石を二人で回す。どちらも言葉はない。真剣に願っている。

 

 願わくば、彼ら彼女らに──

 

 終わると、互いに一息ついた。

 

「なにお願いしたか聞いてもいい?」

 

 戸塚君がいたずらっぽく聞いてくる。下からの光もあって小悪魔のようだった。

 

「うーん。……秘密で」

 

 言わないことにした。言ったら願いが霧散してしまうような気がしたから。戸塚君も本気で聞いてくるつもりはないようで「そっか」と一言だけ発すると、すぐそこに見える出口に歩きだす。

 

「あのね」

 

 トテトテと先にいった戸塚君が振り向きながら言う。

 

「八幡のこと、よろしくね」

 

 どういう意図か聞く間もなく、出口へと駆けていった。

 …………あの、怖いから置いてかないで。

 

 

 × × ×

 

 

 拝観し終えた清水寺を後にする。

 おみくじ? 恋占いの石? 霊水? なにそれ知らない。おみくじで一喜一憂する平塚先生とか全然見てない。恋占いの石を余裕でクリアする平塚先生も全然見てないし、柄杓の間接キスを気にする比企谷君と由比ヶ浜さんの桃色空間を見てハンカチ噛みながら悔しがる平塚先生も全然見てない。君たち、名誉毀損だぞ!

 

 南禅寺も巡り終えると、最後は銀閣寺だ。

 銀閣寺までは哲学の道を通る。

 哲学の道はもともと文人の道という名だったが、その後京都大学の哲学者が好んで通るようになり、名前が変更された。哲学者たちは、この道を歩きながら物思いに耽ったという。

 

 途中で『よーじや』が見えた。あぶらとり紙で有名な店だ。原作で小町ちゃんが買ってくるように頼んでたアレ。

 

「あー、そういやおつかいあったな」

 

 比企谷君がクラスの列から抜け、フラフラと小道を抜け店に入っていく。ステルスヒッキーのせいか誰も気付いていない。大丈夫? このままはぐれない?

 

「ちょっと、比企谷君」

 

 追うように店に入り、声をかける。

 

「うぉっ! ……なんだ八千代か。どうした」

 

 比企谷君はビクッとしてこちらを見る。心配して追っかけたのにこれだ。由比ヶ浜さんも新幹線で怒るはずだな。

 

「いや急にこんなとこ来ちゃダメだって。はぐれちゃうよ?」

 

「いいんだよ。俺はもともと集団から逸れてるからな」

 

 堂々と言うことじゃない気がするけど、ここまで自信タップリだとなんかかっこよく見えてくるから恐ろしい。やっぱ比企谷君はこうじゃなくっちゃ。

 とはいいつつも、比企谷君はあぶらとり紙を二人分買う。とくに迷う余地もない。

 

「それ、おみやげ?」

 

「妹とかーちゃんが買ってこいってな。全く……最近は通販とかあんだろ。めんどくせぇ……」

 

 そういいつつも律儀に買っている辺り、らしいなぁと思う僕だった。

 

「お前はなんか買わないのか」

 

 うーん。商品に用事があって来たわけじゃないしな。でもまぁ、何かの縁か。

 適当に見繕い、買うものを決める。小遣いがあるとはいえ、あんまり高いのはなぁ。よし、決めた。

 

 船を模したポーチを手に取る。抹茶色だ。実に京都っぽい。正式名称を京ぽーちというらしい。

 

「……かぶれすぎかな」

 

 ちょっと修学旅行に影響されすぎだろうか。僕の感性の幼稚さが全面に出ている気もする。少し恥ずかしくなって比企谷君に聞いてみた。

 

「ま、いーんじゃねーの?」

 

 思うところはあるものの、否定しきれないといった様子だった。過去に似たような経験があるのかも。適当にカマをかけてみようか。

 

「……比企谷君。小学生のころ、ドラゴンくっついた剣のキーホルダーとか買ってたでしょ」

 

「な、なぜそれを……。だが甘いな。俺は中学生になっても買ってた」

 

「やっぱりね」

 

 僕は得意顔になる。男の子ってアレ好きだよね。

 

「……引かれると思ったけどな」

 

 比企谷君は意外そうに僕を見る。

 

「…………合計3つ。今までに買ってるから」

 

 人のこと言えないんですよ。

 いや本当に男の子はアレ好きなのだ。僕含めて。

 なんか買っちゃうんだよね、アレ。赤とか青とか色々あってかっこいいし。ついね。

 

 比企谷君と僕は目を合わせてクスクス笑う。

 こいつバカだなーって多分お互い思ってる。そんな距離感が男としてのプライドをちょっとだけ取り戻せた気がして、すごく心地よかった。まあきっかけがアレなんですけどね。

 

 店を出ると、クラスの人はとっくにいなかった。置いてけぼりだ。

 

「だから言ったのに……」

 

「……悪かったな。でも目的地はわかってるから合流はできるだろ」

 

 目指すは銀閣寺。哲学の道をまた歩く。比企谷君と一緒なこともあって、考え事もすることなくポケーっとしながら道を歩く。

 すると、石碑が目に入った。

 

『人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり』

 

 と記されている。

 

「西田幾多郎か」

 

 比企谷君が感慨深く呟く。知らない人だなぁ。これの意味もよくわからない。

 

「へー知ってるんだ。どういう意味?」

 

「ちょっと調べてただけだ。意味は……自分の道を貫けとかそんなとこだろ、たぶん」

 

 いわれてみればそんな気もする。要はゴーイングマイウェイってところか。つまりこれは僕よりも──

 

「比企谷君にピッタリだね!」

 

「…………どうだかな」

 

 照れくさそうに下を向く比企谷君。肯定してこそいないが、僕はそのことをよく知っている。はずだ。

 

「……おい、そろそろ行かないと本当に置いてかれるぞ」

 

「うん!」

 

 

 × × ×

 

 

 部屋だ。女子部屋だ。キングクリムゾンだ。

 あと知らない天井も追加で。

 夕食を済ませたあとすぐ布団に横になり、今に至る。

 実はこの時間まで寝ていた──わけでもなく狸寝入りだった。

 なぜかというと。

 

「おろ? チヨチヨ今起きたの? もう大浴場閉まっちゃったよ?」

 

 そう、お風呂が閉まるまで待ってたのだ。空いてたら嫌でも入らなきゃいけなくなる。

 

「そ、それは残念だなー。部屋のシャワー入るねー」

 

 下手な芝居をしつつ、シャワーへと。

 シャワーシーンは精神衛生上カット。すぐに記憶から吹っ飛ばした。

 ドライヤーをかけ、しっかりスキンケアもして部屋の輪に混ざる。混ざりたくはないけど、仕方ない。

 

「でさーそんとき隼人がさー」

 

 たわいもない話だ。ところで部屋着の女子ってまた違った魅力がありますよね。頑張って見ないようにするのも大変です。

 

「ね、ちよちよも来たし、コイバナしない!?」

 

 由比ヶ浜さんが唐突に切り出す。……海老名さんの本心を探ってるんだろうなぁ。

 一応、今日戸部君は奮戦していたわけで。その効果が少しでも出ていないのか気になったのだろう。

 ところでこれ巻き込まれるやつじゃないですか?

 

「あーしパス」

 

 三浦さんは即降り。葉山君が好きなのは、まぁ確かに言わなくてもわかるか。

 

「あはは……。じゃあ、ちよちよは?」

 

 待ってくれ。そこで僕かよ。確かにすぐ海老名さんに矛先を向けたら警戒されると思うけどさ……。

 どう答えたもんかなぁ……。

 比企谷君──質問者と修羅場になるから却下。他の女子みたいに葉山君とか──三浦さんと修羅場になるから却下。え、詰みじゃない? これ詰んでない?

 

「い、いないかなぁ……」

 

「わかる。わかるよーチヨチヨ。自分より他人の恋路を眺めてたいんだよね! つまりはやはちだよね! 二人の距離が少しづつ縮まるのを間近で……ぶはぁ」

 

 血、出まくってますよ。三浦さんがしっかり拭き取ってあげている。僕の布団とかに飛んでないだろうな……。

 それにしてもうまーく誤魔化されたな。

 

「そ、そうなんだ……」

 

「で、結衣は?」

 

 三浦さんの鋭い指摘が飛ぶ。言い出しっぺも話せということだろう。

 

「い、いやあたしは……あはは」

 

 これではコイバナも何もあったもんじゃないな。全員棄権とはねぇ。

 

「えー? いうてみ? やっぱヒキオっしょ」

 

「い、いやヒッキーは関係ないし!」

 

 三浦さんが楽しそうに由比ヶ浜さんをいじり倒す。海老名さんも結構ノリノリだ。……居づらいな。

 

「ちょっと……風に当たってくるね」

 

 そういって部屋から逃げた。……僕、逃げてばっかじゃね?

 ロビーに降りて、適当に時間を潰す。

 いつ戻ったもんかなぁ……。

 そう思っていると、微妙な距離を保ちながらロビーに入ってきた男女一組が目に入った。

 

「……送ってくれて、ありがとう」

 

「……おう」

 

 そういや平塚先生とラーメン食べに行ってたのって一日目の夜だったな。……食べたかったなぁラーメン。

 羨ましそうな目で見ていたのがよくなかったのか、雪ノ下と比企谷君がこちらに気付いた。

 

「……あ、えと、八千代さん……そのこんばんは」

 

「こんばんは」

 

 雪ノ下さんがあたふたしてる。珍しい姿だ。二人でいるところを見られて驚いているらしい。これ、もしかして修羅場だと思ってる?

 やましいとこなんか無いんだから堂々としていればいいのに……。

 一方比企谷君は落ち着いている。

 

「おう、八千代か。平塚先生に呼ばれてちょっとな」

 

「大丈夫。連れてかれるとこ見てたから」

 

 嘘だけど。

 でもこれで修羅場は回避したぞ! よかった~。

 

「あら、あなた。いつから八千代さんを呼び捨てるほど偉くなったのかしら?」

 

 ──空気が凍りつく。

 い、いや、やましいところは無いんだから堂々としていれば……ほら堂々と……。

 

「えといや、比企谷君は、そういうのじゃなくて、あの、ほら、ね?」

 

 ダメみたいですね。発言しない方がマシだったかも……。

 

「はぁ……まあいいわ。それで、八千代さんの依頼の方はどうなの?」

 

 僕の酷い弁護でも、一応は察してくれたらしい。よかった……のか?

 

「う、うーん。まあうまくやれてるとは思うけど……。部屋とかは居づらい、かも」

 

 こればかりは付け焼き刃でどうにかなるものじゃない。女子と一緒の部屋で寝たことなんてないし。正直、大変だ。

 

「そう……。ごめんなさいね、力になれなくて」

 

「ううん。これは自分の問題だから……」

 

「何か力になれることがあったら言ってちょうだいね。……じゃあ二人とも、おやすみなさい」

 

 そういって雪ノ下さんは部屋に戻った。そう言ってくれてありがたい限りだけど、これ以上頼るわけにもな。

 

「俺も戻るわ」

 

 比企谷君も部屋に戻ろうとする。悪いとは思いつつ呼び止めた。

 

「あ、ちょっと待って」

 

「え、なに?」

 

「おやすみ比企谷君」

 

「……おう、おやすみ」

 

 今度こそ部屋に戻ろうとする比企谷君。

 

「あ、あと」

 

「え、なに? まだ何かあんの?」

 

 ごめんね、何度も引き留めて。でも食べたくなっちゃったから。あの男性が大好きな食べ物。

 

「今度、ラーメン食べ行こっか」

 

「それ平塚先生に言えよ……」

 

 今度の今度こそ、比企谷君は部屋に戻っていった。

 そろそろ消灯時間も近い。

 僕も部屋に戻ろう。……女子部屋に。

 おやすみ、と雪ノ下さんに言えなかった分も含めて誰もいない廊下で呟く。

 

 こうして、修学旅行一日目は無事に終わった。

 …………女子のいる部屋で寝れれば、だけど。




俺ガイルみたいなパロネタ入れたいんですけど、脳みその回りかた次第で多かったり少なかったりします。

あと誤字脱字報告ありがとうございます。
隅々まで読んでいただけて嬉しいです。
まとめて手直しする予定なので修正はちょっとだけお待ち下さい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8.水心のあるその池に魚は住んでいない。

修学旅行二日目です。
雲行きが怪しくなってきました!
不穏な空気を書いてるのが一番楽しいです!

あまりにも遅い注意書きなのですが、この作品の主人公はクソザコです。弱いです。
器用に立ち回って完璧に問題解決! とは程遠いです。ご了承ください。


 満足度の高い一日を終えて迎えた、修学旅行二日目の朝は──

 

「眠い……眠すぎる……」

 

 完全に寝不足だった。

 まさか部屋に帰ってすぐ枕投げが始まるとは……。なんだかんだ楽しくなってしまって、ノゴロー君ばりのジャイロボールで三浦さんを泣かせそうになったところをギリギリ踏みとどまった。

 

 体を動かしたらスッキリ眠れるかと思って参戦していたのだが、それは甘い考えだったと言わざるをえない。目を閉じたら寝息が聞こえ、耳を塞いだら甘い匂いが鼻孔をくすぐり、結局ろくに寝られたものではなかった。ただの疲れ損だ。

 

 朝食を食べて宿を出る。

 今日はグループ行動。といっても昨日もほぼグループで行動していたようなものなので、特に代わり映えしないだろう。

 

 宿の前に男女で集合し終えると、みんなで出発。

 ギュウギュウすし詰め満員御礼のバスに乗り込み、目指すは太秦エリアだ。

 

 本日のツアーはこう。まず、太秦エリアの太秦映画村で遊ぶ。次に洛西エリアにて仁和寺、龍安寺、金閣寺を順に巡って終わり。あれ、お昼はどこで食べるんだっけ? 忘れた。

 

 今日、僕が一番楽しみにしているのは龍安寺だ。石庭というのがまたなんというか『わかっている自分かっこいい』の気分にしてくれそう。実際には趣旨や歴史なんものはあまり理解できないんだろうけど。まあこういうのは気分でいいんだよ気分で。

 で、逆に一番行きたくないのが最初の目的地、太秦映画村である。

 

 うだうだ悩んでいるうちにその映画村に到着してしまった。

 まず見えるのは時代劇のオープンセット。青空の下の忍者教室。新撰組グッズらしきものを売っているショップ。ここまでならまだ『らしさ』もあるのだが……。

 フシュー。

 池からヌルヌル出てきた恐竜の模型が、気の抜けた音と共にスモークを散らしてズルズル池に沈みなおす。こいつだけ景観ぶち壊してない? 

 

 微妙な空気になった。

 

「じゃ、じゃあ、そろそろあれ行こっか」

 

 由比ヶ浜さんが指差した先にあるのはそう──史上最恐のお化け屋敷。

 ……だから嫌だったんだ、ここに来るの。

 正直辞退してしまいたい。行きたくない行きたくない行きたくない行きたくない。でもみんな行く流れだし、原作でもこのシーンあったから曲げるわけにも……。

 

 またも悩んでいるうちに、目的地へ辿り着く。

 外観がもう既に怖い。オンボロ屋敷といった見た目で、入り口には両サイドに提灯がぶら下がっている。昼間の真っ白い提灯は、それはそれで不気味だ。

 帰りたい。

 だが結局、何も言いだせず列に並んでしまった。

 

「ねえはやと~、こわーい」

 

 三浦さんがわざとらしく葉山君に寄りかかり、腕を絡める。その変わり身の方がよっぽど怖いと思います。

 そのまま三浦さんは葉山君を肘でホールドしたまま、戸部君と海老名さんを引き連れて先へ行ってしまった。

 

「じゃあ、行こっか」

 

 由比ヶ浜さんに先導されて中へ。入ってすぐにアトラクションの説明が流れる。お化けは役者さんだから殴ったりしないでね! とのことだ。このへんの施設は世界観をぶち壊すの得意分野らしい。そのおかげか、うまい具合に体も弛緩し、心も少し軽くなる。

 

 が、一歩踏み出したところで全身がまたこわばった。

 

 おどろおどろしい空気。江戸時代のような和風の屋敷といった風景で、中は静まり返っている。これならヒュードロドロ、みたいな安っぽいBGMでも流れていた方がよっぽどマシだ。

 

「隼人クーン! これマジ怖いっしょ! 今からでも引き返さん?」

 

 戸部君のうるさ……ううん、さわがし……。いや、元気な声が響いてくる。少し緊張がほどけて体から力が抜ける。我ながら忙しい体だ。戸部君、なんかよくわんないけどありがとう。

 

 そのまま進んでいると。

 カラカラ……トンッ! 

 襖の閉まる音がする。

 

「ヒッ!」

 

 慌てて前の人の袖を掴んだ。

 

「お、おい」

 

 誰かが何か言ってる気もするけどそれどころじゃない。聞こえてない聞こえない聞こえてない。

 聴覚から意識をそらすと視覚に神経が集中する。目を閉じれば……真っ暗だ。これはこれで怖い。目を開けた。いやもうほんとに頼むから脅かさないでください……。もう、おうち帰りたい……。

 

 いやまて、僕には原作知識があるじゃないか! 

 つまり知っているんだ。知ってさえいれば心構えができる。僕はこの後お化けが出てくることを知っている! 叫び声を上げながら横から「ぶるぁ!」そうこんな感じで……え? 

 

 お化け(役の人)とバッチリ目と目があう。

 

「きゅぅ」

 

 ……意識はそこで途切れた。

 

 

 × × ×

 

 

 目が覚める。と、同時にフワッとした柑橘系の匂いが嗅覚を刺激する。少し遅れて風でなびかれた色素の薄い髪が頬をくすぐった。

 

「ちよちよ、起きた?」

 

 あとわずか数センチのところには由比ヶ浜さんの横顔。バッ! っと飛び起き、辺りを見回す。こちらに気付いた戸塚君がパァっと微笑みかけてくれた。かわいい。じゃなくて、今の状況は? 

 

「あ、みんなは飲み物買ってきたりお土産見たりしてるよ。ちょっと一回休憩してから次行こ~って話したから」

 

 みんなに気を使わせたことを恥じる。まさかお化け屋敷で気絶するなんて……。どうやって救出されたかは僕の名誉のために聞かないことにした。ちなみに絶賛名誉返上中なのでもう残機は少なそうだ。

 

「そろそろ行こうか」

 

 いつの間にか近くにいた葉山君が散り散りになったみんなを集める。あたかも時間が来たから、といったニュアンスの言葉に、気配り屋としての格を見せつけられた気分だった。

 

 タクシーに乗り込み、いざ洛西エリアへ。

 

 最初は仁和寺だが、特筆すべきことは何もなかった。仁和寺といえば天然法師のぶらり途中下山の旅で有名だ。山上の本殿に行かず麓で引き返したやつ。というかそれしか知らない。

 五重塔でも有名ではあるけれど、正直建築物としての素晴らしさがどうもピンとこない。決してネガティブな意味でなく、関東の民族からしてみれば京の建物はどれもこれも目新しく新鮮なため一つ一つの価値がわかりづらいのだ。高級スーパーのトマトが一ヶ500円するとして、それが高いのか安いのかよくわからないといった具合だ。

 

 そんなこんなでお次は龍安寺だ。僕的には今日の最大の目的地でもある。グループで入ると、少し早足で境内の中央へと向かう。

 では早速石庭を拝見。

 

「あら、奇遇ね」

 

 雪ノ下さん率いるお嬢様クラスがいた。

 同じグループと思わしき女子数名の視線が僕に向けられる。この注目される瞬間は何度あっても慣れるもんじゃない。ゾワゾワと背中を虫が這うような感覚。

 

「こんにちは」

 

 怖いので適当に流しつつ、長い通路を右へ左へ歩き回り石庭を眺める。

 この石庭は、見る場所によって姿を変えるそうだ。遥か昔の騙し絵のようなものだが、こうして目の前に現存しているというのだから驚きだ。

 

「……う~ん」

 

 わからん。やっぱ何もわからん。

 僕には美的センスの問われるモノは難しいということだけがわかった。

 他の人はどう見えるのか、と雪ノ下さんに話を聞こうと思ったが、由比ヶ浜さんや比企谷君と話し込んでいる。……邪魔できないな。

 

 仕方ない。他を見て回ろう。

 龍安寺には石庭以外にもさまざまな名所がある。

 なぜこんなに詳しいのかって? 実は中学生の頃、龍安寺だけ必死に調べたことがある。厨二病をこじらせていたので、龍安寺にはドラゴンのパワーが巡っていてそれを手にしたものは摩訶不思議なアドベンチャーに招待されるのだと本当に信じていた。……死にたい。

 

 境内をブラリと適当に散策する。

 ほへー、とかおー、とか特に意味もない感嘆符を口からこぼしつつグルっと一週ほど回った。

 そうして30分ほど経過した気もするし、してない気もする。ただ他のみんなの姿が見えなくなっていた。すれ違いになった? もう一周するか。

 

 何となく気に入った場所に再び訪れる。

 

 境内の穴場とも言われる、庭園の椿だ。

 何を隠そうこの椿は正式な名前を『侘助椿』という。もう一度言うが『侘助椿』だ。

 厨二病が完治していない僕は、椿をしっかりと目に捉え頭を下げる。

 

 一度見れば倍、二度見ればそのまた倍。

 やがて重みに耐えかねた僕は地に這いずり詫びるように頭を差し出す。

 故に──

 

「あら、まだいたのね。……それにしても八千代さんがこんなに信心深いとは知らなかったわ」

 

 …………恥ずかしい。頭を下げきる直前で雪ノ下さんとまた会った。今は一人のようだ。

 一瞬冷やかしかとも思ったが、どうやら本気で感心しているようで首をコクコクと縦に振っている。それがまた恥ずかしさを倍増させた。

 それにしても、本当に地べた這いつくばる前でよかった……。

 

「いや……信仰してはないんだけど、こう何となく、こうしろって言われた気がして」

 

 もちろん自分の魂に。言ってることも考えてることも全部恥ずかしいので、頭をかいて誤魔化す。

 

「信心がないのに真剣に祈れるのなら、むしろそれを誇るべきね。それ、椿でしょう?」

 

 雪ノ下さんも知っているのか、質問というより確認といった声のトーンだ。

 雪ノ下さんに知識量で勝っているはずもない。知ったかぶりで返事をするのがためらわれたので、コクリと首を控えめに下げる。

 

「椿はね、花の色によって花言葉が変わるのよ。この色は……きっとあなたにぴったりね」

 

 雪ノ下さんは、椿の木を見てそう呟く。

 椿の開花は12月から。今の時期はそれよりも少し早いため、まだ花は咲いていない。

 ならばせめてつぼみを見れないか……と思ったところで雪ノ下さんが再び口を開く。自然と顔もそちらに向いてしまった。

 

「ああそれと、あなたの班。もうここを出るそうよ」

 

「え、ほんと!? 置いてかれちゃう! 雪ノ下さん、それじゃ!」

 

 急いで雪ノ下さんに別れを告げ、龍安寺を後にする。どうやら門の前で待ってくれていたようで、速やかに合流できた。

 次なる目的地、金閣寺へ向かう。

 

 あの椿は何色だったのだろう。

 到着までずっと考えていたが、結局わからなかった。

 

 

 × × ×

 

 

 金閣寺。金きら金で、さりげなさなど微塵も感じさせないそのド派手な姿は、大半の修学旅行生なら好ましく感じることだろう。写真を撮ったら間違えなく映えるし、目立つ。人気度ナンバーワンといっても過言ではない、光り輝く建造物だ。

 

 しかし、光とは影をより濃く浮かび上がらせるものである。二者は対の存在であり、わかりあえる道理などない。

 この場において影とはつまり──

 

「「はぁ……」」

 

 僕と比企谷君であった。

 

「てかマジで人多すぎ。人混みってかゴミだなこれ。……隕石とか落ちてきて全員死なねーかな」

 

「それあたしらも死ぬし!? ヒッキーなんかいつもより……その……酷いね、あはは」

 

 酷いのは目の腐り方か、態度か。うんどっちもだな。由比ヶ浜さんもこう言ってはいるが、人の多さに疲弊しきっている。

 

「比企谷君に同意。むしろはやく自分が死にたいまであるよね」

 

「いや、それはない」

 

 おいすぐ背中から刺してくるぞこいつ。ジロッと視線で訴えるが比企谷君にはどこ吹く風。むしろドヤ顔で見てきてちょっとウザイ。……色々とからかってきた分を根に持ってるのかな。ごめんね。てへ。

 

「ヒッキー、ちよちよと仲いいね」

 

 由比ヶ浜さんがはにかむ。これ台詞だけ聞くとヤンデレぽさがあって非常に心臓に悪い。

 仲いいかぁ。仲良くなれてるかなぁ。

 

「そんなんじゃ、ねーよ」

 

 比企谷君がプイッとそっぽを向く。もしかして、照れてたりする? 表情を見たかったが、なかなか顔を向けてくれない。回り込んで見てやろうかと考え、また仕返しされるなと思い諦めた。

 

「ま、何はともあれ恩は返さなきゃね」

 

 独り言を小声で呟く。ただ仲良くなって終わりでは意味がない。それでは恩知らずになってしまう。彼から貰ったコーヒーの恩は、いずれ。

 二人には聞こえていないようだが、会話を続ける者がいなくなったせいで、妙な沈黙が生まれた。

 

「あのさ。戸部っち、頑張ってるよね」

 

 話を変えるように由比ヶ浜さんがそう呟く。

 戸部君は、金閣寺を背景に海老名さんと二人で写真を撮っている。三浦さんと葉山君は既に撮り終えているようだ。これが終われば、また四人で見物するのだろう。

 

「ま、あいつなりに頑張ってんじゃねえの?」

 

 成果が出るかは別にして、という含みを感じるのは僕の邪推だろうか。結末を知っていることからくる先入観のせいだろうか。 

 

「手伝いにいこっか」

 

「……おう」

 

 飲み物を買っていた戸塚君が戻ってきてから、四人で彼らのもとへ向かう。

 

「君は撮らなくていいのかい?」

 

「昨日俺にカメラ役やらせたクセにいけしゃあしゃあと……」

 

 合流して早々、葉山君が比企谷君に記念撮影を勧めてくる。これが、彼の波風を立てない妨害行為なのだろうかと二日目でやっと実感する。

 

 二人がそうしてじゃれていると、また海老名さんが鼻血を吹き出す。三浦の姉さん、いつも通り後始末お願いします。

 が、いつまで経っても三浦さんは鼻血を拭きに来ない。

 

 少し離れたところでこちらを見ている人影に気付いた。人差し指を立て、クイクイと手前に動かす。

 ……呼ばれているのだろうか。

 そのまま、雑踏に紛れる。

 

 よくわからないまま、人波かき分けついていった。

 少し開けたところに出る。僕を呼んだ張本人──三浦さんが池の前の柵に腰かけていた。顎を動かし、近くに寄れというジェスチャーをする。その場所に近づき、こちらも柵に座った。

 

「あんたってさ、結局何がしたいの?」

 

 呼び出された意味も、突然聞いてきた理由も、言葉の意味でさえも、そのすべてがわからなかった。

 

「えと、それは……どういう?」

 

 戸惑いながらも聞き返す。三浦さんが怒るだろうと思って身構えたが、一向に言葉は飛んでこない。

 ちらりと顔色を伺うと、むしろ困惑の色が強いように見える。

 

「あーし、最初あんたのこと、いつもみたいに隼人目当ての女だと思ってたんだけど」

 

 いつもってなんだ。葉山君目当てで近づいてくるやつがそんなにいるのか。やっぱりモテない男の敵じゃないか。

 

「でもなんか隼人に興味なさそうだし。結衣やヒキオと仲いいから海老名のことかと思ったら、そっちも全然関わってこないから。あんた何がしたいのかって」

 

 三浦さんは自分の考えを整理するかのように早口で喋る。そして、躊躇なく僕と視線をぶつけた。

 

 彼女は本当によく見ている。海老名さんのことだけでなく、僕のことも。

 彼女になら、と思ってしまった自分がいることに気付いて、そんな自分に幻滅した。

 そんなものは、醜くて汚い幻想だ。

 

「……こっちはこっちの依頼だから。海老名さんは関係ないよ」

 

 案外その言葉は、喉の奥からスルスルと出てきた。そうだ、僕はあくまで傍観者だ。

 三浦さんは納得してくれたのか、それとも信じていないのか、興味を無くしたように「ふーん」と呟いた。

 

「なんかあんたみてると、ちょっと前の結衣を思い出す」

 

 それがどのくらい前の話なのか、僕にはわからなかった。だから、意味を聞こうと思ったのに、うまく言葉が出てこない。

 一方で三浦さんは返事を求めてはいないらしく、ブランコから飛び降りるときのように勢いよく柵からジャンプすると、スタスタ歩きだした。

 

「そんだけ。じゃ、また」

 

 立ち止まることも、振り返ることもせずそう言って三浦さんは去っていく。

 

 緊張して喉が乾いた。池の柵からゆっくりと降りて、一番近い自販機で飲み物を買う。

 買ったはいいが、ペットボトルの蓋が開かない。

 数分ほど格闘し、やっとこさ蓋を開ける。

 

 何となく口をつける気になれず、僕は、少し離れた金閣寺を遠目に眺めた。二者は対の存在であり、わかりあえる道理などない。

 

 だから、せっかく開いたその蓋を、もう一度閉めた。




彼が素直になれる日は来るのでしょうか。

評価、感想お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9.そうして彼もしくは彼女は檜舞台を踏む。

修学旅行三日目、前編です。
修学旅行編は次が最終話です。


 昨日は帰るなり泥のように眠って、シャワーを浴びて、また寝た。

 で、起きたら今日になってた。支離滅裂な気もするが、これが昨日宿に帰ってからのすべてだ。

 二日目ともなると、慣れからか今度はすんなりと寝付けた。

 

 ただし寝起きは最悪だった。まだ夢見心地のまま体を起こすと、脳がグラグラと往生際悪く揺れる。

 

「すぅ……むにゃ……」

 

 少しづつ意識が明瞭になっていくと同時に、誰かの寝息が耳に入る。どうやらまだ寝ている人もいるようだ。このまま聞いているのはなんだか忍びない。

 

 起こさないようにそっと部屋を出た。

 まだ日は登っていないようで、廊下の時計を見ると時刻は5時の少し前を指していた。

 朝ここを立つと、夜は別の宿に泊まる手筈になっている。そのため今朝は荷造りをする必要があるのだが、何もこんな早く起きることもないだろうに。

 

 どこで時間を潰そうか。

 頭の中に浮かんだのは大浴場であった。思えばこの二日はシャワーで済ませている。身体と違って内面は男なのだから当然ではあるのだが、せっかくなのだから広い浴場で足を伸ばしたいと思うのも、やはりまた当然なのであった。

 

 大浴場へと足を運ぶ。中から物音は聞こえない。

 

「ど、どうも」

 

 暖簾をくぐりオズオズと中へ。動きはブリキのようにぎこちないが、しかして心はライオンのように勇ましい。いや、これは錯覚だった。外見こそ容姿の整った少女であるが中身が伴っていない。まさに案山子だ。

 

 誰もいなかった。好都合だ。

 人が起きてこないうちにお風呂に入ってしまおう。

 

 例によって例のごとく入浴シーンはカット。最大の敵は自分自身の体であることをすっかり忘れていた。

 ただその気苦労よりも、大きな浴場で広々と手足を伸ばして天井を見上げた清々しさが僅かに勝った。

 

 そのよい気持ちのまま、ドライヤーで髪を乾かす。

 ブオオオと機械の風の音が響く。

 

「だーれだ! あっちょっ、落ち着いて落ち着いて」

 突然塞がれた視界にびっくりして両腕を上に突き出す。ドライヤーを落とした。コンセントが抜け音が止まったことで女性の声が聞こえるようになり、何とか落ち着きを取り戻す。

 まだ目の前はほとんど見えない。柔らかい手のひらの感触に顔が暑くなる。無理やりひっぺがそうとするが、断固として離れない。

 

「ズルはダメだよズルは。ちゃんと誰か当ててくれないと」

 

「……海老名さん」

 

「せーいかーい!」

 

 そういうと海老名さんは僕の顔から手を離す。そしてニヒッと笑った。これだけ声を聞かされればさすがにわかる。

 

「海老名さんもお風呂?」

 

「そ、目覚まそうと思ってね。……ねえチヨチヨさ、今日の自由行動どうするの?」

 

 誰と行くのか、という意味だろう。決めていないのだから、答えようもない。

 奉仕部の面々からは、特に誘われていない。……いや、もしかしたら昨日部屋に戻ってから、由比ヶ浜さんに声をかけられたのかも知れない。けれど、昨夜の記憶がほぼないのでわからなかった。仮にそうだとしても、おそらく断っているはずだ。今の僕ならそうする。

 

「今日は、一人でぶらぶらしよっかなって」

 

 正直に答えた。昨日の朝の僕では、考えられなかっただろう。彼らと関わる機会を自分から捨てるなんて。

 

『あんた、何がしたいの?』

 

 三浦さんの一言が、頭にこびりついて離れない。頭にモヤがかかっているみたいだ。昨日考えてもその答えは出そうになかった。

 だから今日は、一人になって考えてみようと決めた。

 

「じゃあさ、私たちと一緒に行かない?」

 

 そう誘われる。彼女も彼女でやはり告白されるのを避けたいのだろう。できる限りの手を打とうしている。

 海老名さんは一瞬暗い目をした、ように見えた。しかしそれは見間違えだったのか、次の瞬間にはいつもの海老名さんに戻っていた。

 

「それで、ボーイズの熱い青春を二人で見届けようよ! 男子達の恋のキューピットになろう!!」

 

「う~んと……えとごめん、それは興味ないかも……。男女で仲良くしてる方がいいというか……」

 

「いやいやー、チヨチヨって、実はもう興味もってるんだよ? ヒキタニ君との仲がいいのも、はやはちを間近でみたいっていう潜在意識からなんだよ!」

 

 嫌だ……そんな潜在意識は嫌だ……。

 それにしても仲がいい来たか。比企谷君と喋ってるところを、海老名さんにあまり見られた覚えがない。どこで判断したんだ。そう思って聞いてみると。

 

「え、だって、おんぶされてたじゃん」

 

 はい? おんぶ? いつ、どこで? なんで?

 混乱している僕に、海老名さんが答えを告げる。

 

「ほら昨日、お化け屋敷から出てきたとき」

 

 ……聞きたくなかった。聞かなきゃよかった。

 恥ずかしくてもうお嫁にもお婿にも行けない。

 何とも言えない心境になった。

 

「うぅ……」

 

 うなだれる僕。それをみて海老名さんは、僕の両肩にポンと手を置く。

 

「気が変わったら、いつでも言ってね」

 

 そう言って僕の背中から離れた。

 気が変わるとは、今日の同伴のことなのか、それとも男子同士の仲を取り持つことなのか。少しだけ考えてしまった。

 

 そのあと、そろそろ湯浴みしようと思ったのかおもむろに上着を脱ぎだそうとする海老名さんを見て、自分の荷物をひったくるように持つと大浴場を後にした。

 

 

 × × ×

 

 

 はてさて、先ほどは男性同士の恋愛について説かれたが、この鴨川には見渡す限り男女のカップルしかいなかった。まるで数学の問題か、はたまた物理学の実験かのように二人組が等間隔で並んでいる。全員爆ぜろシナプス。

 

 なぜ鴨川に来ているのかというと、一人になりたかったからだ。奉仕部や海老名さん達とほぼ会わないであろう場所があまり思い付かず、ここに来た。

 ついでに聖地巡礼の意味もある。京都を舞台とする作品は結構多い上に、体感だがどれも特徴が強くて記憶に残りやすい。

 

 では、聖地巡礼がてら鴨川デルタにて、浮かれたカップルたちにロケット花火での天誅を下そうかと妄想した矢先、同じように恨めしそうな目で川辺を見つめる巨体の学生と目があった。

 

「けぷこんけぷこん! やあやあ、そこにおわすは我が盟友にして盟友の盟友、八千代氏ではないか! やはり我らは京の都と共鳴しているようだ!」

 

 こんな喋り方をする知り合いを、僕は一人しか知らない。

 

「ざ、材木座君……」

 

「然り。我こそは剣豪将軍材木座義輝である!!」

 

 今日はまた一段と気合いが入っている。

 女性の前では素を隠しきれないはずの材木座君であるが、僕の前では設定をあまり崩すことはない。

 

 原因は修学旅行の少し前へと遡る。

 何日前のことかはもう忘れてしまったが、材木座君が部室に自作小説のプロットを持ってきたのだ。

 由比ヶ浜さんは読みきれずにリタイア。雪ノ下さんと比企谷君は隅々まで目を通した上で酷評した。

 となると残されたのは僕。そして僕は。

 

『ま、まあ面白そうじゃない?』

 

 何を血迷ったか、そんなことを口にしたのだった。日和見主義が完全に裏目に出た。

 材木座君は当初見たこともない僕に思いっきり萎縮していたが、それを聞くや否や手のひらをひっくり返し僕を盟友と呼ぶに至ったと言うわけである。

 

 ちなみに比企谷君の盟友としても認定されたらしく、盟友(比企谷君)の盟友(僕)と呼ばれることもある。ええいややこしい。

 

「材木座君はどうしてここに?」

 

「はぽん。我はこれより鞍馬にて天狗と修行致す。生半可な気持ちでは身が入らぬ故、こうして番どもを眺め、憎しみの念を強めに来たというわけだ」

 

 キャラ作りもここまで来れば天晴れ。周りの視線という艱難辛苦に打ち勝つ御膳上等の入れ込みようだ。いけない、僕も釣られてしまっている。クッ……右目と右腕と右脚が疼く……。左脳に重大な欠陥があると見た。

 

「そういうお主は?」

 

「えーっと、まあ似たような理由かな……」

 

 カップルを見に来たというわけでもないのだが、英気を養いに来たという意味では近しい。僕は、自分が何をしたいかを考えるためにここに来た。

 

「やはり貴殿も『選ばれし者』であったか……。ど、どうだ、わわわ我の修行につ、付き合ってみんか」

 

 選ばれし者安売りしすぎだろ。一人で鴨川来ただけだぞ。あと材木座君のお誘いは正直そんなに悪くはないのだが、他を断ってしまっている以上承諾は難しい。

 

「ごめん。今はちょっと、一人になりたいんだ」

 

 使い倒された陳腐な台詞ではあるが、まさに今この通りの心境だった。

 

「で、では仕方あるまい……。何か、お悩みのようだな」

 

 材木座君がそう言ってくれる。優しいな。その優しさを別の人に向ければ、中二病でも恋ができるかもしれない。

 

「んーそうだね、自分を見つめ直す必要がある、というか」

 

 これまた凡庸な台詞だ。自分でいっといてなんだが、こいつは海外旅行から帰ってきたあと『人生が180度変わりました!』とか言いだしそう。浅い人間性に涙が出てくる。

 材木座君は何か真剣に考え込むと、神妙な顔をして口を開いた。

 

「ふむ、では我から一つ助言をしよう。……好機は目の前にぶら下がっておる。それを逃さぬことだな」

 

 ……それ、丸パクりじゃん。

 彼はぶ厚いコートを翻し、高笑いをしながら鴨川上流へと歩きだした。

 人の視線が痛いのでやめてくれませんかね……。

 

 

 × × ×

 

 

 さて、材木座君と別れた僕のその後はというと。

 学業の神でお馴染みの北野天満宮へと足を運んでいた。

 

『あそこには宝物殿があってな……。我とも因縁深い遺物がある。暇なら寄っておいて損はない。何、木を隠すなら森の中だ。見つかることもあるまいよ』

 

 とは別れ際の材木座君の言葉である。

 言われるがままに流されている気もするが、他に行く宛もないので、素直に従ってここに来た。

 

 木を隠すなら森の中、とはまさにその通りらしく、北野天満宮は多くの学生でごった返していた。

 

 受験は控えてはいるが、間近という訳でもない。この大盛況のなかで参拝する気にもなれず、遠目に眺めて何となくご利益に預かった気分だけもらっておく。

 

 とそこに、お参りを終えたらしき人物と目があった。ポニーテールで青みがかった髪の目付きが鋭い女子生徒だ。

 

「げっ確かあんた……」

 

「こんにちは、川崎さん」

 

 挨拶した僕をみると、川崎さんは視線をキョロキョロとさ迷わせた。僕が一人で来ているとは思ってないらしい。

 

「比企谷君ならいないよ?」

 

「は、はぁ!? あ、あいつなんかぜ、全然関係ないから!」

 

 分かりやすすぎる。そういや文化祭の後だもんな。『愛してるぜ川崎』とかどっかの阿呆が大声で叫んだもんだから、意識してしまっているのだろう。サキサキのヒロイン力が高すぎる件について。

 

「……変かな? 一人でいたら」

 

 そう聞くと、川崎さんは冷静さを取り戻したらしく、こほんと一つ咳払いをした。

 

「別にそういうわけじゃないけど……。なんかあんたら、気が合ってそうだったから」

 

 川崎さんからもそう見えてるのか。なんだか気まずい空気になってしまったので、話題を変えよう。

 

「川崎さんは、学業の神様に用事?」

 

「うち、今年弟が受験だから」

 

 ブラコンさんめ。そういや比企谷君も妹のために来てたはずだ。似た者同士ですねこの人たち……。

 何となくほんわかした。

 

「そっか、弟さん受かるといいね」

 

 大志くんが総武高に受かるのは知ってるけど、そんなことを言ったって信じてもらえるわけがない。未来のことだ。

 

 じゃあ、といって踵を返し宝物殿へと向かう。

 川崎さんも軽く手を上げて、見送ってくれた。

 

「あ、そうだ」

 

「え、な、なに?」

 

 唐突に振り向いた僕に、川崎さんが困惑する。

 別にたいしたことでもないのだが、せっかくなので聞いてみよう。

 

「次、どこ行けばいいと思う?」

 

「いやあたしに聞かれても……。自分の行きたいとこ行けば?」

 

 わらしべ長者、失敗。

 でもこれでいい。人の言うままにしていては、わざわざ一人になった意味がない。

 

「わかった。ありがと」

 

 そういって今度こそ川崎さんと別れた。

 ありがとう川崎さん。きっかけにすぎないけど、少し決心がついた。

 

 僕と向き合いにあそこへ行ってみよう。

 

 

 × × ×

 

 

 嵐山は、景色に定評のある観光名所である。

 秋である今は真っ赤な紅葉が山々を煌々と彩っていた。平時であればその光景は圧巻のものであるのだろう。しかし、今の僕にはそれらがすべてセピア色に見えていた。 

 

 道々に食べ物屋が並んでいる。まるで祭りのように京都名物のグルメがあるが、今は素直に食べたいと思えなかった。

 とはいえ人間お腹は空くもので、ぐーと腹の虫が鳴る。もう昼過ぎだ。適当に2,3個食べ物を買うと、無理やり口に放り込む。匂いも味もよくわからない。

 それほどまでに気が重くなっていた。

 

 天龍寺を素通りし、真っ直ぐと道を進む。

 そこには、お目当ての青色のトンネルがあった。

 竹林の道だ。

 竹は葉を風で鳴らし、その細いシルエットから飛び出た木漏れ日が僕の顔を斑模様に染め上げる。

 暖かな日差しとは裏腹に、空気と、僕の心は、底の底まで冷えきっていた。

 

 なぜここに来たのか。

 僕が、どうするべきかを問うためだ。

 

 足元の灯籠を見つめる。まだ夜ではないから、明かりはあまり目立たない。等間隔で設置されたそれは、鴨川のカップル達を想起させた。

 この道はどこまでも続くように見えて、まるで終わりのない迷宮のようだと感じる。僕の心も迷宮に捕らわれてしまったようで、いくら考えても自分のやるべきことがわからなかった。

 

 いつまでそうして立ち尽くしていただろうか。

 考えてもわからないならもう戻ろうと、道を引き返すと──

 

「あれ、ちよちよだ!」

 

「昨日ぶりね、八千代さん」

 

「……よう」

 

 奉仕部の面々がそこにいた。

 女子二人は、微笑みかけてくれる。

 

「……こんにちは」

 

 会いたいとも思っていたし、会いたくないとも思っていた。何か気のきいたことでも言おうかと考えたが、どう接したらいいのかいまさらわからなくなって、適切な言葉が浮かばなかった。

 

「ここ、いい景色ね」

 

 雪ノ下さんは、辺りを眺めてそう語りかけてくる。

 比企谷君も同じ気持ちのようで、どこか優しい面持ちで竹林を見回していた。

 

「うん。雰囲気は好きかな」

 

 寂しげに呟いた。比企谷君だけが僕の表情の陰りに気付いたのか、訝しむような視線を向ける。

 

「一人なのか?」

 

「一人は、悪いこと?」

 

 比企谷君の質問に対し質問で返す。これは意地悪な質問だ。彼が否定できるはずもない問い掛けだ。

 

「悪くねえよ。むしろボッチいいことだぞ。他人と一緒にいても疲れるだけだしな」

 

 比企谷君がそう言うと、雪ノ下さんと由比ヶ浜さんが少し、悲しそうな顔をして下を向く。

 彼は気付いていないようで、更に口を開く。

 

「でも、そういう依頼じゃなかったろ」

 

 それは責めているというより、同情しているような口調であった。彼には僕が、志半ばにして他人と相容れることを諦めたように見えているのだろうか。

 

「依頼は、もう達成されてるよ」

 

 依頼の目的の一つは、修学旅行のストーリーに関わらないようにすることだ。

 今僕は、それを悩んでいた。

 本当に僕は、関わらないままでいいのかと。

 だから、依頼はもうその意味も効力も持たない。

 達成というよりは、破棄に近い。

 

「そんなことは……。あなたはそれで、納得しているの?」

 

 雪ノ下さんが不安げに見つめてくる。これで依頼を終えていいのかと、納得がいっていないのはきっと彼女自身のことだ。

 

「うん、いいの。それより、もう一つの依頼の方が大変なんじゃない?」

 

 そう言って話を逸らした。だが、それはただの論点ずらしなどではなく、彼らにとっては図星のことであった。

 

「……まあな」

 

 比企谷君はそういって嘆息をついた。

 雪ノ下さんや由比ヶ浜さんも似たようにため息をついたり、苦笑いをしている。

 

「でもさ、戸部っちのあれ。ここならよさそうじゃない?」

 

 由比ヶ浜さんが努めて明るく言う。

 

 そう、こことは、戸部君の告白場所だ。海老名さんが、告白される場所でもある。

 それを今三人が決めようとしていた。

 

「……みんな、頑張ってね」

 

 逃げるように、今度こそ道を引き返した。

 後ろ髪を引かれる気持ちをグッと堪える。

 すれ違ったとき、誰かが僕に腕を伸ばしていることに気づいて、足を早めた。

 その腕は、僕に触れることなく戻っていく。

 ほんとに僕は、どうしたいんだろうな。

 

 

 

 × × ×

 

 

 

 宿に戻った僕は、気まずい夕食を終えたあと、部屋に戻る気にもなれず外をブラブラと歩いていた。

 

 すると、知っている影が二つ。葉山君と比企谷君だ。

 気付かれないよう後をつけて、川辺に辿り着く。

 

 ……何をしているんだ、僕は。こそこそつけ回すような真似をして。

 

 そうしているうちに、二人の声が聞こえる距離まで来てしまった。

 

「つまりお前は、変えたくないんだな」

 

「……ああ、そうだ」

 

 今の関係を。

 戸部君の告白によって、その関係が壊れることを、葉山君は恐れていると、そう言った。

 それは彼が、海老名さんと共有した想いだった。

 そして、戸部君の覚悟と海老名さんの臆病さのどちらも選べない彼には、自分の想いを叶える手段はない。

 

「君にだけは、頼りたくなかったんだけどな」

 

 葉山君がそう呟く。

 比企谷君は、いまこの瞬間に、覚悟を決めたのだ。

 両手が塞がった葉山君の代わりに、彼らの関係を保つことを。

 

 僕にはまだ、わからない。

 関わるべきか、関わらざるべきか。

 最初は傍観者に徹するつもりで、でも徹しきれなくて。三日間迷いに迷って、今ここにいる。

 

 修学旅行前に固めた覚悟はいとも簡単に融解して、固め直すのに失敗した。

 どうするべきか、僕にはまだわからない。 

 

「こんばんは。葉山君と悪企み?」

 

 白々しく、そう言って近づいた。

 わからないから、知るために距離を詰めた。

 

「八千代か……」

 

 比企谷君が目の前にいる。

 その声は重たい。彼の意志の強さを象徴しているようだった。

 少し先に目をやると、川辺にいたはずの葉山君は、声が聞こえない程度の距離を保ちながらこの場を離れていた。

 

「なにかあるなら、手伝うよ」

 

 どうしていいかわからないから、その判断を他人に委ねた。自分の意思への全権を易々と手放した。

 

「なんもねぇよ。……何でよく知らないことをそう簡単に手伝うなんて言えんだ」

 

 比企谷君は、ささくれ立っている。

 葉山君との話が、彼の心を揺さぶっていた証拠だった。

 

「……比企谷君との仲だからね」

 

 そう、嘘をつく。

 戸塚君も、由比ヶ浜さんも、三浦さんも、海老名さんも、材木座君も、川崎さんも。みんな揃って似たようなことを言うのだ。僕と比企谷君は仲がいい、と。

 それは甘言で、僕は文字通りそれに甘えて見て見ぬふりをしていた。

 

「そういうんじゃ、ねえだろ」

 

 そうだ。僕らは、そういうのじゃない。

 金閣寺で、似たような台詞を聞いた。顔を背けた比企谷君が照れているなんて、そんなわけ無いことは知っていたのに。知らないふりをしたのは、僕だ。

 

「……飲み物一本奢っただけで、そんな、優しくする必要はねえよ」

 

 恩返しなんていう言い訳を抱えた。

 本当は、もっとシンプルで、わかりやすくて、簡単な気持ちだったはずなのに。小心者の僕は、心の中ですらそれを明言することを避けて、大義名分にすがってしまった。

 勝手に期待して、勝手に裏切られるのは怖いから。

 だから、目に見えやすい恩なんて形を、人間関係に当てはめた。

 だからこれは、薄っぺらい欺瞞で、決して友情などではない。

 僕は、間違いなく嘘つきだった。

 

「……うん」

 

 彼に疑いの余地を作っていたのだ。

 『こいつは恩返しのために近づいてるだけで比企谷八幡本人に興味や好意はない』と、彼はそう思い込もうとしている。

 彼の心を揺さぶり、見えない傷をいくつも付けた。

 

「だから、手伝う必要なんかねえよ。……そっちの方が効率的だ」

 

 比企谷君その言葉を聞いているうちに、勇気が生まれてきた。

 僕が最初に抱いた勇気とは、全然反対の方に働こうとする勇気が。

 物語に関わることを、肯定する勇気が。

 

「わかった。じゃあ、手伝わない」

 

 手伝わない。誰が、君が傷つく手伝いなんてするもんか。

 君のやることは手伝わない。だから僕が、全部やる。

 

 青春には、勝者と敗者が存在する。

 何も持っていないなどと嘯く彼は、敗者ではない。

 彼には確かな居場所があるのだから。そしてそれを、僕は持っていない。

 僕は、奉仕部ではない。

 

 だから、僕がやる方が…………効率的だ。

 

「……部屋、そろそろ戻った方がいいぞ。見られたら困るだろ」

 

 女子がこんな時間に、男と一緒に見られると困るだろうと。そういっていた。

 確か、雪ノ下さんの言葉だったか。原作で、そんなことを比企谷君に言っていたはずだ。

 

「もう戻るよ。でも、そこは心配しなくても大丈夫」

 

「は? それはどういう」

 

 比企谷君の口に添えるように人差し指を立てる。彼の言葉はそこで詰まり、喉の奥へ返っていく。

 本当に、大丈夫。

 だって僕は。

 僕は。

 

()()()()()()()()

 

 初めて、一人称を口にした。

 それは意地だった。僕の意地だった。

 ()とは八千代千夜であって、僕ではないから。僕は僕だという証明をするために、今までずっと、私などという一人称は一度たりとも使わなかった。

 

「……ぇ?」

 

 困惑している比企谷君を置いて道を歩きだす。

 比企谷君がついてくる気配はない。

 それでいい。そこで、僕のやることを見ていてほしい。

 

 観客席から飛び出して、ステージに上がった。

 主役の彼を引き摺り下ろし、スポットライトの光を奪い取らんとする。

 ここからは僕が演者で、彼は観客だ。

 だから唄おう。代役と悟られないほど気丈に、大胆に。

 彼よりも高らかに、歌い上げてみせよう。

 これは曳かれ者の小唄。

 強がることすらできない僕からの、青春を後ろ向きに、しかし前へとひた走る君達への賛美歌だ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10.願わくば彼ら彼女らに祝福のあらんことを。

修学旅行編、完結です。
※蛇足の番外編が一話増えました。

いつもより一時間遅れました。


 竹林の葉が優しげな青白い光でライトアップされている。白い月光も相まって、この場所の神秘的な雰囲気を作り上げていた。

 これは戸部君のために、作り上げられた舞台だ。

 

 誰もが、この舞台のために嘘をついている。

 この場にいない三浦さんでさえも、わかっていて見逃すという嘘をついている。

 嘘をついているのは、僕も同じだ。

 

 竹林の道の始めに隠れて、海老名さんが来るのを待った。

 この最奥では、戸部君達が待っている。

 

 来た。海老名さんが。虚ろな瞳で竹林のトンネルを見つめる。そして、諦めたようにその一歩を踏み出した。

 

 気付かれないよう燈籠の影にかくれ、後ろを付いていく。

 やがて、戸部君のいる元に辿り着いた。

 

「あの……」

 

「うん……」

 

 まず間違いなく戸部君は振られる。その後のグループはおそらく瓦解する。

 それを、葉山君が嘆いた。そして、比企谷君が共感した。共感してしまった。なら、僕のやることは一つだ。

 

 二人の意識の外から、全部をひっくり返す何かをぶつける。彼がこの場に来てしまう前に。

 こんなやり方は模倣だ。彼の安っぽい手に上から手垢をつけて、劣化に劣化を重ねた下位互換だ。

 だからこそ、意味がある。

 

 彼よりも早く足早に二人に近づく。そして──

 

「ずっと前から好きでした。付き合ってください。戸部君」

 

 急に現れた僕に誰もが驚いている。海老名さんも、戸部君も。そして、同じ手段──つまり、海老名さんに嘘の告白をしようとしていた比企谷君も。

 

「は、え、ええ……? いやでも、俺別に好きな人いるっつーか……えと」

 

 戸部君はこれまでにないほど困惑して、海老名さんを気にしている。

 そりゃそうだ。告白の機会を横からかっさらわれた上に自分が告白されて、しかも隣には想い人。

 混乱するなという方が無理な話だ。

 

「あーあ、フラれちゃったか。ほんとは今言うつもりじゃなかったんだけど。……()()()()()()

 

 海老名さんに視線を送ると、ハッとした表情で僕の顔を見た。

 ……よかった。こんな陳腐な三文芝居でもしっかり理解してくれたようだ。

 

「とべっち、今はチヨチヨのこと、一人にしてあげよ?」

 

「お、おう」

 

 そういって海老名さんは戸部君を連れてこの場を去る。

 今さらもう一人に告白なんかできる雰囲気じゃない。

 

 僕がやったのは、この場をぶち壊しただけ。

 この舞台をただ、粉々にして、ぶちまけただけ。

 ついでに、振ったシーンを間近で見せて、今後の戸部君の告白をやりづらくしただけ。

 ああ、なんだ簡単じゃないか。悪役ってのもさ。

 

「ごめんね」

 

 すれ違いざまに、海老名さんの声が聞こえた気がした。

 道の奧では、気付かれないよう葉山君達が引き返している。誰も何も言葉を発していない微妙な空気だ。

 

 そして、残ったのは奉仕部の三人。ああ、これで君たちは大丈夫。

 清水寺の胎内巡りで、石を回しながら願ったんだ。

 どうやら願いは……叶えられたようだ。

 

「あ、えっと……ちよちよ」

 

 由比ヶ浜さんが声をかけようとする。けれど、どこか迷いがある。雪ノ下さんも想定外のことなのか、何も言えないまま立ち尽くしている。

 ごめんね、深入りしすぎたから。だから君たちにこんな想いをさせてしまった。でも、それもここで終わりだ。

 

「先行っとけ」

 

「で、でも!」

 

 比企谷君が二人を帰るように促した。だが由比ヶ浜さんも雪ノ下さんも、素直に従おうとはしない。

 

「いいから行け」

 

 比企谷君はそう強引に言って二人を帰した。

 やっぱり最後は君の出番か。比企谷君は強い視線でこちらを睨み付けている。ああ、男に振られることなんかよりよっぽど辛いな。これはさ。

 

「手伝わないんじゃなかったのか」

 

「手伝ってはないでしょ? 勝手にやっただけだよ。あ、あの二人に告白は本気だったって言っといてね。じゃないと意味ないから」

 

 より強く比企谷君の視線がきつくなる。拳は強く握られて、おそらく爪も食い込んでいる。

 

「言うわけ、ねえだろ。本気なわけない。だってお前は──」

 

 その言葉を遮るように、人差し指で口を塞いで、あの時とは全く逆の台詞を口にした。

 

()()()()()()()()

 

 彼の顔が大きく歪む。感情がぐちゃぐちゃに散らかっていることを、隠しきれていない。僕への怒りと、迷いと、止められなかった自分への罪悪感をないまぜにしたような、そんな顔をしている。

 ごめんね。でもこうしなきゃいけないんだ。

 

「だから、本気でもおかしくないよ」

 

 彼は苦い顔で僕の言葉を聞いている。やがて、絞り出すように言葉を吐いた。

 

「……ふざけんな。あれは俺が出来たんだ。出来たなら、俺がやるべきことなんだ。お前がやる必要なんかねえんだよ」

 

 彼の言葉を否定するべく、言葉を紡ぐ。

 

「あるよ。僕……いや、私がやる意味も、必要もね」

 

 彼の顔はもうくしゃくしゃだ。僕が私と言う度に彼は辛そうな顔をする。それは、同情かい? 憐憫かい?

 

 だからダメなんだ。このやり方では。

 効率を極めた最善手であっても、客観的に見て同情や憐憫を抱くようでは、それは自己犠牲へと落ちぶれてしまうから。

 

 それではこれから先、君は大切な人を守れない。

 比企谷八幡の方法を、比企谷八幡に客観的に見せなきゃいけない。

 だから、君のやり方をやってみせて、それを否定させなきゃいけない。

 この先、色んなイベントで君が間違えてしまわないように。

 

「だってこっちの方が『効率がいい』でしょ?」

 

 その時の彼を、きっと僕は忘れることができない。

 茫然自失とした、まるで魂が抜け落ちたような彼のことを。彼は空気を求めるように口を二、三度パクパクさせると、それきり何も言えなくなってしまった。

 

 一歩二歩と彼から距離を離す。

 追ってくる気配はない。

 ただ天を仰いだ。

 月は落ちている。片割れの光を失った竹林のトンネルは、青白い光を寂しく放ちつづける。

 足元では、等間隔の燈籠だけが暖かい色で僕らを照らしていた。

 

 

 × × ×

 

 

 修学旅行最終日。京都駅の屋上で彼女を待っていた。

 ここからは、京都を見渡せる。

 京都は、千年前からその姿を変えずにいる。人は、そこに惹かれているのだろう。

 だがしかし、変わらなければならないこともまたある。京の建造物の多くが再建されているように、時には形を変えなければその性質を保てないこともある。

 本質は変わらなくても、在り方を変える必要はある。僕はそう信じている。

 

「はろはろ~お待たせ」

 

 長い階段をわざわざ上ってくるのは、海老名さんだ。

 

「お礼、言っとこうと思って」

 

「別に告白して振られただけだよ。よくある話でしょ?」

 

 誤魔化すように言うと、自然と早口になってしまった。

 

「まさか、ヒキタニ君じゃなくてチヨチヨに助けられるとはねー。ありがとう」

 

 海老名さんが僕の嘘を無視して感謝を告げる。

 確かに、僕が関わってくるなんて予想だにしていなかっただろう。そりゃそうだ。二日目までは不干渉であろうとしていたのだから。

 動きが読めなくて当然だ。

 

「あー、何の話?」

 

 適当にしらばっくれた。これは海老名さんのためだけにやったことじゃないから。あくまで彼女のことはついでだ。感謝される謂れはない。

 海老名さんはまた、僕の嘘を見透かしたように優しく微笑みかけると、そのあと少し悲しそうな顔をして口を開いた。

 

「私ね今の環境が好きなの。私と、それを取り巻くみんなが好きなの。無くすのは惜しいなって思うの。今いる場所が、一緒にいてくれる人が好き」

 

 だから自分が嫌いだと、そう続くのだろうと思っていた。彼女がそういうのを、原作で知っていたから。

 そんな僕を待ち受けていたのは、予想外の言葉だった。

 

「チヨチヨも、そこに入ると思ってた」

 

 そういって彼女は、一粒の滴を目から溢した。

 あまりにも急な言葉に僕は驚く。ちょっと修学旅行で喋っただけなのに、どうしてと。

 その疑問を口にするより先に、知っているけど知らない言葉が耳に入った。

 

「だから、私は自分が嫌い。……すごく嫌い」

 

 遠ざかっていく海老名さんに僕は何も言えなかった。彼女の涙も、そして『すごく嫌い』と付け足した意味も、何もわからなかった。

 

 何かを間違えたのかと、そう自分に問いかける声を振りきれなくて、僕はその場を動けなくなった。

 嫌になる。完璧にできたつもりだった。比企谷君と、それから海老名さんに振り掛かる問題を、一挙両得に解決して見せたつもりだった。どこで、間違えたのか。

 

 そうやって、意味のない自問自答を繰り返し、どれほどの時間が経っただろうか。このまま京都に取り残されるのも悪くないと半ば自棄になっていると。

 

「やあ」

 

 階段から入れ替わるようにして、彼が──葉山君がやって来た。彼はいつものように、薄い微笑を顔に貼り付けている。

 

「もうそろそろ点呼の時間だよ」

 

 そういって近づいてくる。もう諦めて駅に戻ろうとして、彼に似せた薄ら笑いを作りながら返事をする。

 

「いまいくよ」

 

 そのまま歩いて構内へと歩きだす。が、葉山君がどうも動いていない。不思議がってそちらを見ると、微笑の剥がれた、苦々しい表情で視線を返された。

 

「……すまない。君を巻き込むつもりはなかったのに」

 

 なぜか無性に腹が立った。僕にその哀れんだ目を向けるべきは、君じゃない。そう思って、それから自分の肥大した自意識に気付いたとき羞恥心を覚えた。

 

「巻き込まれたつもりはない」

 

 厳しい口調で、そう言った。

 僕は自分から関わった。その決意を決断を、勇気を否定されたくはなかった。

 見せたことのない僕の表情に葉山君はしばらく面食らったようだった。しかし、気を取り直すとまた笑った。

 

「戸部には、言っといたよ。フラレないように君が気を使ってくれただけだって。なんとか納得してくれた」

 

「なん、で」

 

 それじゃあ僕は本当に道化じゃないか。舞台の上で華麗に踊っているつもりで、実際は笑われていたピエロのようじゃないか。

 

「余計なこと、とは言わせないよ。……姫菜が悲しそうだったからね」

 

 そうだ。形はどうあれ女の子を泣かせた。全くもって嫌になる。男失格じゃないかこんなの。

 戸部君は嘘の告白を、嘘だと受け入れてくれた。そこには確かに男気を感じる。海老名さんを想う気持ちも、全然ヤワじゃない。

 それに比べると、確かに僕は男として失格だ。でも。

 

「葉山君に言われる筋合いは、ない」

 

「……痛いとこつくね。その通りだよ。俺が何か言う資格なんて一つもない」

 

 彼はまた苦々しい表情へと戻ってそう言った。彼もきっと後悔している。ここには、海老名さんを含め、後悔した人間しかいなかった。

 

「でも、その上で一つだけ言わせてほしい。……あれが、君のやり方なのかい?」

 

 その言葉を聞き流し、階段を下って駅に戻った。

 後から葉山君とクラスで合流したが、彼はもう何も言わなかった。

 

 わざわざ言われるまでもない。

 そんなこと、僕が一番わかってんだよ。

 誰よりも一番、理解してる。

 

 それが誤りだと気付いたのは、修学旅行明けの月曜日。

 彼が、比企谷君が登校していないと聞いたその日だった。

 

 

 

 

 

 × × ×

 

 

 

 

 

 月曜日、僕は重たい足を引きずって学校まで来ていた。今日は、本当に足取りが重たい。

 そのせいか、遅刻の時間であった。ちょうど1限目が終わりそうな時間だ。

 こそこそと玄関口を通り上履きに履き替えて、教室の前で待つ。

 そして授業を終えた先生と入れ替わるように中へ入った。一瞬、葉山君達のグループがざわついたものの、何とか気を取り直したのかまた喧騒に戻っていく。

 

 彼は、彼はどのような顔でこちらを見ているのだろうか。怖くて席の方を向くこともできず、机に突っ伏して寝たフリをした。こんなとこでも物真似なんて、皮肉なものだ。

 

「えっと、その、ちよちよ……」

 

 誰かの声が小さく耳に響く。それは、僕が教室に表れてから初めて聞いた声だった。

 

「何?」

 

 わざと不機嫌そうに聞き返す。

 何人かは理解しているとはいえ、フラレた人間のところにわざわざ喋りかけるのは、グループ内の立ち位置を思うなら得策ではない。そう思って追い返そうとしたのだが、彼女は、由比ヶ浜さんは屈することなく勇気を持って話し出した。

 

「あのね、今日ヒッキーが、来てなくて──」

 

 嘘だ。首をグルリと勢いよく回し教室を見る。彼の席には、確かに誰もいなかった。鞄もない。

 

 由比ヶ浜さんがまだ何かいっている。心当たりあるかどうか、そう聞いているんだろうが、僕の耳には全く入ってこない。

 

 なぜ? どうして? 彼がなぜ休む?

 理由がわからない。思い出せ、思い出すんだ。

 原作ではあんなことがあったのに登校して、更に奉仕部まで行っていたはず。

 ついでに言うなら今日は生徒会選挙の依頼がある日だ。今日いないというのは、非常にまずい。

 

 悪いけど知らない。気分が悪いから保健室に行く。確かそんなことをいって、教室から抜け出した。

 

「すみません、気分が悪くて」

 

 保健室の先生に適当なことを言って、ベッドに横になる。

 

 考えろ。思い出せ。

 彼は、原作で、何を言っていた?

 確か、修学旅行の後でも意地を張って奉仕部に──

 意地? 意地だと?

 

 ──その意地を模倣して、横から奪い取ったのは一体誰だ?

 

 その問いの答えから逃げるように、泥のように眠った。

 

 

 × × ×

 

 

 ベッドから起きて時間をみる。ちょうど昼休みごろか。

 少しずつ、今までのことを考えた。

 

 平塚先生の授業で聞いた羅生門を思い出す。

 今の自分を、下人に重ねた。

 他人の理由を盾に悪事を働く姿は、まさしく自分そのものではないのか。原作に関わろうというこの勇気は、仄暗い、後ろ向きで反対な勇気だったのではないか。

 そういった考えが頭の中でグルグルと回り続ける。

 老婆は報いを受けた。下人によって。だが下人が報いを受けたかは確かではない。

 罪に対する罰は、僕にあるのだろうか。

 

「いっそ、ぶん殴ってくれたらな……」

 

 男のままなら、文化祭の時の葉山君のように直接ぶつかることもできたのかと、そんな未来もあったのかと、ありもしない空想に身を委ねる。

 現実から逃げるように瞼を閉じた。

 もう一度眠ることは出来そうにない。

 瞼の裏にはただ、空虚な暗闇が広がるだけである。

 

 下人の行方は、誰も知らない。

 これからの僕の行方は、僕自身にも分からない。

 

 そう僕が、救えない結論をつけようとしたその時。

 

 ガラッ──

 

「邪魔するぞー」

 

「あの、先生。ここは病人がいるのですからノック を」

 

 養護教諭がそう言って注意する。

 無礼なその教師は、ノックもせずに扉を開けて入ってきて、ツカツカと僕のベッドまで歩いてくる。

 そのままベッドのカーテンを勢いよく開けて、僕を見下ろした。

 

「おい、八千代、起きてるかね」

 

「ですから先生、その子は二限からずっと具合が悪いようでして……」

 

 養護教諭がまたも止めにはいる。正直言って、誰かと話したい気分ではない。ないのだが──

 

「いえ、大丈夫です。……平塚先生としばらく二人にしてもらっていいですか?」

 

 気付くと、起き上がってそう言っていた。心の底では、誰かを求めていたのかもしれないと思う自分が嫌になった。

 

「はぁ……。十分後にまた来ますね」

 

 しずしずと引き下がる養護教諭。

 保健室から出て、姿が見えなくなったのを確認して、平塚先生が口を開いた。

 

「さて、まず具合は大丈夫か?」

 

「はい。まあ、仮病ですから」

 

 どうせバレると思って素直に言った。平塚先生は予想の範囲内だったらしく、うんうんと頷いている。

 仮病だと堂々と口にしたのに、責める様子は一切なかった。

 

「実際に体調に影響していないようでよかったよ。病は気からというからな。それで、何があった?」

 

 こちらは、素直に言えそうもなかった。しかられる気もするし、呆れられる気もする。

 何より、理解されないことが一番怖かった。

 

「まあ言えないというなら勝手に予想するさ。……修学旅行では、君のことを見れてやれなくてすまなかったな」

 

 平塚先生は見透かしたようにそう言った。ああ確かに、僕は先生とラーメンを食べなかったな。でも、それだけだ。それだけ。それ以外で先生が関与できたはずもない。

 

「一人の先生が、全部の生徒を見るなんて無理ですよ」

 

 それを聞くと、平塚先生は面白そうに笑った。何がそんなに面白いのか、僕にはわからない。

 

「そりゃ全員は無理さ! 私のお気に入りの生徒だけだよ」

 

 そういって僕の頭を優しく撫でた。

 ああ、泣いてしまいそうだ。でも、堪えなきゃ。

 きっと甘えすぎてはいけないのだから。

 自分の足で立たなければ意味がないのだから。

 

「……先生、一つ質問していいですか?」

 

「ああ、何でも、何度でも聞きたまえ」

 

 前に質問をぶつけたときと、似たようなことを言ってくれる。

 平塚先生は僕の頭から満足げに手を離す。そしてその手で、僕の左手を包み込むように握った。

 その手は冷えている。布団でヌクヌクとしていた僕には凍えるような冷たさだった。それなのに、どこか暖かいような気がした。

 

「エゴって、何なんですかね」

 

「ふむ。端的に言うと、君のやりたいことだな。……どうだ、宿題は解けそうかね?」

 

 エゴ、エゴとは。僕のやりたいこととは何か。

 修学旅行中、自分にも、他の人にも、何度も何度も同じように聞かれたと思う。

 何がしたいのか。どうしたいのか。

 

 それをきっと僕は、間違えた

 

 ──借り物や模倣ではない僕の意地とは、エゴとは、何か。

 

「わかりません。わからないですけど……このままじゃ、嫌、です」

 

 ダメだな僕は。涙ぐんでしまった。

 グズグズと、ボロボロと瞳から滴が流れる。

 ああ、本当に情けない。こんなんじゃ全く男らしくない。そうだ、男らしくない。男、らしく……。

 

「そうか……。さて、そろそろ養護の先生が戻ってくるだろう。仮病だというならここから出ていかねばな」

 

 平塚先生がそういって立ち上がる。待って。今、答えが見つかりそうだったのに。僕の意地が、せっかく見つかりそうだったのに──

 

「さて、これから私はもう一人のズル休み野郎をぶっ飛ばしに家庭訪問に行くんだが──どうだ、君も一緒に来るかね?」

 

 平塚先生はそういうと、ニヤリと笑って、車のキーをチャリチャリと鳴らした。

 

「……はい!」

 

 ほんとにこの先生、かっこよすぎるよ。

 

 

 × × ×

 

 

「ちわーす! 宅配便でーす!」

 

 平塚先生がインターホンに向かって大きな声をだす。え、それ嘘じゃん。声も限りなく低い声を作っている。

 

「あの、先生……?」

 

 僕の疑惑の視線に気付いたようで、平塚先生はこう答える。

 

「このバカはこうでもせんと出てこないんだよ。素直に呼んだりしたら逆効果さ」

 

 いやそんなアホな。しかし、そう思っていた僕自身がアホだったらしく。

 

『ども。あー、宅配ボックス、入れといて下さい』

 

 比企谷君の声がインターホンから聞こえてきた。

 釣れた! んなアホな! いやでも往生際悪く逃げようとしてるぞ。家から出ないで済むようにと。

 

「いやーすいませんこれ冷凍便でして」

 

 平塚先生も慣れたものなのか中々に手が込んでいる。……というか何を見せられてるんだ僕は。

 保健室での感動を返してほしい。いやほんとに。

 

『はぁ? かーちゃんか小町か……時間指定しろよ……。あーすんません。今行きます』

 

 ガチャリ。扉が空く。そして──

 

「よーし年貢の納め時だ比企谷! 私の授業をバックレやがって! 元気そうじゃないか!」

 

「ゲッ平塚先生! 何でここに! いや待て力つっよ……! ぐぐぐ……」

 

 二人が全力でドアを押し合いへし合いしている。

 見たところ若干平塚先生に分がありそうだ。それでいいのか、男子高校生。

 

「はぁ……」

 

 はーまったく。悩んでたのがバカみたいだ。いやバカはこの二人なんだろうけど。僕は含まれてないよね? ないよね?

 仕方ないので仲介に入るべく、ドアの隙間に手を滑らせた。

 

「はい比企谷君ストップ! この白魚のような手を傷付けたら責任とってもらうからね。……平塚先生の」

 

「八千代、お前も何で……って、いやそれだけは勘弁!」

 

 比企谷君がバッと手を離すと、ドアが勢いよく開いた。そしてその前には──仁王立ちする平塚先生。

 

「ほぅ……。なーにーが勘弁なのかな? 比企谷? ああ、八千代も何か言っていたようだが。私のこの手が真っ赤に燃えそうだなー? ん?」

 

 ポキポキと拳を鳴らす音が聞こえる。それ、拳で殴る技じゃないですよね……。

 

「いやあの、そのですね」

 

「待て、俺は悪くな……ひっ」

 

 比企谷君の僅か数cm横を掌が突き抜ける。

 

「「すんませんでした!」」

 

 二人で勢いよく頭を下げた。

 あーもうすごく馬鹿馬鹿しい。すごく馬鹿馬鹿しくて、すごく──笑えてきた。

 

 

 × × ×

 

 

 そのあと、平塚先生は午後の授業があるといって愛車で学校に戻っていった。

 今日は来れそうなら二人揃って来い、とのことらしい。

 

「で、お前は何しに来たんだよ……」

 

 比企谷君がものすごく嫌そうな声を出す。

 当たり前だ、そう言われて仕方のない最低の別れ方を僕たちはしていた。

 

 何しに来たかはまた考えてなかった。考えなしな自分に嫌気が指すが、それはまた後にしておく。自己否定ばかりじゃキリがない。

 

「あーそうだねー」

 

 エゴだ。僕のエゴ。探していたエゴ。行動理由。そうだな、とりあえず…………。

 

「ラーメン、食べに行こっか」

 

「はぁ? いや学校連れ戻しに来たんじゃ……」

 

 彼とやりたかったことを一つずつやっていこう。

 

「いいからいいから」

 

 そういって彼の背中を押し、スウェットのままの彼と制服の僕という変な組み合わせの二人組は、近くのラーメン屋さんへと入っていく。

 

 比企谷君もぶつぶつ文句をいいながら付いてきた。

 途中で着替えさせろとか、寒いからせめて何か羽織らせろとかうるさかったけど、全部無視した。

 食券を買い、やっと落ち着いたのか、比企谷君がもっともな疑問を口にした。

 

「何で、学校サボってまで俺とラーメン食ってんだよ。……それは、おかしいだろ」

 

 僕と彼との関係は、修学旅行のあの夜、間違いなく切れた。一方的に僕が、やり方を押し付けたから。

 

 それはまだ解決していない。比企谷君とこんなもので和解したとは思えないし、海老名さんの悲しみもきっと拭えていない。

 雪ノ下さんと由比ヶ浜さんだって、あんなのじゃ納得いってない。

 

 でも、それは後だ。いずれ解決するつもりだけど、今ではない。僕は、僕のエゴに今従う。

 

「何もおかしくないよ。僕がそうしたいから」

 

 比企谷君と、食べに来たかったから。もっと話したかったから。……あのままじゃ、嫌だったから。

 

「お前……」

 

 戻った僕の一人称に、比企谷君が目を見開く。ああ、全く恥ずかしいったらありゃしない。

 恥らいを隠すように、自信満々にこう言った。

 

「男友達と学校サボってラーメンだなんて、すっごい男らしいでしょ?」

 

 関係が切れたなら、結び直そう。

 友達じゃなかったのなら、友達になろう。

 男らしくなかったのなら、男らしくなろう。

 僕が僕であることに自信が持てなかったのなら、自信を持とう。

 仲良くしたかった人たちと……仲良くしよう。

 

 たったそれだけ。僕のやりたいことは、僕の両手では抱えきれるかも怪しいほどの、たったそれだけだ。

 

「……うっせ。そういうのは不良ぽいっつうんだよ」

 

 照れ隠しか、いつの間にか来ていたラーメンをズズっと啜る。

 僕も慌てて割り箸を割った。不格好な割れかたで、持ちづらいたらありゃしない。まるで今の僕だ。

 不器用で、不格好で。でも、離れたくはない。

 

 これを食べたら、学校に行こう。奉仕部に行こう。

 そしてみんなに謝ろう。許されるかは、わからないけど。

 

 まだまだ物語は続く。

 放課後には、あのあざとくてかわいい亜麻色の髪の後輩が部室に来る。

 一つずつ、進んでいこう。

 

 この豚骨ラーメンを食べきったら。

 

「あのさ、これ……やっぱスープ飲んだら太るよね?」

 

「気にするところが完全に女子じゃねえか……」

 

 ……うん、一歩ずつ進めると、いいなぁ。

 

 




第一部、完!


この10話が一番難産でしたが何とかなりました。
次の生徒会選挙編はプロットがまだ出来てないので時間かかるかもしれません。
よければお気に入り、感想、評価お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EX1.彼のごーいんぐごーいんぐあろーんうぇい。

ちょっと短めですが修学旅行編、八幡視点の蛇足です。

本編では視点が切り替わることはありません。

八幡視点は書かない方がいいんじゃないかなーと迷いましたが、番外編として置いておきます。



 変化することは、必ずしもよい結果を生むとは限らない。変化とは、改善ではなく改悪かもしれない。いつだって、変わってしまう本人やその周囲には、どちらに転ぶかわからない。そんなものは運任せのギャンブルであり、それこそ賽を投げたに等しい。

 

 だからあの一件があっても俺は──比企谷八幡は何一つ変わらずに、修学旅行休み明け、月曜の朝を迎えていた。

 

「お兄ちゃん、雪乃さんと結衣さんとなんかあった?」

 

 一緒に朝ご飯を食べていた、愛する妹の小町がそう聞いてくる。それほどまでに俺の様子はおかしかっただろうか。自覚はない。いつも通りのはずだ。

 逃れるように、味噌汁に口をつけズズッと音を立てて飲んだ。

 

「あいつらとは何もねーよ」

 

 嘘じゃない。確かに、戸部の告白現場の後は一切喋ってはいないのだが、別にあの二人と何かあった訳じゃない。

 小町は箸を止め、俺をまじまじと見る。

 

「……ほんとに?」

 

 疑われている。だがどれだけ疑惑を重ねても俺の言葉に嘘はない。あいつらとは、何もない。

 サラダのトマトを避ける。これはいつも通りの俺だ。何も変わったところはない。

 

「なんもねえよ」

 

 そう言って肩を竦めた。奉仕部の二人だけでなく、元々あいつとも何もなかったのだ。だから、俺の答えも変わらない。

 

「で、何したの?」

 

 小町は追求を止めない。

 

「……何もしてねえ」

 

 素直に言った。目は合わせられなかったが。

 そう、俺は何もしていない。正しくは何もさせて貰えなかった。俺が考えた最も効率のよい最適で冴えた手段は、俺以外の手によって完遂された。

 だがそれを小町に説明する必要はない。

 

「ふーん。じゃもう聞かない。雪乃さん達は関係ないんでしょ?」

 

 小町はそんな俺の様子を見て諦めたようだった。素直な妹を持ってお兄ちゃん嬉しい。と思ったが、これは素直さから来るものでは無さそうだった。

 

「そうしてくれ。本当に、あいつらのことじゃないから」

 

 それきり食卓での会話はなく、ただ食べ物を口に運ぶだけの作業が続く。

 そのうち食べ終わった小町が、静かに食器をまとめると、流しへ持っていった。

 そのまま俺の方を見ずに告げる。

 

「……じゃあ、何でそんな顔してるのさ」

 

 答える間もなく、小町はリビングから出て強くドアを閉めた。……怒らせてしまったか。

 俺は一体どんな顔をしてるというのか。

 それは、いつもの俺とどう違うのか。

 

 鏡のある洗面所へ行く気にもなれず、一人リビングで冷めた茶を飲みながら天井を見上げる。

 そのまま時間は過ぎる。いつもの俺を実妹に否定されて、いつもの行動を取れなかった。リビングから出づらくて、テレビを付けたりスマホを眺めたりして、暫く気を紛らわせる。

 

 ふと時間を気にすると、もう9時過ぎになってしまっていた。既にどうあがいても遅刻であり、学校に行く気にはなれない。

 何より同じ教室にあいつがいることが、俺の心を強く揺さぶりそうで、俺の平常心が更に奪われそうで恐ろしく、億劫だった。

 学校に行く俺よりも、あいつと会う俺の方が、いつもと変わった自分になってしまうような気がした。

 

 茶はとっくに飲み干している。心の焦燥に釣られるように乾いてしまった喉を潤そうと、買い貯めているマッカンに手を伸ばす。

 確か、最初に話したのもこれのせいだったなと、ボンヤリ黄色と黒で構成されたパッケージを眺め、回想に耽った。

 そうあれは、修学旅行のちょうど一週間前──

 

 

 

 

 ▽ ▽ ▽

 

 

 

 

 文化祭や体育祭の熱も冷めやらぬままに、大衆は次のイベントを心待ちにする。彼ら彼女らの中では既に一週間後の修学旅行はホットな話題となっていた。

 反比例するように、俺の周囲は寒々しい。

 

「いやーそれナニタニ君だよ!」

 

 ドッとクラスの人間が沸く。明言するまでもなく俺はクラスの内に入っていない。

 このように、『ヒキタニ君をネタにしよう』ブームも、修学旅行前の熱気と同じく最高潮だった。

 アンチ比企谷状態よりは随分とマシになった。だが彼らは、理解できない俺を非難するフェイズから、疎外するフェイズに移行しただけだ。本質は変わらない。

 

 いつも通り机に突っ伏して時間を潰す。これぐらいの嘲罵やそしりはしりは俺の常であり、俺の行動もまた変わらなかった。

 変わらないことは正しいことだ。つまりこの場では俺こそが正しい姿である。そう信じている。

 

 昼休みになっても俺の行動は変わらない。マッカンを買いに自販機へと向かう。俺のソウルドリンクであるところのマッカンを摂取することは昼休みにはマストだ。寒いからホットを飲みたいだけともいう。

 自販機の前で立ち止まると、お目当ての飲み物のボタンの下には赤いランプが灯っていた。

 なん……だと……!?

 

「「売り切れ……だと……!?」」

 

 隣から全く同じ台詞が聞こえ、首を動かす。

 なんか知らん女子がいた。いや一応知ってるけど。たしか同じクラスだった……気がする。

 そいつは目を見開いて驚きの表情で俺の方を向いている。俺は指名手配犯か何かか? まあ近しいもんだろう。クラスのお尋ね者だもんな。

 そいつは口をポカンと開けたまま動きそうもない。……おい、なんか言えよ。

 

「……いや、あの、なんかすまん」

 

 沈黙に耐えきれず先に口を開いた。まさかとは思うが一言発しただけで通報されることもないだろう。

 

「ごめんちょっと待って心の準備するから」

 

 すーはーと目の前のこいつは深呼吸を始めた。いや俺と相対するだけでそんな覚悟いるのかよ。パッショーネのボスだったりするの? 俺。ちょっとカエル使って電話かけてくるわ。

 

 手持ち無沙汰なのでそれとなく観察を始める。肩にかかるかどうかの長さの髪は、川なんとかさんより重めに青みがかっている。俺と似たようなアホ毛は、しかし俺よりも少し角度が大きめに立っている。

 顔は整っているしスタイルもいい。三浦のグループにいても違和感は無さそうだ。それだけで言ったらあのブラコンさんもそうなんだが、あいつは当の三浦と相性悪そうだしな……。

 

「あの、同じクラスの比企谷君だよね?」

 

 確認するようにそう聞いてくる。会話を続ける選択肢があることに少し警戒度が上がり、表情を盗み見た。

 だがそこに侮蔑や嘲りの色は存在しない。

 ついでにいうと俺の名前が間違ってない。

 

「ん、ああ……」

 

 それが珍しく、言葉に詰まった。

 俺、もといヒキタニ君といえば現在、憎まれもの改め珍獣として時代の寵児であり、目を会わせようものなら『なんかこっち見てんだけど笑』などと小粋なジョークの種にされる。キモカワイイどころかただキモいマスコットキャラとして引っ張りだこだ。

 そのため、こちらの出方を探るようなこの視線は不慣れだった。

 

「こ、このコーヒー好きなの?」

 

「お、おう」

 

 MAXコーヒーを指差された。千葉のソウルドリンクだ、と自信満々に答えてもよかったが、おずおずと所在なさげに視線を移すこいつに毒気を抜かれてしまって、普通に答えた。

 毒気ついでに他人に対するトゲも抜かれてしまったらしく、気付けばなぜか俺が口を開いていた。

 

「あんたも、その、コレ好きなのか」

 

「うん、まあね。とはいっても売り切れだし……スポルトップでも買うよ」

 

 スポルトップは俺が代用で買う飲み物だ。ポカリ系のスポーツドリンクだが、違いは何といってもその甘さにある。練乳にコーヒーを入れたのがマッカンなら、砂糖にポカリを入れたのがスポルトップだ。

 言うまでもなく甘くて、あとうまい。

 

「あー、ちょっと待て」

 

 はっきり言って今の俺は正常じゃなかった。クラスでの嫌な空気に当てられていたこともあるかもしれないが、それを加味しても異常だ。

 ダイヤモンドの硬度を誇る俺の心も、実はちょっとばかり欠けていた。ダイヤモンドは砕けないって言うけど、あれ普通に嘘だからな。

 

「え、えっと……?」

 

 困惑するこいつ──てかこいつ名前なんだよ。由比ヶ浜が呼んでたことあったか? あいつあだ名のセンス無いからあだ名から本名がわかんねえんだよな。

 とにかく目の前のこいつを一旦放置して、教室の鞄からマッカンを取り出す。できればホットが飲みたくて取っておいたのだが、まさか人にあげることになるとは。

 

「じ、常温でもよければ、これ、やるよ」

 

 多分俺は、初めて見つけた同好の士に多少なりとも舞い上がってしまっていたのだと思う。他の奴らは一口飲んですぐ返してくるんだよな……返されても八幡困っちゃうんだけど。

 ……いや中学を思い出せよ俺。こんな風に舞い上がった結果何度トラウマを作ってベッドで悶えたことか。俺のトラウマは百八式まである。全身金色のモビルスーツよりちょっとだけ多い。

 

「えっいいの!?」

 

 やってしまったかと思い突き出した缶を手元に戻そうとしたところで、予想外に食い付きのいい返事が帰って来た。

 驚いてしまった顔を晒すのが嫌で、顔を逸らす。

 

「じゃ、じゃあ、ありがたくいただくね!」

 

 そいつはマッカンを両手でしっかりと握った。

 

「お、おう」

 

 よくわからんがすごい勢いで喜ばれた。クラスメイトの中で戸塚や川崎、由比ヶ浜以外の人物があれほど好感触なのも珍しい。

 

 謎の気恥ずかしさから逃げるようにその場を後にした。これでもう会うこともあるまい。いやクラス同じだけど。今日のこれは偶然、俺の気が触れただけで、もう二度こいつと話すようなことはないだろう。

 

 そう思っていた。それなのに。

 

 

 

 

 △ △ △

 

 

 

 

 そこまでを走馬灯のように一気に思い出した俺は、思考を切り替えようとマッカンを一気に飲み干す。だが俺の脳は止まってくれず、そいつの──八千代との記憶を引っ張り出してくる。

 

『今日ね、依頼人を連れてきたの!』

 

 そいつは由比ヶ浜に連れられて、放課後の部室にやって来た。

 動揺を隠して会話を続け、雪ノ下に怪しまれつつもなんとか乗り切った。

 

 それからというもの、八千代はなぜか俺にばかり話しかけるようになった。

 これが、鍛え上げられた自意識による勘違いであればよかったのだが、生憎とそうではなさそうだった。

 雪ノ下や由比ヶ浜よりも、俺と会話しようとする。買い物に行ったときも、修学旅行中もそうだ。二人のことはからかったりいじったりしないのに、俺にだけそういった行為をする。

 

 正直、理解も推測も出来なかった。同性である女子よりも俺との距離の方が近いし、警戒心も薄い。

 

『僕、男の子だから』

 

 ──性同一性障害。言われて少ししてから、頭に浮かんだ。

 

 唐突に言われたので面食らったし、しばらく意味がわからなかった。

 が、時間が経つと今までの行動が腑に落ちた。

 

 女子より俺との距離が近いのも、修学旅行が不安だという理由で依頼をしてきたのも、由比ヶ浜のボディタッチから執拗に逃れようとしているのも、俺に呼び捨てを強要してきたのも、すべて性自認が男性であるからだと。そう納得した。

 だから、理解したつもりになっていた。それなのに。

 

「あー、わっかんねえ……」

 

 海老名さんへの戸部の告白を阻止した、その理由がわからなかった。俺とは別口で、頼まれていたのだろうか。しかし修学旅行中、戸部や海老名さんの邪魔に入る様子はなかった。

 そして何よりも、どうしてあの方法──今までの俺と同じようなやり方を取ったのか。

 

『私、女の子だから』

 

 彼女は、嘘の告白のためにそう繕った。その理由はわかる。戸部に告白することが、周囲から見て違和感のないことだとそう言っていたことはわかる。

 だが、なぜわざわざ俺にそう告げたのか。

 

「おーいカマクラ、わかるか?」

 

 フゴ、とだけ鳴くとうちの愛猫は姿を消した。かわいくねえ……。愛猫とはいうが、こいつを愛してるのは俺じゃないし、俺も全く愛されてない。

 

「ほんとに、何だよ……どいつもこいつも」

 

 一番気に食わなかったのは、俺があいつに、八千代に気持ち悪い同情を押し付け、勝手に憐れみの目を向けたように思えることだった。

 しかし、それは違う。何よりもその感情を他者に向けることは、俺が否定したことだ。だからこれは同情や憐れみなどではないはずだ。

 

 であれば、あんなことをしてほしくないと──どうして俺はそう思ったのか。自分の感情が何より一番わからなくて、気に食わなかった。

 

 数少ない手札で、最善を極め、効率を追求したやり方を、自己犠牲とは呼ばせない。

 だから、あいつは、犠牲などではない。

 そうわかっているはずなのに、どこかで引っ掛かりを覚えている自分が、嫌だった。

 

 

 × × ×

 

 

「ラーメン、食べに行こっか」

 

 平塚先生と共に、突如として比企谷家を奇襲したこいつは──八千代はそう言った。

 それは、俺の知ってるこいつとはイメージが違っていて、どこか自信ありげにこちらの目を真っ直ぐと捉えている。

 

「はぁ? いや、学校連れ戻しに来たんじゃ……」

 

 ワケわからん。さっきまでの思考でもよくわからなかった八千代のことが、更にわからなくなった。

 それよりもなぜこいつは俺と普通に話せているのか。それすらもわからない。

 

「いいからいいから」

 

 八千代は玄関まで入ってきて背後に回ると、肩をぐいぐいと押しながら、俺を外に出そうとする。やめて欲しいのだが、ゴルゴみたく殴るわけにもいかんしな……。ちなみに材木座なら一切加減などせず全力で拳を振り抜いてるし、戸塚なら180度回転して力強く抱き締めてる。

 

 というか、こいつが何をしたいのかこれっぽっちもわからん。そもそもこんなに積極的なやつだったか?

 

「……実は俺、家から出ると死ぬ病気に今日かかっちまったんだ」

 

「はいじゃあ今死んだね。行こっか」

 

 俺の足はもう玄関を越えていた。宅配便だと騙されて、靴を履いて出たのが仇になった。

 八千代は更に力を強めて、愛しの我が家から俺を引き剥がそうとする。

 

「まて、ほらあれだから。玄関じゃなくて敷地跨いだら死ぬやつだから。引き返すなら今だから」

 

「それも今死んだ」

 

 俺は既に道路のコンクリートを踏んでいた。

 こいつ、ラスボスみてえなこと言いやがって……。勝てるビジョンが一切見えねえ……。俺の命が12個あっても12通りの方法で殺されそう。こいつ英雄かなんかなのん?

 

「……せめて一回着替えさせろ。それか上着羽織らせろ」

 

 俺は自宅用の地味な、灰色のスウェットを着ている。この季節で外に出向くにはあまりに無謀だ。これではさすがに聞き入れざるを得まい。

 

「そのまま家から出て来なさそうだからダーメ」

 

 楽しそうに笑う八千代。おい鬼か。ぶっちゃけクソ寒いんだけど。いやマジで。頼むから助けて。

 

「あーもういい。自分で歩く」

 

 遠慮なく押し出されて、ズリズリと磨耗する靴底と精神が気になり諦めることにした。

 ご近所さんに見られてかーちゃんに告げ口されんのが一番怖い。そのあと小町に知られそうなのがマジで嫌だ。

 

「うん、よろしい」

 

 そのままスウェット男と制服女は道を練り歩く。気だるげな俺とは裏腹に八千代はふんふんと鼻歌まで歌って楽しそうだ。

 ……マジでこいつのことがわからなくなってきた。

 

 その調子で近所のラーメン屋に到着すると、八千代は躊躇なくガラガラ扉をスライドさせて入っていく。慌てて俺も続いた。

 今日は平日だ。当然だが店内に高校の制服を来てる客は一人いない。……こいつを除いて。

 店員や他の客の奇異な視線が俺たちに向けられる。それでも八千代は気にする素振りも見せず、俺に話しかける。

 

「何にする? つけ麺もありかな」

 

 そう言いながら財布を取り出し、券売機に野口を入れると、豚骨ラーメンの中盛を押す。

 

「決まってんなら聞く意味ねーだろ……」

 

 交代するように券売機の前に立ち、少し悩んだあと、俺は豚骨の大盛を押した。別に量で対抗しようとかそういうのじゃない。ほんとに違うんだからね!

 

 席につき、店員さんからお冷やを貰いながら食券を渡して落ち着いたところで、話を切り出した。

 

「何で、学校サボってまで俺とラーメン食ってんだよ。……それは、おかしいだろ」

 

 そう、この状況はおかしい。マッカン一本なんか恩でもなんでもないし、依頼はこいつ自身が終わりだと告げた。

 こいつが俺に関わる理由がない。

 

「何もおかしくないよ。僕がそうしたいから」

 

 修学旅行一日目の夜、ロビーでの別れ際にそんなことを言われたことを思い出した。

 

「お前……」

 

 そして何より、その一人称に驚きを隠せなかった。

 あの竹林で、それは失われたと思っていた。

 俺と似たような手段を使ったことによって。

 

 八千代が、改めて、そして堂々と僕と言ったことを、心のどこかで嬉しく思っている自分に気が付いた。

 

 やっと自分の気持ちを理解した。俺はこいつに、ただ傷付いて欲しくなかっただけなのだと。

 

 一週間かそこらの付き合いで、そう思ってしまった自分を認められなくて、結論が少し遅れてしまった。

 とある二人の顔が同時に浮かぶ。きっと俺は、彼女らにも同じ事を思うのだろうと。逆に彼女達は俺をどう思うのかと考えた。

 

「男友達と学校サボってラーメンだなんて、すっごい男らしいでしょ?」

 

 その晴れ晴れとした顔に、もう迷いや不安は存在しない。臆病な姿ばかり見てきたからか、そこに逞しさを感じずにいられなかった。

 何より、面と向かって友達と言われたことが、むず痒くて照れ臭い。

 

「……うっせ。そういうのは不良ぽいっつうんだよ」

 

 眩しいそいつを直視できなくて、いつの間にか目の前に来ていたラーメンに目を向け、ズズっと啜る。いやあっつ!

 自分が猫舌なの忘れてたわ……。舌の感覚がない。だが、朝啜った味噌汁なんかより、よっぽど旨く感じられた。

 

 八千代も慌てて箸を割る。……下手くそだなこいつ。手先が不器用なことを、今になって知った。

 これから、少しずつ知っていけるのだろうか。

 あの部室の、彼女達のように。

 

「あのさ、これ……やっぱスープ飲んだら太るよね?」

 

 八千代は不安そうにこちらを見る。それは俺のよく知る姿で、少しホッとした。

 

「気にするところが完全に女子じゃねえか……」

 

 彼女あるいは彼が、何を思って、あんなことをしたのかはわからない。

 いずれ話せる日が来るのだろうか。

 そう思って食べている姿をちらと見る。

 よく見ると、目の周りが赤く腫れていた。

 

 見てはいけないものを見てしまった気がして、気付かない振りをしようと、丼を上げてラーメンのスープをすべて飲み干した。

 

「……男なら黙って完飲だ」

 

 覚悟を決めたように、八千代が真似して丼を上げる。もう顔は見えない。

 

 朝は小町を怒らせてしまった。修学旅行では、雪ノ下と由比ヶ浜を強引にその場から引き剥がして、そのあとは喋っていない。目の前のこいつとも、核心には触れず終いだ。

 

 問題は山積みで、解決法もわからない。

 だがまあ何とかなるだろうと、苦しそうに丼を空にした八千代をみて、柄にもないことを考えた。




思いつきで書いたんですが、原作の一人称視点がある分書きやすかったです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

生徒会選挙編
11.その部屋の紅茶の香りはどこか薄い。


お気に入り1000件ありがとうございます! と思ってたらそれから300件ぐらい越えてて、前回からの伸びにビビってます。
読んでくれている皆さま方、本当にありがとうございます。

生徒会選挙編開始です。

できるだけギスギスしないように、と思いましたが普通に無理でした。
いやほら、原作からしてそもそもね……。

次話以降は明るい雰囲気の箇所も多めにしてバランス取るのでどうか何卒ご容赦を……。


「なあ……やっぱお前も来るのか?」

 

 制服に身を包んだ比企谷君がそう呟く。

 

「まあ、ね」

 

 あれから僕らは学校に戻り、特別棟の廊下を歩いている。ただし、その足取りは重い。

 

 奉仕部の部室の前に着く。

 その扉はいつもより、多少ぶ厚く感じられた。

 扉の取っ手に手を掛けようとして、やめた。今までこの扉は誰かに開けてもらっていて、自分で開けるのは少し怖い。

 

「ど、どうしよう……緊張してきた……」

 

「アホか、お前が行くって言ったんだろうが。せっかく家で寝てられると思ったのに……」

 

 比企谷君が呆れたような声を出す。

 そして、まるで普段通りかのように扉に手を伸ばした。

 

 これから、生徒会選挙の依頼がある。城廻先輩と、後輩の一色さんが来る。

 僕はともかく、彼は確実にこの部屋にいなければならない。

 ……いや、僕もここに来た意味ならある。

 彼女たちと、話さなければ。

 

「開けるぞ」

 

 ため息を一つついた後、ガラガラと比企谷君が扉を開く。

 そして、部室にいた彼女たちの談笑が止まった。

 

「ひ、ヒッキー? あと……ちよちよも……」

 

「休みと聞いていたけれど……来たのね」

 

 二人が驚いて僕らを交互にみる。比企谷君と、それから僕を。学校をそもそも休んだはずの比企谷君と、おそらく早退扱いになっているであろう僕がここにいることに驚いている。

 比企谷君は目を逸らす。僕も、同じようにしようとして止めた。

 彼から奪ってしまった意地の張りどころだ。

 

「うん。ちょっと……ね」

 

 そして比企谷君はいつもの定位置に、僕は依頼人の席に座る。

 紅茶の香りが鼻を掠める。それに雪ノ下さんが口をつけた。暖かいはずの紅茶を飲んでいるはずなのに、表情は冷たい。

 由比ヶ浜さんは迷いのある視線で僕たちを見ていた。

 意を決して、口を開いた。

 

「あのときの、ことなんだけど」

 

 空気は冷たい。まるで京都の、あの竹林に戻ってしまったように思える。ざわざわと聞こえるはずのない竹の葉の囁きが、幻聴となって耳を揺らす。

 言葉が出てこない。何を言えばいいのか、わからない。謝らなきゃいけないことはわかっている。でも、どうやって。どう言えば、伝わるのだろう。

 

「……ごめんなさいね」

 

 雪ノ下さんが、そう言った。僕の曖昧な態度が、彼女にどう映ってしまったのか。それは、何に対する謝罪なのか。

 比企谷君が、僕を不安げに視界の端で見ている。

 由比ヶ浜さんは俯いて、口を震わせながら何も言わない。

 

「えっと……それは……」

 

 言い淀んだ。確かに彼女たちからしてみれば、奉仕部に預けられた依頼によって、僕が振り回されたように見えるのだろう。

 僕は、謝りたいと思っている。でも、彼女らはそもそも僕に怒っている訳ではない。

 

「ちよちよ、あのね」

 

 由比ヶ浜さんがそう言って、おずおずと僕を見た。そして、そのあと比企谷君をちらりと見てから、俯いて黙り込んでしまった。

 

 僕が、何を思って戸部君に告白をしたのか。

 依頼のためか、はたまた本当に自分の気持ちか。

 それについて、彼女らは確信を持てていない。

 恐らくは前者だと察しているのだろうが、それを僕は否定も肯定もしていない。

 どうやって伝えるべきだろう。

 

 僕が責められるべきは、そのやり方だ。

 非難して欲しい。糾弾して欲しい。そのやり方は間違っているのだと、そういって欲しい。

 

 縋るように、比企谷君の方を向く。

 二人がダメならば、彼に僕を責めて欲しかった。

 それが出来ないことも承知の上で。

 

「ま、そのなんだ。……悪かったな」

 

 いつもと変わらぬ軽さで、比企谷君はそう呟いた。

 それから、辺りを沈黙が包んだ。どれほどそうしていただろうか。

 このままではいけないと、頭を下げながら口を開いた。

 

「謝るのはこっちだよ。みんな……ごめん」

 

「それは……どういう」

 

 コンコンとノックの音が響いた。

 雪ノ下さんの淡い問い掛けは、そこで消えてしまう。

 比企谷君がなぜか胸を撫で下ろしていた。

 

 暫くして、もう一度ノックの音が響く。

 

「……どうぞ」

 

 雪ノ下さんが、諦めたようにそう言った。

 

 

 × × ×

 

 

「邪魔するぞ。お、やはり来ていたか。信じていたよ」

 

 つかつかと床を鳴らしながら入ってきた平塚先生は、僕と比企谷君を感慨深そうに眺めるとそう言った。

 

「今は、少し間が悪いかね?」

 

 ひとしきり僕らを見回した後、平塚先生はそう言った。きっと僕らの間に流れる重苦しい空気を読んで。

 

「構いませんよ」

 

 比企谷君がそう口を開いた。言いたいことは言ったのだと、言外にそう告げていた。

 僕は、まだ何も言えていないのに。

 あるいは言わせたくなかったのだろうか。この二人の前で。

 僕がこれを言うことで、奉仕部の関係性が変わることを危惧して。

 

「……そうか」

 

 平塚先生は大きくため息を吐いて、頭を抱えた。そして、天井を仰ぎながら小さく呟いた。

 

「うまくフォローしたつもりでいたが……ままならんな」

 

 雪ノ下さんと由比ヶ浜さんが、不思議そうに平塚先生を見つめる。

 場を取り繕うように、比企谷君が聞いた。

 

「何か、用でもあるんですか」

 

「ああ少しな。依頼人がいるんだが……」

 

 そう言って平塚先生が廊下の方を見た。扉を開けようとする。

 その直前、雪ノ下さんが言いづらそうに制服のスカートを掴みながら、口を開いた。

 

「待ってください。その、八千代さんは…… 」

 

 僕は部外者だから、依頼に立ち合うことはないとそう言っていた。

 ……どうしたものか。確かに、僕が関わる理由はない。それは修学旅行前からそうだ。元々理由なんてものはない。

 でも、関わりたい。関わりたいと思う。

 そんな僕を見かねたのか、平塚先生が擁護に入る。

 

「雪ノ下。今までの活動のなかで、部外の者に協力を求めたこともあっただろう? 顕著なのは千葉村の依頼だな。まあ、いずれにせよ本人の意思と部長の決定次第ではあるが。八千代……どうだ?」

 

 平塚先生は僕と雪ノ下さんを優しく、交互にみる。

 ほんと、僕は誰かに頼ってばっかりだな……。

 

「手伝いたい、です。雪ノ下さん……ダメかな」

 

 僕はそういって遠慮がちに、しかし確かな意思を込めて雪ノ下さんを見た。

 雪ノ下さんはゆっくりと目を瞑り、しばらく何も言わなかった。そして、一度深く呼吸をしたあと、ゆっくりと目を開いた。

 

「了承したわ。でも……依頼の内容次第よ」

 

 最後の方は、少し小さい声になって掠れていた。

 

「うん、ありがとう! よかったぁ」

 

 僕はそういって比企谷君を見た。本当によかった。比企谷君へ与えた影響の責任は取らなければ。

 由比ヶ浜さんと雪ノ下さんが、訝しむように彼を見た。俗に言うジト目というやつか。

 三人からの視線を受けた比企谷君は、居心地悪そうに身を少しよじった。

 とにかく認めてもらえたようで、何よりだった。

 

「ゴホン。まあよかろう。では……入ってきていいぞ」

 

 平塚先生の言葉の後に続くように入ってきたのは、おさげ髪のどこかゆるゆるとした雰囲気を持つ現生徒会長、城廻先輩。

 そして、緩くカーブした亜麻色の髪を肩ぐらいまで伸ばし、ゆるゆるとした雰囲気を作り出している次期生徒会長候補の一色いろはさんだった。

 

 出入り口に一番近い比企谷君が、誰だこいつといった視線を一色さんに無遠慮にぶつけた。

 一色さんは、制服の袖口を掴んだままその手を軽く比企谷君に振ってあざとくはにかんだ。む。むむ? 

 なんだこのムズムズは。

 

「あ、いろはちゃん」

 

 違和感というか、僕の胸のしこりはさておいて。

 由比ヶ浜さんが声をかけると、一色さんはちょこんと首を傾けた。

 

「結衣先輩、こんにちは~」

 

「やっはろ~」

 

 一色さんと由比ヶ浜さんが挨拶を交わす。

 

「そっか~。二人は知り合いなんだね~。あ、そっちの子は初めましてだね! 生徒会長の城廻めぐりっていいます」

 

 城廻先輩はそういって僕にはにかんだ。一色さんのとは違う天然物だ。やっぱり養殖より天然ですよね。うんうん。通にはわかっちゃうんだよな。

 

「は、初めまして。八千代といいます」

 

 それから、僕は由比ヶ浜さんの隣に席を移して、二人のスペースを作った。

 城廻先輩と一色さんは奉仕部の依頼人スペース──つまりは僕と由比ヶ浜さんの向かいに座る。

 

 城廻先輩がここへ来たことを疑問に思った由比ヶ浜さんや比企谷君が、先輩へ疑問の視線を向ける。

 それに答えるように、城廻先輩は口を開いた。

 

「もうすぐ生徒会役員選挙があるのは知ってる?」

 

 二人は一様にきょとんとした顔になった。得心がいっているのは、僕と、それから雪ノ下さんだ。

 

「ええ、確かもう公示も済んでいましたよね」

 

「そうなの、立候補がいなかった書記以外はもう発表されてるの」

 

 城廻先輩は嬉しそうにぱちぱちと拍手をした。

 それにしても、やっぱり雪ノ下さんはこの時点で役員選挙への知識を持っているんだな。

 

「本来ならもっと早いはずだったんだが立候補者が集まらなくてな。学校側もついつい城廻に甘えてしまって……」

 

 平塚先生が申し訳なさそうに頭をかいた。

 

「いえいえ、私は指定校ですから受験はありませんし」

 

 城廻先輩はそういってぶんぶんと手を振る。ほんわかするなぁ。戸塚君といい、僕はこういうタイプに弱いんじゃなかろうか。

 しばらく見ていると、視線に気付いた城廻先輩はこほんと可愛らしく咳払いをして、話を戻した。

 

「そうそう、説明しないとね。現生徒会役員はね、最後の仕事として選挙管理委員会をやっているの」

 

 それから城廻先輩は少しずつ現状を語った。

 

 1.一色さんが生徒会長として立候補したこと。

 

 2.その立候補が本人の預かり知らぬところで、イタズラとして行われていたこと。

 

 3.立候補の取り下げは規約に明記されていないため、事実上不可能であること。

 

 まとめると、こういうことだ。

 僕は原作での知識があった分、この辺の話は聞かずとも知っている。

 由比ヶ浜さんは興味がないこともあってか話に付いて来れなさそうではあったが、雪ノ下さんが豊富な知識に持ってカバーしていた。

 それにしても、やっぱり雪ノ下さんは……。

 

「取り下げが出来ないとなると……信任投票ですね」

 

 僕の思考を遮るように雪ノ下さんの声が響く。

 議題は、どうやって落選するかに移っていた。

 僕の頭と心が急速に冷える。

 

「まあ、負けるだけならやり方はあるけどな……」

 

 比企谷君がそう呟いた。……やはり、そうなってしまうのか。

 反応した一色さんがそれを聞いてむーっと膨れながら、ぷりぷり怒った素振りでと比企谷君に迫った。むむ? 

 

「ていうか、信任投票で落選って超カッコ悪いじゃないですかー! そういうのは恥ずかしいし、嫌なんです!」

 

 おいおいとは思いつつも、一色さんは悪くないのだから誰も咎められない。……とはいえ、この言動が遠因であることに変わりはないと思う。

 

「まあそれでもやり方はあるが……」

 

 比企谷君がそう呟く。城廻先輩がきょとんと小首を傾げ、彼を見た。

 その視線に答えるように、比企谷君は城廻先輩にいくつか質問をすると、一度考え込んでそれから深く頷いた。

 

「最悪信任投票で負けても、一色はノーダメージで切り抜けられればいいってことですよね。要は、一色が原因で不信任にならなければいい」

 

「……どうやって?」

 

 彼に、このやり方を、やらせるわけにはいかない。

 今まで黙りこくっていた僕が口を開いたことによって空気が多少ピリつく。

 それに負けることなく、比企谷君は口を開いた。

 

「応援演説が原因で不信任になればいい。……そうすれば、誰も一色のことは気にしない」

 

 不穏な沈黙が生まれる。

 由比ヶ浜さんは、悲しげな顔で僕と比企谷君を見て、それから袖をギュッと握りしめた。

 城廻先輩も一色さんも、空気の変化に敏感なのか、戸惑ったように辺りを見回して、それから下を向いた。

 

 これを、言わせたくなかった。

 

 コツンと軽い音が鳴る。雪ノ下さんが机に腕を置いた音だ。その音は沈黙のなかでは思いの外大きく響く。

 雪ノ下さん自身も少し驚いたように、腕を少し自身の方へ引いた。

 

「その……やり方は……」

 

 言いづらそうに口を震わせながら、どうにか言葉を繋ぐ。それは、断罪するような物言いの強さは無く、ただただ弱々しかった。雪ノ下さんは、まるでこれまでワガママを言ったことのない子どもかのように、窮屈そうに身を縮こませた。

 

 修学旅行では、その方法を取ったのは彼ではない。だから面と向かって否定できないのだろう。

 しかし雪ノ下さんは恐らくは気付いている。最初に誰が、あれをやろうとしたのか。

 

「それってさ……誰が、やるの?」

 

 由比ヶ浜さんが言葉を継ぐように告げる。先程のように比企谷君と、それから僕を見た。しかし、そこにあったはずの悲壮感はもうない。強い意思だけがあった。

 

 僕は、耐えられなくなって目を逸らした。

 比企谷君の様子が気になって少しだけ見てみると、彼もこちらを気にしていたようで、目が合った。

 短く、ボソボソと言葉を発する。

 

「ああ、それは──」

 

 そして、何かを決心したかのようにゴクリと、いいかけた言葉ごと嚥下して、由比ヶ浜さんに向き直った。たった少し角度を変えただけなのに、彼の影はこちらから見えなくなる。

 そうして再び、今度はハッキリと口を開いた。

 

「いや、やっぱ、この案は無しだ」

 

 その瞬間、由比ヶ浜さんが胸を撫で下ろすように小さくついた安堵のため息が、僕に聞こえてきた。

 それから彼女は嬉しそうに「うん」とだけ呟いた。

 

 よかったと。僕が修学旅行でやったことにも、少なからず意味はあったのだと、そう僕も安堵した。平塚先生も少しだけ目を見開いていたが、すぐに優しげな顔に戻って深く頷いた。

 

 ただ一人、雪ノ下さんだけが、困ったように僕を見ていた。

 

「だとしたら、別の案が必要ね」

 

 そういって彼女は寂しそうに微笑んだ。

 机に置かれた手は、行き場を無くしたようにさ迷っている。その手を、由比ヶ浜さんがちょこんと指で握った。

 

「みんなで、考えよっか」

 

「ま、そうだな……」

 

 三人の関係は、たぶん良好だ。

 しかし、それはやはり薄氷を踏むようなものなのだろう。

 原因は僕にあることを、この時点である程度理解していた。

 僕に何が出来るだろうか。

 

 雪ノ下さんを見た。

 彼女が生徒会長になりたいことを、僕は知っている。

 言わずとも理解して欲しいことも知っている。

 だが、僕じゃない。

 それを理解して欲しいのは、きっと僕じゃないんだ。

 僕は、ただ知っているだけなのだから。決してこれを理解とは呼ばない。

 

「じゃあ、どうしよっか」

 

 努めて明るく、声を出した。震えていないだろうかと自分の喉を触る。喉仏の出ていないその首はしっかりと高い声を出していたようで、誰に不審がられることもなかった。ただ一人、僕を除いて。

 

 僕以外の三人が、三者三様にうんうん唸りながら案を出す。

 雪ノ下さんか、あるいは比企谷君から、お互いの案に反論が出る度に空気が底冷えて、由比ヶ浜さんと僕が何とか暖めようと割って入る。

 

 ああ、まるで壊れかけのガラス細工だ。

 指の先から冷たさしか感じられず、扱いを誤れば割れて怪我をする。

 でも何もないよりは。僕が『僕』であったころ、空虚に、本の世界に逃げ込んでた頃よりはよっぽどマシなのだと。そう、思えてしまった。

 

 

 × × ×

 

 

「今日はもう遅い。詳しい話はまた明日にしようか」

 

 平塚先生が、僕らに言う。

 冬が深まるにつれ、日が暮れるのも早くなる。とっくに夕陽は空との境界の真ん中にあった。

 窓から差し込む陽光が、色濃く部屋を照らしている。

 

「その方がいいでしょうね」

 

 結局、話はうまく纏まらなかった。

 

 最も無難な策は候補者の擁立。しかし、一色さんに勝てる人を候補者として挙げるのは難しい。

 高校での選挙など所詮は人気投票に過ぎず、女子から反感を買っているとはいえ、容姿に優れた一色さんよりも票を稼げる人間は少ない。

 よしんばいるとしても、葉山君など既に部長などのポジションにいると、生徒会には参加できない。

 

 この辺は、原作でも説明されていたところだ。

 ただ違うのは……。

 

「では、また明日。放課後に一色さんから詳しく話を聞きましょう」

 

「おう」

 

 二人が表立って対立していない、ということ。

 原作では、雪ノ下さんと比企谷君の意見は別れ、奉仕部はしばらく自由参加となる。

 だが、そうはならなかった。

 彼が今までの手段を取らなかったことによって。

 

 これは本当に良いことなのだろうか。

 僕より、少しだけ背丈の大きい平塚先生を見上げる。

 大切に思うということは、傷付ける覚悟をすることだと。そう言っていたのは、この人だったはずだ。

 

 全員で揃って部室を出る。雪ノ下さんがカチャリと鍵を閉めた。

 その扉は、来たときとは違って、酷く薄っぺらく感じられる。

 

「じゃ、帰ろっか!」

 

 由比ヶ浜さんが元気に宣言する。

 

「自転車取ってくるわ」

 

「あっちょっと待ってよヒッキー! ほら、二人も早く早く!」

 

 スタスタと歩き去る比企谷君を、由比ヶ浜さんが走って追う。一瞬、寂しげな顔をしていたのは気のせいだろうか。

 

 雪ノ下さんは少し迷って、平塚先生にゆっくりと鍵を差し出した。

 

「ここで返してしまって、いいでしょうか」

 

「ああ、構わないよ」

 

 平塚先生は鍵を受けとると、大事そうにポケットにしまって、この場を去った。

 雪ノ下さんがこちらを伏し目がちに見て、それから言葉を発する。

 

「あなたは……なぜ依頼を手伝うと?」

 

 明瞭な答えが、すぐに出てこなかった。

 だから、ただ素直に言葉を発した。

 

「関わりたかったから、じゃ、ダメかな」

 

「そう、なのね。あなたが……羨ましいわ」

 

 雪ノ下さんはそう言って、口を閉ざした。それから微笑んでこちらを見た。

 

「……急ごっか。置いてかれちゃう」

 

 何を羨まれたのかがわからなくて、会話を続けられず、そう促した。

 

 由比ヶ浜さんたちと合流するまで、会話はなかった。

 雪ノ下さんはもう、生徒会長に立候補する決心がついているのだろうか。

 原作で、彼女はそれになれなかった。だから、もし彼女が会長になったときに奉仕部がどうなってしまうのかはわからない。

 

「ゆきのん、今度マフラーとか買いにいかない? もう最近ほんと寒くってさー」

 

「そうね……。もう本格的に冬の寒さだわ」

 

 雪ノ下さんが、白い息を吐く。その姿はどこか幻想的で、目を奪われてしまう。しかし息はすぐに空気中に霧散して、その儚さも失われてしまった。

 

「あれだな、こうも寒いと家から出たくないな。なんならもう一生出ないまである」

 

「ヒッキー、たぶんそれ小町ちゃんに嫌われるよ」

 

「うぐっ……やっぱ冬こそ体を暖めるために外で体を動かさなきゃな」

 

 由比ヶ浜さんと比企谷君がいつものように漫談を始める。雪ノ下さんはそれを見守るように眺めていた。

 

「比企谷君がそんなこと言うなんて……明日は槍かな。あ、家こっちだから。じゃあね」

 

 分岐路で別れを告げる。もう少し後で曲がっても家には辿り着けるのだが、こちらの方が少し早い。

 

「おい。せめて降らすなら雪ぐらいにしとけよ。……またな」

 

「じゃあねーちよちよ!」

 

 二人がそう言って僕を見送る。

 

「雪ノ下さんも、じゃあね」

 

「ええ……。さよなら」

 

 三人と別れて歩く道すがら、今一度自分の考えを整理する。

 

 彼らの不和の原因は、おそらく僕にある。

 僕の修学旅行での行動が尾を引いていることは確かだ。

 僕が身を引けば、彼らは元の状態に戻れるだろうか。

 

 僕は、奉仕部の三人と仲良くしたい。

 でも、彼らのことを外から見守っていたいという、現代語でいうところの厄介なオタク染みた感情も確かにあって。

 仲良くしたいと、見守りたい。

 距離の近い選択肢と、遠い選択肢。

 この二つは、大きく異なる。

 

 僕は僕のやりたいことをやろうと決めた。

 だが、それが相反している場合はどうすればよいのだろう。

 きっと二つは平等な感情などではなく、天秤に乗せてしまえばどちらかに傾くのだろう。

 

「そんな、こと」

 

 したことがない。そんな重たいものを天秤にかけたことなど、過去に一度もなかった。

 重みだけを優先して、軽い方の感情をきっぱりと捨ててしまえるのか。それで、後悔しないのだろうか。経験のない僕には、わからない。

 

 そしてその選択は、誰かの選択を切り捨てることにならないだろうか。

 もっと具体的に言うなれば。

 奉仕部の存続のために、雪ノ下さんの気持ちを踏みにじってしまわないだろうか。

 

「あら、お帰り。今日は遅かったのね」

 

 いつの間にか家についていたようだ。

 珍しく早く帰ってきていた母親が、花壇に水をやりながら声をかけてきた。

 

「うん、ただいま」

 

 気まずいことを悟られないよう普通に返事をした。

 かーさん、お母さん、……ママ? 

 わからない。本当の母親じゃないのだから。

 この家に来てから一度も、呼んだことがない。

 

 鍵の空いている扉を開け、家に入る。

 一直線に自分の部屋へ入り、シワも気にせず制服でベッドに寝転がる。

 

「あー……つっかれた……」

 

 長い一日だった。

 浮いたり沈んだり激しい一日でもう体力がない。

 今日は、本当に疲れた。

 もともと人付き合いが得意な性格でもないのだ。

 

「どうすれば、いいんだろうな」

 

 知らなくもない天井に向けて呟いた。

 謝ることは出来た。ただ、僕を含め、誰も納得してない。

 そもそもどう謝ったものか。何を悪いと思ったのか。

 

 そして、その対象は彼女らだけではない。

 僕が泣かせてしまった女の子への責任も果たさなければ。

 

 意識が段々と薄れる。それを、そのままベッドに手放した。

 今日できなかったことは明日やろう。そう、働かない人間の典型文を添えながら。

 




のっけから重たくて申し訳ない。
彼も明日からはちゃんと頑張るので……。

一応全7話程度を予定してますが、大幅に前後するかもしれません。

感想、評価、お気に入り等お待ちしております。

あと、やっと最近ここすきが見れるのを知りました。
あれかなり嬉しいですね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12.それは人類にとって小さな一歩だが彼には偉大な進歩である。

生徒会選挙第2話です。
奉仕部の微妙な関係は大きく変わることはありません。が、それ以外がちょっとだけ進みます。



 今日は朝から嫌な夢を見た。多分、僕の昔の記憶……だった気がした。といっても、一度起きてしまえば夢は記憶から綺麗さっぱり消えてしまうものだ。もう詳しい内容は覚えていない。

 

 寝汗を拭き、学校へ行く支度をする。メイクやヘアアイロンはもう慣れたものだ。こちらへ来てから二週間ほど経っている。そのうち四日間は修学旅行に行っていたけれど、それは些末な問題だ。人間は適応するのが早い。ちょっと早すぎる気もするけど。

 

 食卓に並べられた朝ごはんをむしゃむしゃと食べる。八千代家の基本の朝食はトーストと付け合わせ。今日の付け合わせはベーコンエッグだった。ベーコンよりはウインナーが良かったなぁというのは、親に用意してもらった身として贅沢な気がする。

 両親は朝早く家を出るからいつも一人で食べるし、今日も一人だ。少々冷たい朝食だけど、気まずい食卓を囲むよりはよっぽどマシだ。生活には慣れても両親にはまだ慣れていない。家族とはいえ他人、とはよく言うが僕の場合は本当に他人だ。

 

「……ごちそうさま」

 

 一応は言っておくかとそう呟く。僕一人には余剰なスペースに声が響いた。食卓は広すぎる。いっそ四畳ぐらいでいい。いやそれは狭すぎる。

 アホな考えばかりが脳をグルグル巡る。あまり頭が回っていない証拠だった。

 

「いってきます」

 

 昨日の授業をサボったせいか、はたまた奉仕部の綱渡りな空気感のせいか。休み明けのような気だるさで始まる一日だ。

 新しい朝は絶望の朝だった。ラジオ体操のウソつき。

 

 家を出て学校へ。街路樹のある通りをただ歩く。大部分が枝のみになって痩せ細った木々は、嫌でも秋の終わりを実感させる。足元の落ち葉は既に色鮮やかな秋の装いから、枯れ果てた焦げ茶色へと姿を変えている。踏みしめると、ガサガサと乾いた音だけが聞こえてきた。

 昨日まではまるで目を向けられなかった冬の千葉が、そこにあった。

 

 学校の敷地に入り、足早に、しかし目立ちすぎないよう校内へと入る。そのまま教室へもスルリと入り込む。話し込むクラスメイト達とは正反対に、なるべく音を立てないよう自分の椅子を引いた。

 いつもであれば周囲の喧騒など睡眠のBGMに過ぎないが、今朝は少し違った。

 

「いや~でもやっぱもう冬だべ? 朝起きたとき布団から出たくないつーか?」

 

「それは戸部が怠け者なだけだろ?」

 

「いやそれな。むしろ戸部な」

 

 上から戸部君、葉山君、あと……何だっけ。大岡君だか大和君だか。どっちがどっちか忘れた。

 

「でもあたしもあるかなぁ。優美子は?」

 

「あーしの部屋ガンガン暖房効いてっからさー」

 

 彼らも彼女らもいつも通りだ。修学旅行以前から特に変わったところもない。いや、きっとそう見えているだけなのだろう。変わらないよう演じているだけなのだ。みんなで、何も無かったように振る舞っているだけだ。

 

 ただそれでも、あのグループにとって大きな意味を持つのだろう。例えそれがただの延命措置であっても。

 

 そこまで心配でもなかったが、葉山グループは表面上といえど崩壊していないとの結論が出た。

 その中でも一人、海老名さんの様子が気になったが、敷き布団の誘い受けがうんちゃらかんちゃらとかいって鼻血を放出する様子を見て安心した。いやこれで安心するのもどうなんだろう。

 

「八幡、おはよ!」

 

「おはよう。……結婚してくれ」

 

 そしてこちらの音声が誰かは、まあ言うまでもないだろう。こんな妙な挨拶の風景をあちらこちらで見せられても困る。ちょっと役得すぎて困る。

 ただ彼も、概ね日常に変化はないらしい。

 

「なんか普通に挨拶だね。八幡」

 

「へ? 今の……普通か?」

 

 たぶん。

 いややっぱり挨拶ついでに求婚するのは普通じゃないと思います。あとごちそうさまです。

 

 

 × × ×

 

 

 昼休み。授業を聞き流していたらいつの間にか昼だった。八千代家は弁当がある日とない日が半々ぐらいで、今日はない日だ。代わりにお小遣いが貰える日。

 教室に居づらいのでよかったと安堵しつつ、購買で適当にパンを買った。どこで食べよっかな。

 

 その時、廊下を駆け抜ける冷たい風に身を包まれて、あの場所を思い浮かべた。特定の時間に潮風が吹くその場所に彼はいるだろうか。いやこの寒さではいないだろう。

 そう思って覗いてみた。

 

 いた。なんでだ。寒いのに。

 少し迷ったけれど、意を決して曲がったその背中に声をかけてみた。

 

「こんちは。なんかあれだね。一昔前のギャルゲーみたいだね」

 

「うおっっ! っぶねメシ落としかけたわ……。急に後ろから話しかけんなよ。うっかり心臓止まっちゃうだろ」

 

 特定の場所(ベストプレイス)に行くと必ず会える、マップ選択タイプのゲームにいそうなヒロインこと比企谷八幡君が驚いていた。ていうかヒロインなんだ。

 比企谷君はこちらを勢いよく振り返って、それから落としそうになったご飯を慌てて掴み直していた。

 

「つーか何だよ今の。俺ときメモぐらいしか知らないからわかんないんだけど」

 

 表情にありありと困惑が浮かんでいる。伝わらなかったか。

 どうやらその辺の造詣は深くないらしい。ラノベやアニメにはあんなに詳しいのに……。材木座君が泣くぞ。すぐ泣くぞ。絶対泣くぞ。ほら泣くぞ。

 

「ときメモ? なにそれ。それより、ここでご飯食べていい?」

 

 比企谷君より知識があるのも何となく恥ずかしいので素知らぬ顔をしてやり過ごした。

 あと、ご飯は教室では食べづらいし、奉仕部に行くのも少し勇気がいるので聞いてみた。ここは丁度いい逃げ場所だ。

 比企谷君は露骨に嫌そうな顔をして口を開いた。

 

「ときメモ知らないのかよ……。あとここは別に許可がいる場所じゃない。食いたきゃ勝手に食え」

 

「でも一緒に食べて噂されると恥ずかしいし……」

 

「いやお前から言ってきたんだが? 上げて落とすとかさすがの詩織さんもそこまで鬼畜じゃないわ。てかやっぱ知ってんじゃねえか……」

 

 怒濤のツッコミを見せた比企谷君は、呆れと疲れのため息を同時に吐くという器用な真似をしてみせた。

 ちょっぴり楽しくなってしまった自分を隠すように隣へ座って、パンの袋を開ける。そのままガブリと、コロッケパンへ囓りついた。

 

「その炭水化物太るぞ」

 

 その打球消えるよ、みたいな口調で語りかけられた。ジトっとした目もセットで。いや比企谷君の場合はデフォルトの目かもしれない。

 まあまあ気にしてることを言われてムッと来てしまう。

 

「いやいや、美味しいものはノーカロリーだよ」

 

「トンデモ理論すぎるだろ。水素水が実在するって言われた方がまだ信じられるわ」

 

「いやあ水素水はちょっと。血液クレンジングぐらいのレベルの理論だよ?」

 

「それを同レベルって言うんだが……?」

 

 言葉のキャッチボールをしながら二人でご飯を食べ進める。朝食よりも美味しく感じられるのは、きっと気のせいじゃないだろう。

 

 僕よりも早く食べ終わったらしい比企谷君がボケッとテニスコートを眺めている。テニス部は昼練の最中らしく、風に乗って元気な掛け声が聞こえてきた。

 なんだか穏やかな時間だ。この時間がずっと続けばいいと思えてしまう。何が要因でそう感じているのだろう。彼の存在か、あるいはこの場所か、そのどちらもなのか。きっと暖かい春にはもっと居心地が良くなるのだろう。

 

 ただ、甘えてはいけない。

 こんな時間はただのボーナスタイムやロスタイムであって、本筋から目を逸らしているにすぎない。

 僕も彼も、目を逸らすのは得意分野だった。

 

「あのさ、一つ……聞いていいかな」

 

 食事を切り上げて、口のなかに残る食べ物を無理矢理飲み込んだ。代わりに本題を吐き出す。

 

「……何だよ。わざわざ改まって」

 

 僕の雰囲気が変わったことを察してか、比企谷君は声のトーンを落とした。正直怖いけど、聞かなければ前に進めない。そう思って口を開いた。

 

「昨日さ。何で僕の話を止めたの?」

 

 比企谷君は昨日、僕を咎めるどころか謝罪までしてきた。それはまだいい。きっとみんな、自分が悪いと思っているのだから。

 

「別に止めてはねーだろ」

 

「ううん。平塚先生が来て、止めたよ」

 

 でも平塚先生が来てからは違う。

 わざわざ、奉仕部と僕が話す機会を奪ったのは比企谷君だ。先生が出直すことをやめたのは、彼が構わないとそう言ったからだった。彼がその場を打ち切って、雪ノ下さんの疑問と僕の発言を封じた。

 苦々しい顔の比企谷君に、追い討ちをかけるかのように言葉を重ねる。

 

「……僕はまだ、あれを嘘だったって言えてないよ」

 

 あの戸部君への告白は嘘だったのだと、そう言えていない。現状それを明確に知っているのは比企谷君だけだった。

 

「察しちゃいるだろ。あいつらも」

 

 それはおそらく正解だ。でもその事実が、僕の首を真綿で絞めるようにジワジワと苦しめる。

 察しているだけだからこそ、踏み込めないのだと。

 怒ってくれた方が、ハッキリと感情をぶつけてくれた方がまだマシだった。どこか遠慮がちに触れられるよりは、よっぽど。

 

「それじゃ駄目だよ。みんなに、謝れないよ」

 

「いや、そもそも戸部や海老名さんの依頼に巻き込んだのはこっちだ。お前が謝る理由がない」

 

 比企谷君はまるで答えを用意していたかのようにそう言った。

 謝る理由が、まだ僕にはわからない。でもあの修学旅行からずっと罪悪感は消えてくれず、僕の中で未だに燻り続けている。

 僕は比企谷君や彼女たちを間違いなく傷付けていて、でもその傷口がどこにあるのかわからなかった。

 

「わかんないよ。でも……謝らなきゃって思う」

 

「じゃあ、あいつらに言うのか。お前の、その……性別のことも」

 

 比企谷君が初めて言葉に詰まった。きっと彼はこのことを言わせたくなかったのだと、僕はそう直感した。

 僕の性認識が男であることを言わせたくない。その理由を考えてみる。

 ああ、そうか。

 一度気付けば、それは簡単なことだった。

 

「旅行中、部屋も僕と一緒だったもんね。由比ヶ浜さん」

 

 素っぴんだって見てるし、お風呂上がりのあどけない姿や寝起きの姿だって見ている。

 もちろん目を向けないよう気を付けていたけれど、そんなの本人には知りようがないことだ。

 

 四日間の共同生活を送った相手が、内面だけとはいえ異性だったら。もっと端的に言うなら、女子部屋に実は男がいたら。

 いい気がしないなんてもんじゃない。

 おぞましいとすら感じるだろう。きっと。

 

「僕が由比ヶ浜さんに嫌われるって思った?」

 

 比企谷君はまだ苦い顔のまま頭をガシガシと掻いて、言いづらそうに声を絞り出した。

 

「……あいつは多分、そんなことでお前のこと嫌わない。でも……接し方とか、見る目は変わってくるだろ」

 

 結局は、朝見た葉山君のグループと同じだ。

 特定の誰かに深い傷を付けないために、みんなでそれを飲み込んで、平等に分配する。

 彼らにとっては戸部君と海老名さんの傷を、僕らは由比ヶ浜さんと僕の傷をそれぞれ分散した。

 

 いつも通りを維持しようと、停滞するための延命措置。核心に触れず蓋をするためだけの手段。

 それは僕も同じだった。

 僕だって、この場を取り繕っていた。

 

 あの寒々しい京都の夜のこと。

 なぜ嘘告白という手段を選んだのか。

 そもそも、なぜ僕が戸部君の告白を阻止したのか。

 それをまだ比企谷君に伝えていない。

 そんな僕に、彼を責める権利などなかった。

 

「それでも、いつかは言うよ。二人にも……比企谷君にも」

 

 僕は立ち上がって、スカートについた埃をパンパンと払って、膝下のタイツをキュッと上げる。

 比企谷君の何か言いたげな視線が刺さった。少し待ったが、言葉が飛んでくることはない。

 

「じゃあ放課後、部室でね」

 

 そう言って彼を置いて立ち去った。今の僕は、彼に真実を告げることはできなかった。それはなぜか。問いの一つは、答えがまだ出ていないから。

 

 どうして嘘の告白なんてやり方を選んだのか。

 その答えは既に出ている。

 彼のやり方を間違っていると、彼自身に伝えるためだ。

 

 ではそもそも、戸部君の告白を阻止しようとしたのは何故か。海老名さんを助けたのは何故か。

 ──比企谷君の邪魔をしたのは何故か。

 その答えを、僕はまだ出せないままでいる。

 

 

 × × ×

 

 

 寒々しさは外から午後の教室内にも押し寄せていて、そしてそれは放課後の奉仕部でも同じことだった。

 

 僕らは四人で集まっていて、そこに一色さんがやってくる。昼の様子からもしかしたら比企谷君が来ないのではと心配だったが、由比ヶ浜さんがしっかりと連れてきてくれたようだった。

 

「では一色さん。話を伺いましょうか」

 

 雪ノ下さんがそう言うと、空気がより一層冷たくなったように感じた。これは僕の被害妄想かもしれないけど。

 

「そうですねー。昨日も話したことなんですけど、私的には信任投票で落ちるのは嫌っていうかー」

 

 ゆるゆると間延びした声で一色さんが答える。そんな様子に由比ヶ浜さんは苦笑いをしていて、比企谷君はヒクヒクと引き笑いをしている。雪ノ下さんは終止真顔で見つめていた。

 

「え、えと何で嫌なのかな~ってこともいちおう、聞いときたいんだけど……」

 

 それが恐ろしいのか、場を取り持つように由比ヶ浜さんが一色さんに質問する。

 

「えーだって信任投票って勝って当たり前じゃないですかー? それで負けるって超恥ずかしいじゃないですかー」

 

 要は恥ずかしくない負け方をすればいいのだろう、と思う。一色さんのプライドを保てるようなそんな負け方を。信任投票の敗北ではその条件を満たせない。

 

「ではやはり、別の候補との決選投票にするしかないわね」

 

 昨日、僕も含めた四人で話し合った結論はそれだった。ただいくつもの問題点があって、それがこのやり方を進められない原因でもあった。

 

「候補は今のところいないんだよね?」

 

「うん。それはまだ……」

 

 僕の問いかけに由比ヶ浜さんが顔を逸らしながら答える。昨日はそもそもここで躓いていた。

 一色さんに勝つための本命候補がまだ存在していない。

 彼女の人気に勝てて、なおかつ手隙の人材などそこらに転がっているものではない。

 

「追加候補の最終受付っていつまでだ?」

 

「再来週の月曜日。といっても受付はこの日のみよ。投票はその週の木曜」

 

 比企谷君の疑問に、食いつくように雪ノ下さんが答えた。

 今日は既に火曜日の放課後で、つまり受付まであと二週間を切っている。

 とはいえ受付は月曜日のみで、だからこそ、その日まで立候補のするしないには融通が効く。

 

「それまでに候補見つけて三十人の推薦人集めて選挙活動ね……」

 

「時間がないことを嘆いても仕方ないわ。一色さん。あなたには出来ることをやってもらいます」

 

「え、あ、はい!」

 

 急に話を振られた一色さんが背筋を無理矢理伸ばしながら答える。すると、雪ノ下さんは一枚の紙を取り出した。

 

「これが私たちの候補に宣言させる公約よ。目を通してくれるかしら。一色さんにはこれと違う内容で演説をしてもらうわ」

 

 一色さんは伸ばした背筋を崩すことなく、ロボットのように固い仕草で紙を受けとるとさっと読み始めた。

 読み終わったあとは、回し読みするように由比ヶ浜さんに回り、僕に回り、そして比企谷君の手元へと向かう。

 そこには、公約としての条件が二つほど書かれていた。いずれも簡素な内容で学生としての本分を逸脱しない、優等生らしきものである。

 

「よく一晩でここまで考えたな。でもな……これじゃ傀儡候補だろ」

 

「それは……」

 

 比企谷君の厳しい視線を受けて、雪ノ下さんの言葉が詰まる。

 これじゃ……昨日の焼き直しだ。二人の、罵り合いに発展してもおかしくないこのヒリついた空気感。避けようとしても、結局はここに行き着いてしまう。

 

 室内に、しばらく沈黙が訪れた。

 やがて雪ノ下さんがその静寂を破ろうと、比企谷君を見返して小さく声を上げた。

 

「では……他にやり方があるの?」

 

 その声はどこか震えていて、どこかの物陰からこちらを伺っているような姿を想起させた。

 その質問に比企谷君がどう答えるのか。

 昨日も似たような問いがあった。だが今日も同じ答えとは限らない。それが怖くて、僕はただ下を向いて自分の弱々しい拳を見つめるほかなかった。

 

「ないことも、ない」

 

 それは肯定とも否定とも取れない答えで、僕らにのし掛かっていた重たい空気は、さらにその質量を増した。

 そのやり方がどういうものかは一色さん以外の全員が知っていて、その誰もがそれを否定する言葉を持ち得なかった。ただ一人、僕を除いて。

 

「比企谷君……。……嫌だよ」

 

 しかし言葉なんてものは無力で、本ばかり読んできた僕だろうとそれは変わらない。自分の気持ちを十全に表すことなんて出来やしない。まして僕には、耳触りのいい言葉をかけられる度量も器量もない。

 だから、こんな陳腐な言葉でしか表現できなかった。でもきっとそれがすべてだった。

 そんな僕の想いが伝わってか、伝わらずか。

 

「……わかってるよ。それこそ嫌ってほどな」

 

 比企谷君は昼のときのようにガシガシと頭を掻いて、それから深く息を吐いた。

 それを皮切りに、僕たちを覆っていた空気が弛緩した。由比ヶ浜さんも一色さんも、緊張で上がっていた肩はもう下りている。

 

 きっと、彼が今までの手段を取ることはないのだろうと。少なくともこの生徒会役員選挙ではそうはならないだろうという確信めいた予感があった。

 だから僕もどこか気が抜けていて、だからこそそのか細い声がよく聞こえてしまったのだと思う。

 

「あなたは、変わったのかしらね……わからないわ」

 

 ただ悲しげに呟くその声だけが、嫌に耳に残った。

 

 

 × × ×

 

 

「じゃあ、また明日ね」

 

 帰り道で三人と別れるのも、もう慣れたものだ。一本早い分岐路を使って一人の時間を確保する。嫌なこなれかただなぁと自分でも思う。

 

 今日一日の放課後を使っても、結論は現状維持だった。選挙の依頼も、奉仕部の雰囲気もそのどちらもだ。

 一色さんの方は、有力な候補を立てて選挙で負けることを目標にしたままだ。奉仕部の一触即発な空気は多少マシになったものの、元通りとは程遠い。

 

 原因は比企谷君にもあるのだが、主に雪ノ下さんだと思う。どこか物憂げな表情で、比企谷君から一歩距離を置こうとする。それがまた比企谷君の苛立ちを加速させているようだった。

 

 衝突しないことは、良いことなのだろうか。そう自分に問い直す。僕がやってることは、本当に正しいことなのかと。

 

「あーあ。わかんないことだらけだ……」

 

 そう独り言を呟く。最近増えてきた気がする。

 

 とりあえず選挙の解決法を考えてみた。

 まず原作通り一色さんが会長になる。

 その場合、雪ノ下さんの意思はどうなる? 

 では今度雪ノ下さんが会長になった場合。

 今度は奉仕部がどうなるかわからない。

 

「いっそ僕が会長になるか……?」

 

 だがこれもダメだ。これは結局のところ彼を模倣したやり方でしかない。修学旅行の二の舞だ。それを否定したのは、彼であり僕だった。

 

 あれもダメこれもダメ。昨日からまるで状況が変わっていない。これで本当にいいのか。何か一つでも希望はないのか。

 

「あらお帰り! 今日も遅いのね」

 

 どうやらまた考えているうちに家の前に来ていたらしい。ガレージの掃除をしている母親とバッタリ会ってしまう。

 また昨日と同じ状況だ。

 でも、それならば。

 

「うんちょっとね。ただいま……母さん」

 

 だからこそ、少しでも前に進むべきなのだろう。明日から頑張ると、昨日そう言ってしまったのならば。

 たった一日では変わらないこともある。ただ、変える必要もあると、僕は信じている。

 

「あらあら、家の外だからってそんなかしこまらなくていいのよ? たまに変なことするのよねー。このかわいい娘ったら」

 

 …………おい、いつも何て呼んでるんだよ。ママか? やっぱママなのか? 

 

 無視して家に入った。一歩進んだから二歩目はいいかなって。うん。さすがにこの年でママはちょっと……。

 

 手洗いなさいよーと外から声がする。しぶしぶ洗面所へ向かい、温水で手を洗った。

 鏡に映る自分の顔に視線が吸い寄せられる。

 今朝の顔よりも、ちょっとだけマシな顔色をしている気がした。

 

「おかえり。ほらママに挨拶は?」

 

 いつの間にか後ろにいた八千代家の母が絡んでくる。てか挨拶ならさっきしたじゃん。ただいまって言ったよね? 

 そんな視線を察したのか。

 

「母さん、じゃなくてママに挨拶してよ。ほらほら」

 

 こっちの気も知らないでそんなことを言ってくる。

 僕からしてみれば二週間程度の母親だ。でも今日の朝食は作ってもらったし昼御飯のお小遣いも貰ってる。恩はある。あーもう、自分の律儀な性格に嫌気が差す。素直になれない自分への言い訳を済ませて、もにゅもにゅと唇を動かした。

 

「ただいま。…………ママ」

 

「よく言えましたー! 偉いね~」

 

 柔らかく僕の頭を撫でてニッコリ微笑むと、母親とやらは外のガレージへ帰っていった。

 あーもう。ほんと。もう! なんだよ、もう! 

 弱ってるところにそんなんされたら、母性感じちゃうじゃんか! 

 

「あーもう……あとは野となれ山となれだ」

 

 ドタドタと自分の部屋に駆け込んで携帯を取り出す。こうなったらヤケクソだ。昨日やり残した宿題をやってしまおう。学校で何一つうまく行かなかった鬱憤を晴らすように、そうしようと決めた。

 

 携帯から、とある番号にコールする。その番号は一度としてかけたこともかかってきたこともなくて、社交辞令程度に先週交換したものだったけど、使う日が来るなんて思っても見なかった。

 

『……もしもし?』

 

 不審げな声が電話口から聞こえてくる。知らない番号ではないといえ、急にかかってきたのだから当たり前だ。

 彼女と会話したのはあの時が最後で、それからは一言も交わしていない。

 でも、それじゃいけない。昨日と同じではいけないのだと、マ……母親とのやり取りでそう感じた。

 

「もしもし。ね、今週遊びに行こっか?」

 

 修学旅行でも何でも、突拍子のない行動を取る僕だから、また突拍子もなくそんなことを言った。

 たぶんこれは後々の黒歴史になるんだろうと思いつつ、でも止める気にはならなかった。

 

『え、ちょっと待って。なんで私と、え、え?』

 

 困惑した声が聞こえてくる。彼女に通話をかけたのはこれが初めてだ。

 でもそんなこと、泣かせたことを忘れていい理由にはならない。責任を無視していい理由にはならない。

 

 強引に流れを持っていってしまおうと、ずっと言おうと思ってて言えなかったことを思い切り言った。

 

「あの時は、人の気持ち考えられてなかった。……ごめんね」

 

『え、あ、うん。でもそれは私もね』

 

 湿っぽい空気になりそうで、それが嫌だった。もう胃がキリキリするのは間に合ってる。一日分のキリキリマイを味わった後だから。

 話を封殺するようで、もしかしてこれはただの自己満足なのではと思ってしまう。それでも、僕はもっと仲良くなりたいと思ってしまったのだ。

 僕が傷付いたことを、泣いてまで悲しんでくれた彼女と。

 

「あのね、聞いて欲しい」

 

 だからもう一つ、思っていて言わなかったことを言うことにした。

 

「はち×とつ以外のカップリングはあり得ないから!」

 

『は?』

 

 ピキっと空気が凍った音がした。そして同時に、シュコーっとその空気が蒸発した音も。

 

『はあああああああああ!? ヒキタニ君は総受けのヘタレ受け以外あり得ないんだけど!?』

 

海老名さんの絶叫が響き渡る。

 もう、どうにでもなーれだ。

こんなことでも、少しぐらいは仲良くなれるだろうか。




感想、評価、カップリングのこだわり等お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13.とにかく恋は罪悪でそうして神聖なものである。

生徒会選挙編3話目です。

書きたいもの詰め込んでたら入りきらなかったので、前後編のような形になりました。

週刊誌のような引きになってしまってすまない……。





 あの僕の宣戦布告ともとれる宣言と、耳がぶっ壊れそうになった電話口での海老名さんの渾身の叫びから二日が経った。

 

 僕の生活は何も変わっていない。

 母親とは多少距離が縮んだとはいえまだまだ話しづらいし、奉仕部の関係性も良くなったわけではない。僕が内心を打ち明けられた、なんてことも一切ない。

 相変わらず奉仕部という場所は一触即発の空気で、僕はこの問題に悪戦苦闘を強いられていた。

 

 ただ、一つだけ変わったこともある。

 それはあるいは、僕の変化に作用されたのかもしれない。

 帰りのHRも終わり生徒達がお喋りを始めると、葉山君のグループが騒々しくて自然とそちらが気になってしまう。

 

 その中の一人の女子と目が合う。その女子こと海老名さんは、周りに気付かれないほどに小さく手を振ってきた。彼女もまた周囲の空気を読むスキルに長けていて、みんなが他のことに気をとられている一瞬の隙をついての行動だった。

 ……なんか、クラスに秘密で付き合ってるカップルみたいで、ちょっと恥ずかしい。そんな自分の考えの方がよっぽど恥ずかしいかもしれない。とにかく恥ずかしくて顔を逸らそうとして、やめた。

 彼女もまた変化をしているのだ。電話を掛けたときの僕のように。

 その変化に答えようと、僕も小さく手を上げた。

 

 少しだけ、彼女との関係は好転していた。とはいえどこかぎこちなさは残る。

 当たり前だ。僕は彼女との溝を掘り返した。掘り返した割に、上から土を被せただけの杜撰な埋め立てをしたものだから、修復や修繕と言った表現とは程遠い。これは場当たり的な突貫工事でしかないのだ。

 ただそれでも、前には進んでいる。

 

 感傷に浸るようにそんなことを考えていると、彼女の唇が艶っぽく動き、口パクで何かを伝えようとするのが見えた。

 視線が吸い寄せられるようにその口元へと動き、読み取ろうとする。彼女が僕に何を伝えたいのか。ゴクリと生唾を飲み込みながらそれを確認する。

 

 口の形は……あ、あ、あ、い? 

 もう一度繰り返す。なんだこれ。

 はてなマークを顔一杯に浮かべる僕に痺れを切らしたのか、今度はしっかりと声を出した。

 

「は! や! は! ち!」

 

「え、な、なに海老名急にどしたん? とりあえず擬態しろし」

 

 両腕をビシッと上にあげて、鼻からフーフー蒸気を吹き出しながらついでに鼻血も噴射している。あ、三浦さんが動揺しながらもちゃんと拭き取ってあげてる。

 期待した僕がバカだった。いやいやいやまてまてまて、まず何を期待してたんだよ僕は。

 

 こんなもんは無下にしていいだろう、と思いつつ顔を背ける。背けた先には比企谷君と、その隣に葉山君がいた。

 ……これか。謎のテンションの原因は。

 珍しい組み合わせなため、自然と視線が固定されてしまう。

 

「こないだの、折本さんと仲町さんのことなんだけど」

 

 葉山君がそう切り出した。

 ああ……これか。そういえばあったな。

 自分のことに気をとられ過ぎていて、すっかり忘れていた。

 どうやら、比企谷君は陽乃さん及び折本さん達との邂逅イベントを果たしていたらしい。止めるべき、だったのかな。知識だけあってもどうも積極性に欠けてしまうが故に動けない。

 もしかしたらそれは、大事な何かを失わないための保守的な行動なのだろうか。

 

「聞いてないか? 土曜日遊びに行こうって」

 

「いや聞いてねえけど……」

 

「じゃあ、一緒に行かないか?」

 

「俺とお前が? 行く訳ねえだろ」

 

 自問している間も、彼らの会話はつつがなく進んでい……いやつつありまくりだな。比企谷君の突っかかりがヤバい。拒絶と言ってしまっていい。

 

「助けると思って、来てくれないか」

 

 懇願するように葉山君が頭を下げた。陽乃さんの言葉を借りるなら、彼が人に頭を下げるなんて珍しい、だったか。

 なぜ葉山君がそこまでして比企谷君を誘うのか。

 僕はその理由を知っていた。

 

「助けなんかいるやつじゃねえだろ、お前は」

 

 比企谷君はそう言うと、そそくさと鞄を持って教室から出る。

 

 恐らくは、同じ教室にいる由比ヶ浜さんや三浦さんにはこの会話は聞こえていない。

 しかしあまりよくない空気を感じ取ったのか、由比ヶ浜さんが後を追いかけた。

 僕もそれに続く。

 

「ヒッキー待って!」

 

 比企谷君は由比ヶ浜さんの声に振り向くと、諦めたようにため息を一つ吐いて足を止めた。

 

「由比ヶ浜と、八千代か」

 

 由比ヶ浜さんは困ったような笑みを浮かべて、それから鞄を握っていた手を少し弱めた。

 その様子を見てられなくて、声を発した。

 

「その、部室、一緒に行こ?」

 

「……おう」

 

 そのまま三人で特別棟へと歩く。

 由比ヶ浜さんが僕の顔をチラリと見た後、おずおずと比企谷君に質問した。

 

「なんか、珍しい組み合わせだったね」

 

 心の内に踏み込んでいそうで、その実、一歩手前で止まっている。絶妙な距離感の質問に比企谷君が頭を掻きながら吐き出すように答えた。

 

「ま、そういうこともあんだろ」

 

 下手な誤魔化しだ。僕がそう思うんだから、由比ヶ浜さんが気付かないはずもない。由比ヶ浜さんはその顔を一瞬だけ曇らせると、また微笑を浮かべて「そっか」とだけ言った。

 

 全てを知っている僕には、何かが出来たのだろうか。

 その疑問はきっと、これから先も尽きることはない。

 

 

 × × ×

 

 

『金曜の放課後、買い物いかない? 優美子も一緒だけど』

 

 海老名さんからそんな連絡が来たのは、その日の夜のことだった。金曜という指定に引っ掛かりを覚えたが、結局二つ返事でokしていた。

 

 他人と遊んだ経験が薄い人間に、休日を指定する度胸はない。だって一日の中で何時に集まって何時に解散すればいいかわからないし……。放課後は便利なのだ。暗くなったら帰るだけだしね。

 それに、元はといえば今週遊ぼうなんて急に言い出したのは僕だ。日程ぐらい合わせるのは当然だろう。

 

 さて承諾したはいいものの、奉仕部にはその日に休む旨を伝えなければならない。ぶっちゃけ気が重い。

 今までもロクに役に立ってないのに休むとか……。窓際社員もかくやという活躍ぶりだなぁ(逃避)。

 

 ただ、このまま受け身でいても仕方ない。

 とりあえずは金曜、動こう。現状を打破するために。

 

 

 × × ×

 

 

「ちよちよは、部室行くよね?」

 

 金曜の放課後、由比ヶ浜さんが声をかけてくる。

 いつも教室から部室まで一緒に行ってたから当然なんだけど、少しばかり答えづらかった。

 

「あ、今日はちょっと予定あって……」

 

 僕が言いづらそうに答えるのを見て、由比ヶ浜さんが髪をくるくるといじりながら唇を尖らせた。

 あれ、なんか変なこといったか? 僕……。

 

「ふ、ふーんそうなんだ。……ヒッキーも今日休みだよね」

 

 最後の方はぶつぶつと独り言のようで、うまく聞き取れなかった。

 これは……拗ねてる? なんでだ……。

 わからなかったので素直に聞いてみることにした。藪から蛇な気もするけど。

 

「えと……なんかまずかった?」

 

 由比ヶ浜さんは両手の人差し指同士をツンツンと突き合わせながら……てかかわいいなそれ。

 そして言いづらそうにモゴモゴと口を開いた。

 

「まずくは、無いんだけど……。むしろ良いことなんだけど……なんか距離縮まりすぎて焦るというか……」

 

 うーん意味わからん。海老名さんや三浦さんと仲良くなったら友達取られちゃうと思ったのかな。

 たぶん由比ヶ浜さんが部活で出れない分の穴埋めの僕だと思うんですけど……。

 

 とにかく、部活を休む点については謝っておかねば。

 

「手伝えなくてごめんね」

 

「ううんそれは大丈夫。今日は隼人君と選挙の打ち合わせだけど、ゆきのんいるから大丈夫だと思うし……」

 

 それはある意味僕への戦力外通告では? と思ったけど言わないことにした。社会でやってくためにはこういう図太さも必要だと思います!

 まあその話は僕も知っているんだけど、あえて無視していた。

 

「雪ノ下さんにも、ごめんって伝えといて」

 

 というか雪ノ下さんは、この時点で出馬する気は無かったのかな。こうやって葉山君に会長になってくれるようアプローチをしてるわけで……いや、違うか。

 

 理由がなければ動けない人間がいる。

 葉山君が立候補してくれるのであれば、他の人が会長になる必要性はまだない。

 理由ができるのは、それが断られてからだ。

 

「あ、うん……わかった。じゃあ行くね」

 

 微妙に納得がいってなさそうな顔をしつつも、由比ヶ浜さんは部室へ向かった。

 今日は現地集合となっており、三浦さんと海老名さんは既に教室にはいない。

 鞄を持って席を立つ。廊下へ出ると、寒々しい風がスカートを揺らし、容赦なく足を凍えさせた。

 

「タイツ、もうちょっとデニール高いやつ買おっかなぁ」

 

 男としての矜持は捨てていないけれど、足が冷えるのは単純に嫌だ。自分の中で、素直に買い換える発想が出てきたことに少し驚く。

 女性用の買い物も、必要だという理由で慣れてしまった。

 理由さえあれば、人は案外何でも出来てしまうのかもしれない。

 

 

 × × ×

 

 

 駅近くのショッピングモールでは、入り口前に既に二人が待機していた。

 学生が買い物するような大型店舗はここにしかないため、待ち合わせをしている制服姿の人もそれなりにいる。

 目立ってしまって、知ってる人に会いはしないだろうかというのは杞憂だったようだ。

 だがそのせいか、二人を見付けるまでに時間がかかってしまった。

 

 その二人を見る。三浦さんと海老名さんだ。

 それぞれ赤と緑のマフラーをしていて、手袋まで着けている。

 どっちが赤なのかは、まあ言うまでもない。

 

「チヨチヨーこっちこっち」

 

 海老名さんがちょんちょんと手を招かれた。引き寄せられるように近づいた。

 隣には三浦さんが腕を組んで立っている。……ちょっと怖い。修学旅行での金閣寺の一件から苦手意識が生まれてしまったのかもしれない。

 三浦さん、本当はおかん気質のいい人なんだけどなぁ……。僕の精神が脆弱すぎるのかも。

 

「ごめん。お待たせ」

 

 軽く頭を下げながら言う。実際こんな寒いなか待たせてしまって申し訳ない。中で待っててくれてもよかったのに……。

 

「そんな待ってないから。ほら、入るよ」

 

 三浦さんがクイっと指で入り口を示す。言葉のわりに体は少し震えていて寒そうだ。やっぱ待ってくれてたんですね……。優しいなぁ……でもごめんね。

 

 室内は空調が効いていて暖かい。しかし外と比べると暑すぎるようにも感じる。

 それは二人も同じなのか、しばらく歩いたあと鬱陶しそうに首に巻いていたマフラーを外した。

 首筋が露になる。そんな姿が艶やかに見えて思わず目を逸らした。

 いつもは見えてるところなのに……なんかこう、脱ぐ動作一つでグッと来るのはなぜだろう……。

 

「あーしはブーツ見に来たんだけどさ。二人はなんか見たいのあるん?」

 

 変な性癖に目覚めかけたところを叩き起こされた。危ない危ない。危うく自宅に帰ってから、鏡の前で自分の首筋にマフラー巻いて、それからしゅるしゅる剥ぐところだった。新しすぎる変態さんだなおい。

 

 そんな僕の自戒している間を沈黙と見たのか、海老名さんが先に答える。

 

「書店寄っときたいなぁ。新刊出てるし」

 

「ふーん。おっけー本屋ね。あんたは?」

 

 三浦さんが真正面から僕を見る。用意しておいた答えを読み上げるように声を出した。

 

「タイツ、買いたいなって」

 

「そ。ってあんたそれ薄すぎない? 絶対寒いでしょ」

 

 三浦さんが僕の足を見て驚く。そんなまじまじ見られると恥ずかしい。

 あと本当にこれは寒い。たぶん秋とかもうちょっと寒くない季節に履くやつなんだろうな、これ。

 

「あはは……。厚いやつ、家のどこにあるかわかんなくて」

 

 弁明しておくが僕が悪いわけじゃない。八千代家のご息女は片付けが苦手なようで、他にも防寒具やらもどこにしまってあるかわからない状態なのだ。

 一度整理しようとしたけど、色んな下着を片付けるのが恥ずかしくなったので服関連はやめた。

 下着を含めた服装に関しては、今は最低限のローテーションで何とかやりくりしている。

 

「あんたさ。男子は足チラチラ見てくるから、もうちょっと気を付けろし」

 

 三浦さんは優しく諭してくる。男子の視線とか気にしたことなかったな……。教室だと本読むか机に突っ伏すかの二択だし。

 そういう意識が欠けているという自覚が足りてない。まさしく三浦さんの言う通りだ。

 ただ……。

 

「いや、生足の優美子に言われても説得力ないでしょ」

 

 海老名さんの指摘が飛ぶ。そうなんだよなぁ。なんか生足なんだよなぁこの人。目のやり場に困るんですよねちょっと。

 

「あーしは見せてるからいいの」

 

 葉山君に向けてなんだろうが、多分その彼は見るつもりがないだろう。

 むしろ他の男子の方がよっぽど目をやってそうだ。例えば、結構ムッツリ気味の比企谷君とか。む、なんかムカつくな。今度文句言っとこう。僕のことじゃないけど。

 

 雑談をしつつ書店に到着した。タイツやブーツなんかは二階にあり、書店は一階にあるので、先にこちらに寄ることになった。

 

「おお! 表紙がこのカップリングとは……ぐ腐腐腐腐、妄想が捗りますなぁ……」

 

 海老名さんが呪詛のような言葉を吐きながら少年漫画のコーナーへ。あとそれ、公式のカップリングじゃないと思うんですが……どうみても男二人だし。

 少年漫画が腐女子の食い物にされてしまう現実を嘆いている僕をほったらかして、三浦さんは女性向け雑誌をパラパラと捲っている。どうやら海老名さんが落ち着くまで時間を潰すようだ。なんか対応が慣れてるな……。

 

 僕も迷った末に、海老名さんと合流することにした。雑誌よりは少年漫画の方が馴染み深い。いやカップリングとかはさっぱりですけどね。

 

「腐っ腐っ腐。ようこそ、こちら側へ……」

 

 海老名さんがやってきた僕を見てなんか言っている。

 welcome to under ground みたいだなそれ。腐ってる? それ誉め言葉ね。

 往年のコピペをこねくり回しても仕方ないので、とりあえず否定しておく。

 

「いやそっち側じゃないから。むしろこっちに戻ってきてほしいんだけど」

 

(より一般的な)愛を取り戻せ。これ(BL)が愛なら愛などいらないんだよなぁ。

 

「えーでもはち×とつ派なんでしょ? 理解はできないけど、同類は同類ですから」

 

「それはほら……なんというか。お互い好きならノーカンじゃない?」

 

 相思相愛なら性別とかはまあ越えちゃってもいいんじゃないかな。……ん、ほんとにいいのか? 戸塚君ルート選んだら色んな意味で原作崩壊じゃ……。

 まあでも、二人の幸せそうな顔が見れるならそれでもいいかと思えてしまう辺り、僕も底無し沼に片足突っ込んでしまっているのかもしれない。

 

「じゃあ、はやはちも認めるべきじゃないかな? どう見てもお互い意識しちゃってるよあれは!!」

 

 うーんこっちは首まで沼に浸かっちゃってるよ。

 葉山君と比企谷君は互いを意識してるとは思うけど、嫌いのベクトルで一致してるだろう。

 べジータが二人いるようなもんかな。

 あれ、それはそれでライバルとしていい関係なんじゃ……。

 

「いやいやいや、それはない。絶対ない」

 

 首をブンブン振って否定した。そんなことあってたまるか。原作でもあの二人はバチバチ火花散らしてるんだぞ。

 

「そっかー残念だな。まあ解釈は人の数だけあるからね」

 

 海老名さんは悲しそうに笑うと、一冊の本を手にとった。……なんかごめん。そんな顔させるつもりじゃなかったんだけど。

 

「ほらこれなんてさ、結構みんな自由に書いてるのに公式から許可出てるんだよ?」

 

 そういって海老名さんが寂しげに見せてきたのは漫画のアンソロジーだ。複数の作家が特定の作品に対して好き勝手書くやつ。

 原作者や会社側から話を持ちかけられることが殆どなので制約はあるだろうが、裏を返せばその中なら何を書いてもいいということになる。

 

 …………あ。アンソロジーといえば。

 

「あーこれは個人的なはやはちの解釈なんだけどさ」

 

「お、急にどしたの!?」

 

 海老名さんの顔に興味と笑顔が戻る。やっぱこっちの方が楽しそうだよな、彼女は。

 暗い、無機質な瞳でこちらや周囲を見つめることもあって、確かにそれは彼女の一面なのだろうけれど、僕はこっちの海老名さんの方が好ましく思っている。

 

 いつの間にか僕の中に、悲しんでいるよりは笑っていて欲しいと思える程度には海老名さんへの情が芽生えていたらしい。

 嬉々とした表情を見て、ついつい話を広げてしまった。

 

「こんな未来もあるかもって。葉山君と比企谷君は毎年同窓会でね、やいやい喧嘩しながらも外でお酒を酌み交わして──」

 

 そう、これはアンソロジー。原作者が書いたものではない、番外的な位置付けのもの。

 だからひけらかしても未来に影響はないだろう。

 僕は海老名さんに知っている話を叩き込む。

 

 ……詳しくは俺ガイルアンソロジー2巻、丸戸史明先生の『ぼくのかんがえたけんぜんなはやはち』参照。

 

「……チヨチヨ、やっぱ才能あるよ。ぶふっっっ!」

 

 そういって海老名さんは大量の鼻血を出しながら仰向けに倒れた。頭を強く打ちながら幸せそうな顔で気絶している。凄惨な殺人現場に見えなくもない。

 

 …………。

 あのー当店にお越しのお客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか? 

 

 

 × × ×

 

 

 あれから、ほぼ死に体の海老名さんを三浦さんが担いで近くのトイレに連れてった。トイレで血を落とすってそれ殺人鬼側の行動では……。

 

 ちなみに海老名さんは連れていかれる途中で「私、この妄想の中なら……死ねる!」とか言ってた。いや死ぬな。僕がどういう罪状で逮捕されるかわかったもんじゃない。

 

 まあそんなこんなで二人が帰ってくるまでの間、僕はモールの入り口近くの通路で、一人待ちぼうけていた。

 

「あれ~八千代先輩じゃないですか。お一人ですか~?」

 

 その作られた声に体がビクッとする。あざとさセンサーが振りきれたその声の持ち主は。

 だるだるとした制服を萌え袖によって完璧に着こなした一色さんだった。そして隣には。

 

「あ、や、八千代さん。ち、ちーす」

 

 めちゃんこに動揺してる戸部君がいた。

 ……そういや君らもこのショッピングモールに来てるんでしたね。

 カチコチに固まった戸部君と話すと話が拗れてしまいそうだったので、一色さんと会話することにした。

 

「あっと二人ともどうも。三浦さんたちと一緒に来てるよ」

 

 三浦さん、の辺りで一色さんの目が細まった。

 

「へ~三浦先輩ですか……」

 

 え、こわ。何それどうやったらそんな低い声に変わるの? 

 さっきのが地声プラス1オクターブだとしてこっちはマイナス1オクターブといった感じだ。その落差が激しすぎて震え上がる。

 戸部君は気付いてるのかいないのか、襟足をいじりながら困ったようにこっちを見る。

 

「えっと、相談のことなら今日は雪ノ下さん達がやってくれてるから」

 

 話を逸らすようにそう言った。

 

「そうなんですね~。他には誰がいるんですか?」

 

 こっちの話をガン無視で一色さんが距離を詰めて聞いてくる。ちょっと、この子怖すぎません? 足震えちゃうんですけど? 

 

「は、葉山君ならいないよ?」

 

 海老名さんがいる、とは戸部君の前で言いづらかった。しかしこの台詞よくよく考えると嘘吐いてるようにしか見えないんじゃ……。

 

「そうですか。まあ八千代先輩なら信じます」

 

 ほっ。よかった

 てか、逆に誰なら信じないんですかね……。一色さんは隣にいる戸部君をチラっと見た。あ、たぶんこの人は信じないんだなぁ。戸部君、マジ可哀想。僕からささやかなエールを送ろう。

 

 同情の目線を送っていただけなのだが、何を思ったか戸部君はこちらを見て神妙な面持ちで深く頷いた。それから、深呼吸をして両手でパチンと顔を叩くとまた深呼吸をした。なに? アルゴリズム体操でもしてんの? 

 

「いろはすー、ちょっと先行っててくんね? 後で追い付くからさ」

 

「はぁ。まあいいですけど」

 

 死亡フラグのような台詞を放った戸部君に渋々といった様子で頷く一色さん。一色さんはそのまま上階へ繋がるエスカレーターに乗っていった。

 一色さんの姿が見えなくなった辺りで、戸部君が口を開く。

 

「あーあのー」

 

 そのまま一分ぐらい経った。

 ……僕が言うのもなんだけど、戸部君って大事なとこで根性ないよね。と思った瞬間、戸部君が長い襟足をかきあげて捲し立てるように話した。

 

「この前のことなんだけどさ、詳しいこと隼人君から聞いたんだわ。なんつーかその、サンキューっていうか」

 

 いまいち要点を得なかったが、とにかく感謝されてることは何となく伝わってきた。

 この前のこと、とは言うまでもなく修学旅行の告白のことだろう。

 だがあれは僕が勝手にやったことで、それで感謝される謂れはない。それに……実際にやろうとしたのは僕ではない。

 

「別にいいって。まだ好きなんでしょ?」

 

 僕が話を逸らす様に聞くと、戸部君は照れた様子で髪を弄りながら、それでもはっきりと口にした。

 

「なんかさ、俺ここまでマジになれることあんまなかったからさ。……諦めきれねーんだわ、やっぱ」

 

 その姿だけはカッコいいなと、純粋にそう思えた。

 ここまで誰かを想えるというのは、ある種の理想なのかもしれない。

 ……まあ、普段チャラチャラしてるやつが本気になる展開が少年漫画ぽくて好きなのはあるけど。

 

「じゃあ、あんまり他の子と遊んだりしちゃダメだよ?」

 

「いや、あれは部活の買い出しつーか……。あ! いろはす待たせっと怖いんだわ! 八千代さん、じゃな!」

 

 少しからかってみると、戸部君は軽薄そうな顔に戻って焦りながらエスカレーターを駆け上がっていった。

 うんうん、それでいいんだよ。いつもはおチャラけてないとギャップが映えないからね。

 

 とそこに入れ替わるようにして海老名さんと三浦さんが戻ってきた。

 海老名さんは顔をひとしきり洗ったり、メガネの血をしっかり落としたりしたようでさっぱりとしている。

 

「おろ、チヨチヨなんかいいことあった?」

 

「んーまあちょっと」

 

 どうやら僕の顔もさっぱりとしているらしかった。

 

 戸部君もせっかくなら海老名さんの前でかっこいいことすればよかったのにと思わなくもない。

 キョトンとする海老名さんを見る。きっと戸部君の恋は前途多難なのだろう。

 それでも、うまくいくといいなぁなんて、他人の恋の成就を願わずにはいられなかった。

 

 

 × × ×

 

 

 長い長い、それこそ映画一本分ぐらいの一階探索を終えて二階へ移動する。

 二階のメインは主にブーツとタイツで、タイツの方はちゃちゃっと買ってしまった。

 

 残りはブーツで、こちらはかなり時間がかかっている。三浦さんは気に入った物を更に試着して試したいらしいが、その試着の候補を一つ出すのに10分は平気でかかっている。

 女性の買い物が長いのは知ってるけど、やっぱ疲れるなぁ。

 

「つーかさーこれ制服だとよくわかんなくない?」

 

「ブーツ試着したいっていったの三浦さんなんだけど……」

 

 僕のツッコミを聞き流し、三浦さんは次の黒いブーツに履き替える。海老名さんの顔が満面の笑みに変わる。何か閃いたらしい。通報した方がいいかな。

 

「制服にブーツってなんかマニアックなプレイっぽい。ねーチヨチヨ」

 

 同意を求めるな同意を。なんかわからなくもないところが余計気まずい。

 顔を逸らした。

 

「いやーそんなこともなくもないような……あ」

 

「あんたら、マジでぶつから。ってなに八千代はどしたん」

 

 三浦さんがブーツを脱ぎながら不思議そうに僕を見る。

 その僕は現在。

 

 向かいの店の比企谷君とバッチリ目が合っていた。

 ……気まずい。一階で時間かけた分、会うことはないだろうと思ってたから完全に油断していた。

 

「え、は、はや……」

 

 三浦さんが比企谷君の奥にいる、女子を連れた葉山君の姿を見つけて勢いよく立ち上がる。

 が、脱ぎかけの黒いブーツが引っ掛かって派手に転んだ。

 

 パンツ! ピンク! セーフ! 

 あっぶねー。一瞬とはいえ比企谷君に見られてしまうところだった。サービスシーンはここで打ち止めだ。

 

「優美子、大丈夫!?」

 

 慌てて海老名さんが駆け寄る。僕も心配するように近寄って、下着への視聴ルートを完全に潰した。

 

「くぅ、はや、はやと」

 

 なんというか、いたたまれない。心が痛い。三浦さんが何をしたっていうんだ! ちょっとマニアックなブーツ姿を見せただけなのに……。

 葉山君への恨みがちょっとだけ積もった。

 

 三浦さんの視線の方を見てみると、葉山君らはもう既にそこに居なかった。

 

「いたたたた…………」

 

「優美子、立てる? ちょっと休んでく?」

 

 海老名さんが肩を貸している。三浦さんの姿がどことなく小さく見えてしまう。

 

「……うん」

 

 やっぱり心が痛くなって、僕も差し出すように肩を貸した。ドキドキはしなかった。それよりも、支えて上げたいとか、心配だとかいう気持ちの方が強くて自分でも驚いた。

 ……これはあれですね。ある種のギャップ萌えかも知れませんね。

 

 意識したらそれはそれで心臓に負担がかかりそうなので、そうやって誤魔化しながらショッピングモールを後にした。

 

 そのあと、歩ける程度に回復した三浦さんとそれに付き添う海老名さんを見送って今日は解散となった。

 僕も一緒に帰らないことに不審がられやしないかと心配だったが、それ以上に三浦さんのショックが大きかったのかそこに言及されることはなかった。

 

 僕はこれからとある人たちと話さなければならない。

 きっと、それが現状を変えれる手段だと信じて。

 

 指定された場所へ向かう。

 僕は本当はそこに呼ばれていたけれど、敢えて今まで知らぬ存ぜぬを通して来た。

 

 覚悟を決め、深呼吸をしてパチンと両頬を叩く。何の意味もない願掛けだけどやらないよりはマシだ。

 

 そのカフェの二階へ登ると、同じ制服の女子が二人立っているのが見えてくる。

 そして、横に並ぶように立った。

 隣の由比ヶ浜さんが大きく目を見開く。

 

「え、ちよちよ……? ヒッキーと一緒じゃなかったんだ……」

 

 その小さな呟きは僕が目線をやる彼には聞こえていないようで、その疑問は霧散する。

 

「そうか……君も来てくれたのか」

 

 そしてその男。葉山隼人は、僕に向かってそう言った。

 




戸部君と三浦さんと由比ヶ浜さん……あとついでにいろはすと海老名さんの恋の話でした

サブタイトルに毎回苦戦させられてます。ぶっちゃけほぼ後付けです。
誰か……サブタイ考えてくれ……。もう引用できる知識がないんだ……。

感想、評価、ここすき等お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14.少年であり少女である者よ大志を抱け。

生徒会選挙四話です。
二時間ほど遅れましたが明日上げるよりは……と思ったので更新します。

前回からの雰囲気の落差が激しいです。

あと、後半の▽から八千代の回想入るので、興味ない方は飛ばしてもらってもたぶん大丈夫です。



 

 僕の隣では、由比ヶ浜さんと雪ノ下さんが言葉もなく立ち尽くしている。

 目の前の四人席、僕らの前方に座る折本さんと仲町さんも似たようなものだ。その向かいの席の比企谷君は誰よりも驚きが強いようで、開いた口が塞がっていなかった。

 

「お前ら……なんで」

 

 比企谷君がそう漏らしたことによって、沈黙が破られる。

 その疑問に飄々と答えたのは隣に座る葉山君だった。

 

「ああ、俺が呼んだんだ」

 

 その言葉に僕と雪ノ下さんら以外の全員が目を丸くする。

 混乱した間を縫うように、葉山君が告げた。

 折本さんと、仲町さんに向けて。

 

「比企谷は君たちが思っている程度の奴じゃない」

 

 葉山君の態度からは敵意が見える。そんな姿を誰かに見せたことは、きっと一度たりともないのだろう。

 葉山隼人という偶像は、今ここで、他でもない彼自身の手によって脆く崩れ去った。

 

「君たちよりずっと素敵な子と親しくしてる。表面だけ見て勝手なことは言わないでくれ」

 

 そして葉山君は雪ノ下と由比ヶ浜さん、それから僕の方を視線で示した。

 

 僕はどこか上の空でその台詞を聞いていた。僕が介入すべきはここじゃない。僕の出番はもう少し後だ。

 そもそも葉山君のこんなお節介には何の意味もないのだ。

 それに、僕は素敵な子なんかじゃない。

 

 折本さんは声も出さずこちらを見た。仲町さんは怯えているかのように下を向いている。

 少しして折本さんは深い溜め息を吐くと。

 

「そっか」

 

 とだけ言って鞄を掴み、仲町さんも連れて一階へと向かった。その途中で、僕らとすれ違う。

 由比ヶ浜さんだけが居心地悪そうに俯いた。僕と、それから雪ノ下さんは葉山君から視線を逸らすことはない。

 

 折本さんらが居なくなって、再びの静寂が訪れた。

 その沈黙を打ち破ったのは雪ノ下さんで、その口調は、まるでこの場の誰もを強く咎めるようだった。

 

「選挙の打ち合わせ、と聞いていたのだけれど。それに、二人からは休みの連絡を貰っていたはずだわ」

 

 雪ノ下さんの苛烈な視線と辛辣な物言いは、いつの間にか葉山君のみならず、僕と比企谷君にも向いていた。

 

「待ってくれ。それ、今日だったのか? 俺は聞いてないんだが……」

 

 比企谷君はまだ状況が飲み込みきれないようで、辺りをキョロキョロと見回している。

 少し離れた席で、誰かが笑っているような気がした。

 

「あ、えっとね。隼人君がヒッキーには内緒にって。あのね、悪い意味じゃなくて。その、会うと揉めちゃうからって」

 

 由比ヶ浜さんがしどろもどろになりながら精一杯フォローしようとする。

 そうか、わざわざ根回ししていたのか。

 謎が一つ解けた。

 

「……あなたに日程を伝えないことが打ち合わせの条件だったのよ」

 

 雪ノ下さんもそう苦々しく言い放って、それから戸惑いの目を僕に向けた。

 その視線に、どこか刺々しさが含まれているように見えるのは僕の気のせいだろうか。

 

「八千代さんまでなぜ……」

 

「俺が彼女にも声をかけたんだ。君たちとは別口でね。正直、来ないんじゃないかと思ってたよ」

 

 葉山君が僕にそう語りかける。彼女と口にしたとき、少しだけ比企谷君の表情が曇ったことに僕だけが気付いた。

 

 その言葉は真実で、僕は葉山君からのお誘いを受けていた。

 素直に誘いに乗ったと思われるのも癪だけど、それでなければ僕がここにいる説明がつかない。不平不満は無理矢理グッと飲み込んだ。

 

「本当は……来るつもりなかったんだけど。何で呼ばれたのか気になってね」

 

 肩を竦めながら雪ノ下さんと同じ疑問をぶつける。

 本当は知っているけれど、知らないフリをした。

 

 僕以外の誰もが何もわからず、説明を求める視線を葉山君に向ける。彼は先程の敵意剥き出しの態度とは反対に、弱々しく洩らすように答えた。

 

「俺は……俺に出来ることをやろうと思っただけだよ」

 

 その答えは決して明瞭なものではない。

 折本さん達に僕らを引き合わせたかったことは伝わるが、その真意までを語るものではない。

 

 しかし、それきり葉山君は口を開こうとしなかった。これ以上問い質すことを拒むようなその佇まいは、僕らを三度の静寂に落とし込む。

 

 その直後。

 どこからか椅子を引く音が聞こえてきた。

 

「ふーん。なるほどね」

 

 ツカツカとわざとらしく足音を立てながら一人の女性が近付いてくる。

 その人──雪ノ下陽乃さんは、背筋が凍るような笑みを携えて僕らの前にやって来た。

 

「姉さん……」

 

 雪ノ下さんの口から呟きが溢れた。先程までの毅然とした態度からは一変、その姿には動揺が見える。

 葉山君が苦虫を噛み潰したような顔で、歯軋りをした。

 

 ここだ。このタイミングだ。次に陽乃さんが口を開く前に、僕がこの場の主導権を持っていく。

 陽乃さんが、彼女をけしかけてしまう前に。

 

 雪ノ下さんの会長になりたいという思いは、彼女の内から生まれたものなのか。

 それとも、陽乃さんの言葉によって刺激されて生まれたものなのか。

 僕にはそれがわからない。

 だから止める。雪ノ下さんの真意を確かめるために。

 

 雪ノ下さんの前に出て、陽乃さんと向き合う。

 

「お久しぶりです。ええと……雪ノ下さんのお姉さん、でしたっけ?」

 

 敢えて言い淀んだ。

 瞬間、空気が凍る。

 ただ一人だけ、僕の悪辣な意趣返しを受けても平然と……いや、むしろ歓迎するように口角を吊り上げた人物がいた。

 

「そうだよ。で、君は確か……。えーと、何ちゃんだったかな」

 

 小首を傾げるその姿に、しかし可愛らしさはどこにもない。

 獲物を見つけた獰猛な狩人の目が、僕に容赦なく襲いかかる。蛙を睨む蛇はきっとこんな瞳をしているのだろう。

 まるでしてもいない舌なめずりの音が聞こえてくるようで、耳にゾワゾワと鳥肌が立つ。

 

 ボロ雑巾のようなしみったれた勇気を振り絞ってそれに対抗する。

 

「……八千代、ですよ。陽乃さんは葉山君に呼ばれたんですか?」

 

 ただの疑問に、毒を含めることも忘れない。先ほどは名前を忘れたフリをしたのだと、そう言外に告げる。

 それでも彼女は眉根を寄せることすらせず、それどころか何事もないように僕の目を見て微笑みかけた。

 

 まるで敵わないな、これは。

 どうあがいても一矢報いることなど出来そうにない。

 

「んーん。お姉さんは勝手についてきただけ。むしろ、八千代ちゃんは何しに来たの?」

 

 内心で敗北を認めようとも、陽乃さんが追撃の手を止めることはない。それどころか強めてくる。

 

「聞いてましたよね? 葉山君にお願いされたからで──」

 

「それで? 何でわざわざそんなお願い聞いてあげたの?」

 

 痛いところを突かれた。

 貴女を止めるためです、とは言えない。

 しかし、答えを取り繕うこともできそうになかった。

 

「それは……」

 

 正直に答えるべきか逡巡していると、思わぬ方向から援護が入った。

 

「姉さん。その辺にして」

 

 雪ノ下さんが自分の姉と相対するように向き合う。自分の体を抱くように腕を組んでいて、その立ち姿はどこか弱々しく見えた。

 隣の由比ヶ浜さんが、不安そうに見つめていた。

 

「まったく。雪乃ちゃんはいっつも一足遅いんだから。そんなんじゃガハマちゃんも困っちゃうよねー?」

 

「……私に言いたいことがあるなら、直接言いなさい」

 

「それが出来ないのは雪乃ちゃんの方じゃない」

 

 陽乃さんが、間髪入れずそう返す。その表情は蠱惑的な笑みが張り付いたように固定されていて、感情が読み取れない。

 雪ノ下さんが顔を歪め、組んだままの腕を強く握りしめた。

 

「はぁ。なーんかお姉さん興醒めしちゃった。選挙の結果、楽しみにしてるね~」

 

 陽乃さんは言葉に違わない退屈そうな顔をして、ヒラヒラと手を振りながら立ち去ろうとする。

 しかし突然思い出したように「あ、そうそう」と呟くと、僕のところへやってきて、耳元に唇を寄せた。

 

「君、虚勢ぐらいは張れるようになったんだね。ちょっとは可愛げ出てきた」

 

 そう言って僕の耳からスッと離れると、そのままの姿勢で僕の顔を直視する。

 

「……ええ、まあ」

 

 正直言って、今すぐにここから逃げ出してしまいたい。顔を背けてしまいたい。

 だけどその言葉からも逃れる訳にはいかないと、それこそ虚勢を張るようにしっかりと目を合わせた。

 

「そっかそっか……。それじゃ、比企谷君もまたねー」

 

 陽乃さんはそう言って、今度こそ僕らの前からゆっくりと姿を消した。

 

 雪ノ下さんが強ばらせた体をそのまま葉山君へと向ける。その視線はどこか糾弾するようで、端から見ているこちらも、えもいわれぬ罪悪感に包まれる。

 葉山君は耐えきれなくなったように、彼女から目を逸らした。

 

「……そう。話が終わりなら、私ももう行くわ」

 

「あっゆきのん待って!」

 

 雪ノ下さんが強く踵を返すと、由比ヶ浜さんが慌ててそれを追った。

 

 僕がやったことは間違っていないだろうか。

 その疑問だけがグルグルと頭を巡る。

 ここのところずっとだ。

 選挙について、陽乃さんからの明確な言及を避けることには成功した。

 それでも彼女は生徒会長を目指すのだろうか。

 もしその意志があるならば……僕は、彼女の決意を捻曲げてしまったのだろうか。

 

「余計な気、回してんじゃねえよ」

 

 比企谷君の声で我に帰る。

 彼の葉山君に向けたその言葉は、どこか僕にも刺さってしまいそうな鋭さを持っていた。

 そのせいか、ただ口は呼吸を繰り返すばかりで一向に声が出てこない。

 

「すまない……ただ、俺がやるべきことをしただけなんだ」

 

 葉山君は自嘲気味に笑って、それから垂れ下がるように少し背を曲げた。

 

「わざわざあいつらに手回ししたり、こいつを呼んだりしたのもそのためか?」

 

 比企谷君が責めるように言う。きっと何よりも、あの二人に隠し事をさせたことが気に食わないのだろう。

 葉山君はテーブルに肘をついて手を組むと、更に項垂れたようにそこに頭を預けた。

 

「……ああ。ずっと考えてたんだ」

 

 そうして僕を見た葉山君の瞳に既視感を覚えた。

 

「俺なりの、責任の取り方を」

 

 ああきっとこれは、最終日の京都駅の続きだと、そう思えてしまった。どこか憐れんだような目を向けられたあの日の延長なのだと。

 

「君に責任なんてものはないよ」

 

 だからだろうか。

 辛辣な口調になってしまうのは。

 彼を睨み、拒絶するような態度を取ってしまうのは。

 それは、その責任は僕の責任だ。勝手に持っていかれてたまるか。

 

 比企谷君が目を剥く。こんな姿を彼に見せたことは一度もなかった。

 僕の偶像もまた、僕自身が壊してしまったのだろう。

 ただ葉山君だけが、その苛烈さを受け入れていた。

 しかし発言を認める気はないのか、弱々しく首を横に振る。

 

「いいや。そんなやり方だって、わかっていたのに。それなのに俺が比企谷に頼ったから。だから八千代さんは──」

 

「おい」

 

 僕より先に、比企谷君がその先を咎める。

 だがそこに力強さなどはない。聞きたくない言葉への、耳を塞ぐことの代用でしかなかった。

 

 葉山君はそこまでを正しく理解していた。

 僕が、比企谷君の手段を模倣したのだと。

 それがあの夜の川原に起因するものなのだと。

 

 僕もまた盗人なのだ。

 葉山君が責任という結果を我が物にしようとしたように、僕は手段という過程を比企谷君から略奪した。

 葉山君は、そこまで僕と比企谷君のことを解っていて、しかしその先は理解していない。

 少なくとも比企谷君に関しては。

 

「君達は、自分を犠牲にするべきじゃないんだ」

 

 僕は何も言えなかった。

 犠牲になったつもりはない。だけれど、否定する材料も見つからなくて答えに窮してしまう。

 

 比企谷君だけが、口調を荒げて反論した。

 

「犠牲? ふざけんな。気持ち悪い同情は願い下げだ」

 

 流れ出した彼の感情は、もう止まらない。

 どこか自分に言い聞かせるように目を瞑った後、彼は更に語気を強くする。

 

「そんなもんで括るな。そんなもんを押し付けるな。他人が、人の出来事に勝手に割り込むんじゃねえよ」

 

 僕はそんな彼の姿を、どこか羨むように眺めることしかできなかった。

 

「その結果に、犠牲だなんて反吐が出る定義を付けるな」

 

 比企谷君は葉山君を睨み付ける。

 葉山君は目を伏せて、それから吐き出すように呟いた。

 

「君が……君達が誰かを助けるのは、誰かに助けられたいと願っているからじゃないのか」

 

「違ぇよ」

 

 それは決定的だった。

 経過は理解しているようで、結論だけが水と油の様に相容れない。

 比企谷君と、葉山君はそうだった。

 

 なれば僕はどうなのか。

 自問する僕を知ってか知らずか、二人の視線がこちらを向く。

 

 お前はどうだと、まるでそう問われているような錯覚に陥る。

 お前は、どうして人を助けたのかと。

 もっと直截に言うのであれば、どうして嘘の告白までして葉山グループの仲を取り持とうなどしたのかと。

 

 そして──そんなお前は、救いを求めているのかと。

 

「…………わかんない。わかんないよ。今さら、何でかなんてわかんないよ」

 

 頭を掻き毟って考えても何一つわからない。

 だから僕は、それ以上何も言えなかった。

 

 あれはきっと衝動的な行動だったのだ。

 そしてその衝動が何だったか。もう正しく思い出すことは出来ない。

 当時の感情を今になって推察しても、それが正しいと断言できはしないのだ。

 

「……そうか」

 

 葉山君がそう言った。そこにこちらの意を解するような意味合いは無い。

 当たり前だ。僕自身にも解ってないのだから。

 

「……おい、大丈夫か?」

 

 比企谷君の声はとても優しくて、だからこそ遠く感じられた。棘に触れないようこわごわと距離を計っていて、やはりそれは僕の心に近寄ることを是としていない。

 

「ごめん。もう帰る」

 

 足下だけを見ながら、逃げ出すようにその場を後にした。

 

 比企谷君も雪ノ下さんも。そして葉山君も。

 彼らは彼らで共通する、あるいは反する信念を個々で持っている。

 それはきっと高尚なもので、信念があるからこそ彼らの行動一つ一つに理由がつくのだろう。

 僕にはそれがなくて、だからこそ僕の行動理由をしっかりと言語化できなかった。

 

 僕のやりたいことはちゃんとあって。

 それは確かにあのラーメン屋さんで秘かに誓った時と、何一つ変わらないのだろうけど。

 じゃあどうしてそれをしたいのかという根源の疑問に答えることができない。

 

 僕だけがあるべき信念を──人としての軸を、持っていなかった。

 

 

 ▽ ▽ ▽

 

 

 その日は自分の過去を思い返しながらベッドに入った。そして恐らくは眠ってしまったのだろう。

 

 何故なら僕がいま夢を見ていることを、僕自身が自覚しているからだ。

 

 目の前にいる母親は八千代家のその人でなく、『僕』の母で。黙々と、幼い僕の口に食事を運ぶ姿を見て、ああこれは記憶に基づく夢なのだと自覚した。

 

 コマ送りのように幼少期から回想が流れる。

 まるで走馬灯だ。

 

 物心付いてからの僕はまさしく本の虫であり、回想シーンのほぼすべてに絵本を初めとした本が写りこんでいた。

 しかし、外で友達と遊んでいるシーンも見える。

 これは……幼稚園か。硬い泥団子を作るのが流行の最先端だったっけ。

 僕はまあまあ楽しそうに泥をこねたり砂場でトンネルを掘ったりしていて、そこには他の園児の姿もある。

 その後は少し早送りになって、回想の中の僕の身長も控え目に伸びていった。

 

『……お仕事の都合ですか。それは仕方ないですね』

 

 場面は小学校へと移り変わる。

 これは僕が転校する直前の記憶だ。

 僕は低学年の時に一度だけ小学校を変えていて、それは流石に覚えていた。

 

 別れを惜しんだ友達も、きっといた……はずだ。もう顔も名前も思い出せない。

 頻繁に遊んでいた訳ではないのだろう。

 だが、ランドセルを背負ったちっこい僕は、すごく悲しそうな顔をしていた。

 

『……転入生。もう入ってきていいぞ』

 

 更に飛んで、転入先の学校のクラスに切り替わる。

 静まり返ったその教室に僕が入ってきて、ボソボソと「よろしくお願いします」と言った。名前を告げる様子はない。見兼ねた担任の先生が、黒板にフルネームを書いてみんなに紹介した。拍手はまばらだった。

 

 それから回想の僕は、新しく友達を作ることもなく、今まで以上にずっと本を読んでいた。

 ずっとずーっと。

 ただ黙々と。

 外で遊ぶ様子などは一切無く、本を読み耽るだけ。

 薄い薄いその数年間は、あっという間に過ぎ去って──

 

『楽しかったー運動会ー』

 

 いやそのまま小学校卒業しちゃったけど。

 マジで本読んでただけじゃん。僕。

 

 そこでふと思い出した。

 小学生の僕は転校するときに、友達という概念をそこに置いてきてしまったのだ。

 友達というのは幼稚園から付き合いのある、『なんとか君』や『なんとかちゃん』という何かであって、ポッと出のクラスメイトではないのだとそう思っていたのだろう。

 

 誰かとの関係が永遠に続くと信じている、何とも子ども染みた発想だ。

 転校して、今までの友達との関係は断絶して、その理想が脆いものだと知ってなお周囲に迎合することが出来なくて。

 だから、本の世界に逃げ込んだのだろう。

 

『あんたはワガママ言わないから手がかからないわ。ほんと』

 

 母親が、中学生になった僕にそう言っていた。

 今となっては、それが褒め言葉でないことが分かる。

 僕はワガママを持てていなかった。

 何故か。現実に期待していなかったからだ。

 

 僕が望む、他人との永続的な関係性は、絶対に手に入らないものだと既に知っていた。だから他の関係性も無価値だと切り捨てた。

 あるいはそれを家族に言っていれば、違う未来もあったのかもしれない。だがそんな過程は無意味だ。僕は両親に何も求めないし、そんなだから親子の関係も希薄になっていった。

 母はきっと、僕にワガママを言って欲しかったのだろう。

 

『これ……面白そう。タイトル長いけど』

 

 現実逃避に精を出す中学生の僕が、書店で一冊の本を手に取った。

 中学という環境は小学校の延長線上にあり、当然僕に友達がいるはずもなかった。

 だから中学の三年間色んな本を読んでいたのだけど、その時見つけた一冊を初めとしたシリーズに、僕は一番心を惹かれていた。

 

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」

 

 高校生になって、そのシリーズは一先ず完結した。

 それでも僕はまだこの作品が好きだ。

 

 恐らくそれは、僕が見出だした理想がそこにあったからなのだろう。

 一体僕は俺ガイルのどこに惹かれていたのだろうか。

 

 序盤の、どこか親近感の湧きやすいカースト下位の主人公が、斜め下のやり方で問題を解決する姿か。

 中盤の、決して手に入らない理想を諦めることなく追い求める姿か。

 終盤の、三人がすれ違いながらも、少しずつ彼らなりの答えを出していく姿なのか。

 

 当時の感情を今になって推察したところで、それが正しいとは限らない。

 むしろそれは、大きく間違っているのだろう。

 

 だから問い直そう。何度も、何度でも。

 その答えに満足が行くまで。

 きっとそうやって出した答えも、どこかが違うのだろう。

 

 それでも問う。

 僕の抱く理想とは何なのかと。

 僕の持つべき信念は何なのかと。

 

 そこには、僕だけにしか持ち得ない答えがあるはずだ。

 

 誰かを助ける理由も。生徒会選挙の望む先も。

 正解は僕の中にしか入っていない。

 





感想、評価、ここすきなどを下さい!(直球)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15.その飲み物は暖かさと不思議な力と心地よい苦痛を与える。

生徒会選挙編5話です。

引き続き、八千代ママがちょくちょく出てきます。
原作キャラ以外で話に絡むのは八千代ママだけの予定です。

あと投稿時間バラバラになってきてて申し訳ないです。
ギリギリまで書こうとしたらどんどん文字が増えてくんです……。



「休みの日だからってずっと寝てちゃダメよー。早く起きて朝ご飯食べなさーい」

 

 間延びした声が僕の脳に響いて覚醒を促す。八千代家の朝は日曜といえどそれなりに早い。

 まだ七時すぎだというのに、布団を剥いで起こされる。あの……超寒いんですけど……。

 

 階段を踏み外しそうになりながら下りて、洗面台まで行ってバシャバシャと顔を洗う。ふぅ。温水が身に染みる。体の心まで暖まるような錯覚を覚えながらタオルで顔を拭いた。

 

 鏡に写る女性の顔は幼げで、それは若さの象徴なのだろう。ただ、はつらつさよりは頼りなさの方が勝る。積み重ねた時間の厚みは感じられなかった。

 僕がここにいるというのなら、元々いた彼女はどこに行ってしまったのだろうと、もう何度目かわからない疑問が渦巻いた。

 

「何か悩み事でもあるの?」

 

 食卓に座ると、母がそう聞いてくる。

 それほど悩ましい顔をしていたのだろうか。自覚はない。

 

 土曜日は一日ずっと考えていたけれど、僕の信念はそう簡単に見つかりそうになかった。

 焦る気持ちもあるのに、そんなポッと湧いて出る答えが本物であるはずないという気持ちもあって。

 急ぐべきか、急いでいるからこそ回り道をするべきか。その二択クイズが僕には難しかった。

 

「まあ、ちょっと」

 

 突っぱねることもできなければ、寄り掛かることもできない、どっち付かずな返事になってしまった。

 たぶんこれは、僕が八千代母に抱いている気持ちの距離そのものなのだろう。

 

「ママが当てて上げよっか。ズバリ……人間関係についてでしょう!」

 

 丸尾君みたいな口調で茶化されたが、命中だった。

 まあ思春期の悩みなんて大体その辺に集約されるのだろうし、言い当てられたことに驚きはしない。

 でも、自分が分かりやすくて底の浅い人間に見えてしまって、そんな自意識過剰な人間性ごと自分の性分に恥じ入った。

 

「あ、あれ? 外しちゃった?」

 

 さっきまで自信満々に胸を張っていた人が、不安そうに僕を見るのがおかしくなってクスッと笑いが漏れる。

 

「ううん。ギリギリ……外れてなくもないかな」

 

 だから油断したという訳でもないのだが、少しはもたれ掛かっても良いだろうかと、ひねくれながらそう言う。

 

「そっか、高校生も大変ね。あ、勘違いしないでね? 高校生だから大変なのよ」

 

 高校生だから、と強調された理由が分からなくて頭にはてなを浮かべてしまう。

 そんな僕に気付くと、八千代母は微笑んだ。

 

「あと一年とちょっとなのよねー。あなたの高校生活も。ママに相談してみない?」

 

 僕ら高校二年生に残された時間は少ない。

 それをしみじみと語る姿は、どこか失ったものを、懐かしみ慈しむように見える。

 

「……自分で解決するから、大丈夫」

 

 きつい口調にならないよう最大限気を付けた。

 別に意固地になってこう言ってるわけじゃないからだ。

 これは僕のアイデンティティの問題で、それは僕にしか解決できない。

 

「ちょっとちょっと、親離れするには早すぎるんじゃない? あーあ。寂しいな~」

 

 おちゃらけながらも、強引に踏み込んで来ようとはしない。それがありがたかった。

 

「母さ、んんっ! ママの子離れが、遅すぎるんだと思うよ」

 

 母さんと呼びそうになったらジトっとした目を向けられた。わざとらしい咳払いをして言い直す。

 やっぱママ呼びはちょっと恥ずかしいです……。

 

 僕が話す気がないのを分かってくれたのか、八千代母もといママは、食べ終わった自分の皿を流しに持っていく。

 後ろ姿のまま、優しく呼び掛けられた。

 

「お節介かもしれないけど……後悔だけはしないようにね?」

 

「……うん」

 

 後悔はしたくない。

 でもそれは、ママが思っている後悔とは少し違う。

 

 僕は多分、過去を振り返りたくないのだ。

 悔やむことではなく、そもそも後ろを振り向くことをしたくない。

 それが例え宝石のような美しく輝かしい記憶であったとしても、失ってしまったものに想いを馳せることは悲しいことに感じられて、僕は嫌だ。

 在りし日に思い出という銘を掘って、記憶の戸棚に仕舞い込みたくはない。

 

 そんなことが不可能であることは重々承知している。

 形あるものはいつか壊れてしまう。ついでに形のないものも、いつかは必ず壊れてしまう。

 それが世の摂理であるからにはただの一つも例外はない。

 ダイヤモンドは砕けるし、黄金の風は止む。

 不滅や悠久など、この世のどこにも存在しないまやかしだ。

 

 ただ、そんなものはないと知っていても。

 僕は何も失いたくはない。

 

 永遠なんてものはないと知っていても。

 僕はきっと、それが欲しい。

 

 

 × × ×

 

 

 やはりというべきか。

 僕はただ打ち震えていた。

 

 やっぱ……ニチアサは最高だね! 

 最近のイチオシはライダーだ。どの作品もストーリーが重厚なんだよなぁ。もちろん戦隊モノのだってメカや大型ロボットかっこいいし、プリキュアは拳で殴ってて強い。ぅゎぷいきゅあ強い。アニメと特撮は素晴らしいリリンの文化だよ。

 

 いけない、ついつい早口オタクになってしまった。

 さてさてこの後は部屋に戻って二度寝でもしますか。題名のない音楽会を生贄に睡眠をアドバンス召喚だ。

 

 僕の休日はあっけなく、本読んでテレビ見て寝たら大体一日が終わってしまう。

 それはそれで有益だしいつもは満足しているけれど、今日はベッドに潜り込もうとしたところで後ろ髪を引かれてしまった。

 

 きっと金曜日の別れが最悪だったからだ。心配する比企谷君と、ついでにどこか諦めたような葉山君を振りきるように逃げ帰ってきた。

 それを引き摺って月曜日を迎えるのが憂鬱なのだ。

 

 ……しかし基本、日曜は憂鬱なものである。

 明日が仕事なんて、社会人になったらもうそれはそれは死にたい気持ちになるだろう。

 働きたくないなぁ。

 ちなみに八千代父は昨日遅くまで休日出勤していたらしく、疲れて眠っているのか朝の食卓にはいなかった。

 うーん。……死んでも働きたくない。

 

 だからまあ、今のうちに数年先の分までダラダラしておこう。そうしようったらそうしよう。

 

 自分に言い聞かせながら毛布にくるまってベッドに横になる。

 窓の外から目線を逸らす。自然と、部屋の中へと体が向くことになる。

 瞼を閉じようとして、机の一番上の棚にちょこんと置かれたそれが視界に入る。

 黄色と黒色で二色で構成された外観のそれは、臆病で腑抜けた僕の目を覚ますのに充分な破壊力を持っていた。

 

 甘い甘いそのコーヒーの味が、僕の脳裏に蘇る。

 彼がくれたその缶はこうして飾ってある。

 それは彼の不器用な優しさの象徴であり、今の僕のルーツでもあった。

 これがきっかけにして僕は奉仕部へと向かうことにしたのだ。それは突飛な行動だったなと今でも思う。

 

 僕は他人と深く関わったことがない。

 だから距離の詰め方もどこかおかしくて、思い立ったままに動いては周りを混乱させる。

 奉仕部へ依頼したときも、ラーメンを食べに行ったときも、海老名さんに電話を掛けたときも。

 ──それこそ修学旅行での嘘告白も。

 いつもその場限りの感情で、動いてきた。

 

 でもそれが、今の僕の他人との接し方なのだ。

 いつかはもっとうまく出来るのだろう。その時の気持ちを推察して分析して、上手な立ち回り方を覚えていくのだろう。

 でもそれは今じゃない。

 

 修学旅行での行動の理由も、生徒会選挙の解決法もまだ僕にはわからないけれど。

 だからといって何もしないのは、僕自身への裏切りだ。

 間違った行動だったのかもしれない。間違った勇気だったのかもしれない。

 それでもそれは、今の僕と地続きの僕の選択だ。過去の選択を誤ったなどと宣うのは、今の自分への冒涜だ。

 

 気づいた時には、体は既にベッドから起き上がっていた。

 窓の外は凍えそうなほど冷たい風が吹いていて、とてもじゃないがその風を浴びたいとは思えない。

 こんな寒々しい空気の中、用もないのに外に出るバカはいない。

 

 でも僕はバカだから、コートを一枚羽織ることにした。

 

 

 × × ×

 

 

「緊張してきた……」

 

 目の前には二階建ての一軒家があり、僕はその玄関のドアの前で立ち往生していた。

 無論僕の家ではない。

 とりあえずは金曜日のことを謝りたいと彼の親切心を無下にしてしまったことを謝罪しようと思っていた。

 それを明日に持ち越さないようにしようとした僕は、比企谷家を訪れていた。

 

 インターホンに指を添えるも、押すことができない。これはあれだ。知らない番号からの電話を掛け直すときの緊張によく似てる。いや知ってる番号でも緊張するな。とにかくあれだ、緊張する。

 

「……よし」

 

 ガチガチに固まった指を無理矢理動かそうと気合いを入れた。

 

「あのーうちに何か用ですか?」

 

 後ろから声をかけられて、その気合いはすぐに空回った。

 そちらを向くと、黒髪の可愛らしい女の子がアホ毛をピョコピョコさせながら不思議そうにこちらを見ている。

 この家の人物とは思えないほど生命力溢れるその少女はポカンと口を開けていて、そんな間の抜けた姿はやはり彼と血の繋がりがあるのだなと思わせる。

 

「えっと……比企谷君に会いに来たんですけど……」

 

「お、お兄ちゃんにですか!? こんなかわいい人が……まさか雪乃さんや結衣さん以外の新たな嫁候補……!?」

 

 比企谷君の妹、比企谷小町ちゃんは僕の言葉にアホ毛をピンと立てると、ブツブツとたわ言を呟きだした。

 てかやっぱ、その比企谷家のアホ毛って何かのセンサーなの? 僕にも同じようなのが頭についてるが、これ程までに動きはしない。

 あとその独り言、全部聞こえてるからね? 

 

「あ、えっと……もしいないなら帰るから……」

 

 ある意味で不穏な、どちらかというと厄介な空気を感じたので撤退の二文字が頭をよぎる。

 僕は行動も早いけど逃げ足も素早いのだ。

 

「いえいえ、兄は休日ほとんど家から出ませんから。あと、兄の妹の小町と言います! 兄がお世話になってます!」

 

「あ、ど、どうも……クラスメイトの八千代知夜です」

 

 おずおずと玄関の前で二人頭を下げる。変なやり取りだ。ご近所さんに笑われないといいけど……。

 小町ちゃんの勢いは止まらず、更に言葉を重ねる。

 

「こんなとこで立ち話も何ですので、ささ、中へどうぞ! さささ!」

 

 僕の逃げ足より素早く玄関を開けた小町ちゃんは、僕を中へと呼び込んだ。元気すぎてちょっとテンションがついてけそうにない。

 断ることもできなくて、お家へ上がり込む。心情的には引きずり込まれた気分だ。

 

「お、お邪魔しまーす」

 

「こちらへどーぞ!」

 

 靴を脱いで揃えると、一息つく間もなく小町ちゃんの案内が始まる。

 廊下を歩きリビングへ。前に来たときはほとんど家の中に入らなかったので、本来は初めて見る風景なのだろう。

 

 ブニャア。

 リビングのドアを開けると、あまりかわいげのない鳴き声と共に、比企谷家の飼い猫がすり寄ってきた。よしよし、ういやつめ。

 

「知夜さん、お兄ちゃん呼んでくるので、そこのソファーに座って待っててください。あとかーくん、ご飯はそのあとね」

 

 小町ちゃんは僕の足下の猫を一撫ですると、そそくさとリビングから出て行った。

 おい、そこのカマクラとかいう変な名前の猫。僕に近づいたのはご飯目当てかよ。

 

 そんな僕の気持ちを意に介することなく、カマクラは頭の擦り付けをやめない。

 仕方ないので着ていたコートを二つに畳んでソファーの肘掛けにかけて、空いた両手で肉球を揉みしだいてやった。ぷにぷに。柔らかいなぁ……。

 毛並みを整えたり、耳を触ったりして時間を潰してると、階段を下りる音が聞こえてきた。

 

「あのーすみません。うちのバカ兄はまだ寝てるようで……小町、いつもなら叩き起こすんですけど……」

 

 申し訳なさそうな顔をして小町ちゃんが頭を掻きながらリビングに戻ってきた。

 ふむ、まあ想定内というか。僕もニチアサ終わったら二度寝しようとしてたしな。

 

 これからどうするかなーとお気楽に悩んでいたが、ふと先程の小町ちゃんの言葉が気になって、ついつい深堀りしてしまいたくなった。

 

「いつもなら……って言ってたけど」

 

 聞くと、小町ちゃんは少し不満そうに唇を尖らせながら一つため息を吐いて、それから僕に失礼だと思ったのか慌てて手を振って取り繕った。

 

「それがその、珍しく兄とは喧嘩中でして」

 

「あー……やっぱり」

 

 そうだろうという予感はしていた。比企谷君は折本さん達と再会していて、それは家に帰りづらいから寄り道したことが発端だったはずだ。

 逆算していくと、小町ちゃんとの喧嘩に行き着く。

 修学旅行の後、比企谷君と小町ちゃんは揉めていたのだ。

 

「何か知ってるんですか?」

 

 小町ちゃんが不安そうにこちらを覗き見る。罪悪感を刺激されて、言葉に詰まる。

 

「知ってるというか……たぶん、原因の一つだから」

 

 自分を指差す。僕は今、どんな顔をしてるだろうか。自分の顔が見えないから、せめて他人の瞳からそれを伺おうと小町ちゃんを見ると、小町ちゃんは憑き物が落ちたような表情をしていた。

 それがある意味怖かった。恨まれてはいないのだろう。ただ、全く責められないというのもそれはそれで辛いものがある。

 

「その、小町ちゃんはやっぱり気になるよね?」

 

 何があったのかを知る権利が彼女にはある。それが喧嘩の原因なのだから。そして僕には、それを伝えて不和を解消する義務があるのだろう。責任の取り方を、それ以外僕は知らなかった。

 

「いえ、大丈夫です」

 

 そういって小町ちゃんは僕にニッコリと、人懐っこそうな笑みを向けた。きっとそれが彼女本来の笑みなのだろう。

 

「え、いいの?」

 

「いいんです。知夜さんがうちに来てくれた時点で、小町が気を揉む必要もないと思いますし。何があったかは知りたいですけど」

 

 小町ちゃんは天井を見上げる。その視線の先は二階へと繋がっているような気がした。

 

「それはお兄ちゃんの口から聞きます」

 

 小町ちゃんはそう言って微笑んでいた。なぜかその微笑みを羨ましく思ってしまう。どうしてだろうか。

 そして、除け者にされてしまったみたいで寂しくなった。そんなつもりは小町ちゃんには微塵もないのだろうけど。僕の被害妄想に近い。

 

「その……比企谷君は頑固だし……話してくれないかもよ?」

 

 意地悪だとわかっていても、そう聞くのを止められなかった。

 もし、二人が仲直り出来なかったら。それは僕が引き起こした悲劇と言えるだろう。

 そんな僕の心配を消し飛ばすように、小町ちゃんは胸を張って答える。

 

「大丈夫ですよ。お兄ちゃんがすぐ言わなくても、それが一ヶ月でも一年でももっと長くても……小町は待ってます」

 

 その小さな体のどこにそんな強さがあるのだろうと思うと同時に、僕がそれを羨んだ理由がわかった気がした。

 比企谷君と小町ちゃんの……二人の関係はきっと、今のところ、終わりが見えないのだ。

 

 喧嘩をしてもそのうち仲直りすると確信していて、その先を見据えている。きっと、関係が切れることなど考えもしないのだろう。

 僕が欲しいと思った理想に近しいものはきっとそれだ。

 

「分かってて聞くけど、どうして?」

 

「小町はお兄ちゃんの妹ですから!」

 

 家族というものは、離れようとしても離れられないものなのだろう。良くも悪くもだ。

 余程のことがなければ、失われることを勘定に入れたりしない。

 ずっと、それこそ死ぬまでこの家族は付き合っていくのだろう。

 僕が求めていた、永遠に似た理想の関係は、とてつもなく僕に近いところに確かにあった。

 

「あーあ。小町ちゃんが妹だったらよかったのになぁ」

 

 ただそれを他人に当てはめることはできない。

 僕と比企谷君と雪ノ下さんと由比ヶ浜さん。兄妹でも家族でもない四人の関係性には、常に終焉がちらついている。それはあるいは奉仕部の有名無実化であり、あるいは高校生活からの卒業でもあった。

 

 僕は、彼らとの関係を失いたくない。

 みっともなく縋っていたい。

 うんざりするほど粘着質な、気持ちも気色も性質も悪い最低辺の願いだ。

 

 でもたぶん。これまでも、今からも。

 僕はそれを願っていたのだろうと思うと、スンと胸のつっかえがとれたような気がした。

 

「ふっふっふ。じゃあ義理の妹はどうでしょう」

 

 ……二人までなら法律上問題なく家族になれてしまうらしい。浸らせてくれないなぁ、全く。

 

「あはは……遠慮しとくよ。比企谷君のクセに、候補がいっぱいいるっぽいし……」

 

「その人たちもどうでしょうねー。兄はスペックに見合わない無駄な手強さがありますから」

 

 小町ちゃんと二人、比企谷君へ愛のある(?)悪口で盛り上がる。

 帰ろうかと思っていたけど、こういうのも悪くない。比企谷君が起きるまで、せいぜい待たされた分の鬱憤晴らしでもするとしよう。

 あれ……確か謝りに来たはずだよな、僕。

 ……まあその辺は後で考えるか。

 

 

 × × ×

 

 

 あれから。時間を潰そうと、色んな比企谷君の話を小町ちゃんに聞かせて貰ってたんだけど。

 

「あ、わかります! お兄ちゃん勝負事だと卑怯な手ばっか使うんですよ」

 

「そういうの得意だよね。あと全然勝ってないのに屁理屈言って勝ち誇ったり」

 

 少し。少々。

 

「ですです! いやー知夜さんお兄ちゃん検定一級取れそう!」

 

「ふ。任せて。培った比企谷君知識が火を拭くよ」

 

「キャーかっこいいー! よ! 未来の嫁!」

 

「うんそれは違うんだけどね」

 

 いや結構……ううんだいぶ、いやかなり最高に盛り上がっていた。

 だって知らない比企谷君の話がいっぱい出てくるんだもん。楽しくなっちゃうよそりゃ。

 客観的にみて女二人なのだが、やかましいし姦しかった。

 だいぶ本筋から逸れた気もするけど、ファン垂涎の未公開エピソードを前に僕が待てを出来るはずもない。

 

 思い出話に花が咲く。どこかひねくれた思い出ばかり出てくるのでこの花はラフレシアとかだろう。

 感慨に耽る間もなくポンポンと話が出てくる。

 

「昔、小学生の小町が中学校でのお兄ちゃんの運動会見に行ったときの事なんですけど。お兄ちゃん絶対勝ってね! って前の日に約束してたんですよ」

 

「それでそれで!?」

 

 身を乗り出して続きを促す。比企谷君の中学生の時の話は一番脂が乗っている。寿司で言う大トロのようなもので、それはもう最高の料理だ。

 正直とても楽しい。

 

「100m走だったんですけど、いつまで経っても先生のピストルが鳴らなくて。で、そのうち鳴ったと思ったらお兄ちゃんだけが最高のスタート切って圧勝しちゃったんですよ。どう思います?」

 

 小町ちゃんがニヤリと笑う。これは挑戦状だ。この謎を解いてみよとの。ミステリーマニア兼比企谷マニアの血が疼く。

 100m走、スターターピストル、一人だけ最高のスタート、そして比企谷八幡の戦法。

 全ての要素を繋ぎ合わせ一つの答えを導きだす。

 

「謎は……全て解けた!」

 

 小町ちゃんに指を突き付け、真実を口にする。

 

「彼はペテンをしていたんですよ」

 

「ほほう。どんな推理なのかね名探偵君」

 

 もうなんか小町ちゃんもノリノリである。なんだこいつら。

 これはたぶん、先に冷静になった方が負けだ。

 きっとそういう勝負な……気がする。

 

「彼がやったことはこうだ。まず、ピストルの火薬をスタート前に水で濡らし不発にする。その後は爆竹なんかの小さい火薬を仕込んだ靴で、引き金のタイミングに合わせて思い切り足を踏み出すだけで、自分だけ音と同時にスタートを切れるって寸法だ」

 

「面白い推理だね……。しかし証拠がないじゃないか。証拠はあるのかね証拠は!」

 

 小町ちゃんがバンバンと机を叩く。それ犯人のテンプレじゃん……。いや小町ちゃんは犯人じゃないんだけど。

 

「彼のズボラな性格では、証拠は見付からなければそれで問題ないと考えるはず。当時の靴、まだ残ってるんじゃないですか? あるはずですよ。靴の裏に火薬の焦げ後がね」

 

「おおっ! さすがは知夜さん! さすちよ! 早速靴箱見に行きましょう!!」

 

 探偵ごっこをサクッと辞めた小町ちゃんがウキウキで立ち上がる。僕も証拠を確認するために続いて立ち上がった。凶悪な犯罪者を野放しにしては置けない。僕が断罪せねば。

 

 二人で靴箱をこれでもないあれでもないと探る。むーどこに隠した。すると、トントンと階段を下りる音が聞こえてきた。

 

「小町、ゴソゴソうるさいけど何してんだよ。……え、ほんとに何してんの? てかなんでお前いんの?」

 

 比企谷君が目を白黒させながら、僕と小町ちゃんを交互に見ていた。

 

 家の靴箱を漁る妹。なぜかそんな奇行に参加している僕。しかも僕に至っては他人の家の靴箱。

 完全に我に帰った僕は、顔面から血の気が引く。

 ただ小町ちゃんはまだ熱狂の中にあるようで。

 

「お兄ちゃん、靴! 中学の! どこやったの!」

 

 そういって比企谷君にカタコトな言葉でで詰め寄る。喧嘩していた妹が、ワケわからんこと言って迫ってくるのは正直どんなホラー映画よりも怖いだろう。

 

「い、いや穴空いたから捨てたけど……」

 

「はぁぁぁ!? お兄ちゃんのボケナス! 八幡! 火薬使い!」

 

 プリプリ怒って小町ちゃんは二階の、おそらくは自分の部屋に戻っていった。

 いやあの、多分二人になれるように気遣ってくれたんだとは思うんだけど。

 

「最後なんか能力者みたいなの混ざってたんだけど……。で、お前は何しに来たの?」

 

 比企谷君は不審者をみる目付きで僕を見る。

 ……小町ちゃん、もしかして僕のこと見捨ててませんか? でもまあ一応とはいえ喧嘩中だから話し辛いだろうし……その喧嘩の原因は僕だし……。

 

「うーんと、その。話に?」

 

「なんで疑問系なんだよ……。はぁ……とりあえずコーヒーでも淹れるわ」

 

 そういって彼はリビングに向かった。

 僕も付いていく。

 いや危なかった。目的を見失うところだった。

 

 ……でも靴は穴空いて捨てたって言ってたよな。その穴もしかして火薬のせいなんじゃ。

 

 ブンブンと要らぬ疑念を払って、ソファーにもどって座り込んだ。

 カマクラがふごふご言って近付いてくる。撫でていると少し落ち着いた。

 比企谷君がカチャカチャと飲み物の準備をしてくれる。

 

「砂糖とミルク何個だ?」

 

「比企谷君と同じで」

 

「一回で六個ずつか……ストック切れそうだな」

 

 三個も入れるんだ……。糖尿病待ったなしだな。

 少し経ってトポトポとコーヒーが注がれる音がする。比企谷君がテーブルまで持ってきてくれた。

 

「ありがと」

 

「まあ、一応は客だからな……。んで?」

 

 比企谷君はふーふーと息を吹き込んでコーヒーを冷ましながら、視線でこちらの言葉を促す。

 

 どう言おうか。僕が欲しいものは何となくわかったけれど、そこに辿り着くまでの過程がわからない。

 とりあえず、優先してこの前の謝罪から入ることにした。

 

「金曜、急に帰ってごめんね」

 

 僕がそう言うと、彼は呆れたような顔をした。

 

「別にわざわざ謝ることじゃねえだろ。あいつらだってすぐ帰ったんだし」

 

 あいつらが誰を指しているのか、すぐにわかった。彼が遠い目をしたからだ。どこか思い返すようなそんな目を。

 話を終えるつもりなのかズズッと彼がコーヒーを啜る。まだ熱かったようで、涙目になっていた。

 だが僕は、終わらせるつもりはない。

 

「僕のこと、心配してくれてたでしょ?」

 

「ばっお前、そんなんじゃねえよ。葉山のやつが変なとこ言うから、まあ……思うとこあってな」

 

 誰に思うところがあるのか。言うまでもない。

 何を思っているのかは、詳しくは分からない。

 きっと彼の方が僕よりもよっぽど、僕のことが分からなくて苦しんでいるのだろう。

 

 比企谷君が、大きめの音を立てて持っていたマグカップをテーブルに置く。驚いたカマクラが飛び上がって、リビングから走り去っていった。まるで、いつもの僕のような逃げっぷりだ。先に逃げてくれたから、僕は逃げないで済んだ。

 

「比企谷君」

 

 固唾を飲む音が聞こえる。真っ直ぐと見つめる僕の視線に耐えかねたのか、比企谷君が目を逸らした。

 

 あの修学旅行のことは、僕と彼らが共謀して墓に埋めた出来事だ。葉山君が少しだけ掘り返して、それに比企谷君は憤った。

 でもたぶん、それじゃダメだから。

 僕も墓を暴く。むしろ僕が墓から出てくるのか。いよいよ彼に似てアンデット染みてきたな。

 

「たぶん僕はあの時ね、君と仲良くしたかったんだ」

 

「……は、」

 

 予想だにしなかったのか、彼の口から疑問未満の言葉が漏れる。

 

「だから、あんなことしたんだと思う」

 

 海老名さんには申し訳ないけど、今はともかく、あの時は彼女を助けたかった訳じゃない。

 葉山君の関係を壊したくないという苦しみに、あの時は何も感じていなかった。だからこれも理由として違う。

 

 少しずつ選択肢を削っていく。こんなものは消去法であって、当時の気持ちを正確に推し量れるものじゃない。それでも、今の結論はこれだった。

 

「……いや待て。飛躍しすぎだろ」

 

「うん。僕もそう思う」

 

 そう言って笑う。ああそうだ。これは行動の遠因であって、直接の原因ではない。

 彼を……助けたかったのだろうか。僕は。

 わからない。そんな傲慢な気持ちを抱いていたとは思いたくない。

 

 たぶん傷付いて欲しくなかったのだと、思う。

 雪ノ下さんや由比ヶ浜さんとの関係を悪くしてほしくなかったのだと思う。

 だから彼のやり方を彼自身に否定させて、間を取り持とうとしたのだと思う。

 

 だがそんな理由は無粋な後付けだ。

 後から語る理由にはなっても、その時抱いた気持ちには──感情には届かない。

 もっと、簡単に。シンプルに。分かりやすく。

 なんでやったのかと問われたらこう答えよう。

 

「友達になりたかったんだ。だからね」

 

 呆けている彼の頬をからかうように指でつつく。

 こんなものは照れ隠しだ。

 

 本音を言うことは恐ろしい。否定されるのは自己の存在に関わる死活問題だ。

 だから誰もが何も持っていないフリをして自分を守る。付け入る隙が無いように見せ掛ける。

 それは僕も同じで、でも隠しきるのは難しかった。

 

 僕が望む理想は、きっとそれでは手に入らないから。

 

「これからも、よろしく」

 

 僕の言うこれからは、きっと彼が想像している時間よりもずっとずっと長いものだ。

 永久にも等しい、死までのカウントダウンだ。

 それは吐き気を催すほど醜悪な願いで、そんなものを余人が持つことは許されていない。

 だから隠さなければならない。そんな願いを知れば、きっと誰もが拒絶するだろうから。目の前の彼も、それは変わらない。

 

 でも。小出しにすることで、少しずつ知っていって、許容してもらえないだろうかと。

 僕は不相応にもそんなことを考えてしまう。

 

「……なんだそりゃ」

 

 彼は少しだけ赤みが指した顔を隠すようにカップに口をつけた。

 

 コーヒーはとっくに冷めていて、かき混ぜ切れなかったミルクが分離して浮いている。

 少しずつ、ゆっくりと。

 混ぜ合わせてかき回して。

 

 そうしてできた、砂糖やミルクが大量に入ったコーヒーを僕は一気に飲み干した。

 

「ご馳走さま」

 

 溶けきれなかった砂糖が、ザラザラと底に残っている。だが僕は、出来ることならこの残った砂糖も一緒に飲み下したい。欠けることなく、失うことなく。

 

「……なんだよ。もう一杯いるか?」

 

「ありがと。じゃあ今度はブラックでお願い」

 

 そそくさと彼がお代わりの一杯を同じカップに注ぐ。唐突にブラックを注文した僕を不思議には思ったものの、彼は何も言わなかった。

 

 底の砂糖を溶かしきって、一口飲む。熱くて飲むのは大変だし、それを超えて飲んでも苦いし酸っぱいしで大変まずい。お子様舌の僕にはこれは合ってない。

 

 それでも僕は、この苦味と酸味を呑み続ける。

 そこに、望むものがあると信じて。

 

 




感想、評価、ここすき等お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16.花に嵐の例えもあるが人生にさよならはいらない。

生徒会選挙6話です。

奉仕部の関係にメスが入ってしまいます。
あと雰囲気の落差が酷いです。たぶんこの先もずっと落差が激しくなると思います。

全7話前後とか言ってましたが、たぶん全8話になります。いややっぱ9かも……。



 指。右手の人差し指。むに、という感覚が未だに残っている気がする。左手の人差し指と突き合わせて感触を確認する。彼の頬はこんなに硬くなかった……はず。

 あーあーあーあー! 何考えてんだ僕は! ちょっと頬っぺたつついただけで! てか何でつついたんだよ! 

 

 悔恨の念は絶え間なく襲い掛かる。勢い任せに行動することを肯定したのは昨日の僕だけど、まさかあんなこっぱずかしいことをするとは思わなかった。なにやってんだよお前マジで。いや自分のことなんだけどね。

 

 これが……トラウマか……。

 他人と距離を取り続けたせいで、心が弱ることにさして耐性がなかった僕は、比企谷君の頬をつついたことに対しての後悔にノックアウトしそうだった。後悔したくないんじゃなかったのか僕は。

 だって何あれ? 少女漫画のイケメンか美少女ゲームのヒロインにしか許されてないぞあんな行為。

 恥ずかしすぎて顔から火が出そう。

 

 ゴンゴンゴンゴン机にゴン。頭で軽く机をノックして脳ミソ虐めに精を出す。叩いてもバカは治りそうにない。いっそ死ぬしか…………。

 

「や、やっはろー。その、大丈夫?」

 

 ここが教室でこの机が自席だということをすっかり失念していた僕は、その声でハッと顔を上げた。

 上げた先には由比ヶ浜さんと……離れた席からこちらを伺う比企谷君の姿。ゴン。机の上の定位置に強引に頭を戻して、後からそのアホ頭蓋を両腕で囲い混む。

 

「……だいじょばないかも」

 

「あはは……」

 

 由比ヶ浜さんの苦笑いが聞こえる。ただ、続く言葉はない。しかし席に戻るつもりも無いようで、まだ息遣いを感じる。吐息がやけに生々しく感じられ体が硬直する。耐えきれなくなって、目以上鼻未満を腕から引き出しながら口を開いた。

 

「まあ何でもないっちゃないから……」

 

「そっか……」

 

 由比ヶ浜さんは追及する気はないようで、曖昧に笑った。それから眉を潜めると僕の耳に口を近付けた。かかる息がこそばゆくて、顔の温度が上がった気がした。潜めた声が続けざまに耳をくすぐる。

 

「なんかさ……ヒッキー、すっごいこっち見てない?」

 

 僕は他人の視線にはとんと疎い。見られていると気付くにはこちらも見る必要があるわけで。比企谷君のことはそれなりに観察しているつもりだけど、お互い寝たフリをしながらだと頭を上げるタイミングが中々噛み合わない。

 

「そうかな? いつも通りな気もするけど……」

 

 彼は既に顔を逸らしていた。だから僕が知ってる情報をそのまま告げる。むしろ、いつも通りじゃないのは僕の方だ。

 

 由比ヶ浜さんはそれでも疑念を払拭しきれないようで、僕に何か言おうとした。しかし教室の一番賑やかなグループからの大きな声でその動きは止まる。

 

「そういや、サッカー部金曜休みだったよな。ズリぃよー寒いのに外で練習とかマジ勘弁だわー」

 

 そう言っておちゃらけるのは確か野球部の大……大……大谷? 将来はメジャーリーガーかな。

 冗談はさておき大和君の愚痴がサッカー部の二人へ向けて飛んだ。

 

「おいおい。野球部もグラウンドは平等に使ってるだろ? あとそれ、部の先輩の前じゃ言わない方がいいぞ」

 

 葉山君が窘めるように言う。男子グループには笑いが生まれ、楽しそうな空気を作り出している。

 ただ女子はそこに入っていない。

 

「金曜……」

 

 由比ヶ浜さんが呟く。どうしたものかなと言葉を必死に検索していると、繕う間もなく声が響いた。

 

「金曜……」

 

 まったく同じ台詞を放った三浦さんは、心まで抜けてしまったのか放心状態で葉山君を見ている。

 いつもなら気を遣って話しかけるはずの由比ヶ浜さんもこの調子なので、残された海老名さんが必死に間に入っていた。

 

「大変! どっちの部が受けかで戦争が起きちゃう! サッカーの方が攻めって感じがするよね! ね、とべっち?」

 

「え、お、おう! いやーやっぱサッカーやるなら攻めっしょ! シュート打たなきゃ点は入らないっつーか?」

 

「そうだよね! 入れなきゃ入らないよね! 夜のPK戦はこれからだよね!?」

 

「え、いまのナイターの話だったん?」

 

 なんか微妙に話が噛み合ってない気もするけど、重苦しい空気を蹴散らそうと海老名さんと戸部君が頑張っている。

 三浦さんは止めることなくため息を吐く。ご機嫌を取ろうと、大和君や大岡君が奮闘していた。

 

 一人だけ、どこか優しくいつもと変わらないように微笑む葉山君の表情に、ありもしない陰りが見えた気がした。

 

「由比ヶ浜さん。今日のお昼、一緒に食べてもいい?」

 

「え? あ、うん。いいけど……珍しいね」

 

 由比ヶ浜さんはほえーっと妙な相槌を打ちそうな顔で僕を見た。

 決して、葉山君の含みがありそうな顔が気になった訳じゃない。ただ僕は僕で出来ることをやろうと、そう思っただけだ。それに。

 

 僕のやったことに意味があったのかどうか。その答えは今日の昼休み、明らかになるのだから。

 そして、生徒会選挙の行く末もそこで決まる。

 

 

 × × ×

 

 

「やっはろー、ゆきのん」

 

「お邪魔するね」

 

 由比ヶ浜さんがガラガラと扉を開けて、僕が後から続く。雪ノ下さんは僕の姿を見て少し驚いていたが、すぐに何でもない顔に戻って挨拶をすると、小さめのお弁当を広げた。

 僕も由比ヶ浜さんも鞄からお弁当を出す。

 今日はたまのお弁当の日だ。というのも八千代母……いや、ママ……。間をとって八千代ママってことで。その八千代ママは遅番を増やしたらしく、朝はお弁当を作って見送るようになった。今後は、そういう日が多くなるらしい。何か心境の変化でもあったのだろうか。

 

 作ってくれたお弁当だが、中々喉を通らない。ただそれでもせっかく作ってくれたものを残す訳には行かないと飲み込むように食べていく。

 

 ガラッ──

 

 唐揚げに手をつけたところで、その鋭い音と共に扉が開く。ああ、やっぱりか。

 そこには比企谷君が険しい顔で立っていた。

 由比ヶ浜さんは目を丸くして驚いたが、雪ノ下さんはただ冷たい瞳で見つめていた。

 挨拶などもなく、比企谷君が口を開く。

 

「雪ノ下、お前が立候補するのか」

 

「……ええ」

 

 雪ノ下さんはそっと目を伏せる。

 由比ヶ浜さんがそんな彼女を見て困惑の表情を浮かべた。

 

 確定だ。彼女はやはり、彼女自身が生徒会長になりたがっている。決して陽乃さんに発破をかけられたことだけが理由ではない。

 

「聞いてなかったのか」

 

 比企谷君が由比ヶ浜さんの様子を見て呟いた。弁解するように雪ノ下さんが言葉をポツリポツリと拙く紡ぐ。

 

「……まだ、確定したわけじゃないわ。応援演説の人選は決まっていないもの」

 

 僕のやったことにも一応意味はあったらしい。

 その是非はわからないが、僕があの日割り込んだことによって雪ノ下さんの決断は少し遅れていた。

 葉山君が承諾しなかったのか、それとも雪ノ下さんがまだ打診していないのか。おそらくは後者だと思う。

 

「てことは、推薦人集めは終わってるんだな?」

 

 顔を上げられない雪ノ下さんに、比企谷君は容赦なく咎めるように言う。

 何も答えない雪ノ下さんの沈黙を肯定と見たのか、比企谷君は頭をガリガリと掻きながら呟くように漏らした。

 

「他の候補の擁立って手もあるだろ」

 

「それを否定したのはあなたよ」

 

 鋭く、雪ノ下さんの声が飛んだ。そしてそれはその通りで、葉山君に断られたとなると一色さんに勝てる候補の選択肢などない。よしんばそんな逸材が隠れていたとしても、残り一週間では選挙の準備が出来るとは思えない。事情を知っていて政策も立てている雪ノ下さんなら話は別だが。

 

「……そうかよ。それでお前かよ」

 

 比企谷君がそう吐き捨てる。自分で否定した意見を他人に盾に使われていい気はしないだろうが、きっと彼が憤慨している点はそこじゃない。

 ただもっと純粋に。

 

 ──雪ノ下雪乃に生徒会長をやってほしくない。

 

 そういうことなんだと思う。

 

「でも、部活は……」

 

 由比ヶ浜さんが小さく縋るように呟く。

 

「大丈夫よ。この部活はそれほど大変でもないし、生徒会の仕事もある程度理解しているから負担にはならないわ」

 

 それは果たして本当だろうか。

 雪ノ下さんが生徒会長をやりたい理由はさほど明確に語られていない。彼女が本当に部活と両立するつもりなのか、僕にはわからない。

 

 俯き、思考に囚われた僕を見て彼女は薄く微笑んだ。それから矢継ぎ早に言葉を並べ立てる。

 

「私がやるのが最善だと思うわ。一色さんにも勝てるし、それに傀儡ではないもの。行事の運営もスムーズに行える。効率がいいし……それに、私はやっても構わないわ」

 

 効率がいい、という言葉に引っ掛かりを覚える。

 その言葉を引用した結果、誰かを傷付けた愚か者がいた。自分の気持ちを偽り他人の理由を奪い、その責任すら満足に取れていないうつけ者がここに。

 

 だからそうじゃない。比企谷君も僕も、そして雪ノ下さんも。効率なんていう独善的な在り方に囚われてはいけない。

 注目すべき点はここじゃない。

 

「やっても構わないって?」

 

 僕が口を挟んだことに雪ノ下さんは少し驚いていたが、用意していたようにすぐに答えを返す。

 

「ええ。私なら適任でしょう」

 

 違う。適しているかなんて関係ない。

 重要なのは意思だ。やりたいと思うのか。それはどうしてなのか。僕も由比ヶ浜さんも比企谷君も、彼女のそれがわかっていない。

 

「そりゃそうだろうが……」

 

 比企谷君が呟く。納得が言っていないことは誰の目から見ても明らかだった。

 雪ノ下さんがきつく、冷たい瞳で彼を見返して口を開きかける。

 それを止めるため手で制した。なぜ、といった顔が僕に向けられる。

 注目を奪うために、僕は口を開く。

 

「効率だけでいうなら、他にも手はあるよ」

 

 いま必要なのは雪ノ下さんから言質を引き出すことだ。

 生徒会長をやりたいという意思を引き出すこと。

 そのためにまずは効率を否定する。

 彼女から、分かりやすい理由を奪う。

 

 生徒会長になるにせよならないにせよ。奉仕部が存続するにせよしないにせよ、本音を出せなければこの三人に進展はない。無意味な停滞だ。一見、僕の望む永遠の関係に見えるけれどそれは違う。

 永遠とは終わらない道のりのことであって、道の途中で立ち尽くすことではない。

 

「これ見てもらっていい?」

 

 僕は鞄から一枚の紙を取り出して、机に置いた。みんなが顔を寄せてそれを見る。

 ……出来れば、使わずに済めばよかったんだけどな。

 

「生徒会選挙の、アンケート?」

 

 由比ヶ浜さんが不思議そうに呟く。

 それは僕が昨日作ったアンケート用紙だった。

 ゆっくりと雪ノ下さんが内容を読み上げていく。

 

「生徒会役員へ必要な資質は何だと思うか、どういう政策を立てて欲しいか、誰が生徒会長に相応しいか……。これだけ第5候補まで求めるのね」

 

「で、これの意味は?」

 

 雪ノ下さんも比企谷君もパッと見ただけでは分からないようで、僕に説明を求める。重たい口をどうにか動かして、僕はこの用紙について語る。

 

「全校生徒に配って集計するんだ。でも必要なのは最後の項目だけで、他はダミーだよ。生徒会長に相応しいのは誰ってやつ。……その解答は、実質的な推薦になる」

 

 わざわざ第5候補まで作ったのは票の集中を防ぐため。葉山君や雪ノ下さんだけに集まっても意味がない。

 重要なのは、推薦される側の人間の数だ。

 雪ノ下さんは僕の話を聞いてこめかみに手を当てて考え、それをブツブツと呟いた。

 

「推薦人集めをこれで……? でも立候補がいなければ結局同じ事……。他薦ということ? いえ、違う。まさかあなた」

 

 答えに辿り着いた雪ノ下さんがハッと息を呑み、信じられないといった顔で僕を見た。そりゃそうだ。こんな意地の悪い考えを知ったら誰でもそんな顔をするだろう。

 

「ゆきのん……?」

 

 由比ヶ浜さんは分からない様子で、雪ノ下さんを不安げな瞳で見つめる。

 雪ノ下さんは僕をその鋭い眼光で睨み付け、それから苦々しく吐き捨てるように僕に向かって正解を突きつけた。

 

「このアンケートに書かれた人を、一色さんのように勝手に立候補させるつもりね」

 

「え……それじゃいろはちゃんみたいな人が増えるだけじゃ」

 

 由比ヶ浜さんの驚きの声が部屋に響く。

 すると比企谷君が補足をするように前に出て、その考えを引き継ぐ。

 やっぱりか。そうだろうと思った。君ならこんな露悪的な方法も解ってくれると、いや──解ってしまうのだと。それはある種、残忍な信頼でもあった。

 

「そんな少人数じゃねえってことだ。10人もしくは20人。30人も立候補させられれば上出来だな」

 

 由比ヶ浜さんが助けを求めるような視線で雪ノ下さんを見る。雪ノ下さんもきっともうわかっていて、僕に冷たい目を向け続ける。

 

「候補の受付は来週の月曜日の一日のみ。投票は木曜日よ。中二日、投票の当日を合わせても三日で数十人が演説を行うのは……現実的ではないでしょうね」

 

 補足するように僕も付け加える。

 

「演説をどういう形でやるのか知らないけどね。外でやるにしてもマイクやお立ち台の数には限りがあるし、体育館で全校生徒集めてやるなら絶対に不可能だよ。そうすれば、選挙は延期になる」

 

 雪ノ下さんもそれはわかっているのか、他の点で反論できないかを探しているようだった。

 この作戦は穴だらけだから、すぐに見つかることだろう。

 予想通り、一分も経たないうちに雪ノ下さんが僕を責めるように指摘を始める。

 

「いえ、まず選挙管理委員がそれを見逃すとは思えないわ。一色さんの一件があったのだから、本人確認は怠らないはずよ。それにこんな用紙を大々的にバラ撒いたら……」

 

 ただ事では済まない。そう言外に告げていた。

 停学なんかもあり得なくはない話だ。

 僕が反論するより先に、比企谷君が割って入る。多分彼は理解しているのだ。この方法が最も効率がいいことを。

 

「それならなぜ一色は通したんだって話になる。というより……そもそも、別に受理される必要もないんだろ」

 

 比企谷君は確認するように僕へ視線を向ける。その顔は雪ノ下さんよりもよっぽど苦渋に満ちていて、見ているこちらの胸が痛むようだった。

 

「……どういうこと?」

 

 由比ヶ浜さんが消え入りそうな声でそう洩らした。

 

「目的は選挙そのものじゃない。大事にして学校を巻き込んで問題にしちまうことだ。そんな前代未聞の状況で選挙はできない。わざわざ紙で配るのも、多くの教師に認知させるためだろうな」

 

 比企谷君は淡々と答える。まるで感情を押さえ付けるように。自分に言い聞かせるように。

 

 この作戦の目的はそれだ。そもそも事の発端からして、一色さんのものは正当な立候補とは呼べないのだ。規約的に問題がないのなら、事を荒立ててその規約ごと問題視させてしまえばいい。

 

「ついでに言うと学校側のシステムが悪いんだから、そうおいそれと処罰もできないよ」

 

 これは希望的観測にすぎないけれど、断言するとことで説得力を強めておく。

 

 雪ノ下さんが俯いて、その姿勢のまま呟いた。影になって表情は伺えない。

 それでも声音の冷たさだけは、骨身に染み渡るような鋭利な声色だけは確かに耳に入ってしまう。

 

「そんなやり方に……。壊して有耶無耶にして、先延ばしにするだけのやり方に、意味なんてないわ」

 

 その言葉は僕に告げられているようにみえて、そうではなかった。ただ僕を通過して貫通して、彼を刺している。

 

 比企谷君が頭を掻き毟って、それからズボンの裾を強く強く握りしめた。喉は震え、声を出すのも精一杯な様子で口の端は揺れている。

 きっとそれは解ってるんだ。もう彼も解っている。それでも今までの自分を簡単には変えられなくて、否定する言葉を紡げなくて、こんなにも苦悩している。

 

「それでもこれが一番効率がいい」

 

 だから僕のそんな言葉は、想像を絶する苦味をもたらしたのだろう。

 だらんと腕は下がり、ただ力のない裏切られたような瞳で僕を見ている。今にも泣き出しそうなその目に映る僕はどんな顔をしていたのだろう。

 

「ヒッキー……」

 

 由比ヶ浜さんが心配そうに呟いた。

 しかし彼には届いていない。

 

 本当なら、こんなことをしたくはなかった。

 彼にも彼女にもズタズタと傷を付けるような真似をしたくなかった。それでも。

 

 効率という言葉で、誰かが割りを食うことはあってはならない。それが他人を傷付ける悪手であることは僕が既に証明している。

 これを否定しないと、前に進めない。

 それこそ有耶無耶のままにしてはいけない。

 

 必要なのは雪ノ下さんから言質を引き出すこと。

 生徒会長をやりたいという意思を引き出すこと。

 それはつまり効率や合理的な主義を否定すること。

 

 そのために僕は机のアンケート用紙を手にとって──

 

「だから、この案は無し!!」

 

 ──両手で思い切り引き裂いた。

 何重にも重ねて更に細かく千切っていく。

 跡形も、塵一つも残らないようにビリビリと。

 

「はぁ!?」

 

 比企谷君の理解不能といった絶叫が響く。理解が及んでいないようだった。まあそりゃそうだ。僕は、せっかく重ねた積み木をグチャグチャにぶちまけた。ワケわからなくて当然だ。

 

 それは他の二人も同じようで、目をパチクリさせながら僕の奇行を眺めている。口はポカンと開いていた。由比ヶ浜さんはともかく、雪ノ下さんのそんな姿はレアだった。

 

 紙片をそのままに、僕は雪ノ下さんに近付く。

 ここまでは盛大な茶番劇だ。茶番ならいつも演じている。だから、気合いを入れるのはここからだ。

 

「雪ノ下さん」

 

 彼女はただ呆気にとられたように僕を見て言葉の続きを待った。

 かける言葉がわからなくて、詰まってしまう。

 用意してきたはずの台詞は頭からするりと抜け落ちて空気中へ逃げていく。

 どうにか捕まえて、でも殆どは取り逃がしていて。数も順序もバラバラなその語郡をツギハギに縫い合わせる。

 

「効率とか最善とかじゃダメなんだ。それは多分間違ってたんだと思う」

 

 経験からそれを学んだ。自分の感情が何より重要なのだと知った。うまく伝えるには、どうすればよいだろうか。

 表情の変わらない彼女に、それでもなお言葉を掛ける。

 

「雪ノ下さんがどうしたいのかを知りたいんだ……。だから、それを言って欲しい」

 

 最も効率がいい手を示した。それを否定した。

 だから動く理由をそこに求めることはできない。

 残ったものがきっと答えだ。

 内に秘めた意志があるのなら、それを伝えて欲しい。

 

 僕は知っている。彼女が生徒会長になりたいことを。でもそれは知っているだけで理解とは程遠い。だからどうか、教えてはくれないだろうか。

 

 雪ノ下さんは顔を上げて、それから僕に向かって微笑んだ。それは酷く優しい笑みだった。優しいからこそ距離を感じた。

 

「言えば伝わると……そういうのね」

 

 彼女はそうして僕を見ると、比企谷君の方を見た。

 二人は確かに共通する信念を持っていて、それは僕には無いものだった。

 

 何も言わなくとも通じて、何もしなくても理解できて、何があっても壊れない。

 そんな愚かしくも綺麗な幻想を二人は持っていた。

 今も彼は、それを持っているのだろうか。

 

「どうだろう、伝わってるのかな。でも言わなきゃ伝わらないこともあると思うんだよ」

 

 僕も比企谷君の方を見る。彼に友達でありたいとそう言ったけれど、果たして彼はそれを素直に受け取る性格だっただろうか。

 だけれども、言わなければきっと僕は伝えられなかったのだ。

 僕の性別も思いも、汲んで貰えるなどとは思えない。だって中身に違う人間が入っていて、しかも男で、それも未来を知っているだなんて。荒唐無稽にも程がある。そんな異次元の存在を理解するのは不可能だ。

 だから、言葉にする選択肢しか僕にはない。

 

「そう、なのかもな……」

 

 比企谷君は小さく、それはもう小さく呟いた。

 僕の性別を知っている彼は、それを身をもって知ったのかもしれない。

 

 言葉は無力だ。言ってもまるで伝わらないことなんてことは多々あるし、間違った意味に変換してしまうこともある。それでも言葉にしたいと。やはり僕はそう思ってしまうのだ。これがきっと、僕の信念なのだろう。

 

「そう……やっぱりあなたが羨ましいわ」

 

 いつか聞いたその台詞を、再び口にした。

 それきり彼女は黙り混んでしまった。

 由比ヶ浜さんも比企谷君も困ったように僕らを見ている。

 

 やがて制限時間を告げるように鐘がなった。

 

「午後の授業、行きましょうか」

 

 結局、彼女の口からは何も語られることがなかった。

 

「……そうだね」

 

 沈黙に耐えきれなくなったように、由比ヶ浜さんがカチャカチャと音を立て弁当をしまい、鞄を持つ。僕もどうしていいかわからなくなって、力なく同じ事をした。

 

「私は鍵を返すから」

 

「……おう」

 

 部室を出て、雪ノ下さんが鍵を閉めるとそういった。

 比企谷君がその場から離れるようにトボトボと歩きだす。

 

「あ、まってよ!」

 

 由比ヶ浜さんが後を追った。

 残されたのは、僕と雪ノ下さんの二人だけ。

 

 生徒会選挙の一件は白紙に戻ってしまった。

 停滞どころか後退だ。僕のやったことにどれ程の意味があったのだろうかと常に考えている。

 今もそれは変わらない。

 

「あなたはいいの?」

 

 雪ノ下さんが視線で二人の方を見て、そう促した。だが僕が足を進めることはない。

 

「雪ノ下さんこそ……言わなくてよかったの」

 

 そんな文脈を無視した言葉がつい溢れてしまう。

 彼女はそんな僕を見て、また寂しげに微笑んだ。

 

「あなただって言わなかったでしょう……。私にも、由比ヶ浜さんにも」

 

 その笑みはどこか優しげで、だからこそ残酷だった。僕だって伝えることが出来ていなかったのだと、彼女はそう言っていて、それに酷く動揺して立ち尽くしてしまった。

 だから、そこに彼の名前が無いことに気付いたのは、彼女がもう僕の前から去ってしまった後だった。

 

 

 × × ×

 

 

 午後の授業。朝に由比ヶ浜さんが言っていたように、比企谷君の視線を確かに多めに感じるような気がして。そんな自分の自意識過剰ぶりが酷く歪に感じられた。

 

 もう現国の時間は終わっているけれど、ひっそりとバレないようその教科書を開く。

 現在の単元に目を向ける。そこにはでっぷりと太って外に出られなくなった間抜けな魚が書かれていた。

 

 ──────

 

 山椒魚は悲しんだ。彼は彼自身の住み処から外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて出ることができなかったのである。

 

『なんたる失策であることか!』

 

 彼は岩屋のなかを許されるかぎり広く泳ぎまわってみようとした。人々は思いぞ屈せし場合、部屋のなかをしばしばこんな具合に歩きまわるものである。

 

 ──────

 

 僕は、外に出られていなかったのではあるまいか。大手を振って歩いているつもりが、岩屋の中をグルグル回っているだけではなかったのか。

 そんな疑念が渦巻いた。

 

 山椒魚は孤独に耐えきれなくなって、カエルを騙して岩屋へと引きずり込む。これは僕ではないだろうか。

 比企谷君だけに秘密を明かし共有したことで、彼を奈落へと連れ込んで、かつ縛り付けていたのではなかろうか。

 ふと思い返せば、僕は彼との関係の修復と進展にばかりかまけて、他の人との関わりを疎かにしていたように思える。彼は優しいからそんな僕を、距離を置きつつも気にかけてくれていた。

 そしてその彼は僕の言葉に賛同した。僕の『言葉の信念』に賛同した。だが果たしてそれは、彼の信念と相容れるものだっただろうか。

 元は彼と同じ信念を有していた彼女は、それをどう受け止めたのだろうか。彼女が羨んだのは僕個人でなく、誰かと僕が想いを共有してしまったことじゃないだろうか。

 

 悪い考えは止め処なく溢れ、僕の体を循環する。

 カエルは結局外に出ることができず、最後は空腹で死んでしまう。

 それだけは避けなければいけないのではないだろうか。彼だけでも、岩屋の外に出るべきではないだろうか。

 

 生徒会選挙を取り巻く状況は大きく変化してしまった。

 なれば、問題を設定し直そう。

 前提が変わったならまた問い直そう。

 

 僕の望む、壊れることのないどこまでも続く関係性はきっと彼らの三人の行く先にある。

 

 だから、彼ら彼女らの関係を壊してはならない。

 生徒会選挙の依頼のために。

 奉仕部のために。

 比企谷君と雪ノ下さんのために。

 八千代知夜にできることは、なんだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17.いつかは握り拳とも握手できる日が来る。

生徒会選挙7話です。ギリギリ滑り込みセーフです。




 放課後は逃げ帰るように一人で教室を出て、帰ってからは自室でずっと考えていた。

 八千代知夜にできることは、なんだ。

 それが全然なくて結構本気でビビッている。あ、あれー? おかしいな。さっきまでは何でもできそうな気がしてたんだけど……。

 

 問題を考え直す。僕がやるべきことを定義する。

 

 まず、僕のせいで歪んでしまったであろう比企谷君と雪ノ下さんの間を修復すること。

 これはかなり難しい。そもそも目に見えて喧嘩している訳でもないのだ。正しく言うならすれ違い……とでもいうべきか。

 確か仲直りのきっかけは……比企谷君が本当に欲しかった理想を口にすることだ。その理想を、信念を。いまだ彼は持っているのだろうか。

 

 そしてもう一つ。

 雪ノ下さんの本音を引き出すこと。先の問題を解決したところで、そのあと微妙な関係になってしまったら何の意味もない。一つ目をクリアした上で、生徒会選挙を円満に終わらせなければならない。

 今と、未来と、その二つ。

 たぶんこの二つはそう遠くはない。ほとんど同じ問題で、同じ手段で解決できてしまえそうに思える。ただその手段が思い付かない。

 

 雪ノ下さん自身に答えを求める作戦は瓦解した。僕の策は既に破られた。

 なれば、どうするべきか。

 

 ♪ ~♪♪ ~

 変な音楽が耳を揺らした。携帯が振動している。電話だ。……電話、ほんとに嫌いなんだよな。宅急便とか携帯会社の着信ですら肝を冷やす。

 ただディスプレイに映る名前を見て、この電話は取らなければと思った。

 

「もしもし」

 

『こんばんは! あなたの義妹の小町です!』

 

 おい、どうせそれ他の人にも言ってるんだろ。僕は知ってるんだぞ。開幕からまあまあいいパンチを食らって少したじろいだ。

 

「……こんばんは。後ろのは聞かなかったことにするね……。それでこんな遅くにどうしたの?」

 

 もうそろ日が回る時間だ。就寝時間でもおかしくはない。しっかり寝ないと成長しないぞーと心の中でお説教しておく。

 

『それがですね。知夜さんにご報告と……あとお説教があります!』

 

「えぇっ!?」

 

 お説教されるのは僕だったらしい。

 今から怒られるのか。やっぱ電話取らなきゃよかった……。お叱りの電話ほど胃に痛いものもない。電話さえこの世になければ胃薬もいらないんじゃないかなぁ。そんな益体もない考えで現実逃避をしていると、小町ちゃんがポツリと呟いた。

 

『お兄ちゃんが、やっとぜんぶ話してくれました』

 

 ああ良かったと思う反面、少し背筋に寒気が走る。

 全部。全部とは。あー修学旅行のことですね。叱られることに、思い当たる節がありすぎた。

 

「いえ、あの……その度は誠に申し訳なく……」

 

 見えてないだろうに、深々と頭を下げる。日本人の性分が出てしまった。

 

『ほんとですよ! そもそも素直じゃないお兄ちゃんも悪いんですけど……。でも、お兄ちゃんが大馬鹿なら知夜さんは小馬鹿です!!』

 

 前例の無さそうな斬新なスタイルで小馬鹿にされた。怒られているのだからと思い突っ込むことはせず、はい……すみません、と返す。

 

 それから、堰を切ったように小町ちゃんのお小言が溢れだした。怒られた側がバツの悪い顔をしていると怒っている人は更に怒りが増すというが、どうやら小町ちゃんも例外ではないらしい。

 

『でもまぁ、よかったかなーとも思うんですよ』

 

 言いたいことをあらかた言ってしまって一息吐くと、それから小町ちゃんは優しげな声でそう言った。

 

『お兄ちゃんは何かと面倒くさいし、いつも皮肉ばっかり言うし、目を離すとすーぐ変なことするし、馬鹿だしアホだし八幡だし』

 

「あの……ちょっと小町ちゃん?」

 

 ちょっと言い過ぎでは? 妹にここまでボロクソに言われたら、僕ならちょっと立ち直れそうにない。もっと愚痴出てくるのかな……と心配になっていると、小町ちゃんは柔らかい声に戻ってこう言った。

 

『そんなどうしようもない兄でも愛着は湧くんです。それで、それをお兄ちゃんらしいなぁって思えるのは妹の小町だけだと思ってました。だから……知夜さんが分かってくれたなら、ちょっと嬉しいんです』

 

 それは思い違いだ。僕は理解できている訳じゃない。ただ無駄に知識があるだけだ。比企谷君のことにしても雪ノ下さんのことにしても。理解したいとは、思うのだけど。

 

 黙っている僕のことをどう捉えたのかは分からないが、小町ちゃんは更に言葉を重ねた。

 

『できたらでいいんです。それでもお兄ちゃんのこと、よろしくお願いします』

 

 小町ちゃんは僕にゆっくりと語りかける。

 

「まあ、うん。……そうだね」

 

 答えに詰まった。頼む相手がたぶん違う。僕じゃ彼を底無し沼に連れ込んでしまうだけだ。それは彼の幸福足り得ない。

 

 ただそれでも。完全に関わりを捨ててしまいたいとは思えない。それでは僕が歪めてしまった責任を取れない。みっともなく引き摺った僕の唯一の感傷だった。どうすれば、その責任を取れるだろうか。

 

『それだけでした! おやすみなさい!』

 

 小町ちゃんは恥じらうようにそう捲し立てた。

 

「うん、おやすみ」

 

 電話を切って、ベッドに寝転がる。

 今日は問題を解くつもりでいた。だが、それどころか条件が一つ増えてしまった。

 環境も条件も複雑に絡み付いていて、そして何よりも人の気持ちが難しくてややこしくなっている。

 

 雪ノ下さんの意図を彼が知れるようにしつつ。

 僕の望みを叶えて。

 かつ関わりが失われないようにする。

 そんな方法を、探せ。

 

 

 × × ×

 

 

 ないんだな、それが。

 いやマジでない。一晩考えて、翌日教室に来てもなお思いつかない。やっぱ無理ゲーじゃない? 

 

 もう雪ノ下さんが会長になっちゃえば? とも思うけど、それで奉仕部が無くなるのであればそれは僕が望む結末にはなり得ない。

 雪ノ下さんが会長で、由比ヶ浜さんが副会長で、比企谷君が庶務。そんな未来もあるのだろうか。やけに現実感がなくて、どうにも想像し得なかった。

 

 だが、僕の望みを叶えることは、雪ノ下さんの決意に傷を付け踏みにじることと同義だ。昨日あれだけ傷付けておいて、また同じことを繰り返すのか。それが僕には恐ろしかった。

 ままならない。どうも難しすぎる。

 

「今日はここまで。八千代、昼休み職員室へ」

 

「へ? あ、はい」

 

 あまりにも簡素な呼び出しで現実に引き戻される。現国の時間は既に終わっていた。きっとこの単元の授業から目を逸らしたかったのだと思う。

 

 その後の授業をいくつか終えて職員室へ向かうと、僕を呼んだ先生……平塚先生はデスクにいた。僕を見つけると、手招きをして呼ぶ。

 

「来たか。せっかくだから奥を使おう」

 

 そういって奥の応接間へと案内された。ここに来るのは初めてで、少し緊張が走る。

 

「まあ座りたまえ」

 

「は、はぁ……」

 

 パーテーションで区切られたその一角には日が当たり、厳粛な職員室らしからぬ模糊とした雰囲気であった。ソファーに腰掛けると、僕の上がった肩も少しだけ落ち着く。

 

「煙、いいかね?」

 

「ええまあ」

 

 曖昧にそう答えると、平塚先生は煙草を取り出してそれに火を付けた。ゆっくりと煙を吸って、吐き出す。紫煙が上空にうっすらと漂った。

 

「今日は覇気がなかったな」

 

 そう言って灰を落とす。心当たりがあった。

 

「……いつもはあるように見えますか?」

 

 つい話を逸らしてしまう。保健室での一件であれだけ無様を晒しておいて、また頼ってしまうというのが億劫だった。

 

「ん? まあ……ないな」

 

 ないのかよ。自覚はあるけど面と向かって言われるとは。戦闘のインフレに着いていけずに新世界前で船から降ろされそう。ゴムゴムのー整理解雇(リストラ)! 

 

「じゃあ、普段通りじゃないですか」

 

 憎まれ口がつい出てしまう。すると平塚先生は煙草をもう一度吹かして立ち上がり、自分の席から持ってきたと思わしき缶を僕に投げた。落としかけたが何とかキャッチする。

 

「普段よりもないと言っているんだよ。ほれ飲め」

 

 MAXコーヒーだ。わざわざ買ってきてくれたのか。見ると、平塚先生は自分の缶コーヒーも持っていて、それは恐らくブラックだった。

 

「……そっちのやつがいいです」

 

「ん、まあ構わんが……」

 

 缶をトレードして、開ける。香ばしい豆の香りが鼻孔をくすぐり、そして口に含んでからは苦味が滲んだ。一息吐いて、平塚先生がソファーに座り直して僕に向き合った。

 

「それで、どうしたんだ?」

 

「別に……何も」

 

 目を逸らすと、平塚先生は仕方ないなと言わんばかりに苦笑してそれから僕の頭を掴んだ。ん、何か痛くない? いててててて、ちょっと待っていたいです。アイアンクローやめて。

 

「全く……いらんところばかり影響されおって」

 

 その言葉は、頭に食い込む爪よりもよっぽど心に刺さった。いらないところが似て、いらないところを似させてしまった。

 

「せ、先生。暴力反対……!」

 

 苦しげにそういうと、平塚先生はすぐに頭から手を離した。

 

「君はもっと素直な生徒だと思ってたがね」

 

 素直。言葉を咀嚼する。しかしそれを嚥下できそうには無かった。確かに僕は色々と直情的ではあるけど、素直と言われるのは違う気がした。僕はそんなんじゃない。

 

「違いますよ……他の方法を知らないだけです」

 

「では愚直だな」

 

 平塚先生はふふんと鼻を鳴らす。

 その言葉は先程のそれより、よほどすんなり僕の中に入ってきた。ああ、愚直はいいな。特に愚という字がこれ以上ない程しっくりくる。

 皮肉げな笑いがつい漏れてしまう。そんな僕を見兼ねてか、平塚先生はゆっくりと煙とため息を吐き出し、目線を上にやった。

 

「別に言えないなら、それはそれでいいんだ。ただ私は知りたいし、手を貸したいと思う」

 

 僕なんかよりもよっぽど素直な先生はそう言ってニカッと笑った。

 降参だ。そう言われてそっけない態度を取れるほど天邪鬼には成りきれない。愚直は愚直らしく、ぶちまけるしかないのだと悟った。

 

 少し考えて、どう言えばいいかわからなくて。だからそのままを語ることにした。

 

「……知りたかったんです。彼女が何を考えてるか」

 

 平塚先生は黙って僕の言葉を待っている。

 

「わざわざ色んな人に傷を付けて、それを知りたかったんです。でも、ダメでした」

 

 僕が用意した、雪ノ下さんの本音を聞き出す作戦はただの失敗に終わった。僕の骨折り損で、しかしくたびれ儲けたのは僕じゃない。彼や彼女に押し付けてしまった。

 

「……そうか。それで?」

 

 平塚先生は難しそうな顔をして、でも口調は柔らかく続きを促した。

 

「傷付ける覚悟は出来てたつもりなんです。大切に思うとはそういうことなんだと……昔、恩師に教わりましたから」

 

 そう言って平塚先生の目を見つめ返した。ほう、と感心したように先生は頷いた。

 

「いい教師に巡り会えたようだな」

 

 ええ本当に。きっと、修学旅行なんかよりずっと昔から、僕はその先生に救われています。

 

「本当に、かっこいい女の先生でしたよ。……独身でしたけどね」

 

 うぐっと平塚先生が胸を詰まらせた。こんなの、照れ隠し無しじゃ言えっこない。先生は自分のことだとは露知らず、やっぱりかっこつける女はそうなる運命なのか……とぶつぶつ呟いていた。

 その間に、早口で事の顛末を述べてしまう。

 

「でも失敗して、それで、怖くなって。……どうしていいかわからなくなっちゃいました」

 

 傷を付けて、しかしそれには何の意味もなくて。では僕は大切な人達に何をすればいいのだろう。

 僕の言葉は、過程を省きすぎてもはや意味不明だ。しかし、これ以上の言葉を僕は持っていなかった。口に出す意思があっても、口下手がすぎる。僕はそういう奴だった。

 

「……君は本当に素直な生徒だよ。ただ、少し思い違いをしているがね」

 

「思い違い、ですか?」

 

 言葉の意味がよくわからなくて、そう尋ねてしまう。

 

「ああ。君の行動は君の感情に基づいてはいる。だが……うん、そうだな。回り道をしている」

 

 平塚先生は丁寧に言葉を選びながらそう言った。

 回り道とは。僕は僕の気持ちの赴くままに今まで行動してきたつもりだ。寄り道をした記憶などない。いや、寄り道をする余裕なんかなかった。

 だとしたら、やはり自分の感情を取り違えていたのだろうか。

 

「仕方のないことなんだ。誰だってそうなる。誰だって、他人を知るのも他人に知られるのも怖いのさ」

 

 人を知って、それが期待した物と違っていたら。きっとその人に失望して、手前勝手に期待して手前勝手に失望した自分にもっと失望する。

 誰かに自分を知られるのはもっともっと怖い。だって失望されるかもしれないから。それが相手の勝手な期待だとしても、裏切ってしまえば嫌われるかもしれないから。

 

 僕の臆病を見透かしたようにそう言うと、平塚先生は、今度は優しく僕の頭に手を置いた。そして、流れるように頭を撫でる。

 

「いいか。人を傷付ける覚悟とは、自分が傷付く覚悟をすることだよ」

 

「傷付く……覚悟」

 

 僕に足りなかったのはそれなのだろう。

 取り違えていた感情はそれなのだろう。

 前も、今も。無闇に人を傷付けてしまったのは、きっとその覚悟がなかったからだ。

 

 似たようなことを昨日、彼女に言われなかっただろうか。僕が出来ていなかったことを、指摘されなかっただろうか。

 ああ、僕はまだそれをやってない。

 怖くて逃げてしまった。彼と一緒に。

 

「何か思い付いたようだな。……君は聡いが、それ故に心配になるよ」

 

 聡いなんてことはない。心当たりがありすぎて、その内のどれかが該当してしまうだけだ。欠点だらけな自分に重なる部分が、すぐに見付かるだけ。そんなことを考えた。

 だが、聡いから心配とはどういうことだろう。

 

 平塚先生は話は終わりだと言わんばかりに立ち上がって、灰皿の底に煙草を押しつけて火を潰した。

 

「考え込むのは悪いことじゃないさ。……あまり、結論を急いてはいかんぞ」

 

「……大丈夫ですよ」

 

 考えるべきことなど、もう一つもない。

 

 反動をつけて勢いよくソファーから抜け出す。

 やってない宿題があった。それを先伸ばしにしたから、事態が複雑になって彼を岩屋に押し込めた。

 

 解決しなければいけないのは、最初からだ。きっと今回は始点から間違っていたのだ。

 そこを終わらせないことには、生徒会選挙なんて始まりようがない。

 僕はそこに気付けていなかった。

 

「僕のこと、二人に話します。……そのうち、平塚先生にも」

 

 平塚先生は一瞬目を丸くしたが、すぐに不敵な笑みをすると大きく胸を張った。

 

「ああ。私はいつでも待っているよ」

 

 少し恥ずかしくなって職員室から飛び出す。

 ふと振り向くと、先生はしかめ面をしながらMAXコーヒーを飲んでいた。どうやら甘すぎたようだ。

 僕も、缶に残ったコーヒーを一気に飲み干す。喉を通るえぐみで目が冴えた気がした。

 

 昨日の夜は小町ちゃんに怒られた。今日は平塚先生に忠告を受けた。

 その前から、彼女達を待たせていた。

 

 結局、愚かなまでに直線的な僕にやれることなどほとんどない。いつもそうだ。考えても考えても、彼と違って何も思い浮かびやしない。

 

 奉仕部のために。三人のために。

 彼らのこれからのために。

 その答えになっているかは分からない。

 

 それでも八千代知夜がやるべきことはきっと。

 原点に戻れば、自ずと見つかった。

 

 

 × × ×

 

 

 放課後、僕は由比ヶ浜さんと共に奉仕部に来ていた。

 

「や、やっはろ~」

 

 由比ヶ浜さんが静かにその扉をスライドさせた。

 後に続いて、僕も中へ入る。

 その部室には雪ノ下さんだけが斜陽の中で佇んでいて、どこか一枚の絵画のようだった。

 

「来た……のね」

 

 雪ノ下さんが呟いた。彼女は僕と由比ヶ浜さんを見て、それから比企谷君の幻影を見るように視線を僕らの後ろに向けた。

 しかし、そこに彼の姿はない。きっと今頃は材木座君と悪巧みでもしていることだろう。

 

「そのね。ゆきのんとちよちよに、言っとかなくちゃって思って」

 

 由比ヶ浜さんが言いづらそうに体を捩る。

 僕も言うべきことがあった。ただ、タイミングがわからなくて先を譲る形になってしまった。

 

「あたし……選挙でるよ。それで……ゆきのんに勝つ」

 

 その声は小さく掠れるようなものであったのに、やけに大きく響いた。雪ノ下さんは目を大きく見開き、それからポツリと言葉を洩らした。

 

「あなたが、やる必要は……」

 

 由比ヶ浜さんは大きく首を横に振って、彼女の言葉を否定した。

 

「それでも、やるの」

 

 その横顔は決意に満ち溢れていて、そこに入り込む余地などない。

 きっと彼女と僕の願いは似ている。

 この部活を守りたい。その想いは似ている。

 だがきっとその解決法では結局、この部活は失われてしまうのだろう。

 

「二人ともちょっといい?」

 

 見ていられない気がして割り込んだ。きっとこれを続けた先にあるのは断崖絶壁だ。そこに落ちるなら、彼女よりも適任がいる。

 

「何? まさか八千代さん、あなたも……」 

 

 雪ノ下さんがこちらを訝しむような目で見る。思わず苦笑が洩れた。そう思われても仕方ないか。

 そんな僕を見て、由比ヶ浜さんは何かを悟ったのか雪ノ下さんを宥めるように手を前に出した。心の中で感謝しつつ、話を切り出す。

 生徒会選挙よりも前に、解決しておかなければならなかったことがある。

 

「ううん。もっともっと前のこと。……修学旅行のこと」

 

 僕がそういうと、由比ヶ浜さんはハッとしたような顔になって、それから伏し目がちに俯いた。責められる前の子どものようで、その姿にまた苦笑してしまう。やはり言葉にしなければ伝えられないのだ。

 

 由比ヶ浜さんが、おずおずとこちらを見る。雪ノ下さんだけが、ただ僕に射るような視線を向けていた。

 

「あれは……。あの嘘告白は……間違ってた」

 

 これが僕なりの精一杯だった。伝えることの難しさを改めて認識する。何をどう伝えればいいのだろう。

 

「……間違い、とは?」

 

 雪ノ下さんは視線を逸らすことはない。どう言おうか迷った。どの角度から見ても間違えていて、とても一言では言い表せない。

 彼ごと欺瞞を許容したことか。

 人のやり方を奪ったことか。

 性別を偽っていたことか。

 今までそれを告げなかったことか。

 きっと、全部間違えている。

 

「……何もかもだよ」

 

 有りのままをそう告げた。

 雪ノ下さんを見ると、彼女は僕ではないどこかを見ていた。

 

「あなたはどうして……」

 

 控えめにそう問われた。彼女はそれを誰がやろうとしたのか感付いている。僕の答えを通して、彼の答えに確信を持つつもりでいる。

 葉山君のグループの在り方を守ったのは僕で、それを最初にやろうとしたのは彼だった。

 僕が欺瞞を保とうとしたのは、葉山君達のことじゃない。きっとそれは彼も同じで、その想いを共有した。してしまったのだ。

 うわべだけの物に意味はないと、果たしてそう言っていたのは誰だっただろうか。

 

 ただ僕の答えはそこにない。

 

「仲良くして、ほしかったんだ」

 

 僕と彼が。僕と彼女らが。

 もしくは君たち三人が。

 理解が及ばないといった顔で彼女らが僕を見た。あのときも、今も。どこまで行っても自己満足なんだろうなと、そう思った。だが言葉など所詮そんなものだ。

 

「それは……答えになってないわ」

 

 困惑したように雪ノ下さんが呟く。その通りすぎてぐうの音も出ない。

 でもこれ以上の理由なんてない。

 その他の理論や理屈など結局は装飾品にすぎない。装備品は装備しなければ利用価値がないと、その辺の村人も言うだろう。だから、つけない。それに意味を持たせない。

 

「いや、それでも……これしかないよ」

 

 由比ヶ浜さんがただ短く「そっか」とだけ呟いた。どう思われているのか分からず、それを知る努力を放棄してきたことに気付いた。

 その由比ヶ浜さんは顔を上げて、僕の目を見る。瞳は潤んで、体だと震えていて、だからこそ力強さがあった。

 

「あのね、ちよちよ」

 

 これはきっと、あのとき出てこなかった言葉の続きなのだろう。そう確信した。

 

「一瞬ね、本気かと思ったの。でも多分そうじゃないんだなって……ヒッキーの顔見たらわかっちゃった」

 

 あの内実をすべて混ぜ込んだような苦々しげな表情は僕の脳裏にも焼き付いている。

 聡いというのなら僕なんかより彼女の方がよっぽど聡いのだろう。誰よりも機微に敏感で、誰であろうと変化を察知してしまう。

 

「ほんとにごめん」

 

「ううん謝らないで。あたしはね、何もできなかっから」

 

 寂しげに呟くその姿には確かに後悔が滲んでいた。

 やけに内罰的に見えた最初の態度はきっとこれのせいなのだと感じた。

 由比ヶ浜さんはそれから僕を見て、笑いかけた。

 

「それとね。言ってくれてありがとう」

 

 感謝されることをした覚えはない。それにまだ、言ってないことがある。

 雪ノ下さんは俯いたまま言葉を発しない。顔を上げてほしくて、何を言えばそうしてくれるだろうと考える。

 

「雪ノ下さん」

 

 考えても一向にわからないから、名前を呼ぶことにした。その瞳に炎はなく、上がった顔には諦めたような微笑が浮かんでいる。

 

「まだ、何か?」

 

「うん。雪ノ下さんにも由比ヶ浜さんにも、まだ言わなきゃいけないことが一個あって」

 

「それは何?」

 

 何かを期待するような素振りはなくて、だからこそ気軽に言ってしまえるのだと思った。

 だが実際に言葉が出てこない。口はただ空くだけで、喉からは音もなく息だけが漏れ、歯はカチカチと震える。

 目頭は熱く、視界は歪み、二人が霞んで見える。

 

「ぼ、くは」

 

 どうにか言葉を紡ぐ。

 本音を言うことは恐ろしい。否定されるのは自己の存在に関わる死活問題だ。

 だから誰もが何も持っていないフリをして自分を守る。付け入る隙が無いように見せ掛ける。

 

 他人の本音を暴こうとしてしまった。白日の元に晒そうとしてしまった。自分のことも出来ていないのに、雪ノ下さんにそれを求めてしまった。

 そんなことは許されない。

 

 スカートを強く握って震えを止めた。細い指で目を擦って歪みを消した。ふくよかな胸を叩いて勇気を出した。喉仏のない喉を押し込んで言葉を無理やり吐き出した。

 

「僕は、男なんだ」

 

 

 × × ×

 

 

 正直、それから何を話したかあまり覚えていない。

 たどたどしくて支離滅裂な、論理も因果もない戯れ言のような独白を、長い長い時間をかけてゆっくりと語り終えた。

 

 雪ノ下さんは僕を見て、決まりが悪そうに呟く。

 

「ごめんなさい。知識としてはあるのだけど、実際に会ったことはなかったから……その、どう声をかけていいのか」

 

 そりゃそうだろうな。僕だって自分以外見たことがない。

 拒絶されるのを恐れていたが、どうやら飲み下すのにそもそも時間がかかるようだった。

 

「あ、あたしも……。でも、ちょっと安心したかも」

 

「安心?」

 

 意味がわからなくてそのまま聞き返す。

 

「うん。あたしね、ちよちよに避けられてるのかなーって思ってたから。ほら、新幹線のとき居心地悪そうにしてたし、部屋にもあんまいなかったし。お風呂も一人で入ってたし」

 

 ポロポロと思い出が出てきたようで由比ヶ浜さんは一つ一つ確認するように言う。

 すると、雪ノ下さんも思い当たる節があるのか少しずつ口を開いた。

 

「確かに、あの時はホテルのロビーに居たわ。買い物の時は着替えを嫌そうにしていたし……。思えば依頼の理由も少し変だったわ」

 

 ボロボロとボロが出てくる。いや、出すぎじゃない? 僕誤魔化すの下手くそすぎない? 

 ただ、今までの未熟な立ち回りのお陰か得心はいったらしい。

 由比ヶ浜さんは咀嚼するようにうんうんと頷いて口を開いた。

 

「あのね、まだよく分かってないんだけど……でもね」

 

 そういって右手を僕の方へと差し出す。握手を求めるように。

 

「あたしも、仲良くしたい」

 

 それは多分、僕だけに向けられた言葉ではないのだろう。それが嬉しくて、でも手は僕に向いてるのだと思うと気恥ずかしくて。

 

「あっとその……照れちゃうから」

 

 そう口にした。実際照れる。そんなホイホイと握手をするのはルロイ修道士ぐらいでいい。

 

「ち、ちよちよかわいい……! て、そっか、抱きついたりしちゃダメなんだよね。あ、かわいいとかも言っちゃダメかな!?」

 

 由比ヶ浜さんはおろおろと僕の前で慌てふためいている。自戒してくれてよかった。僕の心臓が持たなそうだ。

 

「はぁ……八千代さん。由比ヶ浜さんに配慮を求めるのは難しそうね」

 

 やれやれといった様子で雪ノ下さんが、由比ヶ浜さんを眺めている。そこに諦観に似た笑みはもうない。むしろ盛大に呆れていた。

 その様子がおかしくて、なんだか笑ってしまった。たくさん笑うと涙が出る。だからきっと頬を伝うこれは安心感から来る涙などではなく、笑いの不可抗力だ。決して泣いてなんかない。ほんとに。

 

「ご、ごめん! やっぱ嫌だった!?」

 

 由比ヶ浜さんがハンカチで僕の顔を拭おうとして、それからその手を引っ込めて、ゆっくりとハンカチだけを差し出した。

 付かず離れず。まだどこかしこりは感じるが、離れていないならそれでいい。

 

「そんな気にしなくていいよ。ある程度慣れてきたもん。バスタオル巻いてお風呂入ったり、更衣室の空き時間把握したり」

 

「なかなかに懸命な努力ね……」

 

 雪ノ下さんが難しそうに唸っている。

 ああやっと、女三人。いや一人男だけど。

 やっと姦しくなれた。

 

「今日はもう帰ろっか」

 

「あ、うん。……てもうこんな時間!?」

 

 バスの時間に遅れるからと、由比ヶ浜さんは帰り支度を手早く始める。

 慌ただしいその姿に、雪ノ下さんと二人で目を合わせて苦笑した。

 

「じゃあ、また明日ね!」

 

 来たときとはうってかわって、由比ヶ浜さんは元気に扉を開けて飛び出していった。

 

「私たちも出ましょうか」

 

「うん」

 

 荷物をまとめ、席を立つ。

 開け放たれたままの扉から出ると、冷たい風が頬を撫でる。まだ僅かに濡れている目元がひんやりとした。悪くない冷たさだ。

 

 雪ノ下さんは扉を閉めて、しかし一向に鍵を差し込まなかった。

 こちらを伺うように見ると、一つ嘆息をしてそれからゆっくりと語りだした。

 

「比企谷君は知っていたのよね」

 

「まあ、成り行きでね」

 

 どう言おうか迷ってそんな言葉がついて出た。

 雪ノ下さんは遠い目をして、扉に鍵を差し込む。

 その鍵を回すより先にポツリと呟いた。

 

「彼は本当に、誰でも救ってしまうのね」

 

 そんな寂しげな顔を見てられなくて、つい本音が。僕の本音が洩れてしまう。

 

「雪ノ下さんにも、僕は救われたよ」

 

 修学旅行のずっと前から。何年も前から。僕は君たちに救われている。それが伝わらないことも知っているけど、口に出さずにはいられなかった。

 

「いえ、私は何も……」

 

 鍵を回すその手が止まった。

 

「救われる時はさ、なんていうか。勝手に救われてるもん何だと思う」

 

 勝手に救われて、勝手に助かって。僕はきっとそうなんだ。彼らがどう思っていようが、それが答えなのだと思う。これもきっと、一種の自己満足だ。

 

「そう、なのかしら。私にはわからないわ」

 

 ガチャリと錠の落ちる音がした。

 それが気に食わなくて、つい直接聞きたかったことがつい出てしまう。

 

「雪ノ下さんはさ。何で……いや、何になりたいの?」

 

 何で生徒会長になりたいの? と聞こうとして踏み止まる。土足で踏みいることが怖かった。後半の言い直しも怪しいものだが。

 

「それもわからないわ。けど……そうね。私の姉さんいたでしょう?」

 

 雪ノ下さんはその心の壁から顔を覗かせた。それがもう嬉しくて。でも陽乃さんが話に出てきて顔をしかめてしまう。

 僕がつい苦い顔をしたのを見て彼女は少しだけ楽しそうにクスクス笑った。

 

「あなたが姉さんに喧嘩を売ったときは、本当に肝を冷やしたわ」

 

「いやいや、喧嘩売ってないよ? ……ないよね?」

 

「いいえ。間違いなく吹っ掛けていたわ」

 

 二人で笑って、それからため息を吐いた。何故だかわからないけど、僕も雪ノ下さんと同じぐらいあの人に苦手意識があるようだ。

 

「あの人は何でも持っていて……。きっと、それが羨ましかったのね」

 

 雪ノ下さんはそういって自分の影を見た。その中に、何となく比企谷君がいるような気がする。彼がどことなく影っぽい人間だからかもしれない。……ちょっと失礼かな。まあいいか。

 

「私も、何かを持ちたかった」

 

 何かとは、何だろうか。

 だがこれこそが彼女のなりたいものなのだろう。

 そう言って廊下の先を見た。そこに何を見ているのかわからなくて掛ける言葉を持てない。

 だから、借りることにした。

 

「んんっ!」

 

「そのわざとらしい咳払いはなに……?」

 

 雪ノ下さんが怪訝な表情をする。その顔をよく向けられている人に心当たりがあった。

 声を低くして、片方だけ口角を上げて。

 こんな感じだったかなと思い出してその言葉を吐く。

 

「アイデンティティ? はぁ~? 往々にして個性個性言ってるやつほど個性がねえんだ。だいたいちょっとやそっとで変わるもんが個性なわけあるかよ」

 

 雪ノ下さんは青筋を立てながらニッコリとアンバランスに笑った。

 

「言葉使いが乱暴な上に顔が変だわ。誰谷君の真似か知らないけれど、不快だから二度とやらないで頂戴」

 

「は、はい……! ごめんなさい……」

 

 氷の女王の微笑みは背筋さえも凍てつかせる。

 怖い。ちょー怖い。すんません調子乗りました。本当にごめんなさい。

 でも、彼女にはそんな凍りつくほど綺麗な笑みの方が似合ってるなぁと。そんなことを考えた。

 そんな彼女のチャームポイントを、彼女自身が好きになってくれたらいいなと、そう思う。

 

 困難は分割せよと、どっかの修道士が言っていた。

 分割して、その一つを正せたような。そんな気がした。

 

 





感想、ここすきなど首を長くして待ってます。
貰えると励みになりますので是非ください(直球)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18.いくら枯れ木があろうと山が賑わうことはない。

生徒会選挙8話です。

9話が最終話で、八幡視点の蛇足が1話2話ある予定です。

前回、ここすき多くて超嬉しかったです。


 

 僕がみっともなく目を腫らした翌日。

 賢い方はこの疑問にお気づきの事であろう。

 

 ──結局、生徒会選挙どうすんの?

 

 落ち着け。まだ慌てるような時間じゃない。

 とはいえ今日は水曜日で立候補日は来週の月曜。とっくに一週間を切っている。いやーやっぱ慌てる時間じゃないかな、これ。

 だが、やるべきことは既に決まっている。

 

 雪ノ下さんや由比ヶ浜さんを生徒会長にはしたくない。それは奉仕部の崩壊を意味してしまう。

 もしかしたら、三人が生徒会に移行して、奉仕部と似た活動を続けていく可能性もあるのだろう。しかしそこには数人の不純物が混ざっていて、僕が憧れた純真な奉仕部とは違う気がする。それが一色さんだけなら、まだよかったのだが。

 

 それよりも何よりも、比企谷君の事をどうしたものか。放課後のいま、既に彼の姿はここにない。部活を休む旨を由比ヶ浜さんに素っ気なく伝えると、すぐに教室を出ていってしまった。

 

 教室の隅、ベストポジションにて色々と思案を巡らせる。すると僕の立ち位置とは真逆、一番目だつ教室の一角にて女子達の声が聞こえてきた。

 

「あ、あーし屋上使いたい」

 

「それだっ!」

 

 由比ヶ浜さんが三浦さんに指を指すと、ガリガリとノートに書き込んでいく。

 おそらくは、選挙の公約だろうか。

 海老名さんも乗っかって喋りだす。

 

「図書室に同人誌置いてほしい!」

 

 無茶言うな。海老名さんが僕の方へ視線をやる。目が合ってしまった。見つかった(逃走中風)。

 僕に向けて右手を掲げ、ビシッとサムズアップしてくる。そのまま溶鉱炉に沈んでもらっていい? 次回作で別個体になって出てきそうだからやっぱいいや。

 

「海老名、擬態」

 

 三浦さんに軽く頭をはたかれていた。悪・即・斬。よし、悪は滅びた……。僕もついでに滅ぼされそうなのは気のせいですかね。

 

「他には……私服登校、とか」

 

 視線に気付いたのか、それとも意識されていたのか。由比ヶ浜さんは僕の方をチラチラと見て、軽く胸元で拳を握った。心なしか、スカートを履いた足を見られているような気もする。

 なぜかその視線が、面映ゆくてむず痒かった。

 私服かぁ。そういえば私服でスカート履いたことないな。比企谷君の家に行ったときは裾の広いズボンだったし。オシャレに疎いから名称がわからない。……ボンタン? だとしたら時代遅れすぎてむしろ最先端まであるな。僕マジ時代の寵児。

 

 そんな妄言を繰り広げている間にも、由比ヶ浜さんはあれでもないこれでもないと呟きながらノートを埋めていく。

 やはり僕も、選挙に向けて動かなければ。

 一人だけ、会長候補に心当たりがあった。

 

 

 × × ×

 

 

 放課後のグラウンドは、暑苦しい運動部のかけ声が響く。しかし、冬ということもあってかいまいち元気がない。進学校だから部活に力が入ってないことも関係してるのだろうか。

 だらだらとマーカー間のダッシュを繰り返すサッカー部の部員に指示を出す者がいた。

 

「もっと声出せー! あと十本!」

 

 そんな叱咤は普通なら疎まれるものであろう。だが、本人の人望があってか部員達は先程よりもやる気が漲り大きく声を張り上げていた。

 ちなみに、こういう張り切った空気になると日陰者が炙り出されたりする。小学校の体育でのドッジボールとかが顕著な例だ。偶然ボール取ったときに外野から応援してくるのほんとやめて欲しい。

 これだから嫌なんだ。イケメンってやつぁ。

 

「……おっと。戸部、少し任せていいか」

 

「え、お、おう!」

 

 彼はこちらに気付くと、戸部君にその場を任せて近付いてくる。てかあんまり気にしてなかったけど、もしかして戸部君って副部長だったりする? まあどっちでもいいか。戸部君だし。

 

「やぁ」

 

 まるで親しい友人に会ったかのように右手を上げて、人懐っこい笑みを浮かべるサッカー部の部長──葉山隼人君。用があったが、わざわざ呼ぶのは躊躇していたのである意味助かった。

 

「……どうも」

 

 先日の事があっても何も変わらない微笑は、空恐ろしさすら感じさせる。浮かべる表情は違えど、その仮面は陽乃さんを想起させた。

 

「何か用かな?」

 

「選挙のことでちょっとね」

 

 葉山君は選挙と聞くと、困ったような苦笑を浮かべた。その顔すら予め用意されていた物だと思ってしまうのは、邪推のしすぎだろうか。

 

「悪いね。やっぱり、部活があるから立候補は出来ないかな」

 

 彼は早とちりしたのか、先に結論付けて断ってくる。だが、それを言いに来た訳ではない。

 

「いや、それとは別の……頼み事があるんだ」

 

 頼みと口にするのが憚られて、言い淀んでしまう。葉山君は少し驚いたように目を開いたが、それから破顔して嬉しそうに頷いた。

 

「俺にできることなら何でもするよ。君には、借りがあるからね」

 

 ん? 今なんでもって……とか言い出すのは海老名さんだけでいい。いま真面目な話してるから。ちょっと、脳内で暴れないで。

 目の前の葉山君に怪訝な表情をされたので、咳払いをしつつ話を戻す。

 

「貸しを作ったつもりはないよ。でも」

 

「でも?」

 

 そこで打ち切って、気合いを入れた。今までの僕ならこんなことを言わなかったと思うから。お子様の僕のままではきっと何も出来やしない。

 

「使えるものは、全部使う」

 だから利用する。負い目があるというならそれすらも全部。彼のために。彼女らのために。その為ならいくら狡猾と蔑まれようが構わない。

 葉山君はそれを聞くと、ポツリと寂しげに呟いた。

 

「君は少し、あの人に似てきたな」

 

 誰と似ているのか、言及しないのはきっとわざとだろう。葉山君も比企谷君も、彼らの間ではそんな問いかけの体をなさないやり取りが常だった。

 質問しても軽く流されてしまいそうで、聞くだけ無駄なのだろうと判断する。

 ため息を一つ吐いた。探り合いのようなやり取りはどうにも不得手だ。僕には向いてない。

 

「それで、やって欲しいことなんだけど──」

 

 感傷は無視して、話を進めることにした。

 葉山君は時折頷いて話を聞いていたが、全て聞き終えると、こちらを探るように質問してきた。

 

「なるほど。俺に頼んだ理由もわかったけど、これは君の案なのかい?」

 

「うん。後で話すけど、まだみんな知らないよ。……雪ノ下さんもね」

 

 回りくどいのはやめて、彼が聞きたいであろう答えを告げる。

 まだ彼女らには話していない。少しでも急いだ結果だ。彼の言質を取れればすぐにでも話すつもりでいる。

 葉山君と雪ノ下さん。どちらに先に話すかの違いでしかない。

 

「そうか……。それにしても、二つもあるなんてね」

 

 葉山君は暫し瞑目して、それから困ったように笑った。

 

「断ってもいいよ? 強制するつもりはないし」

 

 断られるなら仕方ない。その時は万策尽きるだけだ。我ながら他力本願にも程がある。

 僕の言葉をどう受け取ったのかはわからないが、葉山君は小さく嘆息を吐いて、それから僕の目をしっかりと捉えた。

 

「やるよ。別にそう難しいことじゃない。……でも、いいのかい?」

 

 その試すような物言いも、どこか既視感のあるものだった。

 だが、どう確認されてもやることは変わらない。いいのかと問われればよいと答えるしかないのだが、彼が求めているのは果たしてそんな簡素な答えだろうか。

 選挙に関わることか、それともその手段か。どちらの是非を問われているのかすらわからない。

 悩んで、わからなくて。理由を答えることにした。感情ではなく、理由の方を。

 どちらにも該当するであろう理由の方を。

 

「責任、取らなきゃと思って」

 

 僕が壊した関係の責任を。

 僕が暗闇へ引きずり込んだ比企谷君への責任を。

 希望を取り上げた、雪ノ下さんへの責任を。

 

「……なるほどね」

 

 葉山君はいつもよりも曖昧に微笑みながら片手を挙げると、練習に戻っていった。

 何を理解したのかはわからない。あるいは、何も理解できないことがわかったのかもしれない。

 

 それでもきっと同じなんだろうと思った。

 彼も、僕もきっと。

 果たすべき責任を果たそうとしているのだと。

 

 

 × × ×

 

 

 特別棟の廊下を歩く。グラウンドに寄ったのもあって陽光は既に傾いている。

 彼女はまだ部室にいるだろうと思い、立ち寄ることに決めた。

 部室の扉に手をかけようとして、扉に触れる前に足音に気付く。パタパタとした慌ただしいその音は後ろから聞こえてきた。

 

「よかった! ちよちよいた!」

 

 由比ヶ浜さんだった。頭のお団子を左右に揺らしながら小走りで近付いてくる。ちなみに肩の下かつお腹の上の部位もしっかり揺れていたのだが、僕は紳士なのでちゃんと目を逸らした。女の体で紳士とはこれいかに。でも金田一君のとこの怪盗紳士は女性だったし……。

 

「気付いたら教室からいなくなってたから探しちゃったー。ってあれ? 聞いてる?」

 

「え、あ、ごめん。よく聞いてなかった」

 

 僕の生返事に、由比ヶ浜さんは頬を膨らませてむくれた。その姿は一色さんのようで、しかしそこまでのあざとさは感じられない。自然体でこれだというのだから恐ろしい男性キラーだ。

 由比ヶ浜さんはぷりぷりとかわいらしく怒りながら、これまたかわいらしく抗議してくる。

 

「ちよちよそういうとこあるよね。ヒッキーもだけど」

 

 その台詞に、微かな疼痛を覚えた。

 由比ヶ浜さんは僕の様子に気付いているのかいないのか、部室の扉を開けて入っていく。

 後から続いて、その扉を未練がましく、躊躇いながら静かに閉めた。

 

「やっはろ~!」

 

「ええ、こんにちは」

 

 雪ノ下さんは昨日と同じように窓側の席に佇んでいて、昨日と同じく僕らの影を虚ろに見つめた。

 その視線を察知したのか、由比ヶ浜さんが何でもないことのように声音を保ったまま告げる。

 

「ヒッキー、なんか今日も休むって」

 

「……そう。では三人分、淹れましょうか」

 

 雪ノ下さんが立ち上がり、普段通りに紅茶の準備を始める。胸の疼きはまだ消えず、それどころか更に大きくなり、ジクジクと体を蝕み続けている。

 

 由比ヶ浜さんが僕に向かって楽しそうに話し掛けてきた。

 

「なんか優美子がさー、最近ちょー寒そうにしてるんだよね」

 

 唐突なので少し驚いたが、何のことはない。教室内での軽い話題だった。

 

「三浦さん……タイツ履かないからね」

 

 目のやり場に困るのでどうにかしてほしい。という気持ちは多分本人には伝わらないだろう。

 

「そうなんだよねー。絶対寒いのに寒くないって言ってるし……」

 

「あはは。強情だね」

 

 乾いた笑いが溢れ出る。

 

「あ、でもね。最近ブーツ買ったみたいで遊びには行きたがるんだよね」

 

 あのブーツ、結局買ったんだ……。

 曖昧に笑いながら、他愛ない会話をこなす。それをやっておけばきっと痛みに鈍くなれる。

 

「外、出たくないなぁ。なんなら朝学校行くのもやだ」

 

「八千代さん。あまり怠けてばかりだとロクな人間にならないわよ」

 

 雪ノ下さんは誰かの席に視線を向ける。だが視線も言葉も、そこから返ってくることはない。

 

 やがて紅茶が注がれ、その良い香りが皮膜のように部屋を覆っていく。その匂いを嗅いでなお、気分が晴れることはなかった。

 その違和感から逃れるように、紅茶の入った紙コップを手に持って息を吹き込む。少し経って、まだ湯気の消えないそれに口をつけた。

 

「それ、まだ熱いでしょう?」

 

 雪ノ下さんが僕に柔らかく微笑みかける。確かにまだ熱いが、飲めないほどではない。舌の先が触れないように、丁寧に喉まで運んでいく。

 

「大丈夫だよ。僕は猫舌じゃないし」

 

 僕は猫舌じゃない。

 その自分の言葉に胃の腑が落ちて、それから焼かれるような錯覚を覚えた。

 そうだ。猫舌の彼はここにいない。

 部室に入るときも、入ってからも。

 ここにいるべき三人目は僕ではないのだと、そう知っていてなお平然と室内に居座る自分に吐き気を催した。

 こんなものは結局、おためごかしに過ぎないのだ。

 

 醜悪な自分の首を真綿で絞めるように、ゆっくりと言葉を口にする。

 

「選挙のことで、相談があるんだけど」

 

 雪ノ下さんも由比ヶ浜さんも、僕の言葉に困ったような笑みを浮かべるばかりだった。

 何を言われるかと思うと途端に恐ろしくなって、矢継ぎ早に続きを口にする。

 

「会長やってくれそうな人に心当たりがあって。そしたら由比ヶ浜さんも雪ノ下さんも、立候補せずに済む、から……」

 

 文末がどんどん萎んでいく。葉山君にあんな啖呵を切っておいて、何と情けないことか。

 スカートの上で強張る僕の拳に由比ヶ浜さんがそっと手を被せた。少し気が和らいだような、さらに緊張したような。わからなくなってそちらを見る。

 

「うん。あたしはそれいいと思う」

 

 由比ヶ浜さんは、僕から手を離して、少し照れたようにはにかんだ。

 やっぱりむず痒くなって、目を逸らした。

 

「その人なら、一色さんに勝てるの?」

 

 雪ノ下さんは、伺うようにこちらを見てくる。そこに、存在していたはずの隠れた辛辣さはもうない。ただ純粋に、その案の可否を問うていた。

 

「うん。まあ一色さんに勝つってのは微妙な表現だけど……」

 

 まあ勝つというか打ち勝つというか。ぶっちゃけ勝つより克つというか。そんな感じだ。

 雪ノ下さんは寂しそうに微笑んで、それから口を開いた。

 

「話を聞くわ」

 

「……ほんとに、いいの?」

 

 その疑問には、精一杯の含みを入れたつもりだった。これが雪ノ下さんへの、僕からの最後通牒だというように。

 雪ノ下さんにまだ、立候補の意思があるのか。これが最後の確認になってしまうのだろう。

 もう、残された時間は少ない。

 

「ええ。だって……ちょっとやそっとで変わるものではないのでしょう? なら、それを探すことにするわ」

 

 雪ノ下さんは、そう言って彼女らしい微笑みを見せた。僕の借り物の言葉が、どう届いたのかはわからない。幾重にもベールに包まれたその言葉の真意は図りかねる。

 ただそれでも、停滞ではないのだろうと思うとほんの少しだけ楽になった。

 

「じゃあ、聞いてくれる?」

 

 彼女の決意を反故にしてしまったのならば、僕がその責めを負うべきだろう。

 彼ではなく、僕が。その責を果たすべきだろう。

 

「ええ」

 

「うん!」

 

 僕の言葉に、一人は静かに、一人は勢いよく頷いた。

 やがてその姿を見れなくなってしまうのだろうと思うと、胸のうちに寂寥が芽生え、それから希望が生まれた。

 僕がいなくとも。きっと君達なら大丈夫だろうと。

 

 少し感慨に浸った後、鞄から用紙を取り出す。

 それを見た彼女らの体に緊張が走ったのがわかった。でも安心して欲しい。今回はあんな手法じゃない。

 

 回りくどい手練手管は僕の得意とする所ではない。

 僕に出来ることは率直に言葉を紡ぐことだけだ。

 だから、それで勝負することにした。

 

「応援演説の原稿を書いてみたんだ。で、これを葉山君に頼んだ。ちょっと読んでみて」

 

 言葉しか取り柄がないから、言葉で挑む。

 

 僕の言葉を皮切りに、彼女達がパラパラと原稿を捲る。なんだか緊張するな……。材木座君もこんな気持ちだったのだろうか。いやでもジャンル違うし……。

 

 雪ノ下さんがいち早く目を通して、それから難しそうな顔でこめかみに手を当てた。

 

「悪くない……というより思ったより出来は良いのだけど。少し、公約以外の記述が多くないかしら」

 

 対する由比ヶ浜さんはまだ全部は読みきれず、一文ずつ拾い上げて読んでいるようだった。

 ほえーっと感心したように息を漏らすと、頬を染め、目を輝かせながら感想を述べる。

 

「でも、なんかめっちゃ良いこと書いてあるよ? ほらここなんか『俺が信じたこの人を信じてください』だって!」

 

 そうだ。随所にそのような、イケメンにしか許されないクサイ台詞を入れ込んである。

 公約4:台詞6ぐらいの比率。

 

 ぶっちゃけ、耳障りのいい言葉の大半は本やアニメのパクリである。

 カミナさん聞こえますか? 僕達から貴方への鎮魂歌です。

 

「さすがにそれは選挙とは関係ないのでは……」

 

 雪ノ下さんが視線で僕に疑問をぶつけた。

 いやいや、これが大有りなのだ。

 

 これを葉山君に言わせるとどうなるか、想像してみて欲しい。

 先程のサッカー部内でさえあの影響力なのだ。あれが全校生徒に波紋する訳で。

 大衆は、強い者に従って右に倣う生き物だ。

 それを動かすのに、彼ほどの適任はいないだろう。

 全く、イケメンってのは本当に憎らしい。

 

「高校の生徒会選挙なんて結局は人気投票でしょ? だから一番人気の高い人から、演説でその人気を丸々借りる!」

 

 いっそ清々しいほどの借りパク宣言である。昔、僕が誰かに貸したファイヤーエンブレムのソフトが中古ゲームショップに並んでいたのを思い出した。

 まずい! ファイアーエムブレム警察がSWATバリに突入してくるぞ!

 

 僕の言葉に雪ノ下さんは呆れたのか、目眩を抑えるように頭に手を当てて目を瞑った。

 

「無駄に有用性があるから否定しきれないのよね……そういう意味ではこの案もたちが悪いわ……」

 

 比企谷君に影響されたことは否定できない。きっとそれは数年にも渡って染み付いていて、簡単に変えられるものじゃない。しかし、今回はそれが全てではない。僕の矜持も混ぜ混んである。

 言うなれば彼と僕のブレンドSだ。ちなみにSは作戦のS。英語にしてもSだから間違いないな。

 

 由比ヶ浜さんはやっと原稿との格闘を終えたようで、うんうんと唸りながら口を開く。

 

「あたし、何か出来るかな……」

 

「いやいや、由比ヶ浜さんはかなり重要だよ。もちろん雪ノ下さんもね」

 

 不安そうな由比ヶ浜さんに僕は太鼓判を押すように答える。その言葉で何をして欲しいのか察したようで、雪ノ下さんはこくんと頷いた。呆れ顔は変わらなかったが。

 

「私達で推敲して校了まで持っていく、ということでいいかしら」

 

 少し大袈裟な気もするが、要点は抑えている。

 

「うん。雪ノ下さんには公約なんかの実務面の方を。由比ヶ浜さんには台詞の方を担当して欲しい」

 

「うーんなるほど~」

 

 由比ヶ浜さんはわかってますよと言うように、大きく首肯した。

 ……本当に分かってくれてるかな? ちょっと不安になってきたけど……たぶん大丈夫だよね?

 

「それで、締め切りはいつ?」

 

「締め切りは……明後日!」

 

 ブラック企業も真っ青な納品日である。

 いやでもしょうがないって……もう水曜日だし。万が一断られても他の人の立候補が間に合うように金曜日には話をつけなければならない。

 恨むならとっとと動かなかった僕を恨んでほしい。ん? やっぱ僕のせいじゃん。

 

 雪ノ下さんは大きく嘆息を吐いて、それから凛とした瞳を僕に向けた。

 

「やるわ。私なら出来る、いえ、私がやるべきだもの」

 

「……ありがとう」

 

 彼女の決意を踏みにじったのは僕だし、その責任を追うのも僕だ。だかしかし、その想いに引導を渡すのは僕でなく彼女自身の方が良いのだろう。彼女を見て、そんなことを考えた。

 由比ヶ浜さんはどうかと思って視線を向けると、彼女は嬉しそうに手を上げて、それから大きく宣言した。

 

「あたしもやる! だって……この部活、無くしたくないから」

 

 後半の言葉は、果たして雪ノ下さんにも聞こえていただろうか。

 これがうまくいけば、この部活はきっと無くならないだろう。

 

 だがしかし、入れ物の箱だけでは意味はない。

 何せ構成する要素が一つ欠けている。

 チラリと二人に気付かれないように、廊下側の椅子を見た。当たり前だがそこには誰もいない。

 

 今ごろは二人を生徒会長にしないために奔走しているのだろう。

 その条件はクリアできる。

 だけれども、そこに彼がいなければ意味はない。

 僕なんかがいても意味がない。

 僕の責任は、まだそこに残っている。

 

 

 × × ×

 

 

 二人に別れと今後の予定を告げて、学校を後にする。

 そうして一人で家までの道のりを歩いていく。

 きっとこれからは、一人での帰宅がデフォルトになるのだろう。

 彼にも彼女にも言っていない、もう一つの葉山君への頼み事。それが果たされてしまえば、三人と帰ることもなくなるのだろう。そんな頼み事をしていた。

 

 彼らの空間を守りつつ、僕が手を引くために。

 手を引きつつも、最低限の責任が取れる位置にいるために。完全に関わりを失ってしまわないために。

 なんて矛盾した願いなのだろう。なんて露悪的で自己中心的で、最低の願いなのだろう。

 

 道々にある街路樹は既に枯れていて、冬を全身で表現していた。

 僕の灰をばらまいて枯れ木に花を咲かせよう。

 

 もう一つの原稿を片手に、そう心に誓った。

 





感想、ここすきなどをめちゃくちゃ待ってます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。