遠き暁 (Bingo777)
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第一話 それまで①

 暦の上で立秋を過ぎても、夏は続いていた。

 湿気が肌にまとわりつく東京の残暑に比べると、北海道の北西に位置する積丹(しゃこたん)半島は日中こそ暑いが風は乾いていて過ごしやすく、朝晩は肌寒いほどだった。

 

 半島の海と陸の輪郭をなぞるように伸びる国道は、しばしば連続するトンネルと丘陵を駆け踊るワインディングロードが続く。仕事ではなくプライベートで、味気ないレンタカーのセダンではなくオープンカーで走れたなら、きっと良い思い出となるに違いなかった。

 

 地元で『積丹ブルー』と呼ばれる深く澄んだ海の青が冷えているのは、早朝であるばかりではないだろう。沖縄のような熱帯の青ではなく、もっと濃い青だ。海の色とは、もしかしたら空のそれと相関があるのだろうか。山岳写真家がヒマラヤ山頂付近で撮った画の空とはまた違う青さだが、故郷の空とも東京のそれとも違う。

 

 そんなことを考えながら長いトンネルを抜けると——息をのむ輝きを見せる海が視界に飛び込んできた。

 

「ぼちぼち島武意しまむいだろ。寄り道して少し撮って行くぞ」

 

 そこに助手席から、ぼそりと退屈そうな声がした。シートの背もたれを倒して寝ていたとばかり思っていたコウさんは、とうに定年を迎えた齢だが再雇用で働き続けている。つまるところ、仕事が好きで楽しくて仕方ないのだろう。

 

 仕事というものは、長く続けていると『生き方』になる。

 それを喜ぶべきか嘆くべきかは分からないが、報道カメラマンという仕事に限っては後者なのかもしれない。

 

 俺たちは台風で濁流が渦巻く川でも、正視に堪えない悲惨な事故現場でも、噴煙を上げる火口でも、カメラのファインダーを挟んでしまえば、それらを画として捉えてしまう。レンズを通して眺める全てに対して、無意識に画の出来栄えを計算する生き物だ。

 

「いまから撮れ高の心配っすか? 例のネタは政治部の同期から聞き出した社長賞モンですから、心配いりませんよ」

 

「保険ってのは掛けとくもんだ。どうせ撮影したって、データは荷物にもならねえ。文化部の連中に回して経費の足しにするのも悪かねえだろ。おい、火ィ貸せ」

 

「出張予定に計上してない後だし経費の申請は、総務から止めろって言われてますけどね。あと、このクルマ禁煙です。」

 

「……なんで禁煙車なんか借りたんだよ」

 

「今のご時世、喫煙可のレンタカーは軽トラしかないんスよ。俺だって我慢してんです」

 

「世知辛れェな、まったく。昔は良かったぜ」

 

「その点だけは同意っすね」

 

◇ ◇ ◇

 

 最寄りの駐車場にクルマを停め、二時間ぶりの煙草を堪能した。

 スマートフォンで社内メールを確認しつつ、島武意(しまむい)について軽く予備知識を仕入れながら周囲を見回すと数台のキャンピングカーと、ピンク色の地元ナンバープレートのバイク、そして俺たちのレンタカー以外は誰もいなかった。

 

「退職金がもっと多けりゃ、ああいうので旅暮らしってのも悪くないかもな……おい、いま何時だ?」

 

「五時ちょい過ぎっすね。光源的に、ぼちぼち良い頃合いかと」

 

「だな。何て言ったっけ? あの、オモチャのヘリコプター」

 

「ドローンっすか?」

 

「それだそれ、そのドロンも試しに使って見せろ。先、行ってるぞ」

 

「無理言って借りてきたんですから、三機全部はナシですよ……って、大荷物なんスから少しは持ってくださいよ!?」

 

「年寄りにゃデリケートな精密機械は荷が重いんだ。ほれ、光源変わっちまうだろ。さっさとしろ」

 

 都合の良い時ばかり年寄りぶるコウさんはカメラマンとして大先輩であり、俺の師でもある。賞と名がつくものには縁がないが報道業界では顔も広い。偏屈で口が悪く、人付き合いも悪いせいか還暦を過ぎても未婚だった。

 

「おい、なにグズグスしてやがんだ!」

 

「いま行きますよ!」

 

◇ ◇ ◇

 

 島武意(しまむい)海岸は急峻な斜面と、岩肌が剥き出しになった崖に囲まれた入江だ。船以外の方法で入るには、明治時代に手掘りで通したという細いトンネルを抜ける以外にない。現在は鉄製の波板とコンクリートで補強されているが、その下には手作業で岩を削った跡が遺されているのだろう。江戸後期に始まって明治期にピークを迎えたニシン漁は、こんな辺鄙な場所にも巨富をもたらしたらしい。

 

 幅が二メートルのトンネルは照明がなかった。出口から差し込む陽光だけが頼りの道行は七十メートルほどだが、やけに長く感じるのは両肩に食い込む大荷物のせいだけではない。足元は微妙に傾斜し、壁から染み出る水のせいで湿った空気には息苦しさを感じた。

 

 無事にトンネルを出られたことに安堵のため息をつき、頬に触れる風を感じて顔を上げると——スマートフォンの画面で見たものと寸分違わないが、それ以上の景色が広がっていた。




本作はラヴクラフト作品の傑作「インスマウスを覆う影」のオマージュとして、
また
TRPGの「クトゥルフの呼び声」をご存知の方にはシナリオの導入部として
ご利用いただける仕立てにしております。
間を置かずに投稿いたしますので、お楽しみいただければ幸いです。


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第二話 それまで②

 入り江を巡る風がかすかに潮香を運び、広がるのは澄み渡る海。波打ち際から離れ、深くなるにつれて色濃くなっていく繊細な青の階調は朝日に照らされ、目をとらえて離さない。

 

「おい! ボサーっとしてねえで機材持って海岸降りろよお前!」

 

「コウさんは上の展望台から撮るんですかー!?」

 

「こういう遠景は広角レンズで撮りてぇだろ!? ドロンにゃ出せねえ味ってやつだ!」

 

 トンネルの出口から右手に進むと展望台があり、左に進むと海岸まで降りられる階段があった。遠景は年寄りに任せ、三十路を過ぎても職場では若手に分類されてしまう俺は海岸へ降りることにした。

 

 海岸に降りる階段は丸太で土留めされているだけで、段の高さもあいまって相当な苦労を強いるものだった。バリアフリーという概念の意義を痛感したが、降りるほどに磯の匂いも強くなって、最後は子供のように駆け出してしまった。

 

 波打ち際に辿り着くと、白い砂浜かと思っていたのは波に洗われた小さな丸石だった。若干当てが外れた気持ちで石の擦れる硬質な音を聞きながら荷物を降ろし、両手の親指と人差し指で作ったフレームで風景を切り取って、画を考える。

 

 撮影したものは素材にすぎない。最新のデジタル編集で、いくらでもトリミング可能だ。だから、撮影はおおよそでも構わない。見せたいものが映っていれば用は足りる。今の技術なら、何もない空に鳥を飛ばすことくらい造作もない。なあ君、現場に行く意味は、今や限りなく無価値に近づいているんだぜ。

 

 脳裏に浮かぶのは自称・映像職人の同僚の言葉だった。

 薄暗い編集ブースに籠ってモニタの青白い光を浴びてばかりいる、いけ好かない奴だ。現場が無価値であるものか。

 

 報道とは、その場所に立ち会うことに価値と意味がある。真実は人の数だけ存在するが、事実はひとつきりだ。来て、見て、撮る。カメラマンが存在する理由はそれで十分で、それ以上は余計だ。撮ったものに誰がどう価値をつけるのかは、俺の仕事ではない。撮ったものに対する責任を負う必要がないのと同じように。

 

 両手の指で作ったフレームで景色を覗き込むのは、俺が現実世界に対して無責任な状態になるという、心理的なスイッチを切り替える意味もある。その最中、不意に視線を感じてフレームを水平ではなく斜め上に滑らせると——城のような高さ二メートルほどの石垣。そして、その上に腰かけている少女の姿があった。

 

 見た感じは高校生だろうか。体格に合っていない、黒革のごついライダースジャケットの内側に白いタンクトップ。細身のデニムの足元は安物のスニーカーという格好だ。栗色の髪はざっくりしたショートカット。将来性を感じさせるのに、やけに子供っぽく見えるのは、恐らく大きな目に隠そうともしない好奇心を湛えているせいだろう。

 

「お兄さん、お仕事で来てんの? なんか、プロみたいな機材ケースだね」

 

「ああ……まあ、仕事だし、プロっちゃプロ、かな」

 

 彼女の第一印象は俺を『おじさん』と言わなかった事で非常に良いものだった。正直に言えば、嬉しかった。

 

 だが。

 

「今の時間がね、一番きれいなんだよ。誰かから聞いたの? 上にいる人?」

 

「テレビの人? それとも雑誌とか新聞の人? いつ出るの?」

 

「どっから来たの? やっぱり東京? 向こうは暑いの? それは何?」

 

 などと質問攻めにされるのには閉口した。人懐っこいと言えば美点だが、馴れ馴れしいと言えば欠点だ。第一、年頃の娘は見ず知らずの中年を警戒するものと相場が決まっている。

 

 それなのに、この娘ときたら俺が三脚にカメラを設置したりタブレット端末と撮影ドローンを無線接続する作業をしている間、今時の子なら大して珍しくもないだろうに興味津々といった風で手元を覗き込んできた。

 

 飛行ルートを設定されたドローンが静かなモーター音と共に飛び上がる様に『ひゃわあ』と奇声を上げ、挙句に搭載カメラの映像をタブレットで受信する段になると何度も俺の肩を叩きながら耳元で見せろと大騒ぎだ。

 

「見たい! あのラジコンってカメラついてるの!? ねえ、見せてよ!!」

 

「ちょ、おい! 落っことして液晶割れたら怒られちまう、見せるから叩かないでくれ!」

 

「あっ……ごめんなさい、つい」

 

「いいよ。ほら、画面には触らないでね」

 

 タブレットを手渡すと、彼女は表示されている映像と飛行するドローンを交互に見ながら瞳を輝かせていた。

 

「なんだか、あたしが飛んでるみたい……バイクよりフワっとしてるね!」

 

「ああ、駐車場にあったバイクは君のか?」

 

「うん。昔のやつらしいけど、速いよ」

 

「ピンク色のナンバーなんて初めて見たよ。あれは何ccなんだい?」

 

「125ccだけど、聞いて分かるの?」

 

「いや、正直何が125ccなのかも知らないくらいだ」

 

「実はあたしも良く知らないんだよね!」

 

 ドローンは周囲をゆっくり回る五分ほどのルートを設定してあったので、その間に彼女からいくつか話を聞いた。名前は深緒(みお)で、近隣の学校に通っているという。バス通学ではなく、そのバイクで通学しているそうだ。

 

「バイク通学ねぇ……三無い運動の時代は遠く過ぎにけり、か」

 

「それ知ってる。バイク乗ると暴走族になるからダメってやつでしょ?」

 

「よく知ってるなあ。それだよ」

 

「うちの爺ちゃんが同じこと言ってたもん……あ、やば。そろそろ家に戻ってお弁当作らないとチコクしちゃう!」

 

「自分で作ってるのか?」

 

「うん。ウチ、お母さん居ないから。もうそろそろ父さんが帰ってくる頃だし、行くね。ラジコンありがと!」

 

 翌日の筋肉痛を確信できる階段を軽々と上って行く彼女の後姿に自分の年齢を感じ、その次に自分たちの朝食を買えそうな店の有無を尋ねるべきだったと後悔した。



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第三話 それから①

 コウさんのナビで島武意(しまむい)海岸から三十分ほど進んだところで車を停めると、目的地である豊網(とよあみ)村を俯瞰できる高台についた。

 

 ネットで調べた情報では三千ほどの人口のうち半数以上が高齢者だという村は、片側二車線の国道によって海側と陸側に隔てられ、平地と呼べるものは海岸に面した猫の額ほどの部分に集中していた。

 

 ビデオカメラを構えて豊網の全体を撮影し、ゆっくりとパンしながら海側をズームしていく。そこには限界集落には不釣り合いなほど小ぎれいな漁港と、付随する水揚げ設備や保冷倉庫などの施設があった。だが、停泊している船は港のそれと対照的に古びた漁船ばかりで、船腹を半分晒して溺れるように繋がれている。

 

 国道を挟んだ陸側に目を向けると、急勾配の斜面に張り付くように住民の家屋が立ち並んでいた。建物の新旧は無秩序に混在し、いくつかの家には白い塗装が赤サビで朱に染まった軽トラックの隣に、最低でも四百万円は下らないだろう真新しい高級車が停まっている。

 

「見ろよ。ここの連中は何をやって稼いでんだろうな? 漁に出たら沈没しそうなボロ船ばかりのくせに、クルマの方は羽振りがよさそうじゃねえか」

 

「漁業補償や補助金でじゃぶじゃぶになってる……ってハナシ、本当みたいですね」

 

「叩けばホコリ、どころじゃねえな。面白くなってきたじゃねえか」

 

「どこから聞き込みましょうかね?」

 

「あのなァお前、アタマ使えよ。真正面から『インチキしてますか?』なんて聞いて回って『ハイしてますよ』ってな事になるわけねえだろ。こういうのはな、貧乏人から聞くに限んだよ」

 

「貧乏人……?」

 

 思わせぶりに笑う彼を追って車に戻り、キーを捻りながら意味を問うと「取材のイロハだよ」と面倒くさそうに言った。

 

「いまの日本じゃ珍しくなっちまったけどな、ひと昔前の東南アジアあたりじゃ見慣れた光景だ。あの手の不労所得ってのはな、地元の権力者と取り巻きが良い思いをして……長いモンに巻かれねえ奴と下っ端役人にゃ回って来ねえんだよ」

 

「じゃあ、役所ですか?」

 

「お前な、アタマ使えッつってんだろ。市町村合併してんだから、ここに役所があるわけねえよ。もっと考えろ」

 

 この地域の情報が集まり、保証金や補助金事業に関連し、その上で利益にありつけない者がいる場所。それでいて、地方自治体ではない——

 

「そんな都合の良い人がいる場所なんか、あるんすかね?」

 

「わかんねえのかよ……ここの産業基盤はなんだ? 漁業だろ。漁協って知ってるか? いくらジジババばかりの土地でも、ガキがいりゃ学校あんだろ? それとな、この程度の規模の村だって警察の駐在所くらいあるんだよ! ッたく最近の若けェ奴らときたら……」

 

「すんませんね、勘が鈍くて。ところで、朝飯のカップ麺はカレー味と普通のやつ、どっちがいいですか? あと、思ったんスけど消防署なんてのはどうなんですかね?」

 

「普通の……いや、カレー。ざっと見た感じ、消防署じゃなく消防団だろうな。おにぎりねえのか?」

 

「ツナマヨでしたよね。ありますよ」

 

 消防団だとすると地元住民の有志であって、公務員のように村の外から来た人間はいない。俺たちが欲しい情報源とはならないだろう。漁協、駐在所——そして学校か。さっきの騒がしい娘、深緒に出くわさなければよいが。

 

◇ ◇ ◇

 

 すでに発生した事故や発覚した事件の取材であれば、カメラを向けただけでワイドショーのコメンテーター気取りでベラベラ語りたがる素人は山ほどいる。だが、隠されている、まだ事件になっていない事柄について聞かれるままに語ってくれる者は滅多にいない。

 

 物事を外部から隠しておくためには関わる人間の数を絞り、さまざまな方法で利害関係を構築し、裏切れない仕組みを造り上げることが必要だ。コウさんの話では、まず情報提供者に信頼されることが不可欠だという。

 

 記者の基本だと同僚から酒の席で聞いた気がするが、カメラマンは撮影するものであって聞き込みは守備範囲外ではないだろうか。

 

「お前な、フリーランスの連中は一人で全部やるんだぞ。カンボジアじゃあ鉄鉢てっぱちから宿から食い物の調達から、ベトナム軍の広報との交渉だ撮影だ記事書きだ、何もかも手前ェでやったもんだ。甘ッ垂れてんじゃねえよ」

 

 今の俺より若い頃、コウさんは『地雷を踏んだらサヨウナラ』の一ノ瀬泰造と同じ修羅場を踏んだ戦争特派員だった。人づてに聞いた話では、現場で殺気だった兵隊に銃を向けられたこともあるらしい。

 

「いいか、俺の読みじゃあ今回のネタは……少なく見積もっても数億って額のカネが動いてる。バレたら一人や二人が首括るか海に浮かぶ程度じゃ済まねえ」

 

「出ますか、人死に」

 

「出る。朝っぱらだってのに、この国道を通るのはガキと散歩のジジババだけだ。港に出入りする連中も全然いねえ。さっきは権力者の取り巻きしか得しねえって言ったがな……事によると、ここの奴らは……」

 

「まさか、ほぼ全員が? そんな……」

 

「それを否定する材料、持ってるのか」

 

 それは予断だ。しかも、穿ちすぎな極論としか思えない。陰謀論の半歩手前と言っても良い。だが、彼の勘は次々と裏付けられることになった。

 

 コウさんは最初の聞き込み先に漁協の支部を選んだ。『東京で働いていたが、定年退職を機に移住する予定だ』という出まかせで預金口座を作る手続きをしながら、職員から雑談を装って雑多な情報を聞き出していく。俺はその会話を懐に隠したスマホで録音する係だ。

 

 職員曰く、青年団は消防団を兼ねている。

 曰く、ニシン漁で繁栄していた頃の網元である『豊網』氏の名が村の名前になっている。

 曰く、豊網の現当主は入り婿で、道議会の議員だ。親戚筋にも町会議員などが複数。

 曰く、先代当主は終戦間際に樺太からふとからの引き揚げ船を手配し、富を築いた。

 

 そして。

 豊網の当主は、この村の神社の神主でもあるという。

 

「私はここの生まれじゃありませんし、氏子でもないんですけどね。『いどら様』って聞いたことのない神様なんだそうです。イロハのイじゃなく、あの……五十音の最後の方の字を使うんだとか」

 

 ゐどら、と書く神様なんて聞いたことがない。へぇ、と興味なさそうに相槌を打つコウさんだが、唇の端が微妙に上っている。

 

「その神様ぁ、どんなご利益があるんですかね?」

 

「そうですねえ、長生きと豊漁の神様だって聞きましたね。ソッキ様とも言うらしいです。どう書くのかは……申し訳ないですが」

 

「いやいや、いいんですよ。手続きも済んだってのに、長っ尻しちまって。こっちこそ申し訳ないです。ああ、済みません……お名刺頂いても良いですか? これから何度か助けてもらうかもしれませんので」

 

 接客用の作り笑いの中に期待感をにじませ、四十がらみの男性職員は名刺を渡した。どっこいしょ、と普段なら言わない演技を入れつつ立ったコウさんは、聞き忘れを思い出したとばかりに『ゐどら様』の神社の場所を尋ねた。

 

「お参りする場所はすぐ近くですけど、ご神体って言うんですかね? それがあるのは船で沖に出たところにあるニシン岩なんだそうです。そういえば、確か今日の夜に何か祭事があるはずですね。明日は餅まきするって婦人部の方が……」

 

 好々爺のふりをしたコウさんは、人の良さそうな笑みで何度も頭を下げながら漁協の建物を出るなりタバコに火をつけて——悪い笑みを浮かべた。

 

「ちゃんと録ったか?」

 

 たぶん、俺も似たような顔をしていたに違いない。クルマに戻り、スマホを操作して確認する。

 

「完璧です」

 

「まずは裏ァ取るぞ。話からして、ここの大ボスは先代当主だろ。神主だったら祭事にツラ出すのは間違いねえ。取り巻きのガン()も一緒に押さえてえな」

 

「ニシン岩ってのは、どこなんですかね?」

 

「あいつは沖って言ってたな……後で探すか。とりあえず、俺は移住希望のジジイだ。お前は……仕方ねえ、息子ってことにするか?」

 

「まあ……それが面倒なさそうで無難ですかね」

 

「そんじゃ、行くか」

 

「不肖の息子がお供いたしますよ、親父殿」



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第四話 それから②

 今回の出張は往復も含めて四日を予定していた。場所も場所なので宿にはまったく期待せず、車中泊も視野に入れて準備していたが、豊網(とよあみ)村にも宿と呼べそうなものが一軒だけ存在していた。

 

 もっとも、古ぼけた板壁の家で部屋だけ貸すという民宿もどきだ。それでも、腰を落ち着けられるのは有難い。部屋の防音など考慮されていないので、あまり大声で取材内容を語ることはできないが。

 

「お客さん、なァんにもない所ですけど、こっちに越してくるんですかァ? そりゃあまた……はぁ、写真と油絵ですか。ええ、ここいら景色だけなら悪かないですねェ。ニシン岩ですかァ? ちょうど窓から見えますよォ。ほら、あの魚の頭みたいにシュっと尖がってるでしょう?」

 

 片手にポット、反対側に急須と湯呑に饅頭を載せた盆を持って来た女将の老婆は会話に飢えていたようで、コウさんの言葉を疑いもせずあれこれと語ってくれた。

 

「そうそう、漁協で預金口座を作るときに伺ったんですが、明日は餅まきがあるそうで。私の故郷だと丸餅ですが、こちらは何の餅なんですか?」

 

「こっちも丸餅だねぇ。アンコ入ってるから美味しいよォ」

 

「それは楽しみですねえ。ところで、その『ゐどら様』のお祭りはお参りできるんですか?」

 

 彼の口から『ゐどら様』という言葉が出た途端、柔和な笑みを湛えていた老婆の顔から表情が消えた。弛んだ瞼を持ち上げ、白く濁った目で俺たちを睨みつけると無言のまま部屋を出て——戸口で立ち止まり、ぼそりと言った。

 

「余所もんが首ィ突っ込む話でねェ。明日の餅だけにするが、あんたらのためだァ」

 

◇ ◇ ◇

 

 老婆の言葉には拒絶というより、警告の響きがあった。だが、明治大正の頃ならともかく令和の日本において、信徒や地縁・血縁が無い者を拒むような宗教行事は極めて稀だ。何より、今夜の祭事はこの地域の権力者である豊網氏の姿を抑えられるチャンスだ。

 

 茶請けの饅頭をすっかり温くなった茶で流し込んで、湯呑を座卓に戻した俺は言った。

 

「聞くまでもないことですが」

 

「当たり前だ。ババアの験担ぎで仕事放り出せるかよ」

 

 さすがは親父殿、と軽口を挟もうとしたが——コウさんは目をすがめてニシン岩を眺め、独り言のような小声だが『そんなもん、偶然に決まってる』と吐き捨てた。

 

 何が偶然なのかは、触れてはいけないように思えて聞けなかった。

 やけに長く感じた数瞬の沈黙があって、彼はこちらに視線を戻すといつもの悪人顔で「おい、ちょっとこれ調べろ」と、ひどく読みづらいメモを寄越した。

 

「なんですかこれ、読めないスよ」

 

「チッ、今の連中はレコーダ頼みで速記も知らねえのかよ」

 

「ソッキ? 漁協の人が言ってたやつですか」

 

「違げぇよ。まあ、それも調べたいが他にもある。書き直してやるから、インターネットで調べられるんだろ?」

 

 高性能で手軽なボイスレコーダが普及する以前、記者は取材相手が話した内容を一言一句漏らさず手書きでメモを取る必要があった。そのために考案されたものが速記という技術らしい。コウさんはポケットの中に、ちびた鉛筆と紙を忍ばせて会話しながら気になった単語を書きつけていたようだ。

 

「こんなのはお前、嗜みってやつだ。俺らの世代じゃ隠し芸にもならねえよ……で、どうだ。何か分かったか」

 

 メモに書かれていた内容をノートPCで検索した結果は、こうだ。

 

・豊網の先代当主について

・豊網村の歴史について

 

 信じ難いことに、ネット検索で一切ヒットしなかった。かつて地方自治体として存在し、現在も少数とはいえ住民が生活している場所について、何ひとつ情報が出てこない。思えば、このネタを同僚から教えられた際に手渡された資料の地図にも——豊網の名は手書きで加えられていた。

 

 普段気付かないが、検索サイトの結果表示には規制がある。事実、隣国ではそれが横行している。それなのに、どうして自分たちの利用する検索は自由だと信じられるのか。

 

「ま、思った通りか。出張前に俺もやってみたけど、なんせホレ、キーボードが慣れなくてなあ……間違った方法で調べてんじゃねえかとも思ったけどよ。おい、ババアの耳が遠いかどうかも分かんねえだろ。騒ぐなよ」

 

「でも、これは……どうして、どうやって」

 

「俺に聞くな。それを調べんのが仕事だろ」

 

・ソッキ(アイヌ語か?)について

 

 これはヒットした。『ソッキ』とはアイヌの言葉で『寝床』を意味する単語だ。しかし、これに『人』を意味する『アイヌ』を足すと別の意味になる。

 

「アイヌソッキ……人魚によく似た生物……か」

 

「大学で少しだけ民俗学を齧りましたけど、八百比丘尼やおぴくに伝承に近似したものが北海道にまであるとは思いませんでした。肉を食えば長寿って、そのまんまですよ」

 

「へへへ。思いがけず学術的な取材にもなってきたな。長寿と豊漁のソッキ様か。カルト染みてきたじゃねえか。こいつは、何がどうでも見たくなってきたな」

 

「ええ。パパラッチみたいな覗き仕事は主義じゃありませんが、ここは四の五の言ってられませんよ」

 

「だが、どうやって船を手配するか……協力してくれそうな宛てもねえ」

 

 白いものが混じった無精ひげの顎をじょり、と擦って唸る親父殿だが、ここは仮の息子として良いところを見せたい気持ちになった。

 

「問題ないスよ。ドローンの設定変えて、到達距離を伸ばせますから。たまには今時の連中ってのも役に立つとこ見せますよ、親父殿」

 

「ケッ、だったら見せてもらおうじゃねえか。口だけだったら承知しねえぞ」

 

「たぶん、三機のうち一つか二つは水没して回収できないでしょうけどね。一緒に怒られてください」

 

「へへっ、撮れ高次第だな……おい、冗談だから捨て犬みてえな顔すんなよ」



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第五話 これから①

 地図アプリとカメラの距離計によると、ニシン岩までの距離は防波堤から約3キロだ。カタログ性能を信じるなら、4キロは電波が届くらしいが——最適な環境と言う訳ではないし、偶然に恵まれた最初のチャンスを逃す手はない。念を入れておくべきだろう。

 

 そう提案するとコウさんは「ハイテクなドロンのピコピコはお前に任せる」と言って座布団を枕にするや、高いびきをかいて寝入った。

 

 肩を一つすくめてノートPC内のドローン制御アプリを呼び出し、俺は作業に取り掛かった。出張前に斜め読みしただけのマニュアルと首っ引きで設定変更の方法を調べ、何度か失敗しながらも遅い昼食時までには完了することができた。

 

「……よし」

 

「手間取ってたじゃねえか。俺ァもう腹ペコだぞ」

 

 いつの間に目覚めていたのか、寝ていたはずの背中から声がした。起きたならそう言えばいいのに、人が悪い。

 

「で、いけるのか」

 

「はい。ちょっと苦労しましたけど」

 

「まるまる二時間もピコピコやって、ちょっとだ? まあいい、メシにしようや」

 

「定食屋なんかありましたっけ?」

 

「目配りが足りてねえな。あったよ、漁協の斜向かいに一軒だけな」

 

「よく見てますねぇ……」

 

 着古してくたびれたジャケットを肩にひっかけ、顎をしゃくって『行くぞ』と部屋を出ていく親父の後を小走りに追いかけた。

 

 夜には居酒屋になるという定食屋には、昼間から酔っぱらっている中年男性が数人いた。だが俺たちが席に着くと会話がぴたりと止み、背を向けていても探るような気配が感じられた。そんな状況でもコウさんの『移住を検討している人好きのする老人』演技は呆れるほど人の心にすべり込んで、瓶ビール数本を対価に和やかな空気を得ていた。

 

「いやあ爺さん、引越して来るの待ってるよ! また飲もうや!」

 

「ええ、ぜひ。こっちのボンクラ息子より、よっぽど心強いですねえ。みなさんも消防団のお仕事は大変でしょうが、頑張ってくださいな。詰め所に差し入れ届けますね」

 

 勘定を済ませ、定食屋の暖簾をくぐって戸を閉めるなり「兵隊だな、ありゃあ」と彼は吐き捨てるようにつぶやいた。

 

「お前、あいつらをどう思った」

 

「日焼けしてませんでした。漁師じゃないみたいに」

 

「それだけか?」

 

「いえ、何か臭いましたね。磯臭いというより、魚臭いというか……それも、一人じゃなく全員だったように思います。保冷倉庫で働いている……訳でもなさそうなのに」

 

「それだけか? 思い出せよ。全員やけに太いベルト巻いてたし、腰の左側にいつも『何か』を吊るしてたような跡もあったろ。一人は右側にポーチが着いたままだった。中身は何か分かるか?」

 

 細長い筒——マグライトのような物を見たような気がする。俺がそう言うと、コウさんは低く押し殺した声で「ありゃ警棒だ」と言った。

 

「俺の知らないうちに青年団やら消防団ってのは、私兵か民兵みてえな組織になったらしいな。あん中の二人な、たぶん何人か殺してるぞ。昔ああいう目ェした奴を何人も見た」

 

「待ってくださいよ、それじゃあ……左側に何を吊るしてるって言うんスか?」

 

 知りたくない気もするし、嫌な予感もするが聞かないわけには行かなかった。

 

「拳銃だよ。たぶん、な」

 

 ヤクザが密輸拳銃で武装しているのは知っているし、そういう現場の撮影もニ、三回は経験した。しかし、消防団がそこまでのことをするのだろうか。それはまるで——

 

「まるで、私兵じゃないですか」

 

「だからそう言ってるだろ。聞き出した連中の詰め所には俺だけで行く。夕方までに戻らなかったら、お前はいったん逃げて札幌で警察に捜索願を出せ。ここの駐在は信用できねえ、たぶん……抱きこまれてる」

 

「一人じゃ危険ですよ!」

 

「でけぇ声だすんじゃねえよ。二人なら安全になるのか、ええ? お前、銃はどうやって、どこに保管するモンなのか分かってんのか? ありゃあな、映画なんかと違って手入れに手間がかかるんだよ。俺ァよく知ってる。撃たれたこともある」

 

 言い返す言葉を探している俺にコウさんはタバコを差し出して言った。

 

「分かれるのは念のために、だ。保険は掛けといて損しねえもんだろ。おい、少しはオヤジ様を信用しろっての。上手くやるさ」

 

「……夕方になっても戻って来なかったら、スクープは俺が独占しますからね」

 

 精一杯の減らず口を返すが、鼻で笑われた。

 

「そいつは困るな。社長賞は老後の貯えに回してえんだ……ああ、そうだ。あのよ、お前……『ゐどら』ってのに聞き覚え、あるか? ソッキ様もそうだが、そっちも調べておけ。じゃあ、頼んだぜ」

 

 歩いて宿まで戻り、コウさんはクルマの中に忍ばせていた缶ビールのパックを提げて、消防団の詰め所がある坂を上って行った。部屋に戻るついでに女将に声をかけたが、老婆は手を擦りながら仏壇と神棚の中間のような木造の何かに念仏を唱えるのに夢中で聞こえていない様子だった。

 

 ため息を一つついて、俺は部屋に戻って彼の帰りを待つことにした。

 

◇ ◇ ◇

 

 午後四時を過ぎると、凪いでいた山風がそよそよと吹いてきた。海風の磯臭さに慣れた鼻には爽やかに思えたが、老婆の念仏が妙に耳障りなせいで気持ちを和らげるものではなかった。

 

 『ゐどら』という神様について調べたが、何も検索にはヒットしない。『いどら』『イドラ』と検索ワードを切り替えても、哲学用語くらいしか見当たらない。念仏がうるさく、漠然とした不安が、ざわざわとした胸騒ぎに姿を変える気がした。

 

《……いーあー、いぃーああぁー。でごん、でぇごん、るーりぇ》

《いーあー、いぃーあぁあー。はいどら、いどら、るるーりぇ》

 

 老婆の念仏が次第に大きくなり——文言の音が聞き取れるようになった。

 

《いあ! でぇごん、いあ! はいどら! おきよりこしかみ! にえとりめされや!

 いあ! いあ! はいどら! おきよりこしかみ! にえとりめされや!

 いあ! いあ! はいどら! おきよりこしかみ! にえとりめされや!》

 

 言葉の意味は、何一つ分からない。

 しかし、その念仏は——いや、絶叫に近い『なにか』は老婆の声だけでなく、宿の周辺の家々から——豊網にいる、俺以外のすべてが叫んでいるような、圧力と熱を帯びた唱和だと思えた。

 

 この村は奇妙ではなく、異常だ。

 涼を運ぶ風の中に、言い知れない気味の悪さを感じた。



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第六話 これから②

 念仏かと思っていたが、その認識は根本から間違っていた。あれはそういうものではなく、呪いの文句でもない。『なにか』に向けた呼びかけだ。その言葉の意味をくみ取れなくても、その『なにか』は疑いようもなく不吉なものだと感じた。

 

 鬼気迫る老婆の絶叫が止み、さわさわと風に吹かれた風鈴が鳴る音で我に返る。数分も経過していないのに、どれほど脂汗をかいたのだろう。シャツには汗染みができていた。

 

 まだ震えが収まらない手でタバコを咥え、苦労して火をつけ、煙を深く吸い込んで溜息のように吐く。それを数度繰り返して、やっと人心地ついた。

 

 できる事なら、いますぐ東京に戻りたい。始末書を書くだけでこの異常な場所から遠ざかれるなら、喜んで何枚でも書ける。仕事も機材もどうでもいい。知らないうちに、何の覚悟もないまま、常識が通用しない世界に踏み込んでしまった。

 

 怖い。恐ろしい。嫌だ。どうして俺はこんな場所にいるんだ。帰りたい、帰りたい、帰りたい! 落ち着いたはずの震えが戻り、呼吸が浅く早くなり、視界が暗く落ちていく。それは過呼吸で、その対処方法を知っている。それなのに、体が言うことを聞いてくれない。

 

「おう、戻ったぜ……おい、どうした? 真っ青だぞ」

 

 くたびれたジャケットを肩に引っかけたヤニ臭い息を吐く悪人面の顔を見て、これほど嬉しく思えるとは思わなかった。

 

「……あてられた、と言ったところです。とにかく気味が悪くて……」

 

「まあ、落ち着け。病人みてえなツラしてんぞ、お前」

 

「そっちの首尾はどうでしたか」

 

「そうだなァ……色々、分かったぜ。詳しいことは後だ、とにかくお前は休め」

 

「お願いですから、おいて行かないでくださいよ」

 

 一人になると、また震えが来そうだ。だがコウさんは別の意味にとったのか渋面を作った。

 

「お前な、俺がドロンだのパソコンだの、いじれるわけねえだろ。時間になったら首に縄くくってでも連れてくから安心しろ」

 

「はは……ですよね」

 

 良かった。いつものコウさんだ。この人が平気なら、俺もまだ耐えられそうだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 村の夜は、西日が山に隠れると平地よりもずっと早くやって来た。雲は北西に流れていくのに、冷えた風は反対に山から降りて来る。それは気象学的に何の不思議もないのかもしれないが、異常な体験をしたばかりで過敏になった神経には、肌を撫でる空気の流れすら恐ろしかった。

 

「念仏なんかでビビりやがって、意気地ってもんがねえのかお前」

 

 言い返したい気持ちもあったが、俺は文字通りの意味で臆病風に吹かれた状態だった。面倒くさがるコウさんからカメラとレコーダ、速記メモをむしり取って画像や音声データをすべてネット上のクラウドストレージにアップロードした。

 

「保険ですよ。かけておいて損はないんでしょう?」

 

「チッ……まぁ、いいけどよ」

 

 俺たちは漁港の船着き場を囲む防波堤の一角、打ち捨てられた漁網や木箱が乱雑に積まれた場所に隠れていた。廃船だと思っていた船に大漁旗を飾り付け、何も模様がない白いだけの法被(はっぴ)を着て熱気を帯びた男たちが俺たちのすぐ前を何艘も過ぎて行った。

 

 船上の村人たちを撮影し、後日の資料にする目的らしいが正直な話、夜通しハンドルを握っても構わないから祭事の撮影が済んだら尻尾を巻いて空港に直行したい気持ちだった。

 

 それでも習い性というやつは厄介で、カメラのレンズを通せば幾分か恐怖感が和らぐのを感じる。

 

「どうだ、そっちは撮れてるか? 俺の方は後で補正しねえと光量不足で良く見えねえ」

 

「こっちは増幅して、まあまあ撮れてます。肉眼で見るよりかマシですね」

 

 通り過ぎる漁船の列の最後に、白い法被ばかりの中に——赤いガウンのようなものを着た姿があった。カメラを左から右にパンしてそれを追うと、色は赤というよりは黄味がかって緋に近い。着ているものはガウンではなく、浴衣や和服の襦袢(じゅばん)のようにも見えた。

 

 そして、それを着ているのは男ではなく少女だった。

 確か今朝会った、深緒という名だったか。だが海岸で見た、溌溂とした『生気』とも言えそうなものが何も感じられない。男たちの熱と正反対に冷え切った目をしていた。

 

「コウさん、ちょっと……見てくれますか」

 

 カメラとケーブルで接続しているノートPCで、撮影したばかりの映像を再生し、秒間60コマ、60fpsで撮った深緒の姿を静止画で拡大表示し、簡易的な光量補正を加えると——モニタには人形のように無表情で、虚ろな目をした彼女が浮かび上がった。

 

「なんだこりゃあ……昔話の人身御供にされる娘ってやつじゃねえか。薬でも盛られたみてえな目ェしてんぞ。薬……」

 

 言い淀む彼の言葉尻を掴み、彼が思い浮かべた言葉を続けさせようと詰めた。

 

「直接じゃねえ。それに日本でもねえし、もう四十年も前の話だ。関係ねえだろ」

 

「関係あるかどうか分からないすよ。話してください」

 

「嫌だ」

 

 普段なら、嫌なら無理に聞き出そうとは思わない。しかし今は、この場所では知れることは全て知っておかないと、何か隠されているままだと、俺の中で彼への信用が崩れてしまう。もし、コウさんが消防団の詰め所で連中の仲間になっていたら? 考えたくもない!

 

「なんで!?」

 

「思い出したくねえからだよ!」

 

 互いに歯を剥いて襟首をつかみ合い、頬を痙攣(けいれん)せさながら目の奥を覗き合った。

 

「チッ……いいよ、分かったよ。話しゃ良いんだろ。他の奴にゃ漏らすんじゃねえぞ。俺は墓まで持ってくつもりだったんだ。お前もそうしろ、いいな」

 

「約束は聞いてからにします」

 

「ふん。まあ、いい。おい、ドロン飛ばすの忘れんなよ」

 

◇ ◇ ◇

 

 三機のドローンのうち一号機はニシン岩とPCの中間地点に配置して、残り二機の操作や撮影データを中継するように設定した。機体にもメモリカードを付けているが、日が落ちてから強くなってきた風に煽られて墜落したり、バッテリーを使い果たして帰還不能になることも視野に入れた結果だ。

 

 宿で大まかに作った飛行ルートを調整し、三機並べたドローンが一号から順にふわりと離陸するのを見届けてからコウさんは話し出した。

 

「あいつらがニシン岩に着くまで5分ってところか。年寄りの昔語りにゃ足りねえが……俺ぁな、見たんだよ。この村とよく似た連中を、カンボジアでな」

 

 彼が東南アジアに位置するカンボジアに行ったのは四十数年前、ある独裁者が国を乗っ取り、数十から百万もの自国民を虐殺し、その果てに隣国のベトナムと戦争を始めた頃だった。

 

 ——俺ぁ東北の生まれでよ、冬が厳しいのは慣れっこだが夏が苦手でな。バケツをひっくり返したみてえな雨が何度も降って、蒸し暑くてなぁ…何でこんなところで戦争するんだよって思ったよ。

 

 若かったんだろうな。キャパに憧れてよ、沢田サンに痺れてよ、俺もひと旗揚げるんだッてな。会った事はねえけど、一ノ瀬君にゃ負けねえぞってな。英語もロクに喋れねえガキのくせに、特派員の募集にゃイの一番に手ぇ挙げたよ。飛行機の切符だけもらえれば、あとは捨ててくれて構わねえッて部長に啖呵切ってな。

 

 ——そんでな、戦争ってのを見たんだ。

 親父や周りの大人から、太平洋戦争の話は飽きるほど聞いた。あんなものに近付くのは正気じゃねえとも言われた。だけど、見たかったんだ。自分の目ン玉で、人間がどんだけひでぇ事ができんのか、そいつを見ねえと俺ァ……ヒトってのは上等な生きもんだと思ってたからよ。

 

 まあ、そう大して上等じゃなかったんだけどな。

 俺が見たのは、膝から腰から砕けちまうようなもんだった。大砲か何かでぶっ壊された寺にゃ、黒コゲんなった坊主の死体がごろごろしててよ。連中、坊主どもを縄で縛って、生きたままガソリンぶっかけて燃やしてやがった。

 

 俺ぁ……撮ったよ。ナンマイダぁナンマイダぁって念仏唱えながら撮った。だけど、それが一番ひでぇものじゃなかった。

 

 ——お前、さっき念仏聞いてビビってたろ。

 あれな、俺も詰め所から帰る途中で聞いたんだよ。『いあ、いあ』ってよ。あれと同じやつをな、俺ァ……四十年前にも聞いたんだ。得体の知れねえムカデやゲジゲシみてえなのがワサワサしてる夜の森ん中でな。

 

◇ ◇ ◇

 

 コウさんの話は、少しずつ核心に近付いていく。それと合わせるように、海の上を飛ぶ二機のドローンもニシン岩に近付いていく。搭載カメラを起動し、数秒のタイムラグを置いてPCに映像と音声が届く。

 

 モニタに映ったのはオレンジではなく、緑がかった篝火に照らされた男たちが綱引き競技のように太く長いロープを海から引き上げながら、あの言葉を唱えている光景だった。

 

《いあ、はいどら。いあ、いあ、はいどら。おきよりこしかみ、にえとりめされや》

 

「なあ、信じられるか? 森ん中で兵隊の連中と俺ぁな、見たんだよ。でかくて、ねじくれて苔なんかも生えた黒い木がよ、のしのし歩いてたんだ。あれは象みてえに太くて、岩みてえなヒヅメの足だった……!」

 

 いま、この時以外でそんな話を聞いたなら、顔には出さずとも一笑に付す話だ。誰だってカウンセラー気取りで『強いストレスを受けて、一時的に精神が変調したのでしょう』なんて慰めにもならない言葉をかけるに違いない。

 

 しかし、いまの俺には——PCのモニタに目を釘付けにされている俺には、その話が本当の事だと信じられる。疑うことなど論外だ。

 

 なぜなら、白い法被の男たちが引くロープの先、海中から、ひどく損傷した水死体のような、蛙と魚と人をかけ合わせたような、なにかが顔をのぞかせた。

 

 火口に溢れ赤熱する溶岩を見て、それに触れることが死につながると容易に分かるように、『それ』はカメラ越しでも異常さと悪意、そして人外の狂気を感じさせる。

 

《おきよりこしかみ、にえとりめされや》

 

 沖より越し神、贄取り召されや

 

 ああ、ああ。

 意味を掴めなかった念仏の音。あれの意味が、いま、分かった。



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第七話 これから③

「同じだ……あん時と同じだ。あいつらも取り引きしてた……化け物どもが金のインゴットだとか、でかい宝石だとかを持ってきて……」

 

「取り引きってことは……その対価には、まさか」

 

 贄取り召されや、と連中は言っていた。

 つまり、いけにえを取って対価とするのか。

 

 モニタの中には二機のドローンから送られてくる映像が流れている。深緒の目は何も映していない。そして、俺はほんの少しだけしか、あの娘に関わっていない。

 

 報道とは、その場所に立ち会うことに価値と意味がある。カメラマンはファインダーを覗くとき、そこに映るものに対して無責任な傍観者となる。飢餓に苦しむスーダンで『ハゲワシと少女』を撮ったケビン・カーターのように。溺れている者がいたとしても、撮ってから助ける人種が俺たちだ。

 

 だが、だがしかし、いま何かができるのは俺たちだ。

 何かできるのは、俺たちなんだ。

 

「おい、滅多なこと考えるんじゃねえぞ。あそこにゃ鉄砲持った奴だっているんだ」

 

「だからって何もせずにいられますか!?」

 

 冷淡に過ぎるもの言いに、怒りで目の前が真っ赤になった。両手でコウさんの襟を掴み、そのまま締め上げて怒鳴りつける。そんな俺を彼は真正面から睨みつけ、強烈な頭突きを入れた。

 

「このバカ息子が、頭ァ冷やせって言ってんだ。今、俺たちゃ土壇場にいるんだ。ここが分かれ目なんだよ。わかるか? ミイラ取りがミイラになっちゃあ、元も子もねえんだよ。できる事と、できねえ事を取り違えたら、お前……死ぬぞ」

 

「こんな時に嘘っぱちの親父面すんじゃねえよ!」

 

「いいから聞けよ。三つだ。三つ聞くから、答えろ。いいな?」

 

 ひとつ、海上保安庁への通報ダイヤル番号。

 ふたつ、ドローンにスピーカー出力機能があるかどうか。

 みっつ、全てのデータをクラウドストレージに保存するまでの所要時間。

 

 最初の答えは118番だ。次は、スピーカー出力で音声を流せる設計になっている。そして、最後の答えは『すでに行っている』だった。

 

 それを聞いたコウさんは、堅気に見えないほどの悪人顔でにやりと笑う。

 

「いいじゃねえか。お前にしちゃあ上出来だ。じゃあよ、俺の言う通りにするって約束しろ。できなきゃ俺ァこのまま逃げる。危うきに近寄らず、だ」

 

 どうする、と問いかける目に俺は、ゆっくりと頷いた。

 

◇ ◇ ◇

 

 ——よく聞けよ。俺たちゃ腕っぷしも弱けりゃ三脚くらいしか得物もねえ、無力で哀れな若造とジジイだ。だがな、ここがどれだけイカれた場所だとしても、推理小説みてえな孤島でもなけりゃ、吹雪の山荘でもねえんだよ。いくらでも手はある。

 

 まず、お前はドロンのスピーカーを使えるようにしろ。それが済んだら、宿に戻ってクルマ取ってこい。その間に俺はひと芝居打つ。なに、ちょろいもんだ。

 

 言われるまま、俺はノートPCを操作して設定を変更した。タブレットだけ掴んだ俺は追い払われるように防波堤を後にして、宿に停めたままのクルマまで走った。リモコンでドアキーを開け、ポケットに入ったエンジンキーを回すまでに、十分か、十五分ほどかかった。

 

 きっと、それがコウさんの言った『分かれ目』だったのだろう。

 

 クルマを確保したと伝え、迎えに行くと電話をかけた俺の耳には——彼とは別人の、低く籠るような声がした。

 

《やってくれたな。親父は始末した、次はお前だ》

 

「誰だ!? 何をした!?」

 

《車に乗っているな? 逃げる気か。できるかな?》

 

「何をしたんだ!?」

 

《始末したと言っただろう。死体も上がらないし、警察だろうと海保だろうと、何もできんよ。面倒はあるが、次の祭りまで待てば済む話だ。カメラもパソコンも処分する。お前のしたことは、ぜんぶ無駄だ。逃げても必ず見つけて殺す。必ずだ》

 

「この野郎……!」

 

 通話が切れたスマホを握ったまま、予想だにしなかった凶報を——彼を殺した本人から告げられる現実を理解できずにいた。そんな俺を現実に引き戻したのは、まるでゾンビ映画のように無表情に、運転席のドアを開けようとする宿の老婆だった。

 

「この、罰当たり者がァ……ゐどら様ァお怒りじゃあ……!」

 

 老婆のうしろには、それぞれの家から出て、包丁や果物ナイフ、野球バットやゴルフクラブを持つ豊網の住人が国道を埋めている。それは、あまりにも非現実的で、ひどく悪い夢のようで、心のどこかがひび割れるに余りある光景だった。

 

◇ ◇ ◇

 

 どこをどう走ったのか、まるで思い出せない。無我夢中でハンドルを握って、とにかく少しでも村から遠くへとクルマを走らせたのだろう。自分の足で走り続けたように心臓は早鐘を打ち、体は汗と小便でぐしょぐしょだった。

 

 土地勘がない場所で、でたらめに走ったせいで現在位置がまったく分からない。来る時は、彼と一緒で——雑だが間違いのない道案内があった。

 

 いま彼の名を呼ぶと、呼んでしまって返事が戻って来ないことを確認してしまうと、心が折れてしまう。何もかも狂った場所で、唯一信じられる人が消えてしまった。これから俺はどうしたらいいのか? 連中が俺を探し、殺されるのを怯えて逃げ回るしかないのだろうか。

 

 現代の日本で、誰にも見つからずに何日過ごせるのだろう。あいつらの手は、どこまで長く伸びてくるのだろう。悪い考えばかりが渦のように俺を取り巻いた。

 

 そんなとき、スマホが一通のメールを受信した。クラウドストレージからの自動送信メールだ。こんな時に、と思いながらも、何か別の思考に逃避したいと言う欲求からメールを開くと——ストレージ容量が限界に到達しそうだ、という内容の定型文だった。

 

 業務用として契約して、高画質の画像や動画のファイルを山ほど保存できるはずだ。それなのに、何故? ああ、そうか。取材データとドローンで撮影した生のデータを未編集で放り込めば、いくら何でもそうなるだろう。

 

 ちょっと待て。

 それはつまり、俺がコウさんと分かれてからのデータもあるってことだ。ドローンもノートPCも壊されてしまったけれど、クラウドにデータはある。そして、スマホもタブレットもある。

 

 見なければならない。恐ろしくて堪らないけれど、俺には見届ける義務があるはずだ。



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最終話 いまから

 ——騙すようなことになっちまって、すまんな。

 だけどよ、二人そろってぶっ殺されちゃあ堪んねえや。だから、勘弁しろよ。まあ、なんだ。海千山千の俺にも読み違いってのはあるんだな。消防団の連中がよ、飲んだくれてりゃいいのに仕事してやがったんだな。

 

 まあ……あれだ。お前がかけた保険なんだから、遅かれ早かれ見るんだろうよ。だから、最後になるだろうから、言っとくよ。

 

 俺にゃ連れ合いもガキもいねえけどよ、お前と親子ごっこして……親父になるのも悪かねえなと思っちまったよ。お前みてえなバカが息子だったら、ゲンコツがいくつあっても足りねえだろうけどな。楽しかったよ。

 

 俺の取材メモな、お前にくれてやる。デスクの一番下の引き出しん中に入ってる手提げ金庫だ。合わせ番号は『ひとよひとよにひとみごろ』だ。じゃあ、達者で暮らせ、バカ息子。

 

◇ ◇ ◇

 

 コウさんは海上保安庁へ漁協職員の名を騙って「豊網地区の沖、3キロにあるニシン岩で夜間操業中の数隻の漁船が衝突・炎上している」という通報を行っていた。続けて、連中に向けてドローンのスピーカーから「こちらは海上保安庁の巡視船です、当該地区で船舶火災が発生しているとの通報を受けました」と姿の見えない巡視船を演出してのけた。

 

 儀式は一時的に混乱に陥ったが、そう長くは騙せずにドローンは発見され、撃ち落された。彼の最後の言葉は、真っ暗な画面の中で告げられていた。

 

「何が親父だよ……かっこつけやがって、コウさん……ッ!」

 

 奥歯を食いしばっても、嗚咽と涙を止められなかった。

 だが、泣くほどに恐怖は燃えて——涙が涸れるころには灰になった。

 

 そうだ。もう恐怖は燃えて、燃え尽きて灰になった。

 俺の中で新たに燃えようとしているものは、怒りなんて良いものじゃなく怨みだ。

 

 いま、札幌のホテルで俺はこの原稿を書いている。

 

 俺たちが見聞きしたもの、感じたことをできる限り詳しく書いたつもりだ。しかし、言葉だけではあの体験を言い表せない。豊網村での出来事を社会に公表するべきかどうかも、今は判断ができない。

 

 この原稿を書き終える俺が思う事は、復讐だ。親父の敵討ちだ。

 その結果によっては、データは永遠に誰の目にも触れなくなってしまうだろう。

 今から一週間後、3つのアドレスにBCCでストレージの場所とパスワードを添付した送信予約メールを作成した。

 これは遺書だ。メールが送信された場合、きっと俺はこの世にいない。

 

 四日かけて、どうにか準備は整った。

 警察に見られたら言い訳しようのない、物騒極まる品物だが上手くやれた。

 このまま、あの夜のように逃げ回るのは真っ平だ。

 だから、俺は朝を迎えに行く。

 

 今はまだ遠く、いつ終わるとも知れない深い夜を焼き尽くして。

 夜明けに辿り着くために。

 

 

 

 あなたがこの原稿を読んだという事は、俺は失敗したという事だ。

 どうか、俺たちの話を信じてほしい。

 

 豊網の夜は、まだ終わっていないのだから。

 

 

 

 遠き暁

 END




本作、これにて完結となります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

2万文字以内、という制限の中で話を畳むのに意識を取られて
細部の描写や伏線の回収に漏れがありますなぁ。

ともあれ、冒頭でもお伝えしました
・インスマウスを覆う影のオマージュ
・TRPG的な要素

に加えて、

・ラヴクラフトっぽく手がかりを残して破滅する主人公

これも達成できたので個人的には満足かな、と。

ご感想などいただければ嬉しいです。
また、次作でお会いできるまでご機嫌よう。


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