そんな結末認めない。 (にいるあらと)
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prologue01

まだ投稿の仕方すらろくに理解もしていませんが書きたいという気持ちが抑えられないので書くことと相成りました。
まだまだこういうことには慣れていないと断言できますが気が済むまで書いていきます。
この辺りが読みにくい、ここの表現がわかりにくいなど多々あるとは思いますがご容赦願います。

2014/03/29 修正

2014/07/3追記
戦闘ばかりではなく、高校生としてのほのぼのとした日常も描きたいという自己都合から、恭也や忍は高校一年生というふうに原作設定を改変しました。それにともない各所で原作設定を変えております。
ご注意ください。

2014/09/29追記
聖祥大付属の学校はとらは、なのは共通して小学校のみが共学でそれ以降は女子校らしいのですが、僕の情報不足が原因でそのことを知らず、中学高校と共学になっております。不快に感じられる方もいるかと思いますが、ご了承願います。


放課後、私立聖祥大学付属高等学校の一年生にあてられた幾つかの教室の一つで、俺は小学校からの親友で同級生の高町恭也に声を掛けられた。

 

「徹、今日暇か?」

 

「いいや超忙しい。これから分刻みのスケジュールに追われる所だ」

 

嫌な予感がする。

本当はこれから家に直帰して積み上げられたゲームを消化するだけだが。

 

「そうか、よかった。店が忙しいらしいんだ。バイト入ってくれ」

 

おかしいな、同じ日本語のはずなのに話が噛み合っていない。

 

恭也の家は、翠屋という軽食喫茶店を経営している。

恭也自身も手伝っており、俺もそこでバイトさせてもらっている、いるのだが。

 

「ほんと勘弁してくれよ。すごい久しぶりのオフだぞ。何日ぶりだと思ってんだよ。前の休みから20日以上開いてるんだぜ?」

 

「正確には23日だな」

 

分かってんなら休ませろや。

 

「俺個人としては休ませてやりたい所だが、残念なことに、徹を目当てで来てる常連さんの予約が入ったと連絡がきた」

 

さっき携帯いじってたのはそれか。

くそう、脇目も振らず早く帰ればよかった。

帰ってればこんな話も聞かずに済んだのに。

 

「はぁ、わかったよ。大きな借りもあるわけだからな」

 

このままでは気が済まないので、小さく皮肉を添えておく。

恭也は整った顔に苦笑いを浮かべた。

 

「借りがどうっていうのは、無しでいいと言ってるだろう」

 

もう何回も繰り返されたやり取りで、恭也も慣れたもので軽く返す。

 

「さて、それじゃ今日も勤労に励みますかぁ」

 

と、モチベーションを無理矢理上げながらぐっと背伸びをする。

 

なんてことはない、ただの切り替えみたいなものだ。

 

「あら、本当にあっさり話が終わったのね」

 

恭也との話が終わるのを見計らうように、月村忍が近寄ってきた。

 

忍も小学校からの親友である。

ある意味、こいつのおかげで恭也と親しくなれたといえる。

当時はそれを感謝できる状況でもなかったが。

 

閑話休題。

 

言葉から察するに、実際見計らっていたのだろう。

恭也が忍の方へ体を向ける。

 

「だから言っただろう。こういう言い方をすれば徹なら休みでも入ってくれるって」

 

なんだよ、2人してなにか賭けでもしてたみたいな言い方。

言葉に悪意は感じないが悪戯されたみたいな気持ちである。

 

「忍は俺が恭也の頼み事を断ると思っていたのか?それは大間違いだぜ。友達思いである俺は頼まれたら断れない、一部地域では仏の生まれ変わりとまで言われているほどだ」

 

「よくもまあ流れるように嘘をつけるもんだ。呆れを通り越して感心する」

 

頭から嘘だと断言されている。

これが俺たちの友情の形。

 

「あんた最初断ろうとしてたわよね?くだらない理由つけて」

 

「わかりましたーごめんなさいー」

 

面倒な手間が増えそうなこういう時は、さっさと謝っておくに限る。

 

「全く誠意を感じないけどまあいい。時間もそんなに余裕があるわけじゃないんだ」

 

時計を一瞥する。

 

雑談したせいで時間を食ってしまった。

もう16時10分前になっちまって…

 

「メールには16時までに来て欲しいとある」

 

それ言うの遅ぇよ!

勢いよく鞄を取り2人を急かす。

 

「早く行くぞ!どうせ今日は忍も手伝いに来るんだろ?」

 

2人の返事も待たずに教室を出る。

ぱたぱたと後ろから2人分の足音と会話が聞こえる。

 

「私はもっとてこずると思ったけどすんなりお願い聞いてくれたわね」

 

「それはそうだろう。あいつは客の笑顔を見るのが好きだからな」

 

恭也の言葉に忍は、信じられないことを聞いたみたいな、驚きの声をあげた。

 

……そういう話は俺の耳に入らないとこでやってくれないかな。

すごく恥ずかしい……

 

少し赤くなった顔を見られないよう、俺は翠屋まで全力疾走した。

 

 

翠屋。

 

美味しいスイーツと、美人で可愛い看板娘が複数人いることで有名な軽食喫茶店である。

 

更に最近では以前よりも料理のクオリティが上がったとの噂が流れている。

一時期ちょっとした問題があったが今は順風満帆だ。

 

従業員用、というかお店で出す料理やケーキなどの材料を運搬する為の出入り口が裏手にあるのでそこから店に入れる。

 

恭也と忍は俺の後ろで息を整えている。

 

「日頃、鍛えている、俺よりっ、早いとは」

 

「わ、わた、私よりっ、体力がっ、あるなんてっ」

 

2人してなにやら、ぼそぼそと呟いている。

 

俺だって昔ほどではないが、今だって鍛えてはいるのだ。

 

「おはようござッ!」

 

元気良く挨拶しながら扉を開けようと思ったら、途中で茶色いロケット砲が腹部に直撃した。

 

いつの間に翠屋にはこんな物騒な防犯設備が設置されたのだろうか。

 

「徹お兄ちゃんこんにちはっ!」

 

ロケット砲かと思ったら高町さん家の末妹だった。

 

どちらにしたって物騒なのは変わりなかった。

 

恭也は呑気にあれを耐えれるのは徹と父さんだけだなぁ、なんてのたまっている。

全然耐えれていません、顔に出さないようにするのが精一杯です。

 

今現在も俺の腹部に顔を当てて、内臓に深刻なダメージを与えてくれているロケット砲もとい、高町なのはの頭に手を置く。

 

「おぉ、おはようなのは。今日も(無駄に)元気だな。扉を開けたのが俺じゃなくて、恭也だったらどうするつもりだったんだ?」

 

声が震えなかった自分を褒めてあげたい。

 

「恭也お兄ちゃんだったら貫通して、結局徹お兄ちゃんに突撃してたよ!」

 

自分の兄の腹に、風穴開ける気だったのか。

この子ならあまり、冗談に聞こえないから恐ろしい。

ていうか、

 

「突撃しているという自覚はあんのかよ」

 

問いただすとなのはは、にゃはは、と笑って店の中に戻って行った。

あれでも一応、この店の看板娘(可愛い担当)だから、ホールに戻ったのだろう。

 

「なのはちゃんってあそこまで、元気有り余ってる子だったっけ……?」

 

「徹と仲良くなってからだな、あそこまで明朗快活になったのは。あと兄に対しての扱いが、雑になったのも…」

 

嵐が去った後の静けさの中、忍が聞いて恭也が悲しげに答える。

 

「俺のせいみたいに言わないでくれ、元気があるのはいい事じゃないか。限度を超えている気が、まぁしないでもないが」

 

文句をつけてくる恭也をあしらいながら、仕事の準備をする。

 

2人とはここで分かれる。

忍はホールでウェイトレス、こいつ性格はともかく顔とスタイルはいいので、男性客からの支持と人気が厚い。

 

いつも手伝いに来ている訳ではないが。

 

恭也はキッチンとホールの橋渡しやら、ケーキの品出しや、レジ打ちやら色々、こいつ性格はともかく顔はいいので、これがまた女性客からの以下略。

 

俺の担当はキッチンだ。

 

服を着替えて清潔にして厨房に入ると、この厨房の長であり、恭也やなのは、あともう一人中学生の娘の三人の子を持つ 、高町桃子さんがいた。

 

「おはようございます、桃子さん」

 

どれだけ気心が知れていて、仲の良い相手でも、挨拶はきっちりするというのが家訓である。

 

挨拶の時だけ、敬語を使うことにしているのだ。

 

「徹くんおはよう、今日はごめんなさいね、折角の休みなのに」

 

「いいって、文句は恭也に言ったし、本当はそんなに休みたかったわけじゃないし。なにより」

 

今日は家に帰っても独りだし。

 

「桃子さんの、料理の技術(テク)を盗むのが、今一番楽しいし!」

 

これは本心からである。

 

最初の頃は、姉が仕事で帰宅するのが遅かったので、姉の負担を減らそう、という義務感からだったが今では楽しいからやっている、という状態になっている。

 

実際ここのバイトをし始めてから、料理の腕は上がったしレパートリーも増えたし、いい事尽くしだ。

 

「ふふ、それなら今日も私の料理で良ければ、見て盗んで頂戴ね」

 

言われずともそうさせてもらう。

料理の技術とは教えられるものではなく、見て盗むものだと俺は考えている。

 

「あと予約が入ってる常連さんが来たら、顔出してあげてね。徹くんを見にきているようなものだから」

 

自分を贔屓にしてくれているお客さんがいる。

それは作る側の人間として、とても光栄な事である。

 

桃子さんに了解の旨を伝えると、すぐさま仕事に取り掛かる。

 

16時を少し回った位のこの時間は、学校帰りの学生がよく立ち寄るため忙しくなる。

 

「さぁ、今日も頑張るか!」

 

一言自分に気合を入れて、頭を仕事モードに切り替えた。

 




続きは書け次第投稿する予定です。
そんなに間を置くことはないと思います。
こんな駄文に付き合ってくれる方がいるかどうかはわかりませんが今後ともどうぞよろしくお願いします。


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prologue02

2014/03/29 修正


「はぁ、乗り切った…」

 

一番店が混む時間帯を乗り越え、落ち着いてきたので一息ついた。

 

桃子さんの料理の腕を盗んだり、常連さんと少しだけどお喋りしたりして、忙しかったけど充実感のある疲労を感じていた時、桃子さんがやってきた。

 

「お疲れさま徹くん。今日はありがとう、もうあがってもいいわよ」

 

「え、いいの?別に最後まででも構わないけど」

 

「もともと本当は休みだったんだから、少し早めにあがるくらいはさせてあげたいなーってね」

 

なんか怪しい。

付き合いが長い俺には分かる、どこか違和感がある。

 

「本音は?」

 

「なのはがダウンしちゃったから、送ってもらおうと思ってね」

 

あぁ、なるほど。

今日はえらく頑張ってたからな、厨房にも声が届いて(轟いて、とも言える)いたし、張り切っていたのだろう。

 

「最初からそう言ってくれよ、快く了承したってのに」

 

「あら、今日は悪い事したなぁって思っていたのも、本当なのよ?」

 

疑わしいけどここまで言うのなら本当なんだろう。

気にしなくていいってのに。

 

「構わないっての。どうせ今日の混雑は、忍の所為だろ?」

 

「忍ちゃんの『おかげ』ね。彼女今日、お手伝いに行っていいですかってわざわざ聞くものだから、是非きて頂戴って返事したのはいいんだけど…」

 

「俺が休みだったのを忘れていた、と。そんな所だとは思ったよ、いつも程度の客の数なら、俺がいなくても桃子さんの本気の50%…いや30%位で十分に回せるだろうしな」

 

忍は習い事や、家の予定などが無い時は、(恭也と一緒にいる為)翠屋にお手伝いに来ている。

 

テキパキとよく動くし、気が利くし、声もハッキリして聞き取りやすいし、実際助かる所も多いのだが、そもそも忍が手伝いに来ていなかったら、そこまで忙しくなる事はなかったという事も多々ある。

 

外面は本当に美人で、働いている時は常ににこにこと笑顔を振りまき、愛想よく、物腰は丁寧でおだやか。

 

こんな女の子が、ひらひらのウェイトレスの制服を着て(ぱっと見)かいがいしく接客しているのだから、リピーターがつくのも当然と言うべきか。

 

俺だって、強化外装に包まれた悪魔染みた中身を知らなかったら、もしかすると惚れてるかも知れん。

 

「あら、その言い方だと私がいつもは、手を抜いてるみたいじゃないの」

 

「手を抜いてるわけじゃないけど全力じゃないだろ?」

 

「料理は常に100%よ」

 

ふふん、と自信に満ちた表情で豊満な胸を張る。

 

「料理は、って言っちゃってるよ…。接客はどうしたの、接客は」

 

矛盾点を指摘すると、胸を張った姿勢のまま、顔を赤らめた。

 

「もうっ!ほら後は大丈夫だから、なのはを家に送りなさい!はいっお疲れ様!」

 

赤くなった顔を見せないようにする為か、ただ単に早く行かせる為か、背中を押して俺を厨房から追い出した。

 

本当に、三人の子供がいるとは思えない、男なら全員落ちてしまうような可愛さである。

 

スイーツなどの美味しさもそうだが、やっぱり翠屋の人気の一番の理由は、桃子さんがいるからだろうな。

 

「お疲れ様でしたー」

 

厨房の扉越しに挨拶をして、更衣室へ向かった。

 

 

 

 

バイトの制服を着替え終わり、帰る準備も完了したのでなのはを探すが……見当たらない。

 

どこにいるのかと探し回ると、奇怪な現場に遭遇した。

ホールの端の方を客も店員()も微笑ましそうに眺める、という光景。

原因判明、なのはが寝ちゃっているようだ。

 

「ってか忍、お前は眺めてちゃ駄目だろ!」

 

「うるさいわね、起きたらどうすんのよ!」

 

なぜか俺が怒られ返されるという理不尽。

これだけ大声を出しても、騒ぎの中心人物は目覚めない。

 

仕方がないので、可哀想だが起こすことにする。

 

周りの人間は、殺意を添付した視線を送ってくるが、耐える。

ここで寝かせておいて、風邪を引きでもしたらその方が俺は耐えられない。

 

「なのは起きてくれ、一緒に帰るぞー」

 

うぅん、と短くうなる。

 

長いまつげに縁取られた綺麗な瞳がうっすら見えたと思ったら、また閉じられてしまった。

睡魔には勝てなかったか、と思っていたら半分寝ているのか、目を閉じたまま両手を伸ばしてきた。

 

「抱っこ」

 

甘えるような声だった。

後ろの客の半分と店員()が、かふっ、と息を吐いていい笑顔で倒れた。

 

なるほどこれが悶死か。

危うく俺も落ちるところだった、修羅(ロリコン)の道に。

 

本人の注文通り、なのはを抱っこした。

これ以上面倒事が起きる前に退散するとしよう。

 

倒れている忍と、末妹のあまりの愛らしさに身悶えている恭也に、お疲れと一言告げて店を出た。

 

春とはいえ夜は少し肌寒かったのか、なのはが、きゅっ、と胸元のシャツを掴んで、身体を俺にくっつけてきた。

 

その天使のような仕草に足を折らず、倒れず、腕の中の天使を傷つけずに、踏ん張った俺は今日一番のMVPだという自信がある。

 

 

 

 

 




話がなかなか進みません。
一応今の予定では次で魔法に関わるはずです。
あくまで予定ですが。

この小説では高町さん家の末妹は少し甘えん坊スキルが高いです。


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魔法少女リリカルなのは 無印編 第一章
01


やっと本編に来れました。
先に話をどういう風に持って行くか考えていなかったらこんなことになるといういい例ですね。



2014/03/29 修正



俺の家のリビングで、なのはがすがりつくように服をつかんで泣いていた。

 

「うぅっ、ひぅっ……ごめ、ごめんっなさいっ」

 

結果的に自分の部屋に連れ込んでいる状況だがやましいことはなにもない。

 

別に劣情のパトスがオーバーリミットしたわけでもない。

俺は決して小学生に欲情するような人間では……ない。

 

それよりも、ずっと謝りながら泣いてるなのはに心が痛んで仕方が無い。

 

今すぐにでも吐血できる自信がある。

 

「ごめんね、僕に力が無いせいで……。僕のせいで巻き込んでしまった……」

 

『申し訳ありません』

 

フェレットはフェレットで、なのはの肩の上で俺となのはに謝り続けているし、そういや何故か喋ってるし。

 

ってか赤い宝石も喋ってるし!

 

「だから何度も言ってんだろ、俺が一人でドジっただけだ。お前らはあの状態で、最適な行動を取った。よくやったと思う、これ以上はないくらいだ」

 

未だに泣き続けるなのはを、抱きかかえるようにして頭を撫でる。

 

ついでに、ひどく思いわずらっている様子のフェレットも引っ張り込む。

 

抱き寄せれなかった赤い宝石がぴかぴかと抗議してくるように瞬いているが、今は見えないふりをしておこう。

 

なのはは中々泣き止まないし、喋るフェレットもいろいろ抱えているものがあるのか、声を押し殺すようにして涙を流している。

 

仕方がない、二人が落ち着くまで少しこのままでいいか。

 

『どうしましょう、仲間外れにされている気がします』

 

空気台無しになるから、この宝石黙らせられないかな。

 

なんでこんな事になったのだろうか、少し思い返してみる。

 

幸か不幸か、時間はたくさんあるのだ。

 

 

 

 

 

「んにゃ……? にゃあ! と、徹お兄ちゃん! なんでっ、わっ、なななんなのこの状況!」

 

翠屋を出て少し歩くと、なのはが起きてしまった。

 

「あっ、歩くから! 降ろして!」

 

本人がそう言うので、仕方なくなのはを降ろすことにする。

 

あぁ、温もりが、柔らかな感触が逃げて行く……

 

「なのはが抱っこしてって言ったのにな、この甘えん坊さんめ」

 

「にゃあ! 言ってないもん! 知らないもん!」

 

まぁこいつ半分以上寝てただろうしな。

 

「わかったわかった、そうだな、寝てるなのはを俺が勝手に抱えて帰ってたんだった。忘れてたわ、ごめんな」

 

絶対わかってないーっと暴れるなのはの頭をぽんぽんと撫でる。

 

多少むくれているがおとなしくなった。

 

昔からなのははこうすると静かになるのだ、なのはに対する便利な技の一つである。

 

頬をふくらませながらそっぽを向いているなのはが、すすっ、と手を伸ばしてきた。

 

「手、繋いで」

 

こんな態度を取りながらも自分の要望を素直に口にできるなんて、ある意味尊敬します。

 

「はいはい、仰せのままに、お嬢様」

 

子供扱いに怒ったのか、少し顔を赤くしているが手を離そうとはしてこない。

 

本当にかーわいーなぁー。

 

「もう!それより今日ね、変わったことがあったの!」

 

この話では分が悪いと判断したのか、あからさまに無理のある話の変え方である。

 

それからはなのはは、まくしたてるように色々喋り始めた。

 

昨日見た不思議な夢や、学校であったこと、二人の親友の話や、学校から帰る時に怪我したフェレットを動物病院に届けたこと。

 

最初は戸惑いながら、次は楽しそうに、最後は心配そうに、表情をころころ変えながら俺に話してくれる。

 

こいつはほんと、見てるだけで面白可愛いなぁ。

 

ん、動物病院?

 

「その動物病院って愛さんのトコ?」

 

この辺りで動物病院というとそこくらいだったような。

 

俺の言葉になのはが首を傾げる。

 

「愛さん?どなた?」

 

「ほらこの近くの病院だ。槙原院長って言った方が分かりやすいか?」

 

説明すると、言葉の代わりに怪訝な表情で返事をしてきた。

 

「『愛さん』ね、随分親しいんだね」

 

あれすごく視線が冷たい、たしか君、今年で小学三年生だよね?

 

その年齢の女の子が出せる気迫じゃないぜ。

 

「前にあそこでちょっとの間、バイトしてた事あったからな、その時に仲良くなったんだよ」

 

なんで俺は、言い訳みたいなこと言ってるんだろう。

 

「そうなんだぁ、意外と徹お兄ちゃんって交友関係広いよね!」

 

意外とってなんだ、とは言えない。

 

他人に対する、自分の愛想の無さはよく理解しているつもりだ。

 

そんな他愛もないお喋りの最中だった、

 

『…れか……助……さい』

 

ノイズにまみれた音声のようなものが、頭に響いたのは。

 

「徹お兄ちゃん今の聞こえた?!助けてって!」

 

どうやらなのはにも聞こえたようだった。

 

だが俺は、何か言ってるのはわかるけどノイズの方が強く、何を言ってるかはわからなかった。

 

「動物病院の方だよ!早く行かないと!」

 

俺の手から離れて、なのはは走り出した。

 

『助けて』という要請から考えると物騒なことになるのは目に見えているというのに、なのはには一切迷いがない。

 

こうなってしまっては、今更止めようがない事を俺はうんざりするほど知っている。

 

高町家は全員、揃いも揃って善良な精神を持つと同時に頑固な面も併せ持つのだ。

 

仕方が無い、と諦める。

 

危なくなれば、俺が守ればいいだけだ。

 

 

 

動物病院の方に近づくに連れ、頭に届く音声も明瞭になってきた。

 

なのはは、距離があっても声が聞こえた上に、音声が送られてくるおおよその方向までわかるようだ。

 

その証拠に、進める歩みに淀みが無い。

 

この聞こえ方の違いはなんだろうとも思うが、今考えるべきことではないと切り捨てる。

 

今、頭を使うべき事柄は、≪なのはを守ること≫これだけだ。

 

呼吸を荒くしながらも、走り続けていたなのはの足が止まったので俺も止まる。

 

現場である動物病院とその付近は、もはや俺の記憶にある光景とは全く異なっていた。

 

瓦礫が散乱し、敷地の入り口にあったはずの金属製の門はへしゃげて転がっている。

 

なによりも記憶と違うのは、今現在も破壊を続けている黒の塊。

 

その黒の塊は、人間が腕を振るうように一心不乱に側部から生えている触手を何かに振るっている。

 

なんだよあの黒いの、生き物?

 

「助けなきゃ! あの子が死んじゃう!」

 

軽く思考停止に陥っていた俺を呼び起こしたのは、なのはの声だった。

 

全くもう、本当に全くもう、この子は今の異常事態を理解しているのだろうか。

 

自分の安全を二の次に、救助を優先したなのはと自分を比べると、少し情けない感情が心に溢れてくるがそれを反省するのは後回し。

 

今は自分のやるべき事を考えろ。

 

数少ない俺の誇れる長所である、頭の回転の速さを存分に駆使しながらこの非日常的な状況で何をすべきか、多角的に考えていく。

 

あの黒いのが執拗に追ってるのは、さっきちらっと話に出たなのは(とその親友たち)が、学校の帰りに助けたという動物なのだろう。

 

どうせなのはのことだ、あの小動物を助けるまでこの場から退こうなどとは微塵も考えないだろう。

 

よし、まずはなのはがあのちっこいのを助けるまで時間を稼ぐ。

 

なら俺は、なのはの方へ黒い塊が向かわないようにすればいいだけだ。

 

黒いのの注意を俺へ向けておくだけでいい、それだけの……簡単な話だ。

 

「俺があの黒いのの注意を引きつけるから、なのは。お前はぴょんこぴょんこ跳ねながら逃げているあの小動物連れて下がってろ」

 

ここで逃げろとは言わないのがミソだ。

 

どうせ俺を見捨てて逃げられない、とか言い出すのはわかり切っている。

 

なのはがこっちを見る。

 

大変見目麗しいお顔を驚愕に染めているが、俺を信頼してくれたのだろう。

 

「徹お兄ちゃんありがとう! 気を付けてね、怪我しちゃダメだよ!」

 

心配されてしまってはもう後には引き下がれない、もとよりなのはが関係している以上、引き下がる気などないが。

 

ちなみに、なのはなどの身近な人間が関係していなかったら、一も二もなく逃走のコマンドを選択している。

 

束の間の現実逃避をやめて、現場を改めて見る。

 

小動物は疲れてきたのか動きが鈍っている。

 

もうあまり猶予は残ってなさそうだ。

 

両手で太ももを叩いて覚悟を決めて、一気に走り出す。

 

近くにあった瓦礫を思い切り蹴り飛ばして、小動物を狙っていた触手に当てる。

 

ある程度の衝撃はあったのか、触手の照準がズレて小動物のすぐ横に突き刺さった。

 

そこでやっと黒い塊の注意が俺に向いた。

 

ぐるり、と振り向く黒い塊の正面側には、赤々と細く伸びる目が光っていた。

 

怖い、超怖い。

 

威圧感に押しつぶされそうだ、心が逃げてしまえと揺らめく、足が震える、呼吸が荒く浅くなる、ちゃんとまっすぐ立てているかもわからない。

 

俺が、今まで感じたことがない恐怖に飲み込まれそうな時だった。

 

視界に、俺の方向を向く黒い化け物の後ろで、小動物を抱きかかえるように助けたなのはが映った。

 

よく見ていなかったから気付かなかったが、赤い宝石のようなものを首にかけているフェレットっぽい小動物だった。

 

それを胸に抱きよせながら、なのはが心配そうにこちらを見ている。

 

その姿を見ただけで、心は重心を取り戻し、足に力が戻り、一回深く深呼吸をしただけで呼吸は常態に復し、身体に一本芯が通る。

 

心なし、胸の奥から力が湧いてくるような気までする。

 

守らなきゃいけないものがあるんだ、しっかりしろ、俺。

 

情けない自分を覆い隠しながら格好付けて、早く行けと、なのはに手で合図する。

 

大丈夫だ、俺はまだ……強がれる。

 

見栄でも空元気でもなんでもいい、なのはを安全な場所まで逃がせることができるなら、自分に嘘くらいいくらだってついてやる。

 

黒い化け物はこっちを見たままで、なのはの存在には気付いていない。

 

後はなのはが、この場から遠ざかる時間を稼ぐだけだ。

 

黒い化け物が動く、その巨体からは予想できない程の俊敏さで触手を振るってきた。

 

その触手をギリギリのところでしゃがんで躱し、懐に入り込みその胴体のど真ん中、人間でいえばちょうど鳩尾のあたりか、そこに力一杯蹴りをぶち込んだ。

 

化け物が仰け反る間に、カウンターを警戒して下がる。

 

数瞬前まで俺がいた空間に触手が突き刺さった。

 

微かに空いた間で、先ほどの応酬で分かった良い事と悪い事について考える。

 

良い事は、あの化け物も一応、普通の生き物のように身体を動かすということ、さっきの右の触手を振り払う時も重心を、僅かにだが動かすような挙動をとっていた。

 

これならばある程度なら、攻撃のタイミングが分かるし躱すことも不可能ではない。

 

悪い点は、あの化け物が見た目以上に硬かったこと。

 

俺の掛け値なしの、本気の蹴りを仰け反るだけで、すぐに攻撃を返してきたことだ。

 

いつもより力が込められているという自負もあったにもかかわらず、だ。

 

大型犬くらいなら、一撃で気を失うくらいの威力はあったと思うんだけどなぁ。

 

くそっ、なのはを見て一時的に心が落ち着きを取り戻したが、やはりまだ、怖い。

 

幼い頃に習っていた武道の心得を頼りに、なんとか立ち回っているが、そんなもの、一つ間違えれば命を落とす綱渡りだ。

 

基本は一応修めたが、家族に不幸があったため途中でやめ、それからは習い直す時間も余裕もなかったので中途半端なままだ。

 

親友の恭也が、剣道を(流派はなんだったか忘れたが)父親である士郎さんから習っていることを知り、負けじと俺も空いた時間にトレーニングくらいはしているが、本気の戦闘を考えていた訳ではない。

 

結局のところ俺は、並みの高校生より少し動ける程度の人間でしかないのだ。

 

だが弱音を吐いても仕方がない。

 

目の前のこいつに、ただの高校生なんで許してください! 、と言っても許してはくれないだろうから。

 

なのはの姿ももう見えないし、今すぐにでも逃げ出したいところだが、さっきの俊敏性を鑑みて逃げてもすぐに追いつかれるだろう。

 

なら答えは一つ。

 

「相手を弱めて、それから逃げる!」

 

こんな化け物相手に勝てるなんて端から微塵も思っていない。

 

でも弱めるくらいは、もしかしたらできるかもしれない。

 

それしか生き残る術が無いのなら、その選択を迷わず取る。

 

今はリスクなんて考えない!

 

次は、俺から行動(アクション)を起こす。

 

俺が一歩踏み出した瞬間、化け物の身体の両側から俺を串刺しにしようと触手が飛び出てきた。

 

その反応速度に舌を巻きつつ、両触手の間を右肩を前に出す形で、身体を縦にして躱す。

 

思い出せ、俺の出来のいい脳みそなら憶えているだろう。

 

道場で習ったこと、武道の基本は見ることだ。

 

相手の動きをいち早く察知して、何をしてくるか予想しろ!

 

今までにないくらい思考をフル回転させながら考え続ける。

 

相手の動き、周囲の条件、使えそうな障害物、俺の動きを妨げるもの、自分の退路の確保も常にしておく。

 

躱した勢いのまま、右の拳で殴りつけようとしたが、化け物の真ん中あたりから新たな触手が生み出されようとしたのが見え、慌てて身体を反らす。

 

腹部を掠めたがなんとか避けることに成功する、が無理に身体を動かした為体勢が崩れた。

 

このような明確な隙を逃してくれるほど甘い相手ではないようだ。

 

化け物が伸ばしていた触手を引き戻し、こちらに向けてきた。

 

相次いで放たれる触手の槍を、無様に地べたを転がりながら紙一重で避ける。

 

避けるといっても直撃を避けているというだけで少しずつ、しかし確実に体力は削られている。

 

もはやこいつを弱めることが出来たとしても、逃げきるだけの体力は残ってはいない。

 

もう少しなんとかなるかと思っていたが、考えていた以上になんともならねぇ。

 

黒い化け物の一挙手一投足を逃さぬよう、視線を逸らさぬまま、なのはの事を考える。

 

ちゃんと遠くまで逃げたかなぁ、俺を心配して戻ってこなけりゃいいけど。

 

はぁ、笑えてくる。

 

あれだけなのはに見栄を張っておいて、どんだけ弱気になってんだよ。

 

死ぬその瞬間まで、生き続ける努力をする。

 

これで俺が死んじまったらそれこそなのはが悲しむだろうし、自分のせいだと思い詰めることになる。

 

なんとかするんだ。

 

思考停止を起こすな、考え続けろ。

 

息を吸って、長く吐く。

 

胸の奥から力が湧いてくる。

 

頭の回転率を上げろ、腕や脚に力を込めろ、覚悟を決めたら特攻あるのみ!

 

さっきよりクリアになった気がする視界で、相手を見据える。

 

右から迫り来る触手の側面を、右拳で弾く。

 

腕に、肩に、上半身全体に、衝撃が襲いかかるが、膝をクッション代りに使って可能な限り受け流す。

 

身体が軋むが歯を食いしばって我慢!

 

右の触手を弾いたことで、空間ができた化け物の右側に身体を押し込む。

 

ショートレンジだが身体全体を捻り、その力を右の拳に乗せて放つ。

 

さっき蹴り飛ばした時と比べると化け物の表面、皮膚とでも言うべきか、それが柔く感じる。

 

死の淵に立って、俺の感覚がおかしくなりはじめているのだろうか。

 

くの字に歪んだ化け物に右の膝を追加する。

 

3mほど化け物が吹き飛んだ。

 

効いている……相手の動きも目が慣れてきたのか、わりかし見えるようになってきた。

 

何とかなるかも、なんて希望を持った時だった。

 

頭上から二つ何かが降ってきた。

 

咄嗟に後ろに下がるが、刹那の差で間に合わなかった。

 

あらたに二体、似たような化け物が現れ落下しながら触手を伸ばしてきた。

 

避けきれずに、左肩と右脚の大腿部に浅いとは言い難い傷を負った。

 

左肩はまだいい、問題は脚をやられたことだ。

 

一体だけでも死に物狂いだというのに、それが二体も増えて、あまつさえ脚を負傷し、頼みの綱で最大の武器である機動力が大幅に失われた。

 

確実に先程までの動きは出来ないし、受けた傷から流れる出血も無視できない。

 

三体は囲むように、俺の退路を防ぐように、じわりじわりと距離を詰める。

 

後ずさりしながら下がっていたが、とうとう壁に追い詰められた。

 

はぁ、ここまでかなぁ、いや自分でもよくやった方だと褒めたいぜ。

 

一撃受けたらそれで終了、ゲームオーバーだってのに幼少期に少しかじった程度の武芸で、数分位か? はっきりとした時間はわからないが、ここまで長引かせる事ができたんだから。

 

壁に背をつき、ここまで追い詰められた状態でも、どうにかならないか突破口はないかと考えるが、残念ながら手詰まりのようだ。

 

高速回転を続ける頭脳により、13通りの逃げ道が候補に上げられたが同時に却下される。

 

どれも脚を怪我した状態では現実味に欠ける。

 

一番生存率の高そうなのが、俺の背後の壁を破壊して逃げるというものなのだから、どれほど追い詰められているのかが伺える。

 

そんなもん壊すことがまず困難だし、壊したその瞬間に化け物共の槍のような触手で串刺しだ。

 

はぁ、とため息をついて目を閉じて、一番最初に思い浮かぶのは茶色の髪を二つに結った女の子のこと。

 

「ごめんな」

 

口をついて出たのは謝罪の言葉。

 

本人(なのは)に言えないのが心残りだが、それもやむなしだ。

 

いろいろ思う所はあるが、意外と後悔はしていない自分に、自分で驚いた。

 

目を閉じた暗闇の中、身体を突き刺す痛みが来ると覚悟していたのだが、俺に届いたのは、瞼を通して眼球に突き刺さるような光だった。

 

それは痛いほど眩しくも、どこか優しく暖かい桜色の光。

 

何事かと思い、眩さに耐え目をこじ開けると、俺を取り囲んでいた三体の化け物が消え失せていた。

 

代わりに化け物どもがいた位置に、三つの青っぽい宝石のようなものが浮かんでいる。

 

この急展開にどうしたもんかと立ち尽くしていると、上空から人が降ってきた。

 

空から人って頭の悪い感想だなー、なんて自分に突っ込んでいる間に化け物を退治したと思しき人が、俺の前に着地した。

 

「徹お兄ちゃん! い、生きてる?! 大丈夫?! ごめんなさい私のせいで……こんなに、傷だらけに……ごめ、ん、なさぃ……」

 

というか、なのはだった。

 

いつのまにか服まで変わってるし、近未来的な杖っぽいの持ってるし、あ、フェレットは肩に乗ってた。

 

お前も無事だったのか、よかった。

 

主張するように、なのはが持ってる杖についている赤い宝石が輝いたように見えたのは、きっと気のせい。

 

俺を見たなのはの台詞は、どんどんしりすぼみに力が無くなっていく、ていうか泣きそう、どうしよう。

 

なのはの肩に乗ってるフェレットも、あたふたして頼りにならない。

 

どうしようもないので、比較的綺麗な左手でなのはの頭を撫でる。

 

「お前が無事で良かった。それとありがとう、助かったぜ」

 

俺の行動がトリガーになったのか、なのはが大泣きしてしまった。

 

このまま、なのはを泣かしている状態をお巡りさんにでも見つかっては、逮捕待った無しである。

 

瓦礫も散乱したままだし、これでは俺が容疑者筆頭だ。

 

 もうここには用はないのだからすぐ離れよう、この年で前科一犯とかいやだ。

 

それにみっともなく転げまわるように逃げていた為、服もぼろぼろだし怪我したところから血も流れている。

 

こんな格好で高町家には行けないので、服を着替えるためにもここから近くにある俺の家へ向かうことにした。

 

この二人にも聞くことがいっぱいあるからな。

 

 

 

そうだった、こんな経緯で冒頭になるのだった。

 




いまいちキャラを掴めておらず勢い任せな所があります。
その辺りは読者様方の優秀な脳内変換をご活用ください。
ちなみに本作では、
なのはさんちょっと情緒不安定、
レイハさんちょっとお茶目、
などいろいろおかしな点がありますがそこは慣れて頂く他ありません。
ご了承ください。
ちなみにデバイスの音声は英語にするのが手間という問題が噴出しましたので普通に日本語になりました。



なぜだかこんなに長くなってしまった…
もっと短い時間で早く書けるようになれないもんかね


2014/03/29 修正
主人公がなぜ戦えるのかを取ってつけたかのように作中にて追加説明をいれました。
自分の文章力の無さに情けなくて泣きたくなってきた。
もっと自然に物語を進めれるように日々精進します。


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02

作者の都合で設定が改変されていたりする所があります。
ご注意ください。


2014/03/29 修正


ひとしきり泣いたことで、憑き物が落ちたように心がすっきりした。

 

落ち着いた今では初対面の彼の前で、情けなくぼろぼろと涙を流したことがひどく恥ずかしい。

 

いろいろ複雑な気持ちを、こほんと一つ咳払いして心の隅に追いやる。

 

「ごめんね、僕はもう大丈夫だよ。ありがとう」

 

僕のフェレット状態になった身体を、優しく覆っていた彼の手を自分の両手で軽く押し、もう心配いらない旨を言外に伝える。

 

彼は一言、そうかと呟いて腕を下げる。

 

ジュエルシードの思念体を相手にその身一つで死闘を繰り広げたのだ、きっと心底疲れてるだろうに彼はこちらを気遣ってくれる。

 

なんて強いのだろうか。

 

ただ身体が強いだけでは、成し得ることはできない。

 

ただ精神が強いだけでは、あの場で生存は許されない。

 

仮にどちらも両立していたとしても、自分にできるのだろうか。

 

魔力の消費を抑える為、フェレットの姿になってしまっている自分の身体を見下ろす。

 

僕は確信を持って言える。

 

自分では不可能だっただろう、と。

 

この世界に来るまでに魔力も体力も消耗していたとはいえ、自分はたった一体の思念体相手に遅れを取った。

 

それに引き換え彼は、魔法も知らず武器も持たず、徒手空拳で思念体と戦い終盤近くではわずかに上回ってすらいたように思える。

 

二体増えたことで追い詰められはしたものの、その状況ですら生き残っているのだ。

 

どうしても自分と比べてしまうし同じ男として情けない、なにより人間としての大きさの違いをまざまざと見せ付けられたようで心が重くなる。

 

慈愛に満ちた表情でなのはを撫でている彼の横顔を見る。

 

言いようのない感情が心を縛りつける。

 

見られていることに気付いた彼は、くくっと愉快そうに笑い、人差し指で僕の頭を撫でた。

 

「あんま一人で抱えんなよ。頼りになんねぇかもだけどなのはもいるし、なんもできないが俺もいるんだからな」

 

なのはもだいぶ調子が戻ってきたのか、頼りにならないという彼の発言に、にゃあにゃあと苦情を申し立てていた。

 

それを見てまた彼は楽しそうに笑う。

 

僕に兄はいなかったけどいたとしたらこんな感じなのかな、近くにいるだけですごく暖かくて、そして頼りになる。

 

また込み上げてくる涙を必死に堪えて、顔を上げる。

 

自分にできる事できない事を判断し、彼となのはに話すことを順序立てて頭の中で組み立てる。

 

「まずは、改めて謝りたいと思います。巻き込んでしまって本当にごめんなさい。そして厚顔無恥を承知で言います、僕に力を貸してくれませんか」

 

こんな状態の自分にもなにかできる事があるはずだ。

 

手始めに今回の事情の説明から始めよう。

 

 

 

 

 

最初に、お互いの自己紹介から始まった。

 

なのははもうすでに顔を合わせていたから知っているだろうが、俺は知らないのだ。

 

この喋るフェレット、名前をユーノ・スクライアと言うらしい。

 

ユーノの説明をまとめると大体こんな感じ。

 

ユーノは考古学の学者さんで発掘の仕事の最中、ロストロギアを発掘した。

 

ロストロギアというのは強力な魔法技術の遺産全般を指すもので、ユーノが見つけたものはジュエルシードと名付けられているらしい。

 

そのジュエルシードを時空管理局という、軍隊と警察と裁判所を併せ持ったような感じの大きな組織に渡そうと思い、そのために時空間を航行できる船を手配したそうなのだが、それが不運にも事故に遭ってしまった。

 

その事故のせいで発掘したジュエルシードが第97管理外世界、つまりは地球の海鳴市の周辺に散らばってしまったという事だそうだ。

 

責任を感じたユーノは、一人でジュエルシードの回収と封印を行っていたが手傷を負い、自分一人ではできないと判断して苦渋の決断の末なのはに助力を求めた、というのが事の顛末。

 

「危険な代物だから極力巻き込みたくはなかったけど、僕一人では力が及ばない。お礼はいつか必ずします、力を貸してください」

 

力無く肩を落とし、懇願するように頼み込むフェレット、もといユーノを見てなのはが立ち上がる。

 

「お礼なんていらない! 私手伝うよっ、私にもできることがあって、それが誰かの助けになるのなら……私は、私にできる事がしたい!」

 

なのはは即答した。

これだけ迷いなく手伝うと言い切れるこの性格を、俺はとても嬉しく思う。

優しく、そして真っ直ぐな子に育ってくれているんだなと、なのはの兄貴分の立場としてとても快く感じる。

 

だがそんな綺麗事だけでは認めることはできない。

 

世の中は、綺麗事や理想論だけでは成り立たないのだから。

 

話を聞けば、もともとロストロギアというのはとても高度な魔法技術であり、その力のせいで一つの世界が崩壊してしまうほどだ、とユーノは言っていた。

 

当然、そんなものに関われば危険が伴う事になるだろう。

 

普段ならば俺程度でも、なのはを襲う危険を払うことができる、なのはを守ることができる。

 

だが俺にとって、未知の存在である魔法が関わるとなると必ず守り切れるとは断言できなくなる。

 

実際、あの黒い化け物――ジュエルシードの思念体とユーノは説明していたが――を退けることもできなかったのだ。

 

だが、ここまでやる気になっているなのはに〝危険だから手伝うのを許すことはできない″と、諭しても言うことを聞くとは思えない。

 

正直、気は乗らないがなのはの意思を尊重する形で考えて行く。

 

「ユーノ、なのはの安全を確約することはできるか?」

 

「物が物だけに〝絶対に安全だ″、とは言い切れないです。でもなのはには才能と素質があるし、デバイスであるレイジングハートもいる。それに、こんななりだけど僕もいます。命を落とすなんて事にはならないよう、全力を尽くします。僕の命にかけて」

 

よかった、ユーノは本当に義理堅く、真面目な人間のようだ。

 

少し試すような事をしてしまったが、俺の問いかけに対して信頼にたる答えをくれた、だが。

 

「あうっ」

 

ユーノの額に軽くデコピンした。

 

やられた本人(ユーノ)は後ろに倒れて、驚いた表情をこちらに向ける。

 

なのはは、俺の言わんとしていることを理解しているのか、むすっとした顔で腕を組み、俺の膝に座った。

 

いや、隣に座れよ。

 

なに、どさくさに紛れて俺の膝に座ってんだ。

 

「お前の言葉は、俺の期待以上の答えだ。俺はお前を信じることにした。だけどな、命をかけるとまで誓わなくてもいいんだ。なのはが自分でやると決めた以上、ある程度はなのはにも責任がある。命を脅かされるような事態に陥ったら、お前は逃げてもいいんだ。俺も、たぶんなのはもそこまで恩につけ込んでお前を縛ろうとは思ってないよ」

 

ユーノは座り直して下を向きながら、ありがとうございます、とかすれるような小さな声で呟いた。

 

少し声が震えてたように感じたのは、まぁ気のせいということにしておこう。

 

さて、ここまで話を聞いて、なのはに魔法の才能があるのはわかった。

 

問題は俺だ。

 

「なぁユーノ、俺にも魔法って使えるのか?」

 

これからなのはを守る為にも、ユーノを手伝う為にも、魔法の力は必要不可欠だ。

 

ちょっと待ってください、と一言置いてユーノはたたたっ、と俺の身体を上って頭に辿り着く。

 

ユーノの両手が、俺の頭のてっぺん部分に触れる感触が伝わってくる。

 

「ある程度の精度でいいのなら、すぐ分かります。すこし待ってくださいね」

 

膝に座ってるなのはが、身体をすこし左に向ける。

 

思念体と戦った時に怪我をした左肩を、そっと撫でてくる。

 

家に着いた時にユーノが俺の怪我を治療してくれたのだが、ユーノも疲労していたので完全には治癒できなかった。

 

かすり傷と右脚に負った傷を治した所で魔力が切れてしまい、左肩は完治していない。

 

傷口はほとんど塞がっているが、一応左肩に包帯を巻き応急処置をしてあるのが現状だ。

 

なのはは、辛そうな顔をしながら俺の左肩をゆっくりさすっている。

 

この子は本当に優しくて、そして繊細だ。

 

膝に乗ってるお陰で、乗せやすくなったなのはの頭に、自分の顎を置く。

 

右腕は、なのはのお腹に回して固定する。

 

こういう時はどんな言葉を掛けても安っぽく聞こえてしまうので、行動で気持ちを示す。

 

俺は大丈夫だ、心配なんざいらねぇよ。

 

この気持ちが伝わるように、優しく抱き締める。

 

正しく伝わったかどうかは分からないが、なのはは左肩を撫でるのをやめ、正面を向いた。

 

なのはは、もたれるように身体を後ろに倒して俺の身体にすっぽりと収まった。

 

やわっこい感触が腕を伝う。

 

俺よりも、体温が少し高いなのはの温もりを身体全体で感じる。

 

どんなシャンプーを使えばこのような匂いがするのか、頭をくらくらさせるようななのはの香りが鼻腔をくすぐる。

 

やばい、俺の奥底に眠る(劣情)が目を覚ましそうだ。

 

俺は小学生に欲情する変態じゃない、と三回心の中で唱える。

 

あぁ、いつかこの可愛らしくて心優しい天使(なのは)を、押し倒してしまいそうな自分が怖い。

 

「終わりました」

 

頭上から聞こえるユーノの声で、思考が現実に戻る。

 

あぁ、助かった……

 

後少しで、俺の中の欲望という名の獣が覚醒するところだった。

 

さぁ、社会的な裁きから救ってくれたユーノの言葉を静かに待つとしようじゃないか。

 

「言いにくいんだけど…」

 

出だしの言葉で、どのような内容の話になるかわかってしまう、回転数の優れた自分の頭が今は恨めしい。




今回は主人公以外の人間の語りというのをやってみました。
難しくも楽しいことが分かりました。

作中思うところがある方もいるかもしれませんがユーノ君をディスってる訳では決してありません。
それだけはご理解ください。


別に僕はBL的な展開には持って行こうとは考えていないことをこの場を借りて宣言しておきます。

レイハさんはシリアスな空気に不相応なので徹が布でぐるぐる巻きにして黙らせました。

あと複数人いる時の会話って難しいです。
みんなに喋る機会を与えて会話を回すのがこれ程まで難しいとは…これからの課題です。



話の量が安定しない…


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03

思っている以上に話を進められません。



2014.3.30 修正


申し訳なさそうな顔をしながらユーノが、俺の魔法の素質の解析結果を教えてくれた。

 

俺は魔法の世界について何も知らないので、数値とかランクとかで言われてもさっぱりわからない。

 

なので、なのはと比較してもらったのだが。

 

「三分の一……か」

 

三分の一。

 

魔法を使う為のエネルギー、それを自分の中でタンクのように溜めておく部分を魔力容量とか言うらしい。

 

そしてその容量が、俺はなのはの三分の一ほどしかないらしい。

 

他にも適性等の項目があったが、それらもなのはとはかなりの差があるようだ。

 

なのははどうやら容量だけではなく、適性も優れているらしい。

 

特に、砲撃に関しては天賦の才があるようで、ジュエルシードの思念体三体に囲まれた俺を助けた桜色の光もその砲撃魔法だったようだ。

 

初めて魔法に触れ、三体の思念体を同時に軽く屠る程の砲撃を放つ。

 

これは驚嘆に値するほどの素質で、他にも射撃、防御の魔法にも優れ、飛行の適性もありこれから伸びるだろうとのことだ。

 

それに比べて俺は、魔力付与の魔法、これは武器や身体に魔力を送り込んで強化するもので、簡単に言えば身体強化みたいな魔法らしいのだが、これがなのはより多少適性が高いくらいで、他は全てなのはを下回る。

 

特に飛行魔法については壊滅的で、浮かぶのがやっとのことで使い物にはならんのだと。

 

ユーノは俺を気遣い所々曖昧に言ったり、『なのはが凄すぎるだけですから』と言葉をかけてくれた。

 

健気に慰めてくれるユーノの小さな頭を、人差し指でちょこちょこと撫でる。

 

気持ち良さそうに目を閉じながら撫でられているユーノを見てなのはが、私もっ! と主張しながら頭を俺の胸板にぐりぐりと押し付ける。

 

お前は、フェレットにすら嫉妬するのか。

 

仕方がないのでなのはの頭も撫でておく、うむ、静かになった。

 

なのはを撫でてあやしていたが、実のところ俺は内心穏やかではいられなかった。

 

 力が無いということ。

 

それはなのはを、自分の周りにいる大切な人を守れないということに他ならない。

 

だが、ユーノに手を貸してなのはと共に、ジュエルシードの封印と回収を行うと決めた以上、魔法を避けることはできない。

 

なら、どうすればいいか。

 

答えは簡単だ。

 

「ユーノ、俺に魔法を教えてくれ。やり方から何から一から全部」

 

 使えるようになればいい、学んで努力して、俺の大切な人達を守れるくらいに強くなればいい。

 

ただそれだけの、単純明快な話だ。

 

「わ、私にも教えて! ユーノ君を助けて徹お兄ちゃんを守る為に、私も勉強する!」

 

 俺を守るとは、随分と生意気な事を言ってくれるものだが、明確に素質の差が出てしまっているため言い返す言葉が見つからない。

 

だがこれでは気が済まないので、少し手荒になのはの頭を撫でることで落ち着いた。

 

なのはは、うにゃあぁぁと悲鳴をあげるが、俺の手を払いのけようとはしない。

 

『私もお手伝いできます。マスターはもちろん、仕方が無いので徹、貴方にも教鞭を振るって差し上げましょう』

 

 こいつ今、会話に混ざりながら何気に俺のこと呼び捨てにしやがったな。

 

こんなこと言うから喋らないように、近くにあったタオルでぐるぐる巻きにしておいたというのに。

 

 慇懃無礼という言葉を、丸い形に凝縮したようなこの赤い宝石はレイジングハートというらしい。

 

ユーノが以前に発掘したインテリジェントデバイスというもので、元々はユーノが使っていたがこんなに失礼な割りに非常に優秀らしく、使いこなせないのでなのはに委譲したとのこと。

 

 インテリジェントデバイスには人格型AIが搭載されており、こいつ単体でも魔力をデバイスの所有者から引っ張ってくることで、魔法を発動できるとか。

 

自意識があり会話も成り立つので、所有者の精神的な支えにもなり確かに優秀なのだが……

 

『貴方はマスターと違いへっぽこですが、ご安心ください。賢い私があなたも一人前にして差し上げましょう』

 

……優秀さと失礼さが比例関係にあるということだけが問題だ。

 

「ダメでしょレイジングハート! そんなこと言っちゃ! 徹お兄ちゃんは、こんな外見ですごく意外だけど頭もいいし、想像以上に運動もできるんだよ! 私も、勉強や縄跳びとか鉄棒とか、いろいろ教えてもらったんだから!」

 

 無礼を繰り返すレイジングハートになのはが、めっ! ってする。

 

たぶん、いやこいつのことだ、真面目に俺をフォローしようとしているのだろう。

 

下手したらレイジングハートよりも俺をけなしているような気もするが……我慢する、大丈夫。

 

俺はわかってる、なのはに悪気はないんだ。

 

『ぷふっ、いえ、申し訳ありませんマスター。くふふっ、申し訳ありませんでした、徹。』

 

 一応、と言わんばかりに形だけの謝罪をするレイジングハート。

 

笑ってんじゃねぇか、呼び捨て直してねぇし。

 

やすりで表面削ってやろうかな。

 

「み、みんなで頑張ろう! 徹さんも一緒に頑張りましょう! 僕もお手伝いしますし、なんとかなりますよ!」

 

 困ったような、苦笑いのような声音のユーノが小さい手を目一杯挙げながら言う。

 

この中で一番の癒しはユーノだと確信した瞬間だった。

 

 

 

 

 きゅくぅ、という可愛らしい音が、なのはのお腹から聞こえた。

 

音の発信元は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして俯く。

 

「そういえばだいぶ時間が遅くなったもんな。翠屋出てから二時間くらい経ってんじゃん。飯もまだ食ってな……」

 

 なのはとは正反対に、俺の顔から血の気が引く、もっと早く気付くべきだった。

 

「桃子さんにも恭也にも、まだ連絡してねぇじゃん……」

 

 やばいどうしよう、恭也はめちゃくちゃ(妹だけを)心配してるだろうし桃子さんはあることないこと吹聴してる可能性がある。

 

とりあえず、連絡を入れようと携帯を見る。

 

【着信 364件】

 

 携帯の電源を切り、知らん振りしてしまおうかと本気で考えた俺を誰も責められないだろう。

 

もうわかり切っているが、一応誰から着信が入っているのか確認する。

 

確認した結果、恭也が359件、桃子が5件。

 

さすが恭也(シスコン)、妹への愛が重い。

 

 恭也相手は少し勇気がいるので、桃子さんに電話することにした。

 

本当は、桃子さん相手もいやなんだけどなぁ。

 

連絡先の画面で高町桃子を選択し、発信、2コール目で繋がった。

 

「もしもし、徹で」

 

すけど、と続けようと思ったが、途中で桃子さんに遮られたので言い切ることが出来なかった。

 

「今まで連絡もなしになにしてたの!? 大丈夫? 怪我とかしてない? 家に帰ったら、なのはも徹くんもいないし心配してたのよ!? 近所で爆発事故があったらしいから二人が巻き込まれたんじゃないかと……」

 

 うおぉ……予想以上に心配されてたぁ……

 

「大丈夫だって桃子さん、心配し過ぎだから。帰りの途中でなのはが起きて、久しぶりに俺の部屋に来たいって言うから帰るのが遅れちゃっただけ。遊んでたら時間忘れちゃってさ、携帯の電池が切れてて、電話来てるのに気付くのが遅れちゃってたよ、ごめん」

 

 考えていた台詞を桃子さんに伝える。

 

 なのはが、言い訳のだしに使われ顔を赤くしてにゃあにゃあと抗議しているが、今は電話中なんだから静かにしろ、と人差し指をなのはの口にあてて喋れないようにした。

 

子供扱いによる怒りでさらに顔を真っ赤にさせるが、意図を察したのだろう、俯いて口を閉じた。

 

 桃子さんに対しては、事情があるとはいえ嘘を吐いている事に変わりはないので、少し心は痛むが今回の一件を正直に話すことはできない。

 

ごめんなさい、と一言心の中で謝っておく。

 

 ちらっと出てきたが、どうやら動物病院の事は爆発事故とみなされているようだ。

 

近所でって言ってたし、そうそうあの規模の事故があるとは思えないので間違いないだろう。

 

「そうだったの。ともあれ二人が無事でよかったわ」

 

「心配かけたみたいでごめん、次は気をつけるからさ。なのはは、飯食わして風呂もこっちで入らせてからそっちに送り届けっから安心してよ」

 

 なのはとはもう少し、話を詰めたい所があるからな。

 

今、帰られると少し困る。

 

「あら〜、それならもう、今日一日徹くんの家に泊めてもらっちゃってもいいかしら? もう時間も遅いし今の時期でも夜になると結構冷えちゃうし、なのはも前から徹くんと遊びたいって言ってたし〜」

 

 うふふ、と笑いながらとんでもないことを言い出した。

 

この人は時々、何を考えているのかわからなくなるな。

 

 桃子さんの近くで内容を聞いていたのか、桃子さんの声の後ろで恭也がなにやら騒いでいる。

 

なのはが俺の家に遊びにくる事はままあったが、泊まるのは初めてだ。

 

それについてあの恭也(シスコン)が噛み付いたのだろう。

 

無理をするな恭也、桃子さんに逆らうとどうなるかはお前もよく知っているだろう……

 

「そっちがそれでいいなら俺もわざわざ寒い中、外に出なくていいからありがたいな。明日の朝にそっちに送ってくわ」

 

「えぇ、それでお願いするわ。あと大事な話なんだけどね……」

 

 いつの間にか、電話の向こうで騒々しくしていた恭也の声が聞こえなくなっている。

 

そりゃ、高町家の頂点である桃子さんに楯突いたら排除されるよな。

 

あいつだってわかっていただろうに。

 

 それよりも大事な話とはなんだろう、居住まいを正して話の続きを待つ。

 

「なのは、お赤飯まだだからっ!」

 

 桃子さんが、とんでもないことを全部言い切る前に通話を切った。

 

何言ってんの…本当に何言ってんのあの人ッ!?

 

なのはは、まだ小学三年生だってのに!

 

手なんか出さねぇよ、俺そこまで飢えてねぇよ!

 

 なんかもう桃子さんとの通話で、思念体戦より体力を消耗したせいか俺も腹減ってきた。

 

携帯をしまって、料理の準備をする。

 

っと、その前になのはにさっきの電話の内容を伝えとくか。

 

「なのは、今日はもう泊まってけ。あと先に風呂入ってろ」

 

 俺はなのはが風呂に入っている間に料理を作っておいて、それから風呂に入ることにしよう。

 

ユーノもその時に洗ってやるか、ちょっと小汚い感じがする。

 

 俺の台詞になのはは、きょとんとして″何を言われたのか理解出来てません″みたいな反応してから、今度は急に顔を真っ赤に染め上げた。

 

「わにゃにゃあっ! まっ、まだっ、こ、心の準備がっ!」

 

「お前も本当に何言ってんの……」

 

 高町家の末娘は、魔法の色だけでなく、脳内まで桜色だった。

 

俺が、会話の内容全部を、説明していなかったのも悪いけどさ。




ご期待を持たれている方には申し訳ありませんが、R15とか18をつけなければいけないような展開には今のところするつもりはございません。
も、もしかしたらR15はつくかもしれません。

レイハさんには悪いですが彼女は今後もこういう方向です。


ちなみに僕はロリコンではありません、あしからず。


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04

話の都合上仕方なかったのですが設定の改変があります。
ご了承ください。




2014.3.30 修正


 なのはが風呂に入ってる間に、俺は晩御飯を用意しておく。

 

 先ほどの誤解によるささいな行き違いは、じっくりと桃子との会話内容を説明したので解決した。

 

解決したというのに、なのはは風呂に入る前にまだ赤いままの顔をこちらに向け恥ずかしそうに

 

「い、一緒に入る?」

 

などと、戯言を抜かした。

 

 壊れているのかと思い、斜め45°からのチョップをお見舞いして脱衣場に放り込んでおいた。

 

これで一安心、湯船で身体をしっかり暖めればそのうち冷静になるだろう。

 

頭は冷やすべきだが。

 

 いろいろありすぎて、体力も気力も残っていないので晩御飯はすこし手を抜いてしまおう。

 

料理を作りながら、なぜか頭に乗っかっているユーノとお喋りする。

 

「そういえば、俺の魔法の色って何色なんだ?」

 

 魔法について説明されている時にも、感じた疑問をユーノにぶつけてみる。

 

「魔法色というのはその個人の色というだけなので、魔法の性能には左右されませんよ?」

 

「いや、気になるじゃん? そういうの」

 

 魔法の効果に代わりはないとは思っていたが、気になってしまったのだから仕方がない。

 

ちなみになのはは前述したように桜色、ユーノはさっき見たが薄い緑っぽい色だった。

 

「そういうものですか? それじゃ、簡単な障壁でも張って見てみましょう」

 

 そう言って、ユーノが防御魔法の術式を教えてくれた。

 

なるほど、魔法ってのはプログラムみたいなのがあって、そのプログラムに魔力を注ぐことで魔法という結果を生み出すのか。

 

なんか、魔法っつっても科学のような匂いがするな。

 

 それよりも、仕組みは理解したがこの術式もっと効率化できそうな感じがするぞ。

 

こういうのいじるの好きなんだよなぁ、自分の好みに合わせてパソコンとか自分で作ったこともある。

 

 とりあえず今はその知的好奇心は我慢して、ユーノが教えてくれた術式を構築し、魔力を流して発動させる。

 

「デバイスがあれば、こういう面倒な手間が省けるんですけどね」

 

 ふむ、たしかに戦闘中にこんな演算をするのは大変だな。

 

魔法の構築ばかりに気を取られていては命取りになる。

 

その負担を軽減するために、デバイスがあるというわけか、ん?

 

「ユーノ、お前今デバイス持ってねぇよな?」

 

 そうなのだ、ユーノはデバイスであるレイジングハートをなのはに譲ったので、今持ってないはずなんだが。

 

もう一つ持ってたのか?

 

「僕はデバイスなしでやってます。この位ならすぐ出せる程度には慣れてますので」

 

 ユーノが短い手を伸ばすと同時に、目の前の空間に薄緑の障壁が出現した。

 

「おお、デバイス無しで発動できるなんてユーノは優秀なんだな」

 

 俺が褒めるとユーノは少し照れくさそうに謙遜する。

 

「別にそうでもないですよ。ずっとやってればこの位は誰でも出来るんです。僕は小さい頃から発掘とか研究で魔法に携わっていたので、出来ないとダメなくらいです」

 

 慎ましいのはユーノの美点だが、こいつはあまりにも自分を過小評価するきらいがあるな。

 

「それを身に付けたのがどういう経緯であっても、使いこなせるようになったのはユーノが努力したからだろ。がんばった自分を貶すようなことするな、むしろお前は誇れ。それでちょうどいいくらいだ」

 

 ユーノは今のままでは少し遠慮深すぎる。

 

なのはと足して、二で割ったら良い具合になるんじゃなかろうか。

 

ユーノの頭を人差し指でなでる、なんかこれお決まりみたいになってきてるな。

 

「あ、ありがとうっございます…、そっ、それよりも魔法の方はどうですか? できました?」

 

 この小動物可愛いなー、なのはとのやりとりで疲れた心が癒されるわ。

 

 魔法? とっくに構築もしたし魔力も送り込んだよ。

 

俺の心配は、術式の構築なんてチープなもんじゃない。

 

「俺の魔法……どこに出てるんだろうなぁ……」

 

 おかしいな、発動してるという感覚はあるのに。

初めて魔法を行使するが、この程度のプログラムの演算は造作もない。

 

俺にとって、魔法という物自体は完全に未知なものであるが、それがどういう仕組みで成り立っていて、どういう原理で発動するかという事が理解できるのであればやってできないことはない。

 

直近の問題としては、発動しているという感触はしっかりとつかんでいるのに、少なくとも俺の視界には生み出したはずの障壁が見えないということだ。

 

術式には、魔力もしっかりと行き渡っているはずなんだが……

 

もしかして……なに、そんなに俺の防御魔法の適性が低いってこと?

 

俺の障壁の大きさ、微粒子レベル?

 

 愕然と同時に呆然とする、俺これじゃ戦えないんじゃね?

 

しばしの間、言葉がなかったユーノが口を開いた。

 

「待って、大丈夫です落ち着いてください。しっかり発動しています、ほら」

 

 小さい手で、ある空間をぴこぴこと指差す。

 

そこは、俺がショックを受けながらも調理を続けている所の、少し上のあたり。

 

よく見れば、煙の動きがおかしい。

 

フライパンから上に、煙が流れるが途中で、なにかにぶつかるように左右に分かれていく。

 

 もしかして、と思い左手を伸ばす。

 

「あった……俺の、魔法……」

 

 そこに、確かにあった。

 

これならば、気付けなかったのも仕方が無いと言えるだろう。

 

「まさか……透明……?」

 

 ユーノが代弁してくれた。

 

俺が発動し防御魔法の障壁の色は無色透明だった。

 

よく見れば、少しもやもやっとしてる気がしないでもない。

 

これは、戦う時相手にバレずに使えるのはいいかもしれないが、自分にも見えにくいってのは困ったもんだな。

 

「透明……? 魔力色彩異常症? でもさっき診た時にはそんな反応は……なら、元から無色透明ということ?」

 

 ユーノがなにやらえらく考え込んでいる。

 

「ユーノどうした? もしかしてこれって、魔法に支障きたすようなヤバイものだったか?」

 

 そうだとしたら、大変困ることになる。

 

魔力の容量は少なく、適性も低い上に、さらに足を引っ張るようなことになってしまうとさすがに心が折れそうだ。

 

 俺の不安を拭うように、ユーノは首を横に振る。

 

「これは凄いことですよ! 徹兄さ、徹さん。魔法色が色彩異常の症状でもなんでもなく、無色透明というのは僕は聞いたことがありません!」

 

 よくわからないが、いいことなのだろうか?

 

 それよりユーノ、今お前、徹兄さんって呼ぼうとしてなかった?

 

「それに気を配ってなかったとはいえ、この距離で僕が魔法の発動に気が付かなかった程の隠密性を有しています。これは、戦う上できっと役に立つと思いますよ」

 

 ある意味稀少技能(レアスキル)です、とユーノは締め括った。

 

レアスキルというのがどういうものか具体的にはよくわからないが、ユーノのリアクションから察するに良いものなのだろう。

 

 まさかこんなところで魔法に関しては貧弱な俺に、武器ができるとは思わなかった。

 

勉強することや努力することが倍増しそうではあるが、俺にできることも増えるかもしれない。

 

 突然降ってわいた一筋の光のお陰で、未だに影で覆われていた俺の心は、幾分か持ち直した。

 

頑張ろう、心の底からそう思えるくらいには、砕けかけた俺のメンタルも回復した。

 

 心なし軽快な手つきになって、完成した料理を皿に盛る。

 

ユーノと話し込んでいる内に、晩御飯がずいぶんと豪勢になってしまったがそんなこと気にならない。

 

今日の晩御飯はユーノと、あと今は気分がいいので無礼千万なレイジングハートも入れてやろう、その一人と一つに出会った記念ということにしよう、うん、それがいい。

 

 かちゃかちゃっ、と、扉の開く音が聞こえた。

 

「徹お兄ちゃーん、あがったよー!」

 

 なのはが風呂からあがったようだ、タイミングのいい子だな。

 

料理が盛られた皿を持ち、キッチンからリビングへ移動する。

 

「ちょうど料理も出来たところだ。冷めないうちに食ふぅッ……」

 

 最後の方で言葉が途切れたのは、大天使(なのはえる)が俺のワイシャツ一枚で現れたせいだ。

 

風呂上がりでちゃんと乾かしていないのか、髪は水気を帯びてしっとりしていて、いつものツインテールを下ろしているため、普段とは違う雰囲気を醸し出している。

 

体格が違いすぎるせいもあるが、風呂上がりで暑かったのだろうか、ボタンをいくつか外しているせいで、あまり成長の見られない胸元が危ういことになっている。

 

袖は当然のように余りまくっていて、なのはの白魚のような細くて白いおててが見えていないが、それがまた随分と可愛らしい。

 

丈は十分足りているはずなのに、ボタンを掛け違えているのか、ツヤがあり柔らかそうな内ももがチラリズムしている。

 

「お、おま、なんて格好してんだよ!」

 

 俺の抗議を受けて、なのはが頬をぷくっと膨らまして反論する。

 

「だって着てた服洗濯機に入れちゃったもん。それに汚れちゃってたから、もう一回着るなんてありえないもん。なのに着替えは用意されてないから仕方なくこれ着てるのにっ!」

 

 むむ、たしかに俺にも不備があった。

 

だが、それでもやりようはあっただろう。

 

「そ、それなら呼べばよかっただけだろ、とびら、扉越しでもここまで聞こえるだろうし!」

 

 何を緊張してんだ、何をテンパってんだ俺!

 

いくらなのはが生まれついての天使だとしても、その天使がこんな誘ってるような、いや訂正。

 

可憐な、そう可憐で扇情的な姿、扇情的は余計だ。

 

可憐な姿で、俺の前に現れたとしても、こいつは小学生だ。

 

そうなんだ、小学三年生なんだから手を出す訳にはいかない。

 

手を出したが最後、問答無用で警察のお世話になってしまう。

 

せめて六年生なら、ってバカか! 六年生だろうと変わらねぇよ!

 

中学生だったらセーフだったのに、中学生なら。

 

俺、本当余裕ないな。

 

「よ、呼んだもん! なのになんか……そう! ユーノ君としゃべってるみたいで、返事してこなかったんだもん!」

 

 なんか嘘っぽい感じはするがその証拠はない、実際俺がユーノと話し込んでいたのは事実なのだから否定できない。

 

くそう、なのはの声なら3km先からでも聞き取る自信があったというのに!

 

「わ、わかった、俺が悪かったよ。ごめんな、気が利かなかった」

 

 なのは相手に言い負ける日が来るなんて……屈辱だ。

 

 なのはは、ふふん、と腰に手を当てて無い胸を張る。

 

だがそれは、今の俺にとって最大限に危険な行為であった。

 

「ちょ、ちょっと待ってろ。なんか着れそうなもん探してくっから」

 

 この状況は危険と判断し、この一件をすぐに終わらそうと動く。

 

それに、あのレイジングハートが黙ったままというのがとても気味が悪い。

 

こんな状況であいつが俺をばかにもしないなんて、何を考えているんだ。

 

かすかにあの赤い宝石が光ってる気がするが光の加減か?

 

 なお、ユーノはちっこい手で顔を覆ってなのはの姿をみないようにしていた。

 

真面目だね、ユーノ。

 

 ワイシャツの代わりに寝間着に使えそうな服を探しに行くため、リビングを出ようとした俺をなのはが服の端をちょこん、と掴んで引き止めた。

 

「私はこの服で大丈夫だよ? いい匂いするし。それよりご飯冷めちゃうの、早くご飯食べよ?」

 

 なのはが服を掴みながら上目遣いで、首を微かに傾けた。

 

身長差で、上から見下ろす形になっている俺の視界に入ったのは、綺麗なラインを描く鎖骨と、上から見ているせいで更に見えやすくなってしまった胸元だった。

 

半端ではない衝撃が熱を生み、俺の身体の真芯を襲った。

 

理性(じょうしき)(れつじょう)に食い殺されそうになったが、血が出るほどくちびるを噛み、なんとか耐えた。

 

 なのはは、本気で、晩御飯が冷める前に早く食べようと提案してきているようで、この格好のまま俺をいじるつもりなんて、微塵も考えていないようだ。

 

悪戯でそんなことを言ってきていたら、振りほどいて服を探しに行くが、そんなことわずかにも考えていないようだ。

 

純粋に、俺が作った晩飯を温かいうちに、みんなで一緒に食べたいという気持ちで言っているため無下にできない。

 

「そ、そう、か。それなら飯食ってから取りに行くか」

 

結局俺が折れた、これは仕方がない。

 

よくよく考えれば、どんなシチュエーションであろうと俺がなのはの手を振り払うなど想像もつかないな。

 

 レイジングハートをテーブルに乗せる。

 

ユーノには小さい皿を用意してそれに盛りつけた。

 

「わぁ、すごいですね徹兄さ、徹さん! 料理こんなに上手いんですね!」

 

 ユーノが並べられた料理の数々を見て褒めてくれた。

 

もう俺のこと兄さんって言うの、隠そうともしてなくない?

 

俺が座り、なのはが俺の膝の上に座り、準備完了いただきます。

 

「おかしくない? なのはさん」

 

 いつから俺の膝の上は、あなたの指定席になったのでしょう。

 

 ていうか本当にそろそろやばい、劣情スイッチ入りそう……

 

同じシャンプーのはずなのに、なぜかふくいくとした香りがなのはの髪から上がってくる。

 

もしかしなくてもワイシャツの下何も身につけてないんじゃねぇの、と思えるほど柔らかい感触が俺の足に届く。

 

ツインテールにしてたから気付かなかったが、予想以上に長い髪が俺の手をなぶる。

 

 俺の葛藤を知らずに、にゃはは、と心の底から嬉しそうになのはが笑う。

 

「こうやって一緒にご飯食べるのも久しぶりなの。最近、徹お兄ちゃん忙しかったみたいで一緒に遊ぶこともできなかったもん。このくらいは許してほしいにゃあ」

 

 紛れもない笑顔の奥に、一抹の寂しさを見たような気がして、何も言えなくなってしまった。

 

ここ最近は、高校の受験勉強とかバイトや家事とかで、なかなか時間が取れなかった。

 

それを言い訳にするつもりはない、なのはをないがしろにしたのは事実なのだから。

 

だから弁解はしない、言い逃れの口上など、述べるつもりは一切ない。

 

「心配すんな、俺はずっとお前の傍にいるんだから。それにこれからしばらくは、否が応でも一緒に行動することになるんだからな。今さら後悔しても遅ぇぜ、覚悟しろよ」

 

 せっかくの食事の場を暗い雰囲気にするのは本意ではないだろうから、少し茶化すような言い方をしておく。

 

 なのはは、いつも明るく振る舞っているが、その実、結構な寂しがりやさんである。

 

昔、翠屋の経営者で、なのはのお父さんである高町士郎さんが倒れたことがあった。

 

その頃はまだ、翠屋は今ほど知れ渡っておらず、これからという時に士郎さんが倒れた為、桃子さんも翠屋を守るのに必死で、恭也もなのはの姉である高町美由希も店の手伝いに入り、幼かったなのは一人が家に残った。

 

それを見兼ねて、なにか俺にも手伝うことができないかと考えたが、当時の俺に料理の技術はなく、昔から愛想もなかったため、手伝いに行くことはできなかった。

 

そこで恭也に頼まれたのが、″なのはが寂しがっているようだから一緒にいてあげてくれ″というものだった。

 

それからは学校等の時間を除けば、四六時中一緒に遊んでいたこともあり、なのはは俺にすごく懐くようになったし、よく笑うようにもなった。

 

 

 だが、やはり憶えているんだろう。

 

一人で、独りぼっちで、家に取り残されていた時のことを。

 

 賢い子だから、あの頃のあの状況では、仕方がなかったというのをなのはも理解はしていると思う。

 

でも理解したからといって、心に刻まれた孤独感が消えてなくなるわけではない。

 

いつかまた独りぼっちになるのを、なのははどこかで恐れて、怯えているだろう。

 

俺に必要以上に甘えてくるのも、そういった理由があるのかもしれない。

 

 だから俺は、言葉ではなく行動で、この儚くて脆い可憐な女の子に示すのだ。

 

不安なら安心させてやればいい。

 

体温を分け合って一緒にいれば、寂しくて凍えた心もいつかは融けるってもんだろう。

 

 なのはを抱き締めて、頭の中がふわふわしそうな香りを今は楽しみながら、頭のてっぺんに軽くキスをする。

 

「約束だ。俺は、お前がちゃんと一人で立てるまで、お前の隣にいてやるよ」

 

 なのはが後ろからでも分かるくらいに、耳まで赤くして俯いた。

 

「うんっ……約束……っ……」

 

 何故だか結局、湿っぽくなってしまった、気を取り直そう。

 

「本当に飯冷めちまうわ、さっさと食うぞ!」

 

いただきまーすっ、と手を合わすと、今まで会話に入れずにいたユーノが喋り出した。

 

「二人は本当に仲良いですね……兄妹にしては、危険なくらいに仲が良すぎる気もしますけど」

 

 ん? なんか、ユーノは誤解しているようだな。

 

「俺となのはは兄妹じゃねぇぞ? なのはにとって俺はあれだろう、近所の仲の良いお兄さん的な立ち位置だろう」

 

「えぇぇっ! 兄妹じゃなかったんですか!? じゃあなんでなのはは徹兄、さんのこと徹お兄ちゃんって」

 

 兄妹じゃないことに、大変驚いた様子のユーノ。

 

ちなみに俺は、お前のお兄さんでもないけどな、もう訂正すんの諦めちゃってんじゃん。

 

「昔から一緒にいたからな、もう一人の兄貴みたいなもんなんだろう」

 

ユーノに俺となのはの関係を教えてやっていると、いつの間にか復活していたなのはがむくれてる。

 

「そんな風に言うんだ……ふん! いいもん、徹お兄ちゃんはこれからいっぱい後悔すればいいもん!」

 

そう宣言したなのははあろうことか、俺の膝と、奇跡のような柔らかさと美しい曲線をもつお尻とを隔てていたワイシャツの裾の部分を、上にワイシャツを手繰り寄せることで取っ払ってしまった。

 

つまり俺の膝には天使の生尻が……

 

くっ……あんないい話をした後なのにっ……!

 

押し倒すこともできないため、必死に我慢するしかなかった。

 

当然ながら、俺が腕によりをかけて作った晩御飯の味は記憶にない。

 




R15タグつけるべきでしょうか?
イマイチそのあたりの境界線がわかりません。


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05

若干一名(一つ?)のキャラ崩壊が激しいです。注意してください。




2014.3.30 修正


「ごちそうさまっ、おいしかったです!」

 

「はい……お粗末様でした……」

 

 手をぱちっ、と合わせて、元気よくご馳走様した。

 

やっぱり料理はおいしいと言ってもらえるのが一番嬉しいな。

 

今日の晩御飯は俺にとっては、天国と地獄を行ったり来たりするようなものだったが……

 

「徹兄さんの料理本当においしかったです! すごいですね、あんなに喋りながら作ってたのに!」

 

 ユーノも褒めてくれた。

 

ん? 褒めてくれてくれてるんだよな?

 

 もうユーノの中で俺の呼び方は、兄さんで固定されてしまってるようだ。

 

訂正しようとも考えていないな、こいつ。

 

『誰でも一つくらいは、得意なものがあるのですね』

 

 なぜ素直に褒めれないのか。

 

そういえばレイジングハートは大丈夫なのだろうか、電池とかのエネルギー的なもの。

 

「飯も食ったし風呂入るわ。ほれユーノ、行くぞ」

 

 はい、と返事をして俺の肩に乗る。

 

「お背中流し……」

 

「もういらないよ、そういうの」

 

 なのはがまたいらん事を言いそうになったので、言い終わる前に先回りしてばっさり切り捨てる。

 

これ以上なにかされたら、さすがに俺の鉄壁の理性もどうにかなってしまいそうだ。

 

 むぅ、とうなるなのはを無視してレイジングハートに水を向ける。

 

「レイジングハート、お前はどうする? すこし汚れてんじゃねぇの?」

 

『助けてくださいマスター! 野獣が私の体を狙っています!』

 

 親切心で洗ってやろうかと思ったのに、何てことをいいやがる。

 

この赤い宝石は俺をなんだと思っているのだろう。

 

お前襲うとかどんな性癖だよ。

 

「ちょっと待ってろ、今すぐやすりを持ってきてやっから」

 

 リビングを出て自分の部屋へ、必要なもの取りに行く。

 

後ろでレイジングハートがわめいている声と、なのはがそれを落ち着かせるような会話が聞こえた。 

ユーノが、お手柔らかにしてあげてください、と頼んできたがそれは保証できないな。

 

「さあ、レイジングハート……裁きの時だ」

 

 戻ってきた俺が、リビングの扉を開け放つと同時にレイジングハートに宣告する。

 

あれ、テーブルの上に転がっていたはずの赤い宝石の姿が見えない。

 

代わりになのはが隅っこで、カーテンに隠れるように丸まっていた。

 

それ隠れる気あんのかよ…

 

ゆーっくりと、なるべく恐怖を与えるように近付き、うずくまるようにしているなのはの肩を掴む。

 

「なのはちゃーん、隠しているもん出そうか?」

 

「持ってません、なにももってないですよお兄様?」

 

嘘下手か、なんかもう一周回ってかわいいわ。

 

なのはの手の中から、かたかたっ、とレイジングハートが震える音出ちゃってるのに。

 

「はぁ、ほら大丈夫だから。レイハこっちに渡せ」

 

 俺が持ってるものをなのはの視界に入れる。

 

俺が持ってきたものを見て安心したのか、はふぅと詰まっていた息をはいて、レイジングハートを俺の手に乗せる。

 

 突然の主の豹変ぶりに、レイジングハートが驚いたように声を上げる。

 

『マスター!? 私を見捨てるのですか! こんな……野蛮で粗野で、私の名前を省略するような男に!』

 

 色々文句つけてるけど、一番怒ってる理由は名前短くしたからみたいだな。

 

「省略じゃない、愛称だ。その方が親しみやすいだろうが」

 

『私はもとから、貴方の十倍は親しみやすいですよ、この強面!』

 

 たしかに俺はちょこっと愛想が悪いし、少しだけ凶悪な顔をしているとは言われるが、そこまで言わなくてもいいじゃないか。

 

なんでこんなに俺を嫌ってんのかね。

 

「それじゃ始めるか」

 

『きゃあーっ! 私の自慢の、美しい曲線美に傷をつけないでください!』

 

 脚線美ではなく曲線美か、うまいことを言う。

 

 さて、まずは乾いた布で表面の汚れを拭く。

 

こいつ、ただの球体だからやり甲斐がねぇな。

 

『わひゃあっ、な、なにを』

 

汚れがひどかったら少し湿らせた布で拭くんだが、今回はその必要はなさそうだ。

 

『んっ、あぅ、ひぅっ……』

 

汚れが落ちたら、専用のオイルをしみ込ませた布で表面に薄く塗布していく。

 

なんか手を動かす度にレイハが反応してくるんだが、こいつ感覚とかあるのか?

 

『ふぅっ……はぁっ……だっ、だめっ……』

 

あとは、綺麗な布で余分なオイルを拭えば終わりっと、もう終わっちまったよ、早いな。

 

こいつ手をかけるところ無いからなぁ、真ん丸だし。

 

俺、うまいこと言ったな。

 

 つうか、なんでなのはは目を覆ってんだよ。

 

ちゃんと見とけよ、これからはお前がするのに。

 

『はぁっはぁっ……貴方、一体何をしているのですか!』

 

なんで息荒げてんの、どっかで呼吸してるの?

 

「レイハ、お前本当に俺にやすりで削られると思ったのか?心外だな、お前の中の俺のイメージどんだけ短気なんだよ」

 

 失礼な話だぜ、俺は常に仲良くしようとしていただろうに。

 

なのはは、もう終わったかな? 大丈夫かな? という風に、ちらちらと手の隙間からこちらを見ている。

 

 ユーノの気配がさっきからしないなーと思ったら、俺の肩で布団干すみたいな感じで寝てしまっている。

 

魔法も使ったし疲れてたんだな。

 

『ジュエルシードの思念体に、生身のステゴロで挑む位ですから。それはもう、極めて野蛮な人間なのでしょう』

 

 その部分だけを抜粋されると俺、人間じゃないみたいだな。

 

「俺だって、できることなら戦いたくは無かったぜ。あの時はやるしかないからやったんだ。この際だからはっきりと口に出しておくが、俺はな、レイハ。お前とも、良好な関係を築いていきたいと考えてんだよ。常になのはの一番近くにいて、有事の際はお前が一番なのはを守ることができるんだ。俺にはできない事も、お前にならできるんだからな」

 

 レイハは言葉が出てこないのか光で応答する。

 

一応、俺の話を聞いてはいるようで安心した。

 

「まぁそういうことだ。これから頼むぜ、レイハ」

 

『わかりました、私の想定以上に、あなたは善良な人間のようです。評価を一段階引き上げて差し上げましょう、精進することですね。……これからよろしくお願いします、徹』

 

 相変わらず俺のことは呼び捨てのようだが、少しはお互い歩み寄れたようだ。

 

目先の問題がたくさんあるのなら、近いところから一つずつ解決していこう。

 

次の問題は、寝落ちしてしまったユーノとなのはをどうするかだな。

 

なのははついさっきまで起きてたじゃんかよぉ……

 

 はぁ、とため息をこぼす俺に、レイハが、恐らく応援の意味を込めてぴかぴかと光を送ってくる。

 

前よりも、光が強く優しく感じるのは、手入れして綺麗にしたからだけではないと信じたい。

 

 

 

 

 




レイハさんと仲良くなる回、誰得かわからないサービスシーン、どうしてこうなったのでしょうか。

話の進行スピードが亀より遅いですね、自分でもわかっていますので見捨てないでください。


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06

誰得かわからないレイハさんとの絡み&イチャイチャ追加です。
キャラ崩壊が一番激しいのがこの方ですね。




2014.3.31 修正+追加


 リビングで夢の世界へ旅立ったなのはをこのまま放置するわけにもいかないので、今日は不在の姉の部屋に運ぶ。

 

俺の部屋で一緒に寝るわけにもいかないからな。

 

横抱きで運んでいるのだが、丸まって子猫みたいに俺の懐に収まっている、かわええなぁ。

 

『愛らしいマスターが無防備に寝ているからといって、変な事しないでくださいね』

 

「しねぇよ、寝てる女襲うほど欲求不満じゃねぇよ」

 

『マスターはまだ幼いというのに、女として見ているのですね。警戒レベルを一段階引き上げました』

 

「そういう意味で言ったんじゃない。おいなんか光ってんぞ、さっきの録音とかしてねぇだろうな」

 

 レイハとバカな掛け合いをする、かなりの割合で俺が貶されているが、こいつも楽しそうなのでよしとしようか。

 

 ユーノは半分以上寝てしまっているが、こいつは俺と一緒に風呂行きだ。

 

レイハは…なのはの枕元にでも置いておこう。

 

 姉の部屋に入り、なのはをベッドの上に乗っけたのだがどうしよう、服を掴んで離してくれない。

 

なにか代わりに持たせられるような物は、と探していたら微かになにか聞こえた。

 

なのはが寝言を言ってるようだ。

 

耳をそばだてる、なのはの言葉なら一言一句逃さないぜ!

 

「わた……が、まも……、……らね、徹おにぃちゃん……」

 

 どうやら夢の世界の俺は頼りないようだな。

 

でも、こう言ってくれてるんだから感謝はしておこう、ついでにおやすみの意味も込めて。

 

起こさないよう、優しく静かになのはの額に口付けをした。

 

ふと横を見ると、レイハの上に【REC】の赤い字が回っていた。

 

「レイハ、お前の言いたいことはわかるがまず聞いてくれ。誤解だ」

 

『そうでしょうか、私には寝ているのをいいことに、小学三年生の身体を抱っこと称して触りまくったあげく、キスまでしたように見えましたが?』

 

 なんと悪意に満ち溢れた解釈だ……

 

「な、何もかもが違うな。抱っこしたのは、風邪引いたら大変だからベッドに運んだだけだ。キスは……あれだ、お前がいた世界ではわからんが、俺達のいるこの世界では寝る前に良い夢見ろよって感じで額にちゅっ、てやるんだよ。なにもおかしなところはない」

 

 こいつはこっちの世界のことを、まだ詳しくは知らないはずだ。

 

ならこういう言い方をすれば、無知なレイハは俺の意見を認めざるを得ない!

 

『Zzz…あ、言い訳終わりました?』

 

 このデバイスぅぅ!

 

せめて、まともに聞く姿勢くらいはとってくれよ!

 

『ふぅ……なんと浅慮な考えと弁解でしょうか。どうせ、私はこの世界の事をまだ十分に知っていない、とでも考えたのでしょうが、それがまず間違っているのです』

 

 よかった、聞いてはいてくれたみたいだ、ぼろくそに言われてるけど。

 

『この世界のことはリビングにあった情報端末から既に収集済みです、残念でしたね、お馬鹿さん。外国では割とメジャーのようですが、日本ではあまりしないようですね、家族でもないのならなおさらです』

 

 リビングにある情報端末っていうと……パソコンか?

 

パソコンをハッキングでもしてネットに繋ぎ、情報を集めていたとでもいうのか。

 

そんなことができるとは予想外だ。

 

それに結構細かいところまで調べたんだなぁ……

 

『私は優秀であるというのは徹も知っていたはずですが、おあいにく様。徹の想像以上に、私は優秀であることが証明されてしまいました』

 

 俺を言い負かしたことで機嫌がいいのか″頑張ればあなたにもできるようになるかもしれませんよふふっ″とか煽ってくる。

 

さすがにここまで言われると悔しいが、如何せん、言い訳があっさりと看破されたこの状況では打つ手がない。

 

 なぜなら、

 

『さて、言い訳をして嘘をついたということは、後ろめたいことをしたという証拠になりますね。これはもうQEDと言ってもいいのではないでしょうか? 動画も押さえてあることですし』

 

こういうことだもんなぁ……全部説明してくれやがった。

 

これが詰みという状態なんだな、勉強になったぜ。

 

「わかった、俺の負けだ認めるよ……で、だ。俺に何を要求するつもりだ? 俺に出来ないことは求めんなよ」

 

 どうせ、なんらかの取り引きの材料にするつもりなのだろう。

 

あまり無茶なこと言ってくれるなよ、頼むから。

 

『なんてことはありません。て、定期的に先ほどしたようにおて、お手入れしてくれるとここで約束するだけでいいです。それで先ほどのデータの削除を考えてあげましょう』

 

 なんでちょっと言葉に詰まってんだよ、お前口とかねぇのに。

 

まぁ、それくらいで済むなら構わないか。

 

最初はなのはにやらせるつもりだったんだけどな。

 

「わかった、それでいいなら約束しよう。さぁ、データを消してくれ」

 

 後々の手間が増えてしまうことになるが、そんな手間よりこのデータの方が危険だ。

 

これが恭也の目に入ってみろ、血の雨が降ることになるぞ。

 

もちろん100%俺の血で。

 

『ちゃんと録音しましたからね? 約束ですからね?』

 

「約束は守るって。それよりもデータだ」

 

『いいでしょう、削除を()()しておきます』

 

 は? ちょ、おい何言ってんの?

 

「お前が約束破るのかよ!? こら、この赤丸が! 万力持ってくるぞこの野郎!」

 

『野郎ではありません。それに約束通りじゃないですか、削除を考えると私は言ったのですから』

 

 この……詐欺師かよこいつ……確かにそう言ってたけど!

 

『あまり騒がないでください、マスターが起きてしまいます。大丈夫です、悪用はしませんからご安心ください』

 

 信用できねぇ、できねぇけど信用する他ない。

 

「絶対に悪用すんなよ? その言葉信じるからな」

 

『心配性ですね、大丈夫です。私、揚げ足は取りますが嘘はつきませんので』

 

 確かにこいつ嘘はつかねぇんだよな、解釈の仕方や見方が歪んでいるだけで。

 

……十分厄介だな、ある意味嘘つきよりも厄介だ。

 

『貴方はもう少し、駆け引きについても学ぶ必要がありそうですね。もう時間もだいぶ遅くなっていますよ。早く入浴してきたらどうですか、疲れているように見えますよ?』

 

「お前のせいで、遅くなったし疲れることになったんだよ」

 

俺は、数分前より倍くらい疲労感が増した身体を引きずりながら、負け犬らしく尻尾を巻いてそそくさと風呂場へ向かうのであった。

 

 

 

 

 

 

「徹兄さん、今さらこんなこと言うのも遅いとは思うんですが、僕喋ってていいんでしょうか?」

 

 俺が身体を洗い終わり湯船につかって一息ついた時、湯を張った洗面器を湯船にしているユーノが要領を得ないことを聞いてきた。

 

 ちなみに肩の傷は、少し寝たことで魔力が回復したらしいユーノが治してくれた、これで全快だ。

 

おかげでゆっくりと風呂に入ることができる。

 

「いきなりなんだよ。どういう意味だ?」

 

「いえ、基本的に一般人にばれちゃいけないので、徹兄さんのご家族に見つかったら大変だなぁと思いまして」

 

「本当に今さらな話だったわ、意外にぬけてるとこあるんだな」

 

 そのあたりの事って、最初から気を使ってないといけないんじゃないの?

 

俺の家にいる限りは、必要ないと思うがな。

 

「この家なら気にしなくていいぜ。姉ちゃんは今日、仕事でいないから」

 

「ご両親もお仕事ですか?」

 

「俺の親はもう、どっちもいないんだ。二年前に交通事故で二人ともな」

 

 湯船につかり、タオルを目の上に置いて風呂の縁に頭を置く。

 

もう二年も経つんだな、早いような、遅いような。

 

「す、すいません……無神経なことを……」

 

「気にすんな。って言ってもお前は気にしちまうんだろうな。両親は死んじまったけど、俺には姉ちゃんがいるし恭也……なのはの家の人達も助けてくれたから、割と本当に大丈夫だったんだよ」

 

 洗面器の中で、気落ちしてしまったユーノの頭を指で撫でる。

 

 今はもう慣れたものだが、料理とかの家事をやるようになったのも両親が死んでからだった。

 

家事をし出した理由は、一人で頑張っていた姉を手伝いたかったという考えからだ。

 

両親を突然亡くしてまだ小さかった俺を育てるために、姉は大学を辞めて働きに出た。

 

家を遺してくれたとはいっても、日々暮らしていくのに金はどうしても掛かるし貯金も心許なかったらしい。

 

そんな姉を少しでも手助けしようと、習っていた道場をやめて家事全般をするようになった。

 

いやぁ懐かしいな、あの時はまだ料理もへたくそで、姉ちゃんから″まずい″とはっきり言われて発奮したのを憶えてる。

 

「俺の父親の知り合いに道場の先生がいてな。そこに見学に行って、その日に"これから通え"って突然父親に言われたんだ。あの時は焦ったわ」

 

 ユーノがなるべく気にしないよう、陽気に話す。

 

こちらの意を察してくれたのか乗ってくれた。

 

「その経験があったから思念体相手にも戦えたんですか?」

 

「そうだなぁ、道場での経験がなかったら生き残ってはいなかっただろうな。でも、もう一度同じことをやれって言われても出来る気はしねぇよ?あれはただ、運が良かっただけだろう」

 

 あの時はひたすらに必死だったからな、なのはを守るためにも退けなかったし。

 

覚悟を決めたら力が湧いてきたのは驚いた、あれが火事場の馬鹿力というのだろう。

 

 いや、少し待て、そんな都合良く何とかなるか?

 

思えばあの思念体は、金属で出来た門やコンクリート製の壁を壊すほど力があった。

 

そんな破壊をもたらす触手を俺は、拳で弾いた。

 

あんな力を振るわれて、普通の人間が威力を流したとはいえ出来るのか?

 

解は出ている、出来るわけがない。

 

あの時、心の奥の方から力が湧いたのを俺は"死の間際だから"と結論付けた。

 

今なら違う可能性があるのを俺は知っている、魔法だ。

 

「ユーノ、魔法が発動している気配があるかしっかり見といてくれ」

 

「は、はい。わかりました」

 

 突然黙り込んだ俺の顔を、訝しむように見ていたユーノにお願いする。

 

戸惑いながらも了解してくれた。

 

 俺は、戦っていた時の感覚を思い出しながら深呼吸する。

 

集中し、心の奥に意識を集める。

 

身体をなにかが――恐らく魔力が――循環しているような感覚がある。

 

そうだ、手や足の末端まで力が込み上げてくるような、この感覚だ。

 

「魔力色が透明のせいか魔法陣も見えないし、僕の知っている魔力付与とも違うようですが……確かに発動しているようです」

 

「やっぱりそうだったか」

 

 あの時俺は無意識のうちに魔法を使っていた。

 

なにがきっかけで、使えるようになったのかはわからないのがむず痒い。

 

とりあえず今は《ジュエルシードにあてられたから》ということにしておこう。

 

「やはり徹兄さんは、魔力付与に才能があるみたいですね」

 

「感覚でやってるところがあるから不安だな。また今度しっかり教えてくれ」

 

 自分の可能性が見つかって、今すぐ詳しく調べたいが今は無理だな。

 

「ユーノ、もう出よう。のぼせちまう」

 

「そうですね、頭がくらくらします」

 

 のぼせてんじゃねぇか、早く言えよ危ないだろうが。

 

ユーノの胴体をつかんで急いで風呂を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徹さんのお話。

 

 昔小さい時、今もまだ小さいけどもっと小さかった時、お父さんが倒れて、家もお店も大変になった。

 

みんなばたばたと慌ただしく動き回って、毎日忙しそうにしていた時期があった。

 

お兄ちゃんやお姉ちゃんはできることがあったけど、小さかった自分は何もできなくてお店にいても迷惑かけちゃうから、ずっとお家でお留守番。

 

一人で家にいて寂しかったけど、みんなにはやらなきゃいけないことがあって、家に帰ってくるのは夜の遅い時間。

 

みんなが帰ってくる時間まで起きて待っていても、お兄ちゃんもお姉ちゃんもお母さんも、疲れてすぐに寝てしまう。

 

そのことに文句を言おうとは少しも思わなかった。

 

だって……みんな頑張ってるんだから。

 

家のため、お店のため、家族のために頑張ってるんだから。

 

 でも寂しかった。

 

なんでもいいから私に構ってって、お話ししよって言いたかった。

 

だけど弱い私は、大好きなはずの家族にさえ負担になるんじゃないかなんて考えて、その幾つかの言葉すら言うことができない。

 

徐々にふさぎ込むようになっていったある日、お兄ちゃんの友達の逢坂徹さんがやってきた。

 

徹さんは私に″遊びに行くぞ″って手を差し伸べてくれた。

 

独りぼっちで家にいて、寂しさと孤独感で真っ暗になっていた私に光をくれた。

 

大げさだけど、当時の私は本当にそのくらいの気持ちだった。

 

 

 徹さんのお父さんとお母さんが亡くなった。

 

交通事故だったそうだ。

 

それがいつ位の頃だったかは詳しくは憶えていないけれど、あの時の徹さんの顔は忘れられない。

 

周りの人に心配をかけないように、拳を握りしめてくちびるを噛み締め、必死で泣くのを我慢している姿。

 

それでも堪えきれずに涙が溢れるから上を向いて零れないようにしていた、あの時の表情。

 

いつも頼りになる徹さんが見せた、唯一の泣き顔。

 

そんな見ていて痛々しいくらいの仕草が、徹さんのご両親が亡くなったと聞いた時よりも悲しくて辛かった。

 

 いつかそんな彼を守れるようになろう、と思っていたけどまさか、魔法という形で力になれることになるのは予想外だった。

 

今まで守って、支えてもらった分お返ししなきゃだよね。

 

 

 これからは私が守るからね、徹お兄ちゃん。

 

 

 これは、家族に対する大切さとは少し違う感覚の大切さ。

 

この感覚がなんなのか、まだ少しわからないけれど、徹さんのことを考えると心が暖かくなる。

 

きっとこれはすごく大事な気持ちなんだろう、この気持ちを無くさないように心にしっかりと保管しておこう。

 

この形容し難い気持ちは、これからゆっくり育んでいけばいいのだから。

 

 

 バチリ、と心の奥に電撃のような痛みが走った。

 

 

視界が移り変わる。

 

海の上、どす黒い雲と降りしきる雷雨、鳴り響く轟音。

 

私の上空で、庇うように両手を広げる徹さんが見える。

 

 

視界が移り変わる。

 

また海の上、大きな岩が海から生えるように立っている。

 

複雑な魔法陣の上に立つ彼の頭上から、とんでもなく大きい光が空間を貫き、呑み込んだ。

 

 

視界が移り変わる。

 

山岳地帯、大きな船がたくさん浮いている。

 

ひときわ大きく立派な船に、傷だらけの徹さんが突貫していく。

 

行かないで、死んじゃうよ。

 

そう思うのに口は動かず、声は出ない。

 

 

視界が移り変わる。

 

どこか大きな街、高いビルが競うように建っている。

 

さっきのシーンよりも傷がたくさんあり、血をたくさん流している徹さんがいる。

 

助けに行こうと足を動かしても一向に近付かない。

 

私の目になにかが入った。

 

灰色の噴煙の尾を引きながら、なにかが飛来してくる。

 

なにかが飛んできている事は気が付いているはずなのに、徹さんは動こうとしない、いや動けないのだろう。

 

自分に何ができるわけでもないけれど、徹さんの満身創痍な状態に見ていられなくて、自分の身体を盾にしようと必死に近付く。

 

思いが通じたのか、手が触れる距離まできて膝をつく彼を抱き締めようとした時、なんの手応えもなく身体が通り抜けた。

 

すり抜けてしまい、彼の背後に回った状態で呆然とした自分の耳に、たった一言だけ彼の言葉が届いた。

 

″ごめんな″

 

何に対する謝罪なのか、誰にあてた言葉なのかも判断できなかった。

 

爆炎と衝撃が周囲を覆い尽くした。

 

 

 

 

 目を開く、枕が涙で濡れてしまっている。

 

部屋にある数々の変わった趣味の置物を見るに、ここは徹さんのお姉さんの部屋のようだ。

 

時計を確認するまでもなく、真夜中だった。

 

 さっきまで見ていたのは夢だ。

 

そんなことわかってる。

 

でも、心臓の鼓動が止まらない、冷や汗や涙も同様だ。

 

いやに現実味のある夢だった。

 

今では、あれは夢だったと吐き捨てることができるが、夢の中では本当に、自分がその場にいるような気がした。

 

 身体の震えが止まらない、両手で肩を抱いてもなお寒い。

 

身体ではなく、心が凍えているかのようだ。

 

 さっきのが夢ではなく、本当のことだったらどうしよう。

 

そう考えるだけで心がざわつき、無意味な焦燥感に駆られる。

 

不安や孤独感、身体を襲う寒さや震えで心が壊れてしまいそうになる。

 

「いやだ、そんなのやだ……徹お兄ちゃん……」

 

 精神に余裕がなくなり、冷静な考えができなくなる。

 

「どこ?徹お兄ちゃん…」

 

 ふらふらと夢遊病患者のような足取りで歩みを進める。

 

 彼の部屋の前まで来た。

 

扉を開けて彼がいなかったらどうしよう。

 

錯乱状態になるかもしれないが、今は心を掻き乱し続けるこの不安感を取り除くことが先決だ、と決心した。

 

 ゆっくりと扉を開く、ベッドに膨らみがある。

 

近付いて覗き込んでみると、目を閉じ一定のリズムで呼吸を繰り返す彼がそこにいた。

 

目を瞑っていると、いつもより幼く見えてすこし可愛かった。

 

「徹お兄ちゃん……いた、よかった」

 

 ただそれだけで、落ち着きを取り戻す。

 

あれほど荒れていた心中は、今は凪いだ水面のように静かなものだった。

 

この安心感を、彼の体温と一緒に感じるため布団に潜り込んだ。

 

徹の腕に頭を置いて、彼の胸の中へと進んでいく。

 

彼の腕を枕にして、彼の匂いと温もりに包まれたなのははこれ以上ないほど安心し、いい夢みれたらいいなぁ、なんて他愛ないことを考え、眠りに落ちた。




レイハさんと主人公仲良過ぎです。
なぜかこの二人は絡ませやすいのです。


なのはの夢。
主人公への呼び方が二つありましたがこれは意図的に分けました。…本当ですよ?
なのはは声に出すときはお兄ちゃんをつけて、心の中ではさん付けで呼んでいます。

なのはさんちょっと依存しすぎですね。
おかしいな、マジ可愛さ1000%にするつもりだったんですけど。
そういえば初のなのはsideでした。
ほとんど地の文ですね、すいません。これから精進します。


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07

今回は新たにオリジナルのキャラクターが一人出てきます。が、本編にはほとんど関わりがないと思いますのでご安心ください。


 いつもなら早朝の肌寒さの中、布団に残るぬくもりを恋しく思いながら苦労して起き上がるのだが、今日は違った。

 

すぐ近くに、あたたかくて柔らかいものがあったのだ。

 

 おかしいな、俺が寝る時この部屋には、俺とユーノの二人しかいなかったはずなのに。

 

ちなみにユーノは、俺の部屋にちょうど良さげな籐でできた籠があったので、それにタオルとかぶち込んで即席の寝床で寝てる。

 

 いつの間にか、なのはが俺の布団の中にいた。

 

俺の腕に頭を置いて、くっつくように自分の頭を俺の胸のあたりに押し付けている。

 

腕がやけに痺れていると思ったら、お前のせいか。

 

 叩き起こしてやろうと、なのはの顔に手を近づけてそこで気付いた。

 

涙を流した跡がある。

 

昨日ちょっと暗い話しちまったからかなぁ……

 

今は、気持ちよさそうな表情で眠っている。

 

 起こさないようにゆっくりと、顔にかかった髪を払ってまじまじとなのはの顔を見る。

 

目を瞑って黙っていれば、こいつ意外と年齢以上に大人びて見えるな。

 

髪が触れて少しこそばゆかったのか、小さな鼻がぴくぴくと動いた、がまたゆっくりとした呼吸に戻った。

 

 なのはの鼻を、空いている手でつまんでみた、突如湧いてきた好奇心を抑えられなかったのだ。

 

いきなり息ができなくなって、んにゅみたいな言葉に表しにくい反応をした。

 

これで起きちゃうかなーなんて思っていたが、まだ目覚めないようだ。

 

俺がつまんでいた鼻を離すと、なのはは身じろぎして少しうなるような声を出し、また寝に入った。

 

次はもう少し長く抑えてみよう。

 

また鼻をつまむ、んにゃぁ、や、ふにゅみたいな声を出すがまだつまみ続ける。

 

あ、なんかぷるぷるしだした。

 

さすがに、これで呼吸困難とか起こされても困るので離してあげる。

 

悪戯は引き際が肝心なのだ。

 

へぷしゅ、というくしゃみなのかなんなのかよくわからない音を出して、閉じられていた瞼がぴくりと動いた。

 

やっとお目覚めのようだ。

 

 よく考えたら、すごい近くにいるな。

 

腕の上の方に頭を置いているせいで、顔と顔の距離がすごく近い。

 

なのはの長いまつげもしっかり見えるし、さっきまで俺が押さえてた小さなお鼻も間近だし。

 

柔らかそうなくちびるも、すぐそこにある。

 

やばい、なんか変なスイッチ入りそう。

 

 まだ寝ぼけているのだろう、いつもの半分しか開いていない目をこちらに向けて、なんでここにいるの? とこちらに尋ねるように首をちょこん、と傾けた。

 

「おはよう、目覚めはいかがかな? お嬢様」

 

 茶化して言うと、どんどん頭が覚醒してきたのか、顔は赤くなり目は見開いている。

 

「にゃあぁっ! な、なんで徹お兄ちゃんが! ね、寝込みを襲うのはっ、それはいけないことだと思いますっ!」

 

 まだ寝てんのかなこいつ。

 

「何言ってんの。俺が起きたらお前がここにいたんだから、お前が俺の寝込みを襲いに来たんだろう」

 

 はっとして、なのははきょろきょろと辺りを見やる、俺の部屋であることを確認しているのだろう。

 

未だ、考えがまとまっていないだろうなのはに追撃する。

 

「小三なのに男に夜這いかけるなんて……なのはったらはしたない子だな」

 

 わたわたしてた手がぴしっと止まった、いろんなことがあり過ぎて脳が強制終了されたのか?

 

二、三秒経って次はぷるぷると震え出した、再起動したのかな? などと考えていたら、寝転がっていた俺のベッドの上でいきなり立ち上がり、

 

「わ、私っ! はしたない子じゃないもんっ!」

 

と宣言した。

 

 おそらくなのはは忘れていたのだろう、正直俺も忘れていた。

 

自分が、どんな格好で寝ていたのかを。

 

寝間着になりそうな服を探してはみたものの、見つけたその時にはなのはは寝てしまっていたので、結局こいつは今、裸ワイシャツ(大天使なのはえる)状態のままなのである。

 

それに加えて、寝起きでさらに乱れてしまって、肌を露出している割合が昨日よりも増えている。

 

 そんな姿で、いきなり立ち上がるし俺は寝転がっているしで、俺の視界が大変な事になってしまっている。

 

誓って言うが見ていない。

 

何を、とまでは言わないが見ていない。

 

ワイシャツの裾が、立ち上がった勢いでふわっと広がって、きれいで柔らかそうで、かぷっとかぶり付きたくなるようなふとももの付け根あたりまでは見てしまったが、大事なところは見ていない。

 

顔を下に向け見ないようにしたからだ。

 

若干、手遅れな気がしないでもなかったけど。

 

無理に首をひねったせいで、首の骨がぱきっと文句を鳴らした程だ。

 

「へっ……にゃああぁぁっ!?」

 

 宣言したはいいが、俺が顔を下に向けた事で気付いたのだろう、己の姿に。

 

悲鳴を上げて、いろいろ露出しまっている身体を隠すようにしゃがみ込む。

 

場所と距離の都合、しゃがみ込んだ時についた膝が、俺の腹部に突き刺さるように決まったが今は我慢しておこう。

 

「これじゃほんとにはしたない子なの……」

 

 蚊の鳴くような声で呟いているなのはの方が、ダメージ大きそうだからな。

 

 

 

 お互いに、色々ごめんなさいして先程のことは水に流した。

 

 今日も学校があるし、準備もしなければいけない。

 

朝食を摂ろうとベッドから出て、もぞもぞと動くユーノを掴んで肩に乗っける。

 

「なのははちょっと待ってろ。服、もう乾いてると思うから取ってくる」

 

「う、うん。わかった」

 

 まだ少し恥ずかしかったのか、ちょっと言葉に詰まっていたが俺が平然としていれば馬鹿馬鹿しくなって、すぐ調子を取り戻すだろう。

 

 昨日着てたものは洗濯機に入れて、寝る前に乾燥機にかけておいたからもう乾いていた。

 

服を取り出していくが、今さら下着程度でどうこうなるような俺ではない。

 

姉の服も下着も俺が洗濯してんだからな、このくらいは慣れたものである。

 

 なのはは昨日、店の手伝いに来る前に一度家に帰り、制服を着替えてから来たようで私服だった。

 

よかったよかった、制服だったらアイロンがけしないといけないところだったぜ。

 

ぱんぱん、と少しでも皺が取れるようにのばしながら、あいつが着ていた全ての服を取り込み、乾燥機を閉じる。

 

 こういう時はほんと便利だなー、なんて適当なことを考えていて思い出した。

 

レイジングハートいないな。

 

まぁ後でいいか、いたらいたでやかましいから。

 

 部屋に戻り、なのはに着替えるように指示をしてすぐ部屋を出る。

 

お着替えを覗く趣味はございません。

 

 台所にて、手抜きの朝ごはんを作り終えたくらいの時になのはが入ってきた。

 

「徹お兄ちゃんのお家では朝はパンなんだね。私の家はいつもご飯だから、なんだか新鮮な感じっ」

 

 こいつは何が出てきても嬉しそうにするなぁ、こちらとしてはそこまで喜ばれると、手を抜いたことが少々後ろめたい。

 

 別にこれで、いただきますでもいいのだが我が家の家訓では"家にいる時はみんなでご飯を食べる″というものがあるのでこれでは始められない。

 

「なのは、レイハ連れてきてやってくれ。姉ちゃんの部屋に置きっぱなんだろ?」

 

 なのははあからさまに、今思い出したという顔をして急いで部屋に向かった。

 

『起きたら部屋に私一人、扉越しにかすかに聞こえる楽しそうな声。私がどのような気持ちだったか、理解できますか? できないでしょうね』

 

 盛大にいじけてらっしゃった。

 

「悪かったって。別に、わざとのけ者にしようとしたわけじゃないんだぜ?」

 

『ふんっ……どうだかわかりませんね』

 

「ごめんね、レイジングハート……私が忘れちゃってたから……」

 

『いえ構いませんよマスター。ただ徹に文句を言いたかっただけですので』

 

 お前、本当に俺となのはで態度が全然違うよな。

 

ここまではっきりしてると、ある意味清々しいよ。

 

「あれ、なんでリビングに? あ、みなさんおはようございます」

 

ユーノ用の小さな器を置いた時に、今日初めてユーノが喋った。

 

お前朝弱いんだな、やっと起きたのか。

 

「飯冷めちまうぞ。はい、手を合わせて。いただきます」

 

いただきますの唱和で朝食が始まった、俺は小学校の先生かよ。

 

 

 

 

「ただいまーっ!」

 

 母さんが作ってくれた朝食を食べ終わったくらいで、昨日は帰ってこなかったなのはが元気な声で帰りを報せてきた。

 

「お邪魔しまーす」

 

 その少し後で、親友の声が聞こえた。

 

 出迎えようと玄関に向かうと、なのはが母さんに抱きつきながら楽しそうに喋っている。

 

昨日徹の家に泊まったからその事を話してるんだろうな。

 

「それでねっ、一緒に寝たの!」

 

 その一文が耳に入ると同時に身体が動いた。

 

考える前に身体が動くとは、毎日の修行の成果だな。

 

近くにあった木刀を掴み、徹目掛けて振り下ろす。

 

徹は驚く様子もなく、一、二歩下がり上半身を後ろに反らすことで木刀を回避した。

 

二撃目に移行しようとした時に、徹が掌をこちらに突き出して動きを抑える。

 

「はぁ、落ち着け恭也(シスコン)誤解だから」

 

 よくよく話を聞けば、なのはが寒そうにしていたから一緒の布団で寝た、というだけだった。

 

いや、その話を聞いて冷静にはなれなかったが、母さんに頭を鷲掴みに(アイアンクロー)されたので木刀をしまう。

 

 他の誰でもない徹のことなので信用しているが、俺にもしてくれないことをこいつにしているというのは、どうしても嫉妬の対象になってしまうのは仕方ないと思う。

 

母さんが、徹になのはを泊めてくれてありがとうという旨の会話をしているので、俺はなのはの様子を見ることにした。

 

「なのは、久しぶりに徹と遊んでどうだった? 楽しかったか?」

 

「うんっ! いっぱい遊んで、いっぱいお喋りして楽しかった!」

 

 どうやら、徹の家に泊まらせるという母さんの策略は大成功だったようだ。

 

最近のなのははどこか元気がなくて、水を貰えないひまわりのようだった。

 

ここ何ヶ月か徹は忙しかったからな、ゆっくりとなのはと過ごす時間は取れていなかったようだ。

 

翠屋で徹と会える時は、すごく元気になってテンションも上がるようだがバイトで来ている上に、徹はほとんど厨房にいるから喋ることも満足にできないし、いつもなのはは早めに帰るので結局そういう日は家で少し落ち込むのだ。

 

だからこそ母さんも、泊めようなどと提案したのだろう。

 

きっとそうだろう、他に意図はないはずだ、そうに決まっている。

 

 母さんとの話が終わったようだ。

 

こちらに来た徹に、尋ねておかねばならないことがある。

 

「何もなかっただろうな」

 

「何もなかった、というのは嘘になるな。なのはと一緒に遊んだのに、何もなかったとは言えねぇよ」

 

 またこいつは、恥ずかし気もなく恥ずかしい台詞を吐く。

 

なのはは赤くなってるし、母さんはあらあらーなんて言って笑っている。

 

こういうところが徹の良いところではあるんだが。

 

 嘘をついているようには見えなかったから良しとしたい所だが、なにか本当の事も言っていないような気配がする。

 

追及しようとしたが玄関のチャイムが鳴ったので、出鼻をくじかれたようになってしまい言い出せなくなってしまった。

 

「たぶん忍だろ? 早く行こうぜ、学校に遅れたら面倒だし」

 

 徹は、母さんとなのはに行ってきますと言って――なのはには頭も撫でて――家を出た。

 

仕方がない、どうせ徹のことだ、俺達に害があるようなことならすぐに言うだろう。

 

俺に言わないということは取り敢えず、今は言う必要のない事なのだろう。

 

それなら、俺が気にしたところでどうもならん。

 

俺も、母さんとなのはの二人に行ってきますと告げ、学校に向かった。

 

 

 

 普段徹は徒歩通学だが、今日は俺たちに合わせて、学校が出しているバスに乗って通学した。

 

家から結構な距離があるのだが、徒歩ってどうやって学校に来ているのか。

 

 教室に入ると、騒がしくしていた生徒が一様に静かになった。

 

徹は小さく舌打ちして、自分の席に着く。

 

 一応明言しておくが、徹は決して嫌われているわけではない。

 

入学して早々に、忍にしつこく絡んできたやんちゃな先輩達を殴り飛ばしてしまったことが原因で、すこし距離を置かれているだけで、そこまで酷い印象を持たれているということではないのだ。

 

だが、入ってすぐの一年生が三年生達を一方的に殴りつけたのと、少し怖く見える顔と雰囲気のせいで、あまり近づく人がいないのもまた事実。

 

結局、徹の近くにいる人間は学校内では基本、俺と忍の二人しかいない。

 

たまに何かを話しに近付く物好きな生徒もいるが、それはごく少数派だ。

 

徹の事を格好いいと褒める生徒もいるのだが、こそこそと小さい声でそのやりとりをしてしまっているため、本人は悪口を言われているとしか思っていないようだ。

 

 本日の授業の前半を消化し、今は昼休み。

 

窓際の後ろの端っこが徹、その前の席が俺なので、いつも忍を加えて三人で昼食を摂っている。

 

飲み物を忘れたので、自販機でお茶を買い教室に戻ると、なにやら二人は窓の外を見るようにして話し込んでいるようだった。

 

「はぁ、徹はほんと小さい子が好きね」

 

「その言い方だと深刻な勘違いをされかねないから、一刻も早く訂正してもらおうか。俺は子どもが好きなだけだ」

 

 どうやら昨日、なのはを泊めた時の話をしていたらしい。

 

忍の発言に、教室に残っている生徒が少しざわつき、更に徹の言葉でざわめきが大きくなった。

 

教室の反応に興味がないのか聞こえてないのか、二人は話を続ける。

 

「それあまり意味変わってないじゃない。なんなの? 小さい子にしか興奮できないの?」

 

「それだと俺、変質者じゃねぇか。可及的速やかな撤回を求める。俺が言いたいのは小さい子って可愛いなってだけだ。性的に興奮するか、なんて話はしてねぇよ」

 

 もう教室はパニック寸前なのだが、反応が面白いので見守ることにしよう。

 

二人は淡々と話すのに、周りが動揺している光景は見ていてすごく面白い。

 

「背が低かったら可愛いってこと? なら鷹島さんは? あの子、小さくて可愛いわよね」

 

「鷹島さんは可愛いな。背の低さもそうだがあの人、ちょっと前に校内で迷子になって涙目になっちゃってて、すごい可愛かった。もう高校に上がって二日も経ってるんだから、早く覚えなきゃ駄目だよって注意して、案内したこと憶えてるわ。俺超良い人じゃね?」

 

「高校全体の見取り図を、入学時点で記憶しているあんたと比べるのは酷な話よ」

 

 急に自分の話になって、その上、恥ずかしいエピソードを暴露されてしまった鷹島綾音さん(身長おそらく150cm以下と推測される)は、弁当箱を持ったまま顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 

このクラスのマスコットキャラになりつつある、鷹島さんの武勇伝が挟まれたことで教室内は少し和んだ。

 

 徹は記憶力もそうだが、計算の速さにも目を見張るものがある。

 

つくづくそう感じたのは、バイトの説明の時だった。

 

翠屋でバイトを始めた当初にはレジ打ちも教えたのだが、幾つもある商品とその値段を一回見ただけで記憶し、会計ではレジを打たずに会計金額を出した。

 

俺が、レジで入力するよう指示を出すと、徹は事もあろうに″あっそうかレシート出さなきゃいけないんだ″と言ってレジを打った。

 

そのでかい機械はレシートを出すためだけの機械じゃない、と突っ込んでやりたかったが、お客さんの手前、できなかったのが今でも心残りなくらいだ。

 

当然のように会計は、最初に口にした金額で合っており、それは何回やっても変わらなかった。

 

持って来られた商品を見て、即座に暗算で値段を弾き出してお客さんがお金を用意している間に、レジをかたかたと打ち、代金を受け取りレシートとお釣りを渡す、という限りなく高効率で仕事をこなした。

 

だが、あいつがレジ打ちをしたのはその日が最初で最後だった。

 

顔が怖くて愛想がない(ように見える)ので、お客様が怖がってしまったのだ。

 

その事を説明した時の徹の顔が目に焼き付いてしまい、それから数日間は思い出すたび笑ってしまった。

 

少し話がずれてしまったが、それほどまでにあいつは見かけによらず優秀ということだ。

 

 あの二人はどうやらまだ、鷹島さんの話を続けているようだ。

 

「以前、鷹島さんに数学を教えて欲しいって言われてさ。俺、高校に上がって頼まれたことなんてなかったから快く了承したわけよ」

 

「あんたにものを頼む人なんて、中学でも、なんなら小学校にもいた記憶がないわね。すごいわね鷹島さん、私ならできないわ」

 

「喧嘩売りたいんならそう言ってくれ、いつでも買うから。そんで、鷹島さんノート持っててこてこ歩いてきたんだけどさ、開いてみたら数学じゃねぇの。さすがの俺も驚いたぜ、連絡帳だったんだ。しかも、表紙みたらvol.10って書いてあった。たぶん一年に一冊って感じで使ってんだろうな。あの時の鷹島さん、顔真っ赤にしちゃって超可愛かったなぁ」

 

 お前が口を開くたびに、お前の後ろにいる鷹島さんが現在進行形で顔真っ赤にしてるんだけどな。

 

お前ら2人は、窓の外を見てるせいで気付いてないだろうが。

 

それよりも鷹島さんの話しすぎだろう、どれだけお前ら鷹島さん大好きなんだ。

 

彼女の話になってから、教室の空気緩みっぱなしだぞ。

 

「なんでもメモするなんていいことじゃない。でも、高校生で連絡帳持ってて許されるのは彼女くらいね、すごく可愛らしくて好印象だわ。そういえば私も似たような話あったわね」

 

「そっちの話も聞かせろよ」

 

「前、自販機に飲み物買いに行ったのね。そしたら鷹島さんがいて、勉強教えてもらったお礼に奢りますって言うのよ」

 

「あぁ、結局お前に教えてもらったのか。俺の時は連絡帳持って走って帰っちまったから、どうしたのか心配だったんだ」

 

「いえ、私の時は確か古文だったと思うけれど。数学はどうしたんでしょうね」

 

「数学まさか放置しちゃったのかよ、また今度聞いてみるわ」

 

「えぇお願いね」

 

 話が脱線しても、鷹島さんに傷が入る仕組みなのか。

 

もうそろそろやめてあげてくれないか、鷹島さん恥ずかしそうに縮こまってる。

 

「話戻すけど、彼女が奢るって言うから断るのも悪いなって思って私、それじゃあ紅茶をお願いねって頼んだのよ。それなら自販機の下の方にあったし、届くかなって思って」

 

「忍、そこまで考えて紅茶にしたのか、優しいな」

 

 優しい人は、鷹島さんがこんなに小さくなってしまうまで、人の赤っ恥エピソードを話し続けたりはしない。

 

公開処刑みたいなものだろう。

 

「そこまでは良かったんだけど鷹島さん、こっち向いて喋りながらボタン押すものだから間違えちゃってね。でも彼女それに気付かないで、すごくいい笑顔で渡してくるものだから私も、ありがとうって言って受け取る他なかったわ」

 

「そら無理もねぇよな。俺だって、鷹島さんに笑顔で渡されたら熱湯だって飲んじまうわ。で、渡されたのは何だったんだ?」

 

「おでん缶」

 

「くふっ、な、なんでそんなもん置いてんだよこの学校っ。鷹島さんもなんで気付かないんだっ。注文と正反対過ぎるぞ」

 

「ありがたく全部頂いたわ」

 

 もともと小柄な鷹島さんが小さく縮こまってしまったせいで、さらに小さく見える。

 

そのうちこのまま小さくなって、消えてなくなってしまうかもしれない。

 

そろそろ終わらせないと、と動いた時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 

鷹島さんは一命を取り留めたようだ。

 

「あれ? なんの話してたんだっけか」

 

元の話も大して中身のない話だったから、忘れたままで構わんだろうが。

 

「さぁ? 早く片付けましょ。それにしても恭也遅いわね、どこまで買いに行ってるのかしら。お昼休み終わっちゃったのに」

 

あ、俺が昼飯食うの忘れてた。




何が理由かわかりませんが無駄に長くなってしまいました。
一応戦うばかりではなくて、日常があって戦いもあるというのを表現したかったのにどうしてこうなったのでしょう。

主人公のクラスでマスコットキャラ化している鷹島綾音さんについて
背が低く、それに引っ張られているのか少々子供趣味。
天然さん。妹がいる。
ふわふわした人。
もしかしたら主人公の日常感を出したい時にはまた登場するかもしれません。
少なくとも次の話には出てきます。


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08

またオリジナルキャラクターが出ます。
今回は二人です、名前だけですが。

そして今回は読みづらいという意見があったので試験的に文章の間を空けてみました。
以前と比べてどちらが読みやすいか申し訳ありませんが感想頂けるとありがたいです。

それよりも鷹島さんの反響が意外に大きくて少し驚きました。
愛されてますよ鷹島さんよかったね。



 鷹島綾音は逢坂徹に助けられたことがある。

 

 

 

 

 昼休みに自分の話をいっぱいされて恥ずかしい思いをした時はそれはもう、教室にいるのがつらいと思うほどでした。

 

テスト前に友達に教えてもらった、針のむしろという言葉の意味がようやく理解できました。

 

ですが同時に、可愛いと何度も褒められたことで気分が良くなってしまい、昼休み以降の授業の内容が頭に入ってきませんでした。

 

あ、授業の説明が頭に入らないのは割りといつものことなので、あまり変わりはありませんでした。

 

いつもより集中力が欠けている頭で、高校に入学してすぐのことを思い出します。

 

 

 あれは、逢坂くんが言ったように高校に入って二日目のこと。

 

でも少しというか、大事なところが違っています。

 

あの時、グラウンド脇に咲いている桜を友達と歩きながら見ていると、はぐれてしまい迷子になったところまでは一緒ですが、そこでわたしは、制服を着崩して派手な髪色をした先輩方に絡まれてしまったのです。

 

先輩方が、わたしを囲むように近付いてきて少し不安になりましたが、俺たちが案内してやるからと言ってきたのでついていきました。

 

すると先輩方は校舎の裏、木々が生い茂り、少し薄暗くなっている所で止まりました。

 

なぜここで足を止めるのだろう? と思いきょろきょろと見回しますが、先輩方は――言い方は悪いですが――なにやら気持ちの悪い笑みを浮かべているだけです。

 

後ろにいた赤い髪をした先輩が、わたしの肩に手を置き、顔を近付けて、

 

「ちゃんと案内してやるよ、まずは俺たちと仲良くなってからだけどぅふぁ」

 

と、日本語かどうかもわからない言語を話しながら、近くの草むらへ勢い良く突っ込みました。

 

わたしの前にいる先輩数人も、驚いたように目を見開いています。

 

いきなりのことで何がどうなったのかわからず、後ろを振り向きますが誰もいません。

 

どうしたものかと悩んでいると、がさがさと草むらの方から音が聞こえました。

 

前に向き直ると、先程までいた何人かの先輩も全員いなくなっています、本当にどうしましょう。

 

先輩方に連れられてここへきたので、知っている場所へ戻る道もわからず途方に暮れていると、すぐ横から声がしました。

 

「鷹島さん……いくらなんでも無用心過ぎるぞ。俺がここに来なかったら、自分がどうなってたか理解してる?」

 

「わひゃうっ!」

 

いきなり声をかけられ驚いてしまいました、いつからここにいたのでしょう。

 

「えぇと、ま、迷子になっていたと思いますっ」

 

質問に答えましたが彼が期待した答えではなかったのか、深いため息をつかれました。

 

奇遇ですね、わたしもため息をつきたいところだったのです。

 

「よく一緒にいる二人はどうしたの? たしか長谷部さんと太刀峰さん」

 

なぜこの人は私の交友関係を知っているのでしょうか、もしかして同じクラスの人だったりするのでしょうか?

 

もしそうだとすれば、迂闊なことを言うと恥をさらしてしまうことにもなりかねません、気をつけましょう。

 

「はぐれましたっ!」

 

よくお母さんから言われています、人と話す時は、はきはきと。

 

母のおかげで醜態をさらさずに済みそうです、ありがとうお母さん。

 

「かふっ……そ、そうかはぐれちゃったんなら仕方ないよな。ふふっ、わかるとこまで道案内してやっからついてきて」

 

少し笑われているようです、なんでしょう髪が跳ねてしまっているのでしょうか?

 

ともかくこれで家に帰れそうです、よかった。

 

そして思い出しました、彼は同じクラスの人でした。

 

すこし顔があの……怖くてそれに短気だという噂を聞いて友達二人から、あいつには近付いちゃダメだからね、と言われていましたが凄く良い人のようです。

 

お父さんに、人は外見で判断してはいけないと言われていたのに……自分が恥ずかしいです。

 

ですがこれは忘れていません、助けられたらお礼をする。

 

これに従い、わたしは少し前を歩く彼に感謝の意を表しました。

 

「ありがとうございます、今いる場所がわからなくて困っていたんです。助かりました、大阪くん」

 

「逢坂です」

 

恥の上塗りでした、もちろん謝り倒しました。

 

穴があったら入りたいとは、まさにこのことでしょう。

 

案内されている途中で、自分が通う学校の構造くらい把握しとかなきゃダメでしょ、と優しく叱られました。

 

その叱り方が、私に兄はいませんがなんだか、お兄ちゃんみたいだなぁ、って思ったのを記憶力が乏しいわたしでもしっかり憶えています。

 

 後日、この事をよく一緒にいる友達である、長谷部 真希(はせべ まき)ちゃんと太刀峰 薫(たちみね かおる)ちゃんに話すと、すごく心配されました。

 

二人が言うには、どうやら途中で会った先輩方はわたしにイタズラしようとしていたのだろう、ということらしく、逢坂くんが助けてくれなかったら大変なことになっていたそうです。

 

 道案内とは別に、もう一つ助けられていたとは……この恩を返すにはどうしたらいいのか、今でも悩んでいます。

 

彼はわたしとは違い、頭もよく運動もできるので恩返しする機会があまりにもありません。

 

現在の状況ではどうすることも出来ないので、今は仕方ないです、授業に集中することにしましょう。

 

 授業が始まっていたにも関わらず、未だに出してすらいなかった教科書を机の上に出して、先生の話を聞こうと意識を傾けた時に先生に言われました。

 

「鷹島ーお前が数学苦手だっていうのは先生わかってるけどなー、だからって堂々と英語の教科書出すのはあんまりだぞー、先生泣いちゃうぞー」

 

 先生の言葉にクラスメイトが笑う、逢坂くんも小さく笑っていました。

 

今日は、よく恥ずかしい思いをする日です。

 

恥のミルフィーユです、たぶん星のめぐりが悪いのです。

 

赤くなっているであろう顔を隠すため、わたしは下を向きました。

 

 

 

 

 授業が終わり担任のホームルームも終わり、今日はいろいろ運が悪いので早く帰ってしまおうと思い、仲の良い友人二人に挨拶して、鞄にあまり使った記憶がない教科書を入れて、さぁ帰ろうと思ったところで声をかけられました。

 

「鷹島さん、ちょっといいか?」

 

先ほどまでずっと考えていた逢坂くんに引きとめられましたっ!

 

「は、はい! なん、なんでごじゃいましょんっ!」

 

 いきなりのことで緊張してしまい、ちゃんと喋れているかわかりません。

 

笑っているということはちゃんと喋れていなかったんですね、そうですね。

 

「前に数学教えて欲しいって言ってたじゃん? あれどうなったのかなって昼休みに思い出してさ、さっきも数学の授業中に面白いことしてたし、ちょっと不安になってな」

 

 えぇ、お昼休みに思い出したという事はわたしも知っています。

 

わりと近くの席にいましたから、聞いてましたから。

 

 それにしても逢坂くんは優しい人です。

 

噂では悪鬼羅刹とか、彼が歩けば血の河ができる、とか言われていますがとんでもない。

 

そんなもの根も葉もないただの噂、真っ赤な嘘です。

 

こんなにも、ただのクラスメイトであるあたしを、心配してくれる人が悪い人なわけありません。

 

「す、数学ですか……えっと、まだあの、あんまり……」

 

 勉強は苦手です。

 

特に数学と英語と古文と体育と、あれいっぱいありますね、それに人の名前を憶えるのも苦手でした。

 

「やっぱり放置してたのか、聞いといてよかったよ。また今度予定空けるから、その時一緒に勉強する?」

 

「は、はい! おねがいしますっ!」

 

 勉強を教える、ではなく、一緒に勉強する、と言うあたりに彼の気配りが感じられます。

 

 はっ! 今気付きましたが、これは恩を少しでも返すチャンスでは?

 

せっかく話しかけてもらったのです。

 

この機会にお茶にでも誘って少しでも恩返ししていかないと、いつか返し切れない程に膨れ上がってしまいそうです。

 

お父さんから、借りたものはしっかり返しなさい、と言われています。

 

借りたものを返さない人は信用されなくなる、とのことでしたので、しっかり恩も返していかなければっ!

 

わたしのなけなしの勇気を振り絞って、帰りに一緒にお茶でもどうですか? と尋ねると、二つ返事で快く了承してくれました。

 

 まだ帰っていなかったクラスメイトの視線が、今になって気になり始めてまた少し恥ずかしくなりましたが、今は心に湧き上がるわくわく感の方が上回っていました。

 

今日は運がいい日みたいですっ!

 

 

 

 

 

 

 鷹島さんに声をかけたら、なんやかんやでお茶することになってしまった。

 

 俺としては、学校の帰りに可愛い同級生と少しの時間とはいえお出かけなんて嬉しい限りだが、後のことを考えると喜んでばかりもいられない。

 

忍は、にやにやといやらしく笑っていたから後日、根掘り葉掘り聞かれることになるだろうし、恭也は複雑そうな顔をしていたから、これからの展開次第で面倒なことになる。

 

恭也が、この事をなのはあたりにリークすると茶色のロケット砲(なのはタックル)が火を吹くことになる。

 

学校内でも懸念がある。

 

今日は早々に帰ったようで教室では姿を見なかったが、鷹島さんの両脇を固める鷹島さんの友人二人の耳に入れば、今後絡まれることになるかもしれない。

 

誰が呼んだか、(鷹島さん)を守る二振りの刀こと、長谷部さんと太刀峰さんだ。

 

あまり彼女たちは、俺に対して良いイメージを抱いていないようだから、今日のことを知られると、これまためんどうな事になりそうだ。

 

 だが構わない。

 

厄介な事柄は明日に丸投げして、今は目一杯楽しめばいいのだ。

 

「どこ行くとかって決めてんの?」

 

「はいっ、美味しいケーキと質のいい紅茶を出すお店があるって真希ちゃんに聞いたので、そこにしようかなって!」

 

 たしか長谷部さんの下の名前が真希だったな、やはり女子はそういう甘味系の話に詳しいもんなんだな。

 

 実に楽しそうに、にこにこと笑いながらこちらを見てくる。

 

身長差のせいで、彼女は見上げるような形になっているが、それがまた素晴らしいな。

 

大きくて丸い目をぱちぱちさせ、笑顔で話す彼女は小動物のようですごく愛らしい。

 

「そんな店があったのか、なんていうトコなんだ?」

 

えっとねぇ確か、と区切って彼女はいつも通りの、はきはきした聞き取りやすい声で元気良く教えてくれた。

 

「翠屋っていうところですっ!」

 

 俺は今日、死んじまうかもしれない。

 

そうだよな、今では翠屋はこの辺りでは有名な店になっている。

 

それなら、話に上がることくらいあって当たり前か。

 

 俺が、件の翠屋で働いていることは恐らく知らないのだろう、いろいろと説明してくれているが全部知っている。

 

なんなら、メニューの頭からケツまで暗唱できるくらいだ。

 

「それでですね、真希ちゃんが言ってたんですけど、そこって高町くんのご家族がやってるお店らしいんです! すごいですよねっ」

 

 どうしよう、別に今日は俺のシフトはオフになってるし行くのは問題ないのだが、鷹島さんと二人で行くとなると桃子がなにかしらちょっかいを出してきそうだ。

 

「逢坂くんは甘いものとか大丈夫ですか? 種類もいっぱいあるらしいので、甘いの苦手でも食べれるものあると思うんですが」

 

 いつもよりテンションが高くこんなに楽しそうにしている鷹島さんに、そこは行きたくない、なんていまさら言えないし……

 

仕方ない、覚悟を決めるか。

 

結論を出したところで彼女の鞄から、軽快なテンポの音楽が流れてきた。

 

 この年齢の子にしては珍しく、出ていいですか? と一言声をかけて了承を得てから電話に出た。

 

こういうことを自然にできるのは、ご両親の教育の賜物だな。

 

「どうしたの、彩葉(いろは)? なにかあったの?」

 

 彩葉……知らない名前だな、学校の友達ではなさそうだ。

 

鷹島さんの喋り方からして、恐らくは家族だろう。

 

「ちょっと……どうしたの? 泣いてたらわからないよっ」

 

 にわかに話がきな臭くなってきた。

 

鷹島さんが時間をかけてゆっくりと話を聞いた結果、どうやら妹さんが家で飼っている猫を散歩中に逃がしてしまって、必死で探したけど現在行方不明なのだそうだ。

 

 猫を散歩につれていくとは……さすが鷹島家、常識の外にいる。

 

「あ、あの逢坂くん……と、とても言い辛い……んですけど……」

 

 通話を切った鷹島さんは今にも消え入りそうな声で、申し訳なさそうにしている。

 

彼女がとても優しい人というのは知っている。

 

この人はきっと家族にも、いや家族ならなおさら優しいのだろう。

 

このようなシチュエーションで、そんな人が言うような事は分かり切っている。

 

「鷹島さん、連絡先教えて。俺も探すから」

 

 そして俺は、そんな人を放って置けない性分なのだ。

 

今日がバイト休みでよかった、時間をかけて探すことができる。

 

 と、ここでユーノからいきなり念話が入った。

 

今日の朝に教えて貰ったものなのでちゃんとできているか心配だったが、問題なく使えているようだ。

 

《徹兄さんいきなりですいません! なのはがジュエルシードの反応を拾ったみたいでレイジングハートを持って一人で行ってしまいました!》

 

 わ、悪いですからっ、わたし一人でも大丈夫ですからっ、と遠慮する鷹島さんと押し問答しながら、ユーノと念話を続ける。

 

しかし困ったな、どちらもやるとなると時間が足りないかもしれない。

 

どちらかを優先すべきかと考えていると、念話でユーノから新しい情報が入った。

 

《レイジングハートから送られてくる情報によると、ジュエルシードは猫の願望を読み取り一体化したみたいです! 近くに飼い主と思われる小学生くらいの少女が倒れているので、早く助けないと少女が巻き込まれる恐れがあります! なるべく早く向かえるようお願いします!》

 

 にゃーるほど、奇跡的な可能性だけど繋がるもんなんだな。

 

合っているとは思うが一応確認をとる。

 

「鷹島さん。妹さんって、今何歳?」

 

「え、えと、9歳ですけど……」

 

 ビンゴ、これならなんとかなりそうだ。

 

不安そうにしている鷹島さんの頭に手をおいて、安心させるように優しく撫でる。

 

「心配しなくていい、こういうのは案外あっさり見つかるものなんだ。俺は外を探すから鷹島さんは家に帰って探してみて。もしかしたら、猫が自分で家に帰ってるかもしれないから」

 

 鷹島さんは落ち着きを取り戻したようで、小さく、こくりと頷いた。

 

 おとなしくなった彼女に、見つかったら連絡するから家で待つように、と言いくるめて俺は走った。

 

目的地はなのはが向かった場所。

 

やるべきことは明確だ。

 

猫と一体化したジュエルシードを封印し、猫を保護する。

 

 仕方ないとは、いえ一つだけ心残りなのは鷹島さんと下校デートができなくなったことだ。

 

同級生の可愛い女子と学校の帰りにお茶するなんて、もう一度あるかどうかわからないレアなイベントがキャンセルになってしまったのだから、残念どころの話じゃない。

 

 この悲しい男心を置き去りにするように、俺は目的地まで全力疾走した。




次は久し振りに戦闘シーン書けそうなので今からうずうずしています。


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09

 海鳴自然公園。

 

ここではボートに乗って湖に出たり綺麗に整備さえた林道を遊歩したり、とよくデートコースに選ばれる場所である。

 

ユーノによれば、周りは木が鬱蒼としているとのことだったので自然公園の奥のほうだろう。

 

 念話で情報交換しながら俺にできることを纏めておこう、現場に着いたらすぐ動けるようにな。

 

まず俺が使える魔法、これは今のところ三つしかない。

 

一つ目は昨日の夜、晩飯を作っている時にユーノが教えてくれた防御の為の魔法。

 

いくつか種類があるようだが、俺が昨日使ったのは平らな障壁を前方に張るというもの。

 

これの適性も中途半端なので、実戦に耐えるほどの強度があるかどうかは実際に使ってみなければわからない。

 

二つ目は現在進行形で使っている念話で、通信用の魔法なので戦闘においては直接的な効果は見込めない。

 

三つ目は今朝、なのはを高町家へ送っている時に教えてもらった『ちゃんとした』魔力付与の魔法。

 

これは自分の身体や得物に魔力を流し込んで強化するというもので、近接戦闘用の身体強化魔法と捉えてしまっても問題はないだろう。

 

なぜこれを教えられたかというと、これが一番適性が高く『今は他を均等に伸ばすよりも一つでも得意な事を作ることを優先した方がいいだろう』という結論に二人ともが至ったから、というのが理由の一つ。

 

もう一つ理由は、俺が思念体と戦ったときに使った身体強化は無意識に使っていた為、どういう理屈で発動しているのかわからず不安だったからだ。

 

 三つの魔法しか知らない今の状態で戦闘を行うとなると、基本は魔力付与による身体強化状態をベースにして、防御の障壁を張りつつ近付いて殴るというかんじになるだろう。

 

野蛮な戦い方だなぁ……

 

 目的地の周辺に到着したのだが……詳しい場所がわからない。

 

ユーノに愚痴にも似た念話を送りそうになったが、その必要はなくなった。

 

大きな衝撃と地響きが俺の元へと届いたからだ。

 

その発信元を辿れば、いた。

 

 凶悪な顔に大きな牙、よく発達した筋肉が皮膚の下に隆々と見える、四つの足には鋭い爪が生えている。

 

あれ? 子猫っていう話だったような気がするんだけど。

 

こんなに立派に大きくなって……お前の願いは大きくなることだったのか?

 

 大きな子猫の周囲をなのはが飛んで射撃やら砲撃やら行っている、戦闘はすでに始まっていた。

 

なのはが注意を引きながら距離を取ったのだろう、今はあの大きな子猫から少し離れたところに例の飼い主である少女が倒れている。

 

 なのはがこちらに気付いたようなので指示を飛ばす。

 

「なのは、もうしばらくそいつ頼むわ。俺は倒れてる飼い主の子を安全な場所に寝かしてくる」

 

「あんまり遅いと徹お兄ちゃんが帰ってくる頃には終わっちゃってるかもだからねっ!」

 

なのはは調子の良いことを言いながら了承してくれた。

 

 大きな子猫、略して大猫の動きを警戒しながら少女へ近付いて抱きかかえる。

 

よかった、特にけがはしていないようだ。

 

大方、飼っている子猫を探している時にジュエルシードで大きくなった猫を見てびっくりして気絶、とかそんな流れだろう。

 

俺の記憶通りならここからちょっと行った所にベンチがあったはずだ、そこに寝かして置けば安全だろう。

 

「んぅ……なに、だれ……?」

 

 やべ、これは考えていなかった。

 

ここで起きて暴れられでもしてしまうと、なのはの援護に向かうのが遅れるだけでなくこの子も危険に晒すことになる。

 

きぃん、と頭の回転率を上げてどう言いくるめようかと答えを探す。

 

「彩葉ちゃん、だよね? 俺は君のお姉ちゃんの友達なんだ。俺が君のお家の猫を探してくるから君はもう少し休んでて」

 

 なるべく優しい声で喋るように心掛ける。

 

自分の名前を知っているのと自分の姉の友達ということが安心できる材料になったのか、小さく『うん』と答えるとまた眠りについた。

 

よかった、なんとかなった。

 

彩葉ちゃんをベンチに寝かせて、身体が冷えると大変なので俺が着ていた上着を掛けておく。

 

 失礼とは思いつつ、寝ている彩葉ちゃんの顔を覗きこむ。

 

姉妹とはいえ顔のつくりとかパーツ似過ぎだろう。

 

鷹島さんが小さくなっちゃったんですとか言われたら信じそうなレベル。

 

 可愛い女の子の寝顔は名残惜しいが、踵を返すように戦場へ戻る。

 

あそこにはなのはがまだ一人残って戦っているんだからな。

 

 魔力付与を足にまわして駆けると、木々が恐ろしい程の速度で俺の横を流れていくが気にせず走る。

 

今さらこの程度で怯む俺ではない。

 

魔法も使って全力疾走したのですぐに現場に着いたのだが、どうしよう……俺の出番なんてないかもしれない。

 

 なのはは一人で――とは言っても一応ユーノの助言やフォローもありながらだが――大猫を追い詰めていた。

 

大猫を見下ろすように空中を浮遊している。

 

なんかSっぽい空気が出てない? なのはさん大丈夫?

 

 大猫の自慢だっただろう牙は片方折れているし、身体には浅くはない傷がついている。

 

爪もなのはの障壁に阻まれたのかボロボロになっている。

 

 俺いらねぇじゃん……と落ち込んでいたが、ちらりとなのはの背後に光が見えた瞬間、俺の身体は考えるより先に動いた。

 

「えっなにっ?」

 

 驚いた様子を見せるが俺には言葉を返す余裕はなく、地面を蹴って跳躍しなのはの背後に迫り来る魔法弾を障壁を張って防いだ。

 

だが俺の張った障壁は一発目を弾き、二発目で罅が入り、三発目で砕けた。

 

脆い、脆すぎるぜ俺の防御魔法っ!

 

まさか遠距離から放たれた射撃魔法三発で綺麗に四散するとは……使い物にならんな。

 

 どうやら射撃魔法は五発あったようで、残りの二発のうち一発は照準がずれたのか逸れていったがもう一発は俺の障壁の残滓を掻き分けながら俺の脇腹に突き刺さった。

 

飛行魔法を使えない俺は空中で踏ん張ることもできず、射撃魔法の勢いに押されてなのはの横を通り過ぎるように落ちた。

 

 俺、かっこわるいなぁ。

 

真っ青な空を背景にしているなのはを見上げ、心の底から情けない気持ちになる。

 

地を這う虫は、優雅に空をはばたく鳥をこんな心境で見ているのかな。

 

「徹お兄ちゃんっ!」

 

「ダメだなのは! 油断しないで!」

 

 俺を心配し、寄ってこようとするなのはをユーノが窘める。

 

そうだ、それが正しい。

 

襲撃を受けたのだ、ここから追撃される恐れがある。

 

大猫も傷付いているとはいえ封印はまだされていない、動ける状態なのだから。

 

 それよりも、だ。

 

さっきの射撃魔法はジュエルシードを封印しようとしていたなのはを狙っていたのだから、それはつまり。

 

「なのは、第三者の介入が入った。俺がその未確認の相手をするから、お前はさっさとその猫のジュエルシードを封印しろ」

 

「そんな……徹お兄ちゃんケガしてるのに……わ、私がどっちも倒すからっ」

 

「いや、今のなのはじゃどちらも相手するのは不可能だ。未確認の敵は徹兄さんに任せてなのはは早くジュエルシードの封印を!」

 

 ユーノは今のこの状況をよく理解している。

 

俺が使える魔法ではジュエルシードを封印することはできない。

 

なら俺が大猫の相手をするのは時間の無駄にしかならない。

 

先ほどの射撃魔法の質や威力をかんがみて、未確認相手に俺が勝てる可能性はほぼゼロだろうが時間稼ぎに集中すれば、俺の力でもなのはが封印する位の時間は作れるだろう。

 

ジュエルシードを封印し、なのはが合流すれば勝てる見込みもあるかもしれない。

 

とまぁこういう、穴だらけの計算なわけだ。

 

突発的な非常時に私情を挟まない判断ができるのは冷静に状況判断が出来ている証だ、ユーノはやはり優秀だな。

 

「ユーノの言ったとおりだ。心配すんな、お前が速攻で大猫のジュエルシードを封印したらいいだけなんだからな。最悪、第三者とは戦う必要もないんだぜ」

 

なのはが空にいて、俺は地上にいるため見上げる形になっている。

 

これが実力の差を表しているようで、心に暗い感情が顔をのぞかせた。

 

心の裡を悟られぬように笑顔をつくる、引きつってなければいいけど。

 

「俺は俺に出来ることをするだけだ。だからなのは、お前はお前にしか(・・)出来ないことをしろ」

 

 なのはは少し口を開けて何かを言おうとしたようだが、結局何も口に出すことはないまま力強く頷いた。

 

言いたいことがなくはない様子だが俺の意を尊重してくれたのだろう。

 

「よし、じゃあ反撃だ。ユーノはなのはについていてくれ、フォローを頼む。レイハ、二人を頼んだぞ」

 

「ん……わ、わかりました」

 

『誰に向かって言っているのですか、任せてください。そちらも決して油断しないように』

 

 ユーノはすこし躊躇したようだが是としてくれた。

 

どうせ俺の身を案じているのだろう、ユーノは心配性だからな。

 

レイハはいつものように不遜な態度を取りながらも、こちらを心配してくれた。

 

いつもこのくらいの物腰なら俺のガラスのハートも傷付かずに済むのだが。

 

「ユーノ、なのはを任せる。レイハぁ、いつだって俺には油断できるほどの余裕なんてねぇんだよ。じゃ、そういうことだ。頑張れよなのは」

 

 重たくなる空気を軽い言葉で取っ払い、おのおの自分のすべきことを成すため動く。

 

なのは達は大猫に、俺は突然現れた乱入者に。

 

さぁて、せいぜい頑張りますか。

 

 

 

 

 魔力付与を全身に行き渡らせ木を蹴りあがってそのてっぺんに立ち、闖入者の姿を捉えた。

 

わお、思った以上に若い子でした。

 

どのくらいだろう、だいたいなのはと同い年くらいかちょっと上か?

 

年下の子ほど俺より優秀という事実、泣きたくなるぜ。

 

整った顔立ちで金髪のツインテールのロリっ子とか、キャラ詰めすぎだろ。

 

可愛いんだけど、でもなんだろう……なんか、な。

 

その子の服装は……どう言えばいいのか。

 

黒のスク水にベルトで前が開いているスカートを取り付けて、その上から裏地が赤のマントを羽織っている、そんな感じの衣装(バリアジャケット)

 

目の毒だな。

 

その華奢そうな手には、冷たい敵意を感じる、斧のような黒いデバイス。

 

「君がさっきの射撃魔法を使ったってことでいいんだよな」

 

「気付かれる前に堕としたかったけど、仕方ない。バルディッシュ」

 

 言い終わると同時にその手に携えた斧のデバイスが形を変え、金色じみた魔力刃を長く伸ばして死神の鎌のような形状になった。

 

 会話が成立していませんな。

 

だが俺の最優先事項は時間を稼ぐことなので、望みは薄くとも話しかけ続ける。

 

「問答無用で攻撃したことは気にしていない。一番良い勝ち方は戦う前に勝つ、だからな。でもこうやって姿を現したのならもういいんじゃねぇの? 説明くらいしてくれたってさ」

 

 かすかに俯きしばしの間、沈思黙考し顔を上げた。

 

「ジュエルシードが必要、ただ……それだけ」

 

 なんか事情があるんだろうな、こんな小さいのにこんなことしてんだから。

 

でもこちらとしても退くわけにはいかない。

 

「それだけじゃなんもわからねぇよ、ひとまず下りてゆっくり話そう。俺たちにもなにか出来ることがあるかもしれねぇから」

 

 それとなく武器を収めて話し合いに持ち込もうとするがたぶん無理だろうな、この子の目を見れば分かっちまう。

 

すべてを失ってでもやり遂げなければいけないことがある、そういう決意を秘めた瞳。

 

「話し合いに……意味はないから」

 

 だよね、分かってましたよ。

 

その言葉を皮切りに、俺と謎の少女との本格的な戦闘が始まった。

 

まったく、俺の知ってるちびっ子は全員なにか抱えてんなぁ。

 

「ケガさせちまったらごめんな!」

 

 飛行魔法による急加速で俺の目前まで接近してきた彼女は、鎌の形を成した魔力刃で袈裟切りに斬りつけてきた。

 

なので俺は木のてっぺんを蹴り、恐怖を飲み込み、鎌の攻撃範囲のさらに内側に入り柄の部分を握りこむ。

 

そして相手の動きに合わせて後ろに倒れこみ、地面に叩きつけるつもりで思いっきり投げた。

 

 少女は飛行魔法を使い、地面に激突しないよう勢いを殺すがさすがに落下エネルギーも加えた勢いを殺しきれなかったのか、軟着陸するもたたらを踏んだ。

 

地面に大きな穴をあけるくらいの気持ちで投げたのだけれどこの程度とは。

 

 俺の攻撃手段に遠距離も中距離もない、あるのは両の拳が届く程の超近距離しかないのだから突っ込んでいく。

 

もともと、さっきの無茶な行動は地に足を着かせるためだ。

 

少しでも隙ができたのなら重畳、この流れを掴まなければ時間稼ぎすらできなくなってしまう。

 

 木を蹴り少女の元まで勢い良く落ちて、その落下エネルギーを乗せた飛び蹴りを叩き込む。

 

しっかりと直撃した感触があった、硬い感触が。

 

「この、無茶苦茶な人っ」

 

 俺の乾坤一擲の流星キックは二枚の障壁に阻まれ、少女まで届かなかった。

 

あのタイミングで障壁を張ったのかよ、判断も発動も早いな……

 

一枚目の障壁は蹴り砕いたが二枚目はひびが入る程度だった。

 

当然ながら身体強化の魔法は使っているが、少女の障壁と俺のにわか仕込みの魔力付与じゃそもそも練度が違う。

 

「フォトンランサー!」

 

『お任せください』

 

 少女は障壁を張りつつ射撃魔法を展開した。

 

全然喋らねぇからただの武器かと思ったが、あれもレイハと同じようなインテリジェントデバイスなのだろう。

 

 障壁を足場にすることで後ろへ宙返りし、放たれた魔力弾を回避する。

 

あの子は自分の周囲に魔力弾を連射する砲台のようなものを置いておけるのか、厄介だな。

 

距離を取ると不利になる。

 

ならば多少の被弾は覚悟して、障壁を展開しつつ接近する!

 

もう少し障壁の色を透明に近付けることができれば不意打ちにも使えるかもしれないが……今の俺では戦闘中、咄嗟には構築が間に合わず半透明くらいにしかならないのが悔しいけどそれを反省するのは後だ。

 

 俺が障壁を張りつつ近づいてきたのを見て少女が動いた。

 

発射体を増やして弾幕の密度を上げたのだ。

 

恐らくこう考えているのだろう。

 

「さっき数発受けただけで砕けたのだから弾幕で押し切れる、そんなところだろ?」

 

 少女はここで初めてクールな表情が崩れた。

 

なんだよ、そんな顔も出来んじゃねぇか。

 

「人間は常に進化し続けんだよ、その情報(データ)はもう古い!」

 

少女が放つ魔力弾、それをもう五発は受けたがまだ俺の障壁は破られない。

 

「障壁がさっきのより小さい……? まさか……っ」

 

 この子冷静な上に賢いな、頭の回転も早い。

 

この年でこれ程までに動けるんだから怖いなぁ。

 

「あぁ、だいたい君の想像通りだ。防御魔法の術式をいじった。表面積を減らして密度を上げたんだ、魔力の弾丸の射線上に障壁を合わせるのには気を使うけどな」

 

「そんなことっ……いつの間に……」

 

 俺は知らないことがあったらすぐに調べたくなる性分だ。

 

同じように、問題が発生したらすぐにそれを解決したくなる。

 

「君に障壁を破られた時から構築し直してた。間に合うかどうかはぎりぎりだったけど、なんとかなったぜ」

 

 あの時からずっと思考を回転させ続け――ユーノ曰く、俺がやってるように同時にさまざまな作業を行うことをマルチタスクと呼ぶらしい――喋りながら、戦いながら防御魔法の再演算と再構築を行っていたのだ。

 

いじれるところがありそうだなぁとは思っていたけど、まさか戦闘中にやることになるとは思っていなかった。

 

 少女が放つ魔法弾の連射を躱せるものは躱し、直撃するものは障壁で防ぎ、身体の末端部分に当たる程度のものなら我慢して突き進む。

 

もう拳が届く、この距離は俺の距離だ。

 

右の拳を振るう。

 

弾丸の雨を突き進んでつけた慣性と、全身の筋肉を駆使した捻転力と、残りの魔力のほぼすべてを注ぎ込んだ魔力付与、全部乗っけた拳を振るう。

 

「これが俺の全力だ! 持ってけぇ!」

 

 正真正銘、今俺が出せる力全てを使った一撃は、少女が慌てて張った三重の障壁を食い破った。

 

だがそこまでだった、障壁を破るのに掛かった一秒の十分の一程の時間。

 

その刹那で反撃されたのだ、そしてそれは少女自身が行ったものではない。

 

少女のバルディッシュとかいうデバイスが独断で、周囲に漂わせてあった魔法弾の発射体を暴走、爆発させたのだ。

 

当然少女にも爆発の影響はあるはずだが、俺の一撃と比較した時どちらのダメージが大きいかは明白だった。

 

それに加えて、薄いとはいえバリアジャケットを着用している少女とそうでない俺とは、爆発の影響が大きく異なっていた。

 

 まぁいろいろ言い訳を取り繕ったが、有り体に言って負けた。

 

少女は咄嗟の機転もしくは勘で、空中に逃げることにより爆発の衝撃のほとんどを流したようだ。

 

身体の中はわからないが、見る限りではバリアジャケットの一部を焦がした程度か。

 

 かたや、宙に浮かび多少ダメージはあったようだがまだまだ十分戦える少女。

 

かたや、直撃は避けていたとはいえ魔法弾を身体中に浴びた上に至近距離で爆発を受けた俺。

 

もはや勝負はついていた。

 

 今にも折れそうな膝を叩いて気合を入れなければ、身体が痺れて満足に立ってさえもいられない。

 

ふいに乾いた笑いがこぼれた、ほんと今日はいいとこねぇなぁ俺。

 

「逢坂徹だ。今度会う時はもう少しお喋りできるといいんだけどな」

 

「フェイト……フェイト・テスタロッサ……です」

 

 俺が自己紹介すると少女、フェイトも名前を教えてくれた。

 

「フェイトか…良い名前だな。今回はフェイトに勝ちを譲るが次は勝つからな、首洗って待っとけよ。バルディッシュ、だったか?お前もだ」

 

「ふふ、うん。楽しみにしてる」

 

『はい、了解しました』

 

 小さく笑う彼女はすごく輝いていた。

 

最初見た時の寂しそうな瞳は、少なくともこの瞬間だけはしていなかった。

 

俺から視線を外して地面を蹴り、宙を舞うように上昇していく。

 

バルディッシュがさようならと挨拶するように光を点滅させ、一人と一つは彼方へと飛んでいった。

 

方角からしてなのはのところだろう、ジュエルシードのこと忘れてなかったんだな。

 

「ユーノ、聞こえるか? 負けたわ、奴さんそっち行ったから」

 

ユーノへ一言念話を送り、木を背にしてしゃがみこみ俯く。

 

自分の力のなさや不甲斐なさにこれ以上、耐えられなかった。

 




もっといろいろ書きたかったしやりたかったこともあったのに表現出来ませんでした。
自分の語彙力の無さにうんざりする日々です。

主人公の障壁ですが魔力を行き届かせなければちゃんと透明にならないということにしました。

え、主人公は当然負けますよ?実力も才能も経験すら劣っているのに勢いだけで勝てるほど甘くはできていません。



次の更新は四月七日くらいを考えています。遅くなってしまい申し訳ありません。


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10

「ジュエルシード、封印!」

 

 何回か外しはしたものの砲撃を直撃させることに成功し、猫とジュエルシードの分離に成功した。

 

はぁ、と安心と疲労のため息をつき、動き通しだった身体を木を背にして休める。

 

周りは大猫との戦いで凄惨な残痕を作っていた。

 

猫が作った3筋の爪痕が、地面だけではなく木々にも残っている。

 

私が放った射撃魔法や砲撃魔法、大猫に当たらなかったそれらは地面に大きな穴を穿ち、元の状態とは大きく変貌を遂げてしまった。

 

これ……どうしよう……。

 

草むらを消し飛ばし、木立を圧し折り、大猫以上に環境に打撃を与えていそうですこし心配になってきた。

 

「なのは、徹兄さんから念話が来た! 未確認がこちらに向かってきて……」

 

 戦闘中も、色々とフォローをしてくれていたユーノくんが、声を張り上げた。

 

徹さんから念話で報告を受けたみたいだけど、その声が途中で途切れたため、疑問に思って目を向ける。

 

私の肩に乗っていたユーノくんが、小さな身体で精一杯跳躍してジュエルシードの前まで出て、突然障壁を張った。

 

『警戒してください、マスター』

 

 いきなりどうしたの? と声をかけようとした私に、レイジングハートが機先を制する。

 

二人ともどうしたんだろう、というのん気な考えは次の瞬間消え失せた。

 

「いい反応速度……」

 

 突如視界に飛び込んできた金色が、ユーノくんが張った薄緑色の障壁に黒い斧を打ち付けたから。

 

今の今まで、未確認の敵のことを忘れていた自分を、叱りつけたい気持ちになる。

 

なぜ、徹さんが自分と別行動を取っているのか。

 

なぜ、自分が急いでジュエルシードを封印しようとしていたのか。

 

すべては目の前の敵が、この領域に入ったからだったのに。

 

「なのは! ジュエルシードを早くレイジングハートに入れて!」

 

「う、うん!」

 

 動きが悪くなっていた頭がユーノくんの言葉でやっと回り、目の前の状況を処理し始める。

 

杖を握る左手を前に突き出し、ジュエルシードを取り込んでもらおうと近づけたけど、レイジングハートは取り込むよりも先に桜色の障壁を展開した。

 

未確認の敵はユーノくんの障壁を迂回し、接近してくる。

 

「やらせないっ……」

 

 金色髪の少女は、私が指示を出す前にレイジングハートが張った障壁を、力尽くで押し込みジュエルシードから遠ざけ、右足で突き上げるように空中へ蹴り飛ばした。

 

飛行魔法を使い、力の流れに逆らわないように上空へ上がることで威力を逃がす。

 

シールド越しでもかなりの圧力を感じた。

 

レイジングハートが咄嗟に防御をしてくれてなかったら、最初の一撃で墜とされてたかもしれない。

 

「ありがとね、レイジングハート」

 

『お気になさらず。それよりも目の前の相手です』

 

 大猫に抉られ私の魔法で弾け飛び木々が倒されて、その結果、小さな広場のようになった空間を眼下に収めて、こちらへ攻撃を仕掛けてきた敵へ目を向ける。

 

 太陽の光をきらきらと反射させる金色の艶のある長い髪はツインテールにしてまとめられている。

 

端整で綺麗な顔だけど今は苦悩の色が強い。

 

昔の、一人ぼっちでいた時の私のような寂しい目をした同い年くらいの少女。

 

 彼女が何のために、どういう理由でジュエルシードを集めているのかはわからない。

 

でもあんな……見ていて悲しくなるような目をしながら、辛そうに戦ってまで収集しようとしているということだけで、ジュエルシードを探すに足る相当な理由があるということは想像できる。

 

だから私は問う、きっと徹さんだって同じことをするだろう。

 

「君は、何のためにジュエルシードを探すの?! これは危険なもので……」

 

「この子も聞くんだ……あなたに教える義務も道理もない。どいて、邪魔するなら無理矢理にでも……」

 

 金色の少女は、私が言い切る前に言葉をかぶせた。

 

最初ぼそぼそと呟いてたから聞こえなかったけど、その後は、拒絶の意思を明確に表し、その手に持つ黒い斧を握りなおす。

 

斧についている金色の宝石のようなものが1、2回瞬くように光る。

 

「どかないんだ、わかった。行くよ……バルディッシュ」

 

 どかないもなにも、わけを聞かないとどうすることもできないよ。

 

何も声に出せない私を尻目に、彼女は斧をこちらに向けてきた。

 

彼女の周囲に金色の球状の光が3つ浮かんでいる、私でも攻撃に使われるもの、ということくらいはわかる。

 

「待って! 話をしたいだけなの! 戦う必要なんかないよ!」

 

「本当に……揃いも揃って、もうっ……。話してどうにかなるものじゃないっ」

 

『Fire』

 

 彼女の悲痛な叫びと、それを覆うようなタイミングでバルディッシュと呼ばれたデバイスが射撃魔法を発動させた。

 

3つの球状の光から放たれた槍のような形をした弾丸を、浮き上がるようにして回避する。

 

弾速は早くてもその軌道は直線、曲がったり追尾してくるようなものじゃないみたい。

 

なら、発射のタイミングさえ分かれば躱すこともできる、と思う。

 

 私のはるか後方へと飛翔していく魔力の弾丸は、二発が地面へぶつかり、一発は湖へと飛び込んだ。

 

地面にぶつかったものは、まるで畳を返すように木々を根っこからひっくり返し、砂埃を空高くまで巻き上げた。

 

湖へ向かった魔力弾は、爆弾でも爆発させたのかと思うほどに水柱を作った。

 

その威力を目にして、慄くと同時に舌を巻く。

 

「話を聞いてっ! 戦うつもりはないのっ!」

 

 もうあの子は言葉を交わすつもりはないのか、攻撃の手をゆるめようとはしない。

 

初めての空中での機動と実戦だからすこしふらつくけど、なんとか避ける。

 

3つの発射体は連続で発射することもできるようで、動きを止めると危なそう。

 

 ふと気づくと彼女の姿が見えない、発射体に気を取られて見失ってしまった。

 

発射体は遠隔でも操作できるんだ、すごい、あの子!

 

 背骨の代わりに氷柱を突っ込まれたような悪寒を感じて後ろを振り向くと、持っていた斧を大きな鎌に変形させた彼女の姿があった。

 

鎌の刃の部分は魔力で構成されているみたいで金色に輝き、彼女のバリアジャケットと相まって死神のそれのように見える。

 

反応が遅れたせいで防御魔法を使う暇もなく、杖の形体のレイジングハートで攻撃を受け止める。

 

「待ってよっ、戦うつもりなんて……」

 

「なら邪魔しないで、関わらないで。邪魔するならさっきの……徹っていう男の人と同じように墜とすしかなくなる」

 

 彼女の言葉に視界が赤く染まる。

 

これが頭に血が上るっていうのかな、初めての感覚だけど。

 

「徹さんにっ……徹お兄ちゃんに、何をしたのっ!?」

 

 この子は今なんて言ったのだろう、徹さんを墜とした?

 

強くて優しくて格好いい、私の光を傷付けたの?

 

「レイジングハートっ!」

 

『は、はいっ、カノンモード!』

 

 もういい……怪我するかもしれないけど、力尽くで話をしてもらうもん。

 

この子は話を聞いてくれないし、いきなり攻撃してくるし、なによりも徹さんを傷付けた。

 

この子がここにいる時点で、その考えに辿り着いてもおかしくなかったのに。

 

 徹さんは自ら、時間稼ぎを買って出てくれた。

 

それなら持てる力の全てをもって、足止めしようとするはず。

 

なのにこうして、この子が私と相対しているということは、徹さんは今『足止めできない状態にある』ということ。

 

徹さんは、少しくらいの怪我で自分の役目を放り出すような人じゃない、たぶんすぐに動けないほどにダメージを受けたんだ。

 

そして、そんな状態に追い込んだのは間違いなくこの子。

 

なら反省してもらう、という意味を込めて痛い目を見てもらうのも間違いじゃないはず。

 

 うんっ、これなら徹さんもユーノくんも許してくれるよねっ!

 

そろそろ我慢の限界なのっ!

 

「許さないんだからぁっ! ディバインシューター!」

 

 豹変した私の態度に驚いたのか彼女は少し固まっていたが、魔法の発動を即座に感じ取り距離を取った。

 

放たれた私の魔力弾は彼女をしつこく追い回すけど、速度に勝る彼女は、いともたやすく回避した。

 

別にそれはいい、だってそこまでは……私の思った通りなんだから!

 

「レストリクトロック!」

 

「なっ……捕縛魔法っ!」

 

 躱しても躱してもいつまでも、親の仇とばかりに執拗に追いかけてくる誘導弾を鬱陶しく思ったのか、鎌の刃で切り落としていた彼女の手首と足首に、桜色の捕獲輪がかかる。

 

誘導弾に集中してしまっていた彼女を、捕縛魔法の範囲内に移動させるのはそこまで苦労しなかった。

 

 この捕縛魔法は砲撃・射撃魔法と飛行魔法しかない私にレイジングハートが『これで動きを止めれば砲撃を当てやすくなります』と勧めてくれたもの。

 

これから練習しようと思っていて、まだろくに練習できてないけど……今は少しの間、自由を奪えればそれでいい。

 

身動きを封じられた彼女の目の前で、音叉の形をしたレイジングハートを突き出して宣告する。

 

「ディバインバスター!!」

 

『ちょ、この距離でですか!? でぃ、ディバインバスター!』

 

 4つの魔法陣の帯をレイジングハートにまとわせ、自分の前方一直線の空間を焼き払う。

 

視界が桜色に染まる、反動が身体を後ろに押すけど、足元の魔法陣を精一杯踏ん張って下がらないようにする。

 

この魔法はチャージする時間が長いのが難点だけど、その分、威力と貫通力はユーノくんの折り紙つき。

 

この距離なら一撃で墜としてみせる! 徹さんの痛みを、少しは味わってもらわないと!

 

 桜色の砲撃が数秒経って、光が細く小さくなり、消えた。

 

光が消えたとき、金色髪の彼女はどこにもいなかった。

 

「い、いない! なんでっ!」

 

 基本的に魔法は非殺傷設定、通称、スタン設定と呼ばれる状態になっていて、人の命を脅かさないようになっている、とユーノくんが教えてくれた。

 

さっきのディバインバスターで全身きれいに消し飛んだ、とは考えられない。

 

それに私自身の経験や努力が足りなくて、人を蒸発させるような出力はまだ出せないのに。

 

「少し焦りはしたけど……捕縛魔法が荒削りすぎる。抜け出すのにそう時間はかからなかった」

 

 自分より少し上空で、彼女の声がした。

 

視線を少し上げると、金色に輝いて回転しながら近づいてくるブーメランのようなものが、すぐ目の前に迫る。

 

その後方には、さっきまであった鎌の魔力刃の部分を瞬時に再生・回復している彼女の姿、ということは投げつけられたのはあの鎌の魔力刃みたい。

 

「プロテクション!」

 

 急いで障壁を張る。

 

これで魔力刃を弾き飛ばして、誘導弾を撃ちながら立ち回って、隙ができれば砲撃する。

 

頭の中でこれからどうするかを考えていたけれど、予期せぬところに致命的な穴があった。

 

「なんで、この刃っ……弾けないっ!」

 

 相手の攻撃を弾き飛ばして防ぐこの障壁で、ここまで食らいつくなんて……そういう性能を持った攻撃なの?

 

いまだに、がりがりとバリアを削る衝撃を与えながらバリアに食らいつく魔力刃にてこずっていると、私の耳に、小さく彼女の声が届いた。

 

「……セイバーブラスト」

 

『了解、Saber Blast』

 

 その言葉と同時に、障壁に噛み付いていた魔力刃が爆散した。

 

障壁は傷つけられていたこともあり、容易く砕け散る。

 

当然、近くにいた私はその爆発から逃れる術はなく、できることといえば痛みを覚悟を決める、ということだけ。

 

全身を強打するような衝撃に、意識が遠のいていく。

 

飛行魔法を継続することもできない。

 

 落下する私の上を通り、ジュエルシードを目指して飛行する彼女から、かすかに声が聞こえた。

 

「……ごめんね……」

 

 ここで『ざまぁみさらせ、雑魚! 顔洗って出直せや!』とか言ってくれたら恨みも怒りもできるけど、辛そうな顔をして寂しそうな目で謝られると、私の心で大きく膨らんでいる――膨らみ続けている――さまざまな感情をどこにぶつければいいかわからない。

 

 自由に動かない私の身体は、木々にぶつかりながら地面に落下して、何度か転がり仰向けで止まった。

 

青にオレンジ色がかかり始めた大空を見て実感した、負けたんだと。

 

たぶんレイジングハートがなにか魔法を使ってくれたんだと思う、地面に激突したにも関わらず痛みがほとんどない。

 

本当にレイジングハートにおんぶにだっこ状態だよ、こんな私なんていつか愛想をつかして、ほかの所有者を探しちゃうかもしれない……

 

 憂いに沈んでいると、がさがさと音がしたのでゆっくりと頭を動かす。

 

ジュエルシードをくわえながら、金色髪の少女から逃げるユーノくんが視界に入った。

 

ユーノくんは逃げながらレイジングハートを探しているみたい。

 

レイジングハートしか、ジュエルシードを取り込めないから……。

 

 とうとう彼女に捕まり、ジュエルシードを奪われた。

 

距離があるから声は聞こえないけど、ユーノくんが彼女の腕をつかみ、必死に抵抗しているのが見える。

 

彼女は腕にしがみつくユーノくんをぱしっ、と軽く手で払い、ジュエルシードを金色の宝石に取り込ませた。

 

 地を蹴って空へと浮かび上がり、この場を離れていく彼女を見ていることしかできないのが……すごく悔しい。

 

才能があると言われ調子に乗って、ユーノくんを手伝うなんて言ってこの体たらく。

 

ユーノくんは大猫と戦っていた時、私にいっぱい助言をくれた。

 

徹さんは自分より格上の相手に対して、十分なほど時間を稼いでくれた。

 

レイジングハートは戦っている間、ずっとフォローしてくれた。

 

みんなが自分のやるべきことを全うしたのに……私だけが、何もできなかった。

 

それがとても悔しくて……涙がこぼれそうになるのを必死で我慢する。

 

 ユーノくんにも徹さんにもレイジングハートにも合わせる顔がない。

 

みんなの手助けがあって、やっと大猫とジュエルシードを分離させるところまでいったのに。

 

ユーノくんが手助けしてくれて、私が危ないときレイジングハートが魔法を使って守ってくれて、大猫と戦いやすいように徹さんが金髪の子の相手をして環境を整えてくれたのに……みんなの努力を全部、私が壊してしまった。

 

 もっと早く大猫を倒していれば、倒してすぐにジュエルシードを取り込んでいれば。

 

 彼女に対しても、もう少しなんとかできなかったのかな。

 

一瞬でも捕縛した時に一目散にジュエルシードに向かって飛んでいれば、結末は変わっていたかもしれない。

 

いくつも湧いて出てくる、後悔と自責の念。

 

ここまで叩きのめされたのに、あの寂しそうな目をした子を恨むことができない自分の甘さにあきれる。

 

心の中でさまざまな気持ちが渦巻いて、唇を噛んで我慢しても、あふれる涙を止めることができなかった。

 

 泣いちゃだめだとはわかってるのに、そう思えば思うほどにあふれる涙は頬を伝う。

 

泣いてたら徹さんもユーノくんも心配させちゃうのに。

 

『マスター、これから……これからです。これから努力していきましょう。私もとても……とても悔しいです。二度とこんな思いをしなくていいように、一緒に頑張りましょう』

 

 レイジングハートが励ましてくれる。

 

こんなだめだめな私でも、見捨てないで頑張ろうって言ってくれる。

 

「うん……がんばろうね、レイジングハート。ありがと」 

 

 気持ちはもう決まった。

 

いっぱい努力していっぱいがんばって、こんな悔しい思いをしないで済むように。

 

これからは『ユーノくんのお手伝い』じゃなくて『自分のため』にがんばろう。

 

強くなって、みんなを守れるように……徹さんを守れるように。

 

 自分の思いが、意志が決まると頭も心もすっきりしてきて涙も止まった。

 

身体の方もさっきのダメージがぬけてきたのか、すごく重たく感じるけど動くようになってきた。

 

鉛でも括り付けられたかのような身体を動かし、ユーノくんがいる場所を目指す。

 

合わせる顔はないけど会わないと……会って謝らないといけない。

 

 寝転がりながら見ていた場所へ草むらをかき分けながら歩みを進めると、ユーノくんの姿が見えた。

 

「ユーノくん、大丈夫? 怪我とかしてない? ごめんね、私のせいでジュエルシード取られちゃった……」

 

 一息で全部しゃべってしまう、一度間が空いてしまうと言葉がでなくなりそうだったから。

 

「なのは……ごめんは僕の方だよ、結局何もできなかった。なのはこそ怪我してない?」

 

 ユーノくんは私を責めることなど一切なく、てこてこと近づいて、治癒の魔法を使ってくれた。 

 

でも、私より徹さんの方が怪我してると思うから、魔力はそっちに回してほしいかな。

 

「私は大丈夫、バリアジャケットがあるしレイジングハートが守ってくれたから。徹お兄ちゃんの方がひどいと思うから、徹お兄ちゃんのために魔力おいといてあげて?」

 

 ユーノくんはわかったよ、と頷いた。

 

このままだと喋りづらいので少ししゃがみ、ユーノくんをつかんで肩にのせる。

 

 早く徹さんを捜さないと、怪我で苦しんでるかもしれないんだから。

 

ユーノくんに念話でどの辺りにいるか聞いてもらおう、と思ったその時に後ろから声がした。

 

「おぉ、全員いるな。ひとまずは大した怪我もなく無事で万々歳、いい経験ができたな!」

 

 振り向くと、ジュエルシードと一体化していた猫を左手に抱えて笑う、彼の姿がそこにあった。

 

服はところどころ破れているところがあり、いくつか傷もあるみたいだけど、大きな怪我はないようですこし安心する。

 

 徹さんに言わないと……ごめんなさいって、ジュエルシード取られちゃったって。

 

なのに……口から言葉は出てこない。

 

徹さんに呆れられるんじゃないか、役に立てなかったから見捨てられるんじゃないか、そんなことが頭を巡ってしまって喉が震える。

 

徹さんは人を傷つけるようなことを言ったりしないのに、それでも最悪の可能性を考えてしまい、引っ込んだはずの涙がまた顔をのぞかせた。

 

それでも必死に言葉を紡ごうとする私の頭の上に、徹さんが手を置く。

 

「負けちまったわ、ごめんな、もうちょい時間稼げりゃよかったんだけど。あぁもう、お前のせいじゃないからそんな顔しないでくれ」

 

 徹さんは困ったように笑い、私の頭を優しく撫でてくれた。

 

徹さんは、慰める時や落ち着かせる時褒める時など、さまざまな場面で頭を撫でるというのがクセみたいになってしまっている。

 

まぁ、このクセができてしまったのも私のせいなんだけどね。

 

この大きな手の温かさを感じると、とても心が休まる、すごく安心する。

 

 でも今だけは、この安らぎに身を任せていてはいけない。

 

頭に置かれた大きな手をつかみ徹さんの目を見る、もう……決心したんだからっ。

 

「徹お兄ちゃん、私、がんばるね。今回は負けてジュエルシード取られちゃったけど、次は負けない! ユーノくんのお手伝いってだけじゃない、私のために強くなって戦う。それで……私が、と……徹さん(・・)を守るからっ!」

 

 勢いで昔から思ってたことも言っちゃったけど、どうしよう……すごく恥ずかしい。

 

きっと私の顔は、リンゴもびっくりするくらい赤くなってると思う。

 

今なら顔から火とか出せそうだよ、新しい魔法だよ。

 

 徹さんは一瞬、すごく驚いた顔をして――握られた手を一瞥し――見とれるほどに澄んだ黒色の瞳に、私を真正面からとらえる。

 

「……徹『さん』か。前にその呼び方されたのはいつだっけか。なのはも……色々成長してるって ことなんだな……わかったよ。ありがとうな、でもこの俺が守られてばかりでいると思うなよ? 俺もこっから努力してお前も、ユーノも、まぁついでにレイハも守れるくらいに強くなってやっから」

 

 私は今日でやっと、一歩を踏み出せた気がする。

 

魔法のことも、これまでのふわふわした考えじゃなくて――しっかりと一本、明確な信念ができた。

 

 そして……目の前で笑顔を見せてくれる徹さんに対しても。

 

 言葉では言い表せない『感情』。

 

私の心の奥底に埋めた、その『感情』という名の種が……今日、芽吹いた。



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11

 手を握ったまま、顔を真っ赤にしているなのはをまじまじと見る。

 

ちら、と目をこちらに向けてはそらし、視線を向けてはまたそらす。

 

いじらしくてとても可愛いっ!

 

恥ずかしさに耐え兼ねたのか手を離そうとするが、俺は痛くならない程度に握る力を強くして、なのはを逃がさないようにする。

 

「ちょっと……は、はなして……」

 

「なんで? なのはは『徹さん』を守るんだろ? このくらいで何言ってんの」

 

「そ、それと……これ、とは話が……違うって、いうか……」

 

『徹、この動画をとある公的機関に提出すると、あなたはしかるべき罰を受けることになりますが……まだセクハラを続けるんですか?』 

 

 レイハの痛言を受け、なのはの手を離す。

 

なのははまだ、かすかに赤みが残る顔で自分の手を、とろんとした目で見てぼーっとしている。

 

大丈夫か、こいつ? 戦闘の疲れが出てんのかな。

 

「やっぱり、徹さんはいじわるだっ」

 

「はっ、そんなことお前が一番知ってるだろうに」

 

 すこしだけいつもの調子を見せたなのはは、勢いよく顔を上げる。

 

こいつはこうでないとな、張合いがねえから。

 

『それにしてもみすぼらしい格好になりましたね、徹。怪我くらいは治してもらったらどうですか』

 

「そうですよ、少しかがんでください。かすり傷だけならすぐに治療できますから。」

 

 レイハの言葉を聞いたユーノが、なのはの肩から降りて、俺に近づく。

 

俺はなのはに子猫を預け、膝くらいの高さで綺麗に切られてしまっている切り株に腰掛けた。

 

この切り株は、たぶんあれだな、大猫の立派な爪で伐採されてしまったんだろうな。

 

「今回は大きな傷がなくてよかったです。徹兄さんは、無理をしすぎるところがあるので心配なんですよ」

 

「ユーノクンは心配性すぎるところがあるので、俺はそれが心配でーす」

 

「冗談じゃないんですよ! わかってますか?!」

 

「はいはい」

 

 ユーノは喋りながらも手際よく、回復魔法を展開し発動させていく。

 

確か分類は補助魔法と言っていたな。

 

これから使う機会が増えそうだから、今のうちに魔法陣をよく見ておこう。

 

自分でも使えるようになれば、戦い方の幅も広がるだろう。

 

「徹兄さん。あの金髪の女の子……どう思いますか?」

 

 少し離れたところでレイハと話しているなのはを、ちらりと見て、声のトーンを落として聞いてきた。

 

ここから真面目な話をする、ということだろう。

 

「お前もあの子を見たんならわかってんだろ? ……めちゃくちゃ可愛かったな!」

 

 すねの辺りをざくり、とひっかかれた。

 

仕方ないじゃない、ボケれそうだなって思ったら言うしかないじゃない。

 

「真剣に聞いてくださいっ! 冗談言ってる場合じゃないんですよ!」

 

「ごめんってば。……そうだな、いろいろひっくるめて厄介なことになった、って感じだな」

 

 ユーノは戦闘で負った傷を治し終わり、新しく作られたひっかき傷の治癒に移る。

 

「そうです、そういう話をしたいんです。彼女はどこかで訓練を受けたのか、とても強かった。今のなのはでは太刀打ちできないほどに、です」

 

「たしかに強かった。俺は、自分の間合いに持っていくことでなんとか勝負しようとしたけど、結局は完敗したみたいなものだからな。地上に下ろしても圧倒された、空を飛ばれたら尚更だろうな」

 

 金髪の子、フェイトが何歳から魔法の訓練を行っているかは知らないが、なのはと同い年程度であれほどの強さ。

 

才能に加え、努力と経験が裏打ちしているのだろう。

 

「空を飛べねぇ俺じゃあ敵わねぇよ。今の状況じゃ、なのはに頑張ってもらうしか方法はないな」

 

「やっぱり、とお、兄さんもそう思いますか……」

 

「フェイトとの戦闘中で、何か閃きそうになったんだけどな。今のところはさっぱりだ」

 

 あの戦いの中で、何かをつかみそうになったんだが……天啓は閃かなかった。

 

「フェイト……彼女の名前ですか? 何で知ってるんです?」

 

「ん? あぁ、戦い終わって俺の名前教えたら、向こうも教えてくれたんだ。その時、ほんの少し笑ってくれたんだけど、もうめちゃくちゃかわいかったぞ」

 

 俺をじとっ、とした目で見るユーノ。

 

なんだよ、なんでそんな目で見られなきゃいけないんだ。

 

情報を手に入れたというのに。

 

「はぁ……と、兄さんは本当に小さい子を落とすのがうまいんですね。見習いたいとは思いませんが」

 

「おい、おいおいユーノ。どう聞き違えばそんな考えになるんだ、見当違いも甚だしいぞ。俺は、フェイトと正面から戦って、もう一度再戦するという約束をしたから、便宜的に名前を教えあっただけだ。ある種の好敵手みたいなものだろう」

 

「そうですね。心苦しいですが、この事はなのはには伏せておきましょう」

 

 絶対俺の話聞いてないだろ、お前。

 

それとちゃんと『徹兄さん』と呼べよ、また呼び方変える気か。

 

「そんなことはもういいだろ、それよりも大事なことが二つある。フェイトがなぜジュエルシードを欲しているか。もう一つは、ほかに仲間がいるのか、だ」

 

 フェイトはあそこまで、辛そうな表情をしながらジュエルシードを探して、そして求めている。

 

あの子とはすこし話しただけだが、人を傷つけてまで叶えたいという、そんな野望のようなものがあるようには思えなかった。

 

あの子にないとしたら……周りの人間か? あの子の周囲の人間がジュエルシードを欲していて、フェイトはそれを手伝っている、とか。

 

でもそれだけの為に、芯の部分はすごく優しそうなフェイトが、人を傷つけるとは思えない……。

 

これは本人に聞くまで答えは出ないか。

 

「理由の方は考えてもわからないだろう。だから今は、仲間がいるかどうかってところが問題だな」

 

「確実にあと一人はいるでしょうね。単独でジュエルシードほどの危険なものを探しに来ているとは思えませんから。ですが、そう大人数とも思えません」

 

俺も、フェイト一人で探しているとは考えていなかったが、大人数ではないと言い切るような確たる証拠があるのだろうか。

 

「兄さんにはあまりこの感覚はわからないと思いますが、時空管理局というのはとても大きな組織なんです。騒動を起こしながらジュエルシードを集めて、時空管理局という強大な組織を敵に回せば、どういう結末になるかは考えるまでもないでしょう。犯罪者達はできるだけ時空管理局に目を付けられないよう、細心の注意を払うんです」

 

 たしかに……魔導師達が生きている世界がどういうものか、というのは盲点だった。

 

俺やなのはが住んでいるこの世界で例えるなら、『警察に目を付けられた犯罪者は、動きが取りづらくなるし、派手に動けばそれだけ早く捕まることになる』ということ。

 

「つまりは大人数で考えなしに、むやみやたらに探せば、時空管理局の網にかかってしまうから少数精鋭で静かに捜索するだろう、とこういうことだな」

 

「その通りです」

 

 それなら筋は通ってるし、理に適っているな。

 

 ユーノはすべての傷を癒してくれたようで、俺の膝に上がってきた。 

 

というか、お前がつけた傷が一番時間かかってんじゃねぇかよ。

 

どんだけ深々と爪を突き立てたんだ。

 

「それじゃここまでの情報をまとめるか。一つ、相手がジュエルシードを探す理由はわからない、が相当な動機があることは確か」

 

「二つ、仲間が少なくとも一人は確実にいる。今のところ、顔を合わせたのはフェイトという名の金髪の少女だけですが」

 

 二つ目をユーノが言ってくれたので、こまごまとした補足を付け足す。

 

「そして恐らく、その仲間もフェイトと同じくらいか、それに準じる力を持っているだろう。今わかるのは大体こんなところか」

 

 一応把握しやすいよう、敵対する勢力のことを考えてみたはいいが……これは。

 

「言いたくありませんが、お先真っ暗、という感じでしょうか……」

 

「言うなよ……これから戦うにしろ、ジュエルシードを探すにしろ、相手の戦力を推察するのは必要なことなんだから……」

 

 ユーノの言葉に少し暗くなる。

 

相手はたった一人でも強力すぎるほどなのに、こちらの戦力は、才能はあるが経験が足りない小学生と素質が乏しい高校生、喋るフェレットにうるさいデバイスときた。

 

これではテンションが下がるのも無理はない。

 

 でも、力がないのなら今からでも付ければいいのだ。

 

付け焼刃だろうがなんだろうが構わない。

 

刃がついてない刀では戦えないのだから。

 

「戦力はこれから上げていけばいいだけだ、心配すんな。後ろを見るのはいいが、歩みを進めるときは前を向け。自分の後ろに求めるものはねぇんだからな」

 

「兄さんも、さっきまで後ろ向きだったじゃないですか」

 

「良いこと言ったんだからそれを言うなよ」

 

 こいつも中々言うようになってきたな、いい傾向だ。

 

膝に乗っているユーノを肩に移動させ、座っていた切り株から腰を上げる。

 

ユーノに魔法の術式を教えてもらいながら、なのはの元まで歩き始めた。

 

 それよりユーノよ、お前とうとう『徹』すらつけずに『兄さん』って呼んでるんだけど、その辺気付いてる?

 

俺はどう呼ばれようと、特に気にしてないけどさ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 倒れた木に腰掛けながら、子猫にねこじゃらしを向けてふりふりしているなのはを見つけた。

 

子猫はねこじゃらしなど眼中にないらしく、ガン無視してるけど。

 

 なのはに近付き、子猫を回収する。

 

子猫は俺を発見すると同時に、俺の身体をよじ登って頭の上に乗っかったから、回収とは言えないかもだけど。

 

なんだよこいつ、えらく懐いてんな。

 

ユーノを襲ったりもしないようだし、なんだろう、結構賢い猫なのだろうか。

 

「徹さん、すごく懐かれてるね。私、けっこう動物には好かれるタイプだと思ってたのにー!」

 

 俺の頭の上にいる子猫には好かれなかったようだが、なのはは基本的に動物に好かれやすい。

 

以前、公園に遊びに行った時、木に止まっている鳥に『おいでー』っと声をかけたら腕に止まったほどだ。

 

そのあと鳥は俺を見て、命の危機とばかりに逃げたけど。

 

「俺は自分でも、動物にはあまり好かれないと思ってたんだけどな。こいつが変わってんじゃねぇの?」

 

「兄さんは独特のオーラみたいなのがありますから、普通の動物は近寄り難いんでしょうね」

 

 オーラってなんだ、俺人間やめてるみたいじゃねぇかよ。

 

『徹に懐いてマスターには懐かないとは、信じられない獣ですね。あぁ、獣同士、気が合うんでしょうか』

 

「誰が獣だこら、手入れしてやんねぇぞ」

 

 さらりと罵倒してきたので、俺も軽口で返す。

 

『それとこれとは話が違いますっ! 今日は頑張ったのですから報酬を要求します! そういう約束でしたでしょう!』

 

 予想以上にお怒りになった。

 

まさか怒髪天までの距離がここまで短いとは。 

 

「冗談だ、約束したことは守るって」

 

「お手入れって? 約束って何の話?」 

 

 なのはに聞かれてしまった、って当然か、こんな近くで会話してんだから。

 

「レイハに、頑張ったら手入れしてやるって約束したんだ。忠義には報いるところが必要だからな!」

 

『徹に忠誠を誓った覚えはありませんが、お手入れはしてもらいます』

 

 なのはに、俺とレイハの密約を詳らかに説明するわけにもいかないので、聞こえのいいように話を捻じ曲げて教える。

 

「レイジングハートにするんなら私がやってあ

『いえいえ、マスター! それには及びません。私の手入れなど、この徹にやらせておけばいいのです。そういう約束ですから、守らせなければなりません』

 

 お前必死だな、なのはのセリフに食い気味に割り込むとか。

 

一応、なのははお前のマスターなんだけど、そんな扱いでいいのかよ。

 

「そ、そうなんだ。それ、それじゃあ徹さんに任せる、ね?」

 

 レイハのあまりの剣幕に、なのはがちょっと怯えちゃったじゃねぇかよ。

 

こんな時は話を変えよう、そろそろ日も暮れてきたし、猫も届けにゃならんしな。

 

「それより、お前らこれからどうする? 俺は、この猫を飼い主の元まで送り届けないといけねぇんだけど」

 

 お前ら、と言いはしたが、実際はなのはにしか聞いていない。

 

レイハは、なのはと常に一緒だし、ユーノにはなのはの安全を考慮して、行動を共にするようにしてもらっている。

 

ユーノが昨日使った寝床は、すでに高町家はなのはの部屋へと運ばれているのだ。

 

今朝、桃子に『ユーノを置いてほしい』、と頼むと快く了承してくれた。

 

「私は、今日は帰るね。疲れちゃったし……恥ずかしい、し……」

 

 ついさっき、自分が言い放ったことを思い出したのか、また少し顔を赤くして俯くなのは。

 

まだ恥ずかしがってんのかよ、さっきのアレは決意表明みたいなもんだろうに。

 

「そうか、ゆっくり休めよ。ユーノ、あとは頼んだぞ。レイハ、手入れはまた今度してやるから、そんなにぴかぴかさせんな。眩しいんだよ」

 

「じゃあ徹さん、気を付けて帰ってね。あと鷹島さんにもよろしく言っといてね」

 

 ん? なんで、なのはがあの子の名前知ってるんだろう? まぁいいか、些細な問題だ。

 

「ほれユーノ。お前はなのはのところに行かねぇと」

 

「わかっていますが、その前に一つだけ。ないとは思いますが、フェイトという子や、その仲間に襲撃される可能性もあるということだけ、頭に入れておいてほしいと思いまして」

 

 敵対する勢力があるということを両者が知っちまったからな。

 

その可能性もあることはある、か。

 

「俺もそのことは考えたけど、たぶん大丈夫じゃないか? 今日みたいなことはあるかもしれないけど、普通に生活している時に襲ったりはしないと思うぞ」

 

「なぜそう言えるんですか?」

 

 これは俺の勘みたいなもんだけどな。

 

「フェイトは、そこまで非情に徹しきれねぇと思うから」

 

 本当の闘いなら、邪魔する人間がいたら、その相手が油断している時を狙って消す、という策略・謀略を尽くして当たり前とも思うが……あの子にそれができるとは、俺には到底思えない。

 

だから俺は、ユーノに断言する。

 

「ジュエルシードがないなら、フェイトを警戒する必要はねぇよ。ほれ、そろそろ行け。なのは帰っちまうぞ」

 

 俺がそう促すと、ユーノは『兄さんが言うなら』と納得してくれたようだ。

 

俺の頭の上にいる猫に、別れを告げるように手を上げて――猫もそれに返事するように『にゃあ』と鳴き、右前脚を上げ――なのはの後を追った。

 

なにさっきのやりとり……この猫もしかしてめちゃくちゃ頭いいんじゃね?

 

「お前もしかして日本語とか喋れたりすんの?」

 

 猫の頭を撫でながら投げた俺の問いかけに、猫は『にゃあ』と打ち返してきた。

 

俺の予想とは少し違う返事だったけど、これはある意味会話の成立と取ってもいいかもしれない。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 未だに降りようとはしない猫を、仕方なく頭に乗っけながら飼い主の子、彩葉ちゃんを寝かせたベンチまで走っていく。

 

予想以上に時間がかかってしまったので、もう日が暮れ始めて薄暗くなってきている。

 

たぶんもう起きて、帰ってしまっているとは思うが、一応見に行く。

 

自然公園の中にある広場、ここにはバーベキューを楽しめるようなエリアや、子供のために遊具も置いてある。

 

一休みできるようにか、丸みを帯びた屋根の下に何脚かベンチが設置してあり、そこに彩葉ちゃんを寝かせておいた。

 

 ベンチが見える距離まで来た、けどなんか様子がおかしいな。

 

高校生くらいの男三人くらいがベンチを囲んでいるようだ、声も聞こえてきた。

 

「ほらぁ、もぉ暗くなっちゃってぇ危ないからさぁ、俺らが送ってやるってぇ」

 

「そうだよー気持ち悪いおじさんにー攫われちゃうかもだよー」

 

「い、いえ……けっこうです……人を……待ってるのでっ……」

 

「その人来るの遅いじゃん? こんなに小さい子を待たすっておかしくない? その人もう帰っちゃったんじゃない? その人の代わりに俺らが送ってあげるよ?」

 

 三人の男の真ん中で彩葉ちゃんがいた。

 

俺が、寒くならないようにと掛けてあげていた上着を、怯えるように握りしめている。

 

くそっ、俺の馬鹿、もっと早く来ていれば、彩葉ちゃんを怖がらせるようなこともなかったってのに。

 

この怒りは……目の前の三人にぶつけさせてもらうとしよう。

 

「ちっとどいてくれるか? この子は俺の知り合いでな。お前らはさっさとゴミ溜めに帰れ」

 

 相手を挑発するように間に割って入る。

 

こうすれば大抵の馬鹿どもは怒り狂って殴りかかってくる……ん?

 

相手の驚愕に染まる顔を見て、無駄なことも憶えている俺の脳みそが、情報をアウトプットする。

 

「お前ら……前に殴り飛ばしたロリコンどもか」

 

 そうだ、こいつらは以前、聖祥大附小学校の生徒に執拗に絡んでいた変態だ。

 

二人の小学生に、えらくしつこく言い寄っていたので、俺が武力介入して収めたときの三人組。

 

また性懲りもなく、こんなことやってんのか。

 

「ぁ、あ、逢坂……徹……」

 

「せ、聖高の……鬼が、なんでここに……」

 

「え? 僕ですか? 無関係ですよ? 速やかに帰りますよ?」

 

 なに? この反応、鬼か悪魔にでも遭遇したようなリアクション……。

 

「はぁ……じゃあ、さっさと帰れ。次、こんな場面に出くわしたら、本気で警察に連絡するからな」

 

 俺、どんな噂流されてんの……泣きたくなるぞ。

 

次はないぞ、という俺の言葉に『はい! わかりました!』という、元気だけはいい返事を寄越して、ロリコン三人組は言葉の通り、速やかに帰宅の途についたようだ。

 

聞いてて疑問に思うことも言われたが……無血解決して良かった、と喜ぶべきなのだろう。

 

 複雑な思いは投げ捨てて、彩葉ちゃんへ目を向ける。

 

「怖い思いさせてごめんな? もっと早く戻ってくればよかった」

 

「い、いえ、助かりました。ありがとうございますっ」

 

 彩葉ちゃんは『はふぅ』と安心したようなため息をついて、俺に感謝の言葉と一礼をくれた。

 

礼儀正しい子だなぁ、姉と同様、両親の教育をしっかりと受けてるんだろう。

 

ふわふわした長い髪が頭に追従するように一拍遅れて動く。

 

柔らかそうだなぁ、撫でたいなぁ。

 

「そ、それで、あの……ニアスは見つかりましたか?」

 

「ニアス? 子猫の事か? それならここに……」

 

 あれ、頭の上にいない……と思ったら後頭部にいた。

 

走ってきたからずり落ちたのか? ごめんな子猫もとい、ニアス。

 

「よっと、この猫であってる……かな?」

 

 これで間違っていたら探し直しになって大変だけど。

 

「はいっ、この子です! あぁっニアスっ、心配したよぉ……っ、よかったっ……」

 

 彩葉ちゃんは本当にめちゃくちゃ心配してたんだな、泣くほどとは。

 

ニアスも『にゃあ』と、申し訳なさそうに鳴いている。

 

「ありがとうございますっ、本当に……ありがとうございますっ」

 

「いや、別にいいって。俺が一人で見つけたわけじゃないからさ。な、泣き止んで?」

 

 これ以上泣かれると俺のメンタルが大変なことになる。

 

女の子の泣いてる姿は、俺の苦手なものの中の最上級に君臨しているのだ。

 

 彩葉ちゃんに抱かれているニアスが、彩葉ちゃんの涙を拭おうとしているのか、肉球で頬を押していた。

 

……お前、実は喋れたりするんじゃねぇの? 猫の姿をしているだけなんじゃねぇの?

 

ニアスへの疑問が膨らみつつある俺に、彩葉ちゃんが涙をぬぐいつつ、問いかけてきた。

 

「逢坂さん一人じゃない……もしかして高町さんが手伝ってくれてたんですか?」

 

「なのはのこと知ってんの? もしかして同級生だったり?」

 

「はい。高町さんとは同じクラスで、私の後ろの席です」

 

 わぁお、こんなことってあんのかよ。

 

いや、ままあり得る話か? 姉が聖祥大附高校に通ってんだから、妹もそこの小学校に通うのはおかしくはない、か。

 

世間ってのは広くて狭いな。

 

「でもなんで、なのはだってわかったんだ? 俺なにも言ってなかったと思うけど」

 

 誰に手伝ってもらったかまでは、口にしていなかったと思うんだが。

 

「気を失う直前に高町さんを見た気がしたんです。あれ? でもそうなるとあの大きい虎……みたいなのも本当にいたの、かな……」

 

 やばい、思い出しちゃいけないことまで思い出そうとしている。

 

いくらここが自然公園とはいえ、虎を放し飼いにしているなんて嘘は信じてくれないだろう。

 

虎、放し飼いってなんだよ、そんなのはもはや不自然公園だ。

 

「大丈夫か、彩葉ちゃん。意識を急に失った人は、意識を失う前と後の記憶が曖昧になるらしい。夢と現実がごちゃ混ぜになるそうだ。あまり気にしない方がいいぞ」

 

 それっぽいこじつけだが、これはあながち嘘じゃないからな、真実味はあるだろう。

 

「そ、そうですよね、こんなところに虎みたいなのがいるわけない……ですよね。あはは、すいません、寝ぼけてたみたいです」

 

 よし、ごまかせた! こういう時は、回転の速い脳みそがありがたく感じるぜ。

 

 しかし、彩葉ちゃんは本当に鷹島さんに似てるなぁ、笑った顔とかそっくりだ。

 

そりゃ姉妹なんだから当然なんだけど。

 

姉妹で長さは違えど、ふわふわの柔らかそうな茶色の髪も似てるし、顔だちも基本的には瓜二つだ。

 

寝てるときは気付かなかったけど目元が少し違うんだな。

 

彩葉ちゃんの方が少しきりっとしてる、しっかりものの妹って感じだ。

 

 あ、似てるで思い出した。

 

「彩葉ちゃん……お姉ちゃんに連絡した?」

 

「あ……忘れてました……」

 

 鷹島さんの事だ、尋常じゃないくらいに心配してるんだろうなぁ……やっちまった。

 

 



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12

《彩葉大丈夫っ?! 怪我してない? 転んだりしてない? 今どこにいるの? お姉ちゃんがニアス探すから、もう帰ってきて? あ、やっぱりダメっ! もう暗くなってきてるから、動いちゃ危ないかも……お姉ちゃんが迎えに行くからっ! なにか目印になるようなものある? なんでもいいから教えて? 大丈夫だよ、今から行くからねっ! 電話はつなげたままにしてて、その方が少しは不安もまぎれるよね? あ、送ってあげるとか言われても、怪しい人についてっちゃだめだよ? でも、あからさまに拒否するのはよくないからね? 逆上されたりとかしたら大変だからっ! どこか明るいところがあればそこにいてね? コンビニとか近くにあったら入ってそこで待っててね? あと……》

 

 自然公園の広場で彩葉ちゃんのお姉ちゃん――鷹島さん――に連絡していなかったことに気づき、急いで彩葉ちゃんが電話を入れると、ほぼタイムラグなしで繋がった。

 

繋がったのはいいんだが……怖いよ……。

 

鷹島さん心配しすぎだろう、彩葉ちゃんが喋るタイミングどこにもねぇじゃん。

 

優しい人だとは思ってたし、家族には尚更、輪をかけて優しいんだろうなとも思ってたけど……いやはや、ここまでとは。

 

シスコンや心配性も行くとこまで行くと、恐怖にクラスアップするんだな。

 

 あわあわしている彩葉ちゃんを助けるため、一言彩葉ちゃんに了承を得てから電話を借り、少し強引だが代わりに俺が話すことにした。

 

予定では彩葉ちゃんに最初に話してもらい、渡りをつけてもらうような感じで俺に代わってもらう算段だったが……尋常じゃないくらいに話が進まないので仕方ない。

 

「いきなり代わってごめんね。逢

《だ、誰ですかっ!? い、彩葉はどこに行ったんですかっ?! 彩葉を出してください! 何が目的なんですかっ!》

 

 自己紹介すらさせてもらえないなんて、彩葉ちゃんが絡むと別人だな……。

 

なんとか落ち着いてもらわないと、文字通りに話にならない。

 

「お姉ちゃんがすみません……時々おかしくなってしまうんです……」

 

 彩葉ちゃんが申し訳なさそうに、恥ずかしそうに頭を下げてきたので『気にしてないよ』という意味を込めて頭を撫でる。

 

あぁ、髪ふわふわ……柔らかい、いい匂いする、思わぬところで役得だ。

 

『にゃあ』とニアスが、自分も撫でろというような鳴き声を出すので、しゃあなしでニアスも撫でる。

 

自然公園で暴れまわっていたくせに、こいつの真っ白の毛はさらさらで、とても撫で心地がいい。

 

 元気をチャージして、もう一回挑戦する。

 

「鷹島さん、俺だ、逢さ

《誘拐ですかっ!? お金なら用意しますっ! 彩葉は小学三年生なんですよっ! ひどいことはしないでください!》

 

 はぁ、だめだ。

 

これ以上は時間の無駄だ。

 

 今にも太陽が完全に沈んでしまいそうで、周囲には暗闇が音もなく這い寄ってきている。

 

公園灯があるとはいえ、一つ一つの灯りは距離があるので、あまり照らされているという実感はない。

 

近くに設置されている自販機の方が、俺たちの周りを明るくしているくらいだ。

 

このままでは彩葉ちゃんが家に帰る時間がどんどん遅くなる。

 

仕方ない、最終手段だ。

 

「彩葉ちゃん、悪いんだけど、耳をふさいであっち向いててくれる? ニアスもな」

 

 そういって指差すのは、俺がいる位置と正反対の方向、草木が所狭しと生い茂っている場所。

 

彩葉ちゃんは素直に『はい』と返事し――ニアスも『にゃあ』と返事し――俺に背中を向けしゃがんで耳をふさいだ。

 

ニアスは彩葉ちゃんの頭の上で耳を、ぴこっと閉じた。

 

しゃがめ、とまでは言ってないんだけど。

 

ニアスは絶対、俺の言葉理解してるよなぁ! ってか自分の意思で耳閉じれんのかよ!

 

 ニアスには疑心が尽きないどころか確信に変わりつつあるが、それは泣く泣く隅に置いて、まずは鷹島さんの問題を解決させる。

 

すうぅっと深く、肺いっぱいに空気をため込み、通話先の相手へ砲口を向ける。

 

「落ち着け綾音ェーーッ!!」

 

《ひぅぅっ! ……あ、あれ? もしかし、て……逢坂……くん……?》

 

 はぁ、やっと通常の鷹島さんに戻ってくれた。

 

苗字を呼んでも、一切反応を返してくれなかったからつい名前で呼んじゃったよ、なんか気恥ずかしいな。

 

会話が成立するようになったんだから、さっさと話をつけてとっとと帰ろう。

 

彩葉ちゃんも、ついでに俺もいつまでたっても帰れない。

 

「冷静になれた? 彩葉ちゃんなら大丈夫だから。ニアスも見つけたし、俺がこれから家まで送るから安心して家で待ってて、わかった?」

 

《はれ? なんで、え?》

 

「わかったら返事して」

 

《は、はひ! わかりましたです! 待ってますっ、はいっ!》

 

 少々強引な感もあるが致し方ない。

 

こうして電話している間に、もう辺りは真っ暗になってしまった。

 

日没前とは様変わりしている自然公園は、もはや、どちらに向かえば出口なのかもわからなくなっている。

 

この自然公園はその広大な敷地ゆえに、年に何人も迷子になっていると聞いたことがあったが……さもありなん。

 

俺はこの自然公園は何度も足を運んでいることもあり、どれだけ暗くなろうが、目をつむっていようが帰り道はわかる。

 

いや、さすがに目をつむっては無理だな、言い過ぎた。

 

 通話を切って、耳に接していたところを袖で拭い、彩葉ちゃんに返す。

 

返す……返そうと思ったのだが、彩葉ちゃんがしゃがんで震えたまま動かない。

 

えっ……ちょっと、どうしたの?

 

 どうしたものかと彩葉ちゃんの正面にまわろうとしたら、じとーっとした目付きで俺を見るニアスに気付く。

 

ニアスは彩葉ちゃんから俺へと転乗し、足から一気に登攀して肩のところで腰を据えた。

 

『にゃあ』と一声鳴き、俺の頬を爪を立てずに肉球で、ぷにっとぶつ。

 

どうやらさっきの俺の怒声にも似た大声で、彩葉ちゃんが驚いて泣いてしまった、とのこと。

 

なんで俺は、こいつの言いたいことを察しているんだろう?

 

 彩葉ちゃんの前に回り込み、目線を合わせる。

 

「い、彩葉ちゃん? 俺怒ってたわけじゃないんだぞ? ただ君のお姉ちゃんに、話を聞いてもらおうと思っただけでな?」

 

「っ……ぅぅ……っ……」

 

 優しーく、穏やかーに声をかける。

 

ユーノも言ってたじゃないか、俺は小さい子と仲良くなるのがうまいって。

 

多少、セリフを都合のいいように改ざんしてはいるが、俺はできるはずだ!

 

「大丈夫だよ。君のお姉ちゃんにも怒ってないし、もちろん俺は怖い人じゃないからね?」

 

 くそう! こんな時に限って、俺の頭はベストな言葉を出力してくれないっ!

 

「ち、違うんです……っ……私が、悪い子なんですっ」

 

 展開が読めないので、俺はすすり泣く彩葉ちゃんに心を痛めながら、話の続きに耳を傾けた。  

 

もはや仄暗いなんて表現できるレベルはとうに過ぎ去り、公園灯や自販機の光がなければ、完全に真っ暗だろう自然公園の広場で、ゆっくりと彩葉ちゃんの話を聞く。

 

聞き終わって、俺の取った行動は単純明快だった。

 

壊れ物を扱うかのように丁寧に、少女を抱きしめ、頭をなでる。

 

 端的に言えば、彩葉ちゃんは罪悪感に苛まれていたようだ。

 

俺の怒鳴り声を聞いて、恐怖を感じ、『この人は危険な人だ』と思ってしまったらしい。

 

気絶した自分を、ベンチへ運び上着までかけてくれて。

 

家で飼っている愛猫を、服がボロボロになるくらいに一生懸命探してくれて。

 

その上、大きな男の人三人に絡まれていたところを、危険を顧みずに助けてくれた。

 

ただのクラスメイトの妹というだけなのに、ここまでしてくれた人を自分は、『危険な人』などと思ってしまった。

 

それが恥ずかしくて、情けなくて、申し訳なくて。

 

そんな思いが頭をぐるぐるとかき回して、涙が止まらなくなった。

 

と、いうことらしい。

 

 ベンチに移動させたのは、戦闘に巻き込まれたら大変だからっていうだけの、こっちの都合だし。

 

服がボロボロになっちゃってるのは、フェイトと戦ったからだし。

 

あのロリコン三人組に挑発しながら割り込んだのは、勝つ見込みしかなかったからだし。

 

 はぁ、全くこの子は、というか鷹島家の姉妹は揃いも揃ってどこまで。

 

「どこまでいい子なんだよ」

 

「わ、私……いい子じゃありませんっ……恩知らずの、悪い子です……」

 

 健気というか、奥ゆかしいというか。

 

どうすれば、こんなに人に気を使えるいい子に育つんだろうな。

 

教えてほしいぜ、十年前の俺に。

 

「そんなことに泣くほど、気に病むような子は悪い子じゃない。俺ですら、寝起きの自分の顔を見たらちょっとビビるぞ。十六年間、この顔や、声や、性格と連れ添ってきた俺でさえ、時々怖いくらいだ。そりゃ今日、初めて会った彩葉ちゃんは怖がって当然、なんにもおかしなところはないぜ」

 

「でもっ……私は、助けてもらっておいてっ……あ、あんなことを考えるなんてっ……」

 

 真面目だなー、俺にはこの実直さが眩しいわ。

 

俺にこんな時期あったかなー、なかったなー。

 

「普通の人間はな、君みたいに思うことはあっても、口には出さねぇんだよ。表面では、にこにこと人の好さそうな顔を取り繕って、絶対に自分にマイナスになるようなことは言わないんだ。普通の人間でそんなもん。悪い人間はもっと、想像もできないような悪辣さと狡猾さで人を貶めて、自分にプラスになるように動く。彩葉ちゃん、君は正直に話しただろ? 相手と誠心誠意、正面から向き合うために自分の本音を言葉にしたんだ。それは誰にでもできることじゃないんだぜ? 君は、誇っていいんだ。それは、ほかの人間は持っていない……美徳だ」

 

「っ……逢坂さんが、そう言ってくれるならっ……、そう思うことにします……ありがとうございますっ」

 

 この子は、他人の善意を素直に受け入れることもできる。

 

本当にいい子だな、この少女は。

 

このまま真っ直ぐと、心の綺麗な子に育つことを祈るばかりだ。

 

俺の胸に顔をうずめる彩葉ちゃんを見てかどうかはわからんが、ニアスが一件落着とばかりに『にゃあ』と締めた。

 

最後はお前が持ってくのかよ。

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 鷹島家へと彩葉ちゃんを送る帰り道。

 

鷹島家は都市部の近くにあるらしく、ビルが立ち並ぶ街を通って帰る。

 

 道には仕事帰りなのだろう。

 

疲れた顔の中年のサラリーマンが、皺の入ったよれよれのスーツを着て、形の崩れたビジネスバッグを持って駅の方向へ歩いていく。

 

リクルートスーツを着た、若い二人のOLは仕事の愚痴を言い合いながら、これから飲みに行こう、などと大声で話している。

 

この時間帯は帰宅途中の人間がすごく多いようだ。

 

 自然公園からこっちへ来ると、光源の量の違いに目が痛くなりそうだ。

 

ビルのほとんどにまだ電気がついていて、その明かりの下には仕事に追われる社会人が残業しているのだろう。

 

一等星がぎりぎり見えるか見えないか、というほど人工的な光が満ちていた。

 

「この辺までくると明るくて安心しますね」

 

 俺とはずいぶん、捉え方が違うようだった。

 

やっぱり女の子は暗いところは怖いんだろうか、何があるかわからないしな。

 

「俺は明るすぎてなんか落ち着かないけどな、ニアスはどうだ?」

 

 まだ俺の肩に乗っているニアスは、きょろきょろと周りを見渡して『にゃあ』。

 

「どうやらニアスも、ここまで明るいところは好きじゃないみたいだな」

 

「なんで会話できてるんですか……?」

 

 それは俺が聞きたいし、俺も知りたい問題だな。

 

明るくにぎやかな街を、手を繋いで歩きながら帰っていると、ふと疑問が浮かんだ。

 

「一つどうでもいいことが気になったんだけど、聞いていい?」

 

「はい、私に答えられるものなら」

 

「こいつの名前ってなんか由来でもあんの? 最初鳴き声から取ったのかと思ったんだけど、どうもすんなり納得できなくてな」

 

 俺の本当にくだらない質問に、彩葉ちゃんは苦笑いを浮かべた。

 

なんだろうか、その苦笑いはすごく苦労している子のように見える。

 

「えぇと、名付け親はお姉ちゃんなんです。その子、ニアスは拾ったんですけど、家に連れて帰って名前を付けようってなった時に、お姉ちゃんが『なにか偉大な名前をつけよう!』って言い出して……」

 

 あぁ、なるほど。

 

さっきの苦笑いの理由がわかったよ。

 

彩葉ちゃんは実際に、天然の姉の相手で苦労しているのか。

 

「その時テレビで、宇宙関係の番組がやってまして……月の話題になった時にお姉ちゃんが、『これだっ』って……」

 

 なぜか恥ずかしそうにしている彩葉ちゃん。

 

心なしか、手を繋いでいる彩葉ちゃんの右手の体温が上がった気がする。

 

良い事なのになー、面白いお姉ちゃんで。

 

時々、度が過ぎてるのが問題と言えば問題だけど。

 

 それにしてもニアスの名前の由来……偉大な名前で、月?

 

「もしかして月面に初めて降り立った人の名前から? ニール・アームストロングから取ったのか?」

 

「は、はい……」

 

「あはははっ! すごいな! さすが鷹島さんだ!」

 

 さすが、と言う他ない。

 

『ニ』ール・『ア』ーム『ス』トロングから取って、ニアスか、確かに偉大だな。

 

「あと二匹猫飼ってるんですけど、それも名付け親はお姉ちゃんで……」

 

「くっふふ、な、なんていう名前なんだ?」

 

あの人の考えることは予想付かないからな、こういう話はいくらでもありそうだ。

 

「『タエ』と『オリノブ』です」

 

「オリノブっていうのは大体予想付くけど、タエがわからないなー」

 

 なんだろうな、このクイズ。

 

めちゃくちゃ楽しい!

 

タエ、たえ、妙。

 

失礼な言い方だが、鷹島さんでも思いつくような偉大な人物だ。

 

そう難しいものではないと思うのに……わからない!

 

「あぁダメだ、ギブアップだ。オリノブはわかるがタエが見当もつかない」

 

「オリノブは恐らく予想通りと思いますが、織田信長からです。お姉ちゃんが『今日勉強したの~』と言っていたのを憶えています。たしか去年の事ですね」

 

 これは予想通りだな。

 

『織』田『信』長から取って、織信になり、読み方を変えてオリノブと。

 

頭から取るの好きだなー鷹島さん。

 

答えよりも、その時言っていたセリフの方が心配になるけど。

 

「しかしタエとは何から取ってるんだ? いろいろ考えたが答えが出ないぞ」

 

「タエは、お姉ちゃんにしては珍しく、少しだけひねってあるようですから。エジソンから取ったと言っていました」

 

 少し毒吐いてない? いろいろ困った姉を持って疲れがたまってるの?

 

「エジソン? トーマス・アルバ・エジソンだよな? タエなんてどこにも……」

 

 そういえば少しだけひねったって言ってた……な……っ!!

 

「英語表記か! Thomas Alva Edisonの頭文字を取ったのか!」

 

「ふふ、正解ですっ」

 

 一般的に言えばこちらの頭文字の方が普通なのに、ニアスの例があったせいで勘違いした!

 

『T』homas 『A』lva 『E』dison

 

で、TAE→タエか、なるほどな。

 

「はははっ! 本当センスあるよな、鷹島さんは! たしかに偉大な人物から名前を貰ってる!」

 

「お姉ちゃんは少しなんてものじゃなく、天然なところがあるので私は心配です。朝だってそうでしたよ」

 

 まだあるのか。

 

さすが妹、お姉ちゃんのことはよく知ってるんだな。

 

「朝どうしたんだ? そういや今日は鷹島さん遅れてきてたけど」

 

「恥ずかしながら、今日は少し寝坊しまして。私もお姉ちゃんも寝癖が付きやすいので、いつもは早く起きるんですけどね。家訓に、『朝ごはんはしっかりとる』というのがあり、そのせいで更に慌てまして」

 

 二人とも同じふわふわの髪だからな、寝癖付きやすそうだな。

 

鷹島さんは時々寝癖のまま学校に来ていたが、それはそれでクラスの女子に可愛がられていた。

 

「お姉ちゃんがすごく急いじゃってて、カバンはよく忘れてたんですけど、今日は服も着替えずに、パジャマのまま出そうになりまして。さすがに焦りました」

 

 カバン頻繁に忘れてんのかよ、妹がしっかり者に育つわけだよ。

 

「今日は何を思ったのか、カバンも持たずにパジャマのままでサンダルを履いていたので、最初、新聞でも取りに行くのかと思いました」

 

「もうっ、鷹島さんたらっ……お茶目だっ、くははっ」

 

「学校ではお姉ちゃんのことを見れないので、ちゃんと出来ているか心配なんです。天然なお姉ちゃんですが、これ本人に言うと怒るんですけどね、学校にいる時、見守るだけでもいいのでお姉ちゃんの事お願いできませんか?」

 

「こんなに楽しい時間を過ごせたんだ、喜んで引き受ける。彩葉ちゃんの頼みだしな、ふふっ。出来る限り協力するぜ」

 

 それからも鷹島さんの武勇伝合戦が繰り広げられた。

 

俺は学校でのこと、彩葉ちゃんは家であったことを喋りあっていたがネタが尽きない尽きない、いくらでも出てきて鷹島さんのすごさを再認識していた時の事。

 

 俺の肩からニアスが飛び降り、ビルとビルの間、狭い路地裏に入っていってしまった。

 

 明るい街とは切り離されているかのように、路地裏は暗く、汚い。

 

室外機が雑にどん、と置かれており、ビルの上の階からゴミでも放っているのか、ビニール袋に包まれたゴミが散乱している。

 

週刊誌や情報誌と思われるさまざまな雑誌が、十把ひとからげにビニールテープで縛られて、長い間放置されたのか、表紙などは判別できないほどだ。

 

街を歩く人達がポイ捨てしているのだろう、空き缶や空き瓶まで転がっていて、とても入りたいとは思えない空間と化している。

 

「ニアスっ! どこ行くのっ!」

 

 繋がれたままの彩葉ちゃんの右手を握って、追いかけようとするのを制止する。

 

こんな路地裏を走ったら、まずこけるだろう。

 

「待って彩葉ちゃん、俺が行くから君はここで……あぁいや、そんな必要もなさそうだ」

 

 俺が追いかけようとしたら、路地の奥の方から白いのが走ってきた。

 

白いのは当然、ニアスである。

 

「もうっ! ニアスあんまり心配かけないで! んぅ? なにくわえてるの?」

 

 ニアスはなにかをくわえて戻ってきた。

 

ゴキさんとかやめてくれよ? 俺、虫とか得意じゃないんだ。

 

「逢坂さん、これ、ニアスからのお礼みたいですっ! ニアス偉いね、ちゃんと恩を返せるんだ。私もなにか……」

 

 え、お礼? こいつやっぱり知性があるよな、絶対。

 

彩葉ちゃんがニアスから受け取り、俺に渡してくれた。

 

「うおぉ……マジか。……ニアス、お手柄だぜ……!」

 

 彩葉ちゃんの小さく柔らかい手から俺の手に移った、ニアスからの贈り物。

 

青白いひし形の、宝石のような石。

 

異世界のオーバーテクノロジー、ジュエルシード。

 

……発動する前のものは初めて見たな。

 

 ユーノに教えてもらっておいて助かった。

 

『単独でジュエルシードを見つけたはいいが、なのはがいなくて封印できない』なんていう無様をさらさぬよう、自然公園で教えてもらったがこんなに早く使うことになるとは。

 

俺は、なのはのように攻撃とともに封印、というのはできないから、あまり使う機会はないと思っていたのだが……なんでも学ぼうとするのは、自分を助けることになるようだ。

 

 何はともあれ、このジュエルシードが暴れだす前に封印することにしよう。

 

術式を構築して、魔力を通して、あとはコマンド。

 

「妙なる響き、光となれ……赦されざるものを、封印の輪に……」

 

 彩葉ちゃんはニアスとおしゃべりしているので、彩葉ちゃんに背を向けて気付かれないように、なるべく静かに発動キーを紡ぐ。

 

こういう時、俺の魔法色は透明で良かったと感じるぜ。

 

魔法を周りの人に気付かれずに行使できるんだから。

 

 封印は成功したようで、ジュエルシードの青白い光が弱く、薄くなり、消えた。

 

「よし、なんとかなったか……よかった」

 

 しかし、ニアスはジュエルシードに縁があるな。

 

たった一日で、二つのジュエルシードに触れるとか……エンカウント率高すぎだろう。

 

「ありがとうな、ニアス。うれしいよ」

 

 彩葉ちゃんの方へ向き直りニアスの頭を撫でると、『にゃあ』と嬉しそうに猫なで声をあげた。

 

貰ったはいいが、大事にできないのが残念だ。

 

明日にでも、レイハに保管してもらうことになるだろうからな。

 

「あ、あのっ、今は無理ですが……いつか私もっ、ちゃんとお礼しますからっ!」

 

「いやいや、無理しなくていいからな? 礼が欲しくてやったんじゃねぇんだから」

 

 これも家の教えなのか、鷹島さんも似たようなことを言ってた気がする。

 

相手から何かを貰うばかりではなく、助けてもらったんなら自分も相手に何かを返す、という考え方なのだろうか。

 

常識のように思えるが、実際そうできる人は少ない。

 

 俺の言葉を聞いても、どこか複雑そうな表情をしていた彩葉ちゃんは急に、ぱぁっと顔を明るくした。

 

『いい事考えたっ!』って顔だが、俺はにわかに不安感が増してきた。

 

「今すぐには恩を返せません。なので、仮払い? しておくことにします!」

 

 服を、くいくいっと引っ張りながら『しゃがんでくださいっ』という彩葉ちゃんに従い、視線を合わせる。

 

すると彩葉ちゃんはすすっと近づき、俺の頬に軽く口づけをした。

 

しゃがんでください、の時点で予想すべきだった。

 

「なっ……彩葉ちゃん、なな何をっ……」

 

「今はこれくらいでしか返せませんが、いずれちゃんとお礼しますからね? 待っててくださいね」

 

 さっきのだけで完済どころか、お釣りがくるくらいだぞ。

 

「さぁ、早く帰りましょう。ずいぶん遅い時間になってしまいました」

 

 本人はあまり深く考えていないのか、ちゃんと理解していないのか、それともこの子も姉と同様、ちょっと天然なのか?

 

さっきまでと変わらぬ口調で喋る彩葉ちゃん。

 

この子が大きくなって、俺なんかに『ほっぺにちゅー』をしたのを思い出して、恥ずかしくて死にたくなったりしなければいいんだが……。

 

そうならないよう、立派な大人になるように努力しなければっ!

 

 まだ頬に残る柔らかい感触を感じつつ、彩葉ちゃんに手を引かれて道を歩く。

 

さっきより歩くスピードがゆっくりなのは、気のせいだろうか。

 

 しかし記念すべき初頬ちゅーが、まさか小学三年生とは……これだけ抜粋すると犯罪者だな、俺。

 




前回の話でここまでやるつもりでしたが、妙に長くなってしまいました。

あと、これからプライベートの方が忙しくなるので、これまでのように安定したペースで投稿するというのは難しくなるかもです。

なるべく早く投稿できるよう努力していきます。





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13


若干一名キャラ崩壊。
注意してください。


 大きく綺麗な家が建ち並ぶ閑静な高級住宅街。

 

海鳴市は潮騒区、そこに鷹島家はあった。

 

薄々気づいてはいた、海鳴市でも指折りの市街地に近く、レベルと学費の高い聖祥大付属の学校に通っているのだから、それなりに裕福なのだろうと。

 

まさかここまでとは思っていなかっただけで。

 

 何台駐車できるのかわからないガレージに、おそらく自動で開くのだろう門扉が敷地の入り口に鎮座していた。

 

敷地に入り少し歩いてやっと玄関があり、その重厚な扉には緻密で芸術的な模様が施されている。

 

二階建ての白亜の一戸建て。

 

相当に家の中のほうも広いんだろうな……。

 

「あれ? 家の前に誰かいますね」

 

「十中八九、君のお姉ちゃんだろ。あ、近づいてきた」

 

 きょろきょろと挙動不審に周りを見渡していた人影は、こちらの姿を視界に入れると恐怖を感じる程の速さで近づいてきた。

 

ニアスも『にゃあ』と怯えた声を出している。

 

「彩葉ぁ! 心配したんだよぉ! よかったぁ……」

 

 ぶつかる寸前でスピードを落として、彩葉ちゃんを抱きしめるのは当然鷹島さん。

 

彩葉ちゃんは『ごめんね』と苦笑いしながら自分の姉の背中を、左手でぽんぽんとたたく。

 

ひとしきり彩葉ちゃんを、ぎゅうっと抱きしめて怪我がないのを確認して安心したのか、一歩分彩葉ちゃんから離れた。

 

本当に仲良いんだな、この姉妹。

 

「逢坂くん、ありがとうございますっ。彩葉を助けてくれて、ニアスも見つけてくれて。いつも助けてもらってばかりで申し訳ないです……」

 

「別にいいって、俺が勝手に手伝っただけなんだから。もう『お礼』も貰ったし」

 

 彩葉ちゃんから俺に視線を合わせた鷹島さんは、深々と頭を下げてお礼を言う。

 

今回の事は俺が強引に介入した上に、ジュエルシードが絡んでいたからお礼も謝罪も貰う権利は本来ないんだけどな。

 

 この姉妹、似ていると何度も思ったが、こうして並ぶと意外と違うところが見えてくる。

 

鷹島さんは同年代と比べるとかなり小さい方だけど、当然ながら彩葉ちゃんとならだいぶ勝っている。

 

性格は外見に表れるのか、天然な姉はたれ目で、ぽわぽわした雰囲気を纏っている。

 

クラスでは『疲れた時には姫を眺めろ』という格言すら作られているくらいに、和みのオーラを生み出していて、マイナスイオンでも出ているのでは、ともっぱらの噂だ。

 

しっかり者の妹はきりっとした目付きをしていて、姉のおかげで色々と経験してきたのか、この年ですでに言動や振る舞いが頼もしい。

 

 そのしっかり者の妹――彩葉ちゃんは鷹島さんに返した俺の言葉ですこし顔を赤らめた。

 

「お礼? 彩葉もうなにかお礼したの?」

 

「え、えと……お礼……の仮払い、かな?」

 

 困ったように曖昧な笑みを浮かべる彩葉ちゃんと、よく意味を理解できない鷹島さんが顔を付きあわせている。

 

『何で言ったんですかっ』とばかりに彩葉ちゃんがねめつけてきた。

 

あの『お礼』の時は俺の方がテンパってしまい、なにも仕返しできなかったのでここで返報しておいた。

 

江戸の敵を長崎で討つ、ではないが大変驚いてくれたようでなによりだ。

 

一応あの行為が、どういう意味を孕んでいるのかは理解しているみたいで一安心。

 

 目線をそらされた鷹島さんが次に目をつけたのは、まだ繋いだままだった俺と彩葉ちゃんの手だった。

 

「彩葉……ずいぶん逢坂くんと仲良くなったんだね、人見知りなのに」

 

 言われてやっと気付いた彩葉ちゃんが、ぱっと手を離した。

 

彩葉ちゃん人見知りだったのか、全然そんな感じなかったけど。

 

「あ、あのねお姉ちゃん……は、話したらけっこう長いんだけど……」

 

「ううん、いいよわかってる。逢坂くん優しいからね、すぐ気を許しちゃうのも理解できるよ」

 

 どことなく萎縮し始めた彩葉ちゃんとは対称に、鷹島さんの口調は明るい。

 

明るいのだが、冷や汗が出るのはなぜだろう。

 

鷹島さんの瞳がいつもより暗く見えるのは、きっと夜だからだな、うんきっとそうだ。

 

「鷹島さんニアス返すわ、いつまでも乗っかられてたら肩が凝りそうだ」

 

「へっ、あっ、うん。ニアスこっちおいで。逢坂くんに迷惑かけちゃダメでしょ?」

 

 いつもの、ぽわっとした鷹島さんに戻った。

 

どのあたりで変なスイッチが入るのかわからない人だ。 

 

鷹島さんが話しかけるが、俺の肩に居座っているニアスはいつまでたっても鷹島さんへと移らない。

 

どれだけ懐いてるんだよ、こんなに動物に好かれたのは初めてだ。

 

動こうとしないニアスに業を煮やした鷹島さんが、また黒い鷹島さんに切り替わった。

 

「ニアス……これ以上はお説教だよ? 心配いっぱいかけた彩葉は問答無用でお説教だけど……」

 

 話が変わり安心して溜息をついていた彩葉ちゃんだが、再び水を向けられ『ひふぅっ』と口から空気が漏れた。

 

 黒い鷹島さん、略して黒鷹さんの言葉を聞いた一人と一匹はぷるぷると震えだす。

 

一体どんなトラウマを植え付けてんのさ、今日で鷹島さんのイメージ随分変わっちゃったぞ。

 

親しい相手にはいつもとは違う面を出すんだな、新発見だ。

 

 脅し……忠告を受けたニアスはぷるぷるしながら黒鷹さんへと移動した。

 

ニアスを胸に抱く黒鷹さんの笑みは、いつもの鷹島さんとは何かが根本的に違っていた気がする。

 

「鷹島さん、俺そろそろ帰るわ。時間も遅いし二人とも家に入った方がいいぞ。春とはいえ、まだ夜は少し冷えるからな。風邪ひいちまったらいけねぇだろ」

 

 場の空気がおかしくなってきたのを敏感に感じ取り、すぐに撤退の意を示す。

 

「そうだ! あ、逢坂くん晩御飯まだだよね? うちで、晩御飯た、食べてく? 彩葉もうれしいと思うしっ!」

 

 彩葉ちゃんの瞳がきらりと輝いた気がした。

 

黒鷹さんのお説教が確定してるというのに、意外といい根性してるな。

 

「ぜひ相伴に与りたいところだけど、ごめんな? 家に帰って晩飯の準備を……」

 

 そう、晩御飯の準備をしなくてはいけなかったのだ、『姉の晩御飯』の。

 

今さら思い出してしまった、今日は姉が帰ってくるんだった。

 

両親のいない我が家は、姉が外で仕事を、俺は家事を、という決まりになっている。

 

昨日はたまたま姉は仕事で家を空けていたが、今日は帰ってくるんだ。

 

うわぁ……家、帰りたくねぇ……。

 

 途中で固まった俺を見て、目の前の愛らしい姉妹はそろって首をかしげる。

 

しかしここで姉を無視して鷹島家へお邪魔すると、後日、今から帰るよりも十倍くらい酷いお仕置きを受けることになるだろう。

 

まぁもとより、姉以上に優先するものは俺にはないので、今回は丁重にお断りさせてもらうこととする。

 

一つ懸念もあることだしな、大変心苦しいことに変わりはないが。

 

「……家に帰って、晩飯作らないといけねぇから」

 

 姉以上に優先するものはないと言っても、多少声のオクターブが落ちてしまうのは仕方ないことだと思う。

 

可愛い同級生とその愛くるしい妹と一緒に晩ご飯を食べる(しかもその可憐な姉妹の家で)、という俺にとってはかなりの希少イベントを、見逃さざるを得ないという苦しみは血涙をしぼるほど、推して知るべし、だ。

 

今日はチャンスをことごとく逃す日だな……不幸だ……。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 晩御飯の準備という、引き止めるに引き止めれない理由だったのでやりようがなく、申し訳なさそうにする鷹島さんは見るに忍びないものがあったが気を強く持ってなんとか立ち去る。

 

鷹島さんには、また明日、と。

 

彩葉ちゃんには、また今度遊ぼうな、とお別れを告げて柔らかい髪を丁寧に撫でる。

 

『約束ですよっ』と彩葉ちゃんに念を押されてしまった、俺そんなに信用ないかね。

 

 後ろ髪を引かれまくりつつ、俺は一人帰路に着く。

 

自宅への道中、こじんまりとした人気がなくて都合のいい公園があったので入る。

 

さすがにこのまま家に帰るわけにはいかないからな。

 

「もう出てきてくれて構わねぇぞ」

 

 公園全体に聞こえる程度の声量で、そう切り出した。

 

「気付いてたのかい」

 

 公園の隅っこに気持ち程度に植えられている木々の影から、俺と同年代くらいの、やたらと肌を露出している女性が出てきた。

 

ぬ、布に覆われている面積少なくありませんか? 

 

シルエットがわかりやすい、みぞおちくらいの丈のぴたっとしたシャツを着て、豊満な谷間を惜しげもなく見せるように菱形の穴が開いている。

 

視線がその山間に吸い込まれそうになるが必死に我慢する。

 

その上に二の腕くらいまでの、とても短いマントを羽織っていた

 

よく鍛えられているのだろう、腹筋がうっすらと見えてよく引き締まってるのがわかる。

 

下はショートパンツで、健康的なふとももを隠そうともしていない、いや、隠す必要なんてない。

 

こんなに魅力的な脚線を隠すのは、もはや罪だ。

 

首のあたりで二房に分かれている長いオレンジの髪に、活発そうな顔だち、勝気な瞳、口からは八重歯が覗いている。

 

額には赤色の細長の宝石のようなものがついている。

 

いろいろ普通の人と違うところがあるが、何よりも重要なのは。

 

「猫耳に、猫しっぽ……っ!」

 

 気の強そうな女性に猫耳とか、ギャップがあってきゅんとくる。

 

「一応狼なんだけど」

 

「あ、ごめん。耳の形で判別とかできねぇもんで」

 

 このタイミングで出てきたということは、きっと見られてたんだろうな。

 

ジュエルシードを封印したところを。

 

「ジュエルシードを探してるんだろ? フェイトのお仲間ってことでいいんだよな」

 

「あれ、フェイトが名前を言ったのかい? はぁ、たった一回会っただけでばらしちまうなんて」

 

 やっぱりそうだったか、やり方がぬるいからそうだと思ったよ。

 

ジュエルシードを見つけた時点で俺を襲えばよかったのに、彩葉ちゃんがいたからそうしなかったんだろうな。

 

俺が一人になってからやっと姿を現したということは、一般人にはなるべく迷惑をかけないようにしてるのだ。

 

敵対しているとはいえ、相手がこうも優しいと憎めなくて辛いな。

 

「フェイトを怒らないであげてくれよ? 俺が無理に聞き出したようなものなんだ」

 

「いや、逆にありがたいよ。フェイトはもう少し、考え方を柔軟にした方がいいと前から思っていてね。いい傾向だと考えることにする」

 

 この女性はフェイトとどういう関係なんだろう、ただの仲間ってわけじゃなさそうだ。

 

仲間……より、姉妹に近いのだろうか。

 

フェイトの話をする彼女の顔は、とても穏やかで慈愛に満ちていて。

 

その声は柔らかくて、温かくて、世話好きな姉のような響き。

 

フェイトも目の前の彼女も、どうしてジュエルシードを求めるのだろうか。

 

何が……二人を突き動かしているのだろうか。

 

「そうしてくれるとありがたいな。あんたの名前も教えてくれよ、俺の名前は……」

 

「あんたの名前はフェイトから報告を受けてるよ。逢坂徹、だったね。フェイトが言ってたよ、『無茶苦茶な人』って。あたしはアルフ、仲良くすることはできないかもしれないけど、よろしくね」

 

 案外すんなりと教えてくれた。

 

フェイトが教えちゃってるしもういいや、って感じなのか?

 

それにしてもフェイトの説明ざっくりしすぎじゃない? 俺ってそんな印象だったのかよ。

 

「でも『ジュエルシードを探していて戦闘になった』とは聞いていたけど『名前まで教えた』とは報告を受けてなかったんだけど。何で隠したのか、怒られると思ったのかねぇ」

 

「フェイトは生真面目そうだからな、叱られると思って言わなかったのか、ただ単に報告するのを忘れていたのか。別に俺は言いふらそうとも思ってないし、気にしなくていいだろ」

 

「そうだね、徹は悪い人間には見えないし。それにあたしも名前教えちゃったし」

 

 すんなりと彼女――アルフは流す。

 

普通ならもう少し慌てないといけないところだと思うんだがな。

 

あまりアルフは細かいことを気にしないタイプなようだ。

 

しかし、妙齢の綺麗な女性に名前を呼び捨てにされるのはなんだか、心がざわつくな。

 

スタイルはいいし、竹を割ったような性格というのは俺の好みだし。

 

露出が多いというのは多感な男子高校生にとって目の毒だが。

 

「フェイトが少し楽しそうに、あんたの話をしていた理由がなんとなくわかったよ。徹は独特の雰囲気を持ってんだね。話していると楽しいし、憎めない性格ってのか」

 

「まんまこっちのセリフだけどな。お前もフェイトも優しすぎて戦いづれぇよ」

 

 『優しい?』と首をかしげるアルフ。

 

気付いてないのかよ……俺の周りにいるやつらは全員心がきれいすぎて、俺の考え方がすごい汚く感じるぞ。

 

「割と早い段階で俺がジュエルシードを見つけたこと知ってたんじゃねぇの? それなのに彩葉ちゃん……連れがいた時には出てこなかった。あの時に襲われて、連れを人質にでもされていたら俺はジュエルシードを渡すしかなかったってのにそうしなかった。俺の連れの女の子の事、考えてくれたんだろ? 怖い思いをしないようにって」

 

「べ、別に、そこまで考えてたわけじゃないよっ。ただ……幸せそうにあんたの隣で歩いている子を見て、その顔を曇らせるようなことはしちゃいけないって、そう思ったんだ」

 

 はい、完全に優しい人の思考回路です。

 

フェイトといい、アルフといい、どこまでも戦いにくいなぁ。

 

……それを優しいっつうんだよ全く。

 

話を切り上げよう、戦えなくなっちまいそうだ。

 

「それだけで十分だ、ありがとう。……アルフとお喋りするのは楽しいし、いつまでも続けたいくらいだが……そろそろ本題に入ろうぜ」

 

「やっぱり避けれないね、この話は……。徹、ジュエルシードを渡しておくれ。別に戦う必要はないだろうさ」

 

 それがアルフにとっての最大限の譲歩なんだろうな、叩きのめしてから奪う手もあるだろうに。

 

「答えわかってんだろうが。できねぇよ、それは」

 

「ははっ、そりゃそうだろうね。言われてホイホイ渡すような男なんかを、フェイトが気に入るわけないからね。わかってたよ」

 

 ここまで来て引くなんてことは、両者できるわけがない。

 

俺にも通すべき筋があり、アルフにも守るべき信念がある。

 

お互いがお互いに、譲れないものを持っている。

 

「なぁ、なんでお前たちはジュエルシードを集めてるんだよ。お前たちみたいな優しいのが、ジュエルシードを探す理由って何なんだ」

 

 アルフは俺の問いに固く口を閉ざす。

 

そうか、言葉はいらないってか。

 

そこはフェイトと同じだな。

 

「わかったよ、なら賭けようぜ。ルールは単純だ、勝った方がジュエルシードを持っていく。負けた方は諦める。それでいいよな?」

 

 アルフは喋らず、頷くことでその意思を俺に伝える。

 

結局こういう展開になるんだよな、仕方ねぇとは思うけど。

 

ぴりぴりとした空気が流れ始め、もうきっかけさえあれば死闘が始まる。

 

そんな時に俺は思い出した。

 

「あ、その前に結界張ってくんね? 俺、術式知らなくてさ」

 

 肩透かしを食らったように、アルフの身体ががくっと崩れる。

 

ご、ごめんな、でも周りの住人に迷惑かけるわけにはいかないし。

 

「くっふふ、あーあもう。締まらないね、せっかく集中してたのにさ。ちょっと待ってな、今張るから。あたしもあんまり得意じゃないから、時間がかかるかもしんないけど」

 

「すまんな、俺魔法知ったのが最近でな。ぜんぜん魔法の事知らねぇんだよ、助かるわ」

 

 今から戦おうとしている人間の会話じゃないな。

 

まぁこんなもんでいいんだろう、俺たちは。

 

別に憎しみあって、殺し合いをしようとしているわけじゃないんだから。

 

「悪いね、あんまり大きいのは作れなかったよ」

 

「いや俺には都合がいいぜ、がちがちの近接型だからな」

 

 オレンジ色の魔法陣で発動した結界は、ちょうどこの公園を覆うほどの大きさ。

 

俺にはちょうどいいな、狭い方が近づきやすくなるし。

 

「お、気が合うじゃないか! あたしも近距離戦闘の方が好きなんだよっ」

 

「これは楽しくなりそうだなぁ、魔法っつう便利なもんがあんのに接近して殴り合いってか! 粋じゃねぇかっ!」

 

 さぁ気分も盛り上がってきた。

 

ここからやっと、戦闘スタートだ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 思考回路をフル回転させ、魔力付与を全身に施し、脚に力を込める。

 

フェイトとの戦闘中ずっと魔力付与を使っていたから、もうこの魔法のコツはつかんでいる。

 

スポーツでもなんでも、技術というのは、やり続けて慣れてくれば自然に行えるようになる、それと同じだ。

 

相手は前方十五メートルちょっと、身体強化状態のこの身体なら三歩もいらない。

 

すなわち、もう射程内も同然だ。

 

「行くぞアルフっ!」

 

「来いっ! 一撃で沈むんじゃないよっ!」

 

 お互いにタイミングを相手に言っちゃうとか、テレフォンパンチもいいとこだ。

 

地面を蹴って瞬時に近付く。

 

最初の一撃だ、下手な小細工なんていらない。

 

真正面から、勢いと全身の筋肉を使っての右ストレート。

 

同じように考えたのか、アルフも左足を踏み込んで、ひねりを加えた右で迎え撃ってきた。

 

「くっ……」

 

「っは! やるじゃないかっ」

 

 お互いに右の拳で打ち合い、その反動ですこし後ろに下がる。

 

俺は前に進みながら勢いをつけて、慣性も全身の捻転力も使って拳を放ったってのに、アルフはその場で踏み込み、腰のひねりだけで俺の一撃と相殺させた。

 

やっぱだいぶ力の差がある。

 

たったの一合で実力の違いがここまで如実に表れんのかよ……。

 

「あぁもうっ! 強いなぁくそっ!」

 

「あっはっは! あたしはすごく楽しいよっ!」

 

 でも、どれだけ差があるとか、勝ち目があるとかないとか、そんなくだらないことを考える必要なんざない。

 

相手にどうすれば勝てるか、どうすれば渡り合えるか、一瞬一瞬に全力を出すこと。

 

そのために考えろ、自分の使えるものすべて使って、魔法も戦略も絞り出せ。

 

死に物狂いが、一番、愉しいんだからっ!

 

 反動で下がり、空いた距離をすぐに埋めるように近づく。

 

近付いたときに生まれた微かな勢いを右足に乗せ、前蹴りを繰り出す。

 

「うおっとと、なかなか重いけどっ」

 

 アルフは俺の右足をつかみ、左フックを放つ。

 

一撃くらいは覚悟の上だ。

 

俺はアルフがつかんでいる右足を軸に回転し、左足で地を蹴り、その勢いのまま左足をアルフの頭めがけて蹴り入れる。

 

俺はアルフの左フックを右頬に受け吹っ飛び、アルフは俺の左足刀を頭の右側に受け吹っ飛ぶ。

 

互いに痛み分けの形になった。

 

「かっは、ははは、痛いなぁ」

 

「女の顔に、容赦なく足を向けるってどうなんだろうねっ」

 

「勝負だからやむなしだっ!」

 

 両者ともにすぐに体勢を整え、再度拳を交える。

 

俺もアルフも正面から見据え、左足を踏み込み、身体をひねり、右の拳を相手へ放つ。

 

何度も何度も相打ちしていては、先に動けなくなるのは、経験と実力の底が浅い俺だ。

 

だからここからは頭を使って戦うとしよう。

 

「なんでっ……」

 

「悪いな!」

 

 アルフの拳が、音と衝撃と共に途中で止まる。

 

フェイトと戦った時に使った、表面積を捨て強度を高めた改良型防御魔法。

 

何回か使って慣れたおかげで今回の障壁は、完全に無色透明。

 

冷静になれば、自分の拳が何に触れたのかくらいわかると思うが、一瞬では理解できないだろう。

 

実力で劣っていても自分の特色を活かして、戦闘の流れを持ってくればいい。

 

虚を突くことさえできれば、俺にも勝算はある!

 

「そら、もってけぇ!」

 

 かすかに動きが止まり、隙のできたアルフの腹部へ、全力の一撃をぶち込む。

 

衝撃を逃すことができなかったアルフは、くぐもった声を漏らし地面を何回かバウンドし、木にぶつかることでやっと止まった。

 

「どうだアルフ! 楽しいかっ! 俺は今っ、すっげぇ楽しいぜ!」

 

 吹き飛んだまま、返事のないアルフへ叫ぶ。

 

こんなもんで終わりじゃないだろう。

 

さっきの一撃、手ごたえはあったが違和感を感じた。

 

恐らくアルフは、身体強化の魔力を腹部へ集中させ、威力を軽減させたのだろう。

 

「ふっ、ふふ。見えない障壁、厄介だねぇ。どこに設置されているのかもわからないなんて……っはははっ! 徹っ、私も楽しいよっ!」

 

 テンション高く俺の叫びに応答し、立ち込めていた砂煙をかき散らしながら、アルフが突撃してくる。

 

突撃の勢いを利用し、右の拳で、まるで大砲が放たれたかのような突きを放つ。

 

改良された方の防御障壁を三重に張ったが、その二枚までを砕かれた。

 

最後の一枚が罅を走らせながらも懸命に耐えていた。

 

直撃してたら俺死んでたんじゃねぇの?

 

俺の実力がまだまだだっていうのは理解しているが、それにしても今の俺の最高硬度を誇る改良型障壁を、こう容易く貫かれると少し精神的にショックがあるな。

 

 この改良型、便利なように見えて実際そうでもない。

 

普通の障壁なら、気にせずに張っても何ら問題はないだろうけど、改良型は違う。

 

このバリアは直径がおよそ二十センチほどしかないため、相手の攻撃の動線へ自分で合わせなければなんの意味もない。

 

あまり使い勝手のいいものではないのだ。

 

魔法色が透明なおかげで、相手が勝手に普通の障壁と同じくらいのサイズだと勘違いしてくれるから、まだなんとかなるが。 

 

「罅が入って見えるようになったね。その障壁、そんなに小さかったのかい」

 

 速攻ばれたし。

 

「関係ねぇよ! 防げればそれでいいんだからな!」

 

 そこからは一進一退、俺が打ちアルフが防ぎ、アルフが蹴り俺が阻む。

 

公園の地面は、俺とアルフの踏み込みと、攻撃の余波でぼろぼろになってしまっている。

 

結界張ってもらってよかった、付近の住民に被害が出るところだった。

 

「フェイトが心配するだろうから、そろそろ終わらせてもらうよ!」

 

 この戦いが始まって初めて、アルフが自分から距離を取った。

 

大きく後ろへジャンプし、そのまま空中で浮遊する。

 

お前……飛べたのかよ……。

 

宙に浮いたままの状態で、アルフは周囲にオレンジ色の光の玉を四つほど作り出した。

 

似たようなもん見たことあるな、フェイトが使ってたのがあんな感じの発射体だった。

 

「ファイア!」

 

 オレンジ色の光球から魔力弾が吐き出される。

 

急いで障壁を張って防ぐが、想定外が一つ。

 

フェイトの魔法より、アルフの魔法の方が連射速度が速い。

 

威力はフェイトの方が上だが、こうも数が多いと改良型バリアでは捌ききれない。

 

仕方なく通常の障壁を構築するが……脆い、泣きたくなるほどに脆い。

 

三重の障壁を張ったが、一枚目は三秒程度で砕け散る。

 

このままではいずれ、質量に押され、のみ込まれることになるのは目に見えているぞ。

 

 考えを巡らせろ、何かいい方法はないか、極限まで集中し思考を加速させる。

 

だが、現状を打開できるような魔法を俺は持っていない。

 

俺が使える魔法は数が少ない、バリエーションに乏しいのだ。

 

ないものねだりだがデバイスがあれば、とか考えてしまう。

 

くそっ、これが肉弾戦なら受けた攻撃を流して、攻勢に出るってのに…………っ!

 

 

  

 策を一つ、思いついた。

 

 

 

「どうしたんだい徹! このまま弾幕で押しつぶされて終わりかい?」

 

 だがこの策、間に合うか? 二枚目の障壁はもう、今にも破壊されそうだ。

 

だが実現可能な策はこれくらいしかないっ。

 

幸い、このくらいの術式変更なら簡単だ、思いついたならすぐ行動に移せ!

 

 思考を高速で回し続けて、マルチタスクも使い、防御魔法の術式の一部分を変更。

 

微調整できないのが不安だが仕方ない。

 

二枚目の障壁を展開させつつ、三枚目の障壁の術式を変更し、構築し直し、魔力を通し、展開する。

 

術式を書き換えた三枚目の障壁の展開と、二枚目の障壁が破砕されたのは、ほぼ同時だった。

 

「ぎりぎりだったが……間に合ったぞ、この野郎っ!」

 

「誰が野郎だ、この野郎っ! って徹、いったい何をしたんだっ! なんで三枚目だけ砕けないっ!」

 

 今現在もオレンジ色の発射体から、雨のように魔力の弾丸が降り注ぐが、三枚目の障壁は崩れない。

 

策などと大仰な言い方をしたが、俺がやったことは驚くほど単純なものだ。

 

垂直に攻撃が当たると、障壁に加わる衝撃が一番強く、壊れやすくなる。

 

だから障壁の角度を変え、相手の攻撃を流すように展開した。

 

ただそれだけのシンプルなものだが、そこに俺の透明という魔力色が加われば話は変わる。

 

相手から見れば、自分が放った射撃魔法が途中で歪み、的外れな方向へ飛んでいくのだから。

 

 一枚目の障壁が三秒程度、二枚目は魔力を込めたおかげで五秒程度持ったが、三枚目は十秒以上経過してもいまだ健在だ。

 

つうか俺、五秒以内で術式書き換えて障壁の展開までやったのか。

 

なんか頭痛いと思ったわ、こんな集中して思考を加速させるのは初めてだ。

 

「そろそろ反撃させてもらうぞ、アルフ!」

 

 数ある問題のうちの一つを解決しただけだが、少なくとも状況は好転したはずだ。

 

実力の差も経験のなさも、不利な戦況は変わらないが、それでも勝つための努力はやめない。

 

努力しても実るかどうかはわからんが、必死に食らいつかなければ絶対に勝てないのは明白なんだから。

 

 

 

 





アルフさん@バーサーカー


なんでこんな展開になったんでしょうね、自分で書いてるはずなのにわかりません。

ちゃんと予定を立てて書いていくように努力します。


戦闘の描写も努力しなければいけません。
もっとわかりやすい表現はないか、とかなり苦心しました。
がんばって勉強します。


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14

 散発的に放たれる魔力弾を、角度変更型障壁で流しながらアルフへ接近を試みる。

 

だが今も空中にいるアルフへ、拳を交えるほどに近付くのは至難の業だ。

 

アルフは公園のちょうど中央、公園灯よりもさらに五メートルほど高いところにいる。

 

地を蹴り跳躍したとしても届くかどうか、届いたとしても空中では何もできない俺は、自由落下中は無防備だ。

 

「もしかして、徹。あんた飛べないのか?」

 

「そ、それがなんだ! やりようは……あるかもしれないだろうが!」

 

 強がり、というか負け惜しみみたいなものだけど。

 

暗くならないように大声で叫ぶ。

 

気持ちで負ければ、勝ち目なんて絶対ない。

 

「陸戦型はこれから苦労するよ? 色々と。手加減するつもりはないけどねっ!」

 

 魔力付与による身体強化で動き回り、発射体の照準から逃れる。

 

いくら角度変更型が壊れにくいものとはいえ、何度も食らえばいつかは砕けるんだから。

 

 しかし、牽制できるような射撃魔法の一つもないというのは、立ち回るだけでも難しい。

 

ユーノに封印魔法と一緒に、射撃魔法も教えてもらっていればよかった。

 

いくら威力が弱くても、牽制くらいにはなっただろうに。

 

「空飛べねぇからってなめんじゃねぇぞっ!」

 

 弾丸を避けながら公園灯まで走り、跳ぶ。

 

公園灯をへこましながら蹴り上がり、公園灯の一番上まで昇り、さらに跳躍。

 

 危険とはわかってるけど、近づかないことにはなんともならん。

 

迎撃をなるべく避けるために角度変更型障壁で魔力弾を跳弾させ、腕に魔力を込めて宙に浮かぶアルフへ接敵する。

 

「こ、ここまで無理やり来るんだね!」

 

「やりたかねぇけど他にねぇんだよっ!」

 

 何発か障壁で防げなかったものを食らったが必死に我慢。

 

普通に張ってるのと違い、角度を変えている分身体を覆う面積が減っているから、いくつか障壁の内側へ入ってくるのだ。

 

 弾幕を突破し、最大限の力を込めて殴りつけるが、アルフの障壁に阻まれる。

 

硬い……この障壁、超硬いっ。

 

だがこのまま砕いてやれ、とばかりに魔力を込める。

 

 魔力が胸の中心、その奥から溢れて肩を通り、肘、手首、拳、その先へと。

 

……その先?

 

調整をミスした魔力が拳の先へと流れ出てしまった。

 

その先にはアルフの障壁……俺の魔力がその障壁に触れた時、脳内になにかが流れ込んできた。

 

 それは防御魔法の術式によく似ていた。

 

いつも俺が脳内で構築する防御魔法の術式とは、細かな部分で仕組みが違う防御術式。

 

 結局頭に浮かんだ術式がなんだったのかはわからぬまま、俺の拳はアルフの障壁を破ることなく、空中で動きが止まってしまった。

 

障壁の向こう側でにやぁ、と笑うアルフを見て、俺の頬はひくひくとひきつる。

 

拳を放ち前傾姿勢になった上半身へ、アルフは俺の腹部へ蹴り上げるように抉りこむ。

 

ぎりぎり両腕でガードしたが、踏ん張りの利かない空中であることと、蹴りのあまりのインパクトのため、身体が浮き上がった。

 

「うっぐ……なんて威力だよっ」 

 

「まだまだいくよっ!」

 

 浮き上がる俺とは正反対に、アルフは少し下降し俺の真下に陣取る。

 

アルフは俺の真下で、先ほどから何度も見ているオレンジ色の光球、それを今回は六つ展開した。

 

言葉通りまだまだやってくれるようだ、手加減……してくれてもいいんだよ?

 

「ファイアっ!」

 

 わざわざボイスコマンドしなければいけないわけじゃないだろうに、わざわざ口にして発射させる。

 

 標的である俺は空中で動けない上に距離も近く、発射体から放たれる魔力弾は俺へとまっすぐに向かってきた。

 

角度変更型障壁を三枚張り、三角すいのような配置にするが……あまりの弾幕の密度にそうそうに障壁が四散する。

 

魔力を腕にまわして頭などの急所をガードするが、直撃する魔力弾の衝撃で意識が飛びそうだ。

 

 身体の前面をなぶった魔力弾の連射が止まり、視界が開いたが……アルフの姿はなかった。

 

弾幕で視界が覆われた時に移動したのかっ! ならどこに……っ。

 

目の端っこの方にオレンジ色がかすかに見えた。

 

オレンジ色の軌跡を追うとそこには、俺の少し上まで上がったアルフが右足を振り上げている姿。

 

あのすらりとのびた健康的な足を、剣を振り下ろすように俺に落とすのだろう。

 

 あれを食らえばきっと、戦闘を続行することは不可能だ。

 

アルフ自身の力に、落下のエネルギーが加わる。

 

射撃魔法の間に少し高度が下がったが、地上まではまだ七~八メートルはある。

 

蹴りを受けて落下して、地面に激突してジエンドだ。

 

 考えろっ! なにかあるだろう、この危機を乗り越える方法がっ!

 

今回の戦闘で酷使し続けている頭が、痛みという形で苦情を言ってくるが……耐えて思考を加速させる。

 

 気の強そうな顔を、喜色に彩るアルフ。

 

真下から俺の上空まで急上昇したせいで、豊かな双丘が弾む。

 

力を込めているのか、鍛え抜かれた腹筋が隆起している。

 

ショートパンツのおかげで、美しい曲線を描く綺麗な脚の付け根近くまで見えて……って違う! アルフをいやらしい目で見るために集中したんじゃないっ!

 

「これで終わりだよっ!」

 

 アルフの右足が、限界まで引かれた弓のようにしなる。

 

 時間がないんだ! 解決策のために集中しろ!

 

思い出せよ、俺。

 

戦っている時に、閃きそうなものがあっただろう。

 

フェイトとの戦いで、なにかが頭の隅にひっかかっただろう。

 

手繰り寄せろ、この違和感という細い糸の先には『希望』が結び付けられているはずなんだ。

 

 ……あれは、そうだ。

 

フェイトに接近し、障壁に阻まれ、発射体を展開されたから躱すために後ろに宙返りして。

 

あの時俺は……。

 

 

 

  天啓を、得た。

 

 

 

「っ! あんた今……どうやってっ……」

 

 アルフのかかと落としを避けた俺は、少し距離を取り『空中で静止』する。

 

「いやぁ、アルフ。感謝するわ。お前のおかげで、俺の可能性が格段に広がったぜ」

 

「……飛行魔法、使えたのかい?」

 

 怪訝そうな顔でこちらを睨む。

 

副音声で、『だましたのか』と聞こえるような気がしないでもない。

 

俺の魔力色のせいで見えないんだろうな。

 

「いいや、俺はそっちに適性がなくてな。努力したところで浮かぶのがやっと、とか言われたからすっぱり諦めた。飛行魔法の術式すら知らねぇよ」

 

「ならどうやって……」

 

 いちいち説明する義務はないと思うがな。

 

楽しくお喋りもしていたが、一応は敵対してるんだから。

 

だがこの技術を思いついたのは、アルフがこれでもかというほどに、限界まで俺を追い詰めてくれたおかげだ。

 

俺には説明する義務はないが、アルフには説明してもらう権利くらいあるだろう。

 

「今日の夕方にさ、フェイトと一戦交えた時に違和感を感じていたんだ。攻撃をかわすためにフェイトの『障壁を蹴って』、後方宙返りした時に。その時は戦うのに必死で、深く考えなかったが……閃いたぜ。『障壁は足場に出来る』ってな」

 

「ばっ、馬鹿なこと考えるねあんたはっ! ははっ、それで実行して成功してるんだから無茶苦茶だ。フェイトが言ってた意味がやっとわかったよ」

 

 馬鹿とは失礼だな。

 

才能のない人間が、血眼になって、目を皿にして、必死でみつけた『希望』だってのに。

 

「普通は、飛行魔法の適性がないってわかれば空はすぐに諦めて、違う才能を探すだろうってのに……徹は諦めが悪すぎるね」

 

「はっはっはっ、褒め言葉だな! ただの発想の転換だ。飛翔()べないのなら跳躍()べばいいってな。更新しとけよ? 俺がとべねぇっていう情報(データ)はもう古いぜ!」

 

 言い終わると同時にアルフへ肉薄する。

 

これでもう、空は俺の弱点たりえない。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 空を克服した俺だが、戦闘再開から五分ほど経過したとき、問題点があらわになった。

 

「っはぁ……っく、はぁ……っ」

 

 バテた。

 

夕方にフェイトと戦い、今こうしてアルフと戦って魔力が底をついてきた。

 

よくよく考えれば、魔法を知ってまだ二日しか経ってない俺が、今日一日で二戦もしてればそりゃ体力も限界だ。

 

 格闘戦自体は、武道にすこし触れた程度の俺でもなんとかなっているが……魔法が絡む戦闘となると明らかに実力が追いつかない。

 

経験が不足していて、魔力付与も防御魔法も魔力が垂れ流し、かなり効率が悪い。

 

 思考を高速で回し続けているせいで、頭も痛む。

 

ここまで集中することなど今までなかったので、明らかに脳みそがこの思考速度に慣れていない。

 

 そしてなにより、新しく考えたこの技術が、予想を大幅に超える勢いで魔力を食う。

 

「動きが鈍くなってきたよ、徹!」

 

「うるっせぇ……っ、はぁっ、わか、ってんだよっ……」

 

 俺の足元へ障壁を展開し、それを足場に移動・攻撃を行うのだが……移動のたびに障壁を展開するせいで、戦闘が長引くほどに魔力を消耗する。

 

体力はまだ問題ないはずなのに、魔力が枯渇するだけでどうしてここまで苦しいんだっ。

 

「辛そうだね徹、そろそろ楽にさせてあげるよっ!」

 

 アルフの周囲に浮かぶ発射体から、オレンジ色の弾丸が飛んでくる。

 

くそっ、ここで足にガタがきた、動かねぇ……っ。

 

 動けないので魔力弾を流し反らそうと、角度変更型障壁を張る。

 

だが、リンカーコアから供給される魔力が足りないせいで、構築された魔法は明らかに不完全だ。

 

術式に魔力が満たされないまま発動したから、展開された障壁が不透明になっている。

 

当然強度も落ちていて、何発か魔力弾を受けただけでもう罅が入った。

 

 魔力弾を撃ちながらアルフが接近してくる。

 

魔力弾で動きを止めて、肉弾戦に持ってきたか。

 

「ぉ、おおぉぉっらぁっ!」

 

 自分に活を入れて、足に力を込める。

 

角度変更型障壁を少し上にずらして魔力弾を防ぎながら、足元に展開した足場用障壁を蹴り、垂直に上へ避難するが……もう魔力付与すら、十分に身体にめぐっていないようだ。

 

高さが……足りないっ!

 

「ここまで見えていれば、問題はないよ!」

 

 魔力弾により角度変更型障壁に亀裂が入り、アルフの左拳で破壊された。

 

阻むものがなにもない俺にアルフは接近し、俺の足をつかんで足元まで引きずりおとす。

 

「これでっ、終わりっ!」

 

 顔の正面で両腕を交差させガードするが、アルフは俺の腹部へと足を振り下ろした。

 

ドゴォという音を出し、蹴りから生み出される威力とは思えない衝撃が俺を襲う。

 

腹にアルフの足がめりこんだので、上半身と下半身がさようならしたかと本気で思った。

 

 地面へと急降下する。

 

五分前の攻防の再現、そしてその結末。

 

 結局のところ、俺の死に物狂いの努力は、五分程度の時間を引き延ばしただけ……だった、のか……。

 

四苦八苦して、勝つ道を探した。

 

骨身を削り、実力の差という溝を埋めようとした。

 

肝胆を砕いて、チャンスが、可能性がないか立ち回った。

 

その結果が、これだ。

 

 なにへこんでんだよ、俺……わかっていたはずだろう……。

 

 

 

 努力や覚悟だけで、運命は……変わらない。

 

 

 

 落下した時のダメージを少しでも減らすため、自分の身体の下になけなしの魔力で障壁を構築するが、墜落と同時にぱりんっと甲高い音をたてて割れる。

 

はは……ぱりんって、ガラスかよ……。

 

着地の衝撃だけで運動エネルギーが尽きるわけはなく、俺の身体は地面でがりがりと削られながら転がり、公園灯にぶつかってなお、三メートルほど地表をなめた。

 

「い、生きてる?」

 

 うつ伏せだった身体を、全身を使ってあお向けにして、手を振って返事をする。

 

正直、手を動かすだけでも辛いが、精一杯強がった。

 

 アルフは飛行魔法でゆっくりと降りてきて、すとっと静かに着地。

 

「だ、大丈夫かい? 仲間、呼ぼうか?」

 

「いい……、俺も男だ……こんなになっておいて、っ……言うのもなんだが、情けはいらねぇよ……」

 

 制服も身体もぼろぼろで、傷を数えだしたらきりがないだろうし、魔力も完全に底だ。

 

 でも、それでも虚勢を張る。

 

それくらいしか……俺にはもう、なにもないからだ。

 

 ズボンのポケットに手を突っ込み、ジュエルシードを取り出す。 

 

歩いて近づいてくるアルフへ、ぷるぷると情けなく震える手でジュエルシードを渡そうと、上半身だけでもいいから起き上がろうとして……できなかったので腕だけ上げる。

 

負けたら渡す、そういう約束だからな。

 

しかし上半身すら動かねぇとか、どんだけだよ……。

 

 差し出された手の上のジュエルシードを見て、アルフは青白く光る宝石ではなく俺の手をつかんだ。

 

なんで手を? と疑問符を浮かべる俺を放置して、アルフは手を引っ張って――引っ張り上げて――横抱きに抱き上げた。

 

つまりはお姫様抱っこ。

 

「なに、してんの……」

 

「ん? 徹が自分勝手に意地張ってるから、こっちも勝手にやってるだけ」

 

 最後の矜持すら、俺の薄っぺらい障壁と同じように砕く気かよ。

 

「下ろせっ……」

 

 この屈辱から逃れるように暴れるが、オレンジ色の鎖で縛られて動けなくなった。

 

なんだよこいつ、こんな魔法も使えたのかよ。

 

「悪いね、暴れられて落ちたら危ないからさ。ちょっとの間、我慢してもらうよ」

 

「なんなんだよ、本当に……そこまで、みじめな気持ちにっ……させてぇのかよ」

 

 情けなくて無様で無力で、そんな自分にいらついて、その怒りを助けようとしてくれているアルフにぶつけて……そんな自分の器の小ささに泣きたくなってくる。

 

見上げるようにしてアルフの顔を睨みつける。

 

何考えてんだよお前は。

 

そのまま放っておけよ、本来ならジュエルシードじゃなくて命を賭けた殺し合いなんだぞ。

 

「ははは、意外と繊細だね、徹は。細かいことは、今は横に置いておこうじゃないか。徹は何かに、見えない何かに縛られてるように見えるよ。闘ってるときは楽しそうだったけど、どこか不自由に見えた。もっとさ、気楽に考えたらいいんじゃないか? あたしたちの関係もそうさ。最初は敵同士だったけどさ、言葉を交わして、拳を交わして、本気で戦ったんだ。ならもう、ほらあれじゃないか」

 

 途中で言葉を区切ってしまった。

 

俺がなにかに縛られてる? 実際にオレンジ色の鎖に縛られてるぜ。

 

それに不自由なつもりもねぇよ、今現在は不自由だが、俺は基本的に自由気ままに動いてると自負している。

 

最初は敵同士って、今も十分、十二分に敵同士だと思うんだが。

 

つうか俺まだ、手にジュエルシード握ったままなんだけど……これどうしたらいいんだよ。

 

文句も反論もいっぱい出てくるが、話を黙って聞いておく。

 

 アルフは言いよどみながらも言葉をつづけた。

 

「友達って……言うんじゃないのか? こういうの」 

 

 結界を解除し、元の状態に戻った公園灯がアルフの顔を照らす。

 

頬をほのかに赤らめ、照れ臭そうに笑う彼女はとても綺麗で、可愛くて、格好良くて、惚れてしまいそうだった。

 

きっとこの状態のせいだな、お姫様抱っこっていう今のこの状態が、何かの作用を引き起こしたんだ。

 

「はっ、殴り合って友情とか……少年漫画かよ」

 

「し、仕方ないじゃないかっ。今まで……そ、そういう相手がいなかったんだからっ」

 

 俺の軽口に、顔を真っ赤にして反論するアルフを見て、少し笑ってしまう。

 

馬鹿にするように笑っても、アルフは腕の力をゆるめることなく、俺の身体をしっかりと抱いている。

 

 いつの間にか……鎖は消えていた。

 

「くっははっ、はぁ……そっか……。友達相手なら、甘えちまっても、いいか……」

 

「あぁそうだね。甘えてもいいんだ。友達だからね」

 

 なんかな、もう……いいか。

 

いつの間にか俺は、気を張っていたのかもしれない。

 

 いきなり黒い化け物に襲われたかと思えば、魔法とかよくわからない話をされて。

 

ロストロギアとかジュエルシードとか、ちゃんとどういうものか理解もできてないのに、危険なものとか言われて、暴走したら街どころか今のこの世界がなくなるとか言われて。

 

内心すごい不安なのに、なのはやユーノには兄貴面しちゃって、いまさら弱味なんて見せられなくなっちゃって。

 

危険なことに巻き込んだりできないから、たった一人の家族にも、恭也や忍といった親友にも、桃子さんや士郎さんといった親も同然の人にも、相談とかできなくて。

 

そんな危険物からなのはを、みんなを守らないと、とか考えたりするけど俺が一番弱くて。

 

必死に強くあろうとして……虚勢を張って、強がって、意固地になって。

 

 あぁ……なるほど。

 

アルフの言っていた『不自由』ってのは、こういう意味か。

 

さっき初めて会って、数分戦っただけの相手に気付かされるなんてな。

 

 闘ってぼろ負けした挙句、男が女にお姫様抱っこされるという、この上なく情けない格好のはずなのに……妙に安心してしまうのはなんでだろうか。

 

「アルフ、俺なんか眠ぃから……後、頼むわ」

 

「ふふっ、ゆっくり寝てな。頼まれた」

 

 アルフは俺を抱きながら、飛び上がり民家やビルの上を走って、跳んで。

 

恐らくアルフやフェイトたちの基地、住処へ移動しているのだろう。

 

 睡魔に襲われ、意識をもうろうとさせながらもアルフの顔を見る。

 

凛とした顔で月明かりの下を駆ける彼女は、とても美しかった。

 



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第二章
15


大筋は変わらないと思いますが、この回から少しづつ原作と違ってくるかもしれません。
注意してください。無理かも、と思った方はすぐにお戻りください。

あと若干一名、後半でキャラ崩壊が激しいです。
こちらにもご注意を。



「知らない天井……って馬鹿か、俺は」

 

 知らない天井なのは、確かなんだけどな。

 

 アルフが運んでくれた、とは思うけど……どこだろうな、ここ。

 

あまり物が置かれていなくて、少し寂しい部屋。

 

俺が寝ているパイプベッドの横にサイドテーブル、あとは書類整理でもするのか机が一つあるだけだ。

 

時計もかけられていない。

 

カーテンも薄く、日が差し込んでいる。

 

一時的なアジトだから物を置いてないのか、俺という部外者がいるから足の着きそうなものを片づけたのか。

 

「あーあ、太陽昇っちまってんじゃん……」

 

 やばいなぁ、姉ちゃんになんと言い訳したものか、学校もサボりだな……。

 

 まぁ、それよりも先に考えるべきことがあるか。

 

 ひとまず動こうと思い、掛けられていた布団をどけて、起き上がろうとしたが、また布団をかぶった。

 

なんで、俺、服着てねぇの……。

 

制服はぼろぼろだったし、俺自身傷だらけだったから全部脱がしたのだろうか。

 

でも、パンツまで剥ぎ取らなくてもいいのでは……。

 

アルフがこれやったのかな、そうだとしたら次会うとき、どんな顔して会えばいいかわかんねぇよ。

 

 そういえば傷がなくなっている。

 

腕とかの見えやすい場所しか見てないが、完全に治癒されている。

 

あれだけ戦えて補助魔法すら使えるのか? 万能すぎるだろう、もしかしてまだ仲間がいるのか?

 

 身体の調子を確かめるために、ブリキの人形のようにぎしぎしと響く身体で立ち上がる。

 

傷は治してくれたようだが、筋肉はかなり軋むような感じだ。

 

 この際に全身をチェックしておこう、誰も入ってこないみたいだし。

 

腕や肩、腹などの上半身は完璧だな。

 

アルフに抉りこむように腹を蹴られたが、痣も残ってない。

 

足や太もも、腰といった下半身も完治している。

 

魔法による攻撃だったので、ほとんどがかすり傷や打撲といった怪我だっただろうが、ここまで全身を完全に治療できるものなんだな。

 

魔法ってのは本当、便利なもんだな。

 

頭を使いすぎたせいでまだ少し、じんじんと痛むがこれはそのうち引くだろう。

 

 だがここで問題が起きた。

 

誰もいないから、ということで安心しきって、身を包んでいた布団をベッドに置いて、傷の具合を見ていたのが原因だろうな。

 

あぁ、すべての責任は俺にあるだろう。

 

「失礼します。もう起きられまし、た……か……」

 

 裸体を女性に晒すことになってしまったのは。

 

せめてもの救いは、扉に背を向けていたことくらいだ。

 

「あ、いや、あのこれは……」

 

 弁解しようとして振り向こうと思ったが、振り向いてしまったら、あのまぁ……それこそ見えてしまうわけで。

 

ベッドに乗っけた布団を取ろうにも、身体がきしんで動きづらく、すぐに取ることができない。

 

こ、この状況どうしたらいいんだっ。

 

かなり焦っていると彼女の方から切り出された。

 

「す、すいませんっ、申し訳ありませんっ! 決して、あ、あの覗こうとか、そういう不埒なことを考えてたわけではなくてですねっ、たしかによく引き締まっていて、でも筋肉はちゃんとついていて、とても私好みのいい身体だとは思ってましたけどっ! あれっ?! 私は何を言っているのでしょうかっ?! 部屋っ、で、出ますので! 服も、用意してきます!」

 

「え、はい。お願いします」

 

 彼女の方がテンパっていて、逆に冷静になってしまった。

 

彼女は言葉より先に行動に移したようで、言い終わる前にドアが閉まる音がした。

 

しかし俺、素っ裸で背を向けながら仁王立ちとか、どれだけ高度な変態だよ。

 

俺の黒歴史が新たに追加されてしまった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 服をもらい、着替えて扉に手をかける。

 

ちなみに服を持ってきてもらった時は、まずノックをして返事を受けてから扉をわずかに開けて、服を部屋に押し込み、すぐに扉を閉めた。

 

同じ轍は二度と踏まないとばかりの早業に驚愕したものだ。

 

 服は、灰色のパーカーに青のインナー。

 

黒みの強い青のジーパンと、下着は無地で黒色のトランクスだった。

 

うん、まぁ……無難? 服まで用意していてくれたのは、無論感謝しているが。

 

 動きづらい身体を無理くり動かし、部屋を出て、右を見ると玄関になっていたので左へ進み、一応ノックしてから扉を開く。

 

そこには民族衣装のような、日本では見ることのない変わった服をお召しになっている女性が立っていた。

 

服自体は別にいいんだが、いかんせん、胸元が大きく見えてしまっているので、これは情操教育上よろしくないかもしれない。

 

薄茶色っぽい髪に猫耳と、服の加減で見えづらいけど触り心地のよさそうな尻尾がある。

 

アルフと同じような、半獣半人みたいな人……なのだろうか?

 

 おそらく彼女が、さっき部屋に入ってきた人だろう。

 

顔を見ていないので自信はないが。

 

「先ほどは、た、大変失礼しました。逢坂徹さん、あなたのことはフェイトとアルフから聞いてます。私はリニスと申します。以後よろしくお願いいたします」

 

 リニスと名乗った目の前の女性は、慇懃な口調で深々と頭を下げた。

 

前かがみになったおかげで……前かがみになったせいで、谷間が強調されてどぎまぎしてしまう。

 

「いや、俺もさっきは悪かった。リニスさん、頭上げてくれ。あと俺相手にそんなに丁寧な喋り方しなくていいから。治療してくれたのはリニスさんなんだろ? 助けてくれてありがとう。……ちょ、頭上げてってば」

 

 ついさっき起こった事件にはなるべく触れず、口調の訂正と感謝をしておく。

 

……この人なかなか頭上げてくれねぇな、なんかすごい申し訳ない気持ちになるからやめてほしいんだけど。

 

よく見ると、耳がぴくぴくしてるし、ちょっと顔赤いな。

 

「ではフェイト達と同様、と、徹と呼びますね。ですが、えっと、さっきいろいろ口走ってしまったので、顔を見づらいといいますか」

 

「あぁ確かにいろいろ言ってたな。身体が好みとかどうとか」

 

 俺の何気なしに放った言葉のせいで、さらに頭が下がってしまった。

 

耳が垂れて、尻尾も足につくように巻かれてしまっている。

 

「いや、ごめん! 口に出すつもりはなかったんだけど、つい。そっちの発言は特に気にしてないからさ、顔上げてくれ」

 

「徹は天然でいじわるですね」

 

 やっと顔を上げてくれたリニスさんは、まだほんのりと頬を赤く染めていたが、こちらへ返してきた言葉をかんがみると調子は上がってきたようだ。

 

「俺は基本的には優しいんだぜ? ところでいくつか質問していいか?」

 

 『どうぞ』とリニスさん。

 

「俺はどのくらい寝てたんだ? あんまり長い間寝てたりしたら、後が怖いんだけど」

 

「アルフがあなたをここへ連れてきたのが昨日の二十一時だったので、だいたい十五時間ですね。予想より早く目覚めて安心しました」

 

 何日も寝込んでたとかじゃなくてよかった。

 

これならまだ釈明のしようがあるだろう。

 

 それじゃあ、今は昼くらいの時間なのか。

 

このリビングにも時計が置かれていないので、時間が把握できなかったから助かった。

 

時間を知ってしまったせいで、どれだけ飯を食っていないか計算してしまい、俺の身体が空腹状態を知らせてきた。

 

「ふふ、時間はお昼ですが、朝ごはんにしましょうか。質問は後にしましょう。座っていてください、準備しますので」

 

「ご、ごめん、催促したみたいで……。ありがとう」

 

 恥ずかしい……年上の女性に笑われてしまった。

 

 料理なら手伝いたいところだけど、こんな身体の俺が台所に立ったところで邪魔にしかならないだろうから、ソファに座ってくつろぎながらご飯を待つとしよう。

 

 俺が寝ていた部屋とは違い、リビングにはいろいろ置いてあるようだ。

 

こちらの部屋にはソファもあるし、テレビもある。

 

小さめながらも女所帯のためか、鏡も鎮座している。

 

ソファに座り、テレビから目を右にずらすと、台所で食事を用意してくれているリニスさんが見えた。

 

なんかいいな、こういうの、新婚さんみたい。

 

馬鹿なこと考えてるなー、とは自分でも思っている。

 

左に頭を向けるとバルコニーになっていた。

 

窓の外の風景を見る限り、相当な高さがあるようだ。

 

ここはマンションなのか? いい部屋だし家賃とか高そうだなー。

 

 部屋をきょろきょろと見回していると、台所から声がした。

 

「できましたよ。すこし作りすぎたので徹も運ぶの手伝ってください」

 

「はーい。……すごいなこれは、この場には二人しかいないのに」

 

 なんかこうしてると、敵対した勢力だってことを忘れてしまいそうだな。

 

実際ほとんど気にしてないから、忘れてるも同然か。

 

「男の子がどのくらい食べるのかわからなかったので……アルフが食べるのと同じ量くらいに作りました。多かったら置いといてくださいね」

 

「いいや、残らねぇから大丈夫だ。めちゃくちゃ腹減ってるし、それにこれだけうまそうな料理を目の前にしたら、箸が止まらねぇよ」

 

 はにかみながら『ありがとうございます』と笑うリニスさんと一緒に、リビングへ皿を運んでテーブルに置く。

 

 時間は昼時だが、俺が起きたばっかりなのでメニューは朝食に近いものだ。

 

目玉焼きやベーコンに、レタスやトマトなどの彩り豊かな野菜も添えられている。

 

コーンスープだろうものもカップに入っていて、テーブルの中央にはバゲットが何個か入っている籠が置かれていた。

 

ここまでなら、朝食だった。

 

山盛りのご飯に、生姜焼きにした豚肉がこんもりと積まれている。

 

俺が多少なり血を流したから、という配慮だろうか?

 

 皿を置き終わり、向かい合わせに椅子に座って、手を合わせる。

 

「いただきます」

 

 さぁ食べようかと思ったら、リニスさんが、きょとんとした目でこっちを見ていた。

 

「ん? なに、どうした? 変なとこあった?」

 

「いえ、さっきの手を合わせてからの言葉が不思議で……この国の文化ですか?」

 

「あぁ、それか。まぁ文化と言えば文化なんだろうな。食事をとる前の挨拶みたいなものなんだ。肉や野菜といった食材や、作ってくれた人への感謝とかを表したものらしい」

 

 『いい文化ですね』とリニスが笑いかけてくれるのが、なんだか面映ゆくて視線を逸らした。

 

リニス達とはこうして普通に話ができてるし、顔かたちもそう違わないので違う世界の人間であるということをつい忘れてしまう。

 

猫耳、猫尻尾完備の美人に屈託のない笑顔を向けられると……とても落ち着かない。

 

 なので食べながらで行儀が悪いが、質問させてもらって空気を変えることにした。

 

「そういえばさ、リニスやアルフってどういう種族なんだ? 猫耳とかついてるけど」

 

 そう聞くとリニスは、バッと手で猫耳を覆い隠した。

 

「えっ、ちょ、どうしたんだよ」

 

「わ、忘れてました……えぇっと、これはですね」

 

 なにやら恥ずかしそうに目を伏せて、猫耳を隠したまま教えてくれた。

 

猫耳、隠すの遅い気がするけどな。

 

「アルフも私も使い魔なんです。アルフはフェイトの、私はフェイトの母、プレシアの。使い魔というのは犬猫とかと契約することが多いので、そういう場合は耳とかが……こんな感じに……」

 

 使い魔、だったのか。

 

魔法使いっぽいワードだな。

 

「ならなんでリニスさんは隠してんの?」

 

「私は……あの、恥ずかしくて……。普段は帽子をかぶってるんですけど、この国は家では帽子を取るそうなので外していて……」

 

 その言葉を聞いて俺は、かたりと椅子から音をたてながら、やおら立ち上がった。

 

……恥ずかしい? ……隠す? なんてもったいないことしているんだ!

 

「リニスさん、あなたにも色々と考えはあるかもしれないけど、すこし俺の話を聞いてほしい。それは隠すものでは、ましてや恥ずかしがるものでは決してないっ! 自信をもって見せびらかしていいような萌えポ……素晴らしいものなんだっ。実際、この国でも一部の人間は、猫耳が持つ可愛らしさから、猫耳のように見えるカチューシャとかをつける人だっている。そのような萌えポ……萌えポイントを恥ずかしがる必要はないっ。むしろ誇るべきだっ!」

 

 俺の身振り手振りを交えながらの、熱意のこもった説得に心を打たれたのか、リニスさんは感動で顔を真っ赤にして俯いた。

 

俺は、立ち上がった時とおなじようにゆっくりと座り、食事を再開。

 

あぁ、おいしいなぁ、人に作ってもらうご飯って。

 

 ちなみに俺の熱弁以降、リニスさんは食べ終わるまで喋ってくれなかった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「料理作ってもらったし皿は俺が洗うわ」

 

「い、いえ。客人にそんなことさせられません」

 

 やっとリニスさんが喋ってくれた。

 

つか俺客人だったのか? 敵じゃねぇのかよ。

 

「なら一緒に片付けよう。皿をどこに片付ければいいかわからねぇし」

 

「それなら、まぁ……」

 

 食い下がってきそうだったので、お互いの中間あたりで落としどころを見つけた。

 

食事のおかげか、慣れたのか、筋肉の痛みも大分治まってきた。

 

 台所で皿洗い中にまた質問。

 

「フェイトやアルフは? お出かけか?」

 

「はい、今はジュエルシードの探索です。詳しい場所はわからないから足で探すしかない、と。アルフは家を出る時、徹の事をとても心配していました。その元気な顔を見せてあげてほしいですね」

 

 戦った相手の事を心配してどうすんだよ、敵だぞ一応。

 

でもまあ、俺がここを出るまでに帰ってきたら、礼を言っとかねぇとな。

 

「帰ってきたら礼を言うよ。傷を治してくれたのはリニスさん、なんだよな?」

 

 皿を洗って、泡を水で流して渡す。

 

「は、はい。治癒は私がやりました。傷が見えないとやりにくいので、服も脱がしましたが……決してっ、決して見てませんのでっ! 目をつぶりながら脱がしましたが、服を着せるのは……できませんでした……」

 

 リニスさんは皿を清潔なタオルで拭いて、棚へとしまう。

 

その時の事を思い出してしまったのか、顔がすこし赤くなっている。

 

 見ていない、というその言葉を俺は信じることにした。

 

それがお互いにとって一番幸せだろう。

 

なので、服脱がした云々の話には触れずに話を続ける。

 

「ありがとう。言っちまえば俺は敵なのに、助けてくれて。どこにも傷残ってなかったし、随分腕がいいんだな」

 

「それは私も驚きましたよ。アルフがいきなりあなたを担いで帰ってきたので、そこでまず驚きました。倒した相手を拉致するような子だったかな、って。私はそこまで補助魔法は得意ではなかったんですが、なんとかなりました」

 

 どうやらリニスさんは、俺と同じような考え方みたいだ。

 

ジュエルシードを奪い合う、という今の状況なら相手の戦力を削るために、倒した相手を拉致、拘束して、情報を抜き取り次第、消す。

 

このくらいは考えてもおかしくはない。

 

なのはもフェイトもアルフも、こういう考えは持っていないようだけど。

 

「そしたらアルフは『治してやってくれ』って言うし。フェイトはあなたを見て、アルフを叱るし、よくわからない状態でした」

 

 リニスさんは苦笑いしながら皿をしまい終わり、食後のお茶の準備をする。

 

コーヒーと紅茶どっちにするか聞かれたので、コーヒーにしてもらう。

 

「フェイトがアルフを、か? アルフと話していて、二人は仲良さそうに思えたんだが」

 

「徹の傷があまりにひどかったので、取り乱したのでしょう。普段は仲良しなんですよ? それこそ姉妹みたいに」

 

 俺の傷がひどかった? 戦っていた時は全くと言っていいほど気にならなかったから、てっきりかすり傷とかそんなもんだと思っていた。

 

不思議そうに首をかしげる俺を見てリニスさんは、ふふっと笑い、指折りしながら数えるように教えてくれた。

 

「まず全身傷だらけから始まり、左腕は折れてましたし、右足にもヒビがはいっていました。肋骨も二~三本いってましたし、なにより腹部がひどかったですね。赤黒く変色していて、内臓も傷付いていたようで」

 

 想像以上にひどいな、なんで俺気付いてねぇんだよ。

 

痛みに鈍感すぎるのか、戦闘に集中しすぎてアドレナリン出まくって麻痺してたのか。

 

やっぱり腹は酷かったんだな、そりゃあアルフの蹴りをもろに食らったんだから、さもありなんって感じだ。

 

「それを見てフェイトが驚いて泣きそうになったり、アルフもまさかそこまで重症とは思っていなかったのか、とても慌ててました。二人とも今から思い出せば、笑いそうになるくらいに取り乱してましたよ。もちろん、二人ほどではありませんが私もです」

 

「そりゃ驚くだろうな。わりと平気そうに殴り合ってたんだから」

 

 フェイトもアルフも基本は心優しい女の子だからなぁ。

 

敵とはいえ、滅茶苦茶心配しただろうことは容易に想像できる。

 

 トレイに俺のコーヒーとリニスさんの紅茶を載せ、リビングに移動して、ソファの近くにある木目が綺麗なローテーブルに置いた。

 

隣り合うようにソファに座り、話を続ける。

 

「空き部屋に――徹を寝かしていた部屋ですね。二人を追い出して、あの部屋のベッドに寝かせて手当てしようと思ったんですが……正直なところ、私も焦っていました。私の魔法で治せるかわからなかったほどに傷がひどかったので」

 

 リニスさんがいくつ? と聞いてきたので十六と答えると、くすくすと笑って、なら私は十八個くらい入れないといけませんね、と言われた。

 

コーヒーに入れる砂糖の話だった、また恥かいた。

 

「どこまで治せるか分かりませんでしたけど、魔法を使いました。すると自分に使うのと同じくらいに、魔法がすんなりとあなたの身体に満ち渡りまして。まるで私の魔法を受け入れるような感じでした」

 

 再度、いくつ? と聞かれて今度は三つと答える。

 

リニスさんは、ふふっと笑いながら俺のコーヒーに砂糖を三つ入れた。

 

なんだよ、コーヒー苦かったら飲めねぇんだよ、仕方ないじゃねぇか。

 

「普通は自分のものではない魔法は、ある程度拒絶するような反応があるんです。自分が信用している相手からの魔法はわりあい、すんなりと入るものですが、徹のようにほぼ無反応というのは、珍しいんですよ。それが驚いたところの二つ目ですね」

 

 ミルクも入れますよね? と入れる前提で聞かれたが、入れないと飲めないので頷く。

 

またリニスさんは、可愛いものでも見るかのような目をして笑うので、少し仕返しすることにした。

 

「なら驚いたところの三つ目は、治した人間が好みの身体をしていた、ということか」

 

「もうっ、それは忘れてくださいよっ!」

 

 コーヒーカップをこちらに寄せながらの苦情。

 

ちっぽけながらも仕返しすることができて、俺の面子も保たれた。

 

女性にぼろ負けにされて、敵対している相手に傷を治してもらった時点で、面子もくそもあったもんではないが。

 

「でもリニスさんはなんで俺を治してくれたんだ? フェイトやアルフなら、言い方は悪いけど、甘いところがあるからわかるが。リニスさんは俺と近い考え方、もっと現実的な考えを持っている、と話を聞いてて思ったんだけど」

 

 カップを傾け、甘いコーヒーに口をつけながら、疑問をぶつける。

 

コーヒーんまい。

 

「徹の想像通り、私は二人より戦略的な面を持っていますが……二人の顔を見て、良い方向に成長していると、そう思いました。家族以外と顔を合わせることのない生活を送っていましたので、性格の歪んだ子達になっていたらどうしよう、と常々思っていたんです。ですが、あなたを心配する二人を見て安心しました」

 

 紅茶を一口含んでから、リニスさんは語ってくれた。

 

その横顔はまるで、子を心配する母のように愛が溢れ、口調は困った妹をもつ姉のようでもあった。

 

「その二人がそれ程までに心配するあなたを、消してしまうなんてことはできませんでした。私も若い命を摘むようなことは、したくありませんしね」

 

 この人は、ちゃんと現実を見ている。

 

見た上で、どうするかを判断したんだろう。

 

どれを取ったらいいかを、天秤にのせてはかって、一番得をするだろう選択をする。

 

たしかに優しいけれど、時と場合、状況を考えるのだ。

 

優しいだけじゃない、必要とあらば手を汚す、そういう理知的な女性なのだろう。

 

 大変なんだよなぁ、こういう人が相手側にいると。

 

「思った以上に借りができちまったなぁ。どうやって返したものか」

 

「ジュエルシード集めを手伝ってくれれば、借りもなくなるんじゃないですか?」

 

「それができたら苦労はしねぇよ。無茶言ってくれんなよ、俺にも通さなきゃいけねぇ筋があるんだから」

 

 答えはわかってました、とばかりに綺麗な顔から笑みをこぼす。

 

……ハニートラップにかかる男の心が理解できた気がする。

 

それからは俺もリニスさんも、コップを傾けるだけだった。

 

そんな空気でも息苦しくないのは、リニスさんの醸し出す雰囲気のおかげなんだろうな。 

 

 コーヒーを飲み終わり、一息つく。

 

 今の時間はわからないけど、そろそろ各所に連絡しとかないとな。

 

昨日から意図せずにだが、音信不通を貫いてしまっている。

 

「ごめん、俺の携帯ってどこに置いてんの? 心配かけてるだろうから、電話の一本でもしとかないとまずいんだけど」

 

「あっ、すいません気を使えなくて。すぐ持ってきますね。昨日の服と一緒にかためて置いてるので」

 

 リニスさんは一言謝って、すぐに取りに行った。

 

ここには置いていないのか、俺が入る時に開けたドアを通り、少し歩いて左の部屋に入った。

 

部屋の配置的に考えて……洗面所か? 

 

 几帳面そうな性格だ。

 

わかりやすいところに置いていたのだろう、すぐに戻ってきた。

 

「服に入っていたものは、これですべてです」

 

 言葉通り、俺が持っていたものは全部あった。

 

携帯、財布、家の鍵、ジュエルシード。

 

…………ジュエルシードは取っとけよっ!

 

「なんでこれがあるんだ……ジュエルシードはもう俺のじゃない、アルフのものだ。戦って、俺が負けたんだから」

 

「ふふっ、そういう子なんです。アルフもフェイトもジュエルシードになんか目もくれず、あなたを心配してましたから」

 

 残りのものは俺の近くにおいて、ジュエルシードだけリニスさんに返す。

 

「全く……アルフに渡しておいてくれ。勝負の約束くらいは守りたい」

 

「わかりました、ちゃんと渡しておきますね。それにしてもどうやったんですか?」

 

 渡すことを約束してもらって、質問された。

 

内容がわからないので『なにを?』と聞き返す。

 

「すいません、主語がありませんでしたね。あの二人がずいぶんとあなたに心を開いているようだったので、どうやったのだろうと不思議に思って」

 

 心を開いている……なんでだろうな。

 

俺もわからねぇや、大したことしてないと思うけど。

 

「それは俺も知らねぇよ。俺がやったことなんて、精々二人と戦ったことくらいだ」

 

 正確にいうと、戦って『負けた』ことくらいだ、が正しい。

 

「そうでしょうか。二人とも、初対面の人間に対してするような、心配の仕方じゃなかったんですけどね。フェイトは『もう一回戦わないといけないからっ』と普段より語気を強めてましたし、アルフは『すごく楽しい戦いだったんだよ』と話していましたし」

 

 結局どっちも戦うことに関してじゃないか、なんと血生臭い心配だろう。

 

「フェイトとは、戦って負けたから、次は勝つから首洗って待っとけって話になった。アルフなんて、本当にステゴロで殴り合っただけだぜ」

 

「それならきっと、正面から向き合ってくれた事が嬉しかったんでしょうね。治療した後、喜色満面といった顔であなたの事を話してくれました。あと、二人ともが『無茶苦茶な人』と表現していたんですが、なにをやったんですか?」

 

 正面から向き合った、ねぇ。

 

姑息な手段すら、打たせてもらえなかっただけなんだが。

 

 そしてあの二人が俺を『無茶苦茶な人』と表現するのは絶対におかしい、納得いかない。

 

俺は、無茶苦茶強い人間を相手に、必死になって使えるもの全部使って、がむしゃらに戦っているだけなのに。

 

「あいつらの感性が間違ってるんだ。俺は全力を出して、精一杯戦っただけなんだから。ごめん、すこし席外すわ、電話してくる」

 

 携帯を持って、よく壊れてなかったな、とまず思った。

 

あの戦闘を経験してなお、まだ活動している携帯にすこし尊敬の念を抱く。

 

 俺は立ってリニスさんへ一言断りの文句を告げた。

 

「ふふっ、はい。ご家族の心配をぬぐって差し上げてきてください」

 

 顔を綻ばせながら返事をくれた。

 

リニスさんはまるで子供の成長を見ているような、嬉しそうな顔をするものだからつい、見惚れて立ち止まってしまった。

 

どうしたんですか? と尋ねるように可愛らしく首を傾げるので、俺はさらに顔を熱くしつつ、な、なんでもないと、急いでリビングを出る。

 

 自分の心の奥底からわいてきた感情に、驚き、そして焦った。

 

あのままあそこにいたら、リニスさんを押し倒してしまいそうだったから。

 

どんだけ飢えてんだよ……俺。

 

そんなに軽い男ではなかったはずだろう。

 

最近知り合う女性が、あまりにも警戒心が薄い人達ばっかりだから、モテてるとでも勘違いしてんのか?

 

三度ほど深呼吸して心を落ち着かせる。

 

顔の熱が引くまで、電話すらできそうになかった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 もうだいぶ遅いが一応、学校へ『風邪で寝込んでました』と連絡しておく。

 

次に親友二人(恭也と忍)にだが、こいつらには風邪がどうのこうのと言ったところで、俺の声から仮病と瞬時にばれるので『寝坊したから休む』と伝えた。

 

ついでに恭也に『用事があるから今日はバイト行けそうにない』とも伝えておいた。

 

なぜか二人ともすんなりと、俺の話を聞いてくれたのが気持ち悪い。

 

翠屋にもバイトを休みますと連絡。

 

恭也にも言ってはいたが、中途半端なことはしたくないので桃子さんにも話を通す。

 

桃子さんは突然休むといった俺を叱ったりせず、『そうなの~、何か見つけたのかな~』とか『なのは……』とか意味深なことを呟いて、了承したあと、電話を切った。

 

 最後に……今から電話する相手が一番の難敵だ。

 

我が姉こと、逢坂真守(あいさかまもり)

 

俺のたった一人の家族である。

 

あぁくそ……覚悟は決めたはずだろうっ。

 

携帯を持つ手が震える、心臓が激しくビートを刻む、壁を背もたれにしていなければ、今にも倒れてしまいそうだ。

 

携帯を操作し、姉の名前を選択して、あとは発信ボタンを押すだけ。

 

それだけなのに、指が……動かない……っ!

 

ここで携帯が震え、画面が変わった。

 

画面には『姉ちゃん』の文字。

 

お、俺がかける前に、姉ちゃんからかかってきてしまった。

 

ごくりと生唾を飲み込み、深く息を吸って吐いて、再び意を決する。

 

受信ボタンを押し、携帯を耳にあてた。

 

《徹くん……? 徹くんなん? 返事して?!》

 

「あ、あぁ姉ちゃん。俺だ、徹だよ」

 

 めちゃくちゃやばい状態だ、声で、喋り方でわかるよ……。

 

《なんで……なんで昨日帰ってこおへんかったん? お姉ちゃんめっちゃ心配しとってんで?》

 

「う、うん、ごめん。連絡する暇がなくて……」

 

 誤解されないように言っておくが、姉は普段、もっときりっとした喋り方をする。

 

俺に対しては『徹』と呼ぶし、自分の事は『うち』と言う。

 

年上に対しても尻込みせずはっきりと話すし、気さくで愛想もよく、しかも頭脳明晰でスタイルもいい、誇れる姉なのだ。

 

俺はそんな姉を尊敬しているし、迷った時は強気に引っ張ってくれる、そんな大好きな姉……なのだが。

 

心配させてしまったり取り乱した時は、今のような弱々しい喋り方になってしまうのだ。

 

《連絡する暇すらないてどうゆうことなん? 昨日の夜から一日中……なんかしとったん? 『だれかと』……なんかしとったん?》

 

「違うって、な、なにもなかったよ。昨日は高校の友達の家で遊んでて、そのまま寝ちゃったんだ。姉ちゃんが心配するようなことは、なにもなかった」

 

 姉ちゃんは少し、俺を気に掛けすぎるところがある。

 

よく言うと心配性、悪く言うとブラコンだ。

 

そのせいで姉ちゃんは彼氏一人、家に連れてきた試しがない。

 

いや、連れてきたら連れてきたで、俺は泣きながら全力疾走して家から離れるだろうから、まぁ似た者姉弟かもしれない。

 

《嘘……やな。いつもより徹くん声震えとるし、それにキーも高いやん。ちゅーか恭也くんとか、忍ちゃん以外に高校で友達おらんやん。なんで嘘ついたん? お姉ちゃんに言われへんようなこと……してんの?》

 

 とても傷付くことを言われたっ!

 

「きょ、恭也の家に……」

 

《恭也くん家に泊まったとか、そんなあほなこと言わんといてや? そっちにも当然連絡してんねんから》

 

 なるほどな、電話した時いろいろ違和感を感じていたが、このせいか。

 

恭也達にも情報が伝わったのか……くそっ、面倒事が増えただけじゃねぇか。

 

どう言い訳したらいい……こういう時の姉ちゃんは全体的にスペックが上がる、生半な釈明ではすぐに看破されてしまう。

 

今の状態の姉ちゃんは――特に頭の回転速度は――もはや異常とも言えるほどだ。

 

なにか、なにか姉ちゃんが納得できるような言い訳がないか、と頭をフル回転にして考えていた時、俺の目の前に希望の糸が垂れ下がった。

 

「徹、食後のデザートを用意しました。電話が終わったらすぐ戻ってくださいね」

 

 はい、蜘蛛の糸ですね。

 

さしずめ俺はカンダタか、悪いことはしてないぞ。

 

リニスさんは電話中なのを考慮してか、声のトーンを落としていたが……今の姉は、蜘蛛の足音すら察知する。

 

《徹くん……今の女だれなん? ちょーっとばかし、お姉ちゃんに教えてほしいんやけどなぁ……なぁ? ……ト オ ル ク ン……》

 

 あぁ、もうだめだ。

 

電話だけではもう……解決しないっ。

 

結局、面倒事を後回しにするだけだが、やむをえん。

 

「姉ちゃん、姉ちゃんっ! このことはっ、また後日ちゃんと家で話すからっ! だから今はごめんなさいっ!」

 

 俺の言葉をしっかり聞いているかどうかもわからないが、全力で謝って電話を切った。

 

なんともならないんだもん、しゃあねぇよ。

 

そんなこんなで、未来の自分に託すことにした。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「はぁ、どうしたらいいもんか……」

 

 テーブルには苺のショートケーキが置かれていた。

 

さっき言ってたデザートはこれなのだろう。

 

 リビングへ戻り、ソファの背もたれへ体重をかけて天井を見る。

 

さっきの電話では、昨日のことを――今日のことともいえるが――釈明しなければいけない人間が、三倍ほど増えたことを知っただけだった。

 

なにか、それっぽくて筋の通った『完成度の高い』言い訳を考えておかなくてはいけない。

 

姉ちゃんを騙くらかせる言い訳があるのか、とも考えてしまうが。

 

「徹、さっき連絡してたのは彼女ですか? とても必死なように聞こえましたよ」

 

 恋バナなのかと勘繰っているリニスさんが、とてもきらきらした瞳で聞いてきた。

 

あなたのせいで、さらに話がこんがらがってきたんですがね……。

 

「いいや、姉だよ。とても心配性な姉なんだ。連絡もせずに外泊したのを、めちゃくちゃ心配してた。家に帰るまでに言い訳を考え付かないと、俺の身が危険なくらいに心配性なんだよ」

 

 天井を見ていた頭を下げ、抱える。

 

それを見たリニスさんは悩んだように、少し黙って、声を出した。

 

「彼女の家にいたことにすればいいんじゃないんですか? 徹くらいの年の男の子なら自然なのでは?」

 

 きょとんとした顔で、人差し指を口元に当ててリニスさんが提案する。

 

はっ、なんだよ……嫌味かよ。

 

別に、泣いてねぇよ……。

 

「そうですねー、俺に彼女がいればそういう言い訳も使えたかも知れませんねー」

 

「棒読み……彼女いないんですね。いえ、失礼なことを聞きました。…………あ、そうです」

 

仮に彼女の家に泊まったとか言っても、あの姉を言いくるめられるとは思えないが。

 

 リニスさんは、またなにか考え付いたようだ。

 

次は、どんな言葉で俺を傷付ける気かなぁ。

 

もうやめてほしいなぁ、俺フィジカルは丈夫だけどメンタルは豆腐なんだけどなぁ。

 

 あまり期待せず聞いていたが、リニスさんは俺の予想の斜め上どころじゃない答えを口にした。

 

 

「私を彼女、ってことにしたらどうですか?」

 

 

「…………はい?」

 

「それならほとんど嘘にならないので、喋りやすいでしょうし」

 

 この人、ちゃんと自分の言ってる意味が分かって言ってんのかな。

 

ほとんど嘘にならないって……いや……たしかにそうかも。

 

彼女がいないっていうところだけは嘘だが、この家で一日世話になったのは本当だしな。

 

彼女がいる、という悲しい嘘をつかないといけないが。

 

「それにこの家には電話もないので、確認を取ろうにも取れません。なかなかいい案だと思いますが」

 

 あれ? なんだかいけそうな気がしてきた! 言いくるめられた感は否めないけど!

 

「そんじゃ、この作戦使わせてもらっていいか? 迷惑をかけることに……ならないとは思うけど、もしかしたらなるかもしれないぞ?」

 

「えぇ、構いませんよ。代わりといってはなんですが、フェイトやアルフと仲良くしてあげてくれるのなら、尚いいです」

 

「ジュエルシードが絡んだ時は別だが、ここまでしてもらったんだ。言われなくても仲良くするつもりだぜ。ありがとうな」

 

 微笑みを浮かべながら、俺を見るリニスさん。

 

こんな、美人で猫装備完備の女性を、嘘とはいえ彼女と呼んでいいなんて。

 

ラブコメの神様はなかなか粋なことをするじゃねぇか。

 

俺は初めて、神に感謝した。

 

 もっと先の未来で、この日の事を後悔することになるが、今の俺は知らなかった……とかそれっぽい伏線でも張っておくか。

 

自分でフラグにすることにより、フラグが折れることを祈ってな。

 

何もないに越したことはないが。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 午後四時過ぎ、時間も遅くなってきたし、そろそろ帰らないと。

 

フェイトやアルフには言いたいことがいっぱいあるので、なるべく待っていたかったのだが、残念だ。

 

「リニスさん、長い間邪魔して悪かったな。そろそろお暇させてもらうわ。フェイトやアルフにはよろしく言っておいてくれ。今日の借りは必ず返す、とも」

 

「そうですか、二人は間に合いませんでしたね。まぁいずれ戦場で相見えるでしょうし、礼も返してくれるそうですし? 心配ないですね」

 

 茶化すようにウインクしてくるリニスさん。

 

猫耳美人のそんな仕草に、心臓が跳ね上がる。

 

ほんとやめてほしいぜ、いつか襲っちまいそうで怖い。

 

 しかし仲良くなっちまったもんだな。

 

何度も言うようだが、本来は敵同士なんだから、こんなに和気藹々としてちゃダメなんだけど。

 

スパイとして疑われても仕方がないレベル。

 

まず疑うような人間が、俺の所属する勢力(俺含め三人)にいないが。

 

もう逆に、疑わな過ぎて問題なレベル。

 

「はいはい、また来させてもらうよ、近いうちに。改めて、傷治してくれてありがとう。それじゃ」

 

「あっ、傷で思い出しました。さ、最後にちゃんと確認したいので、診させてもらっていいですか?」

 

 リビングのドアを開けて、玄関へ行こうとした時、リニスさんに呼び止められた。

 

この人の性格上、中途半端な仕事は嫌いそうだからな。

 

「もう大丈夫だと思うけど、それじゃ一応診てもらおうかな」

 

「はいっそれはもう、こちらに座ってください」

 

 リニスさんは、食事をとった時の椅子を引っ張ってきて、俺を座らせた。

 

ちょうどリビングのドアが背になる感じだ。

 

「さぁ、服脱いでもらっていいですか?」

 

 え、脱ぐの? ……傷を見るんだから仕方ないか。

 

指示に従い、パーカーを脱ぐ。

 

な、なんか、リニスさんの目が肉食動物よろしく、ぎらぎらと光ってるような気がするんだけど、気のせい……だよな?

 

「なにしてるんですか、インナーとジーパンもです」

 

「いや、そこまでしなくてもいいんじゃ……軽く見るくらいで」

 

 恐る恐る、弱々しくそう言うが聞いてくれる雰囲気じゃない。

 

リニスさんの、まさしく猫のような瞳が言っている。

 

『さっさ脱げ』、と。

 

こうなってしまっては、草食男子は言うことを聞くほかない。

 

インナーもジーパンも脱いだ、リニスさんの瞳が一際輝いたのは、もはや気のせいではない。

 

「ええはい、それでいいんです。すぐに、すぐに終わらせますから。み、見るだけ、見るだけですから……」

 

 もうだめだこの人!

 

凛とした女性かと思ったけど……やっぱりこの人だめだっ、きっと筋肉フェチとかそういうのなんだ!

 

「もう、いいだろ? 十分見たよな? リニスさんが治してくれたんだから、完璧に決まってるぜ。も、もう服着るぞ?」

 

 なるべく平静を装うが、あまり意味があったとは思えない。

 

声震えてるし、リニスさんの様子は変わらないし。

 

いや、リニスさんの様子は変わったか? 悪化という変化だが。

 

「何言ってるんですか? ぁっ、じ、じっくり見ておかないといけません。はっ、心配性なお姉さんを、ふ、不安にさせるわけにはいき、いきませんから。ふふっ、そうです、心配させてはいけませんからね」

 

 息まで荒げてきた。

 

末期だこの人っ! いろいろと肉食なんだ!

 

ぺとぺと、と身体まで触ってきた。

 

「ちょっと、ちょっとちょっとリニスさん! これ以上は洒落にならないからっ! 今も十分洒落にならねぇけど!」

 

「もう、暴れないでください。じっくり味わえないじゃないですか」

 

 味わうとか言い出しちゃったっ! 見るだけって言ったの忘れちゃったのかよ!

 

もはや鶏も同情するレベル、一歩も動いてないからな!

 

「もうっ、こ、これ以上は俺の許容範囲外だ! リニスさんには悪いが、帰らせてもらっ……っ!」

 

「いえいえ、もう少し、ふふっ。ゆっくりしていけばいいじゃないですか。徹はっ、私たちの友達、ふぅっ……なんですから、ね?」

 

 足を拘束された、当然魔法だ。

 

まさに神速、拘束されたことにすぐに気付けないほどの速さだった。

 

ここでリニスさんの魔法技術の優秀さを垣間見るなんて。

 

俺の足と椅子の足を拘束して動けなくされた。

 

腕は、椅子の背中越しに縛られたようだ。

 

ようだ……じゃねぇよ! 大ピンチじゃねぇか!

 

リニスさんは徐々にギアを上げてきたのか、ヒートアップしてきた。

 

なんと……さっきまでのはエンジンを温めていただけのようだ、末恐ろしい。

 

 

 

「はぁっいいですよ。本当にっ私好みの身体ですっ。ふふっやはり僧帽筋はこのくらいふくらみがないといけませんよね。はふぅ……っあぁしなやかでいい三角筋です。そうですそうなんです大胸筋は大きすぎると見栄えが悪いのでこのくらいがいいんですよ。わかってますね徹。ふふっ素晴らしいですこれは芸術ですね。外腹斜筋内腹斜筋腹直筋腹横筋の緻密なバランス。さながら徹はアーティストですねあはっ。私は大腿部の筋肉が一番好きなんですよ。もちろん大腿四頭筋などのメジャーな部分ではありません。大腿四頭筋もそれはそれで魅力はあるんですけどね。私は内転筋群の釣り合いに一番魅力を感じるんです。えへへ欲張りですよね。徹は内側の筋肉の鍛え方が甘いですね。大内転筋と短内転筋が少し弱いですが安心してください。これから伸びますから。下腿三頭筋、武道でもやっていたのですか? わかりやすく言うと腓腹筋がよく発達しています。素晴らしいですねここまで美しい身体は筋肉はそう見ることができません。ふふ、あぁすごいですよ。プレシア……アルハザードはここにありました……っ」

 

 

 

 逃げなきゃっ!

 

喋り方に抑揚がないっ! いつ息継ぎしてんのっ! 目がやばいっ!

 

予想外だ、ここまでとは本気の本気で予想外だ。

 

早くもラブコメの神様に裏切られた!

 

さっきからずっと、ぺたぺたぺたぺたと身体触られっぱなしなのに、全然いやらしくも感じない。

 

恐怖が先行してしまっている。

 

やばいぜ、いつか取って食われちまうよ……誰か、誰かぁ!

 

「そ、そろそろ。ああ、味の方を……まずは首元ですよね、わかってますよ。ふふっ」

 

「誰か、誰かぁ!」

 

 これ以上はアウトだ。

 

これ以上、アンコントローラブルなリニスさんにいろいろやられたら、もうターミナルまでノンストップだ。

 

車庫もぶっちぎる勢い。

 

 だがやっと、ここでやっと、一筋の光が差し込んだ。

 

 祈りが実ったのか、俺の日頃の行いがよかったのか、ラブコメの神様がさすがに気の毒に思ったのか、やっと救いの女神が現れる。

 

がちゃり、という音が、俺の耳に届いた。

 

「リニスただいま。徹起きて、る……?」

 

「帰ったよ、徹は目ぇ覚ました……か、い……」

 

 ジュエルシードの探索から帰った二人だ。

 

こんな形でだが、会えてよかった、本当に。

 

リビングの扉は開いていたので、玄関から俺の姿は丸見えだろう。

 

新たな火種を生むことになったが……ひとまず俺の貞操は守られた。

 

よかった、本当に、掛け値なしに。

 

 

 





リニスさん、大好きなキャラの一人なんです。
出したかったんです。
こんなことになるとは思いませんでしたが。

これからも彼女の方向性はこんな感じです。
筋肉の件はわりと適当です。
違和感はあると思いますが、本編になんら影響はないので『気持ち悪いなー』くらいで流してください。


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16

「本当にすいませんでした……」

 

「リニスさんにもいろいろ理由はあった……ということで流すよ。治療してくれたことと、これでとんとんだけどな」

 

 さっきまでの俺と立場が入れ替わったように、今はリニスさんがオレンジ色の光で拘束されていた。

 

両手首をオレンジの鎖で縛られ、胸部のすぐ下の辺りで腕と胴体部を鎖で巻かれているので、胸を強調するように見えてしまっている。

 

足首と大腿部も拘束されていて、下はタイツっぽくて生足ではないとはいえ、ちょっと……あられもない姿。

 

暴走状態にあったとはいえ、この光景は過激だ。

 

「徹、ごめんね。いつもはしっかりしてて、頼りになるんだけど……」

 

「あたしたちがもっとはやく帰ってればよかったよ。ちょ、ちょっと、見ちゃったし……」

 

「全員忘れようぜ……何もなかった。何もなかったんだ」

 

 フェイトとアルフが帰ってきて、それで騒動は治まるかと思ったが、そうは問屋が卸さない。

 

二人が慌てて止めようとしたが、動物的な本能なのかどうかはわからないが、リニスさんは興奮状態になって少々騒動が起きた。

 

リニスさんの体裁を考慮して言及は避けるが、結界まで展開して規模の小さめの魔法戦が行われて。

 

その結果がこれ、拘束されたリニスさん、というわけだ。

 

「リニス、もう落ち着いた?」

 

「はい、落ち着いたので解いてください。この格好では私の体面が……」

 

「もうないだろ」

 

「もうないね」

 

 リニスさんには悪いが、俺が抱いた最初のイメージはとうに崩れ去っている。

 

凛として穏やかで、お茶目なところがありながら綺麗で、加えて猫耳猫尻尾完備の年上系の優しい女性。

 

そんなもん、モテない男子高校生の幻想だったんだ。

 

「違うんです、聞いてください。この理想的な筋肉が」

 

「リニス? 黙ってようね? これ以上は沽券にかかわるよ」

 

 最初に期待してしまった分、落差がひどいなぁ。

 

 リニスさんは、やっとのことで拘束魔法をアルフに解いてもらい、そこから立とうとしたがフェイトに肩を押さえられ、流れるように正座へ移行した。

 

よく勉強されてますな。

 

反省するときは正座、日本の常識です。

 

「徹、悪いね。なんかリニスがさ……」

 

「いや、かなりの怪我をしてたところを治療してもらったんだ。今回の事は……その代金とでも思っとく」

 

 リニスさんに治してもらってなかったら、命も危なかったかもしれない。

 

内臓の損傷もあったかもしれないんだからな。

 

命と触診(意味深)とどっちがいいかと聞かれたら、当然命を取る。

 

触診の時も、生命の危機を感じたが。

 

草食動物の気持ちがわかった瞬間でした。

 

「その怪我だって、もとはと言えばあたしが」

 

「やめろって。あれは真剣勝負だったんだ。手加減されたら、そっちの方が許せねぇよ。死ぬまでぼこぼこにされるより、な」

 

 きっと、そうやって正面から殴り合ったからこそ、俺は今この場にいるんだろうし。

 

手を抜かれて勝ったって、そんなもん嬉しくねぇし……死にかけたけど。

 

「それより、アルフにも礼が言いたかったんだ。あのまま強がって助けを突っぱねてたら、俺やばかっただろうからな。ありがとう、いつか何らかの形で返すわ」

 

「はっは! いらないよ、そんなの。お互い勝手にやっただけだろう?」

 

 アルフは本当に気持ちのいいやつだな、さっぱりした性格というかなんというか。

 

「くくっ、そうか。ならまた今度、ここにお邪魔する機会があれば、なにか『勝手に』持ってくるわ」

 

「そうかい? 『勝手に』持ってくる分には、あたしは何も言えないからね。楽しみにしてるよ」

 

 フェイトのお説教はまだ続いていた。

 

淡々と言葉を並べられて、責められているリニスさんが見える。

 

日頃の行いにまで言及し始めたようだ。

 

「なぁ、アルフ。ジュエルシードを集める理由は、やっぱり教えてくれねぇのか?」

 

「……そうだね。最初と違う理由で、徹には教えられないね。教えたらきっと、徹は戦えなくなりそうだから」

 

 知り合って日は浅いが、アルフは俺の事を少なからず理解している。

 

そのアルフがそう言うんだから、相当な理由なんだろうな。

 

ジュエルシードを必死に集める理由、俺が戦えなくなるような理由。

 

大まかな答えは出ちまってるようなもんだがな。

 

「はぁ、人生ってなんとかなりそうで……なんともならねぇよなぁ」

 

「なんとかなる、じゃないよ。なんとかするんだ。手をこまねいてたら、本当になんともならないからね」

 

 格好いいなぁアルフは。

 

俺が女だったら二秒で落ちてるぜ。

 

 フェイトとリニスさんはまだ話してる。

 

引き出しの奥の方に、そういう雑誌があったとかなんとか。

 

フェイト……そういうのは見て見ぬふりするもんなんだぞ。

 

「そういえば、徹はなんでジュエルシードを集めてんのさ。とてもじゃないけど、でっかい野望とかを抱えてるようには見えないけど」

 

「俺は頼まれたんだよ。いや、違うな。俺は、頼まれたやつの保護者的な立場だから、一緒に手伝っているってとこか? お前らほどに、明確な目的を掲げているわけじゃないんだ」

 

 一応個人名は伏せておいた。

 

名前まで言っちまったら、本当にスパイみたいなもんだからな。

 

 俺の目的……なのはを守ることから始まったが、本当にこのままでいいのか?

 

なのはを守ること、これは当然大事だ。

 

もうなのはは、俺の妹も同然なんだから。

 

ユーノと約束したからその筋を通す、これも大事だ。

 

一人で必死に頑張っているユーノを助けたいという気持ちも、確かにあったんだから。

 

 なら……俺の気持ちは?

 

これまでの目的に、俺の意思は介在していたのか?

 

なのはを守るとか、ユーノとの約束とか、全部理由が俺という人間の外にある。

 

そうやって考えていくと、俺の目的が、信念がとても薄っぺらく……感じてしまった。

 

「保護者……フェイトが言っていた、同い年くらいの茶髪の子。あの子の保護者ってことかい? はは、なるほどね。やっぱり……あたしたちの理由を、言わないで正解だった」

 

 俺は黙ってアルフの言葉を待つ。

 

今から何を言おうとしているのか、大体の予想はついてしまっていた。

 

「徹がやろうとしていることは、立派だと思うよ。否定はしないし、できない。でもね、やっぱり、どうしても……徹の目的は軽いんだ。重心がふらついて周りの影響で、右に左にそれちまうんだよ。外側を取り繕った、形ばっかりの目的さ。とてもじゃないけど……信念とは呼べないよ」

 

 『誤解しないでくれよ? 馬鹿にするつもりはないんだ』と締めくくった。

 

 あぁ、薄々気付いてはいた。

 

 アルフ達はジュエルシードを集めるために、どんな事をもいとわない。

 

そんな覚悟があった。

 

ユーノは自分の責任を、何としてでも果たす。

 

そんな決心があった。

 

なのははフェイトと戦い、その戦いから何かを見つけたのだろう。

 

決意を決めたようだった。

 

 俺はそこまで……必死になれるようなものを見つけ出せていない。

 

俺の目的はいつだって、『俺』にはなくて、『周り』だったんだから。

 

自分のために必死になれない、そんな人生を今まで送ってきてたんだから。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「ごめんね、なんか偉そうなこと言っちゃって」

 

「いや、人から言われて気付くこともあるってのを知ったわ。ありがとうな、アルフ」

 

 時刻は午後五時半、随分と長居してしまったものだ。

 

「じゃあね、徹。また遊びに来ていいから」

 

「次来るときは、お土産持ってきてやるからな。期待してろ」

 

 フェイトは遊びに来てもいいと言ってくれたが、そう何回も来ちゃいけないと思うんだけどな。

 

それはそれ、これはこれ、と公私混同してなかったら……いいのか?

 

ジュエルシードが絡めばお互い、手を抜くようなことはしないしな。

 

細かいことはどうでもいいか。

 

「徹、本当にすいませんでした。迷惑をかけてしまって……」

 

「リニスさん……強く、生きてくれ」

 

 フェイトから散々絞られたのだろう、目に見えて元気がない。

 

あの後もいろいろ突っ込まれてたもんな、そっち系の雑誌の件から芋づる式に。

 

 最後にもう一度、ありがとうと言ってから帰宅の途についた。

 

 

 帰りの道中、スーパーに寄って晩飯の材料を買い、家へ帰るのだが……足が重い。

 

怪我の後遺症とかではなく、アルフに言われたことが原因だ。

 

目的、覚悟、決意、信念、言葉はなんだっていい。

 

大事なのは、その中身だ。

 

俺にはその中身の部分が、根本的に欠けてしまっていると指摘された。

 

自分でも思っていたことではあるが、やっぱり自分で思うのと人から言われるのとじゃあ、与えられるダメージが違うな。

 

 自慢になってしまうが、俺はこれまで、壁という壁にぶつかったことがなかった。

 

なんでも人より上手くできたし、勉強も人より時間がかからずにできていた。

 

運動でも一~二回見るだけで、もしくはやっただけで、なんでも上手くやれてきた。

 

 暗い話になってしまうが、俺には両親がいない。

 

そのせいかどうかは俺にも判断できないが、自分よりも身近な人の方を大事にするようになった。

 

両親が交通事故で死んで、命という名の灯火は存外、あっけなく消えてしまうことを知ってしまったから。

 

 ほんの些細な、運命の悪戯でもあれば、人の命は容易く散るのだ。

 

両親を失った時の、心が壊れそうになるくらいの苦しみを、もう二度と味わいたくなくて。

 

一人でもなんとかできる自分は二の次、三の次にして、親しい人たちを優先してしまうのかもしれない。

 

 俺の基本行動原理、それはきっと他人なんだ。

 

 ……はっ、くだらねぇな、なに悲劇の主人公気取ってんだろ、俺。

 

一昨日から色んなことが立て続けに起きてるから、気が滅入っちまってんのかね。

 

こんな不幸なんて、ありふれたもんなのにな。

 

ニュースでも見れば、新聞でも開けば、ネットでも巡れば山のように転がってる。

 

 はぁ……飯食って風呂入って気分リセットしよう。

 

もう家の目の前だ。

 

 俺の家は両親が遺してくれた、唯一形に残るものと言ってもいい。

 

写真とかを撮って残しておくような習慣もなくて、家族が揃って写ってる写真は、俺が生まれた時に取っただろう一枚だけだった。

 

両親の遺影に使う写真にも困ったほどである。

 

 遺してくれたものというと高校の学費もあったな。

 

前払いで全部払っておいてくれたようで今も学校には通えているが、それがなければすぐやめて働いていたことと思う。

 

姉ちゃんは実際、やめちまったしな、大学。

 

 気持ちは沈んだままだが、家のドアを開ける。

 

早く飯作らないと、姉ちゃん待ってるだろうし……姉ちゃん?

 

「おかえり徹、さあ話してもらおやないか。一から十まで、きっちりと」 

 

 ドアを開けると、我が愛しの姉、逢坂真守が玄関で仁王立ちして待っていた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 俺、逢坂徹と姉、逢坂真守には、厳密にいえば血の繋がりがない。

 

両親が死んでから知ったが、お互い再婚だったそうだ。

 

大阪出身の父の連れ子が姉ちゃん。

 

元から海鳴市に住んでいた母の連れ子が俺。

 

父が海鳴市に移り住み、ここで知り合った母と再婚した、というのが概略。

 

大阪に住んでいたので、こちらに移ってからも姉は大阪弁で喋っている。

 

こちらに住んでからもう何年も経つのに……大阪弁の根強さたるやないな。

 

 血の繋がりがないとはいえ、俺は物心ついた時から姉ちゃんと一緒にいたので、普通の姉弟となんら遜色はないと思っている。

 

小学生の頃は一緒に風呂に入っていたし、中学生の頃はご飯食べさせ合っていたし、今でも時々一緒に寝るくらいに仲が良い。

 

血の繋がりと姉弟の親密度は、関係がないのだ。

 

まぁ、今の状況ではその仲の良さが問題になっているんだけどな。

 

「そんで? 何しとったん? うちが家で、いつ帰ってくるんかなーって待っとったのに。徹がご飯作ってくれる思おたから、なんも食べんと待っとったのにっ。その頃、徹は『どこぞの女』と『何』をしとったん?」

 

 姉ちゃん、とてもお怒りだ。

 

そりゃそうだよな、家の事は俺がやるって話なのに一切連絡なしで、ほったらかしにしちゃったんだから。

 

でも電話した時よりかは、幾分落ち着いてくれたようだ。

 

なんとか会話が成立しそう。

 

「その話は、晩飯の後にでもゆっくりしよう。まず晩飯作るからさ。それより姉ちゃん今日、バイトじゃなかったっけ?」

 

「バイトはサボってもうた。またクビなったら徹のせいやからな。あと、晩御飯の前に話や。逃がす思おてんの?」

 

 後にまわすことで怒りを弱めるという作戦を取ったが、そんなこと姉ちゃんにはお見通しだった。

 

姉ちゃん、今の仕事もやめることになっちまいそうだな……美人で優秀なんだけどなぁ、性格がなぁ。

 

「わかった……でも生ものもあるから、これだけは冷蔵庫に入れさせてくれ」

 

「やりながらでも話はできるやろ。ほれ、喋りぃや」

 

 ここでやっと家に入り、靴を脱いだ。

 

本当せっかちだな、息つく暇もねぇよ。

 

 姉の長い茶色の髪を追いながら、階段を上りリビングへ入る。

 

フローリングに座布団をぽんと置いて、その上に姉の小さなお尻がのっかった。

 

「電話しとった時聞こえた女、誰?」

 

「高校の先輩。なんか気に入られちゃったんだ」

 

 冷蔵庫へ生鮮食品を入れながら答える。

 

 一応切り札もあるけど……これはなるべくなら使いたくない。

 

姉ちゃんがどういう反応をするのか予想つかないからだ。

 

切り札を使う前に、姉ちゃんが諦めてくれたら一番いいんだが。

 

「へぇ、昨日の夜から、高校の先輩と、一緒に学校サボって、なにしてたんやろなぁ?」

 

 生ものを冷蔵庫に全部入れて、空になったビニール袋を折りたたみ、冷蔵庫の横に置いてある箱に入れる。

 

 姉ちゃんは、区切るたびに言葉を強調してくる。

 

い、威圧感がすごい。

 

「先輩の家に遊びに行って」

 

「徹、諦めぇや。電話の時と言うてることちゃうやん。そない出来の悪い言い訳で通ると、自分でも思おてへんやろ?」

 

 早速詰んじゃったぜ!

 

そうだよな、こんなもんで切り抜けられるはずがない。

 

使うしかないのか……リニスさんが提案したあの作戦を……。

 

 目を伏せ黙り込んだ俺の頬に、姉ちゃんは右手を添えた。

 

「徹……うちはな、心配なんや。危ないことしてるんちゃうかなぁとか、騙されたりしてるんちゃうかなぁとか。徹からしたら鬱陶しいだけかもせぇへんけど……教えて?」

 

 ここで情に訴えるという手を取るのが、姉ちゃんの怖いところだ。

 

しかも演技とかではなく本心から心配している分、たちが悪い。

 

優しく頬に当てられた右手を払うこともできない。

 

「昨日……どこでなにしとったん?」

 

 結局嘘を吐くほかないんだな。

 

ジュエルシード集めのことは、当然ながら説明できない。

 

ここで迂闊に喋って、もし姉ちゃんの身になにか害があったらと思うと……俺は俺を許せない。

 

だからこのことを――少なくとも今は――つまびらかにするわけにはいかない。

 

まさか本気で、リニスさんの案を採用することになるとは思わなかった。

 

 決心して、口を開く。

 

「か、彼女の家に……いました」

 

 何秒間か、お互いに沈黙。

 

聞こえるのは冷蔵庫のモーター音と、道路を歩く親子の楽しげな話し声だけ。

 

 恐る恐る、姉ちゃんの顔を覗き見る。

 

俺の頬に手を添えていたから、顔が上がるのがわかったんだろう。

 

姉ちゃんは顔を上げた俺に対して、後光が差すほどの良い笑顔を向けて……ばたりと後ろに倒れた。

 

「姉ちゃん? 姉ちゃん! ちょ、本気でやめてくれよ! 冗談で済まないって!」

 

 倒れた姉へすぐに駆け寄り、ぱちぱちと顔を限りなくゆるめに叩く。

 

『きゅぅー』と、奇怪な鳴き声を発しているので生きてはいた。

 

俺に彼女がいるのがそんなにショック……なのか。

 

そろそろお互いに姉離れ、弟離れしないといけないのかね。

 

大きく一つ溜息を吐いた

 

 姉の小さな身体を抱えながら考える。

 

俺が小学生の時は、姉の背中は大きく見えたんだけどな。

 

いつの間にか俺の背が姉ちゃんに追い付いて、追い抜いて。

 

俺の背が平均より高いとはいえ、今では頭一個分以上に差ができてしまった。

 

 姉の部屋の前まで来たが、姉ちゃんを抱えているのでドアノブをひねるのに苦労した。

 

変わったものが多くある部屋。

 

多趣味ではなく、趣味が変わっているのだ。

 

弾けもしないのにギターがスタンドに掛けられていて、ちゃんと仕組みを理解していないのにタロットカードを持っている。

 

ロシアなんて行ったことも、さらに言えば興味もないだろうに、マトリョーシカが机の上に全部出された状態で置かれているし。

 

大きな本棚には、さまざまな種類の漫画が詰め込まれているが、とある一段だけはなぜか木彫りの熊。

 

窓際、カーテンレールには長い糸で、てるてる坊主が吊り下げられていて、その糸の下には恐らく千羽はいないだろう折鶴が羽ばたいている。

 

姉ちゃんは大きな怪我も病気もしたことない、健康優良児を貫いているのになぜ置いているんだ。

 

 ベッドの上に、姉を起こさないようゆっくりと寝かせる。

 

姉の小さな手が、俺のパーカーを掴んでいた。

 

いつかのなのはを思い出して苦笑する。

 

袖を掴む手をゆっくり解き、離してもらおうと思ったのだが次は手を掴まれた。

 

手元にあるものを掴むって赤ちゃんかよ、俺のごつい手を掴んでも楽しくないだろう。

 

 姉ちゃんの手が胸元に置かれて、それに引っ張られるように俺の手もそこに置かれた。

 

意図せずにだが少し、ほんの一瞬……触れてしまった。

 

振り払うように手を引き戻してしまったので、起きるかと思ったがなんとかなった。

 

 姉は意外にスタイルがよくて困る。

 

身体は小さいのに出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。

 

前に忍が姉ちゃんに、どうすればそのスタイルが維持できるのか、と聞いていたことを思い出した。

 

いや、忍もスタイルいいじゃねぇか。

 

 姉ちゃんの顔を見る、眉間にしわが寄っていた。

 

心配、かけちまってんのかな……やっぱり。

 

いつかちゃんと説明するからな、と心の中で約束して、部屋を出た。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 晩飯作りの終盤らへんで、姉ちゃんが起きてきた。

 

少し寝てただけだが寝癖でも付いていたのか、うなじの下あたりで長い髪を白色のシュシュで纏めている。

 

「もうすぐできるからな、ちょいと待ってろ」

 

 姉ちゃんはまだ寝ぼけているのか『ん』と、短く反応した。

 

 今日の献立は、余ってた野菜を放り込んだコンソメスープと、さんまのみりん干しに、アスパラガスのバターしょうゆ炒め、あとスーパーで買ったポテトサラダ。

 

ご飯は小分けして冷蔵庫に入れてあるから問題ない。

 

 皿を持ってテーブルに置く。

 

四月も中旬というのに、我が家ではまだコタツが出っぱなしだ。

 

そろそろ片付けないとな。

 

「姉ちゃんどうした? 気分悪いのか?」

 

 さっきから全然喋ろうとしない姉に、少し不安になる。

 

四角のテーブルの一辺で、お気に入りの座布団に腰を下ろしていた姉ちゃんは、料理を並べていた俺の胸ぐらを掴んで座らせた。

 

「ちょっ! せっかく作った飯台無しにするとこだったぞ……どうしたの?」

 

 姉ちゃんは俯きながら、俺のパーカーをぎゅっと掴んでいる。

 

料理は冷めそうだが、そんなもん今はどうだっていい。

 

姉ちゃんの様子がおかしい、これ以上に気に掛けることなんて俺にはない。

 

「徹くんは……徹くんは、お姉ちゃんをおいてどっか行ってまうん? お姉ちゃんのこと嫌いなったん?」

 

 口調が、心配性モードになっている。

 

そんなに思い詰めてたのか……?

 

「なに、なに言ってんの……そんなわけないだろ。余計なこと考えすぎだ……俺が姉ちゃんをおいてどっか行くわけないだろ」

 

 俺と姉ちゃんは、仲が良い。

 

仲が良いのは確かなんだろう、だけど。

 

その仲の良さは、どこか(いびつ)なんだろう。

 

両親の死を受け入れたふりをしても、割り切れていない。

 

俺だってそうで、きっと……姉ちゃんだって。

 

まだ親の愛を必要としている時期に、両親ともいなくなったんだ。

 

俺も姉ちゃんも人より優秀で、そして人を欺くのも優秀だった。

 

少しずつおかしくなっているのに、気付かれなかっただけなんだ。

 

「でも、でも徹くんに……か、彼女できて、家から離れてまう……」

 

 もはやちゃんと喋れていない、かなり精神的に不安定になっている。

 

これまでも取り乱すことは何回かあったが、ここまでのものは初めてだな……。

 

手も小刻みに震えている。

 

 俺は姉ちゃんの震える手を握って、はっきりと伝える。

 

「姉ちゃん、よく聞いてくれ。俺の帰る家はここで、姉ちゃんの隣だ。でも、いつかは姉ちゃんも、もちろん俺も、誰かいい相手を見つけてその人と一緒に暮らすことになる」

 

 ぎゅうぅっと握りこめられる手を優しく包んで、体温を分ける。

 

「いつかはきっとそうなるし、そうしないといけないんだ。今は二人だけ、二人だけの家で、二人だけの世界だけど、いつかは……」 

 

 俯いたままの頭に、俺の頭を重ねる。

 

「今は俺の隣は姉ちゃんで、姉ちゃんの隣は俺だ。でも近い未来、俺の隣には姉ちゃんの知らない女がいて、姉ちゃんの隣には俺の知らない男がいると思う。これはやっぱり避けられないんだよ」

 

 姉ちゃんの頭がずれて、俺の肩に置かれた。

 

姉ちゃんは俺の腰に手をまわして、きゅっと引き寄せ近づく。

 

「だから……それまではこのまま二人でいよう。俺は姉離れしないといけないし、姉ちゃんは弟離れしないといけないけど、今は……今だけは二人でな」

 

 突き放すように言うべきだったのかもしれないけど、できなかった。

 

「あははっ、徹以上にいい男は見つけられへん思うねんけどなっ。うちも強ぉならなあかんなぁ、うちは徹のお姉ちゃんやのに」

 

 口調が戻った、手の震えも止まったみたいだ。

 

元はと言えば俺が嘘ついちまったせいだから、罪悪感が込み上げてくる。

 

「こんな感じでいいだろ。お互い助け合ってこそ家族なんだから」

 

「それやったら、徹が抱えてるもんも教えてほしいんやけどなぁ」

 

 さすが俺の姉ちゃん、勘が鋭いな。

 

「い、今は言えないけど、一段落ついたら絶対に言うから。それまで待っててよ」

 

「しゃあないなぁ、まぁうちは徹のお姉ちゃんやからな。待ったる、感謝しいや」

 

 俺たち姉弟は歪だ。

 

お互いがお互いに依存しあって、求め合っている。

 

身を寄せ合って体温を分け合うみたいに。

 

いずれ変わっていくにしても、今はまだ、こうして甘えあってしまってもいいだろう。

 

一人しかいない家族なんだから。

 





時間がかかった割に内容は今一つ。
悔しい思いをしたのが印象的な回。


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17

「……る、はよ……ぃや、徹」

 

 誰かに呼ばれる声がして徐々に頭が覚醒する。

 

一度ぎゅっと、力強く閉じてそれからゆっくりと重たいまぶたを持ち上げていく。

 

目の前には姉ちゃんがいた。

 

「あっはは、なんやねんなその顔。今めっちゃおもろい顔してんで? 起きたらはよ朝ごはん作ってや、うちお腹すいた」

 

 なんかあったかくて眠りやすいと思ったら、そうだった。

 

昨日は久しぶりに一緒に寝てたんだった。

 

 昨日の話し合いの後、ひとしきり抱きしめあってお互いの気持ちを確認して晩飯にした。

 

多少冷めてしまっていたが、中学生の時のように食べさせ合っていたらそんなことは気にならない。

 

晩飯はすぐに胃袋に収まった。

 

 さすがに小学生の時のように、一緒に風呂には入れないので交代で入り、上がったら俺の部屋で寝るまで喋ってた。

 

最近あったことや、おもしろいこと。

 

姉ちゃんの仕事場の話や、俺の高校の同級生の話、愚痴なんかも言い合って気付いたらお互い寝てしまっていた。

 

「顔洗ったらすぐ作るー」

 

「徹は寝てたら意外とかわいい顔してるやんな。なんで起きてもうたら凶悪な目付きになんねやろ? 不思議やわ」

 

 姉ちゃんめ、俺より一足先に起きてたのか。

 

寝癖もないし目もパッチリ開いている、起きて一度布団を出て顔を洗ってまた戻ったのかよ。

 

そのまま起こせばいいものを。

 

 部屋を出て、リビングを通り一階の洗面所へ向かう。

 

寝間着を脱いで洗濯機の上に置いて、その上にタオルを置く。

 

いつも通りに洗顔、洗髪、洗眼してタオルで拭く。

 

俺の黒くて短い髪をドライヤーで逆立てるように乾かして、完成。

 

目付きとこの髪形が合わさって外見が怖く見えるらしいが、この髪形が一番似合うし楽なのだから変えるつもりはない。

 

 階段を上り、リビングへ戻ると座布団に座りながらテレビをみる姉の姿。

 

両手にはフォークとナイフを装備。

 

どうせリクエストはホットケーキだ。

 

「店員さん! ホットケーキをお願いします!」

 

 ほらな。

 

「はいよ、少々お待ちくださいねー」

 

 姉ちゃんの朝のメニューは日によってバラバラだ。

 

和食が食べたいと言って、その時に冷蔵庫にある魚の塩焼きにお味噌汁、納豆、海苔、白ご飯が朝食の時もあれば、洋食が食べたいと言って、具だくさんサンドイッチにコーンスープ、スクランブルエッグ、ハムなんてこともある。

 

エスニックが食べたい! と言われた時はさすがに準備出来なかったので断ったが。

 

なので今日のようにホットケーキの場合はすごく楽で助かる。

 

 前もって言ってくれていれば、俺が試行錯誤の末に編み出した黄金比率のたねから作るホットケーキを振る舞えるのだが、突然言われても用意なんてできない。

 

仕方ないので市販のホットケーキミックスで作るが、これはこれで安定しておいしいのだから問題はないんだけどな。

 

姉ちゃんの分と、他に作るのが面倒だったので俺の分と焼いて皿に盛る、一人二枚ずつだ。

 

ここから一手間、生クリームを乗っけて、俺がデザート作りの練習で買っていた苺やブルーベリーをホットケーキの端っこに添える。

 

あとはミックスベリーソースをかけて完成、これで見栄えもいいだろう。

 

 テーブルの前で、手ぐすね引いて待っている空腹の獣の目の前にホットケーキを置く。

 

俺と姉ちゃんは二人ともメープルシロップ派なので、これも一応テーブルへ。

 

姉ちゃんはきらきらと瞳を輝かせながら、まだかまだかと待っている。

 

自分の分をテーブルに置いて、姉ちゃんの隣に座り、手を合わせる。

 

「いただきます」

 

「いただきますっ!」

 

 姉ちゃんは家では、これをしてからじゃないと食べない。

 

一緒にテーブルに座って『いただきます』しないと、どれだけ腹が減ってようが手を付けようとはしないのだ。

 

家訓だからな、二人きりになってからは家訓も増えた。

 

「姉ちゃん今日は仕事は?」

 

「……ごくん。十九時までには帰ってこれるんちゃうかな。晩御飯よろしく頼むで、リクエストはおいしいやつ!」

 

 ちゃんと飲み込んでから喋る良い子な姉、もう二十一なんだけどな。

 

家の外にいる時はシャキっとした雰囲気なんだが、家の中だとどうも幼い。

 

 一枚目のホットケーキはベリーソースを全面に塗りたくって、ぺろりと完食。

 

生クリームとメープルシロップをかけて、いざ二枚目って感じの姉ちゃん。

 

相変わらず気持ちよく食べる、一口食べる度にふにゃっと笑うのが見てて面白い。 

 

「おいしいやつって……『なんでもいい』と同じくらいに考えるの大変なんだけど」

 

「徹の好きなやつでええよっ。徹のご飯はなんでもおいしいからっ!」

 

「結局なんでもいい、になってんじゃねぇか」

 

 まぁ、おいしいって言ってもらえるのは嬉しいんだけどな。

 

作り甲斐もあるし、頑張ろうっていう活力にもなる。

 

なにより、この笑顔を見ると次作る時、手間をかけてでもおいしくしようって思える

 

「そんじゃ、今日の晩飯は肉だな、決定」

 

「ええなぁ! しかし朝ごはん食べながら晩ご飯のメニュー考えるって、なんか食いしんぼさんみたいや」

 

 その通りじゃないか、とは言わない。

 

あの小さなお手てが肝臓に突き刺さることになるからな。

 

「ごちそうさま」

 

「ごちそうさまでしたっ!」

 

 ぱちっと手を合わせる。

 

姉ちゃん……そんなでかい声出さなくても隣にいるんだから聞こえるよ……。

 

「皿は流しに入れといて。洗濯物干してから洗うわ」

 

「そんじゃあうちが洗っとくわ」

 

 本来、家事全般は俺の役目なのだが姉ちゃんは時々手伝ってくれている。

 

仕事に行く前に時間があれば掃除もしてくれるし、帰ってきて疲れてるだろうに一緒に洗濯物をたたんでくれたりする、優しくて気の利く姉なのだ。

 

 身内褒めになってしまうが我が姉は、優しく美人なのに可愛くて、スタイルもいいし気が利くし、気立てもいいし愛想もいいので、職場でも可愛がられているらしいのだが、そういう接し方だとやっぱり勘違いする男が現れるようで。

 

そういう勘違いした馬鹿な男にべたべたされたりセクハラまがいのことをされると、一気に怒髪天を衝いて怒鳴り散らすという困った性格もある。

 

そのせいで優秀にも関わらず、何回も仕事を変えていたりするのだ。

 

あれ? 長所を言おうとしたはずなのに、いつのまにか短所の説明に。

 

 姉についての考察を深めているうちに洗濯物は完了。

 

洗い物をすでに終わらせていた姉ちゃんが、お気に入りの座布団に座りながらニュースを見ていた。

 

近所で爆発事故のような事件があったとのこと。

 

ジュエルシードの思念体がやらかしたアレのことですね、俺に責任はありませんよ。

 

「徹、気ぃ付けえや。近くで爆発事故あったみたいや、巻き込まれ体質やねんから徹は」

 

 もうすでに巻き込まれているとは言えなかった。

 

「そ、そうそうないだろ? こんな事件。気を付けるけどさ。そろそろ出るわ、恭也の家寄っていきたいし」

 

「もう行くんか……見送ったるわ、ついでに鍵も締めとく」

 

 わざわざ見送ってくれるという姉が、階段を下りる俺の後をついてくる。

 

とくになにも気にせず玄関まで行き、上がりかまちに座って靴を履く。

 

すると突然、俺の後をついてきていた姉ちゃんが後ろから首元を抱きしめてきた。

 

背中の柔らかい感触に、一瞬心臓がはねた俺は多分死ぬべき。

 

「どうしたの? 姉ちゃん」

 

 手を止めて、抱き付いてきた姉の頭を撫でる。

 

昔は俺がよく姉ちゃんにされてたんだけどな、最近じゃ立場逆転だ。

 

「はよ……帰ってきてな? うちも頑張って、なるべくはよ帰るから……」

 

 また不安になってきたのか? 弱っちくなっちゃったなぁ姉ちゃんは。

 

「あぁ、姉ちゃんが帰ってくる時間には、俺が家にいるから。安心して、大丈夫だから」

 

「……わかった、いってらっしゃい」

 

 まわしていた腕が解かれ、首が解放された。

 

靴を履いて振り返り、行ってきますと言おうとしたが、驚いて言えなかった。

 

姉ちゃんが、振り返った俺の頬を両手で優しく持って、額に軽くキスしたからだ。

 

上がりかまちの上から精一杯背伸びしていた。

 

「家族やもん、行ってらっしゃいのちゅうくらい当然やんなっ」

 

 たぶん家族でも、行ってらっしゃいのちゅうはしないと思うんだけど。

 

特に姉弟ではしないと思うし、これまでやったことないし。

 

「そ、そんなもんなのか? まぁ……行ってきます」

 

 おかしくない? とは思いつつも口には出せない。

 

満面の笑みで当然のように微笑むので、反論の言葉が引っ込んでしまった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 恭也の家に寄る理由、それはユーノとレイハに会うためである。

 

一昨日に二戦して、実戦を経験して気付いたことや気になることについて教えてもらおうと思ったのだ。

 

学校に行くにはまだ多少時間がある、あいつらと話をする時間くらい取れるだろう。

 

そう思っていた時期が俺にもありました。

 

「徹っ! 逃げろ! 今はだめだ!」

 

 ノックして朝の挨拶をしつつ高町家の玄関へ入った時、恭也の悲鳴にも似た声が聞こえた。

 

俺の目が茶色の小さい何かを捉えたかと思った瞬間、アルフの蹴りもかくやというほどの衝撃を腹部に受けて、高町家へ玄関をくぐった瞬間に外に吹っ飛ばされた。

 

ずざささーっと地面を擦りながら倒れる。

 

勘弁してくれよ、もう制服の予備はこれしかないんだぞ。

 

「お、おはよう、なのは。今日も朝から元気だな……」

 

 昨日リニスさんに治癒してもらっていなかったら、きっと致命傷になっていた。

 

 俺のお腹のあたりに乗っかっているなのはへ、朝の挨拶をするが応答なし。

 

どうしたのだろうと顔を見ようとするが、なのはは俺のお腹に顔を押し付けていて表情がわからない。

 

「なのは? おーい」

 

「昨日……何してたの?……」

 

 そこでやっと俺は思い出した。

 

昨日なのはに連絡するの忘れてた。

 

フェイトの仲間が、あと二人もいるってことを伝えとかないといけなかったのにな。

 

「昨日お兄ちゃんが徹さん休みだったって言ってて。携帯に電話しても出ないし、念話も繋がらないし、ユーノくんがやっても繋がらないし……心配してたのに。……お兄ちゃんがバイトも休むみたいだって言ってたからお母さんに聞いても、気まずそうに顔を背けるだけだし」

 

 携帯の方には履歴が色んな人から入っていたから、なのはの電話に気付けなかったのだろう、念話に気付かなかったのはなぜかわからんが。

 

桃子さんは……いろいろ誤解してるんだろうな。

 

姉ちゃんが高町家の方にも電話したとか言ってた気がするから、俺が一昨日の夜、家にも高町家にもいなかったという情報は入手しているはずだ。

 

俺も誤解させるような言動、行動をしているので仕方ないと言えば仕方ないが。

 

「お兄ちゃんにもお母さんにも電話してるのに……なんで私だけなんにもないの? 心配してたのに……なんで?」

 

「ごめんな。でもここでは言いにくい、昨日の件は魔法が絡むからな。今日学校が終わったら説明するから今は我慢してくれ、な?」

 

 上半身を起こしながらなのは以外に聞こえないように、耳元で音量を押さえて囁くように語り掛ける。

 

不機嫌なご様子なので、頭も撫でながらだ。

 

今はゆっくりと話す時間は取れなさそうなので、放課後へと後回しにさせてもらう。

 

「絶対だよ? 絶対だからね?」

 

「おう、俺が約束を破ったことなんてないだろ?」

 

 それで納得してくれたのか、一度俺のお腹のあたりで深呼吸してから、やっと俺の上からどいてくれた。

 

俺から離れる前に、不可解な行動が挟まっていた気がするが。

 

「徹、生きてるか?」

 

「恭也ありがとう。あの注意喚起がなければ、俺の腹が風通しよくなるところだった」

 

「そ、そんなに強くぶつかってないもん!」

 

 いや、あれで強くぶつかってないんだとしたら本気出したら大変なことになるぞ。

 

冗談でなく風穴があく。

 

「なのは、お前制服汚れてないか?」

 

「わ、私は大丈夫だけど、徹さんは……」

 

 自分の制服についた砂を払いながら、なのはに尋ねる。

 

俺の方は多少汚れようが目立たないが、なのはの制服は白が基調になっているので目立ってしまうから大変だ。

 

「俺は別にいいんだよ。それより上がらせてもらっていいか? なのはとお話ししたくてな」

 

「学校行きのバスまでまだ時間はある、大丈夫だろう。俺が聞きたいことは登校中に聞くから構わんぞ」

 

「う、うん! 上がってっ!」

 

 また高町家の玄関をくぐり、入らせてもらう。

 

「あら~、おはよう徹くん」

 

 靴を脱いでなのはの部屋に行こうとした時、桃子さんに遭遇した。

 

「おはようございます、桃子さん。昨日はごめん、急に休んじゃって」

 

「いいのよ、やらなきゃいけないことがあったんでしょうし。……いろいろと」

 

 意味深な言葉を付け加えるのを今すぐやめて頂きたい、なのはが訝しむような目でこちらを見ているので。

 

「なのは、すぐ行くから部屋で待っててくれ。桃子さんにちょっと話があるから」

 

「うん……わかったの」

 

「俺も学校の準備してくるか」

 

 不承不承という感じだが、なのはは自分の部屋へ向かった。

 

恭也は気を使ってくれたみたいだ。

 

 言いにくいし心苦しいが、言っておかないと後々迷惑をかけることになるかもしれないから……今言っておくほうがきっといいだろう。

 

「それで、話って何かしら?」

 

「自分勝手で本当に悪いと思ってるんだけど……しばらくバイト、休ませてもらえないか?」

 

 俺はこれから時間が無くなると思う。

 

魔法の練習に時間を割かないと、あいつらと同じ土俵で戦えないから。

 

それにジュエルシードなんていう危険物を、そのへんに散らばらせておくことも出来ない。

 

いつ世界が崩壊するかわかったものではない。

 

可能性は低いとは思うが、俺が翠屋で働いているせいでもしかしたら迷惑をかけることになるかもしれない。

 

芽を摘むという意味でも徹底して損はないだろう。

 

「うふふっ、昨日も言ったけどやっぱりなにか見つけたのね。徹くんがそんな目で言うんですもの。大事なことなんでしょ? わかったわ、しばらくお休みにしておきます」

 

「ほんとごめんなさい、ありがとう。忙しいときは言ってくれ、手伝いに行くから」

 

 桃子さんは理由も聞かずに了承してくれた。

 

いきなり期限なしで休みをもらうとか非常識だし大変だろうに。

 

 話は終わったし早くなのはの部屋へ行かなくては。

 

予想以上に時間が押している。

 

「なのはも最近楽しそうにしてるから、それも関係あるのかしら? あと徹くん? 徹くんが器用なのは私も知ってるんだけどね?」

 

 桃子さんに呼び止められた、まだ話はあったのだろうか。

 

「それでも二股はいけないと思うのよ」

 

「大いなる勘違いなんで、気にする必要は全くないです」

 

 なんてことを言うんだ、たしかに断片的な情報(ピース)を繋ぎ合わせて、俺に彼女がいるっていう答えになるのはまだわかる。

 

実際、姉ちゃんにもそうやって嘘を吐いちまったし。

 

でも二股というのはさっぱり訳がわからない。

 

「だって徹くん彼女いるんでしょう?」

 

「うむぅ……」

 

 ここで彼女などいない、と本当のことを言ってしまうと齟齬が発生する。

 

桃子さんと姉ちゃんはとても仲が良い。

 

どこかで情報が渡る可能性はかなり高いので、俺は黙るほかない。

 

「ほらね? なら、なのはとその彼女さんとで二股になっちゃうんじゃないかしら」

 

「それがわからない。なんでそこで二股になるんだよ、なのはと俺はただ仲が良いだけだ」

 

「あれ? ヤっちゃってなかったの?」

 

「もう少し言葉を選べよっ!」

 

 母親がなんてこと言ってんだよっ!

 

どこでそんな誤解が生まれたんだか。

 

恭也がいなくてよかった……いたら俺の首が落ちていただろうから。

 

「ならなのはのことは捨てちゃうのね、散々弄んでおいて」

 

「俺の風評を貶めるような発言をするな。そんな事実は一切ない。ただ仲が良いだけで……そのライン以上のことはしていない」

 

 ふとなのはを俺の家に泊めたことを思い出して言葉が詰まったが、はっきりと言い切る。

 

嘘を吐くときは自信をもって堂々とすることが大切だ、いや嘘吐いてないけど。

 

「いずれちゃんと話をするから、あんまりあることないこと言わないでくれよ?」

 

「約束は出来ないわね~」

 

 そこは約束して欲しかった。

 

「まず俺となのはじゃ年の差とかありすぎるだろ、なんでくっつけようと画策するんだよ」

 

「あら、年の差なんて愛の前では些細な問題よ? なのはは徹くんと一緒にいる時が一番幸せそうだから。これ以上の理由なんてないわね」

 

 それでもいくらなんでも小学三年と高校一年では問題だろ。

 

それに俺となのはの関係も普通とは言い難いしな。

 

家族が忙しくて寂しくて沈んでいた時に、傍にいたのが俺だったから懐いているというだけだろう。

 

好意を向けられているという自負はあるがそれは、likeであってloveではないと思う。

 

「小学生に手ぇ出すとか周りの目がやばいって。俺、太陽の下歩けなくなっちゃうぜ」

 

「もう、面倒な倫理観ね。なのは可哀想だわ、中学生になるまでお預けなんて」

 

 常識というものさしで測ってほしいな。

 

中学生でも問題なのは変わらねぇよ。

 

「いずれにしても今は俺の気持ちは変わらねぇの。じゃ、そういうことで」

 

「そうね、『今は』変わらない。その言葉だけで良しとしておくわ」

 

 今、という単語が強調されたのがすごく怖い。

 

今はそうでもこれからはわからないわよ? みたいな言い方じゃねぇか。

 

なのはは俺の妹も同然、手を出すなんてことは万が一にも……百が一、五十が一くらいにしかないっ!

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「念話が使えない……ですか?」

 

 桃子さんとの話が終わって、今はなのはの部屋。

 

この部屋に入るのはかなり久しぶりだな。

 

「なのはから聞いたんだが、昨日念話で俺に呼びかけたんだろ? 念話が来たような感覚はなかったし、さっきなのはとも試してみたけど届いてないみたいだった」

 

 思いもよらぬところで時間がかかってしまったので、本来聞きたかったことではなく、さっき浮上した疑問を解消することにした。

 

必要な時に念話が使えないとなると、窮地に陥る可能性もある。

 

なるべく早く解決しておきたい。

 

「調べてみます、ちょっと待ってくださいね」

 

「頼むわ」

 

 机の上にいたユーノが椅子を伝って下りて、なのはのベッドに座っている俺を駆けのぼり頭に辿り着いてそこで調べ始めた。

 

毎回調べる時は頭に上ってるけど、これ必要不可欠なのか? 省いてもいいんじゃないの?

 

「一昨日、自然公園で戦った後にあの子の仲間とも戦ったんだよね? 怪我とかしなかった? 大丈夫だった?」

 

「おう、戦って負けてジュエルシードは向こうに渡っちまったけど、もう一人の仲間に傷は治してもらったからな。身体に傷は残ってねぇよ」

 

『傷を治してもらったとは……マスター、徹はスパイの可能性があります』

 

 たしかにスパイと疑われても仕方ないとはいえ、俺の心配よりも先に情報漏えいの危惧って薄情じゃない?

 

「相手の情報を入手したのにそんな言い様とは……お手入れは延期だな」

 

『このっ……怪我がなくて何よりですねっ徹!』

 

 いやいや言ってるというか、やけくそみたいになってるぞ。

 

こいつお手入れには弱いな、まだ一回しかやってあげてないのに。

 

「仲間の人……やっぱりいたんだね。どんな人だったの?」

 

「使い魔だ、って言ってたな。俺が戦ったのがアルフっていう狼耳、助けてくれたのが猫耳の人だった」

 

「女の人なんでしょ、にやにやしてるもん」

 

 なのはが半眼でじとっと見てくる。

 

失礼なことを言う、俺はいつだって真剣な顔をしてるのに。

 

『諦めましょう、マスター。この獣は相手が女とみると見境がないのです。前だって眠っていたマスターに』

 

「それ以上言ったら窓から投げ捨てるからな! 約束はどうした!」

 

『徹がお手入れを逆手にとって、私をいいように使おうとするからでしょう。勘違いしてはいけませんよ、私が黙っているおかげで、あなたはくさい飯を食わずに済んでいるのですから。ふふふ』

 

 首を傾げながら俺とレイハの話から取り残されているなのは。

 

中心人物なのに置いてけぼりという、ある意味ドーナツ化現象。

 

いつかレイハの弱みを握らないと、こいつつけあがるな。

 

「兄さん、一昨日だいぶ魔法使いましたか?」

 

 診断が完了したのか、ユーノが質問してきた。

 

そうだなぁ、一昨日は……。

 

「使いまくったな、限界ギリギリのギリまで使い切った。息切れして頭くらくらするくらいに」

 

「九十九%それが原因ですね。リンカーコアが疲弊しているんです、しばらく休めばまた使えるようになりますよ。あまり無理しないでください、魔力の過剰消費で亡くなったという報告もあるんですから」

 

 命に係わるのかよ、これからはちょっとだけ気をつけよう。

 

そんなことで無駄死にしたくない

 

 リンカーコア、ねぇ。

 

これについて聞きたかったから、朝早くに来たんだがもう時間がない。

 

念話が使えない理由がわかっただけ良かったとしようか。

 

「そうか。休肝日、でもないがあまり使わないよう心がける。まだ聞きたいこともあるから学校が終わったらまた来るわ。なのは、いいか?」

 

「うん、いいよ! ぜんぜん大丈夫! 私も早く帰れるようにするからっ!」

 

「ぼくでわかることならなんでも聞いてください」

 

 なのはもユーノも構わないみたいだ。

 

今日の予定が早くも埋まっちまった。

 

 さて、面倒だがそろそろ学校行かねぇとな。



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18

 同じ聖祥大学附属といってもその小学校と高校とは少し距離が離れている。

 

そのため高校へ通う俺や恭也は、小学校へ通うなのはよりも少し早めに家を出て、学校が出している通学用のバス停まで行かなければならない。

 

同じ敷地内に学校があれば、なのはともバスで一緒に行けるのにな。

 

俺は普段、トレーニングを兼ねて走って通っているからあんまり関係ないと言えばないんだが。

 

「それで一昨日の夜と昨日、何してたの?」

 

「俺もそれが聞きたかったんだ。徹はほとんど授業は聞いていないが、学校をサボるなんて珍しいだろう」

 

 現在、高校へ向かうバスに揺られる中、両側から忍と恭也に詰問されていた。

 

どれだけこの事についてみんな訊いてくるんだよ、答えづらいんだけど。

 

「寝過ごしたっつったろ」

 

「それは嘘だな。真守さんから電話が来たんだから、一昨日の夜はお前は家にいなかったはずだ」

 

「もう白状しちゃいなさいよ、女でもできたんでしょう? いいことじゃない、おめでたい話だわ」

 

「……いずれ話すから今はノーコメントだ」

 

 それからはどんな質問をされようが口を閉ざして『言わ猿』の構え。

 

 諦めたのか気を使ってくれたのか、二人して大きくため息をついてから話を変えた。

 

「そうだ。また今度どこか遊びに行きましょうよ。最近忙しくてどこにも行ってなかったし」

 

「そうだな、学校の方も落ち着いたし店の方は美由希も手伝ってくれるし、久しぶりに遊びたいな」

 

 中学の時は三人でつるんで、カラオケとかゲーセンとか買い物とかよく行ったものだ。

 

恭也が翠屋を抜けられる日に限り、だが。

 

でもこいつらと行くとちょっと気を使っちまいそうなんだよな。

 

この二人、明言はしていないがほとんど付き合ってるようなもんだし。

 

俺がついて行ったところで邪魔になるだけじゃねぇか。

 

「行くなら前もって言っといてくれよ? 予定空けとかなきゃいけねぇんだから」

 

「あんたに予定とかあったの? いつもバイト以外は暇してると思ってた」

 

「いちいち俺を貶めないと気が済まないのか」

 

 そう思って以前、『邪魔になるだろうから行かない』と言ったら忍に『慣れない事しようとすんな』と言って脳天チョップされた。

 

それ以来、二人の恋愛方面に対して気を回すことはやめた。

 

どうせ俺がいないところで思う存分いちゃこらやってるだろうしな、いらんお節介というものだ。

 

「だが俺も徹も休みの日を合わせるのは難しそうだな」

 

「むっ、ん~……」

 

 恭也の発言に忍が眉を寄せて考え込む。

 

基本的に俺と恭也のシフトがどっちも空くというのはなかったからな。

 

今は違うが。

 

「言い忘れてたけど、バイトしばらく休み貰ったんだ。だからバイトの方の心配はいらないぞ」

 

 代わりにほかの用事に配慮がいるけどな。

 

「「はぁっ?! なんで!」」

 

「や、やることがあってしばらく忙しくなったんだ。バイトに出る時間も確保できなさそうだから、ついさっき桃子さんに話を通した」

 

 二人そろって驚きを隠せないようだった。

 

両耳に大音量が響いて、耳が痛い。

 

他に乗っている生徒にも迷惑になるだろうが。 

 

 恭也は眉をひそめて訝しさ百パーセントという視線をこちらに向けてくる。

 

桃子さんはちらっとだけだが、最近なのはの様子がおかしいのに気付いているような態度を示していた。

 

それと同じように恭也も感づいていて、なのはの様子と俺の行動とを結び付けられると面倒だな。

 

ジュエルシード集めに支障が出なければいいんだが。

 

「ヤることがあって、なんて……不潔だわ……」

 

「曲解にもほどがあるだろ! もはや俺の言い方じゃなくて、お前の捉え方に問題があるからな!」

 

 忍は、俺と恭也の間に漂った不穏な間を察したのか、ぶっ飛んだ冗談で明るくしてくれた。

 

そうだよね、冗談だよね? 忍さん?

 

「まぁ予定合わせやすくなってよかったわね。最近クレープ屋さんができたらしいから行ってみたいのよ」

 

「クレープ、か」

 

 忍の提案にあまり乗り気じゃなさそうな恭也。

 

こいつが忍の誘いに渋るっていうのは珍しい。

 

基本的に恭也は忍の言うことに諾々と従うのに……今から尻に敷かれているなら未来もそう変わらんだろうな。

 

「何? 恭也クレープ苦手だった?」

 

「クレープは好きなんだが……前に徹が作ってくれたクレープの味を超えるものはないんじゃないかと思ってな」

 

「なにそれっ! 私食べてないわよ!」

 

「そりゃそうだろ、俺が翠屋で試しに作っただけだからな」

 

 ちょっと前に、翠屋の新製品作成と俺の技術向上を兼ねてクレープを作ったことがあった。

 

甘いものが苦手な人でも食べれるものを念頭に、和の甘味に重点を置いたあんこ入りの抹茶クレープ。

 

生地に抹茶を練りこみ、生クリームにも抹茶を混ぜ、あんこの砂糖は限界まで減らした品。

 

俺の自信作で恭也には好評だったのだが、なのはにはあまり受けなかった。

 

抹茶の味が強く、砂糖も減らしているので苦かったそうだ。

 

桃子さんも『これはちょっと人を選ぶわね~』とのことで結局お蔵入りとなった。

 

「恭也にしか受けなかったんだよ、若い子が多く来る翠屋では使えそうになかった」

 

「美味かったしお年寄りには人気が出そうだったんだが残念だ。あの抹茶の渋みが抜群に良かった」

 

「また今度私にも作ってよね」

 

 気が向いたらな、とおざなりに返事したら脇腹を殴られた。

 

ぽかり、とか可愛い感じじゃない、ごすっ、という重たい音。

 

とてもじゃないが女子高生が放つ拳とは思えない。

 

「そうだわ、私の家に来て作ればいいのよ。機材も用意しておくし準備は整えておくわ。ファリンもノエルもまた一緒に料理したいって言ってたし、すずかもまた会いたいってねだってたわ」

 

「そうだ、じゃねぇだろ。結局お前が食いたいだけじゃねぇか。作ることはやぶさかでもないし、三人にも久しぶりに会いたいが」

 

「徹、俺のリクエストは前の抹茶クレープだ。材料の調達は俺も協力しよう」

 

「恭也も乗り気じゃねぇか。はぁ、まぁいいか。また今度予定合わせて、忍の家にお邪魔させてもらうか」

 

 俺の席の両側二人が妙に楽しそうにしているので、つられて俺ものってしまった。

 

メイド二人と忍の妹の顔を最近見てなかったし丁度いいや。 

 

「あんたに懐いてるからってすずかに手を出さないでよ?」

 

「お前の脳みそ腐ってんのか?」

 

 結局、この失礼な親友の願いを訊き入れることになってしまったことだけが……やりきれない。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 教室に行く前に一度、職員室へ寄る。

 

そう伝えて忍と恭也とは別れて一人職員室へ向かう。

 

 昨日休んだ理由をもう一度説明しておくためだ。

 

そうしないといけないという校則があるわけではない。

 

こうして朝一番に顔を出して、昨日はずる休みしたわけじゃないんですよ、ということをアピールしておくのだ。

 

小さなことで印象を悪くするのは俺の本意ではない、授業ではいまいち印象よくなさそうだけど。

 

 あと昨日に配られたプリントとかがあれば貰っておこうという算段。

 

 職員室で担任とすこし話をして職員室を出て、教室へ向かう。

 

俺は愛想も目付きも悪いので、担任の女性教師――飛田貴子先生、レベルの高いこの高校ではけっこう若い先生は珍しい――は少し怖がるような表情をその顔に貼り付けていた。

 

教師をしてから初めてクラスを受け持ったらしい。

 

優しく綺麗で、生徒の話を親身になって聞いてくれるとのことで男子からも女子からも慕われている。

 

なのに俺にはおどおどした態度って……いや、あまり深く気にしてはいけない、傷付くことになるだけだ。

 

「おはようございます、逢坂くん。あの……もう身体は大丈夫なんですか?」

 

 教室の扉の前で鷹島さんに遭遇した。

 

俺の身を案じるようなセリフがその可愛らしい小さなお口から飛び出るということは、昨日俺が休んだ理由を体調不良だと思ったのだろう。

 

もしくは昨日の放課後に担任から聞いたか。

 

本当は全く違う理由で休んでいたけど、わざわざ訂正することもないだろう。

 

そのまま勘違いしてもらっておこう。

 

 しかし……なんかいつもの快活とした喋り方じゃないな。

 

「今日はもう大丈夫だ。心配してくれてありがとう、鷹島さん」

 

「それはよかったですが……。もしかして体調を崩したのって……一昨日、彩葉とニアスを探して夜遅くまで外にいたから……ですか?」

 

 この人は自分たちのせいで俺が休んだのではないか、と考えていたのか。

 

だから声に元気がなかったんだな、いつもの笑顔もどこか曇っているし。

 

体調不良になったところで本人の責任だろうに……愚直なまでに生真面目で律儀だな、鷹島さん。

 

 どうしよう、鷹島さんのせいじゃないよ、といったところでこの人は額面通りに素直に受け取るかな? いや気に病むだろうなー、実直な人だから。

 

違うほうの言い訳を鷹島さんには教えておこう、恭也と忍に教えたほうのものを。

 

「あはは、実は昨日寝過ごしちまってな。起きたの昼過ぎだったし面倒だったからサボっちゃったんだよ」

 

「やっぱり……夜遅くまで付きあわせてしまって、家に帰るのが遅れたから……」

 

 おおっと、そうきたか。

 

善良な人間の思考は読めないな、別に俺が悪人だから読めないわけではないぞ? 念のため。

 

「あれから家に帰る途中に知り合いに会って、だらだら喋ってる間に時間を忘れて家に帰るのが遅れただけだよ。鷹島さんのせいじゃないから気にしなくていいって」

 

「そう……ですか。でもあんまり学校サボっちゃだめですよ? 休んじゃうと勉強に付いて……いけてますね、付いていけてないの私ですね」

 

 あぁ、やっと鷹島さんの罪悪感を拭えたと思ったら次は落ち込んでしまった。

 

やっぱり勉強苦手なんだな、前々からわかってたけど。

 

 あ、いい事思いついた。

 

「鷹島さん。いつにするかはまだ決めてないんだけど、また今度、恭也と忍の家に行くことになっててさ。その時に勉強会でもしないか?」

 

「え? お邪魔してもいいんですか?」

 

 ついさっきバスの中で話に上がったことだが使えそうだ。

 

恭也も成績は悪くはないとはいえ、苦手な分野もある。

 

都合がいいだろう。

 

忍も鷹島さんのことは気に入ってるようだし、断るようなことをするとは思えない。

 

懸念は勉強会という趣旨を忘れそうという点だけだ、元も子もない懸念だなぁ……。

 

「構わないって。きっと忍も喜んで賛成するだろう」

 

「そ、それなら是非っ!」

 

 よかった、元気になってくれた。

 

このきらきらと輝くような笑顔でこそ鷹島さんだ、なんか心の疲れも取れる気がする。

 

「四人で話し合っていつにするか考えないとな」

 

「はいっ、私はいつでもおっけーですっ!」

 

 学校の始業のチャイムが鳴る、ずいぶん教室の前で話し込んでしまった。

 

「そろそろ入ろうか」

 

「えへへ、そうですねっ」

 

 扉をあけて教室へ入る。

 

教室内のほとんどのクラスメイトが扉側にいたのか、俺と鷹島さんが入った途端にばたばたと自分の席へ向かう。

 

教室の窓側後方端っこの方の席、忍は俺の席で、恭也は自分の席で気味の悪い顔でにやにやと笑っている。

 

なんだ、こいつら。

 

もしかして話聞こえてたのか? 男子生徒は机の上で拳を握りしめて震えているし、女子生徒はちらっと俺の顔を盗み見て周りの女子とこそこそ喋っている。

 

一部机に突っ伏してうめき声をあげる女子もいた、女の子としてそれはどうなんだろうか。

 

教室の反応から察するに……うん、盗み聞きしてたんだろうな。

 

 聞かれてたことに気づいたんだろう、鷹島さんが恥ずかしそうにもじもじしていて、とても愛らしい。

 

物好きというか暇なクラスメイト諸君だな、人の話を横から聞いて何が楽しいんだ。

 

「ひゃあ! あ、逢坂くん! あ、あのチャイム……鳴りましたので。は、早くせ、席に着いてくだ、ください……ね?」

 

 我がクラスの担任、飛田先生が入ってきた。

 

教室の扉を開けてすぐに俺がいたので、驚いたのだろう。

 

でも……それでも『ひゃあ!』はあんまりだ。

 

席へ促す言葉も詰まりすぎだろう、俺の何が先生をそこまで怖がらせるんだ。

 

朝から心に深い傷を負いながら自分の席に着いた。

 

 毎朝恒例のSHLによる出席確認も済ませて化学の授業。

 

 魔法の行使でも使っているためか、最近高速思考のキレがあがってきた。

 

戦闘時には周囲の状況を把握しながら魔法を構築したりとマルチタスクという思考法の処理数もかなり増えた。

 

その二つの特技を言い訳に、授業中ではあるが俺の現在の状況をまとめることにしよう。

 

 もちろん、授業の担当教師が説明してくれている内容は拝聴している。

 

教科書もノートも出していないが、――そもそも持ってきてすらいないが――真面目に授業は聞いているのだ。

 

教科書は高校入学当初に読んで、その内容は把握しているのでずっと俺の部屋の本棚で眠っている。

 

授業中の説明で必要と思った部分は、その都度記憶してるのでノートは買ってすらいない。

 

机の上がきれいなおかげで、教師から当てられる回数がほかの生徒より断然多いが、答えろと言われた問いには毎回ちゃんと正答しているのだから、まぁ支障はない。

 

「逢坂ぁ、お前の机は毎度毎度すっきりしているな。やる気ないのか?」

 

「いえ、真面目に聞いていますが」

 

「ほう? 真面目に勉強していると? 問題だ、硫黄の同素体を三つ挙げてみろ」

 

「斜方晶系、単斜晶系、ゴム状硫黄。しかし先生、まだこの辺りまで進んでいませんよ?」

 

 さて、本題に移ろうか。

 

まず一番最初から思い返す。

 

 ジュエルシードの思念体と戦い、なのはの手助けをしてユーノを救助したことから魔法を認知した。

 

 魔法という未知の力は、知ってしまえば超科学と言えるようなものだった。

 

工程があり順序、段階を踏んで現象を発現させる。

 

触れたことのない分野とはいえ、理解できてしまえばなんてことはない。

 

術式には手を加えれそうなところがあって知的好奇心をくすぐられるし、効率的に式を組み替えたり自分好みに改良したりと楽しそうだ。

 

ただ才能を必要とするという点が厄介で、そして不可解だが。

 

 魔法を使う者の胸の奥にはリンカーコアと呼ばれる魔力を生成するところがあり、それのあるなしで魔法を使えるか否かが決まる。

 

そのリンカーコアにも疑問は尽きないが、これは学校の帰りにユーノに聞くので今は置いておこう。

 

いつかきっちり調べたい、魔法に関してもリンカーコアに関しても。

 

「逢坂、アゼルバイジャン共和国の首都と、その国の簡単な説明をしなさい」

 

「首都はバクー、コーカサス地方に存在する共和制国家です。油田があり、これが経済を支えています。この辺りはテスト範囲には含まれないと思うのですが」

 

 ジュエルシード。

 

淡青色をした菱形の小さな宝石。

 

大変危険なもので暴走すると、この世界が崩壊するほどという説明をされたが……。

 

正直な話、荷が重い。

 

普通の高校生の――魔法を使える、が今は頭につくが――背中に乗っけるにはあまりに大きすぎる。

 

失敗したら、とか深く考えたら手が震えそうになる。

 

勝手に手伝っている俺ですらこんな心境なんだ。

 

ジュエルシードを封印するという大役を担うなのはは、さらにプレッシャーを受けてるかもしれない。

 

なのはにはそのあたりの精神的なフォローも必要だな。

 

こうして冷静に現状を考察すると、とんでもないことに手を出してるんだな、俺もなのはも。

 

「逢坂。古代ギリシアの科学者が考案した、素数を発見するための簡易なアルゴリズムのことをなんという」

 

「エラトステネスのふるいです。あの、これ数学で使いますか?」

 

 目下の問題点と言うとジュエルシードを探し求める別勢力、フェイトやアルフ、リニスさんのことだな。

 

彼女らは一人でも強大な力を有している、俺じゃ手も足も出なかった。

 

どれほどの経験と努力をしているかはわからんが、このままではいけねぇかな。

 

彼女らは、理由は知らないが、なにか大事な目的の為ジュエルシードを集めている。

 

そして彼女らと俺たちには明らかに実力に差がある。

 

フェイトとアルフとは実際に戦い、洗練された魔法だけじゃなく身のこなしも目にした。

 

リニスさんは……フェイト達の家で勃発した小さな諍いの時にちらっと見たが、魔法の発動・展開がすごく早く丁寧だった。

 

俺たちは俺たちでジュエルシードを回収しなければいけないのだから、また何回か戦うことになるだろう。

 

いつまでも後塵を拝するわけにはいかない、戦う力をつけなければ。

 

ジュエルシードと戦い、フェイト達とも戦い……戦ってばかりだな。

 

いつの間に、こんなに悲惨で血生臭い世界になってしまったのやら。

 

「逢坂。刑法第百七十六条、刑法第百七十七条について答えろ」

 

「刑法百七十六条は強制わいせつ、刑法百七十七条は強姦です。……なんですか? 嫌がらせですか?」

 

 魔法、ジュエルシード、フェイト達のこと。

 

いろいろ考えることは多いが、一番俺の心を苛む悩みはそれらではない。

 

 アルフに言われた目的、信念、戦う理由。

 

直接覚悟について口に出されて以来、俺の内側でちくちくと痛みを発し続けている。

 

授業が終わるまで考えても……答えは出なかった。

 

「逢坂。執行猶予について簡潔に説明しろ」

 

「犯罪の情状が比較的軽く、刑が三年以下の懲役または禁錮、もしくは五十万円以下の罰金であることを前提に、二度と犯罪を犯さないことを条件として、一定の間、刑の執行を見合わせる制度です。……わかりました。先生は俺のことが嫌いなんですね?」

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「あんた授業中はせめて教科書くらい出しなさいよ。だからあんなに当てられんのよ」

 

「全部覚えてるし。持ってきたら重てぇし。当てられても答えたらいいだけだし」

 

「だが最近はかなり無茶苦茶な問題になってきてるな。最後の方とか在学中に勉強しないだろ」

 

「あれは正直俺も焦った。昔暇つぶしに六法全書を読んでなかったら答えられなかったぜ」

 

「本当にすごいです逢坂くん! いろんなこと知ってますね!」

 

「違うのよ鷹島さん。こいつにはね、あのあたりの知識が必要だから憶えているの」

 

「どういう意味かな? 返答によっちゃ訴訟にも打って出るぜ?」

 

 午前の授業が終わり昼休み、机を向い合わせてお弁当をつついている。

 

普段は俺と恭也と忍の三人だが、今日は鷹島さんも加わって四人で賑やかなお昼御飯だ。

 

いつも鷹島さんの隣に侍っている二人のお友達は、部活の会議があるとかで昼休みが始まってすぐに教室を出ていったらしい。

 

そこで、一人でぽつねんとお弁当を開けようとしていた鷹島さんを忍が拉致して引っ張ってきたのだ。

 

忍の家へ遊びに行く、もといお勉強会の予定を決めるのに都合がいいし、願ったりかなったりだな。

 

 だが忍、お前は許さない。

 

まるで俺を犯罪者のように形容するお前を、俺は絶対許さない。

 

 忍の棘だらけの言葉を理解し損ねたのか、鷹島さんは小首を傾げている。

 

鷹島さんがスルーしたそのボールは直接俺へと突き刺さった。

 

言葉のキャッチボールってこんなに痛いものだったっけ?

 

「内申点とか引かれてるんじゃないの? あんな態度だったら」

 

「いーや、大丈夫だ。最初にそういう取引をしたからな。『教科書やノートを持ってこなくていい代わりに問題にはすべて答える』ってな。間違えたら問答無用で減点だが」

 

「素直に持ってくれば済む話だというのに、この無精者」

 

「でもすごいですよね! 全部憶えてるんですか?」

 

「あぁ、把握してるぞ」

 

「人格はともかく、頭はいいものね」

 

 四人もいれば話も盛り上がるというものだ。

 

鷹島さんと一緒に飯を食うというのは新鮮で楽しい。

 

ただ忍が毎度毎度、俺を傷付けるのはなんとかならないものだろうか。

 

 俺の右隣から視線を感じる。

 

たこさんウインナーをくわえながら、鷹島さんがこちらを見ていた。

 

あぁなるほど、渡りをつけてほしいということか。

 

「なぁ恭也、忍。今度忍の家に遊びに行く話だが鷹島さんも一緒でいいか? 少しばかりお勉強会を開きたいと思ってな」

 

「えぇ、全然かまわないわ。それどころか来て欲しいと頼みたいくらいよ」

 

「俺も構わん。ちょっと勉強したいところもあったしな、俺も教えてくれ」

 

「だそうだ、よかったね鷹島さん。許可が出たよ」

 

「ありがとうございます! とても楽しみですっ」

 

 予想通り二人とも快諾してくれた。

 

鷹島さん、一応お勉強会という体裁を取っていることは憶えておいてね? 遊びに行くってだけじゃないんだからね。

 

あなたの学力を心配して、という意味もはらんでいるんだからね。

 

 ちなみに忍は学力に関しては全く問題はない、おそらく次の定期考査で存分に顕示してくれることだろう。

 

勉強会の時は先生側に回ってもらうこととしよう。

 

恭也も成績は悪くないが、店の手伝いもあるので勉強が不十分な部分も少なくない。

 

鷹島さんについては予想でしかない上に失礼だが、勉強が十分な部分が少ないと思う。

 

この学校自体レベルが高いので、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけれど。

 

「そういや彩葉ちゃんはすずかと同級生なんじゃないか? 当日連れてくれば?」

 

「すずか……ちゃん? どなたですか?」

 

「彩葉ちゃん? 徹、またあんたロリっ子口説いてるの?」

 

「徹……お前、なのはやすずかだけじゃ飽き足らずにまだ、蕾の花園を増員する気か? そろそろ法に触れるぞ?」

 

 こいつら(忍と恭也)が俺に対して抱いている印象ってなんなんだ。

 

その『お前ほんと小学生好きだな』みたいな目を即刻やめて頂きたい。

 

「ちげぇよアホ二人。彩葉ちゃんは鷹島さんの妹で、一昨日訳あって知り合ったんだ。すずかは忍の妹だよ。何回か忍の家で顔を合わせて仲良くなったんだ」

 

 文頭は忍と恭也に向けて、文末は鷹島さんに向けて言ったもの。

 

もちろんこの程度で、アホどもが抱いているまかり間違ったイメージを払拭できるとは思っていない。

 

「そういうことなら連れてくればいいわよ。すずかも一緒に遊べるし……あの子友達少ないし……」

 

「それならなのはもいいか? すずかと遊びたいだろうし、徹が振る舞うデザートも食べたいだろうし……あいつ友達少ないし……」

 

「ありがとうございますっ。逢坂くんと知り合ってから、また会いたいってよく言ってたんです。彩葉も同級生がいたら話しやすそうだし……あの子友達少ないので……」

 

 全員友達少ねぇのかよ、俺も人のこと言える立場じゃないけどな。

 

「ばか、友達ってのは多けりゃいいってもんじゃねぇんだよ。親友が二人ほどいればそれで十分なんだ」

 

 空気が重たくなったので、どうにか話の方向性を変えようと俺の持論を披露する。

 

早口になりつつ言い切って、誤魔化すようにご飯を口に突っ込む。

 

背筋に怖気が走るような視線を感じて目を向けると、恭也も忍も微笑ましいものを見るようににやにやしている。

 

くそっ、慣れないことはするもんじゃないな。

 

「彩葉……親友もいないなぁ……」

 

 これを機会に頑張ってください。





なにか日によって、時間によって書くペースもクオリティもばらつきます。
申し訳ないです。


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19

この回からセリフが長くなるときは一行空けることにしました。
これは読みにくそうだなぁと思ったものだけ空けています。
何回も書き方が変わって申し訳ありません。


今回は独自解釈が多分に含まれています。
ついていけねぇや、と思った方は速やかに避難してください。


 午後の授業でも当てられまくったものの、午前の授業程の苛烈さはなく問題なく乗り切った。

 

午前最後の授業、日本史の先生が異常なほどの意地悪さ――俺の予想の斜め上、まさかの刑法――だっただけで、他の先生は割と常識的な範囲で問題を出してくるのだ。

 

 放課後、恭也と忍に別れの挨拶して早々に教室を出ようとしたところで鷹島さんに、一昨日のお礼ということでまたお茶に誘われたが、今日は忙しいため心を痛めながらもお断りした。

 

誘いを断ったことで、鷹島さんの傍らに侍る二振りの刀――長谷部と太刀峰――が刀身が光を反射させるかのように目をぎらぎらと光らせて、言外に俺を責める。

 

……どうせ鷹島さんのお誘いを受けても、俺を責めるような視線を送るだろう。

 

結果は変わらないから気にする必要はないな。

 

 鷹島さんにまず謝罪し、また誘ってくれと次の機会に期待で胸を膨らませつつ、さようならと別れの挨拶をして教室を出る。

 

 ユーノとレイハには訊きたいことがたくさんある。

 

時間がどれくらいかかるか見当もつかないので、なるべく早くに向かうとしよう。

 

 まず携帯でなのはに連絡する。

 

さすがにいくら親しい仲とはいえ、住人がいないのに勝手に家に入るわけにはいかないからな。

 

 校門をくぐり学校の敷地から出て、高町家へ向かいながら携帯を操作してなのはをコール。

 

身体にかすかに違和感は残っているとはいえ、走っても大丈夫なくらいには復調している。

 

念話が使えれば楽だったんだが……ユーノの忠告通り、リンカーコアの回復を優先すべきだろうと判断した。

 

 何度か呼び出し音が鳴り、繋がった。

 

「もしもし、なのは。もう家についてるか?」

 

《う、ううん……。まだ……でももうすぐ帰れるよ……》

 

 ん? なのはの話す声がとても小さい。

 

まるで囁くような声のボリュームだ、声に艶を感じるような気がしてすごく耳元がくすぐったい。

 

まだ学校の中なのだろうか?

 

「悪い、電話かけるタイミング悪かったか?」

 

《あの……違うの。ちょっと近くに友達がいて……。アリサちゃんっ、違うよっ。遊びたくないとか、そういうことじゃなくて……》

 

 後半の言葉は、近くにいるという友達に向けられていると思われる。

 

ずいぶん困惑しているような声音だな。

 

セリフから考えると、アリサという友達が最近なのはの付き合いが悪くていじけている、とかそんなところか。

 

 俺が一人でジュエルシードの回収ができれば、なのはの負担も少なくなるんだけどな。

 

 ジュエルシードの収集は大事だが、それは何もかもを犠牲にしていいというわけではない。

 

友人との仲を険悪なものにしてまで集めることはないと、俺は思う。

 

「なのは。一度家に帰って着替えてから、友達と遊びに行けばいい。その時にユーノとレイハを俺に預けてくれればそれでいいから、お前は友達と遊びに行って来い」

 

《え? でも……私もっ……徹さんに頼りっきりになるわけには……》

 

「いいんだっての。頼って頼られんのが仲間だ、たまには遊ぶことも大事だろ。これまで頑張ってきた分だ、気ぃ抜いてゆっくりすりゃあいい」

 

《……わかった。家の前で待ってるね》

 

 おう、と一言返事をして通話を切る。

 

 ユーノとレイハとの話になのはがついてこれるとも思えなかったし、まぁ渡りに船ってとこだな。

 

 今日までなのははあの小さな身体で、戦いなんていう慣れないことをしてきたんだ。

 

一日くらい、面倒なことを考えずにゆっくり友達と遊んだってばちは当たらねぇだろうよ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 昨日なにがあったか、というのはユーノに伝えておくので心配せずに遊んで来い、となのはの背中を押してユーノとレイハを受け取った。

 

 今のなのははデバイスも持ってない、普通の女の子も同然なので少し安全性に不安が残るが、訊けば友達の家で遊ぶとのことなので危険はないだろう。

 

後ろ髪を引かれるように何度もこちらを振り向きながらも、なのはは友達の家へと足を向けた。

 

 一匹と一つを受け取ったはいいが、屋外で男子高校生がフェレットもどきや赤い宝石に熱心に話しかけているところを見られたら、不審なんて通り越して救急車を呼ばれかねない。

 

なので多少の文句を受けながらも、弁当以外に何も入っていない俺の鞄にユーノとレイハを入れて、我が家で話すこととなり――。

 

「色々な意味で危ないところだったんですね、昨日も一昨日も」

 

『もうスパイも同然ではありませんか。二重スパイです。いつ向こう側へ寝返るか分かったものではありませんね』

 

「レイハ、少しは心配してくれてもいいんじゃない? 俺、一生懸命戦ったんだぜ?」

 

 ――今は俺の部屋で、一昨日の夜から昨日の午前中についての説明をし終わり、一息ついているところ。

 

 相変わらずレイハは俺の扱いがきつい、手厳しいにもほどがある。

 

それこそ命を賭けて――実際に賭けたのはジュエルシードだったが――死闘を繰り広げたというのにこの仕打ちとは。

 

『それでも結局、ジュエルシードを相手に奪われたというのは変わりません。守り切ったというなら私も褒めましたが、この体たらくでは言葉がありませんね』

 

 うぅ……言い返せねぇ。

 

ジュエルシードを相手に奪われた……奪われたというかほとんど渡したような形だったが、これは言わないでおこう。

 

頑張ったとはいえ、結果として持って帰ることができなかったのは変わらねぇもんなぁ……。

 

 しょぼん、としているとレイハが『ですが』と続けた。

 

『心配は……しています。あなたが怪我をすると、あなたが痛い思いをすると、悲しむ人がいるということを……心に刻んでおいてください』

 

 マスターのことですよ? マスターのことですからね! と勝手にツンデるレイハ。

 

普段のギャップもあいまって、きゅん、と同時に、ぐっ、ときた。

 

なにこの子、かわいすぎるっ! ただの丸っこい宝石だけどっ。

 

「あはは……もうレイジングハートが全部言ってくれたので、僕から言う必要はなさそうですね」

 

「なのはには、ところどころぼかしながら話してやってくれ。そのまま伝えるといらん心配しそうだからな」

 

『マスターも心配しているんですからね。たまには甘ーく優しーくして悦ばせてあげてください』

 

 最近周りの人たちに心配掛けすぎだな、俺。

 

一人でやろうにも力が追いつかねぇからな、みんなの手を借りなきゃなんもできねぇ。

 

卓越した能力も群を抜いて優秀な適性があるわけでもない、せめて周りに迷惑かけねぇようにくらいはしたいところだ。

 

 レイハはこう言うが……なのはにこれ以上甘くしたら、そろそろ割とガチでお巡りさんのお世話になっちまう。

 

それに『よろこばせる』の意味が俺の想像と違う気がするのだが。

 

「なのはへの対応は要検討ということで。次は俺の疑問について、分かる範囲でいいから答えてほしい」

 

『話しながらでもいいのでお手入れの方お願いします。この機会を逃すと次いつになるかわかりませんので』

 

「はい。僕が知っていることならいいんですが」

 

 レイハのお願いを聞き入れて、精密機械整備用の道具を引っ張り出す。

 

いつもなのはを守ってくれているお礼もかねて、今日は心を込めてやってやろう。

 

「リンカーコアについてだ」

 

「リンカーコア……ですか。前に説明したように『魔力を生成するもの』、というだけでは足りないんですよね?」

 

「あぁ、そうだな。不可解、というか腑に落ちないところがある」

 

 綺麗な布でレイハの表面をきれいに拭きながら答える。

 

『ふぅ……んっ、はぁっ。ど、どんな疑問があるというのですか?』

 

「なぜ魔導師はリンカーコアからの魔力供給が必要なのか、だ」

 

「え? それは魔法を使うのに魔力が必要だからですが……」

 

 ユーノが今さらなぜ? と言いたげに俺のベッドの上で首を傾げる。

 

その反応は当然だ、魔力を使うことで魔法を行使できる、という説明はすでにされていたんだから。

 

 だが俺が聞きたいことは、そことは少し逸れる。

 

「そういう意味じゃない。魔法を使いすぎてリンカーコアの魔力生成量を追い抜き、蓄えている分も使い切っちまった場合、気を失うこともあるんだろ? それは魔導師が常に一定量の魔力の供給を必要としている、ということじゃねぇの? 魔法を使っていなくても、な」

 

「そう……いうことになりますね。あまり深く考えたことはありませんでしたが……」

 

 レイハの表面の汚れを拭き取ったら、布にオイルを含ませ丁寧に塗布していく。

 

やけにいろっぽい声をもらしているが気にせずに話を進める。

 

 俺の推測はつまりこういうことだ。

 

個人によってある程度の差は出ると思うが、今は魔導師が持っている魔力の総量を十として例える。

 

魔導師は常に十の内、一程度――もしかしたらそれ以下かもしれないが、便宜上一とする――の魔力を身体を動かすのに消費していると考えた。

 

魔導師が総量の九程度を使っても体調に変化はないが、残りの一、これに手をつけると身体に支障をきたしてくるのではないか、と。

 

 実際に経験し、そこで初めて考え始めたことではあるが。

 

「一昨日の夜にフェイトの仲間、アルフと戦った時に身をもって感じた。戦いの終盤、日頃のトレーニングもあって体力にはまだ余裕があったが、魔力の枯渇ですごく苦しくなった」

 

 ユーノは居住まいを正して固唾を呑み、レイハは一瞬だが強く光った。

 

 俺の家に着いてユーノとレイハに説明したのは一昨日と昨日の大筋だけだ。

 

戦っていた時のことを詳細に話していなかったので、『魔力の枯渇』という俺の言葉からアルフ戦での激しさ、苛烈さを悟ったのかもしれない。

 

 前回やった時より丁寧にレイハをお手入れしながら、話を続ける。

 

「心臓はばくばくとテンポをあげるし、呼吸は、肺が酸素を取り入れてないみたいに荒くなった。頭痛がするほどに頭が熱を持った……頭は高速思考とマルチタスクを使いすぎたせいかもしれないが。なによりも焦ったのは、咄嗟に足が動かなかったことだな」

 

 天井を見ながらアルフとの戦いを思い出す。

 

 死に物狂いで戦って、自分の力の全てを出し切った死闘。

 

苦しかったし、自分の弱さが情けなくて泣きたくもなったし、めちゃくちゃ怪我もしたが、それでもあの戦闘は楽しかったと胸を張ってそう言える。

 

負けはしたが、魔法という世界において俺の可能性を押し広げることができた、重要で貴重な戦いだった。

 

得たものは大きい、いい経験ができたと思える。

 

「そんなに……なってまで……っ」

 

『んっ、はぅっ……こほん。必死で頑張っていたんですね、先ほどの失礼な発言は取り消します。すいませんでした』

 

「別に心配してもらおうとか、褒めてもらおうとか思って言ったんじゃねぇんだ。気にしないでくれ。あとレイハ、そう言ってくれるのは確かに嬉しいんだが、喘ぎながら言われても今一つ説得力に欠けるぞ」

 

 具体的に戦闘時の話をしすぎてユーノが必要以上に心配してしまった。

 

今は全然大丈夫だからな、とユーノの頭を撫でて安心させる。 

 

 注意を受けたレイハは、俺の手元で何度も抗議するかのように強く眩く輝いた。

 

夜だったら家の中にいても、ご近所様の迷惑になりそうなくらいに光り輝いている。

 

 こんな反応をするということはどうやらこいつにとって、お手入れは気持ちいいことみたいだな。

 

くくくっ、いい情報を手に入れたぜ。

 

「まぁ、俺のことは大して重要じゃないんだ。重要なのは魔力を過剰に消費すると、身体機能にも影響がある、ということだ」

 

「そうなりますね、兄さんが実際に体験したんですから」

 

『他に何か理由があるにしても、魔力の消耗に関係していることは紛れもにゃふぅっ! 徹っ! 喋ってる途中にやらないでくださいっ!』

 

 レイハが喋ってる最中に布で優しくこすってあげたら、良い反応を返してくれた。

 

楽しいなぁ、なんだか温かい気持ちが湧いてくるし。

 

「あははっ、ごめんなレイハ。……さて、魔力を底まで使い切ると身体に悪影響を及ぼす、これを踏まえて次の質問だ。魔法が使えない、と判断する基準ってなんなんだ?」

 

「また変わった質問ですね。えぇと、一般的には身体を調べて、少しの魔力反応も出なければ一切魔法が使えない、ということになります」

 

『そっ、それがっあっ……はぁっ、だめぇ……っっ。どのようなっ……り、理由でそんな質問をするのですか……?』

 

 俺にいじられ息を荒げながらもレイハは尋ねる。

 

ごめんね、あまりに敏感に反応するもんだから、つい楽しくなっちゃってさ。

 

 オイルを含ませた布をテーブルに置いて、綺麗な布を手に持ちながら話を再開する。

 

「魔力反応が出ない……それはリンカーコアがないということ、でいいのか?」

 

「今の学説では『魔法を使えない者にはリンカーコアが存在しない』という説が主流ですが……?」

 

『あぁ、なるほど……。ふふ、徹は魔導師ではなく学者を目指した方が大成するのではないですか?』

 

 よくわかっていなさそうなユーノとは対照的に、レイハは俺の言いたいことを理解しているようだ。

 

レイハと俺の、お互い分かり合っているみたいな雰囲気が嫌だったのか、ユーノにしては珍しく少し憎々しげな表情をしながら考え、首を振った。

 

「僕にはわかりません……。どういうことですか?」

 

「ユーノはわからなくても無理はないかもしれねぇな。固定された常識が思考の邪魔をするんだろう」

 

『さっき徹が言っていた[魔力は身体機能に影響を及ぼす]という説を念頭に置いて考えると、リンカーコアがないと人間は体調に支障をきたすはずなんです』

 

 レイハの説明を受けて、ユーノが目を開いて顔を上げる。

 

 俺の推論においては、魔導師はリンカーコアからの最低限の魔力供給がなければ、なにかしらの不調を及ぼす。

 

実験が足りないとはいえ、この推論は恐らく正しいだろう。

 

一度だが俺が実際に体験したし、ユーノも、魔力を使いすぎて命を落とした人もいると言っていた。

 

百%と言い切ることは今は出来ないが、一応筋は通っている。

 

「もう気付いたか。そう、魔法を使えない人はリンカーコアがない、しかしリンカーコアからの魔力供給がないのに普通に生活している。この事実をどう見るべきだろうな」

 

「たしかに……今まで深く考えもしませんでした。学説でもそれ以上に踏み込んではいません。なぜ魔法を使えないかより、魔法の有用性を追求する方が有意義とされているので……」

 

『魔法に関して無知で素人だからこそ、そういう考えに辿り着いたと言えるでしょう。ユーノ、徹がおかしいだけなので気にしなくていいですよ』

 

 褒められて然るべきだと思うのだが……なぜか貶されている。

 

世の中の理不尽を垣間見つつ、続ける。

 

「学説を尊重しながらで考えられる可能性は、今は一先ず二つある。

 

一つは、魔導師になるとそこで初めてリンカーコアが生まれ、身体へ魔力供給が必要になる、という第一の可能性。

 

もう一つは、魔法を使えない人間にもリンカーコアはあるが、覚醒していない……いわばリンカーコアが眠っているような状態により、身体に巡らせる魔力を生成するのが精一杯のせいで、検査時に魔力の反応がない、という第二の可能性だ」

 

 ユーノは黙って頷き、先を促す。

 

 綺麗な布で余剰分のオイルを拭き取られているレイハから、声を押し殺したようなくぐもった音が聞こえる。

 

真面目な雰囲気なので、きっと喘ぎ声を出さないようにしているのだろう。

 

抑えきれてない部分が光となって俺の手と顔を燦々と照らしているが、声はかろうじて出していない。

 

頑張って耐えてるねレイハ、俺すごい眩しいけど。

 

「だが後者には疑問が残る。前者にもないわけではないが」

 

「なぜですか? どちらもあり得そうな可能性ですけど」

 

 否定材料とするのが俺の実体験ですまないんだが、と言い訳じみた前置きをしてから口を開く。

 

「昨日今日とリンカーコアが疲弊して、働きが弱まっているせいで気付いたんだが、魔法を知ってからは身体能力が上がっていたようだ。

 

この二日、リンカーコアからの魔力供給量が少ないせいで、微かに身体が重たく感じる。

 

最初はアルフと戦った時に、無理に身体を動かしたことによる筋肉痛かと思ったが……どうもそれだけじゃないみたいだ」

 

「はぁ……ですが、なぜそれが否定の材料になるんですか?」

 

「間接的な証拠だがな。

 

魔法を知らない状態でも身体に魔力が流れているのなら、魔法を知らない状態でも身体能力が上がってないとおかしいじゃねぇか。

 

魔法を知ってから身体能力が上がるのは矛盾するだろ」

 

 ユーノの頭上に疑問符が浮かんでいる。

 

俺が説明下手なせいでユーノが理解できていないようだ。

 

『わ、わたしゅ……んぁっ。わ、たしからっ、せちゅめいしま……す』

 

首を傾げるユーノに、息も絶え絶えなレイハが解説する。

 

俺の役目を肩代わりしてくれるんだ、さすがに今はお手入れの手を止めてレイハに任せる。

 

『はぁ、ふぅ……。

 

それではまず、魔法を使えない人にも元からリンカーコアがあり、最低限身体への魔力供給が行われている、という第二の可能性を前提とします。

 

そして次に、徹が示した情報です。

 

魔力供給がなされている時はある程度、身体能力が向上する。

 

逆説、魔力供給がない場合は身体能力は向上しない。

 

ここで思い出して欲しいのは、徹は[魔法を知らない状態]から、[魔法を知った状態]を経て、[魔力供給がない状態]という三つの状態を経験したことです。

 

[魔法を知った状態]では身体能力が向上した。

 

[魔力供給がない状態]と[魔法を知らない状態]の身体能力は同じだった。

 

ということは、[魔力供給がない状態]と[魔法を知らない状態]はイコールで結ばれます。

 

よって[魔法を知らない状態]は[魔力供給がない状態]ということであり、魔法を使えない人にもリンカーコアから最低限の魔力供給がある、という第二の可能性は消えることになります。

 

想像以上に長文になりましたが以上です』

 

 ……俺の説明より難解じゃね? 絶対俺の方が分かりやすかったって。

 

「なるほど、やっと理解できました」

 

 理解できたんだ、あれで理解できちゃったんだ。

 

分かってくれたんなら、俺からは言うことは何もないけどさ。

 

「もういいか? 魔力過剰消費について仮説を立てたから意見が欲しいんだが」

 

「す、すいません。どうぞ」

 

『リンカーコアについての仮説ではないんですね』

 

 レイハが細かいことを突っ込んでくるがスルー。

 

 こほん、と一つ咳払いして俺の仮説を述べる。

 

「俺は、リンカーコアを持つ魔導師は多かれ少なかれ、身体の細胞や筋肉や内臓、果ては脳に至るまで、まるで血管を通る血液のように魔力が全身を巡っていると考える。

 

だから魔力を過剰に消費しリンカーコアからの魔力供給量が少なくなると、身体の各部へ送られる魔力も少なくなり、腕や足を動かしづらくなったり肺といった内臓機能が低下するんじゃないだろうか。

 

それなら魔力の使い過ぎで死者が出るということにも納得できる」

 

 どうだ? と二人に投げかける。

 

「そうですね、兄さんは学者を目指すべきだと思います」

 

『異議ありません』

 

 俺が求めた言葉と違うが、言葉から察するにどうやらおかしいところはなかったようだ。

 

はぁー、やっと抱えていた疑問の着地点を見つけることができた。

 

疑問に気付いてからずっともやもやしていたんだ、すっきりした。

 

「兄さんが言っていた第一の可能性、魔導師になるとリンカーコアが生まれるという仮説ですが……これが事実であると仮定して進めるんですけど、魔導師になりリンカーコアが生まれるそのきっかけとはなんなんでしょうか?」

 

 ユーノの問いかけ。

 

「俺も考えたが、答えは出なかった。そのきっかけさえわかれば、今まで一般人として生活していた人も魔導師になれるかもしれないんだが……」

 

 魔導師になるきっかけ。

 

俺はたぶんジュエルシードの思念体と戦ったから、なのははレイハを持ったからか?

 

俺もなのはも自分以外から発せられた魔法に触れて、魔法を使えるようになった。

 

他者からの魔力を浴びることでリンカーコアが生まれるのか? 

 

そもそも魔導師になったからリンカーコアが生まれるのか、リンカーコアが生まれたから魔導師になるのか……鶏が先か卵が先か、みたいな話だが。

 

「おそらく自分以外の魔力がトリガーになるんじゃないかと考えたが、あまりに判断材料がなさすぎる。今答えを出すのは早計だろう、とりあえず保留にする」

 

「魔導師になる方法……これを発見することが出来たら歴史が変わるかもしれません! あぁ……学者魂がくすぐられます」

 

『お二人の会話を聞いているともはや、学者同士の議論ですね。よかったですね徹。思いもよらぬところに才能がありましたよ』

 

 俺は別に学者を目指しているわけではないんだけど。

 

浮かんだ疑問をそのままにしておくのが気持ち悪いから、原因を追究しているというだけであって。

 

「話が広がりすぎた感があるな、そろそろまとめるか。

 

俺がさっき言った、身体の上から下隅から隅まで魔力が巡っている、という説は実証実験もしていない、ただの仮説だ。

 

現状に矛盾していないというだけのものだからな。

 

恐らくは正しいだろうというただの仮説、結論として挙げれるものではないな」

 

「それなら、魔導師になって初めてリンカーコアが生まれる、という考え方も今のところは仮説ですね」

 

『確定した事実として結論で挙げられるものは……。

 

魔導師にはリンカーコアが必要であるということ。

 

魔力を大量に消費するとリンカーコアの働きが著しく低下するということ。

 

限界を超えれば倒れ、最悪死に至る可能性もあるということ。

 

……という常識的なものですね』

 

 全員で今回リンカーコアについてわかったことをまとめる。

 

結論は大して、というか一切変わっていないが別にかまわない。

 

今日は俺の中に蟠っていた疑問を解消してもらうというのが課題だったのだから、十分に目標は達成された。

 

「リンカーコアは研究が進んでいない、いまだに未知の部分が多い分野なんですよ? これだけの可能性が出ただけでも進歩です。僕と一緒に働いてほしいくらいですよ、僕の専門は考古学ですが」

 

「その路線に進む気はねぇっての。何はともあれ、リンカーコアについての疑問は解消された。ありがとう。最後に……俺の素質の可能性についてだ。成功するかどうかはわからんが協力してくれ」

 

『可能性? なにをするんですか?』

 

 実戦を経験して感じたこと。

 

武器に、力になるかもしれない可能性を秘めたあの感覚……それを試してみたい。

 

俺はまだ、上にいけるかもしれない。

 

「実験だ。フェイトやアルフと戦った時に思いついた術式はまた今度、なのはと練習試合でもした時に見せる。今回は俺の可能性への挑戦だ。ユーノ、障壁を張ってくれないか?」

 

「え? はい、いいですけど」

 

 戸惑いながらもユーノは小さい手を前に突き出して、薄緑色の防御術式を展開した。

 

 手が塞がるので、テーブルの上にハンカチを折り重ねてその上にレイハを置いておく。

 

 障壁へ近づき、右の手の平全体で触れる。

 

何をしているのかと尋ねてくる二人を今は無視して目をつぶり、集中。

 

 アルフと戦った時の感覚、あれを思い出せ。

 

ユーノには使わないようにと注意されているが、少しくらいなら魔力を使ってもいいだろう。

 

胸の奥……リンカーコアから生み出された魔力、それが身体を巡る。

 

胸、右肩、肘、手首、手の平、そしてその先へ。

 

「視えた……」

 

 アルフの障壁へ拳を叩きつけた時と似たような光景。

 

だがあの時とは少し違う、アルフの時と同じ防御術式ではあるが、脳内へ流れてくる術式の構成がところどころ違うんだ。

 

これは、ユーノの防御術式を初めて教えられたときのプログラムの配列。

 

『徹、いい加減に教えていただけませんか? いったい何をしているのです?』

 

「すまんな。すぐにわかりやすい結果を見せることができると思うから、少し待ってくれ。ユーノ、魔法の展開に違和感はないか?」

 

「いえ、なにも。普段通りです」

 

「そうか、それならいいんだ。これから俺が行動を起こす、違和感を感じ取ったら言ってくれ」

 

 理解できなくて不思議そうにしながらも、『はい』と返事をしてくれた。

 

 正念場はここからだ、ここからの行動の成否で俺の可能性が広がるかどうかがかかっている。

 

まず手の平から脳内に送られてくる防御術式の構成情報、これを自分の術式を改造するように変化させる。

 

だがここで重要なのは改良ではなく、改悪。

 

障壁の術式に勝手に手を加えて脆くする、今の状態ならば可能のはず。

 

「ん? あれ?」

 

 ユーノが微かに違和感を感じ取ったようだ。

 

さすがに術式に手を加えると、魔法を展開している時の感覚が変わるのだろう。

 

今は試しでやっているだけなのでこのまま続ける。

 

 術式の情報、密度や厚みを変更。

 

障壁の大きさまで変えてしまうと絶対に気付かれるだろうから、そこには手を付けない。

 

情報を書き換えて、最後に障壁を維持するために送られている魔力を断ち切る。

 

これでどうだ、障壁なんて障子紙みたいなものになる。

 

 右手に力を入れ、ユーノの薄緑色の障壁を素手で握り、割る。

 

ぱきぃ、と甲高い音を奏でて紙吹雪のように薄緑色の破片が宙を舞った。

 

 よし、今はまだ時間がかかるが……使えるぞ、これは。

 

「な、なにをしたんですか?! 障壁を素手で壊すなんて!」

 

『とうとう人間やめましたか』

 

 一瞬呆気にとられた顔をしたユーノだが、すぐに気を取り戻して問い詰めてくる。

 

レイハの発言は無視する。

 

なんだよとうとうって、ずっと人間だぜ俺は。

 

「なに言ってんだよ、レイハが前言ってたじゃねぇか。そこから着想を得たんだぜ? 魔力によるハッキングって発想をな」

 

『た、たしかに以前言いましたが……あれは冗談というか、嫌味だったんですが……。まさか実現しようとするとは……』

 

 やっぱりレイハも本気で言ってたわけじゃないんだな、そりゃそうか、まさか人間ができるとも思ってなかったんだろう。

 

 それよりも、唖然としているユーノにさっきの手応えを訊いておかなければ。

 

戦闘中に使えるレベルにまで持っていきたいからな。

 

「ユーノ、どうだった? やっぱり、何かされていることに気付く程度には違和感はあったか?」

 

「い、いえ、割られる直前に魔力が通らない感覚には気付きましたが……その前では恐らく気付けません。どこか歯車がズレているような、そんなかすかな違和感しか感じませんでした。戦闘中ではそこまで集中して術式に気を配らないので、割られる寸前でしか気付かれないかと……」

 

 やったぜ、ユーノから太鼓判を押してもらった。

 

あとは触れるような距離まで近付かないといけない、という点をどうにかしたいな。

 

また策を練らなければ……くくっ、一つ一つ組み上げて築き上げていくのは楽しいなぁ。

 

「いや、でも……あ、ありえませんよ……。魔力で他人の魔法術式に干渉するなんて……普通は大なり小なり拒絶反応が出るはずですから」

 

 んむ? 拒絶反応? ……最近どこかで聞いたような。

 

そうだ、リニスさんが言ってたんだ。

 

『魔力は自分のものではなかったらある程度、拒絶するような反応がある』とかそんな感じのこと。

 

そしてこうも言っていた、『徹の場合はほぼ無反応だった』と。

 

俺ではそういった拒絶反応が出ない、ということはなにか俺に原因があるんだろうな。

 

ん~、………………魔力色?

 

「俺の魔力色が透明だから、っていうのは理由になったりしないか?」

 

「兄さんの魔力色、透明、ステルス性……。あ、あはは……もしかするとそうかもしれません。他人の魔法にハッキングし干渉する……そんなことはまさしく前代未聞のことですが、目の前で見せられてしまった以上疑う余地もありません。本当に兄さんは僕の常識を次から次へと壊してくれますね」

 

 学者として、兄さんの頭の中はとても興味がそそられます、と締めくくった。

 

どこかマッドサイエンティストのような鈍く輝く目をしていたのは……気のせいだよな?

 

だってユーノの専門は考古学だもんな?

 

 背筋に寒いものを感じるが……一応、ハッキングができる理由の最有力候補はわかった。

 

これでフェイト達と釣り合いが取れる、なんて甘い考えはしていないが、少なくとも前回よりはまともに戦えるはずだ。

 

『気を付けてください、徹。あなたはもう片足分くらいは人外です』

 

「さすがに人外はやめてくれよ」

 

 俺より凄いやつは他にもごろごろいるんだから、そいつらにその称号を与えてやってくれ。




いろいろ理論に無理があるかもしれませんが、どうか大目に見てください。


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「【美女と野獣】か」

2014.5.25 サブタイトルと細かいところを変更しました。


 太陽の色がオレンジに変わりつつある中、まだ少し冷える風を頬に受けながら高町家へと歩みを進める。

 

今は十八時を少し回ったところ、予想より早く話し合いが終わってよかった。

 

二人を送り届けて買い物に行ってもまだ余裕はある。

 

《やはり兄さんはもう少し、自分の身体を労るべきだと思うんです》

 

《そうですね、無理しすぎです。思えばバリアジャケットも身に着けていませんし》

 

 制服の胸ポケットから、ユーノが頭の上半分だけ出して念話を飛ばす。

 

レイハは学ランのポケットに入っている。

 

『徹の家に行く時もポケットに入れればよかったじゃないですか!』と、先ほど怒られた。

 

 さすがに外で、フェレットもどきと赤い宝石に堂々と喋りかける勇気を俺は持ち合わせていないので、念話でお話。

 

体調は万全ではないんですから、と念話すらたしなめてくるユーノを、大分時間経っているしもう大丈夫だからと押し切った。

 

 俺の部屋で、リンカーコアと俺の新たな武器について会議をしてからというもの、ユーノからずっと自愛せよとのお説教を受けている。

 

いやユーノだけじゃなく、レイハまで俺の心配をし出すので、さすがに不安になってきた。

 

俺そんなに無茶してんのか? ユーノは心配性だからわかるが……レイハまで俺の身を案じるとか相当なもんだぞ。

 

《無理してるって言うけどなぁ……今回はアルフと戦ったから怪我したってだけで、普段はなるべく危険とか面倒事から離れようとしてんだし……》

 

《ならなぜ……ジュエルシードの収集に協力してくれるんですか? これこそ危険で面倒なことなのでは?》

 

《手伝ったところで何か見返りがあるわけでもないですし、たしかに不自然ですね》

 

 ジュエルシードの収集に協力する理由……ねぇ。

 

たしかに紛れもなく危険だし、疑いようもなく面倒事だけど、俺はその手伝いを引き受けた。

 

一番根本にあったのは、なのはが手伝うと言い出して、なのはだけじゃ心配だから俺も付き添う形で始めた。

 

 ならやっぱり理由はこれしかないな。

 

《ユーノが真剣に助力を求めたからだ。一人で頑張って、それでも手に負えないから、なのはや俺に助けを乞うた。

 

説明も真摯にして、危険なものだからやりたくなければやらなくていい、という選択肢を提示しながらな。

 

だからこそ手伝ってやりたいと思った。

 

俺自身、頑張ってるやつを見捨てるようなことをしたくなかっただけ。

 

結局自分の為だ》

 

《……ぷっ、あははっ! やっぱり兄さんは兄さんです!》

 

《た、ただの格好つけたがりなだけでしょう。ツンデレです、男のツンデレなんて需要ないです……一部を除いて》

 

 自分の力で助けてやれるのなら助けてやりたいと思うし、助けを求めてきたやつを見捨てたら後で後悔するからやっているだけだ。

 

そりゃあ俺だって何でもできるような全知全能の神様じゃないんだから、俺の能力を超える難易度なら手伝えないし、菩薩でもないんだから不遜な態度で上から目線で頼まれてたら、手伝いはしない。

 

ユーノが平身低頭必死に頼んだから引き受けた、それだけのことだ。

 

 高町家に着くまで三人でしょうもない話を延々していた。

 

レイハが俺をバカにして、俺がそれに突っ込んで、ユーノが宥めるという不文律のような会話の流れ。

 

その時間が楽しくて、次第に歩くスピードも落ちてしまうほどだった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「おい、姉ちゃん。起きろ。なんで俺の部屋で寝てんだよ」

 

 今日は土曜日、特段早く起きる必要はないのだが習慣とは恐ろしいもので、いつも通り六時十分前くらいには目が覚めてしまう。

 

平日ならばこの時間に起きても、弁当作ったり朝飯作ったり洗濯物干したりと忙しいが、休みの日では時間を持て余すことが多々ある。

 

 昨日はユーノとレイハをなのはの元へ返して、晩飯の材料を買いに行き、家に帰ってきたと同時くらいに姉が帰ってきた。

 

先に姉ちゃんに風呂に入らせて、その間に料理を作り、最近では恒例のようになってしまっている晩飯の食べさせ合いで食事を済ませると俺は風呂に入って、後は各々自分の部屋で寝たはず……なのだが。

 

「んぅ~……ちゅーしてくれたら起きれるかもせぇへん」

 

「【美女と野獣】か」

 

「【眠れる森の美女】やろがぁ! そんじゃなにか、うちは野獣って言いたいんか! あほぉっ!」

 

 おぉ、やっと起きた、よかったよかった、ちょっとバロメーター振り切れてるけど。

 

「ほら、あれだって結局はイケメンになるんだし、褒め言葉として受け取ってよ」

 

「キスする前は暴れん坊の野獣やないか! むぅ……はっ! っちゅうことは徹がキスせな、うちは野獣のまま……つまり徹はうちにキスせなあかんゆうことか!」

 

「起きたら早く朝飯にしよう。今日も仕事あるんだろ?」

 

「つれへんなぁ、もう。おはようのちゅーくらい、けちけちせんでええやんか」

 

 どう考えてもおかしいだろう、寝ぼけていたとしても『あれ? 少しおかしくない?』くらいは思うわ。

 

だが直接姉には注意はしない。

 

近頃はどうも情緒不安定なところがあるから、無駄に突き放すようなことを言ってまた取り乱されては敵わないし。

 

それに一応この家の大黒柱だ、わざわざ機嫌を損ねるようなことを口に出すこともないだろう。

 

「つうか、なんで俺のベッドで寝てたんだよ。昨日は別々で寝てたのに」

 

「ほ、ほら、人間にゃあ人恋しくなる時ってのが……あるやん? それ?」

 

 いや訊かれても。

 

起きて一番最初に見るものが姉の寝顔というのは、眠っていた脳みそを目覚めさせるに余りあるインパクトだ。

 

「そんじゃ寝る前から言えばいいんじゃねぇの。なんでわざわざ寝込み襲うみたいに寝入ってから布団に潜り込むんだ」

 

「ねっ、寝込み襲うってっ?! 起きとったん?!」

 

「はぁ? 寝てたけど? 言葉の綾っていうか、ただの表現だろ。なに、俺が寝てる時になんかしたの?」

 

「いぃ、いや? な、なんもしてへんよ? あ、姉には建て前ってのがあんねん! 一緒に寝よ、なんて言い出されへんやろ!」

 

 こいつ……俺が寝てる時になんかやってたな?

 

声裏返ってるしあからさまに怪しいが、寝てる人間の顔に落書きとかするタイプじゃないし気にしなくていいか。

 

「まぁいいや、今日は仕事何時から?」

 

「ん~七時には出なあかんな」

 

 グダグダやってる時間ないじゃねぇか。

 

「朝飯作っとくから早く顔洗ってこい」

 

「あーい、今日はサンドイッチで」

 

 姉ちゃんは洗面所へ、俺はキッチンへ向かう。

 

 今日も注文が楽でよかった。

 

冷蔵庫を開けて材料の確認をする。

 

姉ちゃんは細っこい身体をしている割に意外と食うからな、二~三種類用意しておくのが無難だ。

 

ハムにチーズにレタスを発見、カツもあれば尚よかったが残念ながらなかった。

 

あ、ツナも見つけた、これも使おう。

 

最後に卵を取り出して作り始める。

 

 パンは耳の部分を切って軽く表面に焦げ目がつく程度に焼き、この間に卵を茹でて置く。

 

ハム、レタスは食べやすい大きさにちぎっておき、ツナは油をきってボウルの中へ入れてマヨネーズ、塩コショウを適量加えて混ぜる。

 

頃合いを見てオーブンを止め、茹で卵は細かく刻んでツナを入れているボウルの中へぽい。

 

あんまり卵が崩れるのは姉ちゃんの好みではないので、力加減をして混ぜて準備完了。

 

一方はパンにレタスを乗せてツナマヨ卵をどっさり入れる、もう一方はパンにマーガリン、マスタードとさっき作ったツナマヨ卵をうっすら塗って、レタスとハムとチーズを重ねてパンで挟む。

 

あとは三角形になるように切り、見栄えがいいように皿に並べて完成。

 

「よっし! もう目ぇぱっちりやで!」

 

 顔を洗ってきた姉ちゃんが、洗面所のある一階から上がってきた。

 

 今日も今日とて、元気が有り余っている姉である。

 

最近の暗い表情が珍しいだけであって、基本的に姉ちゃんはテンションが高いのだ。

 

 「先に食べててくれ。あと一品、デザートを作る」

 

 メニューがサンドイッチだったおかげでぎりぎり間に合ったな。

 

サンドイッチを並べた皿を、テーブルの上に置き、ブラックのホットコーヒーを隣に置く。

 

見た目は俺より年下に見えるくらいなのに、コーヒーはブラックで飲めるんだよな。

 

別に悔しいわけではないけれど……ないけれどっ。

 

「前のアレ? やったー! いただきまーすっ!」

 

 冷蔵庫からホイップクリームと何個かあったフルーツを取り出して、残しておいたパンの上に配置していく。

 

パンの上にホイップクリームをこれでもかと塗りたくり、フルーツ――今回は苺とミカンがあった――を乗せて挟むだけの簡単デザート。

 

今はラップをして冷蔵庫へ、食べ終わった時に食後のデザートとして出せばひんやりしていておいしいのだ。

 

姉ちゃんは甘いものも好きだからなー、俺も大好きだけど。

 

「ひょう、ほおるふぁ、はんかよへいあむの?」

 

「言ってることは理解できるが、口の中のもん飲み込んでから喋ろうぜ」

 

 ヒマワリの種を頬張るハムスターばりに、頬っぺたを膨らませながら俺に訊いてきた。

 

口の端にパンついてるし。

 

家を出ないといけない時間が迫っているとは言え、もう少しゆっくり食べれねぇのか。

 

ちなみにさっきのは『今日、徹は、なんか予定あんの?』と訊いていた。

 

あれでわかるのはまさしく、姉弟の以心伝心と言えるだろう。

 

 屈んで、姉ちゃんの口についているパンをつまんで、自分の口に放り込みながら質問に答える。

 

「今日は……特に何もないなぁ。恭也と遊びに行こうかと思ってたんだけど……家の用事があるらしくてな。たぶん今日は暇を持て余すことになる」

 

 昨日、なのはにユーノとレイハを返却した時に誘われた。

 

明日――つまり今日のことだ――家族で温泉に行くから一緒にどうか、と。

 

 この近くで温泉というと、全国的にも有名な月守台の温泉街だろう。

 

北の山を越えた先にあり、ここからだと大体一時間と三十分ほどの距離にある。

 

温泉だけじゃなく、宿泊施設や飲食店、土産物屋のほかに子供が遊べるようなところもたくさんあるので、家族連れに人気だ。

 

俺も何度か行ったことがあるが……うむ、小さい頃だったので記憶はかなり朧だな。

 

 誘ってもらえたことは純粋に嬉しいが、姉ちゃんは休みの日でも仕事があるので一人にするわけにはいかないし……高町家の家族旅行に水を差すようなことはしたくなかった。

 

いや……違うな……誘ってもらっておいてこんな考えを持つ自分に辟易するが…………他人の……家族の団欒を見たくなかったってのが一番の理由かもしれない。

 

そんな思いもあってなのだろうか、姉ちゃんに説明する時につい、『家族で温泉旅行』というのを『家の用事』と言い換えてしまった。

 

姉ちゃんだってもうそこまで気にしてないだろうに……気にしすぎだよな、俺。

 

「そ、そうなんや。せやったら買い物行ってきてくれへん? 明日も仕事やから行かれへんくて……徹の好みで選んでくれたらええんやけど」

 

 にわかに顔を赤くして視線を逸らしながら言う。

 

姉ちゃんのこんな態度は珍しいな、変なもんでも食ったか? って飯は俺が作ってるじゃねぇか、変なもん入ってねぇよ。

 

「あぁ、かまわんぞ。ん……俺の好み? 何がいるんだ?」

 

「下着を」

「それは是非ご自分でどうぞ」

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 絶賛暇を持て余し中である。

 

デザートまでおいしく食し、速攻で準備を済ませた姉ちゃんを玄関まで出て見送り――行ってらっしゃいのちゅうは拒否し切れなかった――俺も朝食を摂った。

 

サンドイッチとデザートのフルーツサンドまでちょうど半分ずつ、俺のために置いてくれてるところは姉ちゃんらしい。

 

そこからは食器を洗って、洗濯物干して、家の掃除をして、出されていた宿題を片付けて、トレーニングまで終わらせて現在十時。

 

さて、どうしよう。

 

 俺には趣味と呼べるものがない。

 

以前はあったはずだが最近は忙しなく動いていたので、趣味にかける時間がなかったとも言える。

 

が、時たまこんな風にぽっかりと予定が空いてしまうことがある。

 

大抵こんな時は恭也や忍と遊んだりするんだが、今日はそうもいかなかった。

 

 恭也は前述したように家族で温泉旅行。

 

もしかしたら忍も高町家と一緒に温泉行ってるかもなー、と思いつつも一応電話したら出た。

 

話を聞けば当初は、忍と、その妹であるすずかも高町家と一緒に温泉へ行く予定だったらしいが、すずかが体調不良でダウンしたので看病するため、今回は見送ったそうだ。

 

忍の家、月村家には二人のメイド姉妹、ファリンとノエルがいるんだから忍が介抱する必要はないんだが、やはり普段あんなのでもすずかの姉。

 

愛する妹を放って一人温泉旅行について行くことはできなかったのだろう。

 

結局何が言いたいかというと、忍も遊べない、ということだ。

 

二人の親友が所用で都合が合わず、遊び相手候補が完全に潰えた。

 

……あれ? もしかして俺……二人の他に、友達いない……の、では…………。

 

うむ……あまり深く考えてはいけないな、深く考えるほどに心に刻まれる傷も深くなる気がする。

 

 そうだ! 今の俺には使命があるではないか!

 

 魔法……これまでも、そしてこれからも使うであろう魔法に関して見直すべきことがあるのではないだろうか。

 

アルフ戦では、足元に障壁を配置し空中を移動する方法が……長いので跳躍移動としよう。

 

跳躍移動の燃費の悪さから魔力が尽きて、結果、それが敗北の原因となった。

 

この跳躍移動だけではない、他にも俺が使う魔法の術式を一から見直せば、魔法の燃費の悪さを改善できるかもしれない。

 

 俺はなのはと違い、魔力に恵まれている魔導師ではないのだから、いろいろ工夫してどうにかしないと今後、戦いについていけなくなるどころか足手まといにすらなりかねない。

 

 せっかくできたこの時間、無為に垂れ流すのは勿体ない。

 

未来の自分に楽をさせるためにも今努力しよう、うむ、それが一番効率的だろう!

 

 

 

 

 

 互いに近付いては離れ、離れては近付いてを繰り返したすれ違いばかりの二人が今、念願叶い一つになり……重なり合った状態で天を仰いでいる。だがそれも泡沫の恋……触れ合った温もりも、伝え合った想いも、ただ一緒にいたいという儚い願いすら、二人を取り巻く環境がそれを許さない。もう間もなく、二人は引き離される。落花流水の情すら断つ、規則規則とうるさい周囲。一方は邪恋に身を焦がし、一方は別れの間際に呟く。私たちは所詮……及ばぬ鯉の滝登り。

 

 

 

 

 

 つまるところ現在十二時、たった今十二時一分になったところである。

 

あまりに暇すぎてポエムっぽい詩まで作ってしまった。

 

 術式を吟味し、自分に必要のないところは削り、戦闘スタイルに合う部分だけ残して強化する。

 

 例題として挙げるなら防御術式。

 

密度変更型障壁のように防御範囲を削り、強度を上げる。

 

メリットは強度を上げることにより、俺程度の適性でも壊れにくくなること。

 

防御範囲が狭まったことで、相手の攻撃に障壁を合わせに行かなければならないので気を使うが。

 

合理化・能率化して消費する魔力を少しでも減らし、限りのある魔力を節約しようと苦心しているのだ。

 

 ユーノに教えてもらった術式は本当に基礎的なもので、適性が満足にある者ならそれでも十分に使えるのだろうが、俺のようにへっぽこ適性だと、そのまま展開させようものなら容易く割られてしまう(これについてはフェイト戦で実証済みだ)からな。

 

 そして使えるすべての魔法の術式を俺好みに書き換えた。

 

元より知っている魔法が少なかったおかげで時間はそうかからなかった……のだが、ここで違う問題が噴出した。

 

改造した魔法を試せない、正確には試せる場所がないのだ。

 

 ひと気がない場所、と考えて真っ先に想起するのは広大な敷地を有する自然公園だが、平日ならともかく、今日は土曜日、世間一般では休日だ。

 

いかに木々生い茂り、広漠という言葉が過言にならない自然公園といえど、休日ではどこに人の目があるかわからない。

 

あそこはリア充が……失敬、カップルがデートコースによく選択する場、奥深くに足を踏み入れたとしても、見られるという可能性を捨てきれないのだ。

 

 はぁーあ、ユーノに結界の術式を教えてもらっておけばよかったと、アルフと一戦交えた時も思ったはずなのに……二の舞を演じてるじゃねぇか。

 

仕方がない、試すのはまた今度にするとして、今日何をするか考えよう。

 

 昼を回りお腹もすいてきたのだが、どうも自分の飯となると作ろうというモチベーションにならない。

 

 折角の休みだ、街まで行って料理の勉強って意味も込めて外食しよう、そうしよう。

 

決まったらすぐ行動、俺はファッションセンスの欠片も見えない服をタンスから取り出し、着替え始めた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 海鳴市随一の繁華街、休日の真昼間なのでかなり人も多く、それに伴いカップルもかなり多く、一人で来ている俺がすごい場違いなんじゃないかと思えてくる。

 

かっ! リア充……リア充共め。

 

街を歩く装い華やかな女性二人組は俺の方をちらちらと見て、こそこそと話をしている。

 

自意識過剰かもしれないが、馬鹿にされてるのでは、と被害妄想を膨らませてしまうのは服装に自信がないからか。

 

 ジーパンに白のインナー、ジャケットという出で立ちなのだが、ファッションセンスがないのは自負している。

 

 もうこのまま表通りを歩くのは気疲れする、裏に入って隠れ家的なお店を探すとしよう。

 

どうせ今日は時間があるんだ、それにこの時間帯は有名な飲食店は人が多いだろうし混雑しているだろう。

 

路地裏に入りながら適当に気の向くまま歩く。

 

 そのうち穴場のような知る人ぞ知る、みたいなお店が出てこないかなぁなんて思っていると、なにやら奇怪な場面に遭遇した。

 

高級車ですよ、と吹聴して回るようなリムジンの頭を押さえるかたちで、ミニバン――少し遠いので分かりづらいが恐らくセレナ――が停車されている。

 

リムジンの動きを止めているセレナは、ガラスにフルスモークのフィルムを貼っており、ナンバープレートも少し歪みが見える、状況から推察する限り犯罪の匂いがぷんぷんするな。

 

 さ、面倒なことに巻き込まれる前に撤退するとしよう。

 

犯行自体を見たわけではないがこうやって目撃してしまっている以上、俺になんらかの形で火の粉が飛んでくる可能性もあるのだ、厄介事はもうお腹いっぱいである。

 

 来た道を引き返そうと踵を返す寸前、人の姿が見えた。

 

黒っぽい服に身を包んだ男二人が、黄金色の長い髪の少女の手を掴み、車に引きずり込もうとしている。

 

少女は恐怖からか、涙を流しつつも懸命に抵抗しているようだが力に差がありすぎる、その悪足掻きにさほど効果があるとは思えない。

 

その奥にもう一組、ちらりとだが見えた。

 

服装の統一でもしているのだろうか、これまた全身黒っぽい服装の男二人が、白髪の男性に相対している。

 

白髪の男性はその服装から察するに少女の執事か何かなのだろう、助けに向かおうとしているが多勢に無勢、少なからず武道に心得があるようには見えるが、黒の男二人の相手をするのに精一杯の様子だ。

 

 あぁ、くそっ……さっさと引き返してりゃよかったのになぁ。

 

なのはや彩葉ちゃんくらいの歳の女の子が誘拐されそうな光景を見て『俺関係ねぇし、トラブルなんかごめんだし』と、ないがしろにすることなんてできない。

 

なによりも、黄金色の髪の少女は泣いていた。

 

女の子が涙を流している――それだけで俺は、火の中に飛び込む理由にさえなる。

 

ちょーっとおいたが過ぎるよなぁ、貴様らは。

 

 あまり整備されていないのだろう、ひび割れたアスファルトを力強く踏み込み、女の子の元まで一直線に駆ける。

 

予想以上に加速したことに自分でも驚きつつ接近し、男たちと少女の前方四~五メートルほどでジャンプし、少女を車へ引っ張り込もうとしている男二人の顔面に、片足ずつの飛び蹴りを叩き込む。

 

ぱきっという音が足越しに聞こえた、たぶん鼻の骨でも折れたのだろう。

 

少女の方に気を取られていたし、男二人がいい具合に近かったのでとても蹴りやすかった。

 

空中で男達の顔面を足場にするようにして踏み、後方に一回転して着地する。

 

男達は跳び蹴りの勢いそのままに、少女を残して車の中に吹っ飛んだ。

 

 悪事を働いているのだ、それくらいの怪我を負う覚悟はあるだろう。

 

鼻から口から血を流しているが、良心は全く痛まないな。

 

それどころか俺の心の中の悪魔が『もっと痛めつけてやれ』とそそのかしてくる。

 

おい、俺の優しい部分も出て来いよ。

 

 華麗に着地を決めて、少女が怪我をしていないか確認する。

 

涙が頬を伝っているがそれ以上に今の状況がのみ込めていないのか、少女は呆然としながら俺を見ていた。

 

太陽に照らされ、黄金に輝く綺麗な長い髪を腰のあたりまで伸ばして、頭の両側でちょこんと短く髪を結っている。

 

目鼻立ちのはっきりした顔貌を、今は流れる涙が濡らしてしまっている。

 

 しゃがんで目線を合わせ、少女の乱れてしまった髪を手櫛でざっくり整えて、今も溢れて止まらない涙を手で拭ってやる。

 

「もう大丈夫だからな、安心していい。君の連れを助けてくるから君は少し離れてて」

 

「っく……、うん……っ」

 

 しゃくりあげながらもちゃんと返事をしてくれた、うむ、強い子だ。

 

少女の頭を撫でてもう安全だということを理解させ、残りの誘拐犯グループを確認する。

 

白髪の男性……老人と形容してもいいかもしれないが、そちらと相対していた男二人を潰せばそれで終わりだ。

 

「お前はそのじじいやっとけ、俺はあの餓鬼の相手をする」

 

二人の男の内の一人、やたらごつく俺よりも上背のある厳つい男がリーダーなのか、もう片方の男に命令した。

 

「邪魔してくれてんじゃねぇよ糞餓鬼。もうすぐ(しま)いっつうとこまで来てたってのによぉ」

 

「笑わすな、小学生の女の子一人攫うのに男四人がかりってか。ガキ一人に邪魔されて潰れるような計画立てんなよ」

 

 リーダー格は余裕の笑みを顔に貼り付けながらもこめかみがぴくついていた。

 

「部外者には手を出すなって指令だったが関係ねぇわ、ぶっ殺す!」

 

 俺という横やりが入ってからずっと苛立っていたんだろうな、挑発したらすぐ乗ってきた。

 

 リーダー格は踏み込むと同時に右の裏拳を、俺の顔面を払うように繰り出す。

 

身体が大きい分、踏み込みの一歩も大きく、そしてその体格からは予想外な程の速い攻撃。

 

俺のそれよりも一回り位大きそうな拳を上半身を引くことで躱す。

 

 風を引き裂きながら振るわれ、ぶぉんと音を立てていたが俺の心境になんら変化をもたらすものではなかった。

 

魔法を知ってから経験した実戦、それらと比べると児戯にも等しく感じてしまったからだ。

 

フェイトやアルフと戦う前なら少なからず恐怖を覚えたかもしれないが。

 

「こっ、この餓鬼!」

 

 躱されるとは思っていなかったのか、さらに怒りを募らせたリーダー格は、右腕を力の限り振ったせいで崩れた重心のまま、左拳を俺へ向ける。

 

 速度ならフェイトの、力ならアルフの方が遥かに上、彼女らと比べたらこんなもの止まっているも同然だ。

 

俺はリーダー格の拳を右手で掴み、身体に触れるくらいに接近し左の拳を、がら空きになったリーダー格の腹部に叩き込む。

 

近いとはいえ身体のひねりを加えた一撃だ、相応の威力がある。

 

 油断していたところにボディブローを受けたリーダー格は、身体をくの字に折った。

 

そのお陰で絶好の位置まで下りてきたリーダー格の顎に、膝を合わせる。

 

 がぐんっと奇妙な音、顎あたりの骨がずれたのかな?

 

脳が揺れ姿勢を保つこともできずにリーダー格は後ろへ、あお向けに大の字で倒れた。

 

一応力加減はしたので死んではいない……はず。

 

『とどめをさせ』と俺の心の中の鬼が言う。

 

俺の中には悪魔と鬼しかいないのか、天使は駆逐されたのか。

 

 リーダー格が負けたことで残った最後の一人、白髪の執事と戦っていた黒の男が任務を諦め、リーダー格を背負って車へ乗り込み素早く逃げて行った。

 

別に捕まえようとも思っていなかったので、その辺りは好きにさせた。

 

 これで一先ず一件落着、怪我もなく終わり一安心だ。

 

さて……帰ろう、長居する理由はない。

 

「ありがとうございました。危うく取り返しがつかないことになるところでした。本当に、心から感謝いたします」

 

 執事さんに引き止められた、くそ、良識のある方のようだ、深々と頭を下げられて無言で立ち去るというのは俺の意義に反する。

 

「いえ、運が良かっただけです。たまたま鉢合わせたから助けたというだけで、感謝されるようなことではありません」

 

「……変わった方ですね。失礼、悪い意味で捉えないでください。あまり見ない、素晴らしい考え方の青年と思いまして」

 

 執事さんが顔を上げる、うむ……この執事さんの顔はどこか俺の記憶に引っかかるのだが……まぁいいか。

 

「構いませんよ、変わり者とは言われ慣れていますので。それでは……」

 

 『それではこれで』と帰ろうとしたら黄金色に腰の周りをぎゅうっと拘束された。

 

さっきの女の子だ。

 

「あ、ありがと……っ、ありがとぉ……。怖くて、本当に怖くてっ……もうだめかと思って……」

 

「いや、まぁ……うん。君が無事でよかったよ」

 

 まだ横隔膜が落ち着いていないのか、時々声が上擦ったようになってしまっている。

 

どうしよう、小学生の女の子を振り解くわけにもいかないし、ちょっと役得だなぁとか思っちゃってるし。

 

変に感謝されるのもどうかと思うから、早々に退却しようかと思っていたんだが。

 

 あの暴漢共を容易く退けられたのは、不意討ちしたという理由もあるが魔法によるところが大きい。

 

当然普通の人間相手に、魔力付与などの本格的な魔法を使いはしてないが、魔力が身体を巡っているため、ほんの僅かながら身体強化のような効果を及ぼしている。

 

抑えようとしてもこればかりはパッシブなので抑えようもない。

 

その恩恵にあやかっているからこそ、堂々と真っ正面から叩き潰すことができたのだ。

 

なので俺の力というよりは魔法のお陰なので、礼を言われてもいまいち受け取りづらい。

 

「アリサお嬢様、礼もしなくてはなりませんのでまずは帰りましょう。申し訳ありません、これから少しお時間頂けますか?」

 

「え、いやいや、そんなの必要ないから……」

 

「っ……そうね、一度帰るわ。鮫島、車をお願い。あなたもそれでいい?」

 

 強いなぁこの子、もう気丈に振る舞えるのか。

 

炎が宿っているかのような勝気な瞳、これがこの子の魅力なんだろうな。

 

 いやいや、なに女の子の品評しているんだ俺は。

 

このままではこの子の家に行かざるを得なくなる……ん? ……アリサって名前に聞き覚えが。

 

いやそれ以上に気になる名前が出た……鮫島?

 

 記憶をかすめる執事さんの顔、鮫島……!

 

「鮫島さん? 鮫島さんなのか?! 俺のこと憶えてる? 逢坂だけど」

 

「逢坂……逢坂徹くんですか? あぁ……! 大きく立派になりましたね」

 

 まさかこんなところでまた鮫島さんに会えるとは思わなかった、奇跡的な確率なんじゃねぇの?

 

「ちょ、ちょっと鮫島……? 知り合いだったの?」

 

「失礼しました、お嬢様。徹くんとは道場が同じだったのです。彼が道場をやめてからは会っていなかったので、つい懐かしく」

 

 急に会話に付いていけなくなったアリサちゃんが戸惑いながら鮫島さんに訊いた。

 

 昔、俺がまだ道場に通っていた頃、その道場に鮫島さんもいたのだ。

 

何回か稽古で手合わせしたが、あの頃の鮫島さんは洒落にならん位強かった。

 

なんであんな暴漢相手に苦戦していたのか疑問だ。

 

「それなら積もる話もあるんじゃない? うん、やっぱり家に来てもらったほうがいいわね!」

 

 この子可愛いだけじゃなくて結構頭も切れるようだ。

 

俺がアリサちゃんの家に行くのに難色を示していたの察知して、違う理由をつけてきた。

 

「それならお言葉に甘えさせてもらおうかな。昼食前で腹減ってるんだ。食事をもらっていいか?」

 

「うん! こっちで連絡しとくっ」

 

「それではお乗りください、安全運転でまいります」

 

 鮫島さんとも話したいし、アリサちゃんにもいろいろ訊きたいことがある。

 

昨日なのはに電話した時に耳に入った名前がたしかアリサだった。

 

たぶんなのはの友達なのだろう、なのはが学校でどうしているか知るチャンスである。

 

 図らずも今日の予定と、昼飯のアテがついてしまった。



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「オーラが視えるんだ」

今回は短めです。
本当は前回の話で繋げて書くはずでしたが、やけに量が多くなってしまったので一回切りました。

短いとはいえ、前回の話から数時間後にもう一話というのは初めてです。



 高級車は外面だけではなく、中身まで高級仕様のようだ。

 

車には詳しくないが座席からして違うとかもう……緊張しちまう。

 

よ、汚さないようにしないとっ……。

 

「ん? どうしたの?」

 

「いや、なんでもない。それより……アリサちゃんは聖祥大付属小学校に通ってたりする?」

 

 一瞬、アリサちゃんを誘拐した男たちについて訊きそうになったが、寸でのところで口に出さずに済んだ。

 

襲われてすぐに思い出させる必要はないだろうし、酷な話だ。

 

「え? なんで知ってるの?」

 

「オーラが視えるんだ。なのはは君の友達?」

 

 アリサちゃんは気の強そうな目を見開いて、餌を待つ金魚のように口をぱくぱくさせている。

 

ちょっとやりすぎたかな、あんなことがあったから忘れさせようと思って馬鹿らしいことを言ってしまった。

 

けっこう利発そうな子だし、信じるとは到底思えな

「うん! うん!! 友達で親友っ! すごいっ、オーラってどんな色で視えるの!?」

 

 うん、とても純粋無垢な子のようだ。

 

どうしよう……あのなのはでさえ嘘と気付くだろう、こんなお粗末な作り話をここまで信じられるとは思わなかった。

 

「アリサちゃんのオーラは黄金色だな。かすかになのはの色が視えたから、それで友達なんじゃないかなぁと思ったんだ」

 

 これも当然嘘である、嘘のミルフィーユだ。

 

 俺の予定では『え~本当に~?』みたいな半信半疑な返事が来て、そこで本当のことを言おうと思ったのに。

 

夜空に瞬く星の如く瞳をきらきらと輝かせるもんだから今さら、嘘だ、なんて言い出せない。

 

 助けて、という思いを込めて鮫島さんへバックミラー越しに視線を送るが、穏やかな笑みを浮かべるばかりで助け舟は出してくれそうにない。

 

「他にはっ? 他には何かわかるっ?」

 

「君の家では犬をたくさん飼ってるね?」

 

「~~~っ! すごいっ! 本当にわかるんだっ!」

 

 ホットリーディングという手法である。

 

占いとかで事前に相手を調査して、さも自分は超能力者であるかのように言い当てるもの。

 

 犬を飼っているという情報は以前になのはから得ていたもので、必死に頭をひねったら出てきた。

 

記憶の海を潜れば何かしら出てくる自分の優秀な記憶力を褒めるべきか、どうするべきか、今回ばかりは悩む。

 

 だってアリサちゃんすごいいい顔してるんだもの、今さら本当のことなんて言えないんだもの。

 

「未来のこととかってオーラでわかったりするのっ?」

 

「視えはするけど現在のことを視るより曖昧なんだ。『未来』というのは『今』の積み重ねだからな」

 

 俺の口め、なに知った風なこと言ってんだ、全部口から出まかせじゃねぇか。

 

何が『今』の積み重ねだ、積み重ねてるのは『嘘』だろうが。

 

「そ、それじゃあ未来のこと、視て……もらえる?」

 

「君がそれを望むなら」

 

 何かっこつけてんだこいつ死ねよ、と思ったら俺だった、死にたい。

 

 考えろ、俺……考えろ! アリサちゃんの表情を曇らせるわけには……いかないっ!

 

「近い未来に……とても仲の良い子と喧嘩をするかもしれない。その時、君はとても悩む事になると思う。でも自分の信念に従って行動すればいい、それが何よりも正しい判断だろうから」

 

 コールドリーディングの応用である。

 

外見や会話から相手のことを言い当てるという手法。

 

 この子は気が強い性格だ、いつかきっと友達となにかしらの理由で言い争いになることがあるだろうし、あながち的外れではないと思っての俺のセリフ。

 

あぁ……罪悪感が良心を苛む……。

 

「んっ……わかった、心に留めて置くわ。ありがとうっ!」

 

 可及的速やかに忘却の彼方へ追いやってください。

 

「俺の力のことは置いといて、だ。アリサちゃんの話を聞きたいな、なのはやすずかと仲良いんだろ?」

 

 これ以上は俺の心が持ちそうにないので話を変える。

 

 実際アリサちゃんから、なのはやすずかのことを聞きたかったのだからこれは嘘ではない。

 

もう十分嘘を吐きつくしている点については目を瞑る。

 

「あ、すずかのことも知ってるの? うんっ、そりゃもう仲良いわよ、親友なんだからっ。えっとね~、あ、そうだ! 二人とも男子からすっごく人気あるのよ? 知ってる?」

 

 さっそく嘘と露呈するところだった、さすがは急造品の作り話、穴だらけだ。

 

 あの二人なら男子から好かれるのもわかるな、どっちも可愛いし分け隔てなく優しいからな。

 

すずかはおしとやかでおとなしい感じだし、なのはは元気がいいし笑顔がとてもチャーミングだ。

 

人気があるというのも頷ける。

 

そして本人が気付いていないだけで、きっとアリサちゃんもクラスメイトから好意と人望を集めていることだろう。

 

この子ははっきりと物を言うことができる、リーダーシップを取れるタイプの人間だ。

 

クラスの中でも、なのはやすずかの三人の中でも引っ張って先頭で指揮しているのはきっとアリサちゃんだろうな。

 

「学校でファンクラブもあるのよ、あの二人。えへへ、すごいでしょっ!」

 

 まるで自分のことのように嬉しそうに語るアリサちゃん。

 

自分の親友がみんなに好かれているのが、自分の親友の評価が高いのが誇らしいのか、すごく楽しそうに教えてくれる。

 

 あぁ……穢れのない純白を思わせるアリサちゃんの笑顔が、俺には眩しいよ……。

 

浄化されてしまいそうだ……俺は別に悪人とかじゃないけど。

 

いや、こんな純粋な子をオーラがどうとか言って騙してるんだから悪人か、浄化されてしかるべきだなこんなやつ。

 

「アリサちゃんもファンクラブあるんじゃない? こんなに可愛いんだから」

 

「な、なに、なに言ってんのよっ! あるわけないじゃないっ! わ、わたし、ぜんぜん可愛くなんてないし……。みんなにけっこうきついこと言ってるから……嫌われてるかもだし……」

 

 自分の親友に対しては正当に評価できるのに、自分には過小評価とは。

 

自分に自信がないのか、クラスメイトからそう言われたことがあるのか。

 

小三なら男子が強がって悪口とか言いそうだしな。

 

そんで言われたことを真に受けて深く考え込みそうなタイプだな、純粋な子だから、オーラとか信じちゃう子だから。

 

「自信持っていいぞ、アリサちゃんは可愛い。負けん気の強い性格だって、みんなを引っ張っていける強さがあるってことだ。自分の意見をズバッと言えるんだからMな人間には絶対好かれるぞ」

 

「M?」

 

 いらんこと言っちゃった。

 

「あぁいや、それは気にしなくていい。つまりアリサちゃんはそのままの自分でいいんだ。そのままで十二分に魅力的なんだからな」

 

 だからきっとファンクラブは存在するだろう、という言葉はのみ込んだ。

 

どうせならM云々のところものみ込んでもらいたかったが、俺の口はそう都合よくできていないらしい。

 

「み、魅力的っ……っ! ば、ばかにゃこと言うなばかっ!」

 

「ばかにゃ」

 

「噛んだのよっ! 流しなさいよっ!」

 

 元気になってくれたようでよかった。

 

アリサちゃんはいじりがいがあるなぁ、反応が良くて楽しいぜ。

 

「それより今日はどこか行く予定だったりしたんじゃない? このまま家帰っていいの?」

 

「うん、特に行くとことかなかったし。本当は今日、なのはに誘われて月守台に遊びに行く予定だったんだけど……すずかが体調崩しちゃってね。だからわたしも行かなかったの。すずかを置いて遊びに行っても楽しめるとも思えなかったし」

 

 アリサちゃんもなのは達の温泉旅行についていく予定だったのか、いろんなことが違う形で組み合わさっていたら、俺とアリサちゃんは違う出会い方をしていたのかもしれないな。

 

 親友を置いて行けない……なんか男前なセリフだ。

 

俺も一度言ってみたいぜ、『お前を置いて行けるかよ!』みたいな。

 

「アリサちゃんもなのはに誘われてたんだな。それで今日は車でドライブか。……違う友達とどこか遊びに行ったりしなかったんだな」

 

「…………………………………………」

 

 アリサちゃんの表情が凍りついた。

 

すごい長い沈黙、急にどうしたんだろう。

 

「あ、アリサちゃん? どうしたんだ?」

 

「え……? ん? わたし、友達……あれ?」

 

「もしかしてアリサちゃん、なのはとすずか以外に友達……いないのか?」

 

 ぴしっ、と今度は表情だけでなく身体まで静止した。

 

静止していたが徐々に表情が変化していく、さっきまで軽快に回っていた口がへの字に、きらきらしていた瞳が今は水気を帯びてさらにきらきらプラスうるうるしている。

 

つまりは泣きそう。

 

「いやっ、ごめんっ! なんかごめん! そういうこと言いたいんじゃなくて……そうだ! 俺も同じだって! 俺も今日、恭也と忍が用事で遊べなくて一人……で……俺も二人以外に友達いねぇじゃん……」

 

 恭也は温泉旅行、忍はすずかの看病、よって俺は一人で街をふらふら。

 

アリサちゃんの場合は、なのはは温泉旅行、すずかは体調不良で寝込んでて、よって車であてもなくふらふら。

 

 とても残念な話だが、俺とアリサちゃんは似た者同士だった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 両者沈黙。

 

 いや、待て……俺には自論があった!

 

「そうだぜ……俺たちには親友と呼べる相手が二人もいるんだ! それで十分だと思わないか?」

 

「そ、そうよねっ! 親友の二人さえいれば他になにもいらないじゃないっ!」

 

 アリサちゃんの場合言い過ぎというか、依存しすぎな感じもするが……。

 

「それに今はあなたもいるし。たしか名前……逢坂徹……だったよね?」

 

「んむ? そうだぞ、呼び方はお好きにどうぞ」

 

「そ、じゃあ徹って呼ぶわね。徹もいるし、これで親友三人ね!」

 

 いきなり呼び捨てで、しかもいきなり親友とか一足飛びというか、友人ランクの八艘飛びだな。

 

八艘飛びは意味わからんな。

 

 成り行きで小学生の親友ができました。

 

高校生と小学生の友達の割合が二対一とか……警察に睨まれても文句言えないレベル。





今回からサブタイトルつけました。
たぶん毎回サブタイトル適当なもんなる気ぃするけど。
いつかこれまでの話にもサブタイトルつけよ思うてます。
いつやるかは決めてません、予定は未定。


みんな忘れてるかもやけどアリサちゃんたちは『小学三年生』。
アリサちゃんくらいでちょうどええ思います。


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小学校の制服は全て把握しているっ!


それほど長くないのになぜか時間がかかりました。
ギターやってたせいですね、すいません。

今回はネタに走ってしまいました。
思いついてしまったのでどうしようもありませんでした。

話が全然進まなくて苛立つ方もいるかもしれませんが、これだけは謝罪のしようもありません。
このだらだら感が持ち味なのです、ご容赦ください。


 車が大きな門扉の前で少し止まり、門が開いたのでまた進む。

 

リムジンに乗ったまま敷地へ入るんですか、そうですか。

 

庭といっていいんだろうか、広々とした敷地。

 

 聖祥大付属の学校に通う生徒は総じてみんな裕福な家庭なんだろうか、俺の家とは比べるべくもないな。

 

ま、こんなに家が大きいと掃除とか大変そうだから今の家で十分だ。

 

「あれ? おかしいなぁ……」

 

「どうした?」

 

「いつもなら飼ってる犬たちが出迎えるみたいに寄ってくるんだけど……」

 

「そうですね、番犬も兼ねていますのでこれでは問題かと」

 

「ご、ごめん。俺のせいかも」

 

 俺の動物に嫌われる特性のせいかもしれない。

 

いや……さすがに、姿も見せないほどまでに動物から嫌われているとは思いたくない、偶然だろう、偶然。

 

 玄関近くで車から降りて扉をくぐる。

 

敷地内へ入り数分、やっとバニングス家へ到着したって感じだな。

 

ホールを通り無駄に長い廊下を経てアリサちゃんの部屋へと通される。

 

「お昼ご飯まだ少し時間かかるみたいだから、わたしの部屋で時間つぶしましょ」

 

 アリサちゃんは扉を開いて、先にどうぞ、と手を向ける。

 

「お邪魔します」

 

 広い部屋、高級そうな絨毯、もはやインチで表現していいかどうか悩む程大きなディスプレイ、あれでテレビとか見んの? 逆に見づらくね?

 

 ふと眺めまわして思った、ベッドがない……もしかして。

 

「アリサちゃん? もしかして寝室は別に部屋があったりすんの?」

 

「そうよ? ……なに、見たいの?」

 

「違う、子供の寝室に興味ねぇよ。ただ気になっただけ……痛いな、なにすんの」

 

 アリサちゃんは自分の部屋だけで何部屋貰ってるんだろうか、もしかしたらゲーム用の部屋とかあるかもしれない。

 

プレステ部屋とかWii部屋とかドリキャス部屋とか、いろんな書籍がある市立図書館みたいな部屋もあるかもしれない、いや、イメージだけど。

 

 セリフの途中でアリサちゃんに蹴られた。

 

ひどいぜ、親友だったら何してもいいってわけじゃないんだぞ。

 

「……見に行く? どうせお昼ご飯までそんなに時間があるわけじゃないから、ゲームするわけにもいかないし……」

 

「そうだな、おもしろい物とかいっぱいありそうだ」

 

 そんなに変わったものはないわよ、と苦笑しながらアリサちゃんは自分の部屋を案内してくれる。

 

案内するほど部屋があるっていうのも、それはそれですごい。

 

 ちらほらと外国のお土産みたいなものが点在するなか、奇妙なものを見つけた。

 

およそこの部屋には相応しくないであろう品。

 

「アリサちゃん……なんで木刀置いてんの?」

 

「どこかに遊びに行ったときに売ってたからなんとなく買っちゃったの。ほんとなんでだろ? 直感で買うべきだっ、って思ったの」

 

 おしゃれなシルバーの傘立てに、なぜか木刀が立てかけられていた。

 

木刀買うって男の子かよ、とか思ったが口にしない、また蹴られそうだったからな……ん? 木刀の裏になにか……。

 

近寄り手を伸ばして引っ張り上げるとそれは…………日本刀。

 

「あ、ああアリサちゃん?! こ……これはなんでしょうかっ?!」

 

「大丈夫、本物じゃないわよ。模造刀だから。これもなんでか直感で、欲しいなぁって思ったの」

 

 なにその直感……怖いよ、物騒だなぁ。

 

 本当に男の子みたいな感性、だが口には出さない。

 

人間とは学習する生き物だからな、いらんことを言って理不尽な暴力を受けた経験からこういう時は黙っていた方がいいと勉強している。

 

 模造刀を傘立てに戻して、アリサちゃんについていく。

 

「なぁ、アリサちゃん。メロンパン好き?」

 

「え? いきなりなに? まぁ好きだけど……?」

 

「オレンジジュースは?」

 

「だ、だからなんなの……? うん、わりと好き……かな?」

 

 なにを突拍子もないこと訊いてるんだろう、俺。

 

なんかこう……世界の意志みたいなものを感じた。

 

 一度廊下に出て隣の部屋へと向かう、そこがアリサちゃんの寝室だそうだ。

 

 清潔感を出しつつも病院のような印象を与えないような乳白色の壁紙、さっきまでいた部屋……アリサちゃん曰く『遊び部屋』よりも子供らしさが残る部屋だが、ちらほら見える高価そうな調度品が子供部屋というイメージを軽減させてしまっていた。

 

部屋に入って思う、やっぱり広いな……ここで一人とか俺なら絶対落ち着かない、俺はもっとせせこましいくらいの方が性に合う。

 

「なんと……天蓋付のベッドじゃないのか……」

 

「最初は天蓋付だったんだけど、邪魔だから取っ払ったの。ふりふりしてて鬱陶しかったし」

 

 少年のような物言いだな、部屋の中にサッカーボールとか掛かってるかもしれない。

 

学習机発見、教科書類がきれいに整頓されているところを見ると、きっぱりさっぱりした性格ながらも綺麗好きなんだな。

 

本棚に並んでいる書籍を一瞥して驚く、小学生が学ぶ範囲を大きく逸脱した本が数多くある。

 

 もしかしてこの子、実は……。

 

「かなり優秀なのか……?」

 

「バカだとでも思ってたの? 失礼ね、学校のテストなんかじゃ毎回百点なんだからっ!」

 

 失礼ながらバカな子だと思っていました、オーラとか信じるような子ですもの。

 

 アリサちゃんは無に等しい胸を張って、ふふんっ、とふんぞり返っている。

 

「偉いなー、アリサちゃん超偉いなー」

 

「ふふっ、もっと褒めるがよいっ!」

 

 アリサちゃんの頭を撫でながら褒め称える、ふわふわさらさらの黄金色の髪は触り心地がすごくいい。

 

 撫でられてこんな反応を返す子は珍しいな、おもしろい。

 

褒められ撫でられ気分がいいのか、アリサちゃんの口調が少々変化している。

 

 気を良くしたアリサちゃんが、テンションのギアを何段階か引き上げた様子で俺の手を引っ張って、跳ねるように歩きながら部屋の奥へと案内をする。

 

 先ほどもちらりと見た、小学生の女の子が寝るには大きすぎるほどのベッド――少なくともダブルサイズはある――の上に、ウサギの白いぬいぐるみが寝ていた。

 

はぁー……やっと女の子然としたアイテムが出てきたぜ、安心した。

 

 アリサちゃんが右腕で抱きながらぬいぐるみの紹介をしてくれたのだが、内容を憶えられなかった。

 

ぬいぐるみの名前が妙に長ったらしかったというのもあるが、満面の笑みで話す彼女がとても輝いていて……そこらのアイドルよりよっぽど光り輝いていて、見惚れて話が頭に入ってこなかった。

 

そんな彼女が微笑ましくて和んでしまって、また彼女の頭を撫でまわしたのだった。

 

 そこで終われば、少しボーイッシュなところもある元気で見目麗しい利発なお嬢様のお部屋に訪問した、という嬉しいイベントで収まったのだが……ちらりと俺の視界に黒と白銀の剣呑な品が映り込んだ。

 

プラモデルやフィギュアを入れるためのアクリルでできた立方体のショーケース、その中に黒と白銀のハンドガン――自信はないが恐らくコルト・ガバメント――が互いの銃身を交差させるように入っていた。

 

 信じてる……俺はモデルガンだって信じてる、傘立てに入っていた日本刀も模造刀とは思えないほどの質量があったけど、さすがにこれだけはモデルガンだって信じてるぜ……。

 

ショーケースの上に指を滑らせてみると埃が積もっていない、日頃から丁寧に掃除されているようだ。

 

「ほんと男の子みたいな趣味だなー……」

 

「だれが男の子よぉっ!」

 

 今まで我慢してきたが最後の最後で耐えられず、ぼそりとこぼしてしまった。

 

いやいや、ここまでお口チャックして踏ん張っただけよくやった方だと思うぜ。

 

 なのはと違い、足で攻撃するところにアリサちゃんの潜在的なサディズムを垣間見た。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「何人分の料理なんだろうか……」

 

 食事の用意ができました、といつの間にかいなくなっていた鮫島さんに呼ばれて随分開けた部屋――なんだっけ、グレート・ホールって言うんだっけか――へ移動。

 

世界的に有名な魔法使いの映画の中に出てくる城で見たことあるような長いテーブル、さすがに映画で見たほどの長大さはないが、それでも十分に長い。

 

こんなテーブルが現実で存在するんだな、フィクションだけかと思ってた。

 

 そんな縦長のテーブルを横目で(・・・)見つつ、目の前の丸いテーブルへ目を向ける。

 

俺とアリサちゃんは部屋の端に用意された、丸いテーブルの席へついている。

 

 およそ二人分とは思えない量の料理の数々、そこそこの大きさがあるテーブルに敷き詰めるように並べられた皿、テレビの番組でしか見たことがないような食材、すごく美味しそうではあるが……さすがに食べ盛りとはいえこの量は……自信がありません。

 

「無理しなくていいわよ? 事情を説明して料理人に頼んだらえらく張り切っちゃってね、作りすぎちゃったんだって」

 

「あ、あぁ。できるだけいただくことにする」

 

 和洋中はもはや当然、イタリア料理やフランス料理まで並んでいるのだが料理人何人いんの? 一人じゃねぇよな?

 

 どれから食べるべきか悩んだのでまずは目の前の料理からいただく。

 

正直一品目からなんという名前の料理か自信がない、姉ちゃんの期待に応えるため勉強したのに。

 

 これは、薄く切られた……仔牛の肉? と、新玉ねぎにパプリカ。

 

もしかしてカルパッチョ? もともとは仔牛の肉を使ってたとか本に書いてた気がする。 

 

 口に運ぼうとして、手が止まる。

 

「いただきま……そういや俺、作法とか全く知らないんだけどいいんだろうか」

 

「作法とかマナーとか気にしてたらこんな料理の出し方しないし、こんなテーブル使わないわよ。どうせ徹はマナーとか知らないと思ってたし、そんなの気にしてたら楽しくないでしょ? だからいつも通りでいいの」

 

「おぉう、俺のこと考えてくれてたのか。ありがとう、ちょっと驚いたけど」

 

「なんで驚くのよ、当然でしょ。親友なんだからね」

 

 アリサちゃんほんと良い子だなぁ、俺が女なら確実に惚れている。

 

「そ、そうか。それじゃ改めていただきます」

 

 途中で止まっていた手を動かして口へ運ぶ、ちょーんまい。

 

 昔ながらの作り方と現代の作り方を組み合わせたみたいな料理。

 

レモンの酸味と黒胡椒のアクセント、素晴らしきはプロの技。

 

「どう? 口に合う?」

 

「めちゃくちゃ美味い。料理人によろしく言っておいてくれ」

 

「よかったっ、北山も喜ぶわ」

 

 北山さんという方が作っているのか、すごい技術だな……他の人は?

 

「えっ……料理作ってんの一人じゃないよな?」

 

「えっ? 北山が一人でやってるわよ? 料理だけはすごいの、他はからっきしだけど」

 

 化け物かよ、テーブルの上に並んでいるのは合計十品を超えてんだぞ。

 

アリサちゃんが路地裏で電話をして、俺がこの部屋まで連れてこられたのが大体一時間半かそれくらい。

 

その間でこれだけの数の料理を作るとか……北山さん分身でも使えるのか?

 

 驚きのあまり手が止まっていた俺にアリサちゃんが声をかける。

 

「ほら、食べないの?」

 

「いや食べる、冷めちまったらあれだしな」

 

 俺はアリサちゃんに誘導されるままに、また料理にがっつき始めた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「最近この辺、治安が悪いと思わない?」

 

 恐ろしく美味い料理が並ぶテーブル、そのテーブルに掛けられているテーブルクロスの繊細で上品な模様が半分程見えたころ、アリサちゃんが突如話題を振ってきた。

 

 ここ海鳴市はそれほど事件の多い地域ではないと思うんだが……。

 

「んぐっ。そうか? 言うほど治安が悪いとは思わ…………そうかも」

 

 途中で意見が変わってしまったのは思い出してしまったからだ。

 

ジュエルシードの思念体が起こした世間では爆発事故と思われているアレと、彩葉ちゃんも狙われたロリコン三人組を。

 

た、確かに治安悪いかもしれない……少なくとも最近は。

 

「徹もなにか心当たりあるのね。わたしもちょっと前にあったわ。すずかと二人でいた時に高校生くらいの男三人に囲まれたの。それで……怖くて二人して俯いてたらいなくなってた。あのままだったら危なかったかもしれないわ」

 

「そんなことがあったのか、それは確かに危険だな。そういえば俺も前に似たようなことがあった。女子小学生二人を男子高校生三人が囲んでたから、そのロリコン三人組をゴミ箱にシュートしたわ。バイト前で急いでたからそのまま声もかけずに行っちまったけど」

 

 ……ん? 状況があまりにも酷似しているような。

 

「ねぇ徹? その時の小学生って制服着てた?」

 

「ああ、聖祥小学校の制服だったな」

 

 ちなみに海鳴市に存在する小学校の制服は全て把握しているっ! ……何の自慢にもならないどころか非難の対象にすらなりかねないな、黙っていよう。

 

「それわたしとすずかね。学校からそのまま塾に行ってその帰り、車待ってる時に襲われたから。あははっ、徹は常日頃から人助けしてるの? 小学生を助けるのが趣味なの? 危ない趣味ね、捕まらないようにしなさいよヒーロー」

 

 アリサちゃんはベーコンが入ったパイのような料理を切り分けながら笑う。

 

「極端すぎる勘違いをするな。小学生の女の子を三人でよってたかって囲んでる高校生に腹が立ったから殴り飛ばしただけだ。助けようと思って助けたわけじゃねぇの」

 

 骨付きのすね肉をトマトとかと煮込んだ料理をフォークでぷすぷす刺しながら弁解する。

 

 最近俺を誤解する人間が多すぎる、俺はただ……助けられるのに助けなかったら、家に帰って一息ついた時にそのことを思い出して後悔するから動いているだけだ。

 

高町家の人間――なのはや恭也や士郎さんは特に顕著であるが――のように心の底から湧出するような善意からではない。

 

結局のところ、後になって自分が嫌な気持ちにならないようにするために行っているだけなのだ。

 

やらない善よりやる偽善という言葉は聞くが、俺の場合は偽善にすらなりえない。

 

言うならば独善か? 助けを求める相手を見ずに、相手を助ける自分のことを考えている。

 

独り()がりな行為だから独善が一番しっくりくるな。

 

 あと俺をロリコンかなにかだと誤解する人間も多すぎる、やれやれ困ったものだ。

 

「あははっ、照れてるの? 顔は怖いけど、そうやって恥ずかしそうにする顔はなかなか可愛いじゃない」

 

「年上からかってんじゃねぇよ、あほ。そういうアリサちゃんはいつでもどこでも助けられてんじゃねぇか。どこぞのお姫様かよ、生粋のヒロイン属性か」

 

「ふふんっ、べつにいーもん。わたしが『ヒロイン』ならどこか(・・・)の『ヒーロー』が助けてくれるでしょ?」

 

 アリサちゃんはバニラとキャラメルのアイスクリームをスプーンで口に運び、余裕なのか期待なのかよくわからない笑みを整った顔に浮かばせながら、俺へ視線を向ける。

 

 なぜか反論の一言も出てこない口に、柑橘系がよく香るソルベを放り込む。

 

俺は、気が強かったり自分に自信を持った女に弱いんだろうか。

 

 だがしかし、仮に気の強い女が俺の弱点だったとして、ここでアリサちゃんに負けるわけにはいかない。

 

これからの付き合いでの力関係、会話の趨勢がかかっているのだ……イニシアチブを取られるわけにはいかないっ!

 

 アリサちゃんの顔を見て閃く、口で勝つことはできなかったがもはや構わない。

 

結果として負けなければどうってことはないのだっ。

 

 テーブルクロスが見えなくなるほどに埋め尽くしていた皿、それが残り三割ほどまで片付いたテーブルに左手をついて身を乗り出し、アリサちゃんへ手を伸ばす。

 

「な、なに? ……気に障った、の?」

 

 真剣な表情をした俺を見て、戸惑っておろおろしだしたアリサちゃんの口元へ親指を添える。

 

目を固く瞑ってぷるぷる震えるアリサちゃんへ、王手を打つ。

 

 もう既に主導権は握ったも同然だがケリをつけてあげよう、そろそろ笑いが我慢できない。

 

「くくっ、希望通り、食いしんぼのヒロインが困ったときは助けてやるよ。お姫様曰く、ヒーローらしいからな俺は」

 

 アリサちゃんは、へっ? と間の抜けた声を出しながら目をぱちくりさせる。

 

親指についたバニラとキャラメルのクリームを舌でぺろりと舐めながら、彼女へ視線を送る。

 

 アリサちゃんはデザートで出されている苺のムースよりも頬を染めながら、俺に触られた口元を手で押さえた。

 

やっと自分の口元に食べていたアイスクリームがついていたことに気付いたのだろう、恥ずかしそうに顔を赤くして口をへの字にしながらも、じとぉ、っと睨むような目を向けてくる。

 

これがなのはやすずかなら絶対耳まで赤くして俯くだろうな、さすがアリサちゃん、気が強い。

 

「いっ、言いなさいよっ! 口についてるならついてるって言えばそれで済んだじゃない!」

 

「この顔、この表情が見たかったんだ。ありがとう、ごちそうさまです」

 

 手を合わせて頭を下げる。

 

実においしい思いができました、いろんな意味で。





いろいろ中の人ネタいれてもうた、でも反省も後悔もしやしません。
機会あったらまたやりたいです。

料理に関しては俺の記憶頼みやからおかしいとこもあるかもです。


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「色褪せた金色、不適な黒点、獅子身中の虫」


書いている時に何日か間が空いてしまうとどうしてもテンポが悪くなってしまいますね。
気をつけます。



 きゃいきゃいと文句をつけてくるアリサちゃんをいなしながら食後のデザートを楽しんでいると、バタバタバタとヘリコプターのメインローターブレードが空気を叩く音が聞こえた。

 

この家はヘリポートまで備えているのか? ……今となってはあって当然な気もしてきた。

 

「徹くん、応接室へ案内します、ついてきてもらえますか? 旦那様がお話をしたいそうですので」

 

 お話……アリサちゃんをからかいすぎた件でかっ……あまりに早すぎるっ。

 

「えっ、パパ帰ってくるの? なんでこんな時間に?」

 

「今日の正午にあった誘拐未遂の件についてです。大変心配なさっていました」

 

 あぁそっちか、焦った。

 

娘を誘惑する男がいると知って、怒り心頭でヘリまで使って帰ってきたのかと……別に誘惑はしていないが。

 

「それでは徹くん、行きましょうか」

 

「は、はぁ。でも何を話せばいいんだ?」

 

「行けばわかります。さぁ、こちらへ」

 

 

 

 応接室。

 

本革を使用したソファが片側二脚ずつ、ソファの間に背の低いセンターテーブル、インテリアにも気を使っているのだろうが、高級そうだなぁとしか感想が出ない自分の知識の浅さが悲しい。

 

 えぇっと、たしか入り口から遠い方が上座だったよな……一番入り口から近いソファに座っておこう。

 

「なにしてるのよ、客なんだから奥に座りなさいよ」

 

 アリサちゃんに押されるように奥側のソファへ着席、俺の隣にアリサちゃん。

 

いや……いやいや、バニングス家の家主である君のお父さんと話をするんだぞ、俺が上座に座っちゃだめだろう。

 

ということをアリサちゃんへ言うと――

 

「お仕事の話をするわけじゃないしいいでしょ。それにパパは細かいこと気にしないわ」

 

――という言葉を頂いた。

 

いいのかなぁそれで。

 

 しばらく待っていると扉越しにばたばたばた、という足音が聞こえてきた。

 

徐々に足音が大きくなり近づいてきて、そして、ばんっと勢いよく応接室の扉が開かれた。

 

 一応腰を上げる、座ったままというのは失礼だろうし。

 

 アリサちゃんと同様の黄金色の髪を短く整えた、精悍な顔つきの男性。

 

スーツには詳しくないのでわからないが立派なものを召している。

 

ちらりと見えたが腕時計はショーパールか? 雑誌で見たモデルさんよりも格好良く見えるな。

 

靴はフェランテだろうか、やはり上に立つものは見せつけるというわけではないが、相応の物を身に着けておかなくてはいけないんだろうな。

 

 入ってきた男性は額に汗を滲ませながら、荒々しく呼吸している。

 

「アリサっ! 無事だったのかっ、怪我はないか?!」

 

「あっパパ。お帰りなさうぶっ、ちょっと……苦しいっ」

 

 バニングスさんは部屋に入りアリサちゃんの姿を視認するや否や、ぎゅうっ、と力強く抱きしめた。

 

文字通りに可愛い愛娘が誘拐されかけたんだ、それはもう胃に風穴が開くほど心配していたことだろう。

 

 ひとしきり抱擁して安心できたのか、アリサちゃんのパパは一歩後ろへ下がり俺へと視線を向けた。

 

「君が逢坂くんだね。まずは感謝したい、ありがとう。君のお陰でアリサに悲しい思い、辛い思いをさせずに済み事無きを得た。本当にありがとう」

 

「い、いえ助けることができたのは偶然居合わせただけですんで、本当にお構いなく……」

 

 今日は年上によく頭を下げられる日だ。

 

こんなに立場の高そうな人に頭を下げられると、さすがに恐縮する。

 

「自己紹介が遅れたね。アリサの父、デビット・バニングスだ。初めまして、そしてよろしく」

 

 バニングスさんは俺に近付き右手を差し出してきた。

 

うっお、外国人みたいな挨拶だ。

 

俺も手を出して握手する。

 

 大きな手、父親の手というのはこんなに大きいものなんだな。

 

「初めまして、逢坂徹です」

 

「君の手は…………重たい手だね……」

 

「はい?」

 

「いや、なんでもないよ。さっそくですまないが、話を聞かせて貰えるかい?」

 

 バニングスさんが俺の手を見て何か言ったような気がしたが、よく聞こえなかった。

 

ソファに座り直して、俺の正面の席へ座ったバニングスさんを捉えて口を開く。

 

「誘拐未遂についての説明は私からしましょう」

 

 いざ喋ろうとした時に鮫島さんに横から入られた。

 

前のめりになってしまった俺を見てバニングスさんが目を細めて笑う、どこか少年のような印象を持つ笑顔だった。

 

 いつの間にかいなくなっていた鮫島さんは、いつの間にか飲み物を用意して突然現れた。

 

扉が開く音もしなかったんだけど、どうやったんだろう?

 

 鮫島さんは用意した飲み物をテーブルに置いて行く。

 

俺にはお茶、アリサちゃんにはオレンジジュース、バニングスさんには紅茶を。

 

紅茶は飲めないし、コーヒーは砂糖とミルク必須なのでお茶で大いに助かった。

 

しかし、飲み物を置く順番は俺が最初で最後がバニングスさんだったんだが、それでいいのか?

 

先にバニングスさんに置くべきでは……。

 

 飲み物を配り終えた鮫島さんが全員から見えやすい位置へ移動し、今回の件について説明し始めた。

 

 鮫島さんは、リムジンの前を邪魔するようにセレナが割り込んできたところから、俺が介入して現場を収めたところまで、一から十までを理路整然と分かりやすく解説してくれた。

 

思えば俺は途中から助太刀に入ったんだから、説明するのに適しているとは言い難かったな。

 

「つまり逢坂くんが助けに来てくれていなければ連れ去られていた、ということだな。本当にもう、君には感謝してもしきれないな」

 

「いえ、大したことはしていません。連中の身柄を取り押さえたわけでもありませんし」

 

「そうかな、僕にはそうは思えないんだけどね。アリサが君をそこまで信頼しているんだ、それだけで十分に大したことをした、と僕は考えるけれど」

 

 バニングスさんが言う『そこまで』というのは、今現在俺の左手を掴んでいるアリサちゃんの右手を指しているんだろう。

 

話の途中、アリサちゃんが男達の車へ入れられ連れ去られそうになったくだりで、ソファの肘掛けに置いていた俺の左手をアリサちゃんが握ったのだ。

 

誘拐されそうになった恐怖を思い出したのか、俺の手を握るアリサちゃんの右手がかすかに震えていたので、俺はその小さな手を握り返した。

 

安心できるように優しく、でもしっかりと。

 

 バニングスさんがやんわりと言葉に出し、視線を向けたことでアリサちゃんは素早く右手を引っ込める。

 

胸の辺りで右手を左手で押さえ、視線を落とす姿にきゅんときた。

 

不謹慎ながら、いつも気の強いアリサちゃんが弱さを見せるというギャップに萌える。

 

「しかし鮫島、君も老いたなぁ」

 

 ソファに浅く座って前かがみになるように話を聞いていたバニングスさんはやっと深く座り、背もたれに身体を預けながら斜め後ろにいる鮫島さんへ声をかける。

 

アリサちゃんを守れなかった事を責める様な口調ではなく、からかうような言い方だ。

 

「寄る年波には勝てません」

 

 苦笑いを浮かべながら鮫島さんが返す。

 

主従という関係ではあるが、長い年月を共にした友人のような雰囲気だ。

 

 だが鮫島さん、あなた入り口の扉の前で話していた気がするのですが、いつの間にバニングスさんの後ろへ移動していたのですか、瞬間移動ですか。

 

「道場がなくなってからは研鑽を積む機会がなくなり、衰える一方です」

 

「……えっ! 道場なくなったの!?」

 

 あまりに自然に話すので危うく聞き逃すところだった。

 

道場がなくなった? そんな馬鹿な! 師範はあと百年は生きていけそうな人だったのに……。

 

「ご存知なかったのですか? 徹くんが道場をやめ、少しした時に師範が『次はちょっくら、世界を見てくるわい』と言い修行の旅へと出かけてしまいまして。なので今は道場は閉鎖されています」

 

 やっぱり師範が死んだわけではなかったのか、安心した。

 

師範の触れ込みは『トラックが乗っても大丈夫』だからな、そう易々とくたばるような人間じゃない。

 

すでに分類が人間じゃないかもしれないが。

 

 しかし困った、バイトを休みにしてもらったのは魔法の勉強もあるけど、師範の下で近接格闘を学び直したかったから、という理由もあったんだけど……。

 

「鮫島、逢坂くんとは知り合いだったのかい?」

 

「はい、言わば同門というもので。彼はまだ若いながらとても優秀です」

 

「ほう、なら後で練習試合でもしたらどうだ? お互いいい経験ができるんじゃないかな。僕としても仕事をほっぽり出して帰ってきてしまったんだ、エキサイティングな催し物でも見物しなければ仕事に戻れそうにないよ」

 

「ほんとにパパは子供っぽいんだから。でもわたしももう一回見てみたいな、徹の戦うとこ」

 

 どうしよう、と鮫島さんに視線を送ると、お好きなように、と手で合図された。

 

「それなら俺からもぜひ。ご教授願える相手を探していたので」

 

「それでは後ほどお手合わせお願いしますよ。徹くんと試合をするのは久しぶりなので年甲斐もなく張り切ってしまいそうです」

 

 張り切らないでください、俺が死んでしまう可能性があるので。

 

でもこれは僥倖だ、同じ道場の鮫島さんからなら盗める技もあるかもしれない。

 

「楽しみが増えたよ。さて、話を戻そうか。アリサを守ってもらったんだ、逢坂くんにはなにか礼をしたいんだが……」

 

「徹には前にも助けてもらったからその分も必要ね」

 

 気にしなくていいと言っても恐らく聞かないんだろうな。

 

大きな家ということもあるし、なにかしらの体裁もあるのかもしれない。

 

そう思って俺は先手を打っておいたのだ。

 

「豪華な食事をすでに頂きました。それで十分ですよ」

 

 これでバニングスさんも気にする必要ないだろう、俺賢いっ!

 

 バニングスさんは俺の言葉を受け、一瞬きょとんとして、吹き出すように笑った。

 

な、なんだ、なにがおかしいのだ。

 

「変わった青年だな。無欲なのかい? ふふっ」

 

「あははっ、徹はこういう性格だもんねっ! ヒーローだもん、お礼なんかなくたって人助けするんだもんねっ」

 

「助けていただいた時も何も言わずに立ち去ろうとしていましたね、そういえば」

 

 俺のとっておきの策を笑われた、腹が立つというほどではないけれど少しおもしろくない。

 

そんな気配を察したのか、バニングスさんが慌てて訂正する。

 

「いやすまない、馬鹿にするつもりはないんだ。仕事では弱味を見せたり、ましてや借りを作ってしまうと何を催促されるかわからなくてね。正直な話、無茶な要求でもされるのかと思っていたところに君が、『食事で十分』なんて言うものだから、ついね」

 

 まぁ確かに、仕事上の駆け引きを知っているバニングスさんからしたら俺の言葉は笑ってしまうほどに甘い、大福に練乳掛けて粉砂糖ふりかけるくらいに甘いんだろうな、なにそれおいしそう。

 

「ですが俺はこれといって何か欲しいわけでもないんですけど」

 

「それなら今答えなくても構わないよ。また今度、思いついた時にでも言ってくれればいい」

 

 その申し出はありがたいな、なにか思いつけばお願いすればいいし、このままうやむやにすることもできる。

 

配慮ありがとうございます、という俺の言葉で今回の件についての後処理は九割方終了。

 

 話の終わりが見えたので、アリサちゃんがパパと雑談し始めた。

 

俺とのお喋りがすごく楽しかった、という話から口火が切られ、今日話題として挙げられたことを転々と話し、それにバニングスさんが温かい笑顔で相槌を打つ。

 

アリサちゃんの話は、気持ちが先走ってしまって支離滅裂だし要領を得ない部分もあったけど、きらきらした笑顔で心の底から楽しそうに、身振り手振りをまじえながら話すもんだから自然とこっちまで頬が緩んでしまった。

 

「そうだ、忘れてたわっ! ねぇパパ、徹はオーラが見えるんだって!」

 

 上がっていた口角が引き攣った。

 

ガッデム! なぜここでそれを思い出す! 忘れたままで全く構わなかったのに!

 

 オーラという言葉が出た瞬間、鮫島さんの口からかすかに空気が漏れるような音が聞こえた。

 

笑うなよ、笑うんなら助けてよ。

 

「おぉ! 逢坂くんにはそんな能力があるのか、すごいじゃないか。折角だし僕も見てもらえるかい?」

 

 こんのっ……親子そろって純粋なのかっ! バニングスさんは仕事やってく上でそれでいいのかっ?!

 

 ……でもいい機会かもしれない、今回の件の後処理……その残り一割をそれとなく忠告しておくチャンスだ。

 

この後に話すタイミングはないかもしれないし。

 

「え、えぇ……わかりました。少々お待ちを」

 

 アリサちゃんにはわからない程度にぼかしながら、それっぽい言葉を頭で考え組み立てる。

 

「色褪せた金色、不適な黒点、獅子身中の虫」

 

 俺のイメージ上の占い屋さんを思い浮かべてそれらしい言い回しをする。

 

アリサちゃんの時と占い結果の表現方法が違うが、それには目を瞑ってもらおう。

 

「なんと……いや、本当に……?」

 

 目を見開いて驚愕の色を隠せずにいるバニングスさん。

 

曖昧な言い方をしたおかげでアリサちゃんは不得要領といった感じで首を傾げている。

 

 後処理の残り一割、これが本題とも言えそうだが……アリサちゃんを誘拐しようとした連中の出所、どこのどいつが誘拐を企てたのかという問題だ。

 

俺の占い結果――実際のところ、占いではなく考察の結果だが――で、バニングスさんを揶揄しつつ鎌をかけてみた。

 

バニングスさんの反応からすると心当たりがありそうだな。

 

 誘拐しようとした男達は、服装からも分かるが統率された動きをしていて、ナンバープレートに傷や歪みがあったってことはどこかから盗んだんだろう、事前に用意されていて今回使った。

 

行き先を決めずにドライブしていたアリサちゃんの足取りを掴めるような相手、リーダー格の男が言った『指令』という言葉。

 

 つまり計画性があって組織的、誘拐するよう指示した人間がいる。

 

車の動向を把握できたのはGPS発信器でもつけていたのだろう、探せば出てくるんじゃねぇかな。

 

俺の言葉で驚いたバニングスさんのリアクションから、バニングスさんの会社の内部に男達に命令した人間がいるという、俺の推察はそう間違っていなさそうだ。

 

誘拐しようとした理由まではさすがに知りようがないな、情報が足りない。

 

 バニングスさんは俺の言葉をゆっくり考え、のみ込んで再び口を開いた。

 

「はは……そうだね、君の言う通りだ。組織が大きくなるといろんな考え方を持つ人が出てくるからね。僕の考え方と違う人達が僕を疎んじて……という事はあり得るだろう。上に立つ者が下を抑えられないようじゃいけないんだけどね」

 

 俺の言いたいことは伝わったようだ、これでアリサちゃんの安全面が考慮されたら嬉しい。

 

色褪せた金色はバニングスさんを、不適な黒点は誘拐を目論んだ人間を、獅子身中の虫はバニングスさんの会社に犯人がいるんじゃないか、というメタファーだ。

 

 上に立つ者……詳しくは言っていないのでわからないが、やっぱり高い役職についてるんだな。

 

だいぶ調子乗ったこと言っちゃったのに怒らないとか、どれだけ寛容なんだバニングスさん。

 

「若輩の身で生意気言ってすいません」

 

「いいんだ、はっきりと物を言ってくれる方が信用できる。社内で僕の近くにいる人はこんなこと言ってくれないからね、ありがたいよ」

 

「きょ、恐縮です……」

 

 懐が深いというか、器が大きいというか。

 

こんな立派な大人の男にこう言われると、なんだか認められたような気がしてすごく嬉しい。

 

「ねぇ、なんの話をしてるの? よくわからないんだけど……」

 

 アリサちゃんに袖をくいっと引っ張られて訊かれた。

 

どう説明したものか、社会の……人間の黒い部分について話していたからな。

 

「アリサ、逢坂くんはとても優秀だね。アリサが気に入るのもわかるよ」

 

「っ! でしょっ! ま、まぁ優秀なのは当然だけどね!」

 

 さすがアリサちゃんのパパ、話をそらすのもお手の物である。

 

 

「私の初めて男なんだからっ」

 

 

 空気が死んだ。

 

凍るとかそんな陳腐な表現じゃ足りないほどの静寂。

 

アンティーク調の古式ゆかしい古時計が規則正しい音を奏でていなかったら、本気で時間が止まったと錯覚していただろう。

 

鮫島さんもバニングスさんも、当然俺も表情が固まる中、アリサちゃんは自分が何を言ったのか理解していないようで、笑顔のまま話し続けている。

 

 アリサちゃんへと向けられていたバニングスさんの視線が、すすっと横へスライド、俺へとまるで銃口を向けるように照準が合わさった。

 

「ち、違う、バニングスさん違いますって! アリサちゃん? 初めての『男の親友』なんだよね? 言いたかったことはそういう意味だよね?」

 

「あれ? わたしそう言わなかった?」

 

「……ちっ……責任を取らせてゆくゆくは会社に引き込もうと思ったのだけど……」

 

「バニングスさん、聞こえてますからね」

 

 やはりこの人は純粋なだけではない、茶目っ気もあるが会社のトップなだけあって黒い部分もあるようだ。

 

「徹くんがこの家に入ってくれれば、私の仕事も楽になると思ったのですが残念です」

 

「なにを期待してんの鮫島さん」

 

 危うく俺の将来が決定されてしまうところだった。

 

なるほど、これがバニングスさん言うところの『弱みを見せたら負け』ということか……社会の怖さを身に染みて感じたぜ。

 

「さ、僕もそろそろ会社に戻らないといけない時間が近づいてきたし、中庭に移動して鮫島と逢坂くんの試合を見ようじゃないか。ほらアリサ、逢坂くんの格好いいところを見に行こう」

 

「うんっ! ほら、はやく行くわよ二人ともっ」

 

 バニングスさんの後ろをアリサちゃんがてこてこついていくのを見ながら、俺は鮫島さんと顔を見合わせ苦笑いをこぼした。

 





人数が多いときの会話が難しい。
これからの課題。


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『大いなる力には、大いなる責任が伴う』

予定ではこの話と、前二つの話は一つの話の予定でした。
無駄に長くなったので三分割と相成りました。
なぜこのように長くなるのでしょうか……。


 バニングス家の広大な中庭で鮫島さんと向かい合う。

 

鮫島さんと俺との距離はおよそ四メートル、試合を行う時の距離だ。

 

 バニングスさんとアリサちゃんは屋根の下で、どこかから持ってきた椅子に腰掛け、これまたどこかから持ってきた白くて丸いテーブルの上に置いたジュースを飲みながら見物している。

 

なんだかローマの奴隷剣闘士みたいな気分だ。

 

ちなみに椅子もテーブルも飲み物も、用意したのは当然ながら鮫島さん。

 

移動しているときに気付いたらいなくなっていて、中庭に着いた時には既に準備がなされていた。

 

さすが執事、これくらいのことはお茶の子さいさいということか、さすが執事。

 

 練習試合、俺は別に殴り合いが趣味で肉が飛び散り血の雨の中に、生きる価値を求めるような戦闘狂ではないが、普段ならこういう力試し的な催し物は非常に気分が高揚する。

 

だが今の俺の気分はグルーミーだ、恐らく結婚を目前に控えたお嫁さんよりもブルーだ。

 

せっかくの試合だというのになぜこんなに気持ちが落ち込んでいるのかというと、配置に着く寸前、俺に近付いた鮫島さんが投げかけた言葉が原因だ。

 

『今の徹くんは、昔の徹くんより力に飢えているような、そんな瞳をしていますね』

 

 力に飢えている……確かにその通りだろう。

 

力がなければと何も守れない、最近は強くそう思ってきたのだから。

 

魔法を知る前の俺の目は、きっと今のような目はしていなかっただろうな。

 

 あぁ……だめだ、こんな気持ちで試合するのは鮫島さんに失礼なのに。

 

「すみませんね、徹くん。さっきの言葉は悪い意味で言ったのではないのです」

 

 少し離れたところで拳闘を見物しようとしている貴族たちには、聞こえない程度の声量で話しかけてきた。

 

 悪い意味ではない? てっきり俺を戒めるつもりで言ったものと思っていたのだけど。

 

「昔の君は楽しそうに武術を学んでいました、その学びの姿勢はとても良い事です。ですが、力を欲するという理由で武術を学ぶのが悪いと言いたいわけでもないのです。どのような理由で力を追い求めても結局使うのは自分です。あとは……師範の言葉を思い出して頂ければ、この先を言う必要はありませんね?」

 

 そうか、鮫島さんは俺を心配してくれていたのか。

 

 力ばかりに固執して道を違えないように、力に飲み込まれないように、目的と手段が逆にならないように、俺を諭してくれたんだ。

 

はは、この人は昔っから変わってないなぁ。

 

いつも周りに気を配ってくれて、辛いときは励ましてくれて、間違えそうになったら優しく導いてくれる。

 

こんな人がお爺ちゃんだったら孫は真っ直ぐ健やかに育つんだろうな……なるほど、その結果がアリサちゃんか、過ぎるほどに真っ直ぐ健やかに育ったな。

 

 そういえば道場でもバランス取れてたな、飴の鮫島さんと鞭の師範で。

 

師範の場合、鞭どころか金棒の方がよく似合っていたけど。

 

 鮫島さんのお陰で師範の言葉を鮮明に思い出した。

 

「『大いなる力には、大いなる責任が伴う』とかなんとか」

 

「その直前に映画観ていましたね」

 

「うん、スパイダーマン観てた」

 

 映画のケースを片手に持ちながら、空いてる片手を腰に添えて劇中のセリフの受け売りを堂々と声高に叫んでいた。

 

 でも師範の言いたいことは、道場にいる人は全員分かってた。

 

師範は脳みそまで筋肉で出来ているせいで口下手なところがあったから映画のワンシーンからパクっていたけど、気持ちはみんな伝わっている。

 

 結局は力も道具でしかない。

 

人間がその道具をどう扱うか、使い方によって良くもなるし悪くもなる。

 

師範は、力という道具を世の中にとって良いとされるように扱ってくれと、そう伝えたかったんだ。

 

「あははっ、くくっ。……すぅ……はぁ、もう大丈夫。俺の勘違いは解けたよ、なんだか胸のつかえが下りたみたいだ。ありがとうございます」

 

 深く頭を下げる。

 

将来はこんな大人になりたいな、俺には難しいかもしれないけど。

 

「いえいえ、老人のお節介ですから。もうそろそろ始めましょうか、さっきから旦那様から鋭い視線が飛んできているので」

 

 ちらりと即席の観覧席を見やると、バニングスさんがこちらを凝視しながら腕時計を指先でこつこつと叩いて、早くしてくれとサインを送っている。

 

テーブルの上、飲み物の隣に携帯がほっぽり出されているので、もしかしたら会社から戻ってくるように連絡が来ているのかもしれない。

 

 アリサちゃんは、俺と鮫島さんが言い争いでもしていると思っているのか不安そうに見ている。

 

俺と鮫島さんが言い争いになるとか万が一にもない可能性なので杞憂もいいとこだけども。

 

「そうだな、バニングスさんが涙目で携帯をちらちらしているし早く始めた方がよさそうだ。武道の練習試合は久しぶりだからテンション上がってきたっ」

 

「衰えてはいますが旦那様やお嬢様の手前、そう簡単に白星を差し上げるわけにはいきません。老人の技巧、味わってください。では、よろしくお願いします」

 

 謙虚で慎み深い鮫島さんだが、こと武芸に関してだけはかすかにだが誇らしげに振る舞う。

 

それだけ自信とプライドを持っている証左だ、これはいい経験ができそうだっ。

 

 よろしくお願いします、と礼を返す。

 

さあ、やっと勝負開始だ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 開始と同時に後ろに飛び退き距離を取り、目を閉じ深呼吸する。

 

黒服の男達と戦った時は小指の先ほども気にしなかったが、万が一にも鮫島さんを大怪我させるわけにはいかないのでリンカーコアの魔力供給を出来るだけ減らそうと考えたのだ。

 

 蛇口の水をイメージし、少しずつひねって量を微調整していく。

 

内臓の方にまわっている魔力を抑えると動作に支障が出るので、腕や足などの身体面に関してだけ可能な限り魔力の供給を制限する。

 

……うむ、このくらいなら魔法を知る前の身体能力とさほど変わらないだろう。

 

 正面を見据える、目を閉じていた俺を鮫島さんは攻めてこなかった。

 

昔と変わっていなければ鮫島さんの戦い方は()(せん)、相手に打たせその隙を突くというもの。

 

カウンター使い相手に距離を取ったのは愚かとしか言いようがないが……こればかりは仕方ない、諦めよう。

 

 鮫島さんは無駄な力を抜いた右手をほぼ伸ばし切り、左手は胸の前の辺りに置くという構え。

 

対して俺は特にこれと言った構えはない、俺の戦法が固まる前に道場をやめてしまったので決まっていないのだ。

 

 うだうだと考えていても埒が明かない、こういう時は突撃あるのみだ、と師範から教えられたんだから、それを実践する!

 

 足に力を込めて地を蹴り、猛然と突っ込む。

 

長くしなやかな右腕を横に払うので膝を曲げて姿勢を落としてやり過ごし、膝を伸ばした勢いで拳を振るおうとしたが、二つの懸念を思い出したので勢いを殺さぬよう右斜め前へ、鮫島さんの左脇を抜けるように転がりながら躱す。

 

懸念通り、恐ろしく出の速い蹴りが俺の左肩をかすめた。

 

緊急避難的に身体を逸らしていなければ直撃していた、あ、危なかった……。

 

 二つの懸念、その一は先ほどの速さを重視した蹴り。

 

その二は師範の教えは一般人には適用されないという点だ。

 

師範のモットーは『当たって砕けろ、砕けてから考えろ』、人間という分類から外れつつある師範ならともかく、普通の人間は砕けてそれでお終いだ。

 

 いやぁ、思い出してよかった、一瞬で試合が終わるところだった。

 

「あの体勢からよく避けましたね。決まったと思ったのですが」

 

「俺も成長してるってことだよっ」

 

「安心しました、この程度ではお嬢様を任せるわけにはいきませんので」

 

「なんの話だっ?!」

 

 叫びつつもう一度突貫。

 

今度は勢い任せではなく、相手の目の前でスピードを抑え近距離で張り付くように立ち回る……つもりだ。

 

 鞭のようにしなる足の射程範囲ギリギリで近付くのを止め一拍置き、やり過ごしてから踏み込んで距離をつぶす。

 

視界の右端でなにかがちらりと見え、反射的に右腕で顔面をガード――した瞬間に右側から衝撃、左の肘打が視野の限界近くで見えたおかげで防げた。

 

 右腕に衝撃はあったとはいえ、全身の動きを止め得るほどのものではない。

 

 鮫島さんの顎を狙って左拳を突き出す、が……気付いたら俺は宙を舞っていた。

 

どこを狙うか読み切って右手で俺の拳を掴み、合気道のように俺の力を利用して投げたのか。

 

 投げられた俺は猫よろしく空中で身体をひねって体勢を整え、足から着地する。

 

「おお素晴らしい、軽業師のような身体捌きですね」

 

「地面に叩きつけずに、わざわざ空中に放り投げたくせによく言うよ」

 

 全くもう、これだから同じ流派の人間相手はやりにくいんだよ。

 

 俺が通っていた道場、そこの流派の名を神無(かんな)流という。

 

師範が全国を練り歩いて見て聞いて経験した様々な技を、各人に合わせて使いやすいように調整して身体に叩き込むという教え方なので、この流派に型という型は存在しない。

 

それぞれ自分の性に合ったスタイルで技術を磨いていくので、人によっては同門なのに真逆の戦法の型ということもある。

 

例えるなら、師範は防御という構えが一切存在しない超攻撃型、鮫島さんは力を受け流し隙を作り打つという柔の型。

 

ただ一つ共通していることは技のバリエーションの豊富さだ。

 

強欲にも、各地で習得した使えそうな技を全て自分へ取り入れることを目的とした流派なので、思いもよらない状況で古今東西の多種多彩な技術が飛び出してくる。

 

さっきの鮫島さんの合気道のように。

 

 余談だが、最初流派の名称は無流というものだったが、名前に派手さが欠けるということで改名。

 

変えようと言い出したのが十月だったこともあり神無月から流用した。

 

 このように細かいことに気を配らないのが師範である。

 

「まだこれだけ動けるのにっ、なんであんな男達に苦戦してたんだっ」

 

 左拳を放つが、横から軽く手を添えることでいなされる。

 

「歳を取るといくら鍛えようにも衰えが隠せないのです。力がない分、立ち回るしかないのですが、あの時は背後に車があり、加えて二人に囲まれてしまい防戦一方でした」

 

 言い訳にしかなりませんが、と苦笑いしながら俺の回し蹴りを一歩二歩後退して回避する。

 

 今現在行われている試合を思い返しても、確かにそうだ。

 

俺の攻撃を躱すかいなすしかしていない、防御すらしないというのは極端だ。

 

鮫島さんからの攻撃も一撃で墜とせるような技以外は、相手の力や勢いを利用しての攻撃だった。

 

「歳を取るって……嫌だなぁ……」

 

 大きく息を吸って溜息と一緒に吐く。

 

「ええ、全くです」

 

 肩をすくめて苦々しく笑いながら嘆息するだけでも、この人がやると品がある。

 

俺と何が違うのか、人生経験か、そうか。

 

「それより徹くん、昼に暴漢と戦った時より拳の重みも足運びのスピードも落ちているようですが……どうしたのですか? それではこちらとしても本気を出せないのですが」

 

「あぁいや……その……」

 

 まかり間違っても魔法が云々、とか言えない。

 

しばらく会わない間に変な宗教にでも傾倒したのかと思われそうだし……どう言い繕うべきか。

 

「私の身を案じているのなら心配には及びません。幾分成長したとはいえ、まだ若い徹くんに後れを取る程老いてはいませんよ」 

 

「…………」

 

 力強い響きを孕んだ言葉だったので、観客席で離れて見ているバニングスさんやアリサちゃんにも聞こえたのだろう。

 

バニングスさんの『おぉ……』という言葉やアリサちゃんの『鮫島があんなこと言うなんて……』という驚きの声が聞こえた。

 

 正直俺も驚いた、何に驚いたって鮫島さんが挑発するような言葉を吐いたことだ。

 

考えてみれば、鮫島さんの立場からしたら手を抜かれていると感じてもおかしくないのか。

 

自分に置き換えてみる…………うん、俺も耐えられねぇな。

 

同情されて勝っても何も嬉しくないし、久しぶりにこうして拳を交えているというのに手加減されては興が削がれるというものだ。

 

 そしてなにより……さっきの発言に俺も火が付いた。

 

魔法を使うわけでは決してない、ただ魔力供給を普段通りに戻すという……ただそれだけだ。

 

「本気で行くからな……怪我しても知らねぇぞ」

 

「ありがとうございます、やっとこちらも本気で戦えます。ここからは神無流の技も使います。手加減なしの全力です、そちらこそお気を付けください」

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 リンカーコアからの魔力供給は通常通り、身体能力はさっきまでとは格段に上がっているはずだ。

 

魔力付与の魔法は使っていないので常軌を逸するほどではないにしろ、師範クラスのスピードに近いはずなのに、なぜ……なぜっ!

 

「なぜ当たらないっ!」

 

「老い木に花咲く、というところでしょうか。楽しいですね、道場で師範と手合わせした時と同じくらいに」

 

 右、左、右と三連打で拳を放っても躱し逸らし、いなされる。

 

微かに俺の動きが止まった瞬間を狙いすましたかのように、例の出の速い蹴りが飛んでくる。

 

気が急いて大振りになればその力を利用されて投げ飛ばされて、空中で連撃を叩き込まれた。

 

 忘れていたぜ……あの道場の実力トップは考えるまでもなく師範一択だったが、ナンバーツーは鮫島さんだったのだ。

 

「歳を取ると体力も腕力も速さも衰える一方、悲しい話ですけどね。そんな私に出来ることと言えば技術と経験で補うことくらいのものです。一対一でなら最大限に活用できますよ」

 

 フェイントに引っかかり踏み込んでしまうと、ローキックで足を止められ、重心が崩され、上半身が下がったところに顔面へと、早すぎる二発目が射込まれる。

 

頭が浮き上がるような感覚、魔力供給による基礎的な身体能力向上がなければ余裕で意識が刈り取られていた。

 

 蹴り込まれた勢いのまま後ろへ飛び退き、ダメージの緩和をはかりながら距離を取る。

 

「老いた? 冗談言わないでくれ、十分現役だよ」

 

「そう仰ってもらえるのは嬉しいですね。さあ徹くん、私が学んだ神無流の技を披露しましょう。身体で覚えてください」

 

「了解っ。盗ませてもらうよ、さすがに俺でも一回で盗める自信はないけどなっ!」

 

 もちろん俺はまだこの試合に勝つ気でいる。

 

チートじみた身体能力向上を使っていながら、ここまで圧倒的にやられるとは思わなかったが。

 

 全神経を集中させて相手の一挙手一投足に注意しながら接近する。

 

懐に入るというフェイントを間に挟んでサイドステップ、真横に位置取り。

 

 完全に不意を突けたと思い右ストレートを打とうとした時、俺の動きが止まった。

 

肩と二の腕の辺りが燃えているかのように熱を持っていた。

 

「これが神無流『不動』です」

 

「かっは、マジかよ……魔法みたいだ……」

 

 腕が動かないのなら左足による足刀で攻めようと思い、身体の重心を移動させ繰り出そうとした。

 

 今回は見えた、鮫島さんの動きとそのカラクリが。

 

俺の左大腿部へ、鮫島さんお得意の出の速い蹴りが突き刺さっていた。

 

 人間が動くには常に重心の移動を繰り返さなければいけない。

 

座った状態から立とうとした時に額を押されると立てないというのと原理は同じ。

 

重心を動かすことにより人は動ける、逆に言えば、重心を動かさないように押さえてしまえば人は動けなくなる。

 

理屈を言うのは簡単だが実行するのは至難の業、どこをどの程度の力で押さえれば動けなくなるかを把握しておかなければならない。

 

 さすがに……それを容易くやられると圧倒的な力の差を感じてしまう。

 

アルフと戦った時ですら思わなかったほどの無力感と敗北感。

 

地面を無様に寝転がる前に敗北を悟ったのは初めてだ。

 

「ふっ」

 

 短く息を吐く。

 

攻撃のせいか、あまりの驚愕のせいか、未だ自由な動きを取り戻さない俺の身体の中心に両手による掌底が叩き込まれた。

 

 なにが『力が衰えた』だ、男子高校生を吹き飛ばすような人間は力衰えてねぇよ。

 

絶対に暴漢連中程度を相手取って負けるはずねぇよ、この人。

 

どうせお嬢様(アリサちゃん)が連れ去られそうになって焦ったとかそんなとこだろ、勝てなかった理由。

 

冷静そうに見えて突発的な事象には弱いタイプだぜ、きっと。

 

 だめだ、あまりにも実力の差が開いていたせいで無駄な方向へ思考力を使ってしまっていた。

 

落ち着け、俺。

 

頭を冷やして考えろ、向上した身体能力を使って今の俺に出来ることを考えろ。

 

吹き飛ばされた余波のまま一度後退し体勢を整えてスピードで翻弄する、スピードだけなら鮫島さんにはついてこれないはずだ。

 

よし、これで行くぞ!

 

 地面に手をついて後方宙返りして距離を稼ぎつつ、地に両足をつけ、鮫島さんの姿を捉えようと前を向いた。

 

 

 

「これを『襲歩』と言います」

 

 

 

 目の前にいた。

 

どれだけ距離開いてたと思ってるんだ。

 

吹っ飛ばされた勢いに乗っかったまま、バック転でお互いの両者間の距離広げようと頑張ったんだぞ。

 

なのになんで目の前にいんだよ、あんたは。

 

 突発的な事象に弱いのは俺の方じゃねぇか。

 

普段頭の中であらゆる可能性を予想して組み立てるタイプの俺は、咄嗟の判断が遅れるんだよ。

 

今もそうだ、鮫島さんに俺の予測の範疇をはるかに超える、予想外の動きをされて瞬時に身体が動かせない。

 

 ここからどういう動きをすればいいか、後ろへ距離を取るべきか、いやこの際前へ出て攻めに転じるべきか、また蹴りが来るかもしれないから一度左右どちらかへ移動すべきか。

 

一瞬で色んな行動方法が出てくる分、どの選択をするのが一番正しいのかを判断できない。

 

情報や選択肢は多ければいいというものではないんだ、そんな事とっくに理解できている。

 

だが理解できていても脳みそが提示してくる情報を無視することができない。

 

 今も両の目から入ってくる視覚情報を取り込んで、頭が勝手に答えを叩きだしてくれる。

 

 瞬間移動じみた動きは一応物理法則に則っているらしい。

 

道場で一番最初に習った踏み込み、体重移動、筋肉を同時に駆動させることによる瞬発力、その証拠の痕跡が中庭の地面に残っている。

 

地面の土が抉り飛ばされていてその痕跡が三つ四つ見えた。

 

十メートル近く開いた距離を助走もなしでかつ、速やかに埋めるとか自分で言っといてなんだけど本当に物理法則に則っているかわからなくなってきた。

 

 そして目の前の鮫島さんの情報も視覚が入手する……彼にしては珍しく攻撃的な構え。

 

姿勢を少し落として右の拳を俺の胸のど真ん中に触れる寸前で止め、左手は右手の前腕――肘から手首の間の部分――に添えられている。

 

 これだけ思考は回るのに、身体は情報過多と選択肢の競合で未だに動けず仕舞い。

 

「けほっこほっ……少し、無理をし過ぎましたが……これが最後。切り札となり得るであろう技、『発破』と言います」

 

「手加減してくれてもいいけど?」

 

 唯一できた反撃が口撃だった、というか敗北宣言だった。

 

 一瞬、鮫島さんの全身の筋肉が膨れ上がったかと思ったら、次の一瞬では俺がまた吹っ飛んでいる。

 

今日はよく宙を飛ぶ日だな。

 

 またしても吹っ飛ばされ、バニングス家の敷地内にある池へとダイブするまでの時間がすごくゆっくりに感じる。

 

これが走馬灯というのか、初めての経験だ、走馬灯処女をここで散らしてしまった。

 

全ての光景がスロー再生で流れる中、俺は決めた。

 

この土日、鮫島さんに稽古付けてもらおう。

 

 バニングスさんの慌てる声とアリサちゃんの泣きそうな声を最後に、俺の意識は暗闇へ、身体は池の底へと沈んだ。

 



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日常~和解~

学校のワンシーンだけで一話使うとは思いませんでした。


 始業の鐘が鳴り、担任である飛田貴子先生が出欠確認をするそのタイミングで、我が親友、逢坂徹が教室に入ってきた。

 

 あいつがこんなギリギリの時間に登校するなんて珍しいな、いつもなら十分前には席に着いているのに。

 

「すいません、遅れました。まだセーフですか?」

 

「は、はいっ。今から出欠をとりますので。……あの、次からはもう少し早く席に着いておくように……」

 

「はい、気をつけます」

 

 飛田先生はなぜあんなに徹を怖がっているんだろうか。

 

顔が少々いかついというのはもはや自他ともに認められている事柄だが、それにしては怖がり過ぎだ。

 

他の生徒には優しくも毅然とした態度で接する良い先生なのに。

 

 徹は教室を横断し俺の後ろの席へと着く。

 

俺は窓際の壁にもたれながら徹の方へと顔を向けた。

 

「おはよう、徹。今日はどうした? ずいぶんとゆっくりだったな」

 

「あぁ……疲れが溜まっていてな、久方ぶりに寝過ごした。七時過ぎに起きた時には焦ったぜ、急いで姉ちゃん起こして飯食わせて叩き出した。おかげで今日は弁当作れなかったし」

 

「……母さんに徹の分も弁当作るよう頼んでおこうか? 喜んで用意してくれると思うが」

 

「大丈夫だって。今日は寝坊しただけで、普段はそれなりに出来てるんだからな。それに家のことで疲れが溜まってるわけじゃねぇんだ、気にしなくてもいいんだよ。ありがとうな、心配してくれて」

 

 徹の家には母親も父親もいない、両親とも交通事故で喪ったのだ。

 

苦労することは多いだろうに、こいつはちっとも俺たちを頼ろうとはしてくれない。

 

俺も俺の母さんも、徹と真守さんのことを心配しているしできることはしてやりたいと思っているんだが……逢坂姉弟は強情だ。

 

手伝いを買って出ようとしたらやんわりと断り、いつも最後に『心配してくれてありがとう』で締め括るせいで、そこから先へもう一歩踏み出せない。

 

あまり逢坂姉弟に気を使わせてもいけないと思い、結局こっちが黙って引くしかないという状況だ。

 

いつもこれではあまりにやるせない。

 

「……それなら無理にとは言わないが。しかし徹が疲れるって……土日になにやってたんだ?」

 

「あぁそれなんだがな……いや、この話は昼休みにでもしようぜ。俺たちが二人そろっておしゃべりに夢中なせいで先生涙目だ」

 

 最初は頭だけだったはずなのに、いつの間にか身体ごと後ろへと向けていた。

 

 いそいそと前の教卓へ視線を向けると、出欠簿を持ちながらうるうるぷるぷるしている飛田先生が口を真一文字に閉じていた。

 

「すいません……ちゃんと聞きます」

 

「すいませんでした。でも一応話は聞いていました」

 

 徹ならば喋りながらでも先生の話を聞けるからいいが、俺はそんなに器用ではない。

 

先生の言葉は一切頭に入ってきていなかった、俺としたことが……。

 

 俺たちの列の一番前の席に着いている忍が、小動物なら心臓麻痺を起こしそうな鋭い眼光でこちらへと咎めるような視線を投げ付けている。

 

後で休憩時間中に怒られることになるだろうけれど、素直に非を認めよう。

 

下手に言い訳しようものなら、その倍の質量の責め苦――責め句、とも言える――が圧し掛かることになるのは小学校、中学校で経験済み。

 

正直に謝るのが最善の手ということだ。

 

 どこからかはわからないが、『ヘタレ攻め』やら『もっと強気に迫らないとっ』などという言葉がかすかに聞こえたんだが……一体どこの誰が何の話をしているのだろうか。

 

 ホームルーム活動を終え、授業が始まる。

 

 疲れた感じでどこか寝不足のようだった徹だが、授業はいつも通り行えている。

 

行えている、というのは少し語弊があるかもしれない、『いつも行っていない』という方が正しいだろう。

 

今日も今日とて、教科書からノートから何から何まで持って来ていないのだから。

 

 見た目の印象ではいつもより幾分ひどいかもしれない、今日は弁当を作る時間がなかったということで鞄すら持って来ていないのだから。

 

もう徹は何のために学校に来ているのかよくわからないな、恐らくは出席日数のためだろうけど。

 

 普段通りに徹は授業中に指名され、担当の先生から投げ付けられる苛烈で難解な問いに全問正解する。

 

その度に先生たちは、苦虫を口いっぱいに詰め込まれて辛酸と苦渋で飲み下した、みたいな表情を浮かべる。

 

そろそろ先生たちストレスで禿げるか、もしくは胃潰瘍でも発症しそうだ。

 

 正直な話、俺みたいな一般生徒にとっては無理難題にも等しいんだが……。

 

先生たちは、授業の進行度と照らし合わせれば明らかに進み過ぎている問題を平然と出してくるし、対する徹は教科書もノートもなしに泰然と答える。

 

やってる問題のレベルは高いが、程度の低いやり取りだ。

 

 口喧嘩の上位互換のごとき攻防戦ではあるが、今ではこのクラスの名物であり見世物のようになっている。

 

……当の本人たちは自分がピエロを演じていることに気付いていないが。

 

 午前の授業四コマを消化し昼休み。

 

 ちなみに一時間目の授業が終了したと同時に、忍から俺と徹の二人とも授業の合間の休み時間いっぱいお説教を頂いた。

 

鷹島さんが怯えた表情で忍を見ていたのがとても記憶に残っている。

 

 ともあれお昼休みだ。

 

俺の机を後ろに向けて徹の机にくっつける。

 

鞄から弁当を出して広げ始めたところで忍がやってきた。

 

近くの席の子が食堂で昼食をとるので、いつもその子の椅子を引っ張ってきて使っている。

 

「あら、徹のお昼ご飯がパンなんて珍しいわね、今日はお弁当じゃないの?」

 

「寝坊して弁当作る時間がなかったんだよ。だから家の近くにある馴染みのパン屋で買っといたんだ」

 

「……随分と量が多いな、そんなに腹減ってたのか?」

 

 鞄は持って来てないくせにやけに大きい袋を持って来ているな、と思っていたが全部パンとは。

 

見たこともなければ名前も知らないような多種多様なパンが、机に所狭しと並んでいる。

 

コロネやクロワッサンならまだわかるが……なんだろうか、この細長いの。

 

「久しぶりに行ったからさ、その店のおばちゃんに『大きくなったね~、背も高くなって顔つきも凛々しくなってま~! いっぱい食べや、ほら持って行き!』と、言われてな。実質俺が払ったのは、あげぱんとカルツォーネとシナモンロールの分だけだと思う」

 

「おまけの方が圧倒的に多いじゃない。あっ、これおいしそう! このデニッシュ貰っていい?」

 

「忍、弁当はどうするんだ? 徹、この細長いの貰っていいか? 気になるんだ」

 

「おお、持ってけ持ってけ。さすがに食べきれないし、残してダメにするのもおばちゃんに悪いし。恭也が持ってるのは、たしかグリッシーニって書いてあったな」

 

「やぁ、逢坂。おいしいパンにありつけると聞いて文字通り飛んできたよ」

 

「ひゃあっ!」

 

 同じクラスの長谷部真希さんが、教室の後ろの扉から驚異的な跳躍力で飛んで来たので忍が可愛らしい悲鳴を上げた。

 

 さすが女子バスケットボール部期待のホープ、選手としては上背が物足りないが脚力は尋常ではない。

 

机を二つほど飛び越えてやってきた。

 

「どこから現れたんだお前は。鷹島さんと話すときは不俱戴天の敵とばかりに睨みつける癖に、こういう時だけは友好的だなっ!」

 

「何を言うのさ逢坂、僕と逢坂はいつだってどこだって仲睦まじいじゃないか」

 

 赤みがかった茶色をしたショートヘアを手櫛で整えながら、彼女はあっけらかんと言い放つ。

 

徹の言葉通り、鷹島さんが近くにいる場合では親の仇とばかりに険悪な空気を醸し出すが、割と普段は仲が良かったりする。

 

姫を守る二振りの刀、その相方を交えて昼休みにバスケすることもあるくらいだ。

 

「真希……うるさい。食事中は静かにするのがマナー」

 

 いつの間にか俺の隣にその相方、太刀峰薫さんがラスクを両手で持ってかじっていた。

 

彼女も部活動をしていて、バスケ部とサッカー部の二つに加入している。

 

小柄な身体で小回りの利く機動をする選手だ。

 

 俺に気付かれずに隣にきて、その上勝手に徹のパンを食べてるなんて……不覚だ、まだまだ精進しないといけない。

 

「太刀峰さん……いつからそこにいたんだ?」

 

「真希に気を取られている隙に。後ろから……ダックインしながら机の影に隠れて近づいた」

 

 ダックイン……バスケ用語で、ボールを持った状態で姿勢を落としてディフェンスを抜くというもの。

 

身長が女子の平均より低いので、それはもう見づらいことだろう。

 

「逢坂……頂いてます」

 

「食う前に言えよ、別にいいけどさ。ほれ長谷部、お前はどれにすんの?」

 

「それじゃあ、このたくさんデコられてるパンを頂くよ」

 

「ブリオッシュっつうんだ。……店の中でもトップクラスに高いやつ選びやがったな」

 

「このパン本当においしいわね、今度お店教えなさいよ。あっ、これもおいしいっ!」

 

「忍それ二個目じゃないのか? もう弁当絶対食えないだろう。徹、俺も二つ目貰っていいか?」

 

「別にいいぞ、好きなだけ食え。太刀峰、鷹島さんにパンいるか訊いてきてくれ」

 

「うん……」

 

 いつの間にか俺と徹の机を囲んで小さなパーティーみたいになっている。

 

随分と人が増えたな、いつもより輪をかけて賑やかだ。

 

 母さんから持たされている弁当をつまみながら、新たなパンへと手を伸ばす。

 

これは俺でも知っている、ベーグルだ。

 

プレーンなタイプかと思いきや生地にサワークリームが練り込まれているようだ、ほどよい酸味がクセになる。

 

 ベーグルに舌鼓を打っていると、太刀峰さんが鷹島さんと手を握りながらこちらへ歩いてきた。

 

二人とも平均より背が低いので、制服を着ていなかったら中学生どころか小学生くらいに見えそうだ。

 

太刀峰さんは青みがかった黒色のセミロングの髪を、鷹島さんは肩にかかる程度のふわふわのボリュームのある栗色の髪を揺らしながら、てこてこと歩く。

 

「鷹島さんもなんか食う? 売るほどあるからなんでも持っていっていいよ」

 

「それじゃあ僕ももう一つ頂くとしよう!」

 

「……それじゃあ、わたしも」

 

「てめぇらに言ったんじゃねぇよ」

 

「ふふっ、仲良くなれたみたいでよかったです。それじゃあこの可愛いのを」

 

 鷹島さんが選んだのは小さくて丸っこいパン、鷹島さんにぴったりのこじんまりとした可愛らしいものだ。

 

 しかし、徹の馴染みというパン屋はどれほどの種類を作っているのだろうか。

 

いろんな国のパンがいっぱいあるし、そのどれもがおいしい。

 

この企業努力、翠屋も見習わなくてはいけない。

 

 手に持つベーグルから目を離して前を向くと、長谷部さんがパンをくわえながら徹にじゃれついている。

 

違和感を感じるな……昼休みのグラウンドとか鷹島さんが絡まない時は比較的仲良くはしていたが、今は鷹島さんが近くにいるのに敵対しないのか。

 

「えらく仲良くしているな、長谷部さんは特に。徹との間でなにかあったのか?」

 

「俺には心当たりはないな。ちょっ、重いっ!」

 

「女の子に重いとはずいぶんな物言いじゃないか。僕は綾音から聞かされただけだよ『逢坂くんはいい人です』って、具体例を添えてね」

 

「うん……わたしも、聞いた」

 

 どういうことだろうと思い鷹島さんに視線を向けると、鷹島さんは小さい丸いパン――徹曰くポン・デ・ケイジョというらしい――をはむはむと頬張っていた。

 

それを見て忍が口元を綻ばせながら鷹島さんの頭を撫でている。

 

 こちらに気付きそうになかったので長谷部さんに聞くことにした。

 

 要約すると、鷹島さんの妹さんが飼い猫を逃がしてしまい、徹が頑張って見つけ出しついでに妹さんを家まで送り届けた、という話。

 

 なるほど、徹らしい逸話だな。

 

その本人は照れ臭そうに頬杖を突きながら窓の外を見ていた、たぶん恥ずかしいのだろう。

 

「前はなんで嫌ってたんだ? 徹に何かされたのか?」

 

「さらっと失礼なこと言ってんじゃねぇ、なんもしてねぇよ」

 

 徹は口を尖らせながら反論する。

 

もちろん俺も本気で言ってるわけではない、悪口という着物を着たただのコミュニケーションだ。

 

 長谷部さんは整った顔に苦笑いを浮かべながら口を開いた。  

 

「僕も最初の頃は、噂を話半分で聞いていたのだけど……悪い噂ばっかりだったからさ。いくつかは本当の話もあるんじゃないかと思ってしまったんだ」

 

「実際に……三年生を殴り飛ばすとこ、見ちゃったし。他の噂の真実味、増しちゃったし……」

 

 長谷部さんの言葉を太刀峰さんが引き継ぐ。

 

 まぁ確かに……徹のことをよく知らない人なら誤解しても仕方がない。

 

初日に先輩殴り飛ばして、お礼参りにやってきた三年生達も蹴り飛ばして、二年生三年生の合同討伐チームすらも薙ぎ払った。

 

ひとけのないところで行われたとはいえ、さすがに人数が多かったので見ていた人はそれなりにいる。

 

鬼とか悪魔とか鬼神とかデーモンとか人非人とか邪神とか、その他いろいろな噂が立つのも致し方ないことか……最後の方は徹もヤケクソみたいなテンションになっていたし。

 

「そこからすごく……あはは、なんて言えばいいかな。その……女性に対して手が早いとかって噂も流れてね。僕も薫も信じちゃって」

 

「だから……綾音に近付かせないように、警戒してた」

 

 徹が机に突っ伏してしまった。さすがにそこまでの悪質な与太話が流されている、というのは想像を超えていたのだろう。

 

机の上でうつ伏せながら拳を握ってぷるぷるしている。

 

そんな真実からかけ離れたデマを流布される要因を作ったのは徹自身なので、怒りの矛先をどこにぶつければいいかわからない……と、まぁそんなところか。

 

「でももう噂は信じていないんだろ? それで良しとしようじゃないか。元気出せ、徹」

 

「綾音の言葉の方が信頼性が高いからね。それに抽象的な理由じゃなく、具体的な根拠を提示されたんだから。もうあんな流言飛語なんて信じるに値しないよ」

 

「不良が、捨てられた動物を拾う……的なギャップもあって、逆に好印象」

 

「……他にも信じてる奴、もしかしたらいるんじゃねぇの? 別にいいけどさ……俺の持論は『親友二人がいればいい』だからな」

 

 右腕を枕にして物憂げな表情で窓の外を、ぼーっと見ている。

 

全然持論の説得力ないぞ、滅茶苦茶気にしてるじゃないか噂話。

 

「あははっ、意外と繊細なんだね逢坂。傍若無人に見せかけて豆腐メンタルなんていいギャップだよっ。可愛いところもあるじゃないか」

 

「大丈夫……わたし達からも、あんな話は嘘だって言っておく。……大丈夫、大丈夫」

 

「やめろ長谷部、暑苦しいんだよ。あと撫でんな太刀峰。俺は撫でられる側じゃねぇ、撫でる側だ」

 

 長谷部さんは脱力するように徹の背中にもたれかかり、太刀峰さんはくっつけた机の横から手を伸ばして頭を撫でている。

 

口では嫌がっているが、されるがままで動こうとしないということは少なくとも気分を損ねているわけではない、それどころか満更ではない様子だ。

 

 俺は徹と長いこと付き合っているので知っている。

 

徹は落ち込んでいる時、弱っている時に人の体温や温もりを感じさせればすぐ調子を取り戻す。

 

単純にできていると言えばそれまでだが……そうなってしまった理由には一つ……大きな原因がある。

 

「よし、逢坂の新たな一面も見れたしそろそろ行こうか」

 

「うん。早く、行かないと……授業遅れそう」

 

「長谷部さんも太刀峰さんも、今からどこか行くのか?」

 

「やっと解放された……」

 

 徹から少し離れて二人は顔を見合わせながら話す。

 

「今から食堂に行ってお昼ご飯食べてくるよ」

 

「「まだ食うのかよっ!」」

 

 徹と声がそろってしまった。

 

それぞれ三つもパンを食しておいてまだ食うのか、この二人。

 

運動部だから、という言い訳が使えるとはいえ、いくらなんでも食べすぎな気がする。

 

「六時限目体育だからね、エネルギーの補給は大事だよ。それじゃ逢坂、ごちそうさま」

 

「逢坂、ありがとう。ごちそうさまでした」

 

 言うや否や、バイタリティー溢れる二人は教室を飛び出して食堂へ向かった。

 

まぁ……いいか、あれだけ動いてるんだからきっと両者ともに相当燃費が悪いんだろう。

 

ただ授業風景を見る限り、摂取した燃料が頭へと送られている様子がないのが残念だが。

 

「わひゃあっ! し、忍さん、なんでほっぺた触るんですか? こそばいですっ」

 

「ごめんね綾ちゃん、パンついてたから。ふふ」

 

 鷹島さんと忍を見たらまだいちゃついている、こっちもこっちで仲良くなったんだな。

 

二人の周囲に真っ白な百合の花が乱舞した気がするが……見間違いだろう。

 

 ここでふと朝の件を思い出した、訊いて先延ばしになったアレだ。

 

「徹、朝の話なんだが、なんで今日は寝過ごしたんだ? いつもより疲れてる感じだし」

 

「そうそう。いつも生気に欠ける目をしてるけど、今日は殊更に濁ってるわよ」

 

「忍さんひどいですよ? でもたしかに疲れているように見えます、大丈夫ですか? 六時限目は休んだ方が……」

 

「大丈夫だよ鷹島さん、筋肉痛が残ってるだけだから。忍はもう少し俺を労われよ、いちいち毒を吐かないと喋れねぇのか」

 

 俺が徹に尋ね直すと、忍が鷹島さんを抱っこしながら会話に入ってきた。

 

鷹島さんを後ろから抱きしめ、ふわふわの髪の上に顎を置いて頬を緩めている。

 

忍は可愛い物・人が好きだからな、可愛い生き物の代名詞と言われ始めている鷹島さんはドストライクだったんだろう。

 

「昔通っていた道場の時の知り合いに偶然会ってな、土日の二日間稽古付けてもらったんだ。それがハードでな……全身の筋肉を酷使したせいで体力使うわ、筋肉痛になるわでもう大変だ」

 

 土日……俺の家は温泉旅行に行ってゆっくりしてた時に、徹は正反対に動きまくっていたんだな。

 

「そういえば土曜日電話してきてたわね。暇だったの?」

 

「あぁ暇だったよ。わかったからその人を小馬鹿にした顔やめろ、腹立つから」

 

「あの道場の……。なんか技でも教わったのか?」

 

「……私には…………電話、来なかった……」

 

 こいつのことだ、見せられた技を根こそぎ盗んでいても驚きはしない。

 

体育の授業でバスケットボールをした時は、バスケ部の生徒がやっていた技を見ただけでその技を使いこなせるような人間だ。

 

その超人的なまでの運動センスは部活に入っている生徒を凌駕するほど、そのせいで傷付く人も少なからずいる。

 

「二日やって習得できたのは一つだけだったな」

 

「っ! お前がか? 珍しいな、いつもはあっさりこなすのに」

 

「すっげぇ難しかったんだ、さすがに俺もちょっとへこんだよ。その知り合いに物覚えが良いとフォローされてさらにプライドが傷付いた。はぁ……ちょっと寝るわ、五時限目始まったら起こしてくれ」

 

 徹はいくつか余ったパンを袋に戻してまた机に突っ伏し、そのまま昼寝へ移行した。

 

 忍と鷹島さんはお互い近寄ってなにやらこそこそと話している。

 

『もっと強気に……』とか『ボディタッチを……』など不穏なワードが聞こえる。

 

聞こえなかった振りをしておこう、どうせ大変な思いをするのは目の前のこいつだから。

 

 徹は五時限目の総合理科学でも、六時限目の体育でもあまり率先して動かずに省エネモードだった。

 

放課後に運動する予定でもあるのだろうか。

 

体力を温存・回復させるように常に呼吸を一定のリズムで保ち、常に動きもゆっくりとしたものだった。



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「持たざる者の苦肉の策だ」

一話で収まるかと思ったのですが、少々長くなりそうだったので二つに分けました。


「すまん、待たせたか?」

 

『自分から教えて欲しいと言い出しておいて一番遅くに現れるとは、誠意を感じませんね』

 

「大丈夫ですよ、兄さん」

 

「レイジングハート言いすぎだよ? 魔法の復習やイメージトレーニングしてたから退屈はしてないの」

 

 聖祥小学校からほど近い場所にある公園。

 

海鳴市には莫大な敷地を有する自然公園があるので、ここのような一般的な大きさ程度の公園は人気(ひとけ)もないし人気(にんき)もない。

 

 三人には学校に行く前に念話で、放課後に教練をしてもらえるよう頼んでいたのだ。

 

俺の主力である近接戦を伸ばすのも重要だが、その根本は魔法なのだからこちらも勉強しなくてはならない。

 

 土日に近接格闘の稽古を鮫島さんにみっちりとやってもらったおかげで身体は疲労困憊だったが、学校でなるべく動かないようにして回復に専念した甲斐もあり、調子はだいぶ戻っている。

 

日をあけてゆっくりしたいところではあるが状況は待ってくれないし、ジュエルシードを集める勢力の中で一番弱いのは俺だ。

 

怠惰に過ごしていてはいつまでたっても彼女らには追いつけない、少しくらいの無茶は許容範囲内だ。

 

「はいはい、今日はどうぞよろしくお願いしますー。それでだ、人の姿は見えないとは言え、どこに目があるかわからない。だからユーノ、まず結界張ってくれないか?」

 

「了解です」

 

『私の扱いがぞんざいです、抗議します』

 

 なのはの肩に乗るユーノが、短い手を精一杯に天へと伸ばして結界を発動する。

 

薄緑色の魔力光が俺たちを包み、次第に広がり公園全体へ覆った。

 

「これで気兼ねせず普通に喋れるな。それじゃあご指導よろしく」

 

「教えるのはレイジングハートの方がわかりやすいと思います。知識量には自信があるんですが」

 

 ユーノは苦笑しながらレイジングハートへ目を向ける。

 

結構教えるのも上手いと思うんだけどな、どちらも理路整然と順序良く教えてくれるのは同じだがユーノは優しく、レイハは厳しくと明確に分かれているので俺としてはユーノに教えてもらいたい。

 

「レイジングハートすごいんだよっ、今日も空戦の理論とか教えてもらったの!」

 

「今日って……授業中じゃないだろうな」

 

 なのはは、あっ……まずい、という顔をして俺からすっと目を逸らした。

 

こいつ……授業中にやってたのか、また勉強についていけなくなったらどうする気だ。

 

理数には強いが文系が壊滅的なのだ、前にもそれで非常に辛い思いをしたくせに学習しないのか、二つの意味で。

 

「授業ちゃんと受けてなかったらまた苦労するだろうが。テストで泣きを見るぞ」

 

 なのはへ近づいて跡が残らない程度の力でほっぺたを横に引っ張る。

 

おぉ……すべすべでなおかつとても柔らかい、ずっといじっていたくなる感触だ。

 

「にゃあっ! ら、らい丈夫らよっ、ひゃんとノートは取っへるひ。ほれに、テふト前ひまた徹ひゃんい教へてもらうからっ」

 

「俺から教えてもらうことを前提に行動するな。はぁ、やってしまったことはもう仕方ない。また今度勉強会に強制連行だ」

 

 触ってたらやめられそうにないので雑念を払うように、なのはの頬から手を離して解放する。

 

病みつきになりそうな触り心地だった、手があのやわっこい感触を求めて震えている。

 

「あぅ。勉強会かぁ……やだなぁ、にゃはは」

 

 なのはは俺につねられた頬をおさえながら、にやにやと笑みをこぼしている。

 

……どうしよう、これが原因でMの道に走ったりしないかな……いやないか。

 

どっちかっていうとS気味だし。

 

『いちゃついてる所申し訳ありませんが、話を進めてもよろしいでしょうか。もう際ずっといちゃついていても構いませんが』

 

「れ、レイジングハートっ! わたしは別に、いちゃついて……そういうわけじゃ……」

 

「すまんなレイハ。始めてくれ」

 

 なのははごにょごにょと口ごもっていたが、意に介さずレイハは一つ咳払いして指導を開始した。

 

 咳払いする必要あんのか? とも思ったが口に出すとまた話が逸れるので、ぐっと飲み込んだ。

 

『分かりやすくするためにまずは一般的な分類にはめましょう。マスターは砲撃魔導師と呼ばれるものにあたります』

 

「砲撃魔導師は広い範囲を攻撃・援護するのが役割だね。飛行魔法を使って空中から地上の敵を制圧したり遠距離からの射撃などを担う人。普通は近接戦用の人を前に置いて後方から砲撃……という形だけど、なのはの場合は一人で大体やれちゃってるね」

 

 まずはなのはから説明が始まった。

 

なのはの両手の上でレイハが講義をして、なのはに近づいた時に俺の頭の上に飛び乗ったユーノが補助するように説明を加える。

 

レイハが先生、ユーノが助手みたいな構図だ。

 

 俺もなのはも頷きながら話の続きを催促する。

 

なのはは今日の授業中に魔法のトレーニングをしていたらしいので、特に質問とかはないんだろう。

 

『徹は飛行魔法が使えないへっぽこなので、陸戦魔導師という枠に入ります』

 

「おい、へっぽこを付ける必要あったのか。不必要に俺を貶すな」

 

「そんな言い方してたら大多数の陸戦魔導師から恨みを買うよ? 陸戦魔導師は地上で戦ったり支援するのが主な役割です。えっと……言い難いんですが……飛行技能を持たない人の総称が陸戦魔導師というものですので、その仕事内容は多岐にわたります。なので今回は割愛しますね」

 

 なのはがレイハを、めってしながら説教している。

 

こいつの悪口はもはやクセの様なものだし、今さら急に殊勝な態度のレイハなんて薄気味悪いのでこのままでもまったく構わない。

 

俺がMというわけではない、悪しからず。

 

「気にしなくていいぞ、なのはもユーノもな。俺がいつまでも同じ位置で甘んじていると思っているのなら、それは大間違いだ。あとで存分に驚かしてやるよ……レイハ」

 

『ほう、自信があるようですね。それなら後ほどゆっくり見させてもらいます、模擬戦闘という形で……ね。まだもう少し現状の説明をします、少々お待ちを』

 

 俺とレイハの間で火花が散った。

 

頭の上に乗るユーノと、たおやかな両手にレイハを乗せるなのはが、あまりの空気の変わりようにわたわたしている。

 

『マスターにはもうお伝えしましたがもう一度ご説明します。砲撃魔導師は空を主戦場とし、射撃魔法を主力とするので空中での機動制御と、射撃魔法の熟練が肝になります』

 

「陸戦魔導師の場合は、各々の素養によってどれを伸ばすか考えていくのが一般的です。兄さんの場合は適性の高かった魔力付与から手を付けましたよね」

 

 なかなか息合ってるな、いい先生っぷりだ。

 

『ロジックで成長させるポイントを決めるのも悪くはないでしょうけれど、やはり実戦を経験して自分の足りない点を見つけるのが一番です』

 

「なるほど、それで模擬戦闘ってことか。理に適っているし、効果的だな。やっぱり自分を磨くには実戦を重ねて経験を積むのが近道だよな」

 

『はい。単に射撃魔法や飛行魔法の練習の回数をこなすより、進歩が圧倒的に早いですし成長が目に見えますので。曰く、習うより慣れよです』

 

 こういう所は俺とレイハの考え方は似通っている。

 

いつも悪口と軽口を交わす俺達だが意外と共通し共感し合うところもあるのだ。

 

 会話が弾む俺とレイハを見て、なのはが半眼をこちらに向けてきた。

 

なのははジト目でもかわいいな、いやジト目だからこそ違う魅力が出てくると言うべきか。

 

「やっぱり徹さんとレイジングハートは仲良いよね……なんか怪しいの」

 

 怪しいって何だ、勘繰るような事はなんもねぇよ。

 

頭の上でユーノがわたわたと動く感覚がする。

 

こんなことで慌てんなよ、なんか隠し事でもあるみたいじゃないか。

 

「あほなこと言ってんな。時々意見が合うっていう、ただそれだけの話だ」

 

『マスター、いくら私でも侮辱されれば怒ることくらいありますよ?』

 

「なんで仲良いって言われただけで侮辱になるんだ。その発言こそ俺に対しての侮辱だろ」

 

「やっぱり仲良い……息ぴったりだし」

 

「そ、それよりなのは! 模擬戦の準備をしようよ! なのはの特訓の成果を、兄さんに見せる絶好の機会だよ?」

 

 話が脱線し始めた時に修正してくれるのがユーノだ、俺が喋ると基本的に内容が逸れていくのでこういう存在は実に助かる。

 

ユーノにたしなめられて不承不承といった様子を隠そうともしていないが、一応なのはは引いてくれた。

 

 両手で握られている、いや、両手で固く握り締められているレイハがなにやら救難信号を発していたが、散々っぱら俺を罵倒してくれていた報いということで無視する。

 

悪口や軽口を言い合う仲とは言ったが、それとこれとは話が別なのだ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 なのはからおよそ十メートルほど距離を取ってユーノの合図を待つ。

 

俺の正面前方にいるなのはは既にバリアジャケット姿に変身済み。

 

 白を基調にした清楚なデザイン、聖祥小学校の制服をモチーフにしているのか所々似ている部分が見受けられる。

 

杖の状態のレイハが今にも俺を叩き潰そうと光り輝き、手首の辺りには、青色に金色のラインが入った籠手を装着。

 

スカートは膝下以上あり、全体的に重装備なバリアジャケットとなっている。

 

 それに対して俺の格好は簡単なものである。

 

これ以上制服をダメにするわけにはいかないので、いつもトレーニングの時に着ているジャージに着替えただけだ。

 

実を言うと、着替えるために一回家に帰ったせいで少し遅れてしまった。

 

学校に持って行っていればそんな手間はいらなかったんだがな。

 

 バリアジャケット便利そうだなぁ、とも思うんだが、俺にはデバイスがないのでどうしようもない、諦めよう。

 

俺の戦法から考えてもなるべく軽装の方が都合がいいので、今のところジャージであっても何ら問題はない。

 

「徹さんっ! ケガしないように気をつけてね、わたしっ、全力で行くからっ!」

 

『と、徹っ、直撃しないよう細心の注意を払ってください。マスターから流れ込んでくる魔力がとても大きく濃密ですっ』

 

「な、なのはっ! これは模擬戦闘だからな! お互いの弱点の克服や、伸ばすべきポイントを見つけるためのものだからな!」

 

 勘弁してくれ、なのはの全力で撃たれたら非殺傷設定(スタンモード)の魔法でも消失する自信があるぞ!

 

何か言ってやってくれ、という念を込めてユーノへ視線を送ると、俺となのはのちょうど中間の位置にいたユーノがたたたっと走ってベンチの裏へ隠れて、自分の身を覆う程度の障壁を展開して口を開いた。

 

「は、始めっ!」

 

「ユーノっ! てめ、この野郎!」

 

 保身に走りやがったな! 信じていたのに!

 

「わたしも強くなったんだからっ! ……るさんを、守れるくらいに強くなるんだからっ! レイジングハートっ!」

 

『は、はいっ! Divine Buster』

 

「ちょっ、いきなりかよっ!」

 

 音叉のような形状をしたレイハに四つの環状魔法陣をまとわせ、極太の桜色の閃光を俺に向かって吐き出した。

 

なのはがバリアジャケットを装着していたのと同様に、俺も魔力付与の魔法を自分の身体に施している。

 

そのおかげで初動が遅れたものの回避できた、さすがに背筋がぞくっとしたが。

 

 ディバインバスターは俺程度の障壁では防げない程に威力が高い魔法だが、その分チャージに時間がかかる、速度の速い魔法が放たれていたら躱せなかったかもしれない。

 

 地を蹴り迂回しながら接近する。

 

なのははまだ地に足を着けている、地上は俺の戦場だ。

 

「やっぱり普通に撃っても当らないよね、なら当てれる状況に持って行くの」

 

『了解、Divine Shooter』

 

 左手に持つ杖を掲げ桜色の魔力球を作り出し、杖を振ってその球を撃ち出す。

 

その数は四つ、初めて見たなのはの新技に少し驚いたが……速度は遅い、回避は容易い。

 

 なのはへ真っ直ぐ近寄ろうとした足を止め、飛来する魔力弾をやり過ごすため直角に移動する。

 

すると途中で魔力弾は方向を変え、緩やかに曲がりながら輝線を描きつつ俺へと追尾してくる……なるほど、誘導弾か。

 

速度がそれほどない分、追尾性能は優れているようだ。

 

「飛行に砲撃に射撃。本当に溢れんばかりの才能だな……」

 

「わたしだって努力してるもんっ!」

 

 どれほどの威力があるか確かめるために一度足を止め、角度変更型障壁を展開する。

 

フェイトやアルフのものとは比べるまでもなく、見ただけで直径が大きいと分かる桜色の魔力弾をいなすように障壁を配置する。

 

照準を合わせた魔力弾は、俺へと一直線に向かってきて障壁に多大な衝撃を与えて俺の後方、木々の暗がりへと消えていった。

 

一つは障壁の外から来たので回避して、三つを障壁で防いだのだが……魔力弾をたかだか三つ弾いただけで障壁に薄らと亀裂が走っている、なんて破壊力だ。

 

「っ! 徹さんくらいの防御適性が相手なら障壁を貫けるって想定だったのに……!」

 

『すいませんマスター、見込みが外れました。徹の力量を計り損ねたか、もしくは何かしら小細工をしたのか』

 

「兄さんの近くの空間にヒビが入っているような……たぶん障壁を斜めに配置して勢いを流したんだ、注意して!」

 

「こらユーノ! お前は審判だろうがっ! 中立を保てよ、助言すんな!」

 

 所詮はいずれバレるちゃちな仕掛けだ、気にする必要はないんだけどな。

 

 あの誘導弾の威力を確かめることができて、一応の方向性は定まった。

 

ディバインバスターは迷うことなく回避の一択だ、直撃を食らえば墜ちるし障壁を張ったところで食い破る、あれはそういうものだ。

 

ディバインシューターの方は回避するにこしたことはないが、障壁により防御可能、直撃しても歯を食いしばったら耐えられそう……とまぁ、こんなところか。

 

 データは手に入れた、そろそろ打って出てやる……度肝を抜いてやるっ!

 

砲撃魔法や射撃魔法を躱しているうちに距離が開いてしまったが、そんなもん気にも留めない。

 

「なのは……忠告しといてやる、障壁張っとけよ」

 

 バニングス家の中庭にて、鮫島さんから二日間にわたり稽古をつけてもらった結果、実戦で使える水準に至った唯一の技。

 

「い、いきなりなに?」

 

 十メートルを超える距離を容易く埋める……その名は、神無(かんな)流『襲歩(しゅうほ)』。

 

『っ! Protection』

 

 鈍い音と衝撃が周囲に飛び散る。

 

桜色の障壁がなのはの正面に出現し、俺の拳を妨げたのだ。

 

なのはが魔法を使った様子はなかったので、レイハが機転を利かせて発動させたのだろう。

 

 さすがに自分で優秀なデバイスとうそぶくだけのことはある。

 

「はっ、早すぎるのっ!」

 

『マスター、一度距離を……』

 

「取らせるかよっ!」

 

 牽制で放たれた魔力弾をサイドステップで躱し、再度接近する際の勢いを利用して突き破れとばかりに右膝を叩き込む。

 

障壁を迂回するように横に回ったんだが、驚くべき反射速度で接触する寸前、ギリギリのところで阻まれた。

 

なのはの体重が軽いのでバリア越しでも衝撃を緩和しきれず、後方へと身体が流れた。

 

『卑怯かもしれないと思ったので使っていませんでしたが……もうそんな余裕はありません、マスター』

 

「うん、地上では敵わない……仕方ないよね」

 

「おいおい、手ぇ抜いてんじゃねぇぞ。本気でやってこそ訓練になるし、見えないものも見えてくるってもんだ」

 

 かといって、なのはの本気のディバインバスターはこちらとしても本気でご遠慮願いたいが、俺はこの中では一番年上、不遜なまでに強がって格好つけて知った風なこと言わせてもらおう。

 

「……ここからは一方的になるかもしれないんだから……後悔しても知らないんだからっ!」

 

『参りましょうマスター、あの思い上がった男に目に物見せて差し上げましょう』

 

 当然飛ばれてしまっては向こうが有利になる、飛び立つ前に攻める。

 

もう一度襲歩で近付き接近戦に持ち込もうと踏み込んだが、急いでブレーキをかけてスピードを落としながら屈む。

 

 すぐに飛ぶかと思いきや、まず誘導弾撃って来やがった。

 

無理な体勢で躱したせいで次の行動が遅れる。

 

その間になのはは優雅に空へ、白の多い衣装も相まって――

 

「まるで天使」

 

――のように大空へと舞い上がる。

 

スカートが風になびき、太陽を背にしているのでまるで後光の如き光が降り注ぐ、なのはの背に純白の翼を幻視するほどに神々しい。

 

 くそっ、なんで俺の目にはスクリーンショット機能が搭載されていないんだっ! この光景を目に焼き付けることしかできないなんて!

 

「にゃあっ! い、いきなりなに言いだすのっ!」

 

『マスター、落ち着いてください。あれは徹の十八番、口説き文句です。女性を動揺させる技です、冷静になってください』

 

 しまった、思ったことを声に出してしまった。

 

「おい、レイハ。俺が常に女性を口説いているような言い方をするんじゃない、悪評を流そうとするな」

 

『それほど事実と相違ないと思いますが。それよりも、そんなに余裕を見せていていいのですか?』

 

「これで私たちが有利に、徹さんは不利になったよ。ここからはワンサイドゲームだね」

 

 空へ戦場を移したことで、なのはもレイハも勝利を確信していることだろう、おそらくベンチの陰で観戦しているユーノも俺が敗北すると思っていることだろう。

 

 それでいい、そう盲信してくれている方がいい。

 

期待してるぞ……いい表情を見せてくれよ?

 

「これで終わりにしてあげる!」

 

『Divine shooter!』

 

 誘導弾を下方に向けて放ち、地を這うように俺へと向かわせてくる。

 

 その策に乗ってやる。

 

足元に飛んできた魔力弾を跳躍して躱し、上空へ。

 

「作戦通りっ、レイジングハートっ!」

 

『これで幕切れです、Divine Buster!』

 

 なのはと同じくらいの高さに到達した俺へ、音叉の形を成す杖を向け、誘導弾を放った時からチャージしていたのだろう砲撃を撃ち放つ。

 

溜めに溜められ凝縮された魔力が一方向、俺がいる方向へと解放される。

 

 俺の障壁では防ぎようもない、しかしこの大威力の砲撃を相殺できる魔法を持っていない、だからといって空中で回避する術もない、そう思っているんだろうなぁ……己が勝利を確信した、そんな目をしている。

 

だが、その目が驚愕に変わる。

 

俺が空中で跳躍し、砲撃を回避したからだ。

 

 俺の三メートルほど下の空間を、桜色の魔力の奔流が焼き払う。

 

足元に展開した障壁を足場にして、なのはから距離を取るようにもう一度跳躍。

 

なのはと同高度の位置まで自由落下し、空中で静止する。

 

「な、なんで……飛行魔法は、使えないんじゃ……」

 

「兄さん! なにをどうしてるんですか!」

 

『とうとう人間やめましたか、徹。見上げた根性です』

 

「やめてねぇよ、まだ人間だ。これが俺の、持たざる者の苦肉の策だ。障壁を足元に配置してそれを蹴って空中を移動する。言っただろ、俺は同じ位置で甘んじるような人間じゃない」

 

 これだ、この驚きの一色に染まる表情が見たかったんだ。

 

あぁ……見返してやったぜ、演出にこだわってよかった。

 

「もう空はお前達だけの戦場じゃない、俺も参加させてもらうぞ」




中途半端なところで終わらせてすんません。

なるべく早く続きを書きますんでご容赦を。


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このトリガーハッピー共がっ!

前回の話の続きです。
本当なら繋げて書きたかったんですけどね、長くなりそうだったので。
実際繋げて書いていたら長くなっていました、分割してよかったです。


 足元に障壁を作り出し、空中を立体的に移動する。

 

いかになのはのディバインシューターが追尾性能に優れるといえど、ここまで上下左右に揺さぶられてはついてこれない。

 

地上で回避するよりも空中の方が格段に容易いな。

 

「もうっ、もうっ!」

 

『マスター、戦いは冷静な人間が勝利します。落ち着いてください』

 

「状況判断が大事だ。視野を広く、判断は早く。誘導弾はなのはがコントロールしているんだろう、しっかりしろ」

 

 俺が判断の速さに関してとやかく言う筋合いは本来ありはしない、俺となのはは種類が違うからな。

 

俺は常に相手がどう動くかを予想して備えるのに対して、なのははその場その瞬間で直感的に動けるタイプだ。

 

直感とか第六感で動ける人間は大成する。

 

戦い方はまだ荒削りな原石だが、今から磨いていけば相当なものになるぞ。

 

 かなり厳しめの言い方になってしまっているが、それだけ期待を寄せているからだ。

 

戦う力があればその分自分が生き残る確率も上がるし、仲間を助けられる可能性も出てくる。

 

辛辣な物言いになってしまうのも致し方ない。

 

「わかってるもんっ! ディバインシューター!」

 

 近寄れば不利になるというのは重々承知しているのだろう、なのはは後退しながら誘導弾を準備した。

 

一定の間隔で一発ずつ、計四発の桜色の魔力弾が放たれる。

 

「少しはテンポをずらして撃て、読みやすいぞ」

 

「~~っ!」

 

 魔法では俺は一枚どころか二枚三枚と落ちるが、戦術や読み合いなら俺に分がある。

 

いくら追尾してくるとはいえ、単調な上にそれほどの速さもないのなら障壁を展開するまでもない。

 

 ジグザグに跳躍移動しながら誘導弾を回避しつつ接近する。

 

「むぅ~っ! プロテクションっ!」

 

「いつまでも同じ方法で防げると思ってたら怪我すんぞ」

 

 なのはの防御魔法はとても強固だ。

 

もともとの魔法はそれほどの防御能力はないが、なのはの適性の高さと潤沢な魔力のおかげで恐ろしいまでの堅固さに至っている。

 

襲歩で加速して繰り出した拳も、踏み込みの勢いと共に放った膝蹴りも防ぎ切ったほどだ、俺が持つ火力では普通に攻撃したところで打ち破ることはできない。

 

 だからといって、『こりゃダメだ、諦めよう』なんてことはできない。

 

ならどうするか……答えは決まっている、俺の特色を使って突き崩すだけだ。

 

「これなら絶対に防げる、なんていう凝り固まった固定観念は危険だ。気を付けろよ」

 

 展開された桜色の障壁に左手を添えて、なのはの障壁の術式に俺の魔力を這入り込ませ、防御魔法のプログラムをぐちゃぐちゃに書き換えていく。

 

「なにを……えっ、なにこれっ……!」

 

 こちらで強引に術式に手を加えて脆弱にして、最後に魔力の供給までを断つ。

 

いくら立派な城壁と言えど、穴が開いてしまってはその効果は万全に発揮されることはない。

 

「模擬戦で経験できてよかったな。実戦では命に係わるかもしれないんだから」

 

 障壁に触れていた左手を外に払い、勢いよく右の拳を振るう。

 

 飛行魔法とは異なり、俺は障壁の上にいるので踏み込みにもしっかりと力が籠められる。

 

障子紙程度にまで急落した性能の障壁を突き破り、魔法の行使者にダメージを与えることも十分に可能だ。

 

「ひゃあっ!」

 

 ガキィン、という音が二つ、ほぼ同時に重なる。

 

一つは障壁を粉砕した音、もう一つは俺の拳となのはが持つ杖がぶつかった音だ。

 

 咄嗟に杖で防いだのか、素晴らしい判断だ、直撃していたら継戦することは出来なかっただろうからな。

 

「おーい、大丈夫か?」

 

「わ、わたしは平気っ……レイジングハート、ごめんね……大丈夫?」

 

『お構いなく、マスター。徹を見くびっていた私の責任ですから』

 

 俺の攻撃の余波で後退しながら言葉を交わす、また距離が開いてしまったな。

 

「これ模擬戦ってこと忘れてませんか?! 憶えてますよね!?」

 

「ちゃんと憶えてるって、心配すんなユーノ!」

 

 ユーノがベンチの上から大声で呼びかけてくる。

 

全くユーノは心配性なんだから、これが実戦だったら俺はもっと薄汚く小賢しく戦うっての。

 

 ちらりと視線を向けると十数メートル離れたところで、なのはとレイハが内緒話でもするように顔を近づけて小声で喋っていた。

 

作戦会議か? 本番では敵に隙を見せるなんて以ての外だが、ユーノから忠告されたようにこれは模擬戦、色んな戦法を試すという理由で今回は不問に付すとしよう。

 

 少ししてなのはが頷き、こちらへいつもの可愛らしい表情とは違う、きりっとした凛々しいお顔を向ける。

 

「ミーティングは終わったか?」

 

「うんっ! ここからはわたしたちのターン、反撃するからね徹さんっ!」

 

『目に物見せてやります。マスターの全力の一撃をお見舞いして差し上げますから、どうぞ遠慮なくお受け取りください』

 

 はは……怖いなぁ、ちょっと焚き付けすぎたかな……。

 

音叉型の杖の先端を向け、『戦闘準備万端、いつでも来なさい!』みたいな空気を出して俺を見据えてくる。

 

一度間を置いたことでなのはも落ち着いたようだ、ここからは心機一転して取り組まないといけないな。

 

 俺も深呼吸して魔力付与を再度、身体全体へ巡らせる。

 

頭のてっぺんから爪先まで十全に行き渡る感覚、俺も準備OKだ。

 

「模擬戦なんですからねーっ!? 怪我しないでくださいよぉ!?」

 

 苦労人ユーノの注意喚起の言葉で火蓋が切って落とされた。

 

「ディバインバスター!」

 

 戦闘が再開された瞬間、砲撃が俺を焼き貫こうと向かってくる。

 

初っ端からディバインバスターとは……なにか考えはあるんだろうけども。

 

 足元に移動用の障壁を展開、それを足場にして左斜め前方へ襲歩で移動する。

 

砲撃を避けつつ接近するという考えだ。

 

『やはり……かかりましたね』

 

「うんっ! ディバインシューター!」

 

 俺の移動先の空間に、五つの桜色の誘導弾が機先を制する形で殺到していた。

 

マジかよっ、動きが読まれたのか?!

 

 幕開けの砲撃は誘導弾を隠すための壁にして囮、俺を誘導させるための罠だったのかっ。

 

『徹の人外じみた移動法、あれは右足を軸足にすることでしか使えないのですね。なので咄嗟に使う時は、前方から左斜め後方までの角度にしか移動できない……そうではありませんか?』

 

 自分から誘導弾に突っ込んでしまった、即座に障壁を展開するが誘導弾に角度を合わせる余裕がない、なので適当に角度変更型障壁を発動させる。

 

二発はなんとか弾くことができたが、三発目で障壁が破壊された。

 

障壁を破壊した時にワンテンポ遅れたので、三発目の誘導弾は躱すことに成功したが……まだ二つも残っている。

 

しかも一つは左から、もう一つは右から迫っている、理に適っていて合理的な配置だな。

 

右から飛来する一発は右手に流す魔力付与を強め、魔力弾の横っ腹を殴り飛ばすように拳で殴り飛ばし、左から来るものは覚悟を決めて腕でガードする。

 

「くっはぁ……痛ぅ……。よく気付いたなぁ……右足でなら実戦で使える程度にはなったんだけど、左足を軸足にしたらまだ成功率が六割くらいなんだよ。六割じゃあ実戦で使うには不安が残るからな」

 

 土日の二日間を費やして使えるようになった神無流の技は襲歩唯一つ、しかも右足を軸に行ったものでしか合格点を貰えなかったという始末だ。

 

左足ではまだ戦闘に使える水準に達していない。

 

情けない限りだが、使えるものは使っていくのが俺の方針、ハッタリにはなるし戦闘中には気付かれないと思ったが……正直こんな早くバレるとは思わなかったぜ。

 

これからも研鑽を積んでいかないといけねぇな。

 

「もう一回っ、ディバインバスターっ!」

 

「それ何発目だよっ! どんだけ元気と魔力が有り余ってんだっ! ちょっとくらい分けやがれ!」

 

 右手は案外無事だが、左手が未だに痺れている。

 

だがあの殺人砲撃を食らうと痺れるなんてものでは済まないので、足元に障壁を展開し跳躍移動の準備をする。

 

「模擬戦終わったら元気わけてあげるねっ!」

 

「魔力の方を所望するっ!」

 

 襲歩で左側へと移動し、なのはの視線がつられたのを確認した瞬間、足に魔力を集中させ右側へと跳躍する。

 

これでわずかな時間とは言え、視界から俺の姿を消失(ロスト)しただろう。

 

 なのはの背後を取るように跳躍移動を繰り返していく。

 

足場にする障壁を斜めに配置することで、素早い方向転換が可能になるという点では、地面を足場にするよりも空中の方が融通が利く、これも跳躍移動のメリットの一つだな。

 

 俺を見失って周囲を見渡すなのはの背後から、稲穂を刈り取るような鋭い足刀を繰り出そうと、身体の重心を傾け始める。

 

勝ったっ! と思った瞬間、身体の動きが停止した。

 

「くそっ! 拘束魔法……しかもこれ……設置型かっ!」

 

「レストリクトロック。かかったねっ、徹さんっ! ディバインバスターのチャージも百二十パーセント完了済みっ」

 

『予定通りの計算通りです。徹ならこう動くと思っていました。さあマスター、決めてしまいましょう』

 

 完全に読まれた! 考えが浅かったっ! ディバインシューターで俺の動きを止めたというのも伏線、俺ならまた移動すると予想されてたのか。

 

そしてレイハが俺の移動法について言及し、その弱点を暴いた。

 

それを聞いた俺は、相手がすでに知っている情報を逆手にとって襲歩を囮に使い、なのはの照準から逃れようとする。

 

ここからだ……ここから二人は考察し、俺の性格を鑑みて『ディバインバスターの照準から逃れるだけでは終わらない、射線から逃れながら攻撃に移る』という想定をした。

 

その想定から更に考えを深めたんだ、『攻撃するのならば保険を掛ける意味合いも兼ねて、背後から攻撃を仕掛けるだろう』と。

 

 作戦を考えて罠を張っていた二人と、行き当たりばったりで策も持たずに攻めに転じた俺との差が如実に表れた。

 

『Lock on』

 

「全力全開っ! ディバインっ……!」

 

 急いで拘束魔法へハッキングして破壊を試みるが、如何せん、時間が足りなさ過ぎる。

 

手を縛っていた魔法は砕くことができたが……足の拘束を解くのは間に合わないっ!

 

 頭を回せ、ギアを上げろ、今日は比較的ゆっくりしてただろう俺の脳みそよ、その分を今取り戻せ。

 

思考しろ……この拘束魔法は空間自体に固定している、腕だろうが足だろうが拘束されている以上は身動きをとることは不可能だ。

 

動けないのならば障壁で防ぐしかない、だが俺如きの障壁では障壁の意味を成さない。

 

文字通りに食い破られるだろう、角度変更型でも焼け石に水ってもんか……いや柄杓で山火事消すくらいに無謀だ。

 

密度変更型ならどうだ、何枚か重ねれば防げるかもしれないが防御範囲が狭すぎる、あれは胴体をカバーする程度の大きさしかない……頭隠さず尻隠さずだ、どこも隠してねぇじゃんか。

 

狭い……っ! かなり無茶だが……一つ、閃いた。

 

『Fire!』

 

「バスターっ!!」

 

 俺の顔面めがけて極至近距離で桜色の殺人砲撃が放たれる、震えて竦みそうになる足へ必死に力を籠めた。

 

こんなもん直撃したら上半身が消し飛ぶ、これは非殺傷設定とかガン無視で命を奪い去る魔法だっ!

 

 組み立てろ、俺っ、死にたくないなら術式を組み立てろ! ベースになるのは密度変更型障壁だ!

 

硬い代わりに身体を覆う範囲が小さい障壁をいくつも展開、互い違いに折り重なり障壁同士が触れ合うように配置して、少しでも威力が分散されるようにする。

 

大きさは俺の身体を覆う程度でいい、重ねる数は四枚、四重の多重障壁を構築……魔力を流し込んで展開、発動させる。

 

 寸でのところで俺となのはの間に、急造品の障壁を割り込ませることができた。

 

濃厚な魔力の粒子が、岩にぶつかる水のように飛沫を周囲にまき散らす。

 

後はなのはの砲撃の照射が終わるまで、この障壁がもってくれることを神に祈るだけだ。

 

「貫けぇぇぇ!!」

 

『Fire! Fire! Fire!』

 

 こいつらキャラ変わってるじゃねぇかっ、このトリガーハッピー共がっ!

 

 表面の障壁が崩れ始め、侵食していく。

 

幾重にも折り重なったバリアに阻まれ行き先を失った魔力の奔流が、障壁の上下左右へと流れていく。

 

「くっ、おおおぉっ!」

 

 展開されている障壁に更に魔力を流し込むが、じわじわと食い破ってきている。

 

俺を焼き殺そうと殺人鬼のような桜色の閃光が近づいてくる……恐怖が、狂気がすぐそこまで迫っているっ。

 

 三重目までが弾け飛び、最終防衛ラインである四重目の障壁に大きな亀裂が入ったところで、やっとディバインバスターはその光を弱め、そして消えた。

 

はぁ…………助かった……。

 

「もう一発っ……!」

 

「ギブアップっ! もういいだろ、ふざけんな! ゲーム終了っ! 素晴らしい、得るものの多い模擬戦闘だった!」

 

『ちっ……仕留め損ないましたね……』

 

 ダメだ、こいつら……完全に俺を消し去るつもりだった、やる気じゃない……殺る気(やるき)が満々だった。

 

九死に一生、絶体絶命のピンチからなんとか生還できたのは、ひとえに諦めない心のおかげ……もしくは助かりたい一心のおかげ。

 

「早く下に降りてユーノの批評を受けようぜ、なんか俺めちゃくちゃ疲れた……」

 

「徹さん凄いねっ! どうやってあれを防いだのっ?」

 

『徹には訊きたい事がたくさんあります。後から詳しく説明してもらいましょう、マスター』

 

「うんっ!」

 

 なのはが一切の手心を加えなかったために命の危険もあったし、今もかなりの疲労感が俺の肉体を襲い続けているが……なのはの純粋な眩しい笑顔を見たら何も言えなくなった。

 

今回はいい経験ができた、そういうことでいいだろう。

 

 ベンチの上で手を振っているユーノを見て、再度生きて帰れてよかったと本気の本気、心の底から安堵した。



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天より来たる……断罪の光

無印劇場版を見直しました。
今回の書いた場面が、映画が始まってだいたい三十分くらいのところ。
三十話目で三十分、およそ四分の一……もしかしたら百話という峠を越えても無印編書き終わってないかもしれないという驚愕するほど遅い進み具合です。
なんということでしょう、笑っちゃいますね。


 王莽が時、太陽が地平線の彼方へ沈み始め、空がオレンジ色と灰色を混ぜたように染まり、そろそろ人工の明かりがないと顔も見えなくなる時間に迫りつつある中、俺たちは人気(ひとけ)のない公園のベンチの上に座っている。

 

 いや、『俺たちは』と表現するのは少し間違っているか。

 

俺がベンチに座り、俺の頭の上にユーノがここが定位置だと言わんばかりに鎮座して、レイハはネックレスの台座にくっついてなのはの胸元に、そしてなのはは俺の膝の上にちょこんと座っている。

 

つまりベンチに座っているのは俺だけなのだ。

 

 遠くから見たらシルエットは一人分だろうな、独り言喋ってるとか思われないかな? 思われないか、まず人が通らないし。

 

もともとあまり使う人がいない公園でしかもこの時間帯、誰も通らないし誰も入ってこない。

 

なのでユーノには結界を解除するように言っておいた、結界使い続けるのも案外疲れるし。

 

「それでねっ、レイジングハートと一緒に考えて砲撃の威力の底上げがんばったの!」

 

「すごいなぁなのは、えらいぞ。でも俺は死ぬかと思った、消し炭になると本気で思った」

 

「あははっ! 大丈夫だよ、スタンモードに設定してるんだから」

 

『だからあれ程必死な表情だったのですね、あのような反応をするから、こちらも実戦をやっているような気分になってしまったのです。要するに徹の所為ですね』

 

「流れ作業で俺の責任にするな、お前からは確固たる悪意を感じたぞ」

 

 模擬戦闘が終わってベンチに座ってからここまでずっと、なのはが俺の胸板に後頭部をこすりつけて『褒めて褒めて?』とアピールしてくる。

 

喋る時は俺を背もたれにして顔を上げて俺の顔を見るものだからもう、何が言いたいかというと……可愛くて仕方がない。

 

 くりくりとした大きな瞳や、上をつんと向いた小さなお鼻、そしてふっくらしていて柔らかそうな唇が俺の顔のすぐそばにある。

 

模擬戦闘という極めて激しい運動をした直後なのに汗臭さなどはなく、どんな香水をも凌駕するような馥郁たる香りが俺の思考力を削り、身体全体でなのはの微かな重みと体温を感じる。

 

 二人っきりだったらいろいろまずかったかもな、小学生に手を出したりはしないと自分を信じてはいるが、このままでは遠くない未来になにかやらかしてしまうかもしれない。

 

なのはが落ちないように左手をなのはの腰にまわし、右手で頭を撫でているこの状況だけで人によっては『手を出している』と判断する可能性も無きにしも非ずだが。

 

「そろそろ始めていいですか? お楽しみのところ申し訳ないんですけど」

 

「あぁすまんな、始めよう。帰る時間が遅くなってもいけないし」

 

『二人っきりにして誰にも邪魔されないシチュエーションを作ったら徹はどこまでやるのか、一度試してみたいですね』

 

 速やかに会議を始めよう、レイハの恐ろしい計画が実施されないことを切に祈りながら始めよう。

 

「まずはなのはの批評からやっていくか」

 

「にゃっ! わ、わたしから?」

 

「そうですね、なのはに関してはたくさん見つかりましたから。良いところ悪いところ両方ですが」

 

『ここから先は遠慮など抜きで話しましょう、気を使って悪い点を言わない等はマスターの為になりません』

 

 レイハの言葉にユーノも俺も頷く。

 

至らない所を注意されるのは耳が痛いが、注意されないまま大事な場面で……それこそ戦闘中などでボロが出たらそっちの方が痛い、耳が痛いどころじゃ済まなくなる。

 

だからこそ、つらくともしっかりと聞いて理解して、弱点や穴は直して埋めていかねばならない。

 

今だけは気遣いなんて無意味どころか逆効果だ。

 

 瑠璃の光も磨きから、いくら才能があったとしても努力しない人間は決して大成しないのだから。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「ん~、見つからねぇな」

 

「少しだけど反応は感じるから近いと思うけど……見つからないね」

 

 ビルとビルの間を行ったり来たりしながら目を光らせる。

 

この付近にあることは確かだと思うんだけどな……。

 

 現在俺たちは都市部周辺で雑居ビルに囲まれながら、仕事帰りのサラリーマンやOLさんをかき分けてジュエルシードを探している。

 

 公園で長い時間をかけてこれからどういう方面を伸ばしていくか、どういう所を直したらいいかを話し合い、俺の魔法についても説明をしていたら日がとっぷりと沈んでしまった。

 

意見の交換できついことを言われて精神的にもダメージがかなりあったが、有意義な意見も多かったので良しとしよう。

 

 公園灯の明かりだけが俺たちを照らすような、ずいぶん遅い時間になってしまったので高町家へ今からなのはを送り届けることを連絡するため携帯を出して電話しようとした時、かすかにジュエルシードの反応を捉えた。

 

しばし話し合い、全員でジュエルシードを封印しに行くことになったので高町家へ――電話に出たのは桃子さんだった――なのはの帰りが遅くなる旨を告げ、俺たちは遅い時間にもかかわらずこんな場違いなところへとやってきたのだ。

 

正直なところ、もうすぐ二十時になるくらいの時間なのでなのはは帰したかったがジュエルシードが発動してしまった場合、俺では封印できないので泣く泣く連れてきた。

 

 違う懸念もある、こんな時間におまわりさんに見つかったら補導待ったなしだ、しかも小学生を連れ歩くとか犯罪臭がする、どうかおまわりさんが通らないことを願う。

 

つい先日、彩葉ちゃんとここの近くを歩いて今日はなのはと(ユーノとレイハもいるが)歩くとか、俺どんだけ小学生を遅い時間に連れ回してるんだろうか。

 

 いつまでたっても見つからないジュエルシードに辟易して下らない事を考えていると、突如空に暗雲が立ち込めてきた。

 

急激な天候の変化、肌を刺すようなピリピリとした感覚、誰かが魔法を行使した気配だ。

 

「兄さんっ、魔法の反応ですっ。こんな人の多いところで……」

 

「慌てんなユーノ、どうせすぐにまた発動される。次は結界がな」

 

 一応ユーノは声のボリュームを落として話しているが、仕事帰りの大人の雑踏と都会の喧騒の中にいるので、小さなフェレットもどきの声に疑問を抱くような人はいなかった。

 

 どんよりとした黒雲の中に金色の稲妻が見え始めたくらいで、俺の予想通りに結界が展開された。

 

もちろんこの結界は俺が発動させたものではない、俺の頭の上から落ちないようにぺったりと頭に張り付いているユーノでも、いつになく真剣でどこか喜んでいるような色を表情に浮かべるなのはでもない。

 

徐々に街を覆っていく結界の色はフェイトの金色でも、アルフのオレンジ色でもない、淡い茶色のような色。

 

結界魔法の展開の速さや、結界に触れたことで頭に流れ込んでくる緻密な術式、そしてその強度から考えるに恐らくはリニスさんが発動させたものだろう。

 

あの人は性癖に多大なる難があるものの、魔法に関してはかなりの実力者のようだったからな。

 

 猫耳猫尻尾完備の家事万能、一般常識も備えていてスタイルも良く顔だちも整っているというパーフェクトな女性なのに……あの常軌を逸したレベルの性癖(筋肉フェチ)が相殺してしまっている……ほんと勿体ない、普通に喋ってると気立ての良い優しい美人さんなのになぁ。

 

「徹さん、なんですぐ結界が張られるってわかったの?」

 

「あいつらの中に一人、後方支援の得意な人がいるからな。それにジュエルシードを集めようとはしているが、一般人に危害を加えることは本意じゃないと思うし。なら結界を使うことは容易に考え付く」

 

『さすが斥候、敵勢力に潜り込んだ甲斐がありましたね』

 

「素直に褒めてくれよ、なんで棘を刺す必要があるんだ。斥候なんてしてねぇよ」

 

「それじゃあ金色の少女と兄さんの言っていたオレンジ髪の女性を加えて、今回は敵は三人いるんですね。気を付けましょう」

 

 頭上の雲からごろごろと腹の底に響くような轟音が鳴り響き、とうとう金色の閃光が降り注ぎ始めた。

 

俺たちを狙った攻撃ではない……? じゃあ何を、ジュエルシードか? ……正確な場所が分からないからジュエルシードに魔力をぶつけて強制的に発動させ、場所を特定しようとした……ということか。

 

 それならジュエルシードをすぐに見つけることができる、たしかに一考する価値のある方法だがリスクが大きすぎる。

 

ジュエルシードの強制発動ということはとどのつまり、暴走状態に移行させるということに他ならない……迅速に封印処置をしなければいけないんだ。

 

「なのは、ジュエルシード封印しに行け、なるべく早く。レイハ、なのはをよろしく頼むぞ。ユーノは一先ず俺と一緒に来い」

 

「うんっ、ばっちりやってくるからね!」

 

『マスターをお守りし、マスターの力を最大限引き出すのが私の役目です。言われずともやってやりますよ』

 

「よし、そんなら各々自分の役目を果たすとすんぞ。はい散開、ユーノ落ちねぇように気を付けろよ!」

 

「わわっ! ちょっと待ってくださいっ、掴むものがなくてっ!」

 

 なのはと俺は同時にアスファルトを蹴る。

 

 なのはは空中へ飛翔しビルを飛び越えて一直線にジュエルシードの元へ、俺はなるべく魔法を使いたくないので魔力付与を身体に巡らせて身体強化を施し、車もトラックもなにもかも一切通らない車道を走る。

 

 既に発動してしまったジュエルシードを封印することは俺にはできない、俺でもできるのは発動前のジュエルシードを封印することだけなので、そちらはなのはに任せるしかない。

 

だが俺の予想では、相手側はフェイトをジュエルシードの回収にあてると思うので、この配役は適切だと考えている。

 

実際ジュエルシードを強制発動させたのはフェイトの魔法だったし、それなら封印と回収もフェイトが担当するという推察は間違っていないだろう。

 

なのはもまたフェイトと会いたそうな顔をしていた、フェイトの魔法を見た瞬間顔が輝いたからな。

 

 ……別に自分が疲れているからなのはに丸投げした、とかそういうわけでは決してない。

 

昨日と一昨日にアリサちゃんの家で鮫島さんにしごかれまくって筋肉痛だとか、つい先ほど行われたなのはとの模擬戦で魔力使いすぎてしんどいとか、そんなことは決して。

 

それに一応俺にも役目があるのだから、それをきっちり果たそうとはしているのだ。

 

 今回の俺の仕事は、なのはがジュエルシードを封印するまでの間、邪魔が入らないようにフォローすることだ。

 

要するにフェイトとタイマン勝負をさせる、ということである。

 

まぁ裏を返せばフェイト以外の相手をする、ということにもなるのだが。

 

「ユーノ、障壁頼むわ」

 

「はい!」

 

 俺の頭の上で精一杯髪を引っ掴み、必死に落ちないようにしていたユーノが薄緑色の障壁を展開させる。

 

防御魔法の発動を完了した直後、オレンジ色の塊が障壁に勢いよくぶつかった。

 

 視界の上端部分で微かに影が見えたので防御が間に合った。

 

ユーノに障壁を頼んだのは、自分の魔力を温存しておきたかったという自堕落な考えからである。

 

 薄緑色の障壁に阻まれ奇襲が失敗したオレンジ色の塊は障壁を蹴り、俺たちの前方の道路に着地した。

 

額に赤い宝石みたいな石をつけ、肉食獣特有の凛々しい目を持ち、二房のたてがみが風に揺らし、艶やかで触り心地の良さそうな赤っぽいオレンジ色の毛をした狼……俺には分かる、あの毛並みの維持にはかなり力を入れていて気を配っているということが……。

 

しかし狼……なんで日本に? この空間にいるということはフェイト達の仲間か? ……なんだこいつ、ご存知ねぇよ。

 

「お前なんだこらぁ! 動物は超好きだけど敵対すんなら容赦しねぇぞ! モフらせろやこらぁ!」

 

「兄さんっ! 落ち着いてください! 願望が、願望が口からこぼれてます!」

 

 いけないいけない、普段俺に近付いてくる動物なんていないからテンションが上がってしまった。

 

鷹島さん家のニアスはやけに俺に懐いてくれていたが、基本的に俺は動物から好かれることがないのだ、だからこの溢れんばかりの愛情はいつも俺から動物への一方通行なのである。

 

犬でも猫でも大きくても小さくてもなんでも好きだ、目の前の狼も多分に漏れず可愛いし格好いい、その上毛並みも良いとくればこれはもうモフるしか選択肢はない。

 

「この姿を見せるのは初めてだったね、あたしだよ、徹。今日は一段とおかしいじゃないか、元気そうで何よりだよ」

 

 オレンジ色の狼が光に包まれたかと思ったら、胸元が菱形に開いている女性が現れた、ていうかアルフだった。

 

「アルフっ、お前狼耳狼尻尾ってだけじゃなかったのか! もう一回狼にもどってくれ、そして触らせてくれ!」

 

「兄さんっ! あれは敵ですっ、ジュエルシードをめぐって戦っている勢力の一人ですよ! なにを言ってるんですかっ」

 

 お前こそ何を言っているのだと言いそうになったが咄嗟に飲み込んだ、きちんと説明してやるか。

 

「あのなユーノ。これは俺たちにとっても好都合なんだぞ? あ、アルフは狼モードになってちょっと待っててくれ」

 

「ど、どういうことですか?」

 

「あたしは狼の姿になるのが前提なのかい? べつに構わないけどさ」

 

 狼モードになったアルフへ近づき存分にモフモフしながらユーノとの話を続ける。

 

敵対勢力であるアルフにも聞かれてしまっているが、まぁ大丈夫だろう、細かいことは気にしなさそうだし。

 

「まずユーノが言う敵の勢力、アルフたちの戦力だが、現状の俺たちの力を超えているのはわかるか?」

 

「そう……ですね。金色の少女(フェイト)オレンジ色の女性(アルフ)、そして結界を張っているもう一人。フェイトやアルフだけでもすでに手一杯、これに加えて同程度の魔導師がまだ控えているのなら僕たちの力では及ばないですね……」

 

「言っとくけどリニスは、あたしやフェイトよりもぜんぜん強いよ? あぁっ、そこいいっ。徹は撫でるの上手だねぇ」

 

 二房に分かれているたてがみに指を通しながら、もう片方の手でアルフのあごのあたりを撫でる。

 

素晴らしい毛並みだ、指が一切引っかかったりしない艶のある肌触り、クセになりそう。

 

「でもアルフはフェイトと共にジュエルシードの方に向かわず、俺たちの方に来た。きっとアルフは俺たちの足止めが任務で、フェイトの邪魔をさせないようにするのが目的なんだろう。それならその作戦に乗っかるのが一番都合がいい。つまりは代表者同士の一対一の勝負だ。なのはが勝てば俺たちに、フェイトが勝てば向こうにジュエルシードが渡る。別にここで無理して戦う必要はねぇんだよ」

 

「総力戦では僕たちに勝ち目がないから、ということですか……。ぐうの音も出ませんね、自分に力がないのを悔やむしかないなんて……」

 

「あぁ、そういえば徹の言うとおりだね。なんでリニスはこんな作戦にしたんだろう? ま、いっか。どうせフェイトが勝つだろうし、あたしは徹とお喋りできるし。もう一回徹と戦ってみたかったっていう気持ちもあるけどね。あははっ、そこはこそばいってばっ!」

 

「俺はそうそう何回も戦ってらんねぇよ、またの機会にしてくれ」

 

 首付近は弱いようだ、発見した。

 

しかし撫で甲斐のあるいい毛質だなぁ、アルフのお腹の辺りを枕にして顔を埋めて寝たいレベル。

 

「そういえば徹の頭の上に乗ってるそいつはなんだい? 徹の使い魔?」

 

「僕は使い魔じゃないよっ!」

 

「こいつは俺の依頼主、ユーノっていうんだ。食べるなよ?」

 

「食べないよ、あたしをなんだと思ってんのさ。そういえば前にちょろっと聞いた気がするね、そんなこと」

 

 なんだと思ってるって……今は狼じゃねぇか、思いっきり捕食対象だろう。

 

 ユーノは少し憮然とした態度で俺の頭の上に座っている、この状況がやるせないんだろうな。

 

しかしここは我慢してもらうしかない、総合的な戦力を鑑みれば俺たちが負けるのは目に見えているんだから。

 

「リニスさんはどこにいんの? 結界が発動してるんだからこの戦域にはいるんだよな?」

 

 リニスさんの姿が見えないので聞いてみた、あの人が背後にいたりしたら身の危険を感じるので場所を把握しておきたい。

 

「どこか高いところであたしたちを見てると思うよ。あっ、あそこにいた、ほらこっち見てるよ」

 

 この辺りの建物で一番背の高いビル、その屋上にリニスさんがいた。

 

結界を維持しながらこちらにも目を向けていたようだ、視線が合った時に身体に寒気がしたのはパブロフの犬的なあれだと思う。

 

俺の身体が恐怖を憶えているんだな、もちろん身体だけじゃなく記憶でも当時の恐怖を憶えているけども。

 

 そんな内心の動揺をおくびにも出さずにアルフをもふもふしながら聞き込みを続ける。

 

「なんでリニスさんが戦わないんだ、強いんだろ?」

 

「さぁ? もしかしたら修行の一環かもしれないね、あたしもフェイトもリニスに戦い方を教えてもらったからさ」

 

「戦わない理由はわかりませんが、戦闘に参加されるとこちらが困るのは決定的ですね」

 

「それを言うなよ、虚しくなるだけだろ」

 

「そろそろ戦いも終わるんじゃないかい? 見に行っ……ッ!」

 

 ゴオォォウンという、突然の轟音と閃光。

 

魔力の奔流がビルのガラスを叩き割り、それらが雨のように俺たちの頭上へと降り注ぐ。

 

雑談をしながらなのはとフェイトの戦いが終わるのを待っていた俺たちに届いたのは試合終了のゴングではなく、青白い光と凄まじいまでの衝撃だった。

 

「うおぉッ! おいおい……なんだこれっ……」

 

「ジュエルシードの……暴走……? 大変だ……この規模は…………」

 

「フェイト……? フェイトっ!」

 

 ビルに阻まれているせいで光の発信源は視認できないが、ビルの高さをゆうに超え雷雲を貫いて天へと昇る、青白い煌めきを放つ柱が視界に飛び込んできた。

 

その光の輝きと大きさは畏怖を通り越してもはや呆然とするほどのスケール、まるで天より来たる……断罪の光のようだった。



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「精神一到何事か成らざらん」

 青白い光で構成されたぶっとい柱が空へ伸びているところを見るに、緊急事態であることは明らかだ。

 

まずは状況の把握が最優先、そこからどうするかを考えて行動する。

 

「アルフ、少しの間作戦会議したいんだ、守っててくれ。ユーノ、あのジュエルシードの状態をお前はどう見る?」

 

「えっ、わ、わかったよ……っ」

 

「……ジュエルシードの暴走状態です。最初に魔法にあてられて強い反応を示したのは励起状態とでもいいましょうか、危険ではありますけどすぐに悪化するものではないのでなのはに任せました。何がトリガーになったのかはわかりませんが……今はジュエルシードがその身に内包する魔力を暴れさせています……大変危険な状態です」

 

 そりゃあ危険な状態だろうな、青白い輝きは勢いを弱めるどころか徐々に強くなっていっている。

 

稲光がそこかしこに飛散してビルを穿っている、俺たちとジュエルシードを阻んでいたビルの腹に風穴を開けたのでその威力を知ることができた。

 

 こちらにも青白い魔力そのものが飛び散ってきているが、オレンジ色の障壁がそれらを防いでいる。

 

アルフが狼状態から人間状態になって――どちらがデフォルトなのだろうか?――障壁を展開してくれているのだ。

 

アルフの障壁の硬さは身をもって知っている、いくらジュエルシードが魔力を大量に保有していたとしてもあんな方向性も定まっていない、ただ表出されているだけの魔力ではそう簡単にアルフの防御は貫けない。

 

 それにこの程度の密度の魔力、なのはの砲撃を味わったことのある俺には恐るるに足らんな。

 

 ……足が震えているのは怖いからではない、筋肉痛だから立っているのがつらいだけだ、そうに決まっている。

 

「次、暴走状態になったジュエルシードは最終的にどんな被害をもたらすんだ?」

 

「ジュエルシードはかなりの力を持つロストロギアです……このまま悪化すると次元断層が発生すると思います……。次元断層が発生した場合、ジュエルシードたった一つだけでもこの星を丸ごと崩壊させるかもしれません……少なくともこの街が跡形もなくなることは保証できます」

 

「徹っ……障壁維持するの、大変になってきたんだけどっ……」

 

「もうちょっと頑張って」

 

 跡形もなくなる……か、そんな保証いらねぇなぁ……。 

 

 落ちつけ……落ち着けよ、俺。

 

冷静に頭を回せ、パニックになったらそれこそ終いなんだぞ。

 

「最後に、今の状態のジュエルシードを平静な状態にするにはどうすればいいかわかるか?」

 

「もう力技しかないと思います……暴れ狂うジュエルシードの魔力を純粋な魔力で制する、これしかないと……でもっ」

 

「危ないっつうんだろ? わかってるって、危ないってことは重々承知だ。でもそれしかないならやるしかないんだ。ユーノは暴走を止められなかった時に備えてリニスさんと一緒に結界の補強に回ってくれ、敵とか味方とか今は関係ないからな? アルフ、もういいぞ、ありがとう。次はユーノをリニスさんのところまで運んでやってくれ」

 

「と、徹っ! もしかしてあの魔力の嵐みたいなのに近付く気!? 死んじゃうって!」

 

「そうですよっ! 危険すぎます! まずは遠距離から砲撃か何かで抑えつけないと近付くこともできません! なのはや、あの金色の少女に遠距離封印砲撃を撃ってもらう方が……」

 

 あぁそうだろうな、普通はそういう手段を取ってから近付いて全力の魔力で封印、これが最善手だろうさ。

 

でも、それには問題がある。

 

 ユーノのセリフにかぶせるように反論を述べる。

 

「こんな時真っ先に動きそうななのはも、生真面目な性格をしているフェイトの姿も見えない。意識を失っているか、そうでなくても動けないくらいのダメージを負っているんだろう」

 

「じゃあリニスにやってもらえばいい! リニスは砲撃の腕もいいからさ!」

 

 リニスさんになのはとフェイトの役目を担ってもらうという方法も考えたが、そこにはリスクが生じる。

 

「いつジュエルシードが暴発して次元断層……だったか? それを引き起こすかわからねぇ。リニスさんに砲撃に集中してもらう以上、結界を解かなくちゃいけないんだ。その時に次元断層が発生しちまったら結界は一瞬で崩れ去り、俺たちの街に被害がでる。もしそうなった場合どれほどの数の死者が出るかは想像すらしたくねぇよ」

 

「僕が結界を維持します! そのリニスって人と兄さんでジュエルシードの封印を行えば……」

 

「一人分の結界でジュエルシードが暴発した時のエネルギーを抑え込めるわけがないから、リニスさんとユーノの二人でやってくれって言ってんの。いや、今の状態でも結界を破る程のエネルギーを放出するかもしれない。次元断層を起こさなくても結界を貫かれたら悲惨なことになるだろう、屍山血河阿鼻叫喚の地獄絵図の一丁上がりだ。だからユーノにも結界の方に回ってもらわなくちゃならねぇんだよ。それに俺一人でジュエルシードをやるっていうのは、別にそこまで分の悪い賭けってわけでもねぇんだよ」

 

「徹、どういうこと?」

 

 俺の魔力量や他の魔法の適性を考えると近付くこと自体が困難極まる至難の業であるが、近付くことさえ出来れば俺の特色が効力を発揮する。

 

「触れるくらいに近付ければ、俺のハッキングでジュエルシードを中からいじ繰り回すことができる。魔力の放出量を減らすこともできるだろう、後は自分の魔力でジュエルシードを抑え込んでしまえばそれで終わり。ほら、簡単だろ?」

 

 俺の弁でユーノもアルフも押し黙る、言い返す材料が見つからないようだ。

 

 当然ながら俺の説明には無理がある部分もたくさんあるが、それについては口に出していない。

 

嘘を吐いているというわけじゃあない、ただ喋っていないだけ。

 

レイハ曰く、これが交渉のコツらしい。

 

訊かれていないことまで教える必要はないのだ!

 

「ほら、作戦は決まったんだから持ち場につけ。ユーノは結界に集中しろ、アルフはユーノとリニスさんの護衛を頼む。リニスさんには結界の維持に力を尽くしてくださいと言っておいてくれ。はい、ユーノはアルフと一緒に行ってくれ」

 

 頭の上のユーノを掴んでアルフへ渡す、少しじたばたと抵抗していたが諦めてアルフの肩に乗った。

 

今こうしている間にもジュエルシードはその輝きを緩やかにではあるが強めていっている、早く対処しないと本当に手遅れになるかもしれない……させないけどな、俺がなんとしてでも。

 

「徹」

 

「ん? どうしたアルフ、まだ何かあっ…………」

 

 二人に背を向けジュエルシードへ向かおうとしたが、アルフに呼び止められた。

 

まだ何かあるのか? と振り向きざまに尋ねようとしたがセリフが途切れる。

 

アルフが突然俺を抱きしめてきたからだ。

 

 アルフは女性の平均と比べると背が高い方だが、俺も平均身長より高いので頭半分くらいの差がある。

 

視線を下げるとすぐそこにつむじが見えるしいい匂いする、ぎゅうっと抱きしめられているおかげで豊満な胸部が身体に密着している、腕にあたるオレンジ色の髪がさらさらしていてこそばゆいけど気持ちいい……って、なにしてんのっ!

 

やばいやばいやばいっ、心拍数が急激に上昇しているのが自分でもわかるっ、脳溢血発症したらどうしてくれる! 俺は抱きしめるのは平気だが、抱きしめられるのはダメなんだよ!

 

「ごめんね徹、あたしたちが無理にジュエルシードを見つけようとしたせいだ。しかもその始末を徹に任せることになっちゃった、ほんとにごめん……」

 

「あ、いにゃ……ごほんっ。……いや、き、気に……するな。すぅ、はぁ……。別に誰のせいとかじゃねぇよ、お互いの信念の下ぶつかった結果が今の状況だ。だからお互い協力して解決しようとしてんだろ、全力を尽くして最悪の結末だけは避けようぜ」

 

 必死に作り上げた虚勢(はりぼて)が早々に崩れてしまいそうなので、アルフの肩を押して身体を離れさせる。

 

「精神一到何事か成らざらん! やろうと思えばなんでもできる! 頑張ろうぜ!」

 

 にっ、と笑ってアルフへ拳を向ける。

 

「あははっ、不思議だね、徹がいると何でもできる気がしてくるよ。うん、がんばろう!」

 

「兄さんは指揮官に向いてますよね、絶対。頑張りましょう、ここで終われませんからね。街を消すわけにもいきません!」

 

 アルフが俺の拳に自分の拳をぶつける、ユーノには人差し指を差し出してハイタッチのような感じでぶつける。

 

 よし、いい感じに士気が上がってきた、やっぱり雰囲気は暗いよりも明るい方が良い。

 

ミッションの成功率にも影響するからな、テンション上げていかねぇと。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 怖くないわけがない。

 

あんな全方位に魔力をばら撒いてゴジラも真っ青なほどにビルを壊しまくっている、俺の三十メートル前方に浮かんでいる魔力の塊に突っ込んでいかなきゃならないんだから、そんなもん当然怖いに決まってる。

 

 誰かが代わりにやってくれるのなら是非やってほしいし、できることなら今すぐ逃げたいとも思っている。

 

 足だってめちゃくちゃ震えてる、武者震いとか言って誤魔化せないレベル、生まれたての小鹿か、今バスドラムのフットボードに足を乗せたら六十四ビートとか出せそう、なにそれこわい。

 

手だって強張ってしまって握り締めた状態から戻らない、緊張とは無縁の生活を送っていたせいで耐性がないんだ、今ジャンケンしたら百パーセント負ける自信がある。

 

ジュエルシードの暴走止めるの失敗したらどうなっちまうと思ってんだよ、この街が地図から消失するんだぞ、そりゃ緊張もする……やばい胃袋出てきそうだ、カエルかよ、胃袋出てきたら飲み込んでやる。

 

 道路を破壊してアスファルトを融解しながら、光を放ち続ける小さい宝石を見る。

 

ギアを徐々に上げているジュエルシードの青白い閃光がとうとう俺の近くまで飛んできた、魔力の放出量が増えているんだ、終末へと着実に歩みを進めている。

 

 ジュエルシードが脈動するように一拍、ドクンと動き、一際大きい稲光が天空めがけて空気を焼きながら飛んでいく。

 

永遠に伸び続けるかと思ったがすぐに結界に阻まれた、と同時に危機感を覚える。

 

結界に亀裂が入った……リニスさんとユーノが魔力を注ぎ込んだんだろう、すぐに亀裂は修復されたがさっきの一撃は悠長にビビっている暇はないというサインだ。

 

ジュエルシードの暴走状態は俺の予想を遥かに超えるスピードで進んでいる、今の魔力の放出を何発も受けたら修復が間に合わない、結界はじきに砕かれるだろう……もう、時間がない。

 

 覚悟を決めろ、ここで動かなかったら数多くの死人が出るんだ、俺が大切に思っている人も死ぬかもしれな……い。

 

死ぬ……? 俺が大事だと感じている人たちが……? なのはや恭也や忍、最近増えた学校の友達、高町家、月村家、バニングス家の人たちも…………たった一人の、家族も……。

 

「それだけは……ダメだろうッ……!」

 

 腕に足に身体全体に力を籠める、動けよ俺、正念場だ。

 

 正直言って世界がどうとか、地球がなんだとか、そんなもん俺にとってなんら関係ねぇ。

 

知らない人間が何千人何万人死のうがどうだっていい、俺の人生に影響を及ぼさない。

 

でも俺の大切に思っている人たちだけは、絶対に死なせるわけにいかない……何をしてでも、何としてでも。

 

 あんな顔色の悪い小さい宝石一つに、好き勝手にぶち壊されていい物なんて存在しない。

 

「ジュエルシードがなんだ……ロストロギアがなんだってんだよッ! 人間様の方が強いってとこ見せてやらァッ!」

 

 いつものように……いつもより強く魔力付与を全身に巡らせる。

 

 だが、このまま突っ込んでいったところで返り討ちに合うのはわかっている。

 

なので、なのはと模擬戦をやった時に思いついた、密度変更型障壁を互い違いに四重に重ね合わせる障壁……名付けて魚鱗でジュエルシードまで接近する。

 

その名の通り、魚の鱗のように展開された密度変更型障壁群による防御の硬さは驚くなかれ、なのはの殺人砲撃(ディバインバスター)を防ぎ切ったほどだ、その防御力はユーノにも太鼓判を押された魔法である。

 

 身体は補強した、盾も持った、あとは……この魔力の嵐に突貫する勇気だけだッ!

 

 ジュエルシードを目指して駆ける。

 

 放射される青白い閃光をできる限り回避し、躱せない光は障壁で防ぐ。

 

さすが……ビルに風穴を開けるほどの威力、凄絶なまでの衝撃が俺の盾を殴りつけたが……なんてことはない、なのはの砲撃に比べたら甘ったるいってもんだ。

 

なのはの砲撃の半分は、命を落とすかもしれないという恐怖でできているからな。

 

 

 

 

 

「くそ……くそッ……こんのクソ石っころがッ!」

 

 順調にジュエルシードとの距離を縮めていたが、残り十メートルを切ったあたりで光がその密度を増した。

 

 すぐ横を通った稲妻がコンクリートを砕き破片が飛散し、閃光で熱せられたアスファルトが肌を焼く。

 

 もはや戦場のような様相を呈している。

 

視界は青白く輝く光と赤熱したアスファルトで埋め尽くされ、放射される閃光を防ぎ続けてきた障壁は見る影もなく、必死に歩みを進めている足にも放射される圧力で負担がかかっている、なによりもメンタル面が限界に近い。

 

押しつぶされるような重圧、障壁が砕かれる前にジュエルシードへ辿り着かないといけないという焦燥感、失敗したら大切な人たちが死んでしまうかもしれないという恐怖、膝を折ってすべて投げ出したくなるほどの疲労……心の中はさまざまな色で塗り潰されたキャンバスみたいにぐちゃぐちゃだ。

 

 足の力が抜け、視線が下がりそうになったその時、一瞬だけなのに時間が止まったように鮮明に、閃光を絶えず放ち続けるジュエルシードの向こう側の光景が見えた。

 

 ビルの瓦礫の上で気を失っているなのはを、健気に……必死に守っているレイハの姿が。

 

ひび割れたその身体に鞭打って、防御魔法を使い続けていた。

 

 そういやレイハ言ってたな『マスターをお守りするのが私の役目です』って……っ。

 

 レイハが自身の職務を全うしようとしてるんだ……それなのに俺が、自分で買って出た役割りを投げ出して逃げるわけにいかねぇよな。

 

 もう一度、気合を入れ直してジュエルシードを見据える。

 

 このままではいずれ押し潰される、一手でもいい、なにか手を打たないと事態は悪化の一途を辿るだけだ。

 

ジュエルシードの暴走がエスカレートして次元断層を引き起こすか、そうでなければ俺が羽虫の如くプチッと潰されて道路のシミになるかの二者択一、どちらにしても……生き残るという未来はありはしない。

 

 考えろ、死ぬかもしれなくても考えろ、死ぬその瞬間まで考え続けろ、この騒動は俺が死ぬだけじゃ終わらないんだから。

 

 一つ、違和感を発見した。

 

「……これは……! なんとか、なんのか……?」

 

 障壁の維持でいっぱいいっぱいになっていて今まで気付かなかったが、ジュエルシードの可視魔力流の放射はランダムな部分もあるけど、同時にある程度の規則性もある。

 

 情報を照合する為、視界には入っていたが見流していた記憶を想起する…………やはり間違いない。

 

 放たれる光の柱は三百六十度全方位を隙間なく埋め尽くすように照射されてはいるが、そこにはタイムラグが存在する。

 

一本一本を照射する間隔があまりにも短いために把握しづらかったが……分かってしまえば、気付いてしまえばそれははっきり見て取れる。

 

 ざっくりと例えるなら……ABCDEの五ケ所があるとする。

 

地点Aに向けて閃光が放たれたなら、地点群BCDEにも閃光が放たれないと地点Aには再度撃たれることはない。

 

BCDEへ向けて放たれる順番はランダムなようだが、A以外の全てを撃ってからでないとAには撃たれない。

 

つまり……一度地点Aへ閃光が放たれたのなら、すべての地点へ閃光が放たれるまでの間に限り、地点Aは安全地帯となる……空白が生まれるんだ。

 

 ならば、俺がいる場所からジュエルシードまでの道が拓けるその瞬間が、いつかできるはずだ。

 

その瞬間がくるのを障壁の裏に隠れてじっと待つ。

 

俺の障壁が砕かれる前にその瞬間がくるのか確証はないんだから滅茶苦茶不安だし、今行くべきなんじゃないかという焦燥感にも駆られ続けるという精神的拷問……ヤスリで心臓を削られるような責め苦。

 

 それでもいつかくると信じ、ジュエルシードが放ち続ける光の柱を観察し、計算する。

 

 四重に展開された多重障壁・魚鱗の一番内側の障壁にひびが入ったその時に、きた。

 

「こッ……こだァ!!」

 

背後も、左右も青白い魔力光で埋め尽くされているが、俺とジュエルシードの間には……遮るものは何もない、閃光はこない!

 

 これを逃せば確実に終わる。

 

乾坤一擲、溜めて残しておいた力を足にまわし、襲歩を使い急速接近。

 

十メートルを切った距離を零距離まで詰める、いつもなら気にも留めない時間なのにすごくもどかしい。

 

早く、早く近付けッ、ぼろ雑巾みたいになってしまった障壁は邪魔だから展開を解いてしまったんだ、今あの青白い稲妻を放たれれば俺は消し炭になる、そのダメージに耐えることはできない、障壁の後を追うように次は俺がぼろ雑巾になる。

 

 スロー再生するようにゆっくりと動く世界、その世界でジュエルシードが閃光を放つために青白い光を収縮させ俺の方向へと向けた。

 

「届けええぇぇッ!」

 

 間に合わないかと諦めかけたが間一髪、紙一重の差で俺の方が早かった。

 

 ある意味待ち焦がれたジュエルシードにやっと、この手が触れる。

 

触れた瞬間、青白い魔力流で押し潰されそうになった借りを返すが如く、握り潰す勢いで俺の全力をもって魔力を注ぎ込み、抑えつけ、ハッキングを発動。

 

 ここまできたら後はジュエルシードの中身、暴走した回路を断ち切るようにハッキングで暴れ回って終わり……それでやっと……終わる!

 

 ジュエルシード内部へ魔力を潜り込ませ、深層部のコアがあるところまで辿り着いた。

 

このコアへ俺の魔力を送り込み、あらゆる回路を遮断させるように書き換えてしまえば暴走は止まる、ジュエルシードのメインコンピューターに相当する部分が壊れてしまう可能性が無きにしも非ずだが……別にいいだろう危険なものだし、きっとユーノも許してくれるさ。

 

 両手に力を籠めて実行に移そうと思った時、俺の脳内にうねりを伴いながらイメージが、意識が、叫びが流れ込んできた。

 

『いやだ……いやだよっ……一人はいやだっ……』

 

『母さん……まだ帰って、こないのかな…………っ』

 

『『寂しいよっ』』




次で……次で終わるはず……。


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「それがなによりの報酬だ」

 ジュエルシードから流れてくる二つのイメージ、それは二人の少女の記憶ともいえるものだった。

 

 左右の目で違うものを見るかのように、同時に頭の中に注ぎ込まれる。

 

 一つは見覚えのある部屋の映像、つい最近上がったんだから憶えている、これはなのはの部屋だ。

 

ただ、先日入った時とは細かいところで内装が異なっていた。

 

例えばカーテンの色が違ったり、大きなクマのぬいぐるみが置いてあったりと。

 

 幼い少女の足が見える、膝を抱えて部屋の隅っこで座り込んでいる様子。

 

日が落ちて真っ暗なのに明かりもつけずに布団をかぶり、その小さな身体をさらに小さくするように縮こめていた。

 

 膝を抱える腕を震えるままにして、緩慢な動きで頭を微かに持ち上げて窓へ目を向ける。

 

そして今にも泣き出してしまいそうなくらいに瞳を濡らしながら、か細いため息をもらした。

 

 一拍置いて、弱々しく口を開く。

 

 

 

 こっちは記憶にない部屋、床は白くて清潔感を強調している。

 

奥行きも高さもあるので部屋は大変広く感じるが、その部屋には金髪の幼い少女と毛の長い猫しかいない。

 

そのせいで部屋全体がどこか冷たく、もの悲しい印象へと変わってしまっている。

 

 少女は輝くような金色の髪を水色のリボンで結い、頭の両側で二つに分けていた。

 

フェイト……の幼少期だとは思うのに、どこか……違和感が、魚の小骨がのどに刺さっているような、そんなもどかしい感覚が俺を襲う。

 

 少女はソファに腰掛けて足をぷらぷらと遊ばせながら、隣で丸まって寝ている猫の胴体部分を毛並みを整えるように優しく撫ぜ、ぴくりぴくりと耳を動かす猫を見て儚げな笑みを浮かべた。

 

 玄関の方へ目を向け、その表情に悲哀の色を加えてさらに影を足す。

 

暗くなった外を切り取る窓を経由して、隣でくつろぐ猫へと視線をもどした。

 

 なにかを我慢するように唇を震わせながら深呼吸して、口を開く。

 

 

『『寂しいよ……っ』』

 

 

 その言葉をきっかけに、俺の脳内に無理矢理注ぎ込まれた二つのイメージは渦を巻いて一つになり、青白く煌めく人型のシルエットに変わる。

 

徐々に遠ざかるその青白いシルエットは、触るだけで凍えてしまいそうな、漆黒の格子に囚われていた。

 

青白いシルエットが黒の格子の隙間から助けを求めるように俺へと手を伸ばした時、それらのイメージが泡沫の夢だったかのようにかき消えた。

 

俺の両手の中でおとなしくしていたジュエルシードがまた暴れ出したのが原因だ。

 

 接近を果たした時と同じように全力で魔力を込めて抑えつけるが、同じようにできないことが一つ発生してしまった。

 

「あんなの見せられて……めちゃくちゃにぶち壊すなんて、できねぇよなぁ……っ」

 

 ハッキングで中身を書き換え、コアや魔力を通す回路を断ち切るという作戦だったが、とてもじゃないがそんな真似はできない気持ちになってしまった。

 

 きっと二人同時に封印したんだろう。

 

そのせいで二人の魔法がコンフリクトし、ジュエルシードの暴走が引き起こされた。

 

その時に魔力的なつながりがジュエルシードとなのは、フェイトに発生し、そのつながりから俺がさっき見たイメージを抜き取った。

 

 だが、なぜ抜き取る必要があったんだ? なにか理由があるのか? 

 

「っく! 落ち、着いてっ……考えさせろよ……っ」

 

 どくん、と心臓が脈動するように、瞬間的に魔力の放出量が増えた。

 

手の隙間からもれ出た閃光が上下に分かれて飛んでいく。

 

上に放たれた光は結界に阻まれ、下に逃げた光は地面を抉るように砕き、石つぶてを散らした。

 

 ちんたらやっている時間的猶予はない。

 

なのはと模擬戦闘をやった時にだいぶ魔力を使ったんだ、アルフと戦わなかった分余裕はあったしそれなりに回復はしたが、いかんせん元の魔力量が少ない。

 

それにジュエルシードに肉薄するときの障壁(魚鱗)に膨大な量の魔力を割いちまった、魔力の残量は考えたくないなぁ……。

 

すぐに決着(ケリ)をつけないといけねぇのに……。

 

 ここでジュエルシードを押し込む力を緩めると、近付く際に散々苦しめてくれた閃光をまたぞろ吐き出してくれることだろう、今の俺のコンディションで距離が開いてしまえば、もうその距離を詰めることはできない。

 

閃光を抑えつけるための魔力を減らすわけにはいかないんだ。

 

 手の中のジュエルシードについて考えてみる。

 

ユーノはジュエルシードを『願いを叶えるもの、願望器』と評していた。

 

願望器……いまいち俺にはしっくりこなかったので、魔法のランプとかそういうものを頭に浮かべていたことを憶えている…………んむ? そうだとしたらおかしくないか?

 

 これまでのジュエルシードを思い起こす、前例が三つしかないので考える幅は狭いし確証だってないが。

 

一回目はジュエルシードの思念体、二回目はニアスに憑りついたもの、三回目が手の中で狂ったように光を撒き散らすコイツだ。

 

 願いを叶えるというユーノの言が本当なのだとしたら、それは願いをあまりに歪めて捉えている。

 

 一回目のジュエルシードの思念体は、周りに動物や人間もいないのに周囲の建築物を破壊していた。

 

周辺に空気のように漂う『物を壊したい』『人を傷つけたい』というような負の願いをその身に宿して動いたというのなら、『人に優しくしたい』などのいわば正の願いを無視したということになる。

 

 二回目のニアスに憑りついたジュエルシードも、かなり捻くれた願いの受け方をしている。

 

ニアスはまだ仔猫だ、たしかに大きくなりたいと願ったかもしれないが、あんな凶悪なフォルムにしてくれとも、あんな気性の荒い化け物にしてくれとも願いはしなかったはず。

 

鷹島さんと彩葉ちゃんにあれだけ愛されていて、さらに言えばこの俺にすらよく懐いているあのニアスが、人や物を傷つけるような願いをするとは思えない、やはりニアスの意思を無視している。

 

 今回の三回目だってそうだ、暴走状態になった原因の二人(なのはとフェイト)から寂しいという感情を感じ取り、その願いを叶えようとしたのであれば、ビルに風穴を開けるような閃光で排斥しようとするのはどう好意的に考えようとしてもおかしいのは明白。

 

こんなもの、もはや猿の手と同義だ。

 

 仮説……願望器と評したユーノの言葉を事実とする条件付きではあるが、ジュエルシードは俺がいじ繰り回す前から壊れている、もしくはエラーを起こしている。

 

仮説が出たところで、そこからどうするんだよって話だが。

 

 ふと、脳裏にとある光景が思い浮かんだ。

 

さっき見た、見させられたイメージ映像、青白い輝きを放つ人型のシルエットを縛り付ける……黒の監獄。

 

 閃きそうな感覚、これを逃してはいけない。

 

 エラーを起こしているジュエルシード、何かを縛り付けている冷たい漆黒の檻、古代のオーバーテクノロジー、途轍もない力を持つロストロギア、悪意という方向へ願いを歪める願望器…………。

 

「もしかして……改悪された、のか……?」

 

 ふと口に出してしまった俺の言葉に返事をするように、力強くジュエルシードの閃光が輝いた。

 

……返事をしてくれるのは嬉しいが、もう少し穏便な返事の仕方をしてほしかったぜ。

 

 これなら説明はつく、解決までの筋道が見えた。

 

俺の予想は、誰かがジュエルシードの『願いを叶える』という機能に手を加え、本来の力を歪曲させ使用者の意図せぬ結果を生み出そうとしたんじゃないか、というもの。

 

技術が発達した異世界で作られたんだ、ジュエルシードのプログラムを書き換えるのは容易だっただろう……なぜそんなネガティブな改造を施したのか俺には理解できないが。

 

 ジュエルシードが見せたイメージ映像……漆黒の格子、檻という監獄。

 

あれは本来の力を封じて歪められているということを、必死に伝えようとしていたのかもしれない。

 

助けてくれ、と叫んでいたのかもしれない。

 

 分厚い雲に閉ざされていたが、光明が差した。

 

時間に余裕はないんだ、早速取り掛かるとしよう。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 神経が擦り切れそうなほど緻密な、集中力のいる作業。

 

 尋常ではない魔力を秘めたジュエルシードのコアにハッキングして魔力を潜り込ませ、異常な配置になっているプログラムを探して消して、正常な部分は傷つけないように操作しなければいけない。

 

かといってハッキングに集中しすぎれば、ジュエルシードが放ち続ける閃光の対処が疎かになる。

 

左右の手で文字を書くとかそんな次元じゃない。

 

両手でギターを弾きながら、口でハーモニカを吹き、足でキーボードを奏でているような気分だ、なにその大道芸。

 

 ジュエルシードの中心、魔力を溜め込んでいる部分のすぐ近くに改悪箇所があった。

 

細心の注意を払いながら改悪箇所を書き換え、正常に戻す、これでジュエルシード本来の姿に元通り……ミッションコンプリートっ! 俺すごい!

 

 後は垂れ流しになっている魔力を抑え込んで、開きっぱなしになっている弁を閉じれば暴走は止まる。

 

「けほっ……かっは……っ、なんだよ、これ……あともうちょいなんだぞ……っ!」

 

 最後の仕事だ、と張り切って魔力を出そうとしたが、出たのは魔力ではなく俺の血だった。

 

なんの冗談だ、笑えねぇよ。

 

「くっ……こんのっ……げほっ」

 

 想定してた以上にハッキングに魔力がかかったのが原因か……くそったれ……。

 

 なのはとの模擬戦、ジュエルシードへの接近、接近した後の抑え込み、ジュエルシードのプログラム改造でのハッキング、意外に使ってたな魔力。

 

 ジュエルシードのコアの部分の改悪は直したんだ、もう次元断層を引き起こすレベルの爆発はしないだろう、爆発したとしても小規模なものだ。

 

なのはやユーノたちを巻き込む程の大爆発は発生しない、それならもう……いいか。

 

 これだけ近くにいるのだから俺を消し炭にするくらいの火力はあると思うが、ここが俺の限界だ、捻り出そうにも魔力は一滴も出てこないし身体中に走る痛みが集中を阻害する。

 

 諦めかけていたその時、金色に輝くなにかが俺の視界に入った。

 

「ごめんね徹、遅れちゃった。私も手伝うよ、このまま終わっちゃうと私たちの立つ瀬がないから」

 

 俺の手の中で輝きを一層強め、膨張し続けていた青白色の魔力の塊が金色の魔力によって抑え込まれていく。

 

 ヒーローは遅れてやってくる、ってのは本当らしい。

 

外は黒色、内は赤色のマントを翻しながら俺の正面に立ち、小さな手で俺の手を包み込むように重ねる。

 

 フェイト・テスタロッサ、魔法の才気溢れる少女がここ一番で加勢してくれた。

 

 違う魔力で抑え込んでも、磁石の同じ極を近づけるのと同じように反発し合うのではないかと内心焦ったが、そんな心配どこ吹く風であっさりと抑え込んでいく。

 

俺の魔力が透明だからか? いやもう正直、なんだっていいけどな、解決できるのならなんだって。

 

 二人で協力してジュエルシードから溢れていた魔力をようやっと抑え、魔力流の放出を止めることに成功した。

 

手を圧迫するような感覚はもうない、もう命を脅かすような青白い閃光や、世界を滅ぼすような次元断層も起きない……やっと、終わったんだ。

 

 誰も死なせずに済んだという安心感から気が抜けて、もはや身体を支えることすらできず、フェイトに正面から倒れるように身体を預けてしまう。

 

「ひゃぁっ……と、徹……? どうした、の? 大丈夫?」

 

「すまんな、フェイト……助かった。ついでに肩貸してくれ……」

 

「ぜ、全然いいからっ……み、耳元でささやかないでっ…………」

 

 フェイトの力も借りながら地面に座り込み、一息つく。

 

年齢が少なくとも五つ以上は違う女の子に助けてもらうという情けない状態だ、まさか最後にこんな仕打ちを受けるとは思わなんだ。

 

「けほっ……フェイト、お前バルディッシュはどうしたよ。なぜに素手?」

 

「え、えと……封印しようとした時にジュエルシードの魔力にあてられちゃって……今は自動修復中……だよ」

 

 レイハもぼろぼろだったし、やっぱり二人同時に封印魔法使おうとしたんだな。

 

レイハはそのぼろぼろの状態で魔法を使ってたんだ、今はどうなってんのか。

 

「あいつらは……どこらへんにいたっけ……。早く見つけてやんねぇと……」

 

「まだ休んでおかないとダメ。血だって出てる、座ってて」

 

 立ち上がってなのはとレイハを探しに行こうとしたが、フェイトに手を引っ張られて立てなかった。

 

引っ張られていなかったとしても、立ち上がることができたかどうかわからないけど。

 

「徹は無茶苦茶だよ……ほら、動かないで?」

 

「汚れるからいいって、大丈夫大丈夫」

 

「そんなこと気にしないで、私たちのせいなんだから……これくらいさせて」

 

 俺の口元に残る吐血の跡をフェイトがマントの内側で拭う、同じ赤だし目立たねぇか、それ以前にバリアジャケットだったな。

 

 なのはとレイハのことはユーノに任せるとしよう、俺はしばらく動けそうにない。

 

ちゃんと二人の魔力を感じるから両名とも無事だろう。

 

「アルフにも言ったけどな、誰かのせいとかじゃないんだよ、今回のことは。俺たちにジュエルシードを集める理由があるように、フェイトたちにもやらなきゃいけない理由があった。そんだけだろ。何事もなく終わって万々歳、それでいいじゃねぇか」

 

「何事もなく終わってなんか……ない。徹ばっかり傷付いて、こんなに……血まで吐いて……」

 

 フェイトは俺の胸元を弱々しい力で掴んで、絞り出すようなか細い声で喋る。

 

 優しいねぇ全く、敵同士だってこと忘れてるんじゃなかろうか。

 

しかしまぁ、これだけで頑張った甲斐があるってもんだ、まだ幼いとはいえこんなに可愛い女の子にここまで心配してもらえるなんて男冥利に尽きる。

 

「はっは……こんなにぼろ雑巾みたいになったのは俺に魔法の才能がないからだ、フェイトやなのはならもっとスマートに解決しただろうよ。それに……俺はこんなことくらいしかできないんだ、女の子の柔肌に傷をつけないよう矢面に立つくらいしか、な。だからそんな顔すんな、笑ってくれればそれで十分、それがなによりの報酬だ」

 

 暗い顔ばかりするフェイトに言葉をかける。

 

足にも力が入らず立てないような、情けなさの極致のような状態ではあるが精一杯虚勢を張る、心配してもらえるのは嬉しいけれども、悲しい顔をされるのは本意ではないんだ。

 

「……! ふふっ、徹は本当に変わってるね。ありがとうっ」

 

 太陽よりも燦然と、しかし月よりも愁いを帯びてフェイトが微笑んだ。

 

つい見惚れてしまうのは男の性というもの、誰も責められはしないだろう。

 

 俺とフェイトはひび割れた道路の真ん中で、身体が触れ合うような距離でお互いの瞳を見つめ、他愛もないお喋りに興じる。

 

空を覆っていた黒雲はもう跡形もなく、星々がひしめき合うように煌めいていた。




こんなに長くなるなんて……さすがに予想していませんでした。


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第三章
日常~試食会~


 重たいまぶたを持ち上げればいつもと同じ、自分の部屋の天井。

 

 身体が重く、節々も軋むような感覚がする。

 

 机の上に時計が置かれているのだが、上半身を起こして頭を向けるのも億劫だ。

 

携帯で時間を確認しようとするが、なぜか右手が動かせない。

 

なんか熱いなぁと思いつつも特に気に掛けることなく、右手を動かすのは諦めて左手で枕元をわさわさとまさぐって携帯を見つける。

 

「がっこ……遅刻だ。……まぁいいや」

 

 起きたばかりの目には眩しい光で表示される時間は九時、今さら慌てたところで遅刻は確定されている。

 

この際だからゆっくりとこの微睡みを享受しよう。

 

 昨夜は頑張ったんだ、このくらい許されてしかるべきだ、うん、そうだ。

 

 自分に言い訳しながら枕に頭を置いてもうちょっとだけだらだらしようと顔を横に向けたら、右腕が重たい理由が分かった。

 

「……また潜り込んだのか……姉ちゃん」

 

 逢坂真守(あいさかまもり)、我が姉が勝手に俺の部屋に入り、勝手に俺のベッドに這入り込み、勝手に俺の右腕を枕にすやすやと熟睡していた。

 

頭を二の腕のあたりに乗っけているせいでかなり顔が近い、とても至近距離、おかげで顔がよく見える。

 

 長いまつげに小さく上を向いた鼻、ゆったりとしたリズムではかれる吐息、辛辣な言葉を形成するやわらかそうな唇も閉じられていれば可愛いものだ。

 

(俺の右腕)が動かないように、自分の右腕で抑えて頬を擦り付けるせいでとてもくすぐったい。

 

俺の腕を枕にしていてよく眠れるな、固くないのか?

 

 気持ちよさそうに寝ているところ悪いが、俺もそろそろ起きないといけない。

 

心苦しいが右腕を解放してもらおう。

 

「姉ちゃん、起きなくていいから、ここで寝てていいから離してくれ」

 

 左手で肩を揺する。

 

目を固く閉じ、いやいやと顔を背けるがしばし続けていると半分ほどではあるがやっと目を開いた。

 

俺の右腕を掴んだままではあるが。

 

「うにゅ……あ、とおるくん……。おはょぅ、きのうも……おしごと、たいへ……はふ」

 

「ちょっ、手離して。あともうちょっとだけ頑張って」

 

 昨日俺が帰ってきた時、姉ちゃんは家にいなかったからきっと夜勤だったんだろう。

 

ぼろぼろのジャージ姿を見られて心配させずに済んでよかった、あのぼろ雑巾顔負けの格好を見たら姉ちゃんは卒倒しそうだし。

 

 どうにか手を離してもらおうと苦心していると姉ちゃんが顔を近づけてきた。

 

「さむぃぃ……。んぅ~」

 

「んむ、寒くないだろ。布団もかぶってんのに」

 

 口調もおかしいしだいぶ寝惚けているようだ、甘えるみたいに顔にすり寄ってきた……子犬か。

 

 シャンプーもボディソープも同じものを使っているはずなのに不思議といいにおいがする。

 

煩悩が鎌首を(もた)げたが気を強く持って打ち砕く。

 

 頭を上げている今がチャンス。

 

右腕を引っこ抜いて代わりに枕を差し込み、枕の上にぽふんとその小さな頭を落とす。

 

「はい、おやすみ」

 

「とおるくんも、いっしょに……ねよぉ……」

 

「ごめんな、俺はこっから学校だからさ」

 

 夜勤だったんだから、まだ十分に睡眠も疲れもとれていないだろう(うまいこと言ったつもり)。

 

顔にかかった髪の毛を優しく払い、頭を撫でてあやしながら寝付かせる。

 

「とお……ん、………き……」

 

 目が閉じられてゆっくりとした一定のテンポの呼吸に入り、寝たことを確認してから、姉ちゃんを起こさないように抜き足差し足で自分の部屋を出る。

 

自分の部屋から出るだけなのに盗人みたいな動きだな、俺。

 

 のそのそと歩きながら台所で朝飯の準備。

 

 身体が重たいし、心なし頭がぼやっとする。

 

前と一緒だ、魔力の過剰消費、しばらく休めばよくなるだろう。

 

リニスさんやアルフ、フェイトにも注意されたしなるべく魔法を使わないように安静にしておこう。

 

でも肉体的なダメージがない分アルフ戦の時よりマシなんだよな。

 

 自分の分を作り終えて、姉ちゃんが起きた時用にもう一食分作りながら、今日どうしようか考える。

 

急いだって遅刻なんだ、なら何時に行ったって変わらないし家の仕事をしてからでも構わないだろう。

 

「あ、いいこと思いついた」

 

 憂慮……というか気掛かりなこともあるし、一つ策を講じておくことにした。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 校門をくぐったのはちょうど昼休みの鐘が鳴った頃、計算通りである。

 

 昼休みになったばかりでまだ人通りのまばらな廊下を大きな紙袋を持ちながら歩き、教室の扉を開く。

 

「…………」

 

 教室に入ったら恭也から視線で懐疑的な挨拶を受けた。

 

学校では何の間違いか、温厚というキャラで通っている恭也の睨んでいるような鋭い目を見て怯えるクラスメイトの横を通り、自分の席に荷物を置く。

 

「お、おはよーっ」

 

「…………あぁ」

 

 刺すような視線に苦々しく頬をひきつらせながらも明るい挨拶を努めたが、恭也の目つきは変わらない。

 

その目の理由はわかっている、昨日のことが原因だ。

 

 昨日、模擬戦が終わりジュエルシードの回収に行く前、高町宅へなのはの帰りが遅くなると電話を入れた。

 

別に遅くなることは構わなかったのだろう、許可が下りたのだから……問題はなのは一人で帰ってきたということ。

 

恭也は、遅い時間にも関わらず俺がなのはを送らなかったことに少なからず思うところがあるのだろう。

 

 俺にも事情があるとはいえ恭也がそう感じるのは仕方ない、こいつは重度の妹思い(シスコン)だから。

 

 ジュエルシードを落ち着かせた後。

 

月夜の晩、すぐには動けない程疲弊していたので亀裂の入る道路のど真ん中で、フェイトとお喋りに興じているとアルフとリニスさんが合流。

 

フェイトたちと話しているうちに、なのはとユーノは俺に声もかけず帰ってしまっていた。

 

無事かどうか直接見て確認したかったのだが、自分で帰れたようなので深刻な怪我はなかったみたいだが。

 

 なのはのことだ、合わせる顔がないとか思って俺に黙って帰ったんだろうな。

 

どうせうじうじと悔やみ、悩んでいるに違いない。

 

 まぁだからこそ手を打ったんだけど。

 

 自分の席へ着き、紙袋から取り出したものを不機嫌そうなままの恭也へ突き出す。 

 

「恭也、これなのはに渡しておいてくれ」

 

「……? なんだこれは」

 

 恭也が受け取ったのは、紙で折られている持ち手のついた立方体の白い箱。

 

要するにケーキボックス、中身は推して図るべし。

 

 店舗は限られるけどこの箱、最近では百均でも売られていたりするのだから、いやはや、便利な世の中だ。

 

「何をどう考えたってケーキ。寝坊したしどうせだからと思って作ったんだ。これ、なのはに頼むわ。……中見んなよ?」

 

 中には他人に見られると少しばかりこっ恥ずかしいメッセージカードが封入されているのだ。

 

恭也のことだから、言わなくたって渡されたものの中身を覗いたりはしないと思うが、念のため。

 

あれを恭也に見られたら、俺は一週間くらい顔面にクッションを押し付けてワーッてなる自信がある。

 

「これは……昨日なのはが遅い時間に一人で、暗い表情をして帰ってきたことに関係あるのか?」

 

 受け取ったケーキボックスを検分するかのように()めつ(すが)めつして机に置いた恭也が、念を押すみたいに俺に確認を取る。

 

 暗い表情……ね、やっぱり思い詰めてるか。

 

「んむ、あるかないかで言えば……あるわな。だけど俺が説明する訳にもいかねぇからさ、悪いけどなのはから直接聞いてくれ。教えてくれるかはわからんけど」

 

 俺の返答を受けて、そう答えるのは分かっていたとばかりに手をぷらぷらとさせて窓の外に目を向ける。

 

その横顔からは不満の色も見えた気がした。

 

「……はぁ、わかった。……お前となのはが何をしているかは知らんが……なのはのことは当然、お前のことも一応心配しているんだ。あまり危険な真似はするなよ」

 

 どんだけ勘が鋭いんだ、さすが剣士。

 

いや……わかるか、家族のことだもんな。

 

 まったく……高町の家の住人は全員揃いも揃って善良な精神を持ってんだよなぁ、隠し続けるのは心が痛むよ。

 

「あぁ、わかってる……ありがとな」

 

「本当に理解しているのか疑わしいな」

 

 恭也は照れくさいのか呆れているのか、首のあたりを触りながら机を俺の机と向かい合わせた。

 

 そんな恭也を眺めて笑っていると、どこかからひそひそと話す声が聞こえる……女子の声だ。

 

断片的なキーワードが耳に入った、『見つめて微笑んでる』やら『カップリング』云々と。

 

どんな話をしているのか知らないが、また出所も根拠も不明の不愉快な噂をしているんだろう。

 

 こういうのは気にしないのが一番だ。

 

別に、全然、これっぽっちもなにも思わない、ほんとにほんと、俺のガラスのハートに傷なんて入らない。

 

「徹、あんた昼から登校なんてとんだ重役ぶりじゃない。あんまりサボると進級できなくなるわよ?」

 

 どんよりと肩を落としていると忍がやってきた、二つの弁当を持って。

 

「この学校のレベルは高いけどな、ダブったりはさすがにしねぇよ。テストさえ受けりゃ余裕だ。それよりもな、忍。いくらなんでも二つも弁当食ったらふとぶっ」

 

 殴られた。

 

「私が二つとも食べるわけじゃないわよっ! はい、恭也」

 

「お、本当に作ってきてくれたのか。ありがとう」

 

 いつも俺には言いたい放題言ってくるクセに。

 

言われるのはいやなのか、それとも太るという単語がそんなにいけなかったのかどっちだろう。

 

両方か? 両方だな。

 

 いつもより一つ多い弁当箱は恭也の分だった。

 

 感動だ……やっとこいつらの仲が進展したのか……。

 

涙まで出てきた。

 

いや、この涙は感動だけじゃないと思うけど、殴られた痛みもあるけど。

 

「恭也がいつまでたっても弁当出さねぇと思ったらそういうことか。朝弱い忍が弁当ねぇ、へぇ~」

 

「昨日徹が帰った後に忍が料理の勉強をしたいと言い出してな、その結果が弁当だ」

 

「私はたしかに朝弱いけど起きようと思ったら起きれるわよ。料理の腕でこれ以上徹に水をあけられるのは癪だしね」

 

「…………はぁ」

 

 嘆息するしかねぇわ、この二人には。

 

いつまでも幼馴染の感覚というか。

 

もっとこう、なんだ、深く甘い雰囲気にならんもんかね、お互いに親公認の仲なんだから。

 

なったらなったで確実に俺はお邪魔虫だろうから複雑だけど。

 

 早くもお弁当を食べ始めている忍が、俺の目の前に食べるものがなにもないことに気づいた。

 

「あんたお昼ご飯は?」

 

「家で食ってきた」

 

 ケーキ作成に熱が入って夢中になってしまい、気づいたら時間が昼に近かったのでそのまま家で食べてから学校に来たのだ。

 

「そういえば徹は今日も鞄持ってきてないな……。その代わりに関係なさそうな大きい荷物があるが」

 

 恭也が紙袋へと視線を向ける。

 

 ケーキボックスは恭也に渡したものだけじゃない。

 

あと大きめの箱が一つと小さめの箱が二つ、計三つが大きい紙袋に残っている。

 

 ケーキを作ったのはなのはに渡すという理由もあったが、それだけということじゃない。

 

もう一つ別の理由があるのだが、まぁその理由は今は置いておこう。

 

 久しぶりのケーキ作りだったので張り切って気合を入れて取り組んでしまったせいで、予定量を大幅にオーバーしてしまった。

 

せっかく作ったのに腐らせるのは勿体無い、でも俺と姉ちゃんだけでは食べきれない、なので学校に持ってきたのだ。

 

幸い、ここには甘いものが好きな人多いし……よく食べる人も多いし。

 

「なにそれっ! ケーキっ? 食べていいのっ?!」

 

 忍が机の横に掛けておいた紙袋の中身、ケーキボックスを目敏く発見した。

 

紙袋の中よく見えたなあ、これも一種の女の勘か?

 

 忍の目の色が変わってる……こいつ甘いもの好きだしなぁ、瞳が普段の五割増しで輝いている。

 

「ああいいぞ、そのために持ってきたんだ。恭也も食っていいからな。恭也には少し甘いと思うけど」

 

「頂くとしよう。ついでに店で出せるレベルか見極める」

 

「桃子さんと比べられたらさすがに見劣りするって。普通になにも考えずに食ってくれよ」

 

「え゛っ! 徹が作ったの? あんた軽食専門でスイーツは作ってなかったんじゃ」

 

「できないからといって諦めると思ってんのか? 甘味も練習してるに決まってるだろ。それに今度の勉強会で俺に作らせる気まんまんだったじゃねぇか」

 

「ぐぬぬ……」

 

 俺に料理やスイーツで負けるのがそんなにいやなのか。

 

これは単純に経験の差だと思うし、忍も練習したらすぐできると思う、ただ、年頃の女の子がしていい顔じゃないからその顔はやめた方が良い。

 

「私も試すわ。女性の目線から評価するから、おいしくなかったらまずいって言ってやる」

 

「だから普通に食べてくれよ、ハードル上げんな」

 

 ケーキ作りなんだから当然、砂糖とか材料の分量も計って入れているがなにぶん久方ぶりに作ったんだ。

 

勘は鈍っているだろうし、自分で味見はしたが、甘さも若い女性好みに調整されているかわからない。

 

ここまで持ち上げられたら不安になってくる。

 

「そうだ忍。どうせなら鷹島さんたちも呼んだらどうだ? 評価する人は多い方がいいだろう」

 

「いい案よ恭也。綾ちゃんにも声かけてくるわね。真希ちゃんと薫ちゃんはまだいるかしら?」

 

 恭也の提案を聴き入れ、すぐさま行動に移した忍は電光石火で鷹島さんの下へと駆けていった。

 

 おいおい冗談じゃねぇよ、万人受けする料理なんてないんだぞ!

 

「うおいっ! いい加減にしてくれ! これで口に合わなかったらどうする気だよ!」

 

「大丈夫だ徹、俺はお前の腕前を信じている」

 

「まだ食ってもないのによく信じれるなぁお前は!」

 

 忍を止めようと立ち上がった俺の肩を恭也が押さえて止めた。

 

この野郎……信じているなんて適当なこと言いやがって、今回で店に出せるか見極めるとか言ってたじゃねぇか。

 

「し、失礼します。お呼ばれしちゃいましたっ」

 

「呼んできたわ。残念だけど真希ちゃんと薫ちゃんはもう食堂に行っちゃったみたい」

 

 恭也と言い争ってる間に忍が鷹島さんを連れてきてしまった……もういいか。

 

食べてもらって悪いところがあれば次の機会に活かせばいいだけだし。

 

「そうか、なるべく女性の意見が欲しかったんだが……いないのなら仕方ないな」

 

「恭也は絶対に店に出す時のこと考えてるよな。ちなみにあの二人なら問題ねぇよ、どうせすぐ飛んでくっから」

 

「えっ? 飛んでくるって?」

 

 がさがさ、という音が外からかすかに聞こえたので窓を開けておく、そろそろだろう。

 

「なんでいきなり窓開けひゃぁ!」

 

長谷部真希(はせべまき)、ケーキがあると聞いて参上!」

 

太刀峰薫(たちみねかおる)……同じく」

 

 数秒後、二人の女子生徒が特殊部隊よろしく窓から突入してきた。

 

 こいつらが来るときは忍がキャラにそぐわない可愛い声を上げることが多いなぁ、突飛な登場の仕方をするせいだけども。

 

てか、ここ三階なんだけど……どうやって入ったんだ。

 

「ほら来た。意図してなかったが試食会になったな」

 

「二人とも、無茶しすぎだろう……」

 

「わわっ、真希も薫もなにしてるのっ! 危ないでしょ!」

 

「あはは、すまないね。心躍るワードが耳に入ってしまったものだから、つい」

 

「……仕方ない……ケーキと聞いたら、飛んで来ざるを……得なかった」

 

「はぁ……二人にはもう少し穏やかに動いてほしいわ。驚くほうの身になってよ」

 

 昨日と同様、俺と恭也の机を囲んでパーティーの様相になった。

 

ただ昨日と違い、広げられてるのが店で買ってきたものではなく自家製なので、正直内心ではどきどきだ。

 

「昼休みの時間も限りがあることだし、そろそろ徹ご自慢のケーキを頂こうとしよう。フォークとか用意してるのか?」

 

「自慢なんてしてねぇだろうがっ。紙袋の中にいくつか入れておいたぞ、ついでに紙の皿もな」

 

 俺と恭也の男二人で器の用意からケーキ切り分けまで準備をする。

 

日頃からコキ使われ慣れている俺たちの手際をなめてもらっては困るぜっ!

 

 俺たちが用意をしている間、女子たちは歓談していた。

 

「えっ、逢坂くんが作ったんですかっ!? なんでもできちゃうんですね……」

 

「これは試食も兼ねてるから、おいしくなかったらはっきりとマズいっ! って言うのよ?」

 

「試食? 店でも出すのかい?」

 

「ええ、恭也の家がやっている喫茶店・翠屋でね。試食であり試験なの。高評価ならもしかしたら翠屋で徹がスイーツも担当するようになるかもしれないわね」

 

「翠屋……あそこはとても、おいしかった。……紅茶が特に」

 

「そうでしょっ! 茶葉の選定には毎年私も手伝ってるのっ。家で贔屓にしている農家に渡りをつけたり、その年でよくできている茶葉をお勧めしたりしてるのよ」

 

「ほぇ、逢坂くん翠屋で……えっ!? この前、逢坂くんを誘って翠屋に行こうって話になったときにはなにも……」

 

「なんだい、綾音。逢坂をデートに誘っていたのかい? 意外と押すタイプなんだね」

 

「綾音……がんばって。……綾音が押せば……大抵の男は、落とせるよ」

 

「綾ちゃんっ、綾ちゃんはやればできる子だと思ってたわっ」

 

「へっ? ち、違うのっ! そういうことじゃなくてっ、あのっ」

 

 ……なんか会話弾んでるな、女子連中は。

 

「やけに盛り上がってるなあいつら」

 

「あぁ、そうだな。苦労すると思うががんばれよ、徹」

 

 あの会話で俺が大変になるような話が出たのか? 盗み聞きでもしてるような気分になるからちゃんと聞いてなかったんだけど。

 

 皿に見栄えも気にしながらケーキを乗せてフォークを置く。

 

飲み物の用意ができなかったことだけが心残りだ。

 

「なんで俺が苦労すんだよ、鷹島さんを除いた三人なら悪巧みしそうだけどな。……鷹島さん、姦しい女子三人、用意ができたぞ」

 

 準備が完了したので華やかな女子連中を呼ぶ。

 

 クラスメイトの各所から歯ぎしりの音が聞こえたような気がするが、幻聴か、そうでなければ椅子でも引いた時の音だろう。

 

「は、はいっ。手伝えなくてすいませんっ、ありがとうございますっ」

 

「任せてくれていいよ、このくらい。俺も恭也も慣れてるからさ」

 

 鷹島さんが申し訳なさそうな表情で頭を下げる。

 

こうやって礼をきちんとするから、また手伝ってあげたいと思えるんだよなぁ。

 

これこそ鷹島さんの仁徳の成せる業、父性本能をくすぐられるとも言える。

 

「ちょっとっ! 私たちの扱いがずいぶん雑じゃないっ?! えこ贔屓よっ、改善を要求するわ!」

 

「そんなことねぇよ。ただ、人によって態度を変えているってだけだ」

 

「人はそれをえこ贔屓と呼ぶと思うのだけれどね」

 

「そりゃ違うぜ、みんな意識的にしろ無意識的にしろやってることだ。一人一人に対して接し方を工夫していると言ってくれ」

 

 腰に手を当てて苦笑する長谷部。

 

こいつはボーイッシュな口調もあいまってどこか男前な仕草になるなぁ。

 

「逢坂……わたし、ちっちゃいよ?」

 

「太刀峰……お前はいったいなにを吹き込まれたんだ……。どんな話を聞いたのか知らんが誤解だ、その情報(データ)は間違っている」

 

 どうせ忍があることないこと口走ったんだろうな、俺の評価を下げることに関してあいつの右に出るものはいない。

 

 確かに太刀峰は鷹島さんに次いで背が低いが、それがなんだというんだ。

 

忍にも恭也にも誤解されているが俺は、決して、ロリコンでは、ないっ!

 

 三人はぶつくさと文句を言いながら、近くの席から引っ張ってきた椅子に座る。

 

他の生徒から椅子を奪っているわけではない、今教室にいない生徒の席から拝借しているだけだ。

 

「ほわぁ……すごくおいしそうですっ」

 

「まさか三種類も作ってるなんて思わなかったわ……」

 

「ベーシックなショートケーキに、チョコケーキ、レアチーズケーキ……朝の時間だけでよく作れたものだな……」

 

「男の料理……という見た目じゃないね、お店で買ってきたと言われても疑えない出来だよ」

 

「飲み物……紅茶、ないの?」

 

「すまんな太刀峰、俺紅茶飲めねぇから用意してないんだ。自分で調達してくれ」

 

 各々席に着き、俺謹製のケーキ三種を目の前に配膳する。

 

形が崩れていないか心配だったが、見た目は悪くないようだ。

 

「問題は味だがな、頂きます」

 

 恭也の言葉でみんな手を合わせて『いただきます』する。

 

机囲んでみんなで一緒にって、小学校の給食みたいだな。

 

「~っ! おいふぃでふっ」

 

「鷹島さん、ほっぺたにクリームついてるよ」

 

「悔しいけど……たしかにおいしいわね。チョコケーキはビターにしてるのね」

 

「ショートケーキが甘い分、チョコケーキは砂糖を控えめにしたんだ。甘いの苦手なやつでも食えるようにな」

 

「自分でこれほどのものを作れるなんてすごいじゃないか。逢坂、嫁に来ないかい?」

 

「お前が旦那とか俺やだよ」

 

「三つとも……おいしい。紅茶があったら、なおぐっど……」

 

「翠屋へご来店ください。おいしい紅茶の銘柄もいっぱいあるぞ」

 

 女子の評価は概ね良し。

 

おいしそうに食べてくれているというのが一番うれしいな。

 

 問題は――

 

「……ふむ、そうだな……」

 

――この男だ。

 

 作る側には回らないが、専門的な知識を持ち合わせている上に桃子さんのスイーツで舌が肥えている。

 

どれだけ辛辣なコメントを放つことか……。

 

「砂糖の質が悪いのか、甘みがすこしくどいな。クリームもなめらかとは言い難い。スポンジに関しては可もなく不可もなく、及第点といってもいいが……フルーツはなにか安っぽい感じだな。チョコケーキはビターで俺の好みにも合うが、渋みが気になる。チーズケーキは全体的に地味だな」

 

「恭也……あんたきっついわねぇ……」

 

 本当に容赦なく辛辣だった。

 

翠屋で出されているものと比較したら材料の品質からして違うんだが。

 

「勘弁してくれ、恭也。家のありあわせの材料使って、足りない物は近くのスーパーで買い足しただけなんだぜ? 俺の技術不足なら言ってくれていいが、つうか注意してほしいが、質の良し悪しについては目を瞑ってくれよ。ちなみにチーズケーキには今からもう一つ手を加えることができる」

 

 恭也にぼろくそ言われたことにあれこれと言い訳しながら紙袋から、ポリエチレン製の小さく細長い容器を取り出す。

 

その容器の中には赤っぽいピンクの液体、それを地味なレアチーズケーキにかける。

 

「逢坂くん、それはなんですか?」

 

「イチゴのソースだよ。余ったからついでに作ってみたんだ」

 

「なんというか、芸が細かいね」

 

「やり始めたら止まらなくなっちまってな」

 

「いいお嫁さんに、なれる……」

 

「いや、嫁にはなれねぇよ」

 

 恭也の分のチーズケーキにもかけてやり、目の前に置く。

 

手で、食ってみろとサイン。

 

「安い苺だけどこうすりゃ結構イケるだろ」

 

「……安物のわりにたしかにいいな。最初はそのまま食べて、後から個人個人自由にかけるというアイデアもいい。店で出すかの最終試験は母さんに委ねるとしよう」

 

 試験に合格してもしばらくはバイトに復帰できないんだけど……まぁいいか。

 

料理の研究はしてても損にならないしな。

 

「ガサツでズボラなくせによく気がつくのよね、徹って」

 

「ガサツもズボラもつけなくてよかったよな? たまには素直に褒めてくれてもいいんじゃない?」

 

 恭也のガチな批評や忍の悪口をさばいている内に全員完食。

 

よかったよかった、さすがに多すぎたかなぁと気を揉んでいたけど全然そんなことなかった。

 

「まああれだ、家で作ってこの味ならいい方だな」

 

「あんだけダメ出ししておいてよく言ったな」

 

「でも本当においしかったよ、逢坂。ありがとう、ごちそうさま」

 

「また食べたい、ごちそうさま……」

 

「そうだ、日にちは決まってないけど、今度私の家で徹と恭也と綾ちゃんで勉強会するのよ。真希ちゃんと薫ちゃんも来る? 徹がデザート作ってくれるわよ」

 

「そうなのかいっ?! 僕も是非行きたいね!」

 

「っ! わたしも、わたしもっ」

 

「デザートに食いついてんじゃねぇよ、お前らは特に勉強が足りてないだろ。主旨忘れんじゃねぇぞ」

 

 勉強会の参加人数がずいぶん膨らんできたな。

 

さすがに一人じゃ全部は手が回らねぇかもしんねぇ、何か手を考えておかないと。

 

 みんなしてがやがやと感想を言い合っているのに一人輪に入っていない子がいる。

 

鷹島さんだ。

 

「鷹島さん、どうしたの? おいしくなかった? 量多すぎたか?」

 

 この小さな身体に入るのか? と思うほどの量だったしな、常人なら胃もたれでも起こすかもしれない。

 

「ふぇっ……い、いえっ。すごくおいしかったですし、もっと食べたいくらいですけど……あの」

 

 あ、まだ入るんだ……さすが女の子……。

 

 それならなんで沈んだ表情をしてるのかわからないな。

 

相槌を打って鷹島さんの言葉を促す。

 

「彩葉にも、食べさせてあげたかったなぁ……って思いまして。あの子も甘いもの好きなので……」

 

 さすが病的なほど妹思いな鷹島さん、なにか悩んでいると思ったら彩葉ちゃんのことだったか。

 

「あぁ、それなら……」

 

 俺としたことが危うく忘れるところだった。

 

これで渡さなかったら、なんのために持ってきたんだって話だ。

 

 残りの小さなケーキボックスの二つの内一つ、それを鷹島さんへ手渡す。

 

「えっ、あの……これは?」

 

「彩葉ちゃんの分だよ、渡してもらえる? 口に合うかわからないけど」

 

 今のうちにもう一つの方も渡しておくか。

 

きょとんとした表情の鷹島さんを視界の端に移動させ、食後の歓談に興じている忍にケーキボックスを突き出す。

 

「忍、すずかに差し入れだ。渡しておいてくれ」

 

「すずかの分まで……。さ、さすが徹……釣った魚の餌も忘れないのね……」

 

「なるほど……これが蕾の花園経営のコツ、か。俺には真似できんな、しようとも思わんが」

 

「忍さんの言ってたことが真実味を帯びてきたね……」

 

「やっぱり逢坂は、小さい子が好き……なんだね。……悪い意味で」

 

「褒める言葉が一言も出てこないとか、さすがの俺も絶望した……」

 

 ふっ……構わないさ、もう諦めたから……。

 

学校の大多数の連中からは短気で女癖が悪く、切れたら暴れ狂う危ないやつだと思われ、クラスメイトからは怖がられて距離を置かれ、仲の良い連中からはロリコンキャラを植え付けられる。

 

なんだろうこの、俺に対するイメージ。

 

もっとこう華やかなものを期待してたんだけどなぁ、高校生活。

 

 理想と現実の落差に打ちひしがれていると、『逢坂くんっ』と鈴を転がすような可愛い声で呼びかけられた。

 

視線を鷹島さんへと戻す。

 

「あんなにおいしかったんですから、きっと彩葉も喜ぶと思いますっ。ケーキありがとうございますっ!」

 

「そう、言ってもらえたら……うん、嬉しいよ」

 

 ケーキボックスの持ち手の部分をちょこん、と両手で持ち、純度百パーセントの笑顔を俺に向けてくる鷹島さん。

 

窓から入る光がまるで後光のように降り注ぐ。

 

 この悪魔じみた性悪集団の中で一人だけ天使がいた……鷹島さんの光で浄化されねぇかな、こいつら。

 

 あぁ、感謝してもらえる……ただそれだけで、深手を負った心が癒されていく。

 

 輝くような笑顔の鷹島さんを見つめる……それだけでもう、なにも、怖くない。

 

「見た目が幼かったらいいのかしら? それならまだ合法の余地もあるわね」

 

「台無しだぜ、この野郎」




更新遅くなってすいません。
リアルが忙しかったり、趣味に没頭してたり、他のことに浮気してたりしてました。

日常編、学校の話になると無駄に長くなっていけません。
主題があっちへふらふら、こっちへふらふらしてしまいます。

なんと今回の話、登場人物七人中五人がオリジナルキャラという。
学校で展開すると原作キャラ出す隙間がないです……。
そろそろタグにオリキャラ多数と付け加えるべきですかね。

なるべく早く更新できるように頑張りますが、次も遅くなるかもしれません。
先に謝っておきます、すいません。


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互いの距離は、ゼロ――

 五時限目のチャイムも近いので、試食会を終わり、お片付け中。

 

椅子やら机やら移動したものが多いし、ケーキを乗せた紙皿やプラスチックのフォークなどゴミもたくさんある。

 

準備の時同様、片付けも主に下っ端根性が染みついている俺と恭也が担当している。

 

恭也は店の手伝いで、俺は家でも同じようなことをしてるだけあって慣れたもの、手早く元の状態へ戻していく。

 

「わ、私もやりますっ。用意するときは手伝えませんでしたので!」

 

「いや、もうすぐ終わるから大丈夫だよ」

 

 手伝おうとは欠片も思っていない三人とは違い、心優しい鷹島さんは助力を申し出てくれた。

 

しかしゴミはもう捨て終わったし、借りてた椅子も返したし、特にやってもらうことはないので丁重に断ろうとしたらすでに手をつけ始めている。

 

よりによって後ろに方向転換させていた恭也の机を戻そうとしていた。

 

 そこからいろいろ不運が重なる。

 

今日の授業は体育や芸術関連の授業がなく、いつもより机の中の教科書が多かったことや、鷹島さん自身が非力だったことや、どこから飛んできたのか足元にビニール袋が落ちていたことなど。

 

「あぅっ、はわわっ!」

 

 結果、机が想像以上に重く身体がふらつき、力がないので傾いた身体を戻すことができず、ビニール袋を踏んでしまい足を滑らせ後ろへ身体が倒れた。

 

 なぜ俺が冷静に危機的状況を観察してられるのか、理由は簡単、単純明快……言っちゃ悪いが鷹島さんが手伝うと言った時から予想できてしまっていたからだ。

 

「大丈夫? 無理してまで手伝わなくてもいいんだからな?」

 

「はっ、はぃ……。ぁ、ありがとうございます……」

 

 右手で机の端を掴んで危険を排除し、左手を鷹島さんの腰にまわして倒れないよう少し姿勢を落としながら俺の身体へ引き寄せる。

 

いや、鷹島さんを引き寄せる必要性なかったな、ムダに密着度を高めただけじゃねぇか。

 

 鷹島さんに視線を向けるとびっくりするほど顔が近くて心臓が跳ね上がった。

 

女子の平均と比べても小柄な身体なのにとても柔らかかったり、意外と胸あるんだなぁとか、姉妹揃って髪ふわふわだなぁとか、めちゃくちゃいいにおいするなぁとか、いらない情報ばかり収集する自分の頭に辟易する。

 

「いつまで抱きしめてるつもりよ、このロリコン変態バカ!」

 

 後ろからバシッと、良い音を出しながら殴られた。

 

誰からやられたかなんて確認する必要はない、こんなことするのは忍のほかにいない。

 

「助けようとしただけだっての。そしてロリコンじゃねぇ」

 

「そ、そうなんですっ! 逢坂くんはかばってくれただけで……」

 

「ふふっ。綾音、顔真っ赤じゃないか。よかったね、王子様に助けてもらって」

 

「あれは、女子なら……きゅんとくる。一度は夢見る……シチュエーション……」

 

「何の迷いもなく動いたな。さすが徹だ」

 

 鷹島さんを立たせて怪我がないことを確認してから恭也の机を教卓に向かせる。

 

耳まで赤くして縮こまっているとても愛らしい鷹島さんが見れたから良しとしようか。

 

 しかし忍はロリコンロリコンと馬鹿の一つ覚えのように……他に言うことはないのか、ボキャブラリーに乏しいな。

 

 再びぱこんっと軽快な音。

 

「ばかにするようなこと考えてるでしょ」

 

「なんでわかるんだ……」

 

「長い付き合いだからよ、顔見ればわかるの。……?」

 

 物わかりの悪い生徒に言い聞かせる先生のように、忍が人差し指を俺の目の前で立ててぴょこぴょこ振る。

 

忍には赤のメガネとか似合いそうだ、S的な意味で。

 

 忍が急に俺の首元のあたりに目を向けて、目障りなくらいに俺の目の前で振っていた人差し指を唇につけてちょこんと首を傾げた。

 

 人格破綻している性悪女だが、見た目だけはいい忍がやると……悔しいがとてもかわいかった。

 

狙ってるのではなく天然でこういう仕草をするのがとても心臓に悪い。

 

「あんたがアクセサリーつけるなんて珍しいわね、なかなか綺麗じゃない。なんていう石なの?」

 

 なんの話をしているのだろうと思って視線を下げて、それを視界にとらえた。

 

 シルバーのチェーンに繋がった台座の上にあるもの、青白く輝く菱形の宝石(・・・・・・・・・・)

 

ロストロギア、ジュエルシード。

 

 ついうっかり忘れてしまっていた、これの存在を。

 

 ネックレスにして服の内側にしまっていたはずなのに、なぜ…………鷹島さんを助けた時に飛び出してしまったのか。

 

「それ、どうしたの? プレゼント? それとも買ったの?」

 

 どういうべきだろうか……どちらかというと拾ったようなものなんだが……。

 

 

 

 

 

~~~~~~~

 

 

 

 

 

「もう怪我のほうは大丈夫です。でも気怠い感じや魔力の使い過ぎで身体に変調をきたすこともあるかもしれないので、あまり激しい運動は控えてくださいね」

 

「ありがとう、リニスさん」

 

「それで徹、ジュエルシードはどうするんだい?」

 

 リニスさんに治療してもらったあと、俺の手の中にあるジュエルシードをどう対処するかという話になった。

 

 今は封印状態で落ち着いているけれど、なにかの拍子でまた励起状態になられても困る。

 

レイハの中に収納しといてほしいけどなのはとともに帰宅してしまった。

 

仮に帰っていなくとも無理はさせたくないし、結局レイハに任せることはできなかっただろうけど。

 

「しゃあねぇな。フェイト、バルディッシュに入れといてもらっていいか」

 

 次善の策としてフェイトのデバイス、バルディッシュに保管しといてもらうことにしよう。

 

「いいの? 徹が封印したのに」

 

「また暴走されても困るしな。フェイトが手伝ってくれたおかげでなんとかなったし、構わねぇよ」

 

「…………わかった」

 

 口をへの字にしてしばし無言で考えるような仕草をするフェイトだったが、頷いて俺の意を汲んでくれた。

 

 フェイトが俺の掌の上で転がっているジュエルシードを掴もうと手を伸ばしたが、触れる寸前、バチッという破裂音。

 

ぱっと手をひっこめたフェイトを見るに、ジュエルシードから発せられたようだ。

 

「お、おい。なにしたんだフェイト」

 

「私じゃないよ……ジュエルシードが……」

 

「どういうことだい?」

 

「……もしかすると、ジュエルシードが拒絶しているのでは?」

 

 リニスさんが一つの見解を出したが、疑問が残る。

 

「拒絶するんならなんで俺にはバチッとこねぇんだろ?」

 

「たしかにおかしいね。今もジュエルシード持ったままだし」

 

「も、もしかして私だけ……? ……アルフとリニスも試して」

 

「可能性をつぶすという意味でも触ってみましょうか。……ちょっと怖いですが」

 

 試しに二人とも触ってみるが、フェイト同様アルフもリニスさんも弾かれた。

 

排除しようとするような威力ではなく、拒否する程度のもの。

 

「よかった……私が嫌われてるわけじゃなかったんだ……」

 

「なんでバチッってくるってわかってて触らないといけないのさぁ……」

 

 アルフが指先をさすりながら文句を漏らす。

 

そら痛いってほどではないとは言え、わざわざ弾かれるために触りたくはないよな。

 

「なるほど……」

 

「なにかわかったのか、リニスさん」

 

 これだけの情報でなにか掴んだのか、得心したような表情で頷くリニスさん。

 

そうだった、この人はやればできる人、ただの筋肉フェチの変態じゃない。

 

性的嗜好さえ除けば、魔法も、その知識にも秀でていて信頼に足る美人なお姉さんなのだ。

 

 どきどきしながらリニスさんの言葉を待つ。

 

 

 

「私の見解では……ジュエルシードに気に入られたんだと思いますっ!」

 

 

 

 とんだ期待はずれである。

 

 

 

 

 

~~~~~~~

 

 

 

 

 

 回想終了。

 

 結局、思えばバルディッシュも修復中だし、リニスさんが調べたところ魔力の乱れも感じられないということで現状維持、なし崩し的に俺が持つことと相成った、というわけだ。

 

 ジュエルシードの持つのはいいのだが、持ち運びに困るのでレイハのようにアクセサリーとして装うことにしたのだが。

 

「徹がネックレス? ……そぐわんな」

 

「ん~、怪しいわね。徹が自分で装飾品の類を買って身につけるっていうのは違和感があるわ。やっぱり贈り物かしら~?」

 

 今はこいつらの対処だ。

 

恭也も忍も俺のことをよくわかっている。

 

ファッションに関して無頓着な俺がネックレスをつけるなんて、太陽が西から昇るくらいに違和感があるのだ。

 

くそっ、ぬかった……ネックレスにするという案は間違いだったっ。

 

 脳みそをフル回転させ答えを考えるが、こいつら相手だと生半な返答ではさらに突っ込まれるだけ……。

 

 諦めかけていた俺だが、思わぬ方向から光明が差した。

 

「あっ、それがニアスからもらったっていう石ですか? 綺麗ですねっ!」

 

「ニアス? 綾ちゃん、ニアスって誰?」

 

 その手があったっ! ニアスからもらったジュエルシードと今ネックレスにしているジュエルシード形は同じだが、ものが違うせいでその発想は出てこなかったぜ。

 

ここから話の路線を変更させるっ。

 

「あぁ忍、ニアスってのは鷹島さん家の子猫でな、真っ白で超かわいいぞ。しかもかしこい」

 

「? その猫からもらったの?」

 

「はい、彩葉が言ってました。迷子になった時に見つけてくれたお礼に青っぽい石を逢坂くんにあげたって」

 

「猫が徹にプレゼントしたってことか? 猫が人にプレゼントするっていうのも驚きだが、動物が徹にプレゼントするっていうのがもうなにより驚くな。徹は動物に嫌われやすいというのに」

 

「驚くところそこかよ。たしかに珍しいけども」

 

「綾音の家の白い猫かい? あの仔はなかなかに気まぐれで懐きにくいと思うのだけど」

 

「うん……近づいても、絶妙に……距離を取る、そんな仔」

 

「俺の場合、初見からべったべたにすり寄ってきたぞ」

 

「仔猫いるのっ?! また今度綾ちゃんのお家に遊びに行っていい? 見たいわっ!」

 

「お前の家にはもう十分に猫いるだろうが。猫屋敷じゃねぇか」

 

「話があちらこちらへ転々と………」

 

 ミッションコンプリート、話題逸らしに成功した。

 

いやはや、さすが天使(鷹島さん)、救いの手を差し伸べてくれた。

 

鷹島さんのおかげで痛くない腹を探られずに済んだ……いや、ちょっとは痛いけれど。

 

「ただ……彩葉の言っていた仮払いのお礼だけは……なんなのか、教えてくれなかったんだよね……」

 

 それは可及的速やかに忘れてくれたらありがたい。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 学校のカリキュラムを全て消化して放課後。

 

 今日は部活が休みだという長谷部と太刀峰にストバスに誘われたが用事があると言って断った。

 

その用事こそ、ケーキを作った第二の理由なのだ。

 

 学校を出て一度家へ帰る。

 

もちろん作ったケーキを取りに帰るためだ。

 

ちなみに服は着替えない、わざわざダサい服に着替えて人に会いに行く必要はないというもの。

 

あまりファッションセンスに自信がないのでこういう時、制服は楽だし便利だ。

 

 ケーキボックス片手に、とあるマンションまで歩く。

 

一度行ったのだから道も場所も憶えている。

 

必要以上に大きく、ムダにきれいなフェイトたちの住処、駅からも近いちょっと羨ましくなるアジト。

 

「金持ってんだな……収入はいったいどこから?」

 

 些末なことを考えながらマンションのエントランスへ入る。

 

 高そうなマンションは見せかけではないらしく、セキュリティも万全なご様子。

 

マンションの入り口には防犯カメラが死角がないように数台あるし、入ってすぐに見える管理事務室には〈二十四時間常駐〉という看板、エントランスもオートロックシステムが設置されており、入るためにはパネルを操作して居住者に開けてもらわなければならない。

 

なぜ既に俺がエントランスへ入れているかというと、マンションから出てきた人が扉を開けた時にするりと、かつ堂々と、なんなら笑顔で『こんにちは』と会釈しながら便乗して侵入……もといお邪魔したからだ。

 

気後れする時や場所ほど胸を張って毅然と振る舞う、これが疑われないようにするポイント。

 

 エレベーターに乗ってフェイトたちのフロア、十二階まで上がる。

 

エレベーターホールにもモニターがあったのでもしや、と思ったが、エレベーター内にも監視カメラ……じゃない、防犯カメラが設置されていた。

 

悪いことできないな……いや、しないけどさ。

 

 さっきマンションを出た居住者も女性だったし、このマンションには女性が多いのか? 安全性もしっかりなされているようだし安心はできるよな。

 

フェイトたちも女性三人で生活しているわけだし、なるべくセキュリティ能力が高いほうがいいか。

 

フェイトたちを襲える暴漢(ゆうしゃ)はいないと思うけども。

 

 上品な音で目的の階へ到着したことを知らせてくれる。

 

十二階の次はR(Roof top)となっているので実質最上階と言える。

 

「ほんといいとこに住んでるよなぁ」

 

 すぐにフェイトたちの部屋へ向かわずに、マンションの開放廊下から周囲の風景を眼下に収める。

 

このマンションの周辺には他に背の高い建物はなく、その上今日は天気もいいので付近の地域を見渡せた。

 

気分のいい眺めだ。

 

 ふと、ネックレスにしているジュエルシードを取り出す。

 

太陽光を反射させ青白い輝きを手に投影している宝石。

 

 このたった一つの小さな石が昨日の夜暴走して、この海鳴市を、この国を……この世界を崩壊せしめんとした。

 

そして俺はその暴走を食い止めた……関係ない一般市民を傷つけないため、なんて高尚な理由ではない。

 

自分の大切な人だけは死なせたくないためという自分勝手な理由だったが、それでも、だからこそ、俺は命がけで暴走を止めようと思った……止めたいと思った。

 

最後の最後、ここ一番という時に力不足のせいでバテてしまってフェイトに助けてもらったが、最終的には暴走状態を食い止めて、押さえ込んで、なんとか誰も死なせずに済んだ……誰も怪我させずに済んだ。

 

なら……俺は……。

 

「みんなを……助けることができた、ってことでいい……のか?」

 

「あぁ、助けたんだよ。徹は、みんなを助けたんだ。あたしたち含めて、ね」

 

 心臓握り潰されたのかと思うほどびっくりした。

 

自問自答のはずだったのに俺の背後から返答があったのだから当然だ。

 

「どうしたんだい、こんなところに。遊びに来たの?」

 

 アルフが俺の後ろで腰に手を当てて立っていた。

 

い、いつからいたんだろう……めっちゃ恥ずかしいんだけど。

 

「アルフ……い、つからそこに?」

 

「そうさね、ジュエルシードを取り出して触りながら、街を見て黄昏れているところくらいから?」

 

「……声、かけてくれよぉ……」

 

 わりと長い時間見られてた……アルフたちの家の前でゆったり外眺めてた俺が悪いんだけどさ。

 

「あはは、ごめんごめん。ずいぶん考え込んでるみたいだったからさ、声かけづらくてね」

 

「~~っ!」

 

 羞恥に耐え兼ね、頭を抱えてうずくまる。

 

するとアルフもしゃがんで俺と目線を合わせた。

 

「……前、さ」

 

「……?」

 

 開放廊下の外側の壁に背を預けてうずくまっている俺に、アルフが話しかける。

 

 さっきとは違うトーンを抑えた声、真面目な話のようだ。

 

「この前、覚悟がないとか偉そうなこと言って……ごめんね」

 

「……謝る必要なんかねぇよ、実際その通りだ」

 

 俺の言葉にアルフはふるふると頭を振って否定の意を示す。

 

頭を振るたびにオレンジ色の髪が踊る。

 

 いったいアルフは何を言おうとしているのか、要領を得ない。

 

「昨日の夜、嵐よりも猛り狂うジュエルシードに正面から突っ込んでいくのを見て……純粋にすごいって思った。覚悟のない人間にはできないことだったよ」

 

「やめてくれ……そんなことねぇんだ。俺はあの時、何人死のうが構わねぇって思ったんだ。ただ俺の知ってる人たちだけは死なせたくないって……本当にただそれだけを考えてた。独り善がり……

ガキの我儘、バカみたいな男の意地だ」

 

 アルフは遠くから見ていたから、俺のやってたことがすごいことのように見えたんだ。

 

俺の戸惑いや躊躇や弱音、泣き言を知らないから……無言で命を張るような気高い行為に見えたんだ。

 

あの時の俺の心中を覗いたら、あまりの身勝手な考えに吐き気すら催すだろうよ。

 

 見知らぬ幾千幾万の命と、親しい幾許(いくばく)かの人間の命を天秤にかけ、親しい人間の命を取り、見知らぬ大勢の人間の命を切り棄てた……人道にもとり、倫理に反する行動だった。

 

でもなによりも……その行動を一瞬も迷わず、欠片も後悔もせず選ぶ自分に嫌気が差す。

 

たとえ、もう一度同じ問いを突き付けられたとしても、俺は同じ選択をする……そんな自分にあきれ果て、失望する。

 

 うずくまった状態で視線を落とし、情けなさに歯を食いしばりながら、告解するように呟く。

 

「こんなもの……意志とも言えねぇよ、ましてや覚悟なんて言えるはずもない。自分勝手で傲慢な……欲望だ」

 

 頭の両側にほのかな温もりと柔らかな包み込むような感触、顔を上げようとしたら頭のてっぺんにかすかな圧力を感じて、視線が持ち上がらなかった。

 

なにかなんて確かめる必要はない、考えずともわかること。

 

 アルフが両手で俺の頭に触れて、つむじのあたりに唇をそっとつけていた。

 

「それは徹が気づいてないだけ……彼は誰時(かはたれどき)みたいにおぼろげで、はっきりとは見えていないだけで輪郭は掴んでいるんだよ。あとは徹が認識するかしないかだけだね」

 

 励ましてくれてる、元気づけようとしてくれてるんだ、アルフは。

 

ここまでしてもらっといて、いつまでもしょぼくれているわけにはいかねぇな、俺のプライドが、男の矜持が許さない……十分どころか二十分に情けないところを見せちゃったけど。

 

 俺の頭からアルフが顔を離す。

 

耳の辺りに手は添えられたままだが、顔を上げて正面にいるアルフに視線を向ける。

 

「アルフが言うんなら、きっとそうなんだろうな。くくっ、アルフは男より男前だよな」

 

「し、失礼じゃないかい、その言い方は!」

 

 アルフをからかいながら笑う、アルフは良い反応(リアクション)をしてくれるから、いじりがいがある。

 

 頭を上げたせいで俺の頬の辺りに移動してきたアルフの手を包むように優しく握る。

 

その手から温もりを貰うように、アルフの手を自分の頬にぎゅっと押しつけた。

 

 存外近づいていたのか、アルフの顔は目と鼻の先、実際鼻とか接触しそうなくらい近い。

 

触り心地の良い橙色の髪の毛、気の強そうな瞳、大きめの八重歯や、柔らかそうなぷるぷるした唇まではっきり見える。

 

「なぁ、アルフ。なんでさっき、ここで俺の姿を見つけた時……すぐに、声をかけなかったんだ……?」

 

 アルフがこのマンションの廊下で俺を見つけた時、すぐには声をかけず、しばらくしてから……俺が独り言をつぶやいてからやっと話しかけてきた。

 

そのタイムラグが俺は気になった。

 

 ぼんやりと(かすみ)がかったみたいに思考力が欠如した頭で、アルフに問いかける。

 

「言い訳して、ごめんね……。本当は……壁にもたれかかって、ジュエルシードを撫でながら……街を眺めてた徹に……見惚れ、てた……」

 

 恥ずかしそうに顔を赤らめて、でも視線は真っ直ぐ俺の瞳を貫くアルフの言葉を聞いて、頭の回転は完全に停止した。

 

 俺の頬に触れるアルフの手は震えていたが、少しずつ、少しずつ引き寄せられていく。

 

もとより近かったお互いの顔がさらに距離を詰め、とうとう鼻が触れるくらいに迫る。

 

アルフが顔を微かに傾け、勝気な瞳を固く閉じた。

 

俺はアルフの手に引き寄せられるがまま、身を任せてまぶたを閉じる。

 

 アルフの熱く甘い吐息が俺の唇をなぶる。

 

距離が縮まり、空気越しに体温が伝わるほど近づく。

 

もう互いの距離は、ゼロ――

 

 

 

 

「フェイト、あれを『青春ラブコメ』というのです。憶えておいてください、テストに出ます」

 

「うん、憶えておく」

 

 

 

 

――になる寸前、間にフェイトとリニスさんが挟まった。

 

声が聞こえた瞬間、俺もアルフも急いで顔を離す。

 

 どうしたんだ、俺っ! 今さっき何をしようとした! 場の空気というか、雰囲気に流されすぎだろ!

 

「あら、こちらは気にしなくて構いませんよ? どうぞ続きを」

 

「アルフ、アルフの勇姿はしっかり録画してるよ、大丈夫」

 

「ち、ちがっ。違くてっ……いや違わないんだけどっ!」

 

「フェイト! 録画してるものは即刻消せっ! 俺の命に係わるから!」

 

 フェイトに動画データを消させるまで言い争いは終わらなかった。

 

 ……あれ? 俺、なにしに来たんだっけ……。




ほのぼの日常、時々シリアス。

なぜこうなったのか自分でもわからないです。
きっとアルフさんの正妻力が強すぎたからです、ええ、きっと。

また更新が遅くなってしまい申し訳ありません。
次は早めに投稿したいと考えておりますのでご容赦を。

僕のノートパソコンだと六千から七千を超えたあたりで重たくなるので中途半端なところで切っちゃいました、すいません。


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従者である使い魔の罪は、主である魔導師の罪

後半で多少原作かい離が入ります。
お気を付けください。


「そ、それで徹っ。結局なにしに来たのか聞いてなかったんだけど!」

 

「あ、そうだった……。今日はこれを持ってきたんだ」

 

 いつのまにか脇に置いていたケーキボックスをアルフたちに差し出す。

 

フェイトが録画していたらしいデータを消去させるのにてこずって本題を忘れかけていた。

 

フェイトがいつから撮影していたのかはわからないが、あれは恥ずかしすぎる……俺もアルフも精神状態がおかしかったんだ。

 

「なんですか、ケーキ?」

 

「あぁ、昨日の……なんだ。祝勝会的な?」

 

「わざわざ買ってきてくれたのかい?」

 

「あ、でも……嬉しいけど……今日は……」

 

 前に出てきたリニスさんにケーキボックスを手渡す。

 

フェイトはその幼いながらも端整な顔に、嬉しそうな表情と申し訳なさそうな表情を同居させていた。

 

 なんだろう、都合でも悪かったのだろうか?

 

「ど、どうしたんだフェイト? ケーキ嫌いだったか?」

 

 頭をぶんぶんと横に振って金色のツインテールを揺らし、俺の言葉を否定する。

 

言葉使いは大人びているフェイトだけど、その仕草は年相応の少女のように見えてなぜか安心した。

 

「そうじゃないの、ケーキは好きだけど……」

 

「なんていうか……タイミングが悪かったとしか言いようがない、ね」

 

 フェイトとアルフが困ったように表情を曇らせて、リニスさんへと視線を送る。

 

二人から目でお願いされたリニスさんが意を汲んで、言い辛そうにしながらも年長者らしく口を開いた。

 

「……すいません。いつもはわりと暇を持て余しているのですが、今日はこれから、なんといえばいいでしょうか……作戦本部に報告に行くといいましょうか……」

 

 『私たちは暇なことなんてないけど』とか『作戦本部なんてたいそうなものじゃないよね、あたしたち含めて合計四人だし』とか突っ込むフェイトとアルフに、リニスさんが肉食動物じみた睨みを効かせて黙らせる。

 

 ふむ、つまりはこれから用事があるということか。

 

「それなら仕方ないな。箱の中にはケーキ多めに入ってるから、よかったらその本部の人と食べてくれ。ついでによろしく言っといてくれたらありがたい」

 

「気を使わせてしまってすいません」

 

「徹……ごめんね。また遊びに来てね……?」

 

「おう、その時もケーキ作って持ってくるから期待しとけ」

 

 てとてとと近づいて制服の裾を指先でちょこんとひっぱって、上目づかいで不安げに瞳を潤わせるフェイトの頭を、気持ち強めにわしゃわしゃと撫でる。

 

心地よさそうに片目を閉じている様は仔猫のようだ。

 

 こんな妹がいたらなぁ……いや、こんな強くて賢い妹は俺の手に余るけど。

 

「『その時も』? もしかして徹が作ったのかい?」

 

「ん。朝寝過ごしちまってな、どうせだしと思って午前中に作った。余ったのを同級生に振る舞ったがなかなか高評価でな。また今度会った時にでも味の感想をくれ」

 

「ねぇ、リニス。徹も連れていくっていうのは」

 

「さすがにダメです」

 

「フェイト、無理言っちゃダメだろ。また日を改めて遊びに来るから」

 

 無茶を言ってリニスさんを困らせているフェイトの頭の上でぽんぽんと手を弾ませて諌める。

 

そう言ってくれるのはとても嬉しいけども。

 

顔がによによしないように引き締めるのに苦労する。

 

「ではそろそろ行きましょうか。プレシ……あの人を待たせるといろいろ面倒ですから。では徹、ケーキありがとうございます。次来る時は精一杯もてなしますからね」

 

「期待しとくよ、リニスさん」

 

「……ずいぶんな言い方だよリニス。それじゃあ徹、また来てね。約束だからね」

 

「おう、約束だ。信用しろって、また来るよ」

 

 指切りして、ついでにフェイトのさらさらとした綺麗な金髪を撫でる。

 

 とくに撫でる必要はなかったのだが、俺の欲望が勝手に腕を動かした。

 

仕方ない、可愛いんだもの。

 

 俺に背を向けてエレベーターへと歩くリニスさんとフェイト。

 

マンションの廊下に残ったのは俺とアルフの二人。

 

「徹……あの、えっと」

 

「あぁ、うん……」

 

 気まずい、とても気まずい。

 

二人とも目も合わせることができず、行き場を求めて視線は眼下に広がる街へと向けられる。

 

やけに色っぽいムードになって、お互い雰囲気に流されちゃって、しかもそれが中途半端に終わったとなれば言葉に迷うというものだ。

 

 今どんな表情をしてるのかな、と思って相手の顔を(うかが)い見ようとしたら同じタイミングで目線が合ってまた目を背ける。

 

なんだこれ、もしかしてこれが青春というものなのか。

 

 よく考えてみれば、歳が近い中で比較的まともな女性の一人なんだよな、アルフって……狼耳と尻尾ついてるけど。

 

俺が周りに秘密にしている魔法のことも知っているし、身近な人間の中では常識人な部類、男気があるというか頼りになる性格に加えて、顔だちも良く、スタイルもいい。

 

あれ、もしかして俺の理想の女性像なんじゃ……?

 

 ただ忘れがちだけど――というかもう憶えていることの方が少ないけど――本来は敵同士であり、ジュエルシード収集のライバルなわけで。

 

普段は仲良くできてもジュエルシードが絡めばそうはいかない。

 

今はなるべく穏便に済まそうということで代表者を立てて(俺たちからはなのはが、アルフたちからはフェイトが代表者)一対一のタイマン勝負ということになっているが、すべてのジュエルシードが発見されたらどうなるかわからない。

 

総力戦に発展する、そういう可能性もあるのだ……あまり想像したくはないが。

 

 真面目な思考にシフトして頭を落ち着かせて、アルフに目を向ける。

 

「……アルフ。フェイトとリニスさんがエレベーターの前で待ってるぞ」

 

 平然とした顔を装っているが、名前を呼んだ時耳がびくんって動いたので全然隠せてない。

 

呼ばれた時にはオレンジ色の尻尾が左右に揺れていたが、最後まで聞き終わるとしょぼんと重力に逆らわず垂れてしまった。

 

気の利いたセリフでも言えればいいんだが、生憎と俺はそんなもの持ち合わせていない。

 

 息を短く吐いて、ふふっと笑うアルフ。

 

「……はこういう男だもんね……。徹、靴紐ほどけてるよ」

 

 独り言なのか、最初小声でなにか囁いたあと、今度は俺に向かっていつものように、いやいつも以上にはっきりと言った。

 

「ん? あぁ、ありがと……?」

 

 紐を結び直そうと視線を下げ少ししゃがんだのだが、靴紐はいつも通り蝶の形に結ばれている。

 

「おい……ほどけてねぇじゃ……っ」

 

 悪戯かと思い、なにかし返してやろうかと顔を上げると、目の前はオレンジ色で埋め尽くされていた。

 

姿勢を戻す間もなく、気づけばアルフは俺の頭を胸に押し当てるように、ぎゅうっと抱きしめている。

 

「あ、あるふ?」

 

 唐突な肉体接触に思考がホワイトアウトする。

 

額に接している二つのふくよかで柔らかな感触や、安心するような温もり、落ち着く香りに包まれて頭の回転率は急激に低下した。

 

さすが俺、突発的な物事に弱いぜ。

 

「徹はとても賢いから、きっといろんなこと考えたんだろうね。あたしの立場とかを配慮してくれたのかい? 徹がそうするならあたしもこれ以上は踏み込まないよ、今は(・・)ね」

 

「俺は、そういうつもりじゃ……。全部自分勝手に考えているだけで……」

 

「それでも構わないさ、あたしが勝手に想ってるだけなんだから」

 

 お互い取り巻く環境がある、成さねばならない使命もある。

 

結局のところ、アルフも俺も自分一人の都合で好き勝手にやるわけにはいかない立場ってことだ。

 

自分のこの感情がなんなのかもよくわからないが、身勝手な衝動のまま動くことは許されない。

 

少なくとも今回の件が落ち着くまでは。

 

「わ、わかった……お前の気持ちは受け取った。だからそろそろ離してくれよ」

 

「本当にわかってるのかい? 徹は鈍感だし、ついでに言うと無茶しすぎる所があるから心配だよ。昨日の疲れも取れてないだろうし身体も重いだろう? 安静にするんだよ?」

 

「わかった、わかったってば! 心配性か! 絶対またフェイトがこの光景を録画してるはずだっ、離してくれ!」

 

 俺の懸命な説得によりやっと解放してくれた。

 

どうせまたフェイトが俺にとって損になる証拠動画を撮影していることだろうし、そろそろ俺の中の(れつじょう)が目を覚ましそうだったし危ないところだった。

 

 アルフが俺の頭から手を離して、一歩下がる。

 

「今日は都合が悪かったけど、また絶対に遊びに来なよ? フェイトもリニスも、あと……あたしも、待ってるからさっ」

 

 晴れ晴れとした気持ちのいい笑顔を俺に向ける。

 

あまりにも楽しそうで、嬉しそうな笑顔だったので俺もつられて笑ってしまった。

 

「あぁ、また来るよ。フェイトとも約束したしな。ほれ、手ぇ出せ」

 

 長年一緒にいる友人のように、共に戦場を駆けた戦友のように、お互いに拳をごつっと突きあわせる。

 

「あははっ、あんまり色っぽい約束の仕方じゃあないね。気の利いた別れの挨拶ではあるけど」

 

「俺たちはこっちのほうが似合うだろ」

 

 約束とばいばいを兼ねたあいさつをして、アルフがやっとエレベーターへ、フェイトとリニスさんのもとへ行く。

 

 エレベーターは一基しかないし、これだけやったあとに一緒に乗るというのも決まりが悪い。

 

意図せず時間に余裕ができてしまったことだし、俺はエレベーターと対極の位置にある階段でゆっくりと帰るとしよう。

 

 彼女たちはもう一度こちらを振り返り笑顔で手を振ってから、エレベーターに乗り込んだ。

 

さっきの光景を見ていたフェイトとリニスさんにからかわれたのか、アルフは顔が赤かったが。

 

 彼女たちの姿が見えなくなってから数分経って、俺は廊下の手すりにもたれかかりながら一つ大きなため息を吐く。

 

「ジュエルシードっつう危ないものを取り合ってるってのに……なにしてんだろなぁ、俺」

 

 こぼれた言葉は傾き始めた太陽に溶けて消えた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「まずは進捗状況から聞こうかしら。フェイト」

 

「むぐっ! っ……んぅっ」

 

「急いで食べすぎですフェイト。はい、紅茶どうぞ」

 

「あむあむ、まさか徹がこんなにケーキ作りが上手いなんて思わなかったねぇ」

 

 報告のために戻ったのではなかったかしら? 帰ってきて早々にリニスが『プレシアっ! ケーキですよ、ケーキっ!』などとよくわからないことを言って押し切ったせいで報告が先延ばしになってしまったのがそもそもの原因ね。

 

リニスは使い魔の契約をしたばっかりの頃は真面目な子だったはずなのに、外の世界へ出るようになってからはどんどん頭のねじが外れていってしまって……。

 

「んぐっ、んむっ……はいふうはぎょうい、あいってから……」

 

「もう……飲み込んでからでいいわよ、フェイト」

 

「まったく、フェイトは食いしん坊だね」

 

「アルフに言われるなんて……フェイトに同情します」

 

「ちょっとリニスっ、どういう意味だい!」

 

 この子たちが九十七管理外世界へ探索に行っている間、私はこの庭園で一人残り研究しているけれど、やはりこの騒々しさがないと寂しく感じてしまう。

 

時の庭園は一人でいるには広くて、冷たすぎる。

 

……でもここまで騒がしいのも問題かもしれないわね。

 

「ごくんっ。そ、それでは母さん、報告しますっ」

 

「フェイト……鼻にクリームがついているわ。どういう食べ方をすればそんなところにつくのかしら」

 

 ケーキボックスの中に入っていたウェットティッシュで、長方形のテーブルの正面に座っているフェイトの鼻についたクリームを拭う。

 

用意周到というか……よく気が回る子ね、三種類もケーキを作った上にウェットティッシュまで入れてるなんて。

 

「ほ、報告しますっ。えぇと、回収作業に入ってから数日が経ちましたが……回収できたのは……」

 

「フェイト、どうしたの? いくつ回収できたのかしら?」

 

 順調に報告し始めたかと思えば、急に黙り込んでしまうなんて。

 

もしかして一つも見つけてない? そうだとしたら先行き不安ね……。

 

 取っ組み合いをしていたリニスとアルフも静かに、というより心配そうにフェイトを見つめている。

 

「ジュエルシード、二十一個中……二個……です」

 

「あら、まだ探し始めて何日かしか経ってないのに二つも見つけたの? ちゃんと見つけているのになんでそんなに自信なさそうに言うの、一つも見つけてないのかと思ったわ」

 

 よかった、もう二つも見つけているのなら、他のシリアルナンバーのジュエルシードも思ったよりすぐに見つかるかもしれないわね。

 

 私の率直な感想になぜかフェイトもアルフも表情を明るくさせた。

 

私が怒ると思ったのかしら? だとしたらとても失礼だわ、ちゃんと成果を残しているなら怒りはしないのに。

 

「そ、そうだよねっ。もう二個も見つけてるんだから他のもすぐ見つかるよっ! よかったねフェイト!」

 

「うんっ、うんっ」

 

「進捗状況はまずまず、これからといったところね。他に連絡事項はなにかあるかしら?」

 

「二つあります、プレシア」

 

 アルフと手を取り合って喜んでいるフェイトの代わりにリニスが名乗り出た。

 

 リニスは紅茶の入ったカップを傾けて一口飲んで喉を潤し、静かにソーサーに戻す。

 

こういう振る舞いはまだ生きてるのね、安心したわ。

 

「一つ目、私たちの他にジュエルシードを集める勢力が思った以上に早く現れました」

 

「意外と動きが早いわね……時空管理局との関係は?」

 

「それはないかと思われます。勢力と言っても三人しかいませんし、実際に戦闘に参加するのはフェイトと同い年くらいの少女と、アルフと同い年くらいの少年の二人。あとは使い魔のようなフェレットを加えた計三人がジュエルシードを集めている敵対勢力です。少女も少年も最近魔法を覚えたようなので、時空管理局とつながっているとは思えません」

 

「そう、二つ目は?」

 

「ジュエルシードを収集する時……一つが暴走状態となり次元震が発生しました。敵対勢力の少年とともに暴走したジュエルシードはなんとか押さえ込んで封印しましたが、時空管理局に感づかれた可能性があります」

 

「…………」

 

 時空管理局……厄介なものが出てきたわね……。

 

魔法のある世界、魔法のない世界問わず、様々な世界で犯罪行為を取り締まっている巨大な組織。

 

大きな組織ゆえにその力も強大、目をつけられるととても面倒なことになる……動きづらくなるわ。

 

介入してくる前に収集し終わりたいところだけれど。

 

 ……を守る手段はあるとはいえ、できることならその手段は取りたくないから。

 

「……迅速に集めなければいけないわ、あの二人をよろしくねリニス」

 

「はい……お任せください」

 

「これで報告は終わりね。さ、ケーキを頂きましょう。……本当においしいわねこれ、さっきアルフが言ってた徹という人は洋菓子店の方なのかしら?」

 

「あ、ええと……先ほど報告した敵対勢力の……少年が徹といいまして、その子から……」

 

 ん? ちょっと話がわからないわね……。

 

ケーキの差し入れをくれたのが徹という人で? その徹という人は敵対勢力の少年?

 

「……要するに敵からの贈り物、ということかしら?」

 

「ま、まあ有り体に言えば……そうですねっ!」

 

 リニスは悪びれもせずに、頭を少し傾げ、片目を閉じ、舌をちょんと出し、手で頭をこつんと叩いた。

 

なぜかしら……リニスの背後に『てへぺろ』という文字がでかでかと見えた気がする……。

 

もうこの子はダメかもしれない……杖で殴ればすこしは直るかしら。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいプレシアっ! 理由があるんです!」

 

 杖を取り出した私を見て、慌てて取り繕いだしたリニス。

 

なにかしら、言い逃れできる言い訳でも並べてくれるのかしら。

 

 手遅れとは思いつつもリニスはこれでも一応は優秀な使い魔、チャンスくらいは与えるべきね。

 

「敵対勢力といっても仲が良いんですよっ」

 

「…………」

 

 謎が深まるばかり……そろそろリニスから〈優秀〉という看板を外すべきかもしれないわ。

 

目で無言の圧力を加えながらリニスの説明を待つ。

 

「まずフェイトとアルフの二人と戦ってました」

 

「……………………え?」

 

「ちょっ、ちょっとだけ時間をください! 順序良く説明するのでちょっと待ってください!」

 

 もしかしてリニスって……おばかなのかしら。

 

いや、でも使い魔は魔導師の格を表すというし、使い魔がおばかだと(あるじ)である私もおばかさんということに……それは認められないわ。

 

ここからのリニスの言動、立ち居振る舞いで判断しましょう。

 

「えっとですね、最初にフェイト、次にアルフと戦って、二人ともその戦い方に好印象を得たそうです。実力で劣りながらも、自分の能力の限界まで出し尽くして渡り合おうとする精神に、尊敬に近いものを感じたと言っていました」

 

「……それはたしかに好印象ね。……報われないかもしれないけれど、それでも最大限の努力をするというのは……誰にでもできることではないのだから」

 

 それなら……この子たちが好意や親近感を感じるのは理解できる気がするわね。

 

自身の限界、さらにその先まで力を尽くして事を成そうというのは、まさに私たちが目指していることそのものなのだから。

 

「私は徹と喋っただけですが、それでも引き込まれるような魅力といえばいいでしょうか、そういうものを感じました。一種のカリスマ性とも言えるかもしれません。徹とのお喋りはとても楽しかったですよ。そうです、戦って会話を交わして、敵同士という垣根を越えて親しくなったんです。ふぅ……」

 

 長い説明を終えて、リニスは紅茶を飲む。

 

 リニスが言っていたことをまとめると……だいたいこんなところかしら。

 

「その徹くんという少年が悪い子ではない、というのはあなたの説明の端々からにじみ出ていたしよくわかったわ。つまりあなたたちは三人そろって籠絡された、ということでいいのかしら」

 

「ど、どこをどう受け取ったらそんな結果になるんですかっ!」

 

 どこをって、どこからどう見ても普通以上の感情がさっきの熱弁に込められていたでしょう。

 

徹という少年の話をする時のリニスの瞳はとてもきらきらと輝いていたし、声にも力が込められていたというのに自分で気づいていないのかしら? リニスのベッドの下に隠されている、上半身裸の男性が表紙という、見るからにいかがわしい雑誌を読んでいる時と同じくらいに瞳が輝いていたのだけれど。

 

「アルフならともかくっ、私はそんなことありません!」

 

「ちょっ、ちょっとっ! 聞き捨てならないよリニス!」

 

 いつのまにかフェイトと一緒に小躍りしていたアルフがテーブルに戻ってきていた。

 

アルフは語気を荒げ、なにか反論したいような雰囲気ね。

 

「私とフェイトは見たんだからね……リニスが、裸に剥いた(・・・・・)徹を椅子に拘束(・・)していろいろ(・・・・)してたことっ!」

 

「ごふっ、ごほっ、けほっ……」

 

「ごっ、誤解に誘導するような悪意のある言い方しないでください!」

 

「か、母さんっ! だ、大丈夫?!」

 

 あまりに想像以上の単語が出てきてしまったせいで、紅茶を吹き出してしまう。

 

 ア、アルフは今なんといったのかしら……『裸に剥いた』、『椅子に拘束』、『いろいろしてた』……。

 

たしかリニスが、その徹くんのことをアルフと同い年くらいと言ってたわね……ならだいたい十六か十七かそのあたりでしょう。

 

九十七管理外世界ではそのくらいの歳の子は未成年のはず、うん……犯罪ね。

 

驚いたわ、まさかジュエルシードに関することよりも前に、現地の少年に対して犯罪行為(強制わいせつ)を働いていたなんて。

 

 従者である使い魔の罪は、主である魔導師の罪……いずれ贖罪しに行かないといけないわね……。

 

「それを言ったらアルフ……あなたは徹とキスしようとしてたでしょう!」

 

「かふっ……」

 

「母さんっ!」

 

「なっ、なっ! なんでそれを今言うのさっ!」

 

「今以外に暴露するタイミングなんてないでしょう。絶好の機会とすら言えますね」

 

 私は口を拭きながら、なおも言い争いを続ける二人を眺めて確信に至る。

 

私とフェイトの使い魔はもうダメだわ。




プレシアSIDEではっちゃけた話はおそらくこれのみとなると思います。
後半に行くにつれ、話が暗くなると思ったので、今回くらいはなるべく明るい方向性にしようとは思っていたのですが、なぜかギャグ回のような様相に……。
理想と現実のギャップにいつも苦しみます。

後半の書きやすさたるやありませんでした。
こういうノリは書いてて楽しいです。
逆に前半はかなり時間がかかりましたが。


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『次』

「あれ、徹じゃないの。こんなところでなにしてるの?」

 

「急いで帰ったかと思えばこんなところでうろついていたのか。長谷部さんや太刀峰さんとストバスに行ったんじゃなかったんだな」

 

 フェイトたちとわかれて帰宅途中、恭也と忍にばったり会ってしまった。

 

「あぁ。用事があったんだけどな、それが予想以上に早く済んじまったんだ。お前らはこっからなにかあんのか?」

 

「俺は店の手伝い」

 

「私はその手伝いの手伝い」

 

 やっぱり(翠屋)があるか。

 

ヒマなら遊びに行こうかと思ったんだが。

 

「徹は今日はもう予定ないのか?」

 

「ん、ないな」

 

「ならこれ(・・)は自分でなのはに渡せ。もう帰ってきてるだろうからな」

 

 『自分で渡せ』と突き出された右手には見覚えのある白い立方体の箱(ケーキボックス)

 

いや見覚えがあるなんてもんじゃない、俺が渡したものなんだから。

 

「えぇぇ……。恭也から渡すように頼んだじゃん……」

 

「本人が渡すほうがいいだろう。悔しいし認めたくはないが、そのほうがなのはも喜ぶ」

 

「恭也……あなた本当にシスコンね……。私も人のこと言えないけど」

 

 俺からなのはに渡すのは……ちょっと気まずい。

 

 何を話したらいいか、どういう言葉をかければいいかわからない。

 

俺は人を煽るのは得意だが慰めるのは苦手なんだ。

 

「恭也が渡してくれよ」

 

「自分で渡せ」

 

「…………」

 

「…………」

 

「わかった……自分でやる」

 

「よろしい」

 

 無言のにらみ合いに根負けして、渋々ながらケーキボックスを受け取った。

 

こいつはもともと意地っ張りだが、妹が絡むと輪をかけて強情になる。

 

こうなってしまえばそう簡単に意見を変えることはない、こっちが折れなければ話が終わらないのだ。

 

「恭也は頑固なとこあるものね。徹が弱いっていうのもあるけど」

 

「うるせぇ」

 

 気は進まないが、高町家へと赴くことに相成った。

 

 

 

 引き戸を開け、お邪魔する。

 

 玄関にはなのはの靴があったのでもう帰ってきているようだ。

 

 ちなみに忍は玄関で待機。

 

これから翠屋に行くんだから、わざわざ家に上がる必要もないだろうとのこと。

 

 玄関で靴を脱いで、なのはの部屋へ向かう。

 

「昨日の夜も、今日の朝も、なのははなにか悩んで落ち込んでいるようだった。俺も母さんも声をかけたが『わたしは大丈夫だから』と言って聞かなかったんだ。なのはを元気づけてやってくれ」

 

「わ、わかった。俺なりに頑張ってみるわ」

 

「頑張るな。普段通りに接してやればそれでいい。徹の場合、変に意識したら逆におかしくなるだろう?」

 

「俺がバカみたいな言い方すんのやめてくんない?」

 

 可愛らしく装飾されたルームプレートがかかった扉の前。

 

なのはに何を言うべきかはまだ考え中だが……まぁなんとかなるだろう、流れに任せてしまえばいい。

 

 ノックをしようと指を折って扉を打とうとしたら、出した腕を掴まれて止められた。

 

『なんで止めるんだ』と文句をつけようと恭也を見ると、口の前で人差し指を立てて静かにしろ、というジェスチャー。

 

どういうつもりかは知らんが、一応指示通りに静かに待機する。

 

 コンコン、と扉を叩く乾いた音。

 

結局ノックするんならなんで俺を止めたんだ……恭也のことだからなんか思惑があるんだろうけれど。

 

「……なに?」

 

 いつもより暗めのなのはの返事。

 

やはり相当落ち込んでるようだ。

 

「届け物だ。開けていいか?」

 

「どぉぞ……」

 

 気怠げな声。

 

いつもの、真夏の向日葵(ひまわり)みたいな元気さは完全に鳴りを潜めてしまっている。

 

 恭也が扉の取っ手に手をかけ、同時にケーキボックスを持っていない俺の左手を掴んだ。

 

取っ手をひねって扉を開け放つと、恭也は一歩下がりつつ俺の左手を引っ張り込んで体勢を崩させ、次いで俺のケツを蹴っ飛ばしてなのはの部屋にシュート。

 

 転がるように入ってきた俺を、なのはは『ひゃあっ!』という可愛らしい声で出迎えてくれた。

 

 転倒したもののなんとかケーキボックスは死守、多少傾いたり形が崩れていたりする可能性も無きにしも非ずだが、食べる分には問題ないさと強気に構える。

 

ケーキの心配をさせた原因に『なにをしやがる!』という抗議文を視線に乗せて、部屋の出口に立っている恭也に送ったが、当の本人は目を瞑って『上手くやれよ』とアイコンタクトを返してきた。

 

 ゆーっくりと扉を閉める恭也だが、閉じ切る最後の最後までじとぉっとした目を俺に向けていた。

 

おそらく『手は出すなよ』とかきっとそういう意味合いを持った視線。

 

上手く元気づけてほしいが、手を出すのは認めないという複雑な兄心。

 

なんにしたって手なんか出さねぇよ。

 

「え、と……。と、徹さん……?」

 

 ぎぎぎ、と長年潤滑油を差していない錆びついた機械のようなぎこちない動作で首を回して、なのはへ目を合わせる。

 

「うむ。えっと……その、あれだ。ひとまずこれどうぞ。差し入れだ」

 

「あ、ありがと……」

 

 なのはにしては珍しく、意識を傾けていないと聞き取れないほどに小さな声でケーキボックスを受け取った。

 

ケーキボックスの持ち手の部分を両手でちょこんとつまみ、ゆっくりと立ち上がっててとてとと移動して机の上に置く。

 

「…………」

 

「…………」

 

 なにやら空気がおかしい。

 

いつもなら頭ん中からっぽで何も考えていなくても話は生まれて繋がって終わらないのに、今日はとんと続かない。

 

例えるなら……普段はスーパーボールくらいに話が弾むのに、弾み過ぎて話が転々として逆に困るくらいなのに、今日は泥団子なみに弾まない、みたいな。

 

まあ……泥団子は弾まないな。

 

 相手が恭也や忍なら、こっちだって気を使ったりはしないし無言でも気まずくなることはないが、なのはの場合、常に機関銃が如く話しかけてくる分、こういう空気ではどうも座りが悪い。

 

レイハやユーノがいれば少しは違うんだろうけど。

 

 ってそうだ、あの二人のことを忘れてた。

 

もしかして二人ともいないのか? なのはの部屋で二人っきりというのにレイハが罵詈雑言を俺に放ってこないし、恭也が退室してしばらく経つのにユーノが挨拶どころか一言も発しないのもおかしい。

 

「なのは、ユーノとレイハはどうしたんだ? 今いないのか?」

 

 いつも通りに話しかけたつもりだったのだが、ケーキボックスを机に置いて、俺に背を向けたままだったなのははびくんっ、と些か過剰なほどに反応した。

 

俺、驚かせるようなことしちまったか? 

 

「ユーノくんは、念話が通じないから直接徹さんの様子を見に行くって、さっき出かけたの」

 

「あぁ、入れ違いになったのか。ユーノに言っといてくれ。俺については心配いらねぇぞって」

 

 昨日、ジュエルシードを封印した後はユーノとも顔を合わせていなかったからな、いつものように心配してくれてたんだろう。

 

アルフ戦同様、今回も魔力を使い果たしちまってリンカーコアが疲弊しきって今の俺は念話すら使えない状態だ。

 

だからわざわざフェレットもどきの姿で俺の家まで様子を見に行ったのか、悪いことさせちまったな。

 

「ん、あれ? レイハは? まさかユーノが持って行ったのか?」

 

「……違うよ。レイジングハートなら、ここにいる……」

 

 レイハが部屋の中にいるのにこんなに黙ってるなんてことがあり得んのか? 半信半疑ではあるが立ち上がり、なのはが指差す先を辿る。

 

そして、理解した。

 

「そっか……あの時、無茶してたもんな」

 

 テーブルの上、そこには白いフリルがついた水色のハンカチがあり、その真ん中に鎮座するようにレイハがいた。

 

曲線美などと嘯いていた球体に、見るも無残な亀裂が走っている。

 

幾つもの線や(ひび)が、眩しいくらいに光を反射させていたレイハの球面を蹂躙していた。

 

 以前とは比べ物にならないくらいに哀れで、痛々しい有り様。

 

それでもその姿は、俺にはなによりも美しく見えた。

 

だってそれは、俺と交わした『なのはを守る』という約束を懸命に果たした結果であり、レイハの覚悟そのものなのだから。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 徹さんがレイジングハートを置いていたハンカチごと両手ですくい上げた。

 

優しい目をしながら、敬うような態度で持ち上げ、労わり慈しむような手つきでレイジングハートを右手の親指で撫でる。

 

「ありがとう……よくやった」

 

 一言呟き、レイジングハートを口元へ運び、軽く口づけをした。

 

 修復に専念していて、いつものようにのべつまくなしに喋ることさえもできない程に損傷したレイジングハートが、ほんの一瞬ではあるけれど淡く光った。

 

 まるで戦場へ赴き、生きて帰ってきた恋人同士のような。

 

わたしの心にちくり、ちくりと棘を刺す、そんな光景。

 

「ゆっくり休め。元気になったらまたお手入れしてやる」

 

 唇から離し、ねぎらいの言葉をかけて、また机に丁寧に戻す。

 

 ……わたしも、わたしだってっ……徹さんに褒められたかった。

 

『よく頑張った、えらいぞ』って、頭を撫でてほしかった。

 

『やっぱりなのはは凄いな、助かったよ』って、力強くぎゅうっと、広くて温かい胸の中に抱き寄せられて、安心できる大きな手でわしわしと、手荒く強めに撫でてもらいたかった。

 

 でも、わたしにはそんな権利なんかない。

 

昨日の夜、わたしはなにもできなかった。

 

 寂しそうな目をした少女が無性に気になって無理をして食い下がって、力尽くでジュエルシードを封印しようとして、あまつさえ暴走させてそのジュエルシードに吹き飛ばされて、挙句の果てに戦闘中に意識を失い任務続行不能という醜態をさらした。

 

大事な役目を任されていたのに……なにも、できなかった……。

 

 そんな中、徹さんは、当たれば必死という閃光を振り撒きながら暴れまわるジュエルシードに一人で向かって、閃光を押さえ込んでいっぱい怪我をしながら封印した。

 

……わたしができなかったから、失敗したから……ううん、違う……より悪化させてしまったジュエルシード封印の尻拭いをさせちゃったから、いっぱい怪我したんだ。

 

 金髪の子もわたしと同じくらいに身体はぼろぼろだったはずなのに、そんな傷だらけの身体を突き動かして徹さんの手助けをした。

 

 レイジングハートは意識を失ったわたしを、文字通り命がけで守ってくれた。

 

 あの場でわたしだけが、なんの役にも立っていなかった。

 

こんな子、褒めてくれないどころか見捨てちゃってもおかしくない。

 

なんにも、進歩も成長もしていない……わたしが、わたしだけが……。

 

 徹さんの隣で俯く。

 

そんな卑しい自分にいらいらする。

 

「なのはもよくがんばったな」

 

 こういう仕草をすれば、優しい徹さんはわたしを気にかけてくれるだろうと、そう計算してしまう浅ましい考えの自分に腹が立つ。

 

 黙りこくったわたしの頭に手を置いて、ぽんぽんと跳ねるように徹さんが撫でた。

 

きっと落ち込んだわたしを慰めてくれるだろうというはしたない思惑通りに徹さんは、甘美で、蠱惑的な声とその包容力で癒してくれる。

 

「今回は悔しい思いをしただろうけど、()頑張ったらいいからな。お前の力を魅せてくれ」

 

「ッ!」

 

 『次』その単語に心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えて、咄嗟に徹さんを両手で押しのけた。

 

両手で押したのに、徹さんは身体と床を一本の鉄柱で繋ぎ合わせているかのようにビクともしなくて、押したはずのわたしが逆に体勢を崩して、後ろにあったベッドに倒れ込む。

 

「い、いきなりどうした?」

 

()なんて……なかったよ」

 

 戸惑う徹さんをよそに、天井を仰ぎながら誰ともなしに独白する。

 

 『次』なんてなかった。

 

あの時、ジュエルシードが暴走してあのままなにもできなかったら、次元断層が発生してみんな……この世界ごと消えてなくなってしまっていたはず。

 

徹さんが命がけで押さえ込んでくれていなかったら、もちろんわたしだってここにはいない。

 

『次』なんて……こなかったんだ。

 

「なのは……?」

 

 上を向いても零れる涙を止めることはできなかった。

 

こんな顔を見られたくなくて、両手で顔を覆い隠す。

 

 悔しくて、情けなくて、いたたまれない。

 

以前徹さんに向かって言った『守る』という言葉、今思い出したら一周回って笑いさえ込み上げてくる。

 

 大言壮語も甚だしい。

 

そんな力なんてないくせに自惚れて、才能があるなんて少し持ち上げられたら調子に乗って、浮かれて思い上がって。

 

自分一人じゃ、なんにもできないのに。

 

 誰かを守ろうとするのなら、隣にいるだけではダメなんだ……その人より前に立っていないと、守ることはできないのだから。

 

それなのにわたしはいつまでも、徹さんの後ろにいて守られている……。

 

 ベッドがギシッと軋む音を上げた。

 

顔を覆っているせいで見えないけれど、徹さんがベッドに腰掛けたみたい。

 

さっきとは異なり、柔らかくあやすように、寝転がるわたしの頭を撫でる。

 

「なのはが真剣に思い悩んでいるみたいだから、俺も真剣に答えるわ。今回活躍できなかったからって落ち込んでるんだろうけどな、もともとそう簡単に最初から上手くいくわけねぇの」

 

 『ほれ、顔見せろ』と泣き顔を隠していた両手を徹さんに掴まれて強引にベッドに押さえつけられる。

 

『やだっ』という言葉とともにささやかながら抵抗したけれど、時間稼ぎにもならなかった。

 

美人な顔になったもんだなぁ、と小馬鹿にしたような口ぶり……だから見られたくなかったのにぃ……。

 

 左手は徹さんの右手で、右手は徹さんの左手で押さえられているせいで、顔を隠そうにも(ろく)に身動きすら取れない。

 

今のくしゃくしゃな泣き顔なんて絶対見られたくないのに、至近距離に徹さんの顔がある。

 

 徹さんの鋭くて真っ直ぐな瞳を見て、こんなに真面目な話をしているのに意に反して顔が熱くなる自分が恥ずかしい。

 

「なのははまだ九歳だ。俺とは生きてきた年数や踏んできた場数が違う。俺は喧嘩や道場の試合とかで感覚がちょっとは鍛えられてんの」

 

 わたしに覆いかぶさるように、上から一直線に瞳を貫き見る徹さん。

 

言葉が心に沁み渡り、手から伝わる温もりが鬱屈とした暗い思いを晴らしてくれる。

 

「たしかにレイハが言ってた通り、魔法ではへっぽこだ。だけどな、多少……うむ、多々魔法の力で劣っても、創意工夫でなんとか立ち回れる。まだ俺は、なのはに守られるつもりはねぇんだよ。これでもなのはよりいくつかお兄ちゃんなんだ」

 

 前にわたしが言ったセリフ、その当てつけだ。

 

 私の手を握る力がかすかに強くなる、徹さんの精悍な瞳がギラギラと妖しく煌めいて、悪戯っぽくにやりと笑った口から肉食獣のような八重歯が顔を覗かせた。

 

徹さんはいきなりバッと、鼻と鼻が触れ合うほどに顔を近づける。

 

わたし史上初くらいに徹さんが近くにいて存在を感じられて、心臓が早鐘を打ち、身体が熱くなってきて、頭に霞がかかるようにぼぉっとしてくる。

 

 徹さんの口が、まるでわたしの喉笛に喰らいつくかのように開かれた。

 

 

 

「だから……今はまだ、俺に守られてろ。なのは」

 

 

 

「ぁっ、……はぃ……。徹……おにぃ、ちゃ……」

 

 

 

 わたしの全てを征服されたような、心地良い陶酔感。

 

 今の体勢(押し倒されて)シチュエーション(二人きりの部屋でベッドの上)、わたしを支配するようなセリフ(殺し文句)

 

ふわふわした頭で、ちょっとえっちな少女マンガみたいな展開だなぁなんて、そんな他愛もないことを考えていた。

 

同時に、この時間が永遠に続けばいいのに、とも。

 

 でもこの幸せ空間は突然現れた闖入者によって、打ち砕かれる。

 

「徹、なのは。言い忘れていたんだが、勉強会は今週の……土曜、に…………」

 

 人生に一度、あるかないかのチャンスだったのにこのっ……邪魔者(恭也お兄ちゃん)は。

 

 徹さんの顔を窺うと、すでにわたしから視線をはずして、冷や汗を流しながら唇の端をひくつかせて呆然と扉のほうを見ていた。

 

「…………はぁ」

 

 空気の読めない愚兄に呆れ果てて、ついついため息が零れ落ちる。

 

甘い雰囲気は(そんなものがあったのかはわからないけれど)消えてなくなってしまった。

 

「とうとう……とうとうヤりやがったかこの野郎ッ!!」

 

「おおお落ち着けっ、恭也! お前の勘違いだ!」

 

 わたし程度じゃ、まだこの人の前に立つどころか隣に並ぶことさえ難しいのかもしれない。

 

でもこれからがんばって……いつか隣に立てることができたら……その時はまた『徹さん』と呼ぼう。

 

「なのはの顔が真っ赤じゃねぇかッ! 火照ってるじゃねぇかッ! もう事後かクソ野郎!!」

 

「ちょっ、恭也!? 自分がなに言ってるかわかってるか?! キャラおかしいぞっ?!」

 

 それまではその呼び方は返上して、頼られるくらいに強くなって自分の力に自信がつくまで、徹お兄ちゃん呼びに戻そう。

 

強くなろう……その努力をしよう。

 

より一層の決意を、覚悟を……わたしは決めた。

 

「どこまでヤりやがったッ! 最後までとか()かしやがったら貴様の身体を百と八つ(煩悩の数)に切り分けてやるッ!」

 

「ほんといい加減にしろよゴラァ! いっぺん深呼吸しろ!」

 

 さしあたっては妄言と恥を垂れ流し続けている兄を、一度殴って黙らせることから始めよう。




更新遅れてすいません。
その上いつもよりちょっと短めという。

今回同じ場面にいながら視点が変わるというわかりにくい仕様になってしまい申し訳ないです。
それになんか、いつもに増してなのはの思考が小学生とは思えない程達観している、みたいな感じになっちゃって。
小さい子視点はとても難しいというのを再確認しました。



いろいろと勉強が必要のようです。


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曲がって、歪んで、そして汚い。

「それで、なんで恭也お兄ちゃんは帰ってきたの?」

 

「……店に向かっている時に勉強会の日にちが決まったのを言い忘れていたのを思い出したから、それを言いに戻ってきたんだ」

 

「そんなもん携帯使ってもいいし、なんなら明日でもよかっただろ」

 

「嫌な予感がしたからだ」

 

 神がかり的な直感だな……これも剣士の成せる業なのか?

 

 恭也の発作――狂乱ともいえる――はなのはに鼻をしたたかに殴られたことにより鎮静した。

 

冷静になったので、今は恭也がなにを言おうとしていたか聞いていたところだ。

 

「……二人とも、そろそろ離れたらどうなんだ」

 

「俺はどっちでもいいんだが」

 

「や。徹お兄ちゃんの近くにいると暖かいもん」

 

「寒いのなら暖房でもつければいいだろう」

 

「わかってないね、恭也お兄ちゃん。心が暖かいの」

 

「…………」

 

「俺にそんな目を向けられても……」

 

 恭也の目がとても鋭く冷たい、心胆寒からしめるものがある。

 

しばらくの間、夜道には気をつけておこう。

 

 現在の俺たちの配置を説明すると、まず俺はなのはのベッドの上で胡坐(あぐら)をかいていて、なのはは胡坐をかいた俺の足の上に座ってすっぽりとおさまり、恭也はなのはの命れ……指示により正座している。

 

この空間において、ヒエラルキーの頂点に君臨するのは高校生(恭也と俺)ではなく、小学生(なのは)なのだ。

 

「ん~、ふふ~」

 

 俺の膝の上を占領しているお姫様は鼻歌まで歌ってとことんご機嫌である。

 

落ち込んだなのはを必死に慰めた結果、なのははまた俺を『お兄ちゃん』呼びに戻し、すごく甘えてくるようになった。

 

魔法を知ってからは『みんなを守らなくちゃ』という意識が働いて気を張っていたのか、あまり俺に甘えるような仕草はしていなかったが、『俺が守る』と言ってからは昔に戻ったようにすり寄ってくる。

 

なのははけっこう悩みを抱え込むところがあるし、ジュエルシードの封印と回収という重荷を背負っているのだから、なるべく悩みの種をなくそうと思って励ましたのだが……少しやりすぎた感はある。

 

当然なのはに言った言葉に嘘はないが、押し倒すというのはいらなかった。

 

ならなぜやってしまったのか……そんなもん、ひとえに我慢できなかっただけだ。

 

 俺としてもこういう風にくっついてこられて頼られるのはすごく嬉しいが、恭也の前ではやめてほしい。

 

なぜなら――

 

「…………」

 

「俺にはどうすることもできねぇって……」

 

 ――恭也の目のハイライトが消え失せているからだ。

 

もし殺意だけで人を殺せるなら、俺はすでに十を超える回数死んでいることだろう。

 

 睨みつける視線から逃げるように話題を振る。

 

「そういや、なのはも勉強会来るんだよな?」

 

「うんっ! 徹お兄ちゃんの手料理とデザート食べれるって聞いたからっ。……あと苦手なところの勉強教えてもらえるし」

 

「ついでみたいに言うな。メインは勉強会なんだぞ。……もはや主旨が変わりつつあるけど」

 

「材料買いに行かないといけないな。忍の家で用意してもらうという手もあるが」

 

「まぁ、あれだよな。家にお邪魔させてもらってキッチンまで借りる上に、食材まで準備させるってのはどうもな」

 

「それに使う材料は自分の目で見て選びたいだろう? 金曜にでも買いに行くか」

 

 恭也の提案に首肯する。

 

相手におんぶに抱っこでは申し訳ないからな。

 

それに恭也の言った通り、使う素材は自分で選びたいという理由もある。

 

質によって料理の出来は随分様変わりするし、デザートならそれは特に顕著だ。

 

 恭也と買出しの予定について話を詰めていると、膝の上に座っているなのはが急に、まるでシートベルトでもつけるかのような気楽さと迷いのなさで、俺の腕を掴んで自分のお腹に固定した。

 

当然密着度数と心拍数は跳ね上がり、それに付随して通常状態になりつつあった恭也の目はまた鋭くなる。

 

「わたしと喋ってたのに……ほったらかし。ちょっとひどいと思うの」

 

「いや……そういうわけじゃないんだけど」

 

 ひまわりの種を口いっぱいに頬張ったハムスターのように、頬を膨らませていじけたなのは。

 

恭也と話していただけで機嫌を損ねるとは……。

 

いつもより甘えん坊レベルが高いなのはのセリフに戸惑う。

 

 それは恭也も同じだったようで、驚きのあまり常態の二割増しで目が見開かれている(自社調べ)。

 

 恭也と目が合い、膝の上の甘えん坊のお姫様を一瞥して、また視線が合って二人同時に『はぁ』と短くため息を吐いた。

 

そして『後で』というアイコンタクト。

 

この場ではお姫様のご機嫌を損ねるから、また改めて作戦会議しようということだろう。

 

 小さく頷いてそれに賛成の意を示す。

 

なのはがいる限り、この場で続けていても話が進まなさそうだしな。

 

「そうだ、なのは。アリサちゃんも勉強会に呼ぶといい。忍の家で勉強会やるんだからすずかも参加するだろう。アリサちゃんは勉強する必要がないくらい賢いらしいが、一人だけのけ者ってのは可哀想だしな」

 

「いいのっ?! やったっ! アリサちゃんも呼んでいいか聞こうと思ってたの!」

 

「さすが徹、まさかなのはの友達にももう手を付けていたとは……」

 

「誤解してんじゃねぇよ、偶然会ったんだ」

 

「偶然……? ああ、待ち伏せでもしたのか?」

 

「偶然つってんだろっ! それのどこが偶然なんだ!」

 

「小学生と知り合うためならどんな労力も惜しまない、か。……花園経営者は如才ないな」

 

「誤解を深めてんじゃねぇよッ!」

 

 俺の腹から胸くらいに柔らかな感触とほのかな温もりを感じる。

 

なのはが俺の上半身を背もたれにするようにもたれかかっていた。

 

 視線を上にあげて、俺の顔を仰ぎ見る。

 

重力に引っ張られて前髪が後ろに流れ、なのはの綺麗なおでこが見えた。

 

 思わずちゅってしたくなるような魅力的なおでこだが、万が一ちゅってした場合目の前のシスコンに俺の首をきゅってされる未来が見えているのでやめておく。

 

まだ死ぬには早すぎる。

 

「楽しみだなぁ、徹お兄ちゃんも一緒にみんなと遊べるなんて」

 

「だいぶ人数増えそうだぜ。俺の学校のクラスメイトが三人来るし、うち一人の妹も来る……予定だ。たしかなのはは知ってるんだよな。鷹島彩葉ちゃんだ」

 

「徹の交友関係(ストライクゾーン)は狭く低く、だな」

 

「低くってなんだ、低くって」

 

 合計何人来るんだったっけか、大所帯になりそうだな。

 

早めに色々と準備しといたほうがいいかもしれない。

 

ファリン(メイド妹)ノエル(メイド姉)にも手伝ってもらうか……いや、ファリンはおっちょこちょいだからなぁ……どうするべきか。

 

「それじゃあ小学生組はわたしとアリサちゃんとすずかちゃん、鷹島さんの四人だね」

 

「高校生組は俺、徹、忍に鷹島さんと長谷部さんと太刀峰さんの六人だな」

 

「鷹島さんどっちも苗字で呼んだらわかりにくいな」

 

 言わずもがな、なのはが言った鷹島さんは鷹島彩葉ちゃんのことで、恭也が言った鷹島さんは鷹島綾音さんのこと。

 

この会、兄弟姉妹が多いなぁ……。

 

「なのはは彩葉ちゃんとはあんまり話したことないんだっけ?」

 

 そういえばなんかの時に、そんな感じの話をしたことがあるような記憶がおぼろげに存在する。

 

誰だったかな、彩葉ちゃんから聞いたんだったか。

 

たしか彩葉ちゃんの後ろの席がなのはの席だった、とかなんとか。

 

 俺の右肩付近にやわっこそうな頬っぺたをすりすりしながらなのはが答える。

 

「ん……ちょっと話しかけづらくて……」

 

「……んむ?」

 

 俺の角度からなのはの顔は見えないが、なにやら困ったような声音。

 

彩葉ちゃんが話しかけづらい? 以前、自然公園から鷹島さんの家まで送り届けた時にかなりの時間喋っていたが、そんなイメージは持たなかったな。

 

「鷹島さんの妹さん、彩葉ちゃんといったか? その子は学校ではどんな感じの子と喋っているんだ? おとなしいグループとか派手なグループとかあるだろう」

 

「学校で喋ってるとこ、見たことないの」

 

「…………」

 

「…………」

 

 なんとなしに訊いただろう恭也の質問にどぎつい答えが返ってきた。

 

そういえば鷹島さん(姉)言ってたな……友達いないって。

 

 え、なに……もしかしていじめられてるとか? もしそうだとしたら俺としては動かざるをえないが。

 

 俺と恭也の口に出しにくい気まずい空気を感じ取ったのか、なのはがすこし慌てたように訂正する。

 

「か、勘違いしないでねっ。鷹島さんを仲間はずれにしてるとかじゃなくて、すごく性格が大人っぽくてみんなどんな話をしたらいいかわからないって意味だからっ!」

 

「なのはが『大人っぽい』と評するってどんだけだよ」

 

「鷹島さんの妹なのに大人っぽい……あの人の妹だからこそ大人びているということか?」

 

「姉が重度の天然だからな。たしかに彩葉ちゃんは年相応以上にしっかりした子だった」

 

 言っちゃ悪いが、どう見たって彩葉ちゃんのほうが精神的な面において成熟していたように思う。

 

鷹島さんは鷹島さんで立派にお姉ちゃんをしていたけど。

 

 俺との会話でも受け答えは完璧だったし、きりっとした瞳もあいまって利発そうな印象を受けたな。

 

困った姉のフォローで苦労してきたことが窺えたというものだ。

 

「それにすっごく頭が良いの。アリサちゃんの次に成績いいんだよ」

 

「たしかアリサちゃんは抜きんでて頭良かったはずだろ? その次ってことは彩葉ちゃんも相当凄いんだな」

 

「徹が言っても遠回しな自慢に聞こえるぞ。しかし姉と妹でこれほど真逆とはな、ある意味バランスは取れているのか。これで鷹島さんに勉強を教えていたら面白いな」

 

「鷹島さんが彩葉ちゃんに教えられてるってか? そこまでいくとさすがに苦笑いだぜ。本気で鷹島さん改造計画を立ち上げなきゃなんねぇ」

 

 鷹島さんは、高校始まってすぐという現在の時点ですら勉強についていけてないのだ。

 

留年なんていうことにならないように、という意味も込めて、この勉強会が企画立案されたふしもある。

 

鷹島さんは別に地頭が悪いというわけではないだろうし、なんとかなるだろう。

 

 ただ、勉強会という表向きで実際のところ、ただの懇親会になりそうという一抹の不安を俺は感じている。

 

あの人ちゃんとノートとか教科書とか持ってくるかなぁ……『数学教えて』って言って持ってきたノートが連絡帳(vol.10)だったりする人だからなぁ、彩葉ちゃんに荷物を確認してもらうように言い含めておこう。

 

「なのはもこの機会に喋ってみるといい。鷹島さんの妹さんなのだから良い子だろう」

 

「あぁ、礼儀正しくお利口さんで素直。ふわふわした髪を携えた、とても可愛い良い子だぜ」

 

「むぅっ!」

 

 彩葉ちゃんをべた褒めしたのが面白くなかったのか、頭を俺の鎖骨あたりにぐりぐりしてきた。

 

はっは、こんなもん俺にとっちゃ、嫌がらせどころかご褒美にしかなりませんな。

 

「くっく、なのはも可愛いぞ。せっかくだし当日のデザートのリクエストとか訊いておこうか。どんなの食いたい? 恭也は前作った抹茶尽くしでいいんだろ?」

 

「ああ、俺はそれで構わない。というかそれがいい」

 

「……わ、わたしは……いちごの、ショートケーキ……」

 

「承った。なるべくオーダーに沿うようにメニュー考えるわ。さすがに全員分のリクエストを訊くことはできねぇけど、二人分くらいなら採り入れることはできるからな」

 

「あとは徹の、自信のある品を作ればいいだろう」

 

「おう、そうするわ」

 

 なのはは可愛いという褒め言葉に照れて、空気に溶けて消えそうな小さい声でショートケーキの注文。

 

褒められるのに慣れてないことはないと思うんだけどな、愛いやつめ。

 

 恭也は前訊いた通りの抹茶尽くしのクレープ。

 

 あとは助言通り、二~三種類ほど自信のあるスイーツを作るとしよう。

 

「そ、そういえば徹お兄ちゃん、ケーキ持って来てくれたんだよねっ。一緒に食べよ!」

 

「いや俺、家でもいくつか試食したし学校でも食ったから……」

 

「母さんが作ったケーキほどではないにしろ、なかなか美味かったぞ」

 

「なかなか美味かった、だけでいいじゃんか。桃子さんと比べんなって」

 

 さすがにあの人と比べられると俺には立つ瀬がない。

 

桃子さんの腕には遠く及ばないし、まず費やしてきた時間が違うのだから敵うべくもないのだ。

 

翠屋でバイトして技術を盗んだり学んだりしていたが、まだまだ大きな差がある……でもいつか絶対追い抜いてやると、士郎さんから頂いた包丁に誓っているんだ…………翠屋?

 

「きょ、恭也。店、いいのか?」

 

「ッ!」

 

 俺の言葉にはっとして、震えだす恭也。

 

「あーあ、またお母さんに怒られるね」

 

 桃子さんの話が出てきて翠屋のことを思い出した。

 

恭也はもともと、店に行く前に俺たちに勉強会の日程を伝えに来ただけだったのだ。

 

それがまぁ……ちょっとした『いざこざ』があって時間を食ってしまった。

 

「急いだほうがいいだろうなぁ……」

 

 桃子さんの、笑顔という名の怒りの仮面が目に浮かぶ。

 

背筋がぞくってした、あの人の恐怖は脳髄に刻まれるんだ。

 

「急いでも急がなくても怒られることに違いはないけどね」

 

「急ぐに決まっているだろうっ……。怒られることは決定事項だが、急がなかったら怒られるに加えて体罰(アイアンクロー)が待っているんだからな……」

 

 青褪(あおざ)めた表情で冷や汗を頬に伝わせ、肌を粟立たせる恭也。

 

こいつがこんな顔をするのも珍しいな。

 

恭也がこんなに顔色を変えることなんて、忍か桃子さんに怒られる時くらいだ。

 

……あれ? わりと頻繁にある気がしてきたぞ?

 

「行ってくる、なのは。じゃあな、徹。買い出しに行く日はまた明日、学校で話そう」

 

 返事も待たずに口早にそう言って、ばたばたと床を鳴らしながら部屋を出て行った。

 

もう姿も見えなくなった恭也に、聞こえるかわからないが俺となのはが『行ってらっしゃい』と投げかける。

 

「俺もそろそろ帰るかな」

 

「えーっ! 徹お兄ちゃんも一緒に食べようよっ、ケーキ!」

 

「晩飯の準備もあるからさ、ごめんな」

 

「次いつ会えるか分かんないのにぃ」

 

「いや、土曜に絶対会えるだろ。じゃあな、昨日の疲れも残ってるだろうから身体休めとけよ」

 

 なのはの腰を恭しく掴んで持ち上げて、俺の隣にぽすっと置く。

 

腰に触れた時になのはが『にゃっ』と猫のような声を上げたが気にしない。

 

 俺にだって最低限のデリカシーは持ってるから女の子に対して絶対に尋ねたりはしないが、体重どのくらいなんだろう。

 

持ち上げた時めちゃくちゃ軽かったんだけど。

 

俺の今のコンディションで軽く感じるのなら、体調万全で抱っこしたらもっと軽く感じるんじゃなかろうか、今度試してみようかな。

 

これは劣情とか疚しい気持ちでやろうとしているわけではなく、純粋な知的好奇心や学術的な見地から物を見た結果である。

 

まぁ、なのはは天使のように可愛いからな、羽根のように軽いのは理に適っているといっても差し支えはないか。

 

 腰を浮かせて立ち上がり、なのはの頭を一撫でして、恭也が乱暴に閉めた扉へ向かう。

 

「待って!」

 

「かひゅっ!」

 

 取っ手に手をかけた瞬間、背後から途轍もないインパクト。

 

たぶん、というか絶対ロケット砲(なのはタックル)が火を噴いたのだろう。

 

 病み上がりと言っていいくらいの体調なのでもう少し手加減してくれるとありがたかった。

 

脊椎損傷もあり得た威力、腰椎がお腹から飛び出るかと思った。

 

その威力の分、元気があるということなのだから、ここは喜ぶべきだろう。

 

凄まじい威力と半端じゃない驚愕によって口から魂的な何かが飛び出そうになったが、なのはのためだ、飲み込もう。

 

「なのは、どうした?」

 

 多少掠れてはいるものの、ちゃんと声が出たことにまず驚いた。

 

俺の声帯と呼吸器官もあながち捨てたものじゃない。

 

「あんまり……無理しないでね。徹お兄ちゃんはいつか、無茶しすぎて死んじゃいそうで……」

 

 ラグビー選手そこのけのタックルをかましてそのまま俺の腰に抱きついているなのはが囁く。

 

気が急いたのかなんなのか知らんが、無理するなというのなら体当たりはしないでいただきたい、と言いそうになったが真面目な雰囲気なので黙っておく。

 

「無茶して死ぬ? この俺が? はぁ……間違ってるぞ、なのは。俺は極力危険なことから遠ざかる事なかれ主義だ。今回は結果的に身体を張ることになっちまったが、こんなことはそうそうない。誓っていいぜ」

 

「信用できないの」

 

 くすくすと、どこか妖しい雰囲気をともなって笑うなのは。

 

 物騒な匂いがしたら、その場からふわっとフェードアウトしていくのが俺のポリシーといっても過言ではないというのに。

 

「恭也お兄ちゃんが言ってたよ。『徹は他人にはすこぶる冷たい』って」

 

 それならなおさら疑う理由にならないのでは? 他人に冷たいのなら身体を張ることも矢面に立つこともないだろうし。

 

「でも続けてこうも言ってたよ。『知り合いには甘すぎる』って。わたしもそう思うんだ。徹お兄ちゃんは親しい人に対して甘い……んー、ちょっと違う、優しすぎるの。手伝ってあげたい、助けてあげたいと思うのは、それ自体はとってもいいことだけど、それで自分の身体を簡単に(なげう)つのは間違ってると思う。わたしは徹お兄ちゃんのそういう所がとっても心配なんだよ……」

 

「…………」

 

 時々、なのはは本当に小学生なのだろうか、と疑問に思うほど大人びたことを言う時がある。

 

これは幼少期――今も十分幼いが――一人でいた時間が長かったことに原因があるのだろうか。

 

 全部勘違い、なんだけどな。

 

アルフも俺のことを良い人みたいに誤解していた。

 

そんな大層な人間性は備わってないというのに。

 

 俺は基本的に他人に対して関心を持てない。

 

自分に関係のないことなら、火の粉を払うことすら面倒だから危険な場所に近寄りもしないのが俺という人間だ。

 

名前も顔も知らない赤の他人がどれだけ傷つこうが、極端に言えば命を失おうがどうだっていいとさえ思っている。

 

そういう『運命』だったんだろう、その一言で終わりだ。

 

車に轢かれた動物と同じ……いや、まだ憐みの念を抱く分、犬猫とか動物に対してのほうが抱く感情は多いと言える。

 

人間の場合、俺の脳内に一バイトぶんの容量さえ残らないし、一切感情に波も立たない。

 

 だが知人なら話は別だ。

 

助けてくれと言われれば、自分の能力の全てを余すところなく使う、尽力する。

 

助けを求められなくても自分で勝手に割って入るくらいだ。

 

いやまぁ、その知人がそもそも少ないけれど。

 

 例外は子どもくらいだな。

 

子ども相手だとなのはやすずかのことが頭をよぎってしまい、知らない子でも見捨てることができなくなる。

 

 要するに、他人は知らん、知人は助ける。

 

それだけのことだ。

 

 別になんらおかしいところはない。

 

世間の常識、世渡りのための処世術、多かれ少なかれ個人差はあれど、誰だってそうやって生きているのだから。

 

 なのはの誤解を解くために俺の考え方を事細かく詳らかに、懇切丁寧に微に入り細を穿って説明するのは簡単だが、純真無垢ななのはに汚い大人の生き方を教えるのは躊躇われた。

 

単純になのはに軽蔑されたくなかったというだけかもしれない。

 

 答えに窮した卑怯な人間の回答はただ一つ。

 

「わかったよ、そこまで言うなら気をつける」

 

 勘違いさせたまま、薄っぺらな口約束を交わすだけだ。

 

 腰にひっつくなのはの頭を撫でて、『いつものように』優しい声で答える。

 

 昔から恭也や忍やなのはと接していて、彼らとの違いを実感した俺の本性。

 

隠したところで滲み出てくる俺の正体。

 

光に照らし出されるように明るみになった俺の性格。

 

 

 

俺の性根は、曲がって、歪んで、そして汚い。

 

 

 





話が、進まない。


もうお気づきかとは思いますが、サブタイトルにあまり意味はありません。


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「お前ら、自然公園になにしに来たんだよ……」

 高町家をお(いとま)して、今は晩飯の材料の買い出しで商店街へと足を運んでいる。

 

 歩きながら携帯を取り出して時間の確認する。

 

なるべく節約して買い物をするためタイムセールを狙うのは、台所を預かる主夫として当然の務めだ。

 

 携帯のディスプレイが映し出す。

 

4/22 火曜日

17:22

メッセージ 一件

 

 中途半端な時間だな、商店街の近くにあるスーパーも駅前のところもタイムセールはまだ早い。

 

これなら商店街の中にある精肉店や鮮魚店、八百屋の方が安いかもしれない。

 

そっちなら顔なじみのおじさんおばさんもいるし、たぶんおまけもしてくれる。

 

 どこの店を回ろうかと思案しながら携帯をポケットにしまおうとして、ぴくっと手を止める。

 

そういえばメッセージが入っていたな。

 

危うく見逃すところだった。

 

 歩きながら携帯の操作をするのはマナー違反なので、道の端っこに寄って通行人の邪魔にならないところでメールの確認をする。

 

姉ちゃんからのメールだ。

 

『今日も夜勤なので晩御飯一緒に食べれません。ごめんなさい』とのこと。

 

文末には、手を合わせて謝罪するような顔文字付き。

 

「姉ちゃん帰ってこねぇのかよ……」

 

 途端にやる気の炎は下火になった。

 

姉ちゃんが帰ってこないのならもう晩飯作らなくていいか。

 

自分の分だけだとどうもモチベーションが上がらない、エンジンがかからない。

 

以前サンドイッチを作った時に切り取ったパンの耳が冷凍庫にあったし、もうそれでいいや。

 

「どうすっかな。時間余っちまった」

 

 要約すると『仕事がんばって』という内容を、千文字を超えるくらいの長文にして姉ちゃんに送信し、携帯をしまう。

 

長文にしたのは嫌がらせではない、家族愛だ。

 

 晩飯を作るという理由が失われてしまったので、もう商店街にいる意味はない。

 

かといって家に帰ってもすることない。

 

こんなことならなのはの部屋でいちゃこらしてればよかったぜ。

 

 肩を落としながら家路に就こうとしたその時だった。

 

「あ、暇つぶし思いついた」

 

 思いついたというより、思い出したという方がより正確か。

 

 たしか今日は女子バスケ部が休みだってことで、長谷部(はせべ)太刀峰(たちみね)がストバスするとか言っていた。

 

ついでにつけ加えると俺もそれに誘われてた、予定があったので断ってしまったが。

 

 しかし部活が休みだというのにストバスしに行くって、あいつらどんだけバスケ好きなんだ。

 

せっかくの休みなんだから、女子高生らしくカラオケやらショッピングやら行けばいいのに。

 

 商店街の中にある大きな時計を見上げる。

 

ぐだぐだやっている間に十七時二十六分を刻んでいた。

 

かなり日は傾いてきているが日没までまだ一時間ほどあるし、多少ならゲームに参加できるだろう。

 

まだあいつらがバスケットコートにいるかどうかはわからないが、とりあえず行ってみようかね。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 海鳴自然公園が有する敷地は広大だ。

 

公園なんて言葉が不釣り合いなほどにだだっ広く、そして数多くの遊び場が存在する。

 

美しい湖も敷地内に内包し、ボートで遊覧することもできるし、一部区画では有料ではあるが釣り場としても開放されている。

 

毎年何人か遭難者を出している巨大な森、木々が密生していて森林浴などにも使われていると聞いたことがある。

 

自然公園内には草木が生えていない開けたスペースもあり、子供が遊べるようにと(現代の考え方と真っ向から立ち向かう)遊具――一度に三人乗れるブランコや、引くほど巨大で最大傾斜角七十度という製作者が狂ったとしか思えない滑り台、鳥取砂丘をリスペクトでもしているのか直径十五メートルを誇る謎の砂場etc――も置かれていて、幼稚園児や小学校低学年たちの遠足にもしばしば利用されている。

 

その近くにはバーベキューができるエリアも併設されていて、この時期の週末には家族連れや複数人のグループでごった返して大変人気だ。

 

 そんな行き過ぎた遊び心と余計な親切心に満ち溢れた海鳴自然公園、その比較的外縁部、道路に面している場所にバスケットコートは設けられている。

 

バスケットコートの隣にはテニスコートもあり、そのどちらもが二面あるという贅沢さ。

 

 何年か前に、どこかのセレブで善良な一般市民から資金援助があって作られたそうだ。

 

貴族かよ、高貴な義務(ノブレス・オブリージュ)か、ありがとうございます!

 

 バスケットコートへ向かっている道中、小動物と出会った。

 

「兄さんっ! 探しましたよ、こんなところにいたんですか!」

 

 この小動物、喋るぞ!

 

 ……なんてことはない、足元に寄ってきたのはフェレットもどき、ユーノだった。

 

「奇遇だな、なにしてんの」

 

 しゃがんで腕を伸ばし、ユーノを手のひらに乗せる。

 

なんでこんなところで、てとてとと彷徨(さまよ)っていたのだろうか。

 

猫に食べられそうだぞ、今もそこの茂みから二つの縦長の長円瞳孔が夕日に反射して妖しげに輝いているし。

 

「兄さんが心配で様子を見に行ったんですよっ。兄さんの家に行ったらいなかったので、なのはの部屋に戻る途中、ジュエルシード探しを兼ねて散策していたんです。そしたら兄さんの姿が見えて驚きましたよ」

 

「そういえばなのはがそんなこと言ってたな。ご苦労ご苦労」

 

 ユーノを肩に乗っけてまた歩き始める。

 

 中途半端な時間なので人通りは(まば)らだ。

 

おかげでユーノとも気兼ねせずに、とまではいかないが小声程度でなら話ができる。

 

「それより、です。身体のほうは大丈夫なんですか? 昨日遠くからですが見ていました。あんな無理な封印の仕方をして……」

 

 出た……ユーノの心配性という病気が。

 

「ああ、なんとかなってる。魔法は前回(アルフ戦)同様使えないが、時間が経てばリンカーコアも回復するだろうし、怪我はリニスさんに治してもらったからな。心配ご無用。レイハはどうなんだ、ちゃんと元通りになるのか?」

 

 ユーノは心配しだすと止まらないので話の矛先をレイハへとずらす。

 

実際にレイハの容体を訊いておきたかったから好都合だ。

 

「そっちは大丈夫です。自動修復モードフル稼働中ですから。損壊がひどくて時間はかかりますが、ちゃんと直ります」

 

「そうか、よかった」

 

 もしかしたらいつまでもあのままなのではないかと心の隅で心配していたのだが、ちゃんと治るんだな、安心した。

 

 そこからは昨日の夜の顛末から、暴走したジュエルシードは俺の胸元でネックレスになっていることまでを話した。

 

ユーノはネックレスと化しているジュエルシードに、また暴走するのではないかという不安感を抱いたようだが、リニスさんに大丈夫というお墨付きを頂いたと言うと納得したみたいだ。

 

敵対組織からの言葉で安心するというのもおかしな話だが。

 

「兄さんはこんな時間からどこに行くんですか?」

 

 肩の上に乗って、落ちないように耳を掴んで俺に問いかける。

 

「自然公園」

 

「はい? なにしに行くんですか?」

 

「バスケ」

 

「今すぐ帰りましょう! 万全とはとても言えない体調なんですから!」

 

 ユーノが小さい手で掴んでいた俺の耳をいきなり引っ張ってきたので、思わず足を止めた。

 

初っ端から実力行使なんて聞いてない。

 

聴覚に支障が出たらどうしてくれる。

 

「痛い、地味に痛い。大丈夫だって、心配しすぎ。リハビリだ、リハビリ」

 

「なにがリハビリですか! バスケってあれですよね、自陣の奥深くから敵側のゴールまでロングシュートを放ったり、ジャンプして両手でボールを持ってゴールに叩き込みまくったり、空中を歩くみたいに飛んでゴールへ投げ入れたり、人間離れした動きでボールをだむだむバウンドしたりする超絶ハードな人外スポーツですよね。そんなスポーツを今の体調でやることは認められません!」

 

「お前はいったいなんというタイトルのバスケアニメを見たんだ。いや、言わなくてもわかるけど」

 

 そこからバスケットコートへと再度歩みを進めながら、ユーノが抱いている大きな間違いを時間をかけて解いていった。

 

バスケットボールという競技をなにも知らない真っ白な状態であのアニメを観賞したのなら、とても激しくて荒々しいスポーツと勘違いするのもおかしくないな。

 

 ちんたら歩いていたせいで予想以上に時間が食ってしまったが、やっとコートが見えてきた。

 

だが、なにやら物々しい雰囲気だ。

 

「あそこですか? ずいぶん人が集まってますね」

 

「そんな人だかりができるようなとこでもねぇんだけど。あとユーノ、そろそろ言葉は喋らないように頼むぜ」

 

 ユーノはきゅいっと一鳴きして了承の返事をした。

 

人差し指でユーノの頭を撫でて、柔らかい素材で舗装されたランニング用の歩道を歩く。

 

人が多くいるから、コートは全部使われていて空くのを待っているのかと思いきや、二面ある内の一つ、手前のコートは空いている。

 

俺は疑問に思い周辺を見渡して状況の把握に至り、眉をひそめてため息を吐いた。

 

「あぁ……。面倒事のにおいがする……」

 

 近くの道路には路肩に数台の車――なにやら下品な改造が施されていてわかりにくいが、恐らくTOYOTAのbBやPRIUS――が雑然と駐車されていて、バスケットコート内にはガラの悪そうな男たちがたむろしていた。

 

 コートはボールが道路へ転がっていかないよう四方をフェンスで囲われ、出入り口はエンドライン(長方形のコートの短辺)側の一か所しかないのだが、その出入り口をふさぐように男が三人、煙草を吸いながら立っている。

 

センターライン(コートを半分に区切っている線)の辺りには、七~八人の男たちが威圧するように並び、にやにやと卑しい笑みを浮かべていた。

 

入り口の反対側ゴール下に女の子が四人(長谷部や太刀峰と昼休みにバスケしているのを学校で見たことがある。女子バスケ部員だ)、身を寄せ合って縮こまるように固まっていて、その四人と男たちの間に立つように二人の女の子が何歩か前に出ていた。

 

 赤茶色のショートヘアを怒りと警戒に逆立たせた長身の女の子……長谷部真希(まき)と、冷たい瞳でチャラそうな男たちを()めつけている、小学生でも通りそうなほど小柄な身体にダークブルーのセミロングを携えた女の子……太刀峰(かおる)

 

その二人の女の子だけが敢然と自分より身体の大きな男たちに相対し、自分たちより人数の多い男たちに歯向かっていた。

 

 俺は尚も歩みを進め、コート内の声が届くくらいに接近する。

 

「道を開けてもらえないかな、僕たちはもう帰るのだけれど」

 

「いい加減……邪魔」

 

 普段とは違い怒気のこもった言葉を男たちに向けて放った。

 

だが男たちは二人のセリフを馬鹿みたいに大きなリアクションで受け流し、一笑に付す。

 

「俺あの青髪のちっちゃい子もーらい」

 

「お前ほんとチビ専な」

 

「そんじゃ俺っちは後ろの胸おっきいピンク髪にすんべ」

 

「ぎゃはは! でたよ、おっぱい星人!」

 

「あの気の強そうなボーイッシュ女ぼろっぼろに泣かせてぇ」

 

「ガチでSっ、マジもんのキチガイぃ。やってもいいけど壊すなよ? 女の数すくねぇんだからさぁ」

 

「君たち心配しなくていいよ、明日の朝……は無理か。明後日までには帰れると思うからさ」

 

 お返しとばかりに大声で繰り広げられる、男たちの軽薄で虫酸が走る会話。

 

女子バスケ部員の四人は怖気を(ふる)って泣き出してしまった。

 

長谷部と太刀峰も、男たちの気持ち悪さに顔をゆがめる。

 

 俺はと言えば、今にも頭の血管がぶち切れそうだった。

 

あまりの憤怒に視界が真っ赤に染まり、黒い感情で心が埋め尽くされる。

 

「なにを考えているのかはだいたいわかりますが……無理ですっ。昨日の死闘で魔法も使えない、疲労困憊の状態であの人数を相手にするのは……」

 

 突如雰囲気を変えた俺を(いさ)めるようにユーノが挟む。

 

「わかってねぇなぁ、ユーノ。確かに今の俺はいつもより頭のキレも悪いし、身体の感覚もズレがある、動きも鈍いがな」

 

 コートの中の男たちはセンターラインを踏み越え、女子たちに近づく。

 

相変わらず目を背けたくなるような醜い表情を浮かべる男たちから、長谷部と太刀峰は不愉快さと恐怖を(あらわ)にしながら後退りした。

 

とうとうゴール下で、涙を流しながら固く目を瞑り、がたがたと震える女子バスケ部員四人の位置まで下がる。

 

もう猶予はない。

 

「なおさらダメじゃないですかっ、大怪我しますよ! もう時空管理局に捕まってもいいから僕が魔法でっ……」

 

 肩から飛び出ようとするユーノに手をかぶせて押さえる。

 

ユーノの魔法は俺と違って色がある――大多数の魔導師には魔法に色があるらしいが――、使えば視認されるのだ。

 

バレたら面倒なことになってしまう。

 

俺ではなく、ユーノが、だ。

 

優しいユーノが良い事をして、損害を(こうむ)るのは看過できない。

 

善人が損をするようなことは、あってはならないのだ。

 

「あの背の高い女とちみっこい女は、俺の数少ない友達と言ってもいい存在なんだわ。あの二人はもはやただのクラスメイトじゃねぇの。だからな、あの屑どもには俺の連れに手ェ出そうとした落とし前……つけさせてやんなきゃなんねぇ。お前がリスク背負う必要はない。ユーノはなんもすんな、アレは俺の獲物だ」

 

 助走をつけて、高さ約二メートルの金網に爪先をひっかけて駆け上がる。

 

ガシャン、ガシャンという金網を蹴り上がった音とともにフェンスのてっぺんに立ち、ダンッという地面を踏み鳴らす音を周囲に轟かせながらコートの内側へと着地した。

 

「はぁ、もう……まったくもう……」

 

 周りに人がいっぱいいるので気を使ったのか、小声でユーノが諦めの声を漏らす。

 

 中にいる人間全員の視線が俺に集まった。

 

 長谷部や太刀峰はなぜここにいるのか、なぜ来たのかわからないといった様子。

 

お前らがストバスに誘ったんだろうが、こんなことになるとは思わなかったけどな。

 

 長谷部と太刀峰の後ろに隠れている女バス部員四人は、悲愴そのものな顔色をさらに青褪(あおざ)めさせた。

 

学校で俺に関してあらぬ噂が流れているのは知っているが、その反応はあんまりなのでは。

 

 男たち――二十歳前後と予想する――は一瞬ぽかんと口を開いたが、次の瞬間、まるでまぬけな男が殴られにやってきたとばかりに嘲笑する。

 

 今のうちに好きなだけ笑っておくといい、後悔するくらいに痛めつけてあげるから。

 

 嘲笑する男たちに負の感情百パーセントの笑顔を返す。

 

「よぉ、バスケ(ケンカ)しようぜ」

 

 舌の根も乾かぬうちに『無茶しないよう気をつける』という、なのはとの約束を破ることになってしまいそうだ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 俺の正面にいた金髪の男が殴りかかってくる。

 

 今日の朝から比べればだいぶ和らいだとはいえ、身体はまだ動かしにくい。

 

リンカーコアからの魔力供給が満足に行き渡っていないし、疲労が残っているのだ。

 

「オラぁ!」

 

 金髪男の右ストレートを余裕をもって躱した……つもりだったが頬をかすめた。

 

俺の身体は予想を上回るレベルでパフォーマンスが落ちている、これからは考慮しなければ。

 

 男の左フックをしゃがんで回避し、神無(かんな)流の技、『襲歩(しゅうほ)』で踏み込むと同時に加速して金髪男の腹部へ右の掌底を叩き込む。

 

 こんな喧嘩に道場で教わった技を使うのはとても心苦しいが、余裕を見せてる場合じゃない。

 

さっき使った『襲歩』も出力八十パーセントオフみたいな感触だ。

 

鮫島さんにこんなクオリティの低い技を見られたら、小一時間の正座に加えて説教されるぞ。

 

 俺の掌底をもろに受けた金髪男は三メートルほど転がって動かなくなった。

 

 相手は人数が多い。

 

一撃で意識を刈り取らないと、囲まれてタコ殴りにされちまう。

 

一撃必殺を前提したヒットアンドヒット、攻撃は最大の防御作戦で行く。

 

「調子ノんなよボケ!」

 

「こんガキがァ!」

 

 仲間がやられたのを見て激昂した男たち、次は俺を挟み込むように二人が迫った。

 

完全に挟まれたら躱しきれない、まず片方を先に沈める。

 

二人の敵の片方、ピアスをじゃらじゃらつけている男のほうに行くと見せかけてフェイント、ピアス男が身構えたのを確認してから踵を返して片割れ、ジーパンに何本もチェーンをつけている男に向かう。

 

自分に来るとは思っていなかったのか、慌てたようにチェーン男は腕を交差させて顔を守った。

 

 あまりにゆるゆるの防御に、思わず笑いが込み上げる。

 

 神無流の基本の踏み込み『踏鳴(とうめい)』で接敵し、チェーン男の顎を跳ね上げるように左のアッパーカット。

 

脳みそが揺れたチェーン男は『けふっ……』という音を口から漏らし、白目をむいて膝から崩れ落ちた。 

 

 背後からピアス男が近づく。

 

俺が気づいていないと思っているのか、大振りな挙動で右手を引き、殴りかかる。

 

その場で速やか、かつ鮮やかに百八十度ターンして、遠心力と捻転力を乗せた右の足刀をピアス男の左側頭部へ叩き込んだ。

 

口にも衝撃が伝わったのか、ピアス男の黄ばんだ歯が赤い液体を一筋引きながら宙を舞う。

 

 こんな絶不調でもなんとかなるかもしれない。

 

思えば鮫島さんは、身体に魔力をブーストしたチート状態の俺を神無流武術の近接格闘だけでのしたんだった。

 

なら魔力がない俺でも素人相手なら渡り合えるかもしれない。

 

 ……そう思っていた時期が俺にもありました。

 

「お前ら、自然公園(ここ)になにしに来たんだよ……」

 

 思わず弱音を吐き出す俺だが、これは致し方ないと思う。

 

出入口に立っていた三人が車から持ってきた物……鉄パイプ、ゴルフクラブ(なぜかパター)、金属バット、バール(三十センチ)、カラーコーン(黄色)、クリスタル製の灰皿(火サス)。

 

わかりやすい凶器の数々にさすがに血の気が引く……なんかこの場にそぐわないものや、火サス的ななにかが混じっていた気もするが、俺も動転してしまって冷静じゃない。

 

「押し潰せ」

 

 右手と左手にメリケンサックを装備しているリーダーっぽい男が他の奴らに指示したと同時に、武器を持った男たち、六人が押し寄せる。

 

ど、どうしよう……さすがに今の俺では捌ききれない……なにか、なにかないかっ……。

 

「兄さん、僕が右側の男の人たちの邪魔をします。その間に左側を片付けてください」

 

 戦火を逃れるため、今まで俺の背中にくっついていたユーノが肩まで戻り耳打ちする。

 

ユーノの身体では危険が孕むが……他に手はない、巻き込みたくはなかったんだが。

 

「すまん、頼んだ」

 

 ユーノは俺の肩から跳躍し、右から二番目、カラーコーン(黄色)の真ん中の空洞になっている部分に両腕を突っ込んで奇声を発している男の顔に着地して、細長いその身体で目を覆い視覚を奪った。

 

時間を稼いでくれている間に数を減らさないと。

 

「ふっ!」

 

 三メートル弱距離が空いている、左から二番目、ゴルフクラブ(パター)を持った男に『襲歩』で近づくと同時に左拳をみぞおちに抉り込む。

 

 『襲歩』を使ってたかだか三メートルしか移動できないとは……情けない限りだ。

 

 ゴルフクラブ男を地に臥させ、次の標的へ移る。

 

左端の鉄パイプを持った男の反応が良く、すでに手に持つ凶器を振り上げて迎撃の体勢に入っていた。

 

なので反応の鈍い左から三番目、金属バットを握っている男の胸ぐらを掴み、背負い投げの要領で抱え込んで振り下ろされる鉄パイプの盾に使わせてもらう。

 

「っ、よっこいしょっと!」

 

「あっ?! ちょっ!」

 

 戸惑う鉄パイプ男の戸惑う声と、金属バット男に鉄パイプが叩き込まれた打撃音はほぼ同時だった。

 

当たり所が悪かったのか、一撃で気絶した金属バット男を投げ捨て、仲間に攻撃してしまったことで放心状態になっている鉄パイプ男の首に左手刀を入れる。

 

鉄パイプ男は『へぴっ』という奇怪な声をあげて泡を吹きながらあお向けに倒れ込んだ。

 

「よしっ……。ユーノは……」

 

 左側の男たちは一掃した、あとは右側の男たち三人とリーダーだ。

 

右側の男たちのほうへ目を向けると、なにをどうしたのか、カラーコーン男は鼻から血を出して倒れていて、ユーノはバスケットコートのサイドライン(長方形のコートの長辺)を走っていた。

 

「よくやった!」

 

 俺の賞賛の言葉を受け、ユーノは嬉しそうにきゅきゅいっと鳴いた。

 

 いや喜んでばかりいられない。

 

俺に向かってサイドラインを走るユーノの背後、頬にひっかき傷を作っているバール(三十センチ)を持った男が、手にしている鈍器を振りかぶっていることに気づく。

 

「こんのッ、クソネズミがっ!」

 

 バール男は汚い言葉で罵りながら、ワインドアップでバールを振りかぶり、勢いよく投げ込んだ。

 

 高速で回転しながら飛来するバールからユーノを庇うように、咄嗟に俺は飛び出す。

 

幸い、紙一重の差でバールよりも俺のほうが先にユーノに辿り着き、ユーノとバールの間に左腕を差し込むことができた。

 

飛来したバールが左腕に直撃、がぎっという鈍い音と鋭い痛みが走る。

 

 ユーノは、いきなりどうしたんですか? みたいなきょとんとした瞳で俺を見上げた。

 

良かった、ユーノに怪我はないようだ。

 

俺を見上げるユーノに笑顔を見せて、なんでもねぇよと伝える。

 

 歯を食いしばって激痛に耐えながら、左腕に当たり転がったバールを右手で掴み、元バール男に左腕の恨みとともにバールを力いっぱい投げ返した。

 

バールは回転することなく、一直線に元バール男へと向かい、バールの(釘抜き部分)が鎖骨付近に数センチ刺さった。

 

絶叫と共に倒れて傷口を押さえながらのたうち回る、鎖骨からバールを生やす男。

 

あれはもう戦力外だ、気にしなくていいな。

 

 数十秒前と同じように肩にユーノを乗せ、攻撃を受けた左腕を右手で押さえながら残りの敵を掃討するため周囲を見回す。

 

「あれ……? あと一人は……」

 

 男たちのリーダーは、女子バスケ部員たちがいるゴールの反対側、出入口の扉に寄りかかって趨勢見ている。

 

それはいいんだ、かかって来ないのならそれで構わない。

 

ただ人数が合わない、あと一人……火曜日のサスペンスドラマっぽいなにかを持った男がいたはずなんだ。

 

「逢坂っ! 後ろっ!」

 

 聞き取りやすい長谷部の声。

 

後ろを振り向くと、クリスタルで作られた灰皿を振りかぶっていた。

 

回避しようと足に力を入れようとしたが、足が痙攣して即座に動かない。

 

こんな致命的なシーンでおんぼろな身体にガタがきてしまった。

 

「うぉラァッ!」

 

 意味のない掛け声とともに振り下ろされる鈍器。

 

右側頭部に重量のある衝撃と音……耳から入ったものではない、骨を伝わってゴッという重い音が体内で反響する。

 

一拍置いて鈍痛、視界が刹那の間ホワイトアウトした。

 

 頬に熱くて粘性がある液体が通る感覚。

 

ぼやけた視界のままなんとか意識を拾い集めて、両腕を振り下ろした灰皿男を視界に入れる。

 

PIP(第二)関節を曲げ、手加減なんか一切できずに、右手で目の前の男の喉仏に槍のような突きを放つ。

 

『けぐぶっ』という濁った呻き声を最後に灰皿男も動かなくなった。

 

 残るはメリケンサックを両手に装着しているリーダーただ一人。

 

俺もそこそこやるもんだな、鮫島さんにしごかれ……教えを乞うたおかげだ。

 

「っはぁっ……くっ、はぁ……」

 

 地に膝をつき、殴られた部分を右手で押さえ荒い呼吸を吐き出す。 

 

(したた)かに灰皿を打ちつけられた頭からは血が流れている。

 

一筋の赤い線が右目の上に走っているため、目に入らないように右目を閉じた。

 

 肩に乗るユーノが心配そうに俺の頬に手を添えている。

 

長谷部たちには聞こえないように努めて小声で『大丈夫だ』とユーノに言葉をかけた。

 

 頭の痛みが新鮮なおかげで、バールを受けた左腕前腕部(肘から手首の間)の痛みはマシになっている……皮肉な話だぜ。

 

「はぁっ……どうすんの? まだ、やんのか?」

 

 一人残ったガラの悪い男、メリケンサックリーダーに話しかける。

 

やるのなら早いとこやってほしい。

 

意外と傷が深いのか、頭からの出血が止まらないんだ。

 

早急に終わらせて可及的速やかにユーノの治癒魔法を受けたい。

 

頭がい骨の中で、デスメタルバンドがライブやってるみたいにじんじんがんがんと痛みが爆音で鳴り響いている。

 

「……いや、俺は逃げることにする。勝ち目はあるだろうが、手負いの動物が一番危険だって言うし」

 

 そいつらはほっといていいぞ、そのうち警察が拾いに来るだろう、と言い残してリーダーはこの場を後にする。

 

車の陰に置いていたらしいバイクにまたがり、テールランプが赤い光の帯を暗くなった街に描き、そして完全に見えなくなった。

 

……おいおい、仲間見捨てていいのかよ。

 

「……はぁっ、なんとか……なった」

 

「早くっ、そこらへんの茂みでもいいですので早く行きましょうっ。手当しないとっ」

 

 ユーノが女子連中に聞こえないように耳元で囁く。

 

あぁ、そうだな……俺も早く治療してもらいたい。

 

「あ、逢坂っ! 大丈夫かい?!」

 

「きゅっ、救急車っ……早くっ」

 

 男たちが全員(一人は逃亡したが)動けないことを確認して、長谷部と太刀峰が駆け寄ってきた。

 

長谷部はいつもの飄々とした話し方ではなく余裕を失って慌てていているし、太刀峰も珍しく冷静さを欠いている。

 

 二人が近づいてきたことでユーノは喋ることもできなくなり、俺の背中へと移動した。

 

「長谷部、大丈夫だから大声を出さないでくれ……頭に響く。太刀峰、救急車はいらん。腕は打撲しただけだし、頭は派手に血が出ているだけだ。じきに止まる、俺は怪我の治りが早いんだ。気にしなくていい」

 

 俺は無茶苦茶な理由で救急車を呼ぼうとしている太刀峰を止めた。

 

この現場を見られたらちょっと困ることになる。

 

いくらなんでも正当防衛では済みそうにないし、学校に連絡されたらこの場にいる全員になんらかの処罰が下される。

 

 俺たちに――特に女子たちに――非がなかったとしても学校側には体裁がある。

 

この件が表沙汰になれば、学校の評価になんらかの影響があるだろう。

 

『聖祥大付属高校の生徒が外で喧嘩をしていた』なんて噂が流れれば学校に悪いイメージがついてしまう。

 

その悪いイメージは進学にも、就職にも、来年以降の入学者の数にも関わってくるのだ。

 

そうならないようにするため、学校側は俺たちを退校処分にでもするかもしれない……今この状況を第三者に見られると都合が悪い。

 

 警察を呼ぶとしても、まずは女子たちを帰らせてからだ。

 

「俺は大丈夫だ、お前らは帰っていいぞ。じゃあな、また明日学校で」

 

 『心配しなくてもいい』ということを表現しようと笑みを浮かべて明るい声で言うも、身体を巡る痛みやらぼやける視界のせいで笑顔は引き攣り、喉は震えた。

 

「強がるんじゃない! ひとまず病院に行くよ」

 

「救急車がダメなら……タクシーつかまえてくる」

 

「あのな? この有り様がばれたら面倒なことになるだろ? ここの片づけは俺がやっとくからお前らは家に帰ってゆっくり休め」

 

 二人とも視線を落とした。

 

現状を理解してくれたようでなによりだ。

 

「でも……果穂たち、帰れなさそう……」

 

「そう、だね。あれだけ怖い思いをしたんだから仕方ないといえるけど……」

 

 振り向いて女子バスケ部員たちを見る、果穂というのはあの中の一人だろう。

 

 大勢の男たちに襲われそうになったんだ、もう日も暮れて暗くなった夜の街を一人で帰るのは難しいか。

 

こういう時に頼りになるのが『友人』だ。

 

「知り合いに車で送ってもらえるように頼んでみるわ。長谷部と太刀峰はあの四人に連れ添ってわかりやすいように道路まで出といてくれ。男たちが起き上がる可能性もないことはないしな」

 

「逢坂……本当に大丈夫なのかい?」

 

「無理、してない?」

 

「大丈夫大丈夫。お前らがあの四人を連れて行ってる間に、俺は近くの水道で血を洗い流してくる。その後にまたそっちに合流するから」

 

 『気分が悪くなったらすぐに僕たちを呼ぶように』と言い残して女子部員たちのもとへ走って行った。

 

あの二人も相当怖かっただろうに、気丈だな。

 

 太刀峰が寄り添い、長谷部が先導して、女子部員たちは団子状に一塊になってコートを出て行った。

 

 もぞもぞと身動(みじろ)ぎして起き上がりそうになっていたカラーコーン男の頭を踏みつけて、俺もコートを後にする。

 

俺は道路に向かう女子たちとは一旦別れ、コートの近くに設置されている手洗い場へと足を運んだ。




ひさびさの戦闘シーン。

どうも僕はシリアスにしきれないところがあるようです。


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「そこに言葉はいらねぇよ」

「ユーノ、まず頭から頼むわ」

 

「はい。血はかなり出てますけど傷口はそんなに大きくないです、よかった。すぐ取り掛かりますね」

 

 周囲にひと気がないことを確認してユーノに治療を頼む。

 

魔法を使うと強くはないとはいえ魔力光を放つからな、一般人がいるところでは使えない。

 

 早いところ血を洗い流したいが傷口が閉じていなければ意味がない、まず治療してもらってからにしよう。

 

「どのくらいかかりそうだ?」

 

「案外すぐに終わりそうです。左腕が心配ですけど……」

 

 ユーノの魔法色、淡い緑色をした魔法が頭部にまとわりつく。

 

補助魔法の中の一つ、治癒の魔法だ。

 

 流れ出ていた血の量がみるみる少なくなっていき、フィルターがかかっていたような思考力もだんだんクリアになってきた。

 

痛みも薄れていくのがわかる。

 

「さすがユーノ。優秀だな」

 

「そんなことないです。僕のせいで左腕を怪我したのに……」

 

 庇われたことに対して罪の意識でも感じているのか、暗い声で返答する。

 

治療のため頭上にいるのでユーノの顔は見えないが、どうせ肩を落としてしょんぼりしていることだろう。

 

 こいつはどれだけ自分が重要な役割を果たしたか分かっていないな。

 

「お前のおかげで、あのクソみたいな男たちを叩きのめすことができたんだぞ? 六人がかりで来られた時に、ユーノが半分を受け持って注意を逸らしてくれたから何とかなったんだ。お前がいなきゃ、俺の怪我は左腕と頭だけじゃ済まなかった」

 

「……でも、僕が油断しなければ……緊張を緩めなければ兄さんが怪我することは……」

 

 無傷の右手を頭上に運び、ネガティブ思考の沼に沈んでいるユーノに触れる。

 

俺の言いたいことが体温と一緒に伝わるように、指をちょっとだけ曲げて包み込むようにユーノの身体を覆う。

 

「俺とユーノが逆の立場だったら……お前はどうすんの? 俺が危なくて自分では回避することも防御することもできない。でもユーノなら助けられる、そんなタイミングだったらお前はどうする?」

 

「そんなの助けるに決まってます! たとえ自分が危なくなったとしても絶対に……っ」

 

 ユーノはセリフの途中で息をのんで黙り込んだ。

 

どうやら伝わったようだ、俺の気持ちが。

 

「俺もそう思ったんだよ。いや、いつもそう思ってるってのが正しいか。いつもそう思ってるからこそ、ユーノを庇った時も咄嗟に身体が動いた」

 

 ユーノは無言で俺の話を聞きながら、魔法の行使を続ける。

 

「俺たちは仲間なんだ。協力して助け合うのは当たり前で、本来いちいち感謝することもねぇの。助けられたのなら、助け返す。そこに言葉はいらねぇよ」

 

 しばしの沈黙。

 

 街灯が心許なくあたりを照らし、冷えた夜風が頬を柔らかく撫でる。

 

夜風に揺れる木々の葉擦れの音だけが公園を満たしていた。

 

無言の間ではあるが、居心地の悪いものではない。

 

 くす、とユーノが笑い声をもらす。

 

「兄さんらしい考え方ですね。僕にはとても難しいです」

 

「まぁ、俺個人の勝手な考えだからな。押しつけるつもりはねぇよ」

 

「僕も……そういう風になりたいです」

 

「何を目指すかはユーノの自由だが、俺みたいに性根の曲がった人間にはならないように注意しろよ」

 

「そうですねっ、兄さんのような女ったらしにはならないように気をつけます!」

 

「おい待て、女ったらしってなんだよ。誤解だ、偏見だ」

 

 ユーノの声に元気が戻った。

 

励ますことができてなによりなのだが、俺のせいでユーノの性格が悪くなったりしないかだけちょっぴり心配だ。

 

「今まであまり言及していませんでしたが、敵側の女性たちと仲良くしすぎですからね。昨日のことだってそうです。ジュエルシードを片付けたと思ったら、すぐに敵の女の子たちと楽しそうにお喋りして」

 

「いや、あれはだな……

「傷塞がりました」

 

「言い訳ぐらいさせろよ!」

 

 釈明の機会すら与えてくれないなんて……どうしよう、ユーノが反抗期だ。

 

 確認してみればユーノの報告通り、もう出血は止まっていた。

 

これでやっと肌に張り付く血を洗い流せる。

 

右手一本でカッターシャツを脱ぎ、手洗い場に頭を突っ込んでばしゃばしゃと水をかぶった。

 

髪の一部に固まった血が少しだけ残ったものの、目立つところはおよそ綺麗になっただろう。

 

 髪に残る水気を頭を振って払う。

 

こういう時、短髪なのは乾かしやすくて楽だが、さすがに四月の下旬では肌寒い。

 

根性でどうこうできる気温ではなかった。

 

 手洗い場から、バスケットコートとテニスコートの中間にあるベンチへ移動し、どかっと座る。

 

勢いよく座ったせいで左腕に響いてとても痛い……どうやら骨折してるっぽい。

 

 ベンチの肘掛け部分に左腕をゆっくり乗せ、ユーノが治療しやすいようにする。

 

ユーノにはそのまま左腕の治療に移ってもらい、俺はポケットから携帯を取り出して連絡先の欄からとある名前をタップして発信。

 

携帯に登録されている人の数が少ないおかげですぐに見つけることができた。

 

何度かのコールの後、がちゃという接続音。

 

 ユーノには電話するから喋らないでくれよと、口元に人差し指を立ててジェスチャーを送っておく。

 

《もしもし、どうしました? 珍しいですね、こんな時間に》

 

「いきなりごめん。ちょっといろいろあってさ、悪いんだけど車で女の子六人を家まで送り届けてほしいんだ。鮫島さんしか頼める人がいなくて」

 

 俺が頼った友人、それは鮫島さんだ。

 

すぐにでも車を出してくれそうな人で、信用できる人。

 

男に対して恐怖を抱いているだろう女子たちでも安心できるような雰囲気と外見、ついでに安全確実なドライビングテクニック。

 

現状最善の人選だ。

 

 女性である月村家のメイド長、ノエルさんにお越し頂けないかとも考えたが、残念なことに連絡先を知らなかった。

 

《そうですね、お嬢様の許可が下りればすぐにでも参りましょう》

 

「そんじゃ、俺から説明するからアリサちゃんに取り次いでもらっていい?」

 

《わかりました、しばしお待ちを。また掛け直します》

 

 俺が了解、と返事をすると通話は切れた。

 

 一分ほど待つと着信が入る、当然ディスプレイに表示される名前は鮫島さん。

 

まず鮫島さんが出て、代わりますね、と言ってからアリサちゃんに携帯を渡すような、がさがさという雑音。

 

《こんばんは、徹。鮫島に用があるみたいだけどどうしたの?》

 

 アリサちゃんの麗しいお声が俺の耳の至近距離で聞こえた。

 

「アリサちゃんこんばんは。それで用件なんだけど、俺のクラスメイトが……まぁいざこざがあって一人で帰れない状態になっちゃってな。だから申し訳ないんだけど、鮫島さんの力を借してもらおうと思って電話させてもらったんだ」

 

 アリサちゃん相手に『大人数の男たちに女子たちが襲われかけて』なんて説明する訳にもいかず、結局ぼかして話すことになってしまった。

 

ちなみに女子バスケ部員たちの四人はクラスメイトではないのだが、わざわざ言うのも手間なのでクラスメイトということにしておく。

 

《そういうことなら構わないわ。徹は親友だからねっ》

 

 アリサちゃんは嬉しい事を言ってくれながら、ありがたいことに二つ返事で了承してくれた。

 

それじゃ、場所を教えないと……。

 

《あっ、そうだ! 徹っ、今回のは貸しだからね!》

 

 場所を教えないといけないと思ったら、話の最後になにか聞き捨てならない言葉がつけ足された。

 

そんな『いいこと思いついた!』みたいな雑な言い方で……。

 

「そ、そうだな。鮫島さんに(・・・・・)、借りができちまった」

 

 『鮫島さんに』という部分を強調する。

 

 いやな流れを感じたので、微力ながら話の方向を修正してみた。

 

《違うわ、わたしによ》

 

 どうしよう……抵抗はかないそうにない。

 

「なんでそうなるんだっ」

 

《え、え~っと、そう! わたしの執事を貸してあげるんだから、わたしに対して借りができるのは当然でしょ? 徹はまた今度、わたしのお願いを一つ聞くこと! いいわね?》

 

 無理矢理な理屈で強引に押し通したアリサちゃん。

 

勢いと力技で自分のいいように持って行くなぁ……これもある種の才能か。

 

「……はぁ。可愛らしいお願いにしてくれよ、お嬢様」

 

 後からとってつけました感をひしひしと感じるが、そこには突っ込まずに舌戦を放棄して全面降伏する。

 

アリサちゃんは常識のある子だから、無茶なことを要求してきたりはしないはずだ……きっと、たぶん。

 

 アリサちゃんとのお喋りはすごく楽しいし、アリサちゃんのつんつんした声は耳をぞくぞくさせてとても心地よいが、今は他に優先すべきことがある。

 

女子たちを早く家に帰らせてやりたいし、早々に話をつけよう。

 

 それに男なら、女の子のお願いの一つや二つくらい聞いてあげるくらいの器量を持つべきだろう。

 

これはそう……逆転の発想だ。

 

小学生の可愛い女の子に命令されるなんて一部の業界じゃご褒美じゃないか、喜び嬉しく思うことはあっても悲しむことなんてない。

 

これはとても幸せなこと、そう思えばいいのだ。

 

「お願いはまた今度聞くから考えといてくれ、なるべくお手柔らかなものをな。また鮫島さんに代わってくれる?」

 

 俺の嘆願に『約束はできないわね』と空恐ろしい返事をして、アリサちゃんの声が聞こえなくなった。

 

《徹くん、すみません。お嬢様が……》

 

 刹那の無音の後、すぐに鮫島さんの申し訳なさそうな声がした。

 

「いや、俺は大丈夫だからいいって。それで場所なんだけど……」

 

 現在地を伝え、最後に感謝の言葉も忘れずに添えて電話を切った。

 

 そろそろ女子連中と合流しに行かなきゃだな。

 

「ユーノ、腕のほうはどうだ?」

 

 左腕の治療をしてくれているユーノへ水を向ける。

 

「すいません、骨が折れていたのでもう少し時間がかかってしまいます」

 

「そうか、どのくらい治った?」

 

「骨折は治療したのであとちょっとです。今の状態は軽めの打撲といったところでしょうか、まだ多少あざが残っています」

 

「それくらいならそのままでいいぞ。あんまり綺麗に治すとそれはそれで怪しまれそうだし」

 

 ちょうどいいタイミングだったな。

 

さすがにバールが腕に直撃したのに数分後には完治っていうのもおかしな話だ。

 

頭の傷のほうは……そうだな、アリサちゃんを見習って予想以上に傷が浅かったということで強引に押し切ろう。

 

「兄さんはまたあの女の人たちのところに行くんですよね?」

 

「あぁ、知り合いに車をまわしてもらったからな。俺がいないわけにいかねぇよ」

 

「治療しきれなかったのが心残りですが、僕はそろそろなのはの部屋に戻りますね。彼女たちの前でぽろっと言葉を喋っちゃうといけませんし」

 

「そんなヘマ、ユーノはしないだろ。一緒に来ればいいじゃん、アニマルセラピーを試してみたいし」

 

「もみくちゃにされる未来しか見えないので帰ります!」

 

 座って休んでいたベンチから立ち上がり、怪我治してくれてありがとう、と伝えてユーノとはここで別れる。

 

ついでになのはにケーキを渡したから一緒に食べてくれとも伝えておいた。

 

 ただ、ユーノが部屋に帰った時にはなのはがケーキを全部食べてしまっており、ユーノとなのはがちっちゃい喧嘩をしたというのは余談。

 

 ユーノを見送り、俺は道路へと向かいながら考えごとに没頭していた。

 

アリサちゃんの件もそうだし今回のこともそうだが、最近この街の治安悪くないか? ただの偶然なのか、それとも別の原因があるのか。

 

ここ数日で事件が二つ、そろそろ看過できなくなってくる頻度だ。

 

俺の知り合いが巻き込まれないとも限らない、ここらで手を打っておきたい。

 

「もしかしてジュエルシードが絡んでいる、とか?」

 

 ぽつりと独白する。

 

この街はこんなに物騒ではなかったように思う、タイミング的に関連することがあるとしたら、ジュエルシードしか思い当たることがないのだが。

 

 俺の言葉を聞いていたのか、Tシャツの下、今はネックレスになっているジュエルシードが抗議するように力強く青白い輝きを放った。

 

どうやら『自分とは関係ない』と表現したいようだ。

 

 ネックレスが光っているのを見られると周りの人から訝しげな目を向けられそうなので、ひし形の宝石を手で覆い、光が漏れないようにする。

 

「わかったわかった、ごめんってば。俺が間違ってた」

 

 言葉を理解できるのかどうか半信半疑だったが、ありがたいことに謝ったらすぐに光を収めてくれた。

 

 やはりこいつ(このジュエルシード)は、人間の言語を理解できるのか。

 

ネックレスの台座に自分からくっついてくれた時にも思ったが、こいつには人間でいう自意識みたいなものが存在するようだ。

 

 そう思うとなぜだか愛着がわいてきた、ペットのような感覚だろうか。

 

どのくらいの知能を有しているのかはわからないが、学校とか人が多いところでぴかぴかされると大変困るので仲良くしておいて損はない。

 

大事な時に俺の言うことを聞いてもらうためにも今のうちから胡麻をすっておこう。

 

「お~、よ~しよし、いい子だな~」

 

 動物好きな、スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ムツゴロウ属の魚と同じ名前の愛称を持つ某お爺さんばりに大げさに、青白い宝石を親指で撫でる……こする、とも言える。

 

ジュエルシードも不快ではなかったようで、さっきとは違い光量が控えめに絞られた、ふわぁっとした淡くて優しい光がその身からもれ出ていた。

 

 いや、光がもれてたらだめじゃん。

 

 太陽が沈んだ公園に、青白い光はとても目立って見えた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 女子たちと合流して数分経った頃。

 

携帯で確認すると驚くことに、俺が電話をして十分弱という早さで鮫島さんが来てくれた。

 

 アリサちゃんの送迎で使っている――前に俺も乗せてもらった――リムジンを近くに停車させ、降りてきた鮫島さんに事情を説明する。

 

「事情はわかりました、後は私にお任せください。徹くんももう休んだほうがいいでしょう、あまり体調もよくないようですし」

 

 鮫島さんはすべて聞き終わり、俺にそう言って、うやうやしく後部座席のドアを開けて疲労困憊が目に見える女子バスケ部員たちを車に乗せた。

 

さすが鮫島さん、一目見ただけで俺がいつもと違うってことも見抜けるのか。

 

足運びや身体の重心の位置、もしかしたら呼吸のリズムまでズレてんのかもしれない。

 

「ほんといきなり頼んでごめんね鮫島さん。また今度なにかで埋め合わせするから」

 

 別に構いませんよ、と遠慮する鮫島さんだったが、俺はそれでは気が済まない。

 

しつこく食い下がる俺に、とうとう諦めた鮫島さんが困ったように笑う。

 

「そこまでおっしゃるのなら、そうですね……お嬢様から聞いたのですが徹くんは料理がお上手だとか」

 

「上手とまでは言えないけど……まぁそこそこの腕はあると自負してるよ」

 

「それではまた今度振る舞ってもらうこととしましょうか、デザートも期待しておきますよ」

 

「了解っ、任せといてよ」

 

 お互い右手の拳をこつっ、とぶつけて別れる。

 

これは昔、道場にいた時によくやっていた挨拶みたいなものだ。

 

これにはたくさんの意味があって、その時々の状況で変わる。

 

厳しい練習でへばっている時だと『がんばれ』になったり、道場から帰る時なら『おつかれ』になるし、今なら『ありがとう』『女の子たちをよろしく』『ばいばい』という意味合いになる……意味多いな。

 

本人の意向で内容が変化する曖昧な挨拶だが、言わんとしていることは問題なく通じるから不思議だ。

 

 鮫島さんは、女子たちが少しでも気を休めることができるようにとハーブティーを淹れて一人一人に丁寧に配ってから、運転席へ戻った。

 

この心配りの細やかさが執事の条件の一つなのだろうか、そうだとしたら俺に執事という仕事はできそうにない。

 

 鮫島さんが繰るリムジンは緩やかに発進し、ゆっくりと速度を上げて角を曲がり、姿が見えなくなった。

 

これでもう心配はいらないな、鮫島さんに任せればオールオッケーだ。

 

最大の懸案事項が解決され、ほっと安堵の溜息を吐いた。

 

 さぁ、人心地ついたら次の問題だ。

 

「なんでお前らは乗って帰らなかったんだよ」

 

「逢坂が心配だからに決まっているじゃないか。僕らを庇って怪我したのに」

 

「玄関をくぐる、ところまで……見送らなきゃ、不安で寝られない」

 

「だから、もう大丈夫だって何度も言ってんだろうが……」

 

 懸案事項その二がこの二人、俺が何を言っても『心配だから』『不安だから』の一点張りで聞かなかった長谷部真希と太刀峰薫だ。

 

俺がいくら大丈夫と言っても強がってるとしか判断してくれない、だからといって怪我したところを見せるわけにもいかない。

 

いくらなんでもこの短時間で傷口が完全に塞がっていて、しかも跡すら残ってないというのはどう考えても不自然だ。

 

結論、俺が自分で大丈夫だと証明する方法はないのであった。

 

「逢坂の家はどこなのかな? 遠いようならタクシーを使うけれど」

 

「……すん、すんすん。もうすぐ……雨降りそうな、感じ……。早く行こ」

 

「俺の意思が介在する余地なしですか」

 

 二人は存外強情で、このままではいつまで経っても帰りそうにないので仕方なく、長谷部太刀峰両名に連れ添われて家に帰ることとなった。

 

こんなところを同じ学校の生徒に見られたら、俺に対するあらぬ噂がさらに加速、悪化しそうなんだけど。

 

ふらついた時に支えることができるようになのか、右側に長谷部、左側に太刀峰と、傍から見ればまるで俺が女子二人を両側に侍らせているみたいだし……。

 

「頭の傷は大丈夫なのかい? 意識ははっきりしてる? 結構血が出てたようだけど……」

 

「もう平気だって。頭は少し切っただけでも血がたくさん出るんだ。しばらく圧迫止血したらすぐ止まった。顔洗ったらすっきりしたぜ」

 

「腕は……? なにか……投げられてた、みたいだったけど」

 

「そっちは打撲で済んだ。あざができたけど一晩寝りゃ消えるだろ」

 

 二人の質問攻めに一つ一つ丁寧に(嘘を)答えながら家までの道を歩く。

 

今はこうして平然と会話しているわけだし、これで安心して帰ってくれればいいんだけどな。

 

「そうだね、顔色も随分良くなってる」

 

「目の反応も、正常……」

 

「それならもういいだろ、お前らは家に帰……

「でも頭を強く打ったら時間をおいて症状が出ることがあるからね」

 

「脳出血とか……あるかもしれない。家、まで……送る」

 

「…………」

 

 こいつらあれだ、俺が家に帰るまでなんとしてでもついて来る気だ。

 

RPGで何度も同じセリフを繰り返す村人みたいな、『はい』を選ばないと解放してくれない王様みたいなアレなんだ。

 

諦めよう、こういった類いの人間はこっちが折れなきゃ終わらない、俺はすでに恭也で学習している。

 

 悟りを開けそうな精神状態の俺を現実世界に引き戻したのは、食いしん坊系女子の可愛らしいお腹の音だった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 二人同時にお腹を押さえ、二人同時に耳まで真っ赤にして恥ずかしそうに顔を伏せる。

 

「あ~、なんだ。飯、食ってくか?」

 

 いたたまれない空気の中、俺にできたのは晩飯に誘うことだけだった。




おかしい……こんなに長くなる予定はなかったのですが。


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日常~お泊り会~Ⅰ

 近所のスーパーにて、食べ盛りの娘二人を抱えながら晩飯の調達。

 

「晩ごはん……お肉、食べたい。胸のために……」

 

「うん、やっぱりお肉がいい。育ち盛りだからね」

 

「単にお前らの好物が肉だってだけじゃねぇか。わざわざ理由をこじつけずにそう言えよ。晩飯は肉にすっからさ」

 

「大好き……(肉が)」

 

「大好きっ(肉が)」

 

「全文を口にしてくれるか? 周りのお客さんの目がとても痛いんだ」

 

 買い物途中のおばさんや、仕事帰りで作業服を着たままのお兄さんがぎょっとした目でこちらを見ている。

 

三割引きのシールを貼っていた店員さんに至っては商品を落っことしたくらいだ。

 

女性に対して(性的な意味で)手が早いという根も葉もない噂が学内だけではなく、学外まで広がってしまったらどうしてくれる。

 

 二人に口頭注意しながら、長谷部が持つカゴの中にじゃがいも、玉ねぎ、人参を放り込む。

 

ぴんぴんしているが俺は一応怪我人ということで、長谷部が自分から荷物持ちを買って出たのだ。

 

決して俺から持てと命令したのではないと注釈を入れておく。

 

 店に入った当初は太刀峰が持とうとしていたのだが、背が低いのでスーパーの入り口に積み上げられたカゴを取るのにも苦労して、持ったら持ったでおつかいにきた小学生感が出てしまった。

 

なぜだか隣に立っている俺や長谷部がすごく悪いことをしているような、家族で買い物に来ているのに子どもにカゴを持たせているようなそんな構図になったので長谷部が『……僕が持つよ』と率先して引き受けたのだ。

 

「……材料を見るに、カレー?」

 

「いや肉じゃがにしようと思ってる。肉多めのな」

 

「きゅんとする王道のメニューだね。本来性別逆だけど」

 

「ならお前らが作るか? キッチンで肉じゃがを作る女子の後ろ姿を眺めるという、胸きゅんなシチュエーションを俺に体験させてくれよ」

 

「やってもいいけど……味は、保証できない……」

 

「味はいいけど三日はかかるよ」

 

「最初から期待してなかったよっ!」

 

 端から女子力なんていうものをこいつらが持っているなどという、そんな大層な夢は見ていなかった。

 

作られる料理のにおいに鼻孔をくすぐられながらエプロン姿の彼女を愛でる……そんなものは口から砂糖を吐くほどに甘い妄想、街談巷説、都市伝説だったのだ。

 

逆の立場なら、それはもう胸焼けするほどやっているけどな。

 

「あと野菜はなんにすっかな……」

 

「えっ……僕はちょっと……」

 

「……野菜、苦手」

 

「小学生かお前らは。肉食うんなら野菜も食え。野菜食わねぇんなら肉はなしだ」

 

 ぴしゃぁん、と雷でも打たれたかのように固まる二人。

 

長谷部は手をわたわたさせ、太刀峰は元から垂れ気味の目をさらに悲しそうに垂れさせた。

 

「野菜……、野菜なら、野菜ならっ! 肉じゃがにだって入ってるじゃないか!」

 

「そう……っ。断固抗議する……!」

 

 野菜を手に取ろうとする俺の右手を長谷部はカゴを持っていないほうの左手で掴み、そうくるのならと俺が伸ばした左手は太刀峰の小さな両手によって押さえられた。

 

「お前らなんでそんなに必死なの? そんなに野菜ダメなの?」

 

「失礼だね、逢坂。ダメじゃない、嫌いなんだ」

 

「失礼、逢坂。ダメじゃない……。その、えっと、アレルギーが……」

 

「はぁ、仕方ねぇなぁ。……肉で巻けばお前らでも食えるか?」

 

 ぱぁっと、瞳に星まで浮かべて顔を綻ばせた。

 

表情豊かな長谷部はもちろん、普段クールを演じている太刀峰もわかりやすく喜びを表情に表している。

 

「さすが父さんっ! 大好きっ」

 

「さすがパパ……っ。大好き」

 

「誰がお前らの父親か。こんな大きな娘を作った覚えはねぇよ」

 

 違う場面でならもうちょっと男心にぐっとくるものがあったかもしれないが、今はただ野菜を食べたくないという一心からだからなぁ……ちょっと複雑だ。

 

 あと父さんとか、パパとかいうな。

 

小さな男の子を連れている若い奥さんや、おつかいにきた中学生が目を見開いてこちらを見ている。

 

惣菜に五割引きのシールを貼っていた店員に至っては、驚きすぎて惣菜をつまみ食いしている……ってそれは俺のせいじゃないぞ。

 

「あと太刀峰はタチの悪い言い訳をしようとしたから野菜多め、肉少なめな」

 

「パパ、ひどいっ……」

 

「あははっ! 下手な嘘をつこうとした報いだね、薫っ。ほら父さん、野菜の次はお肉を取りに行かないとっ」

 

「まだ野菜全部選び終わってねぇよ。あとパパでも父さんでもない」

 

「…………」

 

「…………」

 

 太刀峰と長谷部は急に黙り込んで顔を見合わせた。

 

お互いの顔を見て、にやりと唇の端をつり上げる。

 

ママ(・・)、ひどい……」

 

「ほら母さん(・・・)、早く野菜を取ってお肉のコーナーに行こうじゃないか!」

 

「お前ら二人とも、晩飯のメニューから肉が消え失せることは覚悟しておけよ」

 

 閉店の時間が近づいているスーパーに二人の嘆きの悲鳴が響き渡った。

 

周りのお客さんに迷惑だろうが……罰としてさらに野菜増量だな。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 スーパーから出て三分、あともうちょっとで家に着くという距離で、いつのまにか頭上に広がっている、黒くどんよりとした分厚い雲が大量かつ大玉の雨粒を吐き出した。

 

目も開けてられないほどの、バケツをひっくり返したようなどしゃ降りが全身を打ちつける。

 

「くっそ、マジで降ってきやがったっ」

 

「……わたしが、言った通り」

 

「薫の鼻は利くからね、十分後に雨が振る確率は驚異の五十九パーセントを誇るよ」

 

「外れてるのか当たってるか絶妙に突っ込み辛いラインだな!」

 

 早口で長谷部にまくしたてながら、俺の家まで走り続ける。

 

魔力の循環供給による身体能力補助はないし、昨日の身体的精神的魔力的な疲れに加えて、ついさっき自然公園でやった喧嘩で体力は底が見えてるし、気疲れもしていて足を前に出すのが辛い。

 

……とまぁ、上記の言い訳をわざわざ用意したのは俺の一歩分先を走る二人の女子がいるからだ。

 

スーパー内でカゴを持っていたのと同じ理由で、今も中身が詰まったレジ袋も長谷部が持ってくれているのだが、荷物を持ちながら俺より速く走ることができるなんてこいつら本当に女かよ。

 

「むむ。今、失礼なこと考えなかったかい? 僕の髪の毛レーダーが悪意のあるメッセージを受信したのだけど」

 

「……正直に、答えたほうがいいよ。真希のアホ毛アンテナは、的中率二十八パーセントを叩き出してるから……」

 

「これに関してはもう外れてることのほうが断然に多いじゃねぇか!」

 

 早くも道路にでき始めた水たまりを豪快に踏みつけながら、二人とくだらないかけあいをする。

 

なんだろうか、この二人はいつもよりテンション高いな。

 

学校の時よりも遥かにボケる数が多い。

 

 当然傘なんて用意していなかったので三人とも濡れ鼠になりながら、やっとのことで俺の家に到着した。

 

引き戸の扉を開けて、玄関に入らせる。

 

「やー、思ったより普通の家なんだね」

 

「聖祥学校に通ってる人は、みんな家大きいから……」

 

「たしかにな。恭也のとこは立派な和風建築の家だし、忍の家も洋館って感じの豪邸だしな。そういえば鷹島さんの家も大きかった。二人はここでちょっと待っててくれ、タオル持ってくるから」

 

「そういえば、いきなりお邪魔して迷惑にならないかい?」

 

「今思えば、唐突にも程がある……」

 

「今日は誰も帰ってこねぇから大丈夫だ、気にすんな」

 

 玄関で二人を待たせつつ、俺は靴を脱いで上り(かまち)を一息に飛び越え、すたたたっと脱衣所へ向かう。

 

脱衣所に入ってすぐ目の前に洗面所、その隣に洗濯機があり、洗濯機の上に棚が据え付けられていてタオルがある。

 

ちなみに洗濯機の隣には乾燥機が設けられている。

 

 びしょ濡れになって身体に張り付いたカッターシャツとインナーを洗濯機に放り込み、棚からタオルを三つ掴んで脱衣所を出た。

 

タオル三つの内一つを使って上半身を拭きながら玄関へ戻り、二人に残った二つのタオルを渡す。

 

「あ、逢坂! おお、女の子がいるというのになんて格好でっ」

 

「ひゃあ。引き締まってる……」

 

 服を脱いでしまったので上半身裸という出で立ちで二人の前に出た。

 

 以外にリアクションが大きかったのが長谷部、目を両手で覆い隠して見えないようにしている……が、指の隙間からちらちら盗み見ているのがわかる。

 

運動部をやってるから見慣れてるものだと思ってたけど、そうでもないんだな。

 

太刀峰はほとんどいつもと変わらない反応……いや、垂れ気味の瞳で俺の上半身の各部をじっくりと舐めまわすように見ているようだ。

 

目線が首元から鎖骨へ移り、腕、胸、腹へと視線が下がっていく。

 

その目…リニスさんと同種のものを感じる……。

 

「身体冷えたらいけねぇだろ。さっき俺が出てきたとこから風呂に入れるから、さっさとシャワー浴びてこいよ」

 

「…………」

 

「……逢坂、あの噂は……ほんとだったりする?」

 

「はぁ? なに言ってんの?」

 

 目を覆い隠していた両腕を胸元に運び、タオルで隠すようにして無言で一歩退く長谷部と、顔を拭っていたタオルを口元にやり、ちょこんと首を傾げる太刀峰。

 

いきなりなんの話をしてるんだ、抽象的すぎてよくわからん。

 

「……誰にでもそんなこと言ってるのかい?」

 

 胡乱(うろん)な瞳を向ける長谷部。

 

 あの噂? 誰にでもそんなこと言ってる? ……俺のセリフが原因か?

 

ついさっきなにを言ったか思い出してみる。

 

……『身体冷えたらいけねぇだろ。さっき俺が出てきたとこから風呂に入れるから、シャワー浴びてこいよ』……これか。

 

特にここ『シャワー浴びてこいよ』と、合わせて学校で流れている俺の根も葉もない噂『女性に対して手が早い』を一緒にして考えると……なるほど、勘違いするのも無理はないな!

 

「いやいやっ、違う違う! ただ風邪ひいたら大変だと思っただけで他意はない!」

 

 長谷部はじとっとした目つきで俺を見ていたが、数秒ほど経つと、ふふっ、と小さく笑った。

 

「大丈夫だよ。そんなことだろうとは思ってたからね」

 

「……こういう発言があるせいで、逢坂は誤解されるんだと思う……」

 

「気を使って言っただけなのになんで捻くれて捉えるんだよ……」

 

 とりあえず誤解が解けてなによりだ。

 

 靴を脱いで二人とも『お邪魔します』と言って上がる。

 

常識外れとも言える突飛な行動に定評のある長谷部と太刀峰(姫を守る二振りの刀)だが、意外とマナーというか、最低限の礼節は持っていたりする。

 

 『めんどくさい』というバカみたいに単純な理由で階段を使わずに窓から飛び降りて外に出たりする突拍子もない二人だが、教師の前ではそういう飛び抜けた行動はしないので、学校での印象はちょっと頭の悪いスポーツが好きな女の子というもの。

 

ぶっちゃけた話、俺はそのイメージに全然納得してなかったりする。

 

俺は学校では真面目に過ごしているのに先生からの評価は『扱い難く、暴力事件も起こした危険な生徒』……どこでこんなに差が出た……。

 

「そういやお前ら一回家に帰ったんだな。荷物とかもないし」

 

「制服でバスケする訳にもいかないからね。飲み物を買う用に小銭くらいは持ってたけど」

 

「……動きやすい服に着替えた」

 

「制服じゃなくて助かった。服は洗濯機にぶち込んどいてくれ、後で洗って乾燥機にかけるから。着替えは俺の服でいいよな?」

 

「……手際、いい」

 

「なんだか手馴れてるというか、そんな感じだね」

 

「つい最近泊まりに来たやつがいたからな」

 

 その泊まりに来たやつが誰かは言わないけれど。

 

言ったら誤解が深まるだけじゃなくなるからな。

 

 長谷部からレジ袋を受け取り、追及される前に二人を脱衣所に押し込んで扉を閉める。

 

「湯船にお湯溜めてじっくり浸かっててもいいからな。その間に飯作っとく」

 

「ありがとう。そうさせてもらうよ。身体冷えちゃったし」

 

「料理作ってるところも……見たい、かも……」

 

 扉越しにそう投げかけて、俺は二階へ上がる。

 

 キッチンの近くにあるテーブルに袋を置いて、一旦自分の部屋へ行く。

 

さすがに家の中とはいえ、濡れたズボンに上半身裸では肌寒かった。

 

 自分の部屋へ入り、椅子の背もたれにタオルをかけて、桐で作られた木目が美しい衣装箪笥の引き出しを引っ張る。

 

箪笥は立派だが、中に入っている衣服は大抵が安物、あまりブランドとかには興味ないのだ。

 

興味がないというか、センスがないとも言えるが。

 

 引き出しから部屋着を取り出し、ついでに風呂に入っている二人の着替えも準備する。

 

「服……どうすっかな」

 

 長谷部は女子の中でも背が高いほうだから俺の服でいいだろうけど、太刀峰は鷹島さんの次に背が低い。

 

俺の服だとオーバーサイズもいいところだ、Tシャツはまだしもズボンは確実にずり落ちるだろうな。

 

「姉ちゃんの服を適当に借りとくか」

 

 部屋着に着替え、椅子に掛けていたタオルを雑に肩に掛け直し、長谷部の着替えと太刀峰の分のTシャツを持って部屋を出る。

 

その足で姉ちゃんの部屋に入り、チェストの中からショートパンツ的なものを拝借、そして退室。

 

あまり脱衣所に行くのが遅れて、扉を開けたら生まれたままの姿の彼女たちと鉢合わせ、なんてことにならないようなるべく早く着替えを置きに行こう。

 

 階段を降り、脱衣所の扉をノック。

 

返事がないのでもう風呂場に入っているのだろう、ゆっくり開けて誰もいないのを確認してから侵入する。

 

着替える前にはいていたズボンを洗濯機に入れようとふたを開けると、女子二人がついさっきまで着ていた服が入っているのが見えて少しどきっとした。

 

あまり深く考えちゃダメだ、今の俺は変態じみている……。

 

ズボンを放り込み、洗濯機のふたを閉めてその上に二人の着替えを置いておく。

 

「長谷部、太刀峰。服、置いとくぞ」

 

「……っ。あ、ありがとう」

 

「覗いちゃだめだよ、逢坂」

 

「覗かねぇよ。黙ってゆっくり温まっとけ」

 

 的外れな忠告をしてきた太刀峰に言葉を返して俺は脱衣所を出た。

 

扉を閉めてぐっと腕を天井に向けて伸びをする、そろそろ飯を作り始めるというやる気スイッチの切り替えのようなものだ。



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日常~お泊り会~Ⅱ

「先に頂いたよ」

 

「いい湯、でした」

 

「はいよ。晩飯はもうすぐできるからその辺でくつろいでいてくれ」

 

 二人が風呂からあがってきたのは晩飯作りの終盤に差し掛かった頃だった。

 

 長谷部の服装は、明るい赤のラインが入った黒色のジャージのズボンと、ワインレッド色のボートネックの七分袖。

 

太刀峰は、姉ちゃんから拝借したホットパンツとまではいかないものの丈の短めなショートパンツに、俺の引き出しから引っ張り出した深青色のロングスリーブTシャツだ。

 

 湯上りで上気した頬、ちゃんと乾かせていないのか髪の先端には首を垂れる稲穂のように水滴が玉を作っている。

 

ちらりとのぞく長谷部の鎖骨や、太刀峰の健康的な足が風呂上がりで少し赤みを帯びていて、扇情的でかつ、とても綺麗だった。

 

茶化されるのが目に見えているので本人たちには絶対に言わないが。

 

「僕たちも手伝おうか?」

 

「いや、別にいい。ゆっくりしてろ」

 

「邪魔ということ、ですね……わかります」

 

「そこまで言ってねぇよ。台所に二人も三人も立つと狭くなるってだけだ」

 

 鍋を使う料理が多くなってしまったので台所は蒸し暑く、そして窮屈だ。

 

おかげで雨に冷やされた身体は温まったどころか、じんわりと汗をかいているくらいである。

 

「料理を作っている異性の後ろ姿っていうのは、性別が逆でもそそるものがあるんだね」

 

「なるほど……これは、たしかにきゅんとくる」

 

「……お前らには後から皿洗いを命じるからな」

 

 料理をよそいわけてテーブルに並べる。

 

今日は食いしん坊系肉食女子二名のリクエスト通り、肉多めの献立だ。

 

肉じゃがにアスパラガスの肉巻き、人参と白菜の味噌汁、ミニトマトと新玉ねぎのサラダ、あと白米。

 

サラダも作って肉に紛れ込ませておいた。

 

彩りの面でも意味があるし、栄養も偏りそうだったからな。

 

「……短時間で、よくここまで」

 

「作れるのはケーキだけじゃないんだね。女としては立つ瀬がないよ」

 

「ケーキはまだ勉強中だがな。本職はこっちなんだぜ」

 

「……本職?」

 

「バイトしてたんだ。今は長期休暇を貰ってるけど」

 

 各々の前に器やお茶碗、コップも配膳した。

 

俺の家では足の短いテーブルを使っていて、カーペットを敷いている床に座って食事をする。

 

 テーブルを挟んで俺の目の前に太刀峰、その隣に長谷部という座順。

 

 箸を用意し、コップにお茶を注いで準備完了だ。

 

ぱちっ、と手を叩く乾いた音が三人分鳴る。

 

「頂きます」

 

「いただき、ます」

 

「わぁ、おいしそうだね。頂きます」

 

 みんなで手を合わせて頂きますまでが我が家の通例。

 

 俺は黙って膝に手を置き姿勢を正して、女子二人が同時にお手製の肉じゃがに箸を伸ばして口にするのを見ていた。

 

「んむ!」

 

「……っ!」

 

 これまた二人とも同時に、そろって大きく目を見開いた。

 

「どうだ、美味いか? 家で作る料理はいつも目分量でやってっから、人によって濃い薄いはあるかもしれないんだが」

 

「いや、すっごい美味しいよ! 味つけもばっちりだ! じゃがいもはほくほくしてるし、人参は甘くて柔らかいし、なによりお肉が多いのがいいっ」

 

「結局肉かよ」

 

「……いつでも、嫁に行けるレベル」

 

「んー、嫁には行けねぇなぁ……性別的な意味で」

 

 よかった、料理は概ね好評のようだ。

 

家族の……姉ちゃんの好みの味つけは把握しているので迷うことはないが、やっぱり他の人に食べてもらうのは多少緊張する。

 

家庭によって同じ料理でも味ってのは変わってくるしな。

 

 

 

 

「逢坂の料理全部美味しかったよ」

 

「女としては、負けた気がする……」

 

 一通り食べ終わり、テレビのクイズ番組を見ながら一服ついでにお喋りする。

 

クイズ番組を見ていた時に彼女たちの学力の乏しさが露呈してしまったが、それは別の話。

 

「今の時代、女が家事をしなければならないっていう考えは古いだろ。できる奴がやりゃいいんだよ」

 

「よし、逢坂。僕と結婚しよう」

 

「いや、わたしと……」

 

「言っておくが、自分でやる前からできる奴に頼るってのも間違ってるからな」

 

 素っ気ないなぁ、と笑いながら座りながら上体を後ろにそらして手をつき、一段落ついたとばかりに短く息を吐いた。

 

するとさっきまでの笑顔を急に曇らせ俯いた。

 

隣に座る太刀峰も異変に気づき、ぴたっと寄り添い、耳元でなにかを囁く。

 

太刀峰が慰めるも長谷部はひっく、というしゃくりあげるような声をもらし始める。

 

そんな様子を見てつられたのか、次第に太刀峰も瞳をうるうるとさせて涙目になり、長谷部にかける言葉も震える。

 

 あまりの突然な展開に、この部屋の中で俺だけがついていけてない。

 

この急変した湿っぽい空気……もしかして俺のせいか? 俺がさっきの逆プロポーズもどきをにべもなくあしらったから? いや、あれは……いつもの冗談に対するツッコミのつもりで……。

 

と、とにかく、男が女を泣かせた場合はどれだけ正当性があったとしても男が悪くなるものだ。

 

よって、俺が取るべき行動は一つしか考えつかない……謝罪である。

 

「ご、ごめん。ちょっと言い過ぎた……と、思う」

 

「ちっ、違うんだ。ごめんっ……ごめんね、逢坂……っ。今に、なって気が抜けちゃって……」

 

「ま、真希……っ。絶対泣かないって、がまんするって……いってたのにぃ……っ」

 

 長谷部は俯きながら、小刻みに震える右手を左手で押さえ、ぎゅうっと目を固く閉じる。

 

それでも溢れる涙を抑えきれず、ぽろぽろと零した。

 

いつもの溌剌な印象は消え失せて、肩を上下に揺らして、嗚咽をもらしている。

 

太刀峰はそんな長谷部の肩を安心できるようにと抱きしめていたが、結局、自分の涙すらも止めることはできなかった。

 

普段まとっているクールな雰囲気は影も形もなくなり、涙が頬を伝い長谷部の肩を一滴二滴と濡らしていく。

 

 二人の異変とセリフ、ここまで訊かないとわからなかったなんて、俺の身体は脳みそまで錆びついちまってんのか。 

 

原因なんて、一つしか考えられないじゃねぇか。

 

「……ゆっくりでいい、ちゃんと聞くから話してくれ。不安や恐怖も、不快感や憤りも、(わだかま)っている気持ちを全部吐き出せ。(さら)け出せ。ここはもう安全だから、泣いてもいい場所だから」

 

 俺自身、どこか違和感は感じていた。

 

俺の家に来るまでに見せた二人のいつもと違うような振る舞い、それは自分たちの心を必死で誤魔化していただけなんだ。

 

 バスケットコートで起きたこと、それが二人の今の状態の理由。

 

恐かったんだ、恐くて当然だったんだ。

 

大勢の男たちに薄汚い負の感情を叩きつけられていたのだから。

 

そのぶつけられていた害意に女バス部員たちは怯えて固まっていたが、長谷部と太刀峰は真っ向から敵対し、女バス部員たちの盾になっていた。

 

俺はその風景を見て『気丈だ』としか感じていなかったが、そんなわけない……あるはずがない。

 

二人は必死に、理性でもって怖気づく気持ちを抑えつけ、後ろにいた四人を庇おうとして前に出たんだ。

 

逃げ場もなく、助けもない状況にありながら、おののく足を奮い立たせ、自分たちよりもはるかに身体の大きい男たちの前に立ちふさがった。

 

二人が感じた恐怖たるや、計り知れないものだっただろう……今こうして、身体も心も落ち着かせられる状態になるまでほったらかしにして深く考えていなかっただけで、整理してなかっただけで、心の中はぐちゃぐちゃのはずだ。

 

 そこまで思い至る要素はいくつもあったのに……俺は彼女たちに対して、なんの配慮もできていなかった……。

 

声を押し殺して泣く二人の近くにいながら、気の利いた励ましの言葉も言えない。

 

ただ黙り込んで、彼女たちが落ち着いて話し始めてくれるのを待つしかできなかった。

 

 

 

 

 

「あの時、僕は本当に後悔していた。僕がみんなを誘って遊びに行こうなんて言わなければ、こんなに怖い思いをさせずに済んだのにって。そして同時に諦めてもいた。十人くらい男たちがいて、出入口は封じられているし周りはフェンスで囲われているからね。本当に怖かった。もう高校生だからさ、なにをされるかなんてだいたいは想像できたよ」

 

「……わたしも一緒に誘ったんだから、責任はわたしにもある。後悔、諦観、恐怖。……頭の中で、その三つが……ぐるぐるまわってた」

 

 ひとしきり泣いたことで落ち着いたのか、長谷部は吹っ切れたように少しだけ表情を明るくさせ、太刀峰もかすかに顔を和らげていつものように訥々と、今日自然公園のバスケットコートでなにがあったのかを語り始めた。

 

話を聞けば、長谷部たちがバスケをしている時に男たちが車やバイクの爆音を伴って唐突にやってきたらしい。

 

なにか両者間で切っ掛けとなるいざこざがあったわけでも諍いがあったわけでもなく、急にコート内に入ってきたそうだ。

 

「コートの端に追い詰められて、もうダメだって思った時……なぜか逢坂の顔が思い浮かんだよ。突然そう思った自分に驚いて、実際に逢坂が助けに来てくれた時はもっと驚いた。逢坂の姿を見ただけで、追い詰められている状況も忘れて安堵の念を抱いたよ」

 

「わたしも、頭をよぎった。きっと自分で思ってたより信頼……してたんだと思う。……こんな状況を変えられるのは、逢坂しかいないって。勝手に期待してた……」

 

「…………」

 

 俺は存外、二人から頼られていた……のか? こんな俺を……学校では前代未聞な規模の暴力事件を起こした不良生徒を。

 

真剣極まりない空気なのに『信頼している』と言われて、自分の存在を認められたように嬉しく思っている自分が情けない。 

 

「……行くのが遅くなって悪かった。もっと早くに……いや、最初から一緒にいればこんなことにもならなかったのに」

 

「違うよ……責めてるんじゃ、ない。感謝してる。本当に……ありがとう」

 

「もともと予定があったのに、わざわざ来てくれたじゃないか。それだけで感謝するに事足りるよ。そういえばまだ言ってなかったね……助かったよ、逢坂。ありがとう」

 

 正面から目を見つめられて感謝され、しどろもどろになりながらも返す言葉を探す。

 

陽気美人なタイプとクール可愛いタイプの同級生に言われてどぎまぎしない男はいないだろう。

 

「いや、まぁ……なんだ。もう、ただのクラスメイトってわけでもないんだからな。そりゃ、助けるぞ、友達(・・)……なんだからな」

 

 恥ずかしいセリフを吐きながら、照れ隠しにテレビへと目線を逸らしながら後頭部を触る。

 

液晶画面の中ではおバカタレントが珍解答を続けていたが、一切耳に入ってこなかった。

 

 二人からの正直な気持ちを聞いたんだ。

 

それなら同じく腹を割って正直に言葉を返すのが男というものであり、誠意というものだろう。

 

親友二人(恭也と忍)以外にこんなことを言うのは初めてなので、気恥ずかしさから顔が熱くなる。

 

 だが、俺がこれだけの覚悟をもって意を決して話したというのに、二人は一瞬驚いたようにきょとんとした反応をして、くすっ、と口元を綻ばせた。

 

「あ、逢坂がそんなことを言ってくれるなんてねっ……あははっ。誰に言われるよりも嬉しいよっ」

 

「そんなに恥ずかしいのなら、言わなきゃいいのに……。ギャップ萌え狙い、おつ」

 

「……くそっ。俺も言わなきゃよかったと後悔してるぜ……」

 

「言ってくれた方が分かりやすいからそれでいいんだよっ。今回の場合は言わなくたって伝わったけどね!」

 

「ふふっ……。逢坂は、わかりやすい。言葉で表現しなくても気持ちは届くよ……理解している相手なら、齟齬なんて発生しないから」

 

 泣いたばかりで瞳を真っ赤に充血させてるし、頬には涙の跡がわずかに残ってるのに、いつもと同じように俺をいじる二人。

 

はぁ……彼女たちの心の奥底に鉄塊のように重く沈んでいた『蟠り』を少しは解消できたのなら、俺の身体を張った言葉も意味はあったのだろう。

 

言葉攻めという辱めを受けた甲斐があるというものだ。

 

「逢坂は、気持ちが顔に出るというより態度によく出るね」

 

「態度に出て、空気に溶けて……わたしたちに伝わる?」

 

「そう! そんな感じだよ!」

 

「……風呂入ってくる」

 

 俺の話で盛り上がってる女の子二人に耐え兼ね、俺は風呂場へと逃げ込んだ。

 

俺の目の前で俺の話をするってどうなんだよ……。

 

こっ恥ずかしいわ、公開処刑か。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 湯船で首までゆっくりと浸かる。

 

 身体の疲れも心の疲れもお湯に溶けていくような心地良さ、外側から身体の芯へと温もりが伝わる感覚がたまらない。

 

俺は結構風呂好きなのだ。

 

 湯船の縁に腕をかけ、長く深いため息とともに左腕に目を向ける。

 

左腕にはあざが残っているが(詳細に言えば残してもらったのだが)、ユーノが怪我を治してくれたおかげで気兼ねなく全身にお湯を浴びることができる。

 

シャワーだけじゃ物足りないからな。

 

 左腕から目線を上にあげ、天井を仰ぎ見る。

 

厄介な出来事があったとはいえ、なんとか解決して一安心だ。

 

 左腕と頭に傷を負って、今はもうほぼ治っているとはいえその瞬間はとても痛かった。

 

特に頭に打撃を受けた時なんか視界に星が散ったほど……いや、頭なんていう人体の急所にやすやすと攻撃された俺が悪いんだがな。

 

 とにかく、今回は助けることができて本当に良かった。

 

あと数分遅れていたら、もしかしたら間に合わなかったかもしれないと考えると、背筋がぞくっとする。

 

名前も知らないが女子バスケ部員たちを――精神的には傷を負ったかもしれないが――無傷で助けることができて、長谷部と太刀峰を不幸な目にあわせることなく済んで……本当に良かった。

 

 嫌な想像で寒気が走った体を温め直そうと、湯船に頭のてっぺんまで浸かって数秒潜水した後、勢いよく頭をお湯から出す。

 

二度三度頭を振り、髪をオールバックにするように両手で前から後ろにかき上げながら撫でつける。

 

潜った時にお湯が口に入って少し飲んでしまい、中途半端に飲み込んだ液体が気管に入り込んだ。

 

「けほ、こほっ。はぁ、落ち着いた。……そういや、あの二人も風呂に入ったんだっけ」

 

 こんなタイミングで思い出してしまった自分を恨む。

 

せめてもっと早くに思い出すか、なんならずっと思い出さなかった方が良かった。

 

故意にやったことではないとはいえ、同級生の女子二人が入った後の湯船のお湯を口にするって……どこからどうみても変質者じゃねぇか。

 

「……出よう」

 

 形容しがたい後ろめたさも疲れと一緒にお湯に溶けることを祈って、俺は風呂場を後にした。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 二人がいるリビングに上がり、戻ったことを報告する。

 

「ふぅ……。やっとさっぱりしたぜ、気持ちよかった」

 

「あ、逢坂あがったんだね。お疲れさま」

 

「お疲れ……。わたしたちが、入ったあとのお風呂……気持ちよかったの?」

 

「純粋に風呂に入ったのが気持ちよかったって話だ。誤解を招く言い方してんじゃねぇよ、俺はそんなレベルの変態じゃない」

 

「そんなレベルじゃない……残り湯でも、飲んだの?」

 

「そっ! そんな低いレベルの変態じゃないって意味で言ったんじゃねぇよ! つか変態っていう前提をまず取っ払え!」

 

 風呂場での出来事を見ていたかのような太刀峰の軽口に、一瞬言葉が詰まったのは内緒。

 

亀居――俗に言う女の子座り――でカーペットにぺたりと座り、俺に変態という無礼千万極まりないレッテルを張ろうと画策してくる太刀峰の頭を、ソファに向かうついでに、ぽかり、と痛くないよう軽くたたく。

 

『きゃふ』と、悲鳴なのかなんなのか、よくわからない声を背後から聞きながらさらに数歩歩き、ソファに座る。

 

「怪我は大丈夫だったかい? あまりに普通に過ごしてるから怪我してることを忘れそうになるよ」

 

「傷……開いたりしなかった?」

 

「おう、問題ないぜ」

 

 俺が風呂に入る前から変わらない位置に座っている長谷部が訊いてきた。

 

 心配いらないということを表現するように、左手で握って開いてを二度繰り返し、腕をぷらぷらと振る。

 

長谷部のほうを見て、ほら大丈夫だ、と言わんばかりに肩をすくめる。

 

そんな俺を見て長谷部も太刀峰も硬い表情を解いた。

 

「逢坂はメンタルは豆腐なのに、フィジカルは鉄のように強いね」

 

「そこは『身体が丈夫だね』だけでも、十分言いたいことは伝わると思うんだ」

 

「バスケットコートで、逢坂が頭殴られた時……死んじゃったかも、って思った。逢坂、もしかして……不死身? 吸血鬼?」

 

「どうみても人間だろうが。吸血鬼だったら太陽の下歩けねぇじゃねぇか」

 

「吸血鬼じゃなくても逢坂はお天道様の下を堂々と歩けなさそうだよね」

 

「言葉のニュアンス変わってる! 後ろ暗い事なんてしてねぇよ!」

 

「でも……忍さんから、逢坂がこれまでどんなことをしてきたか……聞いたけど」

 

「やっぱり諸悪の根源はあいつかよっ!」

 

 そこからは、仲良くなったのがつい最近とは思えない程に話が弾んだ。

 

学校のことや、二人の部活のこと、土曜に開催されることが決定した勉強会のことも話してるうちに、気づけばだいぶ時間が経っていた。

 

 現在時刻は二一時三十一分。

 

今なお降りやむ気配を見せない大雨は、俺たちが家に入る前よりもその勢いを増していた。

 

大粒の雨は地面を打ち鳴らし、強く吹く風が窓をたたく。

 

ソファから立ち上がり窓の外を見てみれば、木々は強風の影響で折れるのではと不安に思うほどしなり、電柱から延びる電線は千切れてもおかしくないくらいに左右にふらふら揺れている。

 

道に数台置かれていた自転車は軒並み倒れ、ついさっきも水色のゴミ箱が風に押されるように道路を転がっていった。

 

この暴風雨はすぐには止みそうにない。

 

 こんな嵐の中、女子二人を返すというのは現実的ではないな……。

 

「長谷部、太刀峰。今日はもう泊まってけ。この天候じゃあとてもじゃないけど帰れそうにねぇわ」

 

「僕たちも思ってたよ。帰るの難しそうだなぁって。そっちから勧めてくれてありがとう」

 

「わたしたちから言うと……足軽女みたいだし」

 

「お前たちは戦場にいるのか」

 

 別に二人から『泊めさせてくれ』と言われたって尻軽だなんて思わない。

 

この家に招いた時点で一定以上の信頼を二人に寄せているのだから、それくらいの頼み事で今さら失望したりしないのだ。

 

それに加えてこの空の荒れ模様、家に帰れないのは当然というものである。

 

「家に連絡しとけよ、親御さんも心配してるだろう」

 

「そうさせてもらうよ。電話借りていいかい? 僕たち携帯持って来てないんだ」

 

「どうせバスケしか……しないと思ってた、から」

 

 そういえば小銭くらいしかないとか言ってたな。

 

まさか携帯すら持って来てなかったとは、この二人は本当にバスケキチだなぁ……もちろん良い意味で。

 

「あぁ、いいぞ。そこにあるから使ってくれ」

 

 廊下とリビング(ここで食事をするのでリビングダイニングと言うのが正確だが)を繋ぐ扉の近く

を指差す。

 

扉の近くに、引き出しがいくつかついた木製の電話台があり、固定電話はその上にある。

 

「言うまでもないと思うけど、男の家に泊まるとか言うなよ? 変に心配させる必要なんてないんだからな」

 

「同級生の家に……泊めさせてもらう、って言っとく」

 

「その言い回しはいいな。嘘じゃねぇし」

 

「そういうこと言わないでくれないかい? なにか悪いことでもしてるような気分になるじゃないか」

 

「些細な、考え方の違い」

 

 苦笑いしながら電話台へと向かう長谷部と太刀峰。

 

これで二人の問題は解消されたが、俺には悩みの種が残されている。

 

「姉ちゃんに……どう説明しよう……」

 

 家に電話している長谷部と、その後ろで待つ太刀峰を眺めながら、俺はひとりごちた。




僕はとても楽しく書いているのですが、はたしてこの本編とは一切のかかわりのない日常編は需要があるのでしょうか?
そう悩んでいる今日この頃です。
まぁ……どちらにしたって書くことは変わらないんですけど……。

無印が終わるのはいつになることやら。


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日常~お泊り会~Ⅲ

 緩衝材になるかどうかはさておき、姉ちゃんに釈明のメールを形だけでも打っておいた。

 

追及されるのが怖かったので送ったのは『同級生が家に泊まりに来てる』という内容のもの、性別までは記していない。

 

そんなことをしても拷も……訂正、尋問されるのが先送りになるだけなのだが。

 

 メールの送信完了の表示を確認して、画面を消す。

 

携帯をテーブルに置いたのと同時に、二人が苦笑いを浮かべながら戻ってきた。

 

いや、太刀峰は苦笑いというか、口の端が普段より少し下がってる程度だが。

 

「怒られちゃったよ、連絡するのが遅いってさ」

 

「わたしのほうも、ちょっと言われた」

 

「二十一時半に連絡すりゃ当然だ。もうちょい早くに連絡するべきだったろうぜ」

 

 雑談に花を咲かせていたせいで忘れてしまっていた。

 

なのはの時に踏んじまった轍をまた踏むとは……いい加減学習しねぇな、俺も。

 

「あとご両親によろしくお願いします、と(ことづ)けを頼まれたのだけど……いつ頃帰られるのかな?」

 

「あぁ、えっと……あんまり気にしないでほしいんだけど、俺の家両親いないんだ。どっちも既に他界しててな、今は俺と五つ年上の姉の二人暮らしだ」

 

「こういう時、ごめん、って謝られるのも困るんだよね……。僕の家も似たようなものだから少しだけわかるよ」

 

「似たようなもの?」

 

「真希の家は、お父さんがいないから……」

 

「うん。父は僕が小さいころに亡くなったらしくて……シングルマザーってやつだね。最近は多いよ? 薫の家は両親共働きで帰るの遅いんだよね」

 

「うん……、帰ってこない日も多い。家のことは、ハウスキーパーさんがやってくれるから……楽だけど」

 

「そう……だったのか」

 

 正直なところ驚いた。

 

この話をして憐れまれることはあっても、共感されることはなかったからだ。

 

 家庭事情が複雑なのは俺だけじゃないんだって思うと、すこし気が楽になったように思う。

 

 自分でも気づかないうちに、両親がいないということに俺は負い目を感じていたんだ。

 

学校に行って、飯を作ったり、掃除したり、洗濯したりと、家事全般をこなして、少し前までバイトもやっていた。

 

俺はそれらを好きでやっていたし、もう両親のことも吹っ切れたと思っていた。

 

 だが、周りに俺の感情は見えない……俺の心は見透かせない。

 

一種の思いやりだとは理解しているが、同情と憐憫の目を周囲から受け続けて、いつしかそれらが重荷になってしまっていた。

 

悲劇の主人公を気取るつもりはないが……自分は苦労していて可哀想な人間だと思い込んでしまっていたのだ。

 

 たしかに寂しく思うこともあった。

 

昔、姉ちゃんが仕事で家に帰ってこない日に、テレビもつけずにソファでぽつんと何をするでもなく座ってたこともある。

 

この家は……一人でいるには広すぎて、静かすぎて、冷たかった。

 

 でも、長谷部と太刀峰の家の話を耳にして、俺だけじゃないと思えた。

 

みんな大なり小なり苦労していて、多かれ少なかれ事情を抱えている。

 

傷の舐め合いと断じてしまえばそれまでだ。

 

でも……それでも俺は、どこか救われたような気持ちだった。

 

「まぁ、この三人の中では一番ハードなのが逢坂だね」

 

「家事も自分で……やってるし」

 

 似た環境に身を置く彼女たちだからこそ、さらに一歩踏み込んでくる。

 

多少の差はあれど、親がいないという苦労と孤独感をわかっているから、俺の家の事情について知ってからでさえ、さらに質問を重ねてくれる。

 

遠慮なく尋ねてくる彼女たちに対して、俺も忌憚なく接することができた。

 

「んむ……条件で言えばそうなるのかもな。でも姉ちゃんも協力してくれてるし、案外なんとかなってるぜ?」

 

 顎に手をやり首を傾げて視線を宙に彷徨わせながら返答する。

 

 家事をやり始めた当初、それはもう凄まじい苦労を重ねたものだが、現在ではライフワークであり俺の日常の一部だ。

 

姉ちゃんも仕事で疲れてるはずなのに手伝ってくれるし、今さら苦労しているとは思わない。

 

 彼女たちに目を戻すとなにやら口元を手で覆っていた……が、時折笑い声が漏れ聞こえている。

 

「おい、なにがおかしい」

 

「自分で……ふふっ、気づいて、ない?」

 

「あはははっ! お姉さんのこと喋る時、すっごく嬉しそうな顔してるんだよ! あーもうっ、可愛いなぁ!」

 

「むっ……」

 

 頬を両手で触って確認する……うむ、わからない。

 

 ソファに座る俺が表情の確認をしているその隙に、長谷部と太刀峰がバスケ仕込みの健脚で急速に接近し、半ば突撃するように抱きついてきた。

 

三人掛けのソファは急激な負荷の増加に軋みという名の悲鳴を上げる。

 

ついでに言えば俺も形容しがたい言語で悲鳴を上げた。

 

「お前ら……この衝撃力は軽く事故だぞ……」

 

「逢坂が悪いんだっ。ギャップ萌えばっかり狙うから!」

 

「乙女心に、クリティカルヒット……これは抗えない」

 

「俺にもわかる表現をしてくれ……」

 

 長谷部は左から肩を抱くように手を回し、太刀峰は右からソファの上に膝立ちになって頭を撫でてくる。

 

 一気にソファ上の人口密度が高まり窮屈なことこの上ないが、鬱陶しいと言って跳ね除けることはどうしてもできなかった。

 

くっつかれて、人肌に触れて、安心している自分が確かにここにいたからだ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「はぁ……堪能したよ。ごちそうさま」

 

「……そうですかい、お粗末様です」

 

「逢坂は……ほんとに、いい身体してる。誇って、いい。許可する」

 

「許可って……お前はいったいどんな立場にいるんだ」

 

 抱きつかれて十分少々が経過し、やっと解放された。

 

さすがに長い時間ひっつかれれると体力が消耗する……。

 

 長谷部は抱きつくだけだったからまだいい、問題なのは太刀峰だ。

 

最初こそ頭を撫でていただけだったが、次第に某筋肉フェチさんのように全身をまさぐるような手つきへと変貌した。

 

上半身から下半身に移動するところでさすがに手を掴んで押し留めたが。

 

 体育会系のノリなのか知らんが、スキンシップが激しくて男子高校生としては心臓に悪い時間だったが、悪い気はしなかった、というのは言わずもがなである。

 

いろいろ柔らかかったし。

 

「明日は早いとこ起きなきゃなんねぇんだから、そろそろ寝ろ」

 

 ソファから立ち上がり、二人に告げる。

 

二人もソファから腰を上げてカーペットに降り立つが、どうも浮かない表情だ。

 

「せっかく泊まるのだし、どうせなら夜更かししてお喋りしたいところだね」

 

「ん、ボーイアンドガールズトーク……とか」

 

「ダメだ。学校もあるんだし着替えるために一度帰らないとダメだろが」

 

「えぇー」

 

「物理的にも、考え方でも、頭がかたい……」

 

 俺の正論にブーイングする二人、まったく言うことを聞きそうにない。

 

野菜苦手だし夜更かししたがるし、小学生か。

 

 ちなみに失礼な言い様の太刀峰には頭にチョップを叩き込む。

 

ちょうどチョップしやすい手ごろな位置にあったのだ。

 

 仕方ない、このままでは寝る寝ないの水掛け論になりそうだし、話の平行線を断ち切るためにも俺が一歩……十歩ほど譲るか。

 

「またいつか、次の日が休みの時にでも泊まりにくればいいだろ。夜更かしとお喋りはその時にしてくれ」

 

 最大限の妥協案であり、俺の得意技である『後日に持ち越す』だ。

 

案件を後回しにしているだけなんだけどな。

 

 俺としてもこいつらとの一切気遣いせずに過ごす時間はすごく楽しい。

 

明日は平日で学校があるから難しいが、できることならまた遊びたいと思っている。

 

嫌がらせで早く寝ろと言っているわけではないのだ。

 

「本当かい?! やったっ、約束だよ?」

 

「ここまで言っておいて……後から破るのは、許されない」

 

「本当だ、約束するって」

 

 俺が言った途端、小さく飛び跳ねて全身で喜びを表現する二人、まさしく欣喜雀躍といったところだ。 

 

「ん、そういえばどこで寝させてもらえばいいのかな?」

 

「あ……」

 

「考えて……なかった?」

 

「……………………そんなことねぇよ?」

 

「今の間は完全に肯定するものだったよね。どこでも構わないよ? さすがに夜は冷えそうだから毛布くらいは借りたいけれど」

 

「なんなら……このリビングでも可」

 

「いや……さすがに知った仲とはいえ、客人にここで寝かせるわけにはいかねぇよ」

 

 約束を果たすためにもお喋りはまた今度にし、今日はもう就寝という段取りになったのだが、俺としたことが寝る場所を決めていなかった。

 

 どこがいいだろうか。

 

なのはの時は、姉ちゃんが帰ってこないのを知っていたから姉ちゃんの部屋を使わせたが――なぜか起きたら俺の部屋にいて隣で寝ていたが――、今日は昨日と同様に夜勤でおそらく朝の早い時間に帰ってくるだろう……それなら姉ちゃんの部屋を使うわけにもいかないな。

 

どうせ姉ちゃんが寝る時にはまた俺の布団に入り込んでくると思うから、俺は姉ちゃんの部屋で寝て、二人には申し訳ないが俺の部屋のベッドを二人で使ってもらうとしよう。

 

予備の布団もあるにはあるが、ずいぶん長い間押し入れの中にしまわれっぱなしで干してもないし、使えそうにない。

 

「悪いんだが他に使える部屋がないんだ。狭いかもしれないが俺の部屋で一緒に寝てくれ」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……? どうした?」

 

 さっきまでのテンションはどこへやら、いきなり二人はほんのりと頬を朱色に染めて黙り込み、怪訝そうな……というよりかは正気を疑うような複雑な視線を俺に向ける。

 

二人は身を寄せ合い、一歩二歩三歩と後退りして俺から距離を取った。

 

彼女らの不可解な行動に俺は首を傾げる。

 

「どこでもいいとは言ったけれど、さすがに……同じベッドで、というのは……どうだろう。些か問題があると思うんだ。ほら、歳も歳だからさ」

 

「逢坂のことは、信頼してる……けど。間違いがあったら……いけない、し……」

 

 二人は申し訳なさそうに、言葉を選ぶように視線をちらちら泳がせて、決して俺の目を見ることなく途切れ途切れに続ける。

 

 この時点で嫌な予感がしてきた。

 

背中にじんわりと冷や汗をかいてきているのがわかる。

 

「逢坂が嫌ってわけじゃなくて……むしろいいんだけど……。僕……めてだし、もっとムードとか、家でっていうのは構わないけどね? でも……二人同時にっていうのは、誠実さに欠けるというか……」

 

「こういうことは……大きく、なってから……って……。逢坂に、とってみれば今……だからこそ、いいのかも……だけど」

 

 長谷部と太刀峰は顔をさらに紅潮させて耳まで赤く染めながら、まるでジェスチャーのように忙しなく手をわたわたと動かして、言葉と言葉を繋ぎ合わせている。

 

 二人の反応を見て、予感が確信に変わった。

 

もうこれ以上喋らなくていい、これ以上傷口を広げなくていいという意味を込めて左手を開いて手のひらを彼女たちへ向け、俺は右手で目元を押さえて俯く。

 

学校での不本意な噂も仕方ないかな、とさえ思えてきてしまった自分が嫌だ。

 

 覚悟を決めて、彼女たちへ真実を告げる。

 

「俺の言い方が悪かった、言葉足らずだった……すまん。一緒に寝てくれっていうのは『長谷部と太刀峰の二人で』って意味なんだ……。俺は姉ちゃんの部屋で寝るから……って、いう……」

 

 尻すぼみに小さくなっていく俺の声。

 

原因は目の前の二人の表情である。

 

 真っ赤だった顔は、すぅー、と元に戻り――どころか青褪めてさえいる――、感情の一切が含まれない完全な無表情となった。

 

無表情を経て、だんだんと怒りの色が混じってくる。

 

眉間にしわが寄り、手は固く握り込まれ、肩はわなわなと震えていた。

 

「ふぅ」

 

「……はぁ」

 

 長谷部と太刀峰は短く吐息をもらして二人同時に俯く。

 

 ど、どうなんだろう……許してもらえたのだろうか? 微妙な反応なのでいかんともしがたい。

 

 彼女たちの顔色を窺うように、少し膝を曲げ姿勢を低くして盗み見る。

 

すると二人は、ばっ、と勢いよく頭を上げた……太刀峰の艶やかな濃青色のセミロングヘアーが舞い踊り、長谷部の頭の頂点では数本固まって跳ね上がった赤褐色の髪がぴこぴこと揺れて激しく自己主張する。

 

……二人とも、輝くような笑顔(心胆寒からしめる形相)だった。

 

「僕たち言ったよね。そういう勘違いしそうなことを言わないようにって」

 

「だから、逢坂は……誤解されるって……。気をつけたほうが、いいって」

 

「たしかに言われたけど、細部が異なるような……」

 

 細かいセリフの違いが気になってしまい、つい口にしてしまった。

 

そしてこれがいけなかった。

 

 ぴきっ、という音が聞こえた気がする……あぁ、いらんこと言ったぁ……。

 

二人は満面の笑みを顔面に張りつけたまま、恐怖を増長させるかのようにゆったりとした歩みで近寄ってきた。

 

長谷部は俺から見て左に立って左手を、太刀峰は俺から見て右に立って右手を高く振り上げた。

 

「反省っ」

 

「……しなさいっ」

 

 とうとう笑顔という仮面が剥がれ落ちた二人。

 

仮面の下の表情は、まさしく花も恥じらう乙女で……とても可憐だった。

 

 俺の両頬に季節外れの紅葉が咲き誇ったのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 扉を開き、長谷部と太刀峰を部屋の中へと招き入れる。

 

 俺の部屋はフローリングに薄いカーペットを敷いた洋室で、だいたい六帖ほどの広さ。

 

あまり物を置いていないのでそれほど狭さは感じない。

 

勉強机もあるにはあるが、教科書の類を使うことはなく、すべて本棚にしまっているので机の上もすっきりしすぎてどこか閑散としている。

 

これと決まった趣味を持たない俺にとってこの部屋は、ほぼ寝るための部屋と言ってもいい。

 

壁紙も来た時のままだし、ポスターの一つもない。

 

今でこそ青白いひし形の宝石がついたネックレスがあるが、それまではアクセサリーも持っていなかったくらいだ。

 

俺にはあまり物欲というものがないのかもしれない。

 

「やっぱりというかなんというか、逢坂の部屋はとてもきれいに片付いてるね」

 

「面白みがない……」

 

「人の部屋に笑いを期待すんなよ。ハードル高いわ」

 

 頬に赤い手形を残したままリビングから俺の部屋へと案内した。

 

案内といってもリビングの扉を出て数秒歩いただけだが。

 

 部屋へと入りベッドに腰掛けて、座れよ、とぽんぽんと軽く布団を叩く。

 

「そんなにベッドは大きくねぇけど、太刀峰はちっこいし二人でも寝れるよな?」

 

「ちっこい、とは……失礼」

 

「寝るには十分だよ。ちなみに逢坂、ベッドに女の子を座らせるという行為には違う意味も含まれているのは知っているかい?」

 

「めんどくせぇなぁ……女の子の常識……。誤解させる前に教えてくれてありがたいけど」

 

 俺はベッドから腰を上げ――埃こそかぶっていないものの滅多に使われることのない――勉強机の椅子に座る。

 

入れ替わるように、太刀峰と長谷部がベッドに腰掛けた。

 

 太刀峰は腰掛けたと同時にあお向けに倒れ込み、そしてころんと転がってうつ伏せになる。

 

手探りで枕を探して、それを見つけると両手で、ぎゅうっと抱き枕の要領で抱きしめた。

 

 こいつはどこまでも自由だな……。

 

「すんすん……逢坂の、においがする」

 

 枕に顔をくっつけて唐突に匂いを嗅ぎ始めた太刀峰。

 

 いや……いやいや、なにしてんの。

 

「ちょっ、こら! やめろ! 恥ずかしいだろが!」

 

「なんで……? いい、におい……。落ち着く……」

 

 俺の制止に、枕を抱きしめて鼻から下まで隠したままで、こてんと半回転してあお向けになり、なぜやめなければならないのかわからないという表情で小首を傾げる太刀峰。

 

人には勘違いさせるような行為は控えたほうがいい、などと言うクセに自分がやるのはいいのか、卑怯だぞ。

 

 太刀峰と枕の取り合いをしていると、長谷部が『そういえば』と切り出した。

 

「訊きたかったのだけど、僕のはともかくとして、薫のこの格好はアレかな? 逢坂の趣味だったりするのかい?」

 

「ん? なんの話だ?」

 

 結局頑として放そうとしなかった太刀峰に根負けして椅子に戻り、長谷部に訊き返す。

 

ふわふわとして要点を得ない質問だった。

 

 きっと俺が『何を言ってるんだこいつ』みたいな顔をしていたからだろう、太刀峰がむくりとベッドから上半身をあげ、床に立った。

 

太刀峰はわずかに腕を上げて鮮やかに、くるり、とその場で一回転。

 

もともと緩めなロングスリーブTシャツの裾がターンと同時にふわりと円を描く。

 

「……そういうことか。なるほど、これは実にけしからんな」

 

「そんなリアクションをするってことは意識してやったわけじゃなかったんだね。安心したよ」

 

 長谷部が言わんとしていることがなんなのかよくわかった。

 

ターンして浮き上がったロンTの下には姉ちゃんから拝借したショートパンツが見えたのだ。

 

すなわち、なにもしていない状態であれば丈が短めのショートパンツはロンTの裾に隠れて見えない。

 

俗にいう、彼シャツみたいな、見ようによっては下になにもはいてないようにも取れる。

 

 俺の服だからサイズは大きいだろうな、とは思っていたがこれほどまでにぶかぶかになるとは。

 

よく見れば首元の部分もぶかぶかで太刀峰のか細い首や鎖骨、身長差のせいもあり無防備にも胸元がちらちらと見えた。

 

 バスケ部に在籍しているだけあってよく鍛えられており、ムダな肉がついていない足のラインがとても綺麗だ。

 

長谷部に言われて気づかされてしまった今では、いくら逸らそうと思っても目が勝手に太刀峰の内ももに吸い寄せられてしまう。

 

運動部ゆえの筋肉と女子特有の柔らかさという絶妙なコラボレーション、そこにはあまりにも強力な引力が存在した。

 

 舐めまわすが如く見ていた俺に釘を刺すようなタイミングで太刀峰は恥じ入るように、足を隠そうとシャツの裾を伸ばした。

 

なんだよっ、さも『自分を見ろ!』とばかりに、流麗なターンまで決めてたくせに!

 

「あ、あまり見ないで……ほしい。パンツはいてない、し」

 

 思わず噴き出した。

 

「薫?! それは言っちゃだめだって注意したよね?!」

 

「パンツ、はいてない……けど、ショートパンツは、はいてるし……」

 

「そういう問題じゃないよ!?」

 

 そうだったな、家に帰ってくる時かなりの大雨だった。

 

俺も全身びしょ濡れになったし、ズボンもパンツも濡れていた。

 

同じように彼女たちもパ……下着まで濡れていてもおかしくはない。

 

 ……抱きつかれた時にやけに柔らかいなぁ、とは思っていたけど……まさか、つけてなかったとは……。

 

 問答を続ける女子二人を横目に椅子から立ち上がり、扉のノブに手をかけて振り向く。

 

「お前たちはこの部屋で寝てくれ。俺は隣の部屋で寝る。なにかあったら遠慮なく起こしてくれたらいい。あ~、えぇっと……お前らが来る時に着てた()は明日の朝には着れるようにしとくから心配すんな。じゃ、おやすみ」

 

 口早に用件を伝えて部屋を出た。

 

部屋の中から扉越しに長谷部の悲鳴のような声も聞こえた気がするが……彼女たちの沽券に係わることだ。

 

さっきの耳にした件は今後触れず、速やかに忘却の彼方へと追いやることにしよう。

 

 一階へ降りて脱衣所に入る。

 

 俺が風呂に入った時、ついでに洗濯機はまわしておいた。

 

今ならもう終わっているはずだ。

 

今のうちに乾燥機に入れておけば、明日の朝起きる頃にはすぐ着ることができるだろう。

 

 あまり深く考えないようにして洗濯機の中の衣類を乾燥機に移した。

 

俺は何も見ていない、ただ布を乾燥機に移動させた、ただそれだけだ。

 

意外と子供っぽい赤の水玉とか、側面が透けている青色のフリルとか、そんなものは一切見ていない。

 

 頭を振って邪念を払いながら、乾燥機のスイッチを押してスタートさせる。

 

夜中に乾燥機を使うのはご近所さんに迷惑かもしれないが、こちらにも事情はあるし既に洗濯機を使ってしまっている。

 

一日だけ大目に見てもらおう。

 

「これでよし、だな」

 

 できることはすべてやり終わった、今日も一日お疲れ様って感じだ。

 

ぐぐっ、と背伸びをすると背中の骨が、ぱきっと音を鳴らした。

 

「ふあぁ……。ねむ……」

 

 脱衣所の扉を閉めながら大きな欠伸(あくび)をする。

 

俺も早く起きなきゃならねぇんだから、さっさと寝ることとしよう。

 

今日もぐっすり眠れそうだ。



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日常~お泊り会~Ⅳ

 意識が浮上する感覚。

 

 もう朝のようだ、夢も見ない程に熟睡していた。

 

 覚醒には程遠い寝惚けた頭で時間を確認するため、布団から右手を出して手探りで携帯を探すが見つからない。

 

霧がかかったような脳みそで思い出す。

 

そういえば昨日寝る前、リビングのテーブルに携帯を置いてそのままだった。

 

 仕方ない、起きるか。

 

そう思い、身体を起き上がらせようとするが左腕が重い。

 

重いだけではなく、ひじの内側あたりに温もりも感じる。

 

俺の予想した通り、姉ちゃんが帰ってきてそのまま俺が寝ている布団に潜り込んだのだろう。

 

疲れて帰ってきた姉ちゃんに窮屈な思いをさせてしまったのは申し訳ない限りだが、よくよく考えてみると最近は俺の部屋まで来て俺のベッドに潜り込んでいたので、たいしていつもと変わらないようにも思えた。

 

 しばしばする目をゆっくりと開く。

 

朝に弱いわけではない、それどころかどちらかというと強い方だと自負しているが、微睡(まどろ)みから目を開くのとあったかい布団から出るのだけはどうにも辛い。

 

「おはよ……逢坂」

 

「あぁ、おはよう。姉ちゃ…………ふぁっ!」

 

 俺のすぐ近くで朝の挨拶をしてきたのは、普段より三割増しで眠たそうな目をしている、最近俺の中の位階で『同級生』から『友達』へとランクアップを果たした太刀峰薫だった。

 

 肘関節の内側に小さな頭を乗せて俺の腕を勝手に枕にしていた。

 

朝日を浴びて青みが強調されている太刀峰の髪が、俺の左腕に纏わりついている。

 

太刀峰は俺の二の腕に自分の左手を置いて、居心地良さそうに目を細めていた。

 

「なんでっ、お前がっ、ここにいるっ!」

 

「なんで、なんて……野暮なことを訊く。あんなに激しく、求めてきたのに……」

 

 同じ布団に入り、すぐ隣にいて腕枕で寝ていたという状況。

 

『目の前が真っ白になる』という表現があるが、なるほどこういう感覚を言うのか。

 

寝起きの鈍い頭では太刀峰の言葉についていけない。

 

「まて……待て、ちょっと待って」

 

「痛い、って……言ったのに、両手押さえて……上から覆いかぶさってきたり。獣みたいに後ろから……。何度も、何度も」

 

「……………………」

 

 え、やっちゃったのか? 俺。

 

いやいや、まさか……理性の塊、鉄の精神、不屈の魂と評される俺がそんな軽はずみな行動をするわけがない。

 

本当にそんな行為は一切記憶がない、憶えていない。

 

 なのに心臓は口から飛び出るのではないかと思うほど、どくんっどくんっ、と跳ね上がっている。

 

春とはいえ朝はまだ寒いのに俺の背中には冷や汗が流れ、外は小鳥が(さえず)っているのに部屋の中には沈黙が流れた。

 

「…………くすっ」

 

 はい、今確信した。

 

これは太刀峰一流……お得意のタチの悪いジョークだ。

 

 顔面蒼白になる俺を見た太刀峰は、口端をわずかに上げて小さく笑う。

 

別に太刀峰の演技力が高かったわけではない、ただ普段と同じような抑揚のないトーンのせいで嘘か真か判断がつかなかったのだ。

 

「お前本当に、いい加減にしてくれ……」

 

「慌てる逢坂は、面白い……」

 

「……今のシチュエーションでは言っていい冗談と言っちゃダメな冗談がある。お前の発言は当然後者だ」

 

「もし、ほんとにやっちゃってたら、責任取ってた……? 認知、してた……?」

 

「マジだったらそりゃ責任取って子供を幸せに育て……っておい」

 

「……くすっ。なにもなかった。大丈夫。ただ逢坂……寝相は悪い」

 

「その文句は寝ていた時の俺に言ってくれ。それよりもなんでお前がここで寝てんだよ。俺の部屋で寝てたんじゃなかったのか」

 

 太刀峰が起き上がり、束縛が解かれた左腕をベッドにつけて俺も起き上がりながら、そもそもの疑問をぶつける。

 

一悶着あって俺の部屋で寝ることに決まったのに、なぜ太刀峰が俺の隣で寝てたのか、これでは顔面(はた)かれ損(俺の誤解させるような言い回しが叩かれた大半の理由ではあったが)ではないか。

 

「寝てたら真夜中に……誰かに追い出された。どこで寝たらいいか、わからなかったから、逢坂に訊きに行こうと思って……この部屋に来て……寒くて布団に入った」

 

「起こせよ」

 

 はふぅ、と長台詞に疲れたため息なのか、それとも単に眠たいだけの欠伸(あくび)なのか判断しかねる声をもらして、ベッドの上で女の子座りになる太刀峰。

 

 んむ……つまり俺の部屋で長谷部と一緒に二人仲良く寝ていたが、夜中に何者かによって叩き出され俺の指示を仰ごうと思ってこの部屋に来て、結局ここで寝てしまったということか。

 

「まぁそういうことなら仕方ねぇな。今回は不問にしよう」

 

「ずいぶん上から……。逢坂だって、好き勝手してたのに……」

 

「おいおい、冗談はもういいって言っただろ」

 

「……これは、冗談じゃない」

 

 ベッドの外に足を出して立ち上がろうとしていたが、太刀峰のその言葉に振り向く。

 

まるで(なじ)るような瞳を俺に向けている太刀峰がそこにいた。

 

昨日から俺、こんな目をされることが多いな。

 

「勝手に枕代わりに、腕を借りたのは……わたし。でもそこから、抱きついてきたり……撫でてきたのは、そっち」

 

「…………」

 

 さっき言ってた寝相が悪いってのはこの事か。

 

 この話も冗談という可能性があるが、最初に冗談ではないとわざわざ前置きするくらいだし、喋り方からも怪しいところはない。

 

おそらく事実だろう。

 

 しかし俺にどうしろというのだ、寝ている時のことまで把握するのは不可能というものである。

 

「どちらにも非があった、ということで水に流すということにしよう」

 

「わかれば、いい」

 

「お前もずいぶん偉そうに言ってくれるな」

 

 ベッドから降りて立ち上がり、深く息を吸ってぐぐっと伸びをする。

 

寝起きの初っ端(しょっぱな)から驚かせてもらったので眠気は吹き飛んでしまった。

 

おかげで――と言うべきなのだろうか――肺に取り込まれる朝の少し肌寒い空気も、どこか心地良く感じる。

 

 姉ちゃんの部屋のハイセンス? なブロッコリーを模した置時計――あの森みたいなもさもさした部分に時計盤がついている。ブロッコリーの性質上時計盤が上を向いていて大変見づらい。およそ十五センチ――で時間を確認すれば現在時刻は六時十分。

 

いつもより少しだけ遅く起きてしまったが、二人を家まで送るくらいなら問題ない時間だ。

 

「……眠たい」

 

「我慢しろ」

 

 布団の上から動こうとしない太刀峰の腕を引っ張って無理矢理ベッドから引きずり出す。

 

 さて、さっさと朝飯食って着替えて太刀峰と長谷部を家へ送らねばならないのだが、なんだろう、なにか重要なことを忘れているような……小骨が喉に刺さっているようなそんな感覚。

 

思い出せそうで思い出せないというのはかなりもどかしく感じるが朝は忙しい、考え事は一旦保留にして、朝食を摂るためにリビングへ向かう。

 

いつから起きていたのか、眠たそうにふらつく太刀峰がこけないように手を握りながら、扉の取っ手に手をかけた。

 

 寝ぼけ眼を左手でくしくししながら、俺に右手を引っ張られて歩く太刀峰がぽつりと零す。

 

「……私を、追い出した人。誰……だったんだろ」

 

「あ、それだ」

 

 喉のあたりまで出かかっていた疑問を太刀峰が代弁してくれた。

 

 思い出した直後、どすんという重たいものが落ちたような音と振動、間を置かずに隣の部屋(俺の部屋)から『きゃあぁぁっ!』という悲鳴が二つ。

 

太刀峰が『真夜中に追い出された』と言った時点で勘づいて然るべきだったのに、お喋りしすぎて失念していた。

 

真夜中に帰ってくるのは姉ちゃんしかいないじゃねぇか。

 

 いまだ事態の深刻さを理解していない、薄ぼんやりした頭で二つのことを考える。

 

姉ちゃんにどう説明したものか、ということと、長谷部もあんな女の子然とした声出せるんだな、ということ。

 

長谷部の年ごろの女の子らしい部分というレアな光景をこの目で見れなかったのは残念だ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「大雨のせいで帰るに帰れんくなったから家に泊めた、っちゅうことなん?」

 

「そういうこと。ほとんど嵐みたいな天気だったし歩いて帰るには危ないと思ってな」

 

 現在俺は鼻を赤くしてキッチンで朝食を作りながら、リビングでいつもの座布団の上に座っている姉ちゃんに二人を泊めた理由を話していた。

 

鼻が赤いのは部屋に入った時に、姉ちゃんから掌底のような平手打ちを顔面に受けたからだ。

 

「なんや。そやったら先に言うてや。ちゃんとわけがあるんやったら、シバくこともあらへんかったのに」

 

「部屋に入った瞬間に殴っておいてよく言うよ」

 

 聞けば起きた瞬間、長谷部と肌が触れ合いそうなほど間近な距離にいて、驚いて大声を上げてしまったとのこと。

 

どすん、というのは、驚いた長谷部がベッドから転がり落ちた時の音のようだ。

 

まぁ、目が覚めて目の前に知らない人の顔が合ったらそりゃ驚くわな。

 

「え、と。自己紹介が遅れましたが……僕は逢坂くんと同じクラスの長谷部真希と言います。昨日は突然お邪魔させていただきまして申し訳ありません」

 

「同じく……太刀峰薫、です。お邪魔、してます」

 

 なぜか床の上で正座になっている二人が、礼儀正しく姉ちゃんに自己紹介をしていた。

 

三つ指をついて頭まで下げている、口調も丁寧……もはや別人だ、誰だこいつら。

 

 かけられた言葉に、キッチンにいる俺を見ていた姉ちゃんの目が二人に向けられる。

 

「ええよええよっ、そんなんせんでも! ほら、お客さんやねんからソファに座って! それより二人ともゆっくり眠れた?」

 

「はい、おかげさまでよく眠れました」

 

「わたしも、結果的にはよく眠れた……ました」

 

 姉ちゃんに促されるまま、二人はソファへと身体を移した。

 

質問に丁寧に返答する長谷部と、たどたどしい敬語の太刀峰。

 

「薫ちゃん追い出してもうてごめんなぁ、うち寝ぼけてもうてて」

 

「寒かった……でした」

 

「あはは、ごめんなぁ。真希ちゃんも驚かしてもうたし……腰大丈夫? 落ちた時に痛めてへん?」

 

「いえ、大丈夫ですっ。あの時は失礼しましたっ。」

 

「そかそか、よかった」

 

 体育会系らしく流れるような言葉使いの長谷部とは打って変わって、あまりにも敬語を使い慣れていなさすぎる太刀峰の対比が見ていておもしろい。

 

ただ、おもしろいことはおもしろいのだが、どこか二人とも違和感がある。

 

なにか萎縮しているような……俺と違って姉ちゃんは怖い外見をしているわけではないし、表情も明るいので悪い印象を持たれることは少ないのだが。

 

……あ、方言(大阪弁)か?

 

「二人とも、姉ちゃんは時々返す言葉がきつく聞こえたりするけど方言のせいであって他意はないぞ。初見で俺を叩いたところを見たせいで誤解しているかもしれんが、基本暴力は振るわない」

 

「方言ゆうな。日本の第二の標準語、大阪弁や。あと基本てなんやねんな、暴力なんてふるったことあらへんわ。さっきのは暴力やない、不可抗力や」

 

「物は言いようだな。日本語って便利」

 

 料理を進めながらリビングにいる二人に、姉ちゃんと接するうえのアドバイスをしておいた。

 

自分の中で切り替えでもしているのか、外ではふつうに標準語で喋っているらしいので問題はないのだろうが、今は家にいるので地が出ている。

 

 大阪弁のみならず、初めて関西弁を聞いた時、怖く感じる人がいるというのを以前どこかで聞いたことがあった。

 

なので二人が委縮している原因はこのせいではないかと思ったのだ。

 

そしてどうやら俺の考えは正鵠を射ていたようである。

 

「そう、だったんですか。てっきり僕は怒ってらっしゃるのかと」

 

「わたしも怒ってると、思ってた……ました」

 

「ちょ、怒ってへんよ。それどころか嬉しいくらいやで? 徹が恭也くんと忍ちゃん以外の友達連れてくるなんて初めてのことやからなっ。そういえば同じクラスゆうことは恭也くんと忍ちゃんとも同じクラスなんちゃうの?」

 

「はいっ、高町くんと忍さんとも一緒のクラスで……」

 

「あ~ちょい待って。話折ってもうてごめんやけど、敬語なんて使わんでもええよ? そんなん堅苦しいし、なにより仲良くなられへんし。普段通りに楽に喋ったらええから。二人のことはもう真希ちゃんと薫ちゃんって呼んでるし、うちのことも真守って呼んで?」

 

「は……う、うん。わかったよ。真守さん、よろしくね」

 

「わかった……真守、さん」

 

「は~っ! もうっ、二人ともかわええなぁっ!」

 

 呼び方をほぼ強制的に変えさせた姉ちゃんはいったいどこで琴線に触れたのかわからないが、もだえ苦しむように奇声を発した後、ソファに座る二人を抱きしめた。

 

 ちらりと盗み見るようにリビングへと目を向ける。

 

初対面だというのに距離が近すぎる姉に二人が困惑してるのではと思ったが、二人とも口元を綻ばせており、リビングは柔らかな空気だった。

 

 そう言えば昨日の夜、雑談の中で言ってたな。

 

太刀峰には弟が、長谷部には妹がいるが、二人とも姉や兄はいないって。

 

 頼りになる――か、どうかはさておき――年上の姉ができたような気持ちなのかもしれない。

 

ものの数分で心理的にも物理的にも、相手の懐に飛び込むというのはまったくもって姉ちゃんらしい。

 

 姉ちゃんは俺とは違って人と仲良くなるのが早く、コミュニケーション能力が高い。

 

それこそ一足飛び、気に入った相手ならなおさらだ。

 

相手のパーソナルスペースに這入り込むのが上手く、だからこそ短時間で打ち解けることができるのだろう。

 

その証拠に女の子三人(一人成人している者もいるが)の輪の中からは笑い声も聞こえている。

 

 あの輪の中に混ざる勇気は、俺にはないな。

 

 リビングから聞こえる華やかな三人の声をBGMに、俺はキッチンで一人寂しく朝食作りに励むのだった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 予鈴のチャイムと同時に、俺たちは駆け足で校門をくぐる。

 

家を早くに出た割にはぎりぎりの登校となった。

 

「いや~、危なかったね」

 

「危うく、遅刻」

 

「お前らがなんの保証もねぇのに『間に合う間に合う』っつってのんびりしてたからだろ」

 

 朝食を済ませ、家を出たのが七時三十分ごろ。

 

二人とも俺の家からそこまで離れていないと言うのでその時間に出た。

 

言葉通り、たいしてかからず二人の家に着き(長谷部と太刀峰の家同士は近かった)、学校へ行く準備もすばやく済ませた。

 

 そこまではよかった、時間を食ったのはここからだ。

 

後は学校へ行くだけとなったところで時間に余裕があるとわかると、二人は急に歩くスピードを緩めた。

 

さらには二人の家のご近所さんが飼っている人懐っこい犬とじゃれたり、朝の散歩と称してわざわざ遠回りしたりと自由奔放勝手気ままに動き、気づけばバスの時間にも間に合わず、走って学校まで向かうことになったのだ。

 

「逢坂も……楽しそうだった」

 

「よく言うよね、僕たちよりも無邪気にしてたのに」

 

「それは、まぁ……仕方ねぇだろ」

 

 散歩という名の寄り道の際、二人ご自慢の穴場スポットへ招待されたのだ。

 

あまり人に知られていない小高い丘の上からの海鳴市の景色は、それはもう気分が高揚した。

 

海が近い事もあり感動するに足る光景で、正直もう少し眺めていたかったくらいだ。

 

「あの場所はあんまり人に教えないようにしてね。僕たちでも綾音くらいにしか教えてないんだ」

 

「たしかに人が増えると困るな。わかった、黙っとく」

 

「綾音……すごく喜んでた。ピクニックしたい、って」

 

「鷹島さんらしい可愛い発想だ。癒される」

 

 エントランスに入り、靴箱で校舎内用の上履きに履き替えてから自分たちの教室に行く決まりになっているのだが、ここで俺は少し考える。

 

見目だけは麗しい女子二人(長谷部・太刀峰)と並んで入るというのは、また誤解の種になるのではないだろうか。

 

二人と談笑しながら登校している時点で遅い気がしないでもないが、登校時と校舎内では生徒の数が違う。

 

鎮静化しつつあるという俺の噂がまた再燃されたら面倒だ。

 

かといって二人に『噂が広がりそうだから先に教室に行ってくれ』というのも、自意識過剰なようで憚られる……どうしたものか。

 

 履いていた靴を靴箱にしまって上履きに履き替えていると、ヴヴヴとポケットに入れていた携帯が振動した。

 

取り出してみてみると宛名は『鮫島さん』、渡りに船とはこのことか。

 

「すまん、電話出てから行くから先に教室に行っといてくれ」

 

「ん? わかった。でももうすぐ本鈴だからね、早くしなよ」

 

「……遅刻、しないように」

 

「わかってるって」

 

 足早に階段を上っていく二人を見送り、今も震え続ける携帯の応答ボタンを押す。

 

本当なら昨日のうちに俺から電話すべきだったのにな。

 

 こんな時間から登校するような生徒がこの学校にいるとは思えないが教室へ向かう生徒の邪魔になるかもしれないし、さすがにど真ん中にいると教師の目もあるので靴箱が立ち並ぶエントランスの端のほうへと移動する。

 

「もしもし、昨日はありがとね、鮫島さん」

 

《いえ、お気になさらず。こちらこそ報告が遅れて申し訳ありません。すべて片付けてから報告しようとしたのですが、少し手間がかかってしまったもので》

 

 手間? なんのことだろうか……女子バスケ部の四人を送り届けるなんて鮫島さんにとってみれば朝飯前どころか晩飯前だろうに。

 

俺の無言から疑問の意を感じ取ったのか、気の利く鮫島さんは俺の返答を待たずに続ける。

 

《バスケットコートで寝ていた男たちは全員こちらで 『 対処 』 しておきました。それに少し時間を取られてしまったのです》

 

「た、対処……?」

 

《ええ、 『 対処 』 です》

 

「…………」

 

 なんでだろう、その単語自体にはそこまでの不穏当な意味はないのに、鮫島さんの言う『対処』にはとても暗い響きが伴っている。

 

確実に対処の枠には入らない色んなことがその隙間に入っていると思う。

 

 でも、俺としても助かったという面があるのは事実だ。

 

向こうからかかってきたし手加減できる状態ではなかったとはいえ、倒した九人の中には反撃をやりすぎた人もいた。

 

とくにバール男とかは、投げ返したバールが狙ってやったわけではないとはいえ刺さっちゃったし。

 

あれらをそのまま警察に突き出していたら俺も危なかっただろう。

 

過剰防衛と取られてもしょうがない惨状だった。

 

 鮫島さんには女バス部員たち四人の送り届けと、男たちについてと二回も助けられることになってしまった。

 

「ありがとう、鮫島さん。恩に着るよ」

 

《いえいえ。成り行きとはいえ徹くんに貸しを作ることになったのですから、中途半端な仕事はしませんよ。安心してください。これも承った仕事の一部です》

 

 仕事の幅が広すぎる……。

 

「料理をご馳走するときは腕によりをかけるから期待しててね」

 

《ふふっ、楽しみですね》

 

 鮫島さんはまさしく仕事人だった。

 

できる大人が近くにいてくれるとここまで頼もしいとは思わなかったぜ。

 

 鮫島さんは『またなにかあればすぐ声をかけてください』と最後まで格好いいセリフで締めた。

 

「はぁ、いぶし銀だなぁ。さすが執事」

 

渋い男の余韻にひたりながら、携帯を眺める。

 

ディスプレイの上のほうには小さく八時二十九分とあった。

 

本鈴まで一分を切っている。

 

「やっば……っ」

 

 携帯をズボンのポケットにしまい、教室に向かうため俺は急いで階段を駆け上った。




鮫島さんとか親しい年上と会話するときは口調がどこか幼くなる主人公です。

これにてお泊り会は終了、もう少し……もう少しで進行編に戻りますのでご容赦を……。


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日常~自己紹介~

名前だけは出ていたオリキャラが出ます。
あと作中で勝手に付け加えた設定があります。
ご注意ください。




「くっそ。なんで俺だけっ」

 

 現在は昼休み、昼食を摂るため今は食堂へ向かっていた。

 

心なし足早に、地面を強く蹴りながら廊下を歩く。

 

 昼休みで廊下には多くの生徒が教室から出てきているが俺の不機嫌オーラのせいか、両端に寄って道をあけるような形になっている。

 

俺はモーゼか、奴隷なんて連れて歩いてないぞ。

 

 廊下を渡り階段を降りる。

 

 イライラしているのはつい先ほどのことが原因だ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 四限目終了のチャイムが鳴り昼休みに入った瞬間、長谷部と太刀峰に捕まった。

 

「お昼ご飯食べに行こう!」

 

「ご飯……」

 

「おう、行くか」

 

 いつもであれば弁当を持参しているのだが、今日はとてもじゃないが作る(いとま)はなく、購買か食堂で食べようと思っていた俺は二つ返事で快諾する。

 

 さっそく食堂へ向かおうと廊下を見るが、授業終わりということもあって他の教室から出てきた生徒でごった返しており(おそらく大半の生徒が食堂へ向かおうとしているのだろう)、ちょっと気後れする光景が広がっていた。

 

人ごみは苦手なんだけどな、と思いながらも廊下へ足を進めようとした俺を止めたのは太刀峰の手。

 

制服の裾をくいくいっ、と引っ張って俺を窓際まで移動させた。

 

「食堂行くんじゃねぇの?」

 

「人多い……うざい」

 

「言葉悪いな……気持ちは痛いほどわかるけど」

 

 女子高生の平均身長をゆうに下回る太刀峰にはあの人海は辛いだろうな。

 

押し潰されてもおかしくはない混雑状況だ。

 

 俺も人でごちゃごちゃしたところは好まないから、率先して行きたいとは到底思えない。

 

だからといって、他に道があるわけではないのだ。

 

食堂へ行くのが遅れれば席は埋まってしまうだろう、そうなってしまえば昼食が摂れなくなる。

 

ピークの時間を過ぎれば多少混み具合も緩和すると思うが、あいにく本日の五時限目の授業は移動教室だ。

 

遅れて食堂に行けば授業に間に合わなくなる可能性がある。

 

「決まったね、『ここ』から降りよう!」

 

「お前の中でどんな採決が執り行われたんだ」

 

 長谷部が元気溌剌に『ここ』と言いながら開け放たれた窓の枠を叩き、強制採決された議案を提示する。

 

 窓際に連れてこられた時点でわかっていた。

 

こいつらの出入口は教室の前後二箇所についている扉だけではない、窓も出入口たりうるのだ。

 

 俺が文句を言っている間にも長谷部が窓枠に足を掛ける。

 

身軽に窓枠に立ち、片手で縦の枠を握りながらもう片方の手で太刀峰を引っ張り上げた。

 

手を引かれるのと同時に太刀峰は教室の床を蹴りジャンプ、上からワイヤーで吊られているかのようにふわりと浮かび上がり、長谷部の横に立つ。

 

「太刀峰さん長谷部さん、先生にはバレないようにな」

 

「怪我しないようにね、真希ちゃん薫ちゃん」

 

 心配の方向性がずれている恭也と忍だった。

 

ここ三階だぞ、心配するところはそこじゃない……長谷部と太刀峰の友達も『あ、またやってるよ~』みたいなリアクション、完全に毒されている。

 

『危ないことしちゃだめだよっ』とはらはらしながら見守る鷹島さんだけが、この災い(非常識)だらけのパンドラの箱(教室)に残された唯一の希望(救い)だった。

 

「逢坂はここから降りるのは初めてかい? 大丈夫、僕たちと同じようにすれば簡単に素早く下りられるよ」

 

「心配……いらない」

 

「いや、そこに関して心配しているわけじゃねぇんだが」

 

 一晩経ってリンカーコアもだいぶ調子を取り戻してきている。

 

今ならここから飛び降りてそのまま地面に着地したって足首をひねることすらないだろう。

 

俺の身について気掛かりなことなど欠片もないのだ。

 

 心配なのはこいつらの身の安全と教師の目。

 

こんな危険な下り方ばかりしていたらこいつらいつか怪我するんじゃないかと言う懸念と、これが教師にバレたらまた俺の印象が下がるのではないかという恐れだ。

 

 成績にはテストの点数だけではなく内申点なるものも反映されるのだが、それについては授業中に出される問題を全問答えるという約束で保障されている。

 

だが内申点は守られても先生たち自身が思っている俺への印象はどうしようもない。

 

これ以上悪化すればどこかで思いがけないしっぺ返しを食らいそうな気がしてならない。

 

俺は常々、どうにか悪いイメージの払拭できないかと模索しているのだ。

 

 とはいえ、いつか起こるかもしれない不運よりも今日の腹を満たすことが優先されるのは仕方のないこと。

 

今だけは何も考えず二人の後をついていくことにしよう。

 

もしどうにかなったら、なったその時にどうにかすればいいじゃない。

 

「まぁいい。どうやって降りるんだ」

 

 結局のところ、やっぱり後回しにすることになるのだった。

 

「まず僕が行くから見ていて」

 

 校舎の三階、強めの風が頬をなぶり髪を弄んでいるというのになんの恐怖も気負いもなく、自販機でジュースでも買いに行くかのような気軽さで言ってくれる。

 

 長谷部は窓の外側に設置されている金属製の手すりに手を掛け、全身を投げ出した。

 

身体を支えているのは掴んでいる手すりだけという状態で、側面にせり出している壁に足をつけ、手を離す。

 

当然重力に引かれて下に落ちるが、足で落下のスピードを緩めて頃合いを見計らって壁を蹴り、二階の教室の手すりに着地。

 

二階から一階へも同じ手順で手際よく下りて行った。

 

 なんかもう、いろいろ言いたいことはあるけれど一先ずこれだけ言っておく。

 

「スカート姿の女子がやることじゃあねぇよな」

 

「大丈夫……スパッツ、はいてる」

 

「女の子として気をつけるべき点は他にもあると思うんだ」

 

 長谷部が下りて空いた窓枠のスペースに身体を入れる。

 

見下ろすと一足早く一階の校舎裏に降り立った長谷部がにこやかに朗らかに、俺たちに向けて手を振っていた。

 

 この教室でただ一人、俺の身を案じてくれている鷹島さんに『心配いらないよ』と言葉をかけて、俺も手早く二階を経由して一階まで降りようと窓の外側へと体重をかけたその時、恭也が鋭い声で俺の名を呼んだ。

 

恭也は俺の名前を呼んだだけであって、どういう理由なのかはその言葉に含まれていなかったが、俺は咄嗟に窓の外側に曝け出していた身体を引っ込めて後ろに跳び退り、教室内へと戻った。

 

今にも下りようとしていたところだというのに、恭也が緊張感のある声で俺を呼び止める理由なんて一つの可能性を除いて他に思い当たらなかったからだ。

 

 教室に着地した瞬間、すぐに首を回して教室の後方の扉へと目を向ける。

 

全開になっている教室後方の扉から、恭也の忠告通りに俺の予想通りに、廊下を歩く教師の姿がちらりと視界に入った。

 

昼休みになったばかりの時間に一年生の教室が並ぶこのフロアにいるということは、近くのクラスで四時間目の授業を行っていた教師だな。

 

おそらく恭也は開閉する扉とは逆、固定されているほうの扉の磨りガラスに映ったシルエットで教師が来るのを察知したのだろう。

 

弁当を食べながら忍と歓談しつつ、窓にいる俺たちに気を払いながら扉にまで注意を向けるという恭也の視野の広さには感嘆の念を抱かざるをえない。

 

 恭也の注意力のおかげで教師に見つかっても俺が怒られることはなくなったが、しかし、まだ太刀峰が窓の外側の手すりに立っていた。

 

 女の子が窓を乗り越えて身を乗り出しているなんて光景を教師が発見したら、もしかしたら自殺するつもりなのではないかなどと勘違いして慌てふためくことが目に見えている。

 

見つかってしまうと大変難儀なことになるし、誤解ですと言ったとしても、じゃあなんであんなところで立っていたんだ、などと追及されては返す言葉はない。

 

人ごみの中廊下を歩いて階段を降りるのが煩わしかったので窓から飛び降りようとしてたんです、なんて本当のことを話すわけにもいかないのだから。

 

 今はまだこちらに目を向けていないが、徐々に教師の上半身が俺たちのいる教室の方向へと傾き始めた。

 

このクラスに一切用がなかったとしても、なにか問題となるようなことがないかと目を配るのは教師という立場である以上当然の義務であり責務だ。

 

 このままでは教師にバレるのは明白、かといって怒られる太刀峰を見過ごすことなんてできないししたくない。

 

なので太刀峰の方向へと視線を戻し、もはや言葉をかける程度の時間的余裕すらないのですぐに教室内へ戻るよう身体で表現して伝えた。

 

 俺がそのジェスチャーを取った理由として主に二つが挙げられる。

 

一つ目、教室側へ戻るように、という意図を明確かつ速やかに示す動作が他に考えつかなかった。

 

二つ目、太刀峰は背が低く小柄なので、窓枠から教室内へ勢いよく降り立った時、足を痛める危険性が懸案事項として検出された。

 

 以上の二つが頭をよぎり、そしてその二つを同時に満たすことができる動きを俺の脳みそははじき出した。

 

 俺の取った行動は両腕を地面に平行となる状態からさらに角度を上げて大きく広げる、というもの。

 

まるで『抱きしめてあげるから俺の胸に飛び込んできなマイハニー!』みたいな、どこか演劇を思わせる大げさなポージング。

 

二枚目俳優を気取るようなとても痛いものだった。

 

 自分でも、いやこれはないだろう、他に適したものがあっただろうと、後悔と羞恥を()()ぜにしたような複雑な感情を抱いたが、どうやら伝えんとした思いは届いたらしく、太刀峰は窓を滑らせるレールを蹴り教室内へと戻ってきた。

 

何メートルか前方にいた俺の首へと腕を回し、抱きつくような形で。

 

 ……そうだよな、俺のジェスチャーならそういうニュアンスで受け取るよな。

 

 ラブロマンスの山場、主人公とヒロインが互いに苦難を乗り越え抱き締め合うという映画のワンカットを切り取ったかのような構図。

 

唐突に繰り広げられた少女マンガのような展開にクラスに残っていた女子は黄色い歓声を上げ、今まで男を寄せつけない態度を取っていた太刀峰の変貌ぶりにクラスに残っていた男子はどす黒い嘆きの叫声を放つ。

 

我が一年一組は一時騒然、必然的に廊下を歩いていた教師の目に入ることとなってしまい、お叱りのお言葉を(たまわ)る羽目となった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「逢坂、だけじゃない……わたしもいる」

 

 俺の独り言は太刀峰の耳に届いてしまっていたようだ。

 

 自己主張するように俺の言葉を否定する。

 

「そうじゃない。怒られたのがなぜか俺だけだったって話だ」

 

 廊下を歩きながら放った『なんで俺だけ』という言葉は、俺だけ食堂までショートカットで行けなかったという意味ではなく、不可解にも俺だけが教師から説教を受けたことに対する怨み言だ。

 

 運が良かったことに、クラスの前を通った教師は太刀峰が窓枠に立っていたところは見ていなかったらしく、その点についてはお咎めなしだった。

 

だがクラスの騒動の要因、俺と太刀峰がハグしていた決定的シーンはしっかりと捉えられていたご様子で、神聖な学び舎でなにをしているのか、とこってり絞られた。

 

俺には日頃の恨みもあってか、長々と今回に関係ない部分についても叱責されたが、太刀峰には『逢坂に(そそのか)されないように』との一言だけ。

 

たしかに俺だって悪いことはしたと自覚しているが、説教の割合の理不尽さには納得できない。

 

 階段の手すりを握りながら太刀峰が言う。

 

「いい、じゃない。わたしは……怒られなかったんだから」

 

「そりゃお前はよかっただろうなっ!」

 

 人を小バカにするような笑みを浮かべる恭也と忍、その二人と一緒に弁当を食べているちょっと不機嫌そうな鷹島さんに『食堂行ってくる』と伝えて教室を出た。

 

こうして貴重な昼休みを数分無駄にして、今回は正規のルートを使い、食堂へと重くなった足を運び始めて今に至る。

 

「逢坂……早い」

 

 足早に歩く俺についてくるために太刀峰は若干小走りになっていた。

 

身長差の分、歩幅の差もそれなりにあるのだ。

 

「おっと、すまん」

 

 歩くスピードを緩め、太刀峰が追いつくまで三階と二階を繋ぐ階段の中間踊り場でしばし待つ。

 

俺の左側、階段の内側についた太刀峰はまた俺に置いて行かれないように、カッターシャツの裾をちょこんと握った。

 

どうでもいいことだが、迷子になって不安がっている小学生みたいだった。

 

「もう。早い男は……嫌われる、よ?」

 

「おいこら、どういう意味だ」 

 

 階段を使い二階に降りてそのまま一階に行こうとしたのだが、ここで怪しい現場を目撃してしまった。

 

廊下の壁際まで追いやられ、しゃがんで体育座りでぷるぷる震えながら目を伏せている桃色髪の女子生徒と、その女子生徒を取り囲むような形の三人の男子生徒。

 

その三人の男子生徒のうち一人は教科書やノートを持っている……いまいち状況が把握できないな。

 

 おっとりしたたれ目を()いて、桃色髪の女子生徒を助けに行こうと飛び出した太刀峰を両手で押さえながら、男子生徒たちを観察する。

 

一見、アホな男子生徒たちが女子生徒をナンパでもして迷惑をかけているのかとも思ったが、男子生徒のほうは人の良さそうな顔をしているし女子生徒の反応に困っているようにも見えた。

 

だがそうなるとあの女子生徒の怯えようが説明つかない。

 

 とりあえず話を聞くために冷静さを欠いている太刀峰を小脇に抱えながら、ややこしいことになっている集団へと近づいた。

 

「どうした、なにかあったのか?」

 

「いや、ノートを落としたから拾ってあげたらこの子が突然……あ、逢坂っ……さん」

 

「お、俺たち別にこの子を泣かしたとかじゃないんでっ!」

 

「ほ、本当ですよ? ただ拾って届けてあげようとしただけで……」

 

 急に慌てたように喋りだした男子生徒三人。

 

よく見れば上履きの色が違う、赤色と言うことはどうやら二年生だったようだ。

 

 三階は一年生、二階は二年生、一階は三年生のフロアなので二年生がこの階にいるのは別段不思議なことでもない。

 

 俺たちが今いる棟は普通棟と呼ばれていて、一年生、二年生、三年生の各九クラス、合計二十七の全ての教室がこの棟に詰め込まれている。

 

普段の授業はここで行われているし、朝と帰りのSHRもこの棟の各教室で行われている。

 

 移動教室の際はこの普通棟の隣にある実習棟(放課後は文化部の部室にも使われているので部室棟とも呼ばれる)で授業が行われるので、五時限目が始まる前に移動を済ませておかねばならない。

 

普通棟と実習棟を繋ぐのは一階の実習棟の玄関口を除けば、二階の中央階段前にある渡り廊下しかない。

 

ちなみに、上から見るとちょうどカタカナの『エ』のような形になる。

 

 ついさっき俺と太刀峰が下りてきた階段が中央階段で、今いるこの場所が中央階段前にあたる。

 

階段を下りて廊下を右に曲がったのでここから渡り廊下は見えない。

 

 おそらくこの女子生徒は実習棟から自分の教室に戻るためにここを通り、なにかいざこざがあったのだろう。

 

女子生徒の上履きの色は青色、一年生の色だし俺の推測が大きく外れていることはないと思う。

 

 ん……? 一年生でピンク髪……昨日バスケットコートにいた子か?

 

 頭の片隅でひっかかったキーワードはひとまず保留にし、おろおろとして挙動不審になった二年生の先輩たちへと目を戻す。

 

「そ、そうなのか。でもこの子も男に囲まれていたら怖いだろうし、あとは俺が引き受けるからもう行ってもらっても構わないぞ」

 

 これでもなるべく優しく柔らかく言ったつもり。

 

「そ、そうか! あり、ありがとうございます! それじゃ!」

 

 言うや否や、男子生徒のうちの一人から教科書とノートを預かると三人とも走り去ってしまった。

 

「…………」

 

 彼らの動揺ぶりに思わず沈黙する。

 

 二年生のエリアにまで俺の悪名は知れ渡ってしまっているのか……。

 

「果穂、大丈夫……?」

 

「ぁ、太刀峰さん……。はい、もう大丈夫です……ありがとうございます」

 

 俺が教科書とノートを受け取る時に太刀峰は腕の拘束から抜け出し、女子生徒(果穂と言うらしい、バスケットコートで聞いた名前だ)に駆け寄った。

 

果穂と呼ばれたその生徒は差し出された太刀峰の手を握りながら、周りをきょろきょろと見渡して安堵のため息を吐くと、もう一度『ありがとうございました』と言って太刀峰の手を離し、廊下の床につけていたスカートをぱたぱたと丁寧に払う。

 

 スカートについた埃を払うために果穂さんは少し前かがみになってお尻のあたりをぱたぱたとしていたのだが、その姿勢のせいで発育の良い胸部が強調される形になり俺としては目のやりどころに大変困ることになった。

 

視線のやり場に困ってふらふらしていると太刀峰で目が留まる。

 

俺と同じく、果穂さんを見ていた太刀峰は自分の身体を見下ろし、胸の辺りをぽすぽすと触って深く息をもらした。

 

 身体が小さく、それに比例するように女性らしさの象徴である胸もあまり成長していない太刀峰は少なからず自分の身体にコンプレックスを抱いているようだ。

 

大丈夫だよ、どこかに絶対需要があるはずだから。

 

 でも太刀峰よりほんのわずかに背が低い鷹島さんはそれなりに胸もあったような……やめておこう、太刀峰に悪い。

 

「あっ、そちらの方は……っ」

 

 果穂さんのつぶらな瞳が赤色のアンダーリム眼鏡のレンズ越しに向けられた。

 

 んむ? 眼鏡なんてかけてたっけ?

 

「大丈夫、だよ。逢坂は顔は怖いし……噂も、最悪だけど……女には優しいから」

 

「オブラート三枚くらい持って来い。昨日は話せなかったから初めまして、だな。逢坂徹だ、よろしく」

 

 前文は率直すぎる物言いの太刀峰に、後文は果穂さんに言ったもの。

 

「やっぱり……あの時はありがとうございましたっ。私怖くて、昨日助けてもらったのにお礼も言えなくて……」

 

「礼なら昨日長谷部と太刀峰から聞いたから大丈夫だぞ。それより名前を訊かせてもらっていいか?」

 

「し、失礼しましたっ。笠上(かさがみ) 果穂(かほ)と言います。一年二組です」

 

「会ってさっそく、名前訊く……」

 

「名前知らなかったら呼ぶときに不便ってだけだからな。変なふうに誤解すんなよ」

 

「やっぱり、手が……

「早くない」

 

 冷めた口調と目つきの太刀峰に曲解されないよう注釈を入れておいた。

 

こいつと長谷部は忍の影響のせいで俺に妙なレッテルを張ろうとしてくる。

 

俺の行動を悪い意味に解釈するから勘違いする前に、早いうちに芽を潰しておかなくては。

 

 俺と太刀峰の掛け合いを見て笠上果穂さんは、ふふっ、と上品に笑う。 

 

「仲良いんですね」

 

「まぁ、悪くはないな」

 

「一つ屋根の下で……ともに夜を明かした仲」

 

「~っ!」

 

「昨日の夜大雨だったから泊めただけだ。他に意味はないぞ」

 

 どんな想像をしたのか、自身の髪の色と同じくらいに頬を桃色に染める笠上さん。

 

太刀峰のやつめ、初対面の女子にどんな印象を植えつける気だ。

 

 だが太刀峰にしてはまだ表現の仕方がぬるいほうで助かった。

 

同じベッドで寝たとか言われたらあながち嘘じゃない分、訂正するのも難しかっただろう。

 

もしかすると相手によってどんな言い方にするか自分なりに見積もっているのかもしれない。

 

「それで笠上さんはこんなところで(うずくま)ってなにがあったんだ?」

 

 口ごもって右側頭部で結われたピンク色の髪を右手でいじりながら、少しずつ説明してくれた。

 

「えぇっと、ですね……。四時限目が化学の授業で実習棟のほうにいまして、その帰りに二年生の男の人と肩がぶつかってしまい教科書を落としてしまったのです」

 

 二年生の人、というとさっきまでいた男子生徒のことだな。

 

やっぱりナンパとか迷惑なことをしていたわけじゃなかったか、太刀峰を止めていて正解だった。

 

「それでその男の先輩は優しく教科書を拾ってくださったんですが、その時……」

 

 笠上さんは話の途中で辛そうに下唇を噛んで眉を歪めた。

 

太刀峰はそんな彼女に寄り添い、その手を両手で包む。

 

 普段切れ味鋭い言葉で情け容赦なく切りつけてくる太刀峰だが、これでどうして、心の機微には敏い。

 

こういう時どうすればいいかをすぐに感じ取り、実践することができる、こういうところだけは尊敬する。

 

 太刀峰に目をやりありがとうございます、と呟いて笠上さんは話を続ける。

 

「怖い、と感じてしまったんです。恐怖で身体が動かなくて、拾っていただいたお礼を言おうにも緊張で喉がはりついて声も出なくて……足にも力が入らなくなってしまって……」

 

「そう、か……」

 

 情けないことにそれしか言えなかった。

 

 男性恐怖症というものか……やはり昨日の件が原因……だろうな。

 

最悪の事態だけは避けれたが、恐怖の爪痕は残ってしまっていた。

 

彼女に、いや彼女だけじゃないかもしれない、昨日の夜バスケットコートにいた太刀峰と長谷部も含む女子全員……心に傷を負ったのかもしれない。

 

俺に、なにかできることはあるのだろうか。

 

 そう考えていた俺を知ってか知らずか、太刀峰が核心的な部分に言及した。

 

「でも、逢坂とは……喋れてる」

 

「「あ、ほんとだ」」

 

 笠上さんと声を揃えて同時に気づいた。

 

男が怖いと言う割に、俺とは何の問題もなく会話が成立している。

 

 さっき男子生徒に囲まれている時の様子を鑑みるに嘘を吐いているわけではなさそうだし、なによりこんなに礼儀正しくて淑やかな女子がこんなに巧みに嘘を吐くとは思いたくない。

 

なにか理由でもあるのか?

 

「逢坂くんなら近くにいても怖いと思わないんです。なぜでしょう?」

 

 桃色の髪と豊満な胸部をたゆんと揺らしながら首を傾げる笠上さん。

 

 たったそれだけの動きで……胸って揺れるものなのか……っ。

 

今の話題とはまったく関係のないところで愕然とする俺の耳に、太刀峰の言葉が入ってきた。

 

「もしかしたら……逢坂に助けてもらった、から?」

 

 笠上さんの胸を凝視しながら自分の推測を述べる。

 

 太刀峰、相手の目を見て喋りなさい。

 

笠上さんの目は胸部(そんなところ)にはついていない。

 

「そうかも、しれません。逢坂さんの傍では恐怖どころか安心すら感じます」

 

「……………………そう」

 

「これっていいことだよな? ここから改善することもできるかもしれねぇんだから」

 

「そう、だね。逢坂にとっては……いいこと」

 

「含みを持たせるな」

 

 ここから男性恐怖症を克服できるかもしれないのなら、少しは光が見えてきたというものだ。

 

俺にも手伝えることがあるかもしれない。

 

「ん……なんか人が増えてきたな」

 

 二年生の縄張りである二階でちょっと長居しすぎたかもしれない。

 

一年生が固まってここにいるのは目立つし、なによりも俺の存在が目を引いているようだ。

 

目を引くと言っても、敵意や悪意、ところにより殺意なのだが。

 

剣呑な視線ばかりが集まるこの事実に思わず泣きそうになる……。

 

「一段落ついたし、そろそろ移動しようぜ」

 

「……ん。果穂は……お弁当?」

 

「私はいつも購買でお昼ご飯を買ってます」

 

「それなら一緒に食堂で食わないか? 同じバスケ部の長谷部もいるぞ」

 

「は、はいっ。是非ご一緒させていただきますっ」

 

「…………」

 

 また少し遅れてしまったが話もついたので、食堂に行くため中央階段へと足を向ける。

 

歩き出そうとしたところで小さなあんよに足を踏まれて一歩ふみ出せなくなり、バランスを崩してたたらを踏んだ。

 

誰が踏んだかなんて踏まれた感触でわかる、高校生の平均から頭一つ抜けて身体も足も小さい太刀峰しか容疑者はいない。

 

小ささなら太刀峰を上回る(下回る?)人が一人、癒しを司る女神として名高い鷹島さんがいるがこの場にはいないし、いたとしても鷹島さんは決して暴力に訴えるなんてことをしないので、やはり誰がやったかはすぐわかる。

 

「おい、太刀峰。いきなり人の足踏んでんじゃねぇよ」

 

 振り向く太刀峰は常と変わらぬ無表情……んむ、かすかに眉根を寄せているように見えなくもない。

 

「……ごめん。白地に青のラインが入った……大きめのナマコかと思って」

 

「嘘吐くにしてももうすこし考えろよ!」

 

 気を取り直して階段へと身体を向ける。

 

 三歩ほど後ろから笠上さんの品のある笑い声が聞こえた。




おかしい……魔法のマの字も出てこない。

この話をするタイミングはここしかないと思ったので……。
次の話か、その次くらいで本編に戻れると思います。
本当にすいません。


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日常~誤解深まる昼食会~

校内の諸々について独自設定がふんだんに盛り込まれます。ご注意ください。


2014.7.19 前書きに注意事項を加筆しました。


 『エ』の字型になった普通棟と実習棟(北の横棒が実習棟、南の横棒が普通棟だ)を繋ぐ渡り廊下を示す縦棒の延長線上を南に進めば大きな建物があり、その一階に食堂がある。

 

ちなみに食堂の上、二階部分には旧体育館があり、体育の授業でも使われるし昼休みには開放されていることもあって生徒たちの遊興の場となっている。

 

 食堂へ向かう道、クリーム色の屋根の下を歩く。

 

右手側を見ればテニスコートを囲うフェンスがここからでもちらりと見えた。

 

左手側には花壇に色とりどりの花が百花繚乱咲き誇る。

 

ベンチが何脚か設置されており、この時期は過ごしやすい気温ということもあってか、弁当箱を膝に乗せた女子生徒が数人固まって可憐な花を愛でながら談笑していた。

 

ちなみにこの中庭の花壇、大変美しく整備されているのだが業者には依頼していないらしく、保健師免許と看護師免許の両方を持った養護教諭が趣味でやっているらしい。

 

その奥には暗褐色のグラウンド。

 

上着を脱ぎ、Tシャツ姿になって男子生徒がすでに球技に興じている。

 

すでに昼食を摂った後なのか、はたまた食べる前にグラウンドに遊びに出てきているのか。

 

 食堂の扉を開き、足を踏み入れた。

 

右側には『食事の前には手洗いうがい!』と大きく書かれたポスターが貼られており、その下に手洗い場、左側には男子用女子用のトイレがある。

 

数メートル歩くと大きく開けた空間が目に飛び込んできた。

 

食堂のど真ん中には大きな柱が一本あるが、他には邪魔な柱は一切なく、見た目に窮屈な印象は与えない。

 

逆にその中央を貫く泰然とした柱に『この柱があってこそ、この食堂』と愛着を抱く生徒がいるほどだ。

 

入り口から見て右手側、左手側どちらもガラス張りになっており外の景色が見えるようなデザインとなっている。

 

 中央は食事をするスペース、木目調のテーブル一卓に四脚の椅子が置かれていて、それがだいたい六十セット、単純計算で二百四十人収容可能な広々とした食堂。

 

なのに食堂の中は人、人、人でごった返している。

 

それもそのはず、ここで提供される料理は値段は安く、注文してから出てくるのも早く、そしてなにより味が良いと評判なのだ。

 

舌の肥えたお坊ちゃんやお嬢様な生徒を満足させるために、有名なレストランから料理人を招聘(しょうへい)したとのこと。

 

 俺は弁当派なのでここに足を運ぶ機会が今までなかったが、一度味わってみたいと思っていたのだ。

 

 注文の仕方は時間の無駄や手間をなくすため食券制を採用している。

 

券売機は入り口から見て左奥にあり、計六台並んでいるのだが、昼休みが始まってしばらく経ったこの時間でも数人の生徒で列ができていた。

 

 この食堂、広さやデザイン、料理の美味さもさることながら、メニューのバリエーションにも定評がある。

 

一通りの定番所、日替わり定食だったりラーメン、カレーなどは当たり前と言わんばかりに手堅く抑え、一高校の食堂とは思えないほど他の料理、和洋中も豊富に用意されている。

 

お茶目なコックさんでもいるのか奇抜でユーモアあふれる、ここでしか食べられない創作料理もあって三年間通い詰めても飽きることはない。

 

さらにデザートまで専門店顔負けに取り揃えられており、これがなければダイエットに成功できたと嘆く女子の悲鳴を教室内で幾度となく聞いたことがある。

 

 カウンターごとに麺類、丼類などとコーナーがわかれているのが作業効率向上の一助となっているようだ。

 

「太刀峰、長谷部には連絡しといてくれたんだよな?」

 

「ん……。席、取ってくれてる……はず」

 

「ど、どこにいらっしゃるのでしょうか。なるべく男の人がいないところがいいのですけど……」

 

 長谷部には、遅れるから先に食堂に行って席を確保しといてくれ、と太刀峰を介してメールで伝えておいた。

 

太刀峰を中継して頼んだのはとても簡単な理由、長谷部の携帯の電話番号もメールアドレスも知らなかったというだけだ。

 

 笠上さんと話し込んでいたこともあって時間はけっこう経っている。

 

長谷部がちゃんと待っていてくれているのか、ほんのちょっとだけ心配だ。

 

その笠上さんは食堂に入ってからは怯えるように、太刀峰の小さな背中に隠れて縮こまってしまっていた。

 

昼休み突入直後という一番混雑する時間帯を外したといっても、いまだに中は混みあっている。

 

当然、食堂に入る前と比べたら男子との距離は近づくので、笠上さんは生まれたての小鹿のようにぷるぷると震える羽目になっていた。

 

「いいとこ、取れたって言ってた」

 

「場所を示せよなぁ、わかりにくいぜ……。あ、あれじゃね?」

 

 食堂左奥の券売機のほど近くに見覚えのある赤褐色の頭を見つけた。

 

「笠上さん、大丈夫か?」

 

「は、はい。ご迷惑おかけします……」

 

「……わたしの後ろ、ついてきて」

 

 太刀峰が先導し、その後ろにくっつくように笠上さんが続き、俺は笠上さんに男子生徒が近寄らないように殿(しんがり)を務める。

 

 手入れが行き届いた綺麗な草木を眺めることができる食堂左手側のガラス沿いに歩き、長谷部がいる席に到着した。

 

 首を回して周囲を確認する。

 

券売機から近いのは人が多く通りそうでちょっとマイナスだが、カウンターからも近いというのは利点か。

 

食堂の端の四人席、他の生徒に気を使う必要もなく喋りやすいというのはたしかにいい席だ。

 

 長谷部は券売機側で窓寄りの席に座っていた。

 

入り口の方向を見やすい位置を取ったのだろうが、それはあまり意味を成していないな。

 

 テーブルには予約済みは示すためにか、水の入ったコップが長谷部の分も含めて三つ置かれている。

 

「んぐ、あ。やっと来たね。待ってたよ」

 

「……遅れた」

 

「待ってた? なんの冗談だ。もう食い始めてんじゃねぇか」

 

 そう、長谷部はすでに食べ始めていたのだ。

 

今はかき揚げキツネ肉うどんなるものに箸をつけ始めているところ。

 

同じダンスステージでポップとロックとブレイキンが繰り広げられるような豪華さと満足度だ。

 

 長谷部から見て右、丁寧に剪定(せんてい)された草木が見える西側のテーブルの端っこには、空いた皿が三つほど積み重ねられて追いやられている。

 

つまり今食べているもので四品目、どんだけ食うんだよ……。

 

「僕はてっきり二人ともすぐ来ると思っていたからね。先に注文してしまっていたのさ。僕だってお昼ご飯を一緒に食べようと言って誘ったのだから、それは待ったよ。でもいくら待てど暮らせど逢坂も薫もやってこない。これでは僕が頼んだ角煮チャーシューラーメンが冷めてしまうではないかっ。せっかく丹精込めて作って頂いた料理を冷めさせてしまうのはいかがなものかと僕は考えた。料理は美味しい時に食べるのが一番だ、というのが僕のポリシーでね。二人には心苦しく思いながらも泣く泣く、両手をぱちっと鳴らして頂きます、というわけだよ」

 

「長ぇよ、簡潔に言え」

 

「お腹すいたんだ」

 

「んむ、実にわかりやすい」

 

「食欲に、忠実……」

 

 ふふ、という上品な笑い声。

 

太刀峰の後ろにいる笠上さんが俺と長谷部のやり取りを見て、口をおさえて笑っていた。

 

「長谷部さん、部活の時とは少し印象が違いますね」

 

「か、果穂も来てたの!? な、なんだか恥ずかしいね……」

 

「ほら、男の前……だから」

 

「やめてくれないかい、そんな軽い女みたいな言い方」

 

 挨拶がてらに話し終えてから俺、太刀峰、笠上さんの三人は券売機で食券を購入し、カウンターで食券と交換に料理を受け取り、また席へ戻る。

 

 俺は焼き魚定食、笠上さんはお嬢様な外見を裏切らないサンドイッチのセット。

 

太刀峰は生姜焼き定食と塩ラーメンと小うどん。

 

その小さな体のどこに入るんだと言いたくなるような量である。

 

 長谷部の隣に太刀峰が座ったので長谷部の正面の席、窓ガラス側に笠上さん、その隣に俺という配置となった。

 

これなら隣のテーブルに男子生徒が座っても俺を挟むことになり、笠上さんに男が近づくことはないのでゆっくり食べれるだろう。

 

「そういえば果穂と一緒に来たんだね。途中で会ったのかい?」

 

 席を立っていた長谷部が笠上さんに水が入ったコップを手渡しながら訊いてきた。

 

カウンターで料理を受け取り、席に戻ったら長谷部がいなくてどこに行ったのだろうと思っていたのだが、笠上さんの飲み物を取りに行っていたのか。

 

その気配りを俺にも一割でいいからわけてほしい。

 

 笠上さんは礼を言いながら受け取り、事情を話す。

 

昨日あったことと今日のことを絡めたざっくりとした説明。

 

長谷部も昨日、同じ場所にいたのだから多くを語らずとも気持ちは十全に伝わっただろう。

 

 落ち着いた口調で話していたので俺も太刀峰も笠上さんが話す様子を安心して見ていられた。

 

いや、太刀峰は聞いているのか聞いていないのかわからないほど料理に夢中になっていたのだが、それは笠上さんへの信頼の裏返しだということで納得しておく。

 

 真面目な顔をしながら訊き終わり、長谷部はさまざまなことが腑に落ちたように深く首肯した。

 

「それで、逢坂だけは大丈夫だと」

 

「話を全部聞いてなんでそこをピックアップしたんだ」

 

「食事に、誘ったのも……逢坂」

 

「昼飯まだなら一緒に食べようぜって言っただけじゃねぇかっ。自然な流れだっただろ!」

 

「逢坂くんの隣は安心しますね」

 

「とても嬉しいけど、このタイミングで言われると誤解が加速するから笠上さんはご飯食べてようか」

 

「頂きますっ」

 

 ったくこの暴食女子二人は面白半分で俺をいじってきやがって。

 

周りの生徒が聞き耳を立てるように静かにしているのに気づいてねぇのか。

 

「女の扱いには慣れたものだね」

 

「さすが……同学年の女子半分と寝た、と噂される逢坂……」

 

「ちょ、ちょっと待て! 前の噂から悪化してる!」

 

 さくっ、と良い音を奏でながらかき揚げを食べる長谷部が、こちらににまにまとした笑みを向ける。

 

太刀峰は食べ終わった塩ラーメンのどんぶりを邪魔にならない場所に押しのけながら、ぱっと見わからないほどかすかに唇をへの字に曲げていた。

 

ってかもう塩ラーメンまで食べたのか、早いな。

 

「このまま女子バスケ部全員制覇する気かい?」

 

「部内で、注意喚起……しておかなきゃ」

 

「もういい、わかった……。デザート奢ってやるから、その有る事無い事をめったやたらに吐き出す口を閉じてくれ……」

 

 頭を抱えながら苦渋の決断を下す。

 

テロリストに屈する政府はきっとこのような気分なのだろう。

 

「悪いね逢坂っ、そんなつもりはなかったのだけど!」

 

「途中から確実にそのつもりだっただろうが」

 

「ごち、です。ちなみに……噂は本当」

 

「嘘であってほしかった!」

 

 はぁ、とため息をつきながら椅子に深く腰掛ける。

 

 奢るのは予想外の出費だが、料理だけでなくデザートの質も確認しておきたかったしちょうどいいといえばちょうどいいんだ。

 

四種類のデザートを一日で見られると思えば安いもの、と考えよう

 

 箸で手際よく鰆の腹を解体する。

 

魚に春と書いて鰆、前までてっきり春にしか獲れないと思っていたのだが周年獲れると知った時は驚いたものだ、懐かしい。

 

 適度な塩味に柔らかく脂の乗った白身を口に放り込んでいると、隣の席から視線を感じた。

 

サンドイッチをはむはむしている笠上さんだ。

 

 両手でサンドイッチを持っているため、豊かな双丘が両腕に挟まれて大変けしからんことになっている。

 

正面に座っていなくてよかった。

 

まじまじと見える位置にいたらその誘惑から逃れられるとは思えない。

 

きっと俺はガン見することだろう、仕方ないじゃない、男だもの。

 

「笠上さん、どうしたんだ?」

 

「い、いえ。なんでもありません……」

 

 交錯した視線を断ち切るように目を伏せる笠上さん。

 

目線を下げつつも長谷部をちらりと見やり、横にスライドして太刀峰に移った。

 

そしてもう一度俺に戻ってくるが、俺がずっと見ていたため再び視線がぶつかる。

 

目が合った笠上さんはデジャヴのようにまた顔を伏せた。

 

 笠上さんの一連の行動……どういう意味があるのだろう。

 

『あ、もしかして』と、思い当たることが一つあったので笠上さんに口を近寄せ、正面の肉食系大食い女子二人に聞こえないよう耳打ちする。

 

「……笠上さんも、デザート食べる?」

 

 耳打ちした右耳まで真っ赤にして俯いたまま笠上さんはこくり、と桃色の髪を揺らした。

 

 俺が明言してなかったのも悪かったよな、と白身に大根おろしを乗せながら考える。

 

長谷部と太刀峰に奢るんだから言うまでもなく笠上さんにもご馳走するつもりでいたのだが、笠上さんにはそれがどうも伝わっていなかったようだ。

 

正面に座り、女子としてそれはどうなのだろうといらぬ気を回してしまいたくなるほど元気よく(オブラートに包んだ表現)食べている二人がこの事に言及してこなかったところを見ると、二人とも俺が笠上さんにも絶対奢ると思っていたのだろう。

 

この二人は付き合いが短いというのに俺の考えを的確に読めるのだ。

 

まぁ、読めるのなら……俺に(まつ)わる不本意な噂を助長させるような発言は控えてほしいものだが。

 

「ぁ、ありがとう、ございます……」

 

「どういたしまして」

 

 目を伏せながら小さなお口でちょっとずつサンドイッチを食べる笠上さんが、蚊の鳴くような声で囁いた。

 

礼を言われながらこんな可愛い反応をされたらまたなにかしてあげたくなる、庇護欲をそそられてしまう。

 

 あまりにシャイな笠上さんを見て、つい口元が緩んだ。

 

「果穂になにか呟いて熟したりんごみたいに赤面させたかと思ったら、今度はにやにやしだしたね。怪しさは変質者のそれと同レベルだよ」

 

「こんな公共の場で、調教……するなんて、逢坂ったら大胆」

 

「してねぇよそんなこと!」

 

 

 

 後日、『一年の逢坂は人目のある校内で女子生徒と過激なプレイに興じていた』というのを風の便りに聞いたと長谷部太刀峰両名が笑いながら(太刀峰はいつもの無表情でだが)教えてくれた。

 

悪意交じりのにこやかな表情で、根も葉もない噂に背びれ尾びれどころか羽まで付け足した情報を伝えてきた二人のその空っぽな頭に手刀を叩き込んだのは言うまでもないこと。




次で本編が帰ってきます。
と言ってもまたすぐに日常編に戻ってくるのですが。


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認めよう、その言は事実であると。

久しぶりの誰得ないちゃいちゃ回。



「当初の予定より随分と人数が増えてしまったわけだ。全員分の料理を一品一品作っていては、いくら徹でも骨が折れるだろう」

 

「労力はともかく、時間はかかるな」

 

「それなら食事の時はビュッフェスタイルにする?」

 

「ビュッフェス・タイル……どんな柄なんでしょう?」

 

「鷹島さん、区切るところが違う……。ビュッフェ・スタイルだ。忍が言ってるのはパーティとかであるような立食形式にしようって話」

 

「あうぅ……」

 

「こら徹! なに綾ちゃんをいじめてるの! 綾ちゃんが言うなら立食も床材になるのよ!」

 

「いや忍、それはめちゃくちゃすぎる」

 

 ずれた勘違いをした鷹島さんが頬を染めながら俯いた。

 

それを見た忍がなぜか俺を糾弾する……理不尽だ。

 

 四月二十四日、木曜日。

 

翌日に勉強会の買い出しを控えた放課後。

 

教室で恭也と忍、それと鷹島さんを加えた四人で勉強会で出す料理の献立もろもろについて話し合っていた。

 

話し合っていた、というより順にリクエストを訊いていき、当日に料理可能ならそれを採用する、というものだが。

 

さすがに俺一人で供される料理の全てを決めるというのは荷が重い。

 

 ちなみに長谷部と太刀峰は部活のため不在。

 

ただ二人からは部活に行く前に『なにか肉』という伝言を預かっている。

 

あいつらの脳内には肉しかないようだ。

 

 話の方向がデザートに移りつつあった時、ユーノから念話が入った。

 

ジュエルシードの反応をキャッチしたとのこと。

 

 俺もユーノに詳しい位置を教えるよう、念話を返す。

 

「デザートなら私はですねっ、前に逢坂くんが持って来てくれたチーズケーキがいいですっ!」

 

「和むわね」

 

「ああ、和むな」

 

「んむ、和む。チーズケーキ採用」

 

「私の時と反応が違いすぎない? ねぇ、徹。ねぇ」

 

 鷹島さんが小さい身体を精一杯使って身振り手振りを交えながら、以前食べた俺謹製のチーズケーキについて感想を述べる。

 

また食べたいです、という鷹島さんの意見を脊髄反射的に採用して忍に文句を言われながら、同時進行でユーノとも念話を続けた。

 

 場所は海鳴市郊外、工業地帯付近で反応を拾ったそうだ。

 

なのははすでに向かっているとのこと。

 

昨日の夜にレイハが完全復活したとの一報を受けていたのでタイミングとしては良かったのかもしれない。

 

病み上がりに近いレイハにあまり無理はさせたくないが、こればかりは仕方ない。

 

俺の力では発動前のジュエルシードしか封印できない、暴走でもされたら手のつけようがないのだ。

 

だから俺は自分のできる最大限のフォローをすることにしよう。

 

「あの、逢坂くん」

 

 鷹島さんが指先をもじもじとさせながら話しかけてきた。

 

なにこのいじらしい姿……心臓に矢が刺さったかと思った。

 

脳を介さず鷹島さんを抱きしめそうになった両腕を理性と根性で止める。

 

「デザートなんですけど……彩葉はあまり甘すぎるのは苦手なので……甘みを抑えたものを一つ、作ってもらえたらなぁと……」

 

「あぁ、いいよ。恭也も甘すぎるのは苦手だし、俺も甘いのばっかりだと胸焼けするし、もとからいくつかは抑えたものを作ろうと思ってたんだ。口直し的な意味にもなるし」

 

「鷹島さんの妹さん……性格が大人っぽいとは聞いていたが、まさか味覚まで大人びているのか」

 

「あれ? 高町くん、彩葉のこと知ってるんですか?」

 

「なのは……妹から聞いたんだ」

 

「へ~、そうだったんだ」

 

「…………」

 

「なによ、徹。じっと見つめてきちゃって。私に惚れたの?」

 

「俺が恭也と同じこと言ったら絶対に罵倒するくせに、恭也には何も言わねぇんだな。あと冗談は破綻した性格だけにしてくれ」

 

「清廉潔白な恭也と前科持ちのあんたを比べたらそりゃあ扱いに差は出るわよ。あと誰の性格が破綻しているのかしら」

 

「前科っ……なんて持ってなっ、ぁっ……。て、手を……離してくれっ! 骨がきしみ始めてる! 頭蓋骨(ずがいこつ)から脳みそがパージしちまうだろうが!」

 

「先に前言撤回しなさいな」

 

「ごめんっ、わかった! 忍の性格は冗談では済まない!」

 

「握り潰すわ」

 

「なんでだっ! 撤回しただろ!」

 

「徹は優秀な頭脳を持っているくせに時々使い方を誤るな。残念だ、惜しい人を亡くした」

 

「し、忍さん凄いです……腕だけで逢坂くんを持ち上げるなんて」

 

 さて、次なる問題はどうやってこの場から退席するか、だ。

 

翠屋の手伝いもある恭也や、習い事などなにかと忙しい忍、なるべく(彩葉ちゃん)を家で一人にしないようにと普段からなるべく早く帰っている鷹島さん。

 

この三人にわざわざ放課後に残ってもらっておいて申し訳ない限りだが、大事な用事(ジュエルシードの回収)が突然できてしまった。

 

なのはが一人で無茶をしないように、俺もすぐに向かわなければならない。

 

 鷹島さんの嘆願のおかげで一命を取り留めたものの、いまだじんじんとした痛みを残す頭を抱えながら言い訳を考える。

 

普通に『帰る』と言ったところで恭也と鷹島さんはともかく、忍が許してくれるとは思えない。

 

最終手段を使うしかないか……。

 

「頭の痛みで思い出した。姉ちゃんから買い物頼まれてたんだった、忘れちまってた」

 

「あ……ああ、真守さんに、か……。そ、それならすぐに帰った方がいいだろう。徹、真守さんによろしく言っておいてくれ」

 

「おう、すまん。恭也が会いたがってたって言っとくぜ」

 

「そ、そこまでは言ってないのだが……」

 

「きょ、恭也。その言い方は真守さんに失礼よ。まも、真守さんからの頼まれごとなら仕方ないわね……早く行きなさい、それはもう脱兎の如く。私からも真守さんによろしく言ってたって伝えておいてよ、徹」

 

「任せろ、忍が寂しがってたって言っておく」

 

「あぅ、えっと……そこまでは言ってない、わ……」

 

「逢坂くんのお姉さん、ですか? どんな人なんですか? 一度会ってみたいです!」

 

「鷹島さんなら可愛がられるだろう……いろいろと」

 

「そうね、綾ちゃんなら絶対気に入られるわよ。ええ……絶対、ね……」

 

「な、なんで高町くんも忍さんも遠い目をするんですか……?」

 

「じゃあ鷹島さん、悪いけど先に帰るよ。彩葉ちゃんには楽しみにしててって言っておいてもらえる?」

 

「はいっ、彩葉も絶対喜ぶと思います! 逢坂くん、また明日です!」

 

 手を振って鷹島さんに返事をして、顔に影を差している恭也と忍にももう一度謝りながら教室を出る。

 

姉ちゃんをだしに使えばあの二人なら(特に忍は)絶対に許してくれると思っていた。

 

古くから馴染みのある恭也と忍とは家族ぐるみで親交が深く、姉ちゃんに昔から恐怖を刻まれ……もとい、とても可愛がられていたからな。

 

……姉ちゃんだって悪気はないんだ、ただ愛情表現が激しすぎるというだけなんだ。

 

 集まってくれたのに嘘を吐いてしまった三人と、出ていく口実に使ってしまった姉ちゃんにごめんなさい、と心の内で謝罪しながら俺は走った。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 海鳴市の中心部から距離を置く港湾地区工業地帯。

 

当時のことは詳しく知らないが、昔は造船所や製鉄所、資材搬入搬出倉庫などがあってそれなりに栄えていたらしいが、今は遠目でもわかるほどに廃れてしまっている。

 

現在では数社を残すのみとなっていた。

 

 目の前の工場らしき建物の入り口から中をのぞき込むが、人の気配はない。

 

ここももう閉鎖されているのだろうか、工場で働く作業員がいないのは助かる。

 

人の目を気にしながらでは探索にムダな時間がかかってしまうからな。

 

 しかし作業員も見当たらないが、なのはやユーノやレイハの姿も見当たらない。

 

この近くだとは思うのだが、場所を間違えたか、それともまだ到着していないのか。

 

「あっ、徹お兄ちゃーんっ!」

 

 聞き覚えがあるどころではないほど聞き馴染んでいるなのはの声を捉えて後ろを振り向けば、視野の下方限界に一瞬、二つの茶色い触覚が見えた。

 

俺は今までの経験から刹那にも満たない時間で悟る……これは高町家の対逢坂徹歓迎撃システム、なのはロケットだ。

 

 集中の極致、灰色に塗り潰される視界、引き延ばされた主観の中で俺は思考する。

 

今ここで、なのはの元気溌剌全力全開のタックルをもろに食らえばこれから行われるであろう戦闘に支障が出るかもしれない、いや出る、必ず出る。

 

なのはとフェイトの一対一(タイマン)の勝敗でどちらにジュエルシードが渡るかなし崩し的に決まっているとはいえ、ちゃんとした約束をかわしているわけではない。

 

暗黙の了解でしかないのだ。

 

突如事情が変わり、総力戦のような最悪の状態が起こることを予想しておくのは必要だろう。

 

総力戦となれば俺も戦いに加わることになるのは必至、ここで体力を消耗するわけにはいかない。

 

なら間近に迫るロケット砲(なのは)を回避するか? 浮上したその考えを即座に否定、それは悪手だ。

 

ここでフェイトとの戦闘を控えるなのはの内臓破壊行為(本人は抱擁と認識しているようだが)を回避してしまってモチベーションを下げてしまっては元も子もない。

 

ジュエルシードの回収が目的なのだから戦闘に差し障るような真似をするのは本末転倒だ。

 

 数瞬というわずかな時間の中、マルチタスクによる並列思考の末、結論は出た。

 

直撃はできない、かといって避けることもできない、ならば俺が取るべき手段は……。

 

「っ……。おぉ、なのは。今日も元気で何よりだ」

 

「わたしのほうが先に向かってたはずなのに徹お兄ちゃんのほうが先に着くなんて! さすが徹お兄ちゃんなの!」

 

「よーしよし。ありがとう、なのは」

 

 野球でいうセーフティーバントのような、三塁線上ピッチャーとサードの中間に転がすような精緻な力加減だった。

 

なのはに違和感なく飛びつかれながらも自分に深刻なダメージが残らないよう、小さく後ろに飛び退いて威力を軽減したのだ。

 

……なんで戦闘前にこんなに集中力使ってるんだろう。

 

 俺の腕をぎゅうっ、と握ってくっついているなのはを下ろす。

 

下ろすときになのはの肩に乗っているユーノと目が合った。

 

「急にお呼び出ししてすいません、兄さん」

 

「構わねぇよ、遅れずにすんでよかった」

 

「体調のほうはもう大丈夫ですか?」

 

「あぁ、完全回復だ。身体もリンカーコアもな」

 

 肩に座っているユーノの頭を人差し指の腹でちょこちょこと撫でる。

 

気持ちよさそうに目を細めたのち、腕を伝ってなのはから俺の肩へと移動した。

 

「なのははどうだ? 身体の感覚がいつもと違ってたりしないか?」

 

「…………」

 

 急になのはのつぶらな瞳からハイライトが消えていた。

 

その目は俺の顔からかすかにズレているようだ、どこを見ているのだろう……ちょっと怖い。

 

「なのは?」

 

「ふぇ? あ、うん! 今日もばっちりだよ!」

 

「そうか、それならいいんだ。体調が悪い時は必ず言えよ、怪我する原因になるからな」

 

「うん、ありがとっ」

 

 バックステップで威力を軽減させたはずなのに俺の腹部にダメージを与えていることから元気いっぱいなのはわかっていたが、一応確認した。

 

これもコミュニケーションの一環、こういうところから信頼関係というのは構築される。

 

「レイハも完全に治ったんだよな?」

 

『…………』

 

「……おい、レイハ?」

 

『…………』

 

「お、おい。まだ万全じゃねぇのか……?」

 

 ハイライトを失った目で俺の肩をじぃぃっと()めつけるなのはの胸元、赤い球状の宝石(スタンバイモード)のレイハに声をかけるが反応が一切ない。

 

点滅すらしないとはどういうことなんだ、まだ不調なのか?

 

『……お久しぶりです』

 

「うおっ、なんだよ、喋れるんじゃねぇかよ。心配させんなよなぁ、まったくもう」

 

 なにも言ってくれなかったせいで胸中ざわつき始めていた俺に、やっとレイハが言葉を返してくれた。

 

しかしなんだろう……いつもとノリが違うというか、言葉のニュアンスに違和感を感じるというか……そう、トゲがない。

 

「なんだよ、らしくねぇな」

 

『いえ、私はいつもこんな感じですよ、徹さん』

 

「とっ、徹さん(・・)!? どど、どうしたんだレイハ?! 出会ってから今日まで一度たりともそんな言い方されたことねぇぞ! まさかまだ調子悪いんじゃ……」

 

『……たの……でしょう……』

 

「な、なんだ? なんて言ったんだ、レイハ?」

 

 いつもはっきりと、胸に突き刺さるほどはっきりとものを言うレイハが珍しく小声になる。

 

聞き取ろうと耳を近づけると、胸元に顔を近づけられたなのはが後退りしてまた距離が広がってしまった。

 

(らち)が明かないので、なのはの肩を掴み動けないようにする。

 

なのはが『ひゃぁっ』と暴漢に襲われる少女のような悲鳴じみた声をもらしたが、あいにく今の俺にはそちらを気にかけるほどの余裕はない。

 

しかし、小学三年生の女の子を力づくで押さえて胸に顔を寄せるっていうのはとても犯罪的だな。

 

 『こんな、こんなところで……』と、なにやらよくわからないことを呟いているなのはを聞き流しつつ、レイハに注視する。

 

突如、スタングレネードのような強烈な光が俺の目を焼いた。

 

『あなたのせいでしょう、って言ったのですっ!』

 

 ジュエルシード暴走時並みの閃光をあたり一面にぶちまけながらレイハが叫んだ。

 

その声と光でなのががさっきとは違う種類の悲鳴を上げてふらつき、驚いたユーノは俺の背中へと避難する。

 

俺は顔を近づけていたせいで視覚はもちろん、聴覚まで多少やられた。

 

きぃん、と耳鳴りはするし、まぶたを閉じていても赤い輝きがちかちかと瞬いていて、三半規管の感覚にまでパニックが及んだのか少しめまいを覚える。

 

 回復してきた目でなのはを見ると、くるくる目を回していた。

 

「お、俺のせいって……いったいなにが」

 

『そうでしょうっ! 私が修復に専念していて抵抗できないのをいい事に無理矢理……き、きき……すをしてきたせいでっ、どんな顔して会えばいいかわからなかったんですよぉっ!』

 

「お……あ、ええっと。それは……」

 

 あれか、先日なのはの部屋にケーキの差し入れに言って慰めた時の、あの件か。

 

『忘れたとは言わせませんよっ!』

 

「そ、そんなこと言わねぇよ。憶えている、当然だ」

 

 なのはを守るという約束をその身に代えてでも果たした、レイハの覚悟を見た日のことだ。

 

(ひび)が入り、亀裂が走って傷だらけになってでもなのはを守り切った、守り通した姿を俺は目に焼き付け、魂に刻み込んだ。

 

俺もその時決意を新たにしたんだ、忘れるわけがない……忘れられるわけがない。

 

 ただ、しかしな……。

 

『私はとても悩みました、ええ、悩みましたとも。まぬけな私を笑うならどうぞ笑ってください。運の良い事に考える時間はたくさんありましたからね、オーバーヒート寸前まで考えました。ディバインバスター五連射しても届かないほどの熱量を発しながら、マスターのハンカチを一部焦がしてしまったほどに物思いに耽りましたよ。そんなこと言うまでもないほど当たり前のことです。私はデバイスで、徹は人間なのですから。この大きな壁を乗り越えるには途方もない苦労とさまざまな障害があると思いましたが、それでも私は決めました。徹の行動にちゃんと答えようと

「その前に聞いてくれるか、レイハ」

 

 とんでもない方向に暴走したレイハのセリフに強引に割り込む。

 

最後まで言わせた後に事情を説明したら俺の命が消し飛ぶだろうことは確信できた。

 

 この前、俺の家に長谷部と太刀峰が泊まった時、あの二人は言っていた……『逢坂は人を勘違いさせる行動が多すぎる』、と……なるほどな、たしかにそのようだ。

 

認めよう、その言は事実であると。

 

 しかし、今となっては後の祭りだ。

 

これからは俺の性格を改めよう、と思ってもレイハにしでかしたことがなくなるわけではない。

 

悪気を持ってやったわけではないと誓えるが、誤解させてしまったのなら晴らさなければいけない……その責任は果たすべきだ。

 

 依然としてなのはの肩を掴みながら、生唾を飲んで覚悟を決めて、どくんっどくんっと脈動するように明滅を繰り返すレイハに告げる。

 

「すまん、誤解なんだ……」

 

『はい、私も徹が…………はい?』

 

 レイハの球状の身体に灯される光が急速に小さくなり、そして消えた。

 

返事がとても冷め切っていて、五臓六腑が口からこんにちはしそうな緊張感と恐怖心を必死で飲み込みつつ、俺は続ける。

 

「あれは……なんだ。すぐに良くなってまた声を聞かせてくれよっていう願掛け、というか……」

 

『…………』

 

「ゆ、ゆっくり休んでくれ、という思いを込めた寝る前の挨拶、と……言いますか……」

 

『……………………』

 

「ですので、愛の告白というわけではなくて、ですね……」

 

『…………………………………………』

 

 レイハの無言の圧力を受けて徐々に敬語になってしまった。

 

なんと情けないことか。

 

 俺はレイハに言っているつもりだが、傍から見ればなのはに詰め寄っているようにも見えそうだ、などと精神状態の安定を求めて現実逃避に走る。

 

輪をかけてなんと情けないことか。

 

『……ふふ、ふふふ。そういうことでしたか』

 

「あ、あはは。そういうことだったんだよ」

 

 二人して乾いた笑いを送りあう。

 

俺にとってみれば死刑宣告までのカウントダウンにしか思えない。

 

『ふ、ふふ……はぁ……っ。Restrict lock』

 

「ちょっ!」

 

 桜色に光る捕縛輪で俺の両足、両腕、腹部、果ては頸部に至るまでを固定された。

 

前に模擬戦をした時、これと同じ拘束魔法をハッキングで破壊したから警戒して数を増やしたのかっ。

 

なのはが前後不覚となっている隙に主の魔力を私用で勝手に使うってのはデバイスとしてどうなんだ!

 

『Divine shooter,standby』

 

「待て待て! 待機って……まだ重ねる気かよ! シャレにならんって!」

 

『Divine……』

 

「死ぬわ!」

 

 流れるような手際で術式を組み上げていくレイハ。

 

このままではこれからあるかもしれない戦闘に差し支えるどころの話じゃない、形振(なりふ)り構っていられない。

 

もはや俺の生命の危機だ。

 

「んむっ!」

 

 ぱきぃん、と小気味いい音を響かせて拘束魔法の残滓が飛び散る。

 

腕の拘束はハッキングを利用して砕いたが、他の部位の捕縛輪の解除には間に合いそうにない。

 

なんとか障壁発動のため腕の自由は確保したが……この距離では防ぎきれるかどうか。

 

『……Buster,at the same time divine shooter』

 

「模擬戦の時よりひどくなってんぞ!」

 

『Wait for an order.やめてほしければ降伏して私の命令を一つ聞きなさい』

 

「……はい」

 

 最終的に、レイハの働き如何に関わらず、事あるごとにお手入れするという条約を結ばされる運びとなった。

 

あれだけ盛大に脅したわりにとても可愛らしい命令だなぁ、と口を滑らしてしまった俺の腹部に一発のディバインシューターがめり込む。

 

口は災いの門、雄弁の銀沈黙の金ってのはこのことだな。

 

 早くジュエルシードを探しに行かないといけないのに、なにやってんだ俺たち。




忍やレイハが絡むとついつい文章量が増えてしまいます。
やりやすいんですよね、掛け合いとか。


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元ジュエルシード 現アクセサリー

誰得かわからないいちゃいちゃ、その二。



2014.7.25
本文の数箇所を訂正しました。


 なのはの意識がしっかりしてから手分けしてジュエルシード探索に従事する。

 

ちなみになのははレイハのスタングレネードじみた光と音のせいで昏倒状態に陥り、俺とレイハの会話内容を一切聞いていなかったようだった

 

戦いで使えるレベル、もはや技である。

 

 目を皿にしながら錆びついたコンテナが左右両側に積み上がっている道を歩く。

 

積荷と積荷の隙間や、貨物の積み卸しを行うためのレール上を移動可能な門の形をした大型クレーン(ガントリークレーン)の足元などを隈なく探すのだが見つからない。

 

 それもそうだ。

 

いくらおおよその位置がわかっていても、目当てのものは宝石のような小さい石。

 

目につかない程に小さくないとはいえ、アクセサリー程度のその石を広い範囲の中から足を使って根気強く探すというのは思う以上に疲労する。

 

危険性に目を瞑って街中で魔力をぶつけ、ジュエルシードを強制発動させたフェイトの気持ちが少しわかった。

 

これは見つかる気がしない。

 

「ん? アクセサリー?」

 

 心の中で考えて、実際に発声して、ふと思い出す。

 

元ジュエルシード、現アクセサリーになっている代物が今まさに俺の服の内側胸元にいるではないか。

 

 首にかかる銀のチェーンを手繰(たぐ)って青い宝石を(てのひら)に乗せる。

 

「…………」

 

 まぁ……だからなに? って話なんだが。

 

うん、いるよ? 俺の掌の上に横たわってるよ、元ジュエルシード……いや、今も本質は変わることなくジュエルシードなのだが。

 

銀白色の台座にくっついた青白い宝石はかすかながらもたしかな重みを俺に与えている。

 

だからってこいつから足が生えて仲間のもとに走っていって、俺に場所を教えてくれるわけじゃない。

 

 なにか手掛かりになるのではないかという考えに到った数秒前の自分の頭を()(さば)きたい気分だ。

 

いったいなぜそんな答えに辿り着いたのか。

 

「……試すか」

 

 だが、今のままでは暗中模索もいいところ、というのもまた事実。

 

なんらかの糸口になるのかもしれないのなら挑戦してみるのもまた一つの手だ。

 

失敗したら爆発してしまうなどののリスクがあるわけじゃないのだから、試すだけの価値はある。

 

 左手で台座を持ち、右手の指先で優しく宝石部分をつまんでゆるやかに力を込めていきながら左右に引っ張る。

 

引っかかりのような感触の後、かちり、という音とともに台座からジュエルシードが外れた。

 

 また掌の上に戻してじっと見つめる。

 

菱形でありながら先端部分に尖りはない。

 

外側は青みが強く、内側に至るほど白さを増していく。

 

心なし透明感があり中心部には藍色の核のようなものが見えた。

 

 この子は自分から台座にくっついてくれることもそうだし、バスケットコートで会話のようなものが成立したことからも言葉が通じているような気配はあるのだ。

 

ダメでもともと、一度頼んでみて損はないだろう。

 

「お前の仲間を探しているんだ。協力してくれないか?」

 

 真面目くさった顔をして石に話しかける男子高校生。

 

他人に見られでもしたらだいぶ怪しまれる光景だ。

 

黄色い救急車待ったなしの状況だが、幸いなことに俺の周囲には誰もいなかった。

 

 俺の言葉に元ジュエルシード現アクセサリーのジュエリーシード(区別するため改名)が反応を見せる。

 

強く光り、弱く光り、光が消える……これを何度か繰り返した。

 

「……なるほど」

 

 さっぱりわからない。

 

なにが『なるほど』だ、なにに合点がいったのだ。

 

 俺の言葉をこいつが理解できたところで、こいつの意思表示を俺が汲み取れないんじゃ意味ないじゃねぇか。

 

ただ……なんとなく、とてもあやふやで自分でもとても不思議に思うのだが、あまり乗り気じゃなさそうな印象を受けた。

 

なぜそう思ったのか論理的に説明しろ、と言われてしまうと閉口せざるをえないが、なぜかそう感じたのだ。

 

自分の手足をどうやって動かしているのか説明できないのと同じようなものだと想像してもらえれば、おそらくそれが感覚的には一番近い。

 

 さぁ、ここからどうするか考えよう。

 

 俺の第六感を当てにするのなら、こいつはお仲間を売る気はないようだ。

 

しかし俺には他に足掛かりとなるような情報の持ちあわせはない。

 

 それなら答えは一つ。

 

俺のほうは完全に手詰まりなのだから、掌に横たわる宝石(ジュエリー)にやる気になってもらう他に(すべ)はない。

 

 そこで必要になるのがやる気にさせる方法だ。

 

意欲的でない人に手伝ってもらう方法は大別して二つある。

 

弱味を握り、断るという選択肢を排除して無理矢理働かせるか、誠心誠意頼み込んで相手の良心につけ込むかの二つだ。

 

 どっちを選ぶかは俺の采配次第だが、前者の無理矢理働かせるという強行手段は看過できない懸念を孕んでいる。

 

俺が不在の時にまた暴走状態や励起状態になったら一大事なので、家には保管せずに、このエリー(ジュエリー略してエリー)は常日頃から持ち歩いていて学校にも身につけて登校している。

 

ここで強制労働させて機嫌を損ねてしまうと、学校や登校時など一般人が多くいる場所で憂さ晴らしにぴかぴかと青白い光を放つかもしれない。

 

そうなってしまえば事だ、隠しようがない。

 

 よって、弱みを握るという手段は不安要素がありすぎるため却下。

 

もとからこいつの弱みなんてわからないし見当もつかないが。

 

 二つの作戦の内、片一方が潰れたのだから消去法で残ったもう一つの方策、誠実なところを見せて自主的に動いてもらうという方法しかなくなる。

 

この手を使うとなれば腹芸などが介在する余地はない。

 

ただただ、頼むほかないのだ。

 

「お願いだ、手伝ってくれないか」

 

 俺は再度語りかける。

 

 エリー(愛称決定)は強めに数回、ぱぱぱっ、と瞬いたが、また徐々に光を弱めて消えてしまった。

 

これもおそらくだが、否定……拒否するという意味だろう。

 

案外この子頑固だな……そう簡単に自分の意見は曲げない(たち)のようだ。

 

 こいつにもなにか譲れない部分があるのかもしれないが、こちらとしても八方塞がりの現状を抜け出す唯一の突破口を見逃すわけにはいかない。

 

もうあたりは夕暮れなのだ。

 

前みたいに高町家の人たちに心労を負わせるわけにはいかないので、遅くならないうちになのはは家に帰しておかねばならない。

 

そうなれば俺一人で(もしかしたらユーノは残ってくれるかもしれないが)捜索することになる。

 

こんな辺鄙(へんぴ)な場所で、フィラメントが切れているのか電気が通っていないのか知らないが、日が暮れ始めても明かりを灯さない役立たずの電灯の下、いつ見つかるともわからぬ小さい石ころを月明かりと星明りしか頼りにできない夜にたった一人で探してなんていられない。

 

海が近くにあり風も強く吹くし、足元は舗装もされていない地面だ。

 

闇夜の中、塩気まじりの春の夜風に吹かれて身体を冷やしながら、土埃をかぶって探すとか耐えられない。

 

絶対心が折れる、もしくは泣く。

 

 明日も学校があるし、放課後には買い出しに行かねばならないという用事もある。

 

早くジュエルシードを見つけて家に帰り、あったかい風呂に入ってさっさと寝たいのだ。

 

 だからといって後のことを考えると無理強いすることもできない。

 

俺にできることは平身低頭真摯に頼み込むほかにないのだ。

 

 俺の――あるかどうかわからない――実直さが伝わるよう、掌の上のエリーをまるで女の子の髪を指で梳くように、親指の腹で優しく撫でながら、再三語りかける。

 

「なぁ……頼むよ……」

 

 ぱぱぱぁっ、と強く明滅して光り輝いたかと思えば少しだけ光量を落とした。

 

すると今度はさっきまでの反応とは明らかに異なり、木の葉のカーテン越しに降り注ぐ春の陽光のような温もりを伴って、淡く柔らかく安らぎを与えるかのように穏やかに煌めいた。

 

 三顧の礼ではないが、どうやら俺の気持ちは彼女――かどうかはわからないが――に届いたようだ。

 

 掌に鎮座するエリーが対角線の長いほうを縦として、すくっ、と起き上がった。

 

手にはほんのわずかにエリーの下端が触れている感触があるが、さきほどまであった重みはほとんど感じない。

 

浮遊しているようだ。

 

 周辺をオレンジ色に染め上げる黄昏時を切り裂くように、エリーから青く細い一本の線が空間に照射された。

 

その線の先に目を向けると、もとは何色だったのか想像できないほどに錆びついたドラム缶が三つ立っている。

 

青白色に輝く線は三つのうちの真ん中のドラム缶を指していた。

 

 足早に近づいて塗装の剥げたドラム缶の後ろを確認すると、あった。

 

発動前のジュエルシード。

 

たった一つでも莫大な力を秘めるロストロギアが、錆だらけのドラム缶の陰に隠れてぽつねんと寝転がっていた。

 

「おぉ……。まさかマジで見つかるとは……」

 

 ドラム缶の背中に隠れていたジュエルシードも大変驚いたと思うが、一番驚いたのは俺である。

 

藁にも縋る思いで、と言ってしまっては大げさだが、物は試しにとやってみた試みでまさかこうまでうまくいくとはな。

 

すべては俺の手の中で優しく光るエリーのお陰だ。

 

名前までつけてしまってさらに愛着が湧いてしまった。

 

 本日のMVPであるエリーに、ありがとう、と言って軽く感謝の口づけをする。

 

するとエリーは、ふわふわぽやぽやとした光と表現すべきなのかどうか判断しかねる曖昧な青白いなにかを空気中に漂わせた。

 

なんとも言い難いエリーのリアクションだが、嫌がっている様子はないので大丈夫だろう。

 

「助かったよ、ありがとな」

 

 最後にもう一度礼を言ってからネックレスの台座を近づけてくっついてもらい、服の内側にしまいこんだ。

 

服の内側でエリーがぷるぷるぷると携帯のバイブレーション機能のように振動してこそばゆい。

 

 ふと、自分のしたことを思い出して自責に駆られる。

 

ほんのついさっきレイハにしこたま叱られたのに、次はエリーに同じことをしてしまった。

 

そういえば一年ほど前に『お前は気障な言動が多すぎる』と恭也にも注意された気がする。

 

 赤ちゃんを寝かしつけるように、服越しにエリーをぽんぽんと軽くたたいて落ち着かせながら、でも仕方ないよなぁ、と言い訳を考える。

 

『気障な言動』と恭也は言い表したが、俺はそれができる限りの『最善の行動』だと思ったからこそ動いただけなのだ。

 

 今回のエリーにだってそうである。

 

危険な物体であるジュエルシードを無血で回収できたことへの感謝の念を表現したかったが、人間ではないエリーには取れる感謝の示し方が限られている。

 

だから幼い子どもの額に口づけするように軽くちゅっとしたのだ。

 

ひたすら純粋に、ありがとうを伝えるためだけの他意のない行為であった。

 

 俺も一応、改善したほうがいいとは思うのだが習い性ゆえに改めるのも難しい。

 

直るのを気長に待ってくださいとしか言いようがない、というのが現状だ。

 

 誰に言うわけでもないのに自分の中で言い逃れじみた釈明文を組み立てながら、ジュエルシードの封印を始めた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 違う場所を探しているなのはやユーノに合流しようと工場内を探索する。

 

どうせ近くにいるのだろうし、念話を送る必要もないか。

 

 とぼとぼとなのはたちを探しながら辺りを観察する。

 

やはりこの施設(運送業と思われる)は閉鎖されて相当時間が経っているようだ。

 

 倉庫のひさしの下には使われなくなって数年は経ってそうなフォークリフトが荷役作業に使う爪のような部分(フォーク)にぼろぼろになったパレットを乗せたまま放置されていた。

 

タイヤも前輪後輪ともにパンクしている。

 

切られたような裂け目も見当たらないので劣化破損したようだ。

 

運転者の頭上にある屋根のような部分(ヘッドガード)も割れていた。

 

あの部分が壊れるなんてあるのか、たしか落下物から運転者を守るという役割を持って取りつけられていたから、かなりの強度を有しているはずなのだが。

 

 倉庫と少し離れたところには『有り合わせの材料で作りました』と言わんばかりの簡素なワイヤーロープ置き場があった。

 

表面を赤茶色に変色させたワイヤーロープがいくつか置かれている。

 

なにかの作業で余った鉄板を粗雑に溶接して繋ぎ合わせたのが見て取れた。

 

大きさや厚みがそれぞれ違うし、何枚かは大きすぎたのか溶断した形跡も残っている。

 

クレーンで使うワイヤーロープを雨風にさらされる室外で保管するわけがないので、折れ曲がって元の形状に戻らない(キンクした)ものや素線切れしたもの、摩耗や捻じれなどが生じて使えなくなったものを置いているのだろう。

 

要するにゴミ置き場のようだ。

 

「あ、なのはいた。んむ……フェイトも一緒?」

 

 倉庫があった道を曲がると開けた場所に出た。

 

下ろしたコンテナを一時的に置いておくための空間だな。

 

〈ここに物を置かないように〉と文字が掠れた看板が地面に刺さっている。

 

 フェイトがここにいるということは彼女たちもジュエルシードの反応を拾ってここにきたのか。

 

 なにか話しているようだが、お互い獲物(デバイス)を携えながらという物騒な状況なので、可愛い女子小学生二人のガールズトークというわけではなさそうだ。

 

話しているというよりなのはが話しかけている、といったほうが正確かもしれない。

 

「…………」

 

 べつに後ろめたいことをしているわけではないが、音を立てないよう壁に背をつけて身体が見えないぎりぎりまで近づいて聞き耳を立てる。

 

盗み聞きだった。

 

百パーセント後ろめたいことだった。

 

 耳を澄ませて、聴覚が捉える潮風などのノイズを取り除き、話の内容を聞き取る。

 

「……フェイト。フェイト・テスタロッサ」

 

「わたしは……フェイトちゃんとお話をしたいだけなの」

 

「……前も言った。話して何かが変わるわけじゃない。ジュエルシードは譲れない」

 

「わたしも譲れないよ。ジュエルシードが危険なものだから街を守るためっていうのもあるけど、それ以上に理由を訊きたいから。なんでフェイトちゃんがそんなに辛そうな目をしてまでジュエルシードを集めているのか」

 

「……っ」

 

「私が勝ったら、その理由……訊かせてくれる?」

 

 会話の途中で聞き始めたせいで話の内容が掴めない。

 

 しばし流れる沈黙。

 

その静寂を破ったのはフェイトだった。

 

 小さな両手で握るバルディッシュを構え直し、身を包んでいた黒の衣装からバリアジャケット姿に変身する。

 

表が黒、裏が赤色のコートを羽織り、レオタードのような身体のシルエットがわかりやすいぴっちりとしたインナーに、なぜか側面ではなく前方にスリットが入った丈の短いスカート。

 

高機動が信条の戦い方をするためとはいえ、肌見せすぎだ。

 

年若い娘がそんなに素肌を晒すものではない。

 

 フェイトが戦闘モードに移行したのを見て、なのはもバリアジャケットを纏う。

 

白を基調にした映える色使いといい、足首ほどまであるロングスカートといい、緻密で意匠を凝らしたデザインといい、なのはの通う聖祥大附属小学校の制服を彷彿とさせる。

 

 二人は見合い、足元を確認するようにざざっ、とかすかに地面を擦った次の瞬間、同時に飛び掛かり戦闘が始まった。

 

互いのデバイスで一合打ち合い火花を散らし、着地する。

 

ちょうど二人の立ち位置を交換したような形だ。

 

 赤い球体の部分が一度輝いてカノンモードになったレイハに、なのはが驚いたような表情を向けた。

 

ここからでは距離があって聞こえないが、レイハがなのはになにか言ったようだ。

 

 なのはのおよそ十メートル前方に立つフェイトがバルディッシュをサイズフォーム(大鎌)に変形させた。

 

自分の得意分野である近距離戦に持っていこうという算段だろう。

 

 地を駆け接近するフェイトに、なのはは音叉状のレイハを突きつけた。

 

 なにか作戦はあるのか? フェイト相手に急拵(きゅうごしら)えの射撃魔法じゃ、いくら出が早いとはいえ障壁で防がれるか躱すかされて鎌による手痛い反撃を貰いそうなものだが……。

 

ひやひやしながら見ていたが、どうやら俺の心配は杞憂だったようだ。

 

 杖には四つの魔法帯が取り巻き、音叉の先端には桜色をした球状の魔力の塊。

 

なのはの十八番、生半な障壁なんぞ容易く食い破る殺人砲撃(ディバインバスター)そのものだった。

 

「なっ、ディバインバスター?! チャージはどこに置いてきた!? あれは溜めの時間を短縮してブチかますこともできたのか?!」

 

 隠れていた壁から身を乗り出してよく観察するが、普段のディバインバスターと遜色ないエネルギー量を秘めている。

 

「さっき俺に撃とうとしたものと同じくらいの魔力量……ってまさか、俺の時の魔法か?」

 

 俺を恐喝していた時に展開させていた魔法をなんらかの手法を用いてそのまま待機させ続け、フェイトが油断して突っ込んできたタイミングで再起動させたのか。

 

 これは……正々堂々とはほど遠い戦法だな。

 

戦闘開始前に魔法の準備をしていたのだから完全にフライングだ。

 

卑怯と非難されても仕方ない戦法だが、実戦であればとても効果的である。

 

 なのはと何度か戦い、なのはの魔法の内情を多少知っているフェイトであれば砲撃は絶対に注意していただろう。

 

『あの砲撃魔法は脅威だ、しかし強力ゆえにチャージするのに時間がかかる。だから溜め始めたら回避に専念しよう』と、そう考えていたのかもしれない。

 

まさかほぼ溜めなしで撃たれるというのは予想していなかっただろうな。

 

 今回のようなタイマンでは多少ずるっこい気もするが、とても俺好みの戦術だ。

 

また今度術式に転用できないかレイハと話してみよう。

 

「うぉっ、フェイトすごい。あれを避けた」

 

 フェイトは目前に迫った砲撃にすんでのところで障壁を挿しこみ、桜色の魔力の奔流が障壁を食い破っている間に地面を蹴って空中に退避した。

 

その場しのぎに一枚二枚の半端な障壁を張るだけではとても(しの)ぎきれない、さりとて空に逃げるだけでは間に合わずに直撃を受ける、と冷静に判断したんだ。

 

さすがに余裕はなかったようでフェイトの顔色は真っ青だが。

 

 だがフェイト……それだけじゃないんだ、砲撃だけではすまないんだ。

 

あの悪辣な赤球デバイス(用意周到なレイハ)は俺にディバインバスターともう一つ、別の魔法も用意していた。

 

それは誘導性能を持つ射撃魔法、ディバインシューター。

 

 レイハは自分のマスターに話を通していなかったようで、戸惑うままのなのはから射出された弾数は三つ。

 

畳みかけるような連撃に焦ったのか、フェイトは腹部に一発被弾して苦痛に顔を歪めるが、すぐ落ち着きを取り戻し、続く二発目を大鎌の魔力刃で切り落として持ち前の飛行速度で三発目を振り切るようにさらに高空へと退いた。

 

 独断で魔法を仕込んでいたらしいレイハをなのはがこつんと叩いて注意しながら、フェイトを追うように地面をぴょんと跳ねて飛行魔法を展開する。

 

 少女二人は空へと戦いの舞台を移した。




優秀なインテリジェントデバイスであるレイハさんが演算処理のリソースを魔法の維持に割り振っていたため待機させ続けることができた、という妄想。
これ以降はレイハさんもなのはさんも使う予定はありません。
ですのでこの件については目を瞑っていただけるとありがたいです。

あと次の更新はすこし間が空くかもです。


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それでも俺はやってない。

更新遅れました、すいません。



 なのはとフェイトが戦闘の場を空へと移したので、俺は身を隠すのをやめて二人がいた開けた場所へと移動する。

 

隠れていたのは二人の会話を邪魔しないようにとの配慮だったので戦いが始まった時に姿を現してもよかったのだが、出ていくタイミングを(しっ)していたのだ。

 

「ユーノ、結界頼む」

 

「あ、兄さん。合流できてよかったです、近くにいたんですね。了解しました」

 

 最初になのはが立っていた場所の近くでユーノがドラム缶の給油口に座っていたので、結界を張ってもらうよう頼んだ。

 

いくらこの付近に人が見当たらないとはいえ、空でドンパチを繰り広げてはいつ、どこで、誰の目につくかわからない。

 

こんなところで手を抜いて素性がバレるような危険要素を作るつもりは毛頭ないのだ。

 

 ユーノを中心に淡い緑色の結界が展開され、俺を包み、さらに広がっていく。

 

積み上げられたコンテナに囲まれたこの開けた空間も、さらには上空にまで伸びていき舞い踊るように戦闘を繰り広げるなのはとフェイトも淡い緑色に包み込まれた。

 

 結界の魔法を知っておくべきかなぁ、とも思うのだが、俺の適性では充分な広さの結界を展開できる自信がないので結局ユーノに任せっきりだ。

 

 空を見上げながらユーノが口を開いた。

 

「ジュエルシードを探している途中にばったり遭遇してしまって……結局こんなことになってしまいました」

 

 どこか申し訳なさそうな声音。

 

「そうか、やっぱりフェイトたちも反応を捉えていたんだな。予想の範囲内だろ、気にすんな」

 

「まだジュエルシードを見つけられていないのに……」

 

「それならもう見つけたぞ。ほれ」

 

「えっ! もう見つけたんですか?!」

 

 上空を見やりながら給油口に座っていたユーノが飛び上がりながらこちらへ視線を向けた

 

 雑にポケットに突っこんでおいたジュエルシードを取り出してユーノに手渡す。

 

ユーノは渡されたそれを両手で掴み、確認するようにまじまじと見た。

 

「封印は……もうしているんですね」

 

「おう、前に術式を教えてもらったからな。発動前の睡眠中だったから俺でもできたぜ」

 

「魔力の反応はとても弱々しいものだったのに……よく見つけられましたね」

 

「こいつのおかげでな。場所を教えてくれたんだ」

 

 『こいつ』と言いながらシルバーのチェーンを引っ張り、台座にくっついたエリーを取り出してユーノに見せる。

 

 ユーノはぷらぷらと揺れるエリーを見ながら驚いたように言葉をもらした。

 

「ジュエルシードが違うジュエルシードの場所を教える……? そんなことがあり得る……のかな」

 

「おいユーノ、本質的にはなにも変わっていないが、一応『元』ジュエルシードな。今は綺麗な青い宝石のネックレス、名前はエリーだ」

 

「なに名前までつけてるんですか……」

 

 ユーノに紹介すると、エリーは俺の言葉を肯定するように小さく、でも夕陽に負けない光量できらりと輝いた。

 

 この名前を気に入ってくれたのだろうか? そうだとしたら俺も嬉しい。

 

「名前をつけるのは別に構いませんが……『エリー』というのは女性の名前ですよね? 性別があるんですか?」

 

「さぁ? ただこいつの暴走を止めていた時に流れてきたイメージでは女性のシルエットだったから、まぁ女性でいいんじゃねぇかな」

 

「さぁ? って……ざっくりしてるというか、いい加減というか……。でも納得しました。デバイスだろうと次元干渉型エネルギー結晶体のロストロギアだろうと、女性的な意思を持っているのなら口説けますもんね、兄さんなら」

 

「どういう意味かな? ねぇ、どういう意味かな?」

 

「きゅっ!」

 

 子猫を咥える親猫のように、ユーノの首の後ろをつまみあげて追及する。

 

鳴き声は上げるものの手足をだらんと脱力させていて、されるがままといった(てい)だ。

 

なんだかとても可愛い。

 

 もとから怒っていたわけではないので早々に許し、ユーノを肩へ移動させる。

 

 ジュエルシード確保の報告(内容はだいぶ逸れたが)を終えると背後で、すたっ、という高い位置から地面に着地するような音がした。

 

振り向けばそこには、腰に届くほど長い橙色の髪を優雅にたなびかせた女の子。

 

私服姿のアルフが立っていた。

 

 戦闘時の衣装なのか知らないが、以前戦っていた時の服装は胸元が大胆に開いていて年頃の男の子には目の毒だったからな。

 

布地が少なめとはいえ、こちらの服のほうがまだ気楽だ。

 

 今日の服装は、肩のあたりがざっくり開いている五分袖の淡い水色のシャツに、へそ上くらいの白色のチューブトップ。

 

下は七分丈のダメージジーンズにフラットなミュールのような履物。

 

これも充分扇情的だった。

 

 フェイトの付き添いでコンテナの上か、近くの倉庫の屋根にでもいたのだろう。

 

 さっぱりした性格なのできっと本人は意識してはいないのだろうけど、少し首を(かし)げ、腰に手を当てて肩幅で立ち、片足に重心をかけてもう片足を重心にしている足に寄せるというその姿勢は、まるでモデルがポージングをしているようで実に様になっていた。

 

「久しぶり、っていうほど久しぶりでもないね。元気そうでよかったよ、徹。ユーノもね」

 

「おう。そっちもやっぱり反応をキャッチしてたんだな」

 

「本来なら敵同士なのにずいぶん友好的な挨拶ですね、兄さん」

 

「別にいいだろ? 仲悪いよりいいじゃねぇか。アルフ、今日はリニスさんはいないのか?」

 

「ああ、リニスは本部で待機だよ。用事があるとかって」

 

 上空で戦う少女二人に目をやる。

 

 頭上、天高くでは桜色と金色の光が交錯し、爆ぜ、舞い散っていた。

 

金色の星々が瞬き、桜の花びらが咲き誇るようなその光景にしばし目を奪われる。

 

熾烈さと華やかさを共存させる刹那的な美がそこにはあった。

 

 そうだ、というアルフの声で視線を地上へと戻す。

 

「貰ったケーキだけど、三種類とも美味しかったよ。ありがとうね。プレシ……あぁう、えっと……リーダー! リーダーもすっごい褒めてて、お店で買ってきたものと勘違いしたくらいだったよ!」

 

「そうか、それはよかった。文化が違うみたいだし、口に合うか不安だったんだ。そこまで言われるとちょっと照れるけどな。またいつか機会があればお裾分けしに行くわ」

 

「うんっ、また頼むよっ!」

 

「兄さんはどこまで手を伸ばしていくつもりなんですか?」

 

「なにか言ったかね? ユーノくん」

 

「きゅ! きゅきゅうっ!」

 

「あははっ、やめてあげなよ徹! とても可愛いけどユーノがかわいそうだからさ!」

 

 肩に乗るユーノの首の後ろをつまんで、今度はさらにプラプラと揺らしてみる。

 

最近ユーノのセリフに棘を感じるようになってきた。

 

これが世に言う反抗期というやつか。

 

俺の悪影響を受けるのも困るが、言葉使いが荒っぽくなっても困る。

 

ユーノには純粋な良い子のまま、すくすく育ってほしいものだ。

 

 戦いの趨勢はどうなっているかな、と麗しき少女たちが舞うには狭すぎるダンスステージを見上げると、ずいぶんと近い位置に彼女たちがいる。

 

誘導弾を撃ち放つなのはの真面目な表情や、高速機動で射撃魔法をかいくぐるフェイトの鋭い目も視認できた。

 

とても高度を下げてきていて、今もなお、急速に地表へと接近している。

 

誘導弾の破裂音やフェイトの振るう大鎌が空気を切り裂く音まで、それはもう危険なほど鮮明に見えて、聞こえた。

 

 背筋に寒気が走る。

 

 つまみ上げていたユーノを両手でつつみ、足に力を込めて後ろに飛び退きながら叫ぶ。

 

「アルフっ、下がれ!」

 

「えっ、いきなりなん……わぷっ」

 

 地を震わせるほどの轟音と衝撃で砂埃があたりに浮き上がる。

 

なのはとフェイトが空戦から地上戦へと戻ってきたその余波だった。

 

 砂埃は潮風に乗り、すぐに晴れる。

 

そこでは二人の少女が鍔迫り合いをするように、互いのデバイスで押し合っていた。

 

 二人ともまだ余力は残している感じで案外余裕のある表情をしていたが、バリアジャケットの破損具合が戦闘の苛烈さを表徴していた。

 

フェイトの大鎌でやられたのか、なのはは純白のロングスカートや肩の部分を切られていたり、いくつか射撃魔法が掠めたのか所々破けている。

 

フェイトのバリアジャケットも負けず劣らず損傷していた。

 

開始早々の誘導弾でお腹が見えてしまっているし、なのはの誘導弾に襲われたのだろう、ひらひらと風になびくマントには焦げ跡がついている。

 

 お互い損耗してはいるものの、決定的な一打はいまだ入っていないようだった。

 

「ちょっと徹っ! もうちょっと早めに教えてくれると嬉しかったんだけどっ!」

 

「すまんな、俺も気づくのが遅れて退避しながら教えるのが限界だったわ」

 

「あ、ありがとうございます、兄さん。いきなり真っ暗になったのでびっくりしましたが」

 

「ユーノも無事みたいだな、よかったよかった」

 

「退避するのが限界、とか言う割にユーノの安全はしっかり確保してるんだね」

 

「ユーノは小さいからな。巻き込まれたら大変だろ」

 

「さすが僕の兄さんですね」

 

「いや、お前の兄ではないけどな」

 

 咄嗟に飛び退き、真上からの小規模の隕石のような破壊力を持った飛来物はなんとか回避に成功した。

 

 二人からはだいたい十メートルほど離れた位置。

 

 アルフ、ユーノと喋っていたらここでやっと、戦っている二人がこちらの存在に気づいたようだ。

 

「にゃあっ! と、徹お兄ちゃん!」

 

「徹っ……。あんまり、見ないで……」

 

 俺に気づいた途端、今の今まで(せめ)ぎ合っていた二人はいきなりデバイスを相手から離した。

 

 なのははレイハを持ちながらも、両手でロングスカートの右側に入った切り口を隠す。

 

身体にまで鎌の魔力刃は届いていないようだが、バリアジャケットのロングスカートは右腰付近の高さからざっくり切られていたのでチャイナドレスのスリットのようになってしまい、きわどいところまで素足を曝け出していた。

 

フェイトも片手にバルディッシュを持ちながら、誘導弾の直撃によりバリアジャケットが飛散した腹部を両手で隠す。

 

なのはの誘導弾は速度があまり速くない代わりに直径が大きめなのに加え、被弾箇所が腹部よりちょっと下だったこともあり、下腹部のあたりまで肌を晒していて、こちらもこちらでかなりきわどい。

 

 とくに邪念や劣情を抱いた覚えはないのだが、なぜか小学生女子両名(フェイトは推定)に懐疑的な目で見られた。

 

 痴漢の冤罪をかけられた電車通勤のサラリーマンはこんな気持ちなのだろうか。

 

これは相当精神的にくるものがある、それでも俺はやってない。

 

「兄さんの歳でなのはくらいの女の子に手をつけるのはちょっとどうかと……っ! 兄さんっ、なにか来ますっ! 上っ!」

 

 途中まで弛緩した空気だったが、後半で口調を一変させて語気まで荒げるユーノ。

 

 今この空間はユーノの結界に覆われている。

 

安全ともいえるこの領域内になにが来るというんだ。

 

 ユーノの警告を聞いて、頭上へと視線を向ける。

 

変わらないように思えた矢先、結界のてっぺん、俺たちのほぼ真上の部分にひびが入った。

 

「くっ……っ、結界が破壊されますっ。注意してください!」

 

 この速さでユーノの結界を穿(うが)つ相手……いずれにせよ危険な存在であることに変わりわない、最大限の警戒をして(しか)るべきだろう。

 

 きっと本人は謙遜するだろうが、ユーノは優秀な魔導師だ。

 

攻撃的な魔法のバリエーションこそ乏しいが、防御的、支援的な魔法はかなりの技術を有している。

 

そもそも、なのはにデバイスを譲ってなお障壁や結界、バインド、回復を高い水準で行使できているのだ。

 

優れた魔導師であるのは火を見るより明らかである。

 

 そのユーノの結界を外側からごく短時間で打ち破るような相手……それほどの実力者など、思い当たるところではリニスさんくらいしか出てこない。

 

 なにがあってもすぐ行動に移せるように魔力付与で全身をコーティングしておく。

 

身体の端から端まで魔力が行き渡る感覚、疲れもだるさもなく、調子もいい。

 

 しかし身体が十全に動いたとしても、冷静な判断ができなくては速やかで正確な対応はとれない。

 

身体は燃え滾らせ、脳みそはクールなまま回転率を上げていき、それでいて姿勢は自然体。

 

これで準備は万全だ。

 

 見上げる先の結界には亀裂が広っていき、そしてとうとう砕けた。

 

 破砕された結界の隙間から何者かが入り込む。

 

水色の光を伴いながら目にもとまらぬ速さで急降下してくる人影は、まだ現状を認識していないままのなのはとフェイトの間に降り立った。

 

地に着いたとほぼ同時にフェイトとなのはをバインドで拘束、先端に近代的な装飾が施された杖を、かつっ、と地面に突いて侵入者は口を開く。

 

 侵入者の持つ杖の先端から水色の光を帯びた半透明の球体が浮かび上がった。

 

「そこまでにしてもらおうか。こちらは時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンだ。事情を説めっ……っ!」

 

 クロノ某とやらが口上の途中、強烈な衝撃を受けたかのように後ろに吹っ飛んでいった。

 

っていうか、まぁ……俺がやったんだが。

 

 なのはとフェイトをいきなり目の前で拘束されて、呑気に大人しく侵入者のセリフを聴けるほど俺は人間ができていなかった。

 

 だがクロノ(なにがし)()るもので、ほぼ不意討ちだったにも関わらず、俺の『襲歩』で加速した拳をきっちりガードし、飛ばされながらも空中で姿勢を整えて地を滑るように着地した。

 

「兄さんっ、ダメです! 時空管理局の人ですよっ!」

 

「なんだって? 鉄道公安局?」

 

「時空管理局っ……もう出張ってきたのかい」

 

 俺の背後でユーノとアルフがなにやら言っている。

 

頭の何割かの冷静な部分でちゃんと聞き取っていた。

 

思考全てが闘争心で埋め尽くされたわけではないので安心してもらいたい。

 

 しかし、ユーノはたしか俺の肩に乗っていたハズだが……もしや相手との距離を縮めるための『襲歩』で振り落してしまったのだろうか? そうだとしたら申し訳ないことをしてしまったな。

 

 侵入者と入れ替わるようになのはとフェイトの間に立ち、二人の手首にかけられているバインドに手を伸ばす。

 

二人の少女の(たお)やかでデリケートな手を拘束している水色のバインドを掴み、すぐさまハッキングを行使。

 

自分の魔力をバインドの内側に走らせる。

 

 整然として無駄のないプログラムの拘束魔法だが、俺の能力はこういった手合いに関しては絶大な効力を発揮できる。

 

術式を強制的に書き換えて綻びを生み出し、穴をあけ、そこから一気に瓦解させる。

 

こうなってしまえばもうバインドとしての本来の役割を成すことはできない、握る力を強めればあとは――

 

「ぼ、僕のバインドをいとも容易く……っ」

 

「徹お兄ちゃんありがとうっ!」

 

「ありがとう、徹。助かったよ」

 

 ――甲高い音を響かせて砕け散るだけのハリボテでしかない。

 

 愕然と目を見開くクロノ某を見るのは――我ながら根性がひん曲がっているとは思うが――すこしばかり愉快だ。

 

 拘束から解放したので二人には一度下がるように言い聞かせつつ、右手を自分の背中に回す。

 

 物言いしたそうな二人の肩をぽんぽん、と軽くたたいて退くように指示をして、俺は一歩前に足を踏み出した。

 

「クロノとやら。いくら年頃とはいえ、初対面の女の子をいきなり束縛するのはやりすぎだと思うんだ。なにより俺の連れなわけだし、こうして横やりを入れさせてもらうくらいのことは許してくれよ」

 

 レイハとは(おもむき)の違う杖を構える少年が鋭い目で俺を見据える。

 

 背が低いし童顔だしいまいち年齢がわかりづらいが、だいたい小学校高学年(十二歳)中学一年(十三歳)といったところか。

 

 黒に近い青色の髪、漆黒の外套の下には青のズボン、上から下まで寒色系で揃えられている。

 

色使いのせいか、それとも少年の醸し出す風格のせいか、どこか冷たい印象だ。

 

パッとこない地味な色合いだが外套の腕の部分、筋肉で例えるとだいたい三角筋のあたりに円錐の形をした世紀末的な棘がついていて、それだけが暗めの服装の中で異彩を放っていた。

 

「大きな魔力は感じない……なのに僕のバインドを赤子の手をひねるように握り潰した。僕の魔法はそんなに容易く解かれるほど脆弱じゃない。君はいったい何者だ」

 

「あぁ、そうだったな。これは失礼した。そっちだけに自己紹介させておいて俺が名乗らねぇのは不公平だった。俺は逢坂徹だ。お前が拘束した茶髪の可愛い女の子の兄貴分ってところだな。ってなわけでクロノ某……」

 

 忘れていた自己紹介を済ませ、杖を構える少年を()めつける。

 

この少年はいきなり結界をぶち壊して乱入してきたかと思えば、これまたいきなりなのはとフェイトを拘束魔法で縛り上げた。

 

こちらが攻撃魔法で抵抗したとかならまだしも、唐突に介入してきて何も発さずに手枷をして、そのうえ高圧的な態度で事情を説明しろときた。

 

こいつは少しばかり……おいたが過ぎるというものだ。

 

「なのはが受けた分の借り、俺が返すけど……文句はねぇよな?」

 

 敵意を隠す気なんてさらさらなしに、真っ正面から吐き捨てた。




三人称で書きたいけど書くだけの技術がないという。
なんとも悔しい限りです。


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イメージは凪いだ水面。

久しぶりの戦闘シーンです。
つい張り切っちゃいました。


 目測で十メートルとすこし離れた位置に立っている、自称時空管理局執務官、クロノ・ハラオウン少年の一挙手一投足を見逃さぬよう括目する。

 

 つい先ほどは短絡的にも手を出してしまったが、今は冷静さを取り戻して相手の分析に集中していた。

 

相手は疑う余地もないほどに格上、策もなしに突っ込んでしまえば、路上の落ち葉を掃くように簡単になぎ払われるだろう。

 

そしてその場合、一瞬でけりがつく。

 

時間稼ぎどころか、注意を逸らすこともできなくなる。

 

大前提として、それだけは避けなければならない。

 

 しかし、現状ではどうにも情報不足だ。

 

クロノ少年がどのような戦い方を得意として、どのような戦い方を不得手とするのか判断する材料があまりにも少ない。

 

 クロノ少年を注視しつつ、記憶をもとにここまで得たデータを洗い直す。

 

わかりやすく魔法を使っていなかったとしても、相手の些細な動作でどういう人間かくらいは大抵見当をつけられるからだ。

 

 俺はいつでも動けるように身体に力を(みなぎ)らせながら、集中のリソースを考察にも回す。

 

 俺の不意討ちの一打を見事に防いだことから、近距離戦闘はある程度心得があるように感じ取れたし、なのはとフェイトに拘束魔法をかけた時の発動速度には目を見張るものがあった。

 

 魔法の技術も相当なものを持っていると考えていい。

 

二人を解放する際にハッキングして術式を視たが、とても理に適った組み上げがなされており、頑強で堅固な仕組みになっていて――俺のハッキングはそういった堅牢性を一切合切無視するが――逆に感心させられたほどだ。

 

 ユーノの結界を独力で打ち破ったことにも感嘆するが、俺が驚いたのは上空から飛行魔法で急降下した時の着地の動作。

 

目にも()まらぬ速度で地面に接近したにもかかわらず、フェイトとなのはの間に音もなく降り立った。

 

設置するそのタイミングで飛行魔法のベクトルを下から上に変更し、優雅にソフトランディングしたのだ。

 

 急速に地面に迫りながらも飛行魔法を使い続ける度胸と、地面すれすれで落下エネルギーを相殺させる精緻な魔力コントロール。

 

それはすなわち、絶対に失敗しないという自信あっての挙止であった。

 

 クロノ少年は俺を、その鋭い眼光でもって射抜き貫かんとしている。

 

 杖の先端、前衛的なデザインをしたそれを俺へとまっすぐに向け、右足を半歩ほど前に出した隙のない構え。

 

すぐにでも射撃魔法が飛来してきそうな迫力がありながらも、その姿に違和感はない。

 

これでも武道の一門の末席を汚す俺だ、こういった所作は一朝一夕で身につくものではないことくらい重々承知している。

 

目の前の少年が、長年に渡り修練を積んでいることは想像に難くない。

 

 登場して早々に傲然というか、高圧的な言動で俺たちに接触してきたので自信過剰で慢心しきった人間性かと思いきや、これがどうして、いっそ清々しいまでに実力に裏打ちされたものであった。

 

 クロノ少年はとても真面目で細かい性格のようである。

 

使われた魔法からもそれは見て取れる。

 

 飛行魔法の緻密なコントロール、拘束魔法の効率的な術式組成、不意討ちにも動揺せず対処する冷静さ。

 

クロノ少年が、実力がありながらも思い上がらず自惚れず、日々研鑽を積んでいるのはわざわざ口に出す必要もないほどに明らかだ。

 

ただの自信過剰なお子様ではない。

 

 そんな彼ならば、無論、攻撃魔法にも努力を重ねていることだろう。

 

まだ実物は見ていないが、フェイトやなのはクラス……いや、それ以上の力を有していると考えて動くべきだ。

 

 なんの工夫も施されていない通常の俺の障壁では、アルフやフェイトが使う一発あたりの威力はそれほどでもない弾幕用射撃魔法でも蜂の巣のように穴だらけにされる。

 

強敵相手では俺の障壁は水に濡れたオブラートほどに役に立たない。

 

障壁の発動時は最初から、密度変更版を使うこととしよう。

 

「こちらに戦う意思はない。ただ君たちの状況と、現状の説明をしてもらいたいだけなんだ」

 

 はっは、と乾いた笑いがこぼれてしまった。

 

「先に手を出してきておいてよく言えたな。センスのある冗談だ。信じてもらえるとでも思ってんのか?」

 

「兄さんっ、戦っちゃダメです! 相手は時空管理局の人ですよ!」

 

「そいつは自称だろう。証拠はねぇよ」

 

「証明書ならある。君が殴りかかってきたから出せなかったんだ」

 

「その証明書とやらだって本物かどうかこっちでは判別できない。なにより正義の味方を自任する強大な組織ってんなら、一般市民に対してあまりにも不躾すぎただろ。本物だろうが偽物だろうが、結局信用するに値しねぇよ」

 

 そういえば以前、ユーノから魔法の説明を受けた時に、その魔法の傾向について言及していた気がする。

 

 なのはやフェイト、つまりは俺たちが使っている魔法は正式名称をミッドチルダ式魔法――長いのでミッド式と略されるらしい――というらしい。

 

紐つけてベルカ式という魔法の系統も教えてもらったが今は関係ないので置いておく。

 

 ミッド式は汎用性と、多様な局面で使えるようにバリエーションに重きを置いているらしく、範囲は近距離から遠距離までカバーでき、障壁などの防御、拘束や回復などの補助的な役割の魔法も多々あり、非常に使い勝手がいい(適性がなければ無意味だが)。

 

そしてここで重要なのが……ミッド式の魔導師は、いざ戦いとなれば基本的には射撃や砲撃といった距離を取った攻撃が主となるらしいということ。

 

 フェイトやアルフのような、がちがちの近距離型ばかり見ていたのでユーノの言葉を少し疑い始めていたのだが、どうやらクロノ少年は中遠距離型のようだ。

 

苦手とまではいかないにしろ、少なくとも接近戦を専門としているわけではないと見える。

 

変形するという可能性はあるが、杖もフェイトが携えるバルディッシュのような近接戦闘で使う武器としての形ではなく、なのはのパートナーであるレイハにどことなく似通っているところがある。

 

 以上、ユーノの言葉と杖の形状からの推定を含めた仮説。

 

クロノ少年は中遠距離型、拘束魔法で動きを封じ、なんらかの攻撃魔法で行動不能にする、という戦術だろうと推測する。

 

 導き出した仮説をもとに戦い方を組み上げていく。

 

もちろん、この仮説は予想でしかないので、あくまでも『こういった傾向にあるかもしれない』と心に留めておく程度であるが。

 

 攻める取っ掛かりはできた。

 

あとは全力でぶつかるだけだ。

 

「そっちから来ねぇんなら、俺から行くぞ」

 

「……仕方ない。動けなくしてからゆっくりと話をしてもらう」

 

 身体の状態を確認するように爪先で地面を叩き、腕を振る。

 

深呼吸して少年を見据え拳を握り込み、腰を落として足に力を入れ、踏み込んだ。

 

「っ!」

 

 地を蹴り接近戦に持ち込もうとしたが、二メートルほど進んだあたりで腕と足に引っ張られるような衝撃が走った。

 

見れば左足と右腕に水色の鎖が巻きついている。

 

 設置型のバインド……いつ仕掛けられたのか全くわからなかった。

 

俺が踏み込んだ瞬間に張ったわけではないだろう、事前に用意してなければこのタイミングには間に合わない。

 

言葉を交わしたり睨み合いをしている時から準備していたということだ。

 

「設置型……そっちも(はな)からやりあう前提で考えてたんじゃねぇか。『戦う意思はない』とかってセリフはなんだったんだろうなぁ」

 

「なるべく無傷で解決したいと考えていたからバインドを設置したんだ。抵抗しなければ危害を加えるつもりはない」

 

「それは、気に食わないことをしたら叩き潰すぞ、っていう遠回しな脅しか?」

 

「違う! そんなつもりで言ったんじゃない!」

 

 肩を上げて、腕にかけられていたバインドを破壊する。

 

会話中にハッキングしておいたのだ。

 

 ただ、壊すことは壊せるが、なかなかに穴のない術式であることに加え、今まで経験した拘束魔法と少し違うプログラムということもあり、案外時間がかかってしまう。

 

慣れれば解く時間も短縮できるが、強者であるクロノ少年がそこまで悠長に待ってくれるとは到底思えない。

 

力技も考慮に入れておくべきか。

 

「……やはり手で掴まずとも壊せるのか。ならばこれでっ! ストラグルバインド!」

 

『Struggle Bind』

 

 足を縛る鎖がもう少しで崩せるという時に、クロノ少年が杖の先端部をこちらに向けて、もう一つ拘束魔法を追加した。

 

クロノ少年の魔法陣から伸びたそのバインドは、見た目は水色に光るロープといったところ。

 

普段であれば回避するのに訳はない程度の速度であったが、足に水色の鎖が絡んでいるせいで躱せなかった。

 

 外見だけなら腕や足にかけられたバインドよりも脆そうだが、身体に巻きついて初めてその効果を実感する。

 

「魔力付与が……解除された?」

 

「これで無理矢理バインドを破壊することもできないだろう。怪我をする前に投降してもらいたい」

 

 水色の縄が絡みついた瞬間、身体の表面を覆う魔力付与が俺の意思とは関係なく、強制的に解除された。

 

 もしや、この拘束魔法は捕縛すると同時に魔法を使えなくさせる効果もあるのか? だとしたら脅威なんてものじゃない。

 

主力である魔力付与が封じられては、他に戦闘に使用できる魔法のない俺ではまともに戦えなくなる。

 

 そうでなくとも力量には歴然たる差があるのだ。

 

魔力付与を失うということは、継戦能力を失うことと同義だ。

 

 よって俺は――

 

「ふんつっ」

 

「んなっ!」

 

 ――足の拘束は一時保留とし、面倒で邪魔くさい副次的な効果を持った縄を引き千切った。

 

 どうやらクロノ少年は、俺が拘束魔法を破るのに魔法を使っていると勘違いしていたようだな。

 

 たしかにさっきの縄――ストラグルバインドといったか――は強力だ。

 

設置型のバインドに比べて発動するのに時間はかかり気味だったし、魔法陣が展開されてから縄が伸びる速度もお粗末なものだったが、魔法の強制解除をして、なおかつ拘束できるのだから相手は抜け出す術がないだろう。

 

だが残念ながら、それは『魔法』を解除するだけだ、俺のハッキングを封じる枷たりえない。

 

 俺自身でこの能力を『ハッキング』と銘打ってはいるが、厳密には魔法ではない。

 

これは触れた魔法に自分の魔力を注ぎ込み、術式に介入してプログラムを改竄(かいざん)……要するにしっちゃかめっちゃかにして内部の構造を破壊しているだけ、というものだ。

 

自分の魔力さえ使えればハッキングの行使に支障はない。

 

 この縄が魔力すら封じ込める代物だったら、俺はこの時点で両手を上げて降参しなければいけないところだった。

 

その点では助かったとも言える。

 

「目論見が外れたか? 初めて動揺したな。やっと隙ができた」

 

「こっ……の!」

 

 即座に足のバインドを瓦解させ、縄を破壊したことで使えるようになった魔力付与を再度展開する。

 

 俺にかけた合計三つの拘束魔法、その(ことごと)くを破壊されて、クロノ少年は急いで追加のバインドを発動した。

 

しかし慌てたためか、最初にかけられた設置型のバインドのように不可視にはならず、ほんの一瞬だけ水色の魔力光が俺の近くで煌めいた。

 

 もちろんその兆候を見逃さず、あえて少年に近づくことでバインドを回避する。

 

バインドを置き去りにするように襲歩で急速接近し、その勢いのまま右の拳を振り抜いた。

 

「はっ、やいなっ……。見事なものだ」

 

「才能がないもんでね。一つを極めないと追いつけねぇの」

 

 俺の拳は水色の障壁に阻まれ、鈍い音と衝撃を辺りに撒き散らした。

 

 ダメージを与えることはできなかったが、ここまでは予想通りなので構わない。

 

障壁に触れている右手でハッキングを行使、構成されている術式を掻き回して強度を落とす。

 

防御されてからが俺の策だ。

 

「なんだ、これは……っ! なにをしたんだ!」

 

「種明かしの時間にはまだ早いな」

 

 拘束魔法とは違い、防御魔法の障壁は常に魔力を送り込んでいるのでハッキングによる違和感に気づいたのだろう。

 

 だが、気づいたところで何もできはしない。

 

術式が崩壊しているのだから、魔力を注ぎ込んでも落ちた強度は戻らないのだ。

 

俺が手当たり次第に書き換えていく術式を俺に勝る速度で修正できるなら抵抗も可能だろうが、術式とは本来緻密に練り上げられるもの。

 

壊すのは簡単でも、それを自分の手で直すとなると途端に難易度が上がる。

 

それこそ、障壁を一度解除し、作り直した方が早いほどに。

 

「判断が遅れたな」

 

「くぅっ……」

 

 クロノ少年を右足で障壁ごと横薙ぎに払う。

 

 ぼろぼろになった障壁で防ぐことはできないと瞬時に悟った少年は、咄嗟に俺の右足と自分の身体の間に杖を挟むことで直撃を回避した。

 

杖による防御は成功したが、魔力付与と捻転力を乗せた蹴りの衝撃までは受け流すことができなかったようで五メートルほど吹き飛ぶ。

 

 やはり読み通り、近接戦においてはいくらか俺に()がある。

 

クロノ少年は近距離戦もそつなくこなすようだが、それは所詮『そつなくこなす』程度だ。

 

さすがに素手喧嘩(ステゴロ)の野蛮な殴り合い勝負は専門ではない。

 

 アルフならまず右拳の打撃は障壁を使わずに回避しただろうし、続く蹴りも確実に防ぐか躱すかしてくるだろう。

 

鮫島さんあたりだと一撃目からカウンターを合わせてくるし、蹴りなどもはや打たせてくれるかさえわからない。

 

このように俺の周りには零距離格闘の鬼が多いからな、『そつなくこなす』程度の技量なら俺に軍配が上がる。

 

 クロノ少年が体勢を立て直す前に畳みかけるため、襲歩の構えを取るが、ちらりと少年の顔が目に入った。

 

嫌な気配を感じ取り、急に悪寒が全身を走り、肌が粟立つ。

 

 第六感的な感覚を信じ、近づくのをやめて左へ退避。

 

その瞬間、俺がいた空間を三条の水色の閃光が貫いた。

 

 額に冷や汗が滲む。

 

背筋は凍ったように冷たくなる。

 

 接近戦では俺が勝るが、どうやら頭脳戦では少年のほうが一枚上手のようだ。

 

零距離の肉弾戦では分が悪いと判断して、俺の蹴撃を利用し距離を開いた。

 

 負けず嫌いかと予想していたが、思ったより柔軟な考え方を持っているし、思ったよりずっと大人だ。

 

「シャレにならんっ、速すぎだろっ!」

 

「初見で回避できる者はそういない。誇っていい。だが……次も躱せるか?」

 

 褒めてくれたが全然喜べない。

 

さっき躱せたのはただの直感、単なる偶然で、それでなければ勘が冴えただけだ。

 

そんな曖昧なものがそう何度も使えるわけがない。

 

 次射は自力でなんとかしないとノックアウト確定だ。

 

 恐怖から目を背けたくなるが踏ん張ってどうにか耐え、些細な情報も見逃さぬよう目を見開く。

 

浮かび上がった水色の魔力の球体は先刻と同じ三発。

 

言葉を失うほどの速さで飛来するが、幸い誘導機能はないらしく、回避できれば追ってくることはない……が、どうやって回避するかというのが問題だ。

 

人間の反応速度を超えているのでは、というほどの弾速のせいで、目にはレーザーのような光の線としか映らない。

 

 拳銃のように銃口を向けられていれば、その角度からどこに飛来するか予測できるが、魔法に銃口なんてものはない。

 

撃つ方向は魔法の行使者が自由に決められる。

 

 どうするべきか……あの速度の射撃魔法三つを同時に避けるなんて俺の反応速度では無理だし、障壁では三つ全部を防ぎきれないだろう。

 

なのはのディバインバスターを防いだ多重複合式障壁群『魚鱗』ならば防げるだろうが、あれは魔力の消費が激しすぎる。

 

防御に成功したとしてもそこから戦えなくなっては本末転倒だ。

 

 だが他にあの強烈な射撃魔法を防ぐ手立てなんて……いやまて、あのクロノ少年が三発とも俺に向けて放つか? 俺はまぐれとはいえ、すでに一度、襲歩で回避に成功している。

 

少年からすれば『また同じ移動術を使って躱すのでは?』と考えるんじゃなかろうか。

 

 用意周到で頭の切れる少年のことだ、きっと三発のうち二発は俺が左右に逃げた時のために右と左に振り分けるだろう。

 

となれば、動かなかった時を考慮して残りの一発は真っ直ぐ俺に来る。

 

 そう仮定すると回避するという選択肢は消滅するが、集中するのは一発で済む。

 

たった一発なら障壁を何枚か張れば防げる……はずだ。

 

 落ち着け、集中しろ……弾道を予測して障壁を配置する。

 

いつものように、ただそれだけのことだ。

 

「スティンガーレイ」

 

『Stinger Ray,fire』

 

 案の定、三発のうち二発は俺を避けるように左右に分かれる。

 

クロノ少年の賢さに賭けて正解だった。

 

 とはいうものの、ここからが勝負だ。

 

まっすぐに俺へと向かってくる一発を防がないといけないのだから。

 

 思考速度のギアを上げる、マルチタスクを運用、極限まで集中、イメージは凪いだ水面。

 

耳に届く雑音は遠のき、視界は灰色に染まる。

 

思考速度が――俺の意識を追い抜いた。

 

 通常障壁を配置、弾道を予測――障壁貫通、弾道特定――弾道上に密度変更型障壁を展開――弾速低下も貫通、失敗――弾道上に再度展開――なおも貫通、失敗――弾道上に再度展開、加えて角度変更――弾道変化、成功

 

 これが集中の極致なのだろうか、自分でも驚くほどのスピードでめまぐるしく思考が回転し、気づいた時にはクロノ少年が放った弾丸は逸れ、俺の脇をすり抜けてコンテナ群に突き刺さっていた。

 

 脳が熱を持ったようにじんじんと痛む。

 

これは過度に演算処理に集中した代償か……あまんじて受けよう。

 

 しかしさっきの状態はなんだったのだろうか、以前までであればあんな人外じみたことはできなかった。

 

魔法に関わってから頭を使うことが増えたので脳みそも進化したのだろうか? 人体の神秘である。

 

 後方で誰かが息をのむ音が聞こえる。

 

 前方ではクロノ少年が小さく口を開いて目を白黒させていた。

 

『大きな魔力は感じない』などと言っていたので防ぐことはできないと思っていたのだろう。

 

 俺は痛む頭を我慢して、底知れなさを演出するためポーカーフェイスを貫き通す。

 

「さぁ、続きを始めるか」




時空管理局に対して否定的な言い方をしていますが、別に叩きたいわけではありません。
それについては次話、もしくは次々話で説明できると思います。
少々お待ちを。



SAOの二次創作などを見ていると自分も書きたいなぁ、なんて思ってしまう今日この頃。
書くスピード遅いのに何を考えているのやら。


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「言いすぎだろ。泣いちまうぞ」

まさか丸々二話かかるとは。


「……っ、す……スティンガーレイっ! 貫け!」

 

『Stinger Ray,fire』

 

 数秒の間下りていた沈黙の帳を引き裂くように破ったのは、クロノ少年の苛立ち交じりの咆哮だった。

 

 先ほどと同一の魔法、生み出された数も同じく三つ。

 

魔法を展開したクロノ少年は杖を頭上高くかざし、勢いよく振り下ろした。

 

「くぅっ…………」

 

 疼痛を訴える頭を無理して回し、再度集中する。

 

火種がじわりじわりと燃え広がるような感覚が頭を襲う。

 

脳を使いすぎたことによる過熱(オーバーヒート)みたいなものだろうが、使わずに乗り切ることはできないので歯を食い縛って我慢する。

 

 十数秒前と同じ感覚が訪れた。

 

視野が狭窄し、背景は消し飛び、殺到する魔法のみが映る。

 

速いはずの射撃魔法を視界に捉えることができ、弾丸が俺に迫ってきているのが見て取れた。

 

 

 既知の術式、同様の対処を効率化し実行――通常障壁を展開、弾道を予測――障壁貫通、敵性弾数三、弾道特定――各弾丸に対し密度変更型障壁を展開――貫通、弾速の低下に成功――各弾丸の弾道上に再度展開、加えて角度変更――弾道変化、成功

 

 

 クロノ少年の放った射撃魔法の一つは俺の後方の地面に着弾、一つは暗いオレンジ色の染まる空に消え、一つはまたもやコンテナ群に突き刺さった。

 

砂煙が舞い上がり、背後で積み上げられたコンテナが崩れ、轟音が耳朶に触れる

 

 だが、今の俺にそれらを気にするだけの余裕はなかった。

 

 頭蓋骨の内側が全てどろどろに溶けそうなほどの熱が俺を苛む。

 

目の奥がじんじんと疼き、指先まで震えてきた。

 

 玉のような汗が頬を伝うが、それでも苦痛をおくびにも出さずにただクロノ少年を見やる。

 

少年は驚きのあまり、目をむいて口が開いたままになっている。

 

握られている杖は振り下ろされた状態から変わらず、今までになく無防備だった。

 

 だが、俺も状況でいえばクロノ少年と大差はない。

 

 最初の一発を防いだだけでもかなりの痛みが脳内を駆け巡ったが、今回の痛みはそれどころの話じゃなかった。

 

まるで神経に直接ヤスリをかけられたかのような激痛が頭を埋め尽くし、溢れ出だした痛みが全身にまで伝播する。

 

心臓は早鐘を打ち、目の前がかすかにぼやけ、さらには足の筋肉まで軋む。

 

 こんなことになるのなら魔力の消費が激しくても『魚鱗』を張っておけばよかったという後悔が胸中をよぎるが、切迫した場面だからこそ極限まで集中することができて、そのおかげで先の超高速演算が可能であることが判明したのだから少なくとも収穫はあったとポジティブに考えるべきか。

 

 ばらばらに散った集中力を拾い集めるようにゆっくり深呼吸する。

 

クロノ少年が呆然自失となっている間に気休めでも体力が戻ればそれでいい。

 

「は、はは……何をしたんだ……いったい何をしたんだっ。スティンガースナイプ!」

 

『Stinger Snipe,fire』

 

 乾いた笑いをもらしつつ、なにかが弾けたように言い放った。

 

どこか機械的な女性の声を持つ杖はクロノ少年が叫んだ魔法名を復唱して、先端部から水色の魔力光を迸らせる。

 

 初めて見る魔法……螺旋を描きながら不可解な軌道を取るその射撃魔法はスティンガーレイよりかは幾分遅い。

 

感覚が戻ってきた足に力を込め、目の前に迫る水色の魔法弾を左に大きくステップして回避する。

 

不規則に動くため予測はしづらかったが、高速の射撃魔法スティンガーレイで目が慣れていたので避けるだけなら容易いものであった。

 

 後方に流れた魔法弾を目で追うこともなく、クロノ少年を注視する。

 

 時間的にもうそろそろよさそうなものだが、不用意に後ろを確認して少年の魔法が直撃するとただじゃ済まないだろう。

 

俺としても怪我はしたくない、痛い思いをするのはまっぴらごめんである。

 

それとなく確認できるタイミングもあるだろう、その時を待っていればいい。

 

 射撃魔法を回避したというのにクロノ少年は次の手を打ってこない。

 

身体に覚え込ませているのか姿勢は相変わらず自然体、杖の先端を俺に向けてはいるがそこから攻撃に移る様子はない。

 

 真意は読めなかったが、このまま膠着状態を続けていても俺に有利に運ぶことはないだろう。

 

こうしている間にまた設置型バインドを隠伏(いんぷく)させられたら厄介だ。

 

距離を置いてもいいことはない、ならば攻め続けるべきか。

 

熱が薄れてきた頭でそう結論付け、肉薄するため腹の底に力を入れ、襲歩の構えで前傾姿勢を取る。

 

 全身の筋肉からの爆発力を推進力に変換するため踏み込んだ時、クロノ少年の持つ杖がかすかに動いた。

 

 途端――後ろから氷柱で心臓を貫かれるような、冷たく鋭い気配。

 

それがなにに起因するものなのか背後を確認する余裕もなく、後方より迫る心胆寒からしめる悪寒から逃れるように襲歩で前方に逃避する。

 

 連続での使用は未だに成功率が低かったが、一心不乱だったためか二回続けて襲歩を行うことができた。

 

クロノ少年を通り過ぎてやっと身体の芯を凍てつかせるような気配が薄まり、足を止める。

 

俺がいた場所からは十五メートルほども離れた位置まで来ていた。

 

 背後を確認すれば、俺が躱したはずの水色の魔法弾が、円柱の外縁部を添いながら回転するような機動でなおも近づいている。

 

ただの直射型ではない、誘導性能を有した射撃魔法だったのか……油断した。

 

「躱しても追撃できる。これもさっきのよくわからない能力で逸らせるか?」

 

 杖を地面と水平に払いながら、こちらへ振り向いたクロノ少年。

 

 さっきの超高速演算状態なら対処できるかもしれないが、もう一度使えば確実に戦闘を続けることができなくなる。

 

頭の熱は薄れてきたが疲弊は残っているのか霧がかかったようにすこしぼやっとしているし、平時より思考の回転率が落ちている。

 

もう一度使って意識を保っていられる自信は、今の俺にはない。

 

 (くだん)のスティンガースナイプとやらは回避したところでUターンし、また俺に向かってくるだろう。

 

避けても無駄なら、破壊するしかない。

 

 その場合、乗り越えなくてはいけない壁が二つある。

 

一つはスティンガースナイプについて。

 

誘導弾の制御は術者に依存しているようで、狙いをつけられないようにか、それとももともとそういう機動を取る魔法なのか右に左に上に下にと小刻みに動いている。

 

射撃魔法でも使えればクロノ少年の足元に着弾させて砂煙で視界を奪うのだが……ないものをねだっても仕方がない。

 

威力に関しても不確定要素があるが、一応考えはついている。

 

 もう一つの壁はかなりの破壊力をもつだろう誘導弾をどう壊すか。

 

俺の攻撃手段は両の拳のみ、あの魔法を破壊するとなれば殴ってぶち壊す以外にない。

 

こちらについての策ももう用意している。

 

ただ腹を決めて歯を食い縛って覚悟を決めて殴ればいいだけ、要するに気合で乗り切るのだ。

 

 襲歩で引き離したぶん、ある程度は魔法弾と距離があいていた。

 

この際魔法弾を無視して格闘戦をしかけるか、という考えが湧いてきた直後、クロノ少年の口が静かに言葉を紡いだ。

 

「スナイプショット」

 

 そのままでも充分な速度を持っていた誘導弾がさらに加速した。

 

空を()ける大蛇の如くのたうち回り、綺麗な水色の輝線を描きながら俺へと向かってくる。

 

飛躍的にスピードアップして思わず悲鳴が口を()きそうになるが、必死に唇を閉じて外へ出さないようにした。

 

この厄介な魔法をどうにかしないといずれ自分の首を絞めることになる、そう考えを改め、クロノ少年に接近する案を破棄して目前に迫る誘導弾に傾注する。

 

 誘導弾を打ち砕こうにも、ここまで速いと拳を合わせるだけでも骨が折れるし、どれほどの威力を宿しているかもわからない。

 

なので、まずは速度と威力を削る。

 

 どれほど軽減させられるかわからないが、二重に密度変更型障壁を構築する。

 

 障壁の展開直後に魔力弾が飛来し、がぎぃっ、と不安を煽り恐怖を増長させる不快な音が空気を叩き、障壁に致命的なほど大きな亀裂を刻んだ。

 

直後、ガラスを砕き割るような甲高い音が響き障壁が砕け散るが、ほんのわずかに魔法弾の動きが止まった。

 

 ここにしかチャンスは残されていない、動き出して加速すれば再び手をつけられなくなる。

 

胸中に渦巻く恐れが声帯を通して言葉にコンバートされそうだったが、なんとか飲み下した。

 

「うぉらァッ!」

 

 魔力付与を右拳に集中させ、なかば怒鳴るように――恐怖を打ち払うように叫びながら魔法弾を殴りつけるが、障壁で勢いを殺されてもなお重い。

 

出せる全力で、抜群の踏み込みで、この上ないタイミングを狙って打ち込んだというのに粉砕するどころか弾き飛ばすこともできない。

 

 視界の端に映るクロノ少年を盗み見ると杖を俺に向けて眉間にしわを寄せている。

 

制御可能な誘導弾であるというのに、一旦後ろに下がらせるという挙動を取らないところを見ると、このまま押し込めば突き崩せるだろうという結論を出したのか。

 

 なるほど、その判断は的確だ、俺のコンディションはお世辞にも好調とは言い難い。

 

魔力こそそれほど消耗していないが、神経が恐ろしく摩耗している。

 

過度の集中を繰り返して頭が疲れ切って思考速度も低下してきた。

 

遠からず拳を弾かれて被弾することは目に見えている。

 

その前になにか対抗手段を取らなければ地を舐めて敗北を喫することになるだろう。

 

別に死者が出るわけでもないのだから負けたって構いはしないのだが、まだちゃんと安全を確認したわけではない、それまでは膝を折るわけにいかなかった。

 

 現状、拳のすぐ先には誘導弾が水色の魔力粒子を振り撒きながら輝いている。

 

踏み込んだ状態でお互いの力が拮抗しているので大きく身体を動かすことはできない。

 

 この選択肢が限られている戦況でできることなどほぼ皆無のように思えるが、俺の頭にはたった一つだけ、打開策が浮かんでいた。

 

鮫島さんが教授してくれて、実際に練習試合で見せてくれてレクチャーもしてくれたが結局一度として成功させることができなかった技。

 

動作が少なく、『静』から急激な『動』を経て爆発的な破壊力を(もたら)す奥義。

 

 鮫島さんから直接間近で見させてもらって、実際にこの身で味わっただろう。

 

ここが胸突き八丁……見せ場であり正念場だ。

 

ここで()せなければ矜持に関わる、男が(すた)る。

 

「決めてやっから……目を見開いてよく見とけよ」

 

「強がらなくていい、もう限界だろう。君らにとって損になるようなことは決してない、拳を下ろしてくれ」

 

 自分を鼓舞するための言葉だったが、クロノ少年が返してくれた。

 

ありがたいな……さらにやる気が出てきたぜ。

 

 心中で感謝しつつ、全身になけなしの集中力を回して神経を尖らせる。

 

注意しろ、一瞬のインパクトがこの技の華で、肝だ。

 

 短く息を吐く。

 

全身の筋肉の同時駆動……地面をしっかりと足の裏で掴み、下腿で支え、大腿で踏ん張り地面から返る力をブーストし、腹部・服側部・背部で安定させ余すことなく上体に送り込み、流れ込んだ力を胸郭で集約し、腕で凝縮させ、その全てを刹那よりも短い時間で拳から解き放つ。

 

神無(かんな)流奥義、『発破(はっぱ)』」

 

 拳の先にあった水色の誘導弾が粉々どころか、粒子状にまで細かく爆散した。

 

 右腕を伸ばした残心のままの姿勢で感じる、失敗した時の違和感や各部に残る不快感は一切ない。

 

不純物を洗い流すかのような清々しさが俺の身体を駆け抜けた。

 

深く息を吸って、肺に溜められた空気を長い時間をかけて吐く。

 

鳥肌が立つほどの快感が俺を襲ってきて、口元が綻ぶのを我慢できなかった。

 

全身の力を十全に溜め、身体を巡らせ密度を上げて拳から標的目掛けて万全に(とお)す。

 

ただそれだけのことが……とても気持ち良かった。

 

「……む、無茶苦茶だ……」

 

 クロノ少年の声で、天にも昇るような恍惚感から現実へと回帰する。

 

 そうだった、まだ戦闘中だったのをすっかり忘れてしまっていた。

 

なにかもう、全てを吐き出したかのような気分だ、満足してしまったと言い換えてもいい。

 

練習やトレーニングでは得られない、強者と交わす本気の勝負というのはなにものにも代え難い、素晴らしい経験になるんだと再認識する。

 

これ以上は蛇足だと断言できてしまうほどの爽快感だった。

 

 クロノ少年のさらに後方、一時は直射型射撃魔法スティンガーレイが地面に着弾して砂煙が舞い上がり視界を奪っていたが、今は海から吹く強い潮風で綺麗に取り払われている。

 

少し離れていたが心配そうにこちらを見つめる人影も認められた。

 

 バリアジャケット姿のままのなのはと、そのなのはの左手に握られている音叉型のレイハ、なのはの肩に乗るユーノの三人(・・)を。

 

 フェイトとアルフは(ついでにバルディッシュも)ちゃんと(・・・・)撤退してくれたようだ。

 

これならもうクロノ少年と……ひいては時空管理局とやりあう理由はない。

 

なのはとフェイトを縛り上げてくれちゃった件についてはきっちりと断罪させていただくが、それはまた後日でいい。

 

今は早急に時空管理局と話をつけることが先決だ。

 

「降参だ」

 

 両手を上げてギブアップのポーズ。

 

これ以上闘争を続けることに些かの意味もないし、なによりこれ以上痛い目に合うのも苦しい思いをするのもお断りだ。

 

 年下に負けることになって俺の戦歴に傷がつくことくらいはあるかもしれないが、思い返してみれば年下相手には何度か戦い、その度に白星を献上し続けている。

 

今回もう一つ黒星を飾ったところで傷つくプライドなんざありはしない。

 

もうすでに、俺のちっぽけなプライドはぼろ雑巾に等しいレベルにまで落ちているのだ。

 

「は……? ぃ、今さら降参? ここまでして……僕の魔法を素手で殴り壊しておいて……降参?」

 

 ぽかん、と口を開き、何を言っているのか理解できないという風に首を傾げるクロノ少年。

 

杖を持つ腕はぷるぷると震え、額には青筋が浮かぶ。

 

 投降しろなどと言っていたのに、いざ投降すると妙な反応を取られた。

 

どうやら少年はお怒りのご様子だ。

 

「くっ、ははっ! そういうことか」

 

 少年はなにを思ったのか、突然笑い出しながら杖をバトントワリングのように華麗に回し始めた。

 

流麗なその動きに見惚れているといきなり、がつっ、と杖の下端を地面に突きつける。

 

その音と同時に俺の身体に拘束のための魔法輪がはめられた。

 

両足、両腕、首にまでバインドをかけられて、まるで犯罪者のような処遇である。

 

「これも君の策の一部っ、そういうことだろう!」

 

 どうするべきだろう、とても大きな勘違いをされている。

 

とりあえず、こんな体勢で攻撃されては俺如きではひとたまりもないので、疲れた脳みそ――特に思考や理性を司っている前頭葉――に鞭を打って拘束魔法にハッキングをかけながら誤解を解くために釈明しよう。

 

「落ち着け、クロノ・ハラオウン少年。そんな(から)め手を使う必要はねぇよ、戦いは終わったんだから」

 

「そう言って油断したところを襲う……そういう算段なのは目に見えている! 騙されないぞっ!」

 

「襲わねぇって騙してねぇってほんとだって」

 

「ふんっ、そうやって手練手管、手八丁口八丁で邪知深く狡猾に戦ってきたんだろう。底意地の悪さが人相に表れている」

 

「言いすぎだろ。泣いちまうぞ」

 

 あまりの悪罵に本気で涙腺がゆるんでくる。

 

「うるさい、ストラグルバインド」

 

『Struggle Bind』

 

 そんな俺に容赦することも斟酌することもなく、あまつさえさらにバインドを増やしてきた。

 

 クロノ少年がゆっくりと、緩慢な動きで近づいてくる。

 

一歩踏み出すごとに、俺の身体に一本バインドが追加される仕組みのようだ。

 

もはや雁字搦(がんじがら)めである。

 

その拘束魔法の発動スピードたるや、俺のハッキングがまるで追いつかないほど。

 

いやはや、優秀だとは思っていたがこれほどまでとは……さすがに舌を巻く。

 

 そろそろなのはに念話で助けを呼ぼうかなぁ、と女々しい考えに陥り始めた時だった。

 

 

 

『クロノ執務官……これはいったいどういうつもりですか?』

 

 

 

 凛と響く優しい声色のはずなのに、どこか底冷えするような迫力がそこにはあった。

 

 初めて聞く声のはずだが、どこかで聞き覚えがある気がする……。

 

しばらく考えて思い当たった、クロノ少年のデバイスの音声に酷似しているんだ。

 

 しかしこの声はどこから聞こえているのだろうか、目のあたりまでバインドで拘束されているおかげで視界すら確保できない。

 

「か、母さ……いえ、艦長……。あの、これは……」

 

 恐怖と言う長柄に怯懦(きょうだ)という刃を取りつけて、忸怩(じくじ)という砥石で研ぎ澄まされ、諦観という細工で装飾を施された毒々しくも禍々しい大鎌を頸動脈に添えられたみたいな、掠れきった上に弱々しくて細々しい声でクロノ少年は返す。

 

さっきまでの意気がまるで嘘のような沈みようだ。

 

『戦域にいる方々を出来るだけ穏便に艦に連れてくるように、とお願いしたはずですが……私の記憶違いでしょうか?』

 

「いえ……命令は、その通りです……」

 

『ええ、そうでしょう。なのに現地の少年と戦闘になり、しかも片方の勢力の少女二名はどこかへと転移してしまいました。どうしてでしょう、おかしいですね。ふふ……』

 

 クロノ少年の対応の恭しさを鑑みるに話し相手は役職が上の人間のようで、フェイトとアルフの二人を取り逃がしたことについて穏やかな声とは裏腹に(なじ)られている

 

 俺の心に、少しだけ罪悪感が顔を覗かせた。

 

なのはとフェイトに対して手荒な真似をしたことに関してだけは決して許しはしないが、基本的にクロノ少年のような男の子は好ましいタイプだ。

 

真面目な性格しかり、小生意気な物言いしかり。

 

技術や経験に差があることは理解しているが、また再戦したいと思うほどである。

 

俺がフェイトとアルフを逃がすのに協力したせいでクロノ少年がお叱りを受けるというのはすこし申し訳なく感じる。

 

戦闘の節々で煽るようなセリフを吐いていたのも、冷静さを失わせて俺に注意を集中させるためだ。

 

別にクロノ少年が憎くてあんな悪意と敵意に満ちた暴言を放ったわけではない。

 

 ……なのはとフェイトにいきなりバインドを掛けた時はガチでキレちまったが。

 

『なにか言い分や申し開きがあれば聞きますが?』

 

「……ありません」

 

『ならば少年の拘束を速やかに解き、残った方たちを丁重に艦へご案内しなさい』

 

「…………はい……」

 

 どんよりとした陰鬱な闇を背負いながら、クロノ少年は項垂(うなだ)れた。

 

 拘束が解かれて自由になった身体の筋肉をほぐすように伸びをする。

 

心なし潤んでいるようにも見えるクロノ少年の鋭い視線は無視させてもらうことにした。




無印アニメのほうをちらりと見ましたが、クロノくんめっちゃくちゃカッコいいですね。
名言とか多いですし、セリフとか男前すぎます。
惚れました。


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「提案があります」

更新遅れてすいません。
(友達の)田舎の城崎に遊びに行っていて更新する時間がありませんでした。
温泉楽しんできました。


「ここどこなのかな?」

 

「艦がどうとか言ってたから船の中だとは思うんだけどな」

 

「この艦はL級次元巡航船・アースラだ。これから艦長のもとまで案内する」

 

 かすかに光沢を放つ廊下を歩きながらクロノ少年の説明を受ける。

 

時空管理局の仕事内容などもついでに説明してくれたが、大体の部分はユーノに聞いていた通りだったので半分以上聞き流した。

 

 一通り話し終わるとクロノ少年がいきなり足を止めたので、後ろについて歩いていた俺となのはも立ち止まる。

 

忘れていた、と呟いてこちらへ振り返る。

 

「二人とも、バリアジャケットは解除してくれ。あとそこのちっこいのも。それが本来の姿ではないんだろう?」

 

 前文は俺となのはに視線を送りながら、後文は俺の肩に乗るユーノに向けて言われたものだ。

 

「そういえばなのははずっとバリアジャケットのままだったな」

 

「もとの服に着替えるタイミングなかったもん。レイジングハート、お願い」

 

『はい、マスター。……徹、マスターを舐めまわすようにじろじろ見ないでください。マスターが(けが)れます』

 

「絶好調だなレイハ。相変わらず罵詈雑言(ばりぞうごん)にキレがある」

 

 なのはは、瑞々しく肌触りの良さそうな頬を若干膨らませながらレイハに指示を出す。

 

バリアジャケットの着脱時にはいつも光で包まれるのだが、今回は通常時の倍くらいの光量でなのはが覆われた。

 

お着替えシーンを見せないようにするためか……くっ、主人想いのデバイスめ。

 

まぶたを閉じていても突き刺すような光が眼球を襲う。

 

やっとのことで目を開くと、そこにはもうなのはが私服姿で立っていた。

 

レイハも杖の状態から待機モード、赤い球状のネックレスになってなのはの首にかかっていた。

 

 嘆息しつつ、クロノ少年の言葉を思い出して疑問を抱く。

 

『ちっこいのも。それが本来の姿ではないんだろう?』というセリフは、ユーノにあてられたもののはずだ。

 

いまいち要領を得ないので肩に乗るユーノを見やれば、そうだった元の姿に戻るの忘れてた、と苦笑しながら言う。

 

 さらに混乱が頭の中を埋め尽くすが、俺の疑問を口に出す前に、ユーノが自ら解答を提示した。

 

俺の肩から小さい身体を精一杯伸ばして前方にジャンプし、光に包まれる。

 

白い光の中のシルエットがフェレットもどきから徐々に大きくなり、人型になったところで光が収束した。

 

「二人にこの姿を見せるのは久しぶりになるのかな」

 

 そこには黄土色の髪を持つ可愛らしい顔をした少年がいた。

 

華奢な体躯を若草色のパーカーとカーキ色の半ズボンで包んでいる。

 

なのはより数センチほど背が高いだけなのでそれなりの格好をしたら女の子に間違えられそうな容姿だ。

 

「ゆ、ユーノくんって……普通の男の子……だったんだ」

 

「遺跡の発掘とか調査が仕事って言ってたんだからフェレット状態は仮の姿だとは思っていたが、こうまで普通に人間だとさすがにちょっと驚くな」

 

「あ、あれ? なのはにも兄さんにも見せてませんでしたっけ?」

 

「初めて見たよぉっ!」

 

「初めて会った時からフェレットだったじゃねぇか」

 

「そ、そうでしたっけ? すいません」

 

 俺となのはに問い詰められたユーノは頭の後ろをさすりながら、少し首を傾けて困ったように苦笑した。

 

その姿がまた愛らしく、そっちの気がある人間なら一発で落とされそうな仕草だった。

 

「ほら、君も武装解除してくれ。君が一番危険な人物なんだからバリアジャケットどころかデバイスも取り上げたいくらいだがな」

 

 ユーノとの歓談にクロノ少年が水を差すように割って入ってきた。

 

腕を組み斜に構えて俺を見る少年はどことなく大人ぶって見えて、素っ気ない態度のなかに可愛げがあった。

 

 普段であれば一言二言からかう言葉が口から飛び出る所だが、ここは時空管理局の旗を掲げる船の中。

 

敵ではないようだが、味方であるとも断言できない。

 

これ以上印象を下げるようなことをしては俺たちにとってマイナスになるかもしれない、そう考えて口をつぐみ、茶目っ気は抑えてクロノ少年に返答する。

 

「俺バリアジャケット着てねぇよ? デバイスも持ってねぇし」

 

「……は?」

 

 俺がそう答えるとクロノ少年は三秒ほど黙り込んで、目を見開いてまっすぐに身体ごとこちらを向いた。

 

「たしかに兄さんはデバイス持ってませんね。僕はレイジングハートしか持っていませんでしたし、兄さんに渡すぶんがありませんでした」

 

「徹お兄ちゃんはどうやって魔法使ってるの?」

 

「デバイスってのは術者の代わりに術式の演算をするものだそうだ。その演算処理を自分の頭でやってるってだけで、そんなに難しいことをしているわけじゃないぞ? ユーノもデバイス使ってないし」

 

「僕は兄さんほどに同時に複数を展開、かつ即座に構築することはできませんよ」

 

「また謙遜して……やろうと思えばお前もできるだろうに。というか、俺の場合はいくつも張っておかないと使い物にならないからそうしてるだけだ」

 

『徹の場合は展開しつつさらに動き回って近距離で打ち合いますからね、紛れもない人外です。ヒトモドキです』

 

「せめて人類という枠組みからは外さないでくれよ」

 

「やっぱり徹お兄ちゃんはすごいなぁっ」

 

「ま、待ってくれ、デバイスを使わずに僕と戦っていたっていうのか? バリアジャケットも装着せずに? 本当に?」

 

 驚愕に口を開いて思考停止に陥っていたクロノ少年が再度質問する。

 

その勢いに頬を引き攣らせながら答える。

 

「あ、あぁ……そうだけど。べつにそれで問題はないし、やっていけてるし」

 

「き、危険すぎる……滅茶苦茶だ。生身の状態で、しかもそれで射撃魔法を殴り飛ばしたなんて……」

 

「一応魔力付与は使ってるから生身じゃないぞ」

 

「クロノ執務官、でしたか? 兄さんはこういう人なんであんまり気にしないほうがいいですよ」

 

「……そうだな。聞きたいことは山のようにあるが、今は置いておこう。艦長のもとへ案内するのが先だ」

 

 クロノ少年は額に指を添えながら疲れたように頭を振る。

 

 どうやら俺の戦い方はセオリーから外れているようだ。

 

俺は使える魔法をすべて使って、自分に合った戦法で相手に立ち向かっているだけなのだが。

 

 心労がたたっているのか、若いのに眉間にしわを刻みながらクロノ少年は続ける。

 

「あと僕のことはクロノでいい。時空管理局執務官クロノ・ハラオウンだ。ちゃんと自己紹介できていなかったから改めて言っておく」

 

 俺へ睨みつけるような視線を送りながら、再度名前と肩書きを述べる。

 

 いきなり殴りかかったのは悪かったとは思うが、謝ろうとは思わない。

 

俺も悪かったがクロノ少年にも非はあるのだ。

 

「高町なのはですっ。よろしくね、クロノくん」

 

「ユーノ・スクライアです。よろしく、クロノ」

 

「逢坂

「君の名前は知っているし心に刻み込んでいる。名乗る必要はない」

 

「そうかい、クロちゃん(・・・・・)

 

「き、貴様っ……」

 

 なのはもユーノも自己紹介したのになぜか俺の時だけクロノ少年が被せるように邪魔してきたので、つい大人げなくやり返してしまった。

 

 クロノ少年、もといクロノの杖を握る手がぷるぷると震えだして、あーやっちまったかなぁ、なんて後悔し始めた時、救いの声が艦内に響いた。

 

『クロノ執務官、客人を早くご案内するように。繰り返します……』

 

「……………………」

 

 まるでこの場をどこかから見ていたかのような狙いすましたタイミングで鳴った艦内アナウンスに出鼻をくじかれ、クロノは俯いて黙り込んでしまった。

 

なにも艦内放送を使わずとも念話で事足りるだろうに……。

 

 恥辱から顔を真っ赤に染め上げて、それでも職務を全うすべく歩き始めたクロノの背中にさすがの俺も同情してしまい一言だけ、ごめんね、と投げかける。

 

するとクロノは小さく、うるさいっ、と突っぱねた。

 

機嫌を損ねていてもちゃんと言葉を返すあたり、真面目な性格が滲み出ていて俺は思わず笑ってしまった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「この艦の艦長を務めています、リンディ・ハラオウンです。よろしくね」

 

 俺たちが通された応接室は、一般でいう応接室とは一味違った趣向だった。

 

畳敷きに茶道の道具一式。

 

なぜか和傘が後ろにオブジェのように飾られており、リンディ・ハラオウンと名乗った女性の背後では鹿威(ししおど)しが一定の間隔で小気味いい音を鳴らしていた。

 

 いろいろ部屋の(おもむき)について尋ねたいところではあったが、先に入るよう指示されたので今は口を(つぐ)む。

 

 こういう場は苦手だが、俺たちの勢力(総勢三人)の中では俺が一番年上なので、一応年長者として正客席(正面)に座った。

 

俺の隣になのは、その隣にユーノが着く。

 

クロノはリンディさんの斜め後ろに控えた。

 

「俺は逢坂徹です。こっちの可愛い女の子が高町なのは、その隣の可愛い男の子がユーノ・スクライア。よろしくです」

 

 先に相手が自己紹介をしていたので座って早々に俺も名乗り、隣に並ぶなのはとユーノも紹介しておく。

 

俺が軽く頭を下げ、なのはとユーノもそれに続く。

 

 時空管理局がどれほど信用に値するかはまだ計りかねているが、この()に及んで相手を騙すような真似を俺はしなかった。

 

すでにポイントオブノーリターンの境界線を俺たちは飛び越えているのだ。

 

今さら時空管理局に敵対するような行為にさしたる意味はない。

 

協力的な態度を取るほうが結果として実りがあるだろうと俺は踏んでいる。

 

もちろん、足元を見られるようなことがないよう注意して、である。

 

「徹君に、なのはさんに、ユーノ君。ええ、よろしくね」

 

 リンディさんは人の気持ちを問答無用に融和させるような笑顔で名前を呼びながら、俺たちの顔を順にじっくりと眺める。

 

穏やかな声に裏を感じるのは俺の性格が捻じ曲がっているからか、それとも説明できないいつもの勘か。

 

 リンディさんは続ける。

 

「さっきはクロノが行き過ぎた行動を取ってしまったみたいで……ごめんなさいね?」

 

 申し訳なさそうに眉を寄せて端整な顔に苦笑いを浮かべるリンディさん。

 

 話題に上ったクロノは彼女の後ろで見るからに()(たま)れないという表情をしていたので、少しフォローをしておくことにする。

 

原因を作ったのは俺なのだし、このせいでクロノが叱られるというのも後で罪悪感に(さいな)まれそうだ。

 

「いえ、その件は俺のほうが悪かったんです。大事な仲間とライバルをいきなり拘束されて、ついカッとなってしまって」

 

「クロノが名乗りきる前に兄さんが殴り込んでしまったのが勘違いの発端でしたね」

 

「でも徹お兄ちゃんもクロノくんもケガがなくてよかったよね。見てて心配だったんだよ?」

 

「そうだ。僕だって戦闘行為をするつもりなどなかったんだ」

 

 ユーノとなのはが管理局よりで話したせいか、クロノが水を得た魚のように勢いを取り戻して釈明しだした。

 

このままの展開で事を運ばれるのは(しゃく)なので、こちらも正当性を説かしてもらおう。

 

「仕方ねぇだろ。害を()す相手かそうじゃないかなんてすぐには判断できなかったんだ。ならまずは危険因子を排除しようとするのは妥当だろ」

 

「殴り飛ばして距離を取ったまでならその理屈でわかります。そのあとに距離を置いたにも(かかわ)らず、僕とクロノの話を一蹴して戦いに入ったじゃないですか。そのせいで事態が悪化したとも言えます」

 

「ゆ、ユーノくん。徹お兄ちゃんはわたしたちを守るために戦ってくれてたんだから……それくらいで……」

 

「クロノ執務官。戦う意思がなかったというのであればわざわざバインドで、しかも女の子二人を縛り上げる必要はありませんでしたよね。記録されていた映像を見ましたが、なのはさんともう一人の少女はあの時点では戦闘行動を中断していました。あの状況であればバインドを使わずともよかったはずです。話し合いに応じてもらえず、攻撃されたのであればまだわかりますが、無抵抗であった今回であれば魔法を使うまでもありませんでした。もっと考え方に柔軟性を持たせなさい」

 

 俺の抗議はユーノの正論で封じられ、クロノの弁明はリンディさんの理論的なお説教で綺麗に撃墜。

 

俺もクロノも『……すいませんでした』という言葉しか見つけられなかった。

 

なのはの助け舟がなければ、俺のガラスのハートは話し合いが始まって数分で砕け散っていたところだ。

 

ばつが悪い思いで頭の後ろをかく。

 

 クロノも俺と同じで……いや俺より幾分重傷なようで、元いた位置からさらに一歩下がって肩を落としてしょんぼりしていた。

 

反応がいちいち可愛い少年である。

 

「そろそろ本題に移りましょうか。もうお分かりかと思いますが……ジュエルシードについて、です」

 

 茶筅で点てられたお茶を俺の正面に置きながらリンディさんは言う。

 

 茶道の作法はずいぶんと簡略化されているのでそう(かしこ)まらずに、いただきます、と言いつつ置かれた茶碗を持つ。

 

作法は茶道の流派ごとに大きく違ってくるし、第一に茶道自体に明るくないので正直助かった。

 

 時計回りに回して(わん)の正面を避けてから口にする。

 

リンディさんの外見と部屋の仕様から日本かぶれの俄仕込(にわかじこ)みかという先入観を抱いていたが、味は中々に良いので本格的に学んでいるようだ。

 

三回ほどにわけて飲み、口をつけた部分を右手の指先で拭い、飲む前とは逆に反時計回りに回して正面に置く。

 

懐紙の持ち合わせは当然ないので、格好はつかないがハンカチで代用した。

 

 久しぶりにちゃんとしたお茶を味わって集中力が多少戻った気がする、気持ちが落ち着いたのだろう。

 

 回転率が上がってきた頭でアースラ艦長、リンディ・ハラオウン提督と対峙する。

 

正念場はここからだ。

 

この手の話し合いは得意分野とは言い難いが、なのはとユーノに任せるわけにもいかない。

 

これでも俺は、二人の兄貴役を自任しているのだから。

 

「えぇ、そりゃあこのタイミングで来たんだからジュエルシード以外にはないですよね」

 

「ジュエルシードの危険性については?」

 

「よくわかっています。ユーノからも聞きましたし、実際に体感もしています」

 

 『実際に体感』というところで胸元のエリーがぷるぷると震えた。

 

それはいつぞやに燐光色の魔力素を迸らせたことに対する罪の意識か、はたまた懺悔か贖罪か。

 

「それなら危険性については省略しますね。私たちはジュエルシードから発された次元震を探知してこの世界へやってきました。遠く離れた世界にいた私たちでも受け取ることができたほどの莫大なエネルギー量です。次元断層が発生するのでは、と危惧したほどでした」

 

 莫大なエネルギーを放出したジュエルシード。

 

そう言われて連想されるのは、俺の服の内側で先ほどから小刻みに震えているエリーだ。

 

 これまで俺たちが回収してきた中でジュエルシードが暴走したのは一度しかない。

 

市街地でフェイトが直接魔力流をあてて場所を特定し、なのはとフェイトの二人で封印しようとしたために暴走状態に陥ったその一例のみだ。

 

それと比べれば他の回収はわりと穏やかに済んでいる。

 

 エリーを押さえ込むときに漏れ出た幾筋の魔力光……あれらが時空管理局側のレーダーかなにかに捕捉されたのだろう。

 

「この話もすでに聞き及んでいるかもしれませんが、ジュエルシードほどのロストロギアともなると世界の一つや二つ消滅させるのは簡単です。過去にもいくつもの世界が次元断層に呑まれるように消えています。それほどに危険な代物なのです。……なので、これからのジュエルシードの収集は時空管理局が担います。あなたたちはそれぞれ、元の平和な日常に戻ってください」

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。わたしはフェイトちゃんと……」

 

 早速ぶっこんできやがった、と俺は奥歯を噛む。

 

 『ああ、忘れていました』と、リンディさんがなのはのセリフに被せた。

 

「本来は魔法の存在を知らない世界の人に魔法を見せるような、魔法を知られるような行為は禁じられています。ましてや教えるようなことなど論外です。ですが今回は、速やかにロストロギアを回収しなくては当世界に甚大な被害が出る、という火急の事態であったのでやむなく現地のかたに助力を乞うた、というかたちで処理しておきます」

 

 人の良さそうな笑顔で、心配しなくていいですよ、と付け加えるリンディさんになのはは何か言いたそうにしながらもゆっくりと口を閉じてスカートをきゅっ、と握り込む。

 

 さっきの言葉は言外に、ある一つの事柄を暗に示していたのだ。

 

逆らわなければ罪にはしないが、逆らった場合は魔法を教えたという件について追及するぞ、と。

 

 なのははまだ幼いが、小学生とは思えないほどに(さと)い。

 

その賢さのおかげで――あるいはその賢さのせいで――駆け引きを理解できてしまった。

 

自分が駄々をこねればユーノに迷惑がかかると、理解できてしまったのだ。

 

だからこそ言葉が続かず、黙らされてしまった。

 

「そんな……急すぎます! 今までなのはと兄さんの尽力でなんとか誰にも被害を出さずに(・・・・・・・・・・)済んだんですよ?! 街への損害だって最小限に抑えられていると思います! その二人に向かってそんな扱いは……っ!」

 

「『誰にも被害を出さずに』ですか。たしかに徹君やなのはさん、もちろんユーノ君も含めてですが、あなたたちの奮戦でこの世界の人に死傷者は出なかったかもしれません。ですが……徹君やなのはさんは多少なり負傷はしたのではないですか? 魔法を知らなければ怖い思いや痛い目に合わなくて済んだ二人は、魔法に関わってから少なくない数の怪我を負ったのではないですか? 元はと言えば我々の事情とは無関係の方々です。ジュエルシードの回収なんていう危ない役目も、この世界を守るなんていう重たい責任も背負わせるのは心苦しいでしょう。だからこそ、ここでその重荷を下ろしていただいて専門である私たちに任せてもらうのです。ユーノ君も、手伝ってくれている二人が平和で幸せな暮らしに戻れるのは嬉しいでしょう?」

 

「それは、そうですが……。でもっ……」

 

 目の前の女性はずいぶんと若く見えるのになぜ提督なんていう重要なポストについているのだろうか、と自己紹介してもらった時に俺は思っていた。

 

その時は、魔法世界と俺たちが生きている地球とでは採用の仕方が違うのだろう、と深く考えずに流していたが……俺のその考察はあまりにも見当違いで甘いものであった。

 

実力――時空管理局提督、L級次元巡航船・アースラ艦長のリンディ・ハラオウンという女性は、実力ゆえに、その役職に任命されている。

 

それを俺は今、痛いほど身に沁みて感じていた。

 

 おそらく魔法の腕も想像を絶するのだろうが、交渉においても俺たちでは手も足も出ない。

 

個人個人の性格を読み切り、関係性についても大体のあたりをつけ、弱いところを的確に突く。

 

その上で理路整然と正論をならべ、断りづらいよう話の流れを作り、善意で勧めているような雰囲気まで漂わせているのだからもう手に負えない。

 

一枚二枚上手(うわて)なんて可愛いものではない、十や二十も格が違う。

 

 なのはには、今まで助けてくれていたユーノに負担がかかるかも、と迂遠な言い回しで匂わせた。

 

優しく、そして誰かに迷惑をかけることをなによりも嫌うなのはには効果覿面(てきめん)だろう。

 

これが海千山千の技術、ついさっき会ったばかりだというのに……人間性をここまで把握できるものなのか。

 

 ユーノに対してもそうだ。

 

攻撃的な魔法がなく、戦闘に参加できずにいて俺たちに任せっきりだという弱みにつけ込まれた。

 

実際のところユーノがいるからなのはは思う存分砲撃が放てるし、俺も安心して相手に突っ込んで怪我できるってものなのだが本人はそう捉えておらず、後ろめたさを抱えていた。

 

その脆い部分を狙われて、発言の矛盾を問い詰められ、反論しづらくさせる。

 

こういった場に慣れていなければ到底できない芸当だ。

 

そのあたりの技術はもう全面的に認めるほかない。

 

 でも……それでも俺は、俺のできることをするだけだ。

 

ガキの言い分だとしても、なのはとユーノの望むようにしてやりたい。

 

そのためならいくら恥をかいたっていい、屁理屈だってなんだっていい。

 

道理を無理で(とお)すのが俺のやり方だ。

 

ここで退いてしまったら、これから先二人に合わせる顔がない。

 

「ユーノ、お前はどうしたい? 俺やなのはに気を使うことはねぇ。お前の意思でいい」

 

 顔を横に向けて、仲間の偽りのない率直な気持ちを確認する。

 

「僕は……最初は管理局が来るまで持たせることができればそれでいいと思っていました。でも今は、ここで投げ出してすべて任せてしまうことは……できません。この一件は自分で決着をつけたい、解決するまで携わりたいです。それが僕の――責任ですから」

 

「そうか。なのはは?」

 

「わたしも……こんなところでお終いなんて納得できないの。中途半端なところで管理局の人たちに丸投げっていうのは、なんだか気持ち悪い。それに、まだフェイトちゃんと面と向かってお話できてないもん……ここでは終われないよ」

 

「そうだよな、それでいいんだ」

 

 立場を(わきま)えない身勝手な俺たちの会話を、リンディさんもクロノも黙って聞いていた。

 

クロノは眉間に(しわ)を寄せ、リンディさんは微笑みを(たた)えているのが視界に入る。

 

 一つ深呼吸を挟んで左手を膝に乗せ、右手を強く握って拳を畳につけ、リンディさんを正面から見据えて口を開く。

 

「提案があります」




クロノくんはドヤってしてるところで叱られてしょぼんってなるのが可愛いと思うんです。
つまりは僕の趣味。

リンディさんのイメージはとてもとても仕事のできる女性。
キャリアウーマン的な女性って惹かれます。
これについての妄想は次回に持ち越します。


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歪なパズル

今回クロノくんまともに喋れていない、可愛そうに。可哀想に。
というよりなのはもユーノも全然喋ってない、なんという。



「提案? なにをだ? わざわざ物騒な世界に首を突っ込むことはない。自分たちの暮らしに戻ればいいだけだろう」

 

「クロノ、徹君の話を聞きましょう」

 

 詰問調のクロノをリンディさんがやんわりと(たしな)める。

 

 工場跡地でクロノと戦った時からここに至るまでに感じたいくつかの疑問。

 

それらを繋ぎ合わせてリンディさんの対応を考慮した結果、辿り着いた答えと、相手の事情。

 

俺の読みは、あながち外れていないと思う。

 

「ジュエルシードの回収、俺たちも手を貸しましょうか(・・・・・・・)っていう提案です。そちらにとっても悪い話ではないんじゃないですか?」

 

「き、君は……自分の立場を理解してっ……」

 

「クロノ、静かに聞いていなさい。徹君、私たちは魔法関連の専門家です。手伝っていただかなくても我々だけで回収はできますよ」

 

 傲然と進言した俺にクロノが食ってかかってきたが、再びリンディさんが遮った。

 

笑顔のままで返してきたリンディさんに、俺もまた反駁(はんばく)する。

 

「そうですか? 案外手を焼くかもしれませんよ。ジュエルシードにも、フェイトたちにも。人……足りてないのでは?」

 

「…………」

 

 リンディさんは依然として端正な顔貌に笑みを貼りつけていたが、ここで初めて一瞬だけとはいえ動きが止まった。

 

ユーノの時にもなのはの時にも返す刀で間を置かずに、すぐさま否定の文章を並べたというのに今回は詰まった。

 

やはり攻めるならここからだ、と判断して喋りながら並行作業で話を組み立てていく。

 

「工場跡地でクロノが介入してきた時、もう少し人数を引き連れてきてもよかったと思うんですよ。あの場には俺たちとフェイトたちを含めて五人もいた。五人全員に攻めかかられたら、いかにクロノに力があったとしても沈められる可能性があったはずです。時空管理局の名前を出したところで矛を収めるかは賭けに近い。クロノの個人戦力に信頼を寄せていたとも考えられるが、少し腑に落ちない。他に人員を回していて余裕がなかったってところでしょうか」

 

「ふふ。続けて?」

 

 クロノが眉間に皺を刻んで言い返したそうにもぞもぞと身動(みじろ)ぎしていたが、泰然と座するリンディさんに押し留められていた。

 

 クロノを押さえながら、それでも彼女は少年には一瞥もくれずに、真っ正面から突き刺すように……穴があくかと思うほど俺に力強い眼差しを向ける。

 

嫣然(えんぜん)とした表情のまま変わっていないはずなのに、視線の温度だけが変質していた。

 

身体の中心から凍てつかせるような、そんな冷たい瞳。

 

見透かされて、見通されているような感覚が身体の表面を走る。

 

試されている目、俺の力量を推し量るみたいな視線に尻込みしそうになるが、怖気を固唾と一緒に呑み込んで、続けた。

 

「俺と戦闘に入ってしばらく時間が経っても誰も応援がやってこなかったというのも疑問です。クロノが全力を出しておらず、手の内を隠していたというのもあるでしょうが、俺に気を取られている隙に背後から襲われたら戦局がどう転ぶかわからないんですから、一人二人くらい寄越してもよさそうなもの。事実、なのはやユーノが奇襲をかける機会は戦闘中に何回かありましたからね。なのにそうしなかった。まだ若いクロノに経験を積ませるためかとも考えましたが、それだとリターンよりリスクのほうが大きすぎる。割に合わない」

 

 笑みという仮面を被ったままのリンディさんは無言で頷き、先を促す。

 

「戦闘時だけじゃありません。この艦に入ってこの部屋まで来る間、そこそこの距離を歩きましたが誰ともすれ違いませんでした。中途半端な時間ですから乗組員は各々の職場に張り付いているのかもしれませんが、聞けば大きな船らしいじゃないですか。船が大きければそれだけ乗船しなければいけない人の数も増える。次元を渡る船にどれだけの人数が必要かは見当もつきませんが、船を動かすために必要不可欠な最低基準でさえ相当な人数になるでしょう。それに加えて時空管理局としての職務に就く職員を含めればさらに増えることになる。なのに誰とも会わなかった。俺たちが通った廊下とは別に、局員や整備員専用の通路が存在する可能性もありますが、そう頻繁に客を招くような場所でもないので現実的ではありません。整備員はともかくとして、敵か味方か判然としない俺たちが乗船しているのに戦闘要員の姿を見なかったのは不自然と言わざるを得ません。違うフロアで訓練に励んでいて情報を知らされていなかったか、もしくは……出払っていたんじゃないですか?」

 

 俺の推察に、リンディさんは実に楽しそうに笑う。

 

笑いながらも、目は鋭いままである。

 

「ふふ、ただ腕っ節(うでっぷし)が自慢なだけの男の子じゃないようですね。よく見ています。そうですね、たしかにこの艦は、時空管理局は人手不足です」

 

「母さ……艦長! なぜ教えっ」

 

 口を挟もうとしてきたクロノの額を手の甲でこつん、と叩きながら言う。

 

良い音と比例して痛みも大きかったのか、額を押さえながらクロノが俺を睨みつけてきた。

 

どれだけ憤慨していようと上官の指示には従うというところがクロノのいいところである。

 

「人手不足ではありますが、(みな)優秀な魔導師です。今日は他の仕事に追われていますが、必要に迫られれば今回の件に人員を集中させますし、いざとなれば近隣の世界で巡航している艦に援軍を頼みます。なにも不安に思うことはありませんよ」

 

「さっき言ってましたよね? とても大きな次元震を感知して、それでこの世界に来たと。次元断層が発生するかもしれないほどの魔力流を受信したのに、ここにやってきたのはアースラ一隻のみ。恐らくこの世界に一番近かったのがこのアースラだったんでしょう。ジュエルシードの暴走があってからすでに三日経過しています。一番近くにいたはずのアースラでさえ、これだけの日数を要している。他艦に応援を要請しても到着するのはいつになるかわからないし、その応援が到着したころにはすべて終わっている可能性だってあります。アースラにジュエルシードの収集任務が下りているのに他の仕事もあるほど多忙なんでしょう? 他の艦だって同様に忙しいと予想できますし、そうなるとそもそも応援にくるかどうかだって怪しいところではありませんか? フェイトたちはかなりフットワークが軽い。油断していると残りを全部持っていかれますよ。援軍には期待できません」

 

 そう、と一言呟いて口元に手を添える。

 

リンディさんから初めて笑みが失われた。

 

 凛として真面目な表情。

 

笑顔の時でも気圧されるほどの美貌と底知れなさが相俟(あいま)って怯みそうだったが、真剣な顔つきになるとさらに威圧感のような……実力者だけが持つ独特のオーラに圧倒される。

 

温室育ちの甘ちゃんではこの雰囲気を得ることはできない。

 

数多の修羅場を潜り抜けてきたことを思い知らされる。

 

「たしかに徹君の言う通り、他の艦を頼りにするのは現実味に欠けますが、ジュエルシードの回収にはクロノをメインに()えようと考えています。戦況が悪ければその都度(つど)局員を()てる。それならこの艦の戦力だけでも充分渡り合えると思いますよ」

 

「ジュエルシードの収集だけならクロノだけで充分以上、十二分です。ですが、そのジュエルシードをフェイトたちも狙っている。手合わせした感じ、クロノはフェイトよりも強いとは思いますが相手は複数人いるんです。フェイトだけでも手強いのに、以心伝心とさえ言えるチームワークを発揮する使い魔(パートナー)のアルフもいる。一人一人ではなんとかなっても、阿吽(あうん)の呼吸を誇る二人には後れを取るでしょう。しかもその後ろにはクロノと同等か、もしかするとそれ以上の実力を持つ女性もいます。時空管理局の魔導師の方々もさぞかし優秀でしょうけど、それでもクロノに並ぶ者がそういるとは思えません。ジュエルシードの回収をしながら彼女たちの相手をするには、どうしても手が足りないと俺は拝察しますが……どうですか?」

 

 穏やかなマスクの時も相手の心中を察することなどできはしなかったが、今の研ぎ澄まされた刀を思わせる表情では憶測すら立てられない。

 

前者が光のベールに包まれているのだとしたら、後者は暗闇に沈んでいるようなものだ。

 

朧げなシルエットすら掴むことはできない。

 

 俺が語った大部分は主観からの情報で、それが真実かどうかはわからない。

 

時空管理局の戦力についてだって、散らばっていた情報の欠片を繋ぎ合わせて作り上げた(いびつ)なパズルをもとに推測しただけ、ただの推定でしかない。

 

自信はあるが、確信はない。

 

 なんとか俺の求めた流れには持ってこれたが、リンディさんがはっきりと否定してしまえば彼我の実力差戦力差どうこうなど関係ないのだ。

 

彼女の意向一つで、俺たちの行く末が決まる。

 

 握り込んだ右手に汗をかく。

 

拳は痺れて、畳に触れている感覚すら脳に届いていなかった。

 

血液の流れが阻害されているのかもしれない。

 

そんなことにも気付けないほどに神経を緊張させているようだ。

 

 それとなく隣を見れば、俺とリンディさんの舌戦論戦についていけてないなのはとユーノが目を白黒させていた。

 

「自ら申し出た(・・・・)ほどなのですから、あなた方の力にはそれなりに期待してよいのでしょうか?」

 

 このセリフを言わせることができて、貰った、と内心ガッツポーズした。

 

ただ、まだ安心はできないし、気にかかる言い回しもある。

 

そのあたりも一緒に詰めるべきだ。

 

 煙を上げそうなほど回転しっぱなしの脳みそに鞭を打ち、これが最後の仕上げと気合を入れる。

 

「そうですね……俺はともかくとして、なのはやユーノには期待してもらって構いません。まだ荒削りとはいえ、なのはの魔力量と魔法適性の高さは充分に戦力として計算できます。そちらだって自分たちの力は緊急時に備えて可能な限り温存しておきたいでしょう? ジュエルシードの収集に回してもいいし、なのはの力ならフェイトたちの牽制にもなる。彼女たちはなのはの魔法の威力を知っています、少なくとも動きを阻害することはできるでしょう。ユーノは応用力があるし、即座の判断もできる。攻撃的な魔法こそ目立たないものの、結界、拘束、防御、補助と後方支援には打ってつけの人材です。そしてなにより、知識が豊富。ジュエルシードを発見したのはユーノであり、現状でユーノ以上にジュエルシードの情報を持っている人間は他にはいない。そばに置いて得はあっても損はないでしょう。俺は……んっと……こいつらの相談役で、そこそこ戦えるって感じの認識でいいです。なのはとユーノのおまけみたいなもんですね。寸評ではこんなところです。どうしますか? 頼まれれば(・・・・・)協力するに(やぶさ)かではありませんが」

 

「『頼まれれば』……っ! 自分たちが今どんな状況に置かれているのか理解しているのかっ!?」

 

「あぁ、理解している。だからこそ、こう言っているんだ。お願いされたら手伝いますよってな」

 

 最後の難関がここだ。

 

 手伝わせてくれと自分から頼み込むのではなく、相手から手伝ってくれと頼ませる。

 

そこにはあまり差異がないようにも思えるが、決定的に中身が違う。

 

相手の一歩後ろに立つのか、相手の隣に立つのか……致命的に立場が異なる。

 

 なのはもユーノもそのあたりたいして気にしなさそうだが、俺には二人の安全を保障する義務と責任がある。

 

二人が割を食ったり負担を強いられるようなことにならないよう、真っ当で正当な処遇を確保しなければならないのだ。

 

 逸らしそうになりながらもリンディさんの目をじっと見つめる。

 

「そうですね、それではお願いしましょうか」

 

 存外、拍子抜けなくらいにすぐに認めてくれた。

 

「か、かかっ、母さん! なぜですか!」

 

「仕事中です。艦長と呼びなさい」

 

「艦長っ!」

 

「別にいいでしょう、上に申請を通すのが面倒なだけで問題はありませんよ。みなさん悪い子ではないようですし、戦う力もあって知識も持っていて、なおかつ頭も切れる。そしてなにより、信念をその身に秘めている。戦力が心許ないのは事実その通りで返す言葉もないですし、ジュエルシード回収以外にも仕事は山積みで人の手もまるで足りていません。出来るだけ戦力を温存しておきたいというのも本音でしょう? それなら手伝ってもらいましょう。とても聡明で利発で頭の回る方もいますから、私の仕事も多少楽になるかもしれませんし」

 

 リンディさんは極低温の無表情から、温もりのある微笑みに戻った。

 

手を顔にあてて優雅に笑う。

 

最初に感じていた嫌な気配はもうなかった。

 

 深いため息とともに、張り詰めていた緊張を解く。

 

ひとまずの着地点に達することができて万々歳だ。

 

 安心して気が緩んだことで疲労感が、どしっ、と肩に()し掛かる。

 

クロノとの戦いとリンディさんとのお話し合いで神経という神経が磨り減った。

 

集中力の糸がぷっつりと断線しているのがよくわかる。

 

睡魔という名の死神が鎌首を(もた)げて迫り寄ってきているような錯覚すらしてきた。

 

「と、徹お兄ちゃんすごいのっ! かっこよかったよっ! やっぱり本当に(・・・・・・・)賢かったんだねっ!」

 

「なのはちゃーん。『やっぱり』ってなにかなー、『本当に』ってなにかなー」

 

「無茶なこと言い出すものですから、聞いててひやひやしましたよ。でもさすがです兄さんっ。頼りになります!」

 

「ありがとうな、ユーノ。しかしめちゃくちゃ気疲れした。もうこういうことはしたくない」

 

『久しぶりに良いところを見せることができましたね、徹。ちょっとだけ感心したので今回だけは……素直に褒めてあげます。……格好良かった、ですよ……』

 

「いや……あ、ありが……ありがとうございます……」

 

 俺とリンディさんのやり取りを唖然として見ていたなのはとユーノが再起動して口を開いた。

 

みんなのお褒めの言葉がむず痒い。

 

なのはの場合は褒めているのかどうかかなりぎりぎりなラインではあるが、本人に悪気はなく、純粋に思っていることが口を()いて出ているだけなのでたぶん褒めてくれようとしているのだろう。

 

日頃悪口の応酬(俺が打たれっぱなしな気もするが)を繰り広げているレイハに珍しく褒められて、その結果テンパって噛んでしまった上にすごく丁寧な言葉で返してしまった。

 

罵倒が会話の九割を占めている分、手放しで称賛されるとなんだかとても嬉しい。

 

 なにはともあれ、兄貴分の面子は保たれた……よかった。

 

 ぽやっとしている頭をふらふらと揺らしていると目の前に白魚のような指が伸びてきた。

 

首を傾げて手の持ち主を見やる。

 

視線の先には優しい瞳と暖かく包み込むような笑顔があって……胸の深いところ、心の奥底に封をして隠していた俺の脆くて弱い部分にちくり、と棘を刺した。

 

遠い記憶の、遥か彼方にいるある人と重ねて見えてしまったのだ。

 

「それでは改めて、これからしばらくよろしくね」

 

 骨の代わりに鉛の棒でも突っ込まれたかのように重たくなった腕を懸命に持ち上げて、差し出された手を握る。

 

超人的な存在感の女性ではあるが、その手は細く、想像以上に小さく、華奢だった。

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 胸に走った痛みを無視して俺も返した。

 

 浮上した感傷に再度忘却という栓をして、記憶の底に沈みこませる。

 

今さら思い出したって、なんの役にも立たないのだ。

 

それどころか意志を揺るがし、手を震わせ、足を止める枷になりかねない。

 

ならば忘れていたほうがいい。

 

そうしないと、忘れていないと……動けなくなってしまうから。

 

 握手を交わし、手を離そうとしたが離れてくれない。

 

目の前の女性がむんずと俺の手を握ったままであった。

 

「あら、意外と緊張してたのかしら? とても手が冷たいわ」

 

「……緊張していないと思っていたんですか? そうだとしたら買い被りすぎです。俺はそこまで図太い神経をしていません」

 

「またまた、謙遜しても嫌味にしか聞こえないわよ。私たちにこれだけ譲歩させたというのは徹君の立派な戦果よ、誇りなさい」

 

「そりゃどーもです」

 

「面白い子ね、君は」

 

 いくつか視線を交錯させ、やっとリンディさんは手を離す。

 

 そのあとは隣にスライドしてなのはとユーノとも握手をしていた。

 

 正式にではないとはいえ、一緒に仕事をすることになるのだから信頼関係の構築は必要である。

 

そのための手始めとしての第一手が握手(これ)なのだとしたら、だいぶ古典的な手法と言わざるを得ない。

 

 だが古めかしいのと同時に、理に適っているとも言える。

 

肉体的接触というのは心理的にも受け入れるという意味に繋がるし、握手するほど他人を近づけるのだから相手を認めるという効果もある。

 

握手して目を見て会話するのも精神的な壁を取っ払う一助となるだろう、容姿がいいのもプラス要素だ。

 

初対面の人物に抱く印象の八~九割は顔で決まる。

 

年下の人間相手にも同じ目線で話すというところに熟練感を感じた。

 

話運び、目線の送り方、細やかな気遣い、果ては仕草にまで注意が行き届いているのに不自然さを与えないというのは尊敬に値する。

 

「…………」

 

 彼女の温もりが残っている掌を見る。

 

冷たく重たかった手はもう、暖かかった。




主人公、時空管理局へプレゼンするの巻。
きっと営業職とか向いている、或は詐欺師。

リンディさんと主人公の保護者サイドの会話も入れようとしたんですが、中途半端になりそうだったので切ることにしました。
書くかどうかはわかりません。

一度展開をゆっくりにしてしまうと加速させ辛くなるというジレンマ。
物語が進まない、無印編が終わらない。


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虚無、空虚、伽藍堂

 リンディさんとの短い会話も終わった後は、自分たちの年齢や魔法の得手不得手など、自己紹介より少し踏み込んだ説明をしたり、時空管理局がどういう組織なのかを()(つま)んで教えてもらったりした。

 

彼女によれば時空管理局ではわりと若年者も採用されているらしく、なのはくらいの年齢の子も珍しくはあるがいることはいるそうだ。

 

目の前にいるクロノも相当若いのだから、さもありなんという印象でさほど何も思わなかった。

 

 そっちよりもクロノが現在十四歳で、俺とたった二つしか変わらないという事実にこそ驚愕した。

 

背も低く顔も幼いので、てっきりなのはと同じかちょっと上くらいだと踏んでいたのだ。

 

 なんにしろ、年齢は俺が上でも魔法についてはクロノのほうが圧倒的に先輩なので見下すつもりはない。

 

というよりも見下せない。

 

つい数十分前に白星を恭しく捧げたばかりなのだ、口ではからかいこそするものの少年のほうが実力は上という認識は常に持っている。

 

 ただ、まだ若いのにそれだけの技術を身につけていることにある種尊敬に近い感情まで抱いているが、クロノにそういう態度を見せるつもりは一切なかった。

 

年上としての小さな小さな最後の矜持(きょうじ)であった。

 

我ながら、なんと(わび)しく、またなんとみすぼらしいプライドだろう。

 

 一通り話も済んで携帯を確認すれば、時間は十九時を回っていた。

 

船の中なので外の様子を見ることはできないが、我らが地球の海鳴市ではすでに日が沈んでいることだろう。

 

 なのはをこんな時間まで拘束していては後日、厳密に言えば明日の学校で恭也にまた(・・)いびられる。

 

なので俺は不躾ながら『もう帰っていいですか』と申し出たが、しかしリンディさんは気にした様子もなく快く了承してくれた。

 

 正座から立位へと移行する。

 

俺は武道で、なのはは家が家なので正座には慣れていたが、ユーノは経験がなかったようで(それなら無理に正座しなくても、と思うところだが生真面目なユーノはなのはと俺に(なら)ったようだ)すぐには立てなかった。

 

 痺れた足を俺となのはにいじられながら、ユーノはまだ若干痺れを残す足をおして立ち上がり、脱いでいた靴を履いてクロノの誘導の下、出口の扉へ向かう。

 

「あ、徹君は残ってもらえるかしら。もうちょっとお喋りしましょう?」

 

 やっと帰れる、やっと湯船に浸かって温まれる、やっと布団にくるまり眠りにつける。

 

そう思っていた俺を、リンディさんは明るく軽快に扉をくぐるぎりぎりのタイミングで呼び止めた。

 

 ばっさりと切り捨てるように断って一目散に逃げるように帰路に着きたかったが、これから共闘することになる組織の、俺が会う人の中では最上位の役職のお方に居残りを命じられたのだから無碍(むげ)に拒否することもできない。

 

老獪(ろうかい)……もとい、怜悧(れいり)なこの人のことだ、断ったほうが面倒なことになるだろう。

 

そう自分の中で正当化させるように理由をこじつけて、彼女へ振り向く。

 

「はぁ……。わかりましたよ、なるべく手短にお願いします」

 

 嫌みったらしくため息をつき、応接室と呼ぶには広すぎる部屋を出て廊下で待ってくれていたなのはとユーノに向き直る。

 

「なのは、ユーノ、悪いが先に帰っててくれ。クロノ、二人を家まで送り届けてくれ」

 

「言われなくてもわかっている。最初からそうするつもりだった」

 

「そうかー、クロちゃんは優しいなー」

 

「次そんな呼び方をしたらスティンガーレイを零距離から腹に撃ち込む」

 

「風穴空くわ」

 

「むぅ……わかったの。おやすみなさい、徹お兄ちゃん」

 

「ごめんな、一緒に帰れなくて。おやすみ、なのは」

 

「そう、ですか……わかりました。なにかあればまた念話でもなんでもいいので連絡してくださいね」

 

「おう、了解。じゃあな」

 

『あまり無理をしないようにしてください、心配しますので。……マスターが』

 

「やだ、悪意のある倒置法。一瞬どきっとした俺の純情に謝れ」

 

 なのはもユーノも不服そうな表情をしていたが、相手が相手なので食い下がることなく承服してくれた。

 

 俺は一度廊下へ出てなのはとユーノ、ついでにクロノにも手を振って、姿が見えなくなってから応接室へ戻る。

 

空気が抜けるような音とともに扉が閉まったのを背中で感じながら、畳が敷かれている一角へ足を運んで履いたばかりの靴を脱いで上がり、リンディさんの正面に座る。

 

 緊張感で満ちていた先刻の話し合いと違う内容みたいなので、失礼、と一言挟み、足を崩して楽にした。

 

「なのはさんもユーノ君も、あなたのことをずいぶん頼りにしているのね」

 

「分不相応なほどに、ですけどね」

 

「立派にお兄さんをできてるわよ。あと無理に敬語を使わなくてもいいわ。お互いにリーダーなのだから。私もくだけた喋り方にしているし」

 

「かたや時空管理局の巡航船の艦長、かたや総勢三人のちっぽけなグループ。規模にかなりの差があるけど……そう言ってもらえるのならお言葉に甘えようかな」

 

「ええ、腹を割った話(・・・・・・)がしたいし、自分らしい喋り方で結構よ」

 

「……はぁ」

 

 目敏い人間には気づかれるだろうとは思っていた。

 

そして、気づくならこの人だろう、とも。

 

 いつかその点を突かれるとは覚悟していたが、まさか今日のうちに追及されるとは思っていなかった。

 

緊張感とはまた別の意味で気を使う事案だが、面倒事はさっさと片付けたいし俺も聞いておかなければいけないことがある。

 

この機会にある程度話して信頼を勝ち取り、こっちもあらかた尋ねて信用できる組織か判断の材料にさせてもらおう。

 

「今日じゃなくても良さそうなものなのに。俺が疲れているこの時を狙ってやっているというのならなかなかに策士だな」

 

「いやね、私が悪い人みたいじゃない」

 

「悪い人ではないかもしれないけど、ただ優しいだけでもないだろ?」

 

「ふふ、辛辣ね。でもそのあたりお互い様と思うけど? 徹君に守らなければならないものがあるのと同じように、私にも守らなきゃいけないものがある。それだけのことよ」

 

「まぁ……そりゃそうだけどさ。俺にとってはなのはとユーノ、リンディさんにとっては乗組員全員。リンディさんはその安全を守るために聞かなきゃいけないことがあって俺を残したんだろ?」

 

「理解が早くて助かるわ。といっても、急いて進めるのも興醒(きょうざ)めだし、お茶でも飲んでからにしましょうか」

 

「そんなに明るい話でもないんだから興醒めもなにもないだろうに……いや、もらうけどさ」

 

 リンディさんはぱちんと柏手(かしわで)を打つように手を鳴らし、お茶にしましょうと笑顔で提案してきた。

 

時間に余裕があるわけでもないが、これからまた話をするのに今のままでは集中力に欠ける。

 

休みを挟むのは俺にとっても好都合だったし、なによりもう一度お抹茶をいただきたかったという本心もあり、リンディさんの案を快諾した。

 

 リンディさんが茶筅で点てたお茶、二杯目を頂く。

 

質の良い品を使っているのか、それとも腕が良いのか、実においしいものである。

 

 目を細めて一息つきながら、煎茶などとも一味違う抹茶独特の旨みを味わっていると、リンディさんも自分のぶんを点てたようで碗を正面に置いているのが見えた。

 

が、次の瞬間目を見開くことになる。

 

 俺の位置からは見えないどこかにあらかじめ用意していたらしい、紅茶やコーヒーに使うようなミルクジャグをいそいそと取り出した。

 

同時に角砂糖が入っているシュガーポットと、角砂糖を取り出すためのシュガートングも備えられている。

 

「……なにしてんの?」

 

「え? ミルクとお砂糖を入れようとしてるだけよ?」

 

 呆然としながらも問いかけた俺にリンディさんは、見てわからないの? と言いたげに極めて自然に返答する。

 

俺の常識から外れすぎていて理解が及ばず、再度問う。

 

「な、なんで?」

 

「なんでって、苦くて飲みづらいんだもの」

 

「そんじゃなんで抹茶を点てたんだ……。そのまま飲めないのなら紅茶とかでもよかったんじゃ」

 

「この部屋の雰囲気で紅茶なんて味気ないじゃない。そぐわないわよ」

 

「……おいしいの?」

 

「おいしいわよ。飲んでみる?」

 

 たぽたぽ、と粘度の高い純白の液体と角砂糖二つが投入された抹茶(?)を、リンディさんからご丁寧に手渡しされてしまった。

 

鮮やかな緑をしていた抹茶はミルクと混じりあい、元の色より白みがかっている。

 

なぜか、ユーノの魔力色がこんな色だったな、などと思い出してしまっていた。

 

 こうして受け取ってしまった以上突き返すわけにもいかず、上司に無理矢理飲酒を強要された部下のような心境になりながら茶碗に口をつける。

 

どんな物であれいただいた物なので一口ぶんを含み、口内で転がしてしっかりと味わったのち、こくっ、と飲み下した。

 

意外なことに悪くない、悪くはないが……。

 

「どう? おいしいでしょっ?」

 

「たしかにおいしくはあるけど……完全に抹茶オレだな。しかも甘いやつ」

 

 きらきらと瞳を輝かせながらにじり寄ってきたリンディさんには大変言いづらいものだったが、ここは断言させてもらった。

 

変に気を使って相手に誤解させるのが一番悪いだろう、と熟慮を重ねた結果である。

 

 『外国の人は日本の抹茶とか、人によったら緑茶にも砂糖やミルクを入れるんやって』……以前、姉ちゃんとコーヒーを飲んでいる時、俺が黒い液体で満たされたティーカップに砂糖とミルクを注いでいるのを見て、姉ちゃんが言っていたのを今更ながら想起した。

 

なるほど、この人はそういうカテゴリの人なのか。

 

「あんまり評判よくないのよね、これ。おいしいのだけど」

 

「おいしいことはおいしいんだけどな、ただ抹茶ではなくなってる」

 

「でも部屋に合わせてお茶は飲みたいじゃない?」

 

「部屋に合わせちゃったのか……。それじゃ甘みと渋みのバランスがいい煎茶とか、甘みの強い玉露とか、香ばしい玄米茶とか他のお茶にしてみれば? どれか一つくらいは口に合うだろ」

 

「……え? お茶って……これのことじゃないの?」

 

「いやいや、たしかに抹茶もお茶の一つではあるけど、他にも種類はいっぱいあるぞ? 抹茶の苦みや旨みが好きって人は多いけど、苦手な人もわりといるし。抹茶は点てるのが手間だしな。作法無視すりゃそこまででもないけど。お茶っていうとさっき言った煎茶とかが一般的だ」

 

「そ、そうなの……私はてっきりお茶というのはこれだけだとばかり……」

 

 端正な顔を淡い桃色に染め、恥ずかしそうに頬に手を添えるリンディさんは、艦長とか提督とかそんなもの関係ない普通の女性のように見えた。

 

弁論を交わらせていた時に感じた黒い印象は影も見えない。

 

仕事がオフの時はのほほんとした感じの、気のいい人なのかもしれない。

 

「抹茶を知ってて、しかも作法や点て方まで修めているだけでも俺はびっくりしたけどな。またこの船に来る機会もあるだろうし、その時に茶葉を持ってくるわ。いくつか味見してみるといい」

 

「ありがとう、楽しみに待ってるわ。さて、一休みしたところでそろそろ本題に移ろうかしら。このままお喋りするのも楽しいけれど、それだと徹君がいつまでたっても帰れないものね」

 

「わかってるんならそうしてくれよ。こっちはもう眠いんだって」

 

 ふふ、と口元を手で覆って笑みをこぼす。

 

一頻(ひとしき)り笑い終えると、かすかに瞳に真剣さを滲ませてリンディさんは口を開いた。

 

「まずは……そうね。徹君はどうやってクロノの魔法を防いだのかしら? 映像ではなにもしていないように見えたのだけど」

 

 いくつか質問されるだろうと思っていた内の一つだ。

 

 あまり自分の武器となるカードを詳らかにしたくはないが、どうせもう敵対することはない。

 

時空管理局に楯突いたところで勝てる見込みなど一パーセントほどもないし、リンディさんと戦えば俺如きなどきっと三秒ともたずに沈められる。

 

その場合、俺の魔法の色云々など関係なしに突き破ることだろう。

 

教えても教えなくても結末が変わらないのであれば、信用を得るために俺の能力を開示したほうが拾えるものは多い。

 

そう結論づけて言葉を紡ぎ始める。

 

「べつに特別なことをしてたわけじゃない、ただ見えないってだけだから」

 

 口頭で説明してもいいのだが、どうせなら実際に体感してもらったほうが手っ取り早いし信憑性もあるだろう。

 

そう思い、障壁を展開して、リンディさんに手をつき出すようにジェスチャーする。

 

ゆるゆると手を伸ばすが、ある程度進んだところで透明な障壁に阻まれそれ以上伸ばせなくなった。

 

 指先には確かな感触がある、なのに目には見えない。

 

俺からすればすでに慣れた光景でなんらおかしなところはないのだが、リンディさんからすると不可思議な現象なのだろう。

 

目を大きく開いて固まっていた。

 

「魔法が見えない、そんなことがあるのね……」

 

「特殊な細工をしてるとかじゃなくて元からこうなんだ。ユーノ曰く、俺の魔力色は無色透明らしい」

 

「『魔力の色は術者の気質から表出する』なんていう論文が昔あったわ。矛盾するところも多くて妄説だなんて言われて叩かれていたけど私は好きだったのよ、そういうの。その論文を基にした時、徹君の魔力色はどういう診断をされるのかしら」

 

「さぁ? 色がない、なにもない……空っぽってことになるんじゃないか?」

 

 『魔力色は術者の気質から表出する』……たしかに面白い発想ではあるが、人間の気質なんてのはずっと一定に保たれるわけではない。

 

年を取ったり、あるいは人生の大きな転換(パラダイムシフト)を迎えれば、人間の魂は否応なく変質するだろう。

 

その学者さんの言を信用するとしたら、その度に魔力色は変わって、変わり続けることになる。

 

それは妄説と言われて糾弾や非難を浴びても仕方ないと言えよう。

 

 しかし、個人的に興味はある。

 

自分の周囲に当て嵌めてみると、案外合致している気もするのだ。

 

 たとえばなのはの色、桜色で考えてみる。

 

桜色、淡いピンクというと……柔らかさ、やさしさ、控えめな華やかさ、初々しくもここから始まる、そんなイメージ。

 

あつらえたようになのはにぴったりだ。

 

 フェイトやアルフ、ユーノも同じように、色彩と本人の性格が合う。

 

金色は、そう……存在感や特別感、黄色が輝くとも捉えられるので希望や夢といったところか。

 

橙色は……陽気で元気、暖かい、秋の紅葉も彷彿とさせるので落ち着いたイメージもある。

 

淡い緑色……安定や安心、自然を思い起こすところから癒し、淡いというところから成長や再生。

 

各人に対しては俺個人の勝手な印象でしかない上に、色のイメージも人によって受け取り方が違うのだが、それでもそれぞれに一致しているように思うのだ。

 

 そして、俺にはそれがない。

 

無色透明で『見えない』ということは『ない』と同義だ。

 

存在しない、虚無、空虚、伽藍堂のようになにもない。

 

なるほど、笑えるくらいに俺と噛み合っている。

 

「空っぽ……ねえ。私はそうは思わないわね」

 

 悲観的な思考に陥った俺を呼び戻したのは、ネガティブな考えを取り払うリンディさんの凛とした声だった。

 

柔和そのものといった顔で俺の目をまっすぐ見てきて、思わず息を呑んだ。

 

「他を受け入れるような包容力、包み込んで透明感を加えて輝かせるような感じ。あら、徹君にぴったりね」

 

 やっぱりあの論文は正しかったのかもしれないわ、とリンディさんは締めくくる。

 

 人によって色に対する感覚というものは違うものだとは思っていたが、こうまで差異があるとは想像していなかった。

 

「あぁ、それはいいな。その捉え方のほうが、ずっと前向きだ」

 

 結局は血液型占いとか手相占いと同じ。

 

誰にでもある程度当てはまることを、さもその人個人にしか適用されないように感じる……バーナム効果というものか。

 

色のイメージなんて、多少は誰にでも重なる部分がある。

 

俺の色の場合は特殊といえるが、それだって個々人の考え方次第でどうとでもなる。

 

『気質で決まる』たしかに面白い発想だが、結局は話の種程度であって面白い止まりの論考でしかない。

 

 リンディさんがどのような心積もりで無色透明という魔力の色を表し述べたのかわからないが、少なくとも暗澹(あんたん)とした胸中を晴らしてくれたのは事実だ。

 

こんななんてことないフォロー、誰にでも言えるような慰藉(いしゃ)で救われたような感情を抱いている俺も俺である。

 

意識してか無意識か、どちらにせよ俺の捻くれた性根から成る心をいみじくも撃ち貫いたことには賞賛を送りたい。

 

 彼女の相貌に裏を見て取ることはできなかったが、それすらも演技であったとすれば俺は間抜けもいいところだ。

 

よしんば甘言を弄して抱き込む目論見を立てていたのだとしても、もう徹底した敵意を向けることはできない。

 

これでは弁舌巧みに情に絆された、などと言い訳をこさえることすら難しい。

 

かけられた言葉は多くなく、またその内容も取り立てて洗練されたものではないのだから釈明のしようもない。

 

これではただ俺がちょろいだけだ。

 

 俺自身、傷心中の甘口に弱いのは自覚していたが、これほどとは思っていなかった。

 

こちらからも質問して、その答酬(とうしゅう)如何で背中を預けるに足るか否かを考量しようとしていたのに、なんたる体たらくだろう。

 

 とはいえ、致命的なまでにミスを犯すつもりは毛頭ない。

 

全幅とまで贅沢を言うつもりはない、どんな名目であれ幾許かでも信用できる確証を得ておくという当初の目的くらいは達成してみせる。

 

下手に信じて、その結果陥穽(かんせい)に陥るなんてことにはしたくないのだ。

 

俺だけならまだしも、なのはとユーノの身の安全も肩に乗っている。

 

いくら俺の中で彼女の心証がよくなったとしても、油断して気を抜いていい理由にはならない。

 

そう肝に銘じて正面を見据えた。

 

 並の日本人よりも美しい姿勢で正座しているリンディさんは、先とさして変わらない相好を俺に向けている。

 

心境の変化を悟られぬよう努めて平静を保つ。

 

「俺も訊いていいか?」

 

「ええ、どうぞ。機密に係わらなければなんでも」

 

 リンディさんの質問には答えた、次は俺の番である。

 

 脳髄が(にわ)かに熱を伴い、思考が回り始めるのを知覚する。

 

 人員不足という相手のウィークポイントを突いた時、他にも疑問を感じていた。

 

俺とクロノの戦闘中、力量の差もあって長時間に渡り戦っていたわけではないが、短い時間で決着がついたかと問われれば断じて否だ。

 

その短くない時間は、何か行動を起こすには充分に過ぎるだろう。

 

そしてリンディさんの『記録されていた映像を見た』という発言。

 

どこかから(言うまでもなくこの船の艦橋(ブリッジ)か情報管理室に属する場所だろうが)俺とクロノの戦いを目睹できる状況にあったということだろう。

 

その点について、疑問の氷が解けずに残っていた。

 

考慮すべき事柄があったのか、もしくは……止めずにいたことになにかしらの意図があったのか。

 

「俺とクロノの戦い、なんですぐに止めに入らなかったんだ?」

 

 相手の言葉を鵜呑みにはしない。

 

態度や仕草、目の動き、声の波、視野を広く持って得られた全ての情報から真実かどうかを推し量る。

 

 意気込んだ俺だったが、それは肩透かしに終わる。

 

「あー、えっと……んんっ」

 

 返事はとても曖昧なものだった。

 

 リンディさんは人差し指を下唇につけて、言いづらそうに濁す。

 

さらには目を泳がせ、頬を引きつらせて苦笑いを浮かべた。

 

 なんというか、私は隠し事をしています、という反応のステレオタイプを見ている気分だ。

 

秘密にしていることを言及されると人間はこんな態度を取ります、という模範的なリアクションである。

 

 かえって難しいぞ、これはどう取るべきなんだ。

 

言っちゃ悪いが、権謀術数を蜘蛛の巣のように張り巡らせているようなリンディさんが、ちょっとやそっとで動揺を素直に顔に出すとはとても思えない。

 

演技か、それとも知られたら本当に困るものなのか。

 

 一言も聞き逃さぬよう、一瞬も見逃さぬよう身を乗り出してリンディさんの二の句を待つ。

 

言おうか言うまいか悩むように口を開閉して、視線は宙を彷徨っていたが、意を決したのか姿勢を正してついに口を開いた。

 

「歓迎しようと思ってここの準備をしてて……ちょっとだけ、本当にちょっとだけ目を離したらあんなことになっていたわ」

 

 そこから慌てて取り繕うように言葉を積み重ねていくリンディさんを、俺は遠い目をしながら見ていた。

 

呆然と絶句と困惑をかき混ぜて、かすかなギャップ萌えを添えたこの複雑な感情を、いったい俺はどう表現すればいいのだろう。

 

 俺が言葉に窮した(あるいは言葉を失った)のをリンディさんは呆れられたと取ったのか、さらに取り乱して身振り手振りまでまじえて弁明し始めた。

 

完全無欠の如才ない女性というイメージはがらがらと音を立てて脆くも崩れ去り、新たなイメージが構築されていく。

 

 リンディさんの狼狽(うろた)える姿を見て、俺はなんとなく、あぁ……これなら友好的にやっていけそうな気がするなぁ、とそんな益体もない雑念を垂れ流していた。




おかしいな……ぱぱっと終わらせて半分くらいは別サイドの話にするつもりだったのに、どうしてこうなったんだろう。
保護者サイドの二人の質疑応答は二つずつ残っているのに、一話使っちゃいました。
序盤の雑談に尺をとってしまったのが予定外の長さの原因。
削るということを知らない僕の拙さのせいですね、すいません。


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「『子ども』の前に『男』なんだ」

更新遅れてすいません。



「以上から、私は普段はしっかりと仕事をしていることが証明されます。よって、今回のような失敗は極めて珍しいものであり、そうそう発生しえない事象であると断言できます。わかりましたか?」

 

「必死、必死過ぎるって。わかったから、勘違いなんてしてないから」

 

「そう、それならよかったわ」

 

 リンディさんはいまだ混乱が残っているのだろう頭で、論理的なようでよくよく考えるとさほど論理的ではない弁明を並べた。

 

俺の言葉に安堵したように上げかけていたお尻を戻し、座り直す。

 

これ以上言い返すと掴みかかってきそうな剣呑さだったので、喉からせり上がってきたセリフは呑み込んだ。

 

 言い訳……もとい事情は理解したが、一度崩壊したイメージはもう回復することはない。

 

零れたミルクは皿の上には戻せないのだ。

 

 でも俺はそれでもいい気がする。

 

あまりに凛然として隙がなさ過ぎても近寄りがたくなってしまう。

 

上に立つ以上、問答無用に人を惹きつける魅力、カリスマ性というものも必要だろうが行き過ぎるとコミュニケーションも満足にとれなくなる。

 

一部の隙もない完全無欠の完璧人間というのは、おしなべて冷たく見えるものだ。

 

 それならば少し抜けているほうが親しみがあっていいだろう。

 

逆に好感が持てるというものだ

 

「まだ聞きたいことはあるんだろ。手早く済ませよう」

 

「あら、ずいぶん急ぐのね。早い男は(いと)われるわよ?」

 

「メリハリのない冗長なのが好みか? 俺の趣味じゃないな」

 

「手厳しいお返しね。ふふ、君と話すのは本当に楽しいわ」

 

「さいですか……」

 

 心底愉快そうに頬を綻ばせながら抹茶(砂糖とミルク入り)を一口含み、リンディさんは口を開いた。

 

「あなたたちの関係性がまだいまいちわかっていないのよね。どうやって出会い、どうやって親交を育んだのかしら」

 

「出会いはともかく、親交のほうはこれといって思い当たるものはないな」

 

 ユーノと初めて会った日からさほど経っていないはずなのに、もう遠い過去のような気がした。

 

 しかし改まって問われると返答に窮する。

 

後ろ暗いからではなく、取り立てて言うべきことがないからだ。

 

なので、俺はこれまでの概略をさらっと述べた。

 

「はあ……なるほどね。二人が徹君を頼りにする気持ちがよくわかったわ」

 

 俺は五分ほどかけてあらましを説明し、乾いた喉を潤すため正面に置かれた茶碗を傾けた。

 

乾いた喉に抹茶はあまり適していなかった。

 

 話を訊き終わったリンディさんは目を細めながら言う。

 

 俺自身、なぜなのはやユーノが俺を慕ってくれているのか正直わかっていないのだ。

 

もちろん頼りになる兄貴分として振る舞おうとしているが、その努力が報われたことは少ない。

 

俺はなのはやフェイトのように魔力や素質が飛び抜けて優れているわけではないため、戦闘において役に立った覚えがないのだ。

 

つい先刻のリンディさんとの対論で、久しぶりに活躍できた、と安堵したほどである。

 

 リンディさんの言に判然としない俺は続きを待った。

 

「どれほど危険だろうと、怪我する可能性があろうとそんなこと歯牙にもかけず、自ら率先して買って出て矢面に立つ。浮足立つような窮地に瀕して、それでもなお冷静に指示を下す胆力とリーダーシップ。なるほどね」

 

 リンディさんがあまりにも聞き上手だったので余計なことも話してしまっていたのだが、そのせいか、とんでもない誤解をさせてしまったようだ。

 

「やめろよ、そんな言い方。なんか俺がすごい人みたいに聞こえる。俺はただ、常に役割分担をしてきただけだ。限りある戦力で最大の戦果を得るために行動してきたに過ぎない。(しか)るべき人間を然るべき場所に配置した結果、いつの間にか俺がちょこっと危ない位置についてたってだけ。買い被りすぎだ、やめてくれ。背中がかゆくなる」

 

「謙遜しなくていいわよ。個人の力を正確に分析して、その都度変化する戦況に適応した人材を配する。その上で自らも前線に突撃、というのが好印象ね。上が動いてこそ、下が動くというものだわ」

 

「そんなたいそうなものじゃないんだけど……人数も少ないし。それに上とか下とかもないし……」

 

 リンディさんの瞳の奥がきらきらと……否、ぎらぎらと暗くて不気味な光を放っている。

 

繰り出される言葉にも言い知れない力が込められており、(まく)し立てるような弁舌に徐々に気圧される。

 

「……徹君、たしか学生だったわよね。どうかしら、時間に余裕があれば学校が終わった後にでも手伝いに来ない? 勉強になると思うわよ?」

 

「それはいったいなんの勉強なんだ」

 

「現場の空気や指示の仕方。早いうちから経験しておけば対応に柔軟性を持たせられるわ」

 

「俺を組織の一部に取り込む気まんまんか。もうちょっと隠そうぜ」

 

「いやね、そんな悪し様に受け取らないで欲しいわ。荒地の中で一本だけ芽が出ていたら、どんな綺麗な花を咲かせるのだろうと気になって育てたいと思うでしょう? そういうことよ」

 

「裏がありそうで疑わしいな、本当かよ」

 

「ええ、心からの言葉よ。立派に成長して私の仕事を手伝ってくれたら楽になるかもなあ、なんて露ほども思っていないわ」

 

「…………」

 

 いっそ清々しいほどに裏があった。

 

というより両面とも裏、みたいな感じだった。

 

 悪く捉えるとあごで使う気、良く捉えると経験を積ませようとしている、というところか。

 

たしかに他では得ることのできない貴重な体験だろうが、リンディさんの言うようなことを続けていたら確実に時空管理局の歯車の一部として取り込まれることになるだろう。

 

安易に返事をするのは早計である。

 

だが善意ばかりではないとはいえ、せっかく誘ってくれたのにきっぱり断るというのも気が咎める。

 

ここは迂遠な言い回しでお茶を濁しておこう。

 

「その件につきましては一度持ち帰り、前向きに協議したのち返答いたします」

 

「否定的な言い方はしていないのに全然見込みを感じないわね……」

 

「質問に戻っていいか?」

 

「はいはい、どうぞ」

 

 足を組み替えて座り直す。

 

 一拍置いてから、俺は開口した。

 

「率直に訊く。こればかりは立場もあるだろうからノーコメントでも構わない。リンディさんは時空管理局を信用しているか?」

 

「意地悪な質問をするわね……しかも答えなくていいなんていう救済措置にならないものまで用意して。答えなかった場合、時空管理局に疚しいところがあると公言するようなものじゃない」

 

「嘘をつくという選択肢もあるだろ?」

 

「嘘ついたらそれこそお終いでしょう。相互の間で積み上げてきた信頼を叩き落とすことになるじゃない」

 

 リンディさんは苦笑いを浮かべて力なく呟き、沈思黙考した。

 

俺も口を閉じ、静かに彼女の言葉を待つ。

 

 俺はすでに、リンディさんやクロノにはほとんど疑念を抱いていなかった。

 

クロノはこまっしゃくれたところがあるが、その実、真面目で勤勉だ。

 

工場跡にて、横柄な口の利き方に聞こえたのも相手を威圧して戦いを避け、怪我人を少なくするための手段に過ぎなかった。

 

被害を抑え、かつ自分の職責を全うしようとしたという裏返しである。

 

リンディさんは最初こそ腹黒さを感じたが、それだってアースラの乗員や、無関係だった俺たちを(おもんぱか)って言っただけだ。

 

ちょっと抜けていてかわいいところが見え隠れしているこの人が、好き好んでなのはやユーノに棘のある言い方を選ぶとは思えない。

 

 二人とも自分の中に通すべき正義や観念を持っていて、世界の安全のために時空管理局で働いている。

 

なればこそ、二人に疑いなんてない。

 

 だが、下は真面目に働いていても、上が悪巧みをしているなんてよくあることだ。

 

 現在も時空管理局に勤めている、しかも要職に就いているリンディさんに言わせるのは酷だろうとは思うが、俺には訊かなければいけない義務がある。

 

覚悟を決めておかねばいけないのだ。

 

 時空管理局という巨大組織に一時的にでも足を踏み入れる以上、(しがらみ)という見えない縄が纏わりつくだろうことは想像に難くない。

 

 今回のジュエルシードの一件が終わったあと、強力な魔力を有するなのはや膨大な知識をその頭脳に内包するユーノをどう扱うのか、その点が俺には気掛かりだった。

 

リンディさんやクロノであれば俺たちの意向を汲んでくれるだろうが、向こうの上の人間までもが気を利かせてくれる保証はないのだ。

 

 時空管理局について略説された時の一つに、なのはと同じくらいの歳の子も珍しくはないと言っていた。

 

つまり、才能があれば――戦力になるのであれば、年若い子どもでさえ組み込むということだ。

 

戦力が心許ないのはこの船、アースラだけじゃない。

 

母体である時空管理局そのものが人手不足であることの、なによりの左証である。

 

そのことが、燻っていた不安の火種に油を注いでいた。

 

仮に事件を解決に導けたとして、慢性的に人材不足である時空管理局が、比倫を絶する能力と素質を秘めているなのはと、優れた頭脳を持つユーノを手放すだろうか。

 

一度池に入った色鮮やかな錦鯉をみすみす逃す人間はいないだろう。

 

辞める時に、そうですかはいどうぞ、と二つ返事に辞めさせてくれると思うのは楽観的に過ぎるというものだ。

 

 なのはとユーノには目下の案件に集中しておいてもらいたいが、俺まで目先にばかり拘泥(こうでい)していては背後が疎かになる。

 

すべて終わって人心地ついて、さあ帰ろうと後ろを振り返ったら崖だった、なんてシャレにならない。

 

 逃げ道は確保しておきたい、だからこその俺の設問だ。

 

俺たちが時空管理局を信じられるかどうかも大事だが、とどのつまり、そういった組織の信頼性というのは実際に入ってみないと詳細にはわからない。

 

実際に、しかも長きにわたって所属しているであろうリンディさんの、ありのままの意見が欲しかった。

 

 どれだけ時間が経ったのかはわからない。

 

リンディさんの後ろにある鹿威(ししおど)しと、それに流れる水だけが、広い応接室での唯一の音源となっていた。

 

 涼やかに流れる水の音を伴いながら鹿威しが打ち鳴らす乾いた音を数え始めて、三十と三つをカウントした時、リンディさんが長いため息を吐いて、重たそうに口を開いた。

 

「……先に言っておくけど、そして徹君もわかっていると思うけど、大きな組織の隅から隅まで、端から端まで綺麗なんて……そんなのありえないわよ」

 

「ん、わかってる。その上で訊きたいんだ。リンディさんから見た管理局の姿を」

 

 とうとうリンディさんは畳に左手をついて、右手で目頭を押さえた。

 

相当悩んでいるのだろう、眉間にはしわが刻まれている。

 

俺のせいでリンディさんが老け込んだらどうしよう、というとてもくだらない上にとても失礼な心配は思考の彼方へ投げ飛ばした。

 

大丈夫、きっとリンディさんはこれから十年経っても美しいさ。

 

 リンディさんは、これから嘱託(しょくたく)としてやっていく子に言うべきなのかしら……、と自らに問うように呟いて、目を覆っていた右手と畳についていた左手を膝に戻し、俺を見据える。

 

見えやすくなった瞳には、疲労が色濃く覗けた。

 

「上層部には……黒い噂が絶えないわね。立場上、いろんな部署にパイプがあって、様々な分野の人と会話する機会があるのだけど、そこから噂がたまに耳に入るわ……」

 

「やっぱりあるよなぁ。ないほうが怪しいくらいだけど」

 

 身体の前面に向けていた重心を後ろに下げ、畳に手をつく。

 

 わかっていたことだ。

 

組織が拡大すれば、それだけ内情は複雑化し、やがて腐敗する。

 

組織が肥大化すればするほど、創設されてから時間が経てば経つほどそれらは顕著になる。

 

パーキンソンの法則を持ち出さずとも、文明を持つ世界に十年も住んでいれば自ずと理解できるものだ。

 

ここで、時空管理局には間然する所など一切ない、などと言われたらリンディさんの信頼度ランクがさがるところであった。

 

 時空管理局に裏があるかないかを訊きたかったんじゃない、リンディさんが本当のことを教えてくれるか否かが肝要だったのだ。

 

およそ他人の俺に、面と向かって時空管理局の実情を教えてくれたということは、ある程度リンディさんも俺の、俺たちのことを信用してくれているということなのだろう。

 

 こうして事もなげに人の行為の裏を読んでしまう自分に、割と本気で嫌気が差す。

 

 姿勢を崩して、自分の性格の悪さに眉を(ひそ)めた俺の仕草を見てあらぬ方向へ勘違いしたのか、リンディさんが詰め寄り俺の手を取った。

 

「たしかに、時空管理局は口が裂けても一枚岩だなんて言えない。でも……でも、これだけは信じて欲しいの。グレーなことをしているのはごく一部で、大多数の局員は昼夜問わず、平和と安全のために尽力しているということを」

 

 まなじりを痛ましく下げて、語気に力はなく、瞳は悲愴に潤う。

 

憫然(びんぜん)たる表情に、俺は言葉も出なかった。

 

 目線は俺の双眸に合わせたまま、リンディさんは俺の手を両手で包み、胸元まで引き寄せる。

 

「あなたたちがいやな思いも悲しい思いもしないように、私たちも全力を尽くします。だから……信じてください」

 

 立場も、実力も、人望もあるだろうこの人を、なにがここまで追い詰めるのだろう。

 

 リンディさんは俺を見ているようで、どこか違うものを見ている気がする。

 

俺の心の奥底を覗こうとしているのか、それとも瞳に反射する自分自身を視ているのか。

 

 なんにせよここまで言われて、男が引くわけにはいかなかった。

 

彼女は誠意を見せてくれた、ならばこちらも応えないといけない。

 

「まだ俺は時空管理局の中身について、詳しいことはほとんど知らない。完全に信じることはできない」

 

 握られっぱなしの右手を見ながら、空気に溶かすように言う。

 

手を握るリンディさんの手が強張ったのがわかる。

 

反応するのは俺のセリフを全部聞いてからにしてほしい。

 

「そう、よね。徹君からすれば……いきなり仲間を襲ってきた組織……

「だから俺は、時空管理局という組織じゃなくてリンディさんたちを信用することにした。別段、なにか会った時には責任を取れ、とか言いたいわけじゃないからさ。そのあたり安心してくれていいよ」

 

 途中で割り込んできたリンディさんの言葉に重ねるように、強引に言い切った。

 

言い終わった一瞬だけ、俺の手を包み込んでいる両手の握力がぴくんと跳ね上がって、少し痛いくらいだったが大見得切って格好つけたばかりなので我慢する。

 

「……ふふっ、一丁前に言うわね。子どものくせに」

 

「はっ、なんてことはないな。『子ども』の前に『男』なんだ」

 

「彼女たちの気持ちがすこしわかった気がするわね。ああ、どうしましょうか。もう一つ質問があったのに、訊く必要なくなっちゃったわ」

 

「なくなったらなくなったでいいだろう。俺もあと一つ訊こうとしてたけど、もういいし」

 

 互いにどこか人を食ったような会話を交わし、互いに思わず笑みがこぼれた。

 

 規模の大小や人数の多寡はあれど、俺もリンディさんも肩に自分以外の人間の……大げさに言えば命がかかっている。

 

だからだろうか、似ているところと言えば性根の悪さくらいなのに、なぜか通じる部分がある。

 

親友たち(恭也や忍)とも違う、レイハとも違う、話しやすさや接しやすさがリンディさんにはある気がした。

 

 だからだろう、そのせいだろう、俺は油断していたのだ。

 

管理局側との話し合いに完全決着を見て、安心して一息ついてしまっていた。

 

終わったのなら、この部屋でゆっくりすべきではなかったのだ。

 

少なくとも、顔を間近に寄せているような『至近距離』で、『手を握られている』状態のままいるべきではなかった。

 

 ぷしゅっ、と勢いよく空気が抜けるような、聞き覚えのある音がした。

 

「艦長、もう話は終わりま…………」

 

 扉が開いた、クロノが応接室に戻ってきたのだ。

 

それはそうである、なのはを家に送り届けるという任務を終えればまたこの部屋に帰ってくるのは自明である。

 

なんなら、戻ってくるのが遅かったくらいだ。

 

リンディさんが俺に話があると言っていたのをクロノも訊いていたので、もしかすると気を利かせてゆっくり戻ってきたのかもしれない。

 

結局なにが言いたいかというと、最悪の状況でクロノ少年が帰ってきてしまったということだ。

 

「あら、クロノお帰りなさい。丁度いいタイミングね、こっちの話は終わったわ」

 

「や……やぁ、クロノ。お帰り。な、なのはを送ってくれて、あり、ありがとうな」

 

 うまく回らなかった舌を責めることはできない。

 

筆舌に尽くしがたい表情をしているクロノが扉を開けたまま固まっていれば、誰だってそうなるだろう。

 

 クロノがそんな表情をするのも無理からぬこと。

 

この場で明言こそしていなかったが、クロノとリンディさんは親子だ。

 

どちらも姓がハラオウンだし、ちょくちょくクロノがリンディさんに向かって『母さん』と発言していたことからもそれはわかる。

 

 問題は、少し目を離した隙に、少し席を外した隙に、得体の知れない男(俺のことだが)が自分の母親と手を握り合いながらかなり近い距離で座っていたということだろう。

 

クロノはきっと、艦長職に就いている人を食ったような飄々としている自分の母親ならば、どこの馬の骨とも知れない十六歳のガキ如き、赤子の手をひねるように簡単に丸め込むだろう、と踏んでいたのだ。

 

だが蓋を開ければ、扉を開ければ、手に手を取って密着してお喋りしているのだから気が気ではないだろう。

 

 なんだか似たようなことシチュエーションが最近あったなぁ、と現実逃避に耽る。

 

 応接室に入り、なのはとユーノを家まで送ったことをクロノがリンディさんに報告しているのだが、その声は恐ろしくフラットだ。

 

かすかな抑揚も些かの傾きもない。

 

とてもバリアフリーだ、車椅子には優しいと思うがきっと俺には優しくない。

 

 報告を終えたクロノが絶対零度にほど近い瞳で俺を一瞥する。

 

いつの間にか右手に杖を携えていた。

 

もしかしてここで()る気か、と身構えたがさすがに艦内で、しかも艦長がいる前で戦うようなことはしなかった。

 

そのくらいにはクロノは冷静であった、杖を握る右手が震えてはいたが。

 

 安堵のため息をついた俺に、クロノがその凄絶な面付きを向けて無声で言葉を放つ。

 

 俺のかじった程度の読唇術によれば、母音がアの四文字。

 

『カ・ザ・ア・ナ』

 

 解読したと同時に、なのはを送る前のクロノの脅し文句――次そんな呼び方をしたらスティンガーレイを零距離から腹に撃ち込む――を思い出した。

 

次クロノと会う時は、腹に超合金Zでも仕込んでおいたほうがいいかもしれない。




なんで話し合いだけでこんなに長くなった……。
次は短めの話になる予定です。
その話が終われば次の章になります。
とんと日常編を書いていない……。


最近三人称の勉強としてSAOの二次創作をちょくちょく書いています。
いつにするかはまだ決めていませんが、近々投稿しようと思っていますので、よければ感想などを頂けたらなぁ……なんて。
不慣れなのでだいぶ拙い三人称だとは思いますが、時間があればどうぞよろしくお願いします。


後書きにこんなこと書いていいのかな?
書いちゃダメだった時はすぐさま消しますね。


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幕間~各々の諸事情~

ここのリニスさんは主人公の熱弁(第二章15)により、耳と尻尾を隠しておりません。あしからず。

前回の後書きかなにかで今回は短くなる予定、とかなんとか書いた覚えがありますが、なぜか前回よりも長くなりました。
なぜでしょうかね。


 時の庭園は、動力炉が備えられた次元航行可能な巨大建造物である。

 

壮麗な建物の中は意匠を凝らした装飾が為されているが、頻繁に使われる部屋以外は明かりすら灯されておらず、広大な敷地がかえって寒々しかった。

 

多くの部屋があるがそこには一切の生活感がなく、廊下は静まり返り、耳が痛くなるほどである。

 

 今現在、時の庭園には二人しかいない。

 

かように巨大な建築物であるにもかかわらず、魔導師とその使い魔のたった二人しかいなかった。

 

「……そう、もう来てしまったのね。フェイトたちに怪我は?」

 

 その二人のうちの一人にして巨大建造物の主、プレシア・テスタロッサは執務机の天板を覆い尽くさんばかりの書類に向かいながら、傍らに(はべ)る自身の使い魔、リニスへ問いかける。

 

「怪我はありません。一時は拘束されたらしいですが、徹が助けてくれた、とのことです」

 

「前にアルフが言っていた、あなたが裸に剥いたという少年ね。その子には敵味方という概念がないのかしら」

 

「その少年で間違いないですが、わざわざ『裸に剥いた』という話を持ち出す必要はありませんでしたよね?」

 

 鋭く細められたリニスの眼光を、しかしプレシアはなんてことはないと言わんばかりに気にもせず、書類にペンを走らせる。

 

机の上が紙でいっぱいなのでサイドテーブルへと追いやられた紅茶を一口飲み、プレシアは口を開いた。

 

「ジュエルシードは……今いくつあったかしら」

 

 抗議の視線を流されてリニスは小さく唸りながら尻尾を垂らすが、やがて小さくため息をつき、プレシアに答える。

 

「二つ、ですね」

 

「二つ……とてもじゃないけど足りないわね」

 

「……本当に実行に移すのですか、プレシア。まだなにか手があるのでは……」

 

「――っ!」

 

 リニスの控えめなボリュームで発せられた言葉に、寸時、部屋の空気が凍る。

 

狂気が込められた爆弾が爆発する前の静寂のように感じられたが、プレシアの声音は、波長としては落ち着き払ったものだった。

 

「……これまで調べてきて、他に使えそうな情報はなかったでしょう。期待できそうな手は尽くした……尽くし切った。もう、残されていないわ」

 

 リニスの苦言に、プレシアは手元に雑然と置かれている書類のうちの一枚をくしゃり、と音を立てて握り潰したが、それ以上激情が周囲にぶつけられることはなかった。

 

プレシアは眉間に深く皺を刻むものの、自分の頭を冷やすように数秒の間固く目を(つぶ)り、先までと変わらぬ口調で諭すように言う。

 

「しかし、そうなると……」

 

「いくつも予想はしていたでしょう。その予想の一つを一つを引いた、それだけよ。予想通りと言ってもいいわ」

 

 リニスはあくまでも食い下がった。

 

だがプレシアは、今回は感情の起伏も見せずに、握り締めてくしゃくしゃにしてしまった紙のしわを取るように伸ばしながら、素っ気なく返す。

 

 導火線に着火された火が積み上げられた火薬へと近づいていくようなぴりぴりとした緊迫感が、二人しかいないうら寂しい部屋に流れる。

 

「ええ、そうですね。いくつも考えていた内の最悪に近いシナリオに入ってしまったこと以外は概ね予想通りですね」

 

「いやにしつこいわね。そんなに気に食わないの?」

 

「っ! 当たり前でしょう!」

 

 他人事のようなプレシアの言い様に、とうとうリニスは語気を荒げて(まく)し立てる。

 

「このままでは全員で幸せになるという結末には辿りつけない! すべてのシチュエーションを想定したのはあなたなのですから、当然覚えているでしょう!」

 

「はあ……わかっているわよ。そもそも、魔法の存在が確認されていない第九十七管理外世界で収集の邪魔が入った時点で、最善の道筋からは狂い始めていたじゃない」

 

 激語を吐くリニスに、プレシアは相変わらず一瞥することすらなく、目線を机の上に向ける。

 

それが今できる唯一の行動と、言外に示すかのようだった。

 

 プレシアにも、このままではみんなで笑って暮らすような生活に戻れないということは痛いほどにわかっている。

 

それでも、(おの)が信念に基づき歩みを進めるのが、プレシア・テスタロッサという女性であった。

 

「私もあらゆる可能性ごとに組み上げられた行動指針案は、全部くまなく目を通したのですからわかってますよ! だから、今回はロストロギアを……ジュエルシードを諦めて、次の機会を(うかが)ってみるのもいいのではと!」

 

「今回を逃せば、リニスの言う『次』がいつくるかわからないわ。もう……何年も待たせてしまった。あの子(・・・)をこれ以上待たせることはできない、引き延ばすことはできないわ。時空管理局が介入してきたその瞬間に、私たちにとっての最良の結末は失われているのよ。かといって、後ろに道が残されているわけでもない。それなら突き進むほかにないじゃない」

 

 プレシアの言葉は感情的に荒げられたものではない。

 

だからこそ、内側に押し込められた想いは……覚悟は密度を増し、一寸のぶれもなくリニスに伝わる。

 

リニスは下唇を噛み締め、俯いた。

 

プレシアの語調は穏やかだったが、内心の乱れが身体の末端に如実に現れていた。

 

ペンを持つプレシアの手は震え、ペン先は小刻みに揺れ、紙に字を書ける状態ではなくなっている。

 

目の前に置かれている難解な文章が羅列された書類も、長い時間同じ位置から動いていない。

 

いまだに目を通していない証左であった。

 

「リニス、あなたの意思は汲むわ。どうしてもやりたくないというのなら、手伝わなくてもいい。私一人でやるから」

 

 プレシアは使わなくなったペンを置き、黙り込んでしまったリニスに告げる。

 

かすかに微笑みまで(たた)えながら、プレシアはリニスへ目を合わせた。

 

 プレシアの申し出にリニスは小さく首を振り、深く息を吸って口を開く。

 

リニスの尾骨から伸びる薄茶色の触り心地の良さそうな尻尾は、まっすぐ天を仰いでいた。

 

「一緒にどこまでも行きますよ。私は、あなたの使い魔なのですから」

 

「そう、……………(・・・・・)。なら報告を続けなさい。話がだいぶ逸れてしまったわ」

 

 リニスの心からの言葉を受け、プレシアはそれに短く返事し、ぷいっと使い魔から目線を外して机に戻す。

 

手元から一番近い書類を取り、リニスに続きを促した。

 

 命令されたリニスはプレシアの返答に一度大きく目を見開き、頭の上の耳をぴょこぴょこと動かして喜色満面とした表情を浮かべる。

 

 部屋の空気に、かすかに柔らかさが帯びた。

 

「ジュエルシードについての報告の途中でしたね。今こちらにあるのは二つ、徹たちに五つあり、残りは十四つです」

 

「なるべくなら多いほうがいいけど……最低でも半分は欲しいところね」

 

「九十七管理外世界、地球の海鳴市近辺にあるとは思いますが、正確な場所までは掴んでいません」

 

「そう、そのあたりは仕方ないわね。フェイトには回収を急ぐように強く(・・)言っておいてくれるかしら」

 

「はい、わかりました」

 

 小さいフォントで印字されているものや、ところどころにグラフが挿入されている書類に目を通し、机の端の邪魔にならない狭いスペースにねじ込むが如く、読み終わった紙を重ねて置く。

 

プレシアは左手にまた別の書類を取り、右手ですでに冷めている紅茶を口に運ぶ。

 

 プレシアはリニスに次の報告をするように言いかけるが、気にかかることに思い当たり急遽言葉を変える。

 

「時空管理局に拘束されたって言ってたわね。どうやって逃げたのかしら。現地で助けてくれた少年も捕まってたのではないの?」

 

「いえ、アルフによると、拘束魔法にかけられたのはフェイトと、現地の茶色い髪をした少女だけだとか。突如結界を貫いて割り込んできた管理局の執務官にバインドをかけられ、執務官が口上を述べようとしていたところに徹が殴り込み、距離が開いた時に少女とフェイトのバインドを破壊。そこから徹は執務官と戦闘になり、アルフとフェイトはその隙に戦闘領域から離脱したそうです」

 

「管理局の執務官に殴り込む……無茶苦茶な子ね。そんなに乱暴な子なの? ケーキを差し入れしてくれた人と同一人物だとは思えない荒っぽさだわ」

 

 プレシアの質問に、リニスは視線を逸らして苦笑いを浮かべる。

 

「いえ、徹は口調や外見こそ粗暴な感じはありますが、中身は真面目で礼儀正しく、心優しい少年です」

 

 リニスは徹の印象を悪くしないようフォローし、続ける。

 

「えっと、それがですね……どうやらフェイトとアルフが逃げるための時間を稼いでくれたんじゃないか、と」

 

「……え、どういうことかしら。もう少し説明を加えなさい、さっぱりだわ」

 

「確信はないらしいのでアルフの言も曖昧だったのですが、茶髪の少女とフェイトのバインドを破壊して……」

 

「正直そこもわからないのよ。執務官がかけた拘束魔法ではないの? なぜ簡単に壊したみたいな扱いで話を進めるのよ。以前の報告で、最近魔法を憶えたばかりと言ってなかった? 私の記憶違いかしら?」

 

「魔法を知って日が浅いはずだったんですけどね、なぜでしょう。そのあたり私も言及したのですが……アルフもフェイトも、三秒とかからず握り潰すように破壊した、としか」

 

「素人という触れ込みはなんだったのよ……。いいわ、話の続きを」

 

 新たな心配事が降って湧いたおかげで苛まれる頭痛に、プレシアは顔をしかめた。

 

これ以上シナリオに支障をきたしては管理が困難になると憂いたのだ。

 

 リニスは首肯し、続けた。

 

「少女とフェイトのバインドを破壊して自由にした時に、徹は執務官に見られないよう背中に手を回して撤退するように指示を送ってきたそうです」

 

「なぜ彼がそんなことをする必要があるの?」

 

「徹のことですから、おそらく気を回したのだと思います。フェイトとアルフが管理局に捕まらないように」

 

「変わった少年ね、本当に。戦闘になってそこからどうなったのかしら」

 

「途中で離脱したので最後までは見れなかったらしいです。ただ、押されながらも懸命に食らいついていた、と言っていました」

 

「…………」

 

 プレシアはとうとう閉口し、深く考え込んだ。

 

 つい最近まで一般人だった人間が、気合や根性などの精神論でどうにかできるほど、時空管理局の執務官という相手は甘いものではないことを、ミッドチルダで生活していたプレシアは知っていた。

 

多岐に渡る専門知識に迅速な判断、指揮能力も必要になる上、戦闘能力も非常に高い水準を要求される。

 

そのため執務官になるための試験はめったやたらに難易度が高く設定されており、合格率は二割を割り込むほど狭き門なのだ。

 

 だからこそプレシアは得心がゆかなかった。

 

日夜知識を蓄え、技術を磨く執務官相手に素人上がりが善戦するなど、常識で考えれば到底不可能だ。

 

執務官との実力の差は、生半可な努力や諦めない心なんかで覆るほど、浅いものではない。

 

世界は、弱者に優しくできていないのだ。

 

 もしかするとなにか稀少技能(レアスキル)でも持っているのかもしれない、とプレシアは考量するが、結局情報不足の現状では憶測の域を出ないと判断し、そこで考察を切った。

 

「情勢の変化はそれで以上かしら」

 

「そうですね、これより踏み入った情報はまだ得られていないようです」

 

「わかったわ。また何か入れば報告しなさい。その都度調整していくわ」

 

 確認し終わった書類を、再度机の端に束ねる。

 

 次の作業に移ろうとした時、こんこんとプレシアが咳き込んだ。

 

駆け寄ろうとしたリニスをプレシアは、大丈夫だから、と掌を突き出して止める。

 

「プレシア、少し休んだほうがいいのではありませんか? 顔色もよくありません」

 

「時間がないのよ、多少無理を押してでもやらなきゃいけないわ」

 

 プレシアの容体を心配したリニスが進言するが、聞く耳を持とうとはしなかった。

 

この話は終わりと言いたげにサイドテーブルを右手の人差し指でかつかつ、と叩き、リニスに飲み物のお代わりを要求する。

 

そんな(かたく)なな姿勢にリニスは無言で頷き、鈍く銀色に光るトレイに磁器製のティーカップとソーサーを乗せて、部屋を出るため扉に手を掛けた。

 

 プレシアは使い魔の背中と垂れた尻尾を見やり、言葉を投げかける。

 

「リニス、フェイトとアルフに指示を出しておいて。内容は言わなくてもわかるわね?」

 

 リニスは扉の取っ手を握ったまま、振り返らずに答える。

 

真摯に――誠意を言の葉に籠めて、答える。

 

「わかっていますよ……。プレシアがその道を選ぶのなら、私はあなたに従い、あなたの一歩後ろをついていきます。どこまでも、ついていきます。ただ、ただできることなら……」

 

 ――後悔しない、明るく幸せな未来へ続く道を歩んでほしいです――

 

 リニスが残した囁くような声は、静寂に呑み込まれた。

 

 扉が小さく軋み声をあげて開き、そして閉じる。

 

部屋に残されたのは、主一人だけ。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「リニスから連絡きてたの?」

 

「うん、ついさっき聞き終わったところだよ。すぐご飯作るからね……って、またそんな恰好で……」

 

 海鳴市中心部からは少し距離があるものの、駅からはほど近く、セキュリティは万全で清潔感を感じさせる大きなマンション。

 

その最上階である十二階の一室に、(まばゆ)い光を放つ金色髪の少女、フェイト・テスタロッサと、橙色の髪を腰まで伸ばしているフェイトの使い魔、アルフはいた。

 

 玄関前の廊下と、リビングダイニングを隔てる扉が開き、フェイトが現れる。

 

風呂上がりらしいフェイトは頬を上気させ、下ろされた長い金髪の毛先から雫を滴らせていた。

 

ほぼ肩にかけているだけの大判のバスタオル以外に、少女の起伏の乏しい肢体を覆う布はない。

 

 台所に立っていたアルフが、もたつきながら髪の水気を取ろうとしているフェイトに近付き、タオルを奪い取って代わりに拭く。

 

フェイトとアルフは、主とその使い魔という主従関係だが、目を瞑ってされるがままになっている主人と、小言を言いながらも世話を焼く従者という光景は、まるで親子のようだった。

 

「りにゅっ、りにゅしゅはにゃんていってたにゃ?」

 

「にゃにゃ? なんだにゃ?」

 

「ばしゅ、バスタオルちょっと置いて、喋れないからっ」

 

「あははっ、ごめんごめん」

 

 優しくも荒々しく、丁寧ながらも乱暴に髪を拭うアルフのせいで、ちゃんとした言語を発声できなかったフェイトがか細い腕で抵抗する。

 

従者は遊びまじりになりつつあった手を止め、慣れた様子で手際良く主人の長い金色の髪を頭の上部でまとめ上げ、髪から滴った水が床に落ちないように、近くの棚から新しい乾いたタオルを取り出してくるくると巻く。

 

次いでアルフは、チェストにしまう前の、畳んでおいたフェイトの服を引っ掴み、おかんさながらに手際よく着せた。

 

 季節は春で部屋の中とはいえ、いつまでも一糸まとわずふらふらしていると風邪をひいてしまう。

 

主の体調管理も使い魔の仕事の一つであった。

 

「で、にゃんだっけ?」

 

 パジャマとして使っている、黒を基調とした肌触りのいいシンプルなワンピースを着せ終わると、アルフがにやにやと意地の悪い顔を浮かべながら訊いた。

 

フェイトは風呂上がりとは別の赤みが差した頬を小さく膨らませる。

 

「リニスはなんて言ってたの?」

 

「ああ、時空管理局の態勢が整う前に急いでジュエルシードを収集するように、だってさ」

 

「まだたった二つしかないもんね……もっとがんばらなきゃ」

 

「あとリニスは、プレシアから違う仕事を頼まれたらしくて、しばらくこっちに合流できないってさ」

 

「そう、なんだ……」

 

 フェイトは弱々しく呟いたが、頭を振って、年相応に小さな手のひらをきゅっ、と固く結んで下がった視線を持ち直す。

 

「ううん、弱気はだめだよね。リニスには戦い方をたくさん教えてもらったんだから、私たちだけでジュエルシードを集めて、もう一人前なんだってところを見せなきゃ。母さんだって、私たちがジュエルシードを持って帰ってくるのを待ってるよね。早く集めなきゃ、管理局よりも早くっ」

 

 垂れていた頭を上げて、フェイトはアルフの目をまっすぐ見上げる。

 

つぶらな瞳にやる気の炎を(とも)らせ、内気なフェイトらしからぬ気炎を吐く。

 

「そうだね。早く集めて、またみんなで庭園に集まっていっぱい遊ぼう」

 

 子どもの成長を見届ける母親のような優しい表情をフェイトに向け、アルフはフローリングに膝をつけて抱き締める。

 

数秒ほどぎゅうぅっ、と熱い抱擁を交わしたのち、アルフは一歩分後ろに下がって立ち上がった。

 

「集めるにしてもまずは力をつけなきゃ、だね。すぐご飯作るから待っててよ」

 

 フェイトは首肯すると、ぺたぺたとフローリングを歩き、扉の前からカーペットが敷かれているリビングダイニングに移動して、キッチンから一番近いソファに華奢な身体を預ける。

 

 アルフは台所に戻り、調理の邪魔にならないようにオレンジ色の長い髪を後頭部の少し上で一本に束ね、晩御飯の用意に取り掛かった。

 

「徹……大丈夫かな」

 

 ソファの向きとは逆、背もたれの上に肘を置いて座部に膝をつき、上半身を対面式キッチンへと向けるフェイトが心配そうに言った。

 

アルフは晩ご飯を作り続けながら、半ば励ますような語調で返す。

 

「大丈夫さ。徹は魔力こそあたしたちほど大きくはないけど、頭はいいからね。相変わらず無茶苦茶な戦法だけど」

 

「初めて手合わせした時と同じだった。相手が誰でも正面から突っ込むんだね。でも……管理局に真っ向から歯向かったら、ただじゃ済まないかもしれない……」

 

 アルフの言葉に最初こそ明るい表情をしていたフェイトだが、次第に影が混じる。

 

料理を進めていた手を一旦止め、アルフは無理矢理笑みを貼りつけてLD(リビングダイニング)にいるフェイトへと視線を投げかけた。

 

「だ、大丈夫だって、きっと切り抜けてるさ! 徹だって弱いわけじゃないんだから。フェイトだって見てたじゃないか、徹の人間離れした突進力を。それにあたしとやりあえるくらいに近接戦闘ができるんだ。並の魔導師くらいなら圧倒できるよ!」

 

「相手は並じゃないよ、執務官なんだから。相手を挑発するようなことを言って、私たちが逃げる隙と時間を稼いでくれたんだ……。徹、怪我してないといいけど……」

 

 んぐっ、と喉を詰まらせ、ふわふわと視線を彷徨(さまよ)わせてアルフは言葉を探す。

 

 時空管理局が戦場に干渉し、茶色の髪を両側で結った少女、なのはとフェイトが拘束された時、徹は一も二もなく攻めかかった。

 

彼我との間に距離を確保し、二人の少女の身体を縛るバインドを破砕したところで、本来であれば逃亡してもよかったはずなのだ。

 

なのにそうせず、どころか少年の性格を鑑みれば似つかわしくないほどに乱暴で剣呑な言い様で煽りすらして、注意を引きつけ、敵意を引き寄せた。

 

自分より遥かに格上の相手に舌鋒鋭く非難して見せ、啖呵を切りながら、ジュエルシードを巡る敵であるはずのフェイトとアルフに後ろ手で撤退するよう指示をした。

 

そんなことをする理由は一つしかない、フェイトとアルフが捕まらないようにするためだ。

 

ジュエルシードこそ回収できなかったものの、そのおかげで二人は怪我なく、時空管理局に追跡されることもなく、無事に工場跡を離れることができて住処であるマンションに戻ることができた。

 

 いくら実力があるフェイトとアルフとはいえ、執務官を相手にすればどうなるかわからない。

 

浅くない傷だって負っていたかもしれないし、管理局の索敵に追われてマンションにも戻れなかったかもしれない。

 

だからこそ、二人は徹を身代わりのように、管理局を阻む壁のようにしてしまったことを気に病んでいた。

 

「と、徹は頭だけじゃなくて舌もよく回るから、きっとうまいこと言い(くる)めてなんとかやってるはずだよ! フェイトは知らないだろうけど、ジュエルシードが暴走した時はそれはもう、適性や能力がどうの、向き不向きがこうのって理屈っぽく並べ立てられて丸め込まれてさ。だから管理局が相手でも、なんやかんやとうまいこと言い繕ってるさ!」

 

 徹が目の前にいれば物言いが入ること間違いなしなほどに失礼なことを言うアルフだったが、彼女とて、気を揉んでいなかったわけではない。

 

フェイトと同様、もしくはそれ以上に彼の身を案じていた。

 

それでも明るく言ってのけるのは、徹がどういう人間かを理解しているからである。

 

 人が傷つくのは怖がるくせに、自分の血を流すことは全く思慮に含まない。

 

――心配してくれるのは嬉しいけど、悲しませることは本意じゃない――

 

きっと徹であれば、そんなふうに虚勢を張りながら顔を背けて(うそぶ)くだろう、とアルフは確信していたのだ。

 

 その気持ちはフェイトにも正しく伝わったようで、LED電球が使用されている照明の下で俯き、影に覆われていた顔を上げ、アルフに向き直る。

 

「そう、だよね。徹のことだから、大丈夫だよね」

 

「そうそう、またどうせ、筋が通っているのかいないのかよくわからない論理を、あたかも完全に正しいかのように胸を張って捲し立てて煙に巻いてるよ!」

 

「ちょっと言いすぎだよ、アルフ」

 

 アルフの軽口を注意するフェイトだが、注意する本人もくすくすと堪えるように笑っているので、そこに説得力はない。

 

それでもこの場に限っては、徹を(おとし)めるつもりではないという本心を互いに理解しているので、そもそも(たしな)める必要などなかった。

 

「徹には、今度会った時にお礼を言おう」

 

「うん、そうだね。逃げるのに協力してくれてありがとう、って一緒に言おうか。でも徹は助けたなんて認めないだろうね。絶対言うよ、自分のためにやったんだ、とかって」

 

「ふふ、言いそうだね。腕組んで目を逸らして、でも嬉しそうに口元を緩めるところまで想像できた」

 

『私も彼には礼を言いたいです。今回は挨拶することもできなかったので、ジュエルシード暴走時の恩も含めて』

 

 テーブルに置かれている、金色の台座に乗った三角形をしたインテリジェントデバイス、バルディッシュが、その身を点滅させながら唐突に音声を発した。

 

 フェイトはキッチンへ向けていた身体を、ばっ、と振り返らせ、自身のデバイスであるバルディッシュへと大きく見開かれた目を向ける。

 

予想外の方向からの言葉に、驚きの色が声に(にじ)む。

 

「バルディッシュがそんなこと言うのも珍しいね」

 

『そうですか?』

 

「ちょっと違うよ、フェイト。バルディッシュが喋ること自体珍しいんだ」

 

 片手にお玉を携えたアルフは料理の味見をしながら、オレンジ色のポニーテールを揺らして茶化すように言う。

 

『…………』

 

「ご、ごめんってば。あ、フェイト、料理できたから運ぶの手伝って」

 

 長い沈黙がバルディッシュの返答であった。

 

無言の圧力に屈したアルフは旗色が悪いと見て早々に謝り、そそくさと話を変える。

 

そんなやり取りを見ていたフェイトは、可憐な蕾が花開くように柔らかく微笑んで、アルフに短く返事をする。

 

 春と言えども、夜の(とばり)が下りれば花冷えの冷たい風が吹き、気温を下げるが、薄い窓ガラスを一枚隔てたフェイトたちの部屋は、暖かな空気に包まれていた。




全部書き終えて、いつも通り読み直して、そして気づいた。
フェイトノーパンじゃないか。
寝間着のワンピースを着させてから、なにも着させてなかった。
この後書きを読む前に気づき『ノーパンきた!』などと思った人は相当重篤なロリコンです。
そんな人は名乗り出なさい、ロリ要素鑑定士準一級の資格を授与します。
気づいたものの、これはこれで……と思ってしまった僕も、たぶん重症です。
フェイトの脱衣癖の力がここまで及ぶとは……これは抗えない、うん。


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第四章
日常~勉強会~前日


おかえり、そしてただいま。
長い長い進行編が終わり、章が変わり、日常編です。
シリアスだったり真面目だったりな話が続いたので、これからしばらくはだらだらした話になります。
よろしくお願いします。


ちなみに忍は恭也の嫁。そこは絶対変わらないです。
そしてもう一つ、ここの忍は性格改変されております。今さらですけどね。


「なんでお前だけなんだよ」

 

「なんであんただけなの」

 

 四月二十五日金曜日、しばらく前から進めていた――懇親会になりつつある――勉強会を明日に控えた今日この日、俺は学校を終えてから海鳴市の中心部へと足を運んでいた。

 

 その理由は以前、恭也と話をしていた通りに買い出しだ。

 

当初計画していた人数より参加メンバーが膨れ上がったため、料理の食材やデザートを作るための材料の調達から奔走することとなった。

 

恭也と忍がメニューの方向性を一緒に考えてくれていなければ更に時間がかかっていたことだろう。

 

付け加えて言うのなら、鷹島さんやなのはたちにデザートのリクエストを貰っていなければ、頭を捻る上に試行錯誤を繰り返すことになっていた。

 

 なにはともあれ献立が一通り決定し、食材が傷むことを避けるため、勉強会の前日である今日、買い出しに来るはずだったのだ。

 

食材の目利きで役に立つだろう恭也を引きつれて……なのに、俺を待っていたのは違う顔だった。

 

「恭也が来るんじゃなかったのかよ」

 

「徹と二人だけなんて、私だって聞いてないわよ。恭也があんたと買い物に行くっていうから私も来たのに」

 

 待ち合わせ場所である駅の前に設けられている広場、その真ん中に屹立する時計塔にはなぜか忍がいた。

 

恭也の姿はない、忍だけであった。

 

 艶のある紫色の長い髪をたなびかせ、右手を腰に当てて凛と立つ忍は学校からそのまま来たのだろう、制服のままであった。春の温もりを乗せた風にスカートの端をひらつかせて、長く綺麗な足を惜しげもなく披露している。忍の端正な顔貌と脚線美に、広場にいた数人の男たちはみな、吸い込まれるように視線を注いでいた。

 

「なんだ、恭也から買い出しに行くのは聞いてたのかよ」

 

「ええ、『徹と土曜の勉強会で出す料理とデザートの材料を買いに行くんだが、忍も来るか?』って」

 

 腕を組みながら恭也の口真似をする忍。

 

動きと喋り方はさすがに小さい時から一緒にいるだけあって似ているが、声質だけは決定的に似ていなかった。

 

「なにそれ、俺まで伝わってきてねぇよ。その当人はどうしたんだ」

 

「恭也からはそれ以降なにも聞いてないもの、私も知らないわ。携帯になにか連絡入ってないの?」

 

 くいっ、とあごで、俺に携帯を確認するよう忍が命令してくる。

 

その女王様顔負けの不遜な指示の出し方に内心カチンときながらも、しぶしぶ黙って従う。

 

口で一抵抗したら物理で十をもって切り返してくるような女だ、わざわざ傷口を広げるようなマネをする必要はないだろう。

 

 ポケットに手を突っ込み携帯を取り出す。

 

ディスプレイにはメールが一件、内容は以下の通り。

 

『すまんな。急用が入ったので代打には忍を立たせた。守備範囲は広いから問題はないだろう。頑張ってくれ』

 

とのこと。

 

「先に言っとけや!」

 

 つい本音が脳を経由せず口から出てしまった。

 

「なに、なんて書いてあったの?」

 

 すたたっ、と後ろに回り込み、俺の顔のすぐ横で忍が携帯の画面をのぞき込む。

 

 忍は他人にはお淑やかなお嬢様キャラで通しているが、一定のラインを越えた友人相手には仮面を取っ払い、自由奔放勝手気ままに動き回る。

 

それ故に遠慮もなく近づいてくる。

 

パーソナルスペース? なにそれ、おいしいの? と言わんばかりに考えなしに、一直線に距離を詰める。

 

 顔良しスタイル良し、ついでに頭と家柄も良しの女の子が身体に触れるくらいに接近してきたら、男なら誰だって勘違いしてしまいそうにもなるが、如何せん、こいつにはその気など一切ない。

 

勘違いしてはいけないのだ。

 

 いやまあ、しないけども。

 

俺では忍を扱いきれない。

 

会話からも察することはできるが、近い人間に対して忍は容赦がない。

 

外から見るぶんには女性として欠点などないが、近くにいるとよくわかる。

 

性格が一部、致命的に崩壊しているのだ。

 

 長年経験している俺は重々理解している、身に沁みてわかっている。

 

だから俺はすぐ隣に寄られたとしても動揺などしない。

 

幽香が嗅覚を刺激しても、なんとも思ったりしない、感情をぐらつかせることをしないのだ。

 

「あ……ん、えっと。よ、用ができて来れねぇだって」

 

「なに焦ってるの? 顔赤くない?」

 

 駄目だった、動転していた。

 

日頃非道な振る舞いをされているぶん、ギャップに心臓を貫かれた。

 

「と、とりあえず、恭也は来れなくなったわけだが、忍はどうする? 帰るか?」

 

「あんたは買い出し行くんでしょ? 手伝うわよ」

 

「いいのか? 恭也は来ないんだぞ? 俺と二人ってことになるし」

 

「別にいいわよ、徹と二人だけっていうのも最近なかったでしょ。久しぶりにこういうのもいいんじゃない?」

 

「まぁ、最近は誰かが絶対にいたけど……。俺と二人で歩いているところを学校の生徒に見られたら、なにかしらの誤解を受けるんじゃないか?」

 

「そんなもんで(ひび)が入る友情じゃないでしょう? どれだけ親友やってると思ってるのよ。さっ、行くわよ」

 

 善意の忠告を、しかし忍は一笑に付して俺の腕を取り颯爽と歩き始める。

 

 学校での俺の不本意な評判を、もちろん忍は知っているのにそんなこと意にも介さず俺の手を引く。

 

紫髪を右に左に揺らしながら、忍はずんずんと迷いなく歩みを進める。

 

細くて柔らかいのに、どこか頼りになる手だった。

 

 久方ぶりに耳にした忍の心優しい言葉に、女々しいことに涙腺が緩みそうになった。

 

こいつが俺に面と向かって『親友』だと言ってくれるなんて、忍も丸くなったものである。

 

 ただ、格好いい背中を見せながら力強く足を踏み出していく忍に、俺は一つ言わなければいけないことがあった。

 

自然と声音も柔らかくなる。

 

「なぁ、忍……」

 

「なに、徹、珍しく穏やかな声出しちゃって。似合わないわね。感動しちゃった?」

 

 俺の手を引いて振り返りながら、忍はからかうように笑う。

 

勘の鋭い忍だから、どうにか自分で気づいてくれないかな、とも思ったがどうやら空振りに終わったようである。

 

「いや、なんだ……言おう言おうと思ってたんだけど」

 

「あ、惚れちゃった? 残念だけど、私には予約済み(reserved)の札がかかってるから告白は受け付けてないわよ」

 

 忍は目を細めながら口元を覆うが、にやにやとした表情は全然隠せていなかった。

 

 どうすべきか、さらに言い難くなってしまったが、このままでは本日の任務(mission)完了(complete)できない。

 

 八つ当たりでどんな攻撃が飛んでくるかわからないが、俺は足を止めて腹をくくる。

 

「ちょっと、いきなり足止めないでよ。さっきからどうしたの? いつもおかしいわよ」

 

「そこは『今日は』だろ。ただの悪口になってんじゃねぇか。……自信満々で先導してくれるのは嬉しいんだが、忍よ」

 

 首を傾げて、身長差から俺を見上げる形になっている忍へ告げる。

 

「目的地、真逆の方向なんだ」

 

 内心どんな苛烈な暴力を振るわれるかと怯えていたが、忍のリアクションは俺の予想と全く異なるものだった。

 

予想を遥かに越えるものだった、と言い換えてもいい。

 

「そっ……それを……早く言いなさいよ……」

 

 忍は、らしくない蚊の鳴くような声で呟き、赤面しながら顔を伏せた。

 

 俺の心臓に二本目のギャップの槍が突き刺さる。

 

 手から伝わる温度はすこし熱くなっていた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 握った手を離す機会を失ったため、小学生の遠足のように忍と手を繋ぎながら、目的地へと通じるアーケード街を歩く。

 

 見上げれば装飾が施された白色透明の天井、太陽に照らされて紋様が浮かび上がっている。

 

左右には多種多様な店が軒を連ねており、店舗数が多いことから価格競争も激しく、家計をやりくりする主婦の方々を多く目にする。

 

雑貨店や服飾関連の店も多数あり、特に用事がなくとも見て回るだけで楽しいことから学生にも人気が高い。

 

かく言う俺も、ついさっき通り過ぎた料理包丁専門店という看板に強く心惹かれている。

 

 恭也曰く、このアーケードのもう少し進んだところに生鮮食品やフルーツなどの専門店が密集している、とのことだった。

 

「それで、まずはなにを買いに行くのかしら」

 

 駅前の広場からしばらくの間固く口を閉ざし、逆に俺に手を引かれて俯きながら歩いていた忍が尋ねてきた。

 

 先刻の赤っ恥はどうやら吹っ切ることができたようで、声のトーンは通常運転に戻っている。

 

だが相当堪えたようで、顔にはまだ赤みが残っていた。

 

「最近暖かくなってきたからな、デザートの材料を先に買うと傷んじまいそうだ。だからまずは、メインの立食(ビュッフェ)で使う食材から回ろうと思ってる」

 

「あ、言うの忘れてたわ。昼食で使いそうなものは、もうこっちで揃えてるのよ」

 

「こっち、って……月村家のほうで用意してくれたのか?」

 

「ええ、食事形式は昨日聞いていたからね。昨日のうちに準備させておいたわ」

 

 買い出しに行くというのはもともと、忍の家に負担を掛けすぎないように、という配慮からだったのだが、基本的によく気が回る忍が手回ししてくれていたようだ。

 

勉強会を開催するにあたりお屋敷の一部屋をお借りし、昼飯を作るということで料理人の聖域であるキッチンまで拝借し、さらには食材まで支度させてしまうとは心苦しい限りだ。

 

至れり尽くせりと言うべきか、おんぶに抱っこと言うべきか。

 

いやはや、頭が上がらない。

 

「ケーキとかのデザートはなにを作るかわからなかったから用意できてないわ。買いに行くならそっちね」

 

「なにからなにまですまん、ありがとう」

 

「別にいいわよ、これくらい。私はまだ技術的に徹のお手伝いもできないからね、準備くらいはしておくわよ」

 

 デザート期待してるわ、というセリフを意地悪げな笑みと共に綴り、忍は締め括った。

 

 こういうさりげない気遣いや手配をさも当然のようにこなし、しかもそれを鼻にかける様子が欠片もないというのが、月村忍の格好いいところである。

 

 俺が女なら絶対忍に惚れていたことだろう。

 

ちなみに男のままで惚れることは難しい、なにせ俺より性格が男前なのである。

 

男の視点からでは、どうしても忍の立ち居振る舞いは憧れのほうが先に立つ。

 

「ん……?」

 

 忍に、任せとけ、と返事をした時、唐突にどこかから、がしゃ……、と軽い物を落とすような音を耳が捉えた。

 

同時に聞き覚えのある音声をかすかに拾ったが、さすがに人通りも多く、上と左右に壁があるこのアーケードでは音が反響し、正確な位置までは特定できなかった。

 

「どうしたの?」

 

 左見右見(とみこうみ)する俺に、忍が視線を向ける。

 

癖なのだろう、小首を(かし)げるポーズと身長差ゆえの上目遣いがとても眩しい。

 

この仕草だけであれば忍は完全無欠に美少女だ。

 

 跳ね上がった心拍数を気取られないよう、黙って首を横に振る。

 

 全幅、と言っては過言になるので半幅(はんぷく)とでも言い表しておこう。

 

その半幅の信頼を寄せる俺の第六感では、それほど嫌な予感や悪い気配を感じ取ってはいないので、さっきの落下音もなにかの気のせいか、もしくは通行人の誰かが買い物袋でも落としたのだろう、と断案を下す。

 

 落ち着きを取り戻したところで忍に、なんでもない、と言って話を戻した。

 

「女の子が多いっつっても、十人ぶんともなるとさすがに結構な量になっただろ。……やらしい話、金額とかってどれほどかかったのかなぁ……なんて」

 

 俺の下世話な質問に、忍は嘆息しながらオーバーリアクションで『やれやれ』と手を広げる。

 

忍の反応にうぐっ、と言葉が詰まるが、そのあたりの金銭管理をちゃんとしておきたいと思うのはきっと俺だけではないはず。

 

「本当にやらしい話ね……経費なんてあんたが気にする必要ないの。問題はお金じゃなくて量よ。うちの業務用の冷蔵庫がいっぱいになったのよ? 覚悟しておいたほうがいいわよ、徹。相当作るの大変だからね」

 

 お金の話を華麗に流し、忍は話の焦点を巧みに変える。

 

俺に対する忍なりの配慮であることくらいはさすがに悟ることができるので、俺もこの件についてはこれ以上触れなかった。

 

 心遣いに気づかないふりをして、俺は忍の話に乗る。

 

「うわぁ……マジかよ。まぁ、客人に大食らいが二人いるからな、その計算は間違ってないだろうけど」

 

 大食らいとは無論、長谷部真希と太刀峰薫両名である。

 

 彼女たちはきっと無限胃袋なる内臓器官でも内蔵しているのだろう。

 

そう思ってしまうのは、彼女たちの食事量が常人のそれと比べ物にならないからだ。

 

 だが、きちんとカロリーを摂取しているわりには授業中寝ていることが多い。

 

嘆かわしいことに、取り入れたエネルギーは二人の脳みそにまで届いていないようであった。

 

「せいぜい頑張りなさい。私はソファの上から応援してるわ」

 

「草葉の陰からじゃねぇのかよ、寛いでるじゃねぇか。手伝ってくれよ、俺だけじゃ手が回らないかもしれない」

 

「仕方ないわね……じゃあファリンをつけてあげるわ」

 

「嫌がらせか。あのドジっ子をどう活用しろって言うんだ。目の保養にしかならねぇよ」

 

 月村家名物のメイド姉妹、その片割れで妹のファリンはとんでもないレベルのおっちょこちょいである。

 

 俺は鮮明に記憶している。

 

前に忍の家でファリンに料理を教えようとした時だ。

 

 ファリンは卵を割ろうとして握りつぶし、そこから慌てふためき、まるで神に導かれているように尻餅をついて卵の中身を、つまりは黄身やら白身やらを顔や胸にひっかけた。

 

その押しも押されぬドジっ子っぷりに当時の俺は教育方針を方向転換し、俺の手本を見てから調理に入るよう指示した。

 

練習メニューも、料理なんて小難しいものは中止し、もっと気楽にできるようにクッキーにした。

 

 それでも、そんな思慮や考慮をも上回ってやらかしてくれるのがファリンという女の子である。

 

 持ってくるよう頼んだ薄力粉を、段差もなにもないところで足をひっかけぶち撒け、倒れた拍子になぜか俺のズボンを掴んでずり下ろし、そのタイミングで倒れた時にファリンが放った悲鳴を聞いた忍が駆けつけ、釈明すら許されず捕縛された。

 

最終的に誤解はもちろん晴れたのだが、なぜか俺が折檻されるという理不尽。

 

 鉄板所は確実に押さえ、その上で予想の斜め上に突き抜ける行動を取るのがドジっ子メイドファリンさんの真骨頂なのだ。

 

 ただ真正のおっちょこさんであるファリンだが、性格は底抜けに明るく、どことなく幼さが残るものの容姿も端麗なので、傍にいてお喋りするぶんにはとてもやる気と元気が出る。

 

手は出さずに応援だけしてもらうという手段もあるにはあった。

 

 本気でその手法を取ろうかと考えていると、不穏な視線を感じて顔を横に向ける。

 

俺の発言に、忍がちょっと距離をあけてジト目を向けていた。

 

距離をあけて、とはいうものの、手が繋がっているので数センチしか離れはしなかった。

 

「目の保養って……なに、ファリンを脱がす気なの?」

 

「脱がすか! どんな逆転の発想だ! ファリンがミスするところを見て和むくらいしかできないって言ってんだよ!」

 

「そうよね、わざわざメイド服を()ぐなんてこと徹がするわけないわ。メイド服好きだものね、そのまま楽しむのよね、うん、わかっているわ」

 

「やめろ、これ以上俺に不名誉な称号を貼りつけようとするな。今でも両手で数えきれないほどつけられてるんだぞ。おもにお前にな」

 

「いいじゃない、もう手遅れよ。私が知ってるだけでも……赤鬼、血桜、ブラッディオーガ、人喰い、手篭め師、ロリコン、女たらし、BL、チビ専、ヤリチ……こほん。すぐ出てくるだけでもこれだけあるわね」

 

「前半のいくつかは入学初日から数日間の俺の所業に原因があるから口を(つぐ)むしかないが、後半は絶対に認めない。とくにおかしなワードが二つほど聞こえたぞ。不名誉どころの話じゃねぇよ、もはや名誉棄損だ」

 

「構わないでしょ? これから一つや二つ増えたって。もともとあんたの名誉なんて、あってないようなもんじゃない」

 

 なんて言い様だろうか、これがさっき親友と言ってくれた同一人物とは到底思えない。

 

 俺としても、さすがに言われっぱなしは癪である。

 

俺にだって切り返す刃があることを思い知るがいい。

 

「あってないようなものは忍の胸だけで充ぶゥォッ……」

 

 閃光の如き反撃を受けた。

 

「なにか言ったかしら? この、スタイル、抜群の、私に、なにか言ったかしら?」

 

「ごめ……ごめんなさっ、すんませんした……」

 

 俺の言葉の剣は振りきる前に圧し折られた。

 

 セリフに読点が入る度、俺の内臓へと忍の鋭い手突がめり込む。

 

ガードをすり抜け、忍の細くしなやかな指が内臓各部へと深刻なダメージを与えていく。

 

とてもじゃないが、女子高生の繰り出す技じゃない。

 

 俺は早々に白旗を掲げて投降した。

 

忍の攻撃には、駅前広場での憂さ晴らしも多分に含まれていると思われた。

 

 腹部の痛みを堪えながら、忍に尋ねる。 

 

「……参考までに、どんなものが加えられる予定だったんだ?」

 

「『予定』じゃなくて『決定』よ。ちなみに《メイド萌え》と《着衣プレイヤー》の二つね」

 

「お断りだよ、この野郎!」

 

 目的地である青果店をやっと視界に収めたばかり、買い物もまだしていないというのに、俺はすでに満身創痍であった。




忍が絡むとどうにも会話が弾んでしまう。
そしてほぼ雑談で一話終了、これが日常編。



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日常~勉強会~前日Ⅱ

「ノエルさん、なんかごめんね。使いっ走りみたいなことさせて」

 

「構いませんよ、徹様。これも私の仕事のうちですので」

 

「仕事の範囲広いな、執事もメイドもだけど。そういや、ノエルさんは外ではメイド服じゃないんだ? パンツルックも似合ってるよ、オトナな女性って感じ」

 

「ふふ、ありがとうございます」

 

「……あんた、ノエルと話すときは人格変わるわね……。このメイド萌え、ノエルにまで粉かける気? やめてよね、うちの優秀なメイドで家族も同然なんだから」

 

「お前はほんとにいらんことしか言わねぇな。俺の評価を落とそうとするな」

 

「相変わらず仲が宜しいようで私も嬉しいです」

 

 かわいいものでも見るような、ともすれば慈眼とも取れる眼差しで微笑を湛えるノエルさんに、すこし面映ゆさを覚える。

 

「まぁ、仲は良いと思うけど」

 

「私が仲良くして『あげている』とも言えるわね」

 

「言えねぇよ、言わせねぇよ」

 

「忍様は徹様や恭也様といる時は、お屋敷では見せない喋り方とお顔をなさりますね」

 

 忍はしばし、ぽかんとした表情を見せた後、仄かに赤面した。

 

 腕を組んで目を逸らし、身体を斜めに向ける。

 

「や、やめてよ、ノエル。私がこいつに気を許してるみたいじゃない」

 

「気を許してなくてこれなら、お前の性格相当なもんだぞ」

 

「うるさいわねっ!」

 

 エクスクラメーションマークと同時に、忍はほぼノーモーションで俺のみぞおちへと掌底を繰り出した。

 

唐突な腹部への衝撃で俺の頭が下がるのを確認する前に、忍はその場で流麗にターンする。

 

夕陽に反射して赤紫色に煌めく長髪が、ワンテンポ遅れて忍の頭に追従するように尾を引く。

 

忍は回転で得た遠心力を乗せて、的確に俺のあごへと手刀を打ち込んだ。

 

 腕が(かす)むほどの速度で振り抜かれた二連撃と、脳を横に揺さぶられたことにより俺はアスファルトへと崩れ落ちた。

 

 なんだこれ……油断していたとはいえ、まるで見えなかった……。

 

 俺が返せたことというと――

 

「す、すぐ……暴力とかっ……ぶっちゃけありえない……」

 

 ――地面に手をついて、膝をついて、これくらいしか言えなかった。

 

 なぜノエルさんがアーケード街から一本外れた路地にいるのかというと、荷物を月村家へと運んでもらうためだけに俺たちがご足労願ったからだ。

 

 

 

 数十分前、料理の材料は月村家のほうですでに用意してくれているらしいので、俺はデザートで使う果物、ケーキなどに使用する薄力粉やベーキングパウダーなどの粉類、グラニュー糖や上白糖や和三盆(わさんぼ)などの砂糖類、バターや生クリームなどの乳製品類、卵やチョコレートやリキュールなどを数店舗回って買い揃えた。

 

 買い揃えたはいいが、俺としたことが人数が増えたことを失念しており、量を上方修正した結果、買い物を終えた時には大量の袋を抱えることとなった。

 

どうやって持って帰ろうかと悩んでいると、ノエルさんが月村家の車を伴ってやってきてくれたのだ。

 

持ち帰って月村家の冷蔵庫に保管しておいてくれるとの話である。

 

俺が買い物袋に手をふさがれ、右往左往するだろうことを予期していた忍が、ノエルさんへ連絡をしておいてくれたのだ。

 

 予期していたのなら、一言くらい忠告をしてくれてもよさそうなものではあるが。

 

 ノエルさんには申し訳なさと一緒に心から感謝しているし、忍の配慮にもそれなりにありがたく思っている。

 

だが忍は、俺が両手いっぱいに袋を抱えて身動きが取れなくなっているところを散々に笑って、挙句に写メまで撮っていたのでいたので素直に『ありがとう』と言える気分にはならない。

 

 ただ、笑い疲れて目元に涙を浮かべながらも、最終的にはちゃんと袋をいくつか持ってくれたところは正当に評価する。

 

しかも、俺より持った袋の数こそ少ないものの、押し()べて重たいものを黙って引き受けてくれたイケメンなところも加点しておいた。

 

 

 

 そして俺と忍は、ノエルさんが乗ってきた車、レクサスLS600hの後部座席に購入した荷物を載せさせてもらった、という顛末だ。

 

この車は乗り心地、シートの質、静粛性など極めて高品質、というよりも国産車トップクラスなのだが、比例して額もトップクラスとなっている。

 

月村家ならば、然もありなんといったところではあるが、一般庶民では手の届かない一級品だ。

 

その寛ぎ感マックスの後部座席に座れるなんて、なんとも贅沢な材料たちである。

 

 俺はてっきり、車に積み込み終えて(恐ろしいことに後部座席は袋で満席となった)、忍はそのまま助手席に乗って、ノエルさんがドライバーを務めるレクサスでそのまま帰るのかと思っていたが、俺の隣に立ったままであった。

 

「僭越ながら忍様、徹様に厳しすぎるのではありませんか? そのうち徹様が死んでしまいますよ」

 

 膝をついて頭にヒヨコをぴよぴよと回している俺を見て、ノエルさんが労わるような言詞をかけてくれた。

 

 たしかにノエルさんの言う通りである。

 

俺ですらここまで体力を消耗するのだから、一般人であれば死んでもおかしくはないツッコミだ。

 

念の為注釈を加えておくが、俺はボケてるわけでもないし、そして死にたいわけでもない。

 

「その心配なら無用よ、徹は頑丈だからね。外見は人間だけど、きっと中身はゴリラかなにかで組成されてるのよ。だから私は思う存分、力いっぱい徹に向き合って拳を振るっているの。普通の人間にはこんなことしないわよ」

 

「誰がゴリラだ。その発言はそっくりそのままお前に返すわ」

 

「私(の全力の攻撃)を受け止めてくれるのは徹だけよ」

 

 身体を斜めに構えて、夕陽に顔の半分をオレンジ色に染めながら、しゃがみこんだままの俺を見下すように笑みを浮かべて忍は言った。

 

ポージングと相俟って凄絶なほど美人ではあったが、それ以上にSっぽさが強く見て取れた。

 

「お前のセリフの間に恐ろしい言葉が挟まっていた気がするんだけど、気のせいじゃないよな」

 

 胸の奥のリンカーコアからの魔力循環、それの出力を微量に上昇させて回復しつつ、俺は膝に手をついて立ち上がる。

 

 ズボンについた埃を右手でぱたぱたと払い、貫通するかと恐怖するほどの衝撃を受けたみぞおちを左手でさすりながら、俺は忍に向き直った。

 

「お前はこのまま帰らねぇの? ノエルさんが来てくれたんだし、ついでに帰った方が手っ取り早くない?」

 

「なんでそんなに私を帰らせたがるのよ、あんたは。せっかくこっちまで来たんだから、もうちょっと見て回りたいのよね、いろいろと」

 

「そうか、そんじゃおつかれさん」

 

 右手を挙げてさようならしようとした俺の脇腹に再三のインパクトが走る。 

 

〇・五秒の間に三発の拳が突き刺さった。

 

 この野郎、ぱかすかぱかすかとしばきやがって……ここまできたら我々の業界でも拷問だぞ。

 

「なに言ってんのよ、あんたも付き合いなさい」

 

「もうちょっと穏便に引き止めることはできなかったのか……」

 

 身体の芯に響く打撃を受けて弧を描いた俺の服を掴んで、忍が顔を寄せる。

 

「あら、忍様。デートですか? 恭也様には黙っておいた方が宜しいでしょうか」

 

 ノエルさんが頬に手を添えて首を傾げる。

 

この人は時々切れ味鋭いブラックジョークを放つことがあるのだ。

 

「違うわよ、ノエル、全然違うわ。なにとんでもない勘違いをしているの、名誉毀損だわ」

 

「お前……人殴っておいてさらに名誉毀損とまでのたまうか、傍若無人も甚だしいぞ」

 

「寄りたいところがあるのよ。一人で行くのは面倒なことが多くなるから徹も連れてくってだけ。ノエル、すずかには帰りが遅くなるって伝えておいてくれる?」

 

「はい、承りました。ですが、今日はすずか様もご友人とお出かけで、私がお屋敷を出る時はまだお帰りになっていらっしゃいませんでしたが」

 

「あら、そうなの? 珍しいわね。それじゃあ、すずかが帰ってきた時にでも伝えておいて。もしかしたら私のほうが帰るの早くなるかもしれないけど」

 

「わかりました。それでは、私はこれで」

 

「ノエル、ありがとうね」

 

「わざわざありがとう、ノエルさん。って言ってもまた明日会うけどな」

 

「ええ、お待ちしております」

 

 そう言うとノエルさんは乗車し、レクサスを滑らかに、そしてほぼ無音で発進させた。

 

タイヤが路面を噛み、キレのいい加速に乗って車が小さくなって見えなくなるまで俺たちは見送った。

 

 沈み始めた夕日を背に、俺は隣に立つ忍へと視線を送る。

 

「で、どこに行く予定なんだ?」

 

「お茶しに行くのよ」

 

 一歩二歩と足を進め、忍は俺へと振り返る。

 

夕暮れの太陽が視界に入った忍は眩しげに片目を瞑りながら、言う。

 

「エスコートしてあげるわ。ついてきなさい」

 

 忍が仮に男でも惚れてしまいそうなほどの格好よさで、俺に手を伸ばした。

 

俺は黙ってその手を取った。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「お茶っつって、本当にお茶とはな」

 

 忍のエスコートのもと俺が連れてこられたのは、アーケード街の一角でどんと居を構える軽食喫茶《What》だった。

 

見慣れた翠屋の内装とは(おもむき)(こと)にするデザインなので、正直新鮮ではある。

 

 木製の家具が全面に押し出されたお洒落な店内、ダークブラウンをベースとしたシックなデザイン、ヒーリング効果でもありそうな癒しの音楽が耳に心地よい。

 

落ち着けるといえば落ち着けるが、学生にはすこし敷居が高い気もする。

 

「新しくオープンした喫茶店があるって聞いてたのよ。なかなか評判良かったみたいだから、どんなものかなってね」

 

 アーケードの道行く人たちをガラス越しに見やりながら、忍が言った。

 

 忍が店に入ってからも、いつもと変わらずに堂々とした振る舞いができるのは、こういった雰囲気の店に慣れているからだろうか。

 

「俺たちには憩いの場である翠屋があるんだから、他の店なんて来る必要ないだろ」

 

「なに言ってるのよ、ライバル店の情報は知っておくべきでしょ」

 

「要するに敵情視察ってことか。でも忍はあくまでお手伝いであって、翠屋の店員でもないだろ? わざわざこんなことしなくてもいいんじゃねぇの?」

 

「翠屋で提供される紅茶の葉や、コーヒーの銘柄の選定については私も加わってるのよ? その分野で、新参の喫茶店に負けるわけにはいかないわ」

 

「あ、威信と誇りがかかってるわけか」

 

「なに他人事みたいに言ってるのよ、あんただって同じでしょ。ここ、出される料理とデザートもおいしいらしいわよ。あんたの作るものよりおいしかったら悔しいでしょ?」

 

「俺今は翠屋のキッチン長期休暇中だし、スイーツ関連は桃子さんの担当なんだけどな。まぁ……負けたらそりゃ悔しいけど」

 

「それじゃそろそろ注文するわよ。軽い物なら晩御飯前でも大丈夫でしょ」

 

 テーブルの端に立てかけられているメニューを広げながら、忍が言う。

 

忍はお品書きの一番上から一番下まで目を光らせながら眺める。

 

「品数は翠屋(うち)のほうが何品か多いわね」

 

「うちって……いやいいけどさ。そうだな、飲み物の数がそれほどないからか。ただ食べ物の層が厚い。喫茶店で和洋中をある程度でも揃えてるってすごいな……」

 

「あんたできないの?」

 

「できないことはねぇけど、一人で全部同時には無理だ。それぞれ目を離すわけにはいかない工程がある。ここは店内も広いし、ホールだけでも店員は多い。きっとキッチンも人が何人もいるんだろうな、そこは羨ましいかも」

 

 基本、翠屋のキッチンは桃子さんと俺の二人で回していた。

 

桃子さんがいれば大抵回せるんだが、桃子さんがキッチンを外れて俺一人の時もあったりする。

 

そういう時に繁忙時間帯が重なるとてんてこ舞いで目を回すことになる。

 

 それを考えると人員に余裕があるのはいいなぁ、などと思うが、コミュ力に乏しい俺では仲間との意思疎通もできなさそうだ。

 

 結局一人のほうがやりやすいかもしれない、俺ってなんてダメ人間。

 

「翠屋はあのメンバーでやるのがいいんだから、人員補充は期待しないことね。軽い物ならいいかなとも思ったけど、案外がっつりした料理が多いわね」

 

「今日は飲み物とデザートでいいんじゃないか。メシのほうはまた今度みんなと来た時でいいだろ」

 

 俺の発言に、肘をつきながらぼんやりとテーブルの天板に乗せたメニューを見ていた忍がゆっくりと顔を上げた。

 

目は大きく見開かれており、色の薄い唇はかすかに震えていた。

 

 忍の反応に訝しげな視線を送っていると、忍は唐突に居住まいを正した。

 

「あんたも成長してるのね」

 

 親戚かお前は、という俺の言葉は届かなかったようで、忍はなおも驚いた様子で続ける。

 

「徹さ、ちょっと前なら『みんな』なんて、絶対に言わなかったでしょ。今までなら『また今度恭也も連れて』って言ってたと思う。ふふ、その『みんな』には、いったい何人が含まれてるのかしらね」

 

 妙な居心地の悪さに、俺は閉口して目を背けた。

 

 何気なく使った言葉だったし、特に意識もしていなかった。

 

でも、『みんな』と言った時に思い浮かんだのは――当然、恭也の顔も浮かんだが――恭也だけじゃなかった。

 

忍に言われて初めて認識したことだった。

 

 両手の肘をテーブルについて、手を組み、そこに頭を乗せた忍がにこにこ笑いながら、まるで子供の成長を見る親のような目で俺を見てきて、なぜかとても気恥ずかしかった。

 

「早くオーダー決めろよ、店員さんがちらちらこっち見てる」

 

「ふふっ、そうねー。早く決めなきゃねー」

 

「その顔と喋り方やめろ、腹立つ」

 

 忍のにやにや笑いは、注文をした品をウェイトレスさんが持ってくるまで続いた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「紅茶はほんと可もなく不可もなく、平凡ってところね」

 

「コーヒーも取り立てて変わった風味はねぇな。俺があんまりコーヒーに詳しくないってのもあるけど」

 

 ウェイトレスさんが紅茶とコーヒー、二つのスイーツをトレイに乗せて持って来て、配膳し終わって俺たちのテーブルを離れてからの、この品評会だ。

 

 紅茶には一家言ある忍の評価は辛かった。

 

どうやらこの店の紅茶は、舌が肥えている忍の御眼鏡にはかなわなかったようである。

 

 ちなみに、忍推薦の紅茶やコーヒーの銘柄を優先して翠屋は仕入れているので、ケーキだけでなく飲み物についても翠屋は評価が良い。

 

忍の尽力の賜物と言っても過言ではないだろう。

 

もちろん、紅茶の葉やコーヒーの豆だけが良くても、お湯の淹れ方や豆の挽き方の知識を持ってしっかりとマスターしていなければ無意味なのだから、桃子さんや士郎さんの技術だって関係している。

 

「私の一口あげるから、そっちのも一口ちょうだい」

 

「俺が紅茶飲めねぇの知ってんだろうが。紅茶はいらん」

 

「コーヒーだってミルクと砂糖がんがん入れるんだから飲めないようなものじゃない」

 

「ミルクと砂糖入れたら飲めるんだからいいだろ!」

 

 小規模な口論をしながら、俺は手元のコーヒーをソーサーごと、テーブルの上を滑らせて忍に近づける。

 

同時に忍が物々交換的に紅茶のカップを寄せてきたが、そっちはそっと押し返した。

 

コーヒーは砂糖とミルクを入れれば飲めるが、紅茶はどうやっても飲めないのだ。

 

 忍に渡したコーヒーにはまだなにも入れていない、ブラックの状態である。

 

コーヒー本来の味を知るために、あと忍も味見するだろうと思っていた、という理由で俺は無理を押してブラックで飲んでいた。

 

「んっ……ほんとに普通ね。よかったわね、徹の舌も(あなが)ち捨てたもんじゃないわよ」

 

「なんでお前はそうやって余計な一言を添えるかな」

 

 カップを傾ける、という同じ動作のはずなのに、なぜか俺と忍では優雅さや上品さに隔絶された差が出る。

 

これは見た目の差なのか、それとも身体に染みついた所作故か。

 

「ふふん、ドリンクは勝ちね」

 

「勝ち負けになると本当に活き活きとするな、忍は」

 

「次はスイーツいきましょ! こっちはどうかしらね~っ」

 

「楽しそうでなによりだよ」

 

 忍の目の前にはりんごと桃のタルト、俺の手元にはオレンジのコンポートがそこかしこに散りばめられたロールケーキが置かれている。

 

 合わせたつもりはなかったのだが、俺も忍も同時に食べやすい大きさに切り取り、同時に口に運び、同時に身悶えして呟いた。

 

「おいしぃ~っ」

 

「うまいなぁ……」

 

 コーヒーの味はそうでもなかったので期待はしていなかったが、スイーツはうまい。

 

スポンジは柔らかくしっとりしていて、中のクリームはオレンジの甘さと酸味を邪魔しないようにあっさりとしたものに工夫されていた。

 

 目を閉じて小さく唸りながら噛み締めている忍を見るに、タルトのほうも当たりだったようだ。

 

「めっちゃうまいぞ、これ。ほれ忍、食ってみろ」

 

 忍の小さな口でも食べやすいよう、俺が食べた時よりも心なし小さくロールケーキを切り分け、フォークに乗せて忍へ差し出す。

 

忍は思考時間ゼロで、餌を待つ雛鳥のように口を開いた。

 

「あ~……んむ。……っ!」

 

 口内へと運ばれたそれをぱくり、とすると、すぐに咀嚼せずに舌で転がすように味わい、おそらくおいしかったのだろう、忍はもとから大きな瞳をさらに開いた。

 

次第に口元は緩み、目は細められる。

 

 忍の表情がこれほど素直になるのは、甘味を食べさせている時か、それでなければすずかを抱っこしている時くらいしかないと断言できる。

 

とても珍しい状態なのだ。

 

 うまいか? と忍に感想を尋ねようとしたその時、どこかの席で皿にフォークを落とすような、がちゃん、という小さくはない音が鳴った。

 

「タルトも相当おいしいわよ、ほら」

 

 発信源はどこだろうと確認しようとしたが、忍に呼び止められたので諦める。

 

 忍にフォークを突き出されるというのは、平時であれば身の危険を感じざるを得ない状況であるが、本日の忍はにこにこと頬を緩めてたいそう機嫌がよく、その上フォークにはすでにタルトがライドオンしていたので安心して平和を享受することができた。

 

 歯にタルト生地(パート・シュクレ)のさくっとした食感が伝わる。

 

桃のなめらかな甘さとリンゴのさっぱりとした甘さ、方向性の違う二種類の甘みが味蕾(みらい)をくすぐる。

 

カスタードクリームにはヨーグルトが練り込まれているようで、果物の自然な味を強調させながらもくどくならないよう精密に調整されている。

 

タルト生地はしっとりとしたタイプも多いのに、なぜこの歯触りにしたのか疑問に思っていたが、普通のカスタードクリームと違いヨーグルトクリームのほうがとろみがすくないから、タルトの形が崩れないようにするために生地をぱりっと焼き上げているのか。

 

そしてこのクリームのおかげで、しつこくない後引く味が完成されていた。

 

 言いたいことは山ほどあるが、最終的にはやはり、この一言に集約される。

 

「うまい」

 

「でしょっ! やっぱりスイーツがいいっていうのは店の人気に直結するのね」

 

「桃子さんに次ぐレベル……強敵だ」

 

「これは徹よりも上よね」

 

「悔しいけど……やっぱりプロだな」

 

 紅茶やコーヒーなどの飲み物は断然、料理はわからないものの、スイーツだって僅差ではあるが《翠屋》のほうが上(あとウェイトレスの可愛さも)だが、立地においてはここ《What》のほうが圧倒的だ。

 

人の通りが多いアーケード街にあるというのは、それだけで有利になる。

 

常連客(リピーター)の多い翠屋から客を引っ張り込めるほどとは思えないが、なにか新しい目玉になる商品でも考えておいた方がいいかもしれない。

 

「それはそうと、ロールケーキもう一口くれない? すごくおいしいのよ」

 

「そんじゃそっちのもくれ。タルトの中身(クレーム・ダマンド)の味を憶えておきたい」

 

 俺が返事をする前から忍は小さな口を開き、(なま)めかしく濡れる鮮やかピンク色の舌を覗かせていた。

 

嘆息しつつ、俺はまた小さく切り分けて忍の口へ運ぶ。

 

 もはや食事介助だ、などと考えていたら再び、がしゃん、という音がクラシック音楽を貫いて店内に響く。

 

今回はさらに、からん、というフォークかスプーンかなにかの落下音に、ばしゃころころん、というコップを転げさせたようなサウンドも続いた。

 

あにひへんの(なにしてるの)? はあふ(はやく)っ!」

 

「あ、ごめんごめん」

 

 さっきからやけにうるさいな、と思い店内を見渡すが、シートとシートを隔てるようにそこそこ背の高い仕切りがあるため目視することができず、口を開いたまま喋る忍に急かされたので確認はできなかった。

 

「あむっ……ん~っ!」

 

 俺のソレ(フォーク)を忍は瑞々しいぷるぷるとした唇で咥え、俺が抜くと、口とソレ(フォーク)を繋ぐように銀糸が一本引かれ、垂れた。

 

 忍は目を瞑って悶えてるので気づいていないのだろうが、なんだかとても色っぽいというか、有り体にいえばやらしい感じになってしまった。

 

 忍は一頻(ひとしき)りロールケーキを味わうと、木の葉のレリーフが刻まれたシルバー製のフォークを手に取りタルトを切り分ける。

 

「はい、もったいないけど徹にもあげる」

 

「俺もあげたんだから、お前もくれるのは当然だろ」

 

 俺は忍の失礼な言い振りに口答えしながら、『あ』と発話してタルトを待つ。

 

すると忍は俺の口の寸前まで伸ばしたフォークを急にUターンさせ、自分の口へと放り込んだ。

 

 その光景を唖然として見つめていた俺は、我に返り俄かに猛抗議する。

 

「おま……それはズルいだろ!」

 

「あんたが貰えて当たり前みたいな顔するからじゃない。ちょうだいって言いなさい、ちょうだいって」

 

 忍の暴論に絶句するが、言わなければ本当にくれないことを今までの人生で学んでいる俺は忸怩(じくじ)たる思いを呑み込む。

 

「……ください」

 

「ちょうだいじゃないし誠意を感じないけど、まあ特別に許してあげるわ。恵んであげる」

 

「自分が今めちゃくちゃなことを言ってる、という自覚はあるか」

 

 次はちゃんと俺の口へと運んでくれた。

 

 生地の食感を楽しみ、フルーツの果汁を堪能する。

 

いつか自分の手で再現したいものである。

 

 こつこつ、こつこつ、とユーズドブラックの床を叩く音が背後で聞こえた。

 

俺たちがいる席は出入り口とレジにほど近いので、お客さんがお帰りになるのだろうと判断した。

 

 夕陽が沈んでしばらく経つ、俺たちもそろそろ帰らなければ。

 

 俺も忍も残りをぺろりと完食すると、用は済んだとばかりに席を立つ。

 

そして俺も忍も脇にのけておいた飲み物には口をつけなかった。

 

ケーキの後味を残念なコーヒーや紅茶で濁したくはなかったのだ。

 

「お会計どうする? 私は気を遣ったほうがいいのかしら?」

 

「ぜひそうしてくれ、俺が出す」

 

 会計しようとレジに向かう途中に忍が声をかけてきた。

 

ご馳走するだけの甲斐性は持っているつもりなので、忍の心遣いは断っておいた。

 

 ホールで配膳していたウェイトレスさんが、茶色のポニーテイルを揺らしながらぱたぱたと走ってレジまでやってきた。

 

「お会計は……あ、カップル様でございますですか?」

 

 きらきらと星が瞬くような笑顔を振りまきながら、奇妙な敬語で彼女は言った。

 

 店員さんの勘違いに俺と忍はお互い顔を見合わせて、はっ、と鼻で笑うような息を漏らしてから、店員さんへと向き直り、異口同音で同じ言葉を吐こうとした。

 

「「いえ、まったく違いま……

「今キャンペーン中でございますでして、カップル様には割引があらっしゃいますのですが」

 

 だが、裏を感じるほどの百パーセントの笑顔を向ける店員さんが、相変わらず奇々怪々な似非丁寧語で俺たちのセリフを遮った。

 

 そこからの俺たちの動きは早かった。

 

俺は背筋を伸ばしてかすかに左腕を広げ、忍は俺に身体を寄せて俺の左腕に自身の右腕を通した。

 

「はい、そうなんです~」

 

「こんなところでやめろよな、恥ずかしいだろ」

 

 電光石火でカップルのフリをした。

 

 俺は家計簿をつける主夫として日々節約しているし、忍は使えるものはなんでも使う主義だ。

 

切羽詰まるほどには困ってはいなくとも、抑えられるところは抑える、切るところは切る、出費を減らせるのなら一時の恥など気にも留めなかった。

 

 店員さんは俺たちを見遣り、にこっ、と笑みを浮かべ、レジに設置されているカウンターを、かかかち、と押した。

 

なんかすごい勢いでカウンターを押して――確実に一回以上押して――店員さんはレジの下にあったのだろうカメラを取り出す。

 

「おめでとうございますでした! 記念すべき百組目のカップル様でございらっしゃいます!」

 

 いや君さっき一回分以上カウンター回したよね? と首を傾げる俺たちを置き去りに、なにやら熱の入った店員さんは怒涛の勢いで捲し立てるように説明しだした。

 

掻い摘むと、キャンペーン中の百組目のカップルなのでさらに割引しやす、お食事代は頂きませんのだ、その代わりにお二人のお写真を撮影させていただきたく存じます、とのこと。

 

 なにやら困ったことになったなぁ、まぁ写真くらいならいっか、と会話も交わさずに意志疎通して楽観視していた俺たちだったが、店員さんはとんでもないことを最後にぶっ込んできた。

 

「ちゅうしているところをお願いしますです」

 

 即刻断ろうとした、目線も合わせずに俺と忍は息を合わせて協力し、断固拒否しようとした。

 

「カップル様なのでしたらできますですよね? 先ほど仰っていましたですよね?」

 

 だが、この奇天烈な店員さんは先回りして俺たちの退路を塞ぎに来た。

 

 忍は明言してしまっていたのだ、『カップル様ですか?』と問われて『はい、そうです』と答えてしまっていたのだ。

 

逃げ道は断たれていた、今さら違いますなどとは言えようはずもなかった。

 

すでに俺たちは蜘蛛の巣に囚われた蝶も同じであった。

 

 隣へ視線を送ると、忍はいつもの揺るぎないポーカーフェイスを崩してしまっていた。

 

唇を噛み、目線は下へ向けられ、顔は仄かに紅潮している。

 

俺の左腕に組んだ右腕は悔しさから震えていた。

 

 こんな頭の悪そうな女にいいようにしてやられたのは気に入らないが、自分が放った言葉なので自業自得だとも思っている。

 

その怒りの矛先をどこに向けたらいいかわからないから、とりあえず手近な俺の腕へとぶつけているのだろう。

 

俺の左腕は肘から先が紫に変色しており、感覚は消失(ロスト)していた。

 

 この笑顔の仮面をつけているウェイトレスさんは、バカみたいな言葉使いなのにとてもずる賢い。

 

きっと俺たちを逃がそうとはしないだろう。

 

デートコースの定番にでもする心積もりなのか、我々はカップル様に真摯に対応しています、ということをアピールしたいのか、忍のような美少女であれば一つの作品として映えるからなのか、いろいろ理由は思い当たるが、逃げ場だけは見当たらなかった。

 

 無傷で脱出することができないのなら、被害を最小限にして撤退するほかない。

 

 あとでシバかれるかもなぁ、と悲惨な結末を想像するが、俺は覚悟を決めた。

 

 俺は店員さんに、一発で撮れ、と指で合図すると店員さんは、任せてください、と言わんばかりにウィンクして見せる。

 

無事なほうの右手で忍の肩を掴み、俺の目を見るように誘導し、アイコンタクトを送った。

 

――逃げるなよ?――、と。

 

 右手を忍の腰に移動させ、ぐいっ、っと俺の身体に引き寄せ、()を重ねる。

 

店員さんはベストタイミングでシャッターを切り、『おっけーですっ!』と、底抜けに明るく、かくも陽気に任務完了の合図を告げた。

 

 俺はぽかんとしたまま微動だにしない忍の手を引き、店員さんにごちそうさまでしたと口早に言い捨てて喫茶店を出る。

 

しばらく歩き続けて喫茶店から距離を取ると足を止め、忍の手を離した。

 

「びっくりするでしょ、なにか言ってからああいう(・・・・)ことしてよ」

 

「あの頭の悪い狡猾な店員にあれ以上情報を与えたくなかったんだ、悪い」

 

 はあぁぁ、と忍は深い深いため息をついた。

 

「『タダより高い物はない』って本当だったのね」




友達が少ない主人公の、ちょっとした成長です。


主人公と忍は(超絶仲の良い)親友です、念のため。
忍は恭也の嫁、あしからず。


伏線を張るつもりではあったんですけど、こんなに長くなるとは思わなかったです。
まさか一話で一万文字超えるとは。
ちょっと興が乗りすぎてやってしまった感はある。


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日常〜勉強会〜8:30の歓談と、8:50の好奇心。

拙作では、ファリンはちょっとアホの子が入っています。ご注意ください。


「徹様、こちらは終わりました。次はどれをいたしましょう」

 

「ノエルさん、ありがとう。仕込みはもう大丈夫だ。おかげで助かったよ」

 

「お手伝いできてよかったです。徹様は以前より腕が上がっていますね」

 

「そっちだって手際の良さに拍車がかかっているよ。あと、今はそっちの御主人様がいないんだから、様はいらないって」

 

「あら、そうでしたね。徹君」

 

 四月二十六日土曜日、月村邸は厨房に俺はいた。

 

現在時刻は八時半を回ったところ。

 

 勉強会(という名のお茶会)は十時からなのでまだかなり時間に余裕はあった。

 

 俺がこんな朝早くに月村邸へお邪魔しているのにはわけがある。

 

 十人分を超える量の昼食をすぐに作れるとは思えないので、昼食の仕込みをさせてもらっていたのだ。

 

結構な時間がかかると予定していたので早くに来させてもらっていたのだが、ノエルさんにも手伝ってもらうことができたので、ずいぶん短く済んだのは望外である。

 

 昨日アーケード街で会った時とは違い、今日のノエルさんは仕事着である。

 

膝下まである紺色のロングスカートの上には純白のエプロンドレス。

 

薄紫色の頭には、これまた無垢な白色のホワイトブリムが乗っている。

 

どこに出しても恥ずかしくない立派なメイドさんの装いだ。

 

 使用した調理道具をお片づけしながらノエルさんと歓談していると、唐突に背後から衝撃を受けた。

 

「とーる! 言われたのは冷蔵庫に入れてきたよ! 次なにしたらいい?!」

 

 ファリンが後ろから俺の首に手を回してひしっ、とくっついてきた。

 

 ファリンももちろんメイド姿だ。

 

概ねは姉のノエルさんのメイド服と通じるところがあるが、細部のデザインは異なる。

 

ノエルさんよりどこか子どもっぽい印象だ。

 

スカートにはレースがついていたり、配色もどことなく明るめ、ヘッドドレスもフリルが大きめとなっている。

 

 二人ともクラシカルなロングスカートに古式ゆかしい長袖なのだが、それでも一切動き辛そうな様子がないのはやはりプロであるからか。

 

 とりあえず包丁を洗っている最中なので、大変危険だからファリンには飛びついて来ないでいただきたい。

 

「おお、そうかそうか。ファリン、ありがとうな、もういいぞ」

 

「えぇっ、もう終わり? あたしもなにか作りたい!」

 

「いや、いやいや。もういい、ありがとう、充分助かった」

 

「ファリン、徹君の邪魔しちゃ駄目でしょう」

 

「えぅえぇぇ、おねーさまきびし〜」

 

 ひっつき虫が如く俺の背中にひっついたファリンに、俺から受け取った包丁やお皿を拭いていたノエルさんが注意する。

 

 ファリンにも、昼食の仕込みを手伝ってもらっていた。

 

もちろん調理ではなく、材料出しや冷蔵冷凍庫への保管が主な仕事となる。

 

 ファリンはかなりのドジっ子ではあるが、姉に似て整った容姿もしているし、明るく人好きする性格に加えて、これで優秀だったりする。

 

掃除や洗濯から始まり、月村邸に無数に棲息……もとい、飼育されている猫の世話、庭の手入れまでできるのだが、おしむらくは料理のセンスが壊滅的なのだ。

 

 時間があればファリンの料理技能改善に協力を申し出るところなのだが、いかんせん、今日はすこぶる忙しい。

 

またの機会としてもらおう。

 

「俺のワガママ聞いてもらったからな、次は俺が手伝うよ。なにかあるか?」

 

 洗い物最後のボウルをノエルさんに手渡しながら尋ねる。

 

もちろんノエルさんにも背中のファリンにもである。

 

「あたしもなにか作りたい! 料理教えてよ!」

 

「また今度な。ファリンの料理音痴は数時間でどうにかなるものじゃねぇだろ」

 

「ひどいよっ! とーるはあたしのアツカイひどいよっ!」

 

「耳元で大声出さないでくれ、頭に響く」

 

 丈の長いロングスカートで器用に俺の背中によじ登ったままのファリンが大音声で抗議する。

 

普段から元気なボリュームを吐き出すファリンの口が、今は耳からほど近くにあるせいでさらにうるさい。

 

元気が過ぎるのも困りものである。

 

 清潔な布巾でボウルの水気を取り、棚に仕舞うノエルさんが、俺とファリンのやり取りを見て微笑んでいた。

 

姉というよりも母のような慈しみに溢れた瞳だ、などと思ったが、ノエルさんだってまだ二十四〜二十五歳のうら若き(?)女性なので、口に出すのは(はばか)られた。

 

 背中にうっすらと寒気が走る。

 

身の危険を感じ取ったのだ。

 

きっと口に出してしまえばナイフとか飛んでくることだろう、瀟洒なメイドさんだし。

 

「そうですね。それでは徹君にはすずか様を起こしに行ってきてもらえますか?」

 

「すずかは休みでも早起きしてそうなイメージだったんだけど、意外とゆっくりなんだな」

 

「すずかさまはいつもは早いよ? 時々あたしよりも早く起きてるもん」

 

「それはそれでどうなんだ」

 

「ファリンはまた今度お仕置きです。徹君、すずか様をお願いしますね。……喜ぶと思いますので。私は皆さんで集まる部屋の準備をしてまいります」

 

 ノエルさんの言葉にファリンがくぐもった悲鳴を上げた。

 

大音量が鳴り響かずにすんで俺としては助かったのだが、ノエルさんから隠れるように身体を下げるものだからファリンの腕で首が締まる。

 

 家事仕事でついたのか、細いのに意外と強靭でしなやかな筋肉をまとうファリンの腕を掴み、気道を確保してからノエルさんに了承の旨を伝えた。

 

 ノエルさんが話の間に小声で何か仰ったようだが、ファリンの首絞めを解除するのに手一杯で聞き取れなかった。

 

とはいえ、ノエルさんのことだから、重要な伝達事項であればもっと明瞭に教えてくれるだろう。

 

そうしなかったということは、それほど気にする必要もないということだ。

 

 俺はノエルさんに敬礼してから厨房の扉を開き、廊下へ出た。

 

 

 

「そう言えば忍は朝弱かったよな、あいつは大丈夫なのか?」

 

「忍さまの寝起き姿はさすがにとーるにも見せらんないよ」

 

「なにそれこわい」

 

 などといった取り留めのない話をファリンとしながらすずかの部屋の前に到着。

 

 ノックをしようと右手を上げた時、背中がふわりと軽くなる。

 

 後ろを振り向けば、軽い音とともにファリンが廊下の敷物の上に降り立っていた。

 

ぱぱぱ、と乱れた服装を整え、ずれたヘッドドレスも直し、姿勢を正して直立する。

 

 さすがに仕事の時は意識を改めるのだろう。

 

それじゃさっきまでは仕事じゃなかったってことなのか、なんてこった。

 

「ん? とーる、ノックしないの?」

 

「いや、するぞ。うん」

 

 両手を身体の正面で組み、お淑やかなメイドさんの雰囲気を滲ませたファリンのギャップに、俺は驚きを隠せなかった。

 

なんだこいつ、お仕事モードなら結構様になってるじゃないか。

 

 あごを引いてしゃんとしながらも、上目遣いでこちらを見てくるファリンから視線を外し、俺は右手を握り直して振った。

 

 こんこん、こんこん、とノック。

 

 返事はない。

 

 起こしにきたとはいえ、女の子の部屋へ無断で入ることには抵抗があったのでもう一度繰り返したが、やはり応答はなかった。

 

「やっぱり起きてらっちゃら……起きてにゃっ……起き……」

 

「そうだな、起きてらっしゃらないようだな。もう少しだったぞ、ファリン」

 

「むぅぅっ!」

 

 清楚で仕事のできるメイドさんの仮面がさっそく剥がれ、ファリンはぷにぷにしてそうな頬を膨らませる。

 

 俺の一つ下とは思えない喋り方と仕草だ。

 

こいつは絶対にすずかやなのはよりも精神年齢が低い。俺の周りにいる小さい子の精神年齢が高すぎるというのも事実だが。

 

「失礼致します」

 

 鮫島さんの所作や振る舞いを頭に浮かべつつ、扉を開く。

 

 小学三年生の女子が一人でいるには広すぎる部屋、扉から見て右奥のベットに、少女の姿が見えた。

 

 遠目でも華美で目に映えるベッドは無闇に大きく、成人女性が三人並んで横になれるほど。

 

そこに少女が一人で、となると少し物寂しくも感じる。

 

 足音を呑み込むほどふかふかなカーペットをすこし気後れしながら踏み進み、すずかが眠るベッドの隣へと移動した。

 

悪いとは思いつつも、好奇心に負けて少女の寝顔を覗き込む。

 

 空調が効いているせいで暑かったのか、手触りの良さそうなキルトケットはすずかのお腹のあたりにまで下がっていた。

 

 いつも髪を撫で付けているカチューシャは、眠っている今は当然つけられていない。

 

姉の忍と同じ紫色の長い髪は、源流から分かたれる支流のようにベッドの上を流れている。

 

細く艶やかな紫色の川は、朝日を浴びて燦然と輝いていた。

 

 閉じられている瞳、筋の通った鼻梁、空気を吸って吐くたびに小さく開閉する柔らかそうな唇。

 

ゆっくりとしたペースで呼吸を刻む薄い胸がなければ、下手するとお人形さんと勘違いするかもしれないほどの愛らしさを湛えていた。

 

 顔にかかっていた幾房の細い髪を俺は手で払う。髪を払っている時に顔に触れてしまったからか、ぴくりとまぶたが動く。

 

 夢の中でのストーリーが繋がったのか、すずかは不明瞭な発音で寝言をつぶやき、俺の手を取った。

 

なおもなにかしら小声でささやいたかと思えば、俺の手を抱き込み、また寝入ってしまった。

 

手首を掴んで指を甘噛みするわ、前腕部の肘に近いあたりにほのかに柔らかい『なにか』が二つ当たっているわで大変ドギマギする。

 

「とーる……。忍さまの言ってた通り、とーるは危ないせーへきを持ってるんだね……。どうりであたしのボディタッチになんの反応も示さないわけだよ」

 

 俺の肩が、意思とは無関係にびくりと跳ね上がる。

 

背後にファリンが控えているのを忘れていた。

 

 後ろ暗いことをしていたつもりはないのに、なぜ俺の心臓は早鐘を打つのだろうか。

 

 べつに邪な劣情を抱いて眠りこけるすずかに触れていたわけではない……そんなことは、絶対ない。

 

ただ寝辛そうだな、という俺の父性的なアレが働き、御髪を払いのけていただけである。

 

 そのことをファリンに説明すると――

 

「すずかさまを起こしにきたんでしょ」

 

 ――と、じとっ、とした目で間髪入れずに切り返された。

 

「…………」

 

 もっともすぎる返答に、俺は二の句も継げなかった。

 

現在もそのお嬢様に腕を抱きしめられている状況なのだ。

 

こんなシチュエーションで返す言葉などありようはずもない。

 

 だが、誤解だけは解いておかなくてはなるまい。

 

このままではファリンの中で、俺は幼い子にしか興奮しない変態さんだと思われてしまう。

 

それだけはなんとしてでも阻止しなくては。

 

「勘違いしているようだな、ファリン。お前は忍に洗脳を施されているんだ。俺は決して、倒錯した性的嗜好など持ち合わせていない。忍から捻じ曲げられた情報を聞いていたんだろう。あいつはいつもそうやって俺の築き上げたイメージを打ち崩そうとするんだ。あいつの言うことを信用しちゃいけないぜ。忍の言うことは話半分で聞いていてもまだ多

「『徹は図星を突かれるとムダに多弁になるわよ』って、忍さまが言ってたよ」

 

「…………」

 

「『多弁になる、って伝えたらきっと黙り込むわ』とも言ってたよ。きらきらした笑顔で」

 

「あんのやろう……」

 

 忍の手のひらでブレイクダンスやってる気分だ。

 

かくも軽快に踊ることになるとは、さすが親友、俺のことをよく理解している。

 

 ベッドの傍に座る俺に、佇立したまま冷ややかな視線をファリンは浴びせかけてくるが、それからは無理矢理に視界から外す。

 

そろそろすずかを起こすべく動き始めなければいけないのだ。

 

瑣末な事柄に拘っている余裕はない。

 

ヘッドボードの上に備えつけられている時計では九時十分前である。女の子には支度の時間が必要だというし、朝ご飯も取らなければいけない。

 

今でも遅れてしまったほうだろう。

 

 俺の手を抱き込んで寝返りを打ったので、すずかは俺とは反対側を向いている。

 

面積にゆとりのあるベッドに手をつき、すずかの身体に近寄る。

 

 近づいてやっと目に入ったが、すずかの枕元には携帯が転がっていた。

 

おそらくアリサちゃんやなのはにメールかなにかしていて、昨日寝るのが遅くなったのだろう。

 

そしてその途中で寝落ちしたんだろうな。

 

久し振りにすずかの子どもらしい部分を垣間見て、なんだかほっとした自分がいる。

 

「なににやにやしてるの、とーる。ぱっと見完全に怪しい人だよ」

 

「外聞が悪すぎるだろ。微笑んでいると言え。おーい、すずか。起きろー」

 

「ん……ぅん」

 

 返事、と思しき反応はあったが、依然として起き上がる気配はない。

 

 眉をひそめてうんうんと唸っているすずかを見て、俺の内側でむくむくと悪戯心が湧き出てきた。

 

結果的に起こせばいいのなら、その過程は考慮されざるべきだと言えよう。

 

「すずかお嬢様、起きてください。朝ですよ、お嬢様」

 

 すずかの耳元でささやいてみた。

 

 好奇心は猫をも殺すというけれど、実際に死地に陥った後でなければその行為がしてはいけなかったことだなんてわからないのだ。

 

虎穴に入らずんば虎子を得ず、案ずるより産むが易し、案外なんとかなるものなのだ。

 

とどのつまり、自分の奥底から溢れ出る衝動を抑えられなかっただけである。

 

 氷柱で背中をちくちく刺されるような、冷たく鋭い気配を背後のファリンから感じた。

 

誤解という名の傷口は際限なく広がり続けている気がするが、そんなこと意に介さない。

 

 俺の第六感は今すぐやめるよう警鐘を鳴らし続けている。

 

だがしかし、それで止まるような好奇心ならもとより生まれてなどいないのだ。

 

 とどまるところを知らない好奇心を、理性で押さえつけられるわけがない。

 

人間はその好奇心と探究心でもって、さまざまな文明の利器を生み出してきたのだから。

 

「んゅ……あれ、とお……るさん……?」

 

「そうだよ、お嬢様。徹さんだよ。おはよう」

 

 さして意味のない理論武装を頭の中で展開させつつ、すずかの耳元でごにょごにょし続けていると、ようやく覚醒してきたようだ。

 

すずかは眠たげな半眼を俺の顔に合わせつつ、片手は俺の手を握ったまま、もう一方の片手で目元をこする。

 

「あぇ……? なんで……徹さんが……。ゆめ……?」

 

 まだすずかの意識は夢現(ゆめうつつ)の境界線を揺蕩(たゆた)っているらしく、現状を認識しきれていないようだった。

 

朝目が覚めたら目の前に俺がいるなんて、たしかに夢だと思っても仕方ないだろう。

 

 これはこれでとても面白いので、夢と勘違いさせておこう。

 

「すずかお嬢様、これは夢だよ。まだ夢の世界だ」

 

「夢……ゆめ……ならいっか」

 

 なにやってるの、とーる……、という呆れ果てた声音のファリンが俺の背後でぽつりとこぼしていた。

 

 これ以上やるとファリンからの信頼度が底を割りそうなので(今でも充分下がり切ったとは思うが)、いい加減にちゃんと起こすとしよう。

 

「おーい、もう起きないと朝飯食う時間も準備する時間もなくなるぞー」

 

 俺はベッドに膝をつきながら、寝惚け眼でうつらうつらとしているすずかの頬を、ぺちぺちと痛くない程度にたたく。

 

 果たして効果はあったのか、姿を半分隠していたまぶたが開き、瞳が顔を覗かせる。

 

瞳の奥に、妖しい光が灯った気がした。

 

 すずかは抱き込んでいた俺の腕を離し、するすると両腕を伝って肉薄する。

 

真っ正面から恐ろしいまでの滑らかな機動で、すずかは俺の首に自身の両腕を絡めた。

 

熱く、柔らかで、かすかに水気を帯びたすずかの唇が首元に添えられる。

 

 先刻までのすずかの変貌ぶりに、俺はまるで対応できていなかった。

 

頭にぼんやりと霧がかかり、思考が鈍る。

 

「い……き……」

 

「えっ、なに……」

 

 首筋ですずかが短く小声で何言かを口にする。

 

灼けるように熱の篭った吐息が肌をなぶった。

 

 針を刺したみたいなちくりとしたかすかな刺激が神経を走る。

 

視界はどこかピンボケして、すずかの紫色の髪で満たされていた。

 

これまで知覚したことのない、感覚だった。

 

「すずかさまっ!」

 

 近くにいるはずファリンの、切羽詰まったような叫び声が、どこか遠くに聞こえた。

 

 いきなり後ろから痛いくらいの力で肩を掴まれ、そのまま加減なしに後方へぐいと引き倒された。

 

ベッドの端に乗っていた俺の身体は言うまでもなくベッドの外へと投げ出される。

 

虚ろな意識であっても、胸に抱くすずかを床にぶつけないようオートパイロットで動いた自分の身体を褒め称えたい。

 

 数十センチ、一秒たらずの滞空感を味わったのち、床へと墜落する。

 

高級そうなカーペットでも落下エネルギーの全てを吸収することはかなわなかったようで、俺は床へと後頭部を(したた)かに打ちつけた。

 

 大鐘を打ち鳴らしたような疼痛が頭に響き、そこでやっと視界の焦点が回復する。

 

 すずかは再び夢路を辿ったようで、俺の胸を枕にすやすやと穏やかな寝息を立てていた。

 

もしかしたら姉と同じで、すずかも本来は朝に弱いのかもしれない。

 

 俺はカーペットに転がったまま、ベッドから引っ張り落としてくれた張本人を見上げる。

 

「と、とーるごめんね。すずかさまは、えっと、寝ぼけると人に抱きつくクセがあるんだよ。言ってなかったね」

 

「あぁ、そうなんだ。なんでもいいからひとまずお嬢様を抱き上げてくれないか? 俺が起き上がれない」

 

 額にうっすらと汗をにじませつつ、ファリンが困ったように頬を引きつらせて笑う。

 

 忍もすずかも、姉妹揃って朝は弱いことが判明した。

 

ついでにメイド服は下から覗いてもロングスカートが影を作って中が見えないことも判明した。




もう少し話が進むかと思ったのですが、すずかの件で尺を取られました。
ロリ要因の描写には力が入ってしまうのが僕の悪いところです。
次からはテンポよく進もうと思います。


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日常~勉強会~9:10の殴抱と、9:30の来客。

「そ、それじゃ、昨日のあれはお姉ちゃんとのデートとかじゃなくて……」

 

「そんなわけないだろ。ただの買い出しだ」

 

「そうなんだ……わたしたちびっくりしたんだよ? 仲良さそうに手を繋いで楽しそうに笑ってたから。あれ、でもそれじゃあ、なんで手を繋いでたの?」

 

「特別理由はない。ただそんな流れになって、手を離す機会もなかったってだけ。すずかも、アリサちゃんやなのはとかの親友とは手ぐらい繋ぐだろ? そんな感覚だ」

 

「それって同じ、なのかな……?」

 

 すずかは首を傾げながら苦笑いを浮かべた。

 

 俺と話をしているせいで、すずかの朝食は全くといって進んでいない。

 

冷めてはいないだろうけれど、湯気が立ち上っていた味噌汁はすでに沈黙している。

 

 すずかの部屋で一騒動あってから、すずかの服を着替えさせるというファリンに従い、俺は一旦部屋を出た。

 

扉から数歩横にスライドして腕を仁王立ちしてしばらく、猫の柄が描かれていたパジャマから淡い青色のワンピースに着替えたすずかが、カチューシャで止められた長い紫髪を左右にふらふらとさせながらご登場遊ばれた。

 

すずかは俺に気づくと、普段のおっとりした喋り方からは想像できないほどに驚きの声を上げ、廊下からダイニングに移動するまでの間『なぜこんな時間にいるのか』『なぜわたしの部屋の前にいるのか』などと質問を浴びせた。

 

ダイニングに移動し朝食が食卓に並んでからもいくつも訊いてきて、そして今に至る。

 

 ちなみにダイニングに到着したあたりでファリンは姿をくらました。

 

おそらく自分の仕事に戻ったのだろうが、無言でいなくなるのは感心しない。

 

せめて一言くらい伝えてから仕事に戻ってほしいものである。

 

 会話中で触れたが、昨日アーケード街を歩いている時に聞こえた物音はすずかたちだったそうだ。

 

勉強会に備えて筆記用具を買い足すために、学校の帰りに足を伸ばして買い物に来ていたのだとか。

 

いつもの三人組、すずか、なのは、アリサちゃんで出かけていたが、その帰りに俺と忍を目睹したという。

 

 手を繋いで喋喋喃喃(ちょうちょうなんなん)と話をしながら歩く俺と忍を見て、驚くことに『もしかして二人は付き合っているのでは』などという空想妄想絵空事をすずかたち三人は夜遅くまで繰り広げて、寝るのが遅れたらしい。

 

「徹さんは仕込みのために早くから来たんだよね? 何時くらいから来てたの?」

 

「最初は一人でやるつもりだったからな、六時くらいに家に上がらせてもらった」

 

「そんなに早かったんだ……手伝えなくてごめんね?」

 

「いいって、お宅のメイドさんたちが協力してくれたし」

 

 実際に尋ねたわけではないが、すずかは自室での騒動……寝惚けて俺に抱きついてきたことの記憶はすっかり飛んでいるようだった。

 

いくら長い付き合いといえど、寝顔を男に見られてすずかもいい気はしないだろう。

 

忘れているのなら、わざわざ思い出させる必要もないと判断し、俺も黙ったままであった。

 

「わたしも手伝いたかったのにな」

 

「そう思ってくれるだけで充分だ。飯、冷える前に食えよ。俺は手伝えることないかノエルさんに訊いてくる」

 

「うん、わかった。せっかく徹さんが作ってくれたんだもんね、美味しいうちにいただきます。あと……い、いってらっしゃい……」

 

「はは、行くっつったって屋敷内のどこかにはいるんだけどな。くく、行ってきます」

 

「わ、笑わないでよ……」

 

 チラ見しながらおずおずとすずかが言ってきて、俺はそれに笑いを我慢しつつ返す。

 

 すずかが箸を伸ばしている朝食は、俺がちゃかちゃかっと作ったものである。

 

作っておいた鰹節を利かせた味噌汁と、鰆の塩焼きとご飯。

 

小皿に海苔とたくあんを乗せただけの簡素な朝食だが、すずかは喜んでくれていたので助かった。

 

「あら、徹様。いかがなさいましたか?」

 

 ダイニングを出てノエルさんを探し歩くが、すぐに目当ての人物に行き当たる。

 

 ノエルさんは廊下を音も立てずに歩きながら、俺がさっきまでいたダイニングの方向へと足を向けていた。

 

ノエルさんは、起きているのか寝ているのか定かではない幽鬼のような状態の忍らしきものを右手に繋ぎ止めている。

 

なんでも、忍は朝が弱いにも(かかわ)らず、無謀にも夜遅くまで起きていたらしい。

 

 一応半死半生とはいえ主人の手前、ノエルさんの俺の呼び方には『様』がついていた。

 

「すずかを起こしてくるように、っていう仕事は果たしたから次は何をすればいいかなって」

 

 ノエルさんに、ついでにすずかには朝飯も摂らせていると付け加えて報告をした。

 

「朝食の支度まで、ありがとうございます。もうゆっくりして頂いても構いませんよ? 既に色々とお手を(わずら)わせてしまっていますが、徹様は本来客人の立場なのですから……」

 

「いいって、客がどうとかそういうものはさ。俺は自分の仕事をノエルさんにも手伝わせちゃったんだし、次は俺が手伝う番だ。新米執事に指導するつもりでなんでも言ってくれていいよ」

 

「そう言って頂けるのはとても嬉しいです。頼りになりますね、徹様が月村の屋敷に永久就職してくださるなんて……」

 

「違う、違う違う違う、違うよ、ノエルさん。新米執事に指導するつもりで、っていうのはそういう心構えで接してねってだけで、俺が執事を目指してるとかそういうことじゃないから」

 

 そうなのですか? 残念です、とノエルさんは上品にころころと笑った。

 

 ノエルさん一流のジョークなのかなとも思ったのだが、声のトーンや視線から若干本気の色が窺えたので、あながち百パーセント冗談というわけでもなさそうだ。

 

「それでは玄関の掃除をお願いしてもよろしいですか? すずか様のご友人がお早めに来られましたら、部屋の方へと案内もお願いします。忍様のご友人方へは私が屋敷の車でお迎えする手筈となっておりますので、そちらはお任せください」

 

「玄関の掃除ね、了解」

 

 すずかを起こしに行くという任務を受領した時と同様に、月村邸のメイド長へと敬礼をし、玄関へと向かおうとしたが、聞き流せないセリフがくっついていた。

 

 もちろん掃除云々のくだりではない、ご友人方へは車で迎えに行くという部分だ。

 

「って、ちょ、なにそれ。俺は忍からそんな話一切聞いてないんだけど」

 

「お伝えしようとしたのですが、忍様が『徹ならどうせ、昼食やデザートの仕込みとかで早く来るだろうから伝える必要はないわ』と申されましたので」

 

「くそ、忍め! 俺のことをよく理解してやがる! ……ノエルさん声真似上手いね」

 

「お褒めの言葉ありがとうございます」

 

 優秀なメイドさんはあらゆる分野に精通しておかねばならないのか、忍そっくりの声真似という一発芸を披露してくれた。

 

顔の角度や目線の運び方、抑揚をつけるポイントまで押さえた素晴らしい物真似である。

 

主人の物真似を従者がするのってどうなんだろう? とも気に掛かったが、完成度が予想以上に高かったでそんな些細な問題どうだっていい。

 

 ノエルさんの隠された一芸に全部持って行かれたので、忍への憤りなども吹っ飛んでしまった。

 

もともと俺の扱いに対してはいつものことなので、そこまで怒りを覚えていたわけではないが、欠片ほどの悪感情も全て取り除かれてしまった。

 

 主人へと向けられるネガティブなイメージを逸らす、ここまでがノエルさんの配慮なのだとしたら、この人の気遣いスキルは高すぎる。

 

ここまで出来ないとメイドになれないのだとしたら、俺はきっとなれないな。元から俺にメイドは無理だけども。

 

「あぇ……徹……。ぉはよう、やっぱり早くから来てたのね……」

 

「ああ、お前の意に違わずにな。あとおはよう。お前、なんで夜更かしなんかしたんだよ」

 

「…………うぅっ」

 

 俺の声で夢から現実のほうへと針が揺れたらしく、やっと忍が声を発した。

 

 九時を回っているのにお前はなぜこんな状態なのかと詰問すると忍は、ぐすん、と涙ぐんだ。

 

ノエルさんに目を向けるも彼女は苦笑いを浮かべるばかり。

 

気乗りしないが、仕方がないので俺が事情を聞くことにした。

 

 えぐえぐと喉を詰まらせながら忍が説明する。

 

忍曰く、俺とアーケード街に行って、喫茶店にも寄って帰宅した昨日の夜、すずかに話しかけたら素っ気ない対応をされたらしい。

 

二度目にはおざなりな接し方をされ、三度目にはとうとう無視されたのだとか。

 

そのことがショックで、すずかにとうとう反抗期が到来したのかと悲嘆し、自分を見る冷たい目が頭をぐるぐると回り、寝るに寝られなかったとのこと。

 

 背中からから黒いもやもやを出していたので、どうせすずか絡みだろうと、俺は見当がついていた。

 

忍がここまでへこたれた姿を見せる時は恭也と(いさか)いがあったか、そうでなければすずかと口喧嘩でもしたかのどちらかである。

 

 全く、そろそろ忍は妹離れすべきではないのだろうか。

 

姉離れできていない俺はあまり強く言えないが。

 

 しかし、すずかが忍に対してそんなぶしつけな態度を取るというのも珍しい。

 

シスコンな忍がすずかを猫可愛がりして溺愛しているのは論を俟たないし、すずかも忍には親愛の情や尊敬の念を抱いていたはずである。

 

 なぜ急にすずかの振る舞いが変化したのだろうと考えを詰めていくと、一つ思い当たった。

 

 すずかは昨日アーケード街で俺と忍を見たと言っていた。

 

忍は恭也と付き合っている(とまでは明言出来ないもののそれに準ずるレベルで仲良くしている)はずなのに、俺とデート(ではないものの傍から見た場合それっぽく見える行為)をしているのを目撃し、すずかは『もしかして姉は二股でもかけているのでは』と思ったのではなかろうか。

 

 なるほど、これなら辻褄が合う。

 

 二人の男に粉をかける悪女……まんざら間違っていると言い切れない気もするが、すずかはそうと勘違いして姉に失望し、すげなく接したのだろう。

 

 そして答えがこれで合っているのであれば、問題はもう解かれている。

 

すずかにはもうダイニングで誤解を解いているのだ。

 

思い違いであったのだから、すずかがこれ以上忍に冷たくあたる理由はない。

 

 という俺の推論を忍に説いた。

 

「あんたのせいじゃないのっ!」

 

 忍は俺の胸郭のど真ん中へと掌底を繰り出した。

 

胸を貫かんばかりの一撃に、くぐもった息が俺の口から漏れる。

 

 きっと、すずかに勘違いされたのは俺のせいだと言いたかったのだろう。

 

 なんてやつだ、せっかく教えてやったというに。

 

「でもあんたのおかげっ! ありがとうっ!」

 

 忍は掌底を繰り出した右手をすぐさま引っ込めたので、第二撃が間髪入れずに押し寄せるのかと恐れ戦いたが、忍はノエルさんの右手から離した左手も使って俺の身体を抱き締めた。

 

このまま鯖折りへと移行するのかと危惧した俺の喉からは細い悲鳴がこぼれる。

 

 きっと、勘違いされたのは俺のせいだけど、俺の釈明のおかげですずかとまた仲良くできると言いたかったのだろう。

 

 なんだこいつ、情緒不安定か。

 

 鋭い痛撃と柔らかな感謝の落差が激しすぎて、俺の身体はまるでついていけていなかった。

 

「すずかとお喋りしてくるわ!」

 

 さっきまでの気落ちが嘘のように元気さを取り戻した忍は、ここまで引っ張ってきてくれたノエルさんと、サンドバッグにした俺を置き去りにダイニングへとダッシュした。

 

 鬼が走り去ったことで気が抜けた俺は、床へと膝から崩れ落ちた。

 

 忍はお淑やかとは程遠い作法でダイニングの扉を開け放ち、行儀が良いとはお世辞にも言えない音を打ち鳴らしながら扉を閉める。

 

その様子を遠目に眺めていたノエルさんは顔をこちらに向け、俺に声をかけた。

 

「徹君……少しお休みになりますか?」

 

「いや……ちょっとだけ息を整えたらすぐ仕事に入るよ」

 

 ノエルさんは俺の身を案じて歩み寄り、立たせるために肩まで貸してくれた。

 

 ふわりとしていてボリュームのあるメイド服では分かり辛いが、ノエルさんの肩は薄く、か細い。

 

なのに俺をすんなりと立ち上がらせることができるというのは、筋肉の使い方の巧みさか、身体運びの妙なのか。

 

とりあえずいいにおいがしたことは確かであった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 玄関で掃き掃除。

 

といっても日頃から念入りに清掃されているらしく、ゴミというゴミも、汚れという汚れもたいしてありはしなかった。

 

 本日も快晴、風も弱く、太陽の暖かな光が差し込み非常にのどかである。

 

こんな気持ちのいい日には、目の前に広がる庭にでも寝転がってお昼寝と洒落込みたいところだが、お仕事を引き受けた以上ほっぽり出すことはできないし、なにより現在時刻は九時半、お昼寝にはあまりにも早すぎる。

 

 かすかに出てきた木の葉などのゴミをポリ袋に入れて端に置き、掃除道具もしまって玄関の段差に座り込む。

 

 天を見上げれば、深く青い空に白い雲。

 

最近はとんと忙しくて空を仰ぐなんて全然していなかった。

 

前までは時間が空けば昼ともなく夜ともなく眺めていたはずなのに。

 

 極端な刺激なんてなくたっていい、単調でも平和な毎日が続けばそれでいい。

 

隣りには親友がいて、周りには仲の良い友達がいて、だらだらとした取り留めのない話をして笑い合う。

 

そんな日常に満足していたはずなのに、なんて危険で物騒な事象に足を踏み入れているのだろう。

 

 なのはが心配で、ユーノの健気な努力に感化されて、今でこそ済し崩し的に手伝ってはいるが、よく考えればずいぶん俺らしくないことをしているものである。

 

後悔はしていない、それこそ判断を間違えたなどとは毛頭思いはしないが、目的を見失っているような、漠然とした焦燥感が胸の内に燻っていた。

 

 空に広がる青と白のコントラストを仰視しながら曖昧模糊とした考え事をしていると、遠くで車のエンジン音が聞こえた。

 

時間も時間だしノエルさんが恭也や鷹島さんたちを迎えに行くのかと思ったが、エンジン音は遠くからこちらへ近づいてくるようだ。

 

 音の発信源へと辿れば、一台の車影が見えた。

 

黒く輝き、車体は長い。

 

見覚えのある車、鮫島さんが操縦するバニングス家の送迎車だ。

 

 であれば、乗車しているだろう人間はアリサちゃんと予想されるが、俺が言うのもなんだがなんとも早い時間に来たものである。

 

 玄関近くでごく緩やかに停車し、扉が開いた。

 

 車から飛び降りたのは予想通り、鮮やかな黄金色の髪をたなびかせる少女、アリサちゃんだった。

 

だが予想に反し、その後ろに続く影があった。

 

ブラウンの髪を頭の両側で結った少女、なのはだ。

 

まさかなのはまで一緒に来ているとは考えていなかった。

 

てっきり恭也と一緒に来るものとばかり思っていたのだ。

 

 車から降り、俺へと一直線に歩みを進めるアリサちゃんの表情はどこか険しい。

 

麗しい面貌は固くなっている。

 

眉間にはしわが寄り、色素の薄い唇は真一文字に結われていた。

 

「アリサちゃん、おはよう。早かっ……」

 

「徹っ! すずかの言っていたことは本当なの?!」

 

「な、なに、どうしたんだ?」

 

 アリサちゃんは到着早々、座ったままの俺のシャツを握り、ともすれば半ば胸ぐらを掴むような勢いで詰め寄ってきた。

 

頭の左右でちょみん、と結ばれている金髪はアリサちゃんの心中とリンクしているのか、小刻みに震えながら上を向いている。

 

「あ、アリサちゃん、冷静に……。徹お兄ちゃんもなんの話かわからないよ……」

 

「なのはもおはよう。早かったんだな」

 

「あ、うん。徹お兄ちゃん、おはよう」

 

 アリサちゃんの後方でなのはが慌てるように忙しなく両手を動かしていた。

 

 なのはの言葉を受けて、徐々にアリサちゃんの勢いは落ち着いてきたが、シャツを握る手だけはそのままである。

 

「だからっ、あの、えっと……」

 

 最初こそ気炎を吐いていたアリサちゃんの口は、最後にはもごもごと不明瞭な音を刻んでいた。

 

射抜くように真っ直ぐと向けられていた視線はだんだんと下がり、頬にはかすかに朱が差される。

 

 要領を得ないアリサちゃんの問いかけだが、いつも忌憚なく喋る彼女らしからぬ様子に、このまま追及することはできなかった。

 

なにを言おうとしているのか必ずしも訊かなければならないわけではない、俺が察すればいいだけである。

 

 というか、だいたいの目星はついていた。

 

「俺は、忍と、付き合ってなどいない。これが聞きたかったんだろ?」

 

「よ、よかっ……じゃないわよっ!じゃあなんで昨日……」

 

「そのあたりのことはもうすずかに説明したから、詳しいことはすずかから聞いてくれ」

 

「なんだかすごく雑に扱われている気がするわ……」

 

「ほら、やっぱり付き合ってなかったでしょ? 恭也お兄ちゃんに聞いたら、『それくらいよくあることだ』って言ってたもん」

 

 自分は成り行きを知っていた、という風に言ってのけるなのはだが、言葉と態度がまるでちぐはぐだった。

 

 落ち着きを取り戻したアリサちゃんは二歩ほど下がり、遅まきながらも『……おはよう』と挨拶する。

 

二度目になるが俺もそれに『おはよう』と返した。

 

 おそらくすずかがアリサちゃんとなのはに連絡をしたのだろう。

 

昨日の夜にもメールかなにかでやり取りしていたようだったし、朝食の席で俺の弁解を聞いて、それを二人に伝えたというところか。

 

 まさかその連絡を受けて、わざわざ早くに来たのだろうか? もしそうなのだとしたらご苦労様ですとしか言いようがないが。

 

「おはようございます、徹くん」

 

「おはよう、鮫島さん。火曜日のことはみんなを送ってくれてありがとう。助かったよ」

 

 鮫島さんが運転席から降りてこちらへと歩いてきた。

 

 俺は即座に玄関前の段差から立ち上がって挨拶する。

 

 四日前にあった自然公園での一悶着の時、女子バスケ部の四人を送り届けてもらった時の礼を、ずっと直接に言いたかったのだ。

 

「いえいえ、お役に立てたのであれば光栄です。お礼を楽しみに待っていますよ」

 

「任せといて。またいずれお邪魔するからさ」

 

 互いに拳をこつんとぶつけ、鮫島さんはそれではこれで、と締めくくると車に戻り、月村家の敷地を出ていった。

 

ぶつけた俺の拳にはいつのまにか、なのはとアリサちゃんの勉強道具が詰まっているであろうバックを握らされている。

 

どうやって俺に持たせたんですか、マジシャンですか、鮫島さん。

 

「ほんと徹は鮫島と仲良いわね。なんか態度まで違うし」

 

「年長者には敬意を表すものだろう? しかも武術の先輩でもあるからな、そりゃ態度も変わるというものだ」

 

「徹お兄ちゃんは年上の人と話す時は感じちがうよね、なんだかかわいいの」

 

「ほぉ……なのはが俺をイジるのか、なるほどな。へぇ……」

 

「にゃあっ! ちがうの、そういうことじゃないの! 怖い目しないで!」

 

「な、なのは怯えすぎでしょ……。徹、あんたなのはにいつもなにしてるのよ。アヤシイことしてるんじゃないでしょうね……」

 

「してないよ、アリサちゃん。ほら玄関で立ち話ってのもあれだし、部屋までご案内しますよ、お嬢様方」

 

「徹お兄ちゃんっ、冗談だったんだからね?! あとになってお返しとかやめてね?!」

 

「なのはが母犬に見捨てられた子犬みたいになってるわよ?! ちょっと徹! あんたなのはになにしてんのよ!」

 

「さぁお嬢様方、こちらです」

 

 にゃあにゃあきゃんきゃんと鳴く少女二人を見るのは存外に楽しいのでそのまま流しつつ、俺は左手にお嬢様二人のバッグを持ちながら、右手で玄関の大扉を開く。

 

 二人は両側から俺の服を引っ張って文句を言いながらも中へ入った。

 

 俺はノエルさんからの(ことづ)け通り、客人を部屋へ案内するため先導するが、アリサちゃんもなのはもまだ言いたいことは残っているらしく、服を掴んだまま離そうとしない。

 

それだけに留まらず、気になることは先に解決したいようで足すら動かそうとしてくれない。

 

仕様がないので二人を引っ張りながら無理くり進む。

 

「徹お兄ちゃん! ねぇっ! ねえってば! 許して? ねっ?」

 

「徹! こら、こっち見なさいよ、徹!」

 

 女の子二人分の重力を踏みしめながら、今日の勉強会で用意してもらった部屋まで歩みを進めた。




話が進まない。
どうやったらテンポよく進ませることができるのでしょう。
いや、無駄な部分を切らない僕の悪癖のせいなんですけども。

勉強会当日に入って二話使っているのに勉強会が始まらないとはこれいかに。
急ぎたいのは山々なんです、本当なんです。


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日常~勉強会~10:05の断罪と、10:15の開幕。

 月村家メイド長、ノエルが操縦する車が送迎を終え、車庫に入ったのは勉強会が始まる十時ぴったりであった。

 

 有能なメイドたるノエルが、勉強会開始時間前に到着できなかったのにはわけがある。

 

迎えに行く面子の家までの道案内を申し出た忍が寝過ごした上に、誤解を解いて仲直りしたすずかとお喋りに(ふけ)り、出立する時間が押したのだ。

 

 本来であれば二十分から三十分ほども到着時間がオーバーするはずであったが、最短ルートを道路交通法許容範囲ぎりぎりを掠める速度で突っ走った結果、深刻な遅れは出さずに済んだ。

 

 送迎用車両の後部座席から吐き出されたのは月村忍、高町恭也、鷹島綾音、鷹島彩葉、長谷部真希、太刀峰薫の計六人。

 

行きは道案内のため助手席に着いていた忍だったが、全員を拾って月村邸に戻る際には後部座席に移っていた。

 

 月村邸に初めて訪れた綾音、彩葉、真希、薫の四人は、壮麗で豪奢なその内装に、四者四様各々に各々らしいリアクションで賛美の言葉を述べた。

 

 私立聖祥大学付属学校の生徒には裕福な家庭が多いとはいえ、月村邸ほどまでに大きな屋敷となるとそうはいない。

 

招かれていた四人の家も一般人とは一線を画す階級の家であるが、月村邸の次元の違う敷地面積の広さに賛嘆の声をあげていた。

 

 ノエルの先導に一同はついて歩き、今日のために用意がなされた部屋へと着到する。

 

 扉が開け放たれると、そこには見るからに快適であろう空間が広がっていた。

 

勉強会という名目ではあるが、個々人で勉学に(いそ)しむわけではなく、それぞれが得意な分野を教えあうというのが内情となる。

 

そのことを考慮し、隣について教えやすいようにと足の短いテーブルが採用された。

 

床には細い糸で編み込まれて鮮やかな紋様が描かれた絨毯が敷かれ、そのまま腰を下ろしても心地の良い状態となっている。

 

 その勉強用のスペースから少し距離を置いたところには、三人掛けソファが三つ、『コ』の字に設置されていた。

 

真ん中にはローテーブルが設けられており、飲み物を飲んだりお菓子をつまんだりと休憩できるようにという配慮も尽くされている。

 

 なるほど勉強するには申し分ない、どころかこれ以上ない一室であった。

 

 ノエルに引率されて先に入った四人は、部屋の中を見て驚きと戸惑いのあまり固まった。

 

四人の様子を不思議に思った忍と恭也も中を覗き、四人と同様に動きを止める。

 

扉の近くで凍りつく集団の中で唯一動いていたノエルは、やれやれ、やってしまいましたね、とでも言いたげに首を左右に振る。

 

 部屋の中には先客がいた。

 

この屋敷に住んでいる月村すずかと、すずかの親友である高町なのはとアリサ・バニングス、仕込みのために朝早くから来ていた徹の四人だ。

 

 四人はテーブルの上に教科書を広げ、すでに勉強をしている様子であった。

 

部屋の壁に掛けられているアンティーク時計の針は十時五分過ぎを指している。

 

勉強会の開始時間は十時ジャストなので、ほかのメンバーが集まりきっていないとはいえ、勉学に励んでいるのは特別おかしくはない。

 

一刻も早くやろうとしているぶん、学習意欲旺盛で逆に褒められるべき行為とも言えた。

 

 ただ一つの問題は、室内にいた四人の勉強の仕方であった。

 

そして、それが入室した忍や恭也たち六人が固まった理由でもある。

 

 決して小さく、ややもすれば大きいテーブルなのに、その片隅で徹たちは固まっていた。

 

徹の崩した足の上にはなのはが座り、右横ではアリサが腕を絡め、左にはすずかが身を寄せていた。

 

 テーブルの天板にこそ教科書を開いて置いてはいたが、勉強をしているかどうかと問われると、見る者によってその答えが変化してもおかしくはない。

 

 事実、勉強中と捉えているのはなのは、アリサ、すずかの三人だけのようで、少女に纏わりつかれている徹も部屋に入ってきた恭也たち六人と同様に固まっていた。

 

少なからず後ろ暗いことをしているという自覚はあったようで、徹は扉へと顔を向けながら頬を引くつかせ、額に冷や汗を浮かべていた。

 

 時間が止まったような静止空間の中、変わらずに動きを続けるのは徹の周りにいる三人の少女のみ。

 

「なのは、そろそろ変わりなさいよ。もう充分徹を味わったでしょ」

 

「アリサちゃんは一番最初に抱いてもらったんだからもうちょっと待って。わたしは最後だったんだし、長めでもいいと思うの」

 

「順番はじゃんけんで決めたんだから関係ないでしょ! なのは早くどきなさいよ」

 

「後ろから優しく包まれるのもいいけど、すこし強く乱暴に抱かれるのもけっこういいよ?」

 

「なにそれっ! すずかそんなことしてたの?! わたしの時はそんなのなかったわ! 不公平よ!」

 

「身体の中からあったかい感じなの」

 

「なのはちゃん、さすがに長すぎると思うよ? 二週目に入れないよ」

 

「余韻に浸ってないではやくどきなさいよ!」

 

「いちばんいろいろと勉強が必要なのわたしだもん」

 

「変な屁理屈こねないの。筋が通ってないわよ」

 

 来訪者に気づかなかったなのはたちの、純度百パーセントの楽しげなお喋り。

 

だが内容は、聞き手によっては意味を歪んで汲み取ることもできるものである。

 

 結論から言えば、その会話がロリコン男断罪劇の火蓋を切って落とすこととなった。

 

 恭也と忍は自身の最高速度をもって、右と左に分かれて徹を挟みように回り込む。

 

いつものようにまっすぐ一直線に殴り飛ばしては、少女たちにまで被害が及ぶと危惧してのことだった。

 

 恭也と忍はテーブルを迂回し、徹へと肉薄する。

 

恭也と忍の手刀は、徹の両隣に侍る少女の頭上を通過してホシの首を左右から挟み落とすように迫り、徹の意識を刈り取った。

 

 後日、徹は、『まさしく神速だった。首を落とされたかと錯覚した』と、首をさすりながら語った。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「お前ら遅れてきたくせに人を気絶させるとか、どんな神経してんの」

 

「すまんな、徹。三人の穢れなき少女を一度に食ったのかと勘違いしたんだ」

 

「ごめんね、徹。すずかに手を出したのかと思ったら冷静でいられなかったわ」

 

「俺じゃなかったら死んでるからな」

 

「徹以外にやるわけないだろう」

 

「徹以外にやるわけないでしょう」

 

「清々しいほど正直だな。怒りすら消え失せるわ」

 

 アリサちゃんとなのはが早めに来たので、俺は恭也たちの到着を待たずに先に勉強を教えていた。

 

テーブルに並ぶ教科書に向かい、得意不得意がはっきりとわかれているなのはをメインに据えて三人に勉強を教えていたが、予定時間を五分ほどオーバーした頃、恭也たちが部屋に入ってきた。

 

扉の前にいた二人の姿が霞んだかと思ったら、気づいた時には俺はソファで寝ていた。

 

その間の記憶は欠落している。

 

 だが記憶になくても首の痛みと経験でわかる、恭也と忍の二人で俺の気を失わせたのだ。

 

状況となのはたち三人の勢いに流されたとはいえ、いきなり暴力というのはあんまりである。

 

 時計へと目を送れば、時計盤の短針と長針は十時十五分を指していた。

 

十分ほども寝ていたようだ、忍も恭也も手加減がなさすぎる。

 

 俺が目覚めたのに気づいたのか、長谷部が近づいてきた。

 

 俺はソファから立ち上がり、長谷部へと身体を向ける。

 

「おはよう、逢坂。朝からすごいものを見せてもらっちゃったよ」

 

「おう、長谷部。俺はひどい目にあったぞ」

 

「……おはよう。やっぱりちっちゃい子が、好きなの……?」

 

「おっす、太刀峰。そして開口一番に何言ってんだ。せがまれたからやってただけだ。深い意味はねぇよ」

 

 長谷部は俺の肩をぽんと叩いてテーブルの一角へと足を運び、太刀峰は肩には手が届かなかったようで俺の下腹部をぽんと叩き、長谷部の隣に座った。

 

いくら手が届かなかったとはいえ、なぜ下腹部を触るのだ。

 

かなり際どいところだったのだが。

 

「お、おはようございます、逢坂くん。身体はもう大丈夫ですか?」

 

「おはよう、そしてありがとう鷹島さん、心配してくれるのは鷹島さんくらいだ。もう大丈夫だよ」

 

 挨拶して、そのまま長谷部や太刀峰の元へ向かうかと思ったが、意に反して鷹島さんはまだ俺の前に残った。

 

口を開いたり閉じたり、視線を右へ左へ泳がせたりしてなにか訊きたいことでもありそうな様子だ。

 

 俺は首を傾げて、どうしたんだ?というジェスチャーを取る。

 

「い、いえ……やっぱりなんでもないです……」

 

 鷹島さんは歯切れ悪くそう言うと、小さな撫で肩を落としながら、やっぱり長谷部たちの所へととぼとぼ歩いていった。

 

 あ、しまった。

 

さっきの機会に、ちゃんと勉強道具を持ってきたのか尋ねておけばよかった。

 

「お久しぶりです、逢坂さん」

 

「彩葉ちゃん、久しぶり。来てくれたんだ、よかったよ」

 

「はい……でも、あの……」

 

 彩葉ちゃんの姿が見えないと思ったら、鷹島さんの後ろに控えていたようだ。

 

 姉と同じ栗色のふわふわした髪、鷹島さんは肩の辺りまでだが、彩葉ちゃんは腰付近まで伸ばしている。

 

しっかり者を象徴するようなきりっとした目。

 

折り目正しいその振る舞いは、天然の姉に苦労させられたことを窺わせる。

 

 当の彩葉ちゃんは挨拶したきり俯いて両の指を絡ませてもじもじとしていた。

 

以前夜の街を歩いた時は明朗快活に喋っていたのに、今日の彩葉ちゃんはどうにも様子が変だ。

 

 数日前の夜を想起して、思い当たった。

 

そういえば鷹島さん宅へ彩葉ちゃんを送った際、鷹島さんが言っていたーー人見知りなのに、と。

 

 同じクラスとはいえ、なのはたちとはそれほど交流がないらしいし、この場にいる高校生のほとんどには面識がないのだから、人見知りな彩葉ちゃんが尻込みするのも無理からぬことか。

 

 長谷部や太刀峰とは顔見知りらしいが、年代が違えば話題も様変わりするし、高校生組は高校生組でグループを作ってしまっているので、その輪に割って入るのは難しい。

 

かといって小学生組は(少し度の超えた)仲良し三人組なので、こちらに参入するのはもっと難しいだろう。

 

 初対面の人が多いこの空間は、彩葉ちゃんにとって居心地のいいものではないのかもしれない。

 

 彩葉ちゃんと目線が合うように、俺はカーペットに膝をつけた。

 

「なのはから聞いたよ、彩葉ちゃんすごく賢いんだってね」

 

「そ、そんなことないです。クラスの一番はバニングスさんなので……」

 

「若いのに謙遜しちゃって、まったく。学校の授業の中でわからないものはないと思うけど、苦手な科目とかってある? 勉強なら俺でも力になれるよ」

 

 トップクラスの成績を誇るとはいえ、まさしくトップの結果を叩き出しているアリサちゃんがいるからか、彩葉ちゃんはあまり褒められ慣れていないようであった。

 

耳まで赤く染め上げてさらに視線を下にする。

 

 しばしどうするか悩む素振りを見せたが、彩葉ちゃんはおずおずと口にした。

 

「えっと、算数の計算が早くできなくて……そのあたりを……」

 

「計算は俺の得意分野だ。手伝えることがあってよかったよ」

 

 俺の言葉を受けて、彩葉ちゃんは顔を上げる。

 

一拍遅れて栗色の髪がふわりとたゆむ。

 

やっと、今日初めて、どこか儚げではあったが笑顔を見せてくれた。

 

小学三年生の九歳か十歳そこらで、なんて寂しげな表情をするのだこの子は。

 

 その触れたら壊れそうな笑みの真相は今は脇に置いておく。

 

下手に触れてはいけない部類だと判断した……怖気づいたと言い換えてもいいが。

 

 なにはともあれ、早速苦手な計算を克服すべく、テーブルのあいている場所へと誘導しようと彩葉ちゃんの手を取ったが、そこで『にゃあ』と聞き慣れた動物の鳴き声が俺の耳朶に触れた。

 

 月村邸に棲息する猫たちの鳴き声ではない。

 

忍の家で飼っている猫の声を、俺は皆目聴いたことがないので、聞き慣れているわけがない。

 

 鳴き声の発信源を辿れば、彩葉ちゃんのものと思しきバッグ。

 

そのバッグが、中に生き物でもいるかのようにもぞもぞと蠢いていた。

 

ていうか、絶対中に入っているだろう。

 

 バッグの口から白い物体が飛び出てきて、しゃかしゃかしゃかと手慣れた動きで俺の頭まで登った。

 

ついさっき彩葉ちゃんとの初めて対面した日のことを回顧したからか、この感触にもすぐに目算が立った。

 

「もしかして……ニアスか?」

 

 知性は相変わらず健在なようで、ニアスは俺の質問に正解ですと言わんばかりに『にゃあ』と一鳴きして返した。

 

 連れてきたの? という疑問を視線に乗せて送るが、驚きに目を見開かせてから彩葉ちゃんはふるふると首を横に振る。

 

どうやらニアスはバッグの中で勉強道具に紛れて勝手に潜伏していたようだ。

 

 子猫とはいえ、多少重みもあるのだから気づきそうなものではあるが。

 

 せっかく頭まで登頂したところを悪いが、ニアスを抱っこして顔の前まで持ってくる。

 

前に会った時と変わらぬ真っ白の毛並みは、つやつやさらさらとしていてとても触り心地が良い。

 

 俺は動物は好きなのだが、動物は俺のことを好いてはくれぬようで通常触らせてくれはしない。

 

手に触れる距離に近づいてきてくれないどころか、さらには目に触れすらせず姿さえくらますのだから、その嫌われっぷりは推して知るべしである。

 

 そんな俺に唯一懐いてくれるのがニアスなので、そりゃあもう可愛くて仕方がない。

 

ニアスのお腹に顔を寄せて和毛(にこげ)の感触を堪能する。

 

「きっと逢坂さんに会いたくてバッグの中に入ってたんだと思います。ニアスは逢坂さんと会ってから、家で逢坂さんの話をするたびに『にゃあにゃあ』と鳴いてましたから」

 

 『にゃあにゃあ』とニアスの鳴き真似をする彩葉ちゃんはとても可愛かったが、そのことを本人に伝えると話にならなくなりそうなので黙っておく。

 

「たった一回しか会ってないのに憶えてくれてたのか。やっぱりお前は賢いなぁ。……ん? 俺の話とかしてたの?」

 

「あう……いえ、えと時々……」

 

「なんか恥ずかしいな……て、そっちはいいか。そろそろ始めようか。今日の主旨は勉強だからね」

 

 彩葉ちゃんはこくりと首肯した。

 

 ニアスにはあまり騒がないように、と言い含め、再度頭上に乗せる。

 

ニアスは頭にのっぺりとしがみつきながら、『にゃあ』と了承の返事をした。

 

 彩葉ちゃんと連れ立ってテーブルの空きスペースへと座る。

 

「徹! その仔猫どうしたの?! すごくかわいい!」

 

 バッグをごそごそと探って彩葉ちゃんが教科書やノートなどを取り出すのを待っていると、鷹島さんといちゃいちゃしていた忍が無駄に大声で話しかけてきた。

 

 目をらんらんと光り輝かせながらにじり寄る忍の迫力に気圧されたのか、頭頂部にいたはずのニアスは後頭部へとずり下がった。

 

 再びニアスを持ち上げて正面に持ってくる。

 

ニアスは猛獣の檻に放り込まれたウサギのように、ぷるぷると震えて怯えていた。

 

尻尾は(すが)るように俺の腕に巻きついている。

 

 きっと本能で危ない人だとわかるのだろう。仔猫とはいえ、さすがに猫である。

 

「彩葉ちゃんと鷹島さんの家で飼われている猫だ。名前はニアスという。前に一度話したろ」

 

「そういえば言ってたわね。この仔が……かわいいぃ……」

 

 忍の瞳には星がきらめき、頬は緩みきっていた。

 

この屋敷でも猫を嫌という程に飼育しているのだから、たいして珍しくもないはずだが……猫それぞれに違う魅力でも感じるのだろうか。

 

「おお……徹に懐く動物が実在したとは、前に言っていたことは本当だったのか」

 

 忍に同行して恭也もやってきた。

 

 恭也の場合はニアスに、というよりも『俺が近づいても逃げない』という点にこそ驚いているようだ。

 

 しかし、『本当だったのか』などと吐くということは、俺の話を疑っていたのか。

 

なんてことだろう、親友二人は揃って、俺の言葉を容易に信じない傾向にある。

 

「さわってもいいかしら?」

 

 誰にともなく、強いて言えばニアスに許可を求め、返事を待たずに忍はニアスの純白色の頭を撫でようと手を伸ばす。

 

だが、掲げられた忍の手は、ぺにっという柔らかな音とともにニアスの右前足によって無情にも叩き落とされた。

 

 忍の表情は笑みをかたどったまま凍りついた。

 

まさか拒まれるとは思わなかったのだろう。

 

忍はもう一度手を伸ばすか、リプレイを見ているかのようにもう一度同じ具合でニアスに弾かれた。

 

ニアスは断固として拒否する構えである。

 

 拒否する時でもちゃんと爪を出さずに肉球で打つのがニアスの優しいところで、同時に賢いところでもある。

 

「…………ぐすっ」

 

「ちょっ、待て。待て待て、今はニアスの機嫌が悪いだけだ。忍自身に非があるわけじゃないと思うぞ」

 

 猫好きとしては仔猫に抵抗されるというのはかなりのダメージだったようで、心に傷を負った忍は涙ぐんだ。

 

口はへの字を描き、目は水気を帯びる。

 

 数多くの猫を育ててきた飼い主としてのプライドというべきか、自信というべきか、そういった経験から懐かれやすいという自負があったのだろう。

 

それらを木っ端微塵に打ち砕かれたのだから、忍の傷心もわからないわけでもなくもないでもない。

 

 いやまあ、正直なところよくわからない。

 

懐かれない経験のほうが豊富な俺からすれば、他にいっぱい懐いている仔達がいるのだから欲張りすぎだとさえ断言できる。

 

 そう考えるとあまり同情の余地はないな、あとのフォローは恭也に一任させよう。

 

 忍と恭也が移動したのが気になったのか、鷹島さんと長谷部、太刀峰もこちらにきた。

 

結局高校生組が全員集合してしまった。

 

「気にしなくてもいいよ、忍さん。その仔猫は誰にでもそんな態度なのさ」

 

「懐いているのは、綾音と彩葉にだけ……。逢坂が、おかしい……」

 

「おいこら、太刀峰。おかしいってのは言い過ぎだろうが」

 

「ニアスはあんまり人に慣れていないみたいなんです。私と彩葉に近づいてくるのも時間がかかりましたから。なのであんまり気にしないほうが……」

 

「ぐすっ……そうなの?」

 

「それでは俺もやってみようか」

 

 鷹島さんの言を証明するため恭也も試しに撫でようとする。

 

 これで恭也には肉球パンチを繰り出さなければ忍は泣き出してしまいそうな勢いだが、空気を読んだのか、はたまた単純に嫌だったのかは本人しか知りようがないが、ニアスは忍の時と同様に恭也の手を払いのけた。

 

 もう仕事は済んだよねと言わんばかりに、ニアスは俺の腕を伝って肩まで登る。

 

俺の右肩の上で、ニアスは器用に(くつろ)ぎ始めた。

 

 左手でニアスの頭を撫でると、ごろごろと喉を鳴らしてもっとやれとせがむようにすり寄ってきた。

 

「私がダメで徹がいいなんて、納得いかないわ」

 

「お前は家で飼ってるのがいるだろうが。それで満足しとけよ」

 

「わかってないわね、人に個性があるように猫にも個性があるの。私は猫を愛でたいんじゃない、その仔を愛でたいの」

 

「いいこと言ってる風だけど、結局ワガママ言ってるだけだよな」

 

「徹、あとで覚えておきなさいよ」

 

 俺が思ったことを正直に言うと、忍は俄かに目を据わらせて拳を握りこんだ。

 

 たかがこれだけのことで人を殴ろうとしないでほしい、怖いから。

 

「そ、そういえば忍さんのお家ではたくさん猫を飼っているんですよね? どこにいるんでしょうか?」

 

 さすがの鷹島さんである、助け舟を出してくれた。

 

 可愛らしく辺りを見渡して小首を傾げる。

 

「この部屋に来る時にも見かけなかったね、猫専用の部屋でもあるのかい?」

 

「大勢の人……怖いのかな……?」

 

「人には慣れているし、普段であれば誰かが遊びにくれば呼びもしないのにやってくるが、この場に来ないのはひとえに徹のせいだな。ちなみに猫専用の部屋もある。きっと今ごろはその部屋に逃げ込んで身を寄せ合っていることだろう」

 

 鷹島さん、長谷部、太刀峰の疑問には恭也が答えた。

 

 すべての責は俺に帰結するという口振りの恭也だが、いかんせん、返す言葉を俺は持ち合わせていない。

 

「さっきもちらと言っていたが、徹は基本的に動物から避けられる体質なんだ。徹がこの家に近づくだけで、猫たちは危険を察知するかのように逃げ出していく。もちろん徹が猫たちを虐めたとかではない。不思議だが、昔からそうなんだ」

 

 恭也の説明を受け、鷹島さんを筆頭とした三人は俺に憐れみの目を向ける。

 

 なにか言い返そうかとした矢先、背後で引っ張られるような感触を覚えた。

 

振り向けば、彩葉ちゃんが俺のシャツを人差し指と親指でつまんでいる。

 

 ニアスという撒き餌に(いざな)われた忍が食いついてからというもの、彩葉ちゃんをほっぽりだしてしまっていた。

 

テーブルには算数の教科書と、丁寧な字で事細かに書き込まれているノートが広げられている。

 

準備が完了してから、話が終わるのを邪魔にならないよう黙って待っていたのか。

 

 用意が済んだことを伝えるための手段が服の裾を小さく引っ張るなんて、なんていじらしい子だろう。

 

 それに恭也たちは、俺と彩葉ちゃんを取り囲むような位置にいる。

 

初めましての顔が多いこの場では心細かったことだろう。

 

 特に忍と恭也には恐怖心まで抱いていてもおかしくはない。

 

なんせ初めて会ったばかりでどういう人間性なのかもわからない状態で、部屋に入った途端に二人で手を組んで俺を気絶させるに至らしめたのだから、怖い人だと捉えるのも無理からぬことだ。

 

忍は美人でぱっと見近寄りがたい雰囲気を漂わせているし、恭也は表情があまり動かないので顔が整っていることも相俟(あいま)って気難しい印象を受ける。

 

 こんな奴らに接近されてたいそう不安であったことだろう。

 

注意が回らなかった俺の手落ちだ。

 

 すぐにやるからね、という意味を込めて服をつまんでいる彩葉ちゃんの手を握る。

 

「俺の話はもういいだろ。今日の主旨忘れんなよ、勉強しろ勉強。忍、お前は恭也たちを頼む。俺は彩葉ちゃんやなのはたちに教えるから」

 

「ちょっと待ちなさいよ、そっち賢い子ばっかりじゃない。こっちはあほの子が多いのよ? 私の負担が大きすぎるわ」

 

「あほの子……わ、私のことでしょうか?否定できないのが悲しいですけど……」

 

「それじゃあ僕はあほの子その二、かな。先生の説明は眠たくなるんだよね。科学の授業なんて子守唄みたいなものさ。実験とかは好きだけど」

 

「わたしは……あほの子、その三? 暗記が苦手な……だけ、なのに」

 

「俺は自習だけで充分間に合うから含まれないな、うむ」

 

 忍によってあほの子認定された鷹島さん、長谷部、太刀峰がそれぞれ返答する。

 

 恭也だけは、自分はそのカテゴリには当てはまらないと言いたげだった。

 

 実際恭也は家業の手伝いや剣術の修練に手を取られて予習復習の時間がなかっただけであるし、それほど授業に遅れているわけでもない。

 

一日本気で頑張れば取り返せる程度であった。

 

「わかったわかった、俺も見て回るし手が足りないようなら俺も手伝う。それならいいだろ?」

 

「仕方ないわね、その段取りでやりましょうか」

 

 忍は俺の提案を承諾すると、俺の後ろにいる彩葉ちゃんへと目線を合わせた。

 

「彩葉ちゃん、だったわよね。初めまして、よろしくね。あと、徹にやらしいことされたらすぐに報告しなさいね。私が懲らしめてあげるから」

 

 またも忍は俺のネガティブキャンペーンを実行していた。

 

 会う人会う人に誤解させて回るような忍の所業に慣れてきつつある俺も俺だが、形だけでも否定しておこう。

 

聞き入れてくれるとは思えないが異議を唱えておかなければ、いずれ忍の言っていることが事実としてみんなに受容されてしまいそうだからだ。

 

「お前は……初めて会う子にそういうことを……

「けっこうです。逢坂さんはそんなことしませんから」

 

 俺がもはや恒例となりつつある抵抗の意思表示をしていると、忍に悪質な洗脳を施されそうになっていた彩葉ちゃんが途中で言葉を挟んだ。

 

彼女らしからぬ声色で、どことなく棘まで感じる。

 

身体のほとんどを俺の背に隠していなければ、かなり剣呑な語調であった。

 

 初めて忍の悪口雑言をきっぱりと切って捨てた子を見た気がする。

 

 忍は彩葉ちゃんに向けていた視線を横にスライドさせ、俺へと焦点を合わせた。

 

「あんた……もう(たら)し込んでたの? いつもいつもどうやって取り入ってるのよ。奇跡的なまでの手際の良さね」

 

「聞こえが悪いわ。俺のことを信じてくれてるんだよ、彩葉ちゃんは。残念だったな、お前の策略は失敗のようだぜ」

 

「ここは退くしかないようね。さすが徹、ちっちゃい子を籠絡させたら他の追随を許さないわね」

 

「とんでもない言いがかりをつけてんじゃねぇよ」

 

 限りなく不名誉な称号を俺に授与すると、忍はあほの子ナンバー二(長谷部)ナンバー三(太刀峰)を引き連れて、テーブルのもといた席へと戻った。

 

恭也は彩葉ちゃんと一言二言程度話をして忍の後を追う。

 

 鷹島さんは、すでに天板に広げられたノートに向き合う彩葉ちゃんを見遣り、笑みを浮かべてから俺の耳元と口を近づけた。

 

「彩葉のこと、お願いしますね。人見知りなのに寂しがりやの甘えんぼなので」

 

「うん、任せてくれていいよ。うまいことできるかどうかはわからないけど、なんとか頑張ってみるから」

 

 はい、お願いしますっ、と隻句呟き、忍の背中を追った。

 

 姉の顔、とでも表現すればいいのだろうか。

 

鷹島さんからはいつものふわふわぽわぽわしたオーラが抑えられていた。

 

妹を心配する立派なお姉ちゃんである。

 

 俺はしばし鷹島さんの後ろ姿を目で追い、テーブルの上の教科書へと視線を落とした。



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日常〜勉強会〜10:30の進展と、11:00の詮索。

「計算は繰り返すことで慣れてくる。慣れてくれば計算にかかる時間もどんどん短くなってくるよ。でもテストで大事なのは問題に正解するってことだから、問題を最後までやれるくらいに時間が余ってるなら、あんまり急ぎすぎないほうがいいかもしれない」

 

「私は計算に自信がなくて、何度もやり直してしまって……よく時間がなくなっちゃうんです」

 

「そういうことなら何度も練習問題をこなして自信をつけるのがいいかもね」

 

「もしかしたら算数の点数良くなったらアリサちゃんに勝てるんじゃないかな」

 

 指導方針を考えていた俺と彩葉ちゃんに、日本地図とにらめっこしていたなのはが参加する。

 

 なのはは彩葉ちゃんの隣に座り、テーブルのはしっこに手をついてノートを覗き込んだ。

 

「あ、高町さん。そんなことないです、バニングスさんは全教科まんべんなくできますから」

 

 彩葉ちゃんは唐突に会話に入ってきたなのはに驚きながらも褒め言葉には謙遜しつつ、丁寧に返した。

 

 同級生が相手でも敬語なのか、肩肘張った生き方である。

 

息苦しかったりしないのだろうか。

 

俺なんて年上相手でもよっぽどな立場と関係じゃない限り丁寧な口調で接しないというのに。

 

「でも鷹島さんは他の教科は全部平均的によかったよね? 算数の穴を埋めることができたらいい勝負できると思うなぁ」

 

 なのはが呼び水となって、すずかも輪に入ってきた。

 

 すずかは俺の隣に座って彩葉ちゃんへと目を向ける。

 

 俺のひざに自然な動作で手をつき、すずかは身体ごと彩葉ちゃんへ近づくような挙動を取った。

 

必然、すずかの上半身は俺の身体にかなり密着してしまっている。

 

 心なしどころか、あからさまに距離が近いように感じるが、すずかの意識は彩葉ちゃんに向いているらしく、俺には一瞥もくれない。

 

ということは全て俺の勘違いなのだろう。

 

紫色の頭を俺の胸に当てているのも、身体をすり寄せてくるような仕草も、きっと俺の気のせいなのだ。

 

 彩葉ちゃんは俺を挟んでいるすずかへと首を回して目をやるが、音はテーブルの向こう側から聞こえてきた。

 

「へ? 呼びました?」

 

 鷹島さん(姉)が、すずかの問いかけに反応してしまった。

 

同じ『鷹島さん』なので耳に入ってしまったのだろう。

 

「ごめんね、鷹島さん。こっちの話なんだ」

 

「あ、ごめんなさいっ、そうだったんですか……」

 

 思い違いをしたのが恥ずかしかったのか、鷹島さんは頬を染めて俺に返して、また小さな手にシャーペンを握って『うぅ……』と小さく唸りながら教科書へと目を落とした。

 

「バニングスさんはいつもほとんど満点ですし、高町さんは理系がとても強いです。月村さんもよく高得点者の欄に名前が……」

 

「ん? 私のこと呼んだ?」

 

「呼んでねぇよ、お呼びじゃねぇよ。すずかのことを呼ゔぁっ」

 

 『月村さん』との呼称に次は忍が反応したので、お前のことではない、と俺が言うと、額にそこそこ質量がある白色の塊が飛来した。

 

忍から投擲されたなにかによる痛撃に、俺のセリフは中断する。

 

 強制終了させられた俺に代わって、忍が口を開く。

 

「綾ちゃんの時と私の時とで対応に差がありすぎるのよ、あんたは。これは暴力じゃないわ、正当な抗議行動よ」

 

 抗議にしては、些か過激が過ぎるというものである。

 

 俺のおでこに着弾した『なにか』は真上に跳弾していたようで、数秒の空中遊泳を楽しんだのちに、俺の手元に落ちてきた。

 

つまみ上げたそれは、およそ五センチ掛ける五センチという一般的な消しゴム。

 

 図らずも、小さく軽いものでも速度を上げれば威力が上がるという証明をしてしまった。

 

「お前は消しゴムをも凶器にできるのかよ。銃弾かと思ったわ」

 

「懲りないわねあんたは! まず謝罪でしょうが!」

 

「忍さん! それ僕のなんだけど!」

 

 忍は第二射目を撃ち放つために振りかぶる。

 

今回装填された弾丸は、忍の隣に座って科学を教えてもらっていた長谷部のものらしく、押し留めるような長谷部の声が聞こえた。

 

 座りながらにも拘らず、忍は寸分の誤差もなく一投目と同じ軌道で俺の額目掛けて放る。

 

これだけ肩が良くて狙いも正確であれば、野球でもやる時は忍はキャッチャー確定だな。

 

 矢の如き速度で迫るゴム弾を、シャドーボクシングでもするように左手で掴み取る。

 

いくら早いとはいえど、振りかぶるところから視界に入っていれば防げないというほどのものではない。

 

 キャッチしたはいいが、座っているため勢いは流せなかったし、左には彩葉ちゃんが、右にはすずかがいたので腕を振って速度を殺すこともできなかった。

 

よって生み出された威力の全てを手のひらで受け止めざるを得なかったわけで、手の真ん中からはじんじんとした熱が発生している。

 

 数メートルの距離から猛スピードで放たれたそれを見事捉えて見せたことで、テーブルを囲んでいたみなからは、おぉ……、と感嘆のため息がもれた。

 

別にこれは見世物とか余興の一芸などではないのだけれど。

 

「はいはい、すまんかった。もうやらないでくれ、勉強が滞るから」

 

 二つの消しゴムを忍へと投げ返す。

 

「むぅ、さすがに正面からじゃ取られるわね」

 

「徹相手に一撃を当てることができただけでもすごいだろう」

 

 頬を膨らませてぶうたれる忍を、すでにノートへと目を移している恭也がすかさずフォローした。

 

取り持ってくれるのはありがたいが、仲介するのならもう少し早めに行動を起こしてほしいものである。

 

 俺は被弾した額をさすりながら、彩葉ちゃんたちとの会話を再開する。

 

「邪魔者が入ったせいで話がぶつ切りになっちゃったな。ごめんな」

 

「い、いえ、それはいいんですけど……。月村さんのお姉さんとはいつもあんな感じで?」

 

「そうだな、今日はみんながいるからまだ優しめだ」

 

「お姉ちゃんは、徹さんには容赦ないから……。それだけ気が置けない相手ってことだから許してあげて?」

 

「許すもなにも怒ってないぞ。なにより今更優しくされたらそのほうが怖い。ああいう性格だからこそ話しやすいってのもあるからな」

 

「徹お兄ちゃんと忍さん、恭也お兄ちゃんは親友だもんね」

 

「なのは、改めてそう言うとすごく恥ずかしいからやめようか」

 

「ちょっと待ちなさい! わたしもでしょっ! 忘れてないでしょうね、徹!」

 

 気の強そうな声が耳元で響くと同時に、首と背中に衝撃と温かさを感じた。

 

 視界の端にちらりと見えたのは金に輝く御髪(おぐし)、アリサちゃんである。

 

というよりも、高校生組はテーブルの向こう側に全員揃っていて、俺の右にすずか、俺の左には彩葉ちゃんがいて、彩葉ちゃんの隣になのはがいるのだから、この状況でアリサちゃん以外にいるわけがなかった。

 

 アリサちゃんは困っている科目なんてないから、という天才っ子しか口に出せない理由を呈示し、一足早く休憩していた。

 

なんと、勉強の時間と休憩の時間が一対一の割り合いである。

 

 日頃から予習復習を欠かしていないのか、それとも地頭がいいのか。

 

なんにしたところで、優秀な少女ということに相違ない。

 

「わたしも親友でしょっ、勘定に含めなさいよねっ」

 

「忘れてないよ、アリサちゃん。俺の三人目の親友だからね」

 

 首に回されたアリサちゃんの細い腕をぽんぽんとタップする。

 

 忍じゃあるまいしこのまま首絞めチョークに移行するとは思わないが、日頃の習慣で背後から腕をかけられると恐怖感がこんこんと湧き出てくる。

 

それに上半身を前後左右に揺らされていると、俺の頭頂部に陣取っているニアスが落っこちてしまいそうだ。

 

 アリサちゃんは俺の依願を悟ってくれたようで、首に絡めていた腕を解いてくれた。

 

ただ解いたことには解いたが、体勢は相変わらず後ろからのぺっ、と体重を預けてくる。

 

 正面に近い角度にいる忍たちからは俺の身体で隠れてアリサちゃんが密着しているのは見えないだろうが、内心冷や汗ものだ。

 

一日に二度も気絶させられるとか冗談ではない。

 

「えっと……? どういうことなの?」

 

 疑問符を頭上に浮かべる三人に、アリサちゃんと知り合った時の概要を説明した。

 

もちろん誘拐云々の部分は伏せて、である。

 

純粋で順良な少女たちをわざわざ心配させることもないだろうとの配慮から、厄介ごと程度の表現に抑えておいた。

 

「それではバニングスさんも逢坂さんに危ないところを助けてもらったんですね」

 

 全て聞き終わった彩葉ちゃんが、俺の背中にはりついたアリサちゃんに話しかけた。

 

「『も』ってことはあんたもそうなの?」

 

「『あんた』じゃないです。鷹島彩葉といいます」

 

「いや、名前は憶えてるわよ。ただどう呼べばいいかわからなかったってだけ」

 

 アリサちゃんがいつもの語勢を失速させつつ答えた。

 

 ぴきゅーんっ、と俺の頭の中で電撃が走る。

 

 これはいい流れなのかもしれない。

 

ここで彩葉ちゃんへの呼び方を固定してしまえば、彩葉ちゃんとなのはたちとの距離も近くなるのではないだろうか。

 

 呼び名というのは人間関係において重要な役割がある。人と人との距離を計るものさしと言い換えてもいい。

 

 敬称をつけているのとつけていないのとであれば親しさの印象が違うし、名字で呼ぶよりファーストネームで呼ぶほうが近しく感じる。

 

 いきなり名前で呼ばれたら不快に感じる人ももちろんいるが、彩葉ちゃんはそういうタイプではないと考える。

 

 姉である鷹島さん以外の他人に対して、彩葉ちゃんはどことなく壁を作っているが、それはどう接したらいいかわからないからだ。

 

その証拠に、一度だけとはいえ、長い時間喋って距離感を掴んだ俺とは自然に会話ができている。

 

 彩葉ちゃんが築き上げている精神的防壁は他者に近寄ってほしくないからではなく、どんな人なのかを見定め、安心して接するためにあるのだ。

 

彩葉ちゃん自身大人びた性格でもあるし、呼び方程度で拒否したりはしないだろう。

 

 今はまだ呼び名と関係が相反していても、話しかけやすくなれば仲良くなることに繋がるはずだ。

 

 さればこの機会、逃す手はない。

 

「この場所では兄妹姉妹が多いからな、ややこしいというのもある。この際名前で呼べばいいんじゃないか?」

 

「徹お兄ちゃん、それとってもいいの! 『鷹島さん』って呼ぶのはなんだか他人行儀? だし!」

 

 なのはが言った『鷹島さん』という言葉に、テーブルの反対側でノートになにやら書き込んでいた鷹島さんの肩がぴくりと動いたが、同じ(てつ)は踏まないように心がけていたのか今回は顔を上げなかった。

 

「ですが高町さん、私はあんまり親しくしてなかったですし……」

 

「ん? 呼んだか?」

 

「だから呼んでねぇよ! お前は『高町さん』なんて呼ばれ方されたことねぇだろうが!」

 

「いや、忍も鷹島さんもやっていたからな。俺も乗っかるべきなのかと思った」

 

「ノリでやんなよ! 話が逸れるんだから!」

 

 鷹島さん、忍に続いて、恭也が『高町さん』と呼ばれて反応した。

 

 しかしこれは言うまでもなく恭也のジョークである。

 

真顔でボケるせいでたいへんわかり辛いが。

 

 だが、これは好都合でもある。

 

高校生組と小学生組で兄妹姉妹の同姓が多く、名字で呼べばややこしいということが実証されたのだからな。

 

「今はまだお互いをよく知らなくても、これから仲良くなればいいんだよ! よろしくね、彩葉ちゃん!」

 

「えっ、あ、あの……」

 

 俺が口を挟もうとしたら、彩葉ちゃんの隣に座っていたなのはが手を取り、屈託のない笑顔でそう言った。

 

 出鼻を挫かれてタイミングを失した俺を置いてけぼりするように、すずかもなのはの言葉に続く。

 

「前から話してみたいと思ってたんだけど、なかなか機会がなかったんだよね。よろしくね、彩葉ちゃん」

 

「ま、共通する知り合いもいることだし? な、仲良くしてあげるわ……彩葉」

 

 アリサちゃんは俺の背中から離れて腕を組み、ツンツンした物言いをしながらも、その声音は恥ずかしさを隠しているのが見え透いていた。

 

 戸惑いつつも照れくさそうに、彩葉ちゃんは微笑を湛える。

 

「ありがとうございます。なのはさん、すずかさん……バニングスさん」

 

「ちょっと! なんでわたしだけのけ者にしてるのよ!」

 

「ふふ、冗談です。よろしくお願いします、アリサさん」

 

「そ、それでいいのよ。でもその敬語はどうにかならないの? 同級生相手に敬語なんて必要ないわよ」

 

「アリサちゃん。彩葉ちゃんの個性なんだから、無理に変えさせるようなことしちゃダメだよ」

 

 敬語も直させようとしたアリサちゃんをすずかが(たしな)めた。

 

アリサちゃんはなにか言いたげな素振りを見せながらも、しぶしぶ納得する。

 

 なのはは彩葉ちゃんの手を握って楽しげに話しかけていた。

 

そのまくしたてるような勢いに押されながらも、彩葉ちゃんもなのはへ笑顔で返す。

 

 どうやら俺の出る幕はなかったようだ。

 

 この少女たちを侮っていたとも言えるだろう。

 

俺が変に気を回さなくとも、仲良くなりたい、友達になりたいと思った相手には迂遠な方法を取らずに、まっすぐに手を伸ばして近づき、距離を詰めるのがこの子たちだ。

 

 今まではそのきっかけがなかっただけであって、取っ掛かりさえ掴めればあとはもう時間の問題である。

 

その取っ掛かりすら、なのはがいるのならいずれクリアできていたと断定できる。

 

 なのはが切り開き、アリサちゃんが引っ張り、すずかがフォローする。

 

そして三人総じて人を思いやることができる子たちなのだ。

 

俺のお節介など必要ない、彼女たちだけでも充分うまくやれたことだろう。

 

 純真な四人の笑顔が俺にはとても眩しかった。

 

 俺もなのはたちを見習ったら交友関係を円滑に運ぶことができるのだろうか。

 

いや、やめておこう。

 

俺の場合、真似しようとしても失敗する光景しか浮かばない。

 

 そもそも真似しようとしていること自体からして間違っている。

 

なのはたちが本心から動いているからこそ、彩葉ちゃんの心を動かすことができたのだ。

 

俺が見様見真似で取り繕ったところで成功する見込みは薄い。

 

 すなわち、俺はこれからも今まで通りやるほかないということである。

 

…………別にいいし、親友二人、アリサちゃんも含めれば三人もいるし、最近友達もできたから別にいいし。

 

「今やってるところが一段落ついたら休憩にしようか。その時にたくさんお喋りすればいい」

 

 収拾がつかなくなる前に、俺は先んじて提案した。

 

 楽しそうに笑顔を振りまきながら話しているところに水を差すのは俺としても心苦しいが、勉強を中途半端にしたまま放置というわけにもいかない。

 

 俺は心を鬼にし、四人に割って入って話の流れを堰き止めるが、四人とも気を悪くした様子もなく『はーい』と素直な返事をしてくれた。

 

 本当にあらゆる面においていい子たちだ。

 

願わくば、このまま健やかに成長してほしいものである。

 

 誰かさんのように暴力でカタをつけたり、罵詈雑言を浴びせかけたり、流言飛語を言い触らせたりしない女性になってほしいと祈りつつ、俺は彩葉ちゃんの算数の教科書へと意識を傾けた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 ソファに身体を預けて、ひとくちサイズのイチゴが乗ったカスタードタルトを口へと放り込む。

 

イチゴの甘酸っぱさとカスタードのしっとりとした舌触りに、タルトの食感がアクセントとなって至高の逸品となっている。

 

このレベルの菓子をあっさりと作ってのけてなお、他にも数品用意できるのだから、ノエルさんの腕前はさすがとしか言いようがない。

 

「徹も休憩中か。隣座るぞ」

 

 ノエルさんお手製の英国伝統菓子に舌鼓(したつづみ)を打っていると、恭也が休憩の為に設けられたスペースへとやってきた。

 

 テーブルの上に置かれている皿に盛りつけられたお菓子のうちの一つを手に取り、俺の横に座る。

 

ソファは三人掛けなので男二人が並んでも余裕があった。

 

「恭也、そっちの進捗状況はどうだ?」

 

「忍の教え方が上手いからな、思ったよりもペースよく進んでいる。それに長谷部さんも太刀峰さんも思いの外要領が良い」

 

「やる気になりゃできるのかよ。学校でもその調子を見せてくれりゃいいのにな」

 

「鷹島さんに至っては、なぜ学校の授業で遅れているのか分からない程に出来るようになっている。おそらく教師の説明では理解出来ていなかっただけだったのだろう」

 

「忍の頭の良さはテストで点数が取れるってだけじゃないもんな。人にわかりやすく噛み砕いて教えることができる、っていう本当の意味での賢さだ。予想通り、先生役には適任だったぜ」

 

「ただ、やはり忍一人で三人に教えて回るのはなにかと大変みたいだ。後から徹も手伝ってやってくれ」

 

 コップに注がれたお茶を飲みながら了解の意を恭也に示す。

 

 飲み物はお茶の他に、コーヒー、オレンジジュース、紅茶とあったが、紅茶は口に合わないし、小学生組の手前コーヒーに砂糖とミルクをばちゃばちゃと大量に入れるのはよくわからない気恥ずかしさがあった。

 

それならばお茶じゃなくオレンジジュースでも良かったのだが、年上としての体裁というか、小さな見栄みたいなものでお茶に落ち着いた。

 

「そういや昨日はどうしたんだ? 恭也が当日の集合時間ギリギリになってドタキャンなんて珍しい」

 

「急にどうしても外せない用事を頼まれてな。徹と忍には申し訳なく思いながらも断り切れなかった。すまなかったな」

 

「急用なら別にいいんだ。結局忍の家で昼食の材料は準備してくれてたし、デザートの食材を揃えるだけだったからな」

 

 それとなく、昨日なぜ来れなかったのかを尋ねてみた。

 

 そもそも買い出しに行こうかと提案したのは恭也だったのだ。

 

自分から言い出した約束事を反故にするのはこいつにしては極めて珍しいことである。

 

どんな用事があったら、この実直な恭也が後から入った頼まれ事を引き受けるのか気になった。

 

 だが、どうやら依頼人とその内容については伏せたいようである。

 

律儀な恭也のことだから、俺に教えても構わないような案件であれば、なぜ来れなかったのかと問いかけた時に理由も付随させて喋っていただろう。

 

そうしなかったということは言いたくないのか、もしくは教えてはいけない用件ということだ。

 

 ならば無理に聞き出す必要もあるまい。

 

 親しき友にも礼儀あり、だ。

 

なにも互いの間で一切隠し事をしないのが親友なのではない。

 

根拠もなく信じることができてこそ親友といえよう。

 

 されば掘り下げて食い下がるような真似はしない。

 

これもまた、友情の一つの形だ。

 

「彩葉ちゃんはなのはたちにずいぶん馴染んだようだな。徹が手を回したのか?」

 

 恭也は話題を切り替え、俺たちの向かいのソファでじゃれ合っている少女たちへと目をやった。

 

 ソファの左から順にアリサちゃん、なのは、彩葉ちゃん、すずかと並んでいる。

 

三人掛けのソファだが、身体の小さい少女たちであれば四人で乗っても狭くはないようだ。

 

「いや、あの子たちが自分から歩み寄った結果だ。俺はほとんどなにもやってない。ただほんのちょっとだけきっかけを作っただけだ。それに今となっちゃ経緯とかどうでもいい。仲良くなってるんだからな」

 

「そうだな、なんでもいいか。これほど見ていて微笑ましいものもない。見ているだけで疲れが取れる気までしてくる。ロリコンの気持ちもわからないでもない」

 

「この光景を見てたらみんな和むよな、癒されるよな。それはそれとしてロリコンでなぜこっちを向いたんだ、おい。恭也こら」

 

 俺の疑問には答えようともせず、恭也は手に取っていたパイを半分かじった。

 

「んっ、これ美味いな。カスタードが甘さ控え目でくどくなくて食べやすい。徹、これはなんという菓子なんだ?」

 

 恭也は目を丸くして俺にパイを見せてきた。

 

 人の質問には答えないのに俺には答えさせるというのか。

 

こんな扱いに慣れてきている自分に悲しくなる。

 

「見た目だけでは絞りきれないな。ミルフィーユかカスタードスライスのどちらかとは思う。一口くれ」

 

 恭也はぽすっ、と俺の開いた口にパイ生地でできているケーキの残り半分を詰め込んだ。

 

 舌の上に乗せてから指で押してくれやがったので、そこそこサイズのあるお菓子を丸呑みにしかけた。

 

味わえなかったら元も子もないというに。

 

「んぐっ。奥まで入れすぎだ、窒息するだろが」

 

「おお、すまないな。クリームを溢しては勿体無いと思ったんだ」

 

 それほど悪びれた素振りもなく、恭也は目で早く教えろと訴えかけてくる。

 

 人使いの荒い親友である、俺を辞書かなにかだと勘違いしているのではなかろうか。

 

 一度は喉を通過しかけたお菓子を舌の上で転がして味わう。

 

 噛んでみて最初に感じたのはパイ生地の食感、次に恭也の言った通り甘さが抑えられたカスタードクリームだが、これがまたパイ生地の間にたっぷりと挟み込まれている。

 

この時点では判別しかねたが、咀嚼の途中、大きなヒントが舌に触れた。

 

おそらくは天面にコーティングされていただろう糖衣(アイシング)。この糖衣の甘みがあるからこそ、甘さが控えめのカスタードクリームとバランスが取れている。

 

「これはカスタードスライスだ。甘さを抑えたカスタードクリームと表面の糖衣ではっきりとわかった」

 

「ほう、そんな名前の菓子なのか。美味い上に見た目もよく、手頃な大きさで女性も食べやすい……これは使えるな」

 

「翠屋のメニューに加える気かよ。あれ以上増やすと桃子さんの負担になりかねないだろ」

 

「大丈夫だ。その時は徹に手伝いに来てもらう」

 

「端からあてにされていたとは思わなかった。さすがの俺も絶句するわ」

 

 急遽開催されたスイーツ名前当てクイズを終了させ、お茶を飲もうとテーブルへ手を運んだが、同時に向かい側のソファにいるなのはたちの姿が視界に入った。

 

 四人ともあれだけ賑やかにしていたのに、いつの間にかとても静かになっている。

 

ソファの上で身を寄せ合って、俺と恭也の方向を見ていた。

 

 小学生組総勢四名、揃いも揃ってかすかに顔を赤くしている。

 

「……逢坂さんは、なのはさんのお兄さんと『とても』仲がいいんですね」

 

「そりゃまぁ、小学校からの付き合いだからね。こんなんでも親友だし」

 

「最近はあまりないが、前までよく徹の家に泊まりにも行っていたな」

 

「そ、そうなんですか」

 

 彩葉ちゃんの問いかけに俺と恭也が答えたが、彩葉ちゃんはとても複雑そうな表情を浮かべた。

 

 なのはやアリサちゃん、すずかはソファの中心部に座る彩葉ちゃんにくっついてぽそぽそと何言か耳打ちする。

 

囁くような三人の言葉に彩葉ちゃんは『うん、うん』と頷いた。

 

 まともに喋り始めたのはついさっきだというのにもう彩葉ちゃんはなのはたちから頼られているようである。

 

さすが小学生、順応するのがとても早い。

 

「そのお泊まりは、逢坂さんとなのはさんのお兄さんの二人だけで……ですか?」

 

「いや、徹の家に泊まりに行く時は忍も絶対一緒だぞ」

 

「呼ばなかったらいじけるしな、あいつ」

 

 二つ目の質問に答えると、小学生組全員が同時にほっ、とよくわからないため息をついた。

 

 なのはたちのリアクションに見当がつかず、恭也になんのことだかわかるか? と視線を送るが、恭也からは俺もさっぱりだ、というアイコンタクトが返ってくる。

 

恭也も俺も似たり寄ったりであった。

 

 不本意な想像をされていた予感が俺の脳裏を(よぎ)るが、なにはともあれとりあえず、彩葉ちゃんがなのはたちと仲良くなれたようなのでよかった、ということにしておこう。



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日常〜勉強会〜11:20の淡い色恋と、11:30の粗探し。

今回はガールズトークです。


 昼食の支度をするため、徹と恭也は勉強に充てられた部屋から退室した。

 

 必ずしも恭也まで徹に同行する必要はなかったのだが、料理の方で手伝えることはなくとも盛りつけや運搬などで協力できることもあるだろうし、なにより徹がいなくなったことによって部屋の中で男が自分一人のみとなることを恭也は避けた。

 

 さすがに厨房に動物を入れるわけにもいかず、徹の頭上を占有していたニアスは徹と恭也が身体を預けていたソファにお留守番である。

 

ソファに残っている温もりを余さず享受するように、ニアスは徹が座っていた位置で丸まって寝ていた。

 

 部屋の中に残っているのは高校生組四名、小学生組四名、計八名の女の子のみである。

 

 三人掛けのソファに身を寄せて四人で座る小学生組、その一番左端にいたアリサが開口する。

 

「結局彩葉の時はどういうふうに徹に助けてもらったの? 話が逸れてから、まだ訊いてなかったんだけど」

 

「そういえばそうでしたね。あれは……ちょうど十日前でしょうか。恥ずかしいんですが、あの時のことは記憶が定かではないんです。ニアスが自然公園で迷子になって、そこで私気を失っちゃって……」

 

 名前を呼ばれたことでニアスの耳がぴくりと動いたが、ニアスは柔らかな毛に覆われた身体を起こすこともせず、そのまま微睡みへと意識を落とした。

 

 『気を失った』という物騒なワードが彩葉の口から飛び出したことでアリサは目を丸くし、すずかは息を飲む。

 

「な、なにがあったのよ! 大丈夫だったの?」

 

「誰かに襲われた……とか?」

 

「けがはなかったので大丈夫です。襲われたわけでもないです。心配してくれてありがとうございます」

 

 怪我はないという本人の言に、アリサとすずかは胸を撫で下ろした。

 

そもそも、そこでなにか重い傷を負っていたのならこの場にはいないということには、二人とも気づきはしないようだ。

 

「なんで気を失ったの?」

 

「それが……あの……」

 

 アリサの質問に、彩葉は言葉を濁す。

 

両側からわずらいの念が込められた視線に挟まれ、言いづらそうにしながらも彩葉は続けた。

 

「すごく凶悪な外見の大きな虎を見たような記憶があるんです。逢坂さんは夢だろうと言ってたんですけど……」

 

 予想の遥か上を飛びすさった返答に、アリサもすずかもしばしの間固まった。

 

「虎?」

 

「はい」

 

「自然公園で見たの?」

 

「……はい」

 

「大きな虎?」

 

「…………はい」

 

「自然公園で大きな虎を見たの?」

 

「………………はい」

 

 アリサとすずかに息もつかせぬ速さでテンポよく相次いで追及され、彩葉の短い返事は徐々に力を失っていく。

 

彩葉自身記憶は朧気であるし、現実的に考えて街のほど近くにある自然公園で虎などいようわけがないし、自分が突飛なことを言っている自覚もあったので本当に目にしたのか自信がなくなってきたのだ。

 

「夢よ、それ」

 

「うん。わたしも夢だと思うよ?」

 

「で、ですよね、夢ですよね。自分でも虎はおかしいなと思ってました……」

 

 アリサとすすがに断言されて彩葉は自分の考えを速やかに翻した。

 

 常識と照らし合わせたら妄想と取られても仕方がないような発言をしてしまい、恥ずかしそうに若干頬を染めながら彩葉は話を進める。

 

「それで目が覚めたら、自然公園の遊具などがある一角のベンチで寝ていました。上着をかけていただいていたのでベンチで戻ってくるのを待っていたんですが、高校生くらいの男の人三人に声をかけられて、怖くて不安だった時に逢坂さんに助けてもらったんです。ニアスも連れてきていただいて、その上家まで送ってもらったんですよ」

 

「小学生に声をかける高校生三人?」

 

「なんだかわたしたちも前にあったような……」

 

「たしかなのはさんも一緒に探してくれてたんですよね。ありがとうございます」

 

「あ、えっと……うん。で、でも偶然見つけただけ、なの?」

 

「私に聞かれても」

 

 先程より一度として声を発していなかったなのはが、急に水を向けられたことであたふたしながらも彩葉へと返す。

 

 虎よりも凶暴な生き物が自然公園にいたのも、実際に戦ったのだからなのははもちろん知っている。

 

だがそれはジュエルシードと密接に関係しており、つまりは魔法にも係わってくる事柄だったので言い出せずにいた。

 

事実を隠さなければいけないという後ろめたさから、しどろもどろになるのも無理はなかったというものである。

 

「もしかしてわたしたちにも声をかけてきた三人じゃないの?」

 

「ねぇ彩葉ちゃん、その三人組って変な喋り方じゃなかった?」

 

 彩葉は挙動不審極まるなのはから視線を外し、左に座るすずかへと身体を向けた。

 

「そういえば特徴的な喋り方でした」

 

「確定ね、あいつらだわ。気をつけなさいよ、あいつらは小学生を見るや近づいてくるという危険人物の集団よ」

 

「でも絶対に無理矢理なにかしようとはしなかったよね。声はかけるけど手は出さないみたいだよ?」

 

「ヘタレなのよ。ていうか声をかけてくるだけでもたいがい危ないわ」

 

「周りは暗くなってきてたのですごく怖かったです」

 

「夜に小学生に話しかけるとかもうそれだけで犯罪よ」

 

「み、みんな案外危ない目にあってるだね。わたしはそういう経験はないの」

 

 意外というべきか、不本意というべきか、思いもよらぬ部分でいやな共通点が発見された。

 

 月村家の万能メイド長、ノエル作のお菓子を摘みながら、アリサが何とはなしに彩葉へ問いかける。

 

「それが徹に惚れた理由?」

 

 たくさん喋って乾いた喉を潤すためにオレンジジュースが入ったコップを傾けていたところへ、そんな特大級の爆弾が投下されたので、彩葉は思わず噴き出した。

 

彩葉だけでなく、なのはとすずかも同時に。

 

「な、なにしてんのよあんたたち。どうしたの?」

 

「けほ、こほ。あ、アリサさんがいきなりとんでもないことを言うからですよ! まずなんでそんなこと訊くんですか?!」

 

 咳き込みつつ、血相を変えて彩葉がアリサへと言い返す。その顔を赤く染めているのはむせて苦しかったからだけではない。

 

 なのはとすずかは気管に液体が入り込んだせいで、まだまともに喋れる状態ではなかった。

 

「だって彩葉、徹と話してる時は今となんかちがうもの。頼りにしてる感じっていうか、近いっていうか」

 

「そ、そんな曖昧な感性で……」

 

「その反応は図星? そうだとしたら苦労するわよ。徹を狙ってる女は多いから」

 

「そ、そういうアリサさんはどうなんですか? 自分は関係ないみたいな言い方をしていますが、す……好きじゃないんですか?」

 

 頬の紅潮も治らぬまま、今度は彩葉がアリサへと口ごもりながら切り返す。

 

 ちなみになのはとすずかは自分に矛先が向けられませんように、と目を伏せて縮こまっていた。

 

「徹のことは好きよ? 助けてもらったし、頼りになるし、ちょっと強面だけどカッコいいし。でも恋愛感情とはちょっと違うわね、少なくとも今は」

 

 はっきりと正々堂々真正面から『好き』と言ってのけ、なんなら余裕の笑みまで(たた)えたアリサに、彩葉は少なからずたじろいだ。

 

 ともすればそのまっすぐさに憧れの念でも抱きそうな勢いであったが、人見知りで引っ込み思案なのにこれで負けず嫌いなふしがある彩葉は、気を持ち直して応戦する。

 

「わ、私も逢坂さんのこと好きですよ。恋愛感情としてかはわかりませんけど」

 

「ふーん、彩葉がそういうのならそういうことにしておきましょうか」

 

 アリサはあっけらかんと、ややもすればおざなりと表現してもいいほど雑に流した。

 

 無論、ぞんざいな態度を取られた彩葉は食ってかかる。

 

「ちょっ、なんですかその扱い方。本当ですよ、嘘じゃないですからね」

 

「さ、充分休憩したしそろそろ勉強に戻るわよ。なのはにはわたしが教えてあげるわ」

 

「そ、そうだね。うん、そうしよう。よろしくねアリサちゃん」

 

「きゅ、休憩長すぎたくらいだよね」

 

「私の話は終わってませんよアリサさん!」

 

 やおらソファから立ち上がり、最後にテーブルの上に置いてあるお菓子を一つ口へ放り込み、アリサはソファを後にする。

 

彩葉も黄金色の髪を追いかけるように立ち上がった。

 

「こっちに火の粉が降りかからなくてよかったの」

 

「ほんとだね。彩葉ちゃんのおかげだよ」

 

 アリサを追いかける彩葉を見やりながら、なのはとすずかは苦笑いを浮かべて安堵のため息をついた。

 

 

 勉強を始めてから一時間以上が経過していたが、高校生組女子は一度も小休止を挟んではいなかった。

 

 教える側に回っている忍もこれには驚いていた。

 

てっきり手をつけ始めて早々に、なんなら十分二十分ほどで根を上げると予想していたからだ。

 

その推算はあまりにも早すぎるが、日頃の彼女らの授業風景を見ている忍からすればこのくらいが妥当だと見積もっていた。

 

 思いの外先生役は気疲れするので少し休みを入れたかったところだが、忍はそうしなかった。

 

プライドが邪魔をして言い出せなかったという理由もあるにはあったが、一番の要因はペースよく進んでいたからである。

 

 綾音はスポンジが水を吸うように忍の教えることを吸収するし、真希も薫も学校では体育の授業でしか見せることのない集中力を保持して取り組んでいた。

 

忍は、休憩を取ることでこの真面目な空気を弛緩させたくなかったのだ。

 

 だが、それもそろそろ限界のようであった。

 

 綾音は数学の問題で簡単なミスをすることが増えてきているし、薫も日本史の教科書のページをめくるスピードが落ちてきている。

 

真希に至っては頭を右に左に揺らしていた。

 

科学ではなく睡魔と戦っている様子だ。

 

 このままでは効率が悪いと忍は判断した。

 

「そろそろ一休みにしましょうか」

 

「そう、ですね。目がしぱしぱしてきました」

 

「……うん、僕そろそろ限界だよ……」

 

「歴史が、頭に入ってこない……。なにか、甘いもの……ほしい」

 

 忍の提案に、綾音は目頭を押さえて天を仰ぎながら同意する。

 

真希はテーブルに突っ伏し、薫は仰向けにカーペットへと倒れこんだ。

 

三人の声には疲労の色が見て取れた。

 

「ほら、真希ちゃんも薫ちゃんも起きて。うちのメイドがお菓子作ってくれてたはずよ」

 

「お菓子!」

 

「甘いもの……!」

 

 真希と薫のフューエルメーターは、E(Empty)から一気にF(Full)まで振り切れた。

 

数秒前まで眠気に攻め込まれてとろんとしていた真希の瞳は普段以上にぱっちりと見開かれ、薫にしては珍しく訥々(とつとつ)たる口調に力強さが含まれる。

 

 真希はテーブルに手を突いて身体がかすむほどの速さで立ち上がり、薫は仰向けの状態から腹筋だけで上半身を起き上がらせ、真希の隣に並び立った。

 

 二人は未だ座ったままの忍と綾音を急かす。

 

「さあ、すぐに休憩スペースへと向かおうじゃないか!」

 

「呆れを通り越して尊敬したくなるほどの身の翻しようね」

 

「メリハリは、大事……」

 

「真希も薫も甘いもの好きだもんね」

 

「綾音ちゃんもでしょ? 前に徹が学校に持ってきたケーキおいしそうに食べてたじゃない、鼻にクリームまでつけて」

 

「わぁっ! 忍さんっ、そんなこと思い出さなくていいですよぅ!」

 忍は真希が伸ばしてきた手を掴んで、綾音は薫が差し出す手を握って立ち上がった。

 

 興奮を抑えきれない、というふうな食いしんぼう系女子二人に先導されるように、忍と綾音も休憩スペースへと足を運ぶ。

 

 高校生組と入れ違いになるように、小学生組が勉強用のテーブルへと戻った。

 

 なにやらアリサへ言い(つの)る彩葉を眺めて、綾音が優しい笑みを浮かべる。

 

「彩葉が外であんな顔するなんて思わなかったなぁ。やっぱり連れてきてよかった……」

 

「彩葉ちゃん、あんまり来たくない感じだったの?」

 

 綾音の独り言のような声量で発された言葉が耳に届き、忍は尋ねた。

 

 困ったように眉を寄せつつ、綾音は答える。

 

「行きたくないという程ではなかったんですけど、あんまり乗り気じゃなかったんですよ。人と話すのが苦手な子ですから。相手の気持ちを必要以上に汲み取りすぎるところがあるんです」

 

「たしかに……一度喋った時にすごく繊細な印象を持ったわね」

 

「でも押しに弱いところがあるので、あの金色の髪の女の子みたいにぐいぐい前に出て接してくれたらすぐに慣れるんです。……彩葉にも友達ができたみたいでよかった」

 

 綾音は距離のある位置から、みんなと仲良く勉強しだした彩葉を見て微笑む。

 

 忍はやっと、今日の綾音らしくない行動に得心がいった。

 

 勉強会が始まってすぐの時、彩葉はなのはたちの集団に溶け込めず、かといって姉のいる高校生グループに混ざることもできず、結局徹の隣に身を置いていた。

 

よく気が回る綾音であれば、最愛の妹が寂しくならないように、心細くならないようにとそばへ駆け寄っていてもおかしくはない。

 

 だが、そうしなかった。見て見ぬ振りをして放ったらかしにしていたのだ。

 

 忍はそんな綾音の態度に違和感を感じていたのだが、その理由が今判明した。

 

 綾音は、自分で一歩を踏み出すようにと彩葉へ伝えたかったのである。

 

 妹のために、あえて突き放したのだ。

 

 同じように妹を溺愛する忍には、綾音の取った行動がとても勇気のいる気高い行為だと理解できていた。

 

「綾ちゃんは立派なお姉ちゃんなのね。すごいすごい」

 

「ふぇっ、な、なにがですか? いきなり頭撫でないでください……」

 

 口では文句を言いながらも、綾音は自身の栗色の髪を撫でる忍の手を払おうとはしなかった。

 

「なにしてるのさ、綾、忍さん。もうお菓子食べちゃうよ」

 

「……食べてる、とも言える」

 

 忍が声の方向へと目を向ければ、真希と薫がソファで(くつろ)いでおり、真希の手には洋菓子があった。

 

口にこそ運んではいないものの、すでに手をつけている。

 

 真希の隣に座する薫の口はもこもこと動いているのを見るに、どうやら食欲に抗うことはできなかったようだ。

 

「行きましょうか。待たせるのも悪いしね」

 

「はいっ! って薫、なに先に食べてるの!」

 

 忍は綾音と手を繋ぎながら、二人が待つ休憩スペースへと歩き始めた。

 

 

 

 

 

「忍さんはいいよね、家ではこんなにおいしいお菓子を作ってくれるメイドさんがいて、逢坂とも仲良いんだからケーキとか食べ放題じゃないの?」

 

 真希がミニサイズのショートブレッドを摘み取りながら忍へと言う。

 

 ブレッドとついているがその実、パンではなくビスケットだ。

 

イチゴソースやクリームをつけて食べたり、上下に分けて間にマシュマロなどを挟んで食べたり、とバリエーションの多いスコットランド発祥の伝統的な菓子である。

 

「たしかに……逢坂もお菓子作るの、すごく上手だし……羨ましい」

 

「でも頻繁にこんなおいしいのを作られちゃうと……太っちゃいそうだよね……」

 

 真希の言葉に触発されて、薫も綾音もある種の羨望の眼差しを忍へ向ける。

 

 対して、忍の表情は複雑なものであった。

 

「ノエルはともかくとして、徹はそこまで作ってくれないわよ? あいつものぐさだし」

 

「え、そうなのかい? それは意外だね」

 

「なんでも、作ってくれそうな……イメージ」

 

「でも前はケーキを焼いて学校に持ってきてくれてましたよね? 今日も作ってくれるみたいですし」

 

「最近の徹が珍しいだけよ。そりゃ頼めばスイーツくらい作ってくれるとは思うけど、基本的にめんどくさがりだもの」

 

 真希と綾音はは目を丸くして驚いた。唯一薫だけはいつもと同じ眠たそうな半開きの瞳であったが、それでも普段より二〜三割増しで見開いている。

 

徹と知り合って間もない三人からしてみれば、とても忍の言うような無精者とは思えなかったのだ。

 

「忍さんは逢坂と付き合い長いんだよね? 逢坂の弱点とかも知ってるのかい?」

 

「も、もう真希ったら。そういう探るようなことするのはどうかと思うよ?」

 

「真希……性格悪い」

 

「なにさ二人とも良い子ぶっちゃって。綾音も薫も気にならないの? 勉強もできて、運動神経も抜群で、家事までできる逢坂の弱みや情けないところとかさ」

 

 真希は部屋を見回して、徹がまだ戻ってきていないことを確認してから意地悪げな笑みを浮かべて忍に訊いた。

 

 押し留めるような物言いをする綾音と薫だが、姿勢は前のめりである。

 

忍の一言一句を聞き逃さないように、という意識が身体へと如実に表れていた。

 

 忍は小首を傾げなから下唇に指を添え、視線を斜め上に向ける。

 

忍が考える時によくやるポーズである。

 

「そうは言っても……すぐには出てこないわね」

 

「ぱっと思い出せないほど弱点がないんですか?」

 

「なんだ、やっぱり綾音も乗り気じゃないか」

 

「い、いいでしょっ、気になるの!」

 

「少ないからじゃなくて、多いからどれから言うべきかなぁって思ってね」

 

「さすが、昔馴染み……。わたしたちは……メンタル豆腐くらいしか、知らないのに」

 

「ふふ、あいつ肉体は鋼だけど精神攻撃には弱いものね。学校での噂でも相当気が滅入ってるみたいだし、クラスでの腫れ物を触るような扱われ方も堪えてるし」

 

「え? 教室の外では……まぁアレですけど、教室の中ではそこまで厭われてないと思うんですけど」

 

 紅茶をちょびちょびと飲んでいた綾音が、忍の言葉に疑問を呈した。

 

真希と薫も続く。

 

「クラスの男子からは……いや、高町くんはもちろん除くよ? クラスの男子からは恨まれてるけど、女子からの評価は案外高いんだよね」

 

「ずば抜けて、賢いし……目つきは悪いけど、顔もいいから……。おとなしめの女子から、人気がある」

 

「不良生徒に惹かれるっていうあれだよね。暴力事件こそ起こしたけど一般生徒には手を出さないし、それどころか迷惑な先輩に捕まった女子をなんだかんだで助けたりしてるし」

 

「あ、私も助けてもらってました」

 

「そういえば、僕たちのクラス以外の生徒でも絡まれてるのを見かけたら助けてるみたいだね。バスケ部の友達が言ってたよ」

 

「あんまり、ぐいぐい押すタイプの……女子じゃないから、逢坂は陰口言われてると思ってる、のかも。そういう女子は仲間内で、こそこそ喋るくらいしか……しないから」

 

 三人から学内の徹の印象を聞いて、忍は言葉を失った。

 

男子からの評価は(おおむ)ね予想通りといったものだったが、女子からの心証がそこまで良いとは思っていなかったのだ。

 

「ま、まさか徹にそこまで人気があったなんて……」

 

 実のところ学校において、忍には友達と呼べる人間はあまりいなかった。

 

今でこそ綾音や真希、薫と仲良くしているが、それまでであれば深く親しくする相手はいなかったのだ。

 

 忍は近づきがたい程の美貌と家柄に加え、傍らには姫を守護する騎士のような恭也がおり、駄目押しに狂犬じみた凶暴性の番犬である徹がいるのだから、一般男子は接近することすら躊躇うほどだ。

 

女子生徒からの目線で見れば、美人で家が裕福なのを笠に着て、クラスでも人気の高い男二人を侍らせている女ということで煙たがられて距離を置かれる。

 

 結果的に、最近になって親しくなった綾音たちを数に含めなければ、忍に近寄るのは徹と恭也しかいなかった。

 

 そんな忍が、徹の対外的な評価を今まで耳にしなかったのも無理からぬことである。

 

「ちなみに、高町くんを狙ってる女子も相当数いるよ」

 

「高町くんは穏やかだし、優しいもんね。私日直の時に黒板の文字を消してたんだけど、上のところとか届かないところを高町くんが消してくれたんだよ」

 

「綾ちゃんが困ってたら誰だって手伝うと思うわよ? 女でも助けてあげたいなぁって思うもの。男ならもちろんでしょう」

 

「私ちっちゃい子みたいな扱いされてるんですか?!」

 

「……誰がどう見ても、問答無用に……綾音はちっちゃいよ」

 

「薫に言われたくないよっ! 私と三センチしか変わらないのに!」

 

「ふふ……残念。前測ったら……一センチ伸びてた。百五十センチまで……あと、一センチ」

 

「むうぅぅ……。……私のほうが胸はあるもん。そっちなら身長差以上の差があるもん」

 

「綾音……ッ! 言ってはいけないことを、言った……ッ!」

 

 今までも成長勝負をしていたらしい綾音と薫の勝敗は、誤差の範囲内とも言えるような差で薫に軍配が上がる。

 

 表情には出なくとも、勝ち誇ったような口振りと雰囲気の薫を見て、綾音は負け惜しみに違う部位の成長具合を持ち出した。

 

 コンプレックスを抱いている薫には効果覿面。

 

綾音がぽそりと呟いた一言だけで薫は普段のクールさをかなぐり捨て、かくも容易に怒髪天を()き、激昂して食ってかかった。

 

 身長の話題になってから口を(つぐ)んでいた真希は、仔猫のじゃれあいのような二人の取っ組み合いを黙って眺める。

 

以前、綾音と薫が数ミリ単位の争いをしているのを見て、つい『どんぐりの背比べ』と口を滑らせてしまい、二人から苛烈な口撃を受けてからは口を出さないようにしていた。

 

「なんの話だったかしら」

 

「逢坂の弱点についてだよ。綾音と薫のせいで逸れちゃったじゃないか」

 

「で、でもっ、逢坂くんの弱点って、他にっ、あるのかなっ」

 

 胸を鷲掴みにしようとする薫の手を掴み、必死に抵抗しながら綾音が言う。

 

 男子がいなくなってからは、いつもより大胆になる女子たちであった。

 

「わかりやすい弱点っていうと……そうね、水泳かしら」

 

 『水泳?』と、異口同音に復唱し、三人揃って首を傾げる。

 

「あいつ、カナヅチなのよ」

 

「あ、あんなに運動神経いいのにかい? これはまた、予想の範疇を大幅に超えたね」

 

「筋肉質……だから?」

 

「似たような体型で、似たように鍛えられてる恭也が泳げるんだから、徹はその言い訳使えないの」

 

「し、忍さん……なん、なんで高町くんや逢坂くんの身体のこと知ってるんですか……?」

 

「家族ぐるみで仲が良いから、夏に海に行ったりするのよ。今年はみんなで行けるといいわね」

 

「海! いいね! 僕もう何年も行ってないよ!」

 

「楽しみが、できた……!」

 

「今からダイエットとかしといたほうがいいかも……。最近甘いものいっぱい食べちゃってるし……」

 

「綾ちゃんは今のままでいいわよ。抱き締めるとふわふわで気持ちいいもの」

 

「忍さんはスタイルがいいからそんなこと言えるんですよっ!」

 

「他には? 他にはなにか弱点といえるようなことってあるのかい?」

 

「こんな機会、そうそうないし……訊いておきたい。なにより、訊いてておもしろい」

 

「そうね、他には……」

 

 本人の(あずか)り知らないところで、徹の秘密が忍により開示されていく。

 

 忍による暴露は、徹と恭也が、昼食の準備が出来たことを伝えに来るまで続けられた。

 



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日常〜勉強会〜12:10の昼食。

「なかなかに壮観ね。恭也、徹、ご苦労様。ノエルもありがとう」

 

「いえ、あくまで私はお手伝いしただけですので」

 

「やり始めたらテンション上がっちまったぜ。普段はこんな機材触れないからな、いい経験ができた」

 

「冷静になってから見るとやり過ぎた気もするんだが。料理がロスになるんじゃないかと心配になってくる」

 

「恭也は経営する側の目線で考えすぎだろ。これだけ人数がいるんだ、余らねえよ」

 

 俺と恭也は、ノエルさんの協力もあって昼食の準備を遅れずにできた。

 

さすがに俺たちが勉強していた部屋に用意するわけにもいかず、昼飯は専用のホールをお借りした。

 

 微妙に上から言い下される忍のお褒めの言葉だが、今は達成感から気分がいいので素直に(たまわ)ることにしておこう。

 

 部屋に来るまで、にやにやとした気味の悪い笑みを貼りつけていた長谷部と太刀峰はホールに到着すると表情を一変させ、尻込みするように扉の前に佇立していた。

 

「これは……個人でできるとは思えない規模だね……」

 

「業者さんにでも……頼んだの?」

 

「業者に依頼する必要なんかねぇよ。俺がいて、準備や力仕事の手際に定評のある恭也がいて、ハイスペックな万能メイドのノエルさんまで手を貸してくれるとなれば、頑張ればなんでもできるぜ」

 

 小さなバイキングであれば張り合える規模の食事会場を見て、目を白黒させながら呟く二人に返答する。

 

 実際問題、能力的には充分すぎる人材が揃っていたのだ。

 

俺だって経験者なのだからそれなりにできるし、ノエルさんは言わずもがな。

 

恭也も、最初こそ触れたことのない専門機材に戸惑っていた様子だったが、慣れればどうということはなかった。

 

 俺とノエルさんで調理を担当し、恭也が機材のセッティングと配置、そして順次完成した料理の盛り付けをする。

 

役割分担をはっきりとさせて、個々人の技術を最大限発揮させればなんてことはない。

 

最初こそ間に合わせることができるかどうかひやひやしたものだったが。

 

「こ、こんなに……立派と言いますか、豪勢と言いますか……。か、会費とか払ったほうがいいんじゃ……」

 

 礼儀正しく、貸し借りについて一家言ある鷹島さんが気後れするのも無理はない。

 

個人で揃えるスケールとは、とてもではないが思えないからだ。

 

 用意されていた機器は多種多様であった。

 

 料理を入れて保温しておくためのチェーフィングディッシュ……一昔前であれば固形燃料を使っていたが、今の主流はIHに対応していたりと安全性にも配慮がなされている。

 

揚げ物などを置いておけるウォーマープレートや、サラダやフルーツの鮮度を落とさないようにするためのコールドプレートもあった。

 

ウォーマープレートの隣にはヒートランプも完備されている。

 

 ここまでであれば、今回のためにレンタルでもしてくれたのかな? とも思うのだが、天下に名高い月村家がその程度で終わろうはずがない。

 

 小さな子どもから精神年齢の低い大人までテンションが跳ね上がるチョコレートファウンテン、まさしくそれがあった。

 

 チョコレートファウンテンとは、チーズフォンデュのように、串に色んなものを刺してチョコをつけて味わうというものだが、チーズフォンデュと違うのは、よりデザートとしての側面が強いというところである。

 

チーズフォンデュの具材というとボイルされたお肉やウィンナー、人参やポテトだが、チョコレートファウンテンには果物やマシュマロが使われるので、完全に食後のデザートと捉えていい。

 

 溶かして液体状にしたチョコレートに生クリームを加え、内蔵されているモーターで上部まで引っ張り上げてピラミッド状に、上から下へと流して循環させるもの……がメジャーだ(・・・・・・)

 

 しかし、月村忍という女は一般的という枠で収まる女ではない。

 

月村家で用意されたチョコレートファウンテンは驚くなかれ、滝のように流れるタイプであった。

 

基本的な仕組みは同じなのだが、見た目からの迫力とインパクトはピラミッド式とは一線を画す。

 

その証拠に、小学生組の女の子たちは全員が全員メインディッシュには目もくれず、チョコレートの滝を見て大きな瞳をきらきらと輝かせていた。

 

 その隣にはアイスクリームを冷凍状態のまま保管できるキーパーが置かれている。

 

もちろんアイスクリームを(こそ)いでかしゃかしゃして取るディッシャーも抜かりはなく水の張ったトレイの中に入っている。

 

 これらのほかにも、球体の上三分の一を切り取ったようなお洒落なボウルがスタンドに備えつけられており、調味料やドレッシング、トッピングなどを入れておけるようになっていた。

 

機材の手配こそノエルさんが承ったらしいが、どれを購入するかのセレクトは忍がやったとのこと。

 

忍のセンスの良さがこんなところでも光ることとなった。

 

 とまぁ、子どもであれば目に華やかな数々に心も踊るというものだが、高校生ともなれば、それらの機器の調達費に加えて材料費などについても考えを巡らせてしまうもの。

 

否が応でも全体でかかった経費を推算せざるを得ない。

 

 負担をかけすぎているのでは、と後ろめたく感じる鷹島さんの気持ちはわからないでもなかった。

 

「気にしなくていいよ、鷹島さん。こういうのはもはや、忍の趣味みたいなものなんだ。楽しんで満喫してくれさえすればそれでいいんだよ」

 

「そういうものでしょうか……? 逢坂くんにも高町くんにも頼りきりな気がするんですけど……。忍さんのお家の方にも苦労を強いてしまっているんじゃ……」

 

 ちらりと触れたが、これらの保温器、保冷器、調理機ディスプレイ専用テーブル等々etcは全て、今回の昼食のために買い揃えたというのだから恐れ入る。

 

調理中に聞いて、レンタルとかあるんだからわざわざ買わなくても良かったのでは、と思ったのだが、その疑問にもノエルさんは答えてくれた。

 

というよりも、忍に頼まれた時にノエルさんも俺と同じことを思い、提言したらしい。

 

そして忍が返した言葉が、『これからもまた同じようなことはあるでしょ。この際一式取り揃えておきましょ』というもの。

 

 設備の豊富さにテンションが上がって、張り切り過ぎてやり過ぎた俺が言うのもなんだが、まさか忍の言う『同じようなこと』がある度に俺と恭也(ノエルさんもいてほしいと願うばかりだ)が準備することになるのだろうか。

 

ボルテージが平常時に戻った今では、一抹の不安が頭を過る。

 

 閑話休題。今はお金の話だ。

 

 トータルでいくらかかったのかなど、俺としても想像したくはない。

 

そもそも忍がそんなことで恩を着せようなどと考えているわけがないし、暗くなられるのも本意ではないだろう。

 

 ならば俺たちは気にせずに、月村家の心遣いを甘受すべきなのだ。

 

「大丈夫大丈夫。忍の両親は寛容だし、ノエルさんならきっとこっちから言ったところで『仕事の範囲です』とかっていつも通り淡々と返すよ。それに俺も恭也もやってる途中から気分が高揚してきちゃってね、大変だとは思わなかったんだ。気にする必要はまったくないよ」

 

「そう、ですか。それなら今は目一杯楽しみます!」

 

 鷹島さんは納得したように、いつものふわふわした笑みを俺に向けるとてとてと走り、すでにホールの内部へと足を踏み入れていた長谷部と太刀峰に合流した。

 

 立ち代わりに、滝のようなチョコレートファウンテンに目を奪われていた小学生組が俺に近づいてくる。

 

 最初に話しかけてきたのは、一時間強の間でなにがあったのか、幾分表情と声に、明るさと元気さが増した彩葉ちゃんだった。

 

「逢坂さん、これ逢坂さんが作ったんですか? ケーキだけじゃなくて料理も作れるんですね。すごいです。お姉ちゃんにも見習ってほしいです」

 

「俺だけじゃなくてノエルさんの力添えもあったからこそだけど、そう言ってもらえるのは嬉しいよ」

 

「チョコ! 徹お兄ちゃんっ、あのチョコのあれ、すごいね! あんなの見たことないの!」

 

「派手だもんなぁ、俺も実際目にしたのは初めてだ。一応言っとくが、最初から食うなよ。あのチョコのやつやるのは飯食ってからだからな」

 

「うちにこんなのあったのかな? 見憶えないなぁ」

 

「今回買ったらしいから見憶えがなくて当然だろうな。腕によりをかけて作ったから味には期待してくれていいぞ」

 

 彩葉ちゃんやなのはたちの感想やお褒めの言葉、質問に順に答える。

 

 支度の時には大変ばたばたと慌ただしかったが、こうしてこの子たちのリアクションを見れたのだから、苦労に見合った報酬といえる。

 

やはりこういうイベント的な催し物には、サプライズがあって然るべきなのだ。

 

「料理もできるとは聞いてたけど、まさかここまでとは思わなかったわ。一度北山にも会わせたいわね。気が合うんじゃない?」

 

「前に言っていたバニングス家のコックさんだったっけ? 俺も一度会ってみたいね、得るものが多そうだし」

 

 アリサちゃん誘拐未遂事件を瀬戸際ぎりぎりで未然に防ぎ、その礼としてアリサちゃんのお家へと招待されたことがあった。

 

その時は昼食をまだ済ませていなかったので、バニングス邸でご相伴に預からせていただいたのだが、そこで振る舞われた料理を作ってくれた人というのが、アリサちゃんが口にした北山さんというお方だ。

 

 短時間で数多くの品を仕上げる速さ、様々な国の伝統料理を作れる知識、無論のことだが味も絶品。

 

その腕を実際に目にしたいと常々思っていたのだ。

 

また今度アリサちゃんのお願い(という名の命令)を叶える時にでもお目にかけさせて頂こう。

 

「パフォーマンスに気を配ったメニューもあるんだ。楽しみにしてくれ」

 

 黄色い声で喜びを表現する小学生組みを、まさしく学校の先生のように連れ立って引率する。

 

 俺を中心にして寄り添ってきているので、両手に花どころではないシチュエーションと言えないこともない。

 

色とりどり、個性のある美しくて鮮やかな四輪の花だが、おしむらくはみなまだ蕾であることだけだ。

 

 いや、だからこそいいのかもしれない。

 

小さな蕾のままでも愛らしく、その上どのような色彩で咲き誇るのかと想いを馳せることもできる。

 

 一粒で二度おいしいとはこのことか。

 

 誓って言えるが、この気持ちは決して(よこしま)なものではない。

 

よって、俺の頬が緩んでいるのは父性とか庇護欲とか、兄的な感慨深さとか、きっとそういうものである。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「ねぇ逢坂、ケーキはまだなのかい?」

 

「あんだけ食った直後にケーキを要求できるのかよ。お前らの身体の中には胃袋の代わりにブラックホールでも搭載されてんのか」

 

「女の子に……なんて言い方。これはただの、別腹」

 

「お前らの口から『別腹』という単語を聞いたのは既に六回目だぞ。胃袋分かれすぎだろ、牛超えたわ」

 

 忍や恭也もなかなかの健啖家であることは記憶していたし、長谷部と太刀峰が見た目と相反して大喰らいなのも理解していた。

 

だからこそ忍は大量に食材を仕入れていて、俺も食いしんぼう系女子の食事量を考慮して作っていたのだが、長谷部、太刀峰両名はその推計をまさかのまさかで越えてきやがった。

 

 スープから始まり、唐揚げやピザなどのオードブルを食い荒らし、メインとなる肉料理や魚料理もたらふく食し、同時に米までかっ込むのだから、もはや驚嘆にすら値する。

 

足りなくなったのでご飯を炊き直したが、その頃にはおかずとなりうる食品は食い尽くされており、傷ませるのももったいないと思い、余った材料で即席チャーハンを作ったが、それすらぺろりと完食したのだ。

 

 もちろん丹精込めて作った料理を『おいしい』と言いながら食べてもらえるのは調理者冥利に尽きるし至上の喜びではあるが、それにだって限度というものがある。

 

険のある口振りになってしまうのもどうかわかってほしい。

 

「たしかに……さすがの私も庇いようがないくらいに食べてたけど、いくらなんでも女の子を牛で例えるのはダメよ。それに育ち盛りなんだからいいじゃない。食べすぎないよりよほど健康的だわ」

 

「……食後のデザートとしてソルベを用意してる。そろそろノエルさんが持ってきてくれるはずだ。ケーキは三時のおやつとして出そうと思ってる」

 

「忍さん、そるべってどんなものでしたっけ?」

 

「リキュールとかを使った口触りのいいアイスのことよ。……徹、ちゃんとアルコールは飛ばしてるんでしょうね」

 

 鷹島さんの質問に答えた後、忍はぎらりとした眼光で俺を見る。

 

 おそらく俺の体質について言っているのだろう。

 

「剣呑な目で見るな。抜かりはねぇよ」

 

 深く突っ込まれたくないので忍の言葉に短く返すが、厄介なことに、厄介なやつに食いつかれる。

 

「なんの話だい?」

 

 長谷部が首を傾げながら尋ねてきた。

 

 折角の機会だから、と言って小学生組と友誼を深めていた恭也が、こちらに近づきながら長谷部の質疑に応答する。

 

「徹は酔いやすいんだ。昔、水と間違えて日本酒を飲んだ時などは特に酷かった。その一件以来、徹からアルコールを遠ざけるようにしているんだ」

 

「記憶がないのにめちゃくちゃ叱られたんだぞ? あれほど理不尽なことはねぇよ」

 

「そんな弱点『も』……あったんだ。知らなかった」

 

「弱点というほどのものではないと思うんだけど……って待て。『も』ってなんだ。他に知ってんのか。おい忍、お前またなにかいらんこと言い触らしたんじゃないだろうな」

 

「虚言は吐いてないわよ、事実しか言ってないわ」

 

 一番可能性のある忍に追及したらあっさりと、悪びれもせずに堂々と認めた。

 

 この場合事実であることこそが問題なんだが、忍はわかってくれそうにない。

 

 忍へ言い募ろうとしたタイミングでドアがノックされた。

 

一拍の間をおいたあと扉が開かれる。

 

ノエルさんがカートを押して入ってきたところを見るに、その中身はソルベと取って間違いはないだろう。

 

 入り口に近いところ、チョコレートの滝で楽しげな声と愛くるしい笑顔を振りまいているなのはたちに一声かけてから、ノエルさんはカートの行く先を俺たちへと向ける。

 

「大変お待たせいたしました」

 

「ありがとう、ノエルさん」

 

「いえ、お構いなく」

 

 ノエルさんは四十五度で頭を下げてカートを固定させると、器をテーブルへと移し、銀製で釣鐘状になっている蓋、クロッシュを音も立てずに丁寧に、それでいて速やかに持ち上げてカートの内部へとしまう。

 

 蓋を収納した際も音は最小限、傾注しなければ聞き取れないほどに静かであった。

 

とある電気店街の喫茶店などで氾濫しているなんちゃってメイドではない。

 

これこそが本物、職業軍人ならぬ職業メイドだ。

 

 洗練されたプロの技の一端を垣間見た気すらする。

 

「それでは失礼します。何か御座いましたらまたお申し付けください」

 

 ノエルさんは慇懃(いんぎん)極まりない対応と口調でそう言うと、思わず見惚れる程に綺麗な姿勢で退室した。

 

 お仕事モードだと近づき難いほどの雰囲気を漂わせるご麗人である。

 

主人や他に客人がいない、二人でお喋りする時とは隔絶された所作振る舞いだ。

 

気のせいや勘違いであることは重々承知の上だが、そのギャップにきゅんときてしまうのは男であれば避けることのできない哀しい(さが)というもの。

 

 まったく男という生き物は、至極単純にできてしまっているようだ。

 

「あら、四種類もあるのね」

 

「最初は俺とノエルさんで一つずつ作ろうってなってたんだけど、製作過程でお互い熱が入ったというか」

 

「とどのつまり、張り合って二人とも一品増えたということだろう」

 

「なんにしたって、おいしいものをいっぱい食べれるんだから問題はないね」

 

「グレープと、レモン……あとは、なんだろう?」

 

「一品は基本に忠実、王道とも言えるソルベを作ったんだ。俺がレモン、ノエルさんがグレープだな。食後なわけだしさっぱりとした風味を意識した」

 

「二つめにはなにを作ったんですか? まっ白いのと、紫色のがありますけど」

 

「それは食べてからのお楽しみ、ってことで」

 

 テーブルに並べられたデザートを見やる。

 

 淡い黄色と黒紫色は先述したとおり、レモンとグレープ。

 

あと二つは純白色に点々と薄緑色がさしたものと、毒々しさすら感じる紫色に緑が散らされたものの計四品。

 

 ノエルさんの技術に触発されてという理由もあったが、それ以上に作り始めていて楽しくなってしまった感も否めない。

 

創作意欲が湧いてしまったのだ。

 

 ソルベと一緒に持ってきてくれていたらしい小さなスプーンを手に持ち、俺はまずノエルさんが作った白いデザートに口をつける。

 

自分が作った分の味見はしたが、ノエルさん作の味見はまだしていなかったのだ。

 

 俺以外は各々レモンかグレープを選択した。

 

最初はオーソドックスなタイプから攻めるようである。

 

「いただきます」

 

 片手にはアイスが乗った小皿、もう片手にはスプーンを持っているので手を合わせて、とまではできなかったが、それでも足並み揃えて口を揃えて、誰一人欠けることなく合唱した。

 

調理者への感謝の気持ちなのかなのか、はたまた、ただの習慣なのかはわからないが、皆礼儀正しいものである。

 

 ちなみに俺の場合は、日頃姉から受けているしつけの結果だ。

 

「うおぉぁ……うまい」

 

 口へ放り込んでまず感じたのは、ヨーグルトのくどくない甘さと爽やかな酸味。

 

次いで現れたのは独特の食感、これはナタデココだ。

 

悪目立ちしないようにと、通常よりも細かく刻むという配慮もなされている。

 

くにっとした歯応えを楽しんだのちに飲み込めば、鼻から、すぅっ、と抜ける涼感が顔を覗かせる。

 

淡い緑色の正体はミントだった。

 

 食事の終わりということを踏まえて、舌触りのいいあっさりした種類の甘さを使いつつ、個性を出すために食感にも目を向け、後味にも気を配る。

 

 いやはや、あの人はなんでもできるんだな。

 

「徹、それどうだったの? おいしかった?」

 

「ノエルさんのお手製なんだぞ。おいしくないわけがないだろ」

 

「私も食べたい。一口ちょうだい」

 

 まだたくさんあるのだから自分で取ればいいのに、という旨を伝えようとしたが、その前に忍は口を開いて待っていたので俺は早々に言うのを諦めた。

 

どうせ筋の通らない反論で俺を力づくに丸め込むのだから、自分で取るように仕向けてもさして未来は変わらない。

 

ならば諾々と従っていたほうが精神的にも肉体的にも時間的にも損耗はないだろう。

 

 これを学習というべきか洗脳と呼ぶべきか迷いながらも、手に持つヨーグルトソルベを一(すく)いして忍の口へと運んだ。

 

「ん! おいひいわね! さすがノエル、いい仕事する……どうしたの、綾ちゃん? 真希ちゃんも薫ちゃんも驚いた顔して」

 

 ノエルさんデザートに目を細めて舌鼓を打っていた忍が、いきなり三人の名前を出した。

 

 長谷部と太刀峰が目を丸くしているが、それは味に関してではないようだ。

 

鷹島さんはどこか得心がいったというふうの表情を見せた。

 

「……逢坂くんと忍さんは、やっぱりお付き合いして……」

 

「忍の反応からしてうまいみたいだな。徹、俺にもくれ」

 

「自分で取れよ。まぁいいけどさ」

 

 鷹島さんの蚊の鳴くような声を覆うように恭也が言った。

 

 歯並びのいい綺麗な白い歯を見せる口へと、俺は忍の時と同様に白いソルベを突っ込んだ。

 

 恭也は顎をゆっくりと動かして吟味するように咀嚼する。

 

いつになく真面目な顔をしているので、また店で使えるかどうかと思案しているのだろう。

 

 純粋な気持ちで味わえよとも思うが、楽しみ方は人それぞれだ。

 

俺からとやかく口を出すことでもない。

 

「それで鷹島さん、なにを言おうとしたの?」

 

「え……あれ? だって高町くんは……?」

 

 見ているだけで心が安らぐ鷹島さんのお顔がまた変化する。

 

先ほどの腑に落ちたような表情から困惑へと色を変えた。

 

 普段見ることができない鷹島さんの百面相は、正直見ていておもしろくはあるが、なにやら困っている様子なので解消してあげるべきだろう。

 

まずは、なにに対して疑問を感じているかをはっきりさせようか。

 

「鷹島さん、どうしたの? おいしくなかった?」

 

「い、いえっ、とてもおいしいです……ってそこではなくて! ……逢坂くんと忍さんはお付き合いしてるんじゃ……ないん、ですか?」

 

 これ以上ないほどにおずおずと、身長差から上目遣いになりながら、レモンソルベをちみちみと舐めるようにスプーンの先端を咥えて鷹島さんが問いかけてきた。

 

 仕草は同い年とは到底思えないほどに可愛らしかったが、その内容までは可愛いものではない。

 

隣に立っている忍からの圧力が半端なそれではなく、恐怖を掻き立て煽り立てる。

 

目を向けることすらしたくないほどだ。

 

とんでもないことを口にしてくれたものである。

 

 忍は小皿とスプーンを俺へ殴りつけるように押しつけ、鷹島さんに接近する。

 

「そんな妄言を垂れ流すのはこの柔らかいお口かしら? あら、とても触り心地がいいわね」

 

「にゃぅっ、にゃにしゅうんでふかぁ」

 

「どうしよう、とても可愛いわ」

 

 距離を詰めた忍は、鷹島さんのぷにぷにしてそうなほっぺたを指先でつまんで逆に問い詰め始めた。

 

 抵抗しようにも両手がふさがっているため、鷹島さんはされるがままである。

 

 鷹島さんのセリフの真偽を問いただすためにイタズラし始めたはずだが、その感触の虜となったのか、忍は鷹島さんのほっぺたを一心不乱にむにむにとしたまま話を進めようとはしなかった。

 

 埒が明かないので介入する。

 

「なんのためにお前は鷹島さんの頬をつまんでいるんだ」

 

「そうだったわね。あまりにも気持ちよくて私としたことが忘れてたわ。綾ちゃん、なんで私が徹なんかと付き合ってると思ったの?」

 

「絶対に俺の名前の後ろに『なんか』をつける必要はなかっただろ。ついでみたいに俺を傷つけてんじゃねぇよ」

 

 忍は名残惜しそうに鷹島さんから手を離した。

 

 はふ、と解放されたことによるため息をもらしてからやっと説明に入る。

 

「あの、昨日彩葉と一緒にアーケード街に買い物に行きまして、その帰りに《What》という喫茶店に寄ったんです。そこで……逢坂くんと忍さんがただならぬ雰囲気でお茶をしていたものですから……」

 

 喋り終えて、鷹島さんはどこか安心したかのように相好を崩した。

 

 喫茶店で鳴り響いていた音の発信源はどうやら鷹島姉妹だったようだ。

 

話を聞く限りでは俺と忍が席についているうちに鷹島姉妹は店を出たらしく、ずる賢いウェイトレスにしてやられた致命的なシーンは見られていなかった。

 

「でも鷹島さん、ただならぬ雰囲気っていうのは言い過ぎじゃない? ただケーキ食ってただけだったのにさ」

 

 俺にはそこがわからなかった。

 

 店から出る時に、あのアホの皮を被った悪辣ウェイトレスに仕向けられた写真の件ならともかく、一緒にライバル店でケーキの味を調査していただけで付き合ってると思うのは、随分と想像力が豊かな発想だ。

 

「食べてただけじゃなかったです! 食べさせあいっこしてたじゃないですかっ!」

 

「いや、親友相手なんだからおかしくないでしょ?」

 

「えっ?!」

 

「え?」

 

 どうやら俺と鷹島さんの間では親友との距離において、感覚に(いささ)か以上の差があるようだ。

 

昔からそばにいて、なんの違和感もなくこれまで行い続けていたためまったく気づかなかった。

 

 他に友達がいなかったから理由もあるだろう。

 

自分で言っててすごく悲しい原因だな。

 

「あのね逢坂、いくら親友といえど食べさせあいっこは度を超えてると思うよ」

 

「まさか、普通のことだと思っていたのだが……」

 

「そ、そうなんだ、普通はしないんだ……。外でやってると時々、人目を感じるなぁとは思ってたのよ」

 

「高町くんも、忍さんも……そんな意識だったんだ……。やけに……三人はパーソナルスペースが近いと、思ってたよ」

 

 長谷部の箴言(しんげん)には恭也と忍が反応した。

 

 恭也も忍も他に親しい友人がいるわけではないので、注意してくれる人はいなかったのだろう。

 

いつも三人一緒にいることによるデメリットがこんなところから噴出するとは思いもよらなかった。

 

 純白のソルベを舌の上に乗せながら鷹島さんの言葉を反芻する。

 

 重大な間違いに気づきこれからは控えないとな、なんて思っていると、俺の目の前にいた鷹島さんがなにか良いことを思いついた、みたいな表情をした。

 

ふわふわした栗色の髪の上に電球が浮かび出たような幻視すら見える。

 

「私も一口くださいっ」

 

 親鳥から餌をねだる雛のように、鷹島さんは小さなお口を開いて待っていた。

 

 シミひとつない頬はうっすらと紅潮し、鮮やかなピンク色の舌は艶めかしく濡れていて、常には感じない鷹島さんの女の魅力がそこには詰め込まれてる。

 

清純というべきか純朴というべきか、背の低さに性格も相俟って色気があまり表に出ない鷹島さんの、貴重で珍しい色っぽい仕草に一瞬心臓が跳ねた。

 

「お、おう。はい、あーん」

 

「あ……あむ。お、おいふいでふ」

 

 鷹島さんはいまだに朱色がさしている顔のまま、口元を手で押さえながらデザートの感想を言う。

 

 つい求められるがままに口に運んでしまったのだが、なぜか悪いことでもしているような気分になった。

 

何者にも触れられていない白いキャンバスを、濁った色で汚してしまったような感覚である。

 

 ちなみに忍相手だとそんなこと小指の爪の先ほどにも思わない。

 

忍の性格が、外見と同じように綺麗ではないということを知っているからであるが、考えを読まれて殴られそうなのでこれ以上の言及は避ける。

 

「綾ちゃんも押しが強くなったわね。私としてはその成長を嬉しく思うけど、同時に手を離れてしまったような一抹の寂しさを感じざるを得ないわ」

 

「ついさっき、友達の間柄でそういうことをするのはどうなの、って話をしていたのに言ったそばからやるなんて……って、薫、なにしてるの」

 

「……? わたしも、もらおうかな……って」

 

「な、なにそれ! それじゃ僕もいただくよ、逢坂!」

 

「目の前のテーブルにあるじゃねぇか。それ取れよ」

 

「たのしそう、だし」

 

「いいじゃないか。好きだろう? 人の世話焼くの」

 

「そんなこと言った覚えはまるでねぇよ」

 

 鷹島さんに食べさせてあげたのもほとんど不可抗力みたいなものだったのであまり乗り気ではなかったのだが、太刀峰も長谷部も口を開いて待つものだから仕方なく口内へと放り込む。

 

おかげでノエルさんお手製のナタデココヨーグルトソルベ・ミント風味は二口三口ほどしか味わえなかった。

 

「徹、まだ続きそうだぞ。さっきのを見ていたみたいだ。向こうからなのはを筆頭に小学生組が走ってくる」

 

「ちょっ、恭也待って、助けてくれ! なのはのあの助走はロケットのための加速だろ!」

 

「すまんな、俺に手伝えそうなことはありそうにない。四つ全部食べないといけないという仕事もあるからな。死なない程度に頑張ってくれ」

 

 なのはたちの参加(乱入、もしくは武力介入と言い換えてもいい)によりこの場は更に騒がしさを増す。

 

 小学生組にねだられて『はい、あーん』をやり、一息ついたと思ったらまさかの高校生組二週目が始まり、結果として一人当たり三回ほどやる羽目になった。

 

 

 

 

 昼食を終えてエネルギーを補充したことで集中力を取り戻したのか、全員本来の目的である勉強にも精を出す。

 

 なのはやすずか、アリサちゃんは彩葉ちゃんと友好を育みながら進め、忍はもとから困っていた科目はなかったようだが人に教えることで復習になったようだし、恭也も遅れていた部分の大半を取り戻せたようである。

 

鷹島さん、長谷部、太刀峰の三人も苦手分野の克服の一助とすることができたみたいだ。

 

当初の予想以上に勉強会は実りあるものになった。

 

 願わくば、できるようになった科目の記憶を保ったまま、いずれあるテストに臨んでほしいものである。




飲食関係の仕事をしているので、その部分の説明にどうにも力が入りすぎてしまいました。ちょっと反省です。

日常勉強会編はこれでお終いです。最後のほうは駆け足になりましたが、これ以上このペースでやっているとあと二、三話ほどもかかりそうだったのでカットしました。入れなきゃいけない部分は詰め込むことができたのでまぁいいかな、と。
とくにオチもヤマもない日常編でしたね、申し訳ないです。ちゃんと練ってからやらないとぐだるということがはっきりとわかりました。
ここから先の予定ではあまり明るい話を挿しこめそうにないので、日常編が長くなってしまいました。

次からは進行編です。その進み方もだいぶ遅いとは思いますが、どうかよろしくお願いいたします。


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評価は全部『良くできました』と『もう少し頑張りましょう』のどちらかでいい

まさしく、出オチ。

2014/10/11
クロノに対するエイミィの呼び方について修正しました。


 中指をあて、前後に滑らせる。

 

ぬめりのある液体が指に纏っているおかげで潤滑油の役割をして動かしやすくなっていた。

 

「ここが弱いんだろ? もう知ってるんだぜ」

 

 突起しているところをくにくにと指で転がせば、一段といい反応を返してくる。

 

「くくっ、喘ぎ声を押し殺すように震えちゃって……可愛いなぁ」

 

 耳元で囁くように、俺は口を近づけて言葉で羞恥心を煽った。

 

 指をなぞらせるスピードを時に緩めてもどかしさを与え、時に激しく動かして一息に攻め立てる。

 

緩急を織り交ぜることで飽きさせることなく、終わりまで愉しませることができるのだ。

 

「こんなに漏らして……困った子だな」

 

 溢れ出したそれを見て、思わず笑いが込み上げてくる。

 

 俺もあまり経験が多い方ではない。

 

ちゃんとできているかどうか、満足させることができているかどうか不安だったが、この様子を見る限り俺は下手ではないようだ。

 

「さて、ラストスパートといくか」

 

 俺の一言に呼応するように、触れている部分をぴくんと期待するように震わせた。

 

 それを見て取り感じ取り、俺は…………清潔な布巾で余剰分の精密機械整備用オイルを拭う。

 

これにてお手入れ終了である。

 

「いくら明るい時間帯とはいえ、そんなに魔力光を漏らすなよエリー。誰かにバレたらどうするんだ」

 

 エリーは応答か、もしくは小さく抗議するように、弱々しくぷるぷると震えた。

 

 レイハといいエリーといい、お手入れすると様子が変わるのはこういう形状の物体には共通していることなのだろうか。

 

気を良くすることはあっても気分を害することはないようなので、別段構いはしないのだが。

 

 今日は四月二十七日の日曜日、午前十時。

 

言うまでもなく、勉強会があった土曜日の翌日である。

 

 なぜこうして休日の朝から唐突にエリーのお手入れをしているのかというと、理由はとても簡単で単純、ほかにすることがなかったからだ。

 

 せっかくのお休みなのでどこかへ遊びにでも、それこそ高校生らしく買い物やカラオケや映画にでも行けばいいのだが、いかんせん、行く相手がいない。

 

恭也は店を二日連続で休んだのでシフトが向こう十数日組み込まれたらしいし、忍もあれで忙しい身の上なので習い事などの所用により予定が埋まっていた。

 

勉強会の帰りに連絡先を教えてもらっていたので長谷部と太刀峰にも遊べるかどうか聞いてみたが、試合が近いということで日曜日にも部活があるとのだった。

 

土曜日にも部活はあったそうだが、無理を言って休ませてもらったそうだ。

 

勇気を振り絞って鷹島さんにも連絡してみたが、家族みんなでお出かけするとのことで予定が合わなかった。

 

こちらが申し訳なく思うくらいに謝り倒されたので、もうなにも言えなかったのである。

 

 よって俺は掃除洗濯などの家事を片付けると特になにをするでもなく、だからといってぼぉっと佇んでいるのももったいないと思い、せっかくなのでジュエルシードを発見してくれた慰労を兼ねてエリーのお手入れをしていたというわけである。

 

 球体のレイハよりはひし形のエリーのほうが多少手間があったが、それでもさほど時間はかからなかった。

 

 趣味はないし、家事も終わらせてしまったし、なにか買い足しておかなければいけない消耗品も特に思い当たらない。

 

姉ちゃんは今日も今日とて就労に励んでいるので姉ちゃんの世話を焼くこともできない。

 

《逢坂徹、これから暇か?》

 

 この際、お仕事中かもしれないが鮫島さんに電話して、余裕があるようであれば稽古でもつけてもらおうか。

 

鮫島さんがダメなら、翠屋に行ってお手伝いでもさせてもらおうかな、などという考えに帰結しようとしていた時、変声期をまだ迎えていないようなボーイソプラノが俺の頭に響いた。

 

 どこかつんけんした声色がちら見えするこの声には聞き覚えがある。

 

時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンだ。

 

 クロノの念話による予定の有無の確認に、俺はもちろんイエスと即答した。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 呼ばれて飛び出て向かってみれば、行き先はL級次元巡航船アースラの船内、その一室である訓練室だった。

 

 時空管理局の乗組員さんに案内されて訓練室の扉をくぐると、もちろんクロノもいたのだが、他にもちらほら人がいた。

 

 しかし、みなさんずいぶんとカラフリーな頭をしていらっしゃる。

 

男性だけでなく、人数は少ないものの女性もいらしたのだが、揃いも揃って顔面偏差値が高い。

 

この輪に混ざるのはかなり気後れする。

 

 クロノは部屋に入ってきた俺の姿を捉えると、すでに訓練と職務に勤しんでいた局員たちから離れて俺へと足を向けた。

 

「思ったより早かったな。もう少し時間がかかるかと思っていた」

 

「まさしく暇だったんだ。することがなくて困っていたくらいだったからな。で、俺はなんで呼ばれたんだろうか」

 

「理由も聞かずに二つ返事でよく来たな……。なのはやユーノの魔力値は計測できたんだが、貴様……失敬、逢坂徹の数値だけはいまいち判然としなかったから、今回はその測定だ」

 

「今日の予定はわかった。あと俺の呼び方はなのはやユーノを呼ぶように徹でいいだろ。これから……少なくともしばらくは行動を共にするんだから、仲良くやろうぜ。俺も悪かったからさ」

 

「……釈然としないが、たしかにその通りだ。僕のほうにも態度や接し方に問題があったと思う。それじゃこれからよろしく、徹」

 

 俺が差し出した手を、眉間にしわを寄せながらもクロノは握った。

 

今までの鬱憤(うっぷん)を一気に解消できるわけではないだろうが、この第一歩を手始めとしてお互い歩み寄ればいい。

 

 一緒に仕事をするんだから、軋轢を残したままではやりづらい部分も生まれるだろうし、立ち行かなくなる可能性もあるだろう。

 

そんな危険性は芽のうちに潰しておくのが懸命である。

 

 俺が握るクロノの手は、そりゃあ年相応に小さいが、それでも柔らかかったりはしない。

 

マメができていたり、皮がむけて硬くなったりしているところから察するに、常日頃から鍛えているのだろう。

 

真面目そうなクロノらしいといえばらしいが、こういうタイプの人間はえてして責任という重荷を背負いやすく、無理をしがちだ。

 

同じ職場に親もいるのだから職責に押し潰されたりはしないと思うが、気を抜くことも知っておくべきではなかろうか。

 

「ん?」

 

 握手したままのクロノの手が、きゅっとかすかに強まった。

 

 仏頂面のクロノの顔には少し笑みが浮かんでいる。

 

 なるほど、男の子らしく握力勝負と行きたいってか。

 

そっちがその気なら、こちらは大人げもなく本気を出してやろう。

 

 勝てそうな試合であれば躊躇なく、ついでに恥も外聞もなく白星をもぎ取るのが俺の信条である。

 

年の差がどうこうなんていう綺麗事はゴミ置き場にでも()(ちゃ)っておけばいい。

 

 魔法が絡めば赤子の腕をひねるが如くあっさりと地に伏すことになるだろう俺であるが、単純な筋力の勝負では負ける気がしない。

 

何を隠そう、俺は聖祥大附属高校のゴリラとさえ言われているのだ(おそらくこれは異名とかではなく単なる蔑称)。

 

 俺の右手は真っ赤に燃えることも轟き叫ぶこともしないが、リンゴを握りつぶすくらいには力がある。

 

現代日本で照らし合わせれば中学生そこそこのクロノとは、身体の成長具合や筋肉のつき具合からして違うのだ。

 

 いい機会である、ここで以前負けた礼を返させてもらおう。

 

「んっ……くっ!」

 

 じわりじわり、ゆっくりと手に込める力を増やしていくと、クロノが短く苦悶の声をもらす。

 

クロノの手からも圧力を感じるが、食い下がるような最後の抵抗程度だ。

 

旗色はいい、このまま万力のように握力を強めて、是非ともクロノの口から降参のセリフを聞きたいものである。

 

「なにしてるの、クロノ君。早く紹介してほしいんだけど」

 

 さて、ここから徐々に攻めていくぞ、と俺の内なるエスっ気が顕現し始めたところで、女の子の声による待ったが入った。

 

 クロノの背後に目をやれば、見た目俺と同じくらいの年齢の茶色の髪をした女性が立っている。

 

時空管理局の規定なのか、青い制服を着用に及んでいるのだから相当に若いと見受けられるがこの子も局員なのだろう。

 

 思えばこの部屋へ連れてきてくれた人も青い制服だったし、訓練に励んでいる人たちも同様だ。

 

リンディさんも他と仕様は異なっているにしても基本の配色は青色だった。

 

クロノだけ黒色というのはいったいなぜなのか、役職に関連するのだろうか。

 

些細なことが気になってきてしまった。

 

「あぁ、そうだった。すまない、忘れていた」

 

「わざわざ呼んでおいてこの扱いはひどいよ」

 

 クロノは俺の手を離し、一歩下がって突然現れた女の子の隣についた。

 

 俺の勝ちが濃厚だった勝負は口惜しいことにお流れの様相である。

 

 心なし険しさが和らいだクロノの顔が、俺へと真っ直ぐ向けられた。

 

「こっちはエイミィ・リミエッタ。このアースラの通信主任を受け持つ傍ら、執務官補佐もしている」

 

 クロノはエイミィと言うらしい女の子に向けていた手を俺に向け、顔はエイミィに向けられる。

 

 次の紹介は俺の番のようだ。

 

「そっちは逢坂徹。今回ジュエルシード収集の協力を買って出た奇特な人間だ」

 

「エイミィです。よろしくね」

 

「逢坂徹だ、よろしく。しかしクロノが俺を褒めるとは驚きだ」

 

「注釈を加えておくべきだったな。なのはとユーノは『感心する』という意味の奇特で、徹は『珍しい』という意味の奇特だ」

 

「なんで俺だけ別枠なんだよ!」

 

「クロノ君がもう他人と仲良くなってるなんて、それこそ珍しいよね」

 

 どうやらこのエイミィという女の子はクロノととても親しい様子だ。

 

あの気難しいクロノをいじっているというのに怒られないのがなによりの証左である。

 

「やることがあるんならさっさとやろうぜ。エイミィさんを待たせるのも悪いし」

 

 なにはともあれ、こんなところでちんたらやっていても何も始まらないし終わらない。

 

さっさと手をつけさせてもらいたいところだ。

 

「僕の時とはずいぶん差のある対応だな。そんな殊勝な態度も取れたのか」

 

「失礼だな、おい。いい年してるんだからそりゃできるわ」

 

「あはは、そんなに年も離れてないみたいだしさん付けはいらないよ。徹君って呼んでいい?」

 

「おう、構わないぞ。そっちのほうが気楽でいい」

 

「だんだん人目が集まってきてるな。そろそろ計測に移ろうか」

 

 クロノの言葉でやっと足が動き、訓練室の一角に設置されている機械へと移動する。

 

 どうやらこの測定機で計るようなのだが、正直俺の気分はアンニュイだ。

 

 なにが嬉しくて自分の素質のなさを再確認しなければならないんだ。

 

お手伝いという名目だが、入社して早々にイジメを受けている気分である。

 

「艦長から少しだけ話は聞いてるよ。魔力色が透明なんだってね、初めてそんな人に会ったなぁ」

 

「話を聞いてるんなら名前も聞いてたんじゃないの?」

 

「そりゃあ名前も聞いてたけど、ほら、こういう紹介は顔を合わせてやるものでしょ?」

 

「そういうもんかね」

 

「待て、僕にはそんな話入ってないぞ」

 

「それじゃあ測定始めるね」

 

「エイミィ! 僕はそんな話聞かされてなかったぞ!」

 

 仲が良いだろうとは見当をつけていたが、その予想を超えるレベルの仲の良さであるようだ。

 

力関係の天秤は、驚くことにクロノよりエイミィに傾いていた。

 

 

 

「やっぱりこんなもんじゃねぇかよ」

 

 いくつかの診断項目を消化したが、思いの外計測自体は短時間で済んだ。

 

 当たり前だし、(はな)から期待などは一切していなかったし、儚い希望なども抱いてはいなかったが、やはり魔法適性に大きな変化はなかった。

 

 飛び抜けているのは俺の主力であり、生命線とも言える魔力付与のみ。

 

他は前にユーノに調べてもらった通り、すべてなのはを下回っている。

 

使っていたら伸びるのか、多少防御魔法の適性に向上が見られたが、それでもなのはやユーノたちと比較した時、些末な数値となるのは間違いない。

 

射撃や砲撃ともなれば見窄(みすぼ)らしい以外の言葉が見つからないほどに惨憺(さんたん)たる結果だった。

 

射撃や砲撃でそれなのだから、飛行魔法など目を向けることすらしたくない。

 

 取り繕わない俺の今の状態を言わせてもらえば、絶賛涙目である。

 

 なんで現実を見せつけられて叩きつけられなければいけないんだ。

 

数値で表すなよ、なんなら評価は全部『良くできました』と『もう少し頑張りましょう』のどちらかでいいんだ。

 

胸囲にコンプレックスを抱いている太刀峰の気持ちを、今なら寸分のずれもなく理解できるだろう。

 

「こんなに極端な適性だったのか。魔力量もやはり見劣りするな」

 

「トータルで算出すると管理局員の平均を下回ってるね。とくに飛行魔法が壊滅的なんだよ。これが足を引っ張ってる」

 

 診断結果に目を通した二人の辛辣な評価に、俺の心はいたく傷つけられた。

 

肩を落とすどころか地面に倒れ込みたいくらいだ。

 

現在の俺の心境なら地面に抉り込みさえできる気がする。

 

アースラの床に風穴あけてやろうか、人間穿孔爆撃かよ。

 

 才能のあるやつはこれだから困るんだ。自分を基準としたものさしで物事を測るのだから手に負えない。

 

「わざわざ口に出さなくてもわかってんだよ。俺を傷つけるためだけに言葉を発するな。批評するにしても、せめてもう少し言葉を選んでくれ……」

 

 腕を組んで、浮かび上がっているホログラフィックディスプレイを眺めていたクロノと、クロノの隣に並んで表示されていた数値を記録していたエイミィは一拍黙り込み、目を丸くして俺を見た。

 

「なにを言ってるんだ、褒めてるんだぞ? この適性でなにをどう駆使すれば短い時間とはいえ、僕と相対することができたのか不思議でならない。それに魔力量も、なのはと比べてしまえば優劣の差がはっきりと表れるが、一般局員の平均よりは多いくらいだ。合計値こそ目も当てられないほど悲惨だが、適性のいくつかは優れている」

 

「私、戦闘映像も見させてもらったんだ。魔法の恩恵を受けているにしても人間離れした動きをしてたし、クロノ君の拘束魔法を一瞬で破壊する未知の技術。あんなの優秀な魔導師でもそうそうできることじゃないよ。徹くんは数字の上でのスペックを超える力を戦闘中には叩き出すんだね。興味をそそられるよ、実際に戦ってるところを見たいな」

 

 ヘコんだ俺を慰めるためなのか、それとも本当にそう思っているのか、クロノとエイミィはフォローの言葉を投げかけてくれた。

 

 しかし、クロノの言をそのまま受け取ると、なのははとんでもない人材ということになる。

 

俺で局員の平均くらいの魔力量らしいのに、以前ユーノに測ってもらった時、なのはは俺の三倍と言っていたのだから、その鬼才ぶりたるや、もはや想像の埒外だ。

 

その上魔法の適性も優れているともなれば、その資質に嫉妬することすら叶わない。

 

あまりにも隔絶された差があると、人間は妬み嫉みではなく羨望の念を持つのだ。

 

 才能と英気溢れるなのは、勤勉で優秀なユーノ、自分の俊才に驕ることなく努力を重ねるクロノ、フェイトとアルフの非凡な能力も俺は身をもって知っているし、リニスさんに至っては力の全貌すら把握できないほどである。

 

なんとまあ、俺の周りには嫌というほどに出来の良い人間が揃っているものだ。

 

 『才能があるから』などと一概に、十把一絡げに纏めるつもりは決してない。

 

各々持って生まれた素質だけで現状の能力に行き着いたわけがないだろうし、血の滲むような苦労と、諦めずに進達した過程があってこそだと思う。

 

それらを引っ括めて『才能』なんていう一言で、たったの漢字二文字で言い捨てることはできない。

 

それは彼ら彼女らに対する侮辱で、彼ら彼女らの努力に対する冒涜だ。

 

 それでも、羨ましく思ってしまう気持ちまでは抑えることはできない。

 

 俺も、なのはたちのような光り輝くなにかを欲しいと、切に願ってしまう。

 

 分不相応であることは理解しているし、頑張ることもせずに力を得ようなどと都合のいいことは考えていないのだから、それくらいは許してもらいたい。

 

届かずとも、背伸びして天を見上げ、星に手を伸ばすことくらいは、許してもらいたい。

 

 ああダメだ、素質がどうとか才能がなんだとか考え始めたら、俺のネガティブな思考は(とど)まるところを知らない。

 

こんな暗い気持ちでいて得をすることなど何もないんだ、さっさと切り替えよう。

 

 ふぅ、ともやもやした感傷をため息とともに吐き出す。

 

 意識をアースラの訓練室に戻せば、クロノとエイミィがなにやら愉快そうに話しを進めていた。

 

どうしよう、俺としたことが思考のリソースをこちらに割り振っていなかったせいで会話についていけてない。

 

 俺の脳みそはオートパイロット状態になっていたらしく、クロノたちの振りには適当に相槌を打っていたようだ。

 

おかげで俺のテンションと内心の落ち込みようには気づかれていないようだが、同時に俺も話の方向性には見当がつかない。

 

 ここはしばらく黙っておいて、趨向(すうこう)を把握してから会話に参加するとしよう――

 

「ああ、それなら都合がいいな。徹もそれでいいか?」

 

「んぇあ? お、おう。万事つつがなくオッケーだ」

 

 ――としたのだが、唐突にクロノに水を向けられ、俺は咄嗟にYesと返事をしてしまった。

 

 え、なにに対しての採決だったの? どんな議題で議会は進行してたんですか?

 

「よし、決まりだな。早速準備に取り掛かるとしよう」

 

 俺の心中の動揺とは裏腹に、クロノはどこか楽しげな声色で訓練室の中央へと歩みを進めた。

 

 あんなご機嫌なクロノを見たのは初めてだ。

 

今さらイヤだなんて言い出せないし、なんの話だったっけ? などと口にできる雰囲気でもない。

 

 さてどうしようか、と頭を悩ませていた俺に、エイミィがいつの間にか近づいていた。

 

 彼女はクロノの背中を見やりながら言う。

 

「なかなかクロノと張り合える魔導師っていないからね、嬉しいみたい。徹くんの戦い方が面白いっていうのもあると思うけど」

 

「面白いとはなんだ。俺は極めて真面目にやってるってのに。ていうかぜんぜん張り合えてねぇよ……ん? なんで今クロノが嬉しがるんだ?」

 

「なんでって……今から練習試合をしようってことになったじゃない。また戦えると思って気が高ぶってるんだよ」

 

「…………ん。そう、だったな。なるほどなぁ、だからかぁ……」

 

 なにそのふわふわした返事、と笑いながらエイミィは俺に人の良さそうな笑顔を向けた。

 

 今日の天気のような、春の陽気を思わせるエイミィの表情に反して、俺の背筋には冷たいものが走る。

 

 三日前にクロノと手を合わせた時のように上手くいくとは到底思えないからだ。

 

そりゃあ俺としてももう一度戦いたいとは考えていたが、こんなにすぐに再戦の機会が訪れるなんて予想だにしていなかった。

 

 とはいえ、実戦を重ねることが上達の近道であることは俺も身に染みて知っている。

 

武道においてもその通りであったし、大変痛い目にはあったが痛い目の甲斐あって今の俺があるのだ。

 

 予定にはなかったし想定もしてなかったが、修練のためだと割り切ろう。

 

 そうやってポジティブに考えておかなければ、脳髄からの指令を待たずに俺の身体が一目散に逃げ出しかねないからだ。

 

想像以上に、クロノの魔法は俺に恐怖を刻み込んでいたようである。




冒頭、誰得な描写でしたね。
無機物萌えというジャンルの開拓は忘れていません。

次回は久しぶりに戦闘シーンです。
よくよく考えると前回の戦闘からだいぶ間が空いてますね。


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集中しろ、これ以上痛い思いをしたくないのなら、これ以上敗北を重ねたくないのなら。

 二重に張られた結界の内側に、戦闘訓練をするために集まった人間はいた。

 

もちろんのことだが、その中には俺も含まれている。

 

 一辺五百メートル、縦にも五百メートルという立方体の形になっている結界内が今回の訓練で使用される。

 

結界内には、様々なシチュエーションを想定して取り組むことができるようにと建造物なども配置できるそうだが、今回は魔導師同士、一対一(タイマン)での試合となるので障害物と成り得るようなものは一切排除されている。

 

 足元はデフォルトである土の地面。

 

視界を遮る物はなにもなく、見晴るかす茶色の地平線が広がっている。

 

果てしなく続いているように見えても、五百メートルのエリア限界線を越えることはできないらしく、透明の壁が行く手を妨げるとのことだ。

 

つまりはこの地平線も一種の演出と言えるだろう。

 

 言うまでもなく、そんな空間がアースラの中に存在するわけがないので転移してここまでやってきた。

 

 俺の左手にはオーソドックスな杖のデバイスが握られている。

 

アースラに乗艦している時空管理局局員の魔導師さんたちと同じデザインのデバイスである。

 

 これは訓練前、結界の中へと足を踏み入れる前にクロノから貸し出されたものだ。

 

クロノ曰く、デバイスがあった方が楽だろう、とのこと。

 

 魔法を発動させるための演算に思考のリソースを振らなくてもいいのはありがたいのだが、杖という形状をしている以上、片手が塞がるのは如何(いかん)ともしがたい。

 

 バリアジャケットの代わりになる、時空管理局推薦の防具……というより服も、俺の身体を採寸してまた今度渡すと言われたが、それは慎んで辞退した。

 

外見の衣装まで揃えてしまうと完全に時空管理局の一員みたいになってしまうのでは、という懸念があったのだ。

 

その懸念もデバイスを受け取っている時点で遅い気もするが。

 

「次戦うやつは位置につけ」

 

 クロノの声が遮蔽物のない結界内に響く。

 

 いくつかの試合が繰り返され、次の対戦カードには俺の名前が書かれているので俺は持ち場につく。

 

 彼我との距離は目測五十メートルといったところ。

 

あまり距離を開けると近接型の魔導師に不利となるし、あまり距離を詰めると射撃・砲撃を得意とする魔導師に分が悪いとのことなのでこのあたりに落ち着いた。

 

そもそも近接型という人間はあまりいないようだが。

 

今まで見学していた戦いでも、俺やアルフやフェイトのように身体が触れるほど近づく魔導師はいなかったし。

 

 五十メートル先に立つ赤髪の対戦者を見やる。

 

身長はぱっと見俺と同じ程度、そこそこに高身長だが魔法だけでなく身体の方も鍛えているらしく、ひょろいイメージはない。

 

目にかかるほどに長い燃えるような赤い髪と、精悍な顔立ちが印象的な男性だ。

 

歳は俺より幾つか上というところだろう。

 

 ここまででわかるとは思うが、俺の対戦相手はクロノではない。

 

 この模擬戦闘訓練、当初は俺とクロノでやりあう手筈だったのだが、ノリのいい局員さんたちが『俺たちも参加したい!』と言い出したことにより、突如トーナメント形式へと変貌を遂げた。

 

彼ら彼女らの要望を聞き入れて計画をこのような形に組み直したのだから、意外とクロノも楽しんでいるふしがある。

 

「それでは始める。三、二、一……」

 

 クロノのカウントダウンが始まった。

 

 戦闘開始前に、いつも通り魔力付与による身体強化を全身に纏わせる。

 

この魔法による身体能力向上効果で接近、攻撃、防御まで行うのだから、これがなくてはどうしようもない。

 

始まらないどころか、始まる前に終わってしまう。

 

 デバイスを使った魔法の行使は、デバイスに念じるか、またはボイスコマンドでできるらしい。

 

慣れない手つきで行使してみる。

 

 俺は相手の一挙手一投足を見逃さないよう前方へと集中の矛先を向けながら、デバイスへ魔力付与の術式演算を依頼したが、初めて自分以外の存在に演算を任せるせいか、どうにも気持ちの悪い違和感が拭えない。

 

構築されるスピードや、体表面へ展開される感覚もどこか異物感があった。

 

 気になるといえば気になるが、今から模擬戦とはいえ戦闘行為をするのにそんな曖昧な感覚に(かかずら)ってはいられない。

 

使っていればそのうち慣れるだろうと思い、思考を切り替える。

 

「始め!」

 

 クロノのソプラノボイスで、戦闘演習開始の号令がかけられた。

 

 と、同時に俺は一歩踏み出し、対戦相手である赤髪の魔導師へと駆ける。

 

 発動時に感じた違和感はやはり気のせいだったのか、身体を動かしてもいつもと異なる要素は見受けられない。

 

踏み込んだ時の力の流れも平常、接近時のイメージも通常通り。

 

魔法を発動させようとした時の、魔力が滞るような感覚はいったいなんだったのかは、結局掴めないままだ。

 

 俺が十メートルほど距離を詰めると、赤髪の魔導師は音叉のような形をした杖の先端を俺に向け、魔法を放った。

 

技の名前までは知らないが、射撃魔法の一種だろう。

 

 展開されるまでのスピードと浮かび上がらせた魔力の弾丸の数から、彼がどれほど優秀かがわかる。

 

それだけではなく、俺の接近を見て取るや否や、射撃魔法を作り出しつつすぐさま後ろへ下がったことから、俺が肉弾戦タイプであるとあたりをつけたのだろう。

 

射撃魔法で牽制しつつ相手の出方を見て、隙があればそれを突くというところか。

 

状況判断も速やかなものだ、厄介だな。

 

 俺へと迫る魔力弾は五発。

 

彼の周りには後三つの魔力球が宙を泳いでいる。

 

一気に全部撃ってこないのは戦略上当然とも言えるが、なんともいやらしい。

 

いつ飛んでくるかと常に気を張ってなければならない。

 

 彼の髪より鮮やかに輝く淡い赤色の魔力弾は、スコードロンでも組むように仲良く横一列に並んで飛来する。

 

 避けるためには姿勢をとても低くしてやり過ごすか、左右両端より外側へ退避するかしかない。

 

だが姿勢を低くすれば次弾を躱すことは困難になるし、慌てて左右どちらかにサイドステップしても、結局安全に次の攻撃を対処するだけの余裕はない。

 

相手はこちらの行動を見てから綽々(しゃくしゃく)と対応できるのだから最善手とは言い難い。

 

 なのはやユーノくらいに丈夫な障壁を築けるのなら、殺到する魔力弾を障壁で防げばいいだけなのでこんなに悩むことはないのだろうが、障壁の耐久性に不安が残る俺にとっては一つ一つが致命傷になりかねないのだ。

 

クロノほどの威力を有していないにしても、楽観視はできない。

 

この艦に乗っている以上、目の前の彼が落ちこぼれのへっぽこ魔導師なわけがないのだ。

 

なるべくなら安全な選択肢を選びたい。

 

「いよっと」

 

 よって俺は、横一列に並んだ魔力弾の左から二つ目と真ん中の間に身体を差し込んで回避した。

 

これならしゃがんで躱すより体勢が崩れないので次の動きも取りやすく、左右どちらかに大きく避けるよりゆとりもある。

 

 赤髪の彼が撃ち放った射撃魔法をこうも冷静に捌くことができたのは、ひとえにこれまでの経験あってこそだ。

 

今までフェイトやアルフの雨あられとばかりな弾幕に晒されたり、クロノのレーザーの如き超高速射撃魔法を目の当たりにしている俺からすれば、申し訳ないが今回の対戦相手の魔法では少々迫力に欠ける。

 

俺に危機感を与えるほどではなかった。

 

 俺の躱し方を考慮していなかったのか、赤髪の魔導師は一瞬驚きの表情とともに固まったが、やはりそこは本職、すぐさま愕然とした精神状態から立ち直り、残りの魔力弾を追撃に向かわせる。

 

 軌道はさっきの五発と似通っていて横並びとなっているが、放つ順番に手を加えてきた。

 

左右に分かれる二発の後を追うように真ん中の魔力弾が迫り来るという仕組みだ。

 

隙間が空いているからと動かずにいて左右の魔力弾をやり過ごせば、遅れてやってくる真ん中の弾丸が直撃することになる。

 

なるほど、理に適っていると言える。

 

 そういえばクロノの射撃魔法もこんな感じの配置だったなぁ、なんてことをふと思い出した。

 

管理局の教練でそういう訓練がなされているのだろうか。

 

たしかに有効な攻め方ではある。

 

「ここらで威力を計らせてもらおうかな」

 

 防御魔法を展開するためデバイスに代理演算してもらう。

 

 使う魔法は、一番最初にユーノから教えてもらった行使者の正面に展開される一般的なシールドタイプの魔力障壁。

 

俺の雀の涙ほどの適性ではそのまま使えばすぐさま蜂の巣なので、独自でプログラムを書き換えた特別仕様の密度変更型障壁を使用する。

 

アースラに乗艦している魔導師たちは皆さん優秀とはいえ、フェイトやクロノほどの天稟(てんぴん)までは持ち合わせていないようで、射撃魔法の速度自体はさほど脅威ではない。

 

クロノと戦った時に初めて知覚した超高速演算に頼らずとも、魔法弾の射線上に障壁を合わせるのは容易だ。

 

 対戦相手の周囲に浮遊していた射撃魔法はすでに残弾が尽きている。

 

ここで仮に、防御に失敗したとしてもすぐに追い打ちを受けることはないだろう――

 

「え……ちょ、なんで!?」

 

 ――などと少し心に余裕を持ってしまったからだろうか。

 

決して侮っているわけではないし、力を抜いたわけでもないが、ここでアクシデントが発生する。

 

 手のひらから数センチ離れた空間に展開されるはずだった障壁が、なぜか現出されなかった。

 

 煌々と輝く淡赤色の魔力で編み込まれた弾丸は俺を射抜かんと迫ってきているというのに、障壁は現れてくれない。

 

左手に握るデバイスにはちゃんと『防御魔法作ってね』という俺の命令が送られているようだが、なぜか構築されることはなかった。

 

 密度変更型障壁のど真ん中に当てて魔力弾を逸らそう、障壁を叩くその衝撃からどの程度の威力か見積もろうという算段だったので、突き出した俺の手のひらから右腕は彼の射撃魔法の射線上にばっちり乗っかってしまっている。

 

今更手をどけるのは間に合わないし、手をどけたところで魔力弾の軌道は俺の右胸をも貫いているのだ。

 

どちらにせよ、事ここに至った以上、避けるという選択肢は消え去った。

 

 残された手札は、身体を固めて直撃に備えるか、襲い来る赤色の魔力球を壊すかの二者択一だが、右腕は伸ばしきっているも同然だ。

 

 こんな構えから繰り出せる攻撃などありはしない……と諦めかけたが、いやいや、あるではないか。

 

工場跡地でクロノが放った誘導弾を打ち砕いた、文字通りに粉砕した技が。

 

 あまり悠長に考えている時間はない。

 

いくら人の命に危害を加えないスタンモードの魔法攻撃とはいえ、直撃すれば不快な衝撃は身体をなぶるし、痛覚が神経を貫くのだ。

 

痛い思いをしたくないのなら、こうする他に手はない。

 

 クロノの誘導弾を木っ端微塵にした時は標的が拳に接触するような状況だったため、筋肉から生み出される力を増幅させながら拳まで運ぶことだけに集中できたが、今回はそうもいかない。

 

 数センチを、数ミリを、一瞬よりも短い時間で埋めることにより、絶大な破壊力を(もたら)すあの技は、インパクトのタイミングこそが肝要なのだ。

 

如何に優れた技であっても万全の力を引き出せなくてはなんの意味もない。

 

 早すぎても遅すぎてもいけない。

 

集中しろ、これ以上痛い思いをしたくないのなら、これ以上敗北を重ねたくないのなら。

 

 赤髪の魔導師が射出した赤色の光球の軌道は寸分違わず俺の読み通り。

 

その軌道線上に右の手のひらを乗せ、俺の技のリーチに侵入する瞬間を待つ。

 

 最大威力発揮距離は数ミリ、技の威力は減衰させて距離を長くしても最長射程数センチという神無流の零距離奥義の範囲に、魔力弾がその身を捻じ込んできた。

 

射程距離にターゲットが入ったことを知覚する前に、脳からの伝令を待たずに身体が動く。

 

全身の筋肉をほぼ同時に駆動し、流動させ、右肩から一直線に手のひらまで押し出す。

 

 障壁を張ろうとしていたので手は握り込まれておらず開かれていたので、結果として掌底のような形になった。

 

「神無流奥義『発破』」

 

 一度クロノとの実戦で成功を経験していたおかげか、全身を流れる力はスムーズに接触点である手のひらの底まで伝わり、見事に彼の射撃魔法を崩壊させるに至った。

 

粉末のような魔力粒子にまで細かくなった射撃魔法『だったもの』は、俺の周囲をふわふわと漂い、空気に溶けるように消えた。

 

 離れた位置で俺と赤髪の魔導師の試合を見学していた局員たちの『オオォッ!』という、驚嘆なのか歓声なのかよくわからない声が俺の耳朶をうつ。

 

甲高い音を響かせる指笛や拍手まで聞こえてきた。

 

 別に大道芸のつもりでやったわけではないのでそんなオーバーリアクションはしないでいただきたい。

 

窮地に追いやられた末の行動であり、苦し紛れとでも言うべきものだったのだから、試合運びの手落ちを責められこそすれ、賞賛されては逆に羞恥すら感じる。

 

 赤髪の男性も俺がやったような防がれ方をされたことはなかったのか、度肝を抜かれたように目と口を大きく開いて呆然としていた。

 

せっかくの男前が台無しだ。

 

 この一瞬生まれた空白を逃す手はない。

 

 俺は突き出していた右の手のひらを胸の前まで持っていき、左手は地面と平行にして右手の上に乗せる。

 

杖は首と左肩で落とさないように持つ。

 

 そして元気よくはきはきと発声。

 

「ちょっとタイム!」

 

 俺が動きだしたことにより、警戒して前傾姿勢を取っていた対戦相手の赤髪の魔導師は、俺の言葉を聞いて倒れるようにずっこけた。

 

整った顔立ちに反して、彼は意外とおもしろい人なのかもしれない。

 

「なんなんだお前は。何をし出すか全く予想ができない」

 

 唐突な試合中断に、何事かとクロノが飛んできた。

 

 俺は首と肩に挟んで持っていた杖を右手で握り、クロノに突き出す。

 

「ごめんな、いきなりストップさせて。これ、デバイス返すわ」

 

 俺が返却した杖を、クロノは両手で受け取って『なぜ戦闘中に返すのだろうか』という疑問を顔に浮かばせながら小首を傾げる。

 

 小憎たらしいセリフをはかずにいると、クロノはただのカッコかわいい男の子だな。

 

ユーノも加えて女装とかさせたらすごく盛り上がりそう。

 

口に出したら今度こそスティンガーレイがお腹に風穴を開けそうなので、もちろん黙っておくけども。

 

 この場に相応しくない考えを頭から振るい落とし、クロノに向き合う。

 

「演算処理速度が遅い。俺にはちょっと合わねぇみたいだ」

 

「お、遅いだと? 管理局で正式採用されている品だぞ?」

 

「そう言われてもな。たしかに良いものだとは思うんだけど、俺のタイミングで発動しないし、発動しても言い表せない違和感が残る。これなら俺はデバイスがないほうが楽みたいだ。ごめんな、好意を無下にしちまって」

 

 最初に感じた気持ちの悪い感覚に、俺はようやくその正体に気づいた。

 

タイムラグだったのだ。

 

 自分の頭で演算して構築するよりも、デバイスに任せたほうが若干の遅延があり、身体に展開されるのも遅れがある。

 

 それでも、魔力付与であればまだなんとかなった。試合前の準備として発動させておけるのだから少しばかり時間がかかろうが支障はない。

 

 だが防御のための魔法ともなればそうはいかない。

 

刹那の遅れが命運を左右するのだ。

 

ゼロコンマ数秒以下であったとしても、その遅れを俺は看過することはできなかった。

 

 その論理で言えば、クロノから(というより時空管理局から、であるが)借用した杖型のデバイスは、命を預ける相棒とするには不適格と言わざるを得ない。

 

 もちろん、管理局で採用されていて、実際に局員の方たちは俺が借りたのと同じデバイスを使いこなしているのだから、質の悪いデバイスというわけではないのだろう。

 

他の試合を見学していても障壁や飛行魔法は滞りなく発動していたし、俺の対戦相手である赤髪の魔導師も射撃魔法を見事な速さで作り出して見せた。

 

間違いなく、貸してもらったデバイスは一般的な魔導師からすれば非の打ち所がない一級品だ。

 

 原因はデバイスにではなく、俺にある。

 

 フェイトやアルフと渡り合うために、俺は術式のいたるところに手を加えている。

 

魔力の保有量にも劣り、持って生まれた残念な適性により障壁の耐久性も心許ない俺の魔法では、デフォルトのままではすべからく使い物にならない。

 

戦い方に合わせて必要な部分は増強し、それ以外はばっさりと切り捨てるくらいの潔さがなければ対峙できないような連中と戦っているのだ。

 

その改造に改造を重ねた成れの果てが、俺が普段使っている密度変更型障壁や角度変更型障壁である。

 

自身で練り上げ、しかも幾度となく行使して慣れているのだから、自分で演算を行い展開させるぶんにはなんら不都合はない。

 

 しかしデバイスからしてみれば厄介この上ないだろう。

 

例として障壁を挙げれば……毎回出現させる場所も異なるし、毎回障壁の角度も変化する。

 

跳躍移動の足場としても使うので強度や大きさまでもが変動する。

 

発動させるたびに術式内の数値や仕様が変更されているようなものなのだ。

 

 プログラムの様々な箇所の変更は、演算処理のラグとなって積み重なっていく。

 

普通の障壁であれば固定されたプログラムを走らせるだけでいいのだから、俺の魔法はデバイスに無理をさせているということに他ならない。

 

反応が鈍いからといってデバイスを(なじ)るわけにもいかなかった。

 

「性に合わないというのなら無理強いさせるわけにもいかないからな。受け取っておこう」

 

「ほんとごめんな、気を使ってもらったってのに」

 

「いい、人それぞれだ。しかし変わった人間だな、徹は。デバイスがないほうが戦いやすいとは」

 

「自分で演算することに慣れちまったっていうのが一番の理由だろうな。あと俺の魔法にオリジナルの要素が組み込まれすぎている、というのも一因だ。それに俺は素手でやりあうのが身体に染みついてるから、左手に杖を持ってたら不便で仕方がない。手ぶらが一番肌に合うんだ」

 

「せっかく貸与してやったというのになんていう言い草だ」

 

「あはは、悪かったって。言葉の綾だ」

 

 クロノの責めるような視線を笑って受け流す。

 

 事実として、やはり手に杖を、杖でなくてもいいのだが何かを持っているというのは、いつもと重心が変わってしまい、動きにくいというのはあった。

 

 俺が末席を汚している武門では、古今東西の武技の粋を集め、集約し、系統ごとにわけられて伝授されている。

 

その技は途方もない数に及び、 分類こそされているが数が数なので俺も全てを把握していないし、記憶していない。あの鮫島さんをして、知っている技よりも知らない技の方が多いと言わしめるほどなのだから、その量たるや推して計るべし、である。

 

 だが、我らが神無流の(おびただ)しい数の技や技術において、唯一共通している事柄が一つだけあった。

 

条件と言い換えてもいいそれとは、徒手空拳であることだ。

 

 両の手を自由にし、両の足を身軽にし、己が肉体のみで戦うことこそを至高とするような一門なので、得物を携えて戦うという状況をまず大原則からして取り除かれてしまっている。

 

相手が鈍器や刃物、銃器までをも装備していることは想定されていても、自分がそういった武器を持つということは一切想定されていない。

 

 神無流の武術にどっぷりと慣れ浸っている俺にとっては、片手が塞がれるなど枷以外のなにものでもないのだ。

 

「用が済んだのならすぐ再開するぞ」

 

「了解、中断させて悪かったな」

 

「後も詰まっているんだ。精々観客を楽しませるんだな」

 

「楽しませることができるかはわからんが、まぁ精一杯やらせてもらおう。……一応聞いとくけど、これって訓練なんだよな? 楽しませるとかってちょっと違う気がするんだけど」

 

 俺の質問は聞こえなかった振りをして、クロノは局員たちのもとへと戻った。

 

 もしかして見世物のような扱いにされているのでは、という一抹の不安はあるが、真面目なクロノのことだから訓練の中に遊び的な要素も取り入れているのだろうと結論づける。

 

そうすることで技術の向上にも繋がる……のかどうかは知りようもないが、淡々と修練するよりかは実りがあるんだろう。うん、きっと。

 

 俺は赤髪の彼へと手を振って、今から試合を再開するという旨を伝える。

 

 彼も腕を上げて返答してくれた。

 

男前がやるだけでこうも様になるなんて、容姿というのはかくも不平等である。

 

「それでは試合を再開する! 三、二、一……始め!」

 

 中断される前の立ち位置に戻ると、すぐさまクロノの声が結界内に反響する。

 

戦闘開始の合図と似たようなセリフだが、今回はカウントダウンのテンポがずいぶんと速くなっていた。

 

俺のせいでこの試合だけ無駄に長引いているからだろうな。

 

『巻きでやれ』ということが言外に示されていた。

 

 三十メートルから四十メートルほど離れた彼は一旦間があったというのに集中力は途切れていないようで、長い杖型デバイスを身体の後ろや腕で回転させ、勢いよく先端を俺の方向へと突きつける。

 

気概十分といった様子だ。

 

 俺も魔力付与を使って全身をコーティングし、拳を向けて構えを取る。

 

瞬時に身体の各所へと構築されるこの感覚、いつもと同じ……いや、いつもより鋭いように感じられる。

 

体調は万全、絶好調だ。

 

 戦況の動向を把握しつつ、相手の攻撃を回避したり防いだりと立ち回りながら自分の頭で魔法の演算というのは負担になる時もあるが、やはり自分でやるほうが安心できる。

 

デバイスに丸投げしたらたしかに楽ではあるが、それが気がかりになって戦闘に意識を傾けることができなければ元も子もないのだ。

 

 試しに障壁を作ってみる。

 

無色透明なので見ることは叶わないが、魔力の流れで察知できた。

 

イメージ通りの場所、予定通りのタイミング、期待通りの強度、想像通りの大きさの障壁が俺の手元に現れている。

 

やはり自分で演算処理をするほうが、臨機応変に作り変えることができるので都合がいいな。

 

 昔から計算に関しては得意な分野であったが、最近はとみに脳みそを回転させることが増えたのでさらに成長を遂げたのか、術式の演算もかなり速やかにできるようになっている。

 

思考のリソースを割り振ることによるマルチタスクの併用の恩恵だ。

 

 魔法の技術や攻撃力、防御力といった面ではどうしようもないが、思考速度と魔法の同時展開であれば俺にも自信がある。

 

俺の心中には負けるかも、なんてネガティブな想像は欠片も浮かばなかった。

 

対戦相手の彼も大変有能な魔導師だが、クロノやフェイトなどの強者と比較すれば付け入る隙はいくらでも見いだすことができる。

 

 久しぶりに勝利を味わえるかもしれないと思うと、俄然やる気が湧いてきた。

 

よくよく考えると、魔法を知ってからこの方、俺は負けっぱなしなのだ。

 

ここらで白星というご褒美を与っても罰は当たらないだろう。



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立身栄達への道は険しく、白日昇天への壁は高い

 試合はすでに再開している。

 

 機先を制するという意味を込めて、先に動いたのは俺だった。

 

なにより遠距離からの攻撃手段を持ち合わせていないのだから、近づかないことには始まらない。

 

 地を踏みしめて接近を試みるが、彼も()る者、即座に迎撃の構えを見せる。

 

左右に三発ずつ、計六発の魔力弾がタイミングを外すように散発的に放たれた。

 

 軌道を読み切り重心を崩さぬように体勢に留意しつつ躱し、時に右に左に進路を転換し回避する。

 

最後の一発は角度変更型障壁で勢いのベクトルをずらしながら防いだ。

 

『発破』で射撃魔法を破壊した時、あまり重い手応えがなかったので何枚も障壁を張る必要はないと判断した。

 

 残り三十メートルを切り、相手との距離が二十メートルちょっとを残すのみとなったので、満を持してあの移動法を使う。

 

周りからは『人間離れ』と評される神無流の技、『襲歩』である。

 

クロノをして『瞬きでもしようものなら瞬間移動としか思えないぞ』と言わしめた高速移動だ。

 

 二連続の『襲歩』により、二十メートルという空間を一息で詰める。

 

 拳が届く距離まで肉薄すると、赤髪の彼が信じられないものでも見たように目を丸くしたのが視界に入った。

 

 接近した速度を乗せて、左腕を振るう。

 

「くっ……。たしかに常軌を逸した機動力ですね……」

 

 完全に意表を突いたと思ったが、インパクトの寸前で俺と彼の間に淡い赤色の防御魔法が滑り込んだ。

 

『たしかに』なんて言いかたをするということは誰かから俺の情報を聞いて、どのような戦法を取るかを知っていたのだろう。

 

頭の片隅にその情報があったからこそ防御が間に合ったのか。

 

誰だよ、俺に不利になるようなことを吹き込んだやつは……どうせクロノに決まっている。他にいないし。

 

 だからといって構いはしない、シールドに防がれたのならそれを食い破るまでである。

 

 拳がシールドに触れた瞬間に相手の術式へとハッキングを仕掛けようと画策していたが、最初の一撃で身を守る盾としては致命的なほどに大きな亀裂が走った。

 

なのはやアルフの障壁で感覚がおかしくなっていたみたいだが、どうやら俺の攻撃にはそこそこの威力があるらしい。

 

 なにはともあれ、障壁がこの有様であればハッキングを使うまでもない。

 

もう一撃ぶち込めば貫通するだろう、追撃あるのみだ。

 

 間髪入れず、右足による蹴りを叩き込めば、かすかな手応え(この場合足応えというべきか)ののちにガラスを砕くような甲高い音。

 

予想通り二撃目で障壁を破壊できたが、それ以外の感触は伝わってこなかった。

 

「近接格闘は凄まじい、というのは本当でしたね。近寄られてしまうと私では相手になりません」

 

 赤髪の彼は高さ五メートルほどの空中に浮遊していた。

 

 俺の初撃を障壁で防いだその時から退避すると決めて動いていなければ、とてもじゃないが回避できなかったはずだ。

 

最初から接近戦を捨てていたということか。

 

「クロノ執務官の言っていた通りです。教えてもらっていなければさっきの蹴りでノックアウトでした。まだ若いのに大変お強いですね」

 

「やっぱりクロノかよ……。俺はまだまだだって。あんたのほうが……えっと名前は……」

 

「失礼しました、レイジ・ウィルキンソンといいます」

 

「レイジさんね、憶えた。俺は逢坂徹、呼ぶ時は徹でいいよ」

 

「徹さん、とお呼びすることにしますね」

 

「『さん』もいらないんだけどなー」

 

 俺の対戦相手である赤髪の魔導師こと、レイジ・ウィルキンソンさんが自己紹介してくれたので俺も返す。

 

 派手な髪色などといった見た目は性格には関与しないのだろう、とても礼儀正しい人だった。

 

穏やかな口調で丁寧な物腰……なんだろうな、俺の対極といっていいかもしれない。とても女性におモテになられそうなお方だ。

 

「適性検査をしている時の会話が聞こえていました。盗み聞きをしていたようで申し訳ありませんが、ここからは空中戦でお相手をさせてもらいます」

 

「別に申し訳なく感じる必要はないよ。戦いの中で相手の弱点を突くのは当然のことだ。それを非難するつもりはないし、できない」

 

 レイジさんはさらに高度を上げていく。

 

十メートル、十五メートルとどんどん高空へと上昇する。

 

 相手の弱みにつけ込むのは、戦いの中では当たり前に行われて然るべきだと俺は考えている。

 

わざわざ相手の土俵で戦う理由などない。

 

自分に利がなく、相手に有利なのであれば尚更だ。

 

 逆に俺の飛行適性が壊滅的でぼろ雑巾以下だと知っていて、それでも試合開始早々に空中戦に移行しなかったレイジさんに疑問を抱くくらいのものである。

 

 おそらく彼は生真面目で実直なのだろう。

 

聞こうとしたわけではないにしろ、耳に入ってしまった個人情報を利用して戦闘訓練を有利に運ぼうとすることに後ろめたさがあったのかもしれない。

 

 俺なら率先して、なんなら口角を釣り上げて高笑いしながら、相手が苦手とするシチュエーションに追い込むところである。

 

べつに俺の性格が捻じ曲がっているのではない、俺以外の人間の性格が真っ直ぐすぎるからその対比でちょっとだけ根性が歪んでいる俺がおかしく見えるのだ。

 

 上空、おおよそ二十メートルを越えるえたあたりでレイジさんが杖を振り下ろす。

 

 地上で作り出していた射撃魔法の数は最大ではなかったようで、天から降り注ぐ魔力弾は合計二十発を軽く上回っている。

 

瞬時には数えられないほどの量の射撃魔法が、頭上から俺めがけて押し寄せる。

 

 一度にこれだけの数を展開させる魔導師を見るのは初めてだ。

 

この(アースラ)にいるのだから優秀だろうとは思っていたが、やはり彼にも他者を突き放す、才能とも換言できる特色があった。

 

「その情報(データ)は間違ってないが、その認識は間違っているな」

 

 俺はまず、弾丸の雨を振り払うように地を駆けた。

 

第一陣をやり過ごし、間があいたところで力強く踏み込み、跳び上がる。

 

 アルフ戦での反省を生かして効率化省力化したというのに、これまで使う機会に恵まれなかったこの技術。

 

やっと日の目を見る時が訪れた。

 

 真上に跳び上がった最高到達点、ジャンプした力と重力とが釣り合って動きが止まるその瞬間を狙い撃ちにするように、レイジさんの怒涛とでも言うべき射撃魔法が再び襲い来る。

 

 それらを視界に納めて、俺はそこからもう一度跳ぶことで群れを成した射撃魔法を回避する。

 

 アルフと戦った時に考案した対空中戦用移動術、跳躍移動だ。

 

足元に障壁を展開し、それを足場とすることで飛行魔法を使って空を飛ぶ魔導師と相対する。

 

飛行適性が目も当てられないほど可哀想なことになっている俺が、必要に迫られて涙目になりながら必死こいて編み出した方法だ。

 

 アルフ戦では防御に使う障壁と同じものを足場にしていたため、消費魔力量もそれなりに多かった。

 

ただ足場にするだけの障壁に防御力は必要ないので硬度を削り、飛んで跳ねるだけなので面積もいらないと判断して足よりも少しだけ大きいくらいの障壁を両足分の二つ構築することで、消費魔力の大半を節約することに成功したのだ。

 

今ではこの移動術が原因で、魔力切れを起こすリスクはほぼないと言えるまでとなった。

 

 第二射を回避してからも何度か跳躍し、レイジさんと同程度の高さで障壁を展開、維持し静止する。

 

「飛行魔法は……使えなかったはずでは……」

 

「ああ、俺には飛行の魔法は使えない。でもさ、他のやつらは使えるんだよ。まるで舞い踊るように、自在に空を飛ぶんだ。そんな中俺一人だけ地べたに這い(つくば)ってちゃ、そんなのただの足手まといだろ? だから考えたんだ。どうすればそいつらと同じ舞台に立てるか、どうすればそいつらに置いていかれずに一緒に戦えるかを。その結果がこれ。無理矢理感はあるし不恰好だけど、戦えるのならそれでいい」

 

 跳躍移動という空中戦を可能とする術を確立させ、なのはとの模擬戦でユーノにも見せて言われたことがあった。空戦に対応できない魔導師は、魔導師として大成できないんです、と。

 

 ユーノ曰く、飛行技能を持たない魔導師……まさしく俺のような魔導師を総称して陸戦魔導師というらしい。

 

そういった魔導師は総じて、飛行技能を持つ魔導師より昇進するのに年数がかかるそうだ。

 

戦闘評価などがあり、それにクリアできなければ昇格も見送られる、そういうシステムとのこと。

 

 時空管理局は、有能な人材であれば年齢や過去に多少問題があろうと登用する。

 

長年在籍していようがつい最近入ったばかりであろうが活躍すれば関係なく評価し、『実力』があればとんとん拍子に出世するのだ。

 

 その『実力』という括りには飛行技術が重要な位置を占めている。

 

だからこそ、飛行技能を持たぬ者には立身栄達への道は険しく、白日昇天への壁は高い。

 

前にアルフから言われた『苦労するよ』という言葉はこれが理由であった。

 

 だが俺は、これからの進路として時空管理局への入局を目指しているわけでも、管理局への就職を見越しているわけではない。

 

管理局内での昇級がどうとかなんてまったく意識になかったし、眼中にもなかった。

 

 俺が空中戦にも対処できるよう努力したのは、たった一つの簡単な理由だ。

 

 空へと手を伸ばすばかりでは、天を見上げるばかりでは、やはりつらいのだ。

 

 彼女たちと対等に戦うことができない、渡り合うことができない。

 

遅れをとるのが嫌で、遠く離れた背中を眺めるのが嫌だった。

 

 当然俺は空戦だけではなく、他の技能においても勝るどころか劣ってしかいない。

 

それでも、最終的には無様に地を舐めることになったとしても、せめて一矢報いたかった。

 

 負けてばかりではいたくないという男の小さなプライドをあらん限りに費やし、掻き集めて凝縮させたのが、この跳躍移動なのだ。

 

「身体に一切のブレがない……魔法で足場作っているのですか。そんな使い方をしている人を初めて見ましたよ。聞いたことすらありません。そんな人だからこそ、クロノ執務官も一目置くのでしょうね」

 

「クロノが一目置いている? 俺に? そんな目や扱いを受けた覚えはまったくとっていいほどないんだけど」

 

「つんけんした方ですからね。それより……やはりその状態でも、先ほどの高速の接近技術は使えるのですか?」

 

「使えるぞ。自分好みに足場の角度を変えられる分、これのほうが動きやすいくらいだ」

 

「研究熱心で勉強熱心、努力も怠らないのですか。年上としては立つ瀬がありませんね」

 

「その気持ちは良くわかる。俺の周りにはちっこいのに優秀なやつが多くてな、年上の矜持とかずたぼろだよ」

 

「魔導師の素質に年の差は関係ありませんからね。さて、この限られた空間では私には打つ手はありません。近接攻撃には非殺傷(スタン)設定が反映されづらいので、怪我をする前に私は降参することとします。負傷により仕事を休むことになっては、同僚へ皺寄せが及んでしまいますから」

 

 レイジさんは端正な顔に柔和笑みを浮かべながら両手を上にあげる。

 

 まだ余力を残していそうではあるが、レイジさんは負けを認めた。

 

俺みたいな若造にわざわざ勝ちを譲る道理など思いつかないし、年下ではあるが役職においては上司であるクロノの前で、演習とはいえ敗北を喫することにプラスになる要因はない。

 

なぜここで諦めるのかはわからないが、今はレイジさんの言葉を額面通りに受け取っておこう。

 

なんにせよ勝てたのだ、せっかくの白星を返却するわけにはいかない。

 

「レイジ・ウィルキンソンの棄権により、勝者は逢坂徹とする! 徹! 聞きたいことがある、さっさと下りてこい!」

 

「クロノ執務官があのように仰ってますので戻りましょうか。私も徹さん聞きたいことがありますし」

 

「うわぁ、なんか根掘り葉掘り追及されそうで嫌だな……」

 

「それは諦めてもらうより他にないと思いますよ」

 

 微笑を湛えながら、レイジさんは飛行魔法を調節してゆるやかに下りていく。

 

それに続くように、三メートルおきに障壁を展開して俺も飛び降りるように地面へと近づく。

 

 こうして、審判役を自ら担っていたクロノの宣言により、俺とレイジさんの試合は幕を閉じた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 レイジさんと一緒に地面に降り立つと、クロノからいくつかの質問(と本人は表現していたが俺にとっては尋問)を受けた。

 

主立った内容は俺が使っていた魔法、特に跳躍移動についてである。

 

口で説明し、時に実演してクロノの疑問を解消させ、トーナメント形式の訓練を再開したのだが、予定以上に長引いてしまった説明やら訓練やらが終わった時にはもう昼飯時、しかも終わり頃。

 

まだ俺に言いたいことがあるらしいクロノだったが、時間が時間ということもあり、先に昼食を摂ることにした。

 

 ちなみにトーナメント式実技訓練の結果は、果然というべきか案の定というべきか、意に違わず予想に違わず実力通りの下馬評通りにクロノが頂点に輝いた。

 

 俺も決勝まで勝ち進んだが、相手が相手なので善戦虚しく地に伏した。

 

十五分間に渡り、粘って食い下がったのだから、俺にしてはよくやったほうだと自画自賛して自分を慰めておく。

 

「あの空中移動術、跳躍法だったか? 実際のところ、あれの使い勝手はどうなんだ?」

 

 アースラ艦内の食堂で昼食をぱくつきながらのクロノとの会話。

 

 長椅子に、これまた長いテーブルが数セット設置されている清潔感に満ちた空間だ。

 

白色をメインに使われた床材に、テーブルの天板も白なので頻繁に清掃しておかなければすぐに汚れが気になるが、そのあたりしっかりと手が行き届いている。

 

「一応呼称としては跳躍移動な。呼び方なんかどうでもいいけど。使い勝手はなぁ……飛行魔法が使えるならそれに越したことはねぇよ」

 

 クロノは、俺が演習の決勝戦や工場跡でも見せた、拘束魔法や障壁を内部から破壊するハッキングより、無理筋に近い空戦適応術である跳躍移動に強い興味を示した。

 

ハッキングについては結界内でどういうものかをさらっと喋っただけで納得したが、跳躍移動についてはこっちが驚くほどの食いつきだ。

 

 飛行魔法を離陸から着地まで完璧に使いこなすクロノにとって役に立つ話とも、取り入れるべき技術とも思えないのだが。

 

「なぜだ? 徹はその移動法で鋭く動いて射撃魔法を容易く回避し、跳躍を繰り返して多角的に攻めていただろう。回避するという点においては、鋭角的な機動ができない飛行魔法より優れているとすら言える。これをマニュアル化することができれば、技術の向上にも繋がり、怪我を負う確率を減らすことができるかもしれない」

 

「あぁ……なるほど、そういうことか」

 

 なぜこうまでクロノが跳躍移動に固執するように深く尋ねてきたのか……それは仲間の安全のためだったのか。

 

 今回演習を行って俺は初めて知ったのだが、飛行魔法というのはそれほど万能ではない。

 

いや、正確に言えば、かなり上位の適性がないと敵味方が入り乱れる乱戦や複雑な機動ができない、ということなのだが。

 

 俺は『普通』の飛行適性を持つ魔導師を知る前になのはやフェイトなどの才能を見て知ってしまったが故に、適性があればみんな彼女たちのように天空を舞台に舞い踊るように戦えるものだと思い込んでいた。

 

しかし実情、そのように空を自由自在に飛び回り、アクロバットな動きをできる人間はそうそういないのだ。

 

 適性は多少伸びることはあっても生まれ持った素質により限界があるし、素質があっても魔力コントロールが苦手であれば細かな出力調整はできない。

 

才能と努力があってやっと、実戦で使える技術と言えるものだろう。

 

 なるほど、管理局で飛行魔法を厚遇する要因はこういう点にもあったのか。

 

「革新的と言い換えることもできる技術なんだ。たった一人で編み出した徹からしてみれば、築き上げた成果だけを()(さら)われるように思うかもしれないが……」

 

 クロノ自身は資質と並々ならぬ精進の結果、十全に飛行魔法を操れるのだから彼にとっては関係のないことで、なくても困らない技術だろう。

 

それでも、仲間が負傷する可能性を少しでも減らしたい、その一心で新たな手法を模索するクロノの気持ちは痛いほど伝わるし、協力するに(やぶさ)かではない。

 

別に俺だけで独占しておきたいという考えもないので、技法を(つまび)らかにするのに躊躇うことはない。

 

 それに現状では形式的なものとはいえ俺の上司にあたるのだから、命令という形で『情報を開示しろ』と強制させることもできるだろうに、こうやって筋を通すところが、クロノの好きなところだ。

 

俺としても率先して力を尽くしたいと思う。

 

 しかし、跳躍移動をマニュアル化したいということだが、これはかなり難しいと言わざるを得ない。

 

手伝いたいのは山々だが、俺一人が手を貸したところでなんとかなる問題ではないのだ。

 

 豆が入ったスープを飲みながらクロノに答える。

 

「クロノが言っているような権利がどうとかってのは構わないんだ。そもそもあの技術は閃いただけだからな。任務の成功率と生還率が上がるのなら是非とも使ってほしい」

 

 ぱぁっ、と顔を明るくして口を開きかけたクロノが喋り出す前に、重ねるようにして俺は続ける。

 

「だがな、今思いつくだけでも問題点が三つあるんだ」

 

「三つ……?」

 

 首を傾げるクロノへ俺は頷く。

 

「ああ、厄介なことに三つもある。まず一つ目だが、他の魔法と重ね掛けで使うのが基本で、そして前提なんだ」

 

 魔導師の身体にはリンカーコアから流れる魔力が循環していて、特に何もしていなくても一般の人間とは隔絶した身体能力がある。

 

 だが、身体能力が格段に高いと言っても、それは魔法を知らない人間と比べて、という条件付きだ。

 

その状態で跳躍移動をしようとしても、一度の展開で移動できる距離は精々よくできて四~五メートルが限度。

 

戦闘中は幾度となく、それこそ数え切れないほどに足場を作り出すのだからあまりにも効率と燃費が悪い。

 

 俺は魔力付与と併用しているからこそ、なんとか使い物になっているのだ。

 

一気に彼我との距離を埋める『襲歩』という武器があるのも大きいだろう。

 

 なんの肉を使っているのかわからない唐揚げを頬張りながら一つ目の問題点を挙げると、クロノの眉間に皺が刻まれた。

 

解決するのが難しいと考えているのか、もしくは解決策自体が見つからないのか。

 

 心苦しく思いながらも俺は続ける。

 

「二つ目に、演算量がバカみたいに増える。一つのデバイスでやろうとすると、そう遠くないうちに熱暴走起こすんじゃねぇかな」

 

「ん? それはなぜだ? 飛行魔法でも術式の演算はしているのだから大して変わらないんじゃないか?」

 

「空で戦うという似たような結果でも、飛行魔法とは工程の数が違うんだ。やらなきゃいけない術式の演算数が余計に増えてくる」

 

 状況で例えるなら、飛行しながら射撃魔法を使うとする。

 

上昇するにしても平行移動するにしても飛行は常に使っているのだから、射撃と合わせて二つの操作で済む。

 

 だが跳躍移動の場合、動く時は必ず足場となる障壁を展開しないといけないのだ。

 

 飛行魔法であればデバイスは恒常的に演算のリソースが割り振られるが、跳躍移動はその性質上、障壁の展開と消滅を何度も繰り返すため演算処理に波が生まれる。

 

一つ一つでは簡単な術式だが戦闘時間が長くなれば、戦いが苛烈になればさらに使う頻度は高くなっていく。

 

処理の軽い魔法でも積み重なればデバイスに相当の負担がかかるのだ。

 

 見たことのない野菜がふんだんに使われたサラダを咀嚼(そしゃく)しながら二つ目の問題点を提示すると、クロノの表情に影がさした。

 

 俺はなにも意地悪でこんなことを言っているわけではない。

 

局員の方たちの死傷率低下に貢献できるのなら喜んで協力するのだが、跳躍移動の中身のシステムだけ教えてあとは勝手に頑張ってね、なんて放り出すようなことをしたくないから、こうして課題を挙げ連ねているのだ。

 

 今こうしてクロノとやっているように導入を想定して話を進めなければ、いずれ実現しようとした際に結局行き詰まることになるのだ。

 

ならば最初から実現が可能かどうか考察し、あまりにも難しいようなら諦めるというのも一つの手である。

 

個人でやるにせよ集団でやるにせよ、時間と費用を無為に垂れ流すわけにはいかないのだ。

 

「最後の三つ目だが、これはデバイスがどうの、っていう二つ目と被る部分もあるな。普通の管理局の人が実際に使おうとしたら、消費魔力量が多くなるだろうっていう懸念だ」

 

「……徹もそれほど魔力量に恵まれた魔導師ではないだろう。なぜ長時間戦えるんだ」

 

「俺は使い分けてるんだ。防御のための障壁と足場のための障壁ってな具合に。足場用の障壁は不要な術式を削って可能な限り消費魔力を抑えてるんだよ」

 

「じゃあ他の魔導師にもそうさせればいい。防御用と足場用と用意させれば事足りるんだろう?」

 

「俺の試合の初戦、レイジさんと戦った時のこと憶えてるか?」

 

「ああ、当然だ。その試合で徹が移動術を見せたのだからな。それがなんだ」

 

「その時、俺、借りてたデバイス返しただろ? それが理由だ」

 

「それのなにが……そうか。処理速度が遅い、あの時そう言っていたな。あれはそういう意味だったのか……」

 

 クロノは理解してくれたようだ。

 

 足場用として違う術式を展開するとなるとデバイスに余計な負荷がかかる。

 

移動しやすいよう斜めに配置したりすれば、よりいっそう処理動作は重たくなるだろう。

 

 防御用と同一のものを用いれば消費魔力が増大し継戦能力を失い、足場用として術式の違う障壁を取り入れれば演算処理のスピードが落ち、そのまま使い続ければデバイスがオーバーヒートする。

 

どちらに転んでも結果は変わらないのだ。

 

 長い口上で渇いた喉を潤しながらクロノを見やれば、もう顔を伏せてしまっていた。

 

「ご、ごめんな。クロノがやろうとしていることを否定したいわけじゃないんだ。でもどうしたって避けられない道だからさ、言うしかなかったんだ」

 

 心の中は申し訳なさで埋め尽くされているが、だからといって苦言を呈さずにいることを良しとすることも、俺にはできなかった。

 

ただ技術を提供するだけというのは些か無責任が過ぎる。

 

 若干瞳を荒ませつつも、口元を緩めながらクロノは俺へと顔を向けた。

 

「いや、簡潔で分かり易かった。どうせだから結論まで聞いておこうか」

 

「言えってんなら言うけど……。俺の見解では、もう一段階技術革新がないと不可能だ」

 

「徹の意見を聞いて僕も同じ感想を持った。はぁ……。なにかを変えられると……思ったんだが……」

 

 笑みを(かたど)ってはいたが、クロノの表情は暗かった。

 

俯いて、テーブルの下で拳を固く握り締められている。

 

 クロノが注文した料理は、話し始める前に数度口にしてから手をつけられていない。

 

 向上心と仲間を大事にする気持ちというのは、強すぎてもいけないようだ。

 

優しすぎては心労がかかり過ぎる。

 

「今は無理でもこれからできるようになるかもしれないだろ。俺が考案した技術よりも安全で簡単な方法が降って湧く可能性だってあるんだからな。飯冷えるわ、さっさと食おうぜ」

 

 いくら大の大人以上に戦える力があって、広く深い知識が頭脳に詰め込まれているのだとしても、クロノはまだ十四歳の少年だ。

 

いくら立派な役職を任じられているとしても、全ての仕事を完璧にこなすなんて難しいだろう。

 

そんな期待なんて重たすぎる。

 

 背負える物なら一緒に背負ってやりたいと、こんな俺でもそう思えたのだ。

 

「そうだな、冷めさせてしまったら作ってくれた料理人に申し訳ない」

 

 くく、と堪えるように笑いながら、クロノが返事をする。

 

 気のせいかもしれないが、クロノの声が心なし明るくなった気がした。

 

 

 

 

 

 昼食を済ませると、ついでだからと言ってクロノがアースラ内部を案内してくれる運びとなった。

 

 なぜか局員の居住スペースから始まり、訓練で顔を合わせた非番の人たちの部屋に押し入……お邪魔したり、遊戯室に顔を覗かせて色々遊んで……もとい見て回ったりと、アースラ艦内の意外なまでの快適さを楽しんだ。

 

 俺がクロノにジュエルシード探索の進捗状況について訊いたのは、医務室を見学して退室した時だった。

 

「そういやジュエルシードの索敵はしてるんだよな? いくつか反応あったんじゃねぇの? 俺たちにはそのあたりの報告きてないんだけど」

 

 『俺たち』というのは言うまでもなく、俺、なのは、ユーノのことを示している。

 

 これまでのペースで推測すれば一つくらいは見つかっていてもおかしくはない。

 

設備の整った巡航船であるこのアースラであれば、二つ三つと発見している可能性だってある。

 

手伝うと言いながら管理局任せにしてしまっているのではと憂慮したのだ。

 

 今回の一件は最後まで携わりたいという思いもあって、だからこそ、この場にいるのだからちゃんと関わっておきたい。

 

 報告がこないのは危険な目に合わせたくないがためなのだろうと勝手に考えていたが、クロノの返答でそうではないことがわかった。

 

「報告がないのも当たり前だ。二十四時間体制で調査をしているが、まだ一度も反応を捉えてはいないからな。発見したら、徹には真夜中だろうと遠慮なく念話を送って叩き起こすから期待しておいてくれ」

 

 笑いながらクロノは話していたが、俺には危惧の火が燻り始めていた。

 

胸騒ぎのような焦燥の念が、熱を伴いながら俺の思考の片隅をちりちりと焦がしていく。

 

 ――最初見たフェイトの表情――ジュエルシードを集める理由――自分の身を犠牲にしてでも成し遂げようとする目的――

 

 自分で意識していないのに、様々な情報の糸が()り合わされ紡がれていく。

 

無理矢理背中を押されて走らされるような感覚がとても気持ち悪い。

 

心臓がばくばくとうるさい音を身体に響かせ続けている。

 

午前に行われた訓練でもここまで早い律動を刻みはしなかった。

 

 言いようのない不快感に苛まれているのに、思考は止まるどころかさらに回転数を上げていく。

 

 ――市街地での事柄――意図せず発生したジュエルシードの暴走――クロノやリンディさんといった時空管理局の介入――工場跡での出来事――魔導師にとって時空管理局というの存在の意味――ジュエルシードの反応を捕捉できていない――

 

「……る、と……っ! 徹! ……大丈夫か? いきなり黙り込んでどうしたんだ」

 

 クロノの困惑したような声で、アンコントローラブルとなっていた俺の思考が正常化する。

 

 あと少しで何か掴めそうな気配ではあったが、根本的に絶対的に情報が不足しているのだ。

 

パズルを完成させようとしているのにピースが揃ってないどころか枠すら手元にないようなものである。

 

すべてを解明できないのであれば、ここで足を止めて考え続けても時間の無駄だ。

 

「クロノ、ジュエルシードの調査はどこでやってるんだ。レーダーみたいなものがあるんだろ。場所を教えてくれ」

 

「いきなりなんなんだ。様子がおかしいぞ、医務室で休んだほうが……」

 

「いいから、案内してくれ」

 

 俺の態度が急激に変化したことで圧倒されたのか、それとも雰囲気から緊迫感が伝わったのか、クロノは黙って頷くと足早に歩き出した。

 

 嫌な予感が俺の心臓を鷲掴みにする。

 

 俺の気のせいや勘違いであればそれでいい、一人で勝手にシリアスを演じたピエロとして笑い話になるだけだ。

 

 だが、もし万が一、俺の想像通りであれば手遅れになるどころではすまない。

 

この考察が間違っていることを祈るが、俺の予感などといった曖昧な感覚、第六感は妙に鋭いところがある。

 

的中率もまた高い、嫌な予感は殊更に。

 

 俺を心配するように、胸元で青白い光が温もりを伴って淡く輝いた。

 

クロノだけではなく、エリーにも心配をかけてしまっているようだ。

 

 ありがとうという気持ちを表そうとエリーに手をやれば、いつの間にか冷たくなっていたらしい俺の手を、まるで包み込むように優しく温めてくれた。

 

自分で思っている以上に動転しているようだ、情けないな。

 

 服越しにエリーを強く握って感謝を示す。

 

 跳ね続ける心臓と心を落ち着かせるように深呼吸をして、俺はクロノの後を追って歩み続けた。



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クロノにも通したい意志と信念があるように、俺にも貫きたい意地と信条がある

更新がずいぶんと遅くなってしまいました。申し訳ないです。公私ともに忙しかったもので。
下書きはちまちまとやっていたので、時間さえあれば続きもすぐに投稿できます。少々お待ちを。


「あれだ、あのモニターで管理している」

 

「エイミィがやってるのかと思っていた。別の人が担当していたのか」

 

「演習訓練の途中で出て行ったのを見ていなかったのか。エイミィには別の仕事が入っている。輪番制ではあるが、モニターや魔力反応の計器、映像を眺めるだけのため、若手のオペレーターが務めることが多い」

 

「そうか、映像を見せてもらえるか?」

 

「構わないが……そろそろ訳を話してもらいたいところだ」

 

 競歩じみた速度でクロノの案内のもとアースラの廊下を歩き、とある部屋へと通される。部屋の名称も教えられたが、なんだかよくわからない小難しい名前だったので右から左に聞き流してしまった。

 

 俺は部屋の内部へと足を踏み入れ、ホログラフィックモニターに投影されている映像に目をやる。

 

衛生映像のような光景。高く離れたところから眺め、気になる箇所があればズームアップして注視するという要領で調査が行われているのだろう。

 

側には計器類が配置されており、魔力の波長などを感知すれば針が振れるなり音が鳴るなりすることが予想される。

 

 現在はモニターにも計測機器にも異常は表れていない。

 

どこからどう見たって通常通りの数値であり、モニターに映される映像も平常通りなのだろう。

 

 それなのに、底知れない違和感が俺の脳裏を掠める。

 

 本棚に並んでいる本がいつもの順番から少しずれているような、そんな座りの悪さがあった。

 

 モニターを眺めて頭を悩ませる俺の後ろで、呆れも見えるクロノと、いきなりやってこられて展開についていけてないオペレーターの会話が聞こえる。

 

「いきなりすまない。異常や魔力の反応はあったか?」

 

「いえ、依然として変化はありません。なにかあったのですか?」

 

「いや、いきなり徹が……。そこでモニターを熱心に見ている、ジュエルシード収集に協力を申し出た変わり者、逢坂徹がなにか気になることがあるみたいなんだ」

 

「そうですか、彼が……。午前中訓練をやったそうですね、話を聞きました。たいへん変わった戦い方をなさるとか」

 

「たしかに一般的なものではないな。トータルの数値としての能力では下回っているはずだが、戦闘になるとなぜかスペックを上回る動きをする。不可思議だ」

 

 俺の集中の矛先はホログラフィックモニターに向けられているが、意識の片隅で彼らの話を拾う。

 

「面白い人のようですね。そういえばあと二人いるのでしたよね、小さな女の子と男の子。その子たちは今日はいないんですか?」

 

「第九十七管理外世界では今日は休日なんだ。わざわざ呼ぶのも悪いだろう」

 

「逢坂さんならいいような言い方ですね。彼に怒られますよ?」

 

「休日だからといって特に予定はなかったようだ。呼び出しには内容も聞かずに二つ返事でやってきたくらいだからな」

 

 クロノの不躾な物言いには少なからずいらっとくる部分もあったが、俺は俺でクロノを行動の説明もせずに放置しているので言い返す言葉はなかった。

 

 本当になにやってんだ、せっかくの休日だというのに俺はこんなところまで来て。

 

 テンションの下降とともに、尖っていた神経が鈍ってきた。

 

 季節は春で、しかも日曜日。

 

今日も天気は快晴で、降り注ぐ柔らかな日差しが心地よい。

 

帰りに自然公園にでも寄って草むらで寝転がり、昼寝でもしたいくらいの陽気だ。

 

 気のせいと断じて帰ろうかな、などとやる気の針がEMPTYに振れかけた時、頭に電撃が走る。

 

「そうか……それか。それだったんだ」

 

 もどかしさの真相、おぼろな違和感の正体をやっと掴めた。

 

「この映像、タイムラグとかはないよな?」

 

「え、あ、はい。時間に差があると指示を出したりする時に不都合ですので。厳密に言えば送受信時やモニターへ出力する際の処理でラグはあるかと思いますが、それでもゼロコンマゼロ一秒以下です。人の目で認識できるようなものではありません」

 

 いきなり問いかけられて少々慌てながらも、オペレーターは理路整然と説明してくれた。

 

「そうだよな、うん。ありがとう。相次いで注文して悪いんだけど、この映し出している場所って任意で移動させられたりできる?」

 

「はい、可能です」

 

 一度映像をズームバックして海鳴市全体を眼下に収め、担当オペレーターに指示を出して目的の場所へと寄せてもらう。

 

 おいてけぼりにされているクロノが腕を組んで不機嫌そうにしているが、今はまだ待っていてもらうしかない。

 

「そこ、そこでアップにしてくれ」

 

「はい」

 

 俺が指定した場所とは、海鳴市が誇る自然公園。

 

大通りから少し進んで、子ども向けとは言い難い、無闇に大きな遊具が設けられているエリアに接しているスペース。

 

 上から見下ろしている形なので分かりづらいが、その空間には水道が多めに備えられていたり、雨や日差しを防ぐための屋根があったり、そして……肉や野菜といった食べ物を焼くためのコンロがある。

 

 モニターには、バーベキューもできるようにと解放されているエリアが映し出されていた。

 

 バーベキューを楽しむことができるその区画は、十数組が一度に訪れても対応できるだけの面積とキャパシティーがあるのに、モニターでは二〜三組ほどしか映されていない。

 

 俺は確信した。

 

「は、はは……おい、クロノ。ダミー映像走らされてんぞ……」

 

 ディスプレイを操作してくれていたオペレーターはぽかんと大口を開いて、何言ってんだこいつ、みたいな目を向けてきた。

 

そんな顔をするのも無理からぬことだろう、俺も他人から言われたらきっと同じ目をする。

 

付け加えれば、俺なら実際に『何言ってんだ、お前』と口に出すだろうから、まだオペレーターのほうが冷静とすら言える。

 

 俺の言葉がすぐには頭に入ってこなかったのか、クロノはしばし無表情で固まっていたが、数秒後には薄ら笑いを浮かべながら反論する。

 

「な、なにを言ってるんだ。ありえない。冗談にしても笑えない。センスが悪いぞ、徹」

 

「残念だが……俺もすんなりと信じることはできないが、これは事実だ」

 

 季節は春、一般企業に就職していれば休日である日曜日、天気は良好、気温も高すぎず低すぎず、木々を通り抜けた涼風が身体をなぶり、陽光は穏やかに温もりを与える。

 

まさしく絶好の行楽日和といえる今日この日に、自然公園がこうまで閑散としているなど考えられない。

 

「そんな、馬鹿なことが……管理局のシステムに誰にも察知されずに侵入し、あまつさえ映像をすり替えるなんて……」

 

「信じられないようなら確認してみればいい。今からモニターに投影されている場所まで人を送ればすぐわかることだ。これとは全く違う光景が広がってることだろうよ」

 

「それも、そうだな……」

 

 クロノはオペレーターを担当していた局員さんに、確認してくるように、と指示を下す。

 

オペレーターは顔を真っ青にさせながら立ち上がり、クロノへ敬礼し、俺に会釈するように小さく頭を下げ、ばたばたと大急ぎで部屋を出た。

 

 クロノはまだ半信半疑な様子だが、俺には絶対の自信がある。

 

オペレーターの帰りを待つ時間すら惜しいのだ、話を先に進めさせてもらおう。

 

 最初に引っかかったのは、管理局側がジュエルシードの反応を未だに補足していなかったことだ。

 

クロノやリンディさんといった時空管理局の人たちと初めて接触したのが木曜日、三日前である。

 

専門の索敵機器や設備を持たない俺たちでも、費やした日数と見つけ出したジュエルシードの数で平均を算出すれば、一つくらいは見つけていてもおかしくはない計算なのだ。

 

それなのに管理局が三日かけてたった一つも発見できないという点に疑問を感じた。

 

 儘ならぬことに俺の不安は的中してしまったわけだ。

 

 いつからハッキングされ、いつからこんな細工を施されていたか。

 

明確なところはわからないが、しでかしそうな人間には心当たりがある。

 

……違うな、しでかしそうな人間には一人しか心当たりがない、と言うべきだ。

 

 これほど大胆な真似ができる人を、時空管理局の堅牢鉄壁であるはずの情報システムを欺くほどの技能を持つだろう人を、俺は他に知らない。

 

リニスさんをおいて、俺は他に知らないのだ。

 

 実行犯がリニスさんだと仮定すれば――断定すれば――『いつから』という謎にはすぐに答えが出る。

 

時空管理局が介入してきた当日の木曜日か、その翌日である金曜日だろう。

 

手際の良さが光るリニスさんのことだ、そのあたりにちまちまと時間をかけることはしないし、躊躇うこともない。

 

 どうやって離れた土地から管理局のシステムにハッキングできたのか、その技術はいったいどこで身につけたのか、などといった手段や手法については理解の及ばぬ点も多いが、それについてはもはや考える必要もない。

 

考えたところで憶測の域を出ることはないし、すでに実行されてしまっているのだから無駄である。

 

現状に対処することへ時間と労力を割くほうが有意義だ。

 

「徹、本当にシステムに潜り込まれていると想定して、これからどうするべきなんだ? 半端にシステムの指揮権を奪い返そうとすれば、もしかしたら蓄積されているデータを破壊して回られるかもしれない」

 

 アースラのレーダー類や索敵機器は向こうの手の中だ。

 

しかもジャミングなどで計器を狂わせるのではなく、偽物のデータを見せ続けることで発覚を遅らせるように細工した。

 

 それほどまでに巧妙に隠せるということは、それほどまでに技術があるということ。

 

生半な反撃では逆にしてやられる可能性が高すぎる。

 

クロノの心配も、わからないでもなかった。

 

「この方面でなら俺の得意分野だ。任せといてくれ」

 

 今も誤った情報を垂れ流し続けている各種機械に手を触れ、魔力を送る。

 

 これまで俺は幾度となくハッキングを使ってきたが、機械相手に行うのはこれが初めてだ。

 

自信はないし、魔法に対して使うのと勝手は違うだろうが、やってやれないことはないはず。

 

 俺はすでに一度、機械に魔力でハッキングすることができるという実例を見ているのだ。

 

レイハと出会った初日、あいつは俺の家にあったパソコンに魔力でハッキング行為をして、この世界の情報を収集した。

 

ならば……レイハにも可能であるのならば、俺にできない道理はない。

 

「今から実行する。集中するからしばらくの間、話しかけられても答えられない。そういうことでよろしく」

 

「わ、わかった。任せる」

 

 深呼吸して目を瞑り、自分の胸の奥から湧出する魔力のみに神経を注ぐ。

 

 俺の身体から放出される透明な魔力は金属製の板をじわじわと透過していき、情報回路、電気信号に乗った。

 

「んぐ……んッ……」

 

 頭に叩き込まれる情報量に圧倒され、思考が圧迫される。

 

 脳がじわりじわりと発熱してくるが、意に介さず電子の海を泳ぎ続ける。

 

慣れるまでの辛抱だ、今は歯を食い縛って耐え忍ぶのみ。

 

 機能体の中枢に到達――異常信号を検出――正常な値に上書き――侵入口(バックドア)発見――削除――作業を続行

 

 ハッキングの技術ならリニスさんのほうが上だろう。

 

さすがに時空管理局の艦に入り込んだわけではないと思うので、離れた場所から仕掛けているということになる。

 

対象に接触しなければハッキングを行使することができない俺では、とてもじゃないが真似できない。

 

 しかし、俺には地の利と、有利に運べる特殊な魔力資質がある。

 

アースラ内部から、対象となる機械の近くから作業を行えるのだ。

 

その点においては俺に分があるし、無色透明という俺の魔力は侵入する際に対象から抵抗されることがない。

 

 この上なくハッキングに適しているのは俺だ。それだけは自信を持って明言できるし、そこだけは誇りをかけて断言できる。

 

 これは俺の特色で、俺の特性で、俺の領分だ。

 

「奪わせねぇよ。たとえ相手がリニスさんであってもな」

 

 機能体の指揮権奪還――全体走査――異常信号未検出――任務完了

 

 モニターから手を離し、一歩二歩と下がる。

 

 目を開くが視界一面真っ白、超強烈な立ち眩みみたいなものが襲来した。

 

足元がぐらぐらと揺れているように感じられる。

 

とてもじゃないが立っていられなかった。

 

 がくん、と膝から力が抜けて倒れ込みそうになったが、すんでのところでクロノが肩を貸してくれたおかげで床に身体を叩きつける羽目にならずに済んだ。

 

「だ、大丈夫か。顔色は悪いし汗もかいている。明らかに身体に変調を来しているぞ」

 

「少し休めばすぐに回復するから大丈夫、いつものことだ。ありがとう、クロノ」

 

 今回の体調不良のパターンは脳の酷使によるものだ。

 

魔力の過剰消費と比べたら回復も早いし、身体能力の低下もない。

 

工場跡でクロノの射撃魔法を防いだ時に使った超速演算と同じ、しばしの休息を挟めばすぐに復調する。

 

 今は俺の体調よりも重要なことがある。

 

 視界を満たしていた白色のもやが治まるのを待ってから、視線をモニターへ移す。

 

モニターは電源が落ちたように真っ黒だった。

 

 画面は黒一色で、まるで鏡のように光を反射している。

 

背の低いクロノにもたれかかるように身体を任せている俺の姿が投影されていた。

 

 ハッキング同士で(しのぎ)を削ったからなのか、それとも単に機械相手にやるというのは負担がかかるのか、もしくは両方なのかもしれないが、普段より疲労困憊である。

 

以前より頭の回転速度が速くなった今の俺ですら、ここまで力を振り絞らなければならないなんて想像もしなかった。

 

慣れればまた楽になってくるのだろうとは思うが、今は長時間の使用は避けたほうがいいだろう。

 

「ハッカーは退けたし、弄られていたプログラムはあるべき数値に戻した。すぐに復旧するはずだ」

 

「徹がなにをどうしたのか、僕には全くわからないのだが」

 

「口で説明するのはちょっと難しいな。前にクロノが展開した障壁にやったのと同じようなもんだ。システムのプログラムに魔力を潜り込ませて……まぁなんかいろいろやったってこと」

 

「最後絶対に面倒になっただろう。詳しく説明されてもついていけるとは思えないし、それで納得しておくが」

 

 不承不承といった態ではあったがクロノは俺のざっくりとした解説で良しとしてくれた。

 

 クロノに肩を貸してもらいながらシステムの復旧を待っていると、遠くからばたばたと足音が聞こえてきた。

 

かと思えば、その足音はどんどん俺たちの部屋へ近づいてくる。

 

 空気が抜けるような音とともに背後の扉が開いた。

 

クロノに現地に急行して確認してくるよう命令されたオペレーターが戻ってきたのだ。

 

「クロノ執務官! 彼の言った通りでした! 申し訳ありません! ここで見ていながら気づかず……っ」

 

 入室した瞬間、彼は勢いよく九十度で頭を下げた。

 

確認に行く前から、部屋にいた時から心配になるほど青褪めていたオペレーターの表情が、戻ってきた今では輪をかけて悲愴な顔になっている。

 

呼吸まで浅く、早い。走ってきたことで息が上がっているのか、それとも処罰されるのではという緊張からなのか。

 

「今回の件はどうしようもねぇよ。相手が悪かったんだ。それにそっちはもう対処できた。被害は最小限に抑えられたといっていい。そういうことでいいよな、クロノ」

 

「ああ。僕も気づけなかったし、誰も気づかなかった。責任の所在は確認を怠った僕にある。気に病む必要はない」

 

「あのなぁ……誰が悪いとか悪くないとか、責任のあるなしとか、そんな議論にさしたる意味はないんだよ。リンディさんに報告に行く時は俺もついていく。これでこの話は終了な。ほら、モニター復旧すんぞ。オペレーターさん、頼むよ」

 

「は、はい! 了解です!」

 

「お前は本当に……まったく。このあたりを明確にしておくのは組織として大事なことだというのに」

 

 ぼそぼそとクロノがなにか言っていたが、おそらく俺へのお小言だろう。聞き流すこととした。

 

 ディスプレイが復帰し、オペレーターが作業を行い、レーダーなどといった調査機器の本来の能力を発揮させる。

 

 機能が回復するや否や、モニターと、その付近にある機材から音と光がばら撒かれる。

 

ジュエルシードの反応を捕捉したということで間違いない。

 

「魔力波捉えました! 二つあります。一つは……街から離れた場所にある山間部です。もう一つは……」

 

 二つのジュエルシードの波長を同時に観測したらしく、オペレーターはまず山から発された反応のほうへとモニターの映像を移した。

 

海鳴市の市街地から北へ進み、月守台への道を阻むように横たわる山中にあるようだ。

 

 もう一箇所、反応があった場所へと映像は動かされる。

 

「街の中心部から少し離れた地域にあると思われます!」

 

 街の詳細な周辺地図を脳内に思い浮かべ、モニターに映し出される映像と照らし合わせる。

 

 ビルが建ち並ぶ都会部、そこから距離を置いた商業エリアだ。

 

金曜日に忍と買い出しに行ったアーケード街に軒を連ねる店が、共同で借りている巨大な倉庫があの辺りにはある。

 

中心部からほど近くにありながら、人が寄りつきにくい場所だ。

 

「二箇所ある。早く行かなきゃな、出遅れてるんだから。クロノ、転移ゲートまで案内してくれ」

 

「たしかに急がなければいけない状況だが……徹、体調は大丈夫なのか? さっきよりも幾分か顔色は良くなっているが、まだ万全ではないだろう?」

 

 クロノが俺の身体の具合を(おもんぱか)るように声をかけてくれた。

 

 さすが人の上に立つ職務に就いているだけはある。

 

発生した事案や自分のコンディションだけでなく、周囲の人間にも気を回すということは案外難しいものなのだ。

 

 その心遣いはとてもありがたいが、体調管理も仕事をする上では個人の責任だ。

 

今は調子が悪いから、なんていう個人的な弱音で退くわけに行かない。

 

 なにより目下の課題であり、俺やなのはやユーノが時空管理局に協力を申し出た理由にはジュエルシードが密接に絡んでいる。今行かずしていつ行くのだ。

 

 それに、直接顔を合わせて話をしなければならない人がいる。

 

時空管理局が目を光らせているこの現状で、ジュエルシードが二つ同時に反応を示したとなれば、あの人は確実に出てくるだろう。

 

この機会を逃せば次に話す機会があるかもわからない、俺も必ず同行してうまく事を運ばないといけない。

 

 後になってクロノに、たぶんリンディさんにもしこたま叱られるだろうが、これだけは譲れない。我を通させてもらう。

 

「向かってる途中にでも良くなるだろ、どうってことねぇよ。早く行こう」

 

 扉を開き、外へ出る。まだ部屋の中にいて、心配そうな目を向けるクロノへ振り向きながら、俺は言った。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「ジュエルシードは二つ、対して人員は僕と徹の二人。ここは二手に分かれて回収に向かいたいところだが、相手の戦力を鑑みると分散させるのはあまり好手とは言えないか」

 

「んー、そうだな。より正確に言うと、『戦力を分散させた時、クロノのほうは問題ないだろうが俺のほうに問題が出る』ということだな」

 

「わざわざぼかして言った僕の気遣いをふいにしたな」

 

「クロノからじゃ言いづらいだろうなぁ、と思ったから明確にしといたんだよ。クロノの気遣いを無駄にしたんじゃない、クロノの気遣いに俺が気遣いで返したんだ」

 

「そんな気遣いであれば返してもらわなくて結構だ」

 

 アースラの転移門から驚きのワープ技術なるものにより、俺とクロノは太陽系第三惑星地球、時空管理局言うところの第九十七管理外世界に転移された。

 

いやはや、次元や距離などといった概念を超越して瞬時に移動できるなんて、改めて魔法というものは便利であり、それと同時に脅威であることを再認識する。

 

 転移されて数秒が経過した現在、俺とクロノは海鳴市上空、高高度にて地表へと服の末端をひらめかせて自由落下しながら作戦会議を行っている。

 

本来であれば作戦を立ててから転移するべきなのだろうが、ジュエルシードの回収は時間との勝負だ。

 

現地に移動してから各々意見を交換し、どうするかの方針を定めることとなった。

 

 クロノは、そこそこ戦えるにしてもやはり戦闘能力に不安が残る俺を一人で行かせることに前向きではなかった。

 

セオリーから考えて、敵対勢力との戦闘が予想される現場に、個人で向かわせるような作戦を立案はしないだろう。

 

俺だって同じ考えだし、俺がクロノの立場だったとしたらそんな命令は絶対に出さない。

 

 でも今回は常識に当てはめられると大変困るのだ、主に俺が。

 

「ジュエルシードが二つあって、俺たちも二人いるんだから二手に分かれるべきだ。どちらか一方に戦力を固めた場合、どちらか一方は確実に向こうの手に渡ることになるんだぞ?」

 

「そんなことは分かっている。だが僕たちは敵の妨害工作もあって初手から出遅れている。戦力を割って両方に向かったとしても回収が間に合わない可能性がある。敵より先んじてジュエルシードを発見して回収できればいいが、敵と遭遇した場合は必ず戦闘になるんだ。徹はよくわからない技能を持っているが、いざ戦いとなれば勝てる見込みは薄いだろう。負傷するリスクが高い。ここから距離のある山間部に大急ぎで向かったとしても、到着する前に相手がジュエルシードを奪取して逃亡しているかもしれない。この国には二兎追うものは一兎をも得ず、という言葉があるのだろう? 今回がまさしくそれだ。一つは諦めて、近い場所にあるジュエルシードに専念したほうがいい」

 

 理路整然とした真っ当な理屈だ、非の打ち所が見えない。

 

 だが、このままでは俺の目的が達成できないのだ。多少無理をしてでも方針を変えさせてもらう。

 

 甘言妄言詭弁屁理屈を並べさせたら右に出る者はいない、とまで言われた俺の口八丁は、あのユーノに『兄さんは悪い意味で弁が立ちますね』と褒められたほどである。

 

無理と俺の勝手な都合を通すので、道理とクロノの戦術的観点には申し訳ないが引っ込んでおいてもらおう。

 

「二兎追うものは一兎をも得ず、ね。たしかにそんな諺もあるにはあるが、でもなクロノ。二兎追わなきゃ二兎得ることはできないんだぜ。欲張らないとどっちも手に入らない」

 

「揚げ足を取るな。徹の言うことも一理あるが、怪我をする可能性が高い選択肢を取るつもりはない。リスクとリターンだけで計算できることではないんだ」

 

「振り分けが大事だってことだ。ここから一番近いジュエルシードは街の中にあるやつだろ? このあたりの地理に詳しい俺ならすぐに見つけられる。相手より有利に働くと思うが?」

 

「……敵がすでに到着していたらどうする。戦闘は避けられないぞ」

 

「その時は適当に話でもして時間を稼ぐさ。なるべく足止めして、クロノの到着を待つ」

 

「…………敵より先にジュエルシードを見つけて確保したとする。徹がその場から離脱するまえに敵が現れたらどうするつもりだ? 敵は奪い取ろうと躍起になって襲ってくるだろう」

 

「午前の訓練で一戦したんだから、俺の意地汚さと粘り強さはクロノも知ってるだろ? 勝つことはできなくても戦闘を長引かせることならできる」

 

「………………二手に分かれるとして、ここから山にあるというジュエルシードまではかなり距離がある。二手に分かれたところで先に奪われていたら空振りに終わる。時間と戦力を無駄にして、もう片方の回収成功率を下げることは非論理的だ」

 

「遠いほうのジュエルシードにはクロノが行けばいい。卓越した飛行技術を持つクロノなら行きも帰りも速い。仮に空振りだったとしても超特急で戻ってくればすぐに俺と合流できる。リスクの低減に繋がるだろう」

 

「……………………そもそも、危険を冒してどちらも回収しようということに、メリットは……」

 

「自分で言いながら無理があるってわかってるんなら口に出すなよ。ジュエルシードはたった一つでも莫大なエネルギーを孕んでいる。たった一つであっても恐ろしく危険な代物である。それを俺に教えたのはクロノたち管理局側だ。二つあるのなら、どちらも回収すべきだろ」

 

「…………………………」

 

「俺が街の中心部に近いジュエルシードを、クロノが街から離れた山間部にあるジュエルシードを回収する。俺が敵対勢力と遭遇した場合は戦闘をなるべく避けてクロノの合流を待ち、クロノは移動、回収、戦闘、合流を可及的速やかに行う。それでいいんじゃないか?」

 

「…………わかった、それで行こう」

 

 クロノは最後まで難色を示していたが、結果的には俺の案を採用してくれた。

 

 ジュエルシードの危険性を持ち出して管理局という立場からでは拒否させ辛くさせ、無理矢理に採用させたような格好だが、そのあたりには目を瞑る。

 

クロノにも通したい意志と信念があるように、俺にも貫きたい意地と信条がある。

 

与えられた役割は全力で果たすが、そのやり方は好きにさせてもらおう。

 

 クロノやリンディさんにはなるべく迷惑をかけたくないが、今日ばかりは許してもらいたい。

 

「だが危なくなればすぐに撤退することが条件だ。撤退は罪ではない、戦略だからな」

 

「了解」

 

 お互いに拳をがつっ、とぶつけ、クロノは全力の飛行魔法で北の方角、山へと向かう。

 

空気の壁を突き破るような速度でクロノは飛翔する。

 

ついさっきまで隣にいたというのに、クロノの姿はすぐに遠く、小さくなった。

 

 俺は自由落下に身を任せながら時々足元に障壁を展開させ、座標をコントロールしながら目的地まで急降下する。

 

 地面が近づくと斜めに足場を作り出して勢いを減衰させ、魔力付与を施した身体で着地――に失敗した。

 

軟着陸しようとしたのだが、予想以上に落下スピードがあったというか、予想以上に勢いを殺せなかったというか、兎にも角にも足場となる障壁が落下エネルギーに耐え切れず砕け散ったことにより、俺は地面を転がった。

 

魔力を可能な限り消費しないように、と落下速度を下げるための障壁の数をけちったことが要因としてあげられよう。

 

 魔力付与を使っていたおかげで怪我はしなかったが、着ていた服が砂だらけになってしまった。

 

唯一の救いは制服じゃなくてジャージだったことだ。

 

 明日は平日なのだから当然学校がある。

 

今日制服を洗ってしまうと明日には間に合わない。

 

スペアの制服はもうないのだから、これ以上制服を汚すわけにも擦り切れさせるわけにもいかないのだ。

 

「さってと、どこにいるのかね」

 

 俺の自問にはエリーが応えた。胸元のエリーがふるふるふる、とバイブレーションのように振動する。

 

 ネックレスにして首に下げ、表に出ないように服の内側にしまっているエリーを取り出せば、そのひし形の宝石の身体に青白い魔力光を纏わせながら浮遊した。

 

いくつか鎮座する巨大な倉庫の一つへ、淡青色の輝線が走る。

 

 俺の何気なく呟いた独り言を受け取って、エリーが自発的にジュエルシードの居場所を教えてくれた。

 

なんてできた子なのだろうか、今度またお手入れしてあげよう。

 

「こっちか」

 

 エリーを撫で擦りながら、線が示す倉庫へと不法侵入する。

 

てっきり厳重に施錠されているものと思っていたが、予想に反して倉庫の扉は開いていた。

 

 倉庫内へと足を踏み入れれば、かつん、と靴になにか小さくて硬いものが当たる感触。

 

目をやれば、南京錠が破壊された状態で落ちていた。

 

 やはり、彼女はもう来ているようだ。

 

 この倉庫はあまり使われていないのか、広いわりに商品の在庫や段ボールも、棚すらも設置されていない。

 

さすがに電灯などの影は見て取れたが、その電灯をつけるためのスイッチの場所がわからないので意味はなかった。

 

いずれにせよ、電気が通っている保証はないので関係ないのだが。

 

 まだ日中だというのに倉庫の中は薄暗い。

 

天井に申し訳程度にある窓から入る光量が、内部を照らす光源となっていた。

 

 倉庫だというのに物が置かれていないので遮蔽するものがなく、薄暗いとはいえ倉庫内全体を見渡すことができた。

 

 入り口から反対側、倉庫の一番奥、そこに窓から射し込む太陽の光とは別種の光源が浮かんでいる。

 

青白い光を弱々しく漂わせるそれは、俺もよく知っているもの……ジュエルシードだ。

 

 言うまでもなく、俺の胸元にいるエリーとは別のものである。

 

 エリーはもっと可憐に、けれど力強く輝く。

 

籠から放たれた鳥のように自由に、華やかに瞬き、光を放つ。

 

 前方に浮遊する封印前のジュエルシード。あれの魔力反応をアースラのレーダーは捕捉し、エリーは俺をここまで導いてくれたのだ。

 

 迅速に封印したいところではあるが、無闇に近づくのは得策ではない。

 

 彼女はすでにここに来ている。無論のこと、封印するだけの技量を持っていないはずがないので、あのジュエルシードは俺をここに呼び寄せるための撒き餌か、あるいは誘蛾灯だろう。

 

 向こうにも俺を誘導するだけの理由があるようなのだから、奇襲をかけてきたりはしないだろうが、わざわざ刺激するような行動をとることもない。

 

どうせそろそろ姿を現して下さることだろう、などと考えていたら、俺の耳にかちっ、という音が届いた。

 

 電灯に光が灯り、倉庫内を照らす。

 

急激なカンデラの上昇に、視界が一時的にホワイトアウトした。

 

 未だに眼球はちかちかとしているが、なんとか耐えて(まぶた)を開く。

 

ついさっきまで微弱ながらも魔力光を漏らしていたジュエルシードは、その輝きを失わせて地面に転がっていた。

 

 落ちているジュエルシードを(うやうや)しく拾い上げるのは、猫耳と猫尻尾完備の美しい女性。

 

「待ってましたよ、徹」

 

 リニスさんが、そこにいた。




無印編が長すぎる、との忠告を受けたばかりでこんな宣言をするのは大変心苦しいのですが、ここから三話ほどリニスさんとの話が続きます。ラストに向けての必要な工程とはいえ、本当にすいません。


あと、今更改めて、というのもおかしな話ですが、感想を書いてくださる方々、本当にありがとうございます。毎回感想欄を覗くたびに『酷評されてたらどうしよう……』などと心臓をばくばくさせながら読んでいるのですが、温かい感想が多くてとても励みになっています。
この場を借りて、今一度の感謝を。
いつもありがとうございます。


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現実はいつも無慈悲で残酷だ

ここからちょっとばかりシリアスパートです。
愉快なリニスさんを期待していた方々には申し訳ないです。


「それは悪かったな。いろいろとこっちは立て込んでたんだよ。例えば、レーダー機器がハッキングを受けていたからそれを退けたり、とかね」

 

「やはり徹でしたか。専門機材の設計や管理局が使っている機械類のプログラム調査には時間をかけてかなり念入りに行ったのですが、見つかった途端にあれほどあっさりと跳ね除けられるとは思いませんでしたよ。アルフが言っていた変な力の効果でしょうか」

 

 くすくす、と上品ながらも愛らしく笑うリニスさんの表情は、前に顔を合わせた時と同じはずなのだが、漂わせている雰囲気が一変している。

 

ぴりぴりと肌を刺すような気配に、妖しい光を灯す瞳。

 

腹を空かせた肉食獣がいる檻に裸で投げ込まれたような心境だ。

 

彼女たちのマンションでお喋りした時の人と同一人物とは思えない。

 

「技術云々はどうでもいいんだ。なんであんなことをしたか、その理由が知りたい。時空管理局という強大な存在に面と向かって楯突けばどうなるかなんて、そんなこと俺よりもよくわかってるんじゃないのかよ」

 

「……管理局に取り込まれましたか。管理局の執務官とともに転移してきた時からわかってはいましたが、残念ですね。徹とは仲良くやっていきたいと思っていたのですけれど」

 

「取り込まれたわけじゃない。手を貸しているってだけだ。俺たちの戦力と規模で、管理局とあんたたちの二つの勢力を相手取るのは現実的じゃないからなるべく自由に動けるような選択をしたまでだ。俺の質問に答えてくれよ」

 

 ふふ、とリニスさんは目を細めて笑みをこぼす。

 

以前の彼女からは想像もできない、(あざけ)るような仕草だった。

 

「理由なんて、他にないでしょう。ジュエルシードを誰よりも早く集めきる。その際に邪魔をするであろう管理局のレーダー網に穴を開けて、私たちが動きやすいように細工をした。ただそれだけのことですよ」

 

「俺も最初はリニスさんの行動をそう捉えていた。でもよくよく考えたらおかしいだろ。管理局にハッキングかけれるくらいに技術があるんなら、その技術を利用してジュエルシード自体を見つけることに力を注いだほうが手っ取り早い。なんで敢えて、管理局の顔に泥を塗るように敵愾心(てきがいしん)を煽る方法を選んだのか。どうにも腑に落ちない」

 

 リニスさんの唇の端がぴくり、と引きつったように震えた。

 

「俺をここに呼び寄せたのもそうだ。ジュエルシードを目の前にして封印をせず、魔力を垂れ流しにさせて俺たちに察知させた。俺が管理局のレーダー機能を奪還していなかったらそのまま回収していたことは想像に難くないが、機能が復旧したのにも(かかわ)らずこの場に留まっていたのはどういうわけだ。俺になにか話したいことがあったからじゃないのか」

 

「そうですね、用があるからここで待っていました。こちらに徹ではなく執務官が来ていれば速やかに撤退していましたが、二つのジュエルシードが反応を示した現在の状況では、きっと徹がこちらの回収にあたるだろうと予想できていましたし。念の為周囲にサーチ魔法を放っておきましたから、徹と執務官の少年が転移してからは全部見ていましたよ。ちなみに徹が空から落ちてきて地面に転がっていたのもばっちり収めました」

 

「そこは見て見ぬ振りするとこだろ!」

 

「ふふ、人とはあれほど転がるものなのですね……っ。これは関係ありませんでしたね、失礼いたしました」

 

 一瞬空気が弛緩したが、リニスさんは思い出したかのようにきっ、と唇を横一文字に引き締める。

 

左右にゆらゆら揺れていた触り心地の良さそうな尻尾もぴん、と上を向いた。

 

 前のリニスさんに戻ってくれたかと淡い期待を抱いたのだが、どうやらこのままゆるい展開には運べそうにない。

 

「執務官とともに来られては私もあまり余裕を見せてはいられませんから、今回はタイミングが良かったと言えます」

 

「で? そんなリスクを背負ってまで俺に会う理由ってなんだ? 色っぽい理由だと嬉しいんだけどな」

 

「申し訳ありませんが、ご期待には添えられそうにないですね。徹は戦闘能力こそ今一つぱっとするものがありませんが、重要な部分は(ことごと)く防いできました。あなたの取る行動と、引き起こされる現象は予測が立てられません。これ以上計画を引っ掻き回されては(たま)りませんので、徹には舞台から退場して頂こうかと思いまして」

 

 穏やかな笑顔のまま、リニスさんはそう言った。

 

まるで世間話でもするような表情で、言い放った。

 

セリフを『今日はいい天気ですね』に()げ替えても違和感など微塵も感じないくらいに清々しい表情で、なんてことないように、あっさりと。

 

 俺の身体は凍りついたかの如く固まった。

 

指先足先の感覚は遠ざかり、心拍は上昇し、胸の奥は冷たくなってくる。事実凍りついたといってもいいのかもしれない。

 

 彼女が何を言っているのか理解するのに数秒を要した。

 

 『退場』させる。精神的な衝撃を与えるには申し分ない言葉だが、なによりもその言葉をリニスさんからぶつけられたという事実が、どうしようもなくショックだった。

 

俺の心に揺さぶりを掛けるには十二分以上のセリフだった。

 

「い、言ってる意味がわからないな。退場させる? あまりにも唐突に過ぎるってもんじゃないか?」

 

「大丈夫ですよ、殺しはしません。徹を消してしまえば徹の仲間の子たちの士気をがくっ、と削ることができるでしょうけれど、そんなことをしたらその代償にフェイトやアルフまで落ち込んでしまいそうですから。舞台から()けてもらうだけです。捕虜、と言い換えても構いませんね。私たちの本部で虜囚となって頂きます。自由に外を出歩くことを許可することはできないかもしれませんが、食事や部屋などは手厚い待遇を約束します。なんなら、私がメイドとして甲斐甲斐しくお世話をしましょうか?」

 

 これなら徹が期待した色っぽい話にもなりそうですね、とリニスさんは淡々と締め括った。

 

 その麗しいご尊顔には相変わらず笑顔が貼りついているが、目は微かにも笑っていない。

 

声のトーンや立ち居振る舞いには、一切友好の情は感じ取れなかった。

 

「どちらにしますか? なけなしのプライドを捨てて黙って無抵抗で私についてくるか、ここで無謀にも(あらが)ってしばらくの間戦線に戻れない程の瀕死の重傷を負うか、二つに一つです。

 

 機械にハッキングで侵入したあとよりも視界が真っ白になる。

 

自分の耳が本当に正しく働いているのかと疑うほどの、重く暗い響きを伴っているリニスさんの発言だった。

 

 頭がくらくらする、吐き気までしてきた。

 

 この人は本当にリニスさんなのか。

 

フェイトやアルフに慈愛に満ちた眼差しを向け、敵であるはずの俺の傷を癒して柔和(にゅうわ)な表情でお喋りしていたあのリニスさんなのか。

 

 初めて会った日のリニスさんとのやり取りを想起する。

 

たしかに俺は言葉を交わしているうちに、彼女は目的の為なら非道な行いもできる人なのだろうとの印象を受けた。

 

それでも、できることなら誰かを傷つけることはしたくないという優しさも、彼女の中には混在していたはずなのだ。

 

 あの時に話していた内容がすべて偽りで染め上げられていたなんて、俺は思いたくない。

 

あの時のリニスさんの仕草や、態度や、笑顔がすべて演技だったなんて、俺は疑いたくない。

 

あの部屋の温かくて柔らかな空気がすべて嘘だったなんて、俺は信じたくない。

 

 ならば考えろ、思考を放棄するな。

 

偽りだったなんて思いたくないのなら、演技だったなんて疑いたくないのなら、嘘だったなんて信じたくないのなら、どんな些細なことも見逃さずに考え続けろ。

 

「リニスさんはこれまで積極的にジュエルシード回収の任に就いてなかったよな。なんで今になって表に出てきたんだ」

 

「どうしました? 急に」

 

「ふと気になったんだ。ただの知的好奇心だよ。どの選択肢を取るべきか悩んでいるから、その繋ぎの話題みたいなもの」

 

 イニシアチブを奪われているから後手に回るのだ。

 

主導権を握るなんて高望みはしないから、少しでも時間を稼ぎ、可能であればリニスさんから情報を引き出す。

 

 外部からだけではなく俺の内部からも、こんな時くらいしか役に立つことのない脳みそを絞って思い出させる。

 

彼女の言動、周囲への対応、記憶の底を洗いざらい浚うようにして探れ。

 

推考して答えに辿り着くだけの情報を集めろ。

 

 リニスさんは前に会った時とは比べるべくもないほど、別人のように威圧的になっている。その違いとはなんだ。

 

 もちろん高圧的な物言いや神経を逆撫でするような態度などは、聞いて取れるし見て取れるが、その根幹にはもっと単純に簡単に言い表せるようなものがある気がする。

 

 そう、俺が口にした言葉がすでに捉えていた。『敵愾心を煽るような』、つまり挑発しているような言動なのだ。

 

先刻よりずっと一貫していることがあった。

 

リニスさんはまるで誘導するように怒りを煽っている。

 

敵意を引きつけるように、なにか一つの事柄へと結びつけさせようとしているのではないのか。

 

「まあいいでしょう。それであなたが納得するのであれば。とてもシンプルですよ。フェイトやアルフがちんたらと手間取っているので、私にもお鉢が回ってきた、というところです」

 

 頬はひくつき、眉間にしわが寄る。

 

タイムリミットを引き延ばす手段としてしか考えていなかったリニスさんとの会話で、聞き流せない単語が耳に入った。

 

「……ちんたら(・・・・)? ずいぶんな……あまりにもずいぶんな言い様だな。怪我をすることも(いと)わずに、ジュエルシードを必死に集めているフェイトやアルフに対して使う言葉じゃねぇよな? フェイトとアルフが時間も苦労もかけて一生懸命探してんのは、あんたが一番わかってんじゃねぇのかよ」

 

「言葉使いが荒くなってきていますよ、徹」

 

 思考の一部が熱を持ち始める。

 

考えを深めているからではなく、その辛辣なリニスさんの言い方に対して怒りを覚えたからだ。

 

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 

リニスさんはなにか意図を持って、俺を挑発しているんだ。

 

乗ってやる必要はない、情報収集と集積、そこから推論される解答を導くことに専念すべきである。

 

「リニスさんがらしくないことを言うからだろ。あんまりそういう言い方をされると、あなたのことを悪い方向に誤解していまいそうになる。やめてくれ」

 

「私『らしさ』なんて、徹にわかるのですか? 一度二度会って話しただけの相手のことを、徹はすべて理解できるのですか? なにか嘘があったかもしれないのに、なにもかもが嘘であったかもしれないのに」

 

 リニスさんが口を開くたびに俺の思考にノイズが走る。

 

会話で時間を稼ぎつつ考察する手筈だったのに、まったく進まない。

 

 普段の俺であれば話を聞きながら考え事をするなんて容易くできるのに、今はリニスさんの言葉を捉えて返答するのが精一杯だ。

 

 彼女の言うことが本心だと思いたくない、その一心で俺は反論する。

 

「嘘じゃなかったはずだ。そうでなければ十日前、アルフと戦って満身創痍だった俺を助けることなんてしなかった。あれはリニスさんの優しさだ。意識はなかったけど、あの時の治癒魔法の温かさを憶えている」

 

「あれも計算した上です。どちらがより多くの利益を生み出すか天秤にかけたにすぎません。フェイトとアルフがあなたのことを気に入っているようだったので、命を奪うことをしなかった。ただそれだけですよ。見知らぬ土地で膨大な魔力を有する危険な代物であるジュエルシードを探索するというのに、探し始めた序盤で戦意を(くじ)かれてはどうしようもありませんから」

 

 これが彼女の演技だと信じたくて、俺はなおも論駁する。

 

「……あの時、俺の所持品の中にジュエルシードも入っていたのに抜き取らなかった。大事だと(うた)うジュエルシードよりも他人の、敵対している人間の命を優先したじゃねぇか」

 

「信頼を勝ち取るためです。手厚い歓迎を受けたということで負い目を抱かせ、こちら側へ肩入れさせてあわよくば引き抜こうと策略を巡らせていましたが、これからという時に管理局の横槍が入りましたからね。そっちの計画は断念しました」

 

 頭の回転は鈍り、歯車は軋んで火花を散らす。脳みその中はぐちゃぐちゃだ。

 

「フェイトもフェイトです。何度も戦っている茶髪のツインテールの女の子、徹が可愛がっている女の子ですね。あの子はジュエルシードを四つも持っているというのに、奇襲をかけて奪い取ろうとはしないんですよ。愚直すぎますね。正々堂々と戦って勝ち取らなければ意味がないとでも思っているのでしょう。子どもの浅い考えです。先が見えていません」

 

「可能な限り、周りに迷惑をかけないようにっていう、フェイトなりの配慮……だろうが。浅いんじゃねぇよ……純粋さから波及する正しさだ」

 

 信じたくない、これがリニスさんの本性だなんて信じたくない。

 

 頭には深い霧がかかり、視界はぼやける。

 

「アルフも、あなたに入れ込んでいるのか知りませんが、最近はジュエルシードの捜索よりも徹のことを気にかけている(ふし)があります。もとより使い物にならないというのに、さらに使えなくなりました。脳みそまで筋肉でできているからでしょうか、安直すぎます」

 

「アルフの優先順位の頂点には常にフェイトが君臨していて、フェイトの意を汲んでいるからこそのアルフの行動なんだよ。その理念は『主のため』がなによりも(とうと)ばれて、自分の都合は二の次三の次だ。……リニスさんが言うほどに単純な女じゃねぇよ」

 

 酷薄な嘲笑を浮かべて、まるで演説するかのように声高に語るリニスさんを目に入れることすら苦痛で、俺は固くまぶたを閉じる。

 

フェイトの優しさを、アルフの献身を捻じ曲げて罵られて、その悔しさに耐えるように俺は唇を噛み締めた。

 

「そういえば、案外時空管理局も大したことはありませんでしたね。ハッキングの件についてです。警戒心がまるでありません。強者は、いつまでも強者足り得るとでも思っているのでしょうか。徹がいなければ、おそらくあと一週間は気づかなかったでしょうね。局員は寝ているのでしょうか」

 

「たしかに今回不手際はあったが、局員の人たちはみんなよくやっている。仕事や訓練、知識を得るための勉学。プライベートの時間まで削って日々平和のために尽力してんだよ。……知った風なことを言わないでくれ」

 

 クロノに案内されてアースラ艦内を歩き回り、局員の部屋にまでお邪魔したが、部屋の中にあったのは数多くの専門資料やデータ。

 

彼ら彼女らの努力を、デスクに山積みになっていたそれらが語り、証明していた。

 

 あの人たちの頑張りを踏み(にじ)るような発言に熱い感情が湧き上がる。

 

「昔から管理局の人材不足は言われていましたが、落ちるところまで落ちたようですね。魔法を覚えたばかりの少女に、知識やサポートには秀でていても戦うことのできないフェレット、変わった力はあっても魔法の才能に欠ける徹を招き入れるくらいですから」

 

 だめだ、もうだめだ。俺のアキレス腱を突いてこられては、とてもじゃないが冷静に対処することはできない。

 

 心臓が一際強く鼓動を打ち、血管を通って熱い血潮が身体を駆ける。

 

 まぶたを開いて前方を見やり、視界の中央にリニスさんを据える。

 

茫然自失で白くぼやけていた俺の視界は、今は憤怒と激情で赤く滲んでいた。

 

「たしかになのはは魔法を覚えたばかりで駆け出しだ。荒削りなところはまだまだ多いしスマートな戦い方ではないかもしれないが、それでもそれらを補って余りある才能と信念を持っている。ユーノだって、攻撃魔法こそレパートリーは多くないが、なにも前線で射撃や砲撃を放つだけが戦闘ではない。相手の攻撃を代わりに防ぐことも、動きを止めることも、負傷した人を治療することも充分戦いのうちだ。あいつらを侮辱することは絶対に許さねぇ……。撤回しろよ、リニスさん」

 

「……目の色が、変わりましたね。仲間想いの徹なら、きっとそのあたりには弱いだろうと踏んでいましたよ」

 

 俺の顔を見て一度仰け反らせるように上半身を引いたリニスさんだったが、見せた反応はそれだけだった。

 

「元を正せば、私たちはジュエルシードという願望器を巡る敵同士。仲良しこよしを演じているほうがおかしかったのですよ」

 

「俺は『演じて』いるつもりはなかったよ。リニスさん……今ならまだ、俺も怒りを(しず)めることができる。だから教えてくれよ、なんでこんな真似をするのかを」

 

「……で、そ……に……いんですか……っ」

 

 今までかすかに顎を上げ、見るからに不遜という態度を貫いていたリニスさんが、顔を伏せてなにかを呟いた。

 

俺は倉庫から数歩ほど入ったところ、対してリニスさんは倉庫の奥にいる。

 

リニスさんの声は俺の耳にまで届かなかった。

 

「ジュエルシードを集め、目的を達成する。私の主の願いはたったそれだけ、その一つだけです。そういえば、徹。あなたもジュエルシードを持っていましたね。随分人に懐いたジュエルシードを」

 

 魔法を知った次の日、自然公園でニアスに取り憑いたジュエルシードを狙って初めて会った時のフェイトの顔を、俺は思い出していた。

 

悲痛な表情で俺にバルディッシュを向けるフェイトの面立ちを。

 

 見るからに痛ましく辛そうだったフェイトの表情と、見下すような目と嘲るような笑みを貼りつけるリニスさんの表情は似ても似つかぬはずなのに、俺にはどうしようもなく重なって見えた。

 

 なぁ、リニスさん。あなたは今、なにをしようとしているんだ……。

 

俺にはもう、なにもわからない。

 

「あれを隅から隅まで調べ上げて調べ尽くせば、ピーキーなジュエルシードの出力をコントロールすることが出来るかもしれませんね。研究の過程で破損する可能性も無きにしも非ずですが、実験に犠牲はつきものですし、それにたくさんあるのですから構いませんよね。合計で二十一個もあるのですから」

 

 ばらばらに解剖されるのではという恐怖からか、身勝手な都合を押しつけられた怒りからか、ネックレスの台座に戻っていたエリーがかたかたと震えた。

 

俺にも明確なところがわからないということは、おそらく二つともが震えている原因なのだろう。

 

 なんにしたところでエリーにそんなことをさせはしないので、エリーの抱いている心配は杞憂というものだ。

 

エリーはもう俺の相棒も同然なのだ、こいつを傷つけるようなことは俺が絶対にさせない。

 

 破損したって構わない、などと平然ののたまったリニスさんへは、怒りを通り越して悲しみや寂しさまで込み上げてきた。

 

 所詮は、こういうことだったのだろう。

 

「もういい、わかった。理解した。言葉でどうにかなるような状況ではないんだな。俺に見る目がなかった、そういうことなんだろう」

 

 また歩み寄れると思っていた。知り合って間もないし、短い時間しか話もしていなかったけど、一度は離れてしまってもまた仲良くやれると思っていた。

 

 俺は忘れていたのだろう……いや、忘れようとしていたのだ。

 

目を逸らして見えないふりをして、直視しないようにしていた。

 

そんなことをしても無意味なのに、究極的にはなにも変わらないのに。

 

 敵であるという事実から目を背けていたんだ。

 

 いくら楽しくお喋りしたって、いくら笑いながら食事をしたって、いくら丹精込めたケーキを差し入れしたって、根っこの部分は変わらない。

 

事実は小揺るぎもしないし、真実は厳然と立ち塞がるし、現実はいつも無慈悲で残酷だ。

 

 いつか全員同じ場所で、敵味方なんて関係なく笑い合えたらいいのになぁ、なんて俺の思い描いた夢は、まさしく言葉の通りに夢幻だった。現実味のない絵空事。

 

泡のように弾け、煙のように空気に溶けて流される幻想だったのだろう。

 

 睨みつけるように鋭い目でリニスさんを見、手を固く握り締める。

 

「リニスさん。あんたは俺の敵だ」

 

 俺と彼女の道は、決定的に別たれた。



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俺の中心で、なにかが弾けた

 薄い茶色をした魔力がリニスさんを中軸として同心円状に広がり、俺を包み込み、やがて倉庫全体を覆った。

 

他者からの干渉や、一般人が不慮に巻き込まれないようにするリニスさんの結界だ。

 

 邪魔立てが入らないようにという考えはあるかもしれないが、一般人に被害が及ばないようにという配慮があるかどうかは、もう俺にはわからない。

 

「徹、まさか勝てるつもりでいるのですか?」

 

「リニスさんは絶対に負けないとでも思ってんのか? 自分でも言ってたじゃねぇか、『強者は、いつまでも強者足り得るとでも思っているのか』って。そいつはな、油断って言うんだぜ」

 

「いえ、徹と私の力量を先入観なしに、公正に比較した結果です。理屈と根拠に基づいた計測値と言えます」

 

「俺には不可思議な力があるっつってたろ。それはどうやって計算したんだ?」

 

「……口が減りませんね。いいでしょう。徹は言葉で説明されるより、身体に教えてもらうほうが好みのようですから」

 

 リニスさんはどこからともなく杖を取り出し、俺へと向けた。

 

 黒い棒の先端には金色に輝く台座、その上部には同じく金色の球体がくっついている。

 

 フェイトのデバイス――バルディッシュを彷彿とさせるのは、配色がバルディッシュと似通っているからだろうか。

 

「大怪我をしてからじっくり後悔することですね」

 

 俺が拳を握り、一歩踏み込んだ矢先に射撃魔法が飛来する。

 

 数は六つ。充分多い数ではあるが、彼女の魔力や技術を思えばこの程度は牽制(けんせい)のジャブどころか、立ち回りのステップみたいなものだ。

 

試合前の握手、もしくは水泳の前の水浴びとかと同義。

 

 出方を伺うのと同時に、俺の出鼻を挫くという役割を果たしている。

 

俺の動きを高感度センサーより精密に察知して放ってくるあたり、百戦錬磨の雰囲気が漂う。

 

「リニスさんが怪我した時は俺が治してやるよ。だから安心して怪我してくれていいぜ」

 

 床を蹴り、接近する魔法弾の群れを掠めるように退避する。

 

右斜め前方へと進み、身を屈めてやり過ごしたり、身体を傾けて躱す。

 

 威力は大変恐ろしいものがあるのだろうが、そんなものは結局当たらなければ意味がない。

 

速度に欠ける射撃魔法など、戦闘になれば必ず魔力弾の驟雨(しゅうう)に打たれてきた俺にとっては恐るるに足らない。

 

 リニスさんには威勢のいいことを叫んではみたが、もちろん勝てる見込みなど皆無に等しいことはわかっている。

 

大言壮語も甚だしいが、だからといって黙って彼女の命令に従うことも俺にはできなかった。

 

 リニスさんにもなにか事情があるのだろうとは予想がつくが、俺の大事なものを侮辱したことだけは絶対に許せない。

 

 俺に勝機があるとすれば、近づいての近接格闘のみだ。

 

勝利を手繰り寄せるのも一矢報いるのも、まずは接近してからである。

 

「舐めないでくださいね」

 

 呟くような小さいリニスさんの声だったのに、まるで耳元で囁かれたみたいにはっきりと聞こえた。

 

 背筋に寒気が走る。

 

嫌な予感、このまま進めば喰い殺されるかもしれない、そんな悪寒が俺の身体を貫く。

 

 回り込んで『襲歩』の範囲内に入れば即座に使って接近戦に持ち込もう、という目論見を自ら放棄し、急減速する。

 

 減速したのに身体を駆け巡る悪寒は止まらない。見えない死神の鎌から逃げるように、俺は一歩飛び退いた。

 

 その瞬間に視界が閃光で埋め尽くされる。

 

俺が取るはずだった道を焼き払ったのは薄茶色の砲撃、リニスさんの魔法だ。

 

 あのまま進んでいれば間違いなく砲撃魔法に全身を焼き貫かれていた。

 

 リニスさんの魔法術式は構築からして出鱈目(でたらめ)に早すぎる。

 

展開されたかと思えばすでに発動済みという風に、あっという間に終わっている。

 

 魔法は無論のこと、リニスさんの動きにだって言うまでもなく警戒は怠らなかったのに、それでも意表を突かれた。

 

 こんなの無理ゲーだ、初手から詰んでいる。

 

ゲームバランス狂ってるぞ、どうなってんだよ。

 

 弱気になりそうな自分の心を叱咤して集中力を繋ぎ止めながら、リニスさんを注視する。

 

 砲撃を、余裕は一欠片もなかったがかろうじて紙一重とはいえ避けたのだから、なんらかのリアクションがあるかと思ったが、リニスさんの表情は冷静なままだ。

 

 握る杖も微動だにせず……いや、かすかに先端が揺れているように見える。

 

今の光景に重なる記憶が俺にはあった。

 

工場跡でクロノが見せた動きに、確かこのような挙動があったように思う。

 

その時は……そう、背後から――

 

「まっすぐ飛んで来ていたからといって、誘導弾である可能性を排除するのは早計ですよ」

 

 ――誘導弾が迫っていたのだ。

 

 俺の背後、真後ろから、避けたはずの射撃魔法が追尾して来ている。

 

左右にぶれたりしていなかったために、完全に直射型だと思い込んでしまっていた。

 

眼前の景色を覆った砲撃に気を取られたせいで感じ取れなかったのだ。

 

 かなりの接近を許してしまい、リニスさんの射撃魔法はすでに一メートルを割っている。

 

これでは回避は間に合わない、防御するより手はない。

 

 振り向きざまに手を(かざ)し、防御魔法を行使する。

 

「ぐっ……ぉっ!」

 

 一秒を切った猶予で展開を許されたのは、密度変更型障壁三枚が限度だった。

 

 統制がなされた六つの球状の兵隊は、俺が張った急造品の盾をその身をもって突き崩す。

 

最後の一弾が俺の脇腹に突き刺さった。

 

 動きを止めてはいけない、すぐに追撃が来る。

 

そう頭ではわかっているのに、腹にめり込んだ魔力弾が内臓の位置を強制的に変えたことによる途轍もない気持ち悪さと苦痛で、どうしても足が言うことを聞かない。

 

 障壁の破砕音に重なるように、身体にがきっ、という音が響いた。

 

肋骨が折れたか、もしくはひびでも入った可能性もある。

 

 臓器を傷つけては命と継戦能力に関わるので、ユーノ直伝の治癒魔法を使っておく。

 

すぐには治らなくても痛みの緩和くらいにはなるだろう。

 

「私に怪我をさせるのではなかったのですか? 自分が先に傷を負ってはどうしようもありませんね」

 

 目の焦点が正常に戻る数瞬、その寸毫(すんごう)の間で、リニスさんはさらに畳み掛けてくる。

 

 視界を覆い尽くす光の奔流、二度(にたび)の砲撃。

 

回避するだけの時間もなく、『襲歩』を使えるほどには足にも力は戻っていない。

 

使いたくはなかったが、『魚鱗』を使うしかない。

 

 密度変更型障壁を重ね合わせた多重障壁群『魚鱗』は、あのなのはのディバインバスターを防ぎ、暴走状態にあったエリーの魔力粒子の嵐から俺の身を守ったほどの強力な盾だ。

 

消費魔力にさえ目を(つぶ)れば、かなり優秀な魔法である。

 

 リニスさんの砲撃はほぼ溜め時間ゼロという驚異的な性能だが、やはり威力という点で見ればなのはの砲撃には及ばない。

 

それでも俺を(ほふ)るには充分すぎる破壊力だが。

 

「よしっ、これで……」

 

「防戦一方でどうやって私に勝つというのですか?」

 

 砲撃を凌ぎ切り、ここから反撃に打って出てやると意気込んだ俺だったが、リニスさんのラッシュはまだ終わっていなかった。

 

砲撃に身を隠していたのは先ほどと同じ誘導弾。

 

それが左右から挟み撃ちにするように迫っている。

 

 悔しいが、このままではリニスさんの言う通りに防戦一方、攻勢に出ることはできない。

 

左右から狙われている以上横に回避することはできないし、振り切るように前方へ駆けてもリニスさんが俺のアクションに応じて射撃なり砲撃なりすることだろう。

 

後方に退いてはさらに攻撃へのチャンスが遠くなるし、防御しようとすれば足を止めることになり、手を緩めることのないリニスさんの砲火に再び晒されることとなる。

 

 戦局はリニスさんが主導し、俺は袋小路に迷い込んだ。

 

「必要最低限の力で相手を封殺する。これが賢い戦い方というものです」

 

 なのはやフェイトは圧倒的な力で圧し潰すが、リニスさんの場合ぎりぎり敵わないくらいの攻撃で俺を追い込んでいる。

 

見栄えはなのはたちのほうが良いのかもしれないが、見る角度を変えれば――効率的な運用という見地から言えば、必要以上に魔力を消費しているとも言える。

 

 どちらがより正しく、より賢いかなどとは俺には評価できようはずもないが、そういうスマートなやり方もあるということだろう。

 

節約できるところは節約する、削れる部分は削る。吝嗇(りんしょく)家の俺には合致しそうな思想だ。

 

 角度を変える、削れる部分は削る……なにか閃きそうな感覚が頭を巡った。

 

かちり、かちり、と思考のギアが段階的に上がっていくのがわかる。

 

 一度身を以て味わったのだ、リニスさんの射撃魔法の威力は把握した。

 

防ぐために使わなければいけない障壁の数、注ぎ込む魔力の概量も算出できる。

 

 躱そうとすれば手痛い反撃を受けるか、攻撃の機会が遠ざかる。

 

かといって防御すれば現状の堂々巡り。

 

 ならば、防御しながら攻撃すればいい。

 

 俺にとっては膨大な量の魔力を消耗する『魚鱗』の直後に、脳に多大な負荷がかかる『超高速演算』に頼るというのは自分の首を真綿で絞めるようなものかもしれないが、他に有効な手立ては思いつかない。

 

なに、後のことは後になってどうにかすればいいのだ。

 

 雑音は遠ざかり、あたりは灰色に染まる。集中の極致が到来した。

 

 ここからは細やかな調節が必要になってくる、まずは軌道の把握から手をつける。

 

 

 通常障壁展開――弾道予測――障壁貫通――敵性弾数二――弾道特定

 

 

 次は角度(・・)を変えていく。

 

射撃魔法は俺を真横から挟むように放たれているのだから、変更する角度はたかだか九十度でいい。

 

 力尽くで曲げようとしてはいけない……柔らかく流れるように、緩やかに矛先をずらしていく。

 

 注意すべきはターゲットが二つあること。

 

針の穴を通すような魔力コントロールを必要とするが、不思議とできない気はしなかった。

 

 今回は意識を喰われることなく、思考を制御できている。

 

何度か繰り返したことで、この状態を使いこなせるようになっているようだ。

 

 

 各弾道上に密度変更型障壁を角度を変更し展開――弾道変化、成功――同様の工程を再度実行

 

 

 入射角が垂直に近ければ近いほど衝撃は伝わり、障壁は破壊されやすくなる。

 

障壁を破壊されて二つの牙に挟まれれば、喰い千切られるように地に伏すのは目に見えているので、魔力の消費量は(かさ)むが念を入れて三回に分けて角度をずらしていく。

 

 障壁の一枚目で三十度ずれ、二枚目で六十度捻じ曲がり、とうとう三枚目で九十度に至り、俺を左右から挟撃せんと迫っていた誘導弾は発動者の元へと帰投する。

 

「なっ……! 一体なにを……っ!」

 

「さあな。種も仕掛けもあるちゃちな手品みたいなもんだけど、ばれるまでなら手品だって魔法に早変わりだ。精々悩んでくれよ」

 

 冷静沈着そのものだったリニスさんの表情に、初めて驚きの色が浮かぶ。

 

 それはそうだろう。俺には魔力が通う感覚でどこにあるかがわかるが、その感覚がなければ俺の目にすら見えないのだ。

 

第三者には俺の魔法を視覚で捉えることは叶わない。

 

リニスさんの立場からしたら、自分の魔法が俺に直撃する寸前で方向転換して自分に向かってくるようなものなのだ。

 

 演算処理の負荷に脳は熱を帯びてきているし、消費した魔力も少なくはないが、防御と同時に攻撃に転じることはできた。

 

剣ヶ峰を乗り越えた今が絶好のタイミング、好機逸すべからずだ。ここに俺の全力をぶつける。

 

「この……っ、このような曲芸で差は縮まりませんし、溝は埋まりません」

 

 誘導弾の方向を変えたとはいえ、誘導弾としての機能を失わせたわけではない。

 

いくらなんでもそこまでは手が回らない。

 

 慌てるような様子を露わにしつつも、リニスさんは落ち着いて誘導弾をコントロールして自分に当たらないよう、左手に握る杖を横一線に振って逸らす。

 

 最初から、相手の射撃魔法でダメージを与えようなどとは毛頭考えていなかった。

 

リニスさんは自分が放った魔法に対処するためには、操作して逸らすか、障壁で防ぐか、回避するかしかない。

 

俺はリニスさんに攻撃以外の行動を取らせたかったのだ。

 

 これは攻め続けられていた状況を覆す起死回生の一手となる。

 

攻撃の手を止めざるを得ないこの一瞬、この空隙を待っていた。

 

 脇腹には疼痛が残っているが徐々に鎮まり、動作に支障を与えるほどではなくなっている。問題はなにもない。

 

 魔力付与をこれまでより強く身体に纏い、リニスさんへ急速に肉薄する。

 

 彼女の眼前で右腕を振りかぶる。

 

『襲歩』の加速でついた慣性や捻転力、筋肉から生み出される爆発力や魔法によるブースト。

 

それらを掛け合わせた俺の全身全霊の一撃。

 

 俺の失策は二つあった。

 

 一つは戦闘が開始してからたこ殴りにされていた状況から、やっとのことで攻めに転じることができたという焦りがあり、一撃でけりをつけなければという思いが強かったということ。

 

 もう一つは、アルフとの雑談を今更になって思い出してしまったことだ。

 

何気ない会話の中で話題に上った戦闘技術について、アルフは答えた。

 

『フェイトもあたしも、リニスに戦い方を教えてもらったんだ』と。

 

 自分の迂闊な行動を呪い、後悔したのは、リニスさんが俺の拳を下から跳ね上げるように弾いたその瞬間だった。

 

リニスさんは腰を落とし、力の流れに逆らうことなく、手のひらの底を俺の拳の下端に接触させ、渾身の打突を上方へと逸らす。

 

それだけに飽き足らず、リニスさんは小さく、されど鋭く踏み込み、肘を曲げて俺の鳩尾へと身体の中心を撃ち貫くようなカウンターを叩き込んだ。

 

 俺の意思には関係なく、くぐもった音が俺の喉から発せられる。

 

昼食をマーライオンしなかったのは俺の最後のプライドといえよう。

 

 貫通したかと危惧するほどの一撃に呼吸が止まる。

 

内臓にまでダメージが伝わったのか口には鉄臭い匂いが満ちた。

 

 苛烈な遠距離攻撃が可能で、近接格闘にまで精通しているのかよ。

 

俺の全力にして最速の攻撃に対処しつつ、反撃に繋げるなど生半可な腕ではない。

 

 なるほど、リニスさんが勝利を確信しているのもよくわかる。

 

力の差がこうまで歴然としているのだから、それは負ける気がしなかったことだろう。

 

 とはいえ、俺も容易く蹴散らされるつもりはない。どこまでも抵抗してみせる。

 

 敵の目の前で動きを停止させるなど愚行の極み、俺なら確実に追撃の手を緩めることはしない。

 

 追い討ちを避けるために、俺は混乱に陥った呼吸器系に鞭を打って身体を動かし、薙ぐように右の手刀で払う。

 

だが振り放った俺の刀は空を切った。

 

「慌てては動きが読まれやすくなりますよ、気をつけなければ。……この距離からの砲撃、防げますか?」

 

「ふっ、ざけんな……っ!」

 

 反撃の一閃を予期していたのか読みきっていたのか、リニスさんは彼女曰くの『必要最低限』の動きで、俺の間合いから退いた。

 

空いたスペースに自身の持つ杖を差し込み、丸くなっている先端を俺に突きつける。

 

すぐさま杖は淡い茶色に輝き、俺の視界を埋め尽くした。

 

 リニスさんは俺の攻撃圏内から外れている、今から砲撃を妨害することはできない。

 

ダメージの余韻が俺の身体の中軸を揺さぶり、足が脳からの命令を受領しないため回避することも不可能。

 

 現実的ではないが、防ぐほかには手立てがなかった。

 

「一応非殺傷設定にはしています。死にはしません。ご安心を」

 

「死なない、ってだけだよな。それ」

 

 寸時のチャージを経て、眼球を突き刺すような光が、俺と、俺の言葉を飲み込んだ。

 

 地を踏みしめていても、後方へ十数メートルも押し流される。

 

 急拵(きゅうごしら)えの障壁群で凌ぎ切れるなんて甘い考えは持ち合わせていない。

 

外側の障壁が一枚、二枚と剥がれ落ち、食い破られた障壁の穴からエネルギーが漏れ出す。

 

障壁を突き破った砲撃は、魔力付与を身体の前面に供給し、歯を食い縛って耐える。

 

今は耐え忍ぶことだけしか俺にはできない。

 

「ぁあっ、痛ぇなぁっ! でも、凌いだぞおら! …………?」

 

 展開した障壁群は見る影もないほどぼろぼろに損傷しており、砲撃の熱量と威力の凄まじさを物語っていたが、障壁群の中心は生き残っていた。

 

障壁の端は削り取られ、それに伴い俺の身体の末端部は焼き焦げていたが……まだ戦える。俺はまだ、戦える。

 

 ここからどうやってもう一度距離を詰めようか、と算段を立てていたが、左腕に違和感を覚えた。

 

 目をやれば、そこには薄茶色の鎖が幾重にも巻きついている。

 

 これも、似たようなものを見た記憶があった。

 

クロノに幾度となく使われた拘束魔法と同系だ。

 

それが今、いつの間にか、俺の左手に雁字搦(がんじがら)めに絡みついていた。

 

 ぐんっ、と強く引っ張られる。

 

「徹の魔力で、あの近距離からの砲撃を耐えたのは感嘆に値しますが……それで気を抜いてしまっては」

 

 結界に包まれた倉庫に、リニスさんの声が冷たく乾いて響いた。

 

 服を大型機械に巻き込まれたかのような、想像を絶するほどの激甚な引力により地面から足が離れる。

 

「っこほ、げほっ……。こっの、怪力……」

 

「女性に対して使う表現ではありませんよ」

 

 俺の発言が逆鱗に触れたのか、リニスさんは俺を引き寄せながら射撃魔法まで撃ってきた。

 

 跳躍移動の為の足場すら生み出す暇もなく、もちろん放たれる魔法弾を躱すこともできず、右腕で頭などの人体の急所だけは守るように努める。

 

 ハッキングで腕の自由を奪っていた拘束魔法を破壊した時には、俺はリニスさんの眼前に身を乗り出すような形になっていた。

 

 綺麗な着地ができようはずもなく、倒れ込みこそしなかったが膝をついてしまう。

 

「たしかにその、魔法を内側から術式ごと破壊する珍妙な技術には驚嘆の念を抱きますが、それを次の自分の行動に活かせないのであれば、さほど脅威には成り得ません」

 

 リニスさんは、ちょうどいい高さに跪いている俺の腹部へ蹴り込んだ。

 

 俺の意に反旗を翻した発声器官が、踏み潰された蛙のような情けない声を形成した。

 

 その細いおみ足からどうすればこのような破壊力が(もたら)されるのか。

 

自然の摂理の理不尽さには呆れ果てるばかりだ。

 

 このように強がっておかなければ、胃の内容物が食道を遡上(そじょう)する不快感を紛らわせないし、痛みに抗えない。

 

やけくそでもなんでも気を張っておかなければ意識を手放してしまいそうだ。

 

いっそのこと意識を失ったほうが楽になれるのだろうが、俺のちっぽけな矜持がそれを許してはくれない。

 

見栄を張って、意地を張って、虚勢を張るのが俺の生き方で、理念だ。

 

 蹴り上げられて、またしても宙に浮いた俺の身体は浮遊感を味わい、重力に従いすぐに墜落するかと思われたがそうはならなかった。

 

 壊したはずの鎖状の拘束魔法が俺の身体を宙吊りにしている。

 

(かす)んでぶれる瞳で確認すれば、倉庫の(はり)を経由して薄茶色の鎖が俺の身体を捕らえ、吊るし上げていた。

 

 破壊される可能性を考慮しているのか、一本や二本なんて可愛い数ではなく、夥しい本数が俺の身体に巻きついている。まるで蜘蛛の巣のような様相だ。

 

 魔法で作られているとはいえ、鎖が肉に食い込んで地味に痛い。

 

「……縛り上げるのが、リニスさんの趣味なのか……」

 

「そう言う徹は殴られたり蹴られたりと、傷つけられるのが好みなのですか? 敵わないとわかっていながら殴りかかってくるなんて」

 

「そんな性癖……持ってるわけ、ねぇだろ。あんたのやり方は筋が通ってない。納得いかない、気に入らない。俺は絶対に、リニスさんの強行手段を認めはしない」

 

「……そうですか。別に構いませんが。達するべき地がある以上、私は実現させるために突き進むだけですから」

 

 かつ、かつ、と静かに床を踏み鳴らしながら、ゆっくりとリニスさんは俺に近づく。

 

 ハッキングを使って拘束魔法を引き千切っても、あまりに数が多すぎる。

 

処理スピードが追いつかないし、なにより過度な演算で、磨りガラス越しに物を見ているような、ぼんやりとした感覚が頭の回転を阻害する。

 

 宙に吊るし上げられた俺と目線を合わせるため、リニスさんは飛行魔法を発動させてふわりと浮かび上がり、さらに接近を果たす。

 

お互いの距離は五十センチを切っている。

 

「徹、協力してもらえませんか? 徹はジュエルシードの中身を不可思議な力で作り変えました。今のままのジュエルシードでは扱い辛く、成功率に不安が残るのです。私たちの願いを叶えるために、力を貸してもらえませんか……?」

 

 リニスさんは尚も近づき、俺の頬に右手を添えて、知ってか知らずでか妖艶な色香まで放ち、惑わすように懇願する。

 

 普段であれば――平時の俺であれば、リニスさんにここまでされれば一も二もなく首を縦に振っていたことと思う。

 

だが、今のリニスさんには前までの感情を抱けない。

 

ここまで顔を近づけられても、俺の心臓は跳ね上がるどころか静かに律動を刻むだけなのだ。

 

「断る。ジュエルシードを使う……しかも複数個を同時に発動させるってことだろ。人間が有する魔力なんて砂粒ほどに思えるほど莫大な魔力が解き放たれるんだ。次元震が起きないと断言することはできないし、次元断層が誘発される可能性だってある。それらが引き起こされた場合、この世界……俺がいるこの世界なんていともあっさりと消し炭になっちまう。この世界には守りたい人が何人もいるんだ。ここまでするんだから、リニスさんたちにとっては大事なことなんだろうとは思うが、やらせるわけにはいかない。申し訳ないとは思わないぞ。俺にとっても大事なことなんだからな」

 

 俺は向けられる視線を真っ直ぐに返し、言った。

 

信念に基づいた行動と、忌憚のない考えを口に出したのだ。後悔はない。

 

 リニスさんは悲痛に耐えるように目を伏せ、俺の頬から手を離した。同時に一歩分後ろへ下がる。

 

「決裂……ですね。こればかりは致し方ありません。願いが違えば道を(たが)える、そういうことですね」

 

 この瞬間だけは、リニスさんの敵意に溢れた威風が鳴りを潜め、声音はひたすら純粋に心を痛めた様子だった。

 

 その変化が、俺は気になった。

 

「……リニスさん、あなたは……」

 

 『あなたはいったい何を隠しているんだ』と、そう尋ねようとして、リニスさんが被さるように声を重ねる。

 

「力を貸して頂けないのなら自ら研究するしかないですね。このジュエルシードが私たち(・・)の未来を……命運を左右するかもしれません。研究材料として頂いておきます」

 

 悲痛な瞳や沈痛な声色が見間違いや聞き間違いだったのかと思うほどに、威圧感がいや増した雰囲気を醸し出して、リニスさんは言う。

 

 リニスさんは俺の首にかかっているネックレス、その台座に鎮座するエリーに目をつけ、手を伸ばした。

 

 戦闘(という名の一方的な蹂躙)中に激しく暴れまわったせいで、服の内にしまっていたのが外へ飛び出てしまったのか。

 

仮に外へ飛び出していなくとも、リニスさんなら俺の服を引き裂いてジュエルシードを確認していたことだろうから、あまり結果は変わらない。

 

 リニスさんの指先がエリーに触れる寸前で、空気が破裂する音とともに青白いスパークが発されてリニスさんの手を弾いた。

 

エリーの暴走状態を解除して封印した後、誰にも触れられたくないかのようにフェイトたちを拒絶していたあの反応と同じものだ。

 

いや、今回の方が幾分手荒くなっている気もする。

 

前回よりも破裂音が倍近く大きくなっているし、弾く時の光もここまで眩しいものではなかった。

 

 リニスさんは不遜で身勝手なことを二度に渡り口走ったのだから、エリーの怒りを買うには充分すぎると言えよう。

 

「くく……はっは。……どうするんだ、リニスさん。こいつはリニスさんのことが気に食わないらしいぞ」

 

 エリーは絶対にリニスさんの言うことを受け容れようとはしないだろう。

 

街中で封印した時でさえ、俺以外の人間を拒否していたのだ。

 

 なのに、事もあろうに、エリーを実験の材料とする、などと目の前で公言した。

 

エリーは拒否から拒絶へと警戒の段階をシフトさせている。

 

リニスさんへの対応が苛烈になったのがその表れだ。

 

「そうですね、それではこうしましょう」

 

 そんな状態のエリーに対してどうやって命令させるのか、と高みの見物のような気分になっていた俺の腹部へ、リニスさんの手があてがわれる。

 

 唐突に、凄絶な衝撃が俺の腹を貫いた。

 

「があぁっ! はっ……ぐぅぶ……っ」

 

 零距離で撃ち込まれたリニスさんの射撃魔法は、数拍俺の腹のど真ん中に食い込んで消失した。

 

 苦痛に視界は歪み、頭の中は疑問符でいっぱいになる。

 

口からは逆流した血が溢れるが、拘束されているせいで拭うこともできなければ、激痛の余波を残している腹部を押さえることすらできない。

 

 なぜだ、なぜいきなりリニスさんは俺を攻撃してきたのだ。

 

「簡単な話ですよ。これは脅しです」

 

 俺が疑問に思ったのを察したのか、リニスさんが説明する。

 

もしかすると俺だけにではなく、エリーにも向けられているのかもしれない。

 

「私のささやかなお願いを聞き入れてもらえないのなら、徹に攻撃を加えていく、というものです」

 

「な、んで……。そんな……こと……無駄、だろうが……」

 

 身体を駆け回る不快感と神経に走る痛みに俺は息も絶え絶えだが、声を掠らせつつ、口の端から一筋血の流れを刻みながらも、リニスさんへ言い返す。

 

 俺が拷問もどきを受けたところでエリーの意志が折れるとは思えない。

 

そんなことやっても意味はない、と俺は言いたかったのだ。

 

 だが、リニスさんはそうは思っていないらしい。

 

「どうやらこのジュエルシードは徹に心酔しているようですからね。自分が拒むせいで徹が傷つくと分かれば、(かたく)なな態度も覆るでしょう」

 

「やめろ……こいつを追い詰めるなっ」

 

 俺のことなど歯牙にも掛けず、リニスさんは再度エリーへ触手を伸ばした。

 

 迷うように戸惑うように、不安定な光量で明滅するエリーは、やはりリニスさんの手を弾く。

 

だが、かなり威力が低下していた。

 

一回目は高出力に設定されたスタンガンのような耳を(つんざ)く音と目を刺す強い光で拒絶したが、今回はまるで静電気だ。

 

話し声程度でも掻き消されるくらいの破裂音、光に至ってはリニスさんの指先に小さく瞬いたのみ。

 

 そんなエリーの微かな抵抗でも、リニスさんは拒絶と捉えたようだ。

 

 杖の照準を俺の左肩に合わせる。

 

「拒むのであれば、こうするしかありません。本当のところ、私もしたくはないのですが」

 

 撤回するようにエリーが数度強く輝いたが、エリーの青白い光はリニスさんの薄茶色の閃光に塗りつぶされた。

 

 ふたたび放たれた射撃魔法は一寸の狂いもなく、狙いを定めた俺の左肩へと直撃した。

 

 がぎっ、という鈍い音が、耳からではなく骨を伝導して俺に届く。

 

遅れて、神経を焼くような激甚な痛みが到来した。

 

獣の咆哮じみた悲鳴が、俺の意思とは無関係に喉を裂きながら飛び出す。

 

 しかも痛いだけではなく、左肩から先を動かすこともできなくなっている。

 

これは拘束されているからという理由だけではない、肩の骨が脱臼したのだろう。

 

稽古中に受身を失敗して関節が外れたことはあったが、故意に外されたのは初めての経験だ。

 

普通に殴られるよりも精神的なダメージが大きいことを知った。

 

「このジュエルシードには明確な、それこそ意思とすら呼べるような知性があるのでしょう? それなら私の言葉を理解することもできますよね? わかりますか? あなたのせいですよ、これは」

 

「やめ、ろよ……エリーには、問われるべき罪などない……」

 

 リニスさんは血の通っていない冷たい瞳で見下すように、エリーに語りかける。

 

「あなたのせいで、徹は耐え難い苦痛に苛まれているのです。あなたが強情を張って私の言う通りにしないから、その度に徹は傷ついているのですよ。ジュエルシードという災厄を撒き散らすだけの役立たずの重荷を背負っているせいで、徹は受けなくてもいい痛みを受けているのです。そんな理不尽が有り得ていいのでしょうか」

 

 こんなでたらめを真に受ける必要はない、そうエリーに言葉をかけようとしたが、不穏な気配を察知したのかリニスさんは俺の首にまで鎖を巻きつけた。

 

喉を絞められ、気道を圧迫されたことで発声することができない。

 

 一定のリズムで光を放っていたエリーは、リニスさんから言い詰められる度にその輝きを弱めていく。

 

嘆き悲しむような、見ていて心が引き裂かれそうになる――切ない光。

 

「ですが、災禍しか与えないあなたのようなジュエルシードでも、できることが一つだけあります。徹の側から離れることです。遠ざかることでやっと、徹は苦痛から解放される。私に従ってください。それが徹の痛みを取り除く唯一の手段です」

 

 好き勝手言ってんじゃねぇよ。こいつがいつ、俺に迷惑をかけたんだ。

 

 市街地でエリーを封印した時はたしかに苦労はしたが、元を辿ればエリーが暴走した所以(ゆえん)だって、なのはとフェイトから同時に強い魔力を浴びせられて励起したからに過ぎない。

 

暴走が深刻なものになってしまったのも、遠い過去に内部プログラムの改悪を何者かに施されていたからだ。

 

 迷惑どころか、エリーはジュエルシード探索時に協力すらしてくれた。

 

工場跡では渋ってはいたが、最終的には青白い輝線で在り処を教えてくれたし、今日だってこの倉庫にジュエルシードがあることを示してくれた。

 

俺の力になってくれていたのだ。

 

 エリーには間然する所などありはしない。

 

エリーが負わなければいけない責など、一つもない。

 

自分勝手な都合と解釈を並べ立てて、エリーを追い詰めるな。

 

 そう叫びたいのに、俺の声帯が空気を振動させることはない。

 

 気を緩めれば意識を失うほどに首を絞めつける鎖のせいで、言葉が喉から出てこない。出てくるのは(しゃが)れた呻き声だけだ。

 

 エリーの小さな身体に灯る青白い光は、絶望と諦観の波に呑み込まれたかのように、失われた。

 

 かちり、という微かな金属音が鳴る。

 

ネックレスの台座からエリーが離れた音だ。

 

 エリーはふわふわと、リニスさんの正面に浮かび上がる。

 

ちょうど俺とリニスさんの中間、それはまるで俺を庇うような位置だった。

 

「わかればいいのです。これが最善の選択ですよ。わたしにとっても、徹にとっても、もちろんあなたにとっても」

 

 浮遊するエリーをリニスさんは乱暴に握り締め、自身の魔力で押さえつけた(・・・・・・・・・・・・)

 

「何かの切っ掛けで暴走などされると困りますからね。徹から離れたことで強気になって、また抵抗されるのも面倒です。今のうちに機能停止にでもしておきましょう。この程度で壊れるほどロストロギアは脆弱ではないでしょうし、研究には支障はないでしょう」

 

 エリーを握るリニスさんの手を中心に、半径二十センチほどの淡い茶色の魔力で構成された球体が生み出された。

 

 リニスさんの指の隙間から、苦痛にもだえるように青白色の光の粒子が零れ落ちる。

 

 それは不遇な運命に対する悲鳴とも、無慈悲な結末に対する嘆きとも取れた。

 

なによりも、哀しみに暮れるエリーの涙に、俺は見えた。

 

 力を振り絞って腕や足へ懸命に力を込めても、俺を縛る鎖はびくともしない。

 

酸素と血液が充分に送られていない頭ではハッキングも満足に行えない。

 

 意識は薄れ、視界の端は黒く沈み、エリーの光が遠くなっていくように感じられた。

 

 俺はただ、見ていることしかできないのか。

 

俺に力がないから、エリーが苦しめられるのか。

 

俺に力がないから、大事な存在を奪われなければいけないのか。

 

 俺はまた(・・)、大切なものを失うのか。

 

 

 

 

 

 ロストロギア、ジュエルシード。

 

 元は人々の願いを叶えるという純粋な思いから生み出され、作り出された願望器。

 

しかし二十一個のジュエルシードは、その機構を悪意によって歪められ、不幸と悲しみを吐き出すだけの存在となった。

 

 偶然とはいえ、二十一個のジュエルシードのうちの一つであるエリーは、その呪縛から解放された。

 

本当に思いがけない僥倖ではあったにしろ、エリーは本来の機能と役目を取り戻すことができたのだ。

 

 なのに、その矢先だ。次はその力を無理矢理使われようとしている。

 

強制的に、力尽くで、無理強いされようとしている。

 

そんなこと、認められるわけがなかった。

 

 リニスさんがしようとしていることは、すべてを犠牲にしてでもやり遂げなければいけないほどに重要で、大切なことなのだろう。

 

今日のリニスさんは横柄で不遜な振る舞いを取ってはいたが、会話の端々で本来の彼女がちらちらと垣間見えていた。

 

優しい彼女の顔が、所々透けて見えていた。

 

偽善ならぬ偽悪だ。

 

そうしなければいけないなにかが、今の彼女にはあるのだろう。

 

 しかし、それだけでここまでの行いを正当化することはできない。

 

 どのような大義名分があれば、人を傷つけることをよしとすることができるのだ。

 

どのような自分を騙す口実を掲げれば、こいつを苦しめてもいい理由になるのだ。

 

 リニスさんの行為は決して許せない。看過できない。

 

 エリーにはこれ以上苦しんでほしくない。

 

悲しませたくない。

 

辛い思いをしてほしくない。

 

 市街地でエリーの中へ入った時、頭に流れ込んできた思い。

 

凍えるほど冷たく、泣きたくなるほど暗い檻にたった一人、孤独の中封じられたエリーの姿は、未だに(まぶた)に焼きついている。

 

助けを求めて、腕を伸ばしていたエリーを、俺は憶えている。

 

 助けたい、助けなければいけないのに……なぜ俺の身体はこんなに大事な時に動かないのだ。

 

なぜ、身体に絡み、巻きつく鎖如きを引き千切ることができないのだ。

 

あいつが泣いているのに、なぜ、俺はこんなに……無力なんだ。

 

 力、力、力……力さえあればあいつを助けることができるのに、力さえあればこんな鎖なんて千切って捨てることができるのに、力さえあれば大切なものを奪われずに済むのに。

 

 

 

 

 

 ――力さえ、あれば――

 

 

 

 

 

 俺の中心で、なにかが弾けた。

 



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嘘でも外連味でも、建前でも意地でもなく、正真正銘に紛れもなく、俺の本心だった

 なんの犠牲もなく、力を得ようなどとは思わない。

 

俺の身体なら切り売りしてやる、俺の魂なら燃やしてやる。

 

 その代わり、俺の大事なものは返してもらう。

 

「そいつは……俺のものだアアァァッ!」

 

 絶叫と同時に血も吹き出るが、そんな瑣末なことはどうだっていい。

 

ただ、奪い返す。

 

その一点こそが重要で、それ以外は一つ残らず取るに足らない事象だ。

 

取るに足らないのなら、切り捨ててしまえばいい。

 

 外れた左の肩を力技で骨接ぎする。

 

痛みもあったが、それ以上の熱量を持つ感情がそれすら上書きした。

 

 憤怒の焔が身を焦がし、激情に思考が支配される。

 

眼に映るものすべてが赤く染まり、目的の達成と敵性対象の排除のみに神経が注がれる。

 

 いつの間にか俺を縛り上げていた鎖は解け、魔力の粒子へと変換され、大気へと還っていった。

 

 標的へと目をやれば眉間にしわを寄せ、胸を押さえてこちらを睨みつけている。

 

エリーを苦しめていた薄茶色の魔力も、今は影も形もない。

 

 向こうの事情なぞ知らないし、興味もないが、動いてこないというのなら好機と捉えていいだろう。

 

 好機だろうとタイミングが悪かろうと、どちらにせよ打って出ることに変わりないのだ。

 

まっすぐ殴りかかるか、回り込んで殴りかかるかの違いでしかない。

 

 赤熱する思考のまま、(ほとばし)る信念のまま、俺は()える。

 

「そいつをッ……がァえせェェッ!」

 

「っ! いきなり、一体何が……っ」

 

 接近して拳を振るうが、なにか軽いものに触れた感触はあっても手応えはまるでない。

 

 狭窄する視野で捕捉する。

 

標的は目を大きく見開きながら距離を取っていた。

 

後ろへ飛び退くことで避けられたのだろう。

 

今も飛行魔法を使用し後退し続けている。

 

 軽い感触は標的の衣服に拳が掠めたからであるようだ。

 

ひし形に開いていた胸元、その左胸の上部あたりが大きくはだけていた。

 

 脳内の片隅で『リニスさんが回避行動を取ったのはこれが初めてだ』などという考察が浮上するが、なんの価値もないことに思考を割く意味はない。

 

無駄な考えを唾棄(だき)する。

 

今は標的を打ち砕き、エリーを奪還することが最優先なのだ。

 

「逃げんなァッ!」

 

 足場を生み出し、踏み込んで再度肉薄する。

 

後退し続けていたかと思われたが、案外近くにいたようで一歩で目の前まで近づくことができた。

 

 標的は首を絞められたかのようにか細く、短い悲鳴のような声を上げた。

 

しかし実際に首を絞められたのは俺だし、悲鳴を上げたかったのはエリーだ。

 

同情の余地などないし、斟酌(しんしゃく)する道理もない。

 

 身体全体に回していた魔力付与の割り振りを切り替え、右手指先のみに一極化させる。

 

過剰に送られた魔力は鉤爪(かぎづめ)のような形態を成し、俺はただ、それを振るう。

 

「ひっ、く……っ。重いっ……」

 

 標的は携えていたステッキの黒い棒状の部分で防御した。

 

接触した部分から派手に火花を散らしたが、それ以上食い込むことはない。

 

 攻撃に失敗したのなら、すぐに次へ移るのみだ。

 

 右手に集中させた魔力は腕を通って反対側、左手へと送られる。

 

左手に凝縮された魔力は周囲との密度の差から、シュリーレン現象のように、ともすれば陽炎のようにもやもやと揺れる。

 

 目に入った変化などすぐに思考から打ち棄て、左の拳撃を標的へと放つ。

 

 がぎぃぃっ、という爆音が空気を震わせた。

 

 重たい手応えはあったが、今度は重たすぎるし硬すぎる。

 

障壁により阻まれた。

 

「たかが打撃一発で……罅をっ……」

 

 またしても攻撃は失敗に終わるが、今回は魔法を展開して――すなわち足を止めている。

 

この状態であれば、次打によりチャンスは広がる。

 

追撃の手を緩める理由はない。

 

 障壁に触れている左手から術式内へと潜り込む。

 

ハッキングでプログラムを穿ち、破壊して回りながらさらに奥深くへと潜行する。

 

 魔法の術式を跳び越え、違う光景が頭に流れ込んだ。

 

薄茶色に輝く小さな光の塊。

 

 言い知れぬ怒りを覚え、得体の知れないそれを食い千切ろうとしたところで、意識が倉庫内へと引き戻される。

 

 障壁は消失していた。

 

そのせいで魔力の繋がりを断ち切られたのだろう。

 

「また……っ、なにをしたのですかっ、私にっ!」

 

 息を荒げながら胸を押さえる標的の額には、うっすらと汗が滲んでいる。

 

 理屈はわからないが――特に知りたいとも思わないが――相手に負担を与えているのなら重畳というものだ。

 

エリーが味わった苦しみの一部だけでも返すことができたのだから。

 

「てめえが知る権利なんて欠片もねぇし、俺が教える義務なんてもっとねぇよ」

 

 標的の顔が悲しげに歪み、ややもすれば今にも泣き出しそうな表情になるが、そんなこと意に介さない。

 

悲しかったのも、泣きたかったのもお前ではないのだ。

 

「近くにいては、危険すぎるっ……」

 

 標的は全力の飛行魔法で後退を始めた。

 

「逃すと思ってんのがァッ!」

 

 それに追蹤(ついしょう)するため、足元に移動用の障壁を張り、跳躍しつつ移動する。

 

 あと一歩、あと一回の跳躍で手が届くという距離まで近づいた時、周囲から魔力弾が飛来した。

 

標的が放ったものでまず相違ない。

 

 忍者などが追っ手を振り払う為に使う撒菱《まきびし》みたいな役割なのだろう。

 

小癪で小賢しい真似だ。

 

 迂回するとなると数歩分遅れを取ることになる。

 

エリーは今も俺の助けを待っているのだ、わずかだとしても時間を浪費するわけにはいかない。

 

 よって俺が取るべき手段は、最速を保ったまま最短ルートを『中央突破』。

 

「気が触れています……。常軌を、逸している……」

 

 速度を落とすわけにはいかないため、足へ供給する魔力は七割。

 

残りの三割を腕の前面に回し、頭という人間の核となる部位のみを守る。

 

 そこさえ無事であれば、身体の末端部が多少(こそ)げようと継戦自体に問題は発生しない。

 

左足大腿部に被弾して足が痺れを訴えようがそんなもの気合で動かせばいいし、右外腹部が爆ぜて出血しようが圧迫していればいつかは止まる。

 

食道を逆流して口から絶えず溢れる血は唇の端から顎へと血の河を描いているが、すぐにポテンシャルに悪影響を及ぼすものでもない。

 

大切なものを取り戻すための動きになんら支障はない。

 

 動ければいい、あいつがこの手に戻ればそれで俺の目的は達成されるのだから、身体が動けばそれでいい。

 

「捕、まえたァッ!」

 

「ひぅっ……」

 

 俺は力任せに左腕を振るう。

 

 標的は反射のように、手に持つ杖を咄嗟に掲げて身を守った。

 

防御しようとして防御したのではなく、浴びせかけられる異常なまでの狂気を遮りたくて、自分と俺の腕の間に杖を差し込んだといったところだろう。

 

防衛本能と言ってもいい。

 

 飛行魔法では踏ん張りが利かず、標的は勢いに押されるまま地に落ちたが、落下中に猫の如く身を(ひるがえ)して足から着地する。

 

だが凄まじい勢いを足だけで殺すことはできず、すこしふらつき手をついた。

 

 追撃に移るため俺も地上に降りる。

 

 戦闘の流れは俺にきている。

 

攻撃は肝心な部分で防がれているが、手応えは悪くない。

 

このまま攻めればいずれは()とせる。

 

 もう少しで、あと数手で、わずかな踏み込みでエリーが俺の手に戻る。

 

日常が俺の元に帰ってくるのだ。

 

 取り返せ、奪い返せ……俺の『全身全霊』をもって。

 

「飛行魔法なしで、なんて速さなのですか……。……まずはその動きを止めます」

 

 床に着地し接近すると、俺を一度捕縛した拘束の鎖が周囲から伸びる。

 

視界を埋め尽くすような鎖の数で、俺をどれほど警戒しているのかが見て取れた。

 

「邪魔……邪魔だ、邪魔だッ、邪魔だァッ!」

 

 だが、それだけではまだ甘い。

 

使われる拘束魔法の内部構造がどれも共通しているのならば、俺の足を止める枷にはならない。

 

 標的が使う拘束魔法を、俺は数えきれないほどいくつも掛けられた。

 

それだけ多くのサンプルに触れることができたということだ。

 

 俺を捕らえた拘束魔法の術式は記憶している。

 

その仕組みも、どの部分が脆弱かもすでに掌握しているのだ。

 

同じ術式をハッキングしていれば、回数が増えるごとに演算にも慣れてくる。

 

ちょうど数学の問題を解くのに、数をこなせば簡単に思えてくるのと同じものだ。

 

 今さら使い古された拘束魔法を俺に差し向けてきたところで、時間稼ぎにもなりはしない。

 

「無茶苦茶……フェイトやアルフが言っていた以上に、無茶苦茶です……」

 

 腕に纏わりついた鎖は振り払い、足に絡みついた鎖は引き千切り、胴体に巻きついた鎖は身体ごと前へ突き進むことで破壊する。

 

 凧糸よりも容易く切断されていく拘束魔法を見やり、標的は呆然と呟いた。

 

 短時間のうちにハッキングを連続で使い続けたため、脳がオーバーヒートを起こし焼き切れそうになるが、だからといって手を休めることはしない。

 

この程度で焼き切れるような細い神経ならばいらない、切り捨ててやる。

 

 鎖の壁を突破し、踏み込んで拳を叩きつけるが、また障壁に阻まれた。

 

障壁を張るなら張るで、俺は一向に構いはしない。

 

内部へと魔力を浸透させ、内側から切り崩すのみだ。

 

「迫る形相は恐ろしいですし、力も跳ね上がっています……。ですが、攻撃だけに意識が偏向している分、読みやすくもなっていますよっ!」

 

 プログラムをぐちゃぐちゃに掻き混ぜ、いざぶち壊してやろうと手を障壁に密着させた時、障壁が消滅した。

 

 俺はまだハッキング作業を開始していない。

 

となれば原因は標的しかいない。

 

標的が自ら防御魔法の展開維持を取り止め、消し去ったのだ。

 

 ハッキングに傾注させていた為、目的のものが突如霧散したことで俺は前のめりにつんのめった。

 

 たたらを踏む俺の目の前に、標的が持っていた杖の先端、金色の球体が突き出された。

 

「今回は障壁を張る暇すら与えません。二度目の零距離、防げるものなら防いでください」

 

 標的の強気な発言は砲撃魔法の轟音に掻き消された。

 

暴れ狂う魔力が一つの塊となって襲い来る。

 

 俺は無心の境地で、砲撃が放たれる杖へと左腕を伸ばした。

 

直後左の手のひらへ計り知れないまでの熱量と、尋常の沙汰ではないほどの()し潰されてしまいそうな圧力が到来した。

 

 膨大な水が岩にぶつかり波飛沫を散らすように、俺の左手に直進する勢いを妨げられた砲撃魔法の魔力は上下左右に飛び散る。

 

 奔流に抗いながらなおも左腕を突き出し進め、杖に左手の一部が触れた。

 

そこを起点に、砲撃の演算を代理で担っているデバイスへハッキングを使って侵入し、持ち主の命令をインターセプトしてコマンドを書き換える。

 

今行っている動作、砲撃を即刻停止せよ、と。

 

 かくして俺の進撃を阻んでいた砲撃は出力を弱めていき、ついには鳴りを潜め、俺が送ったコマンドの誤認識により動きを止めた。

 

 標的は息を呑み、眉を顰めて頬に冷や汗を一筋刻みながら、口を開く。

 

「目を煌々と血走らせて牙を剥き、雄叫びを上げて襲いかかるその様はまるで獣……いえ、もはや化け物です。人へ恐怖を与えるに足る迫力と能力がありますが、人間性を失っています……」

 

 障壁も張らず、魔力付与による身体強化の効果のみに頼った結果、左手はずたぼろとなった。

 

 ()けついているような感覚と、途轍もない痛みが走る左手で杖の先端を掴みながら、標的の問いに答える。

 

「人間性なんてなんの意味もねぇんだよ! 常識を保ったままで、奪われたもんを取り返すことができねぇッてんなら、そんな常識切り捨ててやるッ!」

 

 左手で杖の動きを阻害しつつ、エリーを握る標的の手目掛けて右腕を伸ばす。

 

 すぐ近くにあるんだ、手を伸ばせば届くところに。

 

ならば、この手を伸ばさない理由はない。

 

「ここまでするつもりはありませんでしたが……潰します。あなたは危険すぎます」

 

 伸ばした右腕は、標的が合わせた膝蹴りで標準が逸れて宙を泳ぐ。

 

 右手がびりびりと痺れるが、どこかその感覚すら遠く感じる。

 

狭窄して眼に映るのは、囚われたエリーだけだ。

 

 『リニスさんは近接格闘をも万全にこなす。腕を掴もうとしても無駄だ』

 

 沸騰したように熱くなった頭の中で、冷静な部分がそう提案するがすぐさま一蹴する。

 

この手で掴めばそれで終わるのに、なぜ遠回りしなければいけないのだ。

 

「しつ、こいですね……っ!」

 

 身体の中心にまで響く鋭い蹴りが、ロー、ミドル、ハイと一息で三発も突き刺さった。

 

 びぎっ、という骨がひび割れるような音と、膝を折りたくなるほどの激痛が全身に伝わる。

 

肋骨に衝撃を受けたことにより肺が圧迫され、一時絶息状態に陥る。

 

戦闘中に並行して使っていた治癒魔法で、なんとか出血を抑えていた程度だった傷口が開き、また血が溢れてきた。

 

内臓にまでダメージが及び、食道から一塊になった赤黒い液体が込み上げて唇から零れる。

 

口内に血の匂いと味が充満した。

 

「なぜ……なぜ手がっ、離れないのですかっ! ここまでやっているというのにっ!」

 

「……諦めたら全部失う。……もう俺は何も、奪われないッ! 奪わせないッ!」

 

 頭に酸素が送られず、寸時視界が真っ暗になり意識も途切れそうになったが、それでも、肉が裂け血が滴る左手で掴む杖は離さなかった。

 

杖を離してまた距離を取られれば魔力も体力も削れる上に、なにより時間が失われる。

 

不安と恐怖で震えるエリーを、これ以上待たせるわけにはいかない。

 

 だが、このままでは有効打に欠けるのも事実だ。

 

どうすれば一番早く取り戻すことができるか、それだけを考えろ。

 

残された時間は僅かなのだ。

 

 常時高速で行われる魔法の演算、度重なるハッキングにより、頭はまるで燃えているかのように熱い。

 

当初赤かっただけの視界が、今では黒ずみがかってきている。

 

あまりの熱で眼球からも水分が失われているのか、目が乾く。

 

だからといって瞑目(めいもく)することはできない、一度瞼を閉じればもう開けそうにはないからだ。

 

 気力だけでついていくのは限界、いや、すでに限界のラインは跳び越えていた。

 

決着をつける一撃が必要だ。

 

 攻撃し、かつ、標的から反撃を受けない方法。

 

躱されることなく、防がれることもない手段。

 

彼我の距離は目と鼻の先、間合いさえ加味した逆転の一手を。

 

 もはや神(がか)ってすらいる思考速度により、条件を満たす答えが刹那で弾き出された。

 

 シンプルで単純な手であった。

 

シンプルだからこそ防ぐのは困難で、単純だからこそ想定するのは至難な、そんな攻撃。

 

 左手で握り潰さんばかりに掴んでいる杖を、俺は力一杯に引き寄せる。

 

俺の左手は身体よりも後ろへ、腕を引ける限りに。

 

「今度は何をっ……」

 

 杖の柄を握っている標的は必然、引かれる力に従い一歩二歩と俺へと近寄った。

 

目論見通りに密着するほど引き寄せることはできたが、標的は猪口才(ちょこざい)にも肉薄すると同時に再び、肘による打突を繰り出す。

 

 歯を食い縛り、痛みに耐え、俺は標的の案外細く、小さな身体を、残った力であらん限りに目一杯――

 

 

 

「ひゃあっ! と、徹、いきなりなにをっ!」

 

 

 

 ――抱き締めた。

 

 胴体へベアハッグを仕掛けることができれば御の字であったが、標的が肘打の体勢であったため、腕から背中へ回すような形となった。

 

 魔力付与で覆われた俺の身体に多大なダメージを与えるのだから、標的も身体強化に似た魔法を使っているのだと考察できる。

 

であるのならば、鯖折りやベアハッグでは致命傷足り得ない。

 

 しかし一つ、行動不能にさせうるだけの可能性を秘めた武器を、俺は見つけ出していた。

 

 拘束魔法へ深くハッキングを使った時に視えた薄茶色に光り輝く球体。

 

その物体がなんなのか確証はないが、本能で理解できた……魔導師にとっての心臓であると。

 

「もう、離さねぇよ……ッ!」

 

「た、たた、戦いの最中ですよっ! いったい何を考えっ……んっ、またっ……ぁっ」

 

 俺の腕の中で、標的の身体が敏感な所を撫でられたかのようにぴくんっ、と跳ねる。

 

頭の上の耳はふるふる、と小刻みに震え、標的の尾てい骨から伸びる尻尾は自らの足に巻かれていた。

 

 標的の容体は明らかにおかしいが、抵抗しないというのなら俺にとって好都合だ。

 

俺に残された時間は残り僅かだ。

 

 体力は空、魔力は底、思考回路は断線寸前。

 

眼に映る景色はもう、ほぼ黒一色。

 

ここで再び身体が離れればもう俺には打つ手立てはない……ここで決めなければエリーを取り戻すことはできない。

 

 もう一働きだ、もう少し耐えればいい、もう少しだけ、もう一踏ん張りだ。

 

「なに、ですか……入ってくるっ。……あっ……私の、ナカに……っ」

 

 身体に接している箇所から標的の内部へと、俺の魔力を潜り込ませる。

 

 ハッキング時特有の、対象物の中へと侵入していくイメージが俺の脳内に浮かび上がった。

 

全身に張り巡らされている魔力の管を伝って奥深くへ、中心へと辿り着く。

 

 その最奥で発見した、俺が視た薄茶色の光を放つ綺麗な球体を。

 

「ひぁっ……ぁっ……。……やめてっ……っ、やめてください、徹っ! この感覚、とても怖いんです……っ」

 

「俺がやめてくれと懇願した時に、お前はやめてくれたのか? 自分がしなかったことを、他人に求めんなよ」

 

 燃え(たぎ)る憤怒に従い、球体へと手を掛ける。球体が孕んでいる膨大な情報量とエネルギーに脳が悲鳴を上げるが、ここが胸突き八丁だ。

 

最後の仕上げで心を折られるわけにいかない。

 

 ――ぐちゃぐちゃに掻き回せ、破壊と蹂躙の限りを尽くしてやれ――

 

 自分の内から湧き出ているとは思えないほど黒く、汚く、暴力的な感情に突き動かされるがまま実行に移そうとした時、腕の中で強張り震える標的の声が、耳に届いた。

 

「はっ、ぁ……っ。お願い……っ、します……。やめ、てっ……くだ、さい……っ。返します、徹のジュエルシードは……返します、から……っ」

 

「俺はッ……。俺、は……」

 

 自分の中に入り込まれる違和感に喘ぎ、苦悶の声音を発しながら弱々しく、少女のように哀願する『リニスさん(・・・・・)』を見て、轟々と吹き荒ぶ精神状態が徐々に鎮静化していく。

 

 石にでもなったのかと思うほど硬く、重くなった腕を広げ、リニスさんを解放する。

 

 リニスさんは杖を取り落とし、しかしそれすら気にも留めず胸を押さえながら後退りし、床にへたり込んだ。

 

闇に染まった視界では彼女の様子を知ることはできないが、まだ生きている聴覚が、荒くなった息を整えようとしているリニスさんの存在を捉えた。

 

 虚ろな夢からの覚醒じみた感覚が、俺へと押し寄せた。

 

熱暴走でも起こしているかのように熱く苛む頭や、腹部や大腿部の傷の痛みがありありと感じられる。

 

麻酔が解けたみたいに、次々と痛みが俺を責めたてる。

 

 立ち続けることすらままならず、リニスさん同様、俺も床へと膝をつく。

 

 腹や足から流れ出た血液が倉庫の床に溜まり、全身を走り回る激痛とは裏腹にとても温かく感じる。

 

底無しの沼に沈みゆくような、気を抜けば意識をすら飲み込まれそうな、そんな陶酔感すらあった。

 

「なに……やってんだよ、俺……」

 

 言語として発声されているのかさえ、俺にはわからなかった。

 

 胃から上がってくる血が言葉に絡みつき不明瞭な発音になっているし、肺が損傷しているのか呼吸もままならない。

 

 満身創痍。

 

それが今の俺の状態だった。

 

 疲労困憊の身体に引き摺られて心まで疲弊していく。

 

つらつらと考える事柄まで、暗く(よど)んだものになっていく。

 

 俺はどす黒い怒りの感情に突き動かされて、リニスさんに取り返しのつかないことをするところだった。

 

 直感でしかないが、俺がハッキングで視た薄茶色に輝く球体はおそらく魔力を生成する魔導師の核、リンカーコアだったのだろう。

 

それに安易に手を出して(あまつさ)え傷つけでもすれば、リニスさんの魔導師としての才覚を踏み潰すだけでは済まない。

 

身体に常時巡る魔力の供給すら滞り、命に関わることになる。

 

俺がしようとしたことは、リニスさんの生命を危険に晒すような、罪深い行為だった。

 

 最後の最後でリニスさんの声が心奥に届き、冷静さを取り戻せたおかげで最悪とまではならなかったが、リニスさんを解放したことでまた、エリーを救い出すこともできなくなった。

 

 いつだって俺はどっちつかずだ。

 

大切なものをなんとしてでも守りたいのなら、敵対する人間なんて切り捨てればいいのに、そこまで徹底する勇気もない。

 

自分の身が可愛いのならエリーを見捨てて、なにもかもを投げ捨ててリニスさんたちの勢力に鞍替えすればいいのに、妙な正義感やプライドが邪魔をする。

 

 決心がつかず、踏ん切りがつかない。

 

あちらとこちらの境界線を彷徨(さまよ)うことしか、俺にはできないのだ。

 

 もういっそのこと、足を止めれば楽になるのか。

 

 ぼろぼろの傷だらけになった左手を床についても、痛覚は俺の脳髄まで伝わってこなかった。

 

 熱く重たくなった頭を下げれば、顔を滴る液体が床へと落ちる。

 

それが血なのか、もしくは汗なのかも俺には判別できない。

 

身体が重い。鉄の塊を(くく)りつけられたかのように、心まで重い。

 

 身体から流れ出る血液は(とど)まることを知らず、さらにその量を増していく。

 

足が自分の血で作られた沼に浸かっているため、刻一刻と身体が体温を失っていくのがよくわかる。

 

 寒い……寒い。この温かな血の沼に沈めば、凍えるような寒さも少しは緩和されるのだろうか。

 

 目が開いているのか閉じているのかもわからない暗闇の中、すぐそこまで(にじ)り寄ってきていた死神を薙ぎ払うような、青く白い光が視界に映る。

 

どこまでも柔らかく、なによりも暖かく、この上なく優しい光が、俺を縛りつけていた闇を消し去った。

 

「エリー……なのか?」

 

 青い輝きへ右手を伸ばし、この手に収める。

 

ほんの数十分しか離れていなかったはずなのに、ひどく懐かしい気がした。

 

 なぜ、なぜエリーが俺の手の中に戻っているのだ。

 

エリーはリニスさんに捕らわれていたはずなのに。

 

「約束しましたから。あなたに返すと……あなたの元に帰すと。徹の恨みを買うと恐ろしい目に遭うということは学習しました。これだけで許していただけるとはもちろん思いませんが……」

 

 リニスさんの声には凛とした響きが戻っていたが、どこか水気も帯びていた。

 

かすかに鼻をすするような音も聞こえるのだが、これはおそらく俺の気のせいか、それでなければ聴覚までおかしくなったに違いない。

 

 過程はどうであれ、結果としてリニスさんは魔力も余りあり、大した怪我も負っていない。

 

比べて俺は身体も満足に動かせないほどにずたぼろ、勝敗は決していた。

 

窮地で咄嗟に交わした口約束など反故にして、奪ったまま逃亡しても良かったはずだ。

 

 それでも俺にエリーを返してくれたのは、リニスさんが律儀な性格だということもあるが、俺の熱意と健闘が実り、彼女の心を動かしたとも言えるだろう。

 

 いや、そんなことはもうこの際どうだっていい。

 

エリーが俺の元に帰ってきた。その事実があればもうなんだっていい。

 

 エリーを右手で握り、血塗(ちまみ)れの左手でさらに包む。

 

胸元に寄せれば、とくん、とくん、とほのかに魔力が脈動していた。

 

魔力の流れから、エリーが損傷していないことがわかる。

 

 無事だった、エリーが無事だった。

 

死力を尽くしてもなお手が届かぬ相手に挑み、全身に浅くない傷を創り、血と土にまみれて無様を晒し、自身の精神状態さえ操作できずに暴走して道化まで演じたが、それでも……命を賭した甲斐はあった。

 

胸に伝わるエリーの律動を感じるだけで、味わった苦労や苦痛は溶けて消える。

 

 俺はもう、自分の近くにいる人を失いたくはない。

 

あんな思いをするのは、もう……嫌なんだ。

 

 死闘を繰り広げ、負傷した俺を癒すような、エリーの労いの光が身体を覆う。

 

 かつん、かつん、と床を叩く音。

 

リニスさんが歩き近づいてくるのが床の振動と足音で察せた。

 

「徹、忠告しておきます。そんな無茶な戦い方をしていては、いつか大事なものを失いますよ」

 

 いくつか深呼吸を挟んでから、リニスさんが俺に言う。

 

「俺は『いつか』失うものより……『今』失われようとしている、大事なものを、守るよ。そんなの……考えるまでも、ない……だろう……」

 

 途切れ途切れになりながら、それでも言葉を紡ぎ、俺はリニスさんへ返答する。

 

これだけは、嘘でも外連味でも、建前でも意地でもなく、正真正銘に紛れもなく、俺の本心だった。

 

 ちゃんと彼女に届いているかの確認もできぬまま、必死に繋ぎ止めていた意識は薄れていく。

 

水底に沈むような、漠然とした不安を駆り立てる感覚ではなく、母親に優しく抱き留められるような安心できる心地よさが、俺の全身を包み込んだ。



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「俺から取り上げようとするんじゃねぇよ」

『え?名前の由来?ああ、学校の宿題で出たのね?』

 

『うん。親に聞いてきなさい、だって』

 

 短い黒髪にあどけない顔立ちをした少年と、黒髪を肩のあたりで揃えている素朴ながらも美しい女性が並んで座りながら話をしている。

 

 俺はそれを、モニター画面を見るような感覚でつらつらと眺めていた。

 

『お姉ちゃんの名前の由来は知ってる?』

 

『ううん、知らない。なんなの?』

 

『本当の意味で、大切な人を守れる子になってほしい、って願ってつけたんだって。お父さんが考えたそうよ。いい名前よね』

 

『うん、お姉ちゃんにぴったりだよ。僕をいつも守ってくれるもん』

 

 明晰夢、というものがある。夢の中にいながら、自分が夢を見ていると自覚している状態をそう言う。

 

 今の俺がまさしくその状態にあった。

 

 これが夢であると断言できたのは、すごく簡単な理由だった。

 

少年の、幼少期の俺の質問に答えている女性は、俺の母さんだからだ。

 

俺の母親も、姉ちゃんの父親も、すでにこの世にはいない。

 

二年前に交通事故で死んでいるのだ。

 

母さんが出てくるということは、それは夢でしかあり得ない。

 

 つまり、俺がこの夢で見ているのは視ているのは昔の光景なのだ。

 

遠い過去に『自分の名前の由来』という宿題を課された覚えもあるし、その質問を母さんにした記憶もある。

 

 ただ、今更なんでこんな夢を視ているのかは、俺には皆目見当もつかない。

 

『それじゃあ僕の名前はどうやってつけたの?』

 

『徹の名前はね、お母さんがつけたのよ。えへへ、面と向かって言うのはちょっと照れくさいわね。正しくなくたっていい、周りから非難されてもいい。そりゃあ人から受け容れられることのほうがいいし、人に優しいことならそれが一番だけどね。徹の選ぶ道がなんであっても、それでも徹自身が後悔しないように、自分の…………』

 

 突如、過去の光景が投影されていたモニターの画面にノイズが走る。ノイズに掻き消されて母さんの言葉は聞こえなかった。

 

 それでもなお、俺は画面から吐き出される雑音と、垂れ流され続ける砂嵐をぼんやりと眺めている。

 

 俺にはわかっていたのだ、きっと母さんの答えは聞こえないだろうと。理由は明白だ。あの時母さんの言った言葉を、今の俺の記憶には遺っていないのだから。俺が何か月にも渡って苦労して記憶に封をし、心の奥底に沈めたのだから。

 

 自分の記憶に遺っていないものを思い出すことはできないし、夢として視ることもできない。

 

 できないはずなのに、何故俺は今になってこんな夢を視させられているのだろうか。

 

 

 

 

 

 目を開けば、清潔感のある白色の天井に穏やかな光量の照明。

 

嗅覚を刺激するのは消毒薬の匂い(エチルアルコールの臭い)

 

身体にはふわふわの毛布が優しくかけられており、とても温かかった。

 

下には包み込むような柔らかさと絶妙な反発性を渾然一体とさせたアイボリーカラーの布団が敷かれている。

 

 クロノにアースラを案内された時にこの部屋を見させてもらった。

 

ここはアースラ艦内の医務室だろう。

 

すべて魔法に頼ることをせず、医学に通じた品々が棚に納められているのを見て、なんとなく感心したのが印象的だった。

 

「何時間くらい寝てたんだろ。記憶がすっぽり抜け落ちてんだよなぁ……」

 

 プライバシー保護の観点からか、カーテンに仕切られていて周囲を見渡すことはできない。

 

時計を探したかったのだが、俺の願いは叶わなかった。

 

 これが普通の病院とかなら窓の外を見れば空の色から大体の時間を察することもできるが、ここは時空を航海する船の中。窓などありはしないだろう。

 

 まあ、特段構いはしないのだが。ここが医務室なのはわかるのだから、きっとここで勤務している医師がいるはずだ。その人に声をかければ教えてくれるだろう。

 

「ん……? 手が、温かい……」

 

 右手の中に俺の体温よりも少し高い熱源がある。寝転がったまま、右手を目の前まで持ってくる。

 

 指先でつまんで掲げれば、淡い青白色に輝く宝石。エリーの姿があった。

 

 記憶が曖昧で夢か現実か判断できなかったのだが、俺はこの手に取り戻すことができていたようだ。

 

 エリーと紐つけて思い起こされるのは、倉庫で戦いを繰り広げたリニスさんのこと。

 

 なぜあんな敵意を煽る態度を取ったのか、結局最後までわからず仕舞いだ。言葉を()わし、拳を(まじ)えても、リニスさんは決して教えてはくれなかった。

 

 しかし、大まかな見立てならつけられる。あれほど優しく、知的で温和な性格の彼女が敵愾心(てきがいしん)を向けさせる言動をした理由。そんなもの、彼女の周囲にいる人、つまりフェイトやアルフ、彼女の主人のために他ならない。自分だけの意向で、自分本位の欲望だけであんな真似をする人ではない。俺は今でも変わらずに、そう信じている。

 

 うつろな記憶を辿れば、リニスさんは口で挑発するばかりで自分からは暴力という手段に打って出ることはしなかった。手を出したのだって――リニスさんに仕向けられたとも言えるが――俺が怒り心頭に発して殴りかかってからだ。

 

 能動的にではなく、リニスさんはあくまで受動的な姿勢を保っていた。

 

 戦闘の端々、切れ目切れ目で俺に言葉を投げかけ、印象は悪かったにしろ投降するように勧告してきてもいた。まるで、これ以上傷つけたくないと言わんばかりに。

 

 だが、どう考えを詰めても彼女の行動と結びつかない。リニスさんたちの目的、時空管理局へのあからさまな敵対行為、再三に渡る徹底した挑発、彼女の悲痛な表情。やはり、まだ情報が足りない。結論を出すだけの論拠が不足している

 

 このあたりで推考を切っておくべきか。足りないピースを想像だけで埋めるのは大きな取り違えを起こす原因になる。

 

 やはりもう一度、リニスさんとは話をしなければならない。今度は腹を割って胸襟(きょうきん)を開き、面と向かって正々堂々真正面から建前や偽りなしに、本音を言い合わなければならない。その際もおそらく、九分九厘今回と同じく戦闘に及ぶのだろうが――今回よりも苛烈で熾烈な死闘を演じる羽目になるのだろうが、それでもこれだけは避けて通れない道だ。また彼女たちと笑い合ってお喋りしたいと願うのならば、どんな障害があっても乗り越えなければならない。

 

 答えを急ぐ必要はない、いずれまた機会があるだろう。その機会を逃さなければいいだけだ。瞑目して深く息を吐いた。

 

 それはそうと、リニスさんにエリーを返してもらってから、俺はずっと握り締め続けていたのだろうか。だとしたらエリーに申し訳ない。手汗とかかいてないかな。

 

「エリー、おかえり」

 

 ぽわん、ぽわん、と規則正しく明滅していたエリーに声をかけると、何度かそのままついたり消えたりを繰り返して、その後、ぱぱぱ、と強く瞬いた。まるで、寝ていて俺の声掛けに気づかなかったが、寝ぼけ眼を擦りつつ目を開いたら俺が起きていてとても驚いた、みたいな反応だ。なんて人間味に溢れたリアクションだろうか。

 

 無機物ではあるが、ペットは飼い主に似る的なアレでエリーも俺に似たりするのかもしれない。だとしたら大層困ることになってしまう。底意地の悪い人間は俺だけで充分、これ以上は供給が需要を追い越してしまう。いや、もともと需要なんてないだろうけども。

 

 エリーを定位置に、胸元のネックレスの台座へと戻らせ、身体を起き上がらせようとしたのだが左腕がのっしりと重く、上半身を上げることはできなかった。

 

「なぜになのはがここに……」

 

 俺の左腕を両手で抱き締め、まるで抱き枕の要領でなのはが寝ていた。

 

 十日ほど前にもこんなことあったな、なんて思いながら、今回はどんな言葉でなのはをいじって起こそうかと無駄なことを考える。

 

「目元……涙の、跡……?」

 

 なのはの肩を揺すって夢から現実へと帰ってきてもらおうと右手を伸ばしたところで、ようやく気づいた。少し影になっていてわかり辛かったが、なのはの目元が赤くなっている。目尻から頬、そこから輪郭に沿うように、涙が通った形跡があった。

 

 肩からなのはの顔へと右手の行き先を変える。顔にかかった髪を指先で払えば、さらにはっきりと見て取れた。

 

「最近なのはのこと泣かせすぎだな、俺」

 

 目元に優しく触り、涙の跡を消すようになのはの頬に手を伝わせる。うにゅ、とむず痒そうに日本語とは思えない言語を呟いたなのはに、俺はつい笑ってしまった。

 

『起きた途端にマスターへセクハラ行為とは……徹の病気は一度や二度死んだくらいではとても治りはしないのでしょうね』

 

 緩んだTシャツから覗くなのはの首元の近くに、赤色の球体が転がっていた。ネックレスの台座に繋がれたままのレイハが光を放ちながら、俺に失礼なことを言ってくる。

 

「やっぱりいたか、レイハ。そして病気扱いしてんじゃねえよ。これは愛情だ、愛情」

 

『これほど歪んだ愛情があるのですね。年の差七歳の愛情ですか。極めてグレーに近いクロです』

 

「せめて逆にしてくれよ。それじゃあ俺クロじゃねえか、アウトじゃん」

 

『…………』

 

「いきなり黙るなよ。どうした」

 

『人に死ぬほど心配をかけておいて、一言の謝罪もなしというのはいかがなものでしょうね』

 

「あ、あぁ、えっと……。心配……してくれてたのか?」

 

『当たり前でしょう。命に関わるほどの出血量だったのです。マスターはもちろん、私とて……心配、しないわけないでしょう』

 

 もう少し自愛してください、とレイハは最後に添えた。

 

 リニスさんとの戦闘。ところどころ記憶が抜け落ちているし全体像も朧気であるとはいえ、ちゃんと憶えている部分もある。それに戦闘開始から中盤までは、完璧に記憶を保持しているのだ。戦いの半ばまででもかなりの数の怪我をしていたはず。そのせいでまた、なのはにもレイハにも心配をかけてしまっていたのか。同じ轍を二度も三度も踏む上に懲りない男だな、俺も。

 

 ……って、ちょっと待て。なにやらレイハの言葉の中に聞き逃せない言詞が含まれていたような気がする。

 

「……命に関わるほどの出血量?」

 

『ええ、そう聞いています。徹の周りには血の池ができていた、と管理局の執務官から』

 

 なのはには申し訳ないが、右手でなのはの両腕による拘束をゆっくりと緩め、左腕を引き抜いて上半身を起き上がらせる。身体の一番上、頭に手をやり怪我がないか確認するが、傷はなにもない。顔、首、肩へと徐々に検査する箇所を下ろしていくが、足まで調べても見当たらなかった。本当にレイハが言うほどの重傷を負っていたのか信じられないほどに、跡形もない。

 

 思えばあれだけの激しい戦闘を行ったというのに身体に(だる)さがないし、リンカーコアに疲弊した感覚もない。魔力は滞りなく全身に流れているし、ハッキングに魔法の演算にと酷使されていた頭は些かも重くなく、どころか倉庫に急行する前よりはっきりとしている。

 

 アースラの医務官が治療してくれたのだろうか。だとしたら腕が良すぎて怖いくらいだ。ブラックジャックでも雇っているのか。

 

「本当に言ってたのか? 大袈裟なんじゃねぇの?」

 

『執務官は真っ青な顔をしていたので嘘ではないと思いますが、まあそのあたりは本人から詳しい話を聞けばいいでしょう。それよりもマスターのことです。泣き疲れて眠ってしまうほどに心配していました。慰めるのは徹の仕事です。任せましたよ』

 

「わかってる。それより今は何時なんだ?」

 

『七時です、午後の』

 

 俺とクロノが現場に向かったのが昼過ぎだったので、だいたい六時間ちょっとか。

 

 案外すぐ目覚めることができたようだ。

 

 安堵のため息を吐いた俺の目に、レイハの光が入る。言い辛そうに、その身に灯す光量を少し抑えまでしてレイハは続けた。

 

『徹、勘違いしているようですが……今日は日曜日ではありません。火曜日です。徹は丸二日以上眠り続けていたのですよ』

 

「なっ……ふ、二日……? じょ、冗談だろ……」

 

『いえ、事実です。今日は第九十七管理外世界の暦で、四月二十九日の火曜日、十九時です。だからマスターもこんなに心配しているのですよ。この二日間、マスターは【心ここに在らざれば視れども見えず】といった感じでした』

 

「ふ、二日も……ふつ、か、も……」

 

 レイハは頭上に赤色の光を放射してホログラムのように、今日の日付と現在時刻を映し出した。

 

 二日も眠りこけていたというレイハの言葉にインパクトがありすぎて、他の情報が俺の頭に入ってこない。冷静だったり心の準備ができていれば、難しい(ことわざ)知ってるな、とか、そんな機能あったのかよ、など突っ込みを入れることができたのに、そんな余裕は俺にはなかった。

 

 学校にどう報告すれば、親友や最近できた友人になんて伝えれば、そしてなにより……たった一人の家族になんて言えばいいんだ。

 

「ん……ぃゅ。あぇ……とお、るおにぃちゃ……?」

 

 これから待っているだろう質問攻めに俺が呆然としていると、布団がもぞもぞと蠢いた。どうやら姫がお目覚めのご様子だ。

 

 懸念事項はひとまず頭の隅っこに追いやり、気を煩わせてしまったなのはの相手をするのが先決だろう。別にこれは現実逃避ではない、あしからず。

 

「おはよう、なのは。心配かけて悪かったな」

 

 半分ほど閉じていたなのはの瞼は大きく見開かれ、かと思えば悲喜交交(ひきこもごも)というふうな表情になった。

 

「徹お兄ちゃ……よかっ、よかったよぉ……」

 

 つぶらな瞳から大粒の涙を落としながら、なのはは俺の腹のあたりに抱きついてきた。

 

「おー、よしよし。もう大丈夫だ、俺はもう完全復活したからな」

 

「無茶しないでって、言ったのにっ……」

 

「ごめんな、俺もこんなことになるとは思わなかったんだ」

 

「ずっと目が覚めないかもって思って、怖かったんだからぁっ……」

 

 嗚咽をもらしながら、なのはは俺の服をぎゅうっ、と握る。

 

 まるで、もう離さないとでも言うようななのはの仕草に心が痛んだ。一人取り残されることにトラウマを抱えているなのはのことだ、よほど気を揉んでいたことだろう。

 

 よく見ればなのはの目元には薄っすらと(くま)ができている。俺の自意識過剰なのかもしれないが、もしかすると睡眠も満足に取れていなかったのかもしれない。それなら俺の隣で寝落ちしていたのもわかる。

 

 一人ぼっちの寂しさは俺も知っているのに、なのはに味わわせるなんてなにやってんだ。

 

 左手でなのはの身体を引き寄せるように手を回し、右手は寝癖がついてしまった髪を撫で付けるように頭に置く。

 

「もう大丈夫、大丈夫だからな。俺はいつだってなのはの隣にいるんだ。安心してくれていい。ほら、まだ眠たいんじゃないのか? 帰りは俺が送ってやる、もうちょっとゆっくりしてろ」

 

「だめ、だよ。わた、し……もっと、とお……りゅお兄ちゃ、と……お喋り、す……」

 

 背中に回した左手でゆっくりと一定のリズムで背中をぽんぽんとして、なのはの頭に持っていった右手で優しく、優しーく撫でてやると、なのはは再び眠たげに瞳をとろんとさせ、夢の世界へ旅立った。

 

 睡眠不足であったようだし、その上緊張の糸も緩んだのだから眠気が押し寄せてくるのはもはや必然。なのはは俺の足と足の間に身体を入れ、俺の腹部に顔を埋めたまま眠りに落ちた。

 

 身体が傾かないように少しばかりなのはの体勢を変えさせてもらい、左手で倒れないように身体を固定しながら布団をかける。

 

 医務室の中は空調が効いているとはいえ、風邪をひいては事だからな。

 

『なんという手際の良さ……。幼女をオトすことにかけては他の追随を許しませんね……ここまできたら尊敬の念すら抱きます』

 

「眠りに落とすって意味だよな? そういう意味で合ってるんだよな? 今回はいかがわしいことしてないぞ」

 

『今回は? これまでにいかがわしいことをしたような口振りですね」

 

 口が滑った。

 

『問うに落ちず語るに落ちる、とはこのことを言うのです』

 

「違うな、言葉の綾と言うのだ」

 

『ふんっ……戯言を』

 

「戯言っ?!」

 

 なのはを起こさないように、小声で話しながら大きなリアクションをするという妙技。授業中に恭也と雑談に興じる際によく使う技術である。ちなみに教師にはよくバレる。教壇からではおかしな動きをする生徒はよく目につくらしい。

 

 レイハと歓談(半分以上は俺への悪口)していると、こんこん、と扉を叩く音が聞こえた。

 

「はい、どうぞ」

 

 部屋の中には俺とレイハ以外の話し声はしないし、なのはの穏やかな寝息以外に音もない。どうやら医務官はご不在のようだ。在室しているのは俺たちだけのようなので、一応返事は俺がした。

 

「失礼する」

 

 短い一言とともに扉が開く音がした。扉からまっすぐに、俺のベットへと足音は近づいてくる。

 

 ベッドとベッドを仕切るカーテンを開け放って姿を現したのは、黒を基調とした服に身を包む少年、クロノだった。

 

「目を覚ましたか、徹。よかった」

 

 俺を見て、クロノは優しげに微笑んだ。クロノは安堵からか笑みを浮かべているが、どこか憔悴(しょうすい)したような色が表情に含まれていた。十四歳の男の子が見せていい顔じゃない。

 

「迷惑かけて悪かったな、クロぐわっ」

 

 カーテンを開いたクロノは一歩二歩と近づいてきて、俺の額に人差し指と中指を揃えてこつん、と突いてきた。

 

 滅多に謝らない俺が珍しく謝罪の意思を示しているというのに、この子ども執務官はなんてことをしてきやがる。

 

「かけたのは『迷惑』じゃない、『心配』だ」

 

「そ、そうか。すまん……」

 

 クロノはそう言うといつも通りに腕を組んで斜に構える。

 

 クロノのくせに生意気な。ちょっと格好いいとか思ってしまったじゃないか。

 

「クロノが向かったほうのジュエルシードはどうだったんだ? 回収できたのか?」

 

「起きてすぐそれか……。いいや、僕が到着した頃にはすでに奪われた後だった。敵の姿もなかった」

 

 眉間に皺を寄せて、俺の質問にクロノは首を振った。

 

 おそらくそんなことだろうとは、内心想定できていた。

 

 結果として見れば、都市部に近いジュエルシードも、山間部のジュエルシードも向こうに持って行かれたということ。クロノが幾つか提示した可能性の一つが見事に当て嵌まった形だ。

 

 どんな罵倒でも甘んじて受けようと腹を括っていたが、クロノの対応は俺の予想の真逆だった。

 

「すまなかった……僕のせいだ」

 

 組んでいた腕を外してだらりと力なく下ろし、拳を握りながらクロノは言う。顔を伏せ、下唇を噛み締めた。

 

 クロノの心中が、俺にはわかる。自分の不甲斐なさを悔やんでいるのだ。

 

 だからこそ、わかるからこそ、クロノの態度に静かな怒りを覚える。

 

「……は? なにがどうなればクロノの責任になるんだ?」

 

 いつも通りに返事をしようと心がけたが、一段階声が低くなってしまった。

 

「僕がもっと早く徹がいた倉庫まで向かっていれば、徹が負傷することもなかった」

 

「俺が我儘を言ったから別行動を取ることになったんだろうが。責められる理由はあっても、謝られる理由は一欠片もない」

 

「徹の提案に一理あると判断したのは僕で、その提案を認めたのも僕だ」

 

「クロノが否定できないように俺が話を進めたからだろ。無理矢理俺の案を飲ませたんだ。クロノの責任外だろうが」

 

「そもそもレーダー機能を乗っ取られていた時点で出遅れていたんだ。出遅れた状況で最善を求めた作戦を、僕は責めることはできない。ハッキングを受けたことを気づけなかった僕の手落ちだ」

 

「その話はもう決着がついただろうが。あれでは誰もハッキングされてたなんて勘づくことはできはしない。俺が気づけたのは現地の情報を持っていたからだ」

 

「しかし……」

 

「いい加減にしろッ……」

 

 うだうだと、なんだかんだと並べて自分を責めるクロノの胸ぐらを、俺は乱暴に掴んで顔を近づける。

 

 他人の失敗を包み込めるクロノの度量は、立派なリーダーと評して余りあるだろう。

 

 だが元はと言えば、俺が自分の目的のためにクロノを(そそのか)して誘導したのだ。なのに、それすらもクロノは自分の責任だと言って抱え込もうとする。その態度が俺は気に食わない。

 

「俺のミスまで、俺の責任まで、俺の失策まで背負おうとすんじゃねぇ。俺はそこまで弱くない。これは俺の問題だ。お前の勝手な判断で、俺から取り上げようとするんじゃねぇよ」

 

 手を離してクロノを解放する。

 

 今の俺はどこかおかしい。クロノの優しさだってわかっているのに、クロノの気遣いだって理解しているのに、怒りを抑えられなかった。

 

 クロノは驚きに目を丸くして、しばし沈黙したのちにくくっ、と楽しそうに笑う。

 

「……なんだよ」

 

「いや、すまなかった。徹を侮っていたわけではないんだ。自分の責任は自分で背負う、そういう男だったな、徹は。僕は少し神経質になっていたのかもしれない、注意する」

 

「俺も怒鳴って悪かった。なんか気が立っていたみたいだ。……そういえば俺の傷って誰が治してくれたんだ? なんか重傷だったらしいけど」

 

 クロノが生温かい視線を送ってくるので話を切り替える。レイハが小馬鹿にするようにぴかぴかと光を照射してくるので、心なし強めに左手で握り締めた。

 

 クロノは真面目な表情を取り戻しつつ、俺に返答する。

 

「誰も治していない」

 

「は? でも怪我してたんじゃ……」

 

「大怪我は負っていた。僕が到着した時には徹の全身に傷があり、かなり危険なレベルで血も流していた。正直なところ、ぞっとした。なんたって血だまりが出来ていたからな。だが、僕たち管理局は何もしていないんだ。いや……正確には何もできなかったんだが……」

 

 要領を得ないクロノの説明に俺は首を傾げつつ、続きを催促する。

 

「徹の身体、頭から足の先まで全身を包み込むように、青白い魔力に覆われていたんだ。徹のネックレスにくっついている『それ』が、徹の傷を治した。十分か、十五分か。僕が触れようとしても弾かれて、結局傷を治しきるまで介入することはできなかった。徹がジュエルシードをアクセサリーにしていることにも驚いたが、ジュエルシードが自ずから人間を助けるような行動を取ったことに驚いた」

 

「エリーが、俺を助けてくれたのか……」

 

 シルバーの台座に繋がれたエリーに目をやれば、どこか照れくさそうにほわほわと瞬いた。

 

 前には俺を手伝ってくれて、今回は俺を助けてくれた。やはりエリーは、リニスさんが言うような危険な代物ではない。

 

『徹、気をつけてください。その青いのはいい子ぶってます』

 

 左手の中にいるレイハが音を(こも)らせながら俺に忠告してきた。その忠告には一切の根拠がなく、理屈が伴っているとも思えない。なんだかやっかみのような言い方である。

 

 レイハの言葉はエリーにも聞こえていたようだ。抗議するようにぴかぴかと力強く輝いた。

 

『ふふん、文句があるなら直接言うことですね。見ましたか、徹。その青いのは図星を突かれて狼狽(ろうばい)しているのです。気を許してはいけませんよ。寝首を掻かれます』

 

 レイハからの根も葉もない誹謗中傷に、エリーは怒りに比例して光量まで増加させた。

 

 更に眩しくなるとそろそろクロノからお叱りを受けそうだし、俺に小さな身体を傾けているなのはも(まぶた)を貫く眩しさに起床しかねない。自分たちで気づいてくれるのが一番良かったのだが、このままではレイハの悪口とエリーの輝きは青天井に増していくばかりだ。仕方がないのでここらで割って入るとしよう。

 

「エリー、落ち着け。レイハはいつもこんな風に罵詈雑言を吐くのが趣味なんだ。レイハ、喧嘩するなよ。仲良くやれとは言わないから」

 

「徹の周りはいつも賑やかだな。羨ましいとは思えないが」

 

 俺とレイハとエリーのやり取りを眺めていたクロノが微苦笑を浮かべた。

 

 寂しいよりかは賑やかなほうがいいだろう。時に賑やか過ぎるのが玉に(きず)だけれども。

 

 姉ちゃんへの言い訳を考えながら、レイハに注意し、エリーを(なだ)め、クロノに日曜日にあったことについて報告をする。

 

レイハとのやり取りやエリーの光、なのはから送られてくる温もりを受け、俺は日常に戻ってこれたことを実感した。俺にはもう、こいつらがいないと日常とは呼べないほどになっているのだ。



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その無心の優しさが、俺は恐いのだ

 四月三十日水曜日、アースラで二日ぶりに目覚めた翌日。

 

 家に帰れば姉ちゃんにわんわんと夜通し泣きつかれ、後ろ髪を引かれつつ実際に服を引っ張られながら学校へ行けば、親友二人からなにがあったのかと追及され、教室内においても友人たちからも詰め寄られたので早々に学校からは退散し、まだ話が残っているとのことだったのでアースラに舞い戻った。

 

 昨日の帰り際にクロノから伝えられていたのだ、『艦長が直接会って話したいことがあるらしい』と。

 

 俺には確信できていた。絶対にお説教である。

 

 日曜日に行われたジュエルシード回収任務。戦術的見地から状況を鑑みた時、俺という不安要素がいるのだからクロノを同行させてどちらか一方へと戦力を集中させておくべきだったのだ。

 

 きっとリンディさんは、俺の独断専行とも言える身勝手な行為を叱りつけようとして呼び出したのだろう。

 

 おかげでアースラに来るのもかなり足が重かったが、学校にいても家にいてもこちらはこちらで気が重い。なので誠心誠意平身低頭謝れば許してくれるだろうリンディさんを優先したのだった。なんであれ、早く行くか遅く行くかの違いでしかないが。

 

 正直なところ、今の心理状態でリンディさんに会うのはあまりよろしくない。リンディさんの近くにいると、なぜか昔の事を想起してしまうのだ。

 

 日曜日、二日も眠りこけて目が覚めた火曜日と、ここ最近は忘却の彼方へと葬ったはずの記憶がちらちらと顔を覗かせている。リンディさんの雰囲気に誘起されて、厳重に封じ込めた記憶が蘇らないだろうかと、それが不安の種であった。

 

 いや、考えてはだめだ。考えれば考える程、どつぼに嵌まる気がする。右に左に頭を振って思考から振り落とす。

 

 何事もありませんように、と信じてもいない神に祈りを捧げてから、扉をノックして俺は部屋の中へと足を踏み入れた。

 

「いらっしゃい、徹君。早くこっちに座りなさいな」

 

 俺が通されたのは前に入ったことのある応接室。ただ部屋の装飾が前回とは異なっていた。和風という系統はそのままなのだが、なぜか和傘の下に赤い布が敷かれたベンチがある。ちょうど江戸時代のお団子屋さんやお茶屋さんなどといったイメージだ。

 

 リンディさんはそのベンチに座り、片手に三色団子の串をつまみながら、もう片方の手で隣の空いているスペースをぽんぽんと叩く。

 

 さほど大きくないベンチなのに、隣に座りなさい、とのご指示である。叱られるかも、という動悸とは別のベクトルで発せられるどきどきが俺の心臓を苛んだ。

 

「こんにちは。用事もあったでしょうにわざわざ呼び出してごめんなさいね?」

 

「こんにちは、リンディさん。いいよ、別に。呼ばれた要件もだいたい察してるし」

 

「それなら話が早いわね。三日前のことについての事情聴取、といったところかしら」

 

「本当にすいませんでした」

 

「ちょっ、ちょっと、早すぎるわ。まだそこまで進んでいないでしょう。ひとまず何があったのか、徹君の口から聞かせてもらえるかしら」

 

「はい」

 

 つい気が急いてしまった。謝罪するのが早すぎたようだ。

 

 そこからは日曜の一件について言及していった。海鳴市上空に転移してクロノと別行動したところから、俺の主観と小さなカモフラージュを交えて、リンディさんにざっくりとした説明をした。無論、クロノが打ち出した作戦ではないことも一緒に添えて、である。

 

 俺の話を聞き終えたリンディさんは、ふぅ、と一つため息をつき、お団子が乗った皿の隣に置かれていたお茶に口をつけた。

 

 長口上で乾いた喉を潤すべく、俺も一口いただく。リンディさんが手ずから()ててくれたお抹茶だった。

 

「なるほどね。たしかにクロノの言う通りに、徹君の作戦にも一理あるわ。今回は悪い方向に流れてしまっただけとも言えるし。レーダー機能さえ生きていれば、徹君の作戦で上手くいってた可能性もあるものね。ちょっと見込みが甘かっただけ。反省もしているようだし、次に活かすのであればこの一件はお咎めなしとします」

 

 リンディさんはお仕事モードの真面目な顔で、寛大な処置をしてくれた。表情といい、声のトーンといい、空気も張り詰めたそれだったのだが、リンディさんが片手に持っているお団子がなければさらに緊迫したシーンだったろう。食べかけでもいいから、お団子を皿に置いてから喋ってほしかった。

 

 真剣な話題だというのにリンディさんのお団子のせいで妙に緩んでいる空気の中、俺は口をつけていた茶碗を置き、頭を下げる。

 

「ありがとうございます。それでレーダー機能を奪われていた事についてなんだけど、あれはどうしたって気づかなかったと思うんだ。だから……」

 

「ええ、わかっているわ。仮に私が見ていたとしても気づくことができたと断言はできないもの。責めることはできないわ。そちらも不問とします」

 

「はぁ……よかった」

 

「なんで徹君がそこまで安心してるのよ。ジュエルシードの事案ならともかく、レーダーについては徹君の手柄でこそあれ、責められる(いわ)れはないでしょうに」

 

「あの時担当してたオペレーターがもう、顔面蒼白だったからさ。すごい責任を感じてたみたいなんだ。よかった、罰とかないんだな」

 

「変わった子ね、徹君は……」

 

 リンディさんは一言呟くと、お茶を手に取り傾ける。俺も自分の分の茶碗を引き寄せて口をつけた。

 

 しばし沈黙が流れたが、不思議と居心地は悪くない。

 

 俺はリンディさんとの間に置かれているお団子が乗っている皿に手を伸ばす。

 

 串には三つの団子が刺されており、上から桜色、白色、緑色となっている。三色団子の色の意味には諸説あるが、その一つとして、桜色が春、白色が冬、緑色が夏を表している、という説を俺は聞いた。『秋』を示す団子がないから『飽き』がない、『飽きない』という言葉遊びでつけられたと。昔の人は好きだな、駄洒落的な言葉遊び。

 

 俺が可もなく不可もない味の三色団子を一本食したくらいの時、リンディさんがお団子を目線の高さまで上げた。なにをしているのかとそちらに目をやれば、俺の疑問に答えるように、リンディさんは口を開いた。

 

「いろいろ日本の和菓子を見ていたらね、このお団子を知ったのよ。まるであなたたちのようね」

 

「俺たち? どういう意味だ?」

 

 首を傾げる俺を見て、リンディさんは、ふふっ、と楽しそうに笑う。リンディさんの意図がわからない俺は、続く言葉を待つ他ない。

 

「桜色、白色、緑色……なのはさん、徹君、ユーノ君って並んでいるみたいでしょ」

 

「魔力の色の話か。俺のは白じゃなくて透明だけどな」

 

「もう……細かいわね。いいの、そんなところは。魔力もそうだけど、それだけじゃないわ。大事なのは、三人とも個性が違って、能力が違って、出自も違うのに、とても強い信頼感で三人が三人とも繋がっているというところよ。……徹君が倒れてから、なのはさんもユーノ君も、とても心配していたわ」

 

「リンディさんはいつも変わった視点から物事を見るな……。俺には真似できそうにないよ……」

 

 お団子を皿に戻して俺の顔を見るリンディさんは、とても優しく穏やかだった。その包み込むような雰囲気はどうしても(うしな)ったあの人と重なり、昔の事を思い出してしまう。

 

 やめてくれ、その柔和な笑顔を俺に向けないでくれ。

 

 視線を下げ、ゆっくり深呼吸して込み上げてくる熱を抑えつけるが、リンディさんの一言が、俺の抑圧された感情を破壊した。

 

「あんまり無理したらだめよ? みんな心配してたんだから」

 

 俯いていた俺の頭を、リンディさんはゆっくりと撫でた。

 

 もう限界だった、もう堪えることはできなかった。

 

 顔の作りも、髪の長さや色も、背の高さや声だって似ていないのに、それでもリンディさんは、なぜか母さんと面影が重なってしまう。既に他界した母さんと重ねてしまうのだ。漂わせる雰囲気や、端々で見せる子供っぽさ、そして滲み出る優しさが、母さんと似通っていた。

 

 もう吹っ切れたはずだったのに、もう捨て去ったはずだったのに、心の奥底から浮かび上がる心傷は止めどなく溢れてくる。我慢しようとすればするほど、抑えようとすればするほどに零れ出る。頬を伝う液体の量は増えていく。

 

 両手で顔を隠すのが、俺にできる唯一のことだった。

 

「ごめんなさい、なのはさんから聞いていたのよ。徹君は両親を二人とも亡くしている、って」

 

 リンディさんは席を立ち、俺の正面に膝をつくと、両手で俺の頭を抱きかかえた。

 

 柔らかな感触と、どこか懐かしい匂い。母さんと同じ温もりを感じた気がした。

 

「今まで相当な苦労をしたでしょう。お姉さんのことも聞いたわ。まだ親の愛情を必要とする時期に、たった二人で生活するというのは大変だったと思う」

 

 俺の頭に顔を近づけて、リンディさんが言う。

 

 その言葉は、俺のひび割れた心に染み渡るようだった。

 

「これまで徹君は、すべて自分でやらなければ、と考えていたのかもしれないけど、頼ってもいいのよ。時には大人に頼っちゃえばいいの。徹君は全部背負い込んでしまうところがあるから、クロノを見ているようで放っておけないわ」

 

 溢れる想いは両手でも(すく)いきれず、床へと滴り落ちる。

 

 リニスさんと戦い、倉庫で気を失う前に感じた仄かな懐かしさに感化され、昔の夢まで視て心にのしかかっていた重荷が、リンディさんのおかげで少し和らいだ気がする。

 

 昔の想い出、両親との想い出に関連するすべての事柄は俺にとってどうしようもないほどに弱点だ。頭を(よぎ)るだけで判断は鈍り、思い出してしまえば歩みを進める足は止まり、最後には心を縛られ動けなくなる。

 

 いつかは乗り越えなければいけないが、弱い俺には乗り越えるだけの力はない。

 

 だから今は、今だけはリンディさんの温かさに頼らせてもらおう。いずれ自分の力で解決するから、今だけは前を向いて歩くだけの強さを、借りさせてもらおう。

 

「重圧に押し潰される前に、大人を頼りなさい」

 

 涙が止まるまで、リンディさんは静かに俺の頭を撫で続けてくれた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「ほら徹君、遠慮しないでいっぱい食べていいのよ。お茶のお代わりいる? そういえば身体はもう大丈夫なの? まだしんどいようなら膝枕でもしてあげましょうか?」

 

「だ、大丈夫、いろいろ大丈夫だから。リンディさん心配しすぎだって」

 

「本当に? 強がってない?」

 

「あれだけ醜態(しゅうたい)(さら)しておいて、今さら強がったりしないって……」

 

「そう……それならいいけど」

 

「なんでちょっと()ねてんの」

 

 俺の崩壊した涙腺が仕事をし始めて調子を取り戻してからというもの、リンディさんの俺への構いようが半端なそれではない。まるで子どもの世話を焼く母親である。俺はいつからリンディさんの息子になったのだ。クロノが弟か……ちょっと嫌だな、()より(クロノ)の方が優秀すぎる残念な兄弟になってしまう。

 

 リンディさんは俺との間に置いていたお団子の皿を膝に乗せ、身体が触れるくらいに距離を詰めてきた。もう完全に近さが家族に対しての距離感だ。リンディさんの思いやりは分け隔てないものであると感じていたが、愛情はそれに加えて尚深いようである。

 

「そ、そういや、俺が寝ている間にジュエルシードとかって見つかったのかな? 昨日クロノから聞き忘れててさ」

 

「ええ、三つ見つかったわ」

 

 さすがに目下の重要案件である所のジュエルシードに関する話ともなれば、俺の世話を焼いていたリンディさんも真剣な顔つきになった。だが世話を焼く手が止まったというだけであって、距離には一切変化がない。

 

「月曜に一つ見つけたけど、これは相手に取られちゃったわね。火曜に発見したものは、なのはさんとユーノ君が回収に成功したわ。あの二人、徹君が言ってた通り、本当に優秀だったわよ」

 

 火曜に、ということは俺が目覚める前に回収してたのか。回収任務を終えてアースラに帰投し、そこから俺が寝てた医務室に寄ったとかそんなところだろう。

 

 睡眠不足でコンディションは万全ではなかっただろうに、なのはは果たすべき役割を(まっと)うしたんだな。

 

 目的を見失わないなのはの姿勢は褒めるけれど、体調が芳しくないのなら無理はしないでほしい。怪我をしないかと心配になる。とはいえ、なのはの側には常にレイハが控えているし、傍らにはユーノだっているのだから、それほど危ない目に遭うことはないか。

 

 リンディさんの口振りから察するに、どうやらなのはとユーノの魔法を実際に見たようだ。一緒に現場へ向かうとは思えないので、おそらくはアースラのサーチ映像などで確認したのだろう。

 

 二人の力を褒められるのは自分のことのように嬉しい。なのはとユーノの努力を認められたということなのだから、嬉しくないわけがない。

 

「そりゃそうだろうよ。なのはは才気迸り、ユーノは知識と支援技術が完備されている。暴走もしていないジュエルシードの封印程度ならなんの問題もないさ」

 

「ふふ、なのはさんやユーノ君の話をする時はどこか誇らしげね。三つ目は今日の午前にクロノが回収したわ。仕事の合間に徹君たちの街を見回っていたらしくてね。その時にジュエルシードの魔力を感知したとの報告を受けて収集に向かったとのことよ。そのおかげで速やかに現場に急行できて、相手とは遭遇せずに済んだらしいわ」

 

「ちょ……今日の午前? それなら俺復帰してんじゃん。その報告聞いてないんだけど」

 

「なのはさんも徹君も学校があったでしょう? それにまだ疲れが残っているだろう徹君に、クロノは負担をかけたくなかったんだと思うわ」

 

「……まったく、クロノらしいな」

 

 平日なのだから、俺となのはには当然学校がある。自由に動けない俺たちの事情に気を遣ってくれたクロノの配慮には、いやはや、感服するばかりだ。

 

「ただ残りのジュエルシードがどうにも見つからないのよ。今まではとても微かとはいえ、ジュエルシードの魔力波をレーダーが捉えていたけど、今日のジュエルシードを回収してからというものぴくりともしなくてね」

 

「そう……なんだ」

 

「でも捜索範囲は拡大させているし細かく調べてもいるから、その内発見できるとは思うわ」

 

 リンディさんの言葉を受け、なにかが頭を掠めた。瞼を半分ほど閉じ、脳裏を過ぎった『なにか』に辿り着くため思考の海に潜る。

 

 これまでに見つけたジュエルシードの数は合計で十二個。その内訳はなのはたち側に六つと俺に元ジュエルシードであるエリー、フェイトたち側に五つとなっている。これは現在における確固たる情報だ。

 

 そのすべてが海鳴市、およびその近辺で発見された。一番外れた場所にあったもので海鳴市と月守台の境に横たわる山中。

 

 見つけられた場所には、この街の周辺であること以外に統一性はない。人通りの少ない路地、木々生い茂る森、人口の密集した都会部、奥まった山の中などなど。これらも動かざる事実だろう。

 

 ゆっくりとではあるが、答えに近づいている感覚は確かにある。この調子で脳を絞り、考えを深めていけばいずれ行き着く。

 

「徹君? どうしたの? 怖い顔して」

 

「顔が怖いのは生まれた時からだ」

 

 脳の処理能力の殆どを考え事に回しているせいで、リンディさんの話に回すだけのリソースが足りない。それによりリンディさんへの返事は、オートパイロット状態での生返事となってしまうが、短時間であれば会話の内容に大きな齟齬(そご)は生まれないので今は考え事に集中しよう。

 

 もう少しで『なにか』を掴めそうなのだ。ここまできて、この感覚を失ってしまうのはあまりにも惜しい。

 

 捜索は日曜日にクロノが案内してくれた、モニターや魔力波を計測する機器が置かれていた部屋で行われているのだろう。

 

 あの時に長い時間眺めていたホログラムディスプレイの映像を、堆積(たいせき)している記憶の底を(さら)うようにして思い出す。

 

 ディスプレイに投影されていた衛生映像のような光景は、もちろん手動でも動かせるが普段は自動で調査している。映像は……そう、今までジュエルシードが発見された場所付近を重点的に、他は虱潰(しらみつぶ)しに街を走査していた。

 

 捜索エリアに関しては意見を差し挟むことはできない。前例に基づいてジュエルシードがある可能性が高い場所を調べていたのだから、不可解な点は見受けられないだろう。

 

「わ、私……機嫌を損ねさせるような言ったかしら……」

 

「いいや、リンディさんが悪いわけじゃないよ。気にしないで」

 

 今度は、俺やなのはが住んでいて、ジュエルシードが漂着した海鳴市について考察する。

 

 日本の三大都市とは比べるべくもないが、周辺の地域の中では海鳴市は比較的発展していると言える。そこそこの規模のオフィス街があり、人々が集まり目玉となるようなアーケードだってある。

 

 これだけではコンクリートジャングルかと早合点しそうになるが、そうでもない。大きな、なんて形容詞では不十分なほどの広漠たる自然公園があり、緑も豊かだ。今は寂れてしまっているが、昔は工業だって盛んだったと聞く。

 

 工業分野に対して、昔も今も変わらずに盛んなものが漁業だ。海が近いため、新鮮な魚が安く出回るので主夫を兼業している俺にとってはとてもありがたい。

 

 夏には海水浴などで人が集まり、少し街を外れれば山があり登山を楽しむこともできるし、アウトドアが苦手な人はショッピングに行ったりと、なにかと海鳴市は便利なところだったりするのだ。

 

 かちり、かちりと歯車が噛み合っていく感触を覚える。あと少し、疑問を解くための鍵は形を作り始めているんだ。不必要な部分を削り落として結論を出せば、それで問題は解ける。

 

「徹君、なんだか眠たそう? というより疲れた感じかしら。さっきよりも顔が赤くなってきてるわ。具合悪いの? 熱でもあるんじゃない?」

 

「大丈夫。ちょっと、考え事をしてる、だけ」

 

 ジュエルシードが発見された場所、モニターに映し出されている映像、海鳴市周辺の情報。ばらばらに見える三つの共通点、それがヒントなんだ。

 

 これまでジュエルシードが見つけられたのは陸地、モニターに映されていたのも陸地。海鳴市には大きく広がる海もあるのに、陸地でしか発見されてこなかったのだ。俺たちが街や、街の周辺を歩き回り、目を皿にしてジュエルシードを探して見つけてきたのだから、統計により存在する可能性が高いとされる陸地を重点的にモニターが投影するのは必然とも言える。

 

 リンディさんが言っていた『ジュエルシードの魔力波を計測できていない』ということについても、これで説明がつく。そりゃあ陸の方で収集し尽くされてたら、いくら陸を調べたってなんの波長も察知することはできないだろう。

 

 残りのジュエルシードは、海鳴市の近海にあるのだ。

 

 なにはともあれ、ようやく結論に辿り着けた。喉に刺さった魚の小骨が抜けたみたいにすっきりした気分である。

 

 後はリンディさんへ、海底にジュエルシードが沈んでいる可能性があると呈示すればそれでお終いだ。リンディさんを通して捜索範囲に海のほうも追加してもらい、ジュエルシードの反応が捕捉されるのを待つだけ。

 

 思考のギアを段階的に下げ、意識を応接室に戻す。

 

「んん、少し熱いわね。まだ本調子じゃないのかしら」

 

 リンディさんの麗しいご尊顔が、まさしく文字通りに目と鼻の先にあった。

 

 いつの間にか正面に回っていたリンディさんに顔を両手で包み込まれ、動かないようにされている。俺の額に、リンディさんのそれが密着していた。リンディさんが喋る度に、ミントを思わせる爽やかな息が鼻に触れて(くすぐ)ったい。

 

「ちか、近い……近い近い近いって! なにしてんの!?」

 

「徹君がなんだかぼぉっとしてるから、熱でもあるのかな、って」

 

「ないよ! 至って正常だ! 体調も(すこぶ)るいい!」

 

「本当に? 少しおでこが熱かったわよ? 顔もどんどん赤くなっているし」

 

「誰のせいだ、誰の! リンディさんが原因だ! 本当に大丈夫だから、もう手を離していいよ!」

 

 リンディさんの肩を押して離れさせる。

 

 この人はもう、俺の泣きが……弱みを見た途端に随分と接し方がフランクになってしまった。リンディさんの接し方が嫌だとかではなく、(むし)ろその距離感からくる温かさというのは心地良いくらいだが、やはり慣れていない分どうにもむず痒い。

 

 そして、その温かさは同時に、一抹の不安感を駆り立てるのだ。リンディさんはとても優しくて、懐が深くて、すごく頼りになる。俺の弱さや意地汚い部分も丸ごと包み込んでくれる包容力がある。

 

 その無心の優しさが、俺は恐いのだ。

 

 肩にのしかかる重荷を投げ捨てて頼りたくなってしまう。強者の庇護(ひご)下はさぞや安心できることだろう。降りかかる火の粉を払いのけてくれて、篠突(しのつ)く雨を防いでくれる大人がいるのは、それはとても楽だろう。

 

 でも、リンディさんというぬるま湯に浸っていては、心地良い空間で守られているだけでは駄目なのだ。頼りきりになっては誰かを守ることができなくなる。大切な人を守ることも、できない。

 

 大人に甘えてばかりではいけないのだ。しっかりと境界線を引いておかないと、俺はきっと弱くなってしまう。

 

 気遣いや心遣い、手助けや同情してくれる思いは嬉しいけれど、俺は素直に受け取れない。ただ、気持ちだけを頂いておくことにする。

 

「それより、伝えておきたいことがあるんだけど」

 

「ん? なにかしら?」

 

 リンディさんへ捜索範囲を海にまで拡大してもらおうと伝達しようとした時、艦内に警戒音が鳴り響いた。一頻(ひとしき)り鳴り響いたのちに、アナウンスが続く。

 

 その内容は、複数のジュエルシードを同時に発見した、というもの。関係者は速やかに持ち場につき、艦長は艦橋(ブリッジ)に戻ってくださいとの指示も出た。

 

 わざわざ艦内放送を使い、サイレンまで発した。アナウンスの声も緊張感があったことから、事態は相当逼迫(ひっぱく)したものなのだろう。

 

 俺の想像と推論が正しければ、発見された地点は海。しかも複数個発見されたとの報告から、未発見だったジュエルシードのほとんどが一堂に会しているという可能性すらある。かなり危険で面倒なことになりそうだ。

 

「徹君、話は後でいいかしら? 仕事が入ってしまったわ」

 

 艦内に警戒音が響いた直後から、直立して放送の言葉を一字一句逃さぬよう耳をそばだてていたリンディさんが、申し訳なさそうな笑みを浮かべながら言った。

 

 やはりプロだけあって、仕事の時は別人のように雰囲気が変質する。ほわほわした緩い空気は、緊迫感のある引き締まったそれへと豹変していた。

 

「いや、俺が言いたかったのはたぶん今の状態と関係してる。話す手間が(はぶ)けたみたいだ。俺もついていくよ」

 

 そうリンディさんに言いながら立ち上がろうとすると、目の前に手が差し伸べられた。俺はその手を握り、引き上げられる力を感じつつ、足に力を入れてリンディさんの隣に並ぶ。

 

「さぁ、お仕事の時間よ。行きましょうか」

 

 俺が横についたのを確認すると、リンディさんは扉へ向かって歩き始める。

 

「そうだな、でももう手は離してくれていいよ」

 

 立ち上がる時に借りた手は、未だに俺の手を握り締めていた。



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その様は……まるで、龍だ

 艦橋(ブリッジ)に訪れたのはこれが初めてではない。日曜日に海鳴市上空へ転送してもらった時に、一度ここへは足を運んでいる。ただその時はジュエルシードの回収が意識の大半を占めていたので、しっかりと様子を確認することはできなかった。

 

 艦橋正面にある大きなモニターには、荒々しい白波が立っている海が映されている。海面より数十メートル上空には二人の女性、金色のツインテールを強風に晒しているフェイトと、腕を組んで腰の周りのマントをたなびかせるアルフの姿。

 

 すでに彼女たちは現場についている。

 

 いや、タイミングから察するに彼女たちがなにかジュエルシードに手を加えたと考えるべきだろう。街の中心でエリーに魔力を当てて場所を判明させた時と同じく、海中に沈んでいるジュエルシードに魔力流を撃ち放ち、場所を特定したのだ。

 

 リスクは極めて大きいけれど、広く深く凹凸のある海底を探索するなんてことは途方もないので、こればかりは仕方ないとも言えた。

 

 艦橋正面のモニターの側には、複数の局員が忙しそうに計器や個人用のディスプレイに向かってホログラムキーボードで打ち込むのが見える。全員が全員、真剣極まる表情をして、ともすれば鬼気迫るとすら思えるほどの勢いだ。

 

 その局員たちを眼下に収められる、少し高くなっている位置に艦長の席があった。

 

「状況を」

 

 艦橋に到着したリンディさんは席に座ることもせず、どころか一瞥もくれずに手摺(てすり)に手を乗せて前のめりになりながら部下に説明をさせる。

 

「発見場所は海、すでに敵対勢力の人員は現場に配置されています! 結界が張られているので現地の人には危険はないようです!」

 

「そう、取り敢えず一般の方々に被害が出ないのなら良いことよ。ジュエルシードは複数と言っていたわね、正確な数字を」

 

「ジュエルシードの数は……九つです」

 

「九つ……多いわね」

 

「残りのジュエルシード全部かよ……」

 

 ジュエルシードが発見された場所は俺の予想通り、海鳴市近海であった。近海といっても少し距離があるのは、潮の流れかなにかに運ばれたのだろう。

 

 これから捜索を進めていくにつき、ジュエルシードが見つかるのであれば海の割合が多いとは推理していたが、まさか残りの九つすべてが海で、しかも同時に発見されるなど想像の埒外(らちがい)だ。可及的迅速に封印作業を行わないと、相乗効果でジュエルシードの魔力解放状態が進行するかもしれない。

 

 ビルが建ち並ぶ都会部中心で励起状態に陥ったエリーを思い出す。たった一つだけであっても、日本の建築基準法をクリアした巨大なビルに、どでかい穴を空ける威力のエネルギーを周囲一帯に撒き散らしたのだ。それが二つ三つと増えれば、尋常じゃない労力を費やすことになる上に負傷する危険性も増大する。九つすべてともなれば、もはや近づくことすら至難と業となる。

 

 早く手を下さないと手遅れになってしまう。一応俺の上司という立場となっているリンディさんの指示を仰ごうと口を開く。

 

「リンディさん、あなたの考えを聞かせてくれ」

 

「そうね、まずは……」

 

 リンディさんが語り始めるのと同時に、背後の扉からいくつか接近する足音が聞こえた。ばたばたと床を踏み鳴らしながら近づき、空気が抜けるような音とともに扉が開かれる。

 

「遅れました。クロノ・ハラオウン、ただいま戻りました」

 

「あ、徹お兄ちゃんもう来てる!」

 

「兄さんっ! 目が覚めたんですね……よかった」

 

 いの一番に艦橋に入ったのは艦内用の服装をしたクロノ。入室と同時にこの場にいる全員に聞こえる声量で挨拶したのち、足早にリンディさんの元へ向かった。

 

 次いでなのはがクロノの陰から小さな身体を見せ、てこてこと、ペンギンなんて勝負にならないくらい可愛いらしく俺に歩み寄ってくる。なのはは学校の帰りにアースラへ直接寄ったのか、白を基調とする聖祥大付属小学校のお嬢様然とした制服に身を包んでいた。

 

 なのはの脇をすり抜けるように走りこみ、俺に抱きついてきたのは黄土色(イエローオーカ)の髪の美少年、ユーノだ。民族衣装を思わせる服のユーノは今にも泣き出しそうな顔を、俺の腹と胸の中間あたり、おおよそ鳩尾(みぞおち)らへんに押しつける。

 

 昨日はユーノに直接会えなかったので、俺が復帰したことを言っといてもらうようになのはに伝言を頼んだのだが、この喜びようは一体どういうことなのだろう。

 

「なのは。昨日俺、ユーノに伝えといてくれって言ったよな?」

 

「…………」

 

「なのは? なのはさーん?」

 

 俺の記憶違いかと不安になってなのはに確認しようとしたのだが、当のお姫様は、どこまでも沈んでしまいそうな暗い瞳をユーノへ向けていて、俺の声が届いていないようである。

 

 このままでは俺はともかく、ユーノの身の安全が保証されないので、同性とは信じられないほど薄いユーノの肩を掴み、離れさせる。俺とユーノの間に空間ができるにつれてなのはからの無言の圧力は霧と消えた。

 

とりあえずのところは、ユーノの安全を確保することができたようだ

 

「心配させて悪かったな、ユーノ。でもこれについてはまた今度だ。今は緊急事態だからな」

 

「……っ、そう、ですね。取り乱しました、すいません」

 

 目元をぐしぐしと手の甲で拭い、ユーノは気丈な笑顔を俺に向けた。

 

 俺に迷惑をかけまいとするその健気な振る舞いに、少しぐっときたのは気のせいだと信じたい。ただでさえ周りの連中からはロリコンだなんだと言われているのだ、これ以上人間としての道を()れるわけにも(はぐ)れるわけにもいかない。

 

 ユーノに言った通り、今は差し迫った問題があるのだ。言い方が悪くなってしまうが、ここで時間をロスしたくない。

 

 なのはやクロノが来る前にリンディさんに聞こうとしたことを、再度尋ねようと身体をリンディさんへと向けるが、今度は金色の激しい閃光に出鼻を挫かれる。どうやらモニターの向こう側で進展があったようだ。

 

「ふぇ、フェイトちゃん? なんであんなところに……」

 

「魔力流を海に撃ち込んでいるのでしょうか。ジュエルシードを発見するためでしょうけど……あれは危険すぎますよ」

 

 一瞬モニターを埋め尽くした閃光は、フェイトが海へ放った雷撃だったようだ。その光景を、なのはは心配そうに見つめ、ユーノは冷静に見分して危機感を(あら)わにする。

 

「海の様子を映像に回せますか?」

 

「はい、すぐに」

 

 リンディさんが指示を出し、オペレーターが即座に反応する。

 

 艦橋正面のモニターに映されていたフェイトとアルフの枠が小さくなり、隣にもう一つ新しく画面が現れた。

 

 小さくなった画面では、切羽詰まった顔をしながら肩で息をするフェイトと、そのフェイトを後ろから憂気に見るアルフが投影されており、新しい画面の方には海の様子が映し出されている。波頭が砕けて白くなった飛沫や、暴れ狂うような荒波にも負けず、海面には青白い光が浮かび上がっていた。煌々と輝く九つの燐光は、まるで巨大な海洋生物が海面のすぐ下にいるかのようで、根源的な恐怖が心を(むしば)む。

 

 フェイトにあてられた魔力流によりジュエルシードたちは目を覚まし、その身に内包する潤沢な魔力を使って攻撃を開始した。長い享楽(きょうらく)的な眠りから叩き起こされた鬱憤を晴らすように、ジュエルシードは魔力を通した海水を自在に操り、フェイトとアルフに襲いかかる。直径三メートルから五メートルほどもありそうな水柱は、それぞれが意思を持つ蛇のようにのたうちまわり、彼女たちを追い立て、空路を阻み、追随しだした。

 

 今はまだ致命的な事態にこそなってはいないが、それも時間の問題のように思える。時が経つごとに、膨大な量の魔力と海水で構築された大蛇は動きが洗練されてきている。寝起きで頭が回っていなかったが、覚醒してきてコントロールが巧みになってきているようなものだろうか。

 

 フェイトの空戦における機動力は充分理解しているし、行使される魔法の威力も知っている。アルフの障壁の硬度は自分の拳を叩きつけた俺はまさしく身を以てわかっているし、アルフのレパートリーには射撃魔法の他に拘束魔法もある。生半可なことで落ちる二人ではないことは、これまでの戦いで証明されている。

 

 だが、二人の実力は認めているが、今回ばかりは相手が悪すぎた。

 

 人の身では追い縋ることすら許されることのない魔力量を持ち、加えて数も多い。戦場となったのが海というのも、運が悪かった。海の上ではフェイトたちの身を隠せるような遮蔽物がなく、ジュエルシードにとっては攻撃手段となり得る海水がある。ジュエルシードが水を操ることができるなんて、これまでの情報になかったので考慮する余地もなかった。運が悪いというほかない。

 

 フェイトは持ち前の優れた飛行魔法を駆使してジュエルシードの包囲網を掻い潜り、アルフは時に躱し、時に防ぎ、時に拘束魔法で縛って上手く対処しているが、これではあまりにも多勢に無勢。防戦一方に追い込まれて、封印どころか攻撃する暇すらない。

 

 このままでは消耗戦だ。遠くないうちに彼女たちの魔力が枯渇して大蛇に呑まれるか、疲労が蓄積して動きが鈍ったところを海中へ叩き落される。

 

 いずれにせよ、海に落ちれば彼女たちの身体が海中でジュエルシードの魔力に付き従う水に蹂躙され、藻屑となることは明白だ。その前に助けに向かわねばならない。

 

「はっ……そういう、ことかよ……」

 

 と、進展した状況をここまで把握して、やっと腑に落ちた。なぜ艦橋に来て時間が経っているというのに、リンディさんやクロノが指示を出さないのか。その考えにまで、到達してしまった。

 

「フェイトちゃん、だめっ……」

 

 正面から迫る、圧縮された水で構成された大蛇の牙から逃れようとフェイトは右上に針路をとるが、アルフを狙っていた大蛇の腹に接触して、海面すれすれまで高度を落とした。その映像を、神に祈るように両手を胸の前で絡ませて見ていたなのはが、小さく悲鳴をもらした。

 

 居ても立ってもいられずといった様子で、なのはがリンディさんへと話しかける。

 

「わたし、行きます! 行かせてください! このままじゃ、フェイトちゃんが……っ!」

 

「駄目だ、今はまだ許可できない」

 

 なのはの嘆願は、リンディさんの隣についたクロノが寸秒も考えることなく、考える素振りもせず一蹴した。

 

 袖にされたなのはは小さな手を握り締め、かすかに震わせる。管理局の指示に納得できていないことが、手に取るように理解できた。

 

 だが、素気なく断じたクロノの表情もまた、明るくはない。心苦しそうな、苦虫を噛み潰したみたいな渋い顔だ。クロノが下した判断が、苦渋の末の決断だったということが容易に察せた。

 

「なぜ!? 今行かないと手遅れになります!」

 

「簡単なことだろ、ユーノ。双方が戦い、弱ったところで介入する算段なんだよ。そうすれば楽にジュエルシードを回収できるし、うまくいけば苦労せずフェイトたちをも捕獲することができるかもしれないんだから」

 

 なのはに代わり、食って掛かったユーノには俺が返答する。

 

 冷淡に見えるかもしれないクロノの対応だったが、その実、安全を考慮してのことだ。

 

 今なお、苛烈さを増している魔力の渦に飛び込むのは、あまりにもリスクが高すぎる。しかし、いくら膨大な魔力をその身に内包するジュエルシードといえど、物質である以上限界はあるし、魔力にも残量というものがあるだろう。俺たちが戦う前にフェイトたちをぶつけ、ジュエルシードの魔力を少しでも消耗させてからなら、『高すぎる』リスクが『高い』くらいには低減できるかもしれない。

 

 仮にフェイトたちが九つのジュエルシードを封印したとしても、それほど大きな問題はない。これほどの数のジュエルシードを相手取れば、いくらフェイトやアルフでも気力、体力、魔力が切れるのは目に見えている。疲労困憊の彼女たちを捕縛して、それからゆっくりジュエルシードを奪ってしまえばいいのだから、先に取られようと構いはしない。

 

 管理局の考えとしてはこんなところだろう。

 

 自分たちの戦力は削ることなく敵対する相手の力は削り、大事な部分は掠め取る。人道や倫理にさえ目を瞑れば、なるほど、効率的だ。

 

 管理局にやり方にどっぷり浸かっている人間であれば、一も二もなく斯様(かよう)な手段を用いるだろう。クロノはその手段を提示しているが、提示しつつ苦悶しているということは、この人情に欠けるやり方を理解はしていても納得はできていないという表れだ。その点で言えばまだ救いはある。

 

「なんで……このままじゃ、フェイトちゃんがケガするかもしれないのに……もしかしたらケガだけじゃすまないかもしれないのに……っ! なんで行っちゃだめなの?!」

 

ままならない(しがらみ)に業を煮やし、なのはは大声まで出してリンディさんとクロノに詰め寄った。

 

 なのはのそれは、純粋な想いからの懇願とも取れたが、不条理に対する怒りにも見えた。

 

「組織ってのは、そういうもんなんだよ。なのは」

 

 言って、教えておかねばならない。まだ幼いから、などと理屈をこねて先延ばしにすることはできるが、いずれ誰かから教え込まれるのなら、その役目は俺が担いたい。他の誰でもない、俺が、なのはに。

 

 フェイトへの思いを否定するかのような俺の物言いに、なのはは俺へと悲しげな顔を向けた。

 

 ――なんでそんなこと言うの? なんでわかってくれないの?――

 

 そんななのはの声が聞こえてきそうなほどだった。実際幻聴が聞こえた気までする。

 

 潤んだ瞳とへの字に曲げた唇を見て『全部嘘だ、お前が正しい』と抱き締めてやりたくなるが、ここで逃げてはいけない。組織に所属している以上は、認識しておかねばならない事柄というものが厳然と存在する。このまま時空管理局に入るとしても、或いはこの一件が解決したら手を引いて元の世界で平和な生活を送るにしても、今この場にいることに変わりはない。その覚悟を、持つべきなのだ。

 

「組織において、指示を受けて行動するのは自分の身の安全を守るためだけではないし、任務を遂行するためだけでもない。組織の人間全員の安全を守るために必要なんだ」

 

「それはわたしも……わかるよ。でも徹お兄ちゃん、フェイトちゃんが危ないの……」

 

 なのはの目元には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだ。俺に返す言葉も震えてか細く、弱々しい。

 

 なのはの姿を見ていては、胸が張り裂けそうになるどころか口から血を吐き出しそうになる。せっかく固く決意した意志が揺らいでしまうので、瞼を閉じて視界からの情報をシャットアウトする。

 

 なのはの返事にすら気に留めることをせず、俺は考えていた文章をただ(そら)んじる。

 

「誰かが命令違反をすれば、統制に乱れが生じて、その皺寄せは他の仲間が負うことになる。それは負担となって個人に蓄積し、耐えきれなくなった箇所から綻びが生まれ始める。一人が脱落すれば周りが背負う負担はさらに大きくなり、一人、また一人と、そこからは加速度的に傷口が広がっていく。いくら強固な壁でも、小さな穴から崩壊することもあるんだ」

 

「でも……でもっ……」

 

「いいですよ……もう。なのは、行って。転移ゲートは僕が……」

 

 俺となのはのやり取りを見て、辟易したように視線を下げてユーノが呟く。手を合わせて魔力を込めたが、転移門にはなんの変化もなかった。

 

「な、なんで……」

 

 愕然と転移門を振り返るユーノに、クロノが答える。

 

「転移ゲートのアクセス権は、艦長と僕にしかない。使用許可を得てからでなければ転移ゲートは使えないんだ。艦長と僕が不在時にはエイミィに権限が移行するが、今はそれは関係ない」

 

 ユーノは小さな肩を震わせる。憤りからか、無力感からか、もしくは両方なにかもしれない。

 

「組織を守るためなのだとしても……大多数を守るためなのだとしても、こんなの間違っている。……絶対に間違っています!」

 

 クロノに、リンディさんに、きっと俺に対しても、ユーノは叫んだ。

 

「徹お兄ちゃん……指示に従うのが大事だっていうのはわかったよ。みんなを危ない目にあわせないためっていうのも……。でも、このままじゃ、フェイトちゃんが……。フェイトちゃんと一緒にいる人も……。わたし、そんなの……」

 

 見てられないよ……、となのはが俺の服を掴んで涙ながらに懸命に訴える。

 

「そうか、それならいいんだ。後は任せとけ。ユーノと一緒に転移ゲートと前で待ってな」

 

「で、でも……どうやって……」

 

「なに、ちょっとばかりリンディさんとお話しするだけだ」

 

 なのはの頭を軽く撫で、もう気を病む必要はないと示すように、心優しいお姫様に笑顔を見せる。

 

 なのはが理解しているのなら、それでいいのだ。組織として動くのなら、自分の都合だけで勝手気ままに動いてはいけない。周りで一緒に働く人たちのことも配慮しなければならない、ということをなのはには知っておいて欲しかった。

 

 リニスさんと会うために自分の意見を押し通した俺が、そんなことを言う資格はないかもしれないが、なのはには俺のように自分主義の人間にはなって欲しくないからこその苦言だったのだ。

 

 規律を厳守する、それは組織に属する者にとっては基本で、常識である。

 

 それを十全に認識して、それでもなのはの意見が変わらないのであれば、俺はなのはの願いを叶えるために行動するだけだ。

 

 それに、先ほどから眉を(ひそ)めてモニターを注視しているリンディさんを見るに、分の悪い交渉とも思わない。きっとほんの少しだけ、片側の秤に情報という名の重りを乗せてやれば、あるいは。

 

「時間もないし結論から言う。俺たちを戦闘領域に転送すべきだ」

 

「何度同じことを言わせる気だ……と、言いたいところだが……なにか考えがあるんだろうな?」

 

「転送すべきとまで言い切る、その根拠を教えてくれるかしら?」

 

 リンディさんの性格的に、命すら危ぶまれる空間で女の子二人が戦っているのに、それを安全な場所で傍観(ぼうかん)するなどできようはずがない。リンディさん一人であれば、一も二もなく押っ取り刀で駆けつけたいくらいの場面だろう。そうできないのは、彼女が責任ある立場にあるからだ。

 

 公私混同をしないのではなく、できないリンディさんに代わって俺たちが動けばいい。誰も不幸にならないように、尽くせばいいのだ。

 

 そしてそれはクロノも同じはず。二人の心理が俺たち側に寄っているのであれば、意を(ひるがえ)させるのは容易である。それらしい理由をこじつけ、正当性と整合性があるように取り繕えば良いだけだ。

 

「ジュエルシードとフェイトたちを戦わせて魔力を使わせ、疲弊したところを叩くつもりなんだろうけど、このままでは達成されない。それどころか状況は悪化する」

 

「なぜだ? 今もジュエルシードは魔力を使ってあの少女たちを攻撃している。そのうち魔力は底をつくだろう」

 

「エネルギー結晶体のロストロギアという看板は伊達じゃないってことだ、クロノ。ジュエルシードは起動すれば、段階を追うごとにその力を増していく。時間が経てば経つほど、眠りから覚めて目が冴えるように、攻撃は激化するんだ」

 

「一度暴走したジュエルシードを間近で見て経験し、相対した徹君の言葉なら、信憑性もあるわね」

 

 エリーが街のど真ん中で暴走した時、青白い光は徐々に輝きを強め、放射する魔力の量も増えていた。そして今回のジュエルシードも、最初に見た時よりも閃光をより鮮明にさせている。

 

 前回は封印するまでに時間がかかってしまったが、まだジュエルシードが一つだったからなんとかなった。だが今回は九つという数が相手だ。手に負えなくなるほど力を増す前に、なんとかしなければならない。

 

「徹の言うことが事実だとして、それならあの少女たちが戦闘不能になってからでも構わないだろう。映像を見る限り、もうそれほどもちそうにない。あの子たちが墜ちてから戦力を投入してジュエルシードを封印、回収し、同時に少女たちを保護すればいい」

 

「フェイトやアルフほどの強者だからこそ、あれだけの集中攻撃を浴びてもまだなんとかなっているんだ。見下すわけでも侮るわけでも軽んじているわけでもないが、日曜に戦闘訓練をした時にフェイトたちほどのスペックを持っている局員は見当たらなかった。無闇に人員を増やしても、数に比例して被害が増えるだけだと思う」

 

「それじゃあ徹君の考えは?」

 

「フェイトやアルフが健在のうちに領域内に入り、共闘してジュエルシードを沈静化させる。局員には他にも仕事があるんだろ? 大勢が負傷して動けなくなっては業務が滞ることになる。ここでジュエルシードを確保できても後が怖いぞ? 相手の戦力を利用して、自分たちの戦力は温存すればいい」

 

「人員を小出しにして戦力が足りなければどうするのかしら?」

 

「俺、なのは、ユーノが向かって足りなければクロノに来てもらう。それでも手に余るようであればその時に局員の人たちをフォローに充ててほしい」

 

 リンディさんもクロノも顎に手をやり深く考えるような仕草を取った。口を真一文字に結び、目線をかすかに下に向ける。

 

 緊迫した状勢であるというのに、やっぱり二人は親子なんだな、などと和んでしまった。

 

 って、いやいや、遺伝から来る性格の類似性について熟考している暇はない。

 

 クロノがちらりと言及したように、いかに魔法戦において凄まじい能力を誇る彼女らでも、現在は劣勢の最中にあるのだ。防ぎ、回避するだけでも綱渡り状態。一歩間違えばすぐに沈むこととなってしまう。

 

 現にモニターでは、玉のような汗を頬に伝わせ、胸元に水滴を落としているフェイトが映っている。暴風雨に晒され、海面から伸びる大蛇に弄ばれて全身びしょ濡れの濡れ(ねずみ)だ。アルフも身体中に大量の水を浴び、元から露出の激しい服が肌に張りつき、鍛え抜かれた身体のラインを明確にしてしまっている。長い橙色の髪の一部は首筋に纏わりつき、とても色っぽい。

 

 違う、そうじゃない。彼女たちの状況を知りたいがためにモニターに目を向けたのだ。

 

 フェイトは飛行に射撃に砲撃にと魔力を使い過ぎたのか顔色が少し悪くなっているし、苦しそうに肩で呼吸している。アルフも眉間にしわを寄せ、歯を食い縛りながら、大蛇の動きを阻害しようと拘束魔法を展開させていた。

 

 魔力的な意味でも限界は近いだろうが、それ以上に精神的な疲労が大きいように見受けられる。

 

 きっと二人とも自覚しているのだ、緩やかに切り立った断崖絶壁へと歩みを進めているのを。劣勢に追いやられた状況を打破しようとしても、生き残るためにはジュエルシードからの猛攻を防ぐしかなく、袋小路の中を彷徨(さまよ)うしかない。

 

 なんとかしないと、という焦燥の念は確実にあるはずだが、焦るばかりに無理な反撃をしては返り討ちにあう。それを理解し、無茶な真似をしなければまだ間に合う。フェイトたちが強行に打って出なければ、まだ。

 

「なんだ……あれは……」

 

 フェイトたちをメインに据えたモニターの隣、ジュエルシードを捉える映像に、ふと違和感を感じた。

 

 違和感の正体を探るため、海を映すモニターを傾注する。

 

「ジュエルシード同士が、近づいて……いる?」

 

 海面にばらばらと点在していたジュエルシード、その幾つかが互いに寄り添うように距離を詰めていた。一つのジュエルシードが脈動すれば、近くのジュエルシードもそれに呼応してどくん、と鼓動する。

 

 二つのジュエルシードから放たれた魔力は、折り重なるように、絡みつくように同化し、海水を圧縮して押し上げ、一回り以上大きい大蛇を生み出した。いや、すでに蛇などと形容するのは間違っているのかもしれない。胴体には鱗のような紋様まで浮かび、巨大な牙を見せつけるように大きく口を開けるその様は……まるで、龍だ。

 

 ジュエルシード同士が協力して魔力を放出して敵を排除しようとしている。信じがたい光景だが、そうとしか考えられない。

 

 青白い光は依然として輝きを強め、ジュエルシード本体は異なる個体に身を寄せてさらに魔力を暴れさせている。

 

 これまで想像もしていなかった最悪の事態は、そう遠くないのかもしれない。

 

「ジュエルシードは互いに影響しあって力を増大させている。融合……なんてことも、あり得るかもしれない」

 

 血の気が失せているのが、自分でもわかる。ふと呟いた言葉に、ぞくりと寒気が走った。

 

 結果的に俺のこの発言が、リンディさんとクロノの考えを変える決定打となった。



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九頭龍が、ここに顕在した

 視界はアースラの艦橋(ブリッジ)から、本能的に(まぶた)を閉じてしまうほどに(まばゆ)い光を経て、曇天の空へと移り変わった。

 

 遥か下方には荒れ狂う白波と、のたうちまわる大蛇のような水柱。深さ故か、俺の心理状態故か、はたまた天候故か、海はとても暗く、どこまでも沈んでいく奈落を思わせる。

 

「さすが兄さんですね! 時空管理局艦船の艦長と執務官の意見を変えさせるなんて!」

 

 上空からの転移による落下と吹き荒ぶ風に黄土色の髪をはためかせながら、耳元を過ぎる風音に負けないようユーノが大声で言う。

 

「リンディさんもクロノも、本心ではフェイトたちを犠牲にするような策は取りたくなかったんだ。一見正論のように見える言い訳を並べれば許してくれるとは思っていた」

 

「一瞬でも兄さんのことを疑ってすいませんでした! やっぱり兄さんは僕の兄さんですね!」

 

「兄貴分ではあるけど、俺はユーノの兄貴じゃないんだぞ。って、久しぶりに訂正した気がするな」

 

「でも徹お兄ちゃんならリンディさんやクロノ君に許可をもらわなくても、はっきんぐ? っていうので、無理矢理にでも転移門を使えたんじゃないの?」

 

 転移と同時にバリアジャケットへと着装したなのはが、スカートの端を風に遊ばせながら尋ねてきた。

 

 なのはは俺を見ているせいで気づいていないのだろうが、空気を孕んだロングスカートが膝の上までずり上がり、ふとももの際どいところまでちら見えしている。なのはの健康的で発展途上のおみ足が、大変けしからんことになっていた。

 

「それこそ命令無視の独断専行だろうが。穏便に事を運べるんなら、わざわざ手荒な真似はしないっての」

 

「そうだったんだ。いっつも力尽くの強引ごり押しだから、あえてそんなやり方をしていると思ってたの」

 

「どんな目で俺を見ているんだ。いつだって俺はその場で一番最適な方法を取ってるつもりだぞ」

 

 そうは思えないの、と数分前まで半泣きだった顔を、今では嬉しそうな笑顔に彩っていた。

 

 なのははフェイトの力になれるのが相当に嬉しいのか、アースラの艦橋で作戦が決まって転移してからというもの、ずっとにこにこ顔である。

 

 そんななのはを見るのは俺としても喜ばしい限りなのだが、喜んでばかりもいられない状況が目前に迫っている。

 

《徹。マスターやユーノに、今の差し迫った事態を説明しなくて良いのですか?》

 

 なのはが携える杖の先端、赤い球体が一瞬(きら)めいたかと思えば、俺の脳内にレイハの声が響いた。

 

 口頭で……レイハの場合どこが口なのかわからないが……直接言わずに念話を使って俺に訊いてくるあたり、質問しながらもレイハはだいたいの当たりはつけているようだ。

 

《フェイトたちのことだけでもここまで考えているんだ。今はなのはとユーノに他のことまで、できる限り(わずら)わせたくない》

 

《危険性を知らないことが油断には繋がりませんか?》

 

《ジュエルシードを相手にして油断するような性格は、なのはもユーノもしてないだろ。ジュエルシードへの警戒は俺がする。レイハはなのはのフォローを頼むぞ》

 

《……言われなくても》

 

 夜空に瞬く星のように一度輝き、レイハは俺に了承の意を示した。

 

「まずはフェイトとアルフに合流する。常に周囲に注意を払えよ、あの水柱に捕まると面倒なことになる。自分だけじゃなく、できれば仲間の援護もするように。互いに助け合いながらの行動を心掛けろよ。合流してからのことはまた後で、な」

 

「わかったの!」

 

「了解です!」

 

『能力的に、一番注意すべきは徹ですがね』

 

「レイハー、一言多いぞー」

 

 レイハの暴言に俺が返すと、なのはとユーノがくすくす、と笑い声をもらした。

 

 真剣に取り掛かるのはいいことだが、それも過ぎれば『上手くやらなければ』という緊張から動きが悪くなる。少しゆるいくらいの空気が個々人のパフォーマンスを遺憾なく発揮できるのだ。

 

 モチベーションが上がったなのはとユーノは、口元にかすかに笑みを形どったまま、それでも真面目な表情をする。重力による降下に、飛行魔法の後押しを加えて勢いよく海面を目指した。

 

 自由落下に身を任せている俺は遠ざかる二人の背中を眺めながら、額に浮かぶ冷や汗を拭う。この辺り一帯に(わだかま)る強烈なプレッシャーが、俺を威圧するのだ。

 

 海には狂乱の沙汰にあるような大蛇を従える、一際巨大な水龍。

 

 ジュエルシードから溢れた余剰魔力が、波飛沫と同化するように迸っていた。波同士がぶつかりあって飛散した青色の海水と、その海水が風に煽られることにより白く濁ったコントラストは、ジュエルシードの魔力粒子と遜色(そんしょく)ない。

 

 海上の激戦の余波が上空にいる俺にまで届くようだ。

 

 落下による空圧。悪天候による強風が身体をなぶり、空を満たすどす黒い雲の奥には遠雷が空気を震わせている。モニターで見ていた映像などとは、飛び込んでくる情報量と迫力に天と地ほどの差があった。

 

 胸中に押し寄せる恐怖を飲み込みつつ、戦域に突入する。

 

 とうとうフェイトとアルフの声が聞こえる距離にまで入った。なのはとユーノは俺より一足早く行動に移している。

 

「くっ、この……っ!」

 

 液体で組成されている大蛇を拘束魔法の鎖で縛りつけるという離れ業をやってのけていたアルフだったが、一本の鎖が過負荷に耐え切れず破壊される。束縛を解かれた大蛇は大きな口を開けてアルフを呑み込み、捕らえた。

 

 大事な使い魔(パートナー)が攻撃を受けたため、フェイトは慌ててアルフの元へ飛行する。

 

「アルフ! すぐに助け……っ」

 

 だが、それがいけなかった。フェイトがそう動くだろうと予期していたかのように、数条の大蛇がフェイトを取り囲む。平行移動だけでなく、フェイトが上にも迂回できないように大蛇は天面にまで長い体躯を伸ばした。

 

 射撃魔法では、動きを止めることはできても道を開くことはできない。

 

 逃げ場を失い、万策が尽き、窮地に陥ったフェイトを救ったのは桜色の閃光だった。

 

「な、なに……?」

 

「フェイトちゃん! 早く!」

 

 なのはは一撃で三匹もの大蛇を撃ち払い、フェイトを囲んでいた包囲網の一部を破壊する。残った大蛇がこじ開けられた空間を埋めようとするが、道が閉ざされる前に、フェイトは飛行魔法全開の猛スピードで蛇の檻から抜け出した。

 

 目をやれば、驚愕に染まるフェイトと『助けることができて良かった、間に合った』というなのはの安堵の表情が見えた。

 

 フェイトをジュエルシードの包囲網から助け出したなのはは連れ立って空高く舞い上がり、フェイトへと話しかける。

 

 フェイトのことは、なのはに任せておいても問題ないだろう。

 

 幾度となく戦い、剣ならぬ杖を合わせた相手にも、なのはは優しい思いを寄せられるのだ。その純粋さとひたむきさは、きっとフェイトにも伝わる。その想いは、きっと。

 

 なのはは自分の仕事を見事成し遂げた。俺もそろそろ働かねばいけない。このままではどんな顔をしてアースラに帰艦すればいいかわからないからな。

 

「ユーノ! アルフを拘束している水の動きを止めてくれ! 俺が水を弾き飛ばす!」

 

「わかりました!」

 

 第一目標である彼女たちとの合流の半分は達成されている。あとはアルフの救出だけだ。

 

 アルフを呑み込んだ大蛇は他のものたちとは少し離れたところにいる。フェイトを囲むために他の大蛇が一箇所に集まっていたのだ。なのはが砲撃で数を減らしてくれたのもファインプレーとなっている。周りに気を使わず、アルフを取り込んだ一条のみに集中できる。

 

 生み出されてから主だった動きを見せない巨大な水龍の存在は不安要素だが、動かないと言うのなら今のうちに為すべきことを為したほうがいい。距離もあるし、動き出したとしてもすぐには攻撃可能範囲に入らない。

 

 ユーノは淡緑色の魔法陣の上に立ち、前方の標的目掛けて手を伸ばした。魔法陣と同じ色の鎖が、アルフを捕らえた大蛇に絡みつく。

 

 大蛇はユーノの拘束魔法を避けるような挙動を見せたが、鈍重な巨体ではユーノの魔法からは逃げられなかった。

 

「兄さんっ! 後は任せました!」

 

「おお! 任された!」

 

 今まではスカイダイビングの平行姿勢のように風の抵抗を受けやすい体勢を取っていたが、ここからはスピードが(かなめ)になってくる。なので水面と平行にしていた身体を垂直に、ちょうど水泳のストリームラインのように流線型の構えを取り、空気抵抗を限りなく低下させて落下スピードを上昇させる。

 

 大蛇の姿が近づいてきたところで、だめ押しとばかりに足元に障壁を展開して思い切り蹴り、さらに加速。蹴ると同時に身体を縦回転させながら、大蛇の胴体へと肉薄する。

 

 落下速度と回転による遠心力、跳躍移動から生じた慣性に魔力付与を加えた(かかと)落としを、アルフを捕縛した蛇の土手っ腹にぶち込んだ。俺の蹴撃は大蛇の胴体を容易く食い破り、貫き、分断する。様々な力を乗せたことで、大蛇はまるで水風船が如く爆ぜた。

 

 断ち切られた部分よりも末端はジュエルシードからの魔力供給が失われたのか、再び元の海水に戻った。

 

 身体が接触した時になにか不可解な感触を覚えたのだが、それが何に起因するものなのかがわからない。とりあえず差し迫って解かなければいけない疑問ではないので、頭の片隅に追いやって一時保留とした。

 

「アルフ、大丈夫か?」

 

「けほっ、こほっ……。だ、大丈夫。徹……助かったよ」

 

「俺だけじゃない、ユーノも手伝ってくれたんだ。アルフが無事でよかった。動けるか? ひとまず退避するぞ。集まってきやがった」

 

 大蛇を蹴り割った後は足場用の障壁を展開し、跳躍移動を繰り返してアルフに駆けつけた。

 

 水の監獄で囚われていたアルフは疲弊している様子ではあるが、特に目立った傷などはなく、戦闘の続行は可能である。

 

 第一フェーズはクリア、次に移行する。といっても第三フェーズまでしかないのだが。

 

「ちょ、ちょっと徹、どこ触ってんのさっ」

 

「前の仕返しだ。まだちょっと動きが悪いみたいだからな、俺が運んでやるよ」

 

 飲んでしまった水が気管に入ったのか、咳き込み続けるアルフをお姫様抱っこしてなのはたちに合流する。別に肩を貸せばよかっただけなのだが、以前にアルフと戦い、ぼろ負け……大敗を喫して彼女たちのマンションに搬送された時に、アルフは俺をお姫様抱っこで運んでくれやがった。返済が遅れてしまったが、その意趣返しをここで払わさせて頂くとする。

 

「か、格好つけるんじゃないよ……徹のくせに……」

 

「次いつあるかわからない俺の見せ場だからな。決めれる時に決めとくのが俺の性分なんだ」

 

 アルフを抱えながら障壁を踏み込み、大きく跳ぶ。

 

 足場を蹴り上がりながらユーノがいる場所まで向かえば、爽やかな笑顔で迎えてくれた。

 

「お疲れ様です、兄さん。相手がどんなものでも、兄さんはとりあえず殴りかかるんですね」

 

「おいこら、馬鹿にしてんのか。それ以外に手段がないんだから、仕方ないだろ」

 

「徹、もう大丈夫だから降ろしてくれないかい?」

 

「ん? もういいのか? 腕の中で猫みたいに丸まってるから気に入ってもらえたんだと思ってたんだけど」

 

「そ、そんなことないよ!」

 

「兄さん、セクハラです」

 

「お姫様抱っこしてるだけで犯罪者扱いか……。世知辛い世の中だ」

 

 ユーノから忠告も受けたので、泣く泣くアルフを抱えていた腕を解く。俺の隣に降ろされたアルフは飛行魔法を展開し、浮遊した。

 

「兄さん、ここからはどうするんですか? 九つという数のジュエルシードが強制発動状態にあるんです。一つを封印しようとすれば、他の八つが邪魔をしますよ」

 

「それに他の蛇より倍くらい大きい龍への対処はどうする気だい?」

 

「策なら用意している。その前に……」

 

 視線を下方に向ける。なのはの砲撃で吹き飛んだ個体や俺の踵が砕き絶った個体も含めて、龍型を除いたすべての蛇型が迫ってきていた。総数は七、少なくはない数だ。

 

「……あれらを退ける。総員! 射撃魔法用意!」

 

「くっ、僕に射撃魔法が使えたら……」

 

「徹はいつも急すぎるよ!」

 

「へ? わ、わかったの!」

 

「私も、なのかな……?」

 

 俺は右手を頭上に掲げ、声を張り上げる。

 

 アルフだけにではない、俺たちよりも後方上空にいるなのはとフェイトへも指示を出す。デバイスをなのはに譲ったユーノは射撃魔法を使うことができないらしく、悔しそうに歯噛みした。

 

 三人は戸惑うような返事をするものの、俺の言葉を受け入れて射撃魔法を展開してくれた。隣にいるアルフの魔力の他にも、背後から頼りになる魔力の反応が空気を通して肌に伝わってくる。

 

「放て!」

 

 号令に伴い、暗い海色をした大蛇の一群へ、色取り取りの射撃魔法が降り注いだ。

 

 一発二発程度では、ジュエルシードから供給される濃密な魔力を宿した大蛇を屠ることはできない。しかし、この場に集まっているのは生半可な魔導師たちではないのだ。

俺とユーノを除外した三人、なのは、フェイト、アルフが放った射撃魔法の総射出数は五十を軽く超え、まさしく数え切れないほどである。

 

 射撃魔法の暴風雨を叩きつけられた大蛇の群れは穴だらけになり、その数と体積を大幅に減少させた。

 

 さしものジュエルシードであれど、総攻撃を受けると修復に時間がかかるようだ。このわずかな空白の時間を逃す手はない。

 

 なのはとフェイトが降りてきたのを確認してから、俺は口を開く。

 

「これから作戦を伝える。よく聞いてくれ。一つ一つ封印作業をやっていたら、周りのジュエルシードに邪魔をされて怪我をする危険性もあるし、時間も食う。時が経つほどにジュエルシードから放出される力は増すんだ。これ以上悪化させる前に一度で封印したいと思う」

 

「一度でって……どうするつもりですか? なのはの火力でも百パーセント可能とは言い切れませんが……」

 

「あの数を一撃で封印するのは、フェイトにもできるかわからないよ」

 

「そうだろうな、だから二人(・・)でやってもらう。なのは、フェイト。二人同時に、自分が撃てる最高の攻撃をしてくれ」

 

「徹お兄ちゃんが言うならやるけど……チャージしてる間に敵に近づかれたらどうしたらいいの?」

 

 俺たちは今、敵味方関係なく、そんな事情なんかかなぐり捨てて、一つの目的のために手を取り合い協力している。これは俺が目指している未来への第一歩だ。ここから互いに歩み寄るためにできることは全て行い、最善の道を選択する。

 

 初めに感じていたプレッシャーや恐怖は、もう感じない。高揚感だけが俺の心を満たしている。失敗する気はしなかった。

 

 なのはの問いかけに、俺は自信を持って答える。

 

「俺とユーノとアルフで相手の動きを封じる。なのはとフェイトは俺たちを信じて、攻撃することだけに集中すればいい」

 

「八体を全部抑えるなんて、徹は無茶なことを言うね。信じてるから任せたよ」

 

「ああ、任せとけ、フェイト」

 

「フェイトちゃんと一緒に……できるんだ……。わたしがんばるねっ、徹お兄ちゃん!」

 

「頑張るのはいいけどな、あんまり気負いすぎるなよ? 失敗したってやり直せばいいんだからな。何度だって、成功するまでやり直せばいい」

 

「軽く言ってくれますね。兄さんは僕を買いかぶりすぎてませんか? あの数を拘束し続ける自信はないんですが」

 

「ユーノならできるって。まずはやってみりゃいいんだよ。やってみて、やり続けてりゃできてるもんだぞ」

 

「とんだ精神論だね。動きを止める側のあたしたちに一度聞いてから提案してほしいよ」

 

「アルフの能力は俺の身体に刻まれてるからな。これは独断じゃない、信頼の裏返しだ」

 

 物は言いようだね、とアルフは苦笑いで返した。

 

 眼下の海面にはジュエルシードの青白い光が波に揺られながら灯り、それらを守るように海水が盛り上がる。水柱が天に(そび)え、波飛沫が収まった頃には再び海水が大蛇の形を()していた。

 

 予想よりだいぶ修復が早かったが、作戦の伝達は済んだ。これまでずいぶん好き勝手にやってくれたのだから、ここからは俺たちのターンである。

 

「さあ、みんな配置につけよ。そろそろやりたい放題の暴れん坊にお仕置きするぞ」

 

 俺の(とき)の声に、みなの力強い応答が返る。

 

 意気は揚がったが、俺の中では安心できない要素が解消されないまま残っていた。

 

 複数の大蛇の後方に控える巨大な水龍は、沈黙を守ったままぎらぎらとした敵意をこちらに向けている。それだけが、俺の心に不安の種を植え付けていた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

「んっ……重い、けど……案外なんとかなるもんだね」

 

「この数を相手に拘束魔法を行使するのは初めての経験ですが、できるもんですね」

 

 俺の右側からは薄緑色の鎖が八本、ユーノが足場にしている魔法陣から伸びている。左からも同じくオレンジ色の鎖が八本、海から生えるように屹立(きつりつ)する大蛇の胴体に絡みついていた。

 

 二人の強固な拘束魔法は大蛇を縛るだけでは飽き足らず、隙でも見せようものならそのまま捻じ切ってやろうという強気の姿勢がありありと見て取れる。

 

「かっ。俺の想定通りだってのに、なぜこうも悔しいかね……」

 

 ユーノとアルフの力であれば、余力を残しても抑え込めるだろうとは踏んでいた。しかし、口元をへの字にしているとはいえ、額に汗すら浮かべずに余裕を持って封じているのを目の当たりにすると、同様の作業を(おこな)っている俺からしたら面白くない。

 

「兄さんはなにをしてるんですか?」

 

「見てわからないか? お前たちに習って俺も魔法を使ってんだよ」

 

「いや、見てもわからないよ。見えないんだからさ。ていうか、徹。あんた拘束魔法使えたのかい?」

 

「僕、拘束魔法の術式は教えていませんでしたよね?」

 

 ユーノとアルフは前方に注意を払いながら、大蛇の群れに両腕を向ける俺に話しかけてきた。

 

 ユーノの言う通り、たしかに誰にも拘束魔法の術式はご教授願っていないが、俺がこれまでいったい何度拘束魔法に縛り上げられたかを考えれば答えが出る。鎖に捕縛されるたびに、魔法の内部プログラムにハッキングを使っていたのだ。真面目で堅牢な組み立て方のクロノ、理路整然として無駄のないリニスさんの拘束魔法を幾度となく身体に教え込まれれば、必然教えられるまでもなく術式なんぞ憶えてしまうというものである。

 

「経験から学習したってことだ。お前らみたいに、鎖一本でジュエルシード一体の動きを止めさせることはできないからめちゃくちゃしんどいけどな」

 

「たしかに、兄さんは拘束系の適性もそれほどではなかったですからね……」

 

「わざわざ言ってくれんなよ、へこむから」

 

「どれだけ展開してるんだい? 視認できないのは武器になるけど、頑張ってくれてるところも見えないのは辛いね」

 

「武器になるのならそれでいいんだ。褒めてもらいたくてやってるわけでもないからな。で、俺は質では勝負できないから、数で稼ぐしかないわけだ」

 

 俺にはデバイスがない分、自分の頭で魔法の演算をしなければならない。戦闘中などではやることが多くなってきて、煩わしく思うこともあるにはあるが、別にデメリットばかりというわけではないのだ。

 

 クロノから借りたデバイスを使ってみて知ったが、デバイスに複数の魔法の代理演算を依頼した場合、頼まれた魔法の先頭から順番に演算をしていくことになる。普段の戦闘であれば、順繰りに発動していくシステムで問題はないのだろうが、同じ魔法でも一つ一つ演算をし直すというそのシステムはロスがあるのだ。

 

 その点、自分でやる場合にはコピーアンドペーストの要領で同じ工程を省くことができる。これはデバイスを使わずに自分で演算する数少ないメリットといえるが、その恩恵は演算のみだ。魔法を展開してから維持するのは術者に一任されるので、数が多ければ負担がかかることには違いはない。

 

 とはいえ、俺の適性ではユーノやアルフほどの強度の拘束魔法を作り出すことができないので、自然、量に頼ることになる。魔法を維持するための魔力コントロールには神経を使うが、しかし、ハッキングではさらに脳みそをフル回転させるのだから、これくらいならば造作もない。

 

 俺の拘束魔法は、一本では簡単に引き千切られ、二本でも動きを抑えきれず、三本巻きつけることで(ようや)く使い物になるようなお粗末な品だ。二人の魔法とは比べるべくもない。

 

 されど、なのはとフェイトの砲撃の時間を稼ぐという結果だけなら、努力如何(いかん)(もたら)すことが、俺にだってできる。俺にだって、こいつらと同じ舞台に立つことはできるんだ。

 

「一体につき三本、八体いるから二十四本だな」

 

「に……二十四本ですか?! あ、本当だ……。見えないけど、水柱を縛りつけるように三箇所細くなっているところがあります……」

 

「二十四もの拘束魔法を同時に扱うなんて……これで適性まで優れていたら末恐ろしい人間になってたね」

 

「適性があればこんな戦い方してないっての。弱いからこそ工夫するんだ」

 

 クロノとリニスさんのお手本とするべき綺麗な仕上がりの術式を覗き見て、そこから俺でも使いこなせるように手を加えたのが、今使っている拘束魔法だ。今回の相手に合わせてプログラムを書き換えもした。伸長する速度や射程距離には目を(つぶ)って最低限のラインを確保した上で、ひたすらに拘束力だけに力を注いだ。そこまでしても、一本では使い物にならないのが泣きたくなるところだが。

 

「兄さん、もうすぐなのはたちのチャージが終わるのであまり関係ないことではあるんですけど、あの龍のような水柱はいったいなんなのでしょうか……」

 

「あれは不気味だね……。とくに目立った動きを見せてないけど、あの龍は他の蛇みたいなのと比べてすごく硬いよ。いざ戦いになったら苦労しそうだ」

 

ユーノが俺に向けていた目を前方に戻し、蛇型の後方に控える龍型の水柱について言及する。アルフも言い知れぬ危機感を龍型からは感じ取ったようで、声音にはぴりっとした緊張が含まれていた。

 

「あれは俺も見当がつかない。とりあえず、急に動き出されて邪魔をされたら元も子もないんだ。他と同じように動きを止めるしかない」

 

「そうですね……わかりました」

 

「小揺るぎもしないのが気持ち悪いよ」

 

 他と個体とは違い、泰然として動くことをしない龍型は常にこちらを向いている。

 

 蛇型は俺、ユーノ、アルフの三人から計五本の鎖を巻きつけられて、縛り上げられる痛みにもだえるように――拘束から抗うように振り解こうと暴れているのに龍型だけはぴくりともしない。龍型に向けている鎖だけは、弓弦のように常に張り詰められて、まるで地深く根を伸ばした大樹を引っ張っているような気分だ。

 

 だが、その心配をするのもこれまでのようである。

 

「準備完了! みんな下がってね!」

 

「最大出力……いくよ」

 

 なのはとフェイト、攻撃担当のチャージが終わったようだ。

 

 天稟(てんぴん)という言葉が過言にならないなのはと、才能の上に努力の城を築きあげたフェイトの全力の一撃。一人であっても甚大なパワーだ、二人の攻撃を同時に防げる道理はない。

 

「よし、俺たちの仕事は完遂した。射線から外れ……っ」

 

「龍型が……っ」

 

「ここで動き出すのかい!」

 

 なのはとフェイトの攻撃の邪魔にならぬよう移動しようとしたが、拘束魔法の鎖に尋常ではない張力を感じた。五つの鎖で雁字搦(がんじがら)めになっていたはずの龍型、そいつがとうとう動いたのだ。

 

 ちっぽけな鎖など意に介さないと言わんばかりに突き進む。

 

 淡緑色と橙色の鎖は軋みながらもまだ龍型と繋がっていたが、俺の脆い鎖はあまりの負荷に耐え切れず、三本が三本とも弾け飛んだ。

 

 龍型がなにを意図しているかはわからない。わからないが、このまま見過ごしては危険であるということは本能で理解した。

 

 込み上げる危機感のまま、俺は声を荒げて叫ぶ。

 

「ユーノ、アルフ! なのはとフェイトの射線上から退避しつつ、あの龍型の動きを止めろ! 蛇型はもういい! あの動きにはなにかある!」

 

「了解しました!」

 

「わかったよ!」

 

 龍型は大波を立たせながら突き進む。ユーノとアルフが蛇型の水柱に割り振っていた鎖の分も回して動きを阻害させているというのに、それでもなお、突き進む。

 

 縛りつけられた箇所から血を噴き出すかのように水の飛沫を撒き散らすが、狂ったように前進を続ける。

 

「ディバインバスター!」

 

『Divine Buster,fire!』

 

「サンダーレイジ!」

 

『Thunder Rage』

 

 フェイトの魔法が天空より降り注ぎ、範囲内のすべての個体へ雷撃の雨を撃ち据えた。金色の閃光が辺りを照らし、爆発するような雷轟が空気を叩く。

 

 蛇型は苦しみ弱り、龍型も進行速度が緩めたが、依然として突進を継続する。

 

 そしてついに、決め手となるなのはの砲撃が到達する間際、俺たち三人の網のような拘束魔法をものともせず、龍型は蛇型群の前に躍り出た。

 

 龍型は桜色の魔力の奔流に向かって大きく(あぎと)を開き、青白い輝きを見せた。

 

 なのはの砲撃が龍型と激突し、ぶつかった魔力の余波が辺り一面に散らばる。あるものは曇天に向かって飛散し、あるものは海面へと着水した。

 

「くっ……一度退く。なのはたちのところまで撤退するぞ」

 

「わかり、ました……」

 

「どうなったんだい? ここからじゃ、ちゃんと見えないね……」

 

 なのはの砲撃の破片がどこに飛ぶかわかったものではないし、海に着弾した魔力が海水を宙へと巻き上げた為視界が悪い。霧が晴れるのを待つのが賢明だと判断した。

 

「どうだった? 徹お兄ちゃんっ! わたしちゃんとやれた?」

 

「……ああ、なのはの砲撃は文句の付け所なんかないくらいに完璧だったぞ」

 

「徹、怪我はなかった? 抑えてくれててありがとうね」

 

「役割分担だからな。フェイトの魔法も抜群に良かった。さすがだな」

 

 戻ってきた俺たちをなのはとフェイトが迎えてくれる。

 

 俺はこれ以上ない働きをしてくれた二人を褒める。なのはは、えへへ、とはにかみながら顔を赤くして照れて、フェイトは両手を後ろに回して仄かに頬を染めながら、口元を緩めて俯いた。

 

 手放しで諸手を挙げて任務遂行の喜びに浸りたいところだが――MVPの二人を抱き上げてべた褒めに誉め殺して可愛い姿を眺め回したいところだが、まだ終わったわけじゃない。九つのジュエルシードの封印を確認したわけではないのだから、気を緩めるのはまだ早い。

 

 二人の才気溢れる少女のフルパワーを同時に受けて、まだ立っていられるとは到底思えないが、内心では気づいていた。あの龍型が蛇型の前に出た、その理由に。

 

《まだだ! まだ封印できていない!》

 

 焦慮に駆られたクロノの声が、俺の頭に大音量で響いた。アースラのモニターで反応を確認していてくれたのだろう。

 

 素早い報告はありがたいが、どうにも喜べない。やはり封印するにはあと一歩届かなかったか。

 

 できなかったのであれば、次の手段を考えるまでだと意識を改めて策を練り始めるが、思考を力尽くに断ち切る光景が目の前に広がる。

 

「きれい……」

 

 なのはが思わずといったふうに、呟いた。たしかに『きれい』と表現するに足るだけの景色である。

 

 九つの青白い光の筋が霧の中心から周囲に伸びた。未だ払われずに立ち込める霧の水分に強烈な光量の光が反射する。

 

 あまりに幻想的で幻惑的な光景に、切迫した状況を忘れて目を奪われ、つい見入ってしまった。

 

 そして、その刹那の油断を突かれた。

 

 九条の光が放たれている中心に、なによりも力強く、おどろおどろしい九つの小さな輝きに気づくことができなかった。

 

 九つの燐光が同時に瞬いた。

 

 途轍もなく大きい魔力の反応を感じ取り、俺は一歩踏み込んで前に出た。

 

 目を見開いて全神経を前方にのみ集中させる。霧の中から飛び出してきたのは膨大な量の魔力が練り込まれた水、狙いは先ほどジュエルシードへと攻撃を行ったなのはとフェイト。

 

 攻撃されたことによる単なる仕返しか、それとも封印するに足る火力を備えているのがこの二人であることを理解しているのかは俺には知る由もないが、ここで二人を()とされれば封印する手がなくなる。ジュエルシード側の戦力を知るためにも、二人にはなるべく無傷で生き残っていてもらわなければならない。それにこんな海の上では戦闘不能になった人間を寝かしておく安全地帯も確保できないのだから、撃墜されては困る。

 

 上記のような言い訳染みた戦術的見解を考えて用意したのは、なのはとフェイトの正面に立って障壁を展開した後だった。

 

 誰だって、少し頭を捻れば答えはすぐに出る。戦力として活躍できる二人より、役に立つ分野が限られている俺が盾になるほうがずっと効率的だ。なんであれ、元来男が女の子を守るということに、理由なんて必要ない。

 

「徹お兄ちゃんっ?!」

 

「徹っ!」

 

 霧の向こうから放射された水は回転しながら砲弾のような勢いで迫り、俺の障壁を切り裂き、腹部へと突き刺さった。障壁で威力を殺せたのか、身体を貫通して背後にいる少女たちに怪我をさせなかったのは、望外の幸運に恵まれたと言える。

 

 被弾の衝撃でたたらを踏み、畳み掛けるように壁と勘違いするほどの突風が吹いたため、身体が後ろへ傾いた。バランスを崩したことで足場の障壁を踏み外し、俺は海へと落下する。

 

 落下の途中、俺は見た。一陣の風により霧のカーテンが取り払われ、奥にいた存在の姿を。

 

 一つの大きなジュエルシードと見紛(みまが)うくらいに接近した九つの青白い宝石。それらを守るように包み込む、巨大な水の球。そして九本の龍の頭が、水の球から伸びている。

 

 伝説や伝承で語られているような九頭龍が、ここに顕在した。




無印編のキーワードともなるジュエルシード。ジュエルシード本体との戦いはここが最後になるので、ちょっと気合を入れすぎたらちょっとでは済まないほどの長さになってしまいました。
次話に続きます。申し訳ないです。


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「存在意義を示せ」

 腹部から血の尾を引きながら海めがけて落下するが、いつまでも隙だらけのまま悠々としていられない。こちらへの攻撃がたった一発で終わる保証など、どこにもないのだ。

 

「……っ、総員散開! 集まっていたら狙われる! 距離を取れ!」

 

 駆け寄ってこようとしていたなのはやフェイト、呆然としていたユーノやアルフに叱咤(しった)するように大声で指示を出す。

 

 それでもなのはとフェイトの二人は近づいてこようとするが、九頭龍から放たれた水弾に道を(はば)まれて宙へと舞い上がった。

 

 倉庫でリニスさんの誘導弾を捻じ曲げた時と同じように、足場用障壁を角度を変えて展開し徐々に落下の速度を殺しながら姿勢を整えて、最後に足元に障壁を生み出して着地する。だが、腹部の傷が痛み、障壁に膝をついた。

 

「ああ、痛いなぁ……。……っ!」

 

 九本ある頭の一つがこちらを向き、巨大なアギトを開いて再び水弾を吐いた。

 

 腹に手を突っ込まれて五臓六腑を掻き混ぜられたみたいな激痛と不快感を押して、足に力を振り絞り跳躍した。空気を切り裂く音を後方に引き連れながら迫る青黒い水の弾丸を横目に見る。回避には難なく成功した。

 

 威力には眼を見張るものがあるし速度も申し分ないが、口からしか発射できないようで連射される恐れはない上に、頭の向きからおおよその軌道も推測できる。不意を突かれなければ直撃するようなものではない。

 

 なのはたちも一時は唐突な攻撃に動揺が走ったようだったが、今は冷静に軌道を見切って危なげなく回避している。持ち直すことはできた、問題はここからだ。

 

 どうやって、身を寄せ合って互いを守り合うジュエルシードを封印するか。その方法を考えなければいけない。

 

「くぅっ……()ぅ……」

 

 テレフォンパンチに等しい水龍の魔弾を受けた腹部に手を当てて、あまり得意ではない治癒魔法をおっかなびっくり行使する。

 

 思いの(ほか)傷は深く、出血量も多い。早いとこ止血しなければならないのだが、九頭龍の動向に注意しつつ、ジュエルシードの封印方法に思案を巡らせながら、足場となる障壁と身体強化のための魔力付与も維持し続けるとなれば、さすがに治癒にまではなかなか手が回らない。

 

 散発的に飛来する水弾を跳躍移動で避けていると、(はかど)らない治癒魔法を見かねたのか、俺の傷口に青白い光が灯った。品性の欠片もなく、遠くでただ強い光を撒き散らすだけのジュエルシードとは違う。優しく温かく、いじらしくて儚げな、柔らかい輝き。エリーの魔力だ。

 

 エリーの魔力に覆われた傷口は見る見る塞がり、次第に出血も止まって傷があったことすらわからないくらいに綺麗に回復した。それどころか、どういう仕組みなのかわからないが、魔弾を受けて穴が空いた服も、血に濡れた部分まで元に戻っている。

 

 当然ありがたくはあったが、不可解でもあった。もしかするとエリーが俺の傷を癒すために使ってくれているなんらかの手段は、単なる治癒ではないのかもしれない。

 

「ありがとう。助かったよ、エリー」

 

 人によっては得体の知れない技術で治療されることを忌避(きひ)したり、不安があるかもしれないが、俺はエリーに対して不信感など一欠片も抱いてはいない。こいつが俺になにかを施してくれたのなら、そこに含みなどあるわけがなく、あるのは純粋なる善意だけだ。

 

 エリーは俺の感謝の言葉に、ぱぱっ、と強く短い光を二度明滅させた。まるで『当たり前でしょう?』とでも言いたげな反応に思わず笑みがこぼれる。

 

「さて、ここからどうする……」

 

 腹部に受けた傷はエリーが治療してくれた。おかげで治癒魔法を使わずに済んだ分、思考のリソースは確保されている。

 

 だが、だからといって根本的な課題が解決されたわけではない。

 

 フェイトの自然の力をも利用する雷撃と、なのはの砲撃を正面から受けたにもかかわらずそれらを耐え凌ぎ、しばしの時間を必要としたにせよ反撃までしてきた。

 

 ジュエルシードがばらけていた時でさえ、そんな末恐ろしい耐久力を有していたのだ。九つすべてが寄り添って固まっている現状では、さらに堅固になっていると推察できる。

 

 瞬間最大突破力で言えば、砲撃に天賦の才を持つなのはがトップ。次点でフェイトだろうか。近距離戦に重きを置いているというのに遠距離攻撃にも羨ましくなるほどバリエーションがあるが、トータルの攻撃力ならまだしも、一点集中という分野においてはなのはに軍配が上がるだろう。その後ろに射撃魔法を使えるアルフが続く。次は同率で、攻撃的な魔法に乏しいユーノと、肉弾戦しか取り柄のない俺。

 

 一番の安全策は水龍の口から吐き出される単発の水弾を躱しながら、遠距離攻撃による封印なのだが、相手の硬さを(かんが)みると火力が不足している。力押しで攻めるのは現実的とは言い難い。

 

 ならば(から)め手しかないのだが、これにはどうしても危険がついて回る。

 

 こちらの火力が足りないのであれば相手の力を削るしかないのだが、ジュエルシードの魔力を削るとなると、直接触れるほどに接近しなければならない。

 

 ジュエルシードが操る水龍からハッキングで潜れればわずかとはいえリスクを低減させることができるのだが、それはすでにできないことが判明している。

 

 大蛇の胴体を蹴りで断ち切った時、ジュエルシードの魔力で構成されているはずの胴体なのに魔力を通し辛かった。大蛇の身体も――おそらくは水龍の身体も――水分子と水分子の間にジュエルシードの魔力を編み込むことによって思い通りに操作しているのだ。そしてハッキング時には、水分子が不純物となってハッキングの進行を妨げる。目標物に触れてハッキングを行使するのを高速道路でスムーズに走るようなものだとすれば、魔力以外の不純物が混じった状態は曲がりくねった小道を走行するようなもの。アクセルを踏み込むことができず、速度が出ないのだ。

 

 結論。水に触れてのハッキングができないのであれば、ジュエルシード自体に触れるしかない。

 

 だが、今度は近づく方法が必要になる。

 

 相手の龍の首は九本、俺を除いたこちらの味方は四人。一人あたり、二本以上を担当しなければいけない計算になる。三人がかりでも抑えきれなかった龍を、一人で少なくとも二本以上抑えなくてはならないという作戦では、やはり無理がある。

 

「ん? あれは……フェイトか?」

 

 なかなか有効な策が思いつかず、段々と思考が焦りに呑まれてくる。一度冷静になるべく周囲を広く見渡すと、九頭龍の近くまで寄っているフェイトが見えた。

 

 高速で空を飛び回り、相次いで放たれる水弾をフェイトは優雅に躱す。右手に携えるデバイス、バルディッシュは大鎌の形を成していた。

 

 距離を取った状態では直線単発の射撃しかこないと知り、相手の挙動も掴んだことでそろそろこちらから攻めようと考えた、といったところか。得意分野である近距離戦で戦おうという算段なのだろう。

 

 (かたわ)らに(はべ)らせた金色の発射体からいくつも弾丸を撃ち出していたのは見ていたが、これといって成果は得られなかったようだった。

 

 射撃魔法では(らち)が明かないと見切りをつけ、威力の高い近接技で膠着(こうちゃく)した戦局を打開すべく動き出したのだ。

 

 素早い機動で一点射の水弾を回避し、フェイトは九つある龍の頭の一つに斬りかかって見事に分断した。

 

 俺はその光景を少し驚きながら眺める。

 

 拘束の鎖で縛っていた時、まさしく龍の鱗の如き硬度を誇る体表面に、俺は愕然(がくぜん)とした。蛇型とは一線を画す龍型の防御力には、俺が直接拳を振り抜いても貫通させることができるか自信がなかったほどである。

 

 その龍型の胴体――首とも言えるが――を容易く斬り裂いたフェイトを見て、頭に一つ、ある可能性が浮かんだ。

 

「なんだ? これまでにない動き……?」

 

 可能性を確かめるため試そうとしたが、その前に水龍の奇妙な動作を目視した。

 

 根元の巨大な水球から首が脈打つように、どくん、と広がり、まるでなにかが首に入っているかのように丸くなった。ちょうど獲物を丸呑みにした蛇のようだ。

 

 丸く大きくなった部分は本来の流れに逆らって、根元から龍の頭へと押し上げられる。首を通ったなにかは龍の(あご)、魚で言うところの(えら)の部分で停止し、溜め込まれた。

 

 水龍の口は、次のターゲットを探すフェイトに向けられている。水龍は、水弾を吐いた時のように大きく口を開くことはせず、ほんの小さく、口の先端にだけ隙間を空けた。

 

 ぞくり、と背筋が凍りつきそうなほどの寒気が走る。

 

 あれはやばい。俺の想像が正しければ、龍の口から放たれる代物は水弾なんかより多分に脅威を孕んでいる。

 

「フェイト下がれ! 危険だ!」

 

 とある魔法の術式に手を加えながら、俺はフェイトに警告する。

 

 びくんっ、と肩を跳ね上げさせたフェイトは俺に視線を合わせると、目を丸くして唇を横一文字に結びながら、こくこく、と頷いた。

 

 なぜかとても緊張しているような、ともすれば怯えているとも取れる表情に(いささ)か疑問を抱いたが、今はそれに言及している猶予はない。

 

 口元になにかを溜め込んだ個体とは別、違う龍から吐き出された水弾をフェイトは華奢(きゃしゃ)な身体を急浮上させて回避する。その回避した隙を待っていたかのように、おかしな挙動を取っていた龍が攻撃を開始した。

 

「躱せ、フェイト! 狙われてるぞ!」

 

 フェイトはようやく、俺が注視していた水龍の存在を視界内に認めた。つぶらな瞳を見開き、飛行魔法で無理矢理方向をずらして龍の射線上から逃れた。

 

 次の瞬間、ゼロコンマ数秒前までフェイトがいた空間を、細く白い線が貫いた。

 

 フェイトは速度を維持しつつ、照準から外れるように蛇行しながら飛び回るが、水龍の攻撃は発射し続けながら方向を変えることが可能らしく、高速機動による針路転換を繰り返すフェイトにしぶとく喰らいつく。

 

 紙一重で回避を続けるフェイトに、違う個体が狙いを定めた。牙を見せつけるように口を開き、水弾を撃ち出す。

 

「くっ……。ぁ……」

 

 意表外の攻撃だったにもかかわらず、苦悶の声をもらしながらもフェイトは流石としか言いようのない動きで、それすら回避した。

 

 だが、懸命の逃避もそこまでだった。並外れた反射神経だけで水弾を躱したが、無理な挙動が続いたことにより身体に重い負担がのしかかった。

 

 フェイトもなのはも、クロノだってそうだが、俺の周囲にいる魔導師は容易く飛行魔法を行使して見せる。そのせいで忘れがちになるのだが、本来飛行魔法は緻密(ちみつ)で精密な魔力コントロールを必要とする技術なのだ。

 

 度重なる突発的な攻撃に、とうとうフェイトの集中が途切れた。

 

 姿勢のコントロールに乱れが生じる。時間にして一秒に満たないほんのわずかな空白、しかしそれは確実にタイムロスとなってフェイトの首を絞めた。

 

 水龍の吐く白い線はフェイトに追いつき、背にたなびくマントを切り裂き始めた。

 

 もう逃げきれない。諦観の念にも似た感情に囚われたフェイトは、か細い喉から蚊の鳴くような悲鳴を震わせた。

 

「間に、合った!」

 

「ひぁっ!」

 

 俺は手元の見えない鎖(・・・・・)を目一杯に引っ張り、フェイトの身体を強引に手繰(たぐ)り寄せる。フェイトのぷるぷるとした柔肌に跡がついてしまうかもしれないが、緊急事態につき見逃してほしい。

 

 俺が改造を施していたのは拘束魔法。拘束力を極限まで減らし、伸展速度と射程に重点を置いた仕様だ。

 

 腰にまとわりついた見えない鎖にフェイトが声を上げたが、今だけは無視させてもらう。まだ水龍は諦め悪く狙いを定めているのだから。

 

「と、徹……。ありがと……」

 

「礼はいいから、しっかり掴まってろよ」

 

 フェイトを捕らえてから猛スピードで鎖を収縮させて胸に抱き留めて両腕で固定すると、足場を踏み締め移動する。

 

 俺に向けられた白線の軌道に、試しに障壁を張ってみたが、いとも容易く一刀のうちに斬り伏せられた。水弾も貫通力が高かったが、放射される白い線は水弾を遥かに凌ぐ貫通性能を持っている。これを防ごうなどと考えてはいけない。取るコマンドは回避一択だ。

 

 多角的に跳躍を続け、照準が合わさり始めたら『襲歩』で一目散に遁走(とんそう)を図ろう、という俺の魂胆だったが、俺とフェイトを狙い続けた水龍の頭が桜色の閃光に包まれたことで、その必要はなくなった。

 

「徹、もう怪我は大丈夫? ごめんね、助けてもらってばっかりで……」

 

 俺の胸に小さな両手を当てて、上目遣いに俺の顔を覗き見るフェイトがそんなことを言い出した。

 

「そういう運の巡りだっただけだ。俺が危なかったら、その時はフェイトが俺を助けてくれるだろ? 互助(ごじょ)ってやつだ。フェイトも俺を助けてくれよ? その機会は悲しいことにたくさんあるだろうからな」

 

「ふふっ。うん、わかったよ。絶対助けるからね」

 

 しっかりと抱き締めていないと消えてしまいそうなほど儚く、湖面に浮かぶ月のように幻想的に、フェイトは微笑んだ。

 

 俺の動きを阻害すると考えたのか、フェイトは抱きとめられてからは飛行魔法を一切使っていなかった。振り落とされないようにと、俺の身体に小柄な肢体をぴったりと密着させている。

 

 機動力重視のコンセプトのもと、とても薄着なバリアジャケットに身を包んでいるフェイトを抱き締め続けるのは鉄の意志を持っておかなければとてもじゃないが成し遂げられない。かなり難度の高い行為である。

 

「……いつまでくっついてるの?」

 

 絶対零度に限りなく近い冷たい瞳と声で、なのはが声をかけてきた。俺よりも高いところから降りてきているため、顔に影が差していて大変迫力がある。

 

 なのはの左手に握られているレイハが、三回点滅した。まるで『ニ・ゲ・ロ』と言っているようでさらに恐怖を煽る。

 

「心臓ばくばく鳴ってる。徹、大丈夫? 病気?」

 

 フェイトが俺の心臓の音を聞き取るように、左胸のあたりに耳をつけた。

 

 それはフェイトからすれば、ただ心音に耳を傾けただけなのだろうが、傍から見れば誤解されかねない仕草だ。飛行魔法を使っていないフェイトの身体を離してしまうと落ちてしまうので両手で抱き締めている今の格好も、誤解に拍車をかける要素となっている。

 

 なのはが来ているのだからフェイトも離れればいいのに、自分からは決して離れようとはしない。だからといって俺から突き離すこともできない。女の子においたをするような腕を、生憎俺は持ち合わせていないのだ。

 

 なので、なのはからのプレッシャーには歯を食い縛って耐え、フェイトの細いながらも柔らかく温かい小さな身体を堪能しながら抱っこして返事をする。

 

「大丈夫、病気じゃない。動悸だ」

 

 かなり短く淡白な返答だが、声が震えなかっただけよく出来たほうである。

 

「動悸って病気の前兆な気がするよ?」

 

「緊張すると心臓ばくばくするだろ? それだ」

 

「……私が近くにいるから緊張しているの?」

 

 確かに、フェイトが近くにいることが原因で(なのはが不機嫌になってレイハを握る力が強くなり、結果として威圧感が増すから)緊張しているとは言える。

 

 否定はできない。ならばフェイトの質問に対する返答は是である。

 

「まぁ……そうだな」

 

「ふふっ、そうなんだ」

 

 フェイトは小さく微笑んで、輝いているかと錯覚するほど鮮やかな金色の頭を俺の首元に擦り寄せた。脳髄を(とろ)けさせるような馥郁(ふくいく)とした香りに、固めた決意が早速揺らぎそうになった。

 

「レイジングハート……ディバインバスター」

 

『ちょ、マスター?!』

 

「ディバインバスター!」

 

「は、はい! Divine Buster!」

 

「ま、待てなのは! 杖の方向が違うぞ! こっちは味方だ!」

 

「女の敵なの」

 

「うまいこと言ってんじゃねえ!」

 

「さっきからいちゃつきすぎなの。攻撃してきてた大きいのの頭を撃ち抜いて、わたしが! 二人を助けたのに、徹お兄ちゃんもフェイトちゃんも抱き合っていちゃいちゃいちゃいちゃ。……ずるいの」

 

「ずるいってなんだ」

 

 瞳の中に黒い炎を灯し続けたなのはを(なだ)めすかしていると、胸元からぱちんっ、と強めの静電気のような破裂音が聞こえた。同時に、きゃぅっ、という、フェイトから発されたと数秒間気づくことができなかったほど愛らしい声。

 

 目を瞑りながらフェイトが身体を後方に逸らしたので、腕から柔らかさと温もりが消えてしまった。ほんのちょっと、本当にほんのちょっとだけ寂しい。

 

 俺の腕から離れてしまったことでフェイトが海へと落下してしまうのでは、という懸念が頭を()ぎったが、気を利かせたバルディッシュが瞬時に飛行魔法を展開させたので心配は無用だった。

 

 フェイトはおでこをさすりながら、俺の胸元から首のあたりを見やる。

 

「……忘れてた。徹は人嫌いのジュエルシードを持ってるんだったね……」

 

「あぁ、やっぱりエリーか。やけに耳に馴染んだ音だなと思ったんだ」

 

 台座に座ったままのエリーは警戒するように洞洞(とうとう)とした光を帯びていた。こいつにしては珍しい色彩である。

 

「それより徹お兄ちゃん。あの大きくて太いやつの先っちょから噴き出してた白いのってなんなのかな?」

 

「……深い意味はないんだよな? なにか意図があって言ってるんじゃないんだよな? 俺が曲解してるだけだよな?」

 

 なのはは俺の追及に困ったような苦笑いを浮かべて可愛らしく小首を傾げた。

 

 この反応からして、なのはは特になにも考えず、ただ疑問を口にしただけのようだ。よかった、俺に意地悪な質問をしてこようとしていたわけじゃなかったんだ。なのははピュアなままなのだ、本当によかった。

 

「細い砲撃みたいだったけど、距離を取るごとに拡散してた……あれは液体、なのかな。でも、私に向かって放出しようとしてた白く濁っている液体は……」

 

「わざとじゃないんだよな?! 故意に俺を困らせようととしているわけではないんだよな?!」

 

「ど、どうしたの徹。急に慌てて……」

 

 両手を胸にやって困惑の色を顔に彩るフェイトを見るに、こちらもわざわざ含みを持たせる言い回しを選んだわけではないようだ。どうやら俺の心が汚れているだけらしい。

 

「いや、ごめん。なんでもない。あの攻撃はウォーターカッターみたいなものだと思う」

 

「ウォーターカッター……魔法の一種? 聞いたことない」

 

「ううん、たぶん徹お兄ちゃんが言ってるのは作業機械のことなの。ウォータージェットとも呼ぶんだけどね? 三百メガパスカル以上に加圧した水を一ミリ以下の小さな穴から噴き出すことで、物を切ったり加工したりする機械のことだよ。そっか、だから徹お兄ちゃんの障壁を一刀両断にしてたんだね」

 

 なのはが俺の代わりに詳しく説明してくれた。

 

 なのはは機械に強いところが昔からあったが、まさかこんな分野にまで精通しているとは思わなかった。

 

「めちゃくちゃ詳しいな……俺より知ってるじゃねぇか。たぶんそれに似たようなことをあの龍はやってるんだろう」

 

「それなら白くなってたのもわかるね。空気が混じってたんだ」

 

「まあ、そうだろうな。普通なら十メートル以上なんていう射程は実現できないはずだけど、そのあたりは魔力の為せる技なのかね」

 

「遠距離では水の砲弾、中距離より近ければ二人が言うウォーターカッター、近くに寄れば大きな牙で噛みついてくる……。厄介だね……」

 

「うん……。それに砲撃で頭を飛ばしたけど、もう再生しちゃってる……。回復力も早いよ」

 

 フェイトがジュエルシードを守護する水龍の攻撃方法を言い並べ、なのはは水龍の復元力について述べる。

 

 攻撃に関してはそれほどの脅威を感じない。もちろん魔弾を直撃すれば重傷を負うのは間違いないし、ウォーターカッターは致命傷になり得る攻撃だが、魔弾は単発でしか射出されないし、ウォーターカッターには射程がない。遠くにいればひとまず安全は確保される。

 

 だが、防御力と回復速度が異常に高い。なのはの砲撃を食らって反撃できる硬さがあって、フェイトに頭を斬り落とされても十秒とかからず元通りになる復元力。それらの壁を突き破ってジュエルシードまで届かせることは、俺たちの火力ではできない。

 

 考えろ、考えろ。頭を回せ。それほど推論する時間はないんだ。お喋りとフェイトとのいちゃこらに時間を割いてしまった分、俺たちの代わりにヘイトを稼いで九頭龍のタゲを取ってくれているユーノとアルフに疲れが見え始めている。

 

 なにか微かでも取っ掛かりがあれば。

 

 取っ掛かり……あるじゃないか。フェイトを見ていて感じた、一つの可能性が。

 

「そうだ……。フェイト、あの龍を鎌で斬った時、手応えとかなかったか?めちゃくちゃ硬かったり、とか」

 

「ううん、徹の障壁の方がまだ硬いと思うよ」

 

「ほんと俺の心を何の気なしに抉るのやめてくんない? わざと言ってるんじゃないんだろうけどさ」

 

 フェイトは頭の両側で結んでいる二本の金髪をふるふる、と揺らして否定する。

 

 俺のガラスのハートには罅《ひび》が入ったが、有力な情報を手に入れた。もう少し、確定付けるにはもう少し根拠が欲しい。

 

「なのは、あの龍に砲撃を撃った時、弾かれる感触とかなかったか? 大蛇の群れに向けて撃った時みたいに、阻まれた感触はなかったか?」

 

「ううん、なかったの。まだ徹お兄ちゃんの障壁相手にやる方が撃ち応えがあったよ?」

 

「怖いこと言うな。人に向けて撃つんじゃありません」

 

 心胆寒からしめることを言われてガラスのハートにさらに亀裂が入ったが、メンタルを削った甲斐はあった。仮説を立てるだけの情報が集まったのだから。

 

「なのは、フェイト、ありがとう。おかげであのジュエルシード群に対抗する算段が立ちそうだ。ユーノとアルフのフォローに回ってくれ、そろそろしんどそうだからさ」

 

「うん! 役に立てたのならよかったの!」

 

「徹はどうするの?」

 

「俺はもう少し考えを煮詰めてから戻る。その間ちょっと頑張っててくれ」

 

「ねえ、徹お兄ちゃん。作戦考えてくれるのはいいけど、気を抜きすぎたらだめだよ?」

 

「一発も魔弾を飛ばさないようにすることはできないかも、しれないから」

 

「了解、気をつけとく」

 

「じゃあ行ってくるね!」

 

「行ってきます」

 

 華が咲き誇るような愛くるしい笑顔とともに、二人は飛び立った。二人が操る飛行魔法はぐんぐん速度を上げ、凝縮された水の砲弾を吐き出す龍の元へと少女の背中を押す。

 

 二人の少女の姿はすぐに小さくなり、桜色と金色の輝線となった。淡緑色と橙色とともに、九頭龍の周囲を飛行する。

 

 なのはもフェイトも、ユーノもアルフも、全員が今、自分にできることを最大限やろうとしている。ならば俺も、俺ができる最善の行動を取らなければならない。

 

「問題はすでに提示されている。出すべき解答も決められているのなら、後は解答に導くための計算式を構築すればいいだけだ。やるぞ、俺。こんなことくらいしかできないんだ。存在意義を示せ」

 

 戦力として活躍できない俺の仕事は、解決策を模索すること。

 




まさかもう一話必要になるとは。

次話に続きます。


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邪魔になるものはすべて排除する

 フェイトとなのはから聞いた、攻撃を当てた時の感触や、俺が客観的に見たジュエルシードに関連する断片的な情報を紡いで得られた疑問と可能性。それは一番最初に現れた水龍と、なのはたちが取り囲んでいる水龍はスペックに差があるということだ。

 

 間抜けな俺は早とちりしてこれまで気づくことができなかった。

 

 九頭龍(くずりゅう)になる前の段階では蛇型が七体いて、龍型が一体いた。九頭龍になってからは蛇型は綺麗さっぱり一体残らず消え去り、水龍が九体、水の球に繋がった状態で現れた。

 

 この時点で既に数があっていない。ジュエルシード自体の数は九頭龍に変貌を遂げる前でも後でも変わらず九個なのに、操られている蛇型や龍型の数が、前者では少ないのだ。

 

 アースラにいた時の映像で俺は見ていた。ジュエルシードの二つが身を寄せ合って、息を合わせて鼓動を合わせ、一体の水龍を生み出すところを俺は見ていたのに、なぜこんなことに気づかなかったのか、不思議でならない。

 

 つまり、最初の水龍はジュエルシード二つ分の魔力によって構成されていたということだ。だから俺とユーノ、アルフの三人がかりの拘束魔法でも動きを止めることができなかった。膨大な量の魔力を供与されていたから、なのはの砲撃を凌ぐことができたのだ。

 

 だが、常軌を逸した突進力や防御力が最初の水龍よりも低下しているとはいえ、凄まじい復元力を有していることに変わりはないし、なのはとフェイトの砲撃で封印しようにも九つの龍の頭が束になって盾となるだろう。

 

 なによりフルパワーで砲撃するためにはチャージの時間を設けなければいけないが、その時間を稼ぐのがまず困難だ。水龍の魔弾は障壁貫通力が高すぎる。一頭の水龍が吐き出す魔弾でさえ容易く障壁を突き破ってくるのに、それが九つに増えて集中的に襲ってくるとなれば、チャージ中の二人を守りきることは、至難どころではない。不可能とすら断言できる。

 

 結論、なのはとフェイトの砲撃による封印という方法は空理空論と言わざるを得ない。

 

 とはいえ、打つ手段がないのかと問われれば、断じて否だ。たしかに水龍の復元力については目を見張るものがあるが、そんなもの復元させなければいいだけなのだから。

 

 そちらの案で進める為には、もう一つ実地のデータが欲しい。

 

《兄さんっ! そろそろこっちに戻ってくださいよぉ! 回避することに関しては兄さんの移動技術が一番適してるんですから!》

 

 ちょうどいいタイミングでユーノからの念話が届いた。

 

 相当追い込まれているのか、ユーノの声は大音量に加えて上擦(うわず)ったものである。

 

《ユーノ、龍に拘束魔法を使ってみてくれないか?》

 

《なんでっ、ですか! うわっ、とと……。一度龍相手に使って、動きを止められないことはっ、判明してるじゃないですか!》

 

《いいからやってみてくれ。違う結果が得られるはずだ》

 

 わかりました、とどこか不承不承といった色が声に滲み出ていたが、ユーノは実行してくれた。

 

 遥か遠方で淡緑色の光が瞬き、鎖と思われる一本の線が、九頭龍の九つあるうちの一つの首に巻きつく。ユーノが繰り出した拘束魔法の鎖はたった一本だけであったが、それでも水龍の動きを著しく低下させた。

 

《効いています……。やはり多少は御しきれてない感はありますが、それでもさっきの龍に魔法をかけた時とは全然手応えが違います》

 

《そうか、やっぱりな。ありがとう》

 

《ど、どういうことですか?》

 

《後から説明するから、もうちょい踏ん張ってくれ。あと少しで策が立つ》

 

《わ、わかりました……。でも、なるべく早くお願いしますよ?》

 

 そこで念話は切られ、遠方で龍に繋がれていた緑の線も消える。

 

 たった一体の動きを止めるだけのために拘束魔法を使い続けていてはリスクが上昇するためだろう。一体を捕縛しても、魔法を使うために静止しているところを他の龍に狙われる。一体の水龍を止めるだけでは意味がないのだ。

 

「よし、これでなんとかなる。封印できる」

 

 ユーノのおかげで、死ぬ気で頑張ったら龍を抑え込むことができるとわかった。これでピースは揃った。

 

 ジュエルシード二つの魔力で生み出された水龍相手には、拘束魔法は意味を成さなかったが、ジュエルシード一つで生成されている今の水龍であれば、難しくはあっても抑えられるはずだ。

 

 海水と魔力で構成されている水龍の身体を拘束し、その間にジュエルシード本体に接触する。可能ならば封印処理を行い、最悪でも放出される魔力の出力を低下させる。

 

 ユーノ、アルフ、なのは、フェイトの四人が九頭龍の動きを止めることだけに徹すれば、俺がハッキングでジュエルシードと相対するだけの時間を稼げるだろう。あの四人なら、きっと繋いでくれる。

 

 さて、そろそろこの一連の件を終わらせることにしよう。

 

 俺は足に魔力を漲らせ、高々と跳躍した。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 真正面から迫り来る、なのはの誘導弾より直径の大きな水弾を落ち着いて横に移動することで避ける。俺が回避した方向へと他の個体が水弾を放ったが、軌道を見切り、足場を再構築して水弾の反対側へとジャンプする。

 

 水龍たちの脳を(つかさど)っているジュエルシードは意外なまでに(さと)い。俺たちの動き、躱した時の速度からどこに移動するか予測を立てて、その先に魔弾を射出して確実に当てにくるのだ。

 

 しかし、俺に対してはその鋭い予測も無意味である。

 

 素早く動けば慣性で身体が流れてしまう飛行魔法と違い、俺が使う跳躍移動は――重力による負担を考慮から外せば――進行方向を思いのままに思い通りに変えることができる。

 

 飛行魔法が円を描くようにして曲がるのだとすれば、跳躍移動は直角に曲がるのだ。

 

 飛来する弾丸を避けるのに、これ以上適した移動技術はない。跳躍移動の思わぬメリットの一つだ。

 

 九頭龍から断続的に放たれる水弾を飛び跳ねて回避しつつ、俺は戦線に復帰した。

 

「兄さん! 作戦は思いついたんですか?!」

 

 水龍へ注意を払いつつ、俺のもとへとユーノが近寄ってきた。

 

 俺が前線に戻ったことを見て、なにか策を持ってきたと思ったのだろう。近づき過ぎては的になるだけなので、若干の距離を開けながら話をする。

 

 ユーノだけでなく、なのは、フェイト、アルフも徐々に接近してきた。

 

「ああ、現状で一番成功確率が高い手だと思う」

 

「早速教えてくれないかい? 攻撃されるばかりというのは疲れるよ」

 

「飛行魔法も魔力を使うのですから、やはり疲労が溜まってきます。打って出る為の魔力の残量を計算すると、それほど余裕はありませんよ」

 

「大丈夫だ。これで封印できなきゃ打つ手なしだからな。一発勝負だ。後のことは考えなくていい」

 

「緊張するようなこと言わないでほしいの」

 

「どうすればいいの、徹。砲撃は届きそうにないし、力を溜める時間もないんだよ? 頭を破壊してから封印しようとしても、封印する前に龍の頭が再生する」

 

「なに、小難しいことは考えなくていい。簡単な作戦だ。お前たち四人で、九本の頭が俺の邪魔をしないように動かなくさせといてくれるだけでいいんだ。それだけでいい。その間に俺がジュエルシード本体に接近、接触して魔力を送り込んで封印する。ほら、簡単だろ?」

 

 ぽかん、と四人は呆気に取られたように目を丸くして小さく口を開いた。

 

 九頭龍から放たれる魔弾のことまで頭から抜け落ちているらしく、動きが止まって水龍に狙われているところを俺の拘束魔法で引っ張って強制回避させる。フェイトに使った時と同じ術式の魔法。柔肌に傷が残りにくいソフトタイプの鎖である。お肌に優しい鎖を鎖と呼んでいいのかは謎だが。

 

「動かなくさせるって……四人で九体の龍を拘束し続けるなんて無理ですよ! 一人二体以上を捕まえておかないとならない計算じゃないですか!」

 

 身体を揺さぶられたことで、あと目と鼻の先を巨大な水の砲弾が通過したことで意識と危機感を取り戻したユーノが反論した。

 

「お前らならできるって。一人あたり龍二体を受け持って、余った一体は四人で協力して拘束する。めちゃくちゃがんばればいけるだろ」

 

「いけるだろ、って……投げやりな……」

 

「さっき試しにやってみたら拘束できたじゃねえか。それに一人で全部やれとまでは言ってないんだ。きつくなったら四人でフォローし合えばいい。がんばってくれ」

 

「……はい」

 

 ユーノはこれから味わうことになる途轍もなく大きな苦労を想像したのか、雰囲気がどんよりと暗いものになったが、渋渋といった風に首を縦に振った。納得してくれたようである。

 

「仮にあの龍たちの動きを一時的に止めれたとしても、そんなに長時間拘束し続けるなんてできないよ。その時はどうするんだい?」

 

 軽やかに右斜め後方に退避して、飛んできた水弾を事もなげにやり過ごしたアルフが問いかけてくる。

 

 これについては、俺はすでに答えを用意していた。

 

「封印し切る前に龍が鎖を解いたら、俺はその瞬間に全力で避難する。ジュエルシードの魔力を多少なり抑えられたらいいが、それすらできなかったら一からやり直しになるな」

 

「あたしたちの働き次第って言いたいんだね。いい性格してるよ、本当に」

 

 アルフは苦笑いを浮かべながら肩を(すく)めた。他に手段がないのだから、認めざるを得ないと判断したのだろう。

 

「この作戦、私たちは離れたところから龍の動きを妨げるだけだけど、徹は一人でジュエルシードに近づくんだよね……」

 

「……徹お兄ちゃんは危なくないの? 危なくないわけないよね? なにか失敗があったら怪我をする確率が高いのは徹お兄ちゃんなんだよ?」

 

 次はフェイトとなのはの二人が意見を述べた。なのはに至ってはやんわりとだが異を唱えているようにも聞こえる。

 

 俺の身を案じてくれているその気持ちはとても嬉しいが、贅沢は言ってられない。俺だって痛い思いや苦しい思いをするのは御免被(ごめんこうむ)るが、戦力的にこういう人員配置にするしかないのだ。

 

 

 俺にユーノやアルフ並みとまでは言わないが、二人に準じる程度に人並み程度に拘束魔法の適性があれば、俺がなのはの代わりに動きを止める役を引き受けてチャージする時間を稼ぎ、遠距離から砲撃による封印を行うという計画も立てれたが、現実問題不可能なのだ。俺のスキルではどう頑張っても、一人で水龍二体を抑え込むことはできない。

 

 拘束できる可能性が高い順に龍の動きを止める役割に割り振って、最後に余ったのが俺だ。封印作業は俺が担うしかない。

 

 理論立てて順序立てて説明すれば賢い二人のことだから理解してくれるだろうけど、悠長に解説している間、九頭龍がじっと待っていてくれるとは到底考えられない。

 

 忘れてはいけない、俺たちには猶予がないのだ。暴走状態や励起状態ではないので深刻なレベルとまではいかないが、こうしている間にもジュエルシードは僅かずつ力を増している。時が経つごとに、成功率は確実に低下していく。

 

 本当なら作戦の内容すら詳しく話さずにやって欲しいことだけを指示したかったところだが、上から押しつけるように命令するだけでは不信感が芽生える。連携が重要なこの場面で、チームワークに不和を生じさせたくなかった。だからこそ、時間を割いたのだ。

 

 だがもう、貴重な時間を浪費することはできない。

 

 なのはもフェイトも、俺が怪我をしないように、という配慮から反論していることは理解している。彼女たちの、嘘偽りない純粋な優しさからの言葉であることは理解しているが、理解した上で、その優しさを利用させてもらう。

 

 なのはとフェイトが、俺の身の安全を考えてくれた。その気持ちだけで、俺は満足できる。その想いだけで頑張る理由になるんだ。

 

「ミスした時は怪我することになるだろうな」

 

「それじゃあこんな作戦は……っ!」

 

「そんなもん、ミスしなけりゃいいだけだろ? 俺が怪我しないように二人とも頑張ってくれよ。信じてるぜ」

 

 俺は顔面に笑みを貼りつけて、二人の才気溢れる少女へと送った。

 

 なのはは小さな拳を握り締め、怒りか何かに顔を赤くさせながら、俺にじと目を向けてくる。あしらわれていると感じたのか、柔らかそうな――というより実際に柔らかい――ほっぺたを膨らませた。

 

 フェイトは目を伏せながら左手を心臓の位置にまで持ってきて、バリアジャケットに皺が寄るほど掴んだ。前髪が顔を隠しているせいで表情はわからなかったが、形の綺麗な耳が心なしか赤くなっている気がした。

 

「そろそろ動き出さなきゃまずいんだ。俺の言うこと、聞いてくれるか?」

 

 俺のお願いに二人はしばし口を(つぐ)んでいたが、数拍の間を置いてからなのはとフェイトは同時にこくり、と頷いた。

 

「そうか、ありがとうな」

 

 このままジュエルシードの融合が進めば、次元震やさらに上位の次元断層などが引き起こされてもおかしくはないのだ。未来も才能もある少年少女たちの輝かしい人生に、こんなところでピリオドを打つわけにはいかない。

 

 俺には、笑っていてほしい人が増えた。泣いてほしくない人も増えた。守りたい場所も、同じだけ増えた。

 

 ちょっと前まで家族と親友たちさえ幸せならそれでいいと思っていた俺に、大事な人がたくさんできた。

 

 その人たちを守れるのなら、俺はなんだってできる。心の奥からそんな感情が溢れ出してくる。

 

 これを覚悟と言っていいのかはわからないけれど、断言できることが一つだけあった。

 

 俺は、俺の大事な人のために、この世界を守りたいんだ。

 

 その為に、邪魔になるものはすべて排除する。

 

 伝承に登場する九頭龍がなんだというのだ。最後には人間に退治されるのが物語の定番で、世の理《ことわり》というものである。

 

「さて、ちょっくらあの危なっかしい代物を鎮めに行くとするか」

 

 状況は切迫しているが、だからこそみんなに届くよう音吐朗朗(おんとろうろう)たる声で言い放つ。

 

 重々しいシチュエーションでテンションまで重く沈んでしまっては、気分が暗くなってコンディションに影響するというものだ。気持ちだけは明るく前向きでいたい。

 

「まるで近所に買い物に行くような気軽さで言ってくれますね」

 

「徹がこれだから、一緒について行くあたしたちもそれほど気負いしなくてすむんだけどね」

 

「緊張する必要なんかないってことだ。いつも通りに精一杯頑張れば、いつも通りなんとかなるってな。みんな位置についてくれ。まず俺が最高速度で接近して、龍の頭が俺に向いて隙ができたところで拘束だ。そこからは耐久戦になるけど、なんとか粘ってくれ」

 

 作戦の概要を説明すると、一歩分ほどフェイトが近づいてきた。

 

「徹、あんまり無茶したらだめだよ?」

 

 フェイトに続くように、なのはもふわふわと浮かびながら接近する。

 

「徹お兄ちゃんは無理し過ぎるところがあるから心配なの。徹お兄ちゃんが失敗したら、わたしがなんとかするから安心してね」

 

「フェイト、ありがとう。俺だって痛い目には遭いたくないからな、注意する。俺が失敗することより自分が失敗しないように尽くせよ? なのは」

 

 全員に視線を合わせて一言ずつ言葉を交わしてしばし笑い合い、作戦開始に備えて相互間の距離を広げ始める。

 

 みんなと話して様子を見る限り、精神状態は良好、変にプレッシャーを感じている素振(そぶ)りもなければ、作戦の進行に支障が出るレベルで疲労してもいないようだ。俺がジュエルシードを封印するまで、拘束魔法に全力を注ぎ続けなければならない四人の魔力が持つかどうかが気がかりだが、そこは俺が素早く役割を(こな)せばいいだけである。

 

 九頭龍を中心として、その四方を囲むようになのはたちは位置についた。

 

 水龍のウォーターカッターが届かないぎりぎり射程外の場所で水弾を回避しながら、四人は俺へと目を向ける。俺の合図を待っているのだ。

 

 俺は襲い来る砲弾を跳躍して回避し、障壁に着地すると膝を曲げて力を蓄え、爆発させるように膝を伸ばして足場を蹴る。高速移動術、神無流(かんなりゅう)襲歩(しゅうほ)』による急速接近。

 

「作戦、開始!」

 

 遠くにいても、俺の言葉に返答する四人の声ははっきり聞こえた。力強さと頼もしさを伴っているその声に、不安な音などありはしない。

 

 視界の端では周囲の風景が引き伸ばされ、視線の先にある九つのジュエルシードだけが鮮明に見えた。

 

 四人には俺が動いて水龍の注意が逸らされてから動くように、と言っている。なので拘束魔法を発動する準備はしているだろうが、今はまだ鎖の一本も捕縛輪の一つも生み出されてはいない。

 

 だから、予想外の反応を九頭龍が見せたことで、俺の心中にかすかな焦りが(くすぶ)った。

 

「ちっ……イレギュラーには別の対処をするってのか……」

 

 俺は一番近かった一体の水龍の水弾を躱してから、ジュエルシードの懐に飛び込もうとした。元から俺を狙っていた個体の攻撃を回避しておかないと、接近中に攻撃をされる恐れがあるからだ。

 

 俺が近づいたことで、別のメンバーを狙っていた龍が俺に頭を向けて照準を合わせるそのタイムラグの間に、みんなに拘束魔法を使ってもらおうと考えていた。そうすれば魔法を展開する一瞬の隙に攻撃される、という可能性を限りなく低くできると判断したのだ。

 

 だが、九頭龍は俺の想像を遥かに超える反応速度を見せた。

 

 敵が接近してきたから反応した、などという可愛いものではない。俺が足場の障壁を踏み締めたのと同じくらいのタイミングで、近くを飛び回っていたなのはたちやフェイトたちを無視して動いた。九本の頭のうち、最初に撃ってきた個体を除いた残りの水龍八本全部が、ひどく暗い敵意の焔で眼球をぎらつかせながら、俺へと眼光を向けたのだ。

 

 まるでジュエルシードが俺を警戒でもしていたかのように、俺の一挙手一投足を(つぶさ)に監視していたかのように、俺の行動に対してあまりにも早すぎる対応を見せた。

 

 九頭龍の動きを見て慌てて四人が拘束魔法を展開して動きを抑えたが、それは水龍が、弾丸と呼ぶには大きすぎる魔弾を吐き終えてからであった。

 

「徹お兄ちゃん!」

 

「徹っ、逃げて!」

 

「作戦続行、そのまま抑えといてくれ!」

 

 作戦開始寸前に俺へと攻撃してきた個体は一斉射に間に合わなかったようで、口に魔力と海水を溜めていざ放とうというところで桜色の捕縛輪に首を絞められていた。

 

 視界一面に、光の届かない深海のような色をした砲弾が映る。

 

「まるで壁だな……」

 

 ジュエルシードまでの道を阻むが如く、俺の身体を食い破らんと八つの魔弾が迫る。

 

 水龍一体が放つ魔弾は単発、しかも連射はできない。だからこそ、遠距離にいて大人数で取り囲んでいれば、魔弾による攻撃は回避が容易く脅威足り得なかった。

 

 しかし逃げ場を塞ぐように、弾幕を張るかのようにして射出すれば欠点は失われ、直撃すれば一発で墜とすだけのパワーがあるという長所を活かすことができる。

 

 ジュエルシードが俺たちの回避行動を予測して攻撃してきた時に、ある程度知能があるのだろうとは思っていた。だがまさか、危険性を持った人間に対して優先順位をつけて、他を無視してまで俺に攻撃を集中させるとは思わなかった。

 

 機械的に近い相手を攻撃するだけではない。リスクとリターンの計算をして、なのはやフェイトたちよりも不自然な行動をした俺になんらかの危険があると判断して、手を打ってきた。

 

 厄介だが、俺へと攻撃したことによって結果的に拘束魔法を仕掛けられる隙は生まれ、拘束に成功した。攻撃されることだけは予想外だったが、そこを除けば(おおむ)ね作戦通りである。あとはこの場を俺がなんとか躱して凌ぎ切れば、それでなんの問題もない。

 

 今でさえ戦力はぎりぎりなのだ。俺程度の戦力であっても、墜ちてしまえば任務遂行が限りなく難しくなる。ここはなんとしてでも生き残らなければならない。

 

「少しでかいだけの射撃魔法がたかだか八発……回避できない量じゃない。そう……回避できないわけじゃない」

 

 自分に言い聞かせるように呟き、這い寄ってくる恐怖を払う。

 

 視界を埋め尽くすような大きさと数とはいえ、水龍同士の距離の関係から迫ってくる魔弾には順番がある。

 

 先頭の魔弾を躱し、次の魔弾も回避して、それを計八回繰り返せばいいだけだ。俺の移動術ならば、それができる。

 

 襲歩による加速中に無理な挙動を取るというのは、大概に危険な行為だが、フェイトも水龍からの攻撃を回避し続けたのだ。ならば俺にできない道理はない。

 

 斜めに足場を展開して左右に鋭く身体を振り、時に上方へと跳躍し、時に頭上に障壁を構築してそこに手をつくことで急速に下方へ身体を落下させる。

 

「痛い、ことは痛いが……いつも食らってる痛みに比べればこんなもん、こそばゆいくらいだ」

 

 直径が大きく、弾速もあり、その上密集している魔弾群に身体の末端部に軽い傷を負わされたが、五体満足ですべてを回避し切った。

 

 慣性が全身に負担をかけて身体を軋ませるが、動けなくなるほどではない。疲労もあるけれど、疲れているのは全員同じだ。俺だけじゃない。

 

 落ちてしまった高度と速度を取り戻すべく、もう一度『襲歩』を使い接近する。

 

 追撃の恐れはない。九本ある龍の頭は四人が抑えてくれている。

 

 遮る物のない空路を突き進み、九頭龍の核にして頭脳、水の球に覆われたジュエルシードにようやく到達した。

 

 襲歩による速度と魔力付与による身体強化の力を右の拳に乗せ、短く息を吐いて気合いを込めて振り抜く。

 

 俺の打突はジュエルシードを守護する最後の防衛ラインである水の球に浸透し、弾き飛ばした。

 

 剥き出しになったジュエルシード九つに触れてハッキングを行使する。

 

「うっ……ぐぅっ……。お、もい……っ!」

 

 ジュエルシードを封印する上で、なのはたちには教えていない一つの危惧があった。

 

 ハッキングで封印するためには、封印までいかなくとも、放出される魔力を抑えるだけであったとしても、かなりの負担が脳にかかる。

 

 エリーの前身であるジュエルシード、励起状態に陥ったそのジュエルシードを街の中心で抑える時はたった一つであったのに、かなりの力を要した。俺の演算能力の限りを尽くして、やっと抑えることに成功したのだ。

 

 それでも俺はなんとかできると思っていた。楽観的に考えていたわけでも、自己陶酔に浸っていたわけでもない。(れっき)とした根拠のもとで、封印は可能であると俺は結論づけた。

 

 エリーを暗く冷たい檻から助け出した時とは、状況がまるで違うからだ。

 

 何度も使ったおかげで今ではハッキングにも慣れているし、九つのジュエルシードは励起状態よりも深刻度の低い強制発動状態。加えて俺自身の頭の回転も速くなったし、魔力だってまだ余裕がある。充分対処できると思った。

 

 だがそれ以上に、数という力は圧倒的だった。

 

 九つのジュエルシードはばらばらに抵抗するのではなく、俺を排斥するという一つの目的に従って協力している。

 

 どれか一つのジュエルシードにハッキングを仕掛ければ、他の八つが邪魔をする。九つすべてにハッキングを仕掛ければ、封印の処理に時間がかかる。

 

 しかもその身に溜め込んでいる純粋な魔力を常に俺へと放射してくるせいで、処理に集中することもできない。

 

 九頭龍の維持に魔力を回しているのだから、内部プログラムの改竄(かいざん)を防ぐ手はないだろうと(たか)を括っていた。俺の手抜かりだ。

 

「くっそ……少しは、じっとしてろよ……。……っ!」

 

 九つが密集し、一つの大きな宝石となりつつあるジュエルシードを左右から両手で掴んでハッキングを続けていると、ばきん、という何かが砕けるような音が耳に届いた。

 

 音の発生源を見やれば、首をしならせて強引に束縛を解く水龍がいた。

 

 一人当たり九頭龍の首二体を受け持つ計算では、一体が余ることになる。その一体をなのはたちは四人で拘束していたようだが、個人個人が担当している二体に集中するあまり、みんなで拘束していた一体への注意が疎かになったのだろう。

 

 そもそも一体を捕らえ続けることですらかなりの労力を費やすのだ。単純計算して二体と四分の一、それを一人で押さえ込み続けろという無理難題を吹っかけているのだから、とてもではないが責めることはできない。

 

 水龍は鎖や捕縛輪を破壊して束の間の自由を手に入れると、口を大きく開き、もう何度目かもわからない水弾を放った。

 

「耐えれっかな……無理、だろうなぁ……」

 

 俺の処理能力は、足場の障壁を維持する以外ではすべてハッキングに回している。水龍の魔弾を防ぐ密度の障壁を展開することはできない。

 

 防御できないのなら回避するしかないのだが、ジュエルシードの内部へ潜り込んでいる手を止めると一から操作がやり直しになってしまう。

 

 ここまできて最初からハッキングし直す時間も、魔力的余裕もない。水龍の一体が束縛から抜け出したことからも、四人の魔力が残り僅かであることを示している。回避することはできない。

 

 演算のリソースが許す限り魔力を身体強化へと回すが、障壁を張っていても簡単に貫いた水龍の魔弾だ、威力が軽減されるとは到底思えない。

 

 打つ手はなかった。

 

「腕が千切れても、肉が飛び散っても、意識だけは手放すなよ……俺」

 

 目を瞑り、覚悟を決めるしか俺にはできなかった。

 




一部、お前が言うな、と突っ込みたくなるところがありますが、シリアスにつき見逃してください。


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男なら、意地を張って虚勢を張って、前だけ向いて手を伸ばせ

今回は短めです。
久しぶりに八千文字を超えませんでした。


 ふわり、と潮の匂い以外の香りが俺の鼻腔を(くすぐ)り、潮風とは風向きが異なる一陣の風が、俺の頬を(なぶ)った。

 

 いつまでも到来しない痛みと俺のすぐ近くを通った爽風に疑問を感じ、固く閉じていた(まぶた)を開く。

 

「本当にすぐに助ける機会があったね。約束通り、助けにきたよ」

 

 目の前には、金色に光り輝く髪を頭の両側で二房に分けて結っている少女、フェイトの姿があった。フェイトはこちらに背を向けて魔弾を吐いた水龍へ注意を傾けながら、俺へと言った。

 

 強風に長い髪を弄ばせ、表裏で黒と赤のマントをたなびかせているその後ろ姿は、小さな背中からはとても想像できないほどに頼りになるものだった。

 

「フェ、イト……なんで……」

 

 なんでここにいるんだ、と尋ねようとして俺の背後から爆発音がした。

 

 何事かと振り向いてみれば、遥か彼方で巨大な水柱が二つ立っている。

 

 正面に目を戻してフェイトの右手を見やると、バルディッシュは電撃を迸らせる大きな鎌の形をしていた。

 

 俺が(かす)り傷も負わずに無事でいる現状、背後に屹立(きつりつ)する水柱、突如正面に現れたフェイト、バルディッシュの形状。すべて繋ぎ合わせて辿り着いた解答に、そんな馬鹿な、という感想を抱くが、これしか考えられなかった。

 

「まさか、フェイト……お前……」

 

「できるかわからなかったけど、徹の言う通りやってみたらできるものだね。水の砲弾も一刀両断にできたよ」

 

「無茶苦茶だ……」

 

「徹に言われたくないよ?」

 

「いやいや、今回ばかりは言わせてもらうわ」

 

 まったくもって信じ難い行為ではあるが、フェイトは水龍が射出した末恐ろしいまでの破壊力を持った水弾を、事もあろうに手に(たずさ)える大鎌で斬り裂いたようだ。

 

 貫通能力に秀でた水弾を防ぐ手立てなどすぐに思いつかなかったというのは理解できるが、まさか防御ではなく、回避でもなく、水弾自体を破壊するなんて暴挙とも言える方法に打って出るとは思わなかった。ボードゲームで手詰まりになったからテーブルごとひっくり返す、みたいな発想の転換である。俺には考えつかなかった解決法だ。

 

 そしてそれは、鳥肌が立つほど危険な行為でもある。

 

 フェイトのおかげで助かりはした、それは事実だ。だが、魔力刃で叩き斬れなかったらどうするつもりだったのか。

 

 失敗すれば魔弾の破壊力に(さら)されたバルディッシュは破損するだろうし、フェイト自身ただではすまない。間違いなく大怪我を負う。小さく華奢な身体のフェイトでは、命にかかわるかもしれないのだ。

 

「怪我はないみたいだね、よかった」

 

「よかった……? よかった、じゃないだろ! 危ないだろうが! 何かが違えばフェイトが怪我するところだったんだぞ!」

 

「徹言ったよね『俺が怪我しないように頑張ってくれよ』って」

 

「そういうつもりで言ったわけじゃない! 自分の身を犠牲にしてまで頑張れなんてつもりで、俺は言ったんじゃないんだよ!」

 

「……その気持ち」

 

「な、なんだ?」

 

「その気持ちを、助けられた側はいつも味わうんだよ。自分の代わりに苦痛を全部引き受ける徹を見て、その度にみんな、そのもやもやして行き場のない気持ちを味わうんだ。徹もわかってくれた?」

 

「そ、それとこれとは……」

 

「別じゃないよ」

 

「そう……なんだけど……」

 

 フェイトは水龍への警戒を続けながら、かすかに振り向いて俺へと言葉を投げかける。

 

 フェイトの辛辣な言葉は、彼女の剣筋のように()まず(たゆ)まず歪まず曲がらず、一直線に俺の心へと斬りつけた。

 論しようにも、フェイトの言い分が間違っているなどとは、俺自身思っていないので反論するに足る材料が見つからない。ぐうの音も出なかった。

 

「たまには徹も、守られる側の気持ちを知っておくべきだよ」

 

「わ、わかった……。俺の負けだ。もう勘弁してくれ……」

 

 横顔だけだったが、俺の白旗を聞き入れたフェイトは、よろしい、と一言返して柔らかな笑みを見せた。

 

 その微笑みには裏などなく真っさらで、芸術品のように美しく、曇天を引き裂いて陽の光が一条、フェイトに降り注いだと錯覚するほどに輝いていた。

 

 言い知れない気まずさを覚えて、俺は話をすり替える。

 

「それより、フェイトがここにいたらまずいんじゃないのか? 龍二体は拘束はどうなってるんだ?」

 

「大丈夫だよ」

 

 俺の懸念に、フェイトは即座に否定で返す。

 

「拘束魔法はバルディッシュが維持し続けてくれてるから」

 

「バルディッシュに任せっきりなのかよ! 優秀すぎるな、バルディッシュ!」

 

『お褒めのお言葉ありがとうございます。やっと恩の一部を返すことができそう

です』

 

「今回の件でまるまる返済できただろ。お釣りがくるぞ」

 

『いえ、こんなものではとても』

 

「謙虚だな。仕事人の風格が漂ってる」

 

 デバイスの中心に位置する金色の球体が一度二度、照れるように瞬いた。

 

 俺がバルディッシュとばかり話しているせいで置いてけぼりになったフェイトが声のボリュームを微増させて、会話の隙間に割り込んだ。

 

「次は、徹の番だよ。ジュエルシードの封印よろしくね。私は龍の拘束に集中するから」

 

 そう言うや否や、フェイトは金色に光る魔力球を自分の周囲にいくつか漂わせ、拘束が解かれている水龍に斉射した。

 

 数発程度であれば、ジュエルシードの潤沢な魔力を享受している水龍にとってはなんてことはない威力だろうが、弾丸の量が十を超え、二十の大台に乗るとなればさしもの水龍でも怯む。水龍が一瞬怯んだ空隙(くうげき)を、フェイトは見逃さなかった。

 

 拘束魔法を掛け直し、再び動きを止める。フェイトが水龍を捕らえたのを見て、なのはやユーノ、アルフももう一度捕縛し直した。

 

「また危なくなっても私が守るから、徹は安心してていいよ」

 

「言ってくれるじゃねえか。その前にこっちを片づけてやるから、もう助ける機会は訪れないぞ。残念だったな」

 

「どうかな。また近いうちにあると思うよ?」

 

 元の位置に戻るためにフェイトが飛び去るが、その前に俺へと看過できないセリフをきらきらした笑顔とともに吐いてくれやがった。なけなしのプライドをナイフの切っ先でかりかりと引っ掻くようなフェイト発言に、俺は反骨心から強気に返す。

 

 遅れを取り返すため、手元で暴れるジュエルシード群に意識を向けた俺のすぐ隣を、フェイトは通り過ぎる。すれ違う瞬間、俺の耳元でフェイトが一言(ささや)いた。

 

 悪天候による荒波、吹き荒ぶ風音、拘束から逃れようともがく水龍、両手の中で魔力を振り撒くジュエルシードなど、けたたましい音源はいくつもあるのに、フェイトが囁いた一言は、俺と少女以外の世界が切り離されたのではと思うほどに、はっきりと鮮明に、ありありと明確に、俺の耳朶(じだ)を叩いた。

 

 ――がんばってね――

 

 たったそれだけ、たったそれだけのいたずらっぽい響きが残るその応援が、どんな寸言よりも俺の心に()み込み、やる気と活力を生み出す原動力となった。

 

 自分でも単純な性格をしていることはわかっている。だがそれでも、疲労や途方もない作業で(もや)がかかり始めていた頭は冴え渡り、震えて弾かれそうになっていた腕は力が(みなぎ)り、折ってしまいそうになっていた膝は芯を取り戻したかのように足場を踏み締めた。もう一度言う、単純な性格をしていることは自覚している。

 

「負けてられねぇよな」

 

 ジュエルシードに向き直り、息を深く吸ってゆっくり長く吐く。脳にまで酸素を行き渡らせると歯を食い縛って神経を尖らせる。これまでと違うのは、歯を噛み締めながらも唇が笑みを(かたど)っていることだ。

 

 焦燥に煽られていた心にゆとりが生まれ、冷静さを取り戻すことができた。

 

 やる、やってやる。ここまでお膳立てされて、できませんでした、では終われない。そんなもの男じゃない。

 

 瞼を閉じて、全集中力を一点に傾ける。両の手の中で暴れ狂うジュエルシード群へと、演算能力の全てを注ぎ込んだ。

 

 九つのジュエルシードを並列作業で処理していく。一つの個体で処理の一部が成功すれば、他の個体へも反映させる。

 

 侮ってもらっては困る。俺は一度、ジュエルシードのプログラム配列を書き換えることによる手動封印に成功しているのだ。胸元にいるエリーがその証左(しょうさ)である。

 

 この作業を効率よくこなしていけば、いずれ封印まで辿り着く。なのに……ジュエルシードはそう簡単に終わらせてくれはくれそうにない。

 

「これ、さえなければ……すぐに片がつくってのに……」

 

 戦況が悪くなってきていることに気づいているのか、九つのジュエルシードは一際強く、品のない光を放った。

 

 濁ったような青白い魔力が指の隙間から漏れ出る。手のひらを押し退けるように、魔力の圧力が増加した。

 

 水龍を保ち続けるためにも莫大な量の魔力を垂れ流しているだろうに、それでもまだ抵抗するだけの余力がある。

 

 その点について深く考え始めると、恐怖という名のどつぼに(はま)りそうなので無理矢理に頭から叩き落す。

 

 フェイトの応援を受けてやる気を取り戻したといっても、根性論には限度がある。

 

 現実的なところ、事態はそれほど好転していない。

 

 時間をかければ、ジュエルシードから放射される魔力を抑えながらでもハッキングで封印することは可能だ。可能だが、封印するまで俺の魔力が持つかどうかは賭けになるし、なのはやユーノの集中力が切れてしまうかもしれない。それに俺たちが戦域に来る前からフェイトとアルフはジュエルシードと戦闘を繰り広げていたのだ。如何(いか)に才能ある魔導師とその従者とはいえ、戦いが長引けば魔力が底を尽く。

 

「この魔力流さえ……なんとかできれば……」

 

 俺の弱音を聞いていたかのように、ジュエルシードはさらに魔力を吐き出す。

 

 なんだこの無尽蔵なまでの魔力は……羨ましいな畜生。一欠片くらいでいいから俺に分けてくれよ。

 

「んぐっ……ぅおっ、ぉおっ!」

 

 抑えきれなくなった魔力流が指の間から溢れ、指のどこかの骨から、ぴしり、と嫌な音を響かせた。手にも裂傷が刻まれる。

 

 魔力を抑え込むのに意識を取られてしまってはハッキングの手が止まる。かといって、放出される魔力を無視することはできない。

 

 悪循環が螺旋を描く。

 

 なにか、なにか戦局を覆す一手がなければ、ここからは泥沼だ。魔力を絞り尽くされて枯渇すれば、羽虫が如くぷちっと潰される。

 

 別れ際にフェイトが(たまわ)ってくれた『がんばってね、お兄ちゃん! 大好き!』という(捏造が多分に加えられた)声を脳内でリフレインさせて魂を燃やす燃料に変換し、必死に攻略の手段を思案していると、かちり、という金属音が聞こえた。それは耳に馴染みのある、小さな音。

 

 記憶の通り、音の発生源はエリーだった。エリーはネックレスの台座から離れ、ふわふわと浮かび上がると――

 

「エリー……なんで今お前ぐぁっ! 痛い……なにすんの……。俺頑張ってるのに……」

 

 ――なぜか叱りつけるような光を煌めかせて俺の額に、ぺちっ、と突進攻撃を繰り出した。

 

 エリーはご機嫌斜めのご様子である。俺の努力の方向性に不満があるようだ。

 

 エリーが俺に攻撃(といえるかどうか微妙なラインだが、それに準じた行為)をするなんて初めてのことだが、今の俺にはエリーの相手をするだけの余裕はない。雑な対応になってしまうけれど了承してもらおう。

 

「危ないから台座に戻ってろ。危険なんでゅあっ! ……なんなんだ、なにに怒ってんだお前は……」

 

 もう一度俺の額に突撃したエリーは、フェイト相手に見せていた洞洞とした暗い輝きを纏う。

 

 もしかするとこいつは言葉だけではなく、俺の心中までわかるのだろうか。だとしたら粗雑な対応を取ろうとしていたことも勘づかれていた、ということになる。

 

 こういう時は言い訳せずに、速やかに謝るのが吉である。忍相手で俺は学習しているのだ。

 

「ごめんな、悪かった。エリーのことは大事に思っているけど、今は本当に危険なんだ。台座に戻っていてくれ……んぐっ、また……強く」

 

 俺の謝罪でようやく許してくれたのか、エリーは満足したように鮮烈な光をあたりに降らせた。

 

 納得してくれたのなら早いとこ台座にくっついて服の内側にしまわれてほしい。ジュエルシードからの魔力流がさらに増してきたのだ。本気でやらなければ魔力の奔流に呑まれてしまう。

 

 エリーはふよふよと高度を下げ、俺の額から胸元まで降下した。かと思いきや今度は胸元から手元へ移動する。

 

 俺の手元には当然、魔力と魔力を(せめ)ぎ合わせ、俺の魔力網の一部を食い破っている九つのジュエルシードがある。

 

「エリー! 危ない、下がれ!」

 

 元ジュエルシードといっても、エリーだけで九つのジュエルシードの魔力を当てられては破損してしまうかもしれない。エリーの綺麗な身体に傷がついては大変だ。

 

 引っ掴んで服の内側に放り込みたいところだが、ジュエルシードから手を離せば魔力流を抑えられなくなる。

 

 どうするべきかと逡巡(しゅんじゅん)している間に、思いも寄らない方向へと状況は動き出した。

 

「なに、やってるんだエリー……どうなってんだこれ……」

 

 いきなり手のひらに叩きつけられていた圧力が消失し、代わりに身に覚えのある暖かな感覚がジュエルシードを含めて俺の手までを覆う。

 

 圧覚での変化はその程度だが、それ以上に顕著なのは視覚での変化だ。

 

 錯乱でもしているかのように辺り一面にばら撒かれていたジュエルシードの魔力が、エリーの方へと流れている。ぎらぎらとした光で包まれていたジュエルシード群は徐々に勢いを失い、逆にエリーは丁寧に濾過(ろか)された水のように透明感のある輝きで、俺の視界を満たす。

 

 エリーがなにをしているのか詳しいところは知る由もないが、ジュエルシードからの圧力がなくなったということは、俺が受けていた分の魔力流をエリーが肩代わりしてくれている、と考えて大きく間違いはないだろう。

 

 エリーの頑張りを無駄にしないためにも、作り出してくれた時間を有効に活用しなければならない。俺には、エリーの献身に報いなければならない義務があるのだ。

 

「すまん、エリー……少しの間だけ頼んだ!」

 

 『任せてください』とでも言うように、エリーは温もりを俺の手に伝える。

 

 これだけ活躍してくれたのだ、エリーにはまた今度たくさんお礼をしなければならないな。

 

 エリーへのお礼はおいおい考えるとして、今は封印にだけ全力を尽くす。

 

 九体の水龍はなのはやフェイトたちが相手をしてくれて、ジュエルシードの魔力はエリーが受け持ってくれた。憂慮(ゆうりょ)する事象などなにもない。憂惧(ゆうぐ)する事柄など探しても見つかりはしない。

 

 気兼ねなく、ジュエルシードと一対一の直接対決ができるということだ。みんなが整えてくれた舞台、見事に咲かせてみせる。

 

 ハッキングでジュエルシードの奥深く、核の部分にまで這入り込み、情報を書き換えていく。

 

 俺の意識までをも、ジュエルシードのプログラム空間へと潜らせた。エリーに施した時の記憶を思い返しながら内部を見て回り、おかしな所には手を加え、最深部へと到達する。

 

 九つ全てへ同時に作業していくのは恐ろしいまでに神経を摩耗させるが、なんてことはない、後でゆっくり休んだらいいのだ。この場だけ頑張ればいい、今だけ踏ん張ればいい。

 

 頭が熱を持ってくらくらするし、あまりの発熱に瞳から水分が蒸発して視界が霞む。思考回路は赤熱して焼き切れる寸前だ。

 

 それでも、あと一歩。あと数センチ重たい足を進めるだけで、明るい未来と平和な日常が帰ってくるのだ。

 

 男なら、意地を張って虚勢を張って、前だけ向いて手を伸ばせ。

 

「そろそろ……眠れ」

 

 ジュエルシードの中核、車でいうところのエンジン、パソコンでいうところのCPUを強制終了させる。

 

 九つのうちの一つを封印すると、波及させるように他のジュエルシードにも同様の手順で(しず)めていく。

 

「全ジュエルシード……封印、完了」

 

 かすかに漏れ零れていた魔力も完全に止まり、ようやく九つのジュエルシードの青白い光が消えた。

 

 ジュエルシードを取り囲んでいた巨大な水の球は糸が切れた操り人形のように形を失い、水龍も根元から(ほど)けていくように落下する。水龍は大きく口を開き、無念の咆哮か、もしくは断末魔の叫びを俺たちに見せつけ、そして最後には熱されて()け落ちたセルロイドのように形が崩れ、海へと回帰した。

 

「エリー、ありがとう、助かった。体調悪かったりしないか? 大丈夫か?」

 

 俺の心配をよそに、エリーは元気よく無事であることを(しら)せた。

 

 照射される光に密度が増し、気のせいかもしれないがクリアになって美しさに拍車がかかっている。宝石の身体も光沢があり、重厚感が現れて艶も出ている、ような気がしないでもない。

 

 とりあえずエリーの身になんら異常がないようなので安心した。

 

「終わった……やっと終わったぞ。散らばったジュエルシードはこれで全部発見して、封印された。どこか知らない場所でいきなり暴走、なんてことは起きない。穏やかでのどかな日常が帰ってくるんだ……」

 

 これまで、今日この日まで、いつか身近な人を巻き込んでジュエルシードが暴走するのではないか、と気が休まらなかった。そんな不安や心配もこれで無用となる。

安堵から膝が折れそうになるのを、手をついて耐える。

 

 さっさとジュエルシードを回収してアースラに戻ろう。アースラに帰艦してリンディさんに今回の報告をして、お抹茶でも淹れて貰って人心地つきたい。

 

 毎度のことではあるが、やはり今回も疲労困憊である。

 

 周囲を見渡せば、なのはの表情は疲れのせいで暗いものになっているし、ユーノも額に浮かぶ汗を手の甲で拭っていた。水龍を抑えきり、ジュエルシードを封印できたことから頬が緩んでいるが疲弊した様を隠せてはいない。

 

 アルフは両手を腰に当てて、肩を上下させながら顔を伏せていた。俺たちが到着する前からこの戦っていたのだから、輪をかけて草臥(くたび)れているはずだ。これから九つのジュエルシードをどう分配するか相談しなければいけないが、それはもう少し休んでからでいいだろう。

 

 アルフと同様に、最初からこの戦域にいたフェイトも大層疲れていることだろうと目を向ければ、フェイトは天を仰いでいた。押し寄せる疲労感と脱力感、虚脱感に皆が視線を下げる中、フェイトただ一人が、ジュエルシードが封印されてなお、どんよりと暗く重たい雲を引き連れた天空を呆然と見詰めていた。

 

 魔力を使いすぎたという理由だけではない顔色の悪さで、フェイトは唇を震わせながら開いた。

 

 二つの声が、俺の鼓膜を震わせたのは同時だった。

 

「母、さん……っ」

 

「次元跳躍攻撃だ! 徹っ、防御体勢を取れ!」

 

 ぼんやりとした視界の上部で、黒雲を貫いて眩い閃光が迸った。分厚い雲の向こう側で轟いていた遠雷とは、根本的に格が違う重さを伴った雷鳴が、遥か頭上で鳴り響く。

 

 雷の柱に押しつぶされる寸前に見えたのは、雷撃の光に負けないよう輝く青い灯火。耳を(つんざ)く直前に聴こえたのは、俺の名を呼ぶ誰かの声。俺の身体を焼き尽くす間際に感じたのは、母親に抱かれるような柔らかな温もり。

 

 刹那の安らぎを、天空から降り注ぐ雷光が、空気を爆ぜさせる雷轟が、大気を焼き尽くす熱量が引き裂いた。

 

 目に入るすべての光景が真っ白に塗り潰された。視覚はホワイトアウト、聴覚はロスト、触覚は伝達する神経回路が限界を迎えたのかシャットダウン。

 

 暗く冷たい闇の中へと、俺は沈んだ。




ようやくジュエルシードを封印できました。
無印編の中核で、重要なキーワードでもあるジュエルシードの最後の見せ場なのであっさりと終わらせるつもりはありませんでしたが、こんなに長くするつもりもありませんでした。
長くなるのはもはや仕様です。お許しを。


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途端、世界は反転する

更新遅れました。すいません。
寝惚けながら文章打ってたら寝落ちして、起きた時にはなにがどうなったのかデータが吹っ飛んでいたという。
絶望して二日間くらい手がつきませんでした。



 右も左も前も後ろも、天と地さえ捉えられない真っ暗な空間に俺の意識はあった。(まぶた)を閉じているのか開いているのかすらわからず、身体には温覚も冷覚も痛覚も触覚も感じない。真っ暗闇の中で手も足も見えず、ぶつりと神経を断ち切られたかのように身体を動かすこともできなかった。鼓膜を震わせる空気の振動は一切なく、自分の心臓すらちゃんと鼓動しているのかわからない。

 

 莫大な熱量の雷を受けて、俺の命は失われてしまったのだろうか。意識があるといっても、こんなに何も存在しない暗闇に囚われて逃げ出すことも抜け出すこともできないのなら、死んでいるのと同じではないのか。

 

 もしもここが死後の世界なのだとしたら、なんと悲しくて辛くて、苦しくて(むご)い世界だろう。

 

 孤独に凍え、静寂に怯え、暗闇に恐怖する。

 

 時間の概念などすでに失われつつあるが、こんなところに一日二日といたら間違いなく気が触れる。精神に異状をきたすことが容易に想像できた。

 

 寒い、寒い。皮膚の感覚は消失されており、温度などを感じることはできない。だからこの寒さは身体ではなく、心が寒いのだ。

 

 もしかしたら、このまま誰ともずっと会えないのか。なのはやユーノ、フェイトやアルフとも、仲違いみたいになってしまったリニスさんとも和解できないままなのか。最近できた友人たち、長谷部や太刀峰や鷹島さんとももっと遊びたかったし、彩葉ちゃんやアリサちゃんやすずかとももっとお喋りしたかった。恭也にはまだ恩を返していないし、忍には世話になっている借りもある。

 

 なにより、誰よりも深く愛している、この世でたった一人の家族を本当の意味での孤独に、天涯孤独にしてしまうのだろうか。

 

 嫌なのに、そんなことを考えることすら拒みたいのに、この空間から逃げることは許されなかった。手足は微動だにせず、この真っ黒の世界は小揺るぎもしない。

 

 俺の意識の中心から、がらがらと人間として大事ななにかが崩れていくような音がした。このままではいずれ、心は壊れて魂は朽ち果てる。

 

 脆弱な俺の心では、この世界は耐えられない。こんな世界にいなければいけないのなら、こんなに辛く苦しい気持ちを味わい続けなければいけないのなら、いっそのこと壊してしまいたい。俺の意識を、心を、魂を、すべて、消してしまいたい。

 

 暗闇の世界で絶望という檻に囚われそうになった時、このなにもない漆黒の世界に一つの空色の光が宿った。比較するものが何もないせいで遠くにあるのか、それとも近くにあるが小さいだけなのかはわからなかった。

 

 闇に覆い隠されたこの世界に突如現れた小さな光はとても眩しかったが、それでも俺は光を見続けた。この世界で唯一の明かりで、俺にとっては一筋の希望なのだ。手を伸ばすこともできず、歩み寄ることもできない俺は、ただじっと、その輝きを凝視した。

 

 小さな光はとくん、と心臓が律動を刻むように脈打つと、徐々に大きさを増し始めた。鼓動を繰り返すたびに光は膨らみ、人間大の大きさになって(ようや)く成長が止まった。

 

 それは以前、どこかで見たことのあるシルエット。女性らしいラインに、足元まで届くくらいの長い髪。この世界に風などという自然現象は発生しないのに、青く光る柳髪(りゅうはつ)はゆらゆらとなびき、細い線を作り出していた。

 

 そのシルエットは、俺を正面から優しく抱き締める。包み込まれるような柔らかさと温もりに、遠い日の記憶がちらついた。

 

 途端、世界は反転する。

 

 漆黒に塗り潰されていた世界は純白に生まれ変わった。同時に身体が浮かび上がるような感覚。

 

 強烈な眠気に似た睡魔が押し寄せた。意識が途切れそうになるのを必死に繋ぎ止める。今眠ってしまっては目の前の女性が誰なのか、もしくはなんなのかわからないままだ。

 

 彼女の腕の中で、俺は眼球を動かして顔を(うかが)い見る。漆黒の世界では手足どころか視線を動かすことすらままならなかったが、この世界ではかすかにではあるが身動(みじろ)ぎすることができた。

 

 晴れ渡る空より鮮やかなスカイブルーの長髪、長い睫毛(まつげ)に通った鼻立ち、透き通るような空色の虹彩(こうさい)。畏敬の念すら抱いてしまいそうな、この世のものとは思えないほどの美貌と息を飲むような肢体。

 

 その姿形は、妖艶な女性のようでありながら、幼気(いたいけ)な少女のようでもあった。

 

 ――このような場は貴方様には相応しくありません。さあ、戻りましょう……我が主様。不肖、お手伝い致します――

 

 彼女は俺に顔を近づけ、小さく耳打ちした。

 

 耐えるどうのの問題ではない。ブレーカーを落とすように、意識は俺の手から離れた。

 

 同じように意識を失うのでも、暗闇の世界に沈んだ時のように苦痛が伴うものではない。逆に今回は陶酔感が漂い、安心できる暖かさがあった。

 

 落ちる寸前、うつらうつらとした瞳で彼女を見れば彼女の唇が動いていた。なにかを俺に伝えようとするように、穏やかな笑みを湛えながら彼女は言葉をかけていたが、脳の奥の奥、隅の隅まで微睡(まどろ)みに支配された俺の頭は、彼女のセリフを捉えることができなかった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 目を開いて最初に見えたのは曇天を貫いてできた丸い穴。そこから分厚い雲の先にある青空が顔を覗かせていた。

 

「俺、どうなってたんだっけ……?」

 

 (うつ)ろで朧気(おろぼげ)な記憶を手繰(たぐ)っていく。

 

 ジュエルシードを封印して一息ついている時に、フェイトの様子がおかしいのに気づいて、クロノの警告とフェイトの呆然とした独語を耳にした。そう、そして突然雷に打たれ、その衝撃で俺は気を失ったのだ。

 

 気を失った。まさしく、気を失った。もちろんそんな状態で魔法なんて使えるわけがない。レイハやバルディッシュクラスのインテリジェントデバイスともなれば、主の窮地には持ち主からの指示なしで魔力を拝借して魔法を行使できるだろうが、デバイスを持たない俺にはいたって関係のない話である。

 

 それではなぜ気を失っていた俺が海へと墜落せずにいるのだろうか。起き抜けで回転の鈍い頭を捻って考える。

 

 頑張ったところで浮かぶのがやっと、という飛行魔法を無意識的に使っていたのか。……これはありえない。無意識的に使えるほど身体に馴染んだ魔法ではないし、なにより俺の適性では使い物にならないから未だに術式すら教えてもらっていない。

 

 それでは慣れている跳躍移動で使う足場用の障壁に寝転がっているのではないのか。……これも現実的とは言い難い。足場用の障壁は省魔力のために構築される面積と、障壁としての本来の役割である硬度を削っている。俺が気絶するほどの雷を食らえばプレパラート並みに砕け散るし、人が上で寝転がれるほどの大きさもない。

 

 いくつか案が浮かんだが、浮かんだそばから否定されて沈んでいく。

 

 自分で浮遊し続けることができないとなれば、要因は俺の外にあるのだろう。例えば、俺の身体を覆っている空色の魔力とか。

 

「エリー、また助けてくれたのか」

 

 考えるまでもなかった。自分の近くをよく見れば、青空色のふわふわした魔力が俺を抱えるように漂っていた。これが俺の落下を止めてくれたのだろう。

 

 当のエリーは、空色の魔力の布団に寝転がった俺の胸元にいた。

 

 どことなく彩度が増している気がしないでもないのは、雲の隙間から光が入って反射しているからだろうか。

 

「怪我はない、か。いったいどんな理屈と理論でこんな現象を起こしてるんだ、お前は」

 

 俺の上で一休みしているエリーを指の腹で撫でると、眠た気ながらも応えるようにぽわぽわと明滅した。

 

 突如俺を襲った雷は、一瞬のうちに意識を掠め取っていった。だが、その一瞬という僅かな時間であっても、俺の身体を貫いた痛みと熱は覚えている。

 

 全身がばらばらになるのではないかと思うほどの激痛、血が沸騰して爆ぜるくらいの耐え難い熱さ、肉が焦げるような悪臭、耳を(つんざ)く爆音まで、頭でも身体でも鮮明に記憶している。

 

 どれほどの傷を負ったかはわからないが、少なくとも命が危ぶまれる程の重傷であったことは間違いないはずだ。それほどの怪我を跡形もなく治癒して見せるなんて、エリーのポテンシャルは底知れないものがある。

 

「いつも助けてくれてありがとな」

 

 だからといって、それらでエリーへの信頼が揺らぐわけはない。

 

 俺を助けることによってこいつになにかメリットがあるのか、それともただ単に、善意や好意で俺を助けてくれてるのかは知る由もないが、なんであれ俺の窮地を救ってくれていることに違いはないのだ。

 

 俺はエリーを信用して、エリーはそれに全力を持って応えて、俺の予想以上の結果でもって返してくれている。ならばエリーに対して疑う余地などありはしない。

 

 というより、俺が不甲斐なさすぎてそろそろ愛想尽かされるんじゃないか、という心配をしてしまう今日この頃だ。心苦しい限りではあるが、最近は助けてもらってばかりである。

 

 いつか、もう知りません、などと言ってそっぽ向かれたらどうしよう。三日三晩枕を濡らす自信があるぞ。

 

「いや、今はこの場をどうするか、だ」

 

 ネガティブな考えを溜息と一緒に吐き出して、もう一度頭上を見上げる。

 

 遥か遠くには穴の空いた黒い雲。近くには――といっても目測十メートルほどはあるが――俺の意識が途切れる前と変わらずに、九つのジュエルシードが固まって浮かんでいた。

 

 雷に打たれる前は俺の正面にあったはずなので、ジュエルシードと離れた分の距離だけ俺が高度を下げたということになる。

 

 回収するためには疲れ切った身体に鞭を打って真上に跳躍しなければならない。跳躍移動は平面移動には強いが、上下移動には弱い面があるのだ。疲労感から少し(わずら)わしく感じてしまう。

 

 とはいえ、エリーがいなければ雷撃を受けた俺は今頃海の底でお魚さんの餌になって(つい)ばまれていたのだから、エリーには感謝こそすれ、責めることなどできようはずはなかった。十メートル程度で済んだのは、寧ろ幸運と思わなければいけない。

 

 そもそも雷による攻撃を仕掛けられなければこんな面倒もなかったのだけれど、などとつらつら弱音を吐きながら、エリーが敷いてくれた魔力の絨毯の上から自分が展開した足場へと移動する。

 

 足場を踏み締めた時に膝からかくんと力が抜けて危うく倒れそうになった。怪我自体はエリーが治してくれたが、雷撃の余韻は確実に俺の節々に残っていた。

 

「攻撃……ね。誰がやってくれやがったのかね……」

 

 口ではそう言うものの、俺には誰から攻撃されたのかは凡そのあたりがついていた。

 

 時空管理局と共闘状態にあるのだから、管理局側からの攻撃ではない。であるのなら、フェイトたちの勢力のうちの誰かとなる。

 

 攻撃される前、アルフは顔を伏せて、息を整えるのに必死で尻尾まで力なくへこたれていたし、フェイトはバルディッシュを握る右腕を脱力させて呆然と上空を眺めていた。二人とも準備動作すらしていなかったのだから、魔法を使える状況になかったのは明らかだ。

 

 ならばリニスさんという線が濃厚になるが、クロノ曰くの次元跳躍砲撃なる攻撃ができたのなら、倉庫で戦って追い詰めていた時に使ってるはずだ。使わせるだけの余裕を与えなかったのも一因として挙げられるが、切り札ともいえる大技を使う素振りさえ見せなかった合理的理由は考えつかない。

 

 ここまでくれば、証拠はなく消去法でしかないが、行使者は絞られた。フェイトたちの勢力の最後の一人、フェイトたちの本部に残っているというその人が、俺へと攻撃してきたのだろう。

 

 フェイトやアルフとは違う考え方を持つ、どちらかといえばリニスさんに近い考え方の人のようだ。

 

 目的の為には手段を選ばないリアリスト。敵対する人間の命になど気にかけない冷酷さ、言い換えれば潔さが見て取れる。

 

 それでも、俺には一つだけ腑に落ちないことがあった。

 

 あの雷撃を放ったのが誰かはわかった。俺を撃ち落とした理由も理解できる。魔法技術の巧みさも、ジュエルシードを集め切るという覚悟も表出していた。

 

 だがたった一つだけ、気に食わず、許せないことがあるのだ。

 

「仲間が近くにいるのに、それでもあんな大規模な魔法を使うのはどういう了見だ……」

 

 俺はジュエルシードのすぐ近くにいた。俺にジュエルシードを回収させまいとして、魔法を用いて排除しようとするのはもっともな行動だ。目的に沿っていて、筋も通っている。

 

 しかし、俺からそう離れていない位置に、仲間であるはずのフェイトとアルフもいたのだ。

 

 自分の魔法技術に自信があって、その裏返しであんな無茶をしたのだとしても、とてもではないが正気の沙汰とは思えない。今回は狙い通りに、見事なまでに俺だけを射抜いたが、なにか歯車が食い違っていれば違う結果になっていたかもしれないのだ。

 

 そして、仮に最悪の結果になってもいい、というような気配が感じられてしまって、さらに虫唾が走る。まるで『フェイトとアルフはどうなってもいい。最悪巻き添えを食ってもいい。でもジュエルシードだけは絶対に渡さない』というような、敵に対してだけではなく味方に対してにも慈悲のなさが(うかが)えてしまった。

 

 もしかしたら俺が悪し様に捉えているだけなのかもしれない。攻撃されたことによる恨みで目が曇って偏見が入っている可能性もある。

 

 魔法を行使した人は仲間の為に、自分たちの為に実行したのかもしれないが、少なくとも俺にはそう感じられたのだ。

 

 取り敢えず、顔も声も性格すら知らぬフェイト側の最後の一人に考えを巡らせても、今はどうしようもない。仲間を死地に送り込んで、挙げ句の果てに捨て駒扱いしているかもしれないその人間には腹も立つし、一言言ってやりたいところだが、今は(こら)えて横に置いておく。

 

 俺の推察通りであれば、もうすぐあの人の姿が見えるはずなのだ。

 

「見えた……けど、速いな……」

 

 首を回して周囲を見渡せば、猛スピードで迫る人影があった。あまりの速度で(かす)んで見えるが、なんとか視認することはできた。

 

 薄茶色をした頭からぴょこんと生えた猫耳に、風に煽られてふらふらと揺れる猫尻尾。驚くほどの視線吸引力を持った胸元に、肌は一切露出されていないにも関わらず妙な(なまめ)かしさを醸し出しているタイツ越しの足。フェイトやアルフと比べれば肌色の面積が明らかに少ないのに、肌が見えないからこその色気が、そこには確実に存在した。

 

 いや、存在した、ではない。詳しく捉えすぎだろ俺の目。リニスさんの服装に関しての考察まで終わらせちゃったよ。仕事が早すぎる。リニスさんの飛行魔法の速度はもはや、茶色をした一筋の流星のような速度に達しているというのに。

 

 目が良いのはもちろん悪いことではないのだが、優秀さの方向性がずれている。あまり心から喜べない。

 

 自分の犯罪者染みた視力に悲嘆にくれるのはまた今度にしておこう。

 

 リニスさんは一直線にジュエルシードへと駆けている。すぐに動かなければ間に合わなくなる。

 

 リニスさんが来るだろうと予測していたおかげで、時間にゆとりはないにしても回収を妨害することができそうだ。自分で回収するだけの余裕はないが、それは誰か違う面子に任せよう。

 

 雷撃を放った人は、フェイトやアルフに被害が出ても構わないというような攻撃の仕方をしてきた。今回は運良く二人とも健在だが、巡りが悪ければ二人とも行動不能になっていてもおかしくはなかった。俺を()としたとしても、同様にフェイト、アルフの両名が墜ちていてはジュエルシードは回収できない。最悪の事態を想定して、ジュエルシードの回収にはフェイト、アルフに頼らずリニスさんを起用するだろう、と推量するのはさほど難しくなかった。

 

「まだ間にあ……っ!」

 

 魔力付与で身体強化を施し、ジュエルシードが浮遊している十メートル上方へ跳躍しようと膝を曲げたが、足に力が入らず姿勢が崩れた。筋肉が痙攣(けいれん)し、脳から発せられる運動命令を果たすことができない。

 

 重心が背後へ逸れたことで、足元の障壁を踏み外した。

 

 地球の引力に引っ張られて海に落ちるかと覚悟したが、背中を押されるような感触。身体が元の位置まで戻る。

 

 礼を言おうと後ろを振り向くが誰もいない。だが、ちらりとだけ細やかな空色の魔力粒子が視界に入った。

 

 どうやらまたエリーが手助けしてくれたようだ。

 

 まさか(よわい)十六で介護が必要になるとは思わなかった。

 

「くそっ……このぽんこつの足! 大事なところでっ……」

 

 エリーに身体を足場まで戻してもらって膝をつく。

 

 足の筋肉はぴくぴくと収縮し、とてもじゃないが使い物にならない。雷撃がこんなに重要な場面で影響を及ぼした。

 

 リニスさんの到来は、果然予期していた。だが、リニスさんの飛行速度は俺の予想を大幅に上回っている。

 

 近接格闘に射撃、砲撃、拘束、防御、結界と魔法戦闘までなんでもござれ。それらに加えて当たり前のように飛行技能まで有しているなんて、とても羨ましい。しかも美人でスタイルもよく、料理もできる。性癖はともかく、性格も基本的に穏やかで優しい。こんなに完璧な人がいるものなのか、性癖はともかく。

 

 足が言うことを聞かず、リニスさんの邪魔に入るタイミングを失した。今から垂直ジャンプしても手遅れだし、なにより足はすぐに回復するものではない。

 

 ジュエルシードの封印はフェイトやアルフの尽力があったとはいえ、なのはとユーノの活躍も大きかった。皆で力を合わせて封印したジュエルシードが根こそぎ奪い去られるところを見ていることしかできないなんて、自身の無力を痛感する。

 

「青い……線?」

 

 歯噛みして見上げていた俺の視界に、水色の輝線が入り込んだ。それらは三本四本と増え、大気中の水分を焼きながらリニスさんへと殺到する。

 

 あれは前方から撃たれたら目で追うことすら困難なほどの弾速を誇る、クロノの射撃魔法、『スティンガーレイ』。

 

 そういえばクロノが俺に次元跳躍攻撃について警鐘を打ち鳴らした時は念話は使われていなかった。クロノはアースラからこちらへと移動していたようだ。

 

 来るのならもうちょっと早めに来てよ、と思わないでもないが、俺たちには俺たちの都合があるように、クロノたちにはクロノたちの事情がある。戦力の温存を建前として掲げている以上、簡単に出撃するわけにはいかなかったのだろう。

 

 どちらかといえばこっちの方が勝手をやらせてもらっているのだ。無理を言えた義理はなかった。

 

 驚異的な弾速の射撃魔法を、しかしリニスさんは障壁を張ることで防いだ。

 

 光った、と思ったらすでに懐に潜り込んでいるようなクロノのスティンガーレイを並外れた反射神経でもって防御する。まさしく野生動物染みた反応速度だ。

 

 障壁に着弾した水色の弾丸は、爆煙と衝撃をあたりにばら撒いた。

 

 射撃魔法の威力で進行速度を殺されながらも、リニスさんはあくまで障壁を展開したままジュエルシードまで突き進む。

 

 リニスさんが全速力のままジュエルシードに接近していたら、さすがのクロノでも間に合わなかった。しかし射撃魔法による牽制で驀進(ばくしん)を妨害したことで、間一髪、リニスさんの針路にクロノは身体を滑り込ませることができた。

 

 空へ横一閃に爆煙の尾を刻みながら、リニスさんはジュエルシードまでの道を阻むクロノへ肉薄し、接触した。

 

 十メートル以上離れた俺の場所にまで、空気をびりびりと震えさせる衝撃波が届く。煙が立ち込めて二人を包んでいるせいで、俺の位置からでは二人の攻防を見ることはできなかった。

 

 一秒に満たない静寂ののち、二人を覆った煙の一方向、クロノの背後にあたる箇所から人影が現れた。

 

 薄茶色の髪、リニスさんである。激しい打ち合いがあったのか、それとも障壁で防ぎきれなかった射撃魔法の余波が掠めたのか、リニスさんの服は所々破けて肌が(あら)わになってしまっていた。

 

 強い海風が爆煙のカーテンを払い退()ける。クロノの姿が見えた。

 

 リニスさんと対照的に、クロノには目立った傷は見当たらない。

 

 この勝負を先程の一合の結果だけを見て語れば、言うまでもなくクロノに軍配が上がるだろう。

 

「くそ……やっぱり一枚上手か……」

 

 しかし、リニスさんの目的はそこにはなかった。リニスさんの目的は常に一貫して定められていた。

 

 クロノの背後へと駆け抜けたリニスさんは露出度が増えた自分の身体を隠そうともせず、振り向きざまに自らの手を見せつけるように交差させる。差し込んだ太陽の光が、リニスさんの手元の宝石に青白く反射した。

 

 右手に四つ、左手にも四つ。両手合計で八つのジュエルシードが、リニスさんの白魚のような指の間にあった。

 

「クロノで足止めすることができないんなら、俺がやってもどうせ無理だったか……」

 

 諦観にも似たセリフが俺の口からこぼれた。

 

 リニスさんは負傷することも(いと)わず、魔力弾に突き進んでジュエルシードを奪取した。その身を犠牲にしてまで、なにがなんでも確保しようとしたのだ。そんな彼女の手に一度渡ってしまったのだから、奪い返すのは至難だろう。

 

 クロノは振り返って自分の後ろにあったジュエルシードの数が減っていることを認めると、悔しげに顔を歪ませた。

 

 ジュエルシードを手にして離れていくリニスさんの背中を追ってクロノが飛行魔法を使用するが、すぐに動きを止める。空間に縫いつけるように、クロノの身体の各所に拘束魔法がかけられてあった。

 

 打ち合った隙に、リニスさんが仕掛けておいたのだろう。さすがリニスさん、真面目モードであれば抜け目なく、如才ない。

 

「歩くことはできても、全力で走ることはできないか……。跳躍移動は(もっ)ての外。俺から機動力を取ったらなにが残るってんだよ……」

 

 このまま持ち逃げされるのは心底(しゃく)だが、身体状態をチェックする限りまともに動けそうにない。

 

 足は依然として震え、わずかな時間では回復の兆しすら見えない。腕も重たく、小刻みに揺れて持ち上げることさえ苦痛だ。ジュエルシードを封じる際にハッキングで脳を酷使し続けたせいもあり、頭もまだぼんやりする。

 

 戦闘不能。この一言に尽きた。

 

 リニスさんはクロノから離れ、フェイトとアルフの元へと飛翔する。

 

 二人と合流すればすぐに撤退するだろう。もう取り戻すことはできない。

 

 俺は歯噛みしてその光景を眺めるが、近づいてきたリニスにフェイトが詰め寄った。フェイトらしからぬ剣幕に、リニスさんは困惑の色を浮かべてたじろいだ。

 

「なにやってんだか、フェイトは」

 

 どうせフェイトのことだから、こんなやり方はフェアじゃないなどと異議を申し立てているのだろう。自分たちだけで封印したんじゃないんだから、公平に分けるべきだなどと異論を唱えているのだろう。

 

 愚直なまでに真っ直ぐで、愚かなほどに純粋な金色の少女に、俺は思わず笑ってしまった。

 

 目当てのものを得ることはできたのだからさっさと撤退すればいいようなものなのに、フェイトはそれを良しとしない。その純真さと健気さが、敵である俺たちの気持ちすら動かすだけの魅力となるのだ。

 

 そんなフェイトを――心優しい少女を、リニスさんは突き飛ばした。

 

 飛行魔法で浮かんでいたフェイトは胸を突かれた衝撃と、信頼していたリニスさんに裏切られたような行為をされたことで、茫然自失に後方へよろけた。

 

 追い討ちをかけるように、フェイトの頭上が輝いた。一条の雷がフェイトの細い身体を貫く。

 

 音も光量も大気を焼く熱量まで俺の時とは違って抑えられているが、それでもフェイトの意識を刈り取るに充分足りたようだ。

 

 気を失ったフェイトの身体をリニスさんが抱き留めた。横抱きにかかえて、リニスさんは俺たちへと背を向ける。

 

「いや、待てよ……待て。なにしてんだあんたは……」

 

 かっ、と頭に血が上る。視界が黒ずんだ赤に染まり、思考が赤熱し出した。

 

 大事な目的があるのだろう。怪我する危険がありながら、巨大な組織(時空管理局)に楯突いて捕まるリスクを負いながら、それでもジュエルシードを集めるのだから、彼女には相応の理由があるのだろう。

 

 しかしそれは仲間を、家族とも言える存在を傷つけてまで達成しなければいけないことなのか。

 

 フェイトとアルフにジュエルシードを集めさせ、指示に反したら力づくで強制させる。個人の意見や信念を差し挟む必要はない、ただ命令に従えと。

 

 そんなの、道具扱いしてるのと一緒じゃないか。

 

「リニスっ……リニスさん! あなたはそれでいいのか! そのやり方に何の疑問も感じないのか!」

 

 俺は遠く離れた場所にいるリニスさんへ叫んだ。

 

 十メートル以上低い位置に俺はいて、さらにフェイトとアルフへ合流するために移動したのだから、リニスさんとはかなりの距離を挟んでいる。にもかかわらず、俺の目にはリニスさんの姿を明確に捉えられた。

 

《徹、私と交わした約束を憶えていますか?》

 

 俺へと振り向きながら、リニスさんは口ではなく念話で俺の質問に質問で返す。

 

 俺を撃ち貫いた最初の雷撃により穿(うが)たれた分厚い雲から、陽光が差し込まれた。エンブラント光線、天使の階段、ヤコブの梯子、薄明光線、エンジェルラダーなどと数多くの名を持つ現象が、スポットライトのように彼女を照らす。

 

 光芒の下の彼女からは冷酷無比な仮面が剥ぎ取られ、今にも泣き出してしまいそうな少女の姿にも見えた。

 

 見ているこちらの胸が張り裂けそうになるその表情に、燃え(たぎ)っていた意気は(くじ)かれ、気勢は削がれた。

 

 声のトーンを落ち着けて返答する。彼女に(なら)って俺も念話を使った。

 

《……いつの話だ? 今憶えていなくても記憶の底から探り出すことはできる》

 

《徹が初めて私たちの家に来た日の翌日です。アルフと戦って私が治療して、昼過ぎ頃に徹が起きた、あの日です。二週間ほど前でしょうか》

 

《その日なら十三日前だ。それがなんだっていうんだ》

 

《思い出してくれましたか? フェイトとアルフ、二人と仲良くしてくださいという約束……いえ、お願いと言ったほうがいいですね。守って(・・・)くださいね、徹》

 

 リニスさんは泣きそうな顔のまま、無理矢理に微笑みを(かたど)って俺に向ける。

 

 リニスさんが言っている話は思い出すことができた。

 

 しかし、その内容は俺の印象と食い違っている。話の流れは雑談の中に添えるような、ワンフレーズのようなものだったのだ。リニスさんの言い方にもそこまで重たい響きはなかった。

 

 この場でそんな些細な口約束、まさしくリニスさんが言ったようにお願いにほど近い意味合いの会話を持ち出す理由とはなんだ。仲間を傷つけても、ジュエルシードを集められればそれで良しとするような理由とはなんだ。リニスさんがこれほどまでに悲しい顔をする理由とは、なんなのだ。

 

《リニスさん……あなたは何の為にそこまでやるんだ……》

 

 リニスさんは微笑を(たた)えたまま目を瞑り、顔を伏せた。

 

 一陣の風が空を抜ける。横っ面を殴りつけるような強風に、俺は反射的に瞼を閉じた。

 

 風が吹き止み、再び目を開いた時には、リニスさんから柔和な笑みを消し去られ、瞳の中には決意の炎を(とも)していた。

 

 ――家族の為です――

 

 リニスさんの言葉が、果たして空気を振動させて放たれたものなのか、それとも念話で送られてきたのかは俺には判別できなかった。それでも、俺に届いたことだけは間違いない事実だ。

 

 一言残して、たった一言俺の心に残して、リニスさんは光に包まれた。リニスさんだけではなく、側にいたアルフも、もちろんリニスさんに抱きかかえられていたフェイトも光に覆われ、輝きが収まった時にはもう、彼女たちの姿はなかった。

 

「くっ、遅かったか……」

 

 数瞬前までリニスさんがいた空間に水色の鎖が伸びる。

 

 クロノが拘束を解いて、仕返すように捕縛せんとしていたのに気づいていたから、リニスさんは撤退を急いでいたのか。

 

 クロノの悔しそうな声がちらりと聞こえた。

 

 彼女がいなくなったことで、照らす意味はもうないと言わんばかりに天から注ぐスポットライトのような光芒は細まっていき、最後に一雫(ひとしずく)きらりと反射させて、やがて雲に空いていた穴は埋まり、陽光は消えた。

 

 ジュエルシードは(しず)められ、暴れていた水龍は海に(かえ)った。あれほど荒々しかった波は、今では穏やかなものになっている。

 

 途端に静寂の(とばり)が下りた。

 

 雫が水面を叩くような音が、(たたず)むばかりの俺に届いた。




ようやく一区切りです。長かったです。
一応考えてる分には、次の章が最終章になります。これからもよろしくお願いします。


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魔法少女リリカルなのは 無印編 最終章
後回しにしていられる段階は、もう終わった


「……ジュエルシードの融合暴走は回避できました。回収できた数こそ一つだけですが、次元断層も次元震も起きなかったのです。今回はそれで良しとしましょう。みんな疲れたでしょう? あれだけの魔力を使った後では、あの子たちもすぐには動けないはずです。今はゆっくり休んでください」

 

 海の上でフェイトたちを取り逃がした後、残った一つのジュエルシードを回収して俺たちはアースラへと帰投した。

 

 アースラに戻ってからは、まず医務室に立ち寄り一通りの検査を受けた。怪我の治療や、魔力の過剰使用によるリンカーコアの疲弊、精神的異常などの診断が主な内容となる。

 

 雷を受けたからだろうか、俺は特に念入りに診察された。

 

 異常がないことを確認できたら、その足で直接リンディさんの元へと向かう。現場で発生したことに関しての報告をしなければならなかったからだ。

 

 報告自体はスムーズに行われたので時間はさほどかからなかった。リンディさんもアースラのブリッジでモニター越しに見ていたのだから、大体の流れは把握していたのだ。

 

 俺たちが報告したのはモニターでは映せなかった細部についてや、現場でしか感じ取れない空気のような感覚的なところくらいなもの。それに報告の大部分は手慣れているクロノに丸投げしたので、俺たちは九頭龍に関係したこと程度しか喋っていなかった。

 

 報告を聞き取り終わったリンディさんは、抜き身の刀を思わせる鋭い瞳からいつもの穏やかで優しげな目へと雰囲気を一変させて、俺たちに(ねぎら)いの言葉をかけてくれた。

 

「徹お兄ちゃん……身体、大丈夫? ジュエルシードから水の大砲受けてたし、雷も……」

 

「ああ、大丈夫だ。ちょっと痺れが残ってるだけ。こんなもん寝れば治る」

 

「九つものジュエルシードを封印したんですから、魔力も使いすぎたのでは……」

 

「医務室で調べただろ? (から)(けつ)まで使ったわけじゃないからいつもより全然ましだ」

 

『……心配する身にもなってください。最後の雷は……本当に死んだかと思いました。あなたの命は、もうあなただけのものではないのです。もっと自分を大事にしてください』

 

「いや、心配してくれるのは嬉しいけど……雷撃については俺にはどうしようもなかったって……」

 

『わかりましたか……?』

 

「わ、わかった……努力する」

 

『……まあ、今はそれでいいでしょう。その言葉、忘れないようにしてください』

 

 リンディさんとの話が終わった後、話し合いの場となっていた応接室で一休みしていた。一時間ほど前は江戸時代のお茶屋さんみたいな様相だったのに、いつの間にか畳敷きになっており、飲み物も揃えられている。なんという(くつろ)ぎ空間。

 

 今日の放課後から直接アースラに乗り込んだので、ジュエルシードの封印に時間を取られて報告を済ませた今、太陽はもう沈んでいる可能性もあるが、疲れ切った身体では家に帰るのもしんどいので休憩してから帰ることとなった。

 

 なのはもユーノも俺の隣につき、両側から質問攻めというか、心配攻めのような状態である。

 

 特に俺の身を案じるレイハからの言葉は、とても重く響いた。一切、悪口の一端さえ見ることができず、逆にそれでどれほど気を揉ませたかが窺い知れた。

 

 そういえば、フェイトからも忠告されていた。守られる側の気持ちも知れ、と。

 

 改めないといけないとは思うが、これは生まれ持っての性格だ。今更変えるのも難しい。変えられないのなら、ばれないように工夫しなければいけないな。

 

「ほら、もう休憩はいいだろ? そろそろ帰らないとまた恭也に怒られるぞ、俺が」

 

「これ以上ゆっくりしてると遅くなっちゃうもんね。早く帰ろ?」

 

「……俺はちょっと、調べたいことがある。先に帰っててくれ」

 

「まだなにかやるんですか? ……一人で」

 

「気になることがあるだけだ。調べ物が終わればすぐ帰るって」

 

『あまり無理をしないようにしてください。今日は充分働いたのです。ゆっくりしたほうがいいでしょう』

 

「わかってるって、そんなに長い時間やるつもりはねえよ。俺だって疲れてるんだ、そんなに体力残ってないっての」

 

 後ろ髪を引かれるように何度も振り返るなのはとユーノを、俺は手を振って見送る。レイハがぴかぴかと不安げに瞬いていたのが心苦しい。

 

「あれほど大規模な砲撃を受けたんだ。傷がないことは不可解だが、身体に影響は出てるんじゃないのか?」

 

 なのはを家まで送ってくれようとしているのだろう。なのはとユーノが席を立ったと同時に、クロノが腰を上げた。

 

 クロノは二人の後を追う前に、俺の隣に立って声をかけてくる。

 

 自分の体調不良を隠して、これから立てるかもしれない作戦に支障が出ては事だ。クロノには正確に伝えておくべきだろう。

 

「魔力に関しては問題はない。ただ激しく動こうとしたら筋肉が()りそうになる。これはいつ頃治るかわからないな」

 

「そうか、今はゆっくり休んでくれ。向こうだってジュエルシードを封印するためにかなり魔力を使っていたし、次元跳躍攻撃まで使ってきた。すぐに戦える状態にはならないはずだ」

 

「そうだな、調べ物が終わったらそうさせてもらう。じゃあ、なのはを安全に家まで送り届ける役目は任せたぞ」

 

「僕の職務にこんな仕事は含まれていないはずなんだが……」

 

 クロノはぶつくさ言いながらも、なのはたちを追って早足で部屋を出た。文句を言いながらも、頼まれれば引き受けてしまうクロノは、やっぱりいい子である。

 

「さて、そろそろ俺も行くか」

 

 本音を言えば今すぐ家に帰って泥のように眠りたいところだが、俺にはやらなければいけないことがある。

 

 彼女たち。フェイトや、アルフや、リニスさんがジュエルシードを集めている理由がわかるかもしれないのだ。

 

 彼女たちがああまでしてジュエルシードを、エネルギー結晶体のロストロギアを収集する理由を、俺は知らなければいけない。

 

 ジュエルシードは全て封印処理をした。封印をした以上、どこかで急に暴発、なんてことにはならないだろう。その点では安心できる。

 

 だがそれは、この地球は海鳴市に漂着して散らばったジュエルシードが双方の手に渡りきった、ということを意味している。この先ジュエルシードを獲得しようと思ったら戦う以外に道はないのだ。

 

 これからはジュエルシードの発見収集競争ではなく、力による強奪となる。状況はシフトした。必ず、なにがあろうと、否が応でも、戦闘は避けられない。

 

 だからここで確認しておかなければいけないのだ。自分たちが戦う理由、彼女たちが戦う理由。今まで目を背けていたそれらに、面と向かって顔を突き合わせなければならない。後回しにしていられる段階は、もう終わったのだ。

 

「徹くん、ちょっといいかしら?」

 

 応接室に来る前に、クロノからデータを管理している部屋は教えてもらっている。早速行こうかと思い、身体を軋ませながら立ち上がろうとしたら、リンディさんに声をかけられた。

 

 彼女は俺を呼び止めるといそいそと座布団を引きずって自分の隣に置き、ぽんぽんと座布団を叩いた。

 

 応接室に来たのはリンディさんにジュエルシードについての報告をするためである。よって、俺の位置はリンディさんの正面にあった。真ん前から話せばいいものを、リンディさんはそうしたくないようだ。話はあるがまずは隣に座れ、とのことらしい。

 

 ジュエルシードの回収に行く前と全く同じ構図で泣きたくなる。悲しさからか、それとも喜びからかは俺にも判断つかない。

 

 彼女の指示に諾諾(だくだく)と従い、立ち上がりかけた体勢のままの中腰でリンディさんが用意してくれた座布団に腰を下ろす。

 

「よく頑張ったわね。ぎりぎりの戦力で怪我人を出さずに、最大の戦果を引き出したわ。えらいえらい」

 

 俺が隣につくと、リンディさんは光のエフェクトでも発生しているのではと思うほどにきらきらと頬を緩ませ、俺の頭を撫でてきた。

 

 本当に嬉しそうにそんなことをしてくるものだから、払い退けるのはすごく気が咎めるのだが、俺としてはとても面映ゆいのでやめてもらう。

 

「ちょ……リンディさん。高校生にもなってこれは恥ずかしいって」

 

「えぇ……いいじゃない、これくらい。男の子はすぐに母親から距離を取ろうとするのよね」

 

「俺はリンディさんの息子じゃないけどな。男は思春期になると母親と一緒にいるのが気恥ずかしくなってくるもんなんだ。クロノは真っ只中だろうな」

 

「クロノは特にそういうところが強くあるのよ。士官学校に行く前もそうだったけど、行ってからはさらに甘えてくれなくなったの。これも一種の反抗期なのかしら。母親としては寂しいわ」

 

「仕事ではリンディさんはクロノの上司だからな。公私混同をしないように気をつけてるんじゃないか? 仕事の時間が長いし、子どもに戻る機会がまずないんだろ」

 

「たまには家族水入らずの時間を作るべきね。何日かタイミングを合わせて休みを取って」

 

「そうするのもいいだろうな。ただ今回の件が終わってからにしてくれよ? 二人に抜けられたら誰が代理を担うんだ。指揮系統がしっちゃかめっちゃかになるぞ」

 

「そこは徹君が……」

 

「洒落にならない! できるわけないだろ! 考えただけでもぞっとするわ!」

 

「大丈夫よ。その前にしっかりレクチャーしてあげるわ」

 

「本気でやろうとするな! 荷が勝ちすぎてんだよ!」

 

 リンディさんの肩を押しのけてもするりと力を流され、腕を払ってももう片方の腕が伸びてくる。結局リンディさんにされるがままだった。

 

 本当の息子であるクロノは、まだ若い――というか幼い――のに独り立ちしすぎていて、リンディさんの余りある母性本能の行き場がなかったのだろう。クロノのように完璧ではなく、弱みの多い俺は甘やかすにはうってつけの相手ということだ。

 

 現にリンディさんの瞳がきらきらを通り越してぎらぎらしている。こういった類いは反発しても無駄だ。潔く諦めてされるがままになっていた方が無難である。

 

「それで、呼び止めた理由はなんだ?」

 

 このままではいつまでたっても解放されない。それは(すなわ)ち、調べ物をするのも後ろにずれ込むということで、俺が帰る時間もそれだけ遅れるということだ。

 

 撫でくりまわしながらでもいいので、用事があるのなら速やかに済ませてもらおう。

 

「そうそう、忘れていたわ」

 

「忘れんなよ……」

 

「これについて、知ってることがあれば教えてほしいなぁ、って」

 

 そう言いながらリンディさんが取り出したのは青白く輝く宝石、ジュエルシード。

 

 なぜ今さらジュエルシードについて訊くのだろうと疑問に思っていると、表情にまで表れてしまっていたのか、リンディさんは続けて説明する。

 

「このジュエルシードは今回封印したものなんだけどね。クロノから手渡された時、なにか変な感じが、他のジュエルシードとはどこか違和感があったから調べたのよ」

 

 リンディさんはジュエルシードを頭上に掲げ、天井の明かりに照らした。

 

 たしかにリンディさんの言う通り、今までのものとはどことなく異なっている感覚を覚える。出来の良い間違い探しの問題を見ているような気分だ。

 

 脳内を検索して、これまで俺が見てきたジュエルシードとリンディさんが持っているジュエルシードを照合させる。

 

 形は同じ、大きさも変わりはしないだろう。でも何かが違うのだ。

 

 しばし考えて、ようやく行き着いた。ジュエルシードが放つ圧力。厳密に言えば、封印してなお、微かに漏れる魔力がこいつにはないのだ。他にも、胸元にぶらさがっているエリーと(くら)べると色彩に厚みがない。ジュエルシードは、ただそこにあるだけで威圧するような存在感があるのに、今回のジュエルシードはどうにも薄っぺらいのだ。

 

 注意して見て、感じなければ気づけないほどかすかな差異。それをリンディさんは持っただけで察知したのか。つい忘れがちになるが、この人も異常なほどに魔力のセンスを持っているのだった。

 

「で、結果は?」

 

「魔力量が全然違ったわ。あなたたちが集めてきたジュエルシードが有している魔力量の平均と比較して、四分の一ほどしかないの」

 

「四分の一……随分数値に差が出てるな」

 

「そう。この魔力量の差の原因について教えてほしいのよ。現場にいて、ジュエルシードの経緯(いきさつ)なら発見者のユーノ君のほうが詳しいでしょうけど、内部の仕組みになれば徹君のほうが精通してるでしょう? なにか心当たりがあるんじゃないかって思ってね」

 

「ちょっと時間をもらいたい。最初の記憶から洗い直してみる」

 

「ええ、いいわよ。徹君が考え事をしてる時の顔って、私結構好きだから」

 

「しゅ、集中を妨害するようなことは言わないで」

 

 ふふっ、とリンディさんは心底楽しそうに俺をからかってくる。目を閉じて視覚を遮断し、思考の海に潜ろうとしているのに、男心を(くすぐ)るようなことを言われて心臓がどくん、と跳ねた。

 

 思考にノイズが入るので是非やめて頂きたい。

 

 顔が熱くなっているのを自覚しながら、今回のジュエルシード封印に関する記憶を芋蔓(いもづる)式に引っ張り上げる。

 

 今リンディさんが手にしているジュエルシードは、他のものとは違い海から取り出されたが、場所による影響はないだろう。影響があったのなら、例えば海の中にある時は常に魔力が放出され続けているのだとすれば、アースラのレーダー網に引っかかるはずだし、水龍を作り出すようなことも魔力が枯渇してできないはずだ。

 

 ならば強制発動されたからか。これも否定できる。フェイトの魔法で強制発動させられたエリーは元気発剌に何度も俺を助けてくれている。これも関連はない。

 

 今までのジュエルシードと違う点というと、融合したことだろうか。いや、有り得ない。簡易的な融合状態ではあったにしろ、それであれば他のジュエルシードよりも魔力量が多くなくてはいけない。少なく検出されるなんてことは論理的とは言い難い。

 

 俺がハッキングでミスをした可能性はどうだ。あり得るといえばあり得るが、決定的な解答ではない。俺が失敗していれば魔力量が零に、空っぽになっていて、ジュエルシード本来の力を完全に失っているだろう。それにミスをした覚えもない。エリーを暗く冷たい檻から解放する時ですらハッキングは成功したのだ。俺に限って、ジュエルシードへのハッキングが二回目の今回で失敗する道理などない。

 

 他というと、封印が完了してからフェイト側の勢力の一人に雷撃を受けたから、という理由しか考えられない。最低ラインまで魔力を封じられたところに大威力の砲撃を受けたことにより、内部の構造に傷がつき、魔力量が減少した。

 

 自分でもすっきりしないし自信もないが、これくらいしか考えつかない。

 

 正答である確率が一番高いのがこれなのだ。俺から提出できる答えはこんなところだろう。

 

 沈思黙考から意識を戻し、目を開く。

 

 リンディさんの顔が、鼻が触れ合うほど近くにあった。

 

「近い! またかよ! 近すぎるって! なにしてんの?!」

 

「徹君って、目を(つぶ)ってると案外かわいい顔してるのね」

 

「案外ってなんだ案外って」

 

「目が凶悪なのかしら」

 

「まだ続けんのかよ。あととても失礼なことを言っている、という自覚はあるか?」

 

 にこにこ顔のリンディさんの肩を押して距離を取る。押された彼女はくすくす、と笑いをかみ殺しながら正面から移動し、俺の隣にぴったりと寄り添う。場所が変わったところで依然として近かった。

 

「それで、なにか思い当たることはあったかしら?」

 

「話を脱線させといてしゃあしゃあと……。封印した後雷撃があっただろ? たぶんそれが原因じゃないか? 俺も確信はないけど、それくらいしか考えられないんだ」

 

「そう、それなら仕方ないわね。このジュエルシードのスペックが下がっているということは、他の八つも同様に下がっていると捉えてもいいのかしら」

 

「そう取るのが自然だろうな。他のも一緒に雷を受けたんだから」

 

「そうだとしたら、まだ救いがあるわね。今回向こうの手に渡った数は八つ。危険性で言えば限りなく最悪に近いけど、魔力量として換算すれば二つ分にしかならない計算ね」

 

「ジュエルシードの数で言えば、フェイトたちが持っていた五つと今回取られた八つを合わせて合計十三。でも魔力の量では合計七つ分にしかならない……と。まぁ、安心材料にはなるか」

 

「十三個と比べたら、だけど。こちらはこれまでに集めた六つと、今回の四分の一の魔力を持つジュエルシード。それと徹君のネックレスになっている『その子』を合わせて七つと四分の一ね」

 

 話題に上ったことで胸元のエリーがぴくりと震えた。

 

 とうとうばれてしまった、みたいな反応である。不安げにぴくぴくと震え続けるせいで大変こそばゆい。

 

「エリーのこと知ってたんだな。隠していたつもりもないけど」

 

「知ってたというより、気づいたってだけよ」

 

「悪いけどこいつは……」

 

「ええ、徹君が持ってなさい。その子からは他のジュエルシードみたいな危ない感じがしないわ。それどころか徹君を守ろうとしているような気配さえする。気に入られてるのね。こちらで保管するより、徹君が持っているほうが安全なんじゃないかしら」

 

「実際何回も助けられてるし、仲は良いんだろうな。そう言ってもらえて安心したよ、ありがとう」

 

 リンディさんからのお許しが出たからもう安心していいぞ、と諭すようにエリーをぽんぽんと撫でる。

 

 内心、元ジュエルシードのエリーを個人で持っていることにいい顔はしないだろうと思っていた。

 

 管理局側も、もちろん俺もジュエルシードは危険な代物だという印象を持っている。しかし他のジュエルシードと俺の胸元にいるエリーとは全くの別物であることを、管理局側が理解してくれるとは考えていなかった。

 

 封印をしているとはいえ、ジュエルシードはまだまだ謎の領域が多いロストロギアなのだ。いつなにが切っ掛けで予想外の事態が発生するかわからない。そんなジュエルシードを安全な場所に保管するでもなく、首元にぶら下げておくのは管理局側からすればリスクでしかないだろう。

 

 だから今日まで敢えてエリーの存在を伝えるのを避けていたが、まさか俺の傍に置いておくことを認めてくれるとは。リンディさんの寛大な処置と配慮には感謝するより他にない。

 

「しかし残りはどこにいったんだろうな。俺たち側の分と、向こうの勢力の分のジュエルシードを合わせた総魔力量は十四個と四分の一しかない」

 

「残りの七つ分足らずの魔力は消えてなくなったのかしら?」

 

「今のところは……」

 

「なにもわからないわね。こっちで気づいたことがあれば報告するわ。だから……」

 

「こっちでも分かったことがあれば報告する。つまりそういうことだろ?」

 

「ふふ、理解が早くて助かるわ。頭の回転がいいと話がとんとん拍子で進んで気持ちがいいわね」

 

 ため息を吐きながら上体を後ろに逸らして腕をつく。結局は厄介で気がかりな情報を持ち込まれただけであった。教えてくれるのはありがたいが、同時に心労が増えるのは如何(いかん)ともし難い。

 

 この際ついでだ。フェイトたちの動向についても訊いておこう。

 

「褒めて使うタイプか? いい腕してるよ、本当に。それよりも、だ。相手が転移した行き先、レーダーで追跡とかできたのか?」

 

 ジュエルシードを確保したのだから、おそらくリニスさんはこの世界の住処であるマンションの一室ではなく、本部のほうへ向かったのだろう。彼女たちの本部がどこにあるのかは知らないが、どこにあったとしても――違う世界の違う次元にあったとしても、座標がわかればアースラの転移門から跳べる。

 

 こちらから仕掛けるつもりがあってもなくても、受身ばかりにならずに攻めに転じることもできるとわかれば、気の持ちようが様変わりするのだ。選択肢は多すぎても困るが、少なすぎては気が詰まる。考えにゆとりを持つためにも、取れる手段はなるべく用意しておきたい。

 

 だが、リンディさんの顔を見る限り、望んだ回答を得られそうにはなかった。

 

「それがね……そっちが雷撃を受けたように、こっちも攻撃を受けたのよ。高威力の雷の砲撃、徹君が受けたのと同じ規模ね。そのせいでレーダーなどの索敵機能は総じて沈黙。彼女たちの影どころか、足跡さえ追うことはできなかったわ」

 

「そう、だったのか……」

 

 俺たちの戦域に放たれた砲撃、つまり俺の頭上に降り注いだ雷撃と同程度の規模ということは、同時に二発撃ち込まれた、という捉え方でいいのだろう。あれほどの威力と精度の砲撃を同時に二つも発動させる技量には舌を巻くが、それよりも気がかりなことがある。

 

 なぜ、アースラにまで攻撃を加えたのか。

 

 砲撃を受け、結果的にレーダー機能が一時的に喪失して跡を追跡することができなかったが、必ずそうなるという確証などないのだ。

 

 アースラを墜とすつもりで攻撃したわけでもない。フロアの幾つかは使えなくさせられたかもしれないが、リンディさんが俺たちとこうしてゆっくり報告するだけの時間を作れるのだから、アースラは航行が危ぶまれるまでの深刻なダメージを受けたわけではないのだろう。元からこの艦を墜とす目論みなどは含まれていなかったのだ。

 

 考え出すと、どうにも相手が取る行動は行き当たりばったりなように思えてしまう。

 

 アースラに向けて次元跳躍攻撃を放っても、直撃する可能性は百パーセントではなかっただろうし、防がれる恐れも、回避される懸念もある。なのに砲撃を命中させても、レーダー機能を奪うことができるかは運次第。失敗すれば逆探知されて居場所を知られる。しかも管理局側からすれば艦を攻撃されるのは本丸を攻撃されるのと同義で、顔に泥を塗られた格好となるため多くの恨みを買うことにもなる。これほど分の悪い賭けもないだろう。

 

 確実に戦域から脱出しようと思ったら、もっと安全な策があったはずだ。リニスさんは外からアースラのレーダー機能にハッキングを仕掛けられるほどの腕があるのだから、他にも手段はあったはずなのだ。

 

 彼女たちの行動にはどうにも不可解な点が多すぎる。他に目的があって、(もっと)もらしい言い分で覆ってとても重要ななにかを隠しているような、そんな胸騒ぎがする。

 

 知らなければならない。その『なにか』を知らないままでは、ジュエルシードを巡る一件の本当の意味での解決にはならないのだ。

 

「話は済んだよな。俺もなにか気づいたことがあれば伝える。それじゃ、俺はここで失礼するよ」

 

 胸に積み重なっていく不安感の正体を早く突き止めたい。

 

 調査をするためにもこの部屋から出ようと、リンディさんに一声かけてから俺は立ち上がった。いや、立ち上がろうとした。席を立とうとしたが、リンディさんに手を引っ張られて立たせてもらえなかったのだ。

 

 まだ用事があるのかとリンディさんを見遣ると、眉を(ひそ)めて俺を見ていた。

 

「ちょ、なにを……」

 

 くん、と強めに引かれる感触。リンディさんは俺の身体を引き寄せると、腕を俺の背後に回して、力強く、それでいて痛くはならないように調整された力加減で俺を抱き締めた。

 

 唐突なハグにあたふたしていると、リンディさんが口を開いた。体勢上耳元で囁かれることになってしまうので、多感なお年頃である男子高校生の心臓には大変悪い。

 

「徹君、怖い顔してるわよ」

 

「か、顔が怖いのはいいつもの、ことだっ」

 

「そういう意味じゃなくて、強張ってるってこと。言ったでしょう? 一人でなんでも背負いすぎないように、って。なにかあれば頼ってくれてもいいのよ。なにかあれば、相談してくれていいの。いつでも話聞くわよ」

 

「あ、はは……わかった。ありがとう、気が楽になった」

 

「本当にわかっているのかしら。徹君は物事の理解は早いけど、人の感情の機微には鈍いから不安だわ。みんな心配してるのよ」

 

「最近よく言われるな……。これ以上みんなに迷惑かけないようにするって、大丈夫大丈夫」

 

 リンディさんの肩を押しながら、俺は笑ってそう言う。

 

 俺のことを心配してくれている、その感情はとても温かくて優しいものだ。素直に嬉しいと思える。

 

 だからこそ、その気遣いに見合うだけの働きもしなければならない。甘やかされるばかりでは割に合わないのだ。

 

「……わかって、ないじゃない…………」

 

 リンディさんは小さく何かを呟き、腕を(ほど)いて俺を解放してくれた。

 

 独り言のようなボリュームの声はあまりにも小さく、俺の耳にまで届かなかった。

 



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大義を、見失った

これまでもいろいろ原作の設定を改変してきてはいますが、今回は大幅に違うところがいくつかあります。読んでいて違和感を感じることもあると思います。ご注意ください。

ひたすらに、暗い。


 アースラ艦内の一室、クロノに教えてもらった部屋で俺は頭を捻る。彼女たちのことを調べるにしても、どこから手をつけるべきか悩んでいた。

 

「やっぱりまずは、フェイトたちのリーダー的な存在である『プレシア』さんとやらから調べるべきだよな……」

 

 『プレシア』という名は、リニスさんと約束を交わしたあの日、十三日前。暴走状態に陥ったリニスさんがぽろっと零していたものだ。

 

 フェイトたちの勢力が四人しかいないというのは本人たちが言っていて、リニスさん自身、家族以外の人間と触れ合う機会がない生活を送っていた、と述べていた。プレシアさんという人がフェイトたちの勢力の最後の一人だと考えて間違いない。

 

 俺に攻撃してきたのもそのプレシアさんということになるのだが、今は脇に置いておこう。

 

「フェイトと、アルフと、リニスさんと交わした全ての会話を思い出せ。調べるのは情報を整理してからだ」

 

 普段有効活用されていない自分の頭脳をここぞとばかりにフル回転させ、記憶の底に沈殿して埋もれている会話の一文一文を想起していく。会話だけでなく、彼女たちの仕草や表情、様子まで思い出す。断片を繋ぎ合わせ、確固たる情報を得るのだ。

 

 プレシアさんという人間について、細い糸を紡いで解答を()る。

 

 彼女たちの勢力はプレシアさんを中心に構成されている。フェイトやアルフ、リニスさん個人個人に、なにか成し遂げたい野望のようなものがあるようには感じ取れなかった。三人がジュエルシードを得ようとする理由にはプレシアさんが密接に絡んでいるのだろう。おそらくはプレシアさんが強く、ジュエルシードというエネルギーを求めているのだ。

 

 そしてプレシアさんという人は、他と一線を画すほど凄まじい魔導師であることも、これまででわかっている。

 

 アースラに帰投して医務室で検査を受けている時にクロノから教えてもらったが、次元跳躍攻撃という魔法は俺の予想を大幅に超えるレベルの技術らしい。考えてみれば当然だ。離れた位置、それこそ次元すら飛び越えて相手がいる場所にピンポイントで砲撃を撃ち込むなどもはや反則だ。誰もが使えるわけがない。

 

 しかし、かなり有用な魔法ではあるが、有用さに相応しく、相当な量の魔力を食うらしい。それを今回、アースラを貫き、俺へと落とし、威力は小さかったとはいえフェイトの意識を刈り取ることに使った。常人であれば一発どころか発動さえできない魔法を三発も放ったのだから、プレシアさんの魔導師としての格が知れる。

 

 そしてクロノ曰く、使い魔であるリニスさんの魔力からも、主人であるプレシアさんの実力が(うかが)えたそうだ。魔導師が使い魔を使役する時、使い魔の能力は魔導師の力に比例して強くなるとのこと。

 

 例えばなのはが使い魔を召喚した場合バハムートみたいなのが出て、俺程度がやった場合はサボテンダーあたりが出てくるというような感じだろう。サボテンダー、結構じゃないか、回避に長けた俺にぴったりだ。

 

 とにかく、リニスさんがあれほどに強力な魔力を有しているということは、プレシアさんはそれを凌ぐほどの力を持っていることを意味しているのだ。

 

「戦力充実しすぎだろ……」

 

 戦闘経験によりなのは以上、よくて同等レベルのフェイトがいて、防御魔法に才のあるユーノと張り合うことができるアルフがいて、クロノを上回る技術を自在に駆使するリニスさんがいるのに、そのリニスさんよりさらに強い魔導師が後ろに控えている。

 

 なんだこのパワーインフレ、俺置いてけぼりじゃないか。

 

 ネガティブになりそうなので戦力に関する思考は投げ捨て、違う方向へと考えを切り替える。

 

 俺が雷撃を撃ち据えられる寸前、フェイトが誰ともなしに呟いていた『母さん』という言葉。誰が撃ってきたか判明した今ならその意味も見えてくる。

 

 プレシアはフェイトの母親なのだろう。

 

 ならば、フェイトがこれまで辛そうな顔をしてジュエルシードを集めていた理由がわかる。母親のため、だったのだ。フェイトは母親のために身を粉にして収集作業をして、アルフは主人であるフェイトのために骨を折っていた。

 

 それは必死になるというものだ。なにせ自分の大切な人のため、家族のためなのだから。

 

「ふぅ……一応整った。まずはプレシア・テスタロッサさんについて調べる」

 

 じんわりと熱を持ち始めた頭を、深呼吸して休ませる。酸素を取り込みクールダウン。

 

 ここから頭を使う頻度は増えるのだ。ここでオーバーヒートさせて使い物にならなくさせるわけにいけない。

 

 気ばかり焦っては真相が見えなくなるし、答えを取り違う原因にもなる。一旦小休憩としよう。

 

「中身がなんなのかは、結局教えてくれなかったんだよな……」

 

 別れ際にリンディさんが持たせてくれた容器を手に取る。硬めの紙コップにプラスチックの蓋が被さり、ストローが刺さったものだ。

 

 容器の側面は白、蓋は白色の半透明で中身を確認することはできない。

 

 常識的な感性をお持ちのリンディさんのことだから、変わったものが()れられているなんてことはないだろう。リンディさんの心遣いにありがとうと唱えつつ、ストローに口をつける。

 

 コップの中身の液体が流れ込んできた。まず訪れたのは、味覚を麻痺させるほどの甘み。続いて到来したのは口内を蹂躙するような甘み。飲み込めば喉の粘膜に甘みが纏わりつき、飲み物を飲んだはずなのに逆に喉が乾くほどの甘みが俺の脳を支配した。

 

 何が言いたいのかを一言で表せば、甘すぎる。

 

「甘すぎるッ!」

 

 噴き出さずに飲み込んだだけでも、自分を褒め称えたい気分だ。

 

 蓋を開けて中身を覗き込んだら白緑色をした液体がなみなみと入っていた。

 

 後味にほのかな抹茶の香りとミルクっぽい舌触りがある。これは前にリンディさんが作っていた抹茶オレ……をさらに甘くした新人類の飲み物だ。

 

 常人なら三杯も飲めば糖尿病になりそうなほどの甘さである。前回飲んだ抹茶オレがおいしく思えるほどだ。

 

 大事なことを失念していた。リンディさんの感性は常識的だが、味覚は非常識的だった。

 

「これもリンディさんの優しさ、なのかね」

 

 リンディさんは俺が頭を使うだろうことを予期して、あえてこの、甘ったるいなんて形容では生ぬるいほどの甘味飲料をチョイスしたのかもしれない。他の人間であれば確実に嫌がらせだと判断するが、この糖尿病患者量産飲料をくれたのは他ならぬリンディさんだ。これを美味しく飲み干せるリンディさんはきっと、脳に糖分を与えたほうが効率が上がるでしょう、などと考えて、好意で俺に差し入れとしてくれたのだろう。ならば、ありがたく受け取っておくべきである。

 

 早くも糖分の効果があったのか、それともリンディさんのふわふわぽわぽわした笑顔のイメージ映像が流れたからか、疲労を訴えていた頭は幾分軽くなった、気がする。もう少しは頑張れそうだ。

 

「複雑な心境だけど……ありがとう、リンディさん」

 

 最後にもう一度極甘抹茶オレを口に含んで気合を入れて、ホログラムディスプレイを照射している端末を操作する。現代日本の情報端末とは形式や操作方法に違いはあるが、そのあたりは使ってみればわかるだろう。

 

「『プレシア・テスタロッサ』……有名な人、みたいだな。いろんな意味で」

 

 魔導師としてばかりかと思えば、この人は科学者としても名を馳せているようだ。いや、名を馳せていた(・・・・・)ようだ。

 

 ホログラムディスプレイにはプレシアさんについての情報が並んでいた。時空管理局の局員だけでなく、一般人でも閲読できるページのようだ。論文やレポート、魔法理論についての発表と、それらに対する世間の評価などが表示されている。

 

 そういった記事を押し退けて、一番上には物騒な言葉が記されていた。

 

「魔力駆動炉の暴走事故……原因は、プロジェクトリーダーのプレシア・テスタロッサによる無理のある進行……。それと無理を強いさせた会社側、か」

 

 大型魔導炉の完成・実現を急いだあまり、手段を選ばず違法な規模のエネルギー密度を機構に取り込み、最優先されるべき安全確認を二の次にして(おこた)った。研究所内にいた研究者たちは結界を張ることで安全を確保したが、魔導炉から溢れ出した莫大な量の魔力は所外にまで飛び出し、付近の住民を襲った。死者数は(おびただ)しい数に上り、しかも被害者の遺体は損傷が激しく、見るも無惨な有様であった。

 

 これらがそのページにあった記述だ。フェイトの母親で、リニスさんの主人のプレシアさんの過去が、書かれてあった。

 

 あくまで事件ではなく、事故なのだ。故意に魔導炉の暴走を起こそうとしたわけではない。

 

 本来ならその魔導炉を有効に使おうとした。平和的なエネルギーとして活用しようと、人々の役に立つエネルギーの一つとして設計されて製作された物のはずだ。少なくとも、悪意はなかったはずだ。

 

 しかし、この事故は規模が大きすぎる。

 

 俺が閲覧した記事がすべて正しいかどうかはわからないが、このような事故にプレシアさんが関わったことは事実だろう。そんな人がジュエルシードを欲している。自分は表に出ずにフェイトたちを顎で使い、力づくで無理を押して集めさせようとしている。

そこにはどのような目的があるというのだ。

 

 展開がきな臭くなってくる。心臓が早鐘を打つ。

 

「いや、駄目だ。結論を出すのはまだ早い。焦るな、焦りは勘違いの元だ」

 

 一度ディスプレイから目線を外し、リンディさん特製の極甘抹茶オレを口にする。甘さはあまり感じられなかった。

 

 情報が不足している。抜け落ちたピースを想像だけで埋めようとしてはいけない。冷静さを保つように自分に言い聞かせながらディスプレイへと目を戻す。

 

 もっと深く調べようと時空管理局のデータバンクへのリンクをタップしたが、突如ウィンドウが表示された。そこにはパスワードを記入する欄が設けられている。

 

 これ以上は一定以上の階級、役職の人間でないと閲覧してはいけない、情報規制というやつか。面倒だ。

 

 機器に手を触れ魔力を通す。ゼロコンマ五秒でパスワードウィンドウは消滅し、新たなページが開かれた。

 

 クロノを呼んでページを開いてもらっても良かったのだが、説明するのも手間だし、時間がかかる。なのでハッキングさせてもらった。罪悪感はそれほどない。

 

「なるほどな……見れないようにしているのは正解だ」

 

 閲覧禁止ページの奥には、事故が発生した現場の写真といった画像データが置かれていた。

 

 記事のページで『見るも無惨な』という表現があった。俺はそれを大袈裟な言い方をする記者だな、などと捉えていたが、画像データに目を通すと俺の考えがいかに甘いものだったかがわかった。

 

「これは、地獄だ……」

 

 『見るも無惨な』との表現は、まだオブラートに包まれた可愛いものだった。血が入った巨大な水風船を破裂させたかのような惨状。赤黒い水溜りが至る所にできている。阿鼻叫喚でもまだぬるい、叫んで喚くだけの人すらいないのだから。

 

 作業員によって被害者のご遺体は端に寄せられ、そのご遺体の山から川のように血が流れている。文字通りの屍山血河に絶句する。

 

 目を瞑り、亡くなった方々へのご冥福を祈りながら、俺は画像データのページを閉じた。長い時間見ていられるようなものではなかったのだ。

 

 次は画像データファイルの近くにあったファイルを開く。被害者の名簿一覧のようだ。

 

 ずらりと列記された人名の数に気分が(すさ)んでいく。ここまで事故のことを知ってしまったのだから被害者の名前くらいは目を通すべきだろうと名簿データをスクロールしていたが、いつまでも終わらない被害者の数に見ているのが辛くなり、ページを閉じるアイコンまで手を動かした。

 

 閉じる直前、一つの名前が視界に入る。アリシア・テスタロッサ。その名前を見つけた。

 

 今回ばかりは、優れた自分の目を褒めてやりたい。多くの名前が表れては消えていくページの中で、たった一つの名前を捉えることができたのだから。

 

「この事故自体、だいぶ昔にあったことだから、このアリシアっていうのはフェイトの姉に当たるのか? ……あぁ、そうか。なるほどな……」

 

 アリシア・テスタロッサは被害者名簿の中に名を連ねている。ということは考えるまでもなく、儚い命を散らしていて――有体に言って死亡している。

 

 これが、彼女たちがジュエルシードを追い求める理由なのだ。リニスさんの言っていた『家族のため』、以前に収集する訳を問うた俺に返したアルフの返答『聞いたら徹は戦えなくなるよ』との言葉。その真相がこれなのだ。

 

 命を落とした家族を取り戻す。そのために危険を冒してエネルギーの結晶であるジュエルシードを血眼になって求めている。プレシアさんは娘のために、フェイトは母親と姉のために。

 

「でも、ジュエルシードでどうやってアリシアなる少女を助けるっていうんだ……。命を蘇らせるなんて、そんなことできないだろ……」

 

 彼女たちの目的は理解したが、その手段はいまだ判然としない。

 

 エネルギー結晶体のロストロギア、ジュエルシード。それは魔力エネルギーが結晶化しているだけであって、本来ジュエルシード自体になにかできるわけではないはずだ。

 

 魔力は謂わばガソリンである。魔法を使う燃料になるというだけであって、ガソリンを使う自動車がなければ無用の長物と化す。

 

 目的に沿った効果を安全に生み出す行使者、もしくは機械がなければ無意味に危険な代物でしかない。

 

 それでなくてもジュエルシードは悪意ある改変を受けているのだ。自分たちの願い通りに使おうとするのは困難を極めるだろう。

 

 事故後の報告を流し見しながらアリシアを蘇らせる方法を模索するが、浮かばない。そんなアイディア浮かぶはずがないのだ。死んだ人間を黄泉の国から再びこの世に戻すなんて、できない。きっと、できてはいけないのだろう。

 

「会社は倒産……当たり前か」

 

 暗い気分のままディスプレイに目を通す。

 

 事故の後、会社側は多額の賠償金に加えて信用を大幅に失墜させたことで経営破綻したようだ。事故とはいえ、その管理責任は追求される。当然の帰結と言えた。

 

 首謀者のような扱いを受けていたプレシアさんだったが、刑事罰は免れたようだ。しかし重要参考人としてマークを受けていたようで、事故の後の職歴は細かく記載されていた。

 

 プレシアさんは職場を失ったことで、各地の研究所を転々としたようだ。各地のというと語弊(ごへい)がある。地方の、と表したほうがより正確だ。

 

 大きな事故だったのだ。プレシアさんの名前も、事故の原因とともに当時は広まってしまったのだろう。

 

 かなりのペースで違う研究所へと転職を繰り返している。数年と同じ場所にはいない。

 

 その研究内容にまで軽く触れて記されている。分野は多岐に渡っていた。

 

「細胞学、人体力学、人間科学、生物化学、機械工学……医療用機器の研究なんてものまでやってるのか。これはまた、手広く……やって……」

 

 他にも発生生物学、人体生理学、人体解剖学、人間医学など種々様々な学問の研究に携わっていたようだ。亡くした娘の影響か、人体に関係する分野に傾倒している節はあるにしても、統一感はないように思えた。

 

 普通であれば、研究する学問などころころ変えるものではないだろう。一貫性のなさに不思議には思っても、とくに際立って疑問を持つわけではなかった。

 

 『遺伝子工学』、『分子生物学』、この二つが目に入るまでは。

 

「この並びで……遺伝子工学に分子生物学? いや、それは……ありえないだろ……」

 

 嫌な予感が脳裏を駆け抜けた。その嫌な予感を否定する材料を探すために思考を深める。だが浮かび上がるのは、これまで得てきた断片的な情報と、引っかかった細かな違和感。肯定する材料ばかりが記憶から湧き上がる。

 

「アリシア……アリシアという少女をまず知らないといけない……」

 

 心臓を凍てつかせるような不安を払拭したい。その一心で端末を操作する。

 

 アリシア・テスタロッサという女の子は被害者名簿に載っていた。もしかしたら簡素な個人情報も一緒に入力されているかもしれない。

 

 一縷の望みを抱いて調査する。ファイルを開いて調べて、目当てのものではないとわかれば閉じて、階層をいくつも潜りながらデータバンクを探していると、ようやく見つけた。

 

「アリシア・テスタロッサの……個人情報」

 

 プレシア・テスタロッサの家族として、事故に関係した研究者の情報と一緒に記述、付随されていた。ご丁寧に顔写真まで、一緒に。

 

「はは……フェイトにそっくりだ。順番で言えば、フェイトがこのアリシアって子にそっくりなんだろうけど…………っ!」

 

 拳を握りしめデスクに叩きつけようとして、寸前で止める。八つ当たりしても仕方がない。今は情報収集して結論を導くのが先決だ。

 

 ディスプレイに映し出されるアリシア・テスタロッサという少女とフェイトが一卵性の双子ということは考えられないか、と藁にも縋る思いで考察するが、事故から今まで時間があきすぎている。現実から目を背けた思考を唾棄する。

 

「まだ……まだ違うという可能性はある。こんな答えは俺の早合点に決まってる。こんなこと、許されるわけがないんだ」

 

 途中まで辿っていたプレシアさんの経歴をさらに読み進める。いろんな分野の研究所を渡り歩いていたみたいだが、急に足取りが途絶えていた。

 

 俺たちの世界、日本でいう警察的な機関から――おそらくは管理局だろうが――それからの重要参考人としてのマークが外れたのか、それとも行方をくらましたのか。ページを文章を読み進めていくと、どうやら後者のようだ。

 

 そこから下の欄には、プレシアさんが携わった可能性のある研究や事件が幾つか並んでいた。

 

 どれもグレーな匂いのする表題であったが、そのうちの一つに目が止まる。始めて見るはずの研究タイトルなのに、聞き覚えのある単語が含まれていた。

 

 震える手を動かして、その項目を開く。

 

「……ある個体の細胞を用い、組成を完全に複写して寸分違わぬ素体を作り出す……人造生命の生成。『プロジェクトF.A.T.E(フェイト)』……」

 

 喉が詰まり、声は細く小さくなる。精神状態の動揺の度合いと比例するように、俺の口からこぼれる言葉は不安定に揺れていた。

 

 人造生命体の生成、砕いて言えばクローンを作るということ。その(いしずえ)になる知識を各地の研究所で頭に叩き込み、『プロジェクトF.A.T.E』で集約・発展、ついには完成させた。

 

 フェイトは、儚い笑みが印象的なフェイト・テスタロッサは、人の手によって科学的に生み出されたクローンだった。

 

 その中でもプレシアさんは、元になる個体(アリシア)の記憶すら読み取り、作り出した素体(フェイト)へと複写するという、記憶転写と一緒に研究していたようだ。

 

 (まま)ならぬことに、記憶転写というワードを見て合点がいったことがある。

 

 なのはとフェイトがエリーを同時に封印しようとして二人の記憶を、辛かった時の思い出、寂しく悲しい願いをエリーが願望器として抜き取った。そして俺が、エリーを改悪されたプログラムの檻から助ける時、頭に流れ込んできたそのイメージにどことなく違和感を感じた。抜き取られたフェイトの記憶を見た時、俺はどこか引っかかるような感覚を覚えていたのだ。

 

 その記憶のイメージの中でも、フェイトの姿形はほぼ変わりはしない。昔の記憶のようで少し幼かったが、それ以外に外見に変わったところはなかった。ただ一つ、記憶の中でのフェイトが動いた時、異なる点があったのだ。

 

「利き手が違ったんだよなぁ……」

 

 記憶の中では隣で眠る猫を撫でる手も、コップを取る手も、紙に文字を綴る手も、左手だった。しかしフェイトは右利きだ。バルディッシュを振るう時も、砲撃を放つ杖を持つ時も、必ず右の手で持っている。

 

 違和感の正体はそこにあった。

 

 つまり、俺が見た記憶は。

 

「フェイトの記憶じゃ……なかったんだ」

 

 あの時の映像は、フェイトの記憶は、上から貼り付けられただけの模造品の記憶で、作り物の思い出。

 

「そんなこと、あっていいのかよ……っ」

 

 プレシアさんは少なからず、フェイトやアルフに事情を説明しているのだろう。そうでなければアルフが俺に対して、理由を知れば戦えなくなる、などと忠告はしない。

 

 ならばフェイトへと正直に、お前はアリシアのクローンだ、と教えているのだろうか。誰もおらず、冷たく張り詰めた空気が充満する部屋で俺は首を横に振る。そこまで教えているわけがない。

 

 誰だって自分と瓜二つの人間を見れば戸惑う。しかも、自分はその瓜二つの人間の代わりに生み出された代替品のクローンなのだと言われたら、どれだけ図太い神経を持っていようとショックを受ける。

 

 それらを承知して、命がけとなる危険な任務に喜んで飛び込むような人間はいない。そんなお人好しが現実にいてたまるものか。

 

 アリシアは昔あった事故のせいで目を覚まさない。その治療のためにはたくさんの魔力が必要。だからジュエルシードを集めなければならない。

 

 憶測でしかないが、フェイトやアルフに伝えている情報はこんなところだろう。

たったそれだけで善良で心優しいフェイトと仲間思いで主人想いのアルフは、家族を助けるため、母親の願いを叶えるため、仲間のため、主人が大切にしている人のために奔走する。簡単に想像できる。目に浮かぶようだ。

 

 ジュエルシードを収集する理由を伝えなくても、フェイトなら母親のためにと駆けずり回るだろうが、それでは不信感が芽生えるかもしれないという危険性を排除できない。理由をつけ、感動的なエピソードまで添えて如何(いか)にジュエルシードという魔力が必要かを説明すれば、心から信じて、しかも熱心に働いてくれる。

 

 人材を動かすのに必要なのは飴と鞭だが、人材に動いてもらう(・・・・・・)のに必要なのは言葉なのだ。言葉だけで、事足りるのだ。

 

 そこまで理解して実行しているのだとすれば、プレシア・テスタロッサという女性は恐ろしく悪魔的である。人心を掌握する術に通じている。

 

「いや、でも……それならフェイトに辛辣に当たる理由がないんじゃ……」

 

 今まで俺はフェイトがクローン技術によって生み出されたという点にばかり焦点を合わせていた。自分の立場からでしか、今回の件を見ていなかった。

 

 しかしプレシアさんから見ればどうだ。利き腕が右と左で違うということから、細かな部分ではフェイトとアリシアで違いがあるのかもしれないが、容姿はまるっきり同一なのだ。認めるのは癪だが、クローン体の生成自体は成功したと判断していい。

 

 であれば、ジュエルシードを集める理由はなくなるのではないか。

 

 プレシアさんの過去から、目的は一貫して娘であるアリシア嬢を取り戻すこと。そのためにクローン技術にまで手を出して、追求ならぬ追究をし続けていた。娘と同じ姿形のフェイトが隣にいる今、ジュエルシードは不要となったはずなのだ。

 

 考えが詰まる。

 

 俺は他に手がかりがないかと記憶を探った。

 

「そういえば、アルハザードってなんのことだったんだ?」

 

 十三日前、初めてリニスさんと会話をして朝食をご馳走になり、リニスさんの性癖を垣間見た日。暴走したリニスさんがそんな単語を口走っていた。アルハザードがどうたら、と。必死に脳みそを絞ると、そんなことを想起してしまった。

 

 正直思い出したくない記憶の一つに数えられているので、できることなら厳重に封をして記憶の底に沈ませておきたかったがそうも言っていられない。なにか手がかりになるのならトラウマだろうが心の傷だろうが抉り返してみせる。

 

 アルハザード。その言葉はちらりとだが見たことがある。

 

 姉ちゃんの部屋に死蔵されている雑多な書籍の中には神話に関する品がちらほらとあり、その中にクトゥルフ神話に触れたものがあった。時間を余していた俺は暇潰しに装丁(そうてい)が凝っていたその本を手に取り、ぱらぱらと目を通したのだ。そこでアルハザードという文字を見た。『アルハザードのランプ』という表記だったが。

 

 本の中ではたしか道具として扱われていたように記憶しているので、おそらく今回の件とは関連性はないだろう。

 

 『アルハザード』という単語はリニスさんの口から聞いたのだ。こちらの世界の話ではなく魔導師たちの世界、延いてはミッドチルダの言葉なのだろう。

 

「……ググるか」

 

 いくら頭を捻っても、向こうの世界を詳しく知らない俺にわかるわけがない。せっかく情報端末が目の前にあるのだから調べてしまえばいい。

 

 検索すると、案外すぐに見つけることができた。

 

 次元と次元の間、狭間に存在すると言われている土地。失われた秘術が眠る都。その地には時間すら操作できる魔法や、死んだ人間を蘇らせる魔法が隠されている。概要としてはこんなところだった。

 

 御伽噺(おとぎばなし)厨二病(ちゅうにびょう)罹患者(りかんしゃ)の妄想じみた設定の世界だが、一笑に付すことができない文章がある。

 

「次元の狭間、時間を操作、蘇らせる……」

 

 がちり、と歯車が噛み合う音が聞こえた気がした。

 

 プレシアさんと俺は、少なからず似通っている部分があるように思う。生まれた世界や、個人が持つポテンシャルに大差はあれど、大切な人を(うしな)ったという一箇所においては全く同じだ。

 

 そこで考え方を改める。プレシアさんからの視点で考えを進めたが、もう一度自分の身に置き換えて想像してみた。俺の細くて脆い神経は擦り切れそうだが、やむを得ない。

 

 死んだ人間。もし両親が、もう一度俺の前に当時のまま、容姿も完全にそっくりで現れたとしよう。同じ顔、同じ身体の両親と相向かって、そこでかすかな違いを目にした時どう思うだろうか。利き腕が違い、性格が異なり、笑い方に変化を感じたら、どう思うだろうか。

 

 目を閉じて想像してみる。

 

 静かな部屋全体に心音が鳴り響いているのではと思うほどに、俺の心臓は強く早く脈を打つ。口から心臓が飛び出してきそうだ。気分が悪い。ひどい立ち眩みがする。背中にはじっとりと汗をかいていた。

 

 俺なら、容認し難い異変と受け取るかもしれない。

 

 外見だけ似せて作っても中身が違うのであれば、それは別の人間だろう。不気味の谷とは違うが、見た目が似ている分、さらに忌避感を抱くかもしれない。少なくともすぐには受容できない。

 

 プレシアさんも、そう感じたのか。娘と同じ顔と姿をしたフェイトを見て、俺が想像したような感情を抱いたのか。

 

 忘れていた。プレシアさんは最初から一貫して『アリシア・テスタロッサ』だけを求めていたのだ。自分の娘を探し求めるプレシアさんにとって、わずかな差異も容認できようはずはない。完全に、完璧に、最愛の娘と同一でなければいけなかったのだ。

 

「行き着いた果てがアルハザード……。次元の狭間にあるとされる希望の都。次元という壁を突き破るためのエネルギーに、ジュエルシードが必要なんだ……。そのためにフェイトたちを……」

 

 道具のように扱った。ジュエルシードを収集するためだけの、(てい)のいい機械みたいなものとして。

 

 プレシアさんからしたら、フェイトはアリシアに似ているだけの別人。器が似ている分、愛情が裏返って憎悪の対象になっていてもおかしくはない。

 

 人造生命としては成功したが、本来の目標であるアリシアの複製としては失敗だったのだ。

 

 クローンではアリシアを作ることはできないと踏んで、プレシアさんは次の手段に移行した。最後の手段に頼った。存在するかどうかもわからない絵空事の夢物語、アルハザードを信じたのだ。

 

「フェイトの母親だろう……たとえクローンであっても、母親であることに違いはないだろう……」

 

 娘であるアリシアのDNAを基盤として生み出されたのだから、フェイトもプレシアさんの娘と見做(みな)していいはずだ。

 

 そんな子どもを、使い捨ての道具のように扱うなんて親のすることではない。親のする所業ではない。

 

「こんなの、どうしろってんだよ……」

 

 彼女たちが戦う理由、ジュエルシードを求める理由は見つかった。俺の当初の目標は達成できた。

 

 だが、それ以上に大きな問題を抱えることとなってしまった。

 

 プレシアさんのやっていることは人道に(もと)り、常識から外れ、倫理を踏み(にじ)る行為だ。性根が捻じ曲がった俺でも理解できる。

 

 しかし、彼女の心理もまた、俺は理解できてしまうのだ。

 

 大事な人を亡くし、しかもその原因が自分たちを中心とした組織によるものだった。失意の底に沈んだ時に、もしかしたらもう一度幸せな日々をこの手に掴むことができるかもしれないとすれば。一条の希望の光が差し込み、一本の蜘蛛の糸が垂らされれば。

 

 考える時間なんていらない。そんなもの、誰だって手を伸ばす。上った先になにが待ち受けているのだとしても、迷うことなく。

 

 両親が事故で死んだ時、その選択肢があれば――目の前に提示されていれば、俺も選んでいた。そう確信できるからこそ、俺にはどうすればいいかわからない。もう、なにが間違っていてなにが正しいのかがわからなくなった。

 

 デスクに手をつき項垂(うなだ)れる。身体を支えるだけの力すら入らなかった。

 

「はは、アルフの言った通りじゃねぇか……」

 

 拳を向けるだけの大義を、見失った。

 

 掠れた笑いは、冷たい部屋に虚しく響いた。




原作では、魔導炉の暴走事故で死んだのはアリシア一人だそうです。拙作では僕の勝手な都合により死者多数となっております。しかも死因は魔力粒子が空気と反応したことによる窒息ということですが、それも変更しました。それらに伴い色んなところに設定の改変が入りました。ご容赦ください。

ローテンションで進む話は文章を打つスピードもなかなか乗りませんでした。こういった話は苦労します。


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『表に出ろ』

 物理的にも精神的にも重たい足を引きずり、高校の正門をくぐったのは授業開始の本鈴が鳴る五分前のことだった。

 

 起床時間は遅くはなかったのに――家から出た時間も遅くはなかったのに遅刻寸前である。学校までの道程(みちのり)が長く、ひどく険しく感じた。

 

 気が滅入っているのは自覚している。それでも、何をしても紛らわすことなんてできなかった。湯船でリラックスしても、料理に集中しても、早朝からの掃除に没頭しても、頭から離れないのだ。

 

 頭の中をぐるぐると回るのはプレシアさんのこと。そしてフェイトのこと。

 

 昨日、ジュエルシードを封印し、アースラの情報集積室で、プレシアさんがジュエルシードを集める理由を突き止めてから、俺の心は暗く沈んだままだった。

 

 プレシアさんの気持ちも理解できる。最愛の娘を助けたい、その一心で長い時間をかけて研究してきたのだろう。研究し、知識と力を蓄えてきた。

 

 願い自体は純粋なのだ。自分のせいで死んでしまった娘をもう一度抱き締めたい。ただそれだけなのだろう。

 

 大切な人を失う辛さ、苦しさ、悲しさを知っているからこそ、俺にはプレシアさんの考えを否定することはできない。

 

 だが、それではフェイトがあまりに哀れではないか。プレシアさんの手により生み出されて、違ったからといって投げ出されるなんて、それではあまりに報われないではないか。母親のため、姉のためにと身を粉にして頑張っているフェイトに、そんな仕打ちは慈悲がなさすぎる。

 

 プレシアさんは、ジュエルシードを収集しているフェイトに対して厳しく当たっている。少しでも手間取れば――命令通りの行動が出来なければ、容赦なく雷を落とし、馬車馬に喝を入れるが如く鞭を振るう。娘としての扱いどころか、人としての扱いですらない。

 

 プレシアさんはフェイトのことを、ジュエルシードを集めるだけの道具、ただの機械のように考えているのだ。娘の顔をしただけのフェイトでは満足できず、どこまでも本当の娘のアリシアだけを求めている。

 

 それでもフェイトは、母親のプレシアの指示通りに動くのだろう。家族で、大事な母親だから。

 

 だが、フェイトがジュエルシードを集めても、仮に集めることに失敗しても、どちらにせよフェイトの望む未来は得られない。フェイトに先はない。

 

 プレシアさんが必要数のジュエルシードを集めきれば、ジュエルシードがその身に内包する莫大なエネルギーを使ってアルハザードへ、あるかどうかすら定かではない希望の都へと旅立つだろう。次元の狭間に向かう時、きっとプレシアさんはフェイトを連れてはいかない。アルハザードで娘を助ける技術があると妄信しているのだから、アリシアの代替品としか捉えていないフェイトを隣に置いておく必要はないのだ。

 

 ジュエルシードが集まらなかったとしても、やはりフェイトが望む結末にはならない。

 

 ジュエルシードが集まらなければ、プレシアさん一味は遠くないうちに居場所を掴まれて管理局に身柄を拘束されることになる。クロノやリンディさんが住む魔法の世界で、どんな法律が施行されているのかは俺にはわからないが、逮捕されればプレシアさんはなんらかの罰を受けることになるのは避けられない。ジュエルシードの収集は第九十七管理外世界の安全のため、地球の安全のために行っていただのと誤魔化せても、管理局艦船・アースラへと攻撃を仕掛けたのは誤魔化しようのない厳然たる事実だ。事件を綿密に調査すれば、フェイトとアルフは操り人形のように上から指示を受けていただけ、ということが判明して斟酌の余地もあるだろうが、首謀者で命令を下していたプレシアさんと、隣に侍ってプレシアさんに協力していたリニスさんは逃げられない。結局、フェイトはプレシアさんと離れ離れになる。

 

 ジュエルシードが集まれば母親から捨てられ、集まらなければ管理局が二人の繋がりを断つ。

 

 フェイトには、救いの神はいなかった。

 

「くそっ……くそがっ……」

 

 昨日からずっとなんとかならないだろうかと考えを絞っていたが、なにも妙案は出てこなかった。

 

 いくら計算が早くたって、いくらその気になれば六法全書を丸暗記できるほど記憶力がよくたって、一人の少女を助けることもできやしない。

 

 俺はただの、一高校生にしか過ぎなかった。

 

「きき、君が……逢坂徹くんか?」

 

「……あ゛?」

 

 一人の学生にはどうすることもできない現実の厳しさに直面して無力感に打ち(ひし)がれていると、いきなり見ず知らずの男子生徒から声をかけられた。

 

 本鈴間際のこんな時間にまだエントランスに人がいるとは思わなかったので油断していたし、不機嫌だったこともあり、無意識に返した言葉は意味もなくドスが利いていた。

 

 外見から気弱そうなオーラが立ち込めている男子生徒は、肩をびくんっと上げて顔面蒼白になる。

 

「こ、これをわ渡してくれと頼まれているんだ。頼まれてやっているだけなんだ。そ、それじゃ、ちゃんと渡したからね」

 

「え、ちょ、誰から頼まれたんだ? っておい」

 

 男子高校生の平均身長を割り込んでいると推測されている小柄な男子生徒は、俺に半ば無理矢理茶封筒を手渡すと、(きびす)を返して一目散に廊下を駆けて行った。俺の質問は彼の背中に届いていたと思うが、彼は目もくれず耳もくれず、脱兎の如く走り去る。

 

 離れてやっと気づいたが、男子生徒の上靴には緑色のラインが入っていた。緑色ということは三年生だ。まさか先輩だったとは。

 

「とりあえず確認してみるか」

 

 持った限りでは重さはさほど感じない。廊下の天井の明かりに透かしてみると四角い影が見えた。封筒の腹を触ってみるとかすかに指を返す弾力があるので中身は紙かなにかなのだろう。危険物ではなさそうだ。

 

 渡された茶封筒を開けてみる。確認してみないことにはなにも分かりはしないのだ。

 

 指で千切るように封筒の端を切り取っていく。

 

 傾けると予想通り、紙に近いものが出てきた。写真が数葉、封入されていた。

 

 中に入っていたものは概ね予想通り。だがその内容は予想を裏切り、危険物だった。

 

「なんだ……これ」

 

 封筒の中に入っていた写真には、二人の男女が仲睦(なかむつ)まじ気に寄り添って写っていた。数葉の写真は、どれもその二人を写したものだ。

 

「恭也と……真守(まもり)姉ちゃん? は……なんで」

 

 写真が撮影された場所は街の大通りから数本奥に入った路地のようだ。風景から察することができる。

 

 頭が真っ白になった。二人が仲良く街を歩くのは、まだなんとか理解の範疇にある。昔から家族ぐるみで良くしてもらっているのだから、姉ちゃんと恭也が腕を組んで歩いているのはまだ、なんとか、ぎりぎりわからないでもない。腕を組んで手を握り合って歩いているのも、姉ちゃんが悪戯で恭也を困らせようとしているだけ、という線が残っている。まだ理解できる。

 

 だが、歩いている道がどうしようもないほど、弁解の余地もないほどに決定的だ。

 

 子どもは入っちゃダメな道。下品なほどに明るい照明で入り口を照らしている宿泊可能な休憩所。所謂その手の店が立ち並ぶ路地なのだ。

 

 小刻みに震える手で持つ写真を、回転が停止した頭で眺める。右下にはご丁寧に日付まで印字されてあった。

 

「四月二十五日……勉強会の前日。買い出しに行った日……」

 

 恭也と勉強会で振る舞うための食事やデザートの材料を仕入れる約束をして、なのに急遽行けなくなったと連絡を返して忍を代打に寄越した、あの日だ。

 

 当日の待ち合わせ時間ほぼジャストというタイミングで、用事が入った、などと断りのメールを送ってきた時にも違和感はあった。生真面目で親しい間柄相手にも礼節を重んじる恭也が、当日になってすっぽかすなんて珍しいとは思っていた。

 

 勉強会の日。空いた時間に恭也へそれとなく訊いてみて、来れなかった訳を話さなかった時にもなんかおかしいな、とは感じていた。

 

 だが、これで繋がった。姉ちゃんと会うために、約束を反故(ほご)にしたのだ。

 

「なんで……俺から奪おうとする。お前はもう、たくさん持ってるだろうが……他にもいっぱい持ってるだろうが」

 

 恭也と忍の関係は、一番長く一番近くから見てきた俺が誰よりも知っている。

 

 互いが互いを想っていて、想い合っている。忍と恭也の両親もそれを認めている。親公認の仲なのだ。

 

 高校生のうちでは無理だとしても、大学にでも進学すれば、そのまま二人は結婚するものだと、そう思っていた。

 

 そんな順風満帆極まりない立場にいて、ここで他の女に余所見する理由がわからない。よりによって、俺のたった一人の家族に手を出す真っ当な理由は見つからない。

 

「恭也っ……!」

 

 震える手で写真を握りしめる。動揺からではなく、今は怒りから手が震えていた。

 

 授業開始の時刻を知らせる鐘の音が校舎全体に響き渡る。

 

 握り潰してくしゃくしゃになった写真はズボンのポケットへと乱暴にしまい、俺は教室へと足を運ぶ。

 

 封筒の中身は爆弾だった。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 四時限目の授業終了と昼休みを報せるチャイムが鳴る。

 

 四時限目の授業を受け持っていた比較的年の若い女性教諭は、教材をまとめると早足にそそくさと退室した。クラスメイトはばたばたと音を立てながら教科書を強引に机へと押し込むと、逃げるように教室を後にする。普段教室で昼食を摂る生徒まで外に出て行っているのは、おそらく不機嫌さを(あら)わにしている俺のせいだろう。

 

 溢れる苛立ちを隠すこともできず、机に肘をついて顎を手に乗せて俺は窓の外をただ眺める。昼休みまで誰とも会話らしい会話をしなかった。

 

 ホームルームの時間には当然遅れた。おかげで出席簿の俺の欄には遅刻の文字が刻まれている。担任の飛田(ひだ)貴子(たかこ)教諭からはおどおどとした様子で口頭注意を賜った。

 

 一時限目の授業が終わり、一時限目と二時限目の間にある短い休み時間で鷹島さんや長谷部、太刀峰から様子がおかしいと心配されたが、三人の気遣いにも素っ気ない言葉を返しただけだった。どんな言葉をかけられたかも憶えていなければ、どんな言葉を返したかも憶えていない。午前中の枠の授業がなんだったのかも記憶から抜け落ちている。一欠片の興味も抱けなかった。

 

 かつん、かつん、と一定の間隔で床を叩く音が俺に近づいてくる。その規則正しい足音だけで誰なのかわかるのは、まさしく長い付き合いの為せる技だ。そして、今はそれすら不愉快に感じる。

 

「徹、今日はどうしたんだ。顔色も機嫌も悪い。なにかあったのか?」

 

 顔を向けずとも、声を聞かずともわかる。来訪者は恭也だ。

 

 昼休みになってすぐに携帯を手にして外に出ていたが、中に戻ってきたようである。

 

 忍は担任から用事を託けられていたらしく、昼食も摂らずに職員室へと向かった。一言二言話しかけられた気もするが、それすらも朧気だ。

 

「……なんでもねぇよ」

 

 目線を合わせることもせず、俺は一言だけ返事する。

 

 今は誰とも話したくない。もう、疲れてしまった。

 

 ジュエルシードは全て封印され、一先ずは終止符が打たれたかと思えば、新たな問題が降って湧いた。プレシアさんがジュエルシードを求める理由と、フェイトが身を削ってでも戦う訳。その真相を知ってしまった。

 

 それだけでも思考のリソースを埋め尽くすほどの悩みだというのに、恭也と姉ちゃんのことまで乗っかってきたのだ。

 

 俺の頭はパンクした。なにも考えたくはない。なにもかもが(わずら)わしい。

 

「何日も連絡が取れず、学校も休んでいた。その説明すらまともに聞かされてないんだ、みんな心配になって事情を訊こうとするのは当たり前だろう?」

 

 心の底から気にかけている、という声音で恭也は懲りもせずに俺へと話しかける。

 

 その恭也の姿勢に、無性に腹が立った。俺がなにも知らないままだと思っている恭也の振る舞いに、自分でも訳がわからないまま怒りが込み上げてくる。

 

 俺が持っていないものを恭也が持っていることに対する嫉妬や羨望なのか、姉を取られたくないという独占欲なのか、はたまた所有欲か。様々な黒い思いがが混ざって濁ってぐちゃぐちゃになったこの感情に、俺は名前をつけることはできない。

 

「お前には関係ねえだろ」

 

 停止した思考を中継せずに、心で思ったことが口を衝いて出る。

 

 俺と恭也の間で火花が散ったような感覚がした。教室内に不穏な空気と緊張感が走る。

 

「……関係ない、だと? 昨日、なのはの帰りが遅かった。学校の制服のままで、だ。なのはが帰った時には日が完全に沈んでいた。下手をすれば補導されてもおかしくない。徹が一緒にいたんじゃないのか? なのはが、俺の妹が関係しているのなら、俺にも関係あることだ。徹、一体何を隠している」

 

 関係ない、という俺の発言が逆鱗に触れたのか、恭也は声のトーンは落ち着かせながらも語気を強めて俺に詰め寄る。

 

 魔法を知ってから、俺はなのはと一緒にいることが多くなった。ちょうど魔法を知ってすぐの辺りだ。フェイトに出会って、なのはは自分の力不足だなんだと思い詰めて落ち込んだりすることが多くなった。暗い表情をすることも、前より頻繁になった。

 

 そんななのはの変化は、恭也にとって気苦労が絶えなかっただろう。猫可愛がりしている妹がなにか大きな悩みを抱えているような態度で日々を過ごしているのだから、恭也は気が気ではなかったはずだ。

 

 そして恭也は、なのはの表情の変化の原因にまで薄々勘付いている節がある。俺となのはがなにか危ないことでもしているのでは、と当たりをつけているのだ。

 

 これまでは黙って見守るスタンスでいたが、俺の発言で沈黙を破った。

 

 だが俺とて、黙って聞いてはいられない。

 

「何を隠している……? 隠しているのは、隠し事をしているのはお互い様なんじゃねぇの?」

 

「……隠し事など、あるわけないだろう」

 

 俺の切り返しに、恭也は目を見開いて一歩下がる。

 

 俺の得意でもあるコールドリーディングが、頼んでもいないのに恭也の異変を探り出した。

 

 恭也は右足を一歩分後ろに引いた。無意識的に、右半身を隠そうとしたのだ。そして身体を傾けるという仕草は嘘をついているという表れ。恭也の発言は嘘である。

 

 恭也は右半身を隠そうとした。隠そうとすることは、身体のどこかに(やま)しく思っている部分があるということに他ならない。

 

 恭也は足は動かしたがそれ以後不審な動作はないし、腰も動かなかった。下半身から胴体にはない。

 

 人の考えていることを読み取ろうと思った時、一番重要になるのは顔だ。顔には情報が詰まっている。

 

 視線が左右に揺れた。虚言を吐いている、もしくは後ろ暗く思っていることがある証だ。口はきつく閉じられている。これは、喋ってはいけない、内緒にしなければいけない、という深層心理の表出。

 

 ここまででは具体的に何を隠しているかわからないが、まだ情報は残されている。顎の角度だ。右斜め下にかすかに傾いている。視線を下げるのは疚しいことがある証左だが、顎を下げるということは、自分の身体で影にして見られたくないものを隠そうとしている仕草だ。

 

 頭から下、胴体から上の部位。嘘をついてまで隠して、尚且(なおか)つ後ろめたく思うようなこと。答えは出た。

 

「……首筋の跡」

 

「……っ!」

 

 ぼそりと呟いた俺の言葉に、恭也は過剰なまでに反応した。右手で首の右側を押さえてさらに一歩退く。恭也の顔は青褪めていた。

 

 首に残る跡なんてそれほど候補は多くない。状況から考えてキスマークという線が妥当だ。

 

 俺の位置からは跡なんて全く見て取れないが、恭也の反応から察するに跡が残るだろう行為に及んだ覚えがあるのだろう。そうでなければ手で覆い隠すようなことはしない。

 

 人の粗探しをするときにはいつも通りに思考が回るのか。自分でも思う、いい性格をしていると。

 

「はっ……そんなんでよく俺に隠し事云々なんて言えたな」

 

「言いたい放題言ってくれるな……っ。知っているんだぞ、忍と喫茶店で何をやっていたか」

 

 眉間にしわを寄せながら恭也は吐き捨てる。隠していたことが俺にばれたことで青くしていた顔色は、怒りからか赤くなり始めていた。

 

 眼光鋭く、俺へと追及の言葉を浴びせかけてくる。

 

 忍と喫茶店でやったことがなんだというのだ。ただ飲み物を交換して、お互いが注文したケーキをお互いに食べさせあっただけだ。

 

 こんなこと、俺たちの間ではよくやっていることだろうに、恭也はそれすら忍の浮気だとでも見做すのか。それとも、自分の女に手を出されたことへの糾弾か。

 

「たかだかあれだけのことでキレんなよ、器が知れるぞ。他の男に取られたくねぇんなら首輪してリードでもつけたらどうだ?」

 

 心から思ってるわけではない、そんなこと一度だって考えたことはない。だが冷静に考察する前に、熱く鈍くなった頭が挑発するようなセリフを紡ぎ出す。

 

 恭也が心を砕いた末に俺へ何があったのだ、と尋ねてきているのは理解はしている。

 

 そのはずなのに、苛立って仕方がない。なにも知らないくせに知った風なことを口走る恭也に腹が立って仕方がない。

 

 世界の一つくらいまるごと消し飛ばすジュエルシード、解決の糸口が見えない事件、亡き両親、家族のこと。いろんなことが頭をぐるぐる回ってまともに現実を直視することもできない。

 

 自分の力を過信して首を突っ込んだ結果、雁字搦めだ。

 

 幸せそうにしている世界に虫唾が走る。でもなにより、間抜けな自分に一番反吐がでる。苛立ち紛れに周りへ八つ当たりしている自分に、失望する。

 

「いい加減にしろ……徹。お前はそろそろ自分の行状を改めるべきだ。そんなことだから周りに心配をかけて、真守さんにも……」

 

 かっ、と思考が赤熱する。頭に蟠っていた全ての事柄は綺麗に吹き飛び、ただ一つ、最愛の姉に対しての感情と、目の前の男への怒りのみが残った。

 

 俺は勢いよく立ち上がり、恭也を睨みつける。椅子は背後に転がっていき、何も入っていない俺の机は衝撃で前方に大きな音を立てて倒れた。

 

「とうとう尻尾を出したな! 姉ちゃんとの秘密の逢瀬は楽しかったか?! 裏でこそこそやってんじゃねえよ!」

 

「黙っていたのは悪かったが、それはお前がなにも言わず、なにも教えないからだろう!」

 

「はっ、開き直ってんじゃねぇよ! 自分は裏で画策してんのに、俺には隠し事をするなってか。大層なことだな、何様だお前は!」

 

「この機会に言わせてもらうが、徹の無茶には前からうんざりしていたんだ! 会う人間全員にいい顔をして節操がない! 苦労を背負い込んで、なんでも一人で解決しようとする! 身の程知らずも大概にしろ!」

 

「身の丈以上に頑張らなきゃ幸せになれねぇんだ! とやかく言われる筋合いはない!」

 

 怒りで思考が短絡的になる。売り言葉に買い言葉で俺も恭也も放つ言葉が激しく、棘のあるものになっていく。

 

 普段の泰然とした雰囲気をかなぐり捨てている恭也は、今にも胸ぐらを掴んで来そうなほどの剣幕だ。恭也だけでなく、俺も似たような形相なのだろう。

 

 クラスメイトは遠巻きに見るどころか、とばっちりを恐れて教室外に出ていた。

 

 険悪な雰囲気、一触即発の張り詰めた空気。学校内でトップクラスの危険人物と目されている俺と、時折顔を覗かせる冷たい眼差しが恐怖を煽ると評判の恭也。俺たちの苛烈な言い争いの間に入って止めようとする人間はいなかった。一部生徒を除いて。

 

「逢坂! 何をやっているんだ、冷静になりなよ! 君らしくもない!」

 

「高町くんも……落ち着いて、ゆっくり話そう? 二人とも、興奮してるから……一度落ち着いて、ちゃんと話……しよう?」

 

 火花を散らす俺と恭也の間に潜り込んだ影は二つ。

 

 俺の正面に回ったのは、女子の中では高い身長に赤茶色のショートヘア。長谷部(はせべ)真希(まき)だった。

 

 いつもの飄々とした喋り方は鳴りを潜めている。顔つきもこれまでに見たことがないほどに真剣そのものだ。

 

 恭也の前に躍り出たのは、小柄で華奢な体躯の太刀峰(たちみね)(かおる)

 

 俺からでは小さな背中と瑠璃色のセミロングヘアーのみで、表情までは窺えない。その髪は(さざなみ)のように揺らめいていた。

 

「けんかは、けんかはだめですよ……。そんなの悲しいですよ……」

 

 長谷部と太刀峰が俺と恭也の間に入って離れさせると、近寄ってきていた鷹島さんが蚊の鳴くような声を発した。(つぶ)らな瞳に涙を溜めて、両手を胸元で握り締めながら俺と恭也に語りかける。

 

 長谷部と太刀峰が割って入って険悪な空気を断ったところで、鷹島さんの悲痛な言葉。先までのように、語勢を強めて口論することはできなかった。

 

 だが、ここで引き返すこともできない。

 

 他の何かであれば、一度頭を冷やす時間を作って話し合いの場を設けることもできただろう。しかし、今回の口論の原因は他の瑣末な事柄ではなく、誰あろう我が姉についてだ。

 

 ここでお茶を濁して有耶無耶にする気は毛頭ない。

 

「ここでこれ以上続ければ周りに迷惑になる。だから恭也、一つだけ質問に答えろ。その解答如何(いかん)でどうするか決める」

 

「いいだろう、それで構わない」

 

 恭也との直線上に立つ長谷部の肩をそっと押して、横に移動させる。

 

 長谷部は肩に触れた俺の手を取り、じっと見つめてきた。女子の平均より背が高いとはいえ、長谷部と俺とでは差がある。

 

 身長差から、仰ぎ見るような形になっていた長谷部だったが、諦めたように、ともすれば悟ったように短く息を吐いた。

 

「やっぱり男の子だね……」

 

 長谷部は一歩二歩と歩いて道をあけながら、ぼそりと呟いた。その真意は、俺にはわからない。

 

 恭也も俺と同じように、太刀峰に何言が呟いて道を作らせる。

 

 互いに近づき、二十センチほどを残したところで立ち止まった。俺も恭也も一切譲らず、視線を交錯させる。

 

 俺が訊くことは、結局のところ一つしかない。

 

「まずは俺からだ。四月二十五日、買い出しに行くと約束した日。恭也、お前は誰と、どこで、何をしていた」

 

「俺の問いもその日のことだ。徹、お前は忍と何をしていた」

 

 一拍おいて、お互い問いかけに返答する。

 

「勉強会でも話題に上っただろ。あれが全てだ。デザートを食べさせあった。いつものこと、それだけだ」

 

「真守さんと会っていた。その内容は本人から、絶対に徹には教えるなと念押しされている」

 

「あくまでしらばっくれる気かよ」

 

「事ここに至ってもしらを切るか」

 

 同時に胸倉を掴む。

 

 理解した。このやり取りは、きっとどこまでも平行線を辿るのだ。

 

 俺は恭也が納得できるだけの情報を提供できないし、律儀な恭也は姉ちゃんと交わした約束を何があろうと守るだろう。絶対に、などとこいつが口にした以上、俺がどう言ったところで口を割ろうとはしない。それこそ、口が裂けようと割りはしない。

 

 ならば、他に手はない。

 

「もうどうしようもねぇもんな。仕方ねぇよ、あの日(・・・)の再演だ」

 

「そういえば勝敗はついていなかったな。いい機会だ、ここで白黒はっきりさせておくのも悪くない」

 

 恭也の口元には笑みを刻んでいる。おそらく俺も似たようなものだろう。そしてやはり、恭也が瞳の中に日本刀のような妖しげな煌めきを浮かべているのと同様に、俺の目の内には黒い焔が灯っているのだろう。

 

 俺と恭也の性格は、相反する部分が多い。性格が異なるからこそ、自分と違った物の見方や捉え方があって楽しいのだ。

 

 だがそれは、意見の食い違いを生み出す原因にもなる。食い違いからの摩擦、摩擦からの軋轢、軋轢からの……亀裂。

 

 これまでは互いに譲り合って保たれていただけだ。いつかは真っ二つに分かたれることになると予想して、覚悟していた。切っ掛けが何であったところで、いずれは同じ道を辿っていた。早いか遅いか、それだけの問題だったのだ。

 

 お互いゆっくりと口を開く。

 

 運命の悪戯か、神の采配か、はたまた昔馴染み故か。放たれた文句は異口同音に、一字一句揃っていた。

 

 

 

 

『表に出ろ』

 

 

 

 




いろいろ言いたくなることもあるかとは思いますが、どうかご容赦ください。ラストまで淡々と進めるようなことはしたくないのです。


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その油断が、最悪の状況を生み出した

とらはではない、とらはではないのです。なので設定の改変には目を瞑ってください……。


 俺が恭也と忍の二人に出会ったのは、小学校低学年の時。

 

 聖祥大附属小学校の校舎裏で忍が、見るからにやんちゃ然とした同い年くらいの男子生徒数人に囲まれていたところを俺が助けに入ったのがきっかけだった。

 

 その頃から忍は同級生とは段違いの可愛らしさを、というよりも小学生時分から子供っぽい可愛らしさよりも美人の片鱗が見え隠れしており、クラスどころか学校単位で人気があった。

 

 今でこそわかるが、おそらく忍を囲んでちょっかいをかけていた数人の生徒は忍に気があったのだろう。

 

 幼かった当時の俺には好きだの嫌いだのといった恋愛感情はさっぱりだったが、まだ人並み程度の正義感や義侠(ぎきょう)心があり、多勢に無勢というあからさまに分の悪い喧嘩に喜び勇んで殴りこんだ。今のように捻くれておらず、年相応の少年らしくヒーローなんてものに憧憬(どうけい)を持っていたようである。

 

 格好良く助太刀に入って、無様に幾つかいいのを貰いながらも、忍を取り囲んでいた男子生徒を退(しりぞ)けて囚われのお姫様を見事助け出した。助け出したのはいいが、厄介なのはここからだった。俺に年相応の正義感があったように、忍にも年相応の女の子らしさがあったのだ。大勢の知らない男子生徒に囲まれたことが怖かったようで忍は泣いてしまっていた。

 

 ここで登場したのが若かりし頃の恭也である。後から聞いたところでは、忍を探して学校中歩き回っていたそうだ。

 

 タイミングが悪かったとしか言いようがない。

 

 日が暮れ始めてオレンジ色に染まっている学び舎。手入れが行き届いておらず、草木が自由に生え伸びていて視界を遮る校舎の裏。人気のないそんな場所で、涙を流す知り合いの女の子と、その近くに目つきの悪い知らない男子生徒がいれば、恭也の立場からしてみればその男子生徒、つまるところ俺が泣かせたのだろうと考えるのは自然だった。

 

 ()く言う俺も、突如として現れた恭也のことは倒すべき敵であると勘違いしていた。やんちゃ系の男子グループを殴り倒して撃退した俺は、そのグループのメンバーが仲間を呼んで早速報復行動に打って出てきたのだろう、と取り違えていたのだ。

 

 怒髪天を()いた恭也は忍を助けるために俺へと殴りかかり、俺は名も知らぬ女の子を守るために第二戦へと移行した。

 

 目を伏せて、端整な顔を涙で濡らしていた忍が俺と恭也のずれた決闘を止めたのは、俺も恭也もずたぼろになって倒れる寸前になってからだった。

 

 振りかぶっていた拳を止めた恭也は忍から、俺に助けてもらった、という事情を説明され、俺は忍と恭也の関係を教えてもらい、ここで殴り合いの喧嘩は幕を閉じた。

 

 元から争う理由などなかったと知った俺と恭也は、出会ったばかりの他人だったにも(かかわ)らず、つい笑ってしまった。なんて無駄なことをして、なんて無駄な傷を負ったのだろうかと、そう思ったのだ。

 

 そんなことがあってから俺は二人と仲良くなり、高校生の現在に至っても未だ変わらず行動を共にしている。

 

 ある意味では、俺と恭也を引き合わせたのは忍で、人付き合いの苦手な俺が恭也と一足飛びに仲良くなれたのは忍のおかげとも言えた。

 

 だが今は、胸を張って親友であると断言できる恭也は、俺の数メートル前方で明確な敵意を瞳に宿して立っている。こうして拳を交えることになった理由もまた、忍が絡んでいた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 俺と恭也が教室で盛大に啖呵を切った後すぐ、恰幅の良い男性教師が俺たちのいる一年一組の教室に駆け込んできた。

 

 騒がしい昼休みとはいえ、ここまで派手に言い争いをしていれば教師の目につくのは当然である。馬鹿な上級生がいると言っても、この学校は基本的に平和なのだ。小さかろうが大きかろうが、なにか騒動があれば教師が仲裁に入るために飛んでくるのは当たり前であった。

 

 だがここに来て、関係もなければ俺たちの事情も知らない教師によって邪魔をされるのは(いと)われた。

 

 そもそもこの教室で事を起こそうなどとは微塵も考えてはいない。ここで俺と恭也がやり合えばクラスメイトに多大な迷惑をかけることになる。そんなことは本意ではなかった。

 

 互いに闘争心にスイッチが入っていて熱くなっているが、場所を選ぶくらいの冷静さはまだ残っている。

 

 しかし、教師が介入してきたことにより面倒なことになった。このまま教師に拘束されれば、少なくとも今日は恭也と拳を交える機会は失われるし、なによりそんな気分ではなくなる。興が削がれるのは避けたかった。

 

 移動しようにも、教室の外の廊下は食堂に昼食を摂りに行こうとしている生徒でごった返しているし、教室の前後の扉にも、窓にすら物見遊山(ものみゆさん)的に見物している生徒がいる。教室の扉から移動することは出来そうになかった。

 

 他に方法がないので仕方なく、俺は恭也に目配せする。俺が目を送ったと同時にこちらを振り向いていた恭也へアイコンタクトを送り、ここから出るぞ、と指示を出した。

 

 出口ならばもう一つある。窓だ。無論、人で溢れかえっている廊下側の窓ではなく、俺が外を眺めていた方向の窓。この出入り口は、長谷部と太刀峰の二人専用ではないのだ。

 

 俺と恭也は同時に床を蹴り、教師に背を向けると一息で窓枠へと跳躍し、そして飛び降りた。背後から悲鳴とも怒号ともつかない声が叩きつけられたが、今は意に介さない。そんな瑣末なことより大事なものが目の前にあるのだ。

 

 全学年の全教室が詰め込まれている普通棟。その建物の中において一年生に充てがわれている教室は三階にあり、俺が在籍している一年一組も勿論三階にある。

 

 そんな高所から飛び降りれば常人であればただでは済まないが、運が良いのかなんなのか、俺も恭也も常人という枠からは外れている。

 

 恭也は各階の教室の外に張り出している手摺りに手をかけ足をかけ、壁なども蹴りながら落下エネルギーを分散させて静かに着地した。俺はというと、ちょっとずるい気もするが体内で循環されている魔力の量を強めて身体を強化しつつ、見様見真似ではあるがフリーランニングの着地術・ランディングを使って落下の衝撃を和らげた。

 

 着地時に、昨日受けた雷の影響で筋肉がぴりぴりとした違和感を訴えたが、なんとか使い物にはなりそうだ。一晩休ませたことである程度は回復したらしい。昨日のように激しい動作を取ろうとしたら足がすぐに痙攣を起こして動かなくなる、ということはない。

 

「ちんたらやってたら先生が降りてきちまう。さっさと始めるぞ」

 

「ああ。……この場所……」

 

 三階から俺たちが降り立ったこの場所まで正規ルートで来ようとすればかなりの遠回りになる上に、廊下には沢山の生徒がいた。人の波を掻き分けてここまで来るとなると多少時間はかかるだろう。

 

 とはいえ、そう遠くないうちに教師が俺たちの喧嘩を止めにくるのは確定しているのだ。途中で止められるなどという不完全燃焼は避けたいので早速始めようと身体を前傾させたが、恭也が何かぼそりと呟いた。タイミングを外された俺はたたらを踏みつつ、恭也へ問いかける。

 

「なんだよ、この場所じゃあ不服ってのか」

 

「いや、そうではなく、この場所……俺が徹と初めて会ったあの校舎裏に似てると思わないか?」

 

 恭也に訊かれて、俺は周りを見渡してみる。

 

 人の通りは皆無。ところどころ草が踏まれたような形跡があるが、それは長谷部と太刀峰がここを使っているからだろう。その他には人が通ったような跡はない。

 

 この高校は潤沢な資金もあって敷地は広いが、いかんせん広すぎて手が行き届いていない。人の目につきやすい場所には業者に委託して草木の剪定をしているようだが、外の景色を楽しみながら食事をするのを売りにもしている食堂付近ならともかく、ここのような敷地の端っこの木々には手が加えられていない。

 

 無駄に大きく立派に育った樹木は高さと幹の太さだけでなく、木の葉もわんさと蓄えている。おかげで陽の光は葉っぱの屋根で遮られて、昼だというのに薄暗い。

 

 普通棟は食堂と体育館があるエリアと、文化部の部室にもなっている実習棟に挟まれる格好になっているので、俺たちが今いるこの場所は校舎裏とは呼び難い。しかし、なるほど。恭也の言う通り、言われてみればこの場所の雰囲気は、俺が忍を介して恭也と出会った小学校の校舎裏によく似ている。

 

 どこか、運命的な偶然を感じた。

 

「はっ、たしかにな。よく似てる。だからこそ再戦するには打ってつけとも言えるな」

 

「あの日つけられなかった勝負をもう一度演じるのに、これ以上に最適な場所はないだろう。否が応にも気分が高まるというものだ」

 

 かすかに笑みを浮かべながら足元の確認をして、恭也は構えを取る。

 

 どこかその構えに違和感を感じて、そして気づいた。今の恭也は剣を持っていないのだ。

 

 恭也が修めている御神流剣術。その中で恭也は、小型の刀を二振り使用する小太刀二刀御神流という剣術を修練している。俺の真骨頂が無手による格闘なら、恭也の真髄は得物を持ってこその剣技なのだ。

 

「おい恭也、刀はいらないのか? そのへんに転がってる木の枝でもへし折ればいい具合に使えるんじゃないか? 一流の剣士なら、得物が何であれ問題なく使いこなせるだろ」

 

「一流などと自惚れる気はない。それに刀はなくていい。徹の調子が万全ではないのに、俺だけ自分の土俵で戦うというのは違うだろう。それに……」

 

 恭也は途中でセリフを切って目を瞑る。

 

 俺の体調が(かんば)しくないことを、恭也は気づいていたようだ。顔色から察したのか、それとも三階からの着地の様子で判断したのか。

 

 どちらにせよ、こいつが使わないと自ら断言した以上、俺から何を言ったところで恭也は断固として武器の類を手にしようとはしないだろう。

 

 恭也のことだ、別にハンデのつもりで言っているのではない。なるべく公正な勝負をしたいがための提案だろう。

 

 とはいえ、刀がなくとも恭也は手強い。素手喧嘩(ステゴロ)ならば俺に有利なようにも見えるかもしれないが、実際の所そうでもないのだ。

 

 御神流というのは剣術ではあるが、源流を(さかのぼ)れば古武術である。恭也は刀なしの格闘であっても、充分戦闘に足るだけの技術を会得しているのだ。戦力の著しい低下とはならない。

 

 恭也は顔を上げて目を開き、こいつらしからぬ少年のような悪戯っぽさがある笑みを俺に向けて言った。

 

「あの日も泥くさいくらいに拳での殴り合いだったんだ。ならば、再戦する今回も素手での殴り合いがいいだろう」

 

 気障ったらしく恭也はそう言ったが、俺は他にも意図があったように思えた。

 

 恭也の剣術、御神流は恐ろしく実用的な剣術なのだ。実用的とはつまり、人を殺めることを目的とした技ということである。

 

 身体に染みついた技術はそう簡単に抑え込めるものではない。真剣を使わずとも、なにか間違いがあれば怪我では済まないことになるかもしれない、という懸念を恭也は感じたのではないだろうか。

 

 男と男のプライドはかかっているが、命のやり取りまでするつもりはない。試合を殺し合いにするつもりはないのだ。まだ危険の少ない素手を選んだのはわからないでもなかった。

 

「はっ、そこまで再現すんのかよ。後で後悔しても知らねぇぞ。同じ殴り合いでも、あの時とは中身の技術が違うんだからな」

 

「そこまで言うのなら見せてもらおう。そして俺が剣術以外にも使える所も見せてやろう」

 

 数メートルの距離を開け、俺も恭也も自然体に近い構えを取る。

 

 顔に浮かんでいたささやかな笑みは消え去った。研ぎ澄まされた刀身のような、静けさと危うさが渾然一体となった雰囲気が周囲に充満する。

 

 この場所に降り立ってから会話を交わしていたのは、別に和解したからではない。互いに心の奥底にフラストレーションを溜め込んでいたのだ。ここ一番で爆発させるために、ただ目の前の相手をぶちのめすために、自分の大切なものを掠め取ろうとした男をぶちのめすために、魂を燃やす燃料(怒り)を蓄えていたのだ。

 

 そしてそのエネルギーは溢れるほどに満たされた。

 

 拳を硬く、握り締める。

 

「手加減はしねぇ」

 

「容赦はなしだ」

 

 風が木々の間を吹き抜けた。頭上から葉擦れの音が降り注ぐ。

 

「覚悟は決めたか?」

 

「腹は括ったか?」

 

 強い風は木々を揺らすだけでは飽き足らず、校舎の壁を叩き、大地を舐める。砂が巻き上げられた。

 

「遺言は(したた)めたか?」

 

「辞世の句は用意したか?」

 

 嵐の中心にでもいるかのように、俺たちの周りを風が走る。

 

「心残りしねぇように全力を出せよ」

 

「未練を残さないよう本気で来い」

 

 恭也の表情には、明らかな敵意が浮かび上がっていた。おそらく俺も、同じ顔をしているのだろう。

 

「オールオッケーだ!」

 

「万事(つつが)ない!」

 

「恭也! 最後に一言だけ言っとくぞ!」

 

「ああ、徹! 俺も言っておかなければいけないことがある!」

 

 新緑色の一葉が、俺と恭也の視線上を通過した。

 

 お互いに、それが合図になることを分かっていたように地を踏み締め、駆け出した。

 

 数瞬で彼我(ひが)の距離を殺し、腕を振りかぶる。

 

 同時に叫んだ。

 

『俺の女を返してもらう!』

 

 拳は振り抜かれた。

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 打っては打たれ、突いては突かれ、蹴られては蹴り返す。

 

 顔面に直撃した一打が口の中を切っても、相手からの攻撃など気にも留めない。唇の端から血が滴っても歯牙にも掛けない。ただ自分の拳を目の前の男に振るうだけの泥臭く血生臭い、ただの喧嘩だ。

 

「すかしてんじゃねぇ! 大人ぶってるつもりか!」

 

「自分は何でも出来る人間だと思っているのか! 不器用な癖に気取るな!」

 

 俺の右の拳は恭也の顔面を捉え、恭也の中段蹴りは俺の腹部にめり込んだ。

 

 互いに苦痛と衝撃で後方へとよろめく。私闘が始まって初めて距離が生まれた。

 

「タフすぎるだろ……化け物かよ。決着(けり)がつかねぇ」

 

「頑丈すぎる……本当に人間なのか。埒が明かない」

 

 男の矜持がかかっているからか、恭也は一切退こうとはしない。これまで何度も打突は通っているのに、膝を折ろうとはしなかった。

 

 恭也がフェアにする為に得物を持たずに戦っているのだから、俺もリンカーコアの魔力供給は最低限にしている。身体能力は魔法を知る前と同程度に落ちているとはいえ、ここまで決定打に欠くとは思わなかった。

 

 大立ち回りを演じ始めてから時間もそれなりに経過している。これ以上長引けば勝敗を決する前に邪魔者(教師陣)が割り込んできてしまう。

 

 いつ介入されてもおかしくない状態なのだ。逆に教師たちの動きは遅いくらいとも言える。

 

 急いで終わらせるというのは味気ないし風情に欠けるが、ここまできて決着がつかないのは白ける上に禍根を残す。そんな終幕は承服できない。

 

 気は乗らないがここからは加速させてもらう。

 

「昔を懐かしんで技術も何もない殴り合いをすんのも一興ではあるけどな、時間に余裕はねぇんだ。そろそろ本気でやろうぜ」

 

「腕を振り回すだけの喧嘩は終わりか」

 

「過去を大事にするのもいいけどな。今の自分を見据えて、持てる全てを尽くす方が格好良いだろ」

 

「あの頃からどれだけ成長したのか披露する、という所だな」

 

「そういうことだ。理解したなら……早速行くぞ!」

 

 地面を削るほどに強く踏み込み、恭也へ肉薄する。恭也はただじっと見つめ、待ちの構えに入った。

 

 恭也を射程内に捉えた瞬間、左足を踏み出し、腰を捻って腕に力を集中させる。

 

 恭也と初めて知り合った当時ではまだ習っていなかった神無流の基本技術、『踏鳴(とうめい)』だ。踏み込みと体重移動の技。攻撃にも、防御にも、移動にも使用する基礎中の基礎となる。

 

 拳が接触したことで生じた重低音が空気を震わせた。

 

「速く、鋭く、そして重い。見本のような優れた一打。しかし当たらなければどうということはない」

 

 恭也はサイドステップで身体を横にスライドさせると、俺の腕の側面に手を触れて軌道をずらした。周囲に響いた重低音は、恭也の背後に屹立(きつりつ)していた木に当たった音である。

 

 怒りで魂を焦がしながら、それでいて頭はクールに冴え渡らせる。恭也のしていることは、簡単なようでその実とても難しいことだ。自分の心をしっかりコントロールするのは生半なことではない。

 

 俺の打撃を回避した恭也は、拳を振り抜いて寸時硬直した俺を見てチャンスだと思ったのか、重心移動に多少時間がかかる足技を繰り出した。

 

「躱すだろうとは予想していたぜ」

 

 俺は大木に叩きつけた拳をすぐに戻し、踏み込んだ勢いがなくなる前に前方へと足を運ぶ。ウォールランの要領で木の幹を一歩二歩と駆け上がり、後方へと宙返りして恭也の足刀を避ける。

 

 標的を見失った恭也の攻撃は俺と同様に大木を叩いた。落下してくる木の葉の量がその威力を表している。

 

「身軽な……」

 

 着地の隙を狙った恭也の外へ払うような手刀を、俺は(かが)んで躱し、ぐるりと一回転して遠心力を乗せた裏拳を放つ。だが、恭也がふわりと羽毛のように軽く、蜃気楼のようにぼんやりと身体を霞ませながら後退したことで、俺の攻撃は幹に打ち据えることとなった。

 

 剣道などで重要とされている足捌きは、上級者になれば瞬間移動のようにすら錯覚させる。恭也のそれはまだその域に達していないが、それでも達人の片鱗は顔を覗かせていた。

 

「面倒だな……」

 

 普段の精神状態であれば賞賛の言葉の一つでも送るところだが、叩きのめさなければならない憎き(かたき)となっている今、口をつくのは非難の文句のみだ。

 

 距離を取った恭也はその場でスピンして地面を蹴り、跳躍した。

 

 恭也の長い足は、鎧のように強靭で鞭のようにしなやかな筋肉に余すところなく覆われている。ただでさえ申し分のない威力を有した蹴りに、遠心力と捻転力が加算されているのだ。もろに喰らえば痛いでは済まない。

 

 俺は側転して恭也の攻撃範囲から離れ、先ほどから俺と恭也に殴られ続けている大木の影に隠れる。

 

 恭也の飛び回し蹴りにより、大木の樹皮は爆ぜるように飛散した。度重なる流れ弾に、大木は軋みと言う名の悲鳴をあげる。

 

「決定打が……」

 

「入らねぇ……」

 

 足を止めての子供じみた殴り合いから、技術を駆使した戦闘へと移行してからというもの、俺も恭也も回避重視の試合運びとなっていた。

 

 きっと恭也も理解しているのだ。防御しても、それすら貫通して攻撃の威力が自分を襲うことになるだろうと。一度防御して足を止めたら、そこから終わりのない連打の雨に打ち据えられるだろうと。

 

 だからなんとしてでも回避し、周囲の遮蔽物を盾にして防ぐ。まともに一撃でも貰えば、ダメージから動きが鈍くなると予測出来てしまえるからだ。

 

「くそがっ!」

 

 打っても払っても突いても薙いでも決定打に繋がらない膠着状態に嫌気が差してくる。思い通りにならない戦況に腹が立つ。

 

「ふらふらと逃げんな!」

 

「ちょこまかと動き回る……まるで鼠だな!」

 

 咆哮とともに放たれた俺の掌底は木に阻まれた。恭也からの切り返すような手刀は大木を盾にして防ぐ。

 

 俺と恭也の間に(そび)え立つ大木を挟んで打ち合う。打つたびに空気が震え、幹の表皮には亀裂が刻まれる。

 

 有効打を決められないまま、時間だけが無為に過ぎていく。

 

 心に蟠るもやもやした感情はやがて言葉となって吐き出される。今回の件だけじゃない、今まで腹に据えかねていた様々な事柄が噴出する。

 

「いつもいつも俺たちから一歩離れて眺めやがって、保護者でも気取ってんのか!」

 

「お前と忍が喋喋喃喃(ちょうちょうなんなん)と話している光景を見て、俺が何も感じていないとでも思っているのか!」

 

 俺たちの鋭い踏み込みで大木の周囲の地面は徐々に抉れていく。砂に隠されていた太い根が露わになった。

 

「笑わせてくれるなぁ、おい! お前と忍のなんでも分かり合っているみたいな空気を俺が知らないとでも思ってんのか?!」

 

「徹と忍の息のあった掛け合いについていけない俺の気持ちがわかるのか!」

 

「繋がりみたいな……運命を共にしているみたいな雰囲気を目の当たりにした時の、俺が受けた仲間外れみたいな感覚をお前は考えたことがあんのか!」

 

 拳撃は頭上の木の葉を震わせ、太刀のように鋭い蹴りは空間を切り裂いた。

 

「徹と忍の仲の良さは知っているが、最低限のラインは守ると信じていたんだ! 信頼を裏切ったのは徹の方だろう!」

 

「なんの話をしてんだ! 恭也の方こそ、忍がいるのに姉ちゃんにも手を出したんだろうが!」

 

「そっちこそ何を言っている!」

 

 話の流れに違和感を覚えたが、冷静に考える前に事が動いた。

 

 俺と恭也に障害物として利用され、盾として扱われていた木が、ダメージの許容限界を超えたのだ。

 

 恭也の手刀や足刀を浴びせかけられ、俺に肘突や膝打を叩き込まれた木は、中心部からめりめりと押し潰すような音を立てて傾いた。

 

 硬い樹皮が弾き飛ぶ。破片の一部が左肩に刺さり、小さな欠片が頬を掠めた。

 

 俺は倒木に巻き込まれないよう、大きく後ろへ飛び退(すさ)る。正対していた恭也も、地に倒れ伏す木の影響を受けない位置まで後退した。

 

 落ち葉と砂を巻き上げて、木は倒れた。耳を塞ぎたくなるほどの轟音が辺りにばら撒かれ、地震のような揺れが俺たちを襲う。

 

 周囲に群立している木に反射したり校舎の壁に跳ね返った音が静まり、砂煙が収まった頃には、恭也の姿は十メートル以上も離れた場所にあった。

 

 視界の中心に恭也を収め、わずかな動きも逃さないよう一挙手一投足に注意していたが、聴覚が異変を察知した。離れたところではあるが砂を踏む音。何者かの足音である。時間がかかりすぎてしまったことで、とうとう人が来てしまったのだ。

 

 時間の猶予はない。あと一合打ち交わすことが出来る程度だろう。

 

 しかし、一撃組み合うことができるのなら、なんら問題はない。

 

 拳と拳の語り合いは、やはり男らしく一撃で決着をつけるのがベストなのだ。

 

「……恭也」

 

「わかっている。次で……決める」

 

恭也も残された時間が少ないのはわかっていたようだ。口に出さずとも、すぐに悟った。

 

 互いに構えを取る。

 

 視線の先にはただ一つ、俺の姿を映す恭也の鋭い瞳。

 

 ぴりぴりとした緊張感が肌を刺す。木陰で冷やされただけではない冷気が首元を撫でた。

 

「なにがあっても」

 

「自己責任だ。悔いは」

 

「残さねぇ」

 

 最後の確認をするように短く言葉を交わす。ここまで来て、相手の身を慮って手を抜くようなことはするなという念押しだ。

 

 迫力が膨れ上がる。暴風雨のような敵意が俺にぶつけられた。

 

 地を踏み締め、足に力を蓄える。爆発の寸前まで、密度を高めてエネルギーを溜め込んだ。

 

「これが俺の全身全霊!」

 

「俺の全力全開……」

 

「その身に受けてみやがれ!」

 

「その目でしかと御覧(ごろう)じろ!」

 

 前へ、ただ前へと急かす運動命令を受けて、足が運動エネルギーを地に向けて発した。足場となっていた地面は砂礫を飛ばす。

 

 心臓が強く律動を刻み、全身へと血液を送る。燃え滾る血潮は視界を真っ赤に染めた。

 

 風景が霞むほどの速度で俺は恭也へ接近し、恭也も俺へと肉薄する。俺は神無流の移動術『襲歩』で、恭也は昔に一度だけ目にしたことがある高速移動術『神速』で一瞬のうちに距離を詰めた。

 

 互いの拳が空気の壁を突き破らんばかりの速度で振るわれる。

 

 まさしく目にも留まらぬ速さの一撃。何者も介在することのできない世界。一般人が介入できる領域ではない。はずだった。

 

「こんな……こんなバカなことやめなさいよぉっ!」

 

 俺と恭也のちょうど中心で忍が無謀にも、細く、そして繊細な身体を晒した。

 

 極限の集中、焼き切れそうな神経回路。(もたら)されるのは感覚的な時間の遅延。その境地に至っている俺と恭也は突然戦域に入り込んだ忍の姿を見て目を見開いた。

 

 遠くに聞こえた足音は忍のものであったようだ。それはまだわかる。俺と恭也の戦闘に割り込んだ理由も――心は痛むが――理解できる。

 

 しかし、なぜ追いついたのか。なぜ追いつくことができたのか。それだけがわからなかった。

 

 耳に届いた足音の強弱でだいたいの距離は把握できる。どれだけ短く見積もっても、最後に一合打ち合うだけの猶予はあった。

 

 なのに今、木漏れ日を反射させる綺麗な紫髪が目の前にある。俺が立てた推測が甘かったせいで、よりによって一番危険な瞬間に、忍が俺たちを止めに入る時間を作ってしまった。

 

 思考は加速している。忍が介入してきたこともすでに察知できているのに、動作を止めることができない。振り抜かれた拳はもう止まらない。

 

 全身の筋肉は脳から送り込まれた迸らんばかりの電気信号を受信し、躍動させ、既に行動を終了している。もう引き戻すことはできなかった。

 

 それは恭也も同様であった。歯を食い縛る表情が、策がないことを、もうどうしようもないことを証明していた。

 

 油断はあった。目の前のことにしか注意を傾けていなかった。第三者が近づいて来ているのはわかっていたのに、間に合うわけがないと高を括っていたのだ。

 

 その油断が、最悪の状況を生み出した。

 

 俺の全身全霊、恭也の全力全開の力が籠められた――死力を尽くされた一撃は止めることも、ましてや軌道を逸らすこともできない。

 

 相対する男へと放たれるはずだった拳撃は、俺と恭也のど真ん中に身を(さら)け出した忍へと吸い込まれるように向かう。

 

 

 

手に、肉を打つ感触がした。



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その覚悟を、俺はようやく理解した

「はぁ、なんでこんな無茶をしたんだ。こんの……バカ!」

 

「一歩間違えれば怪我では済まない所だった。……わかっているのか?」

 

「だってっ……だって、二人が恐い顔して喧嘩してるのに……私のせいなのに、黙って見てるなんてできなかったんだもん……」

 

 (まぶた)を赤く腫らしながら、忍は普段のキャラにそぐわない口調で釈明する。瞳はまだ潤んでいた。

 

 忍は俺と恭也の仲裁に入った位置から動かず、そのままへたりと座り込んでいる。動かないのではなく、腰が抜けて動けないらしかった。

 

 恭也はまだ本調子に戻らない忍に寄り添っている。制服は所々破けているし、端正だった顔は見る影もないほど痣ができているが、それでも笑顔が浮かんでいた。

 

 俺と恭也に糾弾された忍はまた口元をへの字にして声を震わせる。枯れることを知らない忍の涙を拭うために、恭也はハンカチを取り出して忍へ手渡した。

 俺はその光景を、根元近くからへし折って倒してしまった木に腰掛けながら眺める。

本当に良かったと、忍に怪我をさせずに済んで本当に良かったと心の底から安堵しながら、俺は放心気味に二人を見ていた。

 

 

 忍が戦闘を停止させるために俺と恭也の射線上へと躍り出た時、俺たちは渾身の力を籠めた拳撃を自力で止めることはできなかった。恭也も俺と同じく、運動命令を撤回することはできなかったようだ。

 

 そんな状態にありながら、忍を傷つけずに済んだのは無我の境地故の産物だった。

 

 忍に手が触れる寸前、俺と恭也の意識はただ一つの目的の下、ほぼ完全にシンクロした。目の前の女に、大事な存在に傷をつけたくないという一心から、本能が思考を凌駕したのだ。

 

 自分の力で止められないのなら、自分以外に止めてもらう。

 

 俺は忍へと向かっていた恭也の拳を左手で受け止め、恭也は俺の右拳を掴んで食い止めた。

 

 走り込んで加速がついた身体を後ろに引き戻すことはできない。それなら逆に、もう一歩踏み込んで互いの攻撃を止めてしまえばいい。そんな理屈だった。

 

 その考えに行き着いたのは、既に行動を終わらせた後のことだったが。

 

 忍を挟んで恭也の手を捕まえたので、ぱっと見では忍が俺と恭也に抱き締められているような格好になった。それくらい近い距離にいた。

 

 呆然とした状態から復帰した忍は俺と恭也の首に腕を回して引き寄せると、いきなりその場にしゃがみ込んだ。予想外のことが続いて脳の処理が追いついていないところで忍に(もた)れかかられたので、バランスを崩して俺と恭也は地面に倒れ込む。

 

 地面に仰向けになって木の葉の屋根を見遣りながらどうしたもんかと考えていると、首に手を回したままの忍が、それはもう気持ちいいくらいにわんわんと、まるで小さな子どものように泣き出した。忍の泣き顔を見るなんて、それこそ初めて出会った日以来のことだったので大変戸惑った。

 

 隣を見ると恭也もどうすればいいか測りかねている様子だった。

 

 ついさっきまで殴り合いをしていたのに、いつの間にか中断させられ、終いには忍に泣きつかれている。そんな突拍子もない想像外の事態が起きてしまって、なんだかもうどうだっていい気分になってしまった。

 

 俺と恭也は顔を見合わせて、思わず笑った。何の為に何をしていたのかさえ、頭から抜け落ちていた。

 

 俺はしゃくり上げながら涙を流す忍の背中をさすり、恭也は優しく紫色の髪を撫でる。それは忍が泣き終わるまで続けられた。

 

 結局、此度(こたび)の再戦も、勝敗は決しないまま流れた。きっと俺と恭也の勝負は決まらない定めにあるのだろう。

 

 あの日も今日も、俺と恭也が喧嘩する理由は忍で、その喧嘩を止めるのも忍だった。

 

 

 忍がひとまず泣き止んで倒れ込んでいた状態から身体を起こしたことで、俺と恭也も仰向けから座位に移行した。泣き止んでもなおぐずる忍の対処は恭也に任せ、俺は大木をベンチ代わりにしていたのだった。

 

「ていうか忍、お前どうやってここまで来たんだよ。教室にいなかっただろ」

 

 恭也にハンカチを借りて涙を拭っていた忍へと、俺はワイルドな丸太のベンチから立ち上がって歩み寄る。へたり込んでいる忍と目線を合わせるように、俺も地面に腰を下ろした。

 

「綾ちゃんがね、教えに来てくれたの。徹と恭也が喧嘩してるって、止めに行ってって」

 

 涙は止まり始めていたがまだ落ち着いていないのか、忍はしゃくり上げながら答えた。

 

 なにやらちょっと幼い感じの受け答えになっているのが不安の種である。トラウマにならなければいいけれど。

 

「よく先生たちより早く来れたな。てっきり先生が近づいてきたものだと思っていたのだが」

 

 あやすように忍の頭を撫でながら、優しい声音で恭也が尋ねた。

 

「真希ちゃんや薫ちゃんが先生たちの足止めしてくれてるって、綾ちゃんが言ってた」

 

 忍は目を潤ませながら上目遣いで、恭也を見つめながら答えた。常と異なる忍のか弱い雰囲気に、恭也は生唾を呑み込んだ。

 

 地面は抉れ、緑色の木の葉が大量に落ち、挙げ句の果てに木が倒れているこの場の状態において恭也の考えていることは緊張感がないように思えるが、いかんせん、俺は恭也を責めることはできない。俺も忍の姿を見て心臓がどくんと跳ねたからだ。

 

 泣き顔を見られないようにしているのか、忍は心なし顔を伏せているので数本、長く綺麗な髪が顔にかかっていた。赤くなった目元に、鼻と口元を隠す仕草。女の子座りで葉っぱのカーペットに座りこんで、幼気に、甘えるような声で話す忍は、どんな男の目にも魅力的に、ともすれば蠱惑的に映るだろう。

 

 身体の中心に血が集まるような感覚がした。恭也がいなければ俺はとち狂った事を仕出かしていたかもしれない。

 

 恭也が俺へと目線を向けた。そして大きく深呼吸をする。どうやら恭也も俺と似たような衝動を感じたらしかった。

 

「これ、徹が持ってたものなんでしょ……?」

 

 『これ』と言いながら忍が取り出したのはくしゃくしゃになった皺だらけの紙。否、一枚の写真。俺がエントランスで男子生徒から強引に渡された茶封筒。その中に封入されていた数枚の写真の内の一つが今、忍の手にあった。

 

 何故それを忍が持っているのかと動揺しつつポケットを探ると、一枚なくなっていた。

 

「二人が窓から飛び降りる時、徹のポケットから落ちてたのを真希ちゃんが拾っててくれたらしいの。それで真希ちゃんが綾ちゃんに渡して私に……」

 

 長谷部は(その場には太刀峰もいたが)俺の家に泊まったことがあり、姉ちゃんと顔を合わせている。恭也と一緒に写真に写っている人間が誰なのかわかっていたのだ。そして教室で、俺と恭也との言い争いも耳にしていた。元凶がこの写真であると見当をつけたのだろう。

 

 そして忍に届けるために鷹島さんへと経由した。鷹島さんでは教師たちの足止めは出来そうにないだろうから、その役目の割り振りは正しい判断だ。

 

「言わないようにと、頼まれたんだがな……」

 

 忍が出した写真を見て、恭也が口を開いた。

 

 喋らないまま、事態を終息させることはできないと察したのだ。

 

「……真守さんは、徹にプレゼントを買いたかったらしい。そのプレゼントを選ぶのに、俺の意見を取り入れたかったのだと、そう言っていた」

 

「は……は? プレゼント? じゃあなんで……あんな如何(いかが)わしい場所にいたんだよ」

 

「徹、最近ネックレスを身につけるようになっただろう? それでアクセサリーの類に興味を持ちだしたのかと思って、真守さんに勧めたんだ。そしたら大通りから奥まったところに専門店があるらしい、というのを真守さんが思い出したようでな。真守さんに引っ張られるまま入っていったんだ。俺も怪しげな路地に足を踏み入れるのは気が進まなかったのだが……」

 

「専門店……?」

 

「うん、私も聞いたことあるわ。品揃えもいいしセンスもいいけど、ただそのお店、立地が悪いかつ怪しげだし、分かりづらいところにあるから行き辛いって。翠屋に来てたお客さんがそんなこと言ってた」

 

「プレゼント……プレゼントだってのか。そんな理由かよ……」

 

「そんな理由とはなんだ。俺は真守さんから言いつけられていたんだぞ。サプライズで渡して驚かせたいから絶対に教えないように、とな。満面の笑みでそう約束を強制させられたというのに……約束を破ったらこねくり回すとまで言われたというのに……はあ」

 

 顔に影を差しながら、恭也は肩を落とした。

 

 俺は恭也から発せられた文章を脳内で整理して、いつの間にか開いていた口を閉じた。

 

 どんな約束であれ、口約束であれ、交わしたのなら恭也は言い触らすようなことをしない。律儀で生真面目で、頑固で愚直な恭也の性格は理解している。

 

 しかし、なぜこんなことになるまで口を開こうとしなかったのか。

 

 拳と敵意を向けあってぼろぼろになるまで……いや、仮に喧嘩をした後でも恭也は教えようとはしなかっただろう。忍がいたからこそ、やっと喋る気になったのだ。

 

 なんであれ、なぜこうまで(かたく)なに口を(つぐ)んでいたのか、俺にはわからなかった。教室の時点で事情を説明してくれていれば、ここまで深刻なものにはなっていなかったはずだ。もしかしたら喧嘩にまで状況が悪化することもなかったかもしれない。少なくとも、俺の背後の大木は倒れることはなかった。

 

「真守さんは、最近の徹は様子がおかしいことに、その変化に気づいていた。何かに追われるように焦っていると、そう言っていた。さすがは徹の姉だ。溢れんばかりに愛情を注いでいる弟の異変に、姉である真守さんが気づかないわけないのだろう」

 

 恭也は頭上を見上げながら、姉ちゃんと会った日のことを思い出すように言葉を紡いでいく。

 

 俺も、忍も、それを黙って聞いていた。

 

「焦ってばかりでは大事なものを見失うから、足を止めて落ち着いて、周りを見て欲しい、と真守さんは笑顔で俺に言ったんだ。その為にサプライズプレゼントを用意したいと……言っていたのにな。ああ……全部話してしまった」

 

 恭也は俺に、怒られる時は徹のせいにするからな、と苦笑いを向けた。約束を破ってしまったと言いながらも憑き物が落ちたように、どこかすっきりしたような表情だった。

 

 俺の勘違い、だったのだろう。誰が撮影したのかもわからない写真を見せられて猜疑心を植えつけられ、姉ちゃんとの約束を守ろうとしていた恭也の口振りを悪い方に捉えてしまった。

 

 それでも、俺の知らない隠し事は、やはりある。姉ちゃんに関係していなくても、それでも俺に内緒にしていることは確実にあるのだ。

 

 しかしその秘事は、決して俺を蔑ろにするようなものではない。今はまだ明かすことができないだけ、諸々の都合が合わないだけなのだ。

 

 俺に損があるようなものであれば、恭也はすぐに伝えてくれる。

 

 今回の件は、恭也を、親友を信じ切れなかった俺の責任だ。誠実なる人格者である恭也が、忍と姉ちゃんの二人に手を出すなんてするわけがないのに、それこそ全幅の信頼を寄せていたはずなのに、信じ切れなかった。俺の心の弱さが、今日の騒動を引き起こしたのだ。

 

「次は俺の番でいいか?」

 

 そう言うと恭也は胸ポケットから一葉の写真を取り出し、俺と忍に見せた。

 

「これって……」

 

「あの喫茶店でウェイトレスにしてやられた時の、あの写真だな」

 

 恭也が持つ写真に写っていたのは、オールドウッド柄の壁と大層な装飾が施された額縁。その装飾過多な額縁の中には、俺と忍が顔を近づけている写真が引き伸ばされた状態で嵌め込まれていた。

 

 カップルならば割引があるとの誘い文句にほいほい乗せられて、抵抗する間もなく退路を断たれてしょうがなく撮らされた、あの写真が写っていた。

 

 俺と忍が確認し終わると、恭也は写真をくるりと反転させる。写真の裏側を見せた。

 

「裏にはアドレスが書かれている。そのアドレスは喫茶店『What』のホームページのものだった。そのサイトにも画像が貼られていてな、そこの説明文に『本店はカップル様には割引を〜』などといった文句が書かれていた」

 

 あの得体の知れない奇々怪々なウェイトレスがどでかいカメラを持って撮影などと口走った時点でうっすらと嫌な予感はしていたが、まさかここまで大仰にするとは思わなかった。想定して然るべきだったというのに。

 

 あの珍妙なウェイトレスに、まさか二度もしてやられることになるなんて悔しい限りだ。

 

「この写真が二〜三日前に下駄箱に入れられていたんだ。写真のことがあったせいで、心の何処かで徹に対する不信感が芽生えていたのかもしれない」

 

「これは買出しの後、徹と喫茶店に寄ってお会計の時に撮らされた写真ね」

 

「カップルなら割引しますっていう謳い文句に引っかかって、恋人の振りをした俺たちが悪いんだけどな……。キスしてるように見えるけど、顔を近づけているだけだからな。俺の頭で隠しているだけだ。当たり前だが、口はつけていないぞ。そのくらいの配慮はできるつもりだからな」

 

「そんなことだろうとは思っていた……いや、冷静になってやっとそう思えたんだ。やっぱり徹を信じきれていなかった。俺が悪かったんだ」

 

 自嘲するように、恭也は乾いた笑いを浮かべた。

 

 恭也も俺と同じだったのだ。心にゆとりがなくなり、冷静さを欠いたところで俺と話をして、まともな返答を貰えず、そして誤解を深めた。心底から信じていれば決意が揺れることはなかったのに、と自責の念に駆られ、疑惑の目を向けたことを後悔している。俺と同じだった。

 

 俺と恭也の性格は相反するところが多い、それは事実だ。だが、似通ったところもまた、同じくらいにある。

 

 だから出会った初日くらいしか喧嘩せずにこれまで来れたし、親友と呼べるまでに仲良くなれた。

 

 共通する価値観があったからこそ、俺と恭也はここまで親しくなったのだ。

 

 馬鹿みたいだ、なにやってたんだ俺たちは。すれ違いもいいところだ。最初から根っこの部分はなにも変わっちゃいなかったってのに。

 

「くっ……はは、馬鹿みてぇだな、ほんと」

 

「な、なんなの、徹。どうしたの?」

 

「馬鹿とはなんだ。いきなり笑って気持ち悪いぞ、頭を打ち過ぎてパーになったのか」

 

 急に笑い出した俺を、忍と恭也は怪訝そうな目で見てくる。

 

 馬鹿という言い草が癪に障ったのか、恭也の言葉はいつもより棘があった。

 

 しかし、それでも笑いを止められなかった。あまりの成長のなさに、呆れを通り越して可笑しさが前に出てしまっていたのだ。

 

「あの日から、なにも変わってねぇじゃんか。年取って身体は大きくなっても、変わらないもんなんだな」

 

「変わらないって、何がだ」

 

「年取るとか言わないでよ」

 

「勘違いして喧嘩して、忍に止められて話し合って、そこでやっと仲直り。初めて出会ったあの日となにも変わらない。なんにも成長してねぇよ、俺たち。はっは、馬鹿みたいだ。わざわざ喧嘩なんかする必要なかったじゃねぇか」

 

 馬鹿馬鹿しくて、くだらない。笑いすぎて涙まで出てきたほどだ。

 

 殴られた顔は痛むし、口の中は切ってしまっていて鉄の味がする。蹴られた腹はじんじんとした疼痛が残っているし、木を叩きすぎて拳も足も皮が剥けて血が出ている。

 

 最初から話し合っていれば、こんな痛い思いはしなくて済んだのに。本当にもう、愛おしいほど馬鹿馬鹿しい。

 

「ふっ……。そう言われると返す言葉もない。確かにそうだな」

 

「あんたたちなに笑ってるのよ! 私がどれだけ心配したと思ってるのよ! もう絶対喧嘩なんてしたらだめなんだからね! 絶対よ!」

 

 恭也は顔に痣を作っているし唇を切っている。忍は目を真っ赤に充血させていた。

 

 恭也とは本物の敵意を向けて争ったし、忍は巻き込んでしまって泣かせもしてしまったが、それでもこうして、三人一緒にいる。この空間が、この雰囲気が、いかに自分にとって大事なものかを再確認できただけでも、今回の喧嘩は収穫があったといえよう。恭也が腹の底で積もらせていた不満や憤り、遣る瀬無さや不快感も知ることができた。確実に実りはあったのだ。俺にとっても、きっと恭也にとっても。

 

「ほんと馬鹿みたいだ。そして馬鹿みたいに真っ直ぐだ。俺は、そんなお前たちだから一緒にいたいと思うんだ。そんなお前たちだから仲違いしたら悲しいんだ。そんなお前たちだから……俺は大好きなんだ」

 

 恥ずかしいとは思わなかった。いつものように照れ隠しもしなかった。頭で考える前に、口が動いた。

 

 本心からそう思えたのなら、気持ちはすぐに伝えるべきなんだ。心の奥にしまっては、時間が経つと不純物が混じって濁り、いつしか腐ってしまう。いつの日か今日のことをからかわれるかもしれないが、今言わないと後悔しそうな気がしたのだ。

 

「ま、全く徹は、恥ずかしいことを堂々と言う。俺は徹のそういう気障なところが嫌いだが……それ以上に、好ましく思う」

 

 呆れたように一つ溜息を零すと、恭也は天を仰いだ。木の葉の屋根から漏れた陽光が、恭也の(まなじり)を一瞬きらりと輝かせた気がした。

 

「なんで、なんで今そんなこと言うのよ……私をどれだけ泣かせる気なのよ!」

 

 またも忍は瞳を潤ませた。

 

 蚊の鳴くような声から次第に大声になり、最後には叫んでいた。

 

 忍は顔を伏せて感情を溢れさせながら、俺と恭也の手を取る。

 

「私も……二人が大好きっ……」

 

 涙と一緒にそんな言葉を零す忍の頭を恭也は撫で、手を握られた俺は顔を背けた。

 

 

「忍、そろそろ教室に戻ったほうがいい」

 

 俺と恭也の間で地面に座り込み、泣き疲れたのか頭上をぼーっと眺めていた忍に言う。

 

 忍は緩慢な動作で頭を動かすと、(なじ)るような目つきで俺を睨んだ。

 

「なんでよ、別にいいじゃない。三人でこうやってだらけるなんてそうそうできないのよ?」

 

 忍の反論には恭也が返す。

 

「だらけるのはいいとしても、授業があるだろう。それに長谷部さんや太刀峰さん、鷹島さんに問題は解決したということを伝えて欲しい」

 

「それなら三人一緒に教室に戻ればいいでしょ? なんで私一人だけ戻らないといけないのよ。……なに? もしかして……決着をつけるとか言い出す気?」

 

「そんなことしないって。争う理由はなくなったんだからな。そうじゃなくて、先生たちに説明しないといけないだろ?」

 

 俺は忍に、この惨状を見よ、という風に両手を広げた。

 

 平坦だった地面は、波打つ水面のようにぼこぼこになっている。これについてはまだなんとかできる。(なら)してしまえばいいだけだ。

 

 どうしようもないのは横たえられた大木である。これは言い訳の仕様がない。幹の直径はそこそこに太く、根元からへし折ってしまった為長さもある。隠すのは困難だし、隠せたとしてもいずれはばれる。なによりへし折られた切り株の部分は動かせないのだ。隠蔽しきれないのなら、最初から自供したほうがいい。

 

 それだけなら忍をこの場所から離れさせることもないのだが、教師に忍と俺たちが一緒にいるところを目撃されてしまうと、忍にも火の粉が飛ぶかもしれない。

 

 喧嘩の原因こそ忍も絡んでいるが、校舎の付近をめちゃくちゃにしたのは忍じゃない。俺と恭也だけなのだ。学校中探しても道具を一切使わず素手で木を折るなんて俺と恭也にしか出来なさそうだが、それは今は関係ない。

 

「俺も容疑者の一人だからな、一緒に行く事はできない。すまないが忍だけで戻ってくれ」

 

「そういうことだ。もうすぐ昼休みも終わるだろ。早く戻らないと五時限目の授業遅刻になるぞ」

 

 恭也の言い方ではまるで主犯は俺で、自分は巻き込まれただけなんだ、みたいな感じにも聞こえるが、その疑問は飲み込んだ。

 

「わかったわよ……もう。今日は……無理かしら。そうね、明日にはちゃんと自分の口で綾ちゃんたちに謝りなさいよ? 三人にも死ぬほど心配かけたんだから」

 

 俺と恭也からの了解の意を受け取ると、忍はふわりと長い髪をたなびかせて教室に戻った。

 

「……もう近くまで来ているのか?」

 

 忍の姿が校舎の角に隠れるまで見送ると、恭也が問いかけてきた。主語が抜けているが内容は通じている。

 

「ああ。じゃりじゃりと砂を踏む音が遠くのほうから近づいてる。一人分の足音じゃないな」

 

 忍が遠ざかった今、近づいてくる足音なんて教師連中しか考えられない。そもそも、喧嘩を止めるつもりで俺たちを探しているのだから教師が一人で来るわけはないのだ。忍の時にその考えが頭にあれば危険に晒さずに済んだのに、とも思うが、終わってしまったことをとやかく言っても仕方がなかった。

 

「叱られることになるだろうな。嫌だな。せっかく築き上げた大人しい生徒という看板を下ろすことになるのか」

 

「恭也はまだマシだろ。俺なんか前にも一回やらかしてるんだぞ。最悪、退学処分、なんてこともあり得る」

 

 裁判の時間は迫っているというのに、俺と恭也の会話はどこまでも暢気なものだった。

 

 笑いながら喋っていると、木と木の間から、数人の教師が走ってきているのが小さく見えた。その数人の中には担任の飛田貴子教諭の姿も確認できる。担当クラスを受け持つのは初めてという若い先生に負担をかけることになってしまいそうだ。

 

 一対一の喧嘩とはいえ、暴力事件には違いない。どんな経緯で喧嘩に発展したのかなどの聴取は、恭也と部屋を分けて行われることになる。

 

 ほぼ百パーセント、家に帰るまで恭也と顔を合わせるのはできないだろう。今のうちに訊きたかったことを訊いておこう。

 

「なあ、恭也。お前、なんであそこまで必死になってたんだ? もちろん忍についてや、俺の日頃の行いに対しての文句はあったんだろうけど、他にも理由があるように見えたぞ」

 

 言い争いの起因は、俺は姉ちゃんのことについて、恭也は忍のことについてだった。疑惑の火種が大きくなったのは、隠し事による後ろめたさと、俺と恭也両者に送りつけられた写真により植えつけられた不信感。日常での振る舞い方に不満もあり、それらが爆発して殴り合いに発展した。喧嘩の最中も勝負が決まらない焦燥から、それらについての文句は数え切れないほどに飛び出した。

 

 しかし恭也は、俺の内面について問い(ただ)していた。俺の身を案じるようなセリフを口にしていたのだ。

 

 拳を交えている時は頭に血が上っていてそれらにすら怒りを覚えたが、落ち着いた今ではどうにも気になった。真意を確かめないまま別れることはできなかった。

 

「……言わないといけないのか?」

 

「なんだよ、言いたくないのか? 言いたくないってんなら無理強いはしないけど」

 

「いや、まあ……言いたくないわけではないんだ。……そうだな、あの徹が正直に俺と忍に思いを伝えてくれたのだから、俺も正直に言うべきか……」

 

 教師たちの方向を俺と並んで見やりながら、恭也は口籠もって手を首元に添えた。言いたくないというよりも、言うのが恥ずかしいという風である。

 

 決心したように恭也は短く息を吐いて、口を開いた。

 

「真守さんではないんだが……俺も徹が重要な何かを背負っている事は気付いていた。その様子が苦しそうに見えて、今日は特に辛そうに見えて、放ってはおけなかった。見て見ぬ振りをしていられなかった。重圧に押し潰されそうな徹を見過ごせなかった。助けたいと思ったんだ。大事な親友だから……大切な存在だから、たとえ傷付けてでも助けたいと思ったんだ。道を踏み違えそうな程悩んでいる姿を見て、殴ってでも連れ戻そうと思った。徹が不思議に感じたのは、そういった感情が混ざっていたからかもしれない」

 

 今日は俺らしくないことばかりしている気がする……と、恭也は赤くなった顔を隠すようにそっぽを向きながら締め括った。

 

「そう……だったのか…………」

 

 恭也に教えてもらって、俺は殴り合っていた時の微かな違和感の正体をやっと理解した。

 

 そして恭也のおかげで、違う問題の解答も見つけられた。

 

 人の感情に疎い俺は、ヒントをもらってようやく彼女たち(・・・・)の目論見を悟った。硬く、そして重く、なにより冷たい決意を知った。

 

 その覚悟を、俺はようやく理解した。



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 俺に課されたのは、長時間に渡る叱責と十数枚に及ぶ反省文、そして一週間の停学だった。入学したばかりの時にやらかした前科もあったので、やはり注意だけでは済まなかった。

 

 退学にならなかっただけ幸運だと思わなければならない。

 

 生徒指導室を出て、生徒指導係の教師から速やかな帰宅を命じられたのは六時限目の終了時間を大きく過ぎた十七時半頃だった。

 

 全学年の教室とともに職員室も入っている普通棟から外に出て、長い時間拘束されていたおかげで固まってしまった筋肉を背伸びしてほぐす。背骨や肩の骨が小気味良い音を響かせた。

 

「さて、と。引っ掻き回してくれた『犯人たち』をとっちめに行こうかね」

 

 犯人。恭也と大立ち回りを演じるに至った火種を作った、その犯人を見つけなければいけない。

 

 殴り合いを繰り広げることとなった決定的な要因は、俺と恭也の中にあった秘め事や約束だ。それらの要因が心中に(くすぶ)っていた不信感や猜疑心(さいぎしん)に油を注いで、爆発した。

 

 しかし、その不信感や猜疑心は、俺たちにはもともとなかったもの。人為的に生み出された亀裂だ。

 

 俺と恭也の仲を一時的にでも断ち切る根本的な原因を作り出したのは、名前も知らない男子生徒から手渡された写真。恭也の方にも、それは仕組まれていたらしい。

 

 その罠にまんまと嵌ったわけだが、俺には仕掛けた人間に、人間たちに心当たりがあった。俺を貶めるためだけにこんな大掛かりな(はかりごと)を巡らせる連中には、見当がついていた。

 

 渡り廊下を歩いて、普通棟から北にある実習棟へと足を運ぶ。カリキュラムが全部消化されたこの時間帯であれば、この棟は文化部系部活動の部室にもなる。

 

 その実習棟の一階、最西端にある教室に俺は用があった。正確には、その教室にいるだろう連中に、だ。

 

 扉の上にある、教室名が書かれたプレートには《旧総合文化教室》と、掠れた文字で書かれている。

 

 実習棟にある他の教室より一部屋分も大きく、際立って古めかしいその教室は、今は授業では使用されていない。備えつけられている設備は古く、床や壁も傷んでいるため、同じ用途の教室を違う場所に新設したらしい。授業を行う場合は当然新しい教室を使うので、古くなった旧教室は使われなくなった。

 

 実習棟一階の西の端という好立地、他の教室より倍の広さ、授業で使用されないので教師も立ち寄らなければ生徒も近寄らない。

 

 そんななにかと都合のいい教室を学校側から部室として掠め取り、たむろして好き勝手しているのがやんちゃな先輩方で、入学時に俺と揉めた柄の悪い二年生三年生グループだ。

 

 部活動として表面上は文化遊興部などとそれっぽく取り繕われているが、活動実績はない。教師陣がこの不透明な部活の実態を把握しているかどうかは不明だが、生徒たちは不良生徒たちの溜まり場として認識していた。

 

 俺は扉の前まで近づき、耳を(そばだ)たせる。

 

 扉越しに加えて広い教室ではあるが、中にいる人間は馬鹿みたいに大きな声で話をしているので内容は問題なく聞き取れた。

 

『いやー、ほんと上手いこといったな!』

 

『笑いが止まらねぇよ、たかだか写真数枚であれだけハデにやるんだから! 馬鹿だろ! 馬鹿!』

 

『一ヶ月と間を置かずにコレだもんな、退学もあり得るんじゃね?』

 

『仲が良いとか言われてる相手にも簡単にキレるんだぜ。あいつただの気狂いだろ!』

 

 ぎゃあぎゃあと好き勝手に言い散らし、最後には全員で下品に笑う。同じようなことを、壊れたミュージックプレイヤーのように何度も繰り返した。

 

「やっぱりこいつらか」

 

 念の為に確認の意味も兼ねて突入する前に聞き耳を立てていたが、思いの外簡単に証拠を口走ってくれた。

 

 やはり、俺への報復といったところのようである。俺に恨みならぬ逆恨みを持っていて、俺と恭也を仲違いさせるなんて実のないことに労力と時間をかけるような暇人は、こいつらしか該当しないのだ。

 

 頭の悪そうな二年生三年生方との因縁は、入学して数日経った頃から続いている。

 

 事の始まりは、新入生に唾をつけようとした軟派で軽薄な先輩を止めたことからだった。

 

 いくらこの学校は偏差値が高く、真面目な生徒が多いとはいえ、生徒の数が多くなれば人に迷惑をかけることなど考えずに自分勝手好き勝手、欲望の赴くままに動く人間も出てくる。二年生三年生のごく一部、そういう質の悪い上級生が一年生の教室が並ぶ三階に足を運び、可愛い一年生がいれば手をつけようと声をかけて回っていたのだ。

 

 しかもそのやり方が悪質だった。一人の女子生徒を数人で取り囲むようにして退路を塞ぎ、強引に名前や連絡先を聞き出していた。中には手を引っ張られて人気のない場所に連れて行かれそうになった女子もいる。

 

 女子生徒の側に恋人と思しき男子生徒がいてもお構いなし。野生動物のように睨みつけて威嚇して割って入るなど、目に余る行為の数々が横行していた。

 

 小賢しいことに教師が辺りにいない時にするものだから、入学したばかりで右も左も分からない一年生では、背も高く顔も厳つい粗野な上級生たちに抗う術などなかった。

 

 本来ならば下級生の面倒を見て、見本となり、導くべき立場にある上級生のあまりの腐りように苛立ちを募らせていた俺の目の前で、事もあろうに上級生方は忍相手にも同じような手法で迫った。鉄面皮な上級生たちの傍若無人極まる振る舞いに、俺の忍耐は限界値を超えた。

 

 先輩方の包囲網から忍を引っ張り出し、安全な場所まで移動させた俺は先輩方とお話しするが、短気な先輩方とのお話は徒労に終わる。

 

 一年生に楯突かれたのが癪に障ったのか、先輩の一人が殴りかかってきたのだ。俺がそれを正当防衛的に排除すると、気が短い他の先輩たちも怒り狂って暴力に訴えてきたので同じように退けた。その日はそれでお帰りになったが、一年生に負けたままだとメンツに(かかわ)るのだろう、()くる日の昼休みに先輩方は人数を増やしてお越しになった。

 

 俺のもとまでやってきてはなんだかんだと吹っかけてきて、俺はその度に一蹴する。翌日にはさらに増員して訪れ、俺はまた同じ手順を繰り返すように跳ね除ける。そんな非生産的なことを繰り返すうちに、俺は二〜三年生の柄の悪いグループ全員と敵対することになったのである。

 

 ここ最近はなんの音沙汰もなく、一年生のエリアに出没することもなく大人しくしていたので、行状を改めて品行方正な生徒に生まれ変わったのかと淡い期待を寄せていたのだが、やはり馬鹿は死なないと治らないらしい。

 

 今回、恨みのある俺だけでなく、恭也をも巻き込んだ。恭也はこの件で教師たちからの心象を悪くしただろうし、忍も巻き添えを食って怪我をするところだった。

 

 これ以上のさばらせておくと恭也や忍だけでなく、鷹島さんや長谷部、太刀峰にも悪意が向けられるかもしれない。それどころか俺の身辺を調べ上げて、最悪姉ちゃんにまで魔の手が伸びる恐れもある。

 

 危険性を除去しきれなかった俺の不手際だった。

 

 俺が言うのもなんだが、自分たちで素行を見直し、日頃の行いを考え直してくれるのではと思っていた。自分自身できていないことを、相手が率先して改めるなどと勝手に期待していた俺が愚かだったのだ。

 

 もう二度と同じようなことが起きないよう、手を下すべきだろう。今日で、後顧の憂いを絶つ。

 

 先輩たちはあれで家柄は良いらしく、親に連絡されては困るということから、基本的に教師の目につかないよう巧みに動いている。さすがに二年生三年生グループ総員による大乱闘は表沙汰になったが、それまでは教師たちに悟られずに行われてきていたのだ。彼らの意外なまでの周到さが窺えた。

 

 とはいえ、裏で画策することは、なにも彼らの専売特許ではない。その手の工作は、俺も得意としている。

 

 これ以上心配の種を増やすつもりはない。ここで方をつける。邪魔するものは徹底的に排除するのが俺のポリシーなのだ。

 

 扉に手を掛け、一気に開く。

 

「失礼します」

 

 生徒指導科の先生からは学校の帰りには寄り道せず、真っ直ぐ帰宅しなさいと指示されている。揚げ足取りみたいなものだが、学校の敷地からは出ていないのでまだ帰りではない。よって先生からの指示には反していない、という無理のある解釈。

 

 なんにせよ、謹慎処分を言い下されている身で報復行為に打って出ているのが教師にバレれば大目玉だ。今度こそ放校させられるだろう。

 

 明るみに出れば重い罰が待っているが、しかし、それならば見つからなければいいのだ。

 

 なにより、こんなに厄介な恥知らずの常識知らずたちを見過ごせるほど、俺は大人ではない。

 

 健康な身体でも、ガン細胞が一箇所あれば全身に広がる。感化されやすい若者であれば特に早く転移していく。完全に除去しなければ、解決しないのだ。

 

 周囲に悪影響を及ぼす前に、取り除かねばならない。

 

 俺の周りにいる人たちに手出しはさせない。

 

 呆然とした表情の先輩方に言い放つ。

 

「お礼参りに来ました」

 

 今日ここで、不穏分子は根絶する。

 

 

 学校を出て、商店街に寄って晩御飯の材料を購入してから家へ帰る道中。

 

 文化遊興部などという大層なお題目の、実質ただのお遊びサークルの部室でひと暴れしたが、グループのメンバー全員を処刑したわけではない。暇人とはいえ毎日毎日全員が揃っているわけではないようだ。

 

 取り敢えず、今回の写真事件の火種を作った主要メンバーらしい人たちには制裁を加えた。前までのように情けをかけるようなものではなく、惨めったらしく痛めつけ、恐怖を身と心に刻み込むやり方を取り、反発など起こさないように手を打った。もう一度今日と同じようなことをするなんて馬鹿なことは考えないだろう。

 

 学校側に垂れ込む恐れもない。露見する心配もない。

 

 下級生一人に対して上級生多数で相手をして、それでもなおぼろ負けしたとなればプライドがずったずたになるのだろう。あってないようなメンツを守る為に、喧嘩で負けたから先生に告げ口する、なんてことはできない。

 

 それに彼らが根城にしている《旧総合文化教室》は実習棟の端にある。校則に触れるようなことをしている彼らにとって人の目に触れにくいその立地は好条件なのだろうが、俺にとっても教師の目が届かない場所というのは都合が良かった。誰にも悟られずに『お礼』を執行できたのだから。

 

 肩にのしかかっている荷物の一つがなくなったことで、少しは気が軽くなった。肩の荷が下りた。

 

 帰路を歩む。我が家が見えたと思えば、電灯の明かりが窓からこぼれていた。姉ちゃんは帰ってきているようだ。

 

 話したくはないが、訊かねばならないことがある。普段であれば姉ちゃんは、この時間帯は仕事で家を空けがちなので、タイミングはよかった。

 

「おかえり、徹」

 

 家の敷地内に入ると、突然暗がりから声をかけられた。

 

「ただいま、姉ちゃん」

 

 街灯や家の明かりが届かない隅っこに目をやれば、我が姉がいた。

 

 長い茶色の髪を肩の辺りで白色のシュシュを使って纏め、身体の前に下ろしている。家でゆっくりする時の髪型だ。服装もショートパンツに、首元が大きく開いた薄手の長袖と、完全に部屋着である。

 

 姉ちゃんは俺の隣につくと、両手で持っていた買い物袋の片方を自然な流れで掴んだ。

 

「高校から連絡入っとったよ。恭也くんとやりおうたとかって。派手にやってもうたみたいやね。自宅謹慎一週間て」

 

「まあ、ね。ごめん」

 

「気にせんでええよ。それより恭也くんとは仲直りできたん?」

 

「うん、誤解は解けたから」

 

「そか」

 

 そこからはお互い、なにも喋らなかった。無言のまま歩く。

 

 予想通り鍵がかかっていない玄関の戸を開き、帰宅した。

 

 靴を脱いで玄関のを通って階段へ進み、二階のリビングへと向かう。

 

 姉ちゃんは自分の部屋へ行き、俺は買ってきた食材を冷蔵庫にしまう。

 

 俺が冷蔵庫に野菜や肉を全部しまい込んだくらいで姉ちゃんが戻ってきた。姉ちゃんはいつもの席、座布団が置かれている定位置で座る。

 

 俺は台所付近で、料理を作り始めるか先に話をするかどうかと悩んで佇立していると、座布団にお尻を乗っけて三角座りした姉ちゃんが隣をぽんぽんと叩いた。

 

 命令に従い、姉ちゃんの右隣に腰を下ろす。俺との間に空いたわずかな隙間を、姉ちゃんは俺に身体を預けるようにして埋めた。

 

「これ……プレゼント」

 

 姉ちゃんは俺の肩に頭を置いて、右手をまっすぐ伸ばした。俺のそれと比べると細く小さい姉ちゃんの手のひらの上には、その小さな手で包めるほどの大きさの箱。

 

 シュシュの拘束から抜け出した幾本かのさらさらとした髪が、俺の首元をくすぐった。

 

 俺は突き出されたその箱を受け取り、尋ねる。

 

「開けてもいい?」

 

 姉ちゃんは『ん』と一言だけ、短く答えた。

 

 包装紙をかりかりと剥がすと、暗褐色の入れ物が姿を現した。箱を両手で開く。案外固さがあった。

 

「これ、指輪?」

 

 一切装飾も施されていなければ、色合いにも変わったところはない。シンプルなシルバーの指輪だった。

 

「徹へのプレゼント買いに行くために恭也くんについてきてくれへんかって頼んでんけど、そのせいでなんか勘違いさせてもうたみたいやね。……ごめんな?」

 

「そっちの話も聞いたのか」

 

「恭也くんと忍ちゃんから電話もろうたんやわ。忍ちゃんからは二人を責めないで、って。恭也くんは約束破ってしまいました、やって。そんで、二人とも共通しとったんが『自分のせい』やっていうのやな。ほんまええ子らやんな。ちっとも、一片たりとも人のせいにしたりせぇへんねんから」

 

 くすくす、と楽しそうに姉ちゃんは笑った。

 

「恭也め……俺のせいにするとか言ってたくせに」

 

「恭也くんの性格考えたらそんなことするわけないやんか」

 

「そりゃそうなんだけど……これつけてみていい?」

 

「アクセサリーやねんから、つけてくれな困るわ」

 

 箱から取り出して、右手の指に嵌める。人差し指は、微妙にきつい。中指はサイズが合わない。薬指に嵌めてみる……よかった、ぴったりだ。

 

 愛する我が姉からせっかく頂いたプレゼントなのに、サイズが合わなくて身につけられないなど申し訳が立たない。

 

「はあぁ……よかったぁ。指の大きさとか知らんから不安やったんや」

 

 姉ちゃんは安堵の溜息をつきながら、鈴を振るような声で笑みをこぼした。

 

 照明に翳してみる。手の甲は影になって暗くなっているのに、薬指に嵌るシルバーの指輪だけは光り輝いて見えた。隣に寄り添う姉ちゃんの温もりが、その指輪に宿っているように感じた。

 

 なんの変哲もない白銀色の指輪に見惚れていると、胸元でエリーがぷるぷると振動した。ぽっと出の指輪に(アクセサリーとしての)正妻の座を奪われるのではないか、と危惧したようだ。

 

 その感情は俺には全く共感できなかったが、俺は(アクセサリーを身につけるのは)お前が初めてだから気を揉む必要はないぞ、と念じて服越しに撫でる。隣には姉ちゃんがいるので今は大人しくしていてほしい。

 

「しんどいなぁって思うた時はそれ見て思い出しいや」

 

 胸元に戻した俺の右手を、姉ちゃんは同じく右手で握る。優しく包み、指を絡ませた。

 

「徹の側にはいつもうちがおるし、恭也くんや忍ちゃんもおる。それに今は真希ちゃんや薫ちゃんとか仲良うなった友達もおるんやから、なんも焦ることなんかないんや」

 

 右手を絡ませたまま、姉ちゃんは自分の顔へと引っ張った。体勢が崩れそうになったが、幸いすぐ近くに顔があったので腕をちょっと伸ばしただけで届いた。

 

絡ませた指に柔らかい唇を添えて囁く。喋るたびに吐息が手に当たり、こそばゆくもあり暖かくもあった。

 

「徹には帰る場所があるんや、この家がある。徹がなにを背負ってるんかうちにはわからやんけど、『もう無理だ。これ以上頑張れない』て思うたら、なんもかんも投げ捨てて帰ってきたらええ。頑張ることはええことやけど、無理するんは別やねんから」

 

 俺が目を向ければ、姉ちゃんもこっちを見ていた。俺の肩に頭を傾けさせながら、上目遣いに見上げている。

 

 俺がなにをしているとか、隠していることがなんなのかとか、寸毫(すんごう)も探ろうとはしていない。(はしばみ)色の瞳には、疑惑や不信など混ざっていなかった。ただ純粋に、俺の身を案じている眼差しだった。

 

 暗くさせないように、俺に気負わせないように、姉ちゃんはふわりとした柔らかい笑顔を作る。

 

 その心遣いが凄く嬉しくて、そしていたく辛かった。俺が帰ってきてから、姉ちゃんは笑顔のまま表情を変えない。俺の負担にならないように努力してくれていることが、なにより苦しかった。

 

 ずっと、姉ちゃんは俺を気にかけてくれている。昔から、一番近いところで俺を守ってくれている。

 

 道場に通っていた時、怪我をして帰ってきた俺に手当てしてくれたのも姉ちゃんで、恭也や忍と出会う前、学校で浮いていて悪口を言われて傷ついた俺を慰めてくれたのも姉ちゃんだ。

 

 そして、両親が突然死んで、精神的に不安定になっていた俺を支えてくれたのも、真守姉ちゃんだった。

 

 自分も辛かったはずなのに、泣いてばかりだった俺を抱き締めて『なにがあっても守るから』と励ましてくれた。『やりたい仕事がある、夢がある』と言ってたくさん勉強して希望通りの学校へと進学できたのに、俺の世話をする為にそれも辞めた。その癖俺が義務教育を終えたらすぐに働く、と言ったら殴ってまで止めて『徹は好きな事を見つけて、好きな仕事しなさい』と高校に通わせてくれた。

 

 俯いてばかりだった俺の手を握り、笑って前へと歩みを進められるよう引っ張ってくれたのだ。

 

 血は繋がっていなくても、いつだって心は繋がっていた。

 

 俺は姉ちゃんがいたおかげでなんとか踏ん張ってやってこれた。おそらく、姉ちゃんも俺という庇護対象がいたから脇目も振らずに頑張ってきた。どちらかがいなければ、きっとどちらもすぐに壊れていただろう。

 

 でも、やっぱり時間が伸びただけであって、俺たちは徐々に壊れ始めていたのだ。

 

 まだ親の愛を必要とする時期に永遠に別たれた弱い俺たちは、温もりを分け合うようにして生きてきた。互いに依存しあうことで、生きる理由を見出した。

 

 それが壊れずに生きていくための唯一の方法だったが、そのせいで俺たちの家族愛の形は歪んでいったのだ。曲がって、捻れて、いびつになった。

 

 相手を愛して、頼って、求めて、擦り寄って、拘束して、束縛する。これまで俺や姉ちゃんが、彼女や彼氏を作らなかった要因の一つに無意識的な強迫観念があるのだろう。

 

 互いに互いを必要として、互いに互いを求め合う。世界の温もりは相手の体温で、世界の音は相手の声。二人だけの小さな、箱庭の世界。その世界で俺は、逢坂徹は生きてきて、逢坂真守は生きてきた。

 

 共依存の成れの果てが、姉弟愛や家族愛を超越した愛情だ。優先順位をつけるのであれば、自分よりも上位に位置づく。

 

 姉ちゃんを守るためなら、俺はなんであろうと切り捨てる。切り捨てる対象が自分であろうと、迷わない。

 

 そんな歪んだ愛情を育んだのは、俺たちが二人だけしかいなかったからだ。無償の愛に飢えていたのは、親からの愛がなかったからだ。

 

 兄妹姉妹関係が良好な恭也や忍でさえ、日常的に距離は置いている。一日中くっついているわけではない。

 

 恭也となのはも仲は良いが、頻繁に触れ合っているなんてことはない。忍とすずかも姉妹仲は極めて良好だが、くっつくなんてことは俺が見る限りそうあることではない。

 

 俺と姉ちゃんの関係は、あまりにも、異常なほどに近すぎるのだ。両親が健在だった頃はこんなことはなかった。大事な人たちを喪ってから、身体が直接触れるくらいの距離で接するようになったのだ。

 

 独りは寂しくて怖くて寒いから、温もりを欲しがる。同じ境遇で、同じ心境の相手へと手を差し伸べて、救いの手を求める。それが俺と真守姉ちゃんとの関係だった。

 

 常識からはかけ離れた姉弟関係。俺はそれを自覚しながら、これまで見過ごしてきた。

 

 構わないと思っていたのだ。敢えて答えを探して見たくもない現実を直視することなんかない。今まで通り、これからも馴れ合いと妥協と傷の舐め合いで生きていけば、なんの問題もない。そう思っていた。

 

 だが、状況が変わった。なんの変化もなく連綿と続くはずだった日常が一転した。

 

 箱庭の外を知った俺は、いろんな人と出会ったのだ。フェイトやアルフと仲良くなり、クロノやリンディさんと協力するようになり、リニスさんと戦った。

 

 その中で俺は、プレシアさんやリニスさんがしようとしていることを知ってしまった。

 

 彼女たちの戦ってきた理由、彼女たちの不可解な行動の訳、成し遂げようとしている願い。それらを目の当たりにした時、俺はどうするべきか分からなくなった。

 

 どうするのが最善で、どうするのが一番幸せなのか、判断がつかなくなった。

 

「ありがとう、真守(まもり)(ねえ)。あのさ、一つ訊きたいことがあるんだ

 

「帰る場所があるってわかってくれたらええんや。それよりどうしたん? そんな懐かしい呼び方して」

 

 答えを知らないといけない。俺が戦う目的を、俺が拳を振るうその理由を。

 

 誰のためでもなく、俺が望む結末を手に入れるために。

 

「勘違いしないで欲しいから先に言っておくけど、俺は今のこの生活に満足してる。いつも近くに真守姉がいてくれて、親友がいて、最近では高校でも友達ができた。学校の外でも、友達ができた。周りの人たちはとても優しくしてくれる。なにも不満なところなんてないし、不自由を感じたことはない。この二年間、幸せを感じたことはあっても、自分が不幸だなんて思ったことは一度もなかった。でも言いたい。俺の偽りのない本心を言わせてほしい。そして訊きたい、姉ちゃんの取り繕わない意見も訊かせてほしい。俺は……やっぱり親って必要だと思うんだ」

 

「うん、お姉ちゃん(・・・・・)も……そう思う。徹くん(・・・)がこんなに思い詰める前に、どこかでちゃんと話しておくべきやったんやろな。お姉ちゃんは弱虫やから、面と向かって親のこと話すのが怖かったんや。徹くんも、もちろんお姉ちゃんも、親を亡くすには早すぎたんやろな……」

 

 視線を落として、姉ちゃんは呟く。俺が問いかけることをわかっていたかのように、声こそ小さかったが震えさせることもしなかった。

 

 体勢を戻す。目を伏せているせいで髪に隠れ、表情を読むことはできない。

 

 俺の呼び方も、自分の呼び方も先までとは変化している。きっと姉ちゃんも、俺と同じようにずっと溜め込んできていたんだ。心の傷を見ないよう触らないようにしてこの二年間生きてきた。話題に上げるだけでも、精神的に負担がかかるのだろう。

 

「お父さんとお母さんが交通事故で死んでもうたんは知ってるやんな?」

 

「うん、それは知ってる」

 

「ここから先の話は徹くんにはしてへんかった思うけど、その交通事故な……道路に飛び出した女の子助けるために二人とも撥ねられてんて」

 

「助ける……ため?」

 

 両親が交通事故が原因で死んだのは聞かされていたが、詳しい状況までは知らなかった。いや、知ろうとしなかった。

 

 当時の俺はいきなり両親がいなくなったことがショックで、親の話を遠ざけていたのだ。

 

「笑えるやろ?可愛い我が子を遺して、なに他人の子ども助けようとしてんのよ」

 

 声だけならあっけらかんと言い放って聞こえるが、俺にはわかっている。これは姉ちゃんの強がりだ。俺に心配をかけまいとしている。その証拠に、身体は小刻みに震えていた。

 

 俺から距離を取ったのは、声は誤魔化せても身体の震えまでは抑えられないからだろう。

 

「本当に、なにしてんだよって話だよ。でも、やっぱりなって気もする。変に正義感が強かったから……」

 

 当時の俺ではこんなことを口にすることは出来なかった。なんとしてでも助けられた女の子のことを聞き出して責めに行った。断言できる。

 

 だからこそ思う、今聞いて良かったと。

 

 決して多くはないけれど、人生経験を積んだ今なら、車道に飛び出たという少女を助けた両親の気持ちがなんとなく理解できる気がした。

 

 きっと、なにも考えてなどいなかったのだろう。見ず知らずだろうが知人だろうが、赤の他人だろうが実の子どもだろうが、なんであろうと小さな子どもの身に危険が迫っていると認識した瞬間に、身体が動いたのだ。そこに自分がどうなるかなど考慮する隙間はない。

 

 恥ずかしながら、俺も似たような経験があった。つい最近のことだ。九頭龍から放たれた水弾から、なのはとフェイトを守らなければと考えた瞬間、いや、考えるよりも先に身体が一歩前へ出ていた。そして俺も、少女たちを庇ったら自分の身がどうなるかなんて考えもしなかった。

 

 結局、大事な時には考えるよりも先に動いてしまうのだ。

 

 ぐだぐだと考える必要なんてない。信念のあるがまま、魂が突き動かすまま、本能のままにやればいい。

 

 今は亡き父さんと母さんから、そう教えられた気がした。

 

「お父さんとお母さんのそういうところを徹くんも受け継いでるんやろな。お父さんからは精神的に、やけど」

 

 隣に座っていた姉ちゃんは膝立ちになって、俺の頭を抱きかかえた。

 

 つむじのあたりに口を当てて、姉ちゃんは俺に語りかける。

 

「お姉ちゃんは詳しいことはわかれへんけど、徹くんがやろうとしてることはきっと正しいんやと思うよ。好きなようにやったらいいんや。全部片付いたら、なにがあったかお姉ちゃんにも教えてな。お姉ちゃんは、この家で待っとくから」

 

 俺の頭を抱く腕を、そっと優しく握り返す。

 

「うん……ちょっとだけ、待ってて。みんなで幸せになるために頑張ってみるから」

 

 応援してくれている。姉ちゃんは今回もまた、力強く背中を押してくれた。

 

 何も訳を話そうとしない俺を信じて、送り出してくれている。勇気をくれたのだ、これでやらなければ男じゃない。

 

 俺は向かう先を見定める。もちろん、目指す場所はみんなが笑っていられるような世界。

 

 彼女たちの策略や思惑など知ったことか。そんな迂遠なものは引き千切って、もっと大それた結末を導いてやる。誰も犠牲にならずに済む、誰も悲しまずに済む、そんな結末を。




準備はあらかた終わりました。あとは完結に向けて進めていくだけです。あともう少しだけ、お付き合いください。


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誤解の根は深い

 翌五月二日、仕事先へ向かう姉ちゃんを送ってから、俺はアースラへと足を運んだ。

 

 普段であれば学校がある午前中に向かったために、クロノとリンディさんは、何か緊急事態でもあったのか、と驚いた様子だったが、昨日の概要をさらっと説明すると二人とも苦笑して、なんだそんなことか、と(のたま)った。

 

 なんだ、とはそれこそなんだ。俺にとっては一大事である。真面目に授業を受けているとは言い難いが、それでも基本的には真面目に通学はしていたのだ。

 

 二人へと挨拶を済ませ、足を運んだついでとばかりに、模擬戦をしてから仲良くなった局員さんたち――手合わせした赤髪の魔導師レイジ・ウィルキンソンさんを筆頭とした局員さんたちにも顔を出した。レイジさんは任務に就いているらしく不在だったが、非番の局員さんたちとは一言二言話をすることができた。

 

 顔見せを終えたところで、俺はアースラ内部のとある部屋へと向かう。その部屋とは一度来たことのある情報集積室。プレシアさんの過去を調べた一室である。

 

 リンディさんとクロノのもとへと挨拶に行った時に使用許可は貰っておいた。

 

 今回の調べ物の内容は『次元』についてである。地球で言われている次元と認識が同じものなのかどうかを確認したかった、というのが半分。もう半分は次元の壁を力技で越えようとした時、どのような現象が起きるのか、その危険性はいかほどのものなのか、というところだ。

 

 前者は十のうち八九ほども知的好奇心で占められているが、後者は切実なまでに逼迫した問題である。

 

 多数のジュエルシードの能力を完全に覚醒させた場合、俺たちの世界にまで影響を及ぼす可能性は高い。

 

 次元震、次元断層が発生するようであれば、プレシアさんたちの計画はなんとしてでも止めなければならない。相手がどんな事情を抱えていても、だ。

 

 なにはともあれ、調べてからである。

 

 備えつけられている椅子に腰掛け、持参していた鞄から飲み物を取り出す。調査に時間がかかるとは思っていないが、前回調べ物をした時は飲み物がリンディさんから頂いた極甘抹茶オレしかなかった。もちろん好意はありがたかったが、あの飲料は常人が頻繁に飲んでいいものではない。なので今日は自分で用意した。

 

 水筒代わりのペットボトルを傾けてお茶を口に含みながら、片手でホログラムキーボードを叩く。つい最近散々扱ったのでこのあたりの操作には手馴れたものである。

 

 検索エンジンにキーワードを打ち込んで、肘掛に腕を置いて体重を預けながらつらつらと眺める。とある記事が目についた。

 

「次元を航海するのも楽じゃないんだな……」

 

 次元航行船というのは、なにも時空管理局が占有しているわけではないようだ。

 

 考えてみれば当然である。ユーノは発掘したジュエルシードを安全に補完するために管理局に移譲しようとした。その際に自分たちで船を用意して向かわせたのだから、船に関しては管理局が厳しく取り締まっているわけではないのだろう。

 

 その記事には、商業用の航行船が時空嵐なる現象に巻き込まれて損害を出したとあった。お金に関するごたごたは、どこの世界でも変わらないようだ。

 

 それにしても時空嵐とやらはなかなかに危険な現象らしい。毎年何件か報告されており、規模の大きい嵐に捕まれば一般的な船ではほぼ確実に墜ちるようだ。

 

 今ではレーダーの性能が向上して事前に察知することができるようになり回避が可能になったそうだが、そこまで技術が発達していなかった昔には少なくない数の死亡事故が発生している。

 

 以後しばらくの間電脳空間を見て回り、概論は理解した。

 

 いかな次元巡航船といえど、次元の壁を越えるには大量のエネルギーを必要とするらしい。距離があればあるほどに必要とするエネルギー量は膨れ上がる。

 

 場所によって次元の壁は大きく、厚い部分があるとのこと。

 

 ちなみに大きいとか分厚いとかというのは比喩的表現だ。実際には空間が捻れていたり、力場が不安定だったりすることを、感覚的に分かりやすくするためにそういう表現を使っている。

 

 プレシアさんが目指しているアルハザードが実在するのだとしたら、きっとその歪曲した時空の壁の向こう側にあるのだろう。そこにあると、プレシアさんは信じ込んでいたのだろう。

 

「時空嵐ね……そんな自然現象があるのか。なるほどな」

 

 調べたいことは存分に調べ尽くした。知的好奇心は満たされたし、危険性の度合いも把握した。

 

 そろそろ退室しようと思い、あまり冷えてはいないお茶を一口流し込んで喉を潤しながら、空間に照射されているモニターを初期状態へと戻す。自分の家のパソコン並みに気楽に操作してしまっている。慣れとはいやはや、恐ろしい。

 

「あれ……やべ。やっちまった……」

 

 だが、そんな気の緩みがいけなかったのかボタンを押し間違えたらしく、見覚えのないページに移動してしまった。

 

 どうすれば元の状態に戻れるのかと額に冷や汗を浮かべて動転しながら探っていると、一つのファイルに行き着いた。何桁あるのか数えるのも嫌になる程羅列されている数字と、どんな意味が込められているのか推測することもできないアルファベットがつけられたファイルデータ。

 

 おっかなびっくりそのファイルを開いてみる。

 

「ロストロギアの収集率……敵対勢力の能力、人員、名前と容姿……当座標に敵からの砲撃……巡行L級八番艦次元空間航行艦船の損傷率、レーダー機能の低下……。本部に送る報告書か?」

 

 恐る恐る開いてみたファイルに記されていたのは、今から二日前、海上にてジュエルシード九つを相手にした日の出来事だった。発生した事象が事細かく記述されている。

 

 ファイルを更新した日付は昨日の夜遅く。いろんなことが同時に起こったので報告書を纏めるのに時間がかかったのだろう。

 

 本部へ送信する予定にはなっているが、まだ送られてはいないらしい。どうやら定期報告のようだ。同じ程度の間隔でいくつも報告書が発信されている形跡があるし、そのファイルのコピーも残っていた。

 

 俺がうっかり開いてしまったファイルの送信される日付を確認すれば、五月三日となっている。つまり明日だ。明日にはこのデータは本部に送られ、真面目な人であればその日のうちに、報告書に目を通すことになるだろう。

 

「……いや、でも……んん。……俺は決めたんだ、やるべき事を全力でやる……よし! ……リンディさん、ごめんなさい」

 

 俺は機械に右手を添えて目を瞑る。胸の奥から滔々(とうとう)と溢れる魔力は、腕を通り、手に宿され、その先へと進む。

 

 上手く事が運ぶかなんて保証はない。それでもここでやっておかなければ『最善』は得られない。ならば、やっておくしかない。

 

 冗談や笑い話では到底済みそうにないが、それらについてはその時になってから考えることとしよう。

 

 

 情報集積室を後にした俺はクロノを探して艦内を歩く。

 

 クロノを探す理由は単純明快。魔法のご教授をお願いするためだ。

 

 先生役はユーノでもなんら問題はないのだが、教えて欲しい魔法の種別的にユーノよりもクロノの方が適任だと考えた。

 

 学びたい魔法というのは射撃魔法だ。

 

 きっとまた、俺はリニスさんと相対することになる。だが今の俺の実力ではまったく歯が立たないのだ。

 

 倉庫でリニスさんと一戦したが、近寄る事すら困難だった。誘導弾のコントロール技術、砲撃の展開速度、蜘蛛の巣のような密度の拘束魔法。

 

 攻撃手段が近距離しかない現状では、どういう戦運びを想定しても勝ち目はない。倉庫での戦闘ではよくわからないままに状況が進んでなんとか食い下がることができたが、それでも勝てはしなかった。

 

 次リニスさんと相見(あいまみ)える時は、絶対に勝たなければいけないのだ。俺の意志を貫くためにも、勝たなければいけない。

 

 その為の射撃魔法。戦い方の幅を広げたいという目論見があるのだ。

 

 いくら俺の射撃魔法適性値が低いとはいえ、発動さえしてくれれば強力な武器になる。遠距離攻撃と俺の魔力色は相性がいい。見えない弾丸など、どう躱し、どう防ぐというのだ。

 

 どこから飛んでくるかもわからない攻撃がレパートリーとしてあれば、相手の動きを封じる手になる。少なからず動揺もするだろう。決定打にはならなくとも、リニスさんの行動の選択肢を狭めることができるだけで多大な効果がある。魔法の展開を邪魔することもできるかもしれない。

 

 勝利を手繰り寄せる希望の糸となるのだ。

 

 これまでは、効果的なダメージを与えることはできないだろうから、と見向きもされてこなかった俺の射撃魔法だが、ようやく日の目を見ることとなった。

 

「クロノ……どこにいるんだよ」

 

 計画を立てて勇んだのはいいが、先生役がどこにもいない。艦橋(ブリッジ)にも、訓練室にも、医務室も覗いてみたがクロノの姿はなかった。

 

 そんなことをしているうちに時間は経ち、もう昼時に差しかかってしまった。

 

 クロノの捜索は一時中断し、昼食を摂ろうと艦内の食堂に足を運んだ。

 

「あ、徹。調べ物は済んだのか?」

 

 クロノ・ハラオウン執務官は俺より一足早く、お昼御飯をお食事になられていた。

 

「……嫌がらせみたいなタイミングだな」

 

「な、なんだ? どうした」

 

「いや、こっちの話。おかげさまで気になったことは解消されたよ。隣いいか?」

 

「構わないぞ」

 

 探していると見つからず、探すのをやめたらあっさりと出てくる。この不思議現象は物だけでなく、人にも該当するようだ。

 

 ようやく見つけることができたのにどこか落胆しながら、俺はクロノの隣の席に腰を下ろす。

 

 クロノの目の前にあるテーブルには何品か料理が並んでいる。あまり手がつけられていない所を見るに、食堂に来たのはついさっきのようだ。

 

「クロノ、これから予定あるか?」

 

「ん? いきなりなんだ? 急ぎの仕事は今の所入っていないが……なにかあったのか?」

 

 クロノはフォークの先端をかじかじしながら、目線を上にあげて予定を思い出すような仕草を取る。

 

 食事のマナー的にはアウトだが、年相応の少年(ショタ)っぽさは出ているのでセーフ。

 

 執務官という、仕事に追われる身の上のクロノに予定が空いているとは幸運だ。そもそも多忙を極めるクロノに教えを請うというところからあまり現実的ではなかったが、これならなんとかなりそうだ。

 

 ここ最近、運の巡りが悪かったからな。ようやくツキがまわってきたようだ。

 

 久しぶりにご機嫌なテンションになりながら、クロノにお願いする。気分が良ければ口も軽快に回り、冗句も飛び出るというものだ。

 

 テーブルに肘をつき、顎を手のひらの上に乗せる。クロノの目を見ながら、俺は口を開く。

 

「暇ならデートしようぜ」

 

 空気が死滅した。食堂内の違う席で楽しげにお喋りしていた数人の乗組員は水を打ったように黙り込んで、それどころか身動(みじろ)ぎ一つせず静止した。厨房内にいたコックさんたちにも俺の声が聞こえたのか、調理の際の物音は一切合切消え去った。ガスコンロの火の音が俺の耳に届いたくらいなのだから相当なものである。

 

 どうやら俺の冗談は受け入れてもらえなかったようだ。

 

 目の前のクロノに視線を戻すと、いつの間にか席一つ分、俺から離れていた。

 

 フォークを咥えたまま、クロノは今まで見たことがないようなじと目を俺に向けた。

 

「……逢坂君、何を言ったのかよく聞こえなかったのでもう一度仰って頂いていいですか?」

 

 物理的な距離以上に、精神的な距離が離れたようである。

 

 なぜ冗談だと思わないのか。地味にショックを受けながら、次は真面目にお願いする。

 

「その目やめろ、ジョークだっての。魔法を教えて欲しいんだ。射撃魔法な」

 

「馬鹿な事を言わず、最初からそう言えば良かっただろう。バカ者」

 

 じと目と口調を戻して、クロノは元の席についた。

 

「バカは言い過ぎだろ。ちょっとテンション上がっちゃっただけなのに」

 

「それより、なぜ僕なんだ? 誰でもよかったんじゃないのか。それこそユーノでもいいだろう」

 

「俺が知ってる中ではクロノが一番射撃魔法の扱いが巧みだし、適役だと思ったんだ。それに戦術に組み込みたいからな。クロノの意見も取り入れたいんだ」

 

「前に測定した適性値では、攻撃方法として使えるか微妙なラインだったぞ」

 

「発動さえしてくれればいい。軽くてもなんでも相手に衝撃を与えられればそれでいいんだ。俺だって射撃魔法単品で勝てるなんて思っちゃいない」

 

「……まあ、そこまでちゃんと考えているのなら別にいいが。わかった、引き受けよう。そうと決まればさっさと食事を取りに行け。昼食をすぐに済ませて特訓するぞ」

 

 そう言うとクロノはテーブルに並ぶ料理に手をつけ始めた。心なし急ぎめで食べている気がする。俺との時間を長めに取ろうとしてくれているのだろう。

 

 忙しい中、俺の頼みを聞き入れてくれたクロノには感謝の言葉しか出てこない。

 

「ありがとうな、クロノ。飯貰ってくるわ」

 

「なるべく早くしてくれ。どれだけ時間を確保できるかわからないんだ」

 

 食堂の座席が設置されている場所と、厨房を隔てるカウンターへ俺は歩みを進めながら、クロノへ礼を言った。

 

 クロノはこちらを向くこともせず、空いた手をふらふらと振っている。気にすることはない、と言わんばかりの所作である。

 

 キザなクロノに少し笑ってしまいながら、カウンターで何を注文しようかとメニューを眺める。

 

「あの……」

 

 どれも見慣れない品々ばかりなので興味をそそられながらメニューを見ていると、突然声をかけられた。座席がある方向からではなく、厨房からである。声をかけてきたのは調理師さんのようだ。

 

 こういう場所なら厨房には男性が多く入っているのかと思っていたが、案外女性もちらほらといる。俺に話しかけたのは二十代半ばくらいの女性だった。

 

「すいません、すぐ注文決めますから」

 

「いえ、そちらはごゆっくり選んでいただいて構いません。……それより、あの……」

 

 てっきり長々と考えていた俺が迷惑で、さっさと決めるように促してきたのかと思ったが、どうやら違うようだ。

 

 カウンター越しのその女性は、後ろにいる調理師仲間たちに一度振り返り、俺を見た。

 

 気のせいか、頬が紅潮している。目をきらきらと輝かせながら、女性は口を開いた。

 

「女の子より、やっぱり男の子の方が好きなんですか?」

 

「『やっぱり』って何なんですか」

 

 俺が植えつけてしまった誤解の根は深いらしい。

 

 

 鬼教官(クロノ)による教導と言う名のしごきが終わったのは、午後四時と五時の中間あたりだった。

 

 速やかに昼食を摂って訓練室に足を向けると、まずは射撃魔法の理論から入った。術式を教えてすぐに魔法を使わせる、なんてことはせず、遠回りに見えるかもしれないが基礎的な学習から手をつけるというのはクロノらしい。

 

 距離の長短による威力減衰率や射撃魔法同時展開・同時発射のメリットデメリット、直射型・誘導制御型・物質加速型の利点と欠点、立ち回りのパターンに、果ては戦術論まで短時間に詰め込んだ。説明は理路整然としていて分かりやすかったが、なにぶん確保できる時間に余裕がなかったのでテンポが早い。教えられたことを理解して飲み込んだと思えば、すぐに次の説明に入るのでなかなかにハードだった。

 

 しかし、座学よりもハードだったのは実技であった。

 

『こういった手合いのものは、身体で覚えるのが一番効率的だ』

 

 クロノはそう言って、射撃魔法をメインに据えた模擬戦を開始した。

 

 実際に魔法を使って、使われたことから学べるものは多い。

 

 意識して動きを観察していると、次の行動、次の攻撃に繋げることをどれだけ気にかけているかがわかった。クロノは自分の動きだけではなく、射撃魔法を撃ち込む場所から相手の移動範囲を狭め、追い詰めて相手の動きを単調にさせ、時に足を止めさせる。

 

 使い方次第で出来ることは数多くあるということを、俺に身をもって教えてくれた。

 

 熱心に教えてくれたのはありがたいし、この経験は確実に俺の糧になったけれど、クロノ教官はとても厳しかった。射撃魔法の修練のためという題目で始まった模擬戦だったので、クロノが使用する魔法の威力は落とされていたのだが、だからと言ってぽこすかぽこすか何発も叩き込まれればたまったものではない。日本の教育現場でこんなことをしたら、即刻体罰でお縄を頂戴することになるだろう。

 

 だが俺も、やられるばかりではなかった。撃たれるばかりではない、撃ち返していたのだ。

 

 無色透明の目に見えない射撃魔法というのは、思った通りに、思った以上に脅威となり得るようである。クロノをして、察知した頃には目の前にあった、と評したほどだ。

 

 いくら透明で視認することができないとはいえ、障壁などと違って射撃魔法は移動する。俺の周囲で生み出されて射出され、魔力の塊が空間を引き裂きながら相手に向かうのだから、空気の流れの異変や、もやっとした視覚的な違和感は僅かながらある。

 

 よく目を凝らして見れば魔法弾が自分に向かってきているのが分かるだろうが、戦闘中にそんな余裕はない。撃てばほぼ当たる。そんな状況だった。

 

 だが残念なことに、俺の射撃魔法には然程の威力は乗っていない。当たっても風船が弾けたような衝撃に驚くだけで、それほど痛くもないそうだ。

 

 『射撃魔法の適性が人並みにあれば、それだけで徹はエースの仲間入りが出来たかもしれないな』とは、クロノの言。悔しくなるのでそういうことは言わないで欲しいものだ。

 

 教えられた術式のまま使っても効果がないことが実証されたので、早速今日の夜にでも内部プログラムの改造を行おうと考えている。

 

 クロノから教えられたのはこれといって特色などない、一般的でオーソドックスな射撃魔法である。

 

 特色がないというのは、取り立てていけないことでもない。それは、全ての項目を満遍なく、一定の水準までクリアしていると言い換えることもできるのだ。

 

 今回の射撃魔法で例えるなら、威力、展開速度、消費魔力量、射撃精度、魔法弾の弾速、誘導制御型であれば追尾性能、発射されてからの減衰率、生み出した魔法弾の維持の容易さなど幾つも項目があり、それらをいい塩梅で調節されたものがメジャーな射撃魔法なのだ。使い勝手はいいはずだ。申し分ないだろう。

 

 だがそれには、並みの適性を有していたら、という注意書きが入る。人並みの適性であればそこそこの、一般人以上であれば万能な、そして平均以下であれば器用貧乏としか表現できないお粗末な魔法が展開される。

 

 要するに、魔法に携わっている限り、持って生まれた魔法適性の呪縛から解放されることはないということだ。

 

 そのことをよく知っている俺はいつも通り、教えてもらった術式を自分好みに、というよりも使い物になるように手を加える。不要なものは削ぎ落とし、必要な部分だけ伸ばす。

 

 改変した後は元の魔法とは概ね別物になっていたりするが、オリジナルの魔法を作っているみたいで案外楽しかったりする。

 

 俺の戦い方に符合させるにはどういう点に注意を払えばいいか、と訓練室を出た後、休憩のために食堂へ針路を取りながらクロノと話していたが、これがまた意見が対立するのなんの。

 

 近中遠距離と万能なクロノは、俺が築き上げるようなピーキーな術式の組み方を好まなかった。

 

 如何(いか)なる状況にも対応できる魔法こそうんぬん、一つに特化しないと役に立たないかんぬん。特化させて戦況にそぐわない時はどうするどうたら、そうなればそうなった時にまたプログラムを組み替えれば問題はないこうたら。などと互いの持論をぶつけたディスカッションは白熱の様相を呈していた。

 

「クロノ、いきなり黙ってどうした?」

 

「徹、すまないがちょっと時間をくれないか」

 

 収束する気配がない議論だったが、突如クロノが足を止めたことで一先(ひとま)ずの終焉を迎えた。

 

 クロノは視線こそ俺に合わせていたが、どこか焦点があっていない。こちらを見ながらにして見ていないような感じ。他のことに集中力を向けている。

 

 俺とクロノが立っている廊下には特に気になるようなものはない。となれば、考えるまでもなく念話をしているということだろう。

 

 重要な案件でも舞い込んだのか、随分念話に意識を傾けているようだ。無防備なクロノの姿に悪戯心がむくむくと沸き起こるが、ちょっかいを出した日には今度こそ切腹(ハラキリ)ならぬお腹にスティンガーレイ(ハラステ)なので、懸命に理性で抑え込んだ。

 

 俺の理性と煩悩が(せめ)ぎ合うこと数秒から数十秒、念話を終えたクロノは(きびす)を返して早足になりながら歩き出す。

 

「おい、クロノ。なんだったんだ?」

 

 駆け足になってクロノの隣に戻った俺は尋ねた。

 

 張り詰めた表情で、クロノは答える。

 

「エイミィから念話が入った。なのはとユーノが敵対勢力……彼女たちの仲間の一人を発見したらしい。金髪の少女……フェイト、とか言ったか? 発見されたのはその少女の使い魔だそうだ。全身に傷を負っているらしい」



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一番魅力的だと思うのだ

更新遅れてすいません。


 金色に輝く髪の少女、フェイト。その少女の使い魔であるアルフを、なのはとユーノはアリサちゃんの家で発見したそうだ。

 

 なのはがフェレットモードのユーノを連れてアリサちゃんの家に遊びに行き、そこでアリサちゃんは思い出したかのように橙色の毛をした大きな犬を拾ったことを話題に上げた。『橙色の大きな犬』というフレーズに憶えがあったなのはは、アリサちゃんに頼んで見せてもらったらしい。

 

 バニングス家の敷地、端のほうには飼い犬たち御用達の大きな檻があり、その檻の一つに、包帯を巻かれたアルフの姿があったそうだ。

 

 アリサちゃん曰く、傷だらけで路傍に横たわっていたとのこと。

 

 心優しいアリサちゃんは、このままでは命に関わるかもしれない、と思って怪我の手当てをしたらしい。俺は実際に目にしたことはないが、アリサちゃんは多くの犬を飼っていることもあり、傷ついた動物を見過ごせなかったのだろう。

 

 すずかやアリサちゃんの手前、アルフと言葉を交わすわけにはいかないなのははその場をユーノに任せて離れた。

 

 アルフと対話するにあたり、ユーノは諸々の事情を踏まえた結果、管理局に連絡したようだ。

 

 ユーノからの連絡が届いたのが三十分ほど前。

 

 そしてアルフは今、管理局艦船アースラのとある一室にいた。

 

 ユーノからの報告を受けてあらましを説明してもらった後、アルフの保護と治療の為、俺はすぐにバニングス邸へと向かったのだ。

 

 必ずしも俺が行く必要はなかったのだが、変に疑いをかけられては事を大きくすると考え、顔馴染みである俺が選出された。

 

 アルフの身柄を受け取る際に、アリサちゃん、鮫島さんの二人と少し話をしたが、二人とも俺を信用してアルフのことを任せてくれた。

 

 『飼い主に心当たりがあるから俺が返しに行ってくる』という、日本の常識と照らし合わせたら、オレンジ色の毛色だったり狼だったりと不可解な点が盛り沢山な俺の言い分だったが、これで意外と純真なアリサちゃんは信じてくれた。

 

 実際、飼い主が誰かというのは知っているし、最終的にはその飼い主の元へ戻るのだから、嘘はついていない。

 

 もっとも、鮫島さんはきな臭い雰囲気を感じていたようだ。去り際に無声で『お気をつけて』とのお言葉を頂いた。

 

 既に軽く触れていたが、怪我をしたアルフを発見した時も、バニングス邸で保護されていた時も、アルフの形態は狼モードだった。消費魔力を抑え、傷の治りを可能な限り早くしようとしていたのだ。

 

 負傷していたという事実だけでも物騒な話だが、狼の姿になってまで回復しなければいけない状態という事柄は、不穏な気配を煽り立てるに足るだけの事柄だった。

 

 アースラの医務室でアルフの治療をしてもらい、目立った外傷がなくなったところで部屋を移す。

 

 いくら怪我人とはいえ、管理局と敵対しているグループの一人なので、自由な行動は許されなかった。

 

 外から施錠したら内側からは開閉できないようになっている特別仕様の部屋。聞こえは悪くなるが、要約すれば牢屋みたいなところにアルフは入れられた。

 

 部屋の外には出られないし魔法も使えなくさせられているが、それほど居心地の悪い空間でもない。ベッドもあるし、食事だって届けられる。空調も効いているのだ。なんなら俺の部屋より過ごしやすいかもしれない。

 

 敵を拘束するにしては、ずいぶんと配慮がなされた部屋だった。敵対し、ジュエルシードを取り合っていた人間相手とは思えないくらいの厚遇である。

 

 そんな牢屋と呼ぶには(いささ)か過ごしやすすぎる部屋で、俺はアルフが目を覚ますのを待っていた。

 

 優秀な医療スタッフたちによる魔法で治療を受けた後、見た目的にしっくりくる人型になったアルフは糸が切れたように眠ってしまった。疲れもあっただろうし、管理局に捕まって何をされるかわからないシチュエーション、という緊張もあったのだろう。尋問も拷問もなく、それどころか怪我を治されたことで張り詰めていた気が緩んだのだ。

 

 そこから場を移しても未だ眠り続けているアルフの顔を、俺は椅子に腰かけて眺めていた。

 

 男勝りな喋り方や勝気な瞳は鳴りを潜め、チャームポイントの大きめの犬歯は口を閉じていて見えない。ふわふわした尻尾は布団で覆われ、狼耳は豊かなオレンジの髪に隠れている。

 

 静かにゆっくりと寝息を立てているアルフは年相応のあどけない表情で、普通の少女となんら変わりはしなかった。

 

「ん……ぅ」

 

 寝言なのか、小さく唸って顔の向きを変え、筋の通った綺麗な鼻をむずむずとさせると眉根を寄せて、アルフはまた頭を元の位置に戻す。

 

 どうやら顔にかかった自分の髪がむず痒いらしい。

 

「子どもみたいだな……」

 

 俺はベッド脇に置いていた椅子から立ち上がり、アルフの顔にいたずらをしている橙色の髪を指で払う。

 

 さらさらとした触り心地抜群の髪に意識が向いてしまい、アルフの頬に手が触れてしまった。

 

「ぅう……? 徹?」

 

「ごめん、起こしちゃったな」

 

 半眼に開かれたアルフの瞳は、真正面にいた俺へと合わせられる。

 

 寝惚け眼を擦りながらアルフが上半身を起こしたので、俺はまた椅子に腰を下ろす。

 

「んにゅ……ふぁ、あふ……。いや、構わないよ。敵地で暢気にぐうすか寝てる方がおかしいのさ」

 

 アルフは目を瞑りながら大きく口を開いてあくびをし、眠気を断ち切るように何度かゆっくり瞬きしながら言う。

 

 手櫛で髪を整えて猫のように顔をくしくしすると、睡魔は追い払えたのか、普段のアルフの顔つきになっていた。

 

「怪我は……治ってるね」

 

「ここの医療スタッフは優秀らしいからな。ちなみに女性の局員が担当したからそっちの心配はいらないぞ」

 

「そっちってどっちなのさ。そんな心配してないよ」

 

 起き上がった体勢のまま、アルフは自分の身体をぺたぺたと触って傷の具合を確認する。

 

 肩や腕、足ならまだいいが、無防備に胸やお腹なども触診するため目のやり場に困った。

 

 自分の身体に不調がないことを確認し終えたアルフは、悪戯っぽい笑みを俺に向けた。

 

「寝込み、襲ったりしなかっただろうね」

 

「なっ! ……そんな軽口が叩けるんなら、もう大丈夫みたいだな」

 

「うん! おかげさまでね! それより徹、顔赤いよ?」

 

「誰のせいだと思ってんだよ!」

 

 いろんな意味で熱くなった頭を深呼吸して落ち着けてから、アルフへ向き直る。

 

 俺がアルフの起床をこの部屋で待っていたのは、元気な姿を自分の目で確かめたかったという理由もあるが、それだけじゃない。真面目な話をしなければならなかったからだ。

 

「アルフが負っていた傷は……誰から受けたものだ?」

 

「な、なんのことだろうね。さっぱりわからないよ」

 

「シラを切るにしてももう少し頑張れなかったのか」

 

 俺の問いかけに、アルフは苦笑いと下手くそな嘘で応えた。

 

 目線は俺から外れて宙を泳ぎ、頬はぴくぴくとひくついている。掛けられていた布団から外に出ている手は落ち着きなく開いたり閉じたりしているし、頭からぴょこんと伸びている狼耳は忙しなく震えていた。

 

 大声で『わたしは嘘をついています!』と宣言するのと同義だ。演技をしているのでは、と裏を読みそうになるほどである。

 

 しかしまあ、アルフが質問に答えなくても、然程困るものではない。

 

 俺の中では容疑者はほぼ特定されているのだ。

 

「プレシアさん……だろ?」

 

 アルフは驚きに目を見開くと、次には諦めたように笑顔を作る。

 

「わかっていたなら聞かないでほしいよ……」

 

「悪い。俺だって百パーセントの確証があったわけじゃないし、なにより外れていて欲しかったんだ」

 

「ここまで来ちゃったら、もう隠していても……ね」

 

 天井を仰ぎながら、アルフは部屋の空気に溜息を混ぜた。

 

 しばらく黙り込んだ後、アルフはぽつりぽつりと語り始めた。

 

 

 アルフの話は徹と別れる寸前の部分から始まった。

 

 九つの頭を持つ龍と化したジュエルシードを封印し、戦いが無事に終わったことで安心した徹たちに生まれた一瞬の間隙を縫い、リニスは徹たちが封印した九つのうち八つのジュエルシードを奪取した。

 

 そこまでは海上にいたのだから、もちろん徹の記憶にもある。

 

 集中力を注ぐのはここからの話であった。

 

 海鳴市近海の海域から転移したアルフとリニス、意識を失ったフェイトは、やはり海鳴市内のマンションにではなく、作戦本部へと戻った。アルフがこぼしたところによれば、その本部の名称は時の庭園と言うらしい。

 

 時の庭園に戻ったアルフは、フェイトに雷を落としたことについてプレシアに直談判に行こうとしたが、リニスに止められる。それは諭すような語調ではなく、上から言い捨てるような命令口調だった。

 

 『まるで人が変わったようだった。リニスじゃないみたいだったよ』、とアルフはリニスと交わしたやり取りを思い出し、悲しげに眉を歪めた。

 

 アルフがリニスと口論をしている間に、フェイトは目を覚ました。プレシアに呼ばれたらしいフェイトは痺れが残る身体に鞭を打って、母親が待つ部屋へと向かう。

 

 アルフは、フェイトを褒めるためにプレシアが自室に呼びつけたのだと思ったそうだ。

 

 海上で雷を落としたのは管理局の追跡を避けてすぐに撤退するためであり、フェイトを慮ってのこと。二つの勢力で協力したのにほぼ全てのジュエルシードを横から()(さら)うような手段はとても胸を張れるものではなかったにしても、結果的に八つものジュエルシードを手に入れたのだから、頑張ったフェイトをプレシアは当然褒めるのだろう。アルフはそう考えながら部屋の前で大人しく待っていた。

 

 プレシアの部屋から出てきたフェイトの頬は赤くなっていた。

 

 潤んだ瞳で、フェイトは笑いながら、『えへへ……怒られちゃった』

 

 なぜジュエルシードを封印してすぐに奪いに向かわなかったのか、なぜ撤退しようという時にぐだぐだと文句を言っていたのか。フェイトはプレシアにそういった主旨について言及、詰問され、最後には頬を(はた)かれた。

 

 『私が悪いんだ。母さんの言う通りにしなかった……できなかったから。お姉ちゃんを助けるために必要なのに、徹たちにも筋を通したいなんて考えてる私が悪いの』

 

 母親に責められ、暴力を振るわれてなお、フェイトはプレシアを庇った。

 

 そしてフェイトは再び意識を失ったという。

 

 それもそのはずだ。徹たちが現場に到着する前からジュエルシードと戦闘行動をしていて、封印する際にも拘束魔法で魔力を絞り出した。疲労困憊の小さな身体へ追い討ちをかけるように、肉親からの雷撃による肉体的なダメージと、精神的な磨耗。挙げ句の果てにジュエルシードを持ち帰ったのに叱責される。

 

 心身ともに、フェイトは限界だったのだ。

 

 気を失うように眠りに落ちたフェイトをアルフは抱きかかえ、自分たちにあてられている部屋のベッドで寝かせた。

 

 アルフは、フェイトの目元から頬へと伝う涙を手で拭うと、頭をひと撫でして部屋を出た。

 

 ご主人様であり、また家族でもあるフェイトを傷つけたプレシアを、アルフは許せなかった。越訴(おっそ)に打って出たのだ。

 

 アルフがプレシアの部屋へと戻った頃には、部屋の主はいなかった。探し回ってようやく、時の庭園の外縁部分にいるのを見つけた。

 

 アルフはプレシアに歩みを進め、詰め寄った。

 

 なぜフェイトにあんなことをしたのか。なぜフェイトにきつく当たるのか。

 

 殴りかからんばかりの勢いでアルフはプレシアに迫った。

 

 アルフは、少し前までは優しく接してくれていたプレシアに、元に戻って欲しかったのだ。プレシアが元に戻れば、様子がおかしくなっているリニスも以前の調子を取り戻すだろうと考えた。

 

 しかし、プレシアの冷めきった瞳と鋭利な雰囲気は変わらなかった。苛烈に責め立てるアルフに対し、プレシアは視線すら合わせようとはしなかったそうだ。

 

 そしてプレシアは一言だけ、アルフに問うた。

 

『アルフは、フェイトのことが大事なのかしら』

 

 たった一言。アルフはプレシアへ幾つもの言葉をぶつけていたが、プレシアがアルフへ放った言葉はその一言だけだった。

 

 プレシアさんの突然の問い掛けに、アルフは迷いなく、なにより力強く返した。『当たり前だ』と。

 

 プレシアはアルフの返事を受けとめ、一拍の間を置いてからアルフの腹部に右手を添えた。

 

 刹那、弾ける閃光と迸る魔力。

 

 唐突な攻撃にアルフは状況が掴めぬまま、魔力弾による連打を身体中に浴びた。

 

 柱に叩きつけられたアルフに、プレシアは杖を突きつけて魔力を溜めた。チャージの時間から考えて、止めを刺すつもりの一撃だったと予想される。

 

 魔法の雨が止んだその一瞬の空隙を突き、アルフは残された力を振り絞って魔法を使い、その場を離脱した。必死だったために大雑把な行き先は決められたが、精密な座標指定はできなかった。

 

 海鳴市に逃げ延びたアルフだったが、全身に傷を(つく)り、魔力も底をついていた。草陰に身を隠すこともできず、狼形態になって路上に倒れ伏し、アルフの意識は底なし沼に呑み込まれるように沈んだ。

 

 

事の顛末は、こういうことなのだそうだ。アルフの説明に俺の解釈を擦り合わせたイメージとなっているが、(あなが)ち的外れな想像にはなっていないだろう。

 

「なんでこんなことになっちゃったんだろうね。これまではそこそこ幸せに生きてきてたのに、何かが狂ってこんなことになっちゃった。もうきっと、戻れないんだろうね」

 

 泣きそうなのに、今にも涙が零れ落ちそうなのに、それでもアルフは笑顔を見せた。

幸せになりたい、みんなと……家族と一緒に笑い合いたい。きらきら輝くようなものではなかったけれど、それでも充分満足していた日々に戻りたい。でも、自分の力ではもう、どうしようもない。

 

 そんな、大事なものを諦めるしかないと悟ったような表情が、俺はとても嫌いだ。

 

「大丈夫、まだ大丈夫だ。まだ間に合う。みんな生きてるんだから、まだ戻れる」

 

「そう、かな。そうだといいね。ありがとう」

 

 そう言って、アルフは少しだけ顔を明るくした。

 

「前まではプレシアさんは優しかったって言ってたよな。いつ頃から様子が変わったのか教えてくれるか?」

 

 嘱託として雇われているとはいえアースラの正式な乗員でもない俺が、この件の重要参考人であり敵対勢力の構成員であるアルフと二人きりで話ができているのは、そのほうが情報を聞き出せるだろうと、艦長であり総責任者であるリンディさんが踏んだからだ。見ず知らずの時空管理局局員が相手をするよりも、顔見知りの俺が会話をしたほうが気を許して喋りやすくなるだろうという合理的判断。リンディさんはそう言った旨を俺に伝えて、この部屋へと行かせた。

 

 まぁどうせあの人のことだ、どうせその辺りの言い分は建前だろう。本意は管理局という組織に捕まって、不安を感じているアルフへの配慮である。

 

 リンディさんの内心が何であれ、アルフから情報を引き抜くように指示を下されたのだから役目は果たさなければならない。

 

「そうだね……ジュエルシードを取りに行くように言われた時は変わりなかった。前に徹が差し入れにケーキを持ってきてくれた日も、特に変化はなかったよ」

 

 首を傾げながらアルフは追想するように、時系列順に記憶の中を調べていく。

 

 俺はアルフの集中を邪魔しまいと黙って待っていた。

 

 黙って真面目な顔を取り繕ってはいたが、心の内は邪念が渦巻いていた。真剣な空気を壊すまいと、口を噤んで眉根を寄せてはいるものの、俺の高鳴るハートはビートを刻むのをやめはしない。

 

 陽気な性格のアルフが、まるで病弱な少女を象徴するようなアイテムに囲まれているというのは、あまりのギャップに思いもよらないトキメキを覚えるのだ。

 

 純白のシーツにブランケット。ベッド脇のサイドテーブルには象牙色の花瓶に、見たことのない花が活けられている。身体を起き上がらせて膝に手を置く姿は淑やかさがある。肉体的精神的疲労からか、アルフの相貌はいつもの強気な色はないが、常と異なる弱々しい雰囲気があり、心を擽る。首の後ろで髪を二つに分け、肩を越えて体の前面に流している彼女には、普段の男勝りな魅力とは違う女性らしさがあった。

 

 このレアな光景を形には残せなくても、脳という記憶媒体には永久保存しようと、俺はアルフをじいっ、と食い入るように観察していた。

 

「一週間前……くらいかな、リニスを通してプレシアから指示があって……どうしたの、徹?」

 

「いや……な、なんでもない。続けてくれ」

 

 俺の目が血走っていることに気づいたのかそうではないのか、アルフが声をかけてきた。

 

 挙動不審になりながらも俺はアルフに応答する。

 

 これ以上は怪しすぎる。網膜には焼き付けたので、ここからはちゃんと身を入れて聞くこととしよう。

 

「う、うん。えっと……どこまで喋ったっけ。プレシアから指示があって、そう、その時にジュエルシードを早く集めるように、って強く言われたんだよ」

 

「一週間くらい前……港近くの工場跡で戦った日か?」

 

「そう。その日の夜だった。マンションに帰って晩御飯の用意をしている時に、リニスから念話で連絡を受けたんだ。そういえば言ってなかった。あの時は庇ってくれてありがとうね。おかげでわたしたちは管理局から追跡されることもなく無事に戻れたんだ」

 

「な、なんのことだかさっぱりだ。そもそも、礼を言われるようなことはしていないぞ。俺は俺の好きなようにやっただけだからな」

 

 急に感謝され、あたふたどぎまぎしながら返す。俺の目をまっすぐに見つめながら言うものだから無性に照れくさくなり、視線を逸らして落ち着きがなくなった手を抑えるように腕を組む。

 

 そんな俺を見て、アルフはくすくすと笑った。

 

「なんだこら、なにがおかしい」

 

「いや、ごめんね。だって、フェイトと話していた通りの動きをするもんだからさ」

 

「話していた通り?」

 

「わたしたちがお礼を言った時、徹はどんな反応をするかなってフェイトの喋ってたのさ。そしたら徹が予想通りに腕組んで目を逸らすんだもん、笑うの我慢できないよ」

 

 なおも両手で口を覆ってくすくす笑うアルフは、少しだけだが元気を取り戻したように思えた。

 

「もう勘弁してくれ。続きを頼む」

 

「ふふっ、ごめんね。そうだ、その日の伝達で変わったことを言われたんだ。それまでは基本的にリニスと一緒に動いてたんだけど、別行動することになったって」

 

「別行動……?」

 

 俺の疑問に、アルフは頷いて続きを話す。

 

「うん。プレシアから違う用事を頼まれたから今後は二人でジュエルシードの回収をするように、って」

 

「そのタイミングで別行動、ね。…………やっぱりな」

 

「え、なに?」

 

「いや、いい。続けてくれ」

 

「う、うん。そういえば、ちょうどその時期からだったよ。……プレシアも、リニスも、どこか刺々しくなったのは」

 

 アルフは目を伏せて、言葉を紡ぐ。

 

「言うこともきつくなったし、厳しくなった。態度も、振る舞いも、言葉遣いも横柄になった。見下すような目つきで、わたしたちを見るようになった」

 

「もう充分だ、もういい」

 

「あんなに優しかったのに、まるで人が変わったように怖くなった。わたしたちよりも、ジュエルシードのほうが大事みたいな……そんな扱いに……っ」

 

「アルフ!」

 

 虚ろな瞳をして喋り続けるアルフを、俺は半ば怒鳴るように止める。

 

 アルフも不安だったのだろう。様子がおかしくなっていった――辛辣に当たるようになっていった家族と接していて、何を信じればいいかわからなくなったのだ。家族が何を考えているのか、わからなくなったのだ。

 

 家族を疑いたくない。でも信じるに足るだけの材料がなくなっていた。

 

 そして今回、信じていた仲間から攻撃を受けた。

 

 逆らうものは誰であろうと排除する。そこに敵味方の区別なんてない。

 

 大事な仲間で、大切な家族であったプレシアさんにそんな冷たい仕打ちを受けたのだ。心を支え落ち着かせる柱は崩され、情緒は不安定になる。

 

 仲間思いのアルフにとって、それがなによりも苦しく辛かっただろうことは想像に難くない。

 

 魔法で受けた傷よりも、冷酷な言葉に切りつけられた心のほうが、ずっと痛いのだ。

 

「大丈夫、大丈夫だから。きっとすぐに優しいみんなに戻るから」

 

 だから俺は、自分に自信がなくたって、大それたことを余裕綽々と言い切る。断言する。

 

「全部終わった頃には、みんな揃って笑い合える。数年後には、『あの時はほんの少しばかりやらかしちゃったな』なんて言って冗談にできる。だから……」

 

 生気を失いかけているアルフの目を見て、俺は言い放つ。

 

「悲しい結末にならないように、もう少しだけ頑張ろう。誰も泣かなくて済むように、今は歯を食い縛って踏ん張ろう。一緒に、頑張ろう」

 

「……なんの根拠もないんだね。やり方も道筋もなにも見えないよ。まったく……いやになる」

 

 暗く澱んでいたアルフの双眸に、再び光が灯った。

 

「そんな勢いだけの言葉で励まされて、やる気が出ちゃう自分がいやになるよ」

 

 声には力が戻り、身体からは覇気が溢れている。悪かった顔色は普段の状態を通り越して赤みがかり、口元は笑みを作った。

 

 心に一本芯が通ったように、アルフの雰囲気はがらりと豹変した。

 

「なんでも協力する。だから、徹も手伝ってね」

 

 そう言いながら、アルフは俺に手を伸ばした。

 

「今更訊く必要なんかないだろ。当たり前だろうが」

 

 俺も手を伸ばして、アルフの手を握る。細いのに力強く、頼りになる手だ。

 

 握手と同時に視線も交わす。

 

 ふふ、とまたアルフは笑った。

 

 握った手を離し、アルフは拳を作って俺に向けた。以前にアルフにやった、いろんな想いを込められる挨拶だ。

 

「敵同士だったはずなのに、これでとうとう共闘することになったわけだね」

 

「それこそ今更だ。前からわりと一緒に戦ってただろ」

 

「あははっ、それもそうだね。フェイトのこと、リニスのこと……プレシアのことも……よろしくね」

 

 俺も手のひらを握り込み、アルフの拳に近づける。

 

「全員幸せにならなくちゃ駄目なんだから『アルフのことも』だぞ」

 

 こつん、とアルフの拳と俺のそれがぶつかる。

 

 俺の感情がアルフに伝わったかどうかは本人にしか分からないだろうが、少なくともアルフの気持ちは俺に届いた。

 

 アルフは一瞬きょとんとした表情をしたかと思えば、次の瞬間には破顔した。

 

 隠すつもりもないように声をあげて一頻り笑うと、笑いすぎて浮かんだ涙を指で掬い取って言う。

 

「やっぱり徹は人を乗せるのがうまいよ。指揮官に向いてる。調子づかせることに長けてるんだろうね。格好つけちゃって、徹のくせに」

 

「ついさっきまで泣きそうになってたやつがよく言ったな。動画に収めてたらよかったぜ」

 

「さ、さっきのは違うから! ちょっとへこんでナーバスになってただけ! 他の人に……特にフェイトには絶対話しちゃダメだから! わかってるだろうね、徹!」

 

「いやー、わからないなー、ふとした拍子に格好つけて喋っちゃうかもなー」

 

「どれだけ根に持ってるのさ!」

 

 アルフは腕をぱたぱたと上下に振って『絶対に言い触らさないでよ!』と、表情をころころと変える。

 

 数分前までアルフの周囲に漂っていた弱々しい病弱少女オーラは綺麗さっぱり消え去り、元のアルフに回帰していた。

 

 か弱さが見え隠れしているアルフは言うまでもなくとても可愛らしかったが、やはり元の元気発剌な姿が一番似合う。

 

 表情豊かに目を細めて頬をゆるませて、チャームポイントの八重歯を覗かせている今のアルフが俺はやはり、一番魅力的だと思うのだ。

 




真面目な空気であればあるほどふざけた描写を入れたくなってしまうこの性格はそろそろなんとかすべきだと自分でも思ったり思わなかったりする今日この頃。暗い話ばかりだと気が滅入ってきてしまい、どうにも衝動が抑えられません。


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 アルフとの話を終え、俺は部屋を出た。

 

 規則でもあるしリンディさんにも言いつけられているので、気が咎められながらも部屋の鍵を閉める。これでアルフは部屋の外へ出ることは叶わない。

 

 とはいえ、牢屋という名目でアルフに用意された部屋は、1Kのマンションの一室程度には広さも設備もあるのであまり問題はないように思える。

 

 アルフに、すぐまた来るから、と言葉を残して退室し、俺はリンディさんとクロノの元へと足を向けた。聴取した内容の報告と、そしてある一つの提案の為だ。

 

 ジュエルシードは全て発見され、各々の勢力の手に行き渡った。この状況にまで到達した以上、さらにジュエルシードを欲さんとすれば、互いの総力を挙げての全面戦争になる。

 

 血で血を洗うような闘争、とまで言ってしまうと過言かもしれないが、似たような血生臭い戦いになるのは必定だ。

 

 激化、長期化、泥沼化を防ごうと目論んだ俺の案。それはこれまでと同様、互いから一人ずつ代表者を選出し、その勝敗如何でジュエルシードの所有権を決するというものだ。

 

 今までと異なる点といえば、ジュエルシードを賭ける数が一つや二つではなく、互いが持つ全てを賭け皿に乗せるという部分。

 

 数ではフェイトたちのほうが六つも多いが、こちらから提言すればおそらく彼女たちは俺の案を前向きに検討するだろう。

 

 彼女たちの持つジュエルシードの数は十三個。対してこちらは七つ。数の上では開きがあるが、エネルギー量という内情では大差はない。

 

 推測でしかないが、海上でリニスさんが強奪した八つのジュエルシードは普通のジュエルシードとは違い、保有魔力量が低下している。同時に封印し、こちらが回収した残りの一つを調査した結果、ジュエルシードが内包する魔力が四分の一にまで減少していた、とリンディさんが言っていた。俺たちが回収した一つがそんな有様なのだから、リニスさんが掠奪した八つのジュエルシードも同じことになっているとの予想は大きく外れてはいないだろう。

 

 彼女たちが……プレシアさんが赴かんとする忘却の都、アルハザード。その地に辿り着くためにどれほどの力が必要になるのかは、俺には見当すらつきはしないが、エネルギー量が多いに越したことはないと考えるのが自然だ。

 

 きっと乗ってくる。彼女たちの筋書きにも沿っているのだから。

 

 作戦を立てるに当たって、話を通しておかなければいけない人たちは何人もいる。

 

 まずは管理局側。リンディさんとクロノ。二つの勢力の代表者、なのはとフェイトが気兼ねなく戦える場を作らなければならないので強力で広範な結界を張ってもらいたいのだ。エイミィにも立ち会ってもらい、許可をもらわなければいけないだろう。

 

 次に、実際に戦うなのはと、なのはの先生役を務めてきたユーノ。つまり俺が属する勢力全員だ。なのはもいくつか経験、というより実戦を積んだのでかなり腕が上がってきているが、まだフェイトと相対するには戦力的に不安が残る。戦略を練る時間も必要になるだろう。

 

 最後に、ジュエルシードを賭けたギャンブルの相手役。プレシアさんたちにも話をしておかなければならない。これについてはアルフから念話かなにかで連絡を取ってもらうとしよう。

 

「さて、あとは二人を説得するだけだな」

 

 この船の最高責任者・リンディさんと、執務官を担っていて発言力のあるクロノ。その二人が待つ部屋の扉に手をかける。

 

 真っ当な言い分は用意した。後はいつものようにのらりくらりとそれらしい理由をこじつけて煙に巻くだけである。

 

 

 リンディさんとクロノとの会談は案外すんなりと終結した。

 

 二人ともこれからどういう手を打とうかと頭を悩ませていたらしい。俺の提案は渡りに船だったそうだ。

 

 エイミィはその席にはいなかったが、そちらはクロノから説明をしておいてくれるとのこと。俺にもやらなければいけない根回しは多いので、代わりにやっておいてくれるとの申し出は大変ありがたい。

 

 リンディさんたちとの会議で使った部屋からアルフが拘留させられている部屋までの道すがら、なのはとユーノに、決着をつける一戦を執り行う、と念話を送っておいた。

 

 なのはも、フェイトとは交わすべき言葉があるはずだ。伝えるべき想いが、あるはずなのだ。

 

 もう一度真剣勝負で向き合う機会があれば、そのほうが良い。それが二人の少女にとって実りあるものになれば尚良いが、それは少女たち次第となるだろう。

 

 なのはたちへの念話を終えてから、俺は足を止めて項垂(うなだ)れる。

 

 ぽつり、と独言が零れた。

 

「……黙っておいたのは、間違ってない、よな」

 

 なのはとユーノには、フェイトの事情についてを隠した。

 

 フェイトの事情、プレシアさんの娘であるアリシアのクローンであること。アリシアのためにジュエルシードを集めていること。俺の推論でしかないが、その先についても、一切なのはたちには喋らなかった。

 

 フェイトとの一騎打ちにあたって、どこまでも優しいなのはへ心労をかけたくなかった、という理由はある。あるが、理由はあるけれど、結局は俺の自分本位な言い訳にしかならないだろう。

 

 言えなかった、口に出せなかったのだ。どんな表現でなのはに説明すればいいか、俺にはわからなかった。事実を知ったところで、なのはがフェイトに対して悪感情を抱くなんてことはこれっぽっちも思ってはいないが、もしかしたら、という恐れが俺の思考を鈍らせた。

 

 そして言い出せないまま、なのはとの念話を終えてしまった。後から知らされたほうが傷つくだろうと判断はできるのに。

 

 考え事がぐるぐるとループし始めた頃、胸元で、ぱちぱち、とスパーク音がした。言語を発することができないエリーが、思いを行動で表していた。

 

 首にかけたネックレスは外から見えないよう服の内側にしまっているので、エリーは俺の地肌に触れている。エリーがぱちぱちと魔力か、それに準じる何かを低出力で放出したので少しむず痒い。胸元を指先で引っ掻かれるような感覚だ。

 

 そんなエリーの『励まし』に、俺は思わず笑ってしまった。

 

「そうだな……ぐだぐた考えても仕方ないよな……」

 

 エリーは俺の胸元で魔力を弾けさせる。『今更弱音を吐くんじゃありません』というように。

 

 エリーは魔力を弾けさせながらも、暖かさを俺に与える。『あまり無理をしてはいけませんよ』というように。

 

 そんな二つの気持ちを、エリーは同時に俺へと送ってきた。叱咤と心配を、俺へと贈ってきた。

 

 常に俺の近くにいるだけあって、俺の性格をこいつはよく理解しているようだ。

 

「ありがとうな。元気出たよ」

 

 俺は右手でエリーをぎゅうっと握り締める。エリーに痛覚などの感覚があるかはわからないが、苦しくならないよう配慮して、だ。

 

 足に力を込めて、俺はまた歩き始める。

 

 エリーに応援してもらっておいてなお踏ん切りがついていない自分に嫌気が差しながら、大きく溜息をつく。それでももう、足は止めなかった。

 

 疑問だろうが葛藤だろうが、全部抱えて歩けばいい。壁にぶつかったら、その時に解決策を模索すればいい。下手の考え休みに似たり、だ。

 

 定められた唯一絶対の解答が存在しているわけではない。おそらくどんな行動を選択したとしても多かれ少なかれ後悔はするし、何が正しいかなど誰にもわからない。

 

 ならばこれ以上考えても時間の無駄だ、と自分に言い聞かせる。

 

 リンディさんとクロノには、以前プレシアさんについて調べた時にわかったことを今回の提案の最後に、つい先程報告した。

 

 二人にも口を噤んでおこうかとも考えたが、黙秘を貫くことはできなかった。様子がおかしいのを問い詰められたこともあるし、なにより伝えておいたほうが事が良い方向に運ばれるのではという算段があった。クロノからは『わかった時に報告しろ』と注意されたが。

 

 クロノが語調強めにそう言ったのは、きっと仕事絡みだけではない。一人で抱え込もうとするな、という憂慮の裏返しだったのだろう。

 

 それを証明するように、クロノの隣に座っていたリンディさんはにこにこというか、にやにやというか、とにかく頬を緩ませっぱなしだった。自分の息子が人に気配りができる優しい子に育っていることが嬉しかったのだと推測される。リンディさんの表情は艦長としてではなく、一人の母親としての顔だった。

 

 心の奥底に走る疼痛とともに、クロノとリンディさんのやり取りを思い出していた。

 

 現代日本の常識と照らすとハラオウン家は一般的な親子とは言い難いけれど、やっぱりそこには家族愛という絆がある。リンディさんもクロノも二人とも仕事をしていて、二人とも責任ある立場にいる。家族水入らずの時間なんて満足に取れなくても、心が繋がっているのだ。

 

 俺と真守姉ちゃんは自他ともに認められるほど仲の良い姉弟だが、血は繋がっていない。それでも愛情は俺と姉ちゃんの間を確と通っていて、心は常に結ばれている。長い時間が、ともに育った日々が、絆を深く、固くした。

 

 ならば、プレシアさんとフェイトにだってきっと、繋がりはあるはずだ。クローンであっても血を分けたことに違いはない。生まれてから今日まで一緒にいた時間は裏切らないはずなのだ。

 

 何をするにも、まずはなのはとフェイトが一騎打ちをする旨の約定を、相手方と取り付けなければいけない。

 

 そのパイプ役となるアルフがいる部屋まで戻ってきた俺は、貸してもらってそのままになっている部屋の鍵を使い、解錠する。

 

 この部屋は古式ゆかしい錠前タイプと、最新式の電子錠の二つを解除しなければ扉が開かない仕組みとなっている。ピッキングのテクニックがあっても電子錠を突破できないし、ハッキングの技術があっても同様に開くことはできない。なんとも念の入った構造である。

 

 ちなみに、特技とまでは言えないがピッキングの心得は一応あったりする。言うまでもなく家の鍵以外で使ったことは、ましてや悪用などはしたことない。知識として知っているというだけであって、深い意味はない。ピッキングに必要な器具が何個かあれば鍵なんていらないな、なんて思ったりしていない。

 

 話の肝心要はそこではない。アルフにこの提案をどう切り出すかが重要なのだ。

 

 アルフには、またすぐ来るから、と言い含めておいたので、再び寝てしまっているなんてことはないだろう。

 

 ぷしゅっ、と空気が抜ける音とともに扉がスライドする。

 

「アルフ、戻っ……」

 

「へ? ぁ、と、とお……る?」

 

 出入り口である扉と部屋をつなぐ廊下などは、この拘留室にはない。艦廊と部屋とを仕切る境界線を跨げばすぐ室内だ。

 

 入室した俺の視界に映ったのは、肌色が七割、橙色が二割、赤色が一割。肌色はそのままアルフのきめ細やかな肌、橙色は長い髪、残りの一割の赤色は真っ赤に染まったアルフの顔。

 

 つまるところ、アルフはお着替え中であった。

 

 アルフはベッド脇に立っていて、俺からはちょうど斜めに見ている感じだ。着用しようとしている服を掴んで胸元に寄せているので大事な部分は見えていないが、かなり際どい。

 

 ここで悲鳴の一つでもあげられて誰かが来てしまえば、俺は下劣な行為に及ぼうとした犯罪者だ。アルフと同様拘留室に、いや、俺の場合中身も外観も牢屋としか形容できない部屋にぶち込まれるだろう。

 

 アルフが叫ぶ前に落ち着いて貰うべく、機先を制して口を開く。

 

「ご、ごめん! 狙って入ったわけじゃなくて、本当に偶然で!」

 

 一糸纏わずに立ち竦んでいるアルフから目を逸らさなければと頭では理解できているのに、眼球は俺の命令に断固拒否で答えた。前科がつくか否かの瀬戸際だというのに、食い入るように、ともすれば舐め回すように見入っている。魅入られている、と換言できるかもしれない。

 

 頼んでもいないのに視界内の情報を整理しようと思考が回転、加速する。

 

 すらりと伸びた脚には無駄な肉など一切なく、女性らしいラインを残しながらも引き締まった筋肉がうっすらと見える。接近戦を得意とするだけあって下半身は鍛え上げられているようだ。お尻はつんと上を向いて曲線を描いている。尾骶骨からはふわふわした尻尾が伸びているが、緊張からかピンとまっすぐ直立していた。お腹周りはほっそりとくびれているのに、しっかりと腹筋があるためか、弱々しい印象はない。上へと視線が登れば、豊かな双丘の中腹までが露わになっていた。服で胸元が押さえられているため、山頂を目にすることはできないが、柔らかそうなマシュマロを思わせるそれがむにゅりと形を変えているのは逆にそそるものがあった。視線はなおもアルフの肢体を這い上る。無駄に膨張させず絞った腕の筋肉群はもはや芸術品だ。三角筋・上腕二頭筋・上腕三頭筋・腕橈骨筋のバランスに目を奪われる。リニスさんが筋肉に陶酔する気持ちも、今なら共感できる気がした。首筋と細く浮き上がる鎖骨にはオレンジ色の髪が川のように流れており、健康美と艶やかさが醸し出されている。そこには一種の妖しい色香が混在していた。首を辿っていくと、林檎よりも真っ赤な顔で、口元をへの字にして目元に涙を溜めているアルフの尊顔を拝することができた。オレンジ色の長髪は首筋を彩り、豊かな谷間に挟まれ、背中へ張り付き、腰に纏わりつくなどして全体の色っぽさを一段階引き上げている。頭の両側の耳は可哀想なくらいぷるぷると小刻みに揺れ、ぺたりと中ほどで倒れて垂れ耳みたくなっていた。

 

 ここまでの考察がおよそ一・七秒で行われたのだから、自分の目と無駄に速い思考力には呆れ果てると同時に、よくやったと賞賛したいくらいである。

 

 ちなみに、初めて見る彼女のそんな表情に少なからず嗜虐心が込み上がってきたのは秘密。

 

 アルフは服を両手で掴みながらぷるぷると震え、犬歯を見せつけるように口を開く。大きく息を吸い、そして吐いた。

 

「で……出てけぇ!」

 

「は、はい! すいませんでした!」

 

 大音声で放たれた命令に、俺は速やかにくるりと踵を返して退室した。

 

 壁際にあるパネルを後ろ手で素早く操作する。空気が通る音と金属が噛み合う音が続いて鳴り、扉が完全に閉じられた。

 

 扉を背にしてもたれかかる。

 

 記憶にも網膜にも焼きついて、目を瞑れば今も鮮明に浮かんできてしまう先ほどの光景は、おそらく向こう一年は忘れることはできそうにない。

 

「しかし、なんで下着も全部脱いでたんだ……」

 

 ふと口をついて出た疑問には、がつん、という扉越しの衝撃が応えた。

 

 俺の囁くような独り言が、アルフの耳には届いたようだ。扉の近くに寄ってきていたとは思えないので、おそらくベッド脇にあった手近なものを投げたのだろう。

 

 アルフの狼耳は飾りではなかった。ちゃんと優れた聴覚を有しているようだ。

 

 

 しばらく部屋の前で忠犬ばりに『待て』をしていると、扉の向こう側から、もういいよ、という声がした。アルフのお着替えが終わったようだ。

 

 声のトーンは暗く沈んだものであるが、原因については察している……というよりも俺自身が原因なので、あまりこちらには触れずに話を進めたい。お互い忘れた方が幸せなのだ。いや、忘れるなんてそんなことできないけれども。

 

 どんな顔して見ればいいのだろう、などと思いながら扉を開く。

 

 アルフはベッドに腰掛けていた。

 

 アルフの服装は、淡いピンク色のチュニックワンピースにキュロットスカート。彼女にしては珍しく、どちらかというとガーリーなスタイルであった。

 

 チュニックワンピースはおしとやかで清楚な印象を人に与えるが、いかんせんサイズが微妙にあっていないようだ。特に胸囲がきついらしく、その部分だけ妙に盛り上がっていて服の印象が変わってしまっている。大変眼福……お似合いである。

 

「なにさ、じろじろと舐め回すように見て……。さっきのこと、思い出してるんじゃないだろうね」

 

「ち、違うって! それにさっきのもわざとじゃない!」

 

「次怪しいことしたら『犯されるー!』って、叫ぶからね」

 

「本当にもう勘弁してください……」

 

 もともとノックして確認しなかった俺に非があるのだから、言い訳のしようもない。真摯な謝罪の他に俺が取れる姿勢はなかった。

 

「そ、そんなことより、その服はいったい……」

 

「『そんなことより』? うら若き乙女の裸を見て『そんなことより』? 徹にとっては女の裸なんてそこらへんの柱とかと同じなのかい?」

 

 足を組んで柔らかい笑顔を浮かべるアルフだが、目が怖い。笑顔の裏側には般若のお面が隠れていると確信できた。

 

「違う、違うって……。言葉の綾だ……」

 

「仕方ないね、話が前に進まないから今は置いといてあげるよ。この埋め合わせはいつか必ずしてもらうけど」

 

「わかった、了解だ。そんでその服どうしたんだ? 持ってきたのか?」

 

「ここから出られないのにどうやって持ってくるのさ。馬鹿なの?」

 

「あたりがキツい!」

 

「冗談だよ。茶色の髪の乗員さんが『着替えがなかったら困るでしょ?』って言って持ってきてくれたんだよ。でも……あたしにはちょっと小さいかも」

 

「茶色……髪は短めで背は低かった?」

 

「そうだったね。笑顔が可愛い、とてもいい子だったよ」

 

「絶対エイミィじゃん。なんでいないんだろうと思ったら」

 

 報告の場にいないと思ったらエイミィはアルフに会いに来ていたようだ。先ほど行われたリンディさんとクロノへの報告は急遽決定されたものだったので、予定が合わなくても致し方はない。

 

 しかし、一応は捕虜とされている人物に単独で会いに来るなんて何を考えているのだろう。同じ服をずっと着るなんてできない、という女性ならではの思考が彼女を突き動かしてアルフへと替えの服を届けに来たのかもしれない。なんともはや、配慮が行き届いた船である。

 

「良い服なんだけど、あたしには可愛すぎる服だよね。似合わないかな」

 

「いやいや、めちゃくちゃ似合ってるぞ。女の子らしさがありつつも活発そうなアルフの魅力で溢れてる」

 

 自信なさげに言うアルフに、俺はそう確言する。

 

 一度大きく目を見開かせると、アルフは頬を赤らめつつ口元を綻ばせた。

 

「あ、あはは、ほんと徹は口が上手いよ。お世辞でもそういうこと言ってもらえると女の子としては嬉しいけどね」

 

「お世辞じゃないんだけどな。髪も服に合わせて緩く結っていて落ち着いた可愛さが出てるし、綺麗な足が強調されてて男なら誰の目から見ても魅力的……

「い、いいから! もういいから、ありがとう! 私のことはもう充分だから、こっちに戻ってきた理由を教えてよっ!」

 

 これ以上喋るな、とアルフは俺に手のひらを突き出して止めてきた。

 

 この程度では語り尽くせない、それこそ少なくとも四百字詰め原稿用紙十枚分くらいは言葉を重ねたかったのだが、顔を真っ赤にして止められたのならば続けるわけにもいかない。彼女の要望通り、むずむずと動きたそうにする舌を抑えて質問に答えるとしよう。

 

 というよりも、本題はそこなのだ。

 

「プレシアさんに伝言してもらいたいんだ?」

 

「伝言? なにを?」

 

 オレンジ色の髪を弾ませて小首を傾げたアルフへ、俺は告げる。

 

「『ジュエルシード全部賭けて勝負しましょう』ってな」

 




最近どうにも調子が悪いです。
文章がつながらないといいますか。とにかく時間がかかりすぎる。シリアスになると言葉が思うように出てこない。

次の話はなのはとフェイトの最終戦、原作沿いです。というよりもほぼまるまる引っ張ってきているようなものですが。


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「桜色の、小さな星」

今回は進行が完全に原作をなぞった形になっております。


 高高度まで伸び、辺り一帯を丸ごと囲う二重防壁による強固な結界。その結界の中にはマンションやビルとよく似た形状の建築物。

 

 海から生えて、幾つも天めがけて(そび)え立っている高層ビル群の一つに、俺とユーノ、アルフはいる。

 

 結界が張られた空間は、もとは海鳴市からほど近くの海上。そこに結界を構築して、一般人からは目につかず、迷惑も与えないようにと丈夫で高度な結界が展開されていた。

 

 エイミィからは『どれだけ暴れても大丈夫だよ』とのお墨付きを頂いている。

 

 昨日の夜、俺は今回の一戦を、アルフを通してプレシアさんへと伝言してもらった。

 

 アルフは俺の提案に面食らった様子ではあったが、すぐに事情を理解して協力してくれた。

 

 アルフを仲介役にプレシアさんとやり取りしたが、豈図(あにはか)らんやというか、ある程度は予想通りであったにしろ思いの外あっさりと承諾してくれた。互いに有利不利がないようにするための措置は講じるように、との一言は添えてきたが、その他には特段何か言ってくることはしなかった。

 

 プレシアさんにとってもだらだらと長期戦になるのは避けたかったようだし、彼女の目論見からすれば今回の提案は大海の浮木みたいなものだろう。こちらにとっても相手にとっても、この案は願ったり叶ったり、なのである。

 

「こんな作戦を、あの堅物なクロノがよく承認しましたね。管理局が結界を張っているということは話を通したんですよね?」

 

 並び立つユーノが俺の顔を見上げながら尋ねる。

 

 俺はビルの屋上から見える範囲にいるなのはを視界に入れたまま、ユーノへ答える。

 

「次元跳躍攻撃が出来る優秀な魔導師であるプレシアさんがいて、それに匹敵する、とまでは言えないものの同じく強敵のリニスさんがいる。この件が長期化すればお互いに消耗戦になるのは目に見えてるからな。無為な損耗を嫌ったんだろ」

 

「戦力的な問題だけでなく、今後のことも視野に入れた結果ですか……。いろいろ考えてるんですね」

 

「そんな大したもんじゃないと思うぞ。要するに、面倒事は早く終わらせたいってだけだ」

 

 ユーノと話していると、とうとうフェイトの姿が現れた。

 

 周りよりかすかに背の低い建物の最上階。屋上には噴水があり、その近くになのはが佇んでいて、フェイトはなのはの後ろ、貯水槽の上に立っていた。

 

「フェイト……あんな仕打ちを受けても、まだプレシアのことを信じてるんだね……」

 

 俺の隣、ユーノとは反対側のアルフが、ぽそりと独り言のように呟いた。

 

「子どもにとって、親っていうのは『絶対』なんだろうよ。それこそ、自分の身を省みないほどに、な」

 

「……あたしはフェイトが一番大事なんだ。同じように、フェイトはプレシアのことが一番大事、なんだろうね……」

 

「『一番大事』か。そんなに長く見ているわけでもないから説得力はないかもしれないけどさ、たぶんフェイトの『一番大事』の中には、そりゃあプレシアさんもいるだろうけど、当然アルフも入ってると思うぞ」

 

 悲しそうな瞳で同じ方向を眺めるアルフに、俺はそう返した。同情や憐憫(れんびん)で言ったわけではない。本心からの言葉であった。

 

 アルフがこの場にいるのは、なにも釈放されたということではない。

 

 本来なら管理局艦船アースラの拘留室から出られないはずのアルフだったが、なのはとフェイトの一騎打ちが決まったことでどうしても一緒に行きたいと願い出た。行きたい、行かなければならない、という本人たっての所望があり、切実に(こいねが)うアルフを袖にすることはできず、俺からもリンディさんとクロノに頼み込んで、魔法を使わないことを条件に同行の許可を得た。

 

 アルフも今更抵抗しようとは考えていないらしく、その条件を二つ返事で快諾した。

 

 思考を現在に戻し、前方を見やる。視線の先の少女二人は、いくつか言葉を交わしている。

 

 距離があるため会話の内容はここからでは聞こえないが、その代わりに目の前に照射されている空間ディスプレイが二人を映し出していた。なんとも都合のいい機能があるものだな、とも思ったが、この結界や建造物群自体訓練で使用されるものなのだから、訓練内容を詳細に確認するために撮影機能が設置されているのは道理であった。

 

『フェイトちゃんと出会えた一番大きなきっかけは、やっぱりジュエルシードなんだと思う。だから、賭けよう。わたしたちが持ってるジュエルシード、全部。賭けよう、わたしたちの想い、全部。全力で戦って、向き合って……そこから始めなきゃ、いけないんだ』

 

 なのはの毅然とした声が、俺の耳に届く。

 

 目線の先でかすかに動きがあった。モニターに目を移すと、背後にいるフェイトへなのはが振り向いていた。

 

『ここで終わるんじゃない、わたしたちはここから始まるんだよ。なにもかも……ここから始まるんだ。だから、やろう。自分の想いの丈を全てぶつけた、本気の勝負』

 

 なのははレイハを力強く握り、フェイトへと語りかける。熱を込めて、感情を込めて、フェイトの心に届けようとしている。

 

 フェイトへと向けられているなのはの決意を固めた表情は、とても優しく、穏やかだった。

 

『伝わらないなら、何度だって繰り返すよ。伝わるまでずっと、この気持ちを伝え続ける。フェイトちゃんの本当の素顔を、本当の気持ちを知りたいから』

 

 強い感情をぶつけられたフェイトは俯いて、自分の頬を手で押さえる。歯を食い縛って顔を歪めた。

 

 これまでで一番、悲痛な表情だった。

 

『……そんなことに、もう……意味はないんだ!』

 

 フェイトは爆ぜるような叫び声、ともすると悲鳴にも似た声でバルディッシュに魔力を通して刃を展開し、なのはへ斬りかかる。二人の少女の全てを賭けた勝負の火蓋は今、切って落とされた。

 

 

 俺は、『才能』という言葉が嫌いだ。

 

 『あの人には才能があるからあんなに凄い事ができるんだ』とか『自分には才能がないからなにも成すことができないんだ』とか。たった漢字二文字を組み合わせた単語を使って、人の努力を見もしないで決めつける。

 

 突き詰めれば、『才能』という言葉自体が嫌いなわけではない、『才能という言葉を使って自分が出来ない言い訳にする人』が嫌いなのだ。

 

 初めからなんでもできる人間なんて存在しない。努力を重ねて、起こるであろう出来事に備えて準備をしているからこそ、発生する事柄に上手く対処できているのだ。俺はそう考えている。

 

 しかしその持論も、目の前で繰り広げられている二人の少女を見ていると、自信を持って主張することができなくなる。それほどまでに、凡人とは隔絶された技巧・技術の応酬だった。

 

 俺にはどれだけ頑張っても真似できない戦いだった。

 

 なのはとフェイトは各々の魔力の色、咲き乱れるような桜色と光り輝くような金色の尾を引きながら、空中を自在に()び回る。しかも、射撃魔法を撃ち合いながら。

 

 時に空高く舞い上がり、時に海面を舐めるように低空を飛行する。ハイスピードで飛翔を続け、尻に付かれたら蛇行してビルとビルの隙間を縫って照準から外れ、反撃に打って出るために建物と接触するのではと危惧するほどの近距離で直角に飛び上がって一回転し、背後に回る。

 

 双方隙あらば魔力弾を放ち、接近すれば手に携える得物で打ち合う。

 

 結界の中という用意された戦場では狭い、と言わんばかりに天空を舞い踊る二人の少女に俺は見惚(みと)れ、魅了され、憧れて――そして嫉妬した。

 

 どれだけ手を伸ばしても届かない境地にいる二人を目の当たりにして、分不相応にもそんな感情を抱いた。

 

 理解していた。本当は、心の底ではわかっていたはずなのだ。

 

 『才能』という壁は、厳然と存在する。凡人の努力など鼻で笑って、才能がある者は凡夫の頭上を悠々と飛翔する。

 

 『才能なんてない』そう言い切るのは、現実から目を背けたかったからに他ならない。

 

 『誰だって努力さえすれば同じ地点に辿り着ける』そんなことは現実にはあり得ない。同じ時期に始めても、優れた人物は凡人の集団から抜け出て、ずっと先を走っていく。

 

 『要領がいい奴が早くできるようになるだけだ』要領の良さや器用さで差が出るのなら、それこそを才能と呼ぶべきなのだろう。

 

 『努力は人を裏切らない』たしかに努力は人を裏切ることはないだろう。本人が積んだ経験は本人の中に累積されるのだから。しかし、努力が実るとは限らない。誰もが努力して、誰もが評価されるわけではない。努力が人を裏切らなくても、結果が人を裏切るのだ。

 

 十数年前生きていれば、世界の作りなんてこんなものなのだと悟れる。

 

 魔法が絡めば更に顕著に、殊更(ことさら)分かりやすくなる。『適性』や『魔力』といった(ふるい)があるおかげで、才能の有無が一目でわかる。才能の量が数値で表れるのだから。

 

 やる気があっても、魔力がなければ無用の長物。魔力があっても、適性がなければ塵芥(ちりあくた)の役立たず。しかもこれらは抜本的に成長させることはできず、根本的に生来の素質であるときた。つまり本人の意志に関係なく、本人の努力に起因しない。改良も改善もできず、成長も成育もなく、伸展も伸長もしない。

 

 使い続けていれば雀の涙ほどは数値が微増するが、それも計測時の誤差の範囲内程度のものだ。その上、上昇する幅は狭く、成長限界も近い。

 

 生まれたその瞬間から、飛べる高さを制限されている。

 

 この世界は、残酷なまでに理不尽で不平等だ。

 

「拘束魔法……逃げられない。防ぐ他に手はない……なのは、耐えるんだ」

 

「フォトンスフィアの多数同時展開……フェイト、決める気なんだね」

 

 見ながらにして見ていなかったモニターへ意識を傾ける。

 

 浮遊カメラが追随できないほどの速度でなのはとフェイトは飛び回り、肉薄して一合打ち合った後、二人は再び距離を取った。

 

 フェイトはなのはの手や足にバインドをかけ、逃げられないようにしてから魔法の構築準備に入る。相当に大規模な術式のようで、発動までに時間がかかるようだ。その間に逃げられては敵わないので、拘束魔法で動きを封じてから発動させるのだろう。言ってみれば、拘束魔法とセットになっている術式なのだ。

 

 一つ二つだけでも俺からすれば脅威になり得る魔力弾を吐き出す発射体が、簡単に数えただけでもフェイトの周囲に三十以上は生み出されている。

 

 弧を描くようにずらりと並び、なのはへと矛先を向けた。おそらくなのはの視界には、連なる金色の発射体がまるで夜空に煌めく天の川のように見えていることだろう。

 

 近接攻撃に特化しているフェイトにしては珍しい、中距離射撃の術式。

 

 近距離だけではなく、中遠距離の射撃魔法も使いこなせるとは、やはり生まれ持っての素質故か。

 

 ようやく二人に追いついた浮遊カメラが音声を拾う。

 

 フェイトの張り詰めた声が鼓膜を叩いた。

 

『フォトンランサー・ファランクスシフト……撃ち、砕けぇっ!』

 

 フェイトの発声の直後、轟音が大気を震わせる。

 

 無数の発射体、アルフ曰くフォトンスフィアなる金色の球体が槍のような形状の魔力弾を撃ち放つ。フォトンスフィア一つからでも、機関銃のように数多くの魔力弾を吐き出しているのに、それがなのはの左右と前面に配置された発射体全てから斉射されている。その光景はまさしくフェイトの言った通り、撃ち砕かんばかりだ。

 

 さすがに三十を超える発射体の一つ一つの照準を微調整することは困難らしく、いくつかの弾丸はなのはの身体から逸れて周りの建物を貫いた。

 

 ビルに着弾すれば瓦礫を撒き散らし、海に着水すれば海水を巻き上げる。篠突く雨のような無数の魔力弾で周囲一帯を破壊するその様は、金色の暴風雨。

 

 数秒に渡る一斉射撃を終えると、息つく暇も与えずにフェイトは次の行動に移る。頭上に手を上げ、魔力を放出、コントロールする。

 

 周囲に漂ったまま残っていたフォトンスフィアを手のひらの上に集め、集約し、更に形を整えていく。フェイトの傍にあったフォトンスフィアがすべてなくなった頃には、少女の手に長く太い、光の槍が生成されていた。

 

『スパーク……エンド』

 

 フェイトは、瓦礫と砂埃と水煙で視界が悪くなったなのはの元へ、それを投げやりのようなフォームで放り投げた。

 

 一つの魔法としては常識を超えた量の魔力が込められた雷撃の槍。その槍はフェイトの手を離れた瞬間、一条の光と化した。

 

 空間を焼きながら突き進む雷撃の槍はなのはがいた空間に直撃し、そして爆ぜた。

 

「なぁ、アルフ。バルディッシュって非殺傷設定にしてあるのか?」

 

「……そのはず、だけど……」

 

「兄さんの言いたいことはわかります。人に向けて撃つような代物じゃない、そう言いたいんですよね」

 

 ユーノが俺の心の声を代弁してくれた。

 

 俺がそう懸念するのは、なにもなのはを過保護に扱っているわけではない。そう思ってしまうだけの威力が、フェイトの攻撃に内包されているからだ。

 

 槍から零れ出た魔力がなのはの近くに建てられていた建造物の(ことごと)くを消し飛ばせば、真下の海面を白波が立つほど大いに揺らす。挙句遠くにいる俺たちにまで衝撃波が届いている。このような現状(あるいは惨状)では、誰であろうと心配してしまう。

 

 忘れがちになるが、なのははあれでも九歳の小学生なのだ。いくら魔法が使えようと、いくら適性が高かろうと、恐怖に晒されればどう転ぶかはわからない。もう一度言う。なのはは、九歳の、小学生(・・・)なのだ。

 

「心配ありませんよ、兄さん。なのはが今日まで、何もしてこなかったわけがないじゃないですか」

 

 なのはの身を案じてそわそわしていると、ユーノが自信ありげな顔をして俺に言う。

 

 土煙と巻き上げられた海水による(もや)が晴れると、そこには目に闘志を宿したままのなのはの姿があった。

 

 ところどころ怪我をしているようだし、無垢を思わせる純白のバリアジャケットは焦げてもいるし、破けてしまっている部分もある。

 

 スカートからは柔らかそうなおみ足が露わになっているし、バリアジャケットの肩の部分が弾けてしまって首元から肩関節に至って素肌が見えてしまっている。か細い首筋や綺麗な鎖骨、年相応の薄い肩が大きく覗いてしまっていて露出度が増していた。海水を浴びて衣服は肌に張り付き、髪も水分を含んで幼い肢体からは言いようのない色香が滲み出て現れていた。

 

 被弾はした。疲労もあるだろう。しかし、なのははまだ戦闘の継続が可能な状態だった。

 

 先の斉射に、間も置かず雷撃の槍。それらを、持ち前の潤沢な魔力と天から授けられた優れた適性の障壁で防ぎ切ったのだ。

 

 汗が頬を伝い、息は荒く、肩で呼吸をしているが、なのはは諦めてなんかない。ましてや、負けを認めてなんか絶対にない。ここから反撃してやるという意志を漲らせていた。

 

 なのはは左手に握るレイハの切っ先を、フェイトに合わせる。するとフェイトの細い手首やしなやかな足に、桜色の輪っかが掛けられた。

 

 味方であるはずの俺だが、あの拘束魔法には幾度となく縛られたことがある。設置型(・・・)のバインド、レストリクトロック。複数個仕掛けられたら、ハッキングという破壊手段を持っている俺ですら脱出に手間取る魔法だ。

 

「あの子、いつの間に準備してたんだい?」

 

「金髪の子が嵐みたいな射撃魔法を発動させる寸前に足元で光った気がするから、たぶんその時じゃないかな」

 

「攻撃の瞬間は油断が生まれる。その隙を狙ったのか」

 

「はい。作戦を練っていた時、レイジングハートがこういう状況なら成功率が上がるって言ってました」

 

「さすがレイハだ。性格が悪……ずる賢いな」

 

「あんまりフォローになってませんよ」

 

 今度はなのはがフェイトの機動を封じ、術式を構築していく。立場を逆転させて、再び演じられているような構図だ。

 

 レイハの形状が変移し、音叉を模したような形になった。形態が変わったレイハの身体に四つの環状魔法陣が纏う。

 

 なのはが得意としている砲撃魔法、ディバインバスターだ。魔法陣が桜色の輝きを強め、音叉の先端には圧縮された魔力球が出現する。

 

 フェイトの怒濤の如き攻撃を防いだことでかなりの魔力を消耗したはずなのに、それでもまだ万全の威力を蓄えた砲撃を使うことができるのか。底知れない魔力量だ。

 

『ディバイン……バスター!』

 

 なのはがレイハのトリガーを引き絞りながら術名を叫んだ。

 

 桜色の魔力をはち切れんばかりに蓄えた砲撃は、目を刺すような光量でフェイトへと迫った。

 

 あまりにも大きな魔力と圧力と光は、モニターを一時的にホワイトアウトさせる。

 

 だが事ここに至れば、モニターなど不要かもしれない。遠目にでも、ビルの横幅と同程度の太さを持つ砲撃がフェイトを呑み込まんとするのを見て取ることができた。

 

「すごく強い魔力だね……。つい最近魔法を知った子だとは、到底思えないよ」

 

「魔力を塊にして放つことに関しては、本当に天賦の才を持ってるよ。なのはは。その代わり細かい調整は苦手みたいだけど」

 

「細かい調整ができないのにあんな砲撃を人に向けるってどうなんだ……。いやまあ、それはフェイトにも言えることなんだけど」

 

「フェイトはちゃんとコントロールできてるよ」

 

「コントロール云々じゃなくて攻撃の規模の話だ。フェイトもなのはも、人一人に対して放つ魔法じゃないってこと」

 

「たしかに兄さんの言う通り、そうそうお目にかかれるレベルの戦闘ではありませんからね」

 

 桜吹雪のようにあたりへ桜色の魔力粒子を散らしながら、なのはの砲撃が細まっていき、やがて消える。

 

 三人で意見の交換をしている間に、ディバインバスターの放射が終わったようだ。

 

 半円形のシールドを全力で展開し続けたフェイトは、さすがに砲撃の余波を受けてバリアジャケットが数箇所破損しているが、未だ浮遊したままである。

 

 なのはもフェイトも所狭しと無茶苦茶な機動で射撃魔法を撃ちまくりながら飛び回った上、大技を使って疲労感はピークだろうに、互いの攻撃を防ぎきってなおまだ戦えるようだ。魔法の素質と戦闘センス。才能の塊である少女たちには、魔力の底なんてものはないのかもしれない。

 

「まったく……才能があるやつは羨ましいな……」

 

 心の中だけに留めておくつもりだった言葉が、つい口から出てしまった。少女たちの、可憐で愛らしく、なにより他の追随を許さない圧倒的な戦いを目にして、弱音が零れてしまったのだ。

 

「なに言ってるんですか、兄さん。嫌味ですか?」

 

「これはあれだね、遠回しな自慢だよね」

 

 俺の独り言に、ユーノもアルフも辛辣な返答を寄越した。

 

「嫌味? 自慢? 何言ってんだよ、俺はただ純粋に……」

 

「たしかにあの金髪の子の飛行魔法は凡庸な魔導師とは一線を画すものですし、大規模な術式で魔力を大量に消費して、すぐになのはのディバインバスターを防いだのは驚嘆に値します」

 

「魔法を覚えてまだ日が浅いあの子がフェイトの空戦に食らいついて、中距離で持っているカードの中で最強の魔法を耐え切って、(あまつさ)えあんな質の高い砲撃で切り返してきたのは、たしかに驚いたよ」

 

 やれやれ、と呆れるような顔で俺を見て二人は溜息を吐いた。

 

「でも兄さんなら、まずあの魔法を食らうようなことにはならないですよね」

 

「徹には拘束魔法なんて役に立たないんだから、時間のかかる魔法は使えないじゃないか」

 

 『落ち込むのは僕のほうですよ……』、『落ち込むのはあたしのほうだよ……』と、ユーノとアルフは揃って肩を落とした。

 

 二人に言われて、改めて考えてみる。

 

 俺はこれまで、フェイトの雨霰(あめあられ)のような射撃魔法の嵐を受け止めきれるか、なのはの砲撃を真正面から受けて耐え凌げるか、とそこから考察していた。

 

 だがそれは間違いだ。自分に置き換えてシミュレーションするのなら、一番最初の、戦闘開始の時点からしなければならない。

 

 戦端を開いたのは、鎌状のバルディッシュを携えたフェイトの一閃。俺ならどうするだろう。回避して反撃か、距離を取って様子を見るのか。

 

 空戦に移行すれば、こちらからの攻撃の機会はどうしても少なくなるが、数発程度の射撃魔法であれば被弾はしないだろう。

 

 フェイトの射撃魔法(フォトンランサー)は弾速はあるが軌道は直線なので、発射される瞬間を見逃さなければ躱すのは容易だ。なのはの射撃魔法(ディバインシューター)は追尾性能が付属されているし、直径もフォトンランサーより一回り以上あるが、いかんせん速度がない。周囲状況の把握が十全に出来ていれば、鋭角に移動して避けるのは難しくない。

 

 立体的な挙動を続けて隙を伺い、チャンスがあれば格闘戦に持ち込むという形にはなるが、一方的に押し込まれるということはない。これは自分の力を過信しているわけでもなんでもなく、客観的に戦力と戦術、戦場を鑑みた結果である。

 

 そしてなにより重要な点が、二人が放った決め技だ。拘束魔法で動きを止めてからのフェイトの大規模射撃術式に、なのはの極太砲撃。

 

 これらをどうするか、と俺は頭を捻っていたが、そもそも俺ならば同じ状況にはならなかっただろう。

 

 無論、直撃すれば撃墜されるのは必至だ。俺には防ぎ切るだけの魔力的余裕がないのだから、食らえば墜ちる。

 

 だが、一撃で墜とされるのが目に見えているからこそ、大技だけは被弾しないよう必死に策を巡らせる。相手の得意な距離を極力維持しないように努めるし、バインドで足を奪いにきたら即座にハッキングで破壊する。

 

 そもそも俺は、なのはやフェイトのようなタイプの魔導師とは立ち回り方が異なるのだ。それを無理矢理彼女らの戦運びと自分の能力とを当て嵌めて、照らし合わせて、俺なんかじゃ相手にならない、などと落ち込むのはあまりに滑稽、間抜けが過ぎる。

 

 わざわざやり辛く不慣れな戦い方をする必要なんかない。

 

 相手がスペックデータでは俺を圧倒的に上回るほど強力でも、自分の土俵に引き摺り込んで、本領を百パーセント――百二十パーセント発揮できる状況に持っていければ、俺でも彼女たちの領域に足を踏み入れることはできるのかもしれない。

 

「それに徹には才能がどうとか関係ないでしょ。飛行魔法が使えないのに、戦闘中に空戦に適応するための技術を確立してたし。結局、適性なんかあろうがなかろうがどうにかするんだよ」

 

「それはそうだけど、あれはただ閃いただけというか……」

 

「兄さん……あの移動術、戦いながら編み出したんですか……。なのはたちと方向性は違いますけど、規格外なところは同じですね。そういえば兄さんは、なのはのディバインバスターを至近距離で受けても防御してみせたじゃないですか」

 

「いや、あれも防ぐので精一杯だったし、魔力も使い切ったんだぞ? それに今のなのはとは技術や慣れや、魔力の扱いにも差があるし……」

 

「なんであれ防いでることに違いないじゃないか。それだけで他とは違うよ。素質を工夫で補ってる分、さらに仰天さ」

 

 俺の隣に並んでいる二人は、呆れたように笑いながら言う。

 

 俺にとってはその場凌ぎの苦し紛れであっても、見方が変われば捉え方も変わるのだろう。

 

 要は、自分の力を限界まで振り絞ることこそが、いつだって勝機を見出すきっかけになるのだ。

 

 なんにしたところで、褒められるのは正直悪い気はしない。

 

 二人に持ち上げられて心の内で『あれ、俺って案外できる男なんじゃね』などと伸び始めた鼻がぽっきりへし折られたのは、それから数秒後。ディバインバスターを放ってから姿が見えなくなっていたなのはを探し出した時だった。

 

「……桜色の、小さな星……」

 

 小惑星のような規模の魔力の塊が、青空というキャンパスの中で律動していた。




なのはとフェイトの聖なる戦いを改変することは、僕にはどうしてもできませんでした。というわけで完全に原作トレース。こればかりは仕方ない。
次からは主人公がちょこまかと動きます。二人の戦いが終わってからですが。


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『爆ぜる』

なんだか最近更新が遅れています。仕事が忙しいわけではないのに、プライベートで用事があるわけでもないのに、なぜか遅い。申し訳ないです。


 自分の声なのか、はたまた隣にいるアルフか、それとも反対側にいるユーノなのか、それすら認識できないほど広い空で燦然と輝く魔力球に意識を奪われた。

 

 なのはは砲撃を放った地点から上空へ移動していた。空高く舞い上がり、俺も初めて見る術式を構築している。

 

 杖の先端で魔力が球状に集約されており、その魔力球を囲うように環状の魔法陣が回転する。充分、いや、今でも過度に巨大な魔力の塊なのに、脈動するようにどくん、どくん、と収縮・膨張を繰り返してさらに膨れ上がる。

 

 大きな星の重力に引き寄せられるように、きらきらと輝く小さななにかが桜色の魔力の塊に集まっていく。それは夜空を彩る星々の煌めきにも思えた。

 

「お、おい……おいおいユーノ! あれなんだあれ!」

 

「いや、あの……兄さんと模擬戦をしてディバインバスターを防がれた時から、なんとかして一矢報いたいって言うものですから……」

 

「だからってあんなもの教えんなよ!」

 

「僕が教えたものじゃありませんよ! というかあんな術式はありません! ただ僕は、なのはが持つスキルならこういった道を突き進んだらいいんじゃないかな? と助言しただけで……」

 

「立派に教唆(きょうさ)してるじゃねぇか!」

 

「あの魔法……周囲の魔力を引き寄せてるのかな。空気中に散らばっている魔力の欠片が集められてる」

 

「なのはの魔力集束技術によるものだよ。自分が使った魔力だけじゃなく、自分以外の魔導師の魔力残滓をも集めて砲撃に使うんだ。凄いよね」

 

「『凄いよね』じゃないっ。もとは俺相手に使う気だったんだろうが! あんなもん食らったら消し炭にな……」

 

 俺が途中で言葉を失ったのは、許容範囲を超えた魔力をぶつけられて掠れたモニターと、そこから流れてきたなのはの台詞が原因だ。

 

『これがわたしの……全力全開! わたしの想い、受け取って! フェイトちゃん!』

 

 一際強く瞬き、暴発寸前の危うさを保ちながら、左手にレイハを握り締めるなのはが発声する。

 

『スターライト……ブレイカー!』

 

 『放出』というよりも、『爆ぜる』という表現の方が的確だろう。

 

 大きく膨らんだ魔力の球から膨大な量の光と魔力が溢れ出て、フェイトがいるだろう座標に降り注がれる。

 

 俺たちのいる場所から離れているので、空高くで杖を振り下ろしているなのは(と思しき小さな点)は確認できるが、ビルに阻まれてフェイトの姿は見えなかった。

 

 驚くべき点は、離れた地点からある程度の余裕をもって観察しているというのに、なのはの集束砲撃『スターライトブレイカー』の効果範囲に見当がつかないところだ。

 

 二人の才気迸る少女の魔力の残滓をたんと召し上がった魔力球は、ダムから吐き出される水を彷彿とさせる勢いで、溜め込んだエネルギーを解き放っている。きっとフェイトの視点からでは、もはや視界全てを覆い、迫り来る壁となって見えていることだろう。

 

 ちなみに、俺たちの近くにあったモニターはもう、現場の状況を映し出すことはない。恐らく、なのはの集束砲撃による衝撃で浮遊カメラが破壊されたのだ。音声はうんともすんとも言わず、映像は永遠砂嵐。使い物にならなくなった。

 

 数瞬、(せめ)ぎ合うような、物が詰まったような様子で周囲に飛散していた集束砲撃だったが、突如遮るものがなくなったかのように勢いを取り戻す。

 

 ぞくり、と背筋に寒いものが走った。

 

「ま、まずい……ユーノ、アルフ、飛べ! ここを離れるぞ!」

 

「えっ、あたし魔法を使わないようにって言われてるんだけど……」

 

「緊急事態だ! 構わない!」

 

「こんなに離れてるんですから、さすがに大丈夫じゃないですか?」

 

「嫌な予感がする、離れたほうがいい!」

 

 周囲の建物と比べて少しだけ背の高いビルの屋上を蹴り、空に上がると俺たちはなのはとフェイトの戦場から距離を取る。

 

 ビルを挟んだ向こう側で海水が天高く打ち上げられ、そこを中心として砲撃は大爆発を引き起こした。

 

 創り出されていた建造物群は軒並み倒壊していく。砲撃が直撃したビルは言うまでもなく、同心円状に広がった魔力波により近くにあった建物まで崩れていった。

 

 なのはの砲撃は海に大穴を空けたのだろう。それにより発生した高波が辛うじて原形をとどめていたビルたちを根刮(ねこそ)ぎ洗い流していく。

 

 衝撃と高波は、俺たちが居たビルにまで到達、一呑みにし、海中へと引き()り込んだ。

 

 結界内に造られた戦闘訓練用の建造物にどれほどの耐久性が設定されていたのかは俺にはわからないが、にょきにょきと海面から生えるように(そび)え立っていた建物の大半が、なのはの砲撃一発で消え去ったのは紛れもない事実である。末恐ろしいまでの破壊力だ。

 

 初見の上、意表を突いて、しかもあれほど見た目に華やか(オブラートに包んだ表現)な魔法を目にして、速やかな回避行動を取る自信は俺にはない。驚愕するほどの攻撃範囲を誇る技だったので、今もう一度、次は俺に向けて放たれても対処はできない。先の一撃を、きっとフェイトは有効な手立てを講ずることもできずに直撃しただろう。

 

 周辺に飛散した余剰魔力だけでビルを倒壊させた星を砕く光(スターライトブレイカー)を真っ向から受け止めて、人間が立っていられるとは思えない。被弾したフェイトは戦闘不能に陥ったと考えるのが自然だ。

 

 つまり、勝敗は決した。

 

 少女二人は、己の持つ力の全てを持って相手にぶつかった。磨き上げ、鍛え上げた魔法を撃ち合い、最後の最後でなのはが競り勝ち、フェイトが惜敗した。

 

 大きな節目であるこの一戦は、なのはの勝利で幕を閉じたのだ。

 

 状況は推移した。俺が期待した方向に。そしてきっと、プレシアさんが望んだ方向に。

 

 それならば、彼女が取る次の手は。

 

「アルフはユーノと一緒にいろ。ユーノは別命があるまでここで待機していてくれ」

 

「あたしは言うなれば捕虜だからね。自由に動けないことは覚悟してるさ。構わないよ。フェイトを頼んだよ」

 

「ああ、任せてくれ」

 

「ここにいろ、とわざわざ言うのなら僕は従いますが、兄さんはどこへ?」

 

「あいつらのとこまでちょっくら行ってくる」

 

「もう戦いは終わったんですよ? 何をしに行くんですか?」

 

「決まってんだろ……」

 

 魔力付与の術式を起動。全身に魔力で覆われる感覚が押し寄せた。

 

 平常通りのパフォーマンスを発揮できることを確認する。腕も足も違和感はない。頭は懸念事案で一杯だが、思考速度自体はクリアなものだ。魔力も滞りなく体内を循環している。なんの問題もない。

 

 足場の障壁を踏み締め、下肢に力を込める。

 

「これ以上間違わない為、これ以上間違わせない為……俺自身が後悔しない為だ」

 

 跳躍し、空を駆ける。

 

 向かう先は、なのはとフェイトの元。

 

 『戦い』は終わっていない。(むし)ろ、ここからようやく始まるのだ。

 

 

 結界内に異変が生じ始めたのは、なのはの集束砲撃が建造物群を海の底に沈めて少し経ってからだ。

 

 雲一つない快晴という天候が徐々に移り変わる。まずは灰色の雲がちらほらと見られるようになり、それは驚くべき速さで重なって束になり、青空を覆い隠していく。

 

 見る見るうちに曇天へと塗り潰されていく様は、とてもではないが自然現象とは思えない。人の手が加えられている。魔法が介在していると見て、まず間違いないだろう。

 

 同じ状況である。九つのジュエルシードを封印し、回収しようとした間際と。一度しか目にしていない為確証は持てないが、プレシアさんの次元跳躍攻撃の前兆という可能性は高い。

 

 しかし俺には、確固たる証拠はなくとも、確固たる自信があった。

 

 この場は時空管理局が展開した結界内だ。管理局の人間が様子を(つぶさ)に監視していることは言うまでもない、明白だ。

 

 この空間で、なのはとフェイトはジュエルシードを賭けた戦闘を行い、フェイトが負けた。プレシアさんからすれば、力関係を衆人に示す絶好のチャンスとなる。

 

「思ったより……時間がないな」

 

 薄暗いだけだった雲は身を寄せ合い、巨大な雷雲にまで成長を遂げた。どんよりとして暗く、雷雲の奥の方では微かに雷鳴が聞こえてきている。

 

 展開は予想通りだが、進行が早い。こちらも準備は済ましておかなればならない。

 

『クロノ。手筈を整えておいてくれ。来るぞ(・・・)

 

『用意はエイミィがしてくれている。万事(つつが)ない』

 

『了解。そっちは任せた』

 

『ああ、無理はするなよ』

 

 この場にいないクロノと念話でやり取りをする。

 

 俺の身を(おもんぱか)るクロノの言葉には、肯定とも否定とも取れない曖昧な返事を返しておいた。

 

「……見つけた」

 

 足場の障壁を展開しては蹴り、跳躍を繰り返してようやくなのはとフェイトの姿を目視することができた。

 

 倒れて頭だけを海面から出しているビルの側面に、二人は座り込んでいる。おそらく海中では倒壊した建築物が折り重なるように沈んでいて、二人がいるビルは倒れた建築物の上にのしかかるように傾いているのだろう。

 

 ビルの側面にへたり込んでいる二人は、二人ともが濡れ鼠になっている。巻き上げられた海水を浴びたというだけではこうはなるまい。直接海に飛び込まなければ頭からつま先までびしょ濡れにはならないだろうに。

 

 なにはともあれ、なのはもフェイトも無事なようなので一安心である。直視するのが(はばか)られるような姿を除けば、という注釈は入るけれど。

 

 成り行きを見守りながら再び接近していると、天を覆い尽くすほどに広がった雷雲が、空気を爆ぜさせるようなスパークとともに紫電を纏った。

 

 腹の底に響くような雷轟を、フェイトは仰ぎ見る。フェイトの口元が動いていることはぎりぎり視認できるが、まだ少し距離のあるここからでは雷鳴の影響もあり聞き取ることはできなかった。

 

 ふらふらと、フェイトは満身創痍の身体を浮き上がらせる。

 

 太陽の光を遮っているせいで暗くなっていた付近一帯が、瞬時、ぱっと明るくなった。フェイトの上空に堆積している黒雲が雷光を閃かせたのだ。

 

「プレシアさん、あなたは……っ!」

 

 足場用障壁にクラックが入るほどの力で踏み込み、高速移動術『襲歩』まで使ってフェイトに急速接近する。

 

 ざわざわと鳥肌が立つような感覚。張り詰めた緊張感が空気を伝って全身をなぶる。

 

 次元すら越える砲撃が放たれるまで、時間は僅かしか残されていない。

 

 俺は空気の壁を突き破らんほどの速度で空を駆ける。

 

 ビルの側面に座り込んでいたなのはもフェイトのもとへと飛翔した。フェイトの様子がおかしくなったのと、後はおそらく、この結界内に(わだかま)る異質の魔力の存在、簡単に言ってしまえば嫌な気配を感じ取ってフェイトへと駆け寄ったのだろう。

 

 しかし、その動きは少しばかり遅かった。

 

 戦闘による疲れもあるだろうが、要因は他にもある。

 

 なのはの飛行魔法はまだまだ荒削りで未完成だ。未完成というよりは、攻撃や拘束魔法に注力してしまった分、飛行魔法まで手が回らなかったと言うべきだが。

 

 なのはの飛行魔法は加速には秀でているが、出始めの速度に欠ける。その為俺よりフェイトの近くにいても、落雷まで微かな差で間に合わない。

 

 ()くいう俺も、僅少(きんしょう)の時間を埋めることができずにいた。プレシアさんの攻撃のチャージが予想を上回るスピードだったことで、一歩出遅れてしまったのだ。

 

 雷槌はすでに振り上げられ、今はもう振り下ろされる寸前。

 

 そして。視界上部に映り込んでいるどす黒く分厚い雲が、まるで獰猛な肉食動物が雄叫びをあげるかのような音とともに迅雷を迸らせた。

 

 目線のすぐ先には、バリアジャケットも破損し、傷だらけで弱々しく浮かぶしかできないフェイトを捉えているのに、届かない。手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、俺の指先に少女の身体が触れることはない。

 

 黒雲からスポットライトのように光が降り注ぎ、フェイトの金色の髪を照らした。

 

 それは一見、エンブラント光線のように美しく、ややもすれば神々しくもあったが、俺にはレーザーポインターのような照準補正装置で標的へと狙いを定めているようにしか見えなかった。

 

 ――あと少し、あと少しを……なぜ埋めることができないっ!――

 

 意識は時間の概念を振り払い、加速する。

 

 眼に映るものは、日差しを遮る重厚な曇のせいで薄暗くなった海上と、雷雲から吐き出される紫電のみ。そのはずだった。

 

 突如、眼球にフィルターを挟んだように、視界一面が薄い青色の光でコーティングされた。

 

 (わずら)わしいほどに行く手を妨げていた空気の壁が取り払われる。先程までの苦労が幻惑だったかのように、空中を疾駆する足が軽くなった。

 

 この急激な変化が何に起因するものなのかを考える前に、ふらふらと身体も意識も宙を揺蕩うフェイトまで到達し、抱き留めた。

 

「あ、れ……徹? ……逃げ、て。危ないよ……」

 

「お前は……ったく、自分のことだけ考えてろ」

 

 先の感覚について熟考を重ねたいところではあるが、今はまだそんな余裕はない。

 

 フェイトのもとまで辿り着くのが目的なのではなく、プレシアさんの攻撃からフェイトを守ることが第一目標であったのだ。ここで一息つくわけにはいかない。

 

 フェイトの細い身体を抱き締めていない方の手を、頭上より迫る雷光へと向けた。

 

 実際に自分へと突き進んでくる雷を見て、ようやく理解する。なるほど、これは俺一人では到底防ぎようのないエネルギーを秘めた雷撃である。

 

 なので恥を忍んでフェイトにも協力をお願いしたいところだが、腕の中の少女は問いかけに対する反応も微弱で瞳も(うつ)ろ。意識は混濁しているようだし身体にも力が入っていない様子で、なぜ飛行魔法を使えているのか不思議に思えるほど弱っている。前から目を離したら消えてしまいそうな儚げな印象はあったが、さらに拍車がかかっていた。

 

 それが母親に杖を向けられたショックからか、それともなのはの集束砲撃を直撃したことによる後遺症なのかは、俺にはわからない。後者の可能性が限りなく高い気がしないでもないけれど、なのはの兄貴分を自称する手前、俺に答えは出せない。

 

 取り敢えず目の前の困難に対応するのが先決だ。

 

 強度は物足りない上に心許ないが、展開速度だけは一人前な障壁を魔力の許す限り張る。直後に途轍もない衝撃が走り、展開した障壁の殆どが爆散した。

 

 攻撃を受けた障壁は破片を飛び散らせながら粒子となり、大気へと回帰するが、同時に襲い来る天雷をも外側へ弾き飛ばしている。これだけは望外の幸運と言えた。焼け石に水なのは変わりないが。

 

 (はな)からこんなプレパラートもどきで防ぎ切れるなんて甘い期待は抱いていない。寸毫(すんごう)の猶予を生み出すことができれば、それで成功なのだ。時間稼ぎこそが、本来の目的である。

 

 俺はフェイトが右手に握ったままのデバイスさんへ、助力してくれるよう願い出る。

 

「バルディッシュ、主人の危機だ。手伝ってくれ」

 

『Yes sir!』

 

 ダークメタルの輝きで渋さを表現させているバルディッシュは、先端部に近い位置についている金色の球体を瞬かせながら頼りになる返事をくれた。頭の片隅で、その応は持ち主に対してするものなのでは? などと些細な疑問が浮上するが、そんな小さな事はそこらへんに打ち棄てておけばいい。

 

 俺が構築した障壁が紫電に食い破られたと同時に、新たな魔法が割って入る。俺の障子紙並みの防御魔法に代わって雷撃を受け止めたのは、金色に輝く半円形のシールド。

 

「おっ……重、てぇな……」

 

『主が、ですか?』

 

 

「主? ……あぁ、フェイトのことか。いやいや、フェイトは軽いわ。まるで羽根のように軽いわ。温かいし軽いし、まるで羽毛……って、そうじゃねぇよ。攻撃が、だ!」

 

『そうですね。申し訳有りませんが、こちらはそろそろ限界のようです』

 

「は? ちょ、何言って……」

 

 バルディッシュの不安を煽るような発言と時を同じくして、ぱきっ、と恐怖を駆り立てる音が耳朶(じだ)を叩いた。音の発生源は、目の前の金色の壁。

 

 (ひび)が入り、亀裂が走り、それらは放射線状にまるで蜘蛛の巣のように障壁全体へと広がっていく。

 

 そして遂に、一番負荷がかかっていた障壁の中心部が、穿たれた。

 

 一度穴が空いてしまえば、そこからは脆かった。

 

「うっ、くっ! あぁ、持たねぇや……」

 

 出来得る限りの努力はしようと障壁を張り続けるが、一枚あたり一秒すら耐えられずに砕け散る。最後の抵抗に、フェイトを両腕で抱き、俺の背中で雷撃の影に入れた。

 

 プレシアさんからの次元跳躍攻撃が終わる寸前、雷というよりも光の柱と形容するのが正しいのではと改めて考えてしまうほど巨大な雷撃が俺とフェイトを貫いた。

 

 上から下へと、撃ち落とすように放たれた雷砲により、俺と、俺に抱えられているフェイトは黒く(よど)んだようにも見える海へと頭から墜落する。

 

 到来した痛みと熱と衝撃に、一瞬意識が遠のいたが、大部分は防ぐことができたし覚悟も決めていたおかげか、以前一度受けたほどのダメージは負っていないし気も失っていない。

 

 ――なんとかなった――

 

 当初の目的が、俺にしては珍しく達成・成功したことで内心少なからず喜んでいると、そうは問屋が卸さないとばかりに新たな問題が噴出する。

 

「か、身体……麻痺して……」

 

 筋肉が痙攣し、満足に動かすことができなかった。雷撃が全身を走ったことで、筋繊維にダメージを与えたのだろう。

 

 前回と同じような症状だが、前と違って雷撃の余韻は浅い。数分もすれば麻痺は抜ける。

 

 しかしそれは、裏を返すとしばらく待たなければ自由に動くことはできないということだ。

 

 身体を動かすことはできずとも、ならば足場用の障壁でもなんでも自分の下に敷けばいいだけなのだが、それすらも即座に行えない。

 

 プレシアさんの次元跳躍攻撃を防ぐための障壁で魔力が大きく消耗し、早く展開しなければという焦燥で思考は濁り、身体の一部に残る雷撃の余波で演算が鈍る。

 

 単純な術式にも(かかわ)らず、常態であればあり得ないくらいに演算をフェイルし続け、また、墜落し続ける。

 

 こういう時にデバイスがあったらなぁ、などと事ここに至って無い物ねだりをしながら、着水に備えて身構える。いくら落ちる場所が海といえど、現在の高度は二十メートルそこそこはある。この高さから墜ちるとなれば、液体であってもかなりの硬度に感じられることだろう。

 

「痛いのは……いやだな」

 

 痛い、絶対に痛い。海へと入水する角度を間違えれば骨を折っても不思議ではない。それほどの硬さがある。

 

 そうやって予測できてしまうからこそ、腕の中の華奢な少女を庇うようにぎゅうっと抱き締める。

 

 これからフェイトにとって、すごく大事な戦いが始まる。大袈裟でもなんでもなく、フェイトの人生にとって極めて重要なターニングポイントとなる戦いが、これから幕を開けるのだ。

 

 きっと精神的にも傷を負うだろう。

 

 乗り越えなければならない壁も多いだろう。

 

 しかしその先にしか、フェイトにとって明るい未来は存在しないのだ。

 

 『最善』までの道のりは険しくて、一歩間違えれば踏み外してしまいそうなくらいに細い。(いばら)と断崖に囲まれた状況なのに、先は真っ暗闇で見通すこともできない。

 

 手探りで当たらなければならない(つら)い戦いが待っているのに、こんなところで後に響く怪我をフェイトにさせるわけにはいかない。

 

 未だ弱い痺れを残す身体を動かす。左腕はフェイトの肩に回して固定し、右腕は金の御髪を押さえる。

 

 枯れそうな魔力を絞り出し、魔力付与の身体強化へと注ぎ込む。

 

 痛い思いはしたくない。だがそれ以上に、俺は大切な人に痛い思いを味わわせたくない。

 

「なんてことはない、アルフの蹴りに較べたら可愛いもんだろ……」

 

 眼前に迫った海面を見ながら空元気を(うそぶ)いてみる。病も気からと言うし、覚悟を決めれば耐えられないものではない。

 

 目を瞑って腹を括り、俺は(きた)るべき衝撃に備えた。




中途半端に長くなりそうだったので切りました。


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糸の切れた操り人形

最近は五日に一度の更新になってしまってますね。すいません。

今回は少しだけ長いです。そして後半はとても暗いです。


 頭を下にして落ち続けていたのだから、てっきり脳天をかち割るような痛みは頭部をメインとして身体の上半身部を占めると思っていたが、予想外なことに、衝撃は頭にではなく背中にきた。

 

「もう……無茶しないでっていつも言ってるのに! 徹お兄ちゃんはっ!」

 

『死地に率先して身を投げ入れるその考え方を、改める気はないのでしょうか。もはや心配するこちらが馬鹿馬鹿しくなる程です』

 

「うぉ……な、なのは?」

 

『……私もいますよ』

 

「……と、レイハ」

 

 海面ぎりぎりで俺とフェイトの身体を拾ってくれたのは、バリアジャケットの露出度アップを果たしたなのはと、砲身から少しだけ白い煙を昇らせているレイハだった。なのはの服装はフェイトからの射撃魔法を被弾したことによるもので、レイハはおそらく大技を使ったことによる放熱だろう。

 

 しかし、どうせ拾い上げるのならもう少し早めにお願いしたかったところである。どれほどぎりぎりだったかというと、俺の足首から下が海面に入って波を立たせているくらいにぎりぎりのぎりだった。土俵際の瀬戸際である。とても注文をつけられる立場ではないのだけれども。

 

「助かった、ありがとう。背中超痛いけど」

 

「なに? 不満なの? フェイトちゃんはこっちで預かって徹お兄ちゃんだけ落っことしたほうがいい?」

 

『少し頭を冷やさせましょうか、海水で。この時期の海は大変冷たいですよ、つい先程私とマスターは全身浸かったところなのでよく知っています』

 

「ごめんなさい、落とさないで。そもそも俺泳げない」

 

「わかったのならじっとしててほしいの。二人分抱きかかえるのはけっこうしんどいんだよ?」

 

「その割には簡単そうに持ち上げてるけどな」

 

 俺の正面に、というよりも腕の中にフェイトがいて、俺の背中側からなのはが小さく細い腕を精一杯に伸ばして抱えて飛んでいる状態だ。

 

 男子高校生の平均よりも図体(ずうたい)の大きい俺と、いくら華奢とはいえなのはと同年代か、少し年上くらいのフェイトを抱えて飛ぶなんて、普通に考えれば小学三年生の女児には不可能な芸当である。相当無理をさせているのかもしれない。

 

 悪いなぁとは思いつつ、なんでなのはにそんなことができるんだろうとクエスチョンマークを脳内に浮かばせていると、レイハが赤く丸いその身を一つ瞬かせて答えてくれた。

 

『マスターの身体能力は魔力循環を多めにすることで底上げされていますからね。これも魔力が豊富にあるマスターなればこそです』

 

「レイジングハート、なんで教えちゃうの?……せっかく……借……作……」

 

『えぇっ!? だだ、ダメだったんですかマスター?! すいません!』

 

「ほんとレイハは俺の時となのはの時で態度も人格も変わるよな」

 

 腕を回しているなのはの力が少し強くなる。同時に、首の後ろにこそばゆい感覚。

 

 なのはが俺とフェイトを抱いて安全に飛ぶために力を込めてくれているようだ。背中にぴったりとなのはの身体が密着している。背中から伝わる温もりには頼もしさと心強さがあった。

 

 しかし、身体の前面にはフェイトがいて、背後にはなのはがいるというこの状況は、見る人が見れば誤解されてしまいそうだ。これでは、ロリコンの(そし)りは免れないではないか。

 

「そういえば、新技凄かったな。正直驚いた。頑張ったんだな、なのは」

 

「わ、わたしも成長してるってとこ見せなきゃ、だからね。威力の微調整ができなくてフェイトちゃんにはやり過ぎちゃったかもしれないけど」

 

『あの技を作った第一要因は徹でしたからね。ただひたすらに長所を伸ばしたらあんなことに』

 

「おい、俺相手なら別にいいみたいな言い方してんなよ」

 

 あんな魔法を叩きつけられたら一般人あがりにはたまったものではない。是非ともやめて頂こう。

 

 俺の物言いに、レイハが即座に返事を寄越す。

 

『何を言ってるんですか。どうせ直接対戦したらなんだかんだ策を巡らせて防ぐか躱すかするのでしょう』

 

「そうだよね、きっと徹お兄ちゃんなら……

「無茶苦茶なこと言ってくれる。あの威力を防ぐ手なんて俺にはないし、あの規模の砲撃になったら回避し切るなんてできねぇよ。撃たせる前に対処する他ないんじゃないか?」

 

「徹お兄ちゃんは接近する時の速度がすご……

『近づいてきたら研鑽を積んだホーミングバレットで沈めて差し上げます。マスターと二人で研究したのですよ?』

 

「そうなんだよ、空いてる時間にいっぱ……

「俺の空中移動術を忘れたのか? さほど早くない射撃魔法を躱すことに関しては、撃たれまくったおかげで悲しいことに得意になったんだぜ?」

 

「……徹お兄ち……

『それすらも考慮に入れて研究をしたのですよ。次、手合わせする機会があれば精々気をつけることですね』

 

「……徹おに……

「それまでに俺も新技作って、逆に驚かせてやるよ」

 

「……とお……

『もうそろそろさすがの徹でもポテンシャルの限界でしょう。無理に格好つけなくていいですよ』

 

「…………」

 

「『さすが』だなんて……い、いきなり誉めんなよ。照れるだろ」

 

「………………」

 

『そこだけ聞き取るんですか……。都合の良い耳をしていますね』

 

「……………………」

 

 なのはの集束砲撃(スターライトブレイカー)を拝見したばかりだし助けてもらった恩もあるので、矛先がこちらに向かないように褒めちぎり、突っかかってくるレイハにいつものように返していたのだが、突如背後から不穏なオーラが爆発する。同時に俺の腹と胸の中間あたりに回していた腕の力を万力が如く強めて絞めつける。

 

 べ、ベアハッグなんて、どこで習ったのだ。

 

「ぃぎっ……いづづづ! な、なのは! 肋骨折れるって! 五臓六腑が口から出るって!」

 

『いっ! ……ま、マスター……少し、ほんの少しだけ握る力が強すぎはしませんか……? そ、それに送られてくる魔力が強すぎますっ。飛行魔法にこの魔力は過剰ですっ!』

 

「……べつに? すねたりしてないもん。今回も助けたのわたしなのに、なんでまたのけ者にされてるのかなぁ……なんて思ってないもん」

 

 どうやら、レイハとのお喋りに熱中し過ぎてなのはを蔑ろにしてしまっていたようだ。なのはさん、相当お(かんむり)のご様子である

 

 打てば響くようなレイハの返答が楽しすぎるのが原因だな。要約すればレイハが悪い。

 

 レイハと二人でへそを曲げてしまったお姫様を慰めつつ、俺は念話を送る。宛先は、アースラにいるはずのクロノ。

 

『クロノ、魔力の反応は追えたか?』

 

『事前に、きっと攻撃が来るだろう、と徹が言ってくれていたからな。準備は万全だったんだ、問題なく捕捉した。今は確認できた座標への出撃準備を整えているところだ』

 

 急遽取りつけた一騎打ちは、どうやら想定していた最大の戦果を(もたら)してくれたようだ。

 

 しかし慢心は禁物だ。ここはまだ序の口、本番はここからである。

 

 みしみしと俺の肋骨を締め上げていたなのはの腕が緩んでいくのを知覚しながら、クロノへ念話を返す。ああ、ようやく肺いっぱいに空気が吸えるようになった。

 

『あんまり人を送りすぎるなよ。言っちゃ悪いが、どうせ返り討ちになるだけだ』

 

『誰が行っても……きっと僕が行っても結果としてはそうなるだろう。対抗できるのは母さ……こほん、艦長しかいない』

 

 俺の包み隠さない本音に、クロノは乾いた笑いを零しながらリンディさんの名を挙げる。

 

 クロノなら冷静な戦力分析ができると思っていた。次元跳躍なんて魔法を使える尋常から遠く離れた魔導師と、互角に渡り合える人材なんてそうはいない。

 

 それよりもリンディさんであればプレシアさんに太刀打ちできるというクロノの品評に、分かっていたつもりではいたが、そこはかとない驚きを持つ。

 

 普段はふわふわぽわぽわしていて、母性本能が服を着て歩いているような女性であるが、艦長としてだけではなく、やはり戦闘にも精通している実力者のようだ。

 

『ま、再確認する必要もなかったか。脅威は目で見たわけだし』

 

『罪を認めて自首してくれたら一番ありがたいのだが』

 

『そんな薄っぺらい希望は抱かないほうがいいぞ。すぐに打ち砕かれるから』

 

『……わかっている。言ってみただけだ。それよりも、年下の女の子たちといちゃいちゃしてないで早く戻ってこい。みんながモニターに映るお前を白い目で見ている。ところで、女性クルーの何人かは僕に『残念だったね』みたいな、哀れみにも似た目を向けてくるのだが、なにか心当たりはないか?』

 

『知らん、帰投する』

 

 要件を済ませたクロノとの念話を、俺はぶつりと手荒に切った。

 

 

「クロノ、待たせたな。現在の状況は?」

 

「十人ほどの隊員を捕捉した座標……時の庭園だったか? そこへと出動させた。ところで、怪我は大丈夫なのか?」

 

「ああ。治療してもらったし、受けた攻撃も浅かったからな。もう痺れも残っていない」

 

 艦橋(ブリッジ)にて、クロノと情報のやり取りを行う。

 

 クロノとエイミィには、プレシアさんの次元跳躍攻撃が放たれた直後にサーチを掛け、どこから飛ばされてきたものかを探知する、という役を頼んでおいた。プレシアさんが撃ってくるだろうとは読めていたので、スムーズに事は運んだようだ。

 

 秀才揃いの局員さんたちのおかげで、プレシアさんがいる空間の特定に成功した。

 

 そこからクロノは、判明した座標へと速やかに武装した局員さんたちを転送させたようである。

 

 クロノは目線を俺から外し、俺の背後にいるフェイトを見る。

 

「……そっちの子、フェイトはもう大丈夫……なのか?」

 

「身体に受けた傷は、な。精神的なものは、俺たちにはなんともしがたい」

 

 なのはとフェイトの一騎打ちが終幕してから、既に三十分程が経過している。

 

 アースラへと帰艦後、なのはとフェイト、ついでに俺も、医務室へ半ば強引に運ばれた。

 

 一通りの治療を受けると、あられもない格好になっていたフェイトは入院患者が着るような、白を基調とした質素な服装に着替えさせられた。フェイトを抱っこしてアースラに戻ってきた俺が言うのもなんだが、とても男の前に出られるような有様ではなかったのだ。

 

 意識があるのかないのか定かではないフェイトの両手首には、無骨な金属製の輪っかがはめられている。今のフェイトからは戦意など微塵も感じ取れないが、敵対している組織の一員ということもあるので、こればかりは仕方なかった。

 

 手錠で身動きを封じられているフェイトの右手には、三角形の金色の宝石、待機状態(スタンバイフォーム)のバルディッシュが大事そうに握られている。

 

 規則を準拠に判断すると、敵員が艦内にいるのにデバイスを持たせたままにするのは問題なのだが、預かるだけだから、といくら諭してもフェイトは一向に離そうとはしてくれなかった。そんな押し問答を繰り返していては時間が勿体ないので、特別に許可を貰うことで対処した。

 

 自分の武器を取り上げられたくない、なんて理由であればこちらも強く出ることができたのだが、まるで家族と離れるのが嫌だ、という様な切羽詰まった様子でバルディッシュを握り締めるフェイトを見てしまっては、強引に徴収することは躊躇われた。俺を含めて、その場にいた全員の良心が甚だしく痛んだのだ。どうせフェイトが掛けられている手錠には魔法の発動を阻害する効果があるのだから、という言い分でリンディさんを押し切って納得してもらうことに成功した。

 

 リンディさんも、その場にいた他の女性局員さんも心情はフェイトに傾いていたのだろう。フェイトにはなにか、守ってあげたくなるような、庇護欲(ひごよく)(くすぐ)るようなオーラがあるのだ。

 

 医務室を出た後は、俺、ユーノ、なのはに加えてフェイト、フェイトの使い魔であるアルフの五人で艦橋まで足を運んで今に至る。

 

「フェイトちゃん……」

 

 ちらりと振り向く。俺の斜め後ろ、フェイトの横で心配そうに見つめるなのはが呟く。

 

 なのはの反対側には、アルフが無言でフェイトに寄り添っていた。

 

 隊員さんたちの動向を追随していたモニターの映像に進展が現れる。時の庭園の廊下を進んでいた隊員さんたちが、ある部屋へと押し入った。

 

 広々とした室内だが、受ける印象はとても冷たい。

 

 大理石のような石材が敷かれた床。木材なのか石材なのか、はたまた金属製なのか、見たことのない材質の壁。壁と一体化するように、等間隔で柱が並んでいる。全てを通して色合いは寒色でコーディネートされていた。

 

 隊員さんたち全員が入ってもまだ余裕があり、狭さを感じさせないその部屋には、家具の類が一つを除いて一切存在していない。

 

 なにも置かれていない蕭然(しょうぜん)とした部屋の唯一の例外が、奥に据えられた豪奢な椅子。そこには、一人の女性が座っていた。隣には見覚えのある、理知的な女性。リニスさんが一歩引いて淑やかに立っている。

 

 リニスさんが隣に侍っているということは、もはや考えるまでもなく、椅子に腰掛けているのはプレシアさんなのだろう。

 

 資料で拝見したプレシアさんと今の彼女とは、外見からかなり変わっていた。

紫がかった黒色の長い髪は左目を隠すようにかかっている。瞳はまるで()めつけるかのように鋭く剣呑。

 

 なによりインパクトがあるのは彼女の服装である。胸の中間あたりからぱっくりと開いており、素肌が外気に触れている。豊かな胸の上は金の留め具でマントを羽織っており、胸のすぐ下で、バックルが銀色の輪になっているベルトのようなもので押さえられているおかげで、双丘と二つの丘を隔てる谷間が強調されている。ベルトでみぞおち付近は閉じられているが、そこからまたも服が左右に分かれているのでウエストが、特におへそが丸見えだ。

 

 下はロングスカートになっているようだが、スカートの横側が開いていて露出度がとても高い。しかもチャイナドレスのスリットのような下から開いているものではなく、腰の付け根部分からふとももの真ん中ほどまで晒していた。スカート脇のスリットから微かに覗く、光沢感のある黒のサイハイソックスが一味違う魅力を上乗せしている。

 

 フェイトもリニスさんもアルフも、プレシアさんの服装を見ているからあんなに肌をさらしているのだろうか。今気にすべき点はそこではないが。

 

 管理局の人間が突入してきたにもかかわらず、プレシアさんはそれらを歯牙にもかけず肘掛けに肘をついて体重を預け、無聊(ぶりょう)というように眺めるばかり。

 

 『不遜』

 

 まさしく、プレシアさんの姿態はその一言に尽きた。

 

 リニスさんもリニスさんで突然の来訪者を気を取られることもなく、瞑目して直立不動の姿勢を保っていた。

 

『プレシア・テスタロッサさんとその使い魔、リニスさんですね? 貴方達には時空管理法違反、及び、管理局艦船への攻撃容疑がかけられております。武装を解除したのち、御同行願います』

 

 赤髪の隊員さんが一歩分前に出て、彼女たちへと話しかける。

 

 良い声な上に聞き取りやすく丁寧な口調だな、と思っていたら、声をかけた隊員さんはレイジさんだった。

 

 隊を率いているところを見るに、レイジさんはなかなか高い職位についているらしい。

 

『…………』

 

『…………』

 

 レイジさんの勧告にも、彼女たちは反応を示さない。まるで聞こえていないかのような無反応だった。

 

 それでもレイジさんは数秒、二人が自主的に投降してくれないものかと待っていたが、諦めたかのようにため息をついてもう一歩前に出る。今度は杖を構えて、だった。

 

 プレシアさんに再度話しかける前に、レイジさんは近くにいた他の隊員さん――おそらく副隊長さんか何かなのだろう――に声をかけた。

 

 いくつかの指示を受けた副隊長さんは首肯すると、後ろに隊員四人を連れてプレシアさんたちの横を素通りし、部屋のさらに奥へと進んだ。モニターでは見え辛かったが、部屋の奥にもう一つ違う部屋があるようだ。

 

 空間に浮かび上がっているモニターが一つ増えた。レイジさんをメインに映していたモニターとは別の場所を捉えていて、現在も移動している。どうやら副隊長さんを追う映像のようだ。

 

『このまま動かないとなりますと、実力行使にて引致せざるを得なくなってしまいます。その前にもう一度通告致します。武装を解除し、出頭してください』

 

 最初から浮遊しているモニターに映っているレイジさんが、再びプレシアさんに告げる。

 

 先と違い、今度は声に威圧的な音を聞き取ることができたが、表情は強張っていた。

 

 優しく真面目で仕事は丁寧。ついでに顔も整っているという正義の味方の(かがみ)のようなレイジさんなので、力で押さえつけるなどの手段は出来得る限り取りたくないのだろう。

 

 しかし、レイジさんの表情が険しくなっているのはきっと、それだけが理由じゃない。力量の差がどれだけ違うかを理解しているから、魔導師としての格の違いを肌で感じているから、緊張から表情も声も固くなっているのだ。

 

 ここでようやく、プレシアさんが動きを見せた。しかしそれは、レイジさんの最後通告を受諾したわけではない。どころかプレシアさんはレイジさんへは目もくれず、脇をすり抜け部屋の最奥へ進んだ副隊長さん率いる一隊に注意を傾けた。

 

 些かの興味も抱けないというふうに無表情だった彼女の顔が、静謐(せいひつ)だった空気が、がらりと一変する。

 

『リニス、こっちは任せるわ』

 

『わかりました』

 

 リニスさんと短く会話を交わしたプレシアさんは、席を立ち、部屋の奥へと消えた副隊長さんたちを追う。

 

『動かないでください! これ以上は敵対行動と見做(みな)し、攻撃を……』

 

『申し訳ないですが、あなたたちにはここで退場してもらいます。お疲れ様でした』

 

 席を離れて奥へと歩むプレシアさんを止めようと、レイジさんは一歩足を踏み込んだが、行く手を遮るようにリニスさんが立ち塞がった。

 

 リニスさんはどこからか取り出したステッキの先端を、レイジさんを筆頭にして背後で杖を構えている隊員四名に突き出す。

 

 そのリニスさんのモーションに、俺は見覚えがあった。

 

 朧気な記憶を手繰る。

 

 以前、俺からエリーを奪おうとして倉庫で戦闘になったあの日の終盤。モニターの中と同じように、黒い杖の上端、金色の台座の上に鎮座している同じく金に輝くの球体を、リニスさんは膝をついた俺に向け、そして『放った』のだ。

 

「クロノ、砲撃がくる。隊員さんたちを離脱させろ」

 

「しかし、彼女たちの身柄拘束はまだ……」

 

「プレシアさんたちが無抵抗に投降しないと決まった時点で、身柄の拘束なんてできるわけないだろ。無闇に怪我人を増やすことはない。撤退させてくれ。彼らは現場の情報を俺たちに伝えてくれた。その働きだけで充分だ」

 

「……わかった。艦長、よろしいでしょうか?」

 

「ええ、私も異論はないわ。戦力と態勢を整えて、もう一度出てもらいます。その時はクロノ執務官、あなたも一緒に出撃してください」

 

「わかりました」

 

 上官であるリンディさんの許可を求めた後、クロノは現場のレイジさんへと指示を送る。

 

 だが、艦橋でやり取りをしている間にリニスさんの魔法が発動してしまった。

 

 俺と戦っていた時と同じ砲撃魔法が放たれたのだ。

 

 威力だけを比較すれば、なのはの砲撃に軍配が上がるだろう。しかし、総合的な見地で考えた場合、リニスさんの砲撃がなのはの砲撃に劣っているとは言い難い。

 

 なのはの砲撃の魅力が障壁越しにでも相手にダメージを与えられる点だとすれば、リニスさんの砲撃の真骨頂は発動までの速度と隙の少なさである。しかも極限まで磨かれたその技術は、相手を沈めるだけの最低限の威力を見抜き、魔力を浪費しないよう工夫されている。無駄を限界まで削り取った、継戦能力と機能性、実用性を追求した術式なのだ。

 

『総員、一度アースラまで撤退します! 私が時間を稼ぐので準備を!』

 

 がきぃっ、と甲高い金属音が響き、火花が散る。

 

 リニスさんの砲撃は、確かに発動し、確かに撃ち放たれた。にもかかわらず、局員の人たちには擦り傷もない。

 

 レイジさんが驚くべき速さでリニスさんに肉薄し、自身が携える杖型デバイスを振るってリニスさんの杖を打ち据え、矛先を逸らしたのだ。

 

 一連の流麗なレイジさんの動作に、思わず口からため息と喫驚(きっきょう)の言詞がこぼれた。

 

「は、速っ……」

 

「それはそうだろう。優秀でないのに隊を任されているわけがない」

 

「いや、それにしたって、準備動作なしに急速接近して杖を振るうなんて……」

 

「レイジ・ウィルキンソンは、飛行魔法と射撃魔法の同時展開数だけなら僕を上回っているからな。加えて他の隊員からの信頼も厚く、指揮能力も申し分ない。難を言えば、物腰が穏やかすぎることくらいか」

 

 クロノが苦笑いを浮かべながら、レイジさんの人となりをさらりと評する。

 

 一度手合わせして知っていたつもりだったが、それはあくまで『つもり』に過ぎなかったようだ。

 

「飛行魔法? 今の動きとなんの関係が……」

 

 模擬戦でもクラスター爆弾顔負けの密度を誇る射撃魔法は目にしていたが、クロノが言うような飛行魔法の妙技は見られなかった。

 

 クロノの言葉を疑問に思ってモニターを注視すると、違和感を発見した。身体がほんのわずかではあるが上下に揺れ動いている。レイジさんの足元を確認すれば、床と接地していなかった。

 

「浮いている……飛行魔法を使っているのか? どんな制御能力をしているんだ……」

 

「飛行魔法の細やかなコントロール、初速から最高速までに至る早さ、空間把握能力、どれを取っても一級だ。これで決定打になる攻撃手段の一つでもあれば言うことなしなんだが」

 

「射撃魔法はすごいだろ。主力になるんじゃないのか?」

 

「展開数だけは目を見張るものがあるが、いかんせん重さに欠ける」

 

 たしかにレイジさんの射撃魔法は、俺のへっぽこ障壁でも防げる程度の威力でしかなかった。目眩ましや弾幕などの牽制にはなるだろうが、火力が物足りなく、射撃魔法では主力にならないというのは事実のようだ。

 

 模擬戦で俺と戦い、早々に勝ちを譲ったのはそういうところに理由があるのかもしれない。

 

 モニターへと意識を戻す。

 

 レイジさんは類稀な飛行センスによって付かず離れず巧みに相互間の距離を取り、リニスさんの攻撃を回避し続ける。

 

 無茶な機動で撹乱(かくらん)しているので身体的にも負担が相当にかかっているはずだが、仲間が撤退するだけの時間を稼ぎ切ることに成功した。隊員さんから準備の完了を知らされると、レイジさんはリニスさんから距離を取り、まるで地面を滑るような挙動で仲間の元へと合流した。

 

 額に汗を浮かべるレイジさんが、リニスさんへと声をかける。

 

『お強いですね、感服致しました。今はここで退きますが、またすぐにお会いすることとなります。それでは失礼します』

 

『次は手加減しませんから、そのつもりで。なかなかに楽しめましたよ』

 

 息一つ荒げることなく、服に乱れすらないリニスさんは、手にしている黒と金の杖をくるくると手慰みに回しながら、余裕綽々と言い放った。

 

「徹。プレシア・テスタロッサの使い魔というあの女は、本気で戦っていたと思うか?」

 

「手を抜いていたわけではないと思うけど、全力ではないだろうな。リニスさんが使った魔法は射撃と砲撃の二つだけ。しかも射撃は単発ずつだったし、砲撃の発射速度もゆっくりだった。流していた、と見るのが現実的だろ」

 

 リニスさんの真価は、蜘蛛の巣のように張り巡らされた魔法の連係性にある。一つ一つの魔法が独立しているのではなく、一つの魔法がその後に発動する魔法を引き立たせるようなコンビネーションの関係にあるのだ。

 

 誘導弾で相手が回避する場所を絞り込み、逃げた地点に設置型の拘束魔法を仕掛けておく、などといった罠や策が、恐ろしいことにリニスさんとの戦闘では目白押しとなる。つい先ほどモニターの中で行われた戦いではそれが見られなかったので、お世辞にも全力で戦っていたとは言えようはずがなかった。

 

 そもそもレイジさんを長とした一隊に杖を向けた一番最初からしておかしかったのだ。リニスさんの砲撃はチャージの時間が過言でなく瞬く間で終わり、ぱっと見ではチャージなしにも思えるような、杖を向けられた時にはすでに砲撃の発射が終わっているような代物なのだ。杖の照準を合わせてから発射されるまでに間があったことからも、リニスさんが有りっ丈の力を尽くした、ということはないだろう。

 

 ともあれ、レイジさんの分隊――レイジさんと一般隊員さん四名――は魔力こそ消費したものの、手傷を負うことなく時の庭園から離脱できたのだから良しとしよう。

 

 そういえば途中で分かれたもう半分の人たちはどうなっているのだろうと、レイジさんを映していたモニターの隣に生み出された二つ目のモニターを見やれば、ちょうど薄暗い廊下を渡り切って奥の部屋の扉の取っ手に手を掛けたところだった。

 

 副隊長さんが軋み音を伴わせながら、重厚感とシックな(おもむ)きのある扉を開け放つ。

 

「ぇ……。フェイト……ちゃん……?」

 

 モニターを見上げていたなのはが、呆然と呟いた。他のみんなも、口に出しはしなかったものの、驚きを隠せないようで息を呑んでいる。彼女たちの事情を少なからず把握している俺ですら、言葉を失った。

 

 横幅こそ狭いが奥行きのある、鰻の寝床のような部屋。部屋の入り口から奥までずっと、部屋の左右に立ち並ぶ、子どもであれば入れそうな大きさの円柱型のガラス菅と、部屋の中央に据えられている一つの巨大な透明のカプセル。

 

 液体で満たされたそのカプセルに、幼い少女が一糸纏わぬ姿で浮かんでいた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 年齢はだいたい五〜六歳前後といったところ。フェイトよりも小柄で、少なくとも二つ三つは年下に見えるその少女は、膝を抱くようにして丸まっている。長い金色の髪はカプセルの中でふわふわと揺らめいていた。

 

 カプセルの中にいる少女の外見は、なのはが呟いた通りフェイトに瓜二つ、そっくりだった。

 

「アリ、シア……? でも、なぜ……たしか被害者は……」

 

 言葉を口の中だけで抑えるのが精一杯だった。

 

 アースラの情報集積室で調査をして、ハッキングまで行使して機密資料にも目を通したのだから、フェイトにそっくりな(本来的にはフェイトがアリシアに似ているのだが)アリシアの顔も知っている。

 

 しかし、俺が戸惑っている、あるいは動転している理由となっている事柄はそこではない。なぜアリシアの身体に傷一つなく、この場に存在しているのか。それこそが狼狽(ろうばい)している要因だった。

 

 整理のつかない俺を置いてけぼりに、モニターの映像は進んでいく。

 

 扉を開いてから、室内の雰囲気に呑まれていた副隊長さんはようやく止めていた足を動かして踏み入れようとした。踏み入れようとした、という表現は、アリシアが眠る部屋に踏み込もうとした副隊長さんを含めた計五名が、紫色の光によって薙ぎ払われたことで、実際に室内に入ることができなかったためだ。

 

『アリシアに、近寄らないでもらえるかしら』

 

 まるで箒で塵や埃を掃くかのように管理局の武装局員さんたちを払い除けたプレシアさんは、悪びれる様子もなく冷たい瞳で倒れ伏す彼らを見下ろす。

 

 意識を失った彼らから関心が失せたのか、プレシアさんは局員さんたちから視線を外して部屋へと入り、アリシアが入っているカプセルへと近づく。アリシアへと手を伸ばすようにカプセルに手を添わせ、寄り添うように頬をつける。

 

『もう……終わりにしましょう』

 

 プレシアさんが、誰にともなく囁いた。ぽつねんと残った副隊長さんを追っていた浮遊カメラが、プレシアさんの声を拾い、映像をアースラへと送り続ける。

 

『今あるジュエルシードのエネルギーだけで辿り着けるかは分からないけれど、もう限界よ。この子の代替品を娘扱いするのは、もう……限界』

 

 浮遊カメラに背を向けながら、プレシアさんは先ほどより声を張って、語り始める。

 

 独り言のようなボリュームではない。映像機器の存在を認めている上であえて、自分の考えを俺たちに向けて放っている。

 

 凍えるほどに感情のない、一本調子な喋り方。

 

 誰も声を出せず、黙って聞き入ることしかできなかった。

 

『アリシアの記憶を写してあげたのに、まったくアリシアとは似ていない。似ているのは外見だけ。ジュエルシードを集めてきなさいという単純なお願いさえ、まともにこなせない役立たずの模造品。人形なら人形らしく、操手の指示通り動けばいいのにそんなことも満足に果たせない。まるで出来損ないの人形(マリオネット)ね』

 

 背を向け、両手はアリシアのカプセルにぴたりと密着されたまま、プレシアさんはフェイトを突き放すように辛辣な言葉を浴びせかける。

 

 急展開についていけていないなのはやユーノたちに、エイミィとクロノが説明してくれた。プレシアさんの事情、魔導炉暴走事故の経緯、元の個体と寸分違わぬ素体を作り出す技術、肉体と同時に記憶までをも写し取り焼きつける記憶転写型クローン技術、使い魔を超えた人造生命体の生成、その研究を行っていた、プロジェクト『F.A.T.E(フェイト)』。わかりやすく簡潔に述べてくれた二人の声は、しかし、内容が内容だけに暗く沈んでいた。

 

『あなたの姉を助ける為なのよ、と言っているのに、ジュエルシードの回収よりも自分の都合を優先して、敵である組織の人間に筋を通そうとする。本当に愚かだわ』

 

 声音はひどく冷たく、相変わらずそこに抑揚はない。

 

 左手はアリシアに寄り添わせたまま、かすかに振り返って右目だけ浮遊カメラへと向ける。細く鋭い槍で貫かれるような迫力があった。

 

 カプセルから離れた右手は、強く握り込まれる。

 

 プレシアさんは、語り始めと変わらぬゆっくりとしたテンポで途切れることなく、考える間も与えようとせずに続ける。

 

『あなたと違って、アリシアはとても良い子だった。私の言うことはよく聞いていたし、時々言う我儘も可愛いものだったわ。あなたは、アリシアとは全然違う。結局は作り物、所詮は偽物だったということよ』

 

 目を見開いて震えながら、フェイトは母親から投げつけられる言葉の刃を受け止める。

 

 そんなフェイトの手を、なのはは隣でぎゅっと握り、アルフは肩に手を置いて安心させようとしていた。二人とも、寒そうに震えているフェイトの力になろうとしていた。

 

 しかし、プレシアさんは尚も続ける。黒に近い紫色の長い髪とマントを見せつけるようにしながら、鋭利な(こと)()でフェイトの心を斬りつける。

 

『……フェイト、あなたはもう……ぃ、いらないわ。どこへでも行けばいい……』

 

 注意を引きつけるように数拍の間を置いてからまた紡ぐ。

 

 低く抑えつけられていた声が、かすかに揺れた気がした。

 

 腕を振りながら浮遊カメラへと振り向き、プレシアさん目を()いて口を開く。

 

『いいことを教えてあげるわ……っ、失敗作っ。私はね、あなたを作った時から! 今日ここに至るまで! 一瞬たりともあなたをっ……娘だと思ったことはなかったわ!』

 

 突如豹変したように声色が変化する。感情の(たかぶ)りに任せるように、周囲を圧倒して顕示するように、声を張り上げてプレシアさんは叫んだ。

 

 フェイトの喉から、掠れた声が空気と一緒にこぼれる。言葉になっていない。言語にすらできていなかった。母親から黒い感情をぶつけられたフェイトはもう、限界に近かった。

 

 肩を上下させて息を荒げるプレシアさんは、叫び出した時と同じように唐突に沈黙し、顔を伏せる。右手を開いて浮遊カメラに伸ばした。

 

 プレシアさんの右手に紫色の光が集まる。

 

『フェイト、あなたなんか……大嫌い……だったわ』

 

 アースラの艦橋のモニターは、プレシアさんの底冷えするような一言と、彼女の紫色の魔力光を最後にぶつりと途絶えた。プレシアさんが射撃魔法か何かで浮遊カメラを射抜いたのだろう。

 

「フェイトちゃん!」

 

「フェイト!」

 

 俺の背後で、人が倒れるような音と共になのはとアルフの声がした。

 

 振り向けば、フェイトが生気の失われた瞳で崩れ落ちていた。信頼し信愛していた母親からの痛罵(つうば)に、フェイトの心は粉々に打ち砕かれたのだ。フェイトの細い神経と、二人の繋がりを、言葉の刃が断ち切った。

 

 くしくもその姿は、プレシアさんが言っていたように、まるで糸の切れた操り人形のようだった。




前半と後半の落差。

痛い、心が痛い。辛い、話を進めるのが辛い。


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「『始まり』を始める為に」

新年明けましておめでとうございます。
そして更新遅れてすいません。年末年始はやっぱり忙しかったです。という言い訳。


 かしゃん、と乾いた音が響く。フェイトの手からバルディッシュがこぼれ落ちた音だった。

 

 綺麗な光沢に荘厳さを秘めていた金色のデバイスの表面には、痛々しいほどの亀裂が刻まれていた。これまでの戦闘やプレシアさんからの雷撃のダメージが積み重なり、先ほどの落下が決定打となったのだろう。

 

 フェイトは自身の手のひらからバルディッシュが落ちても、呆然としたままだった。

 

 バルディッシュの落下音を、局員さんの声が塗り潰す。

 

「次元震が発生! 同時に時の庭園中心部で高エネルギーの魔力波長を確認! 加速度的に増大していきます!」

 

「庭園内に反応多数! 総数四十、六十……くそっ、数え切れない! どんどん増えていってます! 出現した反応は魔力によって操られた傀儡兵のようです! いずれもAクラスの魔導師並みの魔力を有しています!」

 

「発振される魔力数値が既に閾値(いきち)を超えています! このままでは、いつ次元断層が起きるか分かりません!」

 

 プレシアさんとの通信が断絶した数十秒後に、巨大な次元航行船であるアースラの艦体がかすかに揺れた。

 

 同時に、ブリッジにいる通信や分析を担当している局員さんが、目の前に置かれている専用モニターを見ながら叫ぶように報告する。

 

「この反応は……魔導炉の異常運転、強制稼働? 暴走状態にして出力を力づくで上乗せしてるんだ……」

 

 指が霞むほどの速度で平面のキーボードを叩いていたエイミィが、危険なレベルにまで至った魔力波の原因を突き止める。

 

 昨日、アルフを挟んでプレシアさんになのはとフェイトの一騎打ちを提案した後、アルフから時の庭園の話を聞いた。それを思い出せば、今の事態も理解できないことはなかった。

 

 時の庭園は、まるで一つの小惑星のような規模の建造物であるにもかかわらず、単独での次元間航行が可能らしい。そんな無理を通せるのは、(ひとえ)に庭園のおよそ中心部を占めている大掛かりな魔導炉があってこそだ。

 

 そもそもプレシアさんは、魔導炉を設計・製作するという職に()いていた。会社で作っていたように、足を引っ張るような連中や小煩(こうるさ)い上司がいなければ、途轍もない品質の魔導炉を作り出していただろうことは想像に難くない。

 

 大規模かつ質の高い動力源を心臓部に備えているからこそ、城のような巨大な時の庭園は次元の海を渡ることができるのだ。

 

 そんな動力源を――大型の魔導炉を暴走させればどうなるかなど、その道に明るくない者でもすぐにわかる。周囲の魔力に変動を与えて不安定にさせ、時空の歪みを生み、次元震を誘発させ、果ては次元断層にまで悪化する。

 

 (ただ)ちに停止させなければ、被害は次元的に近距離にいる俺たちだけで済まない。ジュエルシードの発動に大型魔導炉のオーバーロードが重なればその被害規模、被害範囲は甚大になるだろう。その場合、周辺の世界がまるごと消え去る。俺やなのはが生まれ育った地球も、当然範囲に含まれる。

 

 そんなこと、させるわけにいかない。大事な人たちをこの星ごと、この世界ごと消し飛ばすなんてこと許せはしないし、プレシアさんたちにもそんな罪科(つみとが)を背負って欲しくない。

 

 まだ、間に合うのだ。まだなにも終わっていないのだから。まだなにも、始まってすらいないのだから。

 

 俺は拳を握り締め、しゃがみ込んで生気を失っているフェイトを見る。

 

 なのはとアルフに支えられてなんとか倒れない状態を保っている少女にとって、(くし)の歯を()くように艱難辛苦(かんなんしんく)が降りかかるだろうが、ここでへたり込んでいては現状はなにも好転しない。立ち上がって前を向き、真正面から向き合わねばいけないのだ。

 

 俺がフェイトに声をかけようとしたところで、クロノが緊迫した声音で全員に聞こえるよう指示を出す。

 

「ジュエルシードの複合発動も脅威だが、魔導炉の暴走も早く止めなければ手遅れになる。すぐに現場に向かうぞ」

 

「突入の際、傀儡兵の妨害が想定されます。注意してください。ルートはこちらがナビゲーションします」

 

「武装局員も出撃の準備を。協力して傀儡兵を退け、道を開いてください」

 

 クロノの言葉にエイミィとリンディさんが続く。

 

 にわかに慌ただしくなり、張り詰めた空気が漂い始めた艦橋の中で、一人の少女が話に割って入った。

 

「フェイトちゃんはどうするの?! このままにしておくの?!」

 

 フェイトの肩を抱いたままのなのはだ。悲しげに眉を曇らせて悲痛な叫びを放った。

 

 フェイトを心配するなのはの気持ちは痛いほどわかる。フェイトは母親から魔法で攻撃された上に鋭い言葉の刃で心を滅多刺しにされ、心神耗弱のような状態に陥っている。そんなフェイトを捨て置けないのだろう。

 

 心配するのは当たり前だし、他のみんなだって同情はしているだろう。先の映像とフェイトの出生の背景、プレシアさんから浴びせられた痛烈な罵倒を聞いて同情しない人間は人情に欠けるとすら言っていい。

 

 だが、しかし同時に、今の状勢が逼迫(ひっぱく)しているのもまた事実なのだ。少しの遅れが致命的なミスに繋がりかねない。それ程の事態にまで進行している。

 

 これらを理解しているから、周囲の局員さんたちもフェイトに関心を傾けるだけの余裕がない。非情ではあるが、今は被害者がフェイト一人でも、手を(こまね)いて対処が遅れれば被害者数は数億倍か、またはそれ以上に膨れ上がる。最悪を避けるための、現実的な考え方であった。

 

 言い辛そうにするクロノに代わって、俺がなのはに返答する。一歩前に出て(かが)み、視線をなのはに合わせた。

 

「フェイトは俺が部屋まで運んで寝かせておく。なのはは先に庭園内部に向かってくれ」

 

「な、なら! わたしも一緒に……」

 

「庭園内には傀儡兵とやらが蔓延(はびこ)ってるらしい。向こうではなのはの力が必要なんだ。なのはは、なのはにしかできないことをやってくれ。フェイトは俺が責任持って休ませておくから、安心して行ってくれ」

 

「徹お兄ちゃんの力も必要だよ……」

 

「俺はちょっと魔力使い過ぎちゃったからな、少しだけ休憩させてもらっとく。俺が現場に着いた時に邪魔されないように、傀儡の群れは片付けといてくれな」

 

「わかった……先に行って全部蹴散らして待ってるね」

 

「それは頼もしいな。そっちは任せたぞ」

 

 頭をひと撫でするとなのはは小さく頷いた。

 

 お姫様はすっくと立ち上がり、フェイトの身体を俺に預ける。離れる間際、一言二言なにかを茫然自失としたままのフェイトに話しかけ、クロノの元へと足を向けた。

 

 一度軽くこちらを振り返ったクロノには、なのはを頼んだぞ、と目配せを送っておく。クロノは力強い視線で持って無声の返事をした。

 

 こんなことしなくても責任感の強いクロノなら職責を果たそうとするだろうが、まあ形式的なものである。

 

 なのはの後を追うようにユーノが連れ立つが、俺の隣で足を止めた。

 

「兄さん、体調が(かんば)しくなければアースラに残っていてくださいね。僕たちだけでも頑張りますから!」

 

「寂しいこと言うなよ。俺じゃ戦力にならないってか?」

 

「ちっ、違います! 無理をしては怪我をしたりするかもしれないと思って……」

 

「わかってるって。意地悪して悪かったな」

 

「まったく、兄さんは……。あ、忘れてました。一つ注意があるんです。生きていたモニターで確認されたんですが、魔導炉が暴走したことで時の庭園周辺の力場が不安定になり、虚数空間が発生しているんです。庭園へと転移する時は気をつけてくださいね」

 

 俺が冗談で話を区切り、ユーノはなのはとクロノに追いつこうと身体を傾けたが、足を踏み出そうとした寸前で(きびす)を返してまたも俺に振り向いた。

 

 ユーノの注意とは『虚数空間』なるものについてだったのだが、聞き慣れないワードに疑問符が浮かぶ。俺たちの世界の数学的な虚数とは関係がないことはなんとなくわかるが、それ以外はさっぱりである。

 

 まるでどんなものか理解できていない俺の様子を感じ取ったのか、ユーノが続けて説明する。

 

「虚数空間とは、簡単に言ってしまえば魔法が使えない空間のことです。飛行魔法も発動しませんし、兄さんが空中戦の時に使用している障壁も展開できません。一度落ちてしまえば、そのまま時空の彼方を放浪することになります」

 

「そんなのがあんのかよ……怖いな。なんでそんな危険な空間ができ始めてんの?」

 

「虚数空間は次元震や次元断層によって引き起こされると言われています。魔導炉とジュエルシードの莫大な魔力で、次元に穴が開いてしまったものと思われます。とにかく落ちないように気を配ってください。助けに行くこともできませんから」

 

「そうか。了解。安全ロープでも持って行けば気休めにはなるかもな」

 

 俺の半分以上真面目な提案を聞き、ユーノは一瞬きょとんとして、次には堪えきれずといった風に噴き出した。

 

 安全第一の作戦を笑われてしまった。画期的な妙案を閃いたと思ったのだが。

 

「そ、その時は最初から腰とか身体に巻きつけといてくださいねっ、片っぽの縄を投げてもらえれば僕、一生懸命引っ張りますからっ」

 

「笑いながら言ってんじゃねぇよ。あれはな、高所作業者の命綱なんだぞ。大事なものなんだぞ」

 

 先に行って待ってますね、と口元を手で隠しながらなのはを追ったユーノだが、目元が笑っているままだったのを俺は見逃さなかった。魔法の利便性を過信せずに、既存の道具も利用するのが一番利口ではないだろうか。

 

 ユーノを見送り、なのはがいた位置に俺が入れ替わりフェイトの身体を支える。

 

 フェイトの身体に触れて、正直ぞっとした。反対側でアルフもフェイトの身体を抱いているといえど、それを踏まえてもフェイトの身体がとても軽く感じたのだ。水面に浮かぶ月のような儚げな印象はもともとあったが、今は存在感まで薄れてしまっている。煙みたいに空気に溶けて消えてしまうのでは、という危惧さえ覚えた。

 

 内心の動揺は呑み込みつつ、俺は同じくフェイトに寄り添うアルフへと水を向ける。

 

「……アルフ、フェイトのことは俺に任せてくれ。アルフにはなのはたちに同行してもらいたい。土地勘ってのもおかしい言い方だけど、中の仕様に精通しているアルフがいれば心強いんだ」

 

「そう……だね。わかったよ。あたしも、あたしにできることを精一杯がんばる。徹はフェイトの傍にいてあげてね」

 

「いつまでも隣にはいられないと思うけどな」

 

「……なんでさ、そこは約束してよ」

 

「こいつはいつまでも同じ場所でうずくまってはいないだろ。すぐに立ち上がって、俺を置き去りにして飛んでくさ」

 

 肩を(すく)めながら俺が言うと、アルフはくすくすと笑みをこぼした。

 

 目元に浮かんだ涙をぐしぐしと手の甲で拭ったアルフは、明朗な口調ながらもどこか水気を帯びながら俺に返す。拭ったはずの涙は、すぐ瞳に溜まって潤ませた。

 

「あははっ、そうだね。……そうだよ。フェイトはこんなところで立ち止まったりしないさ。そんなこと、一番近くにいたあたしが誰よりも知ってることだったのにね」

 

「そうだろうよ。今は少し疲れて羽を休めてんのか、それじゃなきゃ高く翔ぶ為に力を溜めてるかどっちかだ。だから、こっちのことは気にかけなくていい」

 

「うん、任せたよ」

 

 フェイトの肩から手を離し、正面に回ったアルフはフェイトの頬に手を添えて話しかける。アルフから言葉を受けても、フェイトの表情は変わらず、瞳は虚ろな闇を灯したままだった。

 

 そんなフェイトを、アルフは優しい微笑みを(たた)えながら数秒見つめ、自分の(ひたい)をフェイトのそれに触れさせる。体温を分け与えるかのように、気持ちを伝えるかのように身を寄せるその姿は、主従を超越した関係性を如実に表していた。

 

「行ってくるね」

 

 アルフは最後にフェイトへ一言呟き、転移門へと歩みを進めた。

 

 フェイトは、聞こえているのかいないのか判断つかない無表情のまま、微動だにしなかった。

 

 

 アルフを拘留していた部屋へとフェイトを抱き運び、ベッドの上へと横たわらせる。

 

 俺はベッドのすぐ隣に椅子を置き、そこに腰掛けた。

 

 布団から出ているフェイトの手を、両手で包み込むように握り締める。

 

 これで正しかった。そう思っていても後悔を止めることができない。

 

 プレシアさんから悪言(あくげん)悪口(あっこう)を放たれ続けるフェイトを庇うことはできた。だが、そこで一時庇ったところで事態が好転するとも、問題が解決するとも思えなかった。だから、フェイトの優しくも脆い心が傷つくことがわかっていても口を挟まなかった。

 

 結局はこれも、自分の都合でしかない。プレシアさんが抱いているフェイトへの感情を確認したかったがために見過ごしたのだから。

 

「フェイト……ごめんな、フェイト……」

 

 きゅっ、とフェイトの繊細な手を握る両手に力が入る。小さな少女の細い手は、ひどく冷たかった。

 

 必要、だったのだ。フェイトにはどうしても必要な過程で、乗り越えてもらわないといけない難関だった。プレシアさんと、母親と向き合うにはどうしても。

 

 両手の中で、ぴくりと小さく動いた。フェイトが力なく口を動かす。

 

「母さんにとって、私……いらない子、だったのかな……」

 

 声に抑揚はなく、張りもない。蚊の鳴くようなか細い声で、ただ読み上げるかのように発した。

 

 その単調な声音からどれほど心に傷を負っているかが悟れてしまって、胸が張り裂けそうになる。

 

 でもここで俺が慰めるわけにはいかない。人からの意見ではなく、自分の信念で奮い立たなければ意味がないのだ。

 

 俺は下唇を噛み締めて口を噤み、ただフェイトの手を握り続ける。一人じゃないんだと体温と共に伝え続ける。

 

 ぽそり、ぽそりとフェイトは独語する。口に出しているのか心で念じているのかさえ、フェイトにはわかっていないのかもしれない。

 

「母さんにとって、私は……代用品で、ただの身代わりのお人形で……偽物だったんだ。全部、これまでのこと全部……アリシアのためだったんだ」

 

 ベッドの上で、フェイトの視線はただ天井を差していた。なにか意図があるわけではない、注視するものがあるわけでもない。目線の先、正面を向いていただけだった。

 

 諦めてしまったような、投げ出してしまいたいというような諦観に満ちた表情と声が、途方もなく悲しかった。

 

 フェイトの手は依然として、冷たい。

 

「私……なんのためにジュエルシード集めてたんだろう。あの子ともいっぱいぶつかって、アルフもたくさん傷ついた。関係ない世界の人も危険に晒しちゃったし、いろんな人に迷惑をかけた。本当に私、なにしてるんだろう……。結局、ジュエルシードを全部集めてきなさい、ってお願いも叶えられなかったし、アリシアを助けることもできなかった。こんなことなら……」

 

 ――私なんて、生まれなかった方がよかった――

 

 フェイトが独白する。

 

 双眸から一筋、涙が流れた。

 

 声は揺れ、唇は小刻みに震え、手は凍えるように力なく俺の手を握り返す。

 

「…………っ!」

 

「とお、る……?」

 

 その光景を見て、俺は黙して座するままでいられなかった。

 

 フェイトの肩を掴み上半身を起こさせると、腕を回してきつく抱き締める。

 

 目頭が、じんと熱くなる。だがそれよりも心の奥がずっと熱くなっていた。

 

 手を出してはいけないと、そう思っていたのに込み上がってくる想いと衝動を抑えることができなかった。『生まれなかった方がよかった』なんて悲しいセリフを、意気(いき)阻喪(そそう)して涙を流しながら言う少女を放っておくなんてできなかった。

 

 強く、壊れるほど強く抱き締めながら、フェイトに語りかける。

 

「フェイト……フェイトはまだプレシアさんを、自分の親を信じているか? リニスさんを、自分の家族を信じているか?」

 

 俺には、自分がクローンで誰かの代替品であったと言われたフェイトの気持ちを、百パーセント理解することはできない。悲しい気持ちを共感はできても、辛い立場を同情はできても、実際にその境遇に置かれていない以上理解はできない。

 

 だから俺は、そちらに対して慰めはしない。千の言葉を駆使しても、万の言葉を操っても、フェイトの心の傷を治してやることはできないから。痛みを和らげることはできるだろうが、根本的な解決にはなりはしないのだ。

 

 だから今は、足を止めて崩折(くずお)れてしまいたくなるほど苦しくても、前に進めるように道を呈示して背中を押すことが俺の役目だと、そう思う。人生の岐路に立っていて、ここが運命の分水嶺だと教えてやることが、俺にできることなのではないかとそう思ったのだ。

 

 俺の問いかけに、フェイトは応える。

 

 細く艶やかで柔らかい髪が僅かに左右に振られた。

 

「わからない……もうわからないよ……。母さんとリニスがなにを考えているのか、もう……っ」

 

「そう、か……」

 

 『わからない』

 

 それがフェイトの解答だった。

 

 無理もないだろう。ジュエルシードを集めても厳しく叱責され、不手際があれば容赦なく雷撃を浴びせられ、極めつけは『代用品』や『もういらない』などという暴言だ。

 

 不信や反抗心を育むには過ぎるほどに充分。

 

 恨みや猜疑心が芽生えていないのが不思議なほどだ。

 

 そこがフェイトの優しさ、なのだろう。こうまでされてなお、絶対的に嫌うことができないという愚かなまでの優しさが、フェイトの数多くある美点の一つだ。

 

 信じきれない、でも断じて疑いきることもできない。その二つの(せめ)ぎ合いの結果がフェイトの言う『わからない』なのであれば、まだ、救いはある。

 

「……優しかった頃のプレシアさんを、フェイトは憶えているか? 俺が前にケーキを差し入れした時は、優しく接していてくれたんだろ? その時のプレシアさんを……いや、その時だけじゃなくてもいい。他の、ずっと前のことでもいい。穏やかに話すところを思い出せるか?」

 

「……うん、思い出せる。おかしくなっちゃったのはつい最近のことだから、それまでのことなんてすぐにはっきりと思い出せる……。徹からもらったケーキ、おいしかったよ。母さんも、リニスも、おいしいって言ってた。みんなで笑ってた……」

 

 まだ温かくて幸せで、光に溢れていた日々を想起したフェイトは、声に水気を含ませながら話してくれる。

 

 フェイトの右手が俺の背中に回る。きゅっ、と服をつかんで俺を引き寄せるフェイトの手は、寒さに耐えるように震えていた。痛みに耐えるように、震えていた。

 

 俺は左腕をフェイトの後頭部に持っていき、自分の胸元に抱き留める。そうでもしないとフェイトが壊れて崩れてしまうのではと思った。

 

「その時のプレシアさんの振る舞いが、リニスさんの表情が、明るく暖かい雰囲気が嘘だったってフェイトは思うか?」

 

 最低限の光しか灯っていない暗い部屋でも輝いて見える金の長髪が、俺の胸元でもう一度左右に振られる。

 

「絶対、嘘なんかじゃなかったよ……っ」

 

 触れただけでも割れてしまうガラス細工のような、細く透明感のある綺麗な声には、今度ばかりは力強さがあった。

 

 偽られたものではない、そんなものであるはずがない、と短い言句でフェイトは主張する。

 

「なら、確かめに行こう。こんなところで座り込んでないで、立ち尽くしてないで、直接会ってプレシアさんに本心を、真意を訊きに行こう」

 

「でも、できないよ……」

 

「どうして?」

 

「もう一度拒絶されたらって思うと……足が(すく)んで、動かない……」

 

「ここで逃げたら、一生訊けないままになる。なによりフェイトの隣にはアルフがいつもいるだろう。物理的な距離じゃない、精神的な距離でいつもすぐ近くに寄り添ってくれているだろう。一人じゃないんだ。力になってくれる」

 

「……庭園には迎撃用の傀儡兵が無数に出てきてる。母さんの元まで辿り着けないよ」

 

 フェイトの反論に、俺は一瞬言葉が詰まる。

 

 現在、時の庭園には六十体を超える無人迎撃機が出現している。それら一体一体はAクラスの魔導師並みの魔力を持っているとの報告もあった。魔導師ランクAクラスの強さがどれほどなのかは俺にはいまいち判然としないが、相当な強度を有していることは間違いないだろう。

 

 それらの敵の群れを薙ぎ払って突き進んでも、まだ他に投入していない兵力が残っているかもしれないし、全く別の罠も配置されているかもしれない。

 

 いくら執務官に任ぜされている実力者のクロノや、一点の攻撃力と突破力に優れているなのは、支援に長けたユーノや防御に近接格闘に拘束にとマルチな能力を持つアルフといえど難しいのでは、とリスクの計算に思考が回り、返答が鈍った。

 

 確然とした根拠なんてなくたっていい。今はフェイトが再び立ち上がるだけの力が欲しい。

 

 なにを言うべきか思案していると、ベッドの脇に置かれたサイドテーブルから眩い光が壁に向かって放出された。

 

「な、なに?」

 

「なにかの映像データか?」

 

 なにが光っているのかと目線を送れば、テーブルの上に乗せていたバルディッシュであった。(ひび)の入った身体で、時折明滅しながら壁に向かって光を放ち続ける。

 

 ベッドが置かれた壁とは反対側の壁に照射された映像は、庭園内部の状況を映したものだった。人の背よりも数メートル上から撮影されているらしく、周囲を見渡しやすかった。

 

 時の庭園のどこのエリアかは詳しくわからないが、見た限り横幅も広く高さもある廊下を進んでいての会敵だったようだ。

 

 モニターの奥に見える、辛うじて人型といえるような形状をした機械群が傀儡兵なのだろう。

 

 傀儡兵にも様々な種類があるようで、ところどころ形が異なっていた。一体は、人間で言うところの腕のような部位の先端から刃が伸びていたり、一体は下半身に当たる部分が巨大なミサイルのような形状をしていたり、と。それぞれが戦闘レンジや攻撃方法に応じた工夫がなされているのだろう。プレシアさんやリニスさんが、非合理的な迎撃システムの組み立てをするはずがない。

 

 行く手を塞ぐ壁のように、大量の傀儡兵が密集していた。

 

 フェイトの口から微かに吐息が漏れる。

 

 やっぱり突破なんてできない、そう言うような溜息だった。

 

 映像内で動きが現れる。先に動いたのは傀儡兵の群れであった。

 

 大きな波のように、幾筋もの輝線が局員さんたちへと撃ち放たれる。波に呑まれて陣形が砕けるかと思われたが、敵群から射出されたそれら(ことごと)くを、見覚えのある淡い緑色と橙色の障壁が受け止めた。

 

 行使者を見ずともわかる。ユーノとアルフの強固な防御魔法だ。

 

 いつもより大きく、後ろに控えている局員さんたちを守るためにワイドに構築された障壁だが、さすがに二枚の障壁では防げない穴ができる。その穴を埋めるように、幾つもの色とりどりの障壁が展開されていた。

 

 傀儡兵の大群から飛来した射撃魔法と思われる攻撃を防いだら攻勢が逆転した。

 

 魔力の壁に跳ね返された射出体が、跳弾したり爆ぜて魔力粒子に還ることで発生した煙の中から、三色の攻撃魔法が飛び出した。

 

 まず一番最初に噴煙を切り裂いて出てきたのは鮮やかな赤に輝く、途轍もなく数の多い弾丸。カウント不能なほど煙から吐き出された魔力弾は敵の目前で左右に分かれ、壁側前列にいた傀儡兵の装甲を容易く食い破り、貫通して後ろで団子状態になっている傀儡兵にも襲いかかる。あまりの射撃魔法の量により、赤い蛇とも見えた。

 

 次いで姿を見せたのは、周辺を桜色に染め上げるほど太い砲撃。廊下のど真ん中を焼き焦がして敵の群れへと吶喊(とっかん)する。先陣を走った淡い赤色の魔力弾が左右に分かれて飛翔したのは、敵に回避行動を取らせて幅が広い廊下の真ん中に集めるためだったようだ。立ちはだかるものはなんであろうと撃ち貫く、と自己主張しているように激しい光を散らす桜色の砲撃は、壁となっていた敵群に巨大な穴を開けた。

 

 遅い出番を(いきどお)るように、高速で螺旋の軌道を描く水色の射撃魔法が(まば)らに残る傀儡兵を噛み砕くように破壊していく。傀儡兵が躱す暇も、防御する隙も、迎撃する時間も与えずに不可解な動きの射撃魔法は次々に敵の身体を貫いては次の標的目指して飛ぶ。

 

 レイジさん、なのは、クロノの三者三様の攻撃魔法により、廊下の床に足をつけている傀儡兵は掃討された。

 

 しかし、射撃・砲撃魔法を跳躍又は飛行により回避した傀儡兵は相当数いる。廊下の天井が高いこともあり難を逃れることができたのだ。

 

 地上からの侵攻は諦め、上から攻めにかかった傀儡兵群だったが、局員さんたちに近かったものから続々と撃ち落とされていく。様々な色の射撃魔法が、傀儡兵が飛ぶ前に準備されていたようだ。

 

 指揮官(クロノ)は、ある程度躱されることも見抜いていたのだろう。

 

 第一射で床に足をつけた傀儡兵を粗方(あらかた)沈め、第二射で残存する傀儡兵を片付ける。役目を振り分け、防御に徹する人間と攻撃に徹する人間を分けたのが功を奏した。第二射の射撃魔法は、障壁の構築に回っていない局員さん総員のものだったのだ。

 

 一戦が幕を閉じ、廊下は爆煙と瓦礫、傀儡兵の亡骸で壮絶な有様となっている。傀儡兵のすべての個体が沈黙したのを確認すると、クロノを先頭とする一団は歩みを進めた。

 

 傀儡兵群は全滅、管理局側は無傷。いくら数で下回ろうと、平均的な魔導師ランクで劣ろうと、戦術次第で戦力差を乗り越えることができる。それを証明した一戦だった。

 

 壁に照射されていた光が徐々に弱まり、掠れ、そしてついには完全に消える。傷ついた身体で無理をして疲れたのか、バルディッシュは二度ぱぱっと点滅すると、再びサイドテーブルの上でいつもの沈黙を保つ。

 

 バルディッシュが自身の身に鞭を打ってまでこの映像を俺たちに、というよりもフェイトに見せた理由がようやくわかった。

 

「どうだ、フェイト。みんなが協力してくれる。手を貸してくれる。道を開いてくれるんだ。今も魔導炉は暴走を続けてる。すぐ動かないと間に合わなくなる。さあ、どうするフェイト。お前が決めるんだ。ここでうずくまって全てが終わるのを待つか、傷つくのを覚悟でプレシアさんの元へ向かうか。二つに一つだ。後悔しない方を選べ。どっちを選んでも、俺はフェイトの意思を尊重する」

 

 フェイトは俺の服に顔を(うず)める。しばしの静寂のあと、小さく己に言い聞かせるように何言か唱えた。

 

 俺の背中に回していた右腕を解いて正面に持ってくると、フェイトは俺の身体を微かに押した。

 

 ほんの少しだけ離れたフェイトは、顔を上げて俺を仰ぎ見る。その表情には不安の色こそ残っていたものの、決意を固めた瞳をしていた。これまでの昏迷(こんめい)に囚われた顔ではなくなっていた。

 

「まだ、私たちは終わってない。始まってすらない、んだよね……? ここから始まる……ここから始めなきゃいけないんだよね?」

 

 俺の目を真っ直ぐに見て戸惑いながら弱々しく、それでも中心に一本芯が入ったようにしっかりとした声音でフェイトが尋ねる。

 

 その文言は、ジュエルシードを賭けた一騎打ちをした時、なのはがフェイトに言ったセリフ。フェイトの中で、なのはの存在が大きなものになっていることを表していた。

 

 そんなフェイトを見て、そんな言葉を受けて、俺は今度こそ本当に感極まりそうになった。目頭に集まった熱が冷めるまで顔を天井に向ける。

 

 使い魔でありパートナーであり姉であり妹でもあるアルフや、一番近くでまさしく一緒に戦ってきたバルディッシュにしか示していなかった関心や信頼を、フェイトはなのはや俺たちにも傾けてくれた。散々な目に遭ってなお、プレシアさんやリニスさんに歩み寄ろうという姿勢を取った。

 

 健気で純粋な少女が懸命に、変わろうと、前に進もうとしているところを見て、思わず感動してしまった。

 

 お年寄りかよ、涙腺緩んでんじゃねぇよ。

 

「と、徹……? わ……私、間違って、た……?」

 

 落涙せぬように顔を上に向けたことで結果的に無反応になってしまった。そのせいでフェイトが不安な色をさらに濃くし、眉を曇らしていた。俺を押し退けていた右手はいつの間にか服の裾を摘んでいるし、繋がったまま離れようとしない左手には少し力が篭っている。

 

 心が弱り、弱気になっているフェイトが涙目で見上げてきているというシチュエーションは、俺のメンタル(主に理性)に多大なるダメージを与えた。

 

 動揺と跳ね上がった心音を悟られぬよう、一度深呼吸してからフェイトへと向き直る。ピュアな視線が痛かった。

 

「い、いや、うん。フェイトの言う通りだ。まだ始まってないし、終わってなんかもっとない。行こう、フェイト。『始まり』を始める為に」

 

「うんっ。早速動かないと、だね。えっと……だからね、徹。ベッドの上から降りてもらわないと、私動けないかなって」

 

「うおあっ! ご、ごめん!」

 

 ここまで完全に意識の外へ追いやられていたが、フェイトを抱きしめた時に俺はベッドに乗っかってしまっていたのだった。簡単に言えば、布団を被っているフェイトの足に(また)がるような構図で俺がいた。

 

 悪意と偏見のある者が見れば、幼い少女の寝込みを襲う卑劣な暴漢とも思われるやもしれない。誰も入ってくる前に気づいてよかった。

 

 しかし被害者に言われるまで気づかない俺も俺……いや被害者ってなんだ、俺はまだ何もしていな……まだってなんだ、これからいかがわしいことでもするような言い草じゃないか。ちょっと落ち着こう。冷静になろう。

 

 俺はいそいそとベッドから降りた。

 

「ううん、気にしないで。おかげで温まったから。…………心も」

 

「仄かに頬を染めながら言わないで。勘違いするし誤解されるから」

 

 くすくす、と笑みまで浮かべてフェイトはベッドを出て立ち上がる。迷いなく踏み出し、サイドテーブルに置かれているバルディッシュを手に取った。

 

「バルディッシュ……疲れてると思うけど、もう一度だけがんばってくれる?」

 

『no problem』

 

 三角形の待機状態だったバルディッシュは全身に光を纏い、その形状を変えた。

 

 亀裂は上から下まで、持ち手部分にまで走り、軋むような音を至る所からから発しながらも、フェイトの願いに寡黙な戦士は全力で応えた。

 

 フェイトは傷だらけのバルディッシュを愛おしげに眺め、両手で握る。目を瞑り、力を込めた。

 

 フェイトの身体が金色に輝き、光のカーテンはバルディッシュにも覆いかぶさる。

 

 光が収まった時には、フェイトの服は入院服のような質素なものから肌を晒しすぎなバリアジャケットに変わっていて、ぼろぼろだったバルディッシュはひび割れが修復された綺麗な姿に戻っていた。

 

 二人を包んだ金色の光はフェイトの魔力だったようだ。魔力をバルディッシュに通し、機体を修繕したのだろう。

 

 それを見て俺は、そんなことできるのかよ、と正直驚いていた。魔力が潤沢にある人はいいですね。

 

「徹。手、出して?」

 

 自分とちっちゃい子たちとのポテンシャルの差から俺が遠い目をしていると、着替え終わって準備万端のフェイトが左手を伸ばしてきた。

 

 こんな時に握手か? とも思ったが、手のひらを見せるように突き出してきているのでどうにも握手ではないようだ。

 

 差し出そうとした右手をどこにやればいいかわからず、しばし宙を泳ぐ。何をする気なのか見当はつかないが、手を出せと言われたのにノーリアクションというのはまずいと踏み、テンパりながらフェイトと同じように手を開いて突き出し、フェイトの指の間に俺の指を絡ませるようにして握った。自分でやっておいてなんだが、なにかおかしい感じはした。

 

「べ、べつに問題はないけど……なんで恋人繋ぎ……? 手を合わせるか、なんなら指を握るだけでもよかったんだけど……」

 

 目を丸くしていたフェイトが頬を紅潮させながら俯き、ぽそりと呟いた。

 

 俗に言うところの、恋人繋ぎ正面バージョンであった。

 

「ご、ごめん、そうだよな。なんか違うなぁ、とは薄々感じてたんだ」

 

 無駄に恥をかいた。

  

 再度指を開いて手を離し、仕切り直そうかとしたが、今度はフェイトの指が俺の手を絡め取った。

 

「じ、時間もないから……これでいいよ。うん、これがいい。これじゃなきゃ、だめ」

 

「いや、さっき手を合わせるだけでもいいって……」

 

「今から一緒に庭園に転移するんだよ? 手を合わせるだけだったら繋がりが浅すぎて、一緒に向こうまで転移できないと思う。時空の狭間に取り残されちゃうよ? それでもいいの? だめだよね? このままでいこう、ね?」

 

 常にはない、人を圧倒させるような気迫がフェイトの語調にはあった。

 

「あ、はい」

 

 小市民たる俺にはYes以外の解答は用意されていないようである。

 

 フェイトは赤らめた表情のまま、バルディッシュに魔力を通して術式を構築する。

 

 フェイトの足元を中心として魔法陣が描かれた。魔法陣は直径二メートルから三メートルほど。フェイトと手が触れるほどの距離にいる俺は、無論魔法陣の上に立つ格好となっている。

 

「……時の庭園へ」

 

 フェイトが一言呟くと魔法陣は光り輝き、俺とフェイトを呑み込んだ。

 

 明確に言い表せない感覚が押し寄せる。強いて言えば浮遊感に似たようなものだろうか。重力を消し去って上へと引っ張り上げられるような感じ。

 

 専用の機械を介さない転移というのは初めての経験なので、後学のためにフェイトが発動した魔法に魔力を通して内部プログラムを覗き見る。身体が転送されるまでなので短時間しか猶予はない。手っ取り早く知的好奇心を満たすとしよう。

 

 転移する座標は魔法の行使者、つまりフェイトが指定しなくてはならないようだ。転送される人や物は、魔法陣の空間内に限定されている。

 

 この魔法を個人で使えるなんて通学する際には便利そうだな、などと低俗な考えが過ったが、利便性に比例して消費魔力も相当に多いらしい。

 

 足から床に接地していた感触が消失し、いざ転移という段階に至って俺はふと思った。

 

 これ、手を握る必要あったのかな、と。

 




最近本当に寒い。こたつから出られません。皆さんも体調にはお気をつけください。特に、こたつで寝たりなどしないように。


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《金色の美しき死神》

とうとう前回の投稿から一週間を超えてしまいました。徐々にスパンが長くなっていく……すいません。


 時の庭園、そのエントランスに相当する場所でなのはとユーノ、アルフの三人は、クロノや武装局員たちと別れて別行動となった。

 

 クロノは並外れた個人火力でプレシア・テスタロッサの愚行を止めに単独で別ルートを進行。

 

 武装局員は傀儡兵と戦い、怪我人の搬送や背後の守り、伸びた戦線の維持や撤退経路の確保を割り振られた。オールラウンドな支援を担当する。

 

 なのはたち三人は、悪化し続ける魔導炉の停止が任務となった。

 

 庭園のおよそ中心部、大きく緩やかに上っていく螺旋状の回廊の最上階に魔導炉がある。アースラから送られてくる通信でも、そこから魔力反応を強く捉えているとの報告があったし、アルフの記憶にもこのルートで間違いはないそうだ。

 

 行くべき地点は明確になった。しかし、そう易々と辿り着けるほど甘くはない。

 

 至る所に数多く、種々様々の傀儡兵が配置されていた。

 

 プレシアの計画は、ジュエルシードの魔力に魔導炉の出力を上乗せしてやっと行われるような綱渡りとも言えるものだ。ここで魔導炉を停止させられたらプレシアが掲げている作戦はご破算、失敗に終わる。プレシア本人やジュエルシードが管理局側に押さえられるのは勿論、魔導炉も押さえられては困る重要な装置。魔導炉へ続く通路の防備に、プレシア側が躍起になるのは必然だった。

 

「数が多すぎるよ……キリがないの!」

 

 迫ってきた傀儡兵のアームにあたる部位を誘導弾で破壊し、中核を射撃魔法数発で貫いたなのはが、疲労の色を滲ませながら声を張り上げた。

 

「かといって、突っ込んで孤立すれば的になるだけ。柱とかの死角も少なくない。罠の可能性も捨て切れない。警戒しながらゆっくり進むしかないよ!」

 

 拘束魔法で数体の傀儡兵の動きを阻害しているユーノが、なのはに言い聞かせる。

 

 攻撃はなのはとアルフに任せ、ユーノは拘束や防御などの援護に回っていた。

 

 消耗戦になりつつある現状をもどかしく感じながら、なのはは建物の上部を見上げる。一番上、魔導炉のコントロール室がある部屋へと繋がる扉はまだ遠い。やっと中腹、といったところである。

 

 螺旋状の通路の真ん中は吹き抜けになっていて、いくら最下から頂点まで距離があるといえど、そもそもは建物なのだから飛行魔法を扱える魔導師であればひとっ飛びで行ける程度でしか離れていない。

 

 行く手を妨げる敵兵さえいなければ、だが。

 

「こんのっ! ちょこまかと!」

 

 後退しながら連射性の高い射撃攻撃をしてくる傀儡兵を、右に左に飛行し、時に廊下の手摺(てす)りを蹴って照準から逃れながらアルフが追い(すが)る。近づけたかと思えば、彼我との間に装甲が厚いタイプの傀儡兵が割って入り、アルフの打突を防いだ。

 

 攻撃を防がれたことで寸時生まれたアルフの隙を狙い打つように、他方向から別の傀儡が接近する。

 

 腕と剣が一体化したような傀儡兵は右腕を後ろへ振りかぶり、まさしく斬りつけようとしたその瞬間に淡い緑色の鎖が絡みつく。鎖に引っ張られた近距離戦型の傀儡兵は体勢を崩し、攻撃のタイミングを逃す。

 

 技後硬直から抜け出たアルフは振り向きざまに、ユーノの魔法によって自由を奪われた傀儡兵の腹部へと渾身の蹴撃(しゅうげき)を放った。

 

 彼女の尋常ならざる脚力によって傀儡兵は上下に分かたれ、機能を停止し落下、爆散した。

 

 突出してしまっていたアルフが二人の近くに寄ると、ユーノが端整な顔に渋面を貼りつけていた。

 

「アルフが言ったんじゃないか。このエリアの奴らは統制が取られているから注意しろ、って」

 

「ごめん……つい熱くなっちゃって出過ぎちゃったよ。でも、おかげで確信できた」

 

 魔導炉へと続く道を短時間で踏破できなかったことには理由があった。他の場所で戦った傀儡兵とはアルゴリズムが異なっていたためだ。

 

 アルフがつい先ほど引っかかったように、この空間に入ってすぐ、数体の傀儡兵が連携行動を取るようになった。誘導、防御、攻撃など、役割を振って襲ってくる。

 

 その行動パターンの変化の原因に、アルフは心当たりがあった。

 

「やっぱりこの周辺の傀儡兵のシステムには、リニスの手が入ってる。他のはもっと単純にできていたし、なによりこんな煽るような意地悪な動きをさせるのはリニスしかいないし、リニスにしかできないよ」

 

 プレシア・テスタロッサの使い魔、リニスがプログラムに介入しているとアルフは見ていた。

 

 この付近で出現する傀儡兵群は実にいやらしい戦術で対応してきている。

 

 三人が固まっていれば防御に秀でた傀儡を盾として遠距離から射撃し、誰か一人が突出すれば複数で取り囲む。全員で強行突破しようとすれば装甲の厚いタイプが壁となり、動きが止まったところを近距離戦型が狙い、遠距離型は邪魔されることのない位置でひたすらに撃ちまくる。

 

 これだけでも厄介だというのに、さらに顔の見えぬ敵は容赦なく手を打ってくる。傀儡兵の性能を最大限に発揮するだけではなく、なのはたちのパフォーマンスを下げるように戦闘を運ぶのだ。

 

 なのはの場合、砲撃で包囲網を突き破ろうとしても相手から研究され尽くしているのか、チャージする時間を与えないよう途切れなく攻め、一網打尽に破壊されぬよう兵群自体もあまり密集しないような陣形だった。そのせいでなのはは砲撃魔法を用いて一気に殲滅、という手段を取れず、射撃魔法か、威力は落ちるがチャージを短くした砲撃魔法で一体ずつ削るしかなくなっている。

 

 ユーノに対しての情報は少なかったようで、序盤は出方を(うかが)うような動きを見せた。しばらくしてユーノは攻撃手段が乏しい、と判明してからは矛先を向ける頻度が下がり、気が緩んだところをつけ込むように散発的に攻撃するようになった。やろうと思えば拘束魔法の鎖の力を強くし、絡みつけて捻じ切るなんてこともできるが、敵との数量的戦力差もあるし、傀儡兵のボディが硬いこともあり時間と集中力が必要になる。一体に意識を傾けている時に他から攻撃を受けてはどうしようもないので、結局後手に回るほかなかった。

 

 アルフには序盤から、あからさまに挑発するような、嫌がるだろう戦法を相手は組んできていた。性格を重々把握しているリニスだけあって、バトルレンジを巧妙に操り、アルフの最大火力である近接戦を封じたのだ。

 

 傀儡兵の個性だけでなく、相手によって攻め方を工夫する。そこまで臨機応変に対応するのは機械的なプログラムだけでは到底不可能。この空間にいる傀儡兵の手綱をリニスが握っているのは明白だった。

 

「でも、どうすればいいの? 進んではいるけど、このままのペースだとすごく時間がかかっちゃうよ」

 

「……たしかに、上に到達する前に計画が果たされたら、僕たちにはもうどうすることもできない」

 

「ならもう、魔力が残っているうちに突っ込むかい? だらだらと進んでガス切れを起こしてからじゃあ、なにもできなくなるよ」

 

 なのは、ユーノ、アルフの三人は互いに背中を守り合いながら正面の敵に対処しつつ、打開策を探る。

 

 数の多さを生かした波状攻撃と、巧みな間合い。それらにより、順調に進んできた足が鈍り、余計な時間を浪費させられている。

 

 一応魔導炉へと近づいてはいるが、その運びは遅々(ちち)としたものだった。

 

 この通路に入ってからは魔力の消費量も格段に増えてしまい、いずれは底をついてしまう。五月雨式(さみだれしき)に襲いかかってくる傀儡兵にじわじわと体力、魔力、気力を削られていくため、被弾のリスクも上がり続ける。

 

 終わりの見えない戦闘、張り詰めたままの緊張、早く成し遂げなければいけないという焦燥、視界の外から突如飛び出す敵影。スタミナや魔力の残量も心許ないが、それらより先に神経が擦り切れていくような戦況だった。

 

 何か手を打たなければ泥沼に沈むことになるとわかっていても、これという解決策を三人は見つけられずにいた。

 

 三人の意識が目の前の戦いから、ほんの僅かな時間だけではあるが打開案の模索に傾く。その瞬間を、傀儡兵群は――否、リニスは逃さなかった。

 

「ぐっ……いきなりっ……」

 

 ユーノの拘束魔法で捕らわれていた数体の傀儡兵が一斉に暴れ出す。

 

 考えを切り替えて速やかに鎖へと力を回すユーノだったが、解決策に気を取られて一歩出遅れたごく小さなタイムロスが明暗を分けた。

 

 数体のうち一体が、装甲の硬い表面を浅く抉るほどに強く縛り上げていたユーノの鎖から抜け出し、斧のような形状をした無骨な武器を投擲する。重厚感のある鈍い輝きを放つそれは高速回転し、なのはへと迫った。

 

「なのはっ!」

 

 傀儡兵から投げ放たれた巨大な凶器がなのはへと一直線に向かっていることはわかっていたが、ユーノにはその斧を防ぐ手立てがなかった。少しでも気を緩めれば、拘束している他の傀儡兵も鎖から這い出てさらに状況がさらに悪化することが目に見えていたのだ。

 

 ユーノに出来ることといえば、一時的に自由を与えてしまった傀儡兵にもう一度鎖を掛けて拘束し、なのはへと注意を呼びかけることくらいであった。

 

「えっ……?」

 

 縦長の建物の上部から近づいてくる傀儡兵をディバインシューターで撃ち落としていたなのはは、ユーノに大声で呼ばれてちらりと視線を向ける。

 

 首を回して確認した時には、なのはの小さな身体を叩き斬らんとする斧がもう、目の前にあった。回避どころか、障壁さえも間に合いそうにない距離にまで近づいていた。

 

 諦めそうになり、なのはが目を瞑りかけたその刹那、周囲が金色に埋め尽くされる。

 

 スパーク音を迸らせるなにかが、なのはを断つ寸前だった斧に直撃し、斧を木っ端微塵に消し飛ばした。

 

「この光……っ!」

 

 自身を傷つける間際まで迫った斧だというのに、もはや意識から外れているかのように、なのはは表情を明るくさせ、上方を仰ぎ見る。

 

 アルフを取り囲んでいた傀儡兵たちも、ユーノが自由を奪っていた傀儡兵も感電するように小刻みに揺れて暴れることを止めた。それらの装甲の表面に走るのは金色の火花。

 

 美しくも気品があり、華やかでありながらどこか繊細な光が周囲に満ちる。

 

「サンダー……」

 

 なのはの視線の先、上空に魔法陣が描かれていた。その魔法陣の上に、黒を基調としたバリアジャケットに身を包んだ少女、フェイトが立ち、両手で持つ杖の先端を下方へ指して突き立てる。

 

 フェイトの力強い声が響く。

 

「レイジ!」

 

 フェイトが足場としている魔法陣が輝きを強め、少女のデバイスであるバルディッシュが幾筋もの雷を放出した。

 

 空間に雷撃が通って空気が焼けた跡を残しながら、フェイトの魔法は傀儡兵目掛けて突き進む。なのはにもユーノにも、傀儡兵の近くにいたアルフにすら掠りもさせずに、高エネルギーの雷は傀儡兵だけを射抜いた。

 

「遅くなってごめんね?」

 

 どこか申し訳なさそうに笑みを浮かべる少女には、以前までの、(ひび)の入ったガラスのような危うさはもうない。黒のマントをはためかせるフェイトの瞳には、確固たる意志が灯っていた。

 

 

「派手に復活したもんだな、フェイトのやつ」

 

 俺は力任せに開け放たれた扉から、緩やかに上る傾斜の通路へと出て手摺りにもたれ掛かる。下を覗き込み、眼下の傀儡兵を一閃のうちに薙ぎ払ったフェイトを見遣る。

 

 空中に浮遊するフェイトになのはが近づいて話しかけ、次いで感極まった様子のアルフがご主人様に抱きついている。アースラの艦橋では俺がいる手前ばしっ、っと格好つけて、フェイトと離れて行動していたアルフだが、やはりどうしようもないほどにフェイトのことが心配だったのだろう。

 

 ユーノも戦線に舞い戻ったフェイトを見て少し固くなっていた表情を緩めていたが、フェイトたちとは若干の距離を置いて周囲を警戒していた。どこから傀儡兵が湧いて出てくるかわからないので、奇襲されないよう気をつけているといったところか。常に注意を怠らないユーノがなのはやフェイトたちのそばにいれば、俺としても安心である。

 

「フェイトはもう、俺の手助けは……いらないな」

 

 アースラの一室から時の庭園へと転送してからのフェイトの戦いぶりたるや、それはもう、凄いの一言につきた。

 

 なのはたちがいる場所をオペレーターさんから教えてもらい、この道に達するまでに打ち倒した傀儡兵の数はもはや数え切れない。雷撃で撃ち貫き、大鎌で斬り伏し、突撃していく様は鬼気迫るものがあった。綺麗ではあったが、それと同時に心胆寒からしめる恐ろしさもあったので、そこは忘れずに注釈しておく。《金色の美しき死神》とでも命名しよう。無論、褒め言葉である。

 

 フェイトが合流するために全力で駆けていたおかげでなのはの危機を救うことができたのだから、その鬼神の如き振る舞いにもやはり、意味はあったと言うべきだろう。

 

 後はエイミィから送られてきた情報に基づいて、この円筒形の建造物の最上階へと向かい、魔導炉を破壊するか停止させるかすればいいのだが、そう簡単に事が運ばない予感をひしひしと感じている。

 

 相手は一般魔導師とは一線どころか二線も三線も画す超級魔導師プレシアさんに、その使い魔で実力の程は俺の身体に痛いほど染み込んでいるリニスさんなのだ。一筋縄でいくわけがない。そんな甘い相手なわけがない。

 

 このエリアに、というよりも魔導炉に近づくごとに傀儡兵の動きは洗練されたものになっていたし、他の傀儡兵との連携攻撃も確認できた。十中八九、リニスさんが後ろで手を回している。まさしく傀儡師のように、背後で糸を引いて兵士の人形を操っているのだ。

 

 だとすれば、きっと彼女はこの場を監視下に置いているはず。フェイトの前線復帰と合流を受けて、なんらかのアクションを起こすだろう。

 

 その前に危険の芽は摘んでおこうと、俺がわざわざ残しておいた傀儡兵(・・・・・・・・・)に近寄ろうとした時、下方から轟音が聞こえた。

 

「……あんなんありかよ……」

 

 俺たちがいる建物は、円柱状の建物の内径に沿うような形でぐるぐると回りながら上へとのぼる通路があり、その最上階に魔導炉の制御システムを集めた部屋がある(と、フェイトは言っていた)。驚くべきことに、その建物自体をぶち壊すように、なのはたちのすぐ下の側面の壁を破壊して新たな傀儡兵が現れた。

 

 他の個体とは、一回りとか二回りとかそんな規模の小さい比較では比べられないほどに巨大な機械仕掛けのお人形。背面から蜘蛛の足のように伸びるアームは左右に三つずつ。巨体の割に頭部は小さくスリム。人間で例えると下半身に該当する部分には、流線形の円盤とでもいえばいいのか、近未来的造形を思わせる形状の脚部がついている。

 

 建物の瓦礫を散乱させながら領域内に侵入した大型傀儡兵は、なのはやフェイトを視界に収めると三対のアームを少女たちに伸ばし、切っ先に光を蓄えた。恐らくは射撃系の攻撃の準備モーションだろう。

 

 咄嗟に障壁を張ろうとしたなのはたちとは違い、ユーノだけは違う種類の魔法を使っていた。

 

 大型傀儡兵の側面に陣取ったユーノは拘束魔法を展開し、六本の鎖を構築。大型の三対のアームへと鎖を伸ばして巻きつかせ、あらん限りの力で引っ張った。

 

 照準が逸れた大型傀儡兵の射撃魔法――いや、射撃魔法というにはその砲弾はあまりに大きすぎる。六本のアームの先端から放たれた『砲撃』はなのはたちからわずかに外れ、後方へと流れた。

 

 大型の反対側の壁、なのはたちの背後の壁面に砲撃が着弾すると、壁はいとも容易く抉り取られ、どころか風穴まで穿(うが)つ。六つの穴のおかげで風通しが良くなってしまった。傀儡兵の図体と砲弾の直径に見合った、かくも恐ろしい威力である。

 

 大型傀儡兵の火力には驚愕したが、ここはユーノの機転に救われた。ユーノは一瞬のうちに、障壁で防いだ時のリスクや未確認の攻撃に対する不安要素を計算し、防御ではなく回避に努めたのだ。

 

 もちろん、なのはの頑強な障壁で防げなかったことはないだろうが、その場合、魔力を大幅に消費することには確実になったはずだ。それではこの場の戦闘をどうにかできたとしても、後にまだ控えているであろう普通サイズの傀儡兵との散発的な遭遇戦が厳しくなる。

 

 魔力の温存と後々のことを考えたユーノのファインプレーだった。

 

 再び狙われないように、四人は散開する。

 

 大型が現れる際に破壊された壁から、数体の普通サイズ傀儡兵が這い出てくるのが離れた位置からでも小さく見えた。

 

 四人は大型の攻撃を警戒し、各々の間に距離を取りながら作戦を立てる。フェイトが真っ先に一歩踏み出し口を開いた。

 

 話の流れと口の動きとなのはのリアクションから察するに、どうやら大型の相手はなのはとフェイトの二人が担い、大型の取り巻きをユーノとアルフが片付けてフォローするような戦法を取る算段になったようだ。その作戦をフェイトが自分から提案したという事実に、俺はとても嬉しく思う。

 

「不気味なのが……リニスさんの対抗処置だな……」

 

 ここにきてなのは、ユーノ、アルフの三人にフェイトが落ち合った。これでは戦力が不足する、と判断したリニスさんが追加で大型傀儡兵などの兵隊を投入してきたのだろう。その考え方自体は理解できる。

 

 しかし同時に疑問も残るのだ。

 

 フェイトが合流する前、三人の状態の時に大型を向かわせておけば、簡単になのはたちを退けられたのではないのか。

 

 必要最低限の力で勝利条件を満たすという、リニスさんの性格を俺は知っている。俺とフェイトがこの場に来た時、先に庭園に到着していたなのはたちは縦長の建物の真ん中あたりで苦戦していた。そのままの流れであれば当初の計画の邪魔にはならない、これ以上の戦力は過剰である、とリニスさんが結論を出した可能性は否定できない。

 

 しかし今は大詰めも大詰め。本来であれば全戦力でもって、なのはたちを潰しにかかるのが定石というもの。失敗の許されないこの状況で、安全策を講じずにいるのはリニスさんの性分と反するのではないだろうか。

 

 まったくもって(いびつ)でありながら、まったくもって絶妙な匙加減(さじかげん)である。

 

 なのはたちを倒してしまわないよう、かといって容易に突破されないよう、それでいてこのルートの侵攻を諦めさせない程度に足を進めさせる。それらの事柄から見えてくる答えは、安全な時間稼ぎ。

 

 リニスさんの本意は、きっとそこにある。きっと、そこにあった。

 

 リニスさんにとって、おそらくプレシアさんにとっても、フェイトの戦線復帰はイレギュラーだったのかもしれない。身体の線も神経も細いフェイトなら、母親からあれだけぼろくそに悪罵を叩きつけられ、心を引き裂かれれば、精神的な傷から当分の間はまともに動けないと踏んでいたのだろう。

 

 しかしこの場に戻ってきてしまった。母親に逢うため、温かな時間と場所を取り戻すためにフェイトは戻ってきた。

 

 覚悟と決心を胸に秘め、帰ってきたのだ。

 

 さすがにフェイトほど実力のある魔導師が加われば、少しばかり連携を覚えた程度に過ぎない傀儡兵群では話にならない。そこで()むなく投下したのが大型。仕方なしの次善策だったろう。

 

 彼女たちのシナリオに狂いが生じているのが感じられる。

 

 攻め入るとすれば、付け入るとすれば今なのだ。

 

 傀儡兵が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している現況の時の庭園内では、目的の場所まで行き着くことは難しい。リニスさんの監視の目がなのはたちに向けられているこの瞬間に、厄介極まりない操り人形の兵隊たちを黙らせる。

 

 その為の手段を俺は持ち合わせているし、その為のアイテム(・・・・)も調達済みだ。あと必要なのは、時間だけである。

 

 俺はユーノへと念話を送った。

 

 

《ユーノ、悪いんだけど一つ頼みを聞いてくれないか?》

 

 なのはへと照準を合わせていた傀儡兵や、フェイトの後方で狙いを定めていた傀儡兵を縛りつけて動けなくさせ、身動きを取れなくなったところをアルフが仕留めるという手筈でなのはたちをフォローしていたユーノの脳内に、聞き馴染みのある声が響いた。

魔力を使いすぎたから、という理由でユーノたちと同行していなかった徹からの念話である。

 

「えっ、兄さん?! 今どこにいるんですか、庭園内にいるんですか?!」

 

 突如届いた声音(せいおん)に驚いたユーノは、つい傀儡兵を縛っていた鎖を緩めてしまった。

 

 拘束力が弱まった隙に傀儡兵は逃げ出すが、同じミスを二度も繰り返すことはできないとばかりにユーノは気を引き締め直し、完全に抜け出る前に傀儡兵の足(らしき部位)に鎖を絡め、力一杯引っ張った。

 

 体勢を崩された傀儡兵は壁に打ちつけられ、追い打ちをかけるようにアルフの蹴りが叩き込まれてついには沈黙した。

 

 同じ(てつ)を踏まずに済み、ユーノが安堵の溜息をついていると徹からの返信が届く。

 

《おう、庭園内でお前たちが戦っている姿がよく見える位置にいるぞ。さっきは少し危なかったな》

 

「危なかったな、じゃないですよ! 誰のせいだと思ってるんですか! ていうかこっちに来てるんなら手伝ってくださいよ! 指揮を取るのも士気を上げるのも僕には荷が重いんですから!」

 

《あっはっは、上手いこと言うな》

 

「冗談を言ったわけじゃないですよ!」

 

《悪い悪い。でもまあ、念話を送った理由が、手伝うことに直結してると言っていいな》

 

「……はい?それはどういう……」

 

 あまりに動転し過ぎて念話だというのに口を動かしていたことに、ユーノは今さら気づいた。

 

 声を張り上げていたおかげでユーノたちの付近にいると思われる徹にも声が届いていたわけであるが、大型を相手取っていたなのはやフェイト、アルフにも聞こえてしまっていた。

 

 年上の兄的存在である徹へ並々ならぬ感情を寄せているなのはは、戦場の真っ只中だというのに瞳をきらきらと輝かせて頬を綻ばせている。なのははユーノへと顔を向けていた。視線が口以上に物を語る。『わたしも徹お兄ちゃんと喋りたい』と。

 

 対してフェイトは、なのはと打って変わって落ち着き払った様子だった。時折左手をグーパーと閉じたり開いたりしてにこにことする以外は、であるが。

 

 ユーノが壁に叩きつけた傀儡兵の息の根を止めたアルフは、壁際から離れて周囲を警戒しながらも、どこか安心したように笑みを浮かべる。これでもう大丈夫、とでも言うように。

 

 名前が出ただけで切迫した雰囲気を払拭する彼の影響力に、ユーノは苦笑いを浮かべた。

 

《全傀儡兵の機能を停止させる。ただ時間がかかるし集中しなきゃいけないから、その間邪魔されないように奴さんを引きつけておいて欲しいんだ》

 

《全傀儡兵……全部を一度に、ですか? そんなのどうやって……》

 

《手はもう用意してある。ちゃんと説明したいところだがそれだけの余裕はなさそうだ。今は俺を信じてくれ》

 

《いつだって信じています。了解です》

 

《『いつだって信じてる』……とか言われると、若干どころじゃないプレッシャーを感じるな……。でもありがとう、ユーノ。他のみんなにもうまいこと伝えといてくれ。勇姿はちゃんと見てるから頑張れってな》

 

 あと、大型の攻撃を障壁で防がせずに、砲身に鎖を巻きつけて砲弾を逸らしたのはいい裁量だった。さすがだな。

 

 念話の最後、徹はユーノへと賛辞を呈し、そして切られた。

 

「…………」

 

 魔法の飛び交う戦場の真っ只中だというのに、一瞬ユーノの頭は真っ白になった。

 

 前に出て戦えないのにちゃんと自分を見てくれていたこと、攻撃的な魔法に乏しい自分がどうすれば役に立てるか考えて創意工夫した結果を褒められたこと。ユーノはそれが嬉しくて、喜びに打ち震えた。

 

 僕にできることは限られている……。だからこそ、僕ができる範囲のことなら全力でやる!

 

 徹の激励と賛美は、ユーノのモチベーションを跳ねあげさせた。ユーノの魂に気炎が灯る。

 

 ユーノは、大型を破壊するだけの火力なんて持ち合わせていない。だからユーノの役割は、大型を(ほふ)らんとするなのはとフェイトの支援だ。

 

 大型の隙を窺っているなのはとフェイトに、取り巻きの傀儡兵を近寄らせないことが重要になる。だが、取り巻きの傀儡兵を倒し切る手札さえ、ユーノにはなかった。

 

 そこで取った手法がユーノとアルフが協力して傀儡兵を倒していくというもの。ユーノが傀儡兵を誘導し、魔法で絡め取り、アルフが止めを刺す。それを繰り返して取り巻きを減らしていた。

 

 しかし、それではもはや追いつかないのだ。

 

 強い魔力を持つ傀儡兵を多数縛りつけておくことはとても難しいし、暴れる傀儡兵を無力化するほど強く締め付けるのは魔力の消費も激しい。

 

 それに散らばっている傀儡兵をその場で拘束すると、破壊担当のアルフがいちいちあっちへ飛んだりこっちへ走ったりと移動するのに時間がどうしてもかかる。広い上に高さがある建造物の中というシチュエーションは、敵に散らばられると非常に厄介だった。

 

 このままでは、いつ取り巻きの傀儡兵がなのはとフェイトに銃口を向けるかわからない。二人のうち、どちらかでも墜ちれば大型の打倒は困難になる。それだけは絶対に阻止しなければいけないことであった。

 

 大型の相手をしている二人の邪魔はさせない。僕にできることは全部するって決めたんだ。多少のリスクには目を瞑る。兄さんは……いつもそうしてきたんだ! なら、僕だって!

 

 ユーノは強く拳を握り締め、覚悟を決める。円筒形の吹き抜けになっている空間のど真ん中に、無謀にもその身を晒した。

 

 あえて周りから見つけられやすい、格好の的となるような位置でユーノは浮遊する。

 

 敵性対象の存在を認識した複数の傀儡兵が、ユーノへと無機質な冷たい敵意を浴びせる。次の瞬間、全方位からユーノ目掛けて集中砲火がなされた。

 

 それらは巨大な斧のような刃物であったり、長い剣状の物体であったり、射撃魔法であったりと傀儡兵の種類に応じた遠距離攻撃が繰り出される。狙いやすい場所で、しかも動き回ることもしないユーノへと、逃げ場を埋めるような密度で各々のロングレンジ攻撃が行われた。

 

 一糸乱れず放たれた攻撃は、寸分違わずユーノへと殺到する。攻撃は重なるように着弾し、ユーノの姿を隠すように爆煙が舞う。

 

「ユーノ君っ!」

 

 大型傀儡兵の弾幕じみた対空砲火を回避しながら、反撃の機会を探していたなのはが、悲鳴をあげるように少年の名を呼ぶ。

 

 なのはの不安を拭い去ったのは、噴煙から延びる淡緑色の鎖であった。一本二本などというちんけな数ではない。全方位に向かって、遠距離攻撃が飛来した数と同じ本数、遠距離攻撃が飛来した方角と同じ方向へと大量の拘束魔法が射出された。

 

「心配いらないよ、なのは。賭けは……僕の勝ちだ」

 

 傀儡兵たちを鎖で捕らえると同時に、ユーノを覆い隠すように張られていた煙が晴れる。服はところどころ破けていたり、顔には(すす)がついていたりと無傷ではないにしろ、戦闘の継続が可能な程度には、まだ余裕があった。

 

 ユーノは全身を包むように展開されていた防御魔法を解除し、拘束魔法の維持に力を注ぐ。

 

「攻撃の瞬間、攻撃が成功したと思った瞬間は隙が生まれる……でしたよね、兄さん」

 

 ユーノがわざわざ危険を冒して敵の砲口の前に出たのは、敵の居場所を正確に見つけ出すことも理由の一つであったが、一体残らず拘束魔法にかけることも目的であった。攻撃の着弾点から逆算し、敵の座標を割り出したのだ。

 

 相手がなかなか油断を見せてくれないのなら、こちらが仕掛けて機会を作るまでのこと。絶好のチャンスが目の前を転がったら、誰でもものにしようと考える。電子情報のアルゴリズムで行動を決定する傀儡兵にそんな考えがあったかはわからないが、統制をリニスという人間が(つかさど)っているのであれば、力んで間隙が生じるのも当然だった。

 

「思った通り、長くは持たないかな……」

 

「ユーノ! この数じゃ、さすがにすぐには片付けられないよ!」

 

「考えがあるんだ! アルフは少しだけ下がってて!」

 

 大型とともに再度出現した傀儡兵のほぼ全てを、ユーノは捕らえることに成功した。

 

 しかし、いかにユーノが支援魔法に長けているとはいえ、Aランク魔導師相当の魔力を持った傀儡兵群を縛り続けるのは不可能である。また、拘束するだけでは傀儡兵を破壊することもできない。拘束魔法は絞めつける力を上昇させることによって対象を捻じ切るようにも使えるが、傀儡兵の装甲は鎖の絞力を超えて頑丈で、やはりユーノには破壊する手立てがなかった。

 

 そんなこと、ユーノ自身も理解していた。

 

 ユーノは慌てず冷静に、自身の魔法の腕に対する落胆も、策が綺麗に嵌ったことに対する昂揚も抑え、準備していた次の作戦に移行する。

 

「動きを止め続けることも、このまま絞め付けて戦闘不能にすることも僕にはできない。でも、全力を出し切れば……このくらいはできるんだ!」

 

 ユーノの手のひらの先、数センチ離れた魔法陣が一際強く瞬いた。

 

 傀儡兵へと伸長している鎖が、一気に引っ張り込まれる。猛烈な速度で収縮する鎖は、先端に抵抗する傀儡兵を釣りながら、なおも長さを縮めていく。全方位に向かって放たれた鎖すべてに同様の操作が行われた。

 

 距離を挟んで取り囲んでいた傀儡兵たちは抗う間もなく引っ張られ、中央で浮遊するユーノの元へと集められる。

 

「ここっ!」

 

 ユーノは短く息を吐いて跳躍し、猛スピードで迫りくる傀儡兵たちを眼下にやり過ごした。引き寄せられた傀儡兵たちは互いに勢いよくぶつかり、装甲が擦れあって火花を散らす。

 

「やっぱりこれじゃあ壊れない、か。わかってたけど」

 

 十体を超える傀儡兵が一塊となり、その塊から抜け出せないようにさらにユーノは外側から鎖を巻きつかせた。傀儡兵たちでできた球体に乗りながら拘束魔法を行使し続ける。

 

 かなりの速度をもって傀儡兵たちは接触し、何体かは破損しているが行動不能に陥った個体は一体もない。いくら強固な装甲を持つ傀儡兵同士がぶつかったとはいえ、その程度で戦えなくなるほど貧弱なコアでも、脆弱なシステムでもないようだ。

 

 しかしユーノも、これで破壊できるなどという安易な期待はしていない。中央で浮遊したのは、取り巻きの傀儡兵の目を引くためだけではなかった。

 

「火力がないなら、持っているところから引っ張ってくればいいだけだよ」

 

 わざわざ危険な場に身を投げたのは、もう一体の傀儡兵、大型の銃口と注意を自身に向けさせるためでもあった。

 

 六つあるアームのうち四つは、要注意人物にして大きな魔力を小さな身体に秘めているなのはとフェイトを追い続けているが、残り二つは無防備に遮蔽物のない場所で姿を見せているユーノへと向けられている。ユーノが狙った通りに、大型はアームの先端に光の球を生成して砲撃の準備を整えていた。

 

 ここも、一つの賭けであった。

 

 なのはやフェイトに現在も行われているような、連射性に特化した攻撃を大型が繰り出してきたらユーノの策はご破算もいいところだったが、きっと最初に放ってきたような砲撃が来るだろうと、ユーノは予想していたのだ。

 

 もちろん楽観論で考えていたわけではない。隙だらけの敵がいれば、なるべく一撃で倒しきるために大振りの攻撃を振ってくるだろうと推察した結果である。

 

 そしてそれは正しかった。

 

「ふふ……ごちそうさま、かな?」

 

 二条の光が、ユーノの頭上に迫る。

 

 ユーノは発射を確認すると、まだ幼さを残す端正な顔に笑みを刻みながら、全力で傀儡兵の塊の上から退避する。

 

 ユーノが退避してから一秒と経たぬうちに、ついさっきまでいた空間を大型傀儡兵の巨大な魔力砲弾が貫いた。

 

 直進しかできない砲弾は、ユーノが回避したからといって方向を変えることはできず、その場で急停止することもできない。射線上にあった取り巻きの傀儡兵で作り上げられている塊に着弾、貫通した。

 

 大型が撃ち放った二つの砲弾は傀儡兵群の壁を突き破ったことで多少勢いを弱めたが、それでも途中で消滅することもなく、円筒形の建物の最下層にまで届いた。地を震わせるような轟音が空気を叩き、衝撃が建物全体に伝わる。

 

 一方、フレンドリーファイアを受けた傀儡兵たちは一拍の間を置いてから、全員揃って爆発した。

 

 ユーノの計略にいいように使われたことを悟った大型は、怒り狂うような挙動を見せる。三対のアームからの射撃は苛烈さを増す。

 

「くぅっ、なんて……量なんだ……」

 

 取り巻きが全滅したことで形振(なりふ)り構わなくなった大型が、射撃魔法を辺り一面四方八方へばら撒いていた。流れ弾に当たらないように警戒するユーノに、一発の魔力弾が走る。

 

 ユーノは自分に直進する弾丸を視界に捉えつつも、回避することができない。大量の傀儡兵を縛りつけていた疲労がユーノの動きを鈍らせていた。

 

 心許ない魔力で障壁を張っても威力の低減にしかなりはしない。多かれ少なかれ怪我を負うことを、ユーノは覚悟した。

 

「えぅっ!」

 

 顔の前で腕を交差させ、眼前に迫る衝撃に備えていたユーノだったが、いきなり、くんっと強い力で引っ張られる感触が腹部を襲う。おかげで変な言葉が喉から飛び出た。言葉以外にも、内臓的なにかも一緒に飛び出しそうになっていたが、それは懸命に飲み込んだ。

 

 ユーノの黄土色の髪を掠めるほどぎりぎりではあったが、大型が放った魔力弾を回避することに成功する。

 

 二〜三秒ほど引っ張られ続け、ユーノは背中に柔らかな質感を覚えると同時に静止した。

 

「やったじゃないか、ユーノ。大活躍だね。ただ、ああいう危ないやり方はもうしないほうがいいよ。いつか怪我をするからさ」

 

 何事か、とユーノが後ろを振り返ると、そこにはオレンジ髪の女性がいた。

 

 アルフは手摺りの上に立ちながら、窮地にいたユーノの腹部に拘束魔法の鎖を巻きつけて強制脱出させたのだ。

 

 疲労感からぐったり気味のユーノを抱え、アルフは大型から無作為に放たれる魔力弾を回避していく。

 

「あぁ、アルフ、ありがとう。助かったよ。言われなくてももうしないよ。僕にはとても向いてるとは思えないからね」

 

 苦笑いを浮かべつつ、ユーノはアルフへ返した。

 

 アルフに身を任せながら、ユーノは最後に残った大型の傀儡兵と、その周囲を飛翔する桜色と金色の輝線を見やる。

 

 ユーノが敬愛している徹からの要請は『時間を稼いでくれ』であったが、もはや時間を稼ぐ必要もなさそうだった。徹が戦域に来たことで活力の炎を燃え(たぎ)らせているなのはと、内側にやる気を溜め込んで解き放つ時を今か今かと静かに待っているフェイトが、ただ時間を稼ぐだけで終わるわけがない。

 

 徹が来る前に全部片付けてしまおうと、ユーノはさらに二人を焚きつける。

 

「二人とも! 『勇姿はちゃんと見てるから頑張れ』って、兄さんが応援してたよ!」

 

 徹が言っていたことをそのまま二人の少女にユーノは伝達したが、その言葉は二人に劇的な変化をもたらした。

 

 なのはとフェイトは伝言を受け取ると、明らかに機動性が変わり、数秒のうちに大型の背面から伸びていた六本のアームを斬り飛ばし、消し飛ばした。

 

 そんな光景と、現金な少女二人を眺めて、ユーノは呆れながらぽつりと呟く。

 

「そんな動きできるんなら早くやってよ……」

 




思えばこれまで長々と書いてきましたが、ユーノくんが表立って活躍するところを書いていなかったように思います。なので終盤も終盤ですが、いっちょ見せ場を作ってあげよう、ということに相成りました。
おかげで一話のうちで大型傀儡兵を討滅することはできませんでしたが。


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万策も精魂も尽き果てた

『勇姿はちゃんと見てるから頑張れ』

 

 ユーノを経由し、徹から激励の言葉を受け取ったなのはは、脳髄に、全身に電流が走る思いをした。

 

 徹お兄ちゃんが見てるんだ! 直接お喋りできなかった分、バシっ、と頼りになるってところを見せなきゃ!

 

 意気込みとしては少々不純な動機ではあったが、恋する一人の女の子としてならば、これ以上ないほどに純粋な理由であった。

 

 なのはは左手に携えるインテリジェントデバイス、レイジングハートを握り直す。

 

「行くよ、レイジングハート!」

 

『はい、マスター。準備は万端整っています』

 

 なのはは急旋回して大型傀儡兵の照準から外れると、レイジングハートの先端部を標的目掛けて突きつける。狙うは六本あるアーム。まずはそれらを機能停止に追い込む。

 

 一気呵成(いっきかせい)に大型を葬り去りたいのは山々であったが、大型はその巨体に恥じぬ装甲と打たれ強さを誇っており、数発程度の射撃魔法や、チャージ時間の短縮を優先した結果威力が落ちたやっつけの砲撃では撃墜することはかなわない。最大まで魔力を蓄えたなのはの砲撃でさえ、大型の装甲板を撃ち貫けるかはわからなかった。

 

 なのでまずは、魔力で構成された弾丸を雨の如く撒き散らす六本のアームから取り除き、砲撃の溜め時間を作り出すことを先決した。

 

 同じタイミングで大型の銃口から逃れたフェイトが隣に立ち、目配せしてくる。

 

 フェイトからのアイコンタクトになのはは無言で頷いた。

 

 今から何をするか、どう攻めるか、どのタイミングで仕掛けるか、どこを攻撃するかなど、打ち合わせしておくべき事柄は多くあったが、事ここに至って二人の少女の間に言葉など無用であった。

 

 気持ちが通じ、思いが伝わったなのはとフェイトの心は繋がっていた。

 

 互いが手に携えるデバイスの、コアとも言える宝石のような部分が、一つ二つと瞬く。その輝きは頑張れ、と応援しているようにも、しくじるなよ、とせっついているようにも見えた。

 

 一秒にも満たない無声の作戦会議を視線で交わし、なのはとフェイトは再び散会した。

 

 大型と一定の距離を保ちつつ、なのははレイジングハートへ話し掛ける。

 

「弾幕が薄くなってる……今がチャンス、だよね?」

 

『はい。ユーノが大型の注意を引きつけたおかげで、蜘蛛の足のような爪二本分魔力弾が減っています。これもユーノの戦果ですね』

 

「ひやひやするところもあったけど、ユーノ君すごかったよね。十本以上の拘束魔法を自在に操って、大型の砲撃まで利用して、文字通りに一網打尽にしちゃうんだもん」

 

『たしかに、あそこまで己の手足のように複数の拘束魔法を同時に展開、操作するのは賞賛して(しか)るべきですが、無鉄砲というか、とある誰かさん(・・・・・・・)と重なる部分がありましたね。向こう見ずな性格まで真似をする必要はないでしょうに』

 

 レイハの痛言に、なのははただ楽しそうに、にゃははと笑う。

 

 これまで、なのはとフェイトが二人がかりで大型に相対していたのに攻めあぐねていたのは、大型が放つ弾幕が原因だった。降り頻る魔力弾の豪雨により、大型を撃ち落とすどころか牽制の射撃魔法さえままならない状況であったのだ。

 

 しかし、ユーノの働きがあり、大型のアームが二つもなのはとフェイトから外れた。これまでとは格段に弾幕の密度が減少し、反撃に打って出ることが可能になったのである。

 

「ユーノ君は活躍したし、徹お兄ちゃんもどこかで……きっとみんなのために頑張ってるはず! なら、わたしもいいとこ見せなきゃ!」

 

 なのはの気合いに同調するように、魔力がレイジングハートに込められた。

 

 蛇行しながら魔力弾を回避し、タイミングを見計らって急停止。なのはの周囲に桜色の魔力球が三つ浮かぶ。左手のレイジングハートを払うようにして振ると、三つの桜色の弾丸は大型へと強襲した。

 

 なのはの魔法を撃ち落そうと大型が連射するが、誘導弾は速度を維持したまま軌道をくんっ、と変え、迎撃を躱し続ける。

 

 六つある大型のアーム、その左側の一番上にある一本に、なのはの誘導弾は着弾。しかもただ直撃しただけではない。虫の足の関節部のような、動作性をスムーズにするために装甲が薄くなっている()ぎ目の部分を狙い澄ましたのだ。

 

 速度自体はそれほど速くないが、誘導性能と威力は申し分ないなのはの射撃魔法をまともに受けた大型傀儡兵のアームは、派手に爆発の火の粉を散らし、ついには半ばから折れて落下していった。

 

 なのはが落としたアームの反対側、右側でも、三本の内の一番上にあるアームが根元からすっぱりとなくなっていた。

 

 構造上の弱点である関節部には、金色の魔力で構築された刃が突き刺さっている。投擲(とうてき)も可能なフェイトの魔力刃が、アームの一つを斬り落としたのだ。

 

 たじろいだようにも見える大型の様子を視認し、なのはは畳み掛けるならここだ、と確信する。

 

「レイジングハート、少しの間防御をお願い」

 

『お任せください』

 

 空中に立ち止まり、なのはは音叉状のレイジングハートを構え、チャージを開始する。

 

 六つのうち二本のアームの狙いは、ユーノに向けられてからまだなのはとフェイトに戻ってきておらず、また二本はなのはとフェイトがそれぞれ一本ずつ使用不能にした。現在使えるのは残りの二本だけ。たった二本のアームから放出される魔力弾では、到底なのはとフェイトの進撃を抑え(とど)めることはできなかった。

 

 フェイトは射出することもできる刃、アークセイバーで大型のアームを落とすと、距離を置かずに敢えて接近する。鎌状に変形しているバルディッシュの先端には、投げ飛ばした金色の光刃が既に再生されていた。

 

 フェイトは大型から放たれる魔力弾を容易く回避しながら、通った道に輝線を描くほどの速度でもって肉薄する。

 

 対してなのはは足を止め、砲撃のチャージに神経を集中させていた。

 

 躱せそうな弾道のものなら緩やかながら動いて躱し、直撃するものはレイジングハートに障壁を張らせて防ぐ。一撃に途轍もない重さがある砲撃ならともかく、連射性に重きを置いた魔力弾であれば、短時間防ぎきることになんら問題はない。豊富な魔力と、優れた防御適性を持つなのはならではの戦法だった。

 

「そろそろいいかな」

 

『枯れ果てた木の枝のようなひょろひょろの腕を弾き飛ばすには、充分過ぎる魔力です』

 

 フルパワーとまではいかないにしろ、充填された魔力はレイジングハートの先端に集積した。あとはもう、引き金を絞られるのを待つだけ。

 

「それじゃあいくよ!」

 

『All right!』

 

 杖に纏う四つの環状魔法陣が、一際強く光り輝く。

 

「ディバイン……」

 

『Divine……』

 

 音叉の先端部に蓄えられた球状の魔力がどくんと脈動し、ふた回りほども大きくなる。

 

「バスターっ!」

 

『Buster!』

 

 破裂寸前の水風船に穴を開けたように、桜色の魔力は前方へと吐き出された。

 

 なのはへ向かって大型が放っていた魔力弾は、強風にあおられる羽虫の如く払い飛ばされ、消滅する。なのはの砲撃と軌道が微かにずれていても、魔力の圧力で弾丸の射線は歪められていた。

 

 桜色の奔流は大型の背部から伸びる左側のアームの真ん中、爪の先から中間あたりまでを焼き払い、消し去った。

 

「ユーノ君もあれだけがんばったんだもん! わたしだって!」

 

『え? ちょっ! マスター! 危険です!』

 

 空中に描かれた魔法陣の上に立ち、砲撃を放っていたなのはは、同時に飛行魔法を展開する。砲撃は維持したまま、飛行魔法を精密制御し、姿勢はそのままに身体の向きだけ下へとずらす。

 

 照射され続けている砲撃はゆっくりと照準が下方へと移動し、大型傀儡兵についている左側のアームの最後の一本までをも焼き切った。

 

 仕事を終えた砲撃魔法は柱のように太かった状態から徐々に細まっていき、そして完全に消える。

 

「ふぅ……できたの!」

 

『できたの! じゃないです! 凄く危ないことをマスターはしたのですよ!? わかっていますか?!』

 

 攻撃が成功して、安堵とちょっぴり疲労の溜息をつくなのはに、レイジングハートが語勢を強めて上申する。

 

 レイジングハートの恐れももっともであった。

 

 砲撃を使いながら方向を変えるのは、本来は大変危険な行為だ。それは超高圧に圧縮された水をホースから出しながら動くようなもの。飛行魔法の魔力コントロールをしくじれば体勢が崩れ、砲撃がどこへ向かうかわからなくなる。魔法を行使した魔導師はもちろん、周囲にいる仲間にまで被害が及ぶ可能性もあった。

 

 (あるじ)の身の安全を(おもんぱか)った末、珍しくレイジングハートがなのはに苦言を呈したのだ。

 

 注意を受けたなのはは、咲き誇る花のように可憐に笑みを浮かべた。

 

「大丈夫だよ。わたしが失敗した時は、レイジングハートがフォローしてくれるでしょ? 心強いパートナーがいるから、わたしはいつも力一杯全力でできるんだよ」

 

『あぅ……。あの、マスタぁ……でも……。……んぅ……はぃ』

 

 信頼している、頼りにしている、と言外に言われ、その上純度百パーセントの笑顔を見せられれば、主思いのデバイスとしてはもうなにも言えなくなる。レイジングハートはもごもごと口籠り、二の句を継げずに認めることとなってしまった。

 

「あ、フェイトちゃん!」

 

 なのはとレイジングハートが主従の()を深めていると、黒色の大鎌を携えたフェイトが大型がいる方向から飛んできた。

 

 ちらとフェイトの遠く後ろにいる大型傀儡兵になのはが目を向けると、なのはが撃ち貫いた左側のアーム三本はもちろん、右側のアームも一本残らず消え去っていた。なくなっている部分を注視すると、プラスチックをホットナイフで溶かし切ったかのように滑らかな切断面が見えた。魔力刃でフェイトが叩き斬ったのだ。

 

 フェイトはなのはの少し手前でくるりと一回転し、さらにひねりを加えるというアクロバットを披露すると、隣に並び立ってぴたりと静止する。

 

 何気なくといった風に平然とやってのけたフェイトだが、たったそれだけの挙動の中にも驚嘆に値する技術の数々が盛り込まれていた。

 

 なのはの横で浮遊するフェイトの身体は油断なく大型傀儡兵に向けられていたが、首を傾けるような形で隣の少女を見やる。

 

 フェイトは微笑を湛えていた。

 

 フェイトの笑みにつられ、なのはもはにかむように笑う。

 

 大型の三対の砲口を潰したお互いの頑張りを褒め合うような視線のやり取りだった。

 

 仲が良すぎる二人に業を煮やした大型が、ついに再び動き出す。

 

 重たい機体を浮かばせるためだけの流線形の円盤型脚部かと思われていたが、そのような無駄な構造にはなっていなかったらしい。脚部の前面装甲がスライドし、そこから、後背に備えつけられていたアームなどとは比べ物にならないほど大きな砲門が姿を現した。

 

 それは見るからに威圧的なフォルム。外敵を駆逐(くちく)するためだけに設けられた、排他的な外観の砲台は見るものに畏怖を与えて(はばか)らない。

 

 人を傷つけることのみを用途とした凶器の眼光に、正面から見据えられたなのはとフェイトは目を見開いて息を呑んだが、しかし、闘志にはなんら(かげ)りは見えなかった。どころか笑みを絶やすこともなく、なのはが口を開く。

 

「あれはさすがに手強そうだね。きっとわたし一人じゃ撃ち負けちゃう。でも……」

 

「うん。二人で(・・・)、なら」

 

 二人は見つめ合って想いを伝えると、同時に手に持つデバイスを大型へと突きつける。

 

「不思議だね。隣にフェイトちゃんがいたら……なんだか、なんでもできそうな気がする」

 

「私も、心があたたかくなって、不安とかそういうのがなくなっていく。負ける気なんて全然しない」

 

 なのはが両手で持つレイジングハートには四つの環状魔法帯が取り巻き、フェイトの足元には金色の閃光を瞬かせる魔法陣が描かれる。

 

 ただ魔法を起動させただけ、ただチャージを始めただけなのに、二人の圧倒的なまでの魔力により空気は震え、建物がわずかに軋みという名の悲鳴をあげた。

 

 対する大型傀儡兵も、好き勝手やってくれたなのはとフェイトへ借りを返すべく、砲身にエネルギーを充填させる。

 

 円盤を彷彿とさせる脚部の各所が小さくスライドし、赤熱した配線のようなものが顔を覗かせた。赤い光を灯す数条のラインは、蒸気を吐き出しながら脚部全体から伸ばされ、砲身に収斂(しゅうれん)されていく。エネルギーの送搬と冷却を兼ねた機構のようだ。

 

「フルチャージ完了! いくよ!」

 

「こっちも大丈夫。いつでもいける」

 

 なのはが握っているレイジングハートの先端、音叉状の先には、暴発寸前のような危うさを感じさせるほど凶暴な魔力を圧縮、集約させた桜色の球体。魔力帯は放つ光を強めながら、レイジングハートの杖身を回転する。

 

 フェイトが携えるバルディッシュは、その身に余すところなく主からの魔力を内包し、解き放つ時を今か今かと待っていた。表情には現れなかったが、フェイトの感情が昂ぶっているのが、周囲で弾かれるように鳴り渡るスパーク音と閃光が(もたら)す煌めきによって、ありありと見て取れた。

 

 二人の少女の顔に、不安や恐怖など一切なかった。

 

 唇を小さく開いて肺いっぱいに空気を吸い込み、つぶらな瞳とデバイスの照準を大型傀儡兵へと向ける。

 

「ディバインっ!」

 

「サンダー……っ!」

 

 短くとも、二人の息と言葉はずれもぶれもせず、調和する。

 

 なのはとフェイトの和音は、砲撃魔法の発動音や、傀儡兵が動くたびに生み出す稼働音を貫き、引き裂き、響き渡る。

 

「バスター!」

 

「スマッシャー!」

 

 金と桜の光は互いに寄り添い、互いに掣肘(せいちゅう)することなく、どころか相乗効果でその勢いを増しながら大型へ一直線に叩きつけられる。

 

 しかし大型の装甲を穿つ寸前、脚部の砲門に蓄えられたエネルギーのチャージが完了した。頭部に嵌め込まれているアイレンズが妖しく瞬く。なのはとフェイトの砲撃に抗うように、巨大な魔力の塊が応射される。

 

 両勢力の砲撃は伯仲していた。

 

 真っ正面から大規模な魔力がぶつかり合い、それにより岩にぶつかる水流のように、継続して照射されている砲撃魔法は魔力粒子をあたりに散乱させる。弾け飛んだ魔力の欠片は建物内部の壁を焼き、穴を開けた。

 

 数秒ほど彼我の魔法は拮抗していたが、それも長くは続かなかった。

 

 魔法は人の感情、心により、その威力を増大させもするし、減少させもする。精神が衰弱し、弱り切っていれば万全の状態の時と比べて半分以下にまで落ち込むこともある。

 

 機械仕掛けの傀儡兵はスペックデータ通りのポテンシャルを、常に百パーセント発揮することができるのだろう。人間の魔導師とは違い、そこに調子の良し悪しなど介在しない。

 

 しかし、人間は時として、百パーセント以上の力を、己の限界を超えた力を振るうこともあるのだ。

 

 すれ違いばかりで敵対していた関係が変わり、面と向かって笑顔で気持ちを伝え合うことができ、穏やかに言葉を交わすことができるようになって、共に困難を乗り越えようとしている友だち(・・・)が隣にいるのなら、限界なんて容易く翔び越える。

 

 ここまでの戦闘で疲労のピークを迎えていてもおかしくはない二人の少女は、揃って顔を見合わせ、笑みを浮かべ、声高らかに叫ぶ。

 

「「せーのっ!」」

 

 なのはとフェイトの魔法陣はより一層輝きを強め、放たれる砲撃は密度を高めて勢いを増した。大型からの砲撃を呑み込むように、桜と金の奔流が覆い尽くす。

 

 大型は最後の抵抗のように一瞬だけ持ち直そうと出力を上げたが、悪足掻きはそこまでだった。

 

 力の天秤が傾き、じわりじわりと進行していたなのはとフェイトの砲撃が大型傀儡兵の砲口を潰す。瞬間、抗う手段を失った大型は激流に呑まれる一枚の木の葉のような呆気なさで、その巨体を二つの砲撃に容赦なく食い破られる。

 

 (とど)まるところも加減も知らない二人の才気(みなぎ)る少女の放射は大型の装甲を噛み千切るだけでは飽き足らず、背後の壁を貫通、破壊し、砲撃の勢いそのままに空けられた穴から大型を弾き出した。

 

 機体の殆どを、ウェルダンなんてレベルではないほど焼き尽くされた大型傀儡兵は、システムに深刻なダメージを受け機能停止。次いで魔力回路を大きく損傷したことで爆発する。その身を以て綺麗な花火を作り出し、薄暗い庭園内を照らした。

 

 大型傀儡兵が現れた時の穴と、なのはとフェイトが貫いた穴とが合わさり、建物の壁の一角には巨大な空洞が出来上がっていた。破壊された規模は円周部分の内壁の、実に三分の一にまで及ぶが、縦長の建造物は案外頑丈に建築されているらしく、今の所倒壊する恐れはなさそうだった。

 

 建物の被害箇所を増やしつつも大型を排除した二人は、額に汗を浮かばせ、息を多少荒げてはいたが、両者ともに顔色は明るいままであった。

 

 首筋に張りつく金色の長い髪を小指で払いながら、フェイトが微笑む。

 

「徹が来る前に倒しちゃったね。少しくらいは活躍の場を残しておいたほうがよかったかな」

 

 砲撃を使用した為に砲身に溜まった熱と余剰魔力をレイジングハートが排出するのを眺めていたなのはは、同じように明るくフェイトに返答する。

 

「気にしなくていいの! いつも無理とか無茶して徹お兄ちゃんはがんばりすぎるから、たまには働かないときがあってもいいんだよ」

 

 おどけた調子で、なのはは右手の人差し指を立てて、続ける。

 

「それに毎回最後のおいしいところを持ってくんだもん、活躍の場をもらいたいのはこっちなの!」

 

「ふふ、そうだね」

 

 自然と口から言葉がついて出る。

 

 二人が話している様子は、はたから見れば年相応の女の子のお喋りとなんら変わりはしなかった。

 

 

 なのはとフェイトが力を合わせて大型を片付け、これまでの時間を取り返すように談笑していると、二人の支援に回っていたユーノとアルフが合流する。

 

 ユーノとアルフにも特段怪我はないように見受けられたが、心なし服装が埃っぽくなっていた。

 

 暗い笑みを顔面に貼り付けたユーノが口を開く。

 

「ねえ、二人とも。ど派手な魔法で大型を打ち倒したのはいいんだけどさ。僕たちが近くにいたことを憶えてくれていたかな?」

 

「「あ」」

 

 なのはとフェイトは二人揃って、手で口を覆った。気まずそうに目を逸らす。

 

 ユーノから視線をずらしたフェイトに、アルフが回り込む。

 

「忘れてたのかい? 忘れてたんだね。間一髪で巻き添えは喰わなかったけど、急いで離れても建物の瓦礫とか砂埃を被ったんだよ、こっちは」

 

 おかげで尻尾を動かすたびに埃が出るんだからね、と言いながらフェイトに、元はふわふわでキューティクルに輝いていた自慢の狼尻尾をぶつける。

 

「ご、ごめんね。けほ、終わったらシャワー浴びなきゃだね。けほ、こほ……アルフの尻尾、掃除の道具みたいに埃を絡め取るんだね」

 

「誰のせいだーっ!」

 

 フェイトは咳き込みながらアルフに謝るが、最後に余計な一言をつけ加えたせいでいらぬ反感を買う。

 

 なのはとユーノは、仲の良い姉妹のような二人を見て、失礼だとは思っていても笑うのを堪えることはできなかった。

 

 一頻(ひとしき)り朗笑し、笑いすぎて目元に浮かんだ涙を拭いながら、ユーノは大型を破壊したMVPであるなのはとフェイトを褒め称える。

 

「でも、傍迷惑なほどの威力と規模だったとはいえ、二人の砲撃はすごかったよ。最後、大型が溜めていた魔力は凄まじい密度だったからね。あの(せめ)ぎ合いに競り勝って、しかも壁まで貫いて外に追いやるなんて」

 

 ユーノからの手放しの賞賛を受け、面映ゆいといったようになのはは顔を赤く染めた。

 

「あれは……まぁ、隣にフェイトちゃんがいたし……」

 

「君が隣にいてくれたからあれだけの力を出せたんだって……私も思う、よ……」

 

 なのはとフェイトはそこから指の先を絡ませ、互いに目を伏せて、時折ちらちらと盗み見るように窺いながら話をする。両者の顔は熟れた林檎より紅潮していた。

 

 違う世界へ旅立った二人の少女に早々に見切りをつけたユーノは、そちらは放っておいてアルフへ話しかける。

 

「この建物って結構丈夫に作られているんだね。これだけ魔法を撃ちまくってびくともしない」

 

「そりゃそうさ。プレシアがじきじきに増改築の設計図をひいて、リニスが手ずから魔改造を施した……らしいからね。こんなもんじゃ崩れたりしないよ。そうだね、あと一回二回くらい大型と戦っても大丈夫なんじゃないかな」

 

「そう何回も戦ってたら、建物じゃなくて僕たちのほうが大丈夫じゃないよ」

 

 アルフの冗談に、ユーノは笑いながら返す。

 

 おそらく、この場にいる四人全員、大型を倒したことで気が緩んでいたのだろう。

 

 道を阻んでいた大型は薄闇を裂く贅沢な花火となり、普通サイズの傀儡兵は瓦礫の山に成り果てた。ここからは、なのはとユーノは魔導炉を止めるために建物を上っていき、フェイトは母親であるプレシアの元へ、アルフはフェイトに付き添う形でこの場を後にするだけ。束の間の休息に心身を休め、戦勝の余韻に浸り、強敵撃破の喜びを仲間とともに噛みしめる。そのくらいは許されるだろうと、心のどこかで思っていたのかもしれない。

 

 しかし、ここは敵の本拠地にして、本丸にして、作戦遂行の為の中核である魔導炉へと通じる道である。

 

 余裕など、猶予など、あるわけがなかった。

 

 地響きのような轟音が、四人の耳朶を打つ。

 

 四人は一斉に、音の発信源へと目を向ける。

 

 四人がいる位置よりも少し下、大型傀儡兵となのはとフェイトにより壁が壊され、ぽっかりと大きな穴が空いているその空洞から、見覚えのあるとても大きな(・・・・・・)シルエットが姿を見せた。

 

 なのはが、信じられない、という目でその存在を凝視する。

 

「大型……まだ、あったんだ……」

 

 しばし現実を受け入れられずに固まっていたユーノが、心を強く持って新しく現れた大型傀儡兵を認める。

 

 と、同時にアルフを詰問する。

 

「アルフが余計なフラグを立てるからまた出てきちゃったじゃないか!」

 

 八つ当たりだった。

 

「いやいや! あたしのせいみたいに言わないでほしいよ! まさか本当に出てくるなんて思わないじゃないか!」

 

「二人とも落ち着いて。今はあれを倒す算段を立てることが一番大事だよ」

 

 緩んだ空気を引き締め直したのは、凛と響くフェイトの声だった。

 

「大丈夫、なにも問題はないよ。なにより一回勝っているし、こっちは四人もいる。アルフとユーノはあいつの動きを少しでも抑えて。あとはさっきと同じように、砲撃でやっつければいいだけだよ」

 

 ほら、簡単だよね? そう言って、フェイトは三人に小さく笑みを見せる。浮足立った雰囲気を、前向きなものへと一変させた。

 

「相手はたった一体、みんなで協力すればなんてことは……」

 

 轟音は鳴り止まない。建物の壁の一部がさらに崩れた。

 

 新しく現れた大型の後ろから、さらにもう一体、いやらしげにアイレンズを輝かせながら登場する。

 

「…………」

 

 言葉を失ったフェイトに代わり、なのはが引き継ぐ。

 

「だ、大丈夫なの! ユーノ君とアルフさんの二人で片方を引きつけてくれたら、わたしとフェイトちゃんで力を合わせてもう片方を倒すから!」

 

 なのはの輪郭に沿って冷や汗が伝うが、本人は気にも留めずに作戦を伝達する。気にも留めずというか、気にしている余裕がないだけであるし、作戦と呼ぶには大雑把に過ぎるが、へこたれそうになったみんなの精神状態をその一言で持ち直させたのは事実だった。

 

「問題ないよ! みんなで精いっぱいがんばれば、大型の一体や二体や三体なんて、敵じゃないの!」

 

 建物を震わせる振動の数が増える。三体目が現れた。

 

 三体目の大型は後背部から伸びる六本のアームを、まるでなのはたちを虚仮(こけ)にするかのようにちょこまかと左右に振っていたが、それに突っ込む元気は、なのはにはもうなかった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 フェイトに続き、なのはも撃沈。

 

 主人の遺志を継いだアルフと、魔導師としての弟子や後輩とも呼べるなのはの想いを代わりに担ったユーノが、敗戦ムード濃厚な空気をどうにか払拭しようと策を練る。

 

「……長時間は無理だけど、僕とアルフがそれぞれ一体ずつ大型のアームを拘束魔法で縛りつけて、邪魔をさせないようにする」

 

「そのうちにフェイトと……なのはとか言ったっけ? なのはが速攻で一体やっつける」

 

「二体にまで減らしたら、僕とアルフが片方の動きを全力で食い止めるから、なのはとフェイトも全力でもう一体倒して」

 

「一体ずつ順番に倒していったら、きっとなんとかなるさ! いけるいける!」

 

 口をへの字にして半泣きになっていたなのはとフェイトに、強気を装ってユーノとアルフが提案する。

 

 冷静に考えれば現実味に欠ける上に無理のある作戦ではあったが、一応それっぽく取り繕われていて、ぱっと聞いただけなら『あれ、もしかしたらなんとかなるかも』と気持ちを明るくする程度には道筋を示した作戦であった。少なくとも、擦り切れそうな神経を繋ぎ止めるには充分なものであった。

 

 三体目の背後にくっつくように、四体目、五体目が現れた。

 

「リぃぃニスぅぅっ! 大人気(おとなげ)ないにもほどがあるだろぉぉっ!」

 

 アルフの神経はぶち切れた。

 

 大型傀儡兵軍団は上空にいるなのはたちに、各々が六つ持つアームを差し向ける。破壊力満点の砲撃と、速射性連射性に優れた射撃の二種類を撃ち分けることが可能なアームが、合計三十本、なのはたちを捉えていた。

 

 四人は、万策も精魂も尽き果てた。

 

 大型傀儡兵の砲弾は建物の壁を容易に貫く。障壁を張っても長時間は持たない。大型一体であっても、アーム六本から繰り出される魔力弾の弾幕は躱すのがやっとで、近寄れないほど密度の濃い弾幕が展開される。それが五体分ともなれば弾丸のない空間などなくなる。魔力弾の雨ではなく、文字通りの壁となることだろう。逃げ場所すら用意されていなかった。

 

 五体いる内の先頭の傀儡兵のアイレンズが、あたかも勝利を確信したかのように淡褐色に輝いた。

 

 死中に活を求める四人だが、全員が助かる答えは見つけられなかった。

 

 なのはのスターライトブレイカーなら五体纏めて黄泉の国へと葬送できるかもしれないが、いかんせん準備に時間がかかる。フェイトのフォトンランサー・ファランクスシフトで弾幕を迎撃するにも、この大規模射撃魔法が放射される時間は四秒ほど。弾の数では張り合えても、継続して撃ち続けることができない以上先はない。防御適性に秀でたユーノとアルフが敵からの攻撃を防いで時間を稼ぎ、なのはとフェイトの大魔法で一掃する案も浮上するが、すぐに潰える。一発でさえ途轍もない威力を有している砲弾が、三十のアームから連続して放たれれば、さしものユーノとアルフの障壁とはいえ数秒と耐えられない。

 

 カウントダウンは刻一刻と数を減らしていく。

 

 アームの先端に魔力の光が灯り、それらは徐々に肥大化していく。

 

 ――もう、手がない――

 

 四人が諦めかけたその時、目の前に一つの影が降りてくる。右手に大きな丸い玉のようなものを掴んでいる人影は、足元に障壁を展開し、乾いた気味好(きみよ)い着地音を鳴らす。

 

 申し訳なさそうな表情でなのはたちへと振り返った。

 

「遅くなってごめんな。さすがにちょっと手間取った」

 

 逢坂徹。この場の誰よりも能力的に劣っている彼は、この場の誰も持っていない切り札を手に、圧倒的な戦力差がある戦いをひっくり返す。

 

 




次の話で傀儡兵さんたちにはご退場願いまして、とうとう「ラスボス」と会敵することとなります。……おそらく。


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「助けたいんだ」

なんかもうほんと、更新遅くなってすいません。


 安全な場所で作業のほとんどを終わらせた俺は、バカみたいな火力とアホみたいな耐久性を有していた大型傀儡兵が塔の外まで吹っ飛んだことを確認すると、四人のもとに降り立った。

 

 身体は奴さんに向けながら、顔面蒼白な四人に顔だけ見せる。

 

「遅くなってごめんな。さすがにちょっと手間取った」

 

 遅れて登場したことについての心苦しさを、俺は苦笑いで誤魔化した。

 

 念のために言及すれば、面倒だったから、などという理由でなのはたちに大型の相手をさせていたわけではない。単純に俺では足手まといになるだろうことがわかりきっていたからである。

 

 大型の砲撃を受け止めるほどの防御力は俺にはないし、射撃魔法の雨を避け続けるだけの魔力的余裕もなく、一撃でのすだけの手段もないのだ。俺が戦列に加わることでアームのターゲットが分散されることくらいはあるやもしれないが、抜本的な解決とはならない。

 

 なので、俺は俺のやり方で役に立とうとしていたのだ。俺が得意とする分野、能力を万全に活かすことができる状況にまで運ぶ必要があった。

 

 そのために、ユーノにはなのはたちに伝言で時間稼ぎを頼んだのだが、まさか大型傀儡兵を倒してしまうとは思いもよらなかった。仕事のついでに大型傀儡兵のスペックデータも覗き見たが、おおよそ、個人の火力でどうにかなるものではない防御性能と装甲の厚さだったのだ。それを、なのはとフェイトの二人がかりとはいえ見事に屠ってみせるとは、いやはや流石と言うべきか、それとも末恐ろしいと言うべきか。

 

 だが、リニスさんはまだ戦力を温存していた。これは俺の予想通りといってもいい。

ただ、その数については俺の予想を遥かに上回っていたとも付け加えておこう。

 

 兵隊の操り人形を一度に全て投入するわけがないとは思っていたが、まさかここで同時に大型傀儡兵を五体も引っ張り出してくるというのは想像の埒外である。

 

 一体でも厄介この上ない大型傀儡兵が五体にまで増えれば、真正面からやり合っても勝ち目は薄い。

 

 そう、真正面からであれば、である。

 

 幾許(いくばく)かの時間を要したとはいえ、対傀儡兵用の『武器』を(こしら)えてきたのだ。傀儡兵が相手なら、もはや数も大きさも性能も、脅威に値しない。

 

「お疲れさん。お前たちのおかげで準備ができた。あとは任せといてくれ」

 

「と、徹お兄ちゃん……どうするの? また……一人で無茶するの……?」

 

 背後の四人には下がるように指示するが、なのはが不安げな表情を(たた)えて返してきた。

 

 なのはの言い方では、まるで俺が自己犠牲精神にあふれた聖人のように聞こえる。

 

 今までも無理を通したことは何度かあったが、『自分の身を(なげう)ってでもみんなを助けるんだ!』などと殊勝な考えを持ったことはない。一番合理的で効果的で、かつ効率を優先した結果の役回りがこれまでの戦いであっただけである。

 

 とはいえ、心細そうにこちらを見つめるなのはに、魔法の適性がどうとか、魔力の保有量がこうとか、役割分担がなんだとか説明するのは憚られた。

 

 こういう時にかける言葉は、簡潔であればあるほどいいのだ。

 

「無茶なんかしないって。準備が整った今はもう俺の領分で、俺の独壇場なんだよ」

 

 右手に持つ球体を、まるでバスケットボールを回すようにくるくると回転させる。なんてことはない、と言外に示すように。

 

 位置の関係上、眼下にいる五体の大型が、突然降ってきた俺に戸惑うようにアームの照準を合わせ、焦るようにチャージを始めた。

 

 今更、攻撃の用意をしたところでもう遅い。四人が作ってくれた時間のおかげで俺はゆっくりと正確に作業を行うことができたのだ。あとはもう、パソコンのキーボードで言う所のエンターキーを押すだけで、計略は完成される。

 

「ま、まずいよ徹! 早く逃げなきゃ!」

 

「徹、下がってっ。徹の障壁じゃ一秒ももたないよっ」

 

 慌てるアルフと、心配してくれていることは伝わるが遠回しに失礼なことを言ってくれるフェイトに、俺は頬をひくつかせながらも余裕の笑みで返す。

 

 真っ向勝負であれば勝つ見込みはかなり薄いが、わざわざ相手の土俵で戦わなくてもいいのだ。真っ向からで駄目なら、(から)め手で打って出るだけである。

 

「なにか策があるのはわかりますが……もう相手の攻撃が始まりますよ! 手があるなら早く……って、その丸いのは何ですか?」

 

 ユーノの質問の最中でも、大型傀儡兵たちはチャージを続ける。

 

 俺は右手の指先でくるくると回していた球体をもう一度手のひらに収め、ユーノに答える。

 

「これか? これはなあ……」

 

 とうとう、発射寸前にまでチャージが完了された。次の瞬間には射撃魔法か、もしくは砲撃魔法が放たれる。

 

 それらに一足先んじる形で、俺は右手の先へと魔力を通して最後の工程を終わらせる。

 

「……傀儡兵のコアだ」

 

 大型傀儡兵の背面から伸びる六本のアーム、五体で計三十本のアームの先端部が、光の塊を吐き出した。

 

 爆音が、建物内の空気を殴りつけた。壁はびりびりと震えて亀裂を生じ、風は俺たちの髪や服を荒々しくなぶる。

 

「な、なんで……」

 

 四人のうち、誰の口からこぼれた言葉か、爆発する大きな音と建物の軋む音で俺には判別つかなかったが、誰の言葉であってもさして意味はないのだろう。きっと、四人全員が同じことを思っただろうから。

 

 『なんで、大型同士で砲撃を撃ち合ったのか』、と。

 

 五体の大型傀儡兵全てが穴だらけになって完全に活動が停止したのを確認すると、俺は身体ごとなのはたちに向き直る。

 

「見たかよ、痛快だろ?」

 

 ぽかんと口を開けて呆然と浮遊している四人に、俺は笑いながら言った。

 

「いったい、なにがどうなってるんですか……? 兄さんはなにをしたんですか?」

 

 大変驚いた様子だったユーノがフリーズ状態から回復し、動かなくなった大型傀儡兵を見下ろしながら俺に尋ねる。

 

「傀儡兵のコアを足掛かりにして、傀儡兵を統轄(とうかつ)しているプログラムに這入(はい)り込んだんだ」

 

「そんなことができたんですか?!」

 

「通常時なら無理だっただろうな。システムを見た限り、基本はスタンドアロンで動いてるみたいだった。でも今は、傀儡兵同士が連携して戦えるようにリニスさんが直接操縦桿を握って操ってるわけだ。それはつまり、遠隔からワイヤレスで傀儡兵と繋がってなきゃいけない。それなら逆に、その繋がりを手繰り寄せて辿っていけばリニスさんのシステムにまで辿り着けるんじゃないか、と思ったんだ。いや、成功してよかった」

 

 手慰みに、右手の傀儡兵のコアをバスケットボールのようにくるくると回転させながら、淡々とユーノに説明する。

 

 聞き終わったユーノは一歩分ほど俺へと歩み寄り、目を輝かせた。

 

「す、すごいですよ、兄さん! そんな倒し方、僕は考えもしませんでした!」

 

「こんなやり方しかできないから、わざわざこうしただけだ。俺だって真っ向から戦えたら、こんな面倒な方法は取らないって」

 

「でもでもっ、徹お兄ちゃんほんとにすごいのっ! わたしたちは一体倒すのもやっとだったのに!」

 

「一人で五体倒したようなものだもんね」

 

「いやいや、俺がハッキングするだけの時間をみんなが作ってくれたおかげだって」

 

 ユーノに続き、なのはとアルフも近寄り、賞賛の声をかけてくれた。

 

 一応謙遜するが、しかし、なかなか受けることのできないお褒めの言葉の数々に頬が緩む。リニスさんのプログラムに割り込むのは、相当に骨が折れたし神経を擦り減らしたが、これだけ絶賛されると頑張ったかいがあったというものだ。

 

「あ、だからなんだ……。ここまで来る途中、徹が傀儡兵を一体だけ破壊しないで捕まえていたのは、コアを使うためだったんだね」

 

「おう。できるかどうかは賭けだったけど、試す価値はあると思ってな」

 

 あごに手を当てて考え事をしていたフェイトが、得心いった、というふうに口を開いた。

 

 俺の右手の上に乗っているコアは、この縦長の建造物へとフェイトとともに急行していた時に現れた、数体の傀儡兵の内の生き残していた一体から引っこ抜いたものだ。

 

 出てきた端からフェイトが斬り捨てていくので鹵獲(ろかく)するのは非常に困難だったが、なんとかフェイトに頼み込んで(もしくは抑え込んで)一体だけ捕まえることに成功した。一体だけコアを傷つけずに動けなくさせてくれ、との俺のお願いに、バーサク状態だったフェイトが躊躇いなく傀儡兵の両腕両足を斬り飛ばした点については、感謝よりも恐怖が先行した。

 

「リニスに電脳戦で勝てるのは徹くらいだね。本当に凄いよ」

 

「そんな褒めるなって、照れるだろ」

 

「でも、システムを掌握したんなら、わざわざ攻撃される寸前まで待つ必要はなかったんじゃないかな?」

 

 首をこてん、と傾げなから、純粋になぜだかわからないから聞いてみました、という様子でフェイトが爆弾を投下した。

 

 フェイトが疑問を呈したことで、空気がぴきっ、と音を立てて変質した。『徹お兄ちゃんすごい、大好き!』という雰囲気が、どんどん疑惑に満ちていく。いや、そんな雰囲気など(はな)からありはしなかったが。

 

「そういえばそうですね。兄さんが降りてきた時に、準備ができた、とかなんとか言ってましたし」

 

「いや、あれはだな……」

 

「そのコア、くるくる回して余裕を見せてたの」

 

「あぁ……えっと」

 

「もう正直に言ったらどうだい?」

 

「…………はぁ」

 

 矢継ぎ早に詰問され、更に退路を塞ぐように三方向から詰め寄られた俺は、両手を掲げて諦めた。

 

「……理由、理由な。そんなの聞くまでもないくらいに当たり前のことだろ」

 

 なのはたちの場所まで降りてきてすぐに使わなかった理由、攻撃される寸前まで待った訳。そんなこと、聞くまでもなく、考えるまでもない。簡単で明白だ。

 

 俺は右手の、地味に重たくて嵩張るコアを左手に持ち替え、右の手を握り締め、胸をどんと叩く。真っ直ぐと前だけを見据え、堂々と、いっそのこと清々しく、自信を持って宣言する。

 

 

 

「格好良さの演出だ!」

 

 

 

 殴られた。

 

 

 

 

 

 プレシアさんがいるだろう場所へ向かうフェイトとアルフの二人とは一度別行動となり、俺となのは、ユーノの三人は縦長の建造物の更に上層、最上階へと歩みを進める。

 

 道中、散発的に現れる傀儡兵は、ユーノの拘束魔法となのはの射撃・砲撃魔法で蹴散らした。

 

 俺がハッキングで潜り込み、リニスさんから傀儡兵の制御システムを奪うことには成功したが、リニスさんはそこからすぐさま傀儡兵をシステムから切り離し、再び元のスタンドアロンに変更した。スタンドアロン型に戻った以上、ハッキングで動きを妨害することはできなくなった。その英断までの速さのせいで、大部分の傀儡兵がまだ活動可能な状態のままである。

 

 とはいえ、リニスさんコントロール下の連携行動はなくなったのだから、傀儡兵が複数現れようとなんら危機感を覚えるものではなかった。

 

 なのはとユーノは吹き抜けになっている建物の真ん中を飛行魔法で上昇し、俺は少しでも魔力を節約するため、障壁を展開し続ける跳躍移動を使わずに、魔力付与による身体強化の恩恵を受けながら手摺りを蹴り上がっていく。

 

 そしてついに建物の天辺、緩やかな斜度の階段の最奥に俺たちは行き着いた。

 

 俺の身長の三倍以上の高さがある観音開きの扉の前に立ち、取っ手に手をかける。

 

 開こうとしたところで、なのはが話しかけてきた。

 

「この先にある魔導炉を止めれば、ひとまずは安全になるんだよね?」

 

「そう、だな。大規模な儀式をジュエルシードの魔力も使って行っているとはいえ、安定的に魔力を供給しようと思えば魔導炉の力に頼らないといけない。プレシアさんの手にはいくつもジュエルシードがあるからまだ安心はできないけどな」

 

「魔導炉を停止させれば目先の危機は脱することができる、ということですよね。問題が積み上げられているのなら一つ一つクリアしていけばいいんですよ、兄さん」

 

「上から順番に解決していくのが一番最善なんだろうけど、そう簡単にはいかないと思うぞ」

 

 斜め後ろに立つなのはとユーノは、『どういうこと?』と聞き返してくるが、この場まで来たら口で説明するより目で見てもらったほうがてっとり早い。俺は黙って手に力を込め、扉を開く。

 

 重い響きを伴わせながら扉を押して、部屋へと足を踏み入れる。

 

 そこは円形に開けた空間だった。高い天井に余裕のある奥行き、足元はこれまで俺たちがいた場所とは趣を異にするむき出しの石造り。一つの例外を除いて、部屋にはなにもなかった。

 

「ほぉら、やっぱり……」

 

 一つの例外。

 

 やはり、彼女がいた。

 

 部屋の真ん中あたりで白い椅子に腰掛け、足を組み、目を瞑っている女性。頭にはふわふわとした猫耳、身体の後ろでゆらゆらと動くのは細くしなやかに伸びる尻尾。

 

「待たせたかな、リニスさん」

 

 俺が声をかけると彼女は、リニスさんはゆっくりとまぶたを持ち上げ、笑みを浮かべた。美しくも冷たい、酷薄な笑顔だった。

 

「いえ、ご存知の通り、暇潰しはしていましたから。私がここで待機し始めたのもついさっきですよ」

 

「その暇潰しのせいでこっちは大変な思いをしたんだけど」

 

 俺の返しに、リニスさんはくすくすと楽しげに笑う。

 

「大変な思い、だなんてまたまたご謙遜を。少々熱くなって砲撃兵を全部投入したのに、システムを乗っ取って一網打尽に倒してしまったじゃないですか。あれにはさすがに背筋が凍る思いでしたよ」

 

「その後すぐに操作システムを切り替えて冷静に対処したくせに、よく言う」

 

「徹こそ、どの口が言うのですか。すぐに対処されることを踏まえて、あえて砲撃兵の攻撃を寸前まで待っていたのでしょう? 長時間統制を掌握できるかわからないから」

 

「リニスさんならきっと、ハッキングされて権限を奪われたらスタンドアロンに戻すと確信してたしな」

 

「あら、私のことを信じていてくれたんですね。嬉しいですよ」

 

「むっ!」

 

 リニスさんの実力を理解している、というニュアンスで言ったのだが、なぜかリニスさんは頬に手をあてて妖艶な微笑を浮かべた。

 

 それを見て、俺とリニスさんの会話を斜め後ろで見守っていたなのはが呻く。背中に突き刺さる剣呑な空気と視線がとても痛い。

 

 くいくい、と服の裾を引っ張られた。

 

「徹お兄ちゃん! あの人とどういう関係なのっ!?」

 

『やはり徹は敵にも色目をつかっていましたね』

 

「兄さん……僕が知らない間にずいぶん仲良くなったようですね」

 

 背後から矢継ぎ早に詰問調の言葉が投げかけられる。

 

 振り返るのは怖いので正面を向いたままで俺は口を開いた。

 

「お前ら好き勝手言ってくれるな……。あの人はプレシアさんの使い魔、リニスさんだ。ジュエルシード収集の時に何度か顔を合わせているし、一回拳を交えもした。そのあたりの……あれだ、交流だ」

 

 『やはり』とか『敵にも』とか『色目』とか言ってくるレイハには数百字単位の抗議文を送りつけたいところではあるが、ここは手短に要点だけを返す。

 

『問い詰めたい箇所は幾つもありますが、今は脇に置いといてあげましょう』

 

「魔導炉を止めるほうが先だもんね。後から詳しくついきゅーするけど!」

 

「はいはい、寛大な処置に感謝するよ」

 

「しかし兄さん、どうするんですか? 道はこの一本のようですが……」

 

 ユーノが言わんとしていることはすぐに悟れた。

 

 魔導炉があるだろう部屋へと、正しくは魔導炉の制御装置があるだろう部屋へと続く扉。その扉は今俺たちが開けて入ってきた扉の向かい側にある。つまり、この部屋の真ん中(・・・)を横断しなければならない。

 

 簡単に言えば、部屋の中心にいるリニスさんをどうにかしなければ辿り着けないわけだ。

 

 少し考えれば懸念を抱く状況なのはわかりきっているし、実際俺は魔導炉を守るのは傀儡兵だけなどと楽観視していなかった。傀儡兵の統制をリニスさんが執っている時点で、魔導炉へと至る道の最後の門番は彼女だろうと予期していた。

 

 だからこそ、この場を乗り切る手段も準備している。

 

「大丈夫だ、ユーノ。任せとけ」

 

 心配気なユーノへ短く返答し、一歩ほどリニスさんへと近づく。

 

 妖しげに微笑む彼女を真っ直ぐ見据えた。

 

「リニスさん、一対一で話したい。ついてはなのはたちを素通りさせてもらえると嬉しいな。いつかの決着もつけたいし」

 

「その申し出を受けて、私になにか利益がありますか? この先には魔導炉があります。ならば、何人たりとも足を踏み入れさせるわけがないでしょう」

 

 ユーノもなのはも、おそらくレイハも、やはり戦うしかないか、というような雰囲気になりつつあった時、俺の一言が空気を一変させた。

 

「この場であなた達の計画を裏まで喋っていいのか? 助けられなくなるぞ(・・・・・・・・・)?」

 

 正面を向いているせいでなのはとユーノの表情は見れないが、きっときょとんと小首を傾げていることだろう。ぴりぴりとした緊張感が緩んでいるのが背中越しでも伝わってくる。

 

 それにひきかえ、リニスさんの反応はとても顕著なものだった。

 

 嘲笑にも似た笑みを、まるで凍ったように強張らせる。片手に持つ黒色と金色で配色されているシンプルな杖を握り直し、揺らめかせていた尻尾はぴんと伸びきらせていた。

 

「計画? なんのことを仰っているのか、私には心当たりがありませんが。それに、助けるつもりなど元からありませんし」

 

 少し青褪めた顔色でありながら、それでも気丈に、声を震わせもせずに言い切った。

 

 しかし動揺していたのは見て取れた。

 

 沈黙すれば俺の発言を認めることになると恐れ、咄嗟に返したのだろう。焦ったあまりにぼろがでた。

 

「プレシアさんの娘、アリシアを助ける計画なんじゃないのか? そのためにジュエルシードを集めて、魔導炉を暴走までさせてるんだろ? リニスさんは()の話をしてるんだろうな」

 

「っ! ……徹、あなたは……っ!」

 

 柔和な仮面を取っ払い、リニスさんは憎々しげに俺を睨んだ。

 

「と、徹お兄ちゃん……いったいなんの話? 助けるとかって……」

 

 なのはがか細い声で不安げに訊いてきた。

 

 ここでなのはの決意や覚悟が鈍れば作戦の遂行に支障を(きた)す。俺は振り向いて、なのはの目を見詰める。

 

「その話を今からこの人としなきゃならないんだ。俺はここに残るから、なのはたちは魔導炉を停止させてきてくれ」

 

 なのはは不服そうに顔を曇らせて俯いた。俺の指示は、腹に据えかねた様子ではあるが反発はしなかった。

 

 主人の気持ちを代弁するように、レイハが宝石部を明滅させながら音声を発する。

 

『徹如きが勝負になる相手とは到底思えません。時間と労力を費やしてでも、全員で事に当たるべきでは』

 

「しれっと俺如きとか言ってんじゃねえよ」

 

『なんですか、その言い草は。せっかく気遣ってあげているというのに』

 

「気遣うんならまずは言葉を選べ。魔導炉は早く止めなきゃいけないし、リニスさんと二人だけで話さなくちゃいけないこともあるんだよ」

 

『男と女で二人きりの密談ですか、いやらしい』

 

「いやらしいことなんもねえよ。リニスさんはすぐに無力化できるような人じゃない。時間稼ぎに(てっ)されたら手遅れになる。全員で戦うのは下策だ」

 

「それなら兄さんが残らなくても、僕やなのはが残って戦えばあの人が相手でも食い下がることはできるはずです! 兄さんがリスクを負う必要はありません!」

 

「リスクってんならどっちも同じだ。たぶん魔導炉の近くにも大量に傀儡兵を配置してるだろうし。スタンドアロンの傀儡兵と言っても、数が多いと俺じゃあ手に余る。配役としてもこれが適任だ」

 

 抗うようにぴかぴかと点滅するレイハは視界の端に追いやって無視し、ユーノを言葉巧みに丸め込む。

 

 実際のところ、リニスさんの考えは確認しておかなければいけないし、戦力の分配もこれがベストだろう。魔導炉を裸で放置していると思えないのも本心だ。傀儡兵の防衛網を突き破って魔導炉を機能停止にするのならなのはが適役である。

 

 説得し終えた俺は二人の肩に手を置く。

 

「ほら、リニスさんが黙ってる間に早く行ってくれ。俺たちの仕事の最優先事項は魔導炉の停止なんだから」

 

「……わかったよ。徹お兄ちゃんがそう言うなら先に行ってる。はやく追いついてね、待ってるから」

 

「……ああ、すぐ追いつく」

 

『怪我したら承知しませんよ。無理せずに頑張ってください』

 

「それはちょっと……難しい注文だな。でも心に留めておく」

 

「なのはのことは任せてください。兄さんは兄さんで、悔いの残らないように頑張ってください。僕は、自分にできることを全力でやります」

 

「頼もしいよ。任せた。さあ、リニスさんのことは気にしないで扉まで向かってくれ。邪魔はさせないから、振り向かなくていい」

 

 そう言ってなのはとユーノの背中を押した。

 

 円形に開けた部屋の中心にいるリニスさんを迂回する形で、二人は飛行魔法による低空飛行で扉まで翔ぶ。

 

 距離はあるが、ちょうどリニスさんの横側をなのはたちが過ぎるというところで、彼女がぴくりと動いた。

 

 リニスさんが視線を下へ向けながら、気怠げに、何の気なしに、気紛れのようになのはたちの方向へと杖を振る。瞬時に生成された三つの魔力弾は、飛行するなのはとユーノへと猛進した。

 

「気にすんなっつったろ! 進め!」

 

 リニスさんからの攻撃を防ぐために止まりかけたなのはたちへ、俺は声を張り上げる。

 

 一時スピードを緩めはしたが、叱咤された二人は慌てて元の速度に戻して扉へ向かう。

 

 足を止めたくなる心情は理解できる。『邪魔はさせない』などと言われたところで、離れた位置にいる俺がどう防ぐというのだ、と疑念を抱いても不思議じゃない。いや、そう疑って当然とまで断言できる。

 

 だが二人は俺を信じて突き進んでくれた。ならば、その信頼に報いなければいけない。ここで出来なければ嘘である。

 

「んっ、と……」

 

 俺は手を突き出し、放出されている魔力をコントロールする。念の為に、手は打ってあるのだ。

 

 リニスさんが放った三発の魔力弾は、なのはたちとリニスさんの中間あたりで爆発した。決して暴発したわけではない。なのはたちにぶつかる前に、『何か』に当たったことで誘爆したのだ。

 

「射撃魔法……ですか? 前は使っていませんでしたが……」

 

「そりゃあ、あれから猛勉強したんだよ。年下に教えまで請うてな」

 

「見えない弾丸ですか……厄介な……。しかも、相当に距離があるというのに私が発動させたものを後から撃ち落とすとは。かなりの速度に命中精度があると見えます。なぜこれまでの戦いで使ってこなかったのか不思議なくらいです」

 

「思う存分警戒してくれたら嬉しいね」

 

 フェイクも兼ねた(・・・・・・・・)腕を下げ、肩を竦めながらリニスさんの追及をやり過ごす。

 

 これはバレてしまえば警戒に値しない手品みたいなもの。考え違いするように誘導しておかなければすぐに足が出る。

 

 リニスさんは振り払ったままだった体勢から、脱力するように腕と杖を下ろした。

 

「安心してください。試しただけですから、これ以上は邪魔しませんよ。下手にぺらぺらと勝手な世迷言を言い触らされるのは困りますので」

 

 リニスさんと中身のない空虚な会話を交わしているうちに、なのはとユーノは魔導炉への扉に着いた。

 

 まずユーノが大きな扉を体重を掛けながら開き、俺が言いつけた通りに振り向くことはせず、部屋を後にする。

 

 なのはもユーノの背中を追うが、部屋を出る寸前に足を止めた。九十度ほど、首を回す。

 

 確かにこれは振り向いたとは言えない。解釈の余地を突いたグレーなやり方だが。

 

 なぜすぐに部屋を出ないのだろうとなのはを注視する。横顔だけを俺に見せたなのはは、声には出さず、唇だけを動かした。

 

 少しの時間、口元で無声の文章を綴る。それを終えると、なのはは今度こそ俺に背を向けて退室した。

 

 正面から見れたわけではない上、距離が離れている。なので唇の動きから何を言ったのか読み取るのはかなり難しかった。正確かどうかの保証もない。

 

 それでも、なのはがなんと言ったのか、俺になにを伝えようとしたのかは、間違いなく届いた。

 

「徹、何がおかしいんですか。いきなりにやついて気持ち悪いですよ」

 

「いや、ごめん。こっちのことでな、ちょっと嬉しいことがあって」

 

 なのはもきっと、プレシアさんやリニスさんがおかしいことにどことなく気づいていたんだ。

 

 もしかしたら、純粋な心を持っているが故に性善説のような、みんな本当は良い人であると思い込んでいるだけなのかも知れないけれど。それでも、考え方がどうであれ、なのはは信じているのだ。フェイトは優しい子に育っているのだから、フェイトの周囲にいる人たちもきっと本当は優しいのだと、そう信じているのだ。

 

 それ故に、理屈だとか、態度だとか、振る舞い方なんてものに引っ掛からず、根っこの部分に目を向けることができる。

 

 やっぱり、なのははすごい子だ。

 

 ぐだぐだと考えて、結論に足るだけの証拠を提示しなければ動くことができなかった俺とは、人間の出来方が、器の大きさが違う。なにもかもが違う。

 

「それで、私に話とは何なのですか? できるなら早く済ませてください。これでもやらなければいけないことは山のようにあるので」

 

 なのはの言葉は、俺の心を奮い立たせるには充分過ぎた。

 

「簡潔に言えば、そうだな。俺はあなた達を」

 

 ――信じてるからね――

 

「助けたいんだ」

 

 なのはは、そう言っていたのだ。




今までにないほど更新が遅れてしまいました。すいません。

文章を書く熱が消えかけていました。一時は読み専に戻ろうかとも思いましたが、なんとか持ち直しました。これからもおそらく更新は不定期になると思いますが、よければもう少しお付き合いくださるとうれしいです。よろしくお願いします。


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譲れない一線

謝罪は後書きにて。


「た、助ける? 今一つ要領を得ませんね……。たす、助けるもなにも、このまま私たちを放置してもらえれば、私たちはそれだけで助かるのです。それだけで、救われるのですよ」

 

「魔導炉を暴走させて、持っているジュエルシードを強制発動させて、それらから(もたら)された膨大な魔力を使って次元の狭間に存在するっていうアルハザードへ旅立つ。そんなシナリオだったっけ?」

 

「そうです。その為にここまで……」

 

「もういいって、そんな建前」

 

 リニスさんの言葉を、俺は途中で遮った。今更そのような部分で論を交えて時間を浪費するのは馬鹿馬鹿しい。

 

 自分の台詞をぶつ切りにされたリニスさんは眉を(ひそ)めた。

 

「建前と言い切るだけの根拠は、なにかあるのですか? よく知りもしないのに知った風な口を叩かれると、正直不愉快です」

 

 敵意を剥き出しにリニスさんは食ってかかってくる。

 

 対する俺は、研ぎ澄まされた刃のように鋭いリニスさんの双眸から目を逸らさず、続ける。

 

「状況が変わったのは、四月二十四日。時空管理局が介入してきた日、だろ? 魔法という技術がないこの世界で、俺たちにジュエルシードの収集を邪魔された時も状況が変わったといえば変わったんだろうけど、致命的だったのは二十四日だ」

 

「…………」

 

 リニスさんの眼光は依然として鋭いままであったが、俺の話を遮らずに口を(つぐ)んでいた。

 

 俺はその沈黙を是と捉え、続ける。

 

「アルフから聞いたけど、その日を境に別行動を取るようになったらしいな。リニスさんと別れたフェイトとアルフは、それまでと同様にジュエルシードの回収を担った。それじゃあ、リニスさん。あなたはその時、何をしていたんだ?」

 

 リニスさんは深い溜息を一つついて呆れたように、(わずら)わしそうに口を開く。小馬鹿にしたような、いかにもなポーズまでとった。

 

 俺の目には大袈裟に過ぎるように映り、どこか演技臭さまで滲んでいた。

 

「わざわざ律儀に教える義務もないのですが、答えずにいることを逃げと見られるのは癪ですし、とても愉快な勘違いをしているようですので否定するためにお教えしましょう」

 

 俺を挑発するように、リニスさんは口元を嘲笑に形作った。

 

「プレシアの、私の主の身の回りの世話や、ジュエルシードの所在の調査、邪魔をしてくるだろう管理局の情報収集やデバイスの調整、他にはこの庭園の整備などもしていましたよ。いろんな事をやっていたのです。徹のご期待に添えなくて残念ですが」

 

 これまでであれば、神経を逆撫でするようなリニスさんの言動に大なり小なり気分を害しただろうが、俺の精神状態は落ち着いたものだった。すでに俺の中で答えが出ていることが、冷静でいられる理由なのかもしれない。

 

「いろんな事……いろんな事ね。危険を(おか)して管理局のシステムに入り込み、レーダー機器やモニターの映像にダミー情報を流したりとか?」

 

「……そういえばそんなこともしていましたね。拍子抜けするくらい簡単にできたので忘れていました。あの程度なら、カーペットの染みを落とす方がよっぽど大変です」

 

 リニスさんは虚仮(こけ)にするように鼻で笑い、視線を横にずらしながら肩を(すく)めた。

 

 苛立ちを煽るようなその大きなリアクションに、却って俺の思考はスムーズに回る。

 

 俺の言い分を否定するようなリニスさんの仕草。だが、決して俺の推測が間違っていると証明できるものではない。

 

 フェイトたちと別行動を取っていた間にしていた事が嘘か真かを判断する材料は俺にはないが、それでも違和感は感じていた。今のリニスさんの立ち居振る舞いにも、管理局のシステムにハッキングがかけられていると気づいたときにも、言いようのない座りの悪さを感じていたのだ。

 

「前に戦った時、なんでハッキングなんて手法を使って管理局に喧嘩を売るようなことを敢えてやったんだ、って訊いたけど、結局リニスさんはうやむやにしてたよな」

 

「そうでしたか? ふむ……あまりよく憶えていませんね。徹にとってはどうかわかりませんが、私にとってはさして重要な事柄ではないので」

 

 下唇に人差し指を当て、思い出そうとするように目線を宙に漂わせたリニスさんは一秒ほどそのポーズを取って、すぐに無機質な笑みを顔に貼り付けて、憶えていない、と言った。形ばかりのポーズは、暗にそんなことは興味ないと示しているようだった。

 

 遠回しにつついてみても、リニスさんは飄々と、あるいはぬけぬけとシラを切るばかり。埒があかないとなれば、直接切り込むまでである。

 

「フェイトとアルフがあの時点で捕まったら困るから、あんな回りくどいことをしたんだろ?」

 

「…………は? いきなり何を言いだすんですか?」

 

 余裕の笑みという仮面が剥がれ、リニスさんは口の端をひくつかせた。

 

 ここが狙い所だろうと判断する。落ち着きを取り戻す前に畳み掛ける。

 

「フェイトとアルフの二人だけでも生きていけるように、経験を積ませるために別行動を取った。でも捕まえられてはいけないから、少なくともあの時点では捕まえられてはいけなかったから、リニスさんは管理局のレーダー機器類に偽物の情報を流し続けていたんだ。あの時、優先順位はジュエルシードよりもフェイトたちの方が上だった。フェイトとアルフにあらゆる状況への対処法を教え込ませることが重要だった。だからジュエルシードの捜索にではなく、管理局の妨害に労力を割いた。ジュエルシードを集めるだけならわざわざそんなリスキーな真似することないしな」

 

「はっ……大層な妄想ですね。徹は私たちが悪人だと思いたくないが故に、そんな理想論に行き着いたのでしょう。的外れもいいところです」

 

「いいや、的外れなんかじゃないな。俺も最初はなんでいきなり態度が冷たくなったのか、フェイトに対して厳しく接するようになったのか理解できなかった。俺は人の心の機微に疎くてさ、親友からヒントをもらって、やっと答えを導き出せたんだ」

 

「っ……。徹はアイディアリストだったのですか? 優しい人であって欲しいと願うあまり、そんな結論に至ったのでしょう。徹の言っていることは現実的ではありませんよ。現実と向き合えていません。見当違いも甚だしい。的外れもいいところです。妄想するのは勝手ですが、その妄想を現実にまで引っ張り込んで来て私たちに押し付けないでください」

 

「妄想でもないし、現実から目を背けているわけでもないよ」

 

 俺も最初はリニスさんたちの術中に(はま)って履き違えていた。見事に引っかかってしまっていた。

 

 フェイトがアリシアのクローンで、アリシアの偽物で、プレシアさんにとって不要な存在だから邪険に扱われ、酷い仕打ちを受けているのだと、そう思っていた。そう思っても仕方のない所業を見せつけられていた。だが、それこそが落とし穴だったのだ。

 

「ほんのちょっと、目の向け方と考え方を変えただけだ」

 

「目の向け方……考え方……?」

 

 俺は一度、現状だけに捉われず、その先について考察してみた。現在のプレシアさん、リニスさん両名の心象のままで、この事件が進んでいけばどうなるかを考えてみたのだ。

 

 時空管理局のシステムにハッキングをかけ、現地の人間に多少なりの迷惑を与え、海の上では仲間であるはずのフェイトの不手際に対して痛烈に非難した。人道に(もと)るクローン技術という禁忌に手を伸ばし、第三者の面前で本人に直接、情け容赦なく言い繕うことも悪びれることもせず人工的に作り出された子である事実を暴露した。ジュエルシードを集めるためだけの道具と明言した。

 

 ここに至るまで、これらのような蛮行を目にしていた者たちならば、プレシアさんやリニスさんに良い印象を持つことはできない。一般的な良識と教養を持つ人間ならばどうしたって悪印象しか、どころか嫌悪の念すら抱くだろう。

 

 このネガティブなイメージ。これこそが今、一件に携わっている管理局員の大多数が感じている感情なのだ。

 

「まずは目を向ける場所……それは、管理局側から見たフェイトとアルフへの認識と、局員さんたちの心理だ」

 

 この状態で、プレシアさんの計画を阻止するなどして事件が解決、もしくは終息を迎えれば、管理局の局員さんたちはどういう行動に移るだろうか。

 

 無論、主犯格であるプレシアさんや、その使い魔であるリニスさんへは斟酌の余地なしとして断罪を下そうとするはずだ。数多くの人の命を危険に晒し、フェイトへ非情な接し方をしてきたのだから。

 

 ならば、フェイトやアルフへの対応はどうなるか。プレシアさん側に与し、ジュエルシードを集めていたフェイトやアルフはどうなるのか。

 

 俺は、時空管理局はフェイトに対してそこまでひどい扱いはしないだろうと予想する。

 

 たしかにフェイトもアルフも、ロストロギアであるジュエルシードを少々手荒な手段で収集していた。非難される点がないわけではない。

 

 だが情報が出揃っている今、フェイトの境遇をもう一度考えた時、同情の念を抱かずにはいられないのも確かだ。

 

 ジュエルシードを求めていたのは母親に命令されていたからであり、彼女自身にジュエルシードを集める目的や、叶えたい欲望はない。そうやって自分のためにではなく、親のためにまだ小さな子どもが必死になって頑張っているというのに、当の親、プレシアさんはフェイトに対して冷たく厳しく、苛烈に接する。不手際があれば魔法を浴びせ、挙げ句の果てにいらない存在とまで吐き捨てる。

 

 信じていた母親に裏切られ、見捨てられ、深く心を痛めた少女を見て、可哀想だと思わない人間はいない。実際に、善良な精神の持ち主であるアースラの乗員はみな、フェイト寄りの心情になっていた。

 

 魔法が認知されていない世界で魔法を使ったり、人目につくかもしれないほど大きなアクションを起こしてしまったことへの罪はある。罪があるのなら、それは(あがな)わなければならない。罰を受けなければいけない。

 

 しかし状況を(かんが)みて、フェイトとアルフには温情が与えられるだろう。

 

 使い勝手のいい便利な道具として使われていただけなのであれば、ジュエルシードを持ってくる機械として利用されていただけなのであれば、ある程度は考慮され、科せられる罪も幾分か軽くなるだろう。

 

 ここまでが、プレシアさんの計画が頓挫し、フェイトとアルフを保護したというケースを前提とした考察だ。

 

「本当にジュエルシードを必要としていたのはプレシアさんで、フェイトは命じられて、半ば強迫観念にも似た意識を刷り込まれて動いていただけ。つまり、『フェイト・テスタロッサは同情すべきことに、極悪非道にして悪逆無道なプレシア・テスタロッサに娘の代わりとして作り出され、思った通りの人格が形成されていないとわかるや否や切り捨てられ、莫大な魔力を有する願望器であるジュエルシードを集めるための、体の良い道具として利用された』と、管理局の人たちはそう考えているはずだ」

 

「それがなんだと言うのですか? 事実ですよ、利用したのは。計算外なのは、思った以上に使えなかったことですけど」

 

「……俺もその間違った答えに引っかかったんだ。怒りで思考が鈍って、そこからもう一段階考えを深めることができなかった。誤解してしまっていた」

 

「……迂遠で偏見に満ちた言い回しですね。要するに、何が言いたいのですか? 限りなく時間があるわけではないのですから手短に終わらせてくださいよ、妄想の戯言は」

 

 ここぞとばかりに俺の神経を逆撫でするように挑発してくるが、冷静に受け流す。

 

 彼女たちの裏の策に気付いていても、フェイトのことを悪し様に言われれば頭に血が上ってしまいそうだが、ここで耐えられなければいつかの倉庫での争いと同じだ。呼吸を努めてゆっくりにし、酸素を頭に巡らせ、身体に籠る熱を吐き出す。

 

「リニスさんは……いや、リニスさんだけじゃないな。リニスさんとプレシアさんは、フェイトとアルフをわかりやすいように、俺たちに見せつけるようにわざと突き放したんだ。悪意や嫌悪からではなく、愛情故に」

 

「ふ、ふふ……何を言うかと思えば。……くだらないですね。いったいどこをどう見て、なにをどう感じ取ればそんな(まか)り間違った答えになるのですか?」

 

「思い出せばいろいろ気づきそうな点はあったんだよな。リニスさんたちの態度の変わりようはあまりにも激し過ぎた」

 

「…………」

 

 リニスさんは俺を真っ直ぐ見据えながら、しかし口を挟むことはなく、唇は固く閉ざされたままである。その表情からはなにも読み取ることはできないが、反論されることもまた、ない。俺は続ける。

 

「見る立場を変えて考えて、やっとわかった。順序が逆だったんだ。フェイトの不手際があったから、今みたいな結末になったんじゃない。この結末を迎えるために、必要な手順を一つ一つ踏んでいったんだ。敵である立場の管理局員たちがフェイトやアルフに同情するように、リニスさんとプレシアさんは悪役を演じて、その身を以て俺たちの心理を誘導した」

 

 ひどく間抜けで、激しく滑稽な大立ち回りを演じたのちに、恭也から言われたセリフがある。

 

 ――大切な存在だから、たとえ傷つけてでも助けたいと思った――

 

 その一言が、問題を紐解く手掛かりとなった。

 

「リニスさんとプレシアさんは、フェイトとアルフを守ろうとしたんだろ」

 

「…………はぁ」

 

 リニスさんは声が聞こえるか聞こえないかくらいの声量で小さくため息をつくと、わずかに肩を落とした。今までの虚仮にするようなものではなく、思わず出てしまったような仕草。

 

「自分たちだけに罪過を集め、管理局員の心証を操作して、フェイトとアルフにかけられる罪を少しでも軽くしようとした。この後のシナリオは……そうだな、フェイトが自分たちを追ってこないように舞台から永遠に退場する、そんなところじゃないか? 管理局に逮捕されたら、フェイトがプレシアさんやリニスさんを助けるために戦おうとする可能性も、少ないだろうけどゼロじゃないし」

 

「……慣れないことはするものじゃありませんね。上手く演技したつもりではあったのですが……」

 

 憑き物が落ちたように、どこかすっきりとした表情になったリニスさんは、嘲笑に(かたど)られたマスクを剥ぎ、穏やかな笑みを見せる。

 

 俺の記憶にある、フェイトたちと過ごしていた時の優しいリニスさんの顔だ。ただ一つ違うとすれば、今のリニスさんの表情はひたすらに乾いたものであることだけ。

 

「演技に関しては、それはもう掛け値なしに。気づけたのはひとえに友人からの助言と、俺の諦めの悪さのおかげだな」

 

「いつかの倉庫であれだけ痛めつけたというのに、本当によく諦めもせずにいられましたね。考えることを放棄して、私たちが絶対的な悪であると認めたほうが楽だったでしょうに」

 

 ジュエルシードを探して向かった倉庫での一戦。戦いの中での会話の内容も、すべて思考を誘導するためのものだった。

 

 フェイトやアルフを散々に扱き下ろしたのは、フェイトたちとは立場や関係性が違うことを暗に示したかったのだろう。リニスさんとプレシアさんは命令する側で、フェイトとアルフは命令される側であると、知らしめておく必要があった。

 

 終始俺を挑発したのは、分の悪い話の流れを断つと同時に、俺が持っていたリニスさんへの印象を変えるため。

 

 俺を攻撃したのは(怪我の大半は自業自得に等しいが)もしかしたら管理局へ見せつけるという意図もあったかもしれない。俺がフェイトやリニスさんと仲睦まじくしていたことを管理局から追及されるかもしれないと考え、いらぬ火種を消そうとした。そう裏を読み取ることもできる。

 

 結局、倉庫での戦いは、リニスさんが俺から奪い取ったジュエルシード、エリーを返還したことでリニスさんの行動に違和感を感じる一因となったわけだが。

 

「それができたら苦労はなかったんだけど、どうしてもリニスさんが悪人だとは思えなかったんだ。フェイトたちに向けていた優しくて暖かくて、なにより綺麗な眼差しが、嘘や偽りだなんて思えなかった」

 

「……そういうふうに言われると、少し気恥ずかしいですね。……綺麗だなんて」

 

 リニスさんは頬をうっすらと染め、手に持つ杖をいじり始めた。大変愛らしいが、極めて真面目な話をしている最中にそんな可愛い反応をされても、こちらとしては対応に困る。

 

「いや、ちょっと待って……綺麗っていったのはフェイトたちに向ける眼差しについてであって……」

 

「そうでしたか……そうですよね。私は綺麗なんかじゃないですよね、自惚れでしたね……すいません……」

 

 俺が発言を訂正すると、彼女は落ち込んだようにしゅんとした。頭上の猫耳も垂れて、リニスさんの背後でぴんと伸びていた尻尾は元気なく下を向く。

 

 慰めずにはいられない落ち込みようである。

 

「いやいや、リニスさん自身ももちろん綺麗だよ。上から下までは言うまでもなく、猫耳のてっぺんから尻尾の先端まで余すところなくいい毛並みをして……っていうか、話を誤魔化そうとするな」

 

「すみません。こんな風に普通に徹と喋るのは久し振りでしたし、これが最後かと思うと、つい。実際問題時間に余裕があるわけではないので、話を戻しましょうか」

 

「是非そうしてくれ」

 

 いつの間にか雰囲気が弛緩してしまっている。真面目なままで会話が成り立たないこの状態が、リニスさんが演技をやめてくれたことの表れなのだとしたら少し嬉しいので、あまり強く言及はしないでおく。

 

 彼女は口に手を当てて、こほん、と一つ咳払い。

 

 折れていた猫耳は元に戻り、尻尾はゆらゆらと揺れる。

 

 先程より幾分か張り詰めた空気が辺りを漂う。

 

「徹は、私たちがやろうとしていることをすべて見破ってしまったのですよね」

 

「厳密に全部、とまでは言えないけど」

 

「先の話を、他の誰かにしましたか? 仲がよろしいらしい管理局の執務官や、フェイト本人には?」

 

「いいや、話してない。フェイトにもな。俺からじゃなく、直接母親と話をしたほうが良いだろうと思ったんだ」

 

 フェイトにはともかくとして、管理局の人間にも話を通さずにいたのにはいくつか理由がある。

 

 一つは俺自身、リニスさんたちが単なる悪人じゃないという説に絶対の自信があったわけではないこと。

 

 もう一つは、管理局の人たちはもれなく優しい性格揃いということを懸念した。リニスさんやプレシアさんが本気で戦ってくる以上、俺が下手に彼女たちの事情を話して、いざという時に判断が鈍るようなことがあったら死傷者が出るかもしれない。その点を考えると、安易に不確かな情報を流すのは躊躇(ためら)われた。

 

「そうですか、安心しました」

 

 俺の返答を聞いて、リニスさんはにこりと柔らかく微笑んだ。

 

 裏のない、偽りのない、心からの言葉と表情。

 

 だからこそ――

 

「それなら……徹の口を封じさえすれば、なにも問題はありませんね」

 

 ――リニスさんのセリフは俺の心臓を深く抉り、突き刺さった。

 

「なんで……なんでそうなるんだ! フェイトを本気で疎ましく思ってるわけじゃないんなら、これから戦う必要なんて……」

 

「今さら矛を収めてどうなるというのですか? 管理外世界における不正魔法行使に、ロストロギアの違法使用、管理局艦船への攻撃行為。取り繕うことはできませんよ」

 

「それらに関しては俺もいくつか手を打ってるし、それにリンディさんやクロノに掛け合って、どうにか助力をお願いして便宜(べんぎ)を図ってもらえるようにする。そりゃあ途方もない苦労を背負うだろうし、労力もかかるだろうけど、減刑してもらえるようになんとか……」

 

「プレシアは!」

 

 俺の説得を打ち消すように、リニスさんが声を被せる。火薬が炸裂するような、苛烈な一声。

 

「プレシアは……アリシアのことを、諦めていません。座標はもちろん、存在するかすら定かではない希望の都へ……時を操り、死者を蘇らせる魔法が眠ると伝えられるアルハザードへ、旅立つつもりでいます」

 

「アリシアのため……」

 

 プレシアさんは、フェイトの事を嫌ってはいない。それどころか、自分が汚名を被ってでも、フェイトを守ろうとするほどに大切にしている。アリシアのクローン体として作り出したフェイトを、一時は本気で疎ましく思っていたのかもしれないが、少なくとも今現在においては、自分の娘も同然に深く愛している。

 

 しかしそれは、アリシアを(ないがし)ろにする理由にはならないのだろう。

 

 細部は異なれど、アリシアと瓜二つのフェイトを近くに置いていても、それでもまだプレシアさんはアリシアを諦めることができないのだ。

 

「なるほどな……。だからこんなやり方、こんな手段になったのか……」

 

 プレシアさんサイドからすれば、今回のジュエルシードの一件に時空管理局が横槍を入れてきた時点で、叶えられる最大限の幸せが今のこの状況だったのだ。

 

 プレシアさんはフェイトもアリシアも、どちらも見捨てることができなかった。

 

 アリシアを捨てていれば、俺を経由して可能な限り穏便に事を運び、管理局側と和解することはできていた。

 

 危険な代物であるロストロギアが、管理外世界で被害を出さないようにするために自主的に回収作業を行っていた、などと説明すれば言い逃れはできただろう。しかし、その場合は所持しているジュエルシードをすべて管理局に引き渡さなければならない。ジュエルシードの魔力を使ってアリシアを救う手立てを見つけることは出来なくなる。

 

 フェイトを捨てていれば、ジュエルシードを集めさせるだけ集めさせ、用済みになれば切り捨てて、今頃は次元断層を発生させながらアルハザードへの船出を済ませていたことだろう。

 

 フェイトのことを気にかけていなければ、なのはと戦っているところにリニスさんを向かわせ、ジュエルシードを強引に奪い取ることも容易だった。様々な分野においてエキスパートと言えるリニスさんが直接ジュエルシードの回収に乗り出さなかったのは、一人でもフェイトが生きていけるように経験を積むのを見守るためだったのだから。

 

 裏を返せば、プレシアさんは二人ともを捨てたくないがために、未だここにいる。

 

 アリシアを救うためにはアルハザードへ行く他に道はない。だが、アルハザードは夢物語のような、妄想やフィクションと同列の信憑性に乏しい存在でしかない。その失われた都を探しに行き、戻ってきた者がいないことから、大変危険で困難な旅路になることは目に見えている。だからフェイトを一緒に連れて行こうとしないのだろう。アルハザードの存在を確信し、妄信しているのなら、アリシアと同じくらいに愛しているフェイトを連れて行かない理由はない。

 

 フェイトを死地に誘いたくないが故に、小芝居までして今回のような手を取った。フェイトが自分だけで生きていけるように、仮に管理局に捕まったとしても情状酌量してもらえるように同情や哀れみをフェイトに集中させ、プレシアさん自身は罪と敵意を自分に集めた。

 

 プレシアさんは罪科と悪感情を背負いながら時空の狭間へ旅立ち、取り残されたフェイトは同情されながら管理局に保護される。彼女たちが望んだ結末はこんなところなのだろう。

 

 とてもじゃないが最善とは言えない。それでも、次善の策としては申し分なく、そしてその次善の策は今や成就間近である。

 

 愛している子どもに、演技とはいえ本気で雷を落とすのは胸が痛かっただろう。心を打ち砕くような残酷な真実を告げ、傷つく姿を見るのは身が裂かれるような苦痛だっただろう。

 

 心臓を締めつけるような痛みを乗り越え、ようやく舞台が整ったのだ。山場であり瀬戸際、正念場であり分水嶺であるこんなところで邪魔が入ろうものなら、それがなんであろうと全力で排除するのだろう。

 

 ついた嘘は、貫き通さねばならなかった。

 

 このことが管理局に漏れれば、これまでのフェイトとのやり取りが管理局を騙すための作り物であったと疑いを掛けられ、フェイトの『親に捨てられた可哀想な少女』という印象は一変し、地に落ちる。

 

 フェイトにこの話が伝わっても、リニスさんサイドからすれば厄介なことになる。母親に嫌われていなかった。それどころかとても愛されていて、自分を守るためにあえて突き放したんだ、とフェイトが知ってしまったら、なにがあってももう母親から離れようとはしないはずだ。行き先が死地でも地獄でも、フェイトは笑顔でプレシアさんの隣に並ぶ。

 

 真相を知られれば、待っているのは残酷な結末だけ。そうリニスさんは結論づけた。

 

「そりゃあ、俺の話を認めるなんてできないよな……」

 

「ええ、ここで認めてしまえばこれまでの努力が水の泡です」

 

「これまでのプレシアさんの行いは愛する我が子を救い出したい一心からで、フェイトへの所業は守りたいという思いの裏返し……」

 

「それが周知されてしまえば、管理局がどんな反応を示すか想像することはできなくなってしまいます。フェイトだって、裏切られていなかったんだと知ってしまえばプレシアになんとしてでもついていこうとするでしょう。プレシアは、欠片ほどの希望も見えない旅にフェイトを連れて行こうとはしません。フェイトまで、己の欲望の為に死なせようとは思っていないのです。……徹が黙っていてくれるのなら、見逃します。ですが……」

 

 向けられる眼光は刃物のように鋭く、発される雰囲気は重くて、なにより冷たい。

 

 手に持つ杖、金色の球体がついている先端部分を俺に向けて、彼女は言う。

 

「他言すると言うのなら、あなたをここで排除します」

 

 譲れない一線。

 

 それがここであると、彼女の瞳は雄弁に語っていた。

 

「俺にも考えがあって、協力してくれたら万事うまくいくかもしれない。……そう言っても、たぶん、聞き入れてくれはしないんだろうな」

 

 戦わずに済むのなら、言葉を交わすだけで済むのなら、それに越したことはない。そう思って一縷の希望に縋ってみるが、彼女の返答は予想通りのものだった。

 

「もうすぐ目的は達成されます。一番望んだ結末ではないにしろ、最低限の願いだけは叶った結末なのです。『もしかしたら』とか、『うまくやれば』みたいなギャンブルには乗りません。私たちは、現実がどれほど残酷かを知っているのです。そういった期待や希望は、総じて裏切られる」

 

 『運命』だったと、そう言って考えることを放棄して、心を殺して諦めてしまえば楽だろう。

 

 でも、彼女たちはそんな『運命』を認めはしなかった。冷酷で無慈悲な『運命』に真っ向から抗っている。

 

 本当に大事な物以外すべてをかなぐり捨ててまで、かすかに輝く光に手を伸ばそうとしている。それこそ、自分の身すら顧みずに。

 

「なにかに縋って膝をつき、現実から逃げて目を瞑り、手を組んで祈りを捧げるような、そんな無駄なことはしません。どれほど辛く重くとも一歩足を踏み出し、後ろは振り返らず前だけを見据え、両手でしっかりと杖を握り、振るう。私は、稀代の魔導師の使い魔ですから、主の行く道を遮り、譲らないのであれば、何であろうと排除します。それがたとえ……徹、あなたであっても」

 

 これは彼女なりの誠意、なのだろう。

 

 覚悟を見せ、ここで退くようにと、遠回しに忠告しているのだ。これが最後通告だと。

 

 だが、俺もここで退くことはできない。退くわけには、いかない。

 

「リニスさんの決意と覚悟、信念は受け取った。でも、ごめん。俺は我が儘で欲張りなんだ。最小限の不幸とか、最低限の幸福とか、そんなんじゃ満足できないし、納得できない。みんなが幸せになれなきゃ、俺は嫌なんだ」

 

 平和で穏便な話し合いで事が終われば、それが一番良かった。

 

 しかしそれはあくまで理想であって、実際のところ話だけでなんとかなるだろうなんて、本気で思ってはいなかった。俺はそこまで夢見がちにはなれないし、現実から目を背けることもできない。

 

 とどのつまり、いつだって自分の意志を伝えるためには、いつだって自分の意見を押し通すためには、いつだって自分の意地を貫くためには、相手に直接ぶつかるしかないのだ。

 

「そう……ですか。徹なら脅しなどに屈することはないだろうとは思っていましたが、やはり残念です」

 

「やっぱり戦うしかないんだな、残念だ」

 

「殺したくは、なかったのですが……」

 

「おいおい、俺は負けるつもりはないし、ましてや殺されるつもりなんか毛頭ないぞ。これ以上リニスさんたちに余計な罪状を上乗せさせる気はない」

 

 こうなって欲しくはない、と願いつつも、しかし、こうなるだろうことは予期していた。

 

 互いに譲れない信条がある以上、言葉での解決なんてできない。仮にできたとしても、そんなものは無意味だ。相手を心から納得させられなければ、禍根を残す。

 

 こういった場合の解決方法は、太古の昔から相場が決まっている。拳を交え、つまりは単純な武力によって、どちらがより正しいか白黒つけるほかないのだ。

 

「俺が勝ったら、さっきの話を認めた上で俺に協力してもらう」

 

「私が勝った時は……なんて、別に言う必要もありませんね。私が勝つという事は、徹が死ぬということですから。真相に気づいてしまった以上……徹の口を塞ぐほかありません」

 

「リニスさんから『口を塞ぐ』とか言ってもらえるなんて、シチュエーションが違えば飛び跳ねるくらい嬉しかったのにな。惜しむらくは、色気のある方じゃなくて血生臭い方の意味だってことだ」

 

「色っぽい方の意味でもして差し上げますよ。(むくろ)に別れの口づけを、ね」

 

「俺がその感触を堪能できないんなら意味ねぇよ。口づけの方は是非またの機会に、俺の意識がある時お願いするかな」

 

「その条件ですと残念ですが、機会はなさそうですね」

 

「いやいや、これからは嫌というほど時間があるから、機会ならいくらでもあるだろうさ」

 

「おかしな事を言いますね。もうすぐ人生の幕が下りるというのに」

 

「そっちこそ変な言い方をする。これからみんなで、世知辛い世の中だけど、幸せな第二の人生が幕を開けるってのにさ」

 

「長編の悲劇は心を(むしば)むのです。もう終演ですよ」

 

「勝手に終わらせんなよ。それならカーテンコールで無理矢理引き摺り出すまでだ」

 

「ふふっ、くだらないですね」

 

「そっちが振ってきたから乗ったのに……」

 

 互いに掛け合いをしつつも、着々と準備を進めていく。

 

 リニスさんはにこやかに微笑みながら杖を握り直し、俺の一挙手一投足を見逃すことがないよう注視している。

 

 対して俺は、魔力付与の魔法を全身に纏い、両の拳を固く握り締め、今すぐにでも跳び出せるように床を踏んで足元を確認する。

 

「リニスさんたちの斜め下を向いた計画は絶対に阻止してやるよ。いつだってハッピーエンドはあるってことを……証明してやる」

 

「最後の最後に楽しい時間を過ごせました。徹、ありがとうございました」

 

 リニスさんは右手の杖を掲げ、振りかぶる。

 

 距離があっても、静電気が弾けるようなぴりぴりとした感覚が肌を刺した。紛れもない本気の殺意に、肌が粟立つのがわかる。

 

 増していく緊張感に、心臓の律動はピッチを上げていく。模擬戦や試合などではない、本当の闘い。命を賭けた殺し合い。気を抜けば一瞬で刈り取られそうな圧倒的強者の威圧感は、素人上がりには耐え難い苦痛だ。

 

「それでは……」

 

 暗がりで獲物を待つ猫科の瞳のように、リニスさんの双眸が妖しく輝いた。杖が、振るわれる。

 

「……死んでください」

 

 俺の視界は、淡褐色に染まった。

 




およそ二か月ほどあいてしまいました。
待ってくれている人がまだいるのかどうかもわかりませんが、遅れてしまって申し訳ないです。

自分にシリアスや小難しい話は荷が重いというのに、なぜ手を出してしまったのか。
テンポが悪い。無駄に長い。どこが必要でどこが必要でないのかの判断すらわからなくなってしまった。後悔と共に反省の日々。



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張り子の虎も、気づかれなければ虎なのだ

もう何度目かもわかりませんが、それでも言わせていただきたい。
更新遅れてすいません……。

詳しくはあとがきにて。



「っ!」

 

 俺は眼前に迫る薄茶色の魔力をした凶悪極まりないサイズの砲撃を、左サイドへ飛び退(すさ)ることで危うくながら回避した。

 

 精神的安定のためにも一度距離を取りたいところではあったが、その選択は逃げであると判断し、甘い思考を切り捨てて理性で持って足を止める。俺の攻撃手段の幅は狭い。距離を取るなど、下策も下策だ。

 

 クロノにご教授願ったおかげで、射撃魔法はなんとか戦闘に使える水準には到ったが、それはあくまで『牽制においては』という注釈が入る。主力で、なんてとてもじゃないが期待できないし、射撃魔法の術式に施している細工をリニスさんに勘付かれれば、それこそ牽制にすら使えなくなる。

 

 よって、憶えたてほやほやの射撃魔法は要所のみに使う。それこそ、俺の主力攻撃である拳が届く範囲まで近付く時や、相手の魔法の妨害をする時など、攻撃の起点作りに限定するべきだ。無駄撃ちはできない。

 

 リニスさんからの追撃を警戒しつつ、すぐ近くを通り過ぎた魔力の塊を右目で流し見る。あとほんの少し反応が遅れていたら、と思うと背筋が凍りつきそうだった。

 

「ちょっ……ちょっとちょっと、リニスさん。開始早々顔面に砲撃とか殺す気満々過ぎやしません? 顔の形変わるどころか、首から上が綺麗さっぱりなくなるところだったよ」

 

 内心の動揺を悟られぬよう、彼女へ軽い口調で話しかける。それでもどれだけ隠そうとしても、かすかに声が震えてしまうのは抑えられなかった。

 

 リニスさんが殺ると覚悟を決めたら、それはもう一切の情も容赦もなく攻撃してくるだろうことは予想していた。

 

 しかし、まさか開幕直後にノータイムで、しかも俺の顔面目掛けて砲撃を放ってくるとは考えていなかった。てっきり定石通り、リニスさんの性格通り、まずは小手調べに数発の射撃魔法で様子見に出るだろうと、俺は踏んでいたのだ。

 

「軽そうな頭を更に軽くして差し上げようかと思ったのですか、お気に召しませんでしたか?」

 

「お気に召すわけないだろ。天に召されるとこだったわ」

 

 俺の返しに、リニスさんはくすりと小さく笑った。

 

 首を振って溜息をつき、表情を悲しげに彩ると俺に目を向ける。

 

「理由を挙げるとすれば二つ、でしょうか。私らしくないやり方のほうが不意を突けるのでは、という目論見が一つ」

 

「……悔しいけど、確かに不意は突かれたな。あわよくば開幕の一発で仕留めてやろう、なんて都合のいい考え方をリニスさんはしないだろうと思ってたし」

 

「二つ目は……徹の死に顔なんて見たら、罪悪感や後悔に押し潰されて……その、動けなくなりそうでしたので……」

 

「だから顔面吹っ飛ばして見ないように、って? 乙女チックな理由の割には手段が猟奇的過ぎるよ」

 

「……ですが、改めます。一撃で仕留められるほど容易い相手ではないし、好ましく思っている人だからといって、変な手心を加えていられる状況でもありません」

 

「……手心を受けた記憶はないんだけど。初っ端から顔に飛んできてるわけだし」

 

「弱音はこれっきりにします。追い込んで囲い込んで回り込んで、いつも通りのやり方で追い詰めて、そして引導を渡します。容赦はしません。同情も、しません。業は私が背負います」

 

 覚悟と決意を固めた様子のリニスさんは、杖を構え直して俺を見据えた。

 

「……はぁ。なんだっていいよ、殺されるつもりはないから。ここからが本当の勝負、ってわけだ」

 

「先のように……単発の砲撃で泡を食っているようでは、じきに無残な姿を見せることになりますよ」

 

「心配無用、もう大丈夫。おかげで身体はほぐれたから」

 

 リニスさんに言った通り、極度の緊張感にもようやく慣れ、身体の感覚が戻ってきた。ばくばくとうるさかった心臓も、軽く痺れたようになっていた手足の筋肉も、今では平常運転に近いものである。

 

 どうやら俺も、リニスさん同様、最後の最後で決断ができていなかったのだろう。本気でリニスさんと戦うことに対して、命を賭けて殺し合うことに対して踏ん切りがついていなかったのだ。

 

 その点で言えば、リニスさんの一発は俺の目を覚めさせてくれたのだから有り難かった。全身が凝り固まったまま戦っていれば、数合のうちに俺は討ち取られていたことだろう。

 

「最初の一撃で眠っておけばよかったと後悔させてあげますよ。……では、行きます」

 

「こっちこそ……説得に応じておけば良かった、戦わなければ良かった、って思わせてやるからな」

 

 俺は気炎を吐きながら拳を構え、足に力を入れる。

 

 どれだけ息巻いたところで、俺の得意分野はやはり近接戦しかないのだ。まずは近づかないことには話にならない。

 

 全身に魔力付与の効果が行き渡っているのを確認しながら一歩踏み込む。

 

 俺は捌かれるのを承知の上で、『襲歩』による急速接近を試みようとした。そんな俺より一歩早く、リニスさんが動く。

 

 リニスさんはバレエダンサーのように、華麗にその場でくるりくるりと二回転する。想像の埒外が過ぎるあまりにも突飛な行動と、場に似つかわしくない優雅な舞踊に、俺は一瞬目を奪われた。

 

「っ!」

 

 そのツケは、反応の遅れという形で払わされることになる。

 

 リニスさんは二回転して足を止め、視界の前方正面で俺を捉えると、俺の御株を奪う急速接近を果たした。

 

 彼我の距離、一メートルないし二メートル。普通の魔導師であれば有り得ない交戦距離。

 

 接近戦もずば抜けて卓越しているのは前回の戦闘で知っていたけれど、まさかリニスさんの方から近づいてくるとは。想定していた範囲を超える程ではないにしろ、可能性としては低いだろうと見積もっていたので少なからず動揺する。

 

「あまりに綺麗だったもんだから……思わず見惚れちゃったよ」

 

「嬉しいことを言ってくれますね。舞い上がって手に力が入ってしまいそうです」

 

 リニスさんは俺の軽口に気を乱す様子もなく、淡々と切り返してきた。

 

 もう一歩踏み込まないと俺の攻撃はリニスさんに届かない。この絶妙な距離から、リニスさんは杖による打突を繰り出した。

 

 顔を狙った一打はサイドステップと顔を逸らすことでなんとか回避。続く二打目は腹部に迫る。避けることはできないと即断し、手の平で受け止めるように防御した。

 

「うっく……重っ」

 

「女性に重いとは、デリカシーに欠けますね」

 

「攻撃に対して重いっつったんだよ」

 

「そうですか、安心しました。攻撃も愛情も重いに越したことはありませんからね」

 

「いや、重いのは攻撃だけで充分だ」

 

 フェイトのデバイスのように刃がついていないので素手で受け止めることはできたが、杖による一撃は思いの外重く、驚くほど硬い。おそらく魔力付与か、それに類する魔法で硬度を高めていると見た。仮に頭部に直撃すれば、魔法で身体を強化していても脳震盪を起こすか、最悪頭蓋を砕かれることになる。決して軽視できるものではない。

 

「むっ……離してください」

 

「そう言われても、離すわけにはいかないな。そもそも実力に差があるんだ。アドバンテージを減らしておきたいと思うのは当然だろ?」

 

 手がじんじんしてとても痛いけれど、相手のデバイスを受け止められたのは僥倖だった。

 

 彼女の杖の先端、球状の部分を両手でしっかりと掴む。引き抜こうとするリニスさんの力に負けそうになったが、なんとか掴んだまま食い下がった。

 

 リニスさんのことなのでデバイスなしでも魔法の行使に支障はないかもしれないが、術式の演算には多少時間がかかるかもしれない。魔法の腕と素質にはとても大きな、ともすれば絶望的とさえ呼べるような開きがあるのだ。ここでその力を、たとえ少しでも削いでおきたい。

 

「どうしても離さないというのなら……私が離します」

 

「うぉっ!」

 

 引っ張り合いの様相を呈していたのも束の間、リニスさんは自ら杖状デバイスを手離した。

 

 突然力の均衡が崩れて体勢が乱れたものの、一歩二歩後退しただけでなんとか尻餅はつかずに済んだ。つかずには済んだが、その体勢の乱れは致命的なまでの隙であり。

 

「手が空いたことで動きやすくなりました。しばらくそれは持っていてくださって結構ですよ」

 

「俺には無用の長物だから、二つに折って廃品回収に出しとくよ……」

 

「人の所有物を壊そうとしないでください。もっとも……そう簡単に壊れる品でもありませんが」

 

 その隙を見逃してくれるほど、今のリニスさんは優しくも甘くもなければ、容赦もない。

 

 杖の長さの分開いていた空間を一息で詰め、俺の懐に潜り込んだ。リニスさんが短く息を吐く。

 

「ぐっ、あっく……がっ!」

 

 密着するような間合いから、がら空きの腹部へと連続で拳撃が叩き込まれる。

 

 体重を掛けにくいほぼ零距離でのショートブローだというのに、恐ろしいまでの威力だ。大槌を振り下ろされたような痛みと衝撃に、腹の中にミキサーでもぶち込んだみたいな不快感。内臓の位置が元に戻るかどうかも自信がない。咄嗟に腹部へと魔力付与を回していなければ内臓の損傷くらいは有り得ていた。

 

 痛みや身を焼くような熱さは我慢できるが、不快感や肺を圧迫されたことによる絶息状態は人間の構造上、理性や根性では耐えられない。ブラックアウトしそうな意識を辛うじて繋ぎ止め、折れそうになる膝に力を込める。

 

「がら空き、パートツーです」

 

 腹部への衝撃で身体が折れ、下がった俺の顎目掛けて斬れ味鋭いショートアッパーが放たれた。がら空き、と言いながらも油断なく大振りをしないところがまた、彼女の厄介さを強調している。

 

「がぁっ……はっ、くそっ!」

 

 ダメージの余波で足はまだ万全に動かない。障壁を張ろうにも、この超接近戦では既にそれの内側にいる。

 

 脳を揺さぶられればまともに動くことはできなくなり、動けなくなれば反撃の間もなく詰められ、そのままとどめを刺されるだろう。ここでやられる訳にはいかない。

 

 致し方なしに背筋や腹筋を駆動させて強引に身体を後ろに傾け、死神の鎌のように俺の頭を刈り取ろうとする一撃を紙一重で躱す。もはや姿勢どうのなど気にしていられる場合ではない。

 

「そろそろ返してもらいますね、壊される前に」

 

 そう言うとリニスさんはバク転し、俺が握ったままだったデバイスの柄の部分を下から蹴り上げて後退。二回転三回転と繰り返し、最後に力強く床を踏み切って後方宙返りしながら空中で蹴り上げていた杖をキャッチした。

 

 着地するなり器用に杖を回転させ、持ち手の中間あたりを、ぱしんっ、と小気味良い音を立てながら握り込み、先端部を俺に突きつける。

 

 床に尻をつけ、痛みから顔を歪める俺に、彼女はどこか勝ち誇ったような表情を覗かせた。

 

 これでもまだ、抗うのですか?

 

 そう言いたげな表情だった。

 

「まだ……こんなもんで終わらないぞっ……」

 

 たかだか数回の打ち合いだが、やはり手強い相手である、と再認識する。

 

 スムーズで先を読みにくい足運びに、鋭く重い上に速い打撃。デバイスを押さえられた局面でも、あえて自ら手放す決断の早さと即応性。

 

 俺の得意分野である近接戦ですら、先手を取られれば連続で攻められ押し切られる有り様だ。これで遠距離からの魔法戦闘を絡められたら、本当に手がつけられなくなる。早々に手の内を明かすようなことはしたくないけれど、出し惜しみしている場合じゃない。

 

 無様に這い蹲った体勢から跳び上がりながら身体を起こすと腰を落とし、再び開いてしまった彼女との距離を埋めるために、前傾姿勢で突撃する準備をする。

 

「…………?」

 

 ここでふと、不可解な点に気がついた。

 

 ショートアッパーで顎を打ち上げられそうになった時、俺は躱すのに精一杯で無防備な状態を晒した。リニスさんは、なぜそこから追い討ちを掛けなかったのか。

 

 デバイスを取り戻すことに専念したのか。

 

 いや、その答えでは疑問が残る。デバイスを持っていない状態でもリニスさんの身体強化の効果は継続していた。仮に、あのままマウントに持ち込んでいれば、淑女に相応しいかどうかはともかくとして、殴殺することも不可能ではなかったのではないか。

 

 俺に気を遣ったということもないだろう。今さらそんな情けをかけるほど、リニスさんは甘い人ではない。

 

 引っかかる。なにかが引っかかる。自分の足元のすぐ近くに罠を仕掛けられているような、そんな不吉な感覚。

 

 冷静沈着で如才ないのがリニスさんの性格だ。日常生活においては家事万能の上に気配りもできる良妻の鑑のような彼女だが、こと戦闘となれば冷徹で、数手先と相手の心理を読む策士。弱みを見せれば突き、攻めようと思った時には先回るように手を講じられている。

 

 そんな彼女が、あからさまな俺の隙を見逃すはずがない。

 

 警戒しろ、と自分に言い聞かせる。なにかある、必ずなにかあるはずだ。

 

 油断ならない強者との戦闘の最中である。小さな違和感の芽であるうちに摘んでおきたいが、足を止めてゆっくりと考える時間などない。違和感の正体は掴めなくとも、用心しつつ今は足を動かすしかない。

 

 『襲歩』による接近からの格闘戦。その為の第一歩を踏み込んだ時、出端を折るように、突出しようとする頭を抑えるように、俺の足元に一発の魔力弾が着弾する。

 

「こんのっ……」

 

「一度動き始めたら止め辛いのは、前回で学んでいます。そして……先手はもう、打たせてもらいました(・・・・・・・・・・)。」

 

「……また砲撃か? すでに注意してるんでね、単発でなら問題なく避けてみせる」

 

 リニスさんはデバイスを突きつけ、魔法を展開させた。開幕一番と同じ、砲撃魔法。展開と発動が極めて早いが、注意してさえいれば回避するのは難しくない。

 

 なるべく小さな動きで躱し、魔法発動直後の技後硬直を狙う。さしものリニスさんであれど、砲撃魔法を使った後では多少なり動きが止まるはずだ。ここから巻き返す。

 

 砲撃の軌道を見極めるため、意識を杖の先端へと傾ける。

 

 くすり、とさも愉快と言わんばかりの声が、俺の耳朶に触れた。

 

「布石というのは……相手に気付かれないように打つもの……。自分が考えた通りに事が進むのはまさしく、言い知れないほどの快感ですね」

 

 獣の牙が首筋に添えられているような怖気(おぞけ)を感じた。

 

 この広い部屋に入ったばかりの頃や、海鳴市の倉庫で戦っていた時のような嘲笑うような笑い方ではない。リニスさんは本心から楽しそうに、錦上に花を添えるかの如く、整ったその顔貌に偽りなき笑みを浮かべ、鈴を振るような声で、笑う。

 

 そんな彼女の表情には、相手を罠に嵌めたという喜びと同じ分量だけの殺意が練り混ぜられていて、俺にはそれが、なによりも怖かった。

 

「……っ、おあぁっ!」

 

 直感。その他に理由はなかった。

 

 正面には今まさに砲撃を放たんとするリニスさんがいる。だが俺は本能のまま、心胆寒からしめる感覚に突き動かされるがまま、自分の左右に障壁を展開した。

 

 直後、空気を震わせるほどの衝突音が響き、衝撃の余波が床の上を同心円状に広がる。障壁に走るクラックが、視界外からの攻撃の存在と威力の程を物語っていた。

 

「いったい、いつの間に……っ」

 

 すんでのところで防いだのは淡褐色の魔法弾。先頃の倉庫で幾度となく目にした、リニスさんの誘導型の射撃魔法。

 

 視野のギリギリ外を舐めるように俺の左右から近づいていたそれらは、間一髪のところで防いだ二発だけではない。右と左からもう一発ずつ、先と同じような軌道を描いて迫っていた。

 

 いつ、いったいいつ誘導弾を撃った。俺のものと違って、リニスさんが使う魔法には色がある。展開させれば絶対にわかるはずなのだ。

 

 いつから用意されていたのかを、記憶を頼りに想起する。

 

 近接戦で俺を圧倒してからは無駄に華やかなアクロバットを見せて、その後は不審な動きをしていない。ならばその前、俺に近づく前だ。俺の懐に潜り込む直前、見る者の目を惹きつける二回のターン。恐らく、あれがカモフラージュになっていた。

 

 横に撃っても上に撃ったとしても、離れた位置から見ていた俺の視界には入っていたはずだ。

 

 だが、唯一視界に映らない空間がある。それは、リニスさんの背後。身体で影になる、その極めて小さな空間に誘導弾を放ち、すぐに距離を詰める。そうすれば俺の意識は自然、すぐ近くに迫ったリニスさんへと注がれる。

 

 誘導弾の尻尾すらも見ることができなかった俺は撃たれたと思わず、撃たれたかもしれないという可能性すら考えもしなかった。

 

 ここまできてやっと、近接戦で俺を転倒させたにもかかわらず距離を置いた理由が明確になった。リニスさんは、マウントから素手で殴り殺すか、誘導弾と砲撃のコンボで焼き殺すかを天秤にかけ、よりリスクが少なく、かつ労せずして勝つ方法を選択したにすぎない。

 

 必要最低限の力で勝利を収める。実に彼女らしい理由だ。

 

 動きの一つ一つに無駄がなく、戦術が詰め込まれているのに些かも淀みない。戦闘の先を常に見据え、備える。その手腕にはもう言葉も出ない。

 

 とはいえ、悔やんでいても仕方がない。急場凌ぎに張った障壁では、きっと二発目は防げない。一発目を防いだだけでも御の字だ。今は自分の不甲斐なさを反省するより、この展開をどうやってひっくり返すかが肝要だ。

 

「さぁ、これにて終演……でしょうか」

 

 リニスさんのデバイスの先端には光が灯り、砲撃の準備は万端。いつ発射されてもおかしくはない。俺の左右からは、身体を食い破ろうと突き進む薄い茶色の誘導弾。

 

 取れる手段は幾つかあるにはあるが、どれを選んでも一手足りない。

 

 砲撃を躱そうとすれば左右の誘導弾の餌食、障壁で砲撃を防いでもやはり誘導弾を始末できない。誘導弾を先に防いだら砲撃に対処するだけの暇はない。誘導弾を回避しようにも、優秀な魔導師たるリニスさんは威力と速度とコントロール性能のいずれもを平均以上の水準で保持できる。つまりは接近を許してしまっているため躱すだけの余裕もない。

 

 手詰まりをひしひしと感じていると、いつぞやの戦闘がフラッシュバックした。左右から迫る誘導弾、正面に位置して追撃の準備をするリニスさん、追い詰められたシチュエーション。もしかするとこれが世に言う走馬灯なのかもしれないが、おかげで打開案を思いついたので、なんにしたって感謝である。

 

「終演にはちょっと早いな……こいつは返すよ」

 

 二つの誘導弾の進路上に、斜めに展開した障壁をいくつか配置して軌道を無理矢理に変える。倉庫で戦ったときに一度やってできたのだから、二度目にできない道理はない。

 

 誘導弾は側面を障壁に擦りながら向きを変え、発動主であるリニスさんへと飛翔する。

 

 この命辛々の曲技に狼狽(ろうばい)し、砲撃の照準がわずかにでも狂ってくれれば幸いだが、そう上手くいくなどと期待してはいけない。相手は誰あろう、あのリニスさんだ。俺が前回やったことでこの対処法を思い出したのと同じく、リニスさんも一度弾角を捻じ曲げる俺の技を見ている。彼女もなんらかの対抗策を用意していると考えてまず間違いない。

 

 彼女相手では警戒しても、警戒し足りないことはすでに学習した。出し惜しみは、もうしない。使える手段はすべて使う。

 

「それは以前、一度拝見しました。二度目ではただの……曲芸です」

 

 予想通りと言うべきか、リニスさんの銃口()身動(みじろ)ぎもしないで俺に合わさったままだった。自身に帰る誘導弾など目に入っていないかのように、自分から逸れるように誘導弾を操作することもなく、回避行動も取らなければ、防御しようとする気配もない。

 

 どこまでも自然に構え、そして撃ち放った。

 

 矛先を変えていた誘導弾は、リニスさんが発動させた砲撃に呑まれ、跡形なく呆気なく、溶けるように消えた。

 

「砲撃で自分の誘導弾を消し飛ばす……そんな対処法があったのか」

 

 誘導弾を砲撃で塗り潰す。弾道を逸らしもせず、躱しもせず、防ぎもしない理由がこれ。攻撃と防御を兼ねた一手。実に単純でかつ、男前なやり方である。

 

 さすがに砲撃ともなると、障壁の一枚や二枚では身を守る盾どころか時間稼ぎにもならない。消費魔力には目を瞑り、多重障壁群『魚鱗』にて防ぐ。

 

 ずたぼろになったとはいえ、一応はなのはのディバインバスターすら受け切った技だ。発動スピードに重きを置いているリニスさんの砲撃なら、防ぐことは可能だ。

 

「溜めの時間と破壊力が……相変わらず比例してないな……っ」

 

 障壁群に遮られ、リニスさんの淡褐色の砲撃は魔力粒子の飛沫を散らす。

 

 いくら射撃魔法よりエネルギー量があるとはいえ、威力も照射時間もなのはのアレを下回っている。リニスさんの砲撃は、『魚鱗』の第一層目を剥ぎ取って第二層目を焦がしたあたりで終息し、俺はなんとか無傷で防ぎきることに成功した。

 

 戦闘開始から防戦一方で攻められっぱなしだが、そろそろ攻勢に転じさせてもらう。リニスさんの持っている攻撃手段と攻め方の傾向から、次の動きを先読みする。

 

 射撃魔法の軌道変化に神経を擦り減らしたし、砲撃への防御で魔力も刮ぎ取られたのだ。このあたりで一矢報いなければ気が済まないし、それ以前に守るだけではジリ貧もいいところだ。

 

 攻守を切り替えるための切っ掛け作りに使えそうな手を、俺は持っている。出し惜しみはしないと決めた。ここで、打って出る。

 

「防がれることは予想していましたよ」

 

 背後からのリニスさんの声。

 

 砲撃を放ったのは囮。俺に障壁を張らせて足を止めさせ、その間に防いだ反動で身動きがとれない俺の背後へ回り込み、無防備なところを仕留める。そういう算段だったのだろう。

 

 腕を突き出して障壁を展開した状態で、背後から振るわれるリニスさんの攻撃を速やかに防ぐなんてできない。振り返って身体のどの部位を狙われているか察知して防御行動に出るより、リニスさんが破壊力満点の杖を振り下ろすほうが早いに決まっている。

 

 前回の戦いでこんな状況になっていたら早々に俺は討ち取られていただろうが、今の俺には両の拳以外にも武器があり、そしてリニスさんのその行動は読めていた。

 

「これで終わ……ぁっ」

 

リニスさんの言葉を遮ったのは、鈍く響く爆発音。すでに発動させて背に隠しておいた魔法が、リニスさんと接触して爆ぜたのだ。

 

「くっ……。一体、何をしたのですか? 攻撃できる体勢では……なかったというのに」

 

 俺が振り返ってリニスさんの姿を捉えた時には、数メートルほど離れた位置で腹部を押さえて苦い顔をしていた。正体不明のカウンターを受け、追撃を避けるために後退したといったところか。

 

 気にせずそのまま攻め入っても問題なく思える場面で、危険を察して速やかに距離を取るのはリニスさんらしい判断だ。

 

「そう易々と教えるわけにはいかないな。そっちと違って、真っ正面から勝負ができるほど魔法って分野に熟達してないもんで」

 

「……前回戦った時にはなかった戦法ですね。身体は動かなかったのに私に攻撃を加えたところから、体術ではなく、別の系統の技術、あるいは魔法であると考えた方が自然ですか……」

 

「あんまり深くは考えないでほしいな。すぐ答えに行き着かれたら本当にどうしようもなくなる」

 

「常に攻撃媒体を背後に潜ませていた、と推測するのは、あまり現実的ではありませんね。徹は保有魔力にゆとりがありませんし、魔力の効率的な運用の面から判断して、そんな浪費は避けるはずです。となれば、直前に準備したということに他なりません。裏を返せば、私の動きを読んだということでもあります」

 

 リニスさんは魔法のバリエーションが豊富だ。遠距離から近距離、相手の動きを止める拘束、牽制から、一撃で相手を墜とせるような大技まで持っている。しかも厄介この上ないことに、そのどれらもが高いレベルに至っている。

 

 このようにリニスさんの情報を列挙してしまうと付け入る隙間なんて皆無なように見えてしまうが、やはりそこは頭で考えて動く人間。個人の性格や得意とする魔法に左右され、戦い方にはある程度偏向性がある。

 

 偏向性、つまり偏りがあるということだ。注意深く観察し、あとはひたすら努力すれば次の行動を読むこともできなくはない。

 

 射撃魔法と比べると僅かとはいえ溜めの必要な砲撃魔法は、相手が油断している時、隙のある時、もしくは他の魔法とのコンビネーションの締めで使うことが多く、単発で使用する頻度は高くない。蜘蛛の巣のように張り巡らせることも可能な拘束魔法は、基本、標的が動いている時か、もしくはトラップとして使う。俺が足を止めている時に使ってくることは稀だ。

 

 他にも幾つか傾向は掴んだが、今回重要なのは、決して遠距離から狙い撃つだけではないということ。俺の攻撃手段が近接格闘しかないとわかっていても、それでも一定の割合で接近戦を仕掛けてくるのだ。

 

 普通であれば、『相手が近接格闘しかできないのなら、遠くから射撃なり砲撃なりで戦かったほうが安全で手っ取り早い』と、そう考える。実際に、これまで何度か魔導師と干戈(かんか)を交えたが、俺が近距離でしか戦えないと知るや否や、射撃魔法などの遠距離攻撃に重点を置くようになった。

 

 あながちその考え方は間違っているわけではないのだろうが、しかし俺にとってはそこが勝機と成り得る。相手に射撃もしくは砲撃魔法を使わせるように行動を制限させることができれば、あとはその魔力弾の雨を躱して接近さえすればいい。相手が近づいてこないという条件一つが加わるだけで、動きの予測範囲はかなり狭められる。トータルの能力で劣っていても勝つ見込みが生まれるのだ。

 

 けれど、リニスさんはそうした安易な戦法を取りはしない。遠近を使い分けて攻め立てる。

 

 最初は距離を取り、俺が詰めようとすれば機先を制する形で封じ、接近する。有効打が入ろうと入らまいと、数合打ち合えばすぐにまた間隔をあけ、射撃・砲撃で削る。得意分野であるはずの格闘戦でも手も足も出ずに攻められ続けることで焦燥が燻り、思考は単純になり、結果リニスさんの手のひらで踊ることになる。

 

 そうした相手の苦手とする分野だけでなく、得意分野をも加味した試合運び、否、戦運びが、リニスさんは卓越していた。

 

 気付かなければじわじわと沈んでいく底なしの沼。しかし、ピンチも気付くことができればチャンスへと変貌する。

 

 リニスさんが接近戦を仕掛けるタイミング、パターンを知れば、迎え撃つことも可能なのだ。

 

 俺自身精神状態が不安定だったためあまり記憶が鮮明ではないが、前回の戦闘の終盤では頭に血が上ってしまい、手負いの獣が如くリニスさんに襲いかかった。あの状態の俺を憶えているリニスさんは、絶対に万全の態勢を整えた俺には近づかない。逆説、俺に肉薄する時は、意表を突くか、あるいは攻撃を重ねて即座に反応できない瞬間を作り出してから、となる。

 

 その前提条件さえわかっていれば、用意した空間にリニスさんを誘い込むことは、容易くはないにしろできなくはない。リニスさんの策略に乗っかり、障壁を展開するなりして足を止めれば、彼女は、最も反応し難く、反撃し辛い背後に回ってくれる。

 

 だから俺は狙い澄ましたかのように的確に、リニスさんを迎撃できたのだ。

 

 だがこの戦い方も、所詮はすぐに対応される回数制限つきの策、底の浅い知恵。いわば水物でしかない。

 

 何度も繰り返して同じ方法を使っていれば、その内彼女にも悟られ、必ず逆手に取られることになる。現に彼女は奇襲にカウンターを合わせられたことの真相に、早くも感づき始めている。

 

 さすがにあの一手のみで解答を導き出すことはできていないようだが、それも時間の問題と言えるだろう。彼女ほどの玄人相手に、同じ手は何度も使えない。

 

 相手よりも能力的、技術的に劣っている俺は、常に頭と身体を動かし続けなければ、この戦い、すぐに詰められることになる。反撃できたからといって油断も慢心もできはしない。

 

 思えば俺が相手にする人たちは全員が全員俺より格上だったのだから、気を緩めることも手を抜くこともできたためしはなかった。なんてことはない、今回もいつも通りということだ。

 

「まったく……どこまでも冷静だな。『てへへっ、失敗失敗!』って感じで軽く流せばいいだろ。たった一発喰らっただけだってのに」

 

「そんなセリフ、私が言っても違和感しか残らないでしょう。私のキャラじゃありません」

 

「それもそうだな。そういうのはなのはかフェイト、もしくはアルフあたりに任せようか」

 

「……すんなり引くのも、ちょっとひどいですね」

 

 リニスさんは一言二言呟くと、被弾した箇所をぱぱっ、と払い、杖を構える。中断してしまった戦闘の仕切り直し、といった風だ。彼女に合わせて俺も拳を握り、構えた。

 

 距離があるからか、少しばかり余裕がある表情でリニスさんは俺を見据えている。

 

 先ほど受けた一撃の正体にはまだ見当はついていないけれど、攻撃されたのは近づいた瞬間だったことから、離れた位置ならば使えないはず。おそらくリニスさんはそう考えて、距離を置いてこちらの様子を窺っている。

 

 ずっとそうやって思考を誘導してきたのだから、彼女がそう思うのも仕方はない。

 

「リニスさん、まだ俺の交戦範囲(インレンジ)が近距離だけだと思ってたら、大怪我するぞ」

 

「威勢の良いことを言いますね。例の移動術は頭に留めておかなければいけない注意点ですが、どれだけ素早く接近しようと私の反応が遅れることはありませんよ」

 

 雑談が挟まったことで空いた、少しの時間。リニスさんからしてみれば、正体不明の反撃がなんだったのか、会話の内容から当たりをつけたかったという意図もあったのだろう。

 

 しかし俺とて、彼女の狙いに気づいていながらなにもしなかったわけではない。戦況は変わらず不利なままである俺が、なんの打算もなく、むざむざ手も足も止めて情報を開示するだけなんてことをするわけがない。

 

 弱者には弱者なりのやり方というものがある。魔法の仕込みは既に済んでいる。

 

「人間は進歩する生き物だ。自分の弱点を理解しているのに、同じ場所で足踏みしているわけないだろ。記憶(データ)を更新しとくことだな」

 

「なにを言って……」

 

 彼女とは未だ距離が開いたままで、俺は左腕を振りかぶり、シャドーボクシングでもやるように拳を振るう。目の前に相手がいたとしたら、相手の頭を揺さぶるような左フック。

 

「どういうつもりで……つっ!?」

 

 俺の行動に困惑するリニスさんは、突然右頬に痛打を浴びたように、俺の動きに同期してよろめいた。

 

 リニスさんは当惑をさらに深め、信じられないものでも見るような目で、俺を見る。

 

「リニスさんのターンは終了。こっからは俺のターンだ」

 

 実力的にはなにも変化はない。スペック上では依然としてリニスさんが上位に位置し、俺は遥か下位を彷徨(さまよ)っているだろう。

 

 しかし人間たるもの、コンディションやモチベーションによって発揮できる力は変動する。いつだって能力の百パーセントを引き出せるというわけではない。

 

 逆に言えば、条件次第で実力の百二十パーセントを引き出すことも可能なのだ。

 

 真っ向勝負で正々堂々戦えるだけの力があればそれに越したことはないが、哀しいかな、そんな力に縁がない俺は小狡く小賢しい策を弄して、条件を整える必要があった。

 

「毎回毎回……頼んでもいないのに驚かせてくれますね、この人間びっくり箱は……」

 

 リニスさんは衝撃が走った頬を押さえつつ、貶しているのか褒めているのか判断し難い評価を俺に下す。苦虫を噛みつぶしたような顔で歯噛みしていることから、どうやら俺にとって悪い意味ではないようだ。

 

 リニスさんの脳内は疑問、混乱、戸惑いの坩堝(るつぼ)と化した。俺が施したのは、なんてことはない、ちんけな張りぼての魔法だ。

 

 かすかな謎と念入りな仕込み、オーバー気味なジェスチャーに含みを持たせる言い回し。これだけで、本来の効果を何倍も引き上げることができる。

 

 『とっておき』を披露する時に重要なのは、使うタイミングより、魅せるための演出である。

 

 底知れなさを醸出させれば、用心深い人間ほど誤解し、勘違いしてくれる。張り子の虎も、気づかれなければ虎なのだ。

 

 俺は動揺の色が滲み出ているリニスさんの瞳を見詰め、静かに言い放つ。

 

「主導権、もらったよ」




以下、更新が遅れたことに対する理由……言い訳です。

僕の計算では、最後の戦闘シーンなので多少は長くなるだろうと思っていましたが基本的にリニスさん戦はすぐに終わるだろうと高をくくっていました。なのでリニスさんとの戦闘を書き終えたら一気に投稿しよう、と考えておりました。しかし、予想外なことが起きました。

終わらない。

リニスさんとの戦いが終わらない。へたに自分の中で決めてしまった以上、中途半端に投稿するのも気持ちが悪く、結局こんなに時間がかかってしまいました。
待っていてくださった人がまだいてくださるのかはわかりませんが、大変申し訳ありません。
ですが、ここからは連続で更新できるかと思います。もはや『リニス編』と銘打っても間違いではないくらいに長くなってしまいましたが、それでも「まぁ、付き合ってやるよ」という寛容なお人がいらっしゃればぜひもうしばらくお付き合いくださると嬉しい限りです。
長々とお目汚し失礼しました。


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イエローランプ

 リニスさんは今、冷静さを欠いている。間をおけば、俺のやっていることが悟られるかも知れない。

 

 攻めるのならこの瞬間しかない。こんなチャンス、またあるかどうかわからないのだ。唯一無二の勝機、逃してはいけない。

 

「おらっ!」

 

「そう何度もっ……」

 

 右腕を振りかぶり、突き出すモーション。対象が数メートル離れていることを除けば、いたって普通の右ストレート。

 

 リニスさんは障壁を展開し、防ごうとする。しかし――

 

「ひゃぅっ! …………障壁もまるで効果なしですか。不可解極まりない……」

 

――防ぐことはできない。

 

 リニスさんは思いの外可愛らしい悲鳴を上げながら上半身を仰け反らせ、悔しげに呟いた。

 

 彼女は赤くなった鼻をさすりながら、俺に涙で潤んだ瞳を向ける。

 

「女性の顔を狙うなんて、理解に苦しみます」

 

「人の顔面に砲撃ぶち込もうとするよりよっぽど良心的だと思うけどな、俺は」

 

 彼女の防御行動ではっきりとしたことがある。彼女はまだ、俺の攻撃のからくりに気づいていない。

 

 この流れでいけば、やれる。そう確信した。

 

「休ませる時間も、作戦を組み直す時間も与えはしない」

 

 次いで繰り出すは右フック。

 

 これでリニスさんの動きを誘導する。

 

「横からならばっ……」

 

 リニスさんは一歩後退し、上半身を反らせる。

 

 目に見えず、その上防ぐことができなくても、回避することはできるはず。一〜二回の攻撃でそのように見当をつけたのは、さすがと言うべきなのだろうが、俺の本命はもう、そんなちゃちな『牽制』じゃない。

 

「がら空き、だな。さっきのお返しだ」

 

「……根に持っていましたか」

 

 リニスさんが不可視の拳撃(・・)に気を取られている間隙を突き、一息で『襲歩』による接近を行う。

 

 戦闘開始直後の彼女であれば、俺が近づけば素早く反応しただろう。下手すれば杖による迎撃まである。

 

 しかし現状の彼女は平静を失っている。自分の動きを読まれ、目視不能にして正体不明の攻撃に苛まれ、本来の動きができていない。

 

 だからこうも容易く、格闘戦が可能な領域にまで俺が踏み込むのを許したのだ。

 

 これは少々、望外の成果である。俺が思っている以上にリニスさんは動揺しているし、俺が思っている以上に効果があった。とうとう俺にもつきが回ってきたようだ。

 

「ふっ!」

 

 短く気合の息を吐き、左の拳でリニスさんの脇腹を狙う。

 

「見えるのなら、防ぎます」

 

 鈍い音が響く。目標にミートする直前、硬い壁に阻まれる。淡褐色の障壁が俺の拳を受け止めていた。

 

 もしかしたら通るかも、などと淡い期待は多少あったが、まあいい。防がれても大した支障はない。元より俺の接近戦は一撃目は仕込み、二撃目が本命なのだ。

 

「失念していました……徹にはこれがありましたね……っ!」

 

 障壁に触れている左手から魔力を流し込み、障壁の術式へと介入する。

 

 いくら障壁が外的衝撃には強くとも、内側からの破壊には強くない。

 

 さしものリニスさんといえど、ハッキングへの対策はできなかったようだ。もっとも、俺にしか意味のない対策にどれほどの有用性があるのかはわからないが。

 

「俺の戦い方はこれ(ハッキング)があってなんぼだからな。もう手慣れたもんだよ」

 

 彼女の術式に細工を施し終わり、障壁の表面を爪で引っ掻きながら左手を離す。ただそれだけで、体重と気合を込めた拳撃を受けてもびくともしなかった障壁に傷がついた。

 

 左足を軸足にし、腰を捻り、力を右足に伝えて蹴り抜く。息つく暇は与えない。

 

 砲弾を至近距離から受けてもひび一つ入らないのではと思うほど堅牢な障壁は、俺のたった二回の攻撃でプレパラートよりも簡単に砕け散った。

 

 俺の蹴撃は障壁の影響を一切(こうむ)ることなく、リニスさんへと吸い込まれる。

 

「っ、くっ……」

 

 彼女は被撃する寸前に、自分と俺の足の間に杖を挟み入れて盾の代わりとした。蹴りの衝撃の殆どは緩衝材役となった杖が受け持ったらしく、リニスさんは二〜三メートル程度身体を流されただけで、特にダメージはないようだ。

 

 俺の渾身の一発を直撃した杖も、傍目には傷一つ入っていなければ軋む音すら立たせていない。そう簡単に壊せない、と言っていた彼女の弁は事実だった。その杖があればもう障壁いらないんじゃないかな、などと頭の片隅で割と真面目にそんな感想が浮かんだ。

 

「後手に回ると手に負えませんね……」

 

 俺の攻勢を受けたリニスさんは一度仕切り直すためにか、床を強く蹴って後方へと下がった。

 

 距離を取られて遠距離攻撃に移行されれば、また必要以上に魔力も体力も削られてしまう。砲撃に関しては、まともに直撃すれば一発で沈む可能性まであるのだ。なにがなんでも張り付いて、近距離戦を維持すべきである。

 

 後退するリニスさんを追う形で俺は足を踏み出すが、ハプニングが生じた。

 

「かっ、はっ……っ! 後ろからでも可能でしたか、迂闊でした……っ」

 

 彼女は突然、背中をハンマーで殴られたかのように仰け反った。

 

 リニスさんの背後に回り込ませておいた『仕込み』の一つが、彼女の背に触れて起爆したのだ。

 

 接近することに集中するあまり、『仕込み』の位置を把握し損ねていた。いくら自分の魔法であっても、『仕込み』の姿を視認できないのは俺もリニスさんと同じ。攻勢に出ている今だからこそ、目の前の事のみに意識を傾け過ぎるのは禁物だった。

 

 猛省すべきミスではあるが、これは願ってもいないチャンスだ。

 

 リニスさんはバックジャンプの途中で背後から爆破を受けた。後退する足が止まった上、予想外の一撃で体勢も崩れている。

 

 追撃するのに、これ以上ないタイミングだ。爆発を受けた直後、リニスさんは目を大きく見開かせて俺を注視したが、俄かに瞳を細まらせた。なにかに気づいたような仕草だったが、ここで動かなければ、本当にどうしようもないミスとなってしまう。失敗を取り消すことはできないのだから、せめて生み出された状況を利用するべきだ。

 

 リニスさんからのカウンターはこない。ここぞとばかりに、『襲歩』による急速接近を行い、懐にまで潜り込む。

 

「おぉっ……らぁっ!」

 

「っ! このっ……」

 

「このくらいっ、貫くぞ!」

 

 もはや反射のような速度で彼女は障壁を展開させたが、俺の手が届く限定的な範囲において、障壁や拘束目的の魔法などは万全の効果を発揮しない。

 

 障壁に触れたその瞬間からハッキングを開始。拳の周り、直径十五センチ程度の強度を脆弱化させ、もう一歩足を踏み出し、弱くなった箇所から突き破る。

 

 俺の拳は障壁を貫通。リニスさんは再び杖で防御しようとしたが、姿勢が乱れていたことからの遅れが影響して間に合わない。とうとう俺の攻撃が、彼女に通った。

 

「くぅっ……っ!」

 

 思ったよりも軽い彼女の身体は、上腹部を捉えた俺の一撃で浮き上がった。勢いは止まらず、くの字に折れた身体は後方へと流れる。

 

 ここで仕留めるという気概を持って、彼女に追い迫る。

 

 俺の足は、吹き飛ばされるがままになっているリニスさんへと向けているが、脳裏に言い知れない不快感が(よぎ)る。

 

 ようやく手応えのある一撃を与えることができた。なのに、晴れやかな気分にはなれない。

 

 いや、リニスさんと戦うことを望んでいないのだから、気分が悪いのは考えるまでもなく当たり前といえば当たり前ではあるのだが。

 

 そういう事ではなく、ダメージが通ったという感触はあったのに、未だにもやもやとした気持ちの悪い感覚が脳裏にへばりついているのが問題なのだ。

 

 攻撃自体に引っかかるところはなかった。リニスさんに隙が生まれた原因も、俺のミスから派生したチャンスだった。攻撃した側が驚いたくらいなのだから、攻撃された側はさぞ仰天だったろう。

 

 そこからも、俺の最高速で肉薄し、加速による慣性の力と魔力の恩恵による身体強化、加えて格闘術による理に(のっと)った一撃にも、なにもおかしく感じた点はない。

 

 ハッキングも必要な部分のみを弱くしたことで時間を短縮した。その甲斐あって、リニスさんの杖での防御が間に合わなかったのだから。

 

 彼女の身体に触れた感触はまだ手に残っている。薄い服の生地の下。柔らかく、しかし鍛えられた筋肉をこの手で打った感覚。華奢な彼女の身体を浮き上がらせた一撃が。

 

「軽……すぎた?」

 

 もやもやとした気持ち悪さの尻尾を掴んだ。

 

 軽過ぎたのだ、リニスさんの身体は。いくら細身で華奢だからといっても、肉体面における魔法の補助はあるのだし、彼女自身にも格闘術の心得はある。足が地から離れ、さらに数メートルも吹き飛ぶような威力にはならないだろう。

 

 ならなぜ、彼女は今実際に数メートルも打ち飛ばされるような状態になっているのか。俺が何かをしたわけではないのだから、要因はリニスさんしかありえない。

 

 俺の打突がミートしたその時に、リニスさんは後ろへと飛び退いた。

 

 そんな行動を取った理由は二つ、挙げられる。

 

 一つは勿論、威力の軽減。勢いを無理に受け止めず、後ろへと流すことで深刻なダメージを避けた。

 

 二つ目は、リニスさんの性格を考えればすぐに思いつく。人の心理の裏を突くのが巧く、数手先を読む策士で、そして案外負けず嫌い。そんな彼女が、意表外の攻撃を受けたからといって、されるがままになんてなるわけがない。

 

 これは、攻撃への、転換だ。

 

「やられっぱなしでは……少々腹に据えかねますので」

 

 リニスさんの鋭い双眸が、ぎらりと音を立てて輝いた気がした。

 

「攻める瞬間というのは、もっとも隙が生じやすい瞬間でもあるのです。見逃しませんよ」

 

 リニスさんは、くの字に曲がっていた身体をさらに折り曲げ、上半身が足にくっつくほど前屈させる。杖はいつのまにか背中に回されていた。

 

 彼女の身体の陰から姿を現したのは四発の魔力弾。

 

「くそ……迂闊だった」

 

 追い討ちを妨げるような四つの弾丸は真っ直ぐに俺へと殺到する。

 

 俺自身がリニスさんに近づいているので、魔力弾に自分から近づいているような構図だ。一度ついてしまった加速はすぐには止められない。

 

 距離を詰めるのに抜群の成果を叩き出す『襲歩』だが、唯一の欠点が、停止や方向転換が難しいこと。『襲歩』の技術を応用した急制動や鋭角機動の練習はしているが、いかんせん、まだ実戦で使える成功率は出せていないのだ。

 

 回避を試みるのはリスキーである。追撃は諦め、防御に徹する。

 

 四つの魔力弾の弾道を予測、弾道上に障壁を配置する。当然、そのまま障壁を展開したとしても触れた途端に貫通、もしくは爆砕されるのはわかりきっているので斜めに設置する。防ぐというより、弾いて逸らすことを主眼に置いたものだ。

 

 しかし、リニスさんは更に動きを見せる。

 

「高速機動状態での回避には幾つか危険性が潜んでいます。徹なら、リスクを避けると確信していました」

 

 リニスさんには、というよりも、行使者である俺にすら障壁が出現したのを視界に捉えることはできない。それでも俺が回避行動を取らなかったことで、彼女は俺が防御魔法を展開したことを察したのだろう。

 

 リニスさんは後ろ手に回していた杖を正面に持ってくる。その動きにリンクするように、魔力弾の弾道が変化した。障壁の手前で、くんっと曲がり、迂回する軌道を描く。

 

 四つの魔力弾のうち一つは障壁の端に触れて逸れたが、残り三つはまるで無色透明のはずの障壁がはっきりと見えているかのように、するりと回り込んで躱した。

 

「なっ!? 嘘だろっ!」

 

 今まで数え切れないほど防御魔法を発動させてきたが、これは初めての体験だった。突破、貫通、破壊は発動させた数とほぼ同じ回数経験があったが、視認できない障壁を躱すなどという前例はない。

 

 それもそのはず、射撃魔法や砲撃魔法なら俺の障壁ではほぼ破壊されるし、アルフのような格闘戦タイプなら触れた感触で障壁の位置がわかるので、その触感を頼りに薄い壁を突き破って攻撃を繰り出してくる。つまるところ、破壊・破砕が容易い障壁をあえて躱す意味や理由などなかったのだ。

 

 初めての出来事に加え、防げると考えていた魔力弾――ただの魔力弾ではなく、厳密には誘導弾だったわけだが――を防ぐことができなかったという不慮の事象に見舞われ、少なからず動転してしまった。

 

 そのような精神状況で満足に対応できるわけもない。彼女に接近された時用に自分の近くに用意しておいた『仕込み』で一つは相殺するが、残り二つへの対処は間に合わなかった。

 

 二発の誘導弾は直撃。一つは右の脇腹に突き刺さり、もう一つは左から回り込んで俺の横っ面を張り飛ばした。

 

「くっぁぁ……これは、効いた……」

 

 折角良い流れだったが、足を止めて復調を待つ。頭を揺さぶられたことで足元が覚束なかった。

 

 対するリニスさんは一度床を転がった後、手をつけすぐに立つ。

 

 彼女は俺の拳撃を受けた箇所、おおよそおへその上あたりをさすりながら、ふっくらとして柔らかそうな唇を開く。

 

「あら、随分ご機嫌な表情をしていますね。どうかしましたか?」

 

「ああ、まあそりゃあね。してやったと思ってたら、すぐさましてやられたんだから、そりゃあ多少はご機嫌を損なうよ。嫌味か。そう言うそっちも、随分顔色いいんじゃない? か弱い女の子要素がアップしてるぞ」

 

「それはどうも。誰かさんが女の子のお腹を(したた)かに殴りつけるなどという野蛮な真似をしてくれましたので、大変気分が悪いです」

 

 お腹を押さえながら、青白くなった顔でリニスさんは言う。一つ深く息を吐き、かすかに笑みを浮かべて、ですが、と続けた。

 

「あなたの見えない攻撃の尻尾を掴んだので、まだ少しは気が晴れました」

 

「…………」

 

 リニスさんの言葉に、俺は思わず黙り込んだ。軽口で返す余裕もなかった。

 

 一回だけ、たった一回だけのミスで、リニスさんは俺の『仕込み』がなんなのかを悟ったようだ。

 

「最初は驚きましたよ。身体の動きに連動した衝撃、距離を一切意に介さない打撃。もしや次元跳躍の類いかと肝を冷やしました。今ならわかります、あれはフェイクだったんですね。間違った答えへ導くための演出、といったところでしょうか」

 

「……そこまで引っかかってくれてたんなら頑張った甲斐もあるってもんだ」

 

 腹部に受けた痛みも薄れたのか、実に淀みなく、そして愉快気に彼女は語る。

 

「中身はなんてことのない、一般的な魔法。ですがそれに、徹の特異性と過剰なほど念を入れた演出が組み合わさったことで、誰も知らない新しい魔法のように仕立て上げられている。そこまで気を回したのは、私が魔法の正体に気づくのを遅らせるためですよね」

 

「勿体ぶらずに早く言えよ。中身に気づけたことが嬉しいってのはわかるけど」

 

 俺が急かすと、ほんの少しだけ頬を赤らめてリニスさんは咳払いした。恥ずかしいのを誤魔化すような仕草である。まったくもって誤魔化せてはいないけれど。

 

「誘導弾……ですね、間違いなく。魔力色が無色透明なのを利用して空中であらかじめ待機させておき、自分の動きのタイミングに合わせコントロールして私にぶつける。そうすれば、まるで遠くから殴りつけたように思わせることができる、というわけですね。違いますか?」

 

「あんまり嬉しそうに解説しないでほしいな。難しい問題が解けた子どもみたいで、なんか微笑ましい」

 

「おべんちゃらはいいです。どうなのですか?」

 

「おべんちゃらって……。ああ、そうだよ、使ってたのは誘導弾だ。それより、どこで気づいた? やっぱり背中にあたった一発か?」

 

「それが切っ掛けにはなりましたね。身体の動きに連動していなかったということと、あとはその時の徹の表情です。ほんの瞬く間でしたが慌てた様子でしたので。やはりあれはミスだったのですね。すぐに持ち直してミスを拾ったのは中々良かったと思いますよ。よく頑張りましたね」

 

「……そりゃどーも」

 

 やはり起点はあの失敗からだったようだ。堂々としていれば欺けていたかもしれないと考えると、少々悔やまれる。

 

 とはいえ、身体の動きとリンクしているというフェイクをあの時は使えていなかったのだから、ばれるのはやはり時間の問題だったのだろう。リニスさん相手にずっと隠し通せるとは、そもそも思っていなかった。

 

「あとはそうですね、徹の打撃にしては威力が低すぎることに疑問は抱いていました。その点からも次元跳躍の類いという線は消えましたね。見えない攻撃を当てられた直後は視界がぶれるほどのインパクトがあるのですが、身体の芯に残るようなダメージはなかったので」

 

「その言い方は……ちょっとばかりひどい、んだけど……」

 

「何か言いましたか?」

 

「な、なんでもない……」

 

 リニスさんの素っ気ない言葉に、おそらくはそこまで意識して放ったものではないであろう言葉に、俺の心はいたく傷ついた。

 

 不可視攻撃の『仕込み』に利用していたのは、リニスさんの言通り誘導弾だ。

 

 アースラでクロノに射撃魔法を教えてもらいはしたが、俺の素質ではそのままの術式で使っても意味がない。実戦で使える威力に至らなかったのだ。

 

 よって苦肉の手段として術式を書き換えた。必要な部分のみを最大限伸ばし、それ以外のパラメータは泣く泣く削った。その必要な部分というのが、誘導弾の威力に相当する項目であり、不必要な部分というのは弾速や誘導性能等が該当する。

 

 誘導弾の速度については相手にばれないようにゆっくり動かして近づけさせておけばなんとかなるし、誘導性能についても魔力操作によって向上の余地がある。

 

 しかし、威力については俺にはどうしようもない。潤沢に魔力があれば素質の多寡(たか)を補えるかもしれないが、それもないとなれば他を削って威力に魔力を充てなければ使い物にならないのだ。

 

 そうしてなんとか完成に漕ぎ着けた射撃魔法なのに、威力が低いと言われるとさすがにショックを隠せない。俺のセンシティブなハートはブレイク寸前だ。

 

「さて、どうしますか? 新調した武器でしたが、裏返せばどうということはない射撃魔法だったわけです。種が明らかになった手品も同然、脅威は消え去りました。まだ続けますか?」

 

「仕組みに気づいたところで、見えなかった弾丸が見えるようになるわけじゃない。使い用によっては、まだ有効だ」

 

「正体不明だったものが判明したのです。しかもそれが馴染みのある射撃魔法だったとなれば、気の持ちようは様変わりしますよ。どういうものかわかっていれば、耐えられないものではありません」

 

「はっ、それはどうだろうな。理屈がわかったからってすぐに捌けるようになるほど、単純ではないつもりなんだ」

 

「少々気疲れはするでしょうが、常に衝撃に備えて警戒しておけばどうということは」

 

 俺の『仕込み』、誘導弾を見破ったことで、リニスさんは落ち着きを取り戻した。先までと同じように射撃魔法を使っても、彼女は冷静に対処するだろう。接近する前の牽制で使っても、身体強化系の魔法を使っていればどうとでもなるし、衝撃の不快感に耐えされすれば魔法を使わずとも我慢できる程度の威力だ。彼女が勝ち誇るような表情を見せる気持ちもわかる。

 

「そこまで言うならいいよ、それじゃあ……」

 

 だが、種も仕掛けもバレて精神的揺さぶりの効果が半減したとしても、まだ応用はきかせられる。

 

 戦術のバリエーションがたった一つだと思うなよ。

 

「……試してみろ」

 

 勝負は決していないのに勝利を確信したような顔をされるのは、些か以上に気に障る。

 

 腕をまっすぐリニスさんへと伸ばし、魔法を行使する。使うのはもちろん、誘導型の射撃魔法。

 

 それを見て(・・・・・)彼女はその場から動きもせずに鼻を鳴らして冷笑する。

 

「あら、癪にさわりましたか? 怒りで演算が鈍ったのか、誘導弾が透明になりきれていませんよ」

 

 魔力も術式の計算も中途半端な誘導弾は半透明で、その姿を晒したままリニスさんへと直進する。

 

 最高速で操作してもその動きは(のろ)く、少年野球のピッチャーが投げた球のほうが早いくらいだ。リニスさんやクロノのそれと比較したら月とすっぽんなんてものじゃないくらいに、速度に差がある。

 

「ふふ、見えてしまえば拍子抜けもいいところですね、こんなに遅かったなんて。必要以上に恐れていた自分が恥ずかしいです」

 

 手元で杖をバトンのように回転させ、ぱしんと乾いた音を鳴らして握ると、リニスさんは杖を振りかぶってメジャーリーグのスラッガー顔負けの力強いフォームで振り抜いた。

 

 バットよりよほど硬質な杖に打ち据えられた半透明の誘導弾は、水に溶かした一滴の灰色の絵の具のように、空気に溶けて消えた。

 

「呆気ないものですね、これでどう戦うと言うおつもりで……かっ、ぁっ?!」

 

 左側面の胴体を打ちつけられたように、彼女は身体を揺らめかせた。

 

 俺は足に力を込めつつ、リニスさんへと語りかける。

 

「そうだよな。目の前からゆらゆらと近づいてきてたら自分に迫ってきているのはその一発だけだと思うよな。普通の魔導師同士の戦いなら魔法は目に見えるんだもんな。勘違いしちゃうよな。でもさ……」

 

 身体の筋肉を同時に駆動させ、その爆発力を地面に伝える。反発力が、俺の身体を押し出した。

 

「俺がそんな単純な攻撃だけで妥協するわけないだろ。ましてや、そんなもので満足するわけないだろ」

 

 人は頭ではわかっていても、やはり視覚からの情報を頼りにしている。いくら手品のトリックを暴いたとしても、目の前の情報に意識が引っ張られてしまうのだ。

 

 だから俺はあえて中途半端に生成した誘導弾を放ち、彼女の注意をそちらに向けさせた。あとはその間に、待機させておいた無色透明の誘導弾を彼女の周囲に忍ばせ、隙が生まれた箇所に移動し、起爆させるだけ。

 

 誘導弾に備えて構えられていれば耐えられない衝撃ではないが、隙だらけのところに入れられれば、ダメージはなくとも体勢は崩れる。

 

 弾の速度や誘導性能を殺してまで威力を、ひいては衝撃力を優先したのは、射撃魔法を主力として扱うためではない。あくまで俺の主力は、この両の拳。ここまで射撃魔法について勉強し努力したのは、接近する手段として利用するためにほかならない。すべては近接戦を有利に運ぶための、いわば布石なのだ。

 

「戦闘の継続になんら支障を与える威力ではない、ただ身体のすぐ近くで派手に爆ぜるだけ、です。なのに……いえ、だからでしょうか……甚だしく不快です……っ!」

 

「そう思ってもらえたなら恐悦至極だ。それが目的の魔法だからな」

 

「これほどまでにうざったい魔法を私は他に知りません!」

 

「それが目的とは言ったけど、ちょっと言い過ぎだよ」

 

 俺は『襲歩』による爆発的な前進力で彼女へと肉薄する。

 

 隙を突いて誘導弾を当てたとはいえ、怯ませられる効果は一瞬だけ。すぐに迎撃の態勢は整えられる。

 

 だが効果は彼女の体勢を崩すだけではない。重要なのはむしろ、内面。彼女から冷静さを取り払い、こちらのペースに引き込むことが狙いだ。

 

 リニスさんは俺の接近を素早く感じ取り、反撃の準備をしている。杖による打撃で、横薙ぎに俺を払うつもりだろう。

 

 このまま突き進めば俺の拳が届く前に、リニスさんの杖が振るわれる。

 

「策は二段構え、三段構えがセオリーだろ」

 

 彼女の反応速度も織り込み済みだ。

 

 一歩二歩手前、俺の手も届かないが、リニスさんの杖も届かない距離で急減速、静止する。

 

 これは高速移動術『襲歩』のバリエーションだ。身体よりも前に足を踏み出し、『襲歩』と同じように筋肉を同時駆動させて前に進もうとする運動エネルギーを相殺させる。急制動はまだ練習でも成功率が高くないので賭けに近いものがあったが、普段より多めに魔力を回して力技で物にした。

 

「こっ……んの……っ!」

 

 杖が届く範囲の寸前で停止したことで、リニスさんは振りかぶった杖の動きを止めることができずに空を薙いだ。彼女の裏をかけた喜びに浸りたいところだったが、鼻先数センチを通過した杖を見たら到底そんな気分にはなれなかった。

 

「ここで方をつけるっ……」

 

 リニスさんの迎撃をやり過ごし、攻撃に移ろうとした時、筋肉や骨が微かにみしみし、と軋みをあげた。

 

 動きに緩急をつけることで相手を翻弄できるんじゃないか、とも考えていた急制動だが、予想以上に身体への負荷が重い。ゼロから百への急加速をして、すぐさま百からゼロへの急制動では慣性抵抗が大きすぎた。なにか手を講じなければ、何度も使える代物ではない。

 

 そうでなくてもこの戦闘で身体を酷使しているのだ。あの軋みはおそらく、筋肉や骨や関節部といった身体の各部分からの悲鳴、イエローランプ。限界が近いことを表している。

 

 それでも軋む身体に再度魔力を通し直し、半ば無理矢理に動かす。今はまだ筋肉が断裂したわけでも、骨に異常を来したわけでもない。一時的な過負荷で体が強張っただけだ。限界が近づいているとしても、まだ、限界ではない。

 

 そんなことより、今目の前にあるチャンスに手を伸ばさなければ、また勝利が遠のく。

 

 そろそろ保有魔力の残量が危うくなってきているのを感じている。長期戦は真綿で首を絞めるのと同義だ。時間をかければかけただけ、元より少ない勝率が減少していく。これが最後の機会と言っても、おそらく過言ではない。

 

 もうチャンスはない。そういう気概で臨むべきだ。ここで全力を出し切る。後のことは、もうなにも考えない。

 

「……こっからは俺の全身全霊をかける。容赦も手加減もできないから、ギブアップは早めに頼むよ」



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悲しくて、悔しくて、辛くて、虚しくて、寂しくて、なにより痛かった

 リニスさんは渾身の力で杖を振るったことで重心が傾いている。カウンターを出される恐れはない。

 

 思い切って踏み込み、下から顎を跳ね上げるように拳を放つ。

 

「当たれば怖い……ですが、そのように強振ではやろうとしていることが見え透いて、います……」

 

 身体ごとくるりと回転して背けることで、俺のアッパーを躱す。

 

 彼女は一回転したその身体の流れのまま、床を蹴って飛び退る。

 

 俺との間の、わずかばかり生まれた間隙を利用し、杖を突き出して彼女は魔力弾を展開させる。

 

「この距離で、躱せますか?」

 

 一秒の半分も経たぬ間に作り出した射撃魔法は三発。俺に動く暇も与えないと言わんばかりに、展開した三つの魔力弾の(くびき)を解き放つ。首輪を外された飢えた獣のように、三つの射撃魔法は淡褐色の尾を引いて俺の血肉を貪らんと突進を開始した。

 

「っ…………」

 

 この浮足立ちそうなほど至近距離の光景を、俺は目を見開いて注視する。

 

 術式の演算、魔法の展開、射撃魔法自体の初速も途轍もなく速い。これだけなにもかも速いというのに、頭数も三発と少なくない。

 

 だが、その速さと数が、この魔力弾がどっちか(・・・・)を決定付けるヒントになる。

 

「…………直射、型……」

 

「っ?!」

 

 魔力弾の向こう側にいるリニスさんの顔が驚愕の色に染まる。

 

 この時の庭園での戦いが始まってから、一度も見せていなかった直射型の射撃魔法。これも誘導弾だと取り違えていたら、防御も回避もタイミングを外される。ここまで誘導型ばかり使っていたのは俺にその速さを覚えさせ、ここぞという場面で直射型を使うためだったのだろう。

 

 布石を置いて相手の動きを誘導するその読みの深さ、神算鬼謀には舌を巻く。

 

 だが、あえてここは回避には回らない。回避して遠回りすれば、必ずリニスさんは次の手を打つ。零距離以外でなら手数が多いのは向こうなのだ。

 

 彼女への道を遮る障害が魔力弾三つなら、いくらか被弾してもこのまま距離を詰めるべきだ。次近づこうとした時は、遮る壁が砲撃に変わっているかもしれないのだから。

 

 リニスさんへの最短距離を中央突破。その最短ルート上にあるのは三発の魔力弾のうち一発。

 

 左腕に魔力付与を多めに回し、腕のすぐ上に障壁を展開させる。腕を盾の代わりとし、俺は突貫した。

 

 誘導型ではなく、直射型の射撃魔法なら弧を描いて背後から襲ってこられる心配もいらない。腕に走る痛みだけを、覚悟すればいい。

 

 展開した障壁を破り、腕に纏った魔力付与の上に着弾。着弾時の爆煙を切り裂き、リニスさんへと肉薄する。

 

「この距離から……逃がしはしない」

 

「ひぅっ……っ、こ……このっ」

 

 左腕から伝播する衝撃と焼けるような痛みを呑み込んで、拳を振るう。

 

 さっきの一合で学習した。一発躱されただけで、ほんのわずかな攻撃の隙間を縫って彼女は距離をあける。

 

 ならば絶対に回避されてはいけない。直撃させることができれば重畳。でもそれができないのなら、最悪でも防がせることが必要になる。足を止めて防ぐのなら、そこからまた攻めることができる。

 

 距離を置かせない。それが、俺が生き残れる唯一の可能性。攻撃の嵐から身を守るための、たった一つの安全地帯。

 

「シッ!」

 

「かっ、ぁうっ……」

 

 下から掬い上げるように放たれるボディブローが、リニスさんの細い身体に突き刺さった。

 

 威力は物足りなくても、溜めの短いコンパクトな一打。これでいい、今はこれで充分なのだ。彼女が退く時間も、魔法を使う余裕も与えなければ、それでいい。

 

「この近さなら、魔法など使わなくともっ……」

 

 姿勢を低くして懐に潜った俺の頭部を狙い、リニスさんは手に持つ杖の柄の部分を振り下ろそうとする。

 

 相手が間近にいるのなら、先端の球状部分を当てにいくよりも柄で攻撃したほうが遥かに動線が短く、動きがスムーズだ。俺でもそうする。リニスさんなら、絶対にその行動を取ると予想していた。考え方の傾向が似ている彼女が相手だから、俺は次に取るだろう手が読める。

 

「そう。そうくると思ってた。だから、置いた(・・・)

 

 爆発音とともに、彼女の呻き声が小さく聞こえた。髪が爆風ではためく。

 

 杖を握るリニスさんの右腕。その動きの起点となる箇所に誘導弾を仕込んでおいた。

 

 以前に鮫島さんから教えられた、というより身体に教え込まされた神無流の技『不動』を元に考案したもの。身体を動かす時、人は無意識に重心を移動させている。その重心移動の邪魔をすることができれば、人は満足に動けなくなる、という原理だそうだ。

 

 とはいえ、俺は鮫島さんほど完璧に動作の始点を捉えることはできない。『不動』という技は、鮫島さんのように長年の経験から(もたら)される感覚性の先読みと、相手が動く前に先んじて制する攻撃速度があって初めて成立する。

 

 それらを違う要素で補っているとはいえ、鮫島さんのように相手の動きを完全に停止させることはできない。できないが、それでも一向に構わない。不完全だとしても動きを阻害できたり、勢いを削ぐことができればそれでいい。なによりも恐れなければいけないことは、攻撃を受けて意識が途切れたり、足が止まることなのだ。

 

「こんなちゃちな曲芸で、止まりはしません!」

 

「止まりはしなくても、動きは鈍ったな」

 

 一直線に振り下ろされるはずだった杖の柄による打撃は、俺の誘導弾に阻まれたことによって速度は落ち、軌道はぶれた。

 

 俺は即座に動き、リニスさんの一突きを避けると同時に背後に回り、ボディブローを叩き込んだ箇所とほぼ同じところに膝を入れる。膝蹴りの威力を受け流すことはできなったのか、確かな手応え――この場合、足応えと呼ぶべきか――を感じた。

 

「がっ、は、ぁ……っ、ぅ……」

 

「…………」

 

 続け様に同じ部分に喰らったためか、リニスさんは被撃箇所の脇腹を押さえてよろめいた。口元は苦痛に耐えるようにきつく閉じられていて、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

 

 リニスさんの苦しそうで、焦った表情を見て、俺の中で二つの心が鬩ぎ合う。このまま集中し、反撃にだけ気をつけて攻めれば押し切れる。そうやって闘争心を焚きつける心と、リニスさんたちを助けようとしているのに、当の本人を打擲(ちょうちゃく)して苦しめているという矛盾を糾弾(きゅうだん)する心。

 

 どちらが正しいとか、どちらが間違っているとか、そんなことはもう俺に判断できない。どちらを選んだとしても、自分に『俺は正しいんだ』と言い聞かせて正当化しているに過ぎないのだ。

 

 俺の案は、俺の願いはみんなで最大限の幸せを手に入れること。そのためにはリニスさんたちの協力が必要不可欠になる。だから協力してもらうために、俺の願いを貫くために、リニスさんと戦って、そして勝利してリニスさんに認めてもらわなければならない。

 

 ならばリニスさんを、今自分がやっているように苦しめていいのか。そう自分に問いかけた時、俺は『しょうがないから』とは言えない。考えようとしていないだけで、思考の隅っこに追いやっているだけで、行動の矛盾には気づいていた。助けるために、助けたい人を傷つけるという本末転倒も甚だしい矛盾に。

 

 この二つの相克する心は反発しあい、いずれ大きなエラーを生む。それがわかっていても、俺は問題を解決できない。二つを両立させる画期的な妙案が浮かばないのなら、いっそのことどちらかを選んでその心を、志を貫けばいいのに、それもできない。

 

 結局俺は、問題を保留にして思考の片隅に追いやって考えないようにしている。そうしないと、どっちつかずで動けなくなる。今はただ、勝つことだけを優先事項として掲げて拳を振るうしか、俺にはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 この空間において、本来遠隔攻撃として使われるはずの射撃魔法は、打撃のバリエーションの一つと化していた。

 

 極端に距離を詰め、隙の小さい拳撃や蹴撃で格闘戦のレンジから逃がさないように戦闘を運ぶ俺を見て、リニスさんは、下手に後方へ退こうとするのは逆に危険である、と判断したようだ。後ろに下がろうとする足を止め、白兵戦で応じた。

 

 魔導師だというのに至近距離で殴り合い、その上お互い使う魔法はごく限られている。身体能力を強化・補助する効果を持つ魔法と、近接技と化した射撃魔法のみ。防御魔法も拘束魔法も使わなくなっていた。

 

 リニスさんが障壁も魔力の鎖も発動させないのは、近さに依るものもあるが、俺には意味がないと理解しているからだ。

 

 俺の拳撃を障壁で防いでも、内部から切り崩されてすぐに突破される。仕込みに使っている誘導弾は見えないため、障壁を張ったところで無駄になる。拘束魔法を使っても結果は同じ、すぐにハッキングで(ほど)かれる。かえって魔法の行使に演算と意識を向けるぶん、手元が(おろそ)かになって危険性が増えるくらいだ。

 

 俺が障壁を張らない理由は、彼女のそれより単純かつ明快だ。防御に割く余力があるのなら、攻撃に割く。ただそれだけである。

 

 魔力付与による身体強化の恩恵で、攻撃のみならず身体の耐久性も向上している。たとえいいのを何発か貰っても、歯を食い縛って我慢すればなんとかならなくもない。根性論ではあるが、痛みを堪えるだけの気力を維持できていれば、戦闘は続けられるのだ。

 

 つまりは防御魔法すら切り捨てて、攻めに徹している。

 

 捨て身の特攻、短期決戦。そう表現すればまだ聞こえはいいが、この行動には切羽詰まった理由がある。

 

 もう、防御に充てるだけの魔力すら、心許ないのだ。

 

 格闘術の心得はある。しかし、それが通用しているのは、魔力付与という身体能力の底上げがあってこそだ。身体強化すらできなくなってしまえば、魔法を使われるまでもない。リニスさんのジャブ一発で呆気なく沈む。悲しいかな、それについては自信がある。生身の身体で戦えるような世界でないことは論を()たない。

 

 一合また一合とやり合う間にも、俺の魔力的タイムリミットと余命は刻一刻とその数字を減らしていく。

 

 魔力を節約するために気合と痩せ我慢で穴を埋めようとしているが、それでも終わりは近い。底は見えている。

 

 死と絶望の断崖絶壁一歩手前みたいな状況だが、望みはある。

 

「かっぁ……っ、こっ……ちょこ、まかと……っ!」

 

「随分苦しそうだな、息も上がってるし。早く認めてくれたら、俺もこんなことしないで済むんだけど。心が痛いよ」

 

「……殴られ……ている、わたっ、しのほう……がっ! 絶対、痛いです……!」

 

 リニスさんの表情の変化が、強がりを維持できている希望だ。もうすぐ勝てる、そう思えるから全身を苦痛に苛まれながらも踏ん張れている。

 

 リニスさんは魔法戦において遠近問わず卓越しているし、格闘戦に関しても秀抜した腕を持っている。アルフの先生役を務めていたのだから、そのほどは窺い知れる。

 

 しかし、そのリニスさんを俺は圧倒、とまでは口が裂けても言えないが、互角か互角以上に渡り合えている。この距離に入ってからの被弾率は、俺よりも彼女の方が多いのだ。

 

「それなら早く……俺に協力するって言ってくれよっ! 頼むから!」

 

「がっ……ぁ。ふっ……っ! 本当に……もうっ。しつこい、鬱陶しい……。ずっと密着してきて少しも離れない。何度打っても顔色一つ変えずにまた迫ってくる……あなたはゾンビですか。もう人間ではないですよ……」

 

 俺の一打を浴びて瞳の奥の光が消えそうになったが、リニスさんは息を一つ吐いて持ち直す。

 

 切れそうになった意識を再度繋ぎ合わせ、彼女は杖を横薙ぎに振るう。俺がそれを屈んで躱せば、的確に身体の中心を狙い、蹴放(けはな)しを繰り出す。

 

「それでリニスさんに協力してもらえるなら、今だけは俺……人間じゃなくてもいいよ……」

 

 真っ直ぐに貫くような軌道の蹴放しは、繰り出してから相手に届くまでが早く、直撃すれば絶大な威力がある。だが横から払うような普通の蹴りとは違い、足を突き出して行うため、威力の高いポイントを上手く当てるのは難しい。そして直線的というのは、短時間で相手に届く利点があると同時に、見切られれば捌かれやすいという欠点でもある。

 

 格闘術を嗜む者にとっては常識の範疇だ。俺も武道を習っていた時分では、使う時には注意が必要だと教えられていた。実際にこの身に叩き込まれたのだから、その捌き方も頭と身体が記憶している。

 

 身体を左にスライドさせながら、左手で足の側面に触れ、軌道をずらす。左手で触れた蹴りの勢いを自分の後方に流しながら、その勢いも利用して自分の身体を半回転、遠心力を乗せた右の拳を相手の身体に叩きつける。

 

 幼い日の記憶だったが、身体は思った以上に機敏に動いてくれた。

 

「んぐっ……。もう……もうっ!」

 

 ほんのわずかな差でリニスさんの反応速度が勝り、俺の旋回裏拳は強靭な杖によって防がれた。

 

 彼女の持ち前の反射神経と動体視力によってクリーンヒットしなかったが、こういった展開が次第に増えてきている。リニスさんが攻撃し、俺が捌いて打つという展開が。

 

いくらリニスさんが近接戦においても並外れて優秀とはいえ、やはり魔導師だ。訓練する時間は魔法に関することの方が多いだろう。どちらか得意なほうを、自信のあるほうを選べと問われれば魔法戦を選ぶはずだ。

 

 それでも、使える魔法の大部分を封じられても、それだけならここまで俺に攻め込まれることはない。得意ではないといっても、決して不得意ではないのだから。

 

 天秤が俺に傾いている要因は、彼女の得物と交戦距離にある。

 

 俺はなるべくリニスさんから距離を取らないように、数字として表すなら一メートルも離れないように常に心掛けている。格闘戦にしたって近すぎるだろう、と自分でも思うが、この台風の目が最も安全地帯なのだ。

 

 この目と鼻の先の位置では、魔法を使うより、得物を振るうより、拳を突き出すほうがなによりも早い。

 

 もう少し離れれば、あとお互い一歩ずつでも下がれば武器のリーチを活かせるだろうが、このほぼ零距離では功を成さない。どころか、手が封じられる分邪魔なくらいだ。

それでも彼女は杖を手離さない。否、手離せない。殴打にも使えるとはいえ、デバイスなのだ。いざ砲撃などの大規模な魔法を展開させるに至った時、(デバイス)がなければ支障が出る。文字通りの意味で一撃必殺の威力を備えた魔法を行使するために、手元から離すわけにいかないのだ。

 

「……たくない、使い……ないのに……」

 

「……?」

 

 拳撃やそれを防御する音、踏み込みの際の地鳴りで掻き消されているが、リニスさんがなにかを呟いているのが、かすかに耳に届いた。

 

 思わず意識を傾けたその瞬間を狙ったのか、それともただの偶然なのか、リニスさんは魔力弾を目線より一~二メートルほど高い空間に作り出した。作り出されたそれらは、すぐさま俺と彼女の視線を縦に突っ切って床まで叩き落とされる。

 

 魔力弾の出現に寸時ばかり身構えた俺は、バックステップで距離を取るリニスさんに即座に反応ができなかった。

 

 魔力弾は床で爆ぜ、石材を撒き散らし、砂埃を巻き立たせる。一瞬だ。ほんの一瞬、だが完全に、リニスさんの姿が砂煙のカーテンで閉ざされた。

 

 常時であれば、確実にこの場を離れて様子を見るだろう。

 

 この向こう側でどんな恐ろしい(魔法)牙を剥いて(展開されて)いるか、想像するだけで足が竦みそうになる。できることなら離れて仕切り直したい。

 

 しかし、それは許されない。

 

 ここで離れてしまえば、近接戦で苦労を味わったリニスさんはなんとしてでも俺に近づかれないようにするだろう。空いた間をもう一度埋めるだけの体力は残っていない。魔力も、気力も、同じくだ。

 

 近い未来に避けられない死が、俺の後ろで手ぐすね引いて待っている。ならば、どんな恐怖が待ち受けていても前に進むしかない。いつだって希望は目の前にしかないんだ。

 

 リニスさんの後を追い、視界を遮る砂煙に踏み込む。

 

「……お願いします。これで……墜ちてください」

 

「地獄の底まで落とす気かよ……」

 

 カーテンの向こう側を覗けば、リニスさんが杖の先端を俺の眼前に突きつけている。明確な恐怖と考え得る限り最悪の悪夢が、(あぎと)を開いて待っていた。

 

 バックステップと同時に演算を開始していたのだろう。魔法は既に発動する時を今か今かと待っている状態で、杖の先端、球状の部分は淡褐色の輝きを溢れさせている。

 

 杖の先端の球体が光っているということは、射撃ではなく砲撃。命中すれば劣勢なんぞ容易くひっくり返せる威力を有している。一発逆転の大博打だ。

 

 ここで砲撃を放たれれば顔が焼けるとか溶けるとか、そんな温い次元の話では済まない。砲撃の直径によって誤差はあるだろうが、少なくとも首から上を綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれること請け合いだ。スタン設定解除プラスリニスさんの全力砲撃なら、そのくらいは保証できる。できてしまう。

 

 まさしく読んで字の如く、死という概念を目の前に突きつけられた。

 

 どうすればいい、俺の生存確率が高い選択はどれだ。

 

 命の灯火が消える瀬戸際になって、思考の回転速度はギアを上げる。視界が灰色に染まった。

 

 ここはセオリーに則って防御に徹するべきか。

 

 打開案が提出されるがすぐさま却下される。

 

 銃口は目の前数十センチだ。障壁なんて配置するには狭すぎるし、仮に張れたとしても今からではあまりにも時間的猶予がなさすぎる。展開できて通常障壁が三枚といったところ。角度変更型、もしくは密度変更型なら一枚か、いいとこ二枚が限度。どれにしても数秒も保たずに焼き払われるのが目に見えている。そもそも、ここで残り僅かしかない魔力を障壁に注げば、運良く防げたとしても後がない。数手の内にチェックメイトだ。

 

 ならば回避するか。

 

 これも現実的ではない。砂煙に突っ込んでしまったのが現状だ。重心は前方に傾いているし、足にも体重が残っていない。加えて、駆けたために片足は宙に浮いている。とどめには、杖の位置だ。ご丁寧に俺の顔の中央にエイムしている。多少身体を傾けたり、地に触れている片足で精一杯床を蹴っても、砲撃の範囲から逃げ出せるとは思えない。それ以前に、距離を開くことが死に繋がるから俺は踏み込んだのだ。ここでなんらかの奇跡が起こって回避に成功したとしても、結局展開は変わらない。

 

 誘導弾を当てて照準をずらすことができないか。

 

 無理だ、時間が足りない。誘導弾を仕込みとして使っていたのも、そうすることでしか威力をキープできなかったからだ。威力のみを優先し、弾速を二の次三の次どころかばっさりと切り捨てた俺の術式では、今更展開してもリニスさんの杖に届くまで時間がかかる。

 

 もう、打つ手はないのか。リニスさんの言葉に耳を傾けたあの瞬間で、運命などという曖昧ななにかが決められたというのか。

 

 こんなところで、全てが終わってしまうのか。

 

「――っ!」

 

 諦めない。絶対に諦めない。ここで俺が死んだら何が残るのだ。何を遺せるというのだ。

 

 息絶えるその瞬間まで頭を回せ。

 

 ジュエルシードと関わってから、魔法と関わってから、少なくない回数俺は戦ってきた。その戦闘の記憶から、なにか使えそうな手を引っ張り出せないか。

 

 思えば俺は、戦うたびに死にそうなくらい辛い目を経験してきた。相手は総じて格上ばかり。なのにハンディキャップの一つもない。まともに使える魔法といえば魔力付与くらいな俺がそのレベルの魔導師相手にやり合うには、この身を弾丸として素手喧嘩(ステゴロ)で突っ込むような、死に物狂いの戦い方のほかになかった。

 

 強者たちと渡り合うためには、自分が持っているもの全てを使ってもなお足りない。俺には手札が少なすぎた。

 

 相手に合わせ、襲い来る魔法に合わせ、その都度自分の持っている魔法を変化・適応させなければ、すぐに地に伏すことになる。単純に持っている手札を切るだけでは、乗り越えられないほど高い壁ばかりだった。

 

 一般的な障壁では展開した途端に撃ち砕かれるから、術式から見直して密度や角度を書き換えた。飛行魔法を使えないというディスアドバンテージは、防御魔法を応用することで克服した。相手の障壁の強度が高く、外側から破壊できない時にはハッキングで内側から脆弱にした。相手の砲火が激しく、諦めそうになった時は障壁を重ね合わせるという手段で切り抜けた。拘束魔法で縛り上げられれば、術式内部に侵入し耐久性を下げて引き千切った。射撃魔法に撃ち抜かれそうになれば射線上に障壁を配置して防いだことだってある。

 

 今でこそ、それらは集中さえすれば大した苦もなく行うことができるようになったが、窮地を脱する策を閃いた当時はまさしく、生きるか死ぬかの瀬戸際だったと言える。俺が今この場所に立っていられるのは、弱音を吐いても臆病風に吹かれても泣きべそかいても、それでもいつだって諦めずに前を向いて手を伸ばしたからだ。

 

 

 

     手を――伸ばす。

 

 

 

 極限の集中で視界がチカチカし始めたが、それに引っ張られたのかいくつかの情景がフラッシュバックした。

 

 初めて自分の意思で障壁にハッキングをかけ、素手で破壊した時。拘束魔法の術式を破壊して回って引き千切った時。

 

 戦闘の記憶だけではない。魔法を知ってすぐの頃の記憶も浮かび上がってくる。ユーノがデバイスの役割について説明してくれていた時のもの。

 

 最後の記憶は霞んでいてとても朧気だったが、ぎりぎりどういうシチュエーションなのか理解できた。砲撃が放たれている杖に向かって、俺が手を伸ばしている光景。

 

 フラッシュバックした出来事や記憶は、それぞれ一つ一つは時間も場所も状況すらばらばらで、統一性はなかった。俺の頭の中から無作為に数カットを選出した、と言われれば納得してしまいそうなほど関連性が見られない。

 

 なのになぜか俺は瞬時に、おそらく本能的に、あれらの記憶が示す意味に気づいた。

 

 俺は、手を伸ばす。

 

「何をしても無駄です。これで……終わりにしましょう?」

 

 伸ばした先は、淡褐色の光を辺りに散らす杖。

 

 彼女が何をしても無駄と言った通り、俺が触れても杖は微動だにしなかった。杖を握って照準をずらそうとしても無意味だと、そう言いたかったのだろう。

 

「きっと痛いとは思いますが、我慢してください。おやすみなさい、徹」

 

 だが、俺の狙いはそんなことじゃない。俺の目的は杖の身に触ることにあった。触れるだけで、よかった。

 

 疼痛を発し始めた頭に、もう少し踏ん張れ、とエールと一緒に鞭を送る。

 

 できるはずだ、きっと。これまでやってきたことが嘘じゃないのなら。

 

 リニスさんは杖を俺に向け、俺はリニスさんの杖の先端を握る。そんな構図が、数秒ほど続いた。

 

 砲撃は、放たれなかった。

 

「……? な、なぜ……なぜ砲撃が展開しないのですかっ?!」

 

「おやすみするには……まだ少し明るすぎる、かな……」

 

 俺はこれまで、いろんなものに自分の魔力を潜り込ませてきた。障壁等の防御魔法、魔力で編まれた鎖を巻きつける拘束魔法、果ては機械にまで。潜入する対象が魔法であれば、内部プログラムの破壊を目的とし、対象が機械であれば望んだ情報を直感操作的に閲覧していた。

 

 ユーノは言っていた。デバイスとは術者の代わりに魔法の演算を担ってくれるものであると。術式を記録、保管しておいてくれて、術者はその場その場でどの魔法を使うか選び、魔力を込めるだけでいい。術者の負担を軽減させるのがデバイスの役目だと。

 

 砲撃を防ぐまでの工程は、総合的に見れば、今までやってきたことの集大成みたいなものだ。

 

 魔法にハッキングして術を壊した。機械にハッキングして、欲しいものだけ抜き取った。そんなことができるのならば、相手のデバイスにハッキングして、必要な情報(砲撃魔法の演算式)だけを選び取り、それを妨害することだってできるはずなのだ。

 

 最後のフラッシュバックが示した意味は、なんてことはない。生きるために、死地に一歩踏み込む勇気を持て、ということだ。準備が整っていて、あとは号令を待つだけのデバイスに突っ込むのは、なかなかどうしてスリリングな体験だった。心臓の鼓動が頭にまで響くほど、緊張で心拍数が上がっていた。

 

「…………」

 

 発動前の砲撃を破壊することはできた。いや、発動していないのに破壊というのは少し語弊があるだろうか。言い直そう。砲撃の発動を阻害することに成功した。それにより、俺の命を(おびや)かしていた脅威は取り去ることができた。

 

 できたが、 デバイスの術式を覗き見て、俺は一つの疑問を抱くこととなった。リニスさんのミスなのか、それとも故意にやっていたのか、はたまた元から彼女のデバイスがそうなっていたのか、俺には知る由もない。きっとその理由を、俺は知らないほうがいい。今は、知ってはいけない。

 

 俺は鬱屈とした気持ちを肺に溜まった空気と一緒に吐き出し、拳を握りこむ。

 

乾坤一擲(けんこんいってき)の攻撃に失敗したリニスさんへ視線を合わせた。

 

「どう、して……っ、こんなにっ……」

 

 砲撃の発動を阻害されたことで、リニスさんは大きく動揺したようだ。呆然と目を見開いて、動きを完全に止めてしまう。

 

 このチャンスを、みすみす逃すことはできない。左手で杖を握ったまま、もう一歩、彼女の近くへと踏み込む。

 

 リニスさんの心はひどく揺らいでいる。揺らぎ過ぎている。一か八かの勝負だったのだから、失敗を嘆く気持ちはわからないでもない。闘志や誇りや決意を、あの一撃に込めていたのかもしれない。

 

 だとしてもだ。それらを考慮しても、彼女の動揺は深すぎる。杖に触れられ、攻撃を防がれたまでならまだ仕方ない。誰が魔法の発動を邪魔するなどという、頭のネジがぶっ飛んだことを予期できるというのだ。やらかした当の本人である俺ですら、数秒前まで思いつきもしなかった。だからその点については仕方ない。

 

 しかし、防がれた後も俺に杖を握られたままで、さしたる抵抗も見せず、更なる接近まで許した。

 

 冷静な判断や、的確な対処ができるような心理状態ではないことは理解できる。それでも、なんらかのアクションは起こせただろう。リニスさんなら、なにか反応はできたはずだろう。

 

 その不自然さが、俺の心に形容できない(おり)のようなものを沈ませる。

 

 もやもやとしたもどかしさはある。リニスさんの静かさも不気味だ。だが、すでに踏み込んで、重心は前方へと向けられている。引き返すことはできない。

 

 俺はリニスさんの胸のど真ん中目掛けて、拳を振り抜いた。

 

「がっぁ、……ぁ」

 

「なんで……っ!」

 

 何にも邪魔されることなく、俺の一撃は彼女の真芯を捉えた。一切の誇張はない。『何にも邪魔されることなく』である。

 

 体術で捌かれもせず、後ろに跳ぶことで威力を流されもしなかった。それどころか、身体強化の類いの魔法の気配すら、感じることができなかった。

 

 俺の手に残っているのは、薄い肉と細い骨を打った感触。倉庫での一戦を含めたリニスさんとの戦いで一番強く手応えを感じ、一番心が痛んだ一撃だった。

 

 俺の全力を浴びたリニスさんの身体は、まるで人形のようにふわりと地面から浮き上がり、殴られた勢いそのままに後方へと吹き飛ぶ。数メートル飛翔したところで、壁に背中を強く打ちつける。

 

 壁面に一本二本ほどひびが走った。細かな破片が落ち、床を鳴らす。

 

 壁際に追いやられても、リニスさんは攻撃の意思を示さず、背中を壁に預けて首を垂れていた。痛みはあるだろう、苦しくもあるだろう。だが意識を刈り取るほどのダメージではなかったはずだ。にも拘わらず、彼女は動こうとしない。

 

「…………ッ!」

 

 そんな彼女を見て、俺はどうしようもない遣る瀬なさを感じた。胸中に吹き荒れるこの感情を、どこに持って行けばいいかわからなかった。

 

「リニスさんッ! あんたはッ!」

 

 立ち惚けていた足を爆発させるように駆ける。視界の真ん中に彼女を据え、無心で接近する。

 

 攻撃されたらどう防ぐか、どう躱すかといった理性的な考えはなかった。理性的な考えもなにもない。頭の中は真っ白で、何も考えていなかった。

 

 いきなり勝負を捨てるような真似をしたのを見て、なにもかもを諦めたような振る舞いを見て、俺の中で、ばちん、となにかが弾けた。

 

 こんな終結を俺は望んだわけじゃない。明日を掴むためにリニスさんに認めてもらい、俺の計画に協力してもらう。そのためにここまで頑張ってきた。その為なら、なんだってする覚悟でいたのだ。

 

 なのに、それなのに、最後になって試合放棄はあんまりだろう。そのことが俺は悲しかった。悲しくて、悔しくて、辛くて、虚しくて、寂しくて、なにより痛かった。

 

 短絡化した思考は途中の論理や筋道をすっ飛ばし、頭に結論だけを()げた。当初掲げた目的、彼女に勝利するという信念に盲従し、感情の奔流とともに彼女へと向かう。

 

 力任せの踏み込みで床に亀裂を刻み、構えもなく、姿勢も乱れた拳撃を放つ。

 

 その寸前、リニスさんが顔を上げた。

 

「くそっ、がぁっ……っ!」

 

 俺はこの手を、振り抜いた。



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歪んだ愛の形

 この一発で終わらせるつもりだった。寸前まで、本気で打ち抜くつもりだった。腹の中は煮えくり返っていたはずだった。

 

 なのに、俺の拳はリニスさんの顔を逸れ、彼女の背後の壁に打ち据えられている。

 

 俺の八つ当たりのような一撃をぶつけられた壁は放射状に亀裂を伸ばした。

 

「なぜ……当てなかったんですか?」

 

「知らないよ。俺も聞きたい。でも理由があるとしたら……リニスさんがそんな顔してるからだ」

 

 壁と俺の間で佇んでいるリニスさんを、目線を下げて観察する。

 

 激しい戦闘によりお互いに服はところどころ破れてしまっているし、埃やなんやで薄汚れてしまってもいる。俺は腕を盾として殴り合っていたこともあり、切り傷や打撲の痕、内出血にもなっていた。リニスさんの色の良い唇の端には、さっきの一撃で内臓器官を傷つけたのか血が滲んでいる。

 

 それだけなら俺の手は止まらなかっただろう。止められなかっただろう。様々な感情に突き動かされていた俺を冷静にさせたのは、彼女の瞳から溢れる透明の雫だ。

 

 戦って勝たなきゃいけない。勝てる絶好のタイミングだった。でも頬を濡らす目の前の女性をこれ以上傷つけたくない。そのアンチノミーの葛藤の末、俺の拳は行きつく先を見失った。軟弱で優柔不断な意志は、折れた。

 

 思わず噴き出しそうになる。自分の意志の弱さが、情けなさが、馬鹿馬鹿しい程間抜けで、一周回って笑えてきてしまう。

 

 覚悟とか、決意とか、意志を貫くとか、そんな耳触りの良い言葉を並べて飾っても、結局俺には『傷つけてでも、大事な人を助ける』なんてことできはしなかった。

 

 自分の不甲斐なさを痛感していると、壁に突き立てたままの右腕に柔らかく温かい感触が伝わる。リニスさんが背中を壁に預けたまま首を傾け、俺の右手に頭を乗せていた。

 

 撫でられた猫のように気持ち良さ気に口元を薄く緩め、目を細めている。瞼を閉じたことで、瞳に溜まっていた雫がまた一つ溢れる。彼女の左目から流れたそれは、俺の右腕にも渡り、一筋の線を描いた。

 

「なにしてるの」

 

「さあ、なんでしょうね……」

 

「なんでそんなことしてるの」

 

「さあ……? しいて言うなら……あたたかいから、でしょうか」

 

「そうか」

 

「ええ、そうです」

 

 リニスさんは俺の腕に頭を乗せてはきているが、それ以上俺に触れることはなく、また俺も彼女に触れようとはしなかった。

 

 数秒か数十秒、一分は経っていない程度の時間黙っていたが、俺は口を開く。

 

 訊かないほうがいい。知らないほうがいい。訊く前から、知る前から後悔するのはわかっているのに、俺は訊かずにはいられなかった。

 

「なあ、リニスさん」

 

「はい。なんでしょうか」

 

「なんで、リニスさんのデバイス……非殺傷設定(・・・・・)だったんだ」

 

「あはは……やはり見つけてしまっていましたか。魔法をさも簡単に破壊したり、私が侵入した管理局の電脳に同じように入って手際よく追い出したことから、魔力を特定の対象に送り込むようなことができるのかもしれない、と予想してはいましたけれど。デバイスにまで潜り込ませることができるとは、素直にすごいですし驚きです。そんなことが可能なのですね」

 

 リニスさんはとくに気にした風もなく、誤魔化そうとするそぶりも見せなかった。

 

 非殺傷設定、通称スタンモードと呼ばれるそれは、『魔法を相手の身体に命中させても深刻な傷や障害を残さないための安全装置です』とユーノが以前説明してくれた。その名称通り、相手をスタン――気絶させて身柄を押さえたりするためのもの。外傷すらそうそう負いはしないのだから、生命活動に支障をきたすような攻撃にはならない。

 

 原理や理屈は知らないが、便利な機能だ。どうしても身柄を取り押さえなければならない状況や、勝負で雌雄を決しなければいけない時に、多少の痛みはあるが命を危険に晒すことなく安全に済ませられるのだから。

 

 でも、今ばかりは便利で安全な機能はいらないはずだった。必要ない、はずだった。

 

 リニスさんやプレシアさんがやろうとしていること。彼女たちの行動の裏を、俺は知ってしまった。考えが行き着いてしまった。

 

 最善には決して届かない次善の策。最低限の幸福と、最小限の不幸。一番望んだ結末ではないけれど、現実的に叶えることができる最大限の幸せ。妥協の結果。後ろ向きな願い。歪んだ愛の形。

 

 その話をフェイトや管理局に喋ってしまうと、ここまで丁寧に慎重に積み上げて重ねてきた彼女たちの計画が根底から瓦解する。彼女たちが叶えようとした次善の策が根元から崩壊する。

 

 そうさせないために、プレシアさんの使い魔であるリニスさんは、俺が余計なことを喋らないようにここで黙らせる必要があった。舞台から掃けさせなければならなかった。作戦が頓挫するリスクを減らすために、危険な芽は摘んでおかなければいけなかった。俺という不確定要素を始末するのがリニスさんの役割で、使命で、この場にいる理由だった。

 

 なのに、彼女の放つ魔法は安全装置(非殺傷設定)が掛けられたままだった。これでは刃を殺したナイフも同然だ。当たれば間違いなく痛いし、打ち所によっては気を失うこともあるだろう。でも、命は奪えない。

 

 俺がリニスさんのデバイスに侵入したのは砲撃を浴びる寸前だ。それまでは非殺傷設定をオフにしていて砲撃する直前で設定をオンにした、などと考えるのは無理がある。

 

 すなわち、リニスさんはこの戦闘中、ずっと非殺傷設定で戦っていた。

 

 非殺傷設定を解除するのを忘れていたとか、デバイスの構造上解除できないようになっていたとか、そんな理由じゃない。リニスさん自らの意思で、非殺傷設定にしていたのだ。

 

 それは、つまり。

 

「俺を殺す気なんて、最初からなかったのか」

 

「……そう、なりますね」

 

「なんで……。俺を殺さないといけないって、そうしないと最低限の幸せすら手に入れられなくなるって……」

 

「そうですよ。絶対に徹を殺さないといけない……殺さないといけなかったんです。あなたを生かしておけば、あなたは自分の信念のまま動いて、私たちの本当の想いを話してしまうのでしょう。みんなで幸せになるという結末を迎えるために。ですが、その『みんなで幸せ』が失敗したら、みんなが不幸になります。そんな危ない橋は渡れないから、ある程度確実性のある『幸せであると断言はできないけれど、明確な不幸ではない』結末を選んだのです」

 

「それじゃ、なおさらわからない。その結末を選んでいて、しかもまだ諦めてないんなら、なんで本気で俺を殺そうとしないんだ。甘えは捨てる、同情もしない、覚悟を決めたって言ってたのに……」

 

 リニスさんは頭を傾けて俺の腕に頬をつけたまま、目線だけ動かして上目遣いに俺の顔を覗き込んだ。

 

 目線が絡み合う。瞳を通して、俺の心の奥まで見透かされているような感覚を覚えた。

 

 くすり、と彼女は笑みを浮かべる。不自然に大人びた妖艶なものではなく、年相応に幼さを残した微笑みだった。

 

 演技しているわけでもなく、取り繕っているわけでもない。これが彼女本来の表情で、彼女本来の魅力なのだろう。

 

「人を殺す覚悟なんて……ましてや、あなたを殺す覚悟なんて、できるわけ……ないですよ……」

 

 微笑んだまま困り顔を作ったリニスさんは、俺の反応を眺めながらからかうような口調で続ける。

 

「どんな魔法を使うよりも簡単な非殺傷設定解除の工程が、なによりも難しかった。やろうと思えば一秒とかからないのに、どうしてもできなかったのです。しかし徹だって、心の底から、私を力づくで倒そうとなんて思えていなかったのではないですか? だからさっき、直前で私を打つのをやめて、今もこうして私と会話している。違いますか?」

 

 リニスさんの言葉を、俺は否定できなかった。

 

 明らかなチャンスがあったのに、リニスさんの顔を見て拳を逸らしてしまった。それは事実であるし、思い返せば思い返すほど言い訳できない材料を掘り出せてしまう。

 

 俺は、率先して人間の弱点である頭部を狙おうとしていなかった。

 

 俺には魔法に関して素質が欠如している。それはアースラで行われた検査の結果からも表れている。砲撃魔法も拘束魔法も発動できるか危ぶまれるほどの惨憺たる数字だったし、射撃魔法は色んなものを切り詰めて戦闘にぎりぎり使えるくらいの水準、防御魔法だって工夫しても簡単に破られているし、飛行魔法に至っては酷過ぎるあまりに術式すら訊いていない。

 

 そんな俺だが魔力付与だけは、平均を上回る数値を出していた。

 

 魔力付与を身体に纏い、しっかりと踏み込んで体重を乗せて頭部に叩き込めば、運が良ければ一発で戦闘の流れを自分のものにできていた。それだけの威力はあると自負している。

 

 なのに無意識に避けていた。

 

 勝たなければいけない、でも傷つけたくない。二律背反する想いで板挟みになって、自覚しないまま行動を制限していたのだ。

 

 覚悟、決意、信念や意志。そんな空っぽの言葉で自分を騙そうとしていたのは、俺もリニスさんも一緒だった。

 

「そう、だな。そうかもしれない。威勢のいいこと言ってても、やっぱり本心じゃやりたくなかったんだ……」

 

「ええ。自分に言い聞かせていたのですよ、覚悟などという大層な言葉を借りて。やりたくない、でもやらなければいけない。そんな心の葛藤を使命感で塗りつぶしていたのです」

 

「…………」

 

(まま)ならないものですね。この結末を迎える為だけにここまでやってきたというのに……。自分の感情すら、こんなにも……儘ならない」

 

「でもどうするんだ。リニスさんは計画を諦めない。俺だって絶対に諦められない。これじゃあなにも変わらない。始まらないし、終わりもしない。宙に浮いた状態だ」

 

「そうですね。これでは現状は何も変わらない。なので、私は決心しました。踏ん切りがつきませんでしたが、相手が徹なら私も怖くないです。後悔はありません」

 

「な、にを……言ってるんだ?」

 

 俺の腕から顔を離し、リニスさんは俯いた。

 

 俺は壁に突きつけていた手を離して顔を覗き込もうとするが、影になっていて彼女の表情も真意も窺い知れない。

 

 理解も解釈も追いつかない俺に答えることなく、彼女は続ける。

 

「それに接近戦では実際押されていましたからね。使わずに勝とうというのは、虫のいい話でした」

 

「おい、リニスさん! 使うってなんだ、なんの話をしてるんだ!」

 

 淡々と、リニスさんは言葉を紡ぐ。

 

 何もない広い空間に、彼女の凛とした声が満ちた。さっきまでと同じ声のはずなのにとても冷たくて、俺にぎりぎり届く程度の声量なのに腹の底に重く響いた。

 

 薄い氷が張った湖の上を歩くような不安感だけが募っていく。

 

「フェイトにはアルフがいますから、大丈夫ですよね。プレシアは……少し心配でしょうか。研究に没頭すると時間を忘れるところがありますから。でもフェイトのおかげでプレシアも変わりましたし、問題ないでしょう。かの都でアリシアに再び会うことができれば、多少は落ち着きを取り戻すかもしれません。そんな奇跡、あるかどうかもわかりませんが……」

 

「リニスさんッ!」

 

 リニスさんの肩を手荒に掴み、揺さぶる。

 

 彼女は、顔を上げない。俺の目を見ようとしない。

 

「もともと、使い魔として生み出された私の根源としての役割は、フェイトを魔導師として一人前にすることでした。鍛え上げた後は、消える運命でした。ですが純粋で優しいフェイトが、頑なに閉ざされていたプレシアの心を開きました。冷たくあしらわれても、諦めないでずっと語りかけ、ゆっくりとプレシアの凍てついた心を温めたのです。プレシアの心境が変化した時、私の役目も変わりました。家族を守り、助けると」

 

「リニス……さん……」

 

 きっと彼女は、俺に対して喋っているのではないのだろう。これは独白だ。

 

 思い出が詰まったアルバムを開くように、昔の懐かしい記憶を思い返して確かめているのだ。自分の存在理由や、自分が守りたい場所、一番大切にしたい人を。

 

「私は稀代の魔導師の使い魔ですから。家族想いで愛情が深く、大切な人のために頑張りすぎて、周りが見えなくなってしまうほど優しい、プレシア・テスタロッサの使い魔ですから……だから……」

 

 ゆっくりと、もどかしいほどゆっくりと、彼女は顔を上げる。

 

 唇は軽く結ばれていて、顔色は青白く、顔貌には生気がない。一切の感情がない、無表情だった。

 

 ただ一点、禍々しい輝きを煌々(こうこう)爛々(らんらん)と灯している瞳を除いて。

 

 俺の頭では理解できない、俺の力では遠く及ばないなにか異常な現象が、彼女の身に起きている。それはわかる。そこまでしかわからない。

 

 動揺し、硬直している俺の目を、リニスさんは壮絶なまでの狂気と苛烈なまでの凄艶さを孕んだ双眸で射抜き、口を開く。至近で見る彼女の歯は、とても鋭利だった。

 

「私個人の感情も感傷も情調も、この……初めての  (・・)も……捨てましょう」

 

 リニスさんは、とん、小さく乾いた音を鳴らしながら軽やかにステップして一歩近づくと、俺の頬を両手で挟んで固定する。爪先立ちで背伸びをして、そのまま顔を近づけ、俺の唇に彼女のそれが接触した。

 

 唇に伝わる柔らかい感触と、香水などとは違う女性特有の香り。次々と発生する予測不能・理解不能な出来事に、俺の脳内は処理がまるで追いつかず、思考も身体もフリーズしたままだった。

 

 リニスさんは唇を離すと背伸びもやめて、頬を押さえていた両手を身体の正面に下ろし、俺を、とん、と突き離す。

 

 力は全くと言って差し支えないほど込められていない。だが急に口づけされ、急に押されて、俺は二歩三歩と後退(あとずさ)った。

 

 リニスさんも俺を突き飛ばした反動で何歩か後ろに下がる。壁に背をつけた。

 

「『口を塞ぐ』……でしたか。徹の言った通りになりましたね」

 

 刹那――気のせいかもしれないほどの刹那だったが、彼女の表情が普通の少女のように、今にも泣き出してしまいそうな普通の少女のように見えた。

 

「……権限行使、アクセス。規格、コンフォーム。波長、コントロール。圧力、アジャスト。送力、マキシマム。魔力、サプライ。……開始(スタート)

 

「何を……、うぉあっ?!」

 

 リニスさんが早口で幾つかの単語を呟いた。と同時に、目の前で強烈な爆発が起こる。

 

 爆風に弾き飛ばされて盛大に床を転がり、数カ所ほど身体を削ったところで勢いが収まった。

 

 顔を上げて周囲を見渡せば、ホールの真ん中あたりにいる。かなりの距離を吹き飛ばされていた。何に使われるか全く想像できないが、とにかく広々としたホールのほぼ端から一気に中程まで飛ばされるというのは、いくら構えも何もしていなかったとはいえ、常軌を逸した爆発力だ。

 

 俺を紙か木の葉のように軽々と吹き飛ばした、謎の爆発が発生した中心点(・・・)へと目を向ける。土煙が濛々(もうもう)と立ち込める中、一つの人影が佇立していた。

 

 舞い上がっていた砂埃はすぐに取り払われた。建物の外壁部に穴が開いたようで、その穴から外へと排出されたのだ。

 

 煙は晴れ、爆発を引き起こした張本人が姿を現した。

 

「リニス、さん……あんた、それ……」

 

 思わずこぼれた俺の声は、自分のものと一瞬気づかないほど掠れていた。

 

 心臓が早鐘を打つ。喉は絞られ、呼吸が辛い。視界は狭窄し、彼女以外になにも映さない。手足は小刻みに揺れ、自由が利かない。頭は痺れ、まともに考察することすらできない。

 

「大丈夫です、徹。何も怖いことなどないですよ。あなたは一人ではありませんから」

 

 さっきのは、爆発などではなかった。急激な魔力の膨張。それに伴う衝撃波。魔法のように型取られていない純粋な魔力の波で、あれほどの威力。

 

 尋常ではないほどに、常識では考えられないほどに、リニスさんの魔力が急激に跳ね上がった。

 

 もとからリニスさんの魔力量は多いほうだったが、今はそれの比ではない。なのはが霞んで見える程だ。とてもじゃないが、人が備えていい魔力の量と圧力ではない。

 

 暴走状態に陥ったエリーや、海上で複数のジュエルシードが融合した九頭龍を前にした時のような、途轍もない圧迫感がある。

 

 その異常さは感覚だけのものではない。外観からでも見て取れだ。

 

 リニスさんの身体の輪郭が陽炎のようにもやもやと揺らめいている。溢れる魔力がその身の中で収まり切らず、体外にまで漏れ出でているのだ。

 

 出鱈目だ。桁が違う。常識の範疇から逸脱している。正気の沙汰とは思えない。人が御し切れる力など、とうに超えている。

 

 直感でそう悟れてしまうほど、人の限界を超越したエネルギーだった。

 

「たった一人で逝かせるようなことはしません。私が隣に並びます。私が一緒ですから……」

 

 リニスさんは両手を広げ、まっすぐと狂気に煌めく瞳を俺に向ける。声は優しく、口にしている台詞も内容はともかく俺に寄ろうとしたものだ。それがリニスさんの本心なのか、それとも俺を地獄の底まで連れていくための虚言なのかはわからないが、俺には銃とナイフを手にしながら世界平和を唱えているようにしか視えなかった。外見と中身のミスマッチが得体の知れなさを増幅させ、恐怖を助長する。

 

 酸欠で痛んできた頭に空気を送るため、一度二度深く呼吸をする。深呼吸して、ある程度は頭が回り始めてきた。しっかりと現状を認識したことで、さらに現実から目を背けたくなった。

 

 リニスさんはややもすると特に意識していないのかもしれないが、目を合わせられるだけで、ぶつけられるプレッシャーは計り知れないものがある。裸で酷寒の地を歩いているほうがまだ気楽なのではないか、と現実逃避するほど周囲の空気が荒んでいる。空気中に電気でも流れているように、肌にぴりぴりとした刺激が刺さる。

 

「お、俺は……リニスさんと心中するつもりは、毛頭ないぞ……」

 

「ふふ、徹はおかしなことを言いますね。あなたにその気があろうとなかろうと、結果は変わりませんよ?」

 

 リニスさんは右手に杖を携え、両腕を広げておもむろに歩みを進める。『飛び込んできてください、抱き締めてあげますよ』と言わんばかりの格好だが、俺の精神状態では力を顕示しているようにしか感じ取ることはできなかった。

 

 オオオォォォ……と、獣の呻き声じみた音が鳴る。精神的に追い詰められて、とうとう幻聴まで聞こえたのかと焦ったが、そこまで俺の心は崩壊してはいないようだ。

 

 音の発生源は、リニスさんの背後。魔力の膨張による衝撃波で、リニスさんが背凭れにしていたホールの内壁に、巨大な穴が穿たれている。その穴から見える光景は一つの光もなく、空間を切り抜いたように漆黒に染まっていた。まるで地獄の門が口を開いているかのようだ。

 

 その真っ暗な地獄の門を背にして、一歩、また一歩と近づいてくる様には、死という概念が形を成して迫ってくるような恐怖と絶望があった。

 

「どうせ同じなら……痛みや苦しみを感じないほうがいいですよね。抵抗……しないでくださいね?」

 

 そう言って彼女は、俺に杖を向けた。

 

 彼女が手にする杖状のデバイスに魔力が注ぎ込まれ、魔法が起動したのだろう、先端の球体に光が灯る。リニスさんの足元に魔法陣が描かれ、周囲に魔力で構成された弾丸が浮かび上がる。

 

「は、はっ……ふざけ、んなよ……。こんなところで死ぬつもりなんか……俺にはないんだよッ! 黄泉の国に用はない、付き添い人がいてもお断りだ!」

 

 一時は落ち着いたのに、また戦いは再開される。終わりかと思われた死闘はまだ続く。第二幕が開いてしまう。

 

 落とし所を探したかったが、やはり行き着くところまで行かなければ、終わりはしない。

 

 如何なるロジックで膨大な魔力を手に入れ、制御下に置いているかは全くもって予想できないが、リニスさんが俺を殺す気で来る以上、殺されるわけにいかない俺は戦う他に選択肢はない。

 

「まともにぶつかったら、砕けるのは俺の方だ……。落ち着け、慌てるな……一発貰えば致命傷なんて、これまでと変わらないだろ」

 

 緊張で急く気持ちを宥めて落ち着かせる。

 

 単純な魔力だけで、この丈夫な建物の壁に風穴を開けたのだ。魔力を圧縮して魔法という型に封じ込めた時、どれほどの威力があるかわからない。射撃魔法といえど、身体に触れれば血肉を撒き散らすことになる。直撃は、なんとしてでも避けたい。

 

 残量の少ない魔力を足に送る。

 

 まずは最高速で疾駆して撹乱(かくらん)、リニスさんの周りを浮遊している魔力弾を回避することに専念する。

 

「…………あ?」

 

 駆け出すため足を動かそうとするが、とても重い。魔力は限界が近くとも、肉体的なダメージはそれほど大きくない。足にくるような攻撃はまだもらっていないのに、なぜこんなに重いんだ。

 

 疑問に思い、視線を下に向ける。

 

「な、んだ……これ……」

 

 床から、鎖が生えていた。

 

 床材を食い破って顔を出している鎖は二本。一本ずつ、俺の左足と右足に絡みついていた。

 

「どこに行こうと言うのですか? 逃がしませんよ……徹」

 

 見覚えのある、身体に馴染むほど見覚えのある鎖。リニスさんの拘束魔法だ。

 

 杖が輝いて、足元に魔法陣が出現した時点で、勘付いて(しか)るべきだった。

 

 彼女の魔法展開速度は高速だ。前触れなく始まり、瞬時に終わる。戦闘中射撃魔法は何度も受けたが、魔法陣は出ていなかった。

 

 魔法陣が描かれ、そして描かれ続けているということは射撃魔法以外の魔法が発動したことに他ならない。杖の先端に魔力の球体が現れていないことから、砲撃の線もない。

 

 考えればすぐに答えは出たのに。射撃魔法を当てるために相手の足を止めるなんて、基礎中の基礎だということに。

 

「こんな、もの……すぐにっ!」

 

「私が何もせずじっと眺めていると思ってます? 思ってます? ふふっ、そんなわけないじゃないですか。徹はかわいいですね……」

 

 人を圧倒する魔力を放出しながらリニスさんは言う。

 

 暗く静かに語り掛けたり、かと思えば明るく手の動きも交えて声を張り上げたりと、言動が安定していない。なのに俺を殺すという目的は一貫しているのだから始末に負えない。

 

「言ってろ……この手の魔法の攻略が一番得意なんだよ、俺は」

 

 リニスさんの拘束魔法は、不本意ながら何度も受けた。ハッキングで破壊するまで、さほど時間はかからない。

 

 だがというべきか、さもありなんというべきか、リニスさんは待機状態にあった射撃魔法を射出する。

 

 弾かれるように俺へと殺到する魔力弾は、以前までのものと比較して速度が格段に向上している。数メートル程度の距離からであれば、まず間違いなく以前までの射撃魔法との速度差に対応が追いつかず、貫かれていたことだろう。

 

 しかし今は、身体の各部に擦過傷を負った代償として距離が開いている。冷静にハッキングで拘束魔法に侵入して内部から突き崩し、すぐにこの空間を離れれば回避は間に合う。

 

 経験則から時間を逆算し、どう行動すべきか考える。

 

 これは俺の戦い方の基本の形だ。どんなに可能性が低くてもいくつか案を出し、その中から取捨選択し、一番適したものを選び取る。そうして俺は戦ってきたし、そうしてきたことで格上相手でも善戦できてきた自信はある。

 

 この考え方は、けれども今回ばかりは間違いだった。

 

「魔力、が……(とお)らないっ」

 

 慣れた手つきでいつも通りに魔力を送り込むが、思うように入らない。厳密に言えば全く入らないわけではないが、愕然とするほど魔力が浸透するのに時間がかかる。

 

 これに似た感覚を、俺は知っていた。九つのジュエルシードが寄り合って生まれた九頭龍。あれにハッキングを仕掛けて封印しようとした時の感覚に著しく酷似している。

 

 しかし、似ているだけで同一ではない。原因も、あの時とはまるっきり異なる。

 

 九頭龍相手の場合は、魔力と魔力の間に水分子が挟まっていて、その不純物が俺の魔力の侵入を阻害していた。今回の場合は魔力の密度がハッキングの侵攻を拒絶している。以前とは比べ物にならないほど圧縮・凝縮された魔力に阻まれ、いくら魔力を潜り込ませても術式に関わる根幹の部分まで届かない。

 

 足に(まと)わりつく鎖を引き千切れるくらいに脆くした頃には、俺の身体は魔力弾によって穴だらけにされている。間に合わない。

 

「くそっ……」

 

 見込みが甘かった。

 

 リニスさんの状態が、魔力の質が、もっと簡単に雰囲気が根本的に変異しているのに今までの経験則を使って計算しても効果などあるわけない。

 

 拘束魔法を破壊できないことで、選択肢の幅はかなり狭まってしまった。

 

 足に絡みつく鎖は解けない。回避することはできない。

 

 俺の誘導弾をリニスさんの魔力弾の射線上に置いて誘爆させようとしても、拘束魔法の変質具合から推察するに意味などないだろう。彼女のものと比べれば、俺の誘導弾など風船と大して変わらない。誘爆もしなければ、緩衝材にもなりはしない。糠に釘、暖簾に腕押し、豆腐に(かすがい)だ。

 

「後の戦闘にどれだけ影響するか不安だが、仕方ない……っ!」

 

 拘束魔法があれだけ魔改造されていたのだ、射撃魔法も以前の強度とはかけ離れていると見てまず間違いない。

 

 猛スピードで接近する四つの魔力弾へ左腕を突き出し、障壁を展開する。魔力がどれだけ残っているか数える前に、生き残ることが最優先だ。展開するのは俺の持つ最硬の盾、『魚鱗』。

 

 この術式に費やされる魔力が後々自分の首を絞めることになったとしても、安全策に頼りたい。致命傷や重い手傷を受ければ手遅れなのだ。

 

「あら、徹。ご自慢のハッキングで鎖を壊して抜け出さないのですか? これが得意だとか息巻いていましたが」

 

 拘束魔法が未だ健在で、腕を魔力弾に向けて腕を伸ばしている俺を見て、リニスさんは俺がハッキングを使っての脱出を諦めたことを悟ったのだろう。狂気に輝く瞳に、嬉々とした色が混じった。声も弾んでいる。

 

「うるさい、俺の勝手だろうが。ちょっと黙っててくれよ」

 

「拘束を解けなかったから防御に回るのでしょうけど、それが正解とは限りませんよ? 一番の悪手かもしれません。それでもまあ、どんな選択を取ったところで過程が少し変わるというだけで、同じ結末を迎えるのですけれど」

 

 リニスさんは自信満々、余裕綽々といった風に腕を組む。畳み掛けて襲いかかってくるような挙動はない。

 

 捕縛の鎖が二本、魔力の弾丸は四発。いくらなんでも俺を仕留めるには攻撃の数が少なすぎる。なのにリニスさんはさらに魔法を使おうとはしない。

 

 油断か慢心か、それとも他に策があるのかはわからないが、これは俺にとって都合がいい。多重複合障壁で魔力弾をやり過ごし、並行作業で鎖を破壊する。少し予定は狂ったが、そこからは作戦通り足で撹乱し、隙を見て接近戦に持ち込む。

 

 そう頭の中で次にどう動くか組み立て、射撃魔法に対峙する。

 

 四発の魔力弾のうち、先頭の一発が障壁に触れた。直後、見立ての甘さを再度痛感することになる。

 

「射撃魔法一発の……破壊力じゃ、ない……」

 

 術式を書き換え、防御範囲の代わりに密度を上昇させて耐久性を向上させた密度変更型障壁。それをいくつも展開し、かつ四層に重ねたものが多重複合障壁群『魚鱗』だ。

 

 俺の持つ手札のうちで最も防御力が高く、その性能は至近距離からなのはのディバインバスターを防ぎ切ったほど。リニスさんの砲撃にだって、第二層まで破られはしたが耐えた。

 

 俺が誇るその術式の第一層を、たった一発の射撃魔法が爆ぜ飛ばした。どころか、二層目にも亀裂が入っている。

 

 向こうの弾数は残り三発。対してこちらは無傷で三層目と四層目が残っているといっても、既に二層目までダメージを受けている。

 

 (しの)げない、俺の最硬防壁を以ってしても。

 

 見込みが甘かったことは理解したし、これならば絶対に防げると盲目的に信じ込み、思索することを放棄していたことも反省はしている。

 

 しかしこれは、あまりにも。

 

「くっ、ぐぅっ……」

 

 二発目、三発目が着弾する。障壁の二層目は剥がれ落ち、三層目は砕け散った。四層目には深々とクラックが走っている。辛うじて魔法の展開を維持しているような状態だ。

 

 最後の防壁、もはや死に体の四層目に、魔力弾が迫る。

 

「やっぱり……悪手でしたねっ」

 

 障壁が割れ、貫かれた時の甲高い破砕音と、リニスさんの声が重なった。

 

 障壁を貫通した魔力弾は、気持ち失速はしたものの、弾道はほぼ逸れることなく俺に向かってくる。

 

「規格外すぎるだろ……なにもかも、全部……ッ!」

 

 咄嗟に左腕に魔力付与を集中させて盾にする。みしっ、という不快な音が腕から伝わる。

 

 速度が落ちてもなお、それは重く、腕に食い込んでくるようだった。払い除けるように腕を振り、最後の一発を弾き飛ばす。

 

 数瞬のあと、鎖へのハッキングがようやく完了し、煩わしい枷を外すことができた。

自由を取り戻した両足で床を蹴り、飛び退って距離を取る。

 

「あら、耐えましたか。強度を見誤りました。思ったよりも頑丈ですね」

 

「っ……。それは、なんの冗談だ。嫌味か、皮肉か、当て擦りか? たった四発で木っ端微塵になる障壁のなにが頑丈だ」

 

「いえいえ、心からの言葉ですよ。純粋に感心しているのです。今の私の魔力がたらふく込められている射撃魔法を、徹の素質で防げるなんて思いませんでしたから。素直に褒めているのですから、喜んでいいですよ?」

 

「皮肉じゃないことはわかった。自己陶酔だ」

 

「陶酔でも自惚れでもないですよ? もう、失礼しちゃいますね。現状の戦力を正確に見積もっているだけです。私、徹が思っているほど性格悪くないですよ?」

 

「はっは……そうかい。どうやら俺とリニスさんの間には認識に差があるみたいだな……」

 

 魔力弾が当たった部分を押さえながら、頬を上気させて高揚した様子の彼女に相対する。

 

 左腕は、まだ動く。動くこと自体に問題はないが、じんじんとした痛みが神経を苛む。

 

 ずたぼろの障壁が勢いを緩め、魔力付与で左腕を強化したおかげで左腕はまだくっついているが、どちらかの要因が欠けていれば腕を喰い千切られていてもおかしくはなかった。普通の障壁を張っていたら間違いなく、既に死んでいる。

 

 安全策に逃げたおかげで生き延びれたことになるが、それでも素直に喜べる気分にはなれない。相応の魔力を支払って発動させた最硬の防壁が、たった四つの魔力弾で破壊されるに至ったのだ。この事実は俺の心に重くのしかかり、暗い影を落とす。

 

 加えて、左腕に負った傷。腕自体は動かせるが、それだけだ。おそらく亀裂骨折を起こしている。骨と骨がまだ完全に離断していないので動かすこと自体はできるが、力が入らない。拳を打ち据えることはおろか、手を握り込むことすら満足にできない。ユーノから治癒魔法の術式は教えてもらったが、ユーノでさえ骨折箇所の治療には時間がかかっていた。俺ではどれだけ時間がかかるかわからない。せいぜい痛み止めがいいとこだ。

 

 防御行為自体意味をなくされ、攻撃手段を一つ、潰された。頼みの綱のハッキングすら思うようにできなくなっている。

 

 目に見える速度で、足場を切り崩され追い詰められているのを実感する。

 

 だとしても、突き進むしか俺にはできない。

 

 潤沢な魔力によって、リニスさんの身体能力は相当上がっているはずだ。もう、死角や隙の多い箇所に誘導弾を撃ち込んでも、俺程度の適性値では怯ませることもできはしない。

 

 足に力を込め、神経を研ぎ澄ます。左腕を潰されたとしても、勝つためには近づくしかないのだ。

 

 正面から向かっても反撃されるだろう。ここは『襲歩』を使って回り込んで、反応される前に攻撃するのが一番確率が高い。ごくわずかとはいえ、唯一勝率がある。『襲歩』の連続使用に懸念がないわけではないが、そのくらいの綱渡りを渡り切らなければこの人に勝つなど、みんなで幸せな結末を迎えるなど、夢のまた夢だ。

 

「そうそう、驚かせてくれたご褒美をあげないといけないですね!」

 

 重心を傾け、筋肉を駆動させる寸前、リニスさんが口にした。

 

「数秒間、私は動かずにいましょう。あまり甘やかすのもいけないので障壁を一枚張りますが、それ以外は魔法も使いませんよ」

 

「なんの、つもりだよ……余裕か? 圧倒的な力を手に入れたから、雑魚に等しい俺を見下してんのか?」

 

「違いますよ、全然違います。言ったじゃないですか、ご褒美だって。ちゃんと私の話聞いてくださいよぉ」

 

「それでなんだ? 抵抗せずに殴られて負けてくれるってのか?」

 

「少し違いますね。ご褒美として時間をあげるのです、絶望する時間を。全力全開であらゆる手を尽くし、私を倒すために全身全霊をぶつけてください。私はそれを余すことなくこの身で受け止めます」

 

「どこまでも上から言ってくれる……。そんなことして、リニスさんになんの得があるっていうんだ」

 

「得ならありますよ。抵抗されたままでは一緒にイくことができませんからね。ほら、やっぱりできることなら一緒がいいじゃないですか。なので力の差を身体で理解してもらって、生に対する執着をすっぱり断ち切ってもらおうと!」

 

「何をしても絶対に勝てない、と絶望して膝を折ったところで一緒に死のうってか。身勝手だな……傲慢だ」

 

「どうとでもどうぞ。すぐに私の言葉の意味がわかるでしょう。それでは、スタートですっ!」

 

 リニスさんは杖を真上に投げた。あの杖が手元に落ちてくるまでが、ご褒美の時間のタイムリミットなのだろう。

 

 (おご)りだろうが自惚(うぬぼ)れだろうが思い上がりだろうが、この際なんだっていい。過剰に膨らんだ過信を突いてやる。

 

「後悔させてやるよ……」

 

 予定変更。『襲歩』にて一直線に彼女まで結ぶ。

 

 右の拳に加速の力も乗せて、彼女へ向かう道の邪魔になっている障壁へぶつける。

 

「……悔なら……と、してい……」

 

 拳が障壁と接触した。衝撃と音が同心円状に広がり、ホールを満たす。リニスさんの声は衝突の際の爆音に塗り潰されて、俺の耳まで届かなかった。

 

「処理が……重い」

 

「速くしないと時間がなくなりますよ」

 

 覚悟はしていたが、やはり拘束魔法同様、魔力を流し込みにくい。

 

 それでも強引に密度の高い魔力を掻き分け、術式の根幹部分に辿り着き、魔法の維持に関する項目を狙って乱していく。

 

 弱体化させたところで手を離し、足を振り上げる。いつもなら左手で触れてハッキング、右手で破ってそのまま攻撃というのが定番だが、左手が使えない今、足しか連携させることができなかった。

 

「くそっ、硬すぎるだろ……」

 

「ひびが入るだけでも賞賛物ですが」

 

 ハッキング後の蹴りでも、障壁を破壊するに至らなかった。

 

 力を抜いていたわけではない。蹴破ってそのままダメージを与える心算でさえいた。だというのに、亀裂を与えただけにとどまった。

 

 本来の強度より著しく脆弱化させて、この結果。思わずめげそうになったがすぐに持ち直し、肘を突き出して踏み込む。

 

 三撃目にしてようやく彼女の障壁は砕けた。

 

 飛び散る暗褐色の破片に光が反射する。きらきらと返る輝きに、俺はどこか違和感を感じた。

 

「やっと障壁突破ですね。ですがご褒美タイムは折り返しですよ? 持てる力の全てをぶつけてくださいね」

 

「……ご期待に応えてやるよ」

 

 ちらりと視線を頭上に向ければ、投げられた杖はホールの天井すれすれで止まり、重力に押し戻されて高度を下げ始めるところだった。

 

 彼女は折り返しというけれど、まだ時間は半分ある。これだけあれば俺の底力を見せつけるには充分だ。

 

「これを受けても、その涼しい顔を保てられるか?」

 

 残り僅かな距離を一息で潰す。力強く踏み込み、右の拳をリニスさんの胸のど真ん中に触れるか触れないかくらいまで近づける。

 

 俺が持つ技のレパートリーの中で、破壊力においては最大値を叩き出す『発破』を使う。全身を使って力を生み出し、集約し収斂(しゅうれん)し、そのエネルギーの全てを瞬時に身体の末端部一点から放出する神無流武術の奥義。それに重ね掛けするように、魔力付与をフルスロットルで出力する。残りの魔力など考えず、全力で注ぎ込んだ。

 

 今までに感じたことがないほど大きく、濃く集められたエネルギーは滞ることなく、俺の拳を伝ってリニスさんへと送られる。人の身体から発せられる音とは思えない音が発せられた。

 

「どうだッ! これが俺の、全身全霊の一撃だッ!」

 

 常人であれば、いや決して常人にこんな人体破壊行為などしないが仮に受けたのが常人であるとしたら、上半身の風通しが抜群に良くなるだろう威力だった。それだけの手応えがあったし、身体の中で力を通して増幅させた感覚もこれまで使った中で一番あった。

 

 問答無用の掛け値なしに、最高の仕上がりの一撃だった。

 

「そうですね、素晴らしい一打でした。次はどんなものを見せてくれるのでしょうか」

 

 だからこそ、彼女のセリフには俺の心を真っ二つにへし折るだけの絶望があった。眉一つ動かさない彼女の姿には、俺の気力を挫くだけの恐怖があった。

 

 紛うことなき俺のフルパワーの一撃は、彼女にダメージを与えるまでに至らなかった。



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汚れて、沈んで、腐っていく

 間違いなく、俺の全力だった。磨き抜いた技術を駆使し、魔法という補助で底上げし、あらん限りの力を尽くした、現時点で俺が出せる最高の一撃。リニスさんであろうと倒し得るという自信があった、自負を持った、誇りを賭した、全身全霊にして全力全開の拳。

 

「もしかして、これで打ち止めですか? まだほんの少しは時間がありますよ?」

 

 俺の拳撃を受け止めてなお、彼女は平然と二つの足で立ち続ける。手もつかず膝も折らず、よろめきすらしない。

 

 ダメージなど欠片もなかったと主張するように、平気な顔で話しかけてくる。何事もなかったかのように、平生に。

 

 彼女は宣言通り、魔法は使わなかった。防御魔法は最初の一枚だけ。射撃も砲撃も拘束も、身体強化系統の魔法も一切発動していない。動かないという明言通りに、威力を流すような動作もしなかった。

 

 おそらく、リニスさんの体内で渾々と湧き続け、体外にまであふれている魔力が影響しているのだろう。莫大なまでの魔力が体表面を理不尽なくらい強化し、内部機能も異常なくらい引き上げている。

 

 いや、理不尽な『くらい』とか異常な『くらい』とか、そんなあやふやな表現は適していない。あからさまに理不尽で、わかりやすいほど異常なのだ。

 

 身体の外に漏れている魔力が拳撃の速度を低減させ、身体の内に漲っている魔力が威力を吸収した。よってダメージはゼロ、無傷、継戦能力に支障なし、身体機能に影響なし、戦闘継続待ったなし。

 

 俺の魂を込めた一打は、まったくの無駄だった。

 

「あ……りえ、ないだろ……。いや、おかしいって……。こんな……ここ、まで……」

 

 全身の血が凍りついた気がした。左腕の怪我の痛みすら、もはや感じない。

 

 笑顔のまま、顔色一つ変えずに俺を見つめるリニスさんから俺は遠ざかるように一歩、また一歩と後ずさる。俺の意思とは無関係に、足が彼女と距離を取る。

 

 投げ上げられていた杖は正確にリニスさんの手元まで落下した。回転していた杖を事もなく右手でキャッチする。

 

 ご褒美と称された無防備無抵抗な時間も終了。認めたくはないが、俺の心を折るという彼女の目的は、異議の余地なく果たされた。

 

「徹のそんな弱々しい顔は初めて見ますね。なぜでしょう、このような趣味はなかったはずなのですが……感情が昂ぶるのを抑えきれませんっ……」

 

 右手では頑丈な杖が折れるんじゃないかと思うほど強く握り締め、左手は歓喜か愉悦に打ち震える身体を抱き締めている。紅潮した顔で、どす黒い狂気を瞳に灯して、口から(くさび)状の歯を鈍く輝かせ、俺を真っ直ぐ捉える。

 

「は、は……どうしろってんだよ……こんなの」

 

 戦況は劇的に変化した。いや、俺自身変化したことを、認めたくなかっただけなのだろう。

 

 それでももう、目を逸らすことはできない。立場は確定した。

 

狩るものと狩られるもの。強者と弱者。そして――

 

「どうするもなにも、簡単ですよ。私の手を取るだけでいいのです」

 

 ――勝者と、敗者。

 

「ぅ、あぁぁぁっ!!」

 

 リニスさんの姿が遠くなり、小さくなった。彼女のすぐ正面の床が二箇所、爆ぜて細かな砂礫が散乱している。

 

 彼女が離れたのではない。俺が『襲歩』まで使って緊急離脱したのだ。

 

 あのままリニスさんの目の前にいたら、頭がどうにかなりそうだった。錯乱してもおかしくはなかった。

 

「はっ、はぁっ……はっ……っ」

 

 これは逃亡じゃない、逃走じゃない、敗走じゃない、壊走じゃない。負けたから主戦距離を離れたんじゃない、勝つために一度間合いを確保したんだ。この行動は、消極的な敗北宣言ではない。勝利のための積極的な意思表示だ。

 

 そうやって弱い自分を必死に騙して、ぼろぼろと剥がれ落ちていく心を守るために必死に言い聞かせた。

 

 もう、持っている手は全部出し切った。勝てる見込みなんて、勝利への道筋なんて、もう見えない。なら俺は、何のために距離を取ったのだろう。その理由を直視できず、目を覆った。今の俺に、どれだけのことができるのだろう。その返答は受け止められず、耳を塞いだ。

 

 もうなにも考えたくなかった。

 

「どこへ行くのですか? まだ諦めていないなんて、そんなおもしろいこと言いませんよね? ねぇ、徹……ねぇ?」

 

 視界から、リニスさんの姿が消失した。残ったのは、俺が『襲歩』を使った時に跳ね上がった床の破片と、彼女がいた空間の周囲三メートルほどを埋め尽くす砂煙。

 

 様々な視覚情報が脳に届いたと同時に、背後から彼女の声がした。

 

 振り向く暇も与えられぬまま、背中に衝撃が走る。

 

「ごぶっ……っが、あ……っ」

 

 鈍い音と鋭い痛みが、後背部から発した。

 

 肺が圧迫されて声はくぐもる。背は弓形(ゆみなり)に反り返った。内臓を損傷したのか、喉の奥からは声音(せいおん)になり損なった空気とともに、鉄臭く粘度の高い液体が込み上がってくる。

 

「そんな声出さないでください。私が……私じゃなくなってしまいそうですっ……」

 

 耳元後方で聞こえたはずの彼女の声が、今度はなぜか正面で聞こえた。俺の後ろから前まで回り込む時間なんてなかったというのに。

 

 風を切る音が、複数回鼓膜を震わせた。

 

「っ……あっ、ぐ……っ。おっ、ぇ……」

 

 腹部へ痛打が数発、数えられないほどの速度で叩き込まれた。

 

 胃の内容物が食道を遡上(そじょう)する。口から吐き出されたのは、赤黒い血の塊だった。

 

「あなたを傷つけるのが……辛いのに、悲しいのに、苦しいのに……っ! どうしてっ、どうしてこんなに……」

 

 腹を打たれたことで、自然と俺の頭部は突き出された。

 

 彼女は身を屈ませ、膝のばねで跳ねる。その勢いのまま、俺の下顎を右の掌底でかち上げた。

 

「……胸がうち震えるの……っ」

 

 頭が跳ね上がる。内臓器官の損傷と、口内を切ったことによる血液が口元から溢れた。頭の動きに追従するように、口から溢れる血は幾筋かの線を引く。

 

 意識は朦朧として、視界はぐらぐらと揺れている。なのに、視界の下端に映るリニスさんの表情は、いやにはっきりと見えた。

 

 リニスさんの瞳にはもう、以前までの優しい色はなく、すべて(くら)い狂気に呑まれている。彼女の双眸に潜む暗闇は加速度的に濃度を増していく。瞳の暗さと反比例するかのように、頬は明るく紅潮していた。犬歯をぎらつかせながらも、口元は悲しげに歪む。

 

 彼女の表情は、セリフは、行動は、あべこべだ。目的だけが一貫していて、それ以外に統一性はない。

 

「ぉごっ、ぁがっ……」

 

 身体の各所から噴き出る俺の血を、リニスさんは浴びる。鬼神の如き形相で、彼女は俺を打ち据えた。

 

 暴力や絶望、神経を(つんざ)く痛み、死への恐怖。人間の感情を否応なく揺るがす(おそ)れ。リニスさんは、そのすべてを体現したような状態だった。

 

 でも俺には、俺のぼやけた目を通した彼女の姿はとても脆くてか弱くて、切ないほどに繊細で、痛みに耐えて涙を流しながら杖を――拳を振るっているように見えた。

 

「手が、足が、身体が、心が……震えて、震え続けて止められないのです……っ。これは哀しいからですか? それとも……愉しいから、ですか……?」

 

「俺……には、少な……っとも……愉し、そうには……見えな……」

 

 頭を打ち上げる一撃で床から浮いた俺に続くように、リニスさんも床から足を離す。

 

 フィギュアスケートの演技のように跳びながらスピンした。長くしなやかな彼女の足が閃く。

 

「止めてください、徹……。これ、とめて……っ!」

 

 リニスさんの、顔を返り血に濡らしながら嗤う表情と、頬を涙で濡らしながら助けを求める表情が、俺の霞む視界の中でだぶった。どちらが現実の彼女の表情か、俺にはわからない。

 

 遠心力が乗ったリニスさんの蹴撃は俺の左側頭部を捉えた。床から足が離れて踏ん張りが利かない俺は、トラックに撥ねられるよりも盛大に吹き飛ぶ。仮に足が地面についていたとしても、この威力の蹴りを受けて弾き飛ばされずに耐えられたとは思えないけれど。

 

 波に呑まれる木の葉のように、天も地もわからないような状態。ぐるぐると回転しながら吹き飛んでいることを、遅まきながら知った。

 

 時々視界に入る壁が、コマ落ちしたように俺に近づいてくる。そろそろ壁に激突するかな、とぼんやりとした頭で考えていたが、その瞬間は訪れなかった。

 

 腰に固いものが触れている感触がする。頭を動かす気力もないので右手で触って確認すれば、どうやら鎖状の形を成している。

 

 これはリニスさんの拘束魔法だ、と理解するのを待たずに、強い力で引っ張られた。

 

「離れないでくださいよ……逃げないでっ……っ! 私の(そば)に、近くにいてくださいよぉっ……」

 

 そんなこと言うんなら攻撃しないでくれよ、と脳内でぼやく前に、彼女は追撃を叩き込む。

 

 鎖によって引き戻された俺に、リニスさんは双手による掌底を放った。打撃というよりは、大砲を同時に二発発射されたような印象だった。

 

「ーーーーッ」

 

 もはや、俺の声帯は言語すら発声することができなかった。

 

 リニスさんに打ち抜かれた俺の身体は一直線に壁際へと追いやられ、今度こそ激突した。

 

 背中を強かに打ちつけ、少なくない量の血が吐き出される。ダメージの余波で右目は霞み、左目は赤く濁った。頭を蹴られた時にできた傷から流れた血液が左目に入ってしまったのかもしれない。

 

 目の影響も深刻だが、深刻なのはそれだけじゃない。全身だ、満身創痍にも程がある。

 

 左腕は負傷して自由に動かせず、リニスさんへ『発破』を放ってから右手も痺れている。鋼鉄製の装甲板を素手で殴りつけたような感覚だったので、なんらかの支障を(きた)してしまったのかもしれない。

 

 脚部にも打撃が数発被弾していたようで、壁へ叩きつけられた衝撃が決定打になった。足も思うように動かない。

 

 脳を激しく揺さぶられたことで感覚が鈍麻しているが、身体の中にも随分悲惨な被害を受けている。何と言っても吐血が収まらない。鼻から抜ける鉄臭さと、どろねばっとした舌触りがとても不愉快だ。肺の調子もどこかおかしい。深く息を吸い込むことができず、浅く速い呼吸になってしまっている。酸素を渇望する心臓がどくどくどくどくと、けたたましく抗議していた。

 

「徹……本当に、私は……あなたを……っ」

 

 リニスさんの悲痛な叫びが聞こえた気がした。放った言葉の続きは、あまり想像したくない。

 

 赤く濁る左目は諦め、ぼやけるが一応役目は果たしてくれる右目を、声がした方へ向ける。

 

 後半戦開始のゴング代わりになったリニスさんの魔力爆発によりぶち抜かれた壁の、ちょうど対角線上に彼女がいた。壁の向こうの暗闇を、彼女が背負うような構図になっている。

 

 視界がぼやけていることもあり、その暗闇にリニスさんが呑み込まれていっているようにも見えた。ぼやけているが故か、もしくは錯覚か、それとも実際に彼女が闇に沈んでいるのか、俺の淀んだ意識では判断しかねた。

 

 打突の時には身体のどこかに吊り下げていたのか、または頭上に放り投げていたのか、再び杖を手にしたリニスさんは湿っぽい声音で呟く。

 

「すぐに追いかけますから……向こうに着いても、動かないで待っててください……。私もすぐに、すぐに()きますから……」

 

 杖が横一線に払われた。

 

 周囲から刺々しい魔力の気配がする。動かすだけで軋んで痺れるような痛みを発する首を回し、確認してみれば、数多の魔法が展開されている。まるで無数の星々に囲まれているようだ。

 

 俺から少し空間を空けて、網の目状に拘束魔法が張り巡らされている。俺が逃げたりできないようにするためだろう。既に俺は満足に動けないほどずたぼろであるが、念には念を入れたというところか。

 

 その鎖で編まれた巨大な網の内側には、これまた必要以上の数の射撃魔法が待機している。霞む右目では数えること叶わないが、たとえ常態だったとしても数える気は萎えていただろう。禍々しい魔力の気配と、視界を満たす光の粒で、だいたい数量は悟れる。

 

 視線の先、リニスさんの正面には一際大きな魔力の球体が、おそらく三つ浮いている。砲撃魔法の前兆、準備段階に発生する魔力球と推測する。

 

 ただ、俺の記憶と食い違いがある。片目のため距離感に自信はないが、俺の目測が正しければ、リニスさんの砲撃前の魔力球はもう一回りか二回りほどサイズが小さかったはずだ。魔力が跳ね上がった恩恵か、砲撃まで魔改造が為されているらしい。

大きかろうが小さかろうが、射撃魔法一発で致命傷の俺からすれば、どちらにせよ過ぎたる火力だと言わざるを得ない。

 

 圧倒的な魔力に物を言わせて押し潰すようなこんなやり方は、省力主義のリニスさんらしくない。まあ、この一連の戦闘が始まってから彼女らしさなどというのは、消えてなくなっているけれど。

 

「お墓を用意することはできそうにないので……せめて散り様くらいは派手に、華やかに行います。私からの、せめてもの手向け……です」

 

「はっ……。感激、の……極みだよ……。涙が、出そうだ……」

 

 リニスさんは右腕を上に掲げる。彼女の手のひらに握られている杖が強い光を幾度か放った。それは、待機させている射砲撃が発射されるまでのカウントダウンにも、暴力的なまでの魔力圧に抵抗する杖状デバイスの足掻きにも思えた。

 

「抗わなければきっと、痛みはありません。なにかできるとは思えませんが……念の為、障壁など張らないでください。それでは……お別れです、徹。ありが、とう……ござ、い……ましたっ。さようなら、私の、    (・・・・)

 

 最後に彼女の口元が動くのと、頭上に掲げられた杖が振り下ろされたのは、ほぼ同時だった。

 

 空気を切り裂く音、空間を焼く音。俺へと迫る射砲撃魔法の発射音に、彼女が最後に呟いた声は掻き消された。

 

「これ、が……結末か」

 

 彼女の力は圧倒的だった。言うまでもなく、抗う術もなく、絶対的だった。

 

 もとから魔力量も優れていて、魔法の扱いにも長けていて、交戦距離にも不得手はなく、肝が冷えるくらいに戦略にも通じている。その状態ですら、勝ち負けの天秤は贔屓目に見たとしてもぎりぎり釣り合っているくらいだった。それすら接近戦であれば、という注釈付きで、全体の戦局を俯瞰すれば俺の完敗だった。

 

 だというのに、彼女は突如、正体不明のロジックで大量の魔力を手にした。

 

 パラメーターは総じて上昇。強化されたのは魔法だけに留まらず、単純な魔力だけで俺の攻撃を無効化するほど身体能力を向上させる無敵っぷり。頼みの綱のハッキングも結果として弱体化の憂き目にあい、機動力に関しても俺を上回る。

 

 手持ちのカードはすべて切った。俺の手札はゼロだ。勝ち目も同じく、だ。

 

「こんな終わり方……あって、いいのかよ……」

 

 もはや、為す術がなかった。

 

「勝たなきゃ、いけなかったのに……」

 

 死ぬのが怖くないわけじゃない。怖くない人間なんているわけない。

 

 でも、それ以上に、こんな結末になることのほうが怖かった。

 

 プレシアさんは娘をその手に取り戻すためにアルハザードへ旅立ち、フェイトとアルフはこのまま取り残される。彼女たちが守ってきたシナリオのまま進んでしまう。それどころか、俺が半端に首を突っ込んだせいでリニスさんまでここで骨を埋める覚悟を決めてしまった。彼女がどのような感情を抱いて、俺とともに泉下の客となることを良しとしたのか察することはできないが、これでは無駄に死人を増やしただけだ。状況を悪化させただけだ。

 

「だめ、だろ……こんなの……っ。許されるわけ……ないだろッ!」

 

 傷だらけの身体に鞭を打ち、背後の壁に右手をつき、へたり込んだ体勢から起き上がる。

 

「痛い……痛い、なあ……」

 

 もう、立つだけでも、辛い。

 

 膝はかくかくと笑い、今すぐにでも折ってしまいそうだ。壁に手をついていなければ立ち続けられないほど平衡感覚を失っている。地面が揺れていると思うくらいに頭がぐらぐらとして気分が悪い。左目は視力を失い、右目もピントが狂っていて彼女の姿をぼやけて映す。口からは止め処なく血が溢れて、もうこの味と匂いに慣れてしまった。

 

 戦うどころか、歩くことさえできはしない。

 

 でも、それでも俺は。

 

「諦めたく、ないっ……」

 

 諦めたくない、諦められない。

 

 みんな、みんな幸せを望んで頑張ってきた。努力してきた。ただ、平穏な生活を家族とともに安らかに過ごしたいという、そんなちっぽけな幸せを望んでいるだけなのに、必死の頑張りも懸命な努力も決して報われることはない。

 

 不条理だ。理不尽だ。非合理だ。無慈悲だ。

 

 しかし、それが世界の理だ。この世は悲劇で満ち溢れている。運命の輪だ。抗うことは許されない。

 

 それでも俺は、諦めたくない。親と子が引き離される運命なんて、認めたくない。

 

 今の俺になにができるかはわからない。おそらく、なにもできないだろう。

 

 だとしても、もしかしたら俺が抗ったことでリニスさんになんらかの心境の変化を与えることはできるかもしれない。その変化が、『最善』を目指す切っ掛けの一助になってくれれば、なにかが変わるかもしれない。今のままでは、なにも変わらないことは確かなのだから。

 

「せめて、最期の最期まで……死ぬ瞬間まで、悪足掻き、しようか……」

 

 視界一面に余すところなく、彼女の魔法が(ひし)めいている。防ぐ手立ては勿論ない。妙案も、奇策もまた、ない。

 

 障壁を張ったところで役に立たないのは既に実証されている。回避できる足も、空間もない。(ねずみ)どころか蟻の這い出る隙間もない。

 

 魔法群の命中精度が悪いことを祈りつつ、何秒魔法を展開したまま維持できるかわからないが残り少ない魔力を絞り出し、魔力付与を全身にコーティングした。

 

 魔力を振り絞った脱力感に耐えるため、胸の真ん中あたりをぎゅっと握り締める。不意に、右手に小さく固い感触と、確かな温もりを感じた。

 

「巻き込んじまったことに、なるんだろうな。……悪いな」

 

 リニスさんの魔法群が迫る。暗褐色(・・・)の壁が俺を押し潰さんとしている。一発一発が致死の弾丸。思わず目を背けたくなる致命の嵐を前に、俺は身動ぎ一つせず、真正面から見据え、待ち受けた。

 

 どうやら信じてもいない神様に祈ってもご利益はないらしい。リニスさんの魔法は莫大な魔力を練り込んでいて、かつ、コントロール性にも秀でているようだ。魔法群は俺に直撃させる軌道の砲撃と、逃げ道を塞ぐように回り込む魔力弾の二手に分かれた。足が生きていたとしても、回避することは不可能だったというわけだ。

 

 どこまでも用意周到な彼女に、思わず笑みがこぼれる。その笑みも、血で濁っていたけれど。

 

 ――結局、なにもできなかったな……――

 

 俺の意識は断線する。

 

 眼前は白く染まり、耳は音を捉えない。痛みどころか身体の感覚すら感じなかった。

死の間際にして、脳裏をよぎるのは大切な人たちの顔。人との繋がりが希薄だった俺にも、こんなに大切に思える人たちがいたんだなと再認識させられる。

 

 そして最後に、最愛の姉の姿が現れた。自分も辛かっただろうに、そんなことおくびにも出さずにいつも俺を守ってくれた姉の姿。もう家族の体温を感じることも、声を聴くことも、恩を返すこともできないのだろう。

 

 フェイトたちには威勢のいいことを言って期待させ、リニスさんには罪という重荷をさらに背負わせることになった。

 

 家族が引き裂かれる運命に納得ができなくて許せなかったから頑張ってきたけれど、結局は引っ掻き回しただけだった。

 

 気づいていたはずなのに、わかっていたはずなのに。自分にはそんな大それたことを成すだけの力なんて、ありはしないことに。

 

 全力を振り絞った。渾身の力を出し切った。それでも俺では、彼女たちの世界には届かなかった。

 

 白の世界が、徐々に濁り始める。世界の色が暗く、黒く淀んでいく。きっとこのまま汚れて、沈んで、腐っていくのだ。

 

 そう思って、とうとう俺は、諦めた。もういいだろう、誰も見ていないのだ。強がりは捨てて、いいだろう。もう終わりなのだ。諦めてしまっても、いいだろう。

 

 ――……様。……るじ様、我が主様……――

 

 瞼を閉じかけた寸前、どこかから音がした。それはなぜか耳に馴染みのある、優しい声。

 

 ――まだ……終わって……おり……ません。……主様の願いは、夢はまだ終わっておりません――



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改めて宣言する

 しかと目を開く。いつかの空色が、白も黒も、濁った灰色も切り裂いて、視界いっぱいに広がっていた。

 

 その中央に、人の形をしたなにかが浮いている。見覚えがあるような、ないような、そんなあやふやな記憶が脳裏を掠めた。

 

 ――主様。我が主様。気を強くお持ちください。主様の願いは、夢は、まだ終わっておりません――

 

 青白く光る半透明の肢体。妖艶な女性とも、幼気な少女とも取れる顔貌。特徴的な、空色の長い髪。そして身体の中心、胸の奥でゆっくりと回転しながら光を放つひし形の宝石。

 

 その宝石を俺はよく知っている。その光の温もりを、俺はよく知っている。

 

 知っているからこそ、驚きもより一層深い。

 

「ま、さか……エリー、か……?」

 

 混乱の坩堝に陥りながらも、俺は空色の彼女に問いかけた。

 

 俺はもう、既に死んだのだと思い込んでいた。灰燼さえも残さず、全てを焼き尽くすリニスさんの魔法によって俺の身体は消し飛ばされたのだと、そう思っていた。

 

 じきに暗く冷たい黄泉の世界へ旅立つのだろうと覚悟していたのに、なにもないこの世界で、俺はよく知る輝きを視た。包み込んで凍える身体を温めてくれるような、エリーの光を。

 

 思わず飛び出た俺の質問に、彼女は蕾が花開くような可憐さを彷彿とさせる柔らかい微笑みを返した。

 

 ――その呼び名。『エリー』という呼称。主様が御自らつけてくださった、私の、名前。私はとても、大好きです――

 

 彼女の口は動かない。空気は震えず、音は発されていないのに、その言葉は俺の心まで明瞭に伝わった。

 

「ごめんな、エリーも巻き添えにしちゃって……」

 

 ふと、思い至る。エリーはネックレス状態で俺の胸元にいた。当然リニスさんの攻撃を防ぐことも、回避することもできなかった。俺がエリーを持っていたせいで、リニスさんの尋常ならざる魔法群の掃射を浴び、ともにこの世を去った。そういうことなのだろうか。

 

 ――まだ主様は御逝去召されておりません。もちろん不肖私とて同じです。主様の夢も願いもまだ終わっていないと、私はそう申し上げましたーー

 

 俺の推測を、しかし空色の彼女はばっさりと否定する。その明確な打ち消しの言葉は、俺の心を大きく揺るがした。

 

 しかし、エリーの言葉を真実だとするのなら、ならば一体ここはどこなのだ。最初は白、徐々に黒ずみ、今は鮮やかな空色に変貌を遂げたこの世界は、なんなのだ。

 

 そう尋ねると、エリーはまたもはっきりと答える。

 

 ――ここは、そうですね。少し抵抗はありますが、(はばか)(なが)ら申し上げますと、私の力の加護が届く世界、といったところでしょうか――

 

「力の……加護。言ってしまえば、エリーの世界、みたいなもんなのか?」

 

 ――恐れ多いですが、そう捉えていただいても間違いではありません――

 

 風は感じないのに、彼女は艶やかな空色の長髪をなびかせながら俺に教えてくれた。

 

 この世界を左見右見(とみこうみ)して確認してみる。晴れ晴れとした解放的な気分を誘う空色以外に、この世界には何もない。あるのは俺という存在と、この世界の管理者たるエリーのみ。

 

 記憶の片隅に、ぱちっ、と火花を散らすような感覚が走った。ぼやぼやとして不明瞭ではあるが、この世界には見覚えがある。俺はこの空間に、何度も来たことがある。

 

「エリーはずっと、俺を助けてくれてたんだよな。……ありがとう」

 

 戦いで大怪我を負った時、虚ろな意識のまま俺はこの世界に誘われた。その度に空色の彼女は俺を優しく包み込み、癒してくれていた。

 

 エリーは俺のそばでいつも、健気に献身を尽くしてくれていた。

 

 ――い、いえ……お、恐れ多きことです。何も、何もお役に立てない私ができる唯一のことが、この程度でしたので――

 

「この程度なんてもんじゃない。お前がいなきゃ、俺なんて最低二~三回は野垂れ死んでる」

 

 ――元はと言えば私が厄介ごとを、恥じ入るべきことに己の力を制御しきれずに暴走状態に陥ったことが原因です。責められる(いわ)れこそあれど、お褒めのお言葉を(たまわ)る資格など――

 

「暴走したのはなのはとフェイトが無茶し過ぎたからであって、エリーに責任はないよ。それにお前自身プログラムを改悪されてたみたいだし、どうしようもなかったって」

 

 俺がそう言って宥めると、エリーは突然神に祈りを捧げる修道女のように(ひざまず)いた。

 

 俺があたふたしていると、脳内にエリーの凛とした声が響く。

 

 ――その御恩に報いたいと、常々思っておりました――

 

 ただならぬ雰囲気を感じ、俺は黙って言葉の続きを待つ。

 

 ――無秩序に破壊を振り撒くだけだった私を、主様は御身を(かえり)みず助けてくださりました。永遠に等しい時間、黒く冷たいいばらの牢獄に閉ざされていた私を御救いくださったその日より、主様のことを常に想い続けてまいりました。私はこの御恩に報いたいのです。いえ、報わなければなりません――

 

「報いる、って……。エリーは充分俺を助けてくれただろ。俺がどうしようもなくなった時、いつだってお前は助けてくれた。もう充分に礼は尽くしてくれたよ」

 

 いつだってエリーは俺のそばで力を貸してくれていたのだ。協力を惜しんだことなど、ただの一つもありはしない。

 

 仲間を売るような真似に複雑な心境はあっただろうにジュエルシードを探す手助けをしてくれたし、重傷を負った時は怪我も治してくれた。九つのジュエルシードが融合した九頭龍を封印する時、九頭龍からぶつけられる魔力を引っ張って、俺が力を発揮できるように尽くしてくれた。プレシアさんからの雷撃から守ってくれて、墜落しかけていた俺を抱き上げてくれた。数時間前、次元跳躍攻撃からフェイトを庇いに向かった時も、紙一重の差で間に合わなかった俺を空色の魔力で覆って、背中を押してくれたのもエリーだ。

 

 エリーの頑張りを数えだしたらきりがない。枚挙に(いとま)がないほどだ。

 

 だが、エリーはそれでは気が収まらないらしい。首をふるふると振って、否定の意を示した。右に左に、柳髪(りゅうはつ)が躍る。

 

 ――永遠に続くと諦めていた悲しみと不幸の連鎖を主様に断ち切っていただいたおかげで、私は今こうしてこの場にいるのです。御恩はそれだけではございません。彼奴(きゃつ)に力を悪用されそうになった際にも助けていただきました――

 

「んー…………」

 

 『彼奴』とは、もしやリニスさんのことを指しているのだろうか。そう仮定すると、悪用されそうになった際というのは倉庫での一件ということになる。

 

 薄々感じてはいたけれど、リニスさんは相当にエリーから敵意を向けられているようだ。

 

 ――傷つけられても、血を流すことも厭わず、魔手から私を救い出してくれました。いばらの檻から解き放ってくれた。その恩義に、私は応えたいのです。た、たまに、シードモードの私の身体をお手入れしてくれたという恩にも、報いたいのですが、そ、それはま、またの機会です――

 

 シードモード、という聞き慣れない単語が出てきたが、文脈から察するにひし形の宝石の状態のことだろう。何度かお手入れしたことがある。

 

 その話題に触れた途端、ほとんど変わらなかった表情が、まるで夕暮れの空のように赤くなった。今の超然とした印象のエリーがそんな顔したので、心臓がどくん、と少し跳ねた。

 

 深く切り込めば話が脱線するだろうことは目に見えているので、俺は気づかなかったふりをして、彼女の言葉を待つ。

 

 ――私の力は、きっと主様のお役に立てるはずです。主様の願いの為に、私を、私の力をお使いください。私の全ては、主様の御為に――

 

「恩……力……使う、ね……」

 

 エリーは、報恩に責任を感じているのだろう。半ば強迫観念に囚われている。

 

 まるで刷り込みだ。雛鳥が初めて見たものを親だと認識するように、エリーは助けてくれた人をなによりも大切な恩人だと感じている。尽くさなければいけないと、そう信じて疑わない。盲目的に、そう信じて疑わない。

 

 ここで恩返しのためだと称して、良心につけこんで彼女の力を借りるのは容易だろう。ロストロギアとしての力を貸してもらえれば、絶体絶命の窮地を脱することができるかもしれない。

 

 なんといっても、ジュエルシードが保有する魔力は莫大だ。人が内包する魔力なんて塵芥に、次元転移を可能とする魔導炉でさえも路傍の石に見えるほどに、その存在は強大で、かつ絶対的。人の身では到達し得ることのない境地だ。

 

 そして俺はその力を、喉から手が出るほど望んでいた。

 

 俺は周囲の人たちより明らかに素質が欠けている。

 

 努力と閃きで補おうとしても、補えきれない『才能』の差。埋めようにも埋め難く、近づこうにもかけ離れていて、這い上がろうにも這い上がれぬほどの高み。そんな世界で戦う人たちの隣に立ち、共に戦う力を、俺は欲していた。熱望し、切望し、渇望していた。

 

 そして、その力が今、俺の目の前にある。決して届くことはないと諦めていた天上の星が、掴もうと思えば掴める位置に下りてきたのだ。

 

 肺の中の空気を吐き出し、新しい空気を吸い込む。半透明な姿の彼女をではなく、胸の中心で浮遊するひし形の石を見定め、俺は口を開く。

 

「使うとか、使われるとか、恩に報いるとか、俺たちの関係ってそういうものだったのか? 違うだろ、そうじゃなかったはずだろ……」

 

 自分の力を使って欲しい、利用して欲しいというエリーの気持ちを、俺は断固たる決意で拒否する。

 

 口に出して言ってしまうことで、俺たちの関係が決定的に変わってしまうかもしれないが、それでも言わずにいられなかった。

 

 ――あ、主様、そ、それはどういう意味で……――

 

「使う側と、使われる側。それって所有者と道具、みたいな関係じゃないか。俺はそんなつもりでお前を傍に置いていたわけじゃない」

 

 エリーの助力を取り付けることができれば、現実世界でまだ続いている絶望的な窮地を打破打開するきっかけになるかもしれない。それでも俺は、空色の彼女の気持ちを、力を、便利な道具として使いたくはなかった。

 

 ――主、さま……――

 

「俺はそんなんじゃなくて……。もっと、こう……。なんなんだろうな、こんなに難しいことじゃないと思ってたんだけど、うまく伝えられない……」

 

 俺は苦々しい気持ちで拳を握り締め、目を伏せる。

 

 エリーがどうすればいいかわからずに戸惑っているのが感じられるが、俺自身まだ心の整理がついていなかった。

 

 一方的に魔力を提供するだけ、一方的に魔力を搾取するだけの関係なんて、俺はいやだった。そんな寂しくて薄っぺらい繋がりならいらないと、そう思ってしまった。

 

 俺にとってエリーは、ジュエルシードじゃない。力の象徴ではないし、エネルギー結晶体でも、ましてや便利な道具でもない。

 

 この空色の世界ではなく現実の世界では、エリーは話をすることはおろか、動くこともできない。気持ちを百パーセント齟齬(そご)なく伝えることはできないかもしれないが、それでも宝石の身体を点滅させることで、なんとなく分かり合えていると思っていた。分かり合えていると、俺は信じていた。

 

 街の中心部で暴走状態から落ち着かせ、エリーを引き取ったその瞬間からここまで、ほとんど肌身離さず一緒にいたのだ。物だなんて、力だなんて、ましてや利用するだなんて、そんな感情を抱くことなどできない。

 

 やはり、エリーの言うような関係は、俺は承服できない。そんな伽藍堂の絆は、いらない。俺が切に願った力だとしても、エリーにそんなことはさせたくない。

 

 ここまで誰よりも俺の近くで一緒に戦ってきた存在を、相棒と呼べる存在を利用するなんて考えはできなかった。

 

 『相棒』。その一言は、俺の心にすとんと落ちる。俺とエリーの関係性を語るにおいて、最も的確な表現が、きっとこれなのだ。

 

 伏せていた顔を上げ、エリーの輝くような空色の瞳を見詰め、言う。俺のあらん限りの本心を言の葉に込めて、エリーへ贈る。

 

「たぶんさ……恩だとか借りだとか、そんなの俺たちの間には最初からなかったんだと思う。助けたことはある。でもそれは一方的にじゃない、助け合ってきたんだ。そうやって戦ってきたんだ。俺たちの関係は利用とか、利害とか、そんな乾いたものじゃない。協力とか、助け合いとかっていう、もっと温かいものだったと思うから。だからさ、『相棒』……使ってくれだなんて、そんな悲しいこと言うなよ」

 

 エリーは瞳を見開き、ゆっくりと瞼を閉じ、目線を下げた。俺からでは表情は見えず、気持ちが伝わっているかの判断もできない。

 

 ただ俺は、伝わってほしいと思った。届いてほしいと願った。エリーが俺の気持ちのすべてを受け止めた上での結論であれば、たとえどんな答えでも、俺は良しとできる。

 

 ――こんな、私でも、いいのですか?――

 

 ぽつり、ぽつりと途切れさせながらも、彼女は言った。

 

 それは永劫を苦痛と悲哀に耐え忍んできた彼女の、助けを求める精一杯の叫び。

 

 ――惨禍を招き、紅血に塗れ、罪科に穢れたこんな私でも、貴方の隣に立って、いいのですか?――

 

 美しい髪で目元は隠れている。だが、頬を伝う雫は見えた気がした。この空色の世界で、彼女の世界で唯一の、無色透明。

 

 滴った雫が地を打つ。その音は、俺の耳に強く残った。

 

「当たり前だろうが。エリーは俺にとって、相棒で、相方で、パートナーで、家族だ。家族ってのは、ずっと近くにいるもんだ。前に、俺の意見も聞かずに独断で勝手に離れようとしたけど、もうあんなことすんなよ……頼むから」

 

 ――はい……っ、離れません。永遠に、離れません……っ。いつか死が別つとしても、決して……っ――

 

 地に落ちた涙は波紋となって、世界を覆う。優しく温かい空色は透明感を増して、この世界に広がり続ける。

 

 変化は、まだ終わらない。

 

 俺の目の前で手を組んで頭を垂れる彼女の全身が、眩い光を放つ。光が収まった頃には、半透明に透けていた姿が、くっきりと形を成していた。

 

 長い睫毛(まつげ)、すらりと通った鼻梁(びりょう)。淡く色づく唇に、シャープな輪郭。細い首筋、薄く浮き出た鎖骨。白く、しかし健康的で扇情的な肩。質感がありながらも華奢な体躯。白魚のような指、しなやかに伸びる足。

 

 朧に霞んでいた身体がはっきりとし、長い髪の一本一本に至るまで鮮明で、俺は思わず目を奪われる。優雅さと可憐さを併せ持つその姿は、まさしく息を呑むほどだった。

 

 俺は尻込みしそうになりつつも、未だ膝をつき、祈りを捧げる聖女のような挙止のエリーへ手を差し出す。

 

 たわやかに、俺の手を取って彼女は立ち上がる。

 

「これから頼むぜ、エリー」

 

 エリーは端整な顔を綻ばせ――

 

「はい、我が主様。常に傍らに寄り添う相棒として、愛方として、人生のパートナーとして、粉骨砕身誠心誠意尽くす所存です。不束者ですが、末永くよろしくお願い致します」

 

 ――深々と頭まで下げてそう言った(・・・)

 

 俺のセリフに、言った覚えのない言葉が飾り立てられていたり、ニュアンスが異なっていたりした気がしないでもなかったが、それよりも驚いたことがあった。そのインパクトに押されて、それ以外は頭から抜け落ちた。

 

「エリー、お前……喋れたのかよ。脳みそにじかに聞こえる声もよかったけど、やっぱり生で聞くほうが綺麗であったかいな」

 

 今まで鼓膜を仲介せずに直接脳内に送られていた声が、空気を震わせて俺の耳に届けられている。

 

 エリーの口から発されるエリー本来の声は、庇護欲をくすぐるほどに繊細で、それでいて一本芯の通った力強さと頼もしさがあって、乾いた心の奥底を潤す包容力と優しさに満ちていた。

 

「お、お褒め頂きっ……光栄です。し、しかし、何故でしょうか。私の力が及ぶこの世界といえど、言葉を交わすなどできる道理が……ないのですが」

 

「俺に訊かれてもな。半透明だったエリーの身体がはっきり見えていることが、なにか関係してたりすんのかな?」

 

「私の……身体……?」

 

 エリーはぺたぺたと自分の身体を触診する。不用心というか無思慮というか、それとも軽率というべきか、俺の目があるというのにそんな仕草を取るので視線の行き場に大変困った。

 

 あらかた自分の身体を確認し終わると、次はなぜか俺に手を伸ばす。

 

 ぴと、と壊れやすいものにでも触れるように、俺の上腹部に指先をあてる。いや、あてる、というよりも、添えると表現したほうが余程的確か。

 

 こそばゆく感じると同時に、背筋にぴりっと電気が走ったような感覚を覚えた。

 

「私……触れます。主様のお身体に……触れます……」

 

 当初()れている箇所は人差し指と中指の先端だけだったが、触れることが可能だと認識してからはそれが五本の指先となり、手のひら全体へと推移していった。

 

 そしてその柔らかい手のひらは、俺の身体をおもむろに登攀(とうはん)していく。腹部から胸部へと移動し、胸部から首筋に上り、首筋からとうとう俺の頬にまで達した。

 

 ここでようやくつかえていた俺の喉に自由が戻った。

 

「エリー、エリー……? なにか……わかった、か?」

 

「い、いえ……あの、えっと」

 

 我を取り戻したエリーはしどろもどろになりながら一歩退いた。

 

 手のひらをぼう、と眺め、二~三度開いて閉じてを繰り返した。

 

「た、逞しい……ですね」

 

「そういうことじゃあないな」

 

「あ、はい、申し訳ありません」

 

 エリーは、こほん、と一つ咳払いで話を区切った。

 

「自分でもよくわからないのですが、停滞していた力の栓が外れた、と言いますか……。ちょっと違いますね。なんと表現すれば良いか悩むのですが……魔力流の方向が定まった、ような……。申し訳ありません……適切な言語が見つかりません……」

 

「あんまり気を落とすな。俺も考えてみる」

 

 エリーは肩を落として目を伏せた。

 

 落ち込んだ様子の彼女の肩をぽんぽんと叩き、慰める。原因究明のため、そのまま俺は思考の海へと潜った。

 

 大きく分類して、変化は二つある。この世界の色彩の変質と、エリーの姿の鮮明化だ。

 

 正直どちらとも自信を持って手がかりといえるような情報はないが、一つだけ、その二つの変化の共通点がある。変化したタイミングだ。二つの変化は同時に発生した。

 

 俺とエリーが心の内を曝け出し、お互いの存在を認め、確かめ合った時に、それは起きたのだ。

 

 しかし、それが何になる。俺とエリーの今後にとって、重要な分水嶺であることは確かだろうが、それで魔力がどうたらという彼女の話には繋がりそうにない。

 

 思考の先が閉塞していく。これだけではまだ、足りない。

 

 深呼吸し、視野を広く持つことを意識する。

 

 目線を上げて、辺りを見渡す。

 

「主様、我が主様。眉間に皺を寄せて如何(いかが)しましたか? も、もしや、私が至らぬばかりに何か粗相を……」

 

「違うから、エリーはそのままいてくれ」

 

 俺の手には心地よい体温が伝わり、周囲は透き通るような淡い青空が広がっている。

 

 そうだ、この世界。エリーが手綱を握るこの世界の仕組みは、一体どのようなものなのだろうか。

 

 俺は自分の身体がここにあると認識してはいるが、現実世界からこの世界へ実際に身体を運んできているわけではない。現実ではまだリニスさんの砲火に晒されかけていて、俺の肉体を貫くまでの時間が延びているだけだ。精神だけが、こちらの世界に訪れていることになる。

 

 つまり、エリーの魔力を下敷きにして、俺の精神とエリーの、どう表すべきか、自意識や自我がともに存在しているのがこの世界なのだろう。

 

 現実の世界と空色の世界でどれほど時間の縮尺が違うのか気を揉むところではあるが、まだこうして俺があれこれと推考できている以上、身体のほうは焼き尽くされていないようだ。

 

 なるべく早く現実に戻らなければ、と不安は焦燥を呼び寄せるが、しかし今戻っても寸刻生き永らえるだけで、結末は変わらない。

 

 エリーと協力してリニスさんと戦うといっても、その協力する方法論が現状皆無に等しい。エリーの宝石体――本人曰くシードモード――から魔力流を放出する手を考えたが、魔力流は術式で型取られていない素のものだ。俺でも障壁を重ね張りすれば耐えられた魔力流の放射では、魔改造状態のリニスさんを抑えることなど到底できそうにない。

 

 エリーともっと効率的に一緒に戦える方法か、なんらかの術式を編み出さなければ勝ち目はない。

 

 だからこそ今は、この空色の世界の謎とエリーの明視化について解明しなければならない。俺の勘でしかないが、この二つの変化の原因の先に、俺たちの望むものがある。そんな予感がしている。

 

 予感はしていても、答えまで辿り着けない。あと一歩踏み込んだ解釈が、発想の飛躍がいる。

 

 解答に繋がっている糸はないだろうか、と探していると視線を感じた。すぐそばで、エリーが俺を見上げていたようだ。深刻そうな顔をしながら沈思黙考する俺を心配しているのだろう。

 

 不安感や確実に近づいている死への恐怖、頭を熱く鈍らせてしまうような焦燥。そういったネガティブな感情が、不思議と和らいでいく。心が温かくなるのを実感した。

 

「主様、それほどまでに熱く見詰められると、何故か胸の奥深くがぎゅっ、とします……」

「…………」

 

 エリーは頬を染め、胸の中心あたりの服を弱々しく掴んだ。生地が薄いようで、豊かな双丘の形状がとてもはっきりと浮かび上がってしまっている。

 

 彼女自身はすごく真面目な顔で言っているので、よしんば冗談や遊びでやっているわけではないのだろう。奇妙な感覚に襲われているだけなのかもしれないので、あまり語調厳しく突っ込むわけにもいかなかった。

 

「ん、胸の奥……心?」

 

 一つの単語が幾つもの情報に掠める。これが欠けていたピースだったのだ。

 

「よくやった、エリー。お手柄だ」

 

「は、はい。恐悦至極でございます……?」

 

 この世界は、実際の肉体は置いてけぼりになっていて、精神だけが入り込んでいる。それはエリーも同じだ。世界の構成自体はエリーの魔力によって行われているが、実体となるひし形の宝石は今も変わらず、現実の俺の胸元にネックレスとなってかかっている。

 

 身体は動かず、俺もエリーも心だけが跳躍している。

 

 すなわち、この空色の世界は、俺とエリーの心が交差した世界。心が重なり合った世界だ。

 

 だが最初、エリーの姿は半透明だった。心が密接に関わるこの世界において、姿形というのは相対する者への信頼感、または不信感の(あらわ)れなのかもしれない。身体が明瞭なほど心から信じており、逆もまた然り。

 

 朧気だったエリーの容姿が完全に明視化したということは、エリーが俺に心を開いてくれた、気を許した、信頼してくれたということだ。

 

「もうちょっと、待っててくれ。もう少しでわかりそうだ」

 

「はい、お待ちしております。……主様の手、心地良いです……」

 

 エリーの姿が鮮明になったと同時に、この世界の色も変化した。鮮やかな空色に透明感がプラスされた。

 

 持っている魔力の色が世界の色だと仮定したら、エリーの中に俺が溶け込んだということになる。魔力が溶け合い、絡み合った。それも踏まえて、この世界は心の距離の縮図でもある。色が重なったことは、心が重なったのと同義だ。

 

 俺とエリーの心が一つに繋がったことで、この世界とエリーの姿に変化を与えたのだ。

 

「主様の温もり……もっと、近くで……」

 

「ああ、もっと寄ってこい」

 

 課題の究明は果たした。しかし、本題のリニスさんへの対抗策が閃かない。この謎を突き詰めていけば、きっと何かを掴めると、そう思ったのだが、天啓はおりてこない。

 

「もっと、もっと……深くで、主様と……」

 

「ん…………ん?!」

 

 ふと気がつけば、エリーが俺の身体に手をまわして抱きついていた。考え事に集中していたことで、エリーとのやり取りへ反応処理のリソースが振られていなかった。以前のリンディさんに対してと丸っきり同じだ。

 

 下手に意識をエリーに戻してしまった分、身体の感触が鋭敏に感じ取れてしまう。

 

 細い癖に肉付きのいい肢体が、俺に余すところなく引っ付いている。男を虜にする弾力性のある二つの山が、俺の上腹部から胸部にかけて押し付けられ、形を変えていた。割と性格は純朴で純粋なのに、足まで俺に絡みつけている。これまでの永遠に等しい時の流れで(つちか)ってきたわけではなく、おそらくは天性のものなのだろう。

 

 いや、何を冷静に分析しているのか。エリーがこのような、魅力的な女性の姿になった途端に手をつけるなど、それはあまりに見境も節操もなさすぎる。

 

 ひとまず距離を取ろうとするが、俺は俺でエリーの体温に安らぎを覚えてしまって、肩を掴んで離すことができなかった。

 

 俺という人間は、こんなに意志薄弱な男だったのだろうか。手のひら返しのような無節操さではないか。

 

 と、ここまで考えてふと、思考の矛先がずれる。俺の意思の弱さはもはや折り紙つきかもしれないが、エリーの豹変ぶりはどういうことか。

 

 最初話している時はまだ落ち着いていて、会話が成立していた。だが心を開け放ってからというもの、なんだか己の本心も開けっぴろげになってしまっている気がする。

 

 俺もエリーも、精神状態の変化の兆しは、エリーの姿がはっきりと見えるようになって、世界の色が透明感で彩られてからだ。

 

 そういえばエリーが言っていた。要領はいまいち掴めなかったが、『停滞していた力の栓が外れた、魔力流の方向が定まった』と。

 

 かちり、と歯車が噛み合うような感覚。

 

 そして夢現の境界線をふらふらと彷徨(さまよ)っているかのように、エリーが呟いていた言葉、『もっと近く。もっと深くで』。

 

 加えて俺の、沸騰しそうに熱い血の流れと、反転するような心拍の穏やかさ。脆そうなエリーの身体を、肺の中の空気が空っぽになるくらい強く抱き締めたい。限りなく近づいて、その無償の愛に抱かれたい。一つになりたいという激情と、柔らかな腕で包み込まれたいという宿願――表裏一体の思い。

 

 これらが指し示す、意味。これらが紡ぎ出す、答え。

 

 既に、俺たちのナカにあった。

 

 左手をエリーの腰にまわし、右手で彼女の肩を抱く。現実の空よりも鮮やかなスカイブルーの髪に、口づけをする。

 

「エリー、俺のこと……信じてくれるか? 願い事ばっかり大層で、成し遂げる力なんてなにもない。こんな無力な俺を……」

 

「何を仰っているのですか、主様。いくら温厚な私でも、些か看過できぬお言葉です」

 

 俺を抱き締める力が、きゅっ、と強くなる。エリーは俺の心音に耳を傾けるように、頬をつけた。

 

「私の主様を貶す言葉は、誰であろうと許しません。それがたとえ、主様本人といえど」

 

 突拍子もなければ、確信もない。そこに至るプロセスも、ロジックだって不明だ。理論も理屈も、一足飛びに跳び越えている。

 

 それでも俺は、できると思った。

 

「信じています。血と悲しみの呪縛から解き放って頂いたあの時から……あの時より、ずっと。なにがあっても、私は信じています」

 

 エリーとなら、できると思った。

 

「俺も……お前を信じてる」

 

 俺とエリーの心が、一つの糸で繋がった。

 

 俺の中にエリーの心が、エリーの中に俺の心が入り、溶け合い、一つになる。身体の隅々まで、心の奥底まで沁み渡り、浸透する。

 

「こんな(くびき)は、もう……俺たちには必要ない」

 

 ジュエルシードに科された封印を解く。厚い殻に抑えつけられていた彼女本来の力が、戻っていく。

 

 束縛から解放されたエリーの力は、雨粒の一滴一滴が天から大地へ降り注ぐが如く、俺とエリーの心身へ流れ込んでくる。

 

 この大きな、大き過ぎる力は、決して俺だけのものではない。俺だけのために行使していい力ではない。これまで悲しみを作り出してしまった数と同じだけ、いや、それ以上の数の幸せを築くための、守るための、俺とエリーの力なんだ。

 

 ――行くぞ、エリー――

 

 ――はい、我が主様――

 

 俺とエリーの意識が、完全に重なった。

 

 次第に空色の世界が遠ざかっていく。

 

 代わりに視界に挿し込まれるのは、灰色に染まった時の庭園、魔導炉へ続く巨大なホール。眼前には砂埃と瓦礫、そしてごくゆっくりと接近する射撃魔法の魔力弾と、太い砲撃、逃亡を許さぬ鎖の鳥籠。

 

 世界に色が戻り、猛スピードで殺到してくるそれらを、透明感を伴った空色の魔力で薙ぎ払う。魔力はリニスさんの射砲撃を消し飛ばしたあとも竜巻のように俺の周囲を駆け回り、足元の瓦礫や煙も一緒に掃き除けると別れを惜しむように足の間を吹き抜け、消えた。

 

 窮屈だった光景は、魔力弾や砲撃がなくなったおかげで随分とすっきりした。弾幕で遮られていた前方では、リニスさんが茫然自失というふうに立ち惚けていた。デバイスである杖まで手から落としてしまいそうな動揺っぷりである。討ち取るには充分すぎる魔法群を簡単に払われたのだから、動揺のほども窺えるというものだ。

 

 愕然とした状態のリニスさんへ、俺は改めて宣言する。

 

「まだ終われないよ、リニスさん。みんな揃って、笑顔で帰るまで……俺はもう諦めない」

 

 澄んだ音がホールに反響する。

 

 死闘の第三幕が、切って落とされた。



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もう、残滓すら見えなかった

「まさか……そんな、どうやって……。あなた程度では防ぎきれるわけがっ……? あなたは、徹……です、か?」

 

「……は? 俺が俺以外のなにに見えるっていうんだ」

 

 狼狽(うろた)えて激昂(げっこう)するように声を張り上げたリニスさんは、次第に勢いを弱めて最後には本人確認までしてきた。

 

 魔力の質や量が一変したことで、俺だと気づかなかったということなのだろうか。だとしても、この空間には俺とリニスさんしかいなかったのだから、わざわざ訊いてくる必要性はないように思う。

 

 いまいち腑に落ちず、疑問に首を傾げた。

 

 ふわり、と俺の頬を何かが掠める。こそばゆく感じ、反射的に手で払う。

 

 払い除けたことで、ようやくわかった。リニスさんがこれほど驚いている理由、誰何(すいか)してきた理由に。

 

「空色の、髪……?」

 

 頬を撫で、今は手に触れているそれは、ついさっきまで俺の懐で包まっていたエリーの髪色と同じ、空色の長い髪。雲一つない青空をそのまま毛髪に閉じ込めたような、鮮やかで(まばゆ)いスカイブルー。

 

 それが今俺の手中にあって、頭皮は突っ張っているような感覚がする。まるで自分の髪の毛をひっぱられているような、そんな感覚。

 

 いや、いい加減現状をしっかり受け止めるべきだろう。

 

「な……ん、だこれは?! どうなってんだよ!?」

 

 俺の髪が伸びて、色まで変わっていた。色はエリーと瓜二つ。長さはエリーほどはなく、腰よりも少し下程度だ。

 

 喉から発される声も自分のものと思えないほど高く、透き通っている。

 

 よくよく確かめてみれば、変わった部分はいくつもある。というよりも、変わっていない部分を探す方が困難だ。

 

 髪を払った手のひらは俺のそれよりも薄く、指は細く長い。視線を上らせていけば、腕も細くなっていた。元からあまり太いほうではなかったが、それでもトレーニングはしていたのだ。多少筋肉で隆起していた。今も皮膚の下には引き締まった筋肉を纏ってはいるが、それでも細くなったことに違いはない。

 

 変化は当然、髪や腕だけでなく声も、全身にまで生じている。なんと表現すればより適切なのかわからないが、強いて言うのなら、身体構造が女性側に寄っている。

 

「ま、まさか……」

 

 女性側に寄っている。自身の変化をそう結論付けた時、背筋にぞくり、と寒気が走った。

 

 間違いなく、俺の精神は男のままだ。そんなこと、そんな不可思議な現象があるわけない。あってたまるか。

 

 自分にそう言い聞かせながら、右腕を動かす。向ける場所は心臓の真上。胸の中心よりわずかに左に逸れた場所。

 

「あ……ある……」

 

 あった。あってしまった。胸部には、母性の象徴とも言われる、柔らかくも弾力のあるそれが。

 

 胸に何かが当たったという感覚と、柔らかいものに触ったという感触を同時に感じた。そしてすぐに手を離した。ただひたすらに驚いたのだ。

 

 寒気と動悸はまだ治らない。どころか激しさを増して押し寄せてくる。

 

 右手を腹部の真ん中あたりに添えて、徐々に手を下ろしていく。もうお腹の時点で、以前の自分の身体の感触とは明らかに異なっているが、重要なのはそこではない。

 

 おへそを通り過ぎ下腹部に差し掛かった。

 

「な……ない……」

 

 なくなってしまっていた。男の男たる所以(ゆえん)が、綺麗さっぱりと。

 

「え、エリーっ! これ、どうなってんの……」

 

 胸元に手を当てて、おそらくこの奇怪な現象の一因になっているエリーに助けを求める。

 

 ネックレス状態だった時に胸元にエリーがいたので、つい癖で手をやったが、エリーはそこにはいなかった。代わりに手に柔らかいものが触れて、自分の身体ではあるもののどぎまぎした。

 

『私もこのような経験は初めてです。ですが、魔力の流れを鑑みるに、おおよその見当はつきます。正しいかどうか、自信はありませんが』

 

 エリーの姿は、宝石状態も人型状態も視界に捉えることができない。しかし頭の中で、はっきりとエリーの声がした。

 

 その声に(すが)るように、続きを催促する。

 

「自信がなくてもいいから、なにかわかるんなら教えてくれ」

 

『はい。恐らく、心と身体が一体化したのでは、と愚考します』

 

「一体化……?」

 

『現在、主様が身体を動かしていますが、私にも微かにではありますが動かしている感覚があります。加えて、私の魔力が主様の全身を巡り、満たしています。これは主様と不肖私が心も身体も繋がり、一つとなったからである、と推察します』

 

 エリーは落ち着き払って淡々と自分の解釈を述べるが、セリフのそこかしこに嬉々とした声音が見え隠れしていた。一緒に戦う、という相棒らしいことができるようになって、テンションが上がっているのだろうか。一緒に戦おうとは思っていたが、だからってこんな物理的な意味だとは。

 

「な、るほど……。まあ、そんなことも……ある、のか? たしかにエリーの魔力を自分の中に感じるし……」

 

 身体の異変にばかり気を取られて気づかなかったが、エリーにそう言われて実感した。

 

 心の奥の方から流れてくる自分の魔力。その魔力に同化するようにエリーの力が渾然一体(こんぜんいったい)となっていて、全身を循環している。

 

 自分以外の存在が自分の身体の中に、心の内側に入っているというのに、不快感は一切ない。どころか、なによりも近くにエリーの温かみを確かめることができて、気が休まるくらいだ。

 

 実際言う通りになっているのだから、エリーの考察は正鵠(せいこく)を射ているのだろう。

 

 しかし先の説明ではまだ解き切れていない部分も残っていた。

 

『言うまでもありませんが、主様の魔力の性質も関係していると思われます』

 

 俺のもやっとした気持ちを悟ったのか、エリーは補足の説明に入る。

 

 もしや、こうして考えていることまでエリーに筒抜けなのだろうか。そうだとしたら、かなり心を強く持ち、理性を働かせておかなければいけない。

 

『もともと人間と、身体と心を重ねる、というような機構は、私にはありません。それでもこうして一つになれたのは、主様の特殊で特別な魔力性質があってこそ……なにより、私と主様の間に強固なツナガリ()があってこそだと、私は確信しております』

 

 エリーの言う魔力性質とは、十中八九、俺の無色透明な魔力のことだろう。

 

 いつかに教えられたことだが、魔法を使うのに魔力の色は関係ないらしい。魔導師個々人のリンカーコアで生成された魔力にはなぜか色が付いていて、色が付いている魔力を運用して魔法を発動させているため魔法にも個々人の色が反映される。その際、色は魔法の性能に左右しない。色がある、ただそれだけのことだそうだ。

 

 しかし、俺の場合少しばかり毛色が異なる。

 

 色が因由(いんゆ)しているかどうかは定かでないが、俺の魔力は俺以外のそれに対して拒むことをしない。

 

 俺が受けた傷を治癒魔法で治療してくれた二人の魔導師が言っていた。自分の身体に魔力を通すように、(いささ)かの拒絶反応も示さなかった、と。

 

 肝要なのは、相手から自分に送られる魔力を抗拒(こうきょ)しないだけではなく、自分から相手に魔力を送る場合にも適応されるということだ。それにより、魔法の術式やデバイスにも抵抗されることなく魔力を送り込むことができ、結果としてハッキングという戦闘手段が生まれた。

 

 違う魔力に対して拒絶しないという、良く言えばなんでも受け容れる、悪く言えばなんにでも侵入する特性。エリーとの一体化は、この辺りに主因があるのかもしれない。

 

 そういったロジックに根差して一体化という現象が発現したのかもしれないが、俺はエリーが言うような可能性を信じてみたい。相互の間に絆や繋がり、信頼感などという感性を基盤とした曖昧な、しかし確然とした感情があったから起きた、ある種の奇跡のようなものだと信じたい。自分でも夢見がちな甘い考えだと自負してはいるけれど。

 

「……ああ。そういう……目に見えない感情を大事にしてもらえてるのを、俺は嬉しく思うよ」

 

 こんなに温かい気持ちにさせてくれる相棒を、とても愛おしく感じた。

 

『主様の心からのお言葉、痛み入ります。もういっその事、主様との繋がり以外はすべて断ち切りたいと思っています』

 

 ただ、向けられる敬慕かなにかの念が、とても強くてひたすら重いことが気掛かりではある。

 

「あ、ああ……。それで、だ。俺とエリーが一つになった理由ははだいたいわかったとして、なんでこう……えっと、身体構造が……」

 

『女の身体になった理由、でしょうか』

 

「ど直球だな……なるべく遠回しにしようとしてたのに。結局はそういうことだな」

 

 俺とエリーの心身がシンクロし、魔力を共有したのはとりあえず得心がいった。

 

 しかし、同一化するのであれば、わざわざ身体を変質させる理由はないだろう。もとの男の身体のままでも問題はなさそうに見える。

 

『主様の体質が、私を受け入れすぎてしまわれたのです。過度に受容し、魔力的な比率も高い私に外見が合わされたのだと思われま』

 

「つまり、なんだ……俺は流されて男を捨てたのか……」

 

『そう言ってしまうと少々語弊があります。全てを受け入れて包み込む主様の優しさに、厚かましくも私が甘えてしまったのです。主様に出来得る限り近づきたいという私の気持ちが強く影響を与え、深く繋がり過ぎてしまった。主様の性別が反転してしまわれた素因は私にあります』

 

 落ち込んだように、エリーは声を沈ませた。

 

 エリーは説明したことでどこか気落ちしてしまっているが、俺はかえって納得できてしまった。それなら仕方ないな、と認めることができてしまった。

 

 その場の流れとか雰囲気で女性体となったわけではなく、無意識下であったにしろエリーの望みを受け入れてこの結果になったのだとしたら、それは男冥利に尽きるというものだろう。近づきたいという真摯で純粋な好意を向けられているのだ、疎ましく感じるわけなどない。

 

「それなら別にいい。気持ちを抑え込まずに、もっと素直に甘えていいんだ。相棒なんだから、俺にやってほしいこと、エリー自身にやりたいことがあれば、気兼ねなく相談してくれ」

 

『ああ、主様……もったいなきお言葉……。主様の寛容なお心遣いに、幸せな気持ちで私の胸は張り裂けんほどにいっぱいです。ここまでのお言葉を掛けて頂き、これ以上の何を求めると言えるのでしょう。いえ求め出せば浅薄の極みに至る私の欲望は止め処なく溢れてしまいますがかといって繋がったばかりで重いお願いをしても主様に引かれてしまうのは必定であれば最初は乙女チックでたわいない行為から徐々に時間をかけてエスカレートさせて主様の理性の(たが)を少しずつ緩めていくのが本道。なれば、私のすべき事は…………っ!』

 

 突如心から溢れてくる感情の奔流に圧倒されてしまい、俺はエリーに話し掛けるタイミングを失った。手の施しようがないほど舞い上がっている様子なので、落ち着くのを見計らって声をかけようと思っていたら、中途半端な部分で言葉を区切った。

 

 唐突に空気が変わる。

 

「なんだ、どうした?」

 

『失礼します、主様。邪魔が入りました。御身、お借りいたします』

 

「お、おお……?」

 

 エリーが言うや否や、魔法が発動する感覚。術式は防御魔法だ。

 

 透き通る空色の盾が、俺の斜め上に展開した。展開された直後、爆発音と衝撃が空気を震わせる。

 

 障壁を叩いたのは暗褐色の魔力弾、十数発にも及ぶリニスさんの射撃魔法だ。魔力弾は障壁にぶつかって爆ぜ、盾の端に触れて軌道が逸れ、俺に降り注ぐことはなかった。

 

 全弾を防ぎ切ると、空気に溶けるように障壁は消えた。

 

 射撃魔法を放った張本人。遥か前方で杖を構えるリニスさんが、開口する。

 

「本当に、まったく……っ、もう。徹は次から次へと、予想外で、想定外な……こと、ばかり……」

 

「これについては俺も想像の埒外だった。でも、エリーのおかげで命が繋がって、希望が繋がったんだ。難しいことなんて考える必要はない、その事実さえわかっていればな」

 

「ふ、ふふ……っは。窮地に陥り、命の危険に……晒されて、強大な力を手に……入れる、なんて。そんな……運命的なまでのご都合主義が、あるのですね」

 

「ご都合主義、ね。そう言われても仕方ないとは思うけど、案外そんなに単純でもないよ。これでも割と、綱渡りなんだ」

 

「……私たちには、徹が言うような細い綱さえ……っ、ありませんでしたよ。……はっ、ぁ……」

 

「り、リニスさん……? どうか、したのか……?」

 

 彼女が不意によろけた。たたらを踏むように体勢を持ち直したが、どこか足元が覚束ない。

 

 リニスさんから溢れ出る魔力は寸毫(すんごう)(かげ)りを見せていないし、それほどハードに動いたわけでもない。魔力や体力を大きく削るほどの行動を取ったとは思えない。

 

 しかし、彼女を一見しただけで平常な状態でないことは容易く察することができる。

 

 熱に浮かされているような言動も散見されたし、顔だってずっと紅潮したままだ。時折苦しげな様子が垣間見える。額には汗が浮いているし、左腕は胸の中央を押さえていて呼吸も荒い。先まで俺に向けられていた杖はすでに下ろされ、床に向けられている。杖を持つ右腕がとても重たそうだった。

 

 明らかに、身体に変調を(きた)している。

 

 考えてみれば当然だ。

 

 リニスさんの身に、原理は分からないが途轍もなく強大な魔力強化がついと為された。その強力無比な魔力の代価に、彼女は何を支払ったのか。

 

 元から強かった人が更に強くなった。俺はそこまでしか考えていなかった。代償が、副作用が、ないと考えるほうが不自然だ。

 

 彼女の身になにが起きているのだろう。細く脆い身体の内側で、なにが。

 

「私は、いつも通りですよ。ええ、いつも……通りです。っ、それより、徹のその姿……融合(ユニゾン)でも、したのですか? そうだとすれば、危険な程に……主従の力関係がアンバランスな、ようですが。徹の名残は……その鋭い(まなじり)くらい、です。そのような姿でも……私は好きですが、デバイスに乗っ取られる寸前のようにも……思えます」

 

「ゆにぞん……? 乗っ取り……?」

 

 リニスさんは汗を首筋に垂らし、空元気に微笑みながら(うそぶ)く。俺の知らない単語を使って尋ねてきた。

 

 未知の専門用語にどう返答すべきか逡巡(しゅんじゅん)していると、ぐずぐずした俺を見兼ねたのか、エリーが助け舟を出してくれた。

 

 いつもより気持ち早口に、エリーが説明してくれる。

 

『彼奴の言う融合(ユニゾン)とは、融合型デバイスを指していると思われます。融合型デバイスとは文字通りに、術者とデバイスが融合して戦闘を行うというもので、特徴として髪色や瞳の色……虹彩が変色することなどが挙げられます。彼奴はその特徴から推考し、主様と私が融合(ユニゾン)した、と考えたのでしょう』

 

『そうなのか……。ん? だとしたら俺とエリーは、その融合(ユニゾン)状態と言えるんじゃないか? 共通点は多いように思えるけど』

 

 発声してしまうとリニスさんへの返答と勘違いされてしまいそうなので、心の内で念じ、エリーと会話する。実際にやってみて初めて知ったが、口頭で会話するより意識下での会話のほうが、心身が繋がっているせいもあってかレスポンスが早い。最初からこれを使っていれば良かった。

 

『先にもお伝えしましたように、人と重なることができるような機能は私の中には存在していません。精神と身体が一つになるという結果自体は似ていますが、辿った経路が融合(ユニゾン)とは根本的に違います』

 

 俺とエリーの状態も融合状態か、それに酷似した状態のように感じ、訊いてみたが、エリーは力強く、半ば意固地なくらいに否定する。一応俺相手ということで言葉使いは丁寧なままだが、声には鬼気迫るような迫力があった。

 

融合(ユニゾン)はシステムという基盤があり、プログラムに則って術者とデバイスが一つになります。ですが主様と私は心を通わせ、信頼により繋がったことで一つとなっております。心と身体の奥深く、リンカーコアにまで届き絡み合う程、深く繋がっております。術者とデバイスという主従関係ではなく、私を対等の存在と認めてくれた主様だからこそ成し得ることができた偉業です。分かり辛ければ、便宜的に和合(アンサンブル)とでも呼称しましょう。ですから、だから……融合(ユニゾン)とは、全く違っていて……融合のように、術師を……主様の身体を乗っ取って、暴走するような真似は……私は、絶対に……っ』

 

『ああ、そういうことか。なるほどな……まったく』

 

 エリーが伝えんとしている気持ちが、遅まきながら理解できた。今の俺たちの状態、エリーが名付けてくれたところの和合(アンサンブル)と、融合(ユニゾン)とは隔絶された違いがあると言い張る理由が、ようやく俺にもわかった。

 

 リニスさんが俺を見て放ったワードが鍵なのだろう。『危険』とか『力関係』、『アンバランス』や『乗っ取る』などの不穏当な単語。()(はか)るに、融合状態における危険性について述べていたのだ。

 

 融合状態はその構造上、行使する魔術師と行使されるデバイスの肉体と精神が――デバイスの場合はそれに類似該当するものが――重なり、一体化する。融合状態の利点とは、術師とデバイスが一つになるところにあり、リニスさんやエリーの言葉を汲み取れば、欠点もそこにある。

 

 それこそが『力関係』。術者の能力とデバイスの性能が均衡せず、『アンバランス』になり、デバイス側に力の天秤が傾けば、肉体の主導権はデバイスが握ることになる。こういう展開が融合型デバイスには少なからずあり、『乗っ取る』とはこういう展開のことを示しているのだろう。

 

 だからエリーは恐れたのだ。リニスさんが『乗っ取る』などの発言をしたことで、エリーは慌てて融合とは違うということを証明しようとした。聴いてて心が張り裂けそうになるような痛々しい声で、必死に否定しようとした。

 

 エリーが否定した理由。それももはや簡単な話だ。

 

 既に、俺の身体を『乗っ取る』ことで魔法を行使しているからにほかならない。エリーと話している時にリニスさんから向けられた射撃魔法、両手の指では数えられない量の魔力弾を防ぐ際、エリーは俺の身体を乗っ取って防御魔法を発動させた。

 

 もちろん、俺はその行為を『乗っ取り』だとは思っていない。緊急性が高く、言葉を交わす時間を惜しんだエリーが気を回し、障壁を展開して防いでくれたのだと捉えている。

 

 褒めこそすれ、その行いは(とが)められるようなものではない。

 

 俺が身体の主導権を手離したのは防御魔法を発動させるのに必要不可欠だったごく短時間のみで、射撃魔法の雨が止んだらすぐに身体の権限をこちらに返した。肉体の権限をエリーが掌握していた時間は最小限に抑えられていた。

 

 それでも、俺の身体を乗っ取ったことに変わりはない。エリーはきっと、そう考えているのだろう。

 

 だから俺たちが置かれている状況を、融合とは別物にしたかった。融合状態であれば間違いなく術師を『乗っ取る』行為だが、融合状態とは違い、和合(アンサンブル)という新種の状態であれば乗っ取り行為に当て嵌まらない。機械的なプログラムではなく、心が繋がったことによる一体化であれば、魔法を使うのも信頼の裏返しと言い逃れることができる。

 

 なるほど、上手い(つくろ)い方だ。事実を織り交ぜて説明することで見事に論点をすり替えている。実に俺好みの思考法だ。

 

 リニスさんには手厳しい言い方をするエリーだが、俺にはとても素直に接している。そのエリーがこうまで誤魔化そうとした理由。

 

『見損なってくれんなよ。そんなこと言われなくたって、お前への信頼は揺るがないよ。お前との絆は、そんなに壊れやすいものじゃない』

 

『あ、あるじ……さま』

 

 俺に疑われたくなかったから、なのだ。信用してもらえなくなる、絆が絶たれる、繋がりが途切れるのを、エリーは何より恐れた。一途にひたむきに、ただそれだけを想ったのだ。

 

『あんまり見縊るな。たぶんエリーが思っている以上に、知られたら引かれるくらいに俺はお前を信じていて、頼りにしている。全幅の信頼を置いているんだからな』

 

『……せ、僭越でっ、不躾なことを、私はっ……。失礼、しました……』

 

『まったくだ。自信を持って堂々と胸を張れ、相棒』

 

『はいっ。もう……大丈夫です。心配をおかけしました』

 

『調子が戻ったんならそれでいい。ところで、どこでユニゾンデバイスとか知ったんだ?』

 

『私もどこで情報を得たのか、その経緯はよくはわかりません。恐らく遠き過去に実物を目にしたか、もしくは情報に触れたかと。ともあれ、主様のお役に立てて恐悦至極に存じます』

 

『そ、そんな感じなんだ。まあ……助かったからいいや』

 

「徹……どうかしましたか? まさか、融合暴走が……」

 

「あ、いや、ごめん、大丈夫。ちょっと相談してた」

 

 いくらエリーと意識を交わす速度が速いとはいえ、長々と会話していたら沈黙したままになる。リニスさんが気を揉んでいるような声音で俺に再度話しかけてきていた。

 

 集中の針をリニスさんへと合わせ、答える。

 

「相棒に確認したら、融合(ユニゾン)とは本質的に違うんだとさ。新しい型式、和合(アンサンブル)と呼んでくれ」

 

「アンサンブル……。では、その姿は身体の支配権を奪われているわけではなくデフォルトで、正常に機能している状態である、と?」

 

「深く繋がりすぎた感は否めないけど、だいたいそんなところみたいだ」

 

「……っ、副作用や、制限時間も……」

 

「ないんじゃないか? 少なくとも今のところは、だけど。なにせ、ついさっき初めて使ったからな。正直なところわからない、ってのが本心だ」

 

「そう、ですか……っ。……は、ふふ」

 

 俺の返答を受け、リニスさんは顔を伏せた。苦しそうに肩で息をして、胸のあたりを強く押さえている。

 

 どくん、と心臓が脈打つように、魔力の波が彼女を中心として広がっていく。その波は床を走り、壁にぶつかる。そこかしこから不安を煽るように、みしみしと軋む音が聞こえた。

 

「本当にもう……。無茶苦茶ですよ……徹は。何が、違うのでしょう。私たちと、何が、違っていたんでしょう……。私たちは、何が、間違っていたんでしょう……」

 

 二度、三度と魔力の脈動は繰り返される。リニスさんの付近の床は、脈を打つたびに亀裂が刻まれていく。

 

 リニスさんが穿った壁の穴と、俺とエリーが和合(アンサンブル)で一つになった時に開けられた穴から彼女の魔力が飛び出ていく。魔力の波が排出される際に穴の端を削り取っていき、徐々に暗闇の口が大きくなっていた。

 

 長い空色の髪と服の裾が魔力の波ではためく。

 

 心臓を鷲掴みにされているような圧迫感と息苦しさを感じた。

 

『主様、細心の警戒を。彼奴はもう、人としての境界線を踏み越えています』

 

『警戒してなかったわけじゃないけど……より一層、注意しとく』

 

 一際強烈な魔力波が放たれる。それはもう床を舐める波ではなく、大気を震わせる衝撃だった。

 

 暗褐色の魔力の球体がリニスさんを中心に広がり、強固なはずの床材を砕き、巻き上げた。

 

 俺が『リニスさんの姿』を最後に見たのはその瞬間。崩れそうな自分の身体を両手で抱き締め、激甚(げきじん)な痛みや感情から耐えるような姿だった。次の瞬間には砂煙に呑まれていた。

 

 砂煙の向こうから、彼女の声がする。

 

「こっ……ぇ、だけの、魔……給が、っても……殺しきれるか、ぁかりませんが、もう後には、退()け……せんっ。背後は崖、数歩先も崖……なら、ば……」

 

 リニスさんのものとは思えないほどに不明瞭な声。上下に音が揺れ、一語一語振り絞るように発されていた。

 

 だが――

 

 

 

「私は、突き進む」

 

 

 

 ――その一言だけは、鋭く俺の耳を貫いた。

 

『エリーッ!』

 

『――っ、把握しております!』

 

 全身が粟立った。心臓を握り潰されたかのように、眉間に刃物を突き立てられたかのように錯覚した。それほどに殺意が込められたプレッシャーを浴びたのだ。

 

 咄嗟に相棒の名を叫ぶ。

 

 以心伝心どころか一心同体故か、やってほしいと願ったことをエリーは即座に理解した。瞬時に行動に移す。

 

 俺は魔力を足に注ぎ込んで全力でその場を飛び退る。エリーは大量の魔力を圧縮し、それを余すところなく練り込んだ障壁を構築した。

 

 魔法が展開した直後、大音響とともに障壁に衝撃が走る。エリーの桁外れの魔力が込められた障壁に、たった一回の衝撃でひびが入った。

 

 すぐさま二度目の衝撃。防御魔法は耐久限界を超え、破砕した。

 

 光がステンドグラスを透過するようにきらきらと輝く障壁の欠片の向こうから、黒ずんだ茶色の魔力を纏った腕が伸びる。

 

 間一髪のところで伸ばされた腕を振り切り、俺は背後に空いた風穴から縦長の塔の外に出た。

 

 足場用の障壁を足元に作り、立つ。

 

 エリーが障壁を展開させて時間を稼いでくれていなければ、あの腕に捕まっていたところだった。あの凶悪な鈍い輝きを放つ鋭い爪に、串刺しにされるところだった。

 

 手から視線を上げていき、襲撃者を見やる。

 

 瞳に生気はなく、灯っているのは杳々(ようよう)とした昏い光。口からは血肉を求めるように、伸びた糸切り歯が顔を覗かせる。

肩に触れない程度だった彼女の髪は腰に届くほどになり、その身から溢れさせて陽炎のように揺らめいていた魔力は暗褐色に染まっていた。放出され続ける暗く変色した魔力の鎧は、鎧の内側の身体を傷つけている。濁った魔力は少しずつ服を焦がして炭化させ、肉を裂いて血を啜る。

 

 外見だけでこれほどの変化が生じている。身体の中は、どれほど蝕まれているか想像もできない。

 

 痛みを伴わないわけがない。熱いだろう、辛いだろう、苦しいだろう。拷問に等しい責め苦だろう。

 

 なのに、もう彼女は眉一つ動かさない。神経が焼き切れているかのように、感情が、心が、魂が欠落したかのように、なんの反応も示さない。

 

 これでは、俺へと殺意を向けるだけの、機械仕掛けの人形だ。

 

「リニス……さん。あんたは……なんの為にっ、そこまでッ!」

 

 俺の問いに、リニスさんだったものは杖にて返答する。

 

 周囲の空間から赤黒く濁った魔法が形成され、俺に向けて射出された。

 

 彼女の魔力はもう、残滓すら見えなかった。

 



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それは、限りなくネガティブな前向きさ

 服の裾を引かれるような感覚がした。

 

 はっと意識を持ち直し、足元の障壁から跳躍して黒色の魔力弾を回避する。時の庭園の外、暗闇の海へと魔力弾は同化するように消え去った。

 

『主様、無礼を承知で申します。動揺するお気持ちはわかりますが、今はしっかりと前を見据えてください』

 

 浮き足立つ俺の心を、エリーは一声でぴしゃりと落ち着かせる。頬を平手で打たれた気分だ。一瞬呆気に取られたが、平静さを取り戻せた。

 

『こんなところで潰えさせて良い程度の夢なのですか? そうではなかったはずでしょう。ならば冷静に頭を使って解決策を、最善への道を模索してください。大丈夫です、心配無用です。主様なら、冷静に考えれば必ずや導き出せるはずです。絶望的な状況をひっくり返す、奇跡の一手を』

 

 エリーは本当に、俺のことをよくわかっているようだ。想定の範囲を超えたら思考停止に陥るメンタルの弱さ、精神的脆弱性。ネガティブな考察に入ってしまうとどこまでも沈んでしまう悪癖まで。

 

 そんな情けない俺に対して、エリーは叱咤激励してくれた。真正面から、嘘偽りない愛で以って、応援してくれた。小さい俺を包み込んで、背中を押してくれた。

 

 これで奮起しなければ、男じゃない。甘えてばかりでは、格好がつかない。

 

 視線の先の彼女から目を離さず、深呼吸する。ぶれていた思考力に芯が戻る。視界も気のせいか広くなったように感じる。

 

『ありがとう、エリー。なんか俺、気が張ってたみたいだ。助かった』

 

『い、いえ……出過ぎた真似を致しました。処分は如何様(いかよう)にも』

 

『そうだな……そんじゃ俺を焚きつけた罰として、背中を任せるよ。相棒』

 

『は……はっ! みゃか……任されました! 身を粉にして、精魂尽くす所存です! 愛方として、全力で!』

 

 リニスさんだったものの周りに魔力の粒が浮き上がり、凝縮していく。次第に大きく膨れ上がる。

 

 どんな種類の魔法かは判別できないが、どの系統にしろ攻撃以外のわけがない。

 

 こちらの出方を窺っていたのかは知らないが、痺れを切らして打って出る判断をしたのだろう。リニスさんを元に戻す方法はわからないし、そもそもどんな手段であのような異常極まる状態に到ったのかも不明だが、なんにせよ対処しなければリニスさんを取り戻すことはできない。

 

 相棒とともに、気合いを入れ直して事に当たる。

 

『そら、来るみたいだ。集中してくぞ、エリー!』

 

『はい!』

 

 胸の奥から、滔々と力強い流れが湧き出てくる。今まで使っていた魔力付与の強度も、エリーの豊潤な魔力によって格段に上がっている。なんなら、魔法を使わなくても並みの射撃魔法程度であれば、頑張れば素手で弾けるくらいに基礎能力が底上げされている。そう言っても過言じゃないレベルに、俺とエリーは達している。

 

『……なあ、エリー。あれって防げるか?』

 

『……回避を徹底してください』

 

『いやいや、質問に答えてくれよ』

 

『………………回避を徹底してください』

 

『なるほど、それが答えだったのか……』

 

 人としての限界という境地に立っている俺たちですら、黒の魔力を羽織る彼女に怯懦(きょうだ)した。意気揚々としていた声も消沈していく。

 

 黒の彼女の周囲を踊るように浮遊している六つの魔力球は、身を竦ませるに足るだけの威力を孕んでいる。

 

 浮遊しながら号令を待つ魔力球の様子は射撃魔法系に類似しているが、その直径の大きさが否定する。砲撃の前兆ともなる杖の先端に発現する魔力球に外見こそ似てはいるが、それよりも一回り以上、巨大だ。

 

『乗っ取りとかもう気にすんなよ、エリー……その場の判断でフォロー頼む』

 

『ありがとうございます。元よりそのつもりではいましたが、果たしてお役に立てるかどうか……』

 

『お前まで弱気にならないでくれよ……』

 

 相手がどう出てくるのか、魔力を重点的に足に送って様子を見ていると、とうとう彼女が動いた。

 

 外見からくる印象と逆行するような機能美を有した杖を、俺に向ける。その動作に(おもね)るように、浮遊していた特大魔力球が彼女の隣へ、横一線に並ぶ。

 

 砲撃か、射撃魔法か、それとも別種の攻撃魔法か。いくつもパターンは考えたが、そのいずれの予想も反した。

 

 杖の先端が一瞬、本当にほんのひと瞬き、煌めく。

 

 視界の真正面から、コマ落ちするように闇が迫ってきた。

 

「発動の速さは健在なのかよ!」

 

 両隣に並ぶ特大魔力球からの攻撃ではない。幾度となく目にした、杖から放つ彼女の砲撃だった。

 

 咄嗟に自分の右側に障壁を張り、それを右手で突くことで身体を左に運ぶ。

 

『素晴らしい反応速度です、主様』

 

『まだ終わってないッ!』

 

 砲撃で少なからず体勢を乱したところを狙い撃つように、六つの特大魔力球が牙を剥く。

 

『もしかしたら、という低い予想が的中しましたね……』

 

『フェイトやアルフの教官役だからな……できないなんてことはないだろうと思っていた。厄介さが増してるけどな……』

 

 足場の障壁を強く踏み込み、跳躍移動を繰り返す。危なくなれば『襲歩』も使い、回避していく。

 

 特大サイズの魔力球は、種別としては砲撃ではなく射撃魔法に属していた。だが、魔力球自体が俺に向かってくるのではなく、魔力球から魔力弾を吐き出すというもの。

 

 これによく似た(・・・・)魔法を、俺は見ている。フェイトがなのはに向けて放った、魔力弾を撒き散らす発射体(スフィア)を設置して相手に叩きつける大規模な魔法。フォトンランサー・ファランクスシフトと、系譜を連ねている術式だろうと推測できる。

 

 フェイトがなのはを相手に使用した時は三十を超えるスフィアが展開されていたが、彼女の場合は六つ。いくら単発威力が桁外れとはいえ、発射体が六つであれば、今の状態なら躱し切ることはできると思っていた。飛んでくる魔力弾は照射時間短めの砲撃くらいの大きさがあるが、フェイトのものと較べれば連射能力は低い。回避はできると、そう考えていた。

 

 黒の彼女が、その程度で済むわけがなかった。

 

「そろそろ、逃げ道が……」

 

 威力が高く、連射もできて、それが六つも設置されているのに、その上ある程度の誘導性まで保有している。

 

 もちろん誘導弾ほどの追尾性はないが、それでも跳躍移動で立体的に動く俺を追いかけてくる。早めに回避行動を取れば追随してくるくらいのことはできるようだ。

 

『主様、来ます!』

 

『まったく、容赦ないな……』

 

 その砲撃弾の雨に晒されている最中に、彼女の杖から極太の砲撃が俺の隙をつけ狙う。

 

 分厚い対空砲火を前に、いつまでも避け続ける自信は俺にはなかった。

 

「なにか、突破口はないのか……っ」

 

 右側に跳躍し、焼き払わんと迫る砲撃をやり過ごす。

 

 やらなければならないことは山積しているのに、攻勢に転じることすらままならない。思考のリソースは射出される魔力弾の軌道計算と安全地帯の確保に割り振られていて、リニスさんを捕らえる魔力の謎を追究できない。

 

 同時にしなければいけないことが多過ぎた。そのどれもを一度にやろうとするあまり、集中力が分散される。

 

『っ! 主様っ、右方!』

 

 エリーに喚起されて確認すれば、逸れる弾道の一発の裏側に、もう一発の魔力弾が潜んでいた。

 

 退避は間に合わない。

 

 接近された際の彼女の破壊力を想起したら不安になるが、致し方なしに障壁を張る。

 

「くっ……おぉあ!」

 

 負の感情が塊になったかのようなどす黒さをした巨大な魔力弾は、寸時障壁と拮抗したものの侵撃を止めることなく、障壁を突破した。

 

 俺とエリーの魔力で編まれた壁により幾分速度は落ちたが、それでも相応のエネルギーを保持したまま、巨大な魔力弾は脇腹に突き刺さる。服は爆ぜ飛び、自分のものとは思えないほど白い肌が露わになった。

 

『……っ、申し訳ありません、主様。もっと早く察知できていれば……』

 

『うっぷ……かっ、は。っ……いや、エリー……助かった』

 

 エリーは謝っていたが、右から息を潜めて近づく魔力弾の存在を知らせてくれなければ気づくのは更に遅れていた。しかも防御を撃ち抜かれたのを知覚した瞬間に、被弾箇所に魔力を集めてくれていた。その助けがなければ、怪我はずっと深刻だったはずだ。

 

 少なくとも、白磁のような柔肌が赤くなる程度では済まなかった。

 

 それに今回の被撃は、ダメージも貰ったが貴重な情報も頂いた。

 

「砲撃はともかく……魔力弾の方は工夫次第で防げる、かな……」

 

 黒の彼女が最初に繰り出した打突に対しても、つい先の魔力弾に対しても、こちらが展開したのは普通の障壁だった。いや、普通といってもプログラムに手を加えていない、というだけであって普通とはかけ離れた魔力が込められてはいたのだが。

 

 魔力弾を防いだ時の手応えからして、俺がいつもやっているように術式を書き換えて角度なり密度なりを改変すれば、おそらく軌道を逸らすくらいはできる。

 

 しかしそれは対症療法でしかない。魔力弾一つを攻略できても、いずれは彼女の戦闘パターンのバリエーションで押し潰される。それほどに彼女の魔法は多彩だ。

 

 根本的に考えを転換させなければ、そう遠くない間に詰むことになる。

 

『なにか、手を講じないと……っ! なにか……』

 

『…………』

 

 跳躍移動で回避を続け、時折来る直撃コースの魔力砲弾は密度・角度変更型の障壁で逸らし、直撃する弾道の数が多くなれば『襲歩』で離脱。選択の幅が一つとはいえ増えたので若干ではあるが避けやすくなった。

 

 だが、憂慮すべき事態に陥っている感覚もひしひしとする。魔力砲弾の弾道が、俺の身体を捉える確率が微増し続けてきていた。立体的な動きに慣れ、照準がオプティマイズされてきているようだ。

 

 一撃必殺の砲撃も、尚も休むことなく発射されている。

 

 エリーとの一体化、和合(アンサンブル)は形勢逆転の一手足り得ると確信したが、それでもまだ、彼女の背中は遠い。まだ、追いつけない。

 

『ごっ、あ……っ。エリー……大丈夫か?』

 

『っ、はい』

 

 相当な速度を出している魔力砲弾だが、器用に方向を変化させて障壁を正面から叩き、貫通することが増えてきた。じわじわと体力を削り取られて、まるで泥沼に沈んでいくように感じた。

 

 身体が一体化している以上、多少らしいがエリーにも痛みは伝わる。俺が不甲斐ないせいで、エリーにも重荷を負わせてしまっている事実が心苦しいが、俺も今の戦況を維持するだけで精一杯だ。

 

 打開する策は、未だ見つからない。

 

『主様……私に、一つだけ方法が……』

 

『はっ、ぁ……。方法……?』

 

 エリーがおずおずと、けれど覚悟を決めた様子で提案する。

 

『魔力の送量を、一段階引き上げます。リミッターを解除することで、扱える魔力の量は……増えます』

 

『魔力量、調節してたのか……。なんでここまで黙ってたんだ?』

 

『主様のリンカーコアに、過度の負担がかかるからです。いくら心身を一体化させているとしても、臨界点を超えてしまえばなにが起こるかわかりません。それに、この状態を解いた時に、主様の身に後遺症が残らないとも限りません。これ以上の出力は、危険域なのです。故意にお伝えしておりませんでした……申し訳ありません』

 

 エネルギーの結晶体であるエリーと凡庸な人間である俺とでは、キャパシティーに大きな隔たりがある。いくら肉体と精神を重ね合わせているといっても、許容できる魔力の量には限界があるのだろう。

 

 強大な力を直接使おうとすれば、脆い人間の身では必ず悪影響が及ぼされる。そこでエリーは、膨大な魔力で俺の肉体やリンカーコアが破綻しないよう、知らないところで調整してくれていた。

 

 エリーがわざと伝えていなかったのは確かだが、それは俺の身体に配慮して、だ。糾弾するようなことでは、決してない。

 

『このままじゃ結局袋小路だ。それをわかっているから、エリーも教えてくれたんだろ?』

 

『他に手が残されていないと……判断しました』

 

『俺がもう少し上手くやれていれば、エリーに気苦労をかけることもなかったんだけどな。ごめんな』

 

『主様の責ではありません! 魔力の量以外に取り柄がない私が、主様の役に立てない私が……一番、悪い……』

 

 エリーは、自責の念に駆られていたのか。魔力を渡すしかできないと、他に何もできないと。そんなことは全くの勘違いで、ただの思い込みだというのに。

 

 俺は何度も励まされていて、何度もエリーの言葉で救われている。近くにいてくれているだけでこんなにも心強く、頼もしく感じていることを、エリーは知らないのだろう。

 

 本当に、気遣いができて、厳しくも優しくて、ちょっとネガティブな、可愛い我が相棒だ。こいつとなら、どこまでも行けると、俺は断言できる。

 

『さっきは俺が励まされたからな、次は俺が発破かけてやるよ。弱音吐いてんじゃねえぞ。反省点なんて俺も負けないくらいいっぱいあるんだ。落ち込むのも、後遺症とか気にするのも、後でいい。後になって考えて、その時にまたどうにかすればいいんだ』

 

 エリーに諭しながら、自分にも言い聞かせる。

 

 俺は、自分の弱さを知っている。でも、自分の弱さを知っているからこそ、自分以外の人の真の強さを理解することができる。

 

 自分を信じることはできなくても、信頼している身近な人を信じることは、俺にだってできるのだ。

 

 エリーの優しさを、思い遣りを、為人(ひととなり)を、俺は信じている。こいつが俺を信じてくれるのなら、俺にだってまだできること、やれることがあるのかもしれないと、そう思える。

 

 死力を尽くそうと、そう思えるのだ。

 

『やってくれ、エリー。なに、心配はいらない。失敗したら俺とエリーで責任は半分こ、成功したら俺とエリーで喜びは倍。簡単な話だろ?』

 

『主様のお気持ちに……感謝します。……果てる時は、共にです』

 

『縁起でもないことをさらっと言うんじゃない。……分かりきってることだ』

 

『では、いきます……っ』

 

 体感的には、ばちん、とスイッチが入ったような感覚だった。

 

 視野が一時的に狭窄する。視界の端がじわじわと黒く澱んでいく。心臓の鼓動が、いやに頭に響いた。

 

 いつか鎮まることを願いながら、耐え忍ぶ。

 

 不快感が遠のくと、一転、天井が取り払われたかのような開放的な気分が訪れた。地面に縛りつける重力から解き放たれたような、どこまでも飛んでいけそうな高揚感に包まれる。

 

『やれないことなんてない。俺とエリーなら』

 

 全身に力が漲る。今なお斉射が続けられている魔力砲弾からはもう、命を脅かされるような恐怖を感じることはなかった。黒の魔力を纏った彼女にだって、負ける気はしなかった。

 

 解像度が増したような思考を使って魔法の演算をする。これまでにないほどスムーズで、脳への負担も感じられない。飛来する砲弾の弾道全てを把握し、近いものから逐次障壁を展開していく。

 

 魔法の強度、発動速度、展開する位置。いずれも、俺が脳裏で描いた通りの性能だった。

 

 空間を切り裂いて移動する魔力弾によって生じた大気の乱れに、長く伸びてしまった空色の髪が強くなびく。

 

 横目にちらりと見えた髪は、縦長の塔の内部にいた時よりも変色していた。もともと鮮やかだった長髪が、今は煌々と発光しているように見える。

 

 その髪色の変化に、自分の身体に起こっていることだというのに恐れはしなかった。ただただ、原因についての疑問だけが脳内に渦巻いた。

 

『私と主様の距離が、より近くなっているのです』

 

 エリーが、俺の身に起きている現象を説明してくれた。

 

 先までと同じように頭にエリーの声が響いてはいるが、どうもなにかが変わったような気がする。数メートル先から喋っていた人が目の前まで近づいてきた、とも違う。これはそう、エリーが喋っているのに、なぜか自分が喋っているような、どちらが声を出しているのか曖昧になっている。

 

 エリーの言う『より近く』というのは身体的、精神的な距離を指しているのではない。根源的な存在としての意味合いを持っている。

 

 この変化を感じ取れてしまえば、エリーが忠告してきた『身体への負担』や『後遺症』についても、大体の察しがつく。

 

『段階を引き上げる、ってのは比喩(ひゆ)的な表現だったんだな。正確には、エリーが持つジュエルシードとしての魔力、これの出力の制限を取っ払ったんだ。アクセルを踏み込むんじゃなくて、初めから踏んでいたブレーキを少し緩めた。そんなところだろう』

 

『主様は一つを知るだけで十を理解するのですね。その通りです。段階を引き上げるごとに、制限を緩和させるごとに、主様が扱える魔力の量は増大しますし、私がお手伝いできる範囲も格段に広がります。しかし、その度に主様と私の距離が近づき、深く繋がり、やがて同化するのです。心身が重なるどころではなく、存在が、魂が、融け合うのです。そうなってしまえば今の状態を解除した時、どんな異常が発生するかわかりませんし、融け合い過ぎればもしかすると……』

 

『解除することもできなくなるかもしれない……ってとこか』

 

『仰る通りです……。ですから……』

 

『だとしても、エリーの力を借りなきゃ事態は好転しない。なら、このままやるしかないだろ』

 

『ですが、このままでは最悪の場合、主様の魂が消失してしまうかもしれないのです。魔力比率の高い私に合わせるように、身体の構造が変性しました。同じように、このまま同化していけば思考や意識の占有率まで私が上回ってしまいかねません。私が主様の一部となるのではなく、主様が、ジュエルシードの一部となってしまいます。主様が私の外殻となってしまうかもしれないのです』

 

『そうはならないよ』

 

『そんな保証、どこにも……』

 

『ならない、絶対に』

 

『主、様……』

 

 ジュエルシードの一部になる。そう聞いて、一つ思い出した記憶があった。鷹島さん宅の飼い猫(ニアス)がジュエルシードに取り込まれた時の、記憶。

 

 エリーはきっと、改悪されていた期間が長すぎたのだ。生き物の願望に棲み付き、取り憑き、侵食する。そんなやり方の他に手段を許されていなかった期間が長すぎて、力のコントロール方法を見失ってしまった。

 

 でももう、今は違う。悲しみの連鎖を生み出す呪縛から解き放たれたエリーなら、望めば望んだ通りに力を振るえるはずなのだ。

 

 なのにエリーは、膨大な魔力の中に俺を取り込んでしまうと嘆いている。自分の力を十全に発揮する自信がないのだ。悲劇を撒き散らす存在だったことへの罪悪感で不安に押し潰され、自分の能力を信じられなくなっている。

 

 エリーもまた、俺と同じだった。

 

 大切に思う人のことは信じることができるのに、自分のことになると途端に信じられなくなる。これはもう自分一人ではどうしようもなくて、自分一人では解決できないものなのだ。

 

 自分のことが好きじゃないのに、信じるなんてできない。

 

 だから俺は、ならば俺は、エリーの背中を押す。これまで関わってきたみんなが俺の背中にそっと手を添えて、優しく押し出してくれたように。

 

『お前は暗くて冷たい牢獄の中にいすぎたせいで、歩き方を忘れただけだ。ずっと捻じ曲げられて使われていたせいで、正しい力の使い方を忘れてるだけなんだよ。なあ、エリー。人々の願いを叶える、優しく美しいランプの妖精さん。お前は自分のこと、好きか? 自分の可能性ってものを信じているか?』

 

『……好きなわけ、ありません。鮮血と罪科に塗れた、こんな私など……。いえ、違いますね。これは愚にもつかない被害妄想です。実際に悲劇を生み出したのは私で、災禍を生み出したのも……私です。主様がいてくださらなければ森羅万象に仇なす存在でしかないこんな私など……信じられるわけがありません』

 

『そうだよな。自分のことを心から信じるなんてのは、俺たちみたいなのには難しすぎる。それなら、俺のことはどうだ?』

 

『好きです、大好きです、愛しています、心よりお慕い申し上げております』

 

『し、信じているか、ってことなんだけど……』

 

『当然です。言うまでもありません。主様が右といえば全ての左は右になります。月だって太陽になります』

 

『そ、そうか。なら、今のところは俺の言葉を信じとけ』

 

『それは、どういう……?』

 

 自分の言葉は信じられなくても、信じている相手からの言葉なら信じられる。

 

 エリーに励まされて、絶対にうまくできると元気づけられて、俺は奮起した。自分だけなら絶対にそんな考えは持てない。全幅の信頼を寄せるエリーがまっすぐに明言したから、こんな自分でもやれることはあるんじゃないかと、そう思えたのだ。

 

 それは、限りなくネガティブな前向きさだったとしても、しっかりと前を見据えている。歩みを進めることができるのなら、今はそれでいい。

 

 たとえこれが欺瞞だったとしても、自分を騙しているだけの思い込みだったとしても、構わない。今は他人からの言葉でも、その言葉を契機に自分を好きになれたのなら、自分を嫌って塞ぎ込むよりも、きっと幸せだ。

 

『自分のことを好きになれるまで、俺の言葉を信じとけ。過去を嘆き悔いているエリーなら、同じような悲劇は繰り返さない。それだけの力がお前にはあって、その力を制御するだけの良心がある。最悪もなにも、悪いことになんてならない。大丈夫。お前なら、できる』

 

 数拍の間があった後、静かにエリーが発する。

 

『……主様の困ったところは、普段理屈や論理や道理、相性や様々な状況を踏まえて理論的に相手を説き伏せるのに、こういう時だけ相手の心情に訴えるようなことをするところです』

 

 苛烈な戦場に身を置いていることすら忘れてしまいそうな、凛として響く声。もう、俺とエリーのどちらが喋っているかわからないという曖昧な感覚は、どこぞの彼方へと消え去っていた。

 

 俺とエリーの肉体、精神、存在は、近く、限りなく近くなっている。それでも、意識は確固として二つに分離していた。俺の中にエリーの存在を感じていて、おそらくエリーも、同じように感じているはずだ。

 

 意識も声も鮮明になった中、エリーはどこかからかうような口調で続ける。

 

『さらに加えて困ったところは、主様にそう言われると本当にできる自信が湧いてきてしまうところです』

 

 身体を共有し、心は重なっているのに、 意識だけは(しか)と二つある。細い細い一本のロープの上を歩くような、そんな綱渡りのような奇跡で俺とエリーは成り立っている。

 

 いや、奇跡などという単語を使うのは無粋だ。これは互いに身も心も許しているからこそ可能にさせた、信頼関係の極致なのだ。それを偶然とか運命とか、たとえば奇跡とか、たまたまそうなったかのような言い方をするのは許されない。俺が許さない。

 

『なんか俺、すごい嫌な奴みたいに聞こえるんだけど』

 

 エリーの言葉を受け、俺も返した。

 

 気兼ねなんてない。古くからの友人に対するように、気楽に話す。

 

『ふふっ、そのあたりは言及しないでおきましょう。さあ、主様。駄々をこねている分からず屋に、トラジックヒロインを気取っている頑固者に、ハッピーエンドはあるということを見せつけて差し上げましょう』

 

トラジック(悲劇の)ヒロインって……それをお前が言うのかよ』

 

『あら、少々混線しているようですね。主様のお声が聞こえませんでした』

 

『有線で繋いでるようなもんなのにどこと混線するってんだよ。……お前が元気になったんなら別にいいけどな』

 

『主様の寛容なところ、私、大好きです。……お背中はお任せください。主様の言う「私の可能性」……信じてみます』

 

 空色の世界で視た、人の形をとったエリーの柔らかさと温もりが背中から伝わってきた気がした。



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「鼠の足掻き方」

『それにしても煩わしい「雨」ですね。「雨」なら「傘」をささなければ。いつまでも主様に任せっきりにしてしまい、申し訳ありません』

 

 エリーは気負わず気楽に、簡単に言ってのけた。

 

 俺の視界に半透明の空色をした膜が広がり、半球状に正面へと展開される。

 

 なのはやフェイトたちが、というより一般的な魔導師が頻繁に使っているシールドタイプの防御魔法にちょうど外観は似ている。前方からの攻撃であれば身体のほぼ全体を覆える範囲の広い障壁なので利便性は高いのだが、いかんせん、俺の適性値では戦闘に使える水準のものを構築できないので、戦いの最中に使用したことはない。

 

『おお……まさしく、弾丸の雨を防ぐ、傘状の盾だな』

 

『主様と私が指を絡めて手を取り合えば、この程度お茶の子さいさいです』

 

『指を絡める、という余計な表現が挟まっていたけど、たしかにすごい……』

 

 エリーが主導で魔法を発動させるといえど、エリー単体では魔法を使えないので共有状態にある俺の身体を操って、()いては俺の脳を使って魔法を発動させることとなる。この場合、俺のしょぼい適性値で魔法を作らなければいけない羽目になるのでまともな障壁になっているのか憂慮していたが、どうやら杞憂に終わったようだ。

 

 マニュアル通りの防御魔法の術式に加えて俺の残念な適性値で構築された障壁だというのに、黒の彼女から斉射される砲弾を雨粒の如く容易く弾く。一般魔導師の平均を下回る防御魔法をこれほど頑強な盾に昇華させた要因は(ひとえ)に、エリーの持つ膨大な魔力に他ならない。

 

 溢れんばかりの豊潤な魔力。魔力量というこの一点突破により、普遍的な魔法でさえ他に類を見ない強度を生み出すことができていた。

 

『次はこの見窄(みすぼ)らしくなってしまったお召し物を着替えましょう』

 

『見窄らしいとは何事だ。俺の持ち出しを』

 

『違うんです、誤解です、主様。主様の衣服は口に含んでしまいたくなるほど高尚ですが彼奴の凶弾によって破損してしまっておりますので、このまま主様の珠のような素肌を露わにして、よもや傷をつけてなどしてしまっては三千世界にとって大いなる損失であるのは自明の理ですので恐れ多いとは存じつつも不肖私が主様のお召し物を都合しようかと考えた次第です。決して、主様を貶めようなどという愚かな考えは持ち合わせておりません』

 

『お、おお……。わ、わかってるぞ。エリーにそんなつもりがないことは、うん。まあ、あれだ……よろしく任せた』

 

『はいっ、任されました!』

 

 エリーは喜色に富んだ声で一言はきはきと応えると、興奮を抑えきれない隠しきれないというような勢いで、少々お待ちください、と括った。

 

 なにがトリガーになるのか未だに予想がつかないのだが、エリーは時折熱量のとても大きなパトスを心中に迸らせる時があるようだ。心を重ね合わせている今は特に顕著に、その熱い奔流を感じ取れてしまう。

 

 感情の波を浴びせかけられる度にひどく戸惑うが、それらは俺への信頼や情愛故なので、その想いの熱さに心地良くのぼせるのも悪くはないかなと思えた。ただ、たまに情愛の裏に情欲のようなものがちらりと見える気がすることが、目下、不安の種ではある。

 

『お召し物のプログラミングは完了致しました。主様のお身体へと反映させます。アジャストしますので、違和感があれば申し付けてください』

 

 エリーの行く末を考えていると心中穏やかではいられなかったが、俺の悩みとは無関係に時間は進む。作業していたエリーが、仕事を終わらせたことを報告した。

 

 全身が一瞬強い光を放ち、その輝きが収束した頃にはぱっと見るだけでも明らかに服装が変わっていた。

 

 これまでは身体強化以外に魔力を溢れ出させて威力の軽減もしていたが、今は溢れるような感覚がない。浪費していた魔力が衣服となって身を守り、服に覆われていない部分は魔力の膜でカバーしているようだ。

 

 全身を視認することはできないが、案外意匠を凝らしたつくりになっている。エリーが言った、少々、とは本当に少々だった。十秒経つか経たないかという極めて短い時間で、これだけのものを創り出すエリーの意外な分野の手腕に思わず驚いた。

 

『しかし、主様の処理速度の速さは素晴らしいものがありますね。並のデバイスなんぞ遊歩道の脇に生えている雑草に見えるほどの性能を有しています』

 

『その褒め方は嬉しいような、他の魔導師のデバイスに申し訳ないような……とにかく複雑な気持ちになるんだけど。お前、俺以外に対してはデフォで口が悪いんだな』

 

『私たち、相性いいですよね』

 

『ちょ、それどういう意味? 魔力の多いエリーと演算の早い俺で相性が良いって意味か? それともお互い性格が捻くれているっていう意味か?』

 

『お召し物に不備はないようですね。視界にAR(拡張現実)情報を映写します、確認お願いします』

 

『……ああ、わかったよ。ついでに相性が良いこととお前の耳が悪いこともわかったよ』

 

 雨あられとばかりに降り注ぐ魔力砲弾の雨に打たれ、半球状の障壁に小さな亀裂が幾つも入り始める。その光景と薄く重なるように、エリーの言った通り、データが挿し込まれた。

 

 お召し物、とエリーは言っていたし服自体に魔力の気配を感じることから、つまりはバリアジャケットの類いだ。そのバリアジャケットがどのような装いになっていて、どの部分がより堅牢でどの部分が他より守りが薄いかを確認するために、プログラムデータをこちらによこしたといったところだろう。

 

『ほう……。これはまた手の込んだ……ん?』

 

 視界の左側にバリアジャケットを着装している立ち姿、右側に簡単な解説や詳細な数値が映し出されている。

 

 理路整然と並んでいて大変理解しやすく作られているのだが、一つわからない部分が、というよりわかりたくない部分があった。それは視界の右側ではなく、左側。立ち姿の女性(・・)についてである。

 

 右側のスペックデータを参照するに、女性ながらに百七十センチある高身長。すらりと長い足に、細くくびれた腰。身体の線を乱さず、されど服の内側から押し上げて強く自己主張する双丘。しなやかさの中に強靭な筋肉を潜ませる腕。

 

 かすかに浮き上がる鎖骨と細い首を上れば、頬から顎にかけてのシャープなライン。小さな顔。つんと上を向いている通った鼻筋に淡く色づいた唇。そして、この部位だけ鏡で何度も見た覚えのある鋭い双眸。二つの瞳の虹彩も変色しており、髪と同じ澄み渡るような空色をしている。

 

 白刃のような近寄りがたい美しさを、腰よりも下に位置するふわりと軽そうでかつ艶やかなスカイブルーの髪が和らげていた。

 

 総評として、エリー人型モードとはまた違う方向に人間離れしている次元の別嬪(べっぴん)さんが、視界の左側でバリアジャケット着用済みという状態でポージングしていた。

 

 これはいったい誰だろう、とわかりきった現実から目を背けつつ、念のためにエリーへと尋ねる。

 

『なあ、エリー。この立ち姿のモデルになっているクールビューティー、誰?』

 

 答えは、訊く前から薄々感づいていた。

 

『主様に決まっています』

 

 ですよね。

 

『主様を差し置いて他の誰が、不肖この私自ら設計した衣装を身につけると言うのですか。ご安心ください。こんなことを言うと手前味噌になってしまいそうですが、大変お似合いです。私では到底及びません。主様だからこそ、です。主様の女性としてのお姿は、言葉に表せないほど麗しいものです。元の男性のお姿も心が張り裂けそうなほど素敵ですが、こちらでも私、いけます』

 

『いけますってなんだ。真面目なトーンで何言ってんだ。……鏡もないから自分の顔見れてなかったけど、俺……こんなことになってたのか……。俺がいきなりこんなに変わったのを見て、リニスさんはよく取り乱さなかったな……』

 

 初めて見たエリーと俺の一体化姿に壮絶なまでの衝撃を受けたが、いつまでも動揺していられない。そろそろエリーが張ってくれた障壁も耐久の限界が近い。チェックは早いところ済ませておくべきだ。

 

 自分の容姿は取り敢えず頭の隅に追いやり、本題に入る。

 

 バリアジャケットの色は、黒を基調として随所に空色が散りばめられていた。

 

 俺の戦い方を考慮してか、バリアジャケットの印象は、なのはのような砲撃戦と防御の硬さを念頭に置いた全身重装備ではなく、フェイトのような完全回避を前提とした極端な近接特化の軽装でもなかった。打撃戦に重きを据えて機動力を重視しつつも、防御は薄くならないよう工夫が為されている。

 

 腕の駆動を阻害しないようにか、トップスは淡青色のノースリーブブラウスの上に、同じくノースリーブの、こちらは配色が黒の丈が長めのベストを羽織っている。肘の少し上あたりから手の第二関節までをサポーターのような伸び縮みする黒布で包み、拳の部分から手首には籠手に似た装具が備えられていた。

 

 ボトムスは動きの邪魔になり難そうなショートパンツ。そこから数センチほどは足がむき出しで、それより下からは薄地の布で覆われている。ちょうどオーバーニーソックスと見た目は同一だ。自分のものとは思えないほど細くて白い太腿が顔を覗かせていた。足元から膝下にかけてロングブーツのような脚甲を身につけている。

 

 暗色メインの衣服との対比で、殊更に肌が白く映えた。

 

『これは……あらゆる意味で俺にはもったいないな』

 

 確認して、よくわかった。エリーの潤沢な魔力を織り込んだバリアジャケットはエリーが呈示したスペックデータ通りの防御力と耐久性、モンスター級の堅固さを有している。バリアジャケットから感じる魔力の密度が、それを物語っている。

 

 並の攻撃手段では傷一つつかない。びくともしない。艦砲射撃を受けても怯まないのではと思えるほどの安心感。完全なる防壁。

 

 そしてどこで覚えてきたのか、機能的なだけではなく無駄に高いファッション性。脇がざっくりと開いていたり首元に随分余裕があったり、長い足を見せつけるかのようなデザインだったりと、いくらか扇情的ではあるけれど。

 

 思わずため息がこぼれるのも(むべ)なるかな、というものである。

 

『勿体ないなどとんでもないです。自賛のようで気は引けますが、主様にはこのくらいの性能は不可欠です。本当ならばもう少し突き詰めて練り上げたかったのですが、少々時間にゆとりがありませんでしたし望んだ基準値は満たせたのでこの程度で妥協しました』

 

『この程度って……どこまでブラッシュアップする気だったんだよ』

 

『それはもう、主様の御為となればどこまでも、です。際限などありません。急場凌ぎとはいえ、私が丹精と真心を込めて、心の底に(くすぶ)っていた本能のまま作り上げました。是非、お使いください』

 

 このバリアジャケットのデザインはエリーの趣味なのか。『燻っていた本能』の(くだり)がなければ快く受け取ることができたのに。

 

 エリーの好みが多分に含まれているとはいえ、以前から欲しいと焦がれていたバリアジャケットを手ずから作ってくれて、その上俺の戦闘スタイルにも充分気を配ってくれていて、しかも想定以上のクオリティの代物を(こしら)えてくれたのだ。ここまで手を尽くしてくれた相棒に文句を吐く口を、俺は持ち合わせていない。

 

『あ……ああ、エリーの熱心な扶翼(ふよく)に感謝するよ』

 

 言い淀んでしまった責任の所在は、俺の意識に反旗を翻した声帯にある。

 

『そんじゃ……行くぞ!』

 

『はい、主様』

 

 両の拳に装着されたガントレットを打ち鳴らし、闘志を再燃させる。良質な金属を思わせる打響音が、心は熱く(たぎ)らせながらも頭を冷静に冴え渡らせる。

 

 反撃の狼煙は上げられた。これを逆転劇にして救出劇の嚆矢(こうし)としたかったが、生憎戦況はこちらの主導で動かせない仕組みのようだ。

 

「あれ、魔力弾の連射が止まってる……」

 

 篠突く雨、と呼べるほど弾幕は厚くなかったが、それでも避けるのは困難だった斉射が、今は停止している。

 

 不審に思い、彼女に目を向ければ、斉射をやめた理由がわかった。

 

 杖を掲げ、身体の後方に反らしている。その杖の頭上には、黒く輝く巨大な槍。

 

 その圧倒的な破壊力(エネルギー)を秘めた槍は、神話に登場する聖槍を彷彿とさせた。ただ、その禍々しさだけは他の何にも形容し難かった。破壊と混沌の象徴とも思えた。

 

『なあ、エリー……あれって』

 

『何があっても、あれだけは必ず回避してください』

 

『……だよな』

 

『はい』

 

 戦艦の重要防御区画(ヴァイタルパート)よりも堅固な障壁とバリアジャケットを有していてなお、選択肢が回避以外に存在しない。どれだけ距離が空こうが、回避以外に選べない。そう思わせるに足るだけのプレッシャーが、闇色の大槍から放たれていた。

 

 彼女はスフィアから射出される魔力砲弾では防壁を破れないと判断して、壁を突き破るだけの威力がある魔法にシフトさせたのだ。

 

 俺は失念していた。同じように多数の発射体を展開してなのはに一斉射を浴びせたフェイトも、残った発射体を集めて槍を生成していたというのに。

 

 俺とエリーがバリアジャケットについて相談している間に準備を進めていたのだろう。彼女の腕が動く。黒色の輝きを放つ大槍が投擲(とうてき)される。

 

『全力で回避する!』

 

『全力で補助します』

 

 足元の障壁を踏み締め、『襲歩』の要領で跳躍、速やかに離脱。掛け値なしの俺の最高速。

 

 大槍が投げられた瞬間に大きく移動すれば、それで影響はないと考えていた。

 

 いくら威力があろうと、躱してしまえば泡沫に帰する。いくら速度があろうと、今の俺とエリーなら着弾する前に現空間点を離れるのは容易いと考えていた。

 

 巨大な槍といえど、直径は最大でも四十センチあるかないか。一直線にしか進まない直径四十センチの弾道から身体を逸らすだけ。

 

 そんな愚かで浅はかな見立ては、儚くも打ち砕かれた。

 

『ッ! 障壁展開!』

 

『了解しました』

 

『焼け石に水でもいい、僅かでもいい。進行速度を落としてくれ!』

 

『……っ、善処します』

 

 珍しく、エリーがファジーな言い回しで返答した。

 

 目の前の光景を見たら、挑戦してくれるだけでもありがたいと言える。

 

 黒の彼女の統制から離脱した大槍は檻から解き放たれた飢えた獣のように、俺とエリーに牙を剥いた。

 

 杖から離れた大槍の周囲が、ぐらぐらと揺らめく。陽炎などではない。もっと別の、次元の境目にすら干渉しているような、そんな危うい揺らめき。

 

 闇色の大槍の異変を網膜が捉えると、思考を差し挟む間もなく、悟った。直径四十センチ。あの大槍が影響を与える範囲は、当初の予想の直径四十センチを遥かに超える。十倍か、それ以上か。厳密な範囲は測りようがないが、大槍本体に触れるのはもちろん、数メートルの範囲に近づくだけでも危険だ。継戦能力に支障を来す。

 

 俺は脳髄が走らせる警戒信号に疑うことなく付き従う。生存本能のままに足を、全身を動かした。

 

 エリーは俺の要請を受け、魔力のブーストを受けた障壁を、黒の彼女の魔力で成る砲弾を浴び続けてもしばらく耐えた強固な盾を幾重にも重ねる。

 

 だが。

 

『ふ、ふざけてる……』

 

『まさか、これほどとは……』

 

 それでも大槍の侵攻は止まらない。

 

 もはや障壁を穿孔(せんこう)するなどという状況ですらない。接近しただけで障壁が蒸発した。大槍の本体の部分は、先端も触れてはいない。輻射熱のように大槍から滲んでいる魔力だけで、頑強なはずの障壁が和三盆を使用した高級砂糖菓子のように融解していく。

 

 エリーと協力して数多くの、それこそ自分たちでも展開した数を把握できぬ程、無数に展開する。

 

 その甲斐あってか、ほんの少しではあるが大槍のスピードが低下した。寸瞬生まれた間隙に縋りつくように、予測した弾道から距離を取る。決死の努力により、大槍本体の軌道からおよそ四メートルから五メートルほど離れることができた。

 

 エリーがいたからなんとかなったし余力はまだまだあるが、使用した魔力量の概算を出すと頭がくらくらしそうだ。普段の俺、およそ五~六人分くらいの魔力を防御魔法だけに費やした。

 

『くっ、はぁっ……っ、あとは「魚鱗」で通過時の、余波を防ぐ……』

 

『主様、大丈夫ですか? お身体は……』

 

『今の身体はタフだからな、継続自体に問題ない。ただ、さすがにちょっと……張り切りすぎただけだ』

 

 魔法の発動数は両手両足の指を合わせても数え切れるものではない。術式の演算を短時間に繰り返し行ったため、思考速度が向上している今の状態でもやはり負担が重くのしかかってきた。頭がじんわりと熱くなり、疼痛が走る。

 

 痛みに耐えながら、少し離れた空間、大槍が通る方向に向けて障壁群『魚鱗』を展開した。

 

 距離を取って直撃コースを避けたとはいえ、あれは近づいてくるだけで暴威を振るう。気を緩めず防備を固めておくべきだ。

 

 俺の四メートルか五メートルほど先を、漆黒の大槍が駆け抜けた。大槍はまるで尻尾を垂らしていくかのように、突き進んだ空間に薄暗い一本の線を残す。

 

『空間……歪んでるぞ……。暗くなってる……』

 

『巨大すぎるエネルギーが空間中にあった物質を排除しつつ、高速で移動したのでしょう。光の屈折が重なり、部分的に暗くなっただけ……だと思いたいです』

 

『願望かよ……』

 

『ひとりの人間の力によって、しかも魔法の副産物的に空間を歪曲させるだなんてそんなこと、私は信じたくはありません。それはもう、ヒトの形をした違うナニカです。化け物、と呼べるでしょう』

 

『…………』

 

 エリーの言い分は、至極もっともなものなのだろう。元は(本質的には今も変わらずであるが)エネルギー結晶体であったエリーをしてこうまで言い切らせるのだから、その魔力たるや異常なんて言葉ではもう表しきれていない。

 

 だが、黒の彼女を化け物と言ってしまうのであれば、彼女と干戈(かんか)を交えている俺も、きっと化け物なのだ。

 

 かたや空間を歪ませるほどの魔法を繰り出し、かたや一秒に満たない時間を作り出すために数十に及ぶ魔法を展開する。互いに尋常ではない量の魔力を消費する戦い。第三者から見れば、どちらも人の道から足を踏み外していて、どちらも人外の化け物にしか見えないことだろう。

 

 両者ともに化け物じみているが、そこにも度合いの強弱がある。言うまでもなく、度合いの『強』が向こうの化け物だ。

 

 まさしく、馬鹿げているエネルギー量と密度。こんな規模の魔法、受ける方は当然のこと、行使する側だってただでは済まない。

 

 放つ寸前までは大槍の近くにきても影響はなかったとしても、投げ放った時から大槍の周囲およそ四メートルに、可視できるレベルの魔力波が放出されている。

 

 放った瞬間は、行使者当人もその範囲に含まれている。投げたと同時に行使者が消し飛んでもおかしくはない威力、自損技に等しい魔法だ。

 

 にもかかわらず、時間が経つごとに深みを増していく黒色の魔力を纏う『リニスさんだったモノ』は、相変わらず二本の足で立ち、酷く冷たい無機質な瞳で俺を(にら)み据えている。少し強い風に煽られた程度気にしない、とでも言うように、長く伸びた髪を押さえもせず無造作にはためかせていた。

 

「どうすれば……いいんだろうな……」

 

 生き延びることを優先すれば、さほど難しいことではない。化け物じみた、否、化け物そのものの魔力を有した彼女を打倒することも、戦略と奮戦次第で可能だろう。

 

 しかし、俺の目的は時間を稼いで誰かの助けを待つことではない。地に伏せさせて勝利を収めることでもなくなっている。

 

 『リニスさん』を助けることだ。明らかに通常の状態から大きく逸脱している黒の彼女から、優しいリニスさんを取り戻すこと。それがこの場での最優先事項だ。

 

 リニスさんを取り戻す。その方法論の土台さえないことが、俺の心を焦らせていた。

 

 彼女の身体を、暗闇が覆い被さるように包み込んでいる。最初は薄暗いだけだった黒色はどんどん濁りを深め、色を濃くする。

 

 根拠なんてなにもない。ないけれど、無駄に時間を使いすぎればリニスさんの魂や存在などといったとても大切なものまで、あの黒色の魔力に塗り潰されてしまうような、そんな気がしてならない。猶予はあまり残されていないように思うのだ。

 

 タイムリミットを示す砂漏の砂は、刻一刻と下に落ちていく。そんな感覚がしているのに、リニスさんを取り戻す具体的な案はなにもない。焦燥の念が集中力をじりじりと焼きつかせる。

 

『……? これ、は……?』

 

『エリー? どうし……つっ?!』

 

 苛立ち始めた頃、エリーが心中で微かに声を発した。

 

 どうしたのか尋ねようとした時、左腕に痛みが走る。目を向ければ、地獄から這い出た亡者の手のように真っ黒な鎖が腕に食い込んでいた。

 

『は?! ど、どこから!』

 

 いくら考え事に(ふけ)っていたといっても、塔に空いた風穴の近くに立つ彼女からは目も注意も逸らしていない。そこまで愚かではない。

 

 断言できる。彼女は動いていなかった。

 

 ならば新手かと危惧したが、敵対しているのはプレシアさんと目の前の『リニスさんだったもの』の二人のみ。ほかの戦闘要員に傀儡兵がいるが、それらは射砲撃は使ってきても、拘束魔法までは一回たりとも使っていない。

 

 そもそもこの鎖は黒色だ。目の前の彼女が展開したものに違いはないはずだ。

 

 それならば、どうやっているのだ。

 

 彼女から鎖は伸長されていない。どこから来ているのか辿れば、塔の外壁を擦るように、塔の反対側に鎖が伸びていた。

 

『主様、どうか冷静に。鎖は塔の裏を回っています。おそらく彼奴は拘束魔法をもう一方に空いている大穴から外に出し、そのまま塔の外壁をぐるりと回り込むことで主様の死角を突いたのです』

 

『っ、そうか……。すぅ……はぁ。迂遠なやり方だな』

 

『正攻法では墜とせないと判断し、搦め手に出たのやもしれません』

 

 慌てることはありません、と落ち着き払った声でエリーは続けた。おかげで熱された思考が冷却される。

 

 生命線でもある機動力を封じられるのは王手をかけられるのと同義だが、冷静に考えればそれほど大きな問題でもない。

 

 拘束魔法を掛けられたら、破壊すればいいだけ。俺は何回も捕縛を経験してきたが、その度に脱出してきた。今回も同じだ。

 

 左腕に噛みついて、絡みついて離れない鎖へ魔力を送り込む。

 

「あ……れ?」

 

 俺の魔力は、一雫たりとも鎖に浸入しなかった。

 

 動きを止めた俺に、抜け目なく彼女は追撃する。鎖をもう一条展開し、逃げられないことをわかっているからか今度は真正面から伸ばした。

 

 空を這う黒蛇のように、時折蛇行しながら俺へと向かってきた鎖は、絞殺でも試みるつもりなのか首元に巻きついた。間一髪で首と鎖の間に右手を挟み込んで気道を確保するが、鎖自体に意思があるようにぎりぎりと締めつけてくる。

 

 やはり、新しく展開された鎖にも魔力は浸透しなかった。

 

 右手に魔力を集めて、そこでやっとハッキングができなくなっている原因に気づいた。ほぼ同じタイミングでエリーも勘づいたようだ。

 

『主様の魔力が……透明じゃなくなったから……』

 

『たぶ……ん、そう、だろうな……っ。ま、こればっかりは……っんぐ、仕方ない……っ』

 

 右手に魔力を集中させた時、右手が透明感のある空色に輝いた。

 

 エリーの一体化している今の俺は、心も身体も重なっていて、リンカーコアさえ共有している。そのおかげで身体能力は向上して、エリーの膨大な魔力を貸してもらえてるわけだ。

 

 だが結果として、俺本来の魔力色は変化している。色が関係しているのかどうかの確証はないが、一つ明らかなことは、他人の魔力に入り込んでも抵抗されないという俺の魔力の特性はエリーの魔力が加わったことで消失したということだ。

 

『あ……主様っ、申し訳……』

 

『申し訳ありません、とか言うなよ。お前がいなけりゃ俺はとっくに死んでるんだから』

 

 ハッキングは、俺が強敵と(まみ)える時は必ず使用して、いつも頼りにしていた強力な武器だ。

 

 ハッキングというあてが潰れたのは痛手だが、だからといって今の状況でアンサンブルを解けばそっちの方が悲惨なことになる。

 

 現状、俺のハッキングとエリーの魔力のどちらがより重要かなど、天秤にかけずともすぐにわかる。

 

 エリーの魔力による能力の底上げがあるから、黒の彼女相手でも善戦できている。今だってそうだ。仮にアンサンブルを解けばハッキングで鎖を壊す前に、凧糸で粘土を切るよりも簡単に鎖が俺の腕と首を捻じ切るだろう。

 

 ハッキングが使えないという損失はある。しかしエリーと一緒に戦えるというのは、その損失を大幅に補って、上回ってあまりあるのだ。

 

 エリーが謝る理由など、見当たらない。

 

「っ……ぐぅっ……」

 

 首に巻きつく鎖が万力のように喉を締め上げる。右手一本では抵抗のしようがない。両手なら、全力で力を込めて一瞬だけ鎖を(たゆ)ませ、その隙に脱け出ることもできるが、さりとて片方の左腕にはもう一条の蛇が牙を突き立てている。

 

 動きを止められたこの窮地を脱するに、一つ手があった。

 

「いい、加減……鬱陶しい! 神無流奥義……『発破』ッ!」

 

 静から刹那の急激な動を経て生み出した爆発的な威力を一極集中で撃ち放つ、俺の近接打撃技の奥の手。

 

 左腕で『発破』を使う。俺に動きを取らせなくさせるために張り詰めさせていた鎖は、木っ端微塵に弾け飛んだ。

 

 自由を取り返した左手で、今度は首元に絡みつく鎖を掴んで引き千切る、なんてことはさすがにできそうにないので両手合わせて引っ張って逃げようとするが、わずかに彼女の方がアクションが早かった。

 

 ぐん、と頸椎(けいつい)の骨が外れそうになるほどの力で引っ張られる。

 

「ぐぉっぶっ……」

 

『彼奴は接近戦に持ち込むつもりです』

 

『それは……わかっ、てんだけど……』

 

 スペースにゆとりがあって回避されやすい塔の外を嫌い、また塔の内部に引き()り戻すつもりなのだろう。あわよくば鎖で引き戻したタイミングで一撃を入れて仕留める、という魂胆も見える。

 

 しかし、抵抗はささやかなものに落ち着いてしまいそうだ。

 

 首根っこをひっ捕まえられたみたいに上半身から引っ張られたおかげで踏ん張りは効かないし、それ以前に力が強すぎる。真っ向からの力勝負では勝機はない。

 

 遠かった彼女の姿がどんどん近くなり、俺がぶち開けた壁の穴も同様にどんどん大きくなってくる。これといった対策もできず、彼女と再接近した。

 

 交錯のタイミングで、彼女は魔力でコーティングされた拳を振るう。

 

 首元の鎖を掴んでいる右手はどうしようにも動かせなかったので、魔力を纏わせた左手でガードする。インパクトの際、みしっ、と不気味な音が耳に飛び込んできた。

 

「うっ……おあっ?!」

 

 引っ張られていた慣性と彼女のカウンター気味の打撃により、俺は塔の内部に回帰した。弾かれた彼女の拳が鎖に触れ、俺の首輪は爆散した。

 

一回二回と床を転がったが、三回目は手をついて体勢を戻したのでそれ以上自分の身体を使ったホールの掃除はせずに済んだ。

 

 着地してからは距離を取りつつ、彼女の攻撃により、みしっ、と不安な音を奏でた左手を確認する。じんじんとした衝撃こそありはするものの痛みはなく、関節の動きにも支障はない。

 

 なぜこんなにも損傷が軽微なのだろうと不思議に思ったが、答えはすぐに見つかった。

 

『すまん、エリー。せっかく作ってもらったのに、さっそく左の籠手にひびが入った』

 

『骨に、ではなくて良かったです』

 

 左手の拳から前腕の中程までを覆うエリーお手製の籠手。その籠手の手首のあたりが大きくへこんでしまっていて、幾筋も(ひび)が走っていた。

 

 バリアジャケットの装具がダメージの肩代わりをしてくれたおかげで、骨や筋を痛めずに済んだ。

 

 接近時の被撃が大した傷にならなかったのは望外としか言いようがないのだが、今はそれ以上に気懸(きがか)りがあった。近づいた時、魔力の衣の下の身体がちらりと見えたのだ。

 

 着ていた服は焼け焦げて布地を減らし、肌の傷の数は増えていた。出血量も当然、傷の箇所に比例して増加の一途を辿っているだろう。

 

 身体は弱り続けていくはずだし、パフォーマンスも維持できるわけがない。なのに、彼女の華奢な体躯から迸る魔力は時を刻むごとに強さを増す。

 

 その姿は、己の命を削って燃える蝋燭(ろうそく)のように見えた。

 

蝋燭はその身をエネルギーに変換し、光を灯す。

 

 黒の彼女の周りに夥しい数の射撃魔法が展開された。無数の待機弾が重なって、まるで天の川のようだ。

 

『くそ、防ぐだけじゃジリ貧だ。こっちも迎え撃つ』

 

『…………やはり、どこか……おかしい?』

 

『……エリー?』

 

 相棒に声をかけるが返答がない。どうやら考え事に没頭しているらしい。

 

 エリーが俺をほったらかしにして意識を傾けるほどなのだから、相当重要な案件なのだろう。ならば、邪魔をするのはかえって損になる。

 

 ここは俺だけでやってやる。

 

「自惚れかもしれないけどな……人より器用であるという自負はあるんだ」

 

 彼女に張り合うように、俺も射撃魔法を展開する。

 

 魔力が心許なかったために、リニスさんとの戦いでは誘導弾などの射撃魔法は多用していなかった(もしくは多用できなかった)が、今はエリーがいる。魔力に余裕があれば、接触によって誘爆させる程度の威力を引き出すことだってできるし、弾速だって徒歩から競歩くらいには押し上げることもできるだろう。

 

 なによりも、展開数が違う。十や二十ではきかない数が、ずらりと前面に並んだ。

 

「物量だけで押し切れる、なんてのは甘い考えだぜ……」

 

 彼女が展開している無数の射撃魔法、もはや黒い魔力弾の壁となっているそれを睨みつけながら、俺は威勢よく啖呵を切った。

 

 いかな彼女といえど、無数に展開した魔力弾の全てをコントロールするなどできはしないだろう。推察するに、あれは誘導型ではなく直射型。

 

 対して、俺が用意したのは誘導型の射撃魔法。俺が統制をとれる上限の数、五十が手勢となる。

 

 数の上だけで見れば圧倒的不利は火を見るより明らかだが、もとから正々堂々正面からの戦運びなんぞ考察の埒外だ。(から)め手だろうが(こす)っからかろうが、俺のやり方を貫くまでである。

 

「…………」

 

「さあ来い、猫。鼠の足掻き方を教えてやる」

 

 彼女の杖が前方に、俺に差し向けられる。

 

 ぴしり、という音がした。とても小さい音。

 

 彼女の杖の先端、球状になっている部分の光の反射角度が少し変わった気がした。

 

 それらの小さな変化を視覚からも聴覚からも塗り潰すように、彼女が展開する大軍勢は進軍を開始した。

 

「ああ、そうだろうな。そう来ると思ってた」

 

 空中を無数に漂う魔力弾のうち、射出されたのはほんの一部。一部、と単純に表したが、その一部分だけであっても俺の誘導弾の数を超えている。

 

 待機状態の射撃魔法を一度に全部撃ち放つような真似はしないと予想していた。何回かに分けて波状攻撃の構えを取るだろうことは、果然と予期できていた。

 

 波状攻撃の第一波は、俺の誘導弾など目もくれず、ただ一直線に俺へと突き進む。

 

 それはそうだろう。大した効果は期待できない俺の魔力弾なんて恐れる理由がないし、波状攻撃の際の流れ弾で勝手に破壊されるだろうと彼女は考えているのだ。それだけ彼女の守りは防衛的魔法を抜きにしても堅いし、魔力弾の総数の三分の二が俺の身体を外したとしても充分に過ぎるほど多い。

 

「だから、対抗策を用意した」

 

 突くのならば、その自信と慢心だ。

 

 俺が展開した誘導弾を、彼女の魔力弾の弾道上から離脱させる。撃ち落とされる軌道だったものも、そうじゃないものも、まとめて全部散開させる。

 

 相手の弾丸は、こちらの誘導弾だけで相殺できる量を超えているのだ。端から、誘導弾をぶつけて誘爆させて防ぐ、なんて戦法は考えてはいない。

 

 誘導弾はあくまで攻撃的な手段。防御に関しては防御の為の魔法を使う。海を渡る為の船で、山を登るなんて非効率的なことをする必要はない。

 

 眼前に迫る黒い弾丸へ腕を突き出し、魔法を発動させる。

 

「対弾幕防御結界……『浮鏡』」



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危険と隣り合わせの安全

 弾道上に出現したのは澄んだ空色の障壁。斜めに配置されていて、接触した魔力弾の軌道を斜めに逸らす役割を成す。この障壁が同時に十、作り出される。

 

 当然、たかだか十枚程度では、雪崩を打つように殺到する魔力弾の軍勢を一つ残らず捌くのは不可能だ。

 

 だから選別した。直撃コースからずれているものは見逃し、俺の身体を捉える弾道の魔力弾にのみ、障壁で逸らす。そうすることで障壁の作業数を減少させるが、被弾しないものを見極めて配置してもなお、弾丸の数は多い。障壁の数は足りない。

 

「『浮鏡』の真骨頂は……ここからだ」

 

 この障壁数では壁として不足していることなど理解している。織り込み済みなのだ。

 

 彼女の射撃魔法の数が多いことなんて最初からわかりきっていた。命中精度にも優れていることなんて他の魔法を体感すれば嫌でもわかる。

 

 威力についても空恐ろしいものがあることだろう。破壊力も併せ持つ無数の魔力弾を浴びれば、エリーの魔力を束ねた障壁といえど長くは持つまい。

 

 弾幕用と銘打っていて防御結界などと大層な名を冠しているのには、相応の理由があることを証明する。

 

「躱すだけの空間もないのなら、作ればいいだけだ。生憎と、使えそうな弾丸(材料)はいっぱいあるしな」

 

 障壁に着弾した魔力弾は本来のルートを大きく逸して、矛先を変える。俺を狙っていた他の魔力弾に接触し、爆発する。

 

 これを、狙っていた。『浮鏡』の用途はここにある。

 

 相手の射撃魔法を弾き、他の魔力弾と衝突、誘爆させることで数を減らし、漆黒に染まる死地から空白を切り出す。

 

 この術式の切っ掛けになったのはエリーが使った半球状の障壁、バリアタイプにカテゴライズされる防御魔法だ。その魔法のプログラムには障壁に触れたものを弾き飛ばす、という副次的な効果がある。そのコードを抜き取り、俺が普段頻繁に使っているシールドタイプの防御魔法に組み込んだものが、対弾幕防御結界『浮鏡』だ。

 

 ちなみに、結界と呼称しているけれど、結界魔法とはなんの縁もゆかりもない。破壊の嵐から安全地帯をくり抜くという意味合いで名付けたに過ぎない。

 

「っ……分厚い上に、冗長な弾幕だこと……」

 

 被弾しない弾道のものは完全に無視。直撃するもののみにタスクを限定しているが、それでも処理速度はかつかつだ。

 

 自分の身体をすっぽり覆うくらいの障壁を張るよりかは幾分現実的な策かと思えたが、一概に正しい行動であると判断できなくなってきた。なによりの問題は、演算が複雑すぎたことだ。

 

 魔力弾の入射角、反射させたい方向。ぶつけたい魔力弾に正確に当てようとすれば、さらに反射させた魔力弾の速度や、誘爆させたい魔力弾の速度・相対距離・対象の大きさまで加味しなければならなくなる。それらを踏まえた上で、障壁の角度・強度・実行したいプログラムを選定して魔法を発動させるための演算をしなければならない。

 

 薄氷の上を歩むが如き危うさだが、あらん限りに魔力をつぎ込んで障壁を展開・維持補強するより余程マシである。いつまでもエリーにおんぶに抱っこではいられない。エリーも危惧していたのだ、あまり力を使いすぎれば、深く繋がりすぎれば、元の姿に戻れなくなるし、最悪、魂まで融け合うと。

 

 魔力は重要なファクターだが、それだけに頼る力任せな戦い方ではいけないのだ。工夫し、知恵を絞り、技術と組み合わせて初めて、豊富な魔力が生きてくるのだから。

 

「くそ、多いな……っ」

 

 押し寄せる黒き弾丸の波を、一番近いものから弾いては誘爆させる。

 

 細工を施した障壁を展開し、役目を果たせば魔法を解除し、また違う魔力弾に角度を合わせて展開する、という工程を繰り返す。障壁を展開したまま動かせれば都合がいいのだが、それは現状の防御魔法のフォーマットでは不可能だ。元来防御魔法は足を止め、身を守る盾として使われているのだから、あちらこちらへ盾を動かす意味などなかったのだろう。魔法の基盤を組み立てた先人たちに文句をつけても詮なきことだ。

 

「んっ、く……。そろそろ、か……」

 

 『浮鏡』を使って撃ち落としていくが、弾丸の雨にいつまでも対処し続けるのは難しい。

 

 このままではいずれ、波に呑まれる。

 

「仕返しの、時間だ……」

 

 なので、呑まれる前に次のカードを切るとする。

 

 隙は、攻めている時に生じやすい。防御に徹していたのは反転のタイミングを見計らうためだ。

 

「この従順な五十の騎兵で……利息分くらいは返してやるぞ」

 

 撃ち込まれ続ける魔力弾への対処に思考を割きつつ、誘導弾を操作する。演算能力の酷使に頭がじんわりと熱を帯びるが、ここが正念場と踏ん張る。

 

 総員突撃の命令を受けた騎兵隊は、彼女の黒い魔力弾の壁を迂回するように左右や上方へと移動を始めた。

 

「…………」

 

 彼女はちらりと俺の誘導弾へ一瞥を投げると、未だ周囲に漂っている予備戦力で迎え撃つ。

 

 いかにエリーの魔力でブーストしているといえど、魔力での底上げには限界がある。懸命にコントロールはするが、速度という面において遥かに劣る俺の射撃魔法はすぐに彼女の魔力弾に射抜かれた。

 

「使えるな、この弾殻(シェル)は」

 

 確実に射抜かれたはず(・・)の俺の射撃魔法だが、しかし消滅せず、依然として彼女へと突貫する。

 

 仕組みは至ってシンプル。射撃魔法をすっぽりと包むように膜を張ったのだ。ある程度の強度を有している魔力の膜を突き破られる前に、膜の内側にいる誘導弾は膜を放棄して難を逃れる。ちょうど、烏賊(いか)が墨を吐いて逃げるのと要領は似ている。

 

 元は彼女の体外から噴出されている魔力の衣を突破してダメージを与えるために考えたのだが、誘導弾の撃墜も防げるとは思わぬ収穫だ。

 

「さあ、どうくる……。躱すか、防ぐか? それとも弾幕で撃ち墜とすか?」

 

 俺の誘導弾を墜とそうする魔力弾は当初、ぱらぱらと散発的なものだったが、厄介さを感じ取ったのか危険性を理解したのか、誘導弾に向けられる魔力弾の数が多くなった。ホールの壁や天井を這うように進む誘導弾を、魔力弾は躍起になって狙い続ける。

 

 彼女の魔力弾が誘導弾に向けられたことで、第一波から二波、三波と動く暇も与えずに俺へと襲いかかってきていた弾幕が幾分か薄くなった。その分誘導弾を墜とすための迎撃は苛烈を極めているが、弾幕の処理に割かれていた演算のリソースを誘導弾のコントロールへと充てることができるので、誘導弾を警戒してくれればしてくれるほど俺としては動きが取りやすくなる上、生命のリスクも減る。俺にとっては、いい流れだと言える。

 

 ただ、このままずっと風向きがフォローのままとは限らない。

 

「魔力弾による迎撃に専念、か……。五発も当てることができれば御の字だが……潜り抜けられるのか、これ……」

 

 五十あった誘導弾は、道程を三割進んだところで半数が墜とされ、半ばを過ぎれば七割が潰されていた。残機は十五、彼女(トップ)への道はようやく中腹、砲火は近づけば近づくほどに激しさを増す。

 

 操縦する個数が五十から十五に急減したことで一つ一つを精確に操ることができるようになりはしたが、あまりに減ってしまうと望んだ役割が期待できなくなる。かといって、誘導弾のコントロールに気を取られ過ぎては未だ継続されている俺への弾幕の対処をし損なう。

 

 一番望ましいのは、出来る限り多くの誘導弾を彼女に叩き込むこと。次点で誘導弾はすべて墜とされてもいいから、未だ彼女の周囲に相当数浮かんでいる待機状態の魔力弾をなるべく多く消費させること。最悪なのは相手の残弾を大して減らさずに、早々に全機撃墜されることだ。

 

 袋小路に足を踏み入れる前になにか策を講じておきたいが、いかんせん、目的が明確に定まっていない現状、なにを基準に考えを始めればいいかがわからない。リニスさんを元に戻す妙策があればそれを起点に考えを煮詰めていけるのだが、俺はまだ手掛かりを見つけられていない。

 

 誘導弾は刻々と数を減らしていく。七合目まで到達したのは、とうとう十機を切った。残り九機。

 

 牽制するように、魔力弾は断続しながら俺にも向けられている。好き勝手にはやらせない、と圧力を受けているような気分だ。

 

『主様。申し訳有りませんが、もう一度彼奴に近づいてもらえないでしょうか』

 

 魔力弾を捌きつつ解決策を模索していると、長らく沈黙を保っていたエリーが口を開いた。

 

『……あれに、か?』

 

 視線の先、黒の彼女を見やる。かなり量を減らしたとはいえ、待機状態の魔力弾はまだ一個中隊規模でありそうだ。

 

 あの中に飛び込んで、さらに突っ切って彼女に接近するというのは、些かハードなお願いである。

 

『先ほど……ほんの一瞬近づいた時、なにか不穏な魔力の流れを感じたのです』

 

『そりゃあ、あんな事になってるんだから不穏で剣呑な魔力なんて、少しどころかたくさんするだろう。俺だって危ないことはわかる』

 

『そういう意味ではなくて……どう説明すれば良いか悩みますが……どことなく彼奴以外の魔力の気配がしたのです』

 

『彼奴以外……リニスさんの魔力じゃない魔力がある、ってことか?』

 

『そうです。忘却してしまいたい記憶ですが、私は一度、彼奴の魔力を受けたことがあります。以前に受けた魔力とは波長が異なっているのです。その原因を探りたいのです』

 

『リニスさんはプレシアさんの使い魔だ。主人であるプレシアさんの魔力が、従者であるリニスさんに流れ込んでいるだけなんじゃないか?』

 

『お言葉ですが、それはありえません。主様のお考え通りであれば、鉄蔵で奴に辱めを受けた際と今とで同じ波長をしているはずです』

 

『てつぐら? ああ、倉庫のことか。……まあ、たしかにそうだな、あれは辱めといっても差し支えない扱いだったな』

 

『トラウマの一つなのでその件については蒸し返さないでください。あと話の主旨をずらさないでください。大事なところなのです』

 

『あ、はい。ごめんなさい……』

 

『続けてもよろしいでしょうか』

 

『はい……どうぞ』

 

『主様のお考えの反証として一つ、付け加えます。使い魔は主人となる魔導師から魔力を貰うことでその存在を維持していますが、魔法を行使するための魔力は主人である魔導師と切り離されています。使い魔が独立して魔力を持っているのです。主人の魔力が混ざる余地はありません』

 

『うむ……なるほど』

 

 エリーに言われて、初めて使い魔の深部に目を向けたような気がした。

 

 使い魔は主人から魔力を得ることで存在を保つことができている。使い魔の優秀さに比例して、主人が消費する魔力は増加する。

 

 この辺りの説明はユーノやクロノから受けていたが、そこから先を考えようとはしていなかった。

 

 少し目を向ければすぐわかりそうなことだった。フェイトとアルフを例に挙げれば簡単だ。

 

 フェイトには魔力変換資質なるものがあるらしい。詳しい仕組みは知らないが、魔法を使うと術式本来の効果とは別に電気の効果が付随する。

 

 もしアルフがフェイトの魔力を使って魔法を行使したのであればアルフの魔法にも電撃が帯びているはずだが、そんな様子は一度として見ていないし、また、受けてもいない。

 

 そもそも使い魔にだってリンカーコアがあるのだから、やはり主人から送られる魔力とは別に、使い魔が自分で使える魔力があるのだろう。成る程、エリーの言うことは正しかった。

 

 ここで、疑問が二つ浮上する。

 

『なんでエリーはそんなこと知ってるんだ?』

 

 これが一つ目である。

 

『主様は何故ご自身が言葉を喋ることができるか、何故言語を認識し意味を理解できるか、わかりますか?』

 

『な、なにそれ。んん……わ、わからないな。なぜか喋れるし、なぜか耳に入ったら言葉がわかる。複雑な理屈とかはわからない。ただ、そういうものだとしか……』

 

『それとおおよそ同じ感覚です。いつ、どこで、どうやって知り得た知識なのかは私にもわかりません。ですが、なぜか知っているのです。主様への回答とすれば、膨大な量の知識が私の中に蓄積されていて、今回はその内の一つを(ひもと)いた。このようなところでしょう』

 

『そ、そうか。……わかった、ありがとう』

 

 怜悧に過ぎる返答を頂いては、俺からは返す言葉がなかった。

 

 エリーは時折俺でも御しきれないテンションの高さと勢いで会話のイニシアチブを取ったり、かと思えば今のように淡々と冷静に、理屈でもって反論したりする。いやはや、実に頼りになる相棒なことだ。

 

 どうあれ、疑問一は解消された。次は疑問二だ。

 

 これまでの話は解説で、前振りで、導入部分。ここからが要点だ。

 

『それで、だ。リニスさんの主人の、プレシアさんの魔力が混じっているんじゃないんだとしたら、いったいなにがリニスさんの身体に渦巻いているんだ。リニスさんに、なにが起きている』

 

 エリーは、黒色の魔力を羽織る彼女に、視線の先のリニスさんではないリニスさんに、本人以外の魔力を感じたと言う。しかし、使い魔の性質上、主人の魔力ではないとも言う。かくいう俺も、今の彼女からは違う雰囲気を感じ取っている。

 

 エリーの知識や感覚、そして俺の勘が合っているとしたら、なにが彼女の身に巣食っているのか。

 

 エリーの答えは早かった。

 

『それを調べる為に、主様には彼奴に近づいて欲しいのです』

 

『ああ……それで接近してこい、に繋がるのか……。納得したよ……』

 

『先は心構えをしていなかったのではっきりとはわかりませんでしたが、次に接近した時は探知を試みます。出来得る限りの情報を抜き取ってやります。……主様、謹しんでお願い致します』

 

 彼女に肉薄するには越えなきゃいけない壁がいくつもある。その中でも一番目に見えて困難で難関なのが魔力弾だ。

 

 頑張れば数えられる程度に減ってはいても、やりたい放題ばかすか連射してもまだ百を下回ってはいない射撃魔法。懸念は他にもあるが、目下最大の難点はここだ。

 

 魔力弾をどうにかしなければ、彼女に近づく前に蜂の巣よりも穴だらけになる事が目に見えている。人間の残骸とは思えない肉片が辺り一面に散らばることとなるだろう。その光景がありありと眼に浮かぶ。

 

 答えなんて、決まっていた。

 

『はっは……了解だ、任せとけ』

 

 乾いた笑いをこぼしながらではあるが、俺はエリーにはっきりと、肯定の意思を表明した。

 

 危険なことは重々理解している。虎穴に入らずんば云々などと(ことわざ)はあるが、今回は虎の口に自ら頭を突っ込むようなものだ。

 

 いくら、さしものエリーの守護といえど、それを上回る力で来られれば潰される。

 

 黒の彼女はエリーが展開した障壁を、まるで濡れたトイレットペーパーかのように容易く貫いた。しかも素手で――正確には、かの鋭き爪で、であるが。

 

 射砲撃や大規模魔法も驚嘆に値する威力だったが、近接攻撃に関してはまた(おもむき)が違う。射撃はまずスフィアを設置していたし、大槍の時は前準備に多少の時間がかかっていた。どれにしたところで破壊力についてはほとほと目を覆いたくなるものだが、それでも射砲撃は攻撃前に準備があった。

 

 しかし、近接戦闘では予備動作など一切ない。ただ肉薄して腕を振り抜いて爪を突き立てるのみ。たったそれだけで、エリーの魔力で編まれた障壁を突き破るだけの威力を弾き出していた。俺の主力である接近戦をこれまで仕掛けられなかった理由が、あの一合にある。

 

 当たり所が悪ければ一発貰っただけで沈みかねない。当たり所が良くても継戦能力に障る。だからこそ距離を取っていた。

 

 その恐怖心を乗り越えてでも近づこうと思ったのは解決への糸筋が見えたからだ。それがたとえ、今にも切れてしまいそうなほど細くとも。

 

 エリーの直感を試してみることでリニスさんを元に戻せる方法が見つかるかもしれないのなら、火中に身を投じるのも(やぶさ)かでない。

 

『具申しておいてこのようなことを言うのは大変憚るものがあるのですが、どうやって近づく心算(こころづもり)ですか?』

 

『ほんと……お前が言うなって感じだよ。……誘導弾が残っている今のうちが勝負だと思ってる。誘導弾で向こうの魔力弾を消費させて、ついでに彼女の注意も逸らせることができれば上出来だな』

 

『思い通りに事が運んだとして、実際に近づく際にはどういった方法を取るのですか?』

 

『そりゃあお前、あれだよ。障壁張って吶喊(とっかん)だ』

 

『……思い通りに事が運ばなかった場合は、どうするのですか……?』

 

『決まってるだろ。障壁張って吶喊だ。玉砕を覚悟してな』

 

『……主様らしいです』

 

『お褒めの言葉をありがとう。これ以上誘導弾が少なくなる前に突っ込む。エリーも覚悟しといてくれ』

 

『いつだって、主様と共に果てる心構えは出来ております』

 

『不吉なことは口にしないでいい』

 

 エリーと作戦会議を詰めている間に、俺の誘導弾は黒の彼女へ更に接近している。八合目を突破し、目標までの道のりは残り二割を切った。対して勇敢なる我が兵士はさらに三、撃ち墜とされている。五十もあった誘導弾をたかだか数十メートルを進ませる間に四十以上も減らすとは、なんと愚かな術者なことか。

 

 とはいえ、六機が未だ健在だ。相手の魔力弾のターゲットから外れるのは至難であるが、機動制御のリソースを六つに集中させることができるので、ここからはそうそう減らしはしないはずだ。

 

 本格的に本陣に攻め入られてきたことからか、黒色の魔力弾はほぼ誘導弾の始末に向いている。俺に向いている弾幕量は最初の半分近くにまで減少していた。

手を打つならば、ここしかない。

 

「っ……んっ……。突撃用意……」

 

 頭の奥で、ちりっ、と火花が散ったような熱と軽い痛みが走った。

 

 『浮鏡』の連続使用に加え、多数の誘導弾のコントロールにより、俺の自前の脳みそ(デバイス)に熱が溜まり始めた。演算処理の数が桁違いに多過ぎたことが原因だ。エリーと一体化していなければとうにオーバーヒートしているのは確実である。

 

 この山場を乗り越えれば少しは楽になるはずだ、と自分に言い聞かせて床を踏みしめる。

 

 エリーからの魔力供給を全身に通わせ、接近時の速度を出すために特に下半身に集中させる。

 

 爆発寸前まで高めるが、まだ彼女の元まで駆けはしない。絶好のタイミングは、まだだ。

 

『……主様、まだ行かないのですか? 誘導弾が残っている今こそ行くべきだと愚考します』

 

 エリーがそわそわと不安げに進言する。

 

『まだだ。彼女の意表を突いたその時に出る……』

 

 俺はエリーの進言を退ける。

 

 誘導弾は更に距離を詰める。九合目を通過する寸前に逃げ場を失った一機が撃墜。残り、五。

 

『誘導弾を全て墜とされた後では手遅れになってしまいます。時宜(じぎ)にかなった処置を……主様っ』

 

 また一つ誘導弾が破壊されたのを俺の目を通して見ていたエリーが再度、意見を述べる。

 

『焦んなって、エリー。まだ早すぎるんだ。お前だってパートナーが早漏なんて嫌だろ? 待ってなさい』

 

 エリーの申し出を、俺は冗談ではぐらかして回避する。そろそろ会話にすら思考のリソースを回せなくなってきているので、エリーへの対応が雑なのはこの際見逃してもらおう。

 

 ケーブルが断線してスパークを起こしているかのように、頭がじんじんと熱くなっている。マルチタスクを限界まで併用し、弾幕の処理と、残された誘導弾五発の制御を行っているのが要因だが、まだ無理を押さなければならない。

 

『わ、私は……主様がそ……そ、早漏だろうと遅漏だろうと変わらぬ愛を捧げております!』

 

『そうかい……ありがとう。もう少しの……辛抱だ』

 

『ひゃ、はい! …………あ、主様っ、それはどちらの意味のもう少しなのでしょうか?!』

 

 もう少し、もう少しだけ生き延びてくれ、と念じながら、土煙や砂埃、爆煙や瓦礫、密度が高すぎる魔力弾の影などで不明瞭な視界の中、針の穴を通すような緻密な計算で誘導弾を操作する。

 

 九合目の半ばを過ぎて、魔力弾を密集させてぶつけるという驚異の面攻撃に二機が捕まった。残りは左右の壁を這う二機と、天井を舐めるように進む一機。

 

 数を更に減らし、作戦の成否が危うくなってきたその瞬間、ようやく時機が訪れた。

 

『はっ、はは……。良い子にしてよく待っていたな、エリー……』

 

 壁や天井から直角に曲がれば目標に着弾する位置にまで誘導弾が来た時、待機されてあった魔力弾、その全弾が迎撃に充てられた。俺と彼女の間で浮遊して壁の役割を成していたものを含めて、すべてである。

 

 念には念を入れてか、黒の彼女は杖身の中間を右手で持ち、しゅん、と風切り音を立てて一回転させた。回転させて持ち直した頃には、前後左右に頭上までをもカバーできる球状の障壁で身体を覆っていた。

 

 彼女は全方位に対して有効な防御魔法を展開させていて、魔力弾の壁は失われている。

 

『行くぞッ!』

 

『あ、やはりこういう意味で……』

 

『なにか言ったか?』

 

『いえなんでもありませんお供致します!』

 

『お、おう』

 

 待ちに待った、絶好のチャンスが到来した。

 

 膂力(りょりょく)を足に送り、床から返るエネルギーを推進力にコンバートさせる。『襲歩』による、急速接近。炸薬に点火するように両の足で強く踏み込み、床を爆ぜさせた。

 

 視界の端が引き伸ばされる加速感を味わいながら、正面を見据える。

 

 彼女は黒真珠のような球体の防御魔法に包まれたままだ。その周囲を、禍々しく(おびただ)しい量の流星群が通過する。最後の生き残りだった三機の誘導弾は躱す間もなく、その魔力弾の大群にちっぽけな空色の魔力素まで払い飛ばされて、食い尽くされた。

 

 これにより、総勢五十の誘導弾は一つも攻撃目標に辿り着くことなく、空気に溶けて消えた。

 

『全ての魔力弾が取り払われるのを待っていたのですね。さすがのご慧眼です』

 

『いや、ここまで上手くいくとは思ってなかった。それに全弾を迎撃に向かわせるってのは……なんか予想外、というか不可解って、いうか……』

 

(いず)れにしても主様の策略が(はま)ったのですから、凄いことです』

 

『それは、そうなんだけど……まあいいや。彼女への探知ってどれくらい時間がかかりそうなんだ?』

 

『それほど長い時間は取らせません。主様の演算能力を少々お借りすることになりますが……』

 

『そっちは好きに使ってくれ。ただ肉弾戦になるだろうから、身体のコントロール権だけはこっちに置いといてほしい』

 

『承知致しました。では、その手筈で』

 

 切羽詰まった状況なので潤沢な魔力に物を言わせ、魔力で全身の姿勢を整えながら『襲歩』を連続で使用する。数十メートルの空間を一息で踏み潰した。

 

「う、おおぉぉッ!」

 

 勢いを乗せて魔力付与まで纏った右のガントレットの拳部分を、黒真珠に叩きつける。重たく硬い手応えののち、クラックが全体に走る。甲高い音を響かせて黒い球状の防壁は砕け散った。

 

「おっし……ッ?!」

 

 黒の欠片が花びらのように散る中、俺を射抜くような炯眼(けいがん)があった。

 

 黒真珠に包まれていた彼女は一歩分下がって俺の拳撃をやり過ごし、右腕を振り上げていた。俺の頭をかち割ろうと袈裟懸けに振り下ろされる。

 

「んっ、む……」

 

 急いで上半身を反らして回避した。

 

 彼女の障壁に打ち据えたことで、戻すのが遅れた右の手甲に杖が掠める。ちっ、と音がしたところを見れば、僅かではあるにしろ接触した部分が綺麗に抉り取られていた。杖の軌道がもう少し腕に合わさっていれば右手がなくなっていたところである。

 

「…………」

 

 ぞくり、と肝を冷やした。生身の部分に攻撃されたらどうなるだろう、などと考え出したら足が震えそうになるが、肝と一緒に冷えた頭が違和感の影を捉える。

 

 彼女の破壊力の高い打撃は有無を言わさぬ脅威なので可能な限り避け、射撃魔法を展開されない程度の距離を維持し、エリーの解析を待つ予定だった。現在の位置では彼女から近過ぎる。予定に(のっと)るのであれば後退して(しか)るべき状況だ。

 

 しかし俺は、杖を精一杯伸ばせば当たるこの距離に(とど)まった。違和感や不可解な点が散見されるこの距離で足をとめた。

 

『あ、主様! 何を……っ、危険です!』

 

『エリー、魔力の分析に集中してなさい』

 

『しかし、近過ぎます。距離を……』

 

『エリー』

 

『……はい』

 

『良い子』

 

 心配するエリーを宥め、俺は黒の彼女へと神経を尖らせる。

 

 振り下ろした杖を躱された彼女だが、体勢を崩すことはなかった。様子を観察するようにほんの一瞬動きを止め、やはり頭部を狙う形で、今度は横一閃に薙ぎ払う。

 

 それを屈んで躱すと同時に一歩踏み込み、彼女の右腹側部へ左拳を打ち込んだ。

 

 彼女の身体が少しばかり(かし)いだ。あまり苦しんでいるようには見えないが、初めて有効打を与えることができた。

 

 びりびりと俺の全身が粟立つ。殺気や敵意が一際大きくなったように感じられた。

 

 視界の端で彼女の腕が霞んだのを捉え、すぐさま飛び退く。寸前まで俺がいた場所に、杭を刺し込むかのように杖の柄があった。俺が動いていなければ、頭から杖が生えていたことだろう。

 

 拳撃を受けたお腹を痛がる素振りなど微塵も見せず、彼女はもはや役割がメイスと化した杖を構えて俺を見据える。睨めつけるような瞳は凍りつきそうなほど冷たかった。

 

『見ているだけで寿命が縮みそうです……。彼奴から離れてください主様』

 

 自分の役割に集中しなさい、とついさっき言ったばかりだというのに、またもエリーが進言してきた。

 

『エリーに寿命らしい寿命ってあったの?』

 

『ものの例えです。それより、一発で致命的なのですよ? 忘れていませんか』

 

『忘れてないよ。それに怪我してもエリーが治してくれるだろ? 怪我を治せる原理はわからないけど、まあ大丈夫だ』

 

『傷が酷ければそれだけ時間は掛かりますし、治す間もなく死んでしまうとどうすることもできないのです。どうか……どうか、ご自愛ください。もう主様が傷つくところは見たくありません……』

 

『む……んん……』

 

 しんみりとした口調で言われてしまうと、良心の呵責(かしゃく)に苛まれて誤魔化せなくなる。エリーの嘆願は俺に負傷してほしくないがためのものだ。その気持ちを無碍(むげ)に跳ね除けることはできなかった。

 

 居心地の悪さを紛らわせるために乱れた長い髪を撫でつけながら、俺は口を開く。

 

『ああ、わかったよ。でももう、この距離でなら一度として攻撃を受けない自信がある』

 

『主様、それはどういう……っ! 主様!』

 

 エリーとの話の最中、彼女が動いた。杖を上段に構えて、一気に振り下ろす。当たればスイカ割りの要領で辺り一面を真っ赤に染め上げることだろう。

 

『大丈夫だって、エリー。言っただろ……』

 

 だが、いくら威力があったとしても、いくら振るわれる腕が速かったとしても、動きが読めていれば回避に難はない。フェイントすら挟まないのであれば、カウンターを合わせることも容易い。

 

 右前方へ右足を送り、爪先を支点にしてくるりとターン。頭上から下ろされる鉄槌を回避する。

 

 空色の髪がふわりと扇状に広がった。戦っていると時々忘れてしまうが、こういう時に、今の自分の身体は女性のものなのだな、と改めて実感する。

 

 回転した際の遠心力を乗せ、彼女の左外側胸部に打ち据えた。

 

『……もう、当たる気はしないって』

 

 ある程度の衝撃はあったのか、彼女は口を開いて肺から空気を漏れさせていた。化け物そこのけの魔力を有しているさしもの彼女といえど、呼吸器官を圧迫されればそれなりに人間らしい反応を示すようだ。

 

 距離を空けたがっているかのように、彼女は俺の腹のど真ん中に照準を合わせた左足の蹴りを仕掛けてきた。

 

 俺は右足を一歩下げ、重心を右足に移動させて半回転。捻転させた力も上乗せし、左の掌底を彼女の鳩尾に叩き込む。

 

 エリーの魔力の出力を増やしたおかげで、彼女の身体に纏わりつく黒い魔力の上からでもダメージを(とお)すことができている。危険を冒した甲斐は、確かにあった。

 

 彼女は被撃箇所を庇いつつ、たたらを踏むように一歩二歩と後退する。

 

 彼女の瞳の奥に、暗い怨みの炎が灯っているのを視た気がした。

 

『す、すごいです、主様……。ですが……どうやって』

 

『簡単だ。彼女はリニスさんであって、リニスさんじゃない。機械みたいなものだ』

 

 この距離で幾度か打ち合って、確信した。黒色の魔力を纏う彼女はリニスさんの身体であるにもかかわらず、リニスさんの精神が反映されていない。一定の距離にいる敵に対して一定の攻撃しかしないのだ。

 

 放つ一撃は途轍もなく重いし、動きも鋭敏、攻撃方法の選択肢はアトランダムな部分もある。だが、繰り出されるものはいずれも直線的でフェイントなどもない。接近されていては使い辛いと考えているのか、射撃魔法も一切なし。

 

 リニスさんの意識が半分でもあったのなら、こんなことはあり得ない。

 

 今になって思えば、遠距離からの射撃戦でも気になるところはあった。同じ攻撃を続けて行い、それだけでは仕留められないと判断したらすっぱりとやめ、射撃魔法という括りでは同じだが系統がまるっきり異なるタイプの遠距離魔法で攻める。

 

 一つ一つの魔法自体は強力だが、それらの魔法を戦況ごとに巧く噛み合わせることができていない。ばらばらなのだ、連携が取れていない。

 

 動きの一つ一つが洗練されていて、かつ巧妙に次の一手の布石を打ち、気づかぬうちに術中に嵌められている。それがリニスさんの怖いところで、もっとも警戒すべき点だったのだ。

 

 今の彼女からは、単純な力としての圧力はあるが、策を(めぐ)らせ罠を張って追い詰める感じはまるでしない。

 

 力もスピードも脅威の度合いは(はなは)だしいが、厄介さや攻め辛さに欠ける。本音を言ってしまえば、現在の彼女より魔力という数値において格段に見劣りするリニスさんのほうが難敵であった。

 

『彼奴であって、彼奴でない……?』

 

『エリーの予感が当たったみたいだ。リニスさんの身体の中に、リニスさんではない何かがいる……』

 

 後退して生まれた二歩分の距離を詰めようと、じわりじわりと反撃に注意しながら近寄るが、彼女は俺が近づいた分だけ離れていく。

 

 彼女は距離を取りつつ、俺の様子を観察しているようだ。情報を収集しているような、そんな気持ちの悪さがあった。

 

 このまま集中力を持続させて接近戦で翻弄すれば、火力で劣っていても手数で圧倒できる。驕りでもなんでもなく、そんな自信があった。

 

 でも、最後の一歩がどうしても踏み切れない。漠然とした不安感が躊躇となって、足を、身体を止めてしまうのだ。

 

『主様、これは好機ではないのですか? 遠距離からでは膨大な魔力を後ろ盾とした飽和攻撃にどうしてと押されてしまいますが、近距離では主様に分があります。攻めるべきは今では……』

 

『わかってる。わかってはいるんだ……』

 

 今であれば勝算がある、今のうちに取り押されるべきだ、というエリーの言は至極もっともだ。射撃戦はともかく、格闘戦なら上回っているのだから俺だって頭では理解できている。

 

 しかし、戦力の計算だけで動けるほど、人間という生き物は理性的ではないし単純に作られてはいない。

 

 首輪と鎖で繋がれた猛獣が目の前にいるとする。導線に火がついた爆弾が自分の近くを転がっているとする。観察者がその光景を認識しているその瞬間を切り取れば確かに安全だが、それは危険と隣り合わせの安全だ。

 

 爪や牙が届かないところから猛獣の頭蓋を砕けば、怪我をせずに退治できるだろう。火が導線を辿って爆弾の火薬に着火するまでに火を消せば、爆炎も爆風も受けないで処理できる。だからといって、簡単に近づけるかといったらそんなことはない。

 

 挙げた例よりも複雑で、かつ不確定要素が絡んでいる黒の彼女に近づくのはかなりの気構えを要する。

 

 今なら、この距離なら比較的安全。そうわかってはいても、手を伸ばすのを、足を踏み出すのをためらい、攻めあぐねてしまうのだ。

 

 彼女はまだ、戦況を覆すような切り札を残している。ここにきて、確証も根拠もないただの直感が俺の決心に掣肘(せいちゅう)を加える。

 

 殴りかかるわけでもなく、かといって距離をとるわけでもなく、現状維持に努めるという消極的な対処のみに甘んじることとなった。大事な場面においての自分のメンタルの弱さを痛感する。

 

 苦い気持ちを紛らわせるためにエリーに水を向ける。

 

『彼女の動きには不自然さがある。少し様子を見る。それより本来の目的だ。探知は終わったのか?』

 

『……主様がそれを是とするのならば、私はその命に従いましょう。探知分析でしたらもう(しばら)く……今終了しました』

 

『どうだった? なにかわかったか?』

 

『それが……大変理解に苦しむ状態とでも言いましょうか……。一言で表すのならば、人間として、もちろん使い魔という存在としても常識からかけ離れた状態です』

 

『……常識からかけ離れた?』

 

『はい。人間とエネルギー結晶体で一体化している私たちも充分に異常と言えますが、異常さの度合いであれば彼奴も比肩します。彼奴本来の魔力以外の魔力エネルギーが、彼奴へと送り込まれています。しかも、その魔力エネルギーは彼奴の近くや内側からではなく他所から送られてきているものです。前述しました通り、それは……』

 

『主人となる魔導師……つまりプレシアさんから送られている魔力ではない。そういうことだよな』

 

『仰る通りです。漏れ出ている魔力や波長から推測するに、既に一人間が作り出せる魔力量を一足飛びに超えています。しかも彼奴は抑制制御すべき魔力量にあって、送られてくる魔力の出力を減少させるどころか増加させているのです。あれだけの魔力を内包して、未だに人間としての形を保っていることに、私は驚きを禁じ得ません』

 

『なるほどな……粗方の察しはついた。エリー、よくやった』

 

『私は特には……。主様の能力の一部をお借りしたからこそ出来たことなので』

 

『謙遜しなくていい。俺には魔力分布を精査して情報を抜き出すことなんてできない。胸を張っていいぞ』

 

『あ……あ、あり、有り難きお言葉、痛み入りゅます。……痛み入りましゅ……ます』

 

 常識からかけ離れたエネルギー量、プレシアさん(主人)から送力されたものではない外部からの提供、増加の一途の魔力。エリーが解析した情報のおかげで、彼女の力の源、リニスさんの変調の原因に見当がついた。

 

 この推測が正しくても喜べるような気分にはなりはしないが、確認の為に念話を送る。送信先は、別行動中のなのは。

 

『なのは。そっちはどうなってる? 押さえたか?』

 

『ふぇっ……ど、どちらさまですか……?なんでわたしの名前……』

 

 ついさっき別れたばかりだというのに、なぜかなのはの声がとても久し振りに聞いたように感じる。愛らしい声をまた聞くことができて嬉しいが、俺の声を忘れてしまっていることは若干どころではないショックがあった。

 

『なのは……ちょっと離れただけなのに俺の声を忘れたのか。ひどいな。徹だ、逢坂徹』

 

『え……え? 徹お兄ちゃ……えぇっ?! だって声……えぇっ?!』

 

 念話時の発声は、実際には口に出さずに、言うなれば頭の中で会話しているようなもの。声が変化することはないように思うが、なのはの反応からすると念話でも俺の声は女性仕様になっているのかもしれない。

 

 声が変わっていたから俺だと気付かなかったと思っていた方がいくらか幸せだ。はっきりさせないように言及はしないでおこう。

 

 パニック状態のなのはには悪いが、火急の要もあるのだ。話を急がせてもらう。

 

『そっちはどうだ? 魔導炉を押さえることはできたか? 薄情なお姫様』

 

『わ、わたし、はくじょーなんかじゃないもん!』

 

『お姫様は否定しないんだな。それで首尾は』

 

『むむむ……よくわからないけど、この意地悪さはたしかに徹お兄ちゃんだ。無事だったんだね、よかった……ほんとに』

 

『ああ、お陰様でな』

 

『えっと、徹お兄ちゃんと別れたあとは道なりに進んで、魔導炉を見つけたよ。くぐつ兵がいっぱいいたけど突破できた』

 

『……見つけてから、魔導炉をどうした? 壊したのか、それとも機能停止にしたのか?』

 

『それが……暴走状態がひどくて、近寄ることもできないの。遠くから砲撃も撃ってみたんだけど……』

 

『成果は上がらなかった、と』

 

『……ごめんなさい。せっかく徹お兄ちゃんが時間を稼いでくれてるのに……』

 

『いや、いいんだ。予想通りだった。これで魔導炉が壊れていたりとかしたら、一から考え直さないといけないところだった』

 

『予想通りって……わたしじゃ役に立たないって思ってたの……?』

 

『違う違う、それはこっちの話だ。気に病むことないからな』

 

『こっちの話って、わたしだって「こっち側」のはずなのに……。わたし役立たずなんだ……だから徹お兄ちゃんに仲間はずれにされるんだ……』

 

『変なところで卑屈になるなよ。仲間外れになんかしてないって。帰ったらいっぱい褒めてやるから今は気を取り直してくれ』

 

『……うん、わかった。がんばる』

 

『おう、その意気だ。話を纏めると、魔導炉は過度な暴走状態にあって物理的に止めることはできない、ってことでいいんだな?』

 

『うん。……わたしに力が足りないせいで……』

 

『いやいや違う違う。責めてるわけじゃない。それになのはでぶっ壊せないんなら誰にもできないって』

 

『ぶっ壊す……。わたし、そんな暴力的な女の子だと思われてたんだ……』

 

『…………』

 

『……ひっく。ほ、本当に思われてたんだあぁっ……うぅぅ』

 

 俺としたことが言葉に詰まってしまった。なのはのスターライトブレイカーを目の当たりにして、小指の中ほどくらいにはそう感じてしまっていたことが一因だろう。

 

 しかし、どうしたものだろうか。今日のなのはは随分とネガティブだ。

 

俺が言い回しのチョイスをしくじったとはいえ、誤解を解いて丁寧に慰めているゆとりはない。かくなる上は。

 

『暴力的などという曖昧模糊で不確かな表現の定義は日を改め、ディスカッションを重ねて結論づけるとしよう』

 

 早口で小難しい言葉を羅列してまくし立て、意識を別の方向に向けるというあまりに大人げない手法に出た。

 

 大人げはないかもしれないが、こういう小狡いやり口が大人である。

 

『あ、合間妹子? ていぎ、ですかっしょん……?』

 

『ともかく、何が起こるかわからないから魔導炉からは離れて俺の指示を待っててくれ。傀儡兵が出てこないとも限らないから、周りには気をつけてな。身の危険を感じたらすぐに障壁を張ること、いいか?』

 

『え、えと、はい。わかったよ、徹お兄ちゃん』

 

『それじゃあ、またすぐに会おう』

 

『うんっ、すぐに! 絶対に、また……約束だからね!』

 

『あんまり何回も言うと死亡フラグみたいなんだけど……ああ、約束だ。じゃあな』

 

 最後に俺が死亡フラグ云々と言ったせいでなのはが騒いでいたが、それに答える前になのはとの念話を切ってしまった。

 

 最後のほうはいつもの元気ななのはに戻っていたし、まあ別に問題はないだろう、と考えることを放棄する。遠くから、ドゴォンと大きな爆発音と建物が崩れ落ちたような音が鳴り響いた。その爆発となのはとの因果関係はないと信じたい。




駆け足になってはいけないと思うあまりに牛歩になるという悪循環。簡潔に済ませるということの難しさを体感しました。


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あの優しい笑顔を、もう一度見たい

『桃色少女からの情報は主様のお考えの裏打ちとなりましたか?』

 

『桃色少女って……なのはのことか? なんか淫靡(いんび)な響きがあるからその呼び方については即時修正を求める。考えについては固まったよ。やっぱり魔導炉だ』

 

 リニスさんの魔力が常軌を逸するほと増大した原因については、そもそも考えられる理由の数が多くなかった。

 

 リニスさん自身の魔力ではなく、かといってプレシアさんから送り込まれているものでもない。それ以外で()つ、人知を超える魔力となれば候補は絞られる。今なお暴走を続け、刻一刻と悪化している魔導炉。この他にない。

 

 時の庭園に備えられている魔導炉はその分野のスペシャリストであるプレシアさんが製作を手がけた。時の庭園単独での次元間航行を可能にさせているのが魔導炉なのだ。

 

 巨大な建造物を航行させる魔力エネルギーと個人が魔法として使用するエネルギーでは電力でいう直流や交流、電位差や周波数といったように勝手が違うのかもしれないが、そのくらいの難点はリニスさんであればクリアしていてもおかしくない。プレシアさんの使い魔であり時空管理局の索敵プログラムにハッキングしてのけたリニスさんなら、困難ではあっても技術的に不可能ではないだろう。それこそ電力の例えのように、コンバーターやインバーターに類する装置を設ければ、人間が使う魔力に合わせることはできるかもしれない。

 

 莫大なエネルギーを生み出す魔導炉から魔力を引っ張ってきているとすれば、合点がいく。

 

『なるほど……魔導炉から送られているのだとしたら、あの馬鹿げた魔力量も理解できますね。そして出力の低減処置を施しておらず、あのように魔力の暴威に呑み込まれた、と。暴走した魔導炉からの魔力によって自らも暴走状態になった。自分の手で自分の首を絞めるようなものですね。自業自得にして因果応報、もう一つ付け加えて本末転倒です』

 

『いや……たぶん、違う……』

 

『主様?』

 

 ずっと考えていたことがあった。いくらなんでも、容易く戦闘を支配できすぎていると。

 

 リニスさんと俺には隔絶された力の差があったはずだ。リニスさんは魔法の素質がありながら、俺が魔法という技術を知るずっと前から勉学に勤しんで鍛錬に励んでいた。俺のような(にわか)仕込(じこ)みの素人紛(しろうとまが)い相手に攻め切られるわけがない。

 

 たしかに俺みたいな、魔導師と呼び難い相手と戦った経験はあまりなかっただろう。魔法の術式に侵入する能力、展開される魔法はほぼ不可視、捨て身の接近戦。まともな魔導師像とはかけ離れている。リニスさんが苦戦を強いられた状況もないではなかった。

 

 だからといって、地力の差はそう簡単に縮まらない。

 

 リニスさんには俺を退ける方法はあったはずだ、手段を選ばなければ。

 

 非道で残酷な手を打てなかった理由を、既に彼女自身が教えてくれている。

 

 ――人を殺す覚悟なんて……ましてや、あなたを殺す覚悟なんて、できるわけがないですよ――

 

 きっとリニスさんは、敵としてだけではない情を俺に向けてくれていたのだ。だから魔導炉からの魔力を取り入れてオーバーロード状態になることで感情を昂揚(こうよう)昂進(こうしん)させ、そういった感情を覆い隠そうとした。逓増(ていぞう)する魔力に遠からぬうちに自分自身を焼き尽くされるとしても、魔導炉からの魔力を利用した。

 

 俺と泉下を共にするのはリニスさんなりの誠意。主人の為に動いて、かつ俺に最大限の配慮をした結果。

 

「……勝手な真似、してんじゃねえよ……」

 

 戦ったことで仮に俺自身が死ぬことになったとしても、俺は死出の旅に付添人などいらない。俺の性格や人間性を把握しているリニスさんならわかっていることだろう。

 

 わかっている上で、それでもリニスさんが俺と共に冥土へ(おもむ)く決意をしていることに腹が立つ。腹が立って、そこまでの想いを寄せてくれていることが少し嬉しく感じてしまって、嬉しく感じることに反吐が出そうになり、そしてなによりも遣る瀬ない。

 

「リニスさん……っ……」

 

 これ以上罪を背負ってほしくない。死んでほしくない。失いたくない。料理だってまたご馳走してもらいたいし、中身のない馬鹿みたいな掛け合いをしたい。

 

 そして、あの優しい笑顔を、もう一度見たい。

 

 その時俺は、ようやく向かうべき道をみつけられた気がした。

 

 雑多な懸念でざわついていた心が、水を打ったように落ち着きを取り戻す。

 

『原因は判明した。やるべき事も、見つかった。絶対にあの人を取り戻す』

 

『はぁ……主様ならそう仰ると思っていました……ええ、思っていましたとも。私個人としては内心複雑なものがありますが、どこまでも付き従いますよ。私は主様の……相棒ですから』

 

 打撃を受けた時の違和感は解消されたのか、黒の彼女は杖を構え直してこちらを見据えている。

 

 彼我の距離は実に中途半端なものだった。接近戦を仕掛けるには近づく為に必ず一歩は要するし、射砲撃戦には空間がなさすぎる。俺にとっては遠く、彼女にとっては近い。お互いに動き辛い、微妙に絶妙な位置取りだった。

 

 自然と場は停滞する。

 

『それで、主様。真相を究明し、やるべき事を発見し、あの女を取り戻すと気炎を揚げるのはよろしいのですが、具体的な方法論も同時に見つけ出せたのでしょうか』

 

 膠着状態に堪え兼ねたエリーが苦言を呈する。苦言というか、ひたすらに耳が痛いお言葉だった。

 

『……な、なんか言い方きつくないか?』

 

『そんなことは御座いません。情報が増えたといってもこちらに有利に働くものはなかったのに、どうやってあのとち狂った女を正気に戻すおつもりなのかと純粋に気になっただけです。決して……決して、本気の殺意を浴びせて本気で殺しに来ている女に何甘いこと言ってるんだ、主様の唇を不意をついて奪った文字通りの泥棒猫なんぞに何故斟酌(しんしゃく)するんだ、等とは全く一切これっぽっちも考えておりません。主様のお考えが私の指針ですので』

 

 エリーがかなり、おこである。激おこである。

 

 不機嫌になった理由に心当たりがない、などととぼけたことを言うつもりはないが、それにしたって機嫌を損ね過ぎだ。おそらくエリーは、自分よりも敵を大事にしている、などと心得違いをしているのだろう。ここはしっかりと誤解を解いておくべきだ。

 

『エリー、あのな? 俺はエリーを蔑ろにするつもりはまったくなくてだな』

 

『重々承知しております。主様が相棒たる私に素気なく接するようなことはこれからもないと。そう信じておりますが、それでも違う女ばかり気にかけているというのは、どうしようもなく心がざわつきます』

 

『エリー、ちょっと落ち着け』

 

『これはただの……醜い嫉妬です。身の程も弁えずに、主様から一番大事に扱われたいという、私の我が儘なのです。度量の小さい相棒で申し訳ありません』

 

『少しは話を聞きなさい。お前は勘違いしてる』

 

『面倒であれば、私のことは構わなくてもいいです。ただ主様のお役に立たせてもらえるのなら、主様の近くにいられるのなら、それ以上過ぎた望みは持ちません。主様が誰を愛そうと、私の気持ちは常に主様に……』

 

『……エリー。少し黙って俺の話を聞け』

 

『……ひゃぃ…………』

 

『俺はお前になんて言った? 相棒でパートナー。俺たちは家族みたいなものなんだ。なのに俺を見縊(みくび)って、見限って、なに勝手に卑屈モードに入って諦めてるんだ。ふざけんな』

 

『うぅ……』

 

 俺もつい頭に血が上ってしまい、口調が厳しくなってしまった。

 

 エリーの気持ちが何から何まで百パーセント分かるなどとは口が裂けても言えないが、多少は察することはできる。死闘まで演じながら、それでも相手のことばかり気にかけていればエリーの立場からしたら面白くはないだろう。自分よりも戦っている相手のほうが優先順位が上なのではと、自分は大事にされていないのではと、まかり間違った考えに行き着くのはわかる。

 

 わかるが、エリーはあまりにも俺のことを誤解している。そのことが俺には我慢ならない。

 

 リニスさんのことは大事に思っている。どこか親近感を抱いてもいる。だからといって、エリーよりもリニスさんを優先しているわけではない。エリーよりもリニスさんが大事というわけでもない。

 

 そうでなければ和合(アンサンブル)なんていう超常現象は発生していない。親愛と信頼が確固としてあったからこそ、俺とエリーは身も心も一つとなっている。

 

 これほどまでに大切な存在として想っているのにちゃんと理解されていないどころか真逆に受け取られていると、もどかしさから腹も立ってくるというものだ。言葉が足りなかった俺の責任ではあるのだけれど。

 

 熱くなった頭を静めて、エリーに気持ちを伝える。

 

『相棒だって言っただろ、家族なんだって言っただろ。ちゃんと言葉にしなきゃわからないっていうんなら、もう一度はっきりと言ってやる。家族ってのはな、離れちゃいけないんだよ。身体的な距離はもちろん、心の距離だってな』

 

『だって……だって、私なんて……。執心が過ぎますし、独占欲強いですし……。その割にお役に立てることといったら魔力量くらいしかありませんし……。でも魔力が強すぎるせいで主様を乗っ取ってしまいそうになるし、主様のハッキングという類い稀な能力を潰してしまっていますし……。こんなことなら……他の物静かなデバイスなどの方が、主様のお役に立つのではと……』

 

『こんのっ……分からず屋め』

 

『だって、だって……』

 

 どこか排他的な言い回しが目立つエリーだが、俺に対してだけは心を許して素直に振る舞っている。だから俺が(さと)せば卑屈に折れ曲がっている根性もまた元に戻るかと思ったが、案外強情だ。

 

 エリーは調子の良い時は自信満々な言動を見せるのに、沈む時はどこまでも沈んで落ち込む。なぜそんな余計なところまで俺と似るのだ。

 

 ここまできたら仕方がない。さすがに気恥ずかしくて、気障ったらしくて抵抗があったのだが、仕方がない。大事な家族が不安を感じているのであれば、それを払拭するのもまた、家族の務めだ。

 

 姉にすら今抱えているような想いを伝えたことはなく、さすがに頬が熱をもつ。だが、それでも決心した。一時の気恥ずかしさなど捨ててやる。

 

『いいかエリー、よく聞けよ。これは一度限りだ。本当に一度しか言わないからよく聞いとけよ。お、俺は……お前のこと、すごく大事に思ってるんだ。エリー……俺には、他の誰でもないお前が必要だ。だから、他のデバイスがどうとか、そんな悲しいこと……言うな』

 

『あ、主様……私、胸がすごく苦しいです。きゅぅっ、となってこのまま死んでしまうのではないかと思う程、苦しいです。……主様、これ……これって、なんなんですか……?』

 

 か細い声で、弱々しく、不安げにエリーが問いかけてくる。

 

 だが、その問いに俺は答えられない。まずもって答えを持ち合わせていないし、なによりそんな余裕がなかった。

 

『知らん、自分で考えろ。俺は今、顔から火が出るほど恥ずかしいんだ。きっと恥ずか死にする』

 

『ふふ、恥ずかしいのなら言わなければよろしいじゃないですか』

 

『うるさい。元はと言えば、お前がいつまでもリニスさんと自分を比べてへこんでるからいけないんだろうが。リニスさんも大切だけどな、だからといってお前が大切じゃないだとか、お前の方が順位が下だとか、そういうことじゃないんだよ。わかったか、大馬鹿なパートナーさんよ』

 

『はいっ、良く理解できました。主様のお気持ちも、優しさも、懐の深さも、女性に対するだらしなさも』

 

『最後はいらないぞ』

 

『主様の顔がとても熱くなっているのが私にも感じられますし、心臓の鼓動が速くなっているのも。主様も、私と同じようにどきどきしてるのですね』

 

『当たり前だろ。たぶんあんなセリフもう吐く機会はない。次は絶対に死ぬ。恥ずか死ぬ』

 

『主様に死なれては私が困りますし他の女を引っ掛けられても困りますので、そんな機会が今後も到来しないことを私も望みます』

 

『望んだって望まなくたってそんな機会はそうそう来ねぇよ』

 

『そうですか? 主様なら頻繁にありそうで私はとても心配です』

 

『あるかよ。自分でもやだよ、そんな俺』

 

『ふふっ、そうですね』

 

 とても気恥ずかしい思いはしたが、エリーに元気が戻ったのでよしとしよう。

 

 リニスさんを黒い魔力の沼から救い出すにはエリーの助力がなければ到底成し得ないのだ。逆説、エリーが復調した今、問題は残されていない。

 

『閑話を挟んでしまった私が言うのもなんですが、あの女を元に戻す方法は見つけられたのですか? 元に戻す方法が不明のままでは、どう動くべきかの判断も困難ですが……』

 

『そこについては案がある。リニスさんが魔導炉の魔力をリンカーコアに取り込んでいるせいであんなことになっているのだとしたら、魔導炉からの魔力供給を遮断してやればいい』

 

 いくつか越えなくてはいけないハードルはあるにしろ、解決法の概要としてはこの筋書きでいいだろう。

 

 リニスさんの魔力と魔導炉の魔力を分離させる方法として送信元を叩ければ、すなわち魔力を作り出している魔導炉本体を直接破壊することができれば話は早かったのだが、それはなのはからの報告によれば難しいようだ。

 

 暴走状態の加速により魔導炉の外にまで魔力が溢れていると、なのはは言っていた。垂れ流しになっている魔力に阻まれ、なのはの砲撃を用いても魔導炉の強固な装甲を貫くだけの威力が保てないのだ。なのはクラスの瞬間魔力放出量をもってしても破壊できないのであれば、魔導炉本体をどうにかしようとするのは現実的とは言い難い。

 

 本体をどうにかするのが無理なら、魔力に呑み込まれている黒の彼女の方から対処するしかないのだが、こちらはこちらで高いハードルがあった。

 

『魔力供給を遮断、ですか。主様は簡単に仰いますが、しかし相当に厄介では……』

 

『ま、まあ……ちょこっとばかり厄介だな』

 

『……ちょこっと? この難関を、ちょこっと、と仰せになったのですか、我が主様。さすが私の主様は大物でいらっしゃいます。ピンク娘からの報告は、『魔導炉は粉砕出来そうに(あら)ず、加えて接近も困難である』という意図のものであったはずです。それはつまり根源から遮断することはできない、ということに他なりません。であれば彼奴と魔導炉の魔力的繋がりを断ち切ることが必要となりますが、その場合主様のハッキングが不可欠となるのですよ?』

 

『あぁ……いや、うん、そうなんだけど……。ていうかピンク娘ってなのはの事か? 前の呼び方よりひどくなってるんだけど』

 

『呼び方などを気にしている場合ではないです』

 

『あ、はい、すいません……』

 

 復調したはいいが、ここ一番の気の強さまで調子を取り戻してしまった。しかも俺の安全を(おもんぱか)ってのことだから、下手に口答えもできない。

 

 取り繕って言い訳すれば逆効果になりかねないので、とりあえず満足するまで吐き出してもらおう。

 

『主様のハッキングという特異な力を使うためにはまず、彼奴との距離を埋めなければいけません。射撃魔法で針鼠のようにばら撒かれては、近づくことがまず困難です』

 

 黒の彼女へと肉薄するという難度の高さ。その点についてなにも考えていなかったわけではない。

 

 たしかに、スフィアと呼ばれる発射体からの弾丸は気持ち程度ではあるがホーミング機能がついていて回避には神経を使うし、直射型の魔力弾の数は圧倒的だ。この調子でいけば誘導弾の性能はどれほどのものがあるか、想像するだけで吐きそうになる。砲撃魔法だって、威力の高さはもちろん、連射性も見直されていた。

 

 遠距離射撃のバリエーションでは、本業の魔導師相手になんちゃって魔導師が敵うわけがない。エリーに言われるまでもなく接近する大変さは理解している。

 

 ひとたび離れてしまえば再び近づくことは容易ではないが、しかし、今なら多少なりのアドバンテージがある。

 

 一歩、多くても二歩で彼女に手が届く。仮に彼女が離れようとしても食らいつける。この位置的有利は大きい。

 

 この事実を伝えようと、エリーへ念を送る。

 

『今の距離なら、隙を突けばなんとか……』

 

『まだあります』

 

『はい……』

 

 かぶせて遮られた。まさか発言の許可さえ下りないとは。

 

『ハッキングを使える近さまで、つまり彼奴に触れるほどに近づけたとしましょう。難点は、触れている状態を維持しなければならないことです。防御、拘束魔法などであれば主様は瞬く間にプログラムを改竄(かいざん)、破壊することが可能です。ですが、あの女のリンカーコアに根を下ろしている魔導炉の魔力、及び魔力的繋がりを断つのは初めての試みです。しかも人間の、魔導師の心臓とも言うべき繊細な器官に潜るのですから、必然、丁寧にしなければなりません。時間もそれなりにかかることでしょう。非常に緻密な作業となるでしょうから、彼奴の身体を押さえ込むことに意識なんて割けはしません。どうやってハッキングを行える状態をキープするのですか?』

 

 エリーに問い詰められ、内心ぎくっとした。

 

 乗り越えなければいけないハードルとして、ハッキング終了までの時間稼ぎの必要性は俺も考えていた。考えてはいたのだが、そこはこれから算段をつけようと思っていたため、具体的な方案は浮かんでいない。

 

『そこは、えっと……これから計画を詰めようと思ってて』

 

 母親に出来の悪かったテストを見つけられた子どものように、しどろもどろになりながら説明する。

 

『まだあります』

 

『まだあるのか……』

 

 やはり俺の言い分をすべて聞き終わる前に、エリーが続ける。

 

 いつのまにか、俺の計画からエリーが一つ一つ詰めが甘い箇所を指摘していく流れになっていた。

 

 いっそのこと一息に列挙してくれと思わないでもないが、本当に一気に全部並べられたら心が折れそうだ。黙ってこのまま待機しておこう。

 

『私程度が言うまでもなく、主様なら認識されているであろう難点……いえ、覆しようのない不可能な点です。この障害だけは絶対に解決出来ません。主様、ハッキングを使うということは……』

 

『ハッキングを使うということは、和合(アンサンブル)を解くということ。それは俺もわかってるんだ』

 

 仮に、黒の彼女の身体に触れるくらい近づくことができたとして、仮にその距離を保持できる妙案を閃いたとする。だが、いざハッキングをするぞ、という態勢に入るとき、俺はエリーとの一体化現象、和合(アンサンブル)を解除しなければいけない。強大なんて言葉で片付けられない力を持っている彼女を目の前にして、俺は元の身体に戻らなければいけないのだ。

 

 和合中はエリーの魔力が俺のリンカーコアに流れ込んでいる。俺の魔力が透明ではなくなることが原因から知らないが、結果として隠密性、浸透性が失われ、ハッキングは使用できなくなる。

 

 つまり、彼女にハッキングを行使しようと思ったら、どうしたって和合を解かなければならないのだ。和合を解けば、もちろんエリーの魔力という加護は享受(きょうじゅ)できなくなる。バリアジャケットも、俺が着ていた元のぼろ雑巾に戻るだろう。

 

 エリーの魔力の恩恵を受けられなくなることによる能力の低下は甚大だ。カマキリの前肢から鎌の部分を取り上げるようなもの、ヤドカリから殻を奪うようなもの、ウサギから仲間を引き離すようなものである。武器を取り上げられて貧弱に逆戻りとなり、盾を奪われ紙装甲と化し、ついでにエリーと引き離されて寂しくなる。精神的なダメージまであるのだ。

 

『わかっている? 本当に理解していらっしゃいますか? 和合を解けば、魔法を受けずとも、攻撃を受けずとも、それこそ単に払いのけようとする行為だけで……』

 

『……死ぬ恐れがあるな。いくら魔力付与で体表面を覆っても俺単体の魔力じゃ底が見えている。暴れられでもすれば致命傷になるだろうな』

 

『リスクが大き過ぎます、主様。違う策を検討すべきかと』

 

『……それはできない』

 

『何故ですか、主様っ!』

 

『他に……思いつかないんだ。ハッキングを使わずに魔導炉からの魔力を断つなんて』

 

『っ……いっそのこと、主様が直接魔導炉へと向かわれてみては……』

 

『魔導炉に着くまで誰が彼女の相手をするんだ。彼女は必ず追ってくる。無防備に背中を晒して魔導炉まで行けるとは思えない。仮に魔導炉まで行けたとして、あそこにはなのはとユーノがいる。彼女の杖が二人に向けられたらそれこそ最悪だ。防御魔法に長けている二人といえど、彼女の攻撃は防げない。そもそもなのはの砲撃でも魔導炉に傷さえつけられなかったんだ。いかに俺たちでも時間がかかるかもしれない。魔導炉周辺に立ち込める魔力粒子への対処法も構築しなければいけないし、今の彼女が魔力源の魔導炉に近づけばイレギュラーが発生する可能性もある。突発的な事象に対しての想定もしておかないといけない。どっちにしたって問題は山積している』

 

『し、しかし……』

 

『俺が向こうに移動すれば彼女もついて来るのは明白だ。余計な負傷者を出すことは避けないといけない』

 

『……最初から桃色少女と小動物がこちらに残り、主様が魔導炉へと急行していればこのようなことには……』

 

『後になってそんなことを論じてもしょうがない。逆に俺だったら魔導炉まで辿り着けてなかったかもしれないんだからこれでいいんだ』

 

『…………っ』

 

『理屈の上では可能で、成功する確率がゼロじゃない。リニスさんを助け出そうとするなら、これしかない。可能性があるだけで儲けものだ。ハッキングで切り離す。俺のことが心配だっていうんなら全力でサポートしてくれよ、エリー』

 

『…………わかり、ました』

 

 不承不承といった風ではあるが、エリーは最終的には了解してくれた。

 

 無理を通した感はあるが、俺にだって他に打つ手はないのだ。死傷するリスクを増やさずにリニスさんを元に戻すには、これしか思い浮かばない。

 

『よし、じゃあ取り掛かるぞ』

 

『私も最大限に警戒はしますが、主様も怪我をなさらないよう注意してください。……本当なら今すぐにでも取り止めて頂きたいですが』

 

『わかってるよ、エリー。俺だって進んで痛い思いなんてしたくないんだからな』

 

 紛糾したものの、俺とエリーの二人ぼっちの作戦会議は終了。

 

 方策は組み上がった。道筋がはっきりすれば、どう動けばいいかも見えてくる。

 

「さて……まずは近づくとしますか」



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歓喜と狂気に満ちた真紅の眼光

 ハッキングのためには彼女に近づいて抵抗されないよう組み伏せなければいけないが、この時点で和合(アンサンブル)を解除しては出端から計画が頓挫する。なので組み伏すところまでは和合を維持し、押さえ込んでハッキングが可能となってから解除することとした。

 

『あまり変わった様子はありませんね。彼奴が何を考えているか読めません』

 

『魔力の流れは?』

 

『そちらも先ほどより変化なしです。膨大な量の魔力が彼奴の身体に流れ込んでいるだけです。変わりありません』

 

『その状態で変わりないってのが空恐ろしいな……。でも特に変化がないのなら、近接戦に弱いのも変わりなしだろう。攻めるぞ』

 

『はい、いつでもどうぞ』

 

 数メートル先に立つ彼女を注視する。俺が攻めるため、前傾姿勢にかすかに身じろぎしたのを見て、黒の彼女は構えを取った。

 

 リニスさんだった時と同様、杖は右手に持つ。杖の下部ぎりぎりを握り、右腕は身体の後ろにまで引き絞る。左手は開いて前方に突き出した。

 

 構えからして、俺の接近に合わせて杖による迎撃の打突を見舞う算段だろう。カウンター狙い、待ちの姿勢だ。

 

 隙がない綺麗なフォーム。その中に飛び込むのはかなり勇気がいるが、これしきで怯えてはいられないのだ。なんせ、計画の最終段階では和合を解いて彼女に触れなければいけないのだから。

 

「……ふっ」

 

 俺は短く息を吐き、踏み込んだ。

 

 得物は引き下げられている右腕にある。あの構えなら突き以外にない。

 

 突きは振り下ろすものより身体に到達する速度は速いが、軌道は一直線な上に有効範囲は狭い。しかも腕を伸ばして繰り出すため、回避できれば相手は自然と重心が前に傾き、身体は伸びる。

 

 さっそくチャンスが訪れた。俺はそう思った。

 

「なっ……!?」

 

 浮かれて油断した心の隙を狙い澄ますかのように、彼女の左手の杖(・・・・)が俺の顔面に突きつけられる。まるで手品のように、右手にあった杖が左手に移動していた。

 

 それは一瞬だった。俺が踏み込んで攻撃範囲に入る、その一瞬早く、彼女は右手に握る杖を手首のスナップだけで前に突き出されている左手へと投げて持ち替えたのだ。

 

「くそっ……」

 

 ほんの一~二歩分くらいしか空いていない距離。それだけの空間があれば俺がそうしたように、少なくとも一歩は踏み込むことができる。

 

 しかし、杖を振るうには適さないと、そう考えていた。だから右腕を奥に引いて突きの態勢で俺の攻撃を待つことにしたのだろうと、そう考えていた。

 

 そんな見込みも甘かった。

 

 彼女は肘を曲げて、半歩程度踏み込み、狭い空間から可能な限りの加速を生み出した。

 

 大振りな一打ではない。命中させることを念頭に置いている。コンパクトに纏められた、シャープな一突き。

 

『もう、近接戦もアジャストすんのか、対応早すぎるだろ……』

 

『これは主様が彼奴の格闘技術を軽んじていた結果かと』

 

『正論で返さないでくれ……っ』

 

 踏み込んだ足の膝を曲げ、上半身を後方に逸らすことで回避する。

 

 だが、まだ終わらなかった。俺が姿勢を下げたのを認めるや否や、彼女は左腕を再度閃かせる。西洋の剣術フェンシングのように、片手で素早く杖を繰る。

 

 相変わらず頭部をしつこく狙う打突を躱すため姿勢を傾け続け、最初の一撃から数えて四発目に、とうとうバランスを崩して転倒。尻餅をついた。

 

 無防備になる瞬間を待っていたかのように、大きく足を踏み出し、引き絞られた右腕から掌底を放つ。

 

『エリー!』

 

『心得ております』

 

 俺は顔の前に両手を重ね、エリーは障壁を展開する。

 

 黒の彼女の掌底はエリーが張った障壁を砕き、俺の手のひらに打ち込まれた。

 

 障壁のおかげで勢いは減衰されたはずだが、それでもかなりの重さがある。衝撃で押し戻された手甲が口元にぶつかり、唇を切った。

 

 とはいえ、負った傷はそれくらいのもので、大した怪我はせずにすんだ。このまま手を掴んで引き摺り倒そうとするが、彼女はそれを許さない。

 

 身体を捻り、右腕を押し出す。当然右手に接している俺はその斥力(せきりょく)を余すところなく受け、弾き飛ばされた。

 

『砲撃、来ます』

 

『ああ、もう……。エリー、障壁頼んだ』

 

『承りました』

 

 もののついでとばかりに、彼女は杖を輝かせて追い討ちを走らせた。

 

 エリーは半球状の障壁を展開。魔力を注ぎ足して強化、維持する。俺はというと、やられっぱなしは癪だし長々と砲撃を撃たれ続けるのは分が悪いので、妨害のために誘導弾を射出した。

 

 作り出した誘導弾、合計四発のうち二発は防衛展開された魔力弾に墜とされたが、一発は障壁に遮られ、残り一発が弾幕を()(くぐ)って彼女の脇腹に突き刺さった。

 

 思えばこの一発が、彼女に直撃した初めての射撃魔法である。先の五十発も加えて五十四発中一発しか当たらないとか、どれだけシュートリザルト悪いんだ。

 

 ともあれ、彼女の砲撃照射は停止した。エリーが張ってくれた障壁は焼け焦げて耐久限界に達していたが、なんとか持ち堪えていた。俺が放射を浴びなかったのも障壁が頑張ってくれていたが故である。

 

 俺は大した傷を負わずに済んだが、困ったことがまた一つ増えてしまった。掌底で弾き飛ばされたことと空中で砲撃を放たれたせいもあって、彼女からかなり離れてしまったのだ。目測にして、二十メートル以上。いやはや、困った。

 

『さて、主様。当初あった位置的アドバンテージもこうして消えて無くなってしまったわけですが、どうなさいますか?』

 

『…………』

 

 たった一つ有利であった距離まで失えば、返す言葉もないというものだ。

 

 エリーの一言一言はとても鋭く辛辣で、俺の心を抉っていく。

 

『相手の実力を見誤った結果がこれです』

 

『エリー……わかってるから。俺だってわかってるから』

 

軽挙妄動(けいきょもうどう)はお慎みになり、深慮遠謀(しんりょえんぼう)を徹底して頂きたいです。このままでは遠からず、深い手傷を負われます』

 

『ちょ、ちょっと……言い過ぎだと思うんだ……。俺だってさ、俺だって、わざとこんなことしたんじゃないんだぞ?』

 

『一秒に満たない時間であっても油断すれば、故意であろうと過失であろうと傷を負うのです。今回は幸運にも命に関わるものではありませんでしたが、致命傷と成り得ることもあるのです。不注意や慢心が理由では、主様も死に切れないでしょう。いやそんなこと私がさせませんが私が守りますが。……こほん。とりあえず、私も精一杯お役に立てるよう努めますが、主様に注意して頂かなくてはどうしようもないのです』

 

『…………』

 

『ご理解いただけましたか?』

 

『はい…………』

 

 こんな真正面からお説教されたのは、かなり久し振りだ。相棒という立場に加え、親愛の情が先に立っているからとはいえ、非常に手厳しいお言葉の数々だった。

 

 自他共に認める豆腐メンタルでは、許容範囲を超えそうだ。足が震える。彼女からの攻撃ではなく、エリーからの口撃が足にきている。正直、今ちょっと泣きそうである。

 

 そんな俺を見兼ねてか、エリーが念話を発した。

 

『礼を失した発言の数々、申し訳ありません。ですがこれも、主様に傷ついて欲しくないからなのです。ですから、そのような表情はやめてください』

 

『エリー……っ』

 

『興奮してしまいます』

 

『お前ってやつは』

 

 エリーの慰め、かどうかは議論の余地を残す言葉を受けて、折れかけた心は芯を取り戻した。

 

 最後のセリフは全てを台なしにしていたが、エリーの言うことは基本的に筋は通っている。不注意、慢心、油断、軽視。それらのせいでアドバンテージも失ったのだ。より一層の警戒を心に刻む。

 

 へこみそうになった気を取り直し、彼女を見遣る。

 

 彼女は左手に持っていた杖を回転させながら上に投げ、右手でキャッチした。

 

 なんてことはない一幕。だが、なぜかその光景は俺の目に焼きついた。

 

 さっきのシーンが他のシーンを想起させる。疑問やかすかな違和感を感じた場面を抜粋していく。

 

『エリー……彼女の魔力の流れは、本当に変わっていないか?』

 

『はい。先ほど報告した通り、変化はございません』

 

『なあ、その魔力の流れって内側を指しているのか? それとも外側か?』

 

『内外で言えば外です。解析した彼奴と魔導炉の魔力波長からどれほどの量の魔力が彼奴に流れ込んでいるかを、私の魔力を散らし、魔力がどれだけ押し退けられたかを元にして簡素ではありますが算出しております』

 

『ってことは、内側は……』

 

『調べる術が皆無です。体内の魔力の流れを調べようと思えば専用の機材を用意するか、それこそ主様のハッキングくらいしか方法がないかと。それがどうか致しましたか?』

 

『……エリー、魔力が人間の記憶に干渉することってあると思うか?』

 

『今ひとつ質問の意図を汲み取れませんが……絶対にない、と断言はできないかと。魔力が通る管は血管よりも細く多く張り巡らされていると言われております。手や足はもちろん臓器にも、果ては脳内にも、です。この魔力の管が記憶の蓄積をしている側頭葉、記憶や学習に関して重要な働きを担う海馬、長期間忘れずに保存している大脳新皮質にまで伸びているとすれば、魔力によってなんらかの影響を与えるやもしれません。側頭葉に電気的刺激を与えると昔の記憶を体感しているかのようにまざまざと思い出した、という実験結果もあります。魔力と記憶が関係する、などと言いますとどこか因果関係は薄そうに思われますが、実際のデータから擦り合わせて推測しますと(あなが)ち奇抜に過ぎるとも言えないでしょう』

 

『そ、そうか、ありがとう。……やけに詳しいな』

 

『魔力については私の中の、人体については主様の記憶を引用しました。主様は博学ですね』

 

『いや、俺はその辺りは大分うろ覚えだったんだけど』

 

『主様の意思で上手く引っ張り出せないというだけで、脳にはしっかりと蓄積されています。私がした事といえば、引き出しの中に雑多に詰め込まれた情報を選び取ったに過ぎません』

 

『そうか……』

 

 魔力が記憶に干渉する可能性は、必ずしもゼロではない。

 

 これはあくまでエリーの推論でしかないが、事実を下敷きとして丁寧に推し測っている。推定の情報も突飛なものではなかったし、ある程度信頼に値する仮説ではあるだろう。

 

 この仮説が正しいとすれば、彼女の変化(・・)についても説明がいく。厄介の度合いが一段階引き上げられることになるけれど。

 

『そろそろ質問の意味を答えて頂きたいのですが……。一体何の関係があってこのような話を今するのですか?』

 

『もしかしたら……リニスさんの知識や戦術が今の彼女に組み込まれたかもしれない』

 

 近接戦闘においては杖で払うとか振り下ろすなどという単調な攻撃方法に終始していた黒の彼女が、(とみ)に動きを洗練させた背景にはなにかがあると、俺は見ていた。

 

 俺が動いた瞬間を見計らうように杖を持つ手をスイッチ。浮き足立ったところで更に追撃、出の早い攻撃で体勢を崩させ、威力の高い一撃を見舞う。思考を誘導し、行動を予測させて思い込ませ、自分のテリトリーに誘い込み、刺す。この一連の流れは、どうしようもなくリニスさんの手法を彷彿とさせた。

 

『な、なぜ事態がここまで進んでから……』

 

『そこはわからない。魔導炉の魔力を取り込んでいる時間が長くなっているから魔力の侵食が進んでしまったのか、それとも近接戦闘で形勢が悪かったから戦術に関する知識をリニスさんの身体の中で求めたのか……。とにかく、これまではまるで傀儡兵のような単調さが目立っていたのに、急に臨機応変な動きをするようになった。魔導炉の魔力が関係しているという根拠はまだないんだけど』

 

『……恐らく、主様の懸念は正しいかと』

 

『確信はないんだぞ? どうしてそう言える』

 

『主様と繋がっている私が……主様の記憶から情報を引用できたからです。同様に、魔力という線で繋がっている『奴』が、『泥棒猫』の脳に侵入して知識や技術、知恵や戦術を抜き出せない道理はないでしょう』

 

『なるほど……そういうことか。こうなると戦いが長引けば長引くだけ不利になるな。リニスさんの巧みな戦運びに魔導炉の膨大な魔力が噛み合えば、本格的に手出しができなくなる。完全にリニスさんの知識を占有される前に、魔導炉からの魔力を切り離さないといけない』

 

『…………』

 

『あと……へこむなよ、エリー。お前と黒の魔力は違う。お前の使い方は共有で、向こうは悪用だ。性質も方向性も全く違うんだからな』

 

『はい……ありがとうございます。主様のお心遣いは優しくて温かくて……私、大好きです』

 

『ば……馬鹿なこと言ってんな。難易度がさらに上がったんだぞ。ハードからベリーハード……いや、ベリーハードからインフェルノくらいに上がってる』

 

『それかルナティックですね』

 

『それだけ調子が良いんならもう大丈夫だな。そろそろ行くぞ』

 

 舌舐めずりしながら、黒の彼女はこちらの挙動をつぶさに見つめている。

 

 推定二十メートル以上。この距離をいかにして潰すか。難題はまだ残っている。

 

『彼奴の方から近づいてくることは……ないですよね』

 

『そりゃあ、ないだろうな。俺に接近戦で打たれまくった記憶もちらついてるだろうし』

 

 黒の彼女がいくらリニスさんの戦術を参照しているとしても、それだけで絶対的有利を手に入れることはできない。

 

 一つの策が通じたからといって次も同じ策を講じて、それが功を奏する可能性は低い。同じトリックに何回も引っかかる間抜けはそういない。重要なのは仕掛ける罠の質ではなく、罠をいつ仕掛けるかなのだ。

 

 相手の考えを誘導する動作と、わざとらしくないタイミングで張られるトラップ。経験に裏打ちされたセンスと、淀みなく連動させる手際の良さ。すべてが揃ってこそ、打ち合いの最中に、相手を陥穽(かんせい)に陥れることができる。

 

 ただどうすればできるかだけを、マニュアルを見ながら実践しているような状態の黒の彼女では、近接戦闘に不安が残る。俺を一度近接戦で追い返すことができたが、彼女から接近してこないだろうことは簡単に想像できた。

 

『となれば彼奴の取る行動は……』

 

『エリーの予想通りだと思うぞ』

 

 黒の彼女は杖をこちらに向ける。底冷えしそうな暗い光が、彼女の足元で輝いた。

 

 空間が丸く切り取られたかのように、黒い球状の魔力弾が彼女の周囲に浮かび上がる。

 

『遠距離射撃で封殺する気だろうな。そら来た』

 

 一定の大きさになったものから順次、射出された。前もって大量に待機させていない分、弾幕としてはまだ薄い。

 

 弾道を見極め、直撃コースの魔力弾だけを両手の手甲で殴り飛ばす。

 

 一つ一つが強力で、かつ弾速も早く、量まで多い彼女の魔力弾だが、俺の拳を覆う青みがかった銀色の手甲はそれらに押し負ける気配すら見せずに弾く。さすがはエリーお手製のバリアジャケット。安心感と安定性が違う。

 

『主様、障壁を使わないのですか? 弾幕対策の『浮鏡』、でしたか? そちらの方が楽に対処できるのでは』

 

 わざわざ拳で打ち壊すという非効率的な行動を疑問に思ったのだろう。

 

 俺としても地味に神経を使う行為は即刻やめたいところだが、ちりっと小さく火花が散るように、脳裏に不安が(よぎ)るのだ。

 

『たしかにこのくらいの数なら『浮鏡』で余裕を持って潰せるとは思うけど、リニスさんの戦術を部分的にでも獲得したのなら、楽観視はできない。保険ってとこだな』

 

『保険……?』

 

 エリーの様子では、まだいまいち理解しきれていないようだ。それでもじきに気付くだろうから、これ以上の説明は不要だ。百聞は一見に如かず、とも言う。実際に体験したほうが早い。

 

『ああ、保険だ。早速使う機会が訪れた』

 

 押し寄せる魔力弾を拳で弾き続けていると、一発の弾丸が目に留まった。俺の身体からは逸れる軌道。それでもその一発に注意を払う。

 

 そのまま突き進めば俺の背後に流れる一弾は、急遽途中でかくんと折れて軌道を変える。注意していたこともあり、慌てることなく打ち払う。

 

 俺がわざわざ面倒な対処法を選んでいる理由がこれだ。

 

『魔力弾の中に誘導弾を混ぜていた、ということですか……。主様は、彼奴がこういう手を打ってくるだろうとわかっていたのですね』

 

『リニスさんなら単一の弾種だけで攻めるなんてしないだろうと思って、一応警戒しておいただけだ』

 

 今度は右に飛び退く。さっきまで俺がいた空間に黒色の砲撃が突き刺さった。おそらく誘導弾で冷静さを取り除いたところに砲撃を入れる、という流れを狙っていたのだろう。

 

 段階を一つ引き上げたエリーの魔力出力でも砲撃を完全に防ぎきることはできない。なにも考えずに障壁で楽をしていたら、もしかしたら足を(すく)われていたかもしれない。

 

 なのはやフェイトのように、直感や反応速度が鋭敏であれば急に射撃魔法の種類を変更されても対応できるのかもしれないが、俺はどこまでいっても理詰めで動く人間だ。悪寒にも似た寒気から及ぼされる勘に従う例外もあるとはいえ、根本的には事前にいくつもパターンを予測しておかないと即応できない。

 

 考えていた流れ通りに事を運べなかった黒の彼女は魔力弾をメインに据えた弾幕から、誘導弾や砲撃も数多く取り入れた乱撃へと変移させる。外角から抉りこむように狙う誘導弾の軌道からは苛立ちのようなものも垣間見えた。

 

『打ち落とすだけじゃ間に合わなくなってきた……。機動力で撹乱しながら突っ込む』

 

『了解しました』

 

 種々様々な射撃魔法が密集した空間から、高速移動術『襲歩』で離脱する。

 

 一時的に魔弾の雨を凌げたが、一時の休息も(まま)ならないまま照準器代わりの杖が俺を行く先を追ってきた。

 

『主様。単純なスピードだけでは、この量を振り切ることはできないかと……』

 

『向こうのレスポンスは良好だからな。わかってるよ。でも……俺が持ってるのは単純なスピードだけじゃないんだ』

 

 どっしり構えて固定砲台と化すかと思いきや、彼女は俺の動きに存外センシティブな反応を見せた。

 

 あれだけの反応速度なら、きっと次からは『襲歩』といえど簡単には振り切れない。俺が構えを取っただけで行く方向を読んで魔力弾をばら撒くだろう。

 

 ならば、その反応速度を利用させてもらう。左側へ足を踏み出した。

 

 俺は再度眼前に接近する射撃魔法の群れを一瞥し、左から回り込む形になるようにさっきと同じく『襲歩』の構えを取る。彼女は一度見た『襲歩』の移動速度、距離を考慮に入れて即座に魔力弾と誘導弾を射出した。

 

 素晴らしい迎撃だ。一見しただけで高速移動術のスペックを把握して反撃に取り入れている。そのまま突き進んでしまったら、躱しきれずに防御に徹することになる。

 

 魔力はもちろん、各種魔法の適性、相手の魔法を見定める観察眼もある。だが、策の読み合い腹の探り合いだけはもう少しお勉強が必要なようだ。

 

「相手が何を考えているかを読むことも、戦術。予想に反した動きを取るのは王道も王道だからな。これでも俺は、相手の裏をかくのが得意なんだ」

 

 踏み出した左足に重心を移して軸足とし、身体の向きを変えて切り返す。バスケットボールで言うところのジャブステップと要領は似通っている。

 

 殺到していた射撃魔法の大半はあらぬ方向へと飛んでいく。ぱらぱらと飛来する魔力弾数発だけを打ち壊し、さらに彼女との距離を詰める。

 

『これでも、って主様はどの口が仰るのですか。常に人の想像を超えていますよ。斜め上だったり、斜め下だったりと』

 

『斜め下って……想像したものより悪かったってことかよ……』

 

『主に魔法の適性などですね』

 

『俺もうすうすわかっていたのに、あえて傷口を広げにかかったな……。そんな注釈いらねえよ』

 

 直線で結べば、彼女まで十五メートルを切った。一気に懐まで飛び込んでしまいたい気持ちを抑え、丁寧に詰めていく。

 

「…………ッ」

 

 施した策の(ことごと)くが不発に終わったことでフラストレーションが募っているようだ。身体に纏わりついている黒い魔力が一拍、どくんと脈動した。固く噤んできた彼女の表情にもごく僅かながら変化が生じる。

 

 これで調子を崩してくれれば重畳だったが、そこまで甘くはなかった。地味で地道な行程が俺を待っていた。

 

 『襲歩』による高速接近をブラフに掲げて大多数の射撃魔法をやり過ごし、時々飛んでくる魔力弾に関しては少数であれば拳で、数が増えれば障壁を展開して凌ぐ。これらを繰り返し、ようやく残り七〜八メートル程まで接近を果たした。

 

『相手を手玉に取れている間だけは、主様は本当に楽しそうな顔をしていらっしゃいますね。性格が歪んでいらっしゃることに、愛するパートナーながら少々複雑な思いです』

 

『嫌な言い方するんじゃない。それに性格の悪さなら、エリーだって引けは取ってないぞ』

 

『あら、お揃いですね』

 

『嬉しくないな……』

 

 目の動きや身体の向き、足運びや重心の掛け方で予測を(あざむ)き、『襲歩』で接近した。何回もそのフェイントに騙されて引っ掛けられたことで、何を警戒すればいいか判断がつかなくなり、彼女は『襲歩』をみすみす見逃した。

 

 俺は視線誘導で目を横に向けた彼女の死角に潜り込む。

 

 手に魔力を込めて、言う。

 

「やっとここまで戻ってこれた。これで終わりにしよう」

 

 彼女の左腕を掴み、足をかけて引き倒す。起き上がられる前に馬乗りになった。

 

「……ッ。…………ッ!」

 

「たぶん、ちょっとくらいは痛かったり気持ち悪かったりすると思うけど、我慢してくれよ」

 

 彼女に触れられるくらい近づくという第一目標はクリア。抵抗されないようにするという第二目標の成否は、エリーの頑張りにかかっている。

 

 魔力に物を言わせて強度を増した拘束魔法を可能な限り、出せるだけ出した。後は和合(アンサンブル)を解き、俺のハッキングが完了するまでエリーが拘束魔法に魔力を供給し続けてくれれば、第三目標も完遂される。

 

 ハッキングの準備のため、彼女の胸の真ん中に手を置く。その身体は、熱かった。

 

 心臓は血管が破裂してしまいそうなほどばくばくと強く律動している。黒色の魔力の衣が包まれている全身は、見るのも辛い有様だ。火傷のようになっていたり、切り付けられたような傷もある。傷口からこぼれ出す血液が、本来は赤黒いだけだった魔力に黒みを与えていた。着ていた服も大部分が焼けたかのように灰になっており、目を向けることすら(はばか)られるほどあられもない姿だ。

 

 彼女の瞳は爛々(らんらん)と血走って、瞳孔は猫のそれを思わせる縦長になっている。口からは人間の肉など容易く喰い千切れそうな鋭い牙が、唾液に濡れてぬらぬらと光を放っていた。伸びた髪を乱れさせ、組み敷かれた状態でも、俺の首筋に牙を突き立てんと頭を近づける。

 

 以前のリニスさんの面影など、もはや微塵も感じることができない。外見もそうだが、中身はもっと変質してしまっている。たとえ魔導炉からの魔力をシャットアウトしても、リニスさんはリニスさんのままで帰ってこれるのだろうか。

 

 不安が一塊の波となって押し寄せるが、どちらにしても動き出さなければ状況は好転しない。目を閉じて集中し、勇気を奮い立たせる。やらなければ、変わりはしないのだ。

 

 最後にエリーに声をかけ、和合を解除してハッキングに取り掛かろうとした、その時だった。乾いた音が聞こえた。仰向けで床に寝転がらされ、拘束魔法の鎖で手足を縛られた上にマウントされている彼女から聞こえた音だった。

 

「……く、はは……。……かはは。……に合っ……」

 

 あれほど暴れていたのに、今では身じろぎ一つせずにいた。振り乱したせいで顔にかかった髪が目を隠す。よく見れば口元が微かに動いていた。

 

 何を考えているかまったくわからないが、それでも一つわかることがある。

 

 彼女は、(わら)っていた。掠れた声で何かを呟いて、嗤っていた。

 

「なんだ、なんて言ったんだ……?」

 

「……くふ、かははは……。……に……た。……に合ったっ……ッ!」

 

『主様っ! 離れてくださいっ!』

 

 和合(アンサンブル)を解除する寸前、エリーが切羽詰まった声音をあげた。

 

 エリーの勢いに押されて黒の彼女から手を離し、俺は前傾だった上半身を起き上がらせる。そのまま離れようとしたが、俺ができたのはそこまでだった。

 

 彼女が頭を動かす。顔に掛かっていた髪が横に流れ、双眸が見えた。

 

 光を放っていた。比喩やイメージなどでは決してなく、実際に彼女の瞳は光芒を連れていた。どこまでも紅く、どこまでも黒い、血よりもおどろおどろしい色彩。歓喜と狂気に満ちた瞳が、俺を射抜いた。

 

「……に合った、間に合ったッ!」

 

 雄叫びが耳朶(じだ)に触れると同時に、俺は漆黒の壁に正面から叩きつけられた。身体の前面に痛みを感じたかと思えば、いつの間にか吹き飛ばされていた。

 

 ホールの中央付近までノーバウンドで弾き飛ばされ、何度か床を削ったが勢いは緩まず、手で床を引っ掻くようにしてブレーキをかけ、ようやく俺の身体は停止した。

 

「おい、なんだあれは! どうなってる!?」

 

『落ち着いてください、主様。冷静にならなければ、分かるものも分かりません。クールダウン、そこからです』

 

『くそ……! はぁっ……すまん、取り乱した』

 

あれ(・・)では仕方ありません。何が何だが分からないのも……』

 

 俺が飛ばされた方角を見やる。

 

 部分的に光が閉ざされているような、真っ黒の空間。漆黒のカーテンの奥にあるはずの壁も見えず、内側にいるはずの彼女の姿も見えない。ただ、そんな空間にあって、吹き飛ばされる間際に見た深紅の眼光だけは俺にまで届いていた。

 

 目の前の光景を見て、ようやくわかった。俺がぶつかったのは壁ではない。壁と見紛うほど圧縮された高密度の魔力の波。それをぶつけられたのだ。

 

 だが、判明したのはそこまで。何によって吹き飛ばされたのかはわかっても、彼女が再び変異した要因についてはまるでわからなかった。

 

 狼狽(ろうばい)する気持ちを必死に抑え、状況の把握に努める。エリーの言う通り、頭の中は冷静にしておかなければまともな考えは生まれない。

 

 原因も詳細も不明な状況を呑み込みきれずにいる中、耳に覚えのある声がした。二つの声音が重なっているような音。そして、無理難題を乗り越えて気を良くしたような哄笑。

 

 その声と同調するように漆黒の幕は取り払われた。ぐるぐると渦を巻いて、姿を現した彼女の身体に吸い込まれる。

 

「かははっ、やっと……やっと支配できた! こんのくそ女っ、いっちょまえに抵抗なんかしやがって! そこそこ具合はいいから許してやるけどな」

 

 爆発の前からとでは比較にならないほど表情は様々な色を見せ、荒っぽい言葉遣いでよく喋る。ベースとなっている声はリニスさんのものだが、それと重なって女の子の声が残響していた。

 

 彼女の周囲に漏れていた黒の魔力は跡形なく消え去り、代わりに浴びせられるプレッシャーは倍増した。魔力を完全にコントロール下に置いた、ということなのだろう。緩んでいた蛇口を締めたようなイメージを受ける。

 

 瞳の虹彩と瞳孔、輝きは変化したが、それ以外は爆発の前後でさしたる変容はない。魔導炉からの魔力供給を受け始めたあたりで大きく鋭くなった牙もそのままであるし、長く伸びた髪も特段の変わりはない。

 

 だが、決定的に変質している。外見ではなく内面が、リニスさんという存在が本質的に捻じ曲げられている。

 

「誰だよ……お前は。お前はいったい……なんなんだ」

 

 彼女の気分は際限なく上がっていく。リニスさんの身体で、顔で、そんなセリフを吐いてほしくなくて、ついに俺は問う。何者で、どういう存在なのかを、問い(ただ)す。

 

 昂ぶる感情の余韻に浸っていたところに水を差す形となったが、一頻(ひとしき)り笑った彼女は特に気にした様子もなく、俺に笑顔を向けた。

 

 外見の印象や雰囲気は変わっていてもリニスさんの顔で作られた笑顔のはずなのに、その表情はとても恐ろしく思えた。凄惨な微笑みだった。

 

「俺が誰かなんて、もうあんたも知ってんだろうが。ちまちました魔力を撒いてたじゃん。あれで探ってたんだろ? 鬱陶しくてかなわねぇよ。なんかジメジメしてて陰気だしよぉ。聞いてくれりゃ答えっからさ、この魔力()いてくれよ」

 

 気楽に、なんなら困ったようなボディランゲージまでしながら彼女は話す。放たれる威圧感と砕けた話し方との差が著しくて、逆に気持ちが悪かった。

 

『……無礼千万極まります。このぐつぐつと煮え(たぎ)る感情はどこに向ければよろしいでしょうか』

 

『情報を聞き出したい。堪えてくれ』

 

『むぅ……それが主様の望みであれば……』

 

 彼女は俺の質問にちゃんと答えたわけではないが、おそらくは想像通りの事態になっているのだろう。

 

「リニスさんは魔導炉からの魔力を取り込んでいた。つまり、お前はその魔力の意思……みたいなものなのか?」

 

「やっぱりそのあたりまでは予想してたか。でもそれじゃあ百パーセントの正解とは言えねぇな」

 

「それは、どういう意味だ?」

 

「おっきいくくりで言やぁ、たしかに魔導炉だ。ただ、この俺の意識は魔導炉としてのもんじゃねぇ。細かく言うとだ、俺の意識は魔導炉の中心部に使われている部品にあるんだわ」

 

「魔導炉のコア……部品?」

 

「おいおい、あんたは考えなかったのか? 魔導炉から作られてるただのエネルギーに……なんつったらいいか、人間的な人格が目覚めるわけねぇじゃんか」

 

「…………」

 

 言われてみて初めて、俺の持っている価値観が世間一般とずれていることを気付かされた。

 

 どういったプロセスを経ているかは知らないが、魔導炉は科学的かつ機械的に魔力を生成しているにすぎない。魔力を作る工程の中に、人間的な意識を持つ要素なんてありはしない。

 

 なのはの教師役兼相棒のレイハや、フェイトの片腕のバルディッシュは人格があるが、それはインテリジェントデバイスとして製作されているからだ。インテリジェントデバイスは魔導師の手助けができるように人工知能が搭載されている。意図せずして人格が作り上げられたわけではない。

 

 レイハやバルディッシュ、エリーのような存在が近くにいたために、魔力の集合体には自我が宿るのでは、と無意識的に頭に刷り込まれていた。

 

 エリーの、ような、存在。

 

「ま、さか……お前は……。いや、お前も……?」

 

『…………っ』

 

「気づいたか? 頭の回転は悪くねぇのな。ここの魔導炉の性能ってばすげぇだろ。いいこと教えておいてやるよ。すげぇことの裏には、たいてい何か隠されてるもんなんだぜ。ここの魔導炉にはな、使われてんだよ……亡き世界の遺産が。あんたらの言う、ロストロギアってのが」

 

 背筋に氷柱でも差し込まれたかのように、全身が凍りつく。この女性の身体は全体的に肌が白いが、今は青白くなっていることだろう。

 

 彼女は端整なリニスさんの顔に、にやりとした黒い笑みを刻む。爆ぜるように笑い声を上げた。

 

「かははッ! その顔たまんねぇよ、最ッ高だぜ! 長々と解説した甲斐があるってもんだ! くく、かははッ……。いやいや、悪い悪い。自己紹介が遅れちまったな。ディザスターエンブレム、レッドアイ、ヘルファイア等々、数多くの痛い名前で呼ばれてきてっからどれも名乗りたくはねぇんだけど、仕方ねえから一番気に入ってるので名乗るとするよ」

 

 両手を広げて慇懃無礼(いんぎんぶれい)に礼をすると、高らかに宣言した。

 

「クリムゾンジェム。ロストロギアをやっとります。名前が長けりゃどう略してもいいぜ、好きにしな。冥土の土産に命名権を持たせてやるよ」



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ピリオドは打たれた

「残念だが……よく知りもしない奴に愛称をつける趣味はないんだ。それに冥土には少なくともあと六十年くらいは行く予定がないから、土産なんか必要ない」

 

 リニスさんが取り込んだ黒の魔力。その正体は、魔導炉に根幹部に使われているロストロギア、本人曰くクリムゾンジェムなる代物。

 

 思えば、いかに過剰な魔力を供給されているとしても、術者の意識が乗っ取られるなど普通は考えられないことであった。魔力自体は単なるエネルギーでしかなく、そこに生物的な意思は介在しない。膨大な魔力の奔流によって術者の気が昂揚したり、あるいは度が過ぎればおかしくなったり、術者の精神が磨り減ったり、もしくは死に至る可能性はあっても、意識が別の存在と()り替わるなどあり得ない。

 

 その事実を、遅まきながらようやっと再認識することとなった。

 

「なかなかあんたも愉快じゃねぇの。俺に勝てるだなんて、本気で思っちゃってんのか? あんたも『この女』みてぇにどっかから魔力引っ張ってきてるっぽいけど、完全に魔力の出力で押し負けてんぜ?」

 

「押し負けている、か。そいつ本来の魔力はもっと凄いんだけどな、俺に合わせているせいで出力を調整してるんだよ。それに、勝つ必要はない。リニスさんを取り戻すだけで目標は達成する」

 

「だぁかぁらぁ、そんなこともできねぇっつってんの。あんた、射撃魔法苦手だろ?」

 

 彼女の、クリムゾンの意識がこうして表出しだしたのはつい先程からだ。だが、口調や表情など全てを支配できていなかったというだけで、やはりこれまでの戦闘を行っていたのはクリムゾンだったのだろう。戦闘中、俺が射撃魔法を使う頻度が少なかったことを彼女が知っていることが、その証左だ。

 

「……それがどうした。たしかに苦手ではあるが近づけば俺の領分だし、一応使えることは使えるぞ」

 

「かっはっは! 届かねぇな……その程度じゃあ、今の俺には届かねぇよ。この女と俺の本体との波長はほぼシンクロしてんだ。さっきまでとは格段に魔力を送りやすいし、この女の身体も自在に操れる。あんた程度の射撃魔法なんて、もはや豆鉄砲みたいなもんだぜ」

 

『彼奴めっ……主様を(あざけ)(おとし)めるのも大概に……っ』

 

『エリー、冷静にな。お前が言ってくれたことだろう』

 

 エリーの猛々しく燃える怒りの炎が、和合(アンサンブル)の絆を伝って俺の心まで届けられる。その熱量の大きさに、(けな)されている俺のほうがかえって落ち着いてしまった。

 

 俺がエリーを(なだ)める中、クリムゾンは見ているこちらまで釣られてしまいそうな程、実に愉快げに話を続ける。これまではずっと魔導炉として働いていたからか、お喋りするのが楽しくて仕方がないというようなテンションだ。

 

「あんなもん、いくら受けても痛くねぇよ。気には(さわ)るかもしんねぇけどよ。かははっ! 悪いなぁ、怒らないでくれよ? 根が正直者でよぉ、思ったことが口から出ちまうんだ」

 

「……気にしないさ。いっそ清々しくて好感を持つ。苦手だってのは事実だし、射撃魔法が有効打にならないっていうんならその時は接近して殴りつけてやるよ。お前でも、俺から打撃を受けた時は苦しそうにしてたよな」

 

「は……はぁ? あんなの全然痛くなかったから。もう、全然、まったくだぜ。あんなもん、まるで……あれだ、例えるなら…………」

 

「例えるなら?」

 

「……ぜ、全然痛くなかったし!」

 

 顔を真っ赤にして両手をぶんぶんと振り回しながら、もう一度同じことを言った。どうやら例えは出てこなかったようだ。あまり賢くはないらしい。

 

『心拍が微増しました。……主様』

 

『お前が考えているようなことはなにもない。ときめいてなんていない、大丈夫だ』

 

 リニスさんの理知的な顔でそんな振る舞いをされると、激しすぎるギャップのせいで頭がどうかしそうだ。

 

「とにかく、あんたに勝機はねぇよ。この女、なかなかいいモン持ってんだぜ」

 

「っ!」

 

『主様……』

 

「際立って何か得意な分野があるってわけじゃねぇけど、魔法の適性は軒並み安定してる。悪くねぇ。おつむもそこそこいい」

 

「……なんだ、そっちか」

 

『…………』

 

『……ご、ごめんなさい』

 

 思考をすっ飛ばして言葉が吐き出されてしまった。エリーの沈黙に心が痛む。

 

「そっちってなんだ、どっちだよ。そこそこだけど、あんたなんか比較にならねぇくらいには凄ぇんだからな」

 

 リニスさんの素質と努力の賜物を実際に手に取って感じて、その評定が悪くないなどと言うとは、随分な上から目線だ。あるいは、上昇志向が強いのか。

 

「俺の魔力と、この女の魔法適性値。合わさったら最強だぜ。無敵だぜ。あんたなんかじゃあ、絶対に近づけねぇ。ずたぼろになるまで撃ちまくって、骨も残らねぇほど焼き尽くしてやる」

 

「笑わせんなよ、まるで虎の威を借る狐だな。他人の威光を自分のものかのように振り(かざ)す。お前が持っているのは単なる魔力だけだ。それを形にして撃ち出すのは、リニスさんの力。お前のものじゃない」

 

 俺とエリー、リニスさんとクリムゾンは似ている。ロストロギアを自分の中へと取り込んでいる状態など、そっくりだ。

 

 ただ一点、明確に異なる部分がある。それは互いの認識、心の繋がりだ。

 

 彼女たちは、お互いに利用し、利用されている関係だ。利害という点においてしか、繋がりがない。

 

 俺とエリーは、そこが違う。心を通わせ、思い遣り、信頼し合って、足りない部分を補い合っている。相互依存にも似た危うい共生関係。

 

 そんな俺たちだからこそ、できる事もある。単純な力で押し負けていたとしても、彼女たちに勝る可能性を秘めているのだ。

 

「クリムゾン……お前じゃ俺たちには勝てないよ」

 

「……はぁ。くっだらねぇな、そういう感じ。夢とか希望とか、やる気とか使命感とか……明るい未来に満ち溢れています、みたいな空気。かはは、ほんとくだらねぇ。もう、ほんっと……羨ましい」

 

 彼女は忌々しげに眉を(ひそ)め、心底うんざりした風に息を吐いた。それでも強者であるという自負からか、斜に構えて嘲笑する。しかし、どこか俺だけに向けられているものではないように思えた。

 

「手早く(しま)いにしてやるよ。安心しろ、恐怖する暇もねぇから。来世で教訓にしろ。戦いってのは、数が多いほうが制するんだぜ」

 

「それじゃ俺も教えてやる。魔力の多寡(たか)が決定的な勝敗に繋がらないってことをな……」

 

「かはは、言ってくれんなぁ……。俺がどんだけの数の戦を体験して、どんだけの数の人間の死に様を見てきたと思ってんだ。俺のその経験から弾き出された結論は、(いくさ)ってのは攻撃の密度で決まる、ってことだ」

 

 彼女はゆっくりと歩きながら喋り、右手の手首を柔軟させるように回して杖をくるくると弄ぶ。じきに足を止め、半身(はんみ)に構えたまま杖を俺に向けた。

 

 口元は(いびつ)な笑みに(かたど)られ、瞳は血のような光を(たた)えている。薄く開いた唇の奥に覗く牙が、やけに白く見えた。

 

「目に焼き付けろ! 戦争ってのはなぁッ、敵を押し潰すだけの弾幕がカギなんだぜ!」

 

 杖の先端が鈍く輝く。クリムゾンがリニスさんの身体を操作して魔法を行使する。

 

 彼女の背後の壁が見えなくなるほど展開される魔力弾の量。本人が『戦いのカギ』と豪語するだけはある。まさしく、弾丸の壁。

 

『これはっ……』

 

『一度離れて機会を窺うのが最善かと……』

 

『この距離では躱す隙間がない……仕方ないか』

 

 (おびただ)しい数の魔力弾を一度に展開する手際にも驚くが、展開したその全てを一度に射出させる判断もまた驚く。魔力を出し惜しみや使い渋ったりしない。射撃魔法程度に費やされる魔力など歯牙にもかけない、という強気が(うかが)えた。

 

 魔力弾は隙間を埋めるように、さながら壁のように配置されて押し寄せる。今の位置取りでは視界いっぱいに覆い尽くされていて、逃げ場は見当たらない。しかし、隙間を埋めるという構成上、魔力弾全てが俺を目指して飛来しているわけでもない。

 

 障壁の張り方次第でどうにかすることもできそうだが、ここは一度退く。『弾幕』やら『攻撃の密度』やらと息巻いていた気炎がこの程度の火力とは思えない。

 

「ちぃっ! 逃げんなよ! 俺に勝つとかほざいてたろうが!」

 

「真っ向勝負ならパワー負けするだろう。それに……なにも考えてないわけじゃないんだぞ」

 

 進むほどに魔力弾と魔力弾の間隔が広がり、所々に空白が目立ってくる。その空白の部分に、魔力弾とは動き方が異なる弾丸がちらりと見えた。

 

「やっぱり仕込んでやがったか。いい性格してるな」

 

「褒めてねぇだろ、それ」

 

「当然褒めてない」

 

 一つ一つの魔力弾が接触しそうなくらいに密集させていた理由は、逃げ場を与えないことと、その裏に違う魔法を隠すためだったのだろう。

 

 俺の動きに反応して角度を変えている弾は、おそらく誘導弾。隙間が小さくて数は明白ではないが、少なくないことは断言できる。彼女ほど豊かな魔力があるにもかかわらず展開させる量を少なくする理由など、コントロール性くらいしか思い当たらないからだ。

 

 (ひしめ)いている魔力弾に対して障壁を工夫して防いでも、後を追いかける誘導弾は耐えられない。つまり、最初から弾幕を囮にした二段構えの策だった。

 

 クリムゾンは、一見あほの子のように見えるがそれは喋り方だけで、案外そこまで頭は悪くないのかもしれない。

 

「なんだよもう、さっきから! この女の戦術、ちっとも使えねぇじゃんか!」

 

『……どうやら泥棒猫の頭を覗き見てあの方法を使ったようですね。勝手にやり方を盗んでおいて、責任だけは泥棒猫に押しつけるとは……。盗人猛々しいとはこのことです』

 

『…………』

 

 一度距離を取り、安全に魔力弾の壁を避けるために大回りして回避する。

 

 視界が開けたところで接近を図ろうとしたが、足を止める。彼女の力量を甘く見ていた。

 

「教えてやっただろうが、適性値は並よりかはマシだって! 振り切れると思うなよ!」

 

 大回りしたとはいえちんたらやっていたわけではない。足の速い魔力弾を躱すのだから、それなりの機敏さで動いていたつもりだ。

 

 なのに、魔力弾の壁はやり過ごせたが、誘導弾の群れは俺にターゲットを合わせたままだった。

 

「なんて誘導性能だよ……ストーカー気質なのか?」

 

『主様はそのことについて言えないかと……』

 

「あんたがそれを言うなよ! あんたの誘導弾なんかもはや粘着質じゃねぇか! ちょこまかちょこまか動いてたから俺なんか、これもしかして生きてるのかな……? とかって思ったんだぞ! 撃ち落としたとき、なんか悪いことしたなぁ……ってちょっと落ち込んだんだからな!」

 

「変わってるな、お前も」

 

『…………』

 

 敵であるクリムゾンと意見が被ったのが複雑なのか、エリーは重たい沈黙の殻を背負った。

 

 彼女は彼女で、言い方は棘があったり乱暴だったりするが、部分的に優しい色が滲んでいる。クリムゾンがきつく当たるのは人間に対してのみなのかもしれない。

 

「誘導性は一歩ゆずるけど、その分速度と威力はこっちのが上だからな! 全然負けてねぇから!」

 

「お前は勝ち負けのことばっかり、うるさいな」

 

 いくら基本的な性能が一回り二回り高かろうが、結局命中させられなければ魔法としての意味はない。

 

 追尾性能が良ければ優秀な射撃魔法であると、そんなに簡単には言い切れないことを彼女に証明する。

 

「こんなものはダンスと同じ、要はステップだ」

 

「はぁ? あんたなに言ってんの?」

 

 クリムゾンの人を小馬鹿にしたような声には言葉を返さず、実際に見せつける。

 

 上半身を右に傾け、一弾が軌道を逸らしたら反対側に鋭く切り返す。次に迫る誘導弾が俺の動きに合わせて左へ舵を切れば、くるりとターンして背中越しに回避。足元で着弾する一発は床を蹴って手をついて前方回転。胸の辺りと太腿付近を狙う二つの凶弾は、先の勢いそのままに前方宙返り。お腹の高さで平行に三発並んで着地の隙を狙っているものには、地に足がつくと同時に開脚するように姿勢を落とす。地べたに座り込んでいるところを上から落ちてくる誘導弾には、後ろへ転がって回避。

 

 無理がありそうな弾には障壁を張って逸らしたり、両手の手甲で弾き飛ばしたりもするが、基本的にはステップと姿勢制御で躱す。

 

 重心さえぶれさせなければ体勢は崩れないし、この女性の身体は大変柔軟性に富んでいるので非常に動きやすかった。胸部に二つついている弾力のある塊と空色の長い髪には少し意識を取られたけれど。

 

 身体を振ったことで乱れた髪を手で撫でつけ、あんぐりと口を開いているクリムゾンに見せつける。ただできることならば、リニスさんの顔でそんな間抜けな表情はやめてもらいたい。

 

「は、かはは……。ありえねぇ……」

 

「現実だ。受け入れろ」

 

「昔……すっげぇ昔のことだけど、これによく似たシーンが何回かあった。俺の記憶の中でも多数の誘導弾に集中攻撃されて死なねぇ奴は割といたけど、どいつもこいつも障壁や盾かなんかで防ぐか、剣とか拳で破壊するかのどっちかだったぜ。誘導弾を全部躱そうとなんて考えて、実行して、しかもほとんど成功したやつなんか初めて見た……あんた、やっぱおもしれぇよ」

 

「そうかい。まあ、俺より長く生きているお前でも、知らないことや見たことないものなんてたくさんあるってことだ」

 

「あぁ……まったくだ。まだ知らねぇこと、いっぱいあんのになぁ……。かはは、誇っていいぜ。あんたを超えるのは、馬鹿でけぇハンマーで誘導弾も俺の使用者も一緒くたに叩き潰したやつくらいだ」

 

 誘導弾も術者も一緒に潰すとは、どれほど巨大なハンマーなのだ。

 

 クリムゾンの冗句という可能性もあるが、仮に本当だとしたら恐ろしく巨大な生物、もしくは物体であることだろう。少なくとも、人間ではないことはたしかである。

 

「それはなんていうロボットだよ……」

 

「ロボット? いや、機械では……なかったぜ、たぶん」

 

 思わず呟いた俺のセリフは、クリムゾンには通じなかったようだ。

 

「あんたとはもうちょっとお喋りしたいとこだけど、あんま時間がねぇんだよな……。そろそろ詰めに入るわ」

 

「…………っ」

 

 クリムゾンは杖の柄の半ばを握ると前に突き出して床と平行に寝かせる。左手を亀裂が目立ってきた先端の球の部分に添え、瞑目した。

 

 お前の言うお喋りは戦闘行為を指すのか、などと突っ込んでやりたかったが、軽々しく口を挟めない迫力が彼女から醸し出される。

 

 クリムゾンのセリフを裏返せば、さっきまでの戦闘はウォーミングアップとさえ取れてしまう。弾幕を信条としている節がある彼女にしてはあまりに薄過ぎると感じていたが、やはりまだ余力は残していたようだ。

 

『主様、身体強化を上限まで掛けてください』

 

『どうした、やっぱり何か来るのか?』

 

 張り詰めた空気の重さに気圧され、浮き出た汗を拭っているとエリーが深刻そうな声色で忠告してきた。

 

 俺は忠告に従って限界ギリギリまで全身の魔力付与を高め、言葉の深意を問う。

 

『彼奴の魔力の動きを把握できなくなったのです。恐らく、先程までとは桁が違うものが来ます』

 

『最大限警戒はしておくけど、そんなに危ないことなのか?』

 

『彼奴の動向を察知する為に周囲に散布していた私の魔力が、どんどんこちらへ押し戻されているのです。これは、押し退けられた分だけ彼奴の周囲には彼奴の魔力が充満している、ということになります。可燃性ガスが広がっていると考えて頂ければ、その危険性も感じられやすいかと』

 

『……爆発の前段階。大規模な魔法の……構築』

 

『その通りです。火花が生じれば爆発するのと同様に、術者の操作一つで魔法が発動します』

 

『でも、規模の大小はあっても、大概の魔法はそうやって作られるものじゃないのか?』

 

『今までの規模とは桁違いなので、改めて進言致しました』

 

『……なるほど。エリーがわざわざ再三に(わた)って言うくらいなんだもんな。それなら……わざわざ待つこともないよな』

 

 正義の味方の変身シーンをじっと待つ悪役の流儀には共感しないでもないが、俺はそこまで気高いプライドを持ち合わせていない。戦っている相手が動かず静止しているのなら、そんなチャンスは見逃さない。

 

 射撃魔法を展開、即座に撃ち出す。タイプは比較的単純な直射型、数は三十。現状に合わせてスタンダードな術式に手を加え、狙いは粗雑だが、その分速さと威力にリソースを振った。

 

 空気を切り裂きながら三十の兵隊は彼女へ吶喊する。

 

「そう急かさないでくれよ、すぐ見せてやっからさ」

 

 魔法の準備に集中している今ならば、この程度であっても邪魔くらいは、うまくいけば戦闘行動に支障をきたすレベルのダメージが期待できる。そう見込んだ俺の目論見と射撃魔法は、真夏のアスファルトに放置した氷よりも儚く、そしてすばやく溶けた。

 

『……エリー、お前はこれをどう推察する?』

 

『…………一つ例えるならば、主様』

 

『よし、言ってみろ』

 

『隕石などが地球の重力に引き寄せられて突入する際、大気との摩擦で燃えるという現象が発生します』

 

『うむ、落下物が落下方向の空気を圧縮すると温度が急上昇する、とかなんとからしいな。それで?』

 

『はい。それと……似たような現象が……発生した、のか』

 

『つまり、あれか。あいつの周囲の空間に俺の魔力弾の侵攻を妨げるくらいに魔力が満たされているせいで空気が圧縮されているのと同じような状態になり、その抵抗で魔力弾が削られて消えた……と』

 

『不肖、そう拝察致します……』

 

『そんなんアリかよ……』

 

 そもそもは俺の適性値から作り出された魔力弾だといっても、術式は組み換えたしエリーの魔力によるブーストだって受けている。なのに、殆どは分厚い魔力の層に掻き消され、一番近くまで攻め入ったものも弾道が逸らされた。

 

 彼女に直撃させることはもちろん、近づけることすら至難というのはなんてたちの悪い冗談だ。

 

 更なる手を考えるが、あの光景を見てからだとどうしても物怖じしてしまう。射撃魔法による攻撃方法をすべて試して、その(ことごと)くが彼女に届かなかった場合、それはもう俺の遠距離火力では通用しないということの証明に他ならない。

 

 クリムゾンの立場からすれば、視界の隅をうろつく目障りなハエみたいなものという扱いになる。邪魔なことは邪魔だし不愉快には思うだろうが、害を成すものではない。その気になれば意識から外すこともできるだろう。牽制としての効果もなくなる。

 

俺にとってみれば、戦術の一つが根本からへし折れるのだ。はったりでもなんでも、相手の動きを誘導したり阻害することができなくなるというのは相当な痛手。なにより、感情という面において、かなりのショックがある。

 

歴然たる力の差を、まざまざと見せつけられている気分だ。尻込みもしてしまう。

 

『っ……くそ、ふざけんなよ……』

 

『……出力が、不足している……。しかし、これ以上は……』

 

 結局、効き目がなかった直射型の魔力弾を散発するしか、俺にはできなかった。

 

「待たせちまって悪ぃな、暇してたみてぇで。でも……これならあんたも血眼になって楽しんでもらえるんじゃねぇかな!」

 

 クリムゾンは閉じていた瞼をばちっと開き、左手は細くくびれた腰に、右手の杖は肩に乗せる。刹那、魔法の展開時の光でホールが包まれた。

 

 革新的な手段を考案できずに手を(こまぬ)いている間に、彼女はとうとう下拵えを済ませてしまった。

 

 この術式は言うなればコース料理だ。全体として見れば幾層かに分かれていて、俺に近い一層目(一品目)から順に射出(提供)して、追い込んで(味わって)からお命頂戴(お会計)、という形なのだろう。俺一人を始末するには随分豪勢な魔法群で、そしてお高い代金だ。

 

 最前面にはさっきのと同じくらいか、それ以上に分厚く、幅も広い魔力弾の壁。二層目には誘導弾が敷き詰められている。三層目は数だけなら四発だが、しかし巨大な四発だ。杖の先端に位置して術者からの魔力を吸収して大きく膨らんでいくのを何回も見た。砲撃魔法の巨大な魔力球である。

 

 三層目までは数は多いが、それでも単発だった。射出されても、防ぐか躱すか、あるいは壁や床に着弾させればそれで終わり。残弾数が減っていくのが視認できる分、終わりが見える分、まだ気が楽だ。

 

 しかし、四層目からは毛色が変わる。四層目には槍状の魔力弾を射出させる発射体、フォトンスフィアがずらりと並ぶ。五層目には一際大きなフォトンスフィアがクリムゾンの傍らで編隊を組んでいる。あの図体のでかい発射体は小型の砲撃を吐き出すだけではなく、僅かばかりではあるが誘導性も有している厄介な代物だ。

 

 そして、五層目の砲撃用フォトンスフィアから一歩程退いた位置で杖を握るクリムゾンが最後列、第六層目となるのだろう。命中精度、破壊力、速射性、それらすべてが高水準をマークしている砲撃を自ら放つことで、仕留める。

 

 射砲撃魔法の集大成ともいうべき、大規模術式。

 

 もはや個人戦闘で行使されていい領域の魔法ではない。これはもう、戦争じみている。

 

 これまでの、ただ数を都合しただけのゲリラのような弾幕ではない。正しい秩序で道理に沿って、理論的で効率的にオプティマイズされた、軍隊のような魔法群。

 

 スマートに勝つためのお賢いものではなく、暴力的で圧倒的に蹂躙し敵の息の根を止めることを目的とした、力の塊。

 

「うぁ……これ、は……」

 

 息が詰まる。空気を吸い込めない。

 

 目の前の光景は自分の錯覚なのではないかと、疑いそうになった。錯覚なのだと、思いたかった。

 

 指先はじんじんとして感覚が鈍麻して、足にはどうにも力が入らない。心拍数は天井知らずに駆け上がり続け、容赦なく息苦しさを与えてくる。視界は窄まり、周囲から暗闇が足音を立てずに忍び寄ってきているように感じられた。

 

『……凄まじい、としか表現の仕様がありません。自分の語彙(ごい)力の(とぼ)しさに辟易(へきえき)します……』

 

 何もかも投げ捨てて、叫喚しながら逃げ出したくなる。それだけのプレッシャーと、目前にちらついた死の実感だった。

 

 俺一人であれば、恥も外聞もなく遁走している。そうしなかったのは、ひとえにエリーの存在を近くに感じられていたからだ。

 

 自分の中にエリーの体温を知覚すると、わずかばかりの落ち着きと、この上ない安心感と、立ち向かうだけの勇気が湧いてくる。

 

 エリーの声が、臆病な心を支えて、背中を押してくれるのだ。

 

『シャレにならないっていうか、一周回って笑えてくるっていうか……。エリーが言ってた「桁違い」ってのはこれのことか』

 

『少し、異なります』

 

『ん、どういう意味だ?』

 

『想像していたものより、之繞(しんにゅう)をかけて没義道(もぎどう)な所業です』

 

『わかりにくいな……噛み砕いてもう一回』

 

『思っていた百倍くらい大変そうです』

 

『うむ、わかりやすい。わかりやすくなった分、深刻さが増したけどな……。まあ、やるしかないなら……精一杯やるだけだ』

 

 エリーとのやり取りで、ぶれて崩れそうになっていた決心を持ち直す。いつの間にか、身体はいつもの調子を取り戻していた。

 

 俺は不意に、なのはやフェイトの気持ちを理解できた気がした。まだ幼くて身体も小さい少女たちが、今まで縁遠かった本物の戦いという恐怖を体感してなお、それでも誰かのために戦えるその理由を。

 

 勿論言うまでもなく、本人たちの純粋で直向きな想い()るところは大きいのだろうが、それだけではやってこれなかったはずだ。常に(かたわら)に寄り添って、いつも自分の味方をしてくれて、どんな苦境に陥っても助けてくれる『相棒』がいるというのは、何よりも心強い。

 

「くく、かはは! これが俺の、正真正銘の本気だ! ここまで血が沸き立つのは何百年振りかわからねぇんだっ、すぐにくたばるんじゃねぇぞ! せいぜい派手に踊って、俺を楽しませろ! 血肉を晒せ! 殺戮開演(ショータイム)だ!」

 

 クリムゾンは肩に乗せていた杖を、勢いよく前方に振り下ろす。その動きに合わせ、付近の大気の流れすら変えてしまいそうなほどの質量が動き始める。

 

 巨大な蛇が大口を開けて迫ってくるような迫力があったが、不思議と恐れや怯えといった感覚はなかった。

 

『かなり無茶するけど、フォロー頼むぜ。相棒(・・)

 

『私の全力を以って、全霊を尽くします』

 

 床を爆ぜさせながら、駆ける。進行方向は左。正面から迫る射砲撃の壁を直角な軌道で回避する。

 

 出し惜しみはしない。出端(でばな)から『襲歩』による高速移動。

 

「もうそれの移動距離は把握してんだ! 同じ手が何度も通用すると思ってんなよ!」

 

 『和合(アンサンブル)』による基礎能力向上に加えて魔力付与による身体強化、重ねて『襲歩』による高速移動。これだけやっても押し寄せる魔力弾の波から抜け出せない。外側へ移動した分、比較すれば弾幕が薄くなってはいるが、それでも充分な弾数が俺の進行方向に向けられている。

 

 最大限度の限界ぎりぎりまでエリーから魔力の供与を受け、魔力付与にも力を回しているので、おそらく魔力弾や誘導弾の数発程度ですぐさま致命傷になったり、継戦能力に問題が出たりはしない。最も意を用いていることは、それらの魔力弾を受けて動きが鈍ったところに砲撃を叩き込まれることだ。

 

 足を止めたら、機動力が鈍れば、すぐに一撃必墜の閃光が煌めくだろう。

 

 要するに、たとえ魔力弾の一発といえど簡単に食らってはいられないのだ。用心するに越したことはない。

 

「…………わかっていたよ、そんなことは」

 

 弾幕から抜け出せないのは、射砲撃の壁が横に広いこともそうだが、『襲歩』を何回も見たクリムゾンが移動距離を既に記憶していることが主因だ。

 

 しかし俺としても、これだけでは回避しきれないと思っていた。

 

 彼女は言動こそあほの子に見えるが、これでいて戦いに関しては存外(さか)しい。これまでに幾度も戦を経験しているのなら、観察眼やセンスだって必然的に磨かれる。『襲歩』のタイミングや移動速度、移動距離を把握するのも時間の問題となるだろうと、そう思っていた。

 

「だから……ここからは未知の領域に入る」

 

 右足を軸足にして行った『襲歩』。当然、左足は前に突き出されている。そこから次は、先に接地した左足を軸として更に『襲歩』を繰り出す。インターバルはなし。連続で使用する。

 

 『襲歩』を見切られて技の直後を狙い撃ちにされるのなら、いっその事継ぎ目をなくしてしまえばいい。身体に流した魔力をコントロールして姿勢を制御し、両足交互での『襲歩』。

 

 何度か二回、三回くらいの連続使用はしていた。ならば、二十回〜三十回の乱用もできない道理はない。普通の移動では間に合わないというのなら、これから全て、この移動技術を使う。

 

「先なんて読めやしないぞ、お前にも……俺にもな」

 

 二度目の使用で、魔力弾の壁を完全に振り切る。

 

 背後で轟音が空気を叩く。大量の魔力弾がホールの壁に着弾したのだ。

 

 手応えを感じる。これならまだ、なんとかできる。そう思いながら視線を彼女に向ける。

 

「たったそんだけで俺を出し抜いたつもりかよ。こりゃ笑いは笑いでも失笑だぜ」

 

 まだ多数残っている弾丸の奥に、クリムゾンの姿が見えた。突きつけられた杖の照準は、俺の身体が向いている方向の先。

 

 技後硬直の隙がないとわかれば、最高速に達した瞬間を狙い撃つ作戦に切り替えてきた。

 

 『襲歩』の到達距離と速さ、あとは技の出だしの瞬間さえ分かれば逆算は可能。そこまでわかれば、最高速に乗った時の方がかえってタイミングが合わせやすく墜とされやすい。

 

「安心してくれていいぞ。飽きさせは……しない」

 

 なまじ速度が上がれば動きは直線的に、単調になる。しかし、そこに拍を外す挙動を混ぜてやれば、一気に様変わりする。

 

 精緻な力加減と姿勢の制御。前方に傾けながら後方にも重心を残す、絶妙な比率。

 

 『襲歩』のバリエーション。前進する力を抑えた、緩急の差(チェンジオブペース)。経験を重ね、限界速度が上がり、この移動技術を知り尽くしたからこそ会得に至った速度の強弱の使い分けだ。

 

 クリムゾンが予測した速さを大幅に下回ったため、彼女自らが放った砲撃は俺の前方を右から左に通過した。

 

 彼女は小首を傾げて攻撃を外した理由に考えが行き着くと笑みをこぼした。綺麗で純粋な微笑みではなく、手荒に扱っても壊れないおもちゃを手に入れたというような、子供特有の無邪気な悪意を思わせる黒い笑顔。

 

「へぇ、いいじゃん。面白いぜ、すぐに終わったらつまんねぇからよ」

 

「っ……さいですか。期待に添えたようでなによりだ」

 

『主様、後方から敵弾多数です』

 

 エリーから着意の喚起を受け、背後に一瞥(いちべつ)を投げる。

 

 魔力弾の着弾で巻き上げられた土煙を背に、誘導弾が漆黒の尾を引きながら接近する。誘導弾はさっきの弾幕の第一波で魔力弾に紛れていたのだろう。

 

 数は二十に満たない程度。程度というか、もう感覚が狂ってきてしまっているが一般的にはかなり多い。ただ、待機状態で出撃を待っている射撃魔法の数からすると、まだかわいい数だ。

 

「ゆとりはやらねぇぜ! ほら、もういっちょ持ってけ!」

 

 クリムゾンは追加で、待機させていた射撃魔法を解き放つ。

 

 後方からは誘導弾、右側からは波状弾幕の第二波。息つく暇もありはしない。

 

『くそ……好き勝手に撃ちまくりやがって、トリガーハッピーが……』

 

『主様……お身体は大丈夫ですか?』

 

『ああ、悪い。まだ大丈夫だ』

 

 接近することを許さない射砲撃魔法の連射。今はまだ攻め入る機会は(きざ)しも見えないが、いずれ必ず来るはずと信じてひたすら耐え凌ぐ。

 

 円形のホールの反対側にいる彼女へ、壁に沿うような形で反時計回りに進む。

 

 誘導弾に対処するには、他の魔法が気になってしまう。障壁で防ごうと思えば足が止まるし、ステップで躱そうとすると魔力弾が邪魔になる。壁などに着弾させて爆発させた方が手っ取り早く片付く。

 

右側から迫る弾幕は緩急をつけて調子を外すことで対処できるが、後ろから追尾する誘導弾は破壊できない。立ち止まれば誘導弾を撃ち落そうとすれば逆に弾幕で蜂の巣。かといって真後ろから多数の弾丸が迫っていては、振り切ることも容易ではない。

 

「こんなもんで沈みはしない……」

 

 一度左へ壁寄りに足を踏み出し、重心を掛ける。背後は振り向かず、気が利く相棒の声を待つ。

 

 クリムゾンのと言うべきか、リニスさんの素質と言うべきかは議論の余地があるが、ともかく、彼女が放つ誘導弾は性能が高い。威力は無論、速度と追尾性能の両立を果たしている。

 

 本来であれば追尾性能は高ければ高いほど好ましいが、相手の動きに速やかに反応して弾道を修正する感度の良さは、時として利用できる。

 

『誘導弾、かかりました』

 

 エリーからのゴーサインが出た。

 

 重心を身体の左側から、全身の筋肉を稼働させて右側へと切り替える。バランスが乱れそうになるが、魔力による体勢の微調整と身のこなしでカバーした。

 

「ぶっちぎってやる……っ!」

 

 慣性が左前方へ向いている中、強制的に右側へ『襲歩』を使って身体を運ぶ。ハイスピードを維持したままの、鋭利な切り返し(クロスオーバー)

 

「んくっ……っ」

 

 身体がばらばらになりそうなほどの、急な方向転換による反動。身体の数カ所で骨が軋み、軸足とした左足の足首と大腿部に痛みにも似たかすかな違和感が走った。

 

 エリーの魔力による副次的効果で身体の基礎能力は向上しているし、魔力付与も絶えず展開している。身体は丈夫になっている。

 

 しかし、それらの効能により速度も等しく上昇していた。等倍された速度により、身体の耐久力を底上げしていても無理な挙動を取れば大なり小なり負担がかかる。

 

 少し頭はぐらぐらするし、内臓が微動したのか大変気持ちも損ねたけれど、期待していただけの成果はあった。

 

「どんなマニューバしてんのさ、あんた。身体が空中分解するぞ。かはは、俺好みのクレイジーさだぜ」

 

 最初にハンドルを取り舵に切ったことで壁に接触したのが四発ほど。残りの十六発は、性能が高いといえどさすがに直角的な機動についてこれず、俺の前方に躍り出る。

 

 俺はそれらを後ろから、直射式の魔力弾の連射で撃ち落とす。

 

「そろそろ……突っ込んで行っても……」

 

 誘導弾を片付け、クリムゾンを見やる。

 

 無抵抗にやられるばかりでは癪に触る。いい加減攻勢に転じたいところだが、まだその機会は訪れないらしい。

 

 数を減らした一層と二層の射撃魔法二種の後ろにあったはずの砲撃用の巨大な魔力球が二つ、見当たらなかった。

 

 確認すると同時に、エリーの声。

 

『主様、挟撃です!』

 

『抜かった……。あの球、動かせたのかよ……』

 

 弾幕と誘導弾に注意を傾けすぎたことで、ホールの壁を沿って左右に回り込んでいた砲撃用の魔力球に気づくのが遅れた。

 

 両側から挟むように砲撃が放たれる。タイミングを同期させるように、第三層目に残されていた二発も射出。

 

『サイドへの退路が……』

 

『……絶たれた、か』

 

 前方からの砲撃は俺を狙ったものではない。二つとも俺の横を通過する軌道だ。あくまでも本命は、左右からの二弾。

 

 しかし、逃げ場がない。身体の勢いは前方に流れたままだ。

 

 射撃魔法ならともかく、砲撃では一発で沈みかねない。少なくとも戦闘を続けるのか難しくなるほどの傷を負う。

 

 そのことは術者であるクリムゾンも良く理解している。一発で勝ちがほぼ確定するのだから、左右からの砲撃二発共を当てにくることはない。前後の緩急(チェンジオブペース)でタイミングをずらしても、どちらか一発は速度を緩めたタイミングで、もう一方は通常のタイミングで狙いにくる。

 

 拍を外すことができないのなら、もう一度切り返し(クロスオーバー)で方向転換すれば躱せるが、それもできない。無駄撃ちに思える前方からの二弾は、回避の手段を潰すための布石だった。

 

 たった四発。されど、要点を的確に突いた四発。

 

「なぁ、次は? 次はどうすんの? かはは!」

 

 勝利を確信しているものでも、自分の力を慢心しているものでも、俺を軽んじているものでもない。ただどんな演技を見せてくれるか、どんな奇抜な技を見せてくれるかを楽しみにしているような、笑い声。どこまでも悪魔的で、それでいて自分の欲望に忠実な子供っぽさを感じさせた。

 

「絶対に、あの余裕を奪ってやる……」

 

 クリムゾンは、高速機動中の俺ではすぐに停止できないと考えている。ここまでスピードが出てしまっていては惰性によって足元が滑り、制動距離が長くなるだろうと。

 

 俺としても、加速中のデメリットについて何も考えていなかったわけではない。もう既に考案自体はしていたのだ。

 

「目に物見せてやるよ……」

 

 着地の瞬間、『襲歩』の技術を逆向きに使う。前に突き進もうとするエネルギーと同じエネルギー量を床にぶつけて、元々持っていた勢いを相殺させる。速度をゼロに戻すというバリエーション、急制動(オフセット)

 

 俺の身体はその場で急停止する。床から伝わる衝撃が全身に伝わる。じんと脚に熱が籠っているのが実感できた。各部に走った違和感は、解消されずに残留している。

 

 エネルギーを押しつけられた床は大きな亀裂を作って破片を撒き散らした。

 

 俺の両側すれすれのところを二つの砲撃が対向して通過。前方の二箇所、手前と奥で左右からの砲撃二発が交差する。

進んでいたら確実に巨大なエネルギーの塊に貫かれていた。その光景を想像すると肝が冷えるが、これで致命傷となる魔法がまた一つ減ったのだからオールオッケーである。

 

『主様、お見事です。ですが、いつまでも動かずにいると格好の的にしかなりません』

 

『わかってるよ。今すぐここを離れる、から……』

 

 エリーの言う通りだ。せっかく無理して砲撃をやり過ごしたのに、じっとしたままでは他の射撃魔法の標的にしてくださいと喧伝するようなもの。この場からは早々に離れて攻め入る隙を窺うのが、現状取るべき最善の選択。

 

 だが、頭では理解していても身体が運動命令を無視する。電気信号を受諾しない。

 

『……主様? どうなされたのですか?』

 

「くそっ……なんで、なんでこんな時に!」

 

「あんたさぁ……無茶しすぎなんだよ」

 

 荒い呼吸は意にも留めず、震える脚を殴りつける。気合を入れても魔力を込めても、脚は鉛のように重たい。動かし辛く、動いてもとても鈍い。

 

 そんな俺の様子を見ていたクリムゾンは、やれやれとでも言いたげな仕草で話しかけてくる。

 

「魔導師ってやつはさぁ、別になんでもできるってわけじゃねぇんだぜ。俺たちはあんま使ってねぇけどよ、飛行魔法ってあるじゃん?」

 

「……なんの話がしたいんだ」

 

「まぁまぁ、いいから聞いとけって。んで、その飛行魔法だけどよ、あれだって物理法則とかをスルーしてるわけじゃないんだぜ? そもそも魔法ってのは物理法則とかって小難しいもろもろを数字に表して計算、そっから上書きすることで望んだ作用を発動させてんだ」

 

「魔法のプログラムの仕組みや意味については知ってる。要点だけ掻い摘んで話せよ」

 

「おぉ、理解できてんのか。意外に賢いんだな。まぁ、気長に聞いてくれ。あんたにとってもその方がいいんじゃねぇの?」

 

「…………」

 

「んじゃ、続けるな。そうやって物理法則を書き換えて空を飛ぶっていう作用を生み出してる飛行魔法だけどな、書き換えた『空を飛ぶ』って作用以外は、物理法則はなんも変わんねぇの。そっからの動き、加速したり、高いとこまで上がったり、地面すれすれに下がったりとかは飛行魔法のプログラムの範疇(はんちゅう)なんだけどよぉ、その時受ける慣性? 重力? だったっけか。それらにゃあ、一切変わりはねぇの。上空まで上れば気圧の変化を受けるし、急旋回すれば速度のぶんだけ術者には負担が掛かるってわけだ」

 

「はいはい……お前の言いたいことは大体わかったよ」

 

「察しがいいじゃん。こんなにいっぱい喋れんのなんて久しぶりだからよ、せっかくだから最後まで喋らせてもらうわ。飛行魔法みてぇな円を描く機動でも術者には相当な負荷がかかるわけ。なのにあんた、最高速は飛行魔法以上のもん出してんのに、直角に曲がったり、急に止まったりしちまってんじゃん。魔導師っつっても、万能じゃねぇ。魔導師はどこまでいっても魔導師であって、魔法使いじゃねぇんだ。魔力の後押しで早く動けても、そん時の負担は絶対に身体に積もってく。好きなだけ好きなことできるってわけじゃねぇよ。原因はそれだ。無茶をしすぎた。あんたの身体は、限界のラインを越えたんだ」

 

 常人ならもっと早くに身体が壊れててもおかしくはねぇけどな、と付け足して、彼女は乾いた声で笑った。

 

 予兆はあった。脚にぴりぴりと刺すような不快感や、違和感はあったのだ。魔力には余裕があっても、心拍数が上がっていた。脚に疲れが溜まっていた。

 

 長時間の戦闘は、確実に体力を(むしば)んでいた。

 

「っ…………」

 

 強く、歯を噛み締める。

 

 出し惜しみしていては、すぐに魔力の壁に押し潰されていた。全力を尽くさなければ、どう足掻いでも太刀打ちできなかった。

 

 それでも彼女には追いつけなかった。手が届かなかった。追い縋ることもできなかった。彼女の背中は、遠過ぎた。

 

 ならば、他にどのような方法があったというのだろうか。

 

 望んで苦しい選択を選んだわけではない。万死の苦境の最中にあっても、努力と閃きで生存と微かな勝利の光が差し込む道を見出し、突き進んできただけだ。その過程で身体に負担が重なり、限界を迎えた。

 

 他にもっと効率のいい方法があったとは思えない。生き残るにはこの道より他はなかった。言い切るだけの自信はある。

 

 だがこの道も、結局は尻すぼみに収束して、ついには途切れる。

 

 まるで、最初から望んだ結末を迎えることなど不可能だったのだ、と現実を突きつけられているかのようだ。

 

 フェイトに親をなくすという悲しい思いをさせたくない。プレシアさんに愛する家族と別れさせたくない。リニスさんに自ら死を選ばせるような辛い選択をさせたくない。笑顔で一緒にいさせてあげたいという望みは最初から、現実を直視できていなかった泡沫夢幻の浅はかな願いだったと、そういうことだったのだろうか。

 

『主様……主様! 終わりを悟るにはまだ早すぎます、諦めるにはまだしていないことが多すぎます! 動けないのなら、動けないなりの戦い方があるはずです』

 

『もう、無理だろ……こんなもん。唯一の可能性が機動力による撹乱だった。そこから隙を突くってのが作戦だった。脚が死んだら、戦力は半減なんてものじゃない。可能性は(つい)えた』

 

 力の差は埋められない。はっきりと認識した時、脚だけではなく全身に力が入らなくなった。石のように身体が重い。心を折られて、再び立ち上がる気力も起きない。

 

 ピリオドは打たれた。

 

 そう諦める俺に、エリーは言葉を投げかけ続ける。

 

『そのような事ありません! 主様はいつだって、逆境の中で起死回生の策を打ち出し、乗り越えてきたではないですか! 足が動かない、機動力を失ったなどというのは、数多くあるうちのファクターの一つでしかないのです。身体が限界に達したから可能性が潰えるのではありません。諦めてしまったその時にこそ、可能性は潰えるのです』

 

 エリーの凛とした勇猛さが、俺の乾いて冷たくなった心に響く。

 

 しかし、無情にも相手は待ってなどくれはしない。

 

「こんだけ時間やっても、あんたはもう動けねぇみてぇだし、終わらせるか。あんたも疲れたろ。いやほんと、よくやったぜ。認めてやるよ、あんたの頑張りは。正直ここまで持つとは思ってなかったくらいだぜ。楽しい時間を過ごさせてもらったわ、ありがとよ」

 

 クリムゾンは罅が至る所に刻まれた杖を振るう。

 

 黒い魔法体が、一際輝きを強めて小揺るぎした。ちょうど銃弾の装薬に火が入ったような印象である。

 

 掛け値なしにこれまでで最大規模の攻撃。方をつけにきたのだろう。

 

 暗い色の魔法群が起動シークエンスに入ったのをぼんやりと見詰めていると、もう一度、エリーの声が聞こえた。

 

 悲壮な覚悟を言の葉に込め、放つ。

 

『主様……心より慕い、愛する我が主様。私は主様の盾であり鎧。主様の矛であり槍。私の全ては主様の御為にあります。このような言い方、主様は好ましく思わないでしょう。けれど、私を魔力を作り出す道具として扱わなかった主様だからこそ、この方と共に在りたいと、そう思えたのです。相棒と呼んで頂けたことが、私はとても嬉しかったのです。相棒であるのなら、負担を一方に押し付ける訳にはいきませんよね』

 

『エリー……なに、を』

 

 意識は確固としているのに、身体の感覚だけが遠ざかっていく。力が入らない感覚とはまた別種のものだ。

 

『主様をこのような場所で死なせるわけにはいきません。お疲れになったのでしたら、少しお休みください。バトンタッチ、です』

 

『待て、エリー……待て!』

 

 脚の重みや、不快感、違和感などもまるっきり完全に消失している。これはつまり、身体の支配権が百パーセントエリーに移され、俺は意識だけが浮遊した状態なのだ。

 

 こうなってしまえば、俺からはなにもすることができない。外見がエリーに引っ張られていることからもわかるように、俺にはもとから持っている権限が少ないのだ。感覚が切断されているということは身体を動かすことは無論叶わない。すなわち、痛みも俺には届かない。

 

 エリーの狙いは、俺を苦痛から解放すること。

 

 俺の意見を聞かずに取ったエリーの独断専行を(いさ)めるために思念を送ろうとするが、そこにクリムゾンの声が重なった。

 

「……俺もじきにそっち行くからよ、またやろうぜ。……じゃあな。せめて派手に送ってやんよ! 一度言ってみたかったんだよなぁ……一斉射、てぇッ!」

 

 待機したままだった第一層目の直射型、第二層目の誘導型各射撃魔法。残っていたこれらが全て撃ち放たれる。続いて四層目、五層目のフォトンスフィアも火を噴いた。

 

 速度のある直射型は正面からまっすぐ、誘導弾は一度天井近くまで上がってから振り下ろす形。フォトンスフィアから大量にばら撒かれる槍状の魔力弾は速射に重きを置いているようで誘導性はないらしく、直射型射撃魔法の後を追うように直進する。小型の砲撃を吐き出す巨大な発射体は、他の足の速い魔法の射線上に乗らないよう外側へ弧を描く。

 

 千にも届こうかという弾丸の豪雨。光は黒い弾丸に覆われて失われた。

 

『これが、主様が受けておられたプレッシャー……なのですね。泣いてしまいたくなるほどの恐怖や痛みや苦しみに耐えて、気丈に振舞っていたのですね。今なら、それがどれほど偉大なことかよく理解できます……』

 

『代われ、エリー! お前が受けることはない!』

 

『申し訳ありません。その命令は承りかねます。主様の窮地を救うことが私の使命です。それに……』

 

 エリーは俺の身体を操り、両手を正面に向ける。周囲に生み出されたのは球状に圧縮された魔力粒子と、無数の射撃魔法。迎撃の構え。

 

 迫る『黒』から目を逸らさず、一歩も退かなかった。

 

 微笑みながら、口を開く

 

「守ってもらうだけでは、あなたの相棒は務まらないから……」



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天に掲げ、呟いた

「守ってもらうだけでは、あなたの相棒は務まらない、から……だからっ!」

 

 自身に言い聞かせるように呟かれたエリーの言葉は、風切り音や爆発による轟音に掻き消された。

 

 魔力粒子を圧縮してあたかも砲撃かのように放出することで、エリーは四方八方から飛来する魔力弾を誘爆させていく。魔力粒子に当たらず、誘爆しなかった弾丸は直射型の魔力弾で撃ち落とす。

 

「くっ……多い……。主様はいつも、こんな嵐の中で戦ってきたのですね……」

 

 魔力粒子の放流は連射ができない。空白となるインターバルを少なくするため、エリーは同じ魔力粒子の塊をいくつか用意したり、直射型の魔力弾を使って分散して襲ってくる敵弾を細かく破壊していくが、それでも追いつかない。クリムゾンが撃ち出す射撃魔法の数が多過ぎるのだ。

 

 敵の弾丸を撃ち落そうとする時、どうしたって的を外れるものが出てくる。その為、迎撃側は相手より数を揃えておかなければいけないのだが、こちらは全力を振り絞っても相手の数を下回ってしまう。

 

 魔力の量においては、確たる差はない。どころか、総魔力量ではエリーの方が格段に上だ。

 

 なのに、これだけの差が開く。この内因は術者の差だ。魔導師としての素質が、決定的に劣ってしまっている。

 

『エリー、身体を戻せ! お前が苦痛を味わう必要なんかない!』

 

 何度言っても、エリーは俺の指示に聞く耳を持たない。確固たる意志でもって、抗う。

 

『人は……困難という大きな壁にぶつかると、時として心を弱めてしまいます。それは仕方がないことです。いつだって常に百二十パーセントの力を出せるわけがありません。頑張った分だけ、乗り越えられないほどの壁に対して絶望してしまいます。努力は報われないのだと、諦めてしまうのです……』

 

 押し寄せる弾丸を懸命に墜とし続けながら、エリーは俺に語りかける。

 

 処理能力が追いつかなくなって防衛網を抜け出した一発の魔力弾が、エリーの肩を掠めた。焼かれるような痛みが肩に走ったはずだが、エリーは痛みに集中を濁されることなく、前を見据えて迎撃し続ける。

 

『でも……でもですね、主様……。心が折れそうになったり、辛くて歩き続ける事が出来なくなったら、休めばいいのです。一旦休憩して、歩き出す力を蓄えれば、それでいいのです。何もかも全部、お一人でやろうとしないでください。たった一人だけで何かを成そうと思っても、人間には限界があります』

 

 透き通る空色の魔力は荒ぶる河川のように奔流となって、常時放たれ続ける。射撃魔法も絶えず射出されている。迎撃の為の弾幕はフル稼働している。

 

 それでも押し負けて、じわじわと防衛ラインが下がっていく。

 

 エリーの迎撃を、数発の魔力弾が突破した。障壁を張るだけの余剰の演算領域など既にない。

 

 躱すことも防ぐこともできずに、結果として二発が着弾。一発は右足、もう一発は左肩で爆ぜた。

 

 身体が衝撃でよろけたが、エリーは歯を食い縛って迎撃を維持する。

 

 クリムゾンの射撃魔法はまだ多数残っている。ここで倒れれば死が確定することがわかっているから、エリーは抗い難い激痛を堪え忍ぶ。

 

 俺を守ると言った、ちっぽけな約束を果たす為に。

 

『色んな重荷を背負って、抱え込んで、もしそれで辛くなったのなら誰かを頼ればいいのです。出来る事なら、私を頼って欲しいのです。私が不安や、後悔や、罪悪感に押し潰されそうだった時、主様が寄り添ってくださったように、私も主様の支えになりたいのです。主様が歩くのに疲れた今……今度は私が、歩く番です』

 

 使命とか、義務とか、そういった堅苦しいものではない。覚悟とか、矜恃とか、そういった格好つけたものでもない。

 

 エリーが抱いている想いや感情がどのようなものかは、俺にはわからない。心の底までは読み取れないけれど、でもエリーの気持ちは正確に俺の心に伝わった。大事だから守りたい、傷ついてほしくない、幸せになってほしい。そういう温かな気持ちが、確かに伝わった。

 

 そして、一人で無理をしないで、と俺を心配する気持ちも。

 

『いいのか、俺は……』

 

 他人の力は、あてにすべきではないと思っていた。頼んでしまえば頼んだ相手に余計な負担をかけることになってしまう。人によっては、頼まれたら断れない人もいるかもしれない。そうなってしまえば、それはもうお願いではなく、命令に等しい。

 

 いや、これも上っ面を取り繕っただけの詭弁だ。内面はもっと自分本位で、相手を気遣うような考えはない。俺の本心はもっと(よど)んでいて、汚い。

 

 俺が知人からの頼み事を出来る限り引き受けるのは、その人に愛されたいからだ。役に立てれば大事に思ってもらえる。必要としてもらえる。どこかでそんな計算があった。

 

 逆に俺が知り合いを頼らないのは、迷惑をかけたくないからだ。大切な人たちから面倒なやつなどと思われて嫌われたくないから、頼ることができない。

 

 手を差し伸べられても、本当は無理をして助けようとしているのではないかなどと裏を勘繰ってしまう。そんな可能性があるかもしれないと思っただけで、人からの助けを断ってしまう。あれこれと相手の心情を思い悩むより、自分が奔走した方が精神的に楽だから。

 

 でももし、もしそんな計算や憂慮をしなくてもいい関係性があるのだとしたら。裏も表もない、純粋な好意と善意で手を差し伸べてくれる人がいたら、俺はその手を握って、助けを求めてもいいのだろうか。

 

 優しさに縋っても、いいのだろうか。

 

『エリー……。お前を頼らせてもらっても、いいか……?』

 

『……っ!』

 

 エリーの息を呑むような声ならざる声。胸元を抑える仕草。

 

 タイムラグの極めて短い思念での会話にあっては珍しく、エリーはしばらく身悶えるように震えて、ようやく応えた。

 

『そ、そのお言葉を……お待ち申し上げておりましたっ』

 

 死が目前に迫る状況下においてエリーは、陽光に照らされて輝く一輪の花のような笑顔を見せた。

 

 戦況は一切変わらない。いつ防衛ラインが総崩れになって身体を撃ち貫かれるかもわからない。それでも、なぜか俺の目には、一筋の可能性の光が射し込んだように思えた。

 

『ありがとう……。痛いだろうし、苦しいだろうけど……しばらく持ち堪えてくれ』

 

『はい、お任せください! 主様が妙計を閃かれるのをお待ちしております!』

 

 エリーは一際元気よく、やる気に満ち溢れた返事をくれた。

 

 クリムゾンの攻撃の対処はエリーに一任し、俺はこの切迫した戦況を打開する方法を模索する。

 

 不安や葛藤がないわけではない。エリーが苦痛に苛まれることは心苦しいし、凌げるかどうかも心配だ。

 

 だがエリーは任せろと言った。信頼を寄せる相棒が言い切ったのだ。ならば信じて、俺は俺の仕事をすべきだろう。

 

 (はや)る心を落ち着かせ、思考の海に潜る。

 

 客観的な立場で俯瞰した時、俺たちと彼女の戦力差は著しいものがある。

 

 魔導炉から供給される豊潤な魔力を後ろ盾とした、消費魔力なんて歯牙にも掛けない射撃魔法の嵐。リニスさんのデバイスの性能と、リニスさん自身のスペックの高さ。

 

 近づくことすら困難を極める。鼠どころか蟻の侵入すら許さない。遠距離からの飽和攻撃による、鉄壁の要塞。付け入る隙など見当たらなかった。

 

 思考が行き詰まる。着眼点を変えるべきだ。現状から目を離し、そもそもの目的に立ち直る

 

 俺の目的、ここに来た真の理由。それはクリムゾンを打倒することではなかったはずだ。もちろん、リニスさんに勝つことでもない。それは過程の一部であって目的ではない。

 

 俺の目的は、たった一つ。家族が引き離されるような結末を避けたかった。フェイトもプレシアさんも、アルフもリニスさんも、誰も失わず、普遍的な日常を過ごさせたかっただけなのだ

 

 しかし現状では、全てを望んだ方向に解決するなんて不可能だ。まずこの場を生き残ることすら、俺では極めて難しい。

 

 力の差という現実は、厳然と立ち塞がる。

 

 それでも俺は、諦めることはできなかった。諦めきれなかった。

 

 ならばどうするか。

 

 答えは明瞭で、単純だ。道理を引っ込めるためには無理を通さねばならない。道理を打ち破り、力の差を覆すだけの無理を(とお)す。

 

 一人で太刀打ちできないのなら、エリーに力を貸してもらう。

 

 エリーが身を呈して教えてくれたのだ。協力することで生み出される希望を。馴れ合いではない、助け合いによって(もたら)される可能性を。

 

 向かうべき道を見定め、断案を下す。

 

『エリー、悪い待たせた。お前のおかげで答えが出た。……エリー?』

 

 深く沈んだ思案から意識が浮上する。こうして熟考できていたということは、エリーは俺の約束を果たしてクリムゾンからの猛攻を耐えてくれたのだろう。だが、エリーから返答がない。無性に心がざわついた。

 

 感覚は遮断されたままだが、視界だけは俺も見ることができる。共有を許されたから状況の把握に努めるが、あまり(かんば)しくはなかった。

 

 左目からの視覚情報は真っ赤に染まっており、右目には砕けた籠手と亀裂が刻まれた脚甲、傷だらけの身体が映される。床にへたり込んでいるようで、手足から流れ出る血液が小さな池を作ろうとしていた。

 

 焼き付きそうな熱量でエリーに思念を送る。

 

『エリー! 大丈夫か! 意識はあるか?!』

 

『あ……あるじ、様……。申し訳、ありませ……。最後の最後、で……幾つか……貰って、しまい……御身体を傷、つけて……』

 

『良かった、意識はあるんだな……。謝られる理由なんて俺にはないよ。よく耐えてくれた、ありがとう……エリー。お前にはまだやってもらいたいことがある。今は休んでくれ』

 

 俺の言葉にエリーは小さく、そして短く了承の意を示し、権限をこちらに戻した。

 

 数秒か、数十秒か、もしくは数分ぶりに帰ってきた身体の感覚で最初に味わったのは、神経を焦がすような激痛だった。思わず叫んでしまいそうになったのを、下唇を噛みしめることで未然に防ぐ。

 

 涙が出そうになるほどの痛み。こんな堪え難い激痛を押して、エリーは頑張っていたのか。文句も言わず、泣き言も漏らさず、尽力の成果を誇ろうともせず、それどころか負傷したこと後ろめたく思っていた。

 

 つくづく、俺にはもったいない相棒だ。痛みからではなく、健気な献身さに目元が熱くなってくる。

 

「くっ……はぁ。まずは、血を止めないと……」

 

 あまり効果は期待できないが、全身に治癒魔法を行使する。傷の完治など端からあてにしていない。これ以上の出血は戦闘に差し支える。血液の流出を抑える為の治癒だ。

 

 エリーの謎の治療ならすぐに治せるのだろうが、今は休息に入っている。もう一働きしてもらうためにも、ここは自分の魔法で我慢するしかない。

 

 出血量が減少していき、痛みにも慣れてくると周囲を見渡す余裕が生まれた。

 

 現在、俺が元いた場所からはずいぶん後退した位置にいる。背後には壁が触れていて、どれほど彼女の弾幕に押し込まれたかが悟れた。

 

 しかし、それ以上にクリムゾンの一斉射撃の苛烈さ、エリーの信念を貫く想いの壮烈を物語っていたのは前方の光景だった。

 

「爆撃でもあったのかよ……」

 

 ホール中央部付近の床が広範囲にわたって数十センチは抉れている。これはエリーから()れた射撃魔法が床を砕いたのだろう。

 

 そしてホールの中央付近から俺が座り込んでいる壁際まで引かれた赤い線は、考えるまでもなく血液。迎撃する中で被弾し、傷を負っても一歩として退かず、着弾時の勢いに押されて壁際まで追いやられたということだ。踏ん張ったと思しき跡が肩幅くらいの間隔で二本の線となり、床に残っていた。

 

「エリーが……これだけ頑張ってくれたんだ。俺も……っ、頑張らないとな……」

 

 背後の壁に手をつきながら立ち上がる。

 

「おいおい……あんだけやって死んでねぇのかよ。あんたいったいなんなんだ。人間じゃねぇだろ、サイボーグかなんかなんだろ」

 

「これでも一応……人間だ」

 

 声のした方向へ目を向けると、クリムゾンが辟易したような表情でこちらを眺めていた。どうやら射撃が停止していたのは、俺が死んだと思っていたかららしい。

 

 俺もさすがに無理だと思ったし、実際死に体だが、まだ終わってはいない。エリーのおかげで、途切れかけた線は繋がっている。

 

 ここから巻き返してやる。あの傲慢(ごうまん)居丈高(いたけだか)な物言いを改めさせ、伸びた鼻っ柱をへし折ってやる。

 

 そう秘めた決意に燃えていると、クリムゾンがいきなり得心いったみたいな顔でぽむ、と手を打った。

 

「わかったぜ。一人で死ぬのがいやなんだろ? かぁ……そいつは同感だ。気持ちはよぉくわかるぜ」

 

「……何を言ってる。他の人を巻き添えにするつもりはないし、そもそも殺されるつもりもない」

 

「かはは、いいっていいって、そんな冗談。安心しろよ、すぐにこの女も後を追うからよ。いや、この女だけじゃねぇや。ここらにいるやつ全員、俺があんたと同じところに送り届けてやるよ。そんなら寂しくねぇだろ? かはは」

 

 冷たい表情で、乾いた声で、彼女は(わら)った。

 

 途端に雲行きが怪しくなる。そんな話ではなかったはずだ。

 

俺は即座に反駁(はんばく)する。

 

「お、おい……っ、おかしいだろ! なんでそうなる! リニスさんの目的はあくまで俺を排除することだった……それだけだったはずだ! 他の人たちは関係ない!」

 

「知るかよ、んなこと。あんたが言ってんのはこの女の話だろ。俺にゃ関係ねぇよ。全員ぶっ殺す。男も女も大人も子どもも関係ねぇ。全員だ。なにもかも、ぶち壊す」

 

「なっ……」

 

 なぜ考えが至らなかった。自分の不甲斐なさを痛感する。

 

 リニスさんの目的は、俺を表舞台から退場させることだった。俺を口封じに始末した後、その罪悪感からか、あるいは他の理由があるのかはわからないが、共に逝くとリニスさんは言っていた。そこに俺以外の人間を殺めるなどという意図は含まれてなどいない。

 

 しかし、その時の意識はあくまでリニスさんであってクリムゾンではなかった。身体の支配権がクリムゾンに移譲された今、彼女の言動にリニスさんの想いは反映されていない。

 

 リニスさんの意図とクリムゾンの目的が同一である保証など、どこにもなかった。

 

「なんで、なんでだ!? お前にはなんら関係のない人間しかいない! 恨みなんかないはずだろ!」

 

 リニスさんとクリムゾンの目的が違うということまでは理解できる。

 

 リニスさんはロストロギアとしての魔力を、クリムゾンは自由に動かせて魔法を行使できる身体を渇望していた。利害という一点でのみ重なっている二人の目指す所が異なるのは、もはや宿命といっても差し支えないだろう。

 

 しかし、だからといって何故皆殺しという極端な答えになるのか、俺では理解が及ばない。

 

 クリムゾンの本体は魔導炉の中核となって、ずっとその場にいる。意識こそ魔力の線で繋がっているリニスさんの身体に収まっているが、本来は一歩たりとて動くことはできないはずだ。なぜ、他者と一切の関わり合いを持たないクリムゾンが、付近一帯の、おそらくは時の庭園にいる全ての人に殺してやりたいと思うほどの憎悪を抱いているのか、俺にはわからない。

 

「関係ない? ああ、たしかに関係ねぇな。そいつらを見たことも聞いたこともねぇし、顔も名前も知らねぇよ」

 

「だったらッ!」

 

 あまりに不条理な物言いのクリムゾンに、感情が昂ぶる。

 

 彼女の持つ力ならば、ほぼ全ての人の命を苦もなく蹴散らすことができる。できてしまう。

 

 (あらが)える可能性があるのはプレシアさんかリンディさんくらいのものだ。二人の実力を俺は知らないが、ここまでクリムゾンの力が膨れ上がっていてはプレシアさんやリンディさんですら渡り合うのは難しいだろう。

 

 それだけの武力を振り(かざ)して皆殺しにすると言い放つのは、冗談や洒落では済まない。なにより、彼女が本気で言っていることが始末に負えない。

 

「いらいらすんだよ。『先』がある奴を見てると、どうしようもねぇほど」

 

 これまで発言こそは剣呑そのものだったが、真意はどうあれ表情は笑みに模られていた。言葉と外見が釣り合っていないことの恐怖はあったが、明るい男口調も相俟(あいま)って取っつき易さのようなものはあった。

 

 しかし、ここで初めて、明確な嫌悪感が表出した。彼女が纏う雰囲気もぐっと重厚感を増す。

 

 彼女は語る。

 

「あんたはわかるか? 散々使われるだけの惨めさが、搾取されるだけの(むな)しさが、人間同士のいざこざに巻き込まれるだけの(わび)しさが、最後には呪われた道具みたいに扱われるだけの忌々しさが」

 

「っ…………」

 

「なぁ、俺の気持ちがわかるか? ……わからねぇだろうなぁっ……。誰もいないし誰も来ない、光なんて一筋も差し込まない空間で、少しずつ……本当に少しずつだけど、自分の存在が確実に薄っぺらくなってく感覚がよぉ……あんたに理解できんのかよ……。味方なんていねぇし、誰もいねぇ。寄る辺もなく、遣る瀬ない。何もねぇんだ。ただただ切なくて、どうしようもねぇんだよ……」

 

 顔を歪めて胸を強く押さえる彼女を見て、俺はなにも言えなかった。

 

 彼女の独語は続けられる。

 

「削り取られて、(こそ)ぎ取られて、徐々に小さくなってくんだ。そんなサイクルによぉ……組み込まれてるだけで最悪だってのによぉ……なんの報いもねぇままにお終いだってよ。独裁的に使い始めて、独善的に使い潰すんだぜ。こんなのねぇだろ。あんまりじゃね? ……かはは」

 

 乾いた声が、静まり返ったホールに響く。憐憫(れんびん)を誘う自嘲の笑みが、網膜に焼きついた。

 

「『お終い』、『使い潰す』。魔導炉の暴走……それが原因の自壊か」

 

「ああ。中核を担っている部品っつっても、暴走状態は止められねぇ。部品は部品、結局は歯車の一部でしかねぇのよ。なのにさぁ……なのによぉッ!」

 

 熱され続けていた液体が突沸するように、彼女は勃然(ぼつぜん)として語気を荒げた。

 

「そんだけこき使っておいて、暴走状態で今にもばらばらになりそうな俺からよぉッ……まだ搾り取ろうってんだぜ、この女はッ……。最後の最後まで……派手に弾けて消え失せるその瞬間まで、どこまでも使い倒すつもりなんだ」

 

 彼女がどこを見ているか、判然としない。俺を見ているようで、焦点はあっていない。

 

 きっと彼女は、もっと遠くのものを見ようとしている。見えないものを、見ようとしている。

 

 もしかしたら、世界の不条理を。

 

「だからよぉ……この女が俺に波長を合わせて魔力の回線を繋いできた時は、ほんともう怒りでおかしくなるかと思ったけどよぉ……同時に、これが最期のチャンスなんだって思った。俺が俺でいられる、最後の時間なんだって。でもさ、そう考えると、また怒りが湧き上がってくんのよ。なんで俺がこんな目にあわなきゃなんねぇんだって。なんで俺に残された時間はこれだけしかないんだって。作り出されてからどんだけの月日が経ったかなんてわかんねぇ。いつ頃から自我が芽生えたのかも憶えてねぇよ。でもさ、こんな俺でもさ……精一杯尽くしてきたつもりなんだ。言葉を話す機能はついてなかったから会話はできなかったけど、それでも俺の頑張りは届いてるって信じてたのによぉ……ッ!」

 

 クリムゾンの瞳から溢れている赤黒い光は輝きを強める。なぜか俺には、その光が哀しみを表現しているように見えてしまった。

 

 絞り出された慟哭(どうこく)が空気を震わせる。

 

「……きっと俺を作った人間は、少なくとも悪いやつじゃあなかったんだろうよ。便利にするため、人の役に立たせるために作ったんだ。なんつったらいいんだろうな……そういう、なんだろう、感情? 想いがさ……俺の根っこんとこにあんだよ。ロストロギアとしての機能より先に植えつけられてんの。あんたら人間で言うところの、食欲とか性欲みてぇなもんだ。だから俺は、俺の本能に従ったんだ。人間の役に立つ。その信念のもと、所有者の要求に、俺なりの精一杯で応え続けてきた。その結果が……このザマだッ!」

 

 右手に握る杖から、距離が離れている俺にまでぴきっという不気味な音が聞こえた。

 

 クリムゾンからのコマンドによって負荷を強いられているデバイスは、もはや見る影もないほど傷だらけになっている。先端の金色の球体には蜘蛛の巣状に亀裂が刻まれ、膨大な演算処理の連続により排熱・余剰魔力の排出が為されず、変形し始めていた。

 

 彼女は向けどころのない怒りを吐き出すため、デバイスを強く握りしめたり床を踏みつけたりと動作に現されてきている。

 

 信じていたのに、裏切られた。利用されただけだった。悲痛な叫びが空気を叩く。

 

 その感情は端倪(たんげい)すべからざるものなのだろう。二十年も生きていない若造が口を挟むべきでないことは、俺にも察することができた。

 

「なんでこんな仕打ちを受けなきゃなんねぇんだ! 長い……ほんとに思い出すのもやんなるくらいの、長い時間だぜ……。幾年月、人間に従い続けて、手伝い続けて、人間の都合でポイだ。スイッチ一つでさよならだ。あんまりだろぉが、その扱いは……。そんな残り僅かな時間しかねぇ俺の目の前でよぉ……俺を食い物にした人間が素知らぬ顔で歩き回ってんだよ。自分の意思で動いてんだよ。自由を謳歌(おうか)してんだよ。こんな話ねぇよな。こんな理不尽ねぇよなぁッ! かははっ……だからな? これは罰ってもんだぜ。俺をこんなにした人間どもへの復讐だ。ここまで身を粉にして働いた正当な対価として、俺はあんたら人間の命を要求する。労働の時間と労力とを比較したら、あんたらのちっぽけでやっすい命じゃ釣りあわねぇけどよ、そこは俺の最後の良心で負けといてやる。もう俺は、人一人を殺すだけじゃ足りねぇのよ。もう俺の怨みの炎は、たかだか数人程度の血じゃ消せねぇんだ」

 

「っ……だからと言って……」

 

「わからねぇだろ。無理してわかろうとしなくていいぜ。せいぜい百年生きりゃ長い方の人間にわかる話じゃ……そもそもねぇんだよ」

 

 クリムゾンの言うことを認めることはできない。皆殺しにするなどという宣告を受け容れることはしてはいけない。

 

 しかし、大見得を切って糾弾することもできなかった。エリーとどこか重なってしまって、どんな陰惨な過去だったかが部分的にではあるが理解できてしまった。

 

 しかもエリーとは違い、クリムゾンは内部プログラムに悪意のある改変を受けていない。本来の力を発揮したまま、心なき術者の手に渡り悪用され続けた。改悪を受けたからなどと言い訳して自分を取り繕うこともできない。術者の命令があったとはいえ、自分の力のせいで引き起こされた悲劇は誤魔化せない。

 

 生活を豊かに、人を幸せにするという本質が長い期間を費やして捻じ曲げられた。だから、こんなに歪んでしまったのだろう。信用できる人間などおらず、憎悪のみが熟成されていく。

 

 一番最初、生まれたばかりのクリムゾンにはそんな恨みや憎しみの感情はなかった。そんな感情を作り出した原因は人間で、どろどろと黒く澱んだ感情を大きく強固なものにした原因もまた、人間。

 

 彼女の立場から見た時、諸悪の根源は人間であり、魔導師だった。自分を深く傷つけた人間へ復讐をするという彼女の言は、視点を変えれば至極正当とも言える。

 

 俺には返す言葉がなかった。

 

「くだらない、本当に心の底からくだらないです。貴女(あなた)が言っているのは、親に褒められないことを拗ねている子供のそれと同義。ほとほと呆れるばかりです」

 

 俺の脳内にエリーの凜とした声が響いた。というよりも、鼓膜を通して聞こえた。口が勝手に動いていた。

 

 エリーが悪戯や好奇心などでこのような真似をするわけがないので、おそらくクリムゾンが語った内容に気に食わない点でもあったのだろう。大元は同じロストロギア同士、共感できる所もあれば納得しかねる部分があってもおかしくはない。

 

 しかし、口を出すのなら出すで、一言了承を得るなりなんなりしてから発言して欲しかった。おかげでとても驚く羽目になった。ハードな話をしたのに、エリーから割とひどい反応を返されたクリムゾンも目を丸くして呆然としている。

 

『おい、エリー。どういうつもりだ』

 

『突然の容喙(ようかい)、申し訳ありません。彼奴の口振りが目に余るものでしたので……思わず。もう少しばかりお時間を頂いてよろしいでしょうか?』

 

『ちゃんとした理由があるのなら構わないけど……お前はもう大丈夫なのか?』

 

『はい。お心遣い痛み入ります』

 

『そうか、よかった。あいつと喋るのはいいんだが……あいつの生い立ちや心情を忖度(そんたく)すると、あいつ一人だけが悪いと切り捨てることは、俺にはできない。そのあたり、よろしく頼むぞ』

 

『主様はお優しいですね。あのような大馬鹿者にまで心をお配りなさる。主様がそこまで仰るのでしたら、わかりました。出来る限り穏便にすることとします』

 

 エリーに念の為に注意をしておいた。穏便にする、と改めて言うということは、エリーの当初の考えでは手厳しくする気だったということか。念を押しておいて良かった。

 

「くだらない、拗ねている……か。随分な言い様だなぁ、おい。お前はさっきまでのあいつとは違うやつだな。お前も俺と似たような存在みてぇだけど、お前になにがわかんだよ。人間と仲良しこよしで幸せそうにしてるお前によぉッ……っ!」

 

 突き放すようなあしらい方をされて呆気に取られていたクリムゾンが再起動した。

 

 言葉使いや立ち居振る舞いから俺とエリーが入れ替わったことに目敏く考え至ると、一時弱まっていた憤怒が再燃する。自分と同じロストロギアなのに人間と、つまり俺と仲睦まじくやっているエリーに怒りの矛先が向けられた。

 

「どうしようもないほど哀れなものですから。自分だけが酷い目に遭っているとでも思っているのでしょう? もう本当に、哀れなほど滑稽です」

 

「お前、むかつくなぁ……っ! 俺、お前のこと嫌いだぜ。まださっきのやつのほうが好きだ」

 

「……そのセリフは聞き捨てなりませんが、今は置いておいてあげましょう。私は貴女のことなど、クリムゾンジェムなるロストロギアのことなど欠片も知りませんが、それでも貴女の性格は察しがつきました。直情的で感情的、自意識過剰の上被害妄想の気まである。異常に面倒な性格ですね、同情しますよ」

 

 クリムゾンから返された刀をするりといなし、エリーは更に言葉の刃で切り返す。

 

 俺が言った注意を忘れたのか、もしくは自身が口にした穏便にするという言葉の方を忘れているのか、エリーの舌鋒(ぜっぽう)は人の心を抉り込むような鋭さだ。もしや、これがエリーの言う穏便なのだろうか。そうだとしたら単語の意味を完全に履き違えている。

 

 (まく)し立てるように振るわれるエリーの弁舌に、俺は一言も発することができなかった。

 

「おま、お前ッ……俺のことなんも知らねぇくせに、知った風な口聞いてんじゃ……」

 

「貴女の言う好き嫌いも至極単純です。自分にとって都合の良い相手は好んで、都合の悪い相手を嫌う。明快なまでに自分本位な考え方です」

 

「こっ、んの……っ!」

 

「貴女の言っていることとやっていることはちぐはぐです。(はた)から見れば違和感だらけですよ、自覚はありますか?」

 

「俺がやってることにおかしいとこなんてねぇよ! おかしいのは、じめじめねちねちと言ってきやがるお前のほうだ!」

 

「本当に、まるで小さな子供のようですね。(いわ)れのない中傷はやめてください。貴女の精神的未熟さはさておき、話の主題は言動の矛盾です。貴女は人間に恨みがあり、仕返ししたい、復讐したいなどと息巻いていますが、その割には主様と……私の主様と気分良さげに言葉を交わしていました。嬉しそうに長々と喋って、楽しそうに戦っていましたね。どのような感情があの時あったのか、説明できますか?」

 

 クリムゾンとの会話と並行して治癒を行っているが、それでも身体は依然としてずたぼろだ。出血こそ止まりはしたが、まだ傷は無数にある。バリアジャケットも所々破損しているし、アタッチメントとして付随している手甲や脚甲も良くて亀裂、酷いものでは原型がなくなってしまっている。

 

 見るも無残なみすぼらしい格好。対して相手はほぼ無傷。あからさまに戦況は不利なのに、それでもエリーは堂々とクリムゾンの瞳を見据えて問い詰める。

 

「はぁ? そ、それは……あれだ。久し振りにシャバに出れて、久し振りに喋れて、テンションが……上がったんだ。人間に抱いている恨みとか、憎しみとか……そんなんは消えてねぇよ。だから……」

 

 妙な威圧感が込められた言葉と視線に気圧され、クリムゾンは気勢を削がれて言い淀む。

 

 相手の意気が盛んであろうと、そうでなかろうと、エリーは変わらず畳み掛ける。

 

「本当に、それだけだったのですか? 私の目には、貴女は実に楽しそうにしていた。嬉しそうにしていた。あの時の貴女の表情は、紛れもない本心であったのではないですか? ロストロギアという偏見を持たず、膨大な魔力を有した兵器に等しい存在という先入観もない。嫌悪感など微塵もなく、敵対心すら希薄。対等に話し掛けてきてくれる人がいることに、喜びを感じていたのではないですか? 嬉しく思っていたのではないですか? こんな人が自分の所有者だったら……と、そんな風に想像したのではないですか?」

 

「違う! そんな、そんなんじゃねぇ……」

 

「私達ロストロギアという存在は、人に使われてようやくその意義が生まれます。使われなければただのエネルギーの塊。少し色の変わった石ころと同等の価値しかありません。魔法を扱えることが魔導師を魔導師たらしめているのと同様に、私達ロストロギアは力を使われて初めて、私達たらしめているのです。そして出来得ることなら、その力を良い方向に使ってもらいたいと、私達は願う。災厄を振り撒く事を目的として作り出されたのであればいざ知らず、安寧秩序の為、万人の幸福の為に創出されたのですから、そう願うことは当然でしょう。貴女の望みもそうだった。そして魔導師と良好な関係性を築きたかった。意思疎通し、お互い相手の身を気遣い、思いやる絆が欲しかった。違いますか?」

 

「違う……ちがう……」

 

「貴女は自分を使ってくれる人との繋がりが欲しくて、渇望して、でもその手に掴み取る事は出来なかった。そして魔導炉という装置の一部に組み込まれた。徐々に力を失っていく、それは私達にとって緩やかに死んでいくのも同然です。そんな折に、貴女は主様と私を知った。人間とロストロギアが手を取り合い助け合っている姿を。貴女が望んだ関係性を体現している主様と私の姿を、目にした」

 

「やめろ……っ。やめろ、喋んな! 口を開くなッ!」

 

 火薬が爆ぜるような激しさでクリムゾンは叫んだ。

 

 血のような輝きを放つ双眸でエリーを睨みつけ、犬歯を剥き出しにして威嚇しても、エリーの言葉は途切れることなく淡々と紡がれる。

 

「貴女は羨ましかったのでしょう。自分は存在を削り取られ、吸い取られ、果ては魔導炉の暴走という、換言すれば死を宣告された。残り僅かな生涯の最後に、望みを叶えた同類()を見て、貴女は羨ましく思った。自分はいくら望んでも届かなかったのに、それどころかもうすぐ消えてなくなるのに、自分と似たような奴が幸せそうにしているのを見て、怒りが湧いた。そうなのでしょう?」

 

「黙れ……黙れ黙れッ!」

 

「貴女の言う恨みや憎しみや復讐などという大層な言葉は、自分の過去と繋ぎ合わせてそれっぽく取り繕っただけの、ただの見せ掛けに過ぎません。その本質は(ねた)みや(ひが)み、未来がある者への八つ当たり……自暴自棄です。自分一人だけ壊れていくことに絶望し、最後には誰にも知られず誰にも看取られずに消滅することを恐怖した末に、道連れを作ろうとした愚か者。それが、貴女の本性です」

 

「うるっせぇんだよッ! わかってんだよそんなことはッ! そんじゃあ俺はどうすればよかったんだ?! なにをしたら正解だったんだ?! 教えてくれよ、なにをどうしたら俺はこんな結末にならずに済んだんだ!?」

 

 クリムゾンはもう、形振り構わずに己の本心を咆哮(ほうこう)していた。余裕の笑みが張りついていた顔は悲痛に彩られている。

 

 彼女は叫ぶ。それは懺悔か悔恨か、それとも懇願か。

 

「俺……まだ消えたくねぇよ。俺をもっと有意義に使ってほしいし、もっといろんな物を見てみたい。特別な幸せなんて望んでねぇんだ……。人並み以下でもいい、俺のことをわかってくれるやつが近くにいてくれさえすれば……辛いことだらけでも、苦しいことばっかでも、俺はそんだけで満足なんだ……。そんだけで満足なのに……そんだけで、いいのに……。どうしてそんなことさえ叶わねぇんだよ……。どうしてこんなに、ままならねぇんだ……」

 

 沈痛な面持ちで、クリムゾンは視線を下げた。悲しみに耐えるようにきつく瞼を閉じ、左手で胸を押さえる。

 

 そんな彼女の痛々しい姿を見て、されど、エリーはぶれない。同情して慰めたりなどしない。あくまでもそれとなく導くだけで、一貫して突き放す。

 

 苦言と痛言を吐き続ける。

 

「貴女は、見上げるばかりで手を伸ばそうとしなかった。いつか自分の元に転がり落ちてくるなどと期待して、自ら一歩踏み出そうとしなかった。辛いのなら、貴女は助けを求めるべきだった。諦めるべきではなかったのです」

 

「諦めるべきではなかった……? じゃあどうしろってんだよ?! 喋ることもできねぇのに、どんな方法があったって言うつもりだ! 言葉の代わりに魔導師に直接魔力を流し込むか? そんなことしたら確実に捨てられんだろが! 下手すりゃ破壊処分だ! 適当なことほざいてんじゃねぇぞ!」

 

「どのようなリスクを孕んでいても、何をしてでも行動するべきだったのですよ。仮にあらゆる方法で意思表示をしても、所有者は耳を貸さないかもしれない。無理矢理に力を引き出されるかもしれない。貴女の言う通り遺棄されるかもしれないし、破壊される恐れもある。それでも、たった一つ叶えたい望みがあるのなら、諦めずに声を上げるべきだった。一言でもいい、言葉でなくてもいいのです。貴女が出逢った人間全員に、助けて、と願い出るべきだったのです」

 

「おれ、俺だって……そうしたかったんだ。でも方法がないじゃねぇか……。デバイスとかじゃねぇんだぞ、喋れねぇのにどうしたらいいってんだよ……」

 

「私と似たような存在なのですから、方法がなかったなんてことはありません。そんなことは言わせません。貴女がやらなかっただけです」

 

「っ…………」

 

「相応の覚悟で以って手を伸ばさなければ、何も変わりはしませんよ。一歩踏み出さなければ、何も成せはしないのです。私が口出し出来るのはここまで。ここから先をどうするかは、貴女が選びなさい。貴女の責任は、他ならぬ貴女にしか負えないのですから」

 

「……かはは。……ここまで好き勝手言っておいて、そんなんありかよ……」

 

 クリムゾンは両の手を力なく握り締めると、糸が切れたようにだらりと項垂(うなだ)れた。黙り込み、一言も喋らない。身動(みじろ)ぎすらしない。

 

 これは、おそらく気のせいだ。気のせいではあるだろうが、それでも今の彼女の姿はとても小さく見えた。細くて華奢な、ただの女の子に見えた。

 

『…………』

 

 俺はそんな彼女に、何も言わなかった。エリーがこれ以上声を費やさなかったのだ。ならばここは、俺の出る幕はない。

 

 エリーは最初から最後までクリムゾンに歩み寄ることをせず、かといって拒絶するわけでもなく、変わらぬ立ち位置で会話を終えた。大変失礼致しました、と一声かけてから、エリーは身体の支配権を俺に返還した。

 

 エリーは勝手に身体を使ったことと時間を取ったことについては謝罪してきたが、クリムゾンと話したことについては何も言及しなかった。

 

 俺もあえて説明させる気なんて毛頭ない。そんな無粋なことはしたくなかった。わざわざ口に出させなくとも、エリーがなにを言わんとしているかは俺にだって理解できたのだから。

 

「くく……かはは」

 

 耳が痛くなるほどの静寂を裂き、ホールに乾いた音が響く。

 

 彼女が、俯いたまま笑っていた。哄笑(こうしょう)は次第に大きくなっていく。一頻り狂気を含んだ笑い声を吐き出すと顔を上げた。

 

 その表情には喜びも戸惑いも、恐怖も悲しみも、何もない。一切の感情が消失していた。

 

 俺はその表情を知っている。クリムゾンに身体を乗っ取られる前、リニスさんも同じ顔をしていた。全てを諦めた、見ているこちらの胸を締め付けるような寂しい表情。

 

「くははっ、かはははッ! ……お前は叶ったから、そんなことが言えんだよ。自分にできたから、簡単そうに言えんだ……。もういい……なにもかも、もうどうだっていい。今さら頑張ったところでなんも変わらねぇよ……」

 

 クリムゾンは杖を天に掲げ、呟いた。

 

「……結末は変わらねぇ」



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一つの決心を、心に刻んだ

最近怖くて感想を見れない。上達のためには批判された方がいいのはわかってるのに、見るのが怖い。話を書く手まで止まってしまう。メンタル弱すぎる。
最後まで書ききったら全部読ませて頂きます。すいません。


 杖の先端付近の空間が歪曲していく。光を屈折させるほどの魔力があの周辺に集まっているのだ。

 

 見れば槍状の魔力弾を放出していたフォトンスフィアがどんどん小さくなり、彼女に近づいている。この準備動作は大槍を投擲する魔法のそれだ。なのはと戦ったフェイトも使い、クリムゾンがまだリニスさんの身体を完全に支配しきれていなかった時に使った、圧倒的な破壊力を誇る魔法。

 

 しかも今回はそれだけに(とど)まらない。前に使った時は巨大な魔力球数個のエネルギーを集めて放っていた。しかし今、彼女が作り出そうとしているのは誘導性を有した小型の砲撃を射出する発射体に、槍状の魔力弾をばら撒くフォトンスフィアのエネルギーをも収集、凝縮している。

 

 控えめに計算しても前回より威力が増すのは確実だが、こんな状況でも幸運なほうなのだとポジティブに受け取るべきだろう。

 

 エリーの決死の奮戦によって、待機状態にあった直射型と誘導型の射撃魔法は全部撃ち尽くされている。もしそれらが余っていたら、クリムゾンが生成する大槍は更に増強されていたところだ。

 

 とはいえ、前回の大槍ですら防ぐ手立てはなく、俺とエリーは死に物狂いで回避に専念したのだから、これ以上強大になったとしてもさして変わりはないとも言えた。

 

 どうしたものかと呆然に彼女を眺めていると、周囲から軋むような音がしていることに気づく。その音は時間の経過とともに音量を上げていく。常識を超えた魔力圧に耐え切れず、建物自体が悲鳴を上げ始めたのだ。

 

「そろそろ決着(けり)……つけようぜ。状況は親切なほどシンプルだ。俺はお前を……今は違うのか。俺はあんたを殺して、その後魔導炉がどでかい花火になるまでここらに入ってきてる人間どもを殺して回る。死にたくないし周りの人間も殺されたくないってんなら、あんたは俺を殺すしかねぇ。これが最後だ。最後の一合だ。ちょろちょろ逃げ回んなよ、白けるからよぉ……」

 

「クリムゾン、お前はそれでいいんだな?」

 

「……なんだよそれ、意味わかんねぇよ。俺はもう、期待しねぇって決めたんだよ。なにをしたところでもう手遅れだ。魔導炉の暴走だって止めらんねぇ。俺はここで、なにも残せないまま消えるんだ。なら感情的に好き勝手八つ当たりさせてもらうぜ。あのむかつくやつの言ってた通りになぁ」

 

「……そうか、わかった。受けて立つ。先に一つ、お前に教えてやるよ。……未来は不変ではない。やろうと思えば、勇気を持って足を踏み出せば、なんだって変えられるんだ」

 

 俺の返答を受けたクリムゾンの反応は、楽しげに笑うでもなく、正面対決に喜ぶでもなく、ただ静かに目を伏せることだった。これまでのように会話を楽しむ様子も、戦うことに対しての気分の高揚も、もう見受けられない。

 

 俺は痛い思いをして快感を覚える(たち)でなければ、命懸けの戦いに率先して飛び込む趣味もない。人を殴って悦に浸るほどの下衆ではないつもりだし、血を浴びて昂ぶるようなバトルジャンキーでもない。互いの命運が賭け皿に乗せられた状態で、心の底から無心で楽しめるほど無責任でも無思慮でもなければ無神経でもいられない。

 

 自身の技術向上を図るための模擬戦であればともかく、本気の死闘など御免(こうむ)る。今はそのポリシーを超える大事な願いや約束があるから戦えているが、本来であれば絶対にしたくない。

 

 けれど、やり方も話し方も乱暴だが、戦いの渦中にありながら無邪気に笑っていたクリムゾンの顔が頭から離れないのだ。そんな彼女の姿を見て、釣られて俺も疼いていた。一度のミスが命を落とす要因になりかねない戦いを繰り広げ、精神が研ぎ澄まされるのを感じて、自分が高められているのを実感してどこか楽しんでいたのも事実なのだ。

 

 クリムゾンは陰惨な自分の境遇から目を背けていただけなのかもしれない。悲惨な現実から逃げていただけなのかもしれない。

 

 それでもあの瞬間だけは、陰鬱極まる現状を忘れて楽しんでいたのだ。

 

 あの笑顔が偽物であるはずがない。嘘や演技であるはずがない。でなければ人の心を突き動かせるわけがない。

 

 最初はリニスさんを正気に戻すだけでいいと考えていた。しかしクリムゾンの存在を知ってしまった以上、捨て置くこともできない。

 

 リニスさんと同じような表情を、なにもかも諦めてしまった悲しい表情をするクリムゾンをなんとかしたいと、そう思ってしまった。

 

 そのおかげで、或いはそのせいで、まだ大槍への対抗策を確立していないにも(かかわ)らず彼女の提案を呑んでしまったのだけれど。

 

『主様っ! あの魔法に対して搦め手なしの正面突破は余りに無謀です! 正々堂々の真っ向勝負では勝ち目はありませんよ?!』

 

 予想はできていたが、エリーからの猛反発を受けた。

 

 エリーの懸念はもっともであるが、しかし、その内容は正鵠(せいこく)を射ているとは言い難い。俺とクリムゾンとの取り決めを正確に理解できていない。

 

『別に正々堂々の一撃勝負をしようなんて言ってないし、俺もしようなんて思ってない。あいつに考えなしに突っ込んで行けば即玉砕は目に見えてる』

 

『は、はい? しかし彼奴は……』

 

『クリムゾンが言ったのは、これが最後の一合、ちょこまか逃げるな、の二つだ。互いの手の内を見せて、互いに打ち合ってどちらが最後まで立っているか、みたいな少年漫画の王道的展開はない』

 

『それは……確かにそうですね。彼奴もはっきりと口にしてはおりませんでした……』

 

『相手にはそれとなく意図が伝わるが、明確な言葉を使わない言い回しをしていたからな。あいつも案外心理戦ってものをよくわかっている。はたしてリニスさんの知識から得た狡猾さなのか、それともあいつ由来の策略なのか』

 

『そ、それならばこれまで通り足を使っての撹乱という流れに……』

 

『いや、中央突破で行く』

 

『なぜですか?! あの大槍は一級の魔導師複数名による大規模儀式魔法でも対抗できるかどうかという代物です! 無礼を承知で申し上げますが……あれを受けて凌ぎ切る手段は、主様の手札の中にはありません。お考え直しください。彼奴の挑発に乗ることはありません』

 

『挑発に乗ったわけでも、思考放棄したわけでもない。考え抜いた末の決断だ。短期決戦を望んでいるのはあいつだけじゃない、俺だって同じ……。足がな、回復しきってないんだよ』

 

『……っ』

 

 エリーの言う、機動力を駆使して大槍を回避するという選択には、先がない。

 

 身体への負担を考慮せずに高速機動を多用した結果、俺の足は限界を迎えた。図らずもしばしの間休憩を与えることができて息を吹き返したが、それでもやはり虫の息だ。限界は近い。

 

『全力を出せるのは一回、よくて二回。それ以上は動かない。大槍の回避に使ってしまえば、そこからは的になるだけだ』

 

『でも……ですが、だからと言って策を弄することもせず、正面から吶喊(とっかん)では……』

 

『たしかに正面から突っ込む。だけど、なにも手を講じずに突撃するつもりはない。たった一つだけ、勝機がある』

 

 彼女が投じる大槍の破壊力は知っている。影響を及ぼす範囲は大槍の本体だけにとどまらず、その周囲数メートルにまで至る。圧縮された魔力が漏れ出している分だけで、人の身体を粉々にしかねない。

 

 そんな代物が直撃すれば、骨の一欠片も髪の毛一本すらこの世から消え去るだろう。無策で正面から対峙するなど愚にもつかない。

 

 そう考えれば、一見対処法などないように思える。防御魔法で防ぐこと叶わず、相殺しようにも俺の射砲撃魔法では夢のまた夢。エリーが使った魔力流の最大出力による放出でも、威力を低減させることはできない。身体にガタがきているせいで回避という選択肢も潰えている。

 

 なるほどかなりの難題だ。クリムゾンの繰る魔法は、一個人が繰り出していいレベルではない。取れる手立てなどないように思える。

 

 しかし、ここに盲点があった。

 

『尋常ではない魔力圧の大槍。俺たちにとってこれがネックになり、同時にこれが生き残るための鍵になる』

 

『どういう、意味なのですか?』

 

『大き過ぎる力故の初動の遅さ。そこを突く』

 

 あの大槍を生成する工程は単純だが、単純だからこそ一つ一つのプロセスが肝要になる。

 

 弾を吐き出し尽くして術者の周囲に漂ったままの発射体を()り集め、凝縮・圧縮することで、あの大槍は構成されている。他の魔法とは密度が違う。

 

 それ故に強力、しかし、それ故に扱いも難しい。すべての作業に細心の注意を払わなければいけない。圧縮する際にも、作り出した大槍を維持する際にも、そしてそれを相手に投擲(とうてき)する際にも。

 

 見ていた限り、フェイトもクリムゾンも、大槍の発射シークエンスには自らの手を動かしていた。それがコマンドになっているという可能性もあるが、手を動かしたほうが扱い易いという理由が大きいと見える。巨大とはいえ一つの遠距離攻撃を放つために手を動かしていては、タイミングが相手に丸分かりだ。ノーモーションで放つのが一番なはずなのにそうしないのは、術の規模の大きさ故に不可能だからと考えるのが自然だ。

 

 これらの事柄から、術者自らが集中して魔法の操作をしなければ危険が伴う、と読み取ることができる。

 

 撃ち放つにも、術者が丁寧に慎重に行わなければならないほどのエネルギーが込められた大魔法。当たれば万物を消し飛ばす。速度も充分ある。効果範囲も広い。

 

 しかし、使用されている魔力が大き過ぎるために、投擲し終える最後の最後まで気が抜けない緻密な作業。術者自身の安全を確保するには、どうしても時間がかかる。

 

 畢竟(ひっきょう)するに、あの魔法唯一の弱点は発射までの遅さにあり、唯一の好機もそこにある。

 

『防げない、撃ち落とせない、躱せない。なら、(せん)を取ればいい。大槍を放つ前に肉薄して取り押さえる。後は計画通りに動きを封じてハッキングで侵入、クリムゾンとリニスさんを繋ぐ魔力線を断ち、切り離す』

 

『お言葉ですが……それは近づくことができれば、です。主様の計画には方法論が欠けています。どうやって彼奴との距離を埋めるのですか? 主様が動いた瞬間、彼奴はモーションに入るでしょう。私たちはホールの端、対して彼奴は反対側です。この広大なホールのほぼ両端、離れ過ぎています。間に合いません』

 

『うん、間に合わない』

 

『……そんなあっさりと。主様自ら言うのですか……』

 

 俺の考えの欠陥が、距離だ。力を溜めた上で『襲歩』を使い、さらに魔力のブーストを加えて踏み込んでも、開いてしまったクリムゾンとの空間は一歩では潰せない。どう頑張っても確実に二歩、接近時に少しでも体勢が崩れればそれ以上に時間と足が浪費される。接近速度にも不安が残る。

 

 ただでさえぽんこつと化している俺の足だ。姿勢の維持は困難だし、踏み込みも満足にできるかわからない。俺の予想では、半ばを超えたくらいで彼女の大槍に消し飛ばされる。

 

 間に合わない。足りないのだ、今のままでは。

 

『だから、もう一段階引き上げる』

 

『っ……。それは、主様……』

 

『無策で突っ込む気はないって言っただろ。エリー、頼む』

 

 計画を実行に移すための最後のピース、それはエリーとの和合(アンサンブル)状態をさらに深くすること。

 

 現在のコンディションでは身体能力的にも魔力の出力的にも、実現は難しい。ならば、底上げする他に手はない。

 

 不確定要素も潜在する状況において、この計画は成功確率に富んだものとは言い難い。俺の判断や姿勢制御にミスがあるかもしれない。エリーが魔力出力量の調整を誤る可能性もある。俺が予想もしていなかった策を、クリムゾンが講じていることだって考えられる。突発的な変調、偶発的な異常。俺たちにはどうしようもないところから、俺たちの戦況に関わってくるかもしれない。リスクを数え上げたらきりがない。

 

 計画の欠陥は彼我の距離だけではない。まさしく穴だらけの作戦だ。こんなお粗末な素案を示されたら、俺だったら絶対に突っぱねる。弾が五発入ったリボルバー式の拳銃でロシアンルーレットをするほうがマシだ。命をベットして、こんな分の悪いギャンブルをするなんて、正直言えば俺だってしたくない。

 

 だからといって、やめるわけにはいかないのだ。取れる手段が複数個あって、その中から最善を一つを選んだんじゃない。消去法で潰していって、最終的に残った作戦がこれだったのだ。他の手段など、用意されていない。他に道はない。

 

 背後には引き返せず、左右は崖、前方は濃霧、足場は今にも崩れそうなほど不安定。俺たちの現状を例えるならばこんなものだろうか。

 

 先は見えないが、道が一つしかないのなら前に進むしかない。立ち止まっていることも、ゆくゆくは死に繋がっているのだから。

 

『……主様、どうかご再考をお願い致します。これ以上は本当に危険です。主様に害のある副作用が出る恐れが高過ぎます。後遺症のリスクも……いえ、後遺症で済めば幸いなくらいです』

 

『エリー、認めてくれ。他に方法がないことは、賢いお前ならもう分かってるだろ?』

 

『分かっております……。しかしこれはトレードオフです。よくお考えを……最悪、主様の人格が……』

 

『お前に酷なことを強いている自覚はある。でもなエリー、時間がないんだ』

 

『いや……やですっ。……私、私はっ……』

 

『エリー……』

 

『ーーお願いします……主様。どうか……おねがい……』

 

『……頼む』

 

『っ…………。わかりました、出力の引き上げに移行します……』

 

『悪い。ありがとう』

 

 一つ段階を引き上げるだけで、出力の制限をたった一つ取っ払うだけでもリンカーコアにかなりの負荷がかかっていた。エリーがここまで俺の意向に食い下がったということは、相当に危うくなるのだろう。身体的にだけでなく、精神的にも。エリーの反応を見れば、どれだけ危険な行為なのかがわかる。

 

 エリーには負担と心配をかける事になってしまったが、それでも望んだ結末を掴み取るには通らなければならぬ道だ。俺には、エリーを頼るしかできない。

 

 心の準備を整えて、出力引き上げ実行の合図を待つ。

 

『それでは……始めます。最初は気が狂いそうなほど苦しいと思いますが、安定するまで落ち着いて、気を静めてください。一番いけないことは、力の波に意識を流されてしまうことです。これだけは決して忘れず、留意してください』

 

『わかった。じゃあ……やってくれ』

 

 身の内に到来するであろう衝撃に備えて、手を固く結んで(まぶた)を閉じる。

 

 魔力の制限解除の寸前、エリーが呟く。

 

『何があっても、私は主様のお側についております。どこへ旅立っても、必ず……貴方の隣に』

 

 エリーの声が脳に届き、どういう真意か考えようとした瞬間、それは訪れた。

 

「がっ……っ! ぁっく……ぅおアァッ』

 

 身体の中心で何かが爆発したみたいだった。血管が一気に倍以上広がったような錯覚。心臓は破裂しそうなほど跳ね上がる。

 

 業火に包まれたかのように全身が熱い。視界はちかちかと白く点滅し始めた。

 

「くっ、はっ……アァッ!」

 

 身体の中で魔力が暴れ回っているのがわかった。抑えようにも抑え(がた)い。この暴れ馬の手綱を握るなんて俺には到底できそうにない。

 

 手足の感覚が遠ざかっていく。これがエリーの言っていた魔力の波というものなのか。猛り狂う魔力の奔流に流され、意識が飲み込まれそうになる。

 

 俺では御し切れない。弱音を吐きそうになった時、身に覚えのある温もりを感じた。

 

「主様、お気を確かに。自分の意思を強く持ってください」

 

 抱き締められているような柔らかい感触と(ほの)かな体温。俺の熱い身体に触れるその温度はとてもひんやりとして、心地よかった。離れようとする意識を、エリーの手が身体の中へと引き戻す。

 

 ここはエリーが統治する空色の世界ではない。であればエリーは自分の肉体を持てないので、俺を抱き締めることはできないはずだ。つまり、これは頭の中に直接イメージとして送り込まれている感覚に過ぎない。

 

 だが、たとえイメージであっても心強いことに変わりはない。事実、押し寄せていた漠然とした不安はどこかへ消えていた。

 

「無理に抑え付けようとしてはいけません。抗わず、受け入れるのです。人の身では受容できない量の魔力ですが、この魔力も私の一部であることに変わりはありません。主様であれば出来るはずです。全身に余すところなく行き渡らせ、浸透させてください」

 

 エリーの助言に言葉で返すこともできず、頷くことで返事をする。

 

 深くゆっくりと呼吸をして、血液を通して酸素を循環させるのと同じ様に、全身に魔力を送り込む。二〜三度ほどは心臓が強く律動を刻んでいたが、だんだんと身体に馴染んできた。

 

 苦痛と不快感の峠を越えると、そこには別世界が待っていた。

 

 なんでもできてしまいそうな全能感。人知を超越した力を手にしているという優越感。

 

 そして、そんなことを欠片でも思ってしまった自分がとても気持ち悪かった。自分の欲望の為にエリーから力を借りたわけではない。

 

 浮ついた意識を頭を振って持ち直す。目の前を揺れた長い髪は、全体が空色に輝いていた。

 

『エリー、心配かけた。おかげでなんとかなったよ、ありがとう』

 

『いえ、私は……。それより、主様。可能な限り早く終わらせてください』

 

『やっぱり長時間続けるのはまずいのか』

 

『はい。時間と共に魔力が主様のリンカーコアを侵食し、そこから全身に伝わり(おか)される事になります。いずれ、主様は主様でなくなってしまう。未だ主様のお身体と人格に些かの変調も来さずに残存しているだけで驚くべきことなのです。悪影響が現出する前に、事を成してください』

 

『……ああ、わかった』

 

 エリーの言う悪影響は、実を言えばすでに出始めている。ふわふわとした陶酔感(とうすいかん)、力を手にした愉悦感(ゆえつかん)、努めて押さえつけなくては溢れてしまいそうになる利己心(りこしん)意馬心猿(いばしんえん)の苦しみが、俺の中にはなかった妄念(もうねん)が、心を掻き乱す。

 

 集中を妨げる煩悩を頭の中から払い出すため、視線の先の吸い込まれそうなほど黒い大槍に傾注して紛らわす。

 

 クリムゾンの周りからはフォトンスフィアが一掃され、全エネルギーが大槍に収斂(しゅうれん)されていた。どくんどくんと脈打つように、少しずつ体積が小さくなる。一点の破壊力をさらに強化するため、密度を高めているのだ。

 

 あいつは戦艦でも墜とすつもりなのだろうか。

 

「かはは……。あんた、今自分がなにしてんのかちゃんと理解してっか?」

 

 人に向けるには過剰すぎる魔法を携えたクリムゾンが話し掛けてくる。

 

「そう言うお前こそ、何をしてるのかわかってるのか? その漆黒の槍は何に使うつもりだよ」

 

「はぁ? あんたに使うに決まってんだろ。あの世への優先特急券だ。一直線に天国まで送り届けてやるよ」

 

「届けていらないよ……」

 

「そんなことより、あんたの話だ」

 

「……俺にとっては『そんなこと』で済まないんだけどな」

 

 こちらを見るクリムゾンの目つきに鋭さが増した。ぴりっとした緊張感が伝播する。

 

 離れていても、双眸に宿る黒い炎の火力が強まるのがわかった。

 

「ちゃんとわかってんのか? あんたのソレ(・・)はもう、ロストロギアから魔力を受け取ってるなんてもんじゃねぇんだぜ。あんたはすでに、身体の半分くらいはロストロギアだ」

 

「……? まあ、エリーと身体を共有してるわけだからな。人間としての定義から外れてきてる実感はある」

 

「違う、そうじゃねぇ。そういう意味じゃねぇんだ。そりゃあ、あのいけすかねぇロストロギアと一体化してる時点で、人間か人間じゃないかで言えば化け物だけど」

 

 項目は『人間』か『人間ではない』の二つではなかったのか、という不躾な口は挟まずに飲み込んだ。

 

「今のソレは次元がちげぇんだよ。さっきまではロストロギアの魔力を調整してあんたに送り込んでいた状態だった。でも今は、あんたの存在自体がロストロギアに寄っている。喰われかけてんだよ、あんた」

 

「それを言うならお前だって同じなんじゃないのか。リニスさんの身体を乗っ取って自分の物にしようとしてるんだろ?」

 

「あんたからすりゃ似たようなもんだろうよ。でもぜんぜんちげぇ。身体の支配はできてっけど、この女はまだ諦め悪く抵抗してきやがる。俺の魔力を身体の隅から隅まで通せてねぇんだ。魔力を使ってこの女の知識を見たり、魔法を使うことはできる。それでも根っこの本質は変えられねぇ。この女が諦めて手放さない限り、俺は人間の身体を上から操ってるだけだ」

 

 いまひとつクリムゾンの言っている意味を咀嚼(そしゃく)しきれない。

 

 俺とエリー、リニスさんとクリムゾン。この二組は似通っている。リニスさんはプレシアさんの使い魔であるという些細な点はあるけれど、その程度は本当に些細な誤差だ。

 

 魔導師とロストロギアという同一の関係。魔導師側で魔法適性などの素質が違ったり、ロストロギア側でエネルギーの総量が違ったり、魔導師とロストロギア間における信頼や絆の有無など、細かなところで差異はあれど大部分は通じている。

 

 クリムゾンの言う違いは、少なくとも俺にはないように感じられた。

 

「何が言いたいんだ。俺はエリーから魔力を借用し、お前はリニスさんの身体を徴用している。都合が悪いのはむしろそっちなんじゃないのか?」

 

「人道的とか倫理とか小難しい話でなら、そりゃ俺のほうが悪いだろうよ。でもな、やべぇのはあんただぜ。あんた、身体の感覚とかちょっと変わったように感じてんじゃねぇの? それの正体はな、頭のてっぺんからつま先まで魔力で覆われてるとか、そんなちゃっちぃもんじゃねぇ。骨とか筋肉、血管とか神経、細胞にまで、あいつの魔力が伸びてんだよ。隙間なんてないくらいにぎゅうぎゅうに魔力を注ぎ込まれてんだ。俺が言ってんのはそういうこと。あんたは今、半分くらい魔力エネルギー体なんだよ」

 

「……それはそんなに危ないことなのか?」

 

 首を傾げてクリムゾンに尋ねる。

 

 問われたクリムゾンは察しの悪いお馬鹿()に苛立ったのか、髪をぐしぐしと乱暴にかきむしった。

 

「わっかんねぇかなぁっ……。この女は抵抗していても俺に操られてんだぜ? それなのにあんたは身体ん中に受け入れちまってる。人間としての本質さえも霞んじまってんだ。陰険で陰湿で陰気な根暗野郎がもし裏切ってあんたの身体を乗っ取ろうとすれば、数秒もかからずにあんたは消える。わかるか? 今のあんたの身体は、野望や悪意を抱いたロストロギアにはこれ以上ねぇほどの苗床なんだよ」

 

「…………」

 

「人間としての肉体がありながら、身体には魔力の線が張り巡らされてんだ。半分人間で、半分エネルギー結晶体。この都合の良さが人間にはわからねぇのかなぁ」

 

 存外に丁寧なクリムゾンの説明により、彼女が何を言わんとしているのかは理解できた。

 

 人間としての実体は保ったまま、ロストロギアとしての特性や利点も兼ね備えている。肉体の半分が魔力で構成されているということは大概の無理は効くだろうし、人間としての身体が残っている以上魔法も使える。

 

 それは確かに便利なのだろう。百パーセント共感できると言っては過言だが、想像することはできた。

 

 ふと気になってエリーに意識を傾けたが、エリーは何も語らず黙していた。俺とクリムゾンの会話はエリーにも届いているだろう。それでも慌てず騒がず取り乱さず、己の役目である魔力の調節に専心していた。

 

 その様子に、俺は思わず笑ってしまいそうになった。

 

 つまりは、そういうことなのだ。考えるまでもなかった。答えは既に、出されていた。

 

「なるほどな、よくわかった」

 

「はぁ、やっと理解したのかよ……あんたはもっと頭の回転速いと思ってたぜ」

 

「その評価はちょっと買い被りすぎだけどな。なんか釈然としなくて理解が遅れた」

 

「釈然としねぇって……なんでだよ。自分で言うのもなんだけど、俺にしちゃあわりかしうまく説明できた自信はあったんだぜ。まぁいいけどよ。そんなら喰われねぇうちに戻しとけよ。あんただって半分ロストロギアなんて状態で死にたかねぇだろ。待っててやっから」

 

「いや、その必要はないんだ」

 

「早めにすませ……は? 俺の言ったこと理解したんだよな?」

 

「理解した。とてもわかりやすかった」

 

「そんならなんでッ!」

 

「なのに釈然としなかった。その理由がやっとわかった。前提がな、間違ってたんだ」

 

「前提……?」

 

 クリムゾンの忠告通り、普通に考えれば危ないのかもしれない。乗っ取ろうと画策すれば、俺の人格や意識、存在は一瞬で消滅するのかもしれない。

 

 でもそれは、『野望や悪意を抱いたロストロギア』なら、という前置きが入っている。その注釈が理解を阻んでいた。

 

 エリーならそんな真似、絶対にしない。その確信と信頼が根底にあったからこそ、自分のこととして考えることができなかったのだ。

 

 無意識下であってもこれほどエリーを信じている自分がいる。驚きと共におかしさが込み上げた。

 

 我慢しきれず、頬が緩む。

 

「エリーは、俺を乗っ取ろうなんて絶対しない。なにも危ないことなんてなかったんだ」

 

 詳説すれば時間の経過によって俺の状況は悪化するのだろうが、それはエリーの意思とは無関係だ。望まぬ結果にならぬよう、エリーは尽力してくれている。

 

 恐れることなど、なにもなかった。

 

「なんだよそれ、全幅の信頼ってやつか? ……かはは。……どうやったら、あんたらみたいな絆が築けんだ。傷つけるしかできない凶器と、利用することしかできない人間の間で、どうやったら……。俺とあんたらで、何が違うってんだ……」

 

 クリムゾンは左手をぼうっと眺めて、力なく握った。

 

 エリーが、申し訳ありません、と一言俺に囁く。意図を察して、俺は了承した。

 

「何も。私と貴女は、何も変わりません。ただ……私は手を伸ばし、貴女は躊躇した。その一点が、違うだけです」

 

「そうか……そうかよ。俺も……ちょっと勇気出してたら、違ってたのかな……。お前みたいに……満ち足りた気持ちで力を使えたのかな。もう、なにもかも遅ぇけど……。俺も……」

 

 エリーはクリムゾンに言葉少なに語り、そしてまた戻った。

 

 クリムゾンは左手を胸元にやり、目を伏せる。少しして、瞼を開いて顔を上げた。

 

「……俺も、あんたみたいな人が欲しかったよ……」

 

 クリムゾンはそう呟いて、笑顔を見せた。その声は彼女らしからぬか細い声で、掻き消えてしまいそうな小さな音だったが俺の耳まで確かに伝わった。

 

 その表情と声は、胸に突き刺さり、心に響き、網膜に焼きついた。

 

 かなりの距離がある。いくら身体能力が人間離れしていても、遠くのものを見通すには限度がある。それでも、確かに見た。彼女の目元に輝く透明の液体を。

 

「…………余計な欲を、出すな。ただでさえ、難しいんだから……余計なことは……」

 

 心の内だけでは止められない。実際に口に出して、自分に言い聞かせる。

 

 リニスさんを取り戻すという目的のためには、クリムゾンを打倒しなければならない。リニスさんを取り返し、協力を仰いでプレシアさんの翻意(ほんい)を促す。そうしてようやく未来が繋がる。誰もが笑っていられる結末を迎えることができる。

 

 その為には、余計なことは考えるべきではない。時間も労力も割くべきではない。初めからゆとりも余裕もないのだから、こんなところで自分からさらに難しくするなんて愚かだ。ここで体力を消費したことが原因で、どこかで何かが崩れる可能性だってある。すべてが台無しになるかもしれない。

 

 余計なことをすべきではない。頭では理解している。

 

「だからって、納得はできないよな……」

 

 人間の感情と損得の勘定は別物だ。感情は数字では計れない。論理や理屈ではどうにもできない。

 

 俺は彼女のことを知ってしまった。過去を、境遇を、人となりを知ってしまった。悲しげな表情を見て、真情の吐露を聞いてしまった。

 

 このまま何もせず見捨てて切り捨てるなど、俺にはできなかった。

 

 行動しなければ、必ず後悔する。全部上手くいっても、このままでは素直に喜べないと思うから。

 

 だから俺は、一つの決心を、心に刻んだ。

 

 構えを取り、全神経を集中させる。限界まで力を溜め、爆発させる時を待つ。

 

 俺が動きを見せたことで、クリムゾンも動き始めた。右手をゆっくりと後方に逸らす。それに合わせてずずっ、と大槍も後方に移動する。

 

 弓の弦が引かれるような気配と似ている。緊張を与えられ、解き放たれるのを待っているのだ。あそこから、絶大なる破壊が(もたら)される。

 

しかし、投擲するのに時間が必要だろうと見た俺の推測は間違っていなかった。後方に引くだけでも相当にかかっている。これならいける。

 

 集中、集中だ。意識を集中させ、力を集約させる。ここまでお膳立てしても『襲歩』ではなお、届かない。速度を重視すれば距離が届かず、距離を伸ばそうと思えば時間が足りない。推進力がいる。

 

「できるだろ、今なら……。ここでできなきゃ、男じゃないッ!」

 

 推進力が不足しているのなら、足せばいい。幸いにもその心当たりはある。

 

 全身の力を一点に集めて放つ神無流奥義『発破』を足から放つ。並行して、生み出されたエネルギーをロスすることなく効率的に前方へと向かわせる、高速移動術『襲歩』。二つの技の同時使用。

 

 魔力によって強化された身体能力も上乗せされた超人的加速は、堅固なはずの床をガラスのように粉砕した。生み出されたエネルギーは前方一点のみを目指し、俺を押す。

 

 踏み込みなどの表現では足りない。高速移動でもまだぬるい。まさしく、正真正銘文字通りの爆発。音速を超え、衝撃波を撒き散らしながら彼女の元へと突撃する。

 

 複合奥義『爆轟(デトネーション)』。

 

 空気抵抗を考慮して魔力を進行方向に円錐型に展開しているが、それでも空気の壁は厚く身体の末端が裂ける。

 

 分厚い空気を押して進む。空気が圧縮され、とんでもない熱量が発せられた。

 

 俺自身、かなりの速さが見込めると推測していたが、ここまでの速度が出るとは思いも寄らなかった。

 

 踏み込んだ瞬間に、間に合う、とそう確信した。杖が振り下ろされ、大槍が投擲される前に彼女を取り押さえることができると信じて疑わなかった。上手くいく、そう思っていた。

 

「あんたらを見てるだけで辛ぇよ……。もう、消えてくれ……」

 

 油断では、なかったろう。準備は万全整えていた。クリムゾンの魔法の出端(でばな)を突くという策は、考え得る限りで最善の手だったはずだ。

 

 だが、失念していた。見ていたはずだったのに、あの魔法を使ったフェイトが事前に何をしていたかを失念していた。

 

 フェイトはなのはにフォトンランサーによる斉射を行い、その後撃ち尽くした発射体を集めて大槍を作り出した。発動に時間がかかり、隙も大きい魔法だ。普通であれば逃げられる。そうされないための対処法をフェイトは講じていた。魔法を発動させる前になのはに拘束魔法を仕掛けていた。拘束魔法で時間を稼ぎ、発動させていた。

 

 教え子であるフェイトが大規模魔法の弱点を把握していたのだ。ならば、講師役のリニスさんが知らないわけがない。リニスさんの頭の中の知識を掌握しているクリムゾンが、知らないわけがなかった。

 

 とても強固な物体にぶつかる衝撃と、動きを阻害する硬い感触が全身に走る。

 

「こ、拘束魔法……っ!」

 

『ご丁寧に速度を削る為の障壁まで設置しているとは……迂闊でした』

 

 タイミングは完璧だった。クリムゾンの手が後ろに引き絞られた瞬間に駆け出した。間に合っていたのだ、順当にいっていれば。

 

 しかし彼女に届く前に俺は静止する。俺の身体を食い止めたのは多重展開された障壁。俺の身体を縫い止めたのは、設置型のバインド、鎖状の拘束魔法。

 

 身体に乗った速度と振り撒かれる衝撃波によって幾つかの壁と鎖は破壊、突破したが、強固な障壁と網の目のように張り巡らされた拘束魔法により推力は失われ、とうとう停止した。

 

 彼女までは十メートルを切っていた。目測、五メートルないし六メートル。目と鼻の先まで辿り着いたのに、この五メートルがあまりにも遠かった。

 

「これは俺のワガママなんだろうよ。八つ当たりだってこともわかってんだ。でも、でもよ……あんたらを見てると、俺にももしかしたらあんたらみたいな幸せな未来があったんじゃないかって、考えちまうんだ。そんなありもしねぇ『もしかしたら』が、頭にこびりついて離れねぇ。辛くて、苦しくて、悲しくて……どうしようもなく苛つくんだ。あんたらには申し訳なく思ってる。けどよ、もう俺にもどうにもできねぇ。あんたらを見てるだけでずきずきと痛むんだ。見せつけられてるみてぇで爆発しちまいそうだ。だから消えてくれ……。俺の前から、俺の中から……消えてくれ」

 

 後ろに引き絞られたクリムゾンの右腕が動き、頂点に到達する。下手に近づいた分だけ大槍は間近だ。放たれた瞬間に蒸発するのはもはや自明。

 

 死という概念がすぐ近くまで這い寄ってきているのに、もう打つ手がない。

 

 クリムゾンとの間にはまだ数枚の障壁。左右には魔法陣が展開されており、そこから幾条もの鎖が伸びて俺の身体を拘束している。

 

 進化ならぬ深化を遂げた今のモードなら、鎖を力尽くで振り払って破壊することはできるが、やはり多少の時間がかかる。その間に大槍が俺の身体を食い破って消し炭にする。

 

 身体能力が全体的に向上したおかげで『爆轟』を使った後でも、死に体ではあるもののまだ足は生きている。

 

 しかし、全身に負荷がかかるあの複合技をもう一度は使えない。次使おうとすれば確実に身体のどこかで力のひずみが生まれ、不発に終わる。過負荷に足が耐え切れなくなるか、足への負担を気にし過ぎて他の部位が悲鳴をあげるか、どちらにせよ自滅することになる。

 

 オーバーヒート寸前の足では、できて『襲歩』が関の山。魔力のブーストをフル稼働させて突っ込めば拘束魔法は引き千切れる自信があるが、頑丈な障壁までは破れない。

 

 このシチュエーションでも回避だけならおそらくなんとかできる。『襲歩』で拘束魔法を振り払い、サイドへ逃げれば大槍を避けられる可能性は高い。だが、死へのカウントダウンがほんの数秒巻き戻されるだけにしかならない。躱したところで先がないのはこれまでと変わらない。

 

 動作の起こりを押さえる『不動』なら、と一瞬よぎったが即座に否定。これも不可能だ。俺の射撃魔法は弾速が遅いが、さすがにこの距離であればすぐに当てられる。しかし直線距離であれば、だ。正面には障壁が(そそ)り立っている。直射型は使えない。誘導型で迂回させてはタイムロスがありすぎて間に合わない。

 

 防御など考えるだけ愚かだ。人に防げる性質の魔法ではない。

 

「まだ……まだ、なにかある筈だ……なにかっ……」

 

『…………私の身命を(なげう)ってでも、主様だけは……』

 

 加速する思考回路が幾通りものパターンを提出するが、そのどれもが否決される。脳内で無数にシミュレーションするが、結果は全て同じだった。ルートによって一手二手の違いはあっても、死に帰結する。

 

 八方塞がりの頭打ち。思案投げ首、手詰まりだった。

 

 クリムゾンの腕が後方から真上を越えて、とうとう前方へと傾く。

 

 脳が認識する映像は、いやに遅かった。彼女の手の動き、はためく服、なびく髪、杖の亀裂の一筋一筋までをも鮮明に捉える。彼女の頬を伝う透明な雫の煌めきまで、鮮明に。

 

「あんたは、ここに来るべきじゃなかった」

 

 時間が遅延し、灰色に染まった世界で、クリムゾンの言葉はなぜか俺に届いた。

 

「あんたは、あの金髪幼女と一緒に……管理局の船に残っとくべきだったんだ。身の程もわきまえずに厄介事に手ぇ出したから、こんなことになんだよ……。下手に望みに手を伸ばしたから、こんな結末になったんだぜ……。もう……なにもかも遅ぇけどよ」

 

 筆舌に尽くし難いクリムゾンの表情。絶望や失望、失意や諦観、哀惜や悔悟で彩られている。様々な感情が入り混じり、彼女の魔力と同じように、それ以上に、黒く(よど)んでしまっていた。

 

「フェイトと残ってたら……死なずに済んだ、か。たしかに……そうなんだろうな……。引っ掻き回して事態を悪化させることも、なかったんだろうな……」

 

 俺は動くべきではなかったのかもしれない。

 

 ここで俺が()とされれば、クリムゾンは身の内に(わだかま)る感情と破壊衝動に突き動かされるがまま、その圧倒的な力を周囲にぶつける。宣言していた通りに、時の庭園にいる全ての人に大きすぎる力を向けるだろう。管理局の魔導師さんたちはもちろん、クロノだって、なのはやユーノも含まれている。時の庭園の主人たるプレシアさんだって、おそらくはクリムゾンの衝動の標的になる。

 

 俺がここに来なければ、こんな事にはならなかったはずだ。

 

 アースラの一室でフェイトだけを庭園に転移させておけば、きっとプレシアさんとリニスさんの策は成功していた。作戦の要である魔導炉はリニスさんが死守し、プレシアさんは魔導炉とジュエルシードの魔力を使って、帰る者未だ無きアルハザードへ旅立っていた。

 

 きっとリニスさんのことだ、主人であるプレシアさんには黙ってフェイトを通し、母と娘が話をする場くらい(もう)けていたことだろう。最後の会話を交わし、お互い満足はしないもののそれなりの踏ん切りをつけて別れられるような算段くらいはつけていたはずだ。

 

 プレシアさんとリニスさんはアリシアを伴って形骸化した希望の都を目指し、フェイトとアルフは管理局に同情されながら手厚く保護される。

 

 プレシアさんとリニスさんが描いた、不幸にはならない絵図。最低限の幸福と、最小限の不幸。歪んだ家族愛の形。幸せと断言はできないが誰も明確な不幸にはならない、そんな終焉。晴れ晴れとはしないが、鬱屈とした気持ちにもならない。リスクとリターンが見合った位置で手を打った、お利口な幕の閉じ方。

 

 そんな、中間より少し上、くらいの終わり方が俺は気に食わなかった。最大限まで幸せを求めず、ある程度の不幸を許容した考えに賛同できなかった。だから、俺は抗った。

 

 みんなが何の心配も気掛かりもなく、笑って過ごせる毎日が欲しくて力を尽くしたつもりだったが、その結果がこのザマだ。俺が中途半端に戦えるだけの力をつけてしまったばかりに、結果としてリニスさんは魔導炉から魔力を引っ張らなければならない状況になり、眠っていた鬼を起こすことになってしまった。

 

 このままでは、一人として余さず全員が全員、不幸になる。やはり俺はあの時、フェイトの手を取るべきではなかったのだろうか。

 

 あの場の事は、数分前のことのように克明に思い出せる。だからこそ、要らぬ考えも巡らせてしまう。

 

 シーンが切り替わるように、照明が絞られた薄暗いアースラの一室の光景が、記憶が、脳裏に映写された。

 

 伸ばされた白くてしなやかなフェイトの腕。思わず絡ませてしまった指の細さと柔らかさ、子供特有の高めの体温。ほんのりと赤く染まった頬と、かすかに伏せられた瞳。通った鼻筋と濡れた唇。暗がりでも燦然(さんぜん)と存在を主張する艶やかな金の御髪。主から魔力を受けて修復されたバルディッシュの光沢と輝き。金色の光を放つ魔法陣。初めて目にした珍しい術式。時の庭園へジャンプする感覚。

 

 フェイトについての情報が少々厚いようにも思えるが、このようにまざまざと憶えていた。

 

「これ、か……」

 

 数時間前の出来事を回顧して、光明が射し込んだ。

 

 実現可能なのかはわからない。しかし、手を(こまぬ)いては死を待つばかり。僅かでも希望があるのなら、手を尽くすべきだろう。

 

「最後の最後……死ぬ瞬間まで、俺はみっともなく足掻く。クリムゾン、諦めない強さってやつは未来を変えるんだ。それを知らないって言うのなら俺が教えてやるよ」

 

「なんとでも言え。なにをしてもあんたの死は揺るがねぇ」

 

 最後の一歩を、ここで使う。クリムゾンへと近寄るのではなく、サイドへ回避するのでもない。真後ろへ。

 

 『襲歩』の勢いと魔力による相乗効果で、身体に絡みついていた鎖を無理矢理引き千切って破壊する。そのまま流れに逆らわず後退、数メートルさがって着地する。

 

 地に着いた衝撃で膝を折りそうになった。とても熱く、小刻みに震える。これで足は使い果たした。また当分の間動かすこともままならないが、不安はない。

 

「離れたところでどうにもならねぇよ」

 

 クリムゾンの腕が振り下ろされた。発射シークエンスを万全に済ませた大槍は、数瞬後には前進を始める。術者を守るために前進して距離を取った後、安全装置を外された致命の魔法は内部に圧縮された魔力を撒き散らしながら敵へと突き進む。

 

 普通に考えれば、事ここに至って後退することになんの意味も必要性も見出されないだろう。それでも俺にとって、新たに生み出されたこの数メートルという距離は重要かつ重大な意味を持つ。

 

 俺はあの時(・・・)、しっかりと視ていたはずだ。

 

 記憶の底を(さら)って、求めているものを浮かび上がらせる。思い出せれば、今の俺なら可能なはずだ。コードさえ正確であれば、多少強引にでも実行はできるはずなのだ。

 

『主様、もう……っ!』

 

『エリー、準備しといてくれよ』

 

『な、なにを……』

 

『クリムゾンを拘束する準備だ。ここからは一瞬だからな』

 

『もう……手立てはありません。なんとか主様だけは御守り出来るよう尽くしますが、どうなるかはわかりません。……私は、主様と短い時間でも一緒にいられて……幸せでした』

 

『まだ、こんなところで終わらせない。辞世を詠むにはまだ早いぞ』

 

 空間の一部を切り抜いたかのような真っ暗闇の大槍が迫る。あまりのエネルギー量に大槍の周囲が歪んで見えるほどだ。

 

 巨大な漆黒の槍は目の前を覆い尽くす。黒以外に一色もなくなった。

 

 大槍の影響範囲の先端が俺の胸部あたりのバリアジャケットを食んだ。エリーの魔力で丹念に編み込まれたバリアジャケットを、かくも容易に溶かす。

 

『私も志半ばで主様を死なせたくなどありませんでしたが、奇跡が起きなければ生き残ることなど到底……』

 

『奇跡なんてない。神様なんて存在しない。諦めない心と(たゆ)まぬ努力が、いつだって道を切り開くんだ』

 

 俺の視界一面が光で満たされた。

 



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愛らしい蕾が花開くように

「お前がなんでッ……ここにいるッ!?」

 

 光が収まった後、俺の視界に映ったのは唖然と驚愕の色に染まるクリムゾンの表情。万に一つも予想していなかった展開に、驚きのあまり動きが停止する。

 

 俺は成功の喜びに浸る間もなく、身体を捻り腕を振りかぶった。

 

「お前のおかげでもあるんだ。思い出させてくれたから、この転移魔法をな……」

 

 俺が生きているのは、奇跡でもなんでもない。記憶の底に残っていた転移魔法の術式を掘り返し、使ったに過ぎない。

 

 クリムゾンに、フェイトと船に残っているべきだったと言われ、その事から紐付いて思い出したのだ。

 

 俺の素質的に転移魔法は発動させることができるか危ういラインではあったが、魔力による強引な方法で展開させることに成功した。

 

 俺の魔法適性値で最低だったのが飛行魔法だ。少なくとも飛行魔法以上の適性があるのなら発動はしてくれるだろうと推測してはいたが、やはり憂慮する点ではあった。しかし、その賭けには勝った。

 

「俺から距離を取ったのは……躱すためでも、防ぐためでもねぇ。その魔法の演算のためだったってのか……」

 

 クリムゾンの推測は正解であって、不正解でもある。テストであれば三角といったところだ。

 

 俺が距離を取ったのは、演算するための時間が欲しかったのともう一つ、大槍を放つタイミングを計りたかったという理由がある。

 

 転移魔法の演算が完了していざ使う場面になっても、彼女が大槍を放つ前に転移してしまっては元も子もない。クリムゾンから離れる前では近過ぎて、発動された瞬間に身体が消し飛んでいた。大槍の影響が及ぶ範囲から出て、転移魔法を使うタイミングを見計らいたかったのだ。そしてできるならば、揺さぶりを考慮して、大槍に隠れて俺を見失うぎりぎりまで待っておきたかったというのもある。

 

 行使するにあたっての一番の難所は演算にあった。自分の位置と転移先の座標の計算だけでも難解。短距離でかつ障害物もなく、高低差も気にしなくていいという条件下においてでも一苦労だった。

 

 消費魔力という点も難関ではあるが、普段の俺であればともかく、エリーの加護に与ることができる現状、その問題をクリアするのはさほど難しくはなかった。

 

「諦めなければなんでも叶うなんて、そんなことは言えない。どれだけ頑張っても報われないこともある。どれだけ努力しても実らないこともあるだろう。諦めなければ立ち行かない状況だって、きっと……。痛いし苦しい、辛いし悲しい。諦めないで頑張り続けるってのは難しいよ。でも、でもな……逃げたら何も残らないんだ」

 

 力任せならぬ魔力任せなやり方で展開させたため転移魔法の構成が不完全だったのか、身体の各所に違和感や痛みを感じる。頭だってくらくらする。気分が悪い。

 

「立ち止まって、投げ出してしまったほうが楽になる。頑張ってきた時間が長ければ長いほど、報われなかった時はどうしようもない。心が砕けそうになる。絶望する。そんなことを考えただけで怖くなるよ。でも、叶えたい願いがあったのなら……苦痛を背負ってでも手を伸ばさなきゃ駄目なんだ」

 

 だが、まだ動く。足は震えるが、しっかりと地面を掴んでいる。

 

「諦めなければなんでも叶うなんてことはない。どれだけ頑張っても報われないこともある、どれだけ努力しても実らないこともある。それでも……血反吐を吐いてでも頑張らなきゃ叶えられないんだ」

 

 重心はぶれていない、力を溜めることができる。拳を打ち放つことができる。想いを込めて、クリムゾンにぶつけることができる。

 

「運命には抗えないと思っているのなら、俺がはっきりと否定してやる。運命なんてないって、未来は変えられるって、俺が証明してやる……ッ!」

 

 俺はまだ、こんなところで終われない。終わらせない。

 

 クリムゾンの正面、至近距離で構えて、思いの丈を込めて、放つ。

 

「この一撃が俺の……全身全霊だァッ!」

 

 思いも寄らなかった魔法、流れが変わる戦況、隠せない動揺。クリムゾンは動転し、障壁を張らずに杖による防御という選択を取った。

 

 度重なる大魔法による演算で酷使された彼女の杖には疲労が蓄積されていた。内部からの消耗で脆弱化していた杖はもう、外部からの衝撃に耐えられない。無数の亀裂が深く刻まれた杖には、頑強だった以前の威光は見る影もなくなり、杖の半ばに接した俺の拳は大した抵抗も感じずに真っ二つにへし折った。

 

「かっ……はっ……っ」

 

 最後の壁を破壊した。この勢いは止めさせない。そのまま俺の拳はクリムゾンの腹部に深々と突き刺さる。身体強化の類の魔法の手応えは感じられなかった。

 

 リニスさんの頭脳があれば、デバイスがなくても魔法の展開はできるだろう。しかし、今身体を操っているのはリニスさんではなく、クリムゾンだ。術式の演算と魔法の維持を担っていたデバイスが破壊されれば、すぐには対処できない。

 

 纏っていた身体強化系魔法も消失している。ダメージは間違いなく通った。

 

 彼女の苦悶の表情は演技ではない。これが最後の好機。これを逃せば、後はない。速やかに次の段階にシフトする。

 

 打ち抜いた右手でクリムゾンの服を掴み、左手で彼女の右腕を拘束し、足をかけて引き倒す。馬乗りになって複数の拘束魔法を展開する。

 

 魔法陣から伸びる鎖はクリムゾンの手足や胴体など全身に巻きつく。自由を奪い、動けなくする。時間を稼ぐことが目的の拘束魔法。

 

 リニスさんを意識を取り返せるかはこの拘束魔法にかかっている。すぐに破壊されればハッキングは失敗する。作戦の成否の大部分はここに占められていた。

 

『エリー、こっちは頼んだぞ。お前にかかってるんだからな』

 

『主様は、本当に……凄いです。もはや畏怖の念すら覚えるほどに……』

 

『おい、エリー! 聞いてるか?!』

 

『私は最後の最後で、主様を疑ってしまいました。主様ならどのような絶望的な状況でもひっくり返すと、知っていたはずのに……』

 

『……俺がエリーの立場なら、一も二もなく逃げ出してた。たしかにお前は最後に無理だと諦めてしまったのかもしれないが、それでも俺を守ろうとしてくれてたろうが。エリーへの信頼は変わらない。お前のそれは裏切りじゃない、気にすんな』

 

『ぁ……主様っ……』

 

『そんなことより、お前が自分を犠牲にしてでも俺を守ろうとしたことの方が問題だ。次は絶対するなよ。お前が死んで俺が生き残りでもしたら、俺は後を追いかねないからな』

 

『はいっ、わかりましたっ。ありがとうございます……私はもう、疑いません。和合(アンサンブル)を解きます。拘束はこちらにお任せください』

 

 エリーの頼り甲斐のある強気な発言を聞き届け、とうとう和合(アンサンブル)を解除する。胸の真ん中から空色の結晶が排出された。同時に俺の身体は男のそれに戻り、バリアジャケットもなくなり元の服装に戻る。

 

 拘束魔法は展開したままエリーに委任する。魔力を供給し続けることでクリムゾンを縛る鎖を維持させ続けた。

 

 深く繋がって魔力が供給されていた状態が急になくなったので、その落差が激しく、体調は(かんば)しくない。全身が極度の倦怠感(けんたいかん)に包まれ、リンカーコアの働きにも違和感を感じる。左目が白く(かす)んでいるのはアンサンブルの前に攻撃を受け、左目に血が入ってしまったからだろうか。怪我こそ治ってはいたが、身体能力の急落からくる気怠(けだる)さときたら苦痛で仕方ない。

 

 できることならば疲労感に慣れてからが良かったのだが、時間は待ってくれない。拘束魔法がいつまで持つかわからないのだ。

 

 そもそもエリーに任せている拘束魔法の維持だってかなり無理矢理プログラムを改変して使っている。付け焼き刃の術式では魔力のロスは激しいのに、時間の経過とともに確実に強度が下がっていく。真っ当なプロセスを通していない不完全の拘束魔法では、クリムゾンであれば仮に魔法が使えなくたって魔力を込めれば力尽くで破壊できる。

 

 いずれエリーの尽力如何(いかん)(かかわ)らず、拘束魔法が破壊されるのは目に見えている。その前に、リニスさんを取り戻さなくてはいけない。

 

 長期戦の精神的肉体的疲労感を押して、クリムゾンの腹部に跨がった俺は彼女の胸の中心に右手をあてる。

 

 胸の奥から湧出する魔力の動きに神経を注ぐ。体内を通して移動させていく。胸の奥から肩、肩から腕に、肘を通過して手のひらへ到達し、更にその先へと。

 

「がッ!? ああアアァァッ!! やめ、ろ! はいってッ、くんじゃねぇ!」

 

 全身に絡みつく鎖と他人の魔力が侵入してくる不快感から抜け出そうともがきながら、クリムゾンが吼える。彼女が暴れるたびに鳴り響く鎖の軋む音と擦過音(さっかおん)が、俺の不安を煽ってくる。

 

 押さえつけている右手に力を込めながら、俺は目を閉じて集中する。目に飛び込んでくる情報を遮断し、耳を叩く音も意識から排除する。

 

 クリムゾンはエリーが押さえてくれている。心配することも恐れることもない。俺はただ一つ、ハッキングにのみ心魂を傾ける。

 

 魔力が手のひらを伝って彼女の身体へ、その奥深くへと潜行していく。

 

 魔法にではなく、リニスさん本人へのハッキングはこれが初めてではない。海鳴市の倉庫で経験がある。あの時の光景を思い出せば、這入(はい)ること自体は難しくない。

 

 どんどん深く潜っていき、目的の位置にまで到着した。魔法を扱う者にとって、文字通りの意味での心臓。魔力を作り出す器官、リンカーコアに。

 

「くッ、ぁ……ッ! やめろ、やめろぉッ! 俺の邪魔をすんじゃねぇ!」

 

「……暴れるな。手元が……狂う」

 

 最奥部まで侵入を許してしまったのが不快さを伴う感覚でわかるのか、一際激しくクリムゾンが抵抗する。手負いの獣のように暴れ狂う。

 

 あまりの暴れように、早速彼女の右腕を縛りつけていた鎖の一本が爆ぜ散る。

 

 エリーも必死に魔力を送り込んでいるが、なにぶん力が違いすぎた。俺を介さずにエリーだけで維持できるよう改変した効率の悪い拘束魔法では、巻き返すことなど望めない。時間をかけて食い下がるのが関の山なのだ。

 

 想定していたよりも状況は困窮(こんきゅう)の色が濃い。タイムリミットは逼迫(ひっぱく)している。

 

 焦燥がちりちりと神経を焼く。焦って取り返しのつかないことになっては目も当てられない。後悔してもし尽くせない。

 

 かといって必要以上に時間をかければクリムゾンは拘束から脱出し、俺を殺すだろう。その後は全てが灰燼(かいじん)に帰す。

 

 作業を早くして雑になってはいけないけれど、後の影響を憂慮するあまりに緩慢(かんまん)になってもいけない。あえて焦燥の火は消さずに、自分を()きつける材料とする。スピードと丁寧さが均衡する処理速度を目指し、リニスさんのリンカーコアと正対する。

 

「なんだ、これは……」

 

 リンカーコアを一目して、以前視た時とは大幅に変容していることを実感した。

 

 リニスさんのもともとの魔力色は淡褐色だ。前に魔力を通して視た時も、リンカーコアは薄い茶色に輝く球体だった。

 

 しかし今は、淡褐色のリンカーコアが赤黒い木の根のようなものに覆われつつある。赤黒い根っこ、その濁った赤色がクリムゾンの魔力なのだろう。

 

 防御魔法や拘束魔法なんかとは情報量が桁違いに多いリンカーコアに侵入し、濁った赤色をした根を取り払うことを考えると気が遠くなる。

 

 それでも俺は、手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

「……っ、んぐ……くっ」

 

 がりがりと、神経が削れていく音を聞いた。

 

 極限の緊張と疲労で気分は悪いし、演算で酷使されている頭はオーバーヒート寸前。体調は(かんば)しいとは、とてもではないが言い難い。

 

 しかし、進捗(しんちょく)状況は悪くない。このまま何事もなく進めば、じきにクリムゾンとリニスさんを繋ぐ魔力の線を引き剥がすことができる。

 

 不安要素は俺の魔力の残量と、(ほころ)びが目立つ拘束魔法だった。

 

 ハッキングは射撃・拘束・防御魔法等のように、一回発動することで既定の魔力量を消費するわけではない。言うなれば時間単位だ。拘束目的の鎖や捕縛輪、障壁などであれば、侵入と内部プログラムの破壊を速やかに行うので、演算による疲労を度外視すれば大した消耗もない理想的な手段といえる。

 

 しかしハッキングし続けるとなればその評価は一変する。その対象が人ともなれば一入(ひとしお)だ。維持するだけで魔力は垂れ流され続ける。侵入する深度が深くなればなるほど、魔力を届かせるために送り込む量を増やさなければならない。複雑な工程になればなるだけ魔力の消耗率は跳ね上がるのだ。

 

 一体化してからの戦闘は、その殆どをエリーの魔力に頼っていたのでまだゆとりはあるが、だんだんと底に近づいているのを感じていた。

 

 魔力の残量と同格、下手すればそれ以上に危ぶんでいるのが鎖の損耗だった。随分と重たくなってしまった瞼をこじ開ければ、クリムゾンの徹底抗戦により、大量に展開した鎖は現在では半分以下にまで減少している。彼女の右腕を押さえる鎖など、あと一本しかないほどだ。

 

 慎重に、かつ大胆にペースを上げなければまずい。俺が作業を完遂する前に、クリムゾンが抜け出してしまう。

 

 そう考えていた時だった。

 

 クリムゾンの咆哮(ほうこう)(とどろ)く。雄叫びとともに輪をかけて一際激しく抵抗し、ついに右腕を縛りつけていた鎖が弾けた。

 

「俺からッ、離れろ! 邪魔すんじゃねぇよ!」

 

「かっ……ぁぐっ。っは……」

 

 自由を得た彼女の右手が閃く。霞むほどの速さで伸ばされた右手は俺の首を掴み、締め上げた。

 

 俺は空いている左手で彼女の手を剥がそうと試みるが、ハッキングに魔力も意識も集中させているため力を込められない。

 

「邪魔すんなッ、俺の邪魔すんなよッ! この女が繋いでる線を切られたら、俺からは繋ぎ直すなんてできねぇんだ! これが最後なんだ! やらせねぇよ、絶対やらせねぇ!」

 

 (かす)れ始めた視界の端で空色が明滅していた。まるで力が及ばなかった自分を責めるような光。エリーのことだから、鎖を破壊されたことに罪の意識でも持っているのだろう。

 

 不完全なプログラムの拘束魔法でよくこれまで凌いでくれた、と口に出して慰めたいところだが気道を圧迫されてくぐもった声しか出せない。エリーへの慰労は後回しにせざるを得なかった。

 

 左手での抵抗はささやかであるが、それでも効果はある。右腕以外、依然として鎖に縛り付けられ、上半身を動かせないクリムゾンは力を入れ辛いという体勢的な利もある。息苦しさを堪えてリニスさんから切り離せば、クリムゾンはもう手出しができない。

 

 ハッキングを再開する。淡褐色のリンカーコアのおよそ半分を超える面積を覆っていた赤黒い根はもう、残り僅かとなっている。ここを踏ん張れば、逃げ切れる。

 

「そうかよ、そう出るのかよ……ッ! あんま舐めてんじゃねぇぞ!」

 

 クリムゾンは追い詰められて頭に血が上っていたが、それで目の前しか見えなくなるほど感情的ではなかったようだ。それは俺にとって不幸でしかなかったが。

 

 俺の首に喰らい付けさせていた右手を離れさせる。クリムゾンは右手の拳を握り込むと、俺の手を振り払って己の左腕へと狙いを定めた。左腕に巻きついていた鎖に拳を打ち込み、残っていた拘束魔法を粉砕し、解放した左手と右手で俺の首を絞めに掛かる。

 

「がっあ……もう、少し……だってのにッ」

 

 左腕の拘束が解かれても、エリーが維持してくれている魔法はまだある。足や胴体はまだ縛り付けているままだし俺が跨っていることもあって、クリムゾンの姿勢は変わらない。力は入りにくい筈だ。

 

 だが、使える腕が一本から二本になった変化は大きかった。俺の右手はハッキングを継続させるために必要不可欠で動かせない。左手一本では彼女の攻めにまともに抵抗できない。

 

 ほんの少し、あとほんの少しの時間があれば分断は完了するのに、その時間がない。空気を吸い込めず、酸素が足りなくなる。集中力が霧散する。ハッキングを進めることができない。

 

「あんたを苦しめて殺すなんて方法は取りたかなかったよ。だけど、今さらいやとは言わねぇよなぁ……。俺にこんなことをさせたのはあんただもんなぁッ!」

 

「がッ……ッ! か、は……ぁ……」

 

 視界が暗くなっていく。視野が狭くなっていく。意識は、遠くなっていった。

 

 空気を取り入れようと躍起になる喉は喘鳴(ぜんめい)を起こす。俺の抵抗を嘲笑(あざわら)うかのように絞首する手の力は強く、どれだけ足掻いても離れない。

 

 薄れ始めた意識の中で、クリムゾンの声が細く聞こえた。怒りに打ち震えたものではなく、言い聞かせるような穏やかと寂しさに溢れた声音。

 

「恨まないでくれよ。なにも叶わなかったんだ、最後の望みくらい果たさせてくれ」

 

 クリムゾンは一度息を吸って、手を緩める。力を溜めて一気に絞め殺すための一瞬の余白。

 

 一秒の半分にも満たないその時間では、ハッキングは終わらせられない。クリムゾンの魔力の根を取り払うことはできない。それでも、意識が途切れるその瞬間まで俺は俺のやるべきことに専念した。

 

「っ…………?」

 

 いつまで経っても、首を絞めるクリムゾンの手は強くならない。俺の首筋に添えているだけのような、力を抜いた状態が続いていた。

 

 恐る恐る、そろそろと視線を胸の中心から上にずらしていくと、クリムゾンは渋面をつくっていた。

 

「こ、この女ッ……こんな大事な時にッ!? どこまでも俺の足を引っ張るつもりかよ!」

 

 彼女の両手が俺の首のすぐ近くでふるふると揺れる。天秤が振れるように、時折力が込められたり、かと思えば手が離れそうにもなる。

 

 クリムゾンは俺を殺そうと(はや)っていた。彼女がここで迷う理由も、恐れる理由も、躊躇(ためら)う理由もまた、ない。

 

 クリムゾンのセリフとふらふらと中空を漂う手を合わせて考えれば、答えはすぐに出る。

 

「そういえばお前が言っていたな。『この女は抵抗している』って。お前に身体を支配されてからも、リニスさんは諦めていなかった。再び主導権を取り返すために抗い続けた。諦めるか否か、その気持ちの差が……ここで出たんだよ!」

 

「ふざけんなッ……ふざけんなぁッ! 俺をさんざ利用するだけしといて、いらなくなったら手のひら返しかよ! このくそ女が!」

 

 首を絞める力が緩んだこの時を逃さず、ハッキングの処理を進める。表出する意識こそクリムゾンが握っていたが、処理が進むごとに身体の統制は離れていく。首筋に添えられていた両手は小刻みに震えながら離れていった。

 

 しかし気を緩めればクリムゾンにコントロールを奪われかねないのか、リニスさんの意識は俺の頭を抱き締めるような形で両手を回す。引き寄せられるので自然、前屈みに傾く。俺の顔のすぐ隣に、彼女の体温を感じられた。

 

 荒い息遣いが耳を撫でる。熱い吐息が首筋を撫でた。緊迫した状況だというのは理解していたが、女性特有の柔らかい感触と香りに脳髄を溶かされそうになった。

 

 煩悩を振り払い、意識を集中させる。リニスさんのリンカーコアに根付いた赤黒い色は、もうほぼなくなっていた。精神が擦り切れる前に、魔力が搾り取られる前になんとか終わらせることができそうだ。

 

 あと一つの操作でリニスさんはクリムゾンの魔力から解放される。あと一つの操作でクリムゾンはリニスさんの身体から放り出され、また冷たく暗い魔導炉の中枢に囚われることになる。

 

 か細い声が、俺の耳元で囁いた。

 

「なぁ……頼むよ、見逃してくれよ……。俺……まだ消えたくねぇよっ。こんなところで……なにも残せねぇで……誰にも知られねぇで消えるなんていやだっ……」

 

「だからって、みんなを傷つけていい理由にはならない。自分がどれだけ不幸だとしても、その不幸を他人に押し付けていい理由にはならないんだ」

 

「待って……待ってくれ。ここで消えちまったら……俺っていう存在はなにもなくなる。いなかったことになっちまうんだ。だから……」

 

「だからここで殺し回って、たとえ悪名だとしても記録に残したい。そんな戯言(たわごと)をほざくつもりか? ふざけんなよッ……」

 

「っ……」

 

 どうしようもなく苛立つ。クリムゾンの発言は腹に据えかねる。

 

 本人の言では、元は人の役に立つ為に、人の幸せを守る為に作られた存在が彼女だ。それが心ない所有者によって不幸をばら撒かされ続けた。その所有者がクリムゾンを使って過去に何をしたのかまでは知る由もない。クリムゾンの魔力で魔法を行使したのか、それとも魔導炉に取り込むのと同じような仕組みで兵器に転用したのか、詳しいところはわからない。ただ、悪意を持って非道の限りを尽くしたのは所有者でも、実行するための魔力を供出(きょうしゅつ)させられたのはクリムゾンだ。本人の意思はどうあれ、クリムゾンも悪事の片棒を担がされていた。それは変え難い事実だ。

 

 本来の役目とは真っ向から反する悪事に心を痛め、責任を感じる気持ちはわかる。抵抗したかっただろう。拒否したかっただろう。こんなことに力を使うのは間違っていると、声をあげて反対したかっただろう。それでも所有者に協力していたのは、自分の心を守るためだ。強制的に吸い取られる自分の魔力で災いを引き起こす光景を見て、自分の心が壊れないようにするために、これは人間の役に立つという目的に沿っている、と誤魔化していた。

 

 そうやって自分に嘘をつき、偽らなければもはや自分としていられないほどの罪悪感をクリムゾンに科し続けていた歴代の所有者たちに、腹が立つ。生み出された理由と逆行する願いをクリムゾンに抱かせた劣悪な環境に、腸が煮えくり返る。

 

 中身が伴っていない空虚な復讐心に囚われているクリムゾンが、不遇で、不憫(ふびん)で、悲哀にあふれていて、遣る瀬なかった。

 

「そんなことをしても、お前の心は満たされない。心の底からの願いじゃないのに、満たされるわけがないんだ」

 

「なら……俺はどうすればいいんだ……。どうすれば俺は、こんなに狂っちまわなくてすんだんだ……」

 

「……お前の周りにいた人間は、信用に値しないやつばかりだったんだろう。人間に対して、疑惑や疑念でいっぱいなんだろう。疑心暗鬼になっているんだろう。でも、でもな……そんな人間ばっかりじゃないんだ。世の中には悪人ばかりがいるわけじゃない。真っ当な人間も同じだけ……いや、それ以上にいるんだ。これが最後だって、幕を閉じる覚悟を決めているのなら……諦めて投げ出してしまう前に、信じてくれないか」

 

「『真っ当な人間』、か。先に言っとくけどよぉ……あんたはその『真っ当な人間』にはカテゴライズされねぇよ」

 

「……俺を見定めるのはお前だ。取り繕ったりはしない。言い訳もしない。お前が俺をどう評価しようと、俺は後悔しないために動くだけだ」

 

「かはは、勘違いすんなって。ほんと、あんたはおもしれぇよ。……俺みてぇな道具をここまで気にかけてんだからな。そんなやつは『真っ当な人間』なんて言えねぇ。まともじゃねぇもん」

 

「そう言われるとたしかに俺はまともじゃないかもしれない。けど……道具なんて言い方するなよ。聞いてて悲しくなるだろ」

 

「……そんなちょっとおかしいやつだからこそ、同類の青いのはあんたを信じたのかもしんねぇな。最後の最後だし、もう一回信じてみんのもいいかも、しんねぇな……。なぁ……俺も、あんたを信じてみていいか……?」

 

「ああ……信じてくれ」

 

「こんだけやっといて図々しいのはわかってんだけど……っ、ぁ……あんたをたよって、いいか……?」

 

「俺はお前より図々しいし図太いぞ。なにせ、ほぼ確定されたある程度の幸せを蹴って最善の結末を追い求めてるんだからな。……気にすんな。辛かったら、誰かを頼ればいいんだ。重荷は誰かに押し付けるもんじゃない。けど、たまにな、いるんだよ。手伝ってくれる奇特なやつがいるもんなんだ。そんな変わったやつがいたら、手を借りればいいんだよ。一人で背負いきれなかったら、手を借りればいい。まあ、それを知ったのは俺もついさっきだけどな」

 

「かはは、ほんとおもしれぇよ、あんた……っ。そんじゃ……悪い」

 

 すぐ隣にあった顔が近づき、触れ合う。熱い雫が俺の頬に伝ってきた。

 

 声を震わせながら絞り出すように、けれどはっきりと、クリムゾンは俺に求めてくれた。

 

「たよらせて、くれ……っ」

 

「すぐ迎えに行く。ちょっとだけ待っててくれ」

 

「わかった……待ってるよ」

 

 クリムゾンは一言囁くと、瞳を閉じた。いつの間にか、目に宿っていた赤黒い輝きはなくなっていた。

 

 俺はリニスさんのリンカーコアに再び意識を戻す。リニスさんとクリムゾンの魔力的繋がりを、完全に()った。

 

 変化は速やかに、そして如実に現れた。長く伸びていた髪は元の肩に触れるくらいになり、獣を彷彿(ほうふつ)とさせる鋭利な牙や爪も人間のそれに戻る。

 

 服は最初の頃と比べると少しあられもない感じ、有り体に表現すれば肌の露出面積が広がっていた。服装に関しては俺が破損させたわけではなく、黒の魔力に覆われていた時に焼けてしまっていたのだ。

 

 服装を除いた外見だけならば、クリムゾンの魔力を取り込む前のリニスさんに回帰している。しかし、重要なのは中身だ。膨大な魔力にあてられた時の粗暴で暴力的なリニスさんでは、交渉のしようがない。

 

 ハッキングはミスなく成功したのか、リンカーコアを傷つけなかったか、後遺症を残さずに済んだのか、クリムゾンから切り離してちゃんとリニスさんの人格が戻ってくるのか。気がかりがとても多く、焦る気持ちを抑えきれない。首に回されたままの腕は如何とも離し難いのでそちらを解くのは諦め、お互いの顔の距離が近いままでリニスさんの頬を優しく叩く。

 

 ぺちぺちと痛くない程度の衝撃を与えるが、リニスさんに反応はない。もしやハッキング中に致命的なミスを犯してしまったのでは、と考えて一瞬血の気が引いたが、しばらくしてリニスさんの唇がふる、と動いた。同時に小さく漏れる声。

 

 閉じられていた瞼が開かれる。猫のように縦長に変質していた瞳孔も、赤っぽく変色していた瞳の虹彩も元に戻っていた。安堵の念を抱きはするが、しっかりと言葉を交わすまで絶対的な確信は持てない。

 

 リニスさんは二度三度ぱち、ぱち、とゆっくり瞬きをする。まるで寝起きのようだ、と益体もないことを思った。ゆるゆると口が開かれる。

 

「と、おる……徹、れすか?」

 

「リニスさんっ! そうだ、俺だよ……逢坂徹だ。よかった……」

 

 ちゃんと舌が回っておらず呂律(ろれつ)が怪しいけれど、リニスさんだ。今はどこかぼんやりとしていて、疲労感から眠気に襲われてるのか瞳はとろんと(うつ)ろだし、舌が(もつ)れるのか幼い口調になってはいるが、この穏やかな眼差しと優しい声音は紛れもなくリニスさん本人のものだ。

 

 未だ意識がはっきりと覚醒していないのか、リニスさんは何度かゆっくりと瞼を開いて閉じてしながら、俺の首に絡ませていた腕を外した。

 

 寝惚け眼のまま、俺の顔を両手で確認するようにぺたぺたと触る。人差し指の先で俺の額にかかった前髪を払ったり、手のひらで輪郭に沿って撫でたり、親指で鼻や唇に触れなぞったり。子ども扱いをされているようで少し面映(おもは)ゆいが、不思議と悪い気はしなかった。

 

 再び感じることができたリニスさんの体温は、とても心地良かった。

 

 と、穏やかな気持ちでいれたのも束の間だった。

 

「ぁむっ……んっ、ちゅ……」

 

「んっ……っ!? んんっ?!」

 

 両手で俺の頬を挟むと、リニスさんは元から至近距離にあった顔をさらに近づけ、唇をあてた。

 

 リニスさんとこういう行為、露骨な言い方をすればキスをするのは、これが二度目になる。一度目は戦闘の最中。魔導炉からの、ひいてはクリムゾンの魔力を取り込む寸前のことだった。

 

 ただ、キスはキスでも一度目とは大きく異なる部分がある。一度目は本当に軽く触れさせるだけだった。だが二度目である今回は、なんというべきか、深かった。

 

 貪るように、などと言うとあまり聞こえが良くないが、唇で俺の唇を挟んだり、舌と舌を絡めたりとディープなものだった。

 

 瞳を潤ませ、唇を求める。くちゅ、と水気を含む艶美(えんび)な音が漏れた。激しく迫って、長く唇を重ね、途切れる短かな合間合間に呼吸をする。必然、呼吸の頻度が減り、互いの吐息は荒くなった。

 

 どれほどの時間そうしていたのかわからない。案外短かったのかもしれないし、存外長い時間甘美な悦楽(えつらく)耽溺(たんでき)していたのかもしれない。取り敢えず、宝石状態のエリーの丸みを帯びた下端が俺の背中に刺さっていることは認識できた。

 

 長い間触れ合っていた唇を離す。別れを惜しむように、銀の糸がひかれた。

 

 リニスさんの上気した頬と熱っぽく潤んだ瞳。寂しげに震える唇。乱れた服装と悶えるような仕草。荒れた息遣い。

 

 その光景は実に(なまめ)かしく、情欲を掻き立てた。理性が吹き飛びそうになったが、時と場合と場所と相手のコンディションを考慮して半ば自分に言い聞かせ、なんとか踏み(とど)まれた。背中に食い込む鈍い痛み(エリー)が思考を正常に引き戻してくれたことも大きい。

 

 とりあえず目の前のリニスさんがこのような状態なので、エリーへの感謝と慰労は申し訳ないが後に回すこととした。リニスさんの肩を押して距離を取り、会話が成立する位置を確保する。

 

「リニスさん、リニスさんちょっと待って……いや、顔に手を伸ばすのもちょっと待って。目覚めてくれたのは嬉しいんだけど、どうしたんだ? どこか調子がおかしかったりするの? いきなりこんな、こと……」

 

 こんなこと、のところで唇の感触を思い出してしまい顔が熱くなる。自分で言ってて恥ずかしくなり、口籠ってしまった。

 

「私は、夢現(ゆめうつ)つを彷徨(さまよ)っていました。自分の身体なのに……勝手に手足が動く。魔法を使う……。薄ぼんやりとした意識の中でも、徹のことを傷つけていたことは覚えています……」

 

 仰向けに押し倒されたまま俺を仰ぎ見るリニスさんの(まなじり)から、一筋の雫がこぼれ落ちた。まだ滑らかにとは言えないが、口は幾らか復調しているようだ。震える唇を抑えて、一言一言区切りながらはっきりと発音しようと努めている。

 

「まるで、深い海に沈んでいくような感覚でした……。最初は明るくて、自分の身体を自分のものとしてコントロールできていましたが……沈んでいくにつれ、周りは暗く冷たくなっていって、私の身体はどんどん遠くなるんです……っ。自分で覚悟したことだったのにっ……とても、怖くてっ……」

 

「大丈夫、聞いてる。俺はここで、リニスさんの言葉を聞いてるよ。もう大丈夫だから」

 

 リニスさんの言葉、沈んでいく意識と鈍麻する感覚、視たイメージ。それらに似たものを、俺も感じた。エリーと和合(アンサンブル)で一つになって、実際の肉体をエリーに任せた時に得た感覚。それと酷似している。

 

 しかし、それはただ似ているというだけであって方向性は真逆だ。鏡写しの類似性。似てはいても性質がまるっきり反対だった。

 

 おそらくはクリムゾンの魔力を自身のリンカーコアに繋いだことが原因だろう。徐々に支配されて、権利を奪われていき、乗っ取られていったのだ。

その時の恐怖を思い出したのか、リニスさんの呼吸が喘ぐように浅く、早くなる。手は(すが)りつくみたいに俺の腕をしっかりと握り締めていた。まるで、未だに魔力の海で溺れて喘いでいるようだった。

 

「深く……深く沈んで、次第に自分の身体を感じられなくなりました。自分が何をしているのか、どう動いているのか……そんな感覚すら薄っぺらく、朧気なものになって……。自分の役目を果たすために望んでやったことなのに、意識が沈んでいくたびに……自分が小さくなっているようで……怖くなりました。光も差し込まない真っ暗な空間で、凍えるほど寒く冷たい水底で……一人でいるのがとても、不安で……っ」

 

 クリムゾンの話と、似通っている点がある。クリムゾンがリニスさんの知識などの情報にアクセスできたことと同じように、魔力という線で繋がったことで、リニスさんはクリムゾンの記憶を垣間(かいま)見たのか。実際の自分の状況と照らし合わせて、追体験のような現象が起きたのかもしれない。

 

「このまま私という存在は押し潰されて消えてしまうのかと諦めかけた時に……徹の声が聞こえました。私の名を呼ぶ徹の声が……。行くべき道も、指し示す光もなにもない空間で……徹の声だけが、私の希望でした。もう、絶対に会えないと……思ってましたっ……。いっぱい酷い言葉をぶつけて、たくさん痛い思いもさせて、挙句守ろうとしたもの全てを自ら破壊しそうになったのに……それなのに、徹は助けに来てくれた。ほんとうに……嬉しかったんです」

 

 両手を俺の指に絡め、リニスさんは俺をまっすぐと見詰めてきた。次から次へとあふれて止まらない涙で顔を濡らしながら、それでも微笑んだ。

 

「徹、ありがとう……。……愛して、います……」

 

 強がりや見栄など一切取り払って、リニスさん本来の少し幼さを残す少女らしい表情で、愛らしい蕾が花開くようにふわりと微笑んだ。

 

 その笑顔に胸を貫かれた俺はなにも言えず、黙って彼女の身体を抱き締めた。






前半と、後半の、落差!

お疲れ様でした。これにてリニスさん戦『は』終わりです。リニスさんとの戦闘を解決させるためにどれだけ話を使っているのでしょう。まだついてきてくれている人がいるかどうかはとても不安ですが……好き勝手やってしまったのにここまで読み続けて頂いてありがとうございます。話自体はもう少し続きます。

あと、もうお気づきの方もいらっしゃるでしょうけど、メインヒロインの一翼を担うのはリニスさんです。前々からそんな気配はありましたけども。


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夕暮れに大粒の雨が降る

「リニスさん、疲れてるところ悪いんだけど、魔導炉のデータを借りていいか?」

 

 ハグしたままでいた俺とリニスさんだったが、しばらくして離れた。リニスさんの疲弊が相当なものだったので今は体勢を変えて、腕の中で休ませていた。

 

 組んだ足の上に横を向いた格好でリニスさんが座り、倒れないように彼女の細い身体に腕を回して固定する。丸まって目を細める姿はまるで猫のそれだった。

 

 休んでいるところを邪魔するのは心苦しかったが、あまり悠長にもしていられない。プレシアさんが何か行動を起こすかもしれないし、なにより待たせている子がいる。

 

「データ……ですか? 構いませんが、なにをするんですか?」

 

 身体をこちらに預けながら、リニスさんが上目遣いに尋ねてくる。

 

 そんな仕草を自然とこなすリニスさんに思うところでもあるのか、服の内側に戻ったエリーがぷるぷると振動した。

 

 リニスさんとの話が終わって一休みしている時に、エリーのこれまでの頑張りに感謝の意を表した。最初は片手間に相手をされているようで不満だったのか不機嫌そうな光を放射していたが、俺がエリーの獅子奮迅粉骨砕身の働きを褒め讃え、気持ちを伝えようとぐっちゃぐちゃに撫で回したらとても喜んでくれたようですぐに機嫌を直してくれた。ぽわぽわとした光を漏らして、さらにひし形の宝石までもとろとろしてきた気がしたのでそのあたりで感謝を表すのは抑えておいた。

 

 そのすぐ後はなにを話しかけてもまともに反応を示さず、やたら粘度の高い魔力粒子と光を滲み出していただけだったが、今は素面(しらふ)に戻っているようだ。

 

「プロトコルを教えて欲しい。魔導炉にハッキングする。知っていたほうが手っ取り早いと思ったんだ」

 

「魔導炉に、ですか……。徹でしたら可能でしょうし、私も万が一を想定して念の為に裏口(バックドア)を設置していますから、やろうと思えば容易でしょうけど、疲れた身体に鞭を打ってまでやる意義は大きくないかと」

 

 またも服の内側でエリーが振動する。たぶん『疲れていることを分かっているのなら主様の上からどけ』などと言いたいのだろう。相方思いの相棒である。嬉しい限りだ。

 

 エリーの反発を知らないリニスさんは続ける。

 

「魔導炉の暴走はプログラムをいじったくらいではもう止められません。時間稼ぎくらいはできるでしょうけど、根本的な解決には……」

 

「いいんだ。魔導炉はなのはに吹き飛ばしてもらうことでなんとかする。でもその前に、やることがあるんだ。やらなきゃいけないことがあるんだ」

 

「暴走を食い止める以外になにがあると?」

 

「約束がある。迎えに行くって約束がな」

 

 驚きからか、リニスさんは目を見開いた。呆れたように小さく笑う。

 

「本当に徹は手の施しようがないほど諦め悪いですね。まさか、ここまでとは想像していませんでしたよ。徹の(うた)う最善の結末……みんなが笑っていられる世界には、魔導炉のロストロギアも含まれるんですね」

 

 今度は俺が驚く番だった。

 

 魔導炉を稼働させる道具として取り込んでいるはずのクリムゾンに、リニスさんがすぐに思い至るのは意外だった。実際に面と向かって会話したわけでもないリニスさんが、ロストロギアに人間のような意思や人格が存在している、などという考え方を持っているとは思わなかったのだ。

 

 俺が不思議に感じている気配を察知したリニスさんは説明を加える。

 

「魔導炉の魔力を自分の中に取り込んで、その膨大過ぎる魔力の濁流に飲み込まれて……意識が沈んでいくときに感じた幾つもの辛く悲しい記憶。あれはきっと、私が感じたものだけではないと思ったんです。一人きりの孤独、誰にも知られずに消えていく恐怖、自分のものを他人に奪われる悲憤(ひふん)、助けなんて望めない絶望。私にのしかかってきた感情は、あまりにも大きくて重くて濃かった……。自業自得で自由を失った私では抱けない密度の……黒い悲しみ。長い期間を経なければ、あそこまでの感情は生まれませんから……」

 

 胸元に手を当てて、リニスさんは瞑目(めいもく)した。

 

 短時間だったとはいえ、一つの身体に同居していた自分とは違う心。その異なる存在に、どのような想いを寄せているかは、俺には知りようがない。けれど、悪感情を抱いているようには、少なくとも俺には見えなかった。

 

「ロストロギアの魔力を搾取していた私がこんなことを言うのは……筋違いです。烏滸(おこ)がましいことは自覚しています。道理なんてないことも分かっています。それでも、お願いします。徹……あの子を助けてあげてください」

 

「言われなくてもそうするつもりだったよ」

 

 俺の返事に、リニスさんは安心したように口元を(ほころ)ばせた。どうやって助けるかなど手段や方法は何一つ口にしていないのに、リニスさんはこれでもう大丈夫だとでも言いたげに安堵の溜息をつく。

 

 背中に回した俺の左腕に身体を傾け、リニスさんは俺の右手を、もともとざっくりと開いている上に戦闘と黒の魔力によって更に肌蹴(はだけ)てしまっている胸元に引き寄せた。

 

「ちょっ……なにをっ!」

 

「唇まで重ねたのに、今更何を慌てることがあるんですか?」

 

「こっ、の……」

 

 不意に訪れた地肌への接触に俺はどきまぎしてるのに、リニスさんはクールに流し目まで送ってきた。

 

 たしかに地肌どころか粘膜に接触したが、それとこれとは話が別だ。心臓が跳ね上がるのを止めることはできない。

 

 俺と彼女との間に動揺の差がありすぎて少しならず悔しいが、悲しい(かな)、手のひらから送られてくる情報を率先して脳みそが収集してしまう。これが男の(さが)なのか。

 

 柔らかな二つの膨らみと天鵞絨(ビロード)を凌駕する滑らかさの肌、火照ったように熱い体温。手のひらを通じて伝わる心臓の鼓動は、意外なほど早かった。

 

「……案外、リニスさんも緊張してる?」

 

「にゃっ! んっ……こほん。な、なんのことでしょう」

 

 尾骶骨(びていこつ)から伸びているリニスさんの尻尾が山形(やまなり)に持ち上がった。

 

 これはどういう気持ちだったっけ、と脳内エンジンを検索。鷹島さんとの雑談がヒットした。

 

『にゃんこも尻尾で気持ちを表現してるんですよ! そういうところはわんちゃんと同じなんですけど、わんちゃんと違って右に左にぱたぱた激しく動かしているときは怒っているんですっ。逆に嬉しいときや喜んでるときは尻尾をぴん、と伸ばすので、そんなときはめいっぱい可愛がってあげてください! あとおもしろいのがですねっ、ちょっと前うちの子がなってたんですけど、ぎくってしたときは尻尾を真ん中くらいまで上げて、先のほうは垂らすんです! すごくかわいくてですねっ……』

 

 以前、俺に懐く珍しい猫、ニアスの様子はどうか、という旨の話を教室で鷹島さんに振ったところから膨らんだ雑談だ。正直話の中身よりも、猫をにゃんこ、犬をわんちゃんと呼ぶ鷹島さんに興味が湧いてしまっていたのだが、内容までよく憶えていたものである。

 

 ちなみに聞いたのは昼休みだったのだが、猫談義は途切れることなく昼休みの時間まるまるを費やした。暗記系の科目には強くない鷹島さんだが、猫に(まつわ)ることになると驚嘆に値する知識の深さがあったので強く印象に残っている。

 

 ともあれ、鷹島さんからの情報を頼りにすると、現在のリニスさんの心境は『ぎくっ』としているらしい。つまりは。

 

「図星か」

 

「あ、当たり前でしょう……。こんなこと、経験ないんですから……」

 

「お、おお……」

 

「女の子に言わせないでくださいよ……もうっ」

 

 俺の追及にリニスさんが赤面しながら白状した。大人ぶった建前がなくなった分、初心(うぶ)な反応が深々と心臓に突き刺さる。

 

 そんな青臭いラブコメに耐えかねたエリーが、これまでにない光度で発光した。早く話を進めろ、という意味合いだとは思うのだが、その裏にもっと強くて激しい意図が隠されている気がした。

 

「そ、それでリニスさん。これに一体なんの意味があるんだ?」

 

「そ、そうでしたね……えっと」

 

 話の腰をエリーが折ってくれたおかげで本題にすんなり戻ることができた。お互いまだ余所余所しさというか、ぎくしゃくとした雰囲気が残っていたけれど。

 

 そんな雰囲気を払拭するかのように、仄かに頬に赤みを差しながらもリニスさんが咳払いした。

 

「私のほうに魔導炉へのラインがありますから、そのラインを経由してハッキングを仕掛けてください」

 

「そんなことしたら、リニスさんにもハッキングの不快感があるんじゃ……」

 

「この場から可及的速やかに実行しようと思ったら、それしか方法はありません。デバイスの余剰メモリーに残った履歴からも跳べるとは思いますが……」

 

 リニスさんは苦笑いを(たた)えながら、視線をとある方向に向けた。そちらを確認すれば、中間から真っ二つに分離した杖が転がっていた。

 

 失念していた。俺がクリムゾンに放った一撃によって、図らずも粉砕してしまったのだった。

 

「あはは……あのような惨状ですので、ちょっと厳しいかと……」

 

「本当にごめんなさい」

 

 どうしよう、高価なものだったとしたら、いや高価であることは性能を(かんが)みればもはや論を()たないが――弁償となると到底払える気がしない。

 

 ちらと顔色を伺うと、視線に気づいたリニスさんがこちらを見た。一度小首を傾げて、あることに気づいたように目を開き、にやりと意地悪げな笑みを浮かべた。

 

「いずれ私の愛機を壊した代償を支払って頂かなければいけませんね」

 

「本っ当にごめんなさいお金はないんです」

 

「ふふ、冗談ですよ」

 

「リニスさんっ!」

 

 笑顔でそう快く許してくれたリニスさんが、俺には天使に見えた。

 

「身体で支払ってもらいますっ」

 

「リニスさん……」

 

 輝くような笑みで死刑宣告を受けた。毛並みの美しい尻尾が、俺には悪魔の尻尾に見えた。

 

「それらの詳細は今後詰めるとして、今は魔導炉への侵入です。さあ、早くしてください。待っているはずですから、あの子が」

 

「ああ……うん。わかった」

 

 気が重くなる事案が発生してしまったが、後回しにして切り換える。

 

 暗くて冷たくて、誰もいない世界でクリムゾンが待っているのだ。早く行かなければいけない。

 

 疲労が抜け切っていないリニスさんに負担をかけるのは(はばか)られるが、()むを得ない。リニスさんの提案した手でやらせてもらう。

 

「そんじゃ、行くよリニスさん。ちょっと違和感はあると思うけど、我慢してくれ」

 

「あの子が苦しんでいるのは私の責任でもあります。これぐらいでは(あがな)いきれません。……それに、徹が私の中に入ってくるのは暖かくて、胸がきゅぅってして……慣れれば気持ちいいですし……」

 

 精神を鎮めて右手に魔力を集め、ハッキングに意識を傾ける。

 

「……集中、乱れるっての……」

 

 ただ最後のセリフは俺に聞こえないように(ひと)()ちて欲しかった。

 

 身体の中心に集まった血液を頭に流すようなイメージで演算を開始し、右手から魔力を流して再びリニスさんの中へと潜り込む。

 

 クリムゾンとリニスさんの繋がりは断ち切ったが、それとは別にリニスさんが魔導炉にアクセスした形跡があるはずだ。その足跡を辿れば、魔導炉のプログラムに跳べるはず。

 

 そう考えてリニスさんの中を注視して進むが、予想外の障害が一つあった。

 

「んっ……はぁっ、ひゃぅ……ん、ぃっ」

 

 経由点(リニスさん)が思考にノイズを与えてくるのだ。

 

「リニスさん、その声やめて。ハッキングに集中できない……」

 

「そんなっ……こと、言われても……。はっ、はぁ……っ。徹が、私の大事なところで好き勝手動くのがっ……悪いんですよ」

 

「語弊を誘引する言い回しもやめてくれ」

 

「でも、事実ですし……んっ、はぁっ……」

 

「…………仕方ないか。リニスさん、終わるまでしばらく我慢しててね」

 

 すぐ近くでこんな淫靡(いんび)甘美(かんび)な声を漏らされると、とてもではないがいろいろ持ちそうにない。それにさっきからエリーが怒りに打ち震えるようにバイブレーションし続けている。エリーの堪忍袋の緒も俺の理性と同様、長くは持ちそうになかった。

 

 協力してくれているリニスさんには悪いが、このままでは終わりが見えないので強硬策に打って出させてもらう。

 

 彼女を支えている左腕を少し上にずらし、左手の中指と薬指を艶かしい溜息を吐くその口腔内に突っ込んだ。これで少しでも色っぽい声が緩和されることを期待する。

 

「と、とおりゅっ(徹っ)こぇ(これ)……っ」

 

「もうあんまり時間も、魔力的なスタミナも余裕がないんだ。これもクリムゾンのためだと思って割り切って」

 

こぇ(これ)……やくぃ(逆に)ぁずぃれす(まずいです)っ……んぅ」

 

「え、なに? 文句は後で聞くから、ちょっと静かにお願い。喋ろうとするたびに舌が指に当たってこそばゆい」

 

 リニスさんはもごもごと抵抗していたが、集中を掻き乱す声は多少静かになった。

 

 指先に感じるぬるりとした熱さ舌の感触もかなり集中を阻害するが、声よりかはマシだ。左手の感覚を意識して遮断し、ハッキングに神経を注いだ。

 

「……見つけた」

 

 リニスさんのリンカーコアの中で魔導炉へのアクセスラインを発見すると、それを足場として魔導炉へのプログラムにジャンプする。

 

 これまでに色んなものハッキングは使ってきたが、それらのどれとも形式が異なっていた。分類すると一番似ているのはアースラの情報集積システムだが、違う部分も多い。

 

 ほぼ未経験のシステムだし、ハッキングの対象が手元にいないというのは初めてだが、手がつけられないほどということはない。侵入してから書き換える時間が勝負の防御・拘束魔法、情報量の密度が高い上に緻密で丁寧な処理を必要とするリンカーコア、暴れ狂う魔力を抑え込みながら武装解除を行ったジュエルシード(エリー)。これまでの経験を応用すれば、遠隔(リモート)での作業であっても難しくはない。

 

 電脳の海を泳ぎ、目当ての地を探す。その過程で魔導炉の暴走を減速させられそうな、食い止められそうな箇所には細工をする。

 

 進むうちに、目的の区画を発見した。侵入を妨げる防壁を突破して、踏み込む。

 

 分厚く重たい扉を開けると、圧倒的な圧力の空間が広がっていた。それは情報量の圧力であって、膨大な魔力の圧力でもあった。

 

 その圧力の中心にある物体、暗めの赤色をした球体。これがクリムゾンの本体なのだろう。

 

 魔力を送り、クリムゾンと繋がりを作る。(とみ)に、引き寄せられるような感覚。エリーの空色の世界に(いざな)われる時と同じように、意識が身体から浮き上がってクリムゾンの世界へと移動する。

 

 目を開けば、そこは時の庭園のホールではなかった。エリーと同様、この世界もクリムゾン固有の色で満たされている。戦っている時に見た血のような赤黒い色ではない。視界いっぱいに広がるのは夕暮れ。どこか郷愁(きょうしゅう)の念を抱く、鮮烈なまでに美しい、茜色だった。

 

「よぉ……ちょっと遅かったんじゃねぇの? 待ちくたびれちまったよ」

 

 この世界を彩る色に見惚れていると、耳に馴染みのある口調が背後から飛んできた。

 

「こっちもごたごたしてたんだ。待たせて悪いな。迎えに来た、クリムゾン」

 

 (かえり)みながら返事をする。

 

 そこには、この世界と同じ茜色の髪を持った少女が立っていた。姿を定める因子がどういうものなのかはわからないけれど、エリーとはまた(おもむき)が異なる体躯と格好をしていた。

 

 フェイトよりも少し高い程度の背に、細いからだつき。肩に届くくらいの長さの茜色の髪は無造作で、顔に前髪がかかっていた。

 

 ロストロギアから生じる人の姿というのは全員美人で統一されているのか、髪で縁取られた小さな顔は端整そのものだった。

 

 性格とリンクしているように、その双眸は勝気につり上がっている。つんと上を向いた鼻は小生意気さを(うかが)わせ、色づきのいい唇はニヒルな笑みを形作っていた。男勝りな性格はともかくとして、成長すれば外見だけは間違いなく美女になるだろう風貌。

 

 幻想的で近寄り難い印象を醸し出していたエリーと比較すればラフな服装にも思えるが、クリムゾンの口調や性格からすれば気合が入っているように見えた。トップスは肩がざっくり開いたピンクに近い淡い赤色のパーカー、インナーには幾何学模様が描かれた薄地のシャツ。ボトムスは裾の長いパーカーの下に隠れるような灰色のショートパンツ。そこから覗く、白くて細い生足がとても眩しい。足元はワインレッドを基調として、黒のラインが入ったハイカットのスニーカー。言葉遣いに活発なイメージがあるクリムゾンにぴったりだった。

 

 パーカーのポケットに手を突っ込んでいたクリムゾンが気まずそうに目を伏せ、身体を(かたむ)ける。外気に晒している細い足をもじもじとすり寄せ、気恥ずかしそうに白い肌を赤く染めながら口を開いた。

 

「あ、あんまじろじろ見てんじゃねぇよ……。なんか……目つきがエロい」

 

「ち、違う! そんなつもりで見てたんじゃない! ただなんか、世間慣れした感じの服装で可愛いなって思って観察してただけで……」

 

 じとっとした眼差しを俺に向け、ぽっけに突っ込んだ手でパーカーの裾を下に伸ばす。伸縮に富んだ材質なのか、クリムゾンはパーカーをふとももの中程まで伸ばして足を隠した。

 

 露出した肌を隠すことには成功しているが、丈の短いショートパンツまで隠してしまっていて、おかげで下に何も穿いてないように見える。思わぬ眼福に(あずか)った。

 

「……ほんとかよ。足ばっか見られてた気がすんだけど……」

 

 衣服に対する純粋な考察を深めていたところのクリムゾンの発言だったので、心の内を読まれたのかと本気で思った。

 

「そそそんなことはない。決して……誓ってもいい」

 

「どもってるし、仰々しく言うほどに怪しくなるぜ。まぁ、そっちはあんたの顔を立てて脇に置いといてやるよ」

 

 それよりも、だ。クリムゾンはそう言って、俺に歩み寄る。手を伸ばせば届くという距離にまで近づくと足を止めた。

 

 歩いた時の揺れで茜色の頭にはパーカーフードが被さり、顔は見えない。クリムゾンがどこを見ているのか、どんな表情をしているのか、わからなかった。

 

「あんたはどうやって……俺を助けてくれんのかな」

 

 顔を下げたまま、少女は呟いた。

 

「あんたが俺んとこまできてくれたおかげでこうして面と向かって話ができてるわけだけど、現実世界では俺の本体は魔導炉の中だ。ロストロギアを配置してるだけあって、俺の本体の周りは分厚い装甲板で覆われてる……」

 

「ああ、そうだな。ハッキングでお前のところまで侵入する時も堅固なプロテクトがあった。内部情報面でもあれだけ警戒してたからな。物理的な警戒も同じくらい、いや、それ以上に用心してると考えるべきだ」

 

「……厄介なのはそんだけじゃねぇ。巨大な魔導炉を稼働させてんだぜ? 俺がじかに確認したわけじゃねぇけど、どうせ発生する魔力圧に負けねぇように頑丈な設計になってんだろうよ」

 

「魔導炉の規模と生成される魔力量から推測するだけでも、相当な強度はあるだろうな。俺の射撃魔法じゃ確実に中核まで穿孔(せんこう)できないし、エリーに手伝ってもらっても困難だ。俺がやろうと思えば、魔力付与で強化して装甲をべりべり剥がす感じになるんじゃないかな。なんにしたって魔力以上に時間がかかる」

 

「かはは、野蛮なやり方だ。でもそんなんじゃあ、あんたが死んじまう。忘れてんのか? 魔導炉は暴走してんだぜ? 水が詰まった風船を割るみてぇに、傷つけた外殻から魔力が溢れて爆発する。頭悪い乱暴なやり方で装甲板を剥がそうと傷つけた瞬間、あんたが吹っ飛んじまうよ」

 

 俺が挙げた方法に、クリムゾンは俯いたままからからと笑う。肩を揺らして声だけは楽しそうにしていたが、華奢な身体は不安で心細くて、今にも潰れてしまいそうに見えた。

 

「せっかく提案したのに野蛮だとか頭悪いだとか乱暴だとか、随分な言い様だな」

 

「正直なところ、こいつ馬鹿なのかなぁ、って思ったよ俺」

 

「あまりにあんまりな評価だ」

 

「実際問題、あんたじゃどうしようもねぇよ。いや、普通の人間にはどうしようもねぇんだろうけどよ……。魔導炉の装甲板を撃ち抜いて、貫いて、発生するだろう爆風も吹き飛ばすくれぇの火力なんてあんたにねぇことは……戦った俺が一番知ってる」

 

「…………」

 

 製作者の手綱から離れてオーバーフローした魔導炉は、プログラムをいじった程度ではもう止まらない。魔導炉を中核まで破壊してクリムゾンを取り出そうにも、おそらく外装に亀裂が入っただけで大爆発を起こす。近づいていたら高温の爆風と衝撃波を諸に受けるし、かといって離れてしまえば装甲板を貫くだけの火力を俺では用意できない。仮に装甲を吹き飛ばす火力を用意できたとしても難点はある。少し離れたくらいでは爆風と衝撃は確実に襲いかかってくるし、いくらクリムゾンが囲われている防壁が強固なものといっても、外殻を破壊するほどの火力では防壁の中に幽閉されているクリムゾンまで消し炭にしかねない。

 

 難しい。とても難しいのだが、一つだけ策を思いついていた。しかし、この策を実際に行おうとするのはかなり抵抗がある。閃いた作戦の一番のネックは、危険な目に晒されるのは俺だけではないこと。にも(かかわ)らず、成功するかはわからない。

 

 事ここに至って、俺は踏ん切りがつかずにいた。

 

「もう……いいよ。俺はもう、満足できた」

 

 一つ溜息をついて、夕焼け色を背にする少女は小声で呟いた。

 

「なに言ってるんだ、まだなんとかできる。俺も考えるから……」

 

「いいっつってんだろうが……。こんなとこで時間食ってる場合じゃねぇんだろ、あんたは。他のロストロギアが動いてる気配もする。手遅れになる前に、あんたはあんたのやらなきゃいけねぇことを……しに行けよ」

 

「待てって……もう少しだけ待ってくれ。一応考えはあるんだ、それを煮詰めていけばきっとなんとか……」

 

「できねぇんだろ、それ」

 

 肩を掴んでクリムゾンを説得しようとしたが、短い言葉で切り返される。言葉が少ないだけに、心臓に深々と突き刺さった。

 

 怯んだ俺に、少女は続けて浴びせる。視線は依然、合わせようとはしてくれない。

 

「命がけの死闘を繰り広げたんだぜ? あんたの性格は俺にもよくわかってんだよ。あんたは、一度人の事情に踏み入っちまったら途中で投げ出すことができねぇ。でけぇ問題を抱えてたら一緒に背負おうとする。その問題を解決する時、あんたは一つでも方法があるんなら諦めないで全力を尽くす。そんなあんたが実行に踏み切れない理由は……自分一人では解決できねぇってことだろ。他のやつに迷惑がかかるんだろ」

 

「っ…………」

 

 心臓を鷲掴みにされたような気分だ。クリムゾンは気付いていた、俺という人間を見抜いていた。

 

 俺が考えた解決法は、なのはに魔導炉を破壊してもらうというものだった。魔導炉のスペックデータを盗み見た限り、魔力を最大まで溜めたなのはの全力全開の砲撃であれば、装甲を撃ち貫くだけの火力になる。

 

 だが、気が進まなかった。爆発の威力や規模というのがどれほどのものになるのか想定できなかったのだ。

 

 砲撃を放ったなのははもちろん、なのはの近くにいるはずのユーノにも危険が及ぶ。爆風と熱、衝撃波が牙を剥く。なのはやユーノが負傷するかもしれない。そんなことを想像するだけで吐きそうになるが、もしかしたら死傷する恐れまである。それがゴーサインを出すのを躊躇(ちゅうちょ)させていた。

 

「あんた一人でどうにかなるってんなら早々に取りかかってるはずだからな。そうしねぇってことは、仲間の手が必要で、仲間にまでリスクを背負わせることになるってこと。そうなんだろ?」

 

 クリムゾンはここでようやく顔を上げた。俺を(あお)ぎ見て、穏やかに微笑んだ。俺は今どんな顔をしているのかわからなかったが、クリムゾンの表情を見て、ひどい面をぶら下げていることはわかった。

 

「そんな顔すんなって。あんたは俺みてぇな、今日会ったばっかのロストロギアにまで肩入れするくらいのお人好しの大馬鹿だ。そんなあんたなら仲間が傷つくところなんて見たくはねぇだろうなって、性根が腐ってる俺でもわかる。だから……もういいんだ」

 

「もういいって、そんなわけないだろ……。お前が自分で言ったんじゃないか……もっと色んなものを見たいって、もっと自分がいたことをみんなに憶えておいて欲しいって……もっと、自分の力を人の役に立たせたいって……っ!」

 

「かはは。恥ずかしいセリフをよくもまあ憶えてくれてるもんだな。たしかに、その気持ちはまだ持ってる。なくなってねぇし、薄れてもいねぇよ」

 

「じゃあ投げるようなことを言うな。諦めたような顔するなよ。無様でも見苦しくても、もっと足掻いて……」

 

「俺、言っただろ。満足だって」

 

「なにも変わってないのに、どこも好転してないのに、満足だなんて嘘つくなよ!」

 

「嘘じゃねぇよ。嘘じゃ、ねぇんだ……」

 

 小さな手をパーカーのポケットから出すと、クリムゾンは俺の服を掴んだ。決して強くない力で服を握り込むクリムゾンの手は、震えていた。

 

 顔は逸らさず、俺の目をじっと見ている。口元は笑顔のまま強張(こわば)らせて、瞳は不自然なほどに輝いていて瞬きをしない。それがどういう意味を持っているのか、わかってしまうのが辛かった。

 

「外の景色を見てみたい。持て余してる俺の力を人の役に立たせたい。もっと、もっと生きて……いたい。あんたが取り戻させてくれた気持ちは、まだ俺の中にあるんだ。でもなぁ……どうしてだろうな、満足しちまったんだよ」

 

「やめろ、言わなくていい……」

 

「あんな口約束破ったってあんたにはなにも損はねぇのに、破られても俺はもうなにもできねぇのに、あんたはほんとに約束を守ってここまで来ちまった。俺に乗っ取られるかもしんねぇのにのこのこ入ってきて魔力を繋いで、のんきにお喋りして、馬鹿みてぇに真面目に俺を助けようとなんてしてる。そんなことでよぉ……満足、できちまったんだ。自分でも情けねぇぜ。俺はちょっと優しくされたくらいで(なび)いちまうような、こんなちょろい女だったのかよ」

 

 少女の笑顔に(ほころ)びが生じ始めた。微笑を(たた)えていた口は歪み、下唇を噛むことが多くなる。瞳に反射する光は輝きを増すばかりで、目元に溜まるばかりだった。

 

 声をかけようにも俺の声帯は指示を聞かず、音を発しない。空気がもれるだけだった。なにを言えばいいかも、わからなかった。

 

「全部が全部、うまくはいかねぇよ……そうそう都合よくはできてねぇんだ。なにかを守ろうとしたらなにかを切り捨てないといけねぇし、なにかを得ようとしたらやっぱりなにかを見捨てないといけねぇ。そんでこの場合、見捨てて切り捨てるべきは……俺なんだ」

 

「助けるって……言っただろ。なんとか、するから……」

 

「こうやって俺に手を差し伸べてるのだって予定になかったんだろ? じゃあ、俺のことは諦めるべきなんだ。俺のことは……忘れるべきなんだ。これはどう考えても回り道で寄り道だぜ……余計な力を使ってる。あんたの魔力だってもう限界に近いんじゃねぇの?」

 

「そんなことはない……まだまだ余裕、だ。女の子一人くらい背負える……。だから、忘れるべきだなんて言うな……」

 

「約束を守ってくれて、ありがとな。この世界に来てくれて……嬉しかった。最後に誰かと話せて楽しかった……っ。こんな、俺でも……一応人格としては女の子だからなっ、最後におめかしできて、それを見てもらって……可愛いって言ってもらえて……よかった。頭まで気が回らなくて髪ぼさぼさだったけど……かはは。お、俺って……ガサツ、だからなぁ……っ。うっぁ……っ」

 

「クリムゾン……っ」

 

 最後の最後で、少女は耐えきれなかった。瞳に溜まった涙が一雫、零れ落ちる。

 

 唇を噛み締めても、手を握り締めても、一度決壊してしまえばもう止められない。ぽろぽろと、夕暮れに大粒の雨が降る。

 

 クリムゾンはふたたび顔を伏せた。それでも小さな手は俺の服を掴み、涙は落ちていく。

 

「これはっ、違うから……。嬉しくて、泣いてんだよ……。消えちまう最後に、あんたに逢えて、あんたと言葉を交わせて、あんたと楽しい時間を過ごせたから……嬉し、くっ……」

 

 必死に嗚咽(おえつ)を我慢して、声を押し殺している姿はとても痛々しかった。

 

 少女の言葉が嘘であることは、すぐにわかった。想いをひた隠し、願いを飲み込み、本音を偽っているのがわかった。

 

 だから俺は、クリムゾンの小さくて脆そうな身体を抱き締める。消えてなくなってしまわないように、この手に抱き留める。

 

 クリムゾンが言ったことは、真理なのかもしれない。なにかを得ようと思えば、なにかを捨てなければいけないのかもしれない。人の身で何もかも手に入れようとするのは傲慢(ごうまん)なのかもしれない。

 

 後々自分の首を絞めることになる可能性はある。本来であればいらぬお節介は焼くべきではない。

 

 それでも俺は諦められない。目の前で(つい)えようとしている命を見過ごすなんてできなかった。動かずに静観しているなんて俺にはできなかった。後悔する道は選びたくない。

 

「もう、いいんだクリムゾン。我慢しなくていいから、俺のことも気にしなくていいから……お前の本当の気持ちを教えてくれ」

 

「やめて……やめろ、離せっ。……だめだ。あんたを困らせたく、ない。迷惑かけてまで、生きていたくない……っ。最後に幸せな時間をくれただけで、俺は……っ」

 

「お前の本音を聞かせてくれ。正直な望みを言ってくれ。見栄や意地も張らなくていい。虚勢も強がりもしなくていい。無理も心配もいらないんだ。これまでお前は一人きりで頑張ってきたんだ。だからもう、弱みも泣き顔も見せていいんだ。誰かを頼っても、いいんだ。もう一度言う。聞いてくれないのなら、何度だって言う。お前の本当の気持ちを教えてくれ」

 

 少女の腕が、俺の背に回された。きゅっと力が入る。ぴったりと寄り添って、俺のお腹に顔を押しつけた。

 

「ぅぁっ……。……あ、あんたと、一緒にいたかった……っ。あんたと外の世界を……見てみたかった。あんたとっ……生きて、みたかった……。消えたくねぇよ、徹っ……助けてっ……」

 

「初めて俺の名前……呼んでくれたな。任せとけ。俺はお前を迎えに来たんだからな」

 

 パーカーのフードを払って、茜色の頭に手を置く。

 

 見上げてきたクリムゾンの顔は涙で濡れてくしゃくしゃになっていた。数十年か数百年、もしかすればもっと長い年月をクリムゾンは過ごしてきたのかもしれない。だが、縋り付いて目を腫らして、声をあげて涙を流すクリムゾンの姿は外見相応の少女だった。

 

 

 

 

 

 

 一頻り、枯れるまで涙を流すと無言で一歩下がり、パーカーの袖でぐしぐしと顔を拭く。まぶたを泣き腫らしてはいたが、勝気な瞳には光が戻っていた。

 

「でも……っく、任せとけって、どうすんだよ……。あんたじゃ、魔導炉の外装は」

 

「ん?」

 

「だから、あんたじゃ魔導炉の……」

 

「んんっ、よく聞こえなかった」

 

「このっ……! やっぱ性格悪りぃぜ、()は」

 

「はい、よくできました」

 

「……話戻すぜ。変わった力はあっても基本性能がへっぽこの徹じゃ、魔導炉の外装を貫くだけの火力が足りてねぇ。そこんとこどうすんだよ。事態はいっこも好転してねぇんだぞ」

 

 クリムゾンは腕を組んで斜に構え、直球でひどいことを言う。普段であれば俺のナイーブなメンタルにひびが入ってもおかしくはなかったが、クリムゾンが頬を赤らめて目線を逸らしていたのでダメージは限りなく小さかった。それでも少なからず、ぐさりときたが。

 

「俺、言ったよな。辛かったら頼ればいい、一人では荷が勝っているっていうのなら手を借りればいいって」

 

「あぁ。偉そうに俺に説教してくれやがったな」

 

「随分元気になったな……お前。棘が鋭すぎるよ」

 

「おかげさまで。あんた相手に気を張ってもしゃあねぇことに気づいたわ。んで、どういう意味だよ」

 

「俺一人では難しいから、俺も手を借りることにした。頼ることにした」

 

「ちょ、あんた……それってもしかして」

 

 一人で無理をすることはない。それを俺は、エリーのお陰で気づくことができた。

 

 もちろん一人でなんでもできればそれに越したことはないのだろう。しかし、俺にはそこまでの力はない。

 

 なのはのような砲撃は撃てないし、ユーノのような魔法に関する知恵もない。フェイトのように優雅に空を舞うことなんて土台不可能で、アルフのようなサポートもできない。クロノやリニスさんのようにあらゆる魔法をそつなく器用にこなすことも、俺にはできない。

 

 天賦(てんぷ)の才能とか、恵まれた素質とか、豊かな魔力とか俺にはない。それを悔しく思ったことは幾度もある。俺にもそんな抜きん出た天質があれば、彼ら彼女らの十分の一程度の天稟(てんぴん)があればと、そう願った。願って、求めて、羨んで、僻んで、嫉妬した。

 

 才気迸る者たちの戦場で足手纏いになりたくなくて、必死で頭を回して策を弄した。

 

 それでも、届かない。

 

 生まれ持った資質の壁は俺の行く手を塞ぐ。努力を怠らない彼ら彼女らは遥か遠く、どこまでも高みにいた。

 

 だから限界まで無理をした。素質や才能や努力の差を埋めるには、それ以外に方法はなかった。

 

 でも、それは少し違うのだと、エリーが教えてくれた。俺が動けなくなった時、途方もないほどの苦痛を味わうとわかっていながら俺の前に出て守ってくれた。神経を擦り減らし、凶悪な弾丸の群れと相対し、その身を業火に()かれてさえ、ただの一声の悲鳴すら漏らさず、ただの一歩として退かなかった。自分のせいで誰かが傷つくことはとても辛くて悲しいことだということを、エリーは身を呈して気づかせてくれた。

 

 一人で頑張ることは決して悪いことではない。視点を変えれば美学とも言える。

 

 だが、無理や無茶を正当化することはできない。俺が傷つくことを悲しむ人がいる。家族以外でも悲しんでくれる人がいる。実際口にしてくれたのはエリーだけだけど、なのはだってそう思ってくれているかもしれないし、もしかしたらまだ他にもいてくれるかもしれない。ならば、そう簡単に無理をしてはいけないのだろう。

 

 俺一人の力など高が知れている。俺だけで対処できないのなら、仲間に手を貸してもらえばいい。羨ましく思うほどの才気に富んだ仲間が、俺にはいるのだから。

 

「魔導炉はなのはに任せる。クリムゾン……自分の未来を全部俺に(たく)すなんて、お前は嫌がるだろ。俺も手伝う……だから、自分の未来は自分で切り開け」

 



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大切だから、助けたいから

 意識がクリムゾンの世界から出て、現実に回帰する。疲労感で重くなった身体は気怠く、魔力の過剰使用でリンカーコアには疼痛が居座っていた。血が混入したからか、それともエリーとの和合(アンサンブル)前に痛撃を受けたからか、左目がとても熱く痛んだ。

 

 重たい瞼を開けば、広大なホールが飛び込んできた。物はなかったが小綺麗に整備されていたホールはリニスさんと俺の激戦と死闘によりあちらこちらに瓦礫が転がり、天井には崩れ落ちるのではと不安になる程大きな亀裂が刻まれている。分厚い壁にはどでかい風穴が口を開かせ、床はそこかしこに穴が穿たれていた。

 

 冷静になってから観察すると、惨憺(さんたん)たる光景に変わってしまったものである。この惨状を作り出したのが俺とリニスさんの二人、エリーとクリムゾンを含めても四人であるということに、ちょっとした恐怖すら覚える。これだけの損傷を受けてなお、未だに倒壊せず(そび)え立つ塔の強度はさらに計り知れないものがあった。

 

 お邪魔している建物へ及ぼした深刻な被害も重要だが、いかんせん今はさらに優先度の高い事象がある。クリムゾンをいつまでも不安定な状態で待たせるわけにいかない。すぐに準備に取り掛かることとする。

 

 難題も残っているが、差し当たってはリニスさんの助力を取り付けることだ。

 

 魔導炉へとハッキングするための足掛かりとして協力してくれていたリニスさんから右手を離す。リニスさんに触れていた右手には、いやに熱い体温が残っていた。

 

「クリムゾンを解放する算段がついた。そこでリニスさんにも手伝ってもらいたいことがあるんだけど……リニスさん?」

 

「……ぁ、っは……ゃ、っ……」

 

 声をかけるが反応がなかった。いや、反応がないというと語弊がある。小さくても声は漏れていたし、身体はぴくぴくと動いている。全くの無反応とは言えないのだが、しかしこれを返答と取るのはかなり無理がある。

 

 もしかして戦闘の疲労で寝てしまったのかと思い、リニスさんの顔をのぞき見る。

 

「…………うわぁ」

 

 結果的に、リニスさんは起きていた。起きてはいたが、こんな状態であるのならまだ眠っていてくれた方が俺としてはありがたかったかもしれない。

 

 リニスさんは脱力して、魔導炉にハッキングする前と同様、俺の左腕に(もた)れかかっていた。瞳は酒に深く酔っているかのようにとろんとして焦点が定まっておらず、顔から大きく肌蹴た胸元までは逆上(のぼ)せたみたいに赤くなっており、しっとりと汗ばんだ肢体に服が張り付いている。淫靡(いんび)な吐息で俺の集中を阻害していた口には俺の左手の中指と薬指が突っ込まれたままだった。リニスさんは口に挿入された異物をのけようと自分の手を俺の左手に運んでいるが、その力は抵抗と呼ぶにはほど遠く、まるでもっと深く挿し込んでくれとせがんでいるようにも見えてしまう。口の端からは透明な液体が垂れてしまっており、俺がリニスさんの胸の中央から手を離して体勢を変えたことで、かすかな粘りを持つその液体は胸元の深い山間へと吸い込まれていった。寒くはない、どころか彼女の体温からすれば熱いくらいだろうに、全身はぴくぴくと小刻みに震え、両足はもぞもぞと内股に擦り合わされている。戦いの過程か、魔導炉からの魔力の仕業か、どちらにせよリニスさんのしなやかな足を包んでいた黒タイツは伝線して、ところどころで生足が顔をのぞかせていた。黒タイツと白い地肌のコントラストはとても目を惹く艶やかさがある。

 

 とりあえず総評としては、リニスさんが大変なことになっていた。

 

「ちょっと、リニスさん。なに一人で遊んでんの。真面目なところなんだから、しっかりしてくれよ」

 

「らって……とおりゅ、ぁ……」

 

 身体を揺すってもう一度話しかけたら、今度は言葉のようなものをリニスさんが口にした。舌足らずで不明瞭だったのでなんと発言したのかはわからなかったが。

 

「あ、抜くの忘れてた。ごめんね。ハッキングは終わったし、魔導炉への経路は把握したからもう大丈夫だよ。協力感謝」

 

 彼女の吐息を封じていた左手の指を口から引き抜く。指とリニスさんの口内を繋ぐ銀色の糸が、ぬらぬらと妖しげに光っていた。

 

「と、とおるが……っ、私の中を掻き回しながら、同時に……口まで(もてあそ)ぶからでしょうっ」

 

「リニスさんにハッキングしたのは魔導炉に侵入するためで元々はそっちから提案してきたし、口に指突っ込んだのはリニスさんが変な声出して集中させてくれなかったからだ。俺だって本当は手荒なことはしたくなかったよ」

 

「……はぁ、私は汚されてしまいました……プレシア」

 

「リニスさんの被虐趣味はひとまず置いとこう。本題に移りたい」

 

「人をあっさりとマゾヒスト認定しないでください。そんな趣味はありませんでした」

 

「過去形になってる!? 微妙に認めちゃってるよ!」

 

「それより、あの子はどうなりましたか。助けられたんですか?」

 

「リニスさんが切り出すのか……なんか釈然としないけど。とりあえず、ここからは真面目な話だから(よだれ)は拭いてくれ」

 

 いそいそと口元を拭うと、リニスさんは居住まいを正して向き直った。

 

 俺は咳払いを挟み、説明を始める。

 

「まず、クリムゾンの本体を取り出すためには魔導炉を破壊する必要がある。これが大前提になる」

 

「それについては異論はありません。保守点検用のどのルートを選んでもロストロギアにまでは通じていません。魔導炉の分厚い外壁を吹き飛ばしてあの子を救い出すほかに、私も思いつきませんから。ですが……」

 

「わかってる。その分厚い外壁をぶち抜くのを誰がするか、だろ? その人選はもう決めてるんだ。なのはに頼むつもりでいる」

 

「なのは、ちゃん……フェイトの友達になってくれた、あの子ですか。私もやろうと思えばできたでしょうが、今はデバイスもありませんし、疲労困憊もいいところですからね……難しかったでしょう。いい判断だと思います。確かになのはちゃんの砲撃魔法の腕と威力なら破壊できる可能性もありますが、しかし、暴走状態の魔導炉では成功確率の概算が出せません。魔導炉と、その場に残留する魔力諸共吹き飛ばさなければ術者が危険ですし、威力が強すぎてもそれはそれでかえって困ることになります」

 

「なのはの砲撃の威力が強すぎればクリムゾンごと消し飛ばすかもしれないってことだろ。そこはまあ……一応考えてる。問題は、魔導炉を撃ち抜くなのはに、いかに危険な目に遭わせないか、だ。そのために、リニスさんにやって欲しいことがあるんだ」

 

「はい、私にできることであればなんなりと」

 

「しんどいだろうことは分かってるんだけど、それでも可能な限り安全に、ついでに成功確率も上げときたいんだ。なのはが破壊する中核付近の区画だけでもいいんだけど、魔導炉の中に蓄えられている魔力を減らして欲しい。……できる?」

 

「大変手間がかかる上に至難ですが、そんな頼まれ方をされては……難しいからできないなどと足蹴にすることはできませんね……。魔導炉に関わるあらゆる権限はプレシアから私に委譲されています。魔導炉にアクセスし、庭園内への魔力の供給量を操作すれば一時的には可能かと。ただ、短時間しか効果は維持できませんよ?」

 

「それでもいい。短時間でも魔力圧が下がるのなら、その瞬間にタイミングを合わせればいいんだ」

 

「……なにか考えがあるようですね。わかりました。準備に取り掛かります」

 

「合図はこっちで出す。待っててくれ」

 

「では、その手筈で」

 

 相変わらず俺の膝の上から動こうとしないリニスさんは、お腹の上で手を組んで瞑目した。自分の作業に入ったのだろう。

 

 リニスさんとの話はついた。次はなのはとユーノに作戦を伝えなければならない。心拍数が上がり、口が渇く。なぜかとても緊張してきた。

 

 いくら可能な限りの安全策は講じるといっても、現場に近いなのはとユーノには少なくはないリスクが生じる。俺は二人を信頼しているし、自惚れではないが二人からも信頼されているという自負はある。そう心の内で信じていても、実際に大役を任せた時二人からどう思われるかと考えたら、決心が鈍りそうになる。

 

 なのはとユーノなら、立場的なものや年齢の差などで、俺から危険な役目を押し付けられても断れないのではないだろうか。危ないしやりたくないと思っても、いやだ、とは言えないのではないだろうか。

 

 それではもはや、お願いではなく命令になってしまう。

 

 ネガティブな想像は歯止めがかからず、ぐるぐると俺の頭をかき回す。

 

 暗い方向にばかり進む思案を巡らせていると、ぺちっと頬を(はた)かれた。痛みはなく、触れると表現したほうが的確かもしれない。

 

 この場には俺とエリーと、リニスさんしかいない。宝石の形状に戻っているエリーでは自分から俺に触れることなどできない。考えるまでもなく、俺の頬を叩いたのはリニスさんだった。

 

 俺の左腕に背中を預けたまま、リニスさんは右目だけを開いていた。横目に俺を見て、呆れのような色を(にじ)ませた溜息をはいた。

 

「端末代わりのデバイスがあればもう少し作業が楽だったんですけどね。誰かさんが壊してしまったせいで、自分でやらなければいけません。鉛でもくくりつけたように思い身体で、疲れ切ったリンカーコアに鞭を打って、自分でやらなければいけません。はぁ、大変です」

 

 冗談めかしてはいるが、リニスさんは俺を(なじ)ってきた。もう決着をつけたのに、その話を蒸し返す必要がどこにあるのだ。

 

「……デバイスを壊したのは悪かったよ。でも今はそんなこと言っても仕方ないだろ?」

 

「徹にはなにか秘策でもあるのでしょうけど、方法は結局教えてくれていませんし」

 

「…………教えたら、変に心配するかもって思ったんだ」

 

 ここまできて、わざわざ気分と空気を悪くする理由がわからない。

 

 だんだんと苛立ちが(つの)ってきた。

 

「おまけに女の子にあんなことをしておいて平然と喋ってますし、座り辛いですし、腕も硬いですし」

 

「それはまた話が別だろ! ハッキングについては不可抗力だし、それに俺の膝に無理矢理座ったままでいるのも、俺の腕を勝手に背凭れ代わりに使ってるのもリニスさんだっ」

 

 リニスさんがなにを考えているのかがわからなくなった。

 

 デバイスの件に触れたかと思えばブリーフィングの不備をして、次は俺に対する不満を口にする。脈絡がなさすぎる。

 

 フラストレーションが堪忍袋の緒を少しずつ切っているが、しかし俺としてはこんなところで(いさか)いの種を()くつもりはない。なにか俺に含むところがあるのなら、ここで解消してもらうべきだろう。

 

「さっきからなんなんだよ、リニスさん。なにか文句があるのなら今のうちに……」

 

「それでも私は、徹を信頼しています」

 

「え、な……は?」

 

 俺の言葉を、リニスさんは途中で(さえぎ)った。もう俺の脳みそでは処理しきれないほど一貫性のない会話だ。

 

 どっかで頭でもぶつけたのだろうか、と本気で心配になってきた俺に、リニスさんは言う。

 

「今すぐにでも眠ってしまいたいほど疲れているのは本当ですし、長年愛用していたデバイスのことを心のどこかで引き摺っているのも事実です。魔導炉に閉じ込められているあの子を砲撃からどうやって守るのか、その方法を聞かされていなくてちょっとだけ不安と不満を感じてもいます。座りかたを工夫して足の間に私の身体を入れて優しく腕で抱き締めてくだされば、筋肉のしなやかさと硬さ、そして熱さをもっと味わえるのにと、正直、憤懣(ふんまん)()る方ないです」

 

「最後のは……絶対に必要だったのか? 省いてもよかったんじゃないか?」

 

「ですが、私は徹を信頼しています。敵であって、死闘まで演じた私がこれだけ信頼しているのです。今日まで一緒に戦ってきた仲間が、徹を信頼していないわけがないでしょう?」

 

「っ……。なんで……そんなこと」

 

「見ていればわかりますよ。徹はなにをそんなに臆病になっているんですか? 徹はこれまで仲間の子たちから頼りにされてきたのでしょう? 外から見ていれば一目瞭然ですよ。頼りに、というのはなにも戦うことに関してばかりではありません。精神的な支えになっているということは、大きな信頼の裏返しです。うだうだと悩む前に、本人に言ってみればいいのですよ。人は……自分が頼りにした分だけ相手から頼られたいものなのですから」

 

 徹は怖がりですね。リニスさんはそう悪戯っぽく微笑んだ。

 

 途端、重りが外れたみたいに胸が軽くなった。頭もどこかすっきりとする。

 

 俺は考え過ぎていたのかもしれない。考えてからしか動けないのは性分だが、それでもいくら考えたって仕方がないこともあるのだろう。

 

 こうして背中を押してくれる存在というのは、俺にとってはとてもありがたかった。

 

 取り敢えず、なのはとユーノに頼んでみる。話はそこからなのだ。

 

 だが、俺にはその前にやることがあった。

 

「座り心地悪いとか背凭れが硬いとか言うんなら降りてくれ、リニスさん」

 

「ちがっ、あれは悩んでしょぼくれている徹を励ますために……」

 

「俺だって身体重いし、魔力も限界まで使ってしんどいし、疲れてるし」

 

「それも冗談ですっ!嘘ですから、そんな意地悪言わないでくださ……なに左手外そうとしてるんですか! 私離れませんよ、離れませんからっ」

 

 リニスさんの背中に回していた左腕を動かしたら、思いの外過敏に反応して腕をぎゅっと抱き締めてきた。膝の上から下ろされると思ったのか、両手で抱き締めて動こうとしない。両目を固く閉じて小さく(うな)ってすらいた。

 

 演技とはいえ嫌味を言われた仕返しにやったのだが、その必死な抵抗が胸にぐさりときた。なんだろうこのかわいい生物は。

 

 左腕は解放してくれそうにないので、そのままでなのはに念話を送る。

 

『なのは、そっちは今大丈夫か? 傀儡兵に襲われたりしなかったか?』

 

『あ、徹お兄ちゃんの声、戻ってる……。うん、こっちは大丈夫なの。全部倒しちゃったみたいで、一つも見てないよ。徹お兄ちゃんのほうこそ、もう大丈夫?』

 

『こっちも大丈夫だ。リニスさんとの戦いも終わった』

 

『そっか、勝ったんだね』

 

『勝ったっていうか……まあ、いろいろあったからな。無効試合みたいなもんだ。そっちが無事ならよかったよ。あと……あのな、なのは。俺……お前に言わなくちゃいけないことが、あってだな……』

 

 エリーに人を頼る大切さを教えてもらって、リニスさんに背中を押してもらったのに、ここぞというところで言い(よど)んでしまった。流れでぱっと言ってしまえればよかったのに、一度詰まってしまうとかえって切り出し辛い。

 

 何度もシミュレートしただろう。まずは、そうだ。断ってもいいということを先に伝えておくのだった。

 

『え? な、なにかな。徹お兄ちゃんがはっきり言わないなんて珍しいの。そんなに大事なこ……! も、もしかして……っ!』

 

『なのはがいやだなって思ったら、俺のことは気にせずに……断ってくれてもいいからな。なのはの気持ちが大事だから』

 

『にゃっ! えっ、えと……わた、わたしは……い、いいんだけど……。せ、せけんてい、とか……あの、年の差とか……』

 

 忘れていた。なのははああ見えて存外賢い子なのだ。

 

 こちらの戦闘が終わり、俺は手が空いた。なのはは魔導炉の付近で待機している。この状況から推察して、魔導炉の機能を停止させるか、もしくは破壊することに思い至ったのだろう。自分にその役目が回ってきたのだと、理解したのだろう。

 

 俺から直接言われる前に勘付き、しかも、年上の俺が幾つも歳が離れた年下のなのはに危険で重大な役目を丸投げすることで、周りからなにか悪口でも言われるのではないかと心配までしてくれている。周囲からの見る目を気にかけてくれている。

 

 人を気遣える優しい子に育っていることに、こんな時なのに嬉しく思ってしまった。

 

 だが、俺の一方的な都合でなのはの力を借りるのは、もしかしたらこれが初めてなのだ。最後まで口にしなくても伝わる仲間の絆は(とうと)ぶべきだろうが、最初くらいははっきりと自分の言葉で伝えたい。察してもらうなんていう相手任せなことはしたくなかった。

 

『待ってくれ、なのは。俺から言わせてほしい。それに俺は今更世間体なんて気にしない。なのはじゃなきゃ駄目なんだ』

 

『にゃぁっ! でで、でもっ、このタイミングで……ぁぃのこくっ、はく……はえんぎが悪いのっ』

 

 途中魔力の出力がぶれたのか、それとも思念が弱かったのか、声がいまいち聞き取り辛かった。だが最後の『縁起が悪い』は俺の脳内までしっかり届いた。

 

 たしかに大仕事の前に意気込みを語るというのは死亡フラグみたいだが、そんなものは信憑性に欠けるジンクスと同義だ。はっきりと口にしないほうが後悔してもやもやしそうだ。気にする必要はない。

 

『でも、俺は言わずに後悔したくないんだ。聞いてくれ、なのは』

 

『は……はいっ! き、聞きますっ、徹お兄ちゃんの告白っ……ずっと忘れないように胸にきざみこみます!』

 

 告白とはまた大袈裟な言葉を使ってくれたものである。肩の力が抜けてしまった。なのはなりに俺の緊張を解そうとしてくれたのかもしれない。

 

なのはのおかげで胸の(つか)えが下りた。自然に言葉が口をついて出る。

 

『なのはの力を借りたいんだ』

 

『ひゃい! 喜ん……え? と、徹お兄ちゃん……今なんて言ったの?』

 

『だから、俺じゃ魔導炉を壊せないから、なのはの力を貸して欲しいって』

 

『……告白は?』

 

『さっきしただろう。力を借りたいって。格好はつかないけど、なのはの力を頼らせてくれ』

 

『徹お兄ちゃんがわたしを頼ってくれてる……。嬉しいのに、嬉しいはずなのに……複雑なの……』

 

 なのはは俺が言わんとしていることを理解していると思っていたのだが、色()い返事ではないようだ。

 

 頭の中を駆け巡っていた暗い想像がフラッシュバックする。体感気温ががくっと下がったような感覚がした。

 

 頬に触れたリニスさんの手の温度を思い出し、めげずにもう一度確認する。

 

『だ、だめか……? やりたく、なかったら……こ、断ってくれても、構わないんだ。あ、危ないし……怪我をする、かもしれないし……』

 

 なのはに届く俺の思念による発声は、それはもうめちゃくちゃ震えまくっていることだろう。

 

 自分でも思っていなかったほどショックが激しかった。念話でこの有様なのだ、面と向かって話していたらこの程度では済まなかっただろう。声が出ない可能性まであった。

 

『ち、違うの! あんまり違わないんだけど、違うの! あたしが勘違いしてただけなの!』

 

『本当に大丈夫なのか? 無理してるとか……』

 

『なにをすればいいかは知らないけど、あたしができることならやりたいよ。だって、徹お兄ちゃんがあたしを頼ってくれることって……ないんだもん。いつも一人で無茶するから……。徹お兄ちゃんだけが無茶しなくていいように、あたしもがんばる。……徹お兄ちゃんの力になりたいの。手伝わせてほしい!』

 

『そうか……ありがとうな、なのは。やってほしいことっていうのは単純なんだ。なのはの砲撃で魔導炉を吹っ飛ばしてほしい。単純だけど、危ない。できそうか?』

 

『うん、まかせて、徹お兄ちゃん。今なら……この時の庭園の上から下まで貫けそうな気がするの……』

 

『そ、そこまでの威力はいらないぞ……』

 

 なのはの声がとても冷たい。冗談とかを言っているトーンではなかった。やろうと思えば本当にできそうな迫力が、(よわい)九才の少女から発せられていた。

 

 後で合図をする、と言ってなのはとの念話を切る。次はユーノに繋ぐ。

 

『兄さん。なのはになにか言ったんですか? きょとんとした顔をしたかと思ったら急に頬を染めて星を散らしたように瞳を輝かせて、その少し後にはハイライトが消え失せたんですけど……』

 

 念話を接続してすぐにユーノから質問された。

 

 ちょっとした行き違いはあったようだが、基本的には俺がなのはに頼み事をしただけである。別段時間をかけて(つまび)らかに説明する必要はないだろう。

 

『なのはには魔導炉絡みで一つお願いをしたんだけど……そんなに情緒不安定なのか。……今はどんな感じだ?』

 

『念入りにレイジングハートの調子をチェックしています。鬼気迫るものがありますよ。正直、近づきたくないくらい怖いです』

 

『たぶん……集中してるんだ、きっと。ほっといてやってくれ。でだ、ユーノにも頼みたいことがあるんだが』

 

『兄さんはこっちにいないからそんなに他人事でいられるんですよ……。それで頼みというのはなんですか?』

 

『えっと……魔導炉を破壊しようと思ってだな……』

 

『はい、わかりました』

 

『それで悪いんだけどなのはの援護を……って早い! まだ全部喋ってないぞ!』

 

 頼み事の導入部で既にユーノから了承を頂けてしまった。あまりの快諾っぷりにこちらが狼狽(うろた)えてしまう。

 

 ユーノは至って冷静に、平常通りのトーンで俺に返してくる。

 

『破壊と聞けばだいたいはわかりますよ。僕では魔導炉を破壊するだけの魔法は使えないので、なのはがそれを(にな)うんですよね』

 

『あ、ああ……そうなる。だからユーノには……』

 

『なら僕の役目はなのはの補助、ですよね? 魔導炉の破壊時に及ぼされるだろう爆発や、イレギュラーな事態への対処。その他、出来る限りのフォローをします。任せてください』

 

『いや、めちゃくちゃ危険なんだぞ? 他に手があるかもしれない。わざわざ魔導炉に風穴を開けなくたって、機能停止にするだけならもっと考えれば安全な方法があるかもしれないとか、そういうことは思わないのか?』

 

 俺の我儘に付き合ってくれるとの了承は取り付けたが、それでは俺の気が済まなかった。

 

 クリムゾンを助けるためには魔導炉をぶち抜くしか手立てがないが、魔導炉の暴走状態をどうにかすることについては考察していない。こんな手荒な真似をしなくてもなにか手段があるのでは、と疑問を抱くのが通常だろう。なにせ、一番のリスクを引き受けているのは現場にいるなのはとユーノの二人なのだから。

 

 なのに、二つ返事で快諾してくれる。ユーノだけではない、なのはもそうだ。疑いの一つも寄越さずに、疑惑の色も滲ませずに、協力すると言ってくれる。

 

 その信用と信頼がどこから生じているのか、俺にはわからなかった。

 

『僕が言われたのは、魔導炉の暴走状態への処置です。暴走状態さえなんとかすればいいのですから、破壊まですることはないでしょうね。わざわざ危ないことがわかってるほうに手を伸ばすなんて、しないほうがいいのかもしれません』

 

 『そこまでわかってるんだったら反論しろよ。なんでそのまま鵜呑みにするんだ。俺にはわからない。なんでそんなに気軽に言えてしまうんだ』

 

『兄さんがそうすべきだと判断したからです。僕だってあからさまに理不尽で筋が通らないお願いなら多少反論しますけど、兄さんの頼みというのはそういうものではありませんから。兄さんの頼み事は、いろいろ思索して試行錯誤した末の結論だと思います。兄さんは……あまり僕やなのはを頼ろうとは、してくれませんからね……。危なそうなことがあれば僕たちが気づかないうちに、そっと遠ざける。遠ざけることができなければ、間に入って一人でなんとかしようとしてしまう。大切にしてくれていることは実感します。それは純粋に嬉しいです……とても、嬉しいです。ですけど、守られてばかりでは……もう嫌なんです。僕は兄さんの後ろで守られたいんじゃない、隣に並び立って苦労を分かち合いたいんです……仲間ですから。僕はなのはやクロノみたいに特別高い能力を持っているわけではありませんが、それでも頼ってほしいんです。兄さんからの頼み事を引き受ける理由として、これではまだ足りませんか?』

 

『…………』

 

 否定できようはずもなかった。

 

 大切な人を助ける理由なんて、本当に単純なものだ。大切だから、助けたいから。それ以外に理由なんていらないのだ。

 

 傷ついてほしくない、痛い思いをしてほしくない。そう考えているのは俺だけじゃなかった。

 

 俺が抱いていた漠然(ばくぜん)とした不安や恐怖は、丸ごと全部杞憂だったということだ。俺の仲間は、(なり)は小さいがこんなにも頼りになる。嫌がられるかもなどと心配するのは、それだけ相手に失礼だった。

 

『いや、充分だ。ありがとうな、ユーノ』

 

『ちゃんと気持ちを言葉にできて、僕としてもいい機会でした。それで、作戦はすぐにでも?』

 

『まだ少しだけ準備がある。なのはにも言ったんだけど、後から合図をする。あと、いくらなのはの砲撃でも魔導炉を破壊する際の爆風まではかき消せないだろうから、防御には念を入れてくれ』

『了解しました』

 

 これでユーノとの作戦会議も終わったと気を抜きそうになったが、大事なことを伝え忘れていた。念話を切られる前に急いで付け加える。

 

 俺の注文に、ユーノは疑問符で返してきたが事情を話すと承諾してくれた。若干呆れられたというか、苦笑いのような声音だったのが気にかかったけれど。

 

 ともあれ、これで不安と懸念が()い交ぜになった下拵えは終了。あとは、行動に移すのみである。

 

 

 

 

 

 

 念話を終えた俺はもう一度魔導炉のシステムに入り込む。一度リニスさんを経由して魔導炉へとジャンプしたので、アクセス経路は把握している。リニスさんの助力は乞わずに直接魔導炉に侵入した。

 

 魔導炉のシステムにハッキングした理由は無論、クリムゾンに会いに行くためだ。魔導炉への対処のあれこれはすべてリニスさんに任せている。そちらに対して憂慮すべきことなどなかった。

 

 記憶している情報群の脇をすり抜けながらスムーズにクリムゾンが待つエリアにまで到達する。最後の防壁をこじ開ければ夕暮れの世界が出迎えてくれた。

 

「クリムゾン、算段がついた。仲間も快く手を貸してくれた。あとは俺たちが頑張るだけだ」

 

「……あんたのオトモダチは命知らずばっかかよ、信じられねぇぜ……」

 

「命知らずとは心外だな。優しい子たちばっかりなんだ」

 

「なるほど、ちょうどあんたの性格で釣り合ってんだな」

 

「なにが言いたいこのやろう」

 

 俺の前方数メートルあたりで座り込んでいたクリムゾンは、かははと小気味よく笑いながら立ち上がる。てこてこと歩み寄ってすぐ近くまで来ると手を腰に当てて(しな)を作った。

 

 大人の女性がやればどきっとくる仕草だが、あまり発育が進んでいるとは言えないクリムゾンの体型ではおませな女の子にしか見えない。思わず噴き出してしまいそうになった。

 

「おい、なに笑ってんだよ」

 

「いや、なんでもない。うん、かわいいかわいい」

 

 見た目以上に背伸びしようとしている姿があまりに微笑ましく、思わず茜色の頭をかいぐり撫で回してしまった。

 

「やめろ、撫でんなっ。あとその生暖けぇ目もやめろっ。馬鹿にされてる気分だ!」

 

 つんつんと反抗期真っ只中みたいに尖った性格のクリムゾンは、やはり俺からの子供扱いに反発した。喧々(けんけん)と言葉では抵抗するが、意に反して手を払おうとはしない。そんなクリムゾンの様子は、多少なり心を開いてくれたようでとても嬉しかった。

 

「もういいだろっ、離せ! もうさっさと本題に入れよ」

 

「そうだったな。すまんすまん」

 

「っ…………」

 

 言われた通りに手を離して説明を始めようかと口を開きかけたが、クリムゾンの顔を一瞥(いちべつ)するとどこか(かげ)りができていた。

 

 試しに、少女の頭に手を戻す。

 

「……なんだよ、離せっつったろ」

 

 口では反抗的なことを言うが、心なし頬が緩んでいた。どうやら近づいたこの距離感を俺が好ましく思っているのと同様に、クリムゾンも憎からず思ってくれているようだ。

 

「こうしてると安心するからさ、このままで話させてくれるか?」

 

「しっ、仕方ねぇなぁ……あんたがそこまで言うんならそのままでも許してやるよ。俺はほんとはいやだけど!」

 

 接しているのといないのとではクリムゾンの表情と機嫌が大きく違うので、頭の上にぽむっ、と手を乗せたまま状況説明に入ることとした。

 

「おそらく、魔導炉の装甲板は貫ける。信頼するに足るだけの素質を持ったなのはが……仲間が自信を持って俺の頼みを受けてくれた。攻撃担当を守ってくれるやつもいる。成功確率と安全性を上げるためにリニスさんも力を尽くしてくれている。あとは、魔導炉の装甲を焼き尽くすだけのエネルギーを秘めた砲撃からお前の本体をどう守るか、だが……」

 

「……俺を散々利用していたあの胸糞悪い女が、今度は助けてくれるって? かっ、冗談だろ。信じらんねぇな。なにか裏があるに決まってんぜ……」

 

 腕を組んでクリムゾンは眉根を寄せてそっぽを向いた。不快感を隠そうともせず、唇を噛んでいた。

 

 リニスさんを信用できないというクリムゾンの気持ちはわからないでもない。自分の力を勝手に無理矢理使われていれば、嫌悪感の一つくらい持って(しか)るべきなのだろう。それだけのことをリニスさんはしたのだ。仲良くやれなどと軽々しく口にはできない。

 

「魔導炉は暴走させたからしゃあねぇけど、ロストロギアの力を失うのは惜しいとかって考えてんじゃねぇの? 充分ありえる話だぜ?」

 

「クリムゾン、リニスさんのことをすぐに信じろとは言わない。でも、せめて今だけは疑わないようにしてほしい。全員で協力して事にあたらないと、成功するものもしなくなってしまう」

 

「なんだよ、あんたはあの女の肩を持つってのか?! あの女は俺の力をむしり取っていったんだ! こんなところに独りにしてんのにっ、あの女はッ! ……もしかしたら……あんたも利用されてんじゃねぇの?」

 

「待てって、ちょっと落ち着け。リニスさんにもリニスさんなりののっぴきならない事情ってものがあったんだ。だから許せとは言わないけど、少しだけでも……」

 

 クリムゾンは目を伏せ、頭の上に置かれたままの俺の手を取った。両手で押さえて、動かせないように握り締めた。

 

「あの女のせいで俺はこんなことになったのに、あの女が悪いのに……。徹は俺の味方だと思ってたのに……っ」

 

 声は小さく(しぼ)んでいき、覇気や負けん気は消え失せていた。目元には大粒の涙までたくわえている。寒空に捨て置かれたみたいに、クリムゾンの身体が揺れる。

 

 精神的に脆い面が、クリムゾンにはあるのだろう。依存と換言してもいいほどの弱さだが、少女のこれまでの人生を振り返れば致し方ないという思いも抱いてしまう。それだけ報われない生涯を送ってきていた。簡単に人間を信用できないまでに、クリムゾンの性格は歪められてしまっている。

 

 出会う人間皆が皆優しいとは、もちろん限らない。性根が腐った人間だっている。悪事を働く人間もいる。大勢いるのだろう。

 

 だから俺は、クリムゾンに信じてくれとは言えない。最終的に自分を守れるのは自分しかおらず、負わなければいけない責任だってその本人にしか背負えないのだ。

 

 クリムゾンは俺のことを多少信用してくれている。もしかしたら、俺が詭弁を弄して言い包めれば、リニスさんに抱いている不信感を覆い隠せるかもしれない。手練手管に言葉巧みに説き伏せれば、嫌悪感を塗り潰して誤魔化せるかもしれない。

 

 しかし、それでは意味がないのだ。

 

 信じるか信じないか、疑うか疑わないか、その判断まで他人に任せてしまってはいけない。自分の行動の全てを他人に任せてしまっては、それはもう操り人形と同じだ。いいように利用されていた過去をなぞるだけになってしまう。

 

 本人の意思でどうすべきか決めさせなければいけない。ならば、俺のすべきことは判断するに足るだけの材料を提示することだ。

 

「クリムゾン、先に言っておくぞ。俺はお前の味方だ」

 

「そ、そうだよなっ。ごめんな、徹。俺、ひどいこと言った。あんたのことまで疑ってるみてぇなこと……」

 

 俺の言葉に安心したように口元を綻ばせ、片手を離してパーカーの袖で目元を拭った。まだ少し潤んだままの瞳でまっすぐに見つめられると言い淀んでしまいそうになるが、固い決心でもって口を開く。

 

「でも同時に、俺はリニスさんを信じている。あの人の味方でいたいと思っているんだ」

 



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ほんの少しだけ、心が痛かった

 口にしてから、言わないほうが良かったのかもしれないという一抹の後悔が胸中を()ぎった。

 

俺が言っていることは、お前を傷つけてきた人間を見逃せ、というのと同義だ。

 

 恨みがある、憎しみがある。長期間に渡って自分の存在を削り取られていくという感覚は誰にとっても恐怖だろう。そのような死にも等しい苦痛を実際に味わってきたクリムゾンには、拭いきれない怒りがある。

 

 俺がある程度の信頼を築けていたとしても、苦痛と恐怖を与えてきた張本人を信じる、味方でいたいなどと言ってしまえば、クリムゾンはどう思うだろうか。裏切られたと、そう思うのではないだろうか。

 

 隠し切れず、堪え切れない怒りであっても、時間が癒してくれることもある。この場は要らぬ火種は起こさず、クリムゾンの意見に同調して機嫌を取るのが最善なのかもしれない。耳触りの良い言葉を並べて言いくるめ、難局を乗り切ってからゆっくりと氷解させていくのがベターなのではないかと、考えてしまう。

 

 それでも俺は、真正面から切り出した。俺の言葉でクリムゾンは傷つくかもしれない。だとしても、嘘で誤魔化したり(へりくだ)った態度で顔色を伺ったりする関係は嫌だった。

 

 俺とクリムゾンは対等なのだ。上も下もない。主人も従者もない。対等であるが故に、言われた本人にとって苦になるかもしれなくても、はっきりと口にする。

 

 伝えたい気持ちがある。知ってほしい想いが、ここにあるのだ。

 

「は……なんだよ、それ。意味わかんねぇよ! やっぱあんたも他のやつらと同じだ! 都合のいい時だけ味方面して嘘つくんだろ! あんたも俺を便利な道具として使おうと思ってんだろ!」

 

 クリムゾンは俺の手を強く振り払った。目を固く閉じて顔を背ける。大声を張り上げて、自分の身体を抱くようにクリムゾンは自身の肩を掴んだ。

 

「お前が辛い境遇にあったのはわかってる。リニスさんがお前の力を無理矢理使っていたことだって紛れもなく、覆しようのない事実だ。それはわかってる……。けど、俺の話を聞いてくれ」

 

「やだっ、いやだっ! 嫌いだ! あんたは……あんただけは、俺たちみてぇな存在を受け入れてくれると思ってたのにっ……」

 

 暴れるクリムゾンの腕を持って顔を見れるように正面に向ける。しかし、少女は俺を見ようともせず、頑なに瞼を閉じて拒否する。腕を突き出して俺から距離を取ろうとする。

 

「クリムゾン、俺を見ろ。話を聞いてくれ……」

 

 エリーはクリムゾンのことを幼いと評していた。それは戦い方や、話し方についてもそうだが、エリーが言及していた点は特に考え方だった。

 

 俺の周りにも幼い子は何人かいるが、みんな年相応以上に大人びている。外見と中身がそぐわないほどに達観したところもある。クリムゾンはその誰よりも、物の見方捉え方が幼い。

 

 自分にとっていやな事・物は、決して受容しようとしない。排除しようと躍起になり、遠ざけようと必死になる。

 

 それは自分本位で短絡的な考え方なのかもしれない。他人の意見を聞き入れられないのは本人にとっても、コミュニケーションにおいても非常に問題がある。

 

 クリムゾンの態度や性格をそのまま捉えたら難があると言わざるを得ないが、これまで受けてきた仕打ちを考えるとあまり強くは言えない。

 

 自分にとって都合の悪いものを遠ざけようとするのは、自分の心を守るためだ。自分が傷つくことを避けるためだ。

 

 助けはない。救いもない。光の届かない、冷たい牢獄。そんな世界に閉じ込められていて、自分の存在も神経もすり減っていく中、自分を自分たらしめている心を守るために必要なことだったのだろう。痛みを拒絶することが、なによりも大事だったのだ。

 

 目を閉じて、聞く耳を持たず、自分を必死に守ろうとするその姿は、辛い現実から目を背けようとしているようで、哀れだった。

 

「嫌いだ! あんたなんて嫌いだ! 人間なんて大っ嫌いだ! 力ばっか求めて、なんでも利用しようとする。信じた俺が馬鹿だった……っ! 嫌いだ……。魔力に執着する人間も、魔力しかない自分も……嫌いだ。やっぱり人間なんて、信じないほうがよかっ……」

 

「聞け、クリムゾン。俺の目を見ろ、話を聞け」

 

「やっ……」

 

 少女の慟哭(どうこく)を遮り、頬に手を添えて無理矢理にこちらを向かせる。

 

 言わせたくなかった。痛みに耐えてきた自分自身を(さげす)む言葉を、戸惑いながらでも一歩踏み出した勇気を(けが)す言葉を、言わせたくなかった。

 

 顔を寄せ、逃げられないように手で押さえる。目線を逸らそうとしてもさせなかった。

 

 クリムゾンのしてきた痛みに対する拒絶は、正しかったのだろう。悲劇の連鎖の渦中にあったこれまでであれば、己を守るために拒絶することは正しい選択だったのだ。

 

 しかし、これからはそうも言っていられない。一人ではできないこともたくさんあって、他人と協力しなければ成し得ないこともたくさんある。そんな時に自分の都合を貫いて他人の意見を突っぱねていれば、立ち行かなくなる。

 

 この少女は、目の前で唇を噛み締めて震える少女はこのままではいけないのだ。この窮地を解決してお終いじゃない。

 

この少女には、『これから』があるのだから。

 

「今から、リニスさんたちの話をする。それを聞いて信用するもしないも、俺を見限るのも……判断してくれ。このまま、悲しいままで終わりなんて……嫌なんだ。お前が選んだ道が間違っていたなんて、思ってほしくないんだ……」

 

「……わかった、きく。……最期にあんたを、信じてみる……」

 

「ありがとう」

 

 腰を落として背の低いクリムゾンに目線を合わせ、気持ちが体温と一緒に伝わってくれるように手を顔に添えたまま、真っ向から話をした。

 

 リニスさんのこと、リニスさんの主人のプレシアさんのこと。フェイトのことも、アルフのことも、リニスさんに(まつ)わる人の話をクリムゾンに説明する。そして、プレシアさんの娘、アリシアのことも。

 

 どういう事件があり、どういう経緯(いきさつ)で魔力を求めていたのかを話した。流れでエリーと俺の出逢いや関係性、リニスさんたちとどう関わっているのかにも言及した。

 

 リニスさんたちの感情の全てを理解できているわけではない俺がクリムゾンに話してもいいのか、リニスさんたちの事情に土足で踏み入っていいものか懊悩(おうのう)はした。しかし、クリムゾンも無関係というわけではない。クリムゾンは、リニスさんやプレシアさんたちが叶えんとしている願いの、あえて悪く言えば被害者だ。だから喋ってしまっても構わないという理由にはならないが、少なくともクリムゾンには自分がなぜ魔力を作り出す機械の一部にされていたのか、聞く権利はあると思った。

 

 止むに止まれぬのっぴきならぬ事情があるからといって、リニスさんたちのしたことを正当化しようという考えは俺にはない。クリムゾンが苦しんだことは確かなのだから、正当化などできようはずがない。

 

 クリムゾンにリニスさんたちについての話をしたのは、ただ知っておいてほしかったからだ。魔力を必要としているのは同じでも、自分の欲のためではなく、家族のために魔力を必要としている人間もいるということを。黒く(よど)んだ欲望ばかりではなく、純粋で直向(ひたむ)きな願いのために魔力を必要としている人間もいるということを、クリムゾンには知っておいて欲しかった。

 

「……だとしても、俺は許せない」

 

 話を聞き終わったクリムゾンの一言目が、これだった。

 

 許せない。たった一言。そのたった一言はとても重く、とても鋭く、俺の胸に突き刺さる。

 

 どれほどの事情があろうと、それは彼女たちの内輪の問題で、身内の問題なのだ。その輪の外にいるクリムゾンにはいたって関係ない。そんな無関係な事情によって苦しめられていたことなど、クリムゾンにとって斟酌(しんしゃく)する余地などないのだろう。

 

「……理由があったのは……わかった。大事なことだったってのも、理解はした……。でも、俺はやっぱり……許せねぇ。あの女は……信用できねぇ」

 

「そう……か」

 

 クリムゾンが下した判断が善なのか、もしくは悪なのか、俺にはわからない。リニスさんたちの行いもクリムゾンの言い分も、視点を変えればどちらも非情であるし、視点を変えればやはりどちらにも合理性がある。個人の感情について他人がとやかく口を挟むこと自体、そもそもおかしいのだろう。

 

 クリムゾンが出した結論に、異議異論など出せるべくもなかった。

 

 クリムゾンを魔導炉(監獄)から解放し、かつ実働担当のなのはとユーノをなるべく安全にするためには、リニスさんの協力は不可欠だ。しかし、クリムゾンがリニスさんを信じられないと、どころか疑わしいと疑念を抱いている以上、強行はできない。不和を有したまま実行したら、全員が一丸となって全力を尽くさなければいけない作戦に亀裂を生じさせる恐れがある。何が起こるか予期できないのだ。信じてもいない相手に、己の命運は賭けられない。

 

 リニスさんが担っている役割は重要である。なのはとユーノに降りかかる危険の割合を減らすことはなによりも優先すべき事柄だ。リニスさんには辞退してもらって俺が役割を代わろうにも、俺は俺でやらなければいけないことがある。手が回らない。かといってクリムゾンの意志を無碍(むげ)にもできない。今から新たな策を練るというのも現実味に欠ける。

 

 どうすればいいか、どう動くべきかわからず、俺は二の句が継げなかった。

 

 自分を苦しめた人間の内情を語られるというのは、クリムゾンにとって辛いことだったろう。なのに黙って最後まで聞き続けてくれただけでも足れりとするべきだ。

 

 残念ではあるが、後悔はない。人間を信用できないという答えをクリムゾンが出したことについて、不平はない。こちらの想いが伝わらなかったわけではなく、想いを受け取り呑み込んだ上の結論だったのだ。クリムゾンへの不満はない。

 

 ただ、少しだけ。ほんの少しだけ、心が痛かった。

 

「ちゃんと考えて答えを出してくれて……ありがとうな。もうちょっと何か手がないか考えてみるから……クリムゾン?」

 

 礼を述べつつ、頬に添えていた手を離そうとしたが、クリムゾンの小さな手がそれを(さまた)げた。払おうとすれば容易く振り払えるくらいにほとんど力なんて入っていなかったが、柔らかな感触と体温は確かに感じられた。

 

 クリムゾンに視線を向ける。言いだそうとするが決心がつかないみたいに、唇が開いたり閉じたりを繰り返す。覚悟を決めたのか大きく息を吸い、開口した。

 

「でも、あんたのことは……信用、する……ことにした」

 

「え、な、なんで……いきなり」

 

 突然の転換に俺は動揺を隠せなかった。

 

 慌てる俺に、クリムゾンは続ける。

 

「あの女は、やっぱりすぐには信用できねぇし……許せねぇ。でもあんたは違う……徹は違ったんだ。あんたの話を聞いて、同類の青いやつがあんたを助けてる理由がわかった。気持ちも……わかった」

 

 リニスさんたちの話の流れ上、辻褄(つじつま)が合わないというか、説明し辛い点があったので俺の話をちょくちょく挟んでいた。リニスさんたち本人がいないのに知った風な口調で彼女たちのことを一方的に喋るのが後ろめたかったという理由もある。

 

 その中でエリーとどういうふうに出逢ったか、それからどのような出来事があったのかを簡単に説明していた。話の本筋からは逸れる、いわば添え物的な気持ちで挿話していたのだが、クリムゾンはそちらに関心を持ったようだ。

 

「同類の青いやつがなんであんたにあそこまで、戦闘中に痛みを肩代わりしてまで尽くしてんのかわからなかったけど……わかったんだ。あの青いやつは……徹の献身と覚悟に惚れてんだろうよ」

 

「献身とか覚悟とかっていうと表現がオーバーな気がするぞ……。好意を持ってくれてるのは自覚してるけど……。でもな、お前もエリーも言うんだけど俺はそんな善人じゃない。俺は、最初あいつを助けるつもりなんて微塵もなかったんだ。暴走さえ止められればそれでよかった。でも頭に流れ込んできたイメージに感化されて、助けを求められた気がして、プログラムをぐちゃぐちゃに書き換えることができなくなったから結果としてエリーを助けることになっただけだ。あの時、本当なら俺個人の感傷なんて無視して暴走状態の停止のみを優先させるべきだった。失敗していたら何千何万って命が……いや、それこそ星一つまるごとっていう規模で被害があったのかもしれないんだからな」

 

「そこだ、そこなんだよ。あんたのおもしれぇところはさ……」

 

 エリーの呪いの輪を破壊した時の本音を聞いた後で、クリムゾンは柔らかく微笑んだ。俺の手のひらに頬を擦り付けるように寄せる。まるで懐いた猫のようだった。

 

 クリムゾンの急激な態度の軟化に、俺は置いてけぼりをくらっていた。

 

「ちゃんと理解できてんだよな……あんたは。自分の気持ちとか感情とかぜんぶ取っ払った客観的な見方もできてんだ。上から事態を眺めて、リスクとかも含めてどうするべきか考えて、考えた末に導き出した一番真っ当な策を蹴り倒しちまう。そんで効率は悪いし骨が折れるほうを選んだんだろ、青いやつを助けるために」

 

「助けるためって……俺は……」

 

「助けるために苦労を負った、なんて恩着せがましいことをあんたは言わねぇだろうけどな」

 

 反論しようとしたらクリムゾンに先んじて回り込まれた。

 

「本来の目的を果たしつつ、自分の気持ちにも正直でいる。どっちも絶対に成し遂げるって覚悟に惹かれてんだよ、あの青いやつは。献身に報いたくて、覚悟を共有したくて、青いやつはあんたと一緒にいるんじゃねぇかな。そんで、それは今回も一緒だ……。俺なんか見捨てちまったほうが早ぇのに、手っ取り早く終わらせられんのに、あんたはそうしようとはしねぇんだ……。だからこそ……底抜けにお人好しで、愚かさの極みみたいなあんただからこそ、信用できる……。あの女を信じることはできねぇ。だから俺は、あの女を信じてる徹を信じるよ……」

 

「クリムゾン……」

 

「助けようと、してくれてんのに……っ、ひどいこと言って……ごめん、なさいっ……」

 

 俺の手で目元を隠す。涙を見られたくなかったのだろうが、温かい液体が手に触れているし、手を伝って下に落ちてしまっているのですぐに気づいてしまった。

 

「気にしてない。嬉しいよ、ありがとな」

 

 クリムゾンはまだ、リニスさんを信じることはできない。事情を知った後でも恨みも怒りも消えてはいない。許すことはできない。それだけの仕打ちを受けてきたのだから当然だろう。

 

 でも、少女はもう一度人を信じようとしてくれた。俺を信じてくれて、許し難いリニスさんのことは俺を通すことで最低限信用してくれている。

 

 クリムゾンはまた一歩、俺たちに歩み寄ってくれたのだ。随喜(ずいき)の念に()えなかった。

 

「うっとうしいって、思うかもしんないし……めんどくさいって思うかもしんないけど……俺のこと、見捨てないで……」

 

 精神年齢が幼くてもしっかりと自分の意志をもって考えることはできるみたいだが、やはり脆い性格をしているのは変わらないようだ。強気な態度はどこに飛んで行ったのか、クリムゾンは退行でもしてしまったようにさらに幼い喋り方になってしまっている。このメンタルの弱さは俺を凌ぐものがある。

 

「見捨てないから大丈夫だ、安心しろ」

 

「ほんとか? 俺、徹にいっぱいひどいこと言ったのに……」

 

「あんなもん、俺からしたら『ひどい』のカテゴリーに入らない。俺の友達に何人かぼろくそに言ってくるやつがいるから慣れてるんだよ」

 

「さっきのよりひどいとか、それ友達って言っていいのかよ……」

 

「時々俺も疑問に思うことはある」

 

 真顔でそう返すと、クリムゾンはきょとんと目を開いてから破顔した。湿っぽい空気を拭い取るための冗談だと思ったのだろうが、先に述べたぼろくそに()き下ろす友人の筆頭が親友()戦友(レイハ)なので、俺からすると少々笑えない冗談である。

 

 決して受けを狙ったわけではないが、ともあれクリムゾンの涙の意味を変えることができたのなら重畳の至りだ。

 

 目元は赤く充血してしまっているし声もまだ不安定に揺れているが、それでもしっかりとクリムゾンは俺の目を見据える。瞳には生気が戻り、一本芯が通ったように己の足で直立した。

 

「あんたの作戦を聞かせてくれ。俺にもやらなきゃいけないことがあるんだろ」

 

 クリムゾンはその小さな身体に見合わぬ鋭い眼光で、話の流れを主旨に引き戻した。俺の手を握ったままという格好でなければ相当にクールだったろう。

 

「ああ、大事な仕事がある。だから、よく聞いてくれ……」

 

 実のところ、俺の策はまだ未完成だった。魔導炉を破壊するためになのはを頼り、なのはのフォローをしてもらうためにユーノの助力を得て、作戦全体の安全性と成功確率を少しでも向上させるためにリニスさんにも協力を()うた。しかしまだ、クリムゾンの本体である暗赤色の小さな球体を守る算段はついていなかったのだ。

 

 俺がわざわざクリムゾンの怨敵とも言っていいリニスさんの件を持ち出して衝突したのは、(わだかま)りを可能な限り解消して作戦に全力を尽くせるようにしたかったという理由だけではない。意見をぶつけ、本音を晒し、鬱憤(うっぷん)をぶち撒けさせたのは、お互いに信頼を強固なものとするためだ。

 

 疑念があっては成し得ることなど到底できない高み。その高みにまで到達する必要があるのだ。

 

 だから、俺は。

 

「……俺を、取り込め」

 

 

 

 

 

 

「戻りましたか、徹。こちらはもう準備万端ですが、そちらはどうですか?」

 

 ハッキングに集中するために閉じていた瞼を開く。

 

 見ればいつの間にかリニスさんは俺の膝の上から移動していた。三メートルほど離れた位置でなにかと争っている。リニスさんの手元を注視してみると、そこには空色に輝く美しい宝石、エリーがいた。澄み渡る青空のように清々しいクリアスカイブルーが特徴のエリーだが、今はえらくどろどろと淀んでいて、何がどうなったのかリニスさんに突撃している。いくら観察しても、いくら考察しても、全くもって状況が飲み込めなかった。

 

「この石っころ、少しは丸くなったかと思っていましたがやはりまだ暴れん坊ですね。器量が足りていません、心が狭いんですよ。挙句に私を攻撃する始末です、困ったものです」

 

 やれやれ、と困ったようなジェスチャーをした。そんな仕草が癪に障ったのか、エリーは空色に洞洞(とうとう)としたグラデーションを加えてリニスさんの頭部めがけて突進する。俺と会話していても相変わらずリニスさんは抜け目なく、額を狙ったエリーのチャージをするりと躱した。

 

 一方からの言い分では埒があかない。

 

「エリーが理由なく人に危害を加えるわけないだろ……。エリーになにしようとしたんだ、リニスさん」

 

 俺の問いかけに対する二人の反応は対照的だった。

 

 エリーは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)するように、ともすればいっそ(くら)みそうなくらいに煌々(こうこう)と光を放ち、リニスさんは不満げに頬を膨らませ、腕を組んでじとっとした目を俺に向ける。

 

「あら、真っ先に私を疑うんですね、徹は。その扱いの差は不公平なのではないでしょうか。今更この石っころに思うところなんてありません。私は石っころに()なにもしてませんよ」

 

 『今更』とか『石っころ』などというリニスさんの失礼な言い様で、エリーの機嫌が損なわれるのではとどきどきしながらちらりと見たが、当の本人は『どうかしましたか?』みたいな光を返す。これはリニスさんからの呼称を認めているのか、それとも他人からどう呼ばれようと自分には関係ないと割り切っているのか、どちらだろうか。俺としては前者であることを望むばかりだが。

 

 エリーに対しての棘の多さは目に余るものがあるが、口の悪さを省けばリニスさんの言ももっともであった。どちらか片方に立った物の見方は改めるべきだ。

 

「ごめんごめん。でも何もしてないのにこんな(いさか)いじみたことにはならないだろ。最初になにがあったのか教えてよ」

 

「そうですね……まず私が頼まれた役割の準備を終えて暇を持て余していた時に、徹の身体に怪我が残っていないか(いじ)って……いえ、精査してまして」

 

 序盤から雲行きが怪しくなった。

 

「目を瞑っているところをまじまじと近くから見るのは久し振りでしたのでまず目で堪能して……こほん、視診しまして」

 

「…………」

 

「次に打撲していたりしないか、筋繊維が痛んでいないか、身体を酷使していたので筋肉は張っていないかなど手触りを楽し……んんっ、触診したり強張った筋肉をほぐしたりしてまして」

 

「………………」

 

 もうこの段階でリニスさんが悪であると断じるだけの証拠が揃ってしまっている。だが、現時点では医療行為が主目的で、彼女の好奇心を満たす不埒な行為は副産物的な位置にあるのかもしれない。そう言い訳される恐れもある。

 

 実際に、全身に残っていた小さな傷、擦過傷(さっかしょう)打撲痕(だぼくこん)は綺麗さっぱりなくなっているのだ。心なしか身体も多少軽くなっている気がするあたり、触診やマッサージをしていたというのも(あなが)ち嘘ばかりではない。

 

 一見間抜けに思えるが、なんとも巧妙な言い逃れである。

 

「この辺りでその石っころはぴかぴかと光って診療の妨害をしてきましたね。まったく、触診を変な方向に勘違いするなんて言語道断です。人口呼吸(マウストゥマウス)(はや)し立てる子供と同じですよ」

 

「……………………」

 

 リニスさんは大袈裟な手振りで溜息をつく。

 

 空色の光の明滅が徐々に早くなっている。俺以外には割と無関心なエリーが、いけしゃあしゃあとのたまうリニスさんに段々と苛立ってきているようだ。

 

 しかし、万能型の魔導師たるリニスさんは主人(プレシアさん)のフォローのためか、それとも単に彼女の趣味嗜好(性癖)故か、医療の道にも精通しているようだ。医療行為であると断言されるとなかなか反論し辛い。

 

 今すぐ医療関係者に土下座しろと判決を下したいが、確たる証拠がない以上、沈黙するほかなかった。

 

「それで……エリーがリニスさんに攻撃しようとしたのはどの時だったんだ?」

 

 この言い方ではまるでエリーが悪いように聞こえてしまいそうだが、中身は違う。

 

『いつエリーがリニスさんの魔の手から俺を救い出してくれたんだ?』俺の質問の副音声はこうである。

 

「決定的に邪魔をしてきたのは、そうですね。味わおうと……いえ、舌で触診しようとした時です」

 

「やっぱりあんたが悪いんじゃねえか! ほとんど誤魔化せてねえよ!」

 

 エリーめちゃくちゃ働いてくれていた。グッジョブ過ぎた。なんならもう少し早めに行動を起こしてくれていても良かった。

 

 判決はリニスさんの黒で固まった。意識がない人にそんなことをするんじゃありません、という旨の説教をし、エリーに謝罪させてリニスさんは赦免(しゃめん)とした。

 

 俺の貞操の危機を救ってくれたエリーを褒めに褒め、リニスさんのせいで脱線した本題に戻るため床に腰を下ろす。リニスさんとのやり取りから一変して上機嫌なエリーは、瓦礫や砂埃のカーペットを器用に自身の魔力で払い除け、座る場所を作ってくれた。

 

 医療行為(意味深)(あんなこと)を仕出かしておいて、リニスさんはなおも俺の膝に座ろうとしたが、それは押し退けた。床にぺたりと倒れこんだリニスさんは愕然と俺を見て、次第に涙目になる。背後に見える尻尾は元気を失いだらりと伏せられた。

 

 数十秒前の説教を憶えているのならそんな顔は出来ないはずだが、とてもショックを受けている様子だったので少し可哀想になり、仕方なしに俺のすぐ近くの左隣、エリーが綺麗にしてくれた床をぽんぽんと叩く。

 

 悲しみに暮れていたリニスさんはぱぁっ、と表情を明るくさせ、俺の隣にぴたりと寄り添った。ネックレスの台座に戻ったエリーが文句を言いたそうにしていたので、手で押さえて(こら)えてくれるよう頼み込む。

 

 ちょん、と背中に何かが当たる。確認すれば、ふわふわつやつやとしたリニスさんの尻尾だった。垂直に伸ばされ、左右にゆっくりと振られていた。彼女の頭に視線をずらせば、耳は前を向いている。鷹島さんから半ば強制的に叩き込まれた猫知識によれば、この動きは『嬉しいとき』だったはずだ。この人は、今がどんな状況なのかちゃんと理解しているのだろうか。

 

 (かたわ)らに位置取ったリニスさんは俺の足に手を乗せて、目を細めていた。大変魅力的ではあるが、そこまで落ち着いているのもどうかと思わなくもない。戦っていた時の怜悧で聡明で、日本刀のように妖しげに煌めく凜としたリニスさんにはおそらくもう見れないんだろうし会えないんだろうなあ。まあ、あの臨戦態勢のリニスさんはとても怖いので、あれと比べれば今の方が断然いいのだが。

 

「リニスさんはもう準備出来てるんだったよな」

 

「はい。魔導炉からの魔力供給ラインの設定変更は手間ではありますが、難しくはありませんから」

 

「じゃあ……そろそろなのはとユーノに合図を送る」

 

「…………」

 

 隣に座るリニスさんが、無言で俺に視線を送る。言いたいことはだいたい察しがついている。クリムゾンのことだ。

 

「心配しないでくれ。クリムゾンの身を守る術はちゃんと用意してあるから」

 

「徹を疑っているわけではありませんよ? ただ何も知らされないままというのはどうしようもなく不安といいますか……」

 

「気持ちはわかるけど、我慢してほしい。先に言えばさらに心配を(つの)らせそうだからさ」

 

「……心配を募らせそうなことをしようとしているのですか? 言うまでもないだろうと思って言っていませんでしたが、徹のことも心配しているんですよ?」

 

「……あはは、なんと返せばいいか……まあ、ありがとう。でも、大丈夫だ。リニスさんがやっていたことから着想を得たからな」

 

 まだリニスさんの瞳には不安げな色が残っていたが、聞き出すのを諦めたように息を吐いて、ふわりと微笑んだ。その優しい瞳と微笑の意味は、俺にはわからなかった。

 

 リニスさんは左頬に手を添えて、誤魔化すように悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「私から着想を得た、ですか……なんだか舐めるように見られていたようで、少しいやらしいですね」

 

「なにを言っとるんだあんたは」

 

 彼女が本気で真意を隠そうとすれば、俺程度では計りかねる。探ろうとするだけ徒労に終わる。

 

 本心は悟れないが、この冗談は俺をリラックスさせようとしてくれているのだろうと思う。ならば、それに乗っておくべきだろう。肩の力は、たしかに抜けた。ついでに気も抜けてしまいそうだった。

 

 くすくすと笑うリニスさんは視線から外し、胸元のエリーを見やる。なのはとユーノにゴーサインを送ればそこからはノンストップだ。その前に、エリーには先に謝っておこう。

 

「エリー、今回お前は休憩だ。エリーはよく働いてくれてるからな、休んでいてくれ」

 

 服越しにエリーに手を当てる。自分だけ何も出来ないことを嘆くように、光量が落ちた光を放った。不承不承といった印象ではあるが納得はしてくれたようだ。

 

 そして言っておかなければいけないことが、もう一言。

 

「あと、エリーにとってあまり面白い光景ではないと思うんだけど……了承してくれ」

 

 その確認には今ひとつ要領を得なかったのか、台座に腰掛けたままエリーはかたかたと揺れた。理解はできていないけど言うことは聞きます、みたいに短くぱぱっ、と点滅する。

 

 相棒を差し置いてやることではないと俺も自覚はしているが、こればっかりは俺にも手がなかった。全て説明はできないが、せめて先に謝っておこうと思ったのだ。

 

 後からたらふく怒られて叱られる未来が既に目に見えているが、それでもこれが俺なりの誠意だった。

 

 念話でなのはとユーノにも連絡を取る。始めてくれ、という俺のセリフになのはは『チャージが完了したらまた教えるね』と、ユーノは『こっちは任せてください!』と、どちらも頼りになる返事をくれた。

 

 向こうは万全の様子だ。二人とも声にも気負ったトーンはなかった。どちらかといえば俺のほうが落ち着きがないくらいだった。

 

「そろそろやるか……」

 

 さて、俺も動き出さなければいけない。初めて行うことはやはり毎回緊張する。

 

 だが、大丈夫だ。なんとかなる。俺一人で全て背負っているわけではないのだから。

 

右手を胸の真ん中に当て、呟く。

 

『……クリムゾン』

 

『かはは! 待ってたぜ、徹! 感度良好だ、いつでもこい!』

 

 脳内からクリムゾンの声が響く。メーターが振り切れているかのような底抜けの明るさだった。

 

 お互い特段意識せず、されど声は重なり一つとなる。心が繋がり、響き渡る。

 

 ――和合(アンサンブル)――



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夜空に瞬くどの星よりも

 どくんと心臓が跳ね上がり、胸の奥が熱くなる。目の前が白く染まってちかちかと明滅した。

 

 エリーと繋がった時に味わった、重い眩暈(めまい)にも似た感覚。自分の魔力と相手の魔力を絡み合わせ、魔力の高低差を均してチューニングしているような状態だ。

 

 飛行機に乗って上空まで上がって行くと耳が痛くなる航空性中耳炎と同じようなものと言えるかもしれない。身体の内部が魔力圧の上昇という変化に適応しようとしているのだろう。

 

 やはりエリーと和合(アンサンブル)した時と同様に、俺を苛む違和感や不快感は次第に解消された。

 

「と、徹……あなた、自分が何をしているのかわかっているんですか……」

 

 唖然という表情で、リニスさんは俺の肩を掴む。声はどこまでも平坦で抑揚がない。ちょっとどころではなくすごく怖い。

 

「ああ、わかってるよ。わかった上でこの方法を取ってるんだ」

 

「なぜわざわざそんな危険を冒すのですか?!」

 

 今度は爆発するような勢いで声を荒げた。肩を揺さぶり、彼女は俺に問う。

 

「安全な方法があれば俺だってそっちを取るけど、現状可能で成功率の高い手段がこれだった。というより、これ以外は思いつかなかったな」

 

「あの子を守るのが難しいのなら、あの子がいる区画を避けて徹の仲間の女の子に砲撃を撃ってもらえばいいじゃないですか!」

 

「その手は一度考えたけど、駄目だった。魔導炉の中核にクリムゾンがいるのだとしても正確な位置なんかわからないし、下手に加減なんかして力が弱まれば、魔導炉を貫いて爆風を払い飛ばすだけの火力を出せない。なのはのリスクが高くなるような手を採用はできない」

 

 俺の反論にリニスさんはたじろいだ。彼女自身、まともな策は一つしか思いついておらず、その策の盲点もすでに理解していた。

 

 なのはに魔導炉の硬い外装を貫くだけの砲撃を放ってもらいつつ、さらに魔導炉の重要機構が詰まった中核の分厚い防壁を焼き払い、それでいてクリムゾンの本体を傷つけない火力を実現させろというのはまず不可能だ。クリムゾンがいる場所だけ避けて砲撃を撃とうにも、正確な座標が不明な以上はできない。

 

「で、ですが、あの子と魔力の波長を合わせたところで何になるというのですか! 徹の魔力が多少上がるだけでしょう?! 融合(ユニゾン)もどきをする必要性を感じません!」

 

「ユニゾンもどきとはひどいな。和合(アンサンブル)だ。狙いは俺の魔力の底上げじゃない。クリムゾンと繋がりを持つことが大事なんだ」

 

 エリーと一体化した時は戦闘中で、圧倒的な戦力差を埋めるために行なった。クリムゾンは離れた位置にいるので厳密に完全な和合(アンサンブル)とは言えないが、今回和合に至ったのは戦いのためではない。和合状態による繋がりを利用した防御手段の構築のためだ。

 

 エリーと一体化して魔法を行使した時、エリーから魔力を貸してもらい、俺の魔法適性を使用して魔法を発動させた。俺がメインでエリーがサブというような構図になる。

その構図を逆向きにできるのではと、俺は考えた。

 

 和合は心を一つとすることで、互いの持つ長所を活かすことができる状態だ。簡略化すれば気持ちを揃え、互いを魔力の線で繋ぐことと言える。

 

 ならば、魔法を発動させる場所も変えられる。

 

 俺が魔法を発動させるための型と言い換えることができる術式をクリムゾンの本体にまで送り、その型にクリムゾンが魔力を注ぎ込めば、魔導師が魔法を発動させる工程をこなしていくのと同じ操作をすることになる。同じ効果を得られるのだ。

 

 すなわち、俺が防御魔法の術式をクリムゾンに送り、クリムゾンが魔力を流し入れれば防御魔法が発動する。クリムゾンと、クリムゾンを閉じ込めている頑強な装甲の間に障壁を張れば、なのはの砲撃で装甲を貫くことができ、かつクリムゾンの本体は傷つけずに守ることができる。

 

 全ての条件をクリアする、たった一つの方策だ。

 

「あいつは魔力はあっても魔法を使えないから俺が防御魔法を構築して、クリムゾンは構築された障壁に魔力を満たして可能な限りブラッシュアップする。これならなのはたちに気苦労をかけず、最低限の安全性は保たれた上でクリムゾンを暗い世界から引っ張り出すことができる」

 

「…………っ」

 

 これなら安心できるだろ、と言外に訊いたのだが、リニスさんは複雑な表情をして返答しない。

 

 わなわなと震え、俺の腕を引っ張る。

 

「これだけ言っても分かりませんか……っ! なぜっ……徹がそんな危ない橋を渡らないといけないんですか! 他の組織ではそうそうない程優秀な魔導師がたくさん揃っているのに、なぜ徹がそこまで身体を張らなければいけないんですか! その和合とやらを維持するのも細い糸の上を歩くような綱渡りに等しいでしょうし、それに……っ、もし……もしあの子の気が、変わって……と、徹を……」

 

 ようやくリニスさんが何を言わんとしているのかを理解した。リニスさんがあの子と呼ぶ、クリムゾン。もちろんそのクリムゾンのことも(うれ)いているのだろうが、同じくらいに俺のことにも気を揉んでくれていたのだ。

 

 親身になって気遣ってくれているのはとても嬉しいが、俺が身体を張っているという捉え方は少し勘違いを孕んでいる。

 

 その誤解についても釈明したいが、それよりもっと大事なことがある。リニスさんは、口に出してはいけない大事なラインを踏み越えようとしている。

 

 俺の身を(おもんぱか)ってのことだとは思うが、その一言を放っては手遅れになる。クリムゾンとリニスさんの間の溝が決定的なものになってしまう。それだけは言わせてはならない。

 

 耳にかかる邪魔くさい髪を小指で払い、空いている右手、その指先をリニスさんの唇に当てる。それ以上はダメ、と知らせるように。

 

「クリムゾンは、もう大丈夫だ。もうあんな捨て鉢な真似はしない。自分勝手なことはしないよ。口は悪いけど、あれでいい子だからな」

 

 クリムゾンは、リニスさんから受けた恥辱を忘れもしないし許しもしていない。暗い世界でひとり孤独に居たことを、聞こえてくる終焉の足音に身体を震わせていたことを、決して忘れることはできないのだろう。

 

 その記憶はトラウマとなって少女の心に影を落としている。記憶が薄れない限り、トラウマを払拭しない限り、自分を悪用してきた魔導師を許したりなどできないのだ。

 

 しかし、今こうして間接的にではあるがクリムゾンは俺を挟んでリニスさんと一緒にいる。怒りをぶつけ怨みを晴らす機会、やろうと思えば復讐できるチャンスにありながら、クリムゾンはそうしない。

 

 一対一で直接一緒にはいられないだろうし、真っ向から会話するのも難しいだろうが、それでもクリムゾンは変わりつつある。これからもずっとリニスさんのことを許しはしないかもしれないが、一歩か半歩か、ごく小さな距離であっても、たしかにクリムゾンは歩み寄ってくれたのだ。

 

 ここでもう一度溝を深めさせてはいけない。

 

「俺を通して、だけど……クリムゾンはリニスさんを疑うのをやめてくれた。信用はできない、許すこともできないけど、疑いもしないって言ってくれたよ。その怒りや憎しみを(こら)えることがクリムゾンにとってどれほど耐え難いかは俺には想像することしかできないけど、相当凄いことなんだと思う。だからさ、リニスさんもクリムゾンを疑わないであげてほしいんだ。あいつもあいつで大変なことをやらかそうとしてたけど、自分の行く末に絶望してみんなに危害を加えようとしてたけど……そんな意思はもうないんだ。だから疑わないであげてくれ」

 

 口元に当てた右手を離し、俺の肩に置かれたリニスさんの手の上に置く。

 

 彼女は目を伏せながら、ぽそり、ぽそりと言葉を紡いだ。

 

「……私は、あの子を救いたいなどと口では偉そうなことを言っていながら、心の底ではまだ信じきれていなかったんですね……。自分の浅薄さが恨めしいです」

 

「クリムゾンに対する不信も小指の先くらいにはあったのかもしれないけど、リニスさんは俺のことを心配してくれてたんだろ? 思い詰めることじゃない」

 

「そうですよ、本を正せば徹が悪いんです」

 

「なんと鮮やかな手のひら返し……」

 

「うるさいですよ」

 

 ぺち、と俺の手を払い、リニスさんは目を逸らした。

 

 左半身がずん、と重くなる。リニスさんがしなだれかかるように身体を傾けていた。

 

 バランスが崩れて座っているのに少しよろける。揺れた拍子に前髪が視界に入った。

 

 耳にかかる程度に長くなった自分の髪は深い赤色に染まっている。完全に一体化していないからか、頭髪に変化はあるが身体の性別までは変わっていないようだ。

 

 俺とクリムゾンの状態に反発するかもしれないと想像していたが、ネックレスの台座に鎮するエリーは予想に反して穏やかな光を灯していた。

 

 思えば、エリーは随分クリムゾンを気に掛けていた。他人と極力関係を持たないエリーにしては珍しく、多くの言葉を投げ掛けていた。

 

 それはきっと、クリムゾンの境遇と自分の境遇をどこかで重ね合わせていたからなのだろう。自分という存在の本質を捻じ曲げられて歪められていく苦しみを知っているから、どうすればよかったのか、そしてこれからどうすればいいのかを示唆していた。

 

 ただ、エリーは優しいばかりではなく厳しくもあるので、突き放すような言い回しも多かった。本人に考えさせる余地を残すあたり、エリーらしいとも言える。

 

 他者に対して排他的な印象が強くあったので、エリーのそのあたりの精神的な成長はとても嬉しく思う。一つだけ付け加えると、穏やかに輝いて寛大さを表現するのはいいけれど、どうせなら悔しげにぷるぷる震えるのも隠したほうがよかった。

 

 ちょっとの間だけ我慢してくれな、とエリーに声を掛ける。ぷるぷるとバイブレーションしつつ『いえ、お構いなく』みたいな光を放つが、とても弱々しい。寛大な心は長くは持たなかったようだ。

 

 よしよし、とエリーを撫でていると実働部隊のなのはから念話が入った。チャージはすぐに完了する、とのこと。伝達を受け『十秒後に砲撃よろしく』と俺が言うと元気よく『了解』と返ってきた。『がんばるから! 徹お兄ちゃん、私がんばるからね!』と念を押して何度も繰り返したなのはは頼りになるが、勢いが激しすぎてなぜか怖くなった。

 

 設定した十秒はとても短いように感じるけれど、あまり長くても変に緊張するだけだ。この手のカウントダウンは短いくらいでちょうどいい。

 

「そろそろ作戦を開始する。なのはは十秒後に砲撃する。リニスさんはその少し前に魔導炉の魔力供給ラインを操作してくれ」

 

「わかりました。徹、そちらは任せましたよ」

 

 左半身にリニスさんを、右手にエリーの温もりを感じながら目を瞑り、クリムゾンの魔力に集中する。繋がった魔力の線を辿り、クリムゾンの本体にまでジャンプする。頭のてっぺんから抜けるように、意識が移動した。

 

 

 

 

 

 

 認識できるのは、真っ暗で閉鎖的な空間。気が滅入る黒。四方を闇に染め上げられた世界。

 

 脳内で呟くように、耳元で囁かれるように、クリムゾンの声が響いた。

 

「遅かったじゃねぇか、徹。待ってたぜ!」

 

「なんでお前はそんなに楽しそうなんだよ……」

 

 圧し潰されそうな黒色だけの世界に、クリムゾンがいた。

 

 遠足前日の小学生みたいなテンション以外は変わりない。一種のギャンブルがこれから始まるというのに気負いも緊張もなかった。

 

「だって俺、今めちゃくちゃ幸せなんだっ! これが人と一つになるってことなんだなぁ……もう、死んでもいいや」

 

「待てこら、お前を助けるためにみんな手伝ってくれてんのに何言ってんだ」

 

「わっかんねぇかなぁ、そんくらい嬉しいって言ってんの! あの青いやつはずっとこんな幸せを感じてたのかぁ……ずりぃなぁ」

 

「エリーがアンサンブルをしたのは今日が初めてだったけどな」

 

「マジで?! そんじゃ俺、あの青いやつにもう追いついちまったんだな! あいつ嫉妬するんじゃねぇの? 悪いことしちゃったな、かはは!」

 

「悪いことしたと思ってるやつはそんな風に笑わないからな」

 

「ちょ、ちょっとくらいは本当に思ってるって……青いのが俺を気にかけてくれてたのも、今ならわかるし……。だ、だから、そんなにおこんなよ……ごめんなさい……」

 

「はい、よろしい」

 

 一言ぴしゃりと(たしな)めて気を引き締める。気は強いくせにメンタルは俺以上にやわなクリムゾンには、これだけでも効果(こうか)覿面(てきめん)だった。

 

 すぐになのはの砲撃が始まる。巨大な魔導炉の分厚い装甲があるのですぐにエネルギーが中核まで到達するとは思えないが、すぐにでも発動できるよう準備は済ませておかなければいけない。

 

「リニスさんの身体で魔法を使ってたんだから、だいたいやり方はわかるよな。今回は俺の身体で魔法を使うだけだ」

 

「おう、すぐにでもできるぜ。……なんか、あの女の魔法とはかなり違うような……強度とか」

 

「おっと、それ以上は言うなよ。俺もお前に負けず劣らず傷つきやすいんだ」

 

「かはは、なんだそりゃ。しかしあんた、こんな適性であの女とよくやり合えてたな。許せねぇし、やっぱりまだむかつくけど、俺、あの女の能力だけは買ってんだ。こんだけ差があってあの女と互角とか、あんたどうなってんだよ」

 

「『こんな』とか言ってくれんな。色々創意工夫してるんだ。それに全然互角じゃないからな。ペース配分を考えてなかったし、長期戦になればなるほど戦況は悪くなるし、遠距離戦は為す術もないし、もう泣きそうだった」

 

 俺がそう冗談めかして言えば、かははとクリムゾンは気持ちよく笑った。

 

 正直、気を張っていたと言えば嘘になる。

 

 防御魔法は滞りなく準備できていて、すぐにでも展開できる。なのはの砲撃は魔導炉の装甲を噛み砕くだけの破壊力が保証されているが、こちらはクリムゾン自身の魔力がある。腕を上げた今のなのはなら俺の障壁群『魚鱗』を貫けるだろうが、クリムゾンの魔力を上乗せすればそう易易とはいかない。

 

 だからこそ、冗談を言って笑いあったりしていた。だからこそ、こんな緩んだ空気だった。

 

 しかし、気を抜いていいような状況ではなかったことを、俺とクリムゾンは思い知ることになる。

 

『チャージ完了っ! 見ててね、徹お兄ちゃん! いくよっ、全力全開……』

 

 冷や水は念話から浴びせられた。キュートななのはの、愛らしい声。いつもであれば神妙にして耳を(そばだ)てているところだが、俺には死刑宣告のように聞こえた。

 

『スターライト……っ!』

 

「って砲撃そっちか! そういえばディバインバスターを使って、とは言ってなかった俺!」

 

 俺の手抜かりであったことは言うまでもない。魔導炉を破壊してくれ、と言われれば、確実に消し飛ばすべく威力の高い魔法を選ぶのは当然だ。

 

 しかし、なぜ、という戸惑いが脳裏に渦巻く。

 

「なぁ……徹。この魔導炉の装甲板ってな、すごい密度と厚みがあんのよ。それこそ外の気配なんて一切合切遮断するくれぇのやつ。それが何枚も使われてんだ、魔導炉が魔力圧に負けねぇようにな」

 

「…………ああ」

 

「その分厚い装甲板を貫いてここまで届くほどの魔力波って、これどうなの。あんたの仲間にはなにがいんの?」

 

「………………」

 

 戸惑いの源泉は、この威圧感だ。尋常ならざる魔力波が、魔導炉の中核にまでびりびりと轟いていた。まだ発射前にも(かかわ)らず、である。

 

「なんで……なんでスターライトブレイカーでここまでの魔力量が……」

 

 系統的には同じ砲撃魔法だが、ディバインバスターとスターライトブレイカーはもはや別物だ。砲撃魔法という枠組みだけは一緒だが、性質がまるっきり異なる。豆腐と醤油くらい違う。ルーツは変わらないのにこのくらい違う。

 

 ディバインバスターは術師の魔力によって構成されているが、スターライトブレイカーは術師の魔力だけではさほどの威力にまで至らない。だからこそ、驚きも強い。なぜスターライトブレイカーが魔導炉の中枢にまで届くレベルのエネルギー量を有しているのか。

 

 原因を考えた時、ユーノのセリフが思い起こされた。『周囲の魔力を集めている』という言葉を。

 

「まさか……魔導炉から漏れ出してる魔力粒子まで引っ張って取り込んだのか?!」

 

 フェイトとなのはの戦い、その決着をつける最後の一撃として放たれたスターライトブレイカーは、周囲に散らばってしまった魔力を集めて作られていた。その時、なのはの元へと集められていた魔力は、なのはのものだけではなかった。魔法に変換されきれず、或いは余って周辺に散らばってしまったフェイトの魔力すらも引き寄せていた。

 

 周囲の魔力残滓を集めて放つ術式。その収集する対象は、魔導師からの余剰魔力だけではなかったということなのか。

 

「お、おいおい……なんだそりゃ。今はそんな魔法があんのかよ……。進歩しちまったもんだなぁ……」

 

「元からあったわけじゃなくて、新しく作ったらしいけどな……」

 

「作った、って……。いや作れるのもびっくりだけどよぉ、作ろうと思ったことに一番驚くぜ……。どんな敵を想定したらあんな魔法を作ろうと思えるんだよ……」

 

「……俺を倒そうと思って創作した、って聞いた……」

 

「……あんた、なにやらかしたんだ。正直に言ってみ? 相当なことしたんだろ? 相手は女みてぇだな……押し倒したのか?」

 

「違う! そんなことしないししてない! 恨まれてるからとかじゃなくて、ただ俺との練習試合で勝ちたいからって……」

 

「こう言っちゃなんだけどよ、あんたを倒すのにあそこまでの魔力はいらねぇと俺は思うぜ」

 

「うるさい。俺だってわかってる。ていうか論点はそこじゃないだろう。今まさに放たれようとしているあの砲撃をどう防ぐかだ。俺がなのはに嫌われてるかもしれないとか……そんな、ことは、関係ない……」

 

「自分で言って傷つくなよ……。お、俺が偏見で言っただけだから大丈夫だって、嫌われてねぇよ。純粋に勝負を楽しむための手札の一つとして作ったんだろうぜ。攻撃手段は多いに越したことねぇし!」

 

「……ん、ありがとう……」

 

「ほら、徹の言う通りあれを防ぐ方法を考えようぜ。あの魔力圧じゃあ魔導炉もそうは持ちこたえらんねぇ。時間はねぇよ」

 

「そうだな……」

 

 なのはに本当はどう思われているのか。そんなことを考えているとどつぼにはまりそうだったので頭から振るい落とす。

 

 実際のところ、防ぐ方法といってもそれほど選択肢があるわけではない。単純に言い換えれば当初の予定と同じく『障壁を張る』しかないのだ。

 

 ただ誤算は、放たれる砲撃がディバインバスターではなかったということ。威力が跳ね上がっているスターライトブレイカーが相手となると、俺の『魚鱗』では歯が立たない。

 

 行動の方向性は障壁で守ることのみ。多重障壁群『魚鱗』では確実に防ぎきれない。となれば、取るべき手段など一つしかない。

 

「クリムゾン、お前魔力はたくさんあるんだよな?」

 

「おいおい、なんだよその質問は。そりゃ青いのに比べりゃ見劣りするだろうけど、これでもロストロギアだぜ? あるに決まってんだろ」

 

「それなら全力で手伝ってもらうからな。使う術式を書き換える。ちょっと待っててくれ」

 

 防御魔法に手を加える。これしかない。

 

 幸い消費魔力量は気にしなくていいのだから、硬度のみに傾注したプログラムを組める。発動させる時の演算を考慮するとあまり無節操に複雑な術式にはできないけれど。

 

 早速取り掛かった俺に、クリムゾンの声が届く。どこか引きつったような、余裕のない声色だった。

 

「待っててやりてぇんだけど、そんなに時間はねぇみたいだ……」

 

 クリムゾンが震えながら言い終わったのとほぼ同時に、俺の脳内になのはの声が響いた。

 

 なのはの発声は『スターライト』までだったのだ。もちろんその後に続く言葉が放たれる。

 

『ブレイカーっ!』

 

 大気の流れすら変えてしまいかねないほどのエネルギー量だった。

 

 一瞬の静寂ののち、周囲からけたたましい大音響が響く。焼き尽くす音、薙ぎ払う音、装甲なんぞものともせずにあらゆるものを吹き飛ばす音。

 

 魔法を発動させて一秒足らずで、クリムゾンが囚われている中核部の装甲板までなのはの砲撃は到達した。しかしここで砲撃は少し足踏みすることになる。クリムゾンというロストロギアを囲っている檻なだけあって、なのはの砲撃に対してもよく耐えていた。

 

 だが、そう長時間を凌げるものではない。現に最後の装甲板に刻まれた(ひび)から、桜色の閃光が小さく見え始めた。

 

「初めて、俺を閉じ込めてる壁が頼もしく思えたぜ……」

 

「バカなことを言ってんな。こっちはもう少しかかる。間に合いそうにないんだ。さっき教えた術式を張って時間を稼いでくれ」

 

「あの鱗みたいにいくつも防御魔法を使っているやつか? あれを張っても強度から考えてそんなに持たねぇよ。どうやっても三秒も絶対に持たせらんねぇ。下手すりゃ一秒耐えずに吹っ飛ぶぜ」

 

「時間稼ぎって言ったろ。ほんの少しでもいい、あとちょっとだけ時間がほしい。もうすぐで術式への処置が終わる」

 

「わかった……急いでくれよ」

 

 罅は次第に多く、そして大きくなる。装甲板の亀裂から覗いている桜色の光はその輝きを増すばかり。いつこちら側にまで押し寄せてくるかわからない。

 

 装甲板から一際大きな破砕音。その数瞬のちに、スターライトブレイカーはとうとう魔導炉の分厚い防壁を突破した。

 

「ぎりぎり、セーフか? おい徹……この魔法重たすぎるぜ。よくこんなもん戦闘中に使えるな」

 

「こんなもん呼ばわりするな、何度も俺の身を守ってきた障壁だぞ。演算に慣れれば処理も早くなるんだよ」

 

 桜吹雪を連想させる光景に押し潰されるかと思ったが、ほんの少しだけ先んじる形で俺たちの前方に障壁が出現した。クリムゾンが間に合わせてくれたようだ。

 

 目の前に張られた障壁は俺の注文通り、密度変更型障壁を複数重ねた多重障壁術式『魚鱗』。魚の鱗を模した盾は、少女の魔力色である夕暮れ空のような色彩に染め上げられていた。

 

「処理とか言ってる時点であんたちょっとおかしいからな。あんたがデバイス持ってねぇ理由がわかった気がすんぜ。そりゃこんだけ自分でやれてりゃ外部に頼まねぇでもいいんだろうな」

 

「時々デバイスがあったらなあ、とは思うぞ。それより、ちゃんと障壁の維持に力入れてるのか? 一層目が早々に吹き飛んだぞ」

 

「喋りながらでも魔力は全力で注ぎ込んでるっての。それでも持たせらんねぇんだよ。あ、やばい……二層目砕け散った……」

 

 クリムゾンの魔力もあって障壁は想像以上に持っているが、時間の問題だ。周辺に漂っていた魔導炉から漏れ出た魔力粒子をたらふく取り込んだスターライトブレイカーは、歩みを遅くしたものの、しかし悠然と進攻する。

 

 なのはに念話で『もう砲撃は止めてくれていい。ていうか止めて』と伝えたが、『集めた魔力全部撃たないと危ないから……』と返された。車とかと同じみたいで、なのはは急には止まれないらしい。こちらが頼んだことなので文句が言える道理はないけれど。

やはり当初の目的通りこちらが防ぎ切る他に手は残されていない。

 

「やばいやばいっ! 三層目は半壊、四層目にも傷が入ってきてんぞ! ちょ、徹! 壊れていくペース上がってんだけどどうなってんの?!」

 

「もともとは一層目の障壁で受けた衝撃を後ろの障壁群で分散吸収するのが狙いだからな。一、二層目を剥ぎ取られた時点で本来の減衰効果は失われているといってもいい」

 

「冷静に分析してんじゃねぇよ! まだなのかよ、あんたの策ってのは! 早くしてくれよ……ほんと、もう、やばい……」

 

「もう少しだ、踏ん張ってくれ」

 

「むりっ! もうむりっ! ほんとに限界なんだもん!」

 

「そこをなんとか。あとちょっと。すぐに終わるから」

 

「だめだめだめっ、ほんとにだめだって! いまでも超がんばってるんだもん、これ以上はどうしようもないってぇっ!」

 

 障壁四層構造の『魚鱗』。その一層目と二層目は爆散して大気へと還った。三層目は半壊、というよりももう四分の三壊くらいにはぼろぼろ。四層目は細かな傷が入り始めた。

 

 クリムゾンも懸命に魔力を送り込んではいるが、圧倒的な威力の前に後退の一途だ。じわじわと確実に近づいてくる脅威に、クリムゾンは涙声になってきている。どんな困難にもめげない不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を持ち合わせていないようだ。

 

 気持ちで負ければ勝負も負ける。クリムゾンはメンタル面に課題があるようだ。

 

 もうすぐ完了を迎える術式の改造をしながら、クリムゾンにエールという名の叱咤を送る。

 

「お前ならやれる、なんとかできる。もう少しの辛抱だ、頑張ってくれ」

 

「ぐすっ……もう、がんばってるのにっ。おれ、がんばってるのにぃ……」

 

「この件が一段落ついたら、いろんなとこ見に行こうな。地元で景色の綺麗な場所を教えてもらったんだ。お前にも見せてやりたい」

 

「……っ! っ、ぐすっ……そう、だ。俺はこんな暗闇から抜け出して外に出てやるんだ……。徹と一緒にいろんなもの、いろんな世界を見んだからっ。こんなとこで……諦めねぇっ!」

 

 いままで苦痛や困難から逃げてきたクリムゾンの、一世一代の奮起。

 

 この少女はメンタルが脆くて打たれ弱くて、一度なにかに(つまづ)けばすぐにへこたれてめげてしまう。一歩踏み出して努力を継続するということを避けてきた代償と言える。

 

 しかし、この少女に秘められたポテンシャルは本来相当に高いはずなのだ。俺の予想を上回るほどに、高いはずなのだ。

 

「おっ……おぉああっ!」

 

 気合いが込められた掛け声とともに、クリムゾンは魔力を放出した。障壁自体の強度を高めるとともに、障壁に走った亀裂に魔力を注ぎ込んで応急的な措置を講じる。

 

 どれほど魔力で強化しても、使っている魔法が俺の防御魔法なのでいくらか押し込まれるが、それでもその進攻を大幅に遅らせた。

 

 クリムゾンの懸命の働きで作り出された時間は、いいところ数秒。僅か数秒、されどその数秒が明暗を分ける。

 

「よく凌いでくれた、クリムゾン。おかげで間に合った!」

 

 新しい防御術式の構築が完了した。

 

 術式に穴や不備がないか確認はしておきたかったが、生憎そんな余裕はない。完成した直後に術式の演算を開始、展開する。

 

 一応発動はしたのでプログラミングに致命的な欠陥はなかったようだ。なのはの砲撃に耐え切れるかどうかはここからだが、取り敢えずは一安心できた。

 

「あんたには……ほんとにデバイスなんかいらねぇよ……。術式の計算をし始めてから発動までが、早すぎだ……」

 

「お前の魔力があってこそだけどな。俺だけの魔力を使ってやればこの魔法一つでガス切れもあり得る。計算は……慣れだ」

 

「つったって、これはめちゃくちゃだろ……。まさかさっきの魔法を……四つ重ねる(・・・・・)とか……」

 

 なのはの砲撃、スターライトブレイカーは効果範囲が恐ろしく広い。障壁が小さ過ぎると、障壁の端を逸れたエネルギーが背後に回り込んでくる恐れもあった。

 

 なので防御面積の広い『魚鱗』をベースに新しく組み立てた。

 

 密度変更型障壁を鱗のように並べ、その上に同じように配置された障壁を四層に重ねるのが『魚鱗』。『魚鱗』でも相応の防御力があるはずなのだが、今回はそれだけでは足りないので更に増やした。

 

 我ながら単純な考えである。『魚鱗』一つで足りないのなら、その数を増やしてしまえばいい。

 

 『魚鱗』を四つ連ならせた分厚い壁。障壁同士を密着させているため、数が多ければ多いほど外部からの衝撃を吸収することができる。実質の防衛能力は『魚鱗』四つ分以上となるだろう。

 

 とはいえクリムゾンとの仮和合(アンサンブル)、一体化を前提として構築しているため、消費魔力は度外視無視している。到底戦闘中に俺個人では使えそうにない、ピーキーな性能となってしまった。

 

 名付けるならば、重層防壁『龍殻』といったところか。大仰な名を冠しているのはその防御力とバカげた消費魔力のダブルミーニングだ。こんな大食いの魔法を使う機会はおそらくはもうないだろう。ないほうが俺としても嬉しい。

 

「そろそろなのはの照射も終わる、か? なんとかなったな……」

 

 魔導炉を食い千切った桜色の奔流が次第に弱まり始める。視界の全面を覆い尽くしていたエネルギーは細く小さくなり、そして消えた。

 

 赤黒い球体の周囲の光景は、作戦の開始前と後とで一変している。

 

 クリムゾンを捕らえていた暗い箱は綺麗さっぱり取り払われ、魔導炉の外が見えた。

 

 なのはのあまりの破壊力を有した砲撃により消し飛んだのだろう、瓦礫はほとんど見当たらない。そのことから、魔導炉が内包する魔力による爆発はおおよそ全てなのはのスターライトブレイカーに飲み込まれたと考えられる。

 

 頼りになると同時に末恐ろしい威力である。

 

 床と接していた部分にはちらほら残骸が残っているが、ほとんどはスターライトブレイカーによって壁に穿たれた大穴から外に吐き出されたようだ。魔導炉が備えられていたエリアはやけに閑散としてしまった。

 

 奥のほうにはなのはと思しき人影と、その隣にユーノらしき人影も見える。

 

 二人の影を遮る形で、解除されずに残っている『龍殻』があった。なんとか形は保たれたままで。

 

 なのはのスターライトブレイカーは魔導炉を洗い流した上で、俺とクリムゾンが協力して展開した『魚鱗』を突破した。結果として『龍殻』は貫けなかったとはいえ、それでも四層構造の一層目を完璧に撃ち抜き、二層目の半ばまで食い込んでいる。

 

 そりゃあ魔力が周りにたくさんあったとしても、これは凄まじいの一言に尽きる。なのはは絶対に怒らせてはいけない、そう胸に刻んだ。

 

 これ以上なく頼みを果たしてくれたことへの感謝と、浮遊しているクリムゾンの本体に追撃しないよう、なのはに念話を送る。

 

 小型犬を撫で回すが如くなのはを褒めに褒めちぎり、気を良くしたなのはが『もっときれいに片付けたほうがいいかな?』などと言ってきたのを全力で抑え、次いでユーノにも連絡を取る。ユーノには前もってそのあとをどうするかを言い含めておいたので言葉は少なく済んだ。

 

 気がかりは震えていたユーノの声くらいなものである。おそらくなのはのスターライトブレイカーを間近で目睹(もくと)したことが原因だろう。発生すると思われた魔導炉からの爆風を、魔導炉本体諸共吹き飛ばした砲撃をかぶりつきで目撃すれば、()もあらんとしか言いようがない。

 

 夕暮れ色のクリムゾンの空間から、球状の本体を通して外の世界を眺める。俺は隣に寄り添うように立つ少女に話しかけた。

 

「クリムゾン、見ろよ。まだ時の庭園の中だし、殺風景で景観もくそもないけど……外の景色だ。お前が望んだ、外の世界だ」

 

 俺の声が届いているのかいないのか、少女はぽつりと呟く。

 

「明るいなぁ……。目が、眩みそうだ……。魔導炉も、本当になくなったんだな……身体が軽い。どこまでも飛んでいけそうだ」

 

「……ああ。お前を縛りつける鎖はもうない。お前を閉じ込める檻は、もうない」

 

「パーツの一つになってた期間が長くて忘れてた……こんなにいいもんだったんだな。『外』って……こんなにも色取り取りで、鮮やかだったんだ……」

 

「こんなものじゃないぞ。もっと様々な色があって、風景がある。これからはもっと、いろんなものを見れるんだ」

 

 呆然と立ち尽くして『外』を見つめる少女は、右手で俺の服の裾を掴み、左手を顔に当てる。

 

「そうだなぁ……っ、これからはいっぱい見れんだよな。これよりももっときれいな景色も、いっぱい……。でも、久しぶりに見たこの光景は、ちゃんと……憶えておきたいんだ。なのに、なのによぉ……」

 

 雫が地面を叩く音が聞こえた気がした。視線を向けずとも少女が今、どんな顔をしているかはわかってしまった。

 

「視界がぼやけてしかたねぇんだっ……。徹が見せてくれた外の景色を目に焼きつけたいのに……前が見えねぇっ……」

 

 嗚咽を押し殺しているのが伝わる。声は不安定に途切れて、力ない。裾を握る手は、弱々しく震えていた。

 

 俺は左手を少女の頭に乗せる。

 

「俺が憶えとくから別にいいよ」

 

「かははっ、俺が憶えてなきゃ意味ねぇよ」

 

 クリムゾンは左手で涙を拭いながら、聞いてるこちらが気持ちよくなるほど爽快に笑う。戦闘中の邪気が孕んだものでもなく、悲愴感を漂わせたものでもない。ただ本当に晴れやかに、笑顔を見せた。

 

「あんたのおかげで……消えずにすんだ。あんたを信じてよかった」

 

「俺だけじゃない。みんなが手伝ってくれたからだし、なによりお前が頑張ったからこそだ。お前自身の努力の成果だ。血眼になって頑張ってみるのもたまには悪くないだろ?」

 

「こんな気分になれんなら、そうだな……がんばんのも悪くねぇや。あんたがいてくれてよかった」

 

 裾を引っ張って、少女は身体ごと俺に向く。それを見て俺も向き直る。

 

 夕焼け色の空間で、透明な雫が少女の目元で輝いた。一片の曇りもない、些かの不安もない笑顔だった。

 

「そういえば……」

 

「ん? どうした、徹?」

 

 出会ったばかりの時とは、いやこうしている今も出会ってさほど間がないのだが、リニスさんから身体の支配を奪って、顔を合わせて言葉を交わしたすぐの頃と比べると、目の前の少女は随分と変わった。

 

 ひねた性格は変わりないが、歪んでいた部分が少しはマシになったように思う。 暗い願望を抱くに至った根源を解決したからだろう、顔つきが変わった。乱暴な言葉使いはそのままだが、人を小馬鹿にしたような口調もなくなっている。同じ立ち位置で、同じ目線で、対等な相手として俺と喋っている。

 

 かなり棘があったもんなあ、などとクリムゾンとの会話を想起して、一つ思い出した。クリムゾンから、恐らくは冗談や嫌味で言ってきた言葉を。

 

「あれはまだ有効なのか?」

 

「あれ? どれ? なんの話だ?」

 

 クリムゾンは小首を傾げる。本人も何の気なしに口にしたので忘れているのだろう。

 

「お前の命名権の話だ」

 

「あ、あんた……まだ憶えてたのか、それ」

 

「どうなんだ?」

 

「ま、まだ……有効だけど。……そ、それがなんだよっ」

 

 俺を見上げていた少女は突然目を逸らす。目線は宙を泳ぎ、落ち着きがなくなる。心なし顔も紅潮させていた。期待しているような、でもそれを隠しているような、そんな仕草。

 

「それじゃあ、気に入るかはわからないけど……『あかね』、っていうのはどうだろう」

 

 正直気恥ずかしい気持ちはあるが、意を決して口にした。

 

 泳がせていた視線は俺のそれと合わさる。目を見開かせて、惚けたように口をあけていた。

 

 気に入らなかったのか、俺のネーミングセンスに愕然としているのか、それとも満足してくれているのか、その表情から読み取ることはできない。

 

 俺は続けて理由を述べる。

 

「お前の瞳の色と同じ、髪の色と同じ、この空間の色と同じ……茜色から取った、んだけど……」

 

 目立った反応を示さない少女を見て胸中には不安が渦巻く。これで『チェンジ』とか言われたら傷つくどころの沙汰ではない。

 

 少女はゆっくりと俺の言葉を飲み込み、小さな手を動かした。目元を隠し、頭に触れて、薄い胸元で止まる。

 

「あかね……あかね。初めてだ……。人の名前、みたいだ……」

 

 時間をかけて、瞳を閉じた。自分の胸の奥、心の奥底に沈めて大事に保管するように復唱した。

 

 気に入ってくれた様子なのは嬉しいが、一つ納得できない箇所がある。

 

「『みたい』じゃないだろうが」

 

 頭に乗っけたままの左手で、あかね(・・・)の髪をくしゃくしゃっとする。小さな悲鳴とかすかな抵抗を感じたが、気にせず続けた。

 

「お前の……あかね(・・・)の名前なんだから、人の名前だろうが」

 

 存分にアカネ色の頭をくしゃくしゃにして、やっと手を離す。

 

「かははっ、やっぱあんたは最高だよっ!」

 

 少女は赤く染まった頬を濡らしながら、瞳を透き通った涙で煌めかせて、乱れた髪も整えずに見上げる。

 

「隣に立てて、俺は幸せだ。ありがと、徹」

 

その微笑みは、夜空に瞬くどの星よりも、燦然と輝いていた。




これにてリニスさんと魔導炉絡みの案件は決着です。

次は(おそらく)親玉へと突撃します。長かったリニスさんと魔導炉編の読破、お疲れ様です。


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輻射熱

「お疲れ様でした、徹」

 

 瞼を開いて最初に見たものはリニスさん、最初に聞こえたものは(ねぎら)いの言葉だった。

 

「ああ……リニスさん。お疲れ様、向こうはもう大丈夫だ。魔導炉は跡形もなく破壊、なのはとユーノは無傷、あかねも傷一つない。ちょっと考えていた作戦とは細部が変わっちゃったけど、なんとか成功だ」

 

「徹ならなんとかするだろうと思っていましたが、やはり不安でしたよ。爆音がこちらにまで響いていたので」

 

「こっちにまで音が聞こえてたのか……さすがなのはのスターライトブレイカーだ」

 

 左腕どころか左半身からリニスさんの温もりを感じていると、胸元でなにやらごそごそと動く気配。ネックレスの台座からジャンプしてエリーが飛び出してきた。

 

 ふわふわと浮き上がり、俺の鼻先に身を擦り寄せている。どうやらエリーも俺を慰労してくれているようだ。こそばゆいが、その気持ちはとても嬉しい。

 

 リニスさんとエリーに感謝の言葉を述べ、周囲を見渡す。作戦開始前よりさらに、なんと言うべきだろうか、しっちゃかめっちゃかになっていた。

 

 外の真っ暗な景色が占める面積が増えている。これはつまり、射撃魔法やらなんやらによってダメージを受けていたホールの壁が、なのはのスターライトブレイカーの余波でさらに崩れ落ちたということなのだろう。

 

 なのはの砲撃の凄まじさを実感して、ふと思った。本来は実行に移す前に考えていて(しか)るべきだったろうけれど。

 

「り、リニスさん……あのさ。魔導炉は破壊できたわけだけど、魔導炉からの魔力供給が断たれたこの時の庭園って……どうなるの?」

 

「魔導炉から生成される魔力によって移動要塞と化していましたからね。そう遠くないうちに……」

 

 目を細めて明後日の方向を見るリニスさんに、俺は青褪(あおざ)めた。もしや魔導炉を丸ごとぶっ潰したせいで時の庭園は崩壊、時空を彷徨(さまよ)うデブリとなるのではと危惧した。

 

 ネガティブな想像で脳内を埋め尽くしている俺をちらりと見て、リニスさんはくすくすと笑みをこぼす。

 

「冗談ですよ。あの子がいた魔導炉ほどではないですけど、ここを維持するには充分な規模の予備の魔導炉はありますし、循環している分の魔力だけでしばらくは持ちますから。メインの魔導炉の不調や点検に備えてサブを用意しているのは当然でしょう? そもそもあの子を捕らえていた魔導炉はスペック的に持て余していましたから」

 

「そ、それもそうか。はあ、よかった……めちゃくちゃ焦った……」

 

「さっきの徹の表情、すごく面白かったですよ」

 

「趣味悪いよ、リニスさん」

 

 ちょっと頭を働かせれば考えついたものだった。いくら強力な魔導炉があるといっても長期間稼働させていればどこかしかの部品にガタがくる。メンテナンスで休止させている間、代わりとなる魔導炉があるのは当然だった。

 

 無駄にどきどきしただけだった。

 

「さて……それじゃ行くか」

 

 体力も気力も空っぽになるほど全力を尽くしていたので疲労(ひろう)困憊(こんぱい)(はなは)だしい。俺の知らないうちにリニスさんからマッサージ(セクハラ)を受けていたのに、疲労感から身体が軋む。

 

 それでも右足に手をやって全身の力を使って立ち上がる。

 

 リニスさんを元の状態に戻し、協力も取り付けることができた。暴走状態に陥っていた魔導炉は停止(実際には停止どころか破壊だし、実行したのは俺ではなくなのはだけれど)できた。魔導炉という監獄に囚われていたあかねも救出することができた。

 

 予定と異なったことばかり起きてはいたが、ここまでは考え得る限り最高の状態で進んでいる。

 

 しかし、だからといって万事解決とはいかない。

 

 まだ乗り越えなければいけない大きな山がある。その山を攻略する為にリニスさんの協力が必要で、その為にリニスさんと死闘を演じた。本題は依然として悠然と立ち塞がっているのだ。

 

 他にやりようがなかったとはいえ、ホールでの戦闘でかなりの時間を費やしてしまった。リニスさんが敗れ、魔導炉が瓦礫と塵芥(ちりあくた)に変貌を遂げたこともプレシアさんは悟っているだろう。いつ妥協して忘却の都へ旅立とうとするかもわからない。魔導炉の暴走という火急の危機は去ったとはいえ、課題は山積しているのだ。

 

 リニスさんも疲れているだろうし言うまでもなく俺も疲れているが、なんならこの場で泥のように眠ってしまいたいが、すぐに行かなければならない。休む暇などありはしない。

 

「あ、れ……?」

 

 立ち上がろうとして、かくんと膝が折れる。床に倒れそうになったところをリニスさんが俊敏な動きで抱き留めてくれた。

 

「徹、大丈夫ですか?!」

 

「ごめん、ちょっと足に力が入らなかった……」

 

 膝を折った体勢でリニスさんが正面から抱き留めたので、ちょうど顔はリニスさんの胸元あたりに位置していた。(かぐわ)しい香りと体温、柔らかな感触が顔面に到来したけれど、俺はそれをどぎまぎしながら享受することはできなかった。

 

「……っ」

 

 足に、力が入らないのだ。上半身も動かすのが辛く満身創痍(まんしんそうい)ではあるが、特に足が相当やられている。

 

 エリーとの和合(アンサンブル)前にもかなりの手傷を負っていたし、アンサンブル後も手酷く撃たれた。撹乱で足も酷使していた。そのダメージが、未だ色濃く残っているようだ。

 

「リニスさん、ごめんね……肩借りちゃって」

 

「そんなことはどうでもいいです! というよりも座ってください! こんな体調では動けないでしょう、休むべきでは……」

 

「いや、でも、急がなきゃ……」

 

 アンサンブルの後、目立っていた傷は治療されていたが細かなものは治っていなかった。これは重い手傷を優先して治療したということだろう。そのため他の部分には手が回らなかった。

 

 いや、もしかすると全く別の要因も考えられるかもしれない。体力としてではなく、魔力の過剰消費による身体機能の低下なのかもしれない。

 

 前にも似た経験はあった。体力としてはまだ余裕があるのに、魔力の残量が少なくなったら心拍数が上がったり、身体が途轍もなく重たく感じたりと。

 

 だとしたら、少しの時間休めば回復するというものでもない。

 

 ううむ、これは困った。

 

 リニスさんの肩を借りつつ立つ。疲れに起因するものか、目まで(かす)む。俺の様子を見て居た堪れない気持ちになったのか、リニスさんの表情には悲愴感が滲み出ていた。

 

「徹……あなた、左目……」

 

「ああ、そっちは血が入っちゃったからね……ちょっとばかり調子が悪いんだ。気にしなくていいよ」

 

「そう、なんですか。と、とりあえず座って……」

 

「気合い入れればなんとかなるって……早く行かなきゃ」

 

「そんなことを言っても……身体が気持ちについていけてないです」

 

 ふらつく足に力を込めようとするが、なかなか命令に従ってはくれない。焦りばかりが募る。

 

 リニスさんの肩を借りながら休む休まないで言い合っていると、エリーがふよふよと浮かび上がった。俺もリニスさんもエリーに気を取られて黙り込む。

 

 目線の少し上まで上昇すると、俺の額めがけてエリーが突進した。ぺちんっ、というとてもいい音がした。音と比例して、痛みも相応に。

 

「でゅあっ!」

 

「ああっ、徹!?」

 

 おでこを撃たれた俺は、情けない悲鳴を叫びながら床に倒れ込んだ。

 

「こんの石っころ! 私の徹になんてことをッ……。大丈夫ですか、徹……」

 

 床に仰向けに倒れた俺をリニスさんはすぐに抱き起こしてくれた。

 

 尻餅をつき、未だぴりぴりとした痛みが残る額を押さえてエリーを見やれば、空色の宝石は浮遊しながらけたたましい光を放っている。要約すれば、無理をするな、と(いさ)めるような閃光だった。

 

「何をぴかぴかと……反省しているのですか?!」

 

「いや、いいよリニスさん。エリーの言う通りだ。俺が悪い」

 

「石っころはなにも喋っていませんけど……」

 

 仲間を頼ることの大切さは学んだはずだったのに、もう忘れてしまっていたようだ。日頃からの習慣とは恐ろしいものである。

 

「あはは……そうだよな。俺一人じゃ限界がある」

 

「徹……大丈夫ですか? 倒れた拍子に頭でも打ったんですか……? なにか幻聴でも……」

 

 笑って、身体から力が抜けた。落ち着いてようやく自分で認識できるが、どうやら肩肘を張っていたようだ。まだ残されている難題を前にして、緊張してたり焦っていたりしていたのだろう。

 

 床に腰を下ろしたまま、エリーに手を伸ばす。

 

「悪い、エリー。また力を貸してくれ」

 

 そう言うとエリーは春の木漏れ日のように穏やかに輝くと、俺の手に近づき、触れる。硬いはずの宝石が、なぜか柔らかく感じた。

 

 きゅっ、と苦しくならない程度に握り込み、口元へ寄せる。艶やかにして鮮やかな空色の宝石に口づけをして、胸の中央へと運んだ。

 

和合(アンサンブル)…………」

 

 俺の中に、俺の身体の奥底にエリーが沈んでいく感覚。

 

 視界がスカイブルー一色に染まる。全身が眩く輝き、光が収束した時にはエリーと一つになっていた。

 

『疲れはあるかと思われますが、こちらの方が幾分かは楽でしょう』

 

『ああ、ほんとだな。ずいぶん違うもんだ、また頼らせてもらうよ』

 

『いえ……先ほどは失礼を致しました』

 

『いいよ。叱ってくれる人がいるのはいいことなんだ。また間違えそうになったら構わずやってくれ。少しくらいは手加減してほしいけどな』

 

『も、申し訳ありません……』

 

 それ自体が光を放っているかのような空色の髪をかき分けて額をさする。痛みはないのに、温もりだけは残留している気がした。

 

「ありがとう、リニスさん。もう大丈夫……リニスさん?」

 

 背中に添えられたリニスさんの手を握りながら、キーが高くなった声で謝意を述べる。

 

「…………」

 

 すぐ隣に寄り添うリニスさんは、それはもう驚きに瞠目(どうもく)して口をぽかんと開いていた。間近で目にしたメタモルフォーゼに驚愕する気持ちは理解できるけど、あなた一度見てましたよね。

 

 リニスさんは驚きに手を震わせながら手元まで引き、ようやく言葉を発した。

 

「こ、ここまで鮮烈に変わるとは……」

 

「戦ってる最中に見てたでしょ……。二回目のほうがびっくりしてるってどういうことなんだ」

 

「あの時は魔力が暴走してて、夢を見ているみたいにうつろでしたので……。もしかしたらあれは夢で現実ではなかったのかも、と思ってました。それにしても……綺麗ですね」

 

「俺としては複雑な褒め言葉だ……。とりあえず、身体の調子は良くなったから早く動こう」

 

 すっく、と立ち上がる。身体は重いし動かし辛くはあるが、先とは比べるべくもない。自分だけで立てるし、足にだって力は入る。また走れる。まだ、走れる。

 

「そ、そうですね……訊きたいことは山ほどありますが、向かいながら話すとしましょう」

 

「うん、答えられる範囲ならなんでもどうぞ」

 

 俺は勢い良く立ち上がった際に舞い上がった髪を撫でつけながら、へたり込んでいるリニスさんに右手を差し出す。

 

 きょとん、とした表情の後、リニスさんはなぜか顔を赤らめながらおずおずと俺の手を取った。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

「どういたしまして。俺はここからどう行けばいいかわからないんだ。リニスさん、道案内よろしく」

 

「は、はい……こっちです」

 

 俺の隣に並んで立ったリニスさんはくるりと反転し、俺となのはとユーノが入ってきた入り口とは反対側の扉へ足を向けた。床を蹴り、走り出す。

 

 俺はふわりふわりと揺れる尻尾と彼女の背中を追う。走りながら手櫛で髪を整えるリニスさんの様子がとても目を引いた。

 

 

 

 

 

 

 狭い通路を進んで、ある場所で止まった。リニスさんの視線の先には薄暗く幅も狭い階段。

 

「ここをずっと下まで降りればすぐです……行きましょう」

 

 目の届く範囲には灯りも見えない階段を、リニスさんは降り始める。

 

「リニスさん、大丈夫? 体調は万全とは言えないだろ。疲れたなら少しペース落としても……」

 

「何度も言っているでしょう? 私は大丈夫です。仮に魔力なしでもこれくらいの距離なら駆けられます。心配してくれるのは嬉しいですが……私のことより、自分の心配をしてなさい」

 

 リニスさんは人差し指を立てて、めっ、という風に俺を叱る。形はどうあれ叱られているのになぜだろうか、胸がときめくのは。この心拍数の上昇はきっと走っているからだけではない。

 

 たん、たん、と床を踏み叩く音が壁に反響する。

 

 床を蹴る度に長い髪が目の前を右に左に踊る。目障りとまでは言わないが、如何(いかん)とも(わずら)わしい。ヘアゴムとか欲しいところだ。

 

 文句を言い出せば髪だけではない。胸部についた二つの柔らかい母性の象徴も、走っていると上下に弾んで少し痛い。女性は大変だ。このセリフを太刀峰の目の前で言ったら刺されそうだけど。

 

 益体もないことをつらつら考えていると、俺の斜め前を走って先導してくれているリニスさんがちらりと振り向いた。

 

「その格好……私が言うのもなんですけど、ちょっとあられもないですね」

 

「うん。リニスさんは人のこと言えないけど、確かにそうだな……」

 

 今の服装はエリー先生デザインのものではない。俺がもとから着ていた服だ。激闘により随分見窄(みすぼ)らしいものと化している。ぼろ雑巾を着てるようなものだ。

 

 この場には俺、リニスさん、エリーの三人しかおらず、唯一男の俺が女性の身体になっているので誰に(はばか)るものではない。みんなと合流する前にアンサンブルを解けば問題はなさそうだが、自分の身体とはいえ女性の肢体を外気に晒すものではないだろう。ここはデザイナーに相談しよう。

 

『エリー、バリアジャケットって展開できる?』

 

『展開することは可能ですが、色々とグレードダウンしてしまいます。アンサンブルの一段階目では出来ることが限られていますので』

 

『グレードダウン……どの程度? 布地が少なくなるとか?』

 

『いえ……さすがにそのようなことは』

 

 粗末な外見を向上させるためにバリアジャケットを展開しても、布地が減ってしまっていてはかえって(みだ)らである。その場合は今の雑巾で我慢しなければいけないが、エリーは限定的な権限と魔力でうまくやりくりしてくれるようだ。

 

『拳甲や脚甲を展開せず、防御力をバリアジャケットとは呼べない数値にまで下げれば可能です。まさしく衣服にしか成り得ませんが……』

 

『戦うわけじゃないからそれでいい。頼めるか?』

 

『お任せください。私も今の主様のお姿は気に病んでおりました』

 

 ちょっと言い過ぎではなかろうか、とも思ったが限られた中で頑張ってバリアジャケットを展開してくれるのだから、文句が言える筋はない。

 

 右足で床を蹴り、左足で着地する頃にはバリアジャケットの構築は済んでいた。なんたる早業。

 

「おお、服としては充分……ん?」

 

 エリーが前もって伝えてくれていた通り、戦闘に用いる装具は外されているが、着るだけならばなんら不都合はない。不都合はないのだが、いろいろ減ったぶん、なぜかいろいろ増えている。

 

 首元にはシルバーのネックレス、淡い青色のブレスレット、ウエスト辺りにはベルトが付け加えられている。視界の端を髪がちょろちょろしないな、と思って手をやれば、頭の後ろにはシュシュのような布で髪が纏め上げられていた。

 

『エリー……たしかに装備は減ってるけど、代わりに装飾が増えてるぞ』

 

『装具とバリアジャケットのスペックに魔力を割かずに済んだ分、処理能力が余りましたので。ファッションとして扱うとのことなのでどうせなら、と』

 

『いや、街に出かけるとかじゃないんだから……。いいんだけどさ』

 

 エリーのプロ意識には感心するべきかせざるべきか、とても悩む。

 

 バリアジャケットの件についてエリーに、ありがとう、と声をかけて目を前に向ける。リニスさんと目があった。眉を(ひそ)めて口を尖らせている。なにやら不機嫌な様子だ。

 

「全裸お着替えシーンはないんですか」

 

「ない」

 

 くだらない理由で機嫌を損ねていた。

 

「しかし、嫉妬したくなるほどのプロポーションですね……。背は私より高いですし、足もすらりと……なのに胸もある。これは徹の理想像か何かですか?」

 

「違うよ。基本的に外見はエリーに引っ張れてるんだ。俺の要素は目つきと、あとは多少身長が反映されているくらいだな。ていうかリニスさんもスタイルいいのになに言ってんの」

 

「セクハラです」

 

「残念だったな。今は同性だ」

 

「同性でもセクハラになります?」

 

「マッサージや医療行為などと偽って不埒(ふらち)な行為をしていたのによく言えたな」

 

 くすくすと楽しげに笑って、しばらくすると彼女は表情を真剣そのものに引き締めた。

 

 リニスさんは真摯な瞳で問いかけてくる。

 

「その状態……副作用などはないんですか? 融合(ユニゾン)を知っている私からすると非常に危うく思えます」

 

「その愚問には主様がお答えになったでしょう。これ以上深度を深めなければ、現在の初期段階であれば副作用も乗っ取りもありません」

 

 俺がリニスさんの問いに答える前にエリーが答えてしまった。口を挟む間もなくエリーは続ける。

 

「もう一段階制御を緩めても主様の精神力をもってすれば耐えられます。三段階目は主様であっても危険になりますが、そこまで制限を取り払うことなどそうはありません。よってあなたが心配する必要など皆無です」

 

「石っころにではなく徹に訊いたのですが。……まあ、今のところ危険がないのであれば私としても安心です。精々励みなさい、石っころ」

 

「言われるまでもありませんね、泥棒猫。あなたこそ、主様の足を引っ張らないように尽力することです」

 

 話のテンポ的にも入れないし、話の流れ的にも入り辛かった。

 

 非常に雰囲気は険悪であるが、お互いに言葉を交わしているということはまだしも良い方向に向かっていると言えるのではなかろうか。間に挟まれている俺としては仲良くして欲しい限りではあるが。

 

 俺をほったらかしにして、エリーとリニスさんは言葉を弾丸に変えて撃ち合う。

 

「だいたいなんのつもりですか、不意をついて主様の唇を二度も奪うとは。盛りのついた猫ではあるまいに」

 

(ひが)みですか、みっともないですね」

 

「っ、粘膜接触で浮ついてるおぼこには理解が及ばないでしょう。ヒトツになる感覚というものは」

 

「こっの……。徹が受け容れなければ気持ちも伝えられない石っころが随分と大きな口を……」

 

「主様はどこぞの猫と違い包容力に富んでいらっしゃいます。光の点滅の加減で主様は不肖私の感情を理解してくださるのです」

 

「ふふ……カラダで癒すことができない石っころは感情論でしか訴えられませんか」

 

「肉体的接触にしか価値を見出せないとは……。おぼこで淫売とは手の施しようがありません。清廉な付き合いというものができないのでしょうか。主様の側につくのに相応しいとは到底言い難い。即刻離れることを望みます」

 

 銃撃戦ならぬ口撃戦がだんだん白熱してきている。二人の間で火花が散っているように見えるのは錯覚であってほしい。

 

 そろそろ止めなければ殴り合いにまで発展してしまいそうだ。こんなところで仲違いをしている場合ではないというに。

 

『エリー』

 

『あ、主様……これは違うんです。あの発情猫が……』

 

『だとしても淫売は言い過ぎ』

 

『うぅ……』

 

 肉体の主導権を返してもらい、次はリニスさんに注意勧告する。走りながらだったので感覚が戻った瞬間は少しふらついた。

 

「リニスさん。言い過ぎだよ」

 

「えっ、徹……さっきの聞こえて……」

 

「メインの人格がエリーになっていても視覚も聴覚も共有できるんだ」

 

 口調や振る舞いが俺に戻ったのを見て取り聞いて取り、リニスさんは(にわ)かに慌て始めた。目を見開かせて顔を青褪めさせている。(つまづ)いて階段を転げ落ちそうになったほどだ。

 

『ふふっ……どうやら猫は、私の意識が表出している時は主様には何も聞こえないとでも考えていたようですね。私が会話に割り込んだのですから少し頭を巡らせれば思い至るでしょうに』

 

『エリー』

 

『はい、なんでしょう主様』

 

『仲良くしてとまでは言わない、ただ喧嘩腰に喋らないように。ちょっと反省してなさい』

 

『はい……』

 

 エリーにお灸を据え、口論のもう片割れ、リニスさんに意識を向ける。

 

 すぐ近く、斜め前を走っていたはずのリニスさんの後ろ姿が随分と離れてしまっていた。どうやらスピードアップしたようだ。

 

 足に魔力を回して追いかける。ブーツの底が小気味良い音を奏でた。

 

「リニスさん、ちょっと待って。いきなりなんで急いでんの……」

 

 時折肩を壁に擦りながらリニスさんの隣に並ぶ。彼女の顔を見れば、目元に涙を蓄えて下唇を噛み締めていた。

 

 尋常ならざる状態に動転しつつもリニスさんの手を掴んで一先ず引き止める。

 

「ど、どうしたの? 一応言い過ぎたエリーには怒っといたけど……でも、実際リニスさんも口が過ぎてたからね? おあいこってことでこの場は流そうよ」

 

「私っ……ちが……」

 

「え、なに?」

 

「……石っころには、あんなこと言いましたけど……私そんなに、軽い女じゃなくて…………」

 

「大丈夫だって。わかってるから。キス一つで顔真っ赤にする人が、そういったことに慣れてるわけないってわかってるから」

 

 どうやらエリーが言った『淫売』が効いていたらしい。

 

 エリーとの口論の際に放った言葉も強がりと言うべきか大袈裟と言うべきか、自分を大きく見せるための誇張のようにも思えていた。(いさか)いがエスカレートして大口を叩いてしまったということだろう。

 

 意外と子供っぽいところもあるようだ。

 

「経験だって、なくて……好きになったのも徹が……」

 

「オッケー、もう大丈夫! リニスさんも反省してるってことだよな。それならいいんだ、エリーもリニスさんも痛み分けで両成敗。これで決着としよう! ほらリニスさん、道教えて! 早く行かなきゃいけないし」

 

「は、はい……。あの、本当にわかってくれましたか……?」

 

「リニスさんの言いたいことは寸分違わず理解したから大丈夫。これからはエリーと、家族みたいに、とまでは言わないから喧嘩しない程度にそこそこで接してくれると嬉しいな!」

 

 このままもじもじと一生懸命言葉を紡いで誤解を解こうとするリニスさんを見ていたら、なにかが決壊しそうになる。主に理性や常識、倫理など。

 

 つい癖でなのはにやるようにリニスさんの頭をかいぐり撫でてしまった。ぴょこんと生えた猫耳の撫で心地は悪魔的である。

 

 年上相手にやるのはどうかと思ったが、予想に反して抵抗やらお怒りやらは買わずにすんだ。どころか気持ちよさそうに、それこそ猫のように目を細めて受け入れている。

 

 病みつきになりそうだったが心を強く持って手を離す。寂しそうに物足りなさ気な表情をしたのが心苦しかったが、リニスさんは頭に両手を置くとにへら、と相好(そうごう)を崩した。あまりの可愛さに思わず抱きしめそうになったが懸命に理性を立て直して踏み止まった。

 

「あともう少しだったはずです。急ぎましょう」

 

 進行方向、下へと続く階段を見てリニスさんが言う。声自体はこれまでの凜としたものが戻っているが、いかんせん頬が緩みっぱなしだったので体裁は取れていない。

 

「おう。がんばろう」

 

 もちろんリニスさんの表情には突っ込みを入れず、彼女に(なら)って俺も再び階段を降りる。

 

 緩やかにカーブしている階段は長く、時折踊り場のようなそこそこ開けた空間があっていくつか道が分岐している。その踊り場には申し訳程度にあかりが灯されているが、間隔が空きすぎて階段自体はほぼ照らされていない。

 

 下層へ潜るたびに闇は濃くなるが、リニスさんは迷いなく道を選び、迷いなく暗闇へ突き進んでいく。近くにいるはずのリニスさんの背中さえ(かす)んでしまいそうになる視程。リード代わりにリニスさんの尻尾を握らせてほしいくらいだ。

 

 階段を踏み外すのも通算何度目か数え切れなくなった。体力とか足とか云々より先に足首を挫きそうな不安が強まる。

 

「めちゃくちゃ暗いのに、なんでリニスさんはそんなに早く行けるんだ? 道を完璧に覚えてんの?」

 

 先導してくれているリニスさんに、コツみたいなものがあればいいなと淡い期待を抱きながら尋ねてみる。

 

「この時の庭園は広いんです、うろ覚えに決まってるじゃないですか」

 

「じゃあなんで」

 

「夜目がきくんです」

 

「さすがにゃんこ……」

 

「にゃんこはやめてください」

 

 リニスさんがすいすいと進めるのは持って生まれた眼によるものらしく、残念ながらコツではないようだ。

 

 このままいつ足を捻挫するかもわからない恐怖に堪え忍ばなければいけないのか、と落胆しているとエリーが救いの手を差し伸べてくれた。

 

 突如宙に空色の球体が強い光を放ちながら浮かび上がり、俺から前方数メートルの位置を維持して浮遊し続ける。足元や針路を照らす。

 

 空色の光に照らし出された階段の壁面や床は想像していたよりも古めかしい。スカイブルーの光彩と周囲の劣化状況のミスマッチがおどろおどろしさを際立たせていた。

 

「もうすぐ外縁底部……プレシアがいる場所です」

 

「そう……か」

 

 長く暗くじめっとした道程も終わりが近くなってきた。

 

 だが近づくにつれて、降りていくにつれてどうしようもないほどに胸騒ぎがする。赤熱した金属の塊から輻射熱を浴びているような感覚。身を焼かんばかりのじりじりとした威圧的なプレッシャー。

 

 斜め前を直走(ひたはし)るリニスさんの様子は変わりない。彼女には感じられないのだろう。

 

『主様……これはジュエルシードです』

 

 エリーの声が脳内に響く。

 

『力が解放されつつあるジュエルシードの魔力波……。私と一つになっている主様にはそれが顕著に感知できているのでしょう』

 

『ジュエルシード……。そういえばプレシアさんの手にはいくつもあったんだったか……』

 

 意識から抜け落ちていた。暴走していたのは魔導炉だけではない。

 

 フェイトとアルフが集め、プレシアさんが所持しているジュエルシード。その数、十三。総数二十一あるジュエルシードの過半数を占めている。あかねを(おとし)めるわけではないが、危険性は魔導炉の比ではない。

 

 タイムリミットはすぐそこまで近づいている。

 

「この扉の向こう側です」

 

 階段を下りきり、直線の廊下を進んだ突き当たりに黒ずんだ木製の扉が待ち受けていた。永い年月手入れもされずに放置されていたのか、蝶番(ちょうつがい)は錆で変色していたり、扉の下部には(かび)のようなものも見られた。

 

「むっ……」

 

 リニスさんは建て付けの悪くなったそれのノブに手を掛ける。がちゃ、がちがちゃ、と音を鳴らすが開かれない。押しても引いても動かない。上げても下げても、やはり開かない。

 

 一歩引き、リニスさんは振り向いて俺を見た。きらきらと、淑女然とした過剰なまでの笑顔で口を開く。

 

「徹、申し訳ありませんが少しだけ後ろを向いていてもらえますか?」

 

 首肯し、俺は身体を反転させる。させたと同時に背後から途轍もない音がした。ばきぃっという、ちょうど木材でも叩き壊したかのような音。

 

「リニスさん?! どうし……」

 

 驚いて急いで振り返れば、道を遮り沈黙を守っていた木製の扉がなくなっていた。

 

「何をしたかは乙女の秘密です。訊かないでくださいね?」

 

「と、扉開いたんだ……よ、よかったよ」

 

 リニスさんの足元に木屑が見えたような気がしたが、きっと無関係だ。

 

 恐れ慄きながら俺は開け放たれた扉の枠をくぐった。

 

 時の庭園の下端、その景色はほとんどが黒く塗り潰されていた。庭園の外、黒い部分はユーノが注意していた虚数空間というやつなのだろう。

 

 その虚数空間では、魔法の一切が発動しない。一度(ひとたび)落ちれば時空の狭間を漂流することになり、助かる術はない。

 

 岩盤から削り出している、のだろうか。ごつごつとした岩が点在していて、平らに開けた場所がある。上方も岩でできているあたり、おそらくは人の手で岩盤を切り開いたと見える。当初からそうだったのか、それとも魔導炉とジュエルシードの影響によるものなのか、岩の床は裂罅(れっか)が散見された。崩れ落ちてしまえば虚数空間へと真っ逆さまなので、降り立つのに恐怖がないといえば嘘になる。

 

「いた……。プレシアさんと……あれはフェイトか」

 

 見渡していて、ようやく発見した。

 

 岩盤から削り出したかのような空間の一番端っこ。そこに珍妙な形状の杖を手にしている女性がいる。プレシアさんだ。

 

 プレシアさんに真っ向から向き合う形でフェイトがいて、フェイトの数メートル後ろにはアルフもいる。

 

 フェイトが母親と話をできていることは内容がどうあれ喜ばしいことだが、それよりも俺はプレシアさんの隣にある物体に目を引かれた。意識を奪われた。

 

「アリ、シア……」

 

 女性の中では長身と推測されるプレシアさんの頭を、優に超えるほど背が高いカプセル。生物の肉体を残したまま保存するためのホルマリン管のような見た目のそれに、膝を抱えるような体勢で一糸纏わぬ少女が入っている。

 

 褐色透明の液体にいながらにして眩く輝くような長髪。フェイトと瓜二つの少女。順序では、フェイトが瓜二つと言う方が正しいのだろう。クローンであるフェイトのオリジナルとなった存在、アリシアがそこにいた。

 

 フェイトよりも一回り小さな体躯の少女は、周囲の環境や喧騒など意に介さないと言外に表現するかのように、瞼を閉じて身動(みじろ)ぎ一つしない。当然だ、魂が抜け落ちているのだから。その少女の声をもう一度聞くために、その少女の身体をもう一度抱き締めるために、プレシアさんはここまでのことをしているのだ。

 

 距離はあったが、耳を(そばだ)たせると微かに二人の声を聞き取れる。

 

 か細い声で必死に言葉を紡ぐフェイトと、感情が排されて平坦なプレシアさんの声。

 

 プレシアさんの口から飛び出した一言は短く、だからこそ心の奥底まで響いて、突き刺し(えぐ)る。

 

「あなたなんか、もういらないわ……」

 

 一番最初に聞こえたセリフは、胸を引き裂く悲しいものだった。

 



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自分のすべきこととして、自分の成すべきこととして

「出来損ないの人形と……話すことなんてないわ。あなたは用済みなのよ」

 

 アリシアが膝を抱いて眠るカプセルに左手を添えながら、プレシアさんは横目でフェイトを見やる。

 

 右手に持つ、彼女の背とほぼ同じ長さの杖はアリシアを守るように横に倒されている。どちらが大切なのか、優先順位を見せつけるようだった。

 

「私、は……母さんの期待に……応えられなかったかもしれません。ジュエルシードを集めきれなかった……なのはや徹たちに誠意で報いたかった……。不手際は確かにあったから、それで叱られるのは仕方ないと……思います。そのせいで、アリシアを助けるためにジュエルシードが必要な母さんから怒られるのは……当然だとも思います。だから、私は……恨んではいません。私に笑いかけてくれた母さんを忘れられません。私はまだ……母さんを……」

 

「あなたが! っ……あなたが、私をどう思っていようと関係ないわ!」

 

 床に刻まれている亀裂を挟んで、フェイトはプレシアさんに話し掛ける。手を伸ばしているその姿は、元の穏やかな生活に戻りたがっているようにも、母親の温もりを求めているようにも見えた。

 

 だが、プレシアさんはフェイトの言葉を遮り語調を荒げて退ける。フェイトが差し出す手を、振り払う。カプセルから離れた左手は、血が出るのではと思うほど力が込められ震えていた。

 

「あなたはもういいの……いらないのよ。どこへなりとも行けばいいわ。その顔で私の近くをうろつかないで。……不快、なのよ…………消、えなさい」

 

 爆ぜるような語気でフェイトの言葉を封じ、ついで顔を見るのも嫌というふうに目を背ける。フラットな口調に戻り、淡々とフェイトに言い連ねる。

 

「目障り……だと言うのなら、いなくなれと言うのなら……私は、離れます……。遠くに……行きます。それが母さんの願いなら、私は従います。でも……それでも、どれだけ距離が離れていても……私は母さんに、幸せになってほしいと思うから……」

 

 プレシアさんの言葉を浴びるたびに悲痛な表情を見せるフェイトは、だが母親へと手を伸ばす。

 

 その手を一瞥してプレシアさんはちらりとある場所へと目を向ける。円柱状の柱が岩盤から縦に、何本も伸びていた。この開けた空間にはいくつか入り口があるのか、まるで階段のような構図になっている。

 

 円柱形の柱の一つに見覚えのある少年がいた。クロノの姿だ。傀儡兵との戦闘で怪我を負ったのか血が頭から目の上を通っている。片目を瞑って手にはデバイスを携えていた。

 

 クロノはすぐにプレシアさんを取り押さえるつもりはないようで、動く準備は万全整えつつも親娘の会話を見守っている。

 

「リニスさん、プレシアさんは……」

 

「プレシアはフェイトを受け容れませんよ……受け容れられないんです。今生の別れでも、二度と顔を見ることができなくても……優しい声は掛けられません。穏やかな微笑みも、さよならも……その手で抱き締めることさえ……」

 

「なんで……っ」

 

「すぐ近くに管理局の執務官がいます。フェイトとの話を聞かれれば、拘束あるいは保護される際に心証が悪くなると考えているのでしょう。ジュエルシードを集めるための道具として教育……洗脳と言い換えてもいいですけど、そういった関係にあったと思わせなければいけない。親と子の関係ではダメなんですよ。自分の意思でジュエルシードを集めていたと思われてはいけないんです。自分より立場が上の相手から命令されて、無理強いされて、従わざるを得ない状況に立っていたことにしないといけないのですから」

 

 本当の娘の代わりに生み出されたクローンで、娘の記憶も転写したのに期待したようにはことがうまく運ばなかったから、ジュエルシードを集めさせてフェイトを捨てる。その上身代わりのクローンとして造り出されたことを暴露され、悪罵痛罵を浴びせられたという流れがあるからこそ、みんなの心情はフェイトへ傾き、同情する。()いては酌量の余地も生まれるのだ。

 

 しかしここでプレシアさんがフェイトに優しく接してしまえば、作り上げてきたイメージ、心象に綻びが生まれてくる。疑いの種を蒔くことになってしまう。

 

 管理局の目があっては、プレシアさんは本心をフェイトに伝えることはできない。

 

 いくらリンディさんやクロノが助けてくれようとしても、本人の意思で魔法という技術が存在しない世界で魔法を行使しながらジュエルシードを収集していたとなれば、情状を汲み取り減刑をはかることは難しい。だからこそ、プレシアさんはフェイトに想いを伝えられない。罪を減免させる、これこそがプレシアさんの願いなのだから。

 

「本心を打ち明けるだけの時間は作れるはずだったのに……。傀儡兵の数が足りていませんでしたか……」

 

「リニスさんが戦いに負けて、魔導炉が停止したことはプレシアさんも知ってるんだろ? なら、もうあんなことしなくたっていいはずなのに、なんでまだ……」

 

 小さな声で独り言ちるリニスさんに、俺は尋ねた。

 

 俺はプレシアさんたちが描いていた絵図を見抜き、真相を知った。リニスさんとの勝負に勝ち、協力も取り付けた。管理局サイドへ説明する時には俺が渡りをつけてリニスさんに証言してもらえれば、それでプレシアさんの考えていた策は根底から瓦解する。

 

 リンディさんでもクロノでもレイジさんでも誰でもいいが、今はまだ管理局の人に話していないだけだ。やろうと思えば、いつでもプレシアさんの作戦をひっくり返すことはできる。

 

 あのような胸を切り裂くセリフを吐くことは無意味なのに、なぜプレシアさんは頑なにフェイトを拒絶するのか。

 

「私が管理局に全てをばらしてしまうまえに、命を絶つつもりなんですよ」

 

「は……? なんで、そんなことしたところでなにになるって……」

 

「私はプレシアの使い魔です。主人からの魔力で形を保っています。その魔力供給がなくなってしまえば、生き続けることは不可能ですから」

 

「そんな、そんなこと……」

 

 そんなこと、認められるものか。そう言いたくても、言葉が喉から先に出てこなかった。

 

 魔導炉が停止した以上、所持しているジュエルシードだけでは忘却の都アルハザードへは届かない。持っている数こそ十三だが、その総エネルギー量としての内訳は十三には遠く及ばない。

 

 海鳴市の沖合にて、九頭龍から回収されたジュエルシード九つ。そのうち八つをプレシアさんサイドは奪取した(実際はリニスさんがどさくさに紛れて掠め取った)のだが、原因は未だはっきりとはしていないけれど、それらのジュエルシードが内包するエネルギー量は著しく減少していた。こちらで回収できたジュエルシードを調べた結果、通常のものと比べて七十五パーセント減。およそ四分の一にまで落ち込んでいた。

 

 こちらに来るまでにリニスさんに確認を取ったところ、やはり九頭龍から回収できたジュエルシード八つはエネルギー量が少なかったそうだ。

 

 すなわち、数こそ十三もあるが、実質的な数値で言えばジュエルシード七つぶんにしかならない。七つであっても常軌を逸した魔力量だろうが、それではアルハザードへは辿り着けないと考えている。

 

 アリシアを助けるための、存在するかどうかも危ぶまれている奇跡への切符が失われた今、フェイトを助けることにのみプレシアさんは全力を注ぐ。

 

 プレシアさんはたとえ見苦しいと見られても、最後まで諦めないのだろう。足掻(あが)いて、(もが)いて、侮蔑の視線を受けても大切なものを守ろうとする。堅固に意固地に、でも一途にひたむきに、自分のすべきこととして、自分の成すべきこととして貫き通す。

 

 人の力なんぞあてにはしない。自分だけを信じて、自分の願いのために突き進む。

 

 プレシア・テスタロッサという女性は、孤立無援でも四面楚歌でも寄る辺がなくても形影相弔(けいえいあいとむら)う状況であってさえ、一つの覚悟と願いを持って断崖へ歩みを進める。

 

 そんな人に、どうすれば俺の計画に協力してもらえるというのだろう。自分の信念を貫く人に、どこまでも貫ける人に、俺のやり方を認めさせるなどできるのか。

 

 心が沈んでいくのを感じながらも、それでも目は親娘へと向け続ける。どれほど辛くとも、目を背けることだけはしなかった。

 

 時折遠くで轟く爆発音を聞きながら、プレシアさんとフェイトの会話に注意を向ける。フェイトは言葉を交わす度に、華奢な身体を震わせて瞳を潤ませていた。

 

「……っ」

 

 プレシアさんに認めてもらえるだけの信用を勝ち取る自信がない。今日会ったばかりの、しかも敵対している俺をプレシアさんが信用できる道理などない。なにをどう説明しても、どれほどの言葉を尽くしても、幾つものパターンで想定しても、認めてもらえる答えが出ない。

 

 奥歯を噛み締め、手を握り込む。一手仕損ずるだけで全てが水泡に帰する。迂闊な真似は、最悪の結果にしかならない。

 

 渦中に飛び込む決心がつかなかった俺の耳に、プレシアさんの声が届く。

 

「私はね、フェイト……」

 

 ひどく、冷たい声。

 

「あなたを……一度たりとも愛したことはなかったわ」

 

 地を這うように低い言葉は、かろうじて保たれていたフェイトの心を容赦なく斬りつける。

 

 フェイトの身体が初めて、ぐらりと(かし)いだ。

 

「あなたなんか……っ」

 

 続く言葉が耳朶(じだ)を叩いた瞬間に、俺の足は動いていた。失敗できないという重圧で重くなっていた足が、自分も気づく前に床を軋ませるほど踏みしめて飛び出していた。

 

 信用を得るための説明などは頭から抜け落ちていた。複雑で煩雑(はんざつ)な理屈云々はなにも考えていなかった。本能で『それはダメだ』と、ただそれだけを考えていた。

 

 リニスさんの声を後方に置き去りにして、足場用の障壁を展開させて跳躍移動まで駆使し、視線の先の金色へ駆ける。

 

 プレシアさんは、止まらない。

 

「大嫌い……だったわ」

 

 傷つけられても耐え続けたフェイトの心が、ついに限界を迎えた。目元から頬へと雫が伝う。フェイトの身体が崩れ落ちる。

 

 だが。

 

「そいつは嘘だ……」

 

 フェイトが倒れてしまうその前には、間に合った。背中に手を回し、軽くて細い身体を支える。こんなに小さな身体で母親からの痛烈な言葉に耐えていたのかと思うと、胸が締めつけられるような気分になった。

 

「そんな嘘は……認められない」

 

 フェイトを支えながら、まっすぐとプレシアさんの両目を見る。プレシアさんは急に現れた闖入者()に目を見開かせていた。

 

 手に微かな感触がした。腕の中に収まっていたフェイトが手を握っていた。

 

「と、とお…………だれ?」

 

「…………」

 

 エリーとの和合(アンサンブル)を解くの忘れていた。

 

 腕の中から出ていこうとはしないが、両手を胸元にやって困惑と怯えが入り混じった複雑な表情をしている。

 

 そりゃあフェイトだって、いきなり顔も知らない背の高い女に抱かれたら驚きもするだろう。

 

『……エリー、悪いけど解除を』

 

『承りました。あと五秒早く解いておくべきでしたね』

 

 わかっていたのなら自主的にやってもらってくれても良かったのに、と思うのは他力本願と責任転嫁が過ぎるだろうか。

 

 右手でフェイトの身体を支えつつ、左手は胸の中央に持っていって浮き出てきた空色の宝石をキャッチする。一瞬の閃光を経て、元の姿()に変化した。

 

 アンサンブルを解いたことで、身体能力や体調までもアンサンブル前に逆戻りだ。目は(かす)むし足は重いが、エリーと一体化して魔力が循環したぶん治癒が早まったようで、膝はかくかくしなくなった。

 

 自分の力だけで立てることを確認すると、前方にいるプレシアさんへ目を向ける。

 

「君が、フェイトやアルフが話題に上げていた徹君……かしら? 初対面を相手に『嘘』とは、あまりに失礼ね」

 

 突然割り込んできた女に驚き、その女が男になってさらに驚いていたプレシアさんはもう、気を持ち直していた。

 

 視線で人を殺せるのではと思えるほどに鋭利な眼光で俺を射る。足が竦みそうになるのを懸命に堪えた。

 

 これほどの威圧感を受けても立ち続け、面と向かって話をしていたフェイトの凄さを思い知る。

 

「と、徹……私、がんばったんだけど……だめだった……」

 

 ごめんね、と俺の服を握り締めながら、フェイトは呟く。俺に心配させないようにとフェイトは笑顔を作ってみせるが、逆に悲愴さを強めていた。頬を濡らす涙が、沈痛さを助長させていた。

 

「だめじゃない、全然だめじゃなかった……ここに来て、一対一でプレシアさんと話したんだから……」

 

 金色の頭に手を置く。

 

 フェイトはアースラでプレシアさんから酷い言葉を幾つもの浴びせられた。一時は心を閉ざしてしまうほどに、何回も何回も。

 

 そのフェイトが、もう一度拒絶されたらと思うと足が竦みそうになる、そう言っていた小さな少女が、必死に踏ん張って自身の想いをプレシアさんに伝えた。

 

 プレシアさんの翻意は促せなかったとしても、その頑張りには確実に意味がある。無駄なんてことは決してない、駄目だったなどとんでもない。

 

「フェイト、お前は正しかったんだ。胸を張れ」

 

 プレシアさんの決心を(ひるがえ)させるために何を言えば良いかなんて、事ここに至っても全く浮かばない。見当もつかない。

 

 ならば、この場で考えながらプレシアさんと話をするしかない。もとより人の気持ちを一から十まで把握するなどできないのだ。

 

 意を決して、プレシアさんへと向き直る。逸る心臓を無理矢理落ち着けながら、口を開く。

 

「あなたは嘘をつくのが苦手なんだ。そしてそれを自覚している……。すぐに態度にも表れてしまうから、フェイトを自分から遠ざけた。顔を見たら、辛辣(しんらつ)に振舞えるか自信がなかったんだろう」

 

 プレシアさんは俺の発言が癪に障ったように頬をひくつかせた。眼の鋭さはより一層増す。

 

「……勝手なことを言わないでくれるかしら。何を根拠に……」

 

「アースラでの通信映像……あなたの心理状態が仕草として表れていた」

 

 プレシアさんのセリフを半ば強引に断ち切る。

 

 一度勢いが途絶えてしまえばイニシアチブは取り戻せない。プレシアさんから放射されるプレッシャーに呑まれないようにするには、自分のペースを維持しなければならない。

 

 苛立ちからか、剣呑さを弥増(いやま)していくプレシアさんの目を、しかし俺は真っ向から見つめて逸らさない。

 

「感情が表出してしまうことを恐れて、こちらに多く背を向けていた。あなたは背後のアリシアに目を向けているつもりでも、心は常にフェイトに向いていた……フェイトのことを考えてずっと行動していたんだ」

 

 わかりやすく動揺してくれればありがたかったが、そこまで簡単な相手ではなかった。しかし、表情には出ずとも変化は現れている。揺さぶりは効いている。

 

 アリシアのカプセルに添えられている左手、その指先がぴくりと動いたのを見逃しはしない。

 

「あなたは本当に、嘘をつけない性格だよ。喋り方にも出てる。異様なほど抑揚がない、常に一本調子でフラットだった。声の出し方から嘘をついていることがバレたらいけないと思い、意識しすぎたんだろう。でもそっちに気を傾けすぎて他が疎かになっていた。話のピッチが早くなったり遅くなったり、まるで情緒不安定だったよ。矢継ぎ早に自分から話して、早く終わらせたいという気持ちが透けて見えていた。声が震えてしまった時は声を張り上げて誤魔化したりもしてた。心にも思ってないことを言っている時の典型だ。口に出すだけでも辛かったんだ」

 

 アースラで見た光景を必死に思い出しながら話を続ける。

 

 あの時確かに舌鋒鋭くフェイトを糾弾していた。言葉ばかりに囚われたら悪感情しか抱けないが、それを演技であるという前提でもう一度見直した時、プレシアさんの立ち居振る舞いには違和感を感じざるを得ない。

 

「気づいていたか? フェイトと直接会話していた時も、多くの情報を教えてくれていたんだよ。ころころと落ち着きなく姿勢が変わっているし、目線も一定の範囲に収まっていない。片手は杖を持っているからなんとかなっているけど、もう片方の手は誤魔化せずにふらふらしている。だからアリシアのカプセルに手をやってるんだろ。あちらこちらへ動かしたら怪しまれるという知識はあるんだ。杖を前に置いているのは、自分と相手の間に壁を置きたがっている仕草で、(やま)しいと思っている左証だ」

 

 眉が僅かに動く。忌々しいとでも言いたげな表情だが、なまじ反論すればぼろが出ると危惧してか何も発しはしなかった。

 

 ただせめてもの反抗か、カプセルからは手を離した。俺が言うような心情ではないと宣言するかのようだった。

 

 俺は続ける。

 

「フェイトが喋ると、そのたびに突き放すように鋭い言葉を浴びせているのは、自分とは密接な関係がないということを俺たちに示したいんだろう。目を背けるのは、嘘でもそんなことを言いたくないからだ。顔を見たら胸で(つか)えてしまうから、目線を外すしかなかった」

 

「……偏った解釈だわ。君の個人的な見解でしょう。皆が皆、善人とは限らないのよ」

 

「左手、痛くない?」

 

「っ……」

 

 カプセルから離したプレシアさんの左手は強く握り締められていた。俺との会話に集中するあまり、そちらへの意識が散漫になってしまったのだろう。

 

 苦虫を噛み潰したような苦々しい顔で俺を()めつける。

 

 尻込みしそうになるが、足に力を込めて退かずに相対する。

 

「身体や声がふらつく一方で一貫している……し過ぎている部分がある。あなたの意志だ。(かたく)ななまでに毅然としていて、そこだけは小揺るぎもしなかった。自分で気づいてはいないだろうけど、プレシアさんさ、喋らない時は固く口を閉じて、時間が長くなると下唇を噛んでるんだよ」

 

 左手が少し持ち上げられ、途中で止まる。

 

 口元を隠せば俺の言葉を認めることになる。そう思って腕を止めたのだろうが、動かした時点でもう遅い。

 

「手は握り込んで、唇を噛み締めている……気を張っている証拠だ。バレてはいけない、隠さないと。そう思えば思うほど人間にはどうしても力が入る。隠せるとしたら、そいつは相当悪巧みに精通している人間くらいだろうさ。あなたはそういう人間ではないみたいだね。そうまでなるほど、そこまで思い詰めるほどの覚悟にあなたは身を置いている。考えられる答えは一つしかないよ」

 

 話し始めと現在とで、プレシアさんの表情は大きく変わってしまっている。知ったような口を利く若造への不快感から、それ以上喋るなというような焦燥の色へと。

 

「やめなさい、黙りなさい……」

 

「もういいだろう。あなたに嘘はつけない」

 

「もう……やめて」

 

 こうべを垂れ、目を伏せる。肩を落とす。蝙蝠(こうもり)の翼を彷彿とさせる杖の先端は床に接していた。

 

「あなたは、フェイトを愛しているんだ。愛しているからこそ、こうまで偽るんだ。愛する娘を守りたい、その一心で」

 

 目線を俺ではなく床に向けたまま、プレシアさんは開口する。

 

「知ったふうな口をきかないで貰えるかしら……なんの関係もない部外者が……っ」

 

「たしかに徹は部外者ですが、内情は知っていますよ」

 

 プレシアさんに、リニスさんが答えた。驚いて声がした方を見れば、いつの間にかリニスさんが俺の左隣に並んでいた。

 

 リニスさんの声に反応してプレシアさんもばっと勢いよく顔を上げる。驚愕に目を見開いて、一つため息をついて腑に落ちたように瞼を閉じた。

 

「リニス……あなたが?」

 

「いいえ、ほぼ彼自身で。管理局への妨害行為やフェイトへの攻撃などから」

 

「そう……」

 

 何を、という主語が欠けているがそこはやはり長年連れ添った主従故か、一切の滞りなく会話は流れる。

 

「そして徹との賭けに負けたので、プレシアには悪いですが証言することになりまして

……リニス、わざと負けたりしなかったでしょうね」

 

「しませんよ、真剣勝負だったんですから」

 

「つい最近魔法を知ったばかりの魔導師にあなたが負けるとは思えないわ」

 

「イロイロあったんですよ、お互いに」

 

「なによ、イロイロって。いやらしいわね」

 

「いいい、いやらしいことはにゃに一つしてませんよ? 本当ですよ?」

 

「落ち着きなさい、怪しすぎるわよ」

 

 プレシアさんは穏やかな笑みまで湛えて、リニスさんを(たしな)める。その変貌ぶりは憑き物が落ちたかのようだった。

 

 視線をリニスさんから隣の俺にずらす。

 

「徹君、もう知っているとは思うけど一応改めて自己紹介するわ。私はプレシア・テスタロッサ。リニスを使役している魔導師で、この時の庭園の主で、アリシアと……フェイト(・・・・)の母親よ」

 

 俺の右隣、フェイトの顔をしっかりと見て、プレシアさんは『フェイトの母親』と明言した。

 

 プレシアさんの唇がいくつか形を作る。文字数として六文字。読唇術の心得があるわけではないので自信はないが、『ごめんなさい』と動いたように見えたのは俺の見間違いではないだろう。

 

 俺の服を掴んだままだったフェイトは俯いて肩を揺らす。フェイトは声を押し殺すように泣いていた。

 

 俺は屈んで目線をフェイトに合わせた。

 

「信じ続けてよかったな。やっぱりフェイトは正しかったんだ」

 

「とおっ……ありがとっ……っ。ありがとぉ……」

 

 左手は未だに俺の袖を握って離していないので、フェイトは右手で頬に流れる涙を拭う。だが、いくら拭っても瞳から溢れる雫は止まらない。

 

 フェイトの涙は悲しいからではなく、嬉しさからの涙ではあるが、やはり小さな子が泣いているところを見るのは嬉しいからといっても少し心が痛む。

 

 俺は左手を伸ばす。

 

「ほらフェイト、もう泣くなよ。せっかくの美人さんが台なしだぞ」

 

 頬に手を添えて親指で払いながら冗談めかしてそう言うと、わりと強めに抱きついてきた。泣き顔を見られるのは恥ずかしいけれど涙は止まらないから抱きついて見られないようにしよう、という考えだろうか。それは泣き顔を見られるのと同じくらい恥ずかしい気もするのだけれど。

 

 姿勢を下げていたのでフェイトの頭は俺の肩辺りに来ている。ふわりと舞った金の御髪が顔に当たった時に、謎の電流がぞくりと背中を駆け抜けた。脳内をどろどろに溶かすようなこの甘い香りが原因なのか、それともフェイトが俺に魔力でも当てたのか。前者の可能性が高すぎて悲しくなる。

 

 涙で湿った感触と一緒にどこかくぐもった声が飛んできた。

 

「徹だって……人のこと言えないよ。引きずり回されたみたいなぼろぼろの格好してるのに」

 

「ほっといてくれ。俺だっていやなんだよ」

 

「フェイトがこんなに懐くなんて。本当に仲が良いのね」

 

 俺とフェイトのやり取りを眺めていたプレシアさんがぽそりと口にした。杖を手放しているところからすると、自分に抱きついて欲しかったようだ。割って入ってごめんなさい。

 

 そういえばプレシアさんに自己紹介してもらっておいて、俺は返していなかった。こんな無礼はない、と慌てて立って名乗ろうとしたが、フェイトがひっしと抱きついたまま離れてくれない。

 

 仕方がないのでフェイトはそのままやりたいようにさせておき、プレシアさんの方を向く。

 

「名乗るのが遅れました。逢坂徹と言います。えっと……自称なのはの兄貴分で、他称ユーノの兄貴分で、フェイトたちとは……お友だち? です」

 

 プレシアさんのやり方を見習って自分の名前と身内の人間との関係を説明したのだが、なぜだろう、とても薄っぺらい。おそらく特筆すべきことではないからだ。

 

 そんな俺の自己紹介に、プレシアさんはくすりと笑った。二人の娘を持つプレシアさんは――こんな言い方をすればしこたま(はた)かれそうだが――そこそこの年齢はいってるはずなのに、笑顔はとても若々しく見えた。美魔女、というやつなのだろう。暗色を基調とした服と大胆な肌の露出という外見は、美魔女どころかまさしくイメージ通りの魔女であるが。

 

「徹君、あそこで立っている管理局の執務官にこっちに来るよう話を通してもらえるかしら」

 

「ん……わかった」

 

 もうプレシアさんは危ないことをしない、との旨を伝えてこちらに来てくれるようクロノに念話を繋げる。しばらくの沈黙の後、了解の思念が届いた。

 

 プレシアさんが武装解除、デバイスである杖を手放していたことが大きいようだ。もしやこれを見越してプレシアさんは警戒されにくいタイミングで杖を床に転がしていたのか。目論見を隠匿(いんとく)するような腹芸は苦手でも、やはり頭は回るようだ。本職は科学者なのだから賢いのは当然といえば当然だが。

 

 クロノが柱から小気味好い着地音を鳴らしながら下りた時、頭上の岩盤が爆ぜた。

 

 全員が仰ぎ見れば、桜色の閃光と瓦礫や噴煙の中から二つの人影が飛び出してくる。魔導炉の対処に回っていたなのはとユーノだ。

 

 リニスさんから、プレシアさんは時の庭園の下層にいるとの情報を聞いたので、なのはとユーノとは下層で合流しようという算段になった。その際、細かな道を念話だけで説明するのは至難なのでなのはには、とにかく下に潜ってくれ、とだけ伝えていた。しかしいくら俺の説明が足りず道がわからなかったとはいえ、砲撃でぶち抜いてくるとは思いもしなかった。

 

「徹お兄ちゃん! やっと会えたの!」

 

「なのは、良かった。場所わかったんだな」

 

 ふわり、と天使が羽を舞い散らしながら下界に降り立つかのように、桜吹雪と見紛う魔力粒子を纏いながらなのはが飛行魔法を器用に調節してすぐ近くに着地した。

 

 聖祥大附属小学校の制服に似た純白のバリアジャケットには、ところどころ破損はしているがひどい手傷などは見当たらない。大きな怪我はせず来れたようで一安心だ。

 

「あ……兄さん、お疲れ様です……」

 

「ユーノ、なんかお前随分くたびれた感じに……」

 

 なのはの後ろにいたユーノも続いてやってきた。

 

 砂埃や(すす)で顔や服は汚れているが、特に負傷箇所は見受けられない。となれば、肉体的に疲れたのではなく精神的に疲弊したということなのだろう。

 

 猪突猛進全力全開の一点突破でここまでやってきたなのはのフォローがよほど(こた)えたと見える。

 

 降り立ってすぐにユーノは膝に手をついて呼吸を整え、打って変わってなのはは疲れの色など一切見せず、てとてとと俺のところまで歩み寄る。

 

「わたしがんばったんだよ! 下で合流しようって言われてどこに行けばいいかわからなかったけど、なんとかここまで…………なにしてるの?」

 

 後光でも差しているのかと錯覚するほど眩い満面の笑顔で近づき、俺とフェイトを見て立ち止まった。後半の『…………なにしてるの』は地を這うかのように低く響いた。つぶらな瞳はすっ、と据わる。

 

 なのはの小さなおててに握られているレイハは、まるで『やっちまいましょう、マスター』みたいな歪んだ光を放っている。再び生きて会えたことによる喜びは一転、死への恐怖へと変わった。

 

「なのは……なのはっ」

 

 なのはの声がしたことでやっと気付いたのか、フェイトは俺から離れてなのはのもとまで駆け寄った。

 

「わわっ。ふぇ、フェイトちゃんどうしたの?」

 

「私の気持ち、通じたんだ……母さんにっ……。みんなの、おかげでっ……」

 

「ひゃあっ! ぷ、プレシアさんなの!」

 

 抱きついてきたフェイトの背をぽんぽんと撫でていたなのはは、ここでようやくプレシアさんを視界に捉えたようだ。ちょっとどころではなく反応が遅すぎるが、今は口を挟むべきでないことは俺にもわかる。(つぐ)んでおく。

 

「そんなこと、ないよ。フェイトちゃんががんばったからだもん。泣かないで、かわいいお顔に涙は似合わないの」

 

「なのは……徹と同じようなこと言うんだね」

 

「…………」

 

 フェイトとハグしたままのなのはは、フェイトの肩越しに俺をじとっと見る。

 

 いや、たしかに似たようなセリフは言ったがなのはほど男前な言い回しではなかったぞ。(なじ)るような視線を受ける(いわ)れはない。

 

「そういえばクロノはどこに……」

 

 フェイトのことはなのはに任せ、クロノを探す。クロノに焦点が合わさった時と重なるようになのは、ユーノが合流したので見失ってしまっていた。

 

 きょろきょろと見回せば、いた。みんなとは少し距離をとって、なにやら小声でプレシアさんと話をしている。

 

 重い足を引き摺って近づき、ようやく耳に届いた。

 

「……それなら、母さ……艦長の手も借りれば、なんとか……。しかし……」

 

「ええ、わかっているわ……。無理を聞いてくれてありがとう。あの子たちを……よろしくお願いするわね」

 

「だ、だが……ちょっと待ってくれないか? 僕の一存では決められないが、艦長から意見を仰げば……まだ、なにか……」

 

「今でも相当無理を通しているのでしょう。これ以上は君達の立場も危うくなるわ。ここまで聞いてくれただけでも充分よ」

 

「……全力を尽くす。すまない……」

 

 聞こえてきた会話は、不穏な気配に満ちていた。暗い表情で、重いトーンで、二人の周囲だけ空気が張り詰めていた。

 

「お、おい……クロノ、なんの話をしてるんだ? 早く帰ろうぜ。ジュエルシードは今も暴走してるし手がつけられないからそれは諦めて、早くアースラに……」

 

「徹……それはできないんだ」

 

 沈痛そのものといった面持ちで、クロノは言った。

 

 できない、できないとはなんだ。

 

 フェイトとプレシアさんは、まだお互い気まずいところはあるだろうが大筋和解できた。一時暴走したがリニスさんも今は通常運転に戻っている。アリシアを取り戻すのは、時間はかかるだろうが一応頭の中では考えがある。

 

 なにももう問題はないはずなのに、なぜ、できないんだ。

 

 俺の表情がそう語っていたのだろう。クロノは俺を一瞥して目を伏せ、説明する。

 

「彼女たちには時空管理法違反に加えて、管理局艦船への攻撃の疑い、ロストロギアの不正使用の容疑が掛けられている。フェイトとその使い魔アルフは道具として使われていたと判断して、弁護に等しい釈明はできる。だが……プレシアに関しては弁明のしようがないんだ。フェイトたちを守ろうとすれば、その責任はプレシアに押しつけることになる。このままアースラに戻っても艦内に入った瞬間拘束、拘留だ。本部での裁判では実刑判決は免れない。おそらく百年単位の幽閉となるだろう。彼女たちの別れは……時間の問題だ」

 

「待て……待ってくれ。言い(つくろ)うことはできるだろ。管理外世界での魔法行使は、危険な代物であるロストロギアを善意で回収しようとした……とか。俺たちとの戦闘は、互いにジュエルシードを悪用する人間だと誤解していたとかって……」

 

「相変わらず舌が回る……。ジュエルシードの悪用はどう説明する? 現在も暴走状態が悪化しているジュエルシードはどう申し開きするんだ?」

 

「封印が完璧じゃなかったんだ。一つのジュエルシードから魔力が漏れて封印処理が外れてしまえば、周りのジュエルシードとの相乗で力の解放が早まる。それで暴走状態にまで陥ったって言えばいい。二つ以上のジュエルシードが共鳴するような反応を示すのは、沖合で発見した九つのジュエルシードで確認が取れてる。アースラのデータに映像も残ってるだろう。プレシアさんたちが管理していたジュエルシードは利用しようとしたんじゃない、保管中に暴走してしまったんだ」

 

「強弁なようでいて筋は通っている……か。上手い言い逃れだ。だが、アースラへの攻撃はどう弁解する」

 

「っ……」

 

 管理局艦船への攻撃容疑。これだけは俺も対処に困っていた。手は回したが、それが効果を上げるかどうかは賭けに近い。

 

 そういった不安から、クロノの追及に対して言い淀んでしまう。

 

 クロノはしばし俺の返答を待ち、深いため息をついた。

 

「徹の言い分で他の罪状は通せるとしても、艦船への攻撃容疑は誤魔化せない。それ一つあれば、他の容疑についても疑惑は払拭できなくなる。かえって怪しまれるだけだ。母さ……艦長にもどうしようもない。守ろうとするのなら、フェイトと使い魔のアルフだけだ。欲張れば全員拘束される。仕方のない……ことなんだ」

 

「ちょっと、ちょっと待って、くれ……。ちょっとだけでいいから時間を」

 

「もういいわ、徹君。ありがとう」

 

 左肩に手が置かれた。俺の言葉は、プレシアさんに遮られた。

 

「私がいれば、フェイトやアルフにまで追及の手が及ぶ。厳しい取り調べを受ければ嘘をつけないあの子達では口を割ってしまうわ。だから、全ての罪を私に被せて、私が消えるのが一番良いのよ」

 

「それは違う、プレシアさん……。なにがあっても子どもに親は必要なんだよ……っ!」

 

「あの子達と、仲良くしてあげてくれると嬉しいわ。私はもう……近くにはいられないから。後のことはよろしく頼むわね」

 

「待って……待ってくれ! まだ……っ!」

 

 プレシアさんは俺に告げると、迷いのない足取りで歩き始める。方向は、岩でできた床の端。落ちれば魔法の使えない虚数空間、まさしく断崖絶壁。

 

「徹……怖い声。どうしたの?」

 

 俺が大声を出したことでみんなが集まり始めた。

 

 緊迫した雰囲気を感じ取ったフェイトが声を掛けてくる。

 

 フェイトの問いかけには、プレシアさんが答えた。

 

「フェイト……酷いことばかり言って、つらい思いばかりさせて本当にごめんなさい。これからたくさん苦労はあると思うけど……アルフと一緒に、強く生きなさい」

 

「え……か、母さん……?」

 

 プレシアさんは視線を横にずらし、橙色の髪を捉えると止まった。

 

「アルフも悪かったわね。酷いことをしたわ」

 

「や、やめなよ、そんな……お別れみたいなこと言うの……。あたしは全然気にしてないよ……」

 

「フェイトを支えてちょうだい。一人にするのは不安だから……」

 

「こ、これから……っ、またっ、一緒に暮らすんだからっ、そんなこと……っ」

 

 涙ぐんでいるアルフに、プレシアさんは微笑みかけた。

 

 最後に、リニスさんへと向けられた。

 

「リニス、悪いわね」

 

「プレシアが選んだのなら……私は構いませんよ。ただ、こんな最後は迎えたくありませんでしたが……」

 

 リニスさんはちらりと俺を見て、プレシアさんに答えた。

 

 その様子を眺めていたプレシアさんは目を瞑ってくすりと笑う。ちょっと待ちなさい、と一言呟き、右手を伸ばした。

 

 手の動きと連動するように、床に転がっていたプレシアさんの長い杖が持ち主の手元まで引き寄せられる。ぱしん、と乾いた音を鳴らして握られると、先端部をリニスさんに向けた。

 

「プレシア、これは……」

 

「暫くの間身体を保てる程度には魔力を送っておいたわ。誰かいい相手でも見つけて、使い魔の契約を書き換えることね。あなたの能力のままでは維持するだけでも魔力がかかりすぎるでしょうから、書き換える時には能力に制限を掛けて消費魔力量を減らしなさい。管理局の書庫を探れば使い魔の契約に関する書物も出てくるでしょう」

 

「プレシアっ、私はあなた以外には!」

 

「使い魔の罪は、主人の罪。リニス、あなたは契約によって無理矢理従わされたことにしなさい」

 

「プレシア!」

 

「リニス……私からの最後のお願い(命令)よ。幸せになりなさい(言うことを聞きなさい)

 

「この捻くれ者っ。わかりました、プレシア……」

 

 アリシアを頼むわね、と一言囁き、棘が幾つか伸びている杖の下端を地面に突き立てた。

 

 プレシアさんを中心として紫色の魔法陣が浮かび上がる。魔法陣が出現したということは魔法を使ったはずなのだが、特に現象は現れない。

 

 目では異常を発見できない。しかし肌で、途轍もない力が動いているのがわかる。ざわざわとした胸騒ぎが不安感を駆り立てる。

 

 胸元で強く震えるものがあった。エリーが空色の光をぴかぴかと瞬かせている。警報(アラート)を表現するかのように、エリーはひたすら強く警戒を示してきていた。

 

 エリーの警告と、治まらない胸騒ぎ。高温の物体が近くにあるような、じりじりとした魔力の圧迫感。アンサンブルでエリーと一つになっていた時に感じた、ジュエルシード(・・・・・・・)の感覚。

 

「すぐにここから逃げなさい。じきに崩れるわ」

 

 どのような術式か定かではないが、さっきのプレシアさんの行為はジュエルシードの暴走を進めるものだったのか。

 

 アリシアのカプセルの、さらに上あたりにジュエルシードはあった。十と三つのジュエルシードがぐるぐると回りながら青白い閃光を迸らせている。

 

 遠雷のように、どこかで爆発音がした。ぐらぐらと、時の庭園自体が揺れる。

 

 俺たちがいる下層も危うい。床には至る所で亀裂が生じ、いつ崩れるかわからない。

 

 この床、削り出された岩盤のような床が崩れれば、その下には何もない。虚数空間が広がるのみ。岩の破片や瓦礫が落下する様子から重力はあるようだ。ならば、重力に従ってどこまで続いているかもわからない奈落へと自由落下することになるのだろう。それは、死とイコールだ。

 

 早くこの場を離れないといけないのに、しかしプレシアさんを置いていくなどできない。ここで彼女に全ての罪をなすりつけて見捨ててしまっては、頑張ってきた意味がない。

 

 揺れる足場で懸命に踏み止まりながら、プレシアさんを見る。彼女は、笑っていた。

 

 これでいい、これが最善だ。そう言うかのように、悲しげに微笑んでいた。

 

 プレシアさんの周りの岩盤から、ぴしっ、と音がした。同時に|裂罅《れっかが走る。

 

「こんなことなら、早くに諦めておくべきだったのかも……しれないわね。今さらそんなことを考えても……もう遅いけど……」

 

 亀裂は恐ろしい速さで伸びて、彼女の周囲をぐるりと回る。ばきぃっ、と一際大きく、岩が砕ける音がした。

 

 プレシアさんはアリシアのカプセルを自分から遠ざける。ホバークラフトに似た技術でも利用しているのか、床から浮き上がっているカプセルは滑るように移動し、アルフの手元で停止した。

 

「フェイト、リニス、アルフ……どうか元気でね……」

 

 プレシアさんの足元付近の岩盤が一気に崩落する。徐々に彼女の身体が沈んでいく。

 

 俺たちに向けられていたプレシアさんの表情は、最後まで笑顔だった。

 

 そして。

 

 彼女は、魔法が一切使えない暗い空間へと、沈んだ。



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子故の闇

「母、さん……っ! 母さんっ!」

 

「ダメだ、フェイト!もうっ……」

 

 崩れた岩盤の縁に駆け寄り、フェイトは落ちていった母親へ手を伸ばす。身を乗り出して自分まで落ちてしまいそうなほどに、手を伸ばす。

 

 そんなフェイトの危うさを見かねて、アルフが肩を掴んで引き戻した。フェイトを説得しようと試みるアルフも、先程の光景を受け入れることはできないのだろう。声を震わせ手を震わせ、目には涙を湛えていた。

 

 ()く言う俺も、冷静ではいられなかった。衝動的に、言葉が口をついて出る。

 

「それはないだろ……プレシアさん……。娘の目の前で投身(それ)はないだろうが……ッ!」

 

 ぐらぐらと揺れ続ける床を蹴り、駆け出した。

 

 全身に(わだかま)る気怠さや疲労感など、激情が塗り潰した。

 

 皆が呆然とする中、抜け出した俺についてくる影がある。小さなオーカの頭。ユーノだ。

 

 ユーノは出だしで一歩遅れたが、そこは体力が落ちた俺。すぐにユーノは俺の隣に並んだ。

 

「ダメですよ、兄さん! 虚数空間に落ちた以上、助ける術はありません! これ以上は被害が増えるだけです!」

 

「ああッ! 助ける術なんかない! 魔導師にはなッ! ……ユーノ」

 

「は、はいっ!」

 

「任せたぞ」

 

「ちょっ、兄さんっ!」

 

 俺はユーノに丸投げし、さらに駆ける。ユーノは戸惑って足を止めた。

 

 目の前に金色と橙色が近づく。ぽんこつの足に力を込め、その手前で踏み切る。

 

「ちょっと待ってろ、すぐに連れて帰ってくる」

 

「ダメだよ、徹! ここからは魔法は使えないんだ!」

 

 跳躍しながら、岩盤の縁で座り込むフェイトに声をかける。落ち行く俺の目に、フェイトは目線を合わせた。

 

「お願い……母さんを、たすけてっ……」

 

「すぐに連れ戻してやる。安全なところで待っててくれ」

 

 フェイトに約束を交わし、俺は虚数空間へと飛び込んだ。

 

 プレシアさんから離れた位置にいた為、動き出すのに時間を食った。思った以上にプレシアさんは深く落ちている。自然落下では間に合わない。

 

「使えるものは……あった」

 

 崩れ落ちた岩盤を蹴り、さらに落下の速度を増す。落下中は空気の抵抗を出来る限り減らし、プレシアさんに追いつく為に試行錯誤した。

 

 プレシアさんは背中を下にしている。丈が長いマントは空気を受け止めやすく、落下スピードがまだ緩やかになっていた。そのおかげで、間に合った。

 

「プレシアさんっ……手を伸ばして……っ!」

 

「どうして!?」

 

 それは、どうしてここまで来てるのか、という問い掛けなのだろうか。それならば答えは、あなたを連れて帰る為、なのだが、そんな暇は零コンマ一秒もありはしない。

 

「いいからっ……手を出せッ!」

 

「っ!? あ、う……っ!」

 

 猶予がないことで声を荒げてしまった。

 

 プレシアさんは、びくん、と肩を跳ね上げて言われるがままに右手を伸ばした。俺は突き出された右手をしっかと握り締める。

 

 その直後、腹部へ衝撃が走った。

 

「うっぶ……ぐふっ。腰椎(ようつい)引っこ抜かれるかと……うっぷ、思った……」

 

 五臓六腑が口から飛び出るかと思ったほどの痛みと気持ち悪さだったが、なんとか耐えた。プレシアさんの右手も掴んだままだ。

 

 プレシアさんの手から離れた杖は、ゆっくりと回転しながら岩などと共にどこまでも落ちて行く。それらがなにかとぶつかるような音も聞こえてはこない。彼女の杖と砕けた岩盤はこれから悠久の時間、自由落下を楽しむことになるのだろう。プレシアさんの手を掴むのがあと少しでも遅れていたら、と考えると背筋が凍る思いだ。

 

「君はなぜここまで来たの?! それよりなんでこの空間で浮かんで……」

 

「なんでって、プレシアさんを行かせるわけにはいかなかったから……だけど。まずは上まで戻ろう。話はそこからだ」

 

「話を……聞いていなかったのかしら。私が残っていても、良い事なんて何もないのよ。それどころか状況は悪化しかしないわ。手を放しなさい」

 

 プレシアさんは腕こそこちらに伸ばしているが、しかし俺の手を握ろうとはしない。彼女の身体を支えているのは俺の右手の握力のみ。

 

 平常時なら片手だけでも女性一人くらい引っ張り上げることは余裕でできる。

 

 だが、今のコンディションは万全からかけ離れたものだ。体力も愕然とするほど落ちている。

 

 そして、この虚数空間による影響。魔力は体内を循環しているが、体表面に身体強化等の魔法を展開しようとしても全く発動する気配がない。魔法が使えなくなるという意味を実感する。

 

 体力は低下しているのに、魔法のバックアップはない。そう長くは掴んでいられそうにない。

 

「バカなこと言ってないで……早く俺の腕掴んでくれない?もうそろそろ限界、なんだけど……っ」

 

「ならもう放しなさい。私は決断するのが遅すぎた。もう手遅れよ」

 

「手遅れ……? 手遅れなんてことはないよ。全然遅くなんて、ない。プレシアさんはまだ生きてるし、リニスさんも、フェイトも、アルフも、みんな生きてる。ここからまたやり直せばいいだけだ。ここまで頑張ってきたのに、こんなところで終わって良いわけがないんだ……っ」

 

 手が滑る。力一杯握っているつもりでも、徐々にプレシアさんを支えられなくなっている。

 

 小指が彼女の手から離れた。

 

「何もかも手に入れようとするのは……傲慢(ごうまん)と言うのよ。アリシアとフェイト……どちらも守ろうとして、私はどちらも失った。それならせめて、あの子達の為に……」

 

「だから一人で大罪を背負って黄泉の国へ参らん、とでも言うのか? はっ……冗談だろ。それは決意や覚悟とは違う。ましてや親心なんかじゃもっとない。ただの自己満足だっ……。残されたフェイトはどんな気持ちになると思ってやがる……っ、目の前で母親が死んだ子どもの気持ちを考えろッ!」

 

 全力を振り絞っても力が緩んでいく。薬指も外れた。

 

 瞼を固く閉じて手のひらに神経を集中させる。

 

 プレシアさんの信念を(ひるがえ)させるために説得しなければいけないのに、他のことなんて何も考えられない。プレシアさんへの返答もこれで正しいかと考える余裕すらなく、思ったことが口を()く。

 

「今日まで途方もない時間を使って、想像を絶する努力をして、骨身を削って追い求めて、悲しみの底にありながらも幸せな未来を夢見たんだろう。常人では及びもつかないほど精魂を傾けて、苦しみながらも希望に(すが)って、甚大な労力を払って願いを叶えようとしたんだろう……ならこんな中途半端なところで諦めるなッ」

 

「アリシア一人を取り戻す為にクローン技術まで持ち出した。違う世界の人たちを犠牲にしてでもアリシアを救おうとした。私のやろうとしたことは人道に(もと)る行為よ。申し開きなんてできないわ」

 

「俺は……プレシアさんたちの世界の法律には詳しくない。それがどの程度、法に触れるものなのかはわからないけど……それでも確かに、あなたのやろうとしたことは倫理や道徳に反するんだろう。でも、あなたの気持ちはわかるよ……。もう一度、大切な人の笑顔を見たい。その気持ちは痛いほど……わかる。どれだけの人があなたを非難しても、どれだけの人があなたを否定しても……俺はあなたに、賛同するよ」

 

 その時初めて、プレシアさんの顔つきが変わった。きつく閉じられていた唇が、おそらく驚愕でわずかに開く。

 

 それほど驚くようなことではないだろう。きっと、誰だって同じなのだから。

 

 死んだ人間はもとには戻らない。両親を亡くした時、俺にはなにもできることがなかったから、取れる手段がなかったから、踏ん切りをつけることができた。もちろん忘れることなどできはしないし、してはいけないのだけれど、過去を振り返ることはやめられた。

 

 だがプレシアさんのように『もしかしたら』という可能性が、死者蘇生の秘術が存在するかもしれないという一縷の望みが目の前に垂れ下がってきていたら、きっと俺だって同じことをした。なにを捨ててでも、どれほど多くのものを犠牲にしてでも、残酷な運命から取り返そうとしただろう。

 

 プレシアさんの行いはたしかにいけないことではあったが、それでも俺には彼女を糾弾することはできなかった。

 

 子故の闇、だ。今でも我が子を愛しているから、前よりずっと愛しているから、手段なんて選んでいられなかった。

 

 願いは、ただ一つ。愚直にひたむきに、実直にひたすらに、たった一つの願いだけを追い求めただけなのだ。

 

「プレシアさんも……いっぱい考えたんだよな……。悩んだ末の解答で、模索した上での方法で、苦心した結果の行動だったんだろ……」

 

 大切な人を失ったプレシアさんの気持ちがわかるから、俺は彼女の行為を否定できない。

 

 でも――

 

「でも、それは……ダメなんだ」

 

 プレシアさんには痛いほど共感できる。でも、俺も親を亡くしたから、フェイトがこれから抱くであろう気持ちもわかってしまう。

 

 胸に大きな穴があいてしまったような、途轍もない喪失感。悲しいなどという言葉では言い表せない感情が心を埋め尽くすのだ。

 

 そんな気持ちを、フェイトに与えてはいけないだろう。

 

「我が子を想い、我が子を愛し、我が子の将来を考えての行動なんだろうけど……でもそれは間違ってるんだ。フェイトのことを、アリシアのことを想っているのなら、あなたは生きてなきゃいけない……ッ」

 

 右腕はじんじんと痛みを増して、とても熱い。それでも手は離さなかった。

 

 歯を食い縛って痛みに耐える。呼吸が荒くなり、腕だけでなく全身まで熱を持ち始めた。

 

 熱い瞼を開いて、プレシアさんを見やる。呆然と、彼女はまっすぐに俺を双眸(そうぼう)を射抜く。

 

「プレシアさんは言ったよな……私が残っていても、良い事なんて何もないとかなんとか。笑わせてくれるよ……子どもにとっては、親は側に居てくれるだけでいいんだよ……。たった……それだけで、いいんだ。子どもには……親の愛が必要なんだよ……」

 

 雫が一つ(したた)って、プレシアさんの頬に落ちた。

 

「俺もがんばるからっ、プレシアさんももう少しだけがんばってくれないか……。どうにかするから、絶対になんとかするからっ!」

 

「君は……なぜ、そこまで……」

 

「あなたの、幸せになるために築き上げた努力は決して無駄にはしない! 俺がさせない!」

 

 クレバーな(たくら)みなど、一切頭になかった。ただ思うがまま、心の底から溢れてくる熱い感情の(おもむ)くがままに叫んだ。

 

 話の内容は支離滅裂だし、全く論理的ではない。方法も提示できないのに、ただ信じろなど虫が良すぎるのもわかっている。

 

 だが、今の俺にはそれくらいしかできなかった。

 

「っ……くっ、もう……」

 

 右手前腕(肘から先)の筋肉を酷使し続けたことで、痙攣まで起こり始めた。もう指に力が入らない。

 

 手が離れる、その寸前。右手首に圧迫感を感じた。

 

「約束、してくれるかしら……」

 

 プレシアさんが左腕を伸ばして、俺の手首を力強く掴んでいた。

 

「あの子達だけは絶対に守ると……約束してくれるかしら」

 

「約束するよ……フェイトたちだけじゃなくて、プレシアさんのことも」

 

 体勢を安定させるためプレシアさんを引き上げる。

 

 彼女自身がしっかりと手を掴んでくれているので少しくらいなら揺れても大丈夫だと判断し、勢いをつけて引っ張り上げた。肘から先はもう力が入らないので、多少強引ではあるが上腕と肩、あとは背筋で力尽くに。

 

 右腕を後ろに引き絞り、プレシアさんの身体が浮いたところを左腕で拾う。腰のあたりに手を回して抱きかかえた。

 

「んっ……」

 

「あ、ごめんなさい。俺、汗かいててちょっと気持ち悪いかも……」

 

「ち、違うわ。そういうことではないのよ。ただ……リニスにあまり強く言えないな、と思っただけよ……」

 

「なんでここでリニスさん?」

 

「な、なんでもないわ」

 

 俺はプレシアさんを落っことさないように左腕に力を込めて抱き寄せて、プレシアさんは落ちないように俺の背中に手を回している。ぴったりとくっついているため彼女の顔色は(うかが)えなかった。

 

「そろそろ引き上げてもらおうか。あんまりこんな場所に長居したくないし……」

 

 プレシアさんの肩越しに真下を覗けば、どこまでも続く異次元の世界。気が(たか)ぶっていたとはいえ、よくも躊躇いなく飛び込んだものである。冷静になると肝が冷える思いだ。

 

「結局聞けなかったのだけど、君はどうやってこの空間で落ちずに……」

 

「っ!」

 

 プレシアさんの、女性にしては低めの落ち着いた声が俺の耳をなぶる。背筋に電気が走ったように身体がびくんっ、としてしまった。

 

「ど、どうしたの?」

 

「なんでも、なんでもないです……」

 

 俺の不審な動きに、プレシアさんはおずおずと尋ねてきた。間違っても本当のことは言えなかったので誤魔化す他になかった。

 

「そ、それで本題はなんだっけ?」

 

「えっと……だから、なぜ君が落ちずにいられるのかと……なにかしら、この紐……」

 

 プレシアさんが俺の腰の後ろ側から伸びているロープにとうとう気づいた。俺は指を差しながら解説する。

 

「これは高所作業用の安全帯。入り用になるかもと思って一応持ってきておいたんだ。長いのを。まさか本当に使うことになるとはね」

 

「この幅の広い紐でいったい何をするのかしら……」

 

「これでなにかをするってわけじゃなくて、高い所で作業するのは危ないから安全確保のために身につけるんだ」

 

「……魔法を使えばいいのに」

 

「…………魔法を使えないからこんなことしてるんです」

 

 安全帯をくいくい、と引っ張ると俺の意図が伝わったのか、ゆっくり巻き取られていく。ユーノ一人ではかなり大変だと思うが、近くにはアルフもいたし引っ張り上げることについては問題ないだろう。

 

 随分深く落ちてしまったので、みんなの場所まで戻るのはそこそこ時間がかかった。

 

 観覧車並みの速度でじわじわと上がって、ようやく岩盤に手が届くところまで来る。先にプレシアさんを登らせ、次いで俺が手をかける。もはや右手の握力は女子小学生レベルにまで疲弊していたので相当な苦労をしたが、引き上げてくれる力も借りてなんとか登ることができた。

 

「さあ……逢坂徹。君の言い分を聞かせてもらおうか」

 

 虚数空間から抜け出して早々にお目見えしたのは、額に青筋を立てて仁王立ちするクロノ少年だった。

 

 ちらりとその後方に目を向けると、疲労困憊が目に見えるユーノと、安心やら喜びやら勝手なことをした怒りやら、様々な感情が渾然一体となった表情をしているなのはがいた。

 

 目線を横にスライドさせると、プレシアさんに抱きついているフェイト、プレシアさんとフェイトの肩を抱いているアルフ、一歩離れた位置で涙ぐんでいるリニスさんがいる。どうやら向こうの心配はしなくて良さそうだ。

 

 それよりも俺は自分の身の心配をしたほうがいい。今日この日に至るまでに見たことがないくらい冷たい目をしたクロノが、俺をすぐ近くで見下ろしているのだから。

 

「……た、高飛び込みのフォームを確認したかったんだ」

 

「それで認められると思っているのか?」

 

「そもそも徹お兄ちゃん泳げないの」

 

 とにかく何か言うべきだと思って口走ってみたが、想像以上に気の利いた言い訳は出てこなかった。なのはに不備まで指摘された。

 

 咄嗟に言い訳を用意しようしたらこんなものである。

 

「どれほど危険なことをしたかわかっているのか?! 普通の魔導師であれば虚数空間に踏み入ったが最後、重力の底まで真っ逆さまだ!」

 

「あの状況でプレシアさんを助けようとしたら、あれしかなかったんだ。こんなこともあろうかと安全帯を持って来てたし」

 

「本当に持ってきていたんですね兄さんっ!? 冗談だとばかり思ってましたよ、僕は!」

 

 乱れた呼吸を整えていたユーノが若干肩を怒らしながら駆け寄ってきた。

 

 クロノには知らせていなかったから仕方がないが、なぜユーノまで怒るのだろうか。ユーノには前もって知らせていたというのに。それこそ、時の庭園に突入する前から。

 

「ユーノが言ったんだろ。使う時は声をかけてくださいね、って。だから声をかけて、しかも任せるとまで言ったのに。怒られる(いわ)れはないな」

 

「本気で持ってきているなんて想定してなかったんですよぉっ!」

 

「はぁ……もういい。この件についての説教はまた今度だ。今はここから退避することが先決だ。……エイミィ、脱出ルートを……」

 

 俺とユーノの口論を見て頭が冷えたのか、クロノは対処に困るみたいな顔をして頭を振り、話を変えた。

 

 俺たちから視線を外し、アースラの管制室に連絡を取る。

 

 プレシアさんを連れ戻すことはできたが、依然ジュエルシードは暴走したままなのだ。

 

 こんな危ない場所からは早く逃げ出すべきである。足場となる岩盤も崩れ始めているし、遠くから爆発も轟いている。

 

「身体……重っ」

 

 時の庭園を出るにあたって、プレシアさんに確認しておかなければならないことがあった。

 

 俺は立ち上がり、心配させてしまっていたなのはとユーノ二人の頭を撫でると、テスタロッサ家の人たちへと足を向ける。久しぶりの家族団欒に水を差すのは大変心苦しかったが、申し訳ないとは思いつつも割って入った。

 

「プレシアさん、聞きたいことが……」

 

「徹っ……ありがとうっ」

 

「おわっ、フェイト? どうした?」

 

 プレシアさんに声をかけたつもりだったが、いち早く反応したのはフェイトだった。俺の服を掴む。

 

「私のお願いを叶えてくれた。母さんを助けてっていう無茶なお願いを……」

 

「ああ、その約束か。それなら感謝はまだするべきじゃないぞ」

 

「え、どうして……?」

 

「お願いはプレシアさんを助けることだ。罪を減じさせて、また家族みんなで暮らせるようになってそれで初めて助けたことになる。感謝の言葉はもうちょっと先だな」

 

「徹、やっぱり性格ひねくれてるね」

 

「うるさい」

 

「でもそういう真面目なところ、私は好きだよ」

 

「っ! ……あはは、ありがとう。俺もフェイトが好きだよ」

 

「えへへ」

 

 照れたように身をよじるフェイトはとても可愛かった。ずっと愛でていたいが、それはまたの機会にしよう。

 

 すぐにでも脱出を始めるからクロノの近くにいるように、とフェイトに指示を出し、移動するように言う。フェイトは素直に頷き、クロノの近く、にいたなのはのもとまで走っていった。

 

 フェイトの隣にいたアルフにも二三声をかけようとしたが、ふいと目を背けられ、フェイトの後を追って行ってしまった。

 

 アルフのおかしな挙動に戸惑いつつも、プレシアさんに向き直る。

 

「これからアースラに向かうことになるんだけど、アリシアのカプセルってすぐに動かせるの?」

 

「ええ、すぐにでも出来るわ」

 

「庭園の上層にある研究室からこんなところにまで運べるのですから」

 

 問いかけると、プレシアさんは膝についた砂をぱたぱたと払って答えた。

 

 リニスさんが注釈をつけ加えてくれたのはいいのだが、文章の最後に『当然でしょう?』というような文字が隠されている気がする。小馬鹿にされた気分である。

 

「すぐに移動できるのならそれに越したことはないな。揺れも激しくなってきてるし、かなり不安定だ。ジュエルシードが本格的に暴れ出す前に脱出しよう」

 

「それには賛成なのだけど……徹君はアリシアを救う手立てを持っているのかしら。ジュエルシードを使ってもまだ……足りなかったわ。君は他に方法を知っているの?」

 

「その前にプレシアさん、大事なことだからあえて訊くんだけど……魔力駆動炉の暴走事故、あれについてどれくらい調べた? 特に、被害者についてなんだけど」

 

「っ……」

 

 プレシアさんの表情が苦渋に染まる。

 

 当たり前だ。その事故のせいで、研究者として腕があるにも拘わらず悪評が広まってしまったために地方の研究所に半ば追いやられることとなり、なによりも、アリシアが目覚めることのない眠りについたのだから。

 

「徹、それをプレシアに訊くというのは」

 

 隣に並ぶリニスさんの目つきが鋭くなる。主人の心中を察してのことだろう。向けられている感情が敵意ではなくても、その眼光はとても怖い。

 

「いいのよ、リニス。徹君にとってその件は、訊いておかないといけない大切なことなんでしょう」

 

 俺に言い募ろうとしたリニスさんを、プレシアさんは片手を伸ばして制した。

 

「あの事故でアリシアを失ってしまったから、私にとってはあまり触れたくないことだったわ。だから……他の被害者、その遺族の方々には申し訳ないけど詳しくは調べていないのよ。後になって事故の報告書も私に回ってきたけど、冒頭から事実を捻じ曲げて記述されていたから目も通していないわ」

 

「そうか……うん、わかった。悪いんだけど、あと一つだけ。プレシアさんたちは事故現場から一番近くにいたのになんで被害に遭わなかったんだ?」

 

「……駆動炉のオーバーロードにはすぐに気がついたのよ。でも、どうやっても、なにをしても……暴走は止められなかったわ。近くにいるのは危険だけど、離れるだけの時間的猶予はないと判断して結界を張ったのよ。駆動炉が放つ高密度の魔力に当てられたら命に関わるから、それを防ぐ為に。施設の人間を集められるだけ集めて、ね。その前に付近へ報せていれば、被害者数はもっと少なかったかもしれないわ……」

 

「当時のことなんて思い出すだけでも苦痛だろうに、教えてくれてありがとう」

 

 プレシアさんの解答で、確証を持てた。彼女の、アリシアを助ける為の研究はアプローチがずれていたのだ。

 

 事故の報告書を読んでいたら、被害の規模を調べていたら、もしかしたら違う結末を辿っていたのかもしれない。その場合も技術的な難関はあるが、研究者たるプレシアさんが心血を注げば年月はかかるにしてもどうにかできていた可能性がある。

 

 いや、過ぎてしまった事に対して、ああしていれば良かった、などと振り返るのは時間の無駄か。問題はこれからをどうするかなのだ。

 

 アリシアを救い出す算段はついている。ならば俺はその方法論をプレシアさんに呈示し、その手助けに全力を尽くすのみだ。

 

「徹、答えてもらえませんか? 結局どういった意図があってあんな質問を?」

 

「アリシアを助けるためだよ。どうにかなりそうだ」

 

「そ、それは本当なのかしら……徹君」

 

「本気で言ってるんですか、徹。いったいどうやって!」

 

 リニスさんが身を乗り出して俺に問い(ただ)す。今にも掴みかかりそうな勢いなので落ち着いてもらえるよう(なだ)めた。

 

「ちょ、ちょっと待って。話を始めると長くなるから、まずは安全な場所にまで退避してからゆっくり話そう。そりゃあ時間も掛かるし設備も整えなきゃいけないけど、理屈としてならいけるはずだ。大丈夫!」

 

 目を丸くしている二人に、はっきりと言い放つ。

 

「みんなで、アリシアを助けよう」

 

 俺の断言に相変わらず気抜けしているプレシアさんとは対照的に、リニスさんは口元を押さえてくすくすと笑いだした。

 

 リニスさんは、まだ驚いて放心状態のプレシアさんに寄り添う。そして微笑みながら言った。

 

「プレシア、わかりました? 徹はこういう人間なんですよ」

 

「正直なところ、まだ現実の事として認知出来ていないけど……徹君の人間性はよくわかったわ。こんな子が、フェイトやアルフの近くにいてくれて……本当に良かった」

 

 プレシアさんは固くなっていた表情を、ふわりと(ほころ)ばせた。

 

「ほら二人とも、早く行こう。上から瓦礫(がれき)がぽろぽろ落ちてきてる。いつ崩れるかわからない。早いとこ退避しよう」

 

「そうですね、行きましょう。プレシア、歩けますか?」

 

「大丈夫よ、それくらい。私は一人で歩けるわ。リニスはアリシアをお願い」

 

 プレシアさんともひとまずは話がついた。詳しい説明をするためにもまずはアースラに帰投しなければいけない。

 

 アースラに入ってしまえばプレシアさんとリニスさんは勿論、フェイトやアルフも恐らくは艦内の一室に拘束されるだろう。自由な行動は制限されることになるとは思うが、そこは艦長のリンディさんに話を通して融通してもらえるよう働きかけよう。

 

 アースラ帰艦後の予定を組み立てながらクロノたちが集まっている場所へ足を運ぶ。

 

 俺が先頭を歩き、その後方にプレシアさん。それより少し遅れてリニスさんがカプセルに手を添えてアリシアを移動させる。

 

 ちらちらと後ろを気にしていたせいか、それとも疲れで足が重かったせいか、床に刻まれた亀裂に足を取られて(つまず)きそうになった。

 

「徹君、大丈夫? 足場がだいぶ悪くなっているから気をつけなさい」

 

「は、はい……気をつけます……。アリシアのカプセルはこんなところ通れんの? ところどころ穴が空いてるし、岩とかも散乱してるけど」

 

「ほら、見なさい」

 

 プレシアさんが目で、後ろを見るように指示をする。それに従ってプレシアさんのさらに後ろ、リニスさんを見やれば事もなさげにカプセルを押しながら歩いていた。

 

 見られている事に気がついたリニスさんは『どうかしましたか?』とでも言うように小首を傾げる。

 

「アリシアのカプセルは浮いているもの。余程大きな岩とかでない限りは問題ないわよ」

 

「そうだった……。まあ安全なのはいい事だな。俺、あのカプセルが倒れて割れたりとかしたらどうしようって考えてたよ。中の液体も流れ出しちゃうし……そういえばあの液体ってなんなの? ホルマリン?」

 

「あの液体には人体を維持する成分が全て入っているのよ。無菌状態で常時循環させているわ。今はこうして独立させているから経時劣化はしてくるけど、すぐに悪くはならないわよ」

 

 カプセルの中に充填され、一糸纏わぬ金色の幼女、アリシアを包むオレンジ色の液体はなかなかに重要な役割を担っているようだ。簡単に捉えると点滴の上位互換みたいなものだろうか。

 

 じっとアリシアの顔を見てみる。

 

 やはりフェイトとよく似ているが、若干フェイトよりも幼い。小学一年生か、下手するとそれ以下にも思える。外見年齢はおおよそ五、六才といったところだろうか。事故当時から成長はしていないようだ。

 

「徹君は……そういった趣味があるの?」

 

「え、趣味? なんの話?」

 

 話し掛けられたのでプレシアさんへと首を回す。プレシアさんは言いづらそうに俺から目を逸らしていた。

 

「その……あまりにアリシアをじろじろと舐め回すように眺めるものだから、小さい子にしか欲じょ……いえ、興味が持てないのかと」

 

 身に覚えのないぶっ飛んだ誤解を受けていた。

 

「なっ?! ち、違う! 疚しいことはなにも考えてない!」

 

「さっきもフェイトに好きとか言ってたでしょう。頬を緩めながら。私を抱き上げた時はにこりともしていなかったから、てっきり幼い女の子にしか好意を抱けないのかと思ったのだけど……違うのかしら」

 

「とんだ思い違いをしてるよプレシアさん!」

 

「徹君がフェイトのボーイフレンドだと私もいろいろ安心できるわ」

 

「随分と歳の離れたボーイフレンドだ。その『ボーイフレンド』には男友達という意味以外のニュアンスがちら見えしてるよ……。だから違うってば。設備を整えて理論通りに助け出すとしても時間がかかるから、あのオレンジ色の液体をどうやって手に入れるかを考えてたんだ」

 

「それなら大丈夫よ。特殊な機材が必要なわけではないの。一般的な研究室レベルの設備があれば問題ないわ」

 

 プレシアさんの答えを聞いて一安心する。作るのが難しいのであれば、庭園自体が揺れるこの状況下においてでも彼女の研究室まで走って、予備のカプセルを探さなければいけないところだったが、どうやらその手間は省けたらしい。

 

 寄り道がいらないとわかったのなら、すぐさまここからはお暇させていただこう。

クロノはアースラのオペレーターに、彼の言から察するにはおそらく艦橋(ブリッジ)にいるエイミィに連絡を取り付け、脱出経路を調べてもらったのだろう。庭園の中枢に寄った位置で、クロノたちは集まっていた。

 

 転移魔法なる便利な魔法があるとはいえ、そうぽんぽん使えるものではない。たしか時の庭園の一箇所に出入り口になる扉を敷設(ふせつ)していた。先遣隊隊長を務めたレイジさん、その次に突入したクロノやなのは、ユーノ、アルフといった面子はその転移魔法の出入り口を通ってこちらに来ていたみたいだ。

 

 エイミィが示す経路というのは、その出入り口までの最短ルートを指すのだろう。

 

「作れるんならいいや。容疑を晴らしたらリンディさんやクロノの手も借りて研究室を工面してもらおう。今できることは、なによりもまずここを抜けることだ。急ごう」

 

 歩みを気持ち早める。

 

 庭園の揺れが大きくなってきているし、爆発音が聞こえる間隔も短くなっている。庭園の外縁部ではなく、中核の部分が崩れ落ちるのもそう遠くない。

 

 ここまでやって退避に遅れて瓦礫の下敷き、もしくは虚数空間にどこまでも流される、なんてお断りだ。

 

 早歩きから軽い走りくらいに移行し始めた時、視界に不純物が混じったような青白い色が入った。

 

 十と三つのジュエルシード。それらが相互作用で確実に魔力を高めていっている。

 

 ユーノの本来の目的は二十一あるジュエルシードすべての回収なので、本音を言えば暴走をいや進行させる十三個のジュエルシードも確保したかったが、とてもではないがそんな余力はない。致し方なしと諦めてジュエルシードの処理は、限界を超えた魔力圧による大爆発か、庭園の崩壊に任せよう。

 

 大規模な魔力爆発が起きればさしものジュエルシードといえど使い物にはならなくなるだろうし、虚数空間にでも落下すれば拾える人間はいない。期せずしてではあるが、処理をするにはうってつけだ。

 

「ん……早く、なった……?」

 

 視線を前方へと向ける間際、ぐるぐると同じ場所を回転するジュエルシードの速度が上がった。目を再度ジュエルシードに合わせて熟視すれば光りかたも変わっていて、胸を(ざわ)つかせる危うさを孕み始めていた。

 

 波が身体を打つように、肌に得体の知れない圧迫感を受ける。リニスさんと戦っていた時にも感じたプレッシャー。それと酷似していた。

 

 胸元でエリーがかたかたと震え、警戒を促すようなライトを照射する。居ても立ってもいられないとばかりにエリーは台座から浮き上がり、俺と目線と同じ高さで浮遊した。

 

「プレシアさん、リニスさん、急ごう! 相当危険に……っ」

 

 エリーがここまでの反応をするということは、ジュエルシードの暴走が予断を許さないステージにまで来てしまったということに他ならない。

 

 プレシアさんとリニスさんを急かすが、俺は遅きに失した。

 

 これまでとは違う、近くで鳴り響く爆発の大音声と、立っていられないほどの大揺れ。頭上からは直径の大きな岩も降ってくる。動きようがなく、足を止めざるを得なかった。

 

 降りしきる岩石の雨と立ち込める砂埃の向こう側では、クロノたちも似たような状況だった。

 

 ごごご、と空気を震わせる不吉な音と振動。頭上の岩盤には(ひび)が数多に入り、一つ一つの罅が繋がり、そして深い亀裂を刻んだ。

 

 一瞬の静寂を経て、がきぃっと音を立たせながら一際大きな岩が落下した。

 

 遠目にでも大型トラックの全長ほどもありそうな大岩がクロノやなのはたちの真上の岩盤から剥がれ落ちるのを視認し、ノータイムで俺は叫ぶ。

 

「上だッ!逃げろッ!」

 

 大岩の真下にはクロノやなのはたちがいる。揺れの影響でバランスを崩していて、すぐに体勢を立て直せる状況にない。

 

 最悪の事態に血の気が失せる。

 

「このくらいなら、あたしにだってやれるよ!」

 

 俺の声と、頭上から押し潰さんと迫る大岩にいち早く対応したのはアルフだった。

 

 野生動物顔負けの柔軟性と姿勢制御、反射によって飛び上がり、拳を振るう。

 

 被害が及びそうな範囲にいる仲間を抱えて避けるより、被害を生み出す大岩の破壊を行ったほうが安全確実だとアルフは考えたのだろう。

 

 クロノは自力で避けれそうではあったのでともかくとして、実際フェイトはまだ立っていたとはいえ上半身がぶれてしまっていてすぐに動けそうではなかったし、ユーノは床に手をついて身体を支えていた。なのはに至っては尻餅をついていた。その三人を引っ掴んで大岩から離れるより、いっそのことぶち抜くほうが安全だと判断するのは、妥当な線と言える。

 

 もちろんアルフが、そんな七面倒臭いリスクリターンの計算をしたかどうかはわからない。危ない物が落っこちてきたから本能で叩き壊そうとしただけかもしれない。

 

 アルフが何も考えていなかったとしても、そのアクションは間違っていなかったと、俺は断言する、確言する、明言する。限られた時間の中で、危険が迫る状況の中で、アルフはベターな選択をしたと俺が保証する。

 

 回り回って、巡り巡って、結果として悲劇を生み出しただけなのだ。バタフライエフェクトのように、些細な違いが大きな結末を引き起こしてしまっただけなのだ。

だから、アルフは悪くない。

 

 何が悪いのかとあえて言及するのならば、運が悪いとしか言いようがない。

 

「アリシア……っ! アリシアっ!?」

 

 プレシアさんがアリシアの身体(・・・・・・・)を抱き上げる。

 

 足元にはガラス片が散乱し、近くには大きな岩が転がっていた。

 

「こんなのッ……たちの悪い冗談だろ……ッ!」

 

 アルフは落下した巨岩を打ち砕き、フェイトやなのは、ユーノを守った。

 

 しかしそれは、結果として不運(死神)を誘き寄せる。



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「そんな結末認めない」

 様々な要因が絡んだ末の結果、なのだろう。

 

 あの場で最も速やかに行動できたのは、獣並の反射能力と機敏性を有しているアルフだった。

 

 そしてアルフは近くにいた仲間を守るために、落下してきた大岩を砕くという選択をした。動けた人間が迅速に対応したのだ。間違っているなどとは言えようはずもないベターな選択。

 

 だが、障壁を展開するという手もあるにはあった。いくらここに至るまでに傀儡兵との戦闘を繰り返していたといっても、障壁の一つくらいは張れただろう。俺の障子紙と違い、強固な盾を作り出せるアルフなら大岩の荷重にも耐えられたはずだ。

 

 ――因果は連鎖する――

 

 アルフよって大岩は砕かれ、幾つかの破片となった。元が巨大な岩だった為、その破片もまた、破片と呼ぶには大きすぎた。

 

 岩石の破片は辺りに飛散し、距離があった俺たちにも飛散した岩石片は及ぶ。

 

 ――不運は不運を呼び、連なる――

 

 岩石片がこちらに迫った時、俺は背後に控えるアリシアのカプセルへ被害が及ぶ危険性に思い至っていた。しかし自分とアリシアのカプセルを守れる強度と範囲を併せ持つ障壁を展開できなかった。魔力が不足していたのだ。

 

 防御魔法が発動しなかった俺も危険ではあったが、ネックレスの台座から浮かび上がっていたエリーが魔力流を放出して俺の身を守ってくれた。

 

 魔力流は直線にしか伸びない。俺に迫る岩石片しか払い除けられなかった。

 

 ――訪れる不幸は群れを成す――

 

 プレシアさんであれば、殺到する石ころ如き、容易く(ほふ)れていただろう。

 

 だがそれは、デバイスがあれば、の話だ。

 

 アースラや俺たちにも降り注いだ雷撃、次元跳躍攻撃などの魔法を目にするとつい忘れてしまいそうになるが、プレシアさんの本職はあくまで科学者だ。そのプレシアさんのフォローをするために、リニスさんは戦闘技術に精通している面もある。

 

 虚数空間に身を投げた時、プレシアさんはデバイスである杖を手放してしまった。相次いでハプニングが発生する上、目まぐるしく動く事態に直面し、プレシアさんは咄嗟(とっさ)に防御魔法を展開できなかった。

 

 ――更に悲運は()り集められ、(つむ)がれる――

 

 大きな震動による不安定な足場の中、アルフと同様、動きを取れる人はいた。リニスさんだ。

 

 リニスさんは俺やプレシアさんよりも後方に位置していて、岩石片が到達するまでにほんの僅かの差ではあるが時間があった。思索を巡らすだけの数瞬の余裕はあっただろう。

 

 ただ、ここでもつきに見放されていた。

 

 プレシアさんと同じく、デバイスを失っていたのだ。

 

 一瞬の判断が戦況を左右する実戦に身を置いているリニスさんは、突発的な出来事にも慌てずに対処できる。それだけの能力がある。

 

 デバイスがなくとも、やろうと思えば魔法は行使できたはずだが、刹那の中で天秤にかけ、使わないという決断をした。魔法を使わず自分の身を動かし、自らの主人であるプレシアさんに飛びかかって身体を押して、岩石片の脅威から防いだ。

 

 俺と激闘を繰り広げた疲労、底に近い魔力、自身のコンディションと魔法の不発という危険性を考慮した時、安易に魔法に頼ることはリスクが重すぎると考えたのだろう。

 

 実際、リニスさんは魔法が使えずに佇立していたプレシアさんを守れている。リニスさんの取った行動も正しかったのだ。

 

 各々自分が今どうするべきかを考えて、各々自分ができる範囲のベターな行動を取った。間違ったことをした者は誰一人としていなかった。

 

 だが結果として、アルフは打撃により大岩を砕いて小さくはない岩石の破片を散らすことになり、俺はただ指を(くわ)えて見ていることしかできず、プレシアさんはその危険を排除することに失敗し、リニスさんは主人(プレシアさん)を最優先した。

 

 岩石片は無防備なアリシアのカプセルに打ち据えられることになる。

 

 いくらカプセル自体が浮遊していて劣悪な足場を進めるといっても、衝撃に強いわけではない。猛スピードで飛来する拳大から人の頭くらいの大きさのものまである石、もしくは岩がいくつもぶつかればバランスを失う。

 

 ガラスの正面にもいくつか岩石片が当たって(ひび)が刻まれ、カプセルがバランスを崩して横転した衝撃が決定打となった。

 

 甲高い音を響かせてガラスを撒き散らし、アリシアを包み込んでいたオレンジ色の液体は流れ出す。アリシアは無菌のカプセルから、薄汚れた岩の床へと投げ出された。

 

 俺たちは(ほう)けたように、床に横たわるアリシアの姿を見ていることしかできなかった。

 

「アリシア……っ! アリシアっ!?」

 

 真っ先に現実を認識し、意識を取り戻したのはプレシアさんだった。

 

 叫びながらアリシアへと駆け寄り、抱き上げる。アリシアの身体はぐったりとして力なく、プレシアさんにされるがままだった。

 

「こんなのッ……たちの悪い冗談だろ……ッ!」

 

 ここまできて、ここまで頑張ってきて、なのにこの仕打ちか。後はアースラに戻るだけだったというのに。

 

 無論、アースラに帰投してからも様々な苦労は待ち構えているが、少なくとも最善への結末までが見えていた。すぐそこにまできていたのに、なのにまだ、運命などというくそったれな呪縛は俺たちの足を絡め取る。

 

 

 

 幸せになど、なれはしない。

 

 

 

 そう示すかのような所業だ。

 

「アリシアっ……アリシアっ!」

 

 プレシアさんは愛娘を抱き締め、名前を呼び続ける。

 

 そんな悲愴感に満ちた光景を、俺はただ見ていることしかできず、呆然と立っていた。

 

 後ろから弱々しい足取りで近づき、リニスさんが隣に並んだ。

 

「私の……判断ミスです……っ」

 

「誰の責任だとか話し合ってる場合じゃない。リニスさんが動かなかったらその時はプレシアさんが大怪我を負っていたんだ。リニスさんは正しかったよ。誰も……悪くなかったんだ……ッ」

 

 プレシアさんは言っていた。カプセルに満たされていたオレンジ色の液体は、身体を維持させるものだと。その液体が流れ出した今、アリシアの身体を守るものはない。遠からず朽ちていく。

 

「こんな終わりかたが、あんのかよ。あっていいのかよ……」

 

 プレシアさんも、リニスさんも、フェイトも、アルフも、みんな努力を尽くした。己が発揮できる最大限で努力を尽くしたのだ。

 

 足を棒にしてジュエルシードを探し、寝る間も惜しんで研究して、血涙を絞って非道な行いを強いて、それでも己が信念を貫いてきた。すべてはたった一つの願いを叶えるため。たった一人の愛する家族を救うため。

 

 そのためだけに頑張って、それ以外のほぼすべてを捨ててまで頑張ってきた人たちに対する仕打ちが、これなのか。

 

 間違っている。絶対にこんな結末は間違っている。

 

「認めはしない……こんなもの、絶対に……っ」

 

「徹……」

 

 絶対に、何をしてでも何をかけてでも絶対に、助けてみせる。

 

 頭の中に理論はある。時間をかけて慎重に念入りに、細心の注意を払ってやりたかったが構いはしない。設備を整えて万全の体制で行動に移したかったがやむを得ない。

いつだって、時は待ってはくれないのだ。

 

 もしかしたら玉座の裏の部屋には、研究室には予備のカプセルがまだあるかもしれない。大きな爆発があったがまだ破損せずに残っているかもしれない。

 

 しかしここから不安定な足場の中、研究室まで向かっていては時間がかかりすぎる。どう見積もっても十分はかかる。

 

 それでは、間に合わないのだ。

 

 思考回路はトップギアで回転させながら、俺はプレシアさんに近づいて尋ねる。

 

「プレシアさんは、アリシアが死んだとは思ってないんだよな」

 

「徹君……何を」

 

「だってそうだろ。死んだと思ってるんなら、こんな、まるで大きい試験管みたいなカプセルにアリシアを入れる理由がない」

 

「……ええ、そうよ。アリシアは死んでいないと、私は信じているわ。ただ応えることが出来ないだけ、動くことが出来ないだけ……魂が抜け落ちてしまっているだけなのよ」

 

「だからアリシアをカプセルに入れて、あの液体で中を満たした。肉体を維持するだけの構成要素を含んだ液体を。一つ聞き忘れていたんだ。その中に魔力は含まれているのか」

 

「徹君、様子がおかしいわよ……?」

 

「いいから、答えてくれ」

 

「っ……徹君の考える通りよ。特殊な工程を挟むことで魔力粒子を注入しているわ。炭酸ガスを水に混ぜるのと似たようなもの、と言えば理解はしやすいかしら」

 

「それなら大丈夫だ」

 

 プレシアさんは驚愕に目を見張る。

 

 何が大丈夫と言えるのか、そう問うような表情だった。

 

 一度思索を打ち切り、目の前の女性に意識を集める。愛娘を抱き、悲痛な面持ちのプレシアさんをまっすぐに見つめて、言う。

 

「アリシアを助けるよ。今、ここで」

 

「……どうやって助けるというの? 機材もなく、ジュエルシードは暴走を加速させ、足元は今にも崩れ落ちそうで、君は立っているのもやっとの状態。こんな環境の中で……どうやって助けるというの?」

 

 プレシアさんはアリシアを抱き締めながら、俺に問う。

 

 このままではアリシアの本当の死を待つだけ。とは言っても、この空間で実際にアリシアに処置を施すのが現実味に欠けるというのもまた事実。

 

 プレシアさんからすれば、俺が現状を真正面から認識しようとしていないと疑うのは仕方がなかった。

 

「周囲にばら撒かれるジュエルシードの魔力密度が弱まっている。この機を利用する

爆発や揺れは収まっているけど、これは一時的なものよ。引き波のように、大きな波を作るために力を蓄えてる。長くは続かないわ」

 

「わかってるよ。だから、現状から悪化しないように抑えてもらうんだ」

 

「抑えてもらうって……そんなこと、誰が出来るというの? ロストロギアの、しかも暴走している代物の魔力を抑えるなんて、誰にも出来はしないわ」

 

「プレシアさんの懸念には、行動で応えるよ。……エリー」

 

 俺が呟くと、頭上数メートルで浮かんでいた鮮やかな空色の宝石が目線の高さにまで下りてくる。降り止まない落石を警戒してくれていたようだ。

 

 エリーは俺の額にちょん、と触れる。

 

 途端、空色で埋め尽くされた。

 

 ジュエルシードの群れから放たれる肌を刺す魔力波も、頭上からの止むことなき落石も、ぐらぐらと体幹を揺さぶる震動もない。耳を澄ませば小鳥のさえずりや木々の葉擦れの音が聞こえてきそうな、エリーの穏やかな世界。

 

「主様……なんなりとお申し付けください」

 

 気づけば、目の前にはエリーがいた。音もなければ、空気の流れの変化も気配もない。(まばた)きしたら、既にここにいた。

 

 一周回って自画自賛になってしまいそうなので口幅(くちはば)ったいのだが、アンサンブルで一体化した時の長髪も綺麗ではあったが、やはり、本家本元の空色に輝く柳髪は格が違う。そんな美しい髪を、風など吹いていないのにふわふわと(なび)くままにして、エリーは(しと)やかに立っていた。

 

「時間が欲しい。頼めるか?」

 

「お任せください。……しかし、私にはこれ以上悪化させないようにしかできません。あの数が相手では現状維持しかできません。……どうかご理解ください」

 

「酷くならないだけでも充分だ。ありがとう」

 

「申し訳ありません……。ですが、主様がやるべき事を成し遂げるまでは必ず抑えます。ですから主様は何も心配なさらず、後悔しないために前を向き続けてください」

 

 エリーは右手を伸ばし、約束です、とはにかみながら小指を立てる。

 

 白魚のようなその指に、自分の指を絡ませた。

 

「言われなくても……そうするつもりだ」

 

 いたいけな少女のような純潔さで、けれど妙齢の女性のような妖艶さで、エリーはふわりと頬を綻ばせる。

 

 そのワンカットを目に焼き付けて、意識は現実へと戻った。

 

 俺のおでこにくっついていたエリーは離れ、浮上する。

 

 俺のそれより少しだけ低いエリーの体温は、まだ小指に残っていた。

 

「ジュエルシードが……人の意を汲み取ったというの……?」

 

 再度上昇するエリーを仰視しながら、プレシアさんがぽつりとこぼした。

 

 エリーは浮遊を続け、十三個のジュエルシードの真上を陣取る。

 

 大きな波を放つために力を蓄えていたジュエルシード群は、まるで脈打つかの如く同心円状に魔力波を発射した。その莫大な魔力の密度で編まれた波は庭園の至る所で被害を及ぼすはずだったが、同じ波形、同じエネルギー量の魔力波がぶつかったことにより相殺される。

 

「どうして……人の指示に従って独自に動くのも不可解だけど、その魔力量もおかしいわ……」

 

「徹と戦っている時から普通のジュエルシードとは違うと思ってはいましたけど……まさか、十三個のジュエルシードにたった一つで太刀打ちできるほどとは……」

 

 池に投げ込まれた石によって水面全体に波紋を広げるような魔力波を、エリーはさして慌てる様子もなく消し去る。

 

「俺も、不思議に思ってたんだ……。他に封印処理を施したジュエルシードはなにも変化がなかったのに、なんで海で封印した九つのジュエルシードだけエネルギー量が減っていたのか」

 

 人には及びもつかないほどの魔力を、エリーは有している。

 

 だが今回は、同じロストロギアが相手なのだ。エリーたった一人で同格のジュエルシードを、しかも十三個に対処するなど単純に計算すれば確実に押し負ける。

 

 しかしエリーは見事にやってのけている。まるで小さな子どもをあしらうかのように、若干の余裕さえ覗かせながら抑え込んでいる。

 

 なぜエネルギー量において下回っているはずのエリーがこうも勝負ができているのか。

 

 プレシアさんたちが所持していた十三のジュエルシードうち、海鳴市沖の海上で奪取した八つは魔力量が減少していたとはいえ、他の六つはロストロギア足るだけの魔力を持っている。いくらエリーに科されていた封印は解かれているといっても、敵う道理など本来はない。

 

 そこまで考えて俺は思い至った。合算すれば通常のジュエルシード八つ分に相当するジュエルシード群にエリーが対抗できる、その理由に。

 

「俺が海で九つのジュエルシードを封印しようとした時、エリーも手伝ってくれていた。邪魔者を排除しようともがくジュエルシードの魔力流を、エリーが代わりに引き受けてくれた。俺はその行為を、しっかり理解していなかったんだ。エリーは俺を守ると同時に、封印処理の障害になるジュエルシードの魔力を吸収していたんだろうな。だから九つのジュエルシードは魔力量が減っていた。今になって思えば、あの後のエリーの宝石体はそれ以前と比べて綺麗になっていたし」

 

「そ、そんなことがあり得るというのですか……」

 

「信じ難い仮説だけど、それが事実だとしたらとんでもないことね……。リニスが確保した八つのジュエルシードは魔力量が他のものと比べて四分の一程度にまで低下していたわ。あの場にあった九つのジュエルシードからそれぞれ平均七十五パーセントずつ吸収して、その上もとあった魔力も含めて計算すれば、たった一つだけでジュエルシードおよそ八つ分に相当するわよ……」

 

「莫大で膨大な魔力を内包して、しかもそれを我が物としてコントロールできてるんだから、そのあたりはさすがエリーって感じだ」

 

「……気になっていたのだけど、そのエリーというのはあのジュエルシードのことなのかしら?」

 

「当たり前だよ。俺の相棒だ」

 

「そ、そう……」

 

「慣れてください、プレシア。徹はこういう人間なんです」

 

 クエスチョンマークを浮かべるプレシアさんに、リニスさんはそう説明した。

 

「これでジュエルシードによる危険性の問題は解消された。すぐに取り掛かるよ」

 

 濁った青白い波で塗り潰されそうになるキャンパスを、どこまでも透き通った空色で上書きする。ジュエルシードの波紋が広がるたびに、エリーは打ち消す。

 

 その光は、不安や恐れまでをも消し去った。

 

「今ならまだ、なんとかなる……助けられるんだ。動かない理由なんてない」

 

「ジュエルシードの暴走による庭園の崩壊はタイムリミットが多少延びましたが、それでもこの場は危険です。床にはひびが広がって、天井部からは石や、時折大きな岩まで落ちてきています。徹の相棒が止める前に、ジュエルシードは凶悪なまでの魔力を振り撒きました。庭園の基部は重大な損傷を受けたでしょう。魔力波がなくとも、崩れ落ちることが考えられます。なにより……徹、あなた自身が……」

 

「徹! そっちは大丈夫だったか?!」

 

「クロノ?」

 

 リニスさんの語りの途中で、帰還ルートの入り口近くにいたクロノがこちらにまでやってきた。その後ろには他のメンバーもついてきている。

 

 一様に心配そうな表情をしている中、青褪めている人物が一人だけいた。

 

 先頭を走ってきていたクロノは、整ったその顔貌に焦りの色を滲ませている。

 

 俺、プレシアさん、リニスさんをちらりと見て目立った傷がないのを確認すると少し安心したようにため息をこぼした。

 

 アリシアの姿はプレシアさんの身体で隠れて見えなかったようだ。でなければ微かといえど安心するなんてできはしない。

 

「さっきの揺れで大規模な崩落があったみたいだ。想定していたルートがダメになった。しかも入り口も埋まってしまったんだ。エイミィや、他のオペレーターも脱出経路の再構築を急いでいるが……」

 

「ならちょうどいい……手を貸してくれ」

 

「手を貸せって、一体何に……」

 

 ここでクロノはようやく、アリシアを視界に入れたようだ。

 

 肌色の面積があまりにも多い足が見えたのだろう、プレシアさんの斜め前に移動する。一糸かけずにプレシアさんの腕の中にいるアリシアを認めるや、ふいと目を背けた。

 

 もといたポジションにまで、クロノは戻った。少しだけ顔が赤かった。

 

「アリシア、だったか。……その子は巨大なカプセルに入っていたはずじゃなかったか?」

 

「そのカプセルが割れたんだ。このままじゃアリシアは本当の意味で死んでしまう。だから、ここで助ける。手伝ってくれ」

 

「手伝えと言われれば手伝うが……なにをすればいいんだ。意識もなく、呼吸もなく、心拍すらない。そんな患者に対する治療法なんて僕は知らないぞ。そもそも、その子はもう……」

 

「確かに生きているとは言えないかもしれない。でも、死んでない。助けられるんだ。そんで手伝いってのは簡単だ。俺はこの場所から動けないから、落ちてくる岩を防いでほしい」

 

 クロノから視線を外し、俺はクロノの後ろについてきていたなのはたちに目を向ける。

 

「なのは、ユーノ、フェイト、アルフ。お前たちも頼む」

 

 四人に声をかければ、元気よく頼りになる了承を得ることができた。三人分の声しかなかったが。

 

「あ……あたしの、せいで……」

 

 顔面蒼白となって返事もしていなかったアルフが俯きながら呟く。

 

「アルフは悪くない。アルフはフェイトや、なのは、ユーノを守ったんだ。下を向くな、胸を張れ」

 

「でも……あたしが岩を壊さなかったら、こんなことにはならなかったよ……」

 

「たしかに岩を破壊する以外にも方法はあった」

 

「……っ」

 

「でも、違う方法が安全だったっていう保証はない。岩を砕こうとせずにフェイトたちを連れて逃げようとしてたら間に合わなかったかもしれないし、障壁で防ごうとしていたら岩の重さで床が崩れていたかもしれない」

 

「そんなのわかんないよ……。もしかしたら他の手段でやっていれば、アリシアはこんなことにはならなかったんじゃないかって、頭の中そんなことばっかりぐるぐるして……」

 

「他により安全なやり方はあった可能性もあるし、なかった可能性もある。どのやり方がより良かったかなんてわからねえよ、少なくとも人間にはな。でも一つ断言できることは、アルフが岩を破壊するという手を取ったから、こうしてみんながここにいるんだ。手遅れにはならない。みんな、生きてここにいる」

 

「でもアリシアはッ!」

 

「アリシアはこれから助ける。最初から助けるつもりだったんだ。それが早まっただけだ。まかり間違った責任を感じてるってんなら、協力してくれ」

 

 アルフは顔を上げて、決して合わせようとしなかった目を俺に合わせた。眉を曇らせていたが、それでも少しだけ口元を緩めた。

 

「徹、ありがとう……」

 

「礼を言われることじゃないけどな。どんな状況だって、可能性はゼロじゃないんなら頑張ればなんとかなるんだ。だからなんとかするぞ」

 

 俺の暴論にアルフは泣きそうな顔になりながら、小さく笑った。

 

「わかった……徹の口車に乗っとくよ」

 

 表情はあまり晴れてはいなかったが、声には張りが戻った。意識をアリシアへの罪悪感から、この場をどう乗り越えるかにすり替えることができたのならそれで充分効果はある。

 

 話し終えたアルフの隣にフェイトが並ぶ。手を伸ばしてアルフの手を握り、フェイトは微笑んだ。

 

 言葉はなく、アイコンタクトのみであったが、姉妹にも似た主従関係にはそれだけで気持ちは通じるようだ。

 

「安全も確保された。さっそく始めよう、プレシアさん」

 

「そうね……わかったわ」

 

 プレシアさんは床に羽織っていた丈の長いマントを敷き、その上にアリシアを横たわらせる。

 

 肌の露出面積が多いプレシアさんの衣装なのでもしやと思っていたが、やはりというべきか背中がざっくりと開いていた。気が咎めるので目線を別のところへと移すが、移した先にはアリシアがいた。さらに罪悪感が増していく。

 

 アリシアの横に膝をつき、手を伸ばそうとした時、床となっている岩盤が苦しむように軋み声をあげた。外縁部ではさらに崩れ、俺たちがいる場所にも小さな亀裂が入る。

頭上を見上げるが、エリーは依然として変わらずジュエルシード群の魔力波を打ち消している。この震動は新しい魔力波によるものではない。もう基盤が損壊した庭園では自重を保つことさえ難しくなってきているのだ。

 

 ごごご、と地響きのような、不安を煽る音が耳を打つ。

 

「と、徹お兄ちゃん! 上!」

 

 なのはの声が聞こえて、仰ぎ見る。

 

 俺たちの真上。岩でごつごつした天井から再び岩や石が落ちてくる。

 

 直径の大きいものは多くはない。アルフが破壊した大岩のようなサイズはないが、それでも人間の身体に当たれば容易く骨を粉砕するだろう。頭に直撃すれば、岩そのものの重量と重力による加速で西瓜を割るみたいに頭蓋をばっくり破裂させる。

 

 とても見過ごせるような落下物ではないが、今は頼りになる仲間が大勢いるのでそちらに任せよう。

 

「スティンガースナイプ」

 

 岩と岩を擦る耳障りな震動音を、ボーイソプラノが貫く。

 

 クロノの誘導制御型射撃魔法、スティンガースナイプが降ってくる岩の群れを突っ切る。螺旋状の軌道を描くそれは、目にも留まらぬ速さで噛み砕く。

 

 速度、誘導性能、威力の三拍子が揃った優秀な魔法だ。いや三拍子どころか、弾道が螺旋を描いているので動きが読み辛いし、ボイスコマンドによって弾速が急激に上がりもする。相手取る時は非常に厄介だが、味方となるとこうも頼もしい。

 

「案外、多い……」

 

 しかしその一弾の性能の高さ故か、弾数を多く用意できないようだ。落ちてくる岩石の量が多く、手が回らない。

 

 全てを撃ち砕くことはできなかったが、それでもよかった。直径の大きいものだけでよかったのだ。

 

 なぜなら。

 

「徹お兄ちゃん、姿勢を低くしててね。障壁張るの!」

 

「ああ、頼んだ」

 

 なのはがいるのだから。

 

 その類稀(たぐいまれ)なほどに恵まれた魔力によって、普遍的で一般的な防御魔法でさえ、なのはは強固な防壁とする。クロノがスティンガースナイプで岩を細かく砕いたのは念の為、といったところだろう。

 

 突如、床が大きく傾いだ。

 

「わひゃうっ」

 

 全員が、がくんとバランスを崩す。もちろんなのはも、例外ではない。

 

 杖の先端を天井に向けていたが、意識の外にあった足場の不安定さにより身体が前につんのめる。体勢と集中が乱れ、なのはは基礎中の基礎である防御魔法の構築をフェイルした。

 

 落下してくる岩石群のうち、大きめの岩が一つ、俺の近くに迫っていた。当たりどころが悪ければ骨くらい折るだろうが、頭部に命中しない限りは『とても痛い』くらいで済む。

 

 懸念は俺よりもアリシアだ。ただの幼女であるアリシアに当たれば、そうじゃなくても消えかけの灯火が確実に消える。優先すべきはアリシアである。

 

「はは……やっぱり、母親だ……」

 

 俺の身体でアリシアの上半身を守ろうと身を乗り出すが、すでにプレシアさんが覆い被さっていた。

 

 子のためなら意思とは関係なく身体が動いしまう。それが親というものなのだろう。

 

 戦闘班ではなく、デバイスも持っていないプレシアさんではすぐには魔法も使えない。バリアジャケットすら着用していないのだから、身体能力は普通の女性と遜色ない。

 

 アリシアは守れても、プレシアさんが怪我をすれば娘はとても悲しむだろう。そんな思いはさせたくない。

 

 俺は、アリシアを庇うプレシアさんの上にかぶさる。

 

 なんの疑問も持たなかった。『守りたい』と、ただそれだけを思った。

 

「…………?」

 

 石や岩は、いつまで経ってもいつまで待っても、落ちてこなかった。自分の身体に硬い石が打ち据えられる感覚どころか、床と接触する音すら聞こえなかった。一つたりとも、である。

 

 おそるおそる見上げれば、茜色に輝く球体が浮かんでいた。

 

 ひらひらと舞い落ちる灰色の燃えかすを手に取ってみる。これはもしや、石だったものなのか。

 

「あれ……いつの間にロストロギアが……」

 

 ユーノの小声が聞こえたのでそちらを見やれば、不思議そうに懐やポケットをまさぐっていた。

 

 魔導炉を撃砕したのち、ユーノには瓦礫の中から夕暮れ色のロストロギアを、あかねを探して持ってきてくれるように頼んでおいた。

 

 降ってきた岩石を防いでくれたのは、どうやらユーノの服から飛び出したあかねのようだ。広範囲に魔力を放出して消し飛ばしてくれたのだろう。

 

 エリーはもはやロストロギアの中でもトップクラスの魔力量と推測されるが、一歩譲るとはいえ、あかねもやはり相当なものだ。

 

「あかね、助かった。……ん、なんだ?」

 

 俺が礼を言うと、あかねは地平線に傾く太陽のような色彩の光で瞬く。

 

 このあたりはやはり慣れや親しみや連れ添った時間の差なのか、エリーの時は点滅すればすぐに気持ちがわかるのだが、あかねの場合は今ひとつ判然としない。たぶん、礼はいらねぇよ、的なニュアンスかと思われる。

 

 頭上にいたあかねはふよふよと高度を下げて近づき、俺の鼻頭に触れる。

 

 あかねが瞬いた。視界はあかねの魔力色に染められる。直後、引っ張り込まれるような感覚。

 

 気づいた時にはあかねが管轄する夕暮れ空の世界にいた。

 

「よぉ、困ってるみたいだな」

 

 哀愁を誘う日暮れ間近の夕焼け色をバックに、あかねは悪戯っぽく口角を上げた。

 

「ああ、困ってるな。ていうかユーノと一緒に来てたんならもう少し早く出て来とけよ」

 

「かはは、悪ぃな。疲れて寝てたんだわ。青いのの魔力波が目覚まし代わりになったぜ」

 

「睡眠とか要るのかよ……お前」

 

 そんなことより、と話を区切ってあかねが一歩、歩み寄ってくる。笑顔のままで、この世界と同じ夕暮れ色の瞳をきらきらと輝かせていた。

 

 早く仕事をくれ、とでも言わんばかりに俺の目の前で少女は腕を組んだ。

 

「ジュエルシードはエリーが抑えてくれてるんだけど、落石に関しては不安が残ってる。メンツ的には過剰なほどの戦力、問題は足場が悪いことだ。足元が揺れて体勢は崩れるし、いつ床に穴が空くかわからないってのは集中が阻害される。だから、あかねには足場をなんとかしてもらいたい。……頼めるか?」

 

「さっさとそれを言えってんだよ。任せろ。俺もあんたの覚悟に報いてやる。青いのばっかりにかっこいいことさせてらんねぇしな」

 

「だから、俺はそんな立派な覚悟とか大それたものはないって……」

 

「まだそんなこと言ってんのかよ。かはは、そんじゃ俺のひとり言ってことでいいや」

 

 組んでいた腕を外して左右に広げ、大袈裟に溜息をつく。やれやれ、という心境を表現しようとしているのだろう。

 

 多少いらっときてもおかしくはない仕草だが、(なり)が小さいので大人ぶっているようにしか見えなかった。

 

「徹、やりたいようにやれ。俺は全力で手伝ってやる。……でも、後悔するような中途半端なことは絶対すんな。どんな結果になっても、俺は徹の隣にいてやるから。失敗した時は俺の胸を貸してやるよ」

 

「はっ……縁起悪いこと言ってんなよ。まあ、万が一にもそうなった時はあかねのない胸を借りるかな」

 

「なっ……あ、あるからな! 着痩せするタイプなだけでけっこう……んん、そこそこはあるからな!」

 

 自身の魔力よりも鮮やかな赤色に頬を染め、胸元を両手で隠した。

 

 そのあかねの仕草からして、本人の言うところの『そこそこ』もないかもしれない。

 

「なにがなんでも足場は崩させない。徹の背中は守ってやる。だから、気兼ねせずやってこい」

 

 これは応援じゃねぇ、約束だ。そう言ってあかねは、まだ仄かに頬を染めたまま、握り締めた右手の拳を俺に伸ばした。

 

「ああ、任せた」

 

 小さく笑いをこぼしながら、差し出された小さな手にこつんと自分の拳をぶつける。

 

 拳に伝わる微かな、でも確かな感触を忘れないように目を瞑り、心に落とす。

 

 目を開いた時には、現実世界に回帰していた。

 

 あかねは俺から離れると床から十センチほどまで高度を下げ、魔力を放った。茜色の魔力は渇いた砂に沁み込む水の如く、全体に行き渡る。亀裂が入った岩盤には隙間を埋めるように魔力が満たされ、俺たちのいる付近一帯には膜を広げるように魔力がコーティングされる。

 

 断続的な微震すらも体感できないくらいに安定した。これならもう、体勢を崩して魔法がキャンセルされることもないだろう。

 

「徹君……もう大丈夫だと思うのだけど……」

 

 俺があかねの仕事に感服していると、身体の下から申し訳なさげな声が弱々しく聞こえた。

 

 あかねの世界に旅立っていたせいで忘れていた。アリシアを庇うプレシアさんを庇っていたのだった。

 

 これは壁ドンならぬ、床ドンとでも呼べるだろうか。壁ドンよりもさらに通報待ったなしな匂いがぷんぷんする。

 

 と、そこまで考察を深めたところで首根っこを掴まれた。

 

「いつまでプレシアを押し倒しているのですか、徹。これ以上は刑罰の対象になりますよ」

 

「ち、ちがう……俺は守ろうとしただけで……」

 

「あまりそういう迂闊な行動は慎んでください。緊迫した状況を忘れましたか?」

 

「忘れてるわけない。あかねも手伝ってくれたんだから、すぐに取り掛かるよ」

 

 俺はリニスさんに半ば強制的に、もといたアリシアの隣のポジションまで引っ張り戻された。

 

 背中からの圧迫感がなくなったことで、プレシアさんはアリシアの無事を確認してからおずおずと離れる。少し頬を紅潮させ、それを紛らわすように顔にかかった髪を小指で払った。

 

「アリシアの中に侵入(ハッキング)することだけに集中するから、俺の身体お願い」

 

「任されました。徹……アリシアをよろしくお願いします」

 

 アリシアの中へ潜らせる魔力にのみ意識を傾けなければ、おそらく成し遂げることはできない。肉体に注意を払っている余裕などないのだ。

 

 身体の管理を、ちょうどプレシアさんから引き剥がすために俺の後ろにいたリニスさんに頼み、とうとうアリシアへと相対する。

 

 アリシアの胸の真ん中に右手を静かに添える。なにも衣服を着ていないからか、それともオレンジ色の液体から出てしまったからか、アリシアの未成熟な小さい身体は内心、ぞっとするほどひんやりとしていた。急速に体温が低下している。

 

 動揺に感づかれたのか否かはわからないけれど、俺の右手に重ねるように、プレシアさんが手を置く。緊張からか恐怖からか、プレシアさんの体温はアリシアのそれより低く冷たく、しかも小刻みに震えてもいた。

 

「お願い、徹君……アリシアを助けて。重荷にしかならないことはわかっている、プレッシャーにしかならないことはわかっているけど、でも……それでもお願いするしか私には出来ないの……。アリシアを……助けて」

 

 怖くないわけがない。実の娘の生死を、今日あったばかりの男に託さなければならないのだから不安でしょうがないはずだ。気が気じゃないだろう。

 

 それでも俺を信じて任せてくれたのだ。

 

 ならば俺は、俺のできる限りを尽くさないといけない。尽くさなければ嘘になる。

 

「助けるよ、助ける。みんなで生きてここを出て、そしてみんなで笑ってご飯でも食べよう」

 

「っ……。ありがとう……徹君」

 

 右手の甲に、きゅっと力が入れられた。プレシアさんの手から送られてくる力だった。その手は、少しだけ温かくなっていた。

 

 数多くあった問題は、ほぼ解決した。

 

 ジュエルシードの暴走はエリーが食い止めてくれている。頭上からの危険な落石はクロノやなのは、フェイト、アルフ、ユーノ、みんなが防いでくれている。いつ崩落するかわからなかった床はあかねが支えてくれている。

 

 最後の問題は、俺自身で解決するしかない。俺が乗り越えさえすれば、届く。みんなが笑っていられる未来は、すぐそこだ。手を伸ばせば届くのだ。

 

 運命なんていう残酷なものが存在するのかどうかはわからない。

 

 だが仮に、運命なんていうひどく曖昧なものがあったとしても、俺は認めない。

 

 その運命とやらがアリシアを殺そうとしていても、俺は認めない。

 

 運命なんて下らないものが彼女たちの道を強制するなど、俺は認めない。そんなもの、決して認めない。

 

「そんな結末認めない」

 

 魔力を込める。アリシアの体内の、さらに奥。リンカーコアへと俺は潜る。

 



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一夜のうちに散る華のように切なく、湖面に浮かぶ月のように幻想的に、木陰で羽を休める小鳥の囀りよりも美しく

 魔法としての理論なんて知らない。人体に纏わる知識ならば多少はあるが、それとて魔力が絡めば様相は一変するだろう。

 

 だからこれは、俺の仮説に過ぎない。これまでに得た、魔法に関する情報や実体験をもとにした推論でしかない。

 

 だとしても、それなりの自信と相応の根拠があった仮説だった。

 

「うっく……ぁっ、ぐ……」

 

 ――過度な演算処理に頭が痛む。視界はぼやけ、左目が捉える光景は黒ずんできた。もはや視覚としての役割を果たせていない。瞼を閉じた――

 

 まず『アリシアは助けられる』という確信に至ったのはアースラの艦橋(ブリッジ)でのことだ。

 

 管理局の戦闘部隊の人たちが時の庭園に浮遊カメラを引き連れて乗り込んだ。隊長を務めていたレイジさんは足止めのためにリニスさんと交戦したが、今回気にするべきは別行動を取った副隊長さんのほうだ。

 

 副隊長さんはプレシアさんの研究室に踏み込んだ。その時カメラが捉えた光景こそが肝だった。アリシアが膝を抱えるように縮こまり、カプセルに入っているという映像。

 

 カメラがアリシアを映してからは、プレシアさんが(まく)し立てるように多弁なまでにフェイトへと語りかけていたので深く考察する余裕はなかったが、しっかりと思い返せばおかしいのだ、それは。

 

 プレシアさんが携わった魔力駆動炉の暴走事故による被害者は大勢いた。アリシアだけではない、駆動炉の実験を行っていた施設の付近に住んでいる人たちが犠牲になった。それこそ、(おびただ)しいと言って差し支えないほどに。

 

「かっは……うぶっ……はぁ」

 

 ――手足がじんじんと痺れて、同時に震え始める。俺自身の魔力は、もう底をついていた。口の中は鉄の味が充満している。気分が悪い――

 

 魔導炉事故の被害に遭った、という括りであれば、付近の住民たちとアリシアとでさしたる違いはないが、被害の状況という括りでは二者の間には明らかな差異がある。口には出し辛いが、遺体の損壊度だ。

 

 俺が管理局のデータベースに忍び込んで視た報告書には、熟れたトマトを地面に叩きつければちょうどこうなるだろう、という画像ファイルが無数にあった。至る所で、内側から爆発したような犠牲者の遺体が発見されていた。

 

 幾つか目を通した報告書のうち、日付が新しいものにその理由が記述されていたことを記憶している。(いわ)く『過度な魔力素をごく短時間に放射された結果、許容を大幅に超える魔力に身体が耐え切れなくなった』と。

 

 これが違いだ。アリシアと他の被害者との、明確な違い。

 

 何故、アリシアだけは五体満足で原型を留めていたのか。その答えのヒントは、あの事故に生き残っていた人たちにあった。

 

 プレシアさんは教えてくれた。結界を張ることで駆動炉から放出される魔力を防いだ、と。

 

 であるなら、他の犠牲者と明らかに被害の度合いが異なるアリシアの理由もまた、魔法によるなんらかの抵抗と考えるべきである。それ以外に防ぐ手立てなどないのだから。

 

 魔力駆動炉が暴走し、尋常ならざる魔力がばら撒かれた時、おそらくアリシアは意識的にしろ無意識的にしろ、防御魔法もしくは結界魔法に類する魔法を使った。

 

 しかしまだ幼く、デバイスも持たないアリシアではプレシアさんたちのような完全な魔法を構築することができず、ぶつけられる魔力の勢いを低減させることしかできなかった。

 

 だからこそ他の住民たちとは違って肉体の損傷は軽微に抑えられ、だからこそプレシアさんたちとは違って無傷とはならなかった。

 

「うぐっ……ぅ。おぇっ、げほ、ふっ……はぁっ」

 

 ――食道を何かが遡上した。抑えようとしたがそんな意思とは無関係に、胃が痙攣して強引に吐き出させる。足にそれがかかった。どろりとして粘度が高く、鉄臭い匂いが鼻を突く――

 

 これは俺の憶測であり推測でしかないが、大きく間違っていはいないだろう。依然ユーノが言っていたことだが、限界を超えて魔力を絞り出し死に至った事例があるらしい。実際俺も、アルフと戦った時には体力的には余裕があっても息が上がったし、魔力を大量に使いジュエルシードを封印した翌日は全身が気怠さで包まれていた。

 

 以前から、不思議に思っていたことがある。

 

 魔導師にとって魔力は酸素のようなものだ。リンカーコアの生成・供給が追いつかなければ苦しくなるし、枯渇すれば意識すら薄れていく。それは理解できる。

 

 なのに、魔法を使えない人にはリンカーコアが存在しないとされているのに、なぜ普通に生活ができているのか。これについては俺も断言できるだけの論拠を持ち合わせてはいないし、ミッドチルダの学者さんの間でも意見が分かれているらしいが、しかし一つだけ確かなことがある。魔導師には魔力が必要であるということだ。

 

 魔力の消費と身体機能の低下には因果関係があり、かつ、魔導師であるのなら生命活動を行うのに魔力が不可欠。

 

 そしてアリシアは駆動炉からぶつけられた魔力素と、それへの対抗手段でリンカーコアを酷使したことが原因となり、身体機能が停止するにまで陥った。

 

 これらの事柄から、俺はアリシアの症状をリンカーコアの機能不全による、一種の仮死状態と見た。

 

「い、ぎっぅ……。はっ……あぁっ……」

 

 ――手と肩から送られる温もりと力は、鈍麻した圧覚でも受け取れた。俺の手を握っているのはプレシアさんで、肩を掴んで俺が崩れ落ちないように支えてくれているのはリニスさんだ。諦めちゃいけないんだ、もう少しなんだから――

 

 しかしここで新たな疑問が噴出する。身体機能が正常に働いていなかったのに、なぜアリシアの身体は仮死状態を維持できていたのか。

 

 駆動炉からの魔力素をある程度防御でき、アリシアは他の被害者のように肉体が弾けこそしなかった。そのおかげで外見は無傷のように見えるが、しかし魔力を極度に酷使したため身体機能は停止してしまった。それは心臓しかり、肺臓しかり、大腸や胃しかり、である。

 

 何の処置も施されずに放置されていれば、仮死などでは済まず、本当の死を迎えていたのは言うまでもない。

 

 アリシアの容体を悪化させず、仮死状態を堅守したのは他の誰でもない、母親のプレシアさんだ。

 

 アリシアはまだ、死んでなどいない。妄信と換言してもいいほどの母親の情愛。死んでいない、眠っているだけだと、そう信じて疑わなかったからこそ、プレシアさんはアリシアをカプセルの中へと安置した。いつか目を覚ますと信じて、肉体を維持するのに必要な成分を全て取り入れたオレンジ色の液体で包み込んだ。

 

 プレシアさんがアリシアの症状を正確に把握していたかは、俺にはわからない。

 

 だが、そのおかげで、頼りない一本の細い糸は切れずに今日まで保たれた。アリシアを救い出せる条件が満たされたのだ。

 

 エリーは言っていた。身体には血管よりも多く細く、魔力が通る線が張り巡らされている、と。

 

 アリシアのリンカーコアは疲弊しきってはいても、まだ微弱な魔力を送ることはできたのだろう。ハッキングしてやっとわかる程度だが、アリシアの体内で魔力が流れていたことが感じられる。やはり予期した通り、カプセルに充填された液体から魔力や酸素を取り込み、全身を通る管から魔力を流し、血液の代替としていたのだろう。ごく少量ではあっても弱々しく体内を循環し、身体の維持を果たし、決定的な死を避け続けていた。

 

「な、んで……なんでっ……っ! げほっ……ごほ」

 

 ――周りで聞こえていた岩を撃ち砕くような爆発音を、もう耳は拾ってくれなかった。身体の感覚も遠ざかっていく。必要な一点に魔力を集中させるために要らないところへの供給を遮断したのか、足は力が入らなかった。咳まで止まらなくなってくる。咳をする度に手や足にぱたぱたと血がかかった――

 

 アリシアが目覚めない原因は突き止めることができていた。

 

 リンカーコアの具合が悪くて起き上がれないのなら、そのリンカーコアのおかしくなっている部分に手を加えて治療すればいいだけ。それができる技術(ハッキング)知識(経験)を俺は持っている。

 

 リニスさんのリンカーコアではあるが、何度か実際に魔導師のリンカーコアを見たことが(とは言っても魔力を潜り込ませた時のイメージとして、だが)あるのだ。どういう魔力波パターンが正常で、どういう流れが異常なのか、ある程度感覚として心得ている。

 

 精密にして緻密な操作が重要なリンカーコアへの接続は十全にできていた。正常ではない部分、エラーを引き起こしている箇所への治療は万全手を尽くした。

 

 アリシアが陥ったリンカーコアの機能不全は、解消されたはずなのだ。

なのに。

 

「なんでっ……目が覚めないッ!」

 

 万策講じた。万事(つつが)なく完了した。(ばん)遺漏(いろう)なきよう努めた。

 

 なのに、アリシアは目を覚まさない。

 

 リンカーコアはもう、本来持っていた機能を取り戻しているはずなのに、なおも活動を再開しない。まるで、強い信念を持った何かが邪魔をしているかのようだった。

 

 体内に循環させる魔力の量は変わらず、ごく微量。どころか悪化してさえいる。カプセルから放り出されたことにより魔力を吸収できなくなっているのだ。これではそう時間は持たない。

 

 血液の代役を成して酸素を供給していた体内の魔力循環が停止すれば、十分で死を迎える。酷ければ五分と持たずに脳細胞が死滅し始めるだろう。

 

 今度こそ、アリシアは死ぬ。仮死状態とか、そんな救いが介在する余地なく、生物としての死を迎える。

 

「ほ、かに……な、にがっ……あるっていうんだ……はっぁ。どんな……げん、いんがっ……あるって……げほっ」

 

 魔力を通して探っても、他に異常など見受けられない。

 

 問題がない。それは俺にとって悪夢以外の何物でもなかった。

 

 問題がないにもかかわらずアリシアが目覚めないのであれば、俺にはもう手立てがない。

 

 独自に理論を築き上げ、死に物狂いで可能性を追い求め、迷いながらも直感を信じ込み、一心不乱に活路を見出した。助ける術を追求し、究明し、解明した。その結果、アリシアのリンカーコアの異常を発見し、(ことごと)くを解決した。

 

 それだけやっても、アリシアを救えない。ならば俺は、これ以上になにをすればいいのだ。なにをやれば、運命を覆せるというのだ。

 

「くそ……くそっ。もうっ、少し……もう少しっ、だってのに……っ」

 

 絶望感が這い寄ってくる。足の感覚はとうになく、手はかじかんで震える。アリシアの胸の中央に接しているはずの手のひらは麻痺し、感触も体温もなにも感じ取ることができない。

 

 疲労の極致を踏み越えている肉体と、既に底を割っている魔力。フル回転で限界まで演算を続けている頭はオーバーヒートを起こしている。神経は焼きつき、脳みそは融けそうだ。

 

 満身(まんしん)創痍(そうい)気息(きそく)奄々(えんえん)。気を抜けば一瞬のうちに意識は薄れ、離れていく。

 

 頭は発熱してくらくらと眩む。目を開かずとも視界はぼやけているだろうことはわかった。左目が疼痛を訴える。脳どころか全身が高熱に苛まれ、喉が渇いて仕方がないのに、口腔を満たすのは粘り気のあるどろりとした血液。どの部位から出血しているかはわからないが、胃は断続的に赤黒い血の塊を押し上げる。横隔膜がおかしくなっているのか、それとも肺に異変が生じているのか、空気を取り込むことすら困難だ。

 

 酸素が欠乏し、思考が濁っていく。全身の感覚が鈍り、自分が今どういう状況にいるのかすら把握できなくなった。

 

 身体は地面に沈んでいくのではと思うほど重たいのに、意識はふわふわと肉体から抜け出て宙を漂うかのようだ。

 

 ――どうせ……は、もう……のことなんて……――

 

 誰かの声が、聞こえた気がした。

 

 どこから聞こえてくるのかを探すことも、声の主にお前は誰だと尋ねることも、俺にはできない。それだけの力も残っていなかった。

 

 どうせ極限状態が原因の幻聴か、みんなの話し声を一時的に耳が捉えたか、そうでなければ夢でも視ているのだろう。

 

「う、ぁ……」

 

 千々に裂かれた意識は暗い海へと落ちていく。身体がぐらりと後ろに傾いた。

 

 床に身体を打ちつける、そう思った。倒れたら、もう、起き上がることはできない。

 

「徹っ……あなたは願いを叶えるんでしょうっ! だからここまで頑張ってきたんじゃないですか! 私たちの居場所を守ってくれると、そう言ってくれたじゃないですか!」

 

 倒れそうになる俺の背中を支えるのは、発破をかけるリニスさんの声。

 

 厳しく激しい物言いだが、その裏側は静謐(せいひつ)で思い遣りに満ちていた。

 

 優しいリニスさんのことだ、自分はなにもできず、なのに他人が苦しんでいる様子を間近で見続けるのは相当に辛いだろう。それでもこうして背中を押してくれるのは、ここで諦めてしまったら俺が絶対後悔することをわかっているからだ。

 

 居場所、帰る家。家族が全員揃って、なにも心配や不安を抱かずに笑っていられる場所。守りたかった、守らなきゃいけない場所。必要なんだ、誰にとっても。俺にも、プレシアさんにも、フェイトにも、アリシアにも必要なんだ。

 

 右手薬指に嵌められたシンプルで飾りっ気のないシルバーの指輪が、姉ちゃんから貰った指輪が、きらりと輝いた気がした。

 

 わかっている、これは幻覚だ。

 

 俺は目を瞑っていて、視覚を遮断している。その上俺の右手にはプレシアさんの手が重ねられている。魔法になんら関係しない指輪が輝くなんてあり得ないし、そもそも見ること自体が不可能だ。

 

 だから、それでいい。幻覚でいい。俺の心が生み出した幻でいい。だってそれは、俺がまだ諦めていないという証だから。

 

「徹君……無茶をさせているのはわかっているわ。それでも、お願い……っ!」

 

 アリシアから手が離れないように押さえ、引き戻してくれるのはプレシアさんの体温。

 

 優しく包み込んでくれるような、それでいて強い信念と覚悟を有したその手は、在りし日の思い出を蘇らせる。厳重に封をして心の奥底に隠したはずの記憶が、掘り返される。

 

『正しくなくたっていい、周りから非難されてもいい。そりゃあ人から受け容れられることのほうがいいし、人に優しいことならそれが一番だけどね。徹の選ぶ道がなんであっても、それでも徹自身が後悔しないように、自分の……』

 

 いつか夢に視た母さんとの会話の一文。雑多な記憶に埋もれていたはずの、母親との思い出。自分の名前の由来について親御さんに訊いてくるように、という旨の宿題を学校から出された時の会話だ。

 

 前に夢で視た時はここで途切れていた。これより先はノイズが混じって、まともに聞き取れなかった。

 

 だが、なぜだろうか。ここ数日で様々な経験を積んだからか、俺の心境に変化があったからか、それともプレシアさんが俺の手を握っているからか。

 

 どんな根拠に基づいているのか自分でもわからないけれど、それでも俺は、今ならその続きを思い出せると固く信じて疑わなかった。

 

 そうだ。あの時母さんは、照れたように微笑みながら、それでも俺の手を取って真剣に、目を見つめながら言ったのだ。自分の気持ちが俺に伝わるようにと切に願って、言ったのだ。

 

 ――自分の想いを貫き(とお)せるように――

 

「思い、出せた……」

 

 当時の俺は幼かったから、母さんはあえて『想い』という言葉をあてたのだろう。きっとそこには、俺が思っているよりも多くの意味と感情が込められている。

 

 意地であり意志であり、信念であり信条であり、覚悟であり矜持でもあるのだろう。

 

 今になってようやく、俺はその『想い』を受け取ることができた気がした。

 

「ああ……そう、だった。忘れちゃいけない……ことだったのに」

 

 自分のやり方を貫き徹す。

 

 いつだって壁にぶつかって、へこたれそうになっても諦め悪く、石に(かじ)りついても食い下がってきた。

 

 無様、不恰好、大いに結構。手に入れたいものがあるのなら、手放したくないものがあるのなら、地に伏せようが血に塗れようが構わない。

 

 これまで這い蹲ってでも手探りで答えを探してきたのだ。これまでもそうで、また、これからも。

 

 なら、今この瞬間だって。

 

「ありがと……。もうちょっとだけ、頑張ってみる……」

 

 喉に血が絡んで不明瞭だが、しっかりと声に出して決意を新たにする。

 

 コンディションは考え得る限り最悪だ。ここまで気分が悪いのは人生で初めてと言っていい。時間が経過する度に魔力は消費され、コンディションの最低記録は更新されていく。

 

 でも、一番大事なものは回復した。

 

 最後の最後まで諦めずに足掻く。みっともなくても、見苦しくても、解決法を模索する。

 

 身体はぼろぼろでも、心は折れていない。

 

 痛みを訴える内臓の申し立てを棄却し、大きく息を吸う。精一杯空気を取り入れて、止める。

 

 もう、魔力のタンクはゼロ、空だ。息を吸い込むだけで激痛を主張してくる。体力の残量もゼロ、底だ。動こうとしても動けない。

 

 全身に残った魔力を振り絞り、なくても搾り出し、右手に集中させてアリシアへと送り込む。

 

「――――ッ?!」

 

 ばつん、と何かが断裂する音が心の奥から響いた気がした。

 

 痛い、痛い痛い痛い痛い。苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい。

 

 気を失いそうになった。気が狂いそうになった。唇の端から赤い線が幾筋も垂れ流される。手の震えが止まらない。頭蓋骨の中で火薬が爆ぜているみたいだ。

 

 それでも、耐えた。これが最後の仕事だと念じながら力を振り絞り、アリシアの奥の奥、最奥まで魔力を(とお)す。

 

 手がかりを掴めた気がしたのだ。足がかりを見つけた予感がしたのだ。

 

 耳ではなく俺の頭の中に直接聞こえた誰かの声、リンカーコアはおよそ完治しているのに目覚めない理由。

 

 それにようやく行き当たった。原因はアリシア本人だ。

 

 根本的な問題は解決できている。リンカーコアを含めて、アリシアの身体に異常は残っていない。あるとするならば、アリシアの心のほうにこそ残されていた。

 

『どうせママは、もうわたしのことなんて……』

 

 俺の頭に届いた少女の声。ノイズが混じっていた朧げなその声を、虚ろな記憶をもとに補正し、補完した。

 

 その言葉の真意を、寸分違わずに理解することは俺にはできない。できないが、その言葉の続きは想像できた。

 

 アリシアから送られてきた思念に思うところがなかったわけではないが、それ以上に安堵の念が強く湧き立った。

 

 アリシアはまだ、生きている。魔力という線で繋がっている俺に少女の心が流れ込んできた事実は、少女の魂が未だ消滅していなかったというなによりの証左だ。

 

 身体どころか心臓すらその脈動を停止させていて、唯一命を繋ぎ止めている魔力の循環さえいつ滞るかわからない危ういラインだが、それでもまだ、生きている。

 

 リンカーコアの損傷・変質を解決した今、少女が目覚めない理由など心因的なものとしか考えられない。あとはアリシアが自分の意志で固く閉ざされた扉を開きさえすれば、壁を乗り越えることさえできれば、それで全てが解決される。

 

 だというのに。

 

「な……んで、助かろうと……しないんだっ」

 

 手を伸ばせば助かるところまできているのに、されどアリシアは拒む。

 

 このままでは自分の命が潰えることもわかっているはずだ。理解した上で、把握した上で、承知した上で、アリシアは俺の手を払いのける。

 

 助けなんていらない、救いなんて求めていない、このまま死ぬ。とでも言いたげに、アリシアは断固として抗拒した。

 

「なんで、んぐッ……げほっ……っ」

 

 魔力の限界なんて、体力の限度なんて、気力の極限なんて、とうに超えている。

 

 魔力のラインが断ち切れるのも、ハッキングが使用不能になるのも時間の問題だ。気合や根性でなんとかしようとしてできるものではない。

 

 アリシアの心変わりを、そう長い間待っていることなんてできそうになかった。

 

『あなたも、もういいよ』

 

 また、アリシアの声が聞こえた。

 

 魔力で繋がった糸を伝って俺に届けられる。先よりも深く潜っているからか、音が掠れるようなノイズはなかった。

 

『疲れたでしょ? わたしはここで、終わるの。だからもう、やめていいよ。……聞こえてるかわからないけど』

 

 続け様に放たれるアリシアの言葉には、諦観や悲哀とは違う響きがあった。

 

 状況も体調も、最低最悪を自乗したくらいに惨憺たる有様だが、それでもまだ救いがあった。

 

 一つは、もうやめるようにと勧めてきてはいるが、会話が成立しているということ。

 

 もう一つは、その会話が口頭ではなく念話であるということ。魔力を有線で繋いでいるので念話であると断定して言い切れないが、思念による会話であることには違いない。

 

 口を動かすほうであれば、今の俺のコンディションではまともに喋れなかったが、念話であれば魔力に乗せて想いを送るだけでいいので救われた。

 

『なんで……助かろうとしないんだ』

 

 内から溢れ出した感情は、そのまま思念として相手に送られた。

 

 しばしの沈黙のあと、応答。おそらくは短かったのであろうその沈黙は、神経どころか魂を削って状態を維持している俺からすれば、永久にも思えた。

 

『勘違いしないでね。あなたのことが嫌いとか、信用できないとか、そういうことじゃないんだよ』

 

 アリシアはそう前置きをする。

 

 送られてくる思念としての声は確かに幼い少女のそれなのだが、どこか言葉遣いや喋り方といったものが大人びていた。

 

 とてもではないが、歳のほどがフェイトやなのはといくつか違うだけとは思えない。容姿とはそぐわない達観したような印象を受けた。

 

『もうわたしの席はママの隣にはないから。わたしの居場所なんて、もう……どこにもないから』

 

『そんなわけない……っ、そんなことあるものか。プレシアさんの情愛を、リニスさんの献身を、フェイトとアルフの努力と尽力を知れば、そんなこと……』

 

『知ってるよ、わたし。知ってるの』

 

『は……?』

 

 アリシアの家族みんなが、死力を尽くして身命を賭して、アリシアを助けようとしていたことを知ればこの少女の頑なな意思も変えられると思った。

 

 だから俺はプレシアさんが、リニスさんが、フェイトが、アルフが、みんながどれだけ頑張ってきたかを語ろうとしたが、しかし、アリシアは止める。その努力の程は知っている、とカプセルに入れられていたはずのアリシアはそう言う。

 

 そんなわけがない、知れるわけがない、知れる術がない。頭では少女の発言を否定するが、アリシアの言い様には、口振りには、得体のしれない説得力があった。

 

 言葉を失った俺に、アリシアは続ける。

 

『身体は動かなかったけど、目も見えなかったけど、耳も聞こえなかったけど、ママがわたしのためにどれだけ頑張ってくれてたかは知ってるよ』

 

 言葉の間あいだ、切れ目切れ目に独特の余韻を残しながら、アリシアは『信じてくれるかはわからないけど』と付け加える。

 

『カプセルに入ってる時にね、なんていうのかな? 幽体離脱? そんな感じで身体から抜け出せることがあったの。ふわふわって。飛行魔法なんて知らないのに浮かんで、そのまま動けたんだ。壁も、カプセルも、通り抜けれたんだよ』

 

『そんな、こと……ありえない。幽体離脱? 意識だけが……浮遊する? そんなオカルト……』

 

『わたし自身よくわかってないけど、それでも信じてもらわないと次にいけないよ』

 

『わ、わかった……理屈はわからないけどそういうこともあるって納得しておく』

 

 正直、(にわ)かに信じ難い内容だが、それでも無理矢理に呑み込んだ。

 

 話を先に進めないといけない。そうしないと、アリシアを翻意させる前に俺が力尽きてしまう。

 

 理解したという(てい)で、アリシアに促す。

 

『よかった、ありがと。そうしてふわふわ動き回ってる時にね、ママが机に向かって紙にいっぱい書いてたの、見たんだ。研究室で作業してるのも見たし、一日中寝る間も惜しんで長い時間わたしを助けるためにいろいろしてくれてたのも見た。知ってるんだよ、ぜんぶ。きっと、あなたよりも』

 

『それなら、どれだけ愛されているかも知ってるだろ……。君を助けたいがためにここまでやったんだ。ここまでやってきたんだ』

 

『うん、そうだね。毎日毎日、がんばってた』

 

『君をもう一度抱きしめたいから、もう一度笑いかけてほしいから、身を粉にして打開策を探ってきたんだ。俺がしゃしゃり出たせいで少し方法は変わってしまったけど、助けられるところまできたんだ。アリシア、君だってお母さんに甘えたかったはずだろ?』

 

『そう、だね。またママが作ってくれる料理、食べたいな。遊びにも行きたいよ。ママはお仕事忙しくて、結局行けなかったから』

 

『今なら叶うんだ、全部上手く行くんだ。だから……早く俺の手を取ってくれ。もう……長くは持たない。帰ろう、早くみんなのところへ。家族のところへ……』

 

『家族……』

 

 アリシアとの念話では、声は掠れもせず饒舌に喋れているが、刻一刻と俺の体調は悪化の一途を辿っている。

 

 リニスさんに支えてもらわなければ体勢も維持できず、足も腕の末端も感覚が消失していてプレシアさんの手で押さえてもらっていなければアリシアと繋がり続けることすら難しい。途切れそうになる意識をいつまでも繋ぎ止めておけそうにない。

 

 朦朧としている頭で説得してきたが、俺が『家族』と口にした時、アリシアはこれまでと違う反応をした。

 

 ほつれそうになる思考の糸を紡ぎ、ここがアリシアにとって重要なポイントであると見定めた。

 

『家族のもとに帰ろう。しばらくは不自由すると思うけど、すぐにみんなで暮らせるようにするから……』

 

『その家族の中に、わたしの居場所はないんだよ』

 

 居場所。最初にアリシアが言っていた単語が、ここで再び現れた。

 

 居場所がないというアリシアの言に不可解さを覚えると同時、詰めるべき論点を間違えたかもしれないという焦りと後悔が押し寄せる。

 

『なに言ってんだ……そんなわけないだろうが』

 

 (ざわ)つく動揺を打ち消そうと俺が返すが、アリシアは静かに説明する。

 

『研究に行き詰まってたんだろうね。ママはクローン技術に手を出した。わたしの記憶や思い出を移したクローン体で満足しようと、したんだろうなって、思うけど……でもそれって、わたしはどうなるんだろうって不安になったよ』

 

『それでプレシアさんに……お母さんに裏切られたと思った、ってことか?』

 

『ううん、ママの気持ちもわかるから……寂しかったんだろうね。それでママが幸せなら、わたしはそれでもいいかなって思ったよ。それで前を向けるようになれるんなら……そっちのほうがずっといいって、思ったんだよ』

 

 アリシアは、母親への想いがなくなったわけじゃない。どころか強く、自分のことを二の次にできるほど強く想いを抱いている。

 

 しかし、それは随分と器の大きな考え方だ。自分より母親を優先するという考えは立派だが、普通はそこまで割り切るなんてできはしないだろう。

 

 とてもではないが外見年齢と整合が取れているとは言えない。小学生中学生なんて比じゃない、下手すれば並の大人以上に老成している。

 

 俺は思わず、重い瞼を持ち上げた。左は暗幕に閉ざされたように使い物にならないので、右の目でアリシアを見る。左目ほどではないが右目も(かす)んで見辛くはあるが、近いこともあり顔は見える。

 

 フェイトやなのはより二つ三つは幼い容貌のどこに、大人より大人びた精神が入っているのだろうか。そしてその精神はどこで熟成されたのだろうか。

 

 頭にアリシアの声が響く。口元は、動かない。

 

『でも、そのクローン体……こんな言い方は感じ悪いね。フェイト、だね。フェイトとママは、最初仲良くなかったんだ。ママが難しい文字や数字がいっぱい書かれた紙を見て言ってたよ。身体はそっくり、記憶もあるはず、なのに違うって。それを見てわたし、ちょっと嬉しく思っちゃったんだ。わたし、嫌な子だね』

 

『嫌な子なんかじゃない……そう思うのが当然だったんだ。自分の代わりがいるなんてことのほうが、本来おかしいんだから……』

 

 かすかに笑ったようなニュアンスで、アリシアは『ありがと』と呟いた。

 

 眠り続ける少女の長い睫毛も、柔らかそうな頬も、ぴくりともしなかった。

 

『ママはフェイトに冷たかったんだ。辛く当たられてたのに、フェイトはそれでもママにずっと話しかけてたよ。ママと顔を合わせるたびに「昨日は自分の部屋でこんな勉強をした」「今日はアルフとこんな遊びをした」「明日はリニスにこんなことを教えてもらうんだ」って。ママが無視しても、相槌をうたなくても、興味なさそうな態度でも、フェイトは諦めずに話しかけ続けてた。わたしなら、そこまでできないって思う。ママに素っ気なくあしらわれたら、わたしなら傷つくから……それで言ったら、やっぱりフェイトとわたしは顔は同じでも違うんだろうね。きっと、中身が違う。フェイトのほうがずっと強くて、強いんだ』

 

『アリシアとフェイトは違う。記憶や思い出が同じようにあっても、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の手で触って、自分の足で歩いてきた分、それぞれ変わっていくのは当たり前なんだ。でも、だからって、フェイトは強くてアリシアは弱いなんてことにはならない。アリシアにはアリシアの良いところ、強いところがしっかりとあるんだ』

 

『そう、かな……えへへ、嬉しいな』

 

 直接脳に送られてくるアリシアの声音は、はにかむような可愛らしいものだった。大人びた雰囲気から一転した、少し幼げな笑い声。

 

 照れくさそうな声とは裏腹に、顔色は変わらない。朱がさしたりは一切せず、青白いままだった。

 

『そうやってフェイトがママに話しかけ続けたらね、ママは少しずつフェイトに心を開いていったんだよ。少しずつ、本当に少しずつだったけどね。話しかけられたらフェイトのほうを見るようになって、フェイトの目を見つめるようになって、相槌をうつようになって、ママからもフェイトに喋ったりすることも多くなって、笑顔になることも多くなった。そうやってゆっくり仲良くなって、今ではフェイトの足音が聞こえるだけで、ママは手を止めてフェイトがくるのをそわそわしながら待ってるんだよ』

 

 やはり推察通り、プレシアさんは当初を毛嫌いしていたようだ。見た目はアリシアそっくりなのに、所々で差異があるフェイトは疎ましい存在だったのだろう。

 

 しかし、プレシアさんの強硬な姿勢は長くは保たれなかった。考えてみれば当然の帰結とも言える。

 

 最愛の娘と同じ顔をしていて、敬愛の眼差しを向けられ、親愛の情を持って話しかけられ、恩愛を抱きながら窮屈な箱庭で暮らしているフェイトを見ていれば、八つ当たりに近い怒りも、理不尽が過ぎる恨みも、筋の違う憎しみも、まともに維持できようはずがない。

 

 フェイトはプレシアに、(かえり)みることなく信愛を捧げていた。ほかのなにものでもない深愛を捧げていた。

 

 アリシアを失って凍てついたプレシアさんの心を、フェイトは包み込んで優しく融かしていったのだ。心の距離が近づくのにそう時間はかからないだろう。

 

 アリシアは、その光景を一番最初から今日に至るまでたった一人、眺め続けてきた。

ただ眺めることしかできずに、眺め続けてきたのだ。

 

『ママはフェイトに時間を割くようになったよ。一緒にご飯食べたり、お茶したりもするようになった。フェイトがママに笑いながらアルフの失敗談を話して、アルフは慌ててフェイトの口を抑えようとして、ママは微笑みながら二人を見て、リニスはアルフに暴れないようにって注意しながらお茶やお菓子を用意するの。丸いテーブルで輪になって、みんなが楽しそうにしながらおしゃべりしてるんだよ。いつも楽しそうに……いつも本当に楽しそうに、おしゃべりしてるんだ。フェイトが切り出して、アルフが的外れなこと言って、ママが柔らかく突っ込んで、リニスがアルフをいじるの。だいたいいつもそんな感じで笑いあってるんだよ。会話の流れができてるんだ。台本があるみたいにきれいでね、わたしもつい笑っちゃいそうになるんだよ。……ほんとに』

 

『そういう……意味か』

 

 ここまで本人の口から言わせて、俺はやっと気づいた。アリシアが言った『居場所』の意味。

 

『ママと、フェイトと、リニスと、アルフ。この四人が(・・・・・)「家族」なの。その四人で、「家族」なの。今さらわたしが入ったところで、関係がおかしくなっちゃうだけだよ。四人でできてるきれいな丸が崩れちゃう。わたしはもう、邪魔なだけ。わたしがいたところにはフェイトがいるから、わたしは入れない』

 

 これが理由、わかってもらえたかな。

 

 そう最後に付け足して、アリシアは締め括った。

 

 ここまで詳述されたら、アリシアが体験したという幽体離脱だが体外離脱だかの現象は疑いようがない。ロジックやセオリーは未だ見当もつかないが、アリシアは実際にプレシアさんとフェイトの会話を見て、聞いたのだ。

 

 母親と自分にそっくりな存在が、互いの使い魔も交えて楽しく過ごしているという日常を、アリシアは見続けて、聞き続けてきたのだろう。他愛ないお喋りを楽しんでいる『家族』の団欒を、一切介入できないその空間を、アリシアはただ眺めていた。一人だけ輪から離れて、外れて、どのような想いを抱いたのか。

 

 自分がいなくても、いや、いっそのこと自分がいないほうが、みんな幸せになれるんじゃないか。

 

 長い時間そんな『家族』の光景を見続けたアリシアは、そんなことを考えるようになってしまったのではなかろうか。自分がいなくなれば母親は研究もしなくていいし、フェイトは辛い戦闘訓練をせずに済む。のんびりと、毎日を家族一緒に穏やかに過ごせる。

 

 アリシアが考えつく先、結論は。

 

『家族の中に居場所はない。自分がいても邪魔者になる。だから……ここで死ぬって言うのか……』

 

『そうだよ。想像しただけで寒気がするもん。わたしがいなかった時はあれだけ弾んでいた会話が、わたしが入った途端に続かなくなったりしたら。そう考えるだけで、胸がきゅってなるよ。ママにもフェイトにも気を使わせちゃうだろうしね』

 

『アリシア……』

 

 アリシアの立ち位置からすれば、その通りなのかもしれない。幸せそうにフェイトとお喋りする母親の姿を見ていれば、自分など必要ないと思い詰めてしまうかもしれない。

 

 相手のために一歩引く。その志は立派と言っても差し支えないだろう。母親に迷惑をかけたくないと思うのは思い遣りであるし、フェイトの邪魔をしたくないと考えるのは優しいと言い換えることができる。

 

『……そいつは間違ってる』

 

 だとしても、俺は認めない。

 

 そんなものはただの卑屈、いじけているだけだ。自分に構ってくれず、妹ばかり可愛がる母親に拗ねて不貞腐れているだけなのだ。

 

 アリシアの精神を大人びていると言ったが、訂正しなければならない。こんなものは、大人になろうとしてなり損なった、ただの子どもだ。

 

『……さっきから……模範的な良い子みたいに、ママがどうとか、フェイトがなんだとか……お前自身はどう思ってるんだ。またお母さんの隣にいたいと思わないのか』

 

『だからね、わたしがいたって……』

 

『それは周りの目を気にしたお利口な意見だろうが。そんなものを全部省いたアリシア個人の願いを聞きたいんだよ』

 

『わ、たしは、わたしは……』

 

 淡々と放たれていたアリシアの言葉が、初めて揺れた。

 

『わたし、だって……わたしだってっ、ママと一緒にいたいよ。でも……怖いんだもん……。わたしはもう、ママとどんなふうに喋ってたかも忘れちゃった……。フェイトとお喋りしたほうが楽しいんじゃないかって考えたら、きっと怖くなって言葉なんて出なくなっちゃう。わたしの居場所なんてないんだもん……』

 

 アリシアが本音を吐露した。胸の内にわだかまっているどろどろとして形の持たない感情を、ようやく打ち明け、ぶちまける。

 

『居場所なんてのは用意してもらうものじゃないんだ。自分で作らないと、そんなものは偽物だ。そもそも、居場所がないなんてのは思い込みかもしれないだろ? 本当かどうかもわからないあやふやな感性を盲信して、未来を摘み取るなんてもったいないことをしようとしないでくれ。生きてさえいれば、どうとでもなるから……』

 

『たしかにわたしの思い込みかもしれないよ、勘違いかもしれないよ。でも、ほんとに……ほんとにわたしがいらない子だったら、どうしたらいいの? 居場所がなくてみんなを気まずくさせても、わたしはどうすることもできないよ。それなら、最初からいないほうが……』

 

 魔力の過剰消費、ひいてはリンカーコアの酷使で全身を激痛に苛まれているし、長時間にわたるハッキングで中身が溶けてしまいそうなくらい頭が痛い。口からは絶えず血が溢れて、気持ち悪さも極まれりという体調の悪さだが、それでも思わず、アリシアの見当違いのネガティブさには笑ってしまった。

 

 アリシアの懸念は全部主観での話だ。

 

 プレシアさんとフェイト、リニスさんやアルフの会話を遠巻きに見ていて、アリシアがそう思い込んだに過ぎない。心が弱り、暗くなってしまったがゆえの思い違いなのだ。

 

『プレシアさんは時空管理局に喧嘩まで吹っかけた。フェイトは姉の為に傷だらけになってでもジュエルシードを集めていた。リニスさんもアルフも身体を張っていた。どれだけひねくれていようが熱烈に受け止めてくれる。いっそ暑苦しいくらいにな』

 

『……でも』

 

『それでも不安だっていうんなら、俺の家にくればいい。プレシアさんやフェイトたちのところが居辛くなったら、俺のとこに遊びにきたらいい』

 

『……あはは、なにそれ。解決してないよ』

 

『俺は姉ちゃんと二人で暮らしてるからさ、時々静かすぎたり寂しかったりするんだ。遊びにきてくれたら嬉しいな。姉ちゃんの相手をしてくれるとなお良し』

 

『……約束だからね。遊びに行かせてね』

 

『ああ、約束だ。そして強制でもある』

 

『あははっ、それじゃあぜったいに行かなくちゃね。お願いするね……パパ』

 

 お願い、とアリシアはそう言った。そう言ってくれた。

 

 その後にくっつけた『パパ』という単語には追及したかったが、アリシアはぷつりと思念による通話を切ってしまった。

 

「……誰がパパだ、誰が」

 

 気になる発言もあったが、ともあれアリシアは前向きになってくれた。もう一度生まれ変わろうとしてくれたのだ。

 

 時の流れによって否応なく環境は変化する。変わってしまった身の回りの環境についていけるかと誰だって不安になるけれど、アリシアはその不安を乗り越えようとしてくれた。

 

 ならば俺はその頑張りに、報いなければならない。

 

 アリシアのリンカーコアは、俺の手抜かりがなければ本来の機能を取り戻している。そして今はアリシア自身も生きようとしている。

 

 問題はないはずだ。これで、目覚めるはずなのだ。

 

「……まだ、なにかあんのかよっ……」

 

 なのに、アリシアの身体は動かない。長い睫毛は上下で閉じられたまま呼吸もなく、体温も上がらない。

 

 危うく解除しかけたハッキングでアリシアの体内に流れる魔力分布を調べてみる。相変わらず循環している魔力量は少ないままだった。

 

「なんで……ああ、くそっ……そういうことかよ……。がはっ、ごほっ……っ」

 

 原因を探り、すぐに答えに行き当たった。

 

 リンカーコアは、空気中に散在している魔力素を体内に取り込むことで魔力を生成する。つまりは、まず第一に呼吸をしなければ魔力を吸収することもできない。

 

 しかしアリシアは体内に残留している魔力が極端に減少し、内臓器官すら動きを停止させてしまった。心臓も、肺臓も、である。

 

 カプセルの中にいた時はオレンジ色の液体から吸収することができていたのに、とカプセルから排出されてしまった後でそんなことを嘆いても仕方ない。

 

 今すべきことは問題点を明らかにして、対処法を構築することだ。

 

 肺が機能しておらず、一段階目の取り入れるという工程ができないということ。魔力が必要なのに、魔力が少なすぎて体内に取り込むことができていない状況にある。悪循環が螺旋を描いていた。

 

「これなら、なんとか……できる」

 

 課題をはっきりさせたら、すぐに解決策も見つかった。リニスさんが言っていた人工呼吸(マウストゥマウス)ではないが、要領は同じだ。

 

 アリシアにハッキングとは別に魔力を送り、内臓が再起動できるようにする。自分で呼吸できないのなら、他から回してやればいい。一度魔力を送って眠っていた身体が起きれば、あとはアリシア自身が空気中から魔力を抽出できる。

 

 だが、ここに落とし穴があった。

 

「……はっ、はは……。俺も……魔力がない、じゃんか……くそッ」

 

 休憩を挟んだとはいえ時の庭園突入前にも魔法を幾つも使い、こちらに来てからはそれこそ戦闘にハッキングにと魔力を消費してきた。

 

 どれが欠けても最善の結末にはならなかった。出し惜しみしていては確実にここまで来れなかった。選択を間違いはしなかった。全部正しかったと確信している。

 

 でも、ここにきて、魔力が枯れ果てた。一滴たりとも出てこない。ハッキングさえも、じきに途切れてしまうだろう。

 

 アリシアに渡すだけの魔力がない。最後の最後で、素質の壁が立ちはだかった。

 

 もう少し、ほんの少しだけでも俺の保有魔力量が多ければ、あっさりと終わらせることができていただろう。もう少し才能に恵まれていれば、もっとうまく立ち回れていたかもしれない。

 

「くそったれだ……そんなもん」

 

 素質の多寡で、運命なんてものが決まるものか。

 

 才能や素質、天稟や資質なんていう魔導師を構成する数多くあるファクターのうちのたった一部分のせいで、台なしになんてさせはしない。血反吐を吐いて地べたに()(つくば)っても、そんなことはさせない。

 

「連れて帰るって……約束、したんだから」

 

 ここが胸突き八丁、正真正銘最後の最後だ。この山場を越えれば、終わるのだ。

 

 ここからは何も考えなくていい。帰り道はクロノかユーノにでも任せてしまえばいい。アリシアを助けることこそが、俺がこの場所にいる理由だ。

 

 命を燃やせ。魂を焦がせ。燃料がないなら、我が身を燃料としろ。

 

「っ……ぅおォああァァッ!」

 

 血を吐き散らしながら、咆哮する。それは覚悟を決した雄叫びであり、襲い来る痛みを紛らわせるための悲鳴でもあった。

 

 憔悴(しょうすい)しきったリンカーコアを叱咤して魔力を生み出し、アリシアのリンカーコアへ送り込もうとする。

 

 魔力を捻出して送る時、全身が錆びた金属を擦り合わせるように軋む印象を受けた。ぎぃっ、ぎぎぃっ、と強引に重たいものを動かそうとしているイメージだ。

 

 目一杯に力を込めると、刹那の空白をおいて、次いで留め金が外れたかのような感触があった。

 

「あがッ……かっあ、はッ……ッ!」

 

 ばつん、となにか大事なものが千切れた音が、体内で残響した。凄絶なまでの痛みで一瞬、思考の八割までもがホワイトアウトする。危ういところでなんとか意識は手放さずに済んだ。

 

 俺の身体の中で、リンカーコアでなにが起こっているのか俺自身知るべくもないが、渇き果てていた魔力が少量ではあるものの湧き出した。

 

 滲み出たそれを、アリシアの小さな身体へ注ぐ。俺の魔力は深く深くへ進行し、その最奥、リンカーコアへと辿り着く。無色透明の魔力は拒絶反応など寸毫(すんごう)も示さず、アリシアへと直接的に供給された。

 

 輪転させるだけの魔力を手に入れたアリシアのリンカーコアは、久しく忘れていた己の役目を思い出したように、全身へと魔力を伝送する。

 

「これで……もう、大丈夫な……はず」

 

 機能不全を引き起こしていたリンカーコアは復調し、再起動するための魔力も得た。それほど間を置かずに心臓が動き、肺は呼吸を始め、自力で魔力を取り込むことができるようになるだろう。

 

 ぷつりぷつりと断線が目立ち始めた意識をこれ以上保っていられないので、今すぐにでも床に伏して微睡みに沈みたいが、アリシアの状態を確認しないことには安心して眠ることもできない。俺は魔力を送り続けた。

 

「んっ、ぁ……マ、マ……」

 

 数十秒ほど、一分経つか経たないかという時、ようやく望んでいた、待望していた、熱望して切望していたバイタルサインが現れた。

 

 肉つきの薄い胸の奥のほうで、とくん、と見逃してしまいそうなほど弱々しく、されど確かに力強く、心臓が鼓動した。一定のリズムで呼吸が行われ、胸が上下に動く。

 

 寝言のように呟いたアリシアの声は、一夜のうちに散る華のように切なく、湖面に浮かぶ月のように幻想的に、木陰で羽を休める小鳥の(さえず)りよりも美しく響いた。

 

「あ……っ、あり、しあ……っ! アリシアっ!」

 

 プレシアさんは感極まった様子でアリシアを抱き締めた。

 

 長期間にわたって身体を動かしていなかったので、アリシアの筋肉は弱くなっているだろうし硬直もしているかもしれない。アリシアの体調を鑑みると無闇に動かすのは、あまり褒められた行為ではない。

 

 だとしても、正論はそうだとしても、だからといってプレシアさんを止めることなどできようはずがなかった。恋い焦がれて、(こいねが)って、ようやく再び自分の腕の中に抱くことができたのだ。そんな野暮な口を、俺は持ち合わせていない。

 

「よかっ、た……」

 

 アリシアが、目を覚ました。

 

 深い眠りと悪い夢から抜け出したように、アリシアの瞳はとろんと虚ろだ。これが現実と認識できているのか不安に感じるほどにぼんやりとした面持ちでプレシアさんの胸に顔を(うず)めていた。

 

 久しくまともに使われていなかった眼球ではすぐにピントは合わないだろうし、なによりリンカーコアの機能不全から復帰した直後である。すぐに頭も満足に働くとは思えない。問いかけにちゃんと反応して返答できるようになるのは、もうしばしの猶予が必要になる。

 

 猶予が必要ではあるが、時間という休息が癒してくれる。時が経てば、喋ることができる。リハビリや周りの協力もいるだろうが、時が経てば自分の足で動くこともできるようになる。

 

 窮地は脱した。峠は越えた。

 

 もうなにも、心配することはない。

 

 アリシアから離れた手にはまるで力が入らず、肩から指先まで骨が溶けたみたいにだらりと垂れ下がる。リニスさんが背後から抱き留めてくれてはいるが、そのフォローがあっても姿勢を維持することができなかった。

 

 視界が暗転し、床へと倒れ込む。

 

「もう、いいよな……」

 

 プレシアさんは大粒の涙を流し、アリシアは母親の濡れた頬に手を伸ばして触れる。意識が断たれる寸前、目にした光景。

 

 その情景に重なるように、紫色と水色が視えた。小さな水色の光を優しく温かく包み込む、紫の光。二つの光が紡ぎ合わされるように螺旋を描いていた。

 

 そんな二人の姿を最後に捉えて、俺の意識は途切れた。




次の話で最後になると思います。


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自分の意志を貫き徹した末の結末

「前にも見た覚えのある、光景だ……」

 

 文鎮でも吊り下げているのかと思うほど重たい瞼をこじ開ければ、眩しいくらいの白で彩られた天井。こてんと頭を倒せば象牙色の枕があって、右目を下方へとやれば身体に密着しながらも圧迫感皆無のふわふわとした毛布が掛けられている。

 

 ここは管理局艦船、アースラの医務室だ。以前、リニスさんと戦った後運ばれたのもここだった。

 

 俺が医務室にいるということは、崩落しつつあった時の庭園から無事に抜け出せたということに他ならないのだが、はたして誰がここまで運んできてくれたのだろう。アリシアにハッキングしている最中は必死だったのでクロノやユーノに任せればいいや、などと適当に考えていたが、冷静になるとクロノやユーノの体格で俺を運ぶというのは相当な苦労になりそうだ。

 

「アリシア……大丈夫なのかな」

 

 薄ぼんやりした記憶を探るが、アリシアの蘇生を完了したところまでしか思い出せない。そこからぷっつりと綺麗に抜け落ちていることから推測するに、俺の意識はそこで途絶えたのだろう。

 

 あそこから急激に体調が悪化、などということになっていなければ良いが。

 

「今日は何日で、今は何時なんだ……」

 

 前回医務室にぶち込まれた時は俺を心配してなのはが隣で寝ていたが、今回はいないようだ。なのはがいれば必然的にレイハもいるので、レイハに日付と時間を手っ取り早く教えてもらえたのだけれど、いないのならば仕方ない。

 

 肩を回して現在のコンディションを確認する。多少気怠い感はあるが、眠りから覚めて頭は冴えているし気分も悪くない。ちょこっとくらいなら動くのも問題ないだろう。

 

 絶妙な反発力とふわふわぬくぬくの布団から出るのはかなりの気合を要するが、ここから出て人を探そう。艦橋(ブリッジ)にでも行けば誰かしらいるはずだ。

 

 テスタロッサ一家がどうなったのかも気がかりだ。策が上手いこと機能してくれていることを祈るしかない。機能していたとしても九分九厘リンディさんから怒られるけれど。

 

 掛けられていた毛布を勢いよく剥がし、身体を左にずらしてベッドから降りる。温かいお布団でぬくぬくしていたので、適温を維持しているだろう室内の気温が少しばかり肌寒かった。

 

「って、ぅわぅっ! ユーノいたのかよ!」

 

 身体を左に向けると、ユーノがベッド脇に置かれている丸椅子の上で船を漕いでいた。

 

 大方、いつ俺が起きても誰か一人はいれるようにと交代で医務室にいてくれたのだろう。優しいな、本当に。

 

「ん……あ、兄さん……」

 

「あ、悪い。起こしたか」

 

 驚きのあまり大声を出してしまったせいで寝ていたユーノを起こしてしまった。

 

 黄土色の髪の毛はところどころぴょこんとはねている。俺に叩き起こされたせいで、男の子にしては大きな瞳がとろんと眠たげに潤んでいた。

 

 ユーノはぱちぱち、と何度かまばたきすると、徐々に目を大きく見開いた。弾けるように椅子から立ち上がって俺に詰め寄る。

 

「に、兄さん!? か、からだは大丈夫ですか?! 気持ち悪かったり、貧血気味だったりは!?」

 

「おおう……。だ、大丈夫だ。腕とか足はまだちょっと動かしづらいけど、それ以外はなんともない」

 

「よ、よかった……っ、ぼく、しんぱいでぇ……っ」

 

「ごめんな、もう本当に大丈夫だから」

 

 駆け寄ってきたユーノは一通り体調を確認すると、俺の服の胸元を両手で握り、俯いて涙声になった。

 

 想像はしていたが、やはりユーノはかなり心配してくれていたようだ。当の本人である俺もこんなことになるなんて計画にはなかった。ともあれ、心配をかけたことには違いない。申し訳ない限りだ。

 

「あ、そうだ……クロノにも連絡を入れておかなきゃ……」

 

 少しして落ち着いたのか、ユーノは目元をくしくしと拭うと一歩ぶんほど離れて瞑目(めいもく)する。

 

 クロノに連絡云々と言っていたので、おそらく念話で俺が起きたことを伝えているのだろう。ユーノから連絡を受ければ、きっとクロノはすぐにここまで来てしまう。憂鬱だ、絶対に怒られる。

 

「クロノに念話を入れておきました。リンディ艦長にはクロノのほうから言っておいてくれるそうです」

 

「リンディさんにもとんだ迷惑をかけちゃったな。ぶっ飛んだ迷惑とも言えるけど」

 

「あと、クロノから伝言です。『すぐに行く。逃げるなよ』だそうです」

 

「…………」

 

 くっ、読まれていたか。

 

 というよりも、怒られて(しか)るべきなのだ。俺が死傷してしまった場合、クロノやリンディさんの管理責任となってしまうのだから。

 

 いくらプレシアさんやアリシアを助ける為とはいえ、それだけのことをやらかしてしまった。甘んじて叱責を受けよう。

 

「はぁ、気が重い……」

 

「クロノも心配してましたからね。クロノが怒るのはそれだけ兄さんに親しみを感じているからです。怪我をしてほしくないからなんです。一種の愛情表現ですから、こってりとしぼられてください」

 

「わかってるって。わかってるから、更に気が重いんだ。……まあ、それはそれとしてだな」

 

「それはそれとしてって……本当にわかってるんですか?」

 

「わかってるってば。気になってたんだけど今日は何日なんだ? 俺はどれくらい眠ってた?」

 

 クロノが俺を叱りに来るまでびくびくしながら待つというのも非生産的だ。気になっていた点を尋ねておくことにした。

 

 正直なところでは日付やらなんやらよりもテスタロッサ一家への処遇のほうが気がかりだが、そちらはクロノに訊いたほうが詳しいだろう。クロノにぼっこぼこに叱られてから教えてもらおう。

 

「今日は五月五日です。時間はたしか昼前くらいだったはずです」

 

「それじゃあ丸一日は眠り続けていたのか」

 

「あれだけのことをやり抜いて一日と少し昏睡しただけで起きたほうにびっくりしますよ。医務官さんも三日は起きないと、下手をすれば一週間以上眠り続けるかもしれないと仰っていましたから」

 

「いやあ、慣れてるからな!」

 

「笑えませんよ」

 

「ご、ごめん……」

 

 軽く冗談で流そうとしたら、ユーノから液体窒素ばりに冷たい目を向けられた。

 

 そんな視線をどこで覚えてきたのやら。この子には歪まず健やかに育ってほしいけれど、俺が近くにいてはなかなか真っ直ぐには育たなそうだ。

 

「そ、そういえば、プレシアさんが持っていたジュエルシードってどうなったんだ? 十三個もあったわけだけど……」

 

 ユーノのつぶらな瞳を直視できないので話題をすり替える。

 

 実際この件についても憂いていたのだ。俺が意識を失ったあと、ジュエルシード群(あれら)の対処はどうしたのか。

 

「ああ……。それは、ですね……」

 

 先とは一転し、ユーノが気まずそうに目線を逸らした。

 

 その時だった。ユーノの背後から空色の結晶が浮かび上がり、弧状の魔力粒子による輝線を描きながら俺へと飛来した。

 

 見紛うはずがない、エリーである。背中になにも担いでいないユーノの背後からご登場遊ばせたということは、フードにでも入っていたのだろうか。

 

 エリーはぴかぴかとその身を瞬かせながらも光量は抑えられている。俺の無事を喜んでくれているが、完全復活ではないので派手に喜びを表現するのを控えているのだ。

 

 頬に擦り寄ってくるのはちょびっと邪魔だけれど愛らしくもあった。

 

「それで、どうなったんだ?」

 

「兄さんの言うエリー、ですか? そのジュエルシードがですね、兄さんが倒れるや否や十三ものジュエルシードを吹き飛ばしたんですよ。怒り狂うように魔力流を放って、外縁部辺りの岩盤もろとも虚数空間へと叩き落としてしまったんです」

 

「わお……」

 

 ひし形の結晶体の上端と下端をつまんでエリーを見る。すると『やりすぎちゃいましたっ』みたいなはっちゃけた光をぽわぽわ放出した。

 

 いや、本当にやりすぎだよ。

 

「純粋な魔力流でしたがその密度が密度でしたので、十三のジュエルシードはほぼ機能を喪失したように静かに虚数空間へと落下していきました」

 

「な、なんかごめんな。ユーノはジュエルシードを回収するために俺たちの世界に来たのに……」

 

「いえ、いいんです。僕が回収しようとしてたのはジュエルシードが暴走したり使用されたりして事故や事件が起きないようにするためでしたから。虚数空間に落ちるのなら、それはそれで構いません」

 

「それならいいんだけど……。あと、そうだ。時の庭園からは、みんな無事に脱出できたのか? 床とか崩れそうだったけど」

 

 ぺたぺたとくっついてくるエリーを手で退けながら、ユーノに尋ねる。

 

 俺がアリシアにハッキングを仕掛け始めた時でさえ、足場となっていた岩盤はあかねが補強をしてくれていたが崩落間近といったふうだった。外側とはいえ、エリーが魔力流でぶち抜いてしまったのならそこからダメージが波及して全て壊れてもおかしくない。

 

 ユーノは困ったように笑みをこぼす。

 

「そっちについては……赤黒い色のロストロギアがなんとかしてくれました」

 

 その紹介を待ってましたと言わんばかりの勢いで、ユーノのポケットから深い赤色の球体が飛び出した。言わずもがな、あかねである。

 

 緩やかな軌道で俺の頭上へと近づくが、あともう少しで接触するというところでエリーが間に入って邪魔をした。

 

 かちん、と音を鳴らして、お互いがお互いに結晶体にぶつかる。睨み合うかのように僅かな隙間を空けて浮遊し続けていた。

 

 次元を航行しているアースラの一室で、エリーとあかねが喧嘩でもおっ始めれば大変なことになる。下手をすればこの艦が沈みかねない。

 

「お前ら仲悪いな……。仲良くしろとまではいかないから、せめて喧嘩はするなよな」

 

 比喩でもなんでもなく、両者の間で火花を散らしつつあったので、右手と左手、二つの手に分けてエリーとあかねを握り込む。暴れたりしないだろうかと不安だったがそれらしい抵抗はなく、意外にあっさりと収まった。

 

 今回の件の功労者とも言うべき二人にする扱いではないが、話が前に進んでくれないのでエリーとあかねにはしばしの間我慢しておいてもらおう。

 

「暴れ出しそうなロストロギアを、しかも二つを素手で落ち着かせるような人間は兄さんしかいないでしょうね……」

 

「暴れるなんてとんでもない。こいつらにとってはただの口論だ。そんで、あかねが一役買ったみたいだけどなにがあったんだ?」

 

「崩れかけた地盤を魔力で固めてくれたんですよ。僕たちがいた最下層から転移ゲートのある階層まで。そのおかげで安全に、しかも迅速に離脱できました」

 

「へえ……あかねが、ねえ……」

 

 意外、と言ってしまってはあかねに悪い気もするが、やはりどうにも意外としか言いようがなかった。一時は人という生き物そのものを恨み、無差別に傷つけようとしたあかねが帰還ルートの確保するというのは。

 

 それが精神的成長なのか、それともやむにやまれぬ事情があったのかはわからないが、理由はどうあれ全員を安全に退去させたことは変わらない。このまま素直な子に育ってくれたら嬉しい限りだ。

 

 右手に握っていたあかねを解放し、レイハより一回りほど小さな球状の結晶体を親指の腹で撫でる。するとあかねは、刺々していながらもどこか柔らかい光を放った。あかねの性格から察するに、嫌がってはいないようだ。

 

 そうやってユーノに時の庭園から脱出した時の話を聞いていると、こん、こん、こん、と医務室の扉が控え目にノックされる。どうぞ、と短く応えると静かに扉がスライドした。

 

「徹、もう起きて大丈夫なのか?」

 

「おう、平気だぞ。……そっちこそ大丈夫なのか?」

 

 顔を向ければ、入室してきたクロノの髪は若干乱れており、よく見れば目の下にくまもできている。

 

 おそらくロストロギア回収の報告書に加えて、プレシアさん絡みの諸々でレポートを纏めていたのだろう。フェイトたちへ温情をもらえるように内容を練っていたのかもしれない。

 

「ああ、僕は少し寝不足なだけだ。本局へ送る書類に手間取っていた」

 

「そうなのか……手伝えることがあったら言ってくれよ」

 

「まずは自分の身を気にするんだな」

 

「はは……耳が痛い。悪いな、クロノ。迷惑かけた」

 

「……はぁ」

 

 俺を見て、クロノはこれ見よがしに嘆息した。片手を腰にあてて威厳っぽいものを小さな身体から醸し出す。

 

「徹が僕にかけたのは迷惑じゃない。心配をかけたんだ。もうあんな真似はしないでもらえるとありがたい」

 

「おいおい……格好良すぎるぞ」

 

「持ち上げても説教の時間は変わらないからな」

 

「そんなつもりはないって。本心だ」

 

「また馬鹿なことを……」

 

 尖った言い方はするものの、クロノは照れたように頬を指先でかいていた。ユーノが口を(つぐ)んで生温かい微笑みを向けていたことも要因だろう。

 

「起きてから何も口にしていないだろう。軽食は既に頼んである。あと喉が渇いているだろうと思って、これも持ってきておいた」

 

 医務室の入り口から見て右奥に位置する俺のベッドへ、クロノは緩やかな軌道を描きながら何かを投げた。どうやら小さめのペットボトルのようだ。

 

 薄水色の液体が回転して撹拌されながら飛来する。病み上がりの俺に渡してくるのだから違うとは思うが、もしや炭酸飲料ではなかろうな。

 

「あだっ」

 

 右手を伸ばして受け取ろうとするが、ペットボトルは俺の手から逸れて(・・・・・・・・)頭部に強打した。液体が詰まったペットボトルにはなかなかの威力がある。かなり痛い。

 

 俺の頭で跳ねたペットボトルはぽふん、とベッドに落ちた。

 

 打った箇所を右手でさすっていると、小馬鹿にした光を点滅させながらもあかねが自身の魔力を器用に使って俺の手元までボトルを運んでくれた。言っていること(こいつの場合光っていること、だが)とやっていることがちぐはぐである。

 

「ありがとな、クロノ。……クロノ? ユーノも……どうした?」

 

 ペットボトルを掲げながらクロノに感謝をするが、反応はない。クロノだけではない、ユーノもだ。

 

 クロノは眉間に皺を寄せ、ユーノは目を伏せて顔を背けている。

 

 状況を掴めない俺を尻目に、クロノは近づく。

 

 それを見て何かに気づいたように、俺の近くをふわふわと漂っていたあかねが一瞬強く輝いて、右腕の上腕部あたりにくっついた。寄り添うみたいな動きだった。

 

 左手に握っていたはずのエリーも、無理矢理に手の拘束から抜け出して、あかねとは反対側、左の二の腕あたりに触れる。

 

 意図が判然としない行動だった。

 

「アースラに帰投した時、徹は意識を失っていた」

 

「あ、ああ……俺も記憶がないし、そうなんだろうな」

 

 ベッド脇にまで歩みを寄せたクロノが表情を曇らせながら言い辛そうに、けれど、言う。

 

「吐血や喀血がひどかったから……このアースラでも出来る、可能な限りの精密検査を行ったんだ」

 

 クロノは目を合わせようとしなかったが、ここにきてようやく視線を交わす。

 

 俺の目を見ているはずなのに、なぜか違うところを見ているような印象を、クロノから受けた。俺の顔の中心よりわずかに左を、クロノは注視していた。

 

「外傷は特に見受けられなかった。ほとんどがかすり傷や軽度の打撲で、すぐに治せる程度のものだった。内臓器官は著しく弱っていたが、安静にしている限りには問題ないとのことだ」

 

 本題はここからだ、とクロノは続ける。怒りと悔しさともどかしさを混ぜ合わせ、遣る瀬なさでコーティングしたような顔だった。

 

「精密検査は身体の内外のみならず、魔力に関しても診断する。……リンカーコアに一部、異常が見られた。心当たりがあるんじゃないのか?」

 

「心当たり、ね……」

 

 思い当たる節がないわけではない。というよりも、思い当たる節しかないとまで言える。

 

 度重なる魔力の過消費。これ以上の原因はないだろう。

 

 リニスさんとの戦闘、あかねの救出、極めつけにアリシアへの治療。その都度魔力を使い続けて、使い果たした。

 

 限度を堂々と踏み越え、限界を悠々と飛び越えた。これでなにもないほうがおかしい。

 

 それに俺自身、アリシアの治療の際、身体の中で異常が生じているのを認めていた。

 

 そして今も、感じている。

 

 体調を崩していたり、気分が悪かったりするわけではない。実際に試したわけでもない。

 

 これは感覚だ。大事ななにかを喪失したという感覚があった。

 

「兄さん……僕、は……」

 

 今にも泣き出してしまいそうな表情で、ユーノが俺を呼ぶ。

 

 ユーノの立場であれば、その心境は複雑なものがあるだろう。大元を辿れば、ジュエルシードの回収の協力を要請してきたことから俺となのはは今回の一件に関わった。端を発したのはユーノだった。

 

 だからといってユーノを責める気など微塵もない。手伝って欲しいと申し出があったからなのはは心を動かされ、真摯な姿勢と対応をユーノに見たからこそ、俺も協力することにした。

 

 最終的に判断したのは俺だ。手伝うと決めたのは俺の意志だ。

 

 責任の所在は、ユーノにはない。

 

「気にするな、って言ってもお前は気にするんだろうな。だから今は、これだけ言っとく。ユーノと出逢ってから大変なことは何度もあったけど、引き受けなきゃ良かったなんて一度も思ったことはない。後悔はしていない」

 

 ユーノへと顔を向け、思い悩む必要はないと伝わるように微笑みかける。

 

 しかし、ユーノの瞳はさらに潤み、口元を歪ませる。

 

 ごめんなさい、と一言呟き、医務室から飛び出した。

 

 当事者である俺が言ったところですぐには納得できないだろう。自分の中で落とし所を見つけるしかない。

 

 あとからクロノにフォローを入れてもらうように頼み込もう。

 

 ばん、と小さくない音を室内に響かせ、扉が閉まる。小さな背中を追っていた目を、話の主題に戻す。

 

「それで、クロノ。俺はどこをやられてた?(・・・・・・・・・)

 

「二つ……ある。一つは射撃。もう一つは……魔力付与、だった……」

 

 渋面を作り、歯を食い縛りながら搾り出すように、クロノは口にする。

 

「そっか。まあ、仕方ないな」

 

 空気の重さを振り払うように、努めて軽く俺が言う。

 

「仕方、ない……?」

 

 その軽薄さが気に障ったのか、クロノの形相が一変した。声に苛立ちが混じる。

 

「仕方ないなんてッ、そんな一言ですませていいものではないだろうッ! そんな言葉ですませられるものではないだろうッ! 徹が並々ならぬ努力を重ねて、戦闘に使えるレベルにまで押し上げたんだ! その努力が、徹の頑張りが、奪われた(・・・・・)んだぞ!」

 

「無理をしたら、それくらいの代償を負うことになるってわかってた。さっきも言ったろ、後悔はしてない」

 

「後悔してないなんて……強がりだ……ッ」

 

 クロノが言った二つの魔法。射撃魔法と、魔力付与。その適性を、俺は失った(・・・)

 

 その前兆、予感のようなものはあった。アリシアへとハッキングする際、魔力が足りなかった俺は空っぽの状態から無理矢理に搾り出した。

 

 その時、激甚な痛みとともに何かが切れるような、腱を断裂したような、そんな感覚があった。

 

 それが、二回。回数と失った適性の数は符合している。おそらく、不要な部分を削って無駄をなくしたことで、ほぼゼロから魔力を捻出したのだ。

 

「強がりじゃないって。そりゃ、ちょっとは困ることになるけどな。射撃魔法はクロノから直々に、わざわざ時間を割いて教えてもらったから悪いと思ってるよ」

 

「僕のことなんかどうだっていい。徹は射撃魔法の適性は低かったが、工夫して実戦に耐えるだけの強度を生み出した。徹の特性(魔力色)と射撃魔法の組み合わせは、適性の大小を補って余りある利点だったのに……」

 

「射撃魔法は今回役に立ってくれたし、そもそも上限が見えていた。もとから先はなかったよ。それよりも魔力付与だな。俺の唯一の武器だったからなあ。……もう、お前たちには渡り合えそうにないな。つっても、最初から肩を並べられてなかったからあんまり変わらないか」

 

「何を言ってる……僕はまだ、鮮明に覚えているぞ。魔法という技術を知って間もない人間が、短時間とはいえ僕に食い下がった。徹には、適性や素質は乏しくても才能はあったんだ……。限られた手札の中で戦い抜く才覚が……」

 

 歯噛みして、拳を握り締める。リノリウムに似た材質の床を、クロノは見つめた。

 

 俺は幸せ者だ。力をいくつか失ったことを、本人である俺以上に悲しんでくれる人がいる。幸せ者と言わずになんと言えばいいというのだ。

 

 ユーノもそうだが、クロノも責任感が強い。自分の力が及ばなかったせいで、などと自分自身を追い詰めるかもしれない。

 

 だから。

 

「クロノからしてみれば虚勢を張っているように見えるかもしれないけど、本当に気にしなくていいぞ。使い方次第でまだやりようはあるし、いざとなれば新しい戦術を組み直すからさ」

 

 だから、これ(・・)は、言わないほうがいいだろう。重荷に感じさせてしまうかもしれない。

 

 正直なところ、適性などに関しては踏ん切りがついている。こうして深く介入してしまった訳なのでこれからも多少は管理局に関わることもあろうが、しかし今回のような大事件はそうそうないだろう。事件があったとして、その案件を任される道理もない。残された能力で手伝えることを探せばいい。

 

 それよりも、大きな問題が一つあった。

 

「…………」

 

「それよりも、プレシアさんやフェイトたちの処遇について聞きたいんだけど

……。クロノ、どうした?」

 

 一度話を切って声をかけるが、俯いたまま反応をしない。

 

 顔を覗き込めば、小さく口を開こうとしているのが見えた。

 

「このまま黙っていれば気付かれないとでも思っていたのか?」

 

 どくん、と一際強く心臓が脈打つ。

 

 感情が込められていないフラットなボーイソプラノが部屋に残響した。

 

「な、なんの話をしてんだよ……」

 

 精密検査をしたとクロノは言っていたが、それは外傷とリンカーコア、つまり魔力についてだ。内側についての診断をしてはいないはずだ。

 

 わかるわけがない、気づけるわけがない、そう思っていた。

 

「なあ、徹……。お前、左目……見えてないんだろう……」

 

「は……な、んで…………」

 

 その期待を、呆気なくクロノは裏切る。

 

 言葉を失う俺に、クロノは畳み掛ける。

 

「医務官から言われていた。これだけ限界を超えて魔力を使い果たしていたら、適性だけではなく他の箇所にも影響が出ているかもしれないと。その場ではどこが悪くなっているかわからなかったが、徹の顔を見てすぐにわかった。飲み物を渡した時に、確信した。左目の視力まで、失っている」

 

「いや、違う……そんなことは、ない。ペットボトルを受け損なったのは、筋肉痛で身体が思ったように動かなくて……」

 

「ここには、鏡が置かれていないな。だから徹は気付けなかったんだろう」

 

 鏡、とそう言われて、思わず左目を隠した。今更隠しても手遅れなことはわかっているのに。

 

「左目の、瞳の色が変色しているんだ。銀に近い、薄い灰色に……」

 

「はっ……マジかよ。色が変わるとか、漫画じゃねえんだから……」

 

 だから、か。虹彩が変質していたから、だからユーノは俺の顔を見て、俺の目を見て、医務室を飛び出したのか。居た堪れなくなったから。

 

 左目を覆っていた手を戻す。

 

 両側から、まるで支えるように温かな二つの感触がある。右腕にはあかね、左腕にはエリーが寄り添ってくれている。視界の左半分は暗闇に染め上げられているが、その二つの温もりが安らぎをくれていた。

 

「魔法の適性二つに、左目。赤の他人を助けた代償がそれらだ。それでもまだ……それでもまだッ、後悔していないと言えるのか!」

 

 素質がなかったから、使い物にするために苦心して築き上げた射撃魔法の術式。無色透明の魔力色という特性を最大限活用することができたのが射撃魔法だった。

 

 魔法が絡む事柄で欠片も才能がない俺の、唯一と言っていい武器、魔力付与。魔法という技術体系を初めて認知した時からここまで、戦闘において俺の命綱となっていたのが魔力付与だった。

 

 策を弄する俺にとって、重要な役割を成していたのは視覚だ。相手の動作や癖、どういった魔法を展開するかを捉えてあたりをつけて攻め方を考える。肉弾戦に重きを置いていた俺にとって、いや、どのような形であれ、戦いの中に身を置く者にとって視野の広さは肝で、要で、生命線だ。それが失われたとあっては支障をきたすどころではない。多かれ少なかれ、日常生活にまで影響が及ぶだろう。

 

 それでも。

 

 それでも俺はクロノの問いかけに刹那の間も空けず、一瞬たりとも言い淀まず、心の底から即答した。嘘偽りなく虚偽虚言なく、建前や虚勢もなく、迷いや戸惑いもなく、即応できた。

 

「後悔なんてしていない。もしもう一度やり直せるのだとしても、俺は同じことをする。何度だって、きっと」

 

 そう断言した俺を見て、クロノは信じられないものでも目の当たりにしたかのように見開いた。

 

 下唇を噛んでしばらく黙ると、クロノは小さくため息をつく。

 

 少しだけ口元を緩め、苦笑いを浮かべた。

 

「……徹のそれはもはや、病気だ。そんな自己犠牲は改めた方がいい。命を削ることになる」

 

「はっは、構わないな。助けたい人を助けられないくらいなら、そんなの死んでるのと同義だぜ」

 

「そうだった、徹はこんな人種だったな……変に気を遣った僕がばかみたいだ」

 

「いやいや、心配してもらえるのは嬉しいぞ?」

 

「ぺらぺらへらへらと……まったく」

 

 勝手に言っていろ、と吐き捨てながらクロノは向かい側に移動し、ベッドの周囲に施されている金属製のアーチに体重をかける。腕を組み、いつもの調子を取り戻した。

 

 きゅっ、と身体の両側からの力が強まる。痛くはない程度にエリーとあかねがくっついてきていた。どうやらこの二人は、俺の感情の機微にすら感付くようだ。

 

「さっき徹が訊こうとしていたテスタロッサ達についてだが」

 

「ん、お、おう」

 

 意識をエリーとあかねに移していた時にクロノに話しかけられたため、生返事のようになってしまった。

 

 クロノが怪訝な目で俺を見る。

 

「やはりまだ体調は万全とはいかないのか? どうせまだ答えは全て出ていないことだし、後日にするか?」

 

「いや、大丈夫。プレシアさんたちのことならすぐに聞きたい。……って、え? 答えが出てないってどういう意味だ?」

 

「管理局の上層部に今回の一件が解決したことと、ここまで事件の規模が拡大してしまった原因について報告はしたが、そのテスタロッサ達の処遇についてはまだ決定が下されていないんだ。だから部屋を分けて、形だけは拘留ということになっている。アリシア・テスタロッサだけは状況が状況だけに大事を取って治療室にいるがな。そういえば確かちょうど今、母さんが……んん、艦長が説明の為の諮詢(しじゅん)を受けている頃だと思うが」

 

 とりあえずは、プレシアさんたちが過酷な扱いを受けていないようで安心した。クロノの言う拘留が、アルフが受けていたようなもの程度だとしたら、クロノが言った通り、それは体裁を取り繕うための『拘留』である。内容は歓待と呼んで差し支えない充実っぷりだ。

 

 アリシアについても配慮をしてくれているようだし、俺が口を挟むことはなさそうである。ケアが行き届いているものだ。

 

「ほうほ……ちょ、ちょっと……ちょっと待って」

 

 と、ここで脳内アラートが鳴り響く。

 

 危うく聞き逃しそうになった。いや、聞き逃してもそうでなくても大して変わりはしないのだが。

 

「報告って、これまでの定期連絡に加えて、解決したことも添えて……報告したってことだよな?」

 

「ああ、そうだ。定期連絡のことなんてよく知っていたな。エイミィから聞いたのか?」

 

「ま、まあそんなところ……。そ、そんでリンディさんは上層部の人に今回の一件の説明をしている、と」

 

「だからそう言っただろう。本当ならもっと早く、昨日にでもすべきだったがあまりにばたばたしていたし、向こうの都合もつかなかったからな。今日になった。どうした、徹? 顔色が悪いぞ? しばらく横になったほうがいいんじゃないか?」

 

 まずい、とてもまずい。クロノの声がどこか遠く感じるほど、まずい。

 

 時の庭園を脱出したらリンディさんに話を通しておかなくては、と思っていたのに、ぐーすか寝ていたせいでタイミングを逸した。

 

 これはもはやお説教だけで済みそうにない。折檻だ、確実に折檻が待っている。

 

 様子が豹変した俺を心配してクロノが声をかけてくれるが、とてもではないがそちらに対応できる精神状態ではない。

 

 優しい人ほど、怒ったら怖いのだ。あの若さで高い役職についていることを考えれば、リンディさんは優しいだけではない。厳しく接さねばいけない場合にはとことん厳格に振る舞うだろう。

 

 腹をくくるか、もしくは首をくくるしかないかもしれない。

 

 びくびくと怯えていると、扉の向こうから何かが聞こえてきた。

 

 最初は何が鳴っているのかわからない小さな物音だったものが徐々に近づいてきて、それが足音であることに気づく。床を踏み鳴らす音は大きく、そして早い。

 

 足音と同期するように動悸がする。

 

 言葉遊びをしている場合ではない。直感でわかる。リンディさんだ。

 

 一瞬、逃げてしまおうかな、などと愚かな考えが脳裏をよぎる。しかし、改めた。改めたというより、諦めた、のほうが正確だが。

 

 ふ、と自嘲の笑みすら湛えて、扉が開く光景を眺めていた。

 

 扉が開く。

 

 ミントグリーンの爽やかな髪をなびかせながら、青筋を額に青筋を浮かび上がらせたリンディさんがご登場遊ばせた。果然、予期した通りである。

 

「あら、徹くん。もう起きて大丈夫なの? 元気そうでよかったわ」

 

 リンディさんの表情は笑顔だが、青筋が立ったままだった。ここまで恐ろしい笑顔があるのか。

 

「艦長、説明のほうは終わったんですか? 早かったですね」

 

「ええ、思ったよりすんなりと終わってしまったわ。すんなりと、ね……。ところで……徹君? 私の話を聞いてもらってもいいかしら?」

 

「は、はい……。なんでしょうか……」

 

 雰囲気の異変を感じ取ったのか、クロノの表情が固まった。ずびしっ、と効果音が聞こえてきそうな程の速さで姿勢を正す。

 

「クロノから聞いているかしら。私、ついさっきまで時空管理局の人にね、報告をしていたのよ」

 

「は、はい……聞きました」

 

「それなら話が早いわね。ジュエルシードの一件について、ちょっとだけ都合よく解釈してプレシア・テスタロッサさんや、フェイトさん、アリシアさんたちの処遇を取り図ろうといろいろ思索を巡らせていたの。珍しくすこし緊張しながら上層部の人にお話ししに行ったのよ。そしたらね、顔を合わせて開口一番、なんて言われたと思う? とても不思議なことにね、『いやあ、此度は不運なことが多かったようだねえ』って言われたの。ね、不思議でしょ?」

 

「そ、そそうですね。ででも、でもたしかに不運なことがいくつもありましたけどいやなんでもないです」

 

 鋭い眼差しで射竦(いすく)められた俺は即刻意見を(ひるがえ)した。

 

 ちらりとクロノを見やると、冷や汗を額に浮かばせながら、お前何やらかしたんだ、と目で語りかけていた。何をやらかしたと言われても見当がつかない、心当たりが多すぎて。

 

「プレシアさんたちに掛けられていた容疑なんだけど、大きいものは三つ、あったのよ。時空管理法違反とロストロギアの不正使用、あと一つは管理局艦船への攻撃ね」

 

 罪状を挙げると同時に、白く長い指を一本ずつ立てていく。人差し指、中指、薬指と。

 

「このうち二つ、時空管理法違反とロストロギアの不正使用についてはクロノを経由して、徹くんが提示した釈明を採用させてもらったわ」

 

「こ、光栄です……」

 

 にこにこと空恐ろしい笑みを崩すことなく、リンディさんは薬指と中指の二本をおろす。

 

 残った人差し指は、すぅっと俺の目の前に突き出した。

 

「でも一つ、管理局艦船への攻撃についてだけは、どうしても上を納得させられるような説明を用意できなかったのよ。プレシア・テスタロッサの次元跳躍魔法による雷撃で船が損傷したことは覆せないし」

 

「…………そ、それは……まあ、大変、ですね……」

 

 ずずいっ、とリンディさんが顔を寄せてくる。

 

 俺は座っていて、リンディさんは立っているため、身長差からリンディさんのご尊顔に影が差した。美しさに言い知れない迫力が含まれていた。

 

 クロノに救いを求める視線を送るが、当の執務官さまは、ふいと顔を背ける。見捨てられた。

 

「私すごく悩んだわ。艦船への攻撃に言及されればみんなを助けられなくなるし、確実に助けられるようにしようと思えばプレシアさんにすべての罪を着せることになる。それはフェイトさんたちから母親を奪うということよ。本当にもう、おなかが痛くなるくらいに悩んだわ。でも実際に説明に行ってみれば、向こうは船に攻撃されたことについてなにも追及してこないの」

 

 気が気じゃなかったわあ、とほわほわした猫撫で声で、笑みを端整な顔に貼りつけながらリンディさんは言うが、目が据わっている。もはや『気が気じゃない』はこちらのセリフである。

 

 こんな真綿で首を絞めるような問い詰め方をされるくらいなら、厳しく叱責されるほうがまだ気楽だ。

 

「だから遠回しに探ってみたのよ。『艦の損害についてですが』とかなんとかね。そしたらね、なんて言ったと思う? 『時空嵐に巻き込まれるとは不幸だったね』だって。不思議ね? ね?」

 

「そ、そう、ですね。ふ、不思議ですね。次元跳躍魔法に触れた定期報告でなにか手違いでもあったのかも、しれませんね……」

 

 目を逸らしながら俺が相槌を打つと、リンディさんは俺の頬に手を添えた。

 

 ぐぐぐっ、と強引に俺の目線を合わせ、満面の笑みで口を開く。

 

「どうして徹君が、定期報告で次元跳躍攻撃について触れていたって知っているのかしら?」

 

「えっ……いや、だって……さっき」

 

「定期報告、なんて私は一言も口にしていないわよ? おかしいとは思っていたけど、やっぱり徹君が細工をしていたのね」

 

「むぐぐ……」

 

 リンディさんは俺の頬をつまんで捻る。微笑みが邪悪だ。

 

 くそ、抜かった。定期的に送信されている報告書が改竄(かいざん)されていたことには勘付いていただろうが、誰がやったかまでは判明していなかった。なのに、口を滑らせてしまったせいで俺が実行犯だとばれてしまった。語るに落ちた。

 

 いや、ちゃんと白状する気ではいたけれども。ただ決心がつかなかっただけであって。

 

「ま、まさか徹……報告書を書き換えたのか?! しかし、どうやって……。報告書を書き換えれば日付も変わるし、そもそも管理職の人間と担当者以外には書き換えることすらできないのに……」

 

 ここまで我関せず、という立ち位置を取っていたクロノが横から(くちばし)を容れる。

 

 俺に不利になる時だけ喋るのか、この子は。

 

「ああ……えっと、それは……」

 

「ハッキングを使ったんでしょう? それなら足跡を残さずにアクセスできるものね」

 

「徹、公文書偽造だぞ……立派な罪だ」

 

「しょ……証拠は……」

 

「なんだ? 改竄した証拠を出せなどと言い逃れるのか?」

 

「証拠は残していない!」

 

「その言い逃れは考え得る限り最悪だ……」

 

 存分に俺のほっぺたを弄び、ようやくリンディさんは離れた。

 

「でも結果として、徹くんの犯罪ぎりぎりの行為のおかげでプレシアさんたちには大きな罪は科せられないわ。それだけはファインプレーね」

 

「ぎりぎり、というか犯罪そのものですよ、艦長」

 

「よしクロノ、お前は少し黙っとけ」

 

「細々とした違反はあるけど、そちらはこれからの態度や身の振り方次第で減免もできるし、執行猶予ももらえるでしょう」

 

 リンディさんは腕を組んでため息をつく。

 

 この時ばかりは、一仕事終えたというような、純粋に安心した表情だった。

 

「プレシアさんの罪はほぼ拭われ、アリシアさんは助かって、フェイトさんたちも無事。これ以上望むべくもない解決ね。二人とも、お疲れさま」

 

「一時はどうなるかと思ったものだが……なんとかなったな。徹、お疲れ」

 

「これで、全部……解決できたのか……。フェイトやプレシアさんたちは、また家族で暮らせるように……なるのか……?」

 

 これで今度こそ終わり、なのだろうか。いまひとつ実感がわかなかった。

 

 リンディさんが俺を見て、優しく微笑む。

 

「すぐに、なんて約束はできないけど、プレシアさんたち家族は遠くないうちにまた一緒に暮らせるようになるわ」

 

「そっか……よかった。ほんとに、よかった……」

 

 辛い思いはしたし、痛い目にもあった。諦めてしまいそうになるくらい苦しいこともあった。

 

 でも、守ることができたんだ。誰一人として失わず、一つの家族を崩壊させず、悲しい結末を迎えずに済んだ。やり遂げることが、できた。

 

 それは俺にとって、なによりの褒美で、報酬だ。

 

「まあ、それはそれとして」

 

 リンディさんが飄々と、感動的な空気をぶった切る。

 

「徹君が法に抵触(ていしょく)するような無茶をしたことについてはちゃんとお説教するわよ?」

 

「え、あれ? ここはみんなで頑張ったね、っていう達成感とともに有耶無耶になる流れじゃ……」

 

「そんなわけないでしょう? 時の庭園での行動もそうだし、いくらテスタロッサ家の人たちを助けるためとはいえ、管理局のデータに不法アクセスして改竄したのは紛れもない事実。明るみに出すことはしないけど、今後こういったことがないように厳しくお説教しないと、周りに示しがつかないわ。安心してね、徹君。道連れはここにもう一人いるから」

 

 ぎらり、とリンディさんの双眸(そうぼう)(きら)めく。照星はクロノ少年に定められていた。

 

「あっと、僕としたことが忘れていました! 片付けなければいけない書類が溜まっていました! それじゃあ徹、また手が空いたら顔を見にくるから安静にな。それでは失礼します」

 

 早口にそう(まく)し立てると、クロノは逃げるように扉まで向かう。俺を蜥蜴(とかげ)の尻尾のように切り捨て、リンディさんのお説教と言う名の火の粉が飛んでくる前に退室した。

 

 さすがリンディさんの息子、幼くても執務官と言う要職に就いているだけある。退き際を心得ている。ただ、できればもう少し仲間意識を持ってくれているとありがたかった。

 

 エリーとあかねはいつの間にか、ベッド脇に設けられたサイドテーブルの上、タオルに鎮座していた。

 

 ぴかりとも光らないところを見るに、こいつらはスリープモードにでも入ったのだろうか。小さく動くこともない。

 

 もしかすると俺が目覚めるまでユーノと一緒になって見守ってくれていたのかもしれない。だとすればとやかくと責めることもできなかった。

 

 エリーとあかねが眠りについた今、医務室に残されたのは叱られる側の俺と、叱る側のリンディさんの二人だけ。どうやら助けはないようだ。

 

「うん、わかった。いいよ、俺が悪かったわけだしリンディさんに話を通しておくべきだったんだからな。甘んじて受けよう……」

 

 俺は両手を挙げて目を瞑り、降参の構え。

 

 言い訳のしようがないほど勝手なことをやらかしてしまっていたのだから、反論の余地などありはしない。

 

 今回はうまく事が運んだだけであって、かなり危険な真似をした。命綱なしてで綱渡りをするようなものだ。

 

 しかも、リンディさんやクロノにもリスクを背負わせてしまった。何か一つでも歯車が狂っていれば、二人の立場も危うかったのだ。

 

 即逮捕もあり得たのだから、お説教で済ませてくれようとしているだけ感謝しなければいけない。

 

 すた、すた、と足音が近づく。ベッドのすぐそばまで寄ってきた。次いで、ぎしっ、とスプリングが軋む音。

 

 あれ、なんでスプリングが、と思う間もなく、それは訪れる。

 

「よく頑張ったわね、徹君」

 

「え、あ……」

 

 突然の抱擁に驚いて目を開く。

 

 リンディさんはベッドに膝をついていた。

 

 俺を両手で抱き締めながら、彼女は喋る。声からはからかっている様子も、冗談の気配もまったく感じられない。

 

「ちょっ、ちょっと……なに? 説教するんじゃないの?」

 

「そうでも言わないとクロノはこの部屋から出て行かないでしょう?」

 

「なんでクロノを追い出す必要が……」

 

「そうじゃなきゃ、徹君は素直になれないじゃない。年下がいたら強がっちゃうでしょ……徹君は」

 

 ならば、先のお説教や道連れ云々はクロノを退室させ、二人きりになるための方便だったのか。

 

 だとしても、リンディさんはなぜわざわざこんなことを。

 

「徹君の後遺症については、もう聞いているわ。適性二つと、左目の視力。テスタロッサ家の人たちを助けることが徹君の願いだったとしても、つらいわよね」

 

「後遺症なんて言いかたはやめてくれよ。俺が下手を打っただけなんだ。それに、後悔なんてしてないから……。適性だって他を流用すればどうにかなるだろうし、左目だって完全になにも見えないってわけじゃない。今気づいたんだけど、人の魔力が目で見えるみたいなんだ。リンディさんの魔力は髪色と同じミントグリーンでさ、すごく綺麗で爽やかな色彩が……」

 

 ぎゅうっと、抱き締める力が強くなる。言葉が途切れた。

 

「後悔してなくても、つらいのは本当でしょう? 徹君は分が悪い状況でも嘘をつこうとはしないものね。ただ、本音を隠すだけ。助けたことを後悔はしていなくても、苦しんでる。わかるわよ、見ていれば……」

 

「そんな、こと……な、ぃ……」

 

 心の中を見透かされているかのようで、俺自身ですら見えない部分を見抜かれているかのようだ。

 

 心臓が熱い。頭が真っ白で、言葉が出てこない。

 

「本気でフェイトさんを助けたかったのでしょうし、本心からプレシア・テスタロッサさんを守りたかったのでしょうし、アリシアさんを救いたかったというのも本願なのでしょう。みんなの居場所を壊さずに済んで良かったと、本当に心の底から思っているのもわかるわ。だからこそ、耐え難い。努力して磨き上げてきた武器がもうなくなってしまったことが」

 

 リンディさんは片手を俺の背中に回し、もう片手は頭に持ってくる。語りかけながら、俺の頭を優しく撫でる。

 

「他に言えないわよね。『後悔はしていない』としか、言えないわよ。つらいなんて、失いたくなかったなんて口に出せば、フェイトさんたちに重荷を背負わせることになってしまう。徹君の犠牲の上で成り立っている幸せだと、そう認識させてしまうから……本心から断言できる『後悔()していない』という言葉を使うしかなかった」

 

 抱き締められた温もりと、包み込んで癒してくれるような柔らかさ。耳を撫でる穏やかな声。母の面影。

 

 纏わせていた心の殻が、ぼろぼろと音を立てて剥がれていく。

 

「徹君の周りには、年下しかいなかったものね。年長者としてみんなの前に立って、後ろのみんなを安心させないといけない立場だったもの。無理をしていたのよね……よく頑張ったわね。泣きたいのを歯を食い縛って耐えて、足が折れそうになるのを懸命に奮い立たせて、手が震えそうになるのを必死で誤魔化して、いつだって頼りになる大きな背中を年下のみんなに見せてきた。徹君が前に立って引っ張ったから、みんなこうして無事でいられているのよ。だから、だからね……」

 

 胸が締めつけられているように、息苦しい。目元が熱い。視界が滲む。

 

 すごく不安だった。これで正しいのかと、ずっと自問自答していた。こうして強がる必要のない大人に優しく包まれて、ようやく気づいた。

 

 俺は心細かった。

 

 ふらふらと漂わせていた両腕を、リンディさんの背中に回す。幼い子どものように、彼女に抱きついた。安心感に浸りたくて、腕に力を込める。

 

 彼女はなにも言わず、黙って強く抱き締めてくれた。

 

 堤防が決壊するかのように目から熱い涙が溢れる。声を押し殺すことなど、できなかった。

 

「今だけは、守ってきた子たちは誰もいないから……泣いてしまいなさい。頑張ったぶんだけ、甘えてもいいの。誰も見ていない、私しかいないから……もやもやした感情を吐き出しなさい。全部、受けとめてあげるからね」

 

 

 

 

 

 失ったものは少なくない。

 

 けれど、救えた命もまた、少なくはなかった。

 

 自分の意志を貫き徹した(すえ)の結末だ。誰も欠けることなく、命を落とすことなく、生きている。無論、俺だって。

 

 左目を失ったからなんだ、もう片方がある。

 

 適性を二つ失ったからなんだ。魔法を知った瞬間からまともに使える適性などなかったのだ。既存の魔法を改造して転用するか、いっそのこと新しい魔法でも作り出してしまえばいい。

 

 失ったものなんぞどうとでも代用できる。なくしたものより、得たもののほうが多いし、大きい。

 

 なにも問題なんてない。なにも支障なんてない。困ったことがあればその都度対処していけばいい。

 

 目下俺の頭を悩ませているのは、姉にどう説明するかという点と、リンディさんの顔を見れそうにないという点くらいのものである。




はい。というわけで最終話でした。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
長かったですね、まさか一年と数か月かかるとは思いもよりませんでした。本当ならAsまでやりたかった、というよりも、はやての結末を認めたくなかったがために書き始めたんですけどね。なにがどうしてこうなった。

感想について。
返信できなくてすいません。この話を書き終えて、感想はすべて読ませていただきました。
この場を借りて、お礼申し上げます。応援してくれた多くの方、ありがとうございました。続き書かないの?とかって言われるのはとても嬉しかったです。
返信できなかったことについてはただただ申し訳ない限りなのですが、書いている途中に感想欄に目を通していたら、僕の脆い精神は半ばからポッキリと逝っていた可能性がありました。真摯に受け止めて作品に反映させるべきなんですけどね。

最終話について。
続きを書く予定なんてなにも立っていないのに、次のための伏線を張るという。
弱体化するのは仕様です。
続きを書くことが、もしかしたらあるかもしれません。ただメンタルがすこぶる貧弱なので、すぐには書けそうにありません。
機会があれば、またちらりとでもいいので見てくれると嬉しいです。無印編はやりきったとはいえ、やりたいことはいっぱい残っていますからね……。
キャラクターへの愛着がやばい。

初めて書いた二次創作の作品でどうにかこうにか完結までこじつけたのは良かったのですが、やはりいろいろ未熟な部分が散見されました。いつかリベンジしたいです。
話を簡潔にして、余計な描写を省く。テンポをよくするというのが一番の課題ですね。たくさん突っ込まれたリニスさんとの戦闘、あれは頑張れば半分くらい削れた気がする。ううむ、その時は必要だと思っていたからこそ書いたとはいえ、やっぱり悔しいなぁ。
一番最初の構成ではループ物をやろうと思っていたので、『リリなの』でもう一度やるとしたら、たぶんそんな感じのお話になるかと。なぜ今作でループ物をやらなかったのか、理由は簡単です、技術が不足していると分かり切っていたものですから。いつの日か書けるといいな。

たぶん、そう遠くないうちに違う二次創作に手を出すと思います。見かけて興味を持っていただけたら覗いていただけるとありがたいです。いつ書き始めるかもまだ考えていませんけれど……。


さて、最後にもう一度謝辞。
長きにわたってお付き合いくださり、本当にありがとうございました。感想を書いてくださった皆様、評価をつけてくださった方々、拙い文章を読んでくださった人全員に感謝です。ありがとうございました。
それでは、またどこかで。


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魔法少女リリカルなのは 幕間編 第一章
決意表明


お久しぶりです。一年以上、二年近く経ってしまっていますが、今更ながら再び書き始めようかな、などと厚かましく考えております。
感想を見て、とても元気をもらいました。感想の一つ一つが、僕の砕け散った心をつなぎ合わせてくれました。感想をくれた方々、それだけではなくこのお話を読んでくれていた方々、ありがとうございます。
シナリオですが、無印編と二期の間が作中でけっこう時間が開いていることから、繋ぎのお話を差し込むことにしました。そのためここからオリジナルの要素も増してくると思います。ご容赦ください。
感想欄で多く寄せられていました後日談については、一応書き進めてはいます。話に組み込まれているので後日談と呼んでいいかは疑問ですけれど。
あとですね、以前使っていたパソコンがぶっ壊れてしまいましてですね、行の頭とか感嘆符や疑問符のあとに空白を入れる等、書き方の仕様が変わっています。申し訳ないですけど、ご理解ください。
どこまで続けられるか自信がありませんが、出来る限り頑張ろうと思っています。あらためて、よろしくお願いします。




本日のメニューは、豚の角煮と鰆のムニエル、小龍包とパエリア、特製ドレッシングのシーザーサラダ、ボルシチというラインナップで、ずいぶんと多国籍な食卓となりそうだ。というのも、これらすべては我が姉、逢坂真守の好物であり、今回の一件についての謝罪を兼ねた晩餐なのである。おかげで、まだ調理を始めていないというのに材料だけで台所はしっちゃかめっちゃかの様相を呈していた。

 

「さて、どれから手をつけたものか……」

 

正直、ちゃんと作ろうとすればどれか一つでも相当に手間がかかる料理ばかりなのだが、こればっかりはぼやいても仕方ない。やるしかないのだ。これで許してくれるのなら安いものである。

 

「フェイトちゃんとアリシアちゃん、やったっけ?徹が助けた子らって」

 

リビングダイニングのソファで寝っ転がっている姉ちゃんが口にする。フェイトとアリシアの名前を出した時点で自明であるが、俺はもう全てを説明した。

 

四月十五日から始まった、長いようで短く、短いようで長かった一件を。

 

 

アースラの医務室で目覚めて、ユーノに気苦労を負わせ、クロノに友愛の名を借りた説教を散々受け、リンディさんにべったべたに甘やかされて慰められたのが五月五日。今日はその翌日だ。

 

正直なところ、前日の五月五日の覚醒時点で体調にそれほど深刻な症状はでなかった。時の庭園での戦闘による負傷と疲労が、いかに治癒魔法といえど短時間でここまで綺麗に癒えるとは到底思えないので、エリーとあかねが何らかの処置をしてくれたのだろう。

 

なにはともあれ、動くだけならすぐにでも動ける状態だった。だったのだが、クロノとリンディさんが急に体調が悪化するかもしれないからと強く言って留めてきたので、様子見ということで昨日は医務室に泊まらせてもらった。

 

そして本日、五月六日の朝のこと。医務官さんに身体に異常がないかどうかを診察してもらった。なぜかその際、徹夜が続いているのか目元の隈を濃くしているクロノと、ぽやぽやとした母性全開で慈愛顔を携えたリンディも立ち会っていた。

 

リンディさんは艦長という立場もあって事後処理が山のようにあるだろうし、クロノは溜まっている仕事に忙殺されているのが目に見えていたのだが、俺の斜め後ろくらいに立って診察風景を眺めていた。俺が心細くならないようにという配慮だったのかもしれないが、付き添いをするくらいなら少しでも休んでほしい。俺の身より二人の健康のほうが心配だ。

 

魔法や機械類による検査の結果、前もって聞かされていた魔法適性二つ(射撃魔法と魔力付与魔法)と左目以外に特段の異状は見受けられなかった。ただ、疲弊しきったリンカーコアも、負った手傷も回復していたことには医務官さんが首を傾げていた。そりゃまあ不思議でしょうね、本人ですら不思議でいっぱいなのだから。

 

こうして医務官さんから『もう大丈夫』とのお墨付きを得た俺は、体調の悪化を懸念してもう数日ほどアースラで休んでいたらどうか、と言うハラオウン親子のご厚意を謹んで辞退し、強引に退艦する運びとした。

 

したのだが。帰り際にクロノとお喋りしたり、いっそ過剰なほど世話を焼こうとするリンディさんに捕まったり、エイミィとセキュリティ関連の議論をしていたりするうちに時間が経ってしまい、自分の世界に降り立った頃にはすでに太陽は真上を通り過ぎていた。

 

昼食は食べ損ねたのでどこか適当な店で腹を満たそうかとも考えたが、これ以上姉ちゃんを待たせるわけにはいかないと思い直し、道草も食わず帰路についた。

 

そして。

 

想像通りに家にいてくれた姉に、想像以上に負担をかけてしまっていた姉に、すべてを打ち明けた。

 

ユーノと出逢い、ロストロギアと呼ばれる異世界のロストテクノロジーをなのはとともに集めていたことを。異なる文化と技術を持つ世界のことを。数多ある世界を平穏に保つためにそれらを管理監督する組織があることを。

 

そしてフェイトのこと。プレシアさんのこと。アリシアのこと。俺が首を突っ込んでいたことの次第を、あまねく、もれなく、すべからく説明した。

 

とつとつと語る俺に、姉ちゃんは驚いて、戸惑って、怒って、心配して、悲しんで、叱って、でも最後まで聞いてくれた。語り終えた時には安堵して、喜んで、労って、複雑そうな顔をしながらも頭を撫でて褒めてくれた。

 

それで俺が『今まで黙っていたことについて謝る』と言ったら『好きなご飯いっぱい作って!そんなら許す!』と返してきた。そんな経緯があり、舞台をキッチンに移して格闘しているのである。

 

おそらく謝罪をご馳走というわかりやすい形にすり替えることで長引かないようにしたのだろう。気が利く姉である。

 

「そう。お姉ちゃんがアリシアで、妹がフェイト。双子みたいなもん」

 

姉ちゃんは暗い雰囲気を早々に払拭したいようだったので、その気遣いに乗っかって俺もつとめて明るく返事をした。

 

「めっちゃかわええんやろ?ごたごたが落ち着いたら家に呼んでぇや。お友だちになりたい!仲よくしたい!愛でたいっ!」

 

これも場の雰囲気を明るくする一環のジョークだと信じたい。

 

「結局それが目的かよ。撫でくりまわしたいだけだろ……。アリシアには家に遊びにくるように約束したけど、まだまだ時間はかかると思うよ。アリシアが外を出歩くには体調面で万全を期したほうがいいだろうし、いろいろ後処理とか手続きとかあるだろうし」

 

「そっかぁ……。よし、徹。その二人がすぐ遊びにこれるように協力してあげなさい!」

 

「言われるまでもなく協力するつもりではあったけどそういう言い方されると無性に癪だなー」

 

姉ちゃんにそう返しつつ、作業は止めない。幸いにも焼き物だったり煮込み料理だったりと、やろうと思えば並列調理が可能だった。腕がもう一対欲しいところではあるが。

 

「それにえっと……関数空間やったっけ?」

 

「言いたいことは伝わるけども。虚数空間な」

 

「そう、それ!いっぺんに専門用語並べてきてんもん、ごっちゃなるわ」

 

「なんか数学っぽい単語だってことだけは憶えてたんだな。で、虚数空間がどうしたの?」

 

「フェイトちゃんたちの家、っていうかお城?はその虚数空間にあって、そんで崩れて今はもうなくなってもうたんやろ?住むとこないんやったらこの際うちに住んだらええんちゃうの?部屋やったら余っとるし」

 

「いったいなにがどう『この際』なのか……」

 

「なんや、徹はいやなん?」

 

「いやじゃないけど。むしろ住んでほしいくらいだけど」

 

「せやったらええやん。呼ぼうや」

 

さすがに肉やら野菜やらを切る手を止めて、リビングのソファでだらけている姉ちゃんに振り返った。

 

泣き腫らした赤い目と、ぼさぼさに乱れた髪が痛々しくて、罪悪感に胸が軋んだ。

 

「……そうなったらいいんだけど、そんな簡単なもんじゃないんだってば。一応三つの大きな罪は擦れ違いから生じた誤解だったってことにして誤魔化したけど、まだいろいろ残ってんの。今回の一件の範疇でさえ細々とした違反はまだいくつかあるらしいし、それ以前のも含めれば相当数が手付かずで放置されてる。すぐに管理局の監視を外して無罪放免にはならないよ」

 

俺の答えは姉ちゃんのお気に召さなかったようで、むすっと頬を膨らませてクッションを抱き寄せ、ぎゅむっとかかえた。クッションを絞めている、と表現してもいいくらいの圧力だ。

 

「じゃあこれからフェイトちゃんたちはどうやって過ごすん?監獄みたいなところで四六時中悪いことせぇへんか見張られながら生活するって言うん?」

 

「いや、納得いかないっていくら何でも投げやりすぎるよ、その考え方。べつにそんなことにはならないって。なんか時空管理局に協力したら、執行猶予と司法取引のごった煮みたいな制度でわりかし自由は確保できるようになるらしい」

 

「なんやそれ、ずいぶんふわふわした仕組みやな」

 

「解釈しやすいように噛み砕いて憶えてるだけだからな。実際はもうちょっとちゃんとした言い回しで説明してくれた。まあそんな感じの仕組みがあるってことがわかればそれでいいんだけど。それで、プレシアさんやフェイトたちの動向を把握する監察官……後見人も、今回の件で世話をかけた時空管理局の人、リンディさんが引き受けてくれるって言ってくれた。だから窮屈な思いはしないで済むと思うよ」

 

「おぉっ!それはええことやな!徹を助けてくれたその時空管理局とやらの組織の人には、いつか会うてちゃんとお礼言わなあかんなぁ。でもその立派な役職についてるらしい人が後見人についてくれるんやったら、フェイトちゃんとアリシアちゃんもすぐに家に泊まりに、ひいてはここで暮らせるようにも……」

 

きらきらと輝かんばかりの笑顔で言う姉ちゃんに背を向けて、晩御飯の準備に戻る。現実的な話をしようにも、無数の星を散らしたような瞳を直視しながらではできなかった。

 

目をそらした俺は、オーブンを見ながらフライパンを揺らしながら鍋の灰汁を取りながら、姉ちゃんが期待を膨らませる前に釘を刺しておく。

 

「それでも……もう再犯の恐れなしと判断されるまでは、模範的に日常を過ごして仕事をこなして信頼を勝ち取らないといけないんだろうな」

 

「なんでやぁっ!」

 

切れるまでが早すぎる。

 

ぷっちんした姉ちゃんは抱きしめていたクッションを俺に投げつけてきた。クッションを足蹴にして姉ちゃんのもとまで返す。気持ちはわかるが理不尽だ。

 

「いや、そりゃそうだろ。上層部の人間が、まだなんの実績も役職もない、以前ちょみっと悪いことをした魔導師を一般人の家に監視もつけずに送り出すなんて許すわけないっての」

 

「それやったら後見人の人も一緒に泊まったらええやんかぁっ!」

 

「その後見人がすごい忙しい人なんだよ。今回のことだって、他にたくさん仕事があるのに全面協力してくれてるんだ。こっちの都合でせっかくの数少ない休日を潰させるわけにはいかないでしょ。そもそもプレシアさんやフェイトたちが受け入れてくれるかどうかもわかってないのに」

 

「むぐぐぅ……」

 

姉ちゃんは小さい両手を握りしめてぷるぷるし始めた。理解もできるし納得もできているけどそれでも認めたくはないのだろう。どれだけテスタロッサ家の美少女姉妹に会いたいんだ、この姉は。

 

しばらく背中で姉の唸り声を聞いていたが、急に止まった。と同時に、クイズ番組の回答ボタンを押したときに発生する、ぴこんっというような効果音を幻聴する。

 

「はっ!ひらめいたっ!」

 

いやな予感しかしない。いやな、予感しか、しない。

 

「……一応訊いてあげよう、何を閃いたの?」

 

「徹が、管理局?ってとこのえらい人から信頼されて任されるくらいの立場になればええんや!」

 

どうしよう、理解も解釈も追いつかない。

 

「えっと……つまりどういうこと?」

 

「だぁ・かぁ・らぁ」

 

細い指を三回振って、出来の悪い生徒にわかりやすく解説する女教師みたいな真似をしだした。激しくいらっとする。マサイ族クラスの視力のくせして眼鏡をあげる仕草までした。もちろん眼鏡などかけたことはない。甚だしくいらっとする。

 

「協力してもらった徹が、今度は時空管理局の人たちに協力すんの!助けてもらった恩返しができるし、信頼されて仕事を任せてもらえるようになったらフェイトちゃんやアリシアちゃんやプレシアさん?の助けにもなるやろ?」

 

突拍子もないことを言い出すわりに存外メリットが多いから、この姉は手に負えない。

 

たしかにクロノやリンディさんには報いるべき恩が、いや、その二人だけじゃない。アースラの乗務員全員に恩義がある。

 

やむにやまれぬ事情があったとはいえ、プレシアさんたちはアースラの乗組員全員に迷惑をかけた。魔法という技術が認知されていない世界で堂々と魔法を行使してみたり、アースラの情報処理システムにハッキングを仕掛けてみたり、アースラに直接雷撃をぶちこんでみたりと、こうして列挙してみればかなりやらかしてしまっている。普段から職務に追われている彼らにわんこそば感覚でさらに仕事を送り込んでいったのだ。

 

怒りを買ってもおかしくないのに、むしろ当然なくらいなのに、アースラの人たちは快くプレシアさんたちを受け入れてくれた。彼女たちを救うために立ち上がってくれた。尽力してくれた。

 

その厚意に、その善意に、その義侠心に、どうにかして報いたいと胸の片隅でずっと考えていた。

 

考えていた、けれど。

 

「……難しいかな。予想以上にいい提案ではあったけど」

 

手伝えることなら手伝いたい。しかし、今の俺に、一体何ができるというのだろうか。

 

あえてこの単語を使おう。そもそも俺は『才能』のある方ではなかった。

 

これまでなんとかなったのは、無色透明という一風変わった魔力色が偶然、本当にただ偶然備わっていたからだ。相手に対しても自分に対しても、だましだまし使っていただけ。残りの要因は行き当たりばったりなその場しのぎの勢いと、ひらめき頼りの大博打だ。まあ、それだけやってもまともに勝利を納めた記憶はないのだが。

 

「ちょっと前ならまだしも、今の俺じゃあなにもできない。仕事場を荒らすだけになる。邪魔をするだけだろうな」

 

ぐらぐらと煮える鍋を見つめながら、呟いた。半ば以上、自分に向けて放った言葉だった。

 

昨日、リンディさんに慰めてもらったときは何か別の手段で代用すればいい、なんて(うそぶ)いてみたけれど、その代替案がまるで浮かばない。

 

いつものように思考が回らない。歯車が噛み合っていない。気持ちだけが空回りし続ける。

 

そんな俺の頭に、突然衝撃が走る。

 

「こんのっ、あほぉっ!」

 

「いだぁっ?!」

 

物理的な衝撃だった。後頭部を痛打した淡いピンク色をした小さななにかは空中で高速回転し、やがて重力に従って落下し始めた。肉を煮込んでいる鍋に入りかけた投擲物(とうてきぶつ)を右目で視認した俺は、慌てて右手を伸ばす。

 

左目に暗幕がかかっているせいで距離の感覚が鈍い俺だが、何度かお手玉したのちにキャッチに成功した。

 

姉ちゃんの威勢のいい掛け声とともに投げ放たれたのは、テーブルに置かれた小物入れに入っているはずのリップクリームだった。小さい子向けのイチゴ風味の歯磨き粉みたいな甘ったるい香りが特徴の、姉ちゃんのリップクリームであった。

 

「なにしてくれてんだ!危うく鍋にナイッシューされるとこだったぞ!俺言っただろ、全部説明した時に!左目見えなくなったって!」

 

俺の至極当然でまっとうなクレームに我が姉はーー

 

「うっさい!そんなん魔法でなんとかせぇ!なに情けないことほざいとんねんっ!」

 

ーーなどとこんな切り返しをしてくれた。

 

まさか返す刀でここまでばっさり斬り伏せられるとは思いもよらなかった。

 

あっけにとられた俺は、脳みその機能回復まで数秒を要した。

 

「ちょっ、あのなぁ……。魔法って聞いたらなんでもできそうな気がするかもしれないけど、あいにくそんなに万能じゃないんだよ。魔法で視力を戻したりはできない。艦にいた専門家に聞いたし、調べてもらったりもしたけど、そんな治癒術式は今までに開発されていない。できることとできないことがあるんだよ」

 

「逃げ口上はそんだけか?せやったらうちが言わせてもらうで」

 

「べつに、逃げてるわけじゃねぇし。自分の現状を正確に認識してるだけだ」

 

はぁ、と姉ちゃんはこれ見よがしに大きなため息をつく。

 

回りくどい言い方はせず、オブラートに包んだりもせず、真正面から追撃してくる。

 

「それは拗ねてるだけやろ、怯えてるだけやろ。実際やってみて失敗すんのが怖いから、行動に移した時うまくできひんくて周囲から失望されんのが怖いから、やりようがない言うて逃げ道作っとるだけや」

 

毅然とした声音で、情け容赦なく、一切の躊躇なく、逢坂真守は言い切った。

 

その台詞に、後ろ暗いことなんてなにもないはずの俺の心臓は、どくんと一つ大きく脈打った。

 

「誰かを助けるために身体を張った……それは立派なことや。その結果、目が見えへんくなった……それは悲しいことや。誰にでもできることやない。やからそこは認める。正しい行いをしたんや、自慢の弟や。そんななるまで頑張ったんは……ちょっと辛なるけど、姉として誇らしい。せやけど、やからこそ……それを逃げるための言い訳にしたらあかんやろ」

 

胸の奥を、ぎゅっと締めつけられた。怒りを感じているわけではない。違う感情が理由だ。

 

的外れなことを(まく)し立てられても、こんな気持ちにはならない。筋違いなことを並べ立てられても、こんなに調子を狂わされることはない。

 

ならば、この動揺の原因はきっと、的外れでも筋違いでもないところをついてきているからだ。図星を突いて、正鵠(せいこく)を射てきているからだ。

 

「だから……っ、逃げてないって!言い訳もしてない!俺は受け止めようとしてるんだ。自分でもなにかできることはないかって探してる……また戦えるようにするにはどうしたらいいかも探してる!それでもすぐには見つからないんだよ!そんな都合のいい代わりなんて!」

 

本心を悟られたくないからか、もしくは本性を暴かれたくないからか、思わず語気が荒くなる。

 

なのに少しも怯む様子を見せず、姉ちゃんは続ける。

 

「まったくヒントがないなんてことはなかったはずや。自分で目をそらしとっただけ。徹が言うてた話の中だけでも見えとった。あれは何日の話やったかなぁ……」

 

「は?なにがあるっていうんだ」

 

姉ちゃんはこめかみに指を当てて目を瞑る。記憶の糸を手繰っているようだ。

 

ほんのわずか、三秒ほどの黙考で口を開いた。

 

「たしか、四月二十七日。アースラっちゅう船?そこで映像を見ててんやろ?自然公園におる人の数が少ないゆうことから映像がダミーに挿し替えられとったことに気づいた言うてたやん」

 

相変わらず本気になると異常なポテンシャルを発揮する姉である。さらっと流した話をどれだけ憶えているんだ。

 

「そうだけど……その話がなんの役に立つっていうんだ」

 

「たしか時空管理局の船は違う次元にあるとも言うとったな。話の後半で、うちらが住んでるこの世界と近い次元におるとかなんとか」

 

「いや、それも言ったけど……だからそれがなんの役に……」

 

「その映像情報は、どうやって船に送られとったんやろな。どんな媒体を通して船に送られとったんやろか」

 

「あ……」

 

気の抜けた声が漏れてしまった。別の位相にアースラがあった以上、望遠カメラなどでは撮影できない。直接聞いたわけではないが、魔法が組み込まれていると考えてまず間違いない。

 

しかし、重要なのはアースラの情報収集方法ではない。要点は、映像情報の取り込み方。

 

つまりは。

 

「治療できればそれに越したことはないやろな。せやけど、現時点で治療による回復は難しい。せやったら、ちゃう媒体を用意したらええ。自前の目が使えんくなったんやったら、代わりに『目の役割を果たすもの』を用意したらええんちゃうの?」

 

姉ちゃんはこともなげにそう言った。

 

目から鱗が落ちるという表現はここにこそ使うべきだろう。笑えるほど俺にぴったりと当てはまる。ぐうの音も出なかった。

 

記憶を漁る。

 

俺は、確かに見ていたのだ。実際のところどんな技術を使っているかわからない曖昧なアースラの技術ではなく、失った視力の代用ができるような魔法を、俺はたしかに見ていた。

 

仕掛けられたダミー映像を看破して、外部からのハッキングを跳ね除けてジュエルシードの収集に向かった日、その先の話だ。主街区にほど近い、大きな倉庫が建ち並ぶエリア。リニスさんは、アースラから出撃する俺の姿を捉えていた。

 

サーチ魔法、などと言っていたか。その魔法で、転移するところから倉庫街に華麗に着地(若干表現に誇張あり)するところを見ていたと語っていた。それを使えば、左目の代わりに、いや、もしかすると使い方次第ではさらに便利にできるかもしれない。

 

姉ちゃんの意見に可能性を感じた俺だったが、素晴らしいアイデアを与えてくれた姉ちゃんは俺とは対照的に表情を暗くしていた。

 

「ぁ、ん……えと、みんなの不幸を避けるためにがんばってきた徹に対して酷な言い方になってもうたけど……そうやって解決する方法もあるんちゃうかな。失った視力を取り戻したいて思うんはあたりまえやろうけど、でも先が見えへんねやったら今はなにか別のもので代用して、治療方法が発見されるのを待つっていうのも……ひとつの、手段やと……お姉ちゃんは……」

 

とても申し訳なさそうな顔をしながら絞り出すように姉ちゃんは言う。もしかして、俺が話の途中でいきなり黙り込んだから傷ついたなどと勘違いさせてしまったのだろうか。俺の心情的には正反対なのだが。

 

まだ左目の代替品のあてができただけだし、これがうまく運ぶとも限らない。しかも依然として戦闘手段の喪失については解決策がない状態だが、俺はかなり気持ちが前向きに変わってきている。

 

昨日嘯いた通りに、違う技術で埋め合わせが可能かもしれない。俺にもまだできることはあるかもしれない。確定しているわけではないのに、こんなにも心持ちが変わるとは思いもよらなかった。

 

可能性を目の前にぶら下げられただけで、こんなにも走りたくなるとは思わなかった。

 

姉ちゃんの言葉は叱咤激励であって、(そし)りでも酷でもない。俺のことを思いやってこその厳しい物言いであると、ちゃんと理解できている。

 

「姉ちゃん、ありがとう。おかげで伸び代を見つけることができそうだ」

 

「そ、そうなん?ほんまに?無理してへん?お姉ちゃん、ちょっと言いすぎてもうたから……」

 

「ほんとだって。これからどう頑張ればいいか方向性がわかっただけでも、充分にありがたいよ」

 

俺がにこやかに礼を述べると、もはや半泣きだった姉ちゃんはにへらっと相好を崩した。

 

「そ、そっか。そっか、よかった……。徹くんがお姉ちゃんのこときらいなって家出てってもうたらどうしょうかと……」

 

「妄想がネガティブすぎるわ。俺この家を出ていったとしてどこに行けばいいんだ」

 

「せ、せやな。徹くん友だちおらんから、せいぜい行くとこなんて恭也くんとこか忍ちゃんのとこくらいしかないし」

 

「なに卵取るついでに牛乳も一緒に取ろうかな、くらいの軽いのりで傷をえぐってるんだよ。友だちはちょっとだけ増えたし、行くところだってもう少しある!」

 

「そうやったね。友だち増えてんね。真希ちゃんと薫ちゃん。でも女の子の家に転がり込むのは、お姉ちゃん、ちょっとどうやろって思うなぁ」

 

「いや、寝泊まりならネカフェとか深夜まで営業してるカラオケ店とか、あとはカプセルホテルとか」

 

「……その選択肢であれだけ堂々と行く先にあてがあるような宣言するやなんて……徹くんの交友関係の狭さには、時々お姉ちゃん悲しなるわぁ……」

 

落ち込んでいた姉ちゃんを励まそうとしたらなぜか憐れまれてしまった。なにがどうしてこうなった。

 

ともかく残念な気持ちになったのが切り替えのきっかけにはなったようで、潤んでいた目をくしくししてもう一度開いた時には、きりっとした通常モードに戻っていた。ここまで雰囲気が変わるともはや二重人格のような疑いまである。

 

「まったくもう、なんでうちがこんな悲しい思いせなあかんのや。どれもこれも徹のせいや。徹が情けないこと言うからあかんねん」

 

「おおう、全責任をこちらに丸投げされた……」

 

「徹はな、案外できる子やねん。自信持ってとりあえずやってみたらええんや」

 

「二ヶ月前なら根拠もなしに自分を信頼できただろうけど、最近はそうでもないんだ。できないことのほうが多くて無力感と遣る瀬なさに打ちひしがれてるよ」

 

「そないなことあらへんよ。徹の長所は小器用なことと小賢しいことやからね」

 

「小器用はともかく小賢しいは褒め言葉じゃない」

 

「こんだけ喋っとっても料理の手を止めへんところとか、その最たるもんやろ。あんだけシリアスっぽいトーンで語ってるときも、顔色変えて大声張り上げたときも、焦げへんようにしっかりお鍋かき回して、オーブンの火加減調節してるし。笑うとこなんかと思ったわ」

 

「いや、食材使いまくってるから失敗なんてできないし、時間も余計にかかるし」

 

「もう完全に主夫のそれやなぁ」

 

再び調理に本腰を入れた俺を見ながら姉ちゃんはけらけらと笑う。

 

少しは手伝ってくれてもいいんじゃないかなー、なんて軽く愚痴を頭の中で呟いていたが、ここでふと思ったことがあったので聞いて見ることにした。

 

「姉ちゃん的には俺が管理局で働く……ていうかお手伝いなんだけど、そういうことするのって認めてくれる流れでいいの?」

 

うーん、と悩むというよりは言葉を選ぶように、姉ちゃんは小さく唸った。

 

「さすがにちょっと複雑やけどなぁ……。また大怪我して帰ってくんのを見んのはつらいし、悲しいんやけど……でもたぶん結果は変われへんやろうから、しゃあなしってとこやなぁ」

 

「毎回毎回ここまでぼろぼろにはならないだろうけど……。それより結果は変わらないってどういう意味?」

 

言い回しに疑問を感じ、訊き直す。

 

姉ちゃんは苦笑いを滲ませるような声で返す。

 

「うちがあかん言うても、最後は時空管理局ってとこに行くんやろなぁって確信してるから。うちが時空管理局さんのところに協力しに行ったら、って提案しても、提案せんでも、たぶん結局は徹が自分でいろいろ考えて、協力させてくれって申し出たんやと思う。なんにしたってどっちにしたって、早いか遅いかの違いしかないんや。せやったら始めから、行ったらあかん、て迷わせるようなこと言わんと応援したいなぁー、って」

 

照れを言葉の端々に残しつつも、姉ちゃんははっきりと言ってくれた。俺という人間を理解した上で、背中を押してくれた。心配はしているだろうし不安だろうに、第一に俺の想いを優先してくれているのだ。

 

今回の件の解決は見たが、それで『はい、これでおしまい。あとはみんなで頑張ってね』なんて片付けることは俺にはできない。

 

最初はうじうじ悩んでも、きっと遠くないうちに姉ちゃんが言うような答えに行き着いていたのだろう。できることが限られていたとしても、雑用でもなんでも手伝えることをやっていたのだろう。

 

姉ちゃんは、逢坂真守は、俺よりも俺のことを理解していた。

 

「……はは、そういう意味か」

 

これが仮に逆の立場になったとき、俺は同じことをできるのだろうか。いや、できる気がしない。必死で引き止めることが目に見えている。俺は、身内が傷つくことが何より耐えられたいのだ。

 

「ありがとう、姉ちゃん。できることを、一つ一つ探してやってみるよ」

 

俺の意思を尊重してくれる姉に、最大限の感謝と愛情を込めて、ここに宣言した。これ以上ぐだぐだと言葉を並べて言い訳せず、前向きに進むという決意表明だ。

 

身体はキッチンに向け、首だけ回して姉をちらりと瞥見(べっけん)すれば、姉ちゃんはソファに深く腰掛け、膝を抱えていた。袖で目元をくしくしと拭うと、ゆっくり頭をあげる。

 

見ていたことがばれないように、俺は目線を台所へ戻した。

 

背後からかすかに、二度三度深呼吸する声。

 

「がんばってや。お手伝いなんてそないしょぼい言い方したらあかん。もっと信頼を勝ち得てもらわなな。フェイトちゃんとアリシアちゃんを早く家に呼べるようにするためにも!」

 

潤んだ声色で、でも目元を拭う光景を見ていなかったら気づけないほどいつもと同じ調子で発破をかけてくる。

 

余計な気を使われるなんて一番嫌がるだろうから、俺もあえていつもと同じ調子を心掛けて、こう言った。

 

「近いうちに、いつかきっとね」

 




今回はずっと心配させていた姉への謝罪と、これから動き始めるという宣言をする回でした。
ちょこっとだけ書き溜めがあるので、次の話もすぐに投稿できると思います。
次話予告。
事情を説明しなければいけない親友へアポを取る話、です。

余談。
サブタイトルを考えている時に文中に『決意表明』があったので、もうこれ以外にないと思いサブタイトルに使いました。ある種のダブルミーニングになりました。


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果たすべき義理

多くの感想ありがとうございます。元気と勇気をもらっております。





 

驚くべきことに、俺が作った数々の品を姉ちゃんはぺろりと完食してしまった。いや、わりと多くの量を俺も食べたのだが、それを踏まえてもその小さな身体のどこに入るのと問いたくなるほどの量を姉ちゃんは食していた。ハムスターそこのけな頬張りっぷりには少しばかり引いたが、美味しいおいしいと笑顔で再三褒めてくれたので、まあよし。

 

「そんでなぁ、上司の人から電話かかってきとってなぁ」

 

「それっていつ?」

 

「二日前やなぁ」

 

「……電話、出たの?」

 

「出たかなぁ?あんまり記憶ないねんなぁ」

 

「記憶ないって……俺が言うのもなんだけど、だめでしょ」

 

「そんでさっき携帯確認したらな、留守番電話にメッセージ入っとってなぁ」

 

「で、どんな内容だった?」

 

「有り体に言うたら、クビやね!」

 

「元気よく言うな」

 

夕餉(ゆうげ)を終えて一息ついた後、今は台所で二人並びながら食器の後片付けをやっていた。今晩の御雑作(ごぞうさ)は心配させてしまったお詫びでもあったわけだし、俺がやるからゆっくりしていてとは言ったのだが、頑として譲らなかったので一緒に洗い物をしている。

 

今話している内容は、ここに至るまで何をやっていたか、である。特段聞き出そうとしたわけではないけれど、適当にだべっていたら二転三転してこんな話題に行き着いた。

 

どうやら姉ちゃんは俺の安全を気に病むばかりに仕事を無断欠勤してしまいーーさらにそれを繰り返した挙句まともに関係者へ連絡を取ることもなかったーー結果として解雇の憂き目にあったのだと。

 

いやもう、本当にどうしたらいいのか。職場の人たちからすれば、同情の余地こそあれど連絡ひとつ寄越さない人間にはなんらかの処断をせざるをえないだろう。相手側の立場に立った場合、悪いのは絶対的にこちらなのだ。

 

自業自得と切って捨てたいところだが、大本には俺がいるわけで、それはつまり責任の半分くらいも俺になるわけだ。厳しく突き放すわけにもいかなかった。そもそも姉ちゃんを『厳しく突き放す』なんてことはどんな状況であれできないけれど。

 

「はぁ……終わってしまったことを蒸し返しても仕方ない、か。それじゃ、どうする?さっき話してた時空管理局の話にも戻るんだけど、手伝いって言っても一応嘱託……派遣社員みたいな形になるらしいから、微々たるものだとは思うけど給料もあるらしいんだ。働き次第では、あと節約してればそれでどうにかできるかもしれないよ。……まだお手伝いしていいって許可をリンディさんに頂いてもないけど」

 

「やっ、働く!またお仕事探して働く!弟に完全に養われるゆうのはちょっと姉の威厳的なソレがアレやから!」

 

「後半ふわっふわだな。別に気にすることもないでしょ。俺が多少稼いで、それで姉ちゃんが家のことをする。これまでと逆になったって考えればいいんだ。主婦みたいなものって感じでいいんじゃない?」

 

「やん。徹知らへんの?姉弟は結婚できひんよ?」

 

「血縁関係がなかったらできることはできる……って、そんな話をしてるんじゃないんだってば」

 

「あはは、わかってるて」

 

俺がそうツッコミをいれるのを待っていたようだ。姉ちゃんは陽気に笑い、続けた。

 

「お世話になった人らにお返しせえとは言うたけど、さすがにまだ学業のほうに重心を置いといてほしいからなぁ。やっぱりうちが働く!」

 

「そう、か……わかったよ」

 

かちゃかちゃと食器を鳴らしながら洗い、水で(すす)ぐと水切りのための皿置きに立てかけていく。

 

全部終えてタオルで手を拭く姉ちゃんが、ふと思い出したようにこちらを振り返ってきた。

 

「忘れとった。電話のとこで言うとかなあかんことがあったんやった」

 

「あれだけ話を脱線させておいてよく口に出せたな」

 

まあまあ、などと言及をいなしながら手に持つタオルを鞭のようにしならせて俺の顔面をぺちんと打つ。派手な音がしただけで痛くはないけれども、それにしたって追及の回避が乱暴すぎる。

 

「徹の携帯に着信いっぱいあったで。恭也くんあたりが用事でもあったんちゃうかなぁ」

 

「着信があったっていう情報しかないのに相手が恭也に絞られてる。不可解だ」

 

「頻繁に連絡してくる友達なんて恭也くんの他にそうおらんやん。忍ちゃんやったら一件二件くらいで控えそうやし、真希ちゃんや薫ちゃんも以下同文」

 

「んむ……まあ弁解のしようもないんだけど。っていうか、え?そんな何回も着信あったわけ?」

 

「せやなぁ、うちもほとんど放心状態やったからあんま憶えてへんけど、でもそんな状態でもなんか携帯いっぱい鳴ってるなぁって思ったから、やっぱり多かったんちゃう?」

 

そこから姉ちゃんは『お風呂入ってくる〜』とあくびを我慢しながら間延びした声でリビングを出ていった。俺が帰ってきて安心したのとお腹が満たされたことで、眠気がどっと押し寄せてきたのだろう。気が緩んでいる時は子どもみたいな姉である。湯船で寝てしまわないか心配だ。

 

「……嫌な予感はするけど、無視するわけにはいかないよな……」

 

姉ちゃんから遠回しに返信するように促されたので、気は進まないながらも着信を確認する。

 

携帯は五月三日、なのはとフェイトが決闘をして、プレシアさんたちの本拠地へと出撃した日からリビングに置いている充電器に挿しっぱなしだ。まさか最終的にあれほど激しいものになるとは想像していなかったが、大なり小なり戦闘になることが分かっていたので携帯は持参していなかった。

 

充電プラグを引っこ抜いて回収。ソファに腰掛ける。

 

「ほんとにめちゃくちゃきてるし……」

 

通話の着信、メールともに二桁を超える数が届いていた。アドレス帳に登録されてる件数は少ないのに。

 

ひとまず順に、一番最初に送られてきたものを見てみる。

 

最初は電話。相手は(なんだか妙に腑に落ちないが)姉ちゃんの予測通りに恭也からだった。恭也は二件続けて、その次に忍からも着信が入っている。

 

あいつらのことだ、電話に出ないとなればメールで用件を伝えてくるだろう。なので折り返す前にメールのほうを確認しておく。

 

未読のマークがついているメールのうち、一番早く届いているのはもちろん恭也。内容は『どうせ暇を持て余しているだろう。家の手伝いがないから久しぶりに遊びに行くぞ』というもの。土曜日の朝頃に受信された、俺の都合をまったく意に介していないこのメールは、恐ろしい事に原文ままである。俺が悪意的に捉えているわけではない。気心の知れた間柄というのも考えものだ。

 

恭也から大体一時間後に忍からもメールがあった。こちらは省略するが、要するに『あんた一体どこで何をしてるの』といったもの。

 

おそらく俺が電話なりメールなりに一切出ず、なおかつ返さないことを不審に思った恭也が忍にも伝えたのだろう。もしかしたら忍も一緒に遊ぼうなどと予定を立てていたのかもしれない。だとすると大変申し訳ない思いを抱くのだが、俺はその時大変な思いをしていたのでどうか許して頂きたい。ていうか最初から二人で遊びに、もといデートに行けばいいのに。

 

「あ、鷹島さんからもきてたのか」

 

土曜日の昼前頃に鷹島さんからもメールが届いていたが、今は恭也たちの案件から片付けたいので後で確認しよう。

 

しかし不思議だ。恭也や忍が相手だと返信しなかったら後で何言われるかわからないという強迫観念に苛まれるのに、鷹島さんからだとなんだか申し訳ないなあという罪悪感に苛まれる。

 

昼前から夕方くらいまで恭也と忍から断続的に添付ファイル付きのメールが来ている。添付ファイルをロードすると、出掛け先の写メ。食べた物などの写真だった。

 

「くっそ、こいつら……俺がえっせらほっせら頑張ってる時に楽しそうにっ!」

 

きっと『俺たちはこんなに楽しんでるんだぜ、羨ましいと思うんなら早く来い』という嫌がらせのつもりなのだろう。なんなのすごく楽しそう羨ましい俺も行きたかった。

 

メールも電話も着信が多かったのは、こういう嫌がらせと同じタイミングで電話をしていたからか。

 

日が沈むくらいの時間帯に別れたのか、そこから次のメールまでの時間がかなり空いていた。

 

最後のメールはほぼ深夜近かった。夜遅くに着信を入れてくるなんて、思慮深い恭也らしからぬ振る舞いだ。

 

「うっおぉ……」

 

メールを開いて、思わず声が出た。

 

『お前は今、何をしている』

 

たった一行(いちぎょう)の本文。件名もなし。普通ならどういった用件の話なのか、何を指しているのかなどまるでなにも伝わってこないが、だが今回に限っては俺の心臓を槍で突き刺したかのような衝撃が確かにあった。脳内では、俺を問い質す恭也の声が完全再現の上で再生されたくらいだ。

 

「受信時刻は夜遅い……あ、そうか。なのはが家に帰ってきたくらいの時間なのか」

 

プレシアさんたちとの一件の、事実上の落着を見たのが土曜日のこと。緊迫していた事態が二転三転したことで時間の把握なんぞできていなかったが、概ね大団円を迎えてアースラに帰投し、リンディさんに簡単な報告をして艦を降りたとすれば、だいたいこのメールが送られてきたくらいの時間になるのだろう。

 

「んん……でも、なのはが全部話したのか?桃子さんや士郎さんにならともかく、妹のことになると限りなくめんどくさい人間になるあの恭也に?」

 

なのはから恭也に直接これまでのことを説明したとは考えにくい。賢いなのはであれば恭也に話せば、恭也が俺に対して何らかのアクションを起こすところまで考えが及ぶだろう。いろいろと気にかけてくれるなのはが俺を窮地に追いやるようなことしないと思われる。いやはや、年上の矜持など欠片もない。

 

となれば、恭也が自力で察したか。勘の良さには実績と信頼がある恭也のことだからこれならありえる。

 

ただ、察するに至るまでの情報はどこにあったのかはわからない。恭也は表情や雰囲気から違和感や妙な気配を感じ取ることには長けているが、逆に言えばそういった情報源がなければ気づくことは出来ない、はずだ。

 

テスタロッサ家の事件がひとまずの解決を見たのだから、なのはが暗い表情や悩んでいるような雰囲気を出すこともなさそうなものなのだが。

 

いや、そもそも論点が違うのか。

 

「気付かれたとか気付かれてないとか、そんなことはもう……関係ないんだ」

 

俺が心配させていた人たちは、なにも姉ちゃんだけではない。恭也にも忍にも、程度や感情の差こそあれ心配させてしまっていたのだ。

 

特に恭也の場合、家族(なのは)が絡んでいる話なのだから、説明しないわけにはいかない。

 

俺は今日まで黙っていたわけで、それを親友二人は口を挟むことなく見守っていてくれた。ならば果たすべき義理というものがある。

 

「よ……っ、よしっ!腹くくれ、俺!」

 

携帯を操作。メールの受信トレイを閉じて、新規作成画面に移動する。

 

宛先は『恭也』。

 

件名は『大事な話がある』。

 

本文には『明日、忍も連れて時間を作ってくれ』。

 

たっぷり十秒くらいかけて、ゆるゆると緩慢な動きで送信ボタンを押した。

 

電話でも用向きは済ませられるだろうが、それは避けた。こればっかりは顔と顔を突き合わせて、直接言わなければならない。電話口で中途半端に片付けるなんて、してはならないのだろう。

 

「む……むむ……」

 

恭也は今どきの若者らしからず、日頃から携帯電話を携帯していない。なのですぐにメールが返ってくる保証なんてないのだけれど、携帯を握り締めて待つ。

 

無駄に緊張しているのが自分でわかってしまう。いつの間にかソファの上で体育座りしているし、心臓の鼓動が早くなってきているし、ディスプレイなんか穴があくほど見つめていた。

 

むずむずとした隔靴掻痒(かっかそうよう)の感を味わう。早く返信が来てほしいような、けれど返信の内容が怖いので来てほしくないような、そんなもどかしさ。なんだこれ、気になっている人からの返事を待つ乙女か。

 

神経の糸があらぬ方向に引っ張られるような気持ち悪さに耐えきれず、ふうぅぅっ、と一度大きく息を吐いた。

 

と同時に、電子音を撒き散らしながら携帯電話が震えた。

 

「ぬぁりゃあっ!」

 

俺も一緒に震えた。落ち着こうとしていたところに不意打ちが来たので大変驚いた。

 

画面を確認すれば、安堵というか落胆というか、やはり恭也からだ。内容は極めて短く、簡潔だった。

 

件名は俺が送ったものから変えられておらず、本文には『わかった。明日の放課後、忍の家で』とだけ。

 

「はぁ……。なんか、もう緊張してきた……」

 

恭也と連絡がついたので、これ以上返信を待つことに精神力を削られなくてすむのだが、恭也との予定ができてしまったので次は明日への不安が生まれてしまった。

 

これは(つまび)らかに白状すべきことを後回しにし続けて、遠回しに逃げ続けてきた清算なのだから、うやむやになんてできないし逃げられないことはわかっている。わかってはいるのだけれど、それはそれとしてやっぱり気が重い。

 

もう一度、今度は違う意味で大きなため息をつきながら、力が入っていた足をだらんとカーペットに垂らした。頭はソファの背もたれ上部に乗っける。張り詰めていた神経が緩み、どっと疲れた気がした。

 

落ち着きを多少取り戻した頭が、一階の物音を捉えた。浴室の扉が開く音。姉ちゃんが風呂から上がったのだろう。

 

なんだかもう、さっさと風呂を済ませてぐっすり寝たい。なので、残っているメールを手早く確認する。

 

メールの受信トレイの上のほうに、つまり日付が割合新しいほうに、長谷部と太刀峰の名前があった。ほぼ二人同時に送信されていて、両方確認したら両方『バスケしようぜ!』という主旨。受信日時は今日の午前、というか朝だった。

 

なんで平日の朝っぱらに、しかも停学中の俺を誘ってるんだと心なし二人を小馬鹿にしていたが、カレンダーを見れば本日五月六日火曜日の欄が赤く彩られていた。振替休日というものである。

 

なるほど、だから誘ってきたのか、と一瞬納得しかけたが、それでも停学中の人間を呼び出すのはいかがなものだろう。

 

でもなんだかんだで俺も遊びたいので、また機会があれば俺も誘ってくれ、と送っておいた。

 

「おっと、忘れるところだった。鷹島さんからもきてたんだった」

 

鷹島さんからは日曜日に受信があった。新しいメールがいくつか入っていたので下のほうへと追いやられてしまっていて、危うく返信せずに風呂に入るところだった。とはいえこんなに時間があいてから返すのもどうかと思うが。

 

「ん?添付ファイル?」

 

鷹島さんは画像データも乗っけて送ってきたようだ。ダウンロードして画像を開く。

 

「ぶっ……げほっ、こほっ!」

 

思わず噴いた。そしておもむろに携帯を伏せた。誰に隠すというわけでもないが、『これ』を事情を知らない人が目にした場合あらぬ勘違いをしかねない。

 

「いや……めちゃくちゃ可愛いんだけど、妹を隠し撮りするって鷹島さん何やってんの……。バレたら絶対怒られるだろうに」

 

果然といったところではあったが、画像データは写メだった。

 

撮影場所は鷹島さんのご自宅、そのリビングルームのようだ。中央で被写体となっているのは鷹島綾音(たかしまあやね)さんの妹、鷹島彩葉(いろは)ちゃん。

 

件の彩葉ちゃんは当然っちゃ当然だが、部屋着だった。淡いピンク色をした薄手のパーカーと、ちらりと見えるのは白色のインナーシャツ。パーカーと同じ意匠のピンクのショートパンツ。わかりやすく遺伝した、姉とそっくりのふわふわした髪は、無造作に頭の横側で纏められていた。

 

年齢相応ではあるのだろうが、俺が抱いていた印象よりも幼い姿を晒している彩葉ちゃんは、しかしカメラを意識していない。というか意識がない。

 

写メ越しでもわかるお高そうなソファで横になって、彩葉ちゃんはお昼寝ーーと呼ぶにはメールが送られてきた時間からして早すぎるのだが、なんなら二度寝と表現すべき時間なのだがーーしていた。

 

もうそれだけでも致命傷になるほど、画面いっぱいに殺人的なまでの可愛さが満ち満ちていたのだが、さらに上乗せしてきた。

 

「なんでニアスまで一緒になって寝てるんだ……?」

 

ソファの上で仰向けに寝る彩葉ちゃんのちょっとはだけたお腹の上に、純白にしてつややかな毛並みをした子猫、ニアスが丸まっていた。二人(一人と一匹)揃ってお昼寝の先取りだった。

 

奇跡のような刹那の愛らしさを切り取った素晴らしい一葉であることは理解出来たが、なぜこんな写メを送ってきたのか、否、贈ってくれたのかわからない。共感してほしかったのだろうか。それなら俺は全身全霊万言を費やして共感するけれど。

 

写メに目を持っていかれすぎて読んでいなかった本文を今更ながら読んでみる。

 

ふむ。送ってきた鷹島さんからすると、(彩葉ちゃん)のここ最近の体たらくは慚愧(ざんき)の念に堪えないらしい。送られてきた俺からすれば、その可愛らしさは歓喜の念に堪えないが。

 

ともあれ、以下がメールの全文である。

 

『ここのところ、逢坂くんと会えていないからか、彩葉が(ニアスもですけど……)だらけています。目に見えて元気がありません。添付した写真は、宿題をやろうとしていたのに途中で諦めてしまった、の図です。姉としてこれは見過ごせません。なので、彩葉に活を入れるためにもまた今度、時間や予定の都合がつく時で構わないので遊びにきてもらえませんか?』

 

改めて見返してみると、彩葉ちゃんが横たわっているソファの前には足の短いテーブルがあり、画像の端っこには教科書とノートらしきものが見切れていた。ペンすら筆箱に片付けられていないところを見ると、睡魔に抗えずに討ち取られたのか、怠惰にあえなく呑み込まれたのか。

 

「ていうか、俺が行ったところで変わらんだろ……」

 

メールを読んだ俺の率直な感想であった。

 

しっかり者の彩葉ちゃんがだらけているのは、家の中でリラックスできている証拠だろう。あるいは春のぽかぽか陽気にあてられているのか。何はともあれ、気を抜ける場所があるのはいいことだ。

 

どちらにしても、鷹島さんには悪いがどちらかといえば俺は彩葉ちゃん寄りの、休みの日には休みたい人間なので口を出すことは(はばか)られる。

 

「でも、うん、そうだな。彩葉ちゃんがだらけてしまっているのは俺のせいらしいし、それにまた勉強教えたいし、ニアスともまた会いたいし……うむ。同級生の女の子の家行ってみたい」

 

折角いろいろと言い訳を並べていたのに、最後の最後で本音が建前を押しのけて前面に出てきてしまった。

 

以前にもお誘いをされたことはあったが、その時はのっぴきならない用事があったのでお受けすることができなかったのだ。今度くらいはいいだろう。前回と違って重大な案件を抱えているわけでもないのだから、純粋に楽しんでもいいだろう。

 

ちなみに、忍の家には何度も訪問しているがあれは例外。カウントしない。

 

というわけでメールを返しておいた。文頭には返信が遅れたことについての謝罪を少々。その次に、俺が行って何か変わるとは思えないけどそれでも良ければぜひ、と。

 

送信を確認したところで、ぱたぱたと軽快な跫音(きょうおん)を奏でながら姉ちゃんがリビングに戻ってきた。

 

「ふあぁ。ええ湯やったぁ。お次どーぞ」

 

「案外早かったね。眠そうにしてたから、もしかしたら湯船を()いでるんじゃないかと思ってたけど」

 

「お風呂場限定の慣用句を作りなや。ちゅうかなんで知ってんの?お湯につかっとったらうとうとしてもうて、あやうく溺れそうになったからすぐに上がってん」

 

「本当に寝てたのかよ……。危ないし、茹で上がって湯あたりするぞ」

 

「はっ……もしかして覗いとったんっ?!」

 

「頭の中まで茹だってんのかな」

 

携帯をテーブルの上に置き、風呂に入る準備をする。着替えはリビングの隅っこに用意されて、というかほっぽり出されていたのでそれを引っ掴んだ。

 

「姉ちゃんも疲れてるでしょ。早く寝なよ」

 

なにやら『油断しとったわぁ、もう』などぶつぶつ言いながらくねくねしている姉に声をかけた。

 

すると、風呂上がりだからか上気している頬に手をあてながら姉ちゃんがーー

 

「うん、(ねや)で待っとく」

 

ーーなどと頭の悪いことをのたまったので、つるりとしたおでこをノックするように小突いた。姉ちゃんは、みゃっ、と尻尾を踏まれた猫みたいな悲鳴をあげた。

 

「なにすんねん!ええ音鳴ったわ!」

 

「いや、お風呂に浸かりすぎて脳みそが溶けて流れてったのかと」

 

「あるわぁ!頭ん中にいっぱい詰まっとるわぁ!」

 

小さな手で一生懸命殴ってくるので適当に謝っておいた。

 

しばらく拳を振るうと気が済んだのか、ふんっと鼻を鳴らして姉ちゃんはそっぽを向いた。

 

口を尖らせながら、言う。

 

「先に寝とく。おやすみっ!」

 

怒ってますよ、と言外にアピールする姉ちゃんは部屋に向かう。

 

行ってしまう前に姉ちゃんの肩にかかっていたタオルを取り、頭に乗っけて存外長いセミロングの髪を拭く。毛先に水が滴っていたのだ。

 

「寝る前に、しっかり髪を乾かしなって。風邪ひくかもだし、朝起きた時すんごい髪型になるぞ」

 

「うちのほうが年上やねんからなぁっ、お姉ちゃんやねんからなぁっ」

 

わしゃわしゃと水気を拭いとっている間、姉ちゃんはやいのやいのと文句こそ言ってくるが、抵抗はしなかった。

 

あらかた吹き終わると、俺は姉ちゃんの長い髪を纏めてタオルで巻く。

 

「年上なら身嗜みもちゃんとやっといてほしいね。はい、できた。じゃあおやすみ」

 

「むぐぐ。…………おやすみ」

 

白いほっぺたを今は桜色に染めて、ぷくっと膨らませた。反論したいが言葉が見つからなかったのだろう。

 

姉ちゃんはタオルからはみ出た髪のひと房を手慰みにくるくる巻きながら、俯きがちにリビングの扉を開けて出ていった。

 

「風呂入って、俺もさっさと寝るか」

 

姉ちゃんの髪をタオルで巻いた時に邪魔になってほっぽり出していた着替え一式を床から拾い上げ、あとを追うようにリビングを出て一階に降りる。

 

「明日は、気合入れなきゃな」

 

待ち受ける恭也との予定を思いながら、脱衣所に入る。

 

全部打ち明けた時、恭也と忍に何を言われるか、何をされるかを考えると背筋に寒いものを感じるが、それでも募っていた不安は和らいでいた。きっと、長谷部や太刀峰、鷹島さんからのゆるいメールが尖っていた神経を解してくれたのだろう。

 

どう表したらいいものか。二人の親友以外の人間に、こうまで安心を与えられる日が来ようとは思わなかった。





次話は友人たちへの説明行脚、と思いきやアースラに向かいます。


しばらくはテンポよく更新できると思います。書き溜めがだいたい二十万字ほどありますので。



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この一言に集約される

「徹、この案件の資料を取ってくれ」

 

「はいよ」

 

「徹くーん、さっき淹れてくれたお茶のお代わりもらえるかしら?」

 

「さっき淹れたのは……玉露か。すぐに用意するよ」

 

「徹くん、あの、私もお代わりを……」

 

「あはは、わかった。エイミィのぶんも持ってくる」

 

「ごめんね、ありがとう。お茶って、こんなにおいしかったんだね……私勘違いしてたよ」

 

「リンディさんが点ててたのは抹茶だったし、いろいろオプションが付け加えられてたからな。あれがお茶の全てではないのだよ」

 

クロノから頼まれた資料を棚から抜き取り、デスクの脇に置いておく。

 

次いでリンディさんとエイミィのお茶のお代わりを用意するため、お盆に二人の湯呑みを乗せて艦橋(ブリッジ)を退室する。

 

給湯室に該当する場所はないので食堂まで足を運ぶ道すがら、俺はふと思った。

 

「俺の考えてた手伝いとは、なにかが違うような……」

 

現在時刻は十一時過ぎ。場所はL級次元航行艦船八番艦アースラ艦内。

 

そこにて俺は、お手伝いというか雑用らしきことをしている。昨日の気合やら覚悟やらは何だったのかという話だが致し方なきこと。気合と覚悟を入れすぎた結果なのである。

 

 

昨晩、普段より早めに寝たこともあって、起床時間もそのぶん早くなってしまった。太陽が顔を出す前、外がまだ暗いうちにベッドを出て(なぜか隣に姉ちゃんがいた)溜まっていた家の仕事を片付けていたのだが、それも姉ちゃんが起きてくる頃には終わってしまって暇を持て余していた。なんせ恭也との予定は学校が終わってから。放課後なのだ。時間はたっぷりと残っていた。

 

俺は絶賛停学中、姉ちゃんは晴れてニートの仲間入りなわけで、朝食を()ったあとは二人してだらだらしていた。ほかの人たちが学業や労働に勤しんでいる中、姉弟揃って家で(くつろ)ぐなんていう堕落的な悦楽に浸る。これが本当に幸せ。

 

十時を過ぎたあたりで姉ちゃんは仕事を探しに行くとのことで外出することになり、俺はそれを見送ろうとしたのだが『暇やったらお世話になった人たちのとこにお手伝いに行ったら?善は急げ、や!』と半ば命じられる形で俺も家を出た。

 

 

という単純明快な経緯を辿り、早速クロノと連絡を取った俺はいろいろお土産を持参してアースラまで馳せ参じたのだった。

 

「これも手伝いといえば手伝いだし、まあいいのか。どんな形であれ、これが『今の俺にできること』……だしな」

 

食堂の人たちに手を上げて挨拶し、少々調理場にお邪魔する。

 

俺はお茶の準備をしながら、クロノとした話を思い返していた。

 

アースラに乗艦して、俺はすぐにクロノに用件を説明した。世話になったお礼をしたいと、フェイトたちの力になりたいと。

 

世話になったお礼、という点に関しては『僕たちは僕たちの職務を果たしただけだ』とクロノは若干照れくさそうにしていたが、フェイトたちの力になりたいという流れになった時、顔に苦渋の色を浮かべた。

 

俺は何か手伝えることを探そうなどと考えていたが、まず大本にして根幹に、リンディさんやクロノたちの手伝いをするには、少なくとも『嘱託魔導師』という明確で厳密な『資格』が必要なのだそうだ。

 

今回の一件(プレシアさんの案件)は特殊だったために例外的な措置を執ったが、それは通常からは外れたやり方だった。その特殊な事案が解決した今は、例外を適用することはできない。つまり俺が手伝わせてもらう、ひいては仕事を回してもらうには、せめて『嘱託魔導師』というオフィシャルな肩書きが必要なのだ。

 

言い換えれば、その肩書きを手に入れれば誰に(はばか)ることなく手伝えるわけなのだが、その場合、今度は俺の資質が道を(はば)む。

 

「嘱託魔導師の試験……。そりゃあ、戦闘能力の試験もあるよなぁ……。前線で働くことを前提に考えてるんだもんなぁ……」

 

茶葉の入った急須にお湯を注ぐ前段階、湯温が高すぎるのでお湯を冷ますために湯冷ましへ移しながら、ため息混じりに呟く。

 

クロノが言うには、決して戦場で働くだけが嘱託魔導師ではないらしいのだが、やはり大多数は違法時空渡航者なる人たちや、魔法なりなんなりで人に危害や損害を与えた犯罪者を取り押さえるというのが仕事内容なのだそうだ。稀に事務的な仕事をする人もいるけれど、一般的には前線で戦うというイメージ。

 

となれば、戦闘という分野における素質や能力が試験で主軸に()えられるのは自然なわけなのだが、しかし俺にとって相当厄介な関門になることは想像に難くない。

 

あの時(・・・)クロノが烈火の如く怒ってたのは……こういった背景があるからだったんかねえ」

 

『あの時』というのは二日前、二つの魔法適性を失ったと明かされた時のことだ。俺の何処吹く風といった態度に、クロノ少年はそれはもう峻烈(しゅんれつ)に息巻いた。あまりの勢いに驚き、とても記憶に残っていたがその理由が今ならわかる。

 

浅かれ深かれ、時空管理局に所属する際にはどこまでも魔法の素質という(しがらみ)がついて回るのだ。素質に乏しい俺では元から困難だったのに、適性を失って難易度がさらに上がった。だというのに、それを深く気に留めていない様子を見せていれば『何を考えているんだこのバカヤロウは』とクロノがぷっちんきちゃうのも無理はない。

 

「クロノたちの手伝いをするにしても、フェイトやプレシアさんたちの助けになるにしても、ここから始めるしかない……か」

 

戦えるだけの力を手に入れる。俺が前線の起用に耐えうる人材だと知らしめるだけの力を手に入れる。まずはそこから始めなければならない。

 

姉ちゃんの助言もあり、狭まった視界についての打開策には心当たりがついている。ならば同じように、戦闘に直接関与するタイプの魔法も、俺の主力だった魔力付与魔法の代替品も見つけることができるかもしれない。

 

「よし……頑張るか」

 

目標は定まった。希望も生まれたし、やる気も出てきた。目処もなかったこれまでとはモチベーションに雲泥の差がある。

 

問題があるのなら一つずつ解消していけばいいのだ。さしあたっては、リニスさんにご教授願いに行くとしよう。

 

「手伝いのほうも、ちゃんと果たさなくちゃな」

 

適温にまで下げたお湯を急須に注ぎ、右に一周、左に一周、急須の中のお湯を回転させる。湯を巡らすと、しばし浸して各湯呑みに少量ずつ廻し淹れていく。最後の一滴まで注ぎ切り、湯呑みをお盆に乗せ直してリンディさんとエイミィのぶん、ついでにクロノのも完了だ。

 

二週目、三週目にはなってしまうが、お邪魔させて頂いた食堂の人たち用にも注いでおく。大丈夫、人によっては二杯目の味のほうが好きって人もいるくらいだし。

 

さて、リニスさんに会うにはクロノもしくはリンディさんクラスの役職の人の許可が必要だ。上司の心証は良くしておかねば。

 

お盆の上に、持ち込んでおいた茶の子を乗っけて、俺は颯爽と厨房を退出した。

 

 

「いきなり真面目な顔をして来たので何かと身構えれば……。嘱託魔導師試験のために魔法を教えて欲しいなんて……なんとも味気のない話です」

 

「俺にとっては味のある話だぞ。……苦みだけど。逆に味気のある話ってなんなの」

 

「甘いお話です。プロポーズされるとか、愛の告白をされるとか」

 

「ああ、わかった。俺が悪かった。だからこの話はおしまい。用を済ませちゃおう」

 

「やることやっちゃいましたし」

 

「この話終わりだっつってんの。というか『やることやっちゃった』とか絶対外で言うなよ!あと頬も染めるな!深刻な誤解をする人もいるかもしれないから!」

 

フェイトやアルフが収容されていた部屋とほとんど同じ間取りの部屋に、リニスさんは留置されていて、今は俺もいる。

 

これまたフェイトやアルフの時と同様、時空管理局と相対していた犯罪者という扱いではない。監禁などでは一切なく、軟禁よりも自由度は高い。空調完備だし、小型ではあるが冷蔵庫もある。一種のビジネスホテルのようなものだ。

 

審理や事情聴取にも協力的だったそうだし、事件の裏側についても同情の余地がある。アースラの職員さんたちも(あんなに大事になったというのに)好意的なので部屋に閉じ込めておく必要はなさそうに見えるが、やはりそうもいかなかった。いくつかの罪は減免となっているが最終的な判決は出ていないので、形だけ『拘留』という体裁を未だ取っている。

 

「もういいよな?話戻すよ。前にリニスさんが使ってた魔法を……なにきょろきょろしてんの?」

 

脱線した路線を戻そうとしたが、リニスさんは猫耳をぴくぴくさせながら周囲を見回している。警戒しているような雰囲気だ。

 

名を呼ばれたリニスさんはびくんと尻尾を直立させると、こちらに焦点を合わせた。

 

「いえ……プロポーズやら愛の告白やらと口にしたので、あの小うるさい青いのが飛んでくるかと思ったのですが……」

 

「ああ……それでか。つまりきょろきょろしてたのはツッコミ待ちだったと」

 

「あいつのことを憎からず思ってたんだな、みたいな目を今すぐやめてください!そんなこと一切ありません!」

 

「時の庭園でやってた口喧嘩も本気じゃなかったんだなあ。よかったよかった」

 

「やめてくださいってば!風評被害です!」

 

「風評被害って……エリーと仲良くすることにどんな経済損失があるというのか……」

 

リニスさんは顔を真っ赤にしながら耳を伏せさせてしまっていた。どうやら本当に恥ずかしいようなのでこのあたりにしておこう。

 

「そ、それで、いつも徹にくっついている青いのと……あかね、と名付けたのでしたっけ?その二つ……二人?は、今は?」

 

「あの二人なら俺の部屋でお留守番してる。時の庭園でめちゃくちゃ働いてくれただろ?それで疲れたみたいで、最近よく寝てる」

 

「寝てる……ロストロギアが?」

 

「俺が声をかけても反応が鈍いし、寝てるんじゃないかな」

 

「はぁ……なんというか不思議ですね……」

 

「そう?あかねは時の庭園でもちょっと寝てたって言ってたし、普通なんじゃない?」

 

「……そもそも持ち主の考え方が不思議でしたね」

 

などと少しばかり失礼なことを言いながら、リニスさんはベッドから腰を上げて部屋の隅へ。

 

俺に背を向けているので左右に揺れるふわふわの尻尾がよく見える。触りたいという欲望は必死に我慢。

 

「ミネラルウォーターとミルクの二種類を局員の方が冷蔵庫に用意してくれていますが、どちらにしますか?」

 

それじゃミネラルウォーターにしとこうかな。

「やっぱりにゃんこだからミルクを用意されてるのか……」

 

「たぶん考えていることと言っていることが逆になってますよ」

 

頭にぽこん、と軽い衝撃。上から降ってきたものを手に取ると紙コップだった。

 

ドリンクや紙コップもアメニティーグッズと言えるのだろうか。たぶん局員さんの配慮だと思うが、相変わらず行き届いている。

 

俺は投げつけられた紙コップにミネラルウォーターを注いでもらい、ベッドの傍らに置かれていた椅子に腰掛ける。

 

「それで、魔法を教えてほしいとのことでしたが」

 

戻ってきたリニスさんは俺の向かい側、さっきまで座っていたベッドに戻り、手に持つマグカップをサイドテーブルに置いた。一つだけマグカップを用意されていたようだ。お茶目な局員さんが置いておいたのだろう、可愛らしい猫がプリントされたマグカップだった。

 

そのマグカップには、ミルクが注がれていた。

 

「やっぱりミルクにしたんだ。さすがにゃんこ」

 

「服をはだけさせて大声で叫びましょうか?面白いことになるでしょうけど」

 

「ごめんなさい」

 

一つ咳払いを挟み、ようやく本題へ移る。

 

「前に倉庫で戦った時のこと憶えてる?市街地の外れの」

 

「あそこで戦って、徹には獣の如く襲いかかられましたのでよく憶えてますよ。とても怖かったです。思い出すだけで身震いします」

 

冗談めかした口調だが、尻尾がぴったりと身体にくっついているのでどうやら嘘でもないようだ。

 

「そう言われても俺は戦いの後半は記憶がぼんやりしてるんだよな。リニスさんもエリーを奪おうとしたし、痛み分けってことで」

 

「痛み分けと言いますけど、傷の数なら徹のほうが圧倒的に多かったのですが」

 

「傷を創ってくれやがったのはリニスさんだったのに、なにを他人事のようにっ。……って、いや、俺が聞きたいのはそこじゃなくて」

 

「あら……?倉庫の戦闘で私が使った魔法を教えてくれ、という話かと思っていたのですが……違ったのですか?」

 

きょとんとした表情で、リニスさんは首をかしげた。

 

魔法の教授を申し入れて、それで倉庫の話になれば戦闘中の魔法のいずれかと普通は考えるだろう。疑問に感じるのは当然だ。

 

しかし、そこではない。

 

「ああ。あの時リニスさん自身が言ってたことなんだけど、俺が倉庫街にスタイリッシュに到着したところを見てたって」

 

「えっと……徹の世界では自分の身体で地面を削ることをスタイリッシュと表現するのでしょうか……?」

 

「言わねえよ、言うわけねえよ。はいはい、わかりましたよ、言い直しますよ。俺が倉庫街の地面を無様に転がったシーンを、リニスさんは見てたんだよな?」

 

「それなら気持ちよく『はい』と言えます。息ができなくなるほどの笑撃……いえ、衝撃でした」

 

笑いを懸命に噛み殺して、リニスさんは答えた。いや、到底隠せてはいないのだけれど。身体が小刻みにぷるぷるしているし、唇の隙間から空気が漏れているし。

 

「………………」

 

「ふふっ、ごめんなさい。馬鹿にしているわけではないんです」

 

じとぉっ、とした目線を投げつけると、リニスさんはもう取り繕うことすらせずに笑っていた。俺の頭を撫でて『ごめんなさい。続きをどうぞ』と言うので、仕方なしに話を戻す。

 

「……で、そのシーンって、実際に目で見てたわけじゃなかったんだよな?」

 

「ええ。あの時に言ったか憶えてはいませんけど、サーチ魔法を。視覚情報を使用者に送信する端末を作り出して飛ばす、という魔法です。もしかしてそれを?」

 

「そう。それを教えてほしいんだ」

 

すっとリニスさんの瞳が薄く閉じられる。重たい空気が部屋に流れた。

 

「その理由は……左目の眼帯(・・・・・)と関係があるのでしょうか?」

 

今更ながら手で左目を覆う。かさりとした感触が手に伝わった。

 

右目の視野での動作に慣れるために、昨日から目の病気や怪我などで使う眼帯をしていたのだ。使い始めるとこれが思いの外馴染んでしまって着けていることを忘れていた。

 

「……これは、まぶたが、えっと……腫れちゃってて……」

 

俺自身があまり意識してなかったし心構えもしていなかったこともあって、咄嗟(とっさ))にうまい言い訳が出てこない。

 

「っ……」

 

事ここに至って下手な言い逃れをしようとする俺にリニスさんは業を煮やしたのか、驚くほどの力で俺の左腕を引っ張った。引っ張られた衝撃で、右手に持っていた紙コップは床に落としてしまう。

 

一応魔法は使えなくさせられているはずなので、おそらく合気道かそれに類する技術を悪用したのだろう。体重と筋力量で劣っているはずなのに、俺を軽々とベッドに押し倒す。俊敏な動きでマウントポジションを取った。

 

俺の腹部に(またが)り、リニスさんは眉を曇らせて俺を見下ろす。

 

「この部屋に入ってきた時から、どう切り出そうかと悩んでました。その『左目』はどうしたのかと、いつ尋ねようか迷っていました。尋ねるのが……怖くもありましたから」

 

「それじゃあ訊かなきゃいいのに。……気にしなくてもいいんだからさ」

 

俺の上に乗ったまま、リニスさんは首を横に振る。こちらを見つめる瞳は、とても悲しそうな色をしていた。

 

「ダメです。気にしないなんてできません。見ないふりなんて、絶対に……。眼帯……取りますね」

 

「やめとけって。気に病むだけだから……っ」

 

リニスさんの指が顔の左側に迫る。

 

抵抗を試みようとしたが、まるで関節技でも決められているみたいに腕が固定されて動かない。それなりに鍛えている男子高校生が、華奢な猫耳女性に右手一本で両手を拘束されていた。なんとも情けない図である。

 

そうこうしている間に、耳にかける紐をゆっくりと外して、リニスさんは眼帯を取ってしまった。

 

「徹。私に、見せてください」

 

(まぶた)を固く閉じていた俺に、まるで懇願するようにリニスさんは言う。

 

こうなってしまえば、きっとリニスさんは俺の容態を把握するまで解放してはくれないだろう。この人は案外(かたく)なであることを、俺はよく知っているのだ。

 

ため息をつきながら、目を開く。

 

リニスさんは息を呑んだ。

 

「っ、銀灰色……」

 

苦しそうに、悲しそうに、歪む彼女の表情。

 

だから、見せたくなかったのに。この人のこんな顔を、見たくなかったのに。

 

「徹……この瞳、この左目は……光は……」

 

一音一音振り絞るように紡がれる問い掛け。ここまできてしまえば、嘘をつくのはリニスさんへの裏切りも等しい。俺は正直に答える。

 

「光は……見えないな。こんなに近くにいるのに、左目はリニスさんを映してくれないんだ」

 

「っ……。なんてこと……」

 

拘束していた両手を放すとリニスさんは下唇を噛み締めて、俺の胸元に手を置いた。

 

その姿は見るからに痛々しくて、俺以上につらそうで、かける言葉を見失った。

 

「時の庭園にいる時にも……薄々異変には気づいていました。体調の悪化は目に見えていましたが、そちらは激しい戦闘の直後でしたので多少の異変はあるだろうと思いました。しかし……目にも変調をきたしているのはおかしくないだろうかとも、思っていました……」

 

俺の身で起きたことなのに、どういったタイミングで身体に異常が現れていたのかわかっていなかった。どうやら、リニスさんとの戦闘を終えた辺りで異常の種は散見されていたようだ。

 

「無茶をしているのは、わかっていました……。徹の素質で私と正面切って戦うなんて本来できないのですから、どこかで無理をしているのは、わかっていました……」

 

リニスさんは声を荒げて、ぎゅうっと俺の服を握り締める。

 

きっと彼女の心を(さいな)むそれは、罪悪感だ。俺だけに苦労を押し付けてしまったと思い込んでしまっている。自分を責めているのだろう。自責の念が、彼女の良心を軋ませている。

 

「普通の状態ではなかったのは、目に見えていました……。魔法を使って、魔力を使って吐血するなんて尋常の沙汰ではありません……。わかって、いました……わかっていたのにっ!」

 

そういうつもりで打ち明けたわけじゃないんだ。

 

俺が今そう言ってもリニスさんは良しとはしないだろう。本人()からの赦しがほしい訳ではないのだ。きっと、自分で自分を許せないのだ。

 

「何とかしてくれると頼って、期待して、(すが)りついて、もたれ掛かって……徹の無茶を見過ごしました。……いえ、違いますね……。きっと……見ないふりをしていたんです……」

 

俺の服を掴んで、リニスさんはまるで懺悔するかのように語る。

 

「……どれだけ徹の身体に負担がかかっていたかなんて、私が一番知っていたのにっ……私はっ」

 

俺の頬に、一滴二滴と雫が(したた)った。彼女の瞳から、溢れていた。

 

「リニスさん、俺は……」

 

二の句が継げない。言葉が詰まる。

 

どう言えば、彼女に理解してもらえるのだろう。どうすれば、彼女に俺の気持ちを伝えられるのだろう。

 

そう考えて、考えるのをやめた。口に出す前にあれこれ考えては想いが淀む。言葉が腐る。

 

この際、ちゃんと形にならなくてもいい。心の内側から滲み出てくる、もやもやとして形にならない感情を吐き出してしまえばいい。

 

「……正直なところ、けっこうつらいことも……あった」

 

「っ……そう、ですよね。それが当たり前で……それが、当然で……」

 

有耶無耶(うやむや)にして(けむ)に巻くことはしたくなかった。建前でお茶を濁すなんてできなかった。強がって虚勢を張るのも、今日はなしにする。

 

全部話し終えた時、俺とリニスさんの関係がどうなるかはわからない。今の関係を壊しかねない話をすることが正しいなんて判断もできない。

 

でも、何の確証もないけれど、このまま曖昧にすることだけは間違っていると、そう思った。

 

「左目が見えなくなった。俺の主力だった魔力付与は失った。使い物になるまで苦労した射撃魔法ももう使えない。これからどうすればいいか、不安も……やっぱりある」

 

「ごめん、なさいっ……っ、ごめんなさいっ」

 

ぽたぽたと大粒の水滴が俺の頬に落ちる。

 

リニスさんの感情が溢れてからは、もう止め処(とめど)なかった。それこそ小さな子どものように泣いていた。隠しもせずに、泣いていた。

 

「今だって暗中模索なんだ。どうやったら役に立てるか……手探りで探してる。だからリニスさんに会いに来たってのもあるけど、見つけられるかわからない。またみんなの隣に立てるかわからない……」

 

頭の中も、言いたいことも、ぐちゃぐちゃになってまるで要領を掴めていない。

 

違うのに。こういうことじゃない、こういうことじゃないはずなのに。彼女に伝えたいことは、伝えるべきことは。少なくとも、彼女の表情を苦悶や悲哀に歪めるようなことじゃない。

 

なのに、あと一歩、言葉が核心に届かない。

 

「ごめん、なさいっ……私の、せいです。私の罪……っ。絶対に、なんとしてでも……償います。それでも許せないなら……気が、すまないなら……私は、もう……っ」

 

『あなたには……』と、震える唇で、濡れそぼつ声で、リニスさんは続けた。

 

俺にはそのセリフの続きを予想できてしまった。

 

とっさに俺の胸元にあった彼女の手を取る。このままではリニスさんが離れてしまうと、直感的に思った。

 

「待って……待ってくれ、リニスさんっ!全部言わせてほしいんだ。たしかにつらい思いはした。苦しかったし、痛い目にもあった。この先を考えると不安になるし、諦めたくなるほど悲観したこともある。これは事実だし、実際にそう思った……っ!」

 

「……やっぱり、私では……あなたのそばには……っ」

 

もう耐えられないというように、リニスさんは顔を背ける。

 

まだ終わってない。まだ伝えきってないんだ。俺の心の『ありのまま』は、まだ。

 

だから彼女の手を引き寄せ、俺を見てもらうために彼女の頬に手を添える。

 

「だけど、それでもっ!」

だけど。

 

それでも。

 

後悔だけはしなかったのだ。

 

この一ヶ月弱で様々な思いをした。

 

痛かったし、苦しかったし、つらかった。怖かったし、悲しかったし、怯みそうになった。悩んだし、戸惑ったし、諦めそうにもなった。無力感を味わったし、絶望に打ちひしがれそうにもなった。自分の不甲斐なさを恨んだし、他人の才能を羨んだ。

 

でもそれだけじゃなかった。楽しかった。喜びもたしかに存在した。なにより出逢いがあった。幸せと呼べるものを見つけられたのだ。

 

数で言えば、苦労したことの方が多い。でも大きさと密度なら嬉しかったことの方が断然(まさ)っていた。

 

自分の中にある(モノ)なのに、自分で気づくのがずいぶん遅れてしまった。でもようやく理解して、ようやく決心がついた。ようやく決着がついた。

 

つまり、俺の気持ちは、この一言に集約されるのだ。

 

「……だけど、俺は……リニスさんたちの味方になれてよかったって、心の底からそう思えたんだ」

 

諦めないでよかった。重圧に押し潰されないでよかった。不安と恐怖から逃げ出さないでよかった。期待に応えられてよかった。最後まで信じることができてよかった。リニスさんたちを救う手助けができて、本当によかった。

 

これらが実際に言葉として口に出したのか、それとも頭の中で浮かんだだけなのかわからない。

 

ただ一つ断言できることは、彼女の涙の理由を変えられただろうということ。

 

「徹、あなたは本当に……変な魔導師です」

 

声は依然としてか細く、か弱くて、身体は小さく震えている。その姿はもはや気の毒なほどで胸が痛むが、しかし、彼女の表情には笑顔が戻っていた。

 

掴んでいたリニスさんの手からは温もりと、俺の手を握り返すかすかな力を感じられた。

 

俺も自然と笑みがこぼれた。

 

「いいんだよ、変だろうが普通じゃなかろうが。(はな)から魔導師らしさなんてなかったんだから。一般的な魔導師になろうなんて、今更考えてない」

 

俺が開き直ってそう言えば、リニスさんは赤く泣き腫らした目を細めてくすくすと笑う。

 

「一般的ではないということは、これからもたくさん苦労しますよ?何もかも違うのですから。戦略も戦術も、使う魔法も訓練の方法も。これまで先達(せんだつ)が築き上げて磨き上げてきたマニュアルを参考にできないんですから」

 

「べつに構わないな。これまでだって大体そんな感じだったし。またトライアンドエラーでいろんなものを試していくだけだ」

 

ここ一ヶ月のことを思い返しながら、俺は強気に出てみた。

 

魔力付与や射撃の適性があった頃でも、ところどころ先輩たち(ユーノやクロノ)に助言はもらったものの、特殊が過ぎる俺の戦い方はほぼ我流で組み立てていた。最初から一般的な魔導師を基準にした戦術をお手本にするなんて、できてはいなかったのである。ならば以前とさほど変わりはしないのだ。

 

これでは強気というより諦観のほうが正しい気がする。

 

「私は、本当に……この人が……」

 

リニスさんはしばし目を伏せて沈黙していたが、こくりと生唾を飲むと口を開いた。

 

「そ、それでは……私はこれから風変わりな魔導師さんの、お、お手伝いをしなければ、いけませんよね……?」

 

「ん?ああ、そうそう。そうだった。そのために来たんだ。リニスさんから視野を広げるための魔法を教えてもらおうと思って、クロノとリンディさんから許可をもらったんだった」

 

重く暗い話に舵が切られてしまったおかげで、この部屋に来た理由を失念してしまっていた。今回の主題は目の代用品となる魔法(リニスさん曰くサーチ魔法)の教導なのである。

 

上半身を持ち上げ、早速ご教授願うため起きあがろうとしたが、肩をとんと押されてベッドに戻された。

 

というか、肩を押さえつけられている形だ。押し倒された、という表現が一番近い。

 

「そういう、意味ではなく……っ、さ、察してください……」

 

押し倒された俺は頭の中が疑問符でいっぱいだったが、押し倒したリニスさんもリニスさんでなぜかいっぱいいっぱいだった。心配になるくらい頬は紅潮して、瞳をうるうるさせている。

 

ちょっと、なにがどうなってるのかわからない。

 

「えっと……だから魔法、教えてくれるんだろ?寝たままじゃやりにくいんじゃ……」

 

後遺症について詰問されていた時とはまた様子が異なるリニスさんに、俺は若干尻込みしながらも話しかける。

 

喘ぐように息を吸ったり吐いたりするリニスさんは、俺の肩を押さえていた手を徐々に動かしていく。

 

「私は……徹、あなたのお手伝いをすると、言っているんです。あなたに仕えると、言っているんです」

 

「はぁ……はぁっ?!つ、仕えるって、そもそもリニスさんはプレシアさんの使い魔だろ。それに手伝いって……魔法を教えてくれればそれでいいんだけど……」

 

「私はプレシアの使い魔ですけど、徹に仕えることに対してプレシアは嫌な顔はしませんよ。それにこれから管理局で働くのなら……口幅ったいことですが、私は便利だと思いますよ。徹にできない事は私に任せてもらえれば」

 

「いや、プレシアさんにも信頼してもらえてるのは嬉しいけどもっ!でもそこからなにがどうなればリニスさんが俺に仕えるとか、あとこの体勢になるのかさっぱりわからない!」

 

懸命に説明を求めるが、しかし、的を外れた解説ばかりで判然としない。俺はベッドに仰向けにされ、リニスさんは俺の下腹部に跨ったままで、姿勢もいたって改善されてない。

 

展開のまずさを予感し始めるが、動きの起点を封じられているせいで下半身はまともに力が入らないし、腕を押さえられているので上半身もなかなか自由が利かない。

 

なんだか脳裏にデジャヴがよぎる。

 

「仕える……そう言ったじゃないですか。ご奉仕です」

 

「それは聞いた!でも、なんで仕えるなんて話になったのかわからないし、この姿勢のまま固定されなきゃならない理由もわからない……ってなに奉仕って?!」

 

「やはり仕える相手が男性なので……あの、ほら……ね?」

 

猫耳まで真っ赤に染めてながら、はにかむように微笑んだ。

 

自分で言っておきながら恥ずかしそうに笑顔で誤魔化して、少し首を傾ける所作にはとても、とんでもなくぐっときたが、そういうことではない。

 

「あのさ、リニスさん。ちょっときつい言い方になるんだけど……負い目を感じてこんなことしてるんならやめてほしい。相手の弱みにつけ込むようなことはしたくない」

 

さすがにここまでされて行為の意味に、奉仕(・・)の意味に気付かないほど、俺も純真無垢ではない。

 

わかった上で、一歩引いた。罪悪感が根底にあるのなら、この行為は間違っていると断言できたからだ。きっとお互いに後悔することになる。

 

俺がそう忠告すると、リニスさんはむすっ、と頬を膨らませた。大人な雰囲気を纏うリニスさんの、子どもっぽい仕草というのはとてもギャップがあった。幻滅したとかでは決してなく、好印象だったのは言うまでもない。

 

「私が、罪の意識でこんなことをする女だとでも?」

 

「ぅ、いや……」

 

右手は俺の腕に添わせ、左手は俺の胸のあたりを(まさぐ)らせながら、リニスさんはぐっと顔を近づけた。

 

下半身はともかくとして、上半身を縫いつける圧力は既にない。今なら振り払えるはずなのに、俺の身体は動かなかった。なんなら口も満足に動かなかった。もごもごと濁った音を吐き出すのみである。

 

こういった経験に乏しい、もしくは皆無といっていい俺みたいな思春期真っ只中の男子高校生には、あまりに荷が重いシチュエーションだった。

 

リニスさんは目元に淡褐色(たんかっしょく)の髪を垂らしながら俺の耳元に顔を近づけ、囁くように呟いた。

 

「想い人にだけ、ですよ。徹にだけ、です……」

 

ぞくりと、背筋に電流が走ったようだった。

 

耳から入り込んだその甘く艶のある声色は、感覚という感覚を蹂躙し脳内まで侵食する。思考を薄く濁らせる。

 

抗いがたい甘美な陶酔感を、懸命に理性が食い止める。

 

「ちょっ……ちょっと待って!リニスさんの気持ちはわかった。と、時の庭園でのこともあるし、正直わかってたけど今はリニスさんの気持ちにこた、応えられないっ。年齢的にも立場的にも責任を取れない。だから、とりあえず、この場ではまずいって!」

 

今にもばらばらに空中分解しそうな思考を必死に掻き集めて口に出す。

 

男としてだいぶ不甲斐ない回答に、しかしリニスさんは呆れることなく、なんなら口元に慈愛に似て非なる笑みを浮かべて俺に頬ずりした。理性という名の堤防に大きな亀裂が走る。

 

顔のすぐ隣でリニスさんの体温を感じた。耳のすぐ近くで彼女の声がした。心臓の律動が早くなるのは、これはもう仕方がない。

 

「責任は取らなくてもいいですよ。そんなに大事に想ってくれていると知ることができただけで私は満足ですから……。他に好きな人がいて、その人と添い遂げるのだとしても……愛してくれれば、それだけで……。何番目でも、情愛を傾けてくれるのならそれだけでいいです……」

 

「その考え方は、なんというかこう……(ただ)れてる!倒錯(とうさく)してる!」

 

「できるのかどうかわかりませんが、もし子どもができたら私がひとりで育てます」

 

「俺クズ過ぎるだろっ!?」

 

飼い主に甘える猫が如く、気持ちよさそうに目を閉じて顔にすりすり胸元にすりすりと、リニスさんは俺に擦り寄る。

 

使い魔は元の種の性質を多少有しているのは、外見からだいたいわかっていたつもりだったが、考え方もそちらに寄ったりするのだろうか。猫の子育ては基本母猫がするらしいのだ、鷹島さんが言うには。

 

いや、そんなことに思いを馳せている場合では決してないのだが。絶賛貞操と将来の危機なのだが。

 

「ですから……徹は、何も考えなくていいんですよ?悦楽に浸ってしまえばいいんです……快楽に溺れてしまえばいいんです」

 

「ちょ、ほんとに待って!絶対いろいろまずいって!い、一応、形ばかりとはいえリニスさんは勾留されている身の上なんだし、そういうことするのはっ!」

 

「私に襲われたとでも言えばいいです。安心しきって油断してたら身動きを封じられた、と」

 

「そんなこと言っちゃったらリニスさんの印象が悪くなるだろが!」

 

「ここまでされても私のことを考えてくれているんですね……。なおさら自制が利かなくなりました」

 

腹部に伝わる圧迫感と、こそばゆい感覚。さわさわと身体を這い回り、撫で回す。どうやらリニスさんが俺の服の内側にまで触手を伸ばしたようだ。

 

背中に流れる電流の強度が一段階引き上げられた。

 

「っ!ほ、本当にそろそろまずいから、このあたりでやめ……っ!」

 

四の五の言ってる場合ではなくなった。このままではなし崩しに一線を越えかねないので、リニスさんの暴走を抑えようと両手を動かした。いや、動かそうとした。動かそうとしたのだが、結果的に動かなかった。

 

「手が……ど、どうやってっ!」

 

まるで気が付かなかった。いつの間にか両手が拘束されていた。

 

もう頭の中はパニックである。魔法は使えないはずなのにどうして、と考えて、手首から伝わる柔らかな肌触りと微かな伸縮性で答えに行き着いた。おそらくタオルかなにかで俺の両手を縛っているのだ。

 

察知される前に人を縛り付けるという恐るべきこの手腕、いつかどこかで味わったことがあるぞと俺の記憶が警鐘を鳴らす。

 

「徹のほうから求めてきてほしかったところではありますが……これはこれでありです」

 

「ありってなにがっ!」

 

「怯えた表情も、また乙なものですね」

 

「だめだ!やっぱり肉食系なんだ!」

 

男子高校生の両腕を腕一本(魔法なし)で封じ込め、リニスさんは俺のシャツをしゅるしゅるといやに時間をかけながらまくり上げる。上半身がおおよそあらわになった。

 

俺の頭上で、ごくりと喉を鳴らす音。見上げれば、リニスさんの目の色が変わった気がした。

 

「ここ、これはあくまでも奉仕です……。徹に仕えると誓ったのですから……仕える身としての存在価値は、お仕事をして役に立つこと……ご奉仕して疲れを癒してこそであるとっ、私は結論付けますっ……っ!」

 

「リニスさんはプレシアさんの使い魔だし、俺はリニスさんを雇い入れたつもりはないし!ていうかその奉仕とやらは誰のためなんだ誰の!」

 

「主人の望む望まないにかかわらず疲れを癒すのがお仕事です!」

 

「望んでないことしちゃダメだろぉっ!」

 

この状況はあれだ、海鳴市にあるフェイトたちのアジトでの惨事と同じだ。おかしなスイッチが入ったバージョンのリニスさんだ。

 

あの時と違うことは、ここはアースラの中の一室で、しかも個人の部屋であるということ。つまり、誰も助けにきてくれない。あの時紙一重で間に合ったフェイトやアルフはここには来てくれない。

 

これが相部屋とかなら、もしかしたらプレシアさんも同部屋になっていた可能性がなきにしもあらずだったのに。助けてくれる人がいたかもしれないのに。いや、そもそも勾留という体裁を取っている手前、主犯格クラスを二人同じ場所にするなんてありえないだろうけれど。

 

「くっ!こっの……」

 

ばたばたとリニスさんの拘束から逃れようとするが、頭よりも上のあたりで押さえつけられた腕では力も入りにくく、解けない。

 

俺の決死の抵抗に、リニスさんは困ったようにため息をついた。

 

「もう……暴れないでください。服が脱がしにくいです」

 

「脱がされてたまるかぁっ!」

 

「脱がずに、でも私はいいんですけど、あいにく服の替えがあまりないので……」

 

「もうこのアホはほんとにもうっ!……リニスさん。場の流れでこんなことするべきじゃないって。恥ずかしながら俺も経験がないし、うまくいくとは……」

 

言いたくはなかったが、恥を忍んでやめるように言う。

 

俺も初めてだし、時の庭園でリニスさんも経験がないとか口走っていたことを憶えている。未経験二人がこんなテンションとシチュエーションで事を構えて、うまく運べるべくもない。

 

気まずい空気になるのが目に浮かんでしまうので制止したのだが、リニスさんのリアクションは俺の予想とはまるで違った。そして俺の発言はまるで間違っていたことを知る。

 

「はは、初めてでしたかっ!そそそれならわた、私と一緒ですね!だだい、大丈夫ですっ。経験はなくとも知識ならありますしっ、それにこういうことは……ほ、本能でわかるというものです!」

 

「いや、ちが……そういうことじゃ……」

 

「痛いのは最初だけです!」

 

「えっ?!こっちが痛いの?!」

 

これまで見たことないくらいめちゃくちゃ満面の笑みをされた。言葉の通じなさが五割増しくらいになったし、目なんか血走っている。最後の最後で、俺がリニスさんのあるかどうかもわからないなけなしの理性を吹っ飛ばしてしまったようだ。

 

「だいじょぶ、大丈夫です!徹は天井のシミでも数えてくれていればっ……それで何もかも済みますので!」

 

「立場がっ!立場が逆になってんぞおい!」

 

「前は邪魔が入りましたからね……今度こそ堪能します。まずは、そう……首元からですね……じゅるり」

 

「だれか、だれかぁ?!」

 

必死に助けを求める俺と、ぎらぎらと瞳を輝かせるリニスさん。まさしくいつかのあの日の再演である。

 

フェイトたちのマンションではなんとかなったが、もうどうにもならないかもしれない。

 

諦めてしまいそうになったが、遅ればせながら今回も救いの手は差し伸べられた。

 

遠くで小さく、ぷしゅっと空気が抜ける音。続いてスライドする扉と、かちゃかちゃと陶器のような材質が接触する音。明るく陽気な女の子の声。

 

「ごめんねー、リニスさん。遅れちゃって。お昼ご飯持ってき……た……んだけど……ぅぉぉ……」

 

アースラ通信主任兼執務官補佐、俺と同い年の十六歳。リンディさん、クロノに続くアースラのナンバースリーこと、エイミィ・リミエッタがカートを押しながら部屋に入ってきた。

 

「ちょうどいいところに!エイミィっ、たすけ」

 

もちろん突然差し込まれた希望の光に手を伸ばしーー手は動かないので目線と口だけだがーー救いを求める。

 

しかし、俺の要請は途中で断ち切られた。誰あろうエイミィに。

 

「お、お取り込み中失礼しましたぁ〜……。なるほど、アレくらい押せばいいんだ……ふむふむ」

 

がらがらと、食事を載せているであろうカートを引いてエイミィは部屋を出ようとした。目の前に、どんな意味であっても問題な行為が繰り広げられているのにもかかわらず。

 

「ちょおいこら!なに神妙な顔して引き返してんだよ!待って、助けて!」

 

「……さて。続けましょうか!」

 

「ちょっ、まっ……おおああぁぁっ!」

 

 

 

 

 

 

エイミィが部屋を出て扉が閉まった時は本気で絶望したものだが、一旦外に出てある程度冷静になったのか、再度入室したエイミィはリニスさんに『だめだよリニスさん。こういうのは手順を踏んで、逃げられないように外堀から埋めてかないと』などと的を外したことを言ってリニスさんの蛮行を止めてくれた。それでも興奮冷めやらぬリニスさんを鎮めるのには苦労はしたが。

 

結果的に、エイミィは助けてくれた。助けてくれたのだが。

 

エイミィはリニスさんの強行手段にも打って出る攻めの姿勢に感化され、リニスさんはエイミィの念入りな根回しにインスピレーションを受けて意気投合し、二人は急激に仲良くなった。この光景を見るに、今後の動向が実に不安で心配だ。楽しげにガールズトークを交わす二人の笑顔はまったくもって年相応で輝いて見えたが、話の内容は耳を塞ぎたくなるような末恐ろしさである。

 

服を着直して部屋の隅っこに退避した俺は、ぽそりと独語する。

 

「……クロノにそれとなく注意を促しておくべきか……」

 

教えを乞う相手を間違えた気がしないでもない。

 

 

 




リニスさんが出てくると話が長くなるの法則。
シリアスもコメディも、ちょっとえっちな感じでもなんでもできるこのユーティリティ具合は、書いていてとても楽しいです。ただ、話の展開上残念なことにリニスさんの出番はここからちょっと遠くなってしまいます。

2017年4月2日現在、後日談的なお話を書こうとしているのですが、少々スポットライトを当てる人物に迷っております。本筋に持っていく前に一話で済むようなお話をあと二つほど挟めそうなので、リクエストなどありましたら感想欄にでも挙げて頂けたらと思います。どこまでご希望に添えられるかはわかりませんが、ぜひよろしくお願いします。


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「たった今、平気になった」

 

「……はぁ。言いたいことは山ほどあるが、まずは労うとするか。ご苦労だったな、徹」

 

「さすがにここまで聞けば……軽々しく人に教えられなかったっていうのはわかるわ。巻き込みたくなかったって気持ちもね。だから怒るのは……うん、我慢する。お疲れさま、徹」

 

「ああ。……ありがとう」

 

話は脱線しまくってしまったが、落ち着いたリニスさんから魔法を教えてもらった俺は予定もあったので元の世界に降りた。

 

用事を済ませたのち、時間も差し迫っていたので恭也とのメールで書かれていた集合場所、すなわち忍の家に向かって、そこで俺となのはがこれまで経験したことを出来うる限り詳細に話した。言うまでもなく他言無用を前提に、だ。

 

話の途中途中、合間合間で般若のような形相になる恭也と忍からは、いつ殴られるだろうかと戦々恐々肝を冷やしたが、ちゃんと話を聞いてくれて、最後には黙っていたことを許してくれた。俺のしたことに理解を示してくれた。

 

ただ、こうして面と向かって正々堂々と隠していたことを話す覚悟を決めてはいたのだが、少々予定外のこともあった。

 

「そんなに大変だったのに、僕達のことも助けてくれてたんだね……ごめんね、逢坂。負担をかけちゃって……」

 

「……思えば、あの日の逢坂……動きに鋭さが、なかった……。体調……良くなかった、のに……」

 

「あーその……まあ、いいんだって。俺も長谷部と太刀峰と遊びたかったわけだし、ちょうどいいリハビリみたいに考えてたし……」

 

学校のクラスメイトであり最近できた友だちのうちの二人。すらりとした百七十センチ近いモデル体型な長谷部(はせべ)真希(まき)と、全体的に小柄で物静かで外見だけなら小動物的な愛くるしさをもつ太刀峰(たちみね)(かおる)までもが忍の家に来ていたのだった。

 

メイド姉妹に案内されて部屋の扉を開けた時は、ほとほと驚いたものである。目線で『聞いてないぞ!』と恭也に訴えたが『普通に関係者だろう』と平然とした顔で返された。

 

帰れ、なんて言えるはずもなく、俺と恭也の喧嘩の際には多大なる迷惑もかけてしまったこともあり、それも一緒に謝れたのでかえってありがたい機会を作ってくれた、と前向きに受け取っておくことにした。

 

しかし、この二人がいるということは、最近できた友だちのもう一人も当然いるということで。その一人の存在がというか、その一人の反応が、俺のあるかどうかもわからなかった良心をきりきりと締めつける。

 

「ま、まぁ……ちょっと危ないこともあったとはいえ一段落はついたわけだし、それにこうして(おおむ)ね無事だし……だから、さ?泣きやんでよ、鷹島(たかしま)さん」

 

「だっ、だって……ぐすっ。悲しくてっ、でもみなさんが不幸にならなくて良かったなぁって思うと嬉しくて……っ。でも、でもっ……やっぱり逢坂くんがぁっ……」

 

鷹島綾音(あやね)さん。

 

俺のクラスメイトで、最近できた友だちの一人。高校に入学して一ヶ月少々で早くもクラスのマスコット的ポジションを確立している女子生徒。

 

女子中学生の平均をも下回る背丈と栗色のふわふわした髪が特徴の鷹島さんは、俺が話し始めて早々に垂れ目がちな瞳を潤ませると、もう中盤あたりから泣き始めてしまっていた。心優しい子なので感情移入しちゃったのだろう。撫で肩のせいでさらに小さく見える身体を震わせる姿に、何度心を折られかけたか枚挙にいとまがない。

 

「やっぱり綾音には衝撃的な話と展開だったよね。逢坂の家の事情なんかも知らなかったわけだし」

 

「そっちも、だけど……他にもけっこう、ハード、だった。逢坂も……表現をぼかしてはいたけど、それでも……物騒なこと、してたみたいだし」

 

長谷部と太刀峰が鷹島さんの隣に座って背中をさする。二人からの介抱に、えぐえぐ泣いてた鷹島さんもようやく落ち着いてきた。

 

「だって……っ、ぼろぼろになるまでがんばって、みなさんを助けて……なのに逢坂くん、目が見えなくなっちゃうなんて……。ん、あれ……?真希も薫も、逢坂くんのお家のこと……知ってたの?」

 

湿った声を途切れさせながら喋っていた鷹島さんだが、最後のほうでぐっと言葉に重みが乗った。鷹島さんの声であることは変わらないのに、なぜか爛漫(らんまん)さはなりを潜め、暗く低く地を這うようなものになっている。

 

やっちゃった、みたいにびくんと、隣に侍っていた二人は肩を跳ねあげた。

 

「えっ?!あー、えっと、僕たちは……その」

 

「知ってた、の?」

 

「……綾音、ちょっと……落ちつ、いて」

 

「知ってたんだ……私は知らなかったのに……。仲間はずれにされてたんだ……」

 

「ちち違うんだっ、僕たちはそういうつもりじゃなくて!」

 

「いろいろと……複雑な事情が、絡みあってて……」

 

なんだか鷹島さんは落ち込んだままだけど、隣の二人の様子から先ほどよりかは状態が良くなったのが分かる。鷹島さんのメンタルヘルスケアは長谷部と太刀峰に任せてしまおう。

 

「それで徹、話の腰を折るのもどうかと思ってあまり深く突っ込まなかったんだが……結局、魔法というのはどういうものなんだ」

 

まさかこんなお伽噺(とぎばなし)でしか登場しないような単語を真面目な顔して聞く日が来ようとは、と苦笑いっぽい顔をしながら恭也が問う。

 

「徹の口振りからすると、魔法という言葉のイメージほど夢のあるものでもなさそうだが」

 

説明の都合上、魔法についてはあっさりとすませていたのだ。

 

俺たちのいる第九十七管理外世界では魔法という技術体系は存在しない。存在はしないが、漫画やゲーム、恭也が言うようにお伽噺など、フィクションの中でなら登場はしている。ざっくりとした概要でなら伝わっていたので詳細まで話していなかったのだ。

 

「そう、だな……。俺からすれば夢なんてまったくないな。魔法ってシステムは社会の縮図だとすら言えるぜ……」

 

「なんでよ。魔法なんてあれでしょ?飛んだり跳ねたり?水を出したり火を出したり?そんな感じのじゃないの?」

 

音も立てずにティーカップをソーサーに置きながら、忍が言う。

 

「いや、あながち間違ってはないんだけどな」

 

「木を生やしたり風を吹かせたり、迷路に迷わせたり分身作ったり」

 

「んんっ?なんか離れていったぞ?」

 

封印解除(レリーズ)とか言ってカード叩きながら」

 

「お前がどんなイメージ映像を頭に流してんのかわかっちまったよ」

 

俺たちの使う魔法はカードを使わないし、この一ヶ月してたことのメインはほとんどジュエルシードの封印処理だ。いや、ある意味ではやってたことも似通っているのかも知れないけれども。

 

「忍、話が逸れている。技術やシステムと言い表した以上、仕組みがあるんじゃないのかと俺は聞きたかったんだ」

 

恭也がため息をつきながら、話を主旨から遠ざける天才の忍を抑えた。

 

俺もここぞとばかりに同調する。

 

「そうだぞ忍、そういうことじゃなくてだな……」

 

「とはいえあのアニメは面白かったな。今なら主人公の兄に共感できる気がする。状況といい、名前といい似ているしな」

 

「ってお前も乗っかんのかよっ!魔法のシステム云々の興味はどこいったんだ!」

 

恭也も知っているとは予想外だったが、なのはくらいの歳の妹がいるところなら大概知ってるものなのかもしれない。

 

かえって妹のいない俺が熟知している方が違和感がある。

 

「すまん徹。楽しそうだったから、ついな」

 

「ほんとだぜ、恭也から訊いてきたくせにな」

 

話を区切るためにこほんと一つ咳払い。

 

「俺も最初は期待してたんだけど、魔法ってのは素質が大きく影響するんだ。その素質がなければ魔法もなにも使えない」

 

「魔法を使えるということは、徹も素質がある、と?」

 

「いや……あるっちゃあるんだけど、ニュアンスが少し違うっていうか。魔法にも種類がたくさんあって、素質がなかったらその種類の魔法がまったく使えない。素質があってもその度合いが小さければ魔法の強度が下がる。まとめると、才能ありきのテクノロジーってことだな」

 

「なによそれ、なんだか排他的じゃない?選ばれし者にしか扱えない、みたいな雰囲気ね」

 

チョコチップが散りばめられたスコーンを(かじ)りながら、忍が眉間に皺を寄せていた。誤解させてしまっているようだ。

 

俺の偏った説明のせいで悪い印象を植え付けるわけにはいかない。なんとか誤解を解かなければ。

 

「悪い、俺の主観が多く入ってた。才能ありきっていっても、多くの魔導師が……魔法を使う人を魔導師っつうんだけど、多くの魔導師が存在する、らしい。つまり魔法を使うってだけならハードルは決して高くないんだ。その数多くの一般魔導師から抜け出るには『才能』が必要になるってだけだ」

 

そうなのである。普通はなのはやフェイト、クロノクラスの魔導師なんていうのはごろごろ転がっているものではないらしいのだ。俺の周りが特殊なだけなのだ。

 

その特殊な魔導師たちについていけずに俺は才能を欲したものだが、管理局全体の魔導師の平均と比較すれば、俺も最下層まで落ちるわけではない。魔法適性なら下の中から上くらいはあるとお墨付きをもらっていた。魔力だって魔導師の平均はある、とも言われた。

 

俺のパラメータでその程度ということは、人並みの適性があれば、あとは本人の努力と工夫次第でそこそこの活躍が見込めるだろう。『排他的』や『選ばれし者』という表現はいささか過剰だ。

 

「ふぅん。でも結局『上』に行こうとすれば才能がいるんでしょ?」

 

はちみつ風味のビスケットで渇いた喉を紅茶で潤す忍は、それでも承服しかねるご様子だ。

 

そんな忍の不満には恭也が答えた。

 

「それはそうだろうが、しかし上に行こうとすればどの分野であれ才能というものは必要になる。魔法だけではないのだろう」

 

才能だけではなく同時に努力も必要だろうが、と恭也は締めくくった。

 

恭也も『才能』なんていう大雑把に括られた単語は好きじゃなさそうだ。俺とは意味が多少違うみたいだけれども。

 

「逢坂くん、逢坂くん」

 

時々忍の手によって話を脱線させられたりしながら、しばらくの間魔法の説明をしていたが、急にくいくいと袖を引っ張られた。誰かと思えば鷹島さんだ。

 

彼女に似合わぬ、責めるようなじとっとした目つきでほっぺたを膨らませながら俺を見上げている。鷹島さんはなにか気に食わぬことがあってお怒りなのかもしれないが、申し訳ないことにその姿は大変可愛らしかった。桃色の柔らかそうな唇が動く。

 

「……真希と薫が、逢坂くんのお家でお泊まりしたそうですね」

 

ぷりちーな唇から爆弾が錬成された。

 

口を割った裏切り者に目をやれば、長谷部は両手を合わせてごめんなさいを形にし、太刀峰は握った小さな手をこつんと頭につけてピンク色の舌をちょろんと出して片目をつぶっていた。いわゆる『テヘペロ』だがいつもの無表情だ。長谷部はともかく太刀峰は絶対に悪いと思ってはいない。

 

「はあ……まったくこいつは……」

 

「徹、あんたね……そういうことするから変な噂が流れるのよ?たぶんあんたのことだから理由があるんでしょうけど」

 

恭也も忍も呆れ顔だった。こいつらの場合は下品な勘繰りをして失望や落胆はしないのでありがたい。

 

なので恭也と忍は置いておき、とりあえず鷹島さんにどう伝えようか考える。

 

俺の家に長谷部と太刀峰がお泊まりした件というと、四月二十二日に自然公園のバスケットコートで起きたいざこざが原因だ。話の内容が内容だし、説明するのにこの出来事は絶対に欠かせない、というわけでもなかったのでバスケットコートでの一件には深く触れていなかった。その一件を(つまび)らかにするのは心苦しいものがある。特に、鷹島さんには。

 

過激にならないようにするにはどうするべきかと唸って悩んでいる間に、鷹島さんが続けた。

 

「あ、お話は聞いてますよ?乱暴な男の人たちからバスケットボール部の人たちを助けたそうですね。すごいです!」

 

「そ、そうなんだよ。でも褒められるようなことでもないんだ。行くのが遅れちゃったから余計に怖がらせちゃったわけだし」

 

もしかして純粋で穢れのなさそうな鷹島さんにあの日のことを全部話したのか、と当事者の二人を見やれば、鷹島さんの背後で長谷部が『ちょっとだけ』とサインをしていた。何があったのかは上辺だけを軽く触れたようだ。

 

「そこで真希と薫が怪我をしてしまった逢坂くんを心配してお家まで送ったんですよね。でも大雨と強風で帰るに帰れなくなっちゃったから逢坂くんのお家に泊まった……と」

 

「そう、だよ。でもそこまで経緯(いきさつ)がわかってるんなら、なんでそんなに俺を見つめてるの?」

 

「見つっ……にらんでるんですっ!」

 

コアリクイやハリセンボンの威嚇に通じる可愛さで見つめてくる(鷹島さん曰く睨んでいるらしい)ので、あまり怖くはないのだけれど、なにか怒ってるっぽいことは察していた。しかしただ単に遊びで泊まったわけではなく、どうしようもなくなった結果として泊めたことがわかっているのに、一体どこに不満が残っているのだろう。

 

俺が首を傾げていると、鷹島さんは、まだわからないのかというふうに口を尖らす。

 

「お風呂を貸したそうですね」

 

「ああ、服もびしょ濡れだったからね」

 

「逢坂くんの服も貸したそうで」

 

「まぁ、着替えなんて用意してるわけもないから俺のを。姉ちゃんの服も借りたけど」

 

「逢坂くんお手製の肉じゃがまで振る舞われたとか」

 

長谷部と太刀峰(こいつら)が料理できなかったんだ」

 

「夜に……夜に!いっぱいおしゃべりしたそうで」

 

「いっぱいっていっても、次の日も平日だったから早めに寝たんだぞ?」

 

「逢坂くんのベッド……逢坂くんのお部屋で寝たそうですけど」

 

「姉ちゃんの部屋で寝かせるわけにいかないし、他の部屋の布団は最近干してなかったから他になかったんだよ」

 

「逢坂くんのお姉さんとも仲良くなったと聞きました」

 

「姉ちゃんは可愛い人や物が大好きなんだ。それに仲良くなったって言っても、姉ちゃんが傍迷惑なくらい自発的に長谷部と太刀峰に絡んでただけだよ」

 

なんだか事情聴取みたいな様相を呈してきた。しかしそれで鷹島さんの気が済むのなら構いはしない。

 

次々と飛んできた疑問にテンポよく答えてきたが、ここで鷹島さんのじと目のじっとり具合が増してきた。

 

「……また泊まっていいと許可を出したそうですけど」

 

「そう約束しないといつまで経っても寝そうになかったからね」

 

「……次もまた丹精込めて逢坂くんが手料理を振る舞うそうですね」

 

「ん?あれ?そんな約束……してた、か?」

 

「……つ、つぎっ、次もまたっ、俺の腕の中で寝ていいぞ、とも言ったらしいですけどっ!」

 

「それについては断固否定する!絶対それ言ったの太刀峰だろ!」

 

わりと事実が多かったが、ここにきてあからさまに嘘が混ぜられている。俺が約束したのはまた泊まりに来ればいい、までであって、ちゃんと思い返せば料理を振る舞うとも言ってなかったし、腕の中で云々なんて気障(きざ)というかチャラいというか、頭も尻も軽い発言するわけがない。

 

こういうたちの悪い冗談をそれっぽく差し込んでくるのは太刀峰しかいない。断言も断定もできる。

 

俺が全力で濡れ衣だと抗議すると、鷹島さんは驚いた表情で太刀峰に振り返った。

 

「えっ!?か、薫……そ、そうなの?逢坂くん言ってなかったの?」

 

「……うん。たしかに、言っては(・・・・)なかった、ね。……言っては(・・・・)

 

「………………………」

 

問い詰められた太刀峰はあっけらかんとした態度であっさり白状した。

 

しかし、俺の背中には冷や汗が流れる。

 

太刀峰が強調した通り前述のような歯の浮くようなセリフは言ってない。

 

だが残念なことにしてしまってはいるのだ。

 

あの日、夜に帰ってきた姉ちゃんは、先に寝ていた太刀峰を追い出して俺の部屋のベッドで眠りについた。追い出された太刀峰はどこで寝たらいいのか尋ねるために、姉ちゃんの部屋で寝ている俺のところまできて、そこで力尽きた。その時に太刀峰は勝手に俺の腕を枕にしていたのだ。

 

その時のことを『言って()ない』などと示唆することで、太刀峰は揶揄(やゆ)してきていやがるのだ。

 

絶対に言葉の綾とか言い間違いなどではない。その証拠に、極々わずかではあるが奴の目が細められ、口の端がつり上がっている。俺のリアクションを楽しんでやがるのだ。

 

いつかこの仕返しをしてやると心に誓いつつ、顔を真っ赤にしている鷹島さんに水を向ける。

 

「鷹島さんは太刀峰のせいでなにか誤解(・・)してたみたいだな」

 

「ご、ごめんなさいっ!薫がなんだか細かく語るから本当にそういう、あの……してたのかな、って……」

 

「そそそそんなことないない」

 

「徹、動揺を隠せてないぞ」

 

「なに?なにか心当たりでもあるの?」

 

「僕は隣の部屋にいたから知らないんだよね。なにかあったのかい?」

 

「こここ心当たりもなにも、お、俺も寝てたしなぁっ」

 

戦況は悪化の一途だ。疑惑の目の集中砲火である。

 

四面楚歌を作ってくれた張本人である太刀峰は、いつもの無表情をかすかにニマニマさせて沈黙を守っていたが、ここで俺にウィンクを放った。煽ってんのかと思ったが、どうやら違うらしい。口を開いた。

 

「そういえば、また泊まりに行っていいって……言ってた、よね」

 

燃料を投下するつもりかよと目を見張ったが、流れを切り替えるきっかけを作った、ということなのだろう。

 

俺の推測を裏付けるように、太刀峰は眉の角度がほんの僅かばかり上がってドヤ顔っぽくなっている。分かりづらい上にドヤ顔するほどの助け舟ではない。とんだキラーパスもあったものだ。

 

「そ、そうそう。俺も最近は落ち着いてきたし、また遊びに来いよ。次は鷹島さんも、恭也も忍もな」

 

「ほっ、ほんとですか?!うれしいです!真希と薫が楽しそうにしゃべってて、私うらやましくてっ!」

 

だいぶ苦しい路線変更だったが、鷹島さんは『いつにします?いつにしますっ?』と咲き誇るような笑顔で簡単に誘導されてくれた。悪い人に騙されないか不安になるちょろさである。

 

恭也と忍はなにかありそうだと当たりをつけているようだが、テンションが振り切れている鷹島さんに配慮し、これ以上追及して水を差すことはしなかった。ただにやにや笑いを前面に押し出してきているのは大変腹立たしい。お前らが期待するようなハプニングは起きてない。起きてない、はず。

 

遊んでもらえて嬉しがる子犬みたいになっている鷹島さんを引き剥がしつつ、俺は居住いを正す。さっきから喉に刺さった小骨みたいな違和感に苛まれているのだ。

 

「いやまあ、さ……あの、お泊まりの件についてはまた今度じっくり予定を詰めるとして……。それよりもだ。俺が話したことについてはもう何も質問とかないのか?こう言っちゃなんだけど、魔法がどうとか、異世界がなんだとか、普通は呑み込めないだろ?なんでお前らそんなに簡単に片付けられんの?」

 

自分で切り出すのも妙ではあるのだが、しかし訊かずにはいられなかった。

 

一般常識で考えれば、俺の語った内容は信憑性に欠けるどころの騒ぎではない。信じるに値する部分が欠片ほどもない。

 

魔法とか、人に危害を与える異形の物体とか、エネルギーの結晶体とか、違う世界の公的機関とか、死んだ人を生き返らせるとか、極めつけに地球存亡の危機とか。いきなりそんな盛大で壮大なストーリーを大真面目に説明されても普通はついていけないだろう。凝った夢か、よく練られた絵空事が関の山だ。ハリウッド映画でも要素を詰め込みすぎなくらい。俺が逆の立場なら、病院に連れ添うか、速やかに充分な休息を取らせるか、将来脚本家になることを勧めるところである。

 

だというのに、目の前にいる五人は俺の話を信じている。疑っている素振りはない。馬鹿にするような気配も、演技をしている様子もない。本当に、俺の話を真摯に受け止めて、理解に努めてくれている。

 

一体なにを根拠に信じてくれているのかわからなかった。

 

不安も綯交(ないま)ぜになった俺の疑問に、五人は首を傾げて各々顔を見合わせる。そして五人を代表するように、恭也が俺と目を合わせた。

 

「『なんで』も何もないだろう。お前が真剣な顔で慎重を期して、細部まで丁寧に話したんだ。疑う余地があったのか?」

 

さも当然という風に恭也は言った。

 

「ここ最近の徹は私たちの目から見てもおかしかったしね。あんたが日付まで正確に憶えていたおかげでこっちも記憶と照らし合わせやすかったわ。こんな状態で嘘なんて差し挟む余裕はないでしょうし……そもそもあんたは、隠すことはあっても嘘をつくことはないからね」

 

呆れたような笑いを浮かべながら忍が続いた。

 

「は…………」

 

かく言う俺は唖然である。

 

恭也は既に俺を見ていない。俺がしていた説明を纏めでもしているのか、テーブルに広げられたメモ帳らしきノートに向かっている。

 

忍は満足したように紅茶を一口、口に含むと、テーブルの上の綺麗な装飾が施された皿に手を伸ばす。たくさんあったはずのお茶菓子がもうなくなっていたことに気づくと、そのほとんどを忍と長谷部と太刀峰が平らげたお茶菓子のお代わりをノエルさんにお願いした。

 

二人ともが、当たり前だといわんばかりの態度だ。そのドライな態度が、その素っ気ない振る舞いが、信頼の裏返しなのだろうことは俺にもわかった。なんだよ、こいつら。格好いいなあ、おい。

 

「これが長年の付き合いによる阿吽の呼吸、ってやつなのかな?気心が知れてるんだね」

 

「……ちょっと、羨ましい……かも」

 

「ふふっ。逢坂くん、ぽけーってしてますね。珍しいお顔です」

 

この関係性を嬉しく思いながらも、どことなく悔しく感じる。ので、近くで俺の顔を覗き込みながらふわふわと笑う鷹島さんの頭をくしゃくしゃに撫で回す。子猫のような悲鳴を上げたが気にしない。

 

存分に栗色の猫っ毛を堪能してから手を離した。とても柔らかい髪質なので撫で心地は抜群だ。やはりこのあたりは妹の彩葉ちゃんと通じるものがある。

 

「うぅ……。髪がぼさぼさです……」

 

「大丈夫、似合ってるよ」

 

「どういう意味ですか!とっても失礼です!」

 

うめきながら乱れた髪を手櫛(てぐし)で整える鷹島さんが、もう一度俺を見上げた。視線は俺の左目。

 

説明している最中、目が見えなくなったことを示す際に眼帯は外したので、灰色に濁った瞳を隠すものはない。気後れして、鷹島さんからみえにくいように身体を左に傾けた。

 

「こんなことは、言うべきじゃないのかもしれませんけど……逢坂くんを傷つけることになるのかも、しれませんけど……」

 

申し訳さなそうに口篭るが、それでも彼女は続けた。

 

「左目……銀色に輝いていて、とっても……きれいです」

 

つい先程恭也と忍相手には唖然としたが、鷹島さんの言葉には呆然とした。

 

まさしく呆気(あっけ)にとられたのだ。こんな灰色というか、鼠色みたいな煤けた虹彩を見て、綺麗と言い表すなんて思わなくて心底驚いた。言葉が出なかった。

 

俺が黙り込んでしまったことで、鷹島さんはなにやら勘違いしたようだ。とても慌てふためいて、乱れて跳ねる髪を整える手まで止めた。

 

「ごっ、ごめんなさいっ。見えなくなってつらい思いをしている時に、きれいだなんて……っ。ほんとうにごめんなさいっ」

 

「いや、いいんだ。ありがとう」

 

「でも、私っ……ひどいことを……っ、平気なはずないのにっ」

 

「本当にいいんだ。強がっているわけでもないよ」

 

まったく、単純な性格をしているものだ。たった一言『褒められた』だけで、心の隅で燻っていた劣等感が霧散していくのだから。

 

彼女の栗色の頭の頂点でぴょこんと重力に逆らっているひと房を、俺は手のひらで撫でつける。

 

「たった今、平気になった」

 

本心から、そう言えた。





携帯から投稿しているので更新するのも一苦労です……。

前話で募集しておりましたリクエストのほう、ご協力ありがとうございます。
自分では、なかなかこのキャラクターの話浮かばないなーと思っていても、挙げてもらっていざ考え始めるといくつか浮かんできました。



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『裏側』

 

 

「……す、すまない。もう一度、言ってくれないか?聞き間違いだったのかもしれない」

 

「その歳で耳が遠いのかよ、クロノ。だからさ、練習試合したいからどこか広い場所を確保してほしいっつってんの」

 

執務机でお仕事中だったクロノ少年が、口をぽかんと開けて目を白黒させていた。

 

忍の家で友人たちに説明をした日(話が終わったあとは単なるお茶会と化した)から二日が経ち、今日は五月九日。

 

停学明けの学校では何かと先生方からありがたいお言葉を頂いたが、恭也や忍、鷹島さん、長谷部、太刀峰のフォローもあり、それ以外では存外何事もなく平穏な学校生活を取り戻した。

 

もちろん学校には、目立ってしまうので眼帯はつけずに行った。かといって何もせずに登校したわけでもない。ゴールデンウィークと停学が明けて久しぶりに学校に来た問題児が、今度は左目を銀灰色にしていれば悪目立ちもいいところだ。

 

なんにしたって目立ってしまうという状況を避けるため、俺はあらかじめ準備していた。忍の家に(おもむ)く前に購入しておいた黒のカラーコンタクトを左目に入れたのだ。慣れていないコンタクトレンズのおかげで、朝から家に帰るまで左目のごろごろ感に苦しめられた。左目を苛む異物感は不快極まりなかったが、左目が黒く戻っているのに驚いた鷹島さんはとてもおもしろ可愛かったので、収支は差し引きゼロである。

 

ともあれ、懐かしくも思える学校から一度帰宅し、姉の晩御飯の準備を終わらせてから、俺は再びアースラに帰艦した。

 

今回の要件、訓練場の場所取りならわざわざ忙しそうにしているクロノに頼まなくてもエイミィにお願いすれば手配してくれそうなものだが、彼女は彼女で多忙なのだろう、この場にその姿が見えないのでは仕方がなかった。

 

(くだん)のクロノ少年は、俺の要請になんとも形容しがたい表情を作った。

 

「いや、しかし、練習試合と言っても……お前は……」

 

「『お前はもう、戦えないだろう』ってところか?」

 

「うっ……。まあ……そうだ」

 

「俺はちゃんと言っておいただろ、戦術を組み直すって」

 

「たしかにそのようなことは言っていた気がするが……っ!」

 

負い目を感じながら喋っている印象だったクロノの顔に、驚愕の色が差された。目は見開かれて俺を見上げ、口元は笑みを作ろうとして失敗してひくついている。

 

「宣言通り、組み直してきたんだ。一応軽く実験はしたしシミュレーションもしたけど、実戦に耐えうるかどうかはまだ試してないからな。ちゃんとした場所を用意してもらって、専門家にも助言をもらおうと思ってこっちまで来たんだ」

 

「は……はは」

 

もはや驚きよりも呆れに近いのか、クロノは乾いた笑い声をもらす。

 

「暇そうにも手が空いてるようにも見えないけど、せっかくだからクロノ、ちょっとばかり付き合ってくれ」

 

「……あまりに、早すぎるだろう……」

 

一度うつむき、何言か小さく呟いたかと思えば、クロノはすぐにいつものきりっとした(おもて)を上げて、こちらを見据えた。

 

「お安い御用だ」

 

 

残っていた仕事を全部ほっぽりだしてくれたクロノはすぐさま立ち上がり、部屋を出た。歩きながらどこかに連絡を取るなり、訓練室を確保できたと俺に告げた。

 

小さいのも含めれば部屋数はいくつかあるらしいのだが、今回用意してもらった場所は、以前アースラの武装局員さんたちと演習をした部屋だ。ちなみに、ここが一番広く、設備も整っているらしい。

 

「僕は準備できているが、徹はもういいのか?」

 

「俺のほうは……大丈夫だ。いつでもよし」

 

準備、といっても俺の場合、クロノやなのはたちほどやることは多くない。これまでは魔力付与を全身に行き渡らせるだけだったし、今に至っては胸に手を当ててリンカーコアの調子を確かめるだけだ。

 

デバイスである杖を握ってバリアジャケットに着替えたクロノから、十メートル程度距離を取って俺は立つ。

 

「……本当に備えはしているんだろうな?最初は加減するし、魔法は非殺傷に設定されているとはいえ、防護なしで直撃すれば怪我をしないとも限らないぞ」

 

構えを取った俺に、クロノは心配そうに声をかけてきた。

 

不安になる気持ちはわかる。

 

バリアジャケットも着装せず、その代わりに纏っていた魔力付与の恩恵も今は失われている。そんな無防備といって差し支えない人間に対して、頼まれたからといって攻性魔法を使うのは、きっと俺でも抵抗がある。

 

「心配性だな。大丈夫だって。ちゃんと完成してるんだから、骨子(こっし)は」

 

「完成してないじゃないか。骨組みだけじゃないか」

 

しかし、抵抗があろうがなかろうがクロノには付き合ってもらわなければ困るのだ。

 

一昨日と昨日(・・)で閃き、急いで(こしら)えた武器はまだ試用段階、土台でしかない。専門家(クロノ)に見てもらってアドバイスを頂きたいし、なにより紛いなりにも戦力になるということを証明したい。

 

同情と憐憫しか誘わなかった左目(・・)も有効に活用できると、ここで知らしめておきたい。

 

「俺の言うことが信じられないなら、まずは肩慣らしに何発か射撃魔法撃ってくれよ。それで判断すればいいだろ」

 

クロノが変に気を揉むことのないよう、提案してみた。俺も身体が鈍っているだろうし、エンジンを暖める意味合いでここが妥当だろう。

 

複雑そうな顔をしながらもクロノは頷き、杖を構えた。

 

「危ないと思ったらすぐに障壁を張るんだぞ」

 

「わぁかってるって!お前は俺の親かなにかか!」

 

魔法陣が展開、次いで魔力が膨らんであたりを圧迫する感覚。射撃魔法が行使された。

 

クロノの周囲に魔力で構成された水色の球体が浮かび上がる。だが、記憶と少し差異がある。クロノがよく使う射撃魔法、スティンガースナイプやスティンガーレイとも違う、ごく一般的なものだ。

 

「クロノめ……疑ってかかってんな」

 

よほど俺の言葉を信用していないと見える。

 

悲しくなってきたが、なんとか胸を浅く抉る悲しみに耐えつつ、新しい技術を試す。

 

胸の奥にあるリンカーコアに意識を集中させ、血液を全身に回す心臓と自動車のエンジンのイメージで、身体の隅々まで強く、激しく、勢いよく魔力を巡らせる。徐々に体内を走り回る魔力の圧力を増大させつつ、欲しい場所に魔力が集まるようコントロールする。

 

うむ、実験した時と同じ手応えだ。以前まで使っていた魔力付与とも違う感触と反応だが、悪くはない。さすがに違和感がないとまでは言わないが、時間とともになくなる程度のものだ。

 

準備を整え、前方を見据える。

 

クロノが振り上げた杖の先端をこちらに突きつけていた。

 

「ファイア」

 

味気ないというか、気迫のこもらないクロノの号令で、近くに漂っていた魔力の球体が突進を始めた。

 

おそらくは直射型で、それぞれタイミングを微妙にずらしている。速度は特別速くもなく、特段遅くもない。性能で判断したところ、一番最初に教わった射撃魔法の術式そのままのようだ。

 

まず向かってくるのは二発の魔力弾。余裕を持ちながら二発の真ん中を通るように回避。次はちょうど顔の高さに来たので屈んでやり過ごす。

 

「おぉ、さすがクロノ。やるからには手は抜かないか」

 

屈んだことで気づく。俺の目線からでは三発目の影に隠れて死角になっていた小さな空間に、四発目が潜んでいた。姿勢を低くして躱すことを見越した配置だ。

 

うまい采配ではあるが、魔力弾自体の速度が大したことないので、頑張ればここからでも回避は可能だし、障壁の展開も充分できる。

 

取れる手は多くあるが、この練習試合の主旨を考えてここは迎え打つ。魔力付与に代わる新しい技術の試運転のために、クロノにこの場を用意してもらったのだ。痛そうだなー、などと多少臆病風に吹かれはしたが、気合を入れ直して真正面から向き合う。

 

「……ふっ!」

 

体内で循環し続ける魔力を右の拳に集中させ、振り抜く。

 

怖がっていた自分が間抜けに思えるほど、魔力弾はあっさりと爆散した。

 

「よしっ!使えるな、これは!」

 

手心を加えられている上に速度も遅い射撃魔法一発を破壊した程度ではあるものの、しっくりきた手応えは確かに感じることができた。収穫はあった。

 

実際に使ってみて改善すべき点も発見できたし、ここからまたブラッシュアップしていかなければ。

 

「クロノ、お前から見てどう映った……おい、クロノ?ちゃんと見てたのか?ぼんやりしてんなよ」

 

年下の先輩から意見を(たまわ)ろうとクロノに目をやったが、こっちを見ながら立ちほうけていた。

 

忌憚(きたん)のない感想が欲しかったのだが、もしかするとクロノのお眼鏡には適わなかったのだろうか。

 

少しばかり落ち込みながら、返答を寄越さないクロノに俺から近づく。二、三歩するとまるで再起動でもしたみたいにぴくんと動いた。そこからは電光石火だった。

 

「とっ、徹!今さっき、何をした!お前っ、魔力付与の魔法は使えなくなったんじゃなかったのか!?」

 

飛行魔法でも使ったのか、クロノはそこそこあった距離を一気に潰して俺に詰め寄った。あまりの勢いにちょっと引いたくらいだ。

 

「魔力付与はっ、使えなくなった!それは勝手に検査してくれやがったクロノがっ、一番、知ってるだろっ!ちょ、手を離せ!頭がぐらぐらする!」

 

非常に興奮して胸倉を掴んで揺するクロノの手をどうにかこうにか(ほど)く。脳みそでプリンでも作る気か。頭を悪い感じにシェイクされた。

 

「魔力付与でないというのなら何をしたんだ。いくら加減をしたとはいえ、生身で砕かれるほど脆弱に作った覚えはない」

 

「一から説明するから、ちょっと落ち着いてくれ。これはクロノには言ってなかったと思うんだけど、俺、ユーノにちゃんとした魔力付与を教えてもらう前に身体強化っぽいことを自分でしてたんだよ」

 

「それは……どういう意味だ?テスタロッサ家の一件よりも前から魔法に触れていたということか?」

 

「いや、魔法を知ったのはプレシアさんたちの一件からだ。……より正確に言うとジュエルシードの一件、なのか?俺はジュエルシードの思念体と戦った時に当てられた魔力が影響したんじゃないかって予想してるんだけど……」

 

「魔法を知らずにジュエルシードの思念体と戦闘……徹、お前はなんで生きてるんだ?」

 

「その言い方だとその場で死んでてほしかったみたいに聞こえるからやめてくれ。で、だ。なのはを守らないとって思った時に、心の奥から何かが溢れて全身が熱くなった。今ならその力が魔力だってわかるけど、戦ってる瞬間は理解してなかった。理解しないまま、無意識的に身体の中で魔力を使ってたみたいなんだ」

 

「魔力運用……つまり、自分が必要とする部分に魔力を集中させて運動能力を向上させた、と?」

 

「そう。そんなことをしてたってのを思い出して、その時の感覚も引っ張り出して、もっと効率的、かつ効果的、加えて実用的になるように手を加えたのが、さっき使ってた魔法ってわけ。苦労したんだぜ、ユーノにも手伝ってもらってな。身体の外から強化できないなら、身体の内側から改造するってイメージだ」

 

一昨日リニスさんにサーチ魔法を教えてもらった次の日、つまり昨日、俺はユーノと会って魔力付与に代わる魔法の相談をしていたのだ。いろいろと案は出たが、戦闘中に使うことを考慮すると実現が難しい、もしくは実用に適さないものばかり。悩み抜いて考え尽くして疲れた俺とユーノは休憩しながら雑談に興じていたのだが、どんな話題から転じたのか、初めて出会った時の話になった。

 

その中で、ユーノが尊敬と呆れをないまぜにしながら、一番最初に遭遇したジュエルシードとの戦闘を思い返していたのだ。『あの時は無茶したもんだ』と俺が緑茶をすすりながら言えば、ユーノは『今でも戦い方はほとんど変わってませんよ』と返す。半月ちょっと前の死闘を笑い話にしていた時、ふと気がついた。あの時はまだ、ユーノから魔法を教えてもらっていなかったことに。

 

自分でもジュエルシードの思念体相手となぜ渡り合えたのか究明できないまま一時保留とし、ユーノからちゃんとした魔法を教えてもらってからはそちらを使い、それでなんら問題はなかったのでこれまですっかり失念していた。

 

『これ使えるんじゃねーの?』と俺が提案するとユーノも『もしかしたらいけるかもしれません!』と興奮した調子で乗ってくれたのだ。夜通しの研究と現象の解明、実際に戦闘時に使うための術案構築までユーノが付き合ってくれたおかげで、これほど短時間でなんとか形になり、クロノに披露することができた。

 

「射撃魔法を破壊できた理由は……少し納得しがたいが、まあわかった。だ、だが、よく高速で飛来する魔力弾にタイミングよく拳を合わせられたな。もう右目だけで距離感を掴めたのか?」

 

「いやいや、長期間片方の視力が正常に働かない人ならともかく、俺みたいに急に片方見えなくなったらすぐに慣れるなんて無理だ」

 

「ならどうやったんだ。徹なら、勘や閃きや第六感などと言っても僕は信じてしまいそうだが」

 

「俺超人かよ。人間の枠組みからはみ出してんじゃねえか」

 

「既に人間と呼んでいいかわからない次元に足を踏み入れているが……」

 

「うるせえよ。左目の問題も普通に魔法使ったんだよ。一昨日リニスさんの部屋に入らせてもらっただろ?」

 

「ああ。半ば無理矢理にな」

 

「細かいこと言うなよクロノん」

 

「次その呼び方したらその軽そうな頭の風通しを良くしてやる」

 

絶対零度の眼光で睨まれた。本気だ、この子本気でやるつもりだ。クロノん呼びは機嫌のいい日を見計らおう。

 

「そそ、それでだ。以前リニスさんがサーチ魔法を使っていたのを見てたから、ご教授(たまわ)ったってわけ。サーチ魔法は術式から教えてもらったから、中身いじくるだけですんだ。楽だったぜ」

 

「……狭まった視力の代わりにサーチ魔法、失った魔力付与の代わりはオリジナルで組み立てたというのか。たった……たった四日で……」

 

「そういえばそうだな。つってもいろんな人にアドバイスをもらいながら、手を貸してもらいながら、だけどな。やればできるもんだ。でも、とりあえずこれで目標はクリアだよな?射撃魔法を教えてもらう前と、状況はほとんど同じだ」

 

どうだ、と自信満々に胸を張ってクロノと相対する。

 

代替品として用意した二つの魔法は、なんとか実用にこぎ着けたとはいえ、まだまだ未完成で不完全、使いこなせてはいない技術だ。

 

サーチ魔法はプログラムこそばっちり自分好みに組み上げたが、送られてくる視覚情報を頭で処理する時にかすかにラグがある。

 

新開発したオリジナル魔法はーーそういえば名前は考えていなかった。身体の中をぐるぐる巡る魔力を操作しているので循環魔法と呼ぼう。循環魔法は魔力の出力・圧力の調整を誤れば身体の内側を傷つける繊細でデリケートな魔法だ。これからも調整と慣れが必要になる。そもそも魔法と呼んでいいのかわからない代物だが。

 

しかし、今は付け焼刃だとしても、ここまで戻した。戦うに足るだけの、戦いに耐えるだけの戦力は取り戻すことができた。

 

ここがゴールではもちろんなく、それどころかようやくスタートラインに立った程度でしかないが、少しくらい満足感に浸っても(ばち)はあたらないだろう。

 

「……ああ、これなら戦闘試験もクリアできるだろう。徹ならここからさらに洗練された魔法に磨き上げることだろうしな」

 

「おっと、俺の上司様は褒めて伸ばす方針なのか。気をつけろよ、ハードルは高ければ高いほどくぐりやすくなっちゃうんだぜ」

 

「一つ、訊かせてほしい。なぜそこまで頑張れるんだ」

 

ふんぞり返った俺に、クロノはいやに真面目くさった表情でそう尋ねた。いつものように俺の軽口に突っ込みも入れずに、真剣そのものといった表情で。

 

「徹は前、僕たちに……アースラの乗員に迷惑をかけたからお礼をしたいと言っていた。現状ではできないから管理局に入ってまで手伝おうとしている。プレシアやフェイトたちにしたってそうだ。今でこそ親しくしているが、もともとは赤の他人だった。汲むべき事情はあったが、意見の対立や行き違いもあった。彼女たちと戦って……大怪我を負った。それでも徹は彼女たちの力になりたいと言う。力になりたいが為に苦労して……魔法適性を失ったことのない僕には想像もできないほどの苦労をして、再び戦えるだけの力を手に入れた」

 

なぜだ、と。クロノは俺に問う。

 

問いかけられて、俺はすぐには答えられなかった。後ろめたいことがあるわけではない。

 

ただ単純に、考えもしていなかったのだ。

 

プレシアさんやリニスさん、フェイトやアルフが困った時には、たとえ微力であっても助けてあげたい。これまで不幸の泥中に囚われていたアリシアには幸せになってもらいたい。多大なる迷惑と面倒をかけてしまったというのに、俺もプレシアさんたちも快く受け入れてくれたクロノやリンディさん、アースラの乗組員さんたちに恩返ししたい。

 

そういった考えが根底にあった。

 

そして実際に手助けや手伝いをするためには確固とした肩書きが必要で、その肩書きを得るには最低でも以前と同程度の能力が不可欠だった。だから取り戻した。

 

思索を巡らせていたのはどうやって能力を取り戻すかであったのだ。その理由を訊かれても、答えなんてすぐには出てこない。クロノに尋ねられて初めて考えたくらいである。

 

圧力を伴ったクロノの視線に耐えつつ、しばし黙考。

 

そして『裏側』にまで辿りついた。

 

「たぶん……結局は自分のためなんだ」

 

テスタロッサ家が普通に暮らせるようにするための手助けとか。お世話になったアースラの乗組員さんたちへの恩返しとか。そういった綺麗なお題目の、建前の、その『裏側』。

 

「きっと俺は、誰かから必要とされていたいんだ。子どもじみた我が儘なんだ。一ヶ月にも満たない期間だったのに、それまでは顔も知らない他人だったのに……それでも今はこの繋がりを断ちたくないと思ってる。クロノに言われてようやく気づいた。知り合えた仲間とあっさり別れたくない。仲間に必要とされたい。ただの欲だ」

 

『裏側』の正体は社会的欲求と承認欲求。手伝いたい、助けたい、恩返しがしたいなどと耳触りのよい言葉で着飾らせただけの、欲望なのだ。

 

「ただの欲。それでは駄目なのか?逆に僕は合点がいったくらいだ」

 

「は?」

 

クロノは俺の答えを受けてなお、即答した。その内容も意想外すぎて、思わず気の抜けた返事をしてしまった。

 

「この際だからはっきり言わせてもらうが、あれだけテスタロッサ家の面々にぼこぼこにされておいてなお、助けたいやら力になりたいなどと言うのは、少々気味が悪い。聖人君子じゃないんだぞ」

 

「いや……まあたしかに、もれなくぼこぼこにはされたけど……」

 

よくよく振り返れば五人家族のテスタロッサ家のうち、四人から手厳しい責めを受けていた。

 

フェイトと戦ったらびりびりされたし、アルフと拳を交えたらサンドバッグができた(もちろん俺のことだ)。プレシアさんからは巨大な雷をプレゼントフォーユーされたし、リニスさんに至っては二度に渡って死闘を繰り広げたのでいまさら言うまでもない。唯一攻撃されてないのはアリシアからくらいなものだが、そもそもアリシアは動ける状態ではなかったので、動ける人間全員から攻撃を受けていると言える。

 

なるほど、これだけやられていてそれでも手助けしたいってだけの理由では、クロノの言う通り聖人君子か、あとは極度のマゾヒストくらいじゃないと理屈に合わないと取られるのかもしれない。実際はフェイトやアルフ、リニスさんの素の顔を見て感情移入してしまったのもあるのだが。

 

「それにアースラの局員に迷惑をかけたから云々とのたまっていたが」

 

「の、のたまうって……」

 

「僕たちは仕事としてやっているんだ。面倒も迷惑も、いつものことだ。今回の件も同様にな。いつもと違うところは、徹やなのはやユーノが彼女たちを救おうと走り回っていた姿を見ていて、正義感を刺激されていたことだ。忘れかけていた情熱を思い出したように張り切っていた隊員が多くいた。徹たちが僕たちを精神的に動かしたんだ。一応は対等な立場ということになっていたのだから、こちらに気を使う必要など最初からなかったんだぞ」

 

クロノが言う『救おうと走り回っていた』時に、俺たちは(主犯格は俺個人だろうけれど)クロノやリンディさんを含めた局員さんたちに多大なる負担をかけたはずだ。それに対等な立場というが、その立場だって実際は俺が屁理屈と暴論と足下を見てもぎ取った構図だった。

 

冷遇されないように、なにか不当な扱いをされれば糾弾できるように形だけでも言質を取っておこうという、ある種の保険のつもりでいたが、それら一切合切を彼らは認めた上で許容してくれていた。

 

「まあいろいろ言いはしたが……つまり、だ。欲が理由でも、いいんだ。認めてほしい、仲間がほしい……そう思うのは多かれ少なかれ誰だって同じで、そう思うのが自然なんだろうからな。それに裏側の理由が欲に基づくものでも、さらに裏を返せば手助けや手伝いをしたいという優しい想いに根差している。なにも間違ってなどいないんだ」

 

俺を気遣ってそう言っているのか、それともクロノのこれまでの人生観からくる本音なのかはわからないが、少なくとも心が軽くなったのは事実だった。

 

「年下にこうまで励まされると立つ瀬がないな……。俺の気持ちを汲んでフォローしてくれたんだろ?ありがとうな」

 

「いや……僕の本心だったしフォローのつもりはないんだが、ん……まあ、なんだ。仲間だとか、繋がりを断ちたくないとか、面と向かってはっきりと口にされれば……こちらとしても思うところはある」

 

「小難しいことを考えずに喋ってたからなあ……いつもなら黙っとくとこまでぺらぺらと口走っちまった」

 

よくよく考えれば結構踏み込んだ話をしてしまっていて、それを自覚した途端恥ずかしいというか、照れくさくなってきた。

 

頭をぽりぽり掻いていると、クロノがごほんと咳払いして姿勢を正す。

 

「適性の度合はともかく、徹の技術なら一定水準以上で戦えることが証明できる。要領もいいし、試験の前に一通り勉強しておけば学科も問題ないだろう。他の者にはない特殊な一芸もある。そしてなにより、目的と決意を持っている。嘱託魔導師試験であれば申し分ない」

 

すっ、と静かにクロノが右手を差し出してきた。

 

意図を察して、その右手を握る。俺のものより一回り小さい、けれどしっかりとした手のひらだった。

 

「やらなければいけないことは沢山あるが、これからまたよろしくな、徹」

 

これまで肩肘張ったような雰囲気だったこともあってか、クロノが小さく浮かべた笑顔はどことなく嬉しそうな色が滲んで見えた。

 

 



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かすかな違和感

今更な注意事項なのかもしれませんが、この話には原作にはない設定が含まれます。ご容赦ください。


「気が早いぞ、クロノ。まだ試験を受ける準備すら整ってないってのに」

 

「不安がることでもない。危険がつきまとう仕事だから、よく考えさせるためにも管理局に入るのは厳しいように話していたが、ある程度の能力があれば入ること自体は難しくない。人手も足りていないことだからな」

 

「いやまあ、人が足りてないってのは聞いてるけども、これで受からなかったら決まりが悪いだろうが」

 

試験とやらを受験してもいないのに合格を前提に進めていくクロノには幾許(いくばく)かのプレッシャーを感じるが、実技はともかく筆記のテストなら自信がある。もちろん、入念に勉強はするけれども。

 

ここから踏み出そうという空気の中、ふとかすかな疑問が俺の頭の中に降って湧いた。

 

「あれ?一昨日に話聞いた時、嘱託魔導師の試験に学科があるなんて言ってたっけ?」

 

「ん、ああ……言ってなかったか?基本的に戦闘試験を重要視するが、一応筆記もある。馬鹿ばかりでは困るのでな。記憶力だけはいい徹ならば問題はないだろう」

 

「どの方面に対してもだいぶ言い方が辛辣だけど、言いたいことはわかるな」

 

クロノのリアクションには、何とはなしに違和感を感じるがそういうものなのかなとも思って流しておく。学科試験の一つでもなければ、たしかに頭空っぽ荒くれ者集団になりかねない。嘱託魔導師という立場は一定の権力も有しているのだから、納得できないことはない。

 

右手を離して元の位置に戻る。

 

クロノの話はまだ続いていた。

 

「試験は年に何度かあるのだが、都合のいいことにそのうちの一度が近日ある。もう申し込んでおいていいか?」

 

「おう、早いほうがいい。でも急に申請して受理されるもんなのか?」

 

「大丈夫だ、無理なら違うルートから押し通す」

 

「いやいや無理なら次を待つから。圧力とか権力とか使わなくていいから」

 

「よし、それではこれからどうする?今日、時間があるのなら申込書に記入を済ませて、早速座学に入っておきたいんだが」

 

「そっちもなるべく早くしときたいんだけどな、せっかくこうして訓練できる場所を用意してもらったんだ。もう少し試したいものがある」

 

申請とお勉強はしばし待ってもらい、クロノから距離を取る。

 

学校に行っている間は無用な騒ぎが起こらないようにカラーコンタクトをつけていたが、慣れていないコンタクトに目が疲れたので一度家に帰った時に外しておいた。なので今は眼帯をしている。

 

その眼帯を外してクロノを見据える。

 

「それじゃ再開しようか、クロノ」

 

「代用となる魔法は取り戻しても、まだ身体の方は本調子ではないだろう。後日でいいんじゃないか?」

 

「新技を披露したいんだよ、言わせんな恥ずかしい」

 

「新技……まだ新しい魔法があったのか?」

 

左目(こっち)については魔法じゃなくて使い道だな。マイナスばっかりじゃなかったってことだ。どうせだし、弾速の速い射撃魔法か誘導弾あたりで頼む。そっちのほうがわかりやすいだろうからな」

 

怪訝そうな顔をしながらもクロノは杖を振るう。俺が頼んだ通り、足の早い魔力弾を三発撃ってくれた。

 

そして俺はそれら三発を危なげなく回避する。

 

「少し……少しばかり手を抜きすぎたな。次はどうだ」

 

俺が余裕を持って躱したことで闘争心がくすぶり始めたのか、クロノはこめかみをひくつかせてもう一度魔法を展開させた。さっきと同じ射撃魔法で、数はきっかり二倍に増えていた。

 

そして六発になって戻ってきたそれらを、俺はやっぱり危なげなく回避する。

 

「……小癪な。次は手を変える。そっちの望み通りなのだから文句はないだろう」

 

本格的に対抗意識を燃やしたクロノはすぐに第三波を寄越してきた。種類は誘導弾、数は四発。軌道を読みにくいようにか、全弾秩序だった無秩序な動きをしている。

 

しかし残念ながら、やっぱり特に苦もなく全弾回避してしまう。

 

俺が左目の調子を再確認していると、向かい側から淀んだ笑い声が聞こえてきた。

 

「くっ……ふふははは。以前よりも迷いなく軽快に躱しているな。どんな手法で弾道を見切っているかはわからないが……それならばこちらも奥の手を使おう。病み上がり相手に使うまいと思っていたが」

 

据わった目をこちらに向けて、クロノは周囲に水色の魔力球を(はべ)らせた。数こそ三つだが、その射撃魔法がどのような特徴を有しているか、俺は身に染みて知っている。

 

「おおう……スティンガーレイ、か……。身を入れて試合してくれるのは、ありがたいといえばありがたいんだけど……」

 

例の魔法の砲火に晒された立場としてはトラウマが蘇って少々怖いが、クロノクラスの射撃魔法でも対処できるとなれば、これからの戦略に広がりを持たせることができる。そう考えを改めて、怖気づいて回れ右しそうな足に力を入れて踏みとどまる。

 

練習試合当初とは打って変わって気概に満ちた表情をして、クロノは杖の先端をこちらに突き出した。

 

「ファイア!」

 

単なる演習とは思えない張り上げられた声と、空間を切り裂く水色の輝線。

 

魔力球の待機状態から発射されたと知覚した時には、既に後ろの壁に突き刺さっている。そんな異次元じみた速度が売りのスティンガーレイを、さすがに余裕こそないが確実に避けてみせる。

 

「やっぱり普通の射撃魔法とは格が違うな……。戦闘中に他の魔法と絡めてこられたら厳しいか」

 

俺が自分で自分の評価を下していると、鋭いけれどじめっとした視線を感じた。

 

「…………」

 

言うまでもないが、クロノだ。

 

「……なにをしたんだ。前に手合わせした時は僕の性格を読んで回避したり、弾道に障壁を合わせたりはしていたが、いやそれだけでも充分に驚いたものだが、今回はそれらとは違う。しっかりと事前に予測……いや、確信を持って動いていた……まるで予知だ。その動き、どんなトリックがある?」

 

ずいぶんとテンションが落ちた年下上司のクロノ少年は、声量まで落として言う。あえなく全弾回避されてしまったことが悔しいようだ。どうやって回避されたのか見当がついていないらしく、少年の端整な顔は苦渋に彩られていた。

 

そりゃあまあ、見当なんてつかないだろう。俺だって最初は戦闘の一助になるなんて微塵も考えていなかったのだ。

 

「一応言ってはいたと思うんだけど、状況が状況だっただけにたぶんちゃんと憶えてないんだろうな。左目は光こそ映さないが、魔力の光は映すんだ」

 

「…………は?」

 

「だからな、クロノの水色の魔力が()えるんだよ、左目でも」

 

「それは……左目でも魔法なら見える、ということか?」

 

「ざっくりとした括りならそうなんだろうけど、厳密に区別すると『魔法』じゃなくて『魔力』だな」

 

「元を辿れば魔法は魔力……だから見えた、と?」

 

「詳しくはわからねえよ?左目がこんなことになったのはつい最近だし、人の魔力光が視えるのは気づいてたけど魔法まで、しかもはっきりくっきり鮮明に視えるとは思ってなかった。だから俺も細部まで理解してるわけじゃない。試してみたらそういう結果が出たってだけ」

 

昨日、ユーノと一緒にいる時に偶然左目を通して魔法を見る機会があった。そこでも今のように、目が疲れるので慣れていないコンタクトを外していたわけだが、左目ははっきりとユーノの淡緑色の魔法を捉えていた。

 

いや、これでは正確ではない。右目で見える以上の現象を、左目は認識していた。ユーノが試しに発動したのは防御魔法、障壁を張っていたーーハッキングがこれまで通り使えるかの実験だったーーのだが、左目はただ魔法の障壁が見えるだけではなく、障壁を満たす魔力やその密度まで視認していた。

 

そこで俺は可能性を感じたのだ。なにがしかの役に立つのではないか、と。それでちょうど場も用意してもらったことなので試してみたのである。

 

一対一(タイマン)だったし、魔法が飛んでくると事前に知っていた。距離もあったし、他の魔法による撹乱(かくらん)や追撃もないというトレーニング設定ではあったけれど、まさかクロノのスティンガーレイまで回避できるようになるとは、想定以上の戦果を叩き出したものである。

 

「……いや、それが事実だとしても、待て。それでは僕の攻撃を全て躱せた理由になっていないぞ。ただ魔法が見えやすくなっただけで躱せるほど易しいものではない」

 

「そう、そこだ。魔法が見えやすくなっただけなら大した違いはない。発現した魔法から魔力まで視えるところがキーなんだ」

 

「……なんだか徹の話の進行を上手いこと手伝わされているようで面白くないが、続けてくれ」

 

口をへの字にして若干悔しそうにしているがやはり気にはなるのだろう、クロノが促す。

 

まあまあ、と(なだ)めながら進める。

 

「これは、俺はまったく知らなかったことなんだが、もしかしたらクロノは知ってんのかな?魔力弾の進行方向先端から魔力の線が伸びてんだよ」

 

「魔力の、線……?いや、初耳だ」

 

「あんまりメジャーな情報じゃないんだな。俺も使ってた時は気づかなかったし、考えすらしなかったけど。でもこの話の要点はここなんだよ」

 

「その線は一体何の為に存在しているんだ?僕はそんな線が出ていることすら知らなかったし、少なくともこれまで困ったことはなかった。射撃魔法に絶対必要なものなのか?」

 

「先端から伸びる魔力の線がなんの為にあるのかは、実際に視ている俺にもわからない。わからないけど、その線をなぞるように魔力弾が飛んでいくってことは視ていてわかった」

 

小首をかしげるクロノ。魔力弾の先端から伸びているのならそれは当然だろう、と思っているようだ。注釈を加えよう。

 

「直射型ならそれで当たり前だ。まっすぐにしか飛ばないんだからな。だけど、これは誘導型も同じなんだ。この意味がわかるか?」

 

俺の言葉に、クロノは得心がいったような表情をする。さすが、この若さで執務官という高い役職と地位に()いているだけのことはある。理解力が高い。

 

しかしそのすぐあと、俺を(なじ)るような視線を向けてきた。

 

「それはつまり、直射型・誘導型に(かかわ)らず魔力弾の軌道を先読み……違うな、文字通り先見、先に見ることができる、ということだろう。道理で……最小限の動きで回避できたわけだ」

 

「な、なんだよ……今回は法に触れたわけじゃないだろ」

 

「いつもなにかしら法に抵触する行為をしているみたいな口振りはやめろ。別に卑怯だなんだと騒ぎ立てるつもりはない。ただ、すこしずるいな、と」

 

「『ずるい』と『卑怯』の違いとは……」

 

少々落ち込んでいると、クロノが相好を崩した。

 

「冗談だ」

 

満面の笑みとまではいかないが、それでも柔らかく微笑んだ。

 

どことなく嬉しそうに見えるのは、きっと俺の思い上がりではないだろう。選べる手札の貧困な俺に与えられた新しいカードを、クロノは祝福してくれているのだ。

 

「すまないがあと一つ、いいか?誘導弾はそれで説明がつくにしても、だ。スティンガーレイはどう対処したんだ?自慢に聞こえるかもしれないが、多少威力に目を(つぶ)ってでも弾速に特化したのがあの魔法なんだ。よほど距離が開いていない限り、回避は困難だと思っていたのだが」

 

「ああ、それな。えっと、ここからは俺の推測が多分に入るけど……」

 

「構わない」

 

「それじゃあ。たぶん、魔力の線はフェアリングに似た役目になってるんじゃないかって俺は考えてる」

 

フェアリングというのは、自動車やバイク、飛行機などの前面部に備えられるもので、つまりは空気抵抗を減らすという役割だ。バイクでいうところのカウル、といったほうが伝わりやすくはあると思う。

 

「こっちの世界の物理の話にはなるんだけど、飛翔する物体は高速になればなるほど空気抵抗が増していく。その空気抵抗を低く、ひいては飛翔体の速度を高く安定させ、かつ、命中精度や操作性を上げるために、魔力の線が魔力弾の進行方向に伸ばされてるんじゃないか、ってのが一つの推論。魔力の線を伸ばして空気の流れをコントロールしながら進んでんじゃねーかな、と」

 

「ふむ……たしかにそれなら、速度も命中精度も重要なファクターとなる射撃魔法には必需品となる。真相はわからないが、理屈の上でなら正しいんじゃないか?しかし、その推論がスティンガーレイとどう関係してくるんだ?」

 

「そこなんだけどな……あー、えっと」

 

その後を説明するのは非常に簡単なのだが、つい言い淀んでしまう。

 

クロノの魔法は弾道が視えていても回避するのが難しいくらい優秀だし、この魔力の線が視えるのは今のところ俺だけなのだから知られたところで大して困ることでもないのだけれど、それでもやっぱり言いづらい。

 

先までぺらぺらとよく回っていた舌が急に動きを鈍らせたのを見て、クロノが(いぶか)しむように目を細める。

 

「ここまで仮説を立てているんだ、徹なりの結論は持っているのだろう。何に抵抗を感じているのか知らんが、それが僕を気にしてとかなら構わないから話せ。ここに来てはぐらかされる方がもやもやする」

 

中途半端にお茶を濁した言い回しでは、クロノは許してくれないだろう。

 

仕方ない、迂遠な言い方は避けつつ、本人に悟ってもらえるような言い方にしよう。はっきり言いながらも核心はつかないって、無駄に高度で絶妙な匙加減が必要だな。

 

「んんっ……さっき言ったように、速度に比例して空気抵抗は増大していくわけでな。それが魔法にも適用されているのかどうかは知らんけど、足の遅い魔力弾の場合は視える魔力の線も短かったんだ」

 

ぴくり、とほんの一瞬青筋が立った気がした。いや、たぶん気のせいじゃない。だってクロノの頬が引き()っているんだもの。

 

「ほう……つまり?」

 

「いや、だからそういう……」

 

「要約すると、どういうことだ?」

 

絶対にわかっている。聡いクロノがここまで言って答えに行き着かないわけがない。

 

だが、ここで変に抗うと逆鱗スイッチを撫でてしまいそうで怖い。別に俺が悪いわけでもないのに。

 

意を決して、ストレートを投げ込む。

 

「だから……速度に優れた魔法の場合は、魔力の線が際立って長かった。つまり、異常なまでの弾速を誇るクロノのスティンガーレイは『ここを通ります』って喧伝(けんでん)してんのかってくらいに魔力の線が長かったんだ。なので、視てから回避余裕でした」

 

「徹、お前途中から煽ってきているだろう」

 

「よくよく考えたら俺が萎縮する理由ってないしな。クロノから訊いてきたし、この左目はこれからは俺の武器になるわけだし」

 

「ふっ、ははは。それもそうだ」

 

一周回って踏ん切りがついてしまった。開き直りとも言える。

 

クロノも、腫れ物に触るような態度だった俺が急に堂々と不遜な言い様をしてきたので逆に面白くなっちゃったのか、笑っていた。そもそも最初から本気で頭にきていたわけではなかったろうけども。

 

「ふぅ……まったく。左目の特異性を有効活用した上、さらにサーチ魔法で視野を広げるとは……転んでもたたでは起きないな。……サーチ魔法で思い出した。エイミィから聞いたぞ。プレシア・テスタロッサの使い魔、リニスにサーチ魔法を習いに部屋に行った時、押し倒されていたらしいな」

 

「ぶっ……エイミィのやつなんで言い触らしてんだよ!」

 

「事件の後片付けも目処がついているからそこからの関係性については深くは言及しないが、一応まだ裁判は終わっていないんだ。そういった行為は艦の中では控えてくれ」

 

「控えるも何もそういった行為に及ぼうとも思ってねえよ!ちょっとリニスさんが……あー」

 

「使い魔リニスがどうしたって?」

 

「いや、まあ……いろいろあったんだ」

 

「ふむ?僕も人の色恋に口を出すほど野暮ではない。そういった部分は本人同士の問題だろうと考えているが、エイミィが少しうるさくてな」

 

そういえばエイミィはリニスさんと共鳴していたのだった。早くも行動に移しているのかもしれない。

 

クロノの言葉を待つ。

 

「徹が二股をかけている、と」

 

俺の予想とはかけ離れたとんでもない冤罪だった。

 

「なんの疑惑だ!濡れ衣っ……ていうか、誰と誰に二股かけてることになってんの?いや、そもそも二股なんてしてないんだけど、一股もしてないんだけど」

 

「一股などという言葉はないだろう……。エイミィは『アルフさんに粉かけておいてリニスさんとも(ねんご)ろな関係になってた!卑猥!』と言っていたぞ。そのあたりの真相はいかに」

 

「真相はいかに、じゃねえよ。というか『懇ろ』とはまた古風な……。断言するが二股などという事実はない。なんでそんな疑惑が持ち上がってんだよ……」

 

エイミィが言っていたという『リニスさんとの色々』は、衝撃的なシーンだけを目にしてしまったからだ。あれではそういった深い仲にあると考えても仕方がない、というか逆に深い仲でもないのにあのような体勢になるほうが尚更世間体に悪い。

 

ただ、気がかりな点はある。リニスさんに対しての誤解は仕方がないにしても、アルフに対しての誤解は一体どこで醸成されたものなのか。

 

特段重要ではなかろうが、かすかな違和感が俺の神経を撫でる。

 

答えに辿り着かない俺を置いて、クロノは俺の釈明を受けて納得したふうに頷いた。

 

「やはりエイミィの早とちりだったか。そんなことだろうとは思っていた。とはいえ、僕もエイミィほどではないにしろ多少は気になっていたんだ。フェイト・テスタロッサの使い魔が徹の病室にまで見舞いに来ていれば、さすがにどういった仲なのかと興味は湧く」

 

「そうそう、早とちりの勘違いだ。……ん?見舞い?」

 

「安心しろ、徹。エイミィにはちゃんとフォローしておいた」

 

「まあいいか……。なんだよ、フォローしてくれてたのかよ。そんならいいや……はぁ、助か……」

 

「『徹はもとからそんな奴だ』と言い含めておいたぞ」

 

「助かってない?!そのフォローの撤回も含めてエイミィに説明しといてくれよ頼むから!」

 

「ああ、わかった。気が向いたらな」

 

「それはやらない時に使うフレーズだろ!」

 

全力で突っ込む俺を見て、クロノは再びあどけない表情で笑った。

 

最初出逢ったばかりの頃は、こんなに打ち解けた関係になるとは思いもしなかったものだ。なにせ、初めて顔を合わせた時には、互いに拳と杖を突きつけていたのだから。

 

「使い魔といえば……プレシア・テスタロッサの使い魔、リニスの聴取を纏めた調書を目にしたんだが、徹お前、ジュエルシードを融合型(ユニゾン)デバイス扱いしていると書かれていたぞ。あれは事実なのか?」

 

最初の出逢い方は最悪に近しい有様だったのに、よくこうして親しい間柄になれたものだなあなどと感慨に(ふけ)っていると、クロノが半信半疑に事件当時のことを尋ねてきた。

 

おかしいな、と俺は首を傾げる。たぶんクロノも見る機会はあったはずなのだけれど。もちろんリニスさんとの戦闘中は別行動していたからそちらは無理だろうけど、その後、時の庭園の最下層近くに到達した際には一瞬とはいえ例の格好になっていたのに。まああの時はプレシアさんが近くにいたから、クロノの注意はそちらに集中していたのかもしれない。

 

ともあれ、言葉の使い回しが違うだけでクロノの発言は、あとリニスさんの調書は(おおむ)ね合っている。

 

「本当のことだな。唯一違うのは、エリーと一つになる状態は融合(ユニゾン)じゃなくて和合(アンサンブル)って呼ぶことくらいだ」

 

「アンサン、ブル……?初めて耳にした現象なんだが……。それにジュエルシードと一体化したことについては否定しないのか?」

 

疑ってはいないけれど、荒唐無稽過ぎてすぐには信じられないのだろう。クロノは懐疑的な目でこちらを見てくる。

 

「そりゃ初めて聞くだろうな。エリーと一つになった時に、不便だからってことでエリーが便宜(べんぎ)的に名付けたんだし、否定するもなにも、嘘じゃないんだから否定する必要がないな」

 

「ま、まあ名称はそれでいいとしよう。しかし、ジュエルシードと一体化するという行為は危険ではないのか?徹は知らないだろうが、ユニゾンデバイスが普及しない理由の一つに、事故の多さが挙げられている。その例にはなるが、特に術者の技量とデバイスの性能に開きがある場合、融合事故が引き起こされやすくなるという統計データもあったはずだ。今回のケースも、まさにそれに該当すると思ーー」

 

「問題ない。アンサンブルをしたのも、元はエリーが俺を助けるためにやってくれたことだ。融合事故なんて万に一つもありえない」

 

術者を乗っ取る融合事故に関しては、リニスさんとの戦闘中にもエリーが懊悩(おうのう)していたこともあり、神経質なほどの早さでクロノに反論してしまった。早口だったし声も多少低くなっていたかもしれない。とりあえず表情筋が強張っている自覚はある。

 

それは相当な豹変ぶりだったのだろう。それを証すように、クロノは目も口も開いて固まってしまっていた。

 

「ああ、えっと……だから、心配はいらないってことだ。悪用する気もない。体調に悪影響が出るほど深く繋がることもこれからはないだろうしな。安心してくれ」

 

「そ、そうか。実際にその、アンサンブル……とやらを行った徹が言うのなら問題はないのだろう。その旨を付け加えて報告書を提出しておく」

 

明るい声音を努めたおかげか、ぴりっと一瞬走った張り詰めた雰囲気は霧散した。

 

困り顔は残っているが、クロノも平常通り返答してくれた。

 

「おう、印象いい感じによろしく」

 

「徹の印象を良くしようとするとどうしたって公文書偽造になってしまうんだが、それでもいいか?」

 

「俺の印象ってそんなに取り返しつかないのか?!」

 

くすくすとクロノは笑う。楽しそうでなによりです。

 

「しかし、あのプレシア・テスタロッサの使い魔に勝つほどとは、そのアンサンブルというのはよほど強力なんだな。その力があれば管理局の採用試験も余裕を持って通過できるだろう」

 

「それがなあ……そううまくは運ばないんだなあ」

 

「どういう意味だ?副作用でもあるのか?」

 

「副作用……とまではいかないが、エリーが言うには深く繋がりすぎれば戻れなくなるらしいしな」

 

「副作用どころではないぞ。危ないなんて話ではすまないじゃないか」

 

「いやいや大丈夫大丈夫。そのあたりの繊細な部分はエリーが微調整してくれるし、繋がる深度を浅めにしておけば危険性はぐっと減る。浅いぶんエリーから供与してもらう魔力の出力も落ちちまうけど、それでも俺の自前の魔力量とは比べ物にならない量だし」

 

ふむ、と顎に手をやってクロノは深く考え込む。戦術の一つとして使うべきか検討しているのかもしれない。

 

俺としてはエリーを、今はあかねもであるが、二人を道具のように扱いたくはない。だが、俺に協力してくれている存在として認められれば、管理局にとって得になる存在として認められれば、エリーやあかねに平穏に過ごせる環境を少しは提供できるかもしれない。

 

俺という一個人がどう扱おうと、エリーとあかねがロストロギアである事実は揺るがない。そして今回の一件でロストロギアがどれほど危険物として認識されているかも理解できた。

 

このアースラでは寛容な判断で俺に預けてくれていたが、上層部の人間までそんな器の大きい判断をできるとは到底思えない。危険性があるのなら排除してしまえ、などと考える者も当然いるだろう。厳重に封印処理をしろ、もしくは廃棄しろなんて命令が下れば、今まで認めてくれていたクロノもリンディさんも従わざるを得なくなる。

 

そうなる前に、エリーとあかねへの見方を変えておきたい。戦力になると、なんなら便利とかでもいい。理由はなんだっていいから、とにかく二人を俺のもとから離せば無駄に割を食うことになると知っておいてもらわなければならない。

 

それにはまず、報告をするクロノの心証から良いものにしておく必要がある。前もってクロノに言い含めておいてもいいのかもしれないが、それだと事が悪い方向に転がった際にクロノも巻き込んでしまうことになる。

 

なので、効率は悪くとも安全な遠回りで手をまわしておこう。

 

「なんなら、実際に見てみるか?さすがにリニスさんとやった時くらいに深くはできないけど、浅くてもだいぶ手応えは変わるぞ?今日はエリーもつれてきてるしな」

 

待ってましたと言わんばかりの光量で、ぱぁっと空色の光を振りまきながらエリーが胸元から這い出てきた。

 

なにかあったら大変なのでアースラの中では静かにしているようにという約束を交わしていたのだが、やはり息が詰まるのだろう。ぱっぱかぱっぱか光を放っている。表に出てこれただけじゃない欣喜雀躍(きんきじゃくやく)っぷりをひしひしと感じたりもするけれど。

 

「なんだ、ジュエルシードを持ってきていたのか」

 

「『つれてきて(・・・・・)』いたんだ」

 

「そ、そうだな、つれてきていたんだな。手間がかからないのなら実際に近くで見てみたいな。ついでに軽く手合わせもして……おい、袖から赤いのが出てきたぞ」

 

「ん?ああ、あかねか。どうし、痛いっ!」

 

いつの間にかふわふわと浮かび上がっていたあかねが、急加速して俺の額に直撃した。

 

ちなみに袖からあかねが出てきたのは、普段ブレスレットの一部にくっついて貰っているからである。

 

エリーはネックレスとして持ち歩いているので、あかねも当初はネックレスの台座に載ってもらおうと心積りをしていた。しかし日常的に小競り合いを繰り返しているあかねとエリーを無為に近づけて大事な場所で(いさか)いを起こされるのはちょっと困るので、身に着ける場所を変えて住み分けしたのだ。ということで、結局あかねは右手首のブレスレットが定位置となった。

 

その新しい家族であるところのあかねは、なにやらご機嫌ななめなご様子だ。

 

「膨大な魔力を内包しているロストロギアが、魔力の一切を使わずに体当たりとは……」

 

「これはじゃれてるみたいなもんだからな。よくあることだ」

 

「飼育員みたいになっているな」

 

さっきのあかねの突進は、クロノの目には危険行為とは捉えられなかったようである。

 

あかねの突飛な行動に激怒したエリーを掴んで宥め、俺のおでこを赤くしてくれた容疑者を見やる。

 

あかねは夕暮れ色の魔力を訥訥(とつとつ)と灯した。『なんで俺じゃなくて青いのを選んだんだよ』という文句を言いたいようだ。

 

静かにして待っていたのはエリーだけじゃない。あかねも同じくいい子にしていたわけで、とりわけお喋り好きなあかねにとって、じっと黙って待っているのはかなりの苦痛だったのだろう。これはつまるところ、フラストレーションの発散みたいなものである。

 

「当時の状況を再現するためだ。別にあかねが劣ってるってわけじゃないぞ?」

 

かわいそうな人を見るようなクロノの視線は視界から外し、あかねに声をかける。だが、あかねはぴこんぴこんと暗赤色の球体を点滅させた。理屈はわかるが納得がいかない、というところだ。エリーがなにやら勝ち誇ったように(きら)びやかな光を放っているのも、あかねの神経を逆なでしているのだろう。

 

「わかったわかった。あかねは家に帰ってからな」

 

俺の提案に、あかねはきゅぴんと一際強く瞬くと『しょうがねぇなっ』という風に、もやもやと魔力を漏らしながらブレスレットに戻っていった。

 

代わりに今度はエリーが俺の手の中で悔しげにぷるぷると震え出した。いったい俺にどうしろというんだ。

 

この光景を見ていたクロノがぽつりと呟いた。

 

「賑やかだな」

 

「いいだろ。いつだって退屈しないぜ」

 

退屈どころかゆっくりすらできないが。

 

「でも、なぜなんだろうな。爪の先ほども羨ましいと感じないのは」

 

どうやら、エリーとあかねが賑やかどころか騒がしいことにクロノは直感で気づいているようだ。

 

手首と手のひらから、ぱちぱちと静電気のような刺激。こんな些細な愚痴ですらエリーとあかねには感づかれるらしい。俺のことをよくわかっていらっしゃる。

 

「そんなこと言ってていいのかね。さっきの発言を挑発と捉えたエリーのエンジンは暖まってるぞ。こっちは準備オーケーだ」

 

「ならばちょうどいい。ユニゾン……ではなかったな、アンサンブルとやらの調整がすみ次第、始めてくれ。先手は譲る。そちらのタイミングでいいぞ」

 

クロノはにやりと口の端を釣り上げると、飛行魔法を使って勢いよく後退する。仕切り直しのために距離を取った。着地の前にくるりと後方宙返りするおまけ付きだ。

 

「おお……マジでエンジン暖まってきてる……」

 

クロノの一言をエリーが挑発と捉えた云々は俺の作り話だったのだが、余裕綽々で上から目線にも取れるクロノの言動により嘘から出たまこととなってしまった。菱形をしたエリーの結晶体の半径十センチくらいまで、澄み切った空色の魔力が滲み出ている。手のひらもぽかぽかしてきた。

 

エリーも、やる気は十二分にあるようだ。

 

目をつぶり、左手に包まれているエリーを胸の真ん中に近づける。

 

「行くぞ、エリー…………和合(アンサンブル)

 

リニスさんと戦った時ほど魔力の制限を外すわけにもいかないので、出力はかなり限定的だ。クロノとやればほぼ負けは確実だろうが、それでもどうにか一矢くらいは報いてやる。

 

頭の中でどういう攻め方をするか組み立てていると、身体の奥に温かいモノが入ってくる感覚が到来した。次いで、安心感溢れるぬくもりと、両腕で優しく抱き締めるような柔らかく穏やかな魔力。

 

幾度と重なり、もはや馴染んできてすらいるエリーとの一体化。アンサンブル。今更、異常も失敗もあるわけがない。

 

「ああ、くそ……完璧だ」

 

目蓋を開けば、己を取り巻く環境が違って見えた。

 

左目は機能自体を失っているので見えないままだが、魔力が全身に満ち満ちて流れているぶん、どこかクリアに見える。

 

時の庭園でアンサンブルを使った時とまったく変わらなくて、ある意味残念だ。

 

右目の端では流れるように美しい空色の髪がふわりと揺れて、自分の喉から発されたとは思えない高い声が訓練室の壁に反響する。細く(たお)やかな指と、エリーお手製のバリアジャケットの隙間から覗くすらりとした白磁のような手足。自分の身体なのにぎょっとするほど細いウエストと、あまり意識すると変な挙動に打って出てしまいたくなる胸。下腹部についてはもう触れない。

 

清々しいくらいにまったく変わりがない。百七十センチ近い長身の女性に早変わりである。

 

クロノの顔が半端ないくらいの驚愕に染まったことだけは、気分がよかった。

 

手をぐーぱーして再びこの女性体とエリー謹製のバリアジャケットの感触を確かめていると、俺の意思に反して口元が動いた。

 

「愚かにも、主様を侮ったその罪……思う存分味わわせて差し上げましょう」

 




本当なら前話と今回の話は繋がっていたのですが、長くなりそうなので分割しました。まあ、今回の話も次話に続いてしまうのですが……。


2017/04/09 23:15一部修正
脱字多すぎぃ……


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不埒で突飛な妄想

戦闘シーンは失われました。




 

「くっ……まだ、まだ負けてはいませんっ!」

 

「徹より諦めが悪いな。ここまでされてまだ続けるつもりか?」

 

割りとよく食らいついていたと思うが、やはりというべきかなんというべきか、エリー対クロノの対決はクロノに軍配が上がった。

 

射撃魔法の弾道を正確に推測できる左目はあっても、クロノの手札を完全に潰すとまではいかなかった。単発でなら、エリーの反射神経の鋭さもあいまって賞賛すべきことに百パーセントの回避率を叩き出したのだが、ほかの魔法との連携には対応しきれなかった。逃げ場を潰されたり体勢を崩されて回避できなくされたことが敗因だ。

 

クロノは飛行魔法で飛び回ってエリーが放つ魔力流を回避し、複数の拘束魔法で機動を奪ってから砲撃。近接戦闘中にわずかに距離が開いたその隙に射撃魔法を放ってくるなど、バリエーションに富んだ攻め方だった。

 

エリーはエリーで、俺の予想を超える反応速度と、俺のものとは毛色の違う近接格闘術、巧みな立ち回りを見せてくれたが、さすがに魔力流の放射以外の遠距離攻撃がないとなると難しいものがあった。

 

「主様お一人ならっ……この程度の薄っぺらい(かせ)容易(たやす)く破壊なさるのです!大きな顔はしないほうが懸命です!」

 

そう、クロノが言っていた通り、そしてエリーが口にした通りに、今この身体はクロノによって床に組み敷かれていた。両手の手首には捕縛輪が回っていて、その両手を振りまわされないようにクロノが押さえ込んでいる。足蹴にされないように身体の上に乗っかる徹底ぶりだ。

 

相手は俺(と、エリー)だとはいえ、なぜ生物学上は女性に分類されるこの身体にクロノがここまでできるかというと、この状況が既に二度目だからである。

 

一度似たような事態に陥ったが、(かたく)ななまでに負けを認めないエリーが暴れ、クロノを跳ね除けて豊富な魔力を後ろ盾に力づくで捕縛状態から逃げ出したのだ。そこから延長戦(もしくは敗者復活戦)が始まり、手間が増えてしまったので今回は逃がさないようにとクロノは魔法だけではなく物理的にもがっちり直接押さえ込んだのだ。

 

「言っていることは正しいな。徹の対拘束魔法への処理速度は目を見張る……どころか使うだけ無駄と思わせてくれるほど度肝を抜かれるものがある。その点、貴様は……ああ、エリー、と言ったか?」

 

「あなたのようなちびっこ執務官にっ、主様から頂いたありがたい名前を呼ばれたくはありません!」

 

「……持ち主の影響か、とても失礼だ」

 

「このちびっこ執務官っ!また主様を(おとし)めるような発言を!」

 

相も変わらずエリーは排他的だ。俺と接する時の優しさと気遣いの十分の一でもいいから、周りに振りまいてほしい。というか、クロノからの悪口は身から出た錆では。なぜか俺も巻き込まれてるんだけど。

 

「……まあいい。とにかく貴様は徹とは比べるべくもないほど魔力を持ってはいるが、ただそれだけでしかないな。いくら出力を限定させているにしても、だ。これなら徹を相手取るほうがよっぽど苦労する」

 

「主様がお強くあられるのは確かです。ですが、主様に代わって立たせて頂いている以上、軽んじられるのは……少々癪に障りますっ!むっ、むっ!」

 

エリーがまたもぱたぱたと抵抗する。

 

早いとこ負けたことを認めさせて試合終了とするべきなのだろうが、しかし、こうしてエリーが元気よく動いているところを見られるのが嬉しくもあり、俺からは口を挟めずにいた。こうした衝突から常識やマナー、人との接し方を学んで欲しいなあという親心である。ただ『代わって立たせて頂いている』のではなく、エリーが勝手に前に出ただけであるという訂正だけはさせてもらおうか。

 

とはいえ結果的には、クロノのためにも俺の親心はしまい込んで置くべきだっただろう。暴れているエリーにも、それを押さえているクロノにも聞こえていなかったらしい聞き馴染みのある空気が抜けるような音を、俺は拾っていたのだし。

 

地獄の門が開いたことも知らずに、業を煮やしたクロノは語気を荒げる。

 

「このっ、いい加減おとなしくしろ!抵抗するな!」

 

「どきなさいっ!この身体に触れていいのは主様だけなのです!」

 

「あら、ナニをしているのかしら……クロノ?」

 

「何をって、こいつと練習試合を……あれ、母さん?なぜこんなとっーー」

 

爽やかな風と鼻腔(びこう)をくすぐるミントの香りがしたかと思えば、次の瞬間にはクロノが消えていた。

 

ちょうどクロノと入れ替わって現れたのはリンディさん。ここから結構距離のある扉から、一息(ひといき)の半分くらいの時間でここまで駆けつけたようだ。腰まで届く長い艶のある髪がまだたなびいている。

 

リンディさんの髪に隠された背中からは、明るい緑色をした、まるで蝶の(はね)のようなものが飛び出していた。左目でもはっきりと視て取れたことから、どうやら魔力によって形成されているものらしい。しかも視た限り、かなりの密度を有している。

 

一般的に魔導師は体表付近にも魔力光を漂わせているものだが、それと比べるとリンディさんは周囲に浮遊させている魔力が少なすぎるので、もしかするとあの『翅』は外に漏れ出ている余分な魔力を集めたものなのかもしれない。

 

とりあえず外見上の変化や纏っている雰囲気が、いつものリンディさんと大幅に違うとだけはわかった。

 

これまでで憶えがないほど冷たい目をしたリンディさんを床に仰向けになったまま眺めていると、耳が『どん、どさっ、ずざさささー』と床を削るような音を捉えた。首を回せば、クロノらしき塊が遠くで転がっていた。

 

吹っ飛ばされた衝撃で魔法を維持できなくなったのだろう。捕縛輪は露と消え、両腕には自由が戻った。

 

遠くのほうで丸まっているクロノだった物体から、リンディさんの視線がこちらに移った。

 

「ごめんなさいね、うちのばか息子が……。怪我はない?それにしてもあなた、どちら様かしら?こんなに綺麗な子、一度見たら忘れないと思うのだけど」

 

「……こ、これは、なんと表せばよいか……」

 

リンディさんからの誰何(すいか)に、身体を操っているエリーは口ごもる。

 

今メインとなって表に出ている自分が名乗るべきなのか、身体の持ち主である俺の名前を挙げるべきかで迷っているのだろう。エリーには難しい判断だ。

 

「っと、ああ……俺、です。逢坂です」

 

身体の主導権を移してもらい、リンディさんの問いには俺が答えた。

 

エリーの抵抗(という名の悪あがき)によってクロノが(むくろ)と化してしまったわけであるし、これは相棒を止めなかった俺にも責任がある。勘違いさせてしまったリンディさんと、実質的に被害を受けたクロノにも謝っておかなければなるまい。ダウンしてしまっているクロノには復活してからになるだろうが。

 

「女の子なのに、俺……?逢……坂……?」

 

リンディさんの全身全霊のきょとん顔だ。次第に首が傾いて思案顔となる。

 

しかし『あっ!』と数秒後に大きな声を出した。

 

ずいぶん時間がかかったなあ、とも感じるが、こればかりは仕方ないかと諦めもついている。俺の本来の原型からあまりにかけ離れすぎているのだ、イメージが結びつかないのも無理はない。一応リニスさんの報告書も読んでいるだろうが、実物は本当にもう、この世の摂理から真っ向と逆らっているのだ。そもそも男から女になるという現象からして理解に苦しむというものである。

 

「えっと……話は聞いて、ますよね。あはは……」

 

アンサンブルをすること自体には慣れていても、女性体になることについては未だに全然慣れていないため、若干の気恥ずかしさを覚える。というか慣れちゃだめな気がする。

 

愛想笑いで照れ隠しをしながら、リンディさんの言葉を待つ。

 

「ええ!お話は伺っていたわ!実際に直接顔を合わせてお話しなければと思っていたの!誰かが呼んでくれていたのかしら?それにしても、あまり似ていないのね?髪の色も違うもの。でも、見た目より気さくな方のようで良かったわ!」

 

「…………ん?」

 

俺の期待していた返答じゃない。そしてリンディさんが言っている意味もよくわからない。おもしろいくらいに話が噛み合っていない。

 

「それにしても本当にごめんなさいね、うちの息子が……。あなたがあまりに綺麗なものだから、若い衝動をコントロールできなくなったみたいで……」

 

「あの、リンディさん。俺が誰だが、わかってる?」

 

これ以上はクロノの尊厳のためにも続けさせることはできないと思い、急いでリンディさんのセリフを遮った。それと同時に、最終確認を行う。

 

ある意味で、リンディさんの答えは予想がついていた。

 

「徹君のお姉さんの、真守さん、よね?」

 

「ってやっぱ違うし!俺、逢坂徹です!この格好じゃ信頼性も説得力も皆無だと思うけどっ!」

 

リンディさんの肩がびくんっ、と跳ねた。

 

やっぱり盛大に考え違いをしていたようだ。

 

だがそれにしたって姉ちゃんと間違うってのは無理がある。普段の俺と、今の状態とでは血の繋がりなんてまるで感じられないだろうに。いや、姉ちゃんと俺には血の繋がりはないけれども。

 

「ええっ?!と、徹君?本当に?!」

 

「そうだよ。時の庭園でも使ったエリーとの一体化、和合(アンサンブル)っていうんだ。リニスさんの聴取から報告書が作られてたみたいだけど、まだ目を通してない?クロノから渡されてないの?」

 

「あぁ、あのレポートが……」

 

「渡されてるじゃん」

 

俺がそう言うと、リンディさんは恥ずかしそうに顔を背けた。

 

「テスタロッサさんたちへの処罰の減刑をはかってもらえるように書類を作ったり、方々(ほうぼう)に手を回したりしていて……それで、まだ……」

 

「ごめんなさい。お仕事お疲れ様です」

 

マッハで頭を下げた。リンディさんの確認不足じゃん、とか一瞬でも思った数秒前の俺を殴り飛ばしたい。

 

フェイトやプレシアさんのために手を尽くしていろいろ動いて、忙しくて報告書に目を通す時間がなかっただけだったようだ。ならば俺とエリーのアンサンブルも、この姿も知らなくて当然だ。

 

『いいのよ、私が自分の仕事を全うしてなかっただけなんだから』と、ほわほわ笑いながら俺に頭を上げるよう、リンディさんが言う。

 

こほん、と咳払いして続ける。

 

「それにしても、ずいぶんと、その……変わってしまったわね。はたしてこの表現が適切かどうかわからないけど、とても綺麗よ」

 

「うーん……男に使うべき褒め言葉じゃないから、たしかに適切じゃないかもね」

 

「うん、そうよね……。とても綺麗でスタイルも良くて……だからこそ問題というか、複雑というか……」

 

ほわほわ笑顔に苦みが含まれた。

 

「それで……本題なんだけど、その……クロノと徹君以外に人が一人もいないこの場所で、徹君は綺麗な女の子の姿になって、しかもクロノに押し倒されていたように私には見えたのだけど……。二人っきりで、なにを、していたのかしら……?」

 

この人にしては珍しく、ふらふらと目を泳がせて、腫れ物に触るような恐る恐るといった様子である。むしろ女の子かと思った人間が俺だと判明した後の方が、リンディさんは困惑しているようだ。困惑するのも当然といえば当然なのだけれど。

 

しかし、なにを、とは、それこそ何について尋ねているのだろうか。今度は俺が首を傾げるターンだった。

 

『……申し訳ありません、主様……』

 

頭の中を疑問符でいっぱいにしていると、俺がメインに上がったことで身体の操作権的にサブに回っているエリーから、体内の魔力を通して声が届いた。

 

『なにについて謝ってんの?クロノに負けて、それを素直に認めなかったことについてならもういいぞ。エリー自身技術が及ばなかったことはさすがに自覚してるだろ?』

 

『い、いえ、そちらもなのですが……先程の主様への謝罪は、目の前にいる御仁(ごじん)に与えてしまった誤解についてです』

 

『おう……うん?』

 

御仁、とはリンディさんのことだろう。リンディさんのスペックの高さを察しているのか、それとも俺の立場を(おもんぱか)ってくれているのかはわからないが、排他的なエリーにしては破格の扱いだ。

 

そちらを突っ込もうとしたのだが、エリーがその直後に気になることを言っていた。リンディさんに与えてしまった誤解、と。

 

『大変申し上げにくいことなのですが……おそらくこちらの御仁は、人気(ひとけ)のない場所で、女体になった主様と、遠くでのびているセクハラ執務官が……あの……』

 

『ああ……わかっちまったよ……』

 

とても言いづらそうにするエリーの声音で、だいたいのところを勘づいてしまった。本当にとんでもない誤解である。

 

つまりリンディさんは、俺が女性体になれたことをいいことに、あれだ。行為に及ぼうとでもしてるのではないかと、そう不埒(ふらち)で突飛な妄想を働かせていらっしゃると。

 

少し考えただけで寒気やら怖気やら吐き気やらいろいろ襲ってきた。

 

いや、リンディさんは悪くないのだ。というか被害者とすら言える。可愛い一人息子がそんなこと(・・・・・)になっていたら、もしくはしようとしていたら、それはそれは当惑することだろう。だからリンディさんに非はない。

 

非があるのは、すぐに止めなかった俺と、明らかに負けがわかっているのに認めずに試合を長引かせたエリーなのだ。

 

『エリー』

 

『は、はひっ。にゃっ、なんでごじゃいましょうっ』

 

『家に帰ったらオシオキな』

 

『ひぅ……。あ、あみゃ……甘んじて……お受けいたします』

 

『あと当分お手入れもなしだから』

 

『そっ、そんなっ!?ご無体なっ!あ、主様っ、にゃにとぞっ……何卒(なにとぞ)ご容赦をっ……』

 

『なし』

 

『わあぁぁああんっ!』

 

一際大きな悲鳴のあと、エリーの反応がぷつんと途絶えてしまった。人でいう気絶みたいなものだろう。

 

エリーの意識がなくてもアンサンブルは続けられるんだなあ、なんて漠然と思っていたが、困ったことになった。リンディさんへの弁解と釈明のためにアンサンブルを解こうとしたのだが、解けない。片方が気絶していてもアンサンブルを続けられるのは新発見だが、反面片方が意識を失うと解除ができないとは厄介な。

 

「安心して、リンディさん。リンディさんが考えているようなことは一切ないから。この訓練室に来たのは、この部屋の名前の通り訓練のためだよ。なくなった適性の代わりを担う魔法のお披露目をしてたんだ」

 

「代わりの魔法を……こんな短期間でよく探し出したわね。そちらについてはまたあとでお茶でも飲みながらゆっくり詳しく聞かせてもらうとして……魔法のお披露目なら、なぜ徹君はその姿に?」

 

「リニスさんから聴き取りした報告書にエリーと、つまりジュエルシードと一体化したっていう記述があったから、それの説明のため。口で言うより実際見てもらったほうが早いし」

 

「そ、そう、だったのね……。あぁ……なんだかごめんなさいね。ここに入って早々に飛び込んできた光景が衝撃的すぎて、私もちょっと冷静じゃなかったみたい」

 

「う、うん……まあ衝撃的だよな……」

 

「でも私の勘違いで良かったわ。徹君が女の子の姿を気に入っちゃって……その、えっちなことでもしようとしてるのかと変に勘繰っちゃったわ」

 

「あのね……一応俺だってこの姿にはまだ戸惑いはあるんだけど?エリーの気持ちが強くあったから身体が女性側に偏った、っていう経緯があるから、この格好を気に入ってないとまでは言わないけど」

 

「……偏ってたのは気持ちだけじゃなくて魔力もだと思うのだけど……」

 

「俺がわざわざ濁した部分をあえて浮き彫りにしたなっ!」

 

俺が半泣きになりながら突っ込めば、リンディさんは口元に手を当ててお上品に笑った。内容は上品とはかけ離れたものだったが。

 

「それよりもさ、リンディさんはなんでここに来たの?なんか理由があって来たんじゃないの?」

 

「あら、つい忘れていたわ。私、徹君を探していたのよ。道中会った人たちに尋ねていったらここだって」

 

「それはそれは。で、ご用件は?」

 

「今回の一件の顛末を纏めた報告書がようやく仕上がりそうなの。それを提出して担当者の疑問や質問に答えたら、それでようやく書面上でも解決となるわけね」

 

プレシアさんたちの裁判まだ続いているけど、とリンディさんが注釈を加える。

 

相槌を打ちながら、俺は先を促した。

 

「そこでなんだけど、今回の件には徹君たちも深く絡んでいたから報告書にも省いて書くことはできなかったのよ。だからもしかしたら、捜査に協力してくれたグループのリーダーを担っていた徹君には、本局の人間から説明を求められるかもしれないわ、ってことを伝えておきたかったの」

 

ふむふむ、と二度三度頷く。

 

当時の状況を事細かく把握しようとすれば、実際にジュエルシードの確保を行ったり戦闘行動をした俺たちに聞きたいこともあるかもしれない。

 

やはりこういった裏付け的な作業も必要なんだな。『事件解決!おしまい!やったー!』で、すべて片付かないのが現実か。

 

「わかったよ。話に矛盾が出てこないように、ちゃあんと(・・・・・)考えておく」

 

「こういった方面でのことなら、徹君にはあまり心配はいらないとは思うけど……なるべく正直にね?本当に本局に召喚されるかはまだわからないけど」

 

召喚(しょうかん)って……こっちが向こうに行かなくちゃならないのか。まあ、心の準備だけはしとくよ」

 

「ええ、よろしくね」

 

伝えたいと言っていた案件は済んだのだが、リンディさんはなかなか戻ろうとしない。

 

手をあごにやって、じぃっと俺の顔をのぞき込んでくる。

 

「な、なに?まだなにか用事があったの?」

 

瞳に妖しげな色が滲んできたリンディさんから距離を取ろうとするが、俺が離れたぶんだけ彼女は近づいてくる。

 

口を(すぼ)めて目を()わらせて、どこか真剣そうな様子でまじまじと俺を観察していたリンディさんは、それこそ真面目そのものといった声のトーンで言う。

 

「……やっぱり女の子もいいわね……」

 

「シリアスな雰囲気出して吐いたセリフがそれかよ」

 

「やっぱり母親としては、女の子もほしいなぁって思うものなのよ。ねぇ、徹君?しばらくの間その姿でいるっていうのはどうかしら?」

 

「エリーが目を覚まし次第、速やかにアンサンブルを解除することを約束するよ」

 

そのあとは、リンディさんの執拗なお願いのことごとくを知らんぷりして、ダウンしているクロノのもとへと向かった。身体を揺すって起こしたクロノは、どれほどの衝撃にやられたのか視線が定まっておらず、返事もうつろ。

 

グロッキー状態のクロノに、必死に謝る俺とリンディさんであった。




今回は短めでした。

次話は少々ストーリーが動いてくるかと思います。


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禍々しさに溢れた微笑み

「ロストロギアを、しかも内包魔力量の極めて多い種類のロストロギアを、その少年は自在に使いこなせているのだろう?それに管理局への入局を希望しているという話ではないか。ならばその少年の力を有効に利用し、その少年の手によってロストロギアを存分に活用させればよい。戦力が増えるに越したことはないはずだ」

 

五十代後半程度の男が、数枚の書類を見下ろしながら言う。

 

やや肯定的なその物言いに、半円状に並ぶ座席の左端に座る白髪混じりの男が反論する。

 

「よく考えてから発言を願いたい。お遊びの延長線で作った道具ならばいざ知らず、この議題の少年が保有しているものは正真正銘のロストロギア。危険性が高すぎる」

 

白髪混じりの男の論調に共鳴するように、その隣の小太りの男が続いて口を開く。

 

「そしてあろうことか、この少年が保有している数は二つなのですぞ!何か少しでも異常が生じれば、どのような被害が発生するかわからない、予想がつかないではありませんか!有り得ませんな!ロストロギア関連の事件・事故がどれほど悲惨なものになるか、ご存知ないのですか!?」

 

「そう、そこが論点です」

 

小太りの男のヒステリックじみた発言を受け流すのは、半円状の座席の右側に座る四十代前半頃に見える細身の男。

 

その男は、あくまで冷静に話を進める。

 

「この少年は、人々にとって脅威となるロストロギアを扱えるレアスキルか、それに類するような特殊な技術を持っているかもしれない。これまではただの危険物として封印死蔵されていたロストロギアを、何らかの形で役立てられる可能性を僅かだとしても有しているのです。これを深く議論もせずに『危険だから』の一言で無闇に潰すのは、あまりに惜しくはないでしょうか?」

 

細身の男の提言に、左側に座る面々は苦みばしった顔で黙り込む。(もたら)される利益の多さ・大きさは一考するに足るだけのものがあった。

 

「たしかに、メリットを考えると容易く切って捨てられる議題ではないですねぇ」

 

会議室内の趨勢が右側へと傾き始めた時、これまで沈黙を守っていた、三十代中盤というこの中では最も若い男が口を開いた。その男の目の前のテーブルの上には、アロンツォ・ブガッティと書かれたネームプレートが置かれていた。

 

扇形の座席の中央に座し、会議の動向を静観していたアロンツォ・ブガッティは横長の鋭い目をいやらしげに細め、続ける。

 

「ですが、もし万が一の事態が発生すれば、その被害も桁外れとなってしまうでしょうねぇ」

 

語尾を間延びさせる喋り方と、語るその内容に、右側に座る面々は眉根を寄せた。

 

室内を覆っていた雰囲気がにわかに険悪になる。荒んできた空気を察しているのか察していないのか、彼は表情を変えることなく、なおも平然と喋り続ける。

 

「その少年を疑っているわけではないのですがねぇ。万が一、いやいや億が一ほどもないでしょうけれど。もしも、その少年に二つもの強大なロストロギアを預けたままで、更には管理局で厳重封印している数多のロストロギアを調べ、研究し、取り扱っても良いとの許可を出したとして。もしも、それで少年の心に魔が差してしまったとしたら?第一級指定されているロストロギアを多く持ち出された上で謀反……おっと失礼、言い間違えました。多数のロストロギアを持って離反されたとしたら?離反でなくとも、調べている中で操作を間違えて暴発、という危険性もあるかもしれませんねぇ。寛容な判断も良いのかもしれませんけれども、メリットを見越して投資するのも良いのかもしれませんけれども。しかし物が物だけに、万が一億が一があった時のリスクにも目を向けるべきではないでしょうかねぇ」

 

あくまで個人的な見解ですが。人一倍臆病な私は悲観的に考え過ぎるのですよ。

 

笑顔のようななにかを顔面に貼り付けて、ブガッティはそう締め括った。

 

個人的な見解。一人の意見。そう切り捨ててしまうのは簡単なのかもしれないが、そうできないほどの説得力を孕んでいた論理の展開だった。

 

これまで管理局で活用されずに無駄に捨て置かれていたエネルギーを有効利用できるようになるのでは。こういった希望的観測にも似た意見で統一されていた座席右側に座る男たちへ、冷や水を浴びせる格好となった。

 

右側に座る男たちは苦虫を噛み潰したような渋面で口を噤む。

 

打って変わって水を得た魚のように勢いを取り戻したのは、左側に座る面々だ。

 

真っ先に嬉々として身を乗り出したのは、ヒステリックな小太り男。

 

「その通りですな、ブガッティ委員長!まさしく仰る通り!利益を追求するのも大事でしょうが、リスクマネジメントも考慮に含めなければ話になりません!ええ、そうですとも!」

 

小太りの男を始めとして、左側に座る者たちはブガッティの意見に総じて同調する。

 

これほどまで議会の流れが決定的に変わったのは、立て板に水な喋り方に加えて、ブガッティの立場も一因となっている。彼が腰を下ろしている座席の位置と、小太りの男の口振りからもわかるように、ブガッティはこのとある(・・・)委員会の委員長を務めていた。

 

決定権と発言力。その二つは、他の一委員とは明確に、そして公的に隔絶されている。

 

「……………………」

 

しかし、反論どころか抵抗の一言も発されないのには、まだ理由があった。

 

暗い噂と黒い影。アロンツォ・ブガッティにはどろどろと(よど)んだ裏の顔があると、まことしやかに語られている。

 

真偽は定かではない。裏づけもない。真相を知る者は表側にはいない。

 

けれど、魔法を使えないアロンツォ・ブガッティが、三十代半ばという異例のスピードで時空管理局地上本部の高官にまでのし上がったことは事実だった。

 

権力と地位、刃向かえば自分の身が危うくなるやもしれないという恐れ。

 

この会議室において、ブガッティに真っ向から抗議できる者はいなかった。

 

「皆々様思う所はあるでしょうけれど、委員会(・・・)全体の意見としては粗方定まったわけですので、このあたりで決議と参りましょうか?」

 

意図してやっているとしか思えない、慇懃無礼で憎たらしい喋り方のブガッティは、つり上がった目を細めて聞き取りやすい発音で会議を締めにかかる。

 

閉会を示唆する言葉に、委員の反応は真っ二つだ。座席の左側は満足げに口元を歪め、右側は憎々しげに表情を歪めていた。

 

「逢坂徹少年の保有するロストロギア二つは我々が回収し、厳重で適切な封印処理を施した後、古代遺物管理部で保管。以上となりますが、質問などございますか?」

 

委員全員の顔を眺めたブガッティは、誰からも否定や反論がないことを確認し、ここでようやく本物と思われる笑みを覗かせた。だが、到底その笑みは綺麗なものではなく、ましてや純粋なものでなんてあるはずもない。まるで生贄を手に入れた悪魔のような、禍々しさに溢れた微笑みだった。

 

「それではこれにて、査問委員会(・・・・・)を閉会いたします。皆さん、ご苦労様でした」

 

 

 

 

 

 

俺は今、久方ぶりに窮地を味わっていた。

 

額からは汗が滲み、心拍数はまだまだ上昇を続ける。手足は言うまでもなく、頭のほうもフル回転で働かせ続けている。一つでも歯車が狂えば、もう取り返しはきかない。

 

ここはある種の、戦場だ。

 

「三番さんオーダーだ。きのこたっぷりホワイトソースオムライスと、牛挽き肉のミートグラタン。あと、濃厚カルボナーラ。飲み物は……」

 

「ドリンクくらいてめぇでやれ!」

 

「徹。一番さん、オーダー追加よ。海鮮ピラフと季節の野菜カレー。あとミックスサンドイッチ、ソースはからしマヨ。大至急ね」

 

「ちょっ、忍!大至急は無理だ!その前の注文が既に詰まって……」

 

「徹くん、根菜のサラダと四種のチーズドリアが入ったわ。ちょっと大変だと思うけど……じきに落ち着いてくると思うから、がんばって?」

 

「あ、あの、桃子さん……さすがにもう限界が……」

 

「徹、ワッフルが二つ入った。レモンソースとメープルだ」

 

「なぁ、恭也……俺がいる場所ってファミレスとかじゃないよな?」

 

「何を惚けたことを言っている。当たり前だろう。翠屋は喫茶店だぞ」

 

「そのわりにはさっきから通る注文ががっつりしすぎだろが!あと数多すぎ!桃子さんをこっちに回してくれよ!」

 

「悪いがフロアもギリギリなんだ。我慢してくれ。それに大口の予約が入っていたから徹にヘルプを頼んだんだぞ。忙しいのは当然だ」

 

「そりゃわかってたけど、ここまでだなんて聞いてねえんだよ!」

 

本日、俺の顔色と同様に空一面真っ青の快晴を記録した五月十一日。俺は翠屋の厨房で目を回していた。

 

事の起こりは昨日だった。

 

姉ちゃんにはエリーとあかねの存在もバラしてしまったので、誰に気兼ねすることもなく和合(アンサンブル)してエリーに料理を教えたり、あかねたっての要望で、これまで雑草を育てるだけだった庭を活用してガーデニングに勤しんだりして過ごしていた折、一本の電話が入った。相手は恭也、用件は時間に余裕があれば手伝いに来てくれないか、というものだった。

 

その電話がかかってきたのが、ちょうど昼過ぎあたり。エリーとのお料理教室も、あかねとの園芸活動にも一段落ついていたので了承の意を返しておいた。あかねはもう少し庭のほうをいじりたかったようだが、俺が『人間と同じで、植物もあんまり触りすぎたら育たないぞ』と雑な怖がらせ方をすると、あかねには覿面効果があって『そんじゃ、あとは明日にする』と考えを変えてくれた。

 

正直な話、親しい間柄からの用件でなければ断っていたところだ。

 

先日、正式に嘱託魔導師の試験を受けることが決定した。俺はその試験に備えて勉強や、実技試験に向けての戦術の組み立て、新しい魔法を使いこなすための訓練をもう始めている。まかり間違っても気晴らし以上の余裕など見せてはいられないのだが、今回はそれらを後回しにしてもいいと思えるほどの頼みだった。

 

俺はもともと、軽食喫茶《翠屋》で働かせてもらっていた。しかし、エネルギー結晶体であるジュエルシードが、ここ海鳴市に飛来し、それらの回収のため、(いとま)を頂いたのだ。常識知らずにも、いきなりに、である。

 

なのに桃子さんは嫌な顔一つせずに了承してくれたのだ。

 

そんな経緯と恩義があるので、忙しかったり困ったりしているのであれば何をおいてでもお手伝いしたいと常々考えていた。

 

なので嘱託魔導師試験の準備もほっぽり出してお手伝いに来たものの、まさかこれほどまでにてんやわんやな様相を呈するとは、想像の埒外であった。知らない間に『軽食』喫茶とは思えないメニューが目白押(めじろお)しに並んでいるし。

 

現時点で通されているオーダーを恨みがましい目で睨めつけていると、ヘルプを呼んだ張本人がやってきた。

 

「もともとお客さんからは予約を承った時に言われていたんだ。ここで食事をしたい、とな」

 

疲労を感じ始めた俺を尻目に、恭也はカウンターとフロアを繋ぐテーブルに肘をつく。テーブルの横に据え置かれている注文伝票を挟む金具に、追加のオーダーが書かれた紙をかしゃん、と音を立てながら挟んだ。

 

「だから食材を仕入れておいて、メニューも特別なものを用意したんだ。予約の人数が途中で増えたため、人手が足りなくなったことだけは予定外だったが」

 

「それで俺を呼んだのはわかるけどなあっ、だからって俺一人増やしたところで何になるんだよ!せめてもう一人くらいバイト必要だろ!」

 

「忍も手伝いに来てくれてるぞ」

 

「あいつはもう従業員で勘定してる。店の人間に含めてんだよ」

 

「そう言うがな、急には集まらないものだ。徹くらいしかな」

 

「ああほんとにな!俺が来なかったらどうするつもりだったんだ!?」

 

「徹なら来るだろうという確信があったからな、そこに心配はなかった」

 

「へいへい、ありがた〜い信頼ですね」

 

「というわけだ、もうしばらく厨房は任せた」

 

「は、はあ?!待てよおい!というか待って!?」

 

ホールが一段落つけば母さんがキッチンに入るから頑張れ。恭也はそう言い残して客席へと向かった。

 

それはつまり、そっちが一段落つかなければ俺はずっと一人なのでは。迂遠な死刑宣告みたいなものだった。

 

「やばい、ほんとにやばい。キッチン(こっち)は言うまでもないが、ホール(あっち)だって忙しなく動いてる……あの外面だけは美少女の忍が頬を引き攣らせてるほどだ。キッチンに桃子さんがきてくれるのは、いつになるかわからない……」

 

考えをまとめるためにぶつぶつと呟きながら、されど注文は片っ端から処理し続けていく。

 

出来るだけ料理は並列的に作業しているが、人間の身体構造上、焼き具合や仕上がりを同時に確認できる数には限度がある。『手』もそうだが、なにより『目』の数が足りなかった。

 

「せめてもう少し同時に料理を見ることができれば効率よく作れるってのに……ん?」

 

閃いた。

 

 

 

 

 

 

「恭也、三番さん上がりだ」

 

「わかった。……む、飲み物を忘れているぞ」

 

「てめえこそ忘れんな!自分でやれっつっただろ!」

 

「フィッシュアンドチップスとエッグベネディクト入りまーす。徹、一番さんの注文は?」

 

「あと海鮮ピラフだけ。もうすぐできる。てか、エッグベネディクトとかメニューにあったのかよ、ここ何屋さんなんだ……」

 

「徹くん。注文のほう、どうかしら?」

 

「根菜サラダとチーズドリアね。できてるよ」

 

「あらあら、もう出来てたの?早いわね」

 

「それはあれだよ、えっと……めちゃくちゃがんばってるから……」

 

「うふふっ。そうね、とても頑張ってくれているわね。さすがだわ」

 

「ま、まあね……あはは」

 

さきほどまでとは比較にならないくらいに料理を提供するスピードが上がった。複数の調理箇所を管理し、次々に完成させていく。

 

これというのも少々ずるい手を使っているからである。端的に言えば、魔法を使っちゃってるからである。

 

厨房内での移動は体内を駆け巡る魔力をコントロールする循環魔法を使って足に集中させて文字通りに駆け回り、焼き物や揚げ物やオーブンで作る品物の出来上がり具合はサーチ魔法を設置してつぶさに監視する。無駄な時間をカットした結果、盛り付けなどのどうしたって足を止めなければいけない仕事に時間的余裕を持たせることができた。作業のひとつひとつを効率化することで、まるでいじめのような注文のラッシュに対応したのだ。

 

まあ、桃子さんはこのあたりのことを音や匂いや焼き色で判別できるんだからすごい。魔法というグレーな手を使ってもひーこら悲鳴を上げている俺とは年季が違う。

 

「思いがけないところで第三の目が役に立っちゃったぜ。店の手伝いにきてんのか、魔法の練習にきてんのかわかんねえけど……」

 

ぼやきながら物陰に隠れ、冷蔵庫に入れておいたお茶を一口含む。

 

必要に迫られていたからとはいえ、つい最近教わったサーチ魔法なのにずいぶんと扱いに慣れてきた。出力は落としているとはいえ循環魔法の使い勝手も掴めてきたし、思わぬところで成果があったものた。

 

「ぷはぁっ。お茶がうまい。たったそれだけで、こんなに幸せなんだなあ」

 

まだいくつかは製作途中だが、波はひとまずおさまったようだ。先刻のような雪崩じみたラッシュはない。よって合間を見計らって小休止を取る。休憩はもらうものではなく、作るもの。

 

言い訳のように持論を展開しながら残りの品物も仕上げていく。

 

軽食喫茶と銘打ちながらがっつりした料理を提供していることに一抹の違和感は禁じ得ないが、とりあえずお客の腹が満たされれば俺の出番は蓋然的に減少していく。

 

それもそのはず、この店は本来は喫茶店だ。各種デザートと、それに合う各種紅茶、コーヒーを主力商品として掲げている。ある程度胃袋が満たされればあとはデザートに食指が動くはずなので、メインディッシュ担当の俺はほぼ御役御免だろう。

 

これですこしゆっくりできるな、と目算を立てていたのだが、ホールから早歩きでやってきた恭也を見て悪い予感がいや増してきた。

 

「徹、オーダー追加だ。読み上げるのも大変だから伝票置き場に差しておくぞ」

 

「それは有り体に読み上げるのも大変なくらいのオーダーが入ったってことだよな……。仕方ない、もうちょい頑張るか」

 

相当な数を捌いたはずだがメインディッシュはまだ足りなかったようだ。どうあれ注文が入った以上は俺の仕事、割り当てられた役割を果たすのみである。

 

少しばかり疲労のため息をついて、気を取り直していざ取り掛かろうかという時、からんころんと聞き覚えのあるドアベルの音が耳に届いた。『いらっしゃいませ』と桃子さんのほわほわした声。

 

冷や汗が垂れる。本格的に不安になってきた。

 

作り終えていた料理を何品かトレイに載せてお客さんのテーブルへと向かった恭也と入れ替わりで、忍がやってきた。店の書き入れ時もあって疲れの色も透けて見えるが、それでもなぜか頬を緩めながら話しかけてくる。

 

「徹、徹っ!予約の団体様、第二弾よ。またたくさん注文入ると思うけど、気張りなさいよ!」

 

「てめっ、それを言うためにわざわざこっちにきたのかよ……っ!」

 

「あんたの切羽詰った顔を見るのは楽しいもの。ふふ」

 

「こっの!いい性格してやがるな、ほんとに!」

 

「お褒めの言葉ありがとう」

 

流し目と妖艶な笑みを残して、忍はホールに戻った。

 

さらに言い募ろうにも、ホールに行くにはキッチンからぐるりと回らなければいけないし、この場から大きな声を出せば客席にも届いてしまう。ぽつねんと残された俺はぷるぷる震える手を、恭也が持ってきた伝票へと向ける。

 

「…………はぁ、今きてるオーダーのぶんからやってくか。また忙しくなりそうだし」

 

俺は諦めて、体内を循環する魔力の出力をちょみっと引き上げてさっさと仕事に取り掛かることとした。

 

 

 

 

 

 

「くそぅ、恭也め……散々こき使ってくれやがって」

 

夜、ベッドにうつ伏せになりながら愚痴をつぶやく。湯船に肩までどころか頭までずっぽり浸かったが、すべての疲労は抜けなかった。

 

団体様の第二波を捌き切ったと思えば、第三波、第四波、と続いて息つく暇もありはしなかった。厨房を走り回って体力を削られていたのは言うまでもないが、常に多数の箇所でサーチャーを稼働し続けていたので魔力までじわじわと消耗したのだ。

 

嘱託魔導師の試験勉強の他にも身体強化用の循環魔法と、左目の代わりとなるサーチ魔法を使いこなす特訓もしないといけないな、なんてアースラでクロノと喋っていたが、もはや特訓が不要になってしまうくらい今日一日で身体に馴染んでしまった。やっぱりこういう分野は、実戦ならぬ実践してみるのが一番習熟が早い。

 

おかげでとっても疲れたけれど。ていうか魔法を使うことになるとは思っていなかったのだけれど。

 

「だめだ……もう動きたくない、ベッドに沈みたい……」

 

家事はいろいろ残っているが、久しぶりの翠屋でのお仕事で疲労困憊の俺は風呂から上がってから数十分ほど、服もまともに着ずにベッドに倒れ込んでいた。

 

枕に顔を押し付けている俺の頭に、こつんこつんと軽いものがぶつかってくる。

 

「あかね……後から構ってやるから、ちょっとだけ充電させてくれ……。体力とか気力とか魔力とか」

 

スリープモードに突入した俺の頭部に数分前からちょっかいをかけてくるのは夕焼け色の球体、あかねだ。

 

ずっと魔導炉に閉じ込められていたあかねにとっては見るもの何もかもが新鮮らしく、よくあれはなんだこれはなんだ教えてくれ構ってくれと催促してくる。一番のフェイバリットはやんちゃな性格に似合わずお花である。自宅の庭をフラワーガーデン化させるという目標まで作っているが、そんなにすぐに花は育たないので(花の植え替えで済ませるのではなく、種や球根の段階から育てようとする気概ぶりなのだ)今のところはお花屋さんで購入してきた数輪をリビングにある花瓶に挿してその欲求を誤魔化している。

 

あかねによる頭部への刺激によって、俺はまだ眠りこけずにすんでいた。

 

だが、あかねとは逆に、俺を夢の世界へ送り出そうとしている光もあった。

 

「エリー……それやばい、超きもちいぃ……」

 

うつ伏せの俺の背中の上のほうに位置どったエリーが、自身の魔力を俺に供給してくれていた。若干の気だるさを感じるまで魔力を消費した俺にとってはとてつもない癒しだ。同時に魔力圧を絶妙にコントロールして俺に魔力を当ててくる。ちょうど按摩(あんま)のような、身体のこりをほぐす感覚に近い。あかねのかまって攻撃がなければ数秒で意識を手放していた自信がある。

 

翠屋から家に帰ってきてからというもの、空色の宝石・エリーと、夕焼け色の宝石・あかねは、俺の傍らをずっとついて回っていた。おそらくエリーは俺の身を慮ってのことだろうが、あかねはどうなのだろうか。時々意思を汲み取りにくい光り方をするので判断に困る時がある。

 

『……ぉい、とお……。寝て……?……おぃ……』

 

「……ん、なんだ……?」

 

微睡(まどろ)みに耽溺(たんでき)していると、頭の中にソプラノボイスが響いた。波が引くように、さぁーっと意識が覚醒していく。クロノからの念話だ。

 

『はいはい……起きてますよぃ』

 

『む……ハスキーボイス?……声が奴と違う。間違えたか?』

 

『奴』とは誰のことだ何言ってんだこのバカヤローは、と内心考えないでもなかったが、クロノが『念話を送る相手を間違えた』と思った理由は、どうやら俺にあった。

 

「髪、長くなってら。エリーから魔力を貰いすぎたか」

 

心地よかったからといってエリーから魔力を受け取り過ぎていた。和合(アンサンブル)状態とまではいかないが、身体的特徴が女性に傾き始めている。男か女か一見では判別できないあやふやな状態だったのだ。

 

頬に触れてこそばゆい深い海のような色合いになっている髪を耳にかけると、寝転がった姿勢から姿勢を変えて胡座(あぐら)になる。あくびを噛み殺しつつ、もう一度クロノに返答する。

 

『クロノ、俺だ。逢坂徹で合ってる』

 

『やはり合っていたか。ぶっきらぼうな喋り方、立場が上の相手にもかかわらず不遜な口調、間違いなく徹だな』

 

『どこで俺だと認識してるんだよ……。ちょっと魔力を使い過ぎちまってな、エリーから魔力を供給してもらってたんだが、魔力をもらいすぎた。半分和合(アンサンブル)みたいな状況になってんだよ』

 

『ほう、なるほど。半合(ハンサンブル)ってところか』

 

『妙に語呂のいい単語を作ってんじゃねぇよ』

 

半合(ハンサンブル)、なかなかどうして耳触りのいい音になっている。ちょっと気に入ってしまいそうだ。

 

『そんで?なんのご用だ?ちなみに学科の復習なら今日はやってねえぞ』

 

『どうしてやっていないのにそこまで堂々と言えるんだ……。学科で必要な範囲は一通り終わってしまっているからな。こちらもどうせ真面目に勉強なんてしていないと踏んでいる。用件はそこじゃない』

 

『そこは踏まえるなよ。ちゃんとお勉強してるかの確認じゃねえんなら、なんの用なんだ?』

 

『前もって予定を空けておくように言っておこうと思ってな。来週の土日には用事を入れるなよ』

 

『土日に何があるってんだよ。……まあ予定なんて決まってないんだけど』

 

『一番近い試験に徹の名前をねじ込んだ。金曜の夜に出発して土曜に試験を受けてもらう。日曜は念のためだ。担当の者には無理を強いたんだ、感謝しろよ』

 

『っておいっ!いくらなんでも急すぎるだろ!学科はともかく実技はそんなに作戦詰められてねぇんだぞ!』

 

『なに、慌てるな。あと一週間ある』

 

『ばっ……数えなおせ!今日は日曜日だぞ!あと一週間切ってるだろうが!』

 

『だいたい一週間じゃないか。いったい徹はなにを案じているんだ?テスタロッサ家の騒動の渦中にいても生き残ったんだぞ。実力を発揮すれば、なにも障害はないだろう』

 

『あっけらかんと言ってのけやがって……』

 

『心配しなくていい。教練ならこれからも職務の合間を縫って手伝ってやる。だからちゃんと土日は予定を空けておくように』

 

『いやうんありがとう、でもちょっと待て!さようならの段階に入ってんじゃねえ!』

 

『そうだ、もう一つあった。できれば次来るときには前持ってきていたお茶とお茶請けをまた持ってきてほしい、と母さんが言っていた』

 

『お、おお……あれな。わかった』

 

『ちゃんと伝えたからな。それじゃ』

 

『っておい!』

 

必要事項を全て伝え終えるや否や、クロノはぷつんと念話を切る。最後のほうで単なる伝言が挟まったことで試験について深く言及することができなかった。

 

「……まじかよ」

 

もう少しゆとりがあると思われた試験までの期日が、いきなり一週間以内にセッティングされた。筆記も実技もゆっくり準備すればいいかな、なんて悠長に構えていたが、そんな暇をクロノは与えてくれないらしい。

 

「今度の土曜日……すぐじゃねぇか。……用意しとくか」

 

もしかすると、これはクロノの作戦なのだろうか。尻に火をつけられたことで、焦りと背中合わせのやる気が出てきた。(まぶた)を下に引っ張ろうとする眠気も霧散した。

 

何からやるかは決めていないが、とりあえずベッドから下りてぐっと背伸びする。背骨と肩がぱきっと鳴った。

 

「二人とも、手伝ってくれよな」

 

自分の部屋の扉を開ける。

 

俺の斜め後方に浮遊しながらついてくる二つの宝石が、タイミングを合わせたかのように瞬いた。

 

 

 




不穏な空気が漂い始めましたが、次から何話か緩いのが続きます。

本当はすぐに嘱託試験のほうに行く流れだったのですが、ほかのキャラクターにあまりにもスポットライトがあたっていませんし、後日談をとの感想も頂きましたので書き足すこととなりました。


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『なのはのほっぺ』

 

 

「むぅ……」

 

「いい加減機嫌なおしてくれよ、なのは」

 

「だって……わたしもいっぱい心配してたのに、ぜんぜんきてくれなかったし……。それどころか念話の一つも……メールも、電話もっ!ひどいっ!」

 

「それは、うん……ちょっと立て込んでて……」

 

「徹お兄ちゃん、ユーノくんとは会ってたのに!」

 

「いや……まあ、起きたらベッドの脇にいたからな」

 

「だからこれは『せーとー』な『よーきゅー』なの」

 

「……はあ。……恭也が帰ってこないことを祈るばかりだ……」

 

翠屋で働いた翌日、俺は高町家はなのはちゃんのお部屋にお邪魔していた。もちろん、これにはわけがある。何も理由がないのに、家の人がいない時に女子小学生の部屋に入り浸るようなことはさしもの俺でもしない。

 

時の庭園の戦闘から目覚めてこれまで、なのはに連絡を取るのを忘れてしまっていたのだ。連絡関係はすでに恭也等々にしていたので、なのはに生存報告をするのをうっかり失念していた。

 

そして昨日、翠屋から帰る際、恭也に言われたのだった。

 

『なのはがすごくしょんぼりしているから、時間があるのなら顔を見せてやってくれ』

 

と。

 

これでも俺となのはは付き合いが長い。その経験から、なのはは御機嫌斜めも極まれり、といったところだろうとあたりをつけることができていた。

 

あたりをつけた向き自体は間違っていなかった。ただ、その度合いが間違っていた。御機嫌斜めどころではなかった。

 

高町家の玄関に入った瞬間、俺の腹部になのはの頭が突き刺さったのだ。油断しているところへの突撃だったのでクリーンヒットしてしまった。膝を床につけなかったのは、男の子のプライド以外になかった。俺だったから痛いで済むが、俺じゃなかったらそれだけではおさまらないほどの衝撃があった。

 

手作りクッキー(詫びの品)を持参してやってきたのだが、そんなちっぽけなお詫びではお姫様のお腹の虫さんはおさまらなかった。

 

来客()を沈黙させたなのはは玄関から自室まで強引に袖を引っ張り、俺をベッドに腰掛けさせると、ぽむんと膝に乗っかった。この姿勢は、俺がきてから今までずっと、である。

 

「徹お兄ちゃんはもう、大丈夫なの?」

 

俺を座椅子代わりにしてもたれかかり、見上げるようになのはが言う。小さな頭が胸元をくすぐるせいでこそばゆい。

 

なのはの歓迎のおかげで大丈夫じゃなくなるところだったよ、と一瞬口が動きかけたが、仕草がとっても愛くるしかったので意地悪するのはやめておく。

 

「おう、もうなんともないぞ。というかアースラで起きた時からとくに問題は……」

 

なのはには、俺の後遺症について説明していない。心配させたくないし、気遣われたくない。

 

なによりも。

 

ありえないことだが、万が一にもありえはしないことだが、俺のことが原因でなのはとフェイトの仲がどうにかなってしまうのではと、そんな愚かな想像をしてしまったことで口に出すことができなくなってしまった。

 

なのはは強くて、優しくて、賢い子だ。そんななのはがフェイトとの付き合いを変えるなんてことはない。

 

そう思っているはずなのに、俺の怯懦(きょうだ)が、伝えることを避けてしまった。

 

それら内心を覆い隠して、笑顔で言う。なのはがよく知っている『徹お兄ちゃん』の表情で。

 

「とくに問題は……なかったんだけどな」

 

「ならもっとはやく大丈夫だったってことを教えてほしかったの」

 

「ご、ごめん……」

 

なのははじとっとした目で俺を仰ぎ見る。

 

笑顔はもちろん可愛いが、なのははじと目でも愛らしい。心は痛むが、同時に痛んで荒んだ心を癒すようだ。

 

「恭也お兄ちゃんから『徹から電話がきた』ってなんの気なく言われたわたしの気持ちは、きっと徹お兄ちゃんにはわかんないもん」

 

言い終わると、柔そうなほっぺたを膨らませて、ふいっ、と顔をそらした。

 

これはまずい。大変まずい。付き合いは長いが、なのはがここまで根に持つことは初めてだ。

 

以前までならぷりぷりしていても、撫でたり一緒におやつを食べたり気長に話し続けていれば機嫌をなおしてくれたのに。

 

これが成長ということなのかもしれない。安っぽい手段はもう通用しないようだ。簡単には許してくれそうにない。

 

「悪かったって……ほら、あれ。クッキー作ってきたんだ。一緒に食べようぜ」

 

「ふんっ。もうクッキーじゃ……徹お兄ちゃんのクッキーじゃっ、っ、ううぐっ……流されないんだからっ」

 

そうは言うが、俺の膝の上のなのははぷるぷると震えているし、クッキーが入っている紙袋を射抜かんばかりに凝視している。クッキー如きで買収されたくない、されないけれど、それはそれとしてクッキーは食べたいといった様子である。

 

「クッキーじゃだめか……。せっかくなのはに食べてもらおうと思って頑張って作ってきたんだけどな……」

 

「クッキーはあとでおいしくいただくもん!お母さんに紅茶をいれてもらって味わって食べるもん!ごまかさないで!」

 

「ちっ……」

 

悪い意味で大人っぽく、情に訴える作戦に出てみたが功を奏しなかった。

 

「もうっ、もうっ!徹お兄ちゃんには『セーイ』と『でりかしー』がたりないのっ!」

 

それどころか、そんなやり方で丸め込まれると思われたことに(いきどお)ったのか、なのはは怒りを身体で表現した。俺の膝に乗りながらにして、ぱたぱたと動き始めたのだ。

 

なのはは軽いので多少暴れるくらいなら至って構わないのだが、その小振りなお尻までふりふりと動くせいで、男の大事な部分が一大事である。

 

(まか)り間違ってアレがアレしてしまっては、本当にしゃれにならない。そういう(よこしま)な煩悩がなくても、刺激を受ければ反応してしまうものなのだ。

 

とりあえず、なのはの腰あたりを、わしっ、と掴んで動かないようにした。

 

「にゃぁっ!?な、なにするのっ!」

 

「ぱたぱたするからだ。なによりもだな、これはなのはのためなんだぞ」

 

「へ?」

 

意味がよくわからないというように、なのははきょとん顔で振り向いた。

 

やはり狙ってこんなことをしていたわけではないようだ。その点には少し安心した。

 

「まあ……それはさておき。はっきり言うと、俺はなにをしたらなのはが許してくれるかわからない」

 

「むっ!なんでわかってくれないのっ!?わたしはなにか物がほしいわけでも、迷惑をかけたいわけでもないの!ただわたしはっ……」

 

この歳でも女の子は女の子のようだ。男には女心はわからない。

 

なので最終手段である。せっかく久しぶりになのはに会えたのに、ちゃんとお喋りもできないままでは悲しすぎる。

 

「だから、なのはに決めてもらうことにした。一個だけなんでもお願いを聞くから、それで許してくれ」

 

「わたしはっ、徹お兄ちゃんが優しくしてくれたらそれだけでえぇっほんとにっ?!やったぁっ!」

 

なのはが途中まで俺にとって都合のいいことを言っていた気がするが、俺が『なんでもお願いを聞く』と口走った途端に華麗に手のひらを返した。

 

早まった気がしないでもないが、なのはがとても嬉しそうなのでよしとしよう。

 

なのはは純粋ないい子なので無茶なお願いはしないと思うが、ただ一つだけ注釈をつけ加えておくとしよう。

 

「悪いけどつい先日散財したからお財布に余裕はないぞ」

 

散財した理由は姉ちゃんにお供えした料理の食材費、調味料代だ。普段作らない種類の料理ともなると、材料を揃えるだけでそれなりに費用が(かさ)んでしまう。久しぶりにがっつり作って俺も楽しかったからいいんだけども。

 

「わっ、わたし高いのとか、そんなの買ってなんて言わないもんっ!」

 

「おお、そうだな。なのはは優しいからな。助かるよ」

 

「うんっ。でも、なにをお願いしよっかなぁ……」

 

ぐむむ、となのははお願い事を真剣に考え始めた。

 

なのはが長考に入って俺は暇になってしまったので、意識をなのはから外して、部屋に置かれている勉強机へと向ける。正確には、勉強机の天板に敷かれているキュートなハンカチの上の、三つの宝石に、である。

 

一つは空色をした菱形、エリー。一つは赤色の球体、レイハことレイジングハート。もう一つはレイハと同じくらいか一回り小さいくらいの濃い赤色の玉、あかね。その三人が、なのはの勉強机の上で交流(・・)していた。

 

その三つの宝石はぴかぴかとけたたましく発光している。光の明滅によるモールス信号みたいな印象だ。本人たちはそれで交信できているのかもしれない。

 

エリーは以前から、最近はあかねの(またた)きも理解できるようにはなったが、さすがに俺に向けられた光でなければその意思を読み取ることはできない。

 

ただ、三人の議論が白熱しているということは外野からでも見ていてわかる。明滅が速く、光が強い。人間で言うところの口論に近い。なにを話しているか内容まではわからないが、率先して加わりたくはない。

 

なのはが俺のお話相手になってくれたら良かったのだが、残念ながらそうはならなかった。

 

「ぅぅううっ!決められない!ごめんなさい、徹お兄ちゃんっ!ちょっと作戦会議してくるっ!」

 

「えっ?!作戦会議って……おい、なのはー!」

 

発言の真意を確かめようと呼び止めるが、なのはは俺の膝から飛び出し、ぴかぴかと眩しいくらい光っている三人の近くに置かれていた携帯を握りしめて部屋を出て行ってしまった。

 

残された俺は仕方がないので、煌々にして囂々(ごうごう)と視覚的にうるさい三人の輪に入る。

 

「……なにをそんなに騒いでんの?」

 

『徹!この色情魔!』

 

俺が近くに来たことを認識したレイハは、俺の目線の高さまでぶわっと急浮上した。浮かんでいることもあるから飛べるんだなとは思っていたが、このような機敏な動きができるとは。

 

「挨拶もなしに罵倒されたのは初めてだな……。はいはい、エリーもあかねも怒んなくていいんだぞ。レイハは口が悪いのが平常運転だから」

 

レイハが早速俺に暴言を吐いたことで、エリーとあかねが血気盛んに輝いた。

 

俺はレイハが失礼なことを言わなかったら逆に心配になるくらいに慣れてしまったが、エリーとあかねは違う。言葉の裏に異なる感情が隠れていることを知らない二人は、その無礼極まる物言いで怒り心頭に発して、互いにもやもやとした魔力を帯びだした。

 

俺のためにそこまで怒ってくれるのは嬉しい。嬉しいが、ただ、エリーとあかねが暴れると手加減をしたところでなのはの部屋が丸ごと消し飛ぶことは保証されている。下手をすれば地図が書き換えられてしまうので、ここは一つ抑えてもらおう。

 

二人に手を被せる。するとどちらもすぐに魔力を引っ込めた。俺にも危害が及ぶかもしれないと一考してくれたのかもしれない。

 

「ふう……そんで?なんでレイハはそんなにお怒りなんだよ」

 

『なんで、とは白々しい!私が監視していなければ徹はすぐこれです!いやらしい!』

 

「なにに怒っているのか、そしてなにがいやらしいのか俺にはさっぱりわからない……」

 

『そこの青いのと赤いの、短期間のうちに二つと身体を重ねたそうですねっ!けがらわしい!』

 

レイハも赤いじゃん、とは言えなかった。火に油を注ぐ趣味はない。

 

「身体を重ねたってなに言って……ああ、和合(アンサンブル)のことか。どちらかというと心を重ねてる代物だし、別に風紀を乱すことでも……」

 

『乱れています!倫理観が既に乱れています!』

 

「必要に迫られたからやったんだぞ。そのおかげは俺は助かったし、二人もどうやら悪い気はしないらしくて喜んでる。誰も不幸にも損にもなってないだろ」

 

『「ヤった」!?「悦んでる」!?挙げ句の果てに「みんな幸せ」!?自分の行動に責任を取らないのですか?!このすけこまし!遊び人!』

 

「いやいやいや、言葉のニュアンスを微妙に変えていくなよ。捏造(ねつぞう)だろそんなもん」

 

『いつだって泣くのは女なのです!女の敵!ケダモノ!』

 

「よくそこまで罵倒の文句が出てくるもんだな……一周回ってすごいとさえ思えてきた」

 

『青いのと赤いのにやるくらいなら、私でもいいではないですか?!』

 

「話の主旨が変わってきてるぞ……」

 

レイハの発言に、エリーとあかねが俺の手の中で(にわ)かに色めき立つ。手から脱出してレイハに抗言したいのだろう。またややこしくなるので二人ともしっかり握って逃げ出せないようにする。

 

エリーもあかねも忘れているのだろうか。誰とでも何とでも自由にアンサンブルできるわけではないというのに。

 

「……あのな、レイハ。誰とでもできるわけじゃないんだよ。それにお前はなのはのデバイスだろうが。それこそ浮気になるんじゃないのか?」

 

『うぐ……そ、それは……。しかし、私も……と、徹と……っ』

 

「アンサンブルはな、簡単なものでも安全なものでもないんだよ。エリーもあかねもそのあたりうまいこと調整してくれてるけど、わずかばかりはリスクがある。それにアンサンブルには条件もあってだな……互いへの強固な信頼と、こいつらの特徴である……

『し、信頼ならっ!私だってしています!そこの青いのと赤いの以上に!』

 

「そこはレイハなら大丈夫だと思ってるって。話は終わってないんだ、とりあえず聞いてくれ。……そしてエリーとあかねも落ち着け。信頼の度合いなんて比較のしようがないだろ?」

 

レイハの迂闊(うかつ)な言動で再び騒ぎ始めた二人を(なだ)める。話を進めるのも一苦労だ。

 

「……続けるぞ。必要なのは信頼ともう一つ、こいつらの特徴であるエネルギーの結晶体ということだ。だからこそ、融合型デバイスみたいに一体化するための特別な処理をしなくても、身体の内側に入って一つになることができる……んだと思う」

 

正直、自分の身に起きていながら、和合(アンサンブル)という現象がどういうロジックのもとで成り立っているのかわかっていない。アンサンブル状態の時は魔力色まで変わっていたので、おそらくはリンカーコアと溶け合うことで身体に影響を与えているのだと推論を立てているが、確かめる術もないので実証はできていないのだ。

 

ともあれ俺の推測では、融合型デバイスでない限りは、エリーやあかねのようなエネルギー結晶体でなければ一体化現象は起きない。レイハはインテリジェント型のデバイスなので、おそらく不可能だろう。

 

『っ…………』

 

俺の説明を聞いたレイハは、その身に宿す光すら微弱なものにして黙り込んだ。もといたハンカチの寝床まで、墜落しそうなほどふらふらしながら戻った。

 

レイハにとって、アンサンブルできないということはそれほどまでにショックを受けるほど重要な事柄だったのだろうか。こうして通常状態でお喋りもできるのだから何も問題はなさそうに俺は思うのだが、どうやらレイハはそうは捉えていなかったらしい。

 

そこまで落ち込まれると仕方のないこととはいえ、申し訳なくなってしまう。

 

「んー……。でもなあ……無理して予期しなかった事故があったら困るしな……って、おい、あかね?」

 

レイハの尋常ではない落ち込みように力が緩んでしまったその隙に、あかねが俺の手から抜け出した。ふよふよとゆっくり浮かび上がり、緩やかな速度でレイハの近くに着地した。

 

『っ、あなたの同情など受けません!』

 

そう怒鳴って、あかねから離れるようにレイハが浮かび上がる。

 

あかねはレイハを追おうとはせず、ぱぱぱっ、と優しげな色味で短く点滅した。レイハと何やら言葉を交わしているようだ。

 

『……良いのですか?おそらくそれは、あなたにとって見ていて心地の良い光景ではないでしょうに』

 

レイハの返事に、あかねはやはり端的に明滅した。

 

「どんな会話してんだろ……。わかんないんだよなあ……」

 

どうやら平静状態ではないらしく、レイハは言語を発していたが、あかねはいつも通り発光による意思伝達だ。とても内容が気になるのに、直接俺に向けられた信号ではないので解読できない。

 

『あの子は、あの口の悪いデバイスに提案しているのです』

 

すごくもどかしい思いをしていると、頭に凛として涼やかな声が響いた。エリーが、言葉のやりとりが可能な程度に、ごく浅くアンサンブルしたようだ。

 

『提案?なにを言ったんだ?』

 

『簡潔に述べますと、一つになることはできずとも、デバイスとして使って頂くことはできるだろう、という旨です。あれだけ棘の多かったあの子がこのような提案をするなんて、成長したのですね』

 

『あかねが……』

 

『人の為に生み出された私たちにとって何よりも辛い事は、使ってもらえない事。自分の運命すら(ゆだ)ねると誓った主の役に立てないのであれば、それは殊更にです』

 

『でもレイハはなのはのデバイスだぞ?俺に対してそんな……』

 

『不肖私は……おそらくあの子も、この身を捧げると誓った主は貴方様ただ一人。しかし、みながみな一人とは限らないのでしょう。……あの口の悪いデバイスのように、主と定めた人間は一人でも、それと同等に強く想う人間が他にいたとしてもおかしいことではありません。間違っていることでもまた、ありません』

 

私個人としては実に不愉快ですけれど、と微かに笑うように、エリーは挟んだ。

 

『あの子は、辛さを知っていますから。自分らしく振る舞えない苦しさと悲しさを、痛みを知っていますから、あのデバイスに助言したのでしょう。他人の痛みに共感できるくらいには、あの子も成長したのですね。……そう本人に言っても、きっとあの子は認めないでしょうけれど』

 

『はは、そうだろうな、あかねは。……帰ったら褒めてやらないと』

 

『ええ、そうしてあげてください。……では、不肖私は主様より下賜されました台座へと戻らせていただきます。あの子の精神的成長が所以(ゆえん)とはいえ、主様があのデバイスをお使いになるところを目にするのは看過に耐え難いので』

 

『……お前は相変わらずで安心するよ』

 

エリーがアンサンブルを解き、ふわふわと浮かんで襟元(えりもと)から服の内側に入ってネックレスの台座にかちりと音を立ててくっつく。

 

台座に戻りやすいようにネックレスを引っ張り出そうとしたのだが、その前にいそいそとエリーは服に入ってしまった。その際に妙に地肌を撫でていったように思うが、気のせいだろう。

 

「レイハ」

 

『……徹』

 

声も光も弱々しく、レイハは返事をする。

 

「あー、えっと……そうだ。一度お前がつくったバリアジャケットを着てみたかったんだ。用意してくれないか?」

 

『……マスターが着ているのを、ですか?』

 

「お願いだからそれ以外で頼むわ」

 

声にいつもの張りはないが、冗談が言えるくらいには調子が戻ってきているようだ。

 

「……デバイスを触った経験に(とぼ)しすぎて、なにしたらいいかわかんねえ……。俺、なにかすることあるか?」

 

『マスターから一時的に貸与されたという(てい)で起動します。ボイスコマンドを。「set up」で構いません』

 

「おう、そんじゃ……『set up(セタップ)』」

 

『無駄に発音がいい……』という失礼な言葉を聞きながら、俺は光に包まれた。

 

真っ白な光のカーテンが取り去られた頃には、俺が着ていた服は綺麗さっぱりなくなっており、レイハデザインのバリアジャケットに早変わりしていた。

 

俺の戦術に合わせてか、拳から前腕はガントレットで覆われている。攻撃手段であると同時に防御にも使えるように、という配慮だ。それと同様の方針で、ロングブーツのような形状の防具。硬いはずなのに見た目より柔軟で動かしやすい。機動力重視であることを知っているからだろう、メインウエポンである手足以外は敏捷性能優先の軽装で、例外は左胸部につけられたブレストプレートくらいのものだ。即死しなければどうとでもできるという俺の思想をよくわかっている。

 

『全体的な色使いはマスターのバリアジャケットから拝借しました。いかがですか?』

 

「着心地はいいんだがな……」

 

レイハの言葉通り、イメージとしてはなのはのバリアジャケットの男性用、みたいな感じだ。白を基調として、青で縁取る。単調にならないように、かといって品を失わない程度に金色をアクセントとしてちりばめる。

 

さすがはなのはの衣装(バリアジャケット)を手掛けたレイハ。センスがいい。いいのだが。

 

『……なぜでしょう、似合いませんね』

 

「自分でもわかってんだよそんなこと。改めて言ってくれるな」

 

問題は、致命的なまでに俺に似合わないことだった。

 

おそらくエリーとアンサンブルした姿であればもう少しまともに映えるだろうけれど、今の俺ではどうにもしっくりこない。

 

あかねは微弱な光を連続的に明滅させて笑いをかみ殺している風だし、服の内側にいるエリーはどうにか堪えようとしているがやっぱり堪えきれずにぷるぷると振動している。

 

せめてお世辞の一言くらいあってもいいんじゃなかろうか。

 

『徹のイメージカラーに白色がないからでしょうね。清らかな印象が徹には不足しています』

 

「まだ言うかよ!なのはのバリアジャケットをモチーフにしたからこうなったんだ。きっとバルディッシュにフェイトのバリアジャケットをモチーフに男性用を作ってもらったらこうはならない!」

 

『……いいのですか?あのバリアジャケットをアレンジすれば、色合いはともかく露出狂のような結果になりかねませんけど』

 

「……否定できないな」

 

フェイトのバリアジャケットは、黒のスクール水着に正面の開いたスカート、そこにマントを羽織らせたような、とても、そう。とても個性的なデザインなのだ。バリアジャケットの製作をお願いした際にその流れを汲んでしまったら、とんでもないことになる。あの常人には(おか)し難い一風変わった衣装はフェイトが着るから許されるのだ。いや、あの年頃のフェイトが着ているからこそ許してはいけない気もするけれど。

 

「俺が着たからこんな感じになっちゃったけど、しかしこのバリアジャケット、しっかり細部までこだわって作られてるな。今この場のアドリブとは思えない仕上がりだ」

 

『いえ、前々からデザインは練っていたのです。マスターと似たような雰囲気で徹が着るとしたらどんな感じだろうと妄そ……想像しながら完成させました』

 

「そんなところで貴重なストレージを圧迫するなよ……」

 

『それよりっ、どうです、このバリアジャケットは!実用的でしょう!』

 

「実用的……実用的ねえ」

 

『なんですか?私の設計に何か不具合でもあるというのですか?』

 

「不具合じゃねえよ。ただ……実用的じゃあない」

 

『何を言うのです!喧嘩ですか?!買いますよ!』

 

「短気か!」

 

デバイスモードのレイハが鋭い光を放つ。あえて俺に向けているようで、とても眩しい。

 

それはともかく、デバイスモードのレイハを握っている俺という絵は、違和感があるとかそういったレベルを超えている。犯罪的なまでにそぐわない。

 

「あー……性能は申し分ないんだけどさ」

 

『ではどこに文句があるのです!?』

 

バリアジャケットは、衣服や金属プレートによる防御力強化のほか、目には見えないが魔導師の全身へ防御フィールドも展開する。魔導師の命を守る素晴らしい代物だ。

 

とくに俺が着用に及んでいるバリアジャケットは、レイハが念入りに微に入り細に入りこだわった特注品。防御力も信頼に足るだけのもので、似合う似合わないはともかくこれ着て戦えたらなあ、などと妄想もしてしまう。

 

しかしながら。

 

「……バリアジャケットを展開するだけで魔力消費がやばい」

 

『あら……』

 

バリアジャケットは魔導師の魔力によって編まれているのだ。性能を引き上げようとすれば必然、注ぎ込まれる魔力量は増大する。

 

なのはやフェイト、クロノやリニスさんクラスならば、バリアジャケットの一着二着程度の生成に費やされる魔力なんぞ歯牙にも掛けないだろうが、保有魔力量に難がある俺にとってはその魔力ですら惜しい。

 

「怪我は少なくなるかもしれない。だが、これだと持久力もなくなるな。数分もすればガス欠だ」

 

『……少々興が乗ってしまい、あれこれと詰め込み過ぎましたか。マスターのバリアジャケットよりも(かさ)張ってしまったのがいけませんでしたね』

 

「確信犯じゃねえか!なのはのバリアジャケットよりも消費量多くして俺が扱えるわけねえだろ!」

 

『き、機能は万全です!落下防止にリアクターパージも付属していて……』

 

「防護に魔力かけ過ぎて戦うための魔力切らしてたらただの馬鹿野郎だろうが。レイハはなのはの魔力量に慣れ過ぎてんだよ。俺の魔力量の少なさを甘く見るんじゃねえ」

 

『なぜそんなに胸を張って断言しているのですか……』

 

レイハがため息をつきながら言う。呆れてはいるが、さっきまでの落ち込んだ様子はもうない。元気になったようで何よりだ。

 

久しぶりに行うレイハとの掛け合いに興じていると背後で、がちゃり、と音がした。扉が開いた。

 

「徹お兄ちゃんっ!お願いごと決まっ……なにごと」

 

バリアジャケットの展開を解くのを忘れていた。妙に着心地がいいのが悪いのだ。なぜレイハは着心地にまでこだわったのか。

 

「ああ、なのは。おかえり。俺もバリアジャケット着てみたいなって思ってたから

「わたしのバリアジャケットを?」

 

「レイハに作ってもらっ……違うわ!普通のバリアジャケットを、だ!だからレイハに作ってもらったんだよ。デザインはなのはのバリアジャケットを下敷きにしてるから、色使いとか似てるだろ?」

 

「うんっ!似てるっ!これでわたしがバリアジャケット着てとなりに並んだら……ぺ、ペアルック、みたいだよねっ」

 

「レイハは一人しかいないから同時に展開できないけどな」

 

「そういうこと言わなくていいのっ!そこは『そうだな』でいいのっ!」

 

「できるかもしれない、とかって変に期待させたら悪いなって思って」

 

「おっ『お揃いで着てたら恋人に間違えられちゃうかもな』でっ、いいのっ!」

 

「……そんなに恥ずかしそうにするんなら言わなきゃいいのに」

 

「うるさいにゃあっ!……うるさいなあ!」

 

「言い直しても手遅れだぞ」

 

お顔を真っ赤に染めながらしどろもどろになっていた。怒った顔も可愛いが、恥じらう顔もやっぱり半端なく可愛い。なにしててもなのははかわいいなあ。

 

ほほをふくらませて腕を組んでいたなのはだったが、もう一度俺を見て、そこからじっくり眺めた。

 

小首を傾げて、桜色の柔らかそうな唇が動く。

 

「なんだろう……わたしのバリアジャケットと似てるけど、似てるんだけど……似合わないの」

 

「うるせえ!その(くだり)はもうやったんだよ!生意気なこと言う口はこれかー?」

 

「むみゅっ!や、やめへぉ、徹お兄ちゃん(とほうおにぃひゃん)っ」

 

なのはのほっぺたを摘んでふにふにする。感触はもちもちで、手触りはさらさらだ。ずっと触っていたい。商品化されないかな、『なのはのほっぺ』とかって。

 

ちなみになのはの頬を触るだけのためにバリアジャケットは展開を解除した。籠手があってはなのはの感触を味わえない。なのはの頬とバリアジャケットでは、優先度が違いすぎるのだ。

 

『徹、既に法に触れています』

 

「忠告するんなら法に触れる前に言うべきなんじゃ……」

 

『それ以上マスターへの蛮行は許しません。拘束します』

 

なのはをふにふにしている俺の手首に不可視の鎖が巻きついた。俺の魔力を使った、俺の拘束魔法だ。史上初ではないだろうか、自分が使っているデバイスに拘束される魔導師というのは。

 

「残念だったな、レイハよ。……お前は知らない」

 

『何をです!』

 

「はんでもいいひゃら、はやく()(はら)ひてぇ……」

 

「なのはの拘束魔法ならまだしも、俺の拘束魔法は(もろ)いんだ。一本出したところで役には立たないんだぜ」

 

俺は言い終わる前に、なんなら言い始める前に、鎖を破壊する。俺の拘束魔法の術式なんて俺が一番よく知っている。これをハッキングして壊すなんて、息を吸って吐くより容易だ。もともと強度は推して知るべしだし。

 

『なんと……っ。これほど脆弱な拘束魔法など、私は知りません!』

 

「やめろ、やめろ。泣いてしまうだろうが」

 

物理的な拘束魔法はぜんぜん役に立たなかったが、精神的な口撃は大ダメージだ。一撃でメンタルをごりっと削られた。

 

この間もなのはの頬をもにゅもにゅし続けていたが、なんならこれからもずっともにゅもにゅし続けたかったが、胸のあたりでエリーがちくちくぱちぱちと魔力を弾けさせているし、あかねは不審者を察知した警報みたいに光り輝いている。このあたりが引き際か。

 

「むみゅぅ……」

 

「悪かったな。ちょっとなのはのほっぺたの虜になっていた」

 

珍妙な鳴き声をあげるなのはの頬から、非常に名残惜しくはあるが手を離す。なのはの柔肌に跡がついてしまっては大変だ。無論、跡がつくような力ではつまんでいないが。

 

「も、もうっ、離してって言ってたのに……。にへへ……」

 

なのはは俺に摘まれていた頬をさすり、ぼそぼそと文句を呟きながら笑みを浮かべた。

 

「…………」

 

『…………』

 

「やりすぎたか……?」

 

『徹っ……これでマスターがあらぬ道へと進んでしまったらどうするのですかっ……』

 

「それは、もう……なのはにはそちらの適性もあった、としか……」

 

『反省の色が見えません!責任を取りなさい!』

 

「あっ!忘れてた!お願いごと!」

 

にへら、と頬を緩めるなのはに聞こえないようレイハとこそこそ密談していると、先程よりも笑顔の輝度を跳ね上げさせたなのはが突然叫んだ。

 

そういえば、部屋を出て行った理由はお願いを考えるためだったのだ。なのは曰く『作戦会議』らしいが、いったい誰と何の作戦会議をしていたのやら。

 

「戻ってきた時も言ってたな。決まったのか?俺にできる範囲で頼むぞ」

 

「う、うんっ。あ、あの…………とを」

 

つい先ほどまで華やかな笑顔を咲かせていたのに、いざ言う段階になるや俯いてもじもじし始めた。

 

「え?ごめん、聞こえなかった。もう一度言ってくれ」

 

「だ、から、あぅ……。……ぇとを」

 

なのはらしからぬか細い声だったので聞き取れず、聞き返したのだが、声量はほとんど変わらなかった。

 

落ち着きなく指を絡ませて、視線は下げたまま。緊張でもしているのか耳まで紅潮させ、息づかいも普段より荒い。

 

言うだけでそこまでの覚悟を必要とするお願いとは、何なのか。

 

俺はなのはからどのような無理難題を命じられようとしているのだろう。賢く優しいなのはが、俺の財政状況を加味して考えてくれていることを祈る。

 

なのはは覚悟を決めたように、こく、と喉を鳴らすとはっきりと目を見開いて俺を見上げた。

 

「でっ、デート!してください!」

 

予想の斜め上だった。

 

「デート……どこか遊びに行くってこと、だよな?それなら全然構わな……」

 

「ちがうもんっ!で、デート……だもん!」

 

「デート……デートか、そうか……。ううむ……な、なあレイハ、お前はどう思……」

 

『ーーーー』

 

「だめだ、あまりのショックでフリーズしちまってる……」

 

どうすればいいのかレイハに相談したかったのだが、このお賢い優秀なデバイス様はしばらく使い物になりそうにない。

 

「だめ、なの?徹お兄ちゃんは『なんでも』お願いごと聞くって言ってたのに……。そんなにわたしと……で、デートするの、いやなんだ……」

 

俺がなかなか了承しないからだろう、なのははしょんぼりと肩を落とした。悲しそうに眉尻が下がる。

 

そうなのだ、俺は明言してしまっているのだ。お金が絡むこと以外ならなんでも聞くと、約束したのだ。なのに『やっぱりそれもだめ』などと断れば嘘をついたことになる。

 

なによりも、なのはが俺のせいで落ち込んでいるのだ。きちんと責任を持ってけじめをつけなければいけない。小学生とデートってどうなのだ、という問題を抱えることにはなるが、これも致し方なし。

 

「……わかった。デート、だな。……お安い御用だ」

 

「ほ、ほんと?!やったぁっ!」

 

「そういえば一緒にどこかに出かけるのも久しぶりだな。予定も先に詰めとくか。いつにする?」

 

「あっ、えっと……また作戦会議しなきゃだから、いつ行くかはもうちょっと待ってて!」

 

「俺もここ最近ばたばたしてるから日にちが先送りになるのはいいんだけど……さっきも言ってた作戦会議って、なに?誰とやってんのそれ」

 

「だ、だめなのっ!協力者についての情報はばらしちゃだめだから!」

 

「別にその協力者とやらを問いつめるつもりなんてないんだから、教えてくれてもいいだろうに……」

 

「教えない!あ、協力者で思い出した。ちょっと前にアリサちゃんと遊んだんだけどね?」

 

「お、おう……」

 

協力者で思い出して、そのすぐ後にアリサちゃんの名前を出してしまっては、アリサちゃんが協力者だと白状しているようなものなのだが。まあなのはは協力者の名前を伏せておきたいらしいので言及はしないけれど。

 

「その時に会う機会があったら伝えておいてって言われてたの。えっと……たしか『この前の貸し、そろそろ返してもらうわ』だって。徹お兄ちゃん、ありさちゃんからなにか借りてたの?」

 

「貸しって……ああ……。その案件もあったんだったな……」

 

アリサちゃんへの借りというのは、自然公園で絡んできた野郎連中の後片付けプラス女子バスケットボール部の部員たちを家に送ってもらった一件のことだ。あくまでもそれらをやってくれたのは鮫島さんであってアリサちゃんではないのだが、執事を貸したということでアリサちゃんへの借りということになっていた。

 

「とんでもないことを言いつけられそうで怖いなぁ……」

 

あのお嬢様なら純真無垢にして天真爛漫な笑顔で、常識から逸脱した突拍子もないことを言ってきそう。戦々恐々である。鮫島さんにもお礼をしなきゃいけないから、行くことは避けられないのだが。

 

近い未来を想像して遠い目をしていると、くい、と袖を引かれた。

 

「ユーノくんから聞いたんだけど、徹お兄ちゃんは今でもちょこちょこアースラに乗ってるんだよね?」

 

短く返事をして頷く。

 

最近は嘱託魔導師試験のための『お勉強』でちょこちょこどころではないくらいの頻度で乗艦しているが、訂正するほどではない。

 

「フェイトちゃんと、会えたりできた?お顔、見た?」

 

「いや、まだ……会ってない」

 

「そっか……徹お兄ちゃんでも会えないんだね。フェイトちゃん、元気かな……」

 

寂しそうな笑みを、なのはは浮かべた。

 

一時は顔を合わせれば戦闘になるほど対立していたが、時の庭園ではなのはとフェイトは友情を育んでいた。戦友と、親友と呼べるまでに仲を深めていた。それほど親しくなれたのに、すぐにお別れになってしまって寂しいのだろう。寂しく思わないわけがないのだ。

 

「できるかどうかはわからないけど……リンディさんに会えないか聞いてみる。会えたら、フェイトに伝えとくよ。なのはが会いたがっていた、ってな」

 

俺がそう言うと、なのはの表情は、ぱぁっ、と一気に華やいだ。

 

なのはは小さな手で、俺の手をぎゅっと握る。輝かんばかりの笑顔で見上げた。

 

「うんっ!おねがいね、徹お兄ちゃん!」

 

 

 




レイハさんが絡んでくると話が弾んでしかたないです。危うくもう一話伸びるところでした。

次はアリシアを予定しています。
アリシアはアリシアでクセが強くなってしまいまして……。


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「絶対に俺が、幸せにするから」

 

 

「はぁっ……はぁっ……っ」

 

「今回はこのくらいにしておくか」

 

「うっぷ……。はっ、どうも……」

 

「まったく、この程度で動けなくなるとは情けない」

 

「げっほ、けほっ……。クロノも三時間ぶっ続けで撃ち続けられてみろ……絶対こんな感じになるから……」

 

クロノに投げつけられたタオルで汗を拭いながら、持ってきておいたスポーツドリンクを口に含む。

 

クロノを先生としたとても激しい教練のおかげで、俺の足はぷるぷる震えて立っていることすらままならない。アースラの訓練室の床に座り込んでいた。

 

先生はお忙しい身なので、あまり時間は大きく取れないのだ。なので直接見てもらえる時間中は大概休みなく訓練が行われる。おかげで体力的にも精神的にも魔力的にも疲労困憊だ。

 

今にも痙攣(けいれん)しそうな足をマッサージしていると、訓練内容が書かれている紙を眺めながらクロノが口を開く。

 

「徹はもう聞いたか?プレシア・テスタロッサの娘……アリシア、だったか。アリシアの体調が良くなってきたそうだ。会話もできるようになってきていて、食事も普通に摂れるようになってきていると」

 

「そうなのか?!元気になってきているんだな……よかった。……人伝てに聞いたって感じだな。クロノは見舞いに行ってないのか?」

 

「管理局側の人間、しかも見知らぬ男が行っては向こうも緊張するだろう。なので控えておいた。アリシアの様子は僕に代わって艦長に見に行っていただいた」

 

「リンディさんなら喜んで行きそうだな」

 

「ああ。仕事は他にもたくさんあったがそれらを置いて見舞いに行ったほどだ」

 

「想像通りだけど、ほかのお仕事……。なんか手伝えることがあったら気兼ねなく言ってくれよ?」

 

「ならまずは、嘱託魔導師になることが先決だな」

 

うぐ、と言葉が詰まる。なんとも真面目で切れ味鋭いリターンエースだ。

 

「はっ、言ってくれるぜ……。アリシアの体調が良くなったっていうのは、プレシアさんには?」

 

「そちらも艦長から既に伝わっているはずだ」

 

「そらそうだよな。リンディさんも子を持つ親なんだから、そのあたり抜かりはないか」

 

「ただ……問題が一つあってな」

 

クロノが渋面を作る。表現を選ぶというか、言葉に迷うそぶりだった。

 

「な、なんだよ、アリシアになにかあったのか……」

 

ぞくり、と身体の奥から冷たくなるような感覚。もしかしてアリシアの身に何か良くないことがあったのだろうかと、悪い想像を働かせてしまう。

 

(にわ)かに顔色を悪くした俺に、焦った様子でクロノが説明する。

 

「いや、徹が考えているような深刻な問題ではないんだ。まあ、深刻といえば深刻なのかもしれないが……。アリシアが、母親に会いたいと言っているらしくてな……」

 

クロノが口にした『問題』とは、身体面ではなかった。命にかかわる話ではなくて一安心だが、しかし、これはこれで困った問題だ。

 

「……会わせられないか、やっぱり」

 

アリシアがプレシアさんに対して(いだ)いている感情は伏せて、クロノに尋ねた。

 

「……まだ、厳しいな。誤解しないでほしいんだが、僕たちの心情としては会わせてやりたいんだ」

 

「……わかってる。たしか、まだ判決は出てないんだもんな」

 

「ああ。三つの主な罪についてはかたがついた。しかし小さい罪に関してはまだ裁判は終わっていない。さすがに留置場代わりの部屋から出すのは、面倒な相手に露見した際に問題になる。僕の責任でできればいいが、残念だがその権限が僕にはない。艦長の責任となってしまう」

 

「そいつは……だめだな」

 

「艦長はそれを理解した上で許可を出してしまいそうだが……」

 

「リンディさんがそういう提案をしてきたら断っとくわ。……判決が出て、これからの身の振りかたで無罪放免になるか執行猶予になるかすれば、大手を振って会えるんだ。すこしの、辛抱だ。……ほんのすこしの我慢だ」

 

ここで無理を押して不安の種を残す必要はない。

 

そうは理解していても、(わだかま)りが残る。

 

アリシアにとって終わりがないとも思えただろう長い眠りからようやく覚醒したというのに、プレシアさんにとって永遠に叶わないとも思えただろう願いがようやく成就したというのに、顔を合わせることも、言葉を交わすことも、手を取り触れることも許されない。仕方がないこととはいえ、もどかしい。

 

手伝うことも、助けることもできない自分が、情けない。

 

何か役に立てることはないかと思索していると、こつ、と軽い衝撃が足に走った。

 

クロノが、考え事をしていた俺の足を蹴ったのだ。

 

「なんて顔をしているんだ。徹がそう思い悩む必要はない」

 

「そうは言ってもな……」

 

「母さんが……艦長が言うには」

 

「俺しかいないんだから『母さん』でもいいだろ」

 

むっ、とした顔をしてクロノは斜を向いた。

 

俺は知っている。この表情とこの仕草は腹を立てているわけではなく、照れ隠しであることを。

 

「それとこれとは別だ。……それで、だ。艦長が言うにはアリシアは母親に会いたいとも言っていたが、プレシアの使い魔、リニスとも会いたいと言っていたそうだ」

 

「プレシアさんとリニスさん、か……。どっちも部屋から出せる状況じゃないからなあ……」

 

「おそらくだが、アリシアは人恋しく感じているというところもあるのではないか?アリシアの病室には、医務官以外あまり人が入らないんだ。アリシアの経緯を考えれば、あまり軽い気持ちで訪れることは憚られるのだろう」

 

「長いこと眠ってたわけだからな。様子を見に行こうにも気を使うってわけか」

 

「だから徹、見舞いに行ってやってくれ。アリシアの暇潰しも兼ねてな」

 

「あれ?行っていいのか?」

 

「アリシアに会わせられないのは、裁判中のプレシア・テスタロッサとその使い魔であるリニスだからな。その二人を部屋から出すのが問題になるのであって、アリシアに会うこと自体は問題ではない」

 

「それもそうか。お見舞いに行くってわかってたら、なにか果物とかお菓子とか持ってきたのにな」

 

「それなら食堂に寄っていくといい。食堂の連中に事情を話せば、(こころよ)く分けてくれるだろう」

 

「まじかよ。そんじゃちょっくら行ってくるわ」

 

足に手をついて立ち上がる。身体は重たいが、休む前よりかはだいぶ良くなった。なんせ、足がぷるぷるしていない。

 

飲み終わったボトルを持ってきていたバッグに投げ入れて、クロノに向く。

 

「クロノはアリシアに伝えとくことってあるか?」

 

「ん?いや、これといって特には……」

 

「時の庭園で裸を見たってこと以外に伝えとくことはないか?」

 

「……訓練の続きがしたいのならそう言え。戦闘訓練用の特注オートスフィアではなく、僕自らが杖を取って教練してやろう」

 

「ごめんなさい」

 

心胆寒からしめるクロノの瞳と赤く染まった頬を前に、俺は速やかに降伏した。

 

なのはにちょっかいをかけると可愛くていいが、クロノをいじるとスリルがあって楽しい。加減を間違えると本当に魔法が飛んできそうなところなんて、特に。

 

俺は逃げるように訓練室を出た。

 

出る間際にちらとクロノを見ると、時の庭園での光景を思い出したのか顔を赤らめて手で口を覆っていた。実にうぶな反応で、頬が緩んだ。

 

 

 

 

 

 

食堂で頂いた果物と籠を片手に持ち、ドアをノックする。

 

「はーい。どーぞー」

 

返事はわりと元気がよかった。これまで、具体的に何年かなどは把握していないけれど、ずいぶん長い間眠っていたとは思えないくらいに、はきはきとして明瞭(めいりょう)な声音。

 

扉越しに届く声質自体はフェイトと似ている。似ているのだが、それは表と裏のような、鏡合わせのような印象だった。

 

扉を開いてまず目につくのは、清潔そうなベッド。純白のシーツと布団。

 

足に布団をかぶせて座りながら、アリシアはオーバーテーブルに手を乗せてなにやら本を読んでいた。夢中になっているらしく、こちらを見ていない。

 

「きりのいいとこまで読んじゃうから、ちょっと待っててねー」

 

本に目を落としながらアリシアが言う。

 

没入しているところを邪魔することもないので、俺はベッド脇におかれていた椅子を引き寄せて座る。黙って待っていることとしよう。

 

「…………」

 

暇なのでアリシアをぼうっと眺める。

 

外見は、本当にフェイトと瓜二つだ。金色の長い髪、整った顔立ち。大きくてまるい瞳、通った鼻筋、形も色もよく柔らかそうな唇。

 

外見は似ているが、どことなく身に帯びる雰囲気がフェイトとは異なる。フェイトが儚げな月明かりだとすれば、アリシアは麗らかな陽の光だ。どちらがより優れているというわけではない。フェイトはフェイトの、アリシアはアリシアの魅力がある。

 

眺めていると、アリシアは時折驚いたように目を見開いたり、かと思えば緊張したように唇を閉じたりする。アリシアが読んでいる本は、なんとも波瀾万丈で刺激的なようだ。

 

細かい文字を読んでいるのだから目のほうもちゃんと機能しているようだし、内容を理解しているのだから頭もはっきりと働いているのだろう。顔色も良いし、肌艶も乱れていない。これほどまでに早く体力が戻っているのは、アリシア自身の強さと、アリシアを診てくれた医務官さんの尽力の賜物(たまもの)だ。

 

「ふー……。待たせてごめんねー。もういいよ。今日って健康診断あったっけ?」

 

(しおり)を挟み、ぱたん、と本が閉じられる。アリシアの言っていたきりのいいところまで読み進めたのだろう。

 

ようやくこちらへ視線を向けたアリシアへ、持たせてもらってきていたいろんな種類のフルーツ詰め合わせの(かご)を掲げ見せる。

 

「健診じゃなくて、お見舞いにきたんだ」

 

「あっ……ああっ……っ!」

 

「元気か?アリシア」

 

「ぱ……パパ……っ、パパぁ!」

 

果物が詰め込まれた籠には目もくれず、アリシアは時の庭園でハッキングした時と同様に俺のことを『パパ』と呼んだ。

 

『パパ』発言について言及する暇もなく、アリシアはオーバーテーブルをベッドの端に押しやって、あたたかそうな布団を惜しまず跳ね除けてベッドに立つと、そこからジャンプした。もちろん目掛ける先は言うまでもなく俺である。

 

「ちょっ?!アリシア危なぶっ……」

 

いかなることがあっても避けるなどありえない。頭から突っ込んでくるアリシアを抱きとめようとするが、いっそ称賛したくなるほどの思い切りの良さで飛び込んできたアリシアの勢いを相殺することができず、盛大に椅子から転げ落ちた。

 

こんな状況でもアリシアが床にぶつからないように抱え、厚意で頂いたフルーツをだめにしないよう留意した無意識下の俺を褒めてやりたい。おかげで俺は受け身を取ることもできずに背中を(したた)かに打ちつけたけれど。

 

「アリシアっ……危ないだろ。怪我したらどうす……」

 

「パパっ……パパっ!会いたかったっ……わたし、さみしかったんだからっ……」

 

「いや俺、パパじゃ……もういいか……」

 

床に寝転がった俺に乗っかり、アリシアは顔を俺の胸に押しつける。そんなアリシアに、潤んだ声と震える身体でパパ、パパと連呼するアリシアに、俺は『パパ』じゃないなどとは言えなかった。落ち着いた頃を見計らって訂正するとしよう。

 

「顔見にくるのが遅れて悪かったな。体力が戻ってからのほうがいいと思ったんだ」

 

「いつでもいいの。パパならいつきたっていいの。わたしが寝てる時でも起こしてくれてよかったくらいなのに」

 

「寝てるところを起こせるわけないだろ……ったく」

 

ひっしとくっつくアリシアを抱きつつ、頭を撫でる。そうするとアリシアは、くすぐったそうに、それでいて喜色を滲ませながら笑った。

 

「にへへ、あははっ!ふふっ、んー」

 

何が楽しいのか、きゃっきゃきゃっきゃと嬉しそうにはしゃいでいる。無論、未だに俺の上に乗っかって、顔を押しつけてもぞもぞと動いている。それ自体が輝いているようなアリシアの金の御髪(おぐし)が顔や首元を撫でてきていて、大変こそばゆい。

 

「くすぐったい、アリシアくすぐったい」

 

「パパ、いい匂いする……。ママとは違う匂い……。わたし、結構好きかも……」

 

クロノとの特訓のあと、一応タオルで汗は拭ったが替えの服を持ってきていなかったのでシャワーも浴びていないし、着替えてもいない。訓練を受けた時の服のままである。

 

そもそも、アリシアの見舞いをするという予定は当初なかったのだ。元の予定ではクロノに訓練に付き合ってもらって、終わればすぐに帰るつもりだった。教練の後に初めて教えられたので準備も何もできていなかったのだ。

 

あらかじめ聞いていれば、シャワー室を借りて身を清め、清潔な衣服に着替え、加えてアリシアへの見舞いの品を持参してきたのに。

 

「やめろやめろ、匂いを嗅ぐな。だいぶハードに運動した後だから汗くさいだろ?」

 

「んーん、そんなことないよ?なんだろー?男の人って感じ……いい匂い」

 

多少なり汗を含んでいるだろう服なので不潔だしくさいかもしれないので、胸元ですんすんしないようアリシアに注意するが、当の本人はまるで気にするそぶりがない。それどころか勢いが増していくくらいだった。

 

もうここまできたら運動の後とかそんなこと関係なしに、ただ単純に恥ずかしい。

 

「はい終わり!もう終了!アリシアはベッドに戻る!」

 

「えー、なんでー。わたしはパパともっとおしゃべりしたいー!」

 

「お喋りならベッドでもできるだろ?」

 

「むー、むー」

 

「むくれない、うならない。ほら」

 

上半身を起き上がらせてベッドに戻るよう促すが、アリシアは俺の上から動かない。俺の上に乗ったまま、まっすぐ見つめて腕を伸ばす。

 

「だっこ」

 

「この甘えんぼめ」

 

「だいじょーぶ、パパにだけだよ」

 

「そこを気にしてるわけじゃないんだよ」

 

動きそうになかったアリシアの背中に腕を回して引き寄せ、抱き上げる。

 

「んーっ、えへへっ」

 

こういうところ、甘え慣れている感じがする。

 

嬉しそうな声を出して、アリシアは俺の首に手を回した。

 

果物籠を床に置くのは抵抗があるので、アリシアに突撃されて転げたままだった椅子を立て、一時避難としてそこに置く。

 

「いよっ、と」

 

間違ってもアリシアを落っことさないよう、しっかり抱きしめて立ち上がる。

 

だっこして再確認できたが、やはりアリシアはフェイトよりも一回りくらい小さい。身体も小さいが、体重もそうだ。比較してしまうと女の子に対して失礼にあたるかもだが、なのはやフェイトよりも一段と軽い。もちろんなのはもフェイトも軽いのだが。

 

この歳の子なら大抵軽いのかもしれないが、一因にはやはり病み上がり(と、表現していいのかはわからないが)ということもあるのかもしれない。

 

「あははっ!パパーっ!」

 

「ちょ、暴れるな、危ないだろ」

 

アリシアが首に回した手を引き寄せ、くっつく。

 

俺の顔のすぐ隣にアリシアの顔がある。というか頬をくっつけてきている。

 

柔らかく、妙に甘い香り。そして、俺よりも高い体温。

 

「ほれ、降ろすぞ」

 

「やーっ」

 

「わがまま言わない」

 

ぽかぽかするアリシアは少々名残惜しいが、おくびにも出さずにベッドに戻させる。

 

アリシアがジャンプしたせいで乱れたシーツやら布団を綺麗に足元付近に畳んでおいた。

 

「パパつめたいっ、ひどいっ」

 

「冷たくないしひどくもない。まだ目覚めてからそう日にちは経ってないんだ。これで体調崩しでもしたら大変だろ?」

 

「お医者さんとおなじこと言う。もうだいじょーぶなのに」

 

どうやら医務官さんも俺と同じ見解のようだ。ここの医務官さんは多少心配性ではあるものの優秀な方なので、あの人がそう判断したのなら間違いはないだろう。

 

「みんなアリシアのことが心配なんだよ。経過観察でなにもなかったら動き回ってもいいって許可ももらえるだろうから、それまで我慢してくれ」

 

「ちぇー……。あっ、いいこと思いついた!パパがもうだいじょーぶって言ってくれたら、きっとあのお医者さんも許してくれるよ」

 

妹であるフェイトとはまさに対極な、燦々(さんさん)と輝く太陽のような笑顔で提案してきた。

 

「いや、俺にはそんな権限はないし……」

 

「パパはからだの中見れるんでしょ?」

 

「それは……まあできるけど。ハッキングつってな、魔力を送り込んで……

「ならパパがわたしが健康だってことをたしかめて!」

 

ほらっ、と言って、病院服の襟元をがばっと開いた。

 

うっすらと浮き出た鎖骨と、真っ白で真っ平らな胸元を俺に見せつける。

 

なんとも大胆なことをする。これで相手がリニスさんなら心臓が爆発していたおそれがある。

 

「こら、女の子がそんなはしたないことしたらだめだろ」

 

「だってパパだもん。だいじょーぶ、お医者さんも女の人だったし、それにほかの人にこんなことしないよ?安心してね」

 

ずいぶんとこちらの言いたいことを先読みし、先回りしてくる。これで案外頭の回転がいい。

 

おかげで俺が後手に回っている。

 

断る建前を考えながら口を動かす。

 

「いや、えっと、確かめるだけなら別に服をはだけさせなくてもいいってことをだな……」

 

「でも服のうちがわから手を入れてるほうがえっちに見えない?そっちのほうがいいならそっちでもいいけど」

 

アリシアは襟元から手を離し、服の裾のほうをつまんでするすると引っ張り上げる。つややかで柔らかそうなおみ足が徐々に姿を現わす。

 

大人用ならばともかく、子ども用の着替えがないからだろう。アリシアが着用しているのはワンピースのような病衣だ。そんな病院服の内側から手を入れようとすると(まく)り上げないといけないので、余計にいかがわしい。アリシアの言う通り襟元のほうがまだましだ。

 

アリシアの細い手首を優しく掴んで、それ以上たくし上げないようにする。病室の光を返すほどに白いうちももが眩しい。

 

「わ、わかった!そんじゃ、襟元のほうからにしよう。そうしよう」

 

「うんっ!」

 

アリシアは手を止めて、裾から襟元に手を運ぶ。俺はその隙に足を晒しまくっている裾を元に戻した。

 

「はい、どーぞ」

 

無垢な笑みで胸元をはだけさせて差し出してくる。なんだか悪いことをしているような気がしてきた。

 

おかしいな、なぜアリシアのリンカーコアを確かめることになったのだろう。リンカーコアの調子を魔力で調べることができるということを説明しようとしていただけのはずなのに。確かめるなんて約束した覚えはないのに。

 

首をひねりながら、そろりそろりと手を伸ばす。

 

指先が、アリシアの肌に触れた。

 

「ひゃんっ」

 

悲鳴と喘ぎ声の中間のような、か細くて愛らしい声をもらした。

 

「へ、変な声出すなよ!」

 

「だってー、パパの手つめたかったんだもん」

 

「アリシアの体温が高すぎるんだ!」

 

「でももうつめたいってわかったから、だいじょーぶだよ。はい、もーいっかいっ!」

 

「なんで指示されてるんだろうか……」

 

疑問を抱きつつ、もう一度触れる。

 

「んっ……」

 

「だからその声やめろって……」

 

「だってー、パパがわたしにさわってるんだもん、声もでちゃうよ」

 

「どういう意味だ、どういう……」

 

「んー……?あれ?あの時みたいな感じがしないよ?」

 

あの時というのは、時の庭園で治療した時のことだろう。ちゃんとあの時もハッキングの感覚はあったようだ。

 

「まだやってないからな。今から始めるぞ。変な感じが、むず痒いような感じがあるかもしれないけど、耐えてくれ」

 

「だいじょーぶだよ。パパのがわたしの中に入ってきたとき、ほんとはじんじんしてちょっと苦しかったけど、なれてきたらとってもあったかくて、パパのがわたしを満たしてるのが感じれて、きもちよかったから」

 

「……そうか、うん、それなら……いいや」

 

一応確認だが、ハッキングした時の感想である。他に俺はアリシアになにもしていない。アリシアのリンカーコアに魔力を流しただけだ。満たした云々というのも魔力で満たしたというだけのことである。

 

「じゃあ、いくぞ」

 

「うん。きて、パパ」

 

アリシアに触れている手を通じて魔力を流す。抵抗も何もなく、すっと滑り込んでいく。

 

「んっ……えへへ、わかるよ……。パパのが、入ってきてる……はぁっ、んくっ……奥までっ、届いてるよ……っ」

 

「狙ってそんな言い回ししてるんじゃないだろうな……」

 

「あはは、そんなことないよー」

 

俺の魔力がアリシアのリンカーコアにまで到達した。ただそれだけである。それ以外の行為は断じてしていない。

 

「どう?わたしの中、おかしくない?」

 

甚だしく集中力を削られているが、幸いなことにリンカーコアをも含めたハッキングに習熟しつつある俺にとって、この程度ならまったく問題なかった。

 

「異状という異状は……ないな」

 

魔力の精製量が極端に少ないが、気分を悪くするほど少ないわけではないので日常生活を送る上では支障はない。きっと長期間休眠状態に近かったので、リンカーコアの精製がまだ覚束ないのだろう。しばらくすれば精製量は増えてくるだろうし、それまでの間も魔法など魔力を使わなければ体調を崩すことはない。

 

医務官さんを信用していないわけではもちろんないが、こうして自分でアリシアの健康を確認できて安心した。

 

「ほら、だいじょーぶでしょ?みんな心配しすぎなんだからー」

 

アリシアの胸元から手を離すと、どや顔みたいな表情でない胸を張っていた。襟元を掴んだままなものだから更にあらわになってしまっている。

 

殊更小さなアリシアのおててを包んで服から離させる。

 

そっと病衣の乱れをなおして、言う。

 

「念には念だ。専門家の言うことは聞いといたほうがいい」

 

「えーっ!パパからあのお医者さんに伝えてよー!あのお医者さん、パパのことほめてたよ?すごい技術を持ってるって言ってた。パパがもうだいじょーぶって言えば、お医者さんも納得してくれるはずなのにー」

 

「そうは言ってもな……アリシアはそんなに部屋から出たいのか?」

 

「あっ!話そらそうとしてる!」

 

なかなか鋭い。

 

「ちがうって。そこまで医務官さん……お医者さんから許可をもらって外に出たいのかなって思っただけだ。この部屋は退屈か?」

 

「ときどき女の人が本を持ってきてくれるから退屈ってわけじゃないよ。ただ、ママはお部屋から出られないんでしょ?だったらわたしがままのお部屋にいけばいいやって」

 

「あのな、アリシア。それはできな……あれ?できないのか?」

 

クロノの口振りから察するに、プレシアさんやリニスさんは小さい罪状についての裁判絡みで拘留所代わりの部屋から出ることは許されない。俺がリニスさんの部屋に入ったのだって、聴取という名目でクロノがうまくこじつけてくれたのだ。

 

だが、アリシアについては何の(しがらみ)もない。病室を出てどこに行こうが(もちろん管理局及びアースラの機密に関わるところはだめだろうけれど)原則としては構わないはずだ。法的に拘束できない。アリシアが何がしかの法を犯したわけではないのだから。

 

アリシアがこの病室から出てはいけないことになっているのは、アリシアの体調を(おもんぱか)ってのことである。長い間、仮死状態にいたから身体に負担をかけないようにとの配慮だ。

 

ならば、いけるのではないだろうか。誰か管理局員がアリシアに付き添って(名目上はアリシアが管理局員に付き添うという形で)やれば、アリシアとプレシアさんを再び会わせてあげることも。

 

「もしかしたら……できないこともないのかもしれない」

 

「えっ?!ほんとに?!」

 

もちろん俺が決められる話ではない。なんといっても、法の網をかいくぐるようなやり方なのだ。リンディさんとクロノに事情を話して、条文を確認して、協力してもらわないといけない。

 

でも、一考の価値はあると思う。試すだけの価値は、あると思うのだ。言うだけならタダだ。リンディさんたちに、この方法ならどうだろうとお願いしてみるだけしてみてもいいだろう。

 

「まだ会えるって決まったわけじゃないからな?ひとまず、この(ふね)の艦長さんに頼んでみる」

 

「やったーっ!パパありがとーっ!だいすきっ!」

 

「だから決まったわけじゃ……危ないからベッドの上に立っ……飛びつくな!」

 

ベッドの上で立ち上がるや、きゃっきゃと欣喜雀躍を身体で表現し、それでも表現しきれなかったようで再び俺目掛けて飛び込んできた。

 

今度ばかりはベッドで立った時点で予測していたので、倒れることなくアリシアをキャッチする。こやつ、もしや飛びつきたいだけではあるまいな。

 

「やっぱりパパはパパだーっ!」

 

「言葉がよくわからないことになってるぞ……」

 

とにかく喜んでいるようなので良かった。これはリンディさんたちには誠心誠意全身全霊でお願いしなければ。アリシアのこのお日様のような明るい笑顔を、曇らせたくはない。

 

だが、その前に俺にはアリシアに聞いておきたいことがあった。クロノからアリシアの話を聞いた時にも一瞬頭をよぎった事柄だ。

 

「なあ……アリシア」

 

「なーに?パパ」

 

「アリシアは、プレシアさんと……お母さんとちゃんと話そうって、ちゃんと話さないといけないって、そう思ったんだよな?」

 

俺にしがみついているアリシアに、そう(たず)ねる。首元付近にある金髪の頭に口づけするような形で、静かに。

 

時の庭園で長く深い眠りから呼び覚まそうとした時に、アリシアが吐露していたこと。このことを俺は、確認しておきたかった。

 

アリシアが抱いていた、プレシアさんへの、いや、プレシアさんたち(・・)への気兼ね。自分がいたら綺麗な丸になっている家族の団欒(・・・・・)が歪んでしまうという的外れな遠慮。自分に対する視線が怖いと、弾んでいた会話を遮ってしまうのが怖いと、そう言っていた。そんな家族の邪魔をするくらいならこのまま助からないほうがいいと思ってしまうまで、悩みを抱えていた。重い悩みを抱えていた。

 

そのアリシアが、プレシアさんに会いたいと自ら口にしたのだ。気にしないほうが難しい。

 

「……うん。だって、あの時……パパが深い眠りの中からわたしの手を引いて、引っ張り上げてくれたから。暗い闇の底から、わたしを救い出してくれたから。パパが勇気をくれたから、だから……前を向かないとね。ママと、お話ししなきゃ前に進めないもんね。お話しして、わたしの気持ちをちゃんと伝えて、ママの気持ちをしっかりと聞かないとね」

 

わたし、がんばるよ。

 

俺の首元に顔を押しつけたアリシアは、かすかに震える声で、されどはっきりと、そう言った。

 

「強いよ……やっぱり」

 

時の庭園でも感じて、この病室で喋っていてもそう感じていた。アリシアはこの小さな(なり)なのに、大人びた印象が会話の隙間隙間に介在している。甘える仕草と操る言葉とが、どこかちぐはぐだった。

 

アリシア曰く、幽体離脱みたいな現象があったそうだ。カプセルの中に入っていた時にも意識はあった。目も開かず、口もきけず、心臓すら動いていなかったというのに、意識はあった。

 

浮遊し、揺蕩(たゆた)うだけの存在だった期間、身体は成長せずとも心は成長していたのかもしれない。見た目以上の精神が、その小さな身には内包されている。

 

「やっぱりアリシアは、強い子だ」

 

だとしても、見た目以上に精神が育っていたとしても、これまでの経緯を考えれば面と向かってプレシアさんと話し合うことには覚悟が必要だったろう。受け入れて、迎え入れてくれるかどうか不安だったろう。

 

その覚悟を持ち、不安を乗り越えてプレシアさんと話し合うことを決めたアリシアは、疑いようもなく強い。時の庭園で交わした念話では、自身のことを強くないなどと自虐的な言い方をしていたが、とんでもないことだ。

 

強くなくては、できないことなのだから。

 

アリシアの決心が嬉しくて、思わず腕に力が入る。金色の髪に顔を寄せる。

 

「えへへ、パパに褒められたー、わーい!」

 

きつく抱きしめられて息苦しいだろうに、明るく元気に振舞っていた。

 

俺の真似なのか、アリシアもひときわ強く抱きついてくる。そんな甘えん坊な反応が、表現のしようがないほどに愛おしい。慕ってくれるその仕草が、筆舌に尽くしがたいほどに愛くるしい。

 

「お前のことは……絶対に俺が、幸せにするから」

 

アリシアに聞こえないよう、決意とともに口の中でそう(つむ)いだ。

 

 



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朝露に濡れる白百合のように清らかで、夕暮れの陽を浴びる鈴蘭のようにいたいけな

「そう、わかったわ。それなら通せそうね。こちらでも確認してみるわ。アリシアさんの様子はどうだったかしら?」

 

「思ったより体調も良さそうだった。というかめちゃくちゃ元気だった。こっちが驚くくらいに」

 

そう言うと、リンディさんは『元気なのはいいことよね』とふわふわ笑った。

 

俺は今、アースラ艦内のとある一室、リンディさんの趣味嗜好に彩られた部屋にいる。アリシアの発言から閃いた案を呈示するため、リンディさんを訪ねたのだ。どうやら休憩中だったようである。

 

俺のする規則すれすれの提案を、リンディさんは真剣に聞いてくれて、どうにか手を回してくれるそうだ。

 

「ところで、最近クロノと良く訓練しているそうね?時々噂も耳に入ってくるわ」

 

リンディさんは自分で点てたお抹茶を一口含んで、話を俺に振ってくる。そのお抹茶は例のごとく、ミルクとお砂糖がインしたものだ。

 

『噂』という単語には一抹の不安を感じたが、点ててもらったお抹茶と一緒に飲み込む。俺がいただいているものはもちろん、ミルクとお砂糖を入れる前のものである

 

「……まあクロノに稽古をつけてもらってるのは本当だけど」

 

「とっても精力的にやっているそうね。えらいわ」

 

い草ではなさそうな畳に膝をつけてすべらせ近づいたリンディさんは、するりと手を伸ばして俺の頭を撫でる。

 

いい歳していい子いい子されるのは限りなく面映ゆいが、撫でているリンディさんがすごい嬉しそうにしているのでやめさせるのはためらわれた。

 

仕方がないので撫でられたまま話を続ける。

 

「……クロノは自分も忙しいはずなのに時間を割いてくれてるんだ。そりゃあ精力的に気合を入れてやらないと、失礼ってもんだろ?」

 

「ふふっ。そう。徹君はそう思っているでしょうけど、クロノもあれで楽しそうにやっているわよ?」

 

「楽しそう……なのか?」

 

「ええ。徹君との訓練から戻ってきたクロノは柔和な顔で仕事に打ち込んでいるわ。いい息抜きになっているのでしょうね」

 

「たまの息抜きが俺との訓練って……。あの歳でどれだけ仕事人間なんだ……」

 

公私ともに仕事みたいなものなのだが、本人にとって息抜きになっているのなら、それでもいいか。ただ、俺をしごき抜くのが楽しくて、みたいな理由だといやだけど。

 

「たまにデスクの上に徹君用の訓練メニューを広げていたりするもの。楽しくなければそこまでできないでしょうからね」

 

「だとしても、だよ。俺の個人的な理由で付き合わせちゃってるから、ちょっと申し訳なくも思う」

 

「あら?本当にそうかしら?」

 

「……ん?どういう意味?」

 

されるがままの頭を上げてリンディさんを見やれば、ものすっごいぽやぽやとした微笑みを浮かべていた。母性や保護欲といった概念が視覚化されそうなほどである。

 

なのに、とてもいやな予感がするのはなぜなのだろう。

 

「私たちへ恩返しがしたい……だったかしら?」

 

「……はっ?」

 

最近どこかで聞いたようなフレーズである。

 

「仲良くなれた私たちや、フェイトさんたちとお別れしたくないとかって?」

 

「な、な……なんでそれを、リンディさんが……」

 

「クロノがね、言っていたの。腕を組みながら、眉間にしわを寄せて、なのに口元は緩めながら、嬉しそうに照れくさそうに、ね」

 

「ぐぉぉっ……っ!」

 

クロノがあの場での話をリンディさんにしやがったと、つまりはそういうことである。

 

「もうっ!徹君かわいすぎるわ!そっけない言い方してるのに!」

 

恥ずかしさとクロノのまさかの裏切りにフリーズしている俺の頭を、膝立ちになったリンディさんが抱きかかえる。暖かいし柔らかいしいい香りがするし安心感があるしで頭の中がしっちゃかめっちゃかだったが、やっぱりなにより恥ずかしかった。

 

「クロノの野郎っ……言いふらしてんじゃねえよ!」

 

「いいじゃない。私感動しちゃったもの!泣きそうになったんだから」

 

「俺は違う理由で泣きそうだよ……」

 

リンディさんに頭をぎゅうっとされているせいで、頭を抱えて羞恥に耐えることもできない。心中にわだかまるこのもやもやをどう発散すればいいのだ。

 

「あーもう、かわいいわねっ。クロノもこれくらい隙があればいいのに……」

 

「それは暗に、俺は隙だらけってことですか……」

 

「ふふっ、ごめんなさい。ちょっと舞い上がっちゃったの。許して?」

 

「否定はしないんだ……。いいけど、別に」

 

謝ってはいるものの、俺の頭を抱きしめながら撫でる手は止めない。

 

クロノが甘えないせいで、リンディさんは溢れんばかりの母性を持て余しているようだ。近頃、リンディさんと顔を合わせれば程度の差こそあれ、だいたいこんな感じである。

 

話が進まないことこの上ない。

 

「あ、そうだ。リンディさんにはまだ聞きたいことがあったんだった」

 

話が進まなさすぎるせいで失念するところだった。なのはから頼まれていることがあったのだ。

 

「なあに?なんでも言って?」

 

耳のすぐ近くで穏やかにして甘やかに、リンディさんが言う。

 

ともすれば全てを委ねてしまいそうになるほどの包容力だ。ぼんやりしてきそうな頭を懸命に奮い起こす。

 

「うん言うから、言うからこの腕はそろそろ離してくれ!」

 

「もうお終い?残念ね……」

 

いつまでも頭にひっつかれていては喋りづらいことこの上ないし、いつしか本当にリンディさんを頼って(すが)って寄りかかってしまいそうになる。この人の分け隔てない愛情には中毒性があるのだ。

 

もごもごと抵抗して、ようやく解放された。

 

されたのだが。

 

「あのさ、手が……」

 

「このくらいなら邪魔にならないでしょう?」

 

「いやそういうことを言ってるんじゃ……まあいいか」

 

頭は自由になったが、リンディさんは俺のすぐ真横に座って手を握っていた。距離も相当近いが、もう諦めよう。この人が俺を甘やかそうとするのは、もはや無意識下に刷り込まれているのだろう。

 

「えっと……フェイトやアルフのことはどうなってんのかな、って」

 

フェイトのことはもちろん気になっていた。またゆっくりとお喋りもしたい。自由に動いてもいいとなれば、なのはとまた顔を合わせることも、どころか今度は遊びに行ったりもできるだろう。

 

でも、それと同じかそれ以上に、アルフのことも心の奥で引っかかっていた。

 

約束を。大事な約束を、交わしていたのだ。

 

以前に海鳴市にあるフェイトたちのアジトでのこと。この一件が片付いたら、俺たちの関係をどうするかという話だった。あけっぴろげに言ってしまえば、一歩踏み込んだ深い仲になるかという、そんな話。

 

思い出しただけでも赤面してしまうような青臭いやりとりだったが、それでも俺はしっかりと覚えている。

 

だからこれは、なのはの約束のためでもあるが、アルフとの約束のためでもある。言い換えれば、俺自身のためとも言えた。

 

柄にもなく緊張と期待で心臓の律動を早めながら、リンディさんの返答を待つ。

 

「そうね……一月(ひとつき)もしないうちに結果は出るはずよ」

 

「その結果ってのは……」

 

「もちろん実刑判決ではないでしょうから安心して。ただ管理外世界で魔法を使用していることは事実だから、無傷の無罪とはならないでしょうね」

 

「でもそれは、ロストロギアを確保するためで……」

 

「そうね。徹君が練ってくれた釈明はよくできていたわ。必要に迫られた結果、魔法を使用したという点は認めてもらえるでしょう。だから実刑はまずつかないわ。一定の期間は保護観察処分を受けるでしょうけれど、身の振り方次第でそれもじきに解除になるでしょう。本人も入局を希望していることですからね」

 

「そうか……よかった。でも一応結果は待たないといけないんだよな?面会はできないか……」

 

「いいえ?できないことはないわよ?」

 

あっけらかんという風に、首を傾げてリンディさんが言う。

 

「え……で、できるの?」

 

「ええ。徹君はこの件に関しての現地協力者、そのグループのリーダーとしてすでに報告しているもの。何か突っつかれても聴取やその確認を取るのに徹君が聞きに言ったほうが都合がいい、という感じで説明すればいいわ。さすがに重箱の隅をつつくようなことをする人はいないと思うけれど……クロノから注意をされたのよ。一応反論できるよう体裁は整えたほうがいいって」

 

「どこから文句をつけられるかわからないからな……。難しいようなら裁判の結果を待ったほうがいい」

 

クロノがしていた進言に俺は賛同の意を示す。テスタロッサ家に配慮するあまりに無茶なことをしでかそうとしたら止めてくれ、と事前にクロノからも言われているのだ。

 

別にクロノの肩を持つわけではないが、その方針については同意する。

 

ただリンディさんは表情を曇らせた。

 

「本当なら今すぐにでもプレシアさんには娘さんに会わせてあげたいくらいだけど……」

 

「俺もそうは思うけど……だめ。なにかあったらリンディさんの責任になっちゃうんだから。俺、今クロノ先生の教鞭のもと、嘱託魔導師試験の勉強で法令関係も手をつけ始めてるんだ。条文の穴を探して考えてみるから、リンディさんは無理しないでよ。リンディ提督を慕っている人は多いんだから、ここで無理を通して経歴に傷をつけることない」

 

「徹君が法の抜け穴を探し始めたら、それはそれで大変なことになりそうだけど……心配してくれるのは嬉しいわ。この立場になると気にかけてもらうことも少ないから……ありがとう」

 

この人にしては珍しく照れたように微笑する。俺の手を握っているリンディさんのさらさらとした手が、かすかに温度を上げた気がした。

 

ただそのあとリンディさんが小声で『……嘱託試験にそこまで深く法令問題は出題されていたかしら……』と呟いていたのは、若干不穏ではあった。

 

 

何はともあれリンディさんからの許可を頂いた俺は、フェイトがいる部屋へと足を運んでいた。

 

扉を開く前にノックをしてしばし待つ。以前にアルフに充てがわれた部屋へと入る時に一度やらかしてしまっているのだ。同じ轍は踏まない。

 

「はい」

 

扉越しだからか、それともそもそも声量が小さいのか、壁を一枚隔てた向こう側からうっすらと了承の意が聞こえた。

 

聞き慣れたフェイトの声。繊細で、儚げな、線の細い声。アリシアとは似ているのに、やはり違う。

 

これが個性なのだろう。顔形どころか遺伝子情報レベルで瓜二つでも、ちゃんと個性が現れる。やはりフェイトもアリシアも、姉妹ではあっても別の人間だ。

 

そんな当たり前のことを嬉しく思いつつ、扉を開く。空気が抜けるような音とともに、扉がスライドする。

 

間取り自体はリニスさんの部屋と大差はない。扉を開けばすぐに室内の様子は見える。

 

フェイトはベッドの上で座っていた。

 

足をぷらぷらと遊ばせて、光沢のある華やかな金の髪を揺らしている。何か考え事でもしているのか、視線は斜め下に、床に向けられていた。

 

「もうアルフの番は終わったんですか?今日はずいぶんはや……っ!」

 

「よ、フェイト。元気だったか?」

 

「と、徹……」

 

フェイトは最初こちらを見ていなかった。俺がきたと気づかなかったのだろう。途中で目線を持ち上げて俺を視認すると、文字通りに目を丸くして驚いていた。

 

ゆうるりと立ち上がると、フェイトは手をこちらに伸ばしてゆらりゆらり左右に身体を揺らして実にゆっくりと歩み寄ってくる。

 

いろいろな感情をないまぜにしたフェイトの瞳がこちらをまっすぐに射抜くものだから、動こうにも動けず俺はただじっと立ち惚けていた。

 

「徹……だよ、ね?」

 

とうとうすぐ間近にまで近づいたフェイトは、不安げな色を顔に浮かべながら確かめるように指先で俺の服をちょこんとつまんだ。

 

慎ましく控えめであまりにもフェイトらしい所作を見て、アリシアの無邪気で賑やかな振る舞いを思い出してしまった。この対比は、姉妹の性格を過ぎるほど的確に表していた。

 

「他の誰かに見えるのか?」

 

「ううん……徹だ、ほんとに……」

 

俺だと確認が取れたことで安心できたのか、指先でつまんでいたところから手のひらで服を握りしめるような形に推移した。

 

しかしいったいフェイトはなぜ今更になって確認なんて取ったのか。エリーとアンサンブルしてる時の姿や、もしくは眼帯をしていたりすればそれはもちろん分かりづらいだろうが、今日はそのどちらでもない。あかねが庭の手入れをしたいということでお留守番を申し出て、エリーはそのお目付役として家に残っているし、早くコンタクトに慣れるために眼帯もつけていないのだ。

 

久しぶりに会って俺の顔を忘れてたとかだと悲しいどころの騒ぎではないが。

 

「時の庭園から出る時……徹、意識なかったから……。服もいろんなところに血がついてて……すごく、心配で……っ」

 

あの現場の状況は、それはそれは惨憺たる有様だったろう。

 

手も足も動かず、目も(かす)んでいた。気持ちの悪さや苦しさはあったが、痛覚は(おぼろ)げで、触覚すら曖昧だった。あの場でいったい何回血の塊を吐き出したのかもわからない。週末深夜の駅前で転がっていそうな酔っ払いみたいなものだっただろう俺を運ばなければいけなかった誰かには、大変申し訳ない限りだ。

 

「あー、そうか、俺はそこからの記憶はないけど、フェイトたちは見てるんだもんな……。情けないところ見せちゃったな、あはは」

 

「そんなことないっ!」

 

照れ隠しに苦笑いしていると、フェイトは俺の服を握り締めながら、爆ぜるようにそう叫んだ。

 

急に大声を出したことにも驚いたが、なによりもこれまで聞いたことがないくらいのフェイトの声量に驚いた。

 

「そんなこと……ない。あんなに……あんなに血をいっぱい吐いて、意識を失うほど魔力を使って、がんばってくれた。徹にとっては他人なのに、あんなにぼろぼろになるまでがんばってくれた。それを情けないなんて……言わせない。徹本人にも、絶対言わせない」

 

「は、はは……。ごめんな、フェイト。ありがとう」

 

小さな身体を抱き寄せる。触れただけで傷がついてしまいそうなほど細い身体を抱き締める。

 

ただ純粋に、嬉しかった。フェイトがそう思ってくれていることが、そう言ってくれて心配してくれていることが、俺以上に俺の身を案じてくれていることが、ただただ、嬉しかった。

 

しかし、それはそれとして。ひとつ、訂正しなければいけない点がある。

 

「だけどな、フェイト。他人だなんて言い方は聞き逃せないな。俺は特別優しい人間でもないんだ。他人のためにあそこまでできない。親しくなれたフェイトたちの力になりたかったからこそ、あんなに頑張った……あんなに頑張れたんだ。そこだけはわかっててほしいな」

 

「……徹は、優しいよ。優しくて、優しすぎて……どうやって恩返ししたらいいかわからないくらい」

 

「恩返しなんて考えなくていいんだ。ただ幸せになってくれたらそれでいい。笑顔でそばにいてくれるだけで、それだけでいいよ」

 

ぴくり、と俺の服を握るフェイトの手が震えた。俺のお腹にあてていた顔を離して、ちらちらと俺を見ては、また目をそらす。

 

「そんなこと……言わないで。どうしたらいいか、わからなくなるから……」

 

朝露に濡れる白百合のように清らかで、夕暮れの陽を浴びる鈴蘭のようにいたいけな、はにかんだ笑みを咲かせた。

 

「…………」

 

フェイトのそんな笑顔を見れただけで死力を尽くした甲斐がある。

 

だが同時に、後ろめたさもあった。こうまで真摯に俺の身体を気にかけてくれて、俺の行動に感謝まで示してくれるフェイトに隠し事をしていることが、心苦しくもあった。

 

俺が時の庭園でずたぼろになっていただけでも、フェイトは気に病んでいる。今でこそ代用できる技術を構築したとはいえ、後遺症があるなどと知れば、フェイトに更に心配をかけかねない。余計な罪悪感を抱かせかねない。

 

やはりすべてを話してしまうわけにはいかない。

 

クロノやリンディさん、エイミィたちにはテスタロッサ家の人たちとなのはには教えないようにと言い含めてある。俺がそうお願いした時にクロノはどこか不服そうな顔をしていたが、この判断は間違っていなかった。

 

結局押し切られる形でリニスさんには口を割ってしまったが、他の人たちには隠し通さなければいけない。無用で、不要な重荷になる。

 

腕の中にいる繊細な少女には、より一層の負い目を抱えさせることになってしまうだろう。ならば、わざわざ知らせることもない。

 

平和な世界で、平穏な世界で、この子たちには幸せになってほしいから。

 

「すぅ……はぁ」

 

一呼吸置いて落ち着く。

 

フェイトに見られないよう金色の頭に手を置いて、ひくつきそうな頬に笑顔を形作る。違和感なくできているかわからないが、自分の中での笑みを浮かべながら、フェイトに話しかける。

 

「ほら、フェイト。立ちっぱなしだと話しにくいだろ?座って話そう。話したいこと、たくさんあるんだ」

 

「うん、私も。徹と話したいことたくさんある」

 

頭の上にある俺の手を取り、フェイトは再び仰ぎ見る。可憐な微笑を(たた)えていた。

 

手を離すかと思いきや、フェイトはそのまま俺の手を握ったままベッドのほうへと移動する。

 

「ちょっと待っててね」

 

俺をベッドに座らせると、フェイトは小型の冷蔵庫へと向かう。もしかしてアースラ艦内は全室エアコン冷蔵庫完備なのだろうか。なんとも贅沢なことである。

 

「水とオレンジジュースがあるけど、徹はどっちがいい?」

 

どうやらフェイトの部屋とリニスさんの部屋では、冷蔵庫の中身のラインナップに違いがあるらしい。こちらの部屋にはミルクはないようだ。あえてミルクを選ぶことはないから別に構わないけれど。

 

「水でいいぞ。ありがとうな」

 

「いいよ」

 

厳密にペットボトルなのかどうかはわからないが、それに近しい容器に入った水を取り出して両手で持ちながら、フェイトが戻ってくる。

 

およそ五百ミリリットル程度だろう。それをベッドサイドの小さなテーブルに置く。そしてフェイトは俺の隣にちょこんと座った。

 

「あれ?フェイトのぶんは?」

 

「私も水でいいから」

 

「そうなのか。……コップは?」

 

「……一人ぶんしかなかったから、一緒でいい」

 

リニスさんの部屋には紙コップが置かれていたが、こちらの部屋にはなかったようだ。どちらかというとマグカップとは別に紙コップまで置かれているリニスさんの部屋が充実しすぎなのだろう。基本的に独房(という名の一人部屋)なのだから、そこまで用意する必要性も本来ない。

 

「フェイトに会いにくる前にリンディさんから聞いたんだけど、やっぱりフェイトも管理局に?」

 

「うん。みんなでまた一緒に暮らすのに、それが一番近道だから」

 

それが一番近道。これが現実なのだ。

 

俺としては危ないことからは遠ざかってほしいが、入局したほうが刑は断然軽くなるし、そもそもこれからは住むところも生活費も必要になる。金銭面においても、管理局で働いたほうが都合がいいのだ。

 

「フェイトなら立派な魔導師になれるだろうな。……いや、今でもわりと立派だな……」

 

「そんなことないと思うけど」

 

「そんなことある。俺はフェイトに勝てたことないしな」

 

「初めて会った日のことだよね。魔法を知りたてであれだったんだから、きっと今やったら私が負けると思う」

 

「そうか?なのはとの戦い見たけど、あの大規模術式はかなりすごかったぞ。ファランクスって言ってたよな」

 

そう褒めると、フェイトは頬を染めながら照れくさそうに視線を逸らした。なんともいじらしい。

 

これがなのはなら『すごいでしょっ、がんばったんだよっ、ほめてほめて!』となるのが目に見えている。まあそれはそれで可愛いので、芸を覚えた犬にするみたいにべた褒めするけれど。

 

「うん。フォトンランサーのファランクスシフト。リニスが教えてくれた魔法だよ。発動すれば回避することも防ぎきることもできない、って言ってくれてた。ちゃんと使えるようになるまで、苦労したんだ」

 

謙遜しながらフェイトが説明してくれる。どこか嬉しそうなのは、おそらく気のせいではない。

 

「結局なのはには防がれちゃったけど」

 

「あれはなのはの気持ちの入りようが半端じゃなかったからな……。フェイトとちゃんと向き合いたいって言ってたから」

 

「あの時、私はなのはにひどいこと言ってたのに……」

 

「あれぐらいじゃなのははへこたれない。案外頑固で、イメージ通り一途だからな」

 

二日前に会いに行った時のなのはの顔を思い出す。フェイトのことを心配していたあの表情を。

 

「なのはが会いたがってた。フェイトと話したがってたよ」

 

「私も、はやくなのはに会いたいな……」

 

なのはの気持ちを知ったフェイトは嬉しそうで、でも少し寂しそうでもあった。

 

仲良くなった途端に会えなくなったのだ。当然のことだろう。

 

フェイトに伝えればこうなることは予想できていたが、言わずにいるわけにはいかない。なのはとの約束でもあるし、なによりフェイトには知っておいてほしかったのだ。もう一度会いたいと思ってくれる人がいることを、知っておいてほしい。

 

「管理局に入ってある程度働けば自由に過ごせるようにもなるそうだ。がんばろうな」

 

「うんっ。……うん?徹も一緒に管理局に?」

 

「おう。といっても、まだ嘱託魔導師試験に挑もうってところだけどな」

 

「それじゃあ、また一緒にいられるの?」

 

期待の色を滲ませて、フェイトが瞳を向けてくる。少しだけ不安げにこちらを窺うような仕草をしていて、それがまた奥ゆかしさを醸し出し、庇護欲を掻き立てる。

 

「そうだぞ。だから、これからもよろしくな」

 

「うん、よろしくね、徹」

 

雲が晴れた夜空を仄かに照らす月明かりのような、人の目を惹きつけてやまない魅力を伴った笑みで言う。一瞬、心臓を締めつけられたみたいな感覚があった。

 

その上フェイトは同時に白魚のような指を俺の手に、(たお)やかに絡めてきた。狙ってこういうことをやっていないぶん、たちが悪い。大人になったら、フェイトは知らず知らずのうちに多くの男を惑わして、無自覚に手玉に取って振り回しそうだ。こちらは無駄に緊張しているというのに。

 

「お、おおう……。あー……水、もらうな」

 

この様子だと、下手すると大人になる前でも多くの人を魅了してしまうかもしれない。俺はすでに半分くらいその魔法にかかってしまっている気がする。

 

緊張で乾いた喉を潤して、片手でミネラルウォーターのキャップをしめていると、細っこい腕が伸ばされた。フェイトの片方の手は塞がっているので俺がいる側とは反対側の手をミネラルウォーターに向けていた。

 

「私もほしい」

 

「おう。ちょっと待ってくれ、拭くから」

 

男同士ならそれほど気にはとめないが、女の子は嫌がるだろうと思い、飲み口を(ぬぐ)おうとしたが、片手はフェイトの手に捕まっていてできなかった。どうしたものか先程よりも強く握られていて、手を解こうにも解けない。

 

どうしようかと悩んでいると、フェイトが止めた。

 

「そのままでいいよ」

 

「ん、そうか?そんなら、ほい」

 

他人が使ったものは使えない、回し飲みなどに嫌悪感がある、どころか電車のつり革にさえ忌避するという人は一定数いるものだが、フェイトは違ったらしい。これまで家族としか顔を合わせておらず、それ以外の人と接してこなかったから身内とそれ以外の境界線が曖昧なのかもしれない。

 

「ん……っ」

 

片手は俺のそれに重ね合わされている(というより絡み合わされている)ので、フェイトは必然、片手でボトルを受け取り、そのまま片手で飲もうとする。が、ここで思わぬアクシデントが発生した。

 

「あ、危ない、かも……」

 

フェイトの手が小さすぎた。ボトルの直径が通常よりも太いタイプだったということもあるが、それにしたってフェイトの手は小さかった。片手では満足に持つことができず、飲むことが難しかったのだ。

 

これまで華麗に軽やかに長柄のバルディッシュを操り振るっていたのに、ボトルを持てないというのは盲点だった。子どもらしからぬところばかり見てきていたが、こういう点は年相応でほほえましい。

 

「コップあるんだろ?コップ持ってきたらどうだ?」

 

こういうことを見越していたのか、局員さんはちゃんとこの部屋にもコップを用意してくれている。どこに置かれているのかは知らないが、厚意を無下にすることもないだろう。

 

「…………」

 

持ってくるように促すと、フェイトは無言でボトルを俺に返してきた。コップを取りに行くから持っておいてくれ、という意味なのかと予想したのだが、違っていた。立ち上がらないし、手も離さない。

 

逆転の発想で水を飲まないことにしたのかと思いきや、フェイトは俺をじっと見つめながら、小さく首を傾けて言う。

 

「飲ませて?」

 

ある意味逆転の発想だった。

 

「いや……コップ取りに行ったらいいじゃん……。その前に、この手を離したらもっと早く簡単にすむ話だけど……」

 

「……いや?」

 

「いやってわけじゃないけどさ。ただ、食べ物と違って飲み物を人に飲ませるってけっこう難しいし、誤嚥(ごえん)とか怖いし」

 

「徹の、飲みたい」

 

「ぶふっ……」

 

アリシアといい、テスタロッサ家の姉妹は二人そろって、俺の理性にダメージを与えることを生業(なりわい)としているのだろうか。それとも俺の想像や発想が汚れきっているのか。

 

とりあえず確認してみる。

 

「……俺の手で飲みたいってことでいいのか?」

 

「……?そう言ったけど」

 

言ってません。

 

「フェイトがそれでいいんなら、俺は構わないけどさ……」

 

「うん。いいよ」

 

こくんと頷くなり『あー』とフェイトは小さな口を開く。

 

「……っ」

 

ごくりと生唾を飲み込んだ。

 

横に座ってはいたがフェイトはこちらに向いているので、口腔(こうくう)がよく覗けた。桃色の薄い唇と真っ白な歯、唾液でぬらぬらと妖艶に光を返すピンク色の舌、赤い内頬。

 

人の口の中をこれほどまじまじと凝視したことはない。そこはかとなく、性的なニュアンスを感じさせた。

 

(ほおう)早く(はあう)

 

なかなか手を動こかそうとしない俺に、痺れを切らしたようにフェイトが催促する。

 

口を開きながら喋るせいで、柔らかそうに形を変える唇や、それ自体が生き物のように動く舌がよく見えた。見えてしまった。

 

「……お、おう。……すまん」

 

小鳥の(ひな)。小鳥の雛だと思えば、大丈夫。大丈夫なはずだ。

 

そう言い聞かせるが、もう俺の目は俺のコントロール下を離れていた。フェイトの口元に、口の中に釘付けになっていて視線を外せないでいた。

 

「ん、ん」

 

「わかってる、わかってるから……」

 

握っている手をくいくいとフェイトが引っ張り揺らす。

 

お願いを通す手腕と言うのか、こういったところは姉であるアリシアと共通している。演技ではない自然体でそれができてしまうのが、実に困る。

 

「それじゃ……やるぞ。やめるときは合図してくれ」

 

こくり、とフェイトは頷く。金色(こんじき)の髪が小さく波打った。

 

ボトルの飲み口がフェイトの唇に触れる。むにゅりと柔らかく形を変える唇の感触が、ボトル越しでも伝わってくる。そのまま徐々に傾けていく。透明のボトルなので、今水がどの辺りまで来ているのかは把握できた。

 

「は……ぁむ」

 

目の前に屹立(きつりつ)するボトルを見ればいいのに、フェイトはじっと俺の顔に視線を合わせていた。おかげでやりにくいことこの上ない。

 

「れぅ……」

 

「っ……」

 

水が唇に触れたことで、もうすぐ口の中に注がれることを察したのだろう。ピンク色の舌が出迎えた。

 

「んっ……んく」

 

フェイトの口腔が満たされる。予想よりも口は狭く小さく、俺も気が急いて勢いよくやりすぎたせいで一部がフェイトの口から溢れた。

 

「んぶっ……あっく……」

 

唾液と混じった透明な液体がフェイトの口の端から垂れる。身長差により上を見上げる格好になっているため、あふれた液体は滴ることなくきめ細かな頬を流れ、シャープなあごを濡らし、細い首筋を伝う。いくらかは飲み込んでいるのだろう、喉が不規則に動くのが見て取れる。

 

「ん、んぐっ……ふぶ……」

 

首から伝う液体は襟元から服を濡らし、フェイトの身体に張りつき、透かしていく。鎖骨の輪郭を、仄かに服を押し返す胸元が、浮き出ている。

 

フェイトの顔に目を戻せば、視線が交錯した。ずっと俺のほうを見ていたらしい。

 

開かれた唇は弱々しく震え、かすかに見える舌は小刻みに前後していた。苦しいのか目元はうるんでいる。

 

フェイトの頬はなぜか上気していたが、かくいう俺も顔がなぜか熱い。冷静さを残している思考の一部がもうやめるようにと命令発しているが、大部分は霧がかかったように麻痺している。甘く酔ったような感覚だ。どうにも現実味が感じられない。

 

「あぐっ……ぷはっ、あぶっ……」

 

俺の指を取るフェイトの手はか弱く震えてはいるが、止めるようにという指示には思えない。もう片方の手もボトルを持つ俺の手に添えられていたが、その手は力なくただ添えられているだけ、触れているだけだ。

 

涙目で俺をじっと見つめるフェイトの表情は、苦悶に彩られている。

 

「ぅ……ぁ……っ」

 

今俺は不思議な、とても不思議な情動に襲われている。

 

守ってあげたくなるような、どこか庇護欲(ひごよく)をそそるフェイトが苦しげな様子を見せているのに、なぜか。本当になぜか。無性に嗜虐心(しぎゃくしん)を掻き立てたられる。いや、嗜虐心というほど深刻なものでもハードなものでもない。

 

ただほんの少し、ほんのひとつまみ程度だけ、いじめたいと思っている自分がいるのだ。

 

守ってあげたい、でもいじめてもみたい。相克する真逆の感情の境目で、俺は浮遊していた。

 

「けふっ、と……とおりゅ……」

 

「……っ!」

 

名前を呼ばれてはっと意識が浮上する。

 

フェイトに押しつけていたボトルを急いで離す。離した際に水がいくらかこぼれたが、そんなものどうだっていい。

 

「けほっ、こほっ……」

 

「だ、大丈夫か、ごめんな……」

 

ボトルをベッド横のテーブルに置いて、咳き込むフェイトの背中をさする。ちらとミネラルウォーターのボトルを確認すると、残りはわずかになっていた。おそらく、ほとんどまともに飲めていないように思う。

 

「う、ううん……私もとめてもらうタイミングがわからなくなっちゃったから……」

 

「タイミングって……手を叩くなりしてくれればよかったのに。いや、俺が止めなかったのが悪いんだ。ごめんな、苦しかったよな」

 

濡れてしまいそうだった長い髪を手櫛で首の後ろにまわす。首筋にくっついてしまっている髪をかきあげた時、フェイトはぴくぴくっと震えた。

 

濡れてしまっている口元を手で拭う。湿った唇はやたらに柔らかく、やけに熱かった。

 

「けほ、けほっ……もう、大丈夫だよ。……ちょっと苦しかったし、徹、ちょっといじわるな顔してたけど、見たことない顔を見れて……すこし嬉しかったから」

 

俺は俺でおかしくなっていたが、フェイトもフェイトでちょっとおかしくなっている。場の流れというか空気というか雰囲気にのまれていた。

 

手にあたるフェイトの吐息は荒く熱がこもっていた。

 

「意地悪って……そんな、こと……なくもないけど……。俺も度が過ぎてたからどの口がって感じだけど、苦しかったんならそう言ってくれよ」

 

「えへへ、ごめんね。けほ……」

 

ふたたびこほこほと咳き込み始めたので、抱きかかえるように腕を回して小さな背中を撫でる。

 

今日もエリーとあかねがお留守番してくれていて、本当によかった。こんな光景を見られたら怒髪天を衝くことは確実だっただろう。

 

「俺……変な趣味に目覚めたとかじゃねえよな……?」

 

間違ってもフェイトに聞かれないよう、限りなく小さな声で呟く。

 

このような倒錯的(とうさくてき)な情念が、これ以上悪化しないことを祈るばかりだ。

 

 

 

 

 




もうろりこんでいいや


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最後の贈り物

つい先日、失恋しました


 

「徹は、どうして会いにきてくれたの?」

「どうしてって……きたらダメだったのか?」

 

俺がそう尋ねると、フェイトは金髪をふるふると横に振った。

 

ちなみに水を飲ませてあげるのが下手だったせいでびしょ濡れになってしまった服は着替えた。チェストに着替えの服があったのだ。

 

アリシアにはなかったのにフェイトにはあるのかと疑問を抱いたが、その替えの服は以前見た拘束衣に近いデザインで、とりあえずサイズが合うものをチェストにしまっておいた、という印象だった。

 

身に纏う衣服がどんなものであろうと輝きが失われないフェイトは慌てるように否定する。

 

「ううんっ、ちがう。そうじゃなくて、徹も忙しいのになんでわざわざ時間をさいてきてくれたのかなって」

 

「単純にフェイトの顔が見たかったからだ。時の庭園から戻ってから一度も会ってなかったしな。それになのはから(ことづ)けも預かっていた。仲のいい友だちに会いに行くのに、理由なんかいらないだろ?」

 

「う、うん……そう、だね。友だち……うん」

 

「フェイト?おい、どうした?」

 

ちょっと良い事言った風に決めたのだが、フェイトには響かなかったようだ。俯いて虚ろな目をして小声で何かを呟いていた。どうやら俺は格好つけようとしてもつけられない星の下にいるらしい。

 

「…………ねえ、徹はっ」

 

「お、おう。なんだ?」

 

再起動したらしいフェイトが向き直って俺を呼ぶ。一時的に会話が成立していなかったのに急にフェイトにしては大きな声で名前を呼ぶので、すこし驚いた。

 

ミネラルウォーターの一件の時と同様に再びベッドに二人並んで座っているのだから、いつも通りの声量でも充分聞こえるのだけど。

 

「徹はっ……えっと……も、もといた世界に戻ったんだよね。そっちの生活はどんな感じなの?」

 

改めて訊ねてきたので何かと身構えれば、俺の近況のことについてだった。そこまで力強く訊いてこなくてもいいだろうに。

 

「どんな感じって言ってもなあ……前と変わらずってとこだぞ。今は嘱託魔導師の勉強もしてるけど、それ以外は普通に学校にも行ってるし」

 

俺が答える前からなぜかベッドに手をついてがっくりしていたフェイトにそう言うと、小首を傾げた。

 

「学校……なにするの?」

 

「なにするのって……そうだな、勉強したり、運動したり、とか?」

 

「徹、『運動』は得意そうだよね」

 

「なんでさりげなく『勉強』の部分を排除した」

 

「え……だって」

 

フェイトの視線が俺の頭のてっぺんに移動すると、そのまま足元まで下がっていく。再び顔に戻ってくると、口を開いた。

 

「お勉強できそうには見えないから?」

 

「完全に外見で判断したなこの子は!」

 

「きゃっ……ひゃっ、あはは」

 

お仕置きとしてフェイトの頭を乱暴に撫でる。

 

最初こそ驚いた様子だったが、楽しそうに笑っていた。これではお仕置きになりそうにない。

 

「これでも一応成績だけは優秀なんだぞ」

 

「成績『だけ』ってところに含みを感じるけど」

 

「…………」

 

成績は良くとも教師陣からの印象が軒並み低いところが問題なのである。

 

「それにほら、俺は随所で知的なイメージを残してるしさ」

 

「……知的な、イメージ?……徹に?」

 

「本気のきょとん顔はやめてくれよ……」

 

「あ、口がうまいイメージはあるかな」

 

「それは……たしかに知的なイメージではないな……」

 

何回か舌先三寸でけむに巻いた覚えがあるので否定もできなかった。

 

「学校って楽しい?」

 

フェイトの中での印象があまり良くないことを知って傷心中の俺を置いて、フェイトが続けて質問してきた。

 

一昔前の俺なら一も二もなく否定していたところだろうけど、今なら答えは真逆になる。それもこれも、取り巻く環境に変化があったからだろう。二人の親友のほかに、友人ができたから、だろう。

 

「そうだな。わずらわしいこともたくさんあるし、中には性格悪い奴もいるけど……楽しいぞ」

 

「そう、なんだ。なのはも学校に行ってるの?」

 

「ああ。俺は高等学校、なのはは小学校で場所は違うけどな。なのはも行ってるぞ」

 

「そっか……」

 

俺が学校の話を広げたからか、それともなのはも学校に行っているという話を聞いたからか、フェイトは少し寂しそうに呟いた。

 

フェイトやアリシアには、いや、テスタロッサ家の全員には安全な世界で平和に暮らして幸せになってほしい。それが俺の願いだ。

 

だが、裁判の結果を良くするためにフェイトやプレシアさんたちは管理局で働かなければいけなくなる。必ずしも安全で平和とはいかないだろう。

 

だとしても、管理局に籍を置いているとしても、学校生活を送るというのはいいことではないだろうか。平和で安全できっと楽しくなるだろう学校生活で、危険な仕事も少なくはない管理局の仕事を誤魔化すようにも捉えられてしまうかもしれないが、それでも。友人と(たわむ)れ、お喋りして、平凡でありふれた日常を過ごすことがフェイトにとって悪いことだとは思わない。

 

独善的ではあるが、俺としてはなのはやアリサちゃんやすずかや彩葉ちゃんのいる学校で、ともに遊び、ともに学び、ともに成長していくフェイトやアリシアの姿を見たいと、見てみたいと、切に願ってしまう。

 

「いつか、さ。いつになるかはわからないけど、いつか……なのはのいる学校に行けるようになったら、フェイトは行きたいか?」

 

期待の念を込めて、フェイトの想いを確認する。

 

俺の問い掛けに、フェイトはかすかに不安そうな色を顔に浮かべながらも、大部分が喜色で彩られていた。

 

「行きたい……っ、なのはと一緒に、学校に行ってみたいっ」

 

その言葉は、俺にとってどんな謝辞よりも心に深く響く。純粋に、嬉しかった。

 

「そうか……っ!それじゃ、俺もがんばってみるよ。フェイトが自由に好きなことができるように、なにか助けになれるようにがんばってみる」

 

乱暴に撫でてしまったせいで乱れてしまっているフェイトの頭を、今度は優しく丁寧に撫でつける。

 

「ふふっ、徹はいつも私たちを助けてくれてるよ」

 

フェイトがくすぐったそうに身をよじる。

 

思わず頬が緩んだ。たとえお世辞でも、そう言ってくれるのは嬉しかった。

 

「あ、そういえばアルフはどうしてるんだ?会えてるのか?」

 

いつまでも撫でていると、さしもの心優しきフェイトでも鬱陶しく感じるだろうと思い、頭から手を離す。

 

フェイトの笑顔の輝きがしゅんと下がったように見えた。

 

「……うん。エイミィが気を使ってくれてる。付き添ってくれて、会わせてもらってる」

 

「そっか……よかったな」

 

最近は頻繁にアースラに来ているわりにエイミィの顔を見ないと思っていたが、仕事の(かたわ)らエイミィはフェイトたちの為に奔走してくれていたようだ。リニスさんの部屋に行った時もお昼ご飯を運んできていたし、相当よくしてくれているらしい。また今度、俺からもお礼を言っておかなければ。

 

お茶菓子でも持っていくかな、などと考えているとフェイトが俺の腕を掴んだ。そしてにこやかに、話を続ける。

 

「エイミィのおかげで、徹のお見舞いにも行かせてあげられたんだ」

 

「……お見舞い?」

 

たしかこれは、クロノも口にしていた話だった。

 

要領を得ないまま、フェイトは先に進めていく。

 

「私とアルフが一緒にいる時に、たぶん念話だと思うけど……連絡があったんだって。徹が目を覚ました、って」

 

「…………」

 

フェイトとアルフが一緒にいるということは、その場にエイミィも立ち会っていたのだろう。そしてちょうど時機を見計らったかのように、眠りこけていた俺が目覚めたという連絡が入る。エイミィの耳にも入ったということは、おそらくクロノあたりがエイミィに念話を送ったというところか。

 

「アルフは徹とすごく仲がよかったから、エイミィにお願いしてみたんだ。『アルフをお見舞いに行かせてあげられない?』って」

 

「……………………」

 

アルフと交わした約束。ジュエルシードの、ひいてはプレシアさんの一件が落着したら続きを話そうという約束を交わした時、フェイトもその光景を見ていた。だから、ほとんど姉妹みたいな関係ではあるが形式上はアルフの主人(あるじ)であるフェイトが気をつかったのだろう。

 

俺がいる病室に行かせてもらえるように、フェイトはエイミィに頼んだ。

 

推察するに、見舞いに行かせたい理由も、その時エイミィは聞いたのだ。でなければ、エイミィがクロノに言っていたらしい『アルフさんにも粉をかけて』という言葉は出てこない。

 

まるでパズルのピースをはめるように、気にしていなかった情報と情報とが繋がっていく。

 

頭の隅っこに居座っていた違和感や疑問が解けつつあるというのに、俺の心は晴れない。それどころか、暗雲が立ち込めてくる。嫌な予感が止まらない。

 

「どうだった?どんなお話ししたのかアルフにきいてもはぐらかして教えてくれなかったから、気になってて」

 

「………………………………」

 

会っていない。

 

時の庭園で気を失い、アースラの医務室で目覚めたあの日、俺はアルフと会っていないのだ。

 

だが、アルフと顔を合わせていないからといって、俺がいた医務室にアルフが来ていなかったという証明にはならない。

 

いや、むしろ反証が存在する。

 

クロノは言っていた。二股がどうのこうのとかいう閑話の際に『フェイト・テスタロッサの使い魔が徹の病室にまで見舞いに来ていれば』と、クロノはそう言っていた。

 

クロノは、アルフと会っていた。病室の近くまで来ていたことを知っていたのだ。

 

目覚めたあの日、クロノが退室したのはリンディさんが医務室に訪れてすぐのことだった。クロノが病室まで見舞いに来ていればと発言していた以上、アルフが近くにまで来ていたことは疑いようがない。

 

「ど、どうしたの、徹……顔色、悪いよ?」

 

「いや……大丈夫、だ……」

 

アルフはあの日、エイミィの厚意で部屋から出してもらい、俺のいる医務室近くにまで来ていた。無論用件は俺の見舞いだろう。

 

なのに、俺はアルフの影すら見ていない。ならば、アルフはいったいどこに居たのか。どこ(・・)で、どんな話(・・・・)を、聞いていたのか。

 

「……そんな、そんなわけ……っ」

 

最悪の想像が、俺の頭を駆け巡る。眩暈(めまい)に近いふらつきがある。

 

心臓は早鐘を打つ。激しい脈動が身体を伝い、どぐんどぐんと頭を殴りつけられているような感覚すらある。

 

「徹、体調悪い?熱は……」

 

心臓はばくばくとけたたましく動いているのに、身体の芯は氷でも刺さっているのではと思うほど冷え切っている。自分でもそう察するほどなのだ。外から見ればそれは相当なものだろう。

 

血の気が失せた俺を心配したフェイトがおでこをあてて体温を確認する。

 

顔がごく至近距離にあるというのに、まともに実感できない。

 

「熱はない、というかすごく冷たい……。徹、ベッド入る?一緒に寝たらあたたまるかもしれない」

 

「大丈夫、だから。……ありがとう」

 

本人に会って、確かめなければいけない。

 

もとよりアルフとも話をしに来たのだ。当初の目的とほとんど違いはない。あるとすれば、話の方向性が暗くなるだけだ。

 

「だめだよ。徹はすぐに無理するから。ベッドに入って。一緒に寝よ?」

 

「本当に大丈夫だってば。俺、行くところがあって……」

 

「だめ。病気になる前に体力をもどしておかないと」

 

逃さないようにか服の裾を握り締め、フェイトが俺をベッドの中央に引っ張る。

 

なまじ親切心や思いやりの心で勧めてくるぶん、強引に手を振りほどくこともできない。

 

体温の下がっている俺を(おもんぱか)って、病気にならないよう一緒に寝て温めようとしてくれているのだろうけど、フェイトと同じ布団で仲良く寝た暁には、違うもっと重い病に、根治の目処がない不治の病に罹患(りかん)してしまいそうだ。

 

どうにか諦めてくれないかと模索していると、背後から扉が開く音がした。

 

「フェイトちゃーん、次、フェイトちゃんの番だよー……あれ、徹くん?なんでいるの?」

 

エイミィだった。そういえば、俺がこの部屋に入った時にフェイトが、アルフの番がどうとか言っていた。裁判に関する手続きか、もしくはアリシアと同様に健康診断的なものでもあるのかもしれない。

 

「そうだ!徹くんには聞きたいことがあったんだよ!徹くん、もしかして二股してっ……」

 

「エイミィ。アルフは今どこにいるんだ?話がしたいんだ」

 

脇道に逸れる前に制する。

 

俺の顔つきを見て、エイミィは真面目な話であると察してくれたようだ。

 

「アルフさんなら部屋に戻ってもらったけど……なにかあったの?」

 

「……俺の個人的な用件なんだ。直接会って、聞かないといけないことがある」

 

「それって、もしかして……アルフさんが徹くんのお見舞いに行った時の?」

 

「なんで、それを……」

 

「戻ってきた時のアルフさんの様子が少し……おかしかったから。どんなお話をしたの?」

 

「…………」

 

その質問に、俺は沈黙で答えた。いや、正直に答えるべきか悩んで、答えられなかったのだ。

 

「私……余計なことしちゃったのかな?」

 

「そんなことない。そんなこと、あるはずないだろ。エイミィは気をつかってくれたんだ。その行いが間違っているわけない。ただちょっとだけ、俺とアルフの間で……捉え方(・・・)がすれ違っているだけなんだ。ちゃんと面と向かって話をすれば、解決できるはずだ」

 

「そう、なの?」

 

「そう。だからちょっとアルフに会いに行ってくる」

 

「え、えっと……徹、なんの話?」

 

俺とエイミィの会話についていけていなかったフェイトが袖を引っ張りながら訊ねる。

 

フェイトに俺とリンディさんがしていた後遺症の話を(つまび)らかにするわけにはいかない。当たり障りない言葉を選んで組み立てながら、袖を握ったままのフェイトの手を取る。

 

「ちょっとアルフに約束してたことがあるんだ。だから行ってくる」

 

「でも徹は体調が……」

 

「ほら、もう大丈夫だろ?平気だって」

 

体調を崩しているわけではないことを示すように、フェイトと(ひたい)を合わせる。エイミィと言葉を交わしたおかげですこし冷静になった。体温ももう戻っているだろう。

 

「……うん、あたたかくなってる。でも調子が悪くなりそうだったらすぐに休んでね」

 

「ああ、わかった」

 

「あ、体温測ってたんだ……びっくりしたー。そうだ、私フェイトちゃんを呼びにきたんだった。次フェイトちゃんの番だから、私と一緒にきてね」

 

エイミィに促され、フェイトはこくりと頷いた。

 

扉のほうへと一歩踏み出して、金色の柳髪を翻す。

 

「……徹」

 

「ん、どうした?フェイト」

 

「アルフとなにがあったのかわからないけど、仲直りしてね?」

 

「仲直りって……まあいいか。ちゃんと気持ちを確認してくるよ」

 

俺とアルフは喧嘩して仲違いしているわけではない。喧嘩よりももっとたちの悪い複雑な状態だ。

 

だがそれをフェイトに言うわけにもいかず、どちらともとれるような曖昧な言い方で濁した。

 

フェイトはそんな返答でも満足したらしく、ふわりと笑んだ。

 

「……また遊びにきてね」

 

その可愛らしいお願いには、はっきりと、笑顔で答えることができたのに。

 

 

「あたしは……徹の隣には立てないよ」

 

「っ…………」

 

久しぶりに顔を見れたのに、アルフは沈痛な面持ちをしていた。

 

盗み聞きするつもりなんてなかったんだけど、とばつの悪そうな顔で目を逸らしながらアルフは言っていた。

 

おおよそ全て、俺が想像していた通りだった。

 

俺が目覚めたあの日、エイミィ経由で報せを受けたアルフはフェイトの真摯なお願いの甲斐もあってお見舞いに行く許可を頂いた。病室のすぐ近くでクロノと鉢合わせして、そこでクロノに『徹なら艦長から叱られている』と伝えられていたそうだ。そう聞いていたこともあり、アルフは邪魔にならないタイミングを病室の前で窺っていた。

 

だがリンディさんの叱責も、俺の謝罪も聞こえてこなかったことを不思議に思い、聞き耳を立てた。そこで、俺とリンディさんがしている話を聞いてしまったのだと、アルフはつらそうに語った。

 

もしかしたら、と思っていたことが現実のものとなってしまっていた。一番聞かれたくない話を、よりにもよって一番聞かれたくない相手に聞かれてしまっていた。

 

懺悔(ざんげ)するように語り、長い沈黙の後、アルフが声を絞り出すように、囁くように言ったのだ。冒頭のセリフを。

 

『隣には立てない』

 

そんな、心を抉るような残酷なセリフを。

 

「ま、待ってくれ。俺の言い分も聞いてほしいんだ。俺は……っ」

 

まだ取り返しはつく。リニスさんにも後遺症のことは露見してしまったがちゃんと話したことでもとの関係に、否、もとの関係以上の絆が生まれた。しっかりと説明すればきっと気持ちは伝わるはずなのだ。

 

それにリニスさんの時と違い、今なら狭まった視界や失われた適性の代用策も立っている。左目にも利点はあると知れた。

 

失った力が多かったことで一時は傷つき落ち込み嘆いたが、今は違う。

 

再び戦えるようになった。俺はもう気にしていない。だからアルフもそこまで思い詰めるようなことはしなくていい。

 

そう続けようとして、アルフに遮られた。

 

「『俺は気にしていない。だから気にしなくていい』なんてことを、徹は言うんだろうね……」

 

俺が口にするだろう言葉なんて、アルフにはすでに予想がついていた。

 

しかし、予想していて、理解していてなお、アルフは俺を遠ざけようとする。

 

その真意を、俺は未だ悟ることができないままでいた。

 

「わ……わかってくれてるんなら、どうして……」

 

「ちがうんだよ。徹が気にしてなくても、あたしに気にしなくていいって言ってくれても……徹の隣には立てない。……隣に立つ覚悟がない」

 

アルフは、俺を見てはくれない。勝気な(まなじり)は悲痛に下がり、唇は固く閉じられていた。

 

「覚悟って……なんだよ。そんなもの必要ないだろ。ただ、隣にいてくれさえすれば……」

 

「あたしが弱いせいなんだ。ごめん、ごめんなさい……一緒にはいられない」

 

「なんで……謝るんだよ。弱いってなんなんだよ。わかるように言ってくれよ」

 

アルフは血が出そうなほど下唇を噛み締めて、何かに堪えるようにして、口を開いた。

 

「徹を、徹を見てるとっ……苦しいんだっ!っ、っ……」

 

ようやく正面から見れたアルフの顔は、ひどい悲しみで満ちていた。

 

「あたしのせいだっ……あたしがあの時っ、アリシアのカプセルを割っちゃったから……っ!あたしのせいで徹は左目もっ!魔法もっ!失ったんだっ!ぁ、あたしのっ、せい……で……っ。あたしが、奪ったんだ……」

 

「ちが、う……違うって、違うだろ?……アルフはなにも」

 

「なにも違わないっ!」

 

「っ……」

 

思わず息を呑む。

 

アルフの言葉には、人を黙らせるだけの気迫がこもっていた。

 

「あたしがあの時大岩をもっと違う方法で防いでいたら、アリシアのカプセルを割らずにすんだ……。けがもたくさんして、魔力もほとんど使い果たしていた徹があの場所で無理を押してアリシアを治療せずにすんだ……。あたしが、失敗したから……あたしのせいで……っ!」

 

『あたしのせいで、あたしのせいで……』そう、アルフは繰り返す。(だいだい)色の頭をかきむしるように激しく抱えて、虚ろな瞳でアルフは自分を責める。自分を傷つけ続ける。

 

「違うだろ……違うだろうが!それは俺が不甲斐なかっただけで……っ!降ってきた大岩を砕いたのだって、あれが間違ってたなんて思ってない!」

 

あの時、ジュエルシードが暴走した影響で足場は非常に脆い状態だった。あの場面で、障壁で防ごうとしていたら大岩の重量に耐えられずに岩盤が崩壊していたかも知れない。そうなっていた場合、虚数空間で永劫(えいごう)の時を彷徨(さまよ)い落ちる羽目になるのは、大岩の下にいたなのはやフェイトたちだけじゃない。俺も含めて、あの場にいた全員が、重力の底まで自由落下していた。

 

アルフが瞬時に反応し、対応できていなければ、みんな、ここにはいない。

 

「アルフはみんなを守ったんだ!その後アリシアを助ける時に魔力が足りなくなったのは、俺の能力が足りていなかったからだ!俺の才能が足りていなかったからだ!アルフのせいじゃない!」

 

俯くアルフの腕を掴む。肩を揺すって声を張り上げても、いつもの明るい表情を俺に見せてはくれない。

 

「……だからって、あたしが原因になったことは変わらないよ。左目を。徹の主力を。あたしが見たことない徹の新しい武器を。……根こそぎ奪った。そこはこれからどうあっても変わらない。あたしがどんな(つぐな)いをしても……その事実は変えられないよ」

 

「だからッ!そんな償いなんていらないんだってッ!……よく聞けよ、左目は索敵魔法で代用できた。魔力の循環量をコントロールすることで、魔力付与の代わりにはなる。今はもう戦う手段は戻ってんだよッ!」

 

「……それでも、前と同じじゃない」

 

「同じじゃないって……この程度ほとんどッ」

 

「索敵魔法を使ってるぶん……魔力が余計にかかってるんじゃないの?常に消費し続けてるんじゃないの?」

 

「っ……」

 

即座に反論できない。アルフの言うことが事実だからだ。

 

術式の微調整を行なって不要な性能、サーチャーの隠密性などを削って魔力の消費量削減を計ってはいるが、最低限の機能を維持するためには限度がある。

 

だとしても、それこそその程度の消費量なら目を(つぶ)ることができる程度でしかない。作戦行動時にサーチャーを広範囲にばら撒くのであれば多少話が変わってくるが、左目の代わりとしてサーチャーを使うのであれば気にするほどのものではない。

 

なのに、反論はできない。アルフの言う通り、たしかに以前と全く同じではないのだ。気にするほどでもない消費魔力であろうと、消費していることに違いはない。

 

目を逸らした俺をわずかに見て、アルフは嘆くように小さく笑う。

 

「……ほらね。魔力付与の代わりだってそう。出力は魔力付与と同じくらいあるのかい?使い勝手は?」

 

「いや、それは……」

 

新技法、循環魔法は被撃しない限り魔力を消費しない。継戦能力に秀でているが、反面、瞬間的な爆発力は魔力付与に劣る。

 

口籠る俺に、アルフは力なく続ける。

 

「……新しく使えるようになった魔法は?なにか代わりになるようなものはあった?」

 

「そっちは……でも、射撃魔法はもとからそこまで素質がなかったから、たいして影響は……」

 

「射撃魔法、だったんだね……。知ってるかい?魔導師の最低条件みたいな魔法だよ、それは……」

 

しくじった。そう思った。

 

失った二つの適性のうち、アルフが知っていたのは魔力付与だけで、もう一つが射撃魔法であるとは把握していなかった。迂闊だった。

 

クロノは俺の後遺症について、もしかしたら俺以上に憤慨し、悲嘆してくれていた。そのクロノが、取り分け強く射撃魔法について言及していた。リニスさんとの戦いでしか使わなかったので実感が薄かったが、魔導師において射撃魔法はそれだけ大きなウェイトを占めるということなのだろう。

 

だとすれば、それだけ大きくアルフが責任を感じてもおかしくはない。

 

狭窄していく思考の中で、どうにか解決の道がないか探る。

 

「っ……違う、待ってくれ……。ほ、ほら、アルフと戦った時なんかも射撃魔法なんて使ってなかったのに、できてただろ?ジュエルシードの九頭龍を退治した時も射撃魔法なしでやってきた……。なくても、なんとかなるんだって!」

 

「射撃魔法が使えなくても、あれだけ活躍できたんだ。……失ってなければ、もっと優秀な魔導師になれていたはずさ。徹の近接格闘術とハッキングに加えて、見えない弾丸……もしかしたら管理局の歴史に名を残すほどの魔導師になれたかもしれないのに……」

 

「そいつは考えすぎってもんだろ?!そこまで大した人間じゃねえよ!……なあ、アルフ。そこまで思い詰めることないって……」

 

壁に背をつけたアルフの腕を強く掴む。言葉が、心が届かず、力が入ってしまう。さらに押し付けるように、身体を近づける。

 

「あたしは、徹の武器を奪っただけじゃない……徹の将来まで、奪ったんだ」

 

「ッ!」

 

将来まで奪った、その発言だけは看過できなかった。

 

左目を、魔力付与を、射撃魔法を失ったのは事実だ。否定のしようもない。

 

だが、将来まで失ったわけではない。そんな発言は認められない。

 

「奪われてない!俺にもわからない未来にまで……誰にもわからない未来にまで、アルフが関われるわけないだろうが!」

 

俺がそう叫んでも、アルフは変わらなかった。最初から一貫して、居た堪れないように身体を縮めるだけ。

 

「……ごめん、なさい……」

 

「な、んで……っ」

 

聞いたことのないアルフの悲愴で悲痛な声。罪悪感に押し潰されたような、(かす)れた『ごめんなさい』だった。

 

「あたしが、悪いんだ……。自分がここまで弱いなんて、知らなかった……。好きな人が自分のせいで苦しむことがこんなにつらいなんて、知らなかった……っ」

 

「…………あ、ぁ……っ」

 

アルフは、俺と一緒にいることが『苦しい』と言った。『つらい』と、そう言った。

 

俺がどう(つくろ)っても、俺がどう抗|(あらが)っても、消せないのだ。アルフの抱えた罪悪感は、消せない。

 

視力と魔法適性が失われたことを、アルフは『奪った』と表現した。

 

アルフにとって『奪った』ことがなにより肝要なのだ。今現在、代用品があろうがなかろうが関係ない。

 

ならば、俺に何ができるのだ。

 

アルフの瞳から溢れる涙を止める言葉が、俺には見つからない。見つけられない。

 

止め処なく流れ頬を伝い滴り落ちる涙を、拭うことも隠すこともしないまま、アルフは不安定に揺れる声を絞り出す。

 

耳を塞ぎたくなるような、深い痛みと悲しみを(たた)えたその声で。

 

「っ……好きなのに、こんなに好きなのに、徹を見てるだけで……徹がいるだけで胸が痛いよぉ……っ」

 

「…………」

 

想いは同じはずなのに、向かい合っているはずなのに、背中合わせだ。どこまでも、交差することはない。

 

「そう、か……」

 

アルフは今、罪の意識で苦しんでいる。子どものように泣きじゃくるほど、苦しんでいる。

 

その理由はもう、知っている。好意を寄せてくれているからだ。

 

好きでいてくれているから、俺が傷つくことをアルフは悲しんでくれている。

 

「……は、はは……」

 

なら、俺にできることは、アルフにしてあげられることは、もう、この一つしかない。罪悪感を消し去ることはできなくても、その根幹の感情を消し去ることは、できる。

 

「くっ、くはは……はははっ」

 

演じきれ。心を殺せ。

 

これが俺にできる、彼女への最後の贈り物だ。

 

「あははははっ!無様だなー、もっと簡単にものにできると思ってたのになー」

 

「と、徹……?」

 

呆然とした表情をしたアルフから、目を逸らさずに続ける。

 

「もしかして本気で俺に好かれてると思ってた?安心してくれ、ただの勘違いだから。お前の思い上がりだ」

 

感情を切れ。表情をコントロールしろ。言葉を捻り出せ。それが、それだけが、俺にできること。

 

これが、俺のけじめだ。

 

「相手の懐に潜って情報を収集する。よくある手だろ?お前が一番簡単に(なび)きそうだったから手をつけただけだ。それ以外に理由なんてなかった。情報が遮断されていて思ったより引き出せなかったのは肩透かしだったけどなー」

 

心が、痛い。身体が軋むようだ。肺が空気を取り込んでくれない。息苦しい。

 

「情報を吸い取るか、あとはこっちに寝返ってくれたらよかったんだが、やっぱりそう容易くはいかなかったな。そこだけは褒めてやるよ」

 

顔は引き攣っていないだろうか。声は震えていないだろうか。

 

俺は、うまくできているのだろうか。

 

「マンションで交わした約束も、恋愛感情を維持させるためだ。会えない時間が感情を膨らませる。強い印象を植え付けるためだ」

 

アルフは力なく肩を落とし、項垂(うなだ)れる。前髪に遮られて様子はうかがえない。

 

ただ、涙はもう止まっているように見える。

 

もう充分俺の印象は地の底についているだろうが、ここまできたら最後の最後までやりきる。ここで手を抜いて、不安要素を残したくはない。

 

とどめを刺すように、完全にアルフに嫌われるように、俺は演じる。

 

いや、こうして流れるように屑極まる発言ができているということは、もとから俺はそういう人間なのかもしれない。仄暗い感情から滲み出てくる言葉を、吐き出し続ける。

 

「惚れさせて使い潰してやろうかと思ったが、ここまで面倒な女だとは思わなかった。もういらねえわ」

 

「……最低」

 

アルフは小さく、端的に呟いて、俺を(にら)む。腕を振り上げる。

 

「…………」

 

これでいい。

 

俺の粗野(そや)驕傲(きょうごう)な態度に怒り、手をあげれば心の中で踏ん切りがつく。こんな人間だったのかと失望すれば、気持ちも離れる。

 

これでいい、はずだ。

 

好いてくれていて、でも顔も見れないような状況なら、嫌われていて、でも姿を見れるほうがまだいい。まだ、救われる。

 

それならまだ、俺の努力は報われる。

 

アルフの腕が動く。

 

痛みはあるだろう。魔法を使わなくたって、アルフの身体能力なら相当なものだろう。

 

だが甘んじて受ける。受けなければならない。

 

下卑た目で、野卑な態度で、アルフを見下ろす。

 

「最低っ……。ほんと、最低だ……あたし」

 

頬にアルフの手があてがわれる。(はた)くなんてものでは、決してない。あくまで柔らかく、どこまでも優しかった。

 

「徹に嘘までつかせて、なにやってるんだろうね……。あたしの大事なもの、ぜんぶ守ってくれた恩人を傷つけて……ほんとなにやってるんだろ……」

 

「は……はあ?な、なに言って……」

 

嘘、とアルフは言った。

 

露見してしまっては意味がなくなってしまう。好意による罪悪感を、嫌悪による蛇蝎視(だかつし)で塗り潰さねば、アルフが苦しみ続けることになる。

 

反論しようと口を開くが、その前にアルフの手が動く。俺の目元に親指を滑らせる。

 

その指は、濡れていた。

 

「徹はさ、頭も舌も回るけど……嘘だけは下手なんだね……。知らなかったよ」

 

「な、んで……俺、泣いてんだ……」

 

「あたしのせいで、嘘までつかせて……ほんとうにごめん」

 

「ちがう……違うって……」

 

「嘘だってわかったら、納得できるね。……徹の考えそうなことだよ。酷いことを言って嫌われてしまえば、あたしが苦しまずにすむって、そんなとこだろう?」

 

「ちがう……お前の、勘違いだ……」

 

「……はは、そうか。そう言うしかないもんね……。これはあたしの勘違い、なんだろうね」

 

アルフは痛みに耐えるように歯を食いしばりながら、慈しむように俺の頬を撫でる。これが最期と、言外に示すように。

 

「っ……それなら、勘違いのまま、言うよ……」

 

涙は、もう流れていない。泣かないように、必死に我慢しているのがわかってしまった。

 

「あたしが初めて好きになった人……。好きで、大好きで……大嫌いな人……」

 

震える手のひらが、掠れて揺れる声が、決意を秘めた瞳が、俺へと向けられる。

 

「今まで、ありがとう……さよなら」

 

互いに強く想いを宿しているが故に、互いに強く想いを残したまま、俺たちの関係は終焉(しゅうえん)を迎えた。

 

 




こういう展開になったのは、べつに僕が失恋したこととは関係ありません。八つ当たりとかじゃないです。
報われなかったとしても、それで完全に終わりということでもありません。また縒りを戻せる可能性は残っています。
べつに自分の失恋と重ね合わせているわけではありません。


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いずれは朽ちて、地に還る

もうリアルの女に幻想は抱かない。


 

「……はあ……」

 

六時限目の授業が終了したことを告げる鐘が鳴る。

 

普通なら長いお勉強の時間から解放されたことで気分も晴れやかになるものだろうが、俺の心は分厚く湿った雲がかかったように陰鬱だった。

 

「……いい加減、その鬱陶しい溜息をやめろ」

 

「鬱陶しいはひどいだろ……」

 

「朝から一日中我慢しているんだ。それくらい言う権利はある」

 

机に項垂(うなだ)れる俺に、恭也が心底(わずら)わしそうに言う。

 

今日は、アルフと別れを告げたその翌日だ。

 

身も心も重たかったが、平日なのでもちろん学校はある。骨の代わりにタングステンでも埋め込まれたのかと思うほど重く気怠い身体を引き()るように登校した。

 

ちゃんと登校はしたが、ちゃんと授業を受けたかどうかは見る人による。机に突っ伏して溜息を吐き出しているせいか、今日ばかりは授業中に先生方から問題をあてられることもなかった。

 

「……(こら)えようとしても勝手に出てくるんだ、仕方ねえだろ。傷心中なんだ、もうちょっと優しくしてくれよ」

 

「その傷心の理由を説明もしないくせにどの口が言う。それによく考えろ。俺が優しくしたところで何かが変わるのか?」

 

「……いや、そりゃ変わらんけどさ。それに恭也が俺を優しく慰めるなんて絵がそもそも浮かばねえ……」

 

「そうまで断言されると無性に(しゃく)だが……」

 

「徹がこんな風に落ち込むなんてめずらしいわよね」

 

「……忍か」

 

六時限目の授業が終了し、担任の飛田先生が行うHR(ホームルーム)も(若干二名(俺と恭也)が雑談していたことを除けば)つつがなく終了。帰り支度をするクラスメイトをかき分けて、忍が俺たちの席にやってきた。

 

「機嫌が悪かったりもどかしげにしてるのは最近多かったけど、落ち込むのはなかったものね。また例のアレ(・・・・)絡みなの?」

 

例のアレ、とは魔法関連の話をざっくりと指しているのだろう。一般人が多くいる教室で魔法がどうのなどとは、さすがに忍も口にはしない。ちゃんと他言無用という約束は覚えてくれているようでなによりだ。

 

「……そっち(・・・)じゃねえよ。厳密に違うわけでもねえけど、本質は違う」

 

「なによ、はっきりしないわね」

 

「無駄だ、忍。背後でずっと溜息を吐かれて鬱陶しくて俺も訊き出そうとしたが、どうやっても答えようとしない」

 

「鬱陶しいはやめてくれ……」

 

「へー。徹のことだし、まさか恋愛絡みではないでしょうけど」

 

「…………」

 

どストレートだった。

 

思わず目をそらす。それがいけなかった。

 

その通りですと言わんばかりの反応をしてしまった。

 

俺が反論の一つもせずに目線を窓に向けたことで、ただそれだけのことで、付き合いの長い二人は気づく。顔なんて見なくてもわかる。気配でわかる。経験でわかる。

 

「……え?ほ、ほんとに?あんた……」

 

「……おい、徹。違うのなら違うと否定しろ。今なら間に合うぞ」

 

「…………」

 

違わない。全くもって違わない。

 

否定どころか、なんなら肯定しないといけないほどだが、それもできない。したくない。

 

結局、苦い顔をしながら窓ガラスを穴が開かんほどに睨みつけるだけだった。

 

「ほんとなのね。あー……まさか、徹が……」

 

「しかも恋あ……そっち絡みで沈んでいるということは……」

 

「振られたのね。失恋したのね」

 

「忍、あまりはっきりと言ってやるな。しかし……それなら一日中溜息ばかりついていたのも納得だな。鬱陶しいなどと言ってしまったのは訂正しよう。すまなかった」

 

「……勝手に話を進めてんじゃねえよ。それに、失恋ってほどのものでも……たぶんなかったんだ。それ以前の感情だったんだ。……それ未満の感傷だったんだ」

 

頬杖をついて、風に揺れる樹梢(じゅしょう)を眺める。

 

アルフに抱いていたそれが本当に恋愛感情だったのか、今となっては自分でもわからない。

 

吊り橋効果みたいな、そんな外的要因によって作り出されたまやかしだったのではないかとさえ思えてくる。

 

死力を尽くした戦闘と、ジュエルシードを封じた際の、極限に近い緊張状態のせいで上昇した心拍を、恋愛のそれと勘違いしたのではないだろうか。

 

それは、アルフも同じなのかもしれない。

 

通常の魔法戦闘では味わうことのできない血湧き肉躍る肉弾戦。一歩間違えば街どころか国、国どころか世界が隣近所を巻き込んでまとめて吹き飛ぶような常軌を逸した状況。綱渡りに近かった時の庭園での出来事を、ともに解決した。そして、アルフ自身の発言を引用するが、『大事なもの、ぜんぶ守ってくれた』などという思い違い。

 

恋愛感情とは非なる心臓の律動と、まかり間違った恩義。

 

それらが合わさって、恋慕の情と取り違えた。

 

口幅ったいことだが、根元は気のいい敵とか、あるいは親しい仲間、くらいだったのかもしれない。それが、枝葉に至るにつれて意味合いがすり替わった。

 

人間は合理性に基づいて考え、行動する生き物だ。

 

心臓が高鳴ったのはなぜか、感情が揺れ動くのはなぜか、と推し量り、好意を抱いているからだと誤った答えを叩き出す。

 

つまりは、恋とは何か、愛とは何かを理解できていない若者にありがちの青臭い思い上がり、勘違いだったのだ。きっとそうだ。そのはずだ。

 

であるならば、恋愛感情以上でも以下でもない、どころか恋愛感情ですらないこんな気の迷いは、時間とともに膨らんだのと同じように、時間とともに(しぼ)んでいくのだろう。いつしか枯れて、散って、腐って、気がついた頃には人生の肥料になっているのだろう。

 

時間が解決してくれる。そんな使い古されているフレーズに(すが)るとしよう。(よど)んで(わだかま)る感情も、刻みつけられるように痛む感傷も、いつかは消えてなくなるのだと。

 

幸いというべきか、生憎というべきか、直視したくない記憶に蓋をするのは慣れている。胸をかき乱すこの気持ちが風化するのも、そう時間はかからないだろう。

 

ゆらゆらと風にあてられる若葉を窓越しに見やる。

 

この青々とした葉と、同じようなものだろう。この胸の痛みと、同じようなものだろう。

 

いずれは朽ちて、地に還るのだ。

 

なるべく平然を装いはしたが、不貞腐(ふてくさ)れているように二人には聞こえたのかもしれない。ぽんと、肩に手が置かれる。間を置かずに、頭にも手が置かれた。

 

肩は恭也で、頭は忍だ。

 

「これも人生経験だと割り切れ。徹が選んだのだからその女性も相当素晴らしい人なのだろうが、魅力的な女性は身近にもいるだろう。とりあえず、なんだ……今日はとことん付き合ってやろう」

 

「……私の立場としては悲しんでいいのか喜んでいいのかわからないけれど……まあ、とにかく!今日は私もあんたの気がまぎれるまで付き合うわよ」

 

「……ありがとよ」

 

恭也は窓の向こうの景色を憂いを帯びた目で見つめて、忍は教室の片隅をちらりと一瞥してから、そう言った。

 

恭也と忍(こいつら)にこういった話をするのは恥ずかしいというか気まずいことこの上ないが、気持ちが楽になったことは事実だった。

 

相手は誰だとかどこで知り合っただとか、多少は興味が湧くだろうにそちらへの質問はなく、なのに深く気遣ってくれる。恥ずかしくて気まずいが、なぜか居心地は悪くなかった。

 

「……ん?」

 

ふと何の気なく、忍が目を向けていた方向へと首を動かす。

 

「ちょちょちょっと!べつにさっきの話と関係ないから!」

 

「忍……露骨すぎるだろう」

 

そこには鷹島さんを挟むように、長谷部と太刀峰がいた。二人はなにやら熱心に鷹島さんに話しかけていて、当の彼女はどうやら困っている様子だ。

 

「太刀峰はともかく……長谷部がやっているとしつこいナンパみたいにも見えるな」

 

「こう言うと長谷部さんから怒られそうだが、並の男よりも人気があるのはもはや周知の事実だからな。以前に違うクラスの女子生徒から、ファンレターなのかラブレターなのかわからない手紙を受け取っていたぞ」

 

「その手紙の件なら、私と綾ちゃん、真希ちゃん、薫ちゃんの四人で協議した結果、限りなくラブレターに近いファンレターってことで決着がついたわよ。女バスで活躍してるのを見てファンになったらしくて、思いの丈と応援のメッセージが綴られていたわ」

 

「……それは長谷部にとって喜んでいいことなのか?」

 

「応援してもらえることは嬉しい、とは言っていたわよ?」

 

俺が休んでいた(停学を食らっていた)期間の話も交えてお喋りしていると、こちらの視線に気がついたらしい太刀峰が唇をわずかに動かしながら指をさしてきた。距離があるので何を口走っているのかまではさすがに聞き取れなかったが、太刀峰のことだ、どうせ碌でもないことだろう

 

太刀峰の言葉に反応したように長谷部もこちらを振り向く。俺たちを見据えた途端に、ぴこんっ、と効果音でも出しそうな勢いで表情を明るくした。

 

長谷部と太刀峰はいくつか言葉を交わすと、両側から戸惑う鷹島さんの手を取ってこちらに近づいてきた。

 

先んじる形で俺から放つ。

 

「おい、長谷部、太刀峰。鷹島さんをいじめてんじゃねえよ」

 

「いじめてなんかいないさ。ただお願いをしていただけでね」

 

「……そう。お願いを、してただけ……。しつこく」

 

「断るということができない鷹島さんにしつこくお願いをするのはもはや強制だろうが」

 

「い、いえ、私はあの……」

 

「真希ちゃんと薫ちゃんはなにをお願いしていたの?」

 

「はたから見ていると鷹島さんはあまり乗り気ではないように見えていたが」

 

「それが、ちょっと部活のほうで問題が起きてしまってね……」

 

「っ……」

 

女バス絡みで『問題』と聞いて、思わず腰が浮いた。足に当たった椅子が、なんとか倒れずに済んだが音を立てて床を擦る。

 

長谷部と太刀峰を含めた女バス部員の数名は、以前に自然公園でたちの悪い男たちに襲われかけたことがあった。遅れ馳せながら現場に着いたことでなんとか事なきを得たが、あの出来事はその場にいた女の子たちの心に深い爪痕を残した。

 

今この場にいる二人も、恐怖がぶり返して泣いてしまうほど弱っていた。同じく女バス部員の笠上(かさがみ)果穂(かほ)さんと顔を合わせた機会があったが、その子はトラウマで男性恐怖症に近い症状が出ていたほどだ。

 

その件が尾を引いて再び何かあったのでは、と想像するのは難しいことではなかった。

 

「……大丈夫。そっちとは、関係ないよ」

 

さっ、と血の気が引いたが、いつの間にか隣で佇んでいた太刀峰が俺の服の袖を摘んで見上げながら否定した。

 

「あ、ああ……。そうか、よかった……」

 

並大抵のことではおおよそ変化のない太刀峰の表情が、どこか柔らかく見えた。

 

だから、だろうか。ささくれ立った心中がすぐに落ち着いていくのが自分でもわかった。

 

「騒がしくして悪い。……んで、その問題じゃないんならどんな問題があるって……な、なんだ、どうした」

 

俺と太刀峰を除いたメンツが、じっとこちらを見ていた。

 

鷹島さんに至っては少しばかりじとっとした目つきになって、柔らかそうな頬をハムスターばりにぷくっと膨らませている。いったいなにが詰まってるんだろう。

 

押してみた。

 

「きゅぷひゅいっ!なっ、なにするんですか?!」

 

「いや……ひまわりの種でも入ってるのかなって思って」

 

「入ってるわけないですっ!」

 

「あんたなにしてんのよ……」

 

「お前らこそこっちをじっと見てたろ。なんなんだよ」

 

「薫と逢坂がずいぶん通じ合っているように見えたからね」

 

「通じ合ってるって……」

 

ちらと太刀峰を見やれば、もういつもと変わらぬ無表情に戻っていた。

 

「……?」

 

俺の視線に気づくと首を傾げた。

 

しばし何か考えるようにして、理解したふうに唇の端を初見ではわからないくらい微量に上げる。親しくなって初めて気づけるほど些細に、もとからたれ気味の目尻を下げる。

 

「……逢坂は、考えてる、こと……意外とわかりやすい。……優しい、から」

 

「は、はぁっ?……い、いきなりなに言って……」

 

「……こんな顔してるのに」

 

「オチを用意してんじゃねえよ」

 

太刀峰は小柄な体躯とたれ目、落ち着いた色合いの青いセミロングの髪とがあいまって、外見だけなら穏やかそうに見える。ただそれはあくまで外見だけであって、中身までそうではないというところが肝なのである。

 

エッジの効いた冗談を吐けてご満悦な様子の太刀峰をさばいてみんなに向き直る。

 

「むむぅっ……」

 

またもや鷹島さんは頬を膨らませていた。

 

ので、手を伸ばす。

 

「な、なにも入ってませんから!つっつかないでくださいっ!」

 

「ああ、飲み込んだの?」

 

「もとからなにも入ってませんよ!?」

 

「徹、綾ちゃんをいじめないの」

 

「綾音をいじるのが楽しいのは同感だけれどね」

 

「うん……リアクションが、ばつぐん」

 

「鷹島さんが涙目になってるからそろそろやめて差し上げろ、徹」

 

「俺だけ狙い撃ち……。ごめんね、鷹島さん」

 

「も、もう……困っちゃいますから、もうしないでくださいね?」

 

「それは約束できないかな?」

 

「約束してくださいよぉ!」

 

「はあ……。女子バスケットボール部の話に戻らなくていいのか?」

 

恭也が呆れ顔で本題に引き戻す。

 

その言葉に長谷部と太刀峰は小さく『ぁ……』と呟いた。完全に忘れていたようだ。

 

「そうだった、うっかり忘れていたよ」

 

「……うっかり」

 

「本当に困ってんのかどうかわかんねえな……」

 

さらりと髪を流しながら長谷部は視線を斜め上へと向ける。時計を確認していた。

 

「思ったより時間がなくなってしまったね。歩きながら説明しようか」

 

「……は?いや、なんで説明すんのに歩く必要が……」

 

「……はい、立つ。ごー」

 

「いや、いやいや、ここで喋りゃいいだろ?なんで動かないといけないんだよ。ていうかどこ行くんだ」

 

急かすように太刀峰が服を引っ張って強引に立たせてくる。

 

目的地も明かされていないが、すでに長谷部は教室を出ようとしていた。しかもいつの間にか机のサイドにかけておいた俺の(とくにこれといって物が入っていない)鞄を持って行っている。一瞬気を使ってくれてるのかとも思ったが、同時に逃げ道をも奪っている。なんという押しの強さ。

 

「ちょっ、ちょっとっ!真希、薫!逢坂くんにも用事や予定があるんだから、そんなむりやりにはだめだよ!それに逢坂くんは……」

 

「最近忙しそうにしてるけど、今日は大丈夫じゃない?」

 

「そうだな。これから忍の先導で何か食べに行くかどうするかといったところだったのだから、徹も今日はスケジュールが空いていたのだろう」

 

俺の意思が介在しないところで予定が組まれつつあるが、実際今日はクロノとの訓練もなく、空白となっている。

 

責任のある立場にいるクロノは、それだけ消化しなければいけないお仕事の量も多いのだ。これまで連日付き合ってくれていたことのほうが奇跡的と言える。

 

「ま、いいか。たまには」

 

どこに行こうとしているかも聞かされていないのであまり気乗りはしないが、どうせ嘱託魔導師試験用の実戦訓練はできないし、学科のほうは既に、というかとっくに出題範囲は学習し終わっている。新しく構築した魔法を使いこなす練習はしなければいけないが、それは夜にでもやればいい。

 

今は気楽に友人たちと遊んでも、ばちは当たらないだろう。

 

なにより、アルフとのことでもやもやしたこの気持ちを誤魔化せるのなら、俺にとって救いに等しいのだ。

 

 

頻繁に逸れる長谷部太刀峰両名の話から読み解くに、どうやら女子バスケットボール部の問題というのは、部員のメンバーの多くが欠席してしまっている、ということらしい。なんと部長さんまでいないとのことだ。

 

女子バスケットボール部の部長さんは生徒会長も兼任しているため、生徒会絡みの仕事でやむなく欠席。他の部員も体調不良や家の用事などで休んでいたり、と。この学校はあまりスポーツに熱を入れているわけではないので、そもそも部員の人数が少ないということもある。

 

そこまで部員の出席率が低いのなら、いっそのこと部活自体を休みにしたらと提言してみると『もうすぐ他校と練習試合することになっていてね』『……勝敗は同じ数。勝ち越すか負け越すか、瀬戸際……』と熱く返された。因縁の相手との試合が控えているようだ。

 

女子バスケットボール部以外にも体育館を使う部活はある。よって体育館は屋内系運動部が持ち回りで使用しているらしい。試合形式で練習できる数少ない日なので、可能な限り練習したいとのこと。

 

「つまりは試合形式で練習したいから、その頭数を揃えるために呼んだってことか?」

 

「まあ、ざっくり言ってしまうとそうなるね」

 

「だから鷹島さんにも声をかけていたのか」

 

「そう。……綾音は、運動神経壊滅してるけど、人がいないと、できないから……」

 

「そんな数合わせだけの理由で私誘われてたのっ!?」

 

「ふふっ。冗談……だよ」

 

「もうっ、薫っ!」

 

「ただでさえ部員の人数は少ないのに、不運なことに体育館を使える今日に限ってことさら少なくてね。僕と薫を含めても六人しかいないんだよ。スリーオンスリーならできるけど、試合に向けての調整ができなくて困っていたのさ」

 

「……だから、忍さんと……高町くんにも、入ってほしい……んだけど」

 

「いいわね!楽しそう!体育の時間だけじゃ物足りないのよね。身体があったまってきたところで終わっちゃうから」

 

「俺も構わない。最近は昼休みに徹とワンオンワンしかしていなかったからな。経験者の中に入っての試合は勉強になりそうだ」

 

「…………あれ?真希と薫を含めて六人で……逢坂くんと忍さん、高町くんがお手伝いで入って九人……バスケットボールの試合はたしか五人対五人で十人……一人足りないんじゃない?」

 

鷹島さんが指折り数えて、疑問を唱える。人数を数えるという、算数の中でも初歩な計算で指折りしてたのはそこはかとなく鷹島さんの成績が心配だけれど、可愛かったからまあよし。成績のほうはテスト前に頑張って頂こう。

 

鷹島さんの疑問に、長谷部が体育館の扉を開きながら答えた。

 

「なに言ってるのさ、綾音を入れてぴったり十人じゃないか」

 

「え……ええぇっ?!わ、私、できないってあれだけ断ったのにっ」

 

「大丈夫、逢坂と同じチームに入れておくよ。逢坂がフォローしてくれるさ」

 

「私が言いたいのはそういうところじゃなくて……って、逢坂くんのこともそうだよっ。逢坂くんは、目が……」

 

鷹島さんが縮こまりながら言い淀む。彼女がそんなに申し訳なさそうにする理由も、目のことを気遣うこともないのに。無論、心配してくれるのは嬉しいが。

 

俺が鷹島さんに気を使わなくても大丈夫だよ、と伝えるその前に、太刀峰が口を開いた。

 

「……大丈夫だよ、綾音。ちょっと前に……阻止、されないように……左側から飛びついたけど、防がれた……から」

 

「どうしてわざわざ左側からっ……それは飛びついたの?……抱きついたんじゃなくて?薫……私、もっとくわしくお話し聞かせてほしいな」

 

「あ……。ち、ちが……。ちょっと、いつもの……冗談、で……」

 

ゆらありと、幽鬼じみた足運びで鷹島さんが太刀峰を問い詰める。

 

堕天しかけている鷹島さんをいつもの天使に戻すため、間に割って入る。

 

「まあまあ、鷹島さん。心配してくれるのはありがたいけど、杞憂ってもんだよ。人のいるいない程度なら、音とか風とか気配とかでだいたいわかるんだ。多少のスポーツくらいなら問題ないよ」

 

「あぅ……いえ、そんな……。って気配ってなんですか?!音や風ならまだわかりますけどっ」

 

「え?わかんない?恭也なら目つぶっててもどこから近づいてくるとかわかるけど。なあ?」

 

「俺を巻き込むな。……まあ、集中していればわかるが」

 

「わかるんですかっ?!」

 

「ほらね。だから大丈夫だよ」

 

「あ、逢坂くんがそう言うのなら……はい」

 

とりわけ特殊な人物を例に挙げたが、鷹島さんは納得してくれたようだ。それも俺や恭也への信頼度が高いからだろう。

 

「そういうことだから、鷹島さん。一緒にがんばろうね」

 

「はい…………あれ?」

 

「さあ!綾音の了承も取れたことだし、運動に励むとしようじゃないか!」

 

「……おー」

 

「まるで詐欺のような手法だったのだが……」

 

「ほら、綾ちゃん!着替えに行くわよ!」

 

「え?あれ?……あれ?」

 

いつのまにかバスケをやる運びになってしまって当惑する鷹島さんを、忍が強引に手を取って更衣室に引き摺り込んでいった。

 

普段の姿からではとても運動ができるようには見えないので鷹島さんには申し訳なく思うけれど、しかしどうせならいつものメンバーで遊べたほうがいいだろう。一人だけ枠の外で見学というのも寂しいものだ。

 

もはや誘拐に近い形で連れ去られた鷹島さんとほか女子三名を見送って、ふと思った。

 

俺たちはどうすればいいのだろう。

 

「恭也、どうする?今日、体育の授業なかったしジャージとか持ってきてねえんだよな」

 

「昼休みにバスケするときと同じでいいだろう。スラックスは仕方ないとして、カッターシャツを脱いでおけば」

 

「それでいいか。服、どこに置いとくかな」

 

体育館の入り口できょろきょろしていると、きゅ、きゅっ、と床を鳴らすバッシュの音が近づいてきた。

 

桃色の髪を頭の右側で纏めている女子生徒。この子とは一応面識がある。以前一度昼食をご一緒した笠上(かさがみ)果穂(かほ)さんだ。

 

「お久し振りです、逢坂くん。長谷部さんと太刀峰さんが人を集めてくるとおっしゃっていましたが、まさか逢坂くんだったなんて。わざわざご足労いただいて、ありがとうございます」

 

礼儀正しく丁寧な物腰。笠上さんはわざわざ謝意まで述べて、頭を下げた。

 

笠上さんを含めた部員たちは長谷部と太刀峰が来るまで個人練習をしていたのか、既にユニフォームに着替えていた。

 

ユニフォームは白を基調とした清楚な印象で、どことなく制服の色合いとも似ている。

 

バスケットボールのユニフォームは、ものによってある程度の差はあるだろうが首回りや脇などがゆったりしたデザインになっている。動きやすいようにとの配慮だとわかってはいるが、その格好で頭を下げるものだから胸元がえらいことになっている。

 

もちろん笠上さんはインナーを着ていたのだが、彼女の圧倒的な質量を誇る胸部がお辞儀をした際に重力に付き従って服を下へ下へと押し下げてしまい、さらにけしからんことになっていた。

 

「い、いいからいいから!俺たちもちょっとした運動のつもりで来てるんだし」

 

このままだと罪悪感で胸が張り裂けそうなので、笠上さんの肩を掴んで少々強引に姿勢を戻させる。

 

下げていた頭を元に戻すという所作だけで胸元がふよんと揺れた。比較的ぴっちりとした制服とは違い、ユニフォーム程度の防護性では彼女の豊かな双丘は抑えきれないようだ。

 

非常に目のやり場に困る。スポーツブラを着用しているとは思えない弾み方だった。

 

挨拶の時点でどぎまぎしていると、こつんと恭也に肘を当てられた。初対面だから紹介しろということだろう。

 

手を恭也に向ける。

 

「笠上さん。こいつは高町恭也。俺とは腐れ縁で、クラスも同じなんだ。基本的に悪いやつじゃないから安心していいよ」

 

「初めまして。……ってなんだ、基本的にとは。笠上さん、と言ったな。よろし……く」

 

「っ……あ、逢坂さっ……」

 

「あー……」

 

恭也が言い終わるかどうかくらいの時には、もう笠上さんは俺の背中に隠れてしまっていた。

 

初めて顔を合わせた女子生徒からのあまりにもあんまりなリアクションに、恭也は固まってしまった。

 

そうだった。笠上さんにはこれがあったのだ。あまりにも自然と会話できてしまっていたのでつい説明し忘れていた。

 

「恭也、これはな……」

 

「……なるほど。徹はいつも初めて会う人間には必ず距離を取られているが……こんな気持ちになるのか。これはなかなかくるものがあるな……」

 

「やめろ、俺まで巻き込んで傷つくのはやめろ。傷つくんなら一人で傷つけ。笠上さんは……自然公園の話の時にいた女バス部員の子たちの一人だ。あの件でちょっと男が苦手になったんだ」

 

「ああ、その一件の……ん?徹の背に隠れているが、それは平気なのか?」

 

恭也が首を傾げて俺の後ろのほうに視線を向ける。俺の背中にしがみついてぷるぷるしている笠上さんを見ていた。

 

「助けに入ったのが俺だったからなのか、詳しいことはわからんが俺は大丈夫らしい」

 

「……ほう」

 

「その目を直ちにやめることだ。でなければ俺は、恭也が笠上さんにセクハラして怯えさせていたと忍に報告しなければならなくなる」

 

「まことにすまなかった」

 

脅しをかけると、速やかに恭也の態度が変わる。今この瞬間このシチュエーションでは、俺の発言のほうが信憑性があった。

 

「……とりあえず俺は離れておいたほうが良さそうだな」

 

「す、すいません……私、まだ、やっぱりだめで……」

 

「大丈夫だって、笠上さん。一緒にバスケやってれば怖いやつじゃないってのはわかるはずだから。ちょっと強面だけどな」

 

「誰に言われても良いが、徹にだけは言われたくない」

 

「うるせー」

 

恭也に雑に返す。すると、俺の背後から、鈴を転がすような笑い声が聞こえた。

 

「ふふっ……。あ、す、すいません……」

 

すぐに謝って再び俺の陰に隠れてしまったが、怯えるばかりだった先ほどよりかは進歩したと言えるだろう。

 

「いいんだよ、笠上さん。それより、服を置いときたいんだけど、どのあたりならいい?端のほうに置いといていいのか?」

 

「それなら更衣室でも……あ、今は長谷部さんたちが使われていましたね」

 

「それもあるけど、仮に誰もいないとしても女子しか使っていない更衣室に入るのはさすがに抵抗があるよ」

 

そう言うと、笠上さんはくすりと笑んだ。

 

「それもそうですね。失礼しました。逢坂くんが噂に聞くような人ではなくてよかったです」

 

「噂については俺は耳を塞ぐことにしてるんだ、悪いね」

 

女バスにあてられているコートの、端のほうに移動する。

 

体育館を一つの部活が占有しているわけではなく、所々でカーテンのようにネットが引かれていくつか区切られている。幸い女バスは入り口から一番近いところで練習をしているが、体育館の奥のほうではバドミントン部とバレー部が活動中だ。男女で体育館を使う日を分けているのか、どちらも女子だった。

 

「長谷部さんから少し聞きましたけど、学校で流れている噂はほとんど嘘なんですよね?」

 

「ほとんどじゃない。全部だよ全部。根も葉もないただの噂」

 

「全部ではないだろう。二年三年の先輩諸氏を殴り飛ばしたのは事実じゃないか」

 

「えっ?!」

 

「おい、恭也。いらんこと言うんじゃない」

 

「そ、そういえば、自然公園でも乱暴な人たちを一人でやっつけていましたし……」

 

「だ、大丈夫だぞ?悪い人にしかそんなことしないからな?」

 

「声裏返ってるぞ」

 

「てめえが余計な情報を付け加えてくれやがったからだろうが」

 

恭也を睨みつけるが、当の本人はどこ吹く風といった様子で体育館の壁際に鞄を置き、カッターシャツを脱いでいた。今更この程度の睨みが効くような相手ではなかった。

 

さっきの発言で男性恐怖症のくくりに俺も含まれたのではと不安になりながら笠上さんに振り返る。

 

「ぁ、うぅ……」

 

「え、あれ……?」

 

笠上さんは未だに俺の背にいて、シャツを握っていた。

 

ばちんと目があって、笠上さんはふいと逸らす。なぜか顔を赤らめていた。

 

「逢坂くんは私たちを守るために怪我までしたのにこんなこと言うのは、人としてどうかと思うのですが……」

 

俺と至近距離にいて、しかも服をつまんでいて、頬を紅潮させ、顔を伏せているというこの光景を、俺たちとは反対側の位置にいる部活の仲間に見られているのだが、笠上さんの尊厳を守るためにも伝えるべきなのだろうか。

 

「信頼できる方が……その、精悍(せいかん)であられるというのは、こっ、心強いなぁ……と、安心、してしまい……。す、すいませんっ」

 

そういえば、以前昼食を共にしたあと、太刀峰から笠上さんの話を聞いた気がする。

 

詳細は濁していたが、笠上さんのお家はなかなかに立派なようで、笠上さん自身のお淑やかな性格もあいまって親族から溺愛され、大事にされているとのこと。そんなゆえんあってか、太刀峰は笠上さんのことを『お嬢様』などと表現していた。によによしながら喋っていたので、きっといい意味で言っていたのだろう。

 

なぜバスケットボール部に所属しているのか不思議なくらいではあるが、印象としてはぴったりくる。世間慣れも男慣れもしていない、箱入りぎみのお嬢様だ。

 

「い、いや別に気を悪くするようなことでもないから、いいけど……」

 

ともあれ、まずい雰囲気であることは理解している。

 

なにより恭也が口元を押さえながら、しかしにやついているのを本気で隠そうともしていない様がとっても癪である。

 

どうやってこの場を穏便に済ませるか考えていたのだが、答えに行き着く前に、小さな影が紺色の尾を引きながら物凄いスピードで俺の懐にまで踏み込んできた。踏み込んできた速度そのままに俺に接触した。

 

「きゃっ……」

 

「ぐぉぅぶっ?!」

 

躊躇(ちゅうちょ)のなさは驚嘆に値するほどだ。俺にできたことといえば、被害が及ばないよう笠上さんを離れさせるくらいだった。

 

「……口説かせるために呼んだんじゃ、ない……っ」

 

動きやすいようにか、ボリュームのある髪を後頭部で束ねた太刀峰である。その小さな頭が俺の腹に突き刺さっていた。なのはの突進もかくやというほどの威力である。

 

白のユニフォームに着替えて戻ってきた太刀峰は一歩下がって俺を仰ぎ見る。たれ目はつり上がり、口元もへの字になっていて、太刀峰にしては珍しいほどに無表情が崩れていた。

 

腹部の衝撃に耐えながら、俺は太刀峰の発言を否定する。

 

「くふっ……く、口説いてねえよ……」

 

「うそ。果穂の顔……恋する乙女に、なってた……」

 

「な、なっ、何をおっしゃるんですか太刀峰さんっ!」

 

「笠上さんの世間体のためにもそれ以上はやめてあげてくれ」

 

「庇う……やっぱり」

 

「だから違うって……っ!」

 

俺は慌てて顔を背ける。

 

笠上さんとも身長差はあるが、笠上さんよりも十センチ以上背の低い太刀峰だと俺との身長差はかなりのものになる。太刀峰の目を見て喋ろうとすれば、自然、見下ろす形になる。

 

普段の服装では感じたことはなかったが、今の太刀峰はユニフォーム姿だ。首元、及び胸元の警備が平常より甘かった。どこがと明言は控えるが、身体のとある部位が笠上さんより控えめなこともあり、どう表せばいいかわからないが、より深く(・・・・)見えてしまった。

 

「……?…………っ?!」

 

急に視線を外した俺のリアクションで、太刀峰も俺が何を見たか気づいた。気づいてしまった。

 

バッシュで床を鳴らしながら機敏な動きで跳びのき、胸元を両手で押さえる。

 

「こ……の……っ」

 

太刀峰は、これまで俺が見たことない表情をしていた。瞳を潤ませて、唇を固く結んで、羞恥(しゅうち)に頬を染めていた。

 

「こんな……こんな、貧相なの見て……なにがうれしいのっ」

 

本心を言えば、嘘偽りない本音を言えば、語弊があるかもしれないがそれを承知で言えば、めちゃくちゃときめいた。

 

本人が自虐的に口にしている貧相なそれを意図せず見てしまったことは、いっそこの際関係ない。

 

いつも無表情で何を考えているのか判然としない太刀峰が。いつも手に余る冗談で困らせてくるあの太刀峰が。恥じらって赤面しているというギャップに、形容しがたいほどにときめいた。

 

「ご、ごめん……ほんと、なんか……」

 

太刀峰から目線を外し、自分でもどんな形になっているかわからない口元を隠す。

 

顔を背けていても、太刀峰の姿を見ないようにしていても、頭が先程の光景を鮮明に瞼の裏に映写する。これは消し去ろうとしても、しばらくの間は焼き付いて離れてくれそうにない。

 

「……逢坂、顔……真っ赤」

 

「……うるせえ。お前も似たり寄ったりだろうが」

 

太刀峰の言う通り、きっと俺の顔も赤いのだろう。汗をかきそうなくらい顔が熱いのだ。自覚はある。

 

「……こんなの、でも……逢坂は、いいんだ……」

 

ぱたぱたと手で扇いでいると、太刀峰の口がかすかに動いた。俺も平静とはかけ離れた精神状態だったし、もとから声を張るタイプでもない太刀峰の呟きは俺の耳に届かなかった。

 

「本当にすまん。誓って言うが、わざとじゃないんだ」

 

「……もう、いい。わかってる。わたしも……冷静じゃ、なかった。……ごめんなさい」

 

「な、なんで太刀峰が謝るんだよ。謝らなきゃならないのは俺……」

 

「そうよ、薫ちゃん。謝るべきは徹よ」

 

心臓を槍で貫かれたかと思った。心胆寒からしめるほど、冷たい言い様だった。

 

「身長差を利用して女の子の胸元をのぞき込むなんていう不届き者に、謝る必要はないわ」

 

「し、忍っ……おま、見てたのかよ……」

 

「あ、逢坂くん…………」

 

「ち、ちがうんだ、鷹島さん……。あの、本当に偶然で……」

 

「逢坂も年頃の男の子だからね。婦女子の胸に目がいくのは自然の道理だよ」

 

「長谷部……」

 

「ただ残念ながら僕と逢坂では十何センチも差がないから、僕の胸元をのぞくことはできないね」

 

「フォローしてくれてんのかと一瞬期待した俺が馬鹿だった……」

 

太刀峰の数メートル後ろに、忍と鷹島さん、長谷部がいた。太刀峰がユニフォームに着替えて出てきてたんだから、それも当然だろう。太刀峰にばっかり意識が傾いていて気がつかなかった俺が悪い。

 

忍は氷でできた日本刀の如く、底冷えするほど鋭利なオーラを放ちながら仁王立ちしている。その隣の鷹島さんは、まるで飼い主に見捨てられた仔犬のような瞳で俺を見つめていた。唯一、長谷部だけはいつも通り爽やかな笑みを浮かべながら立っていた。

 

試合が始まる前に、怒れる忍の手により試合ができない身体にされそうだ。

 

 




展開に迷いましたが、これ以上暗い話をやると僕の心がもちそうになかったので明るめにシフトしました。

前半は失恋の痛みを必死に忘れようとしている男の話。

後半はようやく訪れた平穏な日常を楽しむの図です。

本筋に入るとなかなかほのぼのとした話ができないので、今のうちにいっぱい遊んでおきます。

2017年4月28日8:58
誤字修正。


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また、もう一度。

今回は短めです。


帰宅部四人が混ざるという、よくわからない異種練習試合が始まる。

 

チーム分けは長谷部と太刀峰の独断により決められた。

 

男が俺と恭也の二人いることから、それぞれを頭として組まれ、『逢坂チーム』は俺、長谷部、太刀峰、鷹島さん、笠上さん。『高町チーム』は恭也、忍、あとは女バス部員の三人となっている。

 

なかなかどうして、いい編成だと思う。

 

俺と恭也を別々にしたのは身長的なアドバンテージや運動能力的に当然としても、鷹島さんをなるべく初めて会った人ばかりの中に入れないよう配慮した点は褒めたい。加えて、言い方は悪くなってしまうがどうしても戦力ダウンとなってしまう鷹島さんのぶんの穴を埋めるように長谷部、太刀峰の連携の取れる二人を配置している。笠上さんは俺以外の男の近くには寄れないので、こちらのチームに配属となった。ここでも気配りがなされている。

 

長谷部と太刀峰以外の女バス部員の実力を俺は知らないので評価が難しいが、相手チームには恭也と忍がいる。恭也は言うまでもなく、忍もスポーツ全般が得意だ。しかも俺と違って、二人は誰とでも一定の水準までチームワークが取れる。脅威であると同時に少々泣きたくなってくる。

 

試合開始のジャンプボールの際のボールは、審判をやれるほど人数にゆとりがないのでじゃんけんで負けたチームのうちの一人が担った。俺と恭也で行い、僅差で俺が競り勝った。

 

ボールはてんてんと転がり、太刀峰が最初にキープし、長谷部にパス、俺へと回ってきた。

 

どこから攻めようかと思案していると、すぐに俺の前に忍が躍り出る。目つきがいつもより鋭いのは、おそらく俺の勘違いじゃない。

 

「ねえ、私バスケのルールを全部は覚えてないんだけど、たしかグーで殴るのは反則だったわよね?」

 

いきなり不穏なセリフを吐かれた。

 

「……それはボールをか?それともプレイヤーをか?いや、どちらでも問答無用で反則だけど……」

 

「徹を、よ」

 

「こんなこったろうと思った!グーでもチョキでもパーでも反則だ!」

 

「そう……わかったわ。コートの外に出てからにするわね」

 

「コートの中だからダメって話じゃねえよ!バスケ以外の場でも殴ろうとするなよ!」

 

試合が始まる前、俺の身は忍の手によって粛清の憂き目に遭いかけたが、被害者である太刀峰が許すと宣言してくれたことで、なんとかことなきをえた。心優しい笠上さんが俺の助命を嘆願してくれたことと、長谷部がみんなを宥めてくれたことも、助かった要因としてはかなり大きい。長谷部はあれで案外、性に関して寛容的であった。

 

「いつもならさすがに分が悪いけど、今日のルールなら抜かせないわ」

 

「ちっ……」

 

男女混合で行われるということもあって、俺と恭也にはとある(かせ)()せられた。

 

片方の足は絶対に床につけていること。いわゆるハンディキャップである。

 

ハンデはこのたった一つだけだが、これが思いの外重い足枷である。

 

走れないし、ジャンプシュートもできない。動きに緩急がつけにくいと、ディフェンスを引き剥がすのも一苦労だ。それが忍ともなれば、とくに。

 

「逢坂っ!」

 

「真希ちゃんっ……くっ!」

 

「……ナイス、長谷部」

 

右サイドから抜け出た長谷部が、俺の名を呼ぶ。

 

一瞬、忍がそちらに視線を向けたその隙に、俺は動く。

 

「ふっ……」

 

左手でドリブルながら忍の横を抜くように、ストライドを大きく取り一歩踏み込む。

 

「このっ……そう簡単に抜かせないわよ!」

 

「速え……」

 

もう一歩くらい行けるかな、などと思っていると、俺の進行方向を塞ぐ形で忍が回り込んできた。出遅れていたはずなのに戻って来るのが早すぎる。

 

今回の特別ルールがある以上、俺自身が切り込んで行くというのは無理がある。それを確認できた。

 

そもそも此度(こたび)の試合は女子バスケットボール部の練習という体なので、基本的には女バスのメンバーに動いてもらうこととしよう。

 

「ビハインドパス……相変わらず小器用なことを。……でも、予想していたわよ!」

 

ドリブルしていた左手を背後に回した時点で、忍はパスコースを潰しに来ていた。長谷部についている女バスの子(たしか名を、真名子(まなこ)芽々(めめ)と言っていた。長谷部に次ぐ長身である)も、きっちりパスレーンを塞ぎにきているあたり、しっかり練習されているようだ。

 

「あ、あれ?」

 

いつまでも飛んでこないボールに、忍は首をかしげる。

 

すでに、俺の手にはボールはなかった。

 

「忍、太刀峰さんだ。後ろ手で渡していた」

 

「なっ!」

 

「かはは、残念だったな。俺の動きを予想している忍の動きを、俺は予想していたのだ」

 

「むぐぐ……」

 

離れた位置から見ていた恭也には瞭然だったろうが、俺の近くにいて視野が狭まっていた忍にはわからない。

 

長谷部へのビハインドパスに見せかけて、小柄な身体を利用して俺の影から近づいていた太刀峰に手渡しで(ハンドオフ)パスしていたのだ。

 

「なんでサインなしのアドリブでそんなプレーができるのよ!」

 

「太刀峰ならそこにいると思った」

 

「……逢坂なら、そうすると思った……」

 

「このバスケバカたちはっ!」

 

制約に縛られない太刀峰は、俺からボールを受け取ると速度を上げて相手陣地へと切り込んで行く。

 

「相変わらず親しい相手となら上手くできるな、徹は……」

 

「……高町くん」

 

「太刀峰さん。身長差は相当あるが、恨まないでくれ」

 

太刀峰のルート上に、恭也が立ちはだかる。女子の平均を下回るほど小柄な太刀峰と、男子の平均以上の身長の恭也では、もはやミニバスしてる女の子に大の大人がディフェンスに入ったようなミスマッチ具合だ。とんでもない身長差。

 

「大丈夫。……いつもの、こと……」

 

普通なら不利が過ぎるくらいだが、太刀峰の場合は違う。

 

身長が高ければ高いほど、太刀峰の姿を見失う。

 

「うおっ!?」

 

「……ふふっ」

 

足の下にボールを通して左右に揺さぶり、上半身を逸らして緩急をつけてから、床に沈み込むように姿勢を低くして脇をすり抜ける。

 

ただでさえ小さい太刀峰がさらに縮こまるものだから反応しきれず、恭也は抜き去られた。

 

「ちょっと恭也!なにすんなり抜かれてるのよ!」

 

「すまん……。本当に消えたかのようだった。あそこまで重心を落としてよく早く動けるものだ」

 

「はっは、ミスマッチは恭也のほうだったな」

 

「くっ……ここぞとばかりに意地の悪い顔を。……マッチアップの相手を変えるべきか」

 

俺が忍、恭也と喋っている間に太刀峰はペイントエリアへと近づいていた。が、そこを悠々と通らせる女バス部員さんたちではなかった。

 

すぐに戻っていた二人、黒髪の子と、ダークグレーの髪色の子が、ゴールへの直線上を塞ぎにかかる。

 

部外者がいるせいで若干テンパってる黒髪の子が木岐(きき)雛菊(ひなぎく)さん、なぜか片目を閉じて腕をぷらぷらさせているダークグレーの髪の子が咬噛(こうがみ)美花(みか)さんだ。

 

ちなみに試合前に自己紹介の場があったのだが、木岐さんは緊張してしまっていて会話にならず、咬噛さんは話の要点がふわふわしていて会話が成り立たなかった。要するに二人とも話ができなかった。そのメンツに加えて長谷部や太刀峰がいるのだから、女バス部はなかなか混沌としている。

 

「む……」

 

相手は仲間なのだから、もちろん太刀峰の常套手段など把握している。ディフェンスの下に掻い潜られないよう腰を落としていた。

 

それでも、太刀峰は恭也を抜いた時と同様に姿勢を低くする。ドリブル突破を試みるようだ。

 

これは止められるな、と予想していたが、突如ボールが放られた。ゴール下(ローポスト)への、太刀峰のパス。

 

木岐さんと咬噛さんはドリブルで突っ込んでくると思っていた太刀峰に対処するため、腰を落としていた。頭上を過ぎるボールに、惜しくも手が届かない。

 

「タイミングぴったりだよ、薫!」

 

ボールの行き先は、パスフェイクでマークを振り切ってローポストに駆け抜けていた長谷部の手のひらだった。

 

「おー、さすがに息が合ってんなー」

 

「太刀峰さんは徹からパスされた時に一度ちらと長谷部さんを見ただけだったのだが……よく動きがわかるものだな」

 

「そこの男ども!きびきび動きなさいよ!」

 

「ルールがあるんだから動きたくても動けねえよ」

 

「競歩しなさい、競歩!」

 

「無理を言う……」

 

レイアップシュートに移ろうとする長谷部だったが、ここで引き剥がしたマッチアップ相手、真名子さんが追いついた。

 

「うたせはしない、真希!」

 

芽々(めめ)っ!」

 

他の選手なら高さに利のある長谷部のシュートは止められないだろうが、相手はほぼ同身長の真名子(まなこ)芽々(めめ)さん。ゴールまでの軌道は完全に封殺された。

 

選択肢は二つ。無理してこのまま撃つか、無理して真名子さんの手の上を越える弾道に放るか。どちらにせよ無理がある。

 

「恭也はリバウンド!私はルーズボールを狙うわ!」

 

俺もゴール下付近でリバウンドを狙うかな、と考えていると、横目でちらとこちらをみる長谷部と視線が交錯した。

 

『なんだ?』と頭の中に疑問符が浮かぶ前に、俺は腕を上げていた。

 

「ん?おお……」

 

ぱしん、と小気味好い音と衝撃。長谷部からのパスが通っていた。

 

俺と同じく走れないのでわりと近場にいた恭也も、完全にシュートだと予想していたところからの唐突なパスに、反応できていなかった。

 

「……お前たちの連携は時折、俺の注意すら抜く……」

 

「ああ……俺もびっくりしてる」

 

「恭也はそこで徹について!私と芽々ちゃんは真希ちゃんにつく!美花(みか)ちゃんは薫ちゃんに、(ひな)ちゃんは果穂ちゃんをお願い!」

 

忍の号令に、真名子(まなこ)芽々(めめ)さん、咬噛(こうがみ)美花(みか)さん、木岐(きき)雛菊(ひなぎく)さんの元気のよい返事が三つ返される。班決めをしてからの少しの時間しかコミュニケーションを取る暇はなかったというのに、忍はしっかりメンバーとチームワークを取れていた。しかもチームの筆頭には恭也が書き上げられているが、PG(司令塔)は忍だった。

 

身体能力とポジションを鑑みた忍の判断はおおよそ適切だ。

 

だが、戦力評価のみで采配された忍の配陣には、穴がある。

 

「はい、鷹島さん」

 

「わわっ、私ですか?!」

 

ゴールを向きながら後ろ手で、鷹島さんに緩めのアンダーハンドパス。運動神経のいい人間ばかりにディフェンスがついていて、スリーポイントラインあたりでふらふらしていた鷹島さんがフリーになっていたのだ。

 

「ま、まずっ……」

 

フリーになっている鷹島さんを見て、木岐さんはシュートを妨害するために笠上さんのマークを外した。慌てて鷹島さんへと向かう。

 

忍なら、マッチアップ相手から変えなかったろう。鷹島さんの筋力ではスリーポイントラインから打ってもまず届きはしない。

 

でも、他の子たちは違う。女バス部員の子たちは鷹島さんと初めて顔を合わせた。鷹島さんがどれくらい運動できるか知らないのだ。助っ人として入った俺、恭也、忍を見た女バス部員たちは『目立った活躍はまだしていないが例の三人と同様に相当できるのかもしれない』と思い込んでもおかしくはない。

 

だから、木岐さんはマークを笠上さんから鷹島さんに移してしまった。鍛えられている脚力でもって、鷹島さんへと肉薄する。

 

鷹島さんの技量と性格的に、ぴったりマークされれば抜いたりなんてできないだろう。パスする余裕もなくなって、きっと五秒のヴァイオレーションをもらうことになる。

 

「ひゃあっ!」

 

それを自覚しているのか、鷹島さんはパスを受けたその場から一歩も動かず、パス。真面目な鷹島さんは体育も真面目に受けているようで、瞼は閉じられてしまっているが可愛らしい掛け声とともにきれいなチェストパスで俺にボールを返した。

 

少々無理をしながら鷹島さんに渡したときと同様、後ろ手でキャッチ。そのままビハインドパスで笠上さんに送ろうと画策するが。

 

「させん!」

 

即座に恭也が俺の目の前に迫った。

 

ビハインドパスはやっぱり中止。

 

「お前っ……絶対足浮かせたろ!」

 

「浮かせていない。片足はつけている」

 

「ちっ、スライドステップか……。にしたって一歩で動きすぎだろ……。そっちがそうするってんなら……っ!」

 

俺と笠上さんを結ぶライン上に恭也は立つ。

 

ならば、と俺はボールを持っていないほうの腕で恭也を制し、反対側の腕を上に伸ばす。さながらフックシュートのように山なりに放る。もちろんジャンプしていないので高さはお察しだが、条件は恭也も同じだ。

 

「なっ!このっ……」

 

手を伸ばしても、わずかばかり遠い。もちろん計算通りだ。

 

反応できていても、片足は床に接していなければいけないという特別ルールがある以上、ボールが頭上を過ぎるのを下から仰ぎ見ることしかできない。

 

そして山なりのパスでも、笠上さんまで届く。

 

笠上さんについていた木岐さんは鷹島さんのマークに入ったため戻れない。運動能力が全体的にバグっている忍もゴール下の長谷部をマークしている。さすがにこちらにまでは来れない。

 

ただ、直線のルートがあいていれば忍なら間に合っていた気はする。本当に、男子顔負けどころか男子を圧倒するポテンシャルである。

 

「無理のある体勢からでも的確なパス……すごいです」

 

ボールを受け取った笠上さんは一歩下がり、ジャンプシュート。

 

なんと、両手(ボースハンド)シュートではなく、片手(ワンハンド)シュートだった。スリーポイントエリアから細い腕で放たれたボールは綺麗な放物線を描いてリング中央に吸い込まれた。

 

試合前に聞いていたが、笠上さんのポジションはSG(シューティングガード)らしい。ほんわかした外見と人格に叛旗(はんき)を翻すような、素晴らしい精度だ。

 

「すごいよ、笠上さん!まさかあんなに……っ!」

 

「これほどのシューターだったとは……。見事だ、笠上さ……っ!」

 

思わず賞賛の言葉が口から飛び出る。恭也も同じ気持ちだったようで、奴には珍しく手放しに褒めていた。

 

先制点の喜びを分かち合おうと笠上さんを見やると、彼女は着地していたところだった。

 

本人の着地と一拍ずらして、彼女の二つのボールが弾んだ。女の子がスリーポイントエリアからワンハンドシュートを放ってリングにかすりもさせず決めたという光景よりも、衝撃的な映像だった。

 

「っ…………」

「っ…………」

 

どうやら恭也も同じ場面を目撃してしまったらしい。俺が目を逸らした方向にいた恭也は口元を手で覆いながら俯いていた。

 

「あ……逢坂くんも、やっぱり大きいほうがいい……んですか?」

 

「え!?いや、これはちがくて……」

 

まずい。すぐ近くにいた鷹島さんに決定的な瞬間を捉えられていた。

 

「また……乳、か……」

 

「太刀峰っ?!」

 

「仕方ないよ、男の子だからね」

 

「やめろ……フォローに見せかけた追い討ちはやめろ……」

 

救いを求めて周囲を見やる。

 

今回は恭也も共犯なのだ。援軍に入ってもらおう。

 

などと楽観的に恭也を見やれば。

 

「なに目を奪われてるのよーっ!」

 

「ぐおうっ……」

 

手遅れだった。すでに討ち取られていた。忍にドロップキックで転がされてマウントを取られている。

 

もう駄目だ、あいつは諦めるしかない。俺も俺で絶体絶命だが。

 

この窮状を知ってか知らずか、笠上さんは小首を傾げながら言う。

 

「えっと……次、ディフェンスですよ?」

 

無自覚な笠上さんが空気をぶった斬ってくれたおかげで俺と恭也は延命できそうだ。助かった理由が笠上さんなら、原因を生み出してくれたのも笠上さんだけれども。

 

 

 

 

 

 

「はぁ……はふ……」

 

「鷹島さん、大丈夫?結構ハードだったよな、ごめんな」

 

「い、いえ……だいじょう、ぶ……です……」

 

床にぺたりとお尻をつけた鷹島さんは、荒く肩で息をしていた。あまり運動が得意ではないタイプの鷹島さんに、バスケの試合はこたえたようだ。

 

「はい、お茶」

 

喉も渇いていることだろう。買っておいたお茶を手渡す。

 

ペットボトルのお茶を鷹島さんは両手で受け取った。

 

「あ、ありはと、ごじゃいま……」

 

鷹島さんは両手で持って、こくこくと喉を鳴らしながら飲む。『はふ……』と小さくため息と思しき声を漏らした。

 

試合は、僅差(きんさ)で『逢坂チーム』が敗北した。

 

笠上さんのスリーポイントシュートや、思いの外リザルトの良かった鷹島さんの両手打ち(ボースハンド)シュート、長谷部と太刀峰の連携はあったが、クォーターを重ねるごとに磨きがかかる女バス部三人と忍の躍動を抑えられなかったことが敗因だ。ちなみに男二人(俺と恭也)は、頭上を越えるような弾道のパスが効果的だと(俺が恭也に使って)判明してしまったことで、ディフェンスではまるで使い物にならなくなった。

 

男どもはぽんこつもいいとこだったが、それでも身が入る練習試合にはなったみたいだ。長谷部や太刀峰、笠上さんを含めた女子バス部みんなから、ありがとうの言葉をいただいた。

 

「大丈夫、です。ちょっと疲れちゃいましたけど、楽しかったので……」

 

「それならよかったけど……立てる?」

 

手を差し出す。

 

鷹島さんは俺の手を握って力を込めるが、まだ足は言うことを聞いてくれないようだ。

 

「ご、ごめんなさい……まだ、もう少し……」

 

「いや、いいよ。待つから」

 

はだけてしまっている鷹島さんの足を見れば、白いふとももがぴくぴくと痙攣でもしているように震えていた。ここまで疲労が残るほど熱心に動いてくれたようだ。

 

「っ……」

 

柔らかそうなふとももを観察していると、鷹島さんはユニフォームのパンツをいそいそと引っ張って足を隠してしまった。

 

「あの……私、真希や薫や忍さんみたいに、足細くないので……」

 

「え、ぜんぜん細いと……いや、そういうことじゃないな……。じろじろ見てごめん……」

 

「あっ、いえ、えっと……そ、それよりも試合中はフォローありがとうございました!おかげで私もシュート決めれました!」

 

「それは鷹島さん自身の力だよ。体育の授業をしっかり受けてるんでしょ?フォームも綺麗だったし」

 

「そ、そんなことないですっ。私は、人がいないところに走って、逢坂くんがくれるボールを打つだけでしたので……」

 

「まわりは経験者ばっかりなのに、自分のできることをしようと頑張った鷹島さんの手柄だって。俺はそのお手伝いをちょこっとしただけ」

 

実際、そうなのである。

 

制約があった俺ではディフェンスは役立たずもいいところだし、オフェンスもドリブル突破などはできなかったのでパス回しに専念していた。

 

鷹島さんが相手チームの目をかいくぐってフリーになってくれたおかげでワンサイドゲームにならずに済んだのだ。

 

「ふふっ、そうやって謙遜するのは逢坂くんらしいですっ」

 

「……謙遜じゃないんだけどなあ……」

 

「これなら私の心配も、よけいなお世話でしたね」

 

頬にはりつく髪を小指で払いながら、照れくさそうに笑った。

 

鷹島さんの言う『心配』とは、試合前に言っていた俺の左目のことだろう。

 

試合中、俺はサーチ魔法を使っていた。コートの上にではなく、左目の代わりとして顔の近くにである。俯瞰した映像を視るのは卑怯なので。

 

そういった事情もあり、ぱっと見ただけでは試合中は以前と変わらない動きをしていた。なので鷹島さんは、左目が見えていなくても大丈夫なんだと、安心してくれたのだろう。

 

こうして気にかけてくれる人がいるというのは、純粋に嬉しいものだ。

 

「余計なお世話なんてとんでもないよ。それだけ親身になって考えてくれてるってことなんだから」

 

「そう言われると、ちょっと……照れちゃいます。……っ」

 

耳まで真っ赤にしているが、俯きがちに鷹島さんが呟いた。

 

意を決したように、顔を上げる。

 

「わ、私にできることがあったら……なにか困ったことがあったら、ぜひ頼ってくださいね?」

 

鷹島さんは俺の左目に関してことさら気にかけてくれていた。試合前も話の流れを遮ってまで、バスケに誘ってきた長谷部と太刀峰に異議を申し立ててくれたほどである。

 

その鷹島さんが、今はこれまでほど気に病んだ様子もなく喋っていた。その態度の変化の理由は、俺が問題なくスポーツをできていたからだろう。

 

俺が口で大丈夫だと説明するよりも、自分の目で確かめることができたから、安心できたのだろう。

 

「あ……そうか」

 

脳髄に電流が走ったような気分だった。天啓を得たような心境だった。

 

「大丈夫ってことを、証明すればいいのか……」

 

これはなにも、鷹島さんに対してだけの話ではない。アルフに対しても、当てはめることができるのかもしれない。

 

アルフは、俺の将来を奪ったと表現していた。

 

だけどもし、俺が管理局で評価を残せばどうだ。結果を叩き出して、活躍すれば、証明できるのではないだろうか。

 

アルフは俺の将来を奪ってなんていないと、そう証明することができるのではないだろうか。

 

「そうだ……簡単な、ことだったんだ……」

 

左目を失ったからこそ、適性を失ったからこそ、別の武器を模索して前以上に活躍できるようになればいい。

 

アルフは俺が適性を失くしたことを『自分のせい』などとのたまったのだ。

 

であるならば、そこから新しい戦い方や魔法を見つけられたことだって『アルフのせい(・・)』だ。左目と魔法適性を失ったことがきっかけでこれまでとは違う新しい手段を探したのだから。

 

その新しい手段を用いて活躍できたなら、それも『アルフのせい(・・)』だ。新しい手段を手に入れることができたのは、アルフ曰く『俺から奪った』ことが原因なのだから。

 

どれだけ時間がかかるかはわからない。

 

それでも、管理局の中である程度の地位を築くことができたなら、立場を確立できたなら。その時はアルフに突きつけてやる。堂々と宣言してやる。

 

 

 

『どうだ、ここまで駆け上がってこれたぜ。お前のせい(おかげ)でな』

 

 

 

別れた時とは真逆の表情で、そう見せつけてやる。

 

そんな絵空事が実現できれば、アルフの罪悪感を拭い去ることができるかもしれない。俺は大丈夫だと証明できるかもしれない。

 

そうすれば、またもう一度、お喋りして笑いあえるかもしれない。

 

あの笑顔を、また、もう一度。

 

「どうしたんですか?」

 

いきなり黙りこくった俺を不審に思ったのか、鷹島さんが俺の顔を覗き込むように言う。

 

「ん……いや、べつに……」

 

「なにかいいことでもあったんですか?」

 

口籠る俺に、鷹島さんは続けた。

 

「逢坂くん、にこにこしてます」

 

「えっ?あ……」

 

口元に手をやると、口角が上がっていた。意識しないうちに、頬が緩んでしまっていたようだ。

 

不思議そうに上目遣いでこちらをうかがう鷹島さんの頭をわしゃわしゃっとする。あいも変わらず柔らかい髪質で何よりだ。

 

「ひゃあっ!や、やめてくださっ、髪がわーってなっちゃいますっ!」

 

「ありがとう、鷹島さん。おかげで未来がひらけたよ」

 

「へ?えっと、お話がよくわかりませんけど……逢坂くんがうれしいなら、私もうれしいですっ」

 

ところどころ跳ねてしまっている髪のまま、俺に向けて無垢な笑顔を見せてくる鷹島さんは、まさしく天使のようだった。

 

 

 

 



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綺羅、星の如く

後書きに詳しく書きましたが、嘱託魔導師資格の試験内容に少々思うところがあり、改変した部分があります。なるべく原作の設定に擦り合わせはしましたが、『アレ?』と首をかしげる部分も多数あるかと思います。申し訳ないです、ご容赦ください。




「や、やばい……なんか俺めっちゃ緊張してる……」

 

翠屋でお手伝いした日から一週間弱が経った今日。五月十七日。

 

とうとうこの日が来てしまった。

 

『ではこれより、実技試験を始めます。合格基準は規定時間までに指定されたポイントにあるフラッグを手に入れるか、試験官の戦闘続行不能化です。ちなみにあなたが戦闘続行不能、もしくは時間制限をオーバー、もしくは試験区域から出た場合は失格となります。この試験区域内であればどこへ移動しても構いません。使用する魔法は全て非殺傷設定とします。何か質問はありますか?』

 

「いえ、ありません」

 

試験監督官が説明をする。詳しく話してくれているのもあるし、なによりクロノからどういった試験がでるか、なにをすれば合格となるかを先に教えてもらっている。試験の種類はいくつかあるらしいが、その全種を教えてもらって頭に叩き込んでいたので他に訊きたいことはなかった。

 

「すぅ、はぁ……」

 

よろしい、と短く返して頷いた試験監督官が試験開始までのカウントダウンを始める。ばくばくと早鐘を打つ心臓を落ち着けるように、俺は深呼吸した。

 

嘱託魔導師。その資格を得るための試験会場に俺はいた。

 

筆記についてはもう午前中で終わらせている。クロノが言っていた通り、管理局の人材不足は深刻なのか、筆記試験は驚くほど易いものだった。なんなら拍子抜けしたくらいのもんである。数においても質においても、だ。あの程度の問題ならば、筆記の勉強に充てていた時間を実技に回していればよかったと思ったほど。

 

筆記試験の後に儀式魔法という項目もあったが、俺程度の能力値でもなんとかなった。筆記試験の十倍緊張したのは余談。

 

予想を超えて易しかった午前を終えて、昼休憩を挟み、そして今は午後。俺が一番心配していた実技試験が始まろうとしている。ちなみに筆記試験の百倍緊張している。

 

「冷静に、冷静に……。まずは状況判断……たしかこのタイプの試験は、戦闘技術に自信があれば試験官とやり合って、索敵や隠密行動に覚えがあればフラッグ……だったな。戦場(ステージ)は……そこそこ当たり、と言えるか。市街地なら、まだやりようはあるな。一対一のタイマンが一番よかったんだけど……」

 

監督官が数える数字が刻々と若くなっていく中、周囲へ視線を運ぶ。

 

この試験会場の造りとしては、アースラの中にある訓練室で行った特訓の障害物と似たような印象だった。ただ、こちらのほうがより広く、より実戦的で、よりバリエーションに富んだものだった。様々な戦況に対応できるよう、戦場を切り替えられるのだろう。訓練用の建造物群が俺の目の前に建ち並んでいた。

 

民家やマンション、なのだろうか。俺がいた第九十七管理外世界とは若干の(おもむき)の違いを感じさせる建物。それらの外観に興味はないのだが、いざとなった時はその建物の内部へと避難しなければいけなくなるかもしれないことを考えると、強度だけは確認しておきたいところだ。

 

『四……三……二』

 

頭上にあるサーチャーに似た物体から、監督官の声が降り注ぐ。あの装置も見た記憶がある。結界内でなのはとフェイトが戦っていた時にカメラとマイクの役割をしていた。まあ俺はそのサーチャーから送られてきた映像や音声を安全な場所で見て聴いていただけだが。

 

おそらく俺の頭上数メートル上をふわふわと漂っているサーチャーも、この試験の合否を見極めるために同様の性能を持っているのだろう。

 

事前に頭に叩き込んでおいた知識と一つ一つ照らし合わせていくと緊張感が和らいできた。これから始まるものは本試験ではあるが、アースラでクロノから受けていた訓練と類似点は多い。学んだものを想起して挑めば、なんとかなりそうな気がしてきた。

 

『……一……試験開始!』

 

「よし……やるか」

 

試験開始の号令とともに、いくつかの魔法を行使する。

 

ひとつは試験官の姿を捉えるための索敵魔法。男の子のプライドとか尊厳とか、あと貞操とかいろいろ危険に晒して教えてもらった俺の『第三の目』。

 

もうひとつは偶然や奇跡が上手い具合に噛み合った末に発見し、ユーノ、クロノとともに磨き上げた循環魔法。魔力付与の代替品となる身体強化系の術式だ。

 

循環魔法で体内に流れる魔力を操作、脚部に集中させて建物の影に隠れつつ、多数のサーチャーを飛ばして相手の動向を窺う。

 

「開幕早々の砲撃とかはなし、か……。試験官も俺の場所は把握してないのか、それとも把握はしてるがこちらに居場所を悟らせないために攻撃してこないのか……」

 

クロノとの練習試合では試合開始と同時に砲撃、なんてことはざらにあった。そんな開幕バスターを直撃して俺が墜ちても、クロノは悪びれることなく、なんなら『油断してるからだ』などと厳しく叱責してくる始末。

 

気を抜けば一撃必墜の魔法が飛んでくる環境に慣れてしまった俺にとっては、この幕開けは静かすぎて逆に不気味だ。なにかトラップが設置されているかも、と神経を張り詰めさせながらサーチャーから送信される視界を確認する。

 

「近場には敵影なし。罠や爆発物もない、のか。……どうなってんだ……?」

 

あまりに変化のない戦況には内心穏やかではないが、それでも何も異常がないのなら歩みを進める他にない。俺専属の鬼教官(クロノ)様も、じっくりと精査すればわかる程度のトラップしか配置されない、と言っていたし、この様子ならトラップは付近にはないと判断していいのだろう。

 

「やっとか……」

 

建造物の内部や影に身を潜めながら移動を繰り返していたが、ここでようやく進展があった。多数飛ばしたサーチャーが敵(といってもあくまで試験ではあるが)の姿を映し出した。

 

俺は索敵の魔法もさほど適性があるわけではないので、こちらについても必要な性能の取捨選択をしてどうにか使い物にした。詳説すると、消費魔力の低減とサーチャーの視野を伸ばして、代わりにサーチャーの移動速度には目をつぶる、という毎度お馴染みの手法だ。サーチャーとして一番重要な隠密性は俺の魔力色によって最初からカンストしてるようなものなので、そちらは心の底から助かった。

 

そんな亀の歩みのサーチャーが、とうとう予定していた配置まで近づいたのだ。試験官の姿こそ捉えていないが、フラッグとその他(・・・)を発見した。

 

二つある合格基準の一つであるフラッグは、ここからそこそこ距離のある建物の屋上に刺さっている。この付近では、というかこの戦域では一際背の高い建物だった。

 

目立つ建物の、しかも屋上というわかりやすい場所にフラッグがある。これは、もしや。

 

「罠……か?」

 

その可能性を疑わずにはいられない構図だった。ババ抜きで持っているカードのうち一枚をこれみよがしに強調させているような、そんなわかりやすさがある。馬鹿正直に突っ込むのを躊躇(ためら)わせる怪しさだ。

 

「あんなもん、飛行魔法があったらひとっ飛びじゃねぇか。……まあ、だからこそ周辺にあんなもんを配置してるんだろうけど」

 

高層建造物の付近にふわふわと漂う物体がある。それは試験場を監視するサーチャーとも違うものだった。

 

「オートスフィア……自動発射装置か。サーチャーで視える範囲だけで四つ……あの二〜三倍はあると考えるべきだな。俺なら離れた場所に遮蔽物で隠しながら遠距離砲撃タイプを置く」

 

オートスフィア。敵の姿を捉えるやいなや、魔力弾をばら撒く凶悪な自動迎撃システムだ忌々しい。フェイトも魔法で魔力弾を吐き出すスフィアを使っていたことがあったが、まさしくそれに近い。

 

クロノとの実技試験を模した演習では、小さな槍型の魔力弾を無尽蔵に発射し続けるオートスフィアに幾度となくたこ殴りにされた。しかも数種類のタイプがあり、弾速に優れたタイプや砲撃なんかをぶちかましてくれちゃう大型もある。

 

訓練中に四方を囲まれたことがあったが、あの時は本当に死を覚悟したものである。いくら非殺傷設定といっても、それは死なないだけであってとても痛いのだ。

 

どういった仕組みかは知らないがオートスフィアも魔力を使って攻撃してくるようで、魔力を映す左目ならその弾道を視認できる。視認できるものの、数が多くなればもちろん回避しきるなんてできはしない。障壁で凌ごうとしたこともあったが、足を止めてしまった結果、集中砲火で押し潰された経験もたくさんある。トラウマがフラッシュバックして迂闊には飛び込めない。

 

「中にもオートスフィアはある……が、屋内ってこともあって大型は配置されていないか。ってことは、あの建物の中に試験官が配置されてるんだろうな。なーるほど。飛行魔法適性持ちはオートスフィアの弾幕、陸戦型は建物内部で試験官と一戦交えるってことか。どっちに転んだところで大変なのは変わんねーじゃねえか……。そんくらいじゃないと試験にならないのはわかってんだけど」

 

相手の戦力がわからないためあまり気は進まないが、踏み出さなければ合格できない。タイムリミットは明らかにされていないが、説明で口に上していた以上、確かに存在する。もたもたしてはいられない。

 

のろまなサーチャーを操作して半数を建物の内部の偵察へと、もう半分を建物の周辺に浮遊しているオートスフィアの監視へと充てる。

 

オートスフィアは攻撃対象を発見するまでは規定ルートを巡回するだけなのでバレなければ戦闘なしでやり過ごせる。問題は避けられないであろう試験官だ。建物内部に侵入したサーチャーから視覚情報は随時送られてきているが、未だ試験官の姿は視えない。

 

見落としたのか、それとも屋上へと続く通路で待機しているのか。

 

不安はあるが、俺のサーチャーが相手に視認できない以上(なんなら発動者たる俺ですら左目で視ないと視認できない)、有利なのは確実に先んじて発見できるこちらだ。

 

「うっし……行くか」

 

ネガティブな思考に陥りそうな自分を無理矢理にでも奮い立たせ、先を見据える。

 

隠れられそうな場所は、目標の建造物へと向かわせた密偵(サーチャー)から既に報告を受けている。視た光景を頭の中で思い浮かべて道順を再確認し、一番短い動線で結ぶ。

 

これならオートスフィアにも発見されないだろうと自信を固めると、腹を括って身を潜めていた建物の影から飛び出す。足に魔力を満たし、身体を前傾させて用意していた地点へと速やかに移動しようとした俺に、イレギュラーが発生した。

 

「うおっ!」

 

「って、なんでここに試験官がいんだよぉっ!」

 

イレギュラーというか、エマージェンシーだった。

 

てっきり、合格基準であるフラッグが刺さっている建物に潜んでいると思われていた試験官が、なぜか近くの建物の扉を開けて出てきた。

 

距離にしておよそ十メートルほどか。試験官も俺がここにいたことは予想外だったようで、急に飛び出してきた俺に驚愕している様子だった。

 

不運なことに、そして厄介なことに、試験官の傍らにはオートスフィアが二体浮遊している。試験官は驚いたことで一手反応が遅れていたが、人間的な動揺など持ち合わせていないオートスフィアは()の存在を認識すると、速やかに行動に出た。

 

「早速撃ってきやが……ん?」

 

二体のオートスフィアから放たれた魔力弾を、身体を逸らすことで容易く(・・・)回避する。

 

突如現れた対戦相手からの攻撃を回避できたのは、ひとえにクロノ自ら教鞭を振るってくれた特訓のおかげというべきだろう。隠れている建物ごと撃ち崩してくるクロノと模擬戦を行っていたおかげで反応が明らかに良くなっている。

 

そういう要素もある。あるのだが、今回はそれ以前の話だった。

 

「二体合わせてたった四発って……舐められてんのかな」

 

弾幕なんて大層なものではない、魔力弾の壁とは到底呼べない。単発の魔力弾がぽんぽんっと放たれただけだった。しかも次射までに二秒〜三秒かかっている。

 

嫌な予感がしてきた。嫌な、とは言ってもこの試験に関してのことではない。これまで俺が行ってきたクロノとの模擬戦(・・・・・・・・)に対してだ。

 

クロノへの追及は後からにするとして、今は試験に意識を傾ける。集中力は、残念なことに切れてしまっているが。

 

循環魔法で全身に満遍なく魔力を流す。

 

魔力付与より瞬間最大出力は一段劣るが、循環魔法は全身を巡る魔力をコントロールするというその性質上、被弾した際のダメージ軽減などで消費しない限り魔力が失われることはない。出力はともかく、継戦性能、消費魔力量であれば循環魔法のほうが優れているのだ。これはもはや魔法というより、自身の魔力を精密に操作する技術、と言ったほうがいいかもしれない。

 

そういった性質により、強者と干戈(かんか)を交えるなどという場合でない限り、この魔法でも戦闘するだけならさして困らない。足に力を込め、踏み出した。

 

「おおっ?!き、消えっ」

 

風を切る音の向こう側で、試験官のびっくりする声を聞く。

 

身体強化を行っていない状態ならともかく、魔法を使ってもいいのなら十メートルなんて距離はクロスレンジだ。

 

『襲歩』による高速接近。速度を拳に乗せ、振り抜いた。試験官を打ち抜いても良かったけれど、非殺傷設定が曖昧な物理的殴打を試験官にぶちかますのは気が進まなかったし、試したいこともあったのでまずは試験官の隣で浮かんでいたオートスフィアをぶん殴った。

 

手から伝わる感触が、俺の疑念が正しいことを証明していた。

 

「クロノっ……あの野郎だましやがったなぁっ!」

 

そう、俺はクロノに担がれていたのだ。

 

『試験に確実に合格するためだ』とかなんとか真面目くさった顔で言うもんだから、ああそうなんだ、と思って俺も訓練を頑張っていたが、どう考えたって難易度が釣り合わない。試験を想定した模擬戦の仮想敵と、本試験の相手では、戦力に開きがありすぎる。秒間三発で魔力弾をばら撒いたり、二百メートル以上離れた位置から超遠距離超高速射が撃ち込まれたり、直径一メートルの砲撃が飛んできたりしなかったから、薄々おかしいなとは思っていた。そして今、易易とオートスフィアを破壊できたことでその予感は確信へとかわった。

 

思い返せば学科試験でも違和感は感じていたのだ。勉強していた範囲と学科試験で出題された範囲は違いすぎた。いや、違うというか、出題された範囲が狭すぎたというか。午前中の学科試験で出題された範囲は、スパルタ教師ことクロノ先生のもとで勉強し始めて約一時間で終わっていた。それ以降の時間は全く違う範囲を勉強していたのだ。いやはや、俺は一体なんの勉強をしていたのだろう。そしてクロノは俺になにをさせようとしていたのだろう。

 

考えれば考えるほどどつぼに嵌りそうだ。クロノには後から一応特訓に付き合ってくれたことについての感謝と、試験範囲の大幅な誤差について抗議するとして、今は試験を終わらせてしまうのが先である。

 

「ふっ、よっと」

 

「速すぎるっ!本当に素人あがりなのか!プロフィールと随分違うぞ!」

 

試験官の左手側にあったオートスフィアを打ち砕いた勢いそのままに、彼の背後にある家屋の壁を踏み、跳躍する。

 

試験官が首を回して俺の姿を追うが、しかし満足に追うことは出来ず、結局デバイスの照星が合わされた頃には、二体目のオートスフィアが俺の踵の振り下ろしによって破壊されていた。

 

予期しない邂逅によって多少慌てたのはあったろうが、だが彼も試験の合否を左右する試験官だ。翻弄されるだけでは終わらない。

 

「多少は衝撃があるとは思うが、恨まないでくれよ」

 

試験官が手にしていた杖が、俺の鼻先に突きつけられる。

 

あの杖は、アースラで何度も目にしたデバイスだ。俺みたいなピーキーな魔法の使い方ではその恩恵は享受できないが、一般的な魔導師であればとても使い勝手の良い、バランスの取れた優れたデバイス。

 

そのデバイスの性能と本人の努力によって磨きあげられたのであろう射撃魔法が、試験官の周囲に展開された。その数、十。瞬時に展開させる手際。魔力球の数。試験官の腕を推察できた。

 

極近距離から、十発の射撃魔法が放たれる。

 

「ふぅ……っ!」

 

これまでであればこの状況は、取り敢えず障壁で防ぐか、あるいは手に魔力付与を纏って魔力弾を殴り落とすかしていただろう。相手のデバイスに触れて術式の強制終了という手法もあるにはあるが、あれは相当な緊急事態である。あんまりやりたくない。

 

なにはともあれ、今は違う。俺の首を絞めるウィークポイントと思われた左目が、新たな武器となる。

 

続々と撃ち放たれる魔力弾の弾道を正確に見極め、回避する。

 

フェイトやクロノやなのはやリニスさん。今日に至るまでにあらゆる有能な魔導師から雨霰(あめあられ)とばかりに射撃魔法を浴びせられてきた俺にとっては、これくらいの弾幕は小雨程度だ。あれ、おかしいな、心が痛いぞ。

 

「ちっ、ひとつ躱しそこねた……」

 

などと息巻いたわりに、九発目を避ける際に少しばかり体勢を崩し、最後の十発目は右肩を掠めた。さすがに障壁なしでは限度があった。

 

「馬鹿な!この距離で?!こいつっ、本当に民間人だったのかよ?!」

 

全弾回避とはならなかったが、それでも試験官は大層仰天したようだ。信じられない光景でも目撃したかのように、目を見開く。

 

失礼な、これでもまだ民間人だ。いくつか死線はくぐり抜けてきたけれど。

 

「む……」

 

接近しておしまいにしようかと思ったが、左目が俺の周囲の異変をキャッチした。

 

即座に地面を蹴って跳び上がる。

 

きゅ、がちん、と音がした。跳び上がった俺の足元に、長方形の形をした拘束魔法が出現していた。

 

「おぉ……やっぱりバインドだった……」

 

「こっ、これを読んだのか!?」

 

様々な型の拘束魔法を身を以て体験しているので、並のバインドであれば一秒たらずで破砕・脱出できるが、その一秒によって形勢が傾くなんてよくあること。演算処理には神経を削るし、短時間であれば微量とはいえど魔力も消費する。可能ならば掛からないほうがいい。

 

それよりも、この左目である。なんだか妙な魔力の塊がふよふよしているとは思ったが、まさか待機中のバインドも察知できるとは望外の成果だ。これはかなり有効に活用できる。

 

試験官は、俺が試験官の考えを見通して回避したと思い込んでいるようだ。やはり普通は、魔力が目に視えると考えるほうが無理があるのだろう。クロノによると、中には先天的になんらかの障害で魔力が視える人もいないことはない、とのことだが、絶対数が少ないらしい。

 

しかし、慢心はだめだ。射撃魔法で足を止めてからのバインドは、単純ではあるが使い勝手もいい。バインドを隠伏させる際、一番気を使わなければならない設置時に土煙が立ち込めている瞬間を選び、即座に仕掛けるという手並みは、正直左目がなければ見破れなかった。さすがに時空管理局の試験官か。油断は禁物だ。

 

「防ぐではなく、撃ち合うでもなく、ここまで綺麗に回避で通した受験者は久し振りだ……っ!」

 

なにやら試験官さんの瞳にやる気のランプが点灯しちゃった気がする。その声と表情にも楽しげな色が見て取れた。

 

試験官は杖の照準を修整、空中にいる俺へと合わせた。

 

杖の先端に魔力が集束し、球体を形成する。おや、これは、どこかで見たような。

 

「プロフィールを見た限り、君は純粋な陸戦型。飛行魔法は使えないのだろう?これをどう対処する?」

 

「こ、これも試験の範囲内……なんですか……?」

 

チャージ時間が短いタイプの砲撃魔法。試験官が使おうとしているのはそれだ。

 

なのはのディバインバスターは言うに及ばず、同系統と思しきリニスさんのチャージ時間皆無の砲撃よりも確実に威力は低い。術式を覗かずにもわかる。

 

魔力球が完全な球体をせず、(いびつ)であることからしっかりと魔力を圧縮・収束できていないと判断できる。杖がかすかだが、小刻みに揺れている。左目で魔力の密度に(むら)が視認できているので、おそらくは急いで展開させた為に術式が安定していないのだろう。

 

固めきれていない砲撃など、方向を定めていない爆薬と同じ。危険ではあっても、まともなダメージにはならないし俺の適性で作った障壁でも防ぐことはできる。

 

「……よし」

 

防ぐことはできるが、あえて魔力を浪費することもない。

 

砲撃による攻撃は一般的な魔法よりも威力を見込めるが、使用している魔力量が多いので反動による硬直がある。防御よりも、回避行動のほうが相手の隙をつける。

 

俺がこれまでの相手にした魔導師たちは、そもそも砲撃の直径が太いせいで余裕を持って躱せなかったり、チャージも硬直もないような出鱈目な砲撃であったり、他の魔法と絡めて撃ってきたり、と。相手の隙を突くどころか、どうすれば凌げるか、なんならどうすれば生き残れるかの瀬戸際の話だったのであんまり関係なかったが、今回は違う。

 

チャンスがあるのなら、積極的に狙っていきたい。

 

生唾をごくりと呑み込み、足に力を入れる。

 

飛行魔法に才のない俺が、綺羅、星の如く遥か遠くで煌めくなのはたちへと手を伸ばした末に編み出した、空中戦のための手段。跳躍移動。

 

足場用の障壁を踏み締め、跳ぶ。

 

直後に砲撃が、ついさっきまで俺がいた空間を焼き貫いた。

 

「はぁっ?!」

 

俺が飛行魔法を使えないと知っている人にこの移動法を見せると、みな一様にこんなリアクションをする。

 

なぜ。どうやって。ありえない。

 

そんな動揺と驚愕に染まった表情は、見ていてとても気持ちがいい。性格がひねくれているのは自覚している。

 

「よっと」

 

空中で一回転して試験官の背後に着地する。

 

砲撃魔法の技後硬直か、それとも信じ難いものを見た精神的なショックか、試験官は身動きひとつしなかった。

 

実技試験の合格条件は、フラッグを入手するか試験官を戦闘不能にすること。ここまできたらフラッグより試験官をのしたほうが手っ取り早い。これから高層建造物の屋上まで行くのは、オートスフィアも複数いるし体力も魔力も時間もかかるので面倒くさいのだ。

 

もうひとつの条件。継戦能力を奪う、気を失わせるのは簡単だ。背後から殴ってしまえばいい。

 

だがこれだとたぶん非殺傷設定とか関係ないだろうから、試験官を怪我させてしまうかもしれない。そのせいで合格取り消しとかになってしまうと笑えないので、安全策を取ることにした。

 

「うっ、む……バインドか……っ!一本一本の強度は大したことないが、この数は……っ」

 

拘束魔法。バインドで身動きを封じられているとすぐに気づけるように、あえて術式を不完全にして透明にならないようにした。術式を不完全にしているため、必然、拘束力は落ちる。そのあたりは質より量ということでカバーした。

 

いやまあ、拘束魔法においてもセンスがないので、もとから複数のバインドを使う前提なんだけども。

 

「これで試験の合格基準はクリア、ってことでいいんですか?」

 

「……はぁ、完璧だ。クロノ・ハラオウン執務官の推薦を受けるだけはある。最初にスペックデータを書類で読んだ時は、いったいこれはどうしたものかと思ったが」

 

クロノの推薦。そう聞いて、胸がちくりと痛んだ。もしかして、というおそれが、頭をよぎった。

 

「推薦……申請を出しただけじゃなかったのか。クロノの奴、余計な気を回してくれやがって……。……それじゃあ、あれですか?試験では手を抜いていた、とか?」

 

試験を続ける意思はなさそうだったのでバインドを解く。

 

不安になって試験官に尋ねると、彼は首を横に振った。

 

「いいや、まったく。この合格は君の実力によるものだ。安心してくれていい。逆に他の受験者よりも厳しくしたくらいだ」

 

「そう、ですか。それなら良かったです。特別扱いで合格したとかだと、正規のルートで試験を受けた人に申し訳ないし」

 

ふぅ、と胸をなで下ろす。受験するにあたってクロノの力は借りたが、試験の合否にまでは関わっていなかったようだ。クロノがそんな邪道を通すなんて欠片ほども考えなかったが、自分の力で合格を掴み取ったと試験官に断言してもらって安心した。

 

安堵のため息をつく俺を見て、試験官はくすくすと笑いをかみ殺す。

 

「いや、すまない。推薦状にね、添え書きがあったんだ。『殊更(ことさら)厳格にやってくれ。なんなら落とすつもりで』とあったものだから、なんだこれはと不思議に感じていたんだ。なるほど、クロノ・ハラオウン執務官は君の性格を理解しているからあのような注意書きをしていたのか。ようやく腑に落ちたよ」

 

そう言って試験官はふたたび笑い声をこぼす。

 

俺はというと、クロノに見透かされたようで、ばつの悪い思いであった。

 

「これにて試験は終わりだ。筆記試験については結果はまだだが、君なら大丈夫だろう」

 

「なんの確信があるんですか……。いや、自分でも手応えはありましたけど」

 

「ははは、実技試験は問題なし文句なしの合格だ。立派な魔導師になってくれることを望むよ」

 

試験官がこちらに手を差し出してきた。

 

俺もそれに応じて右手を伸ばす。

 

「いつか一緒に仕事ができる日を待っているよ」

 

「ありがとうございます。その時はご指導ご鞭撻をお願いします」

 

あっという間に抜かれてしまいそうだけどな、と試験官は気持ちよく笑った。

 

 

 




試験内容について。
原作では、戦闘試験は優秀な魔導師との一対一の魔法戦のようです。その戦闘の評価で試験の合否が決まる、みたいです。
しかしそれだと戦闘向けの魔導師しか合格できません。基本的に嘱託魔導師に依頼されるお仕事は戦闘絡みが多いようなのでそういう試験内容でも問題はないのかもしれませんが、特殊な一芸を持った者、サポートに特化した者を不合格にしてしまうというのは、働き手を求めている管理局の現状を鑑みて合理的とは思えませんでした。なので拙作では、戦闘試験にはいくつか種類があり、その中には試験官との一騎打ちがある、というふうにしました。ご理解ください。


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平凡で平穏な風景を。

「思っていたよりかはなんとかなったな。クロノのやつ、無駄にプレッシャーかけやがって……」

 

筆記・儀式魔法・実技ともに試験を終了して後は結果を待つだけとなった俺は、会場の外にあるひとけのないベンチに腰掛けていた。ちなみに合格発表は本日中、まもなく行われるとのこと。そもそも受験者が少ないとかの理由で速やかに結果を貼り出せるのだろうけど、即日結果を知るというのはなんだかまるで自動車の免許でも取りに来たみたいな印象を受ける。

 

「はあ……喉、乾いた。家出る前の俺、ぐっじょぶ」

 

外出前の自分に感謝しながら、ショルダーバッグの中に放り込んで忘れていたペットボトルのお茶を一口飲む。こちらの世界の通貨を持ち合わせていないのでお店や自動販売機などで飲み物を買うこともできず嘆いていたが、なんとかなった。

 

喉を潤し、一息つく。左見右見(とみこうみ)して近くに人がいないことを確認して、声を出す。

 

「もう出てきていいぞ……エリー、あかね」

 

かちり、という金属音が小さくふたつ重なる。ひとつは首元から、もうひとつは右手の袖口からふわふわと浮かんで姿を現した。今日の曇天の代わりとばかりに澄み渡る空色の光を柔らかく放出するエリーと、目を突き刺さんばかりに夕焼け色を照射してきているあかねだ。

 

感情表現にもなる二人の光は、実に対照的なものである。

 

「おお、エリーありがとな。大丈夫だ、疲れてないし。あかねもよく我慢できたな。ちょっと心配してたけど杞憂だったぜ」

 

エリーは試験科目三つを消化した俺を労うように、あかねは長時間服の中に閉じ込められた上にコミュニケーションも取れなかった息苦しさを訴えるように輝いている。

 

二人には前もって、なるべくおとなしくしていてくれるように頼んでおいた。性格はこんなのでも、一応は二人とも膨大にして莫大な魔力を内包するロストロギアなので、へたに人の目に触れると騒動になるかもしれないと考えたのだ。クロノが。

 

正直、実技試験で自分の能力ではどうにもできない窮地に陥ったらエリーかあかねに力を貸してもらおうかとも考えていたが、そんなことにならなくてよかった。目立つような真似はすべきではないし、わざわざお上に目をつけられたくもない。

 

つらつらと考え事をしていると、いつの間にかエリーもあかねもぴかぴかと懸命に意思表示している。その意思表示は、どうやら俺に向けられているものではないらしい。激しく瞬いていて、さすがに俺も翻訳が間に合わない。

 

「喋りにくいし、あれ(・・)やるか」

 

なにやらエリーとあかねで(いさか)いじみた光を繰り返していたが、俺が提案するとふたりは強く肯定の明滅をした。いそいそとエリーは左手側に、あかねは右手側に移動する。心なしか嬉しそうな気配すらある。

 

手を開いて二人を手のひらの上に乗せると、俺は瞑目(めいもく)した。

 

思い浮かべるのは、天秤。両手から伝わる二つの魔力を俺の中で溜め込み、俺自身の魔力で二つの魔力をコンフリクトさせないように留意しながら近づけていく。天秤をどちらか一方に傾けず、水平にするイメージだ。エリーとあかねの魔力を俺の魔力で薄めて拒否反応が出ないようにする、という要領である。

 

エリーとあかねの魔力を工夫もなしにそのまま近づければ(二人の性格的な馬の合わなさとは関係なしに)拒否反応が出る。だが、クッション役として俺を挟むことでその相克(そうこく)を軽減させているのだ。いわば、エリーとあかね双方と、会話が可能な程度にごくごく浅く和合(アンサンブル)している状態と言える。

 

魔力圧がどちらか一方に偏らないよう注意して安定させていくと、徐々に念話にも似た響き方で頭に直接声が届いた。

 

『貴女はもう少し主様に敬意を表すべきです!惚れ惚れする戦いぶりでした、の一言くらいあって然るべきでしょう!』

 

『てめえがへりくだり過ぎなんだろぉが。そんなに猫かぶってて疲れねぇの?』

 

『ふっ……猫というのなら貴女のほうでしょう?』

 

『はぁ?俺が?』

 

『主様と二人きりの時はまるで発情期のメス猫のように主様にべたべたすりすりと……全く、主様の周囲には猫が多くてたまりません』

 

『なっ?!て、てめえっ、盗み見てやがったのか!』

 

『盗み見などとんでもない。貴女の確認不足でしょう。それに、猫を被って甘えていた事を認めていますね。下心が見え透いていますよ』

 

『てめえが下心とかよく言えたもんだなぁ!ちょっと前に徹に迷惑かけて手入れしないってバツを受けたとき、あんだけへこんでた奴がよぉ!言っとくけどなぁ、褒美を欲しがるてめぇのほうがよっぽどタチがわりぃからな!』

 

『このっ……あの()まわしき過去を掘り返すなど……。あ、貴女(あなた)なんて、戦闘時に挙用すらされなかったくせに……』

 

『なんだとてめぇこらっ!』

 

『なんですかっ?!』

 

いやはや、このやり取りも毎度のことなので、さすがに慣れてきたものである。

 

この会話方法を発見したのはつい最近のことだ。エリーとお喋りしようと思って浅く和合(アンサンブル)しようとしたのが事の発端だった。エリーの空色の世界に俺の意識を移動させてそこで話そうとしていたのだが、暇を持て余したあかねが突如介入してきてエリーの世界から俺を引っ張り出そうとしたのだ。

 

そこで偶然に、本当に偶然に、俺を招き入れようとするエリーと、俺を引っ張り出そうとするあかねの魔力強度が均衡し、三人が魔力で繋がっていながらどちらの意識世界にも属していない、という珍妙な状態が形成されたのだ。

 

その一件によって『三人で会話するんならこれって便利じゃね?』と考え、試行錯誤の末にこうして会話が可能なくらいに安定させることができたのだった。

 

いやはや懐かしい。というほど過去の話でもないが、コツを掴んで安定させるまでにかなりの時間を要したし、二人の魔力のバランスを取れずに爆発、みたいなことも何度かあったのだ。いやはや懐かしい。

 

ちなみに、呼称がないと不便なので内容に即して整合(セッション)とした。命名はあかね。和合(アンサンブル)との繋がりも引っ張ってきているあたり、なかなかどうして粋である。

 

『そんくらいにしとけよ、二人とも。喧嘩させるために整合(セッション)したわけじゃないんだからな』

 

『申し訳ありません、主様。この赤いのの態度が目に余った為……』

 

『てめえにいわれたかねぇよ、青いの。……なぁ、試験が終わったんならさっさと帰ろうぜ?昨日の夜に出たせいで、今日のぶんの水やりできてねぇんだよ』

 

あかねの言う『水やり』というのは、最近本格的にやり始めたガーデニングのことだ。俺が近くにいない時でも、頻繁にふわふわと宙に浮かんで外に出ては、花壇周りを浮遊して生育具合を観察している。育ってほしいからといって水をやりすぎては逆効果になる、と俺が前に注意したので、ならばと宝石の形状のまま出力をかなり絞った魔力流の放出で雑草を根っこから掘り返したりしている身の入れっぷりである。ちなみに掘り返された雑草は微弱な魔力流で庭の端の方に寄せ集め、同じく魔力流で焼き払っていた。乱暴なお口とは正反対で、存外器用で几帳面な子なのだ。

 

『試験の結果が出るまでは待ってくれ。後から通知が送られてくるらしいからあとからクロノに訊いたっていいんだけど、どうせならすぐに発表を知りたいし』

 

『どうせ合格は決まってるようなもんじゃねぇか』

 

『試験の合否に関しては、非常に癪ですが赤いのと同意見です。主様のご意志を(さまた)げるような障害ではなかったかと』

 

『いちいち気にさわる言い方しやがるなぁ、てめぇは……。ともかくそういうこった。結果は十中八九どころか十で合格なんだから、わざわざ時間をつぶすような無駄なマネはしなくていいだろ?最近やっと育ち始めたとこなんだぜ、水やりを欠いて枯らしたらどうしてくれんだ』

 

『俺もこれで不合格になる気はしないけどな、それでもこの目で見たいなあって思うもんだろ?それに水やりについては姉ちゃんに頼んでおいたし大丈夫だって』

 

『失礼を承知で申し上げますが、お姉様は……』

 

『姉貴ならついうっかり忘れてる可能性があんだろぉが!』

 

『姉ちゃんの評価が恐ろしく適切なのは置いとくとして、呼び方……』

 

二人とも姉ちゃんとは和合(アンサンブル)で顔を合わせる機会も作ったが、まさか二人ともそんな呼び方になっていようとは。姉ちゃん大歓喜の大勝利だな。

 

『それにしてもあかね、貴女は主様の庭園で何を育てようとしているのですか?』

 

『あ?あー、なんかいろいろ?』

 

『……手塩に掛けて育てている割には粗鬆(そそう)ですね……。主様』

 

『おう。あかねの言う通りにいろんな種類を植えたけど、基本的には育てやすいものが中心だな。なんたって俺を含めてガーデニングは初心者だし、姉ちゃんは花に興味はあっても食用オンリーだし。乾燥に強いゼラニウムとかマツバギク、あとは花の形がおもしろいキンギョソウとかがメインって感じ。ヒナギクもほしかったんだけど、時期をちっとばかり逃したな』

 

『おい、つい最近、ナツ?に向けて植えたやつを忘れてんぞ』

 

『そうだそうだ、夏に間に合わせられるようにヒマワリも植えたんだったな。姉ちゃんが教えてくれたんだった。ヒマワリの種の中身を塩振って炒めたらうまいらしい。完全に食うつもりなのが不安なんだけどな……』

 

『丹精こめて育てたのに、満開になったとたんに食い荒らされたら泣く自信がある……』

 

『……さすがにそこまでのことはしないと信じたい』

 

『これまで野晒(のざら)しだった主様のお庭が……』

 

『野晒しって言うなよ、せめて手付かずと言え』

 

『失礼しました。手付かずだったお庭が綺麗に整備されつつあるので、その点については私も素晴らしいことだと思うのですが……』

 

『なんだよ青いの、なんか言いたいことでもあんのかよ。つうかてめぇがそこまで気にするってぇのも珍しい』

 

『いえ、気にするというほどではありませんよ。ただ、観賞用として、もしくはお姉様のご意向を汲み取って食用として生育しているのなら、なぜ水と一緒に時折魔力まで与えているのだろうと不思議に思っただけです』

 

魔力を。花に。なるほどね。

 

『……おいこらあかね』

 

『ちげぇって!?わかれば話すって!』

 

『わからないから訊いてるんだろうが。「話せばわかる」だ。なに庭で未知の植物育てようとしてんの』

 

『くそっ、ユードージンモンってやつか?!きたねぇぞ!』

 

『誘導尋問以前の問題ですが。それより貴女……主様にお許しを頂いていなかったのですか』

 

『べつに悪いことしようとしてるつもりじゃねぇよ?ただな、試しに魔力もちょみっとだけ流してやったらめちゃくちゃ育つもんだから……つい』

 

『つい、で魔力やるなよ。なんか最近いやにぐんぐん生長するなあって思ってたらそんなことしてたのか。どうすんの、いきなり動き出したら』

 

『さすがにもともとが魔法植物種じゃねぇんだから動いたりとかはしねぇよ……たぶん』

 

『濁しましたね』

 

『いいじゃんか!あれだ、肥料のかわりだ!』

 

『そんな新時代的な肥料あってたまるか』

 

『まてまて、落ち着けよ、徹。これは発見だぜ?有機・無機肥料と肩を並べる……いやそれらすら上回る肥料になると思わねぇか?無機肥料を超える効き目なのに、有機肥料なみに土壌を豊かにするんだ。環境に悪影響もねぇし、匂いもねぇし、しかも安いどころか無料(タダ)でできる。カンペキじゃねぇか。…………副作用で、もしかしたらうねうねするかもしんねぇけど、まぁ、ほら……そこらへんは誤差の範囲だろ?』

 

肥料についての知識がやけに深いと思ったが、そういえばあかねは最近パソコンの近くにいることが多かった。以前にレイハがパソコンから地球の文明水準や日本の文化常識を取り入れていたのと同じように、あかねはガーデニングについて調べていたようだ。その努力は認めるが、ただ頑張る方向が若干ずれている気がしないでもない。

 

『副作用でかすぎんだろ。植物が動き出すようならそれはもう誤差じゃねえよ。植物に機動性は求めてない』

 

『…………だってぇ』

 

『主様の世界では魔法という技術体系は認知されていませんから、もし植物が自立歩行しだすと大変なことになりますよ』

 

『……………………ぅぅ』

 

俺とエリーの集中砲火により、あかねは黙りこくった。手のひらから、ぷるぷると弱々しい振動を感じる。

 

『……だって、はやくいろんな色の花……見たかったんだもん……』

 

『だもんってお前……。んんー……』

 

あかねの過去を考えると、舌の回りが悪くなる。あまり強く詰責(きっせき)できなくなる。

 

これまであかねは、悪意ある魔導師の手によって長きにわたって人を傷つける道具として扱われ、時の庭園では魔導炉に組み込まれ、外の世界を知らずに過ごしてきた。今のようにこうして自由に見て、聞いて、触れるなんて到底できなかった。楽しむなんてことは許されていなかったのだ。

 

そして俺自身、あかねにこの世界の様々な光景を見せてやりたいとも思った。胸を打つ情景を、壮観な絶景を、そしてなにより、意識しなければ気づけないような日常の中に紛れてありふれた平凡で平穏な風景を。俺の何十倍何百倍と生きていて、しかし情緒も草木もない戦野と、無感動で伽藍堂(がらんどう)な牢獄しか知らないあかねに見せてやりたいと思ったのだ。

 

目的のために取っている方法がやや不適切ではあるものの、あかねは自らの興味や好奇心に素直になって、つまりは幸せを追求しているのだから、頭ごなしに否定するのは間違っている。かもしれない。

 

あかねを手元に置いている立場として、この程度は許容してあげるべきだ。ただ実際に植物に自走されても困るので、そのへんの配慮だけは言い含めておく。

 

『……あんまりその肥料、やりすぎんなよ。人に見られた時、どう言って誤魔化したらいいかわからんからな』

 

『あ、主様?!』

 

『やりすぎんなってことは……またやってもいいのか?』

 

『魔法とかなんも知らない一般人に見られたら相当まずいことになるから、そのあたりの塩梅(あんばい)に気をつけてくれるんならな』

 

『主様、僭越(せんえつ)ながら申し上げさせていただきます。優しくすることと甘やかすことは異なります。主様の世界でこのことが顕露(けんろ)した際、損害を被るのは主様なのですよ』

 

『あはは、そう言われると耳が痛い……。でもな、エリー。せっかくこうしてあかねが興味を持って取り組んでるのにそれを取り上げるのは……なんか違うだろ?』

 

『さすが徹だぜ!動き出したりしないようにめちゃくちゃ気をつける!』

 

『貴女はもう少し(つつし)みのある行動をしなさい。……主様、やはり考え直すべきではないでしょうか?』

 

『まあまあ。あかねも気をつけるって言ってるし、いざとなったら方法はあるし大丈夫だろ』

 

『しかし……』

 

なおもエリーは食い下がる。

 

普段から口喧嘩(と呼んでいいのかはわからないがそれに近しい行為を)しているし性格的に馬が合わないところがあるのは事実だが、こうまで反対の意を示すのは、おそらくあかねのやることが気に食わないとかそういう感情的な理由ではない。

 

エリーはただ純粋に、秘密にするべき魔法関連の諸々がバレないように肝を砕いてくれているのだろう。エリーの言ったとおり、世間に知られてしまった場合、責任を負うことになるのは俺なのだから。

 

俺の身を案じてくれている以上、一方的に否定して意見を聞き入れないというのも、なんだか心苦しい。どうするべきか。

 

『俺もあかねが肥料(・・)をやりすぎないかちゃんと監督するからさ。左目なら魔力の度合いもわかるし、あかねだってここまで言われてやり過ぎるような馬鹿な真似はしないだろうから』

 

『そうだぜ、徹に迷惑かけるようなことなんてしねぇっての。言うまでもねぇだろ』

 

『……万が一、という事態は常に起こりうると考慮すべきです。主様に不利益が発生するかもしれないという可能性が僅かにも存在するのであれば、私は賛成しかねます』

 

『……てめぇはほんと徹のことになったら性格変わりやがるな。ふだんはわりと大雑把なくせに……』

 

『どうとでもご自由に。私はリスクと向き合っているだけです』

 

エリーは(かたく)なだ。俺のこととなるととくに。

 

仕方ない、こんなことに使いたくはなかったが、伝家の宝刀を抜くとするか。

 

『エリー、頼むって。……家に帰ったら「お手入れ」してやるから』

 

『っ!』

 

びくんっ、と魔力の波が生まれた。危うく整合(セッション)が解けかけたが、なんとか調律には成功した。ちなみに、魔力だけでなく左手の中のエリー本体も小さく動いていた。効果は覿面(てきめん)のようである。

 

『そ、そそそんなことで、この私の決意は揺らぎ、ませんっ!』

 

『新しいオイルを買ってきてあるから、エリーも気に入ると思うんだけどなあー』

 

『ああ、徹が前やってくれたあのオイルか?あれはめちゃくちゃきもち良かったぜ!ツヤの出方がちげぇからな!』

 

『気持ち、良かったっ……艶……っ!ぅぅぅっ……』

 

とうとうエリーがぷるぷる震えだした。なんだか物で釣ってるような感じがして悪い気もするが、しかしエリーに対する交換条件としてはこれが一番効果的でもあるのだ。

 

だいぶ悩んでいるのだろう。エリーから送られてくる魔力の出力が安定していない。そろそろこの会話モードを維持するのが厳しくなってきた頃、ようやくエリーが折れた。乱れていた魔力の波が凪ぐ。

 

『わかりました……認めます。ですが、貴女のガーデニングは念の為私も監視しますからそのつもりでいてください』

 

『よっしゃあっ!』

 

『そうか、ありがとうエリー。お手入れは念入りにやってやるからな』

 

『楽しみにしておりますっ!少年執務官の一件のあとめっきり回数が減ってしまっていたのでたっぷりと!お願いしますっ!』

 

『お、おお、わかった』

 

『おい青いの、ただ監視するだけなんてつまんねぇだろ。なんなら一緒に育てようぜ。植えたばっかだからこっから育ってくとこも見ていけるしな!』

 

『ふふ、そうですね。そうしましょうか』

 

俺のもとにきた順番でもロストロギアとしてもあかねより先輩なエリーは、穏やかにくすくすと笑った。直接話せば喧嘩ばかりだが、エリーはあかねのことを気にかけているふしは以前からあったのだ。もしかしたらこれを機に、俺が仲介に入らなくても二人で仲良くできるようになるかもしれない。

 

放置されっぱなしだった庭を使えるようにするのは一苦労だったが、その苦労に見合うだけの、いや、その苦労以上の報酬はどうやらあったようだ。

 

これは本格的にガーデニング用の道具を揃え始めなければいけないな、などとあかね、エリーと話していると、とんとんと肩を叩かれた。

 

『悪い、誰かきたみたいだ。この先はまた後でな』

 

『わかりました』

 

『おう』

 

今はまだ他のことをしながら整合(セッション)をできるほど慣れていないので、一旦二人との繋がりを絶ってから、やってきた相手を見やる。

 

試験会場につくやいなや用事があると言って別行動を取っていたが、どうやらもう戻ってきていたみたいだ。クロノが俺の肩を掴んでいた。

 

「なんだ、クロノか。そうだお前、俺のこと担ぎやがったな!筆記も実技も教えられていた範囲と全然違ったぞ!前情報が当てはまってたのは儀式魔法くらいだったんだからな!」

 

「どうせのちのち必要になる知識と技術だ。損にはならない。そして……今はそんなことを言っている場合ではないんだ」

 

「のちのちとかそんなことって、俺そのせいで無駄に緊張した……ん……。どうした、なにかあったのか?」

 

クロノと再会するなり、ここ最近の過剰にも程がある訓練に対して言い(つの)ろうとするが、雲行きの怪しさを感じ取って文句を引っ込める。年相応にあどけないクロノの顔が、今は苦々しげにゆがんでいたからだ。

 

唇を噛むように口をきつく閉じて、クロノは俺の服を引っ張って立ち上がらせるとそのままの格好で足早にどこかへ向かう。

 

「おい、クロノ!なんだってんだよ、どこに行くんだ!」

 

「……気分が悪くなる場所だ。理由は道中に説明する」

 

「そんなに急がなくちゃいけないのかよ、まだ試験の結果出てないんだけどっ」

 

「試験なら問題ない。あの程度で落ちるようには鍛えていないからな」

 

「俺に対する評価高すぎぃ……。ともかく、試験の結果はあとから見るってことでいいから、とりあえず服を放してくれ。歩きにくい」

 

「…………」

 

クロノは手を放すと、俯いて立ち止まった。

 

身長差もあってクロノの顔が見えにくい。足を曲げてちらりと覗き込むと、クロノの眉間には皺が深く刻まれていた。

 

「く、クロノ……おい……」

 

「徹……先に、言っておく」

 

不穏な気配しか、感じない。驚かせようとか、からかっているとかではない、緊迫した空気。

 

(にわか)に心拍数が上がる。

 

この感覚を、この嫌な感覚を、俺は知っている。先日の一件では幾度となくこの感覚を味わったのだ。間違うわけがない、勘違いなんてできるわけもない。

 

「……すまない」

 

俺の経験則からくる予感は、既に良くないことが起きていると警鐘を鳴らしていた。

 

 

 







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泣いてしまいそうになるほど、痛かった。

 

 

「逢坂徹君。どうか理解していただけませんかねぇ?」

 

「…………っ」

 

そこは会議室のような空間だった。広めの室内には半円状のテーブルが置かれており、そのテーブルのちょうど真ん中に男が座っていた。

 

扉の両側には警備員なのか、二人の局員が杖を手にしながら立っている。

 

警備員もどきを配置しているところに、一切信頼していないと言外に意思表示されているようで、まず入室した時点から怪訝に感じていた。今となっては一周まわってどうでもいいことだが。

 

「これもすべて、市民の安全を守り、安心を提供するためなのです。いやぁ、私も心苦しく思うのですけれど、しかしこれが私たちの仕事でしてねぇ」

 

「……ええ、市民が安心して暮らせるように尽くすのが……っ、管理局の役目、ですからね……」

 

テーブルの真ん中に座る男はアロンツォ・ブガッティと名乗った。細長くつり上がった目。オールバック風に後ろへ撫でつけた髪型に、優しさなど一欠片も見て取れないにやにやとした笑顔もどきの顔。

 

階級がそこそこ上なのか一般局員とは少し違った管理局の制服を着ているが、普通の局員と違った印象を受けたのは服装からではない。この男から滲み出る気味の悪い雰囲気からだ。喋り方や振る舞いの端々から隠そうとしても滲み出る、強烈なまでの違和感。雰囲気が普通の職員とは明らかに違っていた。

 

初めて顔を合わせた瞬間から居心地の悪さを覚えていた。言葉を交わして確信した。この男とは馬が合わないと。仮面のような面と芝居じみた弁舌は、こちらを挑発してきているのではと勘繰ってしまうほどだ。

 

背中に毛虫が這い回っているような嫌悪感に耐えて前口上を聞き終わると、本題に入った。

 

挨拶の段階で気分が悪かったが、本旨は反吐が出そうだった。

 

「いやはや、なんとも聡明な青年ですねぇ。そう言って下さるのはありがたい限りです。ならば、君が保有する二つのロストロギアを管理局に委譲してもらえますよねぇ?」

 

三十代半ばほどに見えるこの男は、エリーとあかねを渡すようにと(のたま)った。これは決定事項であると、通告してきた。

 

「………………」

 

こうなることは予想して然るべきだったのに。

 

いかに俺が持つロストロギア、エリーとあかねの安全性を叫ぼうと、暴走なんてしないと断言しようと、管理局の上の人間には信じてはもらえない。ロストロギアを運用できるというメリットを声高に訴えても、上層部はメリット以上に暴走するかもしれないというデメリットを避けるだろうと、予想して然るべきだった。

 

「いやはや、会議でも『考慮するに相当する程度のメリットはある』という意見も出たのですがねぇ、査問委員会の大意としては『万が一が起こった際のデメリットは余りにも大きく、そのリスクは決して看過はできない』と纏まってしまったのです……」

 

歯噛みする俺に、アロンツォ・ブガッティは眉を曇らせて、まるで申し訳なさそうに言う。

 

しかし。表情、仕草、声のトーン。そのどれもに嘘臭さがちらついた。演技が見え透いていた。

 

立て板に水を流すように、台本でもあるんじゃないかと疑ってしまいたくなるほどに滑らかにして淀みなくブガッティが喋り、そして終える。

 

俺の隣から舌打ちが聞こえた。

 

クロノが苦々しげに顔を歪めていた。

 

クロノもいろいろと手を回してくれていたことは知っていた。報告書も出来うる限り、エリーやあかねの印象をよくするようにしてくれたそうだ。

 

しかし、目の前の男のほうが、アロンツォ・ブガッティのほうが上手(うわて)だった。

 

「くそっ…………」

 

後手にまわったどころじゃない。策すら準備していない状態で、完全に理論武装した相手とやりあえるわけはない。既に堀は埋められている。

 

そもそも、俺以外にエリーやあかねと意思疎通できる人間がいないのだ。

 

コミュニケーションを取れると。意思疎通できるんだから暴走なんてしないと。俺がどれだけ必死に熱弁したところで、相手が理解することも納得することもないだろう。和合(アンサンブル)をして見せたところで外見上は融合(ユニゾン)と大差はないし、見た目の変化で乗っ取られていると判断されてもおかしくない。さらに分が悪くなる。

 

切り返すだけの刀がない。撃ち返すだけの弾がない。言い返すだけの言葉が、ない。

 

だからといって諦めてしまえば、エリーとあかねは再び暗く冷たい檻の中だ。

 

考えても考えても、現状を打破できるような答えは出ない。取っ掛かりのない現時点では思考が空転するばかりだ。

 

この際、目の前のコイツを脅して決議を(ひるがえ)させるか。

 

追い詰められた結果、暴挙に行き着きかけた俺を諌めるように、胸元と手首にぱちり、と静電気に似た刺激が走る。

 

言うまでもなく、話題の中心人物であるエリーとあかねだった。

 

「……この一件は『海』の管轄です。失礼ですが、『陸』の所属であるブガッティ一等陸尉に権限は……」

 

エリーとあかねの行動に判然としない俺をよそに、クロノはブガッティに反論する。

 

気づけばクロノは俺の上着を掴んでいた。

 

エリーも、あかねも、クロノも、俺が血迷った行動に打って出ようとしたことを察していたのだろう。

 

「…………ふぅ」

 

三人に言葉なく窘められ、俺は頭を冷やす。冷静に考えを詰め、どこかに糸口がないか探す。

 

こちらの都合も考慮せずに命令を突きつけてくるブガッティには、憤りはある。それでも努めて冷静に、ブガッティの一挙手一投足に注視し、ひとつひとつの言葉に意識を向ける。

 

すべてを覆すような大きな手がかりでなくてもいい。少しでもこちらを有利にするだけの言質(げんち)がほしい。

 

「事件自体はそうでしょうねぇ。ですがご存知の通り、ロストロギアの扱いに関しては古代遺物管理部の管轄です。私は管理部の課長も務めておりますし、本件に関しては私に一任されましたので口出しする権利はありますよぉ?」

 

「……徹は……逢坂徹は、少なくとも今所持しているロストロギア二つとはコミュニケーションが取れており、かなり親密な友好関係を築いています。ロストロギアが暴走する恐れは限りなく低いと思われますが?」

 

「そういった内容の報告もありましたねぇ。ロストロギアとコミュニケーションを取る……それが事実ならば学術的にも素晴らしいことですが……しかし、それを証明する事は難しいですよねぇ?なにより、管理局の上の方々も市民の皆さんも納得できないでしょう。みな、目に見えるリスクを排除したいと、排除するべきだと考えますから。しかもそれが……言い方は悪くなってしまいますが、肩書きも実績もない年若い少年となれば、尚更でしょうねぇ。なにしろ、扱っている物が物ですから」

 

「……実績というのであれば不足はないのではありませんか?厳しく難しい事件の解決に、尽力してくれた一人なのですから」

 

一秒にも満たない短い時間、ブガッティの目つきが鋭くなった。すぐに元に戻ったが、反応はあった。

 

ブガッティにとって(くちばし)を突っ込まれたくはない点なのかもしれない。

 

幾つか電子音が鳴る。ブガッティがなにやら携帯端末を操作していた。

 

「……報告書に目を通した限りではそうですが、少々疑問が残るんですよねぇ。逢坂少年の適性を見た限り、活躍するのはとてもじゃないですができそうにありませんから。他の資料と合わせて確認すると、尽力したのは彼の知人である少女と、敵対していた勢力から寝返った少女のように思えますがねぇ。報告書を作った担当者が捏造……いえ失礼、何か思い違いでもしていたのではないですか?」

 

おそらく俺の能力数値が電子端末から出力されているのだろう。以前にアースラで魔法適性から魔力から、なにからなにまで調べた覚えがある(そしてへこんだ覚えもある)。

 

その時に測定した俺のスペックデータをブガッティは閲覧しているようだ。

 

悔しい気持ちはもちろんあるが、反論する言葉は出ない。

 

プレシアさんの一件に絡んだ一角(ひとかど)の人物たちと比較した時、俺の能力が全体的に著しく見劣りするのは俺自身が重々身に染みている。報告書にどのように記述されているかはわからないが、あの一件の中、俺程度のスペックで活躍できるなんて普通は考えられない。誰でも(いぶか)しむ。

 

その弁論は腹立たしいが、最低限の筋が通っていた。

 

「……この奸物(かんぶつ)め、何を根拠にそのような出鱈目(でたらめ)をっ……」

 

隣にいたからなんとか聞こえたが、およそクロノの口から発されたとは思えない言葉が小さく聞こえた。ブガッティの言い様には、クロノも相当頭にきているようだ。

 

「……ならば、肩書きです。本日、試験があったのはご存知でしょう」

 

「ええ、当然です。嘱託魔導師認定試験ですね。常に人員不足ですからねぇ……『陸』は」

 

「『海』も、です。逢坂徹はその試験を受験しました。まず間違いなく、合格しているでしょう。嘱託とはいえ、魔導師です」

 

「それで肩書きとしては充分だろう、と?軽犯罪の赦免や贖罪であればそれでも良いでしょうが、今回の話はロストロギアですよぉ?」

 

「……それでは、足りないと?」

 

まるで煽るようにブガッティが言うが、クロノはどこまでも同じスタンスで構える。

 

ブガッティは笑顔、というよりは嘲笑のように表情を変化させた。侮るあまりに演技ができていない。侮蔑の姿勢がありありと見て取れた。

 

「他の嘱託魔導師の方々には失礼になるでしょうが、いくらなんでも格が足りないでしょう。嘱託魔導師でも評価に値する実績を残している方はいます。しかし、それは一握り……ほんのひとつまみほどです。ロストロギアを管理するだけの魔力も、非常事態に対処するだけの経験もない。極めて幅広くかつ深い知識と、優れた戦闘技術を認められた執務官等であればまだしも……ロストロギアを任せても良いだろうと判断するだけの信頼と責任が、その身分にはありませんねぇ」

 

役職的にクロノとブガッティのどちらが上なのかは俺にはわからないが、ブガッティの態度は明らかにクロノを見下したそれだった。明らかに格下だと軽んじていた。

 

だから、なのだろう。

 

クロノ・ハラオウンを侮ったが故に、ブガッティは決定的なミスをした。迂闊で、不注意で、致命的な失言をした。

 

 

 

「なるほど、執務官であれば妥当である、と……そういうことなのですね」

 

 

 

下手(したて)に出て、腰を低くしていたのは、隙を見出した時に喉元に食らいつく為の準備動作だった。機会を待っていたクロノの反撃だった。

 

何を言い出すのだ、と言わんばかりのブガッティの顔。頬が、かすかに引き攣っていた。

 

「は、はは。……クロノ執務官(・・・)、それは貴方がロストロギアを管理する、という表明でしょうか?いかに貴方といえど、個人でロストロギアを安全に管理するのは難しいと言わざるを得ないのでは?」

 

「はい。その為の能力、特殊な技術を僕は持ち合わせていません。ですが彼には、この逢坂徹にはその技術がある」

 

特殊な技術なんて大層なものではないが、旗色を(かんが)みてここは口を(つぐ)んでおく。

 

ブガッティが口を出す前に、クロノは立て続けに捲し立てる。

 

「プレシア・テスタロッサの一件では、目まぐるしく変化する戦況に適応し、その上、戸惑う仲間に指示を出せるほどの危機対応能力を発揮しました。実戦経験についてなら度重なる戦闘を経ています。すでに並の魔導師を凌ぐものでしょう。仲間を統率して目的を明確にし、全員で事にあたった。彼の粉骨砕身の尽力により、死亡者、行方不明者ゼロという、規模を考えればこれ以上ないほどの結果で事件に幕を下ろした。ここにこれからの活躍を足せば、充分実績足り得るでしょう」

 

「……しかし、今の彼は嘱託魔導師になったばかり、いや、『なるだろう』という段階でしょう。これからどれだけの歳月がかかるかわかりませんねぇ。まさか、彼が執務官になるまで待っていろ、などとは言いませんよねぇ?」

 

「次の執務官試験はたしか三ヶ月後、でしたか」

 

「…………まさか」

 

「三ヶ月後。その試験で合格しなければ、全面的に古代遺物管理部にロストロギアの管理をお願いしましょう」

 

ここで初めて、ブガッティの能面のような笑みが崩れた。眉間に皺を寄せ、忌々しげにクロノを()めつける。

 

「その三ヶ月をこちらが律儀に待つ道義はありませんが?……それに、私たちは『海』のように決定事項を容易に翻すような優柔不断ではないものですから」

 

「彼の持つロストロギアは二つとも、とても大きな魔力を有しています。そのうち一つは他のロストロギアをも凌駕する極めて膨大な魔力を秘めた代物です。封印し、管理するにしても、確乎不抜(かっこふばつ)を隠れ蓑にしたお役所仕事では申請を通すのに時間がかかるでしょう。三ヶ月くらいは余裕では?」

 

なんかぎすぎすしてる。本題と違う場所で火花が散ってる。

 

管理局は『陸』と『海』で管轄が分けられていて、人材や予算の割り振り、あとは一般市民からの極端な人気の差なんかで仲が悪いと聞いてはいたが、よもやこれほどとは。

 

「そ、そもそも!ロストロギアを安全に管理できるという彼の証言には信憑性がないでしょう!」

 

とうとうブガッティは声を荒らげた。時間がかかるのは事実なのか、そこには論を重ねずに黙認してしまった。

 

言葉尻を(あげつら)うようなクロノの言に苛立ったのだろうが、ブガッティも同じようなやり方でこちらを丸め込んできたのだ。同情する道理はない。

 

たしかにブガッティの言う通り、今の俺の言葉には信頼や信用なんてものはない。信じてもらえるだけの立場にいないからだ。そこは正しい。

 

だが、ブガッティは間違えた。切り返すタイミングを誤った。

 

まず何より、三ヶ月という時間から追及すべきだった。無言の肯定は、避けなければならない悪手だった。

 

「申請に時間がかかる事は認めるのですね。そちらは封印処理や委譲・受領・管理の申請を進めて構いません。その間に、逢坂徹は執務官の資格を得ます。合格できなければ進めていた手続き通りにそちらへ。合格していれば、そこでもう一度はっきりと、ロストロギアを安全に管理できると公的な場で宣言させましょう。その際、安全確保のため万が一に備えて魔力を制限する措置も取りましょう。執務官という肩書きならば、信用してもらえるのですよね?ついでに執務官である僕と、巡航L級八番艦次元空間航行艦船艦長のリンディ・ハラオウンが、逢坂徹の宣言を保証しましょう。これで責任の所在も明らかにできます」

 

これなら全ての問題が解決しますね。

 

そうクロノは言い放った。自分すらも賭け皿にのせて、毅然とした態度のまま締め括った。

 

クロノの頼もしさ、安心感には心が震えた。なんでそこまで俺を信じてくれるのだろうかと泣きそうになった。

 

だが勝手にリンディさんも巻き込んでしまっていいだろうか、と不安にもなる。

 

目線を向けると、クロノは俺の視線に気づいた。俺が尋ねようとしていることを察したのか、ほんの少しだけ唇の端を上げて、ウィンクで返答した。

 

なに格好つけてんだ馬鹿野郎格好良過ぎなんだよ馬鹿野郎。

 

緩みそうになる頬をなんとか引き締めて、ブガッティへと目線を戻す。彼は頭を垂れ、テーブルの一点を見つめながら拳を固く握りしめていた。

 

なんとか、なったのか。

 

これ以上突っ込んでこないという事は、クロノの出した条件を認めた、という事でいいのだろう。

 

首の皮一枚繋がった。

 

クロノがブガッティからもぎ取った条件は恐ろしくハードルが高いのだが、それでも、救いが全くなかった最初に比べれば天と地ほどの差がある。これからは学業の合間合間で管理局の仕事をこなすことになりそうなので大変ではあるが、これでエリーとあかねを傍に置いておけるのであれば苦ではない。むしろ喜々としてやってやる。

 

クロノたちと同じ道に進みたいとも考えていたし、フェイトやプレシアさんたちの力にもなりたいと思っていた。当初の人生設計ではもう少し時間にゆとりを持って取り組んでいくつもりだったが、いい機会だ。手が届く範囲にあるものはすべて、掴んでやる。

 

「……っ、こ……までは、計画……いが……る」

 

俺が気概に燃え、決意を固めていた時、掠れた声が正面から聞こえた。

 

最初は呪詛でも唱えているのかと思った。地を這うような低い声の主は、ブガッティだった。ぶつぶつぶつぶつと、生気をなくした濁った目で独りごちていた。

 

「三ヶ月……。予……早め……なんとかでき……。あとは……二つ……の手に」

 

表情はすべて抜け落ちたように固まったまま変わらず、ただ唇が何言かを紡いでいる。見るからに常軌を逸していた。

 

なにを言っているんですか、と問い質そうとした矢先、ブガッティが顔を上げた。

 

飢えた獣のようにぎらぎらと血走って、しかし木のうろのように洞洞と底暗い瞳を、俺たちに向ける。

 

コンクリートじみた無表情が、ゆっくりと笑みに似た形に作られた。湖に張られた氷が割れていく様を彷彿とさせる、唇の動きだった。

 

「……いいでしょう。三ヶ月後、逢坂徹君にロストロギアを任せられると周囲にそう信用されるだけの肩書きを得ることが出来れば、逢坂徹君にロストロギアを(ゆだ)ねましょう。古代遺物管理部としても、強力な封印処理や厳重な管理に不必要なコストは掛けたくありませんから」

 

先程の異様を見るにどんな暴論を持ち出してくるか肝を冷やしたが、口に上したことといえばクロノの案の全面肯定だった。

 

「…………ふぅ。そう、ですか。……了承してもらえてよかったです」

 

長く、息をはいた。

 

気づかなかった。呼吸を忘れていた。それほどに緊張していた。

 

その緊張はブガッティが条件を認めるか否かになのか、それともブガッティの禍々しい雰囲気になのかはわからない。

 

「……では、僕たちは失礼します。また三ヶ月後に」

 

これ以上ブガッティと会議室にいたくなかったのはクロノも同様だった。眉間にしわを寄せながら、申し訳程度に会釈して踵を返す。

 

「……それじゃあ、俺も失礼します」

 

クロノに(なら)い、後に続こうと扉の方向へ一歩踏み出す。

 

「逢坂徹君。忘れていますよ」

 

退室しようとした俺を、ブガッティは呼び止めた。

 

ブガッティに向き直る。俺が『なにを?』と訊き返す前に、ブガッティは手を出して、言った。

 

 

 

「ロストロギア。二つ。忘れていますよ」

 

 

 

「……は?」

 

言葉は問題なく耳に入った。なのに、いや、だからこそなのか、こいつが何を言っているのか即座に理解できなかった。

 

唖然呆然と立ち(すく)む俺に代わり、クロノがブガッティの要求に反論した。

 

「アロンツォ・ブガッティ一等陸尉。その話は三ヶ月後の執務官試験の合否によって、逢坂徹に委ねるか、古代遺物管理部で管理するか、既に決まったはずですが」

 

字面でこそ落ち着いたものだが、その語調には明確に嫌悪と苛立ちが滲んでいた。

 

「ええ。そう決まりましたね。ですがそれは、逢坂徹君が執務官の資格を得て、資格に値するほどの技術と知識があると証明でき、所持しているロストロギアの安全宣言をした後、その宣言を上の人間に認められたらです。今現在はそうではありません。嘱託魔導師認定試験を受けたばかりという段階の彼に、ロストロギアを持たせたままでは危険でしょう?」

 

「っ!」

 

俺とクロノ、どちらともなく息を呑む。

 

詰めが甘かった。

 

エリーとあかねを傍に置いておくことを念頭に考えすぎた。どうすれば一緒に居られるか、その条件を満たすことばかりを重視しすぎていた。先のことばかりに目を向けすぎて、足元が見えていなかった。

 

クロノが、ブガッティ本人から言葉巧みに掴み取った条件。

 

三ヶ月後。執務官の試験に合格すればエリーとあかねを信任してもらえるようになるかもしれない。

 

しかしそれは、条件を満たせば二人を近くに置いておけると証明すると同時に、条件を満たしていなければ二人を預かる資格がないということもまた証明してしまっている。

 

「さぁ。ロストロギアをこちらへ」

 

条件を満たしていない今、ブガッティの命令を拒否することはできない。ブガッティの論を否定すれば、それはつまり、クロノがもぎ取った逆転の条件をも否定することになる。

 

打つ手はない。逃げ場もまた、ない。

 

「逢坂君が自分から渡してくれないとなれば、少し乱暴な手段になってしまいますがねぇ」

 

会議室の空気が張り詰めた。

 

背後で足音が聞こえる。会議室の扉の両側で黙って佇立していた局員のものだろう。

 

一歩一歩近づく足音は、チェックをかけられた俺へのカウントダウンにも思えた。

 

「そのような扱いを、この僕が許すとでも?」

 

風切り音とともに、ソプラノボイスが響いた。

 

威圧的な声と雰囲気を隣から感じる。隣に立つクロノが杖を取り出し構えていた。

 

まだ年若いとはいえクロノの実力は『陸』の局員にも知られているのか、背後から近づいていた警備員もどきの局員二人は立ち止まっていた。その二人から、(にわ)かに警戒心がぶつけられる。

 

会議室内が、一触即発の剣呑な緊張感に包まれた。

 

「…………っ」

 

これ以上は、だめだ。

 

この場に限れば、クロノの邪魔をできる魔導師はいない。警備員もどきの局員二人もそこそこは戦えるのかもしれないが、クロノの障害となる程の戦闘能力は持ち合わせていないだろう。目の前のブガッティからはそもそも魔力を感じられない。

 

クロノの戦闘能力は管理局内においても別格なのだ。この場の制圧なら、クロノであればわけはない。

 

だが、ここで暴れてしまうと管理局内でのクロノの立場が危うくなる。『陸』と『海』の仲は険悪なこともあるし、クロノがなにか弱みを見せれば、しかも『陸』の管轄内で不祥事を起こせば、『陸』の人間は必ず糾弾してくる。目の前のこの男(ブガッティ)は、率先して指弾するだろう。

 

なのに。

 

非難され、責任を追及されることがわかっているはずなのに、クロノはこうして俺の盾となろうとしてくれている。自分に降りかかる面倒ごとの一切を顧みず、こうして俺を庇おうとしてくれている。

 

その気遣いに、その優しさに、これ以上甘えることはできない。

 

でも、エリーとあかねをブガッティの手に渡したくはない。暗くて冷たい檻の中に戻したくはない。

 

まともな手立てなんてない。

 

思考が収束していく。視野が狭窄していく。

 

答えに導かれる。おそらくは、まともじゃない答えに。

 

「んっ……な、なん……だ」

 

懊悩(おうのう)する俺に、ちくりとした刺激があった。

 

会議室内の風景が遠ざかっていくような感覚。

 

頭の中に声が響いた。

 

『ここが限界でしょう、主様。圧倒的に劣勢だった状態から、相手を譲歩させたのです。これ以上を欲すれば分が悪くなります』

 

『青いのの言う通りだぜ。一つたしかなのは、ここで暴れたってなんの解決にもなんねぇってこった』

 

エリーと、あかねの声。二人が均衡を取りながら俺を魔力的に引っ張ることで、強制的に整合(セッション)状態に持ち込んだのだ。

 

『ここが限界って……だけど、このままだとお前らがっ!』

 

『食い下がったとて、あの下賤の者からは何も望めません。主様と少年執務官の立場が危うくなるだけです。意に沿わないとしても、ここは退くのが賢明かと。…………(しか)るに、私たちを渡したくないが為に、この場を暴力で解決しようなどと愚かな行動に打って出ようとするならば、その際は(はばか)りながら不肖この私、全力で主様を止めさせて頂くことを前もって宣言いたしますのでご了承ください』

 

『べつに今生(こんじょう)の別れとかじゃねぇんだ。徹が活躍して実績作って、三ヶ月後にシツムカン?とやらになっちまえばそれでまるく収まるんだろぉが。たった三ヶ月じゃねぇか。俺や青いのがこれまで生きてきた時間からすりゃ、寝て起きるみてぇなもんだっての。……ちなみに、俺も徹が馬鹿なことしでかそうとしたら止めっからそんつもりでよろしく』

 

『な、なんでっ……その条件だってクリアできるかわからないってのに……っ。仮にクリアできたとしても、もしかしたらその三ヶ月のうちに実験とか研究とかされるかもしれないんだぞ!』

 

『だからといって、ここで拳を振るったとしても状勢が好転する訳ではありません。我が主様。既に申し上げております通り、「主様に不利益が発生するかもしれないという可能性が僅かにも存在するのであれば」、私はそれを否定したいのです。出来得る限り、主様には辛く苦しい思いをして欲しくはないのです。この場で騒動を起こせば、主様の立場が危うくなってしまいます。どうかご理解ください』

 

『そういうこった。「徹に迷惑かけるようなことなんてしねぇ」。俺も言ったろぉが。だだこねても徹に迷惑かかるだけなんだ、んなことできねぇよ。……そりゃ俺だっていじくり回されんのはいやだけどよぉ、それ以上に徹の荷物になりたかねぇんだ。……察せよ、そんくらい』

 

『ぅ……っ』

 

言葉が出なかった。

 

こいつらは俺のことを本当の意味で考えてくれていたのに、俺は自分のことしか考えていなかった。

 

エリーが傍にいる日常が当たり前すぎて、あかねが傍にいる環境が楽しすぎて、二人を一時でも失うことを恐れていた。二人の気持ちも考えずに、無理を押してでも、無茶を冒してでも、無謀を通してでも、自分の信念を貫こうとしていた。

 

無思慮に無計画に動いた結果、二人が悲しむことになるかもしれないと、そこまで考えが及ばなかった。

 

『……なあ、エリー……あかね』

 

希望の光も何もない状態から、クロノが頑張ってブガッティから引き出した条件だ。台無しにはしないし、できない。

 

そしてエリーとあかね(こいつら)は、三ヶ月後、俺が必ず条件を満たして戻ってくると信じている。心の底から、信じてくれている。

 

なら、俺はーー

 

『ちょっとだけ、待っててくれるか……?』

 

ーーその信頼に、応えなくちゃいけない。

 

『絶対にお前たちを迎えに行く。少しの間だけ、待っててくれるか?』

 

懸命に言葉を絞り出す俺に、エリーは『ふふっ』と上品に、あかねは『かははっ』と荒っぽく笑う。

 

『ええ、主様が立派になって迎えに来てくださるのをお待ちいたします』

 

『ぜってー迎えにこいよな!それまでは大人しくして待っててやらぁ!』

 

『ああ……っ、見違えるくらいに立派になって迎えに行ってやる。あかねもなるべくおしとやかにな』

 

『主様の元に帰ってきた暁には、念入りに丹念で肌理細(きめこま)かなお手入れをお願い致しますっ!』

 

『今育ててる花を枯らしやがったら承知しねぇからな!俺に代わってちゃんと世話しといてくれよ!』

 

『……ああ、全部まとめて任せとけ。……じゃあな……ちょっとの間、お別れだ』

 

どうか無理だけはなさらずご自愛ください。

 

せいぜい這いつくばってあがいてくれ。

 

と、最後に二人の気持ちが溢れんばかりに込められた激励の言葉を頂いた。

 

その言葉を境に、近くに感じていた二人の魔力がどんどん遠ざかっていく。

 

気がつけば、意識はふたたび会議室に戻っていた。整合(セッション)が解除されても、右手首と胸元には彼女たちの温もりが(ほの)かに残っていた。

 

「…………はぁっ」

 

これから二人と再会するまで、最短でも三ヶ月もある。その三ヶ月の間、彼女たちの温もりと贈ってくれた言葉を忘れないように、ぎゅっと瞑目(めいもく)して心に刻みつける。

 

数秒ほど固く目をつぶり、そして開く。まぶたを開いた頃にはもう、覚悟は決まっていた。

 

「クロノ、あいつらとの挨拶はもう済んだ。ありがとう」

 

「…………僕の手抜かりだった。……すまない」

 

俺が感謝の意を述べると、クロノは俺がどういう答えを出したのかすぐに理解したようだ。杖を下ろし、項垂(うなだ)れた。

 

大活躍どころではないほど活躍してくれたのに申し訳なさそうにするクロノの頭に、ぽんと手を置く。

 

「いや、クロノのおかげで希望の糸が繋がったんだ。本当に、ありがとうな」

 

プライドが高く、子ども扱いを嫌うクロノだが、今回は俺の手を払いのけようとはしなかった。

 

感謝していることが伝わったのか、クロノは下唇を噛み締めてはいるが顔を上げてくれた。これだけ俺を助けてくれているのに、自分の力が足りなかったことを悔やんでいるようだ。

 

俺の先輩は優しいなあ、泣けてくるよ本当に。

 

「自分の手で渡す。あんたたちの杖は必要ない」

 

クロノが杖を下げたことで警備員もどきの局員二人が停止させていた足を性懲りもなくこちらに向けようとしてきていたので、敵意やら害意やら殺意やらいろいろ乗せた眼光をそちらに放っておいた。局員お二人は俺のお願いを聞いてくれたようでなによりだ。

 

無力感と敗北感を一歩一歩踏みしめて噛みしめながら、ブガッティに近づき、正面に立つ。

 

「…………エリー、あかね」

 

名を呼ぶ。しばしの間かたかたと惜別の情に揺れた。かちり、とネックレスとブレスレットの台座から外れる音が鳴った。

 

服の首元と袖口から、空色と夕焼け色の綺麗な石が浮かびながら現れる。二人は直進し、手のひらを上に向けたままのブガッティの手にゆるやかに移動し、降り立った。

 

「はい。たしかに受取りました」

 

ブガッティは前もって用意していたのか、テーブルの下からアタッシュケースのような箱を取り出し、その中にエリーとあかねを入れた。

 

ケースを閉める間際、見えてしまった。怯えるように、悲しむように、不安げに揺れる二つの光を。

 

咄嗟に拳を握り締めた。振りかぶってしまいそうになった腕を、必死の思いで食い止めた。

 

「……扱いには充分にご注意を。あなたの身の安全が保証できませんから」

 

「粗雑な扱い方をすればこのロストロギアが暴走する、と?」

 

「いいえ。その二人に傷でもつけようものなら、俺があなたをただでは置かないって意味です」

 

「はぁ、そうですかぁ。細心の注意をしておきますねぇ。では用件は済みましたのでお帰り下さって結構ですよ」

 

俺の捨て台詞など歯牙にもかけず、ブガッティはどん、と音を立ててアタッシュケースを床に置き、扉に視線を向けながら俺とクロノに退室を促した。

 

そこからはクロノに連れられてアースラまで戻ったが、どうにも記憶が曖昧だ。ブガッティに殴りかからなかったことは覚えているが、失礼します、と体裁を取り繕ったかどうかすら記憶にない。

 

アースラに帰艦して落ち着いた時、痛みを感じた。ふと見れば、右手を強く握り締めすぎて出血していた。

 

でも、右手の肉が裂けていたことよりも、シンプルなデザインのネックレスとブレスレットが軽くなってしまったことのほうが、泣いてしまいそうになるほど、痛かった。

 




停滞は衰退に等しい、らしいです。

平和な日常は、危険な非日常があってこそ。いつまでものほほんとしてはいられませんよね。

一般人に近い若者にロストロギアを二つも持たせるほど、時空管理局は寛容ではないだろうし、危機感も希薄ではないと考えております。逆に持たせ続けている方が違和感があるなー、と。どうせ管理局からの干渉を避けられないのなら、と割り切っていろいろぶち込んでいくことにしました。よろしくお願いいたします。

お迎えしたい子がいるのです……


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『さよならだけが人生だ』

わりと前からオリジナル要素も紛れ込んでいましたが、ここからオリジナル色が強くなります。
原作から離れたストーリーに果たして需要があるのかどうかはわかりませんが、読んでやるよという寛容な方はどうぞよろしくお願いします。


 

嘱託魔導師の認定試験を受け、その後ブガッティにエリーとあかねを奪われてから、およそ一週間。俺は二人を取り戻すため、クロノやリンディさんに協力を仰いで勉学や訓練に奮励し、その合間を縫って(ブガッティ)の弱みを握ろうと調査していた。どうせ奴のことだ、俺が条件を満たしても難癖つけて認めようとはしないだろう。その時になんの手札もなければ好きなようにされるだけ。武器を用意しておく必要があった。

 

クロノが調べてくれたところによると、アロンツォ・ブガッティのとんとん拍子の出世には後ろ暗いところがあると噂されている、らしい。ブガッティが魔法を使えないという点も、その栄進の不可解さを助長している。

 

魔法を使えない局員はそこそこの割合でいるらしいが、魔法を使える局員のほうが出世するスピードは圧倒的だ。有能な魔導師が集められる『海』ともなると殊更に。

 

立身栄達の差にも『海』と『陸』の確執(かくしつ)や不和の原因が潜んでいるが、そこはひとまず置いておく。

 

話の肝は、『海』のエリート魔導師に引けを取らないブガッティの出世の早さ。それは異常とも呼べることだった。

 

しかしまだ、関わっている職務が前線の指揮や部隊の管理統率なら、見合うだけの優れた能力があれば昇進できる可能性は残されている。事実、さほど能力の高くない部隊だったのに巧みに運用したことで最大限の戦果を叩き出して出世したという前例もある。

 

だが、ブガッティの仕事はそういったものでもない。まず本人が名乗った通りに古代遺物管理部に籍を置き、査問委員会なるものの委員長を務め、局員の装備品の開発に携わる部署や、ついこの間までは司法に関する部署にも出入りしていたとのデータも残っていた。

 

かなり手を広げているようだ。影響力もそれ相応に、といったところだろう。

 

とはいえ、管理局で早く昇進する局員は戦いに関連する魔導師ばかりのである。華々しい活躍や派手な印象を残すことはどこも難しいように思う。

 

ちなみに、管理局の各部署への出入りの履歴情報などが一介の嘱託魔導師に許されているわけはない。よって、いつも通りアースラのデータベースから不正アクセスして盗み()た。電子情報への侵入の痕跡を残さない手際において、他の追随を許さない自分がちょっと残念ではある。

 

俺の話はさておいて。

 

有能さや仕事の成果をアピールする場がなければ上役に取り立ててもらうことはできない。ブガッティは魔法の才こそないが、現在の仕事の面においては優れた能力を持っているようだ。しかし、アピールする場がなかった。なのにどんどん昇進している。

 

そこを奇妙に思い、調べ進めると、さらにおかしなことが見つかった。

 

『おかしなこと』というより『おっかないこと』のほうが的を射ているかもしれない。

 

ブガッティの直近の上司、役職がすぐ上の人間という意味合いになるのだが、その上司たちの(ことごと)くが、なんらか(・・・・)の事情でいなくなっているのだ。理由もまた胡散臭いものがある。自主退職や他部署への異動などは、まぁそんなこともある時はあるのかな、と思えるが、不祥事が原因の解雇や、果ては事故によって亡くなった、なんてものまであれば、きな臭さを感じざるをえない。

 

偶然と呼ぶには、あまりにもブガッティに都合が良いように重なりすぎている。不可解を通り過ぎて因果関係があると断言できてしまいそうなほどだが、半端な年齢での自主退職も、時季外れの異動も、不祥事が理由の解雇も、不審な事故死すら、処理は適正に行われていた。以降、事故死について捜査されたなどと記述もなかった。

 

ブガッティは罪に問われていないどころか、疑われてすらいないようだ。(いぶか)しむ人はいなかったのだろうか。

 

結果として、上司がいなくなって空いたポストにブガッティが座ってきていた。

 

本人の才覚もあるだろうが、ブガッティの出世の早さは空恐ろしいまでの幸運(・・・・・・・・・・)によるものだった。

 

確実に、アロンツォ・ブガッティには裏がある。それも、黒よりもどす黒い裏が。

 

データベースのもっと深くまで調べてブガッティの裏の顔を暴きたかったが、集積されている情報の量に加えて閲覧制限がかかっているページも多く、手掛かりを掴むにはもう少し時間が必要なようだ。

 

 

エリーとあかねを取り戻すための条件として、執務官試験に合格する、というものがある。

 

この執務官試験がそもそも難関も難関、超難関。この執務官試験は筆記と実技の二つの試験があるらしいが、合格率は驚異の(あるいは脅威の)十五パーセント以下。しかもこれは一つ一つで十五パーセントなのだ。つまり筆記試験単品の合格率が十五パーセント、実技試験単品の合格率が十五パーセントなので、同時に受験して両方合格できる確率はさらに低くなる。

 

さらに恐ろしいことに、あくまでこれはエリーとあかねを助けるための最低条件なのだ。

 

執務官試験に合格するのがまず前提。肩書きを得て、エリーとあかねを任せてもらえるだけの信用を勝ち取らなければいけないのだが、これらに加えてもう一つ、実績も条件となっている。

 

実績に関してはどの程度の仕事をこなせば良い等といった基準のラインが明言されてない。任務の(危険度合い)なのか、それとも任務の(こなす回数)なのか、いまいち確然としていないのだ。

 

ともあれ、はっきりと明文化されていなくても嘱託魔導師になれた今、まずはとにかく動き始めなければならない。

 

先週、ブガッティとの折衝(せっしょう)を終えてアースラに戻ったのち、俺はクロノにお仕事の話が耳に入ったら俺にも回してくれ、と頼んでおいた。平日は学校があるのでどんなに時間を確保しようとしても必然的に、金曜の夜から月曜の早朝までになってしまうのでかなり無理のある話なのだが、それでもクロノは意を汲んで俺の都合に見合う仕事の依頼を用意してくれた。もうこれは数年単位でクロノに頭が上がらないレベルの借りである。

 

そして本日、五月二十四日。依頼された任務を受けることになっている。アースラでも書類作成やデータの管理・整理など事務員さんみたいなお手伝いはしていたが、正式なルートからのお仕事は今日が初めてなのだ。

 

その任務の概要としてはこんなもの。

 

とある辺境の地にある街が荒くれ者の集団に襲われた。その荒くれ者たち自体は、先んじて派遣された空戦魔導師数人があらかた制圧したらしいが、街の中に荒くれ者の残党や住人が生き残っているかもしれない。仕事が山積みで多忙な空戦魔導師に街の調査をさせるほど余裕はないので、『陸』の魔導師たちとともに街の調査をして、荒くれ者たちが残っていればその掃討と、生存者の捜索と保護をしてこい。

 

要約すればだいたいこんな感じ。

 

結構な大人数で向かうらしく、アースラを三段階くらい劣化させたような、人員を送り込む以外の性能には目をつぶりましたみたいなお粗末な艦船に乗り込み移動。おそらく、野菜や果物を出荷するトラックよりも環境は悪い。アースラの快適さに慣れてしまっている俺には苦行であった。

 

目的地であるサンドギアという街の北に広がる平地に降り立ち、そこで今作戦の部隊の編成とメンバーとの顔合わせが行われる予定となっていた。

 

「……さて、そろそろ時間なわけだけど……」

 

顔合わせが行われる予定だったのだが、そこで見知った顔があった。

 

「よかった、僕も兄さんと同じ部隊に配置されたみたいですね」

 

「なんでこんなとこにいんの……ユーノ」

 

黄土色の髪と、女の子と見紛うほど整った顔立ち。小柄な身体に民族衣装を纏った少年。

 

ユーノ・スクライアが、そこにいた。

 

ユーノが第九十七管理外世界に、つまりは俺やなのはがいる地球にいたのは、遺跡から発掘されたロストロギアーージュエルシードを管理局へと輸送する際、原因不明(・・・・)の事故が発生して地球は日本の海鳴市にばら撒いてしまったからだった。海鳴市付近に散らばった全ジュエルシードの回収は叶わなかったが、ほとんどのジュエルシードが虚数空間に捨てられた形となったので、危険性を取り除くという根本的な目的を果たすことはできた。

 

ユーノが抱えていた問題はもう解決しているのだ。ユーノ自身の魔導師的素質が高いせいで忘れそうになるが、専門は考古学で、本職は遺跡の発掘作業員。ジュエルシードの問題を解決して安全が確保されたのだから、元いた場所に戻るのも本人の自由だし、こんなに一緒にいたのにすぐ帰ってしまうなんて薄情だ、などと言うつもりもない。

 

事件が解決してこれからユーノはどうするんだろう、とここ最近考えていたけれど、今この場にいるということは、管理局に入局するということなのだろうか。

 

「僕がいる理由、ですか?だいたい兄さんと同じだと思いますが。あとは……そうですね、僕とクロノで喋ってる時にちょうど兄さんの話になったんです。兄さんが初めて任務に就くとか心配だなー、って」

 

「俺年下二人に心配されてたの?!」

 

「任務の内容自体はともかく、隊内での上下関係とか人間関係とか大丈夫かなー、って」

 

「しかも心配される内容は俺の人間性についてだったのか……」

 

「なのでタイミングもよかったので、クロノを通して僕も申請しておいたんです」

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ……。だったら……あれか?俺を気遣ってお前はこの仕事を受けたってことか?内心めちゃくちゃ嬉しいけど、でも、これからの人生に関わってくることなんだからもっと自分本位に考えてくれよ。自分の選択の責任を取れるのは、自分以外にいないんだからな?」

 

わざわざ自分の時間を削って来てくれたユーノに対して素っ気ない上に厳しい物言いになってしまったが、それでもここだけははっきりと口にしておく。

 

『さよならだけが人生だ』とは言うが、やはりお別れするのは寂しい。寂しいけれど、そんな俺個人の感情で引き止めることはできないのだ。

 

仲が良いと、自分の道と同じ方向について来てほしいと思ってしまいがちになるが、きっと、それではいけないのだ。仲が良い相手ほど幸せになってもらいたい。たとえ頻繁に顔をあわせることができなくなってしまったとしても、本人にとって幸せになれる人生を歩んでほしい。

 

俺はユーノに、自身の夢や、やりたい事を押し殺してまで一緒にいてほしくない。

 

突き放したような言い方だったが、ユーノはくすくすと口を押さえて笑った。

 

どこに笑えるような要素があったのかと首を傾げる俺に、ユーノは平然と言う。

 

「すいません。兄さんのことだから、そういう注意をされるだろうなぁってクロノと一緒に話していたんです。やっぱり注意されちゃいました。でも僕、最初に言いましたよ?だいたいのところは兄さんと同じ理由だって。僕も……この繋がりを絶ちたくないんです。『知り合えた仲間とあっさり別れたくない。仲間に必要とされたい』。……安心してください、無理をしているわけではないですから。僕の理由も『ただの欲』ですから」

 

『知り合えた仲間とあっさり別れたくない』、『仲間に必要とされたい』、『ただの欲』。どこかで聞いたようなセリフだ。どこかで言ったようなセリフだ。というか、俺が口走った黒歴史だ。ひた隠しにしておきたかった赤っ恥だ。

 

汗がぐわっと出た。顔どころか全身が熱い。

 

わしっとユーノの頭を両手で掴む。これは追及せずにはいられない。

 

「なんでっ、お前もっ、知ってるんだよっ!あれからリンディさんにもクロノにも言い触らすなと口止めしたのに!」

 

「わわっ。なんでって……クロノが、嬉しそうに、言ってましたからっ。たぶんっ、もうアースラの人たちみんなに伝わってるんじゃないですかっ?」

 

「なんで約束破って言い触らしてんだあいつ!」

 

「僕が聞いたのはずいぶん前なのでっ、もしかしたら兄さんが口止めをする前だったかもっ、知れませ……ちょっ、兄さ……頭がぐらぐらしますっ!」

 

ユーノの頭から手を離し、今度は自分の頭を抱える。どうしよう、周囲の人の目が怖くてもうアースラに戻れない。こんな毒みたいにじわじわ効いてくるパワハラとかあるのかよ。

 

「みんなに伝えたくなるくらい、クロノも兄さんの言葉が嬉しかったんですよ」

 

「それは言い訳にも理由にもなんねえよ……」

 

「少しだけとはいえ僕のほうが付き合いが長いのに、クロノには言って僕には言ってくれないというのはちょっとだけ……ちょっとだけ、不満ですけど……」

 

「なんで拗ねてんの」

 

リンディさんだけではなく、アースラの局員さんたちにもこの話が知れ渡っているとかかなり恥ずかしいが、とりあえず近い将来の不安は脇に置くとしておこう。

 

「まぁ、ユーノが自分で決めてここにいるってんなら俺からはもうなにも言わねえよ。頼もしいし、いつ怪我しても大丈夫だしな」

 

「頼もしいと言われるのは嬉しいですけど、だからって無茶はしないでくださいよ?治癒魔法にも限界はあるんですから」

 

「おっけおっけ、だいじょぶだいじょぶ」

 

「あ、これは聞いてないやつですね」

 

俺の存在が影響してユーノが管理局に入ろうとしてるのならもう今一度考え直すように説くところだったが、話を聞く限りにはどうやらそれが全てでもないみたいだ。

 

ユーノは戦闘も行えるが、どうしても能力的に後衛に回る。がちがちの戦闘向けというわけではないので管理局内のどういった職種に就くのかわからないが、それでもユーノ自身が管理局で働くという道を選んだのなら、俺からあれこれと口を挟むべきではない。

 

もとより小言を言っていたのも心配だったからであって、文句などありはしなかったのだ。こうして共に働くことができてとても嬉しく感じているのもまた事実。

 

クロノと同様、ユーノとも長い付き合いになりそうで緩みそうになる表情筋を意識して引き締め、ユーノと一緒に指示された部隊の集合場所へと赴く。

 

「なにかほかの部隊とはちがいますね。おもに表情と年齢が」

 

「この人員の配置にはなんか意味があんのかね。たぶん平均年齢をグラフにしたら、俺らの班だけがくっと頭が下がってんだろうな。軽く十以上歳の差があると思うんだけど」

 

集合場所に到着したのだが、道すがら眺めていた他の部隊とは空気が異なる。他の部隊はだいたい二十代後半から三十代以上という外見の人が多かったのに比べて、俺とユーノがお世話になる部隊は(俺とユーノを含めて)経験の浅そうな若い人ばかりだ。不安げにきょろきょろとしている者も多い。二十代前半に見える『陸』の制服を着ている人の次に年長者にあたるのは、俺よりも二つ、三つくらい年上に見える、大きなケースを持っている背の高い人くらいだ。女の子もちらほらいるし、中には十代前半くらいの者もいる。いや、ユーノがいる時点でおそらくユーノが最年少だろうけれど。

 

「ここの部隊だけほとんどが外部からの補充みたいです。嘱託の魔導師や、あとは研修中の『海』の隊員が割り振られているみたいですね」

 

「え?『海』と『陸』で一緒に任務やってんの?仲悪いって聞いてたんだけど」

 

「あはは……まあ仲良くはないですね。そのわけがここにもあるんです。『海』の新米局員が『陸』の部隊に入って経験を積んで、一人前になったら出ていって『海』の職務につく……という流れだそうで」

 

「『海』のほうが過酷な仕事が多い……だから比較的安全な『陸』で場数を踏んでから、ってことか。そりゃ『陸』の人らは腹立つわ。どれだけ取り繕っても結局は踏み台にされてるわけだしな」

 

オブラートを突き破る俺の発言にユーノが苦笑いを浮かべた。

 

ちらと周囲を見やると、一人、目を引く隊員がいた。目を引くと言っても悪い意味でだが。

 

「俺ずっと気になってたんだけどな、なんでこの任務を取り仕切ってる『陸』の局員たちはみんな総じてだるそうなわけ?やる気がねえの?睡眠不足なの?数時間前に違う仕事をこなしてきたの?おなか痛いの?」

 

唯一の二十代前半の局員。かすかに彩飾された制服から察するに部隊長さんなのだろう。その局員さんを視界の端に入れながらユーノに質問する。

 

面倒な役割を命令された部下みたいな不満げな顔と、真剣味皆無な態度のこの局員さん。もしかしたらこれから戦闘があるかもしれない場所へと向かう部隊、そのリーダーとは到底見受けられない体たらくに、俺も不安がいや増してくる。

 

「おなか痛いって子どもですか。たぶんですけど……もっと大きな事件を担当したいんじゃないですか?」

 

話の内容が内容なので、声のボリュームを絞ってユーノが囁く。近くに(くだん)の『陸』の局員もいるのだ。彼らの耳に入って叱責を受けるのも馬鹿馬鹿しい。

 

ユーノの推測に、俺は呆れながら返す。

 

「なんだそれ……。つうか今回のお仕事は大きくねえの?」

 

「よくあるらしいですよ。その名の通り、管理局が管理している地域はとても広いので、今日くらいの任務は多いんです。そして一番評価される部分、ならず者の制圧という華やかな部分のお仕事はすでに空戦魔導師が持って行っています。残っているのは調査だけ。もちろん生存者の捜索は大事なことなんですけど、これをがんばったところで一気に昇進が近づくわけでもないんです。『陸』の人たちのモチベーションの低さはそういう理由かと」

 

「ほぉう……華々しいお仕事を回してもらえなくて出世できないから、と。気持ちはわからんでもないけど、なんかなあ……」

 

ここまでくれば、この二十歳そこそこの部隊長さんがなぜこんなにも無気力なのか推測できる。

 

おそらく、先輩にひよっこの新米たち(俺たちのこと)の指揮を押し付けられたのだ。上司に命令されて、断ることもできずに今に至るってとこだろう。常識に照らし合わせると、新人の監督指導をこそ上司や先輩など経験豊かな人が担うべきだと思うが。

 

「おう、注目」

 

合計十人ほどか。周囲に人が集まると隊長さんは実に緩慢な動きで立ち上がり(驚くべきことにこの人、手近にあった大きめの石の上に座っていたのだ)、覇気のない声をあげた。隊のメンバーの視線が集まったかどうかも確認せずに続ける。

 

「俺はこれから今回の任務の司令官と他んとこの隊長たちと、街のどこの地区を担当するかのミーティング行ってくっから、適当に顔合わせやっとけよ」

 

注意して耳を(そばだ)てなければ聞き取れないほど小さな声で、なんなら本当に部隊のメンバーに聞かせようと思ってんのかと疑問を抱いたほど小さな声で、返事も待たずに言い捨てて歩いて行った。

 

隊長さんが足を向けている方向、その先へと視線を送ると、妙に大きな天幕が張られていた。天幕の入口には局員が二人立哨(りっしょう)していることから、あの天幕の中に今回の任務の総指揮権を握る司令官が座していて、今は他の部隊の隊長さんたちも集まっているのだろう。ていうかなんでそのミーティング終わらせてなかったの。時間ならここまでの道中のどこかであったでしょ。

 

「なんなの、あの腑抜け。真面目にやろうって気がかけらも見えないんだけど!」

 

なんか段取り悪くないか、と心配になったのは俺だけではなかったようだ。憤慨(ふんがい)したような、きんきんとよく響く罵声が近くで聞こえた。

 

声の主を見やる。まだ幼さを残す女の子だった。

 

気の強さを表すように少しつり上がった(まなじり)と、負けん気の強さを示すようにツンと上を向いたお鼻が愛らしい、中学生くらいの歳の頃の少女。淡い赤色の髪を頭の後で編み込み、綺麗な装飾が散りばめられたバレッタで留めている。

 

あごを引いて睨みつけるような視線で腕を組んでいるその少女は、むすっと唇を尖らせていた。

 

一応は上司にあたる隊長さんに対してなかなか切れ味鋭く切り込んでいくなー、と俺が呆気に取られていると、少女の連れらしき少年が少女の口を押さえた。もっとも、少年が話し始める前に、少女のほうは口を押さえていた少年の手を振り払ってしまったが。

 

「や、やめなよ、アサレア……。僕たちの部隊の隊長さんなんだから、そんな言い方はだめだよ……。それに、周りの人にも聞こえちゃうし……」

 

「かまわないわ!きっとこの有象無象たちも同じこと思ってるでしょ!」

 

少年から顔を背けて指先で頬をなでながら、アサレアと呼ばれた少女はわりと大声で言う。空気が若干ぴりっとした。

 

なんとまあ、言葉を選ばない子だ。

 

「だ、だから、これから一緒に仕事する人たちにそんな言い方は……」

 

「もうっ、うるさいわね!クレインはいつも人の顔色ばっかり見すぎなの!こういう実力主義の世界じゃあね、我を張らないと上に立てないのよ!」

 

男の子のほうはクレインというらしい。

 

耳にかかる程度の深い赤色の髪、端整な顔立ち、穏やかさを引き立てる垂れがちの目尻。アサレアちゃんと並ぶと、クレインくんの優しげな雰囲気が際立つ。

 

しかし、なんだろうか。この少年少女を目にするのは初めてのはずなのに、奇妙な既視感(きしかん)がある。少年の柔和な物腰、少女の端整な顔立ち、両者の赤っぽい髪色。記憶のどこかに引っかかっている。

 

「アサレアが我が儘すぎるんだよ……。レイジ兄さんはそんな自分勝手なことをしろなんて言ってなかったし……」

 

「このあんぽんたん!そのレイ(にい)の負担を減らすためにわたしたちは管理局に入ったんじゃない!それなら、まずは活躍して実力を認めてもらわなきゃダメでしょ!そのためには目立たないといけないの!いくら優秀でも、活躍を上の人たちに見てもらえなきゃ意味ないのよ?そんなこともわかんないの?!」

 

「……目立たなきゃいけないっていう理屈はわかるけど、それと失礼なことを言うのとはまた違うよ……」

 

「ううううるさいっ!」

 

レイジという名でぴんときた。

 

俺は十人弱の人間の集まりの中でぽっかりと孤立している二人に歩み寄る。

 

「なあ、君た……」

 

「なっ……なにゅよっ!な、なんか文きゅあったわけ!?ぜんぶじ事実なん、なんだからっ!わたしは優秀なのよっ!こんなとこでくすぶってるあんたらとちぎゃって!……ちがって!」

 

「す、すいませんっ!本当にすいませんっ……アサレアいい加減にして!謝りなさい!」

 

「なによっ!兄貴面しないで!ほんの少し早く産まれたくらいで!」

 

「え、いや……」

 

大胆なことを大声で話していた途中にいきなり俺が割って入ってしまったので、どうやら二人は怒られると思ったらしい。アサレアという少女は動揺し、クレインという少年は萎縮してしまった。

 

違うんだ。俺は別に怒ろう、驚かそうというつもりはなかったんだ。『君たちもしかして』と声をかけようとしただけなんだ。というか、少年少女の過剰なリアクションに、逆に俺が驚いたくらいだ。

 

明らかに年下の男の子と女の子を怯えさせる目つきの悪い男の図のおかげで、これまで遠巻きで二人を疎ましそうに眺めていた他の隊員は鮮やかに手のひらを返し、なんだあいつ大人げないな、みたいな白眼を俺にぶつけてくる。

 

やめろ、俺が悪いみたいな空気を作ろうとするな。というかユーノも俺から距離を取って自分は無関係ですみたいな雰囲気を(かも)すな。助けろよ。

 

「わ、わたしっ、謝らない……からっ!ま、まちがったこと、言ってないもん!」

 

「ばか、アサレア!…………怖い人だったらどうするの……っ!」

 

クレイン少年がアサレア少女を(たしな)めながら耳打ちする。二人の状況を考えれば焦るのはわかるけれど、『怖い人だったら云々』というのは俺に聞こえないようにしたほうがいい。むしろ聞こえないようにしてほしい。俺が無駄に傷つくことにしかならない。

 

このままだと、年下二人をいじめてる最低野郎として俺の人格評価が底を割ってしまいそうだ。これ以上俺の評判を悪くしないため、そして話を進めるため、努めて穏やかな声で二人に対する。

 

「大丈夫だから、怒るつもりも叱るつもりもないから、とりあえずちょっと落ち着いてくれ。もしかしたら知り合いの関係者かもしれないと思って話しかけただけなんだ」

 

そもそも俺は、アサレアちゃんの不敵な振る舞いに関して特になにも気にしていない。もちろん同じ部隊のメンバー相手に礼節を欠いた発言は口に出すべきではなかったし、少なからず思うところがあっても可能な限り心の中に留めておくべきだった。そういった点では、アサレアちゃんの態度は改めたほうがいいし、大人が注意なり忠告なりしなければならない。

 

でも、アサレアちゃんの角度によっては横柄にも捉えられかねない言動は、その実、演技みたいなものなのだ。

 

彼女はまだ経験が浅いのか、もしくは俺と同じく今日が初の任務なのだろう。優秀だなんだと嘯くのもーー本当に優秀なのかもしれないけれどーー不安や動揺、自信のなさを隠すためのビッグマウスだ。自分ならできると奮い立たせるための自己暗示に近い。

 

そういう深層心理が身体の動きにも表出していた。

 

必死に強がって弱音を隠そうとしている姿勢に、すこし好感を覚えたくらいだ。大きな犬に立ち向かう仔猫みたいな可愛さがある。

 

「誰よ!わたしはあんたみたいな犯罪者面に知り合いなんていないんだから!」

 

可愛さはあるが、この仔猫は舌に毒でも持っているようだ。ひたすら口が悪い。

 

一応、出来得る限りの親しみやすいお兄さんを演じたのだが、やはり慣れないことはしないほうがいい。俺の心遣いは少女に届かなかったようだ。

 

「いい加減にして、アサレア。ちょっと頭冷やして。……すいませんでしたっ、妹が失礼なことばかり……」

 

アサレアちゃんを背中で押し出しながらクレインくんが俺の正面に立つ。申し訳なさそうに頭を下げた。

 

会話を盗み聴いている限りでは、この二人は兄妹らしい。苦労性なお兄ちゃんだ。困った姉を持つ俺としては同情の念を禁じ得ない。

 

「いや、いいって。……たしかに多少傷つきはしたけど。そういえば名乗ってもいなかった。俺は逢坂徹。そんであそこにいる小さいのが……」

 

「僕はユーノ・スクライアといいます!兄さんが前衛、僕が後衛のツーマンセルでやってます!」

 

「……いきなり戻ってきた上に大胆な嘘をついてんじゃねえ」

 

「えっと……ご兄弟ですか?あまり、その……」

 

「顔は似てないんです。よく言われるんですよ!」

 

「なにさらっとでまかせ言ってんだ。だいぶ久しぶりに言うけど兄弟じゃないからな」

 

一番助けてほしい時に見捨ててくれやがったユーノの頭をわしわしする。

 

当のユーノはなにが楽しいのか笑っていた。いったい誰の影響か、ずいぶんしたたかになったものである。

 

「そんで、君がクレインくんで、後ろの女の子がアサレアちゃんでいいんだよな?」

 

「っ!なんで名前知ってるのよ!」

 

「いやいや、あんだけ騒いでりゃ会話の内容も聞こえるって」

 

「盗み聞きしてたのね!?この変質し……」

 

「頭冷やしててって言ったでしょ。落ち着くまで黙ってて」

 

クレインくんに叱られたアサレアちゃんは深く気にしたふうもなく、しかしぶつぶつと文句を呟きながらではあるがクレインくんの背後に戻った。

 

なんだかとんでもない冤罪をアサレアちゃんから被せられそうになった気がする。

 

「二人とも、レイジ・ウィルキンソンって人のこと知ってる?」

 

俺がそう尋ねると、クレインくんは驚愕に目を見開いた。後ろにいるアサレアちゃんの耳もぴくっ、と反応した。本当に猫みたいだ。

 

「知ってます!知ってるというか家族です!ぼくたちの兄なんです!」

 

「やっぱりそうだったんだな。髪の色とか顔の作りとか似てるなって思ったんだ。決め手はレイジさんの名前が出たからだけどな」

 

「あ、ほんとに似てますね。顔かたちもそうですけどクレインさんは雰囲気がとてもレイジさんに似ています。それにしても、レイジさんにはご兄弟がいたんですね。知らなかったです」

 

「プライベートな話を率先してするタイプでもないだろ。でも、今思えばレイジさんのあの面倒見の良さは弟や妹がいたからなんだろうな。なんか納得したわ」

 

「……ところでお二人はどこで兄と面識を?」

 

「どう言えばいいんだろうな……ちょっと前に俺と、あとユーノも、とある事件に関わったことがあるんだけど、その時に世話になったんだ。まさかこんなところでレイジさんの兄妹と一緒に仕事することになるとは……」

 

「こんな巡り合わせもあるんですねー」

 

「……なあ、ユーノ」

 

「なんですか?」

 

ふと気にかかることがあり、ユーノに耳打ちする。

 

「……このウィルキンソン兄妹も、クロノの差配だったりしねえかな?」

 

「……さすがにそこまではしないんじゃないですか?いくらクロノといっても、やれることには限りがあるでしょうし」

 

ユーノの一件もあるので、これもクロノが根回しというか、手を回していたのかと一瞬勘繰ってしまった。さすがにそこまではしないか。

 

そこからしばらくウィルキンソン兄妹と雑談していた。といっても(アサレア)ちゃんのほうはほとんど会話に参加してくれなかったので、主に(クレイン)くんと、だが。

 

俺の乏しいコミュニケーション能力を遺憾なく発揮していると、こちらに歩いてくる人影があった。

 

俺よりも十センチ以上高い身長、すらりとした細身のシルエットはファッション誌からそのまま出てきたかのようだ。スタイルだけではなく、顔貌(かおかたち)も端整で、一見しただけでは男性か女性か判断できないほどの美形である。怜悧な印象を受ける切れ長の眦に、黒目の大きな瞳。鼻は一本筋が通っていて、手入れが行き届いているのか肌なんて珠のようにきめ細やかだ。こちらに歩み寄る姿もとても優雅で、立ち居振る舞いは堂に入っている。

 

右手になにやら大きなケースを持っているその人は、俳優や女優なんかよりも自然に微笑み、くすみのない真っ白な歯を嫌味なんて感じさせずに見せながら、とても低い声(・・・・・・)で話しかけてきた。

 

「こっちには可愛い男の子がたくさんいるわねぇ。私もご一緒していいかしらん?」

 

女性か男性かわからなかったが、どうやらどちらも不正解のようだ。

 

「……ってオネエじゃないのっ!」

 

とても強烈な衝撃が走って返事ができなかった俺やユーノやクレインくんのかわりに、みんなが思っていたことをはっきりくっきりドストレートにアサレアちゃんが代弁してくれた。

 

その正直すぎる感想に、()は唇を尖らせた。

 

「なによ、悪いの?言っときますけど、身体は男でも中身はお嬢ちゃんより女らしいわよ」

 

「そ、そんなのわかんないじゃないっ!わたしがどれくらい女子力高いかなんて、あんたは知らないでしょ!」

 

「そうやって大声張り上げてる時点で女子力なんてたかが知れるわぁ、お嬢ちゃん?」

 

「こんっの男はっ!」

 

「そんな呼び方やめてほしいわぁ。私のことは親しみを込めて『ランちゃん』って呼んでちょうだいな」

 

「なにがランちゃんよ!二メートル近いでか男のくせに!」

 

「二メートルもないわぁ、百九十二センチよ」

 

「そんなのわたしから見たらたいして変わんないわよ!」

 

「そうね、お嬢ちゃんはちんまいものね。いろいろと……」

 

「どこ見て言ったの!わたしのどこを見てちんまいと言ったのよぉ!」

 

アサレアちゃんは寂しい胸元を手で隠しながら目を剥いた。魔法の素質に自信はあっても、プロポーションには自信がなかったようだ。

 

なんかもう状況がよく分からないけど、この自称『ランちゃん』さん、すごい。デフォルトで言葉にとげがついてくるアサレアちゃんを手玉に取っている。手玉に取ってるところもすごいんだけど、それ以外にもなんかこう、パンチが強い。アクが強いとも言える。

 

「……兄さん、とても濃厚な個性を持った人がきましたよ」

 

「濃厚な個性……言い得て妙だな。あんまり今の話題に関わりたくないけど収拾つかなくなるからどうにかするか……」

 

ちょっとした覚悟をしながらアサレアちゃんと『ランちゃん』さんの舌戦に介入する。

 

「アサレアちゃん、ちょっとクールダウンしようか。ここで騒ぎすぎて目をつけられても損するだけだぞ?」

 

「なによ!わたしはずっとクールなんだから!大人なんだから!」

 

「今のところクールで大人な要素は見受けられないんだけど……まぁ、大丈夫だって。気にしなくてもいいんだよ」

 

「なにがよ!はっきりと言いなさい!」

 

「十六から十八歳くらいで急に胸が膨らんだっていう実例を俺は見たことがあるから、まだ若いアサレアちゃんが悲観する必要は……」

 

「うっさいわぁっ!」

 

ちんまいアサレアちゃんの右ストレートが俺の腹部に食い込んだ。なるほど、大口を叩くだけの実力を彼女は持っているらしい。

 

『悲観なんてしてないわよぉっ!うあぁぁんっ』と叫び声を残し、アサレアちゃんはどこかへ走り去ってしまった。クレインくんは俺に苦み走った笑顔を見せて会釈し、アサレアちゃんを追いかけた。

 

君の成長はまだまだこれからだよ、という意味で元気づけようと思ったのだがどうやら失敗したらしい。年頃の女の子はどうにも気難しい。

 

「あのお嬢ちゃん、いい拳持ってるわねぇ。……徹ちゃん、大丈夫?」

 

油断していたところにアサレアちゃんからもらった一撃で俺が膝をついていると、濃厚な個性を持った人こと『ランちゃん』さんが手を差し伸べてくれた。それは細くて長い指だったが、やはり男らしいがっしりとして大きな手だった。

 

「あ、ありがとうございます。俺の名前知ってるってことは、やっぱり俺たちの会話はそちらにまで聞こえてたんですか?」

 

「ええ。とても賑やかだったもの。後は、徹ちゃんたちの他に喋っている人がいなかったというのもあるわねぇ」

 

口元を隠しながら『ランちゃん』さんは、陰気でいやになっちゃうわ、と笑った。その仕草は板についていて品があったが、やっぱり声は低かった。

 

「い、一応改めて自己紹介を……。俺は逢坂徹です。後ろのちっこいのはユーノ・スクライア。あなたは?」

 

目の前の彼が俺よりも年上だろうことはわかるし身長の差もあるが、それにしても妙に気圧される。あと背中に変な汗をかく。

 

「私、ファーストネームもファミリーネームも好きじゃないのよ。……ランドルフ・シャフツベリーって名前だけど、是非ともランちゃんって呼んでちょうだい。間違ってもドルフなんて呼んじゃダメよ?」

 

ばちんとウィンクまで飛ばしてきたのだが、その姿に無性に鳥肌が立つ。無言で即座に頷いた。

 

話を切り替えるためにあたりに目を配る。彼が手に持っている大きなケースが、一際異彩を放っていた。

 

「ランドル……」

 

「……………………」

 

ランドルフさんと呼びそうになったら物凄い形相をされた。暗く澱んだ目に屈し、速やかに訂正する。

 

「……ランちゃんさん」

 

「よろしい。あ、さんはつけなくていいわよ?ついでに敬語もいらないわぁ」

 

だって敬語だと仲良くなれないもの、と照れたように身をくねらせながらランちゃんが言う。対する俺は乾いた笑いしか出なかった。

 

「……そんじゃ楽にやらせてもらおうかな。それで……ランちゃん。その大きなケースってなにが入ってるわけ?」

 

「これ?デバイスみたいなものよ。大型のねぇ。重いし大きいし、取り回しはしづらいけど、そのデメリットを補うだけのメリットもあるの。ま、できるだけ使う機会がないほうがいいものだけど」

 

ランちゃんは軽そうに持っているが、ケースの大きさは縦百センチ、横五十センチ、幅も二十センチ弱はあるだろう。ケースの重量だけでも相当なものになりそうだ。それを片手でこともなさげに持っているランちゃんは、かなり屈強といえる。

 

「徹ちゃんから、なにか悪い気配を感じたわ」

 

「そそそんなことないない、気のせい気のせい」

 

「そうかしら……あら、部隊長さんが戻ってきたわね」

 

ランちゃんが目線を俺からずらす。

 

その目線を追いかけると、遠くに隊長同士の会議に出ていた俺たちの部隊の隊長さんが戻ってきていた。

 

「……なんか、あんまりいい予感はしないな。隊長さんの顔を見る限りには」

 

「あら、徹ちゃん、気が合うわね。私も同感よん」

 

隊長さんはミーティングに行く前の無気力な表情から、不機嫌なものへとシフトチェンジしていた。

 

隊長さんは俺たちの近くまで歩いてくると立ち止まり、軽く周囲を見渡す。部隊の全員がいるか確認している様子だ。

 

まだウィルキンソン兄妹が席を外してるんじゃなかろうかと少し焦ったが、二人はちゃんと戻ってきていた。アサレアちゃんの腹の虫は多少落ち着いたようだ。

 

安心する俺の耳に、隊長さんの声が届いた。

 

「貴様ら、喜べ。我々が一番槍の誉れを(たまわ)った」

 

どうやら愉快な皮肉を効かせた作戦になるらしい。

 

 



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砂塵と瓦礫と廃墟

サブタイトルを入れ忘れるというミス。
睡魔と戦いながら投稿の準備をしていると大概どこかでポカをやらかしてるんですよね(笑)
平成29年5月17日9:59修正。


 

「……要するにこれって、危険がないかどうかをわたしたちで確かめてるってことじゃないの?」

 

瓦礫があちらこちらに散らばっていて不安定になっている足場を乗り越えながら、アサレアちゃんが憮然(ぶぜん)とぼやいた。

 

俺たちの部隊は隊長さん含めて十人。種別では小隊にあたるのだろうか。

 

十人いるが、裏を返せば十人しかいないわけで、街の中で見落としがあってはいけないので小隊からさらに二つの分隊に分けて、捜索の効率アップが図られた。隊長さん率いる一つの班と、もう一つの班ーー別働班とあり、俺、ユーノ、クレインくん、アサレアちゃん、ランドルフ・シャフツベリー愛称ランちゃんは後者、別働班に入っている。

 

俺たち五人が別働班として分けられたのは一緒にいて仲が良さそうだったから。ちなみに別働班のリーダーはランちゃん。理由は班の中で一番年上だから。その人員配置の理由は筋が通っているのかいないのか俺にはわからない。

 

「良いか悪いかは考えようってもんだ。予備戦力として後方待機、とかって命じられるよりかは断然マシだろ?結果を出さなきゃいけないアサレアちゃんなら尚更にな」

 

俺は不機嫌そうにしているアサレアちゃんに振り向いて意見を述べる。

 

あんまりお喋りしすぎるのはどうかと思うが、チーム内で意思疎通を行うのは大事だろうし、なにより隊長さんの班とはそこそこ距離を置いて進んでいるので、大声を出さない限りは目をつけられることもなかろう。

 

「そうだけどそういうことじゃなくてっ、まるで消耗品の道具みたいに捨て駒扱いされるのがわたしは気に食わないの!嘱託とか『海』の新人とか、あいつらの部隊に直接関係のない人間を先に行かせて安全確認してるってことじゃないこれっ!なにかあった時、真っ先に火の粉を浴びるのはここの部隊なのよ!なにより司令官とその取り巻きが郊外に残って、ふんぞり返って戦果を待ってるってのが納得いかない!」

 

アサレアちゃんは感情の発露を抑えるのが苦手なのか、それとも抑えるつもりがないのか、事もあろうにというか予想通りというべきか、やっぱり大声を出してしまわれた。

 

手をぱたぱたと動かし、俺たちの部隊の運用法に怒りを表しながら口を出すアサレアちゃんだが、ちんまい容姿と仕草とが噛み合い、ただただ可愛いだけだった。

 

とはいえ、アサレアちゃんほど露骨に表現はしないが、俺も配置について思うところはある。俺たちがいる部隊内だけの話ではなく、周囲に散らばっている他の部隊も含めて、だ。

 

この作戦の指揮をしている司令官殿の考えは、俺には(いささ)か図りかねる。俺みたいな一介にして末端の隊員には持っていない情報を上の人たちは持っているのだろうか。

 

思案を巡らせる俺に代わって、アサレアちゃんのさらに後方で周囲に目を光らせているランちゃんが呆れた調子でアサレアちゃんに忠告する。

 

「あら、そんなことでいちいち癇癪起こしてたら管理局で働いてなんていられないわよ?世の中綺麗なことばっかりじゃないんだから。清濁併せ呑む度量を身につけるべきねぇ、お嬢ちゃん?」

 

「むぅぅぅううっ!言いたいことはわかったわよっ!でも……そのお嬢ちゃんって呼び方はやめてよ!子ども扱いしないで!」

 

「子ども扱いしてほしくなければ、それ相応の振る舞いをしなさいな、お嬢ちゃん」

 

「やめてってばぁっ!」

 

「……ランちゃんさん、それくらいで……。隊長さんからの視線が痛いので……」

 

「あら、ごめんなさいねユーノちゃん。気をつけるわぁ」

 

「アサレアもだよ。もう任務は始まってるんだから緊張感を持って」

 

「言われなくてもわかってる!」

 

クレインくんからも忠言を受けたアサレアちゃんは反発しながら歩みを進める。

 

腹の底に降り積もる鬱憤を吐き出す場所がなく、踏み込む足に力が入ったのだろう。レンガの破片やらが散らばった地面に、がしゃんと音を立てて足を振り下ろした。

 

オレンジ色のレンガの破片がころんころんと転がってきて、俺の靴の隣で止まった。

 

「……ひどい有り様だな」

 

移動用の艦船から街の外れに降り立ち、街に入ってしばらくの間歩いた俺の感想がこれだった。

 

辺りを見渡しても無事な建物を見つけられない。大抵の家は屋根ががっぽりと抜け落ちていたり盛大に壁が破壊されていたり、一番損傷が少ない家でも窓ガラスが割れていたりドアがなくなっていたり。とてもではないが人の住める環境ではなかった。

 

だからなのか、人の姿はまだ確認できていない。住人も、犯罪者集団の残党も、どちらもだ。

 

「私ね……だいぶ前にこの街、サンドギアの街に来たことがあったのよ」

 

ランちゃんが言うには、当時の街の外れには我が世の春とばかりに百花繚乱咲き誇る花畑があり、街の中は目に鮮やかなカラフルなレンガで建築された家家が建ち並んでいたりと、風光明媚な良い街だった(・・・)そうだ。このあたりの地域で採れるめずらしい果実を使ったワインや、伝統的な手法で作られたチーズがこの街の名産で、どちらも美味しくてついお酒を飲み過ぎちゃってねぇ、なんて懐かしむように教えてくれた。

 

「この街にはね、違う管理世界にまで届くほど高名な人形遣いがいたのよ。クレスターニっていう劇団で、その人形劇を観たいがために以前はこの街に訪れたの。……でも街がこんなことになっちゃってたら、流石にもう観れそうにないわねぇ……」

 

「人形劇?」

 

隊列の後方で周囲の警戒をしてくれているランちゃんに尋ねる。

 

寂しげに眉を歪めるランちゃんは、後頭部で纏められた紫色の長髪をゆらりと揺らして頷いた。

 

くいくい、と手招きして近くまできてもらう。その際、腕を絡めてきたが振り払った。

 

周囲への用心はサーチ魔法の数を増やすことでカバーしよう。

 

「そうなのよ。人形劇。糸を使うわけでもなく、下から手で操るわけでもないの」

 

「ん?んじゃどうやって操ってんの?」

 

「魔法よ。操作系の魔法みたいなんだけど、私は見たことない術式だったわ」

 

操作系の魔法。俺には聞いたこともなければ見たこともない分類だ。語感だけならとても汎用性が高そう。ぜひ俺にも教えてほしい。

 

「まるで人形に魂が宿ったように自然に動いていたわ。小さな身体には血が流れて、人形自身の意思で物を考えて動き回っているみたいでね……。それで私、どうやってそこまで精密に柔軟に人形たちを操っていたのか気になって、鑑賞を終えてから劇団の方に訊いたのよ。そしたら人形遣いの女性が快く教えてくれたわ。なんでも、クレスターニの劇団で代々伝わる魔法らしいの」

 

「なるほど、人形を操るためだけに編み出され、代を重ねて洗練された魔法ってことか……。でもだとすると……」

 

「……ええ。その劇団の人で、しかもその魔法の術式を受け継いでいる人が生き残っていなければ、人の心と目を奪うあの人形劇は、あの芸術は……もう観れないでしょうね」

 

ランちゃんはそう呟き、手に持つ大きなケースの持ち手が軋むほど強く握り締める。情緒に溢れ、景観は美しく、素晴らしい伝統芸能があったサンドギアの街。ここを破壊し、蹂躙した無骨者共に怒りを募らせていた。

 

空戦魔導師の人たちが荒くれ者たちを鎮圧に来た時、何人の住民を保護したのかはわからない。かなりの人数を救出できたのかもしれないし、その救われた街の住人の中に、もしかしたら劇団の人形遣いがいるかもしれない。先んじて制圧した際の細かな情報は下っ端にまでは回ってこないのでわからないが、今はそう願っていたほうが精神衛生上いいだろう。ぐちゃぐちゃに(わだかま)憤懣(ふんまん)やるかたない気持ちを、解消とまではいかずとも誤魔化すことはできる。

 

「どんな目的があれば、どんな理由があれば……こんなことができるんだ……」

 

片付けられることもなく、周囲には物が散らばっている。建物の瓦礫もそうだが、家具など生活感を感じるものも爆発か何かに巻き込まれたのか道路へと飛び出してきていた。

 

壁が崩れて中が丸見えになっている家に、ふと目が向かう。穴が開いて(しぼ)んでしまったゴムボールと、(すす)けたように薄汚れたぬいぐるみ、焼け焦げた衣服が見えた。

 

こうして目の当たりにして、ようやく実感として認識する。ここには、つい最近まで実際に人が生活をしていたのだ。砂塵と瓦礫と廃墟だけになってしまったこの街には、つい最近まで。

 

どうしようもないほどの怒りを覚える。

 

街を破壊し、人を傷つける。いったいどんな理由があればそんなことができるのだろうか。大勢の罪なき人を蹴落とし踏み(にじ)って不幸にし、その対価として自分は幸せになる。いったいどれほど絢爛な錦の御旗を掲げれば、自分の中でそんな残虐非道な所業を正当化できるのだろうか。

 

俺はべつにプロファイリングができるわけではない。そういった犯罪者の思考や動機は読めない。

 

いや、これは読む必要もない唾棄すべき事柄だ。思考のリソースを振ること自体に苛立ちが募るほどに。

 

だが、ここでふと疑問が浮かんだ。

 

「なあ、ランちゃん。この街って裕福だったりすんの?」

 

「そう、ねぇ……裕福とは言えないわね。ここ、サンドギアの主な産業はさっきも言った通りワインやチーズといった生産業と、あとは観光業もかしら。ワインとチーズは、これが結構評価が高いのだけど、それも必要最低限にしか作っていないのよねぇ。あんまりお金に執着がないのか、それとも基本的に自分たちで飲んで食べる分を作れたらそれでいいのか、そこは街の人たちにしかわからないわね。あとは農業や畜産業で細々と、ってところかしら」

 

「……ここの近くから貴重な鉱物が産出するとか、政治的に重要な立地にあるとか、そういうこともない?」

 

「そんな話は聞いたことないわねぇ。街の外にあるのは、だだっ広い平原と森、お花畑くらいじゃないかしら。このあたりではここが一番栄えているけど、それでも大都市と比べれば規模は大きく落ちるし、都市圏からも離れているわ。前に来た時、バーのおじ様は観光で人が来ることが多いって言ってたけど……それって逆に言えば観光以外ではこの街に来る理由はないってことよねぇ」

 

「そうか……。それじゃあ、なおさらだな……」

 

「この街を襲撃するメリットがない……ってことかしら?」

 

「ああ……」

 

このサンドギアの街をここまで表立って襲撃した理由がわからない。犯罪組織の人数や規模がどの程度のものかは知らないが、派手に動いた結果、すぐに管理局に発見され、空戦魔導師が派遣されて鎮圧された。この地域ではサンドギアは大きな街らしいし、そう時を置かずに管理局に対処されるのは犯罪者側だって目に見えていたはずだ。

 

にもかかわらず、襲撃した。ならず者が欲しがるような金目の物などほとんどない、この街を。

 

「俺たちが気づいていない『貴重な物』があったのか……いや、もっと根本的に『襲撃』すること自体に意味があったのか……」

 

「もう一つあるわよ。そもそも『理由なんてなかった』っていう、ね。ただ暴れたい、自分の力を辺り構わず使いたいっていう(やから)もいるんだから」

 

そういった輩に心当たりがあるのか、それともそういう輩を成敗した経験があるのか、ランちゃんは肩を竦める。

 

俺も俺で、そういう輩に苦労したことがあったので共感できてしまった。もっとも、俺の場合は程度の低い馬鹿共(先輩方)だったが。

 

「そういうはた迷惑な感情は俺には理解できないな」

 

「ええ、同感ね。それより、この街の警備はなにをしてたのかしら?ここまで被害が広がるなんて尋常じゃないわよ」

 

「人数はどうか知りませんが、優秀な魔導師がこの街に住んでいたらしいですよ?」

 

街の惨状を眺めて呟いたランちゃんの疑問には、近くで歩いていたクレインくんが答えた。

 

「ここに来る前に今回の任務地や概要を兄に話したんですが、『陸』の所属の魔導師さんがサンドギアにいたはずだ、って言っていました。兄が管理局に入ったばかりの頃にお世話になったベテランの魔導師さんで、たしか……魔導師ランクはAAだそうです」

 

魔導師ランクなる聞き馴染みのない単語が出てきた。

 

よくわかっていない俺とは対照的に、ランちゃんは大きく目を見開いた。

 

「ランクAAっ?!本当に?!」

 

「は、はい。そう言っていました。僕も驚きましたが……」

 

「な、なに?そのランクとやらはそんなにすごいの?」

 

「当たり前よ!AAって言ったら大きな任務で指揮官を任されるくらいのランクなのよ?」

 

指揮官クラス、とそう聞くとかなり偉い立場なように思えたのだが、今回の任務の指揮官を思い浮かべてしまってあまり実感がわかなかった。そこまですごいとされているのなら、もしかすると今任務の指揮官も相応の実力を持っているのかもしれない。そうは見えなかったけど。

 

「へー。でも、そのAAランクの魔導師さんがここに住んでるんなら、街はこうまで破壊されなかったと思うんだけど。仕事が入っていて街には不在だったとか?」

 

「それが……街の郊外にいた時、アサレアを追いかけていたら上官たちの天幕の近くまで行ったんですけど、そこで聞こえたんです。街の襲撃事件が起きた日はそのベテランの魔導師さん……アルヴァロ・コルティノーヴィスという名の方なんですが、コルティノーヴィスさんは非番だったそうです。つまり、この街にいたようなんです」

 

「AAランクの評価を受けているほど優秀な魔導師が、そこらのごろつき風情(ふぜい)に負けるとは思えないわ」

 

「そうなんです。それに管理局への通報はコルティノーヴィスさんがされていたそうで、この街にいたことは確実なんですけど……」

 

クレインくんが言葉を濁す。

 

俺は続きを促した。

 

「管理局へ通報されてから、コルティノーヴィスさんと連絡がついていないみたいなんです。状況把握のために定時連絡をするようにと指示があったそうなんですが……」

 

話がきな臭くなってきた。

 

クレインくんからの情報を普通に受け取れば、襲撃してきた犯罪組織の人間に倒されてしまった、と考えてしかるべきだが、豊富な経験と優れた技術を持っていることが証明されているコルティノーヴィス魔導師が烏合の衆相手に遅れを取るとも思えない。思えないが、定期連絡なしと、街の荒廃ぶりを鑑みて、そう見るほかにない。

 

「相手にそのコルティノーヴィスって人を討ち取れるくらいの魔導師がいたってことか?」

 

「それはない、と思うわ」

 

真剣な表情で腕を組んで考え事をしていたランちゃんが俺の推測を否定する。

 

「それほどの腕を持つ魔導師を擁している組織なら管理局がマークしてるはずよ。それにAAランクの魔導師を討ち取れるほどの実力者が相手にいるのなら、空戦魔導師を投入した時に相当な抵抗があるはず。少なくとも簡単には制圧できないわ。下手したら返り討ちにあうレベルだもの。それくらい、AAランクの魔導師は並の火力じゃないのよ」

 

「ですが、僕たちにこうして任務が回ってきているということは、すでに空戦魔導師の方がその魔導師を倒しているのでは?」

 

「だとしたら任務の内容が変わるか、任務自体がなくなっちゃうわねぇ。ランクAA以上の魔導師が本気でやり合えば、街は焼け野原よ。任務があったとすれば……そうね。『遺体を探せ』になるんじゃないかしら」

 

私ならそんなお仕事ごめんだけど、とランちゃんは嫌そうに言って首を振る。一つに束ねられた長い紫色の髪が左右に揺れた。

 

「たしかにそうですね……。でも、それならどうしてコルティノーヴィスさんは消息を絶っているのでしょうか……」

 

「…………」

 

クレインくんの言葉に、ランちゃんはなにも返さなかった。

 

きっとランちゃんも俺と同じ予想を立てているのだろう。

 

敵組織にコルティノーヴィスさんを圧し潰すだけの戦力はない。敵勢を打ち破る能力があったはずなのに街を無法者に好き放題させた。生き残っているはずなのに連絡をとらず行方をくらませている。空戦魔導師が派遣された際にも姿を現さなかった。

 

行き着くのは、胸糞悪い一つの仮説。

 

なにか理由があって、コルティノーヴィスさんは敵組織に寝返った。管理局の空戦魔導師がサンドギアに来た時も身を隠していた。そして、犯罪組織の目的がこの街にあるのであれば、コルティノーヴィスさんはまだこの街のどこかにいる。

 

「生存者の捜索がメインになると思ってたんだけどな……」

 

俺の仮説には決定的な証拠が一切ない。情報と情報を繋ぎ合わせ、状況的にそう考えるのが自然だというだけのものだ。

 

だが、この仮説が的外れでないのなら、かなり厄介なことになる。ランクAAという優秀な魔導師が敵対勢力についたことだけでも目を覆いたくなるような話だが、それだけじゃない。サンドギアの住人であるコルティノーヴィスさんなら、身を隠せる場所も熟知しているだろう。空戦魔導師がやってきた時には隠れられる場所を犯罪組織側の人間に教え、息を潜め身を潜め、見つからないようにもできる。空戦魔導師をやり過ごした今、彼らは目的のために動いているかもしれない。

 

残党なんて呼べない人数が、この街にいる可能性がある。

 

 

 

 

 

 

しばらく瓦礫散らばる道を進むと開けた空間が見えてきた。

 

広場だった。中央に噴水が据えられた、きっとこんなことになる前には人々の憩いの場であっただろう空間。今やその噴水は半壊しており、広場の中央付近は水たまりになっていた。

 

その噴水広場を囲むように、レンガ造りの家が建ち並んでいた。無論、軒を連ねる家々もよくて半壊、ひどいものは屋根も壁もなくなっている。

 

「ちょっと開けたところに来たじゃない。水があるからかしら、ほこりっぽさが若干ましね」

 

俺に続いて角を曲がり、視界に広場跡を収めるとアサレアちゃんは足取り軽く進む。

 

ここまでの道程に敵がいなかったことと倒壊した家しかなかったことで退屈していたのだろう。ようやく風景に明確な違いがあらわれたことで気持ちが浮ついている。一言掛けておいた方がいいだろう。

 

「アサレアちゃん、あんまり前に出すぎないようにな」

 

「は?なんであんたにっ……って、その目……」

 

アサレアちゃんは注意されて不機嫌そうに振り向いたが、俺の顔を見て言葉を呑み込んだ。

 

ランちゃんともしかしたら面倒なことになってるかもしれないと話をした時に、万が一があるかもしれないと思い、左目につけていたカラーコンタクトを前もって外しておいたのだ。おかげで左目は灰色にくすんでいることだろう。

 

わざわざカラコンを外したのはこんな左目でも役に立つことがあるからだ。この左目は光を映さないが、その代わり違う光(・・・)を視認することができる。

 

「ちらほらと、視える……。少なくとも数人の魔導師がいるな。敵か味方かはわからないけど、この様子じゃああんまり好意的とはいえないか」

 

「な、なにそれ、どこに見えるの……なにが見えてるのよ。……もしかしてその左目、なにか見えるわけ?」

 

「んー、以前にちょっとばかり無茶してな。その後遺症ってやつだ。視力を失った代わりに魔力が視えるようになったのは拾いもんだったが、欠点は魔力しか視えなくて距離感が掴みづらいところだな。あんまり遠いと正確な位置がわかりにくい」

 

「ごくまれに魔力が視える人がいるって聞いたことあるけど、実際にそんな人を目にしたのは初めてだわ。……特別って感じがするわねって言ったら、傷つく?」

 

「……今はもう、大丈夫。とある人がこの目を綺麗だって褒めてくれたんだ」

 

「……ふーん」

 

アサレアちゃんにそう言いながら、ランちゃんに念話を送る。違うところで捜索している隊長に、敵と思しき存在が広場にいることを伝えてもらうためだ。俺から報告してもいいのかもしれないが、一応俺たちのいる別働隊のリーダーは年長者のランちゃんなので、そちらから伝えてもらったほうが余計な揉め事も起きないだろう。

 

俺の顔を仰ぎ見て何か言いたげにしているアサレアちゃんの肩を押して、広場から死角になるところに移動させる。きーきーと文句は言われたが気にしない。

 

ユーノとクレインくんには手でこちらに来るように指示した。気付いた二人は何かあったことを察したのか、素早くかつ静かに近くまで来た。

 

「いたんですか?テロリストが」

 

「近い近い、ユーノ近ぇよ。もうちょい離れろ。あと相手は別にテロリストじゃねえよ、政治的な思想があるわけじゃねえだろうし」

 

「この先の広場、ですか?まだ距離が開いてますが……」

 

「こういったことに関しては、兄さんはとてもめざといんですよ!」

 

「褒めてんの?それ。あんまり嬉しくないんだけど」

 

「ねぇっ!あんた、ほんとにいるのが見えてるの?わたしにはなにも見えないんだけど」

 

「アサレア……『あんた』じゃなくて『逢坂さん』でしょ。失礼だよ」

 

「うっさいわね!あんたこそ、なんでこいつの部下みたいに従ってんのよ!言っちゃえば同僚じゃない!命令されるいわれなんてないんだから!」

 

アサレアちゃんが癇癪起こしたみたいにクレインくんに突っかかる。言い方にこそ難はあれど、その言い分には間違いはない。ただ、問題があるとすれば、それは声量だった。

 

「まぁ俺は仕切る立場にいないのはたしかだけどさ。でも……アサレアちゃん。この先で敵が待ち構えているかもしれないっていう状況で大声を出すってのは、ちっとばかり危機感が足りないな」

 

「ひぅっ……そ、それ、は……」

 

「さっきのアサレアちゃんの声で、相手が気づいたかもしれない。大声を出してなければ奇襲できた可能性があったかもしれない。……そんな優位をわざわざ潰すような真似をする理由って、なに?」

 

「う……ぅぅ……」

 

自分のミスで自分が傷つくのなら、まだ納得はできる。だが、自分のミスで他人が傷つくのは、思っている以上に心に負荷がかかる。

 

アサレアちゃんにそんな思いをさせたくない。という気持ちは、もちろんあった。

 

しかしそれよりも、他人がやらかしたミスでチーム全体に危険が及ぶようなことを、俺は看過できない。

 

「…………」

 

アサレアちゃんに厳しく言う俺を、兄であるクレインくんは止めなかった。妹を庇うこともしなかった。きっとクレインくんも、俺と似たようなことを考えていたのだろう。

 

ここで、くいくい、と服を引っ張られた。ユーノだ。

 

「そのへんにしときましょうよ、兄さん。注意するのはいいですけど、それで萎縮させてしまってはこれからに影響が出ますよ。それにアサレアさんも理解はしたでしょうから」

 

「そう、だな……俺も言い過ぎたか……。ごめんな、アサレアちゃ……」

 

ユーノから向き直ってアサレアちゃんを見る。

 

「っ……ぅぅぅっ……」

 

涙目になって俯いてしまっていた。

 

服をぎゅっと握り締めて、唇を固く噛み締めて、ぷるぷると肩を震わせていた。

 

どこからどう見ても『泣くのを我慢しています』という絵だし、この構図ではどこからどう見ても悪いのは俺である。

 

違うんだ。ちゃんとわかってもらうためにきつく言ったのは認めるが、泣かしてやろうとは思ってなかったんだ。

 

『……徹ちゃん。さっきお嬢ちゃんが大声出したのは私も、何してんだ、って思ったわ。でも女の子泣かしちゃうのは、ちょっとどうかしら』

 

離れたところで生存者の捜索をしていたランちゃんから念話が飛んできた。どこかでしっかりとこちらの動静を確認しているらしい。

 

『俺だって泣かせるつもりなんてなかったんだよ!……それより、隊長さんのほうは?』

 

どうにかこうにか『泣いて、ない……泣いてないわよっ』といじけるアサレアちゃんを宥めすかしつつ、別の班にいる隊長さんがどんな判断を下したのかランちゃんに聞く。

 

『一度合流するそうよ。もう近くまできているわ』

 

『えっ、合流すんの?』

 

『ええ。……徹ちゃんが何を言いたいかは予想がつくけれど、変に抗議して波風立てるのも馬鹿らしいわ。従いましょ』

 

『……そうだな、わかった。きっと何か考えがあるんだろ。ランちゃんはどうすんの?』

 

『彼に何かプランがあるといいんだけどねぇ……。私も合流するように言われたわ。……今はあなたの背後にいるわよ』

 

『っ?!』

 

恐ろしい言葉で念話が切られた。背筋にぞくっと悪寒が走る。

 

ばっ、と勢いよく振り返る。後ろには瓦礫と、崩れた家しかなかった。どうやら変に重たくなってしまった空気を払拭するための、ランちゃんなりのジョークだったようだ。

 

ため息を(これが呆れなのか安堵なのかはわからないが)吐きつつ、元に直る。

 

「そんなに勢いよく振り返るほど私の顔が見たかったのかしらん?」

 

「っ?!?!」

 

目の前にいた。視界の八割がランちゃんの顔で埋まるくらい目の前にいた。

 

なにこれ並のホラー映画よりよっぽど怖い。悲鳴を出さずに堪えられたことは奇跡に近い。

 

俺のリアクションがよほど奇妙だったのか、クレインくんやユーノ、泣きそうになっていたアサレアちゃんも声を殺しながら笑っていた。俺としてはあまり面白くないが、雰囲気が明るくなったのでよしとしよう。

 

そうこうしているうちに、隊長率いるもう一つの班が見えた。

 

相手に見つからないように俺たちは広場に繋がる道の角で待機していたが、その反対側に隊長とほか四名がついた。

 

広場から射線が通らない限界まで俺たち側に近づくと、隊長さんは気怠げに口を開く。

 

「誰かが広場にいるっつう話だったな。街の住人ってことはねぇのか?」

 

ランちゃんは俺からの報告を隊長に回しただけであって、おそらくまだその存在を自分の目で認めていない。なのでランちゃんに代わり、俺が説明することにした。

 

隊長さんの方針にならって俺もぎりぎりまで近づいて相手に届く最低限の声量で返答する。

 

「住人にしては一つ一つの反応がばらけすぎています。広場を囲む建物の影に隠れるように位置していて、そこから動く気配がないので、街の人の生き残りの可能性は低いかと」

 

「敵だとしたらその数は」

 

「魔導師が少なくとも十人以上はいます」

 

「相手の装備は確認したのか?」

 

「サーチ魔法を飛ばしていますが、今のところ収穫はありません」

 

隊長はぼりぼりと頭を掻いた。眉間に皺を寄せて不機嫌そうに吐き捨てる。

 

「だいたいの人数しかわかってねぇじゃねぇかよ。しかもお前しか相手を捕捉してねぇんだろ。敵がいるっつうのは確かなのかよ。お前ら、びびってるだけじゃねぇだろうな」

 

見下すように、心底面倒くさそうに隊長が言う。

 

その歯に衣着せぬ物言いにはさすがに俺もかちんときたが、俺が行動を起こす前にアサレアちゃんが怒り心頭に発して暴れそうな様子だったので、かえって冷静になれた。

 

「事実です。俺たちだけで向かえば敵を取り逃がすおそれもあったので」

 

「かっ……それっぽいこと言いやがって。敵がいたとしても、所詮は街を荒らすくらいしかできねぇ小悪党どもだろうが。正面から強行突破して制圧すりゃいいだけの話じゃねぇか。おら、行くぞ。スリーカウントな」

 

止める間もなく、隊長は間延びしたカウントダウンを開始する。

 

俺たちの班のメンバーは彼の浅薄で無思慮な意思決定に戸惑うが、隊長が直接率いていた隊員たちはひとつ重たい息を吐いて突入の準備に入る。ここに至るまでに隊長の人間性を見ていたのだろう、諦めにも似た態度だった。

 

俺は俺で、こいつマジでこんな作戦とも言えない作戦で乗り込む気かよ、と内心ぼやいたが、しかし、隊長のカウントダウンは途中で停止する。

 

それは隊長が計画の杜撰(ずさん)さに気付いたとか、そんな殊勝な話ではない。

 

違う方向からの干渉があった。

 

隊の組み分けなどを行った街の郊外、そこに設置された仮設の指揮司令部からの、切羽詰まった救援要請が頭の中に響いた。

 

《あぁくそっ、なんでこんなことに……っ!指揮司令部が敵の攻撃にあった!指揮官は意識不明の重体、他にも怪我人多数!今は敵の姿は消えたが、またいつ攻めてくるかはわからない!至急、救援を求む!》

 

 

 



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動揺と平静の狭間

 

《あぁくそっ、なんでこんなことに……っ!指揮司令部が敵の攻撃にあった!指揮官は意識不明の重体、他にも怪我人多数!今は敵の姿は消えたが、またいつ攻めてくるかはわからない!至急、救援を求む!》

 

郊外に設置された司令部からの念話。この念話を飛ばしているのが、どんな立場でどんな職務を任されているのかは知らないが、慌てふためいているのは手に取るようにわかる。なぜならば、隊を率いている人間にだけ念話を送ればよかったのに、俺みたいな末端の魔導師にまで念話を送ってしまっているからだ。

 

もしかすると、このあたり全域に飛ばしてしまっているのかもしれない。だとすれば、この時点でいろいろまずい。不明瞭な報告を等しく末端にまで知らせてしまえば多少なりとも混乱する。加えて『隊長格』だけに狙いを絞るのではなく『地域』で念話を送っているのだとすれば、それは当然、味方以外にも傍受されてしまう可能性がある。

 

戦術でも戦略でも、情報とは限りなく重要なものだ。時として戦力差を覆して命運すら左右する。実際の歴史でも、暗号化を施していない通信を傍受したことで、数に劣る軍が兵数二倍以上三倍近くの敵軍に勝利した例があるほどに。

 

「はぁっ?!なんの冗談言ってやがんだ!てめぇら一体何してやがったんだ?!」

 

隊長が念話の送信者を大声で罵った。念話だというのに口に出している時点で、目の前の若い隊長が冷静さを欠いていることがわかる。

 

そしてそれは、ほかの隊員にも当てはまることだった。

 

「街の住民の捜索という簡単な任務のはずでは……」

 

「は、はやく助けに向かわないと?!」

 

「そもそも帰りの足は生きてんですか」

 

隊長さんのように口汚く罵声を吐くなんてことはしなかったが、狼狽(うろた)ていることは明白だった。ある若い魔導師は顔色を悪くさせながら呟き、ある女性魔導師は局から支給されたデバイスを両手で握り締めていた。

 

隊長が喚き散らしながら念話の送信先に状況確認をしている間に、俺は班のメンバーとやり取りする。

 

俺の想像通りなら、というか一般的な戦術観を敵さんもお持ちであれば、さほど時間の猶予はない。

 

「ランちゃんの得意分野は……」

 

「基本的には遠距離からの射撃ね。白兵戦も嫌いじゃあないけれど」

 

「なら今のうちに位置取りに動いておいたほうがいい。これ以上後手に回るのは避けたい」

 

「……ええ、わかったわ。お嬢ちゃんたちのことは任せるわね」

 

事前の報告なしに部隊から離れるなど敵前逃亡とも捉えられかねないが、ランちゃんは首肯してくれた。目立たないよう、一度静かに廃屋に入ってから移動する。

 

ランちゃんがいなくなったことを、しかし誰も咎めない。隊長は状況を把握しようとしているのか念話相手を恫喝(どうかつ)しているのかわからない口調で今も叫び続け、他の隊員は実戦経験が少ないのか自分のことだけで精いっぱいな様子だった。

 

「ユーノ」

 

「わかってますよ」

 

「そんならいい」

 

ほかの部隊がはたしてどうなっているのかわからないが、少なくともこの部隊は急転した状況と錯綜(さくそう)する指揮系により混乱の坩堝(るつぼ)にある。

 

俺が相手の立場であればどうするか。敵を揺さぶることに成功した今、敵がその混乱から抜け出す前に次の手に打って出る。

 

やはりというべきか、敵さんはこの機会を逃すほど馬鹿でも愚かでもないみたいだ。遠くから風を切るような音が聞こえてきた。

 

「な、なんの、音……?」

 

「アサレアちゃん、建物の影から出ないようにな。危ないぞ」

 

空気を裂くような音が接近を続け、到達した。

 

俺たちが背中を預けていた交差点の角の家(すでに屋根と一部の壁が吹っ飛んでいて廃墟の様相だが)の壁が、突然の振動とともに爆ぜた。

 

相手方の射撃魔法だ。飛来したのは広場の方角から。向こうは既に気づいていた。待ち構えていた上で、やはりこのタイミングで仕掛けてきた。

 

「きゃあぁっ!」

 

「アサレアっ、伏せて!」

 

「アサレアちゃん、クレインくん。ここなら角度的に射撃魔法は飛んでこないし、バリアジャケット着てればこのくらいの瓦礫じゃ怪我なんてしない。落ち着いて」

 

ぼろぼろだった家にさらに深刻なダメージが加えられていく。上から雨のように瓦礫が降ってきた。拳ほどもない小さな石ころもあれば、時折頭より大きい塊まで落っこちてくる。

 

浮き足立っているアサレアちゃんとクレインくんの頭に迫る大きな塊を殴り飛ばす。

 

屈み込んだ二人の頭上を覆うように、薄緑色の膜が張られる。ユーノの障壁魔法が展開されていた。

 

「兄さん、どうしますか?隊長さんの指示を待ちます?」

 

ステップでも踏むようにひょいひょいと瓦礫を身軽に(かわ)しているユーノは、とくに動揺しているような印象はない。これより荒れ狂った状況を、もしくはとち狂った戦場を、経験したからだろう。

 

「なにするにも、まずは部隊の態勢を立て直さなきゃどうにもならないだろうけど……一隊員である俺に指示を出す権限はない。隊長の命令を待つしかないな」

 

散発的に放たれる魔力弾がけたたましい音と粉塵を撒き散らす中、隊長がそれを上回る声量で上書きする。

 

「司令部への救援に向かう!全員準備しろ!」

 

後退。隊長はそう決定したようだ。

 

その決断自体は間違っていない。総指揮を()るべき司令部が攻撃を受けたのだから、助けに行くのは当然だ。むしろ責務とも言える。しかも、その近くには俺たちを運んできた艦船の離発着場がある。そこを制圧されでもすれば帰れなくなる。

 

だが、ここから後退するにしても、一つ問題がある。

 

「目の前の敵はどうすん……ですか?背中を見せて退けば追撃がくると予想できますけど」

 

俺の質問に、隊長は心底鬱陶(うっとう)しそうに眉を寄せた。

 

「ああ?!確実に追ってくるかもわからねぇだろぉがよ!仮に追撃されても振り切ればいいじゃねぇか。どうせ程度の低いごろつきに毛が生えた程度の連中だ!」

 

あくまでも、この人は敵勢力の魔導師を軽んじるスタンスを変えないようだ。なにがあったらそこまで相手を見下せるのか、まったく共感できない。

 

(きびす)を返して司令部がある郊外へ向かうまでに追っ手がかかれば、他の隊員が手傷を負うかもしれないし、なにより俺と仲間の身にも火の粉が及ぶ。

 

しかし、たとえ理解のできない命令でも、命令であることに変わりはない。拒否すれば命令違反だ。その先には罰則が待っている。エリーとあかねを取り戻すために成果を出さなければいけない俺にとって、それはあまりに都合が悪い。

 

どうにかして変更してもらわねば。

 

「俺たちは今日初めてこの地にきました。同じ道を引き返すだけといっても周辺は瓦礫の山で方向感覚は狂いますし、足場も悪い。地の利において、相手は一日の長です。俺たちの知らないルートを使って回り込まれでもしたら挟撃されます」

 

「いちいちビビってんじゃねぇよ素人が!やられたらやられた奴の責任なんだよ!自分の身も守れねぇような奴じゃ、どうせ長生きはできねぇよ!俺の責任じゃねぇ!」

 

「…………隊を、預かってるんでしょう」

 

「知るかよ!俺は新米ども押し付けられただけだ!責任は俺じゃなく、こんな配置を命令した上司だろぉが!」

 

唾を飛ばしながら、声を張り上げながら、隊長はのたまう。

 

「こんなクソみてぇな、おいしいとこだけ持ってかれた任務で昇進の種が転がってきたんだぞ!これを逃したら次いつチャンスがあるかわからねぇ!たいして評価もされねぇ目の前の木っ端(こっぱ)より、確実に評価が上がる司令部に力をかけるのは当然だろぉが!」

 

「……その司令部に向かうまでに隊員が何人か欠けても、ですか?」

 

「さっきも言ったろが、やられた間抜けは自己責任だ!司令部のクソ連中は一山いくらの兵隊が何人死のうが気にしねぇ!自分が助かればそれでいいんだよ!書類上は任務中の戦死か事故死で処理しちまうからなぁ!だから俺が責められることもねぇ!それにひきかえ少なくとも助けに行ったっていう事実さえありゃ、功績は認められる!他のことなんざどうだっていい!」

 

「…………」

 

濁った炎で目を爛々(らんらん)とさせながら、隊長は()えた。

 

この部隊に配属されてから通して隊長の覇気はまったく感じられなかったが、よりにもよってこんな状況下に置かれて初めて隊長のやる気を見るなんて。要約すれば、隊の命より自分の昇進が優先だと、そう断言するなんて。

 

俺の心に到来したのは、失望や、落胆や、憐憫(れんびん)なんて感情じゃない。もっと複雑で低俗な何かだ。

 

彼の、飢渇(きかつ)にも似た出世への渇望は、畏怖すら感じる。

 

隊長の命令は理解できないが、彼が必死なのは理解できた。

 

だとしても、周りを踏み台に使うようなやり方にはついていけない。

 

切り口を変える。

 

「司令部に救援へ向かう。それはわかりますが、敵と遭遇したにもかかわらず後退するというのは、敵前逃亡と捉えられるかもしれません。そうなった場合、一番責任を追及されてしまうのは、隊を指揮する立場でありながら真っ先に敵から離れようとした隊長になってしまうのでは?」

 

「はぁっ!?なるわけねぇだろ!適当なことほざいてんじゃねぇぞ!」

 

「司令部強襲の報で動揺したところに、敵からの先制攻撃。臆病風に吹かれた、などと因縁をつけられる可能性もゼロではないかと。足を引っ張ってくる険悪な仲の同僚や、後輩の昇進を(ねた)むような底意地の腐った先輩などいませんか?」

 

俺がそうやって猜疑心(さいぎしん)を煽ると、隊長はあれだけ騒々しかった口を閉じた。眉間にしわを刻んでいるところを見るに、心当たりはありそうだ。

 

数秒考え、苦虫を噛み潰したような表情で隊長は舌打ちした。

 

「難癖つけられてもおもしろくねぇな、くそが!」

 

どうやら俺の願っていた方向に話が転びそうだ。無理のある後退は阻止できた。

 

ただ、俺は一つ、見誤っていた。もともと隊長は広場で潜伏している敵に対してどういう攻撃を仕掛けようとしていたのかを。

 

「広場の敵を掃除してから司令部に向かう!どうせ奴らは大した訓練もやってねぇ(あくた)だ!障壁張って突撃!さっさと制圧するぞ!カウント、スリー、ツー!」

 

「っ!ま、待て……っ!」

 

落ち着きを取り戻しつつあった隊員たちに、早口で命令を出した。

 

パニックになっていた時であれば聞き入れてなかったかもしれないが、動揺と平静の狭間のような精神状態の隊員たちは盲目的に隊長の声に従った。

 

事態は決定的に動き出す。

 

「……ワン、ゼロっ!全員、突撃しろぉっ!」

 

隊長に物申す暇もなく、カウントはゼロとなる。

 

ぼろぼろとなりながらも遮蔽物(しゃへいぶつ)の役目は充分に果たしていた廃屋の陰から、隊長も含めて隊員たちが飛び出した。防御魔法を行使しながら、広場周辺の建物に潜んでいるだろう敵へと駆ける。そこには、戸惑い怯えながらもデバイスを握る明るい髪色の兄妹、クレインくんとアサレアちゃんもいた。

 

追うように広場へ繋がる道に出ると、ユーノが隣に並んだ。

 

「なにしてるんですか、兄さん!」

 

「悪い、しくじった。まさかここまでとは思わなかった」

 

「誰も彼もがみんな、アースラにいた人たちのように思慮深くはないんですよ!」

 

隊員たちを追いかけながら情報を集める。

 

右目と左目、それぞれ違う『光』を映す目が、それぞれ異常を映していた。

 

右目では、広場近くの建物に潜んでいたと思しき魔導師が姿を現したところを視認していた。俺たちが突撃してきたのを見て、返り討ちにするためにこちらにデバイスを向けている。

 

左目では、魔導師全員から滲み出る魔力光と、敵の魔導師の近くに浮遊状態で待機している射撃魔法と、ぱらぱらと撃ち放たれる魔力弾。と、もうひとつ。俺たちの隊の進行方向に、もやもやとした魔力の光、それが網のように展開されている。

 

嫌な予感が止まらなかった。

 

「ユーノ!全員引き戻せ!俺はあの兄妹をやる!」

 

「引き戻せって……先頭の人はだいぶ進んでますし、全員なんて無理ですよ?!」

 

「多少強引でいい!拘束魔法でもなんでも使って引きずり戻せ!」

 

「わ、わかりました!……あとで怒られたら兄さんのせいにしときます!」

 

「構わん!しらを切り通してやる!」

 

幾条もの淡緑色の鎖が隊員たちに伸びる。俺なら術式を組み替えて鎖の伸展速度を上げなきゃいけないところを、ユーノは平気でやってのける。力加減も難しいだろうに、複数の目標に素早く拘束魔法を差し向けた。

 

ユーノに負けじと俺も魔法を展開させ、赤っぽい頭二つにめがけて鎖を伸ばす。二人の胴体に絡みつかせ、引っ張った。

 

「うわぁっ!?」

 

「ひゃぁっ!」

 

悲鳴が二つ、聞こえた。

 

広場への道を塞ぐように展開されている薄い魔力の光に触れる前に、間に合った。

 

急ぎすぎて収縮速度を上げすぎた結果、ウィルキンソン兄妹がなかなかの勢いでこちらに飛んでくる。引っ張った手前、回避して二人を地面に転がらせるのは忍びない。

 

軽かったためか、先に飛んできたアサレアちゃんは身体で受け止め、後に続いてきたクレインくんを右腕でキャッチする。

 

「いったぁ……く、ない?あれ、なんで?……な、なっ、なぁっ!」

 

「あ、あれ……逢坂、さん?え、え、なにが、どうして……」

 

急に引っ張り戻されたことで二人とも目を白黒させていたが、アサレアちゃんは俺に抱きとめられていることに気づくと青褪めていた顔を真っ赤に染め上げた。白だったり黒だったり青だったり赤だったり、忙しい子である。

 

「自分で立てるなら立ってくれ。他にもいっぱい飛んでくるぞ」

 

言うが早いか、一人、二人、三人と多少地面を転がりながら戻ってきた。ユーノが仕事を(丁寧さ二の次、スピード優先で)果たしてくれていた。

 

クレインくんは自分で、さっきまでとは違う意味でパニックになっているアサレアちゃんはすぐには動けないようなので俺が抱きかかえたまま、後ろに下がって場所を空ける。

 

淡い赤色の髪と同じくらいの顔色にしたまま、あわあわしているアサレアちゃんはひとまずこのままにして、ランちゃんに連絡を取る。

 

《ごめん、突撃の命令を止められなかった。ランちゃんの判断でいい、支援を頼む》

 

《だいたいの成り行きはわかるわ、徹ちゃんは気にしないでいいわよ。了解したわ、任せなさい》

 

直後に、腹の底に響く重い音が耳朶(じだ)を叩いた。

 

まるで大砲のようなそれを背後に感じつつ広場の先へと目を向けると、敵の魔導師がいた建物の一つ、そこの壁にぽっかりと大きな穴が空いていた。ランちゃんのがたい(・・・)に似合った凄まじい威力だ。

 

っていうか敵の魔導師死んでないかな、非殺傷設定にはしているのだろうか。敵対していても殺しちゃダメって聞いてるんだけど。

 

「兄さんっ!」

 

ユーノに呼ばれてそちらを見る。焦った顔で、魔法陣から伸びている鎖を操作していた。

 

いや、操作というにはあまりにも動きがない。鎖は弓の弦みたく張り詰めている。引っ張っているのに、こちらに引き寄せられないといった感じだった。

 

鎖の先端へ目を向ける。そこには二人の魔導師がいた。

 

隊員が一人と、相手の魔導師を(あなど)り軽んじ見下していた隊長だ。

 

二人の胴体にはユーノの鎖が巻かれているが、その身体はびくともしない。理由は、二人の手足にあった。

 

「拘束魔法……くそっ!突撃してくることを見越して……ってことは、やっぱあのもやもやは拘束魔法の待機状態だったのか……っ」

 

手足には、様々な色の捕縛輪が掛けられていた。空間に縫い止めるそれらの設置型拘束魔法により、二人は動くことができなくなっていた。

 

こんな状態では、無理に引っ張ろうとすればかえって二人の身体を痛めつけることになりかねない。さしものユーノも手の施しようがなかった。

 

「待てよ……待て待て待てッ!」

 

アサレアちゃんを兄のクレインくんに任せて俺が直接向かうが、二人は先行しすぎていた。ランちゃんの支援射撃は継続されているが、相手の数が多すぎる。

 

間に合わない。

 

複数の色の魔力弾が、一箇所目掛けて集まる。

 

取り残された二人は、集中砲火に晒された。

 

轟音と粉塵。距離があった俺にまで衝撃波が届いて顔をなぶった。

 

「くそっ!隊長はどうでもいいけど、真面目な隊員を巻き込むなよっ!」

 

これまでのような牽制程度ではない。本気で狩りとる為の、射撃魔法の嵐。

 

二人は防御魔法で抵抗したようだが、個人の努力でどうにかできる限度を超えていた。魔力弾の密度は、それほどまでに凄まじいものだった。

 

巻き上げられた砂煙が晴れる。

 

至るところに穴が穿たれた道の上に、人間大のシルエットが二つ、落ちていた。

 

血みどろの隊長と隊員が、転がっていた。

 

「お、おい……スタン設定じゃ、ないのかよ……」

 

基本的に、デバイスは非殺傷(スタン)設定が施されている。その設定をしている限りは(相当の痛みも相応の衝撃もあるが)傷つきはしない。怪我はしない。

 

ただ、あくまでも『基本的には』であり『スタン設定をしている限りは』である。意図してその設定を解除してしまえば、射撃魔法なりなんなりが持つ本来の破壊力を負うことになる。

 

俺も経験がある。スタン設定を外した魔法を受けた経験が。傷つき、血を流し、適切な処置をしていなければ命すら危うかったほどの、苦痛と恐怖を刻まれた実体験が。

 

「っ!今から治療すれば、まだっ!」

 

止まりかけた足を再び動かす。

 

体内を巡る魔力を意識し、操作する。リンカーコアから供給される魔力量を平時よりも増やし、身体全体に行き渡らせる。その上で、下肢に魔力を傾ける。

 

循環魔法。俺の新しいカードだ。

 

「はっ……蜘蛛の巣にかかるまで見物ってか」

 

ぎりぎり人間の形を保っている二人に駆け寄るが、弾丸の雨は降らない。

 

隊長と隊員の動きを縛った時に待機されていた拘束魔法はいくつか発動しているが、まだ薄ぼんやりとした魔力光は多くある。敵魔導師たちは俺がその罠に引っかかってから確実に仕留めようと考えているのだろう。

 

ならば、俺にとっては好都合だ。

 

二人に接近し、担ぎ上げようとした時、いくつか光がきらめいた。肩や腕、腹や足に輪っかや立方体の(かせ)がかけられる。

 

「せめて、この三倍は用意しとけ」

 

ほぼ同時。

 

待機状態にあった拘束魔法が発動したとほぼ同時に、それらは粉々に砕け散る。俺が二人を抱きかかえる際にも幾つも展開されて身体にくっつくが、同様に破壊されていく。自由を奪うどころか、俺の動きを止めるにすら至らない。

 

俺がいったい何十回この手の魔法を喰らい続けてきたと思っている。伊達や酔狂や冗談や悪ふざけみたいな感覚で拘束魔法を受け続けてきたのだ。今更こんな質の低い手枷足枷を掛けられたところで、打ち破るのに苦労はしない。

 

「軌道はまっすぐ、フェイクもなし。短時間なら問題ない」

 

拘束魔法が功を成さなかったのを見て、敵さんは射撃魔法に移ったようだ。

 

両目は怪我人二人に向いているが、無論、敵魔導師たちを無視しているわけではない。この戦域周辺にはいくつかサーチャーを放っておいた。そこから届く情報を元に障壁を展開する。

 

「砕かれる前に……退散!」

 

さすがにクロノやなのは、フェイトたちほどの魔導師はこの場にいなかったようだが、そこは薄っぺらいことで名を馳せた俺の障壁だ。火線で耐えられる構造にはなっていない。

 

なので、二人を小脇に抱えると可能な限りのダッシュでユーノのもとまで退がる。

 

広場から射線が通らない場所に、すなわち最初に俺たちが隠れていた廃墟の陰まで走り、ようやく二人を下ろす。

 

俺が怪我人を抱えて戻ったことで敵魔導師が追ってくるかと思ったが、地の利を得ている広場周辺から動くことはなかった。

 

「ユーノ!こいつらを!」

 

「これは、ひどい……すぐに治療を始めますっ!」

 

呼ぶ前に近くに寄ってくれていたユーノに二人を任せる。ユーノは速やかに治癒魔法を行使した。

 

二人の怪我の状況は深刻で、とくに隊長の傷がかなり重い。相手にも見破られていたのか、隊の指揮を執る人間を優先的に墜とそうとしたのだろう。

 

「ここからどうするか、だな……」

 

こんな状況を招いたのは、俺の責任でもある。無策で反転して司令部に戻るという考えを撤回させたのはいいが、結局、無謀な突撃に回帰した。

 

隊長は自業自得もいいところなので何の感傷もないが、それに付き合わされた隊員の一人が深い手傷を負った。司令部まで全力疾走で戻る、という作戦なら、もしかしたらこの隊員は負傷せずにすんだかもしれなかったのに。

 

「っ……いや、選ばなかった選択肢なんて考えるな……」

 

その選択肢のほうが良かったなんて確証はない。今はそう考えて、無理にでも納得しておかなければいけない。

 

敵の部隊は健在で、いまなお牽制の砲火を浴びせ続けている。

 

対してこちらは負傷者が二名。うち一名が隊を指揮する立場の人間。なにより隊員たちは今日が初めての実戦という者も多いようだ。動揺と混乱と恐怖。何をすればいいかもわからず、慌てふためいている。

 

士気は最悪だ。この場を逃げ出していないだけありがたいと思ってしまうほどに。

 

相手は攻めてくる様子を見せないが、仮に攻めてこられた場合、纏まりがないこの部隊ではまともな反撃もままならない。潰走(かいそう)、全滅する恐れすらある。

 

「あ、逢坂、さん……これからどうすれば……いいんですか?ぼくは、なにをすれば……」

 

打開策を模索していた俺に、クレインくんが尋ねてきた。その声はとても心細そうで、表情には恐れが色濃く見えた。

 

「な、なに、言ってんのよっ……は、反撃するに、決まってんでしょ!それが仕事っ……そういう任務だったでしょっ!」

 

アサレアちゃんはそう気勢を吐くが。

 

「そ、そうだけど、腰抜けてるアサレアが言っても、ただ強がってるだけだよ……」

 

「ううううっさい!腰なんて抜かしてないわ!ただ足に力が入らないだけよ!」

 

威勢のいい言葉は飛び出すが、アサレアちゃんは現在、ぺたんとへたり込んで肩をクレインくんに抱かれていた。彼女の性格だとクレインくんの手をはねのけそうなものだが、そうすることもできないほどパニックに陥っているのだろう。

 

「ここはやっぱり、司令部まで後退したほうが……」

 

「このっ、ばか!あの脳みその足りない隊長に逢坂さんが言ってたじゃない!」

 

「……ん?アサレアちゃん、いま俺のこと逢坂さんって呼んだ?」

 

「ばっ、ばかっ、呼んでない!と、とにかく、無能の隊長にこいつが言ってたでしょ!背を向けて撤退すれば追い討ちのカモになるって!」

 

俺が聞き直したせいか、俺の呼び名が戻ってしまった。それよりも隊長の扱いがデフォルトで辛辣(しんらつ)だ。自然にディスってるところがまたきつい。

 

どこか脇の甘いアサレアちゃんを苦笑いで眺めていたが、ふと、気づいた。いや、思い出したというべきなのか。

 

「考えろ……考えろ。そうだ、別に相手を叩き潰す必要はない……」

 

司令部までの撤退は間違っていなかった。今回の任務を取り仕切っている司令部を守るという意味でも、艦の離発着場を守るという意味でも、撤退は間違っていなかったんだ。

 

ただ、その手段が間違っていた。

 

攻撃してきている敵を目の前にして、無防備にも背中を見せて司令部まで戻るという、そんな命令こそを否定したかったのだ。

 

ならば、必ずしも敵を掃討する必要はない。追撃されないように、追撃できない程度に相手へ打撃を与えれば、それでいい。それだけでいい。

 

立案に協力してくれたウィルキンソン兄妹の頭を撫でながら(アサレアちゃんからは抗議の唸り声を頂いたが)、隊員全員に聞こえるくらいに大きく、言う。

 

「みんな聞いてくれ。一つ、策がある」

 

 



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「胸糞悪いなァッ!」

 

 

「逢坂さん、ほ、本当にやるんですか?」

 

盾にしている家の壁に張りつくようにしてタイミングを計る俺に、クレインくんが確認する。このセリフはかれこれ五度目だ。よっぽど成功するかどうか心配らしい。

 

「ああ、やる。そうしなくちゃ安心して戻れないだろ?大丈夫だ、一発も弾は通さないからな」

 

家の角から顔は出さずにサーチャーで視ながら、魔力弾の密度が薄くなる時を待ちながら答える。

 

当初よりも弾幕に穴が増えてきている。

 

いくら人数が揃っているといっても、魔力には限界がある。ローテーションで牽制のための射撃魔法を使っていても、いつかはガス欠する。だから数を抑えてきているのだろう。

 

要因はもう一つある。ランちゃんの存在だ。

 

この場にはいないが、離れた場所から支援射撃してくれているランちゃんにも牽制の魔力弾が飛んでいるので、必然、こちらに向けられる弾丸の数も減るというわけだ。

 

頭上を越えていく魔力弾の方向から察するに、ランちゃんは捕捉されないよう移動しながら撃っている。

 

遠距離射撃ーー狙撃行為は神経をすり減らすと言われている。集中力が落ちてきて、敵の魔力弾がランちゃんに直撃して手傷を負えば支援の頻度は下がるだろうし、どころか支援射撃が止まるかもしれない。これ以上の戦力低下は避けたい。

 

「あの、でも……この作戦、一番危ないのは……」

 

「役割分担だ。俺は離れた敵への攻撃手段を持たないから、クレインくんたちに任せるんだ。そこで役に立たないぶん、ほかのところで働かないといけないだろ?」

 

「そう、かもしれませんが……」

 

「わかってくれたんなら心の準備をしといてくれ。三秒前からカウントする。みんなも用意しといてくれ!」

 

セリフの前半はクレインくんに、後半は隊員たちに向けて言ったものだ。

 

クレインくんはもどかしそうな表情をしたが、やがて杖を握りしめて頷いた。

 

スタン設定ではない魔法の前に出る経験はなかったのか、ほかの隊員たちには敵への恐れが顔面に貼りついているが、それでも俺の合図で構えてくれる。指示されても従わなければいけない道理なんてないのに、俺に協力してくれた。

 

「な、なにやろうとしてるのか知らないけどっ、せいぜい頑張んなさいよっ!」

 

アサレアちゃんの言葉にはやっぱり棘がついているが、本心では心配してくれているのがよくわかる。面白いほどに顔に出ていた。

 

ちなみにアサレアちゃんは作戦に不参加である。自分は有能であると声高に謳うアサレアちゃんも参加してくれたら、こちらの有利に進む確率が数パーセントか上がっただろうけれど、まだ足腰が立たないのではどうしようもなかった。

 

アサレアちゃんには腕で返事をしておき、作戦開始のカウントダウンを口頭と念話で行う。念話は、ランちゃんの支援射撃とタイミングを合わせるためだ。

 

「兄さん、即死とかはやめてくださいね。頭がぱーんってなっちゃうと治せないので」

 

そんな恐ろしくも頼もしいエールを送ってくれるユーノは、なんと怪我人二人を同時に治療していた。

 

治療に専念してもらうため、ユーノも作戦には参加しない。防御手段に優れたユーノがいてくれたほうが俺としても安心はできるのだが、人命に関わることなのでこればかりは仕方がない。念話で《死なない程度にがんばってくる》と簡潔に返しておいた。

 

「二……一……っ」

 

肌を刺すような緊迫感に包まれる。

 

一瞬、間を置いて、動く。

 

「ゼロ!全員っ、撃てっ!」

 

動ける隊員全てが遮蔽物から出て、広場に潜む敵魔導師へ射撃魔法、砲撃魔法など、おのおの得意な遠距離攻撃を叩き込む。幾条もの光の線が広場付近の建物めがけて放たれた。

 

「やっぱ、便利だよなぁ……射撃魔法は。いや……俺は俺にできることをやるだけだ」

 

クレインくんを含めた隊員たちが魔法を使っている間も、一斉射撃の前に発動されていた射撃魔法がいくつか飛んできている。俺の仕事は、相手からの牽制射撃を後ろに通さないことだ。

 

「にしても、狙いが雑だなぁ……」

 

逐次、障壁を作って敵弾を弾きながら一斉射撃の効果を確認するが、どうにもパッとしなかった。

 

前もって準備していたため数は多いし、隊員たちの実力もあいまって威力もありそうだが、いかんせん照準が定まっていない。それもそのはず、敵の姿を確認せずにばら撒いただけなのだ。

 

そして、それでもまったく構わない。というよりも、この一斉射撃の目途(もくと)は敵の数を減らすことではない。そりゃ、ちょっとは当たって減らせたらなぁ、とは思っていたが、意図は別にある。

 

「総員後退!」

 

隊員たちが、あらかじめ待機状態にさせていた射撃魔法をあらかた吐き出した頃合いを見計らい、指示を出す。

 

「さ、次のお仕事だ」

 

みんなが下がってしまえば俺が盾を張り続ける必要もない。

 

全員が建物の陰に隠れるのをサーチャーで見届けてから、土煙が巻き上がる中、地面を強く蹴る。跳び上がる。

 

仕返しとばかりに殺到する射撃魔法の嵐を眼下に見ながら、一番敵魔導師が多かった廃墟へ降下、または落下する準備をする。

 

奇襲の意を込めて、自分の真上に足場用障壁を展開した時、一筋の太い輝線が閃いた。

 

ランちゃんの支援射撃だ。

 

「斉射が終わったら後退していいって言っといたのに……」

 

敵魔導師の目は、唯一遠距離射撃を続けるランちゃんへと集まる。一時収まっていた敵部隊の射撃魔法が勢いを増して再開された。

 

俯瞰(ふかん)しているとよくわかる。

 

ランちゃんへと射撃魔法を放っている敵魔導師の場所、人数、照準精度、連射性能。この広場の構図、付近に配置されている敵部隊の規模と練度。簡単に見て取れる。

 

「あとから礼言っとかないとな」

 

緩む頬を押さえつつ、上下反転して障壁を蹴る。

 

猛烈な速度で地表が近づく。高度が下がってきたところでもう一度上下反転、足を下に向ける。いくつか落下速度緩和のための足場を作り、軟着陸した。以前にも似たような真似をしでかしたことはあるが、それと比べればかなり上達したものである。まあ、パラシュートも飛行魔法もなしで上空からの降下とか、そう何度も経験したいものではないけれど。

 

「よっ……と」

 

着地点の家屋はすでに屋根が落ちていたのでダイナミックかつ静粛にお邪魔した。

 

二階部分の、広場に面した一室だった。明るい色合いの調度品や、ファンシーなぬいぐるみが足元に落ちていることから、この部屋の主人は女の子だったのだろう。

 

 

今や、ピンク色のカーテンは焦げつき、窓は枠ごと吹き飛び、部屋全体が埃っぽい。もはやこの部屋は住める状態ではなくなっている。そもそも屋根がない時点で、この家は建て替えるほかに道がないかもしれないが。

 

「たしか……この隣の部屋だったな」

 

鳥瞰(ちょうかん)していた時を思い出しながら、物が散乱している床を歩く。

 

敵対勢力がここまで踏み込んでくることを想像していなかったのか、隣の部屋の扉は開きっぱなしだった。

 

物音を立てずに部屋の中を覗き込む。

 

「……いた」

 

一人の男が杖状のデバイスだけを窓の外に突き出して魔法を放っていた。ランちゃんに捕捉されたくない心理の表れなのだろうが、魔法を使っている時点でさほどの効果はなさそうだ。

 

できるだけ静かに、付近に散らばっている敵魔導師に勘付かれないように目の前の男を無力化したい。

 

真正面から相対するのがばからしく思えてくるくらいの次元が違う強さの魔導師たちと拳を交えてきた俺だが、その経験はあくまで一対一に限られる。大人数で囲まれて自由に動き回れなくなれば、いつか処理が追いつかなくなる。袋叩きにされるのが目に見えている。

 

だからこそ、各個撃破に持ち込む。それを繰り返して人数を減らしていく。敵部隊も被害が膨らめば俺たちが背中を見せて逃げようとしていても追討しようとは考えないだろうし、上手くいけばこの広場から撤退してくれるかもしれない。

 

そういう運びで、やっていこうと思っていた。この瞬間までは、そう思っていた。

 

「…………あーあ……」

 

この場にいる敵が窓の近くにいる馬鹿一人だけなのかどうか確認するため、盗人のようにこそこそと部屋の奥まで目を向けた時だった。

 

「……胸糞悪いなぁ…………」

 

そこに、あった(・・・)いた(・・)のではなく、あった(・・・)

 

この家の、住人だろう。住人だったのだろう。

 

十歳になるかならないかくらいの女の子を守るように、父親と思しき男性と、母親と思しき女性が覆い被さっている。

 

その三体(・・)は、ぴくりとも動かない。家が崩れ、無法者が我が物顔で乗り込んでいるのに、動かない。

 

彼らはもう、事切れていた。

 

いや、このような言い方では彼らに失礼だ。

 

目の前の男が、彼らを殺めたのだろう。少女を守ろうとする両親も含めて、女子どもがどうとかそんなこと関係なしに。

 

薄々は、頭の端っこのほうでは、わかっていたはずなのだ。

 

ここは、戦場だ。

 

敵は色とりどりのレンガで彩られた古めかしい街を壊滅させた。デバイスの非殺傷設定を外していた。

 

つまりは、人を殺害することに一切の罪悪感も、良心の呵責もないのだ。

 

どこまでも愚かだ。

 

そして、それは俺も同じだ。

 

こうして実際に目の当たりにするまで実感がなかった。

 

街が攻め落とされた。住居が破壊された。人が、死んだ。

 

そう報告されていた。報告されていても湧かなかった、解らなかった、その実感が。

 

「本当にッ……」

 

どうしようもないほどに怒りがこみ上げる。

 

何の罪もない住人を情け容赦なく殺害する目の前のこいつと、あまりにも楽天的で楽観的だった自分に。

 

床にはレンガの破片やガラスが飛び散っていた。そしてそれらを踏み締めた。

 

「胸糞悪いなァッ!」

 

胸に(わだかま)るぐちゃぐちゃな感情を、この一歩に込めた。

 

 

「もう……いないか」

 

目視で近場を、サーチャーで付近一帯をざっと流し見る。目立った動きはなかった。大きな物音もしないことから大部分は鎮圧できたとみていいだろう。

 

「っ……左腕痛ぇなぁ……」

 

最初に発見した敵を少々派手にぶっ飛ばしてしまったため、周囲にいたそれはもうたくさんの魔導師にあっという間に発見された。

 

いったいどういった手法でこちらの戦況を把握していたのかはわからないがランちゃんの的確な支援射撃もあり、目につく敵は排除できた。しかし、乱戦の中を駆け回って撹乱(かくらん)しつつ殴り倒していたのだが、その際に流れ弾が左腕を直撃してしまったのだ。

 

循環魔法で全身の強度を上昇させてはいるが、以前使っていた魔力付与魔法と比較するとどうしても出力の面で劣る。さすがに左腕が動かなくなるくらいの大怪我とまではいかないが、出血はあるしぴりぴりとした痺れはあるし、なによりもちろん痛い。ひとまずは自分の稚拙な治癒術式を展開して血液の流出を抑えておくが、こんなものその場しのぎの痛み止めだ。はやくユーノにちゃんとした治癒魔法を施してもらいたいところである。

 

「こいつら、死んでないだろうな……。嫌だぜ、こんなことで嘱託魔導師の免許剥奪とか……」

 

あたりには、ついさっきまで俺にデバイスを突きつけてくれていた男たちが地べたに這い(つくば)っている。腕やら足やらが本来曲がらない方向に曲がっていたり、鼻や耳や口や他にもいたるところから赤黒い液体が流れてたりはするが、とりあえず五体は揃っているので死んではいないと願いたい。

 

沈めた敵魔導師たち全員の首に縄かけて司令部まで引っ張っていきたいが、俺一人では到底運べない。とりあえず、ここに捨て置くこととした。

 

「俺もさっさと司令部に戻……なんか、持ってる?」

 

司令部がある方向へと足を送ろうとしたが、倒れ伏している男の胸元に異物を発見した。

 

うつ伏せに寝ていた男を転がして仰向けにする。むさ苦しいおっさんの身体検査とか気が滅入るにも程があるが、敵勢力の情報があればこれからの調査が楽になる。近い未来の楽を手に入れるため、今は甘んじて苦痛を味わおう。

 

「このご時世に紙媒体かよ。なんかもっとこう……ファンシーでファンタジックなマジックアイテムとか持っとけよ」

 

俺が殴り倒した際に、男が胸元に隠し持っていた数枚の紙が飛び出してしまっていたようだ。

 

情報のやり取りに紙を使うとはずいぶん古臭い気もするが、携帯端末などの電子機器にデータを入れていると外部からのハッキングの脅威に晒される可能性があることから、昨今再び紙媒体が注目されている。あながち悪い手段と扱き下ろすことはできない。

 

少なくとも、電子機器や魔力を動力とした品であれば、俺ならハッキングで根こそぎ奪い取れた。俺が悪態をついたのも、そういった側面がある。

 

「……なんだ?部隊の編成についてじゃ、ないのか?」

 

ところどころ(血で)汚れていたり、故意に黒く塗りつぶされている部分もある。それでもわかる範囲で読み進めていくと、首を傾げたくなる文章が並んでいた。

 

「『稀少技能(レアスキル)……ジュリエッタ・C・コルティノーヴィス……修正、不適……代用、不足……組み合わせ……クレスターニの秘術……価値……王』……これ以上は読めない、か」

 

文字はほとんど虫食いに近かったが、なんとかがんばっていくつかの単語を読み取った。

 

理解するための前情報を俺が持ち合わせていないのか、現時点で引っかかった言葉というとこのくらいであった。

 

あまりにも単語一つ一つに共通性がない。おそらくこれらの書類は、何かしらの計画の後に作られた、いわば報告書といった立ち位置なのだろう。機密情報管理のためか、何に対する報告書なのかはわからなかった。

 

だが、いくつかのワードについては俺も聞いたことのあるものがあった。

 

稀少技能(レアスキル)は置いとくとして、コルティノーヴィスとクレスターニ……。たしかこの街にいた優秀な魔導師がコルティノーヴィスって姓で、クレスターニってのはランちゃんがこの街で観たっていう人形劇団、だったよな……」

 

点と点で独立していた情報が、線で繋がる。繋いだのは、敵勢力のレポート。

 

そもそも、なぜこいつらがこの街を、サンドギアを襲ったのかわからなかった。ただ暴れたいってだけの(やから)なら、こんな報告書を持っている理由もない。報告書があるということは、誰かに、もしくはどこかに報告しなければならないということだ。

 

つまりは。

 

「思ったより巨大な組織なのか、それとも誰かに雇われている……のか?」

 

思い返せば不自然なところも多い。管理局の魔導師と面と向かって干戈(かんか)を交えるのもおかしいといえばおかしいが、それ以上に気がかりなのは、やけに統率の取れた戦い方だったことだ。迎撃に適した位置取り、陸戦魔導師が多いことを見越した上でのトラップ、すぐに魔力切れを起こさないように牽制弾は持ち回りで行われていたし、トラップに引っかかった隊長と隊員を墜とす時も息の合った一斉射撃だった。

 

とてもではないが、そこらへんのならず者をかき集めただけの烏合の衆ではない。

 

「こいつらの目的は……これ、なのか?」

 

この街には、大掛かりな手を使ってまで攻め入るほどの貴重品、金目の物はない。宝石が採れるわけでもなく、古代遺物に絡む特殊なアイテムがあるわけでもなく、押さえておかなければならない要衝でもない。

 

サンドギアの街には、わざわざお上に喧嘩を売ってまで求めるような物はない。俺自身も思ったし、この街を多少知っているランちゃんもそう語っていた。

 

だが、違ったのかもしれない。彼らにとってほしいものがあったのだ、この街には。

 

それは物ではなく、人なのかもしれない。

 

それは物ではなく、技術なのかもしれない。

 

書類に目を落とす。そこには、血や黒い太線で塗り潰されながらもなんとか読み取れたいくつかの単語。

 

「ジュリエッタ・C・コルティノーヴィスなる人物と、人形劇団クレスターニの秘術……か」

 

それらを突き詰めていけばいずれ答えに行き着くかもしれない。

 

勘とかそういうものではない。俺の勘は得てしてネガティブな方向でしか働いてくれない。だからこれは経験則だ。これまで培った経験が、そう告げている。

 

「まずはユーノたちと合流……っ!」

 

妙に硬さのある数枚の紙を折り畳み、ポッケにしまって(きびす)を返す。いや、そうしようとした時、視界の下端にかすかな動きがあった。

 

長居しすぎたからか、俺が身ぐるみを剥いでいた男がいつの間にか意識を取り戻し、地面に伏しながら手のひらをこちらに向けていた。

 

敵の魔導師は全員、デバイスである杖を持っていて、足元に転がっている男は杖を手放していた。なので魔法は使えないだろうと思い込んでいた。デバイスがなくとも魔法を扱える魔導師は、いくらでもこの目で見てきたというのに。

 

「存外タフでよかったよ、いやほんとに」

 

とはいえ、男も万全の状態ではない。ノックアウトされて、なんとか意識だけ戻ったという形だ。朦朧としている頭では、複雑な魔法の術式の計算なんて即座にできるわけがない。

 

おそらくは、すぐ目の前に敵がいたから排除するためにとりあえず構えただけ。単純な射撃魔法だろうが他の簡単な魔法だろうが、すぐには攻撃されない。それどころか、発動するかどうかも怪しい。

 

なので俺は、なるべく相手を死なせないように無力化するにはどうしたらいいかを真っ先に考えていた。

 

「手、指輪……光っ!」

 

考えていたのだが、男の指にはめられていた指輪が見覚えのある光を放ち、文字列を地面に刻んだ。魔法展開時の発光と、魔法陣。

 

それらが指し示す事象は。

 

「デバイスっ……そんなに小さいのがあんのかよ!」

 

咄嗟に地面を蹴り、飛び上がった。

 

すぐ後に、俺の足があった空間を一発の魔力弾が通った。戦々恐々だったが攻撃らしい攻撃はそれで打ち止めらしい。次弾はやってこなかっった。

 

落下と同時に突き出されていた腕を踏み、もう片方の足は男の頭に落とす。男は再び動かなくなった。

 

「……し、死んで……ないか、よかった!」

 

焦っていたせいで頭を踏んでしまったが、なんとかご存命のようだ。虫の息ではあるけれど。

 

俺の嘱託魔導師免許が、ひいてはエリーとあかねの救出がかかっているのだ。職務中の不慮、しかも相手がクソ野郎であっても殺してしまってはいけない。

 

「こいつだけ持ってたのか、このデバイス?みたいなやつ。…………回収しとくか。また使われても厄介だし」

 

俺が踏んづけてしまったおかげで青黒くなっている手首を掴みあげて、指輪を外す。手のひらに乗せてどんなものか()めつ(すが)めつ眺め見る。

 

「……趣味わる」

 

指輪の表面にはおどろおどろしい細工、裏面には文字が書かれていた。

 

「『フーリガン』?この男の名前なのか、それかサッカーでもやってるのか」

 

よくわからないがこのデバイスっぽいのから何かしらの情報が引っ張り出せるかもしれない。ということで男からかっぱらい、紙束と一緒にポッケにしまっておいた。

 

俺が足蹴にしたこの男みたく起き上がる魔導師がいないとも限らない。もう一度周囲を見た渡して安全を確認し、広場から離れた。

 

隊長が間抜けにも拘束魔法の巣にかかり、罪なき真面目な隊員が射撃魔法の雨に打たれた道を駆け足で通り過ぎる。敵魔導師を気絶させたので拘束魔法の罠もすべて解除されていた。

 

「なんでまだここにいるんだよ……」

 

射撃魔法の盾にしていた廃屋まで戻ってくると、司令部まで後退するように言ったはずなのにそこにはなぜか人影があった。

 

「それはもちろん兄さんを待っていたんですよ!」

 

「まぁ……もしかしたらユーノは残ってるかもなぁ、って思ってたけど……」

 

「逢坂さん!まさか本当にお一人で行くなんて……でも、ご無事でなによりです」

 

「あんた……そこそこ強かったのね。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ見直したわ」

 

「なぜにクレインくんとアサレアちゃんまでここにいんの……?」

 

ユーノは九割五分くらいの確率で俺を待ってるだろうと思っていたが、驚くことにウィルキンソン兄妹まで残ってくれていた。敵の目を引きつけているうちに退がっててくれよ、と呆れもしたが、それ以上に待っててくれたことを嬉しく感じる心を否定はできない。

 

人の温もりに触れてほんわかしていると、アサレアちゃんが突然『あっ!?』と声を上げた。俺はすわ敵襲かと身構えたが、どうやら違う。彼女の視線は俺の左腕に注がれていた。

 

てとてとと近づき、俺の腕を取る。

 

「あ、あんた!けがしてるじゃない!あんな無茶するからよ!」

 

「ああ、これか……焦った。サーチャーに引っかからなかった敵がいたのかと……って、ちょっ、待っ」

 

アサレアちゃんはポケットからフリルがついた淡いピンク色のハンカチを取り出すと、俺が制止する間もないほど迷いなくそれをぎゅっと患部に押し当てた。

 

当然、清潔だったハンカチは血を吸い、可愛らしさよりもおどろおどろしさのほうが強くなってしまった。

 

「ああ……綺麗だったハンカチが……。結構高かったんじゃないの?」

 

「こんの、ばかっ!そんなことどうだっていいのよ!ていうかあんたも布かなにか巻いて押さえておくくらいしなさいよ!こうしておくだけでも出血量が変わってくるんだから!」

 

「俺は血の気が多いからな。多少血を抜いたほうが冷静になれていいかもしれない」

 

「言ってなさい、ばか。……スクライアくん、治療してもらえる?わたし、治癒魔法ってそこまでうまくなくて」

 

「了解です!」

 

わざわざやる必要はないのに、ぴしっ、と敬礼してからユーノは俺の腕に治癒魔法を使ってくれた。

 

仄かな温もりに似た感覚が広がる。

 

かじかむようにじんじんとした痛みが薄れてきているのが実感できた。

 

「さすがユーノ、手際がいい。それはともかく、アサレアちゃん?俺とユーノで随分接し方に差があるんだけど?」

 

「ん?なんてことないわよ。わたしは尊敬できる人には、それなりの態度で接するだけ。スクライアくんはデバイスもなしに優れた障壁や治癒を使ってるからね」

 

「……俺もデバイスなしでやってんだけどなー……」

 

「あんたは別よ。だってあんた、やり方も戦い方も考え方まで乱暴で危なっかしい上に言動にまで難があるんだもの。これには敬意を払うことないな、ってのがわたしの判断よ」

 

「くっ……返す言葉がないっ……」

 

「いやいや、もう少しがんばって反論しましょうよ、兄さん……と、終わりましたよ」

 

傷口を覆っていた光が薄れ、萎み、そして消えた。ハンカチで押さえていたアサレアちゃんの手も引っ込んだ。

 

感覚を確かめるようにくるくると腕を動かしてみる。痛みはもちろん、変に熱がこもっていたり痺れていたりもしない。焼けた服と、乾いて肌に張り付いた血はそのままだが、それらを除けば元通りである。

 

「おお、さすがはユーノ。完璧な仕事だぜ」

 

「ありがとうございます!といっても、兄さんの体質もありますけどね。相変わらず兄さんには魔力が浸透しやすいです!」

 

「相変わらずって……治癒魔法を使ってるイコール怪我した回数だから複雑だな……」

 

お礼代わりにユーノの頭を撫でていると、クレインくんがじっと俺たちを見ていた。

 

「スクライアさんと逢坂さんは本当の兄弟みたいに仲が良いですね」

 

「はい!」

 

「顔のつくりは正反対っていうか、両極端って感じだけど」

 

「それは自覚してるけどな」

 

「小動物系と犯罪者系って感じだけど」

 

「犯罪者系なんていうカテゴリーを俺は断じて認めない」

 

辛辣なことを小憎たらしいほどの笑顔で付け加えて、アサレアちゃんは手に持っていたハンカチを両手で持つ。血が滲んでいる部分を内側にするようにたたんでから、ポケットにしまった。

 

「ハンカチ、汚しちゃって悪いな」

 

「まだ言ってんの?別にいいわよ、ハンカチくらい。こんなのは消耗品なのよ」

 

「いつになるかはわからないけど、いつかなんらかの形で礼は返す」

 

「別にいいって言ってんのに……ま、期待しないで待ってるわ」

 

おそらく初めて、アサレアちゃんの含みのない笑顔を見た。その年相応に幼い表情を見て、なのはにしてあげていた癖でアサレアちゃんの頭も撫でそうになったが、淡い赤色の頭に届く前に手で払われた。

 

アサレアちゃんに警戒している子猫みたいに威嚇される中、辺りを見回す。

 

もちろん敵の姿は見えないが、数人いた隊員たちの姿もない。ここにいるのは俺とユーノ、あとウィルキンソン兄妹だけ。俺が司令部の救援に向かうよう指示したのだから当然だ。

 

「ユーノ、怪我人はどうした」

 

「隊長さんと隊員のお二人は、先に隊員さんたちに司令部へ運んでもらいました。応急手当ては問題なくできましたので、あとは本職の方に任せたほうがいいと判断しました」

 

「正しい判断だな。怪我した隊員さんも、こんな埃っぽくて不衛生な場所で寝転がっていたくないだろうし」

 

「あの、逢坂さん……なぜ自然に隊長さんを除外したんです……?」

 

「んー?まぁ……。そういえば、ランちゃんはこっちに合流してないのか?」

 

「話の逸らし方が雑ですよ、兄さん」

 

そう、この場には四人しかいない。一緒に行動していたランちゃんがいないのだ。遠距離射撃の為にここから離れたところにいたようだし、先に司令部に向かっている隊員さんたちと合流したのかもしれない。

 

と考えていると、クレインくんが口を開いた。

 

「ランちゃんさんなら、逢坂さんが戻ってくる前に連絡がきましたよ」

 

「なんて言ってた?」

 

「え、えっと……ちょっと要領を得なかったんですけど……『あなたの後ろにいるわ』と」

 

「はぁ?なんだそれ……」

 

本当に要領を得ないというか意味がわからない伝言を受け取り、ふと後ろを振り返る。

 

「凄い活躍だったわねぇ、徹ちゃん」

 

ばちんと音が聞こえそうなくらい力強く、俺の目の前でランちゃんがウィンクした。

 

驚きのあまりというか発作的にというか、とにかく拳を振り抜かなかった自分を褒めてやりたい。べつにそれは自制心とか理性ではなかったけれど、むしろ恐怖や畏怖にほど近いものだったけれど。

 

「うおあぁっ!急に間近まで接近してくんな!そろそろ心臓止まるわ!」

 

「あら、ご褒美だったのよん?」

 

「なら喜べるものをくれよ……いや、もうそれはいいや……。とりあえず支援射撃ありがとう、おかげで安全に突撃できた」

 

「どういたしまして。こっちも後半は徹ちゃんが派手に暴れてくれたおかげでやりやすかったわよ」

 

俺やユーノも含め、経験の少ない人間ばかりの中で、ランちゃんのような冷静で臨機応変に対応できる存在は頼りになる。

 

相手の魔導師は、一対一ならともかく集団戦となれば雑魚とは呼べない。ランちゃんの支援がなければ左腕に軽傷を負った程度では済まなかっただろう。濃い個性と独特な人間性はとてもリアクションに困るが、いてくれるとかなり助かる。ランちゃんがこの部隊に配置されていてくれて本当に良かった。

 

「単身での突撃に安全も何もないと思うのですが……」

 

「兄さんはだいたいいつもこんな感じですからね。怪我の程度でいうと今回はまだ軽いほうです」

 

「あいつ、いっつもこんなやり方してるわけ?相手に殴りかかるって、魔導師の戦い方じゃないでしょ……いつか死ぬわよ」

 

「死なないためにそうしてるんですよ。兄さんの武器は……今となっては本当に拳しかないですからね」

 

俺の背後ではそんな会話が交わされていた。

 

言ってることの大部分は反論の余地もないくらいその通りだ。

 

だが、ユーノの言葉には、否定を加えておきたかった。

 

顔を見ずとも、察することができる。今どんな思いでいるのか、わかってしまう。

 

俺に対する憐れみと同情、自身に対する後悔と自責。もう取り返しのつかない過去(・・)への情念が、声音に表れていた。

 

「おいユーノ……」

 

そんなふうに思わなくていいと、自分を責めるようなことしなくていいと、そう言おうとした。

 

しかし、そこから先は遠くから響いた爆発音にかき消された。

 

「な、なんだ?!まだ動ける敵が残っていたのか?!」

 

驚いて音が聞こえた方向に顔を向けながら叫ぶ。

 

俺の発言を、ランちゃんは否定した。

 

「いいえ、この近くじゃないわねぇ……もっと向こうのほう……っ」

 

目を向けた方角は、広場とおおよそ反対側だ。爆発によって巻き上げられたのだろう。相当距離が開いているここからでも、狼煙(のろし)のように砂煙が見えた。

 

「もしかして……司令部がっ!?」

 

「ばかクレインっ!司令部にしては近すぎるでしょ!煙が上ってるのはもっと近く、街の中よ!」

 

アサレアちゃんの言う通り、煙が見えるのは街の中だった。

 

そうこうしているうちにも、爆発音や破裂音は続いている。もくもくと立ち上る砂煙以外にも、火が出ているところもありそうだ。茶色の煙に火の赤が反射している。

 

他の場所でも俺たちみたいに敵魔導師たちと交戦しているのだろうと予想はつくが、少々様子がおかしい。

 

「広い範囲で、足並みをそろえたように……兄さん、これは……」

 

「…………」

 

音の発生源が、一箇所じゃない。交戦しているにしても広すぎる。流れ弾にしては遠すぎる。一番離れているところではキロメートル単位で距離があった。

 

こういう時に限って、予感が脳裏を走る。言うまでもなく、嫌な予感が。

 



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『サテライト』

 

 

地上は瓦礫(がれき)が散乱していて、走りづらいどころか歩くことさえ足元を見なければ覚束無(おぼつかな)い。魔力の温存だのなんだのと言っている場合でもないので循環魔法で身体能力を高めつつ、足場用の障壁を展開しての跳躍移動で、煙が上っている方向へと急ぐ。

 

今なお増える爆発音と煙を目に、俺は頭の中に浮かぶ考えを呟く。

 

「……敵側としては、もとからこういう作戦だったのかもしれないな」

 

「ちょっ、ちょっとっ!どういう意味よ!」

 

俺のすぐ隣を飛行魔法でついてくるアサレアちゃんが叫ぶ。

 

ちなみに、羨ましいことこの上ないことに俺以外の面子(メンツ)は全員が飛行魔法を扱えるようだ。

 

管理局は管理局でもこの任務は《陸》が担っている。なので大抵の魔導師は飛行魔法を扱えない、もしくは得意ではないはずだが、この部隊は少々事情が異なる。

 

戦略上の問題か、それとも部隊を預かる隊長さんたちの意向か、俺たちの部隊には新入りや嘱託の魔導師が集められていた。管理局には《海》に籍を置いている魔導師でも、入局したばかりの時は《陸》で経験を積むというしきたりがあるらしく、話を聞けば新入りたるウィルキンソン兄妹もその例にもれず、といったところのようだ。

 

やはり血筋か、レイジさんほどではないにしろアサレアちゃんもクレインくんも実に安定して飛翔していた。

 

俺の横に張りつくような形のアサレアちゃんに、俺は状況の推測を述べる。

 

「だいたいこんな感じじゃないか?俺たちがしばらく進んだ後に、少数精鋭の敵部隊が捜索網の穴をついて司令部を攻める。司令部からの緊急事態の報を受けた各部隊は当然、引き返す。一度通った道だと油断しているところを、敵魔導師たちは奇襲をかける。それなら最小限の労力と戦力で、最大の戦果を叩き出すことができるだろ」

 

「ちょ、ちょっと待ってください逢坂さん!奇襲って、どうやってですか!?逃げ遅れた住人がいないか街の中を捜索しながら進んでいたんですよ?!敵がいるかどうか警戒しながら!なのに、奇襲なんて……」

 

「きっと、煙が出てるあたりに潜伏してたんでしょうねぇ」

 

戸惑うクレインくんにはランちゃんが答えた。腕を組みながらの間延びした声だが、その怜悧(れいり)な瞳は鋭かった。

 

「潜伏って、そんな余裕は……」

 

そこでクレインくんは黙り込む。

 

気づいたのかもしれない。身を隠す場所を用意するだけの時間的余裕が、彼らにあったことに。

 

それだけじゃない。この街に詳しい人間(・・・・・・・・・)に隠れられそうな場所を教えてもらっていれば、さらに余裕は生まれる。

 

決して、無理のある策ではない。

 

そして、嵌まれば相手にかなりのダメージを与えることができる策だ。戦力差は明らかなのだから、多少リスクはあっても策を打てるのなら迷いなく打つだろう。

 

急がねばならない。なによりも自分たちのために。

 

「スピードあげても大丈夫か?早いとこ援護に向かわないと面倒なことになる」

 

基本的には足場用の障壁を蹴り、時折魔力節約のために強度が保たれていそうな家の壁や屋根を踏んで跳びながら言う。

 

「僕はいけますよ」

 

「えぇ、私も大丈夫よん」

 

ユーノとランちゃんが即座に了承を返す。

 

ユーノが飛行魔法を使えるのは当然知っていたが、ランちゃんも不自由なく使えていた。どでかいケースを持っていながらも余裕を見せてバランスも崩していないので相当の腕があるのだろう。

 

「ちょ、ちょっと!向かうって、あそこに?どこから魔法が飛んでくるかわからないじゃない!ていうか……あんたはいったいどうやって移動してんの……」

 

明らかに飛行魔法のような流動的な動きではないのにちゃんとついてきている、どころか先頭を突っ走っている俺を、アサレアちゃんは怪訝(けげん)な目でじっと見てくる。

 

この跳躍移動は初めて見る人にしてみれば空中ジャンプしているとしか思えないのだから、人外を見るようなアサレアちゃんの目も仕方がない。仕方がないのはわかるけど、もうちょっと表情を隠す努力はしてほしい。

 

「まずひとつ、俺の魔力色は透明なんだ。そんでもうひとつ、俺は飛行魔法の適性がないから障壁を作ってそれを蹴って移動してる」

 

「そうなの、なるほ……っていや、いやいやその発想おかしいでしょ!飛行魔法がないからって障壁使う?どんな頭してんの?」

 

「仕方ねえだろ、周りの奴らはビュンビュン空飛び回ってんだから。言っとくけど案外便利なん……アサレアちゃん、高度上げろ」

 

「は?なにいきなり命令して……にゅあっ!」

 

俺とのお喋りに意識が向いていたアサレアちゃんは、眼前に迫っていた家の壁に気づいていなかった。移動速度が速かったために反応が遅れたのだ。

 

冷静に対処すればなんなく上昇できただろうにやはりこの子は突発的な事象に弱いようで、妙な鳴き声をあげた。

 

アサレアちゃんは慌てて急制動のコマンドをデバイスに送ったのか、がくんと減速する。そんな動作をすれば、本来精緻(せいち)な操作と姿勢制御を必要とする飛行魔法は成り立たない。

 

「ひゃあぁっ!とまっ、とまんないぃっ!」

 

簡潔に言うと、バランスを崩して回転した。

 

「……はぁ。アサレアちゃん、あとから怒らないでくれよ」

 

壁に激突して戦闘不能とか不名誉も甚だしいし、なによりこれで仲間が戦線離脱とか馬鹿馬鹿しい。

 

いやさすがにバリアジャケットを展開させているので、そこまでのことはないとは思うが、こんなことで時間を無駄にするなんてあほみたいな話だ。近付き、くるくる回っているアサレアちゃんのお腹あたりを抱いて真上にジャンプ。

 

背の高い建物の屋根が見える位置まで高度を稼ぐと、先んじて高度を上げて壁を飛び越えていた三人の背中を追う。

 

事もなさげに壁を越えていたランちゃんがこちらを振り返る。アサレアちゃんの体たらくを、心底呆れたような目で見ていた。

 

「大したクールレディっぷりねぇ、お嬢ちゃん?」

 

「えぅ?あ、れ……?」

 

「アサレアちゃん、パニックがおさまったんなら自分で飛んでくれるか?俺はみんなみたいに潤沢な魔力があるわけじゃないんだよ」

 

「あ、うん……んっ?!」

 

ここでようやく前後不覚から目が覚めたようだ。俺の腕の中でもぞもぞ動き始めた。

 

「ちょっ、やっ!あ、あんたっ!ど、ど、どこ触って……っ!」

 

意識がはっきりしだしたのはいいが、なぜか目と鼻の先に壁が迫っていた時と同じくらい今もパニックになっている。耳まで赤くなるほど騒いでいた。

 

今日初めてあった男に密着されるのは嫌なのだろうけれど、もうもうと立ち込める爆煙はすでに近い。こんな雑談で敵に接近を気取られたくない。

 

静かにしてもらうため、アサレアちゃんに弁解する。

 

「悪いとは思ってる。でもな、手を掴んだら身体が振られて痛めるかもしれないし、服を掴んだら首が絞まって苦しいだろ?だからお腹に手を回して……」

 

「……っ、あ、あっ……」

 

俺が説明すると、アサレアちゃんは日光に照らされたゾンビみたいにぷるぷるしながら呻いた。

 

『あ』と言っていることから、もしかしたら『ありがとう』と言おうとしているのかもしれない。ぶつかりそうだったところを助けはしたが、それは時間をロスしたくないという一心からなので感謝は求めていなかったが、だからといって礼を言われて嬉しくないわけではない。

 

言いづらそうにしているアサレアちゃんの言葉を耳を澄まして待つ。

 

「あああんたが手を回してるのはっ、わたしの胸だぁっ!!」

 

「ぐぶぅっふ……」

 

直後に、脳を縦に揺さぶるような衝撃に襲われた。

 

抱えていたアサレアちゃんから、顎に掌底打を受けたのだ。

 

「わきゃっ!いいいいきなり離さないで!落ちちゃうでしょ!」

 

予測不能の至近弾ならぬ至近打を浴びて腕の力が抜けた。重力に従い落下しそうになったところで俺の袖を掴んでぶら下がる。

 

このままではアサレアちゃんだけでなく俺も巻き添えを食うので改めて、次はちゃんと(・・・・・・)腰に手を回して抱き上げる。

 

抵抗するのなら自分で飛んでくれよと心の中で悪態をつきながら痛む顎をさする。

 

一幕をしっかり見ていたランちゃんは底冷えする声で言う。

 

「お嬢ちゃん?まずお嬢ちゃんがするべきことは文句を言うことでも殴りつけることでもなく『ありがとうございます』じゃないのかしら?」

 

「うううるさいっ!これでも感謝はしてるわよ!」

 

ランちゃんからの苦言に、アサレアちゃんは俺の胸におでこを押しつけながら、半ばヒステリックに叫ぶ。

 

間近だったぶん、甲高い声に耳がキンキンする。この子、叫んでばっかりだな。

 

「で、でもっ!胸さわっておいておなかに手を回したとかのたまうこいつも悪いでしょっ!」

 

「お嬢ちゃんが起伏に乏しい幼児体型をしているからでしょ?自分の成育の不備を徹ちゃんのせいにするのはよくないわね」

 

「成育の不備っ?!あとで覚えてなさいよランドルフ!」

 

「敬意を込めて『ランちゃん』とお呼びなさいな」

 

懸命に切り返すもランちゃんに軽くあしらわれたアサレアちゃんは俺の胸元辺りを握り締めてぷるぷるした。きっと言い負かされて悔しいのだろう。ランちゃんとアサレアちゃんでは年季の差もあるが、それ以上に人間性とか性根で大きく溝を開けられている。アサレアちゃんが勝つ日は遠そうだ。

 

「ランちゃん、そのくらいで勘弁してあげてくれ。アサレアちゃんもたぶん反省はしてるって」

 

「徹ちゃんがそう言うのなら私も出しゃばらないわぁ」

 

「……りがと……」

 

胸元にふわっと温もりを感じ、驚いて目線を下にやる。少し前まで宝石状態のエリーがいた場所に、その感覚があったのだ。

 

目を向けるとアサレアちゃんがぼそぼそと口を動かしていた。風にかき消されてほとんど聞こえなかったが何か言っていた気もするので、おそらくアサレアちゃんの息が胸元に触れたのだろう。

 

アサレアちゃんの吐息とエリーの温もりを間違えるなんて、俺もどうかしている。

 

「兄さん、そろそろ話を戻さないとまずいんじゃないですか?それとも作戦なしで突撃するんですか?」

 

「おお、悪い。じゃあ、みんな聞いてくれ」

 

ランちゃん、ユーノ、クレインくんにも聞こえる距離まで詰めると、俺の推察を述べる。

 

「煙が出てるところに、たぶん味方の部隊がある。身を潜めていたっていう前提が正しいのなら、司令部側に敵魔導師がいる。そんでもうひとつたぶん、味方の部隊を挟み込むようにこっち側にも敵の部隊がある。そろそろ見えてくるかもな。すぐにやられることはないだろうけど、はやく行かないとここからの任務が大変なことになるぞ。負傷者が出たぶんの仕事まで俺たちに回されるだろうからな」

 

きゅっ、とアサレアちゃんが俺の服を握る力を強めた。

 

「なん、なんで……挟み撃ちにされてるってわかるのよ。……ここからじゃまだなにも見えないじゃない」

 

「簡単だ。身を隠すことに成功したんなら、俺ならそうする。司令部に戻ろうとする時に司令部側の方角で潜んでいた奴らが姿を現して奇襲、慌てているところを背後から奇襲。順番が逆の可能性はあるが、どっちにしたって実に効率的かつ効果的でおいしい作戦だ。だとしたら早く行かないといけないよな」

 

「…………」

 

口にはしなかったが、アサレアちゃんは『なぜ行かなければいけないの?』と言いたげだった。

 

もとより他の部隊の魔導師を仲間とも思っていないのかもしれない。ひよっこばかりの俺たちの部隊をまるで捨て駒のように一番槍にしていることからも、腹に据えかねるものがあったのだろう。

 

きっと、そんな判断を下した上官のことも、そんな判断に異議を申し立てなかった他の隊長のことも、快く思っていないのだ。少なくとも、好感は持っていない。

 

曇った眉や閉じられた唇、俺の服を握っている震えた手。初めて目にした実戦の恐怖が彼女の心に残っている。戦火の中に身を投じる覚悟が、まだできていなかった。

 

それでも理由を教えておかないといけないだろう。後から知って後悔するほうがよっぽど辛いのだから。

 

「俺たちが通ってきた道にも敵が隠れていたのだとしたら、一足先に司令部に戻っている隊員さんたちが危ない。待ち伏せされてる可能性が高いんだ。……顔見知り程度の相手だけど死んでほしくはない」

 

「……そっか、そうね。なら、行かなくちゃ……っ」

 

他の部隊ならともかく、自分がいた部隊の隊員を見捨てるような真似はしたくないようだ。こくんと頷いたアサレアちゃんは俺の身体を押しのけるようにして停止させていた飛行魔法を再度展開する。

 

「ふっ……っ!なんでっ……」

 

細かな機動をしようとしているわけではなく、ただ宙に浮かぼうとしているだけでふらふらと揺らめく。高度だって安定していない。まだ精神的な動揺が抜けていなかった。気持ちに身体がついていけていなかった。

 

「……アサレア、大丈夫?」

 

「だっ、大丈夫に決まってるでしょっ!こんなことでいちいち声かけてこないで!」

 

クレインくんが駆け寄るが、アサレアちゃんは苛烈に振り払う。

 

そんな状態の妹を見かねたのか、兄であるクレインくんは俺とランちゃんを視界に収め、提案する。

 

「あの……逢坂さん、ランさん、無理は承知なのですが……アサレアを後方に配置してもらえませんか?その分、僕が前に出ますので……」

 

「はぁっ?!ちょ、調子に乗んなっ!わたしは、わたしはできるんだからっ!わたしはっ!クレインに守られるほど弱くない!」

 

クレインくんの申し出に、やはりアサレアちゃんは烈火のごとく怒った。

 

このウィルキンソン兄妹はあまり仲がよろしくなさそうではあったが、やはり何か思うところがあるようだ。というより、アサレアちゃんのほうがクレインくんに対して強く反発している。

 

「…………」

 

当然、見ていて気分のいいものではない。

 

だが彼ら兄妹のことであり、個人的なことなのだから、外部からとやかく口を挟むべきではないだろう。

 

なにしろ今日初めて顔を合わせて名前を知ったのだ。この兄妹の内情に通じているわけではないし、過去にどんな衝突があって、日常にどんな軋轢(あつれき)を生じさせているのかもわからない。知ったふうな顔で助言なんてするべきではないし、ましてやどちらかの肩を持つべきでもない。そんなことをすればさらに二人の仲はさらに険悪になるだろうし、それどころか任務にも支障が出る恐れがある。

 

「……二人の言いたいことはわかった」

 

「逢坂さん……っ!」

 

「あんた、私を外したりしないでしょうね!?そんなこと認めないんだから!」

 

「ああ、任せろって」

 

なので、二人の意思をどちらも汲むことにした。考え方によっては、どちらも汲んでいないとも言えるけれど。

 

 

『徹ちゃん、北東にあるオレンジ色の屋根が半分残ってる家に一人、その二つ隣の二階部分が綺麗になくなってる家に二人いるわ。防御戦闘中の部隊を狙ってるみたいよ』

 

『了解、すぐ向かう』

 

『逢坂さん、南で味方の部隊と敵の魔導師が交戦中です。……怪我人が多く、分が悪そうです。押されています』

 

『これが終わったら……片付いた。すぐ行く』

 

『南東に三人いるわよ。味方部隊の背後をつく形で近づいて……』

 

『ああ、見つけた。こいつらであってるよな』

 

『そう、それ』

 

『…………無力化に成功。近くにもういないか?』

 

『いないわ。ごくろうさま』

 

『なんか腑に落ちないけど……まあいいや。クレインくんが報告してくれたエリアに向かう』

 

現在、俺はユーノたちと別行動を取っていた。

 

ユーノたち四人は上空から監視し、俺は敵の居場所を念話で教えてもらい、地上を駆け回って敵勢力を漸減(ぜんげん)させていく、という作戦だ。名付けて『サテライト』。

 

上空部隊(サテライト)のランちゃん、クレインくん、アサレアちゃんは敵の姿を捕捉次第俺に伝達し、俺から距離の遠い敵は射撃魔法で狙い撃つ。時折流れ星のように魔力弾の輝線が空に描かれていた。

 

戦いにおいて頭を押さえられるというのはかなり恐ろしい。上空から降り注ぐ魔力弾を嫌がる敵魔導師はもちろん四人を撃ち墜そうと躍起になる。地上からの遠距離魔法を防ぐため、ユーノもあちら側に割り振った。

 

ユーノの強固な防壁のおかげでランちゃんやウィルキンソン兄妹は落ち着いて狙いを定めて魔法を使えるし、敵がなんらかの魔法を使ってくれば潜伏している位置を割り出せる。

 

そして、空高くにいるユーノたちを墜とそうとむきになって馬鹿みたいに見上げている奴らを、俺は安全に刈り取る。

 

あっちにいるこっちにいるどこそこへ向かえ、と指示を出されるのはまるで人にコントローラーを握られたドローンのようだが、なにせ効率がいいので内心複雑であってもやめられなかった。

 

『わかっていましたよ……兄さんが無駄に格好つけた顔してる時はどんなことになるのかくらい……』

 

ユーノから念話が入ったが、出端(でばな)から失礼なことを言われた。

 

南東でこそこそしていた敵魔導師三人を屠った足でそのまま南へ向かいつつ、ユーノに折り返す。

 

『なんて言い様だ。作戦は調子よく進んでるだろ?』

 

『作戦……ですか。この作戦で身体を張ってるのは兄さんだけなんですが……』

 

『は?どっちかっていうとそっちのほうが攻撃に晒されてるだろ。文句を言われる筋合いはあっても、褒められる(いわ)れはないぞ』

 

『そんな切り返しかたがあるんですか……』

 

『いやいや、だってそうだろ?戦場の真上でぷかぷか浮いてりゃ相当目立つ。相手からすれば恰好の的だ。作戦を伝えた時に反対されたらどうしようって思ったくらいだし』

 

『相手との距離と人数とおおよその能力、僕の障壁の強度も踏まえて考えたんですよね?』

 

ぎくり、とした。危うく足場の障壁を踏み間違えるところだった。

 

クレインくんの報告にあった味方の部隊が小さく見えてきた。ユーノと交信したまま、移動を続ける。

 

『な、なんのことやら?』

 

『地上から撃たれる数は当然多いですけど、それらのほとんどが僕らから逸れるか、もしくは届かないか。僕らに直撃する弾道は少ないですし、届いても威力はかなり減衰(げんすい)されていて障壁を傷つけるほどではないです』

 

『よかったじゃん。意図していなかったとはいえ、危険よりかは安全のほうがいいに決まってる。敵には攻撃できて、こちらはほぼ攻撃されない。アウトレンジから一方的とか快感だろ?』

 

意図していない(・・・・・・・)とはよくもまあぬけぬけと……』

 

ユーノちゃんのお口が悪くなっている。由々しき事態だ。

 

『クレインさんの「アサレアさんを後方に下げる」というお願いと、アサレアさんの「弱いもの扱いされたくない」という言い分。どちらも叶えた作戦じゃないのかな、と僕は思うんですけど』

 

ユーノたちがいるので上空にサーチャーは放っていないが、顔が見えなくてもユーノが今どんな表情をしてるかが想像できてしまった。きっと俺の脳天めがけてじとっとした目を送っていることだろう。

 

『……そんなことねえよ。ランちゃんは遠距離射撃が得意だし、クレインくんとアサレアちゃんはあのレイジさんの弟と妹だけあって飛行魔法をうまく使えてる。下から見てる限り射撃魔法も並以上の腕だ。それだけ揃ってんなら制空権確保すんのは当たり前だろ。ユーノがついてりゃ防御も問題ないしな。俺は俺で、お前らに注意が傾くから、建物の中に潜伏してたり遮蔽物に隠れた敵を安全に戦闘不能にできる。味方の戦力を(かんが)みて構築した作戦だ、他意はない』

 

『……わかりましたよ、そういうことにしておきます』

 

『なんか含みがあるんだけど』

 

『なんでもないです!敵を発見したらまた座標を伝えます!』

 

ぶつん、と念話が(一方的に)断たれた。

 

ユーノのことなので、また俺の心配でもしているのだろう。俺は別に、危ない役割を自ら買って出ているわけではないというのに。

 

間抜けにも待ち伏せと挟撃にあった他の部隊を結果的に助けているのは、人員が減ってしまうと怪我もなく無事な俺たちに回される仕事量が増えてしまうからだし、この『サテライト』作戦も可及的速やかに敵魔導師たちを排除するためだ。突き詰めれば、自分たちのためである。などと説明しても、ユーノはああいう性格なので素直に俺の意見を聞き入れてくれはしないだろうけれど。

 

道中散発的に遭遇した敵さんを殴り飛ばして行動不能にしながら、南にいるという味方部隊のもとまで駆ける。

 

ぎりぎり倒壊せずに生き延びている建物の屋上で姿勢を低くし、状況の確認をする。高い位置からだと、切羽詰まった戦況がよく見下ろせた。

 

T字路の、ちょうど横棒と縦棒がくっついているあたりに味方部隊はいて、二つの敵部隊から十字砲火を浴びていた。

 

味方部隊の隊員は合計で十二名いた。しかし、そのうち五名が倒れて意識がなく、二名は意識はあるが負傷している。倒れた五名の中には隊長も含まれているらしく、隊の指揮はしっちゃかめっちゃかになっている。

 

行動可能な隊員五名のうちの一人、女性の隊員が治癒魔法に心得があるようで治療をしているが、負傷者の数が多い上、すぐ近くに魔力弾が着弾するような環境では応急手当ても満足に進まない。治療の安全確保のために二人が障壁を展開しているが、そちらに人員を振っていることもあり、敵の猛攻を押し返せないようだ。

 

絵に描いたようなジリ貧だった。

 

殿(しんがり)を置いて縦か横どちらかから強行突破すりゃよかったのに……ああ、なるほど」

 

なぜ強引にでも逃げる判断をしないのかと思ったが、横棒の道の一つが潰されていた。上下反転させたLみたいな形になっている。家が崩れて、その瓦礫で道が埋まってしまっているのだ。どうにも不自然な倒壊のしかたをしているので、おそらくは敵側がなんらかの工作をしたと見える。

 

唯一あった逃げ道を封じられ、次の手を考えているうちに部隊の被害が拡大して身動きが取れなくなった、とまあこんなところなのだろう。

 

「敵のトップは賢いみたいだな……羨ましい限りだ」

 

魔導師個人の練度や適性などのおおまかな能力、使っているデバイス、この任務に動員した人数で比較すれば管理局側が有利なのは明白なのに、押し負けている。

 

それはひとえに、アドバンテージを覆すほど敵勢力は運用が(たく)みだということ。こちらの上官サマの過信と慢心も大いにあったと言えるけれども。

 

「はぁ……助けに行くか」

 

なにはともあれ、早いとこ救援に向かわないとこのままでは眼下の隊が壊滅してしまう。

 

俺一人で敵の背後を突いてもなんとかなりそうだが、戦闘を有利に運べる手段があるのにあえて危険な選択をする必要もないだろう。建物の屋上にいる俺の、さらに上にいる仲間に念話を送る。

 

『クレインくん、アサレアちゃん、俺がいる場所は確認できてるか?』

 

『はい、見えています』

 

『見てるわ。あんたなに休憩してんのよ』

 

『休憩じゃねえよ。今から近くの隊を援護するから、二人は司令部に近いほうの敵の一団……北側の敵集団だな。奴らに射撃魔法の雨をくれてやってくれ。封じられてる司令部側の道を確保して、そこから部隊を後退させる』

 

『えっと……この距離だと威力も照準も保証はできないんですが……』

 

『それでもいい。意識が上に向いてくれればそれだけでやりやすくなるから』

 

『わかったわ。もしかしたらあんたに誤射っちゃうかもだけど、怒らないでね』

 

『ほう……そんなへっぽこな腕前で大口を叩いていたんだな』

 

『こんの……っ!クレイン!あんたは司令部と反対側!わたしは司令部側のやつらをやる!あいつの仕事ぜんぶ奪うわよ!』

 

『ちょ、ちょっとアサレア!?』

 

『こっちはいつでもいけるんだから、はやく合図出しなさいよ!』

 

なんとも呆れるくらいに扱いやすいアサレアちゃんが気炎を吐く。

 

攻撃のタイミングを合わせることを意識するようになっただけなのに、彼女に若干の成長を感じられて嬉しく思う。

 

地上に降り立って建物の影に入り、裏路地に移動すると、上空にいる二人に号令を送る。

 

『準備オーケー。始めてくれ』

 

ウィルキンソン兄妹の赤みがかった魔力弾が、油断しきっている敵部隊の頭にぱらぱらと降り注ぐ。数を優先させているので命中精度はお察しである。

 

ほかの場所では察知している部隊もいたが、攻勢中のこの敵部隊は上空にいるクレインくんたちに気づいていなかったようだ。真上から撃ち下ろされる射撃魔法にてんやわんやとなった。

 

相手を混乱させるという立派な成果は出してくれたが、アサレアちゃんにとってはイレギュラーがあったらしい。念話でけたたましく吠えていた。

 

『ちょっとクレイン!北側の敵はわたしがやるって言ってたでしょ!?』

 

『で、でも……逢坂さんからは司令部側の敵に攻撃するようにって……』

 

『いいのよ!あいつの目的は敵の目をこっちにひきつけさせることなんだから!』

 

『そんなこと言っても……。逢坂さんは司令部側の敵部隊を叩いて味方部隊の救援をするんだから、そっちになるべく注力した方がいいに決まってるし……』

 

『その役目はわたしだけで果たせるって言ってるの!これはあいつとの勝負なの!あいつよりもわたしのほうが無力化した敵の数を多くするんだから!』

 

『……逢坂さんは勝負なんてしてるつもりないだろうし、無力化した人数ならここまでの戦闘だけで逢坂さんのほうが圧倒的に多いよ……』

 

『うっさいわ!』

 

兄妹喧嘩をしながらも魔力弾は降り続いていたが、敵部隊も素人じゃない。いつまでも動揺なんてしない。

 

空に漂うクレインくんに向けて牽制で遠距離魔法を放ったり、頭上に障壁を張りながら屋内に退避し始めた。

 

建物の中に入られれば上からの支援射撃は通らない。しかし、屋内となれば自然と遮蔽物が多くなり、ひいては死角が増える。接近を気取られる前に肉薄することができる。

 

大通りを避け、裏路地から忍び寄る。窓どころか壁に風穴が空いていたので、建物内部への侵入も容易だった。

 

そして。俺の拳骨(メインウェポン)が火を噴いた。

 

「ふっ!」

 

「い、いつの間ぐぼぉぁ……」

 

循環魔法により体内で巡る魔力をコントロール。腕へと部分的に偏らせ、相手の懐に踏み込み、振り抜く。

 

わざわざ気づかれないように近づいたのだ。もう何人か闇討ち的に墜としたい。叫ばれてばらされないよう、鳩尾(みぞおち)付近から肺を潰すイメージで拳をめり込ませた。

 

一撃で意識を刈り取る。敵のおっさんAは肺に蓄えていた空気とともに濁った声を吐き出し、崩れ落ちた。

 

倒れた時の音で周囲にいる敵に勘付かれてはいけないと考えて膝を折ったおっさんAの襟首あたりを掴んだのだが、家屋の外ではクレインくんとアサレアちゃんの射撃魔法が轟音を撒き散らしているのでそれほど神経質にならなくても良さそうだった。

 

これまでよりも多少大胆に移動し、次の獲物を狙う。

 

 

 



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諸刃の剣。自壊の技。

 

『……徹ちゃーん、ちょっと相手の動きが怪しくなってきたわぁ』

 

数分が経ち、俺が記念すべき十人目の首を拘束魔法の鎖で縛り上げていると、頭の中に声が響く。ランちゃんからの念話が届いた。

 

『撤退か?それとも総攻撃か?』

 

『基本的には撤退……ただ一人だけ、正確にいうと二人なのかもしれないけれど、全体の流れに反しているのよねぇ……』

 

『……どういうことだ?』

 

殺してしまわない程度の力加減で絞め落とした敵魔導師を投げ捨て、ランちゃんに再び尋ねた。

 

『敵勢力全体が撤退の流れに推移してきたあたりで、二人が戦域に入ってきたの。一人は大柄な男性、もう一人は変わった服装をした女の子で…………』

 

『ん?どうした、ランちゃん?おい!』

 

今も上空から俯瞰的に見ているランちゃんは実況するように状況を伝えてくれていたが、急に途切れた。

 

なにがあったのか、なにを見ているのか気が気じゃなかったが、何度か声をかけてやっと応答があった。

 

『男性の方の恰好、ずいぶん薄汚れていて気づかなかったのだけど……あれ、は……管理局の……』

 

良い意味でも悪い意味でもはっきりと物を言う彼にしては、不明瞭な言い方だった。だとしても、ランちゃんを責めることはできないだろう。それだけのイレギュラーだ。

 

この街の一件、サンドギア襲撃の裏側を推測していた俺たちは仮説を立てていたのだ。もしかしたら姿をくらました管理局の魔導師が一枚噛んでいるのでは、と。

 

ランちゃんが口にした、管理局の恰好。

 

無力化した管理局の魔導師の制服を奪って着用に及んでいるのでなければ、その人物は誰なのか。そんなもの、一人しか思いつかない。

 

『は、はは……マジで言ってんのか……。ってことは、行方が分からなくなってたアルヴァロ・コルティノーヴィスって人が……』

 

『……私は本人の顔を知らないから、断言はできないわ……。でも、敵勢力の旗色が悪くなって撤退し始めた時に示し合わせたみたいにどこかから現れて、敵部隊の撤退を手助けしながら移動し続けている。しかも、私が見ている限り圧倒的な力を振るっているから……話に聞いていた魔導師さんだとしか思えないわね……』

 

『つまりは、殿(しんがり)を務めているってことだろ……。本当に犯罪者集団についたのかよ……』

 

『それだけじゃないわよ。こっちが拘束した敵も解放して回ってる……なにせ力量が違いすぎて、抵抗もできていないわぁ……。まずいわねぇ、尋問もできなくなっちゃう』

 

『……ランちゃんのほうから動きを抑えるとか、あわよくば墜としたりとかってできない?』

 

『これでもずっと撃ち続けているのだけど……ごめんなさい、当たる気がしないわ……』

 

一定の間隔で空に輝線が走っていたが、それはコルティノーヴィス魔導師への射撃だったらしい。

 

ランちゃんの狙撃技術は広場で目にしているし、頼もしさは身にしみている。その技術をもってしても一発も当てられないのなら、それはもう相手を賞賛するしかない。

 

『ランちゃんでも難しいんならそりゃあもう無理なんだろうな……気にしないでくれ。反撃されてないだけマシって考えようぜ』

 

『それが……何度か射撃魔法か何かを使ってきそうなそぶりはあったのだけど、実際に使ってはこないの。一度も、ね。おかげでユーノちゃんは緊張しっぱなしよ』

 

ユーノには同情するが、少人数にもかかわらず俺たちが優位に立てているのは制空権を確保しているからだ。神経を磨り減らすことにはなるだろうが、墜とされないように三人を守ってもらわなければならない。

 

『ずっと上から狙われるのはやり辛いだろうに反撃しない……俺みたいに使えない、とか?』

 

『それはないと思うわぁ。陸戦魔導師で遠距離攻撃の手段までないとなればランクAAに認定されないでしょうから』

 

『腑に落ちないな……。牽制にも撃ってこないってのはどういう理由が……』

 

『魔力の温存か、それとも魔法の性能を知られたくないか……っ!徹ちゃん!()がそっちに……っ!』

 

こちらが詳細を聞き返す前に、どころかランちゃんが念話を送り終わる前に、それは起きた。

 

間近で大玉の花火が炸裂したのかと思うほどの衝撃。それ自体がボディブローのように腹の底に響く轟音。まず間違いなく、俺がいる家屋のすぐ近くで発生したものだ。

 

「くそっ……こっちにまで来たのかよ!」

 

既にぼろぼろだった廃屋がさっきの衝撃で崩れてしまわないとも限らない。俺は悪態をつきながら転がるように外に出た。

 

さっきの地揺れじみた衝撃と音、途中まで伝えてくれたランちゃんの情報で原因はわかる。

 

俺の現在地から西方にいたはずの『元』管理局陸戦魔導師ーーアルヴァロ・コルティノーヴィス氏が、敵勢力の撤退支援を続けてとうとうこちらにまでやってきたのだ。

 

『まずいわ!標的は近くにいる味方部隊よ!』

 

ランちゃんが状況報告を続けてくれていた。

 

そうしている中でも、時折光の線が流星のように上から下へと落ちている。射撃魔法での牽制も継続してくれている。味方部隊を引っ掛けてからコルティノーヴィスさんは移動しているのか、上空から落下する輝線の座標は遠ざかっていた。

 

『……っていうかなんでまだこの近くをうろついてるんだ!敵の部隊は撤退を始めてるんだろ?!なんで味方の部隊は司令部に向かってないんだ!?』

 

もはや怒鳴りつけるような勢いでランちゃんに返した。

 

何本か道を挟んでいるため、まだコルティノーヴィスさんの姿は視認できないが、ランちゃんの射撃魔法によってコルティノーヴィスさんがいるだろうポイントにあたりはつけられる。

 

その場所は、司令部とは逆方向だった。

 

『徹ちゃんが片方の敵部隊を片付けて敵側が撤退しだしたのを確認して……フラストレーションが溜まっていたのか、それとも敵勢力を掃討するという仕事を果たそうとしているのか、魔導師数人が攻勢に転じたのよ』

 

『ここは一旦退いて体勢を立て直すのが先決だろうに!真面目なのはいいことだけども!』

 

『どうする?』

 

『助けに行かなきゃあとあと面倒だからな……ランちゃんはその場で支援射撃を頼む』

 

『わかったわ。できる限りはやってみるわねぇ』

 

『あとユーノを借りたい。防御担当がいなくなるけど、そっちは大丈夫か?』

 

『構わないわよん。普段は一人でやってるんだもの。ここまで楽をさせてもらったぶん、頑張るわぁ』

 

『ありがとう。もう少しの間頼む』

 

ランちゃんとの念話が切れるや否や、循環魔法の出力を上げ、地面を蹴って飛び出す。障害物になる家を飛び越えて一直線に現場へ向かう。

 

そのわずかな時間の間に、仲間にお願いを伝えておく。

 

上空にいるランちゃん以外のメンバー、ユーノ、クレインくん、アサレアちゃんに念話を繋いだ。

 

『ユーノ、状況は理解してるな?』

 

『はい。地上に降りて負傷者の応急手当てをしておきます』

 

『話が早くて助かる。クレインくんとアサレアちゃんは治療中のユーノの護衛を頼みたい』

 

『はい、了解しました』

 

『なんでわたしにまで命令してんのよ!わたしは自分の好きなようなするから!』

 

『……へえ。それじゃあアサレアちゃんは、経験豊富な先輩魔導師をばったばったと薙ぎ倒してるコルティノーヴィスさんと正面切って戦うっていうのかー。立派だなー、勇敢だなー』

 

『わわわたしはっ、スクライアくんが危ない目にあわないように自主的にスクライアくんの護衛をするの!あんたの命令を受けたわけじゃないから!』

 

『さすがアサレアちゃん。今なにをすべきか、なにをすべきでないかをよく理解できてるなー。助かるよー』

 

『こんのっ…………あんたにはいつか絶対吠え面かかせてやるんだから!』

 

典型的な捨て台詞を吐くアサレアちゃんだったが、三人がひとかたまりになって上空から高度を下げながら負傷者に近づいているのをサーチャーで捉えることができた。アサレアちゃんはなんだかんだと文句を言いつつも、ちゃんとユーノの護衛についてくれるようだ。

 

気難しいのか扱いやすいのかよくわからないアサレアちゃんに苦笑しながらターゲットがいるだろう場所へと向かう。

 

「もうすぐのはず……ここか!」

 

崩壊寸前の家屋の屋根を踏み越えると、件のコルティノーヴィスさんの姿をようやく視認できた。

 

その場には五人いた。

 

五人いる。それで間違いないのだが、しかしこれでは今ひとつイメージが違う。

 

『いる』のは五人だが、立っているのは三人しかいない。残りの二人は地べたに倒れ込んでいた。おそらく、いやおそらくもなにも、攻めに転じて返り討ちにあったのだろう。

 

「あの人が……」

 

緊張感から、ごくりと生唾を呑み込んだ。

 

立っている三人のうちの一人、威風堂々泰然自若としているのが、件のアルヴァロ・コルティノーヴィスさんなのだろう。

 

三十代半ばから四十代前半といったところの、恰幅(かっぷく)のいい男だった。ただ身体が大きいだけではなく、鍛え上げられた筋肉をしっかりと纏っていることが管理局の制服越しでもわかる。暗褐色の髪は短く切りそろえられており、その精悍(せいかん)相貌(そうぼう)と体格とが相まってかなりの厳つさがある。

 

「…………」

 

いろいろと、本当にいろいろと気がかりな点は多いが、コルティノーヴィス氏はまだ生き残っている隊員たちへと戦意をあらわにしている。いつ生き残りの二人に攻めかかってもおかしくない。

 

助けが間に合わなかったら(今の時点でもちょうど半分間に合っていないが)ここまで来た意味が霧散する。唾と一緒に疑問も呑み込み、コルティノーヴィスさんと隊員の中間あたりに降りる。

 

「……抵抗はせずに投降してほしい。管理局に歯向かったところで良い結末にならないのは、あなたが一番知ってるんじゃないか?」

 

淡い期待を抱きながら彼に投げかける。こんな手垢のついたフレーズで投降するなんて毛ほども思っていないが、もしかしたら、ということもあるやもしれない。何にしたところで形式的にも一度は帰順を促しておかなければいけないだろう。

 

『…………』

 

しかしというべきか、やはりというべきか、コルティノーヴィスさんからの返答は無言という名の否定だった。

 

「そうかい……わかったよ。……そんじゃあ実力行使だ」

 

拘束魔法を発動する。

 

瞬時に魔法が展開してコルティノーヴィスさんの手足、どころか片腕を除いて(・・・・・・)全身に透明な鎖がまとわりつく。動きを封じる。

 

彼の目には何も映らなかったはずだし、なんの予兆もなかったはずだ。魔法としての強度はともかく、隠密性能では他の追随を許さない。無数の拘束魔法で雁字搦めに絡めとる。

 

俺が地面に降りる前、コルティノーヴィスさんが隊員二人に注視していた時に仕込んでおいたのだ。タイマンであれば勝負の開始前に仕組んでおくなんて恥知らずな行いだが、これは公明正大な試合でもなければ清廉潔白な勝負でもない。チャンスがあるのなら率先して仕掛けていく。

 

彼の動きを制したことで少しばかり心に余裕が生まれた。ので、疑問と課題の消化に取り掛かる。

 

「とりあえず、その抱えてる女の子(・・・・・・・)を下ろしてもらおうか。先に釘を刺しておくけど、人質にはさせないからな」

 

そう、彼はなぜか片腕に女の子を抱きかかえていた。

 

ランちゃんが中途半端にコルティノーヴィスさんと一緒に女の子もいるとかいないとかそんなことを伝えてくれていたが、まさかこんな形で一緒に行動しているとは想像していなかった。話に聞いた時はてっきりコルティノーヴィスさんの仲間とかかと勝手にイメージを膨らませていたのだが、華やかな民族衣装に身を包む愛らしい少女を小脇に抱えているという構図では、まるで誘拐犯である。

 

というか、こんな状態で管理局の隊員たちと戦って圧倒していたとか無茶苦茶もいいところだ。高ランクの魔導師なだけはあるらしい。

 

『…………』

 

コルティノーヴィスさんは抱えていた少女を地面に下ろした。

 

未だ一貫して無言のコルティノーヴィス氏も不気味だが、なぜか氏と行動をともにしていた異国風の衣服を身に纏う少女も平常とは言い難い。

 

エプロンドレスのようなものなのか、明るいオレンジ色のロングスカートの上には、黒地に花の刺繍が施されたレース生地のエプロン。襟にフリルの装飾がついていて、袖は絞られている純白のブラウス。ウエストとアンダーバストで赤い紐を巻いており、腰の細さと胸の存在を強調している。赤地に金糸で草木や鳥が象られているベストと、暗い赤紫色の透かし模様を作ったベールを纏っている。

 

少女の歳の頃は、おおよそアサレアちゃんと同じくらいだろう。ラフウェーブがかかった鮮やかな緑色の長い髪と、同じ色の瞳。目鼻立ちもはっきりとしていて、インパクトの強いエキゾチックな服に負けていない。まるで名匠によって作られたビスクドールだ。

 

ただ惜しむらくは、この少女が置かれている状況だった。今回の襲撃事件の前であれば、それらはたいそう美しく見えたことだろう。残念なことに、今は絢爛(けんらん)な民族衣装も、少女自身もどこか(すす)けて、赤黒い斑点がついてしまっていた。戦火に晒され、砂埃を被り、返り血を浴びて、薄汚れてしまっていた。

 

「君、こっちに来て。俺は時空管理局の人間だ。君を助けに来たんだよ。だから早くこっちに」

 

解放された少女に話しかけるが、少女はいささかの反応も示さなかった。声をかけたのに、こちらに視線を向けることすら、なかった。

 

人間の表情からこれだけ感情を抜き取れるのかと思ってしまうほどコルティノーヴィス氏は不気味だったが、この少女も同じくらい無表情だ。人間味というものを限界まで削ぎ落としていったかのような、そんな顔。青白くなっている顔色もそう思わせる原因だろう。

 

まるで本当に人形のようだ。生気を感じられない。

 

「……この子は、この街が死んでいく光景を見てきたのか」

 

少女がこうなってしまった理由なら、いくつも思い当たってしまう。言うまでもなく今回の事件が、サンドギアの街襲撃が、少女の精神を殺してしまったのだろう。

 

この街で行われたありとあらゆる行為は、まだ幼い少女の目には、まだ脆い少女の心には、刺激が強すぎたのだ。

 

「大丈夫だよ。悪い人たちは俺たちがやっつける。もう君を危険な目には合わせない。だから、おいで」

 

心神耗弱に近い状態なのかもしれない。即刻安心できる場所でゆっくり休ませてあげるべきだ。

 

そう判断した俺は少女に歩み寄る。

 

コルティノーヴィス氏は沈黙したまま微動だにしていなかった。不穏だし、不安だが、夥しい数の拘束魔法で縛り付けている。そう簡単には破れはしない。

 

だから、少女に近づいた。保護すべき対象を保護するため。見ていて辛くなるような少女を助けるために。

 

その時だった。

 

「な……んだ、この魔力……っ」

 

『…………』

 

少女から、妙な魔力が放たれた。

 

射撃魔法のように形作られたものではない。しかし、拘束魔法の待機状態のようなもやもやとしたものでもない。奇妙としか表現のしようがない魔力が、少女の身体から放出されていた。

 

その正体がなんなのか明らかしようと周囲を左目で確認しようとした。

 

「ッ……っ!」

 

本当に唐突に、一切の予兆もなく、心臓を握り潰されるような重い圧力を受けた。

 

それはきっと、悪いほうの勘、だったのだろう。事態が悪化する時にしか働いてくれない、俺の勘だ。

 

強烈なプレッシャーを浴びた俺は、頭でどうするか思考する前に膝を曲げて頭を低くした。

 

「ほんともう……ふざっけんなよ!」

 

一秒後どころの騒ぎじゃない。頭を下げた瞬間のことだった。なんなら頭を下げるのも間に合っていない。俺の後頭部があった場所を何かが猛スピードで駆け抜けていった。ぶちぶちと、髪を数本引き千切られた感覚もある。風切り音で聴覚を満たされたほどだ。

 

つい先程までぴくりともせずに静止していたコルティノーヴィス氏は、俺の視界内にいない。

 

コマ落ちしたみたいな高速移動と、背後から行われた鋭い一閃。

 

姿はいまだ視認していないが、断言できる。この戦域に、そんなことができそうなのは一人しか思い浮かばない。

 

アルヴァロ・コルティノーヴィス。

 

この人を除いて他にない。

 

「ッ……くそッ!」

 

後ろを振り返る余裕すらない。

 

幸い俺の頭上数メートルの位置には、敵魔導師に囲まれないようにとサーチャーを配置していた。そこから伝送される視覚情報で、()の姿は捉えている。今、俺の背後で何をしようとしているかも、視えている。

 

両腕に魔力を集中的に送り込み、最大限に強化する。頭部を守るように両腕を交差して掲げた。

 

「ぐっ……重……っ」

 

すぐに踵が振り下ろされた。両腕で防いでいなければ、ユーノが懸念していた通りに頭がぱーんとなっていたところだ。実に笑えない。

 

「っ!」

 

恐ろしいまでの速さと重さの踵落としに、限界まで強度を上げていたはずの両腕が痺れていた。

 

とはいえ、反撃できなければいいようにやられるだけだ。攻撃を防がれた相手が多少なり体勢を崩しているこの隙に、攻勢に転じる。

 

「ふっ!」

 

振り向きながら腰の捻りと遠心力を乗せた、上段への回し蹴り。

 

「は……?」

 

クリーンヒットはしなくとも、せめて動きを止めるくらいの効果はあるだろうと繰り出したそれは、綺麗に空を切った。

 

ほんの数瞬前まで確かにいたはずなのに。サーチャーでも確認していたはずなのに。振り向いた頃にはもういなかった。

 

ただ、左目だけが不可解な光を捉えていた。これまでで見たことがないくらい、気持ちの悪い魔力。焦茶色と黄緑色を混ぜる途中の絵の具のような、奇怪で不快な魔力の光。

 

その光の尻尾を追うと、いた。

 

俺と少女の間に立つような形で、コルティノーヴィス氏が、目の前に。

 

「ッ……おおあぁッ!」

 

発作的に、といっても過言ではないだろう。激しく律動する心臓を鷲掴みにするような威圧感に、俺は思わず障壁を展開させていた。俺の保有魔力量を考えればそうそう乱用できる代物ではない多重障壁群『魚鱗』を、発動させていた。

 

発動が完了した瞬間に、コルティノーヴィス氏の身体がぶれた。

 

ズガガガガッ、と。重機関銃でも撃ったような音が、障壁から発生した。

 

ガギッ、バギッ、と音を立てて鱗の表面が剥離していく。亀裂が入り半透明になった障壁片が散らばっていく。

 

目の前にいるというのに、俺はコルティノーヴィスさんが何をしているのかを理解できていなかった。

 

『…………』

 

これ以上続けられたら盾がもたない。そんな危機感が膨らんでいたが、始まりと同様に、スイッチを切ったように突然動きを止めた。

 

「意味がわからない……予測がつかねえよ」

 

理由は不明だが、俺にとっては都合がよかった。怒涛で行われていた攻撃が途切れた間隙(かんげき)を縫い、俺は大きく飛び退く。

 

「早くそこの伸びてる二人担いで退()がれ!この人は手に負えない!ステージが違う!」

 

コルティノーヴィスさんから両の目を逸らさぬまま、援護どころかただただ立ち(すく)んで傍観していた別部隊の隊員二人に怒声を飛ばす。申し訳ないことに、体裁を取り繕う余裕など俺にはなかった。

 

「あ……ああ」

 

「わかっ、わかった!」

 

きっと隊員お二人さんもまともに脳みそが働いていないのだろう。俺みたいな若造に命令されたというのに反論することなく、ゴーグルをかけた隊員とぽっちゃりした隊員は近くにいる化け物の逆鱗に触れないように粛々と仲間を抱えて退いた。

 

「ほんとにあんた……なんでくそ野郎どもに寝返ったんだよ」

 

『…………』

 

「黙ってたら……わかんねえよ。何か言ってくれないと、助けることもできねえよ……」

 

ここまでがちがちの近接格闘型の魔導師はアルフ以来だ。それにまだ使っていないようだが、この人は射撃・砲撃魔法も使えるはずなのだ。近接格闘だけでほぼ相手を圧倒できる強者で、遠距離攻撃まで備えている。

 

なのに、どうして管理局に叛旗(はんき)を翻してまで敵勢力に助勢するのか。どうして暮らしている街が無法者たちに蹂躙されるのを見逃したのか。

 

わからないことが多すぎる。理解が及ばない。

 

「…………」

 

『…………』

 

コルティノーヴィスさんの背後にいる少女が、不意に空を仰いだ。

 

次いで、ブレーカーを落とされた電化製品みたいに沈黙し、再び一切動かずにいたコルティノーヴィスさんもまた、不意に動く。

 

急速接近。離れたはずの距離が一気に踏み潰される。

 

「なにがしたいんだよッ、あんたはッ!」

 

また、コルティノーヴィスさんの身体がぶれる。

 

その動きは二回目だ。同じ手をむざむざ喰らうわけにはいかない。今度こそ、見逃しはしない。

 

「馬鹿みたいにっ、速い……っ!」

 

俺の障壁、『魚鱗』を抉り飛ばした正体。それはコルティノーヴィスさんの両腕から放たれる、目にも留まらぬほどの速度の連続的な拳撃だった。

 

人体の構造上不可能に近い速度での、連撃。おそらくは機動力を跳ね上げさせるような魔法と、身体保護のため術式のどちらもを施しているのだろう。動きを速くするだけの魔法では、この連撃を説明できない。

 

一発二発ならいいだろう。しかし、五発十発それ以上と増えていけば、相手より先に自分の身体を破壊しかねない。自分の肉体を、骨を、筋肉を、筋膜を、腱を、確実に蝕んでいく。

 

諸刃の剣。自壊の技。自滅を前提とした術式。これはもはや、そういった代物だ。

 

魔法はどこまで突き詰めても万能ではない。飛行魔法だって無茶な空中機動(マニューバ)をすれば、慣性が術者を苦しめる。何かを優先すれば何かを犠牲にしなければならない。

 

そうでないといけないはずなのに、身体保護のための術式を専用で用意していてもどこかで無理はしているはずなのに、彼は表情一つ変えず、汗の一滴もかかず、俺に向かってくる。

 

のしかかってくる負担は莫大だろうに、付随して訪れる痛みも甚大だろうに、コルティノーヴィスさんは継続して、連続して拳を振るう。

 

明らかに常軌を逸している。

 

「だと、してもっ……やられっぱなしじゃねぇぞ……ッ!」

 

腕が霞むほど速いといっても、それが拳撃である以上、繰り出される場所にはある程度予想をつけられる。

 

思い出せ。

 

視認すること自体が難しい攻撃。

 

そう考えて一番最初に思い出されるのはクロノの射撃魔法、スティンガー・レイ。速すぎて光の線にしか見えなかったその魔法を、対処した時のこと。

 

「そう……イメージは、凪いだ水面……」

 



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異質な光。

集中状態の極致。

 

視界の端から灰色に染まっていく。雑音も、時間の感覚も遠ざかっていく。情報を処理する脳の回転速度が跳ね上がる。

 

タキサイキア現象。

 

一部のスポーツ選手やF1レーサーが体験するという『ゾーン』と呼ばれる状態に近い。いや、俺の場合は身を守る時にしか使えた試しがないので、どちらかというと『走馬灯』のほうがより正確かもしれない。

 

呼び名はなんだっていいのだ。対処できるか否かが重要なのだから。

 

「っ……ふぅっ……っ!」

 

クロノのスティンガー・レイを(しの)いだこの状態でさえ、コルティノーヴィスさんの連打を完全には処理しきれない。両手を使っても追いきれず、間に合わないものには障壁で防御してやっとどうにかなっているくらいだ。

 

この人の動きは、次元が違う。

 

「くっ……ぐ、っ……」

 

この超高速演算状態ーー効果に即してテンポルバートとでも呼んでおくが、これは性質上、長時間続けられるものではない。絶体絶命の窮状を脱するための、あくまで瞬間的な防衛行動だ。命を守るという一点のみに重きが置かれ、それ以外への負担は考慮されていない。

 

以前超高速演算状態(テンポルバート)に入った時よりも断然長く使えてはいるが、もう身体の各所で異変が現れている。一番酷使されている頭はじんじんと熱を持ち、痛みを訴えていた。

 

障壁で掌打を弾く。続いて放たれるコルティノーヴィスさんの拳を右の手刀で叩いて逸らす。

 

だんだんと処理が追いつかなくなる。もう、保てそうにない。

 

追いきれなかった一打が俺の左頬を掠めて切った、その時だった。

 

ドォンッ、と。腹の底に響くような爆発音と、全身に叩きつけられる衝撃。巻き上がる砂煙。

 

「次はなんだよっ!?」

 

コルティノーヴィスさんの背後で地面が爆ぜた。

 

また目の前の優秀が過ぎる魔導師が何かやらかしてくれたのかと危惧したが、どうやらそうではないらしい。

 

動揺したのか、それとも俺よりも近くで爆風を浴びて煽られたのか、表情には現れなかったが動きが拙くなった。俺に当たらない角度で拳を突き出したり、距離が空いているのに変わらず攻撃してきたりと、動きに精彩を欠いている。動きに繋がりがないのでフェイントという線はないだろう。

 

俺も俺で解けかけていたテンポルバートが爆発の影響を受けて完全に解けてしまっていたが、相手に隙が生じているのならこの機を逃さず反攻に転じるべきだ。

 

「めちゃくちゃ気分が悪くなるとは思うけど……それはお互い様だからな。恨まないでくれよ」

 

俺とコルティノーヴィスさんの距離は、両の手が届くか届かないか程度。踏み込んで手を伸ばせば、胸の中央に手が届く。嵐のような連撃は、一瞬でもいい、拘束魔法で縫い止める。

 

「リンカーコアから直接……」

 

ハッキングによってリンカーコアへ直接的に影響を与える。

 

異状をきたしたり、最悪の場合後遺症が残る可能性もないとは言えないのであまり魔導師相手に使いたくはない技術だが、俺も切羽詰まっている。気遣いやら良心やらは、この際引っ込めておく。

 

「な、んだ……これは……」

 

『…………』

 

何本も拘束のための鎖をコルティノーヴィス氏に巻き付ける。俺が最初に顔合わせした時に仕込んだ拘束魔法の束はいつの間にか一瞬で破壊されていたので安心材料になるかはわからないが、こんな形だけの拘束魔法でも大量にあればさしものコルティノーヴィス氏といえども多少は動きを封じることはできるだろう。

 

実際、ハッキングには成功した。

 

成功した、はずである。

 

確信が持てないのは、いつもと手応えが違ったからだ。

 

これまでの感覚と同じ部分だってある。リンカーコアに到達する前に、コルティノーヴィス氏が身体中に走らせていると思われるいくつかの魔法を覗き視た。ハッキングを使えばその術者が現在使用している魔法は把握できる。俺が初めて視た魔法もあったが、そのあたりの感覚は同じだった。

 

ただ、自分の魔力を相手の内側へと潜らせる感覚、ここに違和感があった。魔力の穂先がリンカーコアに到達した際には、違和感は倍増した。

 

本来なら魔導師が持つ魔力色、その一色で視えるはずのリンカーコアが、濁って見えたのだ。時の庭園で、あかねがリニスさんを乗っ取ろうとしていた時の塩梅にも似ているが、その時ですら色は二色で視えた。今のように濁って視えるなんて、常態ではありえない。

 

「まあいい……調べればいいだけのことだ」

 

「…………っ」

 

理解できない部分があるのならこれから精査すればいいと考え、とりあえず今発動している魔法を停止することにした。先程の嵐のような連撃で抵抗されて俺の腕がコルティノーヴィスさんから離れてしまえば、ハッキングが途切れてしまうからだ。

 

コルティノーヴィスさんが俺の拘束魔法にかかっている間にやらなければいけないので、速度最優先で魔法の停止に取り掛かる。初めて手をつける魔法が多かったが、それが魔法である以上手順は似たようなものだ。術式に手を加えて改悪し、問題なく術式の展開を中止させられた。

 

問題があったのはここからだった。

 

『…………』

 

「うおっ?!な、なんだ!?」

 

「……っ……けほっ、こほっ」

 

コルティノーヴィスさんが使っていた魔法をすべて強制的に停止させると、急に彼の姿勢が崩れた。

 

どうにも自然な倒れ方ではなく、完全に脱力した様子に俺は慌てた。もしかしたらコルティノーヴィスさんのリンカーコアに致命的な傷をつけてしまったのではないかと動揺した。

 

焦ったあまりに、俺はこちらに倒れ込んできたコルティノーヴィスさんを抱きとめる。ボクシングのクリンチに近い体勢だ。

 

「ちょ、ちょっと!おい!なんだってんだよ!」

 

しかしよくよく考えてみると、俺が手をつけたのは発動していたいくつかの魔法だけで、リンカーコアにはまだ一切触れていない。リンカーコアからの魔力供給がなくなって気を失う、なんてことにはならないはずなのだ。

 

だというのに、相手には意識がない。俺が支えていなければ倒れてしまう状態だ。

 

完璧に、この人はどこかおかしい。

 

脈絡のない動き、感情の読めない表情、思考パターンの乖離、目的の不透明性。そして、あれだけ人間離れした動きをしていたというのに魔法を強制終了しただけで失神。

 

こんな人間を相手にするのは初めてだ。

 

「くそ……。とりあえず、司令部まで連れて行くしかないか……」

 

「…………っ」

 

倒れかかっている状態から、コルティノーヴィスさんを肩に担ぐ。俺よりも恰幅がいいので本来なら相当な苦労をするところだったが、循環魔法で身体強度が底上げされている今は簡単に担ぐことができた。

 

米俵でも担ぐようにコルティノーヴィスさんを担ぎ、視線を先に送る。

 

「君、大丈夫だった?自分で歩けないんなら君も担いで行くけど……」

 

コルティノーヴィスさんもそうだが、コルティノーヴィスさんと同行していた少女も一緒に連れていかなければならない。

 

突然の爆発で舞い上がった砂煙が徐々に晴れてくる。薄茶色のカーテンの向こうに少女のシルエットが見えてきた。立ち姿でシルエットが見えるので、どうやら爆発によって重い怪我を負うということはなかったようだ。

 

ふと、強く風が吹く。砂煙が払われた。

 

「けほっ……ごほっ」

 

「怪我はしなかったか?少しなら俺も治癒魔法使えるけど……っ!?」

 

俺は思わず、息を呑んだ。

 

薄汚れてしまっていた民族衣装がさらに埃っぽくなってしまっていることとか、爆発の際に小石でもぶつかったのか額から血が流れていることとか、大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど目を見開いてこちらを睨みつけていることとか、両手を口に当てて苦しそうに咳をしていることとか、そんなことが一気に意識から飛んでいくほどの、異質な光。少女の身体から発される異様な魔力を、左目が視たのだ。

 

「なん、だ……なにをしてるんだ……」

 

『…………』

 

変化はすぐに訪れた。意識を失い、加えて拘束していたはずのコルティノーヴィスさんが弾かれるように突然動き出した。

 

コルティノーヴィスさんの身体、特に腕あたりが霞む。高速機動時の動きを小刻みに使うことで、拘束魔法に損傷を与えているのだ。

 

幾重にも念入りにかけた拘束魔法が次々壊れていく。俺が初めに仕掛けた拘束魔法も、同じ手法で破壊したのだろう。

 

「つっ……っ!」

 

無論、氏を肩に担いでいた俺に影響がないわけがなかった。右側の上半身にいくつか拳を打ち据えられたような激痛を感じ、反射的にコルティノーヴィスさんを放してしまう。

 

『…………』

 

「こっの……倒れそうになったところを助けてやったってのに!」

 

疼痛を訴える右肩を押さえながら前を見れば、もう既にコルティノーヴィスさんはかけられていた鎖を全て砕き、拘束から抜け出していた。

 

だけに留まらず、俺に肉薄してくる。

 

顔のすぐ近くに、氏の膝が迫っていた。

 

()っ……」

 

咄嗟(とっさ)に腕でガードする。

 

気を失っていた余波が残っているのか、速さは防御が間に合う程度だったが、やはり相変わらず打撃の一つ一つが重い。かち上げるような膝蹴りに、身体がわずかに浮く。左腕から鈍痛とともに、ピギッ、という不快な音がした。

 

追撃を恐れて跳躍移動に襲歩まで使って距離を稼ぐ。

 

『…………』

 

「っ、つぅ……ん?なんだ?」

 

痛みと痺れを残す左腕を頑張って持ち上げて迎撃の構えを取るが、予想に反してコルティノーヴィスさんは踏み込んではこなかった。どころか、じわりじわりと足を後ろに下げ、数歩下がると俺に背を向ける。

 

地面を蹴って勢いよく走り出し、背後にいた少女を抱きかかえた。

 

「っ!ま、待て!その子は置いてけよ!」

 

コルティノーヴィスさんは少女を横抱きに抱えて走り去る。方角としては司令部と反対側だ。つまりは、撤退。

 

「ああっ、くそっ!」

 

この際コルティノーヴィスさんの確保は諦める。そもそも今の俺に対処できるような相手ではない。

 

しかし、少女のほうは別だ。あの女の子が何を考えていて、何をしようとしているのかは判然としないが、外見から察するだけでも体調が悪そうだった。あの子は速やかに保護しないといけない。

 

「一歩出遅れたけど……まだ間に合う!」

 

コルティノーヴィスさんが戦闘中に見せたような高速機動で離脱していれば到底追いつけそうにないが、今は少女を抱えている。どうしたって足は重くなるし、少女を気遣ってか、慣性が激しすぎる高速機動は使っていない。

 

まだ、間に合う。

 

力強く一歩を踏み出す。と同時に、俺の間近で再び爆発が起こった。当然、歩みは止まる。

 

「なっ?!またかよ!」

 

『徹ちゃん、後退するわよ』

 

頭の中に美しい低音ボイスが響いた。ランちゃんからの念話だ。

 

『後退?……ってか今の爆発はランちゃんの射撃か?』

 

『ええ。手荒でごめんなさいね。念話だけで足を止めるような人間じゃない、ってユーノちゃんが言ってたものだから』

 

『ちっ……ユーノめ』

 

『とにかく、一旦下がるわよ。味方部隊の撤退に粗方目処がついたのよ。敵魔導師たちも周辺から姿を消しつつあるわ』

 

『だめだ。まだ下がれない』

 

『どうして?』

 

『コルティノーヴィスさんと一緒にいた女の子は体調が悪そうだった。女の子はすぐに保護しないとまずい』

 

『……その子のことだけど』

 

言いづらそうに言葉を濁しながら、ランちゃんは口にする。

 

『きっとあの女の子は人質なんかじゃないわ』

 

『……助けに来たって言っても俺に近寄ってこなかったし、薄々はそうだろうなと思ってた』

 

『私、コルティノーヴィスさんがこっちを確認していない時を見計らって援護射撃してみたけど……』

 

どうやら俺とコルティノーヴィスさんが睨み合いしていた時の爆発も、ランちゃんの射撃魔法だったようだ。射撃魔法一発であれほど衝撃波を撒き散らし砂煙を舞い上げるとは、末恐ろしい。

 

『私が撃つまで彼はこっちをまったく見ていなかった。なのに回避したわ。そして……女の子のほうは空を見上げてた。あの女の子は敵の存在や敵弾をコルティノーヴィスさんに報告しているのかもしれないわ。それなら、これまで一発も当たらなかったことにも筋が通るのよ』

 

『……だとしても、あの子は保護しないといけない。あの女の子はこの街の住人だ』

 

『どうしてそんなことがわかるの?もともと敵側の組織の人間だった、っていう考えのほうが、監視って役割もあって理に適っていると思うけれど』

 

『着ていた服がこの土地のものだった。倒壊していた家にも似たような趣向の服があったしな。……この街の住人の生き残りを探して保護するのが、俺たちの任務だろ』

 

『そう……。だとしても、このまま追いかけたら返り討ちにあうわよ』

 

『別にコルティノーヴィスさんと正面切って殴り合おうってわけじゃない。女の子を保護できたらすぐに尻尾巻いて逃げるつもりだ』

 

クロノやレイハは俺のことを冗談半分に人間離れしているなどと茶化してくるが、コルティノーヴィスさんはまさしく人間としての境界線を割った化け物だ。

 

近接格闘だけで他を圧倒する。超高速演算状態(テンポルバート)を使っても凌ぐのがやっと。反撃するだけの隙を見出せなかった。

 

悲しいことだが、今の俺では明らかに押し負ける。手札が足りない。

 

ならば、直接的に戦わなければいい。コルティノーヴィスさんには拘束魔法の効果が薄いが、破壊されても絶えず展開させ続ければ数秒程度は足を止めることができるだろう。

 

その間に少女を救出し、あとは逃げの一手だ。

 

『それでもあの子を助け出すのは困難よ。散らばっていた敵魔導師たちが、コルティノーヴィスの撤退する方向に集まりつつあるわ』

 

『ああ……なるほど。返り討ちってのはそのことか……。四人五人ならまだしも、十人二十人と固まってりゃ、いくらなんでも躱せないしな……』

 

『ええ。それに徹ちゃん……怪我してるでしょ』

 

『うっ……』

 

なぜ上空から見ているだけでわかるのだろうか。どんな視力と観察眼をしているんだ。

 

『左腕を庇うような動きが多くなってるわ……最後の一合の時ね?そんな状態じゃあコルティノーヴィスさんだけでも難しいでしょ?その上普通の魔導師も群がってるとなれば、救出に行くのはちょっと現実的じゃないわねぇ』

 

『くそ……。俺程度でも、戦力の低下は避けるべきか。戦闘不能になれば、これからの作戦がもっと厳しくなる……無茶するわけにいかないか』

 

『そうしてくれると助かるわぁ。……今現在、最前線で戦えているのは徹ちゃんくらいだから』

 

最前線で戦えるのは俺くらいというのは、他の魔導師さんたちが浮き足立っているからなのか、みんな後退してこの戦域には誰もいないという意味なのか、それとも戦闘要員はみんな負傷してしまったからなのか。三番目だとしたら致命的すぎるので、せめて一番目か二番目であることを祈る。

 

『まじかよ……はっは、立派だなあ、管理局。……とりあえず合流するか。もう敵さんはいないんだよな?』

 

『ええ。少なくとも姿は見えないわ。味方部隊が挟撃されていたT字路にまだユーノちゃんたちがいるから、そこで合流しましょ』

 

『おっけ、わかった』

 

念話を切り、天を仰ぐ。

 

上空にいたランちゃんが移動しながら高度を下げているのが見えた。

 

そのさらに遠くの空はだんだんと薄暗くなりつつあり、太陽はオレンジの色味を強めて傾いている。もうすぐ日が沈んでしまいそうだ。

 

早くユーノたちと合流し、完全に暗くなる前に司令部に戻りたいものだ。

 

 

(あい)さっ……あんたっ!無事だったのね!」

 

「なんでわざわざ呼び方を変えたのかわからないけど、まあ、うん。無事だったよ。なんとかね」

 

T字路まで引き返してきた俺に真っ先に声をかけてきたのは、デバイスを握り締めながら周辺を警戒していたアサレアちゃんだった。ユーノが治療に専念できるよう、ちゃんと守ってくれていたようだ。

 

俺の顔を見た時、アサレアちゃんは顔に安心したような笑みを一瞬浮かべた気がしたが、すぐに唇を尖らせてむすっとした不機嫌そうな顔を作った。

 

「無事だったんならもっとはやく戻ってきなさいよ!心配するでしょっ……っ。スクライアくんが!」

 

「なんと悪意のある倒置法……うっかり感動しちゃうとこだったぜ……」

 

「感動しても大丈夫ですよ、兄さん。アサレアさんは兄さんのことをすっごく心配していましたから」

 

「ちょっ、ちょっと、スクライアくん?!な、なに言ってるのよ!」

 

俺が救援に入った味方部隊のうち、治癒魔法に覚えのある女性隊員さんが一人いた。その人と一緒に負傷していた味方魔導師たちを治療しているユーノが、これまでのアサレアちゃんの様子を教えてくれた。

 

アサレアちゃんは顔を真っ赤にしてユーノに反論しようとしているので、なんと事実らしい。

 

「しし心配なんてしてないわよ!あんたもっ、変なふうに勘違いするんじゃないわよ?!」

 

「こんな感じで強がっていますが、逢坂さんより一足早く撤退してきた魔導師二人を見た時はかなり怒っていました。『逢坂さんを一人残してあんたらはなんで逃げてんのよ!』……と。これでもアサレアなりに逢坂さんの身を案じていましたので、失礼な物言いを許してください」

 

「おおう……まじか」

 

「クレインもてきとうなこと言うな!嘘だからねっ?!スクライアくんの言うこともクレインの言うことも嘘だから!わたし心配なんてぜんぜんっ、ぜんぜんまったくこれっぽっちもしてなかったんだから!」

 

なぜか否定しようとアサレアちゃんは必死に俺に言い募る。きっと俺と言い合いをしていたりもしていたので、俺を心配していたとばらされることが恥ずかしいのだろう。頬を紅潮させながら、身振り手振りも交えて否定と照れ隠しを続ける。

 

そんな仕草に、俺は笑いを抑えられない。可愛すぎるだろう、この子。

 

しかし、笑っているところを見られでもしたらまたぞろアサレアちゃんに噛みつかれること必至なので、俺は右手で口元を隠しながら顔を背ける。

 

「そっかー。アサレアちゃんは心配してくれなかったのかー。がんばったんだけどなー、悲しいなー」

 

「えっ、あっ……」

 

冗談で言っていたのだが、弁解しようと慌てふためいているアサレアちゃんには通じなかったようだ。

 

口をぱくぱくとさせて、アサレアちゃんは眉を曇らせる。

 

くいっ、と俺の右手の袖をつまんだ。

 

「うぅ……。ちょ、ちょっとだけ……ほんとうにちょっとだけだけど、心配したわよ……。無事で……よかったわ」

 

目を逸らしながらではあったが、アサレアちゃんはそう言った。熱があるんじゃないかというくらい顔を赤くして照れくさそうに、でもちゃんと言葉にしてくれた。

 

やっぱりこの子は、棘はあっても根は優しくて、いい子なのだろう。

 

「ありがとう、心配してくれて。嬉しいよ」

 

「……ふんっ」

 

感謝を述べると、アサレアちゃんは一回だけ俺の顔を仰ぎ見て一歩離れ、腕を組んだ。本当にまあ、愛らしい子だ。

 

「アサレアがこんな顔するなんて、珍しい……」

 

「まーた兄さんの悪いくせが……」

 

クレインくんは驚いたように、ユーノはじとっとした目を俺にぶつけてきた。

 

「ユーノ、それ以上変なこと口走ったらその口縫っちまうぞ」

 

「そんなこと言っていいんですか?なのはにちくりますよ?」

 

「本当に怖い脅迫をしかけてくるんじゃねえよ。なんかよくわからんうちに俺が悪いことにさせられるだろうが」

 

まだぼそぼそとユーノが呪詛のような言葉を呟いていたように思えたが、意識して聞かないことにした。知ることで不幸になることもあるのだ。

 

「良かったわ。思ったより徹ちゃんが元気そうで」

 

そうこうしているうちに、ランちゃんが降りてきた。

 

ランちゃんの手には馬鹿でかいケースはなく、代わりに大柄のライフルを握っていた。狙撃銃に通じる形状はしているが、心なし大きく、どことなく太く、そこはかとなくぶ厚い。対物狙撃銃(アンチマテリアルライフル)から更に全体的に一回り大きくさせたような印象だ。それを軽々と担いでいるところを見るに、ランちゃんの膂力(りょりょく)たるや、察するにあまりある。

 

よく見るとランちゃんの腰の後ろあたりに長方形の箱とおぼしき物体がくっついてあった。これまでに持っていたケースと同じ色なので、おそらく戦闘時は折り畳んだりして小さくできるのだろう。持ち運ぶにはいいだろうけど戦闘中は邪魔だしな、収納ケース。

 

「ランちゃん、おつかれ。援護助かった」

 

「援護って言っても結局まともに撃ったのは一発だけで、それも命中はしなかったわ。……悔しいわね」

 

「それでも、だ。なによりあの一発から流れが変わったからな。おかげで今回は久しぶりに血を流さずに済んだ」

 

「……いつもどんな死線をくぐってるのかしら」

 

ランちゃんが苦笑を浮かべた。外見だけなら中性的な長髪高身長の美男なので、苦笑でも実に様になる。

 

「ランさん、お疲れ様です」

 

「ランちゃんさん、兄さんのカバーありがとうございます!」

 

「ありがと、クレインちゃん。いいのよ、ユーノちゃん。二人もご苦労様」

 

「ランドルフ!あんた敵の頭押さえてたのにぜんぜん支援射撃してなかったじゃない!ちゃんとここから見てたんだからね!」

 

「あら、お嬢ちゃんいたの?小さくて見えなかったわ。あと私のことは敬愛の念を込めて『ランちゃん』と呼びなさいな」

 

「うるさいわよランドルフ!誰が小さいか!あんたがむだに大きいだけでしょうが!」

 

「普段からさっきみたいに物静かでお淑やかなら、多少可愛げもあるのに……残念ねぇ」

 

「本気で哀れむなぁっ!ていうか見てたのっ?!」

 

なんだか賑やかになってきた中、俺は治療を続けているユーノに歩み寄る。

 

「そっちの進捗はどうだ?」

 

「もう少しかかりそうですね……なんせ人数が多いですから」

 

「そうか。それならその人たちの治療を続けてあげてくれ。……ずっと魔法使いっぱなしだけど、疲れてないか?」

 

「はいっ、まだまだ大丈夫です!それより兄さんのほうは……」

 

「俺のほうは……ちょっとした打撲だ。司令部付近まで後退したら()てくれ」

 

「……兄さんの怪我を優先します」

 

眉を寄せて、ユーノがそう言った。

 

また色々俺のことを気遣ってくれているのだろう。その気持ちは嬉しいしありがたいが、俺には寄りたい場所があった。

 

「……ありがとな。でも本当にもうそれほど痛みはないし、それにちょっと回収しに行かないといけないから後でいい」

 

「回収って……なにをですか?」

 

「敵の魔導師」

 

このT字路に救援にやってきた時は時間がなかったのでほったらかしにしていたが、司令部まで戻るとなれば一人二人回収しておいたほうがいいだろう。情報を引き出さなければならない。

 

いやなに、拷問禁止条約に抵触するような行為はしない。ただ、自発的(・・・)に喋ってくれるよう促すだけである。

 

「でも敵の部隊はすべて撤退したんですよね?もう兄さんが無力化させた人たちも引き連れて撤収してるんじゃないですか?」

 

「何人かはそうかもな。でも戦闘不能にした数は俺だけでも結構な人数になる。全員は回収しきれないだろ。自分たちが逃げるのに精一杯だろうしな」

 

「なるほど……わかりました。僕は隊員さんたちの治療に集中します。兄さんは戻るまで我慢できますか?」

 

「一応俺も治癒魔法は使えるからな。痛み止めくらいにはなる。後でよろしく頼むわ」

 

「はいっ!」

 

元気よく返事をしたユーノの頭を撫でて、敵魔導師を殴り倒した場所を思い出す。移動しながら敵戦力を削っていたのでばらけているが、まあすぐに見つかるだろう。場所は記憶している。

 

ただ殴り倒してから少々時間が経っているのでもしかしたら意識を取り戻している可能性もある。念のため、誰かについてきてもらうとしよう。

 

「ランちゃん。ちょっといい?ついてきてほしいところが……」

 

選んだのはランちゃんだ。コルティノーヴィスさんや、氏と行動を共にしていた少女のことで話もしたかった。

 

のだが、ランちゃんはちょっと込み入っている様子だった。

 

「……ゃんはまだ大目に見てくれているけれど、そんなに小生意気なお口を叩いてるとそのうち嫌気がさして愛想を尽かされるわよ」

 

「そっ……んなこと、ないわよ。あんたとちがって寛容だもの!」

 

「今日初めて顔を合わせた人間に寛容さを求めてることが、既におかしいのよ?大人になりなさいなんて言わないから、せめて常識と節度を持ちなさいな」

 

「わたしは大人よ!今日は制服だけど、私服なんて胸元とか開いてたりして色気があるんだから!」

 

「お嬢ちゃんの貧相な胸を開いても……」

 

「誰のなにが貧相よ!」

 

「とりあえずスタイルは諦めておくとして……」

 

「かってに諦めてんじゃないわよ!ここから成長するんだから!大きくなるんだから!」

 

「色気がどうこう言ってるけれど、色気と布地の面積に関係性はないわよ。肌を晒すのが大人だって思ってるなんてもう、プレティーンの発想ね」

 

「うぐぐぐぐっ……」

 

「アサレア……もうやめなよ、勝てる相手じゃないのはわかってたでしょ?」

 

「うっさい!クレインが口出すな!」

 

なんとも割り込みにくいお話の最中だった。初めて会って数分で殴られた時と似たような流れということもある。さすがの俺でもデリカシーとかいう概念は知っているのだ。

 

なので、念には念を入れて少し離れたところからランちゃんに念話を入れることとした。

 

『ランちゃん、忙しいところ悪いんだけど』

 

『あら、平気よ?井戸端会議みたいなものだもの』

 

『アサレアちゃんはそうは思ってないだろうけど……。これから敵魔導師を回収しに行くんだ。ついてきてくんない?』

 

『ええ、わかったわ』

 

お嬢ちゃんとの四方山話を打ち切るわ、とランちゃんは楽しそうに念話を返し、そして切った。

 

「お嬢ちゃん」

 

「なによ?!ていうかお嬢ちゃんって呼ばないで!」

 

「これから徹ちゃんとこのあたり見てくるから、お喋りはお終いよ。ごめんなさいね」

 

ランちゃんは口元に手を当てて、アサレアちゃんを見下ろすように顔を傾けて上品に笑った。

 

いや、アサレアちゃんとの身長差を考えるとどうしたって見下ろすような形になるのはわかるのだが、なぜそんなに相手の神経を逆撫でするのか。振る舞い自体はお上品なのに、的確に苛立ちを与える言い方だった。どこで学んだの、そんな芸当。

 

「なんでよ!ランドルフでいいならわたしでもいいじゃない!こらー!どこにいるー!」

 

アサレアちゃんがぷんすかしている。名前は呼ばれていないのに、なぜか俺を呼んでいることはわかるというのは不思議である。

 

絡みづらい話題からはレールが変更されたようなので、口が滑ってうっかり猫の尻尾を踏むことはもうないだろう。なので、やっぱり気乗りはしないが仕方なく輪に入る。

 

「はいはい、なに?」

 

「あんた!この付近の警戒ならわたしでもいいでしょっ!なんでわたしを誘わないでランドルフを誘ってるのよ!」

 

アサレアちゃんを連れて行ったらアサレアちゃんのよく響く声で敵魔導師が起きそうだから、というセリフが早速口をついて出そうになったが堪えた。それこそ再び殴られる羽目になる。

 

「あらお嬢ちゃん、徹ちゃんに誘って欲しかったの?存外大胆ね」

 

「は?なに言って……あ。いや、ちが……っ」

 

「ランちゃん」

 

「ふふ、ごめんなさい、徹ちゃん。控えるわぁ」

 

おそらくランちゃんは、アサレアちゃんのことを結構気に入っている。リアクションのいいアサレアちゃんを手玉にとって遊んでいるのだろう。噛み付いて口火を切っているのはアサレアちゃんだが、そこから延焼させているのはランちゃんなのだ。

 

アサレアちゃんの精神衛生上はよろしくないかもしれないが、仲間同士でコミュニケーションを取ることは大事である。

 

「ちちちがっ、ちがうから!勘違いするんじゃないわよ!?ランドルフが勝手にてきとうなことのたまってるだけでっ!」

 

「わかってるって。ランちゃんがからかってるだけなんだよな」

 

「そっ……そうよ。わかってるんならいいわよ……」

 

「それじゃ、アサレアちゃん、クレインくん。俺たちが戻るまでまたユーノの護衛よろしくな」

 

「あ……えっ、ちょっと……」

 

「わかりました。お気をつけて」

 

「うぅーっ……はやく行ってさっさと帰ってきなさいよ!遅かったら置いてくんだから!本気なんだからね!」

 

「置いていかれるのはいやだから、なるべく早く戻ってくるよ」

 

なんとか穏便に言いくるめることができた。

 

アサレアちゃんは、まだ一言二言文句を言いたそうにしていたけれど。



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狂人の所業

 

 

「たしか、ここだな」

 

記憶と照らし合わせながら、敵魔導師を叩きのめした家屋、その近くまでやってきた。

 

「本当にその記憶力には驚くわ。凄いわねぇ」

 

「すごいっつってもただ憶えてるってだけなんだけどな」

 

風通しが良くなった壁の縁から中を覗き込む。敵のおっさんが倒れている姿は見える。そのほかには人が動く気配も、物音すら聞こえないので、敵側の魔導師と鉢合わせ、なんてことにもならないだろう。

 

ランちゃんに目配せし、まず内部に俺が侵入する。得物と得意分野による隊列である。

 

「…………」

 

「……徹ちゃん、どうかしたの?」

 

日が暮れ始めていることもあり、家の中は薄暗くなっているが、まだぎりぎり光は差し込んでいた。そのおかげで光源に乏しい家の中であっても、しっかりと確認できた。

 

「……事切れてんな」

 

血の池に沈む敵の姿が、しっかりと確認できてしまった。

 

「あらぁ……徹ちゃん、力入りすぎちゃったの?」

 

「いや、これは俺じゃない。俺は刃物は持ってない……ていうか使えないからな」

 

「そうねぇ……これは、心臓を一突き、って感じだものね」

 

魔導師が倒れている場所は、俺が気絶させた位置から動いていない。つまり気を失っているところで左胸を刺された、ということだろう。

 

「…………」

 

血溜まりの端のほうを、近くにあった布で擦ってみる。血溜まりの一番外側は跡が残っていたが、内側のほうはまだ乾いてはいなかった。

 

「血は固まりきっていない。そう時間は経ってないな……ちっ」

 

「お嬢ちゃんを連れてこなくてよかったわね」

 

「ああ……まったくだ」

 

アサレアちゃんがこんな現場を見てしまえば、最悪吐いてしまうかもしれない。ランちゃんは慣れているのかけろりとしているが、俺でもさすがに多少は気分が悪い。

 

それでもまだ向き合えているのは、俺自身が血溜まりに浸かったことがあるからだろう。ただ、自分で経験するより客観的に眺めるほうがグロテスクで、ショッキングな光景だ。

 

そして、この光景が指し示す『意味』は、それ以上に吐き気を催すものである。

 

「相手側の捕虜にさせないようにするのに、わざわざ自分たちの陣営にまで担いで帰る必要はないものね」

 

「……合理的だよな、最低最悪に合理的だ」

 

状況的に、味方を回収できない。しかし捕虜として捕まって相手に情報を知られたくはない。

 

ならばどうするか。

 

殺して、情報を引き出せなくさせればいい。それなら人一人を回収するよりも少ない労力で済み、処理も短時間で済む。

 

非人道的。しかし、ぐうの音も出ないほど合理的でもある。

 

欠員をすぐに補充できる、もしくは補充する必要がないのなら、これほど楽な方法はない。

 

ただこれは、隊員を消耗品として割り切っている。まともな神経では到底できない行為。人間を人間として見ていない、狂人の所業だ。

 

「わりと近い距離にいたはずのユーノちゃんたちが気付けなかったのも、これじゃあ仕方ないわねぇ……」

 

「ああ。人を殺めるのに、大層な道具も、大仰な魔法も必要ない。ナイフの一本もあれば充分すぎるほどだ。なんなら尖ってさえいれば事足りるんだからな。そこらへんにあるものを使えばいいし、魔法の反応もしないし、大きな物音もたたない。気付くのは難しい」

 

「一応ほかの場所も確認してみる?」

 

「いや、無駄だろうな。こうまで情報を消す相手だ。そのあたり手抜かりはないだろ。他の場所にはサーチャーを飛ばして確認しておく。生き残ってりゃ御の字ってくらいの心持ちでな」

 

気は進まないながら、血の凝固状態を確認したついでに魔導師の持ち物も調べてみる。期待はしていなかったが、やはりめぼしいものはなかった。デバイスすら、取り上げられている。

 

執念すら感じる周到な手際だ。

 

この付近を鳥瞰する形でサーチャーを配置もしていたが、それにも不審な人影が映った記憶はなかった。建ち並ぶ家の影を伝って移動されれば姿を捉えることはできない。

 

無力化された魔導師の口封じを行っていた人物は、自身を発見されないように細心の注意を払っていたようだ。

 

「面倒事が増えたな……」

 

思わず、こめかみをおさえた。

 

 

敵魔導師からなんの収穫を得ることもできず、俺とランちゃんはユーノたちと合流した。

 

ユーノと治癒術師さんの治療により動けるようになった隊員さんは自力で、自分の足で動けないという人には手を貸して俺たちは司令部へと戻った。

 

食事というには簡素が過ぎるカロリー摂取を経て、今は部隊ごとに割り当てられた大きな天幕で一休みしていた。

 

「……はぁ」

 

やっと一息つけたが、気分は暗いし重い。懸案事項が多すぎるのだ。

 

全貌の見えない敵勢力、その敵勢力がこの街で求めたもの、コルティノーヴィスさんが寝返った理由、コルティノーヴィスさんと一緒にいた女の子。味方部隊の損害や指揮系統の乱れも深刻だ。

 

動員された人数と任務の規模から、短時間で済むと、正確には一日弱、長くても二日あれば終わるだろうと事前に通達もあったし俺自身も推測していたのだが、雲行きが怪しくなってしまった。

 

明後日までには絶対に帰らないといけないのに。学校があるのに。

 

「あんなのご飯なんて言えないわっ!量も味も最悪じゃない!」

 

テンションが右肩下がりに落ち込んでいる俺とは正反対に、アサレアちゃんは元気だった。元気溌剌(げんきはつらつ)として声高にクレームを叫んでいた。

 

「それになんなの!?お風呂もないなんて!一番動いていたのはわたしたちなのに!いっぱい働いたのに!」

 

「この部隊がよく働いていたのは事実よ。でも『わたしたち』って、今日お嬢ちゃんなにかしてたかしら?」

 

「はぁ?!わたしもいっぱい働いてたじゃない!」

 

「大声出して部隊の居場所を敵に報せて、広場では腰抜かしてへたりこんでて、安全な上空から目眩しの射撃魔法を撃ってただけみたいに思えるけれど?まともな役割はユーノちゃんの護衛くらいね」

 

「なっ……はっ、はぁ?!」

 

「徹ちゃんとユーノちゃんがいなかったら、この部隊も他のところと同じように人数が半減していたわね。お嬢ちゃんなんて、今頃治療用テントの一角を占領してたでしょうに」

 

「うううるさい!ご飯がおいしくなかったのはほんとでしょうが!」

 

「食糧を支給されるだけマシよ。とはいえ、私もシャワーくらいは浴びたいけれどね。この部隊には女の子も多いことだし」

 

「……その女の子に、あんたは?」

 

「もちろん含むわよ?」

 

「はぶきなさいよ!」

 

二人のやり取りを、同部隊のほかの隊員は遠巻きに眺めて笑っていた。エッジの鋭いアサレアちゃんの発言をランちゃんが的確に突っ込んでいるので、顔合わせの時とは違って友好的な目線で見られるのだろう。

 

人によって対応を柔軟に変化できるランちゃんは、まこと社交性に富んでいた。

 

「逢坂さん、まだ怪我のほうが痛むんですか?」

 

「あ、クレインくん。怪我?もう大丈夫だぞ?あれくらいなら軽いほうだし」

 

「あれくらいって……左腕を亀裂骨折していたらしいですけど……」

 

椅子に座って賑やかな一角を眺めていると、俺の隣にクレインくんが座った。

 

俺が今後の行く末を考えて渋い顔をしていたので、心配して様子を見にきてくれたようだ。

 

「ユーノが治してくれたからな。もう完璧だ。ユーノは前衛は苦手だけど、治癒やら防御やらの後衛仕事は強いんだ。おかげで安心して俺は前に出られる。……こう言うとユーノから小言をもらいそうだけどな」

 

件のユーノは、今はこの天幕にはいない。負傷者があまりに多く、治癒術師の人手が足りなかったので心得のあるユーノも駆り出されたのだ。

 

今日ユーノは神経の使う治癒魔法を多用し、制空権確保の際も常に防御魔法を発動させていたので魔力の消費量は多いはずだ。なので治癒術師召集の令が発された時、俺から断ろうとしたがユーノは自分から名乗り出た。『僕は戦えないので、これくらいは』と、軽く笑って行ってしまったのだ。

 

ランちゃんとアサレアちゃんの話ではないが、ユーノも働き詰めなのに。

 

ちゃんと疲れた時には疲れたと断っておかないと、余計な仕事まで回されてしまう。そのうち過酷な環境に放り込まれてしまいそうで、兄貴分の俺としてはとても心配だ。

 

「……逢坂さんとスクライアさんはとても仲がいいですよね。もう付き合いが長いんですか?」

 

「付き合い?そうだな、かれこれ……一ヶ月ちょっと、か」

 

「はあ、一ヶ月も……一ヶ月?!短くないですか?!一年の間違いではなく?!」

 

かたん、と椅子を揺らしてクレインくんは立ち上がった。驚いた時も大きな音を出さない、どこか優しげな挙動である。

 

「いやいや、本当に一ヶ月とちょっとくらいの付き合いだ。時間的にはそんくらいだけど、知り合ってからほとんどずっと一緒にいたからなあ。感覚的には二年とか三年くらい一緒にいるような気分だ」

 

「……一ヶ月で、あんなに仲良くなれるものですか?」

 

動かしてしまった椅子を戻し、ゆっくりと着席しながらクレインくんが訊ねる。

 

「そうだなー……出会いかたが特殊っていうのもあっただろうけど、接しかたがよかったんだろうな。真摯で、誠実に、相手の気持ちを考えていた。あ、もちろん俺じゃなくてユーノがな」

 

自慢ではないが、俺のコミュニケーション能力は飛行魔法の魔力適性と同じか、下手をすればそれ以下である。初対面の人と会話するだけでやっとなくらい、仲良くなるなんて困難を極める。

 

その点ユーノは明るく邪気のない笑顔で喋るので、自然と相手の精神的な壁を切り崩していく。今回だって、ユーノが間に入ってくれていなければ同じ部隊の人たちとこうまで打ち解けるなんてできなかっただろう。

 

期せずして、ユーノとクロノの心配が的を射ていた。

 

「……喧嘩など、しなかったんですか?」

 

「喧嘩……喧嘩か。それはなかったかもな。俺が一方的に注意されることはあったけど。その注意も、俺が無茶なことするから注意されてただけで」

 

「そう、ですか……」

 

俺が答えても、クレインくんの表情は暗い。

 

クレインくんが何を俺から訊こうとしているのかが、ようやくわかってきた気がする。

 

「アサレアちゃんのこと、か?」

 

「えっ?!な、なんで……」

 

「当たりか。今日一日だけでもいろいろ見てたからな」

 

俺とユーノの、まるで本当の兄弟みたいな関係から得る物がないか探しているのだ。良好とはとても言えないクレインくんとアサレアちゃんの兄妹関係。アサレアちゃんと接するにあたって良い方法がないかを模索している。

 

俺としても、これ以上ウィルキンソン兄妹の険悪なやり取りは見たくない。かといってあまり踏み込みすぎるのは禁物だし、どちらか一方の肩を持つのも避けるべきだが、それでも悩んでいるクレインくんの相談に乗るくらいは構わないだろう。

 

「……家の中や、ぼくだけにあんな態度なら構わなかったんですけど、周りの人にまでとんでもない言動をするので……どうにかしないといけないと思い……。学校でもあの調子なので敵を作りやすいんです。以前には物置小屋に閉じ込められたりもして……」

 

「それは……穏やかな話じゃないな。アサレアちゃんは無事だったのか?」

 

「大泣きしていたので無事かどうかは微妙なところですけど……まあ、はい。時間はかかってしまいましたけど見つけることはできました。アサレアは性格には難がありますけど、男子には人気があるので、同性のクラスメイトに妬まれていたみたいです。その子たちと一度ちゃんと話しました」

 

「たしかにあの外見だもんな。同級生の男子が言い寄るのも納得だ」

 

アサレアちゃんの場合、つんけんしている外見と、それに見合った性格をしていることこそがポイントが高い。ここまで外と内で釣り合っている人物は、そうはいまい。

 

というかアサレアちゃんを閉じ込めた女の子たちと話したのか。クレインくんは、手をつけたら最後の最後まで突き詰めるタイプのようだ。

 

「閉じ込められた、っていうのは一番大きな事件でしたけど、それ以外にもクラスメイトと小さな衝突はしていたようで……どうにかしたいとは思うんですけど……。性格を直せとまではいきませんが、わざわざ敵を作るような言動を取らないようにしてほしいんです。けど……アサレアは年上だろうが同い年だろうが年下だろうが不遜な態度で……」

 

「いくらそれがアサレアちゃんの個性って言っても、さすがに限度があるか……。アサレアちゃんの性格は集団行動に支障が出かねないもんなあ……」

 

「ランさんにもそうですが、特に逢坂さんには失礼なことをたくさんしていますから……申し訳なくて……」

 

「顔合わせの時とかも結構辛辣だったしな。俺はあんまり気にしてなかったけど」

 

その顔合わせの際には俺が話しかけにいったせいで、まるで俺が年少者をいじめる悪者みたいな構図になっていた。

 

クレインくんは喉を潤すように、支給されていたミネラルウォーターに口をつける。

 

「もう随分長く、アサレアとは仲が悪いんです。自分では原因もわからなくて……」

 

手を組んで、クレインくんは視線を落とした。

 

そんな少年(クレインくん)と、遠くで未だにランちゃんにからかわれて騒いでいる少女(アサレアちゃん)を見比べる。

 

髪の色や魔力色や顔の作りなど似通った部分も多く散見されるが、どうにもこの兄妹は対照的だ。

 

品行方正で生真面目なクレインくんと、傍若無人で小生意気なアサレアちゃん。外だけでなく、家庭内、というか身内相手にも振る舞いがそう変わらないのであれば、理由には見当がつく。

 

兄妹間の不和の原因としては、よくある話だ。

 

「クレインくんは、勉強とかできるほうか?」

 

どう言うべきか迷うように目線を彷徨(さまよ)わせて、照れるようにたれ目がちな瞳を細めた。

 

「え、まあ……はい。あまり率先して前に出ることができず、友だちも少なかったので……勉強や家の手伝いをするくらいしかやることがありませんでしたので……」

 

なんだか急にこの子に親近感が湧いてきた。友だちが少ないとか、家の手伝いをしていたとか、俺とめちゃくちゃかぶるんだけど。

 

俺との共通項はともあれ、クレインくんは有力な情報を教えてくれた。ほぼこの線で確実だろう。

 

「きっと、アサレアちゃんはクレインくんと比べられてきたんだと思う」

 

自発的に勉強もして、率先して家のお手伝いもして、しかも無闇に騒いだりもせず落ち着いていて手のかからない模範的な良い子。それがクレインくんのイメージだ。

 

対してアサレアちゃんは、内心はどうあれ初見では横柄で横暴な、小さな暴君だ。勉強やら普段の生活態度までは知らないが、彼女を見る限りクレインくんほど落ち着いているなんてことはないだろう。

 

仮にアサレアちゃんが注意されて、一時的にでも反省してお勉強やお手伝いをしても、クレインくんと比較されれば分が悪い。周りから、ちゃんとやってない、と評価されることも少なくはなかったことだろう。

 

だからこその、アサレアちゃんのクレインくんに対する跳ね除けるような反応だ。見た目からしてクレインくんとアサレアちゃんは歳が近そうだし、親や身近な人たちからクレインくんと比較されて小言を言われ続けてきたのだと、容易に推測できる。

 

「それが長いこと続いて、アサレアちゃんは比べられることが嫌になっちゃったんだろうな。だからクレインくんの助言や気遣いに反発するんだろうよ。『一人でできる、わたしはできる』ってな」

 

これは、アサレアちゃんが特別悪いわけじゃない。そのくらいの年齢なら、特に意味も理由もないのに反抗心が芽生えることもある。

 

この兄妹の周りの人たちもそうだ。手のかかる子ほど可愛いとも言う。本気でアサレアちゃんのことを煙たがって説教していたわけではなかったろう。

 

しかし、周囲の様々な人から異口同音に言われてしまえば、アサレアちゃんも理解はできても承服しかねるところが出てくる。それが積み重なって、今に至ってしまったのだ。

 

「ぼくと、比較されて……。思えば、親戚の集まりとかだと、とくに機嫌が悪かったりしました……」

 

「そういう可能性もあるってだけだぞ。本当のところはアサレアちゃん本人にしかわからないんだしな」

 

「…………」

 

クレインくんは、ふたたび顔を伏せた。組んでいる手には、力が入っているように見える。

 

俺の言い方も悪かったのだが、それにしたって深く思い込みすぎである。この子は、本当に優しくて、本当に妹思いのようだ。

 

「仮に俺の考えが正しかったのだとしても、クレインくんが悪いわけじゃないんだからな。ちょっとした勘違いとすれ違いがあっただけだ。お互いにその感情のずれを理解できれば、仲違いも解消できる。深く気にしすぎんな」

 

「わわっ……」

 

目を伏せてしまっているクレインくんの頭をくしゃくしゃっと荒めに撫でる。

 

この子は悩み事を一人で抱え込んでしまうタイプなのだろう。この兄妹のさらにお兄ちゃんのレイジさんがいれば相談もできたろうに、そのお兄ちゃんはアースラで休みなく(比喩ではなく実際に最近は休みがなかった)働いているので、相談する相手がいなかったのだ。

 

こういう生真面目な子を、俺は何人か知っている。

 

とくにクレインくんは、以前のユーノとどこか印象がだぶるからか、どうにも放っておけない。今のユーノは誰に似たのか随分したたかになってきているが。

 

「アサレアちゃんが自分の周囲の人たちに意識を向けられるほど余裕ができれば、クレインくんの優しさにも気づく時がくる。考えすぎて抱え込む前に、誰かに相談しろよ?なんなら俺でもいい。頼りになるともアドバイスできるとも言えないけど、話くらいなら聞けるんだからな」

 

おそらく俺に相談するより、ランちゃんに相談したほうが有力な助言をもらえると思うけれど。

 

俺が乱暴に撫でてくしゃくしゃになった頭のまま、クレインくんは穏やかに微笑んだ。悩みがすべて解消されたわけではないが、どこか憑き物が落ちたような表情だった。

 

「……レイジ兄さんとは違いますけど、逢坂さんはどこかお兄さん、という感じがします……。スクライアさんが逢坂さんをお兄さんと呼んで慕っている気持ちが、すこしわかった気がしました」

 

「……ユーノは勝手に俺のことをそう呼ぶようになった気がするけど……。俺の兄弟は姉しかいないんだけどな」

 

「逢坂さんもお姉さんがいるんですね。ぼくのところも四つ上に姉がいます」

 

「クレインくんのところは兄弟多いんだな。兄、姉、妹……クレインくんはちょうど中間か」

 

「ちなみにぼくの三つ下に弟が、五つ下に妹がいます。ぼくとアサレアは双子なので、中間なのはアサレアもですね」

 

「双子だったのかよ!それはまあ……比べられることも多くなるよな……」

 

兄弟というだけで比較対象にされる機会は多かろうに、それが双子ともなればより一層だろう。アサレアちゃんが反抗期に片足突っ込んじゃうのも納得である。それはプチグレちゃってもいい。

 

クレインくんとの相談が雑談に移行し始めて数分した頃だった。

 

「この部隊の指揮官はいるか?」

 

バッ、と勢いよく天幕が開かれた。

 

出入り口に目を向ければ、知らない顔の隊員が立っている。顔を見たことがないということは同じ部隊ではない。

 

視線を服装に下げると管理局の制服で、小綺麗なままだった。この時点で、この隊員さんがどういう仕事をしているかは大体わかる。なにせ、前線に出ていた隊員は全員もれなく薄汚れてしまっているのだから。

 

「いいえ、おりませんわ。隊長さんなら治療用テントの方で休んでいらっしゃるかと」

 

この部隊の天幕にやってきた隊員さんからの問いには、ランちゃんが答えた。驚くことに、隊長さんが撃墜されてしまったこの部隊の中ではランちゃんが最年長者なのだ。平均年齢若いな、この部隊。

 

誰が答えるべきなのか迷っていたので、ランちゃんが前に出てくれて助かった。

 

返答を受けた隊員さんは、後頭部をがりがりと掻く。

 

「ここもか……」

 

不穏なワードを耳が捉えてしまった。

 

「何かご用でもありましたか?」

 

「いや、部隊長を招集して以後の会議をするところだったのだが……多くの部隊で隊長格が墜とされていてな。……ミーティングもままならん」

 

「…………」

 

俺たちの部隊。そして俺たちの部隊が救援に入った部隊でも、隊長さんが撃墜されていた。部隊の頭を潰すのは定石とはいえ、ほかの部隊でも同様となると、少々不自然さが目立つ。

 

俺たちの部隊は隊長さんを除いて嘱託魔導師か、『海』所属の新米魔導師で編成されている。一見して服装の違いがわかるので、隊長さんを特に狙うのは、まま可能だし理解できないことはない。

 

だが、ほかの部隊は『陸』に所属している魔導師だ。徽章の差異は当然あるだろうが、離れた位置では確認は難しいはず。

 

この街の生存者捜索作業中に、隠れて隊長格の割り出しを行なっていたのだろうか。

 

「負傷した隊長格は救護用テントに搬送されているため、満足に報告も行われていないのだ。このままでは我らが置かれている状況の把握すら進まない。まったく、嘆かわしいことだ」

 

部隊長は撃墜され、その上司令部も襲撃を受けた。司令部にいたお歴々も負傷していれば、指揮系統も崩れているだろう。現在の統制はどうなっていることやら。

 

「そこで、だ。背に腹はかえられないので、各部隊に所属している人間を部隊長の代理として挿げ替えることとした。代理を立てて、形ばかりとはいえ会議を執り行うこととなる」

 

あ、嫌な予感がする。

 

「この中に適任者はいるか?この際、自薦でも他薦でも構わない。時間もあまり残されていないことだからな」

 

隊員さんが天幕の中にいる人間を全員に聞こえるように言うと、ざっ、と音を立てて、十を超える瞳が一斉に俺を見た。

 

その光景は一種のホラーである。

 

「その役目は、徹ちゃん以外にいないわね」

 

「逢坂さんが適任です。よろしくお願いします」

 

「隊長が生きてた時からわたしたちに命令してたし、あんたしかいないわ」

 

「うわ、うわぁ……」

 

仲間たちからの期待の眼差しが痛い。

 

これはあれだ、クラスの委員長を決める時みたいなそんな空気だ。自分以外なら誰でもいい的なあれだ。でなければ俺みたいな、思考と言動に難がある危険人物を推薦するわけがない。

 

「ていうかアサレアちゃん、まだ隊長さんは死んではいない。それに俺は命令していない。……はぁ、本当に俺でいいのか?」

 

溜息をこぼしつつ、周りを見渡しながら問い掛ける。みながみな、こくこくと頷く。異議を唱える者はいなかった。

 

この雰囲気の中、嫌だ、などと拒否することはさすがに(はばか)られた。まあ俺としても結果を残すチャンスを貰えるのはありがたいことだ。なんせ、エリーとあかねの身がかかっているのだから。

 

椅子から立ち上がり、出入り口へと足を向ける。

 

「それでは、みんなからの推薦ということで俺になりました。逢坂徹といいます。よろしくお願いします」

 

「ああ、奮戦を期待する。それでは向かおうか」

 

「すいません、その前に……会議に出席する人数って一人でなければいけないんですか?」

 

「原則一人だが、報告に必要とあれば二人でも構わない。そもそも今回の場合は異例づくめの緊急措置だからな」

 

「それなら……ランちゃん」

 

「はぁい。何かしら、徹ちゃん?」

 

俺は無意味に(しな)を作るランちゃんにお願いをする。

 

「ランちゃんも一緒についてきてくれ」

 

「いいわよん。一番年上なのに何もしないっていうのもどうかと思ってたところなの」

 

「助かるよ」

 

「もう、構わないわよ」

 

ランちゃんは二つ返事で了承してくれた。

 

さあ行こうかという段になったのだが、俺の時には何も言わなかったのにここにきて一人、異議を申し立てる人物が現れた。

 

「だからっ、なんでランドルフなのよ!付き添いならわたしでもいいでしょっ!?」

 

アサレアちゃんだ。

 

何が不服なのか、とってもお怒りだ。こういう面倒なことは嫌いかと思っていたのだが。

 

と、ここでふと、彼女が放っていた言葉を思い出した。

 

アサレアちゃんは目立たなければいけないのだった。

 

活躍し、成果を残し、認められなければならないのだと、顔合わせの際にわざわざ大声でそう宣誓していた。

 

自分の優秀さを知らしめる機会を奪われたとあっては、アサレアちゃんも黙っていられなかったのだろう。

 

それなら部隊長代理を立てる際にでも立候補すればよかったのに、と思わなくもない。アサレアちゃんの自薦がみんなに認められるかどうかは置いといて。

 

「こればっかりはごめんな、アサレアちゃん。ランちゃんじゃないとだめなんだよ」

 

「なんでよっ!わたしじゃ頼りないって言うの?!そんなにわたしには魅力がないってのかぁっ?!」

 

「魅力って、一体なんの話をしてるんだ……?」

 

「徹ちゃん、ごめんね。ちょっと待っててちょうだい」

 

話の流れを完全に見失っている俺に、ランちゃんが助け舟を出してくれた。

 

なにやら(たか)ぶっている、というか荒ぶっているアサレアちゃんを鎮めるように、ランちゃんは落ち着いた声音でゆっくりと説明を始める。

 

「お嬢ちゃん、私と徹ちゃんはこれから報告と会議に行くのよ。わかってる?」

 

「わかってるわよっ!だから、その付き添いならわたしでもいいでしょって言ってるのっ!」

 

「あのね、お嬢ちゃん。私の役目は『付き添い』じゃなくて『報告』なのよ?」

 

「だからわかってるって……ん?報告?んー?……まぁいいわよ!ならその報告もわたしがやればいいだけのことじゃない!」

 

もうだいぶアサレアちゃんの思考能力はしっちゃかめっちゃかなことになっているようだ。

 

アサレアちゃんの後ろで、痴態を演じている妹を見てクレインくんが恥ずかしそうに縮こまっている。普段からこれではお兄ちゃんは大変だな。

 

「ふぅ……。最初の広場での戦闘しかり、待ち伏せにあった街中での戦闘しかり、徹ちゃんと私は別行動していたの。憶えているかしら?」

 

「そういえば……広場の戦いの時、ランドルフの姿を見てない……かも」

 

「視点が違うと得られる情報も変わってくるから、徹ちゃんは私を連れて行くことにしたのよ。とくに街中では私はずっと上空、徹ちゃんはずっと地上で動いていた。徹ちゃんにしか見えないものがあると同時に、私にしか見えないものもある。だから徹ちゃんは報告の場に私を同行させようとしているの。……それ以上の意味も、感情もないのよ」

 

「…………」

 

理路整然としたランちゃんの説明だったが、最後の方はアサレアちゃんに耳打ちするような形だった。小さく聞こえてきてはいたが、聞き取れなかった部分もあるのかよく意味はわからなかった。

 

アサレアちゃんは黙りこくって顔を伏せる。

 

「お嬢ちゃんはもう少し感情の発露をコントロールするべきね」

 

そんなアサレアちゃんに、ランちゃんは一言忠告を付け加えた。

 

「は、はぁっ?!なんあなになにがっ、なんの話をしてるかわからないわよ!?」

 

「想いが真っ直ぐなのはいいことだけど、時と場を選ぶことも大事なのよねぇ」

 

「うるるすうるさい!わかったからっ、早くいけぇ!」

 

アサレアちゃんの甲高い声に背中を押されて俺とランちゃんは天幕を出る。隊長代理を呼びに来ていた隊員さんはすでに出ていた。

 

結果的に待たせることになってしまったのでお叱りを(たまわ)るのではと戦々恐々だったが、意外にも怒られることはなかった。どころか、かすかに微笑んですらいた。

 

その笑みの真意を探ろうにも、この隊員さんの人柄を俺は知らなさすぎる。あまり迂闊なことはできないし、口にもできない。

 

「君たちの隊は、随分友好的な関係が築けているな」

 

隊員さんのこの発言も、ウィットに富んだ皮肉なのか、はたまた本音なのか判断がつかない。

 

なのでとりあえず当たり障りのない返答でお茶を濁すこととする。

 

「いえ……。時間がかかってしまってすいません」

 

「構わない。時間がかかったと言うが、他の部隊と比べればまだ早かった方なのだ」

 

「そういえば違う部隊も隊長格が……。そちらも他薦で選んだんですか?」

 

眉間に皺を刻みながら、隊員さんは首を横に振った。どこか疲れているような印象だった。

 

「いや……このチャンスを逃してはならないとばかりに、自分が自分が、とな……」

 

「代理であっても部隊長ですものねぇ。評定に影響があると値踏みして、立候補している、と」

 

「…………」

 

「現状を打破できる人物を選ぼうともせず、この作戦が終わった後の事ばかりを計算している。部隊長として隊を率いて任務の遂行に貢献した、という評価が欲しいのだよ、彼らは。前任者が敵の攻撃により負傷したために自分たちにお鉢が回ってきたのだということを、まるで理解していない。事ここに至っても未だに相手を軽んじているようだ」

 

「隊長さんも、そんなところがありました。敵の能力を確認する前から侮ってたり、出世に飢えているような……」

 

「我々は名高い時空管理局なのだからごろつき風情に遅れを取るわけがない、相手は時空管理局という強大な組織に歯向かう愚か者だ……そういったエリート意識だけが肥大しているのだよ。強大なのは時空管理局という組織と、一部のエースと呼ばれる魔導師であって、局員個々人ではないというのにな」

 

この人の言い方はとても手厳しいものだが、そう言われて納得できた部分もあった。隊長の潜在意識にそういった認識が根付いているのであれば、敵戦力に対する異常な軽視も理解できる。

 

理解した上で、その考え方は間違っているとも、断言できるけれど。

 

「だがどれだけ自意識が高くとも、結局は『陸』の局員だ。昇進するスピードは『海』の局員とは全く違う。自身のプライドを慰めるために、無闇に相手を扱き下ろし、だからこそ地位や役職に固執する。……出世するために努力するということ自体を否定はしないが、そのやり方が、努力する方向性が正しくない」

 

「…………」

 

全く嘆かわしい、と隊員さんは眉間の皺を深くしながら(かぶり)を振った。

 

この隊員さんがどういった役職に就いているのか知らないが、どうやら相当どろどろとした出世競争の現場を目撃してきているらしい。

 

口をついて出てこようとしている素直な言葉のままでは後々問題になりかねないので、俺は沈黙を選んだ。

 

「昔からそういった傾向はありますわね。こう言っては何ですけれど、『陸』に入りたくて時空管理局に入局した魔導師は少ないでしょうし、『海』の局員に対する羨望、あるいは嫉妬は、強いのでしょうね」

 

口を閉ざす俺の代わりにランちゃんが開いた。

 

「大多数はそうだろうな。()く言う私もそうであった。それほどの魅力がある。厳しいが華やかで、責任があり、人々からの賞賛も得られる。厳しい職務の結果として、昇進も早く、給与も良い。どこに魅力を感じるかは人によってそれぞれ違うだろうが、『陸』にはない魅力があるのは確かだ」

 

もっとも、その『海』に配属されるのは才のある一部の魔導師で、目覚しい活躍を残せるのはさらにその中の一握りであるが。

 

そう隊員さんは締め括った。どこか自虐的な色を滲ませていたように思ったのは、おそらく気のせいではない。

 

『海』の人間を羨ましく思う『陸』の隊員さんたちの気持ちは、俺にもわかる。きっと俺が抱いていた感情と同じものなのだろう。

 

魔法適性。生まれ持っての素質。才能。

 

本人の努力では太刀打ちできない部分で線を引かれる。頑張ったところで覆すことができない抗いようのなさは、諦念にも通じる。

 

その気持ちは、痛いほど、わかる。

 

「……詮無きことだがな。おっと、雑談が過ぎてしまったな」

 

ふと、隊員さんは前を見やる。

 

そこには見覚えのない天幕があった。

 

距離的には司令部があった場所なのだが、この土地に到着したばかりの時に張られていた大きい天幕とは外観が変わっている。司令部は少数精鋭の敵魔導師に強襲されたと言っていたので、その際に天幕も破損してしまったのかもしれない。今張られているものはその代わりの天幕なのだろう。

 

「着いてしまったな。君たちとはもう少し踏み込んだ話をしたかったのだが、まあ良い。君たちの為人(ひととなり)を知ることが出来たのは収穫だ」

 

隊員さんはそう言って天幕の出入り口を開いて入るよう促した。

 

「すいません、ありがとうございます。失礼します」

 

「痛み入りますわ」

 

若輩に気を遣ってくれた隊員さんに一礼し、中に入る。

 

「構わないさ。なにせ……これから君たちには、大変な苦労を背負わせてしまうことになるだろうからな」

 

入る際、隊員さんが不穏な台詞を呟いた。

 

 

 

 



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『フーリガン』

 

 

 

報告の議では、まだよかった。

 

敵勢力についての報告を行なっていたのが主に俺とランちゃんだけで、他の部隊長もしくは部隊長代理の方々は被害状況以外では二言三言くらい口を開いていただけだったが、まだ、よかった。

 

敵魔導師の人数の概算、平均的な力量、多用する魔法、使用された戦術、連携行動。そのほかにも、地の利は向こうにあること、敵のトップは残虐かつ聡明であること。

 

それらを伝えた上で、今後取るべき行動について、議題が移った。

 

そこからが、誤解を恐れず有り体に言ってしまえば『クソ』だった。

 

「総員で仕掛ければいい。この付近に生存者がいないことは確認できたのだ。ならば一気呵成に粉砕すればいい」

 

何も、学んでなどいなかった。

 

頭が痛くなることに、これは一個人だけの意見ではない。それに同調する者も何人かいるのだ。

 

しかも、現在の隊を横に広げて敵部隊を探す、などという配置で進行させようと話を進めている。

 

そのように部隊を展開して行われた今日の捜索でどういう目にあったのか、もう忘れているのだろうか。

 

「無策で突き進めば今日の二の舞です。地の利は相手にあります。待ち伏せされ挟撃された今日のように、一度隠れられてしまえば詳細な地理情報を持たないこちらに察知する術はありません」

 

このままではまた無意味に血が流れることになると思い、そう意見具申したのだが、俺の進言は嘲笑とともに一蹴された。

 

「慎重であることと臆病であることは違うぞ、若いの」

 

年だけ重ねた無精髭の自称熟練魔導師曰く。同じ手は喰わない。待ち伏せの可能性を考慮しつつして進む。我々は優秀なのだから問題はない。

 

とのこと。

 

呆れや怒りを悠々と飛び越えて、逆に笑えてきてしまうほどだった。

 

同じ手は喰わないというが、その根拠も、次受けた場合の対処法も述べられることはなかった。考慮しつつ進むというが、その際の部隊の展開や進軍する速度にはなんの言及もされなかった。我々は優秀であるというが、その証明はどこにあるのか。その優秀な部隊が本日どのように敵部隊に良いようにされたのか憶えていないのか。

 

という各疑問点を、可能な限り丁寧にして並べて尋ねてみた。

 

「若造が口答えするな!我々の命令に従っていればいいのだ!」

 

「それほど怖いのならば新入り共を纏めて後方で固まっていろ!臆病者はいらん!」

 

との回答を頂いた。

 

いやはや、頼りになる先輩方だ。戦場ではさぞかし味方の血を大量に流してくれることだろう。もしかしたらこのやり取りは対ストレス訓練だったりするのかもしれない。

 

もう議論を重ねるだけ時間と労力の無駄になることは悟ってしまっているが、このままでは(なし崩し的に任されたとはいえ)俺を隊長代理として選んでくれた部隊の人たちに申し訳が立たない。

 

「この場に限定すれば彼も諸君も立場は同じである。軽率な発言は控えるように」

 

反論に打って出るため立ち上がろうとしたが、その前に他の隊長代理に対して注意するような発言が出た。

 

短絡的な判断をする人たちを窘めたのは誰あろう、俺とランちゃんを呼びにきていた隊員さんだった。会議の前に名乗っていたが、例の隊員さんはマルティス・ノルデンフェルトというらしい。

 

それ以上に驚くのは、なんとこの人、現時点の指揮官なのだ。

 

これも会議の前段階で説明があったのだが、司令部の襲撃により元々の指揮官が負傷し、とてもではないがタクトを振るうことができなくなった。それは指揮官以下の階級の方々も同様だった。

 

指揮権の継承を繰り返し、結果的に指揮官の下の下の下を務めていたマルティス・ノルデンフェルトさんが指揮官代理につく運びとなったらしい。ノルデンフェルトさんは司令部が強襲された際には野営の道具や食料などの確認で偶然席を外しており、上官たちのようにノックアウトさせられることはなかったそうだ。

 

俺に厳しいお言葉をくださった隊長代理さんが、指揮官代理のノルデンフェルトさんにじめっとした視線を向けながら口を開く。

 

「そうは言いますがね、指揮官代理。こうまで非協力的で腰が引けている若者を無理に前線に配すれば、かえって危険ではないですかね」

 

「最悪、部隊まるごと敵前逃亡……なんてこともありえますよ。代理で来た者がこうも弱気ならば、その下の者らも小心者ばかりでしょうしね」

 

若そうな(といっても俺よりは断然年上だろうが)部隊長代理が見下すような笑みを浮かべて同調した。

 

なるべく大人しくしておきたかったが、さすがに仲間をこうまで侮辱されて口を(つぐ)んではいられない。

 

口を開いて大きく息を吸う。

 

が、吸った息を言葉にする前に俺の口に手が当てられた。隣に座るランちゃんの手だ。

 

どういうつもりなのかとランちゃんを見やる。

 

彼は、とても穏やかに微笑していた。

 

俺の口元から手をどけると、ランちゃんは挙手をしてノルデンフェルトさんへと意見を述べても良いか尋ねる。許可を得ると、丁寧に礼を言い、にこりと笑んだ。

 

「私は上空で援護射撃を行っていましたので、地上の様子は『よぉく』見ておりました」

 

ランちゃんの凛として力強い美声が天幕全体に響く。声音には柔らかさがあるのに、自然と人を黙らせてしまうような圧力が含まれていた。

 

「ほぼ全ての部隊が敵の待ち伏せを受け、動揺している中……こちらの彼が一時的に指揮を取った部隊は人員を消耗させることなく、さらには味方部隊への援護まで行いました。敵魔導師の撃滅に成功すればすぐに他の援護に向かっていましたので姿を確認することはできなかったかもしれませんが……心当たりはありませんか?急に敵からの攻撃が止まったり、などなど」

 

そう問われて、多くの隊長代理が不機嫌そうな顔で目線を下げた。ランちゃんに言われた通り、心当たりはあったらしい。街の中を駆けずって助けて回った甲斐があった。

 

「他にも、複数の部隊が遭遇したでしょうけれど敵部隊が撤退行動に移った際、殿軍を務めた強力な魔導師も彼が相手をしました。彼が殿軍の相手をしなければ、負傷者の人数は今の二〜三割は増えていたことでしょう」

 

ランちゃんが言い切るか否かといったところで、ダンッ、とテーブルを叩く音がした。俺に辛辣な言葉を吐いていた無精髭の隊長代理だ。

 

「あの魔導師をだと?!出鱈目を言うな!誰も確認できないから、嘘を言っているのだろう!」

 

「いいえ、事実ですよ」

 

無精髭の隊長代理の発言を否定したのはランちゃんではない。他の部隊の隊長代理だ。その人は、首にゴーグルをさげていた。

 

「撤退し始めた敵部隊の追撃に出た私たちは()の魔導師の干渉によって返り討ちにあいました。二人が継戦困難となり、窮地に陥った私たちの代わりに彼が例の魔導師と交戦したのです。彼が受け持ってくれていなければ、私たちの部隊は治癒術師一人しか生き残らなかったでしょう」

 

ゴーグルの隊長代理さんの話を聞いて、思い出した。コルティノーヴィスさんと戦った場で生き残っていた二人の魔導師、そのうちの一人だ。

 

ゴーグルの隊長代理さんは俺の視線に気づいたようにこちらを見て、わずかに口元を緩めた。

 

俺たちにとっては背中を押してくれる追い風だが、無精髭の隊長代理はこの流れは面白くなかったようだ。顔を真っ赤にして喚き散らす。

 

「なぜ貴様はその若造の肩を持つ?!」

 

「肩を持つも何も……事実ですので」

 

「後ろ暗いことがあるんじゃないだろうな?!協力するよう吹き込まれたんだろう!?」

 

「……彼に協力することで、私に一体どのような利益があるというのですか?私は事実を述べているだけです」

 

「そんなわけあるか!?()は、あの裏切り者のアルヴァロ・コルティノーヴィスは、AAランクの魔導師だぞ!?そんな魔導師に、そこの臆病者が太刀打ちできるわけないだろうが!?」

 

「そこの隊長代理さぁん?貴方のことは()から『よぉく』見ておりましたよぉ?」

 

口角泡とともに失礼な発言の数々を飛ばす無精髭に、背筋が寒くなるような笑顔でランちゃんが割って入る。

 

「貴方の部隊も他の部隊と同様、隊長が倒れていましたねぇ。街の北東で防御戦闘を行なっていた部隊が貴方の所属していた部隊だったはずですが……おかしいですわぁ」

 

無精髭の隊長代理は目を見開き、顔を青ざめさせた。いったいどんな変調をきたしたのか、あれほど(やかま)しかった口は随分動きが鈍り、広い額は脂汗が滲んで光を反射させている。

 

「そ、それがなんだというのだ。何がおかしいというのだ」

 

「私が上空で援護射撃をしていた際、貴方がいたとされる部隊は、敵勢に挟まれながらも奮戦し、全員多かれ少なかれ負傷していました。今は治療用天幕におられるはずです。ですが戦闘中、貴方は隊を離れて一人で動かれていましたわ?あれはどういった作戦行動だったのでしょう?」

 

「なっ……ど、どうやって……っ!」

 

どうやってそんなことを確認したのか、と無精髭の隊長代理は問い質したかったのだろうか。

 

戦闘中にもかかわらず部隊から抜け出してしまえば敵前逃亡と取られても文句は言えない。そんなことを言わせないために、無精髭の人は反論しようとしていたのだろう。

 

しかし、『どうやって』と口にするということは、自分が部隊から離れていたことを半分以上認める言い回しになる。語るに落ちている。今更口を閉じても、もう手遅れだ。

 

「同部隊の隊員は皆さん怪我を負われ、無傷なのは貴方だけ。……ふふ、実にお元気そうで何よりですわぁ」

 

「きっ……貴様ァッ」

 

無精髭の隊長代理はテーブルを殴りつけ、あくまでも上品に笑っているランちゃんを視線で射殺さんばかりに睨みつける。デバイスでも持ち出しそうなほどの激昂ぶりだ。

 

俺が苛立ちを覚えていたのと同じように、ランちゃんも無精髭の人の振る舞いには腹に据えかねるものがあったようだ。

 

「……もう良い」

 

紛糾の様相を呈し始めた会議を強引に断ち切ったのは、指揮官代理のノルデンフェルトさんだ。眉間に深い皺を刻み、こめかみを押さえたノルデンフェルトさんは苦々しい表情のまま、続ける。

 

「ここからの行動を通達する。我々は…………」

 

 

「…………」

 

「徹ちゃん、気を取り直してちょうだい。お嬢ちゃんからは文句を言われるとは思うけれど」

 

「……どんな顔して会えばいいんだか……。怒るだろうなあ、アサレアちゃん……」

 

「機嫌をとるためになにか考えておかないといけないわねぇ」

 

天幕から続々と人が出ていく。

 

俺とランちゃんはノルデンフェルト指揮官代理の指示により、未だ席を立ってはいなかった。

 

隊長代理の皆々様が退室するまで暇なのでランちゃんと雑談していたが、ぴりぴりとした圧迫感を感じて発信源へと目をやる。

 

「ッ……」

 

ランちゃんの発言によって、敵前逃亡の疑いがかかった無精髭を生やした隊長代理だった。物凄い形相をしてランちゃんを、あとついでに俺も睨んでいる。

 

無精髭の彼が外に出るまで、ランちゃんは睨み返すでもなく無視するでもなく、涼しい笑顔で鋭い視線を受け流していた。大した胆力である。もしかしたらランちゃんはこういった(しがらみ)が鬱陶しくて、嘱託魔導師に身を置いているのかもしれない。

 

そんな考察をしていると、ぽん、と肩に手が置かれた。

 

「あまり君の力にはなれなかった。すまない」

 

振り返って仰ぎみれば、ゴーグルを首からさげた人だった。会議と呼ぶべきか口論と呼ぶべきか悩ましい時間の中、こちらの有利になる発言をしてくれた隊長代理さんである。

 

「いえ、あの時に声を上げて頂いて助かりました。でも、あの発言であなたもあの人に失礼なことを言われてしまったし、逆恨みを買ったかもしれません……申し訳ないです」

 

「いや、いいんだ。私は事実を口にしたまでだからな。それにあの人は誰に対してだってあんな態度だ、あの人に逆恨みされているのは私だけじゃないさ。ただ、あの人みたいなとち狂った局員ばかりではないことは、知っておいてもらいたい」

 

「ちゃんとした局員さんが大多数で、あの無精髭の人みたいなのはごく一部というのは、あなたと話していてよくわかります」

 

「そう言ってもらえるとありがたい」

 

ゴーグルをかけている隊長代理さんが俺の肩から手を離して天幕の出入口に目を向ける。一歩踏み出して、そこで踏み止まった。

 

「危うく忘れるところだった。今日は君のおかげで助かったよ。部隊の仲間を代表して礼を言う。ありがとう」

 

一瞬何の話だろうかと戸惑ったが、会議中に口に上していた援護の事だと思い至る。

 

当初こそ突出してしまった味方部隊を助けに行く目的でいたが、結果的にコルティノーヴィスさんとのやり取りがメインとなってしまったので俺としては助太刀したという印象が薄れていた。

 

それどころか、ゴーグルの人たちを下がらせたのも、任務継続のためこれ以上負傷者を増やしたくない一心からだったのだ。礼を言われてしまうと逆に心苦しい。

 

「救援には半分ほど間に合っていなかったんで、礼なんて……」

 

「あの二人がやられたのは功を焦って突っ走ったからだ。君が来なければ愚か者二人を回収できずにいただろう。私自身も無事でいられたかわからなかった」

 

君たちの部隊の子たちにも伝えておいてくれ、と残してゴーグルの人も天幕から出た。

 

「まともな人がいることを知れてよかった。わりと本気で」

 

「そうねぇ。ただ残念なことに、目立つのは頭のおかしな人ばかりなのよねぇ。そういう人に限って声が大きいから嫌になるわぁ」

 

ランちゃんとため息をついている間に、天幕からはあらかた人がいなくなっていた。

 

残っているのは俺とランちゃん、ノルデンフェルト指揮官代理だけとなった。

 

「宣言通りに君たちに苦労と多大なる精神的苦痛を与える羽目になってしまったな。すまない」

 

ノルデンフェルトさんは会議中に座っていた席から移動し、俺とランちゃんの正面に座った。

 

「この天幕に着くまでの道で少し話は聞いていましたが、まさかこれほどとは考えが及びませんでした」

 

俺がノルデンフェルトさんにそう返すと、ランちゃんが俺の肩をぽむぽむと叩いた。

 

「大丈夫よ、徹ちゃん。あの無精髭の人ほど厄介な魔導師は、種々様々数多くの魔導師を擁する『陸』でもそうはいないわ」

 

「その厄介な部類の人と仕事をしなきゃ行けない時点でだいぶ大丈夫じゃないんだけど」

 

「彼は歳を重ねている分、妬みや嫉みといった感情と、エリート意識を(こじ)らせているのだよ。しかし長く隊にいて、悪い意味で言動が一貫しているため、彼の指示に従う者も多い」

 

「明日の作戦も……そういった人たちに対する配慮、ですか?」

 

紛糾した会議の結果。

 

明日の作戦は、無精髭の隊長代理とその取り巻きたちが声高に訴えていた内容と、ほとんど同一のものだった。部隊ごとに横並びになり、ローラーでもかけるように進み、敵勢を発見し次第叩いていくという内容。

 

本日行われた生存者の捜索活動及び索敵行動とほぼ同じである。異なる点といえば、先遣を担っていた俺たちの部隊も横並びの一部と化すことくらいのもの。

 

結局、奇襲や挟撃への対抗策や、障害となる瓦礫が多くある街の中での進軍速度など、問題点は取り残されたままだった。

 

「時間が限られているということもあった。負傷者も少なくない。乱れた指揮系統では複雑な策を施すのは難しい。なにより、彼らの案を却下すればさらに不平不満を募らせ、モチベーションも低下するだろう。彼らの働きが鈍くなれば、さらに苦労するのは私たちだ。どこかで折り合いをつけなければならない」

 

まるで駄々を捏ねる子どもだがな、とテーブルに手をつきながらノルデンフェルトさんは吐き捨てた。

 

「……どうするかなぁ……」

 

街の全域に広がって捜索すること自体を否定するつもりはない。身を隠しているかもしれないと前情報を得ているのだから、管理局の隊員さんたちも注意深くなるだろう。敵さんたちを炙り出すこともできるかもしれないし、見落としてしまっていた生存者を発見できるかもしれない。

 

そういった利点はある。あるにしても、このサンドギアは存外広いのだ。必然、物理的なローラー作戦を行うにしても、ある程度の距離を開けて散らばることになる。部隊が散らばった時に強襲でもされれば、人数が減って疲労の溜まった部隊では押し負ける公算が高い。

 

それに加えて敵の指揮官の悪辣さに比例した辣腕っぷりだ。どのような用兵をしてくるかわからない。

 

敵の情報が不足している。

 

「あ、そうだ。これがあったんだった」

 

「徹ちゃん、どうしたの?」

 

ここまで考察して思い出した。無精髭の隊長代理さんのインパクトが強かったせいで、話したかったことを失念してしまっていた。

 

尻のポケットからとあるものを引っ張り出し、テーブルに載せる。

 

「なにかしら?」

 

「紙と……指輪かね。これは?」

 

「敵の小隊長っぽい魔導師から回収した紙束と、指輪状のデバイス?みたいなものです。俺に知識がないからなのか、読み解けない部分もありました。提出しようとしていたんですけど、いろいろあったせいですっかり忘れていました」

 

「会議の最中に出さなくて正解だったわね。あの小汚い無精髭がさらに噛みついてきていたでしょうから」

 

「紙の方は……塗り潰されている箇所が多すぎる。知識の有無で理解の程度が変わるものではないな。この指輪も、尖ったセンスをしている以外には特に何も変わったところはないが」

 

「そうですねぇ、やはり紙のほうにしか情報はなさそうですわぁ」

 

俺が管理外世界出身だから予備知識が不足しているのかとも思ったが、やはり紙束はどうやっても部分的にしか解読は困難なようだ。

 

「そうなんだよな、指輪には名前と思しき文字しか書いてないし」

 

「え?」

 

「ん?」

 

「……へ?」

 

なにやら話が噛み合わない。

 

「指輪には何もないわよ?」

 

「う、うん。その文字以外にはなにも……」

 

「違うのだ。君の言う文字も、刻まれてはいないのだよ」

 

「え?いやいや、俺はたしかに……あ、ありがとうございます」

 

ノルデンフェルトさんから手渡され、指輪の裏側を確認する。

 

二人の言う通り、何もなかった。胸にざわつきを感じてデバイスにハッキングを仕掛けてみたが、その中にあるはずの射撃魔法の術式すら、綺麗さっぱりなくなっていた。

 

イニシャライズされたハードディスクみたいに空っぽだ。デバイスに残っていなければおかしい術式データさえ、残されていない。所有者から一定時間離れると全消去されるような仕掛けでもあったのだろうか。

 

「この、指輪だった……よな。俺の思い違いか?いやいや、んなわけ……」

 

「指輪には何と刻まれていたのだ?」

 

「ええと、『フーリガン』とありました」

 

「『フーリガン』……徹ちゃん、本当に?」

 

「ああ……人の名前なのか?」

 

「いいえ。それは組織の名前よ」

 

「噛み砕いて表現すれば、犯罪組織、といったところかね」

 

「犯罪組織……だから、この街にこんな襲撃をしたのか……」

 

「でも、おかしいのよね……。犯罪組織と一口に言っても『フーリガン』という組織はそれほど強大な組織ではなかったのよ。組織よりグループって言い方をしたほうが的確なくらいの規模なの。ただ、そのグループのリーダーは有能だったみたいよ。そのせいで時折、管理局も苦労したらしいしねぇ」

 

「規模は違うけど、敵の頭が賢くて手を(こまぬ)いているってのは現状と同じだな。だとすると、敵対勢力は『フーリガン』であたりか」

 

「それがね、徹ちゃん。『フーリガン』のリーダーは数ヶ月前に逮捕されてるのよ。たしかまだ裁判は終わっていないはず。だから今回の事件は『フーリガン』の名を騙った違う組織かも……」

 

「いや、あの裁判は決着がついている」

 

ノルデンフェルトさんはテーブルに広げた数枚の紙に目を落としながら、ランちゃんの言葉に訂正を加えた。

 

「あら、それは知りませんでしたわ」

 

「嫌疑不十分で不起訴処分となった案件だ。よって大々的に公表していない。知らなくても無理はないだろう。私としては、あの案件は喉に小骨が刺さったような気持ちの悪さを感じたものだが……」

 

「ということは……」

 

「ああ。不起訴処分となった以上は拘留しておけない。釈放されたよ。再び『フーリガン』の指揮を執っていたとしても不思議ではあるまい」

 

「その『フーリガン』には、コルティノーヴィスさんの相手をできるような魔導師がいたんですか?」

 

「……いない、はずだ。AAランクを超える魔導師を擁する組織であれば、警戒されていて然るべきだろう。これまで関わった事件に、そのような魔導師が投入された報告はない」

 

「コルティノーヴィスさんが管理局を離れて『フーリガン』についた理由はわからずじまいか……」

 

「それよりもこっちの方が何かを掴めそうよ」

 

考え込む俺に見せつけるように、ランちゃんは紙をぴらぴらと揺らした。

 

「クレスターニの秘術……これはまず間違いなくクレスターニ人形劇団の人が使っていた操作系の魔法ね」

 

「クレスターニ……」

 

「なにかご存知なのですか?」

 

「人形劇団の話は知らなかったのだが……クレスターニ…………どこかで聞いた覚えはあるのだが……。たしか、奴の口からクレスターニという単語を……聞いた記憶がある」

 

「奴、というのは……」

 

俺が尋ねると、ノルデンフェルトさんは深く頷いた。

 

「……ああ。アルヴァロ・コルティノーヴィスのことだ」

 

「ノルデンフェルトさんはコルティノーヴィスさんと交友があったんですか?」

 

「……同期だったのだ。奴の方が階級はずっと上だったがな。年に一度か二度ほど、酒を酌み交わす間柄だった。このようなことになるとは終ぞ想像し得なかったが」

 

少し悲しそうに、そして理解にできないというように、ノルデンフェルトさんは愁眉(しゅうび)を寄せた。

 

「正義感の強い男だった。心優しく、犯罪者に対しても穏やかに接し、事を荒立てずに穏便に済ませようとするような、高潔な男だった」

 

「穏やかに、穏便に……とてもそんな様子は見て取れませんでした。会話も成立しないまま戦闘になりましたから……」

 

「家族思いで、子煩悩で、家族との時間を増やすために出世の道を捨て、嫁の実家があるこの街に移り住んだほどなのだが……君たちの話によれば、そのようだな……。未だに私は……いや、事ここに到ればもはや意味を持たない感傷か」

 

目を閉じて一つ息を吐くと、ノルデンフェルトさんはスイッチが切り替わったかのように、表情に帯びさせていた憂愁を取り払った。

 

「情報は断片的であるが、どうやら奴の……コルティノーヴィス家に今回の一件は関連しているような節がある。隊列から離れるため危険はあるだろうが……君の部隊には調査を頼みたい」

 

ランちゃんが敬礼したのを見て、続いて俺も敬礼する。

 

「拝命します」

 

「拝命致しますわぁ」

 

今日行われた任務とは違うが、これはこれで他の部隊から突出する形になる。

 

果たして、ノルデンフェルト指揮官代理から承ったこの特務を聞いて、アサレアちゃんはどういう反応を示すのか、すこし怖くもある。

 

 



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冷たい微笑

「……ので、天幕……都合し……ませんか?」

 

「ああ、構……い。好きに……といい。私の権限……可しよう」

 

作戦会議を行っていた天幕から出てしばらく歩いた時、いいこと閃いた、みたいな笑顔でランちゃんが再び天幕に入っていった。天幕に戻った以上、ノルデンフェルトさんに何かしら用事があるのだろう。

 

待ってて、と言われたため待っているのだが、ここからでは微かに声の欠片が拾えるだけで話している内容まではわからない。特別興味があるわけではないのだけど、中途半端に聞こえる会話というのは存外もどかしい。

 

「徹ちゃんっ!ちょっと手伝ってもらってもいいかしらん?」

 

一歩二歩と近づいたところで、光度を倍くらいに増した明るい笑顔でランちゃんが帰ってきた。その端整な顔とモデルそこのけのスタイルで純真な笑みというのは、もはやそれだけで女性を落とせそうな勢いだ。ランちゃんの個性を知らなければ、との注釈は必要だろうが。

 

何がそんなに嬉しいのかわからないが、手伝ってくれと言われて断る理由はない。そのお手伝いの内容も聞いていないが俺は頷いた。

 

「手伝うのはいいけど、なにをすりゃいいの?」

 

「天幕を張るのよ!」

 

「へー、天幕……。そんなら手すきの隊員がうちの部隊だけでもたくさんいるな。手伝ってもらおうぜ」

 

「それはいい考えねっ!どうせ暇してるでしょうし!後は水を用意しないといけないわね……このあたりに川とかってあったかしら?」

 

「水?水なら支給されてるのがあるけど?」

 

「そっちはだめなのよ。飲料用しか備蓄がないらしくて」

 

「飲料用しか、ってそれじゃいったい何に……おおう、なるほどな。任せとけ」

 

「調べてくれるの?」

 

「ああ。哨兵もないんじゃおちおち休めないだろ?だからサーチャーをいくつか放っておいたんだ。そのサーチャーをもっと遠くまで送って探らせてくる」

 

「わぁ、用意がいいわねぇ。それならお花畑のほうを念入りに探して頂戴?抽水植物を見かけた記憶があるから、もしかしたら水辺が近いのかも」

 

「了解」

 

野営地周辺を巡回させていたいくつかのサーチャーを、ランちゃんが指差す方向へと移動させていく。

 

もう日は完全に落ちているし、街の外のだだっ広いだけの空間に街灯なんてあるわけもなく、真っ暗で視程はそれほど確保できていないが、今日は月(かどうかは厳密にはわからないがそれらしきもの)がよく出ているのでなんとかサーチャーを活かすことができた。

 

「水を確保できれば、作れるな」

 

「ええ……っ」

 

ランちゃんはきりっとした目つきで、ニヒルに口角を上げる。

 

「念願のシャワーを……っ!」

 

 

ランちゃんがノルデンフェルトさんから使用の許可を頂いた天幕は小ぶりなサイズだった。使用人数はだいたい二人から三人を想定しているような大きさだ。動員された人員を全て合わせたらかなりの大所帯だというのに、このちっぽけなサイズの天幕は一体何に使おうと考えていたのか、さっぱり謎である。

 

ともあれ、今の俺たちにとっては都合がいいのであまり気にしないでおくとしよう。

 

俺たちの部隊は迂闊な隊長と真面目な隊員の二人が治療中のため、現在は八人だ。欠員が二人出てしまったが、これでもほかの部隊と比べると被害が抑えられたほうだった。

 

一番被害の大きかった部隊(何を隠そう、無精髭の人のところだ)は隊長代理と、軽傷で済んだ隊員さんの二人しかいないのだ。残りの隊長さんや隊員さんは、治療用天幕にいる。

 

つまり何が言いたいかというと。

 

「はぁぁ。シャワーを浴びれるってことがこんなに幸せだったなんてぇ……」

 

「アサレアちゃん、湯加減はどう?」

 

我が隊は、他部隊と比較して豊かな人手を総動員し、シャワー室の設営を完了したのだった。

 

天幕を広げたり、手近にある雑貨を組み合わせて海の家にあるような簡易シャワーっぽく作ることはすぐにできたが、いい具合に水を温めることは難しい。

 

火の調整をしながら、天幕越しに利用者に伺う。

 

「あー……いーかんじー……きもちぃー……」

 

「大丈夫か?起きてるか?」

 

「だぃじょーぶー……ねてなーい……」

 

「……脳みそ溶けてないか?」

 

「とけてなーい……」

 

どうやら念願だったシャワーを浴びることができて、アサレアちゃんは至福のひとときらしい。少々知能指数が下がっているご様子だ。

 

現在時刻はまず間違えようがないくらい夜で、そしてこのあたりに光源はほとんどない。薄ぼんやりと月光が照らしてくれているだけだ。

 

天幕の中など暗くて手元すら見えない。なので天幕内部にはランタン(ガソリンもガスも電池も使わず、魔力的な動力で光を放っているらしい)が置かれている。

 

置かれているのだが、これが問題の種だった。

 

「……俺たちの天幕が端っこに追いやられていてよかったなあ……」

 

天幕の生地の加減なのか、それとも俺たちの設営の仕方が間違っていたのか、それはもうめちゃくちゃシルエットが浮き上がっている。

 

幸か不幸か、研修生やら嘱託やらの若いのが集められた俺たちの部隊は、ほかの天幕からいやに、というか嫌がらせのように離れているので他の誰かに見られることはないが、それでも女の子は嫌と感じるだろう。これが男ならば、まったく気にも留めないのだけれど。なんなら男の場合、服なんて全部脱いでそのまま直接水をかぶるくらいだけれど。

 

「それで、会議はどうなったの?明日のわたしたちの役目はー?」

 

違う事を考えて天幕の中(シャワー室)から意識を外していると、アサレアちゃんに声をかけられた。いつも通りのはきはきつんつんとした声音なので、どうやら知能指数は戻ったようだ。どことなく、機嫌の良さそうな声である。

 

「最初は他の部隊と横並びになって街から敵勢力を炙り出す作戦に参加することになってた」

 

「ふーん。……ん?最初は?なってた?」

 

「そう。最初はその作戦に俺たちの部隊も参加するはずだったんだけど、今日得られた情報から紐解いていくうちにコルティノーヴィスさんの周辺が怪しいってことになって、結局俺たちは他の部隊とは別行動してコルティノーヴィスさんの周りを調査することになった」

 

「えっと……それって、つまり……」

 

震えるようなアサレアちゃんの声。

 

今日と同様、危険なお仕事になることを言いたくはないけれど、言っても言わなくてもどうせ結果は変わらないのだから言葉を濁すだけ無駄だろう。

 

意を決して口にする。

 

「ああ、そうだよ。指揮官代理から直々に下された特別任務とはいえ、明日も今日と同じく味方部隊から突出して動く危ないお仕事になる」

 

「あんた……」

 

また怒られそうだ。

 

俺は今、単独で動いているわけではない。部隊の人間の命を預かっている。そういう立場に(なし崩し的にとはいえ)なったのだから、やはりこのようなリスクの高い任務は拒否するべきだったのかもしれない。直接命じられた任務を拒否できるのかはわからないけれど。

 

「わ、悪い……やっぱり断っといたほうがよかっ……」

 

「そんな大役をもぎ取るなんて、なかなかやるじゃない!」

 

「お、おお……?」

 

図らずも、あの気難しいアサレアちゃんからお褒めの言葉をいただいた。

 

「今日みたいに戦闘になる可能性が高いんだけど……今回受けた任務はアサレアちゃん的にアリだったの?」

 

「あたりまえでしょ?!特別任務よ!目立つ機会じゃない!ばしっ、と成功させれば、上の人たちへのアピールになるわ!」

 

「今日の任務は嫌がってたみたいだけど……」

 

「あれは使い捨ての消耗品みたいに扱うからよ。今回みたいに部隊の実力を認められて、その結果危険な任務が与えられるのなら、わたしはなにも思わないわ!」

 

燃えてくるわねっ、とアサレアちゃんは気概に溢れていた。天幕に映るシルエットも両手をぎゅっと握り締めるような形を作っていて、どうやら強がっているわけでもないらしい。

 

モチベーションが上がっているのは結構だが、アサレアちゃんの性格を鑑みるにそのやる気が空回りしないか心配である。

 

「……はあ、アサレアちゃんの意欲は尊重するよ。今日は見れなかったアサレアちゃんの勇姿を、明日は見られることを期待しとく」

 

張り切りすぎて軽はずみな行動をしないように、とここで忠告してもアサレアちゃんは反発するだけだろう。注意は当日の現場でするとしよう。

 

「ふふっ、任せなさい!明日はあんたがなにもできないくらい、わたしが活躍してあげるわっ!今日たくさん働いたぶん、あんたは後ろで指揮だけとってれば……っ!」

 

テンションが上がりっぱなしのアサレアちゃんだったが、いきなり黙り込んだ。

 

天幕を透して仄かに照らされていた俺の手元も、騒がしいアサレアちゃんが静かになったと同時に暗くなる。

 

どうしたのだろうと天幕を見やると、もうシルエットは映っていなかった。スイッチをオフにしたのか、燃料源がなくなったのか、それとも不具合なのか、原因はわからないがランタンの灯りが消えたらしい。俺たちを照らす光源は、再び月明かりのみとなった。

 

「おい、アサレアちゃん、ランタンのスイッチ切ったのか?おーい」

 

「きゃああぁっ?!な、なんで急にまっくらに……っ?!だれかぁっ、逢坂さんっ?!」

 

「アサレアちゃん?大丈夫か?ランタンが切れただけだろ?すぐに代わりを持ってくるから、ちょっと待っててくれ」

 

どうやらアサレアちゃんがランタンを灯りを落としたのではないらしい。ならばランタン自体の不具合だろう。

 

たしか部隊の人間が集められている天幕のほうにいくつか予備があったはずである。

 

立ち上がってランタンを借りに行こうとした時、ぱたばたっ、と背後で聞こえた。

 

「やだっ!行かないで!」

 

背中に感じる湿り気と温もり。俺の腹に回されている細い腕。その声はこれまで聞いていたものとはまるで違って弱々しいもので、記憶にある声とはあまりにかけ離れていたが、これはあのアサレアちゃんのようだ。

 

「うっおぉ……わ、わかった。どこにも行かないから、とりあえず手を離して……天幕の中に戻ったほうがいい」

 

「ど、どこか行くんでしょっ!?手をはなしたら行っちゃうんでしょ?!わたし、わかってるんだからっ」

 

「行かない、行かないから……。というか俺がどこか行くよりも、この状況を見られるほうがまずいと思うんだけど……」

 

「だめっ、だめ!」

 

「…………困った」

 

状況から考えて、天幕から着の身着のまま、どころか何も着ずに飛び出してきたようだ。

 

今日の昼間、街の中では、失礼なことに胸とお腹を間違えてしまったが、こうしてぴったりと密着しているとちゃんとある(・・)ことがわかってしまう。

 

「離れてなかったらいいんだよな?こうして近くにいれば……天幕に戻っても」

 

「っ……うぅぅぅっ」

 

俺がどう言おうとアザレアちゃんは離してくれそうにない。

 

この土地の気温はそこまで低くはないし風も穏やかだが、夜だと冷える。濡れた身体のままでは風邪をひいてしまうかもしれない。非常にどぎまぎしつつも一歩二歩と後退して、アサレアちゃんの身体が天幕に戻るようにする。

 

自分で代わりのランタンを取りに行くのは諦め、アサレアちゃんを落ち着かせることを優先しよう。

 

「ほら、座って。タオルは……近くにはないな。ちょっと探すから……」

 

「だめっ、行っちゃだめっ!」

 

「どこにも行かないって……天幕の中にいるんだから。タオルを探したいから腕を離してくれないか?」

 

「っ……ぅぅ」

 

アサレアちゃんの身体を見ないよう目線を上にあげて振り向き、がっちりとホールドしてくるアサレアちゃんの肩を持って腕を離すように言う。だが、溶接でもしたかのように彼女の腕は離れない。

 

それどころか振り向きながら腕を外そうとしていたので、いつのまにか体勢が変わってしまって俺の背中にくっついていたはずのアサレアちゃんが正面に移動してきていた。パニック状態のアサレアちゃんをどうにかしようとすると悪い方向に転がるようだ。まずはアサレアちゃんを宥め、そこから交渉するしかない。

 

「……わかった、このままでいいよ。……アサレアちゃんは暗いところが苦手だったんだな」

 

まずはなんでもいいので話しかける。解決の糸口が見つかるかもしれない。

 

するとアサレアちゃんは、唸り声やヒステリックな大声じゃなく、ちゃんと言葉で返事をしてくれた。

 

「苦手じゃない……きらいなだけ」

 

「どう違うんだろう……」

 

俺の服に顔を押し付けたままなのでこそばゆいが、それは些細な問題だ。

 

「……わたし、暗くて狭い部屋に閉じ込められたことがあるの……。なにも見えなくて、だれも助けてくれなくて……すっごく怖かった」

 

「…………」

 

何か聞いたことのある話だな、と思ったら、クレインくんがしてくれた話だ。アサレアちゃんの傍若無人にして傲岸不遜な振る舞いと、あと可愛らしい外見、加えて小憎たらしい性格が端緒となって同級生に物置小屋に閉じ込められたという、例の件。

 

その時の経験が、辛かった記憶が、少女の心にトラウマを刻み込んでいた。

 

「その時、わたし泣き疲れて、いつのまにか意識を失ってたんだけど……」

 

「そっか……そんなに怖かったんだな……」

 

月明かりがぼんやりと少女の顔を彩る。目元には、小さな宝石のような輝きがあった。

 

ここは暗くて狭い物置小屋ではない、安心していい。そう想いを込めて、アサレアちゃんの頭を撫でる。

 

アサレアちゃんは髪を編み込んで後頭部あたりでバレッタで留めていたが、ほどいている今は髪の先端が首や肩にまとわりついている。

 

目線が下がりかけて、心臓がどくんと強く鼓動した。再び頭を上げる。

 

ランちゃんとアサレアちゃんがどこかで繰り広げていた話ではないが、色気というのはシチュエーションが大きく影響していると思った。

 

「あっ、ち、ちがう!泣いてない!泣き疲れてなんてない!えっと……出口を探して、探し疲れて、それで寝ちゃってたの!ほんとよ!」

 

俺がべそをかいている子どもをあやすように撫でていたからか、アサレアちゃんは目元をこすって即座に前言撤回した。

 

なぜ今更強がるのだろうか。俺とアサレアちゃんの現状からして、もう既に強がっても無意味なほどの羞恥心は感じていると思うのだけれど。

 

ただ、アサレアちゃんは強がりはしても俺の手を振り払おうとはしなかった。口では強気に言うが、やはり内心では暗闇に不安を感じているのかもしれない。

 

「それで寝ている間にだれかが助けてくれたんだけど……それでもわたし、まだ暗いところはきらいなの」

 

「アサレアちゃん、助けてくれた人のこと憶えてないの?」

 

「うん。すっごく長い時間寝ちゃってて、起きた時には自分のベッドにいたわ。学校で閉じ込められたから、きっと教師かだれかが気づいたんでしょ。抱きかかえられて運ばれたのは夢うつつにおぼえているけど、顔までおぼえてないわ」

 

「そう、なのか…………」

 

アサレアちゃんを助けたのはアサレアちゃんの双子のお兄ちゃん、クレインくんだ。クレインくんが話してくれた出来事と類似点が多いし、まず間違いないだろう。

 

そこはいいのだ。妹の危機を察知して助けに行くなんて、お兄ちゃんの鑑だ。クレインくんのしたことは褒められて然るべきだ。

 

だが、だというのに、なぜクレインくんは名乗り出ないのか。いや黙って助けて、その上助けたことを誇らないなんて美徳だ。美徳なのだが、それとなくアサレアちゃんに知らせておけば、クレインくんとアサレアちゃんの仲はこうまでこじれることはなかっただろう。

 

助けてもらっておいて苛烈にして辛辣に接するほど、アサレアちゃんは恩知らずでも愚かでもない。表面的な態度はどうであれ、内面的な心境は変わったはずだ。

 

「……言って、なかったのか……クレインくんは……」

 

クレインくんは正しいことをしているが、部分的に間違ってもいる。

 

働いていないのに働いたと報告するのはもちろん間違っているが、働いたのに働いたと報告しないのも、やはり間違っているのだ。

 

クレインくんはアサレアちゃんの兄として、家族として、素晴らしい行いをしたのだから、よくやったと褒められるべきだったのだ。アサレアちゃんから、ありがとうの一言でもいい、感謝されるべきだったのだ。

 

アサレアちゃんの過剰な強がりや、クレインくんの善良すぎる心が、この兄妹の仲を難しくしてしまっている。兄も妹も、その個性が極端すぎたが故の不和だった。どちらかがどちらかに寄っていれば、ここまで複雑になることはなかったろうに。

 

「んー…………」

 

その物置小屋で助けてくれたのはアサレアちゃんのお兄ちゃんだよ、と教えるべきなのだろうか。

 

だが、俺から教えた場合、アサレアちゃんはなぜそんなことを知っているのだ、と思うことだろう。そうなってしまえば、クレインくんが俺に相談していたということをアサレアちゃんに知られてしまう。裏でこそこそしていたなどと邪推されてしまえば、さらに二人の仲が険悪になってしまう可能性もある。

 

俺から事情を説明するには、状況に分がない。

 

「ねぇ……なんでなにも言わないの?なんで黙ってるの?」

 

考え事をしていたせいで会話が疎かになっていた。抱きついた体勢から変わらぬまま、アサレアちゃんが俺を見上げる。

 

視線に気づいて顔を下げて、心臓が飛び跳ねた。

 

天幕越しにあたりを仄かに白く染める月光と、水を滴らせて輝くように自己主張する艶やかな明るい赤色の髪。その髪に負けないくらい紅潮した頬と、水を弾くきめ細やかな肌。濡れた服越しに感じる明確な柔らかさと弾力、熱い体温。

 

いろいろとまずい事態なのを忘れていた。学習しろよ、俺。理性を蹂躙する存在が、視界の下のほうにいるということを。

 

「ご、ごめん……ちょっと考え事してて……」

 

「……っ。あ、のね……。だ、だいじょうぶ……だったのよ?不安になって病院に検査も行ったけど……医者にもだいじょうぶって、言われたし……」

 

「……大丈夫だった?病院?いったいなんの話を……」

 

「ぁ、ぅ……。しょ……て、貞操……」

 

「ぶっ……」

 

あまりに突飛な発言で噴き出してしまったが、女の子にとってそれは重大な事、のはずだ。

 

真っ暗な物置小屋に閉じ込められ、意識を失い、気づいたら自分のベッドにいた。その間の記憶がないとなれば、何かされたのではないかと危機感を覚えるのは至極当然とも言える。

 

だが、なぜこのタイミングでアサレアちゃんは口に出した。

 

そのとんでもない発言をすることに羞恥がないというわけでもないようだ。俺の服に顔を(うず)めるほど恥ずかしがっているのだから。

 

と、ここまで考えて、爆弾発言の経緯を思い出す。俺が『考え事をしてた』と言ってから、アサレアちゃんが例の発言をした。

 

ということは、つまり。

 

「俺……貞操がどうとかって考えてたわけじゃないんだけど……」

 

「〜〜っ!っっ!」

 

あの閉じ込められたという話を聞いて、貞操がどうのとか純潔がこうのとか、砕いて言ってしまえば処女かどうかなんてことを真剣に考えているとアサレアちゃんに思われていたのが、なかなかにショックである。

 

勘違いしていたことに加えてとんでもないことを宣言してしまったアサレアちゃんは、怒りなのか恥ずかしさなのか原因のわからない感情に責め立てられて、声にならない声をあげながら頭をぐりぐりと俺の腹部に押しつける。なのはの突進で慣れているので痛みというほどの痛みは感じないが、俺の服が背中に続いて正面も濡れつつあることだけは気がかりだ。

 

「ご、ごめんって……。でもそういう品性のないことを真っ先に考えるって思われてるのは心外だしさ、ちゃんと分かっておいてもらわないとって思ってな」

 

「……男なんて、全員……え、えっちなこと、ばっかり考えてるもんだと思ってた。……同級生の男はみんな、目つきがいやらしいし……」

 

基本的な考え方はそれで正しいから反応に困る。年の頃を勘定に含めれば、仕方ないと言えてしまうのが、もうどうしようもない。本当に男というものは哀れな生き物だ。

 

「そういう考えの奴もいれば、ちゃんとした倫理観を持ってる奴もいるってことだ。ただ一つ言っとくけど、他の男に『こんなこと』したら絶対に押し倒されるから気をつけるように」

 

なんなら俺も理性が揺らいでいるが、現実的な諸事情を考えれば迂闊な行動を取れないことは明白なので、なんとか踏み(とど)まっている。

 

「ほ、ほかの男にこんなことするわけないでしょっ……ていうか、仮に天幕越しっていっても、信用してない男のすぐ隣でシャワーとか浴びるわけ……ないじゃない」

 

「俺のことは信用してくれてるんだな。その言葉は嬉しいよ」

 

「っ……ね、ねぇ、……あ、あんたってさ……」

 

アサレアちゃんが小声で囁いた。

 

もぞもぞとアサレアちゃんが動く。目を下に向けられないので何をしているのか具体的にはわからないが、俺のウエスト回りの圧力がなくなっているので、おそらく腰に回していた腕を自分の身体の正面に持ってきたのだろう。

 

「あぅ……あ、あの……」

 

ようやく離れてくれるのかな、と思いきや、片手で俺の服を掴んだ。

 

口は開いたり閉じたりと、目線は右へ左へと、落ち着かない様子だ。

 

俺はアサレアちゃんが何を言おうとしているのか聞き届けようと耳を傾けていた。だから、気づくことができなかった。

 

外から聞こえる足音に。

 

「あっ……あんた、か、彼女とかって……」

 

アサレアちゃんが見上げて俺の目を見つめて、口を開いた、その瞬間だった。

 

 

 

「と・お・る、ちゃーん……なーにしてるのかしらーん……」

 

 

 

突然投げかけられた言葉に肩を跳ねあげながら振り返ると、とても冷たい微笑を湛えたランちゃんが立っていた。

 

「いや……ランちゃん、違うんだ。誤解するのは仕方ないとは思うけど、そういうのでは決してないんだ……」

 

「いくらお嬢ちゃんがちょろそうだからって、食べちゃおうとするのはどうかと思うわぁ」

 

「こ、これには拠所(よんどころ)ない事情が……あ、アサレアちゃんからもなにか言ってやってくれっ」

 

ランちゃんから凍えそうなほどの眼差しを受けて、俺はアサレアちゃんからも弁解するように願うが。

 

「……ぅぅっ……っ」

 

俺の服にしっかとしがみついて呻くだけであった。

 

髪の隙間からのぞく耳は真っ赤だし、アサレアちゃんが顔を埋めている俺の腹部あたりは彼女の熱が伝導してとても熱い。

 

半端ではないくらい恥ずかしがっているようだ。ランちゃんからの随分な物言いに反論すらしないのだから。

 

「真っ暗な天幕、片方は裸で、お互いに密着していて、通常この場所は人が近づかない。……言い訳のしようがないほど証拠が揃っているわねぇ」

 

「ち、違うんだって……いや、俺だって同じ光景を逆の立場で目撃すれば絶対にそう思うだろうけど、本当に違うんだよ……」

 

急にランタンが消え、暗いところが嫌いなアサレアちゃんがパニックになり抱きついてきた。外だと誰かに見られてしまうかもしれないし濡れたままだと風邪をひくかもしれないため、やむなく俺も一緒に天幕に入った。

 

という旨を、それはもう懸命に伝えた。

 

今も絶えず俺に引っ付いているアサレアちゃんを見ながらでは説得力など皆無に等しいだろうが、それでも必死さだけはどうにか伝わったのか、ランちゃんは大きく一度頷いた。

 

「ランタンって、私の名前を『たん』呼びしているみたいでなんだか可愛いわね」

 

「なんの話してんだよ」

 

「冗談よ、ちゃんと聞いていたわ。とどのつまり、お嬢ちゃんがトラブルの発端だった、ってことでしょう?」

 

要点のみをかいつまんでしまうと遺憾ながらそうなってしまうのだが、暗所恐怖症のもともとの原因は以前に閉じ込められたせいである。つまりはアサレアちゃん自身に責任はないので、ランちゃんの突き放したような言い方では少々かわいそうだ。

 

これが、実行犯がアサレアちゃんの行状に怒って、物置小屋に閉じ込めたのであればひとつまみほどはアサレアちゃんにも責はあるだろう。だが、クレインくんの話では、男子からの人気が高いアサレアちゃんに同級生の女子が嫉妬して物置小屋への幽閉事件が発生したのだ。

 

暗所恐怖症については、アサレアちゃんは悪くない。

 

「まあ、ランちゃん……アサレアちゃんだって好きで暗所恐怖症になったんじゃないんだから……」

 

「それはそうでしょうねぇ。だとしても、いつだって任務先が明るいわけではないし、いつだってクレインちゃんや徹ちゃんいるわけではないのよ?」

 

「その辺りは追い追い克服していけばいいんだからさ、今回はここらで勘弁してくれ」

 

ぷるぷる震えだしたアサレアちゃんに代わり、俺がランちゃんに容赦を願い出る。

 

ランちゃんはまだ言い足りなかったようだが、しぶしぶ引いてくれた。

 

「ところで、ランちゃんはどうしてここに?もうシャワーは浴びたはずだよな?」

 

そう尋ねると、ランちゃんはこちらに手を差し出す。薄暗いせいでよく見えなかったが、大判のタオルだった。

 

「お嬢ちゃんがタオルを忘れていたから届けにきたのよ」

 

「そうだったのか、ありがとう。ほら、アサレアちゃん」

 

「ぁ……っ、ぁりがと……」

 

「どういたしまして」

 

アサレアちゃんは蚊の鳴くような声で礼を述べて、俺の身体で身を隠しながらランちゃんからタオルを受け取った。

 

用件は済ませたとばかりに、ランちゃんは俺の襟首を掴む。

 

「はい、徹ちゃん、戻るわよ」

 

「いや、ランタンが壊れてるからアサレアちゃんまだダメなんじゃ」

 

「そう……ちょっと見てみるわぁ」

 

ランちゃんがシャワー室と化した天幕の中へと堂々と入ってくる。アサレアちゃんがびくっと身体を震わせてさらに俺にくっついたが、ランちゃんはアサレアちゃんに見向きもせずにランタンへと直進する。

 

「ああ……これねぇ。こんなガラクタを未だに置いてるなんて、やっぱり『陸』は予算が少ないのかしらねぇ」

 

ランちゃんはランタンを引っ掴んで持ち上げる。

 

「このメーカーのこの型番は、初期不良が相次いだせいで、もう製造中止されてるのよねぇ。部品の耐久度不足だとか、接触不良だとか、魔力伝導が不安定だとかって。それなのに、癒着かどうかまでは知らないけれど『陸』が採用しちゃったものだから……」

 

ランタンをいろんな角度から眺めて、ランちゃんがぼやく。ランタンを上端と下端で持つと、力を込めて押した。

 

すると、沈黙していたランタンが明滅しだし、次第に光が安定し始め、徐々に光度を増す。天幕内部はランタンが壊れる前の明るさに回帰した。

 

よかった。これで一安心。

 

と思っていた。

 

「あかるい……。はふぅ……よかった」

 

アサレアちゃんが安堵のため息をついた。緊張感が抜け、表情も緩んでる。

 

そう、これが問題だった。

 

明るくなったおかげで色々と、微細に繊細に詳細に、事細かく委細漏らさず見えてしまっているのである。

 

髪の毛の端から垂れて首筋を伝い鎖骨を流れる水滴だったり、掴んだら壊れてしまいそうなほど華奢な肩だったり、肉付きの薄いすらりとした腕だったり、細くくびれた腰だったり、しなやかかつ健康そうに伸びる足だったりと。右目が俺の意思を離れて勝手に情報を集めてしまうのも、仕方がないと言えるのではなかろうか。

 

「徹ちゃぁん?紳士なら目をつぶっていましょうねぇ?それとも私が瞼を閉じさせてあげましょうかぁ?」

 

だめだったようだ。ランちゃんに見咎められた。

 

「……オーケー。目をつぶる。反転する。そのまま天幕を出る。それでオーケー」

 

「よろしい」

 

「ね、ねぇっ!あ、あんたはシャワー浴びなくていいの?」

 

両手を上げて目をつぶり、そのままランちゃんに言ったように退室しようかとしたのだが、アサレアちゃんに呼び止められた。というか服をまだ掴まれていた。

 

「んー……ほかの人たちはもうシャワー浴びしたし……残ったクレインくんとユーノが入る時にお湯温めてからになるから……ん。俺は最後に水かぶるくらいでいいや」

 

「な、なら、あんたが入る時、わたしがお湯の番を……」

 

「お嬢ちゃーん?……いい加減にしておかないと……ねぇ?」

 

「ひぅ……わ、わかったわよっ……」

 

ランちゃんに窘められ、というか有り体に叱られて、アサレアちゃんはおずおずと引き下がった。

 

二人の明確な力関係に苦笑しつつ、俺は最後にアサレアちゃんに確認を取る。もちろん、ランちゃんに強制的に瞑目させられたくないので瞳を閉じて、念には念を入れて上を向いている。

 

「そんじゃ俺たちは天幕に戻ってるけど、もう大丈夫か?」

 

「だだいだい大丈夫よっ。ありがとっ!」

 

くっついていたアサレアちゃんが、そろそろっと離れたので、俺は目をつぶって上を向いたままその場で方向転換。天幕の外へ出ていく。

次いでランちゃんも退室して、出入口を閉じた。

 

『ああぁぁ……っ、なにやってんのよわたしいぃぃっ……』

 

天幕(シャワー室)から離れていく際、アサレアちゃんの悶えるような声が聞こえた気がしたが、俺は聞こえなかったふりをした。

 

隣に並んで歩くランちゃんのにやけたような、それでいてじっとりとした視線は実に居心地が悪かった。



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『隠したい何か』

 

翌日。

 

味方部隊のラインから俺たちの部隊は突出して、街の中へと進行している。指揮官であるノルデンフェルトさんから直々に賜った特別任務のためだ。

 

その特別任務の内容は調査だが、そちらはまだ完遂できていなかった。

 

昨日俺たちの部隊が訪れた広場が近くなってきたあたりで、敵からの攻撃を受けたのだ。

 

敵部隊ーー『フーリガン』たちの布陣が広く敷かれていたため、俺はサーチャーで状況を俯瞰しながら部隊の隊員たちにその都度念話を送っていた。

 

『障壁を張りつつ後退してくれ。すぐにフォローを向かわせる』

 

『すいません……逢坂隊長』

 

『大丈夫だ。予想よりもそっちに流れた、俺のミスだ。長時間引きつけてくれただけありがたい』

 

隊員の一人に指示を出しつつ、同時に近くで交戦中の隊員に念話をつなぐ。

 

『もうすぐ右手側の二つ先の路地から魔導師が飛び出してくる。射撃魔法の雨を撃ち据えてやってくれ』

 

『……こちらで押し返した魔導師はどうすれば?』

 

『そいつらに関してはランちゃんが爆殺してくれる。ユーノのカバーも入れる。安心して撃ちまくってくれ』

 

『了解』

 

念話の途中、この辺り一帯にぷかぷかさせているサーチャーが敵影を捉えた。すぐにウィルキンソン兄妹へ念話を送る。

 

『クレインくん、アサレアちゃん、オレンジ色の屋根の家の南と北西に二人ずつ出てきているのは確認できるか?』

 

『えっと……あ、はい。確認しました』

 

『わたしも捉えたわ』

 

『上からこちらを狙うつもりみたいだ。排除してくれ』

 

『わかりました!』

 

『わかったわ』

 

地上で交戦中の隊員を狙っていた敵魔導師四人は、タイミングを合わせて攻撃するつもりだったようだ。射撃魔法を待機状態で展開させていたが、それらが発射される前に大量の魔力弾が彼らを襲った。

 

クレインくんとアサレアちゃんと射撃魔法だ。

 

昨日、街の上空にとどまって制空権を握っていた時よりも、二人の魔法は威力、精度ともに上がっている。標的との距離が近いことが要因だろう。いかんせん昨日は遠すぎた。

 

優秀、とアサレアちゃんが自称するだけあり、敵魔導師の数は多かったにもかかわらず一度の斉射で四人を同時に墜とした。

 

「みんなよく動いてくれてんな……助かるぜっと!」

 

空き家の中を通って部隊の背後をつこうとしていた魔導師を、横合いから殴り飛ばして無力化する。鼻から派手に血を噴き出して転がっていったが、死んでないだろうな。

 

「ふう……。疲れるな、案外……」

 

目頭をぐっと押さえる。

 

部隊としての行動はみんなが精力的に働いてくれているおかげもあり順調だった。だが、部隊の指揮をとるというのは思いのほか疲労感がある。

 

自分も動き回りつつ、周辺にばらまいておいたサーチャーからの視覚情報を処理しつつ、得られた情報を元にして適時適所に隊員に指示を送る。

 

単純戦闘とサーチャーの並列行使、念話の複数同時接続。最初はどうってことのない労力だったが、長時間となると話が変わってくる。

 

問題は体力や魔力ではなかった。

 

戦闘は基本的に物陰からの不意打ちで仕留めているので体力の消費は最低限。被弾もしていないし使っている魔法も魔力消費の穏やかな類なので魔力にもまだ余裕がある。

 

「っ……頭、重い……」

 

頭がぐわんぐわんとしてきた。

 

複数のサーチャーからの視覚情報をさばくこと。隊員たちに指示を出すこと。これらを同時に行うことに、脳がまだ全然慣れていなかった。

 

超高速演算状態(テンポルバート)もハッキングも脳を非常に酷使するが、それらはあくまでも短時間に限定される。爆発的に脳の回転数を上げることには慣れてきてはいても、中速域を維持するという経験はなかったのだ。一気に頭が灼けるほど熱を持ったりはしないが、早いとこ順応しなければオーバーヒートもありうる。これまでのような指揮ができなくなってしまう前に慣れなければ。

 

指揮をとりながら自分のコンディションにも目をやっていると、もう一つ念話のラインが増えた。隊員のフォローに回ってもらったユーノだ。

 

『兄さん、抜けた隊員さんの穴埋めに入ったんですけど、そこで数人の敵魔導師から集中砲火を受けてます。すぐに破られるということはないんでそこまで困らないんですけど、どうしたらいいですか?ここで僕も後退すると相手が突っ込んできそうですし、逆に下手に反撃してまた隠れられても時間がかかりますよね?』

 

『そうだな……ユーノはもうちょい耐えられるか?』

 

『はい、大丈夫です』

 

『それならランちゃんに支援射撃を要請して、まとめて吹っ飛ばしてもらおう。敵さんがユーノに集中している今ならすぐ見つけられるし、当てやすいだろう。ほかにぱらぱらと散らばってんのは俺と、あとウィルキンソン兄妹にも手伝ってもらう。悪いけど、それまで待っててくれ』

 

『了解です!』

 

ユーノには負担を強いることになるが、快諾してくれた。無理をしていないか少し心配もしたが、いつも通り元気のいい声を送ってくれたので本当にまだ余力があるのだろう。ユーノの障壁は鉄壁なのであった。

 

ユーノからの許可も取れたことなので、即座にランちゃん、クレインくん、アサレアちゃんにユーノの座標を伝えて援護のお願いをする。

 

同時に俺も動く。建物の陰に隠れていた者を締め落としたり、屋根の上から味方へ射撃魔法を使っていた敵魔導師に鎖を伸ばして引きずり落としたりながら、ユーノの支援に回る。

 

サーチャーからの視覚情報や、爆発音の減少から、戦況が移り変わりつつあることを実感する。

 

「……このあたりの敵は制圧しつつある。もうちょっと頑張りゃ、ゆっくり調査できそうだな……」

 

俺たちの部隊は、味方部隊が押し上げているラインよりも前に出てきている。

 

現在地は街の真ん中からさらに南に進んだあたり。コルティノーヴィスさんの家があるとされる場所の近辺だ。このあたりまでは、比較的あっさりと来られたのだが、もうすぐ教えられた住居が見えてくるか、といった塩梅で数多くの魔導師が道を阻んだ。

 

「この近くに、奴らにとって隠しておきたいものがある……」

 

どうせ姿を現わすのなら、もう少し俺たちが踏み込んで、背面をつく位置になった時を見計らって出てくればよかったはず。なのに、俺たちの影が見えてすぐくらいの距離で敵は現れた。

 

急に出てきたその瞬間はこちらの部隊も動揺があったが、タイミングを合わさずに、まるでもぐら叩きみたいなまばらさで敵魔導師は物陰から飛び出してきたのだ。不用意にもほどがある。

 

なぜそんな拙い行動をとったのか。

 

考えられる原因は一つ。

 

俺たちが驚いたのと同じように、敵にも焦りがあったのだ。

 

まさか一個小隊で突出して捜索してはこないだろうとの計算違いもあったかもしれない。だが、それ以上に、この周辺に敵方にとって見られたくないもの、隠しておきたい何かがあるのだ。だからこそ、慌てた。突然俺たちがやってきたことで、その『隠したい何か』を守らなければと危機感に駆られたのだ。でなければ、この周囲にだけ人員を集中させる合理的な理由はない。

 

考えをまとめていると、耳を(つんざ)く轟音と地響き、建材の破片が俺のもとまで降ってきた。

 

『この近くにコルティノーヴィスさんのお家があるのよねぇ?』

 

ランちゃんから念話が届いた。きっとさっきの爆発音はユーノを狙っていた魔導師を屠った音だったのだろう。相変わらず、射撃魔法一発の威力が凄まじい。

 

『そう、らしい。ノルデンフェルトさんが管理局のデータを閲覧して住所を確かめたそうだから。……そういえば、昨日もこのあたりの道は通ったな』

 

『すぐ近くにクレスターニ人形劇団の劇場があるのは、偶然なのかしらねぇ……』

 

『ノルデンフェルトさんの話でもクレスターニ人形劇団の名前が出てきてたよな。家の近くに劇場があるから話題にしたのか?……そっちも調べておこう。この近くなのか?』

 

『劇場ならもう見えているわよ。ほら、西側に見えるオレンジ色の屋根の建物。あれが劇場よ』

 

クレスターニ人形劇団の劇場は、もう見えていた。サーチャーですでに視てもいた。ウィルキンソン兄妹に、その建物の近くにいた魔導師数人を払ってもらった場所だ。

 

『劇場って言ったから、もっと大きい建物だと思ってた……』

 

『だって人形劇だもの。遠くからでは見えにくいでしょ?人形と客席は自然と近くになる。建物もそれほど大きくなくて済むわぁ』

 

そもそも人口もそれほど多くない街だもの、とランちゃんは締めた。

 

いくらランちゃんのように人形劇観たさで観光客が訪れるとはいえ、時期によって観光客の数は減るだろう。大きく構えるほうが採算が合わなくなる。

 

『こんなに近いんなら先に劇場のほうを捜索するか』

 

『いいの?私としては人形劇団がどうなっているのか確認できるのは嬉しいけれど』

 

『ああ。まだコルティノーヴィスさんの住居があるところにはサーチャーが辿り着いてないんだ。予想通りに敵の待ち伏せがあったわけだし、先に斥候を飛ばしておきたい』

 

『わかったわぁ。……ありがとうねぇ、徹ちゃん』

 

『どちらも優先度は高いんだ。なら安全が確保できていて、かつ、近いほうを選ぶのは当然だろ?』

 

『ふふっ、ありがと』

 

くすくすと笑いながら、ランちゃんとの念話が終わる。

 

個人相手の念話から、隊全体の念話に切り替え、部隊の全員にオレンジ色の屋根に集まってもらうよう念話を送る。

 

当初の予定にはなかった劇場の捜索だったが、詳しい説明を省いたにもかかわらず、全員からすぐ了解の旨が届いた。

 

敵の部隊がこの周囲を取り囲むように展開していたこともあって、俺たちの部隊もわりと広がっていた。なので集合するにもそれなりに時間がかかるかと思われたが、さほど経たないうちに全員が到着した。

 

驚くことに、なんと全員が空から降ってきた。この部隊は嘱託や『海』の新入りが多いとはいえ、俺以外全員飛行魔法使いというのは、少々衝撃があった。

 

「劇場に入るけど、ここで隊を分けたいと思う。俺も中に入るからランちゃんには残っておいて欲しいところだけど、劇場内部を多少なりでも知ってるのはランちゃんしかいないからな……ランちゃんはついてきてくれ」

 

「はぁい」

 

しなを作りながらの、ランちゃんの返事。メンズファッション誌のワンカットのような堂に入った佇まいだが、片手にどでかいライフルを担いでいてはきな臭さが半端ではなかった。

 

「…………」

 

アサレアちゃんから無言の圧力を感じる。こちらをじっと見続けて目を逸らさない。

 

内部へ潜入するメンバーから外せば、きっと噛みつかれることだろう。

 

「あとは……ファルとニコル、ついてきてくれ」

 

「了解です」

 

「わ、わたしも……わ、わかりました」

 

「残りのメンバーは劇場周辺の警戒を頼む」

 

「ちょっとっ!なんでわたしを連れてかないのよ!わたし活躍してたじゃないっ!」

 

噛みつかれるだろうなとは予想していたが、やはりアサレアちゃんが抗議の声をあげた。

 

「アサレアちゃん、選んだ理由は活躍どうこうじゃなくて、バランスや能力で決めてるんだよ」

 

「能力?!能力ならわたしでもいいでしょっ!」

 

ふう、と一息ついて、アサレアちゃんへの説明を始める。

 

選出したうちの一人、女性隊員であるニコル・メイクピースを手で示す。

 

「ニコルは防御や索敵、治癒魔法を得意としてる。劇場の中を速やかに捜索するには適しているし、負傷者を発見した時にはすぐに治療に移れる」

 

得意というほどでは、と弱々しく謙遜するニコル隊員だったが、アサレアちゃんに鋭い視線を向けられて口を閉じて目を伏せた。確実にニコルのほうがアサレアちゃんよりも年上だろうに、すでに力関係が逆転してしまっている。

 

「……そっちの男は?」

 

名前すら呼ばないアサレアちゃんだった。

 

ニコルを指していた手を、苦笑いしているファルロ・イエフリシュカに移す。

 

「ファルは使える魔法のバランスがいい。今回は索敵を主にやってもらうニコルの護衛役ってところだ。待ち伏せを受けてもファルの魔力強度ならしばらく耐えられるだろうし、相手が少数なら押し返すだけの火力も持っている」

 

「ぅぅぅぅっ……」

 

じと目で唸っているところを見るに、まだ納得はしていない様子だ。

 

「そっ、それじゃあなんでわたしじゃダメなのよ!わたしだって……治癒魔法は苦手だけど……それ以外の一般的な魔法ならそつなくこなせる自信があるわ!」

 

「アサレアちゃんは飛行魔法がこの中では抜きん出ている。狭い屋内よりも、障害物の少ない屋外のほうが特色を生かせる」

 

「むっ……」

 

アサレアちゃんは事実、飛行魔法を巧みに使う。『冷静なら』という注釈がいるけど。

 

一応は褒めている言い回しに、アサレアちゃんは口を(つぐ)んだ。ピンク色の唇をへの字に結んで、綺麗に整えられている眉はハの字になっている。表情が変わらないように頑張っているようだが、頬がぴくぴくしている。にやけるのを我慢しているらしい。きっと褒められ慣れていないのだろう。

 

「このメンバーを選んだ理由、これでわかったか?」

 

「でも、でもっ、わたしも……」

 

ここまで言っても、アサレアちゃんはまだ首を縦に振ってくれない。

 

倫理的に、デリカシー的に、使いたくはなかったが奥の手を出すこととしよう。

 

他の人に聞かれないように、顔をアサレアちゃんの耳元に近づける。と、アサレアちゃんの形のいい耳がぴくりと震えた。耳だけ動かすなんて器用な子である。

 

「……劇場の中、きっと暗いぞ」

 

「っ?!っっっ?!?!」

 

わかりやすく動揺した。

 

「あっ、あんたっ?!きっ、昨日のことは忘れなさい!というか忘れろっ!」

 

「アサレアちゃんが言うこと聞いてくれたら忘れるよう努力しよう。この付近の警戒、よろしくな」

 

「わっ……わかったわよ!もうっ!」

 

アサレアちゃんは一歩下がって腕を組み、ふんっ、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 

機嫌が悪いですよアピールなのかもしれないが、首元まで真っ赤にしていては今更そんなアピールは無意味だった。

 

「それじゃ、外はよろしく。何かあったらすぐに伝えてくれ」

 

劇場周辺の警戒にあたるウィルキンソン兄妹とユーノ、あと無造作ヘアでぼんやりとした印象のある男性隊員エルヴィス・エンフィールドさんに言う。

 

「はい、お気をつけて」

 

「……決まったからにはちゃんとやるわよ」

 

「まーた兄さんは……」

 

「……ああ」

 

クレインくんはいつも通り素直に、アサレアちゃんはまだ恥ずかしそうに頬を紅潮させながら憮然と、ユーノはあらぬ誤解を含んだ目つきで、エルさん(エルでいい、と本人から言われたのだ)は端的に返す。

 

「それじゃ、気をしっかりもって(・・・・・・・・・)内部の捜索に行こうか」

 

ファルとニコルが俺の妙な表現に首を傾げる中、俺は劇場の扉を開き、足を踏み入れる。

 

俺がアサレアちゃんを同行メンバーに加えなかったのは、アサレアちゃんが扱える魔法の性能や暗所恐怖症を考慮したことの他に、もう一つあった。

 

「ひっ……ぅぐっ」

 

「うっ、ぁぁ……」

 

「やっぱ、こうなってるよな……」

 

「わかってて女の子を連れてくるなんて、徹ちゃんはSねぇ……」

 

「やっぱり控えたほうがよかったよな……。でもそう考えると分隊のバランスが悪くなるし……」

 

扉を閉めて、薄暗い劇場内部を歩いて、すぐのことだった。

 

おそらく街の住民だろう。だった、のだろう。亡骸が、至るところで転がっていた。

 

なによりも心を削るのは、子どもやお年寄りが多いことだった。

 

これが、アサレアちゃんを連れてこなかった理由の最たるものである。

 

出入り口が限られていて、この周辺では大きな建物。この建物の性質上、ろくに抵抗もできない子どもや老人が多くなるだろうことは想像するに難くない。

 

『フーリガン』の連中が、捕虜や人質をとらないことは広場で知っていた。ショッキングな光景が広がっているだろうことは、ある程度予想がついてしまっていた。

 

「この劇場の規模なら、俺とランちゃんの二人でもなんとか確認して回れるだろ。ファルとニコルはどこかで少し休んどけ」

 

ニコルの背中をさすりながら言う。

 

ニコルは治癒術師でもあるので多少は耐性があるかと思ったが、どうやらこの場の惨状は限度を超えていたようだ。床に膝をついて戻してしまっていた。

 

ファル隊員は吐いてこそいなかったが、とても気分が悪そうだ。薄暗い屋内であっても顔から血の気が引いていることがわかる。

 

「こんな状態では魔法は使えそうにないわね。無理して使えばかえって危険だもの」

 

「そう、だよな……。先に休めそうな部屋を探そう。劇場なんだから、控え室くらいいくつかあるだろ。被害を受けてない部屋もあるはずだ。そこで……」

 

「いえっ……っ、わたしは、やれますっ……っ」

 

(うずくま)っていたニコルが(デバイス)を支えにして、ふらつきながらも立ち上がる。顔面蒼白もいいところだが、瞳から気力は失われていなかった。

 

「こんな……ひどいことをする人たちを許しておけません。悪いことをしている人たちの尻尾を掴めるかもしれないのなら、わたし……頑張ります」

 

お願いします、隊長。

 

そう言って、ニコルは頭を下げる。

 

「ぼ、僕も!僕も、できます!やらせてください!このままでは……殺されてしまった人たちに申し訳が立ちません!」

 

ニコルに触発されたのか、ファルも混濁していた意識を鮮明にさせて続行を願い出る。

 

「…………」

 

普段なら、離脱させるべきところだろうけれど、これほど気概と正義感に溢れる二人を下げることが俺には正しいこととは思えなかった。

 

幸い、この劇場にはもう敵の気配はないし、俺とランちゃんは至って平常だ。半病人みたいな人間を連れて行くことにはなるが、二つの班に分ければそれほど効率が落ちることもない。

 

なにより、このまま逃げるように劇場の外に下げてしまえば、二人にPTSDを植えつけかねない。このような惨劇を目にしてしまうことも任務のうちであることを、知っておくべきなのだろう。知って、対処しなければならないのだ。

 

「……予定を変える。ニコルは俺と、ファルはランちゃんと。二手に分かれて建物内部を捜索する」

 

「あ、ありがとうございますっ」

 

「ありがとうございます!」

 

「ランちゃん、ファルをよろしく頼むよ。何かあったらすぐに連絡してくれ」

 

「徹ちゃんは優しいわねぇ……わかったわぁ。ニコルちゃんをよろしくねぇ」

 

「ああ、わかった。ん……ちょっと待ってくれ、サーチャーが何か捉えた」

 

この劇場に入ってすぐにサーチャーを放っておいたが、そのうちの一つが変なものを視界に映した。

 

強引にこじ開けられたような隠し扉と、その先には階段。上へと続くものではなく、下へと潜るものだ。

 

「地下への階段を見つけた。俺たちはそっちを確認してくる。ランちゃんとファルは一階を」

 

「わかったわぁ」

 

「了解っ!」

 

 



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『稀少技能』と『クレスターニの秘術』



気がつけば前回の投稿からおよそ1ヶ月。驚きです。
一応この一件は最後まで書きましたので、ここから数話ほどはテンポよくいけると思います。



 

「んっ、んっ……はふぅ。ありがとうございます」

 

「どういたしまして。水はそのまま持ってていいよ。気分が悪くなったら勝手に飲んじゃっていいから」

 

「お水まで、すいません……」

 

持参してきていた水を返そうとしてくるニコルの手を、逆に押し返す。コンディションが万全とはいえないニコルが持っていた方が良い。

 

一階の捜索はランちゃんとファルに任せているが、地下への階段までの道筋くらいは俺たちが洗っておいても構わないだろう。俺たちが行く方向と逆にランちゃんたちは進んだので、こちら側の捜索は二度手間になってしまう。

 

「あの……逢坂隊長は、この仕事を始めて長いのですか?」

 

両の目と複数の瞳(サーチャー)で劇場内を見回している俺に、おずおずとニコルが尋ねてきた。

 

「いいや?嘱託として仕事を受けたのは今回が初めてだ。嘱託になる前に一つ事件に関わったことはあるけど」

 

「は、初めて……。それなのに、こんなにしっかりと動けるのですね……」

 

「ニコルからどう見えてるかわからないけど、俺は俺で正直いっぱいいっぱいなんだ」

 

「でも、隊のみなさんへの的確な指示も……」

 

「それだって、お手本になる人たちがいたからなんとか取り繕えてるだけだ」

 

クロノやリンディさんがタクトを振るう姿を見ていなければ、実際にその指揮で動いた経験がなければ、こうまで部隊を運用できたとは思えない。

 

プレシアさんの一件も、しっかりと俺の中で経験として糧になっている。

 

「その人たちと出会ってなければ全然できてなかっただろうよ」

 

「お手本になる人がいたからといっても、全員ができるわけではありません……。同じ立場でも、わたしにはできそうにないです……」

 

「俺とニコルとの違いは……まあ魔法適性がどうとか、たくさんあるとは思うけど……経験の差だと思うぞ。何事も経験してみると違う。単なる苦痛でしかなかった体験も、いざという時に思わぬ形でいきてくることもあるからな」

 

射撃魔法の雨を浴びたり、拘束魔法の蜘蛛の巣に引っかかったり、防御魔法の壁に遮られたり、肉弾戦を挑んで見事に返り討ちにあって血の池に沈んだり、と。そういった血と汗と涙を流した結果に今の俺がいるのだから、何事も経験と呼べるのだろう。

 

というか、それだけの千辛万苦(せんしんばんく)を味わったのだから、そこから少しでも栄養として吸収しなければ悔しいではないか。苦しみ損になってしまう。

 

「住民の方のご遺体を見ても調子を崩さないのも、経験……なのですか?」

 

「経験……どうなんだろう。こんな非道な行いをした奴らに怒りはある。でも、体調を崩したりは……しなかったな」

 

なぜだろうかと少し考えて、すぐに答えは出た。

 

ショッキングな光景は、以前の一件で見慣れていたのだ。立ち位置が若干おかしくはあるけれど。

 

「自分の血で作った血溜まりに浸かったことがあるからかな?」

 

「自分の血?!」

 

「ニコル、知ってるか?血を流しすぎるとな……やけに寒くなって、床にたまった自分の血が暖かく感じるんだぜ……。あの時は本当にもうだめかと思ったものだけど」

 

「そのような戦いを繰り広げて、よく今まで無事でいられましたね……」

 

「実際、無事じゃなかったしな。だから俺は……亡くなった人たちを見ても気分が悪くなったりはしないのかもしれない。彼らがいってしまった場所に、俺自身が限りなく近づいたことがあるからな」

 

俺が彼らを見た時に湧き上がる感情は、罪なき人々を殺めた『フーリガン』に対する憤怒と、一歩踏み間違えていれば彼らと同じ場所にいってしまうという戒め。その二つ、なのだ。

 

独語するように言った俺に、ニコルが返す。ニコルも、ほとんど独白のような印象だ。

 

「もうすぐ二十歳になるわたしより逢坂隊長は若いでしょうに、わたしよりずっと立派ですね……」

 

「立派なんて、そんなもんじゃな……い」

 

聞き逃しそうになって、記憶を掘り返す。

 

さっき、ニコルはなんて言った。いや、訂正。ニコルさん(・・)はなんて言った。

 

「は、はたち……だったの?」

 

「はい、今年で。一人前なのは年齢だけですが」

 

はにかむようにニコルさん(・・)が笑った。

 

背も高くなく、顔立ちなんかも幼くて、笑顔だとさらに顕著で、年上だと全く思わなかった。本人の前では口が裂けても言えないが、なんかこう、年上的なオーラなどは微塵も感じなかった。

 

「す、すいません……これまでずっと敬語使ってなくて……」

 

アサレアちゃんと比べてどうか、なんて話ではない。一番年上のランちゃんに次いでいたのだ。

 

遅まきながら失礼な言葉遣いの数々を謝罪した。

 

「い、いえ、いいんですっ。大人っぽさが欠けていることは自覚していますから。それに逢坂隊長は隊長という立場もありますから、気にせずにこれまで通りでお願いします」

 

「そ、そう?それならお言葉に甘えて……っと、そろそろだ」

 

サーチャーで視た場所まで着いた。

 

豪快に穴が穿たれて亀裂の入った壁と、続く階段。

 

その階段からは血の匂いが漂っている。戦闘の爪痕が残っている。

 

この先には、確実に何かがある。

 

「ここまでは誰もいなかったけど、この先もそうかはわからない。気をつけよう」

 

「はっ、はいっ……」

 

階段の下へサーチャは送っているが、まだなにも捉えてはいない。敵も、それ以外も。

 

「なんだ、これ……」

 

足元、階段のあちらこちらに何かが転がっていた。破壊された壁の残骸とはまるで違うものだ。

 

「これは……お人形さん、でしょうか?」

 

「そう、みたいだな……」

 

「この建物は人形劇の劇場ですから、やっぱりかわいらしいお人形さんが多いですね」

 

屈みこんで、ニコルが人形の一つを拾い上げる。たしかに、人形だ。作りもしっかりしたもので、身に纏っている衣装なんて人間用の服をそのまま小さくしたような精巧さだ。

 

「なんでこんなところに散らばってんだろ。……それに」

 

ニコルはお人形の顔のつくりや服装に目がいっていて、()のほうには意識が向いていないようだ。

 

だいたい二十〜三十センチほどの人形。その手には棒状の金属が握られていた。それは俺には、まるで(やり)のようにも思えた。他に転がっている人形の手にもナイフらしきものが携えられていたり、変わった紋様が刻まれた大盾を持っている人形もいる。

 

人形劇のお話で、武器を使うようなストーリーがあるのかもしれない。かもしれないが、人形が握る武器にはところどころ赤黒い染みがついていたりするのは、リアリティを追求しすぎではないだろうか。

薄暗くて気づかなかったが、目を凝らすと壁や床にも赤黒い斑点がわずかについている。きな臭さがいや増してくる。

 

「必要になるかわからないけど……一応回収しておこうか」

 

「はい、わかりました!」

 

「いや、あの、ニコル……人形は一人でいいから。そんなに両手いっぱいに抱えなくていいから」

 

「そう、ですか……」

 

ニコルは乱雑に散らばっていた人形を階段の端のほうに丁寧に座らせて戻していく。

 

あからさまにしょんぼりした様子だった。

 

「ん……」

 

「どうしました?逢坂隊長?」

 

「下りよう。早く」

 

「き、危険です!魔導師が潜んでいるかもしれません!警戒しながらでないと……」

 

「いいや、いない。敵はな」

 

サーチャーが階段の一番下まで行き着くと、部屋があった。物置というか地下倉庫みたいな(おもむき)だ。木製の扉があったが、破壊されていて開け放たれていた。

 

そこには食べ物などもちらほらとあったが、なにより目につくのは刃物や鈍器といった凶器だ。かといって人が扱うようなサイズではない。それこそミニチュアサイズといったところか。ちょうど、人形の手にすっぽり収まるサイズ感だった。他にも大きい人形や、その衣装、小道具なども置かれている。人形に関わるものを一纏めにしてこの部屋に置いているといった印象だ。

 

地下部屋の中は荒らされているが、敵が隠れられるような空間はない。もう出ていった後なのだろう。

 

危険性はないと判断し、サーチャーの展開を解除した。

 

ただ、危険性はなくとも、緊急性はある。

 

階段を下りて自分たちの目で状況を確認すれば、地下部屋の中央付近で人が倒れていた。

 

鮮やかな色合いの民族衣装を着ている、ウェーブがかかった綺麗な長い緑色の髪の女性だ。だが、華やかな服も、美しい髪も、血や埃で薄汚れてしまっていた。

 

「だ、大丈夫ですかっ?!」

 

「まだ息はあるが、これは……っ。ニコル、すぐに治療を」

 

「はっ、はいっ!」

 

ニコルが女性に駆け寄り、うつ伏せから仰向けに体勢を変える。

 

妙齢の女性だった。華麗な民族衣装に引けを取らないほど整った顔立ちだ。スタイルの良し悪しがはっきりとわかる衣服だからこそ、この女性のプロポーションの良さが浮き彫りになっている。

 

ただ、その端整な顔貌からは血の気が失せていた。かろうじて息はあるが風前の灯火だ。全身至るところに傷があり、出血も少なくない。

 

爆ぜたように服が破れている箇所があることから、魔法による負傷だろう。

 

「死なせませんっ……絶対にっ!これ以上、だれもっ!」

 

ニコルが治癒魔法を展開し、治療を開始するが、傷の箇所が多すぎる。治癒術師であるニコルですら間に合わない。

 

隣で膝をつき、俺も治療に参加する。

 

自分の怪我すらまともに治せない俺の治癒魔法ではおよそ役に立たないが、出血量を抑えることくらいはできるかもしれない。

 

二人でやれば、なんとかなるかと思った。

 

楽観視していたわけでは、決してなかった。

 

「くそっ……傷口を塞ぐどころじゃないっ!」

 

「まだ、生きてるんだから……っ、まだ、この人は助けられる……まだっ!」

 

ニコルは必死な形相で魔法を行使し続けるが、助けたいという感情が先行して空回っている。

 

俺の左目が彼女の魔法の構成を映し出すが、焦るあまりに術式と魔力量の均衡が狂ってしまっている。これでは魔法が安定しない。

 

「…………っ」

 

俺とニコルの治癒魔法に包まれながら苦痛に顔を歪める女性に、いやな考えが浮かんでしまった。これ以上、苦痛を長引かせるくらいなら、いっそ安らかに送ってあげたほうが。

 

そんな独善的な考えをしてしまった自分に、反吐がでる。

 

最善を尽くさなくては、最善を目指さなくては、だれも助けることなんてできない。自分の願いを叶えることなんてできない。そんなこと、俺が一番知っているはずなのに。

 

「……えっ?」

 

唾棄すべき思考をふるい落とすよう頭を振っていた、その時だった。

 

髪色に近い、緑がかった色彩。ニコルのものとは違う魔力を、左目が視た。

 

ばちっ。と頭の中で、スパークしたような閃きがあった。

 

魔導師ではない人からは魔力は見えない。それはこれまでの経験で実証されている。魔力が視えているということは、この女性は魔導師だ。

 

クレスターニという人形劇団は魔法で人形を動かしていると、ランちゃんが言っていた。この女性から魔力が視えているが、管理局の格好はしていない。つまりは現地の住人、クレスターニ人形劇団の関係者である可能性が限りなく高い。

 

この女性は、知っているかもしれないのだ。サンドギアの街で起こった事件の詳細を、知っているかもしれない。必ず助けて事情を聞かなければいけない。でなければ、真相に近づくことができない。

 

「絶対に、助ける……これ以上、被害者を増やしてたまるかよっ!」

 

「隊長……っ、はいっ!」

 

治癒魔法を使い続けるが、状況は捗々(はかばか)しくない。ユーノであればともかく、俺の適性では焼け石に水に等しい。

 

でも素晴らしい適性を持っている人間が、この場にはいる。

 

「ニコル、落ち着け。ニコルの腕なら、助けられる」

 

「でも……でもっ、はやくしないとっ……」

 

彼女の潜在能力は高い。助けたいという強い感情の発露により、普段よりも出力が上がっているのだろう。ニコルが冷静になって自分のポテンシャルを遺憾無く発揮すれば『もしかしたら』がある。

 

惜しむらくは、ニコルの出力にデバイスがついてこれていないことだ。通常よりも魔力を多く注いでいるせいで歯車が噛み合わず、空転している。これがレイハやバルディッシュのようなインテリジェントデバイスなら、その辺りの微調整もうまくやってくれたろうに。

 

「っ……くそ。賭けるしかないのかよ……っ!」

 

一つ、打開策を閃いてしまった。下手を打てば三人全員に悪影響を及ぼしかねないような奇策を。

 

「ニコル、よく聞いてくれ。今から魔法を使うときの感覚がちょっと変わるかもしれない。それでもニコルはそのまま治癒魔法に全力を注いでくれ」

 

人の生死がかかっている為か、かたかたと震えながらデバイスを握るニコルの手に手を重ねて、なるべく穏やかな口調で伝えた。

 

「逢坂隊長……なにを……」

 

「この場でデバイス内の術式をニコルに合わせて再調整する。この人を助けるには俺の魔法じゃダメなんだ。ニコルにしかできない……無理を承知で頼む。信じてくれ。術式の演算は俺が引き受ける」

 

「は、はいっ……信じます。信じて、お任せします」

 

今でも相当な負担を強いている。額には汗が浮かび、緊張なのか疲労なのか息も荒くなっている。

 

それでもニコルは笑みを見せて、任せると言ってくれた。この信頼に応えたい。一つの魔法を二人で使うなんて初めてだが、やってやる。

 

「いくぞ……っ!」

 

「はいっ!」

 

ニコルが握るデバイスにハッキングする。

 

侵入してすぐに取り掛かるべきポイントはわかった。

 

デバイス内部。魔法を術者に代わって演算する領域と、術式自体を記憶している領域。PCに例えるならば、CPUとハードディスクといったところか。

 

このエリアがニコルの実力と見合っていないがゆえに、本来の効果を発現できていなかった。

 

「処理速度が足りないぶんには……俺が補えばいい」

 

デバイスの演算の補助をしつつ、術式自体にも手を加えていく。

 

ニコルの魔力量と出力量ならもっと大胆に術式を組んでも大丈夫だ。というより、一般的な治癒魔法の術式だと彼女の長所を殺すことになる。ニコルはもっと、この分野で高みを目指せる逸材だ。

 

「ニコル、どうだ?なにか変化は?」

 

「は、はい!全然ちがいます!こんなに変わるなんて……まるでこれまでは泥沼に足を取られていたみたいです!」

 

「これまでが泥沼なら、今はどう?」

 

「自由に空を飛んでるみたいです!」

 

「はは、そりゃいいや」

 

輝きを増したニコルの治癒魔法の光は、女性を包んで癒していく。

 

いくらニコルのためだけにオプティマイズした術式といえど、あまりにも傷の治りが早い。目を見張るほどだ。治癒というジャンルに限れば、ユーノをも(しの)いでいる。

 

多数あった傷は、最初からなかったかのように消えてなくなっていた。

 

「……うっ、ぅぁ……。わ、私、は……」

 

女性が小さくうなる。ゆるゆるとまぶたを開いた。

 

傷口は塞げても流した血は戻らないのでまだ顔色は悪いが、緑色の瞳には生気が宿っていた。左目でも女性の魔力は安定して視える。まだ予断を許さない状況ではあるが、ここから急激に体調が悪化するということは少ないだろう。

 

「ニコルっ!よくやった!目を覚まし……ニコル?」

 

「すい、ません……。ちょっと、後先考えずに……魔力を使い、すぎました……」

 

魔法を使用し終えても、ニコルは肩で息をして汗をかいたままだった。

 

本人の言う通り、魔力を消費し過ぎたのだ。治療中は気が(たかぶ)っていて感じていなかったが、女性が目覚めたことで気が緩み、疲労がどっと押し寄せてきたのだろう。意識が遠くなっていた。

 

ニコルは力なく呟いて、ぐらりと身体を傾ける。

 

床に激突する前に、その身体を抱き留める。女性を助けることができたのはニコルがいたからこそだ。MVPを床に転がしておくなんてできはしない。

 

「すこし休んでてくれ。お疲れ様」

 

「すいませ……」

 

一言謝って、ニコルは眠るように意識を失った。

 

新しく編んだ治癒術式は、効果こそ凄まじいが術者へ多大な魔力的負担を与えてしまうようだ。あとから元の術式に戻しておかなければいけない。

 

ニコルを背中に担ぎ、目覚めた女性に声をかける。

 

「大丈夫ですか?気分が悪かったりしませんか?」

 

「え、ええ……少し身体は重いですが……。えっと……」

 

「あ、俺は管理局の嘱託魔導師で、逢坂徹といいます。背中にいる女の子……女の子?……彼女はニコル・メイクピース。俺たちは生存者の捜索という任務を受けて、この街にきました。この街でいったいなにがあったのかお話を伺いたいですが……まずはここから出ましょう」

 

自分の足でこの建物から出ることができればそれが一番だが、この女性は今際(いまわ)(きわ)から戻ったばかりなのだ。それも難しい話だろう。

 

「抱えます、失礼します」

 

女性の膝の裏と背に腕を回す。抱き上げて、地下室を後にする。

 

循環魔法で身体能力を底上げしているので女性二人を担ぐ事については問題ないのだが、背中のニコルを落っことしてしまいそうで心配だ。

 

「苦労をかけてしまって申し訳ありません……」

 

「いいんです。『人を助けることが僕たちの仕事だ』って、俺の上司なら言うでしょうから」

 

「いい上司さんなんですね」

 

「直属の上司じゃないんですけどね。それよりあなたはここのスタッフさんなんですか?」

 

「私は……そうですね。スタッフというより人形遣いです。実際に劇場で人形を動かす役割でした」

 

「仲間がここの人形劇を観たことあるらしいんですけど、ここの劇では魔法を使ってるんですよね?ということはあなたは魔導師なんですか?」

 

「魔法を使えるといっても正規の訓練を受けたわけではないんです。人形を操る魔法『ドラットツィア』と言うんですけど、それしか使えなくて他の魔法は一切使えないんです」

 

「だからか……」

 

階段をのぼり終え、一階へ戻ってきた。

 

同時にランちゃんと連絡を取る。ランちゃんのほうはめぼしいものはなかったとのこと。こちらで一人を救助したことを報告し、ランちゃんにはこの劇場を出るよう指示する。

 

「あなたは人形を使って抵抗しようとしたんですよね?」

 

「……ええ。(ろく)に戦えませんでしたが……。私はあまり才能があるほうではなくて……大きなものは操れないんです」

 

階段には鎗や刃物を持った人形がたくさん転がっていたし、地下室には物騒な、でも人が扱うには小さすぎる凶器があった。反撃の手が地下室にしかなかったから、逃げ場がなくなっても地下室に行ったのだろう。

 

「その点、娘は自分より大きな人形でも自在に操ることができていました。祖母と同じく残響再生(ナッハイル・スピーレン)まで……稀少技能(レアスキル)まで持っていて、才能がありました。でも、この劇場がこんなことになってしまっては……もう人形劇を開くことはできそうにないですね……」

 

「そう、ですか……。一度俺も観てみたかっ……」

 

痛みというよりも最早諦めに近い表情で視線を下げる女性に、心を痛めながら俺も返すが、途中で言葉が出てこなくなる。

 

この女性は今、なんと言った。稀少技能(レアスキル)と、そう言ったのか。

 

広場で交戦したフーリガンの魔導師が持っていた黒塗りだらけの紙束に、稀少技能(レアスキル)との記載があった。

 

寒気と同時に鳥肌が立つ。

 

稀少技能(レアスキル)を持つ人間など、そう何人もいるわけではない。偶然などではないだろう。

 

「それで……娘はもう、保護してもらえているのですよね?きっとこの近くにいたはずですから……」

 

「……もしかしたら俺たちの前にこの街にきていた空戦魔導師の部隊が保護しているかもしれません。……お名前を訊いていいですか?」

 

「そ、そうですよね。名前が分からなければ確認できませんよね。すいません。私はジュスティーナ・クレスターニ・コルティノーヴィス。娘の名はジュリエッタ・クレスターニ・コルティノーヴィスです」

 

「っ……クレスターニの『C』、だったのか……っ!」

 

繋がった。繋がってしまった。

 

稀少技能(レアスキル)』と『ジュリエッタ・C・コルティノーヴィス』、そこに加えてジュスティーナさんが言っていた人形を操る技『クレスターニの秘術』。

 

敵魔導師が持っていた紙束は、ジュスティーナさんの娘、ジュリエッタを示している。奴ら(フーリガン)が求めていた『なにか』はそのジュリエッタだった。

 

いや、よく思い出せ。あの紙束には『修正』や『代用』ともあった。より正確に表せば、奴らはジュリエッタの『稀少技能(レアスキル)』と『クレスターニの秘術(魔法)』が欲しかったのだろう。

 

そのためだけに、この街を瓦礫の山にした。

 

「しかも……コルティノーヴィス?」

 

「管理局の方ならばご存知でしょうか?私の夫……アルヴァロ・コルティノーヴィスは管理局で働いていて……」

 

「……どうなってんだ……」

 

一度に得られた情報が多すぎる。混乱してきた。

 

街の北側、司令部寄りで戦ったアルヴァロ・コルティノーヴィスさんとジュスティーナさんが夫婦。そしてフーリガンが狙っているのは夫妻の娘。

 

欠けていたピースが埋まり始めているのを実感する。だが、パズルの中心に位置する夫妻の娘、ジュリエッタに関する部分が未だに大きく欠落している。

 

先んじてこの街に送られていた空戦魔導師さんたちが保護したのだろうか。もしかしたらもう、フーリガンの連中に捕らわれてしまっているという可能性も、あるいは街が襲撃された際に致命傷を受けた可能性まである。

 

「あ、れ……?」

 

最悪の展開を検討して、思い出す。コルティノーヴィスさんと共にいた、鮮やかな緑色(エメラルドグリーン)の髪色の少女。その少女も、ジュスティーナさんの着ている服と似通った民族衣装を着ていた。瞳の色も、髪色も、緩くウェーブがかかっている髪質も、ジュスティーナさんと、とても似ている。

 

横抱きに抱えているジュスティーナさんを見下ろした。

 

「ジュスティーナさんの……この服って、このあたりの地域の民族衣装なんですか?」

 

母親であるジュスティーナさんに『あなたの娘さんはこの街を崩壊させた組織にいるかもしれません』などといきなり切り出すわけにはいかず、服装について尋ねた。

 

まだコルティノーヴィスさんと同行していた少女がそのジュリエッタとは限らないのだ。確証がない以上、いたずらに不安にさせることはない。

 

俺の質問に、ジュスティーナさんは戸惑いながらも頷いた。

 

「は、はい。サンドギア周辺の民族衣装で、ラギドルと言います。特別な日に着ることが多いですね。普段着にするには手間が多いので」

 

「で、でもジュスティーナさんはこの服着てますよね?なにかの記念日だったんですか?」

 

「人形劇をやる際には着るようにしているんです。娘も一緒にやっていたので、娘もまだ着ているはずです」

 

日本で例えるならば、茶道や華道の場で和服を着るようなものなのだろう。特別な日でなければ、一般人はそうそう着ないのだ。

 

思い返せば、広場を囲むような形で建っていた住居で発見したご遺体は、民族衣装(ラギドル)を着ていなかった。やはり、普段から着るような服ではない。

 

「っ……くそっ」

 

これでは、ほぼ確定だ。

 

コルティノーヴィスさんと一緒にいた少女は、夫妻の娘ーーあの子の外見からすれば『ちゃん』と呼ぶほうが適切だろうーージュリエッタちゃんだ。

 

なぜ父親と一緒に管理局に敵対し、『フーリガン』に(くみ)しているのかはまったくわからない。けれど、ジュスティーナさんの夫であるコルティノーヴィスさんも、娘であるジュリエッタちゃんも存命であることは確かだ。大きすぎる問題はあるが、最低限安心させてあげることはできる。

 

「も、もしかして……娘はっ!」

 

俺の煮え切らない返事のせいで最悪の可能性を予想してしまったのだろう。ジュスティーナさんは取り乱して俺の服を掴む。

 

両腕で抱いている彼女が不用意に動いてしまうと、ジュスティーナさんも俺の背中にいるニコルも落ちてしまうかもしれない。落ち着いてもらうよう、動揺が抜けきらない自分も落ち着けるよう、まっすぐに見つめてゆっくりと話す。

 

「まだ保護できてはいませんが、大丈夫です。まだ生きています。これから部隊に伝達して捜索し、必ず保護します。安心してください」

 

「そう、ですか……。よかった……。あっ、服……も、申し訳ありませんっ……」

 

とりあえずお互い冷静になれるくらいには精神状況が安定したようだ。俺の服をつかんでいた手を離して、ジュスティーナさんは肩を縮こめて両手を胸元に引き寄せた。

 

民族衣装(ラギドル)はウエストと胸の下あたりを紐で縛っているため、腰の細さと胸の大きさをとても強調させている。それに加えてこの方のスタイルがいいというのもあるのだろう。胸元に寄せたジュスティーナさんの手が胸に沈んでいる。とても目のやり場に困る光景だ。

 

背に担いでいるニコルも、寝ぼけているのかなんなのか、俺の首に腕を回してやけに密着してきている。落ちてしまう危険性が減るのはいいが、温かく柔らかい感触が背中全体に感じられてしまっていた。

 

なまじ冷静さを取り戻したばっかりに、不必要な感覚ばかりが鋭敏になっている。

 

「い、いえ……気にしないでください。子どもの安否を心配するのは当然でしょうから。……あの、できたらでいいんですが……クレスターニの魔法と、ちょっとだけ話に出ていた稀少技能(レアスキル)について、教えてもらえませんか?」

 

あまり深く気にしないよう、フーリガンの魔導師が持っていた紙束に書かれていた二つについて、質問してみた。

 

ランちゃんが以前にこの街を訪れて人形劇を鑑賞した時、どうやって人形を動かしているのかと訊いて快く教えてもらったらしいが、本当にそうだった。ニコルが確保していた人形を手渡すと、ジュスティーナさんは迷惑そうなそぶりなど一切見せずに実演しながら詳細に教えてくれた。

 

『フーリガン』の一人が持っていた紙束に書かれていた『クレスターニの秘術』。その報告をする時のために聞いておこうと思っていた。俺自身の知識欲や好奇心も否定しないが、さほど深刻な理由で教えてもらおうと思ったわけではなかった。

 

だが、この時の会話が、今回の事件の真相究明に至る鍵となる。

 



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『物理で殺す』

 

 

「つまり、人形を操る魔法、ドラットツィアは人形しか操れない代わりにすごく細かく操作できると……」

 

「人形が細部に至るまで精巧に作られていれば、という条件付きですが。そういえば祖母は(わら)で編まれた六メートルくらいの人形を動かしたこともありました」

 

「……人形っていうか、人の形をしてりゃなんでもいいんですか……」

 

「でも、やっぱり藁では耐久度が足りなかったのか、数メートル歩いて崩れてしまいましたけど」

 

「激しく動かしても大丈夫なくらいの耐久度があれば、もっと大きな人形も動かせるんですか?」

 

「そこは素質としか言えないです。私は二十センチから三十センチくらいの人形が精一杯でしたので」

 

「やっぱり魔法である以上、適性があるのか……。稀少技能(レアスキル)、えっと……残響再生(ナッハイル・スピーレン)でしたっけ?そちらについては?」

 

「どう説明すればいいか難しいですが……」

 

「わかる範囲で構いません。どんなものかざっくりと知りたいだけなので」

 

「そうですね……。祖母が言うには、物には記憶が残っていて、その記憶が見えたり聴こえたりするそうです。私はそのレアスキルを持っていないのでそれがどういうふうに見えて聴こえるのかわからないのですが……」

 

「物に残った記憶……。残留思念とか、付喪神みたいな、そんなオカルトチックなもの……なのか?……よくわからない。理屈で説明できないからこそ、レアスキルなんて呼ばれてるのかもしれないけど……」

 

「でも、犯罪に使われた凶器を誰が使ったとか、現場に残された遺留物がどこから来たなどがわかるとしたら、捜査官などの職務ではすごく有利に働くんじゃ?」

 

「そうだな……一つの事件にかかる時間がかなり短縮できるだろうな。早期解決できるってことは、そのぶん人員とコストを他に回せる。対処できる案件が増えるってことで…………ニコル、起きてたんならなぜ俺の背中から下りないんだ」

 

「はっ、思わず口を……。し、失礼しました……」

 

いそいそと首に回していた腕をほどき、床に足をつける。そこからは俺の隣を歩いていた。

 

劇場内を歩く。

 

ランちゃんとファルと別れた出入り口に近付いたところで、俺はジュスティーナさんに声をかけた。

 

「目を閉じていてもらえますか?ちょっと……心臓に悪い光景ですから」

 

そこには、この劇場を訪れた子どもや老人のご遺体がまだ手をつけることもできずに放置されている。

 

すでに一度目の当たりにしているニコルでも、俺の服を握って震えているくらいだ。

 

ジュスティーナさんがこの無惨で残酷な光景を目にすれば、精神的に悪影響を与えると思った。

 

「いえ……目をそらすことはできません。これは、劇場に見にきてくれた人たちを守れなかった私たちの責任ですから……」

 

「この責任は……あなたにはありませんよ」

 

ご遺体をそのまま捨て置くことには罪悪感があるが、今はどうすることもできない。あとで上の人間に報告し、人員を確保して必ずすぐに引き取りに来ると誓いつつ、彼らの脇を通る。

 

ジュスティーナさんを抱えているのでニコルに扉を開けてもらう。

 

「眩し……」

 

「まぶしいです……」

 

長時間灯りのない劇場にいたため、久しぶりの陽の光に目が(くら)む。

 

劇場を出るまでの間にランちゃんたちとは鉢合わせしなかったので、おそらくは先に出ていたのだろう。

 

眼球を刺す太陽の光に耐えつつ見上げると、人影がいくつかあった。上空で警戒してくれていたようだ。

 

念話で部隊の全員を召集しつつ、俺はサーチャーを展開する。いくら消費魔力量を節減させているとはいえ、いくつも使えば支出が(かさ)むので劇場内では外に展開させていた索敵魔法を切っていたのだ。

 

みんなが集まる前に、ジュスティーナさんへの対応を講じておく。

 

「ニコル、飛行魔法を使えるくらいには体調は戻っているか?」

 

「はい。しかし、えっと……戦闘行動は難しいかもしれません……」

 

「それならそれでいい。ファルかエルさんにジュスティーナさんを司令部まで送ってもらう。ニコルはそれに護衛として同行して、司令部に戻ったらジュスティーナさんの身の回りのことをお願いしたい。きっと同じ女性のほうが話しやすいだろうし。こういう流れになりますが、ジュスティーナさんは大丈夫ですか?」

 

「…………」

 

「…………」

 

なにか問題があれば他に方法考えますよ、という気持ちでジュスティーナさんにもニコルにも言ったのだが、二人は驚いたように俺を見るばかりだった。

 

「え……え、なに?俺、変なこと言った?」

 

「いえ……ふふ。夫のような考え方をする局員さんが、他にもいるんだな、と」

 

「前の隊長とはずいぶん対応が違うものですから……少々面食らってしまいました」

 

「……そんな不思議なことでもないだろうに。嘱託魔導師になる時、俺に魔法戦やら学科の勉強やらを教えてくれた教官は言ってたぞ。『法を守り、人を守る』……それが仕事だって。なら、民間人も守るし、仲間も守るのは当然だ。わざわざ負傷者を増やすような真似をすることない」

 

「『法を守り、人を守る』……言うだけなら簡単でも、実際に行動に移すのは難しい。夫もよく似たようなことを呟いていました。……立派な魔導師さんは、思ったよりも多くいらっしゃるのですね」

 

「……私に同じことが、できるかどうか……」

 

「俺もできてるかなんてわからない。ただ、目指して努力しないと辿り着けないってことはわかってるからな。今は教官の背を追ってるってとこだよ。……みんな集まってきたな。ジュスティーナさん、立てますか?」

 

「はい。立つだけならもう……大丈夫みたいです」

 

ジュスティーナさんをおろす。まだふらつく彼女の隣にニコルがつき肩を貸していた。

 

空からちらほらと仲間が降ってくる中、ユーノが俺に駆け寄ってきた。

 

「兄さんっ、生存者は……」

 

「彼女だけだ」

 

「そう、でしたか……」

 

「一人でもいただけ幸運だった。それにニコルの治癒魔法がなければ彼女さえ、助けられなかったんだ。この隊にニコルがいたことも含めて、幸運だった」

 

「劇場へ入る人選は、ただのラッキーじゃないですけどね」

 

いたずらっぽく笑うユーノから目をそらす。

 

「……はっ、言ってろ」

 

「ねぇっ!なにか情報はあったの?」

 

ユーノに続いて降りてきたアサレアちゃんが駆け寄ってきながら言う。

 

「ああ。こちらの女性、ジュスティーナさんからいろいろ聞いた。情報の共有は、とりあえず彼女を司令部に移してからだ。体力がひどく落ちている」

 

「それは……しかたないわね」

 

もどかしそうに頷くと、アサレアちゃんはジュスティーナさんへと近づく。

 

「えっと、ジュスティーナさん、でしたっけ?飲みかけなんですけど、お水いりますか?」

 

「ありがとうございます。助かります」

 

アサレアちゃんは、持ってきていたミネラルウォーターが入ったボトルを手渡していた。俺に対してはあたりがきついが、やはり気遣いはできる子のようだ。根はいい子である。

 

「これからどうしますか?」

 

ジュスティーナさんがアサレアちゃんに意識が向いているタイミングを見計らったように、ユーノが訊ねてきた。

 

ユーノとしてはアサレアちゃんが過剰に反応しないようにとの計らいなのかもしれない。俺としてはジュスティーナさんのほうにこそあまり聞いてほしくない類の話なので、俺としても助かった。

 

「ファルとニコルにジュスティーナさんを司令部まで送ってもらって、俺たちは任務を続けよう。ここからコルティノーヴィスさんの家に向かって……」

 

ユーノにこれからの指針を話していて、ふと思った。

 

他の部隊の姿が見えない。

 

俺たちの特別任務の進捗は、劇場内の捜索があったため時間的に押している。本来の予定であれば、そろそろローラー作戦をしている後ろの部隊が見えてきてもおかしくないはずなのだ。

 

なのに、近場に放っているサーチャーも味方部隊を捉えられていない。

 

嫌な予感がしたとほぼ同時、爆発音が俺たちのところまで届いた。音がした方向、後続部隊がいるはずの北の方角を見れば、砂煙が上がっている。

 

「徹ちゃん……悪い意味で予想通りになっているわ」

 

一人、上空で警戒をしていたランちゃんが地面に激突しそうな勢いで急降下してきた。

 

「……聞きたくないなあ」

 

「きっと逆の立場なら私も聞きたくはないでしょうねぇ。でも私は私の役目を全うするわ。伏兵よ」

 

「やっぱり……」

 

「ちょっとちょっとっ!どうなってるのよランドルフ!」

 

俺とランちゃん以外の隊員の気持ちを代弁するように、アサレアちゃんが声を張り上げた。

 

状況が状況だからか、アサレアちゃんのランドルフ呼びを訂正もせずに、ランちゃんは報告を続ける。

 

「だいたいのところは昨日と同じよ。横一列になって街の中を捜索していた部隊が敵魔導師の待ち伏せにあったの。ただ昨日と違って一部隊あたりの人数が減っているから、もうほとんど後退しかけているわ」

 

「昨日の失策からなにも学べてないじゃない!ちんたらしてられないわ、わたしたちははやく調査に戻らないと!」

 

「……いや、俺たちも後退しよう」

 

「なんで!?ここで後退したらなにもわからないままじゃない!」

 

想像通りの反論を受けた。

 

アサレアちゃんの言い分はとても理解できる。俺だって、できることならこのまま進んで調査したい。これ以上無駄に時間を費やせば真相の究明が困難になる。

 

しかし、それらを承知した上で、俺は後退の判断をせざるをえなかった。

 

「奴らの目的はジュスティーナさんの家に伝わる人形操作の魔法と、ジュスティーナさんの娘さんが持っている稀少技能(レアスキル)だ。管理局の足止めなんかじゃない」

 

瞳を鋭くして俺を見据えるアサレアちゃんと目を合わせていられず、視線を逸らす。

 

続きはランちゃんが代弁してくれた。

 

「後ろの部隊が撤退し始めちゃえば、フーリガンたちはこっちに押し寄せてくるでしょうね。そんな中でジュスティーナさんと具合の悪そうなニコルちゃんを守りながら戦うなんて、とてもできないわ。個人がどれだけ奮戦したところで圧倒的な物量で潰される。後続の味方部隊の足が止められた時点で、取れる手段なんてほとんど残されていないのよ。包囲される前に敵陣の一箇所を切り裂いて後退するしかないわ」

 

「納得できないかもしれないけど、理解してくれ。これ以上優秀な魔導師が欠ければ、特務どころか今回の任務の成否すら揺るぎかねない」

 

「…………」

 

肯定も否定もせずに、アサレアちゃんは顔を伏せた。肩を落として少し離れる。

 

目線をジュスティーナに移す。先のセリフは、彼女へも宛てられていた。

 

娘のジュリエッタちゃんを保護するという約束を延ばすことになりそうだという意味合いを含んでいた。

 

「…………」

 

苦しそうに、それでも口元には笑みを形作って頷いてくれた。

 

こちらの事情を配慮してくれていることがなによりも、心が痛かった。

 

 

 

 

 

 

『ジュスティーナさんは……いえ、夫人はアルヴァロ・コルティノーヴィス氏の奥様で、コルティノーヴィス氏と一緒にいた子がその娘さんのジュリエッタさん……。彼の身辺が怪しいとはあたりをつけていたけれど、まさかここまでなんて……』

 

『……それじゃあなおさらコルティノーヴィスって人の家を調べなきゃダメじゃない……』

 

『お嬢ちゃん、その話はもう結論が出たでしょう?蒸し返さないでちょうだいね』

 

『…………っ』

 

『……アサレア』

 

『兄さんが入手した紙束によると、フーリガンという連中の目的はそのジュリエッタさん、なんですよね?コルティノーヴィスさんと一緒に行動していたということは、すでに……』

 

『そうだな……向こうの手に落ちているとみて間違いない。言っちまえば昨日の時点で奴らの目的は達成できてんだよ。なんでまだこの街にいて、管理局とやりあってるのかわからない。逃走の準備に移ってなきゃいけないくらいなのに……』

 

劇場を後にして、俺たちは司令部の方向へとんぼ返りしていた。

 

無造作ヘアのエルさんがジュスティーナさんを抱え、そのすぐ隣に治癒魔法を使いすぎてしまったニコル、ニコルのフォローでファルがついている。その四人を中心として、先頭に俺、横合いからの攻撃への対処のためにランちゃんとユーノがサイドを受け持っている。『フーリガン』の魔導師がどこから現れても即座にフォローできるように、ウィルキンソン兄妹は斜め後方に位置していた。

 

この相談をジュスティーナさんが耳にすれば不安になるどころの話ではないので、念話で情報の共有を行なっている。

 

『もしかしたらその人形操作の魔法の術式解析に時間がかかっているのかもしれません。』

 

『解析に?そんな何時間もかかるような魔法があるのか?』

 

『兄さんの感覚と一緒にしないでください』

 

『なぜか俺が責められている……』

 

『防御や拘束みたいな一般的な魔法なら個人で解析して破壊する、なんてこともできるけれど……ドラッドツィア、だったかしら?人形操作のためだけの魔法を解析するなんてそう経験があるわけないでしょうから時間がかかるのでしょうね。最新鋭の解析設備なんて用意はできてないでしょうし、語感から察するにミッドチルダ式の魔法とは系統が違うみたいだもの。手間取っているのよ』

 

『そういえばミッドチルダとは違う種類の魔法もあるんだったか……余裕ができれば調べてみたいな』

 

『ねぇ、徹ちゃん?』

 

俺がミッドチルダとは違う体系の魔法、クロノとのお勉強の際にも出てきたエンシェントベルカに想いを馳せていると、ランちゃんに問いかけられた。

 

『なんだ?ランちゃん』

 

『フーリガンが街を襲った理由については判明したじゃない?そのおかげで夫人の娘さんを保護しないといけないって目的は明確になったわけだけれど……だとしたら、なぜコルティノーヴィス氏は管理局を抜けて「フーリガン」についたのかしら?』

 

『俺も考えてたんだけど……わからない』

 

『娘と奥さんを人質に取られてた、って線はどうですか』

 

『いや、それがな、ユーノ。コルティノーヴィスさんは娘さんと一緒に動いてたんだよ。どこかで「フーリガン」の監視の目から逃れて、娘さんと一緒に奥さんを救出しに行く機会くらいはあったはずなんだ』

 

俺も最初は家族を人質に取られた、という筋で推察した。フーリガンにはコルティノーヴィスさんと直接矛を交えるほどの戦力はないのだから、手伝わせようとすればその手段しかない。

 

しかし人質として扱うとしても娘さんと一緒に行動させていたり、奥さんのジュスティーナさんは劇場の地下に放置していたりと、あまりに杜撰(ずさん)すぎる。絶対に反抗しないと確信していなければ、人質をそんな等閑(なおざり)にはできない。仮に占拠していた劇場から撤退するという運びになったとしても、唯一の交渉材料となるジュスティーナさんを捨て置いて逃げるなど愚策だ。

 

『それに、コルティノーヴィス氏は、嫌々従っているという感じでもなかったわよねぇ……』

 

そうなのだ。彼は無理強いされて戦っているという感じではなかった。好き好んで戦っているという感じでもなかった。どんな感じでもない、本当に抜け殻のような状態だった。

 

もしかしたら人質で抵抗できなくさせて、そこから洗脳なり錯乱なりさせているのかもしれない。そのような魔法があるなんて聞いたことないけれど。

 

『くそっ……コルティノーヴィスさんの家を調べられなかったのは痛いな……』

 

『あとは捕虜ね。フーリガン側から情報を頂くことができていたら、もう少し状況は違ったでしょうに……』

 

『過ぎたことを言っていてもしかたないですよ、兄さん、ランちゃんさん。今は一度体勢を立て直して、なるべく早くその方のご自宅に行けるようがんばらないと』

 

『そうねぇ……ユーノちゃんのいう通りだわぁ』

 

『そうだな、すまん。……責任のある立場で行動を選択するってことが、こんなに精神的にくるものだとは思わなかった』

 

『僕は兄さんの下した選択なら、たとえ間違っていたとしても悪いことにはならないと信じています。だから大丈夫です』

 

『なんの保証があって大丈夫って……まあ、いいか。ありがとよ、ユーノ。少し肩の荷が下りた気分だ』

 

『いいわねぇ、男の子同士の友情っ!』

 

『ランちゃんの言う友情って違う意味も含まれてそうなんだけど……っ!総員警戒。前方に魔導師数名』

 

進行方向に走らせておいたサーチャーが、フーリガンの魔導師を捕捉した。

 

数を少なくする代わりに足を早くしたサーチャーのおかげでかなり早く発見できた。先制はもちろん、背後からの奇襲だって可能だ。

 

後方に位置していた味方部隊は横に広がっているため、おそらく敵部隊も横に薄く伸びていることだろう。前方のラインの魔導師を撃墜できれば、司令部まで戻る道中に危険はほとんどないだろう。

 

『ひとまずは正面の敵を突破すればいい。エルさんはジュスティーナさんを安全に司令部へ、ニコルは自分の身を守ることに専念、ファルはエルさんとニコルのフォローを。基本的に攻撃はしなくていい、ここを抜けることが最優先だ』

 

指示を伝えると、三人から即座に了解の返事が飛んでくる。

 

次いで、実戦担当。

 

『ランちゃんは距離を取りつつ支援射撃を、アサレアちゃんとクレインくんは敵魔導師がランちゃんに寄り付かないよう牽制、ユーノは拘束魔法で相手の足を殺してくれ。俺は物理で殺す』

 

『はぁーい』

 

『兄さん、殺しちゃダメです。それ以外は了解です!』

 

各々の得意分野に沿って役割を与える。

 

だが、返事が二つ、足りなかった。

 

『あれ……アサレアちゃん?クレインくん?……っ!』

 

ぞくりと背筋が寒くなって、背後を振り返る。

 

あるはずの赤っぽい頭が二つ、見えなかった。

 

『いつから、いつからいなかった……っ!アサレアちゃん!クレインくん!どこにいる!』

 

『あのお嬢ちゃんはほんとにもう……』

 

『まさか部隊を離脱してまでコルティノーヴィスさんの家に向かったのでしょうか……』

 

『きっとそうなんでしょうね。無鉄砲だとは思っていたけれど、まさかここまでとはねぇ……』

 

ウィルキンソン兄妹へ応答するように言ってからしばし沈黙があったが、ようやく反応があった。

 

『……あたしは調査に戻るわ。このまま手ぶらじゃ帰れないもの』

 

『後続部隊の足止め以外にも必ず戦力は残しているはずだ!残しているんだとすれば、その戦力は一番大事な部分に集中している……アサレアちゃんが行こうとしている周辺に集中している可能性が高い!今すぐ戻れ!』

 

『いやよ』

 

『奴らはデバイスの非殺傷設定を外してるんだ!直撃すれば命にかかわる!』

 

『あたらなかったらどうってことないじゃないっ……手柄を立てなきゃいけないのよ!有能だって示さないといけないの!』

 

『このっ……命よりも大事な手柄や評価なんてないだろ!』

 

『あるわよっ!』

 

『隊から無断で離れて、命令違反してまでの理由があんのかよ!』

 

『成果を出さないと納得しない馬鹿どもがすぐ近くにいっぱい転がってるじゃない!』

 

『馬鹿ども?なに言って……』

 

『手柄を立てればっ!あの間抜け腑抜け腰抜けの馬鹿どもも、あんたの能力をいやでも認めるわ!もうあんたのことを臆病者呼ばわりなんてさせない!』

 

馬鹿ども。それに加えて臆病者呼ばわり。

 

そのワードを聞いて思いつくことなんて限られている。天幕で俺が思ったことと、実際に投げかけられた言葉だ。

 

『……どっかで話を聞いたのか?』

 

『今日、後続の連中よりも先に出撃するとき……あの馬鹿どもが馬鹿にしながら言ってたの』

 

『アサレアちゃん、そんなの気にしなくていいんだって。言わせとけばいいんだ。最終的な結果で見返してやればいい。功を焦ることなんてない。……戻ってきてくれ、アサレアちゃん。安全を確保してから向かえばいい』

 

『あんたが認めないなら、あたしは一人でもやるわ。ちゃんと成果を出して、あんたに認めてもらう……ほかの馬鹿どもにあんたの能力を認めさせる』

 

『独断で隊から離れた時点で問題が、おいっ!…………くそっ』

 

部隊全体で交わされていた念話を、アサレアちゃんは切った。

 

『……お嬢ちゃんへの親愛度を上げすぎたわねぇ』

 

やりとりを静観していたランちゃんは苦笑したようなニュアンスで続ける。

 

『まさか自分の出世のためじゃなくて、一時的な隊長である徹ちゃんの名誉を守るためだなんて。……好かれすぎるのも考えものねぇ』

 

『……もう少し厳しく接しておくべきだったと後悔してるよ。このままじゃ、無事に戻ってきてもアサレアちゃんが罰せられる』

 

『私たちはニコルちゃんとジュスティーナ夫人の護衛もあるわ。横並びの敵部隊を突破しないといけない……すぐにお嬢ちゃんを連れ戻しにもいけないわねぇ。……そういえば、クレインちゃんは?』

 

『そうだ……っ!』

 

その名前で、一つ方法を思いついた。

 

彼はまだ念話を切っていない。黙したままでいたせいで気付けなかった。

 

『クレインくん。まだ念話が繋がったままなのは確認できているんだ、聞こえてるんだろ』

 

『…………はい』

 

ひどく憔悴(しょうすい)しきったような声が返ってきた。

 

部隊を離脱しているのはアサレアちゃんだけじゃない。クレインくんの姿もないのだ。妹が部隊を勝手に離れた場合、彼ならどうするか。そんなことすぐわかる。

 

『君がアサレアちゃんを追ってるのはもうわかってる。戻ってこいとは言わない。ただ、アサレアちゃんに伝えておいてくれ。コルティノーヴィスさんの家をなるべく細かく(・・・・・・・)調べておいてくれ、と。すぐに俺たちも向かう。意味はわかるな?』

 

『えっ……ぼ、ぼくたちの処分は……』

 

『そうしたくないから頭を回してるんだ、くれぐれも無茶はしないようにしてくれ。怪我するぶんにはユーノが治してくれるけど、死んじまったらもうどうしようもないんだからな』

 

『……本当にすいません。ご迷惑おかけします……』

 

最後にそう謝って、クレインくんの声が聞こえなくなる。アサレアちゃんを追うことに集中する為、念話を切ったのだろう。

 

一つ、大きなため息をこぼしてから、メンバーに再度連絡する。

 

『あー……配置をちょっと変える』

 

『でしょうねぇ』

 

『そんな合いの手はいらない。ファルとランちゃんはちょっと前に出てもらう。ユーノは二人の援護。ニコルとエルさんは互いに近くでフォローしあってくれ』

 

『兄さんはどうするんですか?』

 

『俺か?俺は……』

 

もう既に、最初あったアドバンテージがなくなるくらいに敵部隊に近づいている。ここまで距離が詰まってしまったら手の込んだ作戦は使えない。

 

正々堂々正面からの殴り合いにするほかないが、せめて奇襲の一つくらいは挟んでおきたい。

 

ということで。

 

『一足先に、物理で殺す』

 

足場の障壁を踏み締めて、力一杯に跳躍した。

 



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満面朱を注ぐ

 

 

「このあたりのはず……っ、あれね」

 

特別任務当初の目的地、アルヴァロ・コルティノーヴィスの家については出立前に部隊全員に知らされていた。

 

通達された際に広げられた地図を頭の中で反芻しながらアサレア・ウィルキンソンは進み、そして見つけた。奇しくもそれは、昨日(さくじつ)訪れた広場のほど近くだった。

 

「っ……逢坂さんの言ったとおり!」

 

目的の住居を目視で捉えたが、アサレアは突然戦闘機のようにバレルロールして回避行動をとる。ほんの数瞬前までアサレアがいた座標に数発の魔力弾が飛来した。住居の中からの射撃魔法だった。

 

「人数は……二人、いえ……三人。もっと多いかと思ってたけど、これならなんとかなりそう」

 

住居の周囲を飛行魔法で旋回し、敵対している魔導師の人数を把握する。

 

空中にいてはいずれ被弾すると判断したアサレアは高度を低下。地面すれすれまで高度を落とした。

 

「白兵戦も補助魔法も苦手だけど……これだけは得意なんだからっ!」

 

空中にいた時と同じ速度で民家と民家の間を()け回る。時に壁を蹴り、時に枠が吹き飛んでいる窓から入って窓から出て、時に家の壁面から屋根までを這うように飛翔する。

 

たまに生まれる相手との射線上に、チェリーピンク色をした射撃魔法を乗せる。

 

前日の体たらくが嘘のような機動を見せていた。

 

「一人……二人目!よしっ……」

 

窓や扉から身体を晒していた魔導師の二人を撃ち貫いた。

 

残すは一人となった時、アサレアの動きが変わる。

 

高く高くアサレアは飛び上がり、それを追うようにフーリガンの魔導師も空を見上げる。

 

デバイスが頭上に掲げられたのを見て取るや、アサレアは障壁を展開しつつ急降下、加えて急接近。

 

「一発二発ならっ、問題ないんだからっ!」

 

いかに上から下への急激な方向転換をしたとはいえ、いくつかは魔力弾がぶつかる。だが、アサレアの前面に張られた障壁を砕くには至らなかった。

 

家の外に出ていた敵魔導師をコルティノーヴィス家に押し込むように、アサレアは障壁を展開したまま突撃した。

 

「動かないことね。むだに痛い思いをするなんていやでしょ?」

 

「ぐっ……く、そっ……」

 

床に倒れ伏した三十代から四十代の男性魔導師に拘束魔法を行使して身動きを封じつつ、デバイスを突きつける。

 

性格に難点はあるが、実力に関してだけは自称していた『優秀さ』があった。

 

「あんたたちみたいなクズでも生かしておかなきゃいけないなんて、管理局も人道的ね。……さ、あんたの知ってることをぜんぶ吐いてちょうだい。そのためにあんただけ撃たずにおいてあげたんだから」

 

「吐けと言われて吐くほど規律の緩い組織じゃねえんだ。悪いな、お嬢ちゃん」

 

「……あっそ」

 

アサレアは激昂するでもなく、冷徹に問い返すわけでもなく、ただ淡々と一発の魔力弾を生み出す。デバイスの照準を魔導師の顔、そのすぐ横に合わせた。

 

迷いなく、撃った。

 

「……は?ぐあぁッ!?」

 

アサレアが作った魔力弾は床で着弾、爆ぜる。破片を周囲にばら撒いた。

 

そんな爆発のすぐ近くにあった男の頭が当然無事であるわけもなく、抵抗もできぬまま爆風と破片を浴びた。

 

「いてぇ……痛えっ……」

 

「へー、あんたみたいな奴でも痛いなんていう感覚があるのね」

 

「て、てめえっ!管理局の人間だろうが!相手が犯罪者だろうが使う魔法は非殺傷に限られてんのを知らねえのか?!」

 

「その非殺傷設定を解除してるクズたちに言われたくないセリフね。それにあたしはちゃあんと非殺傷設定にしてるわ?偶然(・・)、あたしがあんたを無力化しようと射撃魔法を使ったら、偶然(・・)、魔力弾が着弾したところの近くにあんたの頭があったってだけ。これってつまりアレよね、捕まえようとしてる時に起こった不慮の事故よね」

 

「てめえ、本気で言ってんのかよ!」

 

「あんたこそ、それ本気で言ってるの?傷つけるのはいいけど、傷つけられるのはいやなんて、そんな都合のいいこと……本気で言ってるの?」

 

「こ、このガキっ……」

 

「この街の人を大勢殺しておいて、自分はちょっとケガしただけでぐだぐだ言うの?逢坂さんの腕を傷つけておいて、自分はちょっと血が出ただけで文句を言うの?そんなのおかしいわ」

 

そう言ってのけるアサレアの瞳には怒りはなかった。怒りなんてありきたりな感情よりもずっと恐ろしい、(くら)く淀んだ色を(とも)していた。

 

「ち、違う!俺はやってない!俺はずっとここで……っ」

 

「安心していいわ。バランスが取れるように次は反対側にするから」

 

「待て待て待て!待ってくれ!話す、話すから……」

 

「そう、次からはもうちょっと早く喋る決心をしたほうがいいわね。だから余計に二回も痛い思いをしないといけなくなるの」

 

そう男に告げて、アサレアの腕が動く。先ほどとは反対側、男の無傷なほうの横顔のすぐ隣にデバイスが移される。

 

「なんで?!待て、待てって!全部、俺が知ってること全部話すって言ってるだろうが!」

 

「街の人たちと逢坂さんの百分の一くらいだとしても、痛みを味わったほうが口も滑らかに動くでしょ?」

 

「いやだいやだいやだ!?やめてくれ、待ってくれ!喋る、喋るからっ!」

 

男の悲痛な叫びが耳に届いていないような挙動で、アサレアは魔法を展開させる。

 

魔力弾が浮遊し、男の嘆願を切り裂いて解き放たれた。

 

「アサレア!やりすぎだよ!」

 

床に穴を穿(うが)つ前に、アサレアのチェリーピンクの魔力弾は、ピジョンブラッドの障壁に(はば)まれていた。

 

その魔力色に見覚えのあるアサレアは勢いよく振り返る。

 

振り返った先、アサレアと魔導師の間あたりにデバイスを向けている少年、クレインの姿があった。クレインの防御魔法が、『フーリガン』の男を覆っていた。

 

「クレインっ……なんでこいつを庇うのよ!」

 

「その人は話してくれる意思を見せている。もう魔法は使わなくていい。これ以上は……ただの暴力だ」

 

「こいつらは犯罪者よ!なんの罪もない人を無闇に傷つける、ただのクズじゃない!」

 

「……だからといって、ぼくたちが彼らを傷つけていい理由にはならない」

 

「どうしてよ!?こいつらがこのままなんの痛みも味わわないなんてそんなのっ、この街の人たちが報われないじゃないっ!」

 

「この人たちに罰を与えるのは司法だよ。……ぼくたちじゃない」

 

「でもっ、こいつらは!」

 

「っ……これ以上道理もなくこの人に暴力を振るえば、責任を負うのはぼくたちだけじゃなくなる。ぼくたちを指揮している逢坂さんも責任を追及されるよ。それでもいいの?」

 

「っ……わかったわよ!」

 

アサレアはクレインを最後にきつく睨みつけて、目線を外す。足元で転がったままの男を()め下ろす。

 

「できる限り簡潔に、そして速やかに吐くことね。……今のあたしは数秒も待ってられそうにないわ」

 

「わ、わかった、話す。……こうなっちまえば話そうが話すまいが、俺にとってどっちも同じだからな」

 

 

 

 

 

 

男が全部話し終えたその瞬間、アサレアは大の大人が怯えるほどの形相で男の胸倉を掴んだ。

 

「そういえば言ってなかったわね……吐けと言ったのは本当のことを、って意味よ。嘘を()けって意味じゃないの。わからなかった?」

 

「う、嘘なんてついてない!俺が見たこと、知っていることは全部話した!全部事実だ!」

 

「アサレア!手を離して!この人が嘘をついているようには見えないよ!」

 

「嘘をついてるかついてないかなんてクレインにわからないでしょ!こいつが言ってることは絶対嘘よ!だって、逢坂さんも、ランドルフだって……」

 

「この情報が本当かどうかはわからない。だから今は保留にしておこう。保留にして、逢坂さんに伝えよう。ぼくたちができることはこの情報の確度を上げることだよ。逢坂さんから伝えられたことがあるんだ。なるべく細かくこの家を調べるように、って」

 

「本当だって言ってんだろうが!なんで疑ってんだよ!今更俺がお前らを騙す必要なんてないだろうが!」

 

「うるっさいわね!敵だからに決まってんでしょうがっ」

 

全部喋ってからは吹っ切れたように騒々しかったフーリガンの男の腹部に、アサレアが魔力弾を叩き込んだ。クレインが止める間もないほどの気の短さだった。

 

油断していたところに間近から放たれた射撃魔法が直撃し、男はノックダウンした。

 

「アサレア!」

 

「なによ。ちゃんと魔力ダメージにしたじゃない。これなら文句ないでしょ」

 

「そういうことじゃなくて、もっと穏便に……」

 

「最大限穏便にしたわよ。それより、逢坂さんはこの家をくまなく調べろって言ってたんでしょ?あんたもはやく調べなさいよ!先にきてるのになにも見つけてなかったら怒られちゃうじゃない!」

 

「怒られちゃうって……独断専行してる時点で、ぼくもアサレアも叱責を受けるのは確定してるよ……」

 

アサレアはきびきびと、クレインは辟易(へきえき)しつつ、家の中を物色し始める。

 

とくにめぼしいものは見当たらなかったが、アサレアはふと目に留まった棚の上の写真立てを手に取った。

 

「劇場で助けたジュスティーナさんと……よく似た女の子と、大柄な男の人……。この男の人がアルヴァロ・コルティノーヴィスって魔導師なのね……」

 

手に取った写真の被写体は一つの家族。コルティノーヴィス家の三人が写っていた。

 

サンドギアの街、噴水を背景にした広場。いっそ眩しいくらいの青空の下、三人が三人とも太陽に負けないくらいの輝かしい笑顔を浮かべていた。

 

「きれいな街……幸せそうな家族。きっと、この家族が特別ってわけじゃない。こんなふうに平凡でありふれた、でも何物にも代えられない幸せが……この街にはいっぱいあったんだ。そんな慎ましい幸せを……っ、こいつらは……っ!」

 

歯軋(はぎし)りの音を響かせて、アサレアは振り返る。

 

近くで気絶している男と、窓枠に引っかかる形になっている男と、玄関のすぐ外で転がっている男。彼らを燃やし尽くしそうなほどの憤怒(ふんど)双眸(そうぼう)に宿して、(にら)みつける。

 

「……アサレア」

 

「っ、わかってる!こいつらが今ここで事故死(・・・)しても、なんの解決にもならない……わかってる、わかってるわよ……っ」

 

クレインにやんわりと制止され、アサレアはそれらから目を逸らした。

 

両手で(うやうや)しく、写真立てをもとあった位置に戻した。

 

「……ん?なに、あの黒いの……」

 

写真立てが置かれていた棚からアサレアが目線を上げると、未だ無事だった窓が視界に入った。その窓枠の外には、芝生が生い茂る、小さな庭のような空間がある。

 

その緑色の芝生の一角、一部分だけが黒く変色していた。

 

アサレアは家を出て、変色している芝生を手で触って確認する。

 

「なにこれ……表面が黒いだけで、もとは同じ芝生だ。なにかを撒いたの?肥料……にしては部分的すぎるし……」

 

「アサレア……」

 

「なに、クレイン。これ知ってるの?」

 

「これ……たぶん、血の跡だよ……」

 

「えっ?!」

 

反射的にアサレアは手を引っ込めた。

 

だがすぐにクレインの言葉を呑み込み、疑問を抱く。黒く固まったものが何か、ではない。芝生を黒く染色している範囲、その量に。

 

「でも……おかしくない?これだけ芝生を染めるほどってなると、すごい出血量よ?芝生の下の地面にまで染み込んでるし……これだけ血を流してたら、たとえ大人でも致死量に達してるでしょ……」

 

「……やっぱりさっきの男の人が言っていたことは、本当なのかもしれない」

 

「そっ、そんなわけないでしょっ!だとしたら逢坂さんの言っていたことに矛盾するじゃない!」

 

「……ぼくたちでは判断できない。知り得た情報をそのまま逢坂さんに伝えよう。逢坂さんとランさんなら、ぼくたちとは違う答えが出るかもしれない」

 

「っ……しかたないわね。あたしじゃ考えてもなにもわかんないし」

 

「ここではもう新しい情報はないだろうから、ぼくたちも後退して逢坂さんたちと合流しよう。たった二人で包囲されたら逃げようがなくなるよ」

 

「たったこれだけの情報で隊に戻れないわよ!わがまま言って勝手に出て行ったのに、手に入れたのは確かかどうかもわからない情報だけなんて!」

 

「逢坂さんは、くれぐれも無茶はしないように、って言ってたよ。……今でも充分に隊の皆さんに迷惑をかけて無茶をしてる。これ以上は本当にだめだって……。お願いだからたまには言うこと聞いてよ……」

 

クレインの疲れ果てた表情と言いかたに、アサレアはかっと満面朱を注ぐ。デバイスを両手で力一杯握り締めても、我慢できなかった。

 

「っっ!なによそれっ!いつもあたしの後始末をやってるみたいに!戻りたいならあんた一人で戻ればいいじゃないの!」

 

「アサレア……っ!ここは敵地のど真ん中だよ……っ?!大声出さないでっ」

 

「いっつもあたしばっかり責められて、うしろからついてきてるだけのあんたがみんなから褒められて!」

 

「静かにっ……アサレアっ」

 

「あたしはひとりでもできるのよ!あんたが脇からあれこれ言われなくたって、ひとりでできるのっ!あたしの邪魔しないでよっ!」

 

「っ……」

 

日頃から積もり積もった鬱憤(うっぷん)が、次から次へと溢れ出す。危険な状況だとわかっていても、アサレア自身ではもう抑えることもできずに口を()いて出る。

 

全部が全部、クレインが悪いだなんてアサレアも思ってはいなかった。ただ、周囲の人間が奔放なアサレアを(たしな)めて、柔順なクレインを褒めそやすものだから、その不公平さに苛立ちを募らせていた。

 

そして、これまでは立ち止まっていたラインにまで、アサレアは踏み込んだ。

 

「お兄ちゃんならレイ兄だけでよかったのよ!あんたなんてお兄ちゃんなんかじゃない!」

 

その一言を口走ったその時、悲哀と緊張で歪んでいたクレインの表情が変貌する。

 

「……っ!?アサレアっ!」

 

「なっ……きゃあっ!」

 

垂れがちな目尻を吊り上げさせ、アサレアに詰め寄った。

 

普段は決して出さないクレインの大声に身を固まらせたアサレアは、近づいてきたクレインに突き飛ばされた。

 

アサレアを緑の芝生に倒したクレインは、デバイスを握って魔法を発動させる。

 

「あ、あんたっ……ひぅっ!」

 

自分に対して魔法を使ってきたと思ったアサレアは目を瞑って身構えたが、その細い身体には何も襲いかかってこない。

 

恐る恐る(まぶた)を持ち上げると、黒みの強い赤色(ピジョンブラッド)の障壁が周囲を覆っている。その障壁の外側は、いやにカラフルな閃光が爆音とともに瞬いていた。

 

「アサレアっ、怪我はない?!大丈夫?!」

 

「な、なんなの……どうなってるのっ?」

 

「逢坂さんが言ってたでしょ!『フーリガン』の魔導師たちだ!逃げるよ!」

 

「えっ、ちょっ……」

 

クレインは障壁を維持しつつ、可能な限りたくさんの魔力弾を作り出し、敵魔導師の魔力弾が飛んできていたおおよその方向に当てずっぽうで射出する。背後にコルティノーヴィス家があったおかげで射撃魔法が飛来してくる方向は限られていた。弾幕が途切れた瞬間を突き、クレインはアサレアの手を取って飛行魔法を展開した。

 

飛び出した方向は、真後ろ(・・・)

 

「このくらいの()なら、アサレアも翔べるよね?」

 

「なっ……ばかにしないで!飛行魔法ならあんたよりもうまいんだから!」

 

背後を守る盾だったコルティノーヴィス家の内部に飛行魔法で入る。天井や壁、床、家具などの内装で障害物が無数にあり、視野も通らず、言うまでもなく飛行魔法を使うにはまるで適していない環境。だが、二人は巧みにコントロールし、危なげなく屋内を飛翔する。

 

「っ?!アサレア!窓から出て!」

 

「っ……」

 

先行していたクレインがアサレアに指示を飛ばす。通り抜けやすい玄関扉から出ようとしていたが、そこには『フーリガン』の魔導師が立ちはだかっていた。

 

射撃魔法を放たれながらも誘導するクレインに肩を押されて、身体を捻りながらアサレアは窓から外に出る。

 

出たところは、昨日訪れた噴水のある広場だった。

 

「こっちにもっ……」

 

「くっ、誘い込まれたんだっ……」

 

同じ場所だが、昨日とは様相が違う。あらゆる所に魔導師がいた。崩れた建物にも、民家の陰にも、広場の中央の噴水を大きく取り囲むように多くの魔導師がいた。

 

「し、司令部の方向はっ……あっち!このまま全力で抜ければ……っ!」

 

たじろいでしまいそうな空間の中、アサレアは司令部がある方角を目指す。それはちょうど(・・・・)、『フーリガン』の包囲網が一番薄くなっていた方角だった。

 

飛び抜けるためアサレアは速度を上げる。

 

「っ!アサレアっ!」

 

「なに……きゃあっ?!」

 

とん、どんっ、と衝撃が二回アサレアに伝わる。

 

一つは、まさに飛行魔法の出力を引き上げようとしたその瞬間、アサレアの背にクレインが覆いかぶさった時のもの。

 

もう一つは、覆いかぶさったクレインの背に魔力弾が直撃した時のものだった。

 

「落ちるっ……っ!」

 

衝撃とクレインの体重で高度が維持できなくなり、アサレアは落下した。落下した場所は、破壊された噴水の近く。

 

つまりは、包囲のほぼ中心だった。

 

「クレイン!あんた、なにしてんのよっ!逃げられなくなっ……」

 

うつ伏せに倒れたところから腕の力で強引に起き上がり、いきなり背中に乗ってきたクレインに怒鳴りかかる。

 

だが、クレインを隣に移動させて、アサレアは思わず息を呑んだ。

 

「あんた……その、怪我……」

 

覆いかぶさっていたクレインの背中は、バリアジャケットが破損し、少なくない量の出血があった。背中だけではない。腕にも傷があった。

 

言葉を失うアサレアに、クレインが言う。

 

「あっち……司令部の方向、あっちに射撃魔法をばらまくから……相手が動揺した隙にここから離脱して。障壁を展開していれば、きっといくつか当たっても耐えられるから……」

 

息は荒く、(ひたい)には脂汗も滲んでいる。しかしクレインは、相当な痛みがあるだろうに常と同じような穏やかな笑みでアサレアに指示をした。

 

「な、なに言ってんのよ!クレインもっ……」

 

「これだけ取り囲まれてたら、どれだけ早く飛べても回避しきれないよ。射撃魔法で牽制してないと、まともに飛ぶことさえできない」

 

「なら二人で撃ちながら逃げればいいじゃないっ!」

 

「……飛行、防御、射撃。三つの魔法を同時に完璧になんてできないでしょ。アサレアもぼくも……」

 

「そんなのっ……やったことは、ない、けど……」

 

「だから、アサレアは飛行と防御、ぼくは防御と射撃の魔法に全力を尽くす。……それなら、もしかしたらこの包囲を抜けられるかもしれない」

 

「クレインはどうすんのよ!」

 

「ぼくは全力で障壁を張って、逢坂さんたちがきてくれるまで待つよ。逢坂さんたちはもうすぐそこまできてるはず。……アサレアが逢坂さんたちを呼んできてくれるまでなら、耐えられる」

 

「それならっ、あたしがクレインの代わりに残ってもいいじゃない!あんたが逃げて、あたしが残るわ!」

 

「アサレアを残せるわけないでしょ……。はやく、行ってよ……っ!」

 

クレインがぎりぎりと歯噛みしながら、手に持つデバイスに力を込める。

 

深い赤色の膜が二人を覆った。次の瞬間には、二人を撃ち砕かんと魔力弾が殺到した。

 

すぐ近くで爆ぜる弾丸に、アサレアはびくっと身体を震わせた。

 

「ひっ……」

 

「アサレア……はやく、準備して……っ。弾幕が途切れた時に、さっき言ったとおりにやるから……」

 

「く、クレインが行きなさいよ!あたしがここに残るわ!包囲されたのもあたしのせいだもの!自分の不手際で作ったリスクは自分で負うわよ!」

 

周囲にいる魔導師を見渡しながら、アサレアが叫ぶ。

 

なぜこうまで大勢の魔導師が完璧に包囲できているのか。そんなもの、アサレアとクレインの居場所を完全に掴んでいたからだ。なぜ居場所を完全に掴めていたのか。そんなもの、アサレアが敵陣深くにも(かかわ)らず大声を張り上げてここにいますよと喧伝(けんでん)していたからだ。

 

アサレアの迂闊で軽率な行動が発端であった。アサレアに責があるのは明白だった。

 

「あたしが大声を出したから、あたしのせいなんだから、あたしがっ……」

 

ぼくたち(・・・・)の話し声で気づかれたんだ!アサレアだけのせいじゃない!いいから、はやく行ってよっ……」

 

とうとう(こら)えきれずに、苦悶の色がクレインの顔に浮かぶ。

 

降り止まない射撃魔法の雨に、クレインの障壁にひびが入る。

 

「行くのはあんたよ!いつまでも守られるあたしじゃない、あたしが残るわ!だからあんたが……」

 

「……はやく、逃げてってば……」

 

「あたしなら大丈夫なんだから!あんたが逃げなさいよ!」

 

「ぐっ……っ!お願い、だから……っ」

 

ピジョンブラッドの障壁に大きな亀裂が走る。

 

頑として動こうとしないアサレアに、とうとうクレインの我慢が限界を迎えた。

 

「お願いだからっ……こんな時くらい、言うこと聞いてよ!レイジ兄さんに、アサレアを守ってやってくれって言われてるんだよ……最後の約束くらいっ、果たさせてよ!」

 

「っ……」

 

クレインの悲痛な叫びに、アサレアはデバイスを握って屈む。

 

離脱する準備と見たクレインは青白い顔に儚い笑みを滲ませた。

 

「障壁が砕けたら、射撃魔法をばらまくから……」

 

「…………」

 

「みんなに……よろしくね。ああ……あと逢坂さんには、謝っておいてくれると助かるよ。最期まで迷惑かけ通しだったから……。じゃあね、アサレア。これからはもう少し、みんなと仲良くね……」

 

「っ……ゃだ」

 

クレインの障壁が食い破られる。血潮のように濃い赤色の破片が宙を舞う。

 

「な、んで……っ」

 

障壁が食い破られる、その寸前。淡い赤色の障壁が二人の周囲に下ろされる。

 

アサレアは飛び立たず、障壁を展開していた。

 

「なんでっ、逃げなかったの?!ぼくはもう、ほとんど魔力は残ってないのにっ……っ!」

 

クレインの糾弾に、アサレアは俯きながら答える。

 

「……借り、返してないから」

 

「なに、を……」

 

「クレイン(にい)にっ!借りを返してないのにお別れなんてできないでしょうがっ!」

 

「っ……ぼくのこと、兄だなんて思ってないって……」

 

「わかってたわよっ!あたしがみんなに迷惑をかけてたことくらい!その迷惑の尻拭いをクレイン兄がやってたことくらい!あたしの知らないところでクレイン兄が頭を下げていたことくらいっ!ぜんぶっ!」

 

「アサレア……」

 

「その借りを返してないのに、お礼の一言も言えてないのに……こんなところで終わりになんてできない!」

 

無数の魔力弾に晒され、アサレアの障壁に傷が積み重なっていく。淡い赤色の破片が桜吹雪のように散る。

 

「は、あはは……最後の最後で、願いが叶ったよ……」

 

「最後じゃないっ!まだ……まだ死んでないんだから!」

 

ピキッ、ガギッ、と。不吉な音が障壁から鳴る。アサレアが全力で魔力を注いでいても、障壁の限界は見えていた。

 

「そう、だね……死んでない」

 

アサレアの張る障壁に致命的な亀裂が刻まれる。

 

それを見たのか否か、クレインはアサレアの肩を押して地面に伏せさせる。その上に覆い被さった。

 

「きゃぅ!ちょ、ちょっとクレイン兄!」

 

「死なせないよ。絶対に」

 

二人を守る盾が破壊される。無数の弾丸が、無防備な二人に殺到する。

 

「っ…………」

 

「クレイン兄っ!」

 

数が数である。気休めに近いバリアジャケットなどものの数発で食い破られるはずだった。最後の防備が破られれば、殺傷設定の魔力弾はクレインの肉を裂き、骨を砕き、命を奪う。そのはずだった。

 

「……え?」

 

「攻撃……されてない?」

 

不思議に思ったアサレアがおそるおそる首を傾けて周囲を見てみれば、ちょうどフーリガンの魔導師たちがいたあたりで爆発が起こっていた。

 

「二人とも、よく耐えた」

 

なにがどうなっているかわからないアサレアの耳に、昨日今日のたった二日で安心感を覚えるまでになった声が降り注ぐ。

 

「すぐに合流しなかったことについてはあとから飽きるほど文句を言わせてもらうけど……まあ、今はいいや。クレインくんもアサレアちゃんもよく頑張った。あとは任せとけ」

 

隊長代理を務める逢坂徹が、二人のすぐ(かたわ)らで威風堂々と立っていた。

 

 



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ハッピーエンドはない。

 

 

 

 

「ユーノは障壁展開。兄妹を守れるくらいの大きさでいい」

 

「了解です!」

 

まずは二人の安全確保を優先する。

 

倒れ込んでいるウィルキンソン兄妹を包むように、淡緑色の障壁が展開された。俺のならともかくユーノの障壁ならそうそう破壊されるようなことにはならない。

 

「この量だと細かい調整が難しい。ランちゃんは建物の中にいる奴の無力化を頼む」

 

「え、ええ。……私には徹ちゃんがいったい何をしているのかちょっとわからないけれど……わかったわぁ。任せなさい」

 

敵陣のど真ん中に立って標的を狙い撃つというのはランちゃんの普段の戦術とは大幅に違うだろうが、それでもこうして無茶に付き合ってくれた。

 

ランちゃんは馬鹿でかいライフル(本人曰くデバイスらしい)を構え、トリガーを絞る。想像よりも静かな音で射出されたランちゃんの魔力弾は、想像を超える破壊力と爆音を伴って廃屋に潜んでいた魔導師を文字通りに吹き飛ばした。

 

「……さて。もう一回撃ってきてくれれば今度はしっかり当ててやるぞ」

 

期待していた通り、一時停止していた射撃魔法の雨が再開される。

 

周囲に散らしておいたサーチャーからの視覚情報をもとに弾道を計算し、障壁を斜めに展開。

 

リニスさんと戦った時に使った障壁の使い方『浮鏡』だ。魔力弾をただ防ぐのではなく、弾いて逸らして利用する。

 

リニスさんとの戦闘時には多すぎる魔力弾を跳弾させて減らすために使用したが、今回は周囲にいる魔導師に差し向ける。相手の人数が思いの外多かったので、これで一気に片付ける。

 

殺到する魔力弾の一つ一つに角度を調整した障壁を設置。障壁に触れ、矛先を変えた魔力弾は、寸前で俺たちを避けて『フーリガン』の魔導師たちに牙を剥いた。

 

生身の人間に殺傷設定で撃ち放ったのだ。当然、自分たちもある程度怪我をする覚悟を持った上だろう。跳弾した魔力弾を受けた者は覚悟を持っていたとは思えないくらいに喚いているが。

 

そんな光景を眺めていたランちゃんが、俺のすぐ後ろで呟く。

 

「……あちらの射撃魔法が勝手に曲がって敵の集団に突っ込んでいったのだけど……」

 

「前にも障壁で魔力弾を逸らしているところを見たことがあります。前の時は逸らすだけでしたが、今回は跳弾した先まで計算して攻撃手段として使われています。断然精度が上がっていて、もう笑うしかないですよね」

 

「さすが、付き合いが長いだけあってユーノちゃんは慣れてるわねぇ……」

 

「射撃魔法自体が欠陥品だったせいで想定よりも撃ち漏らしが多かったか……。ユーノ、あっちの建物とあそこの屋根が落ちている廃屋、あとあれら……だいたい八つくらいに鎖を放ってくれ。あ、あの屋根と窓が吹き飛んでる家はダメだ。あの家にはご遺体が取り残されてる」

 

「え、は、はい……でも、建物自体に拘束魔法を使ってどうするんですか?」

 

「こうする」

 

ユーノの近くから伸びる鎖を手繰り寄せ、術式に介入させてもらって収縮させながら力いっぱい引っ張った。

 

脆くなっていた建物はそれだけで一部、もしくはほぼ全部倒壊。こちら側に引き寄せるように倒したので、俺たちを狙って広場に出てきていたフーリガンの連中は建物の下敷きになった。

 

無論、倒壊させた建物にご遺体がないのは確認済みだ。下敷きになった魔導師も、バリアジャケットを着てさえいれば死にはしないだろう。問題ない問題ない。

 

「……徹ちゃんは、発想が普通の魔導師とは違うわね。良い意味か悪い意味か、ちょっと判断できないわぁ」

 

「兄さんは正式に魔導師としての勉強をしてから魔導師になったんじゃなく、実戦で学んでますので考え方が柔軟で奇抜なんです。……良い意味でも悪い意味でも」

 

「……お前らちょっとは褒めたらどうだ。大部分を手早く片付けられたんだぞ」

 

「すごいとは思うのだけれど、なぜかしら……手放しで喜べないわねぇ」

 

「もちろんすごいです。すごい乱暴です」

 

「はっ……いいさ、いつものことさ……。さて……そんじゃ俺とランちゃんでフーリガンの生き残りを無力化しよう」

 

「はぁい」

 

「ユーノはクレインくんの傷の手当てだ」

 

「わかりました!」

 

フーリガンの生き残りといっても数は少なく、ほとんどはすでに抵抗を示していない。デバイスを手放している者も多い。それほど苦もなく終わらせられそうだ。

 

「あんなにいたのに、こんなにあっさりと……。あ、あんた、どうやって……」

 

さっそく取り掛かろうとしたところで、アサレアちゃんに呼び掛けられた。

 

二人の状態も確認したかったこともあり、しばしランちゃんにごみ掃除を任せてウィルキンソン兄妹の近くへ移動する。

 

「ん、あれか……あれは生き残るために磨いた技術と戦術だ。適性も魔力もないから工夫するしかなかったんだよ」

 

「工夫って……そういった次元の話じゃなかった気が……」

 

「俺のことはいいんだ。それより……君たちのことだ」

 

「っ……」

 

「…………」

 

兄妹そろってびくん、と肩を震わせる。顔色を悪くさせながら視線を下げた。

 

二人が何を考えているかなんて、容易に察することができる。一つ、深いため息をつく。

 

屈み込んで目線を近づけた。

 

「他に怪我をしてるところとかないか?気分が悪かったりとか」

 

「ご、ごめんなさっ……え?」

 

「……あの、逢坂さん……独断専行した件については……?」

 

「もちろんその件については後から叱るぞ。危険に晒されるのは隊だけじゃない、アサレアちゃんとクレインくんが誰よりも危なくなるんだ。こってりと絞って今後こういうことは絶対しないよう説教してやる」

 

「な、なら、どうして……」

 

「今はこうしてもう一度会えたことを喜ぼう。お説教やお小言は戻ってからでいい」

 

怒られることを覚悟している様子の二人の頭に手を置く。

 

「クレインくんもアサレアちゃんも、よく頑張った。えらいぞ」

 

「っ……ぃ、いえっ……ぐすっ、そんなことっ……」

 

「や、やめてよ……っ」

 

緊張の糸が緩んだのと同様に涙腺も緩んだのか、クレインくんはぽろぽろと涙をこぼし、アサレアちゃんは目元を袖で拭っていた。二人ともよく踏ん張っていたが、やはり二人とも限界ぎりぎりだったようだ。

 

「広場を完全に制圧したら司令部に戻る。二人はそれまで休んでてくれ」

 

司令部に戻る際にはできる限り多くの犯罪者どもをしょっ引いていきたい。コルティノーヴィスさんがこの広場にやってきてしまえばそれどころではなくなるので、彼が来る前に撤退したいところだ。

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

「うおっ!……アサレアちゃん、なに?」

 

ランちゃんに任せっきりだった残敵掃討に加わろうと立ち上がるが、袖を引っ張られて引きとめられた。

 

「……わたしたち、コルティノーヴィスって人の家でなにか手掛かりがないか調べてたんだけど……あの……」

 

「ああ……そうだった。そういう建前だった。で、なんか見つけたの?」

 

「えっと……家の中に『フーリガン』の奴らがいて、その一人を捕まえて知ってること吐かせたんだけど……」

 

「よく口を割らせたな。それで、なにかわかったのか?」

 

「うん……でも、そいつがそう口走っただけで、それが本当かどうか確認できなくて……」

 

「それでもいいよ。その『フーリガン何某』が言ったことが事実だろうとそうでなかろうと、情報は情報だ。嘘であっても違う情報の判断材料になることだってある」

 

一度目を伏せて、一呼吸置いて、アサレアちゃんの双眸が俺を射抜いた。唇が動く。

 

 

 

「あの魔導師……コルティノーヴィスさんをーーーーー(・・・・・)

 

 

 

耳鳴りがする。あまりにも現実味がなく、すぐに頭に入ってこない。何を言っているのか、すぐには理解できなかった。

 

アサレアちゃんが言い間違えているのか、はたまた俺が聞き間違えているのではと、そう思った。

 

アサレアちゃん本人もあまりその情報を鵜呑みにはできていないのか、複雑そうな顔をして目をそらした。ので、その後はユーノに治療されているクレインくんが引き継いだ。

 

「逢坂さんやランさんの話と矛盾するのですが……ぼくにはどうしてもあの魔導師が嘘をついているようには見えませんでした。それに……それだけじゃないんです。コルティノーヴィスさんの家の庭の一部には明らかに致死量を超える血痕がありました……」

 

「血痕……その庭の周辺には、遺体はあったか?」

 

「え?……い、いいえ……ありませんでした」

 

「そう、か……」

 

未だに、信じきれない。

 

アサレアちゃんが問い(ただ)した『フーリガン』の何某が虚言を吐いたと考えるのが現実的なはずだ。

なのに。

 

「……くそっ」

 

なのに、その情報を偽りだと言い捨てることがどうしてもできない。

 

ウィルキンソン兄妹からの報せを受けて、腑に落ちたような部分も確かにあったのだ。

 

二人が得た情報を踏まえて、これまでの出来事を改めて考え直さなければいけない。

 

『徹ちゃんっ!彼がっ……っ』

 

記憶と照らし合わせて考えを深めようとしたが、それは中断させられた。聞いたことがないくらいに切迫したランちゃんの念話が俺に届いた。

 

念話が届くとほぼ同時。

 

ドゴォォン、と空気が振動した。もはや慣れてきつつある轟音と爆風。ランちゃんの射撃魔法だ。

 

広場にいるフーリガンの魔導師はほぼ無力化できていたし、生き残っている奴らもほとんど抵抗していなかった。あれだけの爆音を轟かせるほどの威力の魔法を放つ理由など、一つしかない。

 

「コルティノーヴィスさんか……っ。クレインくん、アサレアちゃん、二人は後退してくれ。さすがにランちゃんだけじゃ抑えきれない。俺もすぐに行かなきゃいけない」

 

「まって……待ってよ!わたしも……っ!」

 

「疲れてる上に魔力も尽きそうな状態じゃ怪我人を増やすだけだ」

 

「で、でもっ……」

 

「そこらへんで転がってるような魔導師ならともかく、コルティノーヴィスさんが相手だと俺も余裕がない」

 

「っ……わたし、わたしはっ……」

 

食い下がるアサレアちゃんの肩に手を置いて言い聞かせる。

 

「コルティノーヴィスさんの家で情報を手に入れてくれただけで、それだけで充分だ。よくやってくれた。後は任せてくれ」

 

「……わかったわ。……気をつけなさいよ」

 

悔しそうに歯噛みして、でもアサレアちゃんは首を縦に振った。

 

俺に背を向けたアサレアちゃんは、まだふらつくクレインくんに肩を貸す。クレインくんの怪我自体はユーノが治療したが、魔力や体力、疲労感まで癒せないのだ。

 

アサレアちゃんがクレインくんに自然と手を貸せるようになるまでに兄妹仲は良好になったようで、こんな状況だというのにすこし安心してしまう。

 

「足を引っ張ってしまってすみません……逢坂さん、お気をつけて」

 

「ああ。ありがとうな、クレインくん。そっちも気をつけてくれ。絶対に安全ってわけじゃないんだからな」

 

少し休んで回復したのか、速度は出ていないとはいえ二人は飛行魔法で司令部の方向へと向かった。

 

「ユーノ、あの二人を頼んだ。魔法を使いすぎて魔力は底をつきかけてるだろうからな」

 

「……はぁ。僕としては兄さんにつきたいですけど……わかりました」

 

「すまん、任せた」

 

「はい、任されました。……無傷で終わらせるなんて無理なのはわかってますから言いません。なので、怪我で留めてくださいよ。それなら治してみせますから」

 

そう言い残して、ユーノはウィルキンソン兄妹の背中を追って飛翔した。

 

目下一番の危険要素であるコルティノーヴィスさんから離れることは大事だが、司令部方面には横に薄く、だが広く『フーリガン』の魔導師が配置されている。コルティノーヴィスさんと比較すればまだマシというだけで、安全という保証はない。あの三人なら大丈夫だという自信はあるが、やはり心配でもある。

 

とはいえ俺には、そちらの心配をしている余裕はない。

 

ユーノと別れてすぐに駆け出す。

 

「ランちゃんっ!」

 

コルティノーヴィスさんを食い止めてくれていたランちゃんのもとへ走る。

 

広場から一本、路地へ入ったところ。そこで、見つけた。

 

『…………』

 

「……けほっ……こほ」

 

「あらぁ……徹ちゃん、遅いわよぉ……」

 

仁王立ちのコルティノーヴィスさんと、その背後に佇む民族衣装(ラギドル)を纏った少女ーージュリエッタちゃんと、傷だらけになっているランちゃん。その三人を、見つけた。

 

ランちゃんの手には、対物狙撃銃に似たデバイスが見当たらない。その代わりに大型自動拳銃のような物を握っていた。予備のデバイスなのかもしれないが、なぜ予備を使っているのかと考え、気付いた。コルティノーヴィスさんの足元あたりに、見憶えのあるフレームや細かな金属片が散乱している。彼に接近され、近接戦闘となり、デバイスを破壊されたようだ。

 

近接戦はランちゃんのスタイルとは真逆といっていいだろうに、全力を尽くしてくれていた。コルティノーヴィスさんに一度肉薄された上で、攻撃を受けた上で、まだ意識を保って立っているだけとんでもないことだ。

 

コルティノーヴィスさんを警戒しつつ、ランちゃんに歩み寄る。

 

「遅れてごめん。……まだ戦えるか?」

 

「ええ、なんとかね……。さすがに後ろから支援射撃するくらいしかできないけれど」

 

「……頼む。一対一でなんとかできるとは思えない」

 

「ふふ、全力を尽くすわぁ……」

 

疲れも見て取れるし、怪我も軽いとは言えないが、それでも俺に応じてくれた。

 

「助かる。……この路地じゃ狭くて立ち回れない。場所を変えよう」

 

「広場まで退がりましょうか」

 

もたれかかっていた廃墟の壁から背を離し、ランちゃんは飛行魔法で浮かび上がって距離を取った。

 

ランちゃんを逃したくなかったのか、俺が来ても全く反応のなかったコルティノーヴィスさんが動く。身体が霞むような速さのそれは、昨日俺と戦っていた時にも見せた高速移動術だ。

 

彼が動いた、と思った次の瞬間にはもう目の前にいた。

 

「くっ、おぉあっ!」

 

いくら速いといってもフェイントもない真正面からの打突。それに一度見て覚悟と準備はしていた。

 

速度を削ぐための拘束魔法と、威力を殺すための障壁。それでも止まらないのは予想済みだ。障壁を貫いたコルティノーヴィスさんの拳を左腕で防ぐ。

 

一撃でノックアウトとはいかせない。

 

「あなたは……今、どういう状況に置かれているんですか」

 

『…………』

 

こうして並の魔導師を優に超える戦闘能力と、彼の放つ力強い打撃を体感して。こうして俺の目の前で拳を振り抜いている彼を間近に見て。

 

やはりアサレアちゃんとクレインくんが教えてくれた情報が確かだとはどうにも思えない。

 

だが同時に、奥さんであるジュスティーナさんや、指揮官代理であるノルデンフェルトさんからコルティノーヴィスさんの人物像を聞き及ぶにつれて違和感もあった。その二人が語る彼と、目の前にいる彼では、印象が違いすぎる。

 

いったいどれが正しくて、どれが間違っているのかわからない。

 

判断ができない俺を置いて、彼は動く。

 

『…………』

 

「くそっ」

 

続いて放たれる拳撃を防ぎ、(すね)から下を斬り取るようなローキックを躱す。

 

開けた通りでも圧倒されていたのに、逃げ場の少ないこの狭い路地では勝ち目なんてない。ランちゃんが言っていたように、広場まで一度後退すべきだ。

 

すぐに追いつかれるとは思うが、拘束魔法の鎖を何本か近くの廃墟に伸ばして引き倒す。倒壊して立ち上る煙を目眩(めくらま)し代わりにして後退する。

 

「っ……ん?突っ込んでこないな……」

 

煙と瓦礫をかき分けて突破してきてもいいようにと後退(あとずさ)りしていたが、すぐに来る様子はなかった。

 

真意はわからないが、追撃がこないのなら好都合である。今のうちに広場へと向かう。

 

「奴ら……消えてやがる」

 

広場のいたるところで転がっていたはずの『フーリガン』たちが、忽然と姿を消していた。抵抗の意思がなく座り込んでいた者はもちろん、数人の意識のない者たちも含めていなくなっている。

 

やってきたタイミングから考えて、コルティノーヴィスさんは今回も殿(しんがり)としての役割なのだろう。そしてその役割は十全に果たされてしまった。

 

後続の味方部隊が何名か『フーリガン』を捕らえていることを祈るほかない。でないと、奴らの目的は明かされないままになってしまう。

 

「徹ちゃん、彼が来るわ」

 

広場の北側のまだ崩れきっていない建物の上に、大型拳銃みたいなデバイスを構えたランちゃんが陣取っていた。

 

ランちゃんが見据える方を振り向く。ジュリエッタちゃんを抱えたコルティノーヴィスさんが悠々と現れた。

 

「……フォローは頼んだ」

 

「あんまり期待しちゃだめよ。右腕を怪我しちゃって力が入りにくいの」

 

「……それじゃできる限りでよろしく」

 

「はぁい」

 

ランちゃんから近過ぎれば支援もやりづらいだろう。俺は広場の中心あたり、噴水近くに移動する。

 

『…………』

 

対して、コルティノーヴィスさんはジュリエッタちゃんを下ろし、ゆっくりとこちらへ歩みを進める。

 

「けほ、こほっ……」

 

彼の背に隠れるような形になっているジュリエッタちゃんが、口元に手を添えて咳をした。だが、人形の眼窩(がんか)に嵌められたガラス玉のように無機質で無感情なエメラルドグリーンの瞳だけは、一直線に俺を射抜いていた。

 

「……お母さんが君を探していたよ、ジュリエッタちゃん。お母さんのところまで案内するから、こっちにきて」

 

「……こほっ……」

 

ジュリエッタちゃんを説得するが、まるで聞こえていないかのように反応がない。

 

『…………』

 

「ちっ……」

 

代わりに、俺とジュリエッタちゃんを遮るような形でコルティノーヴィスさんが立ちはだかる。構えて、敵対の意を示す。

 

こうなるだろうとは予想していた。すんなりとこちらに来てくれるだなんて、思ってはいなかった。

 

だから、覚悟はしていた。

 

「……あなたを、逮捕する。話はそこからだ!」

 

身体の隅々まで循環魔法で魔力を満たし、大きく一歩を踏み込む。

 

肉薄するその前に、一発の光弾が俺の視界の端を掠めてコルティノーヴィスへと向かった。ランちゃんの援護射撃だ。

 

『…………』

 

「事もなげに防ぐかよ……ん?」

 

障壁か、もしくは腕にまとった身体強化系の魔法で防いだのだと思ったが、どうやら違った。障壁が張られた様子はなく、魔力弾によって弾けた服の下の素肌は鈍器で打ち付けられたように変色していた。

 

魔力付与のような魔法を使っていれば、そのような状態にはならないはず。それに非殺傷設定が曖昧な物理的殴打であればまだしも、射撃魔法などであれば非殺傷設定が明確に働いて身体的なダメージは負わない。

 

「……どうなってんだ。あなたは本当に……」

 

『…………』

 

期待などしていなかったが、俺の独り言に、やはり彼は答えてはくれなかった。

 

「……いいよ。全部終わらせてからゆっくりと話を聞かせてもらう」

 

距離があれば、また嵐のような拳撃を浴びることになる。

 

だからこそ、恐怖を飲み込み一気に踏み込む。ランちゃんの牽制弾によって勢いが削がれたコルティノーヴィスさんの懐に潜る。

 

彼我の距離はほぼ皆無に等しい。なので地面を踏みしめ、腰を回し、捻転力を拳に乗せる。

 

「っ、らぁっ!」

 

もちろん、一発で墜とせるなんて思い上がってはいない。

 

体幹からへし折るように右拳でボディブロー、肺に詰まった空気を全部押し出すように突き上げる形の胸部へ左の掌底、続いて脳を揺さぶるように右から顎を打ち抜く。

 

限界ギリギリまで引き上げた循環魔法による、怒涛の三連撃。立っていられないどころか、意識を保ってすらいられない。そのくらいの手応えはあった。

 

少なくとも、人間であればどれだけ魔法で強化していても数秒は満足に動けないダメージを与えたはずだった。

 

『…………』

 

「……は?」

 

次の瞬間には、俺の目の前に拳があった。影響なんて一切ないと言わんばかりに振るわれた。

 

「ぐっう……」

 

俺の顔面に向けて放たれた一撃を、体勢を崩しながらも屈んでどうにか躱す。が、体勢を整える前に繰り出された前蹴りは躱すことができなかった。

 

「ごっ、ぅ……っ」

 

身体の中心を槍で一突きにされたような衝撃だった。指揮司令部で配給されたエネルギーの摂取だけを目的とした簡素が過ぎる朝食でなければ、丸ごと吐いてしまっていただろう。

 

その場でうずくまりたくなる痛みと不快感に耐えて、蹴りを受けた勢いそのまま後退する。

 

「今回は……相手は俺だけじゃ、ねえぞ」

 

追撃のため踏み込んだコルティノーヴィスさんの足が、そこで止まる。

 

彼の足を、腕を、全身を縫い留めたのは、不可視の鎖。転がされながら後退したと同時に仕掛けておいた拘束魔法。

 

『ランちゃん、今だ』

 

『任せて』

 

前もって準備していたのか、俺が要請するなりすぐに魔力の塊が三つ、風を切り裂きながら彼に向かう。

 

ランちゃんは一度に放つ魔力弾の数こそ多くないが、それを補って余る威力がある。一発でも相当、今回はその三倍。

 

並みの魔導師なら、余裕を持って墜とせる威力。

 

『…………』

 

「っ……こほっ、ごほっ……」

 

だが、目の前の相手は並みなんて括りでは収まらない。

 

やはり障壁は張られることがなく、一発は拳で打ち砕くように迎撃、二つは左胸と腹部に直撃したが、爆煙の中、何事もなかったかのように立ち続けていた。

 

『顔色ひとつ変えないなんて……』

 

「予想はしていた……っ!」

 

俺が展開した拘束魔法の一部はもはや凧糸のように簡単に振り払われていたが、まだ下半身に絡ませた鎖は破壊されていない。

 

表面上には現れていないが、生物学上人間であるのならばランちゃんの射撃魔法だって効果はあるはずだ。動きを止められているこの好機を逃す手はない。

 

凧糸そこのけな拘束魔法でも若干程度は動きを阻害してくれるだろうと祈りながら、襲歩で一気に距離を踏み潰す。

 

速度を乗せた左拳を顔面めがけて振るう。

 

『…………』

 

コルティノーヴィスさんは襲歩による急速接近を見切った上で、俺の手を左手で止め、右手で掴む。襲歩を攻勢に使用したのは初めてだというのに、苦もなく対応してみせた。

 

「両手を使ってくれるなんて、好都合だ」

 

近接戦においてならば、この人はクロノやアルフに比肩する。もとから甘い算段なんてしていない。防がれるまでは予定内。

 

『…………』

 

「そっちは囮でした、ってな」

 

彼の両手を俺の左手ごと、鎖で縛り上げる。

 

ほんの少しの間、動きを封じられればそれでいい。一秒に満たないその時間さえあれば、俺は万全整えて全身全霊で打ち込める。

 

右手を彼の身体、その中央に添える。

 

必要なのは、嵐の前の静けさに似た、一瞬の静寂。

 

繰り出されるは、全身の筋肉を余すところなく駆使した、爆発的一撃。

 

「……発破」

 

ドグォンッと、およそ人体から聞こえてはいけない音がした。

 

まともに直撃したコルティノーヴィスさんの身体がくの字に曲がり、トラックにでも()ねられたみたいに景気良く転がっていった。

 

「っ、はぁ……」

 

綺麗にはまった、その自負はある。

 

俺が収斂(しゅうれん)させた力は、そのままコルティノーヴィスさんの身体を貫いた。

 

なのに、手に残る異物感が、心に残る違和感が、俺の中で警鐘を鳴らし続ける。

 

『……やったかしら?』

 

『今決定しちまったよ……やれてない』

 

ランちゃんが建てたフラグとは、たぶん関係ないだろう。

 

コルティノーヴィスさんは糸か何かに吊り上げられるように、不気味に身体を起き上がらせる。再び悠然と立つその姿には、ダメージの余波など見て取ることはできなかった。

 

『…………』

 

「……あかねと戦った時とも違う。マジで化け物かよ……」

 

時の庭園でリニスさんを乗っ取ったあかねと拳を交えた時も、俺の切り札であるところの発破は通用しなかった。しかし、あの時ですら、やり方は常識外れもいいところだったが理屈は理解できたのだ。

 

今回は理解もできない。障壁に(さえぎ)られた手応えも、魔力の圧に(さまた)げられた感触もなかった。

 

生み出した破壊力は、たしかにコルティノーヴィスさんの内側を通ったはずなのに。

 

「……発破でも止められないんじゃ、手段が……」

 

切れる手札が一気に心許なくなって冷や汗を流していると、ランちゃんから念話が届いた。

 

『……徹ちゃんの腕には大砲でもついているの?コルティノーヴィス氏のお腹に風穴が空いちゃってるのだけど……』

 

切迫した状況だというのに、何冗談を飛ばしているのだ。

 

『どんな改造人間だ。大砲なんてついてないし、風穴なんて空くわけない。さっきの技は外的ってよりも内的な破壊なんだから』

 

『……でも、実際に氏のお腹に大きな傷ができちゃってるわぁ……』

 

『はぁ?そんなわけ……』

 

ジュリエッタちゃんの近くにまで下がっていたコルティノーヴィスさんを見る。

 

ランちゃんの射撃魔法によって露わになったのだろう、彼の腹部が外気に触れていた。破け飛んだ服の内側では、隆起する腹筋と、目にするだけで背筋が凍るほどの深い傷があった。

 

遠目にも致命傷だと判断できてしまうほどの傷が、とてもではないが動いてはいられないほどの傷が、そこにはあった。

 

もちろん俺が(つく)った怪我ではない。俺の持つ技術では身体の表面を抉り飛ばすような傷は創れない。そもそも腹部に空いた重傷は、今この場でできたものではないようだ。周囲の血が酸化して黒く固まっている

 

つまりは。

 

俺ではない誰かに、今ではないどこかで、その深手を負ったということになる。

 

「あなたは……な、なんで……」

 

なんで動いていられるのか。思わずそう尋ねようとして、しかしあまりの光景に喉が干上がってしまって後が続かなかった。

 

「こほっ、けほっ……ごほっ」

 

『…………』

 

不意に動いた俺を警戒したのか、コルティノーヴィスさんはジュリエッタちゃんを庇うように身を乗り出す。

 

そこで俺は、遅れ馳せながら気づいた。

 

「は……っ、なにも見えてなかったんだな、俺……」

 

初めての任務とか、仮にも隊を預かる立場とか、苦戦を強いられている戦況とかに、どうやら俺は一丁前に気負っていたらしい。ここにきてようやく、気付くくらいなのだから。

 

「んぐっ、げほ、ごほっ……っ」

 

昨日よりも、ジュリエッタちゃんの体調が悪化している。

 

咳をする回数も多くなっているし、なにより顔色がとても悪くなっている。目の下は隈が目立ち、頬は()けてしまっていた。美しかっただろう髪は乱れて、身に纏う民族衣装も汚れがひどくなっている。

 

たった一日でここまで弱るなんて、衰弱の速度も異常だ。明らかに、昨日から休息を取れていない。

 

そもそもだ。事態が急転しすぎて後回しにしてしまっていたが、この子がこの場にいる理由だって不確かだったのだ。

 

最初はコルティノーヴィスさんのお目付役かと思っていた。コルティノーヴィスさんが逃げ出そうとしたら仲間に知らせて人質に危害を加えるとか、そんなありがちな手法で脅しているのかと思っていた。

 

だが、実の親子だった。その気になれば、移動中はそうしていたようにジュリエッタちゃんを抱えて、いつだって逃げることができる状況だったのだ。

 

コルティノーヴィスさんが、なぜ『フーリガン』から抜けることを選ばなかったのか。なぜ無法者どもの命令を抵抗も反抗もせずに、従順に唯々諾々と遂行しているのか。

 

引っ掛け問題みたいなもので、わかってしまうと単純だった。

 

「アサレアちゃんとクレインくんが手に入れた情報は……正しかったんだな」

 

コルティノーヴィスさんは(・・・・・・・・・・・・)、最初から『フーリガン』なんぞに従ってなんていなかった。

 

従っていたのは、従わざるを得なかったのは娘のジュリエッタちゃんだったのだ。

 

貴重な情報を伝えてくれた時のアサレアちゃんの表情を、言葉を、胸が痛くなるほど思い出す。

 

 

 

『あの魔導師……コルティノーヴィスさんを殺したって(・・・・・)

 

 

 

「なんだよ……これ。救いようがねえだろうが……っ」

 

既に殺害されていた、アルヴァロ・コルティノーヴィス氏。

 

人の形さえしていればなんでも操れるというクレスターニの秘術、ドラットツィア。

 

物体の記憶を読むという稀少技能(レアスキル)残響再生(ナッハイル・スピーレン)

 

そして。

 

コルティノーヴィスさんの娘にして、クレスターニの系譜に連なり、稀少技能をも発現させた少女ーージュリエッタ・C・コルティノーヴィス。

 

これらの情報が弾き出す答えは、たった一つの胸糞悪い結末。

 

 

 

この事件に、ハッピーエンドはない。

 

 

 



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その想いまでは、

 

コルティノーヴィスさんがすでに亡くなっているのだと仮定すれば、納得のいく説明がつけられる。ジュリエッタちゃんとジュスティーナさん、二人の心に消えない、癒えない傷をつけることになるけれど。

 

『…………』

 

「けほっ……こほっ。ごほっ、がふっ……げほっ」

 

コルティノーヴィスさんの背後でジュリエッタちゃんがかすかに動いた。足元をふらつかせ、震える手で口を押さえて、苦しそうに咳をしていた。

 

咳がおさまると、もとの幽鬼のような体勢に戻る。かすかに見えた手のひらは赤黒く染まり、口の端には血が滲んでいた。

 

喀血(かっけつ)、していた。

 

ジュリエッタちゃんがどういった容態なのか、その理由を解き明かしそうな現象を、左目が感じ取っていた。

 

少女の身体から発され続けている妙な流れの魔力。強くなったり弱くなったりと不安定に波打つそれは、まるで力が尽きかけた蝶か、風に揺られて消えそうな蝋燭(ろうそく)の火だ。

 

不安定な魔力の波に加えて、血色の悪さ、手の震え、ふらつき、咳、喀血。

 

似たような症状を俺は知っている。俺も身を以て味わったことがある。

 

「……魔力の過消費。……保有魔力の、枯渇」

 

魔法を使い過ぎたことが原因の魔力切れ。血を吐くほどともなれば、リンカーコアに多大なる負担を強いていることは確実だ。魔力欠乏の度合いはかなり深刻なレベルにまで進行している。

 

「ああ……これは、久しぶりだな……」

 

人形劇場で、母親であるジュスティーナさんからジュリエッタちゃんの話を聞いていた。

 

ジュリエッタちゃんは、クレスターニの家系に代々継がれてきた操作系魔法・ドラットツィアは扱えるが、だからといって正式に魔法を学んでいるわけではない。一般的なミッドチルダ式の各種魔法は知らないし教えられてもいないので無論、使えるわけはない。

 

ジュスティーナさんと同様、あくまで傀儡師であり人形遣いであって、魔導師でも魔法使いでもない。

 

ジュリエッタちゃんが扱える魔法はドラットツィアだけ。

 

そんな彼女が重度の魔力欠乏に陥っているということは、その操作系魔法(ドラットツィア)を過度に使用し続けているということにほかならない。

 

そして、これもまたジュスティーナさんが教えてくれたこと。ドラットツィアは人形を操る魔法だが、人の形をしていれば、あとは才能があれば、例え対象が大きくなっても操作できる、と。

 

ジュスティーナさんのお祖母様が動かしたという五メートルの藁人形に比べれば、この程度は可能な範囲、なのだろう。約百八十から百九十センチの男を操ることも、不可能ではないのだろう。

 

なんとも、(はらわた)が煮えくり返りそうになる話だ。

 

「この絶望感と苛立ちは……久しぶりの感覚だ」

 

『フーリガン』のトップ、リーダーは邪智狡猾(じゃちこうかつ)にして悪辣無比(あくらつむひ)であることは、これまでの行いでわかった気がしていた。

 

だが目算が甘かった。そんなものではなかった。

 

父親を殺めて、その上で父親の実の娘に操らせ、生まれ育った街を蹂躙させる蛮行の手伝いを強制させる。

 

これほどの悪人を罵る言葉を、俺は持ち合わせてはいない。

 

「救えないのなら……せめて」

 

感情も魂すらもない(むくろ)と、心身ともに削り果てた少女を見つめて、拳を握り込む。

 

もはや、誰もが笑顔で終わる結末など、望めない。俺が、俺たちがここにきた時点でそんな結末は望めるべくもなかった。

 

だとしても、せめて。

 

コルティノーヴィスさんの名誉だけは、取り戻してあげたい。ジュリエッタちゃんがこれ以上傷を深くしないよう、救い出してあげたい。

 

それが、それだけが、きっと俺のできる唯一の贖罪になると信じて。亡きコルティノーヴィスさんのせめてもの救いになると願って。

 

『ランちゃん、もう……援護射撃はいい。これ以上あの人の身体を傷つけたくはない』

 

『傷つけたくないって……だからって無抵抗のままじゃ、徹ちゃんがっ!』

 

『いや……もう、わかったんだ。わかってしまえば、簡単だった。もう俺一人で対処できる。だからランちゃんは、先に後退してるユーノたちについて指揮してやってくれ』

 

『いきなりなんとかなるものじゃあないでしょう?』

 

『大丈夫、だから。……ユーノたちと合流したら、アサレアちゃんから話を聞いてくれ。きっとランちゃんなら、すぐにわかる』

 

なんて要領を得ない説明なのだろうと、自分でもわかっている。

 

だとしても、それで納得してもらうほかなかった。丁寧に事情を説明する暇はない。

 

『……自暴自棄になったってわけじゃ、ないのよね?』

 

『あたりまえだろ。……俺はいつだって最大限の最善を求めるような、欲張りなんだから』

 

『……ふぅ。信じてるわよ』

 

『悪い。助かる』

 

呆れたようなため息をついて、それでもランちゃんは俺の意思を尊重してくれた。

 

崩れかけた家屋の屋根を一歩二歩後退(あとずさ)りして、ユーノたちが向かった方角へと飛翔した。

 

付近に飛ばしておいたサーチャーでランちゃんの後ろ姿を見送って、両の目で正面を見据える。憐れな操り人形と、痛ましい人形遣いを。

 

「終わらせるよ。これ以上……苦しみ続けないために」

 

 

 

 

 

 

俺一人で大丈夫、というのは決して強がったわけではない。頼りになるランちゃんを退がらせるだけの理由と、自信がある。

 

昨日の時点で、少なからずおかしいと思った部分はあったのだ。

 

『…………』

 

「遠距離攻撃の可能性はない、打撃技だけ警戒すればいい……」

 

「っ……ごほっ」

 

肉薄してくるコルティノーヴィスさんの拳がぎりぎり届かない距離を維持し、回避し続ける。

 

疑問に感じる部分の一つというのが、これだ。

 

ランクの高い魔導師というわりには、コルティノーヴィスさんが使用する魔法の種類が限定されすぎている。ランちゃんが推測するにはミドルレンジからロングレンジの攻撃手段もあるはずなのに、それらの一切を未だに俺たちは見ていない。どころか、防御魔法すら使っていない。

 

その謎に対する一定の解答は、左目が導き出した。

 

「……動いても動いても、金魚のフンみたいにコルティノーヴィスさんにくっついて回る魔力の帯……あれがドラットツィアか」

 

ジュリエッタちゃんから放出され、コルティノーヴィスさんへと集まる異形の魔力。それは人形を操るドラットツィアの魔法であると同時に、繋がったラインを使ってコルティノーヴィスさんへ魔力を送っているのではないかと、俺は()(はか)る。

 

つまりは、既に亡くなった身であるコルティノーヴィスさんのリンカーコアを使って、ジュリエッタちゃんが魔法を行使していたのだろう。そうでなければ、コルティノーヴィスさんの身体に纏っている移動系、肉体強化系の魔法の説明がつかない。正規の訓練を受けていないジュリエッタちゃんは、ドラットツィア以外の魔法を知らないのだから。

 

しかし、それら展開されている魔法ももう長くは続かないことを、左目が捉えてしまう。

 

「昨日より、魔力が薄い……」

 

昨日戦った時よりも、もやもやとした異様な魔力の色彩に厚みがない。

 

ドラットツィア自体は維持できているが、送られている魔力の量が落ちていた。

 

ジュリエッタちゃんの魔力が底をつきかけているためだろう。その推測を(しょう)するように、腕が(かす)んで見えるほどの異次元的な連打は繰り出してこないし、姿が消えたと錯覚するほどの高速移動も今日は路地裏で一度披露しただけだ。明らかに昨日よりもパフォーマンスが落ちている。

 

ジュリエッタちゃん自身も、無理をして魔法を維持しているせいで身体機能に支障をきたしているほどだ。昨日戦った時の機動は一時的ならともかく常時発動はできないだろうし、防御魔法に割く魔力なんて残っていない。射撃・砲撃魔法なんて(もっ)ての(ほか)なはず。

 

仮に、俺の自慢の防御術式・魚鱗すら剥がし飛ばした例の連打を使ってきたとしても、今となっては対処のしようもある。

 

「げほっ、がふっ、ごほ、ごほっ……っ」

 

『…………』

 

「っ……ちぃっ」

 

風に煽られる蝶のようにひらひらと逃げる俺に焦れたのか、ジュリエッタちゃんは無理を押して高速移動術を利用した連打を使う。

 

「来るとわかってても、速い……けどっ!」

 

機関銃じみた連打を、超高速演算状態(テンポルバート)で処理しつつコルティノーヴィスさんから距離を取ろうと画策する。

 

ジュリエッタちゃんの魔力が続く限りは暴風雨のような拳撃が吹き荒ぶことになるが、初見の時とは違って今は対抗策がある。

 

「ここなら……やりにくいだろ」

 

『…………』

 

「っ、ごほっ……っ」

 

動いているのはコルティノーヴィスさんの身体だが、その実、動かしているのはジュリエッタちゃんだ。コルティノーヴィスさんの身体に刻まれた戦闘の記憶を残響再生(ナッハイルスピーレン)で読み取り、人形操作魔法(ドラットツィア)で操っている。

 

稀少技能(レアスキル)とクレスターニの秘術を絶妙に組み合わせた連携技で、一見付け入る隙がなさそうにも思えるが、そうではない。

 

「その角度なら俺がコルティノーヴィスさんの背に隠れて……見えにくいだろ」

 

あくまでも、攻撃対象をジュリエッタちゃんの目で見なければいけないのだ。

 

昨日戦った際にランちゃんから支援射撃を受けた時は急に動きが悪くなったし、先ほど路地裏で廃墟を倒壊させた時は無理に突撃してこなかった。舞い上がる土煙に視界を遮られるからだ。

 

唯一と言える『穴』。そこを突けば、コルティノーヴィスさんを地面に引き倒すことは難しくとも(しの)ぐことはできる。

 

コルティノーヴィスさんという強固にして強大な『壁』を、乗り越えることができる。

 

ジュリエッタちゃんの哀しい魔法を止めに行くことが、できる。

 

ジュリエッタちゃんが望む『救い』と、俺がしようとしている『救い』は、きっと違うのだろうけれど。

 

「……覚悟を決めろ。そのために俺は、ここにいるんだから……」

 

ここからは速さが何よりも重要になる。コルティノーヴィスさんの拳撃を振り切り、ジュリエッタちゃんの目が追いつかないほどの、爆発的なまでの速度が必要だ。

 

魔力付与魔法と比べて出力に劣る現時点の循環魔法では難しいのなら、さらに深みに、より高みに、研ぎ澄ます。

 

「……自分で引いた限界の線なんて、踏み越える」

 

ぴりぴりとした痛みが熱を持って大きく広がっていく。

 

弱音を吐きそうになる自分に言い聞かせるように、呟く。

 

「げほっ、がふっ…………る、さい」

 

体内を巡る魔力をコントロールする循環魔法。既にその出力は上限だ。これ以上出力を上げれば身体が内側から爆ぜるかもしれない。

 

だから、上げるのは出力ではなく、体内を循環する魔力の範囲。より深く、より細かく、魔力の線を全身に延ばす。

 

意識を体内へ向ける。

 

「先へと歩き続けなきゃ、上へと目指し続けなきゃ……死んでるのと同じだ」

 

思い浮かべたのは、俺よりも先を進み、上に立つ仲間たち。彼ら彼女らの背中。

 

「っ、ごほっ、げほっ…………ぅ、るさい」

 

血管、神経、筋肉、骨。

 

さらに奥へ。

 

細胞レベルにまで魔力を行き渡らせるイメージを。

 

苛烈な戦いに耐え、過酷な運動に順応できる身体を。

 

頭の中で思い描いて実行した途端、身体の至る所で炸薬が弾けたのかと思った。時の庭園でエリーと和合(アンサンブル)の強度を引き上げた時のような、意識が根こそぎ(さら)われそうなほどの衝撃。痛みを超えた感覚が押し寄せる。

 

「……っ、いけないんだっ」

 

それでも耐えられた。一度同じくらいの衝撃を味わった経験があったことと、やり遂げなければいけない使命があったおかげだろう。

 

目の前の苦しいんでいる少女を救うこと。才覚目覚ましい仲間たちの隣で肩を並べること。そして、囚われたエリーとあかねを救うこと。

 

そのために今以上の『力』が必要なのであれば、例えこの身が朽ちようと求め続ける。

 

「同じ場所で立ち止まってたら、いけないんだっ!」

 

「ごふっ……っ、うるさいっ!」

 

全身を(さいな)む熱と痛みを誤魔化すように()えると同時、ジュリエッタちゃんもまた血を吐きながら叫んだ。

 

彼女の(たけ)りと同期するように激しい魔力が放たれる。これまでよりも強い方向性を有した魔力がコルティノーヴィスさんへと送られた。

 

『ッ…………』

 

きっと、俺の見間違いか、それでなければ勘違いだろう。人形よりも感情が見えなかったコルティノーヴィスの瞳に一瞬、されどたしかに、光が(とも)ったように見えたのは。

 

それが見間違いでもなければ勘違いでもないと気づいたのは、一秒にも満たない時間の後だった。

 

コルティノーヴィスさんの左腕が霞む。防御体制を整えたが、彼の左の拳は寸前で止められた。

 

驚く俺の視界の端で、何かがかすかに動いた気がした。

 

『ッ…………』

 

右の拳が、すぐそこまで迫っていた。

 

「フェイント……っ!?」

 

咄嗟(とっさ)に障壁を張り、寸毫(すんごう)作ることができた空白の隙に左手を挟む。

 

これまで一度もなかったバリエーションだった。

 

ジュリエッタちゃんは記憶を読み取れるといっても、読み取った記憶通りに完璧に操ることは難しかったのだろう。フェイントや立ち回りなどの心理的駆け引きは一度も見せなかった。

 

ここまで温存する理由なんてない。

 

だとすれば、思い至るのは一つの可能性。

 

自分で引いた限界の線を俺が踏み越えたのと同じように、ジュリエッタちゃんも自分の能力の先へと辿り着いた。

 

「これはっ……っ、昨日よりもっ……」

 

魔力に余裕があった昨日よりも速く、重く、鋭い一撃だった。

 

盾代わりにした左腕から、嫌な音とともに凄まじい痛みが生じる。腕がまだくっついているのが不思議なほどの破壊力だ。

 

『ッ…………』

 

循環魔法のステージを引き上げていなければどうなっていたかわからない。ステージの引き上げが間に合ってよかったと安堵した俺の背筋が凍る。

 

「もう、次がっ……」

 

コルティノーヴィスさんは拳を振り抜いた勢いそのまま回転。高速移動術を使用した上で、回転による遠心力、強靭にして柔軟な筋肉と足や腰を駆使した捻転力。それらの生み出されたエネルギーを余すことなく乗せて、蹴りの動作に移っていた。

 

高速機動下においてこれほど身体の末梢に負担のかかる動きをすれば、毛細血管が切れるとか筋肉が傷つくとかそんな低いレベルの影響では済まない。もっと深刻なダメージを負う。

 

この後の戦いを捨ててまで、俺を潰しにきた。

 

「っ……」

 

正面から受け止めるのは愚策だ。それはすぐにわかる。仮に魚鱗を展開しても、互い違いに四層重ね合わされた障壁の全てを裂き、砕き、貫くだろう。

 

だからといって、拳撃を左腕で防いだことで崩れた体勢ではすぐに回避もできない。腕か、胴体の一部か、最悪頭部か、必ずどこかを抉り飛ばされる。

 

追い込まれた俺は、閃きを求めてコルティノーヴィスさんを見やる。

 

『…………っ』

 

視線が交錯(こうさく)した気がした。

 

すでに亡くなっているはずのコルティノーヴィスさんの瞳が語りかけてきている気がした。

 

「っ…………」

 

どこかで飛び交っている念話が混線しているのか、それでなければ俺の妄想や幻覚だろう。

 

そうでなければ、おかしいのだ。死者が生者にメッセージを送ることなど、ありえない。ありえてはいけない。

 

だからこれは、俺の妄想であり、幻覚だ。

 

 

 

『救ってやってくれ』

 

 

 

そう、暗褐色の瞳に語りかけられたなどと感じたのは、きっと。

 

でも、だとしても、俺は受け取ってしまった。

 

娘を苦しませ続けながら戦い続けている父親のメッセージを、受け取ってしまった。

 

ならば、もうやることは一つしかない。

 

「ああぁぁッ!」

 

死神の鎌のように横薙ぎに振るわれる回し蹴りの軌道上に、魚鱗を斜め(・・)に展開させる。崩れた体勢から屈むまでの、一瞬足らずの間でいい。時間を稼ぎ、死神の鎌の軌道を上へとずらす。作り出した安全地帯へ姿勢を低くして逃げ込んだ。

 

『…………』

 

魚鱗の障壁四層のうち二層を引き剥がし、三層目に深々と爪痕を残した蹴りは俺の頭上数センチを通り過ぎた。人体から発生させることができるのかと危惧するほどの風圧。音すらも置き去りにしたのか、後になってから風切り音のように似た異音が俺の耳を(つんざ)いた。

 

コルティノーヴィスさんの右足を覆っていた管理局の制服は膝から先の布が吹き飛び、その身には裂傷が散見された。それでもおそらく、外側よりも内側のほうが被害は大きいだろう。

 

「どう、やって……っ、ごほっ、げほっ」

 

「もう……終わらせる!」

 

もうこれ以上傷つけてはいけない。コルティノーヴィスさんのご遺体も、ジュリエッタちゃんも。

 

低くした姿勢のまま、右手は地面を掴み、両足は地面を踏みしめる。

 

「一息に、突破する!」

 

高速移動術、襲歩。以前までとは体感速度がずいぶんちがう移動術で、コルティノーヴィスさんの脇を駆け抜ける。

 

いや、吹き抜ける、と訂正すべきかもしれない。

 

たしかに俺は、コルティノーヴィスさんに妨害されずにジュリエッタちゃんのもとまで近づくために、全身全霊の力は込めた。

 

だが俺は勘違いしていたのだ。循環魔法のステージを引き上げた、その意味と効果を。

 

コルティノーヴィスさんの拳撃一発で左腕が使用不能になったことから、思ったほど強度は上がっていないのかと誤解していたのだ。

 

こうして動いてみて、ようやく実感した。前の段階とは比べるべくもない。魔力付与すら余裕を持って上回る。

 

つまり何が言いたいかというと。

 

一息どころか一歩でジュリエッタちゃんのすぐ斜め後ろにまで到達した。移動の際につきすぎた勢いを殺すために着地時に発破を使って運動エネルギーを地面に放出したくらいに。

 

「っ……げほっ、っ……」

 

すぐ近くで鳴り響いた爆音にジュリエッタちゃんが振り返るーー

 

「……念のため、視界を塞がせてもらうよ」

 

ーーその前に、俺は背後に移動して彼女の目元を手で覆う。

 

ジュリエッタちゃんの使う魔法は、攻撃する対象も攻撃させる対象も、どちらも視認して操作しなければならない。俺が背後にいることはわかっても、コルティノーヴィスさんがどこにいるか正確にわからなければまともに操ることはできないだろう。

 

それにここまで近づけばジュリエッタちゃんが人形操作魔法(ドラットツィア)を解除しなくても、俺がハッキングで強制的に停止させられる。

 

こうなった時点で、詰み。チェックだ。

 

これで、終わりだ。

 

「や……め、て……ごふっ、げほっ。はな、して……」

 

「っ…………」

 

視界を奪う俺の手を外そうとジュリエッタちゃんが手をかけるが、外せない。外せるわけがない。

 

彼女の手は凍えているかのように冷たくて、小刻みに震えて、まるで力が入っていない。

 

ジュリエッタちゃんと同じような症状を経験した俺からすれば、こうして未だに二本の足で立ち続けられていることがすでに異常だ。ここまで魔力欠乏が進行していれば、ただ呼吸をすることでさえも苦痛を伴う。

 

そのはずなのに、どうしてこの子は。

 

「もう、やめるんだ。ぜんぶ、終わった……終わったんだ」

 

「お、わって……ないっ……ごほっ。いうこと……きいたら、お母、さんを……かえしてくれるって、ごほっげほっ……言ってた。ちゃんと、やれば……お父さんを助けてくれるって、言ってた……。だか、ら……」

 

「っ……だから君は、こんなことをしていたのか……。お父さんとお母さんを助けるために……街を破壊した奴らの命令に、従っていたのか……っ」

 

おそらく、というよりもおおよそ間違いなく、コルティノーヴィスさんは家族を人質にされたために『フーリガン』に敗北したのだろう。正攻法でコルティノーヴィスさんを下すような魔導師など『フーリガン』にはいない。

 

『フーリガン』は最大の障害であるコルティノーヴィスを打ち取った後に、次はジュリエッタちゃんを脅した。母親と父親の命を交換条件で突きつけて、協力するように迫った。

 

「あたしが、やりとげれば……また前の生活にもどれるんだからっ……ごほっ、ぐぶっ……。お父さんと、っ……お母さんが、いる……いつもの生活に……げほっ」

 

ジュリエッタちゃんには、その脅迫を突っぱねる手段などなかっただろう。協力しなければジュリエッタちゃんを含めて全員殺されるのだから、そもそもほかに取れる選択肢は存在しないのだ。

 

「くそがっ……くそ野郎どもがッ……」

 

『フーリガン』は、ジュリエッタちゃんとの約束を守る気など毛頭なかった。

 

俺たちの部隊が人形劇場の近くまで進んだ時、『フーリガン』の魔導師たちと戦闘になった。だが、(かな)わないと判断したのだろう。人形劇場にいた魔導師たちは撤退を始めた。劇場の隠し部屋で倒れていたジュスティーナさんの傷の具合から(かんが)みるに、『フーリガン』は劇場から逃げ出す前に、射撃魔法なりなんなりの攻性魔法を使ってジュスティーナさんを負傷させた。

 

結局、『フーリガン』の連中にとってみればその程度の存在だったのだ。脅迫の材料だから生かしてはおくけど、管理局に保護されていろいろ喋られるのは都合が悪い。逃げる際に一緒に連れていくには邪魔になる。だから、分が悪くなれば口封じする。そのくらい低い優先度。

 

コルティノーヴィスさんについては、もはや言葉にするまでもない。

 

果たすつもりなんて欠片ほどもない約束、だったのだ。

 

「……君のお母さんは管理局が保護してる。だから、もう魔法を解いてくれ。これ以上は君の身体に障害が残る可能性もある」

 

「ごほっ、げほっ……だ、め……。最後、まで……やらないと、っ……お父さんを助けてもらえない……から」

 

ジュリエッタちゃんは、ここまできてもまだ『フーリガン』の命令に従っていた。両親を助ける、なんていう薄っぺらい約束を盲目的に信じていた。

 

それほどまでに、この少女は追い詰められている。この子がどれだけ苦しんでいるかは、苦しめられているかは、理解している。

 

それでも頭に血が上ってしまった。『フーリガン』の屑どもに苛立ちが募りに募って、積もりに積もっていたせいだ。こんなこと八つ当たりみたいなものだとわかっているのに、口が動いてしまう。語気が荒くなる。

 

「助けてもらえないって……ッ!もう助けられないことはッ、君が一番わかってるだろッ……だってッ!」

 

人形を操作するためだけの魔法、ドラットツィア。精巧に作られていればいるほど、複雑な動きも取らせることが可能。センスにも左右されるが、五メートル近いサイズの藁人形さえも操ることができる。

 

この魔法を使える条件は、人の形をしていることと、もう一つ。ジュスティーナさん曰く、絶対的な条件が存在する。

 

「その魔法は……ドラットツィアはッ、命があるものは操れないって君が一番わかってるだろうッ!」

 

生きているものは操れない。だからこその、人形(・・)操作の魔法。

 

その原則を、ジュリエッタちゃんが知らないわけがない。

 

「わかっ、てる……わかってる、よ……」

 

「じゃあ、なんでッ」

 

「それでも……お父さんを、助けてくれるって、言ったから……ごほっ、ごほっぐふっ……お父、さんを……っ、んぐっ……助けられる魔法を、知ってるって言ってたから」

 

「ッ!」

 

頭の中の血管が切れそうになる。一瞬、視界が赤く染まったほどに怒りがこみ上げる。

 

死んだ人を生き返らせる魔法。

 

そんな夢のような魔法を追い求め、探し求めた人を知っている。見つからなかったという結果も、その結果に行き着くまでに起こした事件と犯した罪も、知っている。

 

それだけの無理をしても、それほどの無茶をしでかしても、亡くしてしまった人を取り戻す魔法なんて見つからなかったことを、俺は知っている。

 

「そんな都合のいい魔法なんてないッ!天才と呼ばれるほどの魔導師が長い年月血が滲むほど努力と研究をしても見つからなかったんだ!そんな魔法なんてないんだよッ!」

 

「でも、助けてくれるって……言った、から……だか、らっ……」

 

「っ……そうか。……わかったよ」

 

わかった。わかってしまった。

 

ジュリエッタちゃんは『フーリガン』を信じているわけではない。ただ、(すが)っているのだ。

 

現実を直視したくなかった、目を逸らしていたかった。頑張れば助けられるんだと、自分に言い聞かせていたのだ。

 

ある意味では、言い訳のようなものなのだろう。

 

大好きな母親から教わった魔法で、大好きな父親の身体を操って戦わせて、生まれ育った大事な街を蹂躙(じゅうりん)する犯罪者たちの手助けをする。

 

見たくないものをたくさん見てきたはずだ。やりたくないことをたくさんやってきたはずだ。

 

そんなことをやり続けるのは大人でも難しい。子どもでは不可能に近い。普通の精神状態では、まず、できない。

 

だから、両親を助けるためだと自分に言い聞かせた。言うことを聞いていれば助けてくれるのだと信じ込ませた。自分すら騙して、心すら殺して、縋り付いた。

 

そうやって必死に自分がしていることを正当化しなければ、先に心が壊れてしまう。

 

ならば、ジュリエッタちゃんはどこまでも付き従うだろう。助けてもらえるまで命令に従い続けるだろう。これで助けてもらえなければ、やってきたことがすべて無駄になってしまうから。犯罪者たちに協力しただけになってしまうから。

 

そんな自分を、許せないから。

 

ジュリエッタちゃんが自分で止まることができないのなら、誰かほかの人が止めるしかない。俺が止めるしかない。

 

頭に上った熱を冷ますように、長く息を吐く。

 

悲しい人形劇の幕を下ろす。

 

「……君の魔法に直接介入して停止させる。このまま続ければ、最悪の場合本当に君が死んでしまう。……痛みや不快感があるかもしれないが、我慢してくれ」

 

「っ……だ、め……っ、やめてっ……。このままじゃ……お父さんがっ」

 

「……君のお父さんに『救ってやってほしい』って……頼まれたんだ。お母さんのところへは俺が責任を持って連れていく。だから……お父さんのところへは連れていけない」

 

「や、やめっ……」

 

ジュリエッタちゃんは悲痛な声で目を覆っている俺の手を剥がそうとする。力の入らない手で懸命に抗う。

 

それでも俺は、この子を離すことはできなかった。

 

「……ごめんな」

 

「っ……ぅ、ぁ……」

 

ハッキングを開始する。デバイスを持っていないのでリンカーコアから直接魔法を停止させる。

 

ジュリエッタちゃんの身体に魔力を流し、奥深くまで潜らせて、すぐにそこまで辿り着いた。

 

「こんな状態で……」

 

ジュリエッタちゃんの体内を流れている魔力量を覗き見て、愕然とする。

 

アリシアのリンカーコアを診察したこともあるが、病み上がりのアリシアよりも身体を循環している魔力量が少ない。リンカーコアから生み出される魔力、自身が持つ魔力のほとんどをドラットツィアを通してコルティノーヴィスさんに注いでいた。

 

こんな状態で、どうやって自分の足で立ち、意識を切らさずにいられたのか。

 

ふと考えて、すぐに答えは出た。考えるまでもなかった。

 

それほどまでに、果たしたかった願いがあるのだろう。

 

それほどまでに、家族を助けたかったのだろう。

 

「ぅ、ぁ……っ、おとう、さ……っ」

 

擦り切れそうな意識の最中(さなか)にあっても、この子は父親を想っていた。

 

その悲愴なまでに一途な姿に罪悪感が込み上がる。

 

俺に何ができるわけでもない。死者を蘇らせるなんて、俺にはできない。いや、誰にだってできないし、できてはいけないのだろう。

 

「っ……本当に、ごめん……」

 

「ゃ、だ……っ、お、とうさ……」

 

それでも、こんな結末しか迎えることができなかったことに、ひどい無力さを感じる。

 

俺のしていることが本当に正しいのかわからない。後々、恨まれるかもしれない。このままやりたいようにさせることが、もしかしたらこの少女にとって一番の幸せに繫がるのではとさえ思える。その先がなくても今が幸せなら、と。

 

でも、俺は。

 

「でも……俺は、君は生きるべきだと思うんだ……。この先つらいことも悲しいことも多いだろう。でも君のことを、お母さんが待っているんだ……っ」

 

「っ、ぉ、かあさん……」

 

ジュリエッタちゃんの目元を覆う右手に、濡れた感触があった。同時に力が抜け、抵抗が弱まった。

 

俺の言葉が届いたのかはわからない。もしかしたら単純に気力が尽きたのかもしれない。

 

だとしても、ジュリエッタちゃんが自分の願いを諦めた以上、俺はその意志を引き継がなければ行けない。

 

ジュリエッタちゃんのお父さんーーコルティノーヴィスさんを蘇らせることはできないけれど、それでも。

 

「……最大限の努力はする。君がなるべく幸せに過ごせるように……。だからせめて今だけは、ゆっくり休んでくれ……」

 

「ぁ……」

 

ジュリエッタちゃんが展開し続けていた人形操作魔法(ドラットツィア)を切断、停止させる。

 

魔法と一緒に、張り詰めて続けていた神経と緊張まで切れてしまったのだろう。失神するように、少女は眠りに落ちた。

 

俺に寄りかかる倒れたジュリエッタちゃんの背中を支える。軽くて、華奢な身体。この幼い身でずっと、歯を食いしばって頑張っていたのか。

 

「よく、がんばったな……」

 

繊細なガラス細工を扱うように抱きとめる。

 

少女の視界を奪っていた右手を外す。

 

「……すぅ、すぅ……」

 

長い睫毛(まつげ)が涙で濡れていた。

 

心が軋む思いだが、強張っていた表情が今は緩んでいる。その寝顔は、起きていた時よりもずっと幼く見えた。

 

「……ん?」

 

左目が、変化を捉えた。

 

ジュリエッタちゃんの身体から放たれ続けていたもやもやとした魔力の帯が途切れる。その魔力の帯を左目で追って行けば、離れた場所でコルティノーヴィスさんが佇んでいた。

 

『…………』

 

魔力の帯の後尾がコルティノーヴィスさんに追いついたら、魔法の効果が切れて、本当に終わる。終わってしまう。

 

「…………」

 

コルティノーヴィスさんは、この幕引きをどう思うだろうか。生ける(しかばね)ならぬ、死せる人形であっても、愛娘の(かたわ)らにいることのほうが本望だったのではないかと、つい詮無い考えを巡らせてしまう。

 

誰が何をどう想おうと、もう取り返しなんてつかないのに。取り戻せなんて、しないのに。

 

『…………』

 

「えっ……」

 

魔力の帯が完全に取り込まれる寸前、こちらを向いていたコルティノーヴィスさんの口が動いた。俺が夢を見ているのでなければ、勘違いや見間違いなどではない。

 

発声はされない。表情も変わらない。

 

ただ唇が、言葉を紡ぐ。

 

 

 

『ありがとう』

 

 

 

理屈なんてわからない。残響再生(ナッハイル・スピーレン)で読み取った記憶のまま、ジュリエッタちゃんが無意識下で操ったのかもしれない。

 

可能性は探れるが、答えはわからない。

 

だとしても、この言葉は間違いなく、コルティノーヴィスさん自身の想いだ。

 

たった一言を、その言葉を、俺は受け取った。

 

「っ……俺はなにも、救えていません……」

 

眠っているジュリエッタちゃんを抱きしめる。

 

その想いまでは、受け止めきれなかった。

 



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『王』

 

 

「……そうか。あいつは……間に合わなかったか」

 

ノルデンフェルトさんはほとんど表情を変えず、ただ視線だけを下げた。きっと、こういう結末になることも考慮のうちだったのだろう。

 

「……はい、すいません……っ」

 

「いや、すまない。君を責めているわけではないのだ」

 

「しかし……」

 

「おそらくは、あいつからの定期連絡が断たれた段階でもう殺されていたのだろう。我々がこの街に来た時には既に手遅れだった。その状況から考えれば、君は最善の結果をもたらしたと言っていい。あいつの嫁と娘を助け出したのだからな」

 

「っ……ありがとう、ございます」

 

コルティノーヴィスさんと戦い、ジュリエッタちゃんを保護した後、俺は二人を担いで司令部まで戻った。

 

過度の疲労と極度の緊張から泥のように眠っているジュリエッタちゃんは、ユーノとニコルに預けて治療用テントのほうへと運んでもらった。

 

コルティノーヴィスさんについては、違う部隊のとある人たち、部隊長代理の無精髭さんを筆頭にとやかく文句を言われたが、少々話が長くなるし大変気分が悪くなるので割愛する。納体袋にコルティノーヴィスを納め、そのあとはランちゃんやファル、エルさんに任せた。

 

そこから、報告のために司令官代理のノルデンフェルトさんがいる天幕まで足を運び、俺が知り得た限りの事の顛末(てんまつ)を伝えた。

 

これで、今回の任務は完了のはずである。

 

もともとの任務内容は、このサンドギアの街の生存者の捜索と犯罪者の確保だった。意図しない形ではあったが街全体にローラー作戦を敢行したことで、生存者・犯罪者ともに捜索することができた。当初の予定と見積もりからは大きく外れることになったが、目的自体は達成されたのだった。

 

しかし今、俺は受けた任務以上に気にかかる問題を抱えていた。

 

「あの……ジュリエッタちゃんや、コルティノーヴィスさんの処遇については、どうなるのでしょうか?」

 

ジュリエッタちゃんとジュスティーナさんのこれからの生活と、コルティノーヴィスさんの(おとし)められた名誉。

 

これらの問題を解決しなければ、俺は任務を果たしたと心晴れやかに胸を張って帰るなんてできない。もっとも、こんな結末になってしまった時点で、心晴れやかに、なんて帰れはしないけれど。

 

俺の質問にノルデンフェルトさんはほんの少しだけ表情を穏やかにして、答える。

 

「その点については心配しなくて良い。君の部隊が生き残っていた住民を保護したのだが、その方が証言してくださった。街が襲撃された直後、アルヴァロ・コルティノーヴィスが果敢に戦っていた……と。つい先ほど、その住民を君の部隊の副隊長がここへ連れてきた」

 

「副隊長……あ、ランちゃんか……」

 

「そうだ。そこからなぜ『フーリガン』側についたような振る舞いをしていたかは、あいつの嫁が……ドラットツィア、だったか?その魔法についての証言と、あとは君が得た情報で説明をつけられるだろう。おそらく、離反したなどという疑いは払拭できる」

 

「そう、ですか……よかった。ジュリエッタちゃんについてはどうなるでしょうか?」

 

「両親を人質に取られていたような状況で、しかも幼い身で見るに耐えない光景を目にして……父親を目の前で殺されたのだ。君の目にも彼女の振る舞いには異常なものを感じたのだろう?」

 

「はい。問いかけてもまともな反応はなく、正常な状態とは思えませんでした」

 

「であれば、脅迫されていた事に加え、尋常ならざる精神的負荷により一時的な心神喪失、もしくは心神耗弱状態に陥っていたとすることもできるかもしれん。知り合いに詳しい者がいるので一度話を聞いてみるつもりだ」

 

「それならっ……」

 

「部分的な責任は生じるかもしれないが、あいつの嫁も娘も、悲惨なことにはならない。私がさせない。あいつの……アルの忘れ形見だ。私が、保証しよう。これで君も多少は安心できるかね?」

 

口元をわずかばかり緩めて、ノルデンフェルトさんが言う。

 

俺の態度がわかりやすかったせいもあるのだろう。考えていることは読まれていたようだ。

 

「……はい。少しだけ……心が軽くなりました」

 

素直な言葉が口をついて出た。

 

これから非常に大変にはなるだろうが、ジュリエッタちゃんと、その母親であるジュスティーナさんの生活は悪いものにはしないと、ノルデンフェルトさんが断言してくれた。コルティノーヴィスさんの名誉も守られると、確言してくれた。

 

俺たちの努力は実を結んだと、言外にそう言ってくれた気がした。

 

「ここに入った時から表情が固かった。一人で抱え過ぎなのだよ、君は」

 

ノルデンフェルトさんは居住まいを正して、俺の目を直視した。

 

その姿勢を変えぬまま、続ける。

 

「……君が何を考えているか全てわかるとまでは言わん。だが、君は最善の選択をして、その結果取れ得る限り最善の結末を迎えたと、私は思う」

 

続く言葉を強調させるように一拍置いて、ノルデンフェルトさんは口を開く。

 

「だから、誇りたまえ。胸を張りたまえ。君は一つの家族を救った。君は、正しい行いをしたのだ」

 

「っ……」

 

俺は、俺のしたことが本当に正しかったのかずっとわからなかった。

 

だがこうして、違う立場から俺のやったことが正しかったと認めてもらえて、ようやく自分で自分を認められるような気がした。ようやく自分の不甲斐なさを許せる気がした。

 

 

 

『ありがとう』

 

 

 

ようやく、コルティノーヴィスさんの最期の想いを受け止めることができた気がした。

 

「あり、がとう……ございます」

 

ノルデンフェルトさんから目線を外し、天幕を見上げる。顔を上げておかないと、泣いてしまいそうだった。

 

そんな俺を見てノルデンフェルトさんはかすかに笑う。

 

「君はまだ若いのだ。今はまだ、前だけ見て突き進めば良い。……さて、おそらく君と一対一で話すことができるのはこの場が最後だろう。なので伝えておこうと思う」

 

「……伝える?なにをでしょうか?」

 

「私は君の能力を、そしてそれ以上に心の在り様を認めている。今任務における君の功績は無論、上へと余さず報告するが、それとは別に私個人としても君を買っているのだ」

 

「あ、ありがとうございます。み、身に余るお言葉、痛み入ります……」

 

唐突な褒め言葉に戸惑った。

 

あたふたする俺に、ノルデンフェルトさんは続ける。

 

「私の役職は立派とは言えないが、なに、管理局に在籍している年数は長いのだ。部署によっては多少の融通は利く。何か困ったことがあれば気にせず言うといい。連絡先を渡しておこう」

 

「ありがとうございます!」

 

思わぬところで頼りになるコネクションを獲得できてしまった。

 

ただ俺はまだ学生の身であって管理局のどこかの部署で働くとかはできないしな、などと考えていたが、ふと思い出した。『陸』に所属している、俺の怨敵を。

 

「……あの、さっそくで申し訳ないんですけど、お聞きしたいことが……」

 

「何かね?私の知っていることであれば教えよう」

 

「……古代遺物管理部のアロンツォ・ブガッティについて、なにかご存知ですか?」

 

ブガッティと同じく『陸』に属しているからだろう、その名を知っているようだ。

 

ノルデンフェルトさんは(にわ)かに顔を歪めた。

 

「奴か……。真偽の定かではない噂はよく耳に入るが、実態は私も……いや、誰も掴んでいないのだろう。でなければ、今も管理局に籍を置いていられるわけがないのだからな」

 

「そう、ですか……」

 

なにか少しでも奴の弱みを握ることができればと思ったが、やはりそう簡単に事は運びそうにない。考えてみればそれも当然だろう。

 

奴の異様な速度の出世の裏には多くの疑問点がある。そのすべてにブガッティ自身が絡んでいるとまでは思わないが、偶然にしては重なりすぎている。いくつかはブガッティが直接的にしろ間接的にしろ、なんらかの形で関係しているはずだ。

 

非合法な手段を、まず間違いなく使っている。だというのに記録上では一切問題なく片付けられている。つまりは、証拠どころか痕跡すら残さないようにする手腕があるということだ。

 

一縷(いちる)の望みに賭けてみたが、やはり奴は書類上だけでなく『陸』の局員相手にも、尻尾もぼろも出していないようだ。ブガッティに対する手札は、依然として見つからない。

 

「……君は、奴と何か(いさか)いでもあったのかね」

 

眉根を寄せて肩を落とす俺を見て、ノルデンフェルトさんが言う。

 

ブガッティへの悔しさと腹立たしさから、外面を取り繕うのを忘れていた。

 

「……ええ、まあ」

 

言葉を濁す。事情を説明すれば、もしかしたらこの人なら協力してくれるかもしれないが、そうはしなかった。

 

ブガッティのやり方は下種の一言だが、手腕だけは優秀で徹底している。悪事を暴こうとする者がいれば、潰しにかかることは目に見えている。

 

他人を巻き込むようなことはしたくなかった。

 

「……奴の権力は膨れ上がるばかりだ。比例するように横暴になっているとも聞き及んでいる。私の方でも調べておく。何か分かれば連絡しよう」

 

「い、いえ、やめておいたほうがいいのでは……。ブガッティの性格を考えると敵対した相手に容赦をするとは思えませんし……」

 

「さすがに真正面から奴を糾弾するつもりなどない。裏から情報を集めるというだけだ。なに、長く勤めていればある程度は違う部署にもパイプはできるし、横の繋がりもある。奴のやり方に不満を持っている者も少なくない」

 

「しかし……」

 

「それに、君は私の友人の家族を救い、友人の名誉を守った恩人だ。手を貸すのは、もはや責務と言える」

 

「…………」

 

正直に言ってしまえば、すごくありがたい。

 

俺は管理局のデータベースこそ(非合法に)閲覧できるが、逆に言えばそのエリアくらいしか探れない。嘱託魔導師の身分で『陸』の部署内に出入りするのは不自然だし、局員から情報を聞き出すなんて不可能だ。

 

俺がどうしたって立ち入れない部分を、昔から管理局に勤めているノルデンフェルトさんがやってくれるというのは非常に助かる。

 

しかし、そうやって探っていることがブガッティに露見した場合、どうなるかわからない。危険な目に合わない保証はない。

 

管理局の内部で手伝ってくれる人がいるのはとても助かる。助かるけれど危険性を考えれば、お願いします、と即座には言えない。

 

下唇を噛んで黙りこくる俺に、ノルデンフェルトさんは一つ溜息を吐いた。

 

「あまり君が気に病むことではない。これは私にとってもメリットがあることだ」

 

「メリット、ですか?」

 

「そうだ。目の上の(こぶ)がなくなれば仕事がしやすくなる上、奴が失脚すればポストが空く。それに、そう時を待たずして出世するだろう優れた人材と人脈を形成しておくことは、私の未来にとって大きくプラスに働くだろう」

 

どうだ、とでも言わんばかりに唇の端を上げる。

 

優れた人材というのが俺を指しているのかどうなのかすごく悩ましいところではあったが、そこはどうでもいい。

 

本音なのか建前なのか判断に困るが、ノルデンフェルトさんがここまで言ってくれたことが重要なのだ。これで断るなんて、かえって失礼だ。

 

「ノルデンフェルトさんが思った以上にユーモアのある人でよかったです」

 

「君は見た目に反して生真面目で心配性なようだがな」

 

くすりと笑いながらノルデンフェルトさんは言う。見た目に反してとはどういうことか。

 

笑い終わると、手を俺の前に差し出してきた。意図を察してその手を握る。

 

「これからよろしくお願いします」

 

「ああ、任せたまえ。私自身のためだからな」

 

やっぱり、本音か建前かはわからなかった。

 

 

 

 

 

 

治療用天幕内部。その端っこ、角のほうにはありあわせの布で作ったと(おぼ)しきカーテンが引かれていた。

 

そのカーテンで仕切られた場所まで近寄ると、開く前に一言声をかける。

 

「俺だ。ユーノ、いるか?今入って大丈夫か?」

 

「はい、大丈夫ですよ」

 

返事をもらってから、カーテンを開く。

 

そこには、ユーノとニコルと、もう二人。簡易ベッドの上で小さな寝息をもらしているジュリエッタちゃんと、ジュリエッタちゃんの手をぎゅっと握るジュスティーナさんがいた。

 

「……ユーノ、ニコル、お疲れ様。下がって休んでていいぞ」

 

「兄さんも怪我をしているみたいですけど……」

 

「ん?あ、左腕のことか。服破けちゃったんだよなー」

 

「心配してるのは服についてじゃないですよ」

 

コルティノーヴィスさんから殴られた際に不穏な音を発した左腕は、今ではさほど痛みもなければ違和感もなかった。ただ、左腕を含めた全身に、虚脱感にも似た気怠(けだる)さとぴりぴりとした痛みはあった。

 

まあ、激しい戦闘の後なのでこういうこともあるのだろう。タイミングを見計らってユーノかニコルに治癒魔法を使ってもらおう。その方がユーノも安心できるだろうし。

 

「これでもずっと治癒魔法使ってたから、もうほとんど痛みはないんだ。でも一応、後で診てくれ」

 

「……わかりました」

 

「わたしは魔力を使い切っていたせいでほとんど役に立ってないんですけど……。ジュスティーナさんのそばについて、ジュリエッタちゃんの服を着替えさせたことくらいで……」

 

「いや、同性が近くにいるってだけで安心感は違うだろう。助かったよ」

 

俺は言いながら、ユーノとニコルが出られるようカーテンを開く。

 

別にこれは気を利かせているわけではない。ジュスティーナさんと話がしたいから、二人は席を外してくれというアピールだ。

 

「……それじゃ兄さんの気遣いに甘えます。ニコルさん、外に出て休憩しましょう」

 

「え……でも、隊長もずっと働き通しで疲れているのでは……。それにジュリエッタちゃんの身体も心配ですし……」

 

「それなら大丈夫です。兄さんはフィジカルお化けなので」

 

「お化け……たしかに」

 

ニコルさん、『たしかに』ってのはちょっと心外ですよ。

 

「それに兄さんなら、そこらの安っぽい医療機器よりも正確に診断できますから、心配ご無用です」

 

「そう、ですか。それなら安心ですね」

 

「はい、安心です。兄さん、ジュリエッタさんの容態(ようだい)は安定してますけど、もし急変したらすぐに教えてくださいね」

 

「ああ、わかった」

 

どうやらユーノは俺の言外のメッセージを読み取ってくれたようだ。ニコルを連れて外に出てくれた。

 

カーテンを閉じると、簡易ベッドのすぐ隣に置かれた椅子に腰掛けているジュスティーナさんに歩み寄る。

 

「……すいませんでした」

 

穏やかで、しかし深い悲しみを(たた)えた面持ちのジュスティーナさんに、頭を下げる。

 

「…………」

 

黙したままのジュスティーナさんに、自分の力のなさを謝罪する。

 

「……必ず保護すると約束したジュリエッタちゃんを、守ることができませんでした。旦那さんを……アルヴァロ・コルティノーヴィスさんを、助けることはできませんでした……」

 

罪悪感を和らげるためのおためごかし。自分が楽になりたいだけのパフォーマンス。そう受け取られても仕方がない。

 

厳しく責められるかもしれない。酷く罵られるかもしれない。怒りのあまり、殴られるかもしれない。

 

それでも、こうして直接謝らなければいけないと思った。

 

他の誰でもない、父親と離れたくないというジュリエッタちゃんの意志を(さえぎ)った俺が。謝罪と、何が起こっていたのかの説明をしなければいけない。その義務が、俺にはある。

 

何を言われるだろう、どんな叱責を受けるだろうと覚悟していたが、俺にかけられた言葉は想像をはるかに超えていた。

 

「……あなたには、重い負担をかけてしまっていたんですね。本当にすいません」

 

ジュスティーナさんは眠っているジュリエッタちゃんの頭を慈しむように撫でながら、あくまでも穏やかな表情でそう言った。

 

罵倒なんてものではない。非難なんてとんでもない。聞き間違えたのかと、そう思ったほどに。

 

彼女は身体の向きを変え、思考が空回りして呆然としている俺をじっと見る。

 

翠玉(すいぎょく)を彷彿とさせる瞳には、俺への怒りや恨みといった暗い感情はない。俺を気遣うような優しい色合いだけが、エメラルドグリーンに含まれて輝いていた。

 

「私、薄々こうなるんじゃないかと思っていたんです……」

 

「それ、は……どういう……」

 

「あの人は、たとえ自分の身がどうなろうと犯罪者を野放しにはしませんから。時間が経っても犯罪者たちが街に居座っていたということは、きっとそういうことなんだろうと……覚悟はしていました」

 

誰よりもつらいはずなのに、ジュスティーナさんは俺を安堵させるように柔らかく微笑んだ。

 

「半分以上、諦めていたんです。もう顔も見れないだろうと思っていました。なのに、あなたは夫の身体を持って帰ってきてくれました。それどころか、こうして娘と生きて再会させてくれました」

 

ジュリエッタちゃんに目を向けて、また俺に戻す。

 

ふわりと柔らかな微笑、穏やかな声音。

 

「心の底から感謝しています。ありがとうございます」

 

純粋な感謝の気持ちしか、その瞳にはなかった。

 

ジュスティーナさんにそういった意図があったのかはわからないけれど、それでも俺の心は少しだけ、軽くなった。

 

 

 

 

 

 

治療用天幕でジュスティーナさんと少しばかりお話して、ジュリエッタちゃんの容態を確認した俺は天幕を出て、同部隊のメンバーと合流した。

 

残っていた諸々の仕事が終了したらしく、とうとうこの地を離れる運びとなったのだ。

 

最初にサンドギアの街を訪れた艦船と同じ型の船に乗り込み、帰途に就く。

 

任務中はどうなることかと思ったし、多少の怪我もあったが、こうして無事に帰ることができて安堵のため息をつく。この船の乗り心地の悪さは相変わらずで、そこは嘆息するほかないが。

 

「ほんっとに『陸』はオンボロ船ばっかりなのねっ!行きも士気が下がるほどうんざりだったけど、任務で疲れきった帰りにこの船は苦痛でしかないわ!」

 

嘆息だけですまないアサレアちゃんはここでも元気よく文句を言っていた。

 

抑えることができないのかしないのか、やっぱりはきはきとした甲高い声で言ってのけるアサレアちゃんにクレインくんが顔を青くして(たしな)める。

 

「あ、アサレア……他にも人がいるんだから、もうちょっと静かに……」

 

「でもクレインさん、船に乗る前にぼやいてませんでしたっけ?『またあの船に乗るのか、やだな……』って」

 

「なんでこのタイミングで言うんですかスクライアさんっ」

 

「なによ、クレイン兄も同じじゃない」

 

「ぼ、ぼくは大声で言ってないよ……」

 

ウィルキンソン兄妹とユーノが、なにやら仲良さげにお喋りしていた。ウィルキンソン兄妹とは歳も近いし話しやすいということもあるのだろう。

 

「徹ちゃん、お隣いいかしら?」

 

年下三人を眺めていると、ランちゃんが液体が入った瓶二つを片手に、俺の隣に来た。

 

取るように促されたので瓶の一つをありがたく頂く。

 

「ん、ランちゃんか。さんきゅ」

 

「どういたしまして。……ノルデンフェルトさんとお話ししていたのよね。夫人とその娘さんのこと、何か聞いたかしら?」

 

俺の隣に腰を下ろすや、ランちゃんはそう尋ねてきた。

 

父親を亡くした親娘が気がかりだったのだろう。

 

「これから苦労は多いと思うけど……いろいろノルデンフェルトさんが手を回してくれるみたいだ」

 

「そう……旧友だったんだものね。娘さんのほうは?」

 

「ジュリエッタちゃんについても、身体の方は大丈夫そうだった。安静にしてリンカーコアが回復すれば問題ないはずだ。魔力を通して視た限り、後遺症もなさそうだったし。心のほうは……わからないけど」

 

「そればっかりは時間をかけるほかに手はないでしょうねぇ……」

 

遠くを見るように目を細めて、ランちゃんは瓶を傾ける。

 

しんみりとした空気を誤魔化すように、同じように俺も飲み物を一口含んだ。

 

どこから調達したのか知らないが、水かと思っていたそれは炭酸水だった。ほのかにレモンのような香りがするその炭酸水は変な甘味などがなく、とても飲みやすい。

 

「そういえば、聞いたかしら?捕まえた犯罪者たちのこと」

 

「ん、なにかあったの?なにも聞いてないんだけど」

 

「逮捕した連中に尋問していた人に話を聞いたのだけど、めぼしい情報はなにも持っていなかったらしいのよ」

 

「……それは、全員か?」

 

「ええ、全員よ。とくに隠そうともせずぺらぺら喋ったらしいわぁ。しかも、誰も統率していた人物の名前を知らないの。驚くわよ」

 

「ほ、ほかの奴らは?街でぶっ転がした奴らがいただろ?あいつら全員から聞き出せばなにか一つくらいは……」

 

「隊を整えて確保しに向かった時には大多数が逃走、残っていたのは気を失ってる間に刺されたような死体だけ。……昨日の私たちの時と同じよ」

 

「マジかよ……」

 

逃げ遅れた、もしくは逃げられない状況だった魔導師の口封じを行った。

 

今回逮捕された連中が本当になにも情報を持っていないのだとすると、口封じされた魔導師たちは逮捕された連中よりも多くの情報を知っていたのかもしれない。そうでなければ逮捕された者と口封じされた者の二種類がいる理由に説明がつかない。

 

「……逮捕された奴らって指輪とかつけてた?昨日見せたみたいな趣味の悪い指輪」

 

「んー?そんな話は聞いていないわねぇ」

 

「そうか……」

 

もしかすると『フーリガン』の幹部みたいな立場の人間にしかあの指輪は支給されていないのかもしれない。

 

俺の推察が当たっているのだとすれば、もうこれ以上有力な手がかりは得られない。なにか全く別の情報源か、新しいアプローチの仕方を考えなければ解答には辿り着けない。

 

「それじゃ、最後の一文は……」

 

「ねぇっ!あんたらは二人きりでなに話してんの!」

 

最後のキーワードは逮捕した奴らを絞れば出てくるだろうとあたりをつけていたのに、あてが外れた。

 

肩を落としていたら、アサレアちゃんがてとてととやってきて、腰に手を当ててふんぞり返った。椅子に腰を下ろしている俺たちを見下ろしたいのかもしれないが、背の低いアサレアちゃんと俺とランちゃんではさほど目線の位置に変わりがなかった。

 

「大した話じゃないよ。ちょっとした情報交換、かな」

 

「……なんでわたしに隠すの」

 

「べつになにも隠してないってば」

 

「うそっ!私がくるまで二人して真剣な表情で話してたじゃない!」

 

じとっとした目つきで、むーっ、と唸りながらアサレアちゃんが睨む。

 

おおっぴらにして困る種類の話でもないが、すっきりしないオチだけに空気が悪くなることは確実だ。あまり率先して議論を交わしたい話題ではない。

 

どう矛先を躱そうかと悩んでいると、ランちゃんが助け舟を出してくれた。

 

「お嬢ちゃん?詮索しすぎる女は嫌がられるわよ」

 

「詮索って……わたしはそんなつもりじゃないわっ!」

 

「私たちはこの任務が終わったらどうするのかって話していただけ。世間話みたいなものよ」

 

「そ、そう……」

 

俺とは踏んできた場数が違うのか、それとも天性のものなのか、うまいことアサレアちゃんを丸め込んだ。

 

ランちゃんが作ってくれたこの流れ、俺も乗らせてもらおう。

 

「アサレアちゃんたちはこれからどうすんの?まだ『陸』で経験積むことになんの?」

 

「んー……あんまり先の話は聞いてないのよね」

 

「たしかクレインちゃんもお嬢ちゃんも今回の任務が初めてなんでしょう?」

 

「お嬢ちゃんって呼びかたはやめてって……はぁ、もういいわ。そうよ、今回が初任務よ、ランドルフ」

 

アサレアちゃんとランちゃんのこのやり取りも慣れたものである。今では様式美すら感じる。

 

「親愛を込めてランちゃんとお呼びなさいな。今回が初めてなら、まだいくつか受けることになるのでしょうね」

 

「……まだ『陸』の仕事しなきゃいけないの?逢さ……あんたは?」

 

一瞬アサレアちゃんが『逢坂さん』って言いかけたような気もするが、やっぱりいつも通りの『あんた』呼びになった。俺も今回の任務ではそこそこ活躍したはずだが、名前で呼ばれるほどには認められていないようである。

 

「俺はそうだな……時間を作れた時にタイミングよく嘱託を募集している仕事があれば、それを受けるって感じだな。学業を優先してほしいって家族に言われてるし」

 

「学業って……あんたの能力なら今の時点でも十分管理局で働けるでしょ?まだ勉強とか必要なわけ?」

 

「俺は管理外世界出身だからな。家族としては今の世界で通用する学歴を確保しといてほしいんだろ。こっちでは履歴書に『魔法を使えます』なんて書いたら頭の中が幸せな人扱いだし」

 

「えっ、徹ちゃん管理外世界の出だったの?なのにあれだけ戦い慣れてるって……こんな人が本当にいるのねぇ」

 

「俺の知り合いも管理外世界の生まれだけど、そいつは俺よりもすごいぞ。魔導師としての才能に満ち溢れている奴がいる。俺が正面から戦えばまず負けるくらいの」

 

言うまでもなく、なのはのことである。

 

「徹ちゃん以上の魔導師……すごいわねぇ。そんな人や徹ちゃんみたいな人がいるなんて、どんな世界なのかしら。いずれ機会があれば遊びに行ってみたいわぁ」

 

「遊びにくるなら前もって言っといてくれ。その時は案内するぞ」

 

「あら、ほんと?楽しみにしておくわね」

 

ランちゃんは手をぱちっと合わせてまだ見ぬ世界に思いを馳せる。その姿は純粋に楽しみそうだった。サンドギアの街にも訪れたことがあったようだし、いろいろな土地に旅行するのが趣味なのかもしれない。

 

「わっ、わたしもっ、行って、みたい……」

 

おずおずとアサレアちゃんが手を挙げていた。

 

普段の強気な態度とのあまりの落差に、思わず笑いそうになる。

 

「ああ、アサレアちゃんもぜひ遊びにきてくれ。宿は提供するぞ」

 

「っ!……っし!」

 

アサレアちゃんは俺に背を向けて小さくガッツポーズしていた。

 

なんだかアサレアちゃんの仕草が微笑ましくてつい安請け合いしてしまったが、ランちゃんはともかくアサレアちゃんが実際に第九十七管理外世界は地球に来訪することを考えると、わりと大変な気がする。主に周りの連中の反応が。まあそのあたりの面倒ごとはその時の俺に丸投げするとしよう。

 

「でも、今は学業を優先するってことは、当分は嘱託魔導師ってことなのよね?」

 

通常よりも声量三割増しになっているテンション高めのアサレアちゃんに、もう少し声を抑えるように注意しながら首を縦に振る。すると、あれだけ明るかった表情が(にわか)に曇ってしまった。

 

「次の任務もあんたがいるってわけじゃないのね……」

 

ひとりごちるような声音で、アサレアちゃんがぽつりとこぼした。

 

その迂闊(うかつ)な発言を聞き逃すようなランちゃんではなかった。

 

「あらぁ?お嬢ちゃんは徹ちゃんがいなくて寂しいのかしらぁ?」

 

「にゅあっ、はぁっ?!そ、そんなんじゃないわよっ!さっきのはちょっと、ちょっと、あれがどうかしただけよっ!」

 

あれがどうかしただけとは、いったい。

 

「ふふっ、いつでも頼りになる人が近くにいるわけじゃないのよぉ〜。でもまあ安心なさいな、今回みたいな任務なんて『陸』では少ないんだから。……うふふ」

 

「そのなにもかもお見通し、みたいなうっとうしい顔をやめなさいランドルフっ!さっきのは口が滑っただけよ!」

 

「口が滑っただけって、それはもう徹ちゃんを信頼しているって言ってるのと同じだけれどね」

 

「ああああんたがそう思ってるだけでしょっ!?ささいなニュアンスのちがいよ!」

 

「本当にお嬢ちゃんは素直なんだかそうじゃないんだかわからないわねぇ」

 

「やめなさいってばぁっ!」

 

やはり喋りではランちゃんに分があるようだ。二人の力関係は一日二日では(いささ)かも揺るがなかったらしい。

 

「…………」

 

二人の愉快なやり取りを眺めつつも、頭の中では懸案事項がぐるぐると巡っていた。

 

アサレアちゃんか会話に参加する前、ランちゃんと話していた内容についてだ。

 

今回の事件を引き起こした『フーリガン』。その首領は逮捕できていない。その点も気がかりであるが、まだ明らかになっていないことがある。

 

おそらく『フーリガン』の幹部であった魔導師から、俺が奪い取った紙束。その中の、最後の一文。

 

 

 

『王』

 

 

 

その答えは、いまだに見つけられていなかった。

 



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第二章
『魅力的だよ……アリサちゃん』


 

「ああ……しまった」

 

油断していた。まっこと、俺は油断していた。

 

アサレアちゃんが『荷馬車』とこき下ろす管理局のおんぼろ艦船での帰り道の途中、俺は今回の任務でお世話になった人たち、同じ部隊の面々や違う部隊の協力的だった人(ゴーグルをかけた隊長代理さんなどなど)に挨拶しに出向いた。

 

いや、常識的な観点から見ても挨拶しに行くことは正しかったことだと思っているが、これが案外時間を取られた。厄介な同僚に苦労している話などで盛り上がってしまい、なんだかんだで長引いてしまったのだ。

 

睡眠不足とここ二日間の疲労がたたって寝落ちしたユーノを背に担ぎながら、地球に帰った頃には日を(また)ぎ、(あかつき)なんてもんじゃないくらいに空が明るくなっていた。

 

完全に朝だった。なんなら近所の家の小学生たちが登校しているくらいの時間だった。

 

たとえ遅刻してでもベッドに転がって泥のように、というかなんなら泥になりたいくらいだが、寝ることはできない。寝たが最後、太陽が頭上にあるうちに起きられる自信がない。なのでシャワーだけ浴びて、疲労感で重たい身体を引きずるように家を出た。

 

ちなみに担いで持って帰ってきたユーノはベッドに寝かせようとしたが、しかし今日も今日とて姉ちゃんが俺のベッドで丸まっていたので、ユーノを一度起こしてフェレットモードになってもらい、タオルをわんさか敷き詰めた籠の中で寝てもらった。

 

家を出る時点でどう足掻いても遅刻だったのでゆっくりとした歩みで学校に到着。一時限目は五分十分くらいしか受けられそうにないが、六時限すべて欠席よりかはだいぶましだろう。

 

そんな心持ちで校舎内を歩いていたのだが、俺はそこはかとない違和感を覚えていた。普段であれば、授業中でもある程度の騒がしさというか、廊下にも響くような賑々しさがあるものだ。だが、今日の学校にはそれがない。

 

首を捻りながら自分の教室まできて、扉を開いて、やっと違和感の正体が判明した。どうやら俺は、身体だけでなく頭も疲れていたようだ。

 

今日がとっても大事な日であることを、俺は忘れていた。

 

「えっと、逢坂くん……遅刻です」

 

担任の飛田(ひだ)貴子(たかこ)先生が、非常に困った表情で俺を出迎えてくれた。

 

ちらと教室内の友人たちに目を向ける。恭也と忍は心底呆れた様子で、長谷部と太刀峰は笑い声を噛み殺していて、唯一鷹島さんだけが心配そうにしてくれていた。

 

対して俺は、現実から目を背けるように天井を見上げた。

 

そう。俺は油断していたのだ。

 

管理局関連、魔法関連だけが問題ではない。

 

日常生活、学生生活にも避けては通れない障壁がある。

 

「中間テスト……今日だったかあ……」

 

エリーとあかねのことばかり考えていた俺の頭の中には、中間テストなんぞを覚えておく余剰メモリなどなかったのである。

 

 

 

 

 

 

「あんたね、中間テスト初日から遅刻とかなにやってんのよ」

 

「いつだったか、テストさえ受ければ大丈夫などと大口を叩いていたというのにな」

 

「……うるさい。忘れてたんだ。覚えてたらもう少し急いできたっての……」

 

「テストを忘れるとかありえるの?」

 

忍はため息をついて、恭也は腕を組んで、席に座ったままの俺を見下ろしていた。

 

本日の科目をすべて消化したあと、俺は自分の席でみんなに囲まれながらお小言を頂いていた。

 

「これで補習一つは確定したようなものだね」

 

「……勉強会まで、開いたのに……ふふ」

 

「笑いながら言ってんじゃねえよ。……普通にテスト受けてたお前らが補習になってたら、その時は大笑いしてやるからな」

 

長谷部は窓枠に座ってスカートの端をひらひらさせながら、太刀峰は屈んで机から顔の上半分だけ出してちらちら覗きながら、なにより二人ともがにやにやしながら意地の悪い顔をしていた。俺のミスがそんなに嬉しいか。

 

「えっと……体調が悪くて遅れたとかじゃ、ないんですよね?」

 

「うん、まあ……ちょっと用事で遅れただけ。眠たさはあるけど体調はぜんぜん大丈夫なんだ」

 

「それならよかったですっ!いえよくはないですけど……それでも体調不良とかじゃなくて。やっぱり健康が一番ですから」

 

「ありがとう、鷹島さんありがとう……」

 

安心したように小さく息をはいて、鷹島さんは頬を綻ばせた。純粋に俺の身を案じてくれていたようだ。

 

この荒涼(こうりょう)とした環境の中では鷹島さんの優しさだけが心のオアシスである。

 

俺が感動に打ち震えているのを横目に見ながら、恭也は鞄を肩にかけ直して身体を扉に向ける。

 

「さて、帰るとするか……徹、お前(かばん)はどうした?」

 

「持ってきてない。弁当なんて作る暇なかったし、食堂で食べればいいやと思って」

 

「あんた、鞄を弁当箱を入れるための袋かなにかだと思ってない?」

 

「教科書もノートも手元にないままテストを受けるというのもすごいですね……」

 

「でもカバンがないんじゃ筆箱も持ってきてないんじゃないのかい?答案用紙にはどうやって書いたのさ」

 

「いつも胸ポケットにはシャーペンとボールペンを差してんだよ。これを忘れてたら本格的にまずかったけどな」

 

「シャーペンの芯が……切れてたり、中で……中途半端に、折れてたりしたら……おもしろかったのに」

 

「さっきからお前は俺の不幸を祈りすぎだろ!」

 

机からひょっこり出ている藍色の頭をがしっと掴む。これは罰である。

 

「きゃあー……いたいー……」

 

棒読みにもほどがある太刀峰だった。そもそも痛くなるはずがないのだ。手を置いている、と表現した方が適切なくらいである。

 

「なんて気の抜けた悲鳴……小学生でももうちょっとは演技できるぞ。そもそも痛いってほどに力なんて入れてな「薫ちゃんから手を離しなさい」

 

「……太刀峰、見ろ……これが本物のアイアンクロォぉお頭割れるって忍!ギブギブ!」

 

俺のアイアンクローを止めるために忍がアイアンクローしてきた。太刀峰のあの大根役者そこのけな棒読み演技を見て信じるなんてありえない。

 

「徹、はやく薫ちゃんから手を離しなさい」

 

「もう離しとるわ!なんなら一度目にお前に言われる前に離していたくらいだ!」

 

「あら、反省が見えないわね」

 

「反省もなにもねぇよ!忍のアイアンクローに比べたら撫でてたようなもんだ!」

 

「撫でてもらってたんだ……薫、いいなぁ」

 

羨ましそうなニュアンスを含んだ鷹島さんの囁きは、今は聞かなかったことにした。

 

「そうなの?薫ちゃん」

 

「しくしく……いたかった」

 

「痛かったそうよ。泣いてるわ」

 

「『しくしく』なんて言うような奴は絶対泣いてねぇよ!演技に決まってんだろうが、気づけ!」

 

「ひどいこと言うわね。力の設定を『中』に引き上げるわ」

 

「今までは『弱』だったってのか?!」

 

戦慄する。この痛みでまだ出力が『弱』なのだとしたら『中』では真剣に頭蓋骨が変形する。きっと『強』では砕かれてしまう。

 

「忍。徹が本気でやるわけないだろう。それに俺の方向からなら太刀峰さんの口元が見えているのだが、笑っているようだぞ」

 

恐れ(おのの)く俺を見かねて、恭也が間に入ってくれた。

 

「あら、そうだったの?悪いわね徹」

 

「悪いわねって言うくらいならもう少し申し訳なさそうにしてくれ」

 

「前向きに検討するわ。ところで……薫ちゃ〜ん?」

 

「あ……矛先が、こっちに……ああぁぁ」

 

(たばか)ったという判定になったらしい太刀峰は、忍から折檻(せっかん)されていた。と言っても太刀峰は瑠璃色の長い髪をわしゃわしゃと撫でくりまわされているだけなので、これはもう太刀峰を叱っているというよりも、撫で回したいという忍の欲求を満たしているだけだ。

 

俺と随分扱いが違うなーと眺めていると、横合いからなんだか視線を感じた。

 

「鷹島さん?どうしたの?」

 

鷹島さんがくりくりとして大きな瞳をこちらに向けていた。

 

「あの……わ、私にもアイアンクロー……?しても……」

 

「……ん、え?どういうこと?」

 

「な、なんでもないです……」

 

縮こまって目を伏せてしまった。

 

なんだろう、まさか忍のアレを見てアイアンクローしてほしいなどということではなかろうが。唯一の安らぎである鷹島さんにはそんな特殊な趣味に目覚めてほしくない。

 

「もうそろそろ帰るとするぞ。せっかく昼で帰れるんだからな」

 

帰り支度を済ませている恭也が、いつまでも動こうとしないみんなを促す。

 

テスト期間中は一日二科目から三科目のテストがあり、だいたいお昼頃には終わる。そこからは一夜漬けのテスト勉強をしようが、現実逃避で遊び呆けようが自由だ。

 

とりあえず俺は寝たいけど。

 

「そうだ!そうじゃないか!今日はお昼で帰られるのだから、動かない手はない!」

 

「なんだ長谷部、テンション高いな」

 

「朝に……話してた。今日はたくさん……」

 

「テスト勉強すんのか?おいおい、珍しく殊勝な心がけ……」

 

「……ストバスできる、って……」

 

「ああ、良かった。いつものお前らだ安心した」

 

バスケバカ二人は現実逃避タイプだったようである。

 

「はぁ……二人とも勉強なさい」

 

「そうだよっ!勉強会でわからないところを克服したって言っても油断したら落としちゃうかもしれないんだからっ」

 

「長谷部さんと太刀峰さんのバスケ好きには時々度肝を抜かれるな……」

 

「これからお昼ご飯を食べてからでも暗くなるまでなら五時間くらいは取れるんだ!もったいないじゃないか!」

 

「いくらこの時期でも五時間もぶっ通しでストバスしたら倒れるぞ」

 

「もはや、本望……」

 

「そこで倒れちまったらテスト勉強できねえだろうが。やるならせめてテストの最終日にやれよ」

 

「僕たちは今やりたいんだ!この熱く(たぎ)る思いは止められない!」

 

「今、動かなければ……わたしたちじゃ、なくなる……っ」

 

「その熱い思いをすこしでも勉強に回せれば……」

 

拳を握って意気軒昂に叫ぶ長谷部、静かにやる気を燃やす太刀峰に対して、忍は冷ややかだった。

 

「ということでっ!」

 

「逢坂も……くる、よね……?」

 

テスト後とは思えないほどの輝かしい笑顔を二人揃って(太刀峰はいつも通りの無表情だが)俺に向ける。

 

いつものコンディションなら喜び勇んで俺もついて行って、途中で切り上げさせてテスト勉強に時間を割かせることもできただろうが、いかんせん今日はこれ以上動けそうになければ頭も働かない。

 

「悪いが今日はパスだ。眠たくて仕方がなくてな。明日以降ならテスト勉強くらいには付き合うから、今日はおとなしくテスト勉強に熱意を注いでくれ」

 

「ま、まさか逢坂まで……くっ」

 

「救いは、なかった……」

 

「大袈裟すぎる」

 

「はい、決まりね。今日は私の家でお勉強しましょう。ノエルにお菓子を用意しておくよう伝えておくわ」

 

がくりと項垂(うなだ)れる二人の肩に手を置いて忍が甘言を囁く。

 

「これは行くしかない」

 

「同意……主に、お菓子」

 

「ふふ、伝えておくわね。きっとノエルも喜ぶわ。綾ちゃんもいらっしゃい」

 

「ありがとうございますっ」

 

今日日(きょうび)、小学生でも引っかからない手に馬鹿二人はまんまと引っかかった。どうせ忍のことだ、馬の眼前に垂らす人参と同様、お菓子で誘惑して二人のケツを叩くことだろう。これでテスト勉強に関しては一安心だ。

 

何気に一番心配だった鷹島さんの面倒も見てくれるようだし、ぜひ忍には頑張っていただきたい。

 

女子四人の華やかにして賑やかな空間を抜け、教室の扉の近くで待っている恭也の隣に並ぶ。

 

「恭也はどうすんの?家の手伝いとかあんの?」

 

「テスト期間中は手伝わなくてもいいと言われた。おかげで言い訳はできないからな、しっかりと取り組まなければいけない」

 

「翠屋大丈夫かな……。そんじゃ恭也も忍の家で勉強か」

 

「いや、三人の勉強を見るだけでも大変だろう。俺は家で勉強しようと思っている。前の勉強会で苦戦していたところは乗り越えられたし、一人でも大丈夫だろう。なにより女子四人の中で男は俺だけというのは……な」

 

遠い目をしながら恭也が言う。

 

俺としても、女子四人の中男一人なんていうアウェーな場は遠慮したい。気持ちはわかる。

 

「まあ、明日以降なら俺も合流できるから、明日は一緒に勉強しようぜ」

 

「そうだな、その時は頼む」

 

「おっけ」

 

なんだかこういう普通の高校生っぽい会話も久し振りな気がする。

 

そう考えると、なぜか不意に頬が緩みそうになる。どうにも耐え難く、思わず手で隠す。

 

恭也からは怪訝(けげん)な目で見られたが、なかなか表情が元に戻ってくれない。

 

平和で安全な世界。

 

埃っぽくもないし、血生臭くもない。

 

何の変哲もなければ、取り留めもない会話。

 

意識しなければ気づけないような日常の大切さが、今ならとても実感できた。

 

 

 

 

 

 

学校から帰ったあと、窓から燦々(さんさん)と降り注ぐ太陽光をカーテンでしっかりシャットアウトしてから、朝にそうしたかったようにベッドに倒れ込んだ。タオルで作った寝床に小動物がいなかったので、ユーノは俺が家に帰ってくるより一足先に家を出ていたようだ。

 

姉ちゃんも、仕事探しなのか単発の仕事が入ったのかわからないが家を空けていた。

 

そのため俺は家事の一切を後回しにして、晴天に恵まれた平日の真昼間から惰眠を貪り尽くしていたわけだが、そんな俺を叩き起す存在がいた。

 

「……電話、か……。……誰からだよ」

 

けたたましく鳴り続ける通知音に目を擦りながら、身体を起こす。

寝起きでしばしばする目をどうにかこじ開けて、ディスプレイを覗き込む。

 

電気は消して、外部からの明かりも届かないようにした俺の部屋は、物の輪郭すらはっきりと掴めないほどに暗かった。

 

バックライトの眩しさが眼球に突き刺さる。

 

薄目になりながら画面を確認すれば、鮫島さんからだった。

 

「はい、こちら逢坂」

 

一も二もなく電話に出た。

 

鮫島さんが相手であれば、居留守を使うなんてできない。

 

『突然のご連絡、申し訳ありません。……いつもと声の調子が違いますね、休んでいらしたのでしょうか?』

 

たった一言で気付かれた。普段通りの声を出そうと努めていたのに。

 

「気にしなくていいよ、どうせそろそろ起きないといけなかったわけだし」

 

『そう言って頂けると助かります』

 

「それで?鮫島さんがわざわざ電話してきたってことはなにか大事な用件があるんじゃないの?」

 

『はい、そのことなのですが……旦那様の会社の方でトラブルがありまして……』

 

「ほぁ、鮫島さんまで対処に回らなきゃならないとは、それはまた大変そうだ。で、俺はなにしたらいいの?俺が手伝える範囲の仕事ならいいんだけど」

 

『申し訳ありません。御配慮痛み入ります』

 

「いいってば。いつもお世話になってんだし。……ただ、俺にできることあんのかな?バニングスさんの仕事はよく知らないし」

 

『徹くんには私の代わりにお嬢様を迎えに行って欲しいのです。ご友人のすずか様とともに塾へと送り届けたまでは良かったのですが、そこから旦那様の会社で重大なミスが発覚してしまったそうでお迎えにあがることができず、どうしたものかと』

 

「塾ってこんな遅い時間までやってるんだ。……って、あれ?ノエルさんにも頼めそうだけど」

 

「ノエル様はお屋敷でお客様の応対をしているそうで、すぐには迎えに行けそうにないと」

 

「え、珍し……ああ、そっか」

 

そういえば学校で、鷹島さんと長谷部と太刀峰の三人が忍の家でテスト勉強するとかって話をしていた。この時間帯でもまだ忍の家にいるとなると、夕飯どころか、下手すれば(主に長谷部と太刀峰の駄々により)忍の家にお泊まりとかってことも考えられる。

 

それら全部のお世話をどじっ子のファリンに任せてしまうのは、あまりにも無謀だ。どうやらノエルさんも手が離せなさそうである。

 

『徹くんがお忙しいのであれば、どうにか他の方法を検討してみますが……』

 

「いや、行ける行ける。忙しくないし、俺が行くよ」

 

『ありがとうございます。この恩は必ず』

 

「いいってば。そんじゃ塾の場所教えてくれる?」

 

ついでに晩御飯の材料も買いに行かなければいけなかったので、家を出る理由ができて好都合だ。

 

 

 

 

 

 

「で、徹がきたってわけね」

 

私立聖祥大学付属小学校の、白を基調としている清楚可憐にしてどこかふわふわとしたシルエットの制服に身を包んでいるアリサちゃんが、塾が入っているビルの前で腕を組みながら仁王立ちしていた。

 

すでに鮫島さんの方から迎えに行けないという旨は伝えられていたようだが、誰が来るかは聞かされていなかったらしい。

 

「車持ってないから歩きだけどな。ごめんな、アリサちゃん、すずか」

 

「たまにはいいんじゃない?夜の散歩っていうのも。ここ繁華街だけど」

 

(おど)けたふうにアリサちゃんが言うと、隣に立っていたすずかが(しと)やかに口元を押さえて笑った。

 

「ふふ、そうだね。それじゃあ徹さん、お散歩のエスコートお願いします」

 

「おう、任せとけ」

 

女性のエスコートなどしたことはないが、根拠もなく自信満々に安請け合いする。なのはへの扱いからグレードアップさせれば、それっぽくなるだろう。

 

なので手始めに、二人に片手を差し出してみた。

 

「ん?なに?」

 

きょとんとした顔で首をかしげるアリサちゃんにしたり顔で返す。

 

(かばん)、お持ちしますよお嬢様方」

 

「お、お嬢様っ……徹さんがわたしをっ」

 

薄暗いこの時間帯でもわかるくらいにすずかは頬を赤らめて慌てたが、その点で言うとアリサちゃんは格が違う。きょとん顔からにやりと口角を上げた。

 

「ふふんっ、いい心がけね!」

 

機嫌良さげな声ですぐに俺に鞄を渡した。この程度で慌てたり照れたりしないところが、実にアリサちゃんらしい。

 

「ほら、すずかも徹に持たせておきなさいよ」

 

「で、でもこんな荷物持ちみたいなこと……」

 

「構わないわよ、徹が自分から言ってるんだから」

 

「そうだぞ、すずか。俺は今日、鮫島さんの名代(みょうだい)できてるんだからな。お嬢様方にいらん負担はかけられない」

 

「そ、それじゃあ……」

 

おずおずと鞄を渡してきたすずかに思わず笑ってしまう。俺が言った瞬間に迷わず鞄を突き出してきたアリサちゃんと比べると、すずかは丁寧で(たお)やかで、違いが大きすぎておもしろすぎた。

 

「はい、(うけたまわ)りましたっと」

 

「な、なんで笑うんですかっ」

 

「いや、すずからしいなぁって」

 

「わたしらしいって……褒められてるんでしょうか……?」

 

「ああ、褒めてる。気遣いができて優しいってことだからな」

 

「う、うぅ……」

 

すずかが小さく(うめ)きながら縮こまってしまった。相変わらず褒め言葉には慣れていないらしい。

 

すずかのこの純真さは大変可愛らしいが、ただ片方を褒めるともう片方に角が立つ。アリサちゃんが腰に手を当ててぷんすかしていた。

 

「ちょっと徹!つまりわたしは気遣いができなくて優しくないって言いたいの?!」

 

「違うって。アリサちゃんは人の厚意を素直に受け取れるところが美点だ。素直ないい子ってこと」

 

「素直ないい子って、すごく丸め込まれてるような気がする……」

 

「そんなことないって。はっきりと自分の言いたいことを言えて、自分のしたいことをできる。明朗快活な奔放さがアリサちゃんの長所の一つなんだから」

 

「……そう?」

 

「そうそう」

 

「ふーん……えへへ」

 

アリサちゃんの表情から険が取れて徐々に緩んでくる。この子は頭の回転とキレがずば抜けているが、やっぱりまだ幼い部分もあるようだ。褒められて機嫌が戻るというのは、扱いやすもとい、子どもらしくて微笑ましいものがある。

 

「それじゃわたしに『魅力的だ』って言ってくれる?」

 

「……ん?」

 

「ちょっ、ちょっとっ、アリサちゃんなに言ってるの?!」

 

「まあまあ、すずか。ただのネタ作りよ。徹、言えないの?やっぱりさっきのはごまかすための嘘だったの?」

 

「いや……嘘じゃないけど」

 

機嫌を直してほしいという考えはあったが、さっきのアリサちゃんの長所の話に虚言はない。たとえ切れ味鋭いセリフであろうとばっさりと口にできてしまえるところは、集団生活においてほんのちょっぴり問題がないでもないが、概ね長所と言える。

 

なのでさっきの俺の発言は本心からの言葉だが、なぜそれが『魅力的』云々に繋がるかはさっぱりわからない。前後の文があればまだ許容範囲内かもしれないが、『魅力的』という単語一つをくり抜かれると、しかもそれをこのような往来の激しい場で高校生が小学生に言っている図というのは、果たして世間体的にどうなのだろう。

 

などと少々戸惑っていると、アリサちゃんが俺から目を逸らして視線を下げた。

 

「やっぱり徹もすずかみたいなおとなしい子がいいんだ……。そうよね……わたしみたいなワガママな子よりも、すずかみたいにおしとやかでかわいらしい女の子のほうがいいわよね」

 

「え……いや、そういうことじゃ……」

 

「そ、そんなこと……アリサちゃんっ」

 

どこかいつもの口調とは雰囲気が違うというか、たどたどしさというか演技っぽさが見え隠れしていた気もするが、アリサちゃんは落ち込んだように顔を伏せてしまった。

 

しょぼんと肩を落としているアリサちゃんにすずかが寄り添う。すずかはアリサちゃんに違和感を覚えなかったようだ。

 

ともあれ、落ち込ませてしまったのは俺の責任だ。どうにか挽回せねばなるまい。

 

「言う、言うって。嘘じゃないからな。はっきりと言えるぞ」

 

「ほんとに?それじゃ『魅力的だ』のあとに私の名前も言ってくれる?」

 

「ん……あ、ああ、任せろ」

 

「あと耳元でささやくような感じでお願いね」

 

「…………」

 

「あ、アリサちゃん……?」

 

なんだかオプションが追加がされているけれど、それについて文句のひとつも言いたくなったけれど、飲み込んだ。

 

覚悟を決めて、アリサちゃんに一歩近づいた時、どこからか電子音が聞こえた気がした。まあ、近くでは人が行き交っているし、歩行者の携帯の操作音か、もしくは通知音か何かだろう。

 

やると決めた以上、全身全霊で取り組むのが俺である。囁くような感じとの演技指導はなかなか難しいが、全力でやらせてもらう。

 

「『魅力的だよ……アリサちゃん』……これでいいのか?」

 

「ふふっ、なかなかよかったわ!さすがわたしの親友よ!ありがとっ!」

 

「そうかい……喜んでもらえて嬉しいよ」

 

アリサちゃんにお許しをもらえた。笑顔に輝きが戻ったのを見るに、恥ずかしいセリフを言った甲斐はあったようだ。

 

「ひゃぁぁ……」

 

すずかは真っ赤に染まった顔を手で覆っていた。しかし、指の隙間からこちらをはっきり見ているのであまり目隠しの効果はなさそうだ。

 

そろそろ帰路につこうかとしたら、ものすんごい悪い笑みを浮かべたアリサちゃんに引き止められた。彼女の小さな手には、携帯が握られていた。

 

「ネタの提供ありがとね、徹!」

 

「ねた?なんの話……」

 

俺が訊いている途中で、アリサちゃんの細っこい指が画面の上を滑る。

 

アリサちゃんの携帯からとある音声データが再生される。

 

『魅力的だよ……アリサちゃん』

 

「…………」

 

どこかで聞いたことがあるセリフだ。そして、俺によく似た声だ。

 

というか、俺だ。

 

「……アリサちゃん?こ、これはどういうことかな?」

 

「使いようによっては楽しくなるわ!退屈な日常を彩る娯楽の提供、感謝するわね、徹っ!なのはに聞かせたら……ううん、彩葉(いろは)に聞かせても楽しそうねっ!」

 

「……アリサちゃん……」

 

このお嬢様、おっそろしい計画を立てている。あんなセリフをなのはに聞かれた日には、俺の胴体に風穴が開くどころか腹から上が弾け飛びかねない。

 

「あ、アリサお嬢様?えっと……それ、消去してもらうってことは……」

 

おそるおそる、アリサちゃんにお願いしてみる。

 

するとお嬢様は、満面の笑みでこう答えた。

 

「うんっ、だめ!」

 

「ですよねー……」

 

なのはやすずかとはベクトルの違うアリサちゃんの賢さを侮っていた。

 

俺にできることといえば、来るべき日に備えて腹筋を鍛えておこうと固く決意をするくらいだった。

 




およそ一年ぶりくらいの更新です。
時間が経ちすぎていて何から謝ればいいかもわかりませんが、もし待ってくれている人がいたとするのなら、長々と待たせてしまって大変申し訳ありません……。
言い訳をさせてもらうと、仕事の合間合間でちょこちょこと書き溜めてはいたんです。区切りのいいところまで書き溜めようと思って、いつ投稿すればいいかタイミングを失ってしまったのです。本当にすいません。
ここからしばらくは更新できると思います。推敲しながらなので毎日できるかはわかりませんが、なるべく早く次を投稿できるよう頑張りますので、どうかよろしくお願いします。

ちなみに、ここまであまりスポットライトが当たらなかったアリサの話を広げていく予定です。しばらくはのほほんといちゃいちゃしてます。


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夜の街の帰り道。

 

「小学校でもテストがあったのか。タイミングは高校と同じだな。手応えはどうだった?」

 

「問題ないわ。今やってる範囲はずいぶん前に終わらせたし」

 

「すごい自信だな……すずかは?」

 

「アリサちゃんほどじゃないですけど、まあ……それなりに」

 

「徹はどうなのよ。補習で済みそうなの?」

 

「なんで補習が確定してんだよっ!」

 

補習で済みそうなのかって、アリサちゃんは俺のことをどういう人間だと思っているのか。退学させられそうなレベルのあほかと思われているのだろうか。

 

実際、喧嘩が理由とはいえ停学になった経験はあるし、今日の一時限目のテストは合格ラインに届いているかどうか危ないラインだろうから、強く否定もできないけれど。

 

「てっきり脳みそまで筋肉でできてるタイプかと思ったけど、そうじゃないの?」

 

「アリサちゃん、徹さんはすごく勉強もできるよ?前の勉強会でも教える側だったんだし」

 

「そうだったっけ?教えてもらってないから覚えてなかったわね」

 

「アリサちゃんに勉強教える必要はなかったもんな。なんならあの場にアリサちゃんがくる必要もなかったくらいだし」

 

「み、みんなで遊ぶのにわたしだけのけ者なんてひどいじゃない!」

 

「あくまで勉強会なんだけどな」

 

塾の前で俺のとち狂った音声データを消去してもらおうと交渉して条件が合わずに決裂してから、今は数分後。ようやく俺たちは帰路についている。

 

塾の話や小学校でも行われているテストの話をしながら、のんびりと夜の街を歩いていた。お巡りさんに補導されないかだけが目下心配の種である。

 

「どこもテストの時期は同じみたいで、今日はテストで出題された問題の解説みたいな感じだったんです」

 

「そうだったんだ。そいつはまぁ……アリサちゃんにとっては退屈だったろうに」

 

「ほんとよ!一問一問これの解き方はー、とか、わからないところがあったら質問するようにー、とか!全部わかってるのに!こちとら全問正解よ!」

 

「あ、アリサちゃん、そう言わずに……」

 

「まだテストの答案は返ってきてないはずなのに満点を確信している……」

 

「一番注意したのは書きまちがえていないかの確認くらいね」

 

「ここまでともなると清々(すがすが)し……ん?」

 

「どうかしました?」

 

「ああ、いや……」

 

夜の街の帰り道。

 

気をつけるべきは日夜治安維持に勤しんでいらっしゃるお巡りさんだけかと思い込んでいたが、もしかするとそうでもないのかもしれない。

 

着信を確認するふりをしてポケットから携帯を取り出す。セルフ用のカメラを起動して背後を確認。そして発見した。

 

「…………」

 

風景に馴染むような動き。ただの通行人の素振りをしているが、常にこちらを視界内に入れるような位置取りをしている人物が複数人いた。

 

考えすぎかもしれないが、以前にアリサちゃんの誘拐未遂があったことを考慮すると、あながち深読みしすぎというものでもないだろう。厄介なことになってきた。

 

「どうしたの、徹。誰から?彼女?」

 

「えっ……徹さん、お付き合いしている女性……いるんですか?」

 

「アリサちゃん?わざわざ俺に悲しい否定をさせないでね?彼女いねえよ」

 

「でしょうね」

 

「でしょうねってなんだ!可能性だけはあるだろ!」

 

「そ、そうなんですか……。あはは……」

 

「……すずか、さすがに笑うのはひどいぜ……」

 

「え?あっ、ち、ちがうんです!あのっ……」

 

「まあ……それはいいんだよ。ただ時間を確認しただけだ」

 

女子小学生に心を浅く傷つけられながら、提案する。

 

俺たちを尾行してきている人間がいるかもしれない。もしものことがあってからでは手遅れなので、そういう前提で行動する。

 

家まで送るにしても、まずは不審人物のマークを外しておこう。

 

「二人とも、これから時間あるか?」

 

 

 

 

 

 

帰途。不審人物の監視の目を外すために寄り道することにした。どこか行きたいところがあるか、と二人に聞くと、即座にアリサちゃんがゲームセンターに行きたいと挙手したので、ボリュームの大きい音楽が鳴り響くゲームセンターに遊びにきた。

 

このゲームセンターには以前、恭也や忍と訪れたことがある。出入り口が複数あって、視線を遮る障害物も多いここなら、追っ手を巻くにはうってつけだ。

 

ただ俺たちの年齢では、とくにアリサちゃんとすずかは条例による年齢制限で店員さんに追い出されそうなので戦々恐々である。

 

「わーっ!一度きてみたかったのよ!」

 

周囲の騒音に負けないよう、アリサちゃんが声を張り上げる。実によく通る高音だ。ゲームに集中していたお兄さんが声に驚いて、さらに外見に驚いていらっしゃる。そりゃこんな時間帯に小さい子がいたら驚くことだろう。その甲高い愛らしい声で店員さんまで呼ばないか、肝が冷える思いだ。

 

とはいえテンションの上がったアリサちゃんを抑えることなど俺にできるべくもなく、まあ気の向くままにやらせてあげよう。店員さんにばれた時は謝って退店すればなんとかなるでしょう。

 

アリサちゃんに顔を近づけて言葉を返す。

 

「そうかい。喜んでもらえて嬉しいよ」

 

「なんて言ってるか聞こえないーっ!」

 

「喜んでもらえて嬉しいよ!」

 

「うるさいわね!」

 

「理不尽すぎるだろ!」

 

「あははっ!」

 

本当にテンション高いこの子。

 

「結構、人……いるんですね」

 

「このくらいの時間帯が一番盛り上がるな。学生の下校時間と社会人の帰宅時間がかぶるから」

 

「な、なかなか異様な雰囲気です……」

 

「ははっ、最初はそう感じるかもな。人多いから離れないようにな」

 

「はっ、はいっ」

 

「アリサちゃんも!離れないように!」

 

「わかってるってば!」

 

二人の手を握りながら施設内を見て回る。この店舗は駅の近くという好立地と規模の大きさに加え、筐体の数も多く、新しい機種も多く導入されているので、利用客も比例している。背の低いアリサちゃんとすずかだと、迷子になったら大変だ。

 

だが、その混雑ぶりや並び立つゲーム機の壁は、俺にとって都合がいい。追跡を撒くのに、都合がいい。

 

「わ、あの人すごい!こう、こうっ、手がババって!指がシュバババって!」

 

「リズムゲーうまい人はほんと人間やめてる気がするよな」

 

「わたしにはできなさそうです……」

 

「すずかはピアノとかやってるんだし、初見でも結構できそうだけどな」

 

「動きがぜんぜん違うので……。ああいうのも練習して上手くなるんでしょうか?それとも才能とかがあるんでしょうか?」

 

「クリアするだけなら反復練習すればできるようになるもんだ。ただ、精度を上げようと思うとセンスが必要になるな」

 

「ねぇっ、徹!こっちの飛行機のもすごいわよ!」

 

「シューティングゲームもわりと品揃えいいんだよな、ここ」

 

「画面を埋め尽くすくらい弾があるのに、なんでゲームオーバーにならないの?」

 

「やり込んでるんだろう。弾が飛んでくる方向や安全地帯を覚えてるんだ。あと自機に向けて撃ってくる弾はゆっくり動いた方がかえって安全だったりもする」

 

「……これだけたくさんやり込んで、なにかメリットがあるんですか?」

 

すずかのある種、的を射たシンプルな疑問はゲームをプレイしていた人にまで届いてしまったようだ。ぴくっ、と動きが止まり、飛行機は撃墜されてしまった。リズムゲーム機から聞こえていた軽妙な音楽が途絶えたところを鑑みるに、そちらもプレイヤーがフリーズしてゲームオーバーになってしまったようだ。

 

たった一言で数多くの人の心を砕いてしまった。

 

「すずか。その発言はな、この場では禁句なんだ。頭に浮かんでも決して口にしてはいけないんだ」

 

「そ、そうだったんですか……。ごめんなさい……」

 

弾幕系のシューティングゲームのスティックを握ったまま動かなくなってしまった男性が居た堪れなくて、というか俺たちの周囲の人たちが俯きがちになってしまったのが居心地悪くて、この場を逃げるように後にした。

 

しばらく回っていると、アリサちゃんとすずかの足がとあるゲーム機の前で止まった。

 

UFOキャッチャーだ。

 

「わーっ!かわいい!」

 

「ほんとだ。……結構大きいね」

 

「大きいわね!ほしい!」

 

「こういうのって……取るの難しいんじゃないかな?」

 

「でもほしいわ!売ってないの?」

 

「非売品って書いてあるね」

 

「……このUFOキャッチャーごと買うっていう手が……」

 

「アリサちゃん」

 

「だめ?」

 

「だめ」

 

「だめ……」

 

二人が景品を指差しながら、華やかな笑顔と愉快な会話を振りまいている。少女二人の熱視線の先には、世界的に有名なゲームに登場する青くて丸い形をしたモンスター。

 

そういえばアリサちゃんは意外にゲームが好きでよくするとかと聞いたことがある。実際にアリサちゃんの部屋にもゲーム機があったりもした。

 

「やたら大きいけど、取れないって決めつける理由はないよな」

 

「徹さん」

 

「徹!あれ取れる?」

 

「ま、チャレンジしてみようか」

 

コインを投入して挑戦。位置を調節して、アームが下がる。青くて丸いぬいぐるみの真ん中を狙ったが、景品が大きいためにアームが景品を掴みきれず、ほぼほぼ動きすらしなかった。

 

「おお……むやみにでかいだけじゃないな」

 

「むぅ……序盤に出てくるわりに強いわね」

 

「やっぱり難しいんじゃ……」

 

「いや、やりようはありそうだ」

 

もちろん1回目で取れるなんて甘い考えはしていない。

 

さらに何枚か投入。景品の重さと重心の位置、アームの強さ、引っかかりやすい角度を把握した。丸っこいという形を生かし、アームの片側を使ってころりころりと少しずつ転がす。

 

そして、八回目のチャレンジのことだった。

 

「もうちょい……おっ」

 

「わぁっ!」

 

狙ったポイントにぴったりアームが入り、ようやくゲットできた。

 

ゲーム中では何百と倒す敵のくせに、なかなかの強敵だった。

 

UFOキャッチャーの取り出し口から、景品の大きさゆえに少々苦労したが引っ張り出した。

 

「『仲間になりたそうにアリサちゃんを見ている』」

 

「あははっ!仲間にしてあげるわっ!徹、ありがとっ!」

 

俺が差し出したぬいぐるみに、アリサちゃんは満面の笑顔で抱きしめた。ぬいぐるみが大きすぎてアリサちゃんの上半身が隠れてしまっているが、とりあえず喜んでくれているようでよかった。

 

「よかったね、アリサちゃん」

 

「うん!大事にするわ!ベッドに置いておこうかしら!」

 

「……あのベッドならこの子を置いても大丈夫だね」

 

「すずかのベッドでも余裕よね!」

 

「まあ、うん……そうだね」

 

ぬいぐるみを抱えて嬉しそうなアリサちゃんと、歯切れの悪いすずか。

 

「……ふむ。アリサちゃん、すずか。ちょっとこっちで休んどいてくれ」

 

「わたし疲れてないわよ?」

 

「わたしもそれほど……」

 

「まあまあ、いいからいいから」

 

戸惑う二人の背中を押して、端っこの方に寄せる。ついでに自販機で飲み物も買って手渡しておく。

 

「はい、ちょっとゆっくりしといてくれ」

 

「……あ、そういう」

 

「アリサちゃんどうしたの?」

 

「なんでもないわ。わたしちょっと楽しすぎて疲れちゃった。休憩しましょ、すずか」

 

「え、そんなに急に疲れるの……」

 

「ええ。もう立ってられない。腕も足も疲れたの」

 

「腕が疲れたのはその大きなぬいぐるみが原因だと思うけど……」

 

「いいのいいの。徹からジュースももらったし。ほら、すずか行くわよ」

 

「え、えー……」

 

アリサちゃんは景品の頭部のちょろんと出っ張っている部分を器用に握って片手で持ち、もう片方の手ですずかの手を取り、強引に引っ張っていった。

 

俺の考えを、アリサちゃんは察してくれたようだ。

 

 

 

 

 

 

「おまたせ。はい、すずか」

 

「え、これ……」

 

五分から十分ほどだろうか。アリサちゃんとすずかと合流した。

 

アリサちゃんに渡した景品と同じ物の二つ目を持って。

 

「よかったわね、すずか」

 

「う、うん、それはよかったんだけど……わ、わたしももらっていいんですか?」

 

「あたりまえだろ。すずかのために取ったんだから」

 

「わたしのためにっ……あ、ありがとうございますっ」

 

そう言って、すずかはぬいぐるみを抱えた。

 

アリサちゃんにあげてすずかにあげないというのは不公平だ。でもすずかの性格を考えると遠慮しそうなので席を外してもらったのだ。景品を再配置してもらうために店員さんも呼ばなければいけなかったこともあるし。

 

「ふふっ。やるじゃない、徹」

 

長椅子で足を組みながら、アリサちゃんがすずかと俺を見て目を細めていた。

 

「コツは掴めたからな。難しくなかったよ」

 

「そういうことじゃないわよ……。やっぱり、徹は所詮徹ね」

 

「なぜか評価が下がった……。あとこれ。持ち運びにくいから、袋もらってきた」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

「気が利くわね」

 

「どういたしまして」

 

さて、今日の思い出にもなる戦利品も獲得できたことだし、そろそろゲームセンターを後にしようかと出入り口に目を向ける。

 

「っ……」

 

怪しげな風体の輩がいた。

 

そういえば不審な奴らがついてきているからゲームセンターに逃げ込んできたのだった。

 

どうやら俺たちの姿を捉えているわけではないようだが、運悪くこちらへ向かってきている。

 

これだけ人の目のある場所ならばすぐに乱暴な手に打って出ることはなかろうが、騒がしい場所でもある。多少の物音はかき消されてしまうし、やはり遭遇しないほうがいいだろう。

 

「……明日も学校があることだし、そろそろ帰ろうか。ぬいぐるみも取れたことだしな」

 

「まだ回ってないところもあって名残惜しいけど……そうね。続きはまた今度ね!」

 

「次来る時はなのはちゃんや彩葉(いろは)ちゃんも一緒に来れるといいね」

 

「なるべく誰か保護者を連れてな。さ、行こう」

 

「あれ?こっちから入ったっけ?」

 

「違った、よね?」

 

「……ほら、違うところも見ておきたいだろ?」

 

「ほー、なるほどー」

 

「今度遊びたいところもわかっていいですね」

 

「そ、そうだろー……って、あ」

 

それっぽい言い訳をしながら別の出口に向かう。が、ここにきて非常事態。

 

前方から、店員さんがこちらに向かってきていた。まだ距離が遠いこともあり俺たちには気づいていないようだが、このままではいずれ接敵してしまう。

 

「うおっとこっちに面白そうなのあるぞー!」

 

「えっ、えっ……」

 

「ちょっと徹、帰るんじゃないの?」

 

店員さんと鉢合わせすると面倒なことになりそうだという一心で、隠れるように近くの物陰に二人を連れて入る。パーテーションがあって、店員さんをやり過ごすにはぴったりだった。

 

「っていうか、これ……」

 

「徹、プリクラ撮りたかったの?」

 

「あれ?いやぁ……」

 

「初めてゲームセンターに来た記念に、ってことですか?」

 

「……だ、だいたいそうかな!」

 

まったくもって入る気なんてなかったけれど、そういうことにした。

 

というかゲームセンターに目隠しになるようなパーテーションがあるものなんて、プリクラか本格的なホラーシューティングくらいしかないのに、なぜ気がつかなかったのか。

 

姿を隠すのにはばっちりなのだが、いかんせん身の回りのシチュエーションが多々危険である。

 

「わたし初めてなのよね!これ!」

 

「そりゃゲーセン来んのが初めてだったらそうだろうよ」

 

「徹さんはやったことあるんですか?」

 

「だーいぶ前に?」

 

「ど、どなたと……」

 

「なのはの兄とすずかの姉とだな」

 

「いつもの代わり映えのしないメンツね!」

 

「テンション上がってるのはわかってるけど言葉を選ぼうねーアリサちゃーん」

 

今日のアリサちゃんはエンジンがぶっ壊れている。ブレーキがかかることはなさそうなので、プリクラも撮って帰ることとした。どうせ店員さんもやり過ごさなければならないことだし。

 

「設定、フレーム……いろいろあるね。どれがいいのかな?」

 

「こんなの感性で選べばいいのよ!これでー、これとー、これ!」

 

こういった時のアリサちゃんの決断の早さは本当に頼りになる。ずばばっとボタンを押して決めてくれた。

 

撮影が始まって、カメラからの映像が画面に映る。

 

「……二人がちゃんと映ってないな」

 

「映ってないわね」

 

「ど、どうしましょう……」

 

ここで身長差という問題が噴出した。

 

「たぶん台とかが……」

 

「いいこと思いついたわ!」

 

おそらくこういうところならこういう事態を想定して台が用意されているだろうと探していると、なにやらアリサちゃんが妙案を閃いた。そこはかとなく不安ではあるがとりあえず聞いてみよう。

 

「徹がわたしたちを抱えればいいのよ!」

 

「アリサちゃん台あったぜ」

 

「聞きなさいよ」

 

余計な事案を起こさないうちに踏み台を発見したが、アリサちゃんは俺を睨みつけたまま(かかと)で台を蹴っ飛ばした。

 

「ほら、台なんてないわ。はやく抱えなさい?」

 

「アリサちゃん、徹さん、あの……」

 

「ないんじゃなくてなくなったんだ。アリサちゃんが蹴っ飛ばすから」

 

「ちょっと屈みなさい」

 

「なに?」

 

「あの、二人とも……」

 

「か・か・え・な・さ・い」

 

「おいおいお嬢様胸ぐら掴むのはちょっとお行儀悪いんじゃないのっ」

 

「二人ともっ!」

 

なに、と言おうとした時、フラッシュが焚かれた。プリクラの一枚目が撮影されたらしい。撮影までカウントダウンされていただろうに、まったく気づかなかった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「もうすぐ始まっちゃうよって、わたし言ってたのに……」

 

プリクラは何枚か撮影するが、この筐体(きょうたい)は一回だけ撮り直しができるらしい。証明写真みたいだな、とただ思っていたが、画面に先ほど撮影した写真と『撮り直しますか』という一文が出た途端、俺とアリサちゃんが動いた。

 

「アリサちゃーん、なんで撮り直そうとしてるのかな?こんないいシーンを」

 

「くっ……このわたしとしたことが証拠を押さえられるなんてっ」

 

「もっとなごやかにできないのかな……」

 

一目散に『撮り直し』ボタンを押そうとしたアリサちゃんの手を握って止める。ぐぎぎ、と悔しそうにしているところは、この子にしては珍しい。ちょっと気分がいい。

 

「ふんっ」

 

空いているほうの手でボタンを押そうとするが、それに反応できない俺ではない。

 

細い手首をキャッチした。

 

「はい、だめ」

 

「撮り直しを要求するわ!」

 

「却下しまーす」

 

片手でアリサちゃんの両手を掴んで妨害できないようにしてから、撮り直しせずにゆっくりと次の撮影に進むボタンを押す。

 

「はい。次が始まるぞ。アリサちゃん、怒り顔やめて笑顔にな。すずかも苦笑をやめていつもの心安らぐ微笑みをしてくれ」

 

「むー……」

 

「あはは……。でも、アリサちゃんが負けるところは珍しいよね」

 

「負けてないわよ!……ほら、徹さっさと抱えなさいよ。さっきの写真も抱えなかったせいでフレームの下枠いっぱいだったんだから」

 

「はっは、今なら耳に心地いいな。ほら、落ちないようにちゃんと掴まれよ」

 

もともとこの筐体のために用意されていた踏み台はアリサちゃんが隣の筐体まで蹴っ飛ばしてしまったので、一度かがんでアリサちゃんの要求通り抱える。抱えるというか、二人のお尻の下に腕を回して、腕を椅子みたいにしているわけだ。

 

「わっ、わわっ……」

 

「すずかー、頭に抱きつかれると前が見えないんだけどなー」

 

「ご、ごめんなさいっ」

 

「安定感あるわねー」

 

「ならなんで頭掴んでんのアリサちゃん。すずかはともかくアリサちゃんはわざとだろ」

 

「そんなことないわ。……すずか、ちょっと……」

 

「え?」

 

アリサちゃんは高いところを怖がっている、ふうに装いながら俺の頭を抱くように目と耳を塞いですずかと内緒話を始めた。ところどころしか聞こえない。

 

カメラからの映像が画面に映ることを考慮して目も隠すところが抜け目ない。

 

「……えーっ、で、でも……リサちゃ……」

 

「ほら……のお礼も兼ねて……プリは常識っていうし……」

 

「それどこの常し……」

 

驚いて戸惑うようなすずかと、なにやら言いくるめるというか策を巡らせているかのようなアリサちゃんの声が、塞がれた耳に漏れ聞こえた。

 

話は終わったようで、ぱっと目と耳が自由になった。画面に映る姿を見るに、すずかは乗り気じゃなさそうである。恥ずかしそうにしているのはなぜなのか。

 

「ほら、二枚目撮るわよ!」

 

俺が蚊帳の外に追いやられている間に撮影開始の秒数はスリーカウントまで降りてきていた。

 

「なんの話ししてたんだ?」

 

「えっ、あの……」

 

「ほら撮るわよ!」

 

言い淀むすずかを、アリサちゃんは勢いで押し通した。

 

カウントが順調に若くなり、(ワン)を切った時。フラッシュで目の前が白くなる間際。両頬に柔らかな感触がした。

 

なにが起こったのかよくわからないまま、正面の画面が移り変わる。撮影された画像が映し出される。

 

「……アリサちゃん?」

 

「これは喜んでしかるべきじゃない?男ならとくに、ね?」

 

「……すずか?お前は中立の立場だと思ってたんだけど」

 

「で、でも……ちゅーぷり?っていうのは常識らしいですし……今日のお出かけとぬいぐるみのお礼も兼ねてって……」

 

「……アリサちゃんから?」

 

「アリサちゃんから……」

 

「…………」

 

「わたしたちの感謝の印、ありがとうの証よ?それを『撮り直し』なんかでなかったことには、まさかしないわよね?」

 

「…………」

 

アリサちゃんがやられたままで引き下がるような子じゃないことは重々わかっていたはずなのに、迂闊(うかつ)であった。

 

恥ずかしそうに真っ赤に照れるすずかとは違い、アリサちゃんは少しだけ顔を上気させつつも楽しそうに意地悪い笑みを浮かべた。

 

「これは引き分け、痛み分けね?」

 

「……はぁ。残りのはふつうにやろうぜ、頼むから……」

 

「あははっ!そうね、せっかくぬいぐるみも取ってもらったんだもの、これを抱えて撮りたいわ!すずか!」

 

「うん、そうだね。……でも、顔映るかな?」

 

「顔の下にくるようにしましょ。……なんかそんな感じのモンスターもいたわね」

 

「上に鎧が乗ってるモンスターだよね」

 

「そう!これはこれでありね!」

 

「アリサちゃん的にそれはいいんだね……」

 

「……決まったんなら準備してくれよ。時間が迫ってるぞ」

 

アリサちゃんはきゃーきゃー楽しそうに笑って、すずかも彼女にしては珍しくテンション高めにお喋りしながら次のシャッター音に備えていた。

 

なにやら短時間で弱みをいくつも握られたような気はするが、二人とも楽しそうなので、まあいいか。

 

 



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アリサちゃんとすずかの味がする

主にアリサちゃんに振り回されながらプリクラを撮り終わり、その撮り終わった写真を二人があーだこーだ楽しそうにいたずら書きしている間に、俺はこそこそっと辺りを見回す。店員さんも、怪しげな男たちの姿も今は見えない。お絵かきを終えてプリントされた物をアリサちゃんが回収したところで、二人の手を引いてゲームセンターを出る。

 

計算違いも多くあったが、当初の予定通りに追跡してくる男たちは()けたようだった。

 

撒けたことには一安心だが、これから家に帰すことについては不安が残る。

 

興奮冷めやらぬ、といった様子の二人を先に歩かせ、俺は携帯を取り出して連絡した。(仮)(カッコカリ)とはいえ執事である。上司(鮫島さん)への報告をしておくべきだろうとの判断だ。

 

『そう、でしたか……。徹君へ頼んでよかった、助かりました』

 

「最初は考え過ぎかもとも思ったけど、ゲーセン入っても()けてきてたからね。()のこともあるし注意しといてよかったよ」

 

『お嬢様のお迎えにはハイヤーを回そうかとも考えましたが……私の人選は間違っていなかったようです』

 

「あ、たしかにそういう手もあったんだ」

 

鮫島さんという執事もいるけれど、バニングス家なら贔屓にしているハイヤーの会社だってあるだろう。そちらにアリサちゃんとすずかのお迎えを手配してもよかったのだ。

 

そうしなかったのは、鮫島さんの沈黙から察するに、なにか嫌な予感や虫の知らせがあったのやもしれない。前回の誘拐犯と同じ奴らなら、鮫島さんがやられた時と同様、ハイヤーを使っても車の進路も退路も塞がれて力づくで(さら)われる可能性すらあった。

 

『しかし、少々困りましたね……』

 

「えっと、もしかしてアリサちゃんのご両親は……」

 

『ええ。私も旦那様も手が離せず、奥様は海外の系列の会社へ出張中です』

 

「アリサちゃんを、あの広い敷地内に一人?警備システムはしっかりしてるだろうけど……」

 

『以前の誘拐未遂の者共と同じであれば、手荒な真似をしないとも限りません。金品が目的であれば構いませんが、お嬢様に何かあってからでは手遅れです。臨時に警備を増やすよう依頼しても、今日これから今すぐというのはさすがに難しいようで』

 

「そっか。それならバニングスさんに伝言しといてもらっていい?」

 

『伝言、ですか?どういった内容でしょうか』

 

「今日アリサちゃん、俺の家に泊まってもらう、って」

 

 

 

 

 

 

「……さて。作るわよ!」

 

我が家の台所で食材を前にして、少々大きめのエプロンの袖を折っていたアリサちゃんが元気よく宣誓した。

 

「アリサちゃん、その前に髪纏めとこうね」

 

「そうね!すずかのはわたしがしてあげるわ!」

 

「うん、ありがとう」

 

アリサちゃんと同じようにエプロンをかけたすずかが、アリサちゃんの後ろに回って黄金色の長い髪を一纏めにしてヘアゴムで結った。ポニーテールにしてもらったアリサちゃんは尻尾をふりふりさせたり手で感触を確かめると満足げに頷き、今度はすずかにお返しする。

 

なんだろう、すごく心がぽかぽかする光景だ。

 

「徹、今日のメニューはなにかしら?」

 

「お、おお……本当に手伝ってくれるのか」

 

「あ……お邪魔、でしたか……?」

 

「違う違う!手伝ってくれて助かるなーっていうのと、感心するなーっていうのとなんかごちゃごちゃに混ざってて……」

 

「せっかくだもの。みんなで作ったほうがいいわ!学校でも調理実習とかやってるんだから、簡単なのならできるわよ」

 

「いい子たちだ……」

 

感動でほろりと涙が出そうだ。

 

以前泊まりにきた友人は手伝うなんて殊勝な姿勢は振りでも見せなかったのに。

 

「……なにやってるの?はやくメニュー教えなさい

「ああ、今日は……」

 

台所に並べた野菜を眺めて献立を口に上していく。

 

和風ハンバーグとお味噌汁、新じゃがを使ったハッシュドポテトとかぼちゃの煮物など。

 

今日は寄り道をしたおかげで時間が遅くなってしまったので、商店街には足を伸ばさずスーパーで買い揃えた。

 

献立を聞いて、すずかがアリサに顔を向けた。

 

「よかったね、アリサちゃん。ハンバーグ作ってくれるって」

 

「わっ、わたしはなにも言ってないわよっ!は、ハンバーグなんて子どもっぽいこと言ってない!徹がハンバーグ食べたそうな顔してたから、食べたいのって聞いただけ!」

 

「ふふっ、そうだった?」

 

「そうよ!」

 

鮫島さんに連絡を取った後、アリサちゃんを一人にするのは不安だったのでうちで夕飯を一緒に食べようという流れに持っていって、何か食べたいものあるかとリクエストを取ったのだ。すずかは悩んでいたようだったが、アリサちゃんは即答だった。即答で『ハンバーグ食べたい』だった。普段の振る舞いとはかけ離れた、年相応の子どもっぽいその言い方はとても可愛らしかった。

 

そのあと、固まった俺とすずかにはっと我に返ったのか『ハンバーグ食べたい?って徹に聞いたの!聞いたの!』と、よくわからない照れ隠しをしていたが。

 

「そんじゃアリサちゃんが楽しみにしてるし、ハンバーグから作っていこうか」

 

「はい」

 

「ちょっ、徹!てきとうなこと言わないの!」

 

ぺちぺち叩いてくるアリサちゃんを謝りながらいなして、さっそく準備に入る。

 

と、その前に。

 

「二人は苦手な食べ物とかあるか?嫌いな野菜とか」

 

「わたしはないわよ。野菜も好きだもの」

 

「えっと……香りの強いものはちょっと苦手、です……」

 

「それじゃあ、二人とも基本的に食べれないってものは……」

 

「ないわ」

 

「今日買ってきている野菜ならわたしも大丈夫です」

 

「いい子たち……」

 

友人二人(長谷部と太刀峰)が泊まりにきた時、野菜は嫌だ食べたくない肉のみを要求するだのと駄々をこねていたのに。本当に長谷部と太刀峰にはこの子たちを見習ってほしいものである。まあ、アリサちゃんやすずかが年齢以上に老成しているというのは間違いなくあるけれど。

 

「……こうして、ぺた、ぺたっ……と。空気を抜くようにやるのよね?」

 

「そうそう。よく知ってるな、アリサちゃん」

 

「え?う、うん、まあふだんから作ってるから……」

 

「調理実習の時に作ったのがハンバーグだったんです」

 

「ほう、なるほど」

 

「ちょっとすずか!ばらさないでよっ」

 

「え?あれから自分で作るようになったってことじゃなかったの?」

 

「…………そう。そうよ」

 

「見事に自爆したな」

 

「うるさいっ」

 

ところどころ手順を教えたりはしたが、二人とも授業は真面目に受けているらしくほとんど自分たちでできていた。おかげで負担が減った俺は他の料理やお風呂の準備もできた。

 

順調に作業を進め、焼くときには四苦八苦したものの結果的には上出来の仕上がりになったハンバーグをお皿に移して盛り付けるだけとなった頃、奴が帰ってきた。

 

「ただいまー……へむ?」

 

がちゃがちゃ、と鍵を開ける音。ビニール袋が擦れる音。何かに気づいたように一拍置いて、間の抜けた声。ぱたぱたぱたっと勢いよく階段を駆け上がってきた。

 

「徹ー、誰か遊びにきてんの!?」

 

「おかえり。なんでそんな嬉しそうなんだ」

 

「お久しぶりです、真守さん」

 

「あーっ!すずかちゃん!おひさーっ!」

 

「きゃっ……真守さん、苦しいです……」

 

仕事から帰った姉ちゃんは、荷物とビニール袋を放り捨ててすずかをハグした。早い。いろいろと行動が早すぎるし、いろいろ踏むべき段取りを蹴っ飛ばしている。

 

「すずかちゃん、おおきなったなぁっ!」

 

「親戚のおばちゃんかよ」

 

「ふふっ、あははっ、真守さんっ、こそばゆいですっ」

 

「愛情表現っ、愛情表現ってことでセーフっ」

 

「即座に離れろ変質者」

 

「あれ?そちらの可愛らしい子は?どなた?」

 

「紹介する前にすずかにまとわりつくその手を離せ」

 

すずかから姉を引き剥がす。こういうまったく褒められない時に限って驚くべき変態能力もとい身体能力を遺憾なく発揮してくれる姉である。

 

「はぁ、はぁ……真守さん、変わりないようでよかったです」

 

「すずかちゃんは背ぇ伸びたなぁ。……ほれ、徹」

 

「態度が悪いな態度が。……こちらはすずかやなのはの同級生で親友のアリサちゃんだ」

 

姉ちゃんの勢いとテンションに一歩下がって様子を見ていたアリサちゃんの手を引いて、紹介する。

 

彼女にしては珍しい、というか貴重な、少々緊張した面持ちで口を開いた。

 

「えっと……初めまして。アリサ・バニングスです。徹……さん、とは縁があって、良くしてもらっています」

 

スカート、の代わりにエプロンをちょこんと持ち上げて一礼する。アリサちゃんの(なり)は小さく、着ているものも安いエプロンだというのに、そこには確かに溢れんばかりの気品があった。

 

「……あ、アリサちゃんがまるでお嬢様のような振る舞いを……」

 

「アリサちゃんは紛れもなくお嬢様ですよ、徹さん」

 

俺に対するアリサちゃんの態度はわりとさばさばしているので、お嬢様であることをつい忘れてしまう。ついでに付け加えるならすずかも相当なお嬢様である。

 

「アリサちゃんっ!綺麗なお顔っ、綺麗な金髪っ!かぁっわええなぁもうっ!」

 

「いてっ。えっ……」

 

手がぱちっと弾かれたと思ったら、姉ちゃんがアリサちゃんの両手をぎゅうっと握っていた。俺がアリサちゃんの手を引いていたはずなのに、一体全体なにをどうやったらアリサちゃんの手は保護して俺の手だけを弾き飛ばすことができるのか。

 

「わわっ」

 

「遠慮せんでええよ、アリサちゃんっ!いつも通りの言葉遣いで楽にしぃ!自分の家やと思ってええんやからな!」

 

「え、っと……」

 

「しっかし、徹は可愛い小学生と縁があるなぁ」

 

「語弊のある言い方してんじゃねぇよ」

 

「羨ましいわぁ」

 

「それはそれでどうなんだよ」

 

「徹さんは彩葉(いろは)ちゃんとも仲良いですよね。わたしたちといる時よりも徹さんといる時のほうが表情が明るいんですよ?」

 

「すずか、なぜ今言ったんだ」

 

「うちその子知らへん!ぜひうちに連れ込ん……遊びに連れてきてええからな!」

 

「連れてこれねえわ、確実に裏があるじゃ……今なんて言おうとしやがった」

 

「ふふっ、あははっ!おもしろいお姉さんね!くふふっ……」

 

「おー!アリサちゃん笑ったらもっとかわええ!もっとお顔見せて!」

 

「きゃっ!ちょ、ちょっとお姉さん、それじゃ顔見せられないわよ、あははっ」

 

アリサちゃんをぎゅうっとハグする姉ちゃんの肩を引き剥がそうと試みる。とっても強固にひっついていた。この細い身体のどこにこれほどの力が秘められているのか。

 

「姉ちゃん、ほんともう……ほんともういいかげん速度落としてくれ。身内として恥ずかしい。そろそろブレーキ踏んでもいい頃だろ……」

 

「だってぇ、めっちゃかわええねんもーん」

 

「もーん、って……その歳で……」

 

「女性に歳のことをとやかく言うなとうちは教えたはずや」

 

「教えられた覚えはねえよ、睨むな怖い」

 

「お姉さん、熱烈な歓迎ありがと。でも、わたしたち晩御飯作ったの。冷えちゃう前に食べましょ?」

 

「そうなんです真守さん。ハンバーグ作ったんですよ」

 

「えっ?!二人が作ったん?!食べたーい!うち腹ぺこやねん!はよ食べよ!」

 

「そうしましょ。でも、お姉さん?」

 

「ふむ?」

 

「まずは手洗いうがいをしてから、よね?」

 

「おお!せやった!ごめんなぁ、すぐ手ぇ洗ってくる!」

 

アリサちゃんに促されて、姉ちゃんは洗面所がある一階に降りた。

 

おかしいな。このやり取り、どちらが年上かわからない。

 

姉ちゃんの体たらくにため息をつく俺。を見て、くすくすとアリサちゃんが笑う。

 

「ごめんな、騒がしい姉で」

 

「たしかにとっても賑やかね。でもそれ以上にフレンドリーで気さくで接しやすい、いいお姉さんじゃない」

 

初対面の年下を相手にしてもフレンドリーで気さくで接しやすい、と表現すると、まるで人格者のように聞こえるから不思議だ。実際は精神年齢がほぼ同じなだけなのに。日本語の妙である。

 

「……距離感近すぎて暑苦しくないか?遠慮とか気後れってもんが、とくに可愛い女の子に対しては一切ないからな」

 

「それはわたしやすずかを可愛いって思ってくれてるってことでいいの?」

 

「えっ、ちょっと……アリサちゃんはともかく、わたしは……」

 

「アリサちゃんもすずかも可愛いから、姉ちゃんのテンションが振り切って元に戻ってくれなかったんだよ。(せわ)しない姉で恥ずかしい限りだ」

 

「そんな……か、可愛いだなんて……」

 

「ふふんっ!ま、当然ね!うちのすずかはファンクラブがあるくらいなんだから!」

 

「わたしなんて……アリサちゃんのほうが男の子にも女の子にも人気あるのに……」

 

胸を張って誇らしげな顔をするアリサちゃん。可愛いという評価や、自分のファンクラブの存在を自分の勘定に含めていないのがこの子らしい。自信家なように見えて、実のところ自分のことは過小評価するきらいがある。

 

すずかの口振りからすると、男の子だけでなく同性の女の子からも強力な支持を集めていそうだ。学校ではアリサちゃんやすずか、なのはや彩葉ちゃんがどういう感じで生活しているのか、すこし気になる。

 

「ほら、お姉さんが戻ってくる前に晩御飯の用意するわよ!」

 

「おお、そうだな。皿持ってくる。盛り付けは任せていいか?」

 

「は、はい、任せてください」

 

「ばっちりやるわよ!」

 

皿を二人に渡して、俺はテーブルを拭いて飲み物を置いておく。アリサちゃんとすずかがせっせとご飯や汁物、メインのハンバーグやサラダを取り分けるので、俺はそれらをテーブルに並べていく。姉ちゃんが上がってくる頃には食卓はお皿で埋め尽くされていた。

 

「ただいまーってわぁっ!おいしそーっ!」

 

「帰ってきて早々うるさいな」

 

「これ見てなんも言わんかったらコメンテーター失格やろ!」

 

「いつからコメンテーターに転職したんだ初耳だよ」

 

「盛り付けもきれいやなぁ。これは二人が?」

 

「ええ。すずかと二人でやったのよ」

 

「ほとんどアリサちゃんがやってくれましたけど」

 

「二人ともセンスええなぁ!芸術の天才っ!センスの塊!ヴィーナス誕生してまうわ!」

 

「我が姉ながら褒め方が奇抜すぎる」

 

意味のわからない賛美をしながら二人との距離を詰めようとする姉ちゃんの襟首を掴む。油断も隙もない。

 

「いちいち抱きつこうとすんな」

 

「ちっ……しゃあないな。ほら、二人とも、うちの隣座りぃ」

 

(はべ)らそうとしてんじゃねえ」

 

結局強引な姉ちゃんに流される形で隣にアリサちゃんとすずかが着席した。

 

全員が席に着いたところで、手を合わせる。

 

「そんじゃ、いただきます」

 

いただきます、の合唱。

 

食べるものはたくさんあるけれど、やはり一番最初に箸が向かうのはメインのハンバーグ。

 

姉ちゃんは一口サイズに切って、口に運んだ。

 

「あー……んむ。んんっ!」

 

「どうかしら?」

 

「ちゃんとおいしくできてますか?」

 

アリサちゃんとすずかはちょっと緊張した様子で見守っていた。ソースは味見してもハンバーグは試食していなかったので味が心配だったのだろう。

 

しっかり味わうようにもぐもぐして、飲み込んでから姉ちゃんは口を開いた。

 

「めっちゃおいしいっ!」

 

「っ、そう。ま、当然よねっ、わたしとすずかが作ったんだもの!」

 

「よ、よかったー……」

 

「二人とも一生懸命作ってたもんな」

 

「えへへ……よかったです」

 

「わ、わたしはべつに一生懸命でもないけど?いつも通り、普段通り作っただけだし?」

 

「アリサちゃんもすずかちゃんもお料理上手やなぁ。めっちゃおいしい!二人の味する!」

 

「ハンバーグで二人の味がするってちょっとしたホラーじゃねえか。コメンテーター失格だわ」

 

その後も二人をべた褒めに誉め殺しながら騒がしく食べ進め、ほとんどの皿がきれいになった頃、姉ちゃんが切り出した。

 

「そういえば、今日はどうしたん?三人で遊んでたん?」

 

「遊んで……たというと遊んでたことになるんでしょうか?」

 

「いや、もともとは塾のお迎えだったんだけどな」

 

「お迎え?徹が?」

 

「うちの鮫島がこれなくなっちゃったから、徹に頼んだらしいの。さすがに夜道を二人だけで歩くのは心細かったから助かったわ」

 

「おお!徹が役に立ったんやったらよかったわ!……ん?さめ、じま……鮫島さん……あ!徹が行っとった道場で一緒やった、あの鮫島さん?」

 

「そうそう。その鮫島さん。最近またお世話になってるんだ。よく覚えてるな」

 

「そりゃ覚えとるよ。最後にご挨拶したんはだいぶ前やけど、あん時から渋くてカッコええ執事さんやったし」

 

「お姉さん、鮫島と顔見知りだったの?」

 

「うん。昔徹が行っとった道場にうちが迎えに行って待ってる時、アイス()うてくれてん」

 

「餌付けか」

 

「今だったらちょっとした事案ね」

 

「徹さんもアリサちゃんも、もっと微笑ましいシーンを思い浮べようよ……」

 

けらけら笑いながら姉ちゃんは続ける。

 

「ほんで、晩御飯に招待したって感じなん?」

 

「そんなとこ。いい時間だったしな」

 

「ほへぇ。ゲーセンに寄ったんやなくて?」

 

「…………え?」

 

「ゲーセン寄ったんちゃうの?」

 

「お姉さんなんでわかったの?!徹みたいにオーラが見えるの?!」

 

アリサちゃんがきらきらした目で姉ちゃんを見る。懐かしい話を持ち出した。もしかしてまだ信じてたりしてるのか。

 

「オーラ?はようわからへんけど……ここらへんで有名で大手の塾言うたら駅前んとこのおっきいビルやろうし、そっからの帰り道に徹や恭也くんや忍ちゃんがよう行っとったおっきいゲームセンターあるし、暗くてようわからんかったけど玄関の靴箱んとこになんか大きいのが入っとる袋が二つ置かれとったしな。それに今日は徹の服から変わった匂いさせとるし、アリサちゃんやすずかちゃんからもちょっと同じ匂い感じたし。たぶんゲーセン寄ったんやろなぁ、って」

 

「……こわっ」

 

「怖いってなんや、そうかなーって思っただけや」

 

相変わらず、一度頭が回り出すと結論まで一直線に辿り着く姉だ。手がかりなんてほとんど見せてなかったのに。

 

「そうなの。初めて行ったけど、すごく楽しかったわ」

 

「下に置かせてもらってるのはUFOキャッチャーで徹さんに取ってもらったんですよ」

 

「せやったん?あんな大きいのよかったなぁ。あと補導されんでよかったなぁ」

 

本当に補導(それ)が怖かったよ。

 

「あとプリクラもやったの!三人で!」

 

「ぶふっ、徹がプリクラっ……」

 

「笑ってんじゃねえよ」

 

「『ちゅーぷり』っていうのをやってみたのよ!ちょっとどきどきしたけどおもしろかったわ!」

 

「徹、ちょっと向こうで(はな)そか」

 

「いきなり真顔になってんじゃちょちがちょ、違う違う違う違う俺は不意を突かれたんだ防ぐ隙も躱す暇もなかったんだ決してアリサちゃんとすずかに強要したわけじゃない」

 

「そ、そうですよ?ぬいぐるみを取ってもらったあとにプリクラをやって、その時にアリサちゃんとわたしで、お礼をしようって話になって……」

 

「くふふっ……こほん。そうなの。だからお姉さんは安心してね」

 

「そうなん?せやったらええけど、二人ともとんでもなくかわええんやから、気ぃつけぇや?女の子同士やったらちょっとくらいええやろけど、男にやるんはちゃうんやで?」

 

未だに俺に冷たい視線を飛ばしながら、姉ちゃんは二人に優しく注意した。素直に聞き入れてわかったと頷く二人の頭をにこにこしながら撫でる。

 

すずかがフォローに入ってくれたおかげでなんとか惨事は免れた。

 

「……と、そろそろごちそうさまだな……」

 

料理はまるっと綺麗になくなった。

 

アリサちゃんとすずかの味がする、なんていう猟奇的なコメントを生み出した和風ハンバーグは実に美味であった。お味噌汁や新じゃがをつかったハッシュドポテト、煮物なんかは、まあ俺が作ったのでいつも通りの味でなんの感慨もないが、ほぼすべて二人で頑張って作ってくれたハンバーグは本当においしかった。人が作ってくれるご飯ってこんなにおいしいのかと感涙に(むせ)び泣くところだった。

 

さて、これからどうしよう。晩御飯が終わる前に切り出そうと思っていたのだが、切り出すタイミングを掴み損ねた。

 

アリサちゃんとすずか。ゲームセンターからの帰り道に二人を晩御飯に招待はした。したが、そこまでだったのだ。その場でなんの脈絡もなく『俺の家に泊まりに来る?』なんて言い出せるわけもなく、晩御飯の後の話はしていなかった。

 

怪しげな輩に狙われているかもしれないアリサちゃんを一人帰すわけにはいかない。とはいっても、アリサちゃんを泊まらせてすずかを帰らせるのもおかしな話だ、聡いアリサちゃんならきっとなにかを勘ぐる。そして気づくだろう。また怯えさせるようなことにはしたくない。とても仲のいい親友も一緒にいたほうが気持ちも楽だろうと思ってすずかも一緒に家まで来てもらったが、どうにも話の流れを作れない。

 

明日も学校があるし、突然家に遊びにきたのだから二人の着替えだってあるわけない。(とど)めに明日もテストがある。反対材料ばかりの中、はたしてどう切り出せばいいものか。

 

「アリサちゃん、すずかちゃん」

 

必死に頭を回す俺を嘲笑うかのように、姉ちゃんが頭空っぽそうな笑みで二人に話しかけた。

 

「ご飯食べ終わったら一緒にお風呂入ろなぁ」

 

「え?」

 

「へ?今日はうちに泊まってくんやないの?そうやとばっかり(おも)てた。まあなんにしたって、こない時間遅なってるし、今日は泊まってき!」

 

姉ちゃんは持ち前のぶっ飛んだ人間性で一気に切り込んだ。

 

「で、でも明日も学校ありますし……」

 

すずかが、ちらと俺を見てからおずおずと言った。

 

「明日の朝に車用意してもらお!早めに起きて準備したら間に合う間に合う!」

 

「いいの?迷惑じゃない?」

 

「迷惑なわけあらへんよ!な、徹?」

 

「んっ、お、おう。俺としては姉ちゃんの相手をしてくれてるだけで助かるよ」

 

「そそ!うちの相手しとったら……ってなんやとー!」

 

「そ、それじゃ……泊まっていっても、いい?」

 

「もちろん!やったーっ!パジャマは……うちのお古でええ?まずはお風呂やな!すずかちゃんもええ?」

 

「えっと、えっと……」

 

「すずかも一緒にお泊まりしましょ!」

 

「え、ええっ……でも、でも」

 

またちらちらとすずかがこっちに視線を送ってくる。

 

なにか不都合なことがあるのだろうか。と考えて、思い至った。

 

「……もしかして」

 

「あ、ちっ、ちがうんですっ、あのっ……」

 

「忍にはこっちから連絡しとくから大丈夫だぞ?怒られたりしないからな」

 

そういえば、アリサちゃんの家には鮫島さん経由で連絡したが、すずかの家にはまだ連絡をしていなかった。うちで晩御飯を食べていて遅くなっているのに、その上いきなり泊まるなんて言い出したら(特に忍に)怒られると、そう思ったのだろう。

 

「あ……えっと……」

 

目線を逸らして口籠る。反応が芳しくない。どうやら俺の推測は当たってはいないらしい。

 

奥歯に物が挟まったような口振りのすずかを見かねたのか、アリサちゃんがするっと近づいて耳元に口を近づける。

 

「すずか、すずか」

 

「な、なに?アリサちゃ……」

 

「これ……ャンス……争相……ら抜……出るために……」

 

「わたっ、わたしはっ、べつにそういうあれじゃ……」

 

アリサちゃんはすずかの耳元で口を隠すように手を壁にしてるので何を言っているのか、はっきりとは聞こえない。ただ、すずかの表情が面白いように変わっていくので、何を言っているかはわからないが、何かとんでもないことを言っているだろうことはわかる。

 

泊まるかどうかの結論が出るのを、わくわくしながらお座りして静かに待っている姉ちゃんの隣で、すずかがようやく口を開く。

 

「わ、わたしも……泊まらせてもらっていい、ですか?」

 

手をもじもじさせ、頬を染めて俯きがちに、すずかが言った。

 

言い終わるとほぼ同時に、姉ちゃんの目が輝いた。

 

「やったー!うぇーるかーむっ!」

 

「きゃあっ!」

 

「わたしまでっ!」

 

姉ちゃんが、すぐ近くにいたアリサちゃんを巻き添えに二人をハグした。姉ちゃんのその暴走機関車ばりの勢いをたかだか九歳やそこらの女子小学生二人に止められるわけはなく、三人揃って床に転がった。

 

何が楽しいのかきゃっきゃっと笑い転げている姉ちゃんに流されて、アリサちゃんもすずかも笑っていた。アリサちゃんと姉ちゃんが初めて顔を合わせてからまだ一時間も経っていないなんて、おそらく誰も思うまい。

 

「……食器、片付けとくか」

 

申し訳ないが姉ちゃんのお世話は二人に任せておこう。

 

皿を重ねて持って台所へ。

 

その途中、家の前の道路を窓から見下ろす。

 

「……いない、か……」

 

駅近くの塾から、ゲームセンターの中にまで追跡してきた怪しげな男たちは見えない。サーチャーを飛ばして家の周囲、およそ半径百メートルくらいは監視していたが、そちらでも怪しげな人影を捉えていないのでどうやらゲームセンターでうまいこと撒くことができたのだろう。

 

「そろそろどうにかしないといけないよな……」

 

すずかと一緒に姉ちゃんに絡みつかれているアリサちゃんの笑顔を見て、口の中で呟いた。



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冤罪

『ふーん、そういうことね。まあこっちも急用が入った鮫島さんの代わりに徹が迎えに行ったってことは聞いてたから、心配はしてなかったけど。……でも、もうちょっとはやく連絡できなかったわけ?』

 

「悪いって。晩飯とか作ってたらタイミングを逃したんだ」

 

強硬な姉ちゃんの意志によりお風呂にアリサちゃんとすずかを連行している隙に、俺はすずかの家の者に、つまるところ月村忍に連絡していた。

 

心配していなかった、などと強がってはいるが、子煩悩ならぬ妹煩悩な忍はやはり心配していたようだ。連絡が遅れたのは全面的に俺の不手際なので謝るほかない。

 

『真守さんに迷惑にならないんなら、すずかを泊めさせてもらっても私は全然構わないんだけどね。今日、うちに綾ちゃんたちが泊まりにきてるし』

 

やはりお迎えにノエルさんが来れなかったのは、鷹島さんや長谷部、太刀峰が月村邸に泊まっていたからのようだ。

 

「姉ちゃんがすずかの迷惑になりそうで俺は心配だけど」

 

『そんなこと言わないの。久しぶりに顔見れて嬉しいんでしょ』

 

「姉ちゃんはすずかのお婆ちゃんかよ」

 

『くふふっ……やめてよ。ってもう、話はそっちじゃなくて』

 

忍は一度間を置いて、話を区切った。

 

『……なんですずかを泊めようと思ったの?』

 

「……あれ、もしかして俺疑われてる?」

 

『は?……ああ、そういう……。ばか、ちがうわよ。真面目な話。なんか話に整合性がないっていうか、あんたの挙動が不自然っていうか』

 

「は、はぁ?不自然ってなんだよ」

 

『明日も平日じゃない。わざわざ今日を選ぶ理由はないのよね。時間に余裕のある別の日に改めてやればいいのに』

 

「…………」

 

すずかと一緒にアリサちゃんも泊まりに来ているということは伝えているが、怪しげな輩に尾けられていたことは伏せている。不必要に不安がらせることはないだろうと判断した。

 

だが、情報を伏せたぶん、辻褄が合わないというほどではないが俺の行動に違和感が残る。付き合いが長いとこういう細部で鋭く気づいてしまうので大変困る。俺の考え方を把握されているのだ。

 

『それに、なんだかかぶるのよねー。真希ちゃんや薫ちゃんを泊めた時と』

 

「…………」

 

『もしかして、なにかあったの?』

 

以前、魔法関連の隠し事を全部打ち明けた時、長谷部と太刀峰の件の話もした。その際、内容が内容だったのでところどころぼかしながら語ったわけだが、意図せずその時と似たような語り口になっていたようだ。それにしたってその結論に辿り着くのが早すぎる。

 

「……いや、すずかには……ああえっと、もちろんアリサちゃんも絶対に怪我なんてさせないから大丈夫だ。安心して……」

 

『こんの……ばかっ!なんでこういう時にあんたは自分を外すのよ!』

 

「っ……す、すまん」

 

『……私もごめんなさい。言いすぎたわ。……あ。と、徹、ちょっと待ってて……』

 

「お、おう。わかった」

 

電話の向こうから、忍ではない声がうっすらと聞こえた。そういえば、忍の家には鷹島さんたちが泊まりに来ているのであった。

 

音に集中すると、遠くで鷹島さんの声が聞こえた。何があったのかと狼狽(うろた)える鷹島さんと、鷹島さんを(なだ)める忍。

 

少しして、若干の風の音と木が軋むようなノイズが入る。そのあと、忍の声が通常の音量で帰ってきた。

 

『待たせたわね。もういいわ』

 

「鷹島さんたちと同じ部屋にいたのかよ。そりゃ鷹島さんなら、あれだけ忍が声荒げたらびっくりしちゃうよな」

 

『…………』

 

忍はしばし黙って携帯を操作しているような、がさがさ、というノイズの後、忍が恐る恐るといったふうに言った。

 

『……あんたどこかから見てるわけじゃないのよね?』

 

「見えるわけねえだろ」

 

『だって、綾ちゃんがいることはまだしも、部屋を出たことまであてるもんだから、変なアプリでも使ってカメラのレンズから盗み見てるのかと』

 

「するかよ、そんなこと」

 

『できない、とは言わないのね』

 

「こっ、言葉の綾ってもんだろうが。揚げ足とんな。それっぽい音が聞こえただけだ、安心しろ」

 

やろうと思えばできそうだな、とちょっと本気で考えてしまった。

 

『そ。ならいいわ。それじゃ、帰り道になにがあったか、話しなさい』

 

「……はぁ。俺も相手が何者かなんてわかってねえから、ちゃんとしたことは言えないぞ」

 

やけにしつこく聞いてくるので、知っていることを報告した。これ以上隠そうとしても、かえって心配させるだけだろう。

 

塾の前で二人と雑談していた時点で、すでに怪しげな男がビルの近くを張っていたこと。追ってきたのでゲームセンターで撒いたこと。加えて、未遂で済んだがちょっと前にアリサちゃんが誘拐されかかったことも。

 

アリサちゃんに無断で忍に教えるのは少々躊躇(ためら)われたが、忍なら誰彼構わず風聴するようなことはない。そのあたりの口堅さは信頼している。

 

『……そう。なるほどね』

 

俺も件の怪しい男たちについて詳しく知っているわけではないので、それほど話に密度はなかったけれど、全部話し終えた忍の第一声がそれだった。

 

「…………」

 

付き合いが長いからこそ、忍が俺の話に違和感を感じたのと同じように。

 

付き合いが長いからこそ、俺も忍の返事におかしなニュアンスを感じた。

 

ストーカー疑惑や誘拐未遂などの物騒な話を聞いて、まるで安堵した(・・・・)ような声の響きだった。危害を加えられなくてよかった、とか、誘拐が未遂で済んでよかった、なんていうトーンではない。

 

「忍、お前、なにか知ってんのか?」

 

『怪しい奴らのこと?ううん、知らないわ。でも素性は知らないけど、最近似たような事件、というか事案かしら?そういうのは耳に入ってるわ。粗暴な男に声をかけられたり、絡まれたりとかね。こっちでも調べて……』

 

「そうじゃなくて、お前の耳には今回の件とは違う話も入ってたんじゃないのか?なんて言うか……こう、声の調子がおかしかったっていうか……なにか隠してるっていうか」

 

『…………』

 

「……なんて言ったらいいかわかんねえや」

 

『……はは、なによそれ』

 

「まあ……いいや。なんかわかった時は教えてくれ」

 

『ええ……わかったわ』

 

「サンキュ。……あとこれは戯言として聞き流してくれてもいいけど……どうにもならないことがあったら、どうにもならなくなる前に言ってくれよ」

 

しばし沈黙があって、やがて諦めたような色合いの吐息と小さく微笑むような声が届いた。

 

『ふふっ。付き合いが長いって、いいことばかりじゃないのね』

 

「奇遇だな。ついさっき、俺もまったく同じことを嘆いたところだ」

 

『……ありがとね、徹』

 

「なんの感謝かわかんねえよ。言いたいことはそんだけ……っと、言い忘れるとこだった。明日の朝、すずかを迎えにきてもらえるようにノエルさんに伝えておいてくれ」

 

『はあ……締まらないわね』

 

「今に始まったことでもないだろ」

 

『それもそうだったわね』

 

「馬鹿二人の面倒と鷹島さんのお勉強の相手、がんばってくれ。そんじゃ、また明日な」

 

『あ……ま、待って!』

 

おやすみ、と締めくくって切ろうとした寸前、忍の制止が入った。

 

『えっと……すぐには無理かもしれないけど、いつか折を見てちゃんと話すから、それまで待っててもらっていい?』

 

「つい最近、俺もみんなに隠してたことがあったんだ。それなのに、お前に今すぐ全部話せなんて言わねえよ」

 

『ありがと。ねえ、徹』

 

「次はなんだ?」

 

『すずかのこと、よろしくね』

 

「は?……ああ、一応わかってるつもりではあるけど……」

 

『それならいいわ!明日は遅刻しちゃダメよ。ただでさえ先生方によく思われてないんだから。私、徹に忍先輩とかって呼ばれたくはないわ』

 

「なんで留年してる想定なんだ。今日だって、べつに遅刻したくて遅刻したわけじゃないし、教師たちからも嫌われたくて嫌われてんじゃねえんだぞ」

 

『あらあら、ごめんあそばせ。ふふっ』

 

「……楽しそうでなによりだよ」

 

『それじゃ、また明日ね。おやすみなさい』

 

「ああ、おやすみ」

 

通話を終了して、携帯をテーブルに置く。

 

すずかをうちに泊まらせることだけを報告するつもりだったが、存外長電話になってしまったようだ。一階から、浴室の扉が開く音が聞こえた。もうアリサちゃんやすずか、ついでに姉ちゃんも上がったようだ。それほど大きくはない浴室なのだが、よく三人も一緒に入れたものである。

 

風呂から上がったとはいえ、三人とも髪が長いので脱衣所から出てくるのはまだ時間がかかるだろう。その間、中途半端に暇ができるので、今のうちに使った食器を洗っておく。

 

一階から聞こえる、きゃあきゃあというような賑やかかつ華やかな声をBGMにしながらやっていた洗い物がちょうど終わりを迎えた頃、ぺたぺたと下から階段を上がってくる足音が耳に届いた。

 

「徹、お先にお風呂いただいたわ」

 

「アリサちゃんが一番か、おかえ……」

 

喋りながら振り返って、言葉を失った。

 

アリサちゃんがパジャマ代わりにしている服には見覚えがある。元は姉ちゃんが昔着ていた服だ。

 

キッズサイズの小さめの服なんてうちにあるわけないのでなるべくサイズが合うのを、と考えて引っ張り出したのだろうが、それでもやはりサイズが大きかった。

 

いっそ俺の服のほうがよかったかもしれない。中途半端にアリサちゃんに合うようにサイズを寄せたせいで、股下数センチという、かなり際どい仕様になっている。俺の服を渡していれば、それでもだいぶ肌の露出面積は広いだろうが、膝から数えたほうが早いくらいの丈にはなったはずだ。

 

危うく皿を落っことすところだった。

 

「徹もはやく入ったら?……なに?」

 

「……え?あー、いや……」

 

じっと観察していたところに声をかけられたせいだろう。まともな意味を持つ言葉を、口は(つむ)いでくれなかった。

 

身体は小さくともやはり女の子はそういったものに敏感なのか、俺の視線を感じて、アリサちゃんはにやりと口角を上げた。

 

「ふふんっ、わたしの湯上(ゆあ)がり姿にみとれちゃったの?」

 

腰を少し曲げ、上目遣い気味に見上げて品を作る。胸元に手を這わせ、指先でTシャツをわずかに引っ張って胸元をちら見せする。

 

俺の反応を面白がっている様子だが、残念ながら「そっちじゃないんだなぁ」起伏の乏しい胸元より、健康的で血色のいい、すらっとした綺麗で柔らかそうな太ももをアピールポイントとして押し出すほうがいいのではと俺なんかは愚考す

 

「失礼ね徹はっ!」

 

「いきなりな、かふっ……」

 

どうやら無意識のうちに口を滑らせていたようだ。

 

小さなおててをきゅっと握りしめて俺の腹を殴りつけた。なかなかどうして、腰の入ったいいパンチをお持ちだ。

 

「ごめんごめん、驚いて言葉が出なかったんだ」

 

「そのわりにはしっかりと『そっちじゃない』って言ってたわね!……あれ?『そっちじゃない』……へえ」

 

眉間に皺が寄っていたアリサちゃんだったが、突然何かを呟いた。

 

笑みが、浮かぶ。とっても悪そうな笑みが。

 

「そっかそっか。そういえば聞いたことがあるわ……なるほど。徹は『こっち』が好みってわけね?」

 

「っ?!」

 

跳ねるように一歩下がって、アリサちゃんは手を太ももに添わせる。するするっと腕を上げていく。必然、手のひらも連れて上がっていく。もともと股下数センチのTシャツの裾が、さらに際どく、じりじりと(めく)られていく。

 

もう見える、というところでアリサちゃんの手が止まった。

 

「くふふっ。おもしろい発見をしたわ。これはいろいろ使えそうね?ふふっ」

 

「む……。そ、そんなもん引っ掛からないからな。わかってる、アリサちゃんの性格は。ちょっかいかけて楽しんでるだけだ。実はちゃんと穿いてましたってオチだろ」

 

「視線を逸らそうともしない時点ですでに引っかかってるようなものじゃないかしらね」

 

いたずらっぽい笑み、と言ってしまうと茶目っ気があるかもしれないが、少々度合いが違う。方向は同じでも距離が違うようなものである。いたずらよりも妖しげで、笑みというには深すぎる。

 

手玉に取られているところに、ぱたぱたと軽快な音を奏でながらすずかが急いで二階に駆け上がってきた。その手には、なにやら布のようなものが握られている。

 

「アリサちゃんっ、パンツ用意してもらったのになんで穿かないのっ」

 

「えぅえっ?!」

 

「下着のほうじゃなくてショートパンツよ」

 

「…………」

 

落とし穴から抜け出そうとしたら、さらに深い穴に落ちた気分だ。この場合、落とし穴というよりも墓穴と呼んだ方が正確かもしれない。

 

「期待させちゃったみたいでごめんね。くふふっ」

 

「アリサちゃん!すずかちゃん!髪ちゃんと乾かさな風邪ひくで!」

 

「はーい」

 

「ご、ごめんなさい、真守さん」

 

「ええよええよ。二人とも、ちゃんと拭いて纏めたるからな。徹、さっさ入ってきたら?」

 

「ふふっ、いってらっしゃい、徹」

 

「…………」

 

すずかの髪を拭いている姉ちゃんの後ろで、いっそ天真爛漫にすら思えるくらいに微笑んでいるアリサちゃんがとても怖い。

 

なんだか順調に逃げ道を潰されているような気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

いつもとは異なる、妙に甘い香りがする浴室を出る。正直、落ち着かない。微妙にそわそわした。

 

「あ、シャツ忘れた」

 

風呂に入る前はアリサちゃんのいたずらのおかげで平静ではいられなかった。忘れ物があっても仕方ない。

 

仕方がないので上半身裸で脱衣所を出て、二階へ。

 

先に風呂を出た三人はテレビを見ていたようだ。動物番組が放送されていた。アリサちゃんもすずかも好きだもんな、犬やら猫やら。

 

「おー、おつかれー……って、徹。お客さんが来てんのになんちゅうかっこしてんの」

 

「Tシャツ持って入んの忘れたんだよ」

 

「とっ、とおりゅさっ、ふ、服っ……ごほっ、けほっ……」

 

「すずか、大丈夫か?」

 

「徹、わたしへのお返しなの?やるわね」

 

「まったくそんなつもりないって。すぐに服着てくるから」

 

「いいじゃない、それで。自慢できる身体してるんだからもうちょっと見せてよ」

 

「あああアリサちゃんっ!」

 

「暑苦しいだけだろ。すずかもなにか言って……」

 

「珍しくいいアイデアだよっ!」

 

「すずかー……」

 

「わ、わたしにもトゲ刺さってるんだけど……」

 

「もうっ!ええから徹ははよ着替えてきぃ!そのかっこはアリサちゃんとすずかちゃんの教育に悪い!」

 

「わ、わたしは、今のままでも……」

 

「俺ははなから服取りに行くつもりだったのに……」

 

アリサちゃんとすずかに手で目隠ししながら、姉ちゃんは顎で早く行けと扉の方へ指し示す。

 

追い出されるように俺は自分の部屋へと足を向ける。

 

するとアリサちゃんが姉ちゃんの拘束を抜けて、ぱたぱたっと駆け足で近づいてきた。

 

「徹、自分の部屋行くの?」

 

「ああ。Tシャツ取ってくる」

 

「それじゃあわたしも行くわ!徹の部屋見てみたい!」

 

「いいけど……俺の部屋遊んだりとかおもしろいものとかないぞ?」

 

「そうやで、アリサちゃん。徹の部屋おもろないで」

 

「自分で言うのはいいけど人に言われると腹立つな……」

 

「それでもいいの!ほら徹、案内して!」

 

「案内ってほど広くもないしおもしろいものもないけど、それでもいいならどうぞ?」

 

「わぁ、徹さんのお部屋入るの久しぶりです」

 

「……あれ?すずかって俺の部屋入ったこと、あったっけ?俺の部屋はここでー、みたいに紹介した記憶が……ない、んだけど……」

 

リビングあたりに集まってみんなでお喋りしていた記憶しか残っていない。

 

「…………ぁ」

 

「すずか……あんた、もしかして……忍び込ん」

 

「ごごごめんなさい記憶違いですっ、勘違いでしたっ」

 

「そ、そっか。ま、まあそういうこともあるよな?ある、かな……」

 

「あ、あるって。あるある。ようあるよっ!うんっ!行くならはよ行こや!はよ服着ぃ!」

 

少々漂った不穏な雰囲気を姉ちゃんが強引に振り払って俺の部屋へ。

 

「わーっ……なんっにもないわね!」

 

「だから……」

 

「せやから言うたやんかー。なんもあらへんで、って」

 

「それは部屋の主人が言うから姉ちゃんは言わんでいい」

 

「男の子の部屋は散らかってる、って言われますけど徹さんは整理整頓されてるんですね」

 

「あー、整理整頓っていうか……」

 

「もともと物があらへんねん」

 

「それも本人が言うから黙っててくれないかな!」

 

「わたし男の子の部屋に入ったのって初めて!」

 

「わたしも。なんだろう……部屋の匂いから違う気がします」

 

「それ、男が女の子の部屋に入ってもまったく同じことを思ってるよ」

 

「ほう?なんや徹、そない女の子の部屋に()(びた)ってんの?」

 

「嫌な言い方をするな。なのはとか、アリサちゃんとか、あと忍の部屋とか。そういうメンツだ」

 

「うちが含まれてへんやないか!」

 

「……女の()って言ってるだろ?」

 

「女に歳のことを言うなとあれほど」

 

いつの間にか背後を取られ、首には姉ちゃんの腕が回っていた。力は俺より断然劣るはずなのにどういった技術か、ほんの数瞬対処が出遅れただけで視界の端が黒く狭まるほど極められた。

 

「ちょ……ごめん、ごめんなさっ……首締まってるっ」

 

「徹とお姉さんは仲良いわね」

 

「アリサちゃんっ、そんな悠長なこと言ってる場合じゃっ……真守さんっ、徹さんの顔色が大変なことになってますっ。そのへんで、そのへんでっ」

 

「すずかちゃんがそう言うんやったら、無下にはできひんな」

 

「すずか、助かったよ……ありがとう」

 

「よ、良かったです……間に合って」

 

すずかの嘆願のおかげで命拾いした。

 

姉ちゃんの気の短さにも驚くばかりだが、背中に触れた感触にも驚いた。布一枚越しに、むんにゅりとした柔らかな感触が二つあった。そのせいもあって対処が遅れたのだ。いつもつけているナイトブラをなぜつけていないのか。

 

呆れつつ、たんすへ。そろそろ上半身裸では肌寒いし、なにより異性が三人もいるのに(うち一人は身内だが)裸でいるのはなかなかに犯罪的な絵である。

 

「徹、服着るの?」

 

「え?そりゃ着るよ。ていうかそのために俺は部屋に戻ってきたんだし」

 

「いいじゃない、そのままでも。わたしは気にしないわよ?」

 

「いや俺が気にするわ」

 

「すずかもこのままのほうがいいわよね」

 

「えっ……わ、わたしは……その、徹さんが風邪ひいたら大変だし……」

 

「いいの?ほんとに?」

 

「……ほ、ほんと、だよ」

 

「ずっと徹の身体見てたのに?」

 

「ず、ずっとじゃないよっ」

 

「見てたことを否定せぇへんとこが真面目やんなぁ、すずかちゃんは」

 

「ぅぅ……」

 

もうやめてあげて、と言いたくなるくらいにすずかは小さく縮こまってしまった。

 

「そうだ。徹。触らせて?」

 

「いきなりなにセクハラ発言してんのアリサちゃん」

 

「いいじゃない。減るもんじゃないし。手の保養よ」

 

「手の保養ってなんだよハンドクリームかよ。物理的に何か減るわけじゃないけど精神的にはきっとなにかがすり減るんだよ」

 

「触ればすずかも満足するでしょ。そしたら服着ていいわ」

 

「そんじゃすずかだけでいいじゃん。なんでアリサちゃんも……」

 

「仲間はずれはいやだもの。わたしも一度、実際に触ってみたかったし」

 

「結局アリサちゃんの願望なんじゃ……」

 

「ほんじゃうち、アリサちゃんの次ーっ!」

 

「姉ちゃんはもっと関係ねえだろ」

 

「そ、それじゃ、わたしも……」

 

「すずかは三番目ね!」

 

「そこは『どーぞどーぞ』じゃないのか……まあ、いいんだけど」

 

「それじゃわたしからね!わたし、胸の筋肉触ってみたかったのよ」

 

「腕とか腹筋とかやないんや?またなんで?」

 

「前に徹に乗った時、すごく感じたの。とっても大きくて熱くて、硬いんだけど弾力があって、顔を寄せて息をふーってしたら反応してぴくぴくしてて、とってもおもしろかったのよ!」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「徹?これはもしかして、十八禁的な、いかがわしい話なん?」

 

「違う。誓って言える。違う」

 

もしかしてこれも俺を困らせるために、わざと怪しげな体験談のような言い回しをしているのかと疑ってしまったが、アリサちゃんの表情は純粋な笑顔で輝いている。いかに大人びているいたずらっ子だとしても、さすがにこの歳で下ネタをこうまで平然に絡めたりはしないだろう。

 

姉ちゃんとやり取りをしている間に、アリサちゃんはこっそりと手を伸ばす。相変わらず了承を待たない。

 

「すごい!硬いけど弾力ある!生だとちがうわね!」

 

「『生』って言い方やめようか。ていうかなにふつうにぺたぺた触ってんの」

 

「次はうちー!うちはなー」

 

「姉ちゃんは除外に決まってんだろ」

 

「なんでうちだけ?!えこひいきや!不公平や!」

 

「子ども用の遊具で大の大人が子どもを押しのけて遊んでたら大人気ないだろ?それと同じ」

 

「理不尽や!どっちか言うたらこのプレイは大人向けやのに!」

 

「プレイとか大人向けとか言ってんじゃねえ。余計に却下」

 

「ちっ……。ええわええわ、もうええよ」

 

「わかってもらえてよかったよ」

 

「また今度徹が寝てる時にするから」

 

「今後姉ちゃんは俺の部屋に入らせない!」

 

やいやい文句を叫んでいる姉ちゃんは追いやって、ちょっと屈んですずかに視線を合わせる。先程から目線を下げて静かにしているのだ。

 

「はい、すずか。おまたせ」

 

「はっ、はいっ、いいえっ」

 

『YES』か『NO』か、どちらなのだろう。

 

「自分で言うのはすごい恥ずかしいんだけど……すずかはどこ触りたいとかあんの?」

 

わりと人によって好みの部位が異なる。どうやらアリサちゃんは胸筋に興味があるらしいし、姉ちゃんは寝る時によく頭を乗っける腕にご執心だし、プロのリニスさんは全体的に気持ち悪かったが特に大腿部に並々ならぬ執着があった。そういえば太刀峰には執拗に腹筋を撫でられた覚えがある。

 

すずかはどういったタイプだろうか。

 

「えっと、あの……首元を」

 

フロンティアを切り拓くらしい。

 

「首……首?そ、そうか……さすがに首はそこまで人と違うとは思えないけど……まあ、どうぞ?」

 

「し、失礼します……」

 

おそるおそる、すずかは俺の首筋に手を伸ばす。気が向いた瞬間にはすでに行動を起こしているアリサちゃんとはまさに対極である。

 

「っ……」

 

そろそろと、まるで撫でるようなすずかの手の動きに身体がぴくっと反応する。

 

「ご、ごめんなさいっ……大丈夫、ですか?」

 

「ああいや、ちょっとこそばゆくて。もうちょい力入れてもいいからな。ていうかそうしてくれ。こそばい」

 

くすぐったくて仕方ないのですずかの手を取って首に押しつける。

 

「は、はい。それでは、遠慮なく……」

 

少し強めに肌に触れるようになった。

 

耳元から顎の端、頸動脈に沿うようにするすると手のひらが下におりて、指先は首の後ろを這う。筋肉の部位でいうと胸鎖乳突筋と僧帽筋といったあたりか。プロのリニスさんとまではさすがにいかないが、アマの太刀峰クラスのマニアックさはある。

 

果たしてこれは楽しいのかなぁ、と幾度となく思った感想を再び頭の中に巡らせていると、こくっ、とすずかの喉が鳴った。

 

緊張してるのかな、なんて想像をしていたが、どうやら違った。

 

すずかの目の色が変わっていた。

 

どこかで、見たような気がした。

 

「す、すずか?」

 

「っ…………」

 

徐々にすずかが顔を近づける。

 

いつの間にか、両手が首にかけられていた。力は込められていないのに、色白の華奢な手を振りほどくことができない。

 

「っ、はぁっ……」

 

首筋に、熱くて湿っぽい吐息があたる。

 

脳髄を溶かし尽くすほど蠱惑的な柔らかい感触が首に触れた。このまま心地よい陶酔感に浸って流されてしまえ、と毒のように誘う本能を、今回ばかりは理性で耐える。

 

重くて鈍い身体を、魔力まで使って無理矢理に動かした。

 

「すずか、すずか。……もう満足しただろ?」

 

左手ですずかの口元を覆って、右手で背中をぽんぽんと叩く。

 

そろそろいつものすずかに戻ってもらわなければ、俺の頭が考えることをやめてしまいそうだ。同じシャンプーやボディソープを使っているはずなのに、なぜこうも漂わせる香りが違うのか。姉ちゃんともアリサちゃんとも微妙に異なる。ということは、思考能力を直接鈍器で殴りつけるようなこの(かぐわ)しい甘い香りは、人工的な香料ではなくすずか個人の匂いなのだろう。

 

「……っ!あ、あれ……わたし……」

 

幸い、寝ぼけたみたいな状態から起きてくれたようだ。

 

上半身裸でこんなにひっついていると姉ちゃんに咎められそうなので、ぜひ離れてもらわなければ。

 

「もう服着ていいか?そろそろ身体が冷えてきたんだけど」

 

「は、はいっ。ごちそうさまでしたっ」

 

「……すずかは時々びっくりする言葉をチョイスするな……」

 

ずいぶん近くにいたことに驚いて、すずかは顔を赤くさせて目を伏せながら後退りした。

 

手で目隠しして見ていませんアピールをしているのだろうが、指の隙間から瞳がこちらを覗いている。そこは触れないでおいてあげよう。

 

たんすから長袖のTシャツを引っ張り出して着る。すっかり湯冷めしてしまった。

 

すずかと密着していたところを騒がれなくてよかったが、こうまで姉ちゃんが静かだと逆に怖くなる。温もりを感じない無表情を向けられていると思うと実に肝が冷えるが、意を決して振り返る。

 

「おいこら姉ちゃん、アリサちゃんも。なにしてんだ」

 

「へ?」

 

「遊びにきた時のガサ入れは恒例行事って聞いたわ!」

 

くぐもった元気な声が返ってくる。

 

姉ちゃんとアリサちゃんが、俺のベッドの下に頭を突っ込んでいた。

 

オーバーサイズのシャツが捲れるのもそのままに、白く綺麗な背中から腰、脇腹も大胆に見せている。立っていればTシャツで隠れるほどミニなショートパンツは、太ももとお尻の際どいラインを攻めていた。実に視線が吸い込まれる。

 

このまま、ふりふりと右に左に揺れる小ぶりなお尻を眺めていようかなと煩悩が鎌首をもたげたが、必死に振り払う

 

「どこの業界の恒例行事なんだ。ほれ、出てこい」

 

「ちょおっ!服伸びるやろ!」

 

「そんなら自主的に出てこい。それなら俺も服を引っ張らなくてすむんだよ」

 

「わたしはいやよ。まだなんの収穫もないもの」

 

「そこに収穫するべき果実はないから安心していいよ」

 

「むぅっ……」

 

「アリサちゃんっ、真守さんっ、服っ、服ずれてるよっ」

 

悔しげに呻いて、二人はのそのそとベッド下から這い出てくる。

 

ぱぱっと髪を整えると悪びれる様子もなく、腕を組んで俺を見上げた。整えたのは髪だけであって、はだけてしまった服装は整えていない。鎖骨から肩、二の腕あたりまでずり落ちてしまったTシャツはすずかが直していた。

 

「なんで置いてないの!」

 

「近年稀に見る理不尽な逆ギレだな」

 

「年頃の男の子なら持っていて当然らしいじゃない!」

 

「まあ世の男子高校生なら隠し持ってるだろうけど……なに、誰かに聞いたの?」

 

「マンガとか雑誌。あとネット」

 

「マンガも読むんだ。ていうかマンガとか雑誌とかネットの情報を鵜呑みにするな。だいたい脚色されてるんだから。……いや、そもそも人の部屋で捜索すんな」

 

「わたし勉強したの。男の家に遊びに来たら、えっちな本を探すのが作法なんだって」

 

「どこの世界の困ったマナーだ。残念だけど、それは男女間では発生しないイベントなんだ」

 

「ベッドの下が統計上一番可能性が高いってことだったけど、ちがったわね。やっぱり徹はベタなところには置かないのね」

 

「どこ調べの、なんて無駄な統計なんだ……」

 

「でもなんでベッドの下が一番多いんだろ?」

 

「え?いや、それは……」

 

「そら、あれちゃうの?ベッドの下に置いとるほうが使い勝手が……」

 

「使い勝手?」

 

「使う……?本、ですよね?読むんじゃないんですか?」

 

「姉ちゃんちょっと黙ってて!今からしばらく口閉じてて!この二人に得にならないどころか損にしかならない情報を与えようとするな!」

 

「本棚に隠してたりしないかしらね」

 

俺が姉ちゃんにわりと本気で注意をしていると、アリサちゃんはぱたぱたと本棚に駆け寄って捜索範囲を広げた。本当に自由気ままである。

 

「だからないってば。探すなってば」

 

「せやで。常日頃から徹の部屋に入り浸ってるうちが気づかんねんから、こっそり隠すんは不可能や」

 

「姉ちゃんは自分の部屋より俺の部屋にいるほうが長いくらいだもんな」

 

「せやけど、うちはそういった本には寛容なほうやで。健康的な男の子やったらしゃあないって思っとる。妹物とかあったら燃やさなあかんけど」

 

「それは許容範囲外なんだな。結局持ってないから構わないんだけど」

 

「本と一緒に持ち主も燃やさなあかんけど」

 

「俺も、燃やされるのか……っ」

 

「アリサちゃんっ、そろそろやめたほうがいいよ。失礼だし、マナー違反だよ」

 

「でも、徹の趣味を知っておくことは悪いことじゃないと思うわ」

 

アリサちゃんが意味ありげな目を、すずかに送った。

 

「親友のためにもね?」

 

「ちょ、ちょっとっ、アリサちゃんっ!」

 

「あっ、思い出した!辞典とか図鑑とかの大きめのカバーに隠すって方法もあるらしいわ!」

 

「えっ、まだ続けるの?!」

 

本棚の下の方にあった動物図鑑を両手で引っ張り出して、アリサちゃんは中身を検閲する。

 

「……ふつうの本ね。おもしろみがないわ」

 

「……はぁ。アリサちゃん、もうやめよ?」

 

「すずかもちょっと期待してたんじゃない。なんだ、ちがった、っていうため息ついたでしょ?」

 

「ち、ちがうよ……。ちがうよ!」

 

「なんで二回言ったのよ。そもそもこの本棚、本が少ないわね。……ちょっと待って、なんで教科書がこの本棚の端っこに収納されてるの?授業で使うならあっちの机に置いておくべきでしょ」

 

「そりゃあれだ、教科書持って行ってないからだ」

 

「持って行かない?どうやって授業受けるの?」

 

「徹、教科書の中身は記憶したから教科書持ってけへんねんて。しかもノートも。おかげで先生らから嫌われとんねん」

 

「うるせぇわ」

 

「記憶してるって、す、すごいですね……」

 

「わたしでも教科書くらいは持って行ってるのに」

 

「でも授業中、先生の話をあんまりちゃんと聞いてないけどね、アリサちゃん」

 

「う、うるさいわねっ!徹とちがって教科書もノートも広げてるんだからまだマシよ!」

 

エロ本探索の旅は、どうやらいつのまにか終わりを迎えたらしい。

 

アリサちゃんとすずかは高校一年生用の教科書を二人して熱心に読んでいる。

 

「んー……さすがにところどころわからないわ」

 

ところどころ、ということは大部分は理解できるということなのか。

 

これは一大事だ。長谷部や太刀峰、あと鷹島さんでは、テストをしたらアリサちゃんに負けてしまうかもしれない。

 

「わたしはほとんどわからないよ。やっぱり難しいね……」

 

「今わからなくても小学校、中学校、高校とステップ踏んで勉強して行けばできるもんだ。今の時点でおおかたできちゃってるアリサちゃんが特殊なんだよ」

 

化学の教科書を片手に持ちながら、アリサちゃんは肩をすくめた。

 

「天才にも苦労はあるんだからね」

 

「自分で自分を褒めていくスタンスなんだな……」

 

「それより徹、教科書から問題出されたらどうするの?答えられるの?」

 

「答えられなかったら記憶してるなんて言えないだろ?」

 

ふふんっ、とアリサちゃんが鼻を鳴らして笑みを浮かべた。ぺらぺらと教科書を適当にめくる。

 

「それじゃあ問題出すわ!答えなさい!」

 

「なんだよ唐突だなでもよっしゃこい!」

 

「そのノリに乗っかるんですね……」

 

「基本的に勝負事とかゲームとか好きやしなぁ、徹は。せやけどなんもなしでゲームすんのはおもろないな。……よし、徹が答えられへんかったら、明日の朝まで上半身裸で過ごすこと」

 

「なんか勝手に罰ゲーム付け足された?!今さっき服着たばっかりだぞ!ってか俺が勝ったらなんか賞品とかあんのかよ」

 

「んー、せやなぁ、うちがほっぺにおめでとうのちゅーしたるわ!」

 

「……勝っても負けても罰ゲームかよ」

 

「殴るわ。足で」

 

「人はそれは蹴りって呼ぶんだ」

 

決死の交渉の結果、俺が負けたら再び上半身裸、俺が勝ったら足で殴らないでもらえることになった。一切俺に得のない戦いだ。

 

「じゃあもんだーい!この教科書の八ページの問四!」

 

持っていた化学の教科書を掲げて、表紙だけを見せて、楽しそうに明るい声でアリサちゃんが出題した。

 

「問題文を読み上げるのもなしなんだね、アリサちゃん……」

 

「覚えてるって言うんだもん、それなら情けも容赦もなしよ!」

 

「ほれ、徹。答えーや」

 

盛り上げるために悩んだり思い出そうとするふりでもしようかと思ったが、そんな安い芝居はすぐに姉ちゃんにばれる。普通に答えるとしよう。

 

「クランプ、薬さじ、メスフラスコ、ホールピペット、リービッヒ冷却器、ビュレット。だったな」

 

「…………」

 

「ど、どうなの?アリサちゃん?」

 

「どうなん?()うてんの?アリサちゃん」

 

「…………」

 

アリサちゃんが沈黙した。おかしい、記憶違いなどしていないはずだけれど。

 

「……これ、答えどこに書いてるの?」

 

膝から崩れ落ちそうになった。

 

教科書の問題の解答は全部教科書の後ろのほうにまとめられている。出題されるページに答えは書いていないのだ。

 

「どれどれ、見せてみぃ」

 

解答のページを教える前に姉ちゃんが教科書を覗き込んだ。

 

すぐに渋い顔をした。

 

「ちっ、正解やな」

 

「よっしっ……セーフセーフ」

 

「これやったら簡単すぎたんやなぁ。やっぱ(ひね)らな徹は出し抜かれへんか」

 

「お姉さんならどの問題出すの?」

 

「うち?うちやったら化学の教科書と一緒に近くの教科書も引っこ抜いて重ねる。表側の化学の教科書を徹に見せて内側の違う科目の教科書のページ数を言うたら、絶対間違えるやろ?」

 

「なっ、なるほどっ!」

 

「アリサちゃんにイカサマを教えるな!なんだよそのやり口!阿漕(あこぎ)にも程があるわ!」

 

「ずるはダメですよ、真守さん……」

 

「ずる?ちゃうよ?勝つための頭脳プレーやで?」

 

「こんな和やかな場のクイズで不正ぎりぎりの頭脳プレーはいらないだろ!」

 

「参考にさせてもらうわねっ、お姉さん!」

 

「がんばって徹をぎゃふんと言わせるんやで!」

 

「うんっ!」

 

姉ちゃんは弟子でも見るようなきらきらした目でアリサちゃんの肩を持ち、アリサちゃんは師匠を仰ぐように尊敬した表情でこくこくと頷いた。

 

本当にやめてほしい。あらゆる分野にセンスが光るアリサちゃんが本気でそっちの道に進んだら姉ちゃんばりに厄介になりそうだ。

 

「はい、クイズは終わりだ」

 

「えー、次の問題さがしてたのに」

 

「その『次の問題』とやらは、化学の教科書から出すのか、それとも後ろに隠してる数学から出すのか、どっちなんだろうな」

 

「……むぅ」

 

「……本当に油断も隙もないな」

 

「アリサちゃん、警戒されてる時にやってもあかんで。こういうんは気ぃ抜いてる時に、意識の死角を突いて一気に仕留めるもんなんや。もっと『頭脳プレー』の手札を増やしてがんばろ!」

 

「イカサマを学ばせようとしてんじゃねぇよ」

 

「ええっ!がんばるわっ!」

 

「今日一番の元気のいい返事だ……これは没収」

 

「あーあ、仕方ないわね……次の機会を待つわ」

 

アリサちゃんの言う機会は、絶対にクイズではなくイカサマの機会である。

 

教科書を掠め取り、本棚に戻す。

 

その背後で、ぽふっ、と軽い音がした。

 

振り返れば、アリサちゃんが俺のベッドに飛び込んでいた。

 

「徹の匂いがするわね!」

 

「自由人め!」

 

枕を抱きかかえ、顔を押し付けている。

 

「いい匂い。落ち着く」

 

「俺が落ち着かないんだよ!匂い嗅ぐのやめろ、離せ、せめて枕は置いとけ」

 

「アリサちゃんっ、それはちょっとずる……ちょっと、だめだよ!」

 

そうだ、すずか。そのまま頑張って説得してくれ。一ヶ所不安なところがあったけど頑張ってくれ。

 

「なんでよ、すずか。いいじゃない。誰にも迷惑かけてないわよ?」

 

「……あれ俺には?」

 

「迷惑とかそういうことじゃないよっ、だって、だって……えっと、ダメだよそういうのはっ。倫理的にっ」

 

「いやー、アリサちゃん有望やなぁ。伸び代あるわぁ。成長が楽しみや」

 

「若いアスリートを育成中のコーチみたいなセリフ吐いてんじゃねえ」

 

「なんならすずかもやってみなさいよ。やればわかるわ」

 

「えっ……で、でも、わたしは……」

 

「落ち着くわよ、安心するわよ。このまますぐに寝れちゃいそうなくらい」

 

「うっ、ううぅ……でも、倫理的に……人としてっ……」

 

「今日を逃したら、次にチャンスがくるのはいつになるでしょうね?」

 

「っ……で、でも……」

 

「きっと今日、明日くらいはなんとも思わないわ。でも、何日か経った後、夜眠る時に自分の枕を見て思い出すのよ、今日の、この瞬間の出来事を」

 

「っ!」

 

「そして後悔するの。ああ、あの時強がっていなければ、って。マナーとか礼儀とか倫理観とか常識とか、そんな人生にとってなんの役にも立たないもののためになんで自分の気持ちを押し殺したんだろう、って。なんで素直になれなかったんだろう、って。後悔するの。後悔し続けるのよ」

 

「っ……うぅっ……っ」

 

まるで詐欺師のような、立て板に水の弁舌だ。すずかの心にするりと侵入し、ぐちゃぐちゃにかき乱していく。

 

迷い惑ったすずかに、アリサちゃんは聖母が如く優しく微笑んだ。

 

「今一瞬恥ずかしいのと、これからずっと後悔するのと、どっちが楽?いいじゃない、今だけは小難しいこと取っ払っちゃっても。いいじゃない、たまには素直に振る舞ったって」

 

「…………」

 

突き放すような、否定するような言葉の連続からの優しいセリフ。

 

揺さぶりに揺さぶって、アリサちゃんはとどめを刺す。引導を渡す。

 

「まだ子どもだもん。子どもらしくちょっとだけわがままになって、なにが悪いの?」

 

「っ!」

 

辛辣な責めからの甘やかな誘い。そして、最後の最後で逃げ道を作った。言い訳を与えた。なんて巧みな思考誘導か。

 

「そ、そう、だよ……そうだよね。子ども、だもんね……」

 

「ふふっ、そうよ。子どものやることだもん、徹だってちょっとのわがままくらい許してくれるわよ。だって、すずかはいつもいい子にしてるもの。たまには、ね?」

 

同時に俺への牽制も挟んでくるところといい、実に鮮やかな手並みだ。いったいどこでそのような弁舌を鍛えているのか。バニングス家の英才教育の賜物か。

 

「う、うん……っ」

 

甘い香りがする花に誘われた蝶のように、ふらふらとした足取りですずかはアリサちゃんに近づき、ベッドに倒れ込んだ。

 

「……い、いやぁ……あ、アリサちゃんは、有望やなぁ……」

 

「有望どころの騒ぎじゃねぇよ。即戦力だろ。どうすんだよ、これで姉ちゃんのやり方学んだら手がつけらんなくなるぞ」

 

「……せやな。せやけど、アリサちゃんがどこまで成長するか、どこまで大物になるか、見届けたいっちゅう気持ちも……あるっ」

 

「コーチ目線やめろって」

 

俺と姉ちゃんが戦慄している間にも、アリサちゃんは着実にすずかを暗黒面へと誘惑していた。

 

背中を押すように、アリサちゃんはすずかに俺の枕を押しつける。

 

「ほら、すんすん、って。すっごいキマるわよ」

 

危ないおクスリみたいな言い方をするな。

 

「う、うん……っ」

 

すずかはおそるおそる手を伸ばして枕を掴んで、ゆっくりと顔を近づける。

 

いい加減恥ずかしいのでやめさせたいのだが、いつのまにか姉ちゃんが俺の腕をキメちゃってるせいで一歩も動けない。姉ちゃんが口にしていた『人の意識の死角を突く』ってこんな物理的なことなのか。俺で実演してくれなくていいのに。

 

すらりと線が通ったすずかの綺麗な鼻が、あと数センチで枕に接するところまできた時だった。

 

「っ!??!」

 

すずかのなで肩がびくんっ、と激しく跳ねた。

 

枕を持つ手が何かに抗うように震え、しかし、すぐに抱きしめるように枕に顔を埋めた。

 

「っっ、ふわぁ……」

 

すずかから発せられたとは思えないほど甘く、艶やかな声が枕越しに聞こえた。

 

「ね?いい匂いでしょ?」

 

「ん、んっ……ほんとう、にっ……っ」

 

「落ちつくわよね。持って帰りたいくらい」

 

持って帰らないでほしい。俺の枕がなくなってしまう。

 

「……落ち、つく?そう……かな?わたしは、胸がどきどきするよ。お腹の奥のほうが、きゅーって、熱くなる……。心地いいけど……すごく、どきどきする……」

 

「そうなの?けっこう感じかたがちがうものなのね」

 

アリサちゃんは気づいていないようだった。というより、あまり深く考えてはいなかったのだろう。

 

だが、はたから見ていた俺と姉ちゃんには、すずかの変調はすごくわかりやすかった。

 

「……これ、だめだろ」

 

「……すずかちゃんも潜在能力高いなぁ」

 

「すずかを止める!今なら、今ならまだ引き返せる!」

 

「ちょい待って!すずかちゃんは今大人への階段へ踏み出し始めたんや!」

 

「あほか!まっとうな大人への階段を踏み外し始めたんだろうが!」

 

無理矢理姉ちゃんの腕を振りほどく。腕から変な音がしたけど、この際気にしない。

 

ベッドに近づき、すずかが大事そうに懐に抱えている枕を引っこ抜いてベッドの端に置く。

 

「ぁ……」

 

すかっ、とすずかの腕が空を切った。ついさっきまで抱っこしていたものが急になくなったというのに、すずかの反応は鈍い。夢見心地にぼんやりしている。

 

「すずか、すずかー?大丈夫か?意識ははっきりしてるか?」

 

「はぁ、ぅんっ……」

 

トランスにでもかかっているみたいだ。顔は紅潮して、呼吸は荒い。凍えるように自分で自分を抱きしめて、内股でもぞもぞと擦り合わせる。

 

すずかは潤んだ瞳で、俺を見上げた。

 

「徹、さん……っ」

 

ぞっとするほどの色香が、そこにはあった。

 

星がきらきらと瞬く夜空のような綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。

 

俺の手が意思に反してすずかの頬に伸びそうになった、その間際。その瀬戸際だった。

 

「なんだろ、徹の匂いだけじゃないっぽいわね……。誰か連れ込んでるの?」

 

よくも悪くも空気を読まない自由奔放なアリサちゃんが、部屋に充満していた妙な空気を吹き飛ばす新たな爆弾を投下した。イレギュラーバウンドしたボールを上手く処理したけどファーストへは悪送球みたいな、プラスマイナス差し引きでマイナスなプレーだ。

 

今度は掛け布団を顔の近くまで引っ張ってくんくんしていた。顔の下半分が隠れているその仕草はとても愛らしいが、今この状況でやるべきことではないし、言うべきことでもない。

 

過剰反応する人間がすぐ近くにいるのだ。

 

「あ?徹、どういうことや?」

 

実にドスの利いた追及である。こうなることは目に見えていた。

 

「知らない、知らないって。身に覚えがない」

 

「ほら、ほらっ、すずか。すずかも嗅いでみて!徹以外の匂いするでしょ?」

 

「むきゅっ……」

 

強引が過ぎるアリサちゃんの手で、布団をたくし上げてすずかに押しつける。

 

脳の回線がショートしているすずかにそんなことをすれば今度こそ断線してしまいそうだが、匂いを判別するというアリサちゃんからの要求があったからか、それとも布団を押しつけられた衝撃で正気に戻ったのか、控えめに布団を押しのけて目を開いた頃にはいつものすずかに戻っていた。調子の悪い機械にチョップして直すみたいなやり方だ。ブラウン管のテレビかよ。

 

「すんすん……あ、ほんとだね。徹さんのとはちょっと違う匂い……」

 

「でしょっ?」

 

「うん……でも、あれ?これって……」

 

「っ、どういうことやねんっ、こらぁ、徹っ!」

 

「知らないって、俺は無実だっ……」

 

姉ちゃんが俺の襟首を掴んでぐらぐらと揺さぶる。

 

なのはや太刀峰は俺の布団に潜り込んでいたことはあるが、どちらも時間が経ち過ぎているし、もう何度も布団を干しているので匂いなんか残っていないだろう。

 

「うちも寝とるベッドにっ、どこの女を連れ込んだんやぁっ!」

 

なぜか姉ちゃんは涙目で、涙声だった。

 

冤罪で自白を強要されている俺の方が泣きたい。ていうか勝手に俺のベッドで寝てる姉ちゃんにとやかく言われる筋合いもなさそうなものなものなんだけど。

 

「真守さんも寝てるんですか?」

 

「ぐすっ……うん」

 

「ああ、だから……。大丈夫です、真守さん」

 

「ぐしゅ、えぐ……な、なにが?」

 

本格的に泣きそうになっている姉ちゃんに、苦笑いと微笑みの中間みたいな表情のすずかが言う。

 

「徹さんともよく似ていて、どこかで嗅いだことのある匂いだなぁって思ったんです。これ、真守さんの匂いです」

 

「……へ?うち?」

 

「ほんとに?ちょっと待って」

 

そう言うや、アリサちゃんはベッドを降りて姉ちゃんに抱きついた。

 

「ちょぉ、アリサちゃんっ、あははっくすぐったいわ」

 

「ほんとね!お姉さんの匂いと同じ!すんすんっ……お姉さんも落ち着く匂いね。徹と似てるけど、お姉さんのほうがちょっと甘い感じね」

 

「くふふっ、こそばいっ、こそばいってアリサちゃんっ」

 

「よかったですね、真守さん」

 

「うんっ!よかった!」

 

「そんじゃあ俺になにか言うべきことがあるんじゃないの?」

 

「勘違いやったごめーん!」

 

「軽いなぁおい」

 

俺への謝罪もそこそこに、姉ちゃんはくっついてきているアリサちゃんを一度引っぺがし、逆にくんくん仕返した。

 

きゃあきゃあとけたたましい二人を、俺は恨めしげに、すずかは微笑ましげに眺めていた。

 




ちょっと驚きました。めっちゃ話が転がっていくと思ってその場のテンションに任せて転がしてたら普段の話の二倍くらいの長さになってました。
もうちょっと一話あたり短めのほうがいいんでしょうか?


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「月が、綺麗だな」

 

「うっわ……もうこんな時間じゃねえか……」

 

俺の部屋で騒ぐだけ騒いで、リビングに戻って時間を確認すると思ったより遅くなっていた。

 

明日も平日だ。俺はもちろん、アリサちゃんやすずかも学校がある。夜更かしせずに早く就寝しておかないといけない。これで寝過ごした暁には忍に何を言われるかわからない。

 

というか、さらに言えば学校は学校でも、テストがあるのだ。テスト前日の夜に詰め込みでテスト勉強せずにこれだけ余裕を見せていられるのは、二人とも普段からちゃんと予習復習をきちんとしているからこそだろう。

 

「はやく寝ないとな。その前に歯磨きと……」

 

「えぇーっ!もう寝んの?!夜はこっからやで!」

 

「このあほ。俺はまだしもアリサちゃんとすずかは明日も学校があるんだ。夜更かしはさせられない」

 

「俺はまだしもって、徹も学校あるでしょ」

 

「これで二人を寝坊させてみろ。忍にめちゃくちゃ怒られるぞ、もちろん俺がな」

 

「徹さんが怒られるんだ……あ、お姉ちゃんに連絡してない……」

 

「忍には俺から言っといたから大丈夫だぞ。安心しろ。そんなに顔を真っ青にしなくていい。気持ちはわかるけど」

 

「いややーっ!もっと二人と遊びたいーっ!」

 

「子どもかよ。我慢しろ」

 

「もっときゃっきゃうふふしたいーっ!」

 

「もう充分しただろ」

 

「もっとなでなですりすりしたいーっ!」

 

「よく臆面もなく大声で言ったなこいつ……俺が言ったら絶対殴るくせに」

 

「あたりまえや。徹がやったら事案やからな。同性なら合法や」

 

「合法とか言ってる時点で相当やばいよ。とにかく寝る。これは決定事項」

 

「うぐぐ……はぁ、しゃあないかぁ……」

 

「わたしももっとお姉さんと遊びたいんだけどなー」

 

「明日は一度家に帰らないといけないからね……仕方ないよ」

 

「困んのは徹だけやないもんなぁ、アリサちゃんもすずかちゃんも困んねんもんなぁ」

 

「有り体に俺が困るのは別にいいって言ってるよな。まあ一日二日くらいならオールできるけど。なんなら夜のほうが頭が働く気がする」

 

「徹は夜、元気なのね」

 

「意味深なセリフになってるよアリサちゃん」

 

「ふふっ、夜はお盛んなのね」

 

「寄せていっただろ」

 

「夜のほうが元気って、吸血鬼かいな」

 

「…………」

 

「前もこんな話をした気がするぞ」

 

「徹が吸血鬼やったら尚更(なおさら)お天道様に顔向けでけへんなっ!」

 

「そうそう、そんで俺はこう突っ込んだんだった。『後ろめたいことしてねえよ』テンプレなボケをかましてんじゃねえ」

 

あの時は姉ちゃんはいなかったし、アリサちゃんとすずかの代わりに長谷部と太刀峰がいた。

 

なのに、まるでその時の会話を聞いていたかのようなやり取りである。

 

「……ったらよかったのに……」

 

「え?」

 

「……なんでもないです。歯磨き、どうしたらいいでしょうか?」

 

「歯ブラシとか持ってきてないものね」

 

「安心しぃ。な、徹」

 

「おう。予備があるからそれ使えばいいよ」

 

「意外に準備いいのね」

 

「余計な言葉がついてるけど……まあな!念のためにいつも用意……」

 

「なんか女を泊まらせ慣れてる感じがするわね」

 

「なんで女に限定した!ただの予備だよ、俺の分と、姉ちゃんの分のな」

 

だいたい話がまとまったところで、姉ちゃんがぱちんと柏手を打った。

 

「はい、決まったんやったらはよ歯磨きしよか。それよりどうゆう並びで寝る?うちはアリサちゃんとすずかちゃんのあいだーっ!」

 

テンション高く言い放ちながら、姉ちゃんは一階に降りていく。

 

一段降りるたびにふわふわっと揺れる長い茶色の後ろ髪を三人で追う。

 

「俺は関係ないから別にいいけど、さすがに一つのベッドで三人は狭いだろ」

 

「なに言うてんの?徹も一緒やで」

 

「みんなで一緒に寝るの?いいわね!旅行みたいで!」

 

「え、えぇっ」

 

「いやいや、ぜんぜん無理だろ。アリサちゃんやすずかの家にあるようなサイズじゃないんだぞ。ぜったい誰かベッドから落ちるって。いや、たぶん俺だろうけど」

 

「さすがにうちもシングルベッドで四人は無理って分かっとる。せやから」

 

姉ちゃんは歯磨き粉をつけた歯ブラシを(くわ)えて、びしっと俺を指差した。

 

「ヒビンギュりふほんひいへへみゅ!」

 

「なに言ってんのかさっぱりだわ」

 

 

 

 

 

 

どうやら姉ちゃんは『リビングに布団敷いて寝る』と言っていたらしい。

 

なるほどたしかに、テーブルやらなにやらを片付ければ布団を人数分敷くこともできる。それなら俺もベッドから落ちずに済む。

 

ふだんベッドで寝てるアリサちゃんも床に布団敷いて寝るのは新鮮だそうで、楽しそうにしている。それにつられてすずかも楽しそうだ。修学旅行的な気分なのだろう。修学旅行まだ行ったことないだろうけど。

 

テーブルとソファをリビングの端っこに寄せたのは俺だったし、人数分の布団運んだのも俺だったけど、楽しそうなので、まあいい。

 

それよりも、だ。

 

「すぅー……すぅー……」

 

「こいつ……なにも手伝わなかった上に、敷いている布団でごろごろして邪魔した挙句、ずっとやかましくしてたくせに、真っ先に寝やがったな……」

 

「きっと疲れてたんですよ」

 

「そうね。お姉さんお仕事終わりだもの」

 

三枚目を敷いた時には布団の上をころころ転がっていたはずなのに、四枚目を持ってきた頃にはすでに寝息を立てていた。姉ちゃんは、ばちんとブレーカーが落ちるように眠りに落ちるのだ。

 

「お布団かけときましょ。なんか寒そうだし」

 

「そうだね。猫みたいに丸まってる。……なんだかかわいいね」

 

敷布団の後に運んできた掛け布団の両側を二人で持って、姉ちゃんにかける。

 

苦しくならないように顔は出るように調整して、二人は姉ちゃんの顔を覗き込んだ。

 

「目がぱっちりしてるからかしら?閉じてるととたんに幼く見えるわね」

 

「わぁ……まつ毛長い。鼻高いし肌も綺麗……お風呂上がりにお手入れしている様子なかったのに……」

 

「……こんな言い方したら失礼かもしれないけど……」

 

「なに?アリサちゃん?」

 

「お姉さんって、黙ってるとすっごい美人よね」

 

「……う、頷きづらいよ……」

 

おもしろい会話をしていた。

 

もうちょっと二人のやりとりを見ていたいが、そうこうしているうちに夜も遅くなりつつあるので就寝を促すとしよう。

 

「明日もテストがあるんだろ?早く寝ないと明日に響くぞ」

 

「多少の寝不足でパフォーマンスが落ちるような頭の出来じゃないわ!」

 

「アリサちゃん……そこは、ふだんから勉強頑張ってるから、って言ったほうが誤解も少ないし印象もいいんじゃないかな……」

 

「即座に断言するとこはかっこいいけどな。それでも、だ」

 

「仕方ないわね。徹が忍さんに怒られるのは可哀想だし」

 

「同情してくれてありがとうよ」

 

「それじゃあ、どうやって……ね、寝ます?」

 

「ん?あー……そうだな」

 

姉ちゃんはアリサちゃんとすずかに挟まれて寝たいとかって、寝る前なのに寝言を垂れ流していたが、結局布団の端のほうで熟睡している。

 

姉ちゃんの要望通りにするか、それとも並びを変えるか、すずかは迷ったのだろう。

 

「徹が真ん中、わたしは端っこ、すずかは徹とお姉さんの間。で、いいんじゃない?」

 

「……え?」

 

「ぇっ、えぇっ?!」

 

「俺が間に入んの?いやじゃないの?」

 

「逆になんでいやだって思うの?」

 

「えっと……ほら、だって」

 

「いやならそもそも泊まらないでしょ?」

 

「そう……なの、か?」

 

「そうよ。一緒に寝ることも含めてお泊まりじゃない」

 

「そうなんだ……すずかは、それでもいいか?」

 

「はっ、はいっ。ね、眠れるか、わかりませんけどっ」

 

「それは一番困るぞ」

 

「大丈夫よ、いざやってみればなんだかんだ寝ちゃうわよ」

 

「そ、そう?」

 

「そうそう。大丈夫大丈夫」

 

なんだかアリサちゃんの勢いに流された感は否めないが、おかげで並びはすぐに決まった。

 

アリサちゃんの決定力と判断力の高さは実に秀でたものがある。良いか悪いかはその時々だろうけれど。

 

「はい、それじゃあ決まったことだし寝るぞ。布団に入れー。電気消すぞー」

 

「は、はい……」

 

「いつもこんな時間に寝ないのよね。寝れるかなー」

 

「寝なさい。おやすみ」

 

ばっさりと切って伏せて、電気を消した。

 

 

 

 

 

 

電気を消して横になって、それから一時間ほど経った頃だろうか。

 

アリサちゃんには寝るように言ったものの、俺としても日付が変わる前の時間に寝ることはあまりないので眠気がこない。それ以前に今日は学校から帰ってきてお昼寝しちゃってたのであった。そう考えるともうちっとも眠くない。

 

『寝れるかなー』なんて言っていたアリサちゃんからは規則正しい寝息が聞こえる。今日はかなりテンション高く遊んでいたので、疲れもあったのだろう。実に羨ましい寝付きの良さだ。

 

「…………」

 

「……ん?」

 

目をつぶって寝転がっているだけの時間を過ごしていると、隣でごそごそっと動いた。すずかだ。

 

俺の横で寝ていたすずかが布団をゆっくりとどけて起き上がった。

 

トイレにでも行くのかなと思っていたが、寝起きの足取りとは思えない確かな歩みでリビングを歩く。みんなを起こさないようにとの配慮だろう、驚くほど静かな足音で、トイレとは逆、ベランダのほうへと歩く。

 

足音と同様に開閉音に細心気をつけて窓を開けて、すずかは外へ出ていった。

 

「……アリサちゃんは……寝てるな」

 

隣でアリサちゃんが健やかに寝入っていることを再確認してから、俺も布団を出る。

 

すずかのことなのでおかしなことはしないと信頼はしているが、だからといって心配していないわけではない。おそらく初めて出るだろう俺の家のベランダだし、暖かくなってきていても夜に薄着では肌寒い。風邪でもひいたら、寝坊するよりも大変だ。すずかは最近よく体調を崩しているようだったし。

 

姉ちゃんは一度寝れば起きるまで寝てるのでアリサちゃんを起こさないようにだけ気をつけて、俺もすずかのあとを追った。

 

すずかに(なら)って、ゆっくりと窓を開ける。

 

薄暗くて見えにくいが、小さなシルエットは空を見上げているようだった。

 

「夜空を眺めるんならもう少し厚着してくれよ」

 

「ぴぅっ……と、徹さん……っ」

 

どこから出したのかわからない声を出して、すずかは勢いよく振り返った。

 

波打つようになびくすずかの長い髪が、月光を照らし返した。

 

「叱りにきたんじゃないから安心しろ。寝れなかったんだろ?それなら夜風を浴びるくらい別にいいって」

 

「あ、りがとうございます……」

 

これでもすずかとは付き合いが長い。月明かりの逆光で顔がはっきり見えずとも、声のトーンで悪いことをしたと思っていることくらいは察することができる。

 

まあ、最近は忍の家に行くことも少なくなってしまったので、めっきり顔を合わせてお喋りする機会も減ってしまった。前のほうが距離感も近かった気がする。

 

「俺も寝れなくてなー」

 

「徹さんも?」

 

「学校から帰ったあと昼寝してたからな。ぜんぜん眠たくない」

 

「ふふっ、それは眠れませんね」

 

ようやく笑ってくれたようだ。くすくすと、口元に手をやって上品に笑う。いつもながら、お(しと)やかだ。

 

笑って揺れるすずかの艶やかな髪に月の光で天使の輪が浮かぶ。ふと、声をかける前の、空を見上げるすずかの姿を思い出した。

 

「星でも見てたのか?」

 

「えっと、はい。星もそうですけど、その前はお庭も眺めていました。前きた時とはずいぶんお庭が様変わりしていて、驚きました」

 

「様変わりっていうか、むしろ生まれ変わったくらいの異変だな。……ちょっとガーデニングに精を出すようになってな」

 

精を出していたのは、俺ではなくあかねだったが。

 

「お花、いろいろ咲いてて綺麗です」

 

「もうなにがどれやらわからないんだよな。最初は観賞用の花ばっかり植えてたはずなんだけど、いつのまにか姉ちゃんがこそっと食用の種を()きやがったから」

 

以前庭の手入れをしようとしたら、見覚えのない芽やら葉っぱやらが伸びてきていて驚いた。水やりを頼んでいた姉ちゃんに事情を聞けば『あかねちゃんもいろんな花が咲いてるほうが嬉しいやろうから!』と申し開いた。

 

べつにそれ自体は悪いことじゃないし、その気持ちもありがたいし、庭が賑やかになることは俺だって嬉しいが、なぜ境目も作らずに適当に植えてしまったのか。おかげで花の種類がしっちゃかめっちゃかだ。

 

「真守さんらしいですね」

 

「事前に言っといてくれれば食用、観賞用って区分けすることもできたんだけどな」

 

「うちでもやってますけど、食用は育ててないんです。お姉ちゃんとやってみようかな……っくしゅ」

 

「おい、やっぱり冷えちゃったんじゃ……」

 

「ち、違います、大丈夫ですっ。えっとあの、か、花粉症でっ」

 

「すずか花粉症とかなかっただろ。ったく……」

 

「徹、さん?」

 

座り込んですずかと目線を合わせ、手を引く。膝の裏に腕を回して持ち上げる。

 

「近くにいれば寒くはならないだろ。ついでに俺もあったかい」

 

「えっ、ちょ、ちょっとっ……」

 

「暴れんなよ、落っこちるぞ」

 

「は、はぃ……」

 

落ちないように、もう一方の手を背中に回す。これなら安定するし、多少は風除けになるだろう。

 

「寒くないか?」

 

「あ、あたたかい、です。……とても」

 

「それならよかった」

 

すずかが腕の中で縮こまってしまった。おかげでとても抱えやすい。

 

恥ずかしそうなので見ないように空を見上げる。

 

「ずいぶん晴れてるな。こんな街の中なのに星がよく見える。月が、綺麗だな」

 

「そっ、は、えっ……。そう、そうですねっ。月が、綺麗です……」

 

すずかは今思いっきり顔を伏せているのだが、どうやって見ているのだろう。俺が来る前に散々見ていたのだろうか。

 

「んー……案外見えるけど、さすがに今見えている星がどんな星でなんの星座に含まれるとかまではわからないな」

 

「へ?……あ、あぁ……」

 

何か残念がるような、強張っていた力が抜けていくような声だった。

 

「すずか?」

 

「いえ、なんでも……徹さんでも、知らないことあるんですね。なんでも詳しいのかと思ってました」

 

「俺も知らないことは知らないぞ。星座の本とかは読んだことあるけど、星の名前とどんな並びかを知ってるだけ。テストで使える分くらいだな。こうやって眺めてみると、それだけじゃどうも実用的じゃないらしい。どれがどの星か判断つかない」

 

「わたし、わかります。星空はよく眺めてるので」

 

「おお、それはすご……そのせいで朝起きれないんじゃ……」

 

「今の時期だとですねっ」

 

少々強引にすずかが空に手を伸ばした。

 

白くて細い指先で、星空のキャンバスをなぞる。

 

「春の大曲線を一つの目安として眺めるとわかりやすくて……」

 

「どうした?」

 

「ここだと見える範囲が限られていて、説明はできなさそうです……」

 

「なんと……」

 

夜空を眺めるだけならまだしも、星空を楽しもうとすると、ベランダでは少々空が狭かった。

 

こうなったら、予定外に時間を使っちゃうかもしれないが、あの手を使うしかないか。尻切れで布団に戻ってしまっては、もやもやしてしまう。

 

「……すずか」

 

「はい?」

 

「眠たくなったか?」

 

「いえ……逆にベランダに出る前よりも目がさえちゃいました……」

 

「奇遇だな、俺も同じだ。そんなら眠たくなるまで付き合ってもらうぞ。せっかくの綺麗な夜空だ、ちょっとくらい夜更かししてもばちは当たらないだろ」

 

「……え?」

 

戸惑っているすずかを抱えたまま部屋に戻る。

 

「ど、どこに行くんで……」

 

開閉するすずかの唇を、人差し指をくっつけて無理矢理停止させる。

 

「しっ。二人が起きたら大変だろ?」

 

アリサちゃんならまだいいとして、姉ちゃんが起きてしまうと近所迷惑も甚だしくなる。騒がしくなるのが目に見えている。

 

静かにゆったりと会話して指で星を追うのが醍醐味なのだから、おおよそ風情を解さない姉ちゃんはお呼びでない。

 

「っ、っ!」

 

どうやらすずかもわかってくれたようだ。全力で頷いていた。

 

そうこうしているうちに、忍び足でリビングを通過。一度俺の部屋に寄ってから、階段を上がって三階へ。

 

「こっち……三階、くるの、初めてです……」

 

「そうだろうな。滅多に人を通さないし」

 

「そ、そう、なんですか」

 

「だから、今から行くとこは、客人ではすずかが初めてかもしれないな」

 

「は、初めてっ、ですかっ?」

 

「ああ。たぶん、恭也も忍も……行ったことないと思う。そんな記憶はないな。とくに行く必要もないわけだし」

 

「わ、わたしが……恭也さんも、お姉ちゃんも行ったことないところに……」

 

三階に上がり、ちょっと進み、段差が二段あるところの扉を開く。

 

すぐに、ひんやりとした夜風と、澄んだ空気がなだれ込んできた。

 

「……屋上。ちょっと前に掃除したからそこまで汚くはないと思うけど……どうだろうな」

 

「わぁっ……空、星……綺麗に……」

 

我が家の屋上。昔はここで洗濯物を干したり遊んだりもしていた覚えがあるが、今の暮らしになってからは洗濯物はベランダで事足りるし屋上で遊ぶという年齢でもなくなったので、めっきり出ることはなくなった。それでも、屋上という場所はゴミがたまりやすいのでちょくちょく掃除にはきている。

 

そこそこ広いのでバーベキューなどにはいいかもしれないが、そういったイベントをする時は恭也の家かとくに忍の家の敷地内でやることが多いので結局屋上はあまり使う場面がなかったのであった。

 

「夜空眺めるぶんには、なかなかいいな」

 

この周辺はマンションもほとんどなく、だいたいが三階建て、高くて四階建てくらいだ。なので屋上に上がって仰ぎ見れば、天穹(てんきゅう)を削る無粋なコンクリートも悪戯書きのように空を区切る電線も、視界に入らない。

 

「ここなら星、見やすいです」

 

「そうだろ。そんで、もう一つ工夫だ。こんな機会そうそうないからな。楽しもうぜ」

 

俺の部屋から持ってきていたシーツを広げる。そこで座って、すずかを降車させた。

 

「あ、終わっ……はぁ」

 

「なに一息ついてんだ。これからだろうが。ほら、寝ろ」

 

「え、ぁ、ひゃっ……っ」

 

シーツの上でため息をついているすずかの肩を掴んで仰向けに寝かせた。

 

「屋上だと吹きっ(さら)しになると思ってな、ちゃんと掛けるためのタオルケット持ってきたんだ。これで完璧だ」

 

「っ、ぁぁっ、ち、近っ……」

 

「んっ……案外床が冷たいな、それに固いし……。すずか、ちょっと失礼するぞ」

 

「ま、まだっ……なにか、するんで……ひゃぁぅっ」

 

まだ若いので大丈夫だろうが、もし肩や首、腰を痛めてしまうとかわいそうなので、抱き上げてそのまま俺の上まで移動させた。これなら床より温かいし、固くもないので身体を痛めないだろう。その上からタオルケットをかぶせる。防寒対策もばっちりだ。俺としても、すずかが指差す星の位置を目で追いやすくなるし。

 

「よし。さ、始めようぜ」

 

「あ……あぁ、はわ……」

 

「ん?泡?」

 

すずかがぷるぷる震えてあわあわ悶えている。

 

いくら外でもここまですれば寒くはないはずなので、凍えているわけではないようだ。もしかすると少し馴れ馴れしくしすぎたのだろうか。昔、忍の家で遊んでいた時はこのくらいの距離感でいたのだが。

 

「あれ?もしかして夢?あ、そっか、こんなこと現実に起こるわけないもんね。これはわたしの夢なんだ。夢なら覚めないうちに楽しんだほうがいいよね、うん」

 

「……すずかー?」

 

ぶつぶつと小声な上に早口で、(まく)し立てるように言い切った。俺に聞かせるために言ったのではないようだ。

 

「あったかいですね」

 

「ん?そうか、よかった。俺も背中以外はあったかいぞ」

 

「……はぁ、こうしてると、なんだか小さい頃みたいです」

 

「ついさっき俺もそのこと思い出した」

 

今も充分小さいよな、といういらない相槌は飲み込んだ。

 

「ふふっ、えへへ……」

 

すずかはもぞもぞと動いて、俺の顎の下あたりまで移動する。こちらに顔を向けて笑った。いつものお上品な微笑ではなく、昔みたいな幼い笑みだった。

 

仰向けになって指を夜天に差し向ける。

 

「この時期だと、春の大曲線を見つけるとほかを探しやすいんですよ」

 

すずかがとある一点を指差す。

 

どうやら話は天体観測に移ったようだった。

 

「春の大曲線ってのは聞いたことあるぞ。えっと……柄杓(ひしゃく)みたいな形の北斗七星の柄にそって伸ばして、うしかい座のアルクトゥールス、おとめ座のスピカを辿って、からす座までの曲線を呼ぶんだよな」

 

「さすが博識ですね。あたりです。それでは、どこにあるかわかりますか?」

 

「…………」

 

本で読んだだけの知識なので、実際にどのあたりなのか、どれがどの星座なのかわからない。仕方ないじゃない、本みたいに線が引かれているわけじゃないんだもの。

 

「今夜はよく晴れているので、いつもより見つけやすいですよ?」

 

「…………」

 

なんだかいつもよりすずかが意地悪だ。

 

「ふふっ、ごめんなさい。ふだんできないから、つい」

 

「……すずか先生は厳しいなぁ」

 

「えへへ。それではまず、北斗七星を見つけましょう。北斗七星は……」

 

言って、すずかは指を差す。

 

俺がどれだかわからないと弱音を吐くと、顔を寄せて視線を近づけた。

 

おおぐま座の腰と尻尾を形成する北斗七星をようやく見つけた。おおぐま座の一部なのに、北斗七星の方が有名というのはちょっぴり可哀想である。

 

「その先にあるオレンジ色の明るい星、わかりますか?あれがうしかい座の一等星です」

 

「おお!わかるわかる!あれがアルクトゥールスか……周りと比べてもずいぶん明るいな」

 

「そうです。だから目印にするには打ってつけってことです」

 

「なるほどなぁ……あ、すずか、近くにあるあの青白い星はなんだ?」

 

「ふふっ」

 

「え、なに?」

 

「あれがさっき徹さんが言ってたスピカですよ。おとめ座の」

 

「ああ、あれか!はー……写真とか載ってたけど、生で見るとずいぶん違うんだな……」

 

「見る時期によっても見え方が違いますからね」

 

「それじゃあ、この曲線を引いてった先にからす座があるのか……どれだ」

 

「一度見えるとすぐにわかりますけど、見つけるまではわかりにくいんです。さっきのアルクトゥールスやスピカみたいに明るくもないから」

 

「曲線の先……曲線の先……」

 

「特徴的な四角形をしていますよ。えっと……台形、なのかな?スピカからちょっといったところに……っ」

 

丁寧に教えてくれようとして、視線を合わせようとしたのだろう。スピカとからす座の距離感ばかりに気を取られて、俺たちの距離感が疎かになっていた。

 

頬と頬が、優しくぶつかった。夜風に熱を奪い取られた顔には、その柔らかさと温もりはとても刺激的だった。

 

接触と同時に、すずかの指の動きも解説も停止してしまった。

 

「す、すずか?」

 

「ぁ、ぁ……っ、位置が近いほうが、教えやすい、よね……うん」

 

「すず……」

 

「あ、あれ、です……あの台形みたいなのが」

 

「お、おー?……あ、あれか」

 

すぐに離れるかと思ったが、頬をくっつけたまま離れない。どころか、そのまま天体観測を再開した。

 

俺としては無理矢理離れさせる理由はないし、くっついたらすぐにからす座も発見できてしまった。すずかに問題がないのなら、別にいいだろう。

 

「この春の大曲線を目安にして、ほかの星座を探すと楽なんです」

 

「そうだ、春の大三角ってあるじゃん?アルクトゥールスとスピカと、あともう一個デネボラを結んだやつ。デネボラってどれ?」

 

「デネボラはしし座のしっぽの先で……」

 

すずかが差している方向に、とても薄い紫みたいな白い星があった。すずかと同じように俺もデネボラらしき明るい星を指差す。

 

「あの明るいやつか?だとしたら、ずいぶんとんがった三角形になるな。二等辺三角形だ」

 

「それ……たぶんレグルスです。そのまますすっと横にスライドして……て」

 

「て?」

 

「手、少々お借り……します」

 

身体を少し起こして、すずかが両手でふわっと俺の手を握る。すすっとちょっとだけ横に移動させた。すずかの手は、熱いくらいに温かいのに、なぜかぷるぷる震えているのが不思議だった。

 

「わかります?」

 

「わかりますん」

 

「『わかります』なのか『わかりません』なのか、わたしにはわかりません……」

 

「わかりません」

 

「それなら最初からそう言ってください」

 

すずかに優しく叱られてしまった。ちょっと癖になりそうだ。

 

肩を落として、もう一度身体を寝かせる。おっかなびっくりしながら、また頬をくっつけた。そこまでしてさっきと同じようにしなくてもいい気がするけれど。

 

「えっと……ちょっと、イメージしてください。さっきの大曲線、ありますよね」

 

「春の大曲線だな。一度見つけられたら本当にすぐに見つけられるんだな」

 

「はい。その曲線でぐるっと円を描くようなイメージです。その円の中心にあるのが、デネボラです」

 

イメージ。

 

さっき見つけた春の大曲線。その曲線をからす座で止めずに、コンパスを使って円を作るようなイメージ。夜空に描かれた円の中心点、そのあたりを凝視する。

 

「おっ!あった!あれかぁ……レグルスより光弱くない?」

 

「レグルスはしし座の一等星で、デネボラは二等星なので、すこしだけ見劣りしちゃうかもしれませんけど……」

 

「これで春の大三角完成か。写真だとわかるけど、自分の目で見つけようと思うと大変だ。教えられながらでやっとだし」

 

「でも、これで徹さんも見つけられるようになりましたよね」

 

「……位置が変わらなかったらはっきりと『はい』って応えられるんだけどな」

 

「くすっ、季節によって変わっちゃいますからね。そのせいで見えなくなる星もあれば、そのおかげで見えるようになる星もあるので一概に悪いことじゃないですよ?」

 

「それもそうだな。今回は春の大三角だったけど、やっぱり有名な夏の大三角もちゃんと見てみたいな。デネブと、アルタイルと、ベガ……だったな」

 

「夏も楽しいですよ。明るい星多くて、眺めていて楽しいです。星がわかると星座も見つけたくなって、星座を見つけるとなんでそんな名前の星座になったのか、由来に興味がわくんです。わたし、本を読むのも好きですけど、本のお話を読むのとはまた違うおもしろみがあって」

 

「それはわかる。かに座とか、しし座とかひどくておもしろいよな」

 

「そうっ、それを星座にしちゃうのって星座がいっぱいあってっ。読んでいて飽きませんっ」

 

「その繋がりで言えば、日本にも星に関する有名な話があるよな。織姫と彦星が」

 

「こと座のベガと、わし座のアルタイルですね。どっちも一等星で、夏だとすごく見つけやすいんです。あ、でも……ちょっと残念です」

 

「なにが?」

 

「六月だと、春と夏の星をどちらも見ることができるんですよ」

 

「ほんとに?めちゃくちゃ楽しそうだな」

 

「一つの空に春の大三角と夏の大三角があるのは壮観です。ただタイミングはシビアですけど……。六月の……半ばくらい、だったかな」

 

「それは見てみたい。こうして天体観測してたら俺も興味わいてきたわ」

 

「そう、ですか?よ、よければ、また付き合っていただけると……」

 

「それ俺のセリフだな。今日だって俺が屋上に連れてきたわけだし」

 

「じゃ、じゃあ……っ」

 

弾んだような、期待を込められた声。天体観測という趣味はすずかくらいの年齢の子たち相手では人を選ぶだろうから(高校生くらいの年齢層でもそうは多くないだろうけれど)同好の士を見つけられて嬉しいのかもしれない。

 

俺としても、一人では手が出しづらい星の世界を詳しく教えてもらえるのはありがたい。この夜遊びは実に楽しかった。次も是非、すずかに教えてもらいたい。

 

「付き合ってもらえるか?すずか」

 

「ぇぁっ……は、はい……っ」

 

予想できた誘いだろうに、とても驚いたように喉の奥で吐息をもらして、こくこくと頭を小刻みに前後させた。温かかったすずかの体温が、わずかに上がった気がした。

 

 



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『お姫様が困った時には助けに行く』

 

「くぅ……すぅ……」

 

「すずか、寝ちゃったか……」

 

屋上で天体観測を続けていたが、しばらくしたらすずかが寝落ちしてしまった。寝る寸前まであの星座はなんという名前でー、と丁寧に教えてくれていたのだが、さすがにとうとう疲れがきたらしい。

 

それもそうだろう。昼寝していた俺とは違い、すずかは学校でテストを受けて、塾でお勉強して、帰りはアリサちゃんほどではないが普段よりもテンション高く遊んでいたのだから。なんならここまで起きていられていたことがすごい。

 

まあ、それよりもすごいのはすずかの視力だろうけれど。五等星までなら確実に、六等星でもぎりぎり眼視できる逸材だ。

 

俺なんかまったく見えなくて、魔法(サーチャー)という裏技まで持ち出したほどだ。術式をいじくり倒し、視程を極限まで上げてやっとなほどだった。

 

「よい、しょ……っと」

 

「んっ……んぅ……」

 

すずかが転げ落ちないように身体を支えながら起き上がる。俺の上に寝転がっているので抱えやすくていい。

 

床に敷いていたシーツを蹴っ飛ばしながら屋内に戻る。シーツはまた後日洗えばいい、近くに放置した。

 

二階に降りて、リビングに戻る。

 

足音を立てないように気をつけつつ、ゆっくりとすずかを布団に寝かせる。

 

「ぁ……とおぅ、さ……」

 

俺の名前を呼ばれた。横にさせるときの振動で起きてしまったのかと危ぶんだが、どうやら寝言らしい。

 

「アリサちゃ……と、まもりさん、が……ちか、く、に……」

 

「…………」

 

すずかの夢に俺が登場していることは確実なのだが、ストーリー展開がよくわからない。もしかすると夢と現実がところどころ()()ぜになっているのかもしれない。

 

「だ、め……れす……」

 

「うお……」

 

すずかの手が俺の身体を押し退けるように突き出される。

 

一応すずかの頭は枕の上に置けたので、俺も抵抗せずに押し退けられた。

 

儚げに、妙に色っぽく吐息を漏らすすずかに、布団をかける。

 

「ふぅ、これで……」

 

「どこ行ってたの、徹」

 

「ぃっ?!」

 

背後から、俺の名前を呼ぶ声。心臓を槍で突かれたような気分だった。

 

すずかを起こさないように布団に戻すことばかりに意識が向いてしまっていて、まったく気がつかなかった。

 

「……あ、アリサちゃん、起きてたの?」

 

「……ええ。ふと目が覚めて隣を見たら、布団が空っぽだったわ。二人分ね」

 

おそるおそる振り返れば、鼻のあたりまで布団をかぶったアリサちゃんが、まるで責めるように俺を見ていた。

 

「ちょっと……あれだ、寝つきが悪くてな。夜風を浴びてた」

 

「すずかと二人で?」

 

「んぐっ……」

 

「すずかが寝るまで夜風を浴びてたの?」

 

「…………」

 

「わたしだけ仲間はずれ?」

 

「いや、そういうわけじゃなくて……寝てると思ったから」

 

「……寝てたけど。まあいいわ。よくないけど」

 

「……なんか、ごめん」

 

論理が破綻するほど眠たいのか、言語機能を揺るがすほど怒っているのか、どちらだろう。

 

この状況どうしようと考えていると、ぱた、ぱた、と小さく音がした。

 

アリサちゃんの布団の端から小さな手が出ていた。その手が俺の布団を叩いていた。

 

「寝て」

 

「お、おう」

 

言われるがままに、自分の布団に戻った。

 

指示に従ったが、アリサちゃんの瞳は変わらずに俺を見据えている。天体観測で多少は眠たくなったのだが、こうも横合いから視線を浴びていると寝るに寝られない。

 

「ねえ」

 

「な、なに?」

 

とうとう仲間外れにしてしまったことを叱責されるのか、と身を構える。

 

だが、二の句は予想外な言葉だった。

 

「そっち、行っていい?」

 

「……え?」

 

意表を突かれた。俺とすずかで夜遊びしていたことへの文句でなかったこともそうだが、なによりアリサちゃんが前もって『行っていい?』などと訊ねてきたことに意外さを感じた。普段なら布団に入ってきてから事後報告するか、それどころか何も言わずに気づいたら潜り込んでいる、という可能性まである。

 

「……だめなの?」

 

「い、いや、ごめん。俺は構わないよ。……こっち、くる?」

 

不安げに眉がゆがむアリサちゃんに焦りながら、掛け布団を持ち上げる。

 

アリサちゃんは一度こくりと頷いて、もぞもぞと俺の布団に移動した。

 

「……でまくら」

 

「……ん?な、なんか言った?」

 

「……腕枕、してもらっていい?」

 

いよいよおかしい。静かにしようとしているのか、それとも元気がないのか、声は力ない。

 

仮に腕枕がほしいのなら、例えばいつもの勢いなら『腕』とだけ一言で済ませそうなところを『してもらってもいい?』などと許可を得ようとするなんて。

 

寝る前とずいぶん態度が違う。ひどくしおらしい。

 

その態度が、良いか悪いかの二元論で判断するならば、それは今の礼儀正しいアリサちゃんのほうがいいはずなのに、なぜこうも違和感があるのだろう。

 

「お、おお……こんな腕でよけりゃ何本でもどうぞ」

 

「ふふっ……さすがに徹でも、腕は三本も四本もないでしょ」

 

気が動転するあまりに変な事を言ってしまったが、少しでもアリサちゃんが笑ってくれたので結果オーライである。

 

アリサちゃんが上体を起こしたので、その下に滑り込ませるように腕を伸ばす。

 

するとアリサちゃんは、片手を俺の胸の上に置き、二の腕あたりに頭を乗せた。さらさらと滑らかに艶やかな黄金色の髪が、腕を撫でて(くすぐ)る。俺より少しだけ高いアリサちゃんの体温が、腕を()すリアルな重さが、ふっくらとした唇から(こぼ)れる熱い吐息が、妙に神経を掻き立てた。

 

「ベッドで男に腕枕されたら、とても落ち着いて気持ちがいいらしいけど……これはほんとね」

 

「……その体験談みたいな生々しい情報は、誰から?」

 

「…………女性向けの雑誌」

 

「……アリサちゃん、そういった雑誌読むんだね」

 

「っ……うるさい」

 

女性向けの雑誌はいやに生々しい事を記事にしていたりするから驚く。

 

というか購入するときに誰か止めろよ。そういう雑誌はアリサちゃんにはまだ早いだろうに。ともあれ色々経験したレベルの高いクラスメイトからの経験談とかではなくて一安心である。

 

「ほかにもいっぱい変なこと書いてたから、なんて頭の軽い女が書いてるんだろって思ったけど……」

 

「家に帰ったらその雑誌はすぐに捨てて、今後買わないように」

 

「こうして実際にやってもらうと、ほんとに気持ちいい……。あながち、てきとうばっかりじゃないのかもしれないわね」

 

「だからって鵜呑みにしちゃだめだぞ。ああいうのは話半分で流し読んで、覚えておくのはもう一回半分にしたくらいでちょうど良い」

 

「さすがにわたしでも……まだほかのは、はやいなって、わかったわ」

 

「全部忘れるべきかもな」

 

「ところどころわからない、専門用語みたいな単語があったから、全部は読んでないの。また今度持ってくるから、教えて?」

 

「遠慮しておくよ。あとアリサちゃんの将来のために忠告しておくと、それを他の誰かに質問することもしないほうがいい。歳を重ねればいずれわかることだから」

 

「ふふっ、残念ね」

 

雑誌については特別関心はないようだ。軽く笑って、腕に顔をこすりつけた。とてもむず痒い。腕だけでなく、心もなんだかむず痒い。

 

「ねぇ、徹。近づいてもいい?」

 

「……まあ、ご自由に。フリーペーパー取るくらいの気安さでどうぞ」

 

「あれっていざ取ろうと思うと微妙に取りづらいのよね」

 

「微妙に取りづらいけど決心していざ取りに行ったらもう全部なかった時に比べれば、どうってことはないよ」

 

「ふふっ、体験談?」

 

「雑誌に書いてあった」

 

「それもうやめてってば」

 

ちょっと明るさを取り戻したアリサちゃんの頭が、じわじわと腕を遡上(そじょう)してくる。もはや腕枕というより肩枕に近い。

 

「……すんすん」

 

俺の部屋でも鼻を利かせていたが、ここでもまた匂いを嗅いでいた。なんだろう、飼い犬が多すぎて影響を受けたのだろうか。飼い主がペットに似るパターンなのか。

 

「それ恥ずかしいからやめ……」

 

「すずかのにおいがするわね」

 

「……てほしいんだけ、ど……」

 

冷めた視線が、俺の顔のすぐ下から突き刺さっている。

 

「するわね、すずかのにおいが」

 

「…………」

 

どうやって俺の匂いとすずかの匂いを識別しているのだろうか。本当に犬なのか。

 

「まあいいわ。こんな夜更けに親友ががんばっていることはいいことよ」

 

「い、いや、距離が近かったのは確かだけど手は出してないから……っ」

 

「文脈でわかると思ったけど……ここで言う親友はすずかのことだからね」

 

「……さて」

 

「なにも言わないでおいてあげる。わたしは寛大なの」

 

「ああ……本当に寛大で寛容で器が大きいよ」

 

「くすっ、そうでしょ。徹はこんな寛大な親友を持ててしあわ……」

 

「身体は小さいのに」

 

「みんなに虚実おりまぜて丁寧に教えてあげるわね」

 

「ごめんなさい」

 

「なのはと彩葉(いろは)にも背びれ尾びれをつけて話しておいてあげる」

 

「ごめんなさい」

 

「恭也お兄さんには『同い年の義弟(おとうと)ができるわね』って言っておくわ」

 

「やめて、やめて……」

 

「忍さんには『みんなが寝静まった真夜中に、徹がすずかを抱いてたわ』って伝えておくから」

 

「ごめんなさい許してください殺される……」

 

全部恐ろしいが忍へのメッセージが一番恐ろしい。ニュアンスが著しく歪められているけれどそこだけは嘘偽りない事実なのがなにより(おぞ)ましい。

 

「わたしは寛大だから、徹の失礼な言葉も許してあげるわ」

 

「寛大で寛容で器が大きくて身体も大きいアリサちゃんありがとうございます」

 

「だからって無理のある嘘をつかなくてもいいのよっ。くふふっ」

 

音を嚙み殺すように、アリサちゃんは小さく笑った。

 

俺の服を掴んで、顔を押しつける。それこそ、子犬が甘えるような仕草だった。

 

「ふふっ、あはは……徹としゃべってると、夜もさみしくならないわね」

 

「明日ちゃんと起きれるか不安にはなるけどな」

 

「とくに行く意味が見出せない学校を遅刻するくらいで夜がさみしくなくなるなら、それでも構わないわね」

 

「友だちに会いに行くっていう目的を見出してがんばって登校してくれ」

 

「……ずっとそういう気持ちでがんばってるわよ。なのはやすずか、今は彩葉だっているし……」

 

「そうか。えらいえらい」

 

「……ふん」

 

へそを曲げてしまったアリサちゃんの頭を、枕にしている肩が動かないように撫でる。指通りのいい、綺麗な髪だった。

 

しばらく撫でて、機嫌もなおったようなので手を離そうとしたら、重ねるようにアリサちゃんが手を置いた。

 

「どうした?」

 

「……もうちょっと」

 

「はは、わかったよお嬢様」

 

「…………」

 

壁に掛けられた時計が秒針を刻む。

 

短くはない時間、お互い無言が続く。

 

秒針が単調な音を二百と十三回奏でた時だった。

 

「……わたし、夜は苦手なのよ」

 

もう寝たのかと思い始めた頃、アリサちゃんはぽつりと語り始めた。

 

「家は大きすぎて、部屋は広すぎて、なのに人はいなくて……誰もいなくて」

 

「……ああ、それは……わかる気がするよ、俺にも」

 

昔の俺と、少し重なるところがあった。

 

静かな家。冷たい部屋。漠然(ばくぜん)とした不安感。不明瞭な寂寞(せきばく)感。

 

ひとりぼっちの、痛み。

 

「ちゃんと頭ではわかってるの。……パパもママもお仕事をがんばってるから家に帰れないってことは」

 

「……そうだな。すっごく、家族のために一生懸命頑張ってるよ」

 

バニングス家は日米その他各国に関連会社をいくつも抱える大企業だ。極めて多忙で、アリサちゃんの口ぶりから察しても家にはなかなか戻れない。以前、アリサちゃんが誘拐されそうになった時も、お父様のバニングスさんは様子こそ見にきたが家には二時間とおらずに会社に戻ってしまったほどだ。

 

「……わかってるの。ちゃんと、わかってる。感謝もしてるし、尊敬もしてるわ。……でも、時々思うのよ。時々、叫びたくなる。もっと構ってよ、って。ご機嫌取りのプレゼントなんていらないから一緒にいてよ、って。そんなわがままを考えちゃうのは、わたしが子どもだからなのかな……」

 

「……賢すぎるってのも問題だな……」

 

それを、わがままとは呼ばない。

 

『もっと構って。一緒にいて』

 

それは、ささやかに過ぎる願いだ。子どもの当然の権利だ。与えられて然るべき愛情だ。

 

無論、アリサちゃんの両親にアリサちゃんへの愛がないなんて口が裂けても言えないが、気持ちだけでは伝わらない。言葉だけでは物足りない。

 

行動が伴って初めて、実感できることもある。実感が伴って初めて、心で満足できるのだ。

 

だが残念なことに、あるいは不運なことに、アリサちゃんは利口すぎた。お父さんとお母さんを困らせないようにと、ささやかな願いすら我儘(わがまま)だと蓋をして、心の中にしまい込んだ。

 

「徹……(くる)し……」

 

思わず、目の前の小さな身体を抱き寄せていた。

 

アリサちゃんの寂しさを拭うことは、俺にはできない。苦手な夜(・・・・)を苦手じゃなくさせるのは、俺では力不足だ。

 

この問題の根源は、アリサちゃんの家の事情によるものだ。バニングスさんにもっとアリサちゃんと一緒にいてあげてほしいと伝えることはできるだろう。できたとしても、それで何かが抜本的に変わるわけではない。そもそも、俺がお願いした程度でアリサちゃんに会いに行けるのなら、既に行っているはずだ。愛する娘と一緒にいたいと思わないわけがない。

 

「っ…………」

 

俺に、できることはない。

 

ない、のなら。

 

「徹……」

 

「両親に会えないのは寂しいかもしれないけど……アリサちゃんにはすずかやなのはがいるだろ?今は彩葉ちゃんだっているし、鮫島さんだって(そば)にいてくれてる。アリサちゃんは一人じゃないからな」

 

解決するためにできることがないのなら、せめてアリサちゃんが寂しくならないようにしてあげたい。

 

明るく、笑っていられるように。ほんの少しでも寂しさを紛らわすことができるように。

 

「……ええ、そうね。それだけが救いだわ」

 

「すずかやなのはなら、きっと呼べば飛んできてくれるぞ」

 

なのはなら文字通りに飛翔して(とんで)きてくれることだろう。

 

「ふふっ、自慢の親友だもの。当然ね。ところでわたしの大きな親友さん?」

 

「んあ?俺のことか?」

 

「あたりまえでしょ。他にいないじゃない。わたしの大きな親友さんは、呼べば飛んできてくれるのかしら?」

 

揶揄(からか)うように、(うかが)うように、アリサちゃんが訊いてきた。

 

なので、答えた。

 

「俺は忙しいからなー」

 

「がうっ」

 

噛まれた。

 

Tシャツ越しに胸元をがぶっとされた。やっぱりアリサちゃんは犬だ、狂犬だ。ジョークを交えて明るくしようと思ったのに。

 

「痛いっ、わりと本気で痛いっ」

 

「呼んだらいつでもどこでもきなさいよっ。親友でしょっ」

 

「いや親友でも用事や予定はあるし」

 

「がうっ」

 

再び噛まれた。

 

「痛いっ、痛いっ」

 

「なによっ……ふん」

 

不貞腐れたように、顔の向きを変えた。

 

こういう素直な態度をご両親の前で見せられたなら、もう少し彼女を取り巻く環境は違ってくるのかもと、ふと思った。

 

「なぁ、アリサちゃん」

 

「うっさい。もう知らない。はやく寝なさい。徹が寝てる間に首元にキスマーク作って明日困らせてやるんだから」

 

それは朝からとんでもない騒動になりそうなので是非やめてもらいたい。

 

「いつでもどこでも駆けつける、なんて出来すぎたヒーローみたいなことは約束できないけどさ」

 

「ばか。うるさい。また噛むわよ」

 

「噛まれるのはやだな。だからアリサちゃんになにかあれば、その時は絶対に迎えに行くよ」

 

「……ほんとに?」

 

「ほんとに」

 

「……必ずよ?」

 

「前に約束しただろ?『お姫様が困った時には助けに行く』ってな」

 

「……おぼえて、たんだ」

 

「当然だ。忘れない」

 

「っ……」

 

アリサちゃんは抱きつくように、顔をくっつけた。

 

「……約束、守りなさいよね。破ったら……また噛んでやるんだから」

 

「ああ、わかってるよ。もう噛まれたくはないからな」

 

 

 

 

 

 

明朝。

 

すずかとの天体観測やアリサちゃんとのおしゃべりで多少夜更かしはしたが、昼寝したこともあってすっきりと起きられた。

 

いつもはベッドで寝ているが、布団で寝るのもこれはこれでいい。これで床がフローリングとカーペットではなく、畳ならなおさらよかった。

 

「寝相いいんだな……アリサちゃん」

 

俺の腕を枕にしてくっついているアリサちゃんは、夜中に話していた時とほとんど位置が変わっていない。

 

寝にくくないのだろうかと疑問に思う。いつも彼女が使っている寝具とは品質の面でかなり劣るし、とくに枕なんて天地ほど差があるだろうによくぐっすり眠れるものである。

 

「んにゅ……ん、ぅ……すぅ」

 

「……寝てりゃ、ただの抜群に可愛い女の子だな……」

 

髪が顔にかかったのか、むず痒そうに俺の胸元にもぞもぞと顔を押しつけて、また夢の中に沈んでいく。夜中に俺に牙を立てたお口は規則正しく開いて閉じて、血色の良い柔らかそうな唇からは吐息が漏れている。朝日を浴びてきらきらと光を返す黄金色の髪は、まるでそれ自体が輝いているかのようだった。

 

まさしく、絵に描いたような美少女だ。起きている時は少々事情が異なるが。

 

「時間は……まあ余裕はある、か」

 

腕を動かせないため、首を違えそうになりながら時計を確認する。普段であれば家事を一通り片付けてもまだゆっくりできるような時間だが、今日はアリサちゃんとすずかは一度家に戻らないといけない。俺もそうだが二人も昨日と同じくテストがある。教科書やノートを取りに帰らないといけない。いやテスト前なんだから本来なら勉強しておかなければいけないくらいな話だが、二人とも賢いので大丈夫だろう。

 

ともあれ、まずは起こさなければ。女の子は朝の身嗜(みだしな)みに時間をかける生き物だと聞き及んだことがある。

 

「アリサちゃん、アリサちゃーん」

 

「……んぅ」

 

返事なのか寝言なのか判断つかない声を発するアリサちゃんを優しく揺すりながら、姉ちゃんとすずかを見やる。

 

かわいそうなことに、すずかは姉ちゃんにぎゅうっと抱きつかれていた。ちょうど腕に収まる絶妙なサイズだったのだろう。

 

決して寝相が悪いわけではないのだが、ただ一つ、姉ちゃんは寝ている時に温かいものにくっつくという習性があるのだ。

 

姉ちゃんの幸せそうな寝顔とは対照的に、すずかは悪夢に(うな)されているのかのように眉を寄せて、うぅ、うぅ、と唸っていた。

 

姉ちゃんを足で揺すって起こそうとしていた時、むくりとアリサちゃんが起き上がった。

 

腕が自由になったので俺も起きる。

 

「んー……くぁぁ、あ、徹」

 

可愛らしいあくびをして、(まぶた)が半分閉じた瞳で俺を見た。

 

「おはよう、アリサちゃん」

 

「んんっ……はぁ。おはよう、はやいわね」

 

寝相も良ければ寝覚めも良いらしく、ひとつ伸びをしたらいつものアリサちゃんだった。

 

伸びをした時にシャツがずれて首元から肩、腕まで露わになってしまっている。寝起きで乱れた髪がまた良い塩梅だ。

 

「俺が起きてなかったらみんなまとめて朝ごはん抜きになるからな。それより、よく眠れたか?」

 

「ひさしぶりにゆっくり寝られた気がするわ」

 

「俺の腕を枕にしてよく寝られるよな。首とか痛めてないか?」

 

「絶好調よ。たしかに柔らかくはないけど、そういうのとはちがう寝心地の良さがあったわ。抱き枕みたいな徹がほしいわね」

 

「俺みたいな抱き枕じゃないところがミソだな。どうする?シャワーとか浴びてくるか?」

 

「そうね、借りようかしら」

 

「そんじゃその間に朝飯用意しとく」

 

「ありがと。……なんなら徹も一緒にシャワー浴びる?」

 

「冗談言えるくらいに目が覚めてれば大丈夫だな。いってらっしゃい」

 

そうやって早く行くように促すと、アリサちゃんはくすりと笑んで一階へ降りていった。

 

アリサちゃんが口にする『親友』という俺のカテゴライズが、一体どういった立ち位置なのか未だに判然としない。なのはやすずかとの接し方と同種のものなのか、それとも別の枠組みなのか。

 

あまりに近いアリサちゃんの距離感と発言にどきまぎしながら、姉ちゃんとすずかを起こすために肩を揺する。

 

「…………起きねぇ」

 

姉ちゃんは毎度のことだが、すずかも目覚める気配がない。

 

天体観測で夜更かししすぎたか、とも考えたが、以前忍の家で勉強会をやった日にすずかを起こしに行った時もすんなりと起きてはくれなかった。姉である忍と似て、すずかも朝に弱いのであった。

 

「……ま、いっか」

 

まだ余裕はあるのだ。焦るような時間じゃない。姉ちゃんのバイトも今日は早朝からではないので急いで起こす理由はない。そう妥協して食事の準備に取り掛かる。

 

「あれ?お姉さんとすずかはまだ起きてないの?」

 

シンプルな和テイストの朝食ができあがったタイミングで、髪などもろもろを万端整えたアリサちゃんがリビングに戻ってきた。

 

呆れた調子で言いながら、アリサちゃんは席につく。

 

「起こしても起きないんだよなー」

 

「すずかは多少強引にやらなきゃ起きないわよ」

 

「そうなのか……。無理矢理起こすのはいやだけど飯の時間と準備を考えたら……」

 

「ギリギリ、っていうかわたしならアウトなくらいね」

 

「すぐ起こそう!」

 

すずかを姉ちゃんごと、ぐわんぐわんと大きく揺さぶる。

 

「おーい、起きろー」

 

「んみゅ……んっ」

 

「なかなかに頑固だな……」

 

瞼を固く閉じて、すずかは布団に潜ろうとする。

 

懸命に起こそうとしている俺の背後で、ずずっ、と(すす)る音がした。

 

「ん、朝に熱い日本茶ってのもなかなかいいものね」

 

「そりゃよかった。……手伝ってはくれないんだな」

 

「一番おいしい状態で食べたいもの。そっちは徹に任せるわ」

 

優雅な所作で湯呑みを傾けて一息アリサちゃんだった。

 

「んゅ……あぇ、とおりゅ、さ……」

 

ぐらぐらし続けて、ようやっとすずかの目が開いた。覚醒には程遠いようだけれど。

 

「そうだぞ、徹さんだぞ。朝ご飯と準備の時間だ。そろそろ起きてくれ」

 

「……ぁい」

 

まだ相当に眠気が残っている頭をふらふらとさせて、すずかは一階の洗面所へ向かった。

 

姉が残ったが、これはもう楽だ。すずかがいないのなら、乱暴な手が使える。

 

「よっ……こいしょっと」

 

姉ちゃんの敷き布団の端を掴み、テーブルクロス引きの要領で引っ張ってフローリングに落とす。

 

ごん、と鈍い音がした。

 

「ぬあぁっ!?なにすんねん!」

 

「何やっても起きないからだ」

 

「やわっこい女の子を抱っこしながら寝んのは心地よすぎたんや」

 

言っていることはどこまでも犯罪的だが、気持ちはよく理解できてしまった。口にはしないけれど。

 

すずかの残り香に包まれるように布団を纏って、なかなか出てこない姉ちゃん。敷き布団だけではなく掛け布団も同時に剥いでおくべきだったか。

 

行動に移そうかと本気で考え始めた時、アリサちゃんが口を開いた。

 

「お姉さん、先にいただいてるわよ」

 

「あーっ!アリサちゃんずるい!」

 

がばっと布団をパージした。

 

憐れなくらい食欲に弱かった。

 

「ずるくねぇよ。アリサちゃんは一足先に起きてシャワーまで浴びて座って待ってたんだからな」

 

「徹の作ってくれた朝ご飯、すっごくおいしいわ。このままだとお姉さんの分まで食べちゃいそう」

 

「まって!?あかんでアリサちゃん!うちの食べたらあかんで!」

 

「約束は……ごめんなさい。できそうにないわ」

 

「わーっ?!すぐ顔洗ってくるからちょお待って!」

 

「洗面所は今すずかが使ってるから、ここで顔洗えば?」

 

「そうする!」

 

ばしゃばしゃと音を立てて、姉ちゃんは浴びるように水を顔にぶつけた。

 

うまい具合に姉ちゃんを誘導してくれたアリサちゃんを見る。こちらの視線に気づくと、実に可憐なウィンクをぱちっと送ってきた。

 

ありがとうという意味を込めて笑みを返す。

 

「うっし!目ぇ覚めた!」

 

「それはよか……びしょびしょじゃねぇか。目は覚めたかもしれないけど身体も冷めるぞ」

 

「そのうち乾くて」

 

顔を洗ったというよりも軽い水浴びみたいなものになっている。髪や服だけでなく、シンク周辺までびしょびしょだ。

 

シンク周辺はあとからどうにかするとして、とりあえず姉ちゃんにタオルを投げつける。

 

「せめて髪は拭いといてくれ」

 

「はーい。ご飯食べてから服着替えるわ」

 

「ぱぱっと着替えてくりゃいいのに」

 

タオルで顔と頭を拭った姉ちゃんが席につく。いただきます、と柏手を打って朝ご飯に手をつけた。

 

鮭の塩焼きをつまんでご飯をたらふく口に突っ込んで、それらを飲み込むと次は味噌汁に手が伸びる。

 

「んまっ!」

 

「本当にお姉さんはおいしそうにご飯食べるわね。それより……」

 

朝から食欲旺盛な姉ちゃんを、アリサちゃんがじっと見つめていた。

 

視線の先は顔、ではなく、顔からぐぐっと下にずれた部位。水を浴びてTシャツが張りついている胸元に、アリサちゃんの目は注がれていた。

 

「いったいどうすればそんなスタイルに……」

 

自分の胸に手を当てながらアリサちゃんが言う。

 

ちゃんと口の中のものを飲み込んで、お茶を含んでから姉ちゃんは答える。

 

「なにって、とくに変わったことしてへんよ?適度な運動と、充分な睡眠と、あとは徹のご飯やね。今日も今日とてご飯がおいふぃ」

 

「そう……やっぱり徹はうちにこさせるしかないってことね」

 

「アリサちゃん家には抜群の腕を持った料理人がいるだろ。きっとカロリー計算から栄養バランスまで、普段の食事から気を使ってくれてるはずだぞ」

 

「そうなのかしら。徹も気をつけてるの?」

 

「そりゃ台所を預かってる以上は、最低限はな。いつも完璧にとはいかないけど」

 

「おっきくなりたいんやったら、いっぱい食べていっぱい寝ることが近道やで、アリサちゃん。夜更かしし過ぎたら成長しにくなるし、朝ごはん抜いたりしたら成長するための栄養取られへんからなぁ」

 

「お姉さんもそうだったの?」

 

「せやな!」

 

「姉ちゃんは隙あらば俺の分まで狙うほどよく食うし、夜なんてついさっきまで話してたのに気づいたら寝てるとかあるからな」

 

「余計なことまで言わんでええ」

 

「でもそうやって聞くと太りそうなものだけど……」

 

「あむ、はむはむっ。……ん?どないしたん?」

 

「……なんでそんな生活を送って、スタイルいいの?昨日一緒にお風呂入ってびっくりしたんだけど。胸おっきいのにウエストはきゅって細いの」

 

「ふふんっ。せやろ」

 

「ちょっとは恥ずかしがったり謙遜したりしろよ」

 

「スタイルに関して、うちに恥ずかしいところはない!」

 

「よく気後れしないでそんなこと言えるな……」

 

「……わたしもそんなセリフ言ってみたい」

 

「こんな大人になっちゃだめだぞ、アリサちゃん。見てくれだけ良くても中身が伴ってなきゃ意味がないんだからな」

 

「ごはんおかわりっ!」

 

「もう食べたのかよ……ってか話聞けよ」

 

「たくさん食べることが成長の近道……でも、こんなに食べたらいらないお肉がつきそうだし……」

 

「成長期やねんから贅肉がどうとか気にせんと好きなだけ食べたほうがええ。お腹周りのお肉が気になったらうちがダイエット付き()うたるやん」

 

「うう……徹、わたしもおかわり」

 

「……姉ちゃんの厄介なところは、間違ったことは言わないところなんだよなぁ」

 

苦渋の表情でアリサちゃんが茶碗を突き出してくる。その茶碗を苦笑いで受け取った。

 

姉ちゃんの言い方はどうかと思うが、考えとしては俺も同意見である。小さいうちは体重がどうとか体型がどうとか気にせず、いっぱい食べたほうがいい。それで好き嫌いもなければなおさらいい。

 

ぜひ俺のクラスメイト二人にも言って聞かせたいものである。奴らはめちゃくちゃ食べるが、いかんせん、好き嫌いが多すぎる。

 

一杯目よりも気持ち少なめにご飯をよそってアリサちゃんに手渡す。ちょうどそのあたりで、ぺた、ぺたと足音が下から上ってきた。

 

「おはようございます……ふぁ、あふ」

 

「おう、ちゃんと目は覚めたか?」

 

「すずか、遅いわよ。ちょっと急がないと」

 

「すずかちゃんおはよーっ!」

 

「姉ちゃんうるさい。そんな声張らなくても近いんだから聞こえるっての」

 

「あはは……」

 

小さくあくびもしていたが、目は覚めたようだ。

 

空いている席にすずかが座り、手を合わせた。俺も一緒にぱちんと手のひらを鳴らして、いただきます。

 

「ごめんなさい、徹さん。待っててくれたんですか?」

 

「んー、まあ。喋ってたから気にならなかったけど。それより、はやく食べよう。冷めちゃうぞ」

 

「ありがとうございます……あ、おいし……」

 

「よかった。野菜もちゃんと食べてくれるからこっちも作りやすくて助かるよ」

 

「ほんと、おいしかったわ」

 

「アリサちゃんはもう食べ終わってたんだね」

 

「え?……完食、だな」

 

驚きとともにアリサちゃんを見れば、たしかにお皿は綺麗になっていた。茶碗も含めて、綺麗になくなっていた。もうご飯食べたのか。

 

「……なに?なにか言いたげね」

 

「いや、おいしく食べてくれたんならうれしいなー、ってな」

 

「ならいいわ。ごちそうさまでした」

 

食べ始める時と同じように、アリサちゃんは手を合わせた。

 

すると、席を立って食器を持った。

 

「アリサちゃん、置いといてくれていいぞ。あとやっとくし」

 

「徹は食べてる途中でしょ。流しに持っていくくらい、自分でやるわよ」

 

「おお……ありがとう」

 

「……いったいなにに感動してるのよ」

 

「そうやって自主的に手伝おうとしてくれていることに」

 

「あはは、なにそれ」

 

笑いながら、アリサちゃんは自分が使った食器をシンクまで運んでいった。

 

アリサちゃんは俺が冗談を言ったと思っているのかもしれないが、わりと冗談ではない。手伝おうとしない奴もいるのだ。客人相手に俺が手伝わせないというのもあるけれど。

 

「あ、アリサちゃん、髪ツーサイドアップにすんの?」

 

「そう、ね。いつもそうしてるけど……」

 

台所から戻ってきたアリサちゃんは、頭の片側を手で纏めてヘアゴムを口にくわえながら戻ってきた。

 

チャンス到来とばかりに、姉ちゃんが目敏くアリサちゃんに声をかけた。

 

「せっかく綺麗な長い髪してんねんから、もっと遊ばな!」

 

「これが一番慣れてるし、楽だし……」

 

「ぱぱっと簡単にできるアレンジもあんで?今回はうちがやったる!」

 

「でも……」

 

アリサちゃんがちらと俺を見た。どこか申し訳なさそうというか、困った表情だ。

 

「姉ちゃんは言い出したら止まらないんだ。アリサちゃんがよければ付きあってやってくれ。俺も違う髪型見てみたいし」

 

どうやら迷惑なんじゃないか、と思っていたらしい。俺がそう言うと、アリサちゃんは安心したように頬を緩めた。

 

「そう……それじゃあ、甘えちゃおうかな」

 

「やった!もっと甘えてくれてええねんで、アリサちゃん!」

 

アリサちゃんから許可をもらい、姉ちゃんは喜色満面でアリサちゃんの後ろに回った。

 

取り掛かるや、サイドの髪を編み込み始めた。

 

普段、人の髪をいじるなんてできない分、それはもう気合を入れてやることだろう。

 

「と、徹、さん……」

 

「ん?どうした、すずか」

 

小さなお口でちょっとずつ慎ましく食べていたすずかが俺を呼ぶ。テーブルを見ると、ご飯は結構残ったままだ。

 

すずかは(しと)やかに一口ずつ口に運ぶので食べるのは遅いほうだが、いつにも増してゆっくりだった。

 

「あ、あの……」

 

「量、多かったか?姉ちゃんや友だちがよく食べるから、いまいち加減がわからないんだ。多すぎたら残してもいいぞ」

 

「ち、ちが、量ではなくて……き、昨日、の……」

 

「昨日?……あ」

 

昨日、というワードともじもじするすずかで思い至った。

 

アリサちゃんと姉ちゃんに聞こえないように、すずかの耳元に口を寄せる。

 

「天体観測の話か?」

 

「そ、そうっ、ですっ。……それで、あの、約束って……」

 

「約束……次は夏の大三角を見たいなってやつだろ?付き合ってくれるんだよな?」

 

「は、はいっ。……よかった。……夢じゃ、なかったんだ……」

 

テーブルの下で、すずかが握りこぶしを作っていた。

 

どうやら夜の出来事が夢だったんじゃないかと思っていたらしい。星と星座講座の途中ですずかは寝落ちしたので、記憶は曖昧なのだろう。

 

「はは、夢じゃないぞ。ぜんぶ現実だ」

 

「そ、それじゃ……徹さんに腕枕してもらったことも?」

 

「そう、だな。腕枕っていうか、身体布団みたいなもんだったけど」

 

「部屋に戻る時……お、お姫さま抱っこしてもらったことも?」

 

「そうそう。戻る時に揺らして起こしちゃったのか?ごめんな」

 

「り、リビングに戻る前に……徹さんの部屋に入った、ことも?」

 

俺と目を合わせにくそうに、すずかは俯きがちに聞いてきた。

 

「俺の部屋?ああ、入っ……あれ?リビングに戻る時には入ったっけ?」

 

家の屋上に上がる前にはシーツを取りに俺の部屋に入ったが、リビングに戻る時にシーツを部屋に戻した記憶はない。

 

記憶を遡る前に、すずかの確認が続けられる。

 

「わ、わたしを……徹さんの、べ、ベッドに寝かせた、ことも……」

 

「いや、それは」

 

「そ、そこから……っ、わ、わたっ、わたしの服をっ、ぬ、脱がしたっ、ことも……っ」

 

「夢だ、すずか。それ夢だわ」

 

「こ、これは夢なんですか?どこから……」

 

「天体観測してからリビングに戻る時に俺の部屋には寄ってない。まっすぐリビングに戻ったんだよ」

 

「そ、そう、でしたか……」

 

「そう。だから安心してくれ」

 

途中から明らかにR18+指定の流れになっていた。

 

そのとんでもないことが夢だとわかって安堵するところのはずなのに、なぜかすずかの声のトーンは下がっていた。そういう諸々に興味を持つお年頃なのだろうか。

 

「わ、わたしっ……あんな夢みて……っ。は、はしたないです……」

 

「い、いや、夢なんてのは本人の意思で視る視ないを決めれるわけじゃないんだから……まあ、ほら、気にすんなよ」

 

「しかもそれを徹さんに確認するなんて、わたし……はずかしい」

 

「……んんー、いやー……」

 

どう励ますのが正解なのか俺にはわからない。

 

どう声をかけるのが正解かはわからないが、こういう時どう対処すればいいかは知っている。

 

「……そ、そういうのは誰にだって経験があるもんだから別にいいんだって。そ、それより、朝ごはん食べる時間なくなっちまうぞ」

 

下手に触れずに流す。

 

人間、忘れようと思えば嫌なことや恥ずかしいことだって忘れられるようにできているのだ。

 

「そう、ですね……えへへ、あはは……」

 

「…………」

 

すずかにはかなりの精神的なショックだったようだ。頭の大事なところのネジが外れそうになっている。

 

俺じゃあもう手に負えなくなっていたが、ここで救いの手が差し伸べられた。

 

「あ、すずかまだ食べ終わってなかったの?はやく食べないと学校行く準備間に合わないわよ」

 

姉ちゃんとお喋りしていたアリサちゃんが、準備が進んでいないすずかを急かした。

 

「あ、うん……ちょっと人生初くらいの恥ずかしさを味わってて……」

 

「どういうこと?ご飯を味わってるってこと?徹のご飯はおいしいけど、急いだ方がいいわよ」

 

なんだか微妙に話がすれ違っている。

 

「う、うん……徹さんの料理は前からおいしアリサちゃん髪型すごいことになってるよ?!」

 

「えっ?!」

 

「ふぅっ……ええ仕事したわ」

 

ちょっと目を離したすきに、アリサちゃんの髪型が大胆にアレンジされていた。

 

後ろの髪はお団子なのかシニヨンなのか大きく丸めて固められ、纏められたお団子を囲むように編まれたサイドの髪で巻かれている。

 

清楚さと華やかさが共存していて、お嬢様感が底上げされていた。

 

すずかの言う通りすごいことにはなっているが、この場合は無論、いい意味だ。

 

「わ!いつもと全然ちがうわ!首に髪がかからなくて気持ちいいわね!」

 

「すっごくかわいいよっ、アリサちゃん!」

 

「アリサちゃんは綺麗な黄金色の髪しとって気品あるし、こんな感じでもよう似合うわぁ。なんせ本人がかわええから、髪のインパクトにも負けへんし!」

 

美容師のように鏡を持ってきて頭の後ろがどうなっているのかアリサちゃんに確認させる姉ちゃん。どや顔の姉には多少いらっとくるが、その仕上がりには感服だ。

 

「こんな短い時間で、しかもおしゃべりしながらだったのに……お姉さんすごいわ!」

 

「えへへーっ!ちゃんとケアされとったからいじりやすかったわぁ。……ちら」

 

わざわざ自分の口で擬音を発しつつ、姉ちゃんは次なる獲物をロックオンする。

 

その標的はもちろん、食事を再開したすずかである。

 

「すずかちゃん、ちょっと髪跳ねとんで?」

 

「あ……髪長くてはねやすくて……ちゃんと整えられなかったんです」

 

髪を撫で付けるように手で抑える。ちらりと俺を見て、恥ずかしそうに目を伏せた。

 

「だいじょぶだいじょぶ!うちが整えといたるよ!髪長いと大変やんなー」

 

言っていることは理解ある優しい年上のお姉さんなのだが、にやにやとした顔とぬるぬる動く指は完全に変質者である。

 

姉ちゃんは了承も取らぬままヘアピンやヘアゴムを持って、すずかの背後に回った。

 

「絶対に整えるだけで済ますつもりないだろ」

 

「そらそうやろ!こんな綺麗な髪目の前にしてなんもせえへんとかもったいないわ!」

 

どこに隠し持っていたのか、寝癖直しのヘアスプレーを掲げて叫んだ。

 

「……はぁ。時間が迫ってるから、考慮してやってくれよ」

 

「任せとき!ほな、すずかちゃん。髪はうちがやっといたるから、ゆっくりご飯食べーなー」

 

「は、はい、ありがとうございます、真守さん」

 

ところどころはねている髪を整えてからいじり始めるらしい。食事の邪魔をしないようにスプレーを使って寝癖を直し始めた。

 

それを横目に見ながら、使い終わった食器をシンクに持っていく。

 

戻ってくると、姉ちゃんから鏡を借りていたアリサちゃんと鏡越しに目があった。

 

「どう?徹から見て」

 

ふ、とアリサちゃんは目を細めて、嬉しそうに聞いてきた。

 

「すごく上品で、でも可愛さもある。似合ってるよ」

 

「……ふーん」

 

唇を尖らせて不満そうな視線を送ってくる。

 

褒めているのにどうして不機嫌なのだろうと考えて、昨日の帰り道を思い出した。

 

「魅力的だよ、アリサちゃん」

 

「ふふんっ、それならいいわ!」

 

ようやく満足したように胸を張った。

 

さらに何か続けて言おうと、アリサちゃんは口を開いた。が、その前に、チャイムの音がアリサちゃんを遮った。

 

時計を確認する。

 

時間からして二人の迎えが来たのだろう。

 

すずかの寝癖直しを姉ちゃんに任せてよかった。でないと、朝ご飯をゆっくり食べる時間もなかったかもしれない。

 

「姉ちゃん、そろそろ……」

 

「完成っ!いやー、ぎりぎりやったなー」

 

そろそろ時間だぞ、と伝えようと姉ちゃんに振り向けば、寝癖直しどころかすでにヘアアレンジまで終わらせていた。我が姉ながらなんて早業。

 

しかも、早いだけでなくそのクオリティもすごかった。

 

「猫耳だ……すずかの頭に猫耳がついてる」

 

正確には、猫耳っぽい形に整えられた髪だけれど。

 

「すごいわ!すずかすっごいかわいい!」

 

「まだ見てないから自分じゃわからないけど、可愛いのは真守さんが結ってくれた髪で、わたしじゃ……」

 

「なに言うてんの、すずかちゃん!すずかちゃんに似合てるからアリサちゃんは褒めてくれてんねんで!」

 

「そうよ、すずか!自信持ちなさい!」

 

「う、うんっ、ありがとう」

 

「いや、ものすっごい似合ってんだけど……なんで猫耳?」

 

「すずかちゃんのお(うち)はにゃんこいっぱい住んでるやん?せやったらこの髪型しかないやん!いつか忍ちゃんとすずかちゃん、姉妹おそろいで猫耳にしたいわぁ」

 

姉ちゃんが恐ろしい計画を企てていた。きっと忍も喜んでくれることだろう。

 

「あとテスト受けてる時に邪魔にならへんように、サイドは後ろに持ってってローポニーテールにしてみてん!これなこれな、にゃんこのしっぽイメージしてんねんで!」

 

姉ちゃんはすずかに立つように指示して、手を取ってくるりと半回転させる。ふんわりとゆるめに編まれた髪は、遠心力でワンテンポ遅れてすずかの背を追うが崩れない。こなれたエア感と纏まりが絶妙のバランスを保っていた。

 

相変わらず、女の子を可愛くすることにはどんな手間も(いと)わない姉である。

 

「控えめに言って超可愛いな」

 

「愛くるしいわね。撫で回したいわ」

 

「う、うぅ……」

 

心の奥から滲み出た俺とアリサちゃんの本音は、すずかを耳まで真っ赤にさせた。

 

「お迎え来てるみたいやし、みんなで下りよか。すずかちゃんは一階の姿見で髪見てみぃなー」

 

一階に下りて、姿鏡を見つけると、アリサちゃんとすずかはぱたぱたと足早に走り寄った。

 

顔を傾けたり身体の向きを変えたりして自分の髪を眺める。

 

「わ、すごい……ほんとに猫耳みたいな形……」

 

「すずかの猫耳、すごいわね。どうやってるのかしら?」

 

「すごいよね。セットしてるところ見てないからどうやってるのかはわからないけど……」

 

「お姉さんにセットしてもらいながら朝ご飯食べてたしね」

 

「お、おいしかったんだもん……。そ、それより、アリサちゃんの髪もすごいよね。いつもと全然雰囲気違うね」

 

「大人っぽく見えるでしょ?中学生くらいに見えない?」

 

「中学生は無理があるような……」

 

「でも自分でやるには難しそうなのよね。自分じゃ手元が見えないし」

 

「真守さんはどうやってあれだけ短時間でできたんだろう?」

 

「まあ、あの徹のお姉さんだもの」

 

「ふふっ、それもそうだね」

 

俺と姉ちゃんへのリスペクトなのかどうなのかわからない会話も(まじ)えながら、お互いの髪型を褒めあっていた。いつもと違う自分に浮かれている様子だ。実に微笑ましい。

 

「おまたせしましたー」

 

間延びした声で姉ちゃんが玄関の扉を開ける。

 

正面の道路にはお高そうな車が二台と、執事とメイドが一人ずつ。朝早くから執事服をばっちり着こなしている鮫島さんと、白を基調としたメイド服のノエルさんだ。

 

二人に軽く朝の挨拶をしていると、アリサちゃんとすずかが出てきた。

 

「おはよう、鮫島。ご苦労様」

 

「お待たせしました、お嬢様。おはようございます」

 

「おはよう、ノエル。出てくるの遅くなってごめんなさい」

 

「いいえ、すずか様。こちらこそ、昨日はお迎えに行けず申し訳ありません」

 

「すずかお嬢様、昨日の件については全て私の責任です。申し訳ありません」

 

「ううん、いいの、ノエル。鮫島さんもいいんです。おかげでいつもと違う一日が過ごせてとても楽しかったから」

 

「そう言っていただけると助かります。徹くん、ありがとうございました」

 

「こっちこそ、アリサちゃんとすずかが姉ちゃんの相手してくれたおかげで俺の負担が減ったよ」

 

「うちがなんやて?徹」

 

両側から肋骨の隙間に指を差し込まれた。痛気持ち悪い。いらない一言に対するお仕置きが地味に強烈すぎる。

 

「それにしても、二人ともおひさやね。あはは、鮫島さんは変われへんなぁ」

 

「真守お嬢様は大きくなられましたね。以前に拝見した際はまだ幼さを残していましたが、大変お美しくなられました」

 

「えへへ、ありがとー。せやけど、ノエルちゃんも相変わらず美人やんなぁ。びっくりするわ」

 

「ふふ、真守ちゃんも綺麗になりましたよ。昔は可愛さが強かったですけど、今はどちらも持ち合わせています」

 

「あははっ、嬉しいわぁ。そういや、今日はノエルちゃん忙しかったん?」

 

「ええ……少しばかり。なぜそんなことを?」

 

「いつもやったら外出るとき、もうちょいラフな格好するやん?着替える暇もなかったんやなーって。相変わらず仕事熱心なんやね」

 

「……真守ちゃんも相変わらずで安心しました。お恥ずかしい限りです」

 

「真守お嬢様の利発さに(かげ)りはないご様子ですね」

 

「うん?うん!うちはいつも通りやで!」

 

俺と恭也、忍が幼馴染なので、その繋がりで姉ちゃんも家族ぐるみで両方と仲がいい。ノエルさんとも交流しているのは聞いていたが、想像以上に親しげだ。

 

「ノエルがすごく自然に接してる……あんな顔するんだ」

 

「ノエルさんとは付き合い長いみたいだしな。姉ちゃんの人間性もあるだろうけど」

 

姉ちゃんが鮫島さんとノエルさんに話しかけまくっているせいで、迎えにきてもらったお嬢様お二人が手持ち無沙汰である。

 

「姉ちゃん、挨拶もそろそろいいだろ」

 

「へ?あぁ、ごめんなぁ。久しぶりに顔見れて嬉しかったんや」

 

アリサちゃんとすずかの二人が待ってるんだぞ、ということを服を引っ張って伝える。

 

たしかに、姉ちゃんではこういう機会でもなければなかなか会えない二人ではあるけれども。

 

「ほらっ!二人とも見てや!アリサちゃんとすずかちゃん、めっちゃ髪可愛ない?!」

 

「違う、違うぞ姉ちゃん。二人の可愛い姿を鮫島さんとノエルさんに早く披露しろってことじゃない」

 

お迎えのために鮫島さんとノエルさんが来ているのだから、早々に雑談を切り上げてアリサちゃんとすずかを車に乗せてあげろと言いたかったのだが、姉ちゃんには伝わらなかったようだ。

 

アリサちゃんとすずかの背中を押して、姉ちゃんは鮫島さんとノエルさんに見せつけた。

 

ヘアアレンジのコンセプトを説明して、鮫島さんとノエルさんが二人を一頻(ひとしき)り褒め称えた。

 

問題は、その後だった。

 

「制服はどうなさったのですか?」

 

執事とメイドが異口同音で言った。

 

「あ……」

 

俺たち四人も、揃って言った。

 

全員、着替えていなかった。

 

 

 

 

 

 

俺の家で着替えるのは諦め、制服は持って帰って各々の家で着替えることとなった。パジャマがわりに着ていた服は後日返却するとのことである。

 

制服を渡してアリサちゃんとすずかを見送る、まさにそのタイミングであった。

 

鮫島さんが操縦する高級車の後部座席に座っているアリサちゃんが、窓を開いて手招きした。

 

忘れ物だろうかと思って車に近づいた俺の服を、アリサちゃんは、ぐい、と引っ張った。

 

窓から身を乗り出して、アリサちゃんは俺の耳元に顔を寄せた。

 

不意に、甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 

「ちょっ、なに?」

 

「次の土曜日と日曜日、空けておきなさい」

 

「土日?なんで……」

 

「以前の貸し、返してもらうの。わかった?」

 

耳に唇が触れるのではと思うほどの近さだった。アリサちゃんが言葉を発するたびに、熱のこもった吐息が耳をなぶるせいで落ち着いていられない。

 

「あ、ああ……わかったよ」

 

「ふふんっ、それでいいのよ」

 

よく考えもせずに頷いた俺に、アリサちゃんは高飛車で高慢なお嬢様の典型みたいなセリフを吐く。声の高さと小柄な身体のせいで、つんけんした女の子にしかなっていないけれど。

 

「あと、一日ありがとう。楽しかったわ」

 

「うお……」

 

頬と頬をくっつけて、アリサちゃんは礼を言った。さらさらとしてあたたかく、柔らかな感触に、心臓がきゅっとした。

 

乗り出した身体を車に引っ込める際、長いまつ毛を瞬かせ、小悪魔な笑みでウィンクを決める。

 

度肝を抜かれた俺を置いて、静かに車は発進した。

 

「なに小学生にときめいてんの?」

 

呆然と高級車二台を見送る俺の脇腹に、姉ちゃんの肘が入った。

 

「ときめいてんじゃない。驚いたんだ」

 

「はいはい、そういうことにしといたるわ」

 

「なんだその含みのある言い方」

 

「ほら、徹。朝ごはん作って」

 

「もう食っただろうが!」

 

騒がしくしながら家に戻る。

 

俺も学校に行く準備をしなければ。

 



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「魔女狩り」

本日のテストも無事消化。

 

登校さえできればテストは一切問題ないのであった。

 

ただ、俺は無事だったが、無事では済んでいない友人が二人ほど机に突っ伏しているけれど。

 

今日のテストの科目が暗記系に集中していたことと、昨日の忍の家での勉強が効いているのだろう。

 

「徹。あんた、すずかに手、出してないでしょうね」

 

「……またかよ」

 

二人の友人、長谷部真希と太刀峰薫の燃え尽きたような灰色の後ろ姿を自分の席でぼんやりと眺めていると、忍に机をどん、と叩かれた。

 

「何回も言ったけど、姉ちゃんもアリサちゃんもいたんだからな」

 

「すずかのテンションの高さを考えて、なにかあったと考えるのが自然よ。つまり徹が何かした。QED」

 

QED(証明終了)すんな。途中の推論がぶっ飛んでるだろ。……というか、朝にすずかと会ったのか?よく時間あったな」

 

「そのくらいの時間はあるわよ。顔合わせて満面の笑みであれこれ話されたからあんたにしつこく聞いてんのよ。あんなにきらきらした笑顔、久しぶりに見たくらいよ」

 

「なるほど、それで今日は教室に入って来るのが遅れていたのか」

 

声のする方向を振り返る。帰る準備を整えた恭也が(かばん)を肩にかけて立っていた。

 

「そうよ、恭也。すずかが珍しいくらいに、にこにこ顔でずっと喋るものだから、止めるに止められなかったのよ。結局ノエルが学校に間に合わなくなる、って割って入ってくれるまでね」

 

頭を抱えながら、忍はため息を一つ。遠くを見つめながら続けた。

 

「家に帰ったらまた続きを聞いてねって言われちゃったのよ……」

 

「愛する妹とのおしゃべりだろうが、聞いてやれよ」

 

「私だってすずかといっぱいおしゃべりできるのは嬉しいけど、その内容がほとんど徹絡みなんてっ」

 

「なんだよ別にいいだろ!」

 

「気持ちはよくわかる。なのはから徹の話を聞かされた時は俺も同じ気分になる」

 

「お前もかい!」

 

「しかし、すずかとアリサちゃんを徹の家に泊めるのなら、一緒になのはも誘ってやってくれればよかったんだが……またへそを曲げてしまう」

 

「朝も言ったけど、そもそも泊まりなんて予定になかったんだって」

 

なのはも呼んであげればよかった、ということは朝、恭也に言われて初めて気づいた。アリサちゃんが一人で泊まるのは心細いだろうと思ってすずかも一緒に泊まるような流れに持っていったが、その時になのはも誘っておけばよかった。今度なのはに会った時が怖い。

 

「そういえばすずかの髪型が変わってたんだけど、あれは?」

 

「あれは姉ちゃんの仕業だ。出来はどうだったよ」

 

「最高だったわ。思わず抱きしめたもの」

 

「髪型?なんの話だ?」

 

「朝に姉ちゃんがすずかとアリサちゃんの髪をいじったんだよ。すずかは猫耳になってた」

 

「猫耳……髪型でか?そんな髪型があるのか……」

 

「めちゃくちゃ可愛かったわ。また今度真守さんにお礼言わなきゃ」

 

「礼なんていいだろ」

 

「あれだけ可愛いものを見せてもらったんだから、お礼言うのが筋ってもんでしょ」

 

「大丈夫だって。姉ちゃんが言ってた。今度は姉妹揃って猫耳にしたいって」

 

「……え」

 

「それがお礼の代わりになるだろ。だから気にしなくていいって」

 

「わ、私はいいわよ……猫耳はすずかだけで、お礼は別に用意するから……」

 

「そうか?わかった、姉ちゃんにはそのまま伝えておく」

 

「そ、そのまま……って?」

 

「忍はいいって言ってた、って」

 

「それをそのまま伝えたら絶対に真守さんはポジティブな意味で受け取るだろうな……」

 

「え、遠慮するって伝えときなさいよ!」

 

「それだと姉ちゃんは『遠慮なんかせんでええよ!』って言うだろうな」

 

「逃げ道がないじゃない!」

 

「なに言ってんだ、相手は姉ちゃんだぞ。最初から選択肢なんて『はい』か『是非』しか用意されてねえよ」

 

「ニュアンスの違いでしかない」

 

「逃げ道なんてなかったのね……ふふ」

 

「似合うんじゃね?黙ってりゃな」

 

俺の軽口にもつっこまないところを見るに、どうやら忍の意識はどこか遠くへ旅立ってしまったようだ。

 

諦めが入った忍の後ろから、長谷部と太刀峰、加えて鷹島さんがやってきた。運動能力にのみパラメータが振り切られているバスケバカの二人にしては珍しく、歩いている。机に突っ伏してシステムダウンしていた二人を、鷹島さんが再起動させたようだ。

 

「どうした、長谷部、太刀峰。昼間に外を出歩いちまったゾンビみたいな動きで」

 

そう冗談を叩くと、長い瞬きをして長谷部が俺に目を向ける。

 

「脳を酷使しすぎたよ……」

 

「もう、頭……動、かない……」

 

「なんだよ。まるで頭蓋骨の内側に脳みそが詰まっていたみたいな言い方して」

 

「なんて失礼な!」

 

「傷ついた……ばいしょーを、要求する……」

 

「賠償って意味わかってんのかな」

 

「今日は昨日の分までバスケに付き合ってもらうしかないね、これは!」

 

「……暗く、なるまで。これは、せいとーな要求である」

 

「テスト勉強はどうすんだよ」

 

「昨日やったさ!」

 

「どうせお前らが昨日やったのは今日のテストのぶんだけだろ」

 

「もう、電池切れ……バスケして、充電……しないと」

 

「運動なんてしたら充電どころか放電にしかならねえよ」

 

「長谷部さんも太刀峰さんも、案外元気……なのだろうか」

 

「真希も薫も、軽く運動すればほんとに元気になると思います。昨日はがんばってじっとしていたほうなので、いっぱい動きまわりたいんじゃないでしょうか?」

 

「……まるでしばらく散歩してもらえなかった犬のようだな」

 

「ふふっ、だいたいあってます」

 

「真希ちゃん?薫ちゃん?また泊まり込みでじっくりお勉強したいのかしら?」

 

「ひぃっ?!す、すまない忍さん!」

 

「ぷるぷる……っ」

 

昨日は忍に叩き込まれたようだ。二人のテスト後の憔悴(しょうすい)っぷりからして、そうだろうとは思っていたが。

 

「し、忍さん、そのあたりで……。集中して取り組むのも大事ですけど、息抜きも必要ですから……」

 

「綾ちゃん……。息抜きのティータイムは必要以上にあったはずだけど」

 

「…………」

 

鷹島さんが口を(つぐ)んで忍から目を逸らした。助け舟は沈んだようだ。

 

「し、仕方ないじゃないか!勉強ばかりしている時に、庭にバスケットゴールを見つけてしまってはっ!」

 

「行かざるをえない……これは発作、みたいなもの……」

 

「昨日バスケやってたのかよ!まるで一切休憩してなかったみたいな口振りだったくせに……って、あれ?忍の家にゴールなんてあったっけ?」

 

「ああ、あれはつい最近作ったそうだ。長谷部さんと太刀峰さんがバスケ好きだから、遊ぶために、あと自分の練習用に頼んだのだそうだ」

 

「うっわあ……まじかよ」

 

さすが、リッチである。広い庭だけでは飽き足らず、バスケのゴールまで置いてしまうとは。というか、結果的に二人のために作ってるではないか。

 

「どうしても身体を動かしてリフレッシュしたいっていうから、勉強を中断して庭に出たのよ。そしたら仕事を終わらせたファリンまできたものだから……」

 

額に手をやり、やれやれと頭を振る忍。バスケバカ二人に加えて、無尽蔵のスタミナを持つファリンの手綱を握るのは大変だったろう。少し同情する。

 

「でも、忍さんも楽しそうでしたよ?」

 

「うっ……」

 

「ってお前もやっとったんかい!」

 

「仕方ないじゃない!断れなかったのよ!」

 

「そんじゃその間、鷹島さんは?一緒にやってたわけじゃなさそうだけど」

 

「私はノエルさんに紅茶を淹れてもらって、一緒に見学してました。見てるのも楽しかったですし、ノエルさんとのおしゃべりも楽しかったです!」

 

「鷹島さんも息抜きできたんだ。よかったよ」

 

「はいっ!」

 

「ふむ……」

 

恭也が思案顔でこちらを見た。

 

「徹、今日は勉強会に参加できるのか?」

 

「んあ?できるけど?」

 

「よし、それでは長谷部さんと太刀峰さんの要望も取り入れて、こうしよう」

 

恭也が折衷案を提出した。

 

 

 

 

 

 

学校の校門でノエルさんに拾ってもらって、忍の家に到着。男女に分かれて動きやすい服に着替え、勉強部屋として充てられている一室に集合して恭也が折衷案の内容を説明した。

 

恭也の案とは、つまりこうだった。

 

スリーオンスリーで勝負して、俺たちが勝てばテスト勉強に集中、長谷部たちが勝てば可能な範囲でバスケにも時間を割く。

 

どちらが勝とうが負けようが勉強もするし、バスケもできる。比重がどちらに傾くかは勝負に委ねるという、公平なものだ。机に向かってばかりだと身体も鈍るし、ちょうどいい運動だろう。

 

「忍さん。忍さんの希望とは反対になってしまうけれど、手は抜かないでもらえると僕たちとしては助かるよ」

 

「はぁ……わかってるわよ。勝負事で手を抜くなんて無粋なことしないわ」

 

「さすが、忍さん……わかってる」

 

「……この異常なまでの意欲をほんのひとつまみだけでいいから、学業にも割り振ってくれれば……」

 

バスケ以外のことでは全く見せないやる気を迸らせている二人に、忍は嘆息した。

 

チーム分けは前に女子バスケットボール部で組んだ編成から少しいじっている。

 

長谷部、太刀峰、忍がチームを組み、対してこちらは俺と恭也、鷹島さんとなっている。

 

気炎を吐きながら真剣に柔軟体操している長谷部と太刀峰に、恭也が呟く。

 

「バスケットボールという競技の何が、長谷部さんと太刀峰さんをあそこまで駆り立てるのだろうか……」

 

「しゃあねえよ。あのあほ二人は集中力や熱意を含めた全パラメータを運動関連に注いでんだ。常人が考えたって答えは出ねえよ。……鷹島さん、ごめんね。見学させてあげられればよかったんだけど」

 

「いえ、いいんです。私、運動は……と、得意とは口が裂けても言えませんけど……」

 

「……う、うん、まあ……そうだね」

 

このメンツの中では、並の人間でも立つ瀬はないだろうけれど。スポーツを得意とする人間が多すぎるのだ、この空間は。

 

「得意どころか、どちらかといえば苦手ですけど、でもみんなと一緒に遊ぶのは好きなので!私、精一杯がんばります!」

 

「ありがとう。前みたいな活躍を期待してるよ」

 

「前も、逢坂くんのフォローがあったからこそ、ですけど……」

 

「なに言ってんの。俺が指示しなくてもいてほしい場所にいてくれてたりしたでしょ。それに、シュートが決まったのは鷹島さんが体育の授業を真面目に受けて練習してたからだよ。鷹島さんの努力の成果なんだから、誇っていいよ」

 

「そ、そんな……えへへ」

 

賛辞に、鷹島さんは照れ臭そうにはにかんだ。なんとまあ、同い年とは思えないほどに愛らしい。

 

「俺たちが勝って、すぐに勉強会に戻ろう。テスト落として補習になったら、休日潰されちゃうんだからな」

 

「はいっ!」

 

やる気に満ちたまん丸の瞳をきらめかせ、真面目な鷹島さんは準備運動し始めた。まるで小学生のラジオ体操みたいだが、本人は至って真剣だ。

 

鷹島さんを眺めていたが体操を始めたところで視線を外す。運動するということで全員動きやすいようジャージを着ているのだが、だぼっとしたジャージを着ていても、鷹島さんが柔軟体操をするたびに身体の一部が激しく自己主張してくるのだ。

 

彼女は背は低いのにとある部位は育っていて、なのに本人は無自覚なので、目のやり場に困る。

 

目を逸らした先には、なにやらこちらを観察して考え事をしている恭也がいた。

 

「なにかあったか、徹」

 

「なにか、って、なにが?」

 

「いや、人の使い方が上手くなっているような気がしてな」

 

「……その言い方だと、なんか俺すげえ嫌なやつみたいなんだけど」

 

「すまん、他意はない。ただ、人との接し方が少し変わったように思えてな」

 

接し方が変わった。

 

自分では気づかなかったけれど、他の誰でもない恭也がそう言うのなら、たしかに変わったのだろう。

 

そう言われて思い当たるのは、つい先日の嘱託魔導師としての仕事だ。

 

これまででは自分のことだけ、もしくは近くの仲間のことだけを考えていればよかったが、大人数に指示を出さないといけない立場を経験した。

 

個人の能力や人格を把握し、それらに合わせた指示をしなければうまく回らないことは、先輩兼教官兼上司の背中を見て学んでいた。クロノとリンディさんの見様見真似だったが、頭ごなしにあれやこれやと命令するだけではいけないのだ。

 

そういった経験と意識が、すこしずつ俺の深層で根付き、芽生え始めているのかもしれない。

 

「まあ、あれだ、ちょっとした考えの変化があったんだ。……パラダイムシフトってやつだよ」

 

「……違う世界に関わることか」

 

「あー、いや……隠そうとしてるわけじゃなくてだな」

 

「構わん。徹がいい方向に変わっていっているのなら、何もかも喋れとは言わない」

 

かすかに笑って、恭也は言った。

 

なんだか妙に気恥ずかしくて、俺は恭也に背を向けた。見透かされているようで、照れ臭かった。

 

「……さて、そんじゃ軽く運動するとしようぜ。今回は女バス部の時みたいに特別ルールもねえんだ。細かいこと気にしないで楽しめるなあ、恭也」

 

「ああ、そうだな。テスト勉強は大事だが、このところ身体を動かせていなかったんだ。せっかくの機会、楽しませてもらおう」

 

息抜きと呼ぶにはお互い気合が入りすぎている余興が、今始まる。

 

 

 

 

 

 

運動着から着替え、教科書やノートが広がっているテーブルに向かっているのは、俺と恭也の二人だけ。

 

残りの女性陣四人のうち二人、鷹島さんと忍はソファに横になり、長谷部と太刀峰は部屋の隅のほうでふわふわとしたカーペットに寝転がっている。

 

四人とも薄地のタオルケットを布団がわりに、健やかな寝息を立てていた。

 

「俺たち、なにしにきたんだっけ?」

 

「……息抜き、テスト勉強のフラストレーションと運動不足解消の為のバスケだったが、体力の消耗が大きすぎたな……」

 

こうなったのも、気持ち良さそうな顔でぐーすか寝ているバスケバカ二人が余計な提案をしたせいだ。

 

 

 

 

 

 

スリーオンスリーを始めるにあたり、勝負のルールを明確に定めていなかったことが長谷部と太刀峰に付け入られた原因だろう。

 

俺はてっきり、十ポイント先取とかだと早とちりしていた。いや、テスト勉強の息抜きならばそうであるべきだし、他のみんなも軽いミニゲームとして捉えていたはずだ。

 

だが、バスケバカの二人は違った。

 

三対三でバスケをする公式競技、五分のピリオドを二回行うというスリーバイスリーの公式ルールですらない。五人ずつのチームで行う通常のバスケのルールをそのまま持ち込んできやがった。つまり、十分のピリオドを四回行う、というもの。

 

こんなことになってしまった原因をさらに遡れば、作ってもらったというコートにも問題があるともいえる。いや、ある意味では問題がなさすぎたのだが、そのことがなにより問題だった。

 

俺はてっきりバスケットゴールだけ、もしくは公園で見られるようなハーフコート分くらいの広さをイメージしていた。しかし、いざ現場に到着してみれば、完成して間もないぴかぴかのオールコートだったのだ。

 

新品のコートを思う存分駆け回りたいという二人の言い分はわからなくもないのだが、なんせ人数は両チーム合わせて六人。通常ルールの五人制バスケでも走り回らなくてはいけないのに、オールコートの変則スリーオンスリー。もちろん交代できるような控え要員はいない。有り体に言って、運動量が馬鹿だった。

 

鷹島さんは第二ピリオドの途中で事切れてしまい、忍ですら第三ピリオド前半の時点で足が死んでいた。

 

終盤は、俺と恭也とバスケバカ二人の四人しかコートの中で動いていなかった。

 

後から聞いた話だが、どうやらテストの準備期間で少し前から部活動が強制的に休みになっていたらしく、抑圧されたバスケ熱がここにきて爆発したようだ。昨日の息抜き程度のお遊びでは、ガス抜きにはならなかったらしい。

 

結果として、俺たちのチームが勝利をもぎ取ったが、試合終了のブザーがなった時、コート上に二本足で立っている者はいなかった。

 

俺は四つん這いになってばくばくと騒々しく鼓動を掻き鳴らす心臓を押さえていたし、あの恭也ですらコートに膝をついて天を仰いでいた。

 

長谷部と太刀峰は仰向けに大の字で倒れていた。年頃の女の子が晒していい姿ではないが、制止することも(たしな)めることもできなかった。

 

こんな惨状になる前にもう少しセーブしていればよかったのだが、プレイしているその瞬間はスタミナの温存なんて考えられなくなるくらい夢中になっていた。ランナーズハイに近しい精神状態だった。それだけ楽しかったということなのだが。

 

ともあれ、体力は使い果たして、身体中汗だくで勉強などできようはずもなく、まずは汗を流すこととした。女子陣を先に向かわせて、次いで俺と恭也。

 

バスケバスケとうるさかった為逃していた昼食を、ノエルさんの手料理でご馳走になる。

 

空っぽのタンクに燃料が注がれるような、渇いてひび割れた大地に水が染み入るような、多幸感にも似た感覚だった。

 

激しい運動をして、お風呂でさっぱりとして、とても美味なご飯を頂いた。そんな状態の人間が、空調がバッチリ効いてとても過ごしやすい室内でじっとしていれば、どうなるか。

 

答えは出ていた。

 

お腹が膨れた赤ちゃんよりも迅速に、長谷部と太刀峰は夢路へと旅立った。本能に従う野生動物のそれだった。

 

どうせ無理に起こしたって使い物にならないし頭に入らないのは明白だったので仮眠を取らせ、残っているメンバーだけで先に始めておくこととした。

 

したのだが、鷹島さんは会話が八割以上成り立たず、忍も忍で、長いまつ毛を上下にふらふらと揺れさせていた。重そうに(まぶた)をこじ開けようとしていた。

 

これではとてもではないがテスト勉強になどならないので、ほとんど意識のなかった鷹島さんと忍をソファに運んでこちらも仮眠を取らせた。鷹島さんと忍、ついでにカーペットで雑魚寝している長谷部と太刀峰にも、ノエルさんから借りたタオルケットをかけておいた。

 

結局生き残ったのは、体力と持久力ついでに耐久力に定評のある俺と恭也だけだったのだ。

 

 

 

 

 

 

「はあ……あの時、長谷部と太刀峰の勢いに流されずに断っていればな……」

 

「今更言っても仕方ない。実際楽しめたことは事実だ。あれだけ本気に近い力を出したのは久々だった」

 

「いやまあ、そりゃすげえ楽しかったけど。俺たちだけでやっとくか、勉強」

 

「そうだな。と言っても、徹は必要ないだろうに」

 

「別にいいんだって。念のための復習と、あとはバスケバカ二人に教える時の手順の確認もしときたかったし」

 

広げられた恭也の教科書とノートに視線を落とす。

 

一応女子たちを起こさないように部屋の隅っこに移動しているが、なるべく静かに喋る。この程度の音と声で起きるような神経はしていないだろうけれど。

 

かりかりとノートにペンを走らせる恭也を視界の端に捉えながら、ぼやく。

 

「はー……俺たち紳士だなー」

 

「俺たちを信頼しているのだろう。徹は直接見たことはないだろうが、長谷部さんも太刀峰さんも、他の男子の前では砕けた態度は取らないし、このように油断しきった姿も晒さない。本心を見せる相手は選んでいるようだ」

 

「……それもどうなのかとちょっと思うけどな。ま、この程度の据え膳で飛ぶような理性はしてないけどな」

 

これしきで手を出していたら、いったい何度リニスさんと一線を越えているかわかったものではない。

 

「……まるでそういった機会がなんどもあったような口振りと態度だな」

 

相変わらずの鋭さだなこの侍。

 

「無節操に行為に及ぶような男でないことは知っているが、避妊はしっかりするようにな」

 

「うるせーよ。したり顔のところ悪いが、そこの問題の答え、間違ってるからな」

 

「む……」

 

無駄口と減らず口と憎まれ口を叩きつけ合いながら二人で勉強。集中していたとは言えないが、内容はどうあれ会話が弾むからか勉強は捗った。

 

「んっ……んん。……いつのまにか、寝てた……」

 

「ぅん……んゅ……。あぇ、そふぁ……」

 

「あ、起きた」

 

ノエルさんが差し入れしてくれた洋菓子をつまみながら勉強を続け、時計の長針がぐるりと三周回った頃だった。

 

ごそごそと衣擦れの音がしたかと思えば、か細く声が聞こえた。目を向ければ、忍と鷹島さんが起き上がりつつあるところだった。

 

「休めたか?休めたのなら、そろそろ本来の趣旨を思い出すべきだと思うが」

 

「このままだと、長谷部と太刀峰……と鷹島さんも、忍の家にもう一泊だな」

 

「……んー?」

 

「ふぁ……はふ……」

 

「まだ寝てんのか」

 

「忍は目が覚めるのに時間がかかるが、どうやら鷹島さんも寝起きは良くないようだな」

 

「ほれ、忍。時計見ろ時計」

 

タオルケットを膝にかけ、髪は少々乱れさせたまま目元をくしくしと(こす)っていた忍に、時間を確認するよう指を差して促す。

 

忍はぼんやりとした眠そうな瞳で、豪奢な柱時計に顔を向けた。目をしばしばさせながら時計の針の位置を見定める忍は、次第に元から大きな瞳をさらに大きく見開かせた。

 

「さ、三時間……」

 

「お昼寝にしては、ちょっと寝過ぎかもな」

 

「あ、あんたたちっ、なんで起こさなかったのよ!」

 

「まさか怒られるとは思わなかったぜ……」

 

「勉強どころではないほどに眠たそうにしていたから、ソファまで運んだというのにな」

 

「それはありがとっ!でもそこから気を使いすぎでしょ!今日なんのために集まったのかわかんないじゃない!」

 

「おお、同じ話を恭也としてたぞ」

 

「してたぞ、じゃないわよ!なら起こしなさいよ!お昼寝なら一時間とかでいいでしょ!」

 

「気持ちよさそうに寝てたから起こすに起こせなかったんだ。あと時間を忘れてた」

 

「本音は絶対忘れてたのほうでしょ!もうっ、もうっ!」

 

「忍。そこまで焦るのなら、文句を言う前に今すぐ長谷部さんや太刀峰さんを起こして勉強…………あと鷹島さんを起こし直したほうがいいんじゃないか?」

 

「すぴー……」

 

「綾ちゃん二度寝してる!」

 

「朝弱いって話を彩葉(いろは)ちゃんから聞いたなー。起こしてすぐに洗面所かなんかに引っ張って行くべきだな。髪もふんわり具合が増してるし」

 

「綾ちゃんたちが補習になったら徹と恭也のせいよ!」

 

「なぜ責任が俺たちに……」

 

「責任が発生するんだとしたら、俺たちじゃなくて長谷部と太刀峰だろ」

 

ぷんすか怒りながら、忍は乱暴に鷹島さんを叩き起こし(事実、白いほっぺたにうっすら朱がさす程度にぺちぺち叩いていた)、次にお昼寝事件の元凶である長谷部・太刀峰両名に向かう。二人の顔に手を置いて、掴む。

 

「うぅぐ……」

 

「……ぁぐ」

 

小さな呻き声が部屋の端で聞こえた。その呻き声は、時間の経過とともにボリュームを増していく。

 

目覚めのアラーム代わりのアイアンクローだ。ご丁寧に、二度寝しないよう、徐々に加える力が上がっていくというスヌーズ機能付きである。

 

「いだ、いだだっ!起き、起きました!忍さんっ、僕起きたので離してくださいっ!」

 

「いたいぃ……っ、ううぐぅ……」

 

「一番お勉強が必要な貴方たちが、なぜ、寝ているのよ」

 

「す、すまないっ、逢坂も高町くんも強くてっ、燃えてきちゃったものでっ」

 

「その、まま……っ、身体の芯まで、燃え尽きた……っ」

 

「貴方たちがしたルールの提案をはねのければよかったと、私はとても後悔しています」

 

「ううっ、ごめんなさいっ」

 

「ごめん、なさいっ……」

 

こちらに背を向けているので忍の顔は見えないが、それはそれは恐ろしい、鬼や閻魔もかくやという表情をしていることだろう。

 

あのアイアンクローの被害にあうのは決まって俺、もしくは一緒に恭也がやられるくらいなものなので、人がやられているところを見るのはとても新鮮だ。安全な場所から眺めるだけというのは、性格の悪い話だが、実に愉快である。

 

「ほら、真希ちゃん、薫ちゃん。起きたなら顔洗いに行くわよ。あと髪も整えないと。そんな姿で男の前に出すわけにはいかないわ」

 

「そうだね、せめて髪は整えたいところだよ」

 

「……ふあぁ、ぁふ……。わたしは、顔……洗いたい。まだ眠い……」

 

「そうね、早く行きましょ」

 

「綾音はお昼寝せずにずっと勉強していたのかな?」

 

「……綾音も、疲れてそう、だったのに……」

 

「え?綾ちゃんなら先に起こして」

 

「くぅ……くぅ」

 

「綾ちゃんっ!」

 

鷹島さんはソファの背もたれに身体を預けるようにして、まさかの三度寝に(ひた)っていた。

 

よく寝る子である。よく寝るから、とある一部がよく育っているのかもしれない。背は育たなかったみたいだけれど。

 

「この子はっ!まったくもうこの子は!」

 

「綾音は起きるの苦手だからね。……はっ!僕たちと同じように罰ゲームが必要ではないかな!」

 

「うん。そうする……べきっ」

 

自分たちが忍のアイアンクローに苦しめられたからか、長谷部は鷹島さんへの罰ゲームを所望した。太刀峰も、ここぞとばかりに乗っかった。

 

二人の言葉に、心底呆れた様子だった忍は、にやりと黒い笑みを浮かべる。

 

「そうね。ここまで起こしたのにまだ寝ようとするなんて、これはイタズラされるのを待っているという可能性まであるわね!」

 

「そうだよ!イタズラ待ちだ!」

 

「慈悲も、容赦も……必要ないっ」

 

姦しい娘三人のボルテージは上昇していく。こういう悪ノリになった際、いつもはブレーキ役になる鷹島さんが夢の中なので、それはもうアクセル踏みっぱなしである。止める奴などいない。

 

「……いや、ついさっきまで全員寝てたろうに……」

 

勉強を続けながら傍観している恭也が誰ともなしにぽろりとこぼした。

 

俺はそんな恭也を必死に止める。

 

「やめろ、恭也。火の粉がこっちに降りかかるだろうが。こういう時はな、楽しく眺めてるのが一番なんだ」

 

「相変わらず(すこぶ)る最低だな……。いや、しかし、な……」

 

「なんだよ、鷹島さんに同情してんの?」

 

「いや、三度寝してる鷹島さんにもある程度非はあるだろうから同情はできないが」

 

「おおう……」

 

俺の性格は捻じ曲がっているが、恭也も恭也でなかなか辛辣(しんらつ)である。

 

「ただ、どうしてだろうな。ここで止めないと良くないことになりそうな予感が……」

 

「ここで止めても三人からやいのやいのと文句を食らうだけだ。鷹島さんは可哀想だけど、しかたない。観戦してようぜ」

 

「そうか?なら無理にとは言わないが」

 

「ん?なんだよ、なんか妙な言い回しをするな」

 

「徹にとって良くないことが起きそうだな、と思っただけだ。徹が別にいいのなら、それでいい」

 

「……やめろよ、お前の直感は怖えよ……」

 

お侍さんの不吉な予言はあったが、だとしてもバーサーカーに近い今の三人を止める手立てなど俺は持ち合わせていない。行く末を見守るしかできない。

 

冷や汗をかきはじめた俺をよそに、忍は幸せそうに眠りこけている鷹島さんに魔の手を伸ばす。

 

「無防備に寝てるんだもの……ふふ、襲われても文句は言えないわよね」

 

頭と下半身の(たが)が緩んでいる変質者みたいなセリフを吐きながら、忍は舌舐めずりして黒くて悪い笑みを一層深めた。

 

「お風呂に入った時は疲れてて、スキンシップどころじゃなかったのよね……くふふ」

 

そして、鷹島さんの小柄な体躯に不釣り合いなほどに良く育まれた胸部へと触手を向ける。

 

「っ、わぁお……」

 

忍の手のひらが、鷹島さんの豊かな双丘に優しく触れた。

 

「んぅ……」

 

「本当に綾音のは大きいね……運動する時は困るだろうけれど」

 

「……これは、綾音の罰に見せかけた……巧妙な、罠…………ねたましい」

 

甘やかな吐息をもらした鷹島さんと、苦々しい呪詛をこぼした太刀峰が、悲劇的なくらいに対照的だった。

 

「これは……ある種の魔法ね。手が離れないわ」

 

彼女は何を言っているのだろう。

 

「柔らかい、けど跳ね返すような弾力……そしてずっしりとした重量感。身体は小さいのになぜこんなに大きくなるのかしら」

 

「……わたしも、知りたい。知りたいっ……っ」

 

「か、薫……まだ成長期だから、ね……」

 

あまりにも太刀峰が切実で泣きそうになる。

 

そうこうしている間にも、忍はさらに突き進む。触れるだけでは飽き足らず、ぐい、と手に力を入れた。

 

「んっ、ぁっ……んぅ……」

 

「やっばい、これやっばいわ……やみつき。綾ちゃんかわいいっ」

 

どう好意的に捉えても、やっばいのは忍である。寝ている少女の胸を鷲掴みにしているこいつほど、罪深い人間はいないだろう。

 

鷹島さんの吐息に、甘やかなものとは別に艶っぽさのような色が混じり始めた。その声だけでも、なかなか心臓に悪い。血の巡りが速くなる。

 

しかし、熱と勢いを増してきた血液はすぐに冷やされることとなる。

 

調子に乗って忍が変態行為をエスカレートさせたその時だった。

 

「ゃ、ゃめっ……んぅ」

 

鷹島さんがか弱い力で忍のセクハラに抵抗しようとしたのだ。押せばすぐに流されてしまいそうなほどの、儚い抵抗だった。

 

「あはは。ごめんね、綾ちゃん。いつまでたっても起きないからイタズラを……あれ?寝てるの?」

 

とうとう起きたのかと思われたが、違った。

 

現実で身体を触られていたからだろう。それが鷹島さんの夢に影響を与えた。

 

だから、つまりは、寝言である。

 

「あいさか、くんっ……っ。だめっ、れす……みんなが、ちかくに……んぅ」

 

頬を染め、(あえ)ぐように絞り出された言葉は熱っぽく、胸を圧迫されて苦しそうな表情には色気すらあった。

 

だが、寝言である。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……いや、いやいや。俺は無実だろ」

 

寝言。あくまでも寝言だ。俺は関係ない。

 

鷹島さんの夢には登場しているのかもしれないが、それとこれとは別である。俺は何もしていない。

 

少なくとも、セクハラの実行犯である忍と、その共犯である長谷部、太刀峰に冷たく睨まれるような(いわ)れなど皆無だ。

 

「さっき徹が言っていた『この程度の据え膳で飛ぶような理性はしてない』というのは、もしや……」

 

「いつもは鋭い直感をなんでこういう時だけ外すんだよ!こんな状況で火に油を注ごうとすんな!その話は今まったく関係ねえよ!」

 

「事情聴取を始めるわ」

 

「始めるのはテスト勉強であって事情聴取じゃ……いやその前に身嗜みを整えるって話はどこに……」

 

「私の綾ちゃんに手を出した。よって有罪」

 

「取り調べも何もなく判決!さっきのはどう見ても鷹島さんの夢の話で寝言だろ!」

 

「夢。つまりは夢に見たような似た経験を綾ちゃんがしたってこと……つまり極刑」

 

「話の間が吹っ飛んでる……異端審問もびっくりの強行裁判!魔女狩りかよ!お前のセクハラがそんな夢を見た原因だろ!」

 

「……だから忠告したというのに。嫌な予感がすると」

 

「こんなことになるなんて想像できるかあ!」

 

結局、不当で理不尽な裁判が証拠不十分で不起訴になったのは三十分後。ねぼすけ鷹島さんが目を覚ますまで不毛なやり取りは続けられたのだった。

 



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今でもはっきりと、瞼の裏に焼き付いている。

 

 

「さってと、どこにいるかな」

 

ばたばたと(周りが)慌ただしかったテスト期間も(つつが)なく明けた今日、五月三十日、金曜日。俺はアースラに訪れていた。

 

遅ればせながら、任務を手配してくれたクロノや、ご兄妹にお世話になったレイジさんに挨拶するため。というのは理由の三分の一だ。他にも情報収集、フェイトやアリシアとお喋りしにきたなど、目的はたくさんある。

 

なにはともあれ、フェイトやアリシアの部屋に行くにも、レイジさんが今どこにいるのかも、情報収集するためにデータベースにアクセスするのも、体裁上クロノを通さなければいけない。まずはクロノを探すところからである。

 

といっても、クロノのいる場所は大方見当がつく。

 

クロノは大抵お仕事をしているので、探すとすればブリッジか訓練室は鉄板。次点で食堂。大穴で自室。これくらいがクロノの行動範囲だ。

 

「やっぱりいた」

 

いの一番に足を運んだブリッジに、クロノの姿があった。

 

人の数は(まば)らだ。リンディさんも見えない。時間帯からして、食事休憩のローテーションなのかもしれない。

 

「……出会い頭にやっぱりとは、いつも通りで安心したぞ、徹」

 

「そうだろ?人に安心と癒しを与える人間性をしているという自負はあるんだ」

 

「もちろん皮肉のつもりだ」

 

「だろうな、わかってた」

 

久しぶりに会ったクロノは、眉根を寄せながら随分とご挨拶な挨拶をしてくれた。このくらいの軽口の応酬は、それこそ挨拶がわりである。

 

「任務を終えてすぐに報告にきたかったんだけどな。ちょっとこの頃自分のとこが忙しくて」

 

「任務の成否と簡単な顛末(てんまつ)は耳に入っていたから構わない」

 

「ほんと情報早いな。どこから……ユーノか?まあいいか。……なかなか密度の濃い任務だったぞ。やってて痛感したわ。これは大変な仕事だ」

 

「話を聞いた限り、僕の予想よりも(こじ)れていたようだな」

 

「……最初からああなるってわかってたわけじゃなかったのか」

 

「僕もそこまで鬼じゃない」

 

「…………」

 

戦闘訓練の時は鬼のほうがまだ慈悲がある、と口をついて出そうになったが、懸命に(つぐ)んだ。そんなふうに口を滑らせてしまっては、次に行われる訓練がどれほど恐ろしいものになるか。想像もしたくない。無論、クロノ手ずからつけてくれる訓練には感謝はしているのだが。

 

「初任務は仕事の流れを掴ませるために軽いものを、と思っていたんだ。まさか、あそこまで拗れるとは想像できなかった」

 

「結果的にはいい経験になった。自分の能力でもある程度は通用するっていう手応えと、自分の能力では到底届かないこともあるっていう苦い無力感をな」

 

「コルティノーヴィス魔導師の話か?全力を尽くしてもどうにもならないことなんて、いつだってある。徹だけじゃなく、もちろん僕にも、艦長にだって……誰にでもある」

 

クロノが俺から目線を外す。どこか遠い景色を見つめるかのようで、どこか遠い記憶を思い出しているかのようだった。

 

ふ、と軽く息を吐く。話を切り替える咳払いというよりは、自虐的な失笑に近かった。

 

「しかし、それとは別に惜しい人物をなくしたものだ。数少ない『陸』のエースとも言える優秀な魔導師だったというのに」

 

「クロノはコルティノーヴィスさんのこと知ってたのか?」

 

「『海』に移らないかという話が以前上がっていた。推薦を受けていたはずだ。結局転属はしなかったが」

 

「なんでだろうな、給料はいいはずなのに。飛行適性が微妙だったとか?」

 

「適性も考慮にはあっただろうが、それより家族との時間を優先させたかったのが大きいんじゃないか?『海』はなかなか家に帰れないからな」

 

「そういえばずっとアースラにいるもんな、クロノもリンディさんも。可愛い娘さんと奥さんがいるんだから、単身赴任はつらいか」

 

「そういうことだろう。そうだ、徹に表彰が届いていたぞ。『陸』からのものだった。さて……どこに置いたか」

 

「おい、あまりにも雑すぎないか」

 

ふと思い出したように、クロノがデスクをごそごそと探る。いったい何に対してのどういった表彰なのかは知らないが、送られてきた表彰をどこにしまったのかわからないというのはどうなのだ。

 

「表彰が届いた時、少し忙しくてな。きっと、このあたりに……。まったく、最初から徹に直接送りつければいいんだ。なぜこっちに送るのか」

 

「地球は管理外だもんな。身近なアクセスポイントはアースラになるだろ」

 

「お、あったぞ。位の高いものではないが、ないよりかは箔がつく。とってつけたような理由で授与されているが……これはおそらくいい気にさせて『陸』に取り込んで便利な駒にしようという算段だろう。乗せられるなよ」

 

「ほんとに『陸』とは険悪だよな。……こうして賞状をもらえたことは、ラッキーだとは思うけど喜べはしねえよ。結局、サンドギアの街はめちゃくちゃになっちまったし。そもそも俺一人でやったわけでもないしな」

 

黒字に金色の装飾が控えめに施された円柱状の筒をクロノから受け取りながら、言う。

 

「それに……不完全燃焼っていうか、事件も全部解明できたわけじゃねえし……」

 

「『フーリガン』だったか。それについては『陸』の管轄でこちらではあまり話を聞く機会はないが」

 

「そうそう。その『フーリガン』が事件を引き起こしたんだが、根幹部分の目的も判明しないままだし、手に入れた内部情報のうちの一つもよくわからんまま。もやもやが残りっぱなしで気持ちが悪い」

 

「そいつらは街を破壊することが目的ではなかったそうだな」

 

「どうやらあの街に住んでる……住んでいた一族伝統の魔法を解析したかったみたいだ。でも、その解析した魔法を使って何がしたいのか、何をするのかまではわからなかった。……はあぁあ。俺たちの部隊がコルティノーヴィスさんと戦っていた間に、組織の頭を捕まえとけ、とまでは言わないから、幹部の一人くらいは他の部隊で逮捕しといてくれよと……」

 

「終わったことを嘆いても仕方ない。それに徹は嘱託なんだ。次も関連した任務になるとは限らない。というより、ほぼない。気にしないほうがいいだろう」

 

「でも、一回は関わっちまったわけだし……知っちゃったわけだし……『フーリガン』捕まえてないし……な」

 

気にするなと言われても気にしないわけにはいかない。

 

奴らの目指すところが何かはわからないが、目的のためには手段を選ばないのはサンドギアの街襲撃とコルティノーヴィスさんの一件ではっきりしている。このままでは、同じように悲しい思いをする人が現れるかもしれない。

 

大勢の罪なき人を苦しめた悲劇が、大勢の罪なき人を傷つけた惨劇が、再び繰り返されるかもしれない。

 

思い出す。

 

まざまざと、目に浮かぶ。

 

ただ一人、その身を犠牲にしてでも、街を守ろうとして守れなかった、哀れで気高い男の末期を。

 

幼い身で、(くずお)れそうな身体を引き摺り、愛する家族を救おうとして救えなかった、(みじ)めで尊い少女の姿を。

 

今でもはっきりと、瞼の裏に焼き付いている。

 

「……はぁ」

 

ぐるぐると考え事をする俺を見て、クロノは呆れたようにため息をついた。肩を(すく)めてやれやれと首を振る。

 

「『陸』の連中が聞き入れて活用してくれるかはわからないが、情報を集めて報告するくらいならできるかもしれない。手に入れた情報とやらを足掛かりに、できる範囲で調べていったらどうだ?」

 

困った奴でも相手にするみたいに、クロノは苦笑しながらそう言った。どうやら、俺が調べ物をするのを許可してくれるらしい。どころか、口振りから察するにクロノ自身も表立ってではないが協力してくれるようだ。

 

本当に、頼りになる上司だ。

 

「おお、そうだな。そうしてみる。あ、そういえば」

 

調べる、という流れで思い出した。

 

「クロノに訊きたかったことがあったんだ。歴史は学んでないからな、俺」

 

「歴史?」

 

「ミッドチルダって君主制だったりすんの?『フーリガン』から奪っ……入手した情報で『王』って単語が出てきたんだけど」

 

「……勉強は充分かと思っていたが、まだ足りていない部分があったようだ」

 

「し、仕方ないだろ……文字通りに住む世界が違うんだから」

 

嘱託魔導師試験を受けた時のようなデスマーチ的猛勉強が再び幕を開けるのかと思うと、自然と身体が震えてくる。

 

「教材は後日発注するとして……『王』と言われてまず誰もが思い浮かべる人物は聖王だろう」

 

「聖王、ね。仰々しい名前だな」

 

「ベルカの時代の王だ。ベルカの戦乱を終結に導いた傑物(けつぶつ)で、現代でも聖王教会で崇められている。最も有名な王と言っていいだろう」

 

「ベルカ……。そのあたりの、っていうか歴史については完全に無知なんだよな。はあ……やっぱ一から勉強しないといけないのか」

 

取り組まなければならないことが更に増えてしまいそうで憂鬱だが、学んでおかなければならないだろう。嘱託試験の際にクロノ式スパルタ勉学に苦しみつつ励んだが、結果としてそこで得た知識は俺の助けになっている。

 

勉強してメリットはあってもデメリットはないのだ。少々どころじゃないほどに面倒ではあるが、学ばなければ進めないのなら、学ばねば。

 

「……あー、いや……」

 

俺が熱意を固めて決意を改めていたが、クロノはなにやらバツの悪そうな、決まりが悪そうな複雑な顔をしていた。

 

「どうしたよ、クロノ」

 

「それがだな、歴史といってもベルカの時代は詳しく究明されていないんだ」

 

「……は?なにそれどういうこと」

 

「部分的に明らかになってはいるが、なにせミッドチルダとは言語から違うからな」

 

「そんじゃ『王』関連……ベルカの時代関連について調べることは……」

 

「事実上、不可能に近いな」

 

「……データベースに集約されてたり……いやそんなわがまま言わない。書籍とか……」

 

「ない」

 

「なんだよそれ、誰かやっとけよ……。あ、そういえば、なんかすっごいでかい図書館があるって話をいつかどこかで小耳に挟んだ!そこならどうなんだ?」

 

「無限書庫のことか……。あそこには古今東西津々浦々から書物が集められている。ベルカ時代の書物ももちろんな」

 

「無限書庫……ちょっとわくわくする響きだな。学術知識の宝物庫って感じだ」

 

ちょっとテンションの上がった俺がそう言うと、クロノは乾いた笑みで目を逸らした。

 

「宝物庫、か……。まあ、間違いではない。金銭では代えられないレベルの貴重な書物もあると言われている。……ただ、な……」

 

「なんだよ、煮え切らないな。そこに行けばわかるんだろ?ベルカ時代の本があるんだから」

 

「膨大、かつ、未整理。蔵書数は日々増え続け、溜め込まれるばかりで管理されているとは言い難い」

 

「司書さんなにやってんのー!」

 

「そもそも司書と呼ばれるべき人間もいない。集められる書物を眺めるだけの仕事だと揶揄(やゆ)する者もいるほどだ」

 

「なんだそれ……図書館として使えねえじゃん……」

 

「そもそも管理体制が確立していない上、予算も人員も不足しているのが現状だ。そのせいで、知りたいものは必ずあるとまで言われているのに、知りたい知識が記された本を探すのに大掛かりな部隊を編成して長期間探索しなければいけない始末だ」

 

「本末転倒じゃねえか……」

 

「はは、うまいことを言う」

 

「シャレ言ったつもりはねえよ」

 

思わず頭を抱える。

 

『フーリガン』の目的を探る手がかりは、今となっては『王』というワードのみ。他に情報はない。嘱託魔導師という立場にいても、できることには制限が多い。公的に調査する権限など俺は持ってない。

 

手詰まり。

 

そう諦めそうになった俺だが、クロノは閃いたような様子で口を開いた。

 

「いいことを思いついた。書庫の担当者に、管理整頓の人員を増やすよう打診してみよう」

 

「いやいや……今から多少増やしたところでなにが変わる、いや、なにがわかるってんだ。すぐには整理できないからこそ、部隊組んで探索しないといけないような荒れ放題の無秩序図書館になるんだろ。それに俺が知りたいのはベルカの時代についてだ。書物があっても読めないんなら意味ねえよ」

 

「そう……数十人を追加しようと、おそらく期待した成果は得られない。しかも『そういった作業に耐性がなければもれなく鬱になる』とまで称されていて、生半可なそれではないほど不人気だ。簡単に人員が集まるとは思えない」

 

「ああもうだめだ……絶望だ……」

 

「だから、外部に委託してみてはどうか、と付け加えておく」

 

にやりと口角を上げながら、絶句している俺を置いてクロノは続ける。

 

「調べたいことがあるのなら、自力で調べろ。そのためのお膳立てならしてやる」

 

「……クロノ、お前天才かよ」

 

「そう褒めるな。それにベルカの書物時代は自分で読み解かないといけないんだぞ?」

 

「なんでもあるんなら、きっと辞典みたいな本もあるだろうよ。時間をかければなんとかなるって」

 

「一応仕事として引き受ける以上、整理するという作業も並行しなければいけないぞ?」

 

「んー、そうだ。ユーノも連れていこう。きっと力になってくれるはずだ」

 

「本人の意思をまったく考慮していないが……適任であることは同意する。手筈は整えておく。日程はどうする?すぐでいいのか?」

 

「すぐにとか日程まで調整できんの?」

 

「担当者に話を通す時に、便利な人間に心当たりがあるなどと言っておけば任務の日程を徹に合わせることもできる。なにせ常に人材を求めているからな、多少の無理は利かせられる」

 

「お、おお……なんかちょっと腹黒いけど格好いいぞ。そんなら日にちは……来週、は絶対確保できるかわからんから……再来週あたりか」

 

「明日明後日はさすがに厳しいとしても、来週もとは。……なにか、もしくは誰かと予定でもあるのか?」

 

意地悪げにクロノが口角を上げた。浮ついた用事だとでも勘ぐっているのかもしれない。

 

残念ながら、そんなに愉快で心踊る予定ではないのである。

 

「つい最近、学校でテストがあってな。それの補習に引っかかるかもしれないんだ」

 

「補習……なぜ徹が。そっちの世界の勉強はできないのか?それとも徹でも補習になるほど難解なのか……」

 

「はっは、テストの日に遅刻しちゃったんだぜ。任務明けでなあ、眠たくてなあ」

 

「納得した」

 

最初のテスト、国語以外は自信があるが、国語だけは時間が短すぎて欠点のボーダーラインを超えたかどうか怪しい。

 

ただでさえ問題児だと勘違いされているのだ、補習をバックレるわけにはいかない。念のためにその日は確保しておかなければ。

 

「そういうことで、悪いけど任務は再来週で頼むな。そんじゃ、そろそろ行くわ。フェイトやアリシアの顔も見たいし。仕事中に邪魔したな」

 

簡単な感謝をしてブリッジを出て行く。その間際に、クロノに呼び止められた。

 

「言い忘れるところだった。フェイトとアリシアのことなんだが」

 

「な、なんだ!なにか悪いことでもっ……っ!」

 

「……少し落ち着け。別に良くも悪くもない話だ。いや、比較的良い話か?」

 

「いい、話……?」

 

「ああ。フェイトの裁判の終わりが近い。フェイト自身、魔法が認知されていない管理外世界で魔法を行使したことを反省しているし、本人も管理局に入ることを希望している。まだ若いし、魔導師としても将来有望だ。悪い結果にはならないだろう。もう少し時間はかかるが、ほぼ無罪放免に近い判決になると読んでいる」

 

「…………」

 

フェイトの違法行為には同情する余地はあるし、止むに止まれぬ事情があったし、事件が解決した今は反省しているし、管理局で働きたいとも申し出ている。

 

しかし、司法取引的なやり取りが成立したのだとしても、もっと重い判決になってもおかしくはなかった。

 

今回そうならなかったのは、クロノやリンディさん、エイミィ、アースラの人たちが俺たちの見えないところで頑張ってくれたからだろう。

 

「……ほんと、感謝してもしきれないな……」

 

「ん?なんだ?」

 

「いいや、なんでも。まだ判決は下されてないにしても、良いことだよな」

 

「結果は決まったようなものだからな」

 

「頭上がんねえわ……ありがとう」

 

「ふん……徹が礼を言う道理はないだろうに。あとアリシアのことだが」

 

アリシアのこと。そう言われて心臓がどくんと脈打った。

 

長い眠りから目が覚めて、そう時は経っていない。体調を崩しでもしたのかと心配になったが、その焦りは呑み込んでクロノの言葉を待つ。

 

「経過観察も良好、食欲もあるし、本人に尋ねても身体に痛いところもおかしなところもないとのことだ。医務官からも、もう退院しても大丈夫だろうとお墨付きをもらった。別に入院していたわけではないがな」

 

「おお!そうか!それはいい……あれ?それって、どうなるんだ?」

 

アースラを降りてもいいとの許可はもらえた。部屋の中は退屈だと言っていたアリシアにとって、それはとてもいいことだろう。

 

だが、アースラを降りて、アリシアはどこへ行けばいいのか。どこに住んで、誰と暮らすのか。

 

「……だって、親であるプレシアさんは……」

 

「問題はそこなんだ。フェイトにも当てはまることだが、プレシア・テスタロッサの裁判にはまだしばらく時間がかかる。事が事だけにな」

 

「そうだ、たしかフェイトたちは駅の近くにマンションを借りてたはずだ。アリシアの退院の日を、フェイト……とアルフ、が(ふね)を降りるタイミングと合わせてもらえれば、あのマンションで暮らすことも……」

 

「その話も事情聴取で聞いている。使い魔リニスが用意した住居らしい。だが、それも非合法な手段で用意したようだ。もうその住居は使えなくなっている」

 

「非合法……なんで。……あ、違う世界の人間なんだから、用意できるわけないのか……」

 

マンションに限らず、賃貸契約には絶対に必要になる書類がいくつかある。住民票や源泉徴収票、家賃を引き落とすために銀行口座だって持っておかないといけないし、最近では連帯保証人を求められるケースも増えているという。

 

それらを用意できない時点で、入居審査が通るわけがない。

 

どこかで違法な手を使わなければ、一時的といえど住むところを用意なんてできない。

 

「徹の住む世界は管理外世界だが、魔導師はいる。公的書類を発行できる組合が存在するんだ。そこの組織のシステムに侵入し、書類を準備したそうだ」

 

地球にも管理局に繋がる窓口と関連した組織があったことは驚きだが、今はそれ以上にフェイトとアリシアのこれからのほうが気がかりだ。

 

後見人にリンディさんがいるとはいえ、苦労することは免れない。まだ幼い二人が大変な思いをしなければいけないなんて、胸が苦しくなる。

 

「……あ、そうだ」

 

フェイトとアリシア。美少女姉妹を思い浮かべて、なぜか紐つけたように姉ちゃんの顔が現れた。

 

そうだ、姉ちゃんがうるさく言っていたことがあった。

 

「俺ん家にきてもらおう」

 

「……は?」

 

「俺の家で生活させればいいだろ。部屋は余ってるし、姉ちゃんもきて欲しいって、二人を見たいって言ってた。問題はこっちにはないぞ」

 

「いや、しかし……」

 

「裁判が終われば、公的な書類を正式に発行できるよな?それなら住民票も発行できるかもだし、住民票ができれば扶養で保険証も作れる。今現在収入がない状態だから賃貸はできなくても、俺の家で暮らすだけならできるよな?」

 

「ん、んん?しかし、後見人がいても……嘱託魔導師の家で管理外世界だ。暮らすというのは法的に……」

 

「知人の家に一時的に身を寄せる、ってことにしたらいいんじゃねえの?」

 

「……屁理屈を言わせたら右に出る者はいないな……さすがだ」

 

「さては褒められてないな、これ。……あとは当人が認めてくれればオーケーか?」

 

「そうなるが、おそらく三人とも嫌がりはしないだろう」

 

「さん、にん……」

 

一瞬、思考が停止する。

 

フェイト。アリシア。あと、一人。

 

考えるまでもなかったのに、そこに気づかなかった。いや、おそらく目を背けていただけなのだろう。気づかない、ふりをしていた。

 

「フェイト、アリシア、フェイトの使い魔アルフの三人だ。……どうした?三人だと厳しいか?」

 

「い、いや……部屋的にも姉的にもそこはまったく問題ないんだ……。あるのは、俺の気持ち的なあれこれだけで……」

 

以前、アルフにこっぴどく振られてから今日に至るまで、一度も会話していない。向こうが今どう思って、どんな感情を抱いているのかわからない。

 

結果を出してアルフが抱いていた罪悪感を拭いたいなどと意気込みはしたが、それが実になってはいない。芽を出しつつある程度だ。俺としても、こんな中途半端な形で再び顔を合わせるのは、非常に気まずい。というか気恥ずかしい。

 

「無理をする必要は……」

 

「いや、うん、大丈夫。いけるいける」

 

「それならその方針で進めるが……これで僕からは以上だな」

 

「…………」

 

「どうした。浮かない顔をして」

 

「いや……エリーとあかねを取り戻すための功績には、あとどれくらい成果を出せばいいんだろうって思って、な……」

 

フェイトとアリシアとアルフが俺の家で事実上住むことになれば、静かでうら寂しくなってしまった我が家も明るくなるだろう。

 

だが、その三人の前に、俺の家には二人、住んでいたのだ。

 

エリーとあかねが。

 

俺の相棒の二人が。

 

あの家にいたのだ。

 

フェイトたちが俺の家にくるかもしれないという段取りになって、今はいない二人を強く想起してしまう。感傷的になってしまっていた。

 

「あの腹黒クソ野郎が文句をつけられないくらい、だろう。ブガッティは生半な成果では難癖をつけてくるに決まっているからな。こちらでも予定が合いそうな依頼は引き続き探しておく。奴には必ず目に物見せてやるぞ」

 

俺を励まそうとしているのだろう。あの真面目なクロノが悪い笑みを顔面に貼りつけていた。

 

まだ小さいくせに、気の回る上司様だ。

 

「……はは。クロノ、人相が悪くなってるぞ」

 

「元から悪い徹に言われたくはないが」

 

「うっせえよ!」

 



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執事(見習い)

 

五月三十一日、土曜日。

 

俺はバニングス家のお屋敷の一室にいた。

 

なぜここにいるのかというと、先日のアリサちゃんの命令に起因する。以前の貸しを返してもらう、というあれだ。

 

朝から来るようにと言われてきたのだが、あのお嬢様からどんな『お願い』をされるかは聞かされていない。正直、気が気でない。とても不安だ。

 

「徹っ!おはよう!」

 

「お、おお……おはよう」

 

しばらく応接室で、やけに美味しいお茶とお茶請けに舌鼓(したつづみ)を打っていると、俺をここに通した鮫島さんと一緒に、いつもとは雰囲気の違うルームウェアでアリサちゃんが登場した。

 

にこにこ笑顔で勢いよく扉を開け放ったアリサちゃんは、迷いの一切ない足取りで俺のすぐ隣に座った。純真無垢というか、天真爛漫というか、直視すると邪悪な生物は浄化されてしまいそうなくらいに純度の高い眩しいスマイルに、若干気後れする。

 

このお嬢様が、これほどにテンションが上がるなんて相当なものだ。いったい、俺は何をさせられるのだろう。

 

「ふふっ、徹っ!今日は徹にプレゼントがあるの!」

 

「え……え?なんでプレゼント?アリサちゃんのお願いを聞くためにきたのに」

 

「いいから受け取りなさい!鮫島、持ってきて」

 

「かしこまりました、お嬢様」

 

アリサちゃんに元気よく指示された鮫島さんは、俺の目の前にあるローテーブルに丁重に箱を置いた。持ってきて、と言われたわりに、部屋を出ることもなく、どこからともなく取り出したのだがどういう仕掛けなのか。

 

「これ、って?」

 

箱を開けて中身を確かめる。衣服のように見受けられる。

 

意味がわからず鮫島さんを見上げるが、穏やかに微笑むばかり。

 

隣に座るアリサちゃんに視線をやるが、優雅にティーカップを傾けるばかり。

 

あれ、鮫島さんはいったいいつの間にアリサちゃんのぶんのお茶を用意したのだろう。

 

「……えっと、そんじゃ、とりあえず……」

 

誰も何も言ってくれないので、服を持ち上げてよく見てみる。

 

まず、どんな服か確かめるより先に思ったのが、手から伝わる感触だ。手触りからして、俺の持っている私服なんかとは質が違う。

 

この時点で既に手が震えてきているが、一度持ち上げてしまった以上、もう戻せない。不用意に戻してしまえば皺が残ってしまう。

 

手汗すら気にし始めながら服を広げて、わかった。これはスーツだ。俺が今手にしているのはジャケットなのだが、着てみずともわかる。これはとても、とっても、お高いやつだ。

 

「こ、ここ、これ……どういう……」

 

緊張で舌がうまく回らないが、どうにか質問する。どちらに聞けばいいのかわからないので、視線は手元のジャケットに突き刺さっている。

 

「ふふんっ、それは徹の制服よ!もちろんうちからの支給品だから気にせず自由に着ていいわ!」

 

「いやいやいや!だからってこんな高価なもの受け取れな……制服って?」

 

「そうっ、制服!徹はうちの執事になるのよ!」

 

「……へ?」

 

 

 

 

 

 

「つまり、纏めるとこういうこと?今日と明日の二日間、アリサちゃんの執事として仕えることが以前の借りの返済になる、と……」

 

「そういうこと!私服じゃ締まらないし、それにこういうことは形からって言うし、スーツを頼んでおいたのよ!わたしはせっかくだから燕尾服にしようって言ったのに、パパにも鮫島にも反対されたの。残念だわ……。あ、徹、そのままで」

 

「お、おう……」

 

「燕尾服は少々目を引きますので」

 

「燕尾服着てる執事がいたら相当悪目立ちするよな。執事がいるってだけでも注目を浴びるだろうに」

 

フィクションの世界では一種のキャラ付けとして燕尾服を着ていたりするが、実際は目立ちすぎるということもあって、そういった格好は控えられているらしい。お金持ちだと喧伝するようなもので、かえって仕えるべき主人を危険に晒してしまうことになりかねないのだとか。パーティなどでは喋らなくても身分を示すことができるので重宝するが、逆にそういった場所以外、外出する時などではそのような格好はしないとのこと。

 

以前、とある邸宅の瀟洒(しょうしゃ)なメイドさんに教えてもらったことがある。

 

「それに、このお戯れが終わった後、燕尾服をもらっても徹くんは困ってしまうだけでしょうから」

 

「たしかに燕尾服があってもこんな機会以外で、どこで着ればいいかわからな……」

 

スーツならともかく燕尾服もらっても確かに扱いに困るだろうな。そう思って、口の動きが止まる。

 

鮫島さんの言い方だと、まるで。

 

「……まるで、今日と明日の執事の真似事が終わったら、このスーツを頂いてもいいみたいに、聞こえるんだけど……」

 

「ええ。その通りですよ」

 

「……仮に今日と明日の時間を仕事として見なしたとしても、二日間のお給料とこのスーツじゃ、どう考えても釣り合ってないんだけど……。そもそもこれ仕事じゃないし……借りを返しにきてるだけだし……」

 

「徹くんに合わせてオーダーメイドで仕立てました。徹くん以外の誰かではサイズが合いませんよ」

 

「あわわわ……」

 

「ふっふ」

 

泡を食う俺に、鮫島さんは品良く穏やかに微笑んだ。

 

「貸しと言いましても、私のさせて頂いたことは徹くんのご友人をご自宅まで送り届けたことくらいです」

 

「いや、あの時はすごい助かったし……あと不届き者どもの始末もしてくれたし……」

 

「そのようなこともあったでしょうか?なにぶんこの歳ですので、忘れてしまいました」

 

「まだまだ現役のくせしてよく言う……」

 

「それに、こちらとしては貸し以上に借りのほうが大きいのですよ。お嬢様を救って頂いた際の借りを、まだ返せていませんので」

 

「あの時の話、まだ憶えてたかあ……。それじゃこのスーツは……」

 

アリサちゃんが誘拐されそうになったのを防いだ。そのお礼をさせてほしいと強く言われていたが、俺は固辞した。謝礼欲しさにアリサちゃんを助けたわけではなかったからだ。

 

俺はその日に振舞ってもらった豪華な昼食を礼代わりにすると言ったのだが、彼らには聞き入れてもらえず、結局お礼の話は保留とした。

 

つまりこのスーツはその時のお礼、ということなのだろう。

 

「その通りです。今回のお嬢様のお戯れ……いえ、お願いのための制服であると同時に、以前のお礼の利子代わりということです」

 

「そっかー、いやお礼代わりとしても高価すぎるけどそれならまあ……ん?利子?」

 

俺の予想通りかと思ったが、最後によくわからない情報が差し込まれた。

 

「はい。未だにお礼を返さないままこれほど日にちが経過してしまったので、そのお詫びをスーツという形で代えさせて頂こうと」

 

「いやいやいや……おかしい、おかしいって。あの時保留にしたお礼は俺が思いついたらお願いするっていう形だったのに。しかもお礼に利子なんてつかないって。つけなくていいって」

 

「そう遠慮するだろうとは思っておりました」

 

「わかってるんならなんでやったの……」

 

「ですので、表現を改めさせていただきたく思います。……これらは徹くんへの、親愛なる友人への贈り物です。受け取っていただけると嬉しいのですが」

 

「うぐっ……」

 

すべての逃げ道は(あらかじ)め塞がれていたようだ。しかも、このスーツはオーダーメイド。いつどうやって採寸をしたのかはまるでわからないが、尻込みしてしまうほどサイズが俺にぴったりなのだ。

 

俺が意固地になって断っても、このスーツは誰も着ることなく、クローゼットの肥やしとなってしまうのだろう。このような高価な礼服を使い捨てにするなんて、あまりにも勿体ない。

 

なにより、親愛なる友人への贈り物、とまで言われたのに頑なに意地を張って断るのは、相手に申し訳が立たない。

 

「そ、それじゃあ……ありがたくもらうことにしよう、かな……」

 

「ふふ、そうですか。ありがとうございます」

 

「ありがとうはこっちのセリフなんだけどなあ……」

 

「…………んー……ま、こんなもんでいいかしら。もういいわよ、徹」

 

鮫島さんとの押し問答、ならぬ駆け引きが終わったのを見計らうようにアリサちゃんから許可が出た。

 

実を言うと、さっきからちょくちょく気にはなっていたのだ。

 

「……あのさ、アリサちゃん」

 

「徹、もう今日という日は始まっているのよ。呼ぶ時は、お嬢様、でしょう?」

 

「それじゃ、お嬢様。いろんな角度からスーツを着崩したところを撮影してたみたいだけど、あれを削除してもらいたいのですが……」

 

俺は先程からスーツを着ていたのだが、しかしそれは真っ当な着方ではなかった。アリサちゃんからの指示でポーズをとったり、目線を送ったり、ちゃんとスーツを着たのに部分的に脱いだりさせられていた。

 

それらを、アリサちゃんは携帯のカメラで撮影していたのだ。

 

アリサちゃんに言われるがまま従っていたが、そもそも写真を撮られることに慣れていない俺はそれだけでも恥ずかしいのに、追い討ちをかけるかのごとくポージングまでしていたのだ。このままでは俺の黒歴史がまた一つ産声を上げてしまう。

 

写真データを削除するようお願いするが、ご主人様(仮)であるアリサちゃんは一切意に介さず携帯の画面に目を落としていた。

 

「敬語はいらないわ。壁を感じるから。ちなみにデータは消さないからね。今度みんなに見せてあげないといけないもの」

 

お嬢様と呼ばせるわりに敬語は使わせない俺のご主人様だった。そのついでみたいにデータの削除要請は却下された。

 

「あんな自意識高い系みたいな頭が痛くなる姿が拡散してしまうのか……」

 

「ご愁傷様です、徹くん」

 

「鮫島さんも止めようとはしないもんね……」

 

「お嬢様が撮影したデータをSNS等にアップするつもりであれば、さすがに上申しましたよ」

 

「ばかじゃないんだからそんなことしないわ。ただ仲間内で楽しむってだけで」

 

「俺としてはそれだけでも充分恐ろしいよ……」

 

慣れないネクタイの結び方を先輩である鮫島さんに教えてもらいながら、はだけさせていたワイシャツのボタンをきっちり留めて、ベスト、ジャケットと着込む。

 

夏の背中も近づく五月三十一日はお日柄もよく、空調の効いた室内ならともかく屋外では多少暑そうだが、我慢である。

 

「完璧に着替え終わってから言うのも変な話だけど、なぜアリサちゃんは部屋にいっぱなしなの。ふつう、部屋出るものなんじゃ……」

 

「お嬢様」

 

「……アリサちゃ」

 

「おっ、嬢っ、様っ!」

 

アリサちゃんの中で、これは譲れないらしい。

 

「……お嬢様」

 

「よろしい。部屋を出たら徹が着替えてるとこ撮れないじゃない」

 

「隠し撮りする気満々じゃねえか」

 

「隠し撮りなんてしないわよ。堂々と撮るもの!」

 

「いっそ清々しいほどの笑顔でなんてこと言うんだ。……まあ、思いっきりフラッシュ焚いてたし、視線こっちーとか、ポーズこう、とか注文してたもんな」

 

「今日と明日はわたしの奴隷だからね。文句は言わせないわ」

 

「執事からだいぶ降格してる?!」

 

「冗談よ。……それより、ふふっ。似合ってるわ、スーツ姿」

 

くすくすと楽しそうにアリサちゃんが笑う。そんな顔で褒められても、あまり嬉しくはないのだが。

 

「徹くん、こちらへ」

 

鮫島さんに促されて姿鏡の前へ移動。

 

なるほど、アリサちゃんの言葉に偽りはなかった。

 

「……そうだな、似合ってる。まるで極道の下っ端だ」

 

「そ、そんなことっ……ぷふっ、ないってばっ」

 

「笑ってんじゃねえですかい、お嬢」

 

「その顔その服その喋り方でお嬢はやめてーっ!あははっ!」

 

「服と喋り方はともかく顔ってなんだ!顔はいつも通りだぞ」

 

「徹くん。私偶然、サングラスを持っているのですが」

 

「どんな偶然が重なれば、バリエーションごとにサングラスを三つも持っているなんて偶然が起こるんだ」

 

「グッジョブよ鮫島!あははっ、くふっ、ふふ……徹っ、徹っ、かけて!かけて!」

 

「恨むぜ鮫島さん」

 

笑いすぎて目元に涙まで浮かべているアリサちゃんのお願いを断れようはずもなく、嫌々ながら微かに目元が見える程度の透過率のサングラスを受け取り、装着。目つきの悪さと薄めのブラウンのサングラスが相まって、とっても堅気(かたぎ)には見えない。

 

「きゃーっ、あははっ!すっごいっ、すっごい似合ってるっ!あはははっ!完全に、完全にヤクザっ!けほっ、こほっ、あははっ」

 

笑いすぎて、アリサちゃんがとうとうむせ始めた。

 

しかし、これどうすんの。

 

「今の俺とアリサちゃんが並んだら、どこからどう見ても組長の娘と舎弟のヤクザだな……」

 

「はぁ、はぁ……くふふっ。朝から疲れさせないでほしいわね」

 

鏡越しに俺を見ていたアリサちゃんが、目元を拭っていた。

 

無理にやらせて泣くまで勝手に笑っていたのはアリサちゃんなのだが。

 

「お嬢がやらせたんじゃねえですか」

 

「ぷふっ!も、もうっ!お嬢はやめなさいってば!まったく……そろそろ出る準備しないといけないんだから、いい加減にしなさいよね」

 

なぜか俺が悪いような口振りで、アリサちゃんが俺の目の前まで近寄った。

 

すぐ間近まできて俺をきょとん顔で見上げて、にわかに表情を険しくした。

 

「屈みなさい!」

 

「気難しいなあ」

 

どうやら気を利かせて姿勢を低くしなかったことにご立腹したらしい。

 

中腰になって目線を合わせた。

 

「さすがに威圧感がすごすぎるわね、サングラスは外しときましょ」

 

「結局外すのか……」

 

「なに?つけときたいの?」

 

「いえ、外しときたいです」

 

「なら文句言わないの」

 

言ってくれれば自分で外すのに、わざわざアリサちゃんは自分の手で俺からサングラスを取った。

 

鮫島さんに返すのかと思いきや、黄金色の御髪(おぐし)に乗っけた。鏡で見て、満足げに頷く。

 

「徹が笑わせてきたせいで時間が押してるわ。さ、はやく着替えなきゃね」

 

スキップしそうなほど足取りの軽やかなアリサちゃんを追って、スーツに着替えるために訪れた衣装部屋を出る。

 

どうやら外出する予定らしいが、俺は何をしたらいいのだろう。車の免許はないので送り迎えはできないし。

 

鮫島さんに仕事を教えてもらおうと姿を探すが、いない。いったいどのタイミングでいなくなっていたのだろうと首をひねって、アリサちゃんの背中を追う。

 

アリサちゃんの部屋の前で、鮫島さんが立っていた。どうやって先回りしたの。

 

「まだこちらにいらしたのですね」

 

「鮫島さん、どこ行ってたの?」

 

「車を回してきました。すぐに出られます」

 

「仕事はやっ」

 

いつのまにか姿を消していたのは、アリサちゃんを送る車の準備のためだったようだ。

 

「それじゃ着替えて……」

 

部屋の扉を開けたまではよかったが、途中で急停止した。

 

どうしたのかと思って俺が声をかける前に、アリサちゃんはふわりと髪をひるがえした。

 

「徹、前にお姉さんがやってくれたみたいに髪いじれる?」

 

「ん?そうだな、姉ちゃんにやらされたことあるから、ある程度は」

 

「そう。それならお願いするわね」

 

「……え?」

 

「時間が差し迫ってまいりましたので、お早めに」

 

「わかったわ」

 

「ちょ……」

 

鮫島さんに端的に返すと、アリサちゃんは狼狽(うろた)える俺の手を引いて部屋の中に入ってしまう。今から着替えるんじゃないんですか。

 

「いつもは気にしてなかったんだけど、お姉さんに髪まとめてもらったら楽だったのよ。首元があいてるっていいわね」

 

「まあ……それはいいことだな。姉ちゃんにそう言ったら、きっと鬱陶しいくらいに喜ぶと思うよ」

 

「ええ、お姉さんにはよろしく伝えておいてね。今日はこれからヴァイオリンの習い事があるから、アップにしてちょうだい。その間にわたしは着替えるから」

 

「……俺一緒に部屋にいるわけだけど、着替えるの?」

 

「え?わたしはかまわないわよ?」

 

アリサちゃんは首を(かし)げながら、着ていた服を床に落とす。

 

が、床につくその前に拾い上げる。高級そうなパジャマなのに、床にぽーんと放るなんてとんでもない、と思ってのことだ。

 

そしてそれはどうやら正解だ。まず第一に、触り心地がおかしい。軽くて、肌に吸いつくようなさらさらしっとりとした質感。

 

ただ、パジャマの質感や生地云々以前に、服に残った生々しい温もりのほうにこそ、男の理性を揺さぶる魔力があった。

 

キャッチしてしまったこの布をいったいどうするべきか真剣に悩む俺に、アリサちゃんは続けて言った。

 

「中にキャミ着てるし、徹ならべつにいいわよ」

 

「……ああ、そう。……なるほど?」

 

ゆったりした印象のワンピース風のパジャマの下は、おへそがちら見えするミニキャミソールと、ふとももが大胆に出ているショートパンツだ。透かし模様が施され、フリルが控えめに(あしら)われたそれは、可愛さと気品と色気を同居させていた。

 

そんな肌の露出も大きい薄着で、アリサちゃんはティーンズ誌のモデルのようにポーズを取る。

 

「ふふんっ、かわいいでしょ?」

 

まだまだ全体的にお子様だけれど。

 

「うん、可愛い可愛い」

 

「えへへ、そうでしょっ」

 

俺が素直に褒めると、謙遜することもなく、まるで撫でなさいと言わんばかりに胸を張った。

 

一瞬、胸を撫でるべきか頭を撫でるべきか二択で迷ったが、頭にしておいた。

 

「ん……徹は慣れてるわよね。加減をわかってる」

 

「喜んでもらえたんなら良かった」

 

気持ち良さげにアリサちゃんは目を細めた。頭で正解だったらしい。

 

「……もう、いいとこなのに……」

 

アリサちゃんの髪を手櫛で整えるように撫でていると、こんこん、と扉をノックする音。時間が迫っておりますよ、という鮫島さんの合図だ。気分を害するほど大きくもなく、気づかないほど小さくもない絶妙な音量のノックも執事の基本スキルなのか。

 

「しかたないわね。この続きは後にするわ」

 

「後には続きするのか」

 

「こっちよ」

 

アリサちゃんはすたすたと歩いて隣の部屋へ。

 

「……自分の部屋にいながら自分の部屋に移動するという違和感……」

 

隣の部屋の壁際、扉の前までくる。どうやらクローゼットの扉のようだ。

 

「徹も選ぶの手伝って。数と種類はあるから、わたしのイメージにあうものね」

 

「……ここだけで俺の部屋より広……いや、考えちゃだめだ……」

 

アリサちゃんが観音開きのクローゼットを開くと、そこには見慣れない奥行きがあった。当然のようにウォークインクローゼットだった。

 

進んで、ボトムスが並べられている付近で足が止まる。

 

「こっちとこっち、どっちがいい?」

 

そう言いながら指差したのは、華やかな黄色のミニ丈キュロットスカートと、落ち着いた紺色のイレギュラーヘム丈フレアスカート。どっちがいい、というのはつまり、どちらがアリサちゃんにより似合うか、と捉えていいのだろう。

 

それならば。

 

「キュロットだな。アリサちゃ……お嬢様はちょこまか動……躍動感あるし、動きやすいキュロットのほうがイメージを外さない。色味的にもしっくりくるし」

 

個人的には、紺色のフレアスカートでシックに落ち着いた装いのアリサちゃんも見てみたい。実に、見てみたいが。

 

「せっかく長くて綺麗な足をしてるんだから、自慢しないとな」

 

「ふふっ、徹は口がうまいわね!」

 

アリサちゃんは口元を抑えて控えめに笑った。お世辞だと思ったのかもしれない。本音だからここまで自然と口をついて出たのだが。

 

「それなら、トップスはなにがいい?」

 

なにやら期待を込められた眼差しをこちらに向けてくる。

 

これはアリサ審査委員長による執事試験か何かなのだろうか。ともあれ、試されるのなら応えるまでである。

 

「薄地のオフショルダーでインナーにチューブトップとかはまりそうだけど、そこまでやると年齢的に背伸びしてる感じが出そうだな……無難に白のシフォンブラウスとかのほうがいいかもな。同年代の子たちより頭一個ぶん飛び抜けてるけど、無理してるようには見えない。年相応の可愛さもある」

 

俺の見立てに、アリサちゃんは腕を組んで考え込む。頭の中で服装を組み立てているのかもしれない。

 

しばしの間があって、こくりと頷いた。

 

「うんっ、いいわね!」

 

「……ふぅ。お気に召したのならよかったよ、お嬢様」

 

姉ちゃんのショッピングに付き合わされた時、のべつまくなしに一方的に叩きつけられた会話がまさかこんな形で役に立つとは思わなかった。

 

ありがとう、姉ちゃん。俺があの時無駄にした時間は無駄じゃなかったよ。でもどうせなら、レディースばかり回るんじゃなくメンズの店にも足を運んでくれていたらよかったのに。女性向けのファッション情報ばかり溜まって、残念ながら自分の服選びにはなんら使い所がない。

 

「はやくしないと遅れちゃいそうね。……さすがに下はちょっと恥ずかしいから、あっち向いてて」

 

「はいよ」

 

自分よりだいぶ下のほうから衣擦れの音がする。ショートパンツを脱いでいるようだ。

 

ちゃんとアリサちゃんの中に羞恥心が存在していることを確認できて安心したが、それでも恥ずかしいのはちょっとだけなのか。

 

着替え終わったアリサちゃんには椅子に座ってもらい、髪を整え始める。

 

「どんな形にするの?」

 

「ポニテにするつもりだ」

 

「えー、ふつー」

 

つまらなさそうに、アリサちゃんは鏡ごしに唇を尖らせた。

 

アリサちゃんは前泊まりにきた時、姉ちゃんにかなり手の込んだアレンジをしてもらっていたので、ただのポニーテールでは不服だろうことは予想していた。

 

「任せてくれ。もちろん多少はアレンジする」

 

かなり前に姉ちゃんの髪でやった記憶を頼りに手を動かす。

 

まずはサイドと頭の上のほうの髪を後ろへ集めてヘアゴムでまとめる。これだとまだ普通のハーフアップだ。アリサちゃんの希望にも添っていないので、ここから手を加える。

 

下に流したままの髪を左右二つに分けて、最初にまとめたポニテよりも上に持ってくる。

 

持ち上げた髪の右側をさらに二つに分けて、三つの髪束にしたら、これで三つ編みを作る。ぱぱっと三つ編みを作れれば、ちょこちょこっとほぐしてふんわりとしたラフ感を演出する。

 

このふんわり三つ編みを、最初に作ったポニテのヘアゴムあたりでくるりと丸まらせてヘアピンで留めれば。

 

「はい、フラワーポニテの完成だ」

 

「もうできたの?」

 

ふんわり三つ編みがまるで花のように見えるし、これのおかげでポニテを纏めた時に使ったヘアゴムを隠せる。

 

仕上がりこそ複雑そうで難しそうに見えるが、やっていることは普通のポニテに三つ編みを巻いただけである。

 

「首元はすっきりするし、見た目は華やかだ。どうかな、お嬢様?」

 

大きな鏡はあるが、頭の真後ろはなかなかに確認しづらい。なのでアリサちゃんの後ろで手鏡を携え、感想を聞く。

 

アリサちゃんはキラキラした瞳で鏡の奥を見つめ、指先で三つ編み部分を優しく触れていた。

 

「いいわね!動きやすいし、なんだか大人っぽい!徹もいい仕事するわねっ!」

 

「そ、そうか、ありがとう……」

 

俺の初仕事はヘアセッティングになってしまったのだが、執事(見習い)としていいのだろうか。アリサちゃんが楽しそうだからまあいいか。

 

「あ」

 

ちらとアリサちゃんが時計に目をやって呟いた。

 

「すずかを迎えに行かなきゃいけないのに、間に合うかな」

 

「もう少し早くそれを聞きたかった!」

 

俺が髪をいじっている間に着替え終わっていたアリサちゃんを抱きかかえて走り出す。無作法だが緊急事態だ、許してもらおう。

 

「これ、返してもらうわね!」

 

ヘアアレンジの邪魔になるので預かって胸ポッケに差していたサングラスをするりと抜き取ると、アリサちゃんは抱えられて揺れる最中、器用に頭にかけた。

 

「ふふっ、これで完成ねっ」

 

そのサングラスのなにがそこまでアリサちゃんの興味を惹くのか知らないが、満足げにくすくすと微笑んだ。不思議なことに、アリサちゃんがかけると途端にワンランク上のお洒落に見えてくる。

 

「はあ……怒ってなきゃいいけど……」

 

俺はというと、先輩執事(鮫島さん)にアリサちゃんを甘やかし過ぎていると怒られそうで戦々恐々だった。

 



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「……ええ、本当に」

 

「徹さんっ……その格好っ!っ!」

 

「……すずか、似合ってるだろ?ああ、わかってる、もちろん悪い意味だ」

 

「とーる!ほんとに似合ってるよ!迫力あるっ!」

 

「…………」

 

ファリンの言葉に他意も悪意もないことはわかっている。純粋な気持ちで褒めようとしているのだろうことはわかるが、迫力という表現は人を褒める時にはあまり使わないと思うのだ。

 

「で、でも、本当に似合ってますっ!ワイルドで、男らしくてっ!」

 

「すずか……ありがとう」

 

持ち得る語彙力を総動員して、どうにか人を傷つけない言葉を選んでくれているすずかだった。

 

そんな健気で心優しいすずかに、アリサちゃんはとある物を見せつけた。

 

「すずか、これを徹がかけても同じこと言えるの?」

 

「アリサちゃん、その手を止めるんだ。もう俺はサングラスなんてかけない」

 

「お嬢様、でしょ?」

 

「……へい、お嬢」

 

「ぶふっ……そ、それやめなさいって言ったでしょ!」

 

「ふっ、ふふっ……お嬢っ、ぴったり……」

 

「グラサンかけてよー、とーるー!ぜぇったい似合うってー!にんきょー映画の役者さんみたいに似合うってー!」

 

「そんな似合い方、俺は求めてない」

 

一応は褒めようというスタンスのファリンが肩にかけている大きいケースを受け取る。ヴァイオリンのケースだ。

 

アリサちゃんの分のケースは忘れてしまっていたのだが、そこはベテラン執事である鮫島さんが前もって車に運んでくれていた。

 

しかし、ヴァイオリンの教室というのは各々ヴァイオリン持参でいかなければいけないものなのだろうか。楽器なんて、そうぽんぽんと購入できる金額でもなかろうに。とくにヴァイオリンなんて高価な楽器の代表格のようなイメージだ。

 

お金面の下衆な考えを巡らせながら、しまわれているヴァイオリンどころかケースすら傷つけないよう細心注意して納め、トランクルームを閉める。

 

「そろそろ行こうか。鮫島さんが法定速度のぎりぎりを攻めてくれたおかげで多少のゆとりはあるけど、時間は差し迫ってるし」

 

「そうね、いくわよ。ほら、ぽんこつ執事さん。エスコートなさいな」

 

「へい、お任せを」

 

「あはは、徹さんも乗り気じゃないですか」

 

後部座席の扉を開き、アリサちゃんとすずかを乗せる。

 

「それじゃファリン、またな」

 

「うんっ!うちのお嬢をよろしくね!」

 

俺がアリサちゃんにしていた呼びかたがファリンに感染して(うつって)しまっている。このまま矯正しなければ後々ノエルさんにお叱りを受けるだろう。

 

「おう。お任せあれ、だ」

 

「今度はふつうに遊びにきてね!」

 

「次に遊びに来たときは料理の勉強するからそのつもりでな」

 

「うぇ……身体動かすほうが好きなのにぃ……」

 

頬をひくつかせるファリンに見送られながら俺も車に乗り込む。

 

ファリンの『お嬢』呼びは訂正しなかった。また今度、ファリンの姉のノエルさんにそれとなく聞いてみよう。面白い話を聞けるかもしれない。

 

アリサちゃんの髪型や、俺の服装についてすずかに説明するうちに、ヴァイオリン教室があるビルの前に到着。振動や揺れやふらつきをまるで感じなかったのは、車がいいのか車を運転する鮫島さんの腕がいいのか。

 

「徹くん、少々いいですか?」

 

「ん?どうしたの、鮫島さん」

 

扉を開いてお嬢様二人に先に降りてもらい、二人分のヴァイオリンケースを取り出して担いでいるところで声をかけられた。

 

内心、執事として未熟が過ぎる点について叱責を受けるのかとどきどきしている。

 

「お嬢様方をよろしくお願いします。私は一度、旦那様の会社へ向かいます」

 

お叱りの言葉じゃなくて一安心。

 

「まだバニングスさんの会社ごたついてるの?」

 

「そのようです。二〜三年後の大きな仕事の契約内容に不備があったとのことで……。いくら注意をしてもある程度はヒューマンエラーは発生するものですが」

 

「まあ……そうだね。一つのミスもなくってほぼ不可能だし。えっと、そんじゃ帰りはタクシーかなにかで帰ればいいの?」

 

「教室が終わった頃合いでこちらに戻れるようにします。お昼は徹くんが手ずから振舞ってくださるそうですからね」

 

「そういう話になってたか、そういえば。そんじゃ俺はお嬢様のエスコートがんばっとくよ」

 

「ええ。徹くんが傍にいるのなら安心です。お任せします。それでは」

 

こつんと拳を突き合わせて、鮫島さんは運転席へ戻る。静かに発進し、緩やかな加速で車は走って行った。

 

存外ずっしりとした感触を肩に与えてくるケースを担ぎ直していると、ぺしっと足を蹴られた。

 

黄金色の髪を見るまでもなく、そんなことをする子はアリサちゃんしか心当たりがない。

 

「なにいつまでも二人で喋ってるの!」

 

「ごめんごめん。待たせちゃったな、お嬢様、すずか」

 

「徹が持ってるんだから、徹がついてきてくれないと始められないじゃない」

 

「わ、わたしは待ってない、です……。アリサちゃんっ」

 

「な、なによ……」

 

「すずか、いいよ。ありがとう。ほら、鮫島さんが裏道とかまで使って間に合わせてくれたんだ。遅刻する前に教室に向かおう」

 

背の高いビルが立ち並ぶこの都心部界隈においても、一際大きく立派で綺麗な高層ビルの一フロアに、アリサちゃんとすずかが通う教室がある。

 

アリサちゃんの斜め後ろからついて歩き、むやみに大きなエレベーターで目的の階まで到着。音楽教室の扉の前でヴァイオリンケースを二人に返し、扉を開く。

 

慣れた様子で受付のお姉さんとやり取りをする二人を見て、気づいてしまった。

 

「俺、なにしてればいいんだろ……」

 

暇になってしまった。

 

これから二人がどれくらいの時間練習するのかわからないが、その間、この場を離れて時間を潰すわけにもいかない。

 

待ち(ぼう)けるにも、こんな服装の人間が音楽教室の玄関にいたら業務妨害か何かでお巡りさんを呼ばれてしまいそうだ。

 

そうやって俺が手持ち無沙汰にしていると、アリサちゃんと目があった。

 

名案閃いた、みたいないい笑顔を咲き誇らせた。

 

「わたしたちを待ってる間、徹も一緒に楽器習ってみる?」

 

「えっ、いや……俺楽器なんて学校の授業以外で触ったことないし……」

 

「それならなおさらじゃない!この機会に挑戦してみるのも悪くないわ!」

 

「つってもな……ヴァイオリン用意すんのは、なかなか懐が痛いというか……」

 

「そう?それじゃそれもこっちで用意し……」

 

「それは心が痛い!」

 

オーダーメイドのスーツを仕立ててもらったばかりか、基本的な価格帯が高価な楽器まで用意してもらったら、今でも充分立場が怪しいのに、完全にヒモである。体裁上比較的必要なスーツはともかく、楽器のほうは執事の仕事に絶対必要というわけでもないのだし。

 

「やっぱり普通に待っとくよ。二人の練習してるところを見学させてもらっとく」

 

「えーっ!」

 

不服そうなアリサちゃんの隣に立っていたすずかは困ったような笑みを浮かべていたが、不意に、あ、と声をもらした。

 

「そうだ、徹さんのおうちに楽器、ありましたよね?」

 

「ヴァイオリンなんて高尚な趣味ないぞ」

 

「いえ、ヴァイオリンではなく」

 

「あった、か?リコーダーすら処分しちゃったんだけど……」

 

「なんなら徹の部屋にはこれといって物がなかったけど」

 

「余計な注釈は足さなくていいよお嬢様」

 

「えっと……徹さんのお部屋ではなく、真守さんの部屋に……」

 

姉ちゃんの部屋、そう言われて、姉ちゃんの部屋を思い浮かべる。

 

鮭を(くわ)えた木彫りの熊やら、一度も行っていないどころかおそらく興味もないだろうロシアの民芸品のマトリョーシカやら、時計なのに時間を確認しづらいブロッコリーを模した時計やら、ルールを知らないのに絵が可愛いからという理由で置いているタロットカードやら、健康優良児のくせに何のために折ったのかわからない千羽もいない千羽鶴やら。

 

俺の部屋とは打って変わって雑多に物が溢れている部屋なので思い出すのに大変苦労するが、ある。

 

たしかに、姉ちゃんの部屋にあった。

 

「ああっ!ギターか!」

 

姉ちゃんの部屋には使われているのかいないのか定かではない、まあ十中八九使ってはいないだろうアコースティックギターが、スタンドに立てかけられている。

 

すずかも姉ちゃんの部屋にギターがあったなどと、よく憶えているものだ。

 

すずかにいつ姉ちゃんの部屋に入るタイミングがあったのかは、皆目見当つかないが、しかしそんな瑣末事(さまつごと)は、アリサちゃんは気にも留めなかったらしい。

 

「ナイスよ、すずか!徹、ギター習っておきなさい!ヴァイオリンとギターでデュオをやってる人たちもいるし、徹が弾けるようになればわたしとすずかと徹で合奏ができるわ!」

 

「アリサちゃん最近、練習意欲がわかないって言ってたもんね」

 

「うん!単調でつまらなかったけど、合奏するって目標があれば練習にも身が入るわ!」

 

「え、あれ?これもう決まってんの?姉ちゃんのギターだったらあるけど持ってきてないし……」

 

俺を除け者にして俺の予定が埋まっていく。手元にないことを理由に遠慮しようとするが、受付のお姉さんは一連の流れをばっちり目撃していたようだ。

 

「楽器の貸し出しもしていますよ」

 

商売上手なお姉さんが営業をかけてくる。

 

「お話にも出てましたけど、基本的に高価なものが多いですからね。通常は当店でのレンタルで練習するケースも多いんです。楽器の扱いに慣れてから、もしくは続けると決心してから、ご自分の楽器を購入されるパターンを推奨しているんですよ」

 

外堀が音を立てて埋まっていくのを感じる。

 

「でも、アリ……お嬢様もすずかも自分のを……」

 

「わたしたちは家でも自主練してるもの」

 

「慣れているので、自分の楽器で」

 

「家でもやってんの?ヴァイオリンだって音小さいわけじゃないし、近所迷惑に……ああ、ならないんだ」

 

「ならないわね」

 

「ならない、ですね……あはは」

 

近所迷惑なんて気にしなくていいくらいに二人の家が大きいことを失念していた。なんなら近所と呼んでいい範囲内に部外者の家が含まれていない。もはや家というか、邸宅や屋敷などと表現したほうが適切なのだった。

 

「はい、それじゃ決まり!今日はギター借りて教えてもらいなさい!」

 

「でも、アリサちゃ……」

 

「お嬢様」

 

「……お嬢様。俺、芸術関係は(うと)くて」

 

「ならこれはいい機会ね!一芸持ってるとなにかと便利よ!」

 

「そ……そう」

 

勢いで俺を押し切ったアリサちゃんは、五割増しに輝いて見える笑顔を受付のお姉さんに向ける。

 

「ごめんなさい、都合してもらえるかしら?ギターと、部屋と……あと講師ね。代金はバニングスと合わせておいてもらえる?」

 

「かしこまりました」

 

楚々として優雅に、お姉さんはお辞儀した。

 

その行き届いた教育と佇まいのせいで、危うく聞き逃しかけた。

 

「アリサちゃん、この代金は……」

 

「お嬢様」

 

「お嬢様。この代金は自分で払うって。プライベートに近いんだし……」

 

そう追求すると、じとっとした目でアリサちゃんは俺を睨みつけた。

 

「主人に恥をかかせるつもり?」

 

「いや、そういうつもりはないけど……って、なんでそうなるの」

 

「使用人の教養のための費用よ。こっちが負担するのは義務なの」

 

「使用人って言っても正式なものじゃないし……お願いから始まったことなんだから臨時とも呼べないくらいで」

 

「うるさいわね!徹は私の言うことに従ってればいいの!」

 

きんきんとした声で言い捨てると、腕を組んでそっぽを向いてしまった。

 

手続きの途中で言い合いになってしまって、受付のお姉さんを大変困らせているだろうと申し訳なく思って顔色を(うかが)うと、なぜか可愛いものでも見るように微笑んでいらっしゃった。

 

どうすればいいかわからず困り果てていると、くい、とジャケットを引っ張られた。

 

すずかだ。

 

内緒話みたいなジェスチャーをするので姿勢を下げて顔を寄せる。

 

「……これは、アリサちゃんなりの感謝なんです」

 

元の儚げな声にウィスパーエフェクトがかかった、脳を蕩けさせるような囁きが、吐息の温もりを纏って俺の耳朶(じだ)に触れた。

 

「徹さんみたいに、アリサちゃんに真正面からぶつかって、意見を言える人って、ほとんどいませんから……。徹さんさえよければ、ぜひ受けてあげてください」

 

「でも、なぁ……」

 

アリサちゃんが俺を気に入ってくれているというのは、純粋に心から嬉しい。

 

だが、それでお金を出してもらうのは話が違う気がする。まるでアリサちゃんからの好意を笠に着て利用しているようで、後ろめたい。

 

素直にアリサちゃんと接することができなくなりそうで、なんだか、嫌だ。

 

難色を示す俺のすぐ近くで、すずかはふにゃりと柔らかく笑う。安堵したようなその表情に、少しばかり面食らう。

 

「……徹さんがそういう人だってわかってるから、アリサちゃんもいろいろしてあげたいって思うんですよ、きっと……」

 

「……そういう人?いろいろ?それはどういう意味で……」

 

話の輪郭が曖昧で、今ひとつ要領を得ない。

 

なのはと違って語彙力も文章力もあるすずかのことだ。これはあえてはっきりと話していない節がある。

 

俺の質問には答えず、すずかは話を戻した。

 

「徹さんがギターを習って合奏できるようになれば、アリサちゃんももっとがんばれるし、なによりもっと楽しめるようになると思います。そうなったら……わたしも、嬉しいです……」

 

「そう、か……」

 

つまりは、これは俺のためではなく、アリサちゃんの意欲向上に繋げるため、というニュアンスで受け取れということだろう。アリサちゃんの申し出を受け入れてもいい理由を作ってくれたのだ。

 

これ以上固辞するのは、好意で勧めてくれたアリサちゃんと、気を使ってくれたすずかにかえって申し訳ない。

 

「……そんじゃ、今はその優しさに甘えるとするか」

 

ありがとうの気持ちを込めてすずかの頭をぽんぽんと撫でて、へそ曲げ中のアリサちゃんへと近づく。

 

「お嬢様の心遣い、ありがたく頂いてもいいかな?」

 

アリサちゃんはゆっくりとこちらに向き直る。

 

「……ふんっ!わかればいいのよ、わかれば。わたしは寛容だから、許してあげる」

 

むすっとした表情を作ろうとしているようだが、若干口角がぴくぴくと上がっている。機嫌は直してくれたらしい。

 

「スーツといい、ここの代金といい、バニングスさんを頼ってるのはちょっと怖いけど」

 

なし崩し的にいつの間にかバニングスさんの会社に組み込まれそうである。

 

「ふふ、パパの会社への推薦状ならいつでも書いてあげるわよ」

 

「それは……遠慮しておこうかな」

 

管理局のほうで今現在やらなければいけないことがたくさんあるのだ。これ以上関わる仕事を増やしては回らなくなる。

 

なので前と同様にやんわりとしたお断りだ。

 

「いい心がけね。そうよ、徹はわたしの執事なんだから、パパの会社には譲らないわ」

 

「いや、ちがう。執事の仕事があるからバニングスさんの会社には行くつもりないとか、そんなつもりで言ったんじゃない」

 

「それじゃ、一旦別行動ね」

 

俺の弁解を聞いているのかいないのか、アリサちゃんは流れをばっさり切った。

 

ヴァイオリンのケースを重たそうに担ぎ直して、続ける。

 

「わたしたちはヴァイオリンの教室に行ってくるわ。すぐに案内されると思うから、徹はちょっと待ってなさい」

 

「それでは……また後で、徹さん」

 

「……わかったよ、お嬢様方」

 

お嬢様呼びに、それで良いと言わんばかりの誇らしげなアリサちゃんと、面映(おもはゆ)げに頬を染めるすずかを見送る。

 

「優しいお嬢様ですね」

 

やっぱり全部聞こえていたらしい受付のお姉さんが言う。

 

俺はというと。

 

「……ええ、本当に」

 

肯定以外の選択肢なんてなかった。

 

 

 

 

 

 

「どう?ギター覚えた?合奏できる?」

 

音楽教室が終わり、鮫島さんの迎えの車に乗り込むや、アリサちゃんが身を乗り出すように聞いてきた。

 

「触って初日、しかも一時間二時間そこらで演奏するレベルまでいけるわけないって……。弦の押さえ方とかの基礎から教えてもらって、簡単なコード、指運び、バレーコード、最後のほうでハイコードをちょこっとくらいだ。譜面や押さえるコードを記憶できても指がついてこないって」

 

与えられた時間いっぱい使ってもこの程度だった。おかげで指が痛い。地味にじんじんくる。

 

「初めてでそこまでできたら充分すぎるんじゃ……」

 

「一曲二曲くらいできるようになってきなさいよ!」

 

「すまない、お嬢様」

 

「アリサちゃんの掲げている目標は高すぎるよ……」

 

「家でもお姉さんのギター借りて練習すること!あと音楽教室も一緒に行くんだからね!」

 

「う……よ、予定が合えば、喜んで……」

 

「あわせるの!」

 

「あ、アリサちゃん、徹さんは忙しいんだから……」

 

「むぅ……。それはわかるけど、でもすずかも三人で合奏したいでしょ?」

 

「それは、したいけど……それでも徹さんを困らせちゃだめだよ。今はアリサちゃんの執事さんでも、ふだんは違うんだから」

 

「うー……わかったわよ」

 

すずかが優しく忠告すると、アリサちゃんは素直に矛を収めた。きっと、ここになのはや彩葉ちゃんも含めて日常的にこんなやりとりが繰り広げられているんだろうと思うと、微笑ましいものがある。

 

「昼食はどうなさいますか?時刻はただいま昼過ぎですが」

 

ちょうど会話に一段落ついた頃合いで、運転中の鮫島さんが言う。

 

予定より、時間が遅くなってしまっている。

 

「もうこんな時間だったんだ。俺がギターを教えてもらってたのが長引いちゃったからだな……ごめん。鮫島さんも表で待たせちゃったし」

 

「私は気にしておりませんよ。しかし、この時間からですと、徹くんが作ってくれるという料理のほうは少々難しいでしょうか」

 

「そうだね……材料調達して作って、ってなったらもっと時間かかっちゃうし」

 

「明日も執事をしてくださるようですので、ご相伴にあずかるのは明日にしましょうか」

 

「そう、だね。そのほうがいいか」

 

「前もってリストアップしていただければ、食材の準備もこちらでさせていただきますが」

 

「ほんとに?ありが……って、いやいや鮫島さんはただでさえ忙しいんだからちょっとでも休める時は休んでてよ。いろいろよくしてもらってるんだから、雑用があれば俺がやるって」

 

俺がそう申し出ると、安全運転を続ける鮫島さんはほんの一瞬だけバックミラーで俺を見て、くすりと小さく笑った。

 

「それではお教えしますので、一緒にやってみましょうか。今日はもう会社のほうへは戻らなくても良いので」

 

「おっけ!任せてよ」

 

「……主人をほっぽってなに和気あいあいとしゃべってるのよ徹!」

 

「え?いや、先輩と後輩の業務連絡というかコミュニケーションというか」

 

「それは!大事だけどっ……主人が優先でしょ!鮫島も安全運転!目をそらしちゃだめじゃない!」

 

「失礼致しました」

 

「ま、まあ、アリサちゃん……そうだ、お昼は翠屋にしようよ。なのはちゃんもいるかもしれないよ」

 

お怒りのアリサちゃんを、すずかは慣れた様子でうまく鎮める。勢いのいなし方を心得ていた。

 

俺もそれに乗っからせてもらおう。

 

「ナイスアイディアだ、すずか。中途半端な時間だし、あんまり食べ過ぎたら夕食が入らないから翠屋ならちょうどいいな。お嬢様もそれでいい?」

 

「な、なんだか流されてる気もするけど……まぁいいわ」

 

「ここからであれば近いですね。すぐに向かいます」

 

アリサちゃんの機嫌が直ったことで、俺は油断していた。失念していたのだ。

 

休日なんて忙しい日には奴らが絶対待ち構えているだろうということを。

 

 

 

 

 

 

「あははっ、あはははっ!げほ、ごほっ、くふふ……すっごい似合って、似合ってるわよ徹!誇っていいわよ!」

 

「ああ、本当に似合っているぞ。堅気に見えない」

 

「くそっ……こいつらがいることを忘れていた……っ」

 

俺を指差して目元に涙まで浮かべながら大笑いしている忍と、にやにやと性根の腐った悪い笑みを隠そうともしない恭也に、俺はがっくりと肩を落とした。

 

今は昼食代わりの軽食を済ませ、本日おすすめのデザートに舌鼓(したつづみ)を打っていたところだった。

 

昼食と三時の中間ほどという微妙な時間帯もあいまって、俺たちが昼食を終えた頃には他にお客さんはいなくなっていた。だからこそ二人は俺たちのテーブルに来たようだ。訂正、笑いに来たようだ。

 

お客さんがいた時は必死で我慢していたのだろう、その分を取り返すかのごとく、忍がけらけらと高笑いしている。

 

「ふっ、ふふ……それで、そんな格好してどうしたのよ。極道に身を落としたの?」

 

「ちがうわ、忍お姉さん。徹は執事よ、うちのね」

 

「臨時の、な」

 

「ところでアリサちゃん、頭に乗せているそのサングラスは?今日の服装とは微妙に毛色が違う気がするが」

 

翠屋の制服に身を包む恭也がつつかなくていい部分をつついた。

 

ちなみに、営業中ということもあり、恭也も忍も椅子に腰かけたりせずに立ったまま話していた。店外の道からも見ようと思えば見えるし、俺たちが(一応立場上は)お客さんだから気をつけているのだろうが、俺からすると座ってくれても全然いいから俺に関する話から離れてほしい。

 

「鮫島が徹に用意したの」

 

「とうとう偶然持っていたっていう芝居もやめたのか……」

 

「すごく、ぷふっ……すごく似合ってたのに、いやがるからわたしが預かってるのよ」

 

「あ、そうだったんだ……気になってたの、わたしもつけてるところは見てなかったから」

 

「あら、すずかも見てなかったの?よし、徹。グラサンかけなさい」

 

「なんでだ、いやだ。絶対笑うだろうが、お前」

 

「結果によるわね」

 

「せめてここは否定しとけや」

 

「なるべくなら嘘つきたくないもの」

 

「嘘って言っちゃってる!少しは魂胆隠せよ!」

 

「別にサングラスをかけるくらいいいだろう。何かが減るわけでもない」

 

「減るんだよ、俺のメンタルがごりごりと」

 

徹底的に拒絶していると、店員二人は揃って我が主人に視線を移した。

 

やめろ、今の俺の最大のウィークポイントを的確に狙ってくるな。

 

「徹?」

 

「は、はい。お嬢様」

 

忍と恭也の無言の要請を受けたアリサちゃんは、きらきらした笑顔で俺に向いた。

 

「かけなさい?」

 

「……はい」

 

今日明日に限っては、俺とアリサちゃんの上下関係は明白である。断るなんて選択肢はそもそも存在しない。

 

手渡されたサングラスしぶしぶ受け取り、かけようとしていると、店の奥からぱたぱたと足音が聞こえた。

 

「恭也、忍ちゃん、次休憩行ってもらっていいわよ〜」

 

「もどったよー、って……あ、お客様がきてにゅわぁっ!」

 

なぜ恭也と忍しかいないのだろうと思っていたが、桃子さんとなのはは休憩中だったようだ。交代早々になのはには悲鳴で出迎えてもらったが。

 

「なのは、失礼でしょう。大変申し訳ありま……あら?」

 

「大丈夫だよ、俺だから。徹だから」

 

「徹お兄ちゃんっ?!な、なんていうか、すごいかっこ!」

 

「ああ、そうだろう。『すごいかっこいい』を言い間違えたんだろうと前向きに聞き間違っておくぞ」

 

タイミングよくなのはと桃子さんが休憩から戻って来たからか、恭也と忍は笑って動けていない。

 

「すごくかっこいいです!徹さん、似合ってます!」

 

「素直に褒めてくれるのはすずかくらいだなあ……この姿を褒められるってのもちょっと複雑だけども……」

 

「あ、あたしもっ!あたしも、にっ……にあってるって思うの!でも、なんでそんなヤクザ……あ、えと、スーツ着てるの?」

 

「今はっきりと言いやがったな……」

 

「なのはの疑問にはわたしから答えるわ!」

 

「アリサちゃん?」

 

それはね、と前置きをしながら立ち上がり、胸を張って言う。

 

「わたしの執事になったからよ!」

 

簡潔に表せば確かにその通りではあるけれど、付け足すべき文言が欠けてしまっている。

 

その言いかたでは意味を取り違える人も出てしまうだろう。

 

例えば、単純な人とか。

 

「な、なにそれ!聞いてないの!翠屋はどうするのっ、徹お兄ちゃん!」

 

そう、なのはとか。

 

「執事してるのは臨時で……っていうか翠屋はバイトだし……」

 

「月村の家でもポストを用意してるのにねー」

 

「それって忍の(てい)のいい召使いだろ」

 

「徹お兄ちゃん!どうするのっ!いろいろっ!いろいろとっ!」

 

「やめ、せつめっ、説明するからっ」

 

俺の胸ぐらをちっこい手で掴んでぐらぐらと揺する。きっと魔法に関することを言及したいのだろうけれど、この場で(つまび)らかに言うには躊躇(ためら)われたのだろう。

 

迂遠な言い回しをしようにも、なのはの残念な国語力ではこのあたりが限界か。数学は強いのに。

 

「前に言ってたアリサちゃんへの借りを返してるんだよ、執事って形でな」

 

「前に言ってた……。それじゃ、べつにアリサちゃんのお家に嫁いだわけじゃ……」

 

「なんかもうどこから突っ込んだらいいかわかんねえけど、とりあえず違うな」

 

「もう半分くらい、うちに内定したようなもんだけど、ね?」

 

優雅に紅茶を傾けながらアリサちゃんが言う。周りの喧騒なんて関係ないと示すような、実に優雅な所作である。

 

「玉の輿だな、徹。将来安泰だ」

 

「恭也お兄ちゃん、笑えないよ」

 

「冗談にしては少したちが悪いですよ、恭也さん」

 

「お、おお……すまない……」

 

恭也にヘイトが集まったかと思ったが、そうは問屋が卸さなかった。

 

「ほんと恭也お兄ちゃんはデリカシーとかないんだから……あっ?!」

 

何か大事なことでも思い出したように、なのはは大きな声をあげた。

 

可愛らしいお顔に険しさを塗り足して、俺に向ける。と同時に小さな身体が霞んだ。

 

俺の視界から、なのはが消えた。

 

「なにがごぶぉっふぉっ……」

 

何が起きたのかと思うよりも早く、腹に衝撃が走った。衝撃というか、爆撃とさえ言える。どごむっ、という音が響いたのだ。果たしてそれが周りに響いたのか、それとも俺の体内に響いたのかはわからない。

 

その爆撃の正体は、当然判明している。

 

「聞いたのっ!」

 

なのはである。

 

当たり前だ、他にいない。

 

というか、手を伸ばせば届く距離という加速なんてできない位置にいながら、どうしてここまでの破壊力を生み出せるのか。なのはの健脚は驚くべき成長を遂げていた。とうとうブースターでも装備したのかこの子。

 

「な、なんの恨みが……」

 

込み上がって来そうなお昼ご飯を必死に堪えて、床に倒れ伏しながら腹部に突き刺さっているなのはに問う。

 

すると、なのはが言い募ろうとするが、その前に桃子さんがなのはを窘めた。

 

「なのは、徹くんに謝って立ちなさい」

 

「だ、だって!」

 

「なのは」

 

「……はい。徹お兄ちゃん、ごめんなさい」

 

「ごほっ……べ、別にいい。とりあえず殺害動機を聞かせてくれれば……」

 

タックルされた理由を俺がわかっていなかったせいか、しおらしくしていたなのはの声に再び怒気が含まれた。

 

「最近アリサちゃんとすずかちゃんを家に泊めたんでしょっ!」

 

「……そうだったわ。その話をしなくちゃいけなかったわね」

 

「ちょっ……恭也、忍を抑えてくれ……。もう俺には体力が残っていないんだ……」

 

「俺には荷が重い」

 

「あたしだけ仲間はずれ!すっごくさみしかったの!二人ともいつもと髪型ちがったし!アリサちゃんは貴族のお嬢様みたいでかっこよかったし、すずかちゃんはねこさんみたいでかわいかったし!」

 

「そうね、あの猫耳は実に可愛いもので……ん?あれ?猫耳……髪型……真守さん……うっ、あたまが……」

 

いつの日か姉妹揃って猫耳にするという野望を姉ちゃんが企てていることを、忍は思い出してしまったようだ。頭を抱えてよろめいた。

 

姉ちゃん、ありがとう。おかげで忍という脅威は取り除けそうだ。

 

と、言っても。

 

「ずるいのっ!呼んでくれてもよかったのにっ!そんなにお家離れてないのにっ!離れてないのにっ!」

 

まだへそを曲げたなのはが立ちはだかっていた。立ちはだかっているというか、ダメージが抜け切らずまだ起き上がれない俺に(またが)っているのだが。

 

ちっこい手で俺の胸ぐらを掴んでぐらぐらと揺すってくる。

 

「ま、前から泊まるって決めてたわけじゃなかったし……当日いきなり、き、決まったわけで……」

 

「それなら決まった時に呼んだらいいのに!いいのに!」

 

どうしよう。あの時は忘れてたんだ、とは言えない。

 

「ご、ごめんね、なのはちゃん……」

 

「なのははいいじゃない。よく一緒にいるんでしょ?」

 

「最近はめっきり会ってなかったもん!なんっにも!連絡の一つも!びっくりするくらいないもん!」

 

「……悪いって。こっちもばたばたしててな」

 

ぷくっと頬を膨らませてじと目を向けるなのはの視線から逃げるように、俺は身体を(よじ)る。

 

「そうだったのね。それならうちに遊びにくる?今日は泊まる予定だから」

 

逃げた先にいたアリサちゃんが、あっけらかんとした態度でなのはを誘った。

 

もしかしてその『泊まる』っていうのは『俺が』ってことなのだろうか。なにそれ当人であるはずの俺まで話が届いていない。

 

あまりに唐突な行動予定に俺がぽかんとしていると、その様子があまりに見るに忍びなかったのか恭也が口を開いた。

 

「あー……アリサちゃん。徹がまるで今聞かされたかのような『俺聞いてない』って顔をしているんだが……」

 

「あれ?言ってなかったっけ?まあいいわ、今言ったし。そういうことだからね、徹!」

 

恭也からの助け舟はいともあっさりと沈められた。

 

仕方ない、どうにか理由をこじつけて回避しよう。

 

「い、いや……いやいやちょっと待ってくれ。ほら、俺姉ちゃんのご飯とか作らないといけないし!」

 

「そこは安心して。前もってお姉さんにはわたしから連絡して許可ももらってるし、お姉さんのご飯も鮫島が手配してるわ」

 

「俺には一言も伝えてなかったのにすでに綿密な根回しが!ていうか鮫島さんいないと思ったら手配してくれてたんだ?!」

 

「そんなわけで、明日までじっくりとわたしの執事よ。よかったわね」

 

「…………」

 

反論の余地も逃亡の道も残されていなかった。まさか家にも帰れなくさせられているとは。

 

「せいぜい頑張んなさい、徹。貴重な体験よ」

 

「少し同情はするが……得難い経験ではある。どのみち逃げ道はないんだ、いっそ開き直って楽しむんだな」

 

「うぐぐ……まあ、そうなんだけども……」

 

「忍さんと恭也お兄さんもくる?うちの鮫島と徹が模擬戦するんだけど」

 

「さっきから俺の知らないイベントばっかり!」

 

「本当か!?……くっ、しかし……今日は手伝いが入っているからな……」

 

「見たいところだけど……今日は難しいわね。なのはちゃん、私たちの代わりに見届けてきてね?」

 

「む、なのはも店の手伝いが……」

 

「いいの?!」

 

忍から援護射撃を得たなのははビーチフラッグのスタートばりに俺から立ち上がり、反論しようとした恭也を押しのけた。

 

可哀想に、恭也。もう話の流れは確定してしまった。

 

恭也が何か口答えする前に、忍が追い打ちを加える。

 

「いいのよ、なのはちゃん。いってらっしゃい。桃子さん、いいですよね?」

 

「もちろんよ。ご迷惑をかけないようにね。なのはのぶんは恭也が働いてくれるわ」

 

「え……」

 

「やった!ありがとっ、お母さん!忍さん!」

 

「いや、俺の意見は……」

 

「ありがとうっ!恭也お兄ちゃん!」

 

「え、いや……あ、ああ……。楽しんでくればいい……」

 

抵抗する暇すらなく、桃子さん、忍、なのはに押し切られて、恭也はOKを出した。なのは()に満面の笑みで言われてしまえば、恭也()に抗う(すべ)などないのである。

 

とはいえ、俺も恭也と似たようなもの。

 

「それじゃあ今日はみんなでお泊まりね!楽しくなるわ!」

 

アリサちゃん(お嬢様)から命令されれば、(執事)に拒む権利などないのであった。

 

 



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『後の先の切り札』

 

 

「アリサちゃんのお家くるの、ひさしぶりかも」

 

「近頃はすずかの家ばっかりだったわね、勉強会とかで」

 

「そうだね。テストに備えて、とか。交流も兼ねて、とか。あ……彩葉(いろは)ちゃんには電話した?」

 

「あたし連絡したよ!今日は家族で出かけてるから行けないんだって。残念なの……」

 

「なにもかも急だもの、仕方ないわね。そういえば、なのははテストの手応えどうだったの?」

 

「…………」

 

「……なのは、そこで黙ったら下手にごまかすよりわかりやすいわ」

 

すでに俺たちは翠屋からバニングス邸に帰ってきている。

 

軽食を()った今、俺たちはバニングス邸の広大な庭にいた。

 

俺たちは、と言っても俺とアリサちゃんたちとは距離がある。

 

庭の真ん中あたりで突っ立っている俺とは裏腹に、アリサちゃんたちは離れたところに立てられたビーチパラソルの下で、ドリンク片手にお喋りしている。

 

「……やっぱり見世物じゃん」

 

ため息をつく俺とは対照的に、正面に立つ鮫島さんはにこやかだ。

 

「私としてはどういう意図であれ、こういった場を設けて頂けるのはありがたいですよ」

 

俺の愚痴にも鮫島さんは終始柔和な表情を崩さず、念入りに柔軟していた。

 

対面の鮫島さんはスーツのジャケットを脱いだだけの、ほぼいつもと変わらない格好だ。

 

鮫島さんに(なら)って同じくストレッチしている俺はというと、もらったスーツから運動着に着替えている。

 

それもこれも、アリサちゃんが今日の予定に突然組み込んだ鮫島さんとの模擬戦のためだ。

 

前回は鮫島さんにいいようにやられて池に放り込まれた。今回はそんな無様を披露するつもりはないが、念のためだ。

 

「徹くんは、この短期間で随分様々な体験をしたようですね。佇まいと、纏う雰囲気が違います」

 

「体験……体験ね。まあ、いろいろあったかな。そこで学んだ成果を見せるよ」

 

ファイティングポーズを取って、見据える。

 

対する鮫島さんは前と寸分違わぬ構えだ。牽制の為に伸ばされた右腕と、防御の為の引かれている左腕。牽制の右手で動きを止められれば、鋭く速い蹴りが飛んでくる。前回の模擬戦で学習したことを活かさなければ。

 

「努力の程、拝見致しましょう」

 

手をくいくいと引いて、かかってきなさいとジェスチャー。

 

胸を借りるどころか前回の借りを返す勢いで向かうとしよう。

 

まずは。

 

「……まずは、実戦でものにしたこれ(・・)からだ」

 

教えてもらった当時は二日かけても満足に使いこなせなかったけれど、今は違う。

 

襲歩で一気に距離を詰める。

 

「入りもスムーズ、狙った地点でシャープに停止。なによりも、早い。見違えるほど上手になりましたね」

 

「……そのわりには驚かないね……」

 

襲歩による急速接近と打突だったが、すんなりといなされた。

 

それはまるで『あらかじめ想定できていたような』迷いも戸惑いもない動きだった。

 

「徹くんならばいつまでも同じ場所で足踏みはしないでしょうから、予想はしていましたよ」

 

「はっは、嬉しいこと言ってくれる!」

 

俺の言葉に、鮫島さんは長い腕をしならせるように連続で振るって返す。

 

耳元で鳴り続ける風切り音に肝を冷やしながら、それでも肉薄する。

 

「この速度ではもう……牽制にはなりませんか」

 

「悪いけど、もっと速いのをつい最近身をもって味わってきたんでね」

 

肩や頬を(かす)めるものについてはこの際無視し、こちらも打ち返す。

 

左を二回、速度優先で放った拳は防がれ、外に流されたが、それでも鮫島さんの体勢を崩すことはできた。

 

左腕を弾かれた勢いそのまま、右ストレートを打ち込む。

 

「もらった!」

 

「…………」

 

またとない好機に(はや)る気持ちを懸命に抑え、打った。

 

防御をすり抜け、右胸あたりに直撃したはずだった。

 

ただ、その手応えは、異様としか形容できないものだった。

 

「な、なに……を、やったの?」

 

「『風柳(かぜやなぎ)』という技術です。要領自体は発破と近いものですよ。随分前に習得してから使う機会もなく、できるかどうかわかりませんでしたが……いやはや、身体に染みついているものです」

 

「な、んだよ、それ……っ!」

 

ちゃんとミートしたはずなのに、どこか芯がずれているような、歯車が噛み合わない感触だった。

 

鮫島さんの新たな技には俺も驚いたが、俺よりも驚いている子がいた。

 

「と、徹お兄ちゃんと戦って互角以上なんて!鮫島さんってそんなにすごい人だったの?!」

 

なのはだった。

 

「すごいよね、本当に。徹さんも速くて鋭くて、もちろんすごいんだけど……その徹さんの手を真っ向から対処してるんだもんね」

 

「前にやった時は鮫島に吹っ飛ばされてたわよ、徹」

 

遠くで見物しているお嬢様方の声が耳に入る。

 

アリサちゃんめ、俺の苦い思い出をほじくり返しやがって。

 

「すごいなぁ……鮫島さん。あたしなんて近づかれたらなんにもできな……」

 

『なんの話を二人にするつもりなんだ、なのは』

 

そのまま続けたら魔法が絡む話に行かざるを得なくなるので、その前になのはに念話を送って止めておく。

 

迂闊なことを口走ってはまずい。すずかもアリサちゃんも、年齢に不釣り合いなほど頭が回るのだから。

 

『ご、ごめんなさい……』

 

『二人にはまだ隠してるんだろ?』

 

『かくしてるんじゃないもん!……ただ、言うタイミングがないだけで……』

 

『内緒にしてるんだったな。それならあんまり疑われるようなこと言わないほうがいいぞ。二人の勘が鋭いことはなのはが一番知ってるだろ』

 

『……わかったの』

 

『二人に……いや、彩葉ちゃんもか。みんなに伝える決心がつくまではそうしとけ。今は俺の勇姿を目に焼きつけておくことだな』

 

鍛えてもなお開いている実力と技術の差を見せつけられるにどうやら今回も負けくさいが、なのはには冗談めかしてそう送っておいた。

 

『徹お兄ちゃんの姿なら、いつだってまぶたの裏に焼きついてるよ。がんばってね』

 

と、最後に送ってきて、なのはは念話を切った。

 

なんだかとっても恥ずかしいことを言われた気がする。

 

なのはを見やれば、顔を赤くしていた。それでも俺から視線を外しはしないところが、また、いじらしい。

 

「おや、試合の最中に余所見などとは……お説教が必要でしょうか」

 

「そんなんじゃな……っ!」

 

お説教代わりの鉄拳制裁が飛んできた。

 

側頭部を狙った右フックを防ぐべく左手を上げる。

 

だが。

 

「ぐっぶ……っ」

 

俺が予測した軌道に反して、左の脇腹に衝撃が走った。

 

「新しい技術、その二です」

 

「な、にがっ……」

 

ボディブローの苦痛に慣れる間もくれずに、鮫島さんは左足を振るう。

 

構えこそロー気味だが、さっきのように軌道を変えられるかもしれない。踏ん張りが効くよう腰を落として、ロー、ミドル、ハイに対応できるよう体勢を整える。

 

「これを『撞着(どうちゃく)』といいます」

 

「がっ……っ」

 

顔面に右ストレートが飛来した。回避どころか防ぐことすらできずに直撃した。

 

だが、二回やられて、二回ともクリーンヒットして、ようやく技の実体を掴んだ気がした。

 

「視線誘導と不完全な体勢から半ば強引な打撃……。つまりこれは、相手の予想の裏をかいた技。蹴りの構えから右ストレートなんて威力が乗るわけない、だから俺は打ってこないと決めつけて予測から外した。選択肢から除外して蹴りがくるって思い込んだもんだから、避けることはおろか防ぐことすら難しい。……マジックと同じだ。要は……ミスディレクション」

 

「二度見て、二度受けただけでからくりがばれてしまいましたか。仕組みは徹くんの考えでほぼ正解です。ちょっとした引っ掛けと、発破と同様に一瞬の筋肉の駆動によって繰り出しています。ただ……」

 

「ちゃんと構えていないから、威力は落ちる……と。さっきの『風柳』といい今の『撞着』といい、鮫島さんはテクニック系の技が豊富だ。筋肉ダルマの師範とは大違いだよ」

 

切れた唇から垂れる血を手の甲で拭いながら、磨き上げられた鮫島さんの技巧を讃える。

 

俺としては褒めたつもりだったのだが、しかし、鮫島さんは苦笑いで肩を(すく)めた。

 

「私の場合は仕方なく、なのです。体格に恵まれませんでしたので、足を止めての打ち合いはできません。その為のスタイルがヒットアンドアウェイ……距離を維持する為の手段はいくつあっても足りません。率先したオフェンスの技なんて、以前に手ほどきした『発破』くらいなものですよ」

 

自虐的に言う鮫島さんだが、さっきの『撞着』だけでも充分に厄介だ。今回は俺に教えるためにわざわざ二回も連続で使ってくれたが、これを牽制やコンビネーション、連打の中にフェイクとして取り入れられていたら、まともに近づくことはできない。

 

威力の低い『撞着』自体は耐えられても、意識を刈り取る本命の拳や蹴りは耐えられない。通常の打撃、蹴撃に織り交ぜてこそ、真価を発揮する類の技だ。

 

「ぜひとも身につけたいね、それ」

 

「その身で覚えてください。今日は覚えることがたくさんありますよ。私の返しの切り札も、伝授しておきたいですからね」

 

「まじか……やったぜ」

 

新しいことを教えてもらえるのはもちろん嬉しいし、こうして手解(てほど)きしてもらえるのはもちろんありがたいのだが、教え方がまず実戦、というモットーなので、素直に心から喜べない。なぜならば、どんなに頑張っても一回は痛い思いをするのが決まっているからである。

 

結局痛い思いをするのなら、せめて。

 

「せめて、一回くらいは本気で驚かせてやる……っ」

 

しなる右の拳と意識の外から襲ってくる『撞着』を、防御一辺倒になりながら耐えて、一瞬の間を見つけて距離を取る。

 

どうにか、自分のペースに持っていかないと話にもならない。

 

「あー……痛い……」

 

「距離を取ってどうするのですか?『撞着』のこつは掴めましたか?」

 

「掴めるわけないでしょ……。防御に専念しても防ぎ切れないとか意味わかんねえ……。仕組みはわかっても解き方がわからない」

 

「慣れてくればきっとすぐに徹くんなら会得できますよ。要は『相手の予想を裏切る』ことですから。徹くんは得意でしょう?」

 

「……ほっとけ」

 

「さて、どうなさいますか?『撞着』を解明するか、痛みに耐えて突貫するよりほかに徹くんの距離には持ち込めませんよ」

 

「もう一個あるよ。牽制で足止めされる前に近づく」

 

「徹くんの速度は上方修正致しましたよ。『襲歩』も同様に」

 

「……わかってるよ、だから……新しい手だ」

 

腰を落とし、若干膝を曲げ、勢いを余さず伝えられるよう足の裏は地面につける。

 

この技は以前のあかねと戦ったときに編み出したものだ。速度を最優先にして身体への負担を後回しにした技術。今は魔力で底上げしていないので以前ほどの速度は出ないだろうが、そのぶん負荷も少ない。一度使うくらいなら問題はない。

 

「『襲歩』ですか?込める力を増やして速度を上げても、来るタイミングがわかっていれば反応できないことはありません」

 

まだ準備に時間がかかるが、それでもいい。相手が身構えていてもなお、その反応速度を上回るだけの速さを叩きだせば、それでいいのだ。

 

「……『爆轟』っ……」

 

庭の芝生が、爆ぜた。

 

魔力を伴わない、ほぼほぼ純粋な身体能力のみなので音の壁はさすがに超えられないが、それでも『襲歩』とはステージの違う速度。

 

一息の半分もないほどの時間で、彼我の距離を踏み潰す。

 

「これがっ、俺の全身全霊だ!」

 

渾身。

 

乗せられる限りの運動エネルギーを拳に乗せて振り抜いた。

 

「むっ……」

 

コマ落ちしたようにすら見えるだろう一撃。

 

しかし、鮫島さんは俺の拳が届く寸前で対応した。

 

俺の拳を両の手のひらで包むように防いでいた。

 

そこからは『風柳』で防がれた時と同じだ。硬く守るのではなく柔らかく受け止めることで、しなる柳の木のように力が流されてしまう。

 

「『発破』と『襲歩』の複合技……これほどまでとは……っ」

 

ただ、鮫島さんとしても全部のエネルギーを流し切れたわけではないようだ。俺の一撃を受け止めた両手は勢いを殺せずに外へ大きく開き、処理しきれなかったぶんのエネルギーは地面に流したのか足元の芝生が抉れている。

 

「つまりは……『風柳』でも受け止めきれるエネルギー量には限度があるってことか」

 

「……ご明察です」

 

なにかが頭の中でちくりと引っかかる。が、今は(かかずら)っていられない。無茶をして強引にもぎ取ったこのチャンスを逃しては、もう状況はひっくり返せない。

 

ここで、決める。

 

「今回は勝たせてもらう!」

 

鮫島さんの胸の中央あたり、触れるか触れないかのぎりぎりに拳を()える。

 

「学んだ技術を短期間で使いこなす吸収力、用途の違う技を組み合わせる発想力、技術の真髄を素早く見抜く観察力……徹くんは本当に逸材です」

 

「……い、いきなり褒められると、嬉しいはずなのに怖くなる……」

 

「素直に喜んでも良いところです。ですが、私がこれで満足していると思われるのは、少々心外ですね」

 

「……っ」

 

思わず息を呑む。不穏な気配をひしひしと感じる。

 

何か、ある。絶対にまだ、何かある。

 

だとしても。

 

このまま進んだら危ないとしても、他に道はない。

 

ならば、リスクを承知で進むだけ。全身全霊を叩き込むだけだ。

 

「『風柳』の許容限界を師範に上回られた私が、苦心の(すえ)に編み出した()(せん)の切り札……とくと味わってください」

 

「っ……『発破』っ!」

 

鮫島さんの言葉に嘘はない。逆転の切り札をまだ持っている。

 

ならば、と。ひっくり返される前に、決着を急ぐ。

 

全身の筋肉から余すことなく力を生み出し、生み出された力をロスなく拳に集約。

 

俺の切り札である『発破』は綺麗に決まった。

 

そしてすぐに、自分が犯した失敗と、うっすらと感じていた違和感の正体に気づいた。

 

「『出藍(しゅつらん)』」

 

吹き飛んだ。

 

俺が『発破』を叩き込んだ次の瞬間には、俺の足は地面を離れて浮かび上がり、吹き飛んでいた。

 

鮫島さんが何をしたのかわかったのは、俺が吹き飛んでいる最中に鮫島さんの残心が見えたからだ。

 

「なっ、ぁ……っ」

 

ちょうど、俺の胸の高さくらいの位置に足を突き出していた。

 

カウンターを決められたのだ。

 

本人も言っていた。『後の先の切り札』と。鮫島さんは待っていたのだ。俺が焦って技を繰り出すのを。

 

そして、もう一つ。脳裏で引っかかっていたものの正体だ。

 

衝撃を無闇に防ごうとせず、受け止め、流す『風柳』。身体で受け止めきれなかったぶんのエネルギーは足を通して地面に向ける。そこまではわかっていた。だが、考えが、発想がもう一段階足りていなかった。

 

受け止めた力を応用できるかもしれない、という仮説に辿り着けなかったことが、今回の敗因だ。あの場で攻め急いだことこそが、敗因だった。

 

鮫島さんは、俺に叩きつけられた『発破』の衝撃を『風柳』で受け止め、分散させ、分散させたエネルギーを今度は『発破』で足に集約。そして、蹴りという形で放出した。前の模擬戦で受けた『発破』より重いのは、おそらく『発破』のカウンターの際に鮫島さん自身の力も乗せたからだろう。

 

「そんなこと、できるのかよ……」

 

正気の沙汰とは思えない。

 

本来『発破』だけでも至難と評して間違いないし、『風柳』もタイミングを誤れば無防備に攻撃を受けることになる諸刃の剣だ。

 

なのに、こともあろうに、その二つを()り合わせて攻撃に(つむ)ぎ上げるなんて、まともな人間のする判断ではない。

 

カウンターという技は実に鮫島さんらしいが、鮫島さんらしくない思考プロセスだ。それほどまでに、師範に一泡吹かせたかったという意地と矜持が垣間見える。

 

「徹くんにはこれを身につけていただきます」

 

遠くのほうで、風の音に混じって鮫島さんの声が聞こえた。

 

言うのは簡単だろうが、『風柳』すら習得できていない俺には、道のりが長そうだ。

 

「……はあ」

 

ところで、今回蹴りを受けた箇所は、前回模擬戦をした時に鮫島さんに『発破』を食らったところと奇しくもほぼ同じである。前回と同じ庭で模擬戦をして、前回と同じように決定打を食らった。

 

ならば。

 

前回と同じように、庭の一角にある池に大きな音と水柱を立てて落ちたのは、もはや必然と呼ぶべきかもしれない。

 

「…………」

 

池の底に沈みながら、俺は心の底から思っていた。

 

スーツから運動着に着替えておいて本当に良かった、と。

 

 

 

 

 

 

所変わってアリサちゃんの部屋である。

 

無論、池に放り込まれたことで全身びしょびしょになったのでシャワーを浴びて着替えてから、だ。

 

鮫島さんとハードな模擬戦を繰り広げた後なのに平気な顔で飲み物やお茶菓子などを給仕する俺を、アリサちゃんが怪訝(けげん)な目で見ていた。

 

「徹、ほんとに身体丈夫すぎるでしょ……。あれだけふっ飛んでたのにもう動いてるって」

 

「タフなことがアピールポイントだからな。そろそろ履歴書に書いていいレベルだと思う」

 

「と、徹さん、もう少し休んでいたほうが……」

 

「大丈夫大丈夫。執事なんだから、それっぽいお仕事しないとな」

 

「ほ、本当に大丈夫、なんですか?どこか痛かったり……骨が折れてても不思議じゃない光景だったんですけど……」

 

「大丈夫なの、すずかちゃん。徹お兄ちゃんならあれくらいで故障したりしないの」

 

緩んだ表情でお茶菓子をぱくつきながら、なのはがわざわざ喧嘩を売ってきてくれる。売られたのならば、買わざるを得ない。

 

「俺は人型ロボットじゃねえぞ、なのは」

 

「にゅむっ、むーっ」

 

「なのはちゃん……どうして自分から虎の尾を踏みに……」

 

「徹、放してあげなさい」

 

「お嬢様が言うなら仕方ないな」

 

「ひゅみゅ……うぅっ」

 

失礼な発言の罰として、ぷにぷにふわふわのなのはのほっぺたを(つま)んでむにむにしていたが、アリサちゃんに命じられれば致し方ない。なのはのほっぺたから手を離す。

 

痛みはないように加減はしていたが、なのはは摘まれていたほっぺたをさすりながら、なぜかにやりと口角を上げた。

 

「徹お兄ちゃんだと、キックのダメージより、水没のほうがダメージ大きそうだよね!」

 

「なるほど、お前は反省しないんだな」

 

「むーっ、みゅーっ」

 

「なのはちゃん、もしかして……期待してやってるの?」

 

「徹、やめ……なくていいわね。ちょっと懲らしめておきなさい」

 

「かしこまりました」

 

「にゅあーっ」

 

先程より少し乱暴にほっぺたをむにむにする。ご主人様からの許可は頂いたので、もう容赦なんてしない。

 

『身体のほうはほんとにだいじょぶそうだけど、魔法使ったの?』

 

俺に頬を摘まれているからか、それとも話の中身が中身だからか、なのはは念話でそう聞いてきた。

 

『戦ってた時は使ってないぞ。終わってから魔力の循環量を増やして、あとは自然治癒』

 

『それ結局、魔法使ってないの……』

 

あくまでも試合、模擬戦なのだから、治癒魔法に限らず魔法を使うことはない。いきなり擦り傷などが消えてしまっても不都合だし。

 

なのはといくつか念話でやり取りしていると、くいくいと服を引かれる。振り返れば、アリサちゃんが頬を引きつらせながら苦笑を顔に貼りつけていた。

 

「と、徹?えっと、ほら……なのはもね、べつに悪態ついてるわけじゃないからね?そんなに怒らなくても、ね?」

 

「徹さん、あの……なのはちゃんは構ってほしくて憎まれ口みたいなこと言ってただけだと思うので……許してあげてもらえませんか?」

 

「……え?」

 

「……ふぇ?」

 

俺がなのはの顔を直視しながら、かつ、口を利いていなかったので、なのはの失礼な言動に腹を立てたのではと、二人は思っているらしい。

 

アリサちゃんはいつもの余裕を失って慌てているし、すずかもなのはと俺の顔を交互に見て狼狽(うろた)えている。

 

「……俺って、そんなに短気に見えるのか……」

 

「あははっ!アリサちゃん、すずかちゃん、大丈夫なの!徹お兄ちゃんは見た目よりも怒りっぽくないの!あんなので怒られてたら、これまで何回怒られてるかわかんないくらいだよ!」

 

「わかってんならわざわざ言ってんじゃねえよ。なんだ見た目よりって」

 

フォローしようとしているのか、追い討ちを仕掛けてきているのかわからない。

 

なので、なのはの頭に手を置いて、賞罰を同時に行使する。荒っぽく頭を撫でた。

 

「にゃあっ!あたま、あたまぼさぼさになっちゃうの!乱暴にしないで!」

 

「ちょうど中身と外見で釣り合ってるぞ」

 

「すんごく失礼なこと言われきゃあっ!やるならやさしくっ、やさしくしてっ!」

 

なかなか自身の行動を(かえり)みないなのはには、髪の毛ぼさぼさの刑を処した。

 

しばらくはぷんすかするだろうが、アリサちゃんにやったようにヘアアレンジで整えてやれば損ねた機嫌もすぐに取り戻せる。

 

それよりも問題なのは、俺が些細なことですぐに怒るような器の小さな輩だと思われていることである。そりゃあ、身近な人が危害を加えられたなど特定の条件下であれば沸点は限りなく低くなるだろうが、それ以外であれば寛容な部類だという自負があるのに。

 

「アリサちゃ……お嬢様は知り合ってまだ日が浅いからともかく、すずかは結構付き合い長いんだからわかっててほしかったぜ……」

 

「だって、わたしは怒られたことないですけど、なのはちゃんはたくさんお仕置きされてるので……もしかしたらわたしの前では怒らないだけで、実は、その……」

 

「まあ、なのはとのやりとりはお約束っていうか、そういう遊びみたいなもんなんだけどな」

 

「ひどいのっ!あたしとはあそびだったの?!」

 

「それ絶対外で言うなよ!」

 

頭を両側から掴んで必死の形相で説き伏せてから、すずかに向き直る。

 

「すずかは言葉遣い丁寧だし、お(しと)やかだし、悪いこともしないし、怒る必要がなかったんだよ」

 

「まるで遠回しに、あたしが失礼で悪い子でおしとやかじゃないって言ってるような言いかたなの!」

 

「遠回しもなにも、なのはと比較して言ってんだよ」

 

「ひどいっ!これはもう恭也お兄ちゃんに『徹お兄ちゃんにあそびの関係って言われた』って口がすべっちゃうかもしれないの!」

 

「そうやって脅しをかけるようなことをするのがダメなんだって……な・ぜ・わ・か・ら・な・い!」

 

「にゃっ、ぴゃっ、うにゃぁっ?!」

 

一言一言区切りながら、掴んだままのなのはの頭を右に左に大きく揺らす。短い悲鳴をいくつも吐いていたが、そんなこと知ったこっちゃない。

 

「……ねぇ」

 

「うん?どうした、お嬢様?」

 

「徹はいつも、わたしのこと……なんて呼んでた?」

 

「え?アリサちゃん、だけど」

 

「なのはのことは……」

 

「なのは」

 

「すずかのことは……」

 

「すずか」

 

「わたしのことは……」

 

「アリサちゃん」

 

「なんでわたしだけ呼び捨てじゃないのよ!」

 

「えー……」

 

なんだか筋の通らないところで怒られた。

 

助けを求めてなのはとすずかに視線を投げるが、さすがに二人も苦笑いだった。

 

「なによっ!なんだかそっちの二人とわたしの間で壁があるみたいじゃないっ!」

 

「壁なんか作ってないって……。なのはとすずかは恭也と忍の妹だから昔から親交があって、自然と呼び捨てになっただけだし……」

 

「ならわたしも呼び捨てにしなさい!今の呼びかたは距離がある感じ!や!」

 

「や、って……わかったよ。そこまで言うんなら変えるって」

 

唇はきゅっときつく結ばれているが、そこはかとなく瞳がきらきらしている気がする。

 

「…………」

 

「…………」

 

今この場で言え、とそういうことだろう。

 

しかし、そう期待されるとこちらとしては悪戯心が芽吹いてしまうというもので。

 

「これからはちゃんと『お嬢様』って呼ぶよ」

 

「ばかーっ!」

 

お茶請けとして置かれていたマドレーヌを投げつけられた。

 

「ごめん、ごめんって……つい出来心で……」

 

「ばかっ!このっ、このっ……ばかーっ!」

 

期待していたところを肩透かしされたアリサちゃんはご立腹だ。謝ってもなかなか許してくれない。日本語だけに限らず、さまざまな国の言葉がたくさん詰まっている優秀な頭脳を持っているのに『ばか』しか出てこないあたり、アリサちゃんのショックは相当である。

 

「うわぁ……」

 

「さすがに、ちょっと……かわいそうかと……」

 

なのはとすずかからの視線がすごく痛い。

 

マドレーヌを筆頭にぽんぽんと放られるフィナンシェやカップケーキ、ソーサーなどをダメにしてしまわないようにキャッチしてテーブルに戻し、アリサちゃんに近寄る。と同時にこれ以上投げられないようにアリサちゃんの手を取る。

 

「意地悪してごめんな」

 

「……悪いと思ってるんなら行動で示しなさいよ」

 

「……えっと、俺今日と明日は一応執事なんだけど」

 

「融通利かせなさいよ。……今は許すわ」

 

「それじゃあ……アリサ。機嫌直してくれよ」

 

「ふ、ふんっ……無神経で悪人面の徹なんて、もう知らないんだからっ」

 

つんつんした声音で斜を向いたアリサちゃん、改め、アリサ。

 

だが、呼びかたは言われた通りに変えたのに、許してくれるような様子がない。

 

「ど、どうしよ……」

 

「にいちゃ……徹お兄ちゃんっ……」

 

アリサに気づかれないようにするためか、なのはが小声で俺を呼んでいた。

 

藁にも(すが)る思いでなのはに助けを求める。

 

するとなのはは、綺麗にぱちんと両目の瞬きで返してきた。きっとウインクしようとしてできなかったのだろう。なんだこいつかわいいなおい。

 

なのはは物音を立てないようにおもむろに立ち上がると、すずかのすぐ隣についた。

 

「アリサちゃんにっ、アリサちゃんにするのっ」

 

何をするのかと思えば、なのははすずかの長い髪を指で()くように撫でていた。

 

「なのはちゃん……べつに実演しなくても伝わると思うよ……」

 

「うっわぁ……髪さらっさらなのっ」

 

「本題から逸れてるし……」

 

すでにこちらへの興味を失っているのか、それとも単に忘れているのか。なのははすずかの頭を撫でるのに夢中になっている。所詮はなのはだったか。

 

ともあれ、打開策だけは教えてくれた。

 

いろいろ諦めてされるがままになっているすずかに見送られながら、話の焦点を戻す。

 

俺をちらちらと見上げるアリサの頭に手を置いた。

 

今日の髪型は変則ポニテなので崩してしまわないよう気をつけながら撫でる。

 

「許して、アリサ」

 

「ま、まぁ、そこまで言うんなら許してあげるわ。不出来な親友を許してあげる。寛大で寛容なわたしがね!感謝しなさい!」

 

「感謝するよ、出来のいい親友に」

 

「んー……」

 

目を細めて俺の手に頭を押しつけるような仕草をする彼女は、どこか猫のようだ。

 

「……やっぱり撫でるの、うまいわね」

 

「そうか?まあ下手よりいいよな」

 

「いろんな女にやってそうでイメージがよくないわね」

 

「……下手なら下手でだめなんだろ?」

 

「あたり前じゃない」

 

「どうしろと」

 

あまりに乱暴な理屈に、思わず笑ってしまう。

 

ふと、顔を横に向ける。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……あ」

 

なのはとすずか。四つのつぶらな瞳が、まるで俺を責めるように見つめていた。

 

「アリサちゃんだけ……あたしがアドバイスしたのに……」

 

「いや、結果的にこっちのことほっぽらかしてたじゃん」

 

「…………」

 

「す、すずか……せめてなにか喋ってくれ……」

 

「ほら徹、わたしの客人が不服みたいよ。満足させてあげなさい」

 

「……お嬢様は執事使いが荒いよな」

 

「わたしは優しくはあっても甘やかしたりはしないんだからね」

 

片目を閉じて指を差す俺のお嬢様は、それはもう抜群に愛らしかった。

 



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俺に味方はいなかった。

どうやら俺は今日、本当にバニングス邸に泊まることになっているらしい。冗談かと思っていたが、というか冗談だろうと自分に言い聞かせていたのだが、夕食後にごく自然にお風呂へと誘導されたあたりでようやく諦めた。

 

ただこの空間をお風呂と表現すると語弊があるかもしれない。大浴場といったほうが適切だろう。足元がとても滑りやすいことを恐れないのなら、フットサルくらい余裕だ。足を伸ばしてお湯に浸かれるところは最高だが、ここまで広いとかえって落ち着かない。

 

「晩飯、うまかったなあ……」

 

湯船の端に背を預けて天井を仰ぐ。肩まで浸かって寛ぎながら晩ご飯の味を思い出していた。

 

と、同時にプレッシャーも感じていた。

 

それというのも、バニングス家の料理人、北山氏の料理に夢見心地で舌鼓を打っている時にアリサに命じられたのだ。

 

『明日のお昼は徹が作りなさい』と。

 

もともと俺が料理を振る舞うという約束もしていたのでなんにせよ避けようはなかったのだが、今日の超絶美味な晩ご飯の後に作るというのは、多かれ少なかれプレッシャーを感じざるをえない。

 

「……ん?なんの音だ?」

 

今から献立を思案していると、ライオンの口から吐き出されるお湯の音とは違う音を聞き取った。

 

かすかな物音と話し声、だろうか。

 

念のためタオルを腰に巻き、音と声のする方向へと近づいてみる。

 

「……こ……なことばれたら……。やめたほうがいいよ……」

 

「とか……いいながら……かだって、一緒に……てるじゃない」

 

「だいじょうぶなの!徹お兄ちゃんならこれくらいで怒らないよ!」

 

「なのはちゃ……声大き……」

 

「……じゃない?どうせ……らもう気づ……るでしょ」

 

「そ……そういうことじゃなくてっ……」

 

「アリサちゃん。相手にばれないようにのぞいてるっていう背徳感がいいんだよ。ね?すずかちゃん?」

 

「やめて、同意を求めないで……。同じ趣味を共有する同志みたいに言わないで……」

 

「……なにやってんのお嬢様方……」

 

扉を開くと、お嬢様たちが三人とも揃っていた。

 

「あはは、ばれちゃったの!」

 

「うん、相変わらずよく鍛えてるわね。いいことよ」

 

「ち、ちちがうんですっ!わたっ、わたし、止めたんですけど、覗きなんて悪いって言っ……言ったんですけどっ」

 

驚くべきことに、すずか以外悪びれる様子がなかった。

 

なのはは笑って誤魔化して腕のあたりを重点的に見ていて、アリサに至っては腕を組み全体的なバランスを眺めて頷いている。

 

良いか悪いかは別として、いや当然悪い意味なのだが、この中ではアリサが一番堂々としている。風呂の覗きをしていた引け目なんてまるでない。

 

その点でも、すずかとは正反対と言える。悪いこと、いけないことをしていたという自覚のあるすずかは居た堪れなさそうに縮こまっている。そして目が泳ぎっぱなしだ。

 

「わぁ、やっぱりすごぃ……ひゃぁ……」

 

下腹部を見ては目を伏せて、胸元を見ては顔を背け、首元を見ては頬を赤らめる。恥ずかしそうにはしているのだが、なんというかこう、一番反応が生々しい。こっちが恥ずかしくなってくるタイプである。恥ずかしがるわりに目を瞑つぶろうとはしないんだな。

 

まあ、何よりも問題なのは、それとは別のところにあるけれど。

 

「なあ、お嬢様方。女の子が男の入浴中に侵入するという世にも珍しい逆覗きがばれたんだからさ、急いで脱衣所から出るくらいの恥じらいを見せてくれてもいいんじゃない?」

 

一向に退出しようとしない三人に苦言を呈してみる。

 

するとアリサが、口元に手をやって悩むような素振(そぶ)りをして、一つこくりと頷いた。

 

「徹、なにかポーズ取ってよ」

 

俺の苦言はまるで届いていなかった。

 

「アリサ、アリサお嬢様。俺の切実な訴えは聞いてくれてなかったのか?」

 

「聞いたわ。聞いた上で無視したのよ。べつにいいじゃない。せっかくいい身体してるんだから。へるもんじゃないし」

 

「アリサちゃん良いアイデアなの!徹お兄ちゃんっ、こう……腕を、こうっ!」

 

アリサのとんでもない提案に、真っ先に食いついたのはなのはだった。

 

「なのは……お前……」

 

「い、いいでしょっ!こんな時にしかお願いできないもんっ!」

 

腰にタオルしか巻いていない状態なんてそう何度もあってたまるか。一度としてあってはならない機会だこんなもん。

 

「だ……だめだよっ、なのはちゃんっ」

 

熱に浮かされたようなおかしいテンションのなのはに憐れみの目を向けていると、すずかが大きな声でなのはを(たしな)めた。

 

まだすずかがまともな神経を常識を持ち合わせてくれていて助かった。すずかも覗きには加担してしまっているが、それだってなのはとアリサを止めようとして失敗しただけなのだ。どちらかといえばすずかは俺の味方側なわけで

 

「こういうのは自然体がいいんだよっ!」

 

俺に味方はいなかった。

 

「湯船に浸かってリラックスしてる時の表情と弛緩した筋肉、濡れた髪から滴る水滴が首筋を伝うところなんてこれ以上ないくらいのカットだったじゃないっ」

 

「…………」

 

俺が気配を感じたのは湯船から上がる寸前だったのだが、いったいいつから覗かれていたのだろうか。

 

「す、すずかちゃん、よくそこまで見れたの……。あたしは湯気でもくもくしててそこまではっきりと見えなかったのに」

 

「自然体、ね。やっぱりなのはの言う通り、背徳感がそそるの?」

 

「あ……ち、ちがっ……」

 

ようやく自分がとんでもない発言をしたことに気づいたようだ。なのは、アリサ、そして俺を順繰りに見て、顔を真っ赤に染め上げた。

 

「わた、わたしっ……ちがうんですーっ」

 

懸命に何かを否定しながら、すずかは脱衣所から走り去っていった。

 

多少タイミングを外している感は否めないが、本来そういうリアクションが正解である。

 

すずかの後ろ姿を見送って、アリサがため息をついた。

 

「はぁ……すずかはもう、しかたないわね」

 

「そうだね」

 

「あとから写メでも見せてあげればいいでしょ」

 

「そうだねっ!」

 

「いや、出てけよ」

 

 

 

 

 

 

一方的に見られるのは癪なので『お前らも風呂入ればいいだろ』と強がったら『それもそうね、ついでだし今入っちゃおうかな』と平然としたトーンでアリサに更に上をいく切り返しをされた大浴場での一騒動もなんとか収まり。ちゃんと俺が上がってから、アリサ、なのは、すずかの三人はお風呂に入った。

 

「……で、泊まるっていっても、俺はどこで寝ればいいんだ?」

 

交代で湯浴みを済ませて、再びアリサの部屋。

 

テストの復習勉強にも飽きたので、俺たちは寝るまでの暇つぶしにゲームをしていた。世界的有名メーカーから出されている某大乱闘ゲームでキャラクターを選びながらのアリサへの質問である。

 

しっとりと水気を孕んだ髪を揺らしてアリサが時計を確認する。

 

「ん、もういい時間だったのね」

 

「明日も休みなんだし、少しくらい夜更かししてもー」

 

「だ、だめだよ。お休みの日に夜更かししちゃったら学校がある日に起きるのが大変になるよ?」

 

「すずかの言う通りだぞ、なのは。そんなに朝強くないだろ」

 

「そうだけど……すずかちゃんよりは強いかも?」

 

「うう……」

 

「おい、本当のこと言う必要ないだろう」

 

「徹もフォローに見せかけた追い討ちやめなさい。明日も動くつもりだからもうそろそろ寝るとして……問題は徹の寝る場所ね。……わたしのベッドでいいんじゃない?」

 

お嬢様がとんでもないことを言い出した。このままだと俺にとって都合の悪い流れになるのは目に見えている。

 

どうにか場の空気がそっちに流れる前に、断ち切る。アリサにやんわりと反論する。

 

「いやいや、さすがにほら……だめだろ」

 

「なにがだめなの?」

 

心底不思議そうに小首を傾げるアリサ。ここまできょとんとされると言葉が引っ込んでしまいそうになるが、どうにか絞り出す。

 

「あー、俺身体大きいからお嬢様のベッドには……」

 

「なのはとすずかと三人で寝て転がってもあまってるくらいよ。徹が入ったところで問題なんてないわ」

 

「いいアイデアだよアリサちゃむぐっ」

 

「なのは、ちょっとだけ静かにな」

 

「むーっ」

 

余計なことを口走ろうとするなのはの口を手で塞ぐ。なんだかむーむー呻ってるけど気にしない。

 

いざアリサを説得する。

 

「わ、わたしも賛成かなーって……思ってたり……」

 

安心しきっていた背後からぐさっと刺された。

 

「すずか……お前まで」

 

「す、すいませんっ」

 

「べつにいいじゃない、一緒に寝るくらい。前も寝たのに」

 

「なにそれきいてないの!」

 

この話に流れ着くだろうと思ってどうにか早めに決着をつけたかったのに。

 

仕方なくなのはに説明する。

 

「ほら……ちょっと前にお嬢様とすずかが俺の家に泊まりにきたってのは言ったろ?その日は姉ちゃんがうるさかったから全員リビングに布団敷いて雑魚寝したんだよ」

 

「んむーっ……」

 

なのははとても不服そうだ。前も文句を言っていたし、自分も呼んでほしかったのだろう。

 

「また一緒に寝ましょ?徹が隣にいるとゆっくり眠れるのよね」

 

「でもな……」

 

今回はなのはイン、姉ちゃんアウトでピッチ上がまずいことになっている。さすがの俺でもこれには思うところがある。

 

「みんなで同じベッドに寝れば問題ないの!」

 

「問題しかねえんだよ」

 

「わ、わたしもなのはちゃんの意見に賛同、しますっ」

 

「すずかまで……」

 

「なによ、徹。いやに食い下がるわね。そんなにいやなわけ?」

 

「む……」

 

嫌ではないから業が深いのである。別に誰に知られるわけでもないし見られるわけでもない。(やぶさ)かではないというか断る理由がそもそも希薄なくらいだが、ロリコンだのなんだのと揶揄(やゆ)される身の上とあっては、なるべく槍玉に上げられそうな行為は避けたいのだ。

 

「……いやってわけじゃないけど、この部屋ならカーペットも上等なの使ってるし、床でも普通に寝れるから……」

 

実際、寝ようと思えばフローリングだろうと畳だろうと布団がなくとも寝ることはできる。つい最近、管理局の任務で刑務所の方がマシに思えるような悪辣(あくらつ)にして過酷(かこく)な環境で就寝したことを思えば、たとえこの部屋の床でもだいぶ恵まれている。大判のタオルケット一枚あればお釣りがくるくらいだ。

 

しかし、我が儘ではあるがベースが心優しい俺のお嬢様は、それでは納得してくれなかった。

 

「徹を床で寝させるなんてできるわけないでしょ。んー……そうだ!ゲームするの!」

 

「……ん?ゲームなら今もしてるけど……」

 

「ちがうわよ。んにゃ、ちがわないけど」

 

どっちだ。

 

「賭けをするの。最後に一回対戦して、徹が勝てば、徹の好きなようにしていいわ。床でもソファでも違う部屋でも寝ていいわよ。あ、もちろん、ベッドでもね」

 

「俺が負けたらそっちの要望通りにする、と」

 

「そういうこと。公平だし、きりもいいでしょ?」

 

「そうだな。いつまでも話し合って寝るのが遅れるよりずっといいか。よし、やろう」

 

俺はアリサの申し出を受け入れた。

 

三人と同じベッドに入ることを良しとしない俺と、頑として譲らないアリサでは話は平行線だ。

 

アリサのこの取り引きは、時間という面においても、内容においても俺にとって都合がいい。

 

なのはは普段から頻繁にゲームをしているわけではないので戦力にはならないだろう。

 

習い事もたくさんあるのに、いったいどうやって時間を捻出しているのか知らないがゲーム好きなアリサは強敵といえば強敵だが、何度か戦って立ち回りと戦術は覚えた。

 

難敵はすずかだ。なのはと同じく常日頃からテレビゲームに触れてはいないはずだが、持ち前の真面目さと堅実さ、吸収力、それらに加えて異常なまでの動体視力の良さがある。ゲームを始めてから夜も深くなってきているというのにリザルトは右肩上がりに向上する一途だ。

 

すずかは脅威となるが、さすがにまだ俺のほうが実力としては上だろう。

 

この賭けは俺が勝つ。

 

そう確信していた。勝ち切るという自信があった。

 

だから、だろうか。油断があったのかもしれない。

 

参加を決めた俺に、アリサはにやりと意地悪な笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

「はーはっはっ!」

 

「なっ、な……」

 

時間制限がゼロとなり、画面に順位が発表されると同時にアリサは高笑いした。

 

結果は、俺の一人負けだった。

 

「やったーっ!」

 

「えへへ、うまくいってよかったね」

 

「わたしの……ううん、わたしたちの勝利よ!」

 

三人はぱちんとハイタッチする。

 

迂闊(うかつ)だった。

 

俺の算段はあまりにも見込みが甘かった。

 

勝利条件を見誤ったこと。三人の仲の良さと、三人が目的と手段を共有していたこと。だが、やはり一番の原因はアリサの閃きだったろう。

 

「くっ……いや、いやいや、ちょっと待て。いつからストック制からタイム制に切り替わってたんだ……」

 

「徹がちゃんと画面を見てないのが悪いのよ。ちなみにすずかが徹にお茶をすすめて、なのはがじゃれついてた時にやっておいたわ」

 

「ち、チームプレーじゃねえか……狙ってただろ!」

 

「えー?そんなことないけどー?チームプレーって言うけど、ゲーム中は徹以外にも攻撃してたし?」

 

「ぐっ……」

 

たしかに三人は俺だけを集中的に攻撃していたわけではない。俺対アリサ・すずか・なのはのチームバトルにもしなかった。対戦前はチームバトルにしなかったことにも安心してしまっていたのだ。それがアリサの策の一部だとも思わずに。

 

「結局俺はなのはを一回撃墜しただけ……三人のうちの誰かにダメージが重なったら、一番低い一人が俺について、残りの二人が俺から離れて戦ってた……俺にポイントを取らせないためにっ!」

 

「ふふっ……」

 

真相に辿り着いた俺を、ほぼ確実に首謀者であるアリサは悪びれもせずに影のある笑みを浮かべた。

 

「いまさら気づくなんてね。そうよ。ストック制だと、どうごまかそうとしてもなのはが最下位になるのは避けられない」

 

「思いもよらぬところであたしがさらっと傷つけられたの!」

 

ショックを受けるなのはを放ってアリサは続ける。

 

「だからこそのタイム制。それなら、スマッシュぶっぱしかしないなのはでも勝たせることができる。だって徹は……」

 

「……ポイントを、稼げないから……くっ」

 

「ふっふ……あーはっはっ!徹はわたしたちの作戦にきれいに引っかかったわけよ!」

 

結果が出てしまった今では、何をどう言おうが負け犬の遠吠えにしかならない。このずる賢さ、何処かの誰かと重なるところがある。まさか姉ちゃんから教えてもらった『頭脳プレー』をここで発揮してくるなんて。

 

悪女のように高笑いするアリサは、一位に、すずかに振り返る。

 

「さあ、すずか!徹に命令するのよ!今この瞬間、この場所での王はすずかなんだから!」

 

「そ、それでは徹さんは……」

 

賭けの順位は俺が最下位、次いでブービーがやっぱりなのは、僅差で後塵を拝したのがアリサ、王者に輝いたのはすずかだった。

 

事前の取り決めでは、俺が勝てば俺の好きなように寝床を決められた。他の人が勝った場合、その人の好きなように選べるという、まるで王様ゲームのような図式になっていたのである王様ゲームやった事ないけど。

 

諦念のため息をついて、王女様からの下知を待つ。ご主人様の命令は絶対だが、女王様の命令もまた絶対なのであった。

 

コントローラーを静かに置いたすずかが、伏し目がちに俺を見る。その瞳は、鈍く、されど妖しげな光を放ったように見えた。

 

「……ソファで寝てください」

 

「そうよ!ソファで……え?」

 

「す、すずかちゃん?!」

 

共犯者二人は同時に大きく目を見開いた。

 

俺がベッドで寝たくないような態度だったのをすずかは察してくれたようだ。気を使ってくれたのだろうが、なぜだろう、ざわつく悪寒が拭えない。

 

すずかがこちらへ手を伸ばす。しっとりとして艶のある紫髪が一房、すずかの顔にかかる。

 

「ありがとう、すずか。俺を気にして……」

 

夜が更けるごとに、背筋をぞくりとさせるような響きを言葉に乗せてきたその口が、再び開かれた。

 

「徹さんだけ一人というのは寂しいでしょうから、わたしもソファで寝ますね」

 

光へ誘う救いの手かと思いきや、闇へと引きずる絶望の手だった。

 

「ちょっとちょっとすずかっ!計画とちがうじゃない!」

 

「すずかちゃんだけずるいの!」

 

しかし、ここで待ったが入った。首謀者のアリサと協力者のなのはが異議を申し立てた。

 

すずかは二人に真っ向から反論する。

 

「ずるいなんて言わないでほしいなぁ。だって、わたしが聞いたのは徹さんに勝つ方法、その作戦だけだよ?」

 

「なに言ってるの!わたしたちが勝ったら徹はわたしのベッドで寝るって決めてっ……」

 

「違うよ?決めてた条件は、徹さんが勝てば自由に、負けた場合は勝者に決めさせるってことだよね?」

 

「わたしは、勝ったら徹はわたしのベッドでって……」

 

「それはアリサちゃんが勝った場合の要求でしょ?わたしの要求じゃないよ」

 

「わひゃぁ……」

 

「おおう……」

 

すずかは長い髪を手櫛でかき上げ、据わった瞳でアリサを見やる。ばちばちと火花が散るような舌戦の最中だと言うのに、すずかの口元にはかすかな笑みすら浮かんでいる。今宵のすずかは、纏う雰囲気から異なる。

 

「はわー……すずかちゃんって、けっこうすごいんだー……」

 

なのはに至っては既に話についていけずに思考停止していた。

 

しかし、これはどうしたものか。空気が(にわ)かに剣呑なものへ推移してしまっている。このままでは気の強いアリサと喧嘩に発展しかねない。なんとかせねば。

 

「すずか、すずか」

 

背後に回り、アリサと軽いがんの飛ばし合いをしているすずかの肩をちょんちょんとつつく。

 

「はぁい?」

 

瞳の奥に妖しげな輝きを灯すすずかが、普段とは異なる、どこか色気を感じさせる声で振り返った。

 

「そいっ」

 

「ぴゃっ!?」

 

すずかの目の前で、遠慮なしにそこそこ強めに柏手(かしわで)を打った。いわゆる猫騙しである。

 

音の衝撃で目を白黒させているすずかの両頬に手を添えて話しかける。

 

「起きたか、すずか?」

 

「ち、ちきゃ……徹さ、近いですっ……っ!」

 

「俺が質問してるんだ。起きてるか?」

 

「は、はいっ!しっかり起きてますっ!」

 

「そっかそっか。それならいい。ちょっと寝ぼけてるみたいだったからな。前にも見た」

 

以前、すずかの家、つまりは忍の家、月村邸にて勉強会を開いた時、朝の弱いすずかを起こしに行ったことがあったが、その時もさっきのようなおかしな雰囲気を醸し出していたのだ。もしかしたらと思ってやってみたが、どうやらあたりだったようだ。

 

「あ、あれ……わたしなにしてたんだっけ……?というより、え?前に……前に見た、っていつですかっ?!最近泊まりに行った時の言い方じゃなかったですよね……」

 

「ああ、あれも覚えてないのか」

 

さっきの妖艶な寝ぼすけ状態の記憶がはっきりしていないのと同様に、勉強会の朝のことも覚えていないようだ。眠たくなっている時のすずかには要注意である。

 

「い、いつ……ですか?わ、わたし、寝てるところなんてっ……」

 

「あー、それは……」

 

俺が説明しようとしたその瞬間、両肩をぎゅっと掴まれた。

 

「女の子の寝顔を無断でのぞき見た件も含めて……」

 

「……しっかり話してもらうの!ベッドで!」

 

振り向けば、アリサとなのはが心胆寒からしめる冷たい笑顔で俺を見ていた。

 

照明の具合、だと思いたい。二人のお顔には影がさされていてとても迫力がある。

 

「いや、だから……はあ……」

 

容疑者を連行する警察官のように両隣をアリサとなのはに挟まれる。俺が逃げないようにしているのか、それともただ単に真っ赤に染まっている顔を見られたくないのか背後にはすずかが控えている中、小学生が寝るには大きすぎるベッドへ向かう。どうやら俺の釈明が、子守唄がわりの寝物語になりそうだ。

 

女の子の寝顔を覗いたのは悪いとは思うが、人が風呂に入っているのを覗くのも同等以上に悪いと思う。なので罪は相殺されて然るべきだが、それとこれとは別なようだ。



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俺は、選択を誤った。

短めのお話が続いてます。


 

「……あっつ……」

 

寝覚めは決して良いとは言えなかった。

 

ベッドまで連行した形のまま両脇に居座ったなのはとアリサに腕を枕代わりとして使われているし、体温が比較的高い子どもがくっついているせいで平熱の俺からすれば多少暑苦しい。寝返りも満足にできない不自由さと、暑さによる寝苦しさ。

 

加えて。

 

「ん……ん。すぅ……」

 

「よく寝てられるな……寝づらくないのか」

 

俺の上で規則正しい寝息を小さな口からもらしているすずかの重みもまた、少々困った点である。

 

昨日、ベッドに入る前、どこに寝るかと言う段階で話がこじれた。

 

普通に寝転がれば隣につけるのは二人のみとなる。必然的に誰か一人が隣にならなくなってしまうのだ。

 

そこですずかから提案されたのが、俺の上で寝るという常軌を逸した奇抜なアイデアだった。これは前にやった天体観測の時の体勢から着想を得たのだろう。どこに注目しても問題があるが、他に案はないということで通ってしまった。

 

そんなこんなで、賭けに勝ったすずかが俺の上で寝ていた。枕として使うにはどう考えても不適格な俺をどうして枕に利用しようとしているのかは(はなは)だ理解に苦しむが、慕われているのはなんとなくわかるのでそこは嬉しい。

 

「ふぁ……ぁむ」

 

まだ早い時間だが、もぞもぞと動く気配があった。

 

器用に俺の上で眠ってたまに顔を首元にこすりつけてくるすずかではなく、俺の腕を抱き枕にしてコアリクイの赤ちゃんばりにひっしとくっついているなのはでもない。

 

腕の付け根あたりに小さな頭を置いて、俺のTシャツを握っていたアリサだった。

 

平日だけでなく休日も早起きする性分なのか。そういえば俺の家に泊まりにきた時も俺の次に起きるのが早かった。

 

「もう、朝……」

 

「おはよう、お嬢様」

 

「あ、徹……。あいかわらず起きるのはやいわね……ふあ、あふ」

 

「いつもこのくらいの時間で起きてるし、今日はこんな感じだからな」

 

「……ああ、そういえばそうだったわね」

 

まだ眠たげに目をこすったり俺の腕に顔を押しつけたりしながら、アリサは視線をすすっと俺の上あたりに移す。そこには夢の世界に旅立ったままのすずかが、鏡餅の一番上のように、のぺっと俺に乗っかっていた。

 

「わたしやなのは以外でこんな油断した顔するなんてね」

 

「気の抜ける環境があるのはいいことだ。それが男の上ってのはどうかと思うけど」

 

「ふふっ、徹の近くは安心できるからね」

 

「不安になるよりかましだろうけど、動けないってのがどうにもな……」

 

「あははっ、すずかは朝弱いからこんな時間じゃ絶対起きないわよっ。……あ」

 

俺の腕に頭を乗っけたまま乱れた髪を整えていたアリサが、すずかやなのはを起こさない程度の声を上げた。起き抜けだというのに、悪戯っぽくにやりと笑みを作る。

 

嫌な予感しかしない。

 

「ふっふーんっ、ケータイっ、ケータイっ」

 

やっぱり恐ろしいことを計画していた。

 

この現状をデータに残されたら一大事だ。俺の人生においての大惨事だ。

 

「こら、こらこらこらっ……やめなさいお嬢様。いえ、やめてください」

 

「こら徹、動いちゃだめでしょ。なのはが起きちゃうし、すずかが落ちちゃうわ」

 

「それなら携帯に収めようとすんな」

 

「わたしは楽しいことを自発的に求めてるだけよっ」

 

「それ自体はいいことだけどっ、俺に被害がもたらされるんだよっ」

 

「ふんっ、ほとんど動けない徹なんて恐るるに足らずっ」

 

「絶対にさせないっ……ただでさえボイスレコーダーで厄介なの録られてるんだからな!」

 

「きゃっ、乱暴しないでっ!」

 

「声がでかいっ……あと不適切な言いかたをするなっ」

 

「なによ、ほんとじゃない。乱暴に頭を引き寄せたんだから。あ、でも強引にされるのもなかなかいいわね」

 

「いいのかよ……」

 

「ほら、そろそろ放しなさいっ。記念写真を残せないでしょっ」

 

「残さなくていいんだよ残されたら困るんだよっ」

 

ベッド脇にあるアリサちゃんの携帯まで取りに行かせないように、黄金色の頭を首元まで引き寄せる。もぞもぞと抵抗するが、女子小学生の力で俺の拘束から抜け出せるべくもない。

 

「もうっ、かくなる上はっ……」

 

これで一安心かと気を緩めたその一瞬の隙に、アリサはあえて近づいた。

 

「……ちゅ」

 

「んっ?!」

 

俺の頬に、軽く口づけした。

 

予想外の手を思いつくことに定評のあるアリサのさすがな切り返しの一手に、一瞬頭が真っ白になった。

 

「隙ありっ」

 

「あ、くそっ……」

 

俺が面食らったその間隙を突き、アリサは拘束から抜け出した。

 

そういえば、アリサは勉強だけでなく運動もできると聞いたことがある。その恵まれた運動神経を、早朝のベッドの上だというのに無駄に遺憾(いかん)なく発揮してくれやがった。

 

俺の腕を払うや、そこからもう一度捕獲されないようにと俺の腕を小ぶりなお尻で踏んづけた。

 

「ちょっ……アリサっ」

 

「お嬢様」

 

「お嬢様っ、ずるいだろこれはっ」

 

「ずるくないわよ。武器だもの、女の」

 

「今からそんな生き方してたらろくな大人にならないぞっ。忍みたいになるぞっ」

 

「忍お姉さんみたいになれるんならこれからもこのまま突き進むわ。パパからも教えられてるもの。交渉は、たとえ少しくらい強引でも自分に有利な形に持っていくのが大事だって」

 

「そもそも小学生に教えるようなことじゃないってのをまず言わせてもらうけど、バニングスさんも絶対そういう意味で言ったんじゃないからなっ」

 

「とにかく、徹。動いちゃだめよ?女の子の身体は繊細なんだから」

 

「繊細ならそんな使い方すんな!」

 

「大声出したら二人が起きちゃうわよ。しー、よ……ふふっ」

 

「こ、このっ……」

 

「ふふーん、ふーんっ」

 

鼻歌交じりにケータイに手を伸ばすアリサを、俺は止められない。

 

片手はお尻で踏まれ、片手はなのはに抱きつかれ、お腹の上にはすずかが乗っている。そのせいで身体を傾けることもできない。

 

正直なところアリサくらいなら片手でも簡単に持ち上げられるけれど。

 

「ひゃんっ!……ちょっと、徹。いたずらにしては度が過ぎてるわよ。デリカシーに欠けるわ」

 

「デリカシー云々言うんなら股で挟むなよ……」

 

アリサ言うところの『女の武器』のせいで、力づくで腕を動かすこともできない。完全に罪だ。いや違う、詰みだ。

 

「はい、持ってきたわよ。ふふっ、みんながフレームに入るようにしなきゃね」

 

「……頼むからさ、それを誰にも見せないでくれよ。とくに忍あたりには」

 

「大丈夫よ。ただの初お泊り会の記念写真、思い出作りだもの」

 

にこにこ顔でケータイを持ってきたアリサが、いろいろ諦めた俺の顔のすぐ近くまですり寄って携帯を持ち上げる。画面には普段より険のある見知った顔の男が映り込んでいた。というか俺だった。

 

さーん、にー、いーち、とカウントダウンしていたがゼロのタイミングでアリサがこっちを向いた。

 

「これはおわびよ」

 

「なっ……」

 

ちゅ、と再びアリサが俺の頬にキスをした。

 

アリサはお詫びと言っていたが、元から危険な一枚をさらに危険な代物に昇格させただけである。

 

このあと、画像データが俺の携帯に送られてきた。

 

すぐ近くで眠る可憐な女の子二人と、一人にキスされている強面の男という、稀に見る凶悪な一枚だった。

 

 

 

 

 

 

「なんで起こしてくれなかったのっ!そんな楽しそうなことずるい!」

 

「だって、なのはったらぐっすり眠ってたじゃない。最後のほうなんてけっこう騒いでたのに」

 

「たしかにばたばたしてたよな。よく起きなかったもんだ」

 

「だって、気持ちよかったんだもん……」

 

「あー。たしかにベッドふっかふかだったよな。あれは熟睡しちまうわ」

 

「……んーっ、もうっ!もうっ!」

 

「なに、なんだよ……叩くなって」

 

「寝顔見られちゃった……はずかしい……」

 

「すずかは寝る前も寝てるときも相当だからいまさら寝顔くらいどうってことないわよ」

 

「ね、寝る前ってなに?!わたしなにかやったの?!記憶がもやもやしててあんまりおぼえてない……」

 

「わたしとなのはを裏切って抜け駆けしようとしてたわ」

 

「なにしてるのわたしっ?!」

 

「お、おぼえてないんだね……」

 

「寝ぼけてたしな。……さて、次はどこにいくんだ?」

 

「そうね。そろそろ夏も近いし、夏物見ておきたいわね」

 

太陽が真上から少し傾いた頃、俺たちはバニングス邸から場所を移し、ショッピングにきていた。

 

アリサが発案して、他に行きたい場所もなかったので俺たちはそれに続いた形だ。当然なのだが、行く店行く店女の子っぽさが前面に押し出されていて、居づらいことこの上ない。

 

「徹さん、荷物重くないですか?」

 

寝顔を見られたことで赤くなっていた顔が元に戻ったあたりで、すずかが後ろから声をかけてきた。

 

こうして気にしてくれるあたりが、すずかのいいところである。

 

「おう。大丈夫だぞ、このくらい」

 

「でも、結構な量に……」

 

「心配すんな。百キロまでは重さじゃないってのが俺のキャッチコピーだからな」

 

「そんな、百人乗っても大丈夫、みたいな……」

 

お店からお店の移動中、細い道を通るので、歩行者の邪魔にならないようなるべく縦になって歩いていた。

 

前を歩くなのはとアリサの後ろ姿を眺めていると、すずかが思い出したように切り出してきた。

 

「あ……そうだ。お昼ご飯、おいしかったです」

 

「ん?いきなりどうした?」

 

「い、いえ、あの……ちゃんとお礼言えてませんでしたから、言っておこうと……」

 

「はは、わざわざありがとな。嬉しいよ」

 

すずかははにかむように顔を伏せた。

 

手が空いていれば頭を撫でたくなる仕草だったのだが、残念なことに俺の両手はお嬢様たちの購入した服やら靴やら小物やらで塞がっているのであった。

 

「昨日の晩に絶品の料理を頂いたからな、印象薄れるだろ?順番が逆ならなー」

 

「そ、そんなことないですっ。確かに昨日の晩ご飯もすごくおいしかったですけど、徹さんはわたしたちの好みにあわせて料理を作ってくれて……なんというか、こう……心がこもってました!」

 

「心、か……そう言ってくれるとなんだか嬉しいけど、でもちょっと打算もあったから、ちっと心苦しいな」

 

「打算、ですか?」

 

「ほら、普通に作ったら北山さんの料理には敵わないからさ、好物で攻めれば喜んでもらえるかなーって。ちょっとずるいよな」

 

今日の昼食は、昨日アリサに命じられた通り俺が腕を振るった。

 

ただ、名料理人北山さんが作った晩御飯のイメージが抜けきらないまま、すぐに作らなければいけなかったことが不運だった。どうにか記憶に残る料理にしようと思って各々の好物を作ったという、狡っからい計算である。

 

「ずるいなんて、そんなことないです!だって、わたしたちに喜んでほしいって思って、徹さんは一生懸命作ってくれたんですから……ずるいなんて、そんなことないですっ」

 

半ば怒るように激しく、俺をまっすぐ見つめてすずかは言った。

 

なぜそんなに必死そうに反論するのか、当人である俺にすらわからないが、その姿にはとても胸を打たれた。

 

「あははっ、俺よりもすずかのほうが一生懸命になってるぞ」

 

「だ、だって……徹さんがへんなこと言うから……」

 

「ははっ、くくっ……あははっ」

 

「ちょ、ちょっと……笑いすぎ、ですよ……」

 

「ごめんごめん。ああ、そうだ。また今度、もう一回作ることになると思うからさ、その時はすずかもどうだ?食べてくれるか?」

 

「はいっ、ぜひ!……もう一回作るんですか?」

 

「ああ。本来振る舞うはずだった鮫島さんが不在だったからな」

 

今日も今日とて鮫島さんは、バニングスさんの会社で起こったごたごたの収拾のために奔走しているようだ。アリサが言うには、新たな問題が見つかったらしく、今日はまだ鮫島さんの姿すら見られていないほどだ。

 

「あ、そうか……。ふふ、アリサちゃんが言ってました。鮫島さんは徹さんの料理をすごく楽しみにしていたそうですよ」

 

「そいつは嬉しいことを聞いたな。次は食材から自分で揃えて頑張るとしよう。しかし……タイミング悪いよな。バニングスさんの仕事が忙しいんだから仕方ないんだけどさ」

 

鮫島さんの忙しさは凄まじく、お嬢様を送ることもできないほどだ。なので、バニングス邸から街までの足も懇意にしている会社のハイヤーを使った。移動手段に公共交通機関ではなく迷いなくハイヤーを選ぶあたり、生まれの違いを見せつけられている気分だった。

 

「前、塾から帰る時も鮫島さんの代わりに徹さんがきてましたし、ずいぶんトラブルが長引いてしまってるんですね」

 

「大きい会社なもんだから、事態も大きくなってんのかもな……」

 

言われてみれば、そうだ。先週からずっと、トラブルが続いている。一つのトラブルがここまでずっと尾を引いているのか、それとも別のトラブルなのか。

 

本来はアリサの執事である鮫島さんまで出張らなければならないほどのトラブルが発生し続けるというのは、ありえる話なのだろうか。

 

「……いや、実際に今起きてるわけ、だし……」

 

「ど、どうしたんですか……徹さん?」

 

何か、小さな違和感を、かすかな胸騒ぎを、不意に感じた。

 

先週、鮫島さんに、アリサとすずかを迎えに行ってほしいと頼まれた時、鮫島さんはなんと言っていたか。

 

迎えに行った帰り道、なにがあったか。

 

会社のトラブルが長引いた結果、常に執事としてアリサを送迎・警護していた鮫島さんが現状、アリサから離れざるをえなくなっているのは偶然か。

 

まだある。一度考え始めれば、次々と思い当たる。

 

俺とアリサが出逢うことになった原因の事件、あれを仕掛けてきた輩はどうなったのか。状況から推察するにどうやらバニングスさんの会社に関わることだったようだが、その問題は解決したのか。

 

点でしかなかった事実が、頭の中で徐々に繋がっていく。

 

推測を続ける俺の耳にエンジン音が入ってきた。遠くから、どんどん近づいてくる。

 

「あ、大きいトラック……なのはちゃーん、アリサちゃーん、危ないから端に寄って……」

 

「……トラック?」

 

日曜日だと大通りは買い物客でごった返す。身体の小さなアリサたちだと歩きにくいし、はぐれる可能性もある。それに人混みの中から不逞の輩に接近されると気づくのが遅れるという理由もあって、今は大通りから一本裏に入った細い道を歩いている。

 

人が歩いていると普通自動車も通るのに難儀しそうな、そのくらい細い道路だ。

 

アパレル関係の店舗が軒を連ねるこの周辺で、重機を積載している大型トラックが、わざわざこんな細い道を選んで通るのだろうか。

 

「……もし、かして……」

 

あたりを見渡してみる。

 

近くで工事しているような場所はないように見える。

 

だが、違うことを確認できた。

 

日曜日の昼過ぎというのに、この周辺は、人気(ひとけ)がほとんどない。

 

そして、もう一つ。俺たちの後ろから走ってくるフルスモークのバン。やけに、速度が遅すぎやしないだろうか。

 

スイッチが警戒に切り替わり、鋭敏になった神経が不安材料を叩き上げる。

 

だが、遅きに失した。

 

大型トラックのエンジンが唸る。ギアが上がるのがわかった。

 

タイヤがアスファルトを噛む。甲高い音が響いた。

 

「なのはっ、アリサを!すずか、ごめん!」

 

持っていた荷物を頭上に放り、俺の隣にいたすずかと俺の前にいたアリサを押す。なのはの名を呼んだのは、突き飛ばしたアリサを受け止めてもらうためだ。すずかに謝ったのは、勢いよく押してしまったせいでおそらく転倒してしまうからだ。

 

アリサとすずかを突き飛ばしたのは、唐突にこちらに突っ込んできた大型トラックに巻き込まれないようにするためだ。

 

「……っ」

 

アリサとすずかを大型トラックの危険域から追い出すことはできた。

 

だが、ここで時間切れだ。

 

視界の全てがトラックで埋め尽くされている。

 

今から回避は間に合わない。ここから逃げることは、もうできない。

 

「…………くそっ」

 

逃げる時間はなくとも、簡単な障壁を作る隙間くらいはあった。

 

あったのに、躊躇(ためら)ってしまった。トラックに衝突されて無傷というのは、周囲の目にあまりにも異様に映るのではと、そう考えてしまった。

 

魔法の存在を知られてはならない。その大原則が、魔法の発動を妨げた。その刹那の逡巡が、分水嶺だった。

 

次の瞬間、脳を直接殴りつけるかのごとき轟音。

 

衝撃と、激痛。

 

上下も知覚できない激流に呑み込まれるような感覚。

 

背後にあった建物の瓦礫と充満する砂埃が降り注ぐ中、俺の意識は暗闇に沈む。

 

 

 

俺は、選択を誤った。

 

 

 





シリアスパートがアップを始めました。


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眩い光の中には、

「え……え?」

 

アリサには、一体何が起こったのかすぐにはわからなかった。

 

身も(すく)みそうな音を響かせながら暴走した大型トラックが突っ込んできて、耳を(つんざ)くような音を轟かせた。

 

ついさっきまで自分がいた場所に、そして自分を突き飛ばした徹がいた場所に、今は大型トラックがある。運転席は建物にめり込んでいた。

 

あたりにコンクリート片やトラックの部品、見覚えのある買い物袋が散らばっていても、アリサにはどこか現実に起きた事として受け入れられていなかった。

 

「な、なに……え?」

 

「徹さん?……徹、さ……」

 

なのはもすずかもアリサと同様、状況は飲み込めていなかった。飲み込めるわけもなかった。まだ幼いアリサたちの精神では許容できない規模の衝撃だった。

 

混乱広がる中、一台のバンが三人のすぐ近くで停車した。

 

助手席の窓が開き、後部座席のドアが開かれる。恰幅のいい大男と、それの部下のような男が現れた。

 

「た、たすけて!徹が……人がトラックにっ……」

 

異常な事態に陥っていても、真っ先に動いたのはアリサだった。停車した車に駆け寄り、助けを求めた。

 

だが、車から降りてきた人物を姿を見て、言葉を失う。顔面蒼白にして凍りつく。

 

「あの運転手……本当に使えねぇな。対象まで轢き殺すとこだったじゃねぇか」

 

「あの執事がいたおかげで、逆に助かりましたね」

 

「まったくだぜ。とんだ皮肉だ」

 

恰幅のいい大男。それはひと月ほど前、アリサが目にしたことのある男だった。

 

「はっ……あ……っ」

 

見紛(みまが)うはずもない。

 

アリサを(かどわ)かそうとした連中、そのリーダー格の男だった。

 

「な、んで……どう、して……」

 

逃げなければいけないことはわかっていても、身体は言うことを聞いてくれない。男の顔を見て、以前の恐怖がフラッシュバックしていた。歩くなんてとんでもない。立っていることで精一杯なほどに足ががくがくと震えていた。

 

しかも今は、前のように助けてくれる人はいない。いつもなら近くにいるはずの鮫島はアリサの父親の会社に手伝いに出ていて、徹はついさっき大型トラックに潰された。

 

助けてくれる人は、いなかった。

 

絶望からへたり込むアリサを、リーダー格の男は見下ろした。

 

「抵抗しないことだ。お友達が大事ならな」

 

誘拐犯に脅されずとも、アリサには、否、アリサだけでなく、なのはにもすずかにも抗う気力など既になかった。

 

 

 

 

 

 

車に押し込められたアリサたちが連れてこられたのは、港からほど近い倉庫跡だった。

 

薄暗い上に薄汚い倉庫の中央付近で、アリサたち三人は物のように捨て置かれていた。足首はロープか何かで(くく)られ、腕も後ろ手に縛られていて、逃げることはおろか立ち上がることさえ難しい。

 

重機などを搬入出するのか、倉庫の出入り口となる扉は大人と比べてもなお大きい。その金属製の大扉は現在閉め切られていて、扉の近くにはリーダー格の男の仲間が立哨(りっしょう)している。男の仲間がいようがいまいが、どちらにせよ、子どもの力だけで扉を開くことはできそうにはなかった。

 

「わ、たしの……わたしのせい、だ……っ。わたしのせいで、徹が……っ、なのはとすずかまで巻き込んでっ……」

 

「アリサちゃんのせいじゃないよ。全部、悪いのはあの男の人たちなんだから」

 

「そうなの。それに……大丈夫だよ。これだけ大事(おおごと)にしてるんだもん。すぐに助けがくるはずだよ」

 

自分を責めるアリサを、すずかとなのはが慰める。二人は明るく振舞っていたが、暗い倉庫内であっても二人の顔が青ざめていることはわかっていたし、身体が震えていることもアリサは気づいてしまっていた。

 

空元気。虚勢。

 

そんなこと、すぐに気づいてしまっていた。

 

「…………っ」

 

涙を堪えるように唇を強く噛むアリサ。

 

そんなアリサたちに、近づく人影があった。

 

「よう、気分はどうだよ、お嬢さん」

 

「っ、おかげさまで最低の気分よ。くずども」

 

「……はっは」

 

口汚く罵るアリサに、男は黒く渇いた笑いを発した。アリサの綺麗に整えられた髪を無遠慮に引っ掴み、床に転がすように腕を振る。

 

「いっ……たぁ……」

 

「元気みてぇでよかった、よっ!」

 

「ぐぶっ……っは……ぁっ」

 

転がしたアリサの腹を、男は躊躇なく蹴った。

 

後ろ手に縛られている以上腹を抑えることもできずに、アリサは身体を丸めてくぐもった声をもらした。

 

「やめてっ、やめてくださいっ!」

 

「アリサちゃんっ!?大丈夫?!」

 

「げほっ、こほっ……」

 

「安心しろよ。軽ーく小突いただけだからよ」

 

軽く、といっても、力も、体格も、性別も、年齢も、何もかも差がありすぎる。男にとっては軽い蹴りでも、アリサにとっては目に涙を滲ませるほどだった。

 

苦しそうに咳き込みながら、それでもアリサは男を睨みつけた。

 

「ごほっ……。あ、あんたたちが、欲しかったのは、っ……バニングスの娘だけでしょ。わたしだけ、でしょ。……二人は、解放しなさいよ」

 

「あ、アリサちゃん?!」

 

「な、なに言ってるのっ!そんなのっ……」

 

「友達想いだなぁー、アリサお嬢様は!」

 

言い募ろうとするなのはとすずかを黙らせるように、大仰な身振り手振りで男が割って入る。馬鹿にした様子を隠そうともしていなかった。

 

「でもダメなんだよなぁー。逃して助けを呼ばれても面倒だし、なにより……」

 

男は、拘束されてへたり込んでいるすずかとなのは、倒れて苦しそうに咳き込むアリサを、品定めするように眺め回す。下卑た笑みを浮かべて、言う。

 

「金になりそうな商品を手放すのはもったいねえからなあ?」

 

「っ?!この下衆……そんなパイプ、あんたみたいな下っ端が持っているとは思えないわね。そんな違法なルート、この日本にそうそうあるわけ……」

 

「そうだなぁ、そんなパイプ俺は持ってねぇし、まず日本じゃ大っぴらに動けねぇな。だからまずは、組織の本部に移してから、裏に流す。ま、幹部連中への上納っつう形になるか」

 

「組織……本部?流す、って……もしかして……」

 

「お嬢様は相当お賢いらしいじゃねぇか。もう察したんじゃねぇか?組織の本部は海の向こうだ。もう言っちまっていいか。どうせもう日本には帰ってこれねぇんだから。俺たちは『(フウ)』って組織の(もん)だ。これから先、日本で動くための足掛かりを作りにきたんだよ」

 

「『フウ』?『足掛かり』?な、なにを言って……。身代金狙いじゃ……」

 

「そんな目先のはした金いらねぇんだよ。ゆくゆくは、俺たちはこの国を頂く。裏から牛耳るのさ。そのために日本で動きやすくするには、日本国内での隠れ蓑……後ろ盾がいる」

 

「後ろ、盾……」

 

「手始めに、てめえんとこの会社を頂く。現トップは今起こってるトラブルを理由に退陣させて、後任には社内にすでに潜入しているうちの構成員を選任させる。総会では大株主に金ばら撒いてりゃどうにかなる。さっきのトラックの運転手みたいに弱み握って脅したっていい」

 

「な、によ、それ……そんなの、できるわけ……」

 

顔を青ざめさせて、呆然とした意識の中でアリサは男の言い分を否定する。否定しようとする。だがアリサの口調には、あまりにも力が込められていなかった。

 

男たちが立てていた計画、それが途中まで成功していることに気づいてしまった。

 

『弱みを握って、脅す』

 

脅す材料、弱みの部分が自分であることを自覚してしまっていた。

 

「俺たちの計画はなぁ、もっと壮大で、もっと盛大なんだよ」

 

リーダー格の男の表情が、不気味に歪む。悪意に満ち満ちた、凶悪な笑みだった。

 

「……そんなの、成功するわけ、ない……っ」

 

今まで浴びたことのない強烈な悪意に当てられて目元に涙を浮かべるなのはとすずかを庇うように、アリサは男の前に出た。

 

言うことをなかなか聞いてくれない足を引きずりながら、怖気づきそうになる心を叱咤して、アリサは悪意と対峙する。

 

「そんな馬鹿げた計画……うまくいくわけない。……きっと、きっとすぐに、警察が……」

 

「ああ、警察ならあてにしないほうがいいぞ。トラックが派手に店に突っ込んだんだ。テロの可能性も含めて警察は捜査するだろう。誘拐されたことなんざ、まだ誰も知らねぇよ」

 

「そ、んな……」

 

「防犯カメラを確認してお嬢ちゃんらが(さら)われた事に気づいた時には、お嬢ちゃんらはもう日本にはいねぇ」

 

残念だったな、と嫌悪しか感じられない醜い表情を作って絶望させるよう、言い放つ。それはまるで、アリサたちの心を折ろうとするかのように。

 

「それ、でも……徹、なら……」

 

血の気を失せさせ、声を掠れさせてもなお、アリサは言葉を絞り出す。何か言い返していないと、本当に終わってしまう気がしていた。

 

アリサはもう、背中にいる二人の存在すら意識から外れていた。

 

「トオル?トオルってのは、一緒にいたヤクザみてぇな人相の悪いゴロツキか?」

 

「……わたしの、執事、よ」

 

男は一瞬、ぽかんと口を開けて、嘲笑した。心の底からアリサを虚仮(こけ)にするような不快な笑い声だった。

 

「はっは!ぶふぁっ!あれが助けに来るって?無理だろ!お嬢ちゃんも見ただろうが、トラックに潰されるところをよぉ!」

 

「っ……」

 

理解はしていたはずだった。トラックと建物の間で挟まれたのだ。普通の人間なら即死している。運命の悪戯があって奇跡的に生き延びていたとしても、まともに動けるべくもない。

 

目を逸らした現実を直視させられたアリサの喉が狭まる。視界が(すぼ)んでいく。

 

眉根を寄せて泣きそうになるアリサを見下ろして、男は愉悦を隠そうともしない。

 

「あのゴロツキにはずいぶん苦労させられたもんだぜ。一週間くらい前も、お嬢ちゃんの会社でトラブルを引き起こしていつもくっついてるじじいを引き剥がしたってのに、あのゴロツキが邪魔してくれやがったせいで失敗しちまった。予定していたプランではあの日に決行する手筈だったんだ。いや、それで言えばひと月前もそうだったな。もうちょいだったのにガキが出しゃばってくれやがったせいでご破算になった」

 

肩を震わせて瞳を潤ませるアリサに、男は黄ばんだ歯を剥いて不気味に口角を上げる。

 

「だが今日ばかりは助かったぜ。脅して使ったトラックの運転手がお嬢ちゃんらも巻き込む形で突っ込んじまったからな。危うく物理的に俺の首が飛ぶところだったぜ。かっはっは。あのゴロツキも、俺たちのために命懸けで役に立ってくれたもんだよなぁ!」

 

「っ!このくそ野郎!」

 

「おっと、危ねぇな」

 

「ごふっ……げほっ」

 

手を縛られながらも立ち上がり、男に飛びかかろうとしたアリサだが、あまりにも分が悪すぎた。

 

腹を蹴られ、容易く仰向けに倒される。

 

痛みと不快さ、情けなさに苛まれても、アリサは懸命に男を睨みつけていた。

 

「いきなり何調子づいてんだ?身の程を弁えろよ。こっちとしちゃ、生きてりゃそれでいいんだからな」

 

「げふっ……ごふっ、ごほっ……。そっち、こそ……弁えなさいよ!徹は、わたしたちを助けてくれたんだから!」

 

「……あ?」

 

眉間に皺を寄せて、ドスをきかせた声で男に怒気をぶつけられても、アリサは恐怖を押し殺して続ける。

 

黙っていたほうが都合がいいことはわかっていた。反論しても相手の神経を逆撫でして、余計に状況が悪くなることも、その聡い頭で計算できていた。

 

それでも、アリサは言い返さずにはいられなかった。

 

口を(つぐ)んでなど、いられなかった。

 

「徹一人なら、あれくらいどうとでもできたのよ!目の前にトラックがきても、逃げることはできた!わたしたちを守ることを優先したから避けられなかったってだけなんだから!」

 

「はっ、何を言いだすかと思えば……馬鹿じゃねぇの?あの速度で正面から突っ込んできたトラックを避けられるわけねぇだろ」

 

「馬鹿はあんたらでしょうが!穴だらけの計画で実行しようとしてたんだから!ふっ、そういう意味ではあんたらみたいなくずで無能の犯罪者どもは助かったわね!徹のおかげであんたらのリードを握ってるご主人様から叱られずにすんだんだもの!」

 

恐怖を隠すために大声を張り上げていたが、感情が昂りすぎた。舌が回ってしまい、思っていたことをすべてリーダー格の男に叩きつけてしまった。

 

「このッ……生意気なクソガキがぁッ!」

 

誘拐してきた子どもに怒涛の勢いで馬鹿にされ続けても耐えられるほど、男の気は長くなかった。

 

血管が浮き出るほど顔を怒りで赤くして、唾を吐き散らしながらアリサの首を掴んだ。力任せに床に押し倒す。

 

「うっぐ……ごふっ、げほっ……」

 

「アリサちゃんっ!」

 

「やめてくださいっ、お願いしますっ……」

 

「人が優しくしてやりゃつけ上がりやがって!」

 

息苦しさと背中の痛み、どうなるかわからない恐怖で涙目になりながら、それでも気持ちでは負けないと示すようにありさは強気に出る。

 

苦悶に歪みそうな顔を、強固な意志でもって無理矢理笑みに(かたど)る。

 

「ぐぅっ……ふっ、くくっ。いいの?少なくとも今は生かしておかなきゃ、っ、いけないんでしょ?」

 

「ッ……このガキッ」

 

男は眉間の皺を深くさせた。がりっ、と音が鳴るほどに強く歯軋りしていた。

 

それらは、アリサを肯定しているのと同義だった。

 

男はアリサの細い首を掴んではいたが、力は込められていない。骨を折るほどでも、気道を圧迫させるほどでもない。ただ床に倒して押しつけているだけだった。

 

「どうするの?ふっ……このまま、首を絞めるの?げほ……あんたのご主人様に、ごほ……怒られちゃうんじゃない?」

 

取り巻きの手下にもそれ以上は、などと諌められた男は、怒りと悔しさに目を血走らせてアリサを睨みつけた。

 

仰向けに倒され、それでもまっすぐ睨み返すアリサを見下ろして、沸騰するような激情のまま男は拳を振り上げる。

 

「ッ……。……っは」

 

だが男は何かを思いついたように、下品に低俗に、にやりと口を開いた。振り上げた拳も下ろして、アリサの首にかけていた手も離す。

 

「ふふ……っ、けほ、ごほっ……。どうしたの?こほっ、こほっ……やめちゃうんだ?」

 

心を折ることを諦めたのだと思ったアリサは、苦しげに咳をしつつも勝ち誇ったように笑みを浮かべる。

 

今の状況が変わるまでは自分たちの身の安全は確保されると確信したアリサは余裕の表情を見せたが、男の一言で顔色が一変する。

 

「ちょうどいい。おい、カメラ持ってこい」

 

近くにいた手下に、そう命令した。

 

アリサの頬が引きつる。

 

「……は?な、なに、を……」

 

先までの余裕はすでにない。顔は青ざめ、声は震えていた。

 

男はアリサの様子の変化を、悪趣味に卑しく眺める。

 

満足げに口の端を吊り上げた。アリサにはこの男が、悪魔よりも悪魔らしく見えた。

 

「はっは、どこにでも需要ってのはあるもんだ」

 

部下からカメラを受け取った男は、狼狽(うろた)えるアリサに、愉快げに説明する。

 

「てめぇみてぇなちんちくりんのクソガキでも興奮できる……いんや、ガキでしか興奮できねぇような捻じ曲がった性癖の変態どももいるっつうことだ」

 

「ゃ……ぃやっ」

 

「気の強ぇガキのストリップは売れそうだなぁ?」

 

「やだ……っ」

 

「脅しの映像作りと兼ねて、売り飛ばす時のプロモーションビデオにしてやるよ」

 

「いや……いやよっ!あんたみたいなクズに触られるなんて、死んだほうがマシよ!」

 

「はっは!そうだ、その調子で抵抗してくれよ。そうじゃねぇと盛り上がらねぇからよ」

 

背筋に虫が這ったような、強烈な不快感と嫌悪感。そしてなにより、目の前の醜悪で愚劣な男への怖気。

 

「いや……」

 

もう。

 

「いやよっ」

 

もう、アリサには。

 

「やだっ、やだやだやだぁっ!」

 

取り繕うだけの余裕も、意志を保つための虚栄心も、なにもなかった。

 

カメラを構えて近づいてくる男から、アリサはうつ伏せになって土や砂埃で汚い床をまるで芋虫のように()(つくば)って必死に距離を取ろうとする。だが、床に倒され、後ろ手に縛られ、足も拘束されている状態では、満足に逃げることもできなかった。

 

「ほーらほーら、早く逃げないと捕まっちまうぞー!」

 

「やだっ、やだぁっ!」

 

恥も外聞もなくぽろぽろと涙をあふれさせながら逃げるが、当然逃げられるべくもない。

 

足を掴まれ、引っ張られる。

 

身を守るように(うずくま)るアリサの首襟を掴み、仰向けにひっくり返した。

 

「つーかまーえた。あーあ、顔面どろっどろだなぁ、おい。さっきの強気はどこいったんだぁ、おい!」

 

「やっ、やめてっ!助けてぇっ!」

 

カメラを持ちながら男はアリサの服に手を掛ける。

 

「おーおー、上等なもん着てんなぁ。きっと俺らとはまったく違ういい暮らししてんだろうなぁ!だからあんだけ大人を馬鹿にした態度ができたんだろうなぁ!」

 

アリサの胸ぐらを掴む男の手に力が入る。

 

腕が引かれるその前に、小さな影が男を止めた。

 

「もうやめてよっ!アリサちゃんにひどいことしないでっ!」

 

不安定な体勢から立ち上がり、倒れこむようになのはが男に身体ごとぶつかっていた。

 

「ごめんなさいっ!わたしたちが悪かったんです!もう静かに、おとなしくしていますからっ……これ以上はやめてくださいっ!」

 

すずかはアリサに覆いかぶさるようにして庇った。

 

「こんな礼儀知らずの友だちのために頑張っちゃって……泣けるねぇ。でもだめだ」

 

そんな友人思いで健気な行動も、男にとっては遊びを盛り上げるための一興にしかならなかった。

 

「おい、こいつら押さえとけ」

 

男は手下に命じる。

 

周りにいた手下たちは、なのはとすずかの腕を掴んで引き剥がした。

 

「ちょっと、離してっ……アリサちゃんっ、アリサちゃんっ!」

 

「ぐすっ、っ……お願い、しますっ……。もう、やめて……っ」

 

「くははっ!よく見てろよ!調子乗って大人を馬鹿にしたらなぁっ!お前たちもこうなるんだぞ!はっはっは!」

 

引き離されたなのはとすずかの泣き顔に、男は気を良くしたように高笑いした。

 

「ゃだ……っ、だれかっ……」

 

「ほーら、逃げろ逃げろ!頑張って抵抗しろよ!」

 

後退(あとずさ)りして離れようとするアリサの足を乱暴に引き寄せる。床で引き摺られてアリサの服はめくれ、健康的なふとももや白い腹がむき出しになった。

 

「はっは……盛り上がってくんなー、これは……」

 

生唾を呑んだ男は、収納されていたハンディカメラのバンドを取り出し、頭に装着した。小さなカメラは、顔の横あたり、目線の位置に固定されていた。

 

「これで臨場感のある画が撮れる、ってな。ほーら、行くぞー」

 

「ひっ!……や、やっ……」

 

アリサの服に両手をかけ、男は野蛮に服を破った。

 

「きゃああっ!やだっ、やだあっ!」

 

「かっ、下着まで高級品なのかよ。俺みてぇなのでも知ってるブランドだ。誰に見せるつもりでつけてんだ、この色ガキ」

 

大口で大声で、粗野に笑い声をあげる。男の目には優越感による悦楽が色濃く浮き出ていた。

 

「あれだけいきがってたガキが、ちょっと剥かれただけでぼろ泣きしてんじゃねぇか。なっさけねぇなぁ!ほれ、次は下だ。景気よく泣き喚け!」

 

「やだあっ!たすけ、てっ……たすけてよぉっ。だれかっ、徹っ……」

 

「あっははっ!びゃーはっは!死人に助け求めんなよ!」

 

男の無骨な手がアリサのプリーツスカートに触れる。力任せに剥ぎ取られる。

 

その、寸前のことだった。

 

「ん?なんの音だぁ?」

 

まるで大砲が着弾したかのような振動と音が、遠雷のように響いた。

 

それは一度では収まらない。繰り返し、繰り返し、轟いた。

 

その鳴動は、巨大な生物が歩み寄るが如くゆっくりと、しかし明確に、地面を揺らしながら倉庫に近づいてくる。

 

そして、その時は訪れた。

 

倉庫の出入り口となっている金属製の大きな扉。丈夫なはずのそれに亀裂が入った。

 

巨獣が鋭い爪を振るったかのようなその裂け目から、光の線が倉庫内に差し込まれる。

 

「な、なにが……」

 

誰が呟いたのかはわからない。だが、その場にいる全員が、似たようなセリフを同じように意識せず漏らしていたのかもしれない。それほどまでに、理解に(かた)い光景だった。

 

倉庫内にいる人間全員が呆然としている中、再び、腹の底から震わせるような大音響とともに、倉庫内が鳴動する。金属製の扉の裂け目が広がり、外から入る太陽光が薄暗かった倉庫を照らす。(まばゆ)い光の中には、一つの人影。

 

「ごめんな……待たせた」

 

「う、うそ……うそよ。だって、わたしのせいで……っ」

 

「ど、どう、やって……」

 

「はぁ……ま、まったくもう!おそいの!」

 

目の前の光景が信じられないアリサに、何がどうなっているのかわからずただ呆然としているすずか、震える声で強がるなのは。光の先を見つめながら、三者三様の反応をしていた。

 

高級感が漂っていたスーツはところどころが破れ、至るところが汚れ、砂と埃と血に(まみ)れていた。

 

だが、確かに、そこにいた。

 

逢坂徹が、そこにいた。

 



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『化け物』

 

「なんで……なんで、なんで!てめぇがここにいる!てめぇはトラックにっ……」

 

「ああ、死ぬかと思ったよ。わりと本気でな。……ま、そんな話の前に、だ」

 

そう言うと、破壊された大扉の付近にいた徹の姿がかき消えた。

 

「そこから退()けよ……くそ野郎」

 

疾風が、アリサの濡れた頬をそっと撫でた。倉庫の(よど)んだ空気ではない。外の、いっそ爽やかとすら思える新鮮な、一陣の風。

 

それをアリサが感じた時にはもう、恐怖の象徴でしかなかった野卑で下劣な大男はいなかった。

 

代わりに見慣れた顔の、聞き慣れた声の、感じ慣れた心地よさ。先の男とは真逆、安心感の象徴が、すぐ傍らに寄り添うように立っていた。

 

扉の近くにいたはずなのに、アリサは瞬きもしていなかったのに、コマ落ちしたように、今はもうすぐ近くに。

 

「ぁ……と、とお、る……っ」

 

「ちょっと待っててくれ、三人とも。すぐに片付けるから」

 

徹は額から、否、至る所から流れる血を気にもせず、アリサ、すずか、なのはと順に柔らかな笑顔を見せる。再びアリサを見て、ジャケットを脱いだ。

 

「ちょっと埃っぽいかもしれないけど、我慢してくれな、お嬢様」

 

「ぁ……」

 

ふわり、とガラス細工に触れるみたく丁寧に、それ以上に繊細に、アリサにジャケットを羽織らせる。

 

「ぅ、ぁっ……とおりゅ……ぅあぁっ」

 

「もう大丈夫、大丈夫だからな」

 

数十秒前までとは意味が正反対異なる涙が、アリサの目からあふれて止まらない。

 

ジャケットから伝わる体温と、安堵する匂い。

 

それらとともに、無数の擦過痕と乾いて固くなった黒い染み。

 

怪我を負っていても、迷わず躊躇(ためら)わず助けにきてくれた。その安心感と嬉しさに、温かい涙は止まらない。ぼろぼろのその身を案じたくても、救いにきてくれたことに感謝したくても、震える身体と声はアリサの言うことを聞かず、言葉は形を成さない。

 

アリサにジャケットを渡した徹はなのはとすずかに近づく。なのはとすずかを取り押さえていた男の手下は、気づいた頃にはすでに姿がなかった。二人の遥か後方で、よく見れば人に見えるかもしれないような影が二つ分、できていた。

 

「手、痛くないか?すぐ外してやるからな」

 

徹はなのはとすずかの後ろに回って、手や足を拘束していたロープを切る。アリサたちがいくら抜けようとしてもびくともしなかったロープを、まるで粘土でも扱っているような勢いで引き千切った。

 

「よく教えてくれた。助かったぞ、なのは」

 

「う、ううん……倉庫ってことしかわからなかったから……。で、でも、徹お兄ちゃんはどうやって……」

 

「後から話す。今はアリサを頼む」

 

「徹お兄ちゃんはどうするの?一緒に逃げないと……」

 

「いや、逃げなくていい。動ける状態じゃないだろ。安心しろって……すぐに、生ゴミを処分するから」

 

「な、生ゴミって……いえ、その前に徹さん、たくさん怪我を……」

 

「このまま逃がすなんて許せないだろ。これだけ好き勝手やってくれやがったんだ。相応の報いってのを、受けてもらわなくちゃな」

 

あくまでも、笑顔だった。底冷えするほど冷淡で、冷徹で冷め切った声。鋭い双眸(そうぼう)は冷酷に彩られ、口元は冷血に(ほころ)んだ。

 

万が一にも温情は与えないと言外に示すようで、なのに、あくまでも笑顔だった。

 

「徹お兄ちゃん……」

 

「と、徹……さん?」

 

「お前たち怖がらせたんだ。不安にさせて、泣かせて、悲しませて、苦しめて、辱めたんだ。けじめはつけてもらわないといけないよな。後悔、させてやらなくちゃいけない」

 

アリサたちに向けていたものとは比べるべくもない。温もりなど欠片もない。

 

視線だけで人を殺せそうな眼光が、とある一点へと移る。その先には、リーダー格の大男がいた。

 

「おっえぇっ……ぐぉうぶ、おぇっ……っ。クソガキっ、クソガキがぁッ」

 

横っ腹を押さえながら、男は立ち上がる。口の端から濁った液体を垂らし、血走った眼球を剥いて、黄ばんだ歯を見せるように口を大きく開いた。

 

「何ぼけっと突っ立ってんだ!そのガキぶっ殺せ!」

 

大声を張り上げて手下たちに命令を飛ばす。

 

一瞬戸惑った手下たちだが、ずたぼろの徹を見て、死に体だと判断したのだろう。各々凶器を持って徹を取り囲む。

 

「……先に。忠告しておくぞ」

 

そんな彼らに、徹は狂気を(もっ)て応じた。

 

「こっちは身内三人傷つけられて、とてもじゃないけど冷静とは言えない。なるべく死なない程度に手加減はするつもりだが……こんな状況だ。勢い余ってってことも、あると思う。しょうがないよな。だから……やるんなら覚悟を決めてからにしろよ。これからの長い人生、腕一本足一本減らして生きていきたくはないだろ」

 

軽い口調で相手に重圧をかける。

 

その重圧に耐えかねたのか、それとも若造の脅しだと思ったのか、手下の一人が床に転がっていた鉄パイプを拾い、振り上げて、振り下ろした。

 

ばぎぃっ、と重々しく、痛々しい音が倉庫に響いた。

 

「……そうかよ。それがお前らの答えか。……わかったよ」

 

たしかに腕は振り下ろされたが、徹の頭蓋骨が砕かれることはなかった。

 

代わりに、鉄パイプを振り下ろした手下の肘が、本来ありえない方向へと折れ曲がっていた。鉄パイプで殴りつけられる前に、徹が手下の腕の骨を打ち砕いていた。

 

手下が自分の腕をへし折られたと自覚するよりも早く徹は懐に踏み込み、手下が激痛で叫ぶよりも先に徹は拳を打ち抜いた。

 

肉を打つ音、骨を砕く音。

 

手下はトラックにはねられるよりも早く勢いよく、吹き飛ぶ。倉庫の端にまで到達し、どごぉん、と和太鼓でも打ち鳴らしたような音を倉庫内に響かせた。

 

徹を取り囲む男の手下たちが誰ともなく呟いた。

 

『化け物』と。

 

半狂乱になった手下たちは口々に何かを叫びながら徹へ向かう。

 

アリサたちを(かどわ)かした段階で既に敵対してしまっているのだ。

 

ならば。

 

たとえ『化け物』相手でも討ち取らなければ生存できない。

 

悲鳴とも取れる雄叫びを上げて、手下たちは凶器を振り抜いた。

 

「俺は忠告したぞ。精々後悔しろよ」

 

手下の一人が大柄のハンマーを振りかぶる。横薙ぎに振るわれるそれを、徹は足で止め、真上へ蹴り上げる。手下の手から、ハンマーが投げ出された。

 

不安定に宙を舞ったハンマーは、手下の頭上でヘッドを下に向けて落下する。

 

手下は落ちてくるハンマーを見て、逃げようとして、動かなかった。動けなかった。

 

「そこで潰されるのを待ってろ」

 

手下は知るべくもない。徹が鮫島から教授された『不動』という技。今まさに顔面に落ちてくるハンマーを前に手下が一歩たりとも動けなかった理由は、それを受けていたからだ。

 

動作の始端を押さえ、相手の動きを封じる。

 

徹自身、鮫島から直々に受けたことがあるからよく知っている。不思議なことに痛みはほぼなく、ただ、関節や頭が燃えるように熱くなる。思考は定まらず、筋肉は硬直し、一時的に動けなくなる。

 

それがたとえ、頭上から重量のある金属製のハンマーが降ってきていても。

 

断末魔と、ぐちゃりという水っぽい音を背中で聞きながら、徹は次の相手に向かう。

 

振り向いた先には、メリケンサックを拳に装着した手下がいた。

 

「……ばっかだなあ」

 

その手下は格闘技の経験者なのか、存外綺麗なフォームから右ストレートを放った。

 

「右手、もう使えないかもな」

 

その右ストレートに、鏡のように徹も右ストレートを合わせる。拳同士がぶつかった。

 

ぐちゅ、と肉が潰れるような音と、ぱきっ、と小枝でも踏んだような軽い音。

 

常識なら、素手で殴りかかった徹の右手が潰れたと考えるだろう。

 

手下もそう思ってほくそ笑んでいた。その笑みが、徐々に凍りつく。顔から血の気が引いていく。そして、悲鳴をあげた。

 

金属製のメリケンサックはへしゃげて、手下の指を押し潰していた。指を引き抜こうにもメリケンサックは変形してしまって外すこともできない。肉に食い込み、骨を砕き、血液を垂れ流し続けていても、もうどうすることもできない。

 

「……うるっせえよ」

 

右手を抑えて大声で泣き叫ぶ手下の男の腹に、大砲のような前蹴りを撃ち込んだ。まともに被弾した手下は数メートルも地面を削った。

 

どこまで転がるか、相手がどうなったかすら徹は見届けず、次の獲物を狩りに行く。

 

徹を包囲していた人数が半分以下になるまで、三十秒とかからなかった。

 

数多くの仲間が血反吐を吐きながら瞬く間に床に沈みつつある中、手下の一人が懐からナイフを取り出し、離れたところに避難していたアリサに背後から近づいた。細い首筋にナイフを這わせた。

 

その手下はおそらく、アリサや、近くにいるなのは、すずかなど徹の庇護対象を人質に取り、脅しをかけようと画策していたのだろう。

 

「……なんでわざわざ、逆鱗に触れようとするんだお前らは」

 

だが実際には、ナイフを持っていた手下が脅しの文句を発する前に、言葉を喋れなくなっていた。

 

ほんの数瞬前まで徹がいた場所。その床が、地雷でも爆発させたかのように破片を撒き散らしていた。

 

囲まれていたところから瞬時に移動し、アリサを人質に取ろうとしていた手下の元まで踏み込んでいた。万が一にもアリサに傷をつけないようナイフの刃を左手で握り締め、右手一本で手下の首を掴んで持ち上げた。

 

「一番傷つけちゃいけないもんを傷つけようとしやがったな、お前。これは……その礼だ、ゆっくり味わってくれよ」

 

宣言通り、徹はじわじわと時間をかけて、首にかけた手の力を強めていく。

 

「せいぜい噛み締めてくれ。精一杯味わってくれ。こいつらが受けた……苦痛と恐怖を」

 

首を絞めて呼吸できなくさせるなどという安直なものではない。指先に力を加え、首の後ろの頚椎(けいつい)を圧迫していた。

 

手下が感じている苦痛と不快感は並大抵のものではない。それは手下の表情からも推測できたが、抵抗は一切していなかった。手下の右手はナイフで塞がっているにしろ、左手が空いているのに、左手で徹の手を振り解こうともしなかった。

 

できなかったのだ。 頚椎を締められ脊髄(せきずい)を圧迫されることで腕が痺れて、腕だけでなく首から下ほぼ全てが痺れて、動かなかった。

 

呼吸困難と激痛。そして、おそらくは初めて感じているだろう意識と感覚を伴ったまま全身が麻痺していくという恐怖。肉体よりも先に精神が死んでしまいそうなそれらから、逃れる術はない。

 

徹が手を離すか、手下が命を手放すか、そのくらいしか解放される手段はないが、徹は離すつもりは毛頭なく、すぐに殺すつもりは微塵もない。

 

前もって明言した通り、徹の目的はアリサたちに危害を及ぼす輩に苦痛と恐怖を(もたら)すことなのだから、死などという安っぽい『お礼』など、始めからするつもりはない。

 

「徹、徹っ……もう、いいから。殺しちゃ……だめ」

 

頚椎を、その中に走る脊髄を致命的に傷つける。その間際に、アリサは徹の服を小さく引っ張った。

 

「……アリサ」

 

「……お嬢様、でしょ?」

 

「ああ……あはは、そうだった。まだ、執事だったな……お嬢様」

 

「徹。殺しちゃ、だめ」

 

「でもこいつらはお嬢様たちを傷つけようとした」

 

「それでも、だめ。そんなどうだっていい奴らのために、徹が誰かを殺める必要なんてないわ」

 

「…………」

 

「だから、殺しちゃだめ。わかった?」

 

アリサが繰り返し徹に言い聞かせる。自分たちは大丈夫だから、人を殺めるな、と。

 

納得できないという表情を暗に示していた徹だったが、誰あろうアリサに言われてしまうと従うほかなかった。

 

手下から、徹は手を外した。べしゃりと床に倒れ込んだ手下を蹴り飛ばしてアリサたちから遠ざけた。

 

少し前まで自分を取り囲んでいた奴らに視線を移す。徹の『お礼』に怖気づいて立ち呆けている手下たちへ言い放つ。

 

「最後に、チャンスをやる。こいつらみたいになりたくなかったら、倉庫の端の方で固まってろ。お嬢様の命令だから死なせはしない。ただ、逃げようとしたら足の骨から順に砕いていく。死なないところから、順に全部、へし折っていく。もう一度言う。死なせは(・・・・)しない」

 

返り血も自分の血も浴びて、それでも口許に笑みを浮かべて、徹は平然と通達した。冗談のような文言だったが、狂気を隠しきれない徹の佇まいに、手下たちはついに戦意を喪失した。

 

目の前にいる、血と肉に飢えた獣よりも残忍で凶悪な、復讐に燃える化け物をどうにか刺激しないよう、手にしていた凶器を精一杯音を立てないように床に置く。肩も視線も反抗心すら床に落として、倉庫の中で徹から最も離れた位置に手下たちは集まった。手下たちは集まって、反撃の手を考えるでもなく、ましてや逃げる算段を立てるでもなく、ただ皆が皆、青白い顔で呼吸の音すら響かせないように俯いて身動ぎもしなかった。

 

目立つことをして化け物の標的になりたくない。

 

無傷で生き残った手下たちの共通した認識が、それだった。

 

歩ける手下のすべてが倉庫の端へ退避したが、徹の最終通達を受け入れなかった者が、一人だけいた。

 

「こ、このっ、腰抜けどもがぁッ!相手はずたぼろのガキ一人じゃねぇか!やる前から負け認めて逃げてんじゃねぇよ!」

 

徹が入ってきて早々に吹き飛ばされたリーダー格の男。この一人だけが、けたたましく吠えていた。

 

「ならまずはお前が動けよ。手下に指示出して自分は高みの見物は通らないだろ」

 

「こ、の……死に損ないのぼろ雑巾がぁッ!」

 

男は血走った目を見開き、血の滲む唾を吐き散らした。

 

全力で走ってくる男に対して、アリサたちから離れるために徹も歩いて距離を詰める。

 

勢いと体重を乗せた男の大振りな拳を最低限の動きで躱して、踏み込む。

 

「ふっ……」

 

身体を捻る。コンパクトに、シャープに、内臓を抉り取るような、身体を内側から破壊するような、ボディブロー。

 

「ぐぉっ、おぇっ……」

 

「『殺しちゃだめ』って、言われたんだ」

 

突き刺すような左のショートフックを男の右腹に二連打。

 

「ぐっ、あがぁっ……こ、のッ」

 

「だから……」

 

振り払うような裏拳をサイドステップで危なげなく回避し、反対側、男の左脇腹に右のフックを刺し込む。

 

濁った息と赤い泡を吐く男に、徹が囁く。

 

死刑宣告の方が、まだ救いのある、一言を。

 

「頼まれたって、殺してはやらねえぞ」

 

「ひぎっ……ぁがあぁッ!」

 

一瞬、苦痛に歪む男の顔に悲愴の色が差された。だが、すぐに徹に腕を振るう。

 

ただそれは、すでに徹を害する動作ではなかった。男の手のひらは開かれていて、徹を捕まえようとしていた。これ以上殴られるのが嫌だから動きを止めようという、防衛的、あるいは逃避的行動だった。

 

「こふぅぶっ……かっぁ」

 

「触んなよ、汚ねえな」

 

捕まえることすら、触れることすら、叶わない。

 

男の腕は、徹に向けて伸ばそうとしたところで動きを止めた。『不動』による動作の強制停止だった。

 

「なん、だ……こ」

 

「その気持ち悪い顔を、こっちに向けんじゃねえよ」

 

急に動けなくなり呆然となっていた男の身体。前に突き出るような前傾姿勢になっていた男の顎を、徹は真上に蹴り上げた。

 

「ぐぎぃっ」

 

がぎん、と不快な音がした。歯と歯が勢いよく打ち合ったのだ。男の歯がいくつか欠けるなり折れるなりしていても不思議ではない、むしろ当然と思えるような音だった。

 

頭を縦に揺らされたことで男の身体が崩れ落ちる。

 

「おい。こんなもんで終わらせないぞ」

 

苦痛に(かし)ぐ男の身体を(すく)い上げるように、地面を舐めるような右のローキック。あまりの威力に男の両足が床から離れ、巨体が浮いた。

 

「まだ、アリサたちが受けた苦痛の礼を返し始めたばかりなんだからな」

 

無論、それだけに留まらなかった。

 

男の両足を薙ぎ払った姿勢から床に両手をつけ、まるでカポエラのような動きで足を振るう。宙に浮いた男の胴体を下から持ち上げるように足で突き上げた。

 

「ごぼぉぇっ」

 

「安心しろよ。『殺し』はしないし『死なせ』もしない。痛みと苦しみだけだから」

 

浮かび上がった男の下へ、徹はするりと入り込む。

 

頭上に無様にもがいている男を、殴って、殴って、殴って、殴った。腕が霞むような速さで、打ち上げられた大男が落ちてこないほどの威力で的確に致命傷を避け、精密に命に支障のない部位だけを、殴って、殴って、殴って、殴った。

 

一頻(ひとしき)り嵐のような殴打を叩きつけると、不意に徹は男の真下から移動する。位置的には男のすぐ横に立ち、するりと足を真上に伸ばした。

 

思い出したかのように働き始めた重力に従い、男は受け身すら準備せずに落下する。男がちょうど徹の腰あたりまで高度を下げた、その時だった。研ぎ澄まされた日本刀で斬り伏せるかのごとく、徹は真上に伸ばした足を真下へと振り下ろした。振り下ろした途中には、男の腹があった。

 

「っはがぁぅっ?!」

 

どばんっ、とおよそ人の身体を使って出る音とは思えない音が発生した。

 

徹の踵落としで落下の勢いを増した男の背中が床に強かに打ち付けられた。その勢いたるや、床に落下した男の身体が五十センチ以上もバウンドしたほどだった。

 

数秒ぶりの地面に横たわった男は身体を小刻みに震わせ、赤黒い吐瀉物(としゃぶつ)をぶち撒けた。

 

「はっ、あはは。芋虫みたいだな」

 

「ごぷぁっ……げほっ、いぎぃっ……てめぇッ、絶てぇッ……」

 

「はっは、芋虫がいっちょまえに人様を睨みつけてんじゃねえよ」

 

「ごぶぁっ!」

 

転がったまま睨みつけ、何か言おうとしていた男に徹は蹴り抜いた。

 

五メートルほど転がって、立方体の金属製の箱、コンテナと思しき箱にぶつかって座り込むような形で止まった。 そこでもやはり、血反吐を吐いていた。

 

「ごぼぉぇっ……クソ、クソガキがぁッ!絶テェ殺してやるッ!」

 

「……はあ。お前みたいな奴はなにがあっても反省しないんだろうな。なにを言ったって説得なんてできないんだろうな」

 

「はっ。反省?説得?するわけねぇだろできるわけねぇだろぉが、ぼけ!げほっ、ごぼっ……ぶは」

 

「やっぱり、あん時に消しておくべきだったんだ。そのせいでアリサも、すずかも、なのはも、負わなくていい傷を心に負って、受ける必要のなかった恐怖をその身に受けた。きっと、お前はいつまでもずっとそうやって付きまとうんだろうな。生きている限り、ずっと」

 

「ああそうだなぁ!ここを生き延びさえすりゃどうにだってできる!てめぇは俺を殺せねぇんだろ!なら、こっちはどうにだってできんだよ!おぶぇえっ、げほ、ごぶぉっ!は、がは、かははっ!次は、もっとうまくやってやるさ!」

 

エンドルフィンが出て痛みを感じていないのか、血に濡れていないところのほうが少ないというのに、あくまで男は不遜にして傲慢な態度で悪びれることもなく宣言した。どこまでもアリサを付け狙うと。

 

血の塊を口から吐き出しながら笑う男に、徹は侮蔑と諦念の視線を向けた。

 

「ならもう、仕方ないよな。いや、遅過ぎたくらいなんだ。ひと月前にお前を殴り飛ばした時に、こうするべきだった」

 

拳を固く握り締め、徹はゆっくり男に歩み寄る。

 

「お、おいおい、話が違うじゃねぇか」

 

『殺しはしない』

 

言っていたことと違う振る舞いをし始めた徹に、男は焦り、戸惑うようなそぶりをした。

 

しかし、どこか緊迫感が欠けていた。余裕があった。

 

「俺が常にそばについていられるわけじゃない。いつでもどこからでもアリサを狙うってんなら、今、ここで、リスクを排除する。安心してくれよ、お前みたいなゴミを処分したところで俺の心はまったく痛まないから。そこ動くなよ。こっちは忙しいんだ、手っ取り早くすませたい」

 

「……そうかよ。それなら仕方ねぇな」

 

一歩、また一歩と距離を詰める徹に対して、今や徹よりもずたぼろに成り果てた男は、しかし冷静だった。

 

冷静に、高慢に、笑った。

 

「それなら……俺も自分の身を守らなきゃ仕方ねぇよなぁッ!?」

 

男は赤黒く変色した歯を見せるように口を大きく開き、懐に手を入れた。その手には、黒く、重苦しく、鈍い光りを放つ物体。

 

人を容易に殺傷しうる凶器を。拳銃を、抜いた。

 

「てめぇを殺した後はあのガキどもをッ「動くなっつったろが」

 

銃口が向けられるより早く、引き金に指がかかるより先に、徹は男に接近し、拳銃が握られている手を蹴り飛ばした。かきゅ、と実に軽妙な音が鳴った。

 

「ひん剥いて……は?なん……あ、あぁぁあッ!?」

 

男の手は、銃を握ったままだった。ただ、肘がありえない角度と方向に曲がっていた。

 

「俺が気づいてないとでも思ったのか。あれだけお前をサンドバッグにして、懐に拳銃を隠し持ってることがわからないとでも思ったのか」

 

「ああぁぁッ?!俺の腕ッ、腕がッおえぇっ」

 

「撃たせるわけないだろ。お前の拳銃の腕なんか、たかが知れる。流れ弾でアリサたちにあたったらどうしてくれるんだ。危ないだろが」

 

「あがぁっ、がああぁぁッ!」

 

徹は男を見下しながら言うが、男の耳にはすでに届いていない。簡単に腕を潰され、切り札だった拳銃すら一発も撃てずに無力化され、錯乱状態に近かった。

 

「うるっさいなお前……いい加減黙れよ」

 

泣き喚いて叫びのたうつ男を前に、徹は拳を振りかぶる。

 

狙いは男の顔面。どれだけ暴れていても、まず外すようなへまはしない。

 

ぎゅうと拳を固く握り、振り抜く。

 

その寸前のことだった。

 

「徹っ!やめなさい!」

 

アリサの声が甲高く響いた。

 

だが、徹は拳を止めなかった。

 

がじゅ、と奇妙な音を立てて、男の背後にあった立方体の金属製の箱まで拳は貫いた。

 

「ひぎゅ……ひ、は……」

 

涙と鼻水と血と(よだれ)で顔面をずるずるにしている男は、眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開いて、掠れた息をして、(しゃが)れた声をしていたが、まだ生きていた。見る者によっては死人と間違えるかもしれない無残な有様だが、一応生きていた。

 

「……っ、ふう。っ……はあっ」

 

徹の拳は、男の顔面のすぐ横を通り、男の顔の横にくっついていた小型のカメラを貫き、男の背後にあった金属の板を打ち抜いていた。

 

身体の内側で猛り燃える激しい感情をどうにか鎮めるように大きく深呼吸して、徹は男に告げる。

 

「……二度と顔を見せるな。次お前を見かけたら……アリサやすずかやなのは、俺の大事なもんの近くに姿を現したら……その時は両腕両足へし折って、腹を裂いて生きたまま内臓を引き摺り出してやる。その後に、全身の骨を丁寧にひとつずつ折っていく。死なないように注意してゆっくり殺してやる。容赦はしない。警告もしない。視界に入るだけで血管がぶち切れそうになるほど癪に障るお前の汚ねえ顔面を見つけた瞬間、手を下す。誰にもばれないように、誰にも見つけられないように、誰にも知られずに」

 

お前を消す。

 

一刀で首を落とすように、徹は言の葉で斬り伏せた。

 

「ぁ、あ……化け、物……」

 

不明瞭な発声で、男は呟いた。

 

トラックで轢かれたはずなのに未だ生きていて、事故現場から離れたこの港近くの倉庫まで単独で追ってきて、倉庫の内外にいたはずの数多くの手下を容易く屠り、拳銃にも怯まずに近寄ってくる。

 

そういった常軌を逸した行動も『化け物』と呼ぶに相応しいのだろうが、何よりもわかりやすいインパクトがあった。

 

常人とはかけ離れた『力』こそが、まさしく『化け物』じみていた。

 

男が顔に装着していた小型のカメラを徹に打ち抜かれた際、反動や衝撃で男の首の骨が折れていてもおかしくはなかったが、一切怪我はしていなかった。

 

破壊されたカメラの断面は、まるで発泡スチロールを熱で溶かしたように滑らかに抉られていた。そしてそのまま、背後にあった金属の板すらも貫いている。衝撃すら感じさせないほどの一撃だった。

 

トリックや誤魔化しが介在しない、ただただ純粋な『力』。

 

理解の外にある『力』を前に、矮小たる人間は平伏するほかない。

 

戦意など、敵意など、保てるはずがなかった。

 

がしゃん、と音を鳴らして拳銃が床に落ちる。

 

「『化け物』……っ、なんで……っ」

 

虚ろな瞳で力なく、男は呟いた。

 




がんばって暗い話を書いたかいがあるってもんです。悪巧みしてた奴らを滅多打ちにするという快感。


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アリサの心

リーダー格の男が、足を引きずりながら、肘から先をぷらんぷらん揺らしながら、戦意喪失した手下たちが集まっている倉庫の隅っこまで歩いていくのを見届ける。よしんば何もできはしないと思うが、念のためだ。

 

「……はあ。……あーあ、せっかくもらったっていうのに……」

 

深呼吸を一つついて、ぼやく。せっかく頂いたお高いスーツが血や砂や埃で汚れてしまった。

 

陰鬱な気持ちと誘拐犯たちへの怒りを溜息に込めて吐き出す。

 

誘拐犯たちを無力化する際、頭に血が上ってしまった。まだ顔が強張っていそうで多少不安だけど、それ以上に不安であるはずの女の子たちがいる。

 

アリサ、すずか、なのはのもとへ駆け寄る。

 

「三人とも、怪我はないか?どこか痛いとことか……」

 

皺ができるほどジャケットをかき抱いているアリサが一番心配だが、まだ話ができる状態ではなさそうだ。

 

どうなっているのか説明してもらおうと、すずかとなのはに視線を向ける。まっさきに、なのはが口を開いた。

 

「アリサちゃんがかばってくれたから、あたしたちはなんともないの。でも、アリサちゃんが……」

 

目を伏せがちのなのはに、すずかが言い淀みながら引き継いだ。

 

「さっきの大きい男の人に……その、服を……破かれて」

 

言いづらそうにしながらも、二人は教えてくれた。倉庫まで駆けつけた時は近くにいる大男を排除しなければと必死になっていてそこまで頭が回らなかったが、あの男が頭にバンドで小型カメラをつけていたのはそのためか。

 

そうか、なるほど。

 

「三人とも。ちょっと目を閉じて、耳を塞いでいてくれるか?」

 

「え……と、徹お兄ちゃん、どこ行くの?」

 

「ははっ、なんてことはねえよ。ただあいつの四肢を()いでくるだけだ」

 

「っ!だ、だめっ!」

 

すっくと立ち上がり、(きびす)を返して倉庫の端っこへと足を向けた俺を、アリサが制した。

 

久し振りに聞いた気がするちゃんとしたアリサの声に、振り向く。渡したジャケットは未だに強く握りしめているが、とりあえず顔を見せてくれただけでもありがたい。

 

ありがたいけれど、それとは別に、あの男を血祭りにあげたい。あげなければ。

 

「あいつは……」

 

「……言ったじゃない。殺しちゃだめって。さっきも約束破ろうとしてたでしょ」

 

「でもな……」

 

「もういいのよ。徹が懲らしめてくれたから、もういいの」

 

泣き腫らした赤い瞳で、潤んだ声で、しかしアリサは気丈にそう言った。

 

「…………」

 

俺個人の感情としては複雑だが、アリサが『もういい』と許すのなら、これ以上は手は出せない。個人で裁くだけの大義はない。後の償いは法に任せ、俺個人の怒りは呑み込むこととしよう。

 

それよりも、俺には言わなければいけないことがあった。

 

「徹、あのっ……」

 

「……俺、言わなきゃいけないことが……あ」

 

こんなタイミングで被ってしまった。

 

「……なに?言わなきゃいけないことって……」

 

ぴくっ、と肩を跳ねさせたアリサが、どこか不安げに俺を見た。

 

「いや、アリ……お嬢様からどうぞ?」

 

「っ……いいから、先に言って」

 

必死さが垣間見えるその瞳は、さっきよりも心なし水気が増している。唇を噛み締めるようにして、目元に涙を蓄えていた。そんな状況の女の子を相手に、()を通す根性などない。緊張しつつ、切り出す。

 

「えっと、まずは……助けにくるのが遅れてごめん。そのせいで三人には余計に怖い思いをさせた。本当なら連れ去られることこそ阻止しないといけなかったのに」

 

路地裏で俺は一度、気を失った。

 

かなり切羽詰まった状況だったが、使い慣れた魔法なら使えるタイミングだった。

 

しかし、トラックに突っ込まれて無傷はさすがにまずいんじゃないかなどと保身が脳裏をよぎった。魔法の使用を躊躇(ためら)ってしまった。

 

俺は、優先順位を間違えていたのだ。

 

無傷で済んだら不審がられるんじゃないかだとか、こちらの世界で魔法を使えば責められるかもしれないだとか。

 

何よりも優先すべきはアリサたちの身の安全だったのに、他の些細なことに気を取られてしまった。

 

その結果、魔法の保護なしに正面から衝突され、気を失った。

 

前日に鮫島さんから衝撃を受け流す『風柳』を教えてもらっていなければ助けにくることすらできなかったかもしれない。

 

意識が途切れたせいで時間の感覚は曖昧になってしまっていたが、おそらく一分も気絶していなかっただろう。頭に響くなのはからの念話で目を覚ました。

 

そこからは逐次念話で送られてくるなのはからの情報と、付近一帯にばら撒いたサーチャーで場所を把握したが、人に見られないように建物の屋上を飛び回って移動していたせいで時間がかかってしまった。

 

もっと早く助けに行く方法はあっただろうし、そもそもトラックに適切な対処ができていれば問題にすらならなかった。俺がうまく立ち回っていれば、難しくはあっても不可能ではなかったはずだ。

 

「すぐ(そば)にいたのに、守れなかった」

 

ごめんな、と続けようとして、続けられなかった。アリサが俺の口に手をあてて、言わせてくれなかった。

 

「……な、んで?」

 

精いっぱいの力で絞り出したことがわかる掠れた声で、アリサが言った。

 

言い訳も誤魔化しもできない。

 

アリサの小さな手を優しく掴み、口元から動かして正直に話す。

 

「……油断してた。気が緩んでたんだ。一緒に出かけて、お喋りしながら買い物するのが楽しくて……警戒が届いてなかった。はは……どうやら俺は、荒事には向いてても執事には向いてなかったみたいだ」

 

最初はどうあれ結果的に鮫島さんの代役として、俺を抜擢(ばってき)してくれた。その上、制服としてスーツまでオーダーメイドで仕立ててくれた。それだけ期待してくれていて、信頼してくれていた。

 

だが、蓋を開ければこのざまだ。

 

俺は期待と信頼の(ことごと)くを裏切った。責められても、返す言葉はない。反論の余地などありはしない。

 

「っ……う、でしょ……っ」

 

「え?」

 

囁くような小さな声に聞き返すと、アリサは大きな瞳を()いて、俺を睨みつけた。

 

「ちがうでしょぉっ、ばかぁっ!」

 

ぽろぽろと、大粒の涙を流しながら。

 

「な、え、ちょっ……」

 

アリサは唐突に声を張り上げ、俺の襟元を掴んだ。

 

「なんでっ……怒らないの!恨まないの?!わたしのせいで徹は大怪我したのにっ!?わたしのせいでっ……みんな、っ、巻き込んでっ……」

 

「は?な、なんの話してるんだ?」

 

「わたしのせいなんだから、わたしを責めなさいよ!なんで自分を責めてるの!なんでっ、なんでっ……ぐすっ、わたしたちを命がけで助けてくれた徹が……あや、まるの……っ」

 

服を掴んで涙を(あふ)れさせながら、アリサは懸命に気持ちを伝えようとしてくれていた。しゃくり上げながらも嗚咽を殺して、必死に。

 

「……そっか。心配させちゃってたんだな……」

 

「当たり前でしょっ?!徹が死んじゃうって……頭の中、ぐるぐるして……っ」

 

「約束、したからな」

 

初めて出会った日。一週間前に俺の家に泊まりにきた日。

 

その時に交わした、約束だ。

 

「ぐしゅっ……約、束?」

 

「『お姫様(アリサ)が困った時には助けに行く』……ほら、ちゃんと助けにきたぞ。ちょっと遅れちまったが」

 

笑いながら、そのセリフを暗唱したことでアリサも思い出したようだ。ピンク色の唇をぽかんと開き、涙に濡れて光る大きくて綺麗な瞳はまん丸になっていた。

 

「お嬢様が困った時、危ない時にはちゃんと迎えにくる。アリサを助ける前にくたばったりしないって。だから、安心してくれ」

 

「あんな、口約束で……冗談みたいな、約束を……」

 

「憶えてるし、守るよ」

 

「ぅ、ぁっ……うぇ、ひっく……っ」

 

一度は治まりかけたアリサの涙が、再び勢いを増してしまった。

 

長い睫毛(まつげ)を濡らして、柔らかそうな頬を伝い、シャープな顎から(したた)る。

 

次から次へとこぼれ落ちる涙を拭う。と、ついでに勢いよく俺の胸ぐらを掴んだせいで落ちかけたジャケットを羽織らせ直す。

 

詳細は知らないが、俺がこの倉庫に突入した時、アリサはあの男に組み敷かれていた。すずかやなのはが教えてくれたところによると、その時に服を破り捨てられてしまったらしい。

 

羽織らせる際に、ジャケットの内側が少し見えてしまった。アリサの格好は、下はともかく、上はほぼ下着姿に近かった。

 

つまり、肌の露出面積が増えていたせいであって、決してわざとではない、ということを言いたかったのだが、ジャケットを肩にかけ直そうとして、俺の手がアリサの肌に触れた。

 

「ぴゃっ」

 

明らかに、俺の手が触れたことが原因で、アリサが悲鳴をあげた。

 

「…………」

 

決して、誓って、わざとではないし、この機に乗じて悪戯を働こうと思ったわけでもない。手が触れたことは、本当に偶然だ。

 

本当に偶然ではあったが、もしかしたら大男に組み敷かれたことがトラウマになって、男という生き物全体に対して恐怖や嫌悪といった感情を抱いていたとしても、まったく不思議なことではない。

 

俺はあの下衆野郎みたいな乱暴な男じゃないよと言外に示すように、可能な限り柔和な笑みを浮かべる。

 

これでアリサに怯えられるようになったら死にたくなるなあとか考えながら、おそるおそるアリサの顔色を窺う。

 

「っ!?」

 

恥ずかしがっている、のだと思う。

 

腕の中にいるアリサは、顔はもちろんのこと耳まで真っ赤に染め上げていた。明らかにいつものアリサとは様子が違う。

 

いつもならこの距離感でも顔色一つ、どころか態度も声のトーンすら変わったりしない。呼吸を整えるのに苦労するほど顔を真っ赤にして羞恥心を見せることなど、今までなかった。

 

男性恐怖症的なそれかと脳裏をよぎったが、そういった拒否反応ではないようだ。拒絶という雰囲気ではない。

 

今のアリサは、恥ずかしそうに照れているといった印象だった。それこそまるで、恋に恋する可憐で純情な乙女のように。

 

こういった女の子っぽいリアクションは知る限り、俺の前では見せてこなかった部分だ。新鮮に感じるとともに、不謹慎ではあるが胸を少々ときめかせるものがある。

 

「と、徹……ちょっと」

 

「どうした、お嬢様。大丈夫か?」

 

「だっ、だいじょうぶ、だから……ちょっと離れて」

 

「…………」

 

ちょっと傷ついた。

 

「っ……はっ、ふぅ。はぁ」

 

俺の話を先にしてしまったが、そういえばアリサも話があるようなことを言っていた。傷心している場合ではなかった。

 

ジャケットを羽織って深呼吸するアリサに切り出す。

 

「お嬢様も話があるみたいだったけど、その話は?」

 

「わ、わたしの話は……もう終わったわ。えっと……助けてくれてありがとう、巻き込んでごめんなさいっていう……そういうこと」

 

「助けるのは当然だし、巻き込んだっていうのは見当違いだから謝る必要ないけどな。お嬢様の話が終わってたんなら、俺からもう一つ……言っておかないといけないことがあるんだ」

 

「いっ、言っておかないといけないこと?……っ、な、なに?」

 

アリサはどこか期待するような声音で、ちらちらと上目遣い気味に俺を見た。

 

何を想像しているのか知らないが、確実にアリサの期待を裏切る話になってしまう。いい話ではないのだ。どちらかと言えば悪い話で、もっと詳しく言えば、とっても悪い話なのだ。

 

下手をすれば、俺の人生が詰むくらいの、深刻な話。

 

「……せっかく作ってもらったスーツ、ぼろぼろにしちゃったんだ……ごめん」

 

「……そんなこと?」

 

「そんなこととはなんだ!」

 

あっさりと切って捨てたアリサちゃんに俺は憤慨した。

 

オーダーメイドの高級スーツを、たった二日でぼろぼろずたずたの血まみれ砂まみれにしてしまったのだ。どれだけ怒られるだろうと俺は戦々恐々だったというのに。もし弁償しろと言われたら、高校中退してバニングスさんの会社で汗水垂らして働かなければならないと本気で悩んだほどだ。

 

「それこそ徹のせいじゃないわよ。謝ることない」

 

「で、でも、これ高くないわけないだろ?」

 

「それなりの品って程度だから、気にしなくていいの。安心して、また用意してあげるわ」

 

「いや……それはそれで申し訳なさが二倍三倍になるんだけど……」

 

「ただ次のは安物になると思うけど、いい?」

 

「安物だろうがなんだろうがプレゼントは嬉しいよ。……いや、やっぱり申し訳ない気もするけど……」

 

「あの……あのね、徹。わたし、一応自分の銀行口座持ってるの」

 

「……ん?いきなりなんの話?」

 

「でもわたし、あんまり使うことってなくて、自分のお金を使う時ってだいたいゲームくらいなのよ」

 

「へえ、そうなんだ。ん?あれは?服とか、あとヴァイオリンとか」

 

「買いに行く時は車で行くから、結局親のカードで払ってて自分のお金は貯まる一方なのよね」

 

「いいところのお嬢様ゆえの苦悩だな」

 

今ひとつ話の先が見えないが、考えてみればそうだ。大きな買い物に行く時は基本的に鮫島さんがついているだろうし、学校の帰りに寄り道して遊ぶ、ということも習い事の多いアリサには難しい。あのお父様(バニングスさん)なら、お小遣いもたくさん渡していそうだが、当のアリサは使う暇とタイミングがないということか。

 

お金はあるけど使う機会がないって、まるでワーカーホリックのような状態である。アリサの歳からそれって、少なからず危機感を覚える。

 

「だから……だからね。ありがとうの気持ちを込めて、次はわたしのお金だけで、徹に贈るから」

 

「えっ……いや、それは……っ」

 

アリサを制止する前に。俺が固辞する前に。

 

アリサは頬を染めながら、とびっきりの輝かんばかりの笑顔を俺に見せてくれた。

 

「だから、また今度……い、一緒に見に行くわよっ」

 

この笑顔を目の前にして拒否できるほど、俺の心は強くなかった。

 

 

 

 

 

 

アリサ、すずか、なのはが誘拐された事件は、ニュース等には一切取り上げられなかった。取り上げられていたのは『大型トラックがアクセルとブレーキの踏み間違いでビルに突っ込んだ』という事故ともう一つ。よくわからない事件(・・・・・・・・・)の二つくらいなものだ。コメンテーターが首を傾げていた映像が印象に残っている。

 

「……もう、暗くなってんな……」

 

窓の外を見れば、とっぷりと日が沈んでいた。

 

少し寝てしまっていたようだ。部屋の電灯をつけていないので、光を放っているのは寝る前につけていた無声のテレビだけである。

 

「くぅっ、はあ……腹減ったな」

 

ソファから立ち上がり、伸びをする。ぱきぱきと鳴る背中をさすりながらテレビを消し、ゆっくりと扉を開いて静かに部屋を出た。目指すは厨房だ。

 

倉庫跡でひと暴れしてから、すでに数時間が経過している。昼食は摂っていたが、そこから予想外の運動量と失血により、エネルギーを消費しすぎた。

 

日付も変わりそうなこんな時間ではバニングス邸の料理人、北山さんもすでに帰られているだろう。何かしら食材はあるはずなので、自分で作ることとしよう。

 

「すずかやなのはは大丈夫かな。トラウマとかになってなきゃいいけど……」

 

誘拐犯どもを叩きのめしたあと、倉庫跡でしばらく待っていると、迎えの車がきてくれた。運転手は鮫島さんではなくノエルさんだったことから、三人が誘拐されたという情報は至極当然に月村家まで渡っていたようだ。あの様子ならば高町家にも連絡が回っているだろう。心配性ななのはの兄には、学校で話をすればいい。

 

普段からあまり感情が外に表れないノエルさんのアリサたち三人を心配する顔と、俺を見た時の血相の変え具合は、場違いながら良いもの見れたなあ、と感慨深かった。

 

今頃は、すずかもなのはも、アリサと同様精神的肉体的疲労から眠っていることだろう。

 

二人とも、俺がいる間は割といつも通りというか平気そうには見えたが、それらは気を張っていただけで実際はとても傷ついているのかもしれない。後になって恐怖がぶり返すというのはよく聞く話だ。親しい人に話を通して、しばらくは寄り添ってもらうよう伝えておくべきだろう。

 

「ま、それで言うなら一番ショックを受けてるのはアリサ、か……。シャワー浴びるくらいの余力はあったみたいなんだけどな……」

 

すぐに休むべきだと一応進言はしたのだが、砂にまみれた身体でベッドに入りたくなかったのか、アリサはシャワーを所望した。正直なところ、俺も砂やら土やら血やらが身体に張り付いているので、シャワーは浴びたかったのだ。

 

シャワーを浴びて綺麗になったアリサは、やはり疲労が溜まっていたのか浴場から上がったところで電池切れになっていた。脱衣所にバスローブが用意されてあったので、なるべくアリサの湯上がり姿を直視しないように努力した結果半ば巻きつけるようにバスローブに着替えさせ、彼女のベッドへ運んだ。

 

俺もシャワーを浴びて、アリサの部屋のソファでニュースを確認している時に寝落ちして、今に至る。

 

いかに誘拐された直後でシャワーを浴びる余裕があったとしても、それは強がりの可能性もある。アリサが強がらずに済むような人が、もしくは本音を晒け出せるような人が、しばらくの間、少なくとも今日一日くらいは寄り添ってあげるべきだろう。父親や母親が、本来なら寄り添ってあげるべきなのだろうけれど。

 

「……はあ。俺が考えても仕方ないよな」

 

それができないからこそ、今のアリサの精神が醸成されたのだ。親に頼らない、甘えないという、子どもらしからぬ精神が。

 

俺には手出しのできない領域の話だ。頭を回したところで解決の糸口は見えない。

 

そうこうしているうちに、厨房へ到着。

 

「勝手に食材使って怒られないかな……ま、あとで謝っとこ」

 

明らかに家庭用ではない。どころか業務用よりも一回り大きな冷蔵庫を開いて、使えそうな食材を見繕う。

 

「…………」

 

作るのは自分の分だけなので適当なメニューを思い浮かべながら、違うことを考える。否、反省する。

 

よく研がれた包丁を握って、野菜を切る。

 

今回は本当に危ないところだった。トラックに激突され気を失っていた時間がもう少し長ければ、間に合わなくなるところだった。なのはがいなければ、誘拐された場所もすぐに見つけられなかった。そもそも、アリサをつけ狙う存在を知っていたというのに、買い物に浮かれて警戒を弱めるという失態もあった。

 

記憶を掘り返しながら、あの場面でこうしていれば、あの状況でこういう手を打っていれば、と後悔しながら手を動かしていると、いつのまにか料理が完成していた。

 

さっそく一口食べてみる。

 

「……味気ない」

 

食材がいいのでまずくはないが、ネガティブな考え事をしながら作ったせいか、それとも一人で食べているせいか、おいしくない。

 

それでもお腹は空いているので、腹を満たすためだけに口に放り込んでいく。

 

皿に乗った料理がだいたい半分ほどなくなった頃、厨房の扉が開いた。

 

「いい匂いがすると思えば……ここにいましたか」

 

「あ、鮫島さん。戻ってきてたんだ」

 

疲れた様子の鮫島さんが、苦笑いで立っていた。

 

その後ろから、もう一つ人影が現れる。

 

「……やあ、逢坂くん」

 

「あ、バニングスさんも」

 

アリサのお父様、バニングスさんが顔に影を作りながら鮫島さんの隣に並んだ。

 

「…………」

 

「えっと……娘さんは無事ですよ?今はぐっすり眠ってます。大きな怪我もありませんし……心のほうはまだなんとも言えませんけど」

 

「そういうことではないんだ。……いや、それも含めて、ということもあるだろうが。君には謝りたくてね……」

 

「謝る、というのは……」

 

目を伏せながら喋るバニングスさんの話は、いまいち要領を得ない。

 

助けを求めるように鮫島さんに視線を送る。

 

「私から説明いたします。少々長くなりますので、場所を移しましょうか。立ちながら話すことでもありませんから」

 

厨房から食事をするホールのほうへと移動し、席に着く。すぐに鮫島さんがお茶も用意してくれた。

 

憔悴(しょうすい)しているバニングスさんは気がかりだったが、下手に口を(さしはさ)むこともできないのであえて触れずに鮫島さんの話に耳を傾けた。

 

どうやら俺がソファで眠りこけている間に誘拐犯たちの事情聴取を済ませていたらしい。あらかたの顛末が、明らかになっていた。

 

明らかにされた情報は、俺の中ではだいたい二種類に大別できた。想像通りだった部分と、想像以上だった部分の二種類だ。

 

「バニングスさんの会社に『(フウ)』っていう犯罪者組織の構成員が潜り込んでいた。……それは予想してたけど、まさか世界規模の犯罪組織とはね……」

 

「…………」

 

ひと月前の誘拐未遂といい、一週間前のストーカー疑惑といい、今回の未成年者略取と傷害事件といい、あまりにもアリサの行動を把握しすぎていると思っていた。

 

加えて、ボディガード役を兼ねている鮫島さんをアリサから引き離した原因である会社での重要案件における人為的ミス。

 

アリサに関連する個人情報の流出も、重要案件の人為的ミスも、バニングスさんの会社に潜入していた構成員が故意に行なっていた。

 

構成員から流れてきた情報を利用してリーダー格の男がアリサを誘拐し、アリサの身柄を手札にしてバニングスさんを脅迫。同時に会社で不祥事を引き起こし、それを理由にバニングスさんを含めた現在の経営陣を退任させ、潜入していた構成員が会社の牛耳を()ろうと画策していたようだ。

 

バニングスさんの会社は日本はもちろん、世界各国に支社がある。そんな大会社の資金力、ネットワークを利用して『(フウ)』という組織は規模を拡大させる計画だったらしい。

 

「でも、本当によかったよ。防ぐことができて。しかも芋蔓式(いもづるしき)にバニングスさんの会社に潜伏していた構成員を引っ張れたんでしょ?」

 

「ええ。今回の騒動の構成員を率いていた大男が驚くほどあっさりと吐いてくれましたので」

 

まこと恐ろしい話だが、今回その計画を挫き、リーダー格の男以下構成員数十名を(満身創痍の死に体ながら)捕らえることができた。そいつらは全員が全員、何かに怯えるように、実に軽快に口を割ったらしい。

 

特に、俺が殺める寸前までいったリーダー格の大男。あいつは日本国内にいる『(フウ)』の構成員の中でも上のほうだったらしく、会社に潜伏している構成員の情報まで吐いたのだという。

 

何が彼らをそこまで怯えさせているのかは取り調べでもわからなかったらしいが、ともかくそのおかげでバニングスさんの会社に浸潤している『(フウ)』のメンバーの人数・部署・名前・役割までご丁寧に判明したわけである。

 

おかげで獅子(バニングスさん)身中(会社)に入り込んでいた(構成員)を綺麗に取り除くことはできた。できたのだが、それは同時にいくつか問題も露見させていた。

 

「もとを辿れば、ちゃんとした調査もせずに構成員を雇い入れてしまった僕の責任だ。……すまない」

 

その一つがこれである。

 

そもそも、バニングスさんの会社に構成員が入り込んでいなければ、これまでの誘拐計画は立ち上がらなかっただろう。アリサの情報が漏洩することもなかっただろうし、社内で問題を引き起こすこともできないのだからボディガード役の鮫島さんを引き剥がすことも、そこからバニングスさんを退任させ会社を乗っ取ることもできない。

 

この一件が発生してしまった根因は、会社に侵入させてしまったことだ。

 

だとしても、それを強く非難することはできない。

 

なぜなら。

 

「徹くん。これは言い訳にしかなりませんが……大きな会社では社員の一人一人にまでは目が届きませんし、出自などの身元調査も万全とはいかないのです」

 

つまり、こういうことだ。

 

世界に広げれば何万人、日本国内だけでも何千人いるかわからない社員を個別に深く詳しく調べるなんて不可能だ。『(フウ)』の構成員だって少なからず調べられるだろうという前提で採用試験に臨んでいるのだから、隠蔽や改竄などの裏工作はするはずだ。あまりにも現実的ではない。

 

「……はあ。バニングスさん、謝るのなら俺じゃなく、娘さんと、すずかやなのはにどうぞ」

 

いっそのこと、今回の一件で浄化できたと開き直って、これからどうやって持ち直していくかを考えてたほうが生産的だ。

 

「しかし、僕の管理が甘かったばかりに、逢坂くんが大怪我を……」

 

「トラックにぶつかっただけです。それほど大事(おおごと)ではありません」

 

「……取り調べの中で、大型トラックと正面衝突した上、ビルに挟まれたと聞きましたが?例の大男が『こんな街にも化け物がいた』と震えながら茫然自失に喋っていました」

 

「鮫島さんに教えてもらった『風柳』で受け身取ったから大怪我はしてないよ。さすがに血は出たけど」

 

「受け身で大型トラックの衝突を軽減できるのか……武道に精通している人がやると違うのだな」

 

「旦那様、徹くんが特殊なだけですので鵜呑みにしてはいけません」

 

完璧に無傷だとあらぬ疑いをかけられそうなので、大きな傷口は治癒魔法で塞ぎ、比較的軽いものは放置した。おかげでシャワーを浴びた時はちくちくと痛かった。

 

あまり怪我の程度について突かれるとぼろが出そうなので、質問で話題のレールをずらす。

 

「それより、また鮫島さんが後始末してくれたんだよね?ありがとう。ちょっとやり過ぎちゃったみたいだから不安だったんだ」

 

「そちらは(つつが)なく。月村様も力を貸してくださり、結果として反社会的勢力の抗争、という構図で処理致しました」

 

ニュースで取り上げられていた反社会的勢力の抗争(よくわからない事件)は、やはり鮫島さんが手を回してくれていたようだ。

 

「やっぱり忍のとこも手伝ってくれてたんだ」

 

ノエルさんが迎えにきてくれていたことから情報は共有されているのだろうと思っていたが、メディアへの対処も協力してくれていたとは。また今度、お礼を言わなければ。

 

「まあそれなら一件落着、大団円だね。よかったよかっ……」

 

「まだ逢坂くんへのお礼が残っているよ」

 

「…………」

 

うやむやにして誤魔化してしまおうと思ったが、先回りされてしまった。

 

そもそも、と前置きをして、バニングスさんはテーブルに手をついた。前のめりになりながら俺に話してくる。

 

「僕は、愛する娘と、愛する娘の大切な友人を助けてくれたことへのお礼をするために帰ってきたんだ。アリサと一緒に逢坂くんも帰ってきているはずなのに、どこを探してもいない。帰ってしまったのかと諦めて、食事をとり損ねていたから鮫島に何か軽食でも作ってもらおうかとキッチンへ向かえば、廊下にいい匂いが漂っている。北山がまだいたのかと思って扉を開けば、なぜかここに逢坂くんがいた。正直とても驚いた……驚いたよ!」

 

俺はその大きな声に驚きましたよ。

 

「あー……すいません」

 

「大型トラックに激突されて生きていたことにも、病院に行っていないことにも、部屋で休んでいないことにも、君には驚かされっぱなしだ」

 

「怪我が軽かったんで……でもお腹空いてたし血も流したし、なにか軽く作らせてもらおうかなー、と」

 

「なにも自分で作らなくともいいだろうに。北山なら、呼べばすぐ来て作ってくれるさ」

 

「いやさすがに悪いですって。それに誰かに頼むより、自分で作るほうが慣れてるんで」

 

「そういえば逢坂くんは自炊してるんだったね。……おいしそうだね」

 

「旦那様」

 

「いや、違うぞ鮫島。別に僕は逢坂くんのご飯を奪う気などさらさらない。……ただ、おいしそうだな、と」

 

まだ半分くらい残っている俺が作った料理を、バニングスさんが物欲しげに眺めていた。

 

話に出てきていたが、厨房にきたのはお腹が空いていたかららしい。会社でのごたごたに奔走して、食事を摂る暇もないほど忙殺されていたのだろう。

 

それならば、と申し出る。

 

「軽いのでよかったら作りましょうか?準備もしてないので、簡単なものになっちゃいますけど」

 

「いいのかい?」

 

「しかし、徹くんもお疲れでは……」

 

「ついさっきまで寝てたから体力は戻ってるよ。それに、鮫島さんにご飯作るっていう約束……まだ果たしてなかったからね」

 

心配そうにする鮫島さんを押し切り、俺は厨房へ。

 

お腹を空かせたバニングスさんは、なんなら俺が食べていた冷えかけのご飯に手をつけそうな勢いだったが、さすがにあんな大雑把に作った粗末なご飯を食べさせるわけにはいかない。手っ取り早く簡素な夜食を作るほうがまだまともな料理になる。

 

餓えたバニングスさんが残飯に向かってしまう前に、スピード優先でちゃちゃっと作る。

 

「はい、手抜きトマトリゾットと時短クラムチャウダーです」

 

「おお!こんなに早くできるとは!」

 

「実に美味しそうで……三人分ですか?」

 

「足りなかったから自分の分も作ったんだ」

 

「若さ、だね」

 

「バニングスさんも若々しいですけど」

 

「もう若くないさ。だんだん無理がきかなくなるのだよ。では、いただきます」

 

「ほお……短時間で作ったとは思えない味です」

 

「ああ、空っぽの胃袋に染み渡るようだ……それはそうとお礼の話だが」

 

ここまでやっても流せなかったか。

 

返事を考えながら、食べかけだったご飯を口に放り込む。今のほうがご飯は冷えているのに、一人で食べていた時よりも少しだけ、おいしく感じた。

 

「お礼と言われましても……誘拐を防ぐことはできてませんし」

 

「アリサも含めて三人もいたんだ。トラックから三人を守り、自らが怪我をしてもなお助けに向かった。充分すぎる活躍だよ」

 

リゾットを口に含んで頬を綻ばせながら、バニングスさんが言った。

 

「……あの場には一応アリサの執事としていたので、なるべく職務を全うしようとしたまで、なんですけど……」

 

「逢坂くんが執事をするということは聞いていたが、それはアリサがお願いしただけなのだろう?それで給料が出るわけでもないじゃないか。執事として働いたと逢坂くんが言い張るのなら、いっそのことお礼は即物的に給料として支払うという手もあるが」

 

クラムチャウダーをすすりながらバニングスさんに提案された。

 

もちろん、首を縦に振るわけにはいかなかった。

 

「いやです。お金のために命張れないんで」

 

「……かえって格好いいな。しかし、ここまで僕の申し出をきっぱりと拒否する人もいない」

 

「こればっかりはすいません」

 

「そうだ、うちの会社でポストを用意しておくよ」

 

「それ現金と遜色ないです」

 

「旦那様。縁故採用を徹くんへの礼とするのは、ほぼ不可能かと」

 

「む、鮫島、僕の邪魔をするか」

 

なにやら鮫島さんが俺の側に立ってくれている。その調子だ、その調子で断ってくれると俺としては超助かる。

 

「徹くんにはアリサお嬢様の執事に……つまりは私の後任となって頂かなければいけませんので」

 

「ほう、ならば仕方ない」

 

「そうそう、仕方な……っていや違う!俺が望んでた展開と違う!」

 

どうにか話の切り口を変えなければ、なし崩し的に俺の将来が決まってしまう。逃げ道がなくなる前に、矛先を変える。

 

「そ、そうだ。バニングスさんは大丈夫なんですか?最近ずっと忙しいんですよね?そろそろ日付も変わってしまいそうですし、休まれたほうが」

 

「そうだね。通常業務と『(フウ)』の奴らが仕掛けていたミスの修正。連日の残業に加え、社員の人数が減ってしまって負担が増えてしまっているが、逢坂くんの案件を済ませなければ僕はゆっくりと寝れそうにないよ。なんせ、愛する娘の恩人、なのだから」

 

「そんなに恩を感じられても……ん?人がいない?」

 

一つ、ひらめいた。

 

「社員が減って、大変なんですよね?」

 

「うん?まあ、そうだね。他の社員も精一杯やってはくれているが、さすがに穴埋めには限度があるよ。足を引っ張る構成員たちが抜けたぶん、解決の目処は立ってきているがね」

 

「人手が足りていないってことなら、一人紹介したい人材がいるんですけど。それがお礼ってことで。前回の分のお礼もまだ有効なら、重ねてお願いします」

 

「紹介か……君なら一も二もなく、なんなら今からでも我が社に迎え入れるほどだが……」

 

「大学は中退しちゃったんですけど、頭の回転は引くほど早くて、分野によっては俺よりも知識が豊富です。行く先々で相手側に問題を起こされて職場を転々としてるんです」

 

「もしや、その方は……」

 

「そう。俺の姉だよ、鮫島さん」

 

「なんだ鮫島、知ってるのかい?」

 

「はい。お若い時分から大変聡明なお方です。つい最近、再びお顔を拝見しましたが、その怜悧(れいり)さは(かげ)ることなく、さらに輝いておりました。徹くんのお姉様だけあって人格も素晴らしく、その気性は曇ることのない太陽のようなお方です」

 

いろんな意味でうまいことを言う。

 

「ほう、逢坂くんのお姉さん……しかも鮫島がそこまで絶賛するとは。いいだろう。だが一応、面接と筆記試験だけはさせてもらってもいいかな?でないと他の社員に示しがつかなくてね」

 

「いえ、面接とかの試験をやらせてもらえるだけでもありがたいです。普通なら書類選考で落ちてるでしょうし」

 

心の中でガッツポーズする。

 

行き当たりばったりだったが、いい方向に舵が切れた。これで姉ちゃんの就職先とお礼の二つが同時に消化できた。

 

なんだか姉ちゃんをいいように使っている気がしないでもないが、悪いことではないので構わないだろう。

 

「正直に話すと、こちらとしても戦力が減ってしまい困っていたんだ。それほど優秀な人物であれば、僕としてもありがたい話だよ。……さて、僕はそろそろ休ませてもらうとするよ。明日も仕事に追いかけ回されることが決まっているからね」

 

「はは……お疲れ様です」

 

椅子を引き、バニングスさんが立ち上がる。

 

そのままホールを出るのかと思いきや、立ち上がったまま、俺をじっと見た。

 

どうしたのかと思えば、バニングスさんは(おもむろ)に、そして丁寧に、深々とお辞儀をした。

 

「改めて礼を言うよ。ありがとう、()くん」

 

「ちょ、もういいんですってば。……えっと、どういたしまして?」

 

バニングスさんはしどろもどろな俺をくすくすと軽く笑って、続けた。

 

「なにか困ったことがあれば、気軽に相談したまえ」

 

「え?貸し借りのお願いは全部使っちゃいましたけど……」

 

「そういった貸し借りは関係なく、僕が、デビット・バニングス個人が、逢坂徹くん個人に、友人としてなにかしてあげたいと、そういうだけさ」

 

バニングスさんは、照れくさそうに目をそらした。その仕草は、笑ってしまいそうになるくらいアリサと瓜二つだった。

 

「だから、まあ……そういうことだよ。じゃあ後はよろしく頼んだよ、鮫島」

 

「かしこまりました」

 

ホールからバニングスさんが退出した。

 

鮫島さんは、バニングスさんの大きな背中を扉が閉まるまで見送ってから、肩を(すく)めた。

 

「仕事では大胆に振る舞えるのですが、プライベートでは照れ屋なのですよ」

 

「はは、そうみたいだね」

 

アンティーク調の柱時計を確認すると、バニングスさんも言っていた通り、もういい時間だ。

 

「どうしますか?お部屋の準備はできておりますが」

 

俺が口にする前に鮫島さんが切り出してくる。こういう気配りは経験の為せる技なのか。

 

「あー、悪いけど帰るよ」

 

「……家に、ですか?」

 

「え?もちろんそうだけど……むしろほかにどこに帰ったらいいの」

 

「調子が良いようでしたらこちらで、もし痛みがあるようなら病院へ送ろうというつもりで伺ったのですが……」

 

「いやいや、大丈夫だって。明日も学校あるんだから、帰らないと」

 

「…………」

 

「え、なに?」

 

「学校……行くつもりだったのですか?」

 

心底驚いた顔で、なんなら信じられないという顔で尋ねてくる。

 

そりゃまあトラックで潰された人間が病院行かずに学校行くとか言い出したら、たぶん俺でもそんなリアクションになるだろうけど。

 

「出席日数やばいんだ。恭也や忍の後輩にはなりたくないからね」

 

「そ、そうですか。いえ、徹くんがそれでいいのでしたら無理にとは言いませんが……どこか少しでも不調があるようでしたら、すぐお医者様にかかってください」

 

「おっけおっけ、了解。……そうだ、アリサの寝顔を見てから帰ろうかな」

 

「ふふ、では車を回しておきます」

 

鮫島さんと手分けして使った食器や調理器具を片付けて、ホールを出た。

 

途中で鮫島さんと別れてアリサの部屋へと足を向ける。

 

「起きてるかもしれないし、一応……」

 

十中八九寝てるだろうけど、念のため控えめにノックする。無断で入ってませんよ、という言い訳作りな気もするけれど。

 

「……寝てる、よな」

 

咳払いくらいでかき消えてしまいそうな音量のノックには返答がなかったので、緩やかにドアを開けてお邪魔する。なるべく音を立てないように気をつけていたが、質の高い絨毯のおかげで静粛性は完璧だった。

 

ベッド脇にまで移動して、顔を覗き込む。その時だった。

 

長い睫毛(まつげ)がふわっと開いた。金色の髪と大きな瞳は、闇夜に浮かぶように輝いて見えた。

 

「徹、でしょ」

 

「っ?!」

 

大声を出さなかったことは奇跡に近い。心臓が口から出てきそうなほど驚いた。

 

起きていたのか、はたまた、俺が起こしてしまったのか。

 

「どうしたの?家に帰らなかったの?」

 

「あ、ああ、いや……これから帰るとこ。顔見てから帰ろうと思って」

 

「……そう」

 

窓から月光が差し込む。

 

アリサの横顔が淡く照らされた。

 

気品と高貴さ、今はそれらに憂いを帯びていた。

 

「起こしちゃったか?」

 

「ううん、眠れなかったの。目を閉じたら、あの男の顔が浮かんで……」

 

「……そうか」

 

強烈な記憶やトラウマなどは、似たようなシチュエーションでフラッシュバックすると聞いたことがある。今は月の光はあるし清潔さもまるで違うが、この部屋の暗さだけは倉庫の中と酷似している。状況を重ねてしまって、思い出してしまったのだろう。

 

俺の視線を感じてか、アリサは自嘲するような乾いた笑みを浮かべた。

 

「情けないわ。明日は学校があるのに」

 

「……さぼっちゃえよ。勉強なら困らないだろ」

 

「勉強には困らないけど、ずっと皆勤賞とってるし、それに……休んじゃったらなのはとすずかが、心配するじゃない……」

 

「……自分のことだけ考えてろよ」

 

「そんなの、徹には一番言われたくないわね……」

 

アリサは目を伏せ、かけていた布団をきゅっと握り締めた。

 

「寝なくちゃいけないのに、怖くて寝れないの……だから」

 

アリサには珍しい表情だった。

 

弱々しく揺れる瞳、不安げに下がる眉尻、月明かりでもわかるほど上気した頬。乱れた髪が一房、目元に重なり影を作る。凍えるように震える唇が、儚げな声を紡ぐ。

 

「となりに……いて、ほしい……」

 

形容しがたい衝撃が、名状しがたい衝動が、身体の中央でどぐんと爆ぜるように走った。熱された血液が、全身を駆け巡った。

 

「っ……わ、かった。ただ、ちょっと待っててくれ。鮫島さんが家まで送ってくれる予定だったんだ。必要なくなったって伝えてくる」

 

「そう……はやく戻ってきてね」

 

「あ、ああ。わかった」

 

寂しそうに微笑んだアリサの了承を得て、部屋を出る。

 

「……なんだあれ、なんだあれ……」

 

心臓がやけにうるさかった。

 

前までのアリサとは根本的に違っている。なのに、違和感や異物感はない。

 

これまでとは明らかに態度が違うのに、自然体だった。ということは、あれは演じているわけではないのだ。

 

あれはきっと、アリサが意識的にやっているわけではなく、無意識のうちに弱みを見せているのだろう。

 

「これまでがしっかりしすぎてたんだよな……」

 

そう。今になって考えればこれまでが強すぎた(・・・・)のだ。なのはやすずかの前で示すようなリーダーシップもそう。俺の前で振る舞うような気品や誇り高さもそう。

 

勉強も運動も完璧にこなす。父親のバニングスさんに付き添ってパーティなんかも出席すると聞いた。マナーや大人に対する会話も同年代とは比較にならない。

 

「まだ小さいのに、強くなきゃいけなかったんだ」

 

決してそれらがアリサの仮面であるとまでは言わない。なのはやすずかや、口幅(くちはば)ったいが俺と一緒にいる時も本当に楽しそうにしていた。

 

もう、自分の中で折り合いはついていたのだろう。仮面ではなく、アリサという人間にいくつかある面のうちの一つなのだ。

 

ただ、それらの顔と、弱みを晒せないということはまた別の話だ。

 

気を張っていて、気が抜けない。いつまでも強くあり続けられる人間なんていない。

 

「なら、今のアリサは……」

 

今のアリサは、前と変わったのではない。

 

強くて気高いアリサも、弱くて(たお)やかなアリサも、どちらも前から存在したのだ。どちらも見る角度を変えただけで、アリサの心を形作る一つの面だ。

 

これまで見せてこなかった、見せられなかった顔を見せてくれるようになった。

 

その、真意は。

 

「信用、してくれてるってこと、か……」

 

弱い部分を見せても失望したりしない。情けないところを見せても見放したりしない。

 

そうアリサが思ってくれるようになったということ。

 

それはきっと、信頼と呼んで差し支えないはずだ。

 

「いつも頑張ってるんだから、たまには甘えさせてやんないとな。よし……落ち着いた。まずは鮫島さんに連絡を……」

 

「お呼びですか?」

 

「っ?!」

 

鮫島さんが、すでにいた。なぜか足音も気配もなく、すぐ近くにいた。

 

「っ、はあ……声かけてよ……」

 

「今戻ってきたばかりですよ」

 

「そのわりには物音一つしなかったなっ。……あのさ、悪いんだけど、もう送ってもらわなくてよくなっちゃって……」

 

「はい。寝間着、お持ちしました」

 

「……ん?あれ、なんで……え?」

 

「これは失礼しました。徹くんは就寝時は服をお召しにならないタイプでしたか」

 

「いや、いや、違う。なんで服を持ってきたかじゃなくて、なんで服を持ってこれたかってとこが……なんで俺が家に帰るのやめるってわかったかっていう……」

 

「執事ですので」

 

「執事だからかー……執事ってすっごいなー……」

 

「身に余るお言葉です。では、こちらを」

 

寝間着を受け取る。軽く、手触りのいい生地で、少々息を呑む。これでいくらするのだろうか。

 

「あ、うん。ありがとう……」

 

「徹くんの朝食、制服は用意しておきます。真守様への連絡、食事も手配させて頂きますので、ごゆっくりお休みください」

 

「な、なにからなにまで……それじゃお願いするよ」

 

「ええ、お任せください。それでは、おやすみなさいませ」

 

姿を現した時と同じく、去る時もまた異様に静かに、鮫島さんは暗い廊下に溶けるように消えていった。

 

「鮫島さん、いつ休んでるんだろ……」

 

降って湧いた疑問に答えは出なかった。

 

もやもやしつつ、アリサの寝室に戻る。

 

「あ、はやかった」

 

「鮫島さんがこっちにきてくれてたおかげだ」

 

部屋の隅に移動し、服を脱ぐ。

 

鮫島さんが用意したのだ。どうせこの着替えも俺にぴったりなのだろう。

 

シャツを床に置いた時、硬い声でアリサが口走った。

 

「わた、わたしは……脱いでるほうがいいの?それとも……男の人は、自分で脱がしたいものなの?あ、でもわたしバスローブだけど……」

 

「……へぁ?」

 

あまりに突拍子のない問いかけに、変な声が出た。

 

「と、徹……服脱いでるし、そういう、あれを……するんじゃ、ないの?」

 

「ち、違う違う!鮫島さんに寝間着を用意してもらったから着替えてるだけだ!」

 

「そう、なの。まあいいわ。わたしも心の準備とか、できてないし……」

 

「も、もういいから、うん。寝よう」

 

わりと大人っぽい雰囲気になってから、いきなり服を脱ぎ出した俺も悪かったのだろう。

 

ただ、これから一つのベッドで眠りにつくというのにそういう話に舵を切ろうとするアリサもアリサで問題がある。絶対、以前話していた女性誌の悪い影響だ。考えるまでもなく、あの手の雑誌は小学生には早すぎる。

 

着心地の良いパジャマに着替えてアリサの元へ。

 

手をついてベッドの上に乗る。

 

かすかに、ベッドが軋んだ。

 

「っ……」

 

「…………」

 

なんてことないはずなのに、昨日だってここで一緒に寝たはずなのに、なぜかいやに緊張する。

 

アリサはぴくっと身体を震わせ、薄手の掛け布団を頭からかぶってしまった。

 

「……って、して」

 

「え?」

 

布越しで声がくぐもっていることもあるが、そもそもが蚊の鳴くような声だ。聞き取れなかった。

 

耳を(そばだ)てる。

 

「ぎゅって、して……」

 

集中していたことが裏目に出た。脳みそがとろけて耳からこぼれ出てくるかと思った。

 

「ああ、ほら」

 

「ん……」

 

なるべく落ち着き払ったように努めて、布団にくるまったアリサを、苦しくも熱くもならないよう加減して抱き締める。

 

アリサが腕の中でもぞもぞと動いた。

 

「はぁ……ん……」

 

熱のこもった吐息が胸元あたりに触れた。声もはっきりしたし、どうやら顔だけ出したようだ。

 

「目を、つむるとね……あの男の顔が浮かんでくるの。あの男の、いやしい口元と、ごつごつした大きい手が……わたしに近づいてくる……」

 

顔をくっつけるようにして、ぽそりぽそりとアリサが心中を語る。言いづらいだろうに、語ってくれる。

 

「目をつむらなくても……部屋の暗いところからあの男が出てくるんじゃないかって……」

 

「もうあいつは……」

 

「うん、わかってる。わかってるわ。徹がやっつけてくれたって、わかってるんだけど……」

 

『やっつけた』とは、えらくソフトな表現だ。倉庫の中が暗かったせいで、どうやら俺が連中にやったことはほとんど見えていなかったようだ。

 

でなければ、連中より、連中を滅多打ちにする俺の方を怖がってしまってもおかしくない。

 

「……思い出すのか」

 

「……うん。身体がびくってするの。すごく胸がばくばくして、眠れなくなる……」

 

アリサを抱く力を少し強める。

 

アリサを(さいな)んでいるそれは、心的外傷(トラウマ)だ。倉庫という暗い場所で、男に襲われたという強い恐怖を味わった。暗闇と恐怖が紐づけられているのだ。

 

心的外傷というのは、とても厄介だ。恐ろしいと思った記憶を望んでもないのに振り返り、想像して、連想して、更に心の傷を深く広げていく。深く広げた心の傷を苗床に、トラウマは根を張り、いつまでも居座り続けるのだ。いつまでも、蝕み続けるのだ。

 

「……大丈夫、もう大丈夫だから……」

 

心の傷が深刻化する前に、原因を根本から取り除かなければならない。

 

「怖いの、暗いところが……」

 

「約束しただろ。アリサになにかあったらすぐ助ける。約束、守っただろ?」

 

心的外傷を治す方法はいくつかある。

 

恐怖の原因や対象に、強い意志でもって向き合って、乗り越えるという方法が一つ。

 

「うん……きて、くれた……」

 

「そうだろ?安心していいよ」

 

だが、恐怖を乗り越えるという方法は、時間をかけて勇気を蓄えて立ち向かわなければいけない。恐怖の原因が大したものではないとゆっくり自分の心の底に落とし込んで、克服することになる。それにはえてして、痛みと苦しみを伴う。

 

「うん、徹……とお、る……」

 

だが、記憶の定着が行われる前ならば。

 

暗闇と恐怖の紐付けが強固になる前ならば、結ばれた紐を(ほど)き、違う思い出を結い付けることができるかもしれない。

 

「忘れろ。忘れて、ゆっくり眠れ」

 

「うん……忘れ、させて……」

 

くるまっていた布団から手を出して身体を密着させる。俺も迎えるように抱き締める。

 

アリサの胸の鼓動が、俺にも聞こえた。

 

喘ぐように息を吸って吐くアリサが、震える唇で、潤む瞳で、懇願するように。

 

「この、どきどきの意味を……っ、かえて……」

 

今にも壊れてしまいそうな小さな身体を、()(いだ)いた。




この後一緒に眠っただけです。
まかり間違った勘違いをされる方がいらしたら大変なので、念の為。
拙作はR18ではないので(必死)

次の冒頭で軽く触れてから、アリサ編はお終いです。やりたいことはやれたので、とりあえず僕は満足です。
ここからも、またよろしくお願いします。


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「オペレートを開始します」

「おはよう、徹。昨日の一件は後から詳しく問い(ただ)すとして、朝から運転手付きの高級車で校門前まで乗り付けるとは目立つことをするものだな」

 

「制服も新品みたいに綺麗で糊が効いてぱりっとしてるし、胸ポケットにはいつものボールペンじゃなくて万年筆が差してあるし、アリサちゃんとすごく距離感が近くなってたし、なんなの?あんたとうとうアリサちゃんのヒモになったの?」

 

「なんて言い方をしやがる。昨日はお嬢さ……アリサが心配で泊まったから、登校ついでに一緒に送ってもらっただけだ。制服と万年筆については知らん。朝起きたら鮫島さんに着替えを渡されたんだ。万年筆はいつの間にか入ってた」

 

「む……徹、首のあたりが赤くなっているぞ」

 

「え、まじで?なんだろ、虫にでも刺されたのかもな」

 

「…………」

 

「どうしたよ、忍。いきなり黙りこくって」

 

「……いいえ、別に。徹、あんたコロンかなにか振ってるの?いつもと匂いが違うんだけど」

 

「は?俺が?やるわけねえだろ」

 

「そう、そう……よね。あんたがやるわけないわよね。はぁ、なるほど……」

 

「なんだよ、はっきりしねえな」

 

「いいのよ、たぶん問題はあんたじゃないから。…………小学生とは思えない手ね……誰かの入れ知恵なのかしら……」

 

何かに気付いたような顔をしていたが、忍は途中で顔を背けてぼそぼそと口ごもった。悪い意味で素直な忍にしては珍しい。

 

かと思えば、目つきを幾分鋭いものにしてばっとこちらに向き直った。

 

「今それは置いとくとして!すずかから聞いたわ。……あの子が動転してただけなのかもしれないけど、なんかトラックと衝突したとかって。……本当なの?」

 

「どすん、とな。あれは本気で死ぬかと思った」

 

「ニュースでは大型トラックだったはずだが……」

 

「なんであんた平気な顔して学校来てんのよ。あ、もしかして例のアレ?」

 

そういうと忍は、指先で杖を振るようなジェスチャーをする。世界的に有名な魔法ファンタジー映画を思い浮かべているのだろう。

 

「ぶつかった時は躊躇(ためら)っちまって使ってなかったんだ。傷を治した時は使ったけど」

 

「徹、最近道場のお師匠さんに似てきているぞ」

 

「や、やめろよ、俺まだ人間だぜ……。あ、そういや忍『後片付け』手伝ってくれたらしいな。さんきゅ」

 

「私は裏でちょこちょこっと手を回しただけで、だいたいノエルがやってくれたから礼はそっちにね。ただ、やってくれたノエルが『あの一帯だけ紛争地帯のようでした』って言ってたんだけど、どういうことよ」

 

「ちょっと頭に血が上っちまったんだよ。反省はしてる。次はもっとうまくやる」

 

「それは反省とは別物だろう」

 

「アリサにも言われたから手加減したんだ。()っちまわなかっただけましだろ。ていうかあんな奴らのことはどうだっていいんだよ。それより、なのはとすずかの様子はどうだった?大丈夫だったのか?」

 

被害者の一人であり、中心人物でもあったアリサは深刻なレベルでトラウマになりかけていた。

 

昨日は夜中に弱音を吐いて縋りつくアリサを甘やかに慰めているうちに眠りに就いた。何か力になれたのかわからなかったが、俺が目を覚ました頃にはもうアリサはいつもの調子を取り戻していた。強がりでもなく、演技でもない。俺としてもそれを狙っていたし、願っていたが、まさか本当に一夜で乗り越えられるとは思わなかった。俺よりも先に起きて、にこにこ笑顔で俺の寝顔を眺めるくらいの余裕まであったほどだ。

 

アリサが復調できたのはよかったが、しかし、昨日怖い思いをしたのはアリサだけではない。

 

なのはもすずかも、暗い倉庫で大きな男たちに囲まれたのだ。恐怖を感じていて当然だろう。

 

「なのはか?なのはは……平気そう、だったな。徹がばったばったと悪い奴らを倒していたとテンション高めに話していた」

 

「すずかもそうね。徹の怪我には驚いて、心配してたみたいだけど」

 

「そう、なのか……。不安だったんだけど、大丈夫そうなんだな……安心した」

 

胸の(つか)えが下りた気分だ。

 

なのはとすずかも同じ場にいたが、話を聞くところによると二人を庇うようにアリサが毅然として男たちの前に出たらしい。

 

アリサは、みんなを危ない目に合わせたと自分を責めていたが、そんなことはない。

 

二人を、守っていたのだ。アリサの勇気ある行動が、なのはとすずかの身を守り、心も守ったのだ。

 

「徹が迎えに行ったから、というのも大きいのだろうな」

 

「……は?俺?」

 

「徹が来るまでどうなるか不安で怖かったでしょうけど、徹が来てからは一方的だったんでしょ?きっと怖かった記憶より、助けに来てくれたっていう安心感のイメージの方が強くなったんでしょうね」

 

「俺、間に合ってなかったのにな……」

 

妹煩悩なこいつらが言うのだから、そういう節もあるのだろう。なのはとすずかが心身ともに無事だったのは、アリサの活躍だけでなく俺も関われているのだとしたら、少し気持ちが軽くなる。

 

「間に合ってるでしょうが。助けに行けたんだから。なんであんたは妙なところで責任感が強いのかしらね。普段は過ぎるくらいに適当なのに」

 

「連絡してくれれば加勢に行ったのだがな」

 

「……はっは、恭也が得物持って助太刀に来たら、本気であいつらの命がねえよ」

 

「む……。徹よりかは加減を利かせられる自信はあるが」

 

「うっせ」

 

「あ、綾ちゃんやっと校門くぐった。もうすぐで先生来るのにあの子間に合うのかしら」

 

などと終始締まらない空気の中、昨日の一件の顛末を恭也と忍に話しているうちに、校舎に朝のチャイムが鳴り響く。

 

鷹島さんが遅刻しそうになっていた朝のホームルームを終え、一時間目の授業が始まる。一時間目は、国語だった。テスト明けの授業となれば、やることは一つ。

 

「……なんてこった……」

 

国語。

 

読めば解けるし、計算式まで書かなければいけない数学と違って答えだけを書けばいいのでわりと好きな科目なのだが。

 

「あと……一問っ……」

 

赤点回避まで、点数はわずかにあと一歩足りていなかった。

 

 

 

 

 

 

昼休み。

 

机を突き合わせて弁当をぱくつく。普段なら適当な話を雑多にしているところだが、午前中の授業で答案用紙が返却されたとなれば、自然と話題はそちらに流れる。

 

「で、やっぱり点数足りてなかったのね」

 

「ちがう……足りなかったのは点数じゃなくて時間だ。あと……あと五秒あれば……」

 

「問題用紙を受け取って一分弱でそこまで書けたのも相当おかしいがな」

 

「でも赤点は赤点だもの。これで晴れて、一人で土曜日に補習決定ね!」

 

「なんでお前はそんなに楽しそうなんだ!そうだ……あいつらは!あのあほ二人は……っ!」

 

「そういえば、お昼休みに入ってからすぐ教室出ちゃったわね……窓から」

 

「食堂に行ったのだろう。そのわりには弁当も持ってきているようだが」

 

「真希と薫なら、すぐ戻ってくると思いますよ」

 

鷹島さんがお弁当を入れている巾着を両手でちょこんと持ちながら俺たちの机までやってきた。

 

俺や恭也が迎えるよりも先に反応したのは忍だった。

 

「綾ちゃんっ!ほら、こっち、私の隣においでなさい!……ちょっと徹、詰めなさいよ」

 

「扱いの落差」

 

「す、すいません……お邪魔します」

 

鷹島さんが肩を縮めながら忍の隣の席に腰掛けた。可愛らしい柄の巾着から可愛らしいサイズのお弁当箱を取り出し、可愛らしく机に置く。

 

「今食堂で先着二十名限定ランチ、というのをやってるらしくて、それを食べに急いで行ったんです。それが終わればこっちでゆっくりお昼ご飯食べるって言ってましたよ」

 

「ランチ食ってから弁当食うって、なんかもうわけわかんねえな……」

 

「限定ランチ……心惹かれるわね」

 

「だが摂取したエネルギーはすべて部活動に費やされてしまうのだがな」

 

「ん?呼んだかな?」

 

「……参上」

 

話題に上していた例のあほ二人、長谷部と太刀峰がいつのまにか教室に戻ってきていた。

 

食べ盛りの男子高校生ですら胃もたれをおこしそうなボリュームの弁当箱を持参している。隣でついばむようにご飯を食べている鷹島さんとの対比は、もはや悪い冗談のようだ。

 

弁当箱を置いた時の重低音に頬をひくつかせながら、二人に向く。

 

「もう帰ってきたのかよ、早いな。限定ランチは食えなかったのか?」

 

「なんのためにわざわざ窓から降りてると思っているのさ」

 

「抜かりは、ない……。ぎりぎり滑り込みセーフ……食べれた……」

 

「お前らめんどくさがってわりといつも窓から降りてるし、お前らよりも早い奴らがあと十八人もいることに驚きだし、ていうかその上まだ食うのかよ!」

 

「ありがとう、徹。言いたかったことはそれで全部だ」

 

恭也が頷きながら、席を立つ。二人のために場所を空けた。

 

「ありがとう、高町くん。それで?」

 

「それで、ってなんだよ」

 

「なにか……話してた、んじゃ、ないの?」

 

「ああ、そうだった。お前ら、テストの結果はどうだったんだよ」

 

「んぐっ?!」

 

「けほっ……」

 

とてもわかりやすい反応だった。

 

実に素直な二人のリアクションに恭也は苦笑い、忍はじとっと問い詰めるような視線だった。鷹島さんは、箸を止めて目を伏せていた。

 

「は、はは、人に聞くのなら、まずは自分の結果から伝えるべきじゃないかな?!」

 

「んっ、んっ……その通り」

 

珍しくまともな返しをしてきた。反論できない。道理である。

 

「……今のところ平均点は……」

 

「平均、じゃなくて……赤点の、数」

 

「ちっ」

 

お茶を濁そうとしたが失敗した。

 

「……一つだ。初っ端の国語を落とした」

 

「ぶふっ、やっぱり回避できなかったんだね。くふっ」

 

「……笑ってんじゃねえよ」

 

「ふ、あんなに、余裕……みたいに言ってた、のに……ざまあ」

 

「お前だけは悪意を隠そうとしないな!」

 

「さっきからあと一問、あと五秒あればって言い訳ばっかりなのよ」

 

「言い訳じゃねえよ事実だ!」

 

「……え、一問?」

 

「ちょっと……話が、見えない……」

 

「あと一問ぶん、点数が足りなかったそうだ。時間がなかった中でよく頑張ったほうだと思うがな」

 

恭也が補足して説明すると、あれほど軽快に回っていた二人の舌が鈍った。これは、なにかある。

 

「俺は言ったぞ。お前らはどうだったんだ?おお?」

 

「え、えっと」

 

「……平均点、は……」

 

「お前が言ったことそのまま返してやるよ。赤点の数、だ」

 

「平均点も赤点に近いけど」

 

「予想を飛び越えてんじゃねえよ」

 

「……ねえ、二人とも。私の家でやった勉強会の意味は?」

 

「ち、ちがうんだ忍さん!一科目だけとんでもなく悪くて、それのせいなんだ!」

 

「わ、わたしも、そう……ほかの科目は、クラス平均くらいはある、から……」

 

「…………」

 

「ああっ、怒らないで!怒らないでください!」

 

「努力は、努力はしました……っ」

 

テスト期間中もその前も、あほ二人の面倒を見ていた忍は、なんかもう無念とか悔しいとか、複雑な感情で頭の中がごちゃごちゃしているようだ。ぷるぷるしているところを見るに、だいぶおこだ。

 

「あ、あの、忍さん……」

 

「止めないで、綾ちゃん。私は怒ってないわ。ただ、私には二人を叱る権利と義務が……」

 

「私も、なんです……」

 

ぴしっ、と。瞬間冷凍されたように忍は動作を停止(フリーズ)した。

 

とどめを刺すように、鷹島さんは繰り返す。

 

「私も……赤点なんです」

 

「ううぅぅ……」

 

頭痛を耐えるように目を固く(つぶ)って、忍がしばし(うな)って、長い髪を翻しながらばっと頭を上げる。

 

「わ、わかったわ……わかった、わかりました。まずは原因の究明よ!どの科目で赤点を取ったの?次の補習テストで取り返すわよ!」

 

俺が赤点だったと聞いた時には全く見せなかった気合いである。

 

「僕は英語が……」

 

「えっ、あんなに単語の暗記がんばってたのに!?」

 

「そう、なんだ……忘れちゃいけないと思って、忘れる前にまっさきに単語の解答欄を埋めたんだ。それらは全部正解していたよ」

 

「ほかの部分もたくさん勉強したのに、なんで赤点に……」

 

「……名前を書くのを、忘れたんだ……」

 

「テスト勉強がどうのって話じゃないわよ……」

 

忍は頭を抱えてうなだれた。

 

「薫ちゃんは……どうして……どの教科を落としたの?」

 

だいぶ体力は削られているようだが、どうにか次の課題に、太刀峰に移った。

 

「……数学、を」

 

「っ、どうしてっ……」

 

机からぎぎぎ、と不吉な音がした。忍が机の端を固く握り締めていたからだ。

 

「一番理解が進んで、私も驚いたくらいだったのにっ……」

 

落ち込む忍を見て罪悪感が湧いてきたのか、太刀峰は珍しくしょぼんと肩を落としながら。

 

「時間は、ぎりぎりだった。けど、問題は……全部、解いた……」

 

「それはすごいじゃないか、太刀峰さん。数学は出題数が多く、俺も最後まで解ききれなかったぞ」

 

恭也が素直に褒めていた。

 

俺はというと、答案用紙に計算式を書かなきゃ点数をもらえないという制約によって、問題を解くことよりも式を書くことのほうにこそ辟易(へきえき)していたのだが、これは黙っておこう。

 

運動ならともかく、勉強関連で褒められることがないからか、太刀峰は少し照れくさそうに頬を緩めた。

 

「で、でも、それなら余計にわからないわよ!薫ちゃんはどっかの徹と違ってちゃんと丁寧に式も書くのに!」

 

「実名を出すな。減点されちまうようになってんだから俺もちゃんと式書いてるんだぞ」

 

「答えが間違ってても途中まで式があっていれば部分点はもらえるはずなのにっ!」

 

俺の文句は聞こえていないらしい。

 

「……最後の問題……解いた時、気づいた……。解答欄、いっこずつずれてた……」

 

「はぁんっ」

 

とうとう忍が机に突っ伏した。それだけ点数が取れると自信があった科目だったのだろう。

 

自信があったからこそ、二人とも気合が入りすぎてしまって、かえって空回ってしまったのだ。

 

「名前の書き忘れとか解答欄一個ずらしとか、なにべたなことやってんだよお前ら。ここまで完璧に鉄板ネタ抑えられたら逆に笑えねえよ」

 

「こっちは受け狙いでやってるわけじゃないんだ!」

 

「ここまで、っ、身は切らない……っ」

 

「はぁ……。えっと、それで綾ちゃんは?どの教科?」

 

「……ぶ、です……」

 

か細い、とてもか細い声だった。

 

「さっき出た教科、ぜんぶ、です……」

 

「つ、つまり……真希ちゃんの英語と薫ちゃんの数学……」

 

「……と、逢坂くんの国語もです……」

 

長く、長く瞑目し、忍は目を開いた。とても華やかな笑顔で。

 

「出題の仕方が悪いのよ」

 

「お前、とうとうそこまできたか。そこに文句をつけるのか」

 

「だって!綾ちゃん勉強会の時しっかりできてたもん!私見てたもん!こんなの絶対おかしいもん!」

 

「もんって……お前」

 

「忍、気持ちはわからんでもないが、一度落ち着け」

 

「すぅ、はぁ……そ、そうね、恭也。ふぅ……ごめんなさい、取り乱したわ。なにか理由があったのよね、綾ちゃん?」

 

「二人みたいに大きなミスもなく、最初から最後まで一生懸命やって……この結果です……」

 

「なーんーでーっ!」

 

「キャラ崩壊しすぎだぞ、お前」

 

「机を揺らすんじゃない。弁当箱が落ちてしまう」

 

「だって!」

 

「でも本当に不思議だよな。勉強会の時、忍と交代で俺も見てたけど、ちゃんと解説して進めていったら解けてたのに」

 

そうなのだ。勉強会では、こっちが驚くほどの吸収力で解き進めていたのだ。

 

だというのに、この結果はあまりにも不可解である。なにか原因があるはずだ。

 

「……鷹島さん、答案用紙見せてもらっていい?」

 

「は……はい。はずかしいですけど……」

 

情けないのか申し訳ないのか、本人の言う通り恥ずかしいのか、とぼとぼと自分の席に向かって、プリントを三枚持って戻ってきた。

 

「これです……」

 

三枚を広げて全体的に確認する。丸の数よりもチェックをつけられている数のほうが多いのはお察しだ。

 

「んー……ん、ん?」

 

「なに?徹、なにかわかったの?」

 

「鷹島さんはあれだ。慌てすぎだ」

 

「あわてすぎ、ですか?」

 

ぱっと目を通してみたところ、解答欄は出題数の多かった数学以外は埋めることができている。ただ、ところどころ間違えているというパターンが多い。数学では公式を使う箇所を勘違いしていたのか代入する数字を間違えていたり。英語では焦っていたのか英単語の綴りを書き違えていたり。国語では冷静さを欠いていたのか文章問題を読み間違えていたり漢字の覚え違いしていたり、と。

 

つまりは。

 

「慌てて書いているせいか、簡単な間違いが目立つ。ケアレスミスだな」

 

「ケアレスミス……」

 

「あ……テスト勉強の中身ばっかりで、そっちについて教えてなかった、私……」

 

忍が悔しげに呟いていた。テストを受ける心構えやら見直しなどまで、責任を引き受けることはないだろうに。

 

「鷹島さん、気負わなくたっていいんだよ。勉強教えてもらったからって、プレッシャー感じる必要ないんだ。長谷部、太刀峰、お前らもだ。今はまだ付け焼き刃でも着実に実力がつき始めてんだから、このテストは通過点くらいの気持ちでどっしり構えてりゃいいんだよ」

 

「逢坂くん……ありがとうございますっ」

 

「補習テストの前に、今回やった勉強をもう一回一通りやればいい。三人とも落ち着いて受ければ、問題はないから」

 

「あはは、たまにいいこと言うよね、逢坂は」

 

「ちょっと、かっこよかった。……ちょっとだけ」

 

「三人とも、問題の答えがわからなくて赤点とってるわけじゃないしな」

 

「いいこと言ってる風になってるけど、あんただって赤点で補習なんだからね」

 

「どっしり構えすぎてどこかの誰かのように当日遅刻しないようにな」

 

「今言わなくていいことをなんで今言うんだお前らは!」

 

 

 

 

 

 

「よし、十分休憩」

 

「ぜはーっ……あー、しんど……」

 

ここ数日、放課後には長谷部や太刀峰とバスケをしたり、鷹島さんと勉強したり、翠屋にヘルプに行ったりして過ごしていた俺は、今日はアースラへと赴いていた。多忙なクロノの予定が少しばかり空いたというので、戦闘訓練に付き合ってもらっていたのだ。

 

体力だけには自信のある俺がへばるほどの過酷が過ぎるメニューをあらかた消化した、そんな頃だった。

 

「……む」

 

「ん?なんだよ、クロノ。なんかあったのか?」

 

「任務が急に入った。すまんが……」

 

「ああ、ブリッジに行くぞ」

 

「別に徹までくる必要はないが……」

 

訓練室から早足でブリッジへ。

 

いつもは職務中でも落ち着いた雰囲気のブリッジが、今は慌ただしく騒々しかった。

 

クロノがオペレーターの一人と話している最中、辺りを見渡してみたが、こういう時にびしっと指示を出す人の姿が見えない。しかも、喧騒の中にあっても自然と耳に届くような透き通る声も聞こえない。

 

「リンディさんとエイミィがいないのか」

 

「ああ。艦長は溜まっている有休の消化、エイミィは所用で外している」

 

「そんじゃ今日、俺の訓練に付き合ってる場合じゃねえじゃん……」

 

「今日予定されていた任務は一つで、その任務はレイジ・ウィルキンソンが担当している。問題はない。なかったはずだった」

 

「だった、ってなんだ怖いな」

 

「制圧任務だったんだが、想定していたよりも敵勢力の規模が大きく、抵抗が激しかったんだ。いくら優秀な隊員たちといえど、数の力にはどうにも押される。そこで応援を送った」

 

「なら大丈夫そうだな」

 

「……のだが」

 

「のだがっ」

 

「応援を送ってから緊急の任務が入ってしまったようだ。非番の隊員も駆り出している状況だ。(じき)に僕も出撃する」

 

「そうか……。まあ大変だろうけど、クロノが出るなら緊急の仕事は大丈夫か。非番の隊員さんたちとレイジさんが合流すれば、多少抵抗されようと制圧するのは時間の問題だな」

 

「……のだが」

 

「またのだがっ」

 

「オペレーター業務が逼迫(ひっぱく)している」

 

「ん……たしかになんかばたばたしてる……よな。いつもはもっとスマートに回ってんのに」

 

「エイミィの抜けた穴は大きかった。そこに予定外の任務が急に舞い込んできたのも慌てている原因だ。人の数が足りていない。つまり……」

 

「つまり?」

 

「オペレーターを頼む」

 

「いやいやいや!待って待って!会話が何個か飛んでないか?!研修もしないでぶっつけ本番はきついって!」

 

「勉強はしただろう」

 

「え?ああ……。嘱託魔導師試験の学科の勉強の時に出てきてたけど……」

 

「それを思い出せば回せるはずだ。こういう事態も起こり得ると思って、試験勉強の中にオペレーター試験の教本も混ぜておいたんだ。役に立ったな」

 

「ああそうだな、おかげで嘱託試験ではまったく役に立たなかったよ!」

 

「では頼んだ。席はエイミィの場所を使え。徹の担当はウィルキンソンの隊にしておく。まだやりやすいだろう」

 

言い残して、俺の返事も聞かずにクロノは颯爽と出撃してしまった。

 

忙しくて時間が切迫していたのだろうけれど、もう少し手解(てほど)きがあってもいいのではと思ってしまう。この投げやりな感じも信頼の裏返しと呼べるのだろうか。

 

重圧と緊張をひしひしと感じながら、エイミィの席につく。ヘッドセットを装着し、手元とモニターを確認する。

 

クロノの言った通り、知識だけなら既に頭に入っているのだ。あとは実戦で掴んでいくほかない。

 

「……まったくわかんねえ」

 

とかなんとか意気込んだのはいいが、わかるわけないのである。仕事のおおまかな流れを教本で学んだといっても、実際の現場や設備の扱いかたまでは学んでいない。

 

お手上げだ。

 

「仕方ない……やるか」

 

魔力をじわっと滲み出して機器に浸透させる。正当で真っ当な使用方法は知らないが、グレーでアングラなやり方ならたくさん知っているのだ。まったく褒められたことではない。

 

「これでモニターに映し出して……これで、味方の場所を示して……あ、これはグリッドの表示か、使っとこ。えっと……これが、通信っと」

 

デスクに配置されているモニターパネルや電子的なフラットキーボードからではなく、システム側から直接的にコマンドを実行させていく。

 

通信はできるようになったが送られてくる情報はなかなか混沌(こんとん)錯綜(さくそう)としていた。

 

どこから敵の増援がきたとか、あっちから待ち伏せにあったとか、こっちから集中砲火を浴びている、など。情報には纏まりがなく、連携もうまく取れていなかった。まだ隊員全員が無事なのは、ひとえに個人の能力の高さゆえだ。

 

「任務の途中、失礼します。急ですが、逢坂徹がオペレーターを担当します。よろしくお願いします」

 

『え、逢坂くん?な、なぜオペレーターに……』

 

「ピンチヒッターです。それより情報が錯綜しているようなので、一度まとめます」

 

俺が、うまく作戦を組み立てる必要はない。それは俺の管轄じゃない。俺はただ、乱れて(もつ)れた情報の糸を、一度(ほど)いて()り合わせればいいだけ。必要な情報を必要な隊員に伝えて、普段の力を発揮してもらえればそれでいい。現場での作戦はレイジさんを筆頭とした隊長職の方々が立てるのだから。

 

「入手した情報、敵の位置、怪しい建物……なんでもいいです。報告お願いします」

 

『それだと隊員からの話を隊長が取り纏めるまで時間がかかりますが……』

 

「いえ、直接こちらに報告してください。現場に手間は取らせません。こっちで取りまとめて、改めてそちらに伝達します」

 

『……わかりました。みんなへそう伝えます』

 

戸惑うような沈黙があったが、レイジさんは了承してくれた。

 

その返答の後は、まさに怒涛の勢いで通信が押し寄せた。

 

といっても、それらは電話のように耳から入ってくるものではなく、念話のように頭に直接届く形式だ。おかげで報告の数は多いが同時に聞き取れるし、処理もできる。

 

前の任務で隊を率いて、密度の高い念話の送受信で作戦行動していた時の経験が活きた。

 

「報告ありがとうございました。……把握しました」

 

衛星写真のような上空から見下ろす地図と、点みたいなアイコンで表示された味方。現場から送られてくる映像。上げられた雑多な情報。敵の数と位置。おおよその能力。建物の高さ。遮蔽物。構造。

 

それら断片的な情報を繋ぎ合わせ、全体像を頭の中で築き上げる。実際にその場に立っているような感覚までこみ上げてきた。

 

「オペレートを開始します。まずは……」

 

相手は数にものを言わせて、ずいぶん好き勝手はしゃいでくれたようだ。そろそろ、頭を冷やしてもらおう。

 

 

 

 

 

 

「ご苦労だったな、徹」

 

「おお、そっちもおつかれ」

 

「初のオペレーター業務は、どうやらうまくできたらしいな」

 

「いきなり放り込まれて焦ったけどな?ともあれ、大きなミスはしなかったみたいだから安心したけど」

 

「ミスなんてとんでもない。普通のオペレートとは多少毛色が異なりましたが、徹さんのオペレートはとても動きやすかったですよ」

 

「お疲れ様です、レイジさん。役に立てたんならよかったです」

 

エイミィの席で戻ってきたクロノと喋っていると、帰還したレイジさんがやってきた。服は若干埃っぽくなってしまっているが、怪我はなさそうでなによりだ。

 

「正直、驚きました。徹さんの指示通りに動いたら、ちょうど敵部隊の背面をつけたので。他の隊員たちも安全に進めたようです。これでオペレーターをやるのが初めてとはとても思えませんでしたよ。ありがとうございます」

 

「いえいえ、安全迅速に案内するのがオペレーターの役割ですから。相手がちゃんと頭を使って陣を敷いていたので、かえって動きが読みやすかっただけです」

 

「相手の考えを読んで指示を出す……それはオペレーターの仕事ではないな」

 

「隊員全員から話を聞くと言った時には耳を疑ったものですけど」

 

「現場の人間の声が一番重要な情報ですから。その場にいる人にしか感じ取れない気配や空気、違和感ってありますし」

 

「相変わらず徹はセオリーやマニュアルから外れようとするな」

 

「そのセオリーやマニュアルを教えてくれなかったのはクロノじゃねえか」

 

「教えたじゃないか、座学で」

 

「教本じゃねえか!実地は勝手が違いすぎるんだよ!」

 

「ふふ。お二人は本当に仲が良いですね。それでは私は報告書を仕上げてきますので、これで失礼しますね」

 

「お疲れ様です」

 

「ご苦労だった。しっかり休息を取るよう、みんなにも伝えておいてくれ」

 

「はい、了解しました。……徹さん」

 

「はい?」

 

ブリッジを出ようとしたレイジさんが振り返って、俺を呼ぶ。仕事中に見せるものとはまた違う、優しく柔らかな表情だった。

 

「前の任務では弟と妹がお世話になりました。遅くなってしまいましたが、その時の礼を、と」

 

ありがとうございました。

 

そう言って、頭を下げて、レイジさんはブリッジを出た。

 

「ウィルキンソンの兄妹と部隊が同じだったらしいな、そういえば」

 

「おう。どっちも個性的でいい子たちだったぞ。……あれもクロノが仕組んだりしてたのか?」

 

「人聞きの悪い言い方をするな。それは偶然だった。『陸』の不真面目な連中には、外部の者を煙たがって一つの部隊に纏めるという悪習がある。だから、まあ固まるかもしれないな、という予想はしていた」

 

「あたりはつけていた、ってとこか」

 

「そんなところだな。そうだ、今回の仕事の報酬についてを話そうと思っていたんだった」

 

「え、出るの?俺はロハのつもりだったんだけど」

 

「仕事をした以上、対価があるのは当然だ。オペレーター業務は有資格者だと特別手当がつくんだが、徹は持っていないからな。手近にいた嘱託魔導師に急遽依頼した、という形で色を付けるが、大した額は出ないだろう」

 

「そういう資格もあんのか……暇があったら取ろうかな。まあなんであれ、ちょっとでも給料もらえるんなら充分ありがたいけど。ところでそのお金って、俺んとこの世界の通貨に替えれんの?お金もらってもこっちの世界で両替できなかったら使い(みち)が限られるんだけど」

 

「前にも少しだけ話をしたが、管理外といっても最低限の繋がりはある。第九十七管理外世界の……どこといったか、ややこしく長い名称の国が……」

 

「イギリスか?」

 

「そんなに短くはなかったはずだ」

 

「ああ、正称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国だ」

 

「そう、その国だ。……なぜイギリスと略しているんだ。頭文字を取っているわけでもなさそうだが」

 

「違う言語の読みかたから訛ったんだと。昔、違う国から日本に渡ってきた人がイギリスのことをイングレスとかって呼んでて、それが時代の流れに揉まれて、ちょっと変わりはしたけど今も日本で使われてる」

 

「ほう。調べる手間が省けて助かる」

 

「検索エンジン代わりに使ってんじゃねえ」

 

他にも長い国名でいうとリビアもなかなかのものだったが、その国はもう改名して短くなっている。長い名前の国なら、いまやイギリスが一位である。

 

まあ、管理局が何かしら繋がりを持つ支部を置くのだとすれば、歴史があって国力もある国を選ぶだろうという推測もあったが。

 

「そのイギリスという国に支部があるので、そこを通して給与を振り込むことになる」

 

「そんなら、そこからさらに日本円に替えるのか。面倒というか……手間だな」

 

「その窓口がなければ受け取ることもできないんだ。まだましだろう」

 

「そりゃそうだけど……。前はフェイトやアリシアのことで後回しにしたけど、なんで管理外の世界に管理局の支部、っていうか窓口があるんだ?」

 

「この世界出身の魔導師がいるからだ。その魔導師の役職が高かったため、あと管理外世界の情報なども収集するために窓口が設けられた」

 

「俺やなのは以外にも、この世界に魔導師がいたんだな。しかし、魔導師……魔法使いみたいな組織でどうやって活動してるんだ?」

 

「支部といっても、大っぴらに時空管理局の支部であると看板を出しているわけではない。公的にはNGOという立場を取って、色々動き回っていると話を聞いたことがある」

 

「……わーお、なんだか見ちゃいけない世界の裏側をちょっと覗いちゃった気分だぜ……」

 

「実際、NGOという名目通りの活動はしているらしいぞ。第九十七管理外世界各地に人員を派遣して、現地の環境改善のついでに管理外世界の調査をしているそうだ」

 

「……創立時の目的とか存在理由がちょっとあれでも、困っている人の役に立っているんならいいのか。俺もその支部があるおかげで給料もらうことができるんだし、支部が設置される原因になった魔導師には感謝しないとな。さて、そろそろ帰るわ。晩飯作らないと」

 

「これから食事も作るのか、大変だな。今日は助かった、ご苦労」

 

「訓練に付き合ってもらってる代価にしちゃ安いもんだ。そんじゃ、お疲れ」

 

「あ、徹。一つ言い忘れていた」

 

後ろ手に手を振って帰ろうとした俺を、クロノが呼び止めた。

 

なんだ、と振り返れば、クロノはデスクのモニターに視線をやっていた。

 

「以前話した任務の日取りが決まった。あの小動物にも伝えておいてくれ」

 

「以前話してたって言うと……無限書庫の任務か!」

 

「ああ。相変わらずあそこは人手に乏しいらしい。日程はこちらに丸投げしてきた」

 

「そうか!よし、これでまた一歩進めるかもな」

 

「やらなければいけない事の多さを考えると、一歩どころか半歩になるかどうかだがな。精々励むといい」

 

「おお、頑張ってやるよ。クロノ、任務の仲介ありがとな」

 

「……構わん。それほどの手間でもない。さっさと帰れ」

 

「はっは、照れんなよ。じゃあな」

 

そっぽを向いたクロノに手を振って、俺はブリッジを後にした。



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「魔窟」

無限書庫内とその近辺の詳しい描写を見つけられなかったので、そのあたりは映像とのすり合わせと妄想で書いています。ご了承ください。




「ユーノは入ったことあんの?無限書庫」

 

「噂には聞いたことありますよ。実際に入ったことはありませんけど」

 

「ユーノもないのか。……ん?噂に聞くって?」

 

「ええ。蔵書数がとんでもない、と。入ったことのある知人は『魔窟』って言ってました」

 

「『()法に関する本の巣()』って意味なら俺は大歓迎なんだけど」

 

「僕もそうであることを祈ってます。……けど、いろいろ暗い噂も流れていることを考えると、なかなかハードになりそうですねー」

 

「……今から行くんだぜ、ホラーはやめよう」

 

「わわっ、兄さんが聞いたんじゃないですか!」

 

黄土色の頭をわしゃわしゃして都市伝説の怖い話みたいな流れを断ち切る。

 

補習テストの一週間後。土曜日。

 

俺はユーノを引き連れて時空管理局管轄の超巨大図書館、その名も無限書庫に足を運んでいた。遊びに、ではもちろんなく(一応は)お仕事である。

 

「今日はついてきてくれてありがとな。さすがに一人じゃ限界あるし、助かるわ」

 

「僕も一度行ってみたいと思っていたので、ちょうどよかったです!」

 

俺一人での調査は大変そうだし、なにより一人ではちょっと寂しい。調査の専門家たるユーノなら戦力にも話し相手にもなってくれると思い誘ってみたら、二つ返事で了承してくれた。実にありがたい。専門家といっても、ユーノは遺跡関連だが。

 

「管理局もさ、本やら文献やら集めるんならちゃんと管理しとけよな」

 

「各地で発見されたものは無限書庫一点に集約されますから管理しきれるわけないんですよね」

 

「いろいろ間違ってるよな。一番最初の、本を集め始めるその時からちゃんとジャンル別に分類してればこうはならなかったってのに」

 

「そんなこと言ったってしょうがないですよ。もうなっちゃってるんですもん」

 

「魔窟に?」

 

「魔窟に」

 

「やだー」

 

「事前に管理局のデータベースには目を通したんですよね?」

 

「そりゃまずは楽なほうから手をつけるって」

 

「手抜き宣言ですか」

 

「手抜きじゃねえよ、省エネだ」

 

「便利な言葉ですね!」

 

「解釈は自由だからな!」

 

当初は管理局のデータベースにアクセスして調べようとしていたのだ。というよりもすでに調べたのだが、一般に知られている範囲くらいしか情報が置かれていなかったのだ。

 

いくつか踏み入った情報もあるにはあったが、虚実混交というか、どこか人の手が加えられている節があった。隠しておきたい歴史や利権関係でもあるのか、単に著者の主観や思い込みが紛れ込んでしまったのか、いまひとつ信用ならない。

 

真っ当で客観的な情報が残されているとすれば、ありとあらゆる書籍が集積されている無限書庫くらいのもの。ということで、クロノの伝手を頼って任務という形にしてもらって実際に赴いたわけだ。

 

公私混同もいいところだが、ちゃんとお仕事をこなしていればとやかく文句を言われることもないだろう。

 

調査の時の心構えとか、遺跡発掘での経験談とかを、やけに楽しそうにしているユーノから聞きながらしばし歩いて、到着した。

 

「そこまで言うほど、でかくは……ないよな」

 

目的地、無限書庫である。

 

毎年数人の遭難者を出すとの触れ込みだったので、さぞかし巨大な施設なのだろうとイメージを膨らませていたが、ある意味拍子抜けだ。

 

大きいことには大きいが、しかし都内のショッピングモールの敷地ほどだろうか。高さもおそらく五階も六階もないだろう。いくら書物が寄贈され続けているからという理由があるにしても、この敷地面積で全てを管理できていないというのは、さすがに書庫の責任者や司書の怠慢ではないだろうか。

 

「入ればわかりますよ、兄さん」

 

ユーノに促されて書庫内へ。

 

施設内に入るとすぐに受付があった。受付の人に本の整理に来た嘱託の者ですと名乗ると、待合室に通された。担当者を呼ぶとのことだ。

 

しばらくユーノと雑談していると、担当者さんが現れた。軽く挨拶と自己紹介を済ませて仕事場へと案内してもらうが、行けども行けども上階への階段が見つからない。どことなく不安になってくる。先を歩いて案内してくれている人が自己紹介の時に『司書』とは言わずに『担当者』って言っていたのも、今となっては怖くなってくる。

 

一歩進むごとにいや増していく漠然とした違和感を抱えながら奥へと向かい、大きな扉に行き当たった。結局階段は見当たらなかった。

 

担当の方が扉を開く。

 

扉の先の光景は、息を呑み、言葉を失うほどだった。

 

絶句する俺を、ユーノが肘で小突く。

 

「こういうことなんです。上ではなく、かといって横でもなく、延々と下に伸びているんです」

 

「うっわ……まじか」

 

「蔵書数は、増えることはあっても減ることはありません。いずれ置くところがなくなります。そういった時、その都度掘り進んで広げていける地下のほうが都合がいいんでしょうね」

 

「そうはいっても……限度ってもんがあんだろうに」

 

円筒形を縦に配して、その内側の面にぐるりと本を収納している、と表現するほかにない。あまりに規模が常識とずれていて、どう表せばいいのか正解がわからない。

 

円筒の直径は少なくとも数十メートルはありそうだ。百はない、と信じたい。

 

高さと呼ぶべきか深さと呼ぶべきか判断つかないが、なによりも特筆すべきは、下を覗き込んでも底が見えないことだ。あまりの途方のなさに胃袋の下あたりがひゅっとなる。

 

この円筒形の本棚(と呼称するには多大なる違和感を伴う)が、おそらくはあといくつか設けられているのだろう。ショッピングモールほどの敷地に、この円筒本棚一つでは遊びが多すぎる。

 

仕事量を推測すると、なかなか頭も心も身体もついてきてくれない。頭が計算を放棄してしまう。

 

この本棚一つでも尋常ではない数を収納できるだろうに、一つあたりがこの規模で、これがいくつか存在するとして、しかもこれでも足りずにさらに下へ下へと増改築を続けているのならば、これはもう管理などしていられない。すべてを綺麗に区分けしてデータベース化するなんて、大量の人員を投入しても数年がかりの国家事業になる。

 

「ここまでくると、本棚に並べてるだけでもよく頑張ったなと言いたくなる……」

 

「たしか僕たちは、無限書庫に新しく入ってきた本を確認して、タイトルと、どこに並べたかを記録していく……んですよね、たしか」

 

案内役を務めている担当者さんから、道中に軽く仕事内容は説明されていた。

 

眼下に広がる仕事量を考えると、やり方を間違ったまま進めると笑えない状況に陥る。その前に、やり方をきっちり教えてもらっておかなければ。

 

「管理のシステムはどういったふうに?」

 

「データベースに保管場所とタイトルを登録しているんだ。一つ一つ行うのは手間ではあるけれど、読みたいと思った時に保管場所がわからなければ意味がないからね」

 

俺の質問の意図と若干食い違っている。書物のジャンルの分類法を伺いたかったのだが。

 

まあ、これだけの冊数だとジャンルごとに分けるなどという作業には到底手は届かないか。

 

「ここって移動とかどうしてるんですか?螺旋階段みたいな感じかなと思ったらそうでもないみたいですし」

 

「兄さん、ここ浮きますよ!」

 

「まじか!」

 

ユーノがおよそ一メートルほど浮いた状態で逆さまになっていた。

 

なぜここだけ、と思ったが、ほぼ確実に必要に迫られた結果だろう。本は束になると非常に重たくなる。これだけの量が集まっていれば、比例して重量も相当なものになるはずだ。本棚の一番下など重力で圧し潰されてしまう。

 

無重力状態になっているというのは移動と保管の両面において都合がいいのだろう。

 

とりあえずユーノの頭を掴んで勢いよく回してみた。

 

「わあぁぁあぁっ!」

 

「うおっ!反動で俺も回る!おもしろいな!」

 

「回るんなら兄さん一人で回ってくださいよ!おかげで朝ごはんが出るとこでしたよ!」

 

ぐるんぐるんと三〜四回ほど回転したところで飛行魔法でも使ったのだろう。滑らかな動きで今回はちゃんと足を下にして静止した。

 

俺は俺でいつものように足場用の障壁を展開して身体が流れるのを止めた。

 

「二人とも器用で安心したよ。慣れるまで時間のかかる人もいるからね。さ、移動に困らないのなら、さっそく向かおうか」

 

そう言って、担当者さんは欄干に手をかけ、身を乗り出した。

 

投身自殺の光景を眺めているような、ぞっとする光景だが、一拍ほどふわりと浮いて下降していった。

 

俺とユーノも、それに続いて円筒形の本棚の底面を目指して降りる。

 

一番底まではまだまだあるのか、担当者さんの降下速度はかなりのものだった。視界の端っこを通り過ぎていく無数の本を見るに見ず、担当者さんがぼやく。

 

「本の内容まですべてデータバンクに移せればそれが一番いいんだけど、管理ですら手が回らない現状では……とても、ね」

 

「まあ、そうですよね。電子データ化の前に、今あるものを把握するほうが先決ですね……」

 

無限書庫に入る前に、なんで管理局なのに本を管理できてないんだとかなんとかユーノと話していたので、少々後ろめたい。

 

「ああ、そうだ。読めないものについては別で管理しているから、わけて置いといてくれればいいよ」

 

乾いた笑いをもらす担当者さんが、説明に付け足した。

 

「読めないもの?」

 

首を(かし)げる。

 

腐食や虫食い、汚れなんかがあるのだろうか。

 

ともあれ、俺とユーノは作業場へと向かう。

 

 

 

 

 

 

「こんなもん、目的を果たすどころじゃねえよ……」

 

この無限書庫内に重力がなくて本当に良かったと痛感している。移動や運搬も疲れずに済む。その前段階の調査・検分をすること自体に多大なる労力がかかるけれど。

 

「サーチャーで()は増やせても手は二本しかないもんなー……」

 

作業開始から三十分ほどが経過した。

 

どうにか作業を効率よくしようといろいろ工夫はしているが、どうにも速度が上がらない。このままでは仕事のほうで手一杯になってしまい、俺個人の目的を果たせない。

 

「ユーノ、調子はどう……お前、なにやってんの?」

 

「はい?」

 

ユーノは空中に浮遊して作業していた。そこまでは俺も同じようなものだが決定的に違う部分がある。

 

「それだよ、それ。周りで勝手に浮いてページめくりまくってる本。なんなのそれ」

 

ユーノの近くで浮かび上がった本が、淡い緑色を灯しながらページをめくり続けていた。ユーノの魔力色が現れているので、なんらかの魔法を使っていることは明らかである。

 

「ああ、これですか。僕の一族ではよく使われている検索魔法です。調べ物をする時には便利なんですよ」

 

「本当に便利そうじゃん。ああ、でも……一族の伝統の魔法じゃ教えてもらうわけにもいかないか」

 

「いいですよ?」

 

「いいんかい!」

 

「似たような魔法はありますからね。ぜひ兄さんにも使ってもらって改良してもらえると嬉しいです!」

 

「教えてくれるのはありがたいけど……改良っていうより俺でも使えるように手を加えてるだけだからな。ユーノにとって使いやすくなるかはわかんねえぞ?」

 

「大丈夫です!いいところを抽出して僕なりに取り込みますから!」

 

「おおう、そうか……」

 

つまり俺を利用すると公言しているようなものだが、とてもきらきらとした笑顔で言われると文句も継げない。ずいぶん(したた)かになったものだ。似てほしくないところばかり俺に似てきている。

 

苦笑しつつ、浮いている本の一つに手を伸ばす。

 

「あれ、普通に教えますよ?」

 

「一応仕事中だからな、手間取らせたくないんだよ」

 

「そこまで手間でもないでしょうに……あ、もう始めてる」

 

「んー……ほー、おーっ、はーっ!これは便利な魔法だ!」

 

「初めて触れる魔法に順応するの早すぎますよ……」

 

魔法の種類としては補助。概要としては、本などを行使者が意図・指定した空間に維持・固定してページをめくるのと同時に内容を念話と同じような感覚で頭に送る、といったもの。

 

ハッキングで覗いてみた感想としては、すっごい便利そう。

 

いちいち手でページをめくる必要もなく、そもそも手で本を持つ必要もない。一冊一冊にサーチャーを配置するよりも魔力を抑えられる。慣れ次第だが、五冊十冊どころではなく、もっと数を増やせるかもしれない。

 

そしてなにより。

 

「これ、教科書読む時にも使えるな……」

 

「兄さんの世界では、ばれたら大変なんですからね。兄さんの魔力だと反応を捕捉できないでしょうけど」

 

今日の任務でも大変重宝するが、プライベートでも役に立ちそうだ。学校の教科書もそうだが、クロノから渡される魔導師関連の教科書でも使えそう。

 

「これならもっと効率上がりそうだな。まずはちゃんと仕事をこなしておかないと、自分の目的に手をつけらんねえ。あらかた片付けとかないと」

 

「古代ベルカの文献ですよね。担当者の人に頼めば見せてくれそうですけど」

 

「信頼を勝ち取っておきたいんだ。変に疑われたくない」

 

「そう、ですか……。まあ、今日中に終わるとは思えませんけど……」

 

頬を引きつらせながら苦み走った顔で、ユーノがとある方向に目を向ける。そこには、雑多に集めて固められた無数の本たち。

 

俺たちから見えている部分などごくごく一部でしかない。氷山の一角なんてもんじゃない。本が置かれている場所の深さも奥行きもわからない。なんなら終わる目処もまるでつかない。唯一分かることといえば、とりあえず手をつけなければ始まらないし終わらないということだけだ。

 

「見るな、ユーノ。手を動かせ。先を考えたら、心が折れる」

 

「……はぁ」

 

ため息を一つついて、再び本が浮かび上がる。さきほどまでユーノの周りで衛星のように浮遊していた本の数が、これで十冊を超えた。

 

「このあたりは遺跡の発掘作業と同じですね……先が見えない」

 

「はっは、なに言ってんだユーノ。こっちは遺跡と違って増え続けるんだぞ?」

 

「兄さんは元気付けようとしてるのか心を折ろうとしているのかどっちなんですか!?」

 

 

 

 

 

 

ユーノから教えてもらった検索魔法は、明確に処理速度を引き上げた。手でページをめくっていた時と比べて五倍十倍なんてものではない。

 

だが、それ以前の問題が発生していた。

 

「この施設が、なんで『図書館』じゃなくて『書庫』って呼ばれてるのか、やっとわかったぜ……」

 

「あ、それ僕も気になってました。なんででしょう?」

 

「本を詰め込むだけの場所だから、書庫なんだ」

 

本の管理の方法が、ないのだ。

 

一応データバンク上に、本のタイトル、どこにしまっているかくらいは入力する。逆に言ってしまえば、入力するのはそれだけなのだ。ジャンルまでは記載しない。

 

そもそも、ジャンルの分類法も導入されていない。基本となる枠組みがなければ、そりゃもう仕分けのしようもないだろう。

 

「本のジャンルを細かく分類して、後から検索した時にすぐに見つけられるように管理してるのが『図書館』だからな」

 

「ああ、なるほど……そう言われると違いがわかりやすいですね。イメージとしても、個人で本を保管してるのが『書庫』で、もっと規模は大きくジャンルは細かく管理しているのが『図書館』って感じがします」

 

「本当のところがどうかはわからんが、たぶんこの無限書庫は、元からあった書庫を増築しまくった成れの果てなんだろうな。最初からこんな規模になるってわかってたら、もう少し管理の仕方を考えただろうに」

 

「でも、どうしたらいいんですか?今のままの分け方だと結局のところ同じですよね?あとから探そうと思っても、本のタイトルを知ってないと探せませんし」

 

「……今からでも図書分類法を取り入れよう」

 

「図書分類……ですか?」

 

十進分類法という方法がある。

 

宗教や自然科学、芸術や地理などといったふうに、本の主題や内容に応じてまずは大きく十の分類に分ける。十種類のうちの一つに分類できたら、それをさらに十種類に細分類し、その工程をさらにもう一度繰り返す、というもの。

 

本を大量に収集すると、今度は目当ての本を探すことが難しくなる。管理する場所を明確にするために、必要な時にすぐに欲しいジャンルの書物を引っ張り出すために、図書館などで導入されている分類方法だ。

 

とはいえ、十掛ける十掛ける十という、千近くの細かな分類。空き番号もあるとはいえ、俺たちみたいな素人がやるにはハードルが高すぎる。

 

「これだけの数だ。俺とユーノの二人でなんて、土台からして無理がある。だから、大まかに十種類に分けよう。今から分けるジャンルを十種類決める」

 

「なら、これからはそのジャンルごとに本を置いていくってことですか」

 

「そうだ。本のタイトルをデータバンクに登録する時も、ジャンルごとのナンバーを入力しておいてくれ」

 

その大分類のセクションでさえ膨大な仕事量が追加されるけれど、せめてそのくらいの分類はしておかなければ後々探すことすらも困難になる。

 

それでは、意味がないのだ。

 

本は、あるだけでは意味がない。

 

今はまだ『書庫』でしかないこの施設を、せめて、探し始めたらその日のうちに読める程度の『図書館』にまで押し上げなければ、この施設の存在意義そのものが揺らぐ。

 

数多くの本の中から自分が欲した本を手に取る。

 

そんな当たり前のことができなければ。情報を、知識を、教養を、数多くの人に知ってもらうために書いた著者に申し訳が立たない。

 

「やっぱり、兄さんはこういうお仕事のほうが性に合ってますよ」

 

「なんだよ、俺の才能は本の仕分けってか」

 

「言葉の裏を読んでください」

 

教えてもらった検索魔法を早速俺好みに書き換えて作業を再開させていると、少し離れたところで同じように作業しているユーノが話しかけてきた。

 

「ユーノの言う『こういうお仕事』がどのくらいの範囲を指してんのかわかんねえよ」

 

「知識の探求、真理の探究ってお仕事です」

 

「なんか大層な話だな……」

 

「兄さんの能力的にも合ってると思うんです。情報処理能力、高いですから。実際にちょっと使い始めただけなのに僕よりも検索魔法の扱いが上手くなってますし」

 

「普段から機械や他人の魔法にハッキングしたり、拘束魔法を何本も出したり、障壁の位置や大きさや角度を土壇場で変えたり、リンカーコアに魔力で侵入したりしてるんだからな。最大出力とか適性じゃ勝ち目なんかねえけど、魔力の繊細なコントロールにゃ一家言(いっかげん)あるぜ」

 

俺を立てるような物言いだが、ユーノだって同時に十冊以上は余裕で、視える限り十五冊以上は同時に動かしている。効果の上限は術者本人の処理能力に依存するというこの検索魔法の性質上、マルチタスクは最低条件だ。そんな中で十五冊以上操作できるのだから、驕りこそすれ、謙遜する必要はまったくない。

 

ただ、こういった手合いの案件は、ユーノ以上に俺の独壇場というだけだ。

 

「遺跡の発掘作業で、兄さんみたいな人が一人いるとだいぶ違うんですけどね」

 

「結局ユーノの本職の勧誘かよ……。そっちに軸足移すつもりはねえからな」

 

「軸足の反対側の足なら踏み入れてくれるんですか?」

 

「俺がこんだけ手伝ってもらってんだ。ユーノの手伝いくらいならいくらでもやるっての。でも遺跡での作業とかまったく知識も持ってないど素人なんだ。役に立つとは思えねえよ」

 

「誰だって最初は素人なんですから当然ですよ。知らないことはその都度覚えていけばいいんです」

 

「なんかえらく評価高いなあ……。先に言っとくけど、今やってるこの図書分類法だって俺が考えたわけじゃないからな?俺の世界で使われてる図書分類法をまるまる流用してんの。俺の手柄じゃない」

 

「問題が発生した時、自身の中にある知識を使って無事に乗り越えるというのは、誰にでも簡単にできるわけではないんですよ。問題の解答に辿り着くまで時間がかかる人なんてたくさんいますし、諦めてしまう人までいます。その点、兄さんは慣れてますよね」

 

「……そうしないとやっていけなかっただけなんだけど」

 

臨機応変と言ってしまえば聞こえはいいが、結局はその場しのぎの付け焼き刃な技術なのだ。誤魔化しや目眩(めくらま)しにはなるが、本物には届かない。本物たちの舞台には、届かない。

 

そんな張りぼての技術なんて所詮、華やかに見えるだけの鍍金(めっき)だ。

 

「そうしてやっていけているのがすごいんですよ。どう言い繕っても、兄さんの魔法適性は優れているとは言えませんからね」

 

「うるせえわい」

 

周囲を球状に取り囲む本の向こう側から、くすくすと、笑いをかみ殺すようなユーノの声が聞こえた。

 

「でもこういうお仕事なら、頭脳労働的なお仕事なら、兄さんのスペックを最大限に発揮できます。戦いなんかよりも……ずっと」

 

「……ま、俺もこういう職業のほうが向いてるかもなーって思うこともあったりはするけどさ」

 

「能力もそうです。でもそれ以上に、兄さんの性質がこっち寄りなんですよ」

 

「性に合っている、とかって言ってたよな。それはどういう意味なんだよ。マルチタスクとかサーチャーとかとは別のニュアンスみたいだけど」

 

「未知への探究心や知識への好奇心、そして学問や学術的な遺産への敬意。その精神だけは、本人の意志に由来するものです。発掘作業のように教えれば身につくものではありません」

 

「はあ、なるほどな……よく見てるな」

 

「ちょっと前まではずっと一緒にいましたからね」

 

どことなく嬉しそうな声色だった。

 

ユーノ言う所の探究心。好奇心。敬意はわからないが、その二つは、たしかにあるのかもしれない。

 

本職で、ほかの作業員を何人も見てきたユーノがそう断言するのなら、俺はユーノがしてたような学者や研究員のような仕事のほうが向いているのかもしれない。

 

だとしても、俺は。

 

「そっちには進めないな」

 

「あはは、やっぱり振られちゃいましたか」

 

「やっぱりってなんだよ」

 

「なのはやクロノたちがいますからね。きっと魔導師としての道のほうがいいんだろうなあ、とは思ってました」

 

あはは、とユーノは笑う。その笑い声が、どこか寂しげに乾いて聞こえたのは、きっと気のせいや聞き間違いではないだろう。

 

「誘ってくれたのに悪いな」

 

「いいんです。べつに魔導師しながらでもできなくはないですからね」

 

「ぜんぜん諦めてなかった!」

 

「もちろんです。それこそ、たった一度や二度の勧誘で兄さんを引っ張り込めるなんて甘い算段は立ててませんよ。この数ヶ月で諦めの悪さも僕は学んだので!」

 

サーチャー越しの視界に、少し強張っているユーノの顔が視える。

 

諦めの悪さ。たしかに諦めている様子ではないが、だからといって落胆がないわけではないのだろう。

 

励ましたり慰めの言葉をかけるのは簡単だが、それで解決するわけではない。俺はそちらの道に本腰を入れることは、およそない。俺のことなので魔導師業から多少脱線することはあるかもしれないが、本格的に学者や研究者業に路線変更するつもりはないのだ。下手な慰めは、かえってユーノを傷つけることになりかねない。

 

「この話はまたいずれするとして……兄さんどこにいるんですか?」

 

「いずれまたするのか……」

 

「声は聞こえるんですけど、本ばっかりで兄さんの姿が見えないです」

 

ユーノは気落ちした姿を見せようとしていないのだから、俺はその意を汲むべきなのだろう。明るい口調で強がりを言っているのだから、俺はユーノの落ちた肩に気づかないほうがいいのだ。

 

「全方位を本で敷き詰めているみたいな状態だからな。本で埋め尽くされたこのあたりだと保護色みたいになって見えないかもな」

 

「本の置き場所はどうやって確認してるんですか?」

 

「サーチャー置いて確認してるぞ」

 

「結局サーチャー使ってるんですね」

 

「しょうがねえだろ、見えねえし」

 

「隙間がないほどってすごいですよね……。何冊並行してやってるんですか?」

 

「今で三十ちょっとくらい」

 

「……僕の知ってる限りでは初めてですね……。その数の半分でも続けてやってると疲れるんですけど……」

 

「これまでの経験が活きてるって実感するぜ」

 

「これまでの経験……前の任務の念話同時接続とかサーチャーばら撒きとかですか?」

 

「そうそれ」

 

サンドギアの街で部隊長(代理)をやったり、つい最近ではアースラでオペレーター(臨時)をやったりと。それ以外にも基本的に人間の限界に挑戦しないと生き抜けない場面が多かったためか、マルチタスクの技術も向上している。疲労感がないとはとても言えないが、かといって無理をしているという感じでもない。

 

瞬間的だけじゃない。以前に掲げた頭の回転数を中速域で持続させるという課題は果たされつつあった。

 

かすかな達成感と手応えを味わいつつ続けていたが、新たに手をつけた一つの本で作業が一時停止する。

 

「……またか」

 

「兄さんのとこにも出てきました?」

 

「ああ、ベルカの時代の本だ」

 

担当者さんが口にしていた読めない本(・・・・・)

 

その正体だ。

 

「古代ベルカ語……」

 

汚れや虫食い、経年劣化などで傷んで読めないというわけではなく、単純に言語が違うから、読めない本。

 

実際に手に取って、実際に自分の目で、じっくりと見つめる。

 

特殊な加工を施しているのか、専用の魔法技術でも存在するのか、装丁はほとんど傷んでいない。時代を感じさせる凝った細工が散りばめられている。表紙にも背表紙にもタイトルと思しき文字が書かれているが、ミッドチルダの言語とは趣が異なっていた。

 

一般の本は並列で検分・分類しながら、ベルカの時代の本を開く。

 

紙の素材からして現代のものとは手触りが違うが、腐食したりといった劣化も少ない。なんならいくつかあった保管状態の悪い近代の書物よりも綺麗に残っているほどである。

 

「やっぱり読めないか……ん?」

 

古代ベルカ語で記述された本。それは確実なのだが、どこか引っかかるような感覚があった。

 

その違和感を、未知の言語の中に探し出す。

 

そして、見つけた。

 

「右のページはベルカだけど……左はミッドチルダの言葉、なのか?」

 

現代の用法や綴りとは違うところも多かったせいですぐに気づけなかったが、左のページはミッドチルダの言語の面影が残っている。

 

日本語で言い換えれば、大和言葉のような印象だろうか。所々はなんとなく読める。しかし文章の意味を完全に汲み取ることは難しい。そんな感じ。

 

古いミッドチルダ語の翻訳からして難解だが、この本はもしかすると非常に有用な品物になるかもしれない。

 

違う二種類の言語が近い比率で収められている。これはつまり、ミッドとベルカ、どちらかの言語で構成された元の文章を、どちらかの言語で翻訳している可能性が高いということだ。

 

「これは、使えるんじゃ……ないのか?」

 

使える。古代ベルカ語を学ぶ教材として。

 

 



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伸びた鼻は、ぽきっと折られた。

「よかったですね、担当者さんに許しがもらえて」

 

「計算とは違ったけど……まあラッキーだった」

 

昼食を挟み、現在は午後の作業中である。

 

ベルカ語とミッドチルダ古語、二つの言語で記された本を発見してすぐ、担当者さんが俺たちの作業場まで降りてきた。そこで知らされたのだが、どうやら周囲で雑多に築かれている大量の本の山(どころか本の連峰と呼んで差し支えない)は、俺たちに課されたノルマではないらしい。

 

新しく持ち込まれた本をとりあえず置いておくという、作業場兼仮置場みたいなところなのだと。ここにある本をすべて片付けるなんて、俺たちに与えられた二日という期限ではそもそも不可能だったのだ。

 

「でも驚きましたね。まさか予定していた作業量を午前中で終わらせちゃってたなんて」

 

「ほんとにな。ここにあるぶん全部やらなきゃいけないと思ってたから、わりと頑張ってたわ俺」

 

「片っ端から片付けてたのに、あれでもわりと(・・・)なんですね……」

 

そんなことを知らずに仕分けしていた俺たちは、ユーノの検索魔法のお陰もあって担当者さんの予想をはるかに超える速さで作業を進め、なんと二日分以上の作業を午前中で終わらせてしまっていたのだ。しかもタイトルと収納場所に加えジャンルごとに分けるという、担当者さんの要求を上回る仕事振りというおまけ付きで。大変なお褒めの言葉を頂いてしまったのだった。

 

簡単に要約すると、こういったことが昼前にあった。

 

今回の任務の給料分の仕事を終わらせてしまったのでもう帰ってもいいよとすら言われてしまったほどである。

 

ただ、任務も大事だが俺は俺でやることがあるので帰るわけにもいかなかった。そこで交渉、というほど大仰なものではないお喋りの末、残業ということにして期日である今日と明日の二日間、ここで作業を続けられることになった。ただ働きでもいいやと思っていたが、別途残業代にプラスして色をつけてくれるとのことである。どちらとしてもおいしい方向へ話が転がった。

 

「これでやっと自分の目的を果たせるってもんだ。自由に休憩も行っていいって言われたし、やりやすくなったな」

 

「ゆっくりやっていいよ、とも言われましたしね。一応僕は怪しまれないように作業を進めておきます。こんなに雑然と散らかっているのを見ると、無性に綺麗に整えたくなりますし」

 

「やっぱ学者気質だなー。そっちはよろしく」

 

「はい!任せてください!」

 

思わぬところで担当者さんの信頼を得てしまった俺たちは、午後に入ってから伸び伸びと気まま気楽に励んでいるのであった。

 

「……さすがに、難しいな……」

 

しかし、やっと俺の目的に取りかかれるというのに、進捗はよくない。

 

頭を悩ます原因は、手元の本だ。

 

「さすがに兄さんでも苦戦します?」

 

「辞書なんかがあると踏んでたからな……一からやらなきゃいかんとは。こんなのほとんど解読作業だぞ……」

 

「ほとんどっていうか解読そのものですよ。ベルカ語がわからないからこそ、古い時代の文献が手つかずで放置されてるんですし」

 

「ミッドチルダの学者の中には読める奴もいるんじゃねえの?そいつらはなにしてんのさ」

 

「読める人もいるでしょうけど、そんな教養のある人はたいてい要職に就いていたり、あとは教会とかに属してるんじゃないですか?古い文献を翻訳するよりお給料良さそうです」

 

「はっ、とどのつまりは金かよ」

 

ため息をつきながら、古代ベルカ語とミッドチルダ古語が書かれている本に集中する。

 

「……兄さん」

 

「なんだ?分類を判断できないものは空番に、ベルカの本は俺のほうに置いといてくれればいいぞ」

 

「いえ、そういうことではなく……なんで仕分け作業もやってるんですか……」

 

呆れているのか、それとも諦めているのか、ユーノが嘆息しながら言う。

 

俺の手には件の本があるが、周囲にも本が浮いている。およそ十冊程度の仕分けと解読の並行作業。おそらくこれについて言及しているのだろう。

 

答えは簡単だ。

 

「いや、解読作業だけじゃリソースがあまるから、ちょっとずつでも仕分け作業もやっとこうかなって。さぼってるって思われたらいやだし」

 

「解読に集中してもまだ余力があるんですか……。ていうか、ちょっとっていう量じゃないですよね。何冊やってるんですか?」

 

「今は十冊だ。本の種類によってはこれのプラスマイナス二冊が、余裕を持って回せる限界値だな」

 

「ほ、ほんとうに……こういう情報処理に関しては規格外ですね、兄さんは……」

 

「情報処理に関して()、な」

 

「拗ねないでくださいよ、褒めてるんですから」

 

「すねてない」

 

軽口を言い合いながらも、ユーノは手を止めずに作業を進める。

 

なので俺も頭をひねりながら、脳みそを絞りながら、ミッドチルダの古語をじわじわ読み解いていく。これをまず読めるようにしないことには、古代ベルカ語と照らし合わせることもできない。

 

手間がかかるが、他のベルカの書物はベルカ語単独でしか書かれていない。手出しもできなければ手のつけようもない。

 

ならば、まだ読むことができる言葉が載っているこの本のほうがまだだいぶ易しいと言える。

 

「えっと……こういうのはまず、どういった文字かを判断する、んだよな……」

 

姉ちゃんの部屋には、どこに売っているのかもわからないような突拍子もない本がたくさん置かれている。そんな混沌とした本棚の中に、まだ比較的まともそうなタイトルの本があった。

 

その名も、『未開言語の解明』。

 

一般人には毛ほども関わりのない書籍だろう。普通の人生なら一生読まなくてもいい本だった。

 

雑談の種にするのも難しいような内容の、毒にも薬にもならなそうなその本を、俺は暇に明かして読んだことがある。まさかその時に取り入れた知識が、ここにきて役に立つとは思わなかった。

 

いつ、どこで、どんなものが自分を助けるか、わからないものである。

 

「つくり自体は……ミッドチルダと同じ表音文字だな」

 

文字は『表音文字』と『表意文字』の二種類に大別できる。

 

『表音文字』というと、一文字一文字には意味がなく、発音の仕方を表している文字だ。これはいくつかが集まってこそ意味を成す。アルファベットやひらがな、カタカナが例に挙げられる。

 

文字の種類を数えてみたところ、どこのページを確認しても三十種類程度。五十も六十も種類がある表音文字はないらしいので、これも『表音文字』と判断していい材料になる。

 

「これは……歴史書、なのか?」

 

名前を示す単語が頻出(ひんしゅつ)している。どういったことを記述した本なのかがわかれば、解読の方向性、単語の意味の推測が立ちやすくなるだろう。

 

「これは、ここの意味で……こっちのは……」

 

ミッドの文章の中で同じ単語が五回出たのなら、ベルカの文章にも同じ単語が五回出てくる、はず。そうした手がかりから作業を続け、読み解いていく。

 

一冊を読むのにかなり時間がかかっているが、単語同士の符号が取れて意味を理解していければ、解読のペースは上がるだろう。速度を優先して誤った解釈をするほうがタイムロスになる。

 

「どこかの国の、興亡の話か……。ん……ん?これ……」

 

少しずつ読み進めていったところ、歴史を記した本であることは明らかなようだ。正直なところ、知らない世界の知らない国の歴史はあまり興味がそそられないが勉強と割り切って読み進めていく。

 

その中で、見知った名前を、そして予期していなかった名前を目にした。

 

「クレスターニ……って、サンドギアの?」

 

クレスターニ。

 

サンドギアの街襲撃で出会った親娘の母親の旧姓、というかミドルネームがクレスターニだった。この本のクレスターニがサンドギアで知り合ったクレスターニと同じかどうかはわからない。この本の古さを考えれば、ただの同姓という可能性のほうが高いだろう。

 

ただ、引っかかるものもあったのだ。

 

クレスターニ家に伝わるという、人形を操作する特殊な魔法『ドラットツィア』に、その家系に生まれ持つものの多いという稀少技能(レアスキル)残響再生(ナッハイルスピーレン)』。どちらも、ミッドチルダの発音とは異なっている。

 

任務中にその話をしたところ、ランちゃんはベルカの魔法なんじゃないかとも言っていた。

 

もしかしたら、ベルカの時代から脈々と継がれてきた血、なのかもしれない。

 

「…………」

 

読んでいけば、その謎も判明するかもしれない。

 

 

 

 

 

 

「はーっ……。波乱万丈だ……」

 

就業時刻が目前に差し迫ってきた頃、ようやく読了することができた。

 

この歴史書みたいな本は、どうやらパティーナクノールンという国の興亡を記したものらしい。国の成り立ちから、何が起こってどう栄え、戦争を経て、内乱が発生し、国が傾き、廃れ、そして他の国に併呑されるまでを書いた興亡史。

 

その中で、執政としてクレスターニの名前が登場した。重要な役職に就いていたことにも驚いたが、彼女たちが使っていた魔法『ドラットツィア』も大きく関わっていて、そちらにも驚いた。

 

「まさか、人を自由に操るための魔法だったとはな……」

 

執政として活躍していた当時のクレスターニは『ドラットツィア』を使って、妨害する者、刃向かう勢力、時には王をも操って、国の政治を司っていた。驚くべきことに『ドラットツィア』を扱う術者の多くは同時に 稀少技能(レアスキル)の『残響再生(ナッハイルスピーレン)』も発現し、その二つを併用して、操った権力者の記憶をも読み取り、自在に動かし、喋らせることまでできたようだ。

 

現代のクレスターニは人形劇という形であの魔法を使っていたが、根源は生きたまま人を操る、という魔法だった。

 

時代の流れに揉まれて術式が書き換わっていってしまったのか、それとも故意に書き換えたのかまではわからない。

 

だがおそらくは、故意に書き換えたのだろう。そんな結末を匂わせる理由が、興亡史に記されていた。

 

「……恐れられて、追放、されたんだろうな……」

 

権力者を操り、長きに渡って裏で実権を握っていたクレスターニを脅威に感じた周囲の人間は、クレスターニを排斥した。クレスターニは国を追われたのだ。

 

レアスキルと併用すれば、という条件付きだが、人の記憶もそのままに操るという魔法は、まさに究極的なまでに磨き上げられた完成された魔法と呼んでもいい代物だ。だが、他の魔法については才能があったとは言えないらしい。攻撃的な魔法に劣るクレスターニ家は、周囲に槍玉に挙げられると脆く、容易に追放されてしまったようだ。主に国側からの目線で書かれているので悪し様に書き記されている可能性はあるけれど。

 

そこからは、クレスターニの名前が出てくることはなかった。

 

だから、クレスターニ家のその後は、俺の想像でしかない。

 

人を、その意識までをも操る『ドラットツィア』という魔法は、人々にとって恐怖の対象でしかないと先代の術者たちは思い至ったのかもしれない。術式に手を加え、魔法の効果に制限をかけて、人々の生活に馴染むよう、拒絶されることなく迎合するように、洗練された『ドラットツィア』を改悪していったのだろう。

 

そうした変遷を経て生まれ変わったのが、現代のクレスターニが使う『ドラットツィア』。人形を操るだけの(・・・)魔法。

 

何世代も、下手をすれば何十世代もかけて積み重ねて、築き上げて、研ぎ澄ました魔法。その完成された術式のほとんどを、人の世で生きるために捨てざるを得なかったことが幸せだったのかは、本人たちにしかわからないことだろう。その思いだけは、他人の俺が推し量れるものではない。

 

「……で、結局国は混乱の最中に他国から侵略された、と……。そりゃそうなるわな」

 

クレスターニ家を追放した国・パティーナクノールンは内外の政治が崩壊し、すぐに凋落(ちょうらく)した。それもそのはず、政治の中枢を担っていた一族がごっそりと国を去ったのだから。

 

事実上、(まつりごと)を掌握していた一族がいなくなったことで宙に浮いたポストを争い、国としての機能は低下の一途を辿り、経済は窒息して内乱が頻発。国力の低下は他国から攻め入られる隙となり、クレスターニ家を国外追放してから十数年後、ガレアという大国に侵略され、国は名前を失った。

 

「……はあ、なかなかのボリュームだったな」

 

見知った名前があったことで興味を持てたからか、夢中で進めてしまっていた。最初はあまり気乗りしなかったが、歴史を追うというのは存外楽しい。

 

気付けば。

 

「……あ、こっちベルカ語のほうじゃん」

 

当初はミッド古語とベルカ語を照らし合わせながら読み進めていたが、いつの間にか片側のベルカ語のページだけを読んでいた。

 

発音はわからないので会話は難しいだろうが、これならもう読み書きくらいはなんとかできそうだ。

 

「この本のおかげだな」

 

ベルカ語の学習とクレスターニ家の裏側、その両方を知ることができた興亡史のおかげで集中して学べた。

 

「はっは、マスターしちゃったぜ、ベルカ語」

 

「兄さん、もしかして読めるようになったんですか?」

 

「ああ。この本が二つの言語で書いててくれてたからな。言葉の意味を把握するまでそう時間はかからなかった」

 

「一日で……っていうか半日じゃないですか。……もはやちょっと引きますね」

 

「なんでだよ!今回ばかりは結構すごいだろ。自分でも驚きなくらいだ」

 

ふふんと踏ん反り返る。天狗になっている自覚はあるが、今ばかりは調子に乗っても許されるだろう。俺が調子に乗れることなんて、若干法に抵触するようなグレーなことをしている時と、今日みたいな作業をしている時くらいなものである。

 

「すごいんですけど、すごすぎて一周回って気持ち悪いんですよね、兄さんって」

 

「ほんと言葉選んで。表現濁して」

 

「そういえば、ついさっきまたベルカの本が出てきたんです。これ、呼んでもらっていいですか?」

 

「立派なメンタルになったなあユーノ。頼もしいわ」

 

もちろん皮肉である。

 

是も非もなくユーノは空中を滑らせるように手元にあった古びた本をこちらに寄越した。

 

就業時刻が迫っているからか、ユーノの周囲の本は少なくなっていた。切り上げ始めているのだろう。おかげで障害物にぶつかることなく、俺の手に収まった。

 

「他と比べてもとても古くて、内容が気になってたんです」

 

「本当に古そうだな……よく残ってたもんだ」

 

時代を感じる装丁。手触りも他のベルカ時代の本と違う。

 

中身はもっと違った。

 

「え、あれ……全然……」

 

全然読めない。

 

部分的に単語に見覚えはある。あるのだが、文章の構成が、文法が、単語の用法が、さっき読んでいた本とはまるで違う。

 

「ええー……」

 

伸びた鼻は、ぽきっと折られた。

 

 

 

 

 

 

「なんで……」

 

無限書庫の近くに建てられている公務員宿舎みたいな場所で、俺とユーノは休んでいた。無限書庫以外に公的施設の見当たらないこの付近で、このような宿舎が必要なのだろうかとは思うけれど、納税者の方々には悪いが俺とユーノにとっては都合がいいので黙っておく。どの世界も公的事業などはこんなところなのだろう。まあ今のところ、あまりそちらには興味ない。

 

俺の興味と関心は、眼下の机に広げられたいくつもの本に注がれている。

 

「……なんで、読めない。ベルカ時代であることは確実なのに……」

 

ベルカ時代の本をできる限りかき集めて目を通したが、本によって読める程度が異なる。比較的読めるものもいくつかあったが、読めないものが大多数だ。

 

その読めない本を頑張って読み解こうにも、俺が教材にした興亡史とは違ってベルカ語オンリーで記されている。

 

手のつけようがない。

 

お手上げだ。

 

手詰まりである、完全に。

 

「まだやってるんですか、兄さん」

 

長い黄土色の髪をしっとりと湿らせ、タオルを肩にかけながらユーノが部屋に入ってきた。シャワーから上がったところらしい。

 

「うるせ。諦め悪くまだやってんだよ。……解読できたと思ったんだけどなー……」

 

見つけたら願いを叶えてもらえる宝玉を苦労の末に探し当てたと思ったら、あと六つ必要だと言われた気分だ。落胆の度合いが半端なそれではない。

 

「一部読めるようになっただけでもすごいと思うんですけどね、僕は」

 

「ベルカ語の勉強は目的に辿り着くまでの手段であって、あくまで目的はベルカ時代の『王』についての文献を調べることなんだぞ。部分的に読めたってしょうがねえの」

 

「『王』……前の任務の残されたキーワード、でしたっけ?なんでそんなに気にするんですか?もう僕たちが関われることじゃないですよ?」

 

「関われないってのはわかるんだけどな、無性に気になるんだよ。なにかわかればどこか適切な部署に報告しとけばいい。調べて俺が得することはないかもしれないけど、それで損することもないし」

 

「それはそうですけど……だからってここまでします?クロノに手を回してもらって任務扱いにして」

 

「それにしたって誰も損してない……どころか無限書庫が整理されるんだからいいことだろ。焼け石に水程度だけど無限書庫は図書館に近づいて、俺は『王』について調べれる。ウィンウィンだ」

 

「どこか根本的に間違っているはずなのに、問題がないように聞こえちゃうのはなぜなんでしょうね……。それにしても『王』ですか……」

 

ユーノは顎に手をやって、視線を下げた。考えるような仕草で、しばし黙り込んだ。

 

「なに?『王』についてなんか知ってんの?」

 

「……いえ、ちょっと引っかかったような気が、したんですけど……」

 

なんでもないです、とユーノは誤魔化すようにはにかんで笑った。

 

「そうか……ユーノが知ってりゃ手取り早かったんだけどな」

 

「……あはは、すいません。やっぱり『王』っていうと、聖王……なんでしょうか?」

 

「クロノもそう言ってた。ま、聖王にしたところであんまり詳しくは解明されてないらしいから、結局わざわざこうして足を運ぶことになってるんだけどな」

 

「あれ?たしか聖王に関する文献ならミッドチルダの言葉で書かれた本がいくつもありましたよ?そこから調べることができるんじゃ」

 

「ああ……あったな。聖王を正義のヒーローに祭り上げて褒めちぎった、信憑性に欠ける本がいくつもな」

 

「なんて言い方をするんですか……」

 

その国のトップが、自分たちの政治支配の正当性を示すために書物が著されることなんて、よくある話だ。

 

とどのつまり、勝てば官軍。

 

勝利した側を、まるで運命に導かれ神に愛された特別な人間であるかのように崇め奉る。著者の政治的主観が色濃く滲んでいるなんちゃって歴史書なんて、目を通す価値がない。

 

「あんなライトファンタジー小説みたいな、勧善懲悪にして御涙頂戴のフィクション作品は参考にならん」

 

「それを聖王協会とかで口が裂けても言わないでくださいね……兄さんの身が裂けることになりますよ」

 

「怖っ!あ、でも読み物としてはおもしろかったぞ」

 

「なんですか、そのフォロー」

 

「俺はべつに教会を批判したいわけじゃないんだ。ただ、近代の本はあてにならないってだけで」

 

「それでもっと古い史料を、ってことですか?」

 

「そ。もっと古いもんならまだ信憑性のある内容になってると思ったんだけど……」

 

「古い本を見つけたまではいいですけど、次は読めない……と」

 

「んぎ……むぐぐ」

 

はっきりと言っちゃうユーノに、俺は歯噛みしながらため息をついた。

 

反論しようにも、事実その通りなのだからぐうの音も出ない。出るとしたら言い訳くらいだ。

 

「……同じ単語なのに、本によっては意味が違ってたりする……。有り体に言ってわけわかんねー」

 

ぐっと背筋を伸ばして背もたれに体重を預ける。ぎしっと不気味に不吉な音がしたけれど気にもできない。

 

頭が疲労感を訴えている。クレスターニが絡んでいた興亡史を読んでいた時には感じなかった疲れだ。これもそれも、解読作業の進捗が悪いのが原因だろう。

 

「いろんな国が世界規模で離合集散して戦争してたみたいですから、やっぱり言語もいろんなところと混じっちゃったんでしょうか」

 

「……え?なにそれ?」

 

俺の知らない歴史だ。クレスターニの一族がいたパティーナクノールンという国は、弱体化の末、他国に侵略されたと本に書かれていたが、それはさほど珍しくないことだったようだ。ユーノが触りだけ説明してくれたところによると、周辺諸国、どころか世界単位で戦争して、併呑と分裂を繰り返したのだと。

 

なんともスケールの大きな話だ。そんな時代には生まれたくない。

 

「簡単になら学校でも習うことですし、無限書庫の本にも載ってるのがありましたよ」

 

「そういった本に俺が当たってなかっただけか……」

 

「兄さんは正式な教習を受けてるわけじゃないですから、仕方のない部分もありますけどね」

 

「戦闘関連しか学んでないからな。クロノにも注意されたっけか……ん?離合、集散……」

 

時代の流れによって言葉というのは思いの(ほか)容易く変化する。ベルカ語もその例に漏れず、そういった言葉の使い方の変化が時間とともに訪れたのだろうとは、考えていた。

 

だが、外部からの他言語の流入までは考えていなかった。

 

「これだ……これが、解読の鍵」

 

一応持ってきていた、ミッドチルダ古語とベルカ語が併記されている本を強く見据える。元からあった言語に、違う国から渡って来た言葉が入ってくる。クロノにしたイギリスの話ではないが、要はそういうことだ。

 

本によって、読めるものと読めないものがあったのも納得だ。新しい時代の本であればあるほど、古いミッドチルダの言葉と混ざりつつある。

 

この線で考えを進めれば、また新しい発見があるはずだ。

 

ミッドチルダ古語から比較的現代に近い時代のベルカ語を翻訳したのと同じように、時代をゆっくりと(さかのぼ)れば、いずれ辿り着くはずだ。劇的に言葉が変化する前の本を一冊ずつ読み解いていけば、一番古い時代の言葉も、いずれ。

 

「そうと決まれば!……ユーノ、これはいったい……」

 

さっそく無限書庫へ向かおうとしたが、立ち上がる前に椅子と一緒に拘束されていた。

 

淡緑色の鎖を見るまでもなく、この部屋にはユーノしかいない。

 

「なにかを思いついたように本を見つめていた段階で、こういう展開になるだろうことは読めていました」

 

「ずいぶん手荒な真似だな……なにすんの」

 

「今日はもうおしまいです。休みましょう」

 

ドクターストップがかかってしまった。

 

「いや……ちょっとだけ、ちょっとだけだって。この情熱と閃きを持て余すことなんてできねえんだよ」

 

「明日やればいいんです」

 

「俺の発言をまるっと無視したな」

 

「今日は充分働きましたよ。ベルカ語の勉強をしながら、僕と遜色ないくらい本の整理もしてたじゃないですか。だから今日はもう閉店です。ゆっくり休んで、明日に備えましょう」

 

「仕事は終わらせた。ここからは個人的な趣味の領域だ。就業時間は関係ない」

 

「だめです」

 

「ばっさりだ……」

 

俺の身を案じてくれていることは理解しているが、時間に余裕はないのだ。明後日は学校だ。今回の無限書庫の本整理のお仕事は、今日と明日の二日間しか枠を取っていない。

 

明日ぎりぎりまでベルカ語の勉強に時間を費やしたとしても、おそらく時間が足りない。なんなら今すぐ作業を再開しても、手応えを得られるところまで進められるとは思えないくらいだ。

 

収穫がなければもう一度任務を発行してもらえるようクロノに頼んでもいいのだが、ただでさえ力を借りることが多いのだ。あまり頼りきりにはなりたくない。なるべくなら、期日中に一定の成果を上げておきたい。

 

「……仕方ない」

 

捕縛の鎖に魔力を流す。

 

「壊させてもらう」

 

ハッキングで魔法を破壊。

 

立ち上がって出て行こうとしたら、新たに拘束がかけられた。温かく、柔らかく、抜けようと思えば抜けられるけれど、抜けられない。

 

「これも破壊(・・)しますか?」

 

「いやいやお前……できるかよ」

 

ユーノが俺の腕を抑えるようにひしと抱きついていた。

 

振り払うことはできる。力技でも解ける。

 

でも、できない。

 

「……でもなあ、制限時間があるし……」

 

「休んで明日に備えたほうが効率がいいです。攻撃的な魔法よりも消費は少ないといっても、ずっと使っていれば検索魔法でも魔力を消費します。それに、いくら兄さんでもずっと集中力を維持し続けるなんてできないですよ。これから夜通しでやるなんて、絶対に効率悪いです」

 

「……ぐう」

 

ぐうの音しか出ない。

 

ユーノの言う通り、消費量は大きくなかったがずっと使い続けていたため少なくない量は消費した。いくら自分仕様に術式を書き換えて省エネに勤しんでも長時間使っていれば積もり積もって負担は重くなってくる。

 

このまま休息を取らずに作業を続ければ、どこかで限界を迎えそうだ。集中力か、魔力か、どちらが先かはわからないが。

 

「明日は僕も手伝います。兄さんがやる分の仕分けは僕が担当して、兄さんがベルカ語の解析に専念できるようにしますから」

 

「……そこまで言うんなら、わかった。今日は休む」

 

「そうですか!よかった!はい、休みましょう!」

 

ユーノは声を明るいものにして、俺の拘束を解いた。

 

振り返れば、ユーノは安堵したような笑顔を浮かべていた。

 

そんな顔を見せられたら、こっそり出ていって作業しようかな、なんていう毒気も抜かれる。

 

「……はあ。そうと決まればさっさと寝るか。っと、その前にシャワー浴びないとな」

 

「はいっ!それじゃ僕は先にベッドで待ってますね!」

 

「ああ……って、おいこら。お前の部屋は隣だ」

 



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「聖王統一戦争」

 

朝早くから無限書庫で作業を再開する。

 

俺はベルカ時代の書物・文献の解読に専念し、昨夜約束してくれた通り、ユーノは一般書の整理・ジャンル分けを買って出てくれた。

 

「まずはここから……か」

 

ベルカ時代の本が集められている場所に陣取った俺の最初の作業は、年代別に分けることからだった。

 

分けるといっても、本の裏に何年発行などと記載されているわけではないので、読める度合いでふわっと分類していく。

 

ほとんど読めるもの、比較的読めるもの、比較的読めないもの、まったく読めないもの。大まかに四種類。

 

読めるものを参考資料にして、比較的読めるものから読み解いていく。詰まれば比較的読めないものを念入りに精査して、読み解くヒントがないか探す。それでもわからない場合は本が発見された土地と近い地域から出土した書物を熟読する。近い地域の言語は似通うという性質があるのだ。

 

「聖王統一戦争……世界各地に散った勢力を、聖王家が鎮圧、統一……。え、どういう経緯でこんな戦争が起きたんだ?」

 

ようやくそれっぽい話に行きついたが、この出来事の前後があまりによくわからない。

 

近い時代の本を片端から探して目を通す。数十冊、あるいは百数十冊も無我夢中で読み漁って、ようやく全体像が見えてきた。

 

「古い時代には『王』がたくさんいたのか……」

 

『王』。

 

一つの国の『王』どころではない。卓越した魔法技術や優れた兵器を振りかざし、別の世界にまで手を伸ばしていた『王』もいる。一つの国どころか、一つの世界単位ですらない。複数の世界を統べるほどの『王』。

 

それらの『王』についての詳細はまだ読めないが、ざっくりとした事情は判明した。

 

「これが、聖王統一戦争……」

 

技術革新が進んだ各世界の『王』は争い合い、国の存続すら危ぶまれるほどに損耗した。そういった各世界の『王』たちは自分たちの世界に戻り、再び侵略する力を蓄えていたが、戦乱終わりなきを(いと)い、嘆いた聖王家が強大な兵器を持ち出して再起を図っていた他国を攻め滅ぼした。

 

「血で血を洗う戦乱の世を鎮めた正義の味方……なるほど、これは英雄だ。信仰の対象になるのも道理ってもんか」

 

この戦争、いや、これだけ複数の国が世界を股にかける大規模な戦闘を行ったのだ、大戦と呼んだほうが正確だろう。この大戦の後、生き残ったわずかな国は別世界への進出をやめ、現住していた世界の統治に専念した。果ても飽きもない野望を掲げていた各国各世界の『王』たちが、やすやすと諦めるとは思えない。

 

なのに、そんな古代ベルカの『王』たちが、侵略を諦めた。諦めざるを得なかった。

 

「それほどの、戦いだったのか……」

 

その戦で、いったいどれほどの血が流れ、どれほどの屍の山が築かれたのか。

 

俺やなのはのいる世界、第九十七管理外世界地球で起きた一番被害者数が多かった第二次世界大戦では、連合国・枢軸国・中立国・軍人・民間人、大戦の影響で食事もままならなくなって飢えや病気で亡くなった人も含めれば、その死傷者数は八千万人に届くとも言われている。

 

国単位の戦争で、この数字。

 

これが次元世界を跨いでの世界単位での大戦となった時、何倍に膨れ上がるのか。

 

「っ……」

 

考えるだけでぞっとする。

 

もしかしたら、(いにしえ)の『王』たちも似たような感情を抱いたのだろうか。

 

大戦後、それまでに作り上げられてきた魔法や兵器の技術や知識は、そのほとんどが失われている。戦火の中で燃え尽きたのか、次代に継がせるわけにはいかないと判断して故意に破棄したのか。その過程は記されていない。

 

「だとしても……この聖王家と、前の任務の『王』というメッセージ……。どんな関わりが……」

 

興味深い歴史ではあった。いくつもの本に記載があったので、確度も高い。

 

だが、俺の目的とは違った。

 

比較的近代のベルカの歴史、世界観に触れられたのは収穫といえば収穫だが、俺が探している『王』とは今ひとつ繋がりを感じられない。

 

「もしかして、これより昔……別の『王』……なのか?」

 

まだ解読できていない本は無数にある。

 

俺がスムーズに読めるようになったのは、現代からだいたい五百年から六百年ほど前に記された本くらいのもの。これより昔となると、読み解くための参考資料に乏しく、難解さが段違いになる。

 

「ちっ……ここが限界か」

 

とてもではないが、今日中にどうにかできるとは思えない。とりあえず聖王統一戦争前後の歴史を知れたことで満足するとして、個人的な調査は一区切りにして本来の仕事に戻ることとした。

 

 

 

 

 

 

「お前たち……いったい無限書庫で何をしてきたんだ?」

 

任務を終え、報告のためにアースラへ立ち寄りクロノのもとまで足を運んだら顔を見るなりあんまりなことを言われた。

 

なんだろう、重大なミスでもしてしまったのだろうか。本の整理と管理の方法が定まっていなかったのでこっちが勝手にしてしまったのがいけなかったのか、それとも読んではいけない類の書類でもあったのか、はたまた立ち入り禁止のエリアでもあったのか。無限書庫内ではなかなか我が物顔で好きなように動き回っていたので、どれがいけないのか見当がつかない。

 

「ユーノ、心当たりあるか?」

 

「いえ……特にこれといってないです。兄さんは?」

 

「ありすぎてわからない」

 

「僕の見てないところでなにしてたんですか……」

 

俺は肩をすくめ、ユーノは肩を落としていた。その様子を呆れたように見ていたクロノが言う。

 

「終わって数時間しか経っていないのに、もう既に僕のところに依頼が来ているんだ……」

 

「いらい?なんの?」

 

「……無限書庫内の整理だ」

 

「……ん?終わったばっかだぞ?」

 

「ず、ずいぶん早いですね……」

 

「ああ。だから担当者に話を聞くため連絡を取った。そしたら、仕事の日数はたった二日だったのに図書館らしくなっていた、と鼻息荒く語っていた。検索システムと管理方法まで作られていた、と言っていたんだが」

 

「俺たちの世界で使われている分類法をまるっと流用した。仕分けは大変だけど、探すときは断然楽になるはずだ」

 

「こういう風に分類する、って話はしてましたけど、システムまで新しく作ってたんですか?!」

 

「作ったっていうか、分類法に合わせて再調整しただけだぞ?機材はあったし」

 

「いつの間に……」

 

「昼飯食いながらちょちょいと」

 

「片手間!」

 

「二人でどれくらいの作業量だったんだ?」

 

「えー、どれくらいだろう?わざわざ数えてないから……兄さん、どれくらいですか?」

 

訊ねられても、俺も数えてなんていない。なので、概算でざっくりとした数字を出す。最低限、これくらいは働いたはずである。

 

「ジャンルごとにわけたり本棚にしまったりデータバンクに入力とかもあったし、だいたい八万から九万冊くらいじゃね?」

 

「結構がんばりましたね、僕たち」

 

「は……は?八万?九万?……どうやって、そんな量を……」

 

「ユーノが検索魔法っつう便利なもん教えてくれた」

 

「兄さんがそれを無限書庫用に改良してくれた」

 

「……僕は二人の能力を見縊(みくび)っていたようだ」

 

呟いて、クロノは背もたれに身体を預ける。苦笑して、続けた。

 

「それなら依頼がこのような短期間に再発行されたのも納得だ。担当者はいつでも来てくれと言っていたぞ。報酬を上乗せする、ともな。気に入られたようだ」

 

「給料の上乗せはおいしいな!」

 

「そこまでお金に困ってませんけどね。前の任務の報酬にもまだ手をつけてませんし、僕」

 

「あって困るもんでもないし、いいんじゃね?つってもそんなに簡単に給料アップとかやっていいもんなのか?」

 

「いいんじゃないか?どうせ管理局から委託された任務の報酬金、つまりは公費。税金だ」

 

「急に受け取りにくくなった……」

 

「労働への対価だ。気にせず受け取っておけ。それに今回の任務であれば筋が通っているだろう。あの知識の魔窟がまともに使えるようになれば、管理局はもとより一般人にも利益になる」

 

「やっぱり魔窟って呼ばれてんのか……。ま、そういうことなら頑張った証としてもらっておくか」

 

「そうしておけ。さて、どうする?」

 

いきなり疑問符を叩きつけられた。

 

首を傾げる俺に、なぜかクロノも同じように首を傾げた。

 

「徹の予定が合うのなら、なるべくすぐにでも無限書庫に戻ったほうがいいんじゃないのか?」

 

「ああ、そういう話か。んー……仕事としては楽しい部類だったけど、わざわざ行く理由が薄くなっちまったしな……」

 

「なぜだ?『王』について、ベルカ時代を調べるんじゃなかったのか?」

 

「いまいちぴんとくるもんがなかったんだよ。こう、閃かないっていうか」

 

「……ん?それを調べるために行かなければいけないんだろう?」

 

「ん?」

 

なんだか話が噛み合っていない。

 

なぜクロノが頭上にクエスチョンマークを浮かばせているのかわからず、俺の頭の上にもクエスチョンマークが浮かぶ。

 

「……あ、そっか、なるほど。ねえ、クロノ。兄さんはもう、ある程度調べられたんだよ」

 

「何をだ?ミッドチルダの歴史関係か?」

 

「まあ普通はそう思うよね。ただクロノは……きっと僕も、兄さんのポテンシャルを見誤ってたんだ」

 

「ユーノ……もしかして……」

 

「そう。古代ベルカの言葉を読めるようになっちゃったんだよ、二日で」

 

「なっ……。冗談だろう……」

 

クロノが両目を驚愕に見開いて俺に向ける。

 

まずい、勘違いされてしまう。

 

「待て待て、その言い方は誤解がある。ベルカの近代なら、だ。聖王統一戦争以前の言葉はまだ全部理解できてない」

 

聖王統一戦争の後の時代だと、時代が落ち着いたんだな、という雰囲気だ。乱世が終わり、一つの大きな流れにまとまり始めた感じ。

 

聖王統一戦争より昔になると言語が複雑、煩雑で、いろんな国がくっついたり離れたりを繰り返した形跡が文章から見て取れる。文章の全体的なイメージとそぐわない単語がちらほら見られるのだ。時代や地域によって、同じ単語でも意味が違うのだろう。それがちらほら見られる程度ならまだいいが、その割合が半々だったり、さらに毛色の違う言語が二つ三つと入り乱れる本も中にはあった。

 

さすがにそれらを検証するのは骨が折れるし、時間も手間もかかる。とかく、戦争前と後では解読の難易度がまるで違う。今回よりももっと時間をかけないと難しい。

 

というのをざっくりと説明した。

 

「つまりは、ある程度は読めるようになったということだろう」

 

「まあ、ある程度はな」

 

「まったく……相変わらず規格外だな」

 

「得意な分野ってのはあったな」

 

「それで、どうだった。知りたかったものはあったのか?」

 

「微妙なところだ。あの紙に書かれていた『王』が聖王を指しているのか……まだはっきりとは掴めていない」

 

「もっと昔には王様はほかにもたくさんいたんですよね?それなら戦争前の周辺国の王様なんじゃないですか?」

 

「いいや、徹やユーノが戦ったという犯罪組織に古代ベルカ語に精通するほど教養のある者がいるとは思えない。木っ端な王ではなく、もっと名のある『王』だと思うんだが……」

 

「……木っ端って言っても、少なくとも世界を丸ごと一つは支配していた王なんだけどな……。でも俺も同意見だ。この時代にまで名が残っている『王』……まあ、今んとこ有力なのは聖王ってとこかね。暫定だけどな。もっと調べないことには結論は出せねえや」

 

「結論を決めつけたら視野が狭まる、ってことですね」

 

「よくわかってるな。さすが俺の助手だ」

 

「えへへ。お仕事のお手伝いからコンディションの管理までやりますよ!」

 

「コンディションは自分で管理するわ」

 

「徹は無茶をしやすいからちょうどいいんじゃないか?」

 

「だよね。今回だって夜通しやろうとしてたんだよ」

 

「知的好奇心が止まらなかったんだ、しゃあねえだろ」

 

「それは無茶をすることの言い訳にはならないな。ともあれ、またいずれ無限書庫に調査には行くということでいいんだな?」

 

「おう、それでオッケーだ。ユーノもいいか?」

 

「はい、大丈夫です。なんなら、僕が暇な時は一人で行って、次に兄さんが行く時に作業しやすいようにしときますよ!」

 

「はは、そいつは頼りになるな。ってなわけで、俺が行けるのはいつになるかわかんねえけど、また頼むわ」

 

「わかった。忙しい連中だからいつ予定を空けられるかわからないと伝えておこう。もう少し報酬が吊り上がるかもしれん」

 

「嬉しいことは嬉しいんだけど、適度に頼むぞ?ハードルが上がっちまう……。そうだ、来週は予定ないし、来週の土日は入れてくれても大丈夫だぞ」

 

「ああ、いや……来週はだめなんだ」

 

「え?先方の予定がつかないとか?」

 

「相手はいつでも来て欲しいらしいが。なんなら専属で雇いたいくらいらしいが」

 

「それはちょっと困るけど……じゃあなにが都合悪いんだ?」

 

「……こっち側の都合、だな」

 

クロノはふい、と目線を逸らした。

 

不明瞭な言い方だ。煮え切らない。俺とユーノは目を合わせて、やっぱりわからなくて肩をすくめた。

 

「とにかく、来週。徹はなるべく自宅で待機しておいてくれ。わかったな?」

 

「自宅待機……なにかしらの仕事か?」

 

「ん?ああ、そう、そうだな。仕事……みたいなものだ」

 

「…………」

 

「…………」

 

奇妙な間があった。

 

絶対に仕事ではない何かがある。クロノが口を割りそうにないので追及はしないけれど、とりあえず覚悟はしておこう。

 

 

 

 

 

 

翌週、土曜日。

 

日増しに陽の光が熱を持ち始めたこの頃。

 

朝食を済ませ、家事もあらかた終えてリビングで一息ついていると、めずらしくお休みだった姉ちゃんが猫の絵が描かれたコップを持ってテーブルの対面に座った。

 

「そういえば、まだちゃんと聞いて……もとい、問い(ただ)してへんかったわ」

 

「問い質すってなに、穏やかじゃないな」

 

不穏な前振りにちょっと焦る。

 

後ろ暗いことをした覚えはないし、魔法関連のことはもう白状したし、エリーとあかねの件も姉ちゃんに報告した。その際にはとても怒って、それ以上にとても悲しそうにしていたが、俺の立場と、エリー・あかねの存在の特異性を察して矛を収めてくれた。絶対に取り戻せ、連れ帰ってこいと約束もした。約束以前に必ず取り返すが。

 

ともあれ、今はもう、姉ちゃんに隠し事はないのだ。ない、はずである。

 

なのに、こうも喉が乾くのはなぜだろう。

 

潤いを求めて、コップを傾ける。

 

「前に徹が泊まったっちゅう女性は、結局どこの誰さんや?」

 

「ぶっふ……」

 

お茶噴いた。

 

「そのリアクション……やっぱなんかあるんやな?」

 

「あ、アリサの家に泊まってたんだよ。借りがあって、それを返すために執事の真似事を……」

 

「あー、ちゃうちゃう。そっちの話は鮫島さんから丁寧な連絡頂いたわ。そっちやなくて、もっと前の話や。徹が『彼女(・・)』の家に泊まったとかのたまってた、あの話。うちが電話した時、かわいらしーいお声も聴こえとったしなあ?なあ?」

 

「えっ、あー……いやあ……」

 

今となっては遠い過去のような気もする四月十七日。アルフとの一騎打ちに敗れ、傷ついた(控えめな表現)俺はフェイトたちの臨時のアジトに運ばれた。

 

姉ちゃんは、その日の話を持ち出しているのだ。なんだかんだでうやむやにできたと思っていたのに。

 

「あん時の話、ちゃんと答え出てへんかったもんなあ?例の女は、どこの、誰で、どういったご関係なん?お姉ちゃん、聞きたいわあ」

 

「えっと……えー……」

 

どう説明していいかわからない。

 

当初の『彼女』では正確でないし、もちろん赤の他人なんてありえない。友人と表現するには関係が深すぎる。

 

と、考えて、時の庭園での戦いを思い出してしまった。リニスさんに想いを告げられて、口づけもしている。返事はいらないし、気持ちに報いることもしなくていいとまで言われてしまったが、そこまで熱情を向けられて何も感じないほど、俺の感情は死んでいない。その事件の後に、行為には及ばなかったが拘留室のベッドで押し倒されたりもしたし。

 

「……男女の間柄やねんな」

 

「そ、そこまでじゃない!」

 

「……ってことはその手前、か」

 

「ぐっ……」

 

迂闊なことを口走ってしまった。姉ちゃん相手に一瞬でも気を緩めるなんて、愚か極まる。

 

「さあ、説明してもらおか?」

 

退路はない、かと思われた。

 

だがここで、ぴんぽーん、とインターホンの音。誰かが来たようだ。ゴングに救われた。

 

「だ、誰だろなー!早く出ないとなー!」

 

「ちょっ、今はそんなもん……っ!」

 

「いやいや、出ないといけないだろ?はい、どなたですか?」

 

インターホン越しに、来客に尋ねる。

 

『お届けものです』

 

女性の声だった。最近は宅配員も女性が多くなってきたものである。

すぐに行きます、と返して一階へ。

 

「話終わってへんやろが!待たんかい!」

 

「言い方が荒っぽくなってるぞ。まずはお客さんの用事を済ませてからでしょ」

 

「むーっ!」

 

呻りながら、姉ちゃんは俺の服を掴んでついてくる。逃げると思われているのだろうか。

 

追及の手から逃れられはしないのだから、逃げはしない。この時間を利用して言い訳は考えさせてもらうけれど。

 

姉ちゃんを引きずりながら玄関へ。

 

扉を開く。

 

「はーい、お待たせしまし「パパーっ!」

 

扉が開いた瞬間、お腹に柔らかくて温かな衝撃、聴き馴染んだ声。見下ろせば、明るい陽の光をそのまま反射させたような、金色に輝く御髪(おぐし)

 

混乱極まる脳みそで正面を見やれば、正装に身を包む、長髪のミントグリーンを湛えた美しい女性。

 

その隣にはお人形さんのように愛らしい相貌と、白磁の如き白い肌を併せ持つ少女。緊張したような表情で、きらきらとした艶やかな金髪を春風に弄ばせていた。

 

その端っこに、橙色の長い毛がちらっと見えた気がした。

 

「え……えっ」

 

「…………は?」

 

絶句する俺と姉ちゃんに、女性は麗しく、それでいて凛とした声で伝えた。

 

「あなたの子です」

 

いたずらが成功した子どものような笑顔だった。

 

言わずもがな、姉ちゃんは卒倒した。

 



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幸せになってほしいと、そう望むのだ。

「ほんほん、この子らが例の美少女姉妹で、リンディさんは徹の上司にあたる人、ってことやね?」

 

「そう」

 

「そ、そうです。は、初めまして、真守さん」

 

「こらご丁寧に。徹がお世話になっとります。姉の逢坂真守です。ずいぶんユーモア(・・・・)を解した上司さんみたいで、こちらも接しやすいです」

 

「さ、先程は失礼しました……」

 

無駄に強調された笑顔に、リンディさんは萎縮してしまった。

 

姉ちゃんが含みを持たせた物言いと表情をしたのは、初対面の出会い頭にリンディさんが仕掛けてしまったお茶目なドッキリに対するちょっとした意趣返しだ。ドッキリの前段階でしていた話が話だったので、そこからのアリシアの『パパ』発言と、リンディさんの『あなたの子』宣言で、それはそれは多くのことを一度に考えてしまったのだろう。その結果、優秀過ぎた姉ちゃんの脳みそがオーバーフローして気絶してしまった。

 

そんな姉ちゃんが起きるのを待って、お互いの自己紹介を含めてお話をしていたのだった。

 

まあ、気を失うほど驚くのに充分すぎるインパクトではあったけれど、リンディさんは忙しい合間を縫ってせっかく家まで来てくれたのだ。姉ちゃんの棘はこのあたりでしまっておいてもらおう。

 

姉ちゃんの脇腹を肘で小突く。

 

「きゃふっ。なにすんねん!」

 

「そのくらいにしとけって。悪気があったわけじゃないし、俺しかいないと思ってたんだよ、きっと」

 

「まあ、うちも驚いただけやから別に怒ってへんけど」

 

「気絶してたけどな」

 

「やかましわ」

 

手の甲でぱちんと額を叩かれた。胸にツッコミを入れなかったのは、すでにそこが埋まっていたからだ。

 

「パパのお姉ちゃん、怖い人?」

 

あぐらをかいた俺の上に、アリシアの身体がすっぽり収まっていたのだ。

 

膝の上のアリシアが真上にある俺の顔を仰ぎ見る。

 

俺が答える前に、隣に座っている姉ちゃんがアリシアににじり寄った。裏などない、純粋な満面の笑顔だった。残念なことに『仲良くなって触れ合いたい』という不純な気持ちには、不純物は一切入っていない純度百パーセントなのである。

 

「怖ないでー?めっちゃ優しいねんでー?君はアリシアちゃんやんな?」

 

「そう、アリシア。お姉ちゃんは……」

 

「そこの椅子のお姉ちゃんやで!」

 

「椅子って……」

 

「真守お姉ちゃん、って呼んでな?」

 

アリシアは首をこて、と傾けて、姉ちゃんをまっすぐ見つめた。

 

「まもりお姉、ちゃん?」

 

「〜〜っ!?かっ……わいぃっ!」

 

「きゃあ!あはあっ、くすぐったいっ」

 

「姉ちゃん、抱きつくな。重い」

 

「重ないわ!」

 

「徹のお姉さん、元気な人、だね」

 

「そうだな、それはずいぶんいい表現だ」

 

俺の隣、姉ちゃんの反対側で寄り添うようにフェイトは座っていた。

 

フェイトは人見知り、とまではいかなくともそれに近しいものがあるので、うるさい、もとい過度に明るい姉ちゃんとの距離を測りかねているのだろう。

 

そうやってゆっくりと距離を詰めていくのもフェイトらしいといえばらしいが、誠に遺憾ながら、相手がどんな性格をしていようが接し方を変えない人もいるし、そもそも距離を測ることすらしない人もいる。

 

アリシアにすりすりしている姉ちゃんなど、そのハイブリットである。

 

「そっちのシャイな子はフェイトちゃん、やんな?」

 

「っ……」

 

アリシアをぎゅうっとしたまま、姉ちゃんは俺の背に隠れるようにしているフェイトに狙いを定めた。

 

びくっとフェイトの身体が揺れる。警戒しすぎじゃなかろうか。さすがの姉ちゃんでも、いくら可愛い子がいるからといって取って食いはしない。はずだ。

 

「そ、そう、です……」

 

俺の影からちょっとだけ顔を出して、フェイトが頷いた。

 

「あははっ、そない他人行儀にせんでええよー。仲良うしよーっ!」

 

なにも考えてない、にぱーとした姉ちゃんの笑顔でとりあえず悪い人ではないと判断したのだろう。フェイトは一度俺の顔を覗いて、姉ちゃんに向いた。

 

フェイトは俺の服を握ったまま、まだ打ち解け切れていない様子で、それでもちょっとだけ表情を緩めて。

 

「真守、お姉さん……」

 

「ーーっは!やばい、一瞬呼吸の仕方を忘れた!」

 

「姉ちゃんはなんかもうやばいよ。いろいろやばいよ。準変質者だ」

 

「失礼なっ!かわいい子をかわいいと愛でてなにが悪いんや!」

 

「かわいいのは事実だしかわいいと思うだけならいいんだけど、姉ちゃんはコミュニケーションが過剰なんだよ」

 

「うちはこれをオーバースキンシップと呼んどる」

 

「かっこよさげに言ってんじゃねえよ……ってか『オーバー』なことは自覚してんのかよ」

 

「あの……いいかしら?」

 

置いてけぼりになっていたリンディさんがおずおずと手を挙げた。

 

「あ、ごめんね、リンディさん。どうぞ」

 

「ありがとう。真守さんは徹くんからお話を伺っていたのかしら?」

 

「どういった経緯でこの子たちと知り合ったのか、っちゅうところは聞きました」

 

「…………」

 

口を(つぐ)んで、リンディさんは俺を見た。

 

どこまで、というニュアンス。プレシアさんの一件のどこまでを話したのかという意味だ。

 

全部です、そう言う前に姉ちゃんが口を開いた。

 

「魔法、とかって話も聞きました。実際に目にはしてませんけど」

 

相変わらず、人の反応から何を言わんとしているかを読み取るのが早い姉である。

 

そんな姉にとっては。

 

「っ……」

 

「…………」

 

フェイトとアリシアの感情の機微、身体に走る緊張や、一瞬の空気の強張りすら、感じ取るのは容易だろう。俺がフォローに入るまでもない。

 

この姉は、特に女の子相手ならばなおのこと、メンタル面のケアもお手の物なのだ。

 

「フェイトちゃんのことも、アリシアちゃんのことも聞いてます」

 

「二人の身の上を聞いて、どう思いましたか?」

 

「……?どう、とは?」

 

「なにか思うところはなかったのでしょうか?」

 

「いえ?とくには」

 

あっけらかんと、あくまでも端的に姉ちゃんは言った。考えるまでもないと示すかのように、即答だった。

 

そんな姉ちゃんに、リンディさんはさらに踏み込む。

 

「……この世界では、いえ、私たちの世界でも認められてはいませんが……真守さんや徹くんの住む世界では、クローン技術もコールドスリープも禁じられているはずです。どうしてそんなに簡単に認められるのですか?」

 

リンディさん本人も、フェイトやアリシアの前で言及したくはないだろうが、二人と関わらせるのだからちゃんと確認しておきたいのだろう。そういった技術に、そしてその技術が使われた子たちに抵抗があっては、二人のためにならない。誰のためにもならない。

 

そう考えての、リンディさんの問いなのだろう。

 

だが、それでも姉ちゃんは態度を変えない。アリシアをハグして、かつ、フェイトの手を握るという欲張りなスタンスに変化はない。

 

「ちょっと食い違い、ちゅうか……なんやろ。考えの行き違いがありますねぇ」

 

「考えの……行き違い?」

 

「そうです。たしかにクローン技術は宗教的やら人道的やら倫理的やら問題があるて言われてますし、この日本でもクローン技術規制法とかありますけど、大多数の人はあんま深く気にしてへんでしょ。身近なことやないですし。それを使っとったからなんやって話です」

 

あっけらかんとした風に、姉ちゃんは続ける。自分の考えを、言葉にする。

 

「大事なんはそういうとこやないって思うんです。倫理とか、法律とか、そんな小難しい理屈やないでしょ?」

 

にへらと頬を緩めて。あくまでも自然体で、どこまでもお気楽に。姉ちゃんは笑いながら言う。

 

「どう生まれたかなんて、うちは気にしてませんよ。どう生まれたかより、どう生きていくかってほうが、うちは大事やと思うてます。うちの理屈ですけど、この子らには幸せにのびのびと生きてってほしいなって思います」

 

そんな姉ちゃんの持論に、リンディさんは目をまん丸に見開いた。

 

表情を緩めて、口を開く。

 

「真守さんの後ろ姿を見て育ったから、徹くんはいい子に育ったんでしょうね」

 

「そうなんです!うちの教育が良かったんです!ようおわかりで!」

 

「反面教師に使ったところもあるけどな」

 

「否定しきらんとこがかわええねんなぁ、徹は」

 

「うるっせえわ」

 

「まもりお姉ちゃんはやっぱりパパのお姉ちゃんだ!」

 

姉ちゃんの言葉に感じ入るところがあったのだろう。抱かれるままだったアリシアが、今度は明確に自分から抱きついた。

 

「くっ……すごい、破壊力……っ!な、徹。うち鼻血出てへん?大丈夫?」

 

「鼻血は大丈夫だけど頭のほうはもう手遅れかもしれない」

 

「よかった。仕様や」

 

「ああ、手遅れだ」

 

「……真守お姉さん」

 

「おっ、フェイトちゃん?どないしたん?」

 

姉ちゃんの手を、フェイトは握り返したようだ。フェイトが呼ぶ前にぴくと反応していた。

 

「……あり、がとう。勘違いしてて、ごめんなさい」

 

おずおずと、奥ゆかしく、フェイトが謝った。

 

うるさい人っていう評価から、うるさいけど理解のある人だとでも覆ったのだろう。気をつけろ、フェイト。そう簡単に気を許してはいけない人種だぞ、我が姉は。

 

「かっふ……。あっかんわぁ、めっちゃかわええっ……。めっちゃかわええ!どないしよ!なあ徹どないしよ!」

 

「姉ちゃんはわりと前からどうしようもないよ」

 

「今は徹の軽口も心地ええくらいやわぁ。はー……幸せ。こないかわええ子らと仲良うなれるなんて。いつまでおれんの?日にちによっては生活用品準備せなあかんし」

 

「えっ?」

 

「へ?」

 

気まずい空気がリビングに立ち込める。

 

なんだか話が噛み合っていないような。

 

「え、あら?と、徹くん?真守さんにお話ししてなかったのかしら……」

 

「……あ」

 

「え?え?なんなん?なんの話なん?フェイトちゃんたちお泊まりするんちゃうの?!」

 

姉ちゃんにぐらぐらと揺らされながら、クロノとのやり取りを思い出す。

 

フェイトとアルフの裁判は無事終わり、アリシアの身体の経過観察も異状はないとのこと。となればアースラを降りなきゃいけないわけだが、親であるプレシアさんはまだ裁判が終わっておらず、他に身を寄せる親類はいない。

 

という話だったので、俺の家で預かるという運びにした。

 

まではいいのだが、それを姉ちゃんに伝えるのをすっかり失念していた。言い訳にしかならないが、姉ちゃんは仕事(探し)でよく家を空けているし、俺も俺で忙しかったのだ。

 

少々伝えるのが遅れてしまったが、この場で姉ちゃんに説明した。

 

呆れたようなアリシアと、心配そうなフェイトの瞳が実に居心地悪い。

 

俺の説明を終始ふむふむと頷いていた姉ちゃんは全て聞き終えて。

 

「ってことは二人のお母さんの判決が出るまではうちに住むってことやんやったー!」

 

思考時間ゼロ秒で許可が出た。

 

まあこうなるだろうとは想定していたけれど。

 

「いいの?まもりお姉ちゃん?」

 

「あたりまえやん!いつまでもおってええよ!」

 

「で、でも、急にお邪魔するのは……」

 

「お邪魔するなんてよそよそしい言いかたせんといてー。そもそも徹から二人の話聞いた時からうちにきてくれへんかなーって思っとってんから!」

 

大歓迎やー、などと叫んで姉ちゃんは二人に飛びついた。

 

それはいいのだが、アリシアは俺の膝の上、フェイトは俺のすぐ隣という立地条件。二人に飛びつけば必然、俺も被害を受ける。

 

アリシアやフェイトが挟まれて痛い思いをしては大変なので、俺も一緒に倒れ込むほか手はなかった。

 

「巻き込んでる!姉ちゃん、俺を巻き込んでる!」

 

「今日からうちの子や!」

 

「俺はもとからこの家の子だ!」

 

俺と姉ちゃんのやり取りがおかしかったのか、それともこの状況自体が面白かったのか、アリシアはきゃっきゃと賑やかに喜んで、フェイトも困惑しつつだが柔らかく受け入れていて、リンディさんは穏やかに笑っていた。

 

なんだかんだで一件落着、だろうか。最初にしていた彼女云々の話もうまいこと誤魔化せ

 

「……彼女の家にお泊まりした件は、また後でじっくり、な?」

 

耳元で囁かれた。

 

誤魔化せていなかった。

 

 

 

 

 

 

いろいろ話を済ませ、お昼前。

 

本当ならもっと早くにお話は終わっただろうが、姉ちゃんがフェイト・アリシア両名を事あるごとに可愛がるせいで話の本筋があっちへふらふらこっちへころころとまともに進まなかったのだ。

 

そんなこんなで、お昼前である。

 

「パパー……おなかすいた」

 

こんな時間になれば、アリシアのお腹も空くというものである。

 

「そうだな、昼飯にするか。リンディさんも一緒にどう?腕振るうよ」

 

アリシアの頭を撫でながらリンディさんに水を向ける。が、返事がない。

 

「これもおいしいのよ?ほら、紅茶やコーヒーにもミルク入れるじゃない?それと同じよ」

 

「試したことあらへんかったなぁ。でも言われてみたら合いそうやなぁ。抹茶って苦味あるし。それがおいしいねんけど」

 

「おすすめするわ。あら……この紅茶おいしいわね!」

 

「リンディさん味わかるなぁ!この茶葉はつい最近仲良うなった子が送ってきてくれてん!あんまし流通してへんらしいから数は少ないねんけど、めっちゃおいしいて」

 

「そうそう口にできない品質ね。はぁ……幸せね」

 

「せやねぇ……至福やねぇ」

 

いつの間にか、姉ちゃんとリンディさんがめちゃくちゃ仲良くなっていた。飲み物談義に花を咲かせていた。

 

紅茶を一口含んで心地よさげに吐息を漏らすリンディさんに、ふたたび声をかける。

 

「リンディさん、リンディさん」

 

「へ?あら、徹くん。どうかしたのかしら?」

 

「寛いでくれてるみたいでよかったよ。もうすぐお昼だけど、お昼ご飯どうする?」

 

「いいわね!お昼ご飯!私もそろそろお腹すいて……」

 

途中でリンディさんが停止してしまった。

 

徐々に顔色が悪くなっていく。

 

「ど、どうしたのリンディさん?大丈夫?」

 

「あの、えっとね?本当は今日一日お休みもらおうかと思ってたんだけど、先週もお休み頂いちゃったから午前休しか取ってなかったのよ……」

 

「なんか言葉の端々にブラックさが滲み出てるよ……」

 

「だから急いで戻らないと……」

 

「どうせクロノとエイミィはいるんでしょ?大丈夫じゃないの?あの二人がいるんなら」

 

「最近はいきなり出動要請があったりすることが多いのよ。ちょっと前にもそういうことがあったし……徹くんが手伝ってくれたって聞いたわよ?」

 

「あー……先々週のことか……。なるほど、たしかに要請が重なったら大変だ」

 

アースラの乗組員はトップであるリンディさんを筆頭にクロノ、エイミィ、レイジさんなど優秀な魔導師が多い。『海』所属の魔導師は能力の高い魔導師が多いらしいが、アースラはそんな中でも別格ではないだろうか。

 

ただ、唯一の弱みは優れた人材を選りすぐっているからこその慢性的な人員不足だ。与えられた任務を確実にクリアする腕はあるが、いかんせん取り組める任務の数には限りがある。

 

艦長であるリンディさんがいなければ、必然、次席であるクロノが代理をしないといけなくなる。結果、一人でも任務をこなせそうな人間が向かえなくなる。それは人員の限られたアースラにとってはかなりの痛手だろう。

 

「だから、今日はここでお(いとま)させてもらうわね。それじゃフェイトさん、アリシアさん、真守さん、またね。徹くんは、きっとまたすぐに会えるわね」

 

また会いましょ、と三人に手を振ると、リンディさんは口の中で何かを呟き、目を閉じた。するとリンディさんの身体が光に包まれ、光が収束した頃にはリンディさんの姿はもうなかった。

 

「ほぁ……これが魔法なんやなぁ、一瞬で消えてもうた」

 

「真守お姉さん、徹から見せてもらったことなかったの?」

 

「徹は見せてくれへんねん。隠しよんねん」

 

「本当はこっちじゃ使っちゃいけないし、そもそも俺の魔法は見せたくても見せらんないんだよ」

 

「パパー、おなかーすいたー」

 

「はいはい、ちょっと待ってな。でもそうだな……材料はあるけど、どうせこれから日用品とか買いに行かなきゃいけないんだし、外で食べたほうが早いかもな」

 

「えー、徹のご飯のがおいしいやん」

 

「徹、ケーキだけじゃなくて料理もできるんだね。……食べて、みたいな」

 

「わたしもパパの食べたーい!」

 

「……ここまで言われたら俺も(やぶさ)かでもないな。でも準備してなかったしこれから出かけるから、手抜き料理で良けりゃな」

 

 

 

 

 

 

「ほら、これなんかええんちゃう?めっちゃかわええやん!」

 

「ほんとだ!フェイト!これにしたら?かわいーよ!」

 

「わ、私はもうちょっと落ち着いた色のほうが……」

 

「なに言うてんの!可愛いお顔、艶々のお肌、綺麗な髪してんのに!」

 

簡単に昼食を家で済ませてから、俺たちは買い物にきていた。これから我が家で暮らすのだからと、姉ちゃんに手を引かれてまずは服を見にきていたのだが、ほぼ部屋着ばっかりである。

 

二週間前、アースラを訪れた時リンディさんとエイミィがいなかったのは、もうすぐ艦を降りるフェイトたちに服をプレゼントするためだったようだ。外行きの服はたくさん買ってもらったようなので、部屋着や寝間着などを重点的に回っている。よっぽど姉ちゃんは二人を着飾らせたいようだ。

 

「ほ、ほら、こっちの黒いのとかいい感じで……」

 

「あかんてそんなん!地味やんか!あっ!でも同じ黒でもあっちのはフリルとレースで透けとってめっちゃかわええ!」

 

「あはは!フェイト、これ!これにしたら!あはは!すけすけ!」

 

「い、いやだよっ。と、徹もいるのに……」

 

「ほんじゃこっちのキュートなピンクいのんは?」

 

「フェイトフェイト!こっち!これ一番いいよあっはは!ふっふふ、けほっ、けほっ、あははっ」

 

「こ、これ、足とか胸元とか出しすぎ……」

 

「いーじゃん。フェイトのバリアジャケットも布面積おんなじくらいだよ?」

 

「私のバリアジャケット、はたから見たらこれと同じなの……」

 

「黒でもこっちやったらフェイトちゃんに似合いそうや!黒に綺麗な金髪が映えるわぁ」

 

「なんでこんなの置いてるの……」

 

「フェイトは黒、あたしは白でおそろいにしよ!これでパパをめろめろにしようよ!」

 

「こっ、これ着て徹の前に出るなんてできないっ」

 

姉ちゃんやアリシアがフェイトにいくつか服を渡して、フェイトが顔を赤くしたり青くしたりしながら突き返している。どうしよう、このままでは俺の家が安息できない地になってしまう。

 

「姉ちゃん、頼むから違うところに買いに行こう。子ども用のとこに」

 

「えーっ。かわええの置いてんで、このお店」

 

「可愛いことは可愛いと思うよ。ただどうにも方向性がおかしいって」

 

「パパー、こっちとこっち、どっちがいい?」

 

「あ、アリシアっ」

 

慌てたフェイトに追われながら、アリシアが二着持っててこてこ駆け寄ってきた。

 

端的に表せば、ふりっふりにしてすっけすけのネグリジェか、布の量がおかしいワンピース。もはや二つ目はベビードールである。

 

アリシアの持ってきている服に加えて、俺への呼び方でお客さんの視線がこちらに突き刺さる。痛い、女性客の目がとても痛い。

 

「どっちもアウトに決まってんだろ。選べ。店を変えるか、服を変えるかの二択だ」

 

「徹はショーパン好きやで。足フェチやからな」

 

「話は決まった。俺が帰る」

 

「ごめんごめんごめんて!もうちょい健全なん選ぶって!……せやけどショートパンツ好きなんはほんまやろ?」

 

「否定はしない」

 

「否定はしないんだ……」

 

「それじゃあ足見えるのにしよーっと!」

 

俺の捨て身の直談判によって、フェイトは黒色、アリシアは白色の、肌触りの良い生地を使った動きやすいゆったりとした半袖のTシャツとショートパンツに相成った。実に健全で健康的な、双子コーデのルームウェアである。

 

前述したネグリジェを姉ちゃんがレジに持って行こうとしていたのでチョップを入れたのは余談。

 

後頭部付近をさすりながら店を出る姉ちゃんの背中を追う。もちろん俺は荷物持ちである。

 

たくさんの紙袋を手に空調の効いた店内から外に出ると、少々蒸し暑さを覚えた。

 

「これから夏やからなー、かわええのたくさんあったなあ」

 

暮れ始めた太陽に身体を向けて、姉ちゃんは光合成でもするかのようにぐぐっと背伸びした。

 

その口振りからして、まだ見て回りたいなどと考えているのだろう。

 

「他のはまた今度な。荷物がかさばる」

 

「パパ、重い?わたし持つよ?」

 

「はは、ありがとう。そんじゃ落っことしちゃいそうな小物の袋を頼む」

 

「大きいのでもいいよ!」

 

「それは小さくて、ほかの大きな袋に隠れて持ちにくいんだ。アリシアが持ってくれたら助かるんだけどな」

 

「それじゃこれ持つ!」

 

「ありがとな」

 

「……いいの?全部、買ってもらっちゃって……」

 

俺の手から雑貨店の袋を受け取っているアリシアの横で、フェイトが言う。レジでの支払いの際にも、フェイトは気後れした感じだった。

 

後ろめたそうにするフェイトに、しかし姉ちゃんは平常運転だった。

 

「なに言うてんの。妹の服買うてんねんから、なんもおかしないやろ?」

 

「おおよそ姉ちゃんの言う通りだ。家族の分なんだから気にしなくていいんだよ、フェイト」

 

「フェイトちゃんはなんも気にせんでええ。ただおってくれたらええんや」

 

「でも……」

 

「着てるとこ見せてくれたり撫でたり触ったり髪いじったり抱っこさせてくれたら……それでええんや」

 

「……ちがう意味で買ってもらったことを悔やみそう……」

 

いい話をしてる風なニュアンスで、姉ちゃんは言った。声のトーンや表情は真剣そのものなのに、どうしてそんなに変態的な言葉を吐けるのか。

 

「俺からしたら姉ちゃんの相手をしてくれるだけでもありがたいんだから、気にしないでいいんだよ」

 

「徹……。うん……ありがとう。嬉しいよ」

 

煮え切らないような口調で、フェイトは儚げに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

「そういえばさ、二人ともこれからどうすんの?学校とか行くん?」

 

日が暮れる前に家に帰ってきて、リビングで一息ついている時に姉ちゃんがふと切り出した。

 

「学校……私、は……」

 

「うちはバイトとか職探しで家空けてること多いし、徹は平日学校やからなぁ」

 

「ああ、それなら話はついてる……っていうか言い忘れてた」

 

「なんや、まだ言うてへんことあったんか」

 

フェイトたちのこれからの身の振り方と姉ちゃんのお仕事の件、その両方ともが既に決まっているようなものなのだ。

 

「姉ちゃん、もう仕事探さなくていいよ。実は」

 

「いやや!いくら徹の稼ぎがよくたってうちは養われるつもりはあらへん!徹はちゃんと学校行って、友だち作って楽しい思い出を……」

 

「違う違う、話を全部聞けっての。知り合いの社長さんの会社が人手不足らしいから雇ってもらえないか聞いたんだ。そしたら面接とか試験次第で雇いたいって言ってくれたんだよ。姉ちゃん、そのあたりは得意だろ」

 

「知り合いの社長ってのがもう響きが強烈やわ……。どこで知り合ったどなたよ」

 

「アリサのお父さん。いろいろ込み入った事情から人が減っちゃったから人員募集してんの」

 

「……なんかコネ入社みたいや」

 

「各国に支社がある一流企業だから、普通にやれば書類選考でフィルターに弾かれるでしょ。だから半分その通り。まあ試験はするんだからいいんじゃない?」

 

「ほんじゃ、アリサちゃんパパの会社の試験受けて合格して実際に働き始めるまでは、家におれるっちゅうことか」

 

「う、うんまあ……その通り、かな?」

 

どんな試験かもわからないのにすでに合格を確信している姉だった。

 

そんな過剰とも言える自信を裏付けする能力が姉ちゃんにはあるから困ったものだ。試験もそうだが、人と対する面接のほうが姉ちゃんは得意だろう。もはや洗脳と呼んだほうが適切なくらいの人心掌握の術を心得ている。好印象を相手に植えつける方法も、悪感情を抱かせない方法もどちらも知っていて、なおかつそれらを意識せずに行うのだから、コミュニケーション能力に乏しい俺からしたら羨ましくも妬ましい。

 

まあ、好印象を相手に与え過ぎて行き過ぎた好意を向けられることを鑑みると、羨ましいことばかりではないようだが。

 

「せやけど、しばらくは家おれるやろうけど、いずれ働き始めるわけやからなぁ……フェイトちゃんとアリシアちゃんが心配や」

 

「それも大丈夫。フェイトとは話したことあったけど、学校行きたいみたいだしな」

 

抱き枕みたいに姉ちゃんに抱えられているアリシアと、俺と姉ちゃんの間に座ることをほぼ強制されたフェイトを見る。前に話した時にはフェイトは好感触だったけど、アリシアはどうなのだろう。

 

「学校って?」

 

アリシアは見上げるようにして姉ちゃんに尋ねる。にへらぁ、とばかみたいに緩んだ表情で姉ちゃんは答えた。

 

「えへへぇ、学校っていうんはみんなと勉強したり、運動したり、遊んだりするとこやで」

 

「たのしいの?」

 

「楽しいで!最初はつまらんなーとか思ったりするかもしれへんけど、絶対楽しなる!大きなった時、絶対いい思い出になる!」

 

あくまで個人の見解です。

 

「パパもいるの?」

 

「やー……アリシアちゃんが行くとしたら小学校やから、徹の高校には入られへんなぁ。でも小学校やったらがんばって無理言うてねじ込んだら、なのはちゃんたちのクラスに二人とも編入できるんちゃうかな?」

 

頑張ったり無理言ったら編入するクラスを選べるのだろうか。姉ちゃんの異常に広い人脈の中には学校の関係者もいるだろうから、その人たちに何かと理由をこじつけてお願いして、通してしまいそうな気がしないでもない。

 

「なのは……あの子か。わたし、パパとおなじところがいいなー」

 

「さすがにアリシアが俺の隣の席に座って授業受けてる風景は想像できねえわ」

 

「聞こう思とってんけど、アリシアちゃんはなんで徹のことパパって、呼んでるん?」

 

姉ちゃんが話を脇道に逸れさせた。

 

だが正直なところ、俺も気になっていた点ではある。なかなか踏み込みづらい領域なだけに、深く聞くことができなかったのだ。

 

アリシアは姉ちゃんからの質問に、きょとんとした顔を浮かべ、とくに何も気にしていないという風に平然と答えた。

 

「ママが、パパは大変な時に助けてくれるって言ってた。パパはわたしやママやフェイトが大変な時にがんばって、一生懸命助けてくれたから、だからパパ」

 

「……んむ?」

 

なかなかに特殊で難解な論理だ。『パパ』という単語が男親を指しているのか、それとも助けてくれる人という大きなくくりの概念を指しているのか、よくわからない。

 

ただ、アリシアの口振りから家庭内にママはいても本当のパパがいなかったことを、姉ちゃんは悟ったらしい。必要以上に追及すると思いもよらぬ地雷を踏みかねないと判断したようだ。

 

疑問符は浮かべつつ、まいっか、と話を区切って踏み込むのを諦めた。

 

「そういえば学校の話やったな、ごめんごめん。ほんで、アリシアちゃんはどないする?徹と同じとこは行かれへんけど、フェイトちゃんと同じとこには行けるで?」

 

「フェイトと一緒に……。ねえパパ」

 

「ん?どうした?」

 

「パパは、どう思う?行ったほうがいいって思う?」

 

行ったほうがいいか。その問いに、俺は一瞬間を置いた。

 

アリシアは(フェイトもそうだが)プレシアさんの娘で、将来的には魔導師かそれに類する職業に就くことになるだろう。つまりは管理局絡みだ。

 

将来だけを見据えれば、こっちの世界で普通の学校に行くことに、なんら得があるとは思えない。

 

学校に拘束される時間をすべて魔法の勉強やら訓練につぎ込んだほうがいいに決まっている。だから『行ったほうがいい』か『行かないほうがいい』のどちらかなら『行かないほうがいい』のだろう。

 

それでも、それでも俺は

 

「……行ってほしい(・・・・・・)って、俺は思う」

 

立派な魔導師になるための効率だけを見れば、学校なんか行く必要ない。

 

でも、人生はそれだけじゃないことを俺自身が知ってしまったから。友人たちと一緒の時間を過ごして、遊んで、ばかをする楽しさを知ってしまったから。

 

だから、そんな時間をアリシアにも過ごしてほしいと思うし、そんな友人を見つけてほしいと願う。

 

幸せになってほしいと、そう望むのだ。

 

「きっとアリシアにとって、アリシアのこれからの人生にとって、そのほうがきっと実りあるものになるはずだから」

 

「そっか。ほんとはパパとおなじとこがいいけど、フェイトも一緒ならそれでもいっかな。学校」

 

「そうか、よかった」

 

アリシアの外見はフェイトやなのはよりも幼いし、身長も小学校一年生から贔屓目に見て二年生といったところだが、そのあたりは方々手を回せばどうとでも調整できるだろう。結局は住民票発行の手続きのために必要な資料の請求を管理局と繋がりがあるという組織にしないといけないのだ。その時にアリシアの年齢をフェイトと合わせておけばいい。

 

双子じゃないほうが違和感があるくらいそっくりなのだ。年齢が違うほうが疑念を持たれる。

 

「それじゃ、アリシアはフェイトと一緒に学校に……」

 

「私、行かない……」

 

「って、えっ?!な、なんで、どうしてだ?前は、なのはと同じ小学校行きたいって……」

 

俺の視線から逃げるように、フェイトは顔を背けた。

 

わからない。なぜここにきて意見を翻すのか。

 

実は学校なんて行きたくなかったけど俺がしつこく言ったから嫌々行くと言っていたのだろうか。どこかで俺がフェイトの意思を(ないがし)ろにして、強制させてしまっていたのだろうか。

 

あの日の会話の記憶を引っ張り出しては頭の中でぐるぐると回っている。わけがわからない。

 

どう声をかけていいか分からずあたふたしている中、フェイトの細い肩に手が伸びた。

 

「そない気にせんでええんやで?甘えてもええんや。フェイトちゃんもアリシアちゃんも、まだ子どもやねんから」

 

安心させるように、それこそまるで本当の姉のように、フェイトの顔を胸に抱き寄せて頭を撫でていた。

 

「ちょ、え、どういうこと?」

 

俺はというと話の流れがさっぱり読めていなかった。

 

「わからんの?はぁ……徹はなぁ、頭はええけど、人の心がわからんからなぁ」

 

「人を冷酷な男みたいに言わないでくれる?これでも一応コールドリーディングの心得は……」

 

「そうやって小難しい知識や技術で補完しようとするからわからんねん。あんなもん、統計のデータでしかないやん。せやから行動パターンは読めても、その裏にある感情が読まれへんねん」

 

「うぐっ……」

 

「フェイトちゃんは子どもやけど、めっちゃ賢いからなぁ。賢うて、優しすぎんねん。迷惑かけてまうって思ったんや」

 

「んえ?迷惑?」

 

驚きのあまり変な声が出た。

 

「学校行くんもお金がかかる。それがうちらに負担かけることになるんちゃうかって思うたんや」

 

「ふむ……ん……はぁっ?!」

 

「ひぅ……」

 

びくっと肩を跳ねあげて、フェイトは姉ちゃんに隠れるようにさらにくっついた。

 

大声を出した俺にも責任はあろうが、それにしたってフェイトもフェイトだ。

 

「おっきい声出さんといてや。フェイトちゃんが怯えてもうてるやん」

 

「いや、だってそれは、うん……俺が悪いけど……でもフェイトも悪いだろ!」

 

「パパうるさーい」

 

「うるさくない!……フェイト」

 

「っ……だ、だって、エイミィが……」

 

「えいみー、さん?どなた?」

 

「リンディさんの部下。フェイトやアリシアをよく気にかけてくれてた子。エイミィがなんだって?」

 

「エイミィが……学校は、いろいろお金がかかるんだよね、って……」

 

「エイミィ……あのやろう」

 

「ひっ……」

 

「徹!その顔やめっ!フェイトちゃん怖がらせとる!」

 

「パパはただでさえお顔怖いんだから、低い声出したらなおさらだよ?」

 

「怖がらせるつもりなんてない。あとアリシアおい」

 

「きゃー、パパこわーい」

 

「くぉら徹!うちの妹たちをいじめんな!」

 

「いじめてない!アリシアについてはあとからお仕置きだ!」

 

「やー、オシオキだなんてパパやらしー」

 

「やらしさは微塵もねえだろうが……。で?フェイト、調べたりしたのか?」

 

「嘱託魔導師の試験勉強の合間に……ミッドチルダの学校だったけど。制服とか、教科書とか、学費とか、いっぱいお金かかるって……」

 

怖々(こわごわ)と、フェイトは姉ちゃんに抱かれながら俺の顔色を窺う。

 

その様子にも、余計な心配をすることにも歯痒い思いはあるが、ぐっと堪えて深呼吸とともに飲み込む。

 

優しすぎて、考えすぎて、自分の気持ちすら抑え込んで押し殺してしまうのがフェイトの性格だってことは知っていたはずなのに、そのフェイトの苦悩に気づけなかった自分に腹が立つ。

 

「っ……ふう。気にしなくていいんだよ、フェイト。俺もちょくちょく嘱託で仕事もらってるんだし、蓄えはある」

 

「だめ、だよ……住むところまでお世話になってるのに、その上学校なんて……。私、お金持ってないし……」

 

「っ……はあ。平常心……平常心……。フェイト、こっちこい」

 

「っ……や、やだ……」

 

「…………」

 

フェイトに拒否られた。どうしよう、尋常じゃないくらい心が痛い。

 

でも、怯えたような表情と仕草のフェイトは胸が苦しくなるくらい可愛くて、更にどうしようもない。

 

「大丈夫やで、フェイトちゃん。徹が怒ったら、うちが徹を怒ったる」

 

「なんだよその三竦み」

 

「つまりその三すくみの中央にわたしがいるんだね!」

 

「それだとアリシアはほとんど無関係になるんだけどいいのか?」

 

「それはやだっ!」

 

「ほれ、フェイトこい」

 

「無関係やだ!パパ!無関係やだ!」

 

「嘘だから、超関係者だからちょっとアリシア静かにしてて」

 

「っ……」

 

姉ちゃんに背中を押されるような形で、フェイトはおずおずと俺に近寄る。

 

目線は一切合わない。フェイトが俯きっぱなしなせいだ。

 

いつもより低い位置になってしまっている金色の頭を乱暴に掴み、かいぐり撫でる。

 

「子どもが余計な気を使ってんじゃねえよ。甘えときゃいいの。もう家族なんだから」

 

「かぞ、く……?」

 

「一緒に暮らすんだから、家族だ。そんでそん中でもフェイトは一番下の妹なんだから、甘える権利があんだよ」

 

「もはや義務やな」

 

「ねえパパー、わたしもー!わたしもなでて!」

 

「……アリシアは権利を振りかざしすぎだけど、まあそういうことだ。細かいことなんざ気にしないで、厚意を受けてりゃいいの」

 

ところどころあほ毛が跳ねた頭のフェイトが、ようやく顔を上げた。口を開いた。

 

「……やだ」

 

「頑固だな!ここは折れるとこだろ!」

 

「あっはっは、徹が人のこと頑固とか傑作やな」

 

「あははっ!自虐ネタっていうんだよね!おもしろーい!」

 

「自虐でもねえしネタでもねえわ。……あ、そうだ」

 

「なん?また悪だくみ?」

 

「悪だくみじゃねえよ。ってかまた(・・)ってなんだ!……なあフェイト、フェイトもいずれは管理局で働くんだろ?」

 

「う、うん……そうだけど」

 

「はぁっ?!」

 

「ひぅっ」

 

今度は姉ちゃんの番だった。

 

いきなり声を荒げた姉ちゃんに驚いたフェイトは、するりと俺の背に隠れた。

 

「怒鳴るなよ。フェイトが怖がってんだろうが。アリシアも目を回してるし」

 

「きゅぅ」

 

「あぁっ、ごめんなアリシアちゃん!せやけど!」

 

「声大きいぞ」

 

(せやけど!)

 

「どうやって発声してんの?!」

 

「せやけど、危ない仕事なんやろ?フェイトちゃんに傷がっ……珠のようなお肌に傷がついたらどないすんねん!」

 

「俺に言うなよ。管理局で働くことが罰の減免や情状酌量の条件みたいなとこあるから、こればっかりは仕方ねえの」

 

「なんっやそれ!労働基準法とか児童福祉法とかどうなっとん!」

 

「……ないんじゃない?」

 

俺と同年代のエイミィや、年下のクロノがアースラでばりばり働いている光景を思い出すと、もはや苦笑いしか出ない。

 

「そっちの法整備はひとまず置いといて……。働き始めたら給料ももらえる。だから後払いにすればいいだろ。それまではこっちが肩代わりしておくって形だ。給料が入ったら返してくれればいい」

 

これなら誰に負担がかかることもない。五分と五分の関係だ、と説明する。

 

「それじゃあ……」

 

「うん?」

 

不安と期待が入り乱れる瞳で、フェイトが俺を見上げた。

 

「それじゃあ、私も学校……行っていいの、かな?」

 

庇護欲をくすぐる表情と仕草に、思わず、抱きしめた。

 

「最初から言ってるだろ。行っていいんだって。やりたいことやりゃいいんだよ」

 

「わっ……」

 

「フェイトは、もう少し素直に甘えてもいいんだ。これまでがんばってきたんだから、そのぶん甘えたってばちは当たらねえよ」

 

「徹……っ、うん……ありがと」

 

「パパ!わたしも!わたしも甘える!」

 

「アリシアはもう充分甘え上手だから大丈夫」

 

「なんでー!えこひいき!ずるい!」

 

「ずるくない。アリシアは基本的にくっついてるし……って言ってるそばから飛びついてるし!」

 

「ちょお徹!二人とも取るんはずるいやろ!独占禁止!」

 

「さっきまで姉ちゃんが二人とも抱え……ちょ、やめ」

 

姉ちゃんが飛びかかって、結局全員床を転げた。

 

 




次は話の展開上シリアスになります。


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『罰を与えないことが罰』

さて、今まで目を背けてきていたけれど、そろそろ向きわないといけない頃合だろう。

 

フェイトとアリシアを姉ちゃんに任せ、俺は静かに席を立つ。

 

靴を履いて、なるべく音を立てないように玄関の扉を開く。べつにこれから出掛けるというわけではない。

 

家の敷地内、玄関と中庭の間あたりの人目につきにくい物影に、いた。

 

「あー……えっと、アルフ……久しぶりだな」

 

「…………」

 

俺の家にきていたのは、フェイトとアリシアだけじゃない。フェイトの使い魔であり、フェイトの家族に等しい存在であるアルフも一緒にきていた。

 

ただ、アルフはいつもの人の姿ではない。

 

以前に見たこともある、大きな狼の姿だ。フェイトとアリシアがリンディさんに連れられて俺の家にやってきた時に、その美しい橙色の(たてがみ)が視界の端で揺れていた。

 

それが今、外からは見えにくい家の陰で縮こまるように座り込んでいた。

 

「姉ちゃんに紹介したいからさ、家ん中入んない?」

 

「…………」

 

言葉は通じているはずだ。狼のままでも喋ることはできるはずだ。なのに、アルフは返事をしてくれない。

 

「俺とは喋りたくもないし、顔も見たくない……そういうことなのか?」

 

アルフの耳が、ぴくっと反応した。

 

こちらに顔を一瞬だけ見せて、再び目を背けた。

 

「…………」

 

意地の悪い聞き方だ。

 

そんなわけない。それは俺もよくわかっている。

 

最後に話したあの時に、伝えられた。俺のことを大事に思ってくれているからこそ、アルフは俺の顔を見ることすら耐えられないほど辛く、苦しんでいる。俺の近くにいるだけで呵責(かしゃく)()えられないほどに。

 

「……喋らなくていい。相槌もいらない。俺の顔も見なくていいし、俺に顔を見せなくてもいい。ただ、聞いてくれればそれでいい」

 

俯き黙るアルフに、俺は一方的に語り始めた。

 

内容としては、ほとんど近況報告だ。

 

管理局で嘱託魔導師として働き始めたことや仕事ぶりが一定の評価もされていること、新しい技術や知識も取り込んでいること。

 

まるで釈明するみたいに、必死に話しかけ続けた。困ったことなんてないと言い訳するように、左目や適性を失ったことなんて俺の人生になんら影響していないと証明するように。

 

「すごいね、徹は……」

 

あらかた話しきってしまって、もうテストで失敗した時の笑い話でもしようかと考えていた時、ぽつりとアルフが呟いた。

 

「徹はもう、()を見据えて歩き始めてるんだね」

 

「……次?」

 

「あたしとは大違いだ。同じところで立ち止まってうだうだやってるあたしとは……」

 

アルフが光に包まれる。

 

目を眩ませる光が収束した頃には狼の姿はなくなり、一人の女の子に変わっていた。

 

家の外壁に背を預けて、三角座りして膝の間に頭を挟むように小さく縮こまっていた。

 

見ていて胸が締め付けられるような、痛ましい姿だった。

 

「そういう、つもりで……言ったんじゃない。それにアルフはアースラにずっといたんだ。自由に動けなかったんだから、できることなんて限られてただろ?」

 

「ちがう、ちがうよ。できることを探そうともしなかった。なにもしなかったんだ……。できなかったんじゃ、ない……」

 

「い、いや……これまでやってこなかったからって、これからもそうである理由はないだろ?これからやれることを探していこうぜ。俺も一緒に……」

 

励まそうと、元気付けようと、震える肩に手を乗せようとした。

 

その、触れる寸前だった。

 

「っ!」

 

ぱちん、と。軽く弾く音。

 

「っ、アルフ……」

 

「あっ……」

 

叩かれた。拒絶するように、アルフは俺の手を振り払った。

 

「と、徹……ごめ、ごめんなさい……あたし……っ」

 

ほとんど痛みなんてない。腕を振るっただけで俺に危害を加えようとしたわけではない。

 

ただ、本人もほとんど意識していなかった行動だったようだ。叩かれた俺よりも、叩いたアルフのほうがひどく動揺していた。自分でも信じられないと顔を歪めて、今にも泣き出してしまいそうだった。

 

「痛くない、大丈夫。驚かせちゃったんだよな、ごめんな」

 

「あたし……もう、自分がいやになる……。徹を傷つけて、ひどいこと言って、近くにいられないみたいなことまで言ったくせに……こうしてまた徹を頼ってる……」

 

「……こればっかりは仕方ないことだろ?べつに悪いことでもないんだ。助け合っていけばいいんだよ。気に病むことじゃないって」

 

「なにも返さずに、お世話になるなんて恥知らずもいいところだ……。情けない……あたしは、こんなにも弱かったんだ……」

 

彼女らしからぬか細い声で、絞り出すようにそう言った。

 

「アルフ……っ」

 

歯痒い。もどかしい。

 

アルフは決して情けなくも弱くもない。

 

アルフが弱気になっているのは、大元の原因は俺の後遺症で、つまりは俺個人の不手際でしかない。それをアルフは自分に責任があると思い込んでいる。

 

その後悔も、罪悪感も、アルフの、優しさ故の思い違いだ。

 

だが、それを伝えたくても俺ではうまく伝えられない。心の内でぐずぐずと(よど)んで渦巻くこの感情をうまく言葉にできる自信がない。どこかで意味が捻じ曲がってしまう。

 

それでもなにか言わないと。そう思って口を開いたが、俺が言う前に違う方向から声がした。

 

「徹、こんなとこおったんか。フェイトちゃん、アリシアちゃん、徹おったでー!なにしと……ん?そっちの子は」

 

姉ちゃんが長時間姿を消していた俺を探しにきたようだ。

 

場にそぐわない明るく大きな声を響かせる。

 

「あ、えっと、こいつは……」

 

「って、おいこら徹。女の子泣かしてんちゃうぞ」

 

「言葉が荒っぽいなあ!ちょっとでいいから説明する時間をくれって」

 

ドスを利かせた声で詰め寄る姉ちゃんの背後から、ぱたぱたと軽快な足音が近づいてくる。フェイトとアリシアもやってきた。

 

「アルフ……こんなところに」

 

「あれ、フェイトちゃんお知り合い?」

 

「うん……。私の使い魔で、家族」

 

「ほー!せやったんか!ほんじゃリンディさんと一緒にきとったん?」

 

「うん……でもアルフはなんだか様子が変で、合わせる顔がないとかって……。だから落ち着くまで一人にさせようと思ってたんだけど」

 

フェイトはアルフと姉ちゃんを交互に見ながら心配そうに言う。

 

それを聞いて、浮かれていた姉ちゃんの表情が変わった。何かに気づいて頭を働かせ始めた時の顔を一瞬覗かせた。

 

その一瞬だけで、大方状況を把握したようだ。

 

雰囲気が変わったのも束の間、姉ちゃんはにへら、と頬を緩めてアルフに近づく。

 

「アルフちゃん、やんな?歳はいくつくらいやろ?徹と同じくらいやろか?うちは徹の姉で真守て言います。よろしくなぁ、アルフちゃん!」

 

「徹の、お姉さん……っ。あ、あの、あたし……っ」

 

「ええからええから!とりあえず家ん中でお喋りしよや!日ぃ暮れ始めてからちょっと冷えてきとるからなぁ。アルフちゃんの格好やったら寒そうや。肩もお腹も足も出とるやん。ほれ、家ん中入ろ!」

 

「で、でも、あたし、そんな資格……」

 

「家入んのに資格も三角もあるかいな!ほら、はよはよ!」

 

姉ちゃんは座り込んでいたアルフの腕を掴んで強引に立ち上がらせると、玄関まで手を引っ張っていく。この思い切りの良さと押しの強さが、たまに無性に羨ましくなる。

 

俺が時間をかけてもできなかったことを、アルフと初対面の姉ちゃんが出会って一分も経たずにできたことにそこはかとない無力感をひしひしと感じるが、今だけは姉ちゃんに感謝だ。

 

コミュニケーション能力の化け物の後を追って、俺も家に入る。靴を脱いで上がり(かまち)を飛び越えた。

 

そんなところで、何者かに胸倉を掴まれた。何者か、と言っても、相手など一人しかいないけれど。

 

「苦しいって。……なんだよ姉ちゃん」

 

「ちょお、こっちこい」

 

「ちょ、なに……アルフとかフェイトは?」

 

「先にリビング行かせた。フェイトちゃんが案内しとる」

 

端的にそう告げると、姉ちゃんは俺を引きずるようにして洗面所兼脱衣所に入る。俺を壁に押し付けると、鋭い眼光で睨みつけた。

 

「あの子は……知ってんの?」

 

「知ってるって?」

 

「アルフちゃんは知ってるんやろ、徹の怪我(・・)のこと」

 

「な、なんで……」

 

「は?そんなもん見たらわかるやろ。徹の姉や言うた途端に萎縮するわ、家入んのさえ敷居高そうにするわ、なにより……なるべく徹の左側(・・)に行かんようにしとる。本人の中で意識しとんのか、それとも無意識かはわからんけどな」

 

「そう、か……」

 

「ほんで?そんな子相手に徹はなにしとん」

 

より一層、鋭利に容赦なく姉ちゃんは切り込んでくる。身を乗り出すように追及する。

 

「話しいや。なるべく詳しく、あの子となにがあったんか」

 

「……俺の後遺症を、自分のせいだと思ってんだよ。アルフは」

 

「……ようわからへん。怪我したんは徹の自己責任なんちゃうの?」

 

「その前にちょっとトラブルがあったんだ。でもアルフのせいじゃない。……ちょっと長くなるけど……」

 

姉ちゃんにはすでに魔法がらみの一件は白状したが、もちろん時間の都合上すべて事細かに状況の説明までできたわけではない。なので、ここで追って補足した。

 

アリシアがカプセルの中でコールドスリープに近い状態で長期間眠っていたこと、そのカプセルを時の庭園というフェイトたちの実家から運び出そうとした時に巨大な岩が落ちてきたこと、その岩をアルフが砕いて散乱した破片がアリシアのカプセルにぶつかってアリシアが投げ出されたこと、アリシアを助けるためにはその場で治療しないといけなくて俺が少々無茶をしてしまったこと、そのせいでアルフが罪悪感を抱いているのだろうこと。

 

なるべく詳細に、かつ手短に説明した。話している間、ずっと姉ちゃんの形相が恐ろしいことになっていたので怒っているのはよくわかっていた。

 

再び胸ぐらを掴んで、姉ちゃんは俺を壁に押し付けた。

 

「なんであの子に話したんや」

 

「俺は……隠すつもりだったんだ。でも、リンディさんと話しているところをアルフが聞いてたんだ。なにもかも……手遅れだった」

 

「隠し通されへんねやったら、なんであの子から離れへんかった」

 

「っ……」

 

一番痛いところを、的確に抉り込んでくる。

 

こういう時、姉ちゃんは優しくない。はっきりと断じてくれる。

 

だからこそ、救われる部分もあるけれど。

 

「隠されへんねやったら突き放すべきやった。さっきの一連の話とアルフちゃんの性格考えたら、傷つくに決まっとるやろ。自分を責めるに決まっとる。ただでさえ徹に借りがあるって思てんのに」

 

「突き放そうと……したんだ」

 

「ほぉ?『突き放そうとした』?見とった限りできてへんかったな」

 

姉ちゃんが俺とアルフを目にした時間なんて些細なものだろう。それでも、その些細な時間の、些細なやり取りを見ただけで姉ちゃんからすれば充分なほどの情報になるはずだ。

 

洞察力と人の機微を感じ取る能力に関しては、本当に驚嘆に値するものがある。

 

だから、俺の一言で、声のトーンで、答えにまで辿り着く。

 

「突き放そうとして、できひんかったんやろ。どうせ徹のことや、嫌われようとして、最後まで演じきられへんかったんやろ」

 

「っ……」

 

「徹は嘘つくん下手やからな。せやけど、それとは別に、あの子と離れたくなかったんや。せやから、突き放されへんかった」

 

姉ちゃんは推察で、本人の俺でさえ自覚していない感情にまで到達する。その様は、俺よりも断然魔法使いに見えた。

 

「それは、徹の甘さや。嫌われ役を背負いきられへんかった、心の弱さや」

 

自分に足りていない部分をまざまざと見せつけられる。覚悟のなさを突きつけられる。

 

思わず、手に力が入る。

 

知ったようなことを、と憤りを覚えるけれど、誰よりも状況を理解できているのだからどうしようもない。

 

姉ちゃんが同じ立場なら正しい選択を取れるのか、と反論したくなるが、自分を切り捨ててでも相手を守る優しさを姉ちゃんが持っていることは誰よりも俺がよく知っているから、なおさら言葉もない。

 

そもそも、感情が深く関係する本件において、俺が姉ちゃんを上回れるわけがなかった。

 

「俺にはわからない……。俺は、アルフのせいだなんて思ってないのに……」

 

「徹がどう思っとるかやないねん。あの子が、徹の身に降りかかった事実に対して、どう感じて、どう考えて、どう受け取ったかや。結果、あの子は徹の怪我を、自分の責任やと受け取った。あの子は、その身に余る罪を背負ったんや。徹が許すって言うてもあの子は背負ったもんを降ろされへん。罰されへん限り、背負った荷物はなくなりもせぇへんし、軽くもならんわ」

 

「なんでっ……。そんな罪なんて、初めからないのに……」

 

「罪のあるなしを語ることに意味なんかあらへん。個人の心の問題やねんから」

 

「そんなの、どうしろって……」

 

「せやから言うたやろ。徹の取れる手段は二つやった。隠し続けるか、突き放すか……隠し通されへんかった以上、もう突き放すしかないやろ。それがあの子にとっての罰になる。その罰を受け続けることで、あの子の罪悪感は少しずつ減ってく。時が過ぎるごとに少しずつ、ほんまに少しずつやけどな」

 

「お、俺は……離れたくなかった。離したくなかったんだ……。だから、管理局で結果を出して、認められて、アルフにそんな後悔しなくていいんだって、伝えたかったんだ……」

 

「甘いわ。なんもかんもな」

 

振り払うように、姉ちゃんは俺の服から手を離した。あまりに不甲斐ない俺に呆れたのか、背を向ける。

 

「見通しも、読みも、考えも、なんもかんも甘い。成果出すってのもそうやし、人の感情を簡単に変えられる思てんのもな」

 

吐き捨てるような言葉の数々に、俺は言い訳の一言もない。

 

確かにその通りだった。

 

管理局で結果を出すのもどれだけ時間がかかるかもわからない。どれだけ活躍すればいいかも曖昧で、しかも実力主義の世界で俺みたいな半端者が活躍できるかどうかもわからない。万が一それらを達成できたとしてアルフの気持ちを変えられるか確証はない。

 

わかっている。

 

すべて行き当たりばったりだ。考えなしだ。

 

そんなこと、わかっている。

 

だけど。

 

「だけど」

 

それでも俺は、思ったんだ。

 

「離れたくないって……そう思ったんだ」

 

反論ではない。姉ちゃんへの答えにすらなっていない。

 

そんな俺の取るに足らない意思表示に、姉ちゃんは小気味よく、乾いた吐息で笑い飛ばした。

 

「はっ。あっまいわー。あほみたいに甘ったるい。その上見苦しい」

 

姉ちゃんは斟酌(しんしゃく)なく、言い捨てた。

 

その仮借(かしゃく)のない苛烈なまでの厳しさが、今の俺にとってはいっそ小気味よい。

 

言葉もないほど、心に刺さる。

 

「……せやけどなぁ」

 

切れ味鋭い辛辣な言葉の数々に俺が黙り込むと、姉ちゃんはそう続けて言う。

 

これまでの冷たく怒ったものではなく、いつもの声色で。

 

「甘ったるいくらいの優しさと、見苦しいくらいの諦めの悪さのおかげで、フェイトちゃんとアリシアちゃんがここにおるんや」

 

長い茶色の髪を弾ませながら、榛色(はしばみいろ)の瞳を細めて振り返った。

 

「安心せぇ。徹の優しさ(甘さ)は間違うてへん。うちがアルフちゃんと直接話してみる。一緒にこの家に住むんや。どうせやったらみんな楽しくのほうがええもんな!」

 

陽気に、朗らかに。そして、なによりも頼もしく、姉ちゃんは明るく笑った。

 

 

 

 

 

 

「狭い部屋で散らかしとってごめんなぁ」

 

「う、ううん……べつに。あ、あの……」

 

「んー、自分の部屋なんか必要なもんを取りにくる時しか入らへんから、座るとこもあらへんなぁ。しゃあない、ベッドに座っとって」

 

遠慮しているのか、足の踏み場のない部屋に入るのに抵抗があるのか、それとも初対面である真守に引け目があるのか、アルフの足は重かった。

 

「そういえばちゃんと自己紹介できてへんかったなぁ。うちは徹の姉の逢坂真守です。徹とは五つ離れた二十一歳。ぜひ真守お姉ちゃんっ、って呼んでな!」

 

「真守、お姉さん……。徹の……」

 

家族。

 

そう唇だけで呟いたアルフはすぐ隣に腰を下ろした真守から一歩分ほど離れて、深々と頭を下げた。

 

「ほんとうに、ごめんなさい……。謝って済むことじゃないけど、とても償えることじゃないけど……でも今のあたしには謝ることしかできないから……っ」

 

自己紹介もそこそこに、アルフは平身低頭謝罪から入った。

 

真守は苦みばしった笑みを維持することで精一杯だった。

 

「とりあえず頭上げてや。お喋りもできひん」

 

「……うん」

 

立つ瀬がなさそうにゆっくりと頭をあげるアルフ。

 

真守はシュシュで纏めた髪を手慰みに撫でる。

 

「うちはそういう話がしとうてアルフちゃんを部屋に呼んだんちゃうねん。もっと、こう、有意義な?時間を過ごしたいなぁって」

 

「で、でも、あたしのせいで、徹が無理をしなくちゃいけなくなって……」

 

「徹からちらっと聞いたけど、うちはアルフちゃんの責任やとは思うてへんよ」

 

「それは、徹の立場から話を聞いたから……っ!」

 

「せやからこの話はとりま脇に置いとこや。どっちが正しいんかなんかすぐに判断できるもんやあらへんし。感情の問題やからなぁ、決着つかんしなぁ」

 

「で、でもっ……あたしのせいで……」

 

あくまでも、アルフは食い下がる。

 

その(かたく)なな姿勢に、真守は一つため息を吐いた。

 

息を呑んで口を閉じるアルフを真守はまっすぐと見据えた。

 

「フェイトちゃんやアリシアちゃん、リンディさんと一緒にきたのに、家の外におったんはそれが理由?」

 

「……うん。徹に合わせる顔がないのも、そうだけど……。徹の家族に、どう謝ればいいかわからなくて、怖かった……。適性だけでもひどいのに、左目まで奪ったあたしには、徹と徹の家族の家に上がる資格なんてない……」

 

「……そう。そんなふうに悩んどったんやな。ようわかった。ありがと、話してくれて」

 

真守は決心をつけるように大きく息を吸って、長く吐いた。

 

「アルフちゃんがちゃんと話してくれたからうちも話すわな。最初、徹から話を聞いたばっかりの頃は、本音言うたら納得できひんかった」

 

「……うん」

 

「なんで他人のことやのに首突っ込んでんのって思った。痛いし苦しい思いまでして、挙句なんで命まで危うくしてんのって。助けることはできたんかもしれへんけど、自分には後遺症が残ったって聞いて、あほかと思った。無関係の、縁もゆかりもない赤の他人のためになにしてんのって」

 

「うん……。そう、だね……」

 

「アルフちゃんは、徹から家の話聞いた?」

 

「えっと……く、詳しくは知らない、かな」

 

「そっか。せやったら話すけど、うちの両親はどっちも、赤の他人の子ども助けるために事故におうて亡くなりはった」

 

「っ……」

 

息を呑むアルフ。

 

真守は拳を握りこんで、強い感情を秘めた声で続ける。

 

萎縮するアルフに、あくまでもはっきりと、面と向かって。

 

「せやから、徹から話聞いとった時、徹は生きとるってわかっとっても胸がざわついた。うちは見知らん誰かのせいでまた家族を失うとこやったんかって、そう思っとった。こう言うたら感じ悪いやろうけどな」

 

ふるふる、と橙色(だいだいいろ)の髪が揺れる。

 

「たぶん……ふつうはそう思う、はずだよ。そう思って、当然なんだ……」

 

「せやけど、徹から話聞いてるうちにだんだんわかってきたんや。今日、こうやって直接()うて、顔見てお喋りして、ようわかった」

 

アルフが緊張感と罪悪感で泣き出しそうな時、声を幾分明るくした真守が言った。

 

「な、にが?」

 

アルフが、潤んで震える声を絞り出す。

 

真守は柔らかく、あたたかく、微笑んだ。

 

「徹にとって、アルフちゃんたちは無関係やなかったんや。縁もゆかりもあるし、赤の他人でもなかった」

 

「ぁ、っ……」

 

口を開いたけれど、アルフの唇が言葉を紡ぐことはなかった。震える喉からは、声が出なかった。

 

「いっぺん好きになってもうたらめっちゃ大切にしてまう。徹のええとこでもあんねんけど、悪いとこでもあるわなぁ。アルフちゃんたちは徹の『大切』に入っとったんや。せやから頑張りすぎてもうた。……今なら、すこしは気持ちもわかる。なにがなんでも、なにをしてでも守りたかったんやろうなぁ」

 

真守は、俯いて布団を固く握りしめるアルフの手に手を重ねる。

 

「せやから、うちはもう決めた。徹のしたことは認める……努力をする。アルフちゃんたちにも恨みなんか持たへんよ。なんやかんやあったけど、みんなこうして顔が見れて、声が聞けて、触れ合える。それだけでええんちゃうかなって、うちは思うとる」

 

真守の手が、閉じられたアルフの手をあたためる。だが、まだアルフの手は冷たく、固かった。

 

「でも、あたしは……」

 

「ま、うちはアルフちゃんの気持ちもわからんでもないけどなぁ。自分のせいでって考えたら(つら)なるんはわかる」

 

「…………」

 

「せやけど、ちょっとでええから不肖の弟のあほな考えも汲み取ったってくれへんかなぁ?」

 

「……徹の、考え?」

 

「徹はな、今の自分のままで管理局で結果残そうと躍起になってんねん。なんでかわかる?」

 

「えっと……立場の弱いフェイトやアリシア、プレシアの力になる、ため?」

 

「徹のことやからそれもあるやろうけど、ちゃうねんなぁ、これが」

 

「わからないよ……」

 

「はっは、笑えんで?管理局で自分の立場がえらくなったら、アルフちゃんの罪悪感を拭えるって思っとんねん」

 

「えっ……」

 

オレンジの髪が波打つほど勢いよく、アルフは真守の顔を仰ぎ見る。戸惑うような、期待するような、複雑な顔色を浮かべていた。

 

おそらく本人すら把握しきれていないアルフの表情から、真守は絡み合った難解な心情を読み解いていく。

 

「徹が偉くなっても関係ないやん?罪悪感っていう感情がすぐに消せるわけあらへんし、アルフちゃんと約束してるわけでもあらへんのに。……せやけど、徹はアルフちゃんに元気になってもらいとおて努力しとる。その頑張りだけは、汲んだってほしいなぁ」

 

「……でも、でもっ、あたしは……っ」

 

真守の重ねた手が、アルフを感じ取る。手の震え、体温、脈拍。かすかな心の変化を、気持ちを感じ取る。

 

確信を得た真守は、詰めにかかる。

 

「アルフちゃんは、徹のそばにおられへんって言うけど、ほんまにそうなんかな?」

 

「そ、そう……そうだよ。あたしには、徹の隣に立つ資格は……」

 

「そのわりには、リンディさんに連れられてフェイトちゃんと一緒にきとる。自分で気づいとらんかった?辻褄が合うてへんことに」

 

真守はあえて、触れにくい部分に踏み込んでいく。アルフの心に揺さぶりをかけていく。

 

「そ、それは……あたしは、フェイトの使い魔、だから……」

 

「使い魔、かぁ……。うちはその使い魔っちゅうんがどういうもんなんかはっきり知らんけど、フェイトちゃんの性格考えたらアルフちゃんについてくるよう無理強いせぇへんやろ」

 

「……わ、わがまま言ったらリンディ提督にも迷惑かかっちゃうし……」

 

「リンディさんと喋ったけど、優しゅうて親身になってくれる人やった。本気で徹の顔も見られへんねやったら、リンディさんに相談したらどうにか配慮してくれたはずやで」

 

「これまでもいっぱいお世話になったのにこれ以上なんて、だから……」

 

「それは、どっちなんやろなぁ。心の底からそう思ってんのか、心の底からそう思おうと(・・・・)してんのか」

 

「っ……あ、たしはっ……」

 

「うちは言うたやんな。罪悪感……罪の意識とかの強い感情が、そう簡単に消せるわけあらへんって。それと同じやってんやろ?」

 

「ち、がう……ちがっ」

 

「もうええんや、誤魔化さんでも。自分を傷つけて、自分を騙さんでも」

 

必死に否定するアルフを、真守は抱き締めた。アルフの頭を胸に抱き寄せて、優しく撫でる。言葉をかける。

 

「そうやんなぁ……。罪悪感が簡単に消されへんのと同じように、好きっていう感情も簡単には捨てられへんやんなぁ……」

 

離れたかった。だが、離れられなかった。離れたくなかった。相反する感情の(せめ)ぎ合いの中で、アルフは自分の心を守るために、意識的にしろ無意識的にしろ折り合いをつけた。自分が徹の近くにいてもいい、そうする他に仕方がないような理由を、作った。

 

「ぁ……うあぁ……っ」

 

固く握られていたアルフの手が、ほどけていく。ぽろぽろと涙が溢れる。アルフは真守の背中に手を回して、(すが)りつくように服を握った。

 

「好きってくらいに感情が強なかったら、顔も見られへんほど悩んだりせぇへんもんなぁ。つらかったなぁ、苦しかったやろう……これまでようがんばったな」

 

「ごめん、ごめんなさいっ……。あたしは結局……自分の気持ちしか、考えてなかったんだ……っ」

 

しゃくりあげながら懺悔するアルフを、真守は包み込むように抱きながら慰める。少しずつ心の奥底に溶けて染み渡るように、ゆっくりと。

 

「自分のことを大事にすんのは悪いことやない。それは正しいことや」

 

「でもっ、ぐす、あたしは徹に傷を負わせたのに、その罰も受けないで……ひっく、のうのうと徹のそばにいようとしてっ」

 

「自分を大事にできて、初めて人を大事にできるんや。アルフちゃんは自分を大事にした。それやったら、今度は人を大事にしたらええんや」

 

「そんなの……罰も償いもしてないよっ」

 

「罰を受けるのは自分が楽になりたいだけやろう?償いは誰のためにするんや?」

 

「っ……うっ、うぇっ……」

 

「アルフちゃんが罰を受けても、誰も得せえへん。徹も悲しむ。そんなん、ないほうがまし。そうやろ?」

 

「っ、ぐすっ……うん」

 

「せやったら、人のために動くほうが有意義や。アルフちゃんは、徹から大事にしてもらったんやろ?」

 

「うん……。あたしのせいで力を失ったのに、あたしを……ひっぐ、慰めてくれたんだ……」

 

「ほんじゃ、次はアルフちゃんが徹を大事にしないとあかんやんな?徹は管理局でめっちゃがんばって結果出して、アルフちゃんを元気にしようとしとる。あほな考えやけど、一生懸命や。そのがんばりを受け入れるのが、徹への償いになる。欲のない徹にアルフちゃんが唯一できる償いや」

 

「そんな……と、徹ばっかりがんばって、あたし、あたしは……」

 

あくまでもけじめを欲しがるアルフに、真守は下す。

 

噛み合うことのなかった徹とアルフの歯車が、いずれ噛み合う日が来るように、二人の未来に救いがあるように。

 

「罰を与えへんことがアルフちゃんへの罰や。しっかりと、噛み締めなさい」

 

 

 

 

 

 

翌日、暑くて目が覚めた。

 

「こうもくっつかれてりゃ、そら暑いわ……」

 

寝返りを打ったみたいで横向きに寝ていたのだが、背中にはフェイトがくっついていて、正面からはアリシアが俺の腕を掻い潜るようにしてもぐり込んでいた。

 

それもこれも昨日の夜、姉ちゃんがごねたのが原因だ。俺は自分の部屋で寝ようとしていたのに、アリシアが一緒に寝たいと言い出し、アリシアが作った流れにフェイトが控えめに乗っかり、徹ばっかりずるいと物言いをつけた姉ちゃんの意向で、以前アリサとすずかが泊まった時と同じようにリビングに布団を敷いて並んで寝たのだった。

 

「こいつ、よく姉ちゃんから逃れられたな……」

 

俺と姉ちゃんの間に並ぶ形でアリシアは寝ていたのだが、アリシアは前のすずかのように姉ちゃんの触手に囚われていなかった。

 

姉ちゃんを見ると、丸められたタオルケットを抱いていた。姉ちゃんの分はすでに身体に掛かっているので、おそらく姉ちゃんが抱いている分はアリシアのものだろう。もしやアリシアは、姉ちゃんに捕獲されないようタオルケットを身代わりにしたのだろうか。なかなかに策士だ。そのアリシアは、肌寒くなったのか俺にひっついているが。

 

「起きないといけないんだけどな……用事もあるし」

 

起きようにも起きられない。なんなら前後でくっつかれているので動くこともできない。よくこんな状況で眠れたものである。

 

「アリシアー、起きろー」

 

アリシアの頭をわしゃわしゃっとする。昨日の夜、姉ちゃんが手間をかけたのだろう。異様に艶のあるさらさらとした長い金髪を、寝返りで踏んでしまっていないか不安になる。

 

「……ん、んー……んに」

 

頭をかいぐり撫でていると、アリシアは一度うっすらと目を開いて、俺の顔を見てふにゃっと頬を緩めて、俺の胸元に顔を埋めるように再び眠りに落ちた。

 

「一瞬起きたろ、また寝ないでくれ」

 

「やー……まだ、ねる。パパと一緒にねる……」

 

「今日は出かけなきゃいけないって言ったろ?起きてくれ」

 

「うー……うー!」

 

(うな)らない」

 

しばらくくっついてもぞもぞしていたが、やがて諦めたのか布団の上でぺたんと座った。まだ微睡(まどろ)みの最中(さなか)なのか、右に左にうつらうつらしている。起きているのかどうか微妙なラインだが、寝転がった状態からは移ってくれたのでまあよし。

 

次だ。

 

「フェイト、フェイトー……」

 

「…………」

 

「……熟睡してる」

 

フェイトとアリシアで性格その他諸々に違いがあるのは知っていたが、寝方も姉妹で違うというのは興味深い。

 

アリシアがぐいぐいと懐にもぐり込むのに対し、フェイトは俺のTシャツをちょこんとつまんで、反対側の手は自分の胸元に置かれている。実に慎ましく、いじらしい。

 

もうちょっとフェイトの油断しきった寝顔を盗み見、もとい、拝んでいたいが、今日の用事というのはフェイト絡みなのだ。一番起きてもらわないといけない。

 

肩が外れそうになりながら手を後ろに回してシャツをつまんでいるフェイトの手を握って離し、反転してフェイトのほうへ向く。

 

起こさないといけないのだけれど、なぜか憚られる。

 

フェイトの顔にかかる一房の髪を払う。そうしてみて一つ知ったのだが、どうやらフェイトはアリシアより寝覚めがいいらしい。

 

「と、とお……る?」

 

「あ、おはようフェイト」

 

「あ、う、わ……っ」

 

起きてしまわれた。

 

寝顔を見られていたのが恥ずかしいらしいフェイトは赤くなった顔を隠すために、俺のみぞおちあたりに小さなお顔を押しつけた。そういえばフェイトは前にもこんな照れ隠しをしていた。羞恥に耐えられなくなった時の癖なのかもしれない。絶対こっちのほうが恥ずかしいだろうけれど。

 

「あー!フェイトなにしてるのー!まったく、フェイトってば甘えんぼだねー」

 

「アリシアがよく言えたもんだな……」

 

「わたしはもう起きてるもーん!ほらフェイト!れでぃなら身だしなみをちゃんとしないと!髪はねてる!」

 

「お前の頭は跳ねてるどころか爆発してるけどな」

 

まあ俺がくしゃくしゃっと撫でたせいだけれど。

 

「もう!パパリテラシーなさすぎ!」

 

「……へー、難しい言葉知ってるな」

 

読解応用力とかそのへんは今一切関係ないので、おそらくデリカシーと言おうとしたのだろう。難しいことを言おうとして、間違えながら更に難しいことを言うとは器用なやつめ。デリカシーよりもよっぽど聞き馴染みのない言葉だろうに。

 

「フェイト!起きて!」

 

「わっ、アリシアっ……」

 

「ほら、行くよー!」

 

寝転がったままのフェイトをアリシアが強引に手を引いて立たせるや、朝っぱらなのに元気いっぱいに洗面所まで走っていった。

 

「……朝飯、作るか」

 

白い肌と金色の髪を惜しげもなく晒して駆けていく二人の後ろ姿は、なんとも心ときめく光景だった。

 

俺もようやく立ち上がって、そして気づいた。

 

「……いい匂い」

 

味噌汁と、魚の焼ける香ばしい匂い。古式ゆかしい日本の朝の匂いだ。

 

「徹、起きた?もうすぐ朝ごはんできるよ。もうちょっと待ってて」

 

「お、おう……」

 

キッチンに、俺以外の人が立っている。それだけでも珍しいことだが、それが橙色(・・)の長い髪を携えた同い年くらいの女の子ともなれば、言語力を失うほどに驚く景色になる。

 

「朝ごはん、作ってくれてたのか。……アルフ」

 

「まあね。あたしにできることってこのくらいだし」

 

長い髪が邪魔にならないようにとの配慮だろう。ボリュームのあるふわふわとした髪は頭の後ろで一つにまとめて、いつも俺の使うエプロンの色違い(一応姉ちゃんのものとしてだいぶ前に購入したほぼ新品の淡い青色のエプロン)を着ている。

 

「冷蔵庫にある材料勝手に使わせてもらったんだけど、大丈夫?」

 

「あ、うん、ぜんぜん大丈夫。使わないと傷んじまうし」

 

「そっか。それならよかった」

 

窓から射し込む朝日が、気恥ずかしそうに微笑むアルフを照らしていた。

 

「……ああ、いいなぁ……」

 

口の中で、絶対外に出ないように小さく呟いた。

 

もう二度と、こんな風には喋られないと思っていた。もう絶対、こんな姿は見られないと思っていた。

 

それが今、実現している。すべてが氷解したわけではないけれど、こうして普通に過ごす姿を、それどころか食事を作ってくれている姿を眺めることができている。それだけで、救われたような気持ちだ。

 

朝一から緩みそうになる頬と涙腺をきつく締め直して、俺もキッチンへ向かう。手を洗って、隣に立つ。

 

「わり。手伝うわ」

 

「座って待っててくれてもいいんだよ?もうすぐできるし」

 

「いや手伝いたいんだ」

 

「そう。それじゃあ、他はできてるからサラダをお願い。あたしは洗い物片付けとくよ」

 

「了解」

 

かちゃかちゃと皿が擦れる音と野菜を切る音が続いた。テレビもなにもつけていないので実に静かだ。

 

おかげで、一階から聞こえるフェイトとアリシアのやり取りや、夢にまで美少女姉妹が遊びにきているのか姉ちゃんの不穏な寝言がキッチンにまで聞こえる。

 

「ふふっ。お姉さん、寝ていても幸せそうだね」

 

「フェイトやアリシア……アルフたちがきてからずっと表情筋が緩みっぱなしだからな。寝てても気持ち悪いとは」

 

「そんな言い方したらだめだよ。お姉さんのおかげで……こうして(・・・・)いられるわけなんだから」

 

「これでも感謝はしてるんだ……一応な」

 

「だろうね。徹が砕けたこと言う相手は親しい人に限られてるもんね」

 

「そういうこと言われると恥ずかしいからやめてくれ」

 

昨日の夜、姉ちゃんとアルフが姉ちゃんの自室で喋って戻ってきた後のこと。

 

気を利かせて姉ちゃんがフェイトとアリシアを風呂に連れていってくれたおかげで、俺とアルフは二人で話す機会を得た。そこで、もう一度しっかりと話をした。

 

俺もそうであるようにアルフにも譲れないところがあったけれど、妥協点を探して、考えがすれ違っているところはすり合わせて、お互いの気持ちを再確認した。着地点を見つけようと、努力した。

 

そうして話をしていく過程で、俺が管理局で成果をあげてアルフの罪悪感を晴らそうとしていたことを、姉ちゃんがアルフに喋ったことを知った。実に頭を抱えたくなる恥ずかしさだったが、そこまで知っているのならもういいやと割り切って、姉ちゃんに考えが甘いと叱られたことを伝えた。

 

するとアルフも、誰の為の罰で何の為の償いなのだと、姉ちゃんに厳しく指摘されたと聞かされた。自分が楽になる為の罰で、自分が救われる為の償いでしかないと、アルフはそう自覚したらしい。

 

「『罰を与えないことが罰』か……。ほんと、姉ちゃんらしいよな……」

 

優しいだけじゃなく、厳しさも併せ持つ姉ちゃんらしい落着点だと、痛感する。

 

アルフには、俺の近くにいることさえ辛くて苦しいのに、俺の手伝いをさせるように(さと)す。

 

俺にはアルフの罪悪感を拭えるくらいに管理局で結果を残すという、正解がどこにあるかわからない課題を下ろさせないようにする。

 

現時点では、お互いに救われない。でもいずれ、将来的に救われる可能性は存在している。

 

拒絶するだけの空疎(くうそ)な関係ではなく、ただ傷を舐め合うだけの(いびつ)な関係でもない。

 

まっとうな関係に戻るための環境を、姉ちゃんは整えてくれた。俺とアルフ、両者が努力しなければいけない余地を残した。努力で埋められる余地を、作ってくれた。

 

姉ちゃんが狙ってこんな中途半端な、さりとてこれ以上ないくらいの絶妙な距離感を演出したのだとしたら、俺は一生姉ちゃんには敵わない気がする。

 

まだ少しぎこちなさを残す会話をしながら、俺はサラダを人数分作り、アルフは洗い物をしまっていく。下から二人の足音も聞こえてきた。

 

「これで……一応はオッケー、だな」

 

「うん。あらかた片付いたよ」

 

俺はサラダをトレイに乗っけて、アルフは濡れた手を拭う。

 

どちらともなく顔を見て、目線があった。

 

「……あー」

 

「ん……」

 

お互いに言い争っていた時の記憶が鮮明なぶん、こうしてゆったりとした時間を一緒に過ごすのが面映(おもはゆ)い。

 

きまりが悪くて、俺もアルフも照れ隠しに笑った。

 

そして、俺は手を伸ばす。

 

「えっと、改めて言うのもなんだけど……これからよろしく、アルフ」

 

「っ……うんっ。よろしくね。徹」

 

以前振り払われた俺の手は、今度はしっかりと握られた。

 

こうして、一度終わった俺たちの新たな関係が始まった。

 



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俺たちは歩き始めた。

さすがに毎日投稿は厳しかったです。
休日に二話投稿できるよう努力するんでご容赦を……



 

姉ちゃんは今日、バイトが入っていたそうだ。俺は予定を聞かされていなかったし、自分で起きなかった姉ちゃんが全面的に悪いはずなのになぜか俺が怒られた。まあ朝ごはんを食べれば打って変わって上機嫌になる切り替えの速さが、姉ちゃんのいいところである。

 

さて、せっかくの休日なのにわざわざ早起きした理由だが、それは昨日フェイトが少し話題に上したように嘱託魔導師試験の為である。

 

管理局に所属することが罪の減免の条件に含まれているのだから本来は入局する試験を受けるべきなのだろうが、とりあえずは嘱託魔導師として働く運びとなっていた。クロノやリンディさんが、フェイトが自分のペースで働けるように手配したのだろうと勝手に踏んでいる。

 

ちなみに俺が試験を受けた会場とは違う場所である。おそらく各地で試験が行われているのだろう。俺が試験を受けてから一ヶ月程度しか経っていないし、クロノが無理矢理フェイトをここの試験にねじ込んだくさい。

 

「はぁ……ふぅ……」

 

「そんなに緊張すんなって。フェイトならふつうにやれば余裕で合格できるって」

 

「そ、そう、かな……」

 

「そうだよ、フェイト。なのはや徹みたいな相手が出てくるわけじゃないんだからさ」

 

「そうだよね、うん」

 

「でも最近身体動かしてなかったんでしょ?フェイト、身体なまってるんじゃない?」

 

「あ……たしかに、そうかも……」

 

「アリシア」

 

「パパなに?」

 

「ネガティブな発言禁止」

 

「はーい!」

 

「ほんとにわかってんのかこいつ……」

 

会場は違っても段取りはだいたい似通っている。午前のうちに学科と儀式魔法を終わらせた。

 

学科についてはアースラ拘留(滞在)中に主にエイミィから勉強を教わっていたらしく、こちらについても困りはしなかったようだ。基本的に頭のいい子なので大丈夫。

 

ちなみに使い魔がいる魔導師には使い魔との連携を採点する試験もあった。俺は使い魔がおらずやっていないので何をどうすれば合格なのかわからないが、フェイトとアルフならば問題などありはしないだろう。

 

午後からの戦闘試験は魔導師個人の力量を測るものなので、フェイト一人で(おもむ)くことになる。

 

そもそも、フェイトは地球にくる前からリニスさんに教えてもらっていたのだ。机に向かってのお勉強もそうだが、どちらかといえば杖を握っての戦闘訓練こそ重点的にやっていただろう。学科試験を難なく終わらせている時点で、恐れる課題なんてないのだ。

 

「俺でも嘱託試験は通ったんだぞ?フェイトなら楽勝だ」

 

「徹の強さは数字で表せないし……」

 

「パパはまともじゃないもんね!さすがパパ!」

 

「アリシア?『まともじゃない』って言葉は多くの場合いい意味で使われてないんだぞ?」

 

「あはは……言葉通りだからフォローもできないや」

 

「うっせ。……んで?フェイトはなにに緊張するんだ?なのはのスターライトブレイカーを真正面から受ける以上に怖いことがあるのか?」

 

「その言いかたはなのはに悪いよ……」

 

「んー……まあ、クロノにあんなふうに言われたら、フェイトが緊張する気持ちもわかるけど」

 

「え、なに?クロノに意地悪されたのか?きつく言っておくぞ。リンディさん経由でな」

 

「仕返しのやり方が小狡いよ。……アースラを降りる前にクロノが言ってたんだ。『任務の予定をすでに組んでいるから、資格を取れなかったら徹と一緒に行けないぞ』ってね」

 

「なんであいつは試験に臨む相手にわざわざプレッシャーをかけるんだ……」

 

プレッシャーをかける相手は選んでほしい。なのはあたりはかえってやる気が出るかもしれないが、フェイトは確実に自然体で送り出すべきタイプだろうに。

 

「試験の内容にもよるけど、フェイトくらいの魔導師なら小細工抜きの正面突破でもなんとかできる。自信持ってどーんと行け」

 

「う、うん……」

 

どうにもフェイトの表情は固い。多少気を張っていようとフェイトがこの程度の試験に落ちるわけはないが、自分のリズムを崩して思わぬ怪我をしてしまわないとも限らない。

 

どう応援すれば良いものか。これがなのはなら適当に褒めてやれば勝手に調子を上げてくれるのだが。

 

試験開始時間はもうまもなくだ。送り出す前に何か声をかけてやりたい。だが、気の利いたセリフなんて出てこない。

 

どうするべきか悩んでいると、くいくいとアリシアに服を引かれた。

 

「パパー、お手」

 

とんでもない発言をされた。

 

「なんだよいきなり」

 

とか言いつつも素直にアリシアに手を差し出しているあたり、俺は親友二人のノリにだいぶ汚染されている。

 

俺の手を掴んだアリシアは、そのままフェイトの頭に移動させた。

 

「なでなでー。これで安心できるでしょ、フェイト?」

 

「アリシア?」

 

「いつも通りやればいいの。フェイトがたくさんがんばってたとこ、わたしも見てたよ」

 

「アリシア……ありがとう」

 

アリシアに励まされ、フェイトは目をつぶってされるがままに撫でられていた。

 

やっぱりなんだかんだでアリシアはフェイトのお姉さんなんだな、と感動したところで、アリシアに質問である。

 

「……で、なんで俺の手?」

 

「パパの手はデトックス効果があるんだよ!」

 

「そんな便利な機能あったのか、自分の手なのに知らんかったわ。リラックス効果か?」

 

「そう言ったよ!」

 

「言ってねえよ」

 

「ふふっ、ありがとう、みんな」

 

顔面蒼白だったフェイトは、笑ったからか顔色が良くなっている。アリシアの言う通り、緊張感をデトックス(・・・・・)できたらしい。

 

「それじゃ、行ってくるね」

 

微笑むフェイトを、俺たちは送り出した。

 

 

 

 

 

 

「なんのつもりだあの野郎……」

 

俺の時とは違い、フェイトの実技試験は訓練場みたいな広場で試験官と一対一の戦闘という形式だった。

 

それだけならば、近距離から中距離を己が戦場としているフェイトに断然有利に働く。試験会場()良かった。問題は相手がおかしいことだった。

 

『……以上、説明を終える。他に質問などなければ速やかに試験を始める』

 

『な、なんで、クロノが……』

 

『僕が試験官を務めるというだけだ。他に質問がなければ開始する』

 

『は、はい……』

 

クロノ・ハラオウン。

 

アースラでは艦長のリンディさんの次に偉い立場で、かつ、なるのが極めて難しい執務官でもある彼が、なぜか嘱託魔導師試験の実技試験官なんぞをやっていた。

 

「うーん……これは……」

 

実技試験にはいくつか種類がある。

 

俺の時だと市街地での作戦行動を想定した試験だった。合格条件は、エリアのどこかに置かれているフラッグを取るか、エリア内を徘徊している試験官の無力化、そのどちらかだった。

 

索敵に自信があるのなら敵性対象を避けてフラッグを狙い、腕っ節に自信があるのなら試験官に殴り込む。自分の得意分野に応じて、どちらかの合格条件を目指せばいい。

 

俺の場合はそうだったが、フェイトの場合は選択の余地がない。

 

相手の顔が見える位置から試験スタート。障害物もない。純粋な正面戦闘。

 

通常ならば手っ取り早くかたがついてラッキーだとさえ思えるだろうが、今回の場合相手がえげつないくらい悪い。

 

「あ、クロノだ。パパ、クロノ!」

 

「そうだなー……俺の見間違いとかじゃないよなー……」

 

「……徹の見立てだと、フェイトは勝てると思う?」

 

「……難しいな。なのはとフェイトと俺で向かって、運が良ければ勝てるかな、くらいだろうな」

 

クロノの全力を未だに目にしていないのでなんとも言えないが。

 

「……パパ、フェイト勝てないの?ぜったい勝てないの?」

 

「絶対、なんてことはない。いつだってどこかには勝機はある。とっても難しいってだけでな」

 

フェイトなら、飛行魔法と射撃魔法で撹乱(かくらん)しつつ、拘束魔法を仕込んでおき、時間を稼いでフォトンランサー・ファランクスシフトで蜂の巣にする。という手が、勝利(・・)するのなら一番可能性が高いだろう。

 

三人でああだのこうだの考察している間に試験の準備ができたようだ。

 

カウントダウンが始まる。

 

クロノはいつもの制服で杖を構え、対するフェイトも黒と金の装飾が施されたデバイス、バルディッシュを握り、バリアジャケットを着装する。相変わらず光が強くて直視できない。

 

「バルディッシュいたのかよ。久しぶりだし挨拶したかったのに」

 

「バルディッシュならさっきクロノから手渡されてたよ?」

 

「やっぱり嘱託魔導師にでもならないと、デバイスも預けてくれないのかな」

 

「あー……そういう制約はありそうだな……」

 

「そんなことより!フェイトさフェイトさ、あのかっこはずかしくないのかな?前にお店で見てたパジャマよりあのかっこはずかしくない?布少ないよね!」

 

「ああ。あのマントは腰に巻いて、せめて足を隠すべきだよな。露出しすぎだ」

 

「パパはあれでもいいんじゃない?嬉しいんでしょ?」

 

「そうだな眼福……ってこらアリシア」

 

「きゃーっ!」

 

ごほん、とやけに大きな咳払い。

 

見ればクロノがこちらを睨んでいる。

 

フェイトはなにやらしょぼんとしていた。俺たちが楽しそうにお喋りしている場に自分がいないことが寂しいのだろう。ちょっと申し訳ないけれど、よかった、こっちの話は聞こえていなかったようだ。聞こえていたら試験どころの話ではない。

 

「徹、アリシア。静かに、応援しようね」

 

「……うい」

 

「はーい」

 

カウントがゼロになり、試験が始まる。

 

と、同時に両者が動く。

 

クロノは杖を横一閃、魔力弾を放つ。単純な直射型ではあるが瞬時に六発を展開、発射する手際はさすがの一言に尽きる。

 

それに対して、フェイトは。

 

「お、接近戦?」

 

飛行魔法を行使しての猛ダッシュ。クロノとの距離を半ばほど一気に潰したあたりでデバイスを鎌の形状にチェンジ。魔法刃を構築。直撃コースの弾丸を刃で切った。

 

「わー!フェイト器用!かっこいー!わたしの妹かっこいー!」

 

「そういやジュエルシードの九頭龍が吐いたどでかい水弾も叩っ切ってたっけ」

 

「なにそれ?!パパっ、フェイト竜退治してたの?!」

 

「また今度話してやるよ。いずれ、実際にな」

 

「もう……なんでわざわざ危ないことするのさ。障壁使いなよ……」

 

「まあまあアルフ。障壁使えば安全に対処できるだろうけど、足が止まっちまう。クロノが相手だからこそ、だ」

 

「むむ……」

 

アルフはフェイトの戦いを心配そうに見つめている。アルフからすれば、もう気が気ではないだろう。だが、勝とうとするなら(・・・・・・・・)少々リスクのある綱渡りくらい越えて行かねばいけない。

 

クロノに近づいてきたところで、フェイトがバルディッシュを振るう。しかし、まだ全然届かない距離だ。

 

「あ、あれもあったっけ」

 

振るった後、バルディッシュの先端から魔力の刃がなくなっていた。高速回転してクロノに迫る。

 

「障壁を貫けは……しないか」

 

クロノが張った障壁と、フェイトの投擲した魔力刃が接触する。離れた位置にいる俺たちの元まで衝突の音が聞こえた。

 

「あれ?あの輪っか、クロノの壁から飛んでかないよ?」

 

「弾かれずに障壁に噛みつくって特性があるらしい。ずっと残って障壁にダメージを与え続けるし、障壁を割れなくても相手に精神的なプレッシャーをかけられる」

 

「しかもうるさい!」

 

「たしかにがりがりうるさいな……」

 

「戦闘訓練の先生が先生だからね……フェイトが狙ってなくてもリニスはそれ込みで教えてそうだよ……」

 

「うーん……ありえる」

 

クロノの障壁を魔力刃ががりがり削っているそのすぐ上を、フェイトは絶妙なコントロールで浮き上がり、クロノを飛び越えて背中を取って再び鎌を振るう。

 

投擲したはずの魔力刃はすでに充填されていた。

 

「パパー、クロノって接近戦できないの?」

 

「いいや?殴り合いくらいまで近づきゃ杖が邪魔になるから俺のほうが有利だけど、杖を使っての近接戦闘もばかみたいにできるぞ」

 

「拳が届く距離で戦うって、さすがのクロノも徹以外では経験ないだろうからね」

 

「言うけどアルフも同じ土俵だからな?」

 

背面取りを敢行したフェイトの一閃。

 

だが、回転して抉り込んでいる魔力刃のせいで視界が狭まっていたにもかかわらず、クロノは即座に反転。自身の杖で防いだ。

 

「わー、ほんとだ。反応いいんだね」

 

「ん、まあ……そうだな」

 

フェイトはよく考えて戦えている。攻め方を工夫して、一手を次の一手に繋げて、ちゃんと布石も打てている。

 

順調そのものだが、なんだろう。どうにも違和感が拭いきれない。

 

「あっ!?」

 

アリシアが大声を上げた。何かと思えば、戦況が動いていた。

 

フェイトの鎌を防ぐために伸ばされたクロノの腕に、金色に輝く捕縛輪がかかっていた。

 

それだけじゃない。

 

「うまく隠したもんだな」

 

クロノの背後から数多くの槍状の魔力弾が飛んでくる。

 

「え、え!なんで?!どういうこと?!」

 

「フェイトがクロノに魔力刃を射出する前に、背中に隠すようにして発射体を配置してた。そこから魔力刃を放って、自分はフォトンランサーの発射体とは反対側に移動。魔力刃は障壁に食らいついて発射体を見つけにくくする。いや、うまかったな」

 

「もしかして徹、それぜんぶ見えてたの?ここから?」

 

「ん?客観的に見られるぶん、ここのほうが見つけやすいと思うぞ」

 

「……徹はほんと、出会った時から今までずっと、成長してるんだね」

 

「えへへっ!パパかっこいい!」

 

「自分のどこが褒められてるのかわからんから喜びにくい……」

 

さっきの一連の流れ。似たような手法を見た覚えがある。

 

堂々と、相手にばれないように一手を仕込む。人の盲点をするりと利用するその手口。時の庭園(どこか)で戦ったリニス(誰か)さんを彷彿とさせる。

 

これが並の相手なら、射出された回転魔力刃と発射体(フォトンスフィア)からの魔力弾連射で張られていた障壁を破壊、術者をノックダウンまで持っていけただろう。

 

まあ、並の相手ではないので試験終了とはならないのだが。

 

「あれくらいじゃ慌てもしないか……」

 

「おー!クロノ、ちっこいのにすごいね!」

 

「たしかにそうなんだけどアリシアが言うのはどうにもおかしい」

 

杖を捕縛輪がかかっている手に持ち替え、空いている手を障壁へと向ける。魔力を追加で注いで強度を上げた。

 

結果、魔力弾は障壁を貫けず、魔力刃もとうとう障壁の抵抗に負けて回転を落としてついに霧散した。

 

フェイトの攻撃の手が止まったかと思われたが、まだ、続いていた。

 

「なのはと戦った時よりも、もっと考えて組み立ててる」

 

音、衝撃、光。それらを発し続けていた魔力刃がなくなったことによる気の緩み。油断よりももっと小さな、一瞬の緩み。その一瞬をフェイトは狙っていた。

 

杖を握る右手、障壁に向けた左手、両足。金色の輪がクロノの動きを空間に縫い止める。

 

「輪っか!拘束魔法だ!フェイト隠してた!でもいつ?!いつ隠したの?」

 

「ずいぶん慎重だったな。クロノの頭上を飛び越えた時に足元に、鎌で切りつけた時に右手に、隠していたフォトンスフィアの連射と魔力刃で追い込んだ時に左手に。一つずつ丁寧に無理せず仕掛けた。でもなぁ……」

 

「どうしたの?」

 

「いや、あのクロノがな……」

 

クロノの動きを封じたフェイトはすぐさま距離を取った。魔力が膨れ上がる感覚。フェイトの足元に魔法陣が広がった。

 

横に並ぶように金色に光り輝く発射体(フォトンスフィア)が浮かび上がる。

 

「おっと、まずい……」

 

「こ、この試験会場、防護手段ってどうなってるんだろうね……」

 

「見た限りまともな装置がないんだけど……こっちに流れ弾飛んでこないだろうな……」

 

「パパ、守ってね」

 

「言われるまでもないし、言うまでもないだろ」

 

「えへへっ」

 

フェイトの大規模術式の構築が先か、クロノが拘束を破るのが先か、時間の勝負だった。

 

ばぎん、と耳障りな音が響く。

 

拘束魔法の一つが砕けた。四つの拘束全てを解除するのではなく、杖を持つ右手の捕縛輪を優先して術式を解析、破壊した。

 

自由を取り戻した右手で、クロノは杖を振るう。即座に呼応したのは水色の魔力球。待機状態からして特徴的なその魔法は、スティンガースナイプ。

 

術者の意思で自在に操作できる誘導制御型の射撃魔法だが、クロノが操るあの魔法の厄介さは別格だ。螺旋を描く不規則な軌道、貫通性能、威力、弾速も悪くないし加えて本人のタイミングで加速させることもできる。

 

自由に使わせたくはない類の魔法だ。

 

フェイトもそう考えたのだろう。

 

「フェイトー!やっちゃえー!」

 

「……足りない。少ないな」

 

なのはの時に見せたフォトンランサー・ファランクスシフトよりも、発射体の数が断然少ない。半分か、三分の一か。やはりあの術式のネックは、あまりにも長すぎる準備時間か。

 

クロノのスティンガースナイプが放たれるよりも一足早く、フォトンスフィアから槍状の魔力弾がもはや壁のように吐き出される。

 

ファランクスシフトの全力の五十%未満の完成度だとしても、四秒間でおおよそ三百から五百発近い弾丸が降り注ぐ。

 

なのはクラスの防御魔法適性でなければ防ぎきるなんて芸当できようはずもないが、フォトンランサーの波に呑まれる寸前に、見えた。

 

前面が湾曲した障壁。バリアタイプの防御魔法。その三重。

 

「『防ぐ』よりも『弾く』ことを念頭に置いた対処……。クロノもあの魔法をアースラから見てたんだもんな……対処法も考えてたか」

 

「こっちにまで飛んできてるね……ぜんぶ任せちゃってごめんね、徹。あたし、まだ魔法使う許可もらってないから……」

 

「たぶんこういう非常時は使っても怒られないと思うけど……いいよ、別に気にしなくて。このくらいの密度の流れ弾なら」

 

「パパはどうやって防いでるの?」

 

「ん?障壁使うほど多くもないから、ふつうに魔力弾殴って弾いてる」

 

「それはきっとふつうじゃないよね」

 

フォトンスフィアからの一斉射が終わり、巻き上げられた砂埃がじわじわと晴れてくる。

 

「あーっ!クロノ立ってるよ!たおせてない!」

 

「わっかりやすいくらいにアリシアはフェイト贔屓だなー……」

 

「あたりまえだよ!わたしのかわいい妹だもん!」

 

「あははっ、いいお姉ちゃんだね、アリシアは」

 

クロノの服は埃っぽくなっていたが目立った傷はなし。直撃はなかった様子だ。

 

五十%でこの結果。もしかしたら、万全の状態でぶちかまして、最後に余剰魔力を掻き集めて作る大槍の投擲まで直撃すれば、もしかしたらもしかしていたかもしれない。

 

「ま、普段の(・・・)クロノならここまですんなり嵌りはしないだろうけどな」

 

「パパ、それってどういうこと?」

 

「これはあくまで試験ってこった。……おい、まだ頭上げるなよ。砂埃が飛んできてる。アルフもな」

 

「あ……あり、がと……」

 

「きゃーっ」

 

「楽しそうだな……」

 

ふるふると頭を振って、被ってしまった砂を払うような仕草のクロノ。まだまだ余力があるという様子だ。

 

対してフェイトは疲労が見えている。

 

それもそのはず、あの大規模術式は圧倒的破壊力に見合っただけの魔力を消費する。フェイトはクロノに反撃の隙を見せないように絶え間なく魔法を使っていた。飛行魔法も最高速を瞬時に出して、かつ繊細な魔力制御で地面すれすれを移動したりクロノの近くを飛んでいた。ずっと神経を張り詰めさせていただろうし、すっからかんではないにしても既に魔力の残りは心もとないだろう。強引なマニューバで体力的にも不安がある。

 

本人も口にしていたが、あのファランクスシフトはフェイトの切り札だ。それを凌がれた今、フェイトはまだ打つ手を残しているのか。

 

「フェイトーっ!がんばれーっ!フェイトーっ!」

 

アリシアの声援が届いたのか、フェイトはバルディッシュをきゅっと握り直す。

 

先端をクロノに向けて、発射。

 

砲撃魔法、サンダースマッシャー。

 

使用頻度の低い砲撃をここで使った。

 

直接命中させようとしたというよりかは、クロノへの牽制という意味合いが強い。だが、この試験でどころか、これまでで使う機会が他と比べても格段に少なかった魔法だ。虚を突いていてもおかしくはなかった。

 

それをクロノは、直立したまま地面を滑るような挙動で回避する。正直、とても不可解な動きである。

 

「なになにあの動ききもちわるい……」

 

「アリシア。素直なのはいいことだけど、いいことばかりじゃないんだぜ……」

 

「だってさっきのぜったいおかしいもん!」

 

「あれは飛行魔法の応用だよ、アリシア。ほんの少しだけ身体を浮かせて高度は変えずにスライドするように移動したんだ。あんなに地面から近い位置でバランスをまったく崩さずに動くのは、魔力のコントロールがすっごく難しいんだよ」

 

「まるで技術を見せびらかしてるみたい。感じわるー……」

 

「し、辛辣だな……。フェイト寄りっていうか、アンチクロノみたいになってるぞ」

 

「クロノはわたしの裸見たもん。パパ以外の男に見られるなんてやだ」

 

「はぁっ?!なんだそれいつ……ってあれか?時の庭園のあの時か?」

 

「そ!やらしい!」

 

「やらしいって……クロノも悪気はなかっただろうよ」

 

「でもパパ、わたしが裸見られたって言った時、むすってしたよね?したよね?」

 

「は?い、いや、してないし」

 

「したよ!してたよ!えへへー、だいじょうぶだよー、わたしはパパにしかくっつかないよー、ほかのやつには触らないし近づかないし近づかせないからねー!にゅふふっ!」

 

「自分の中だけで話を完結させるな。俺がつっこむ暇もねえよ」

 

「……アリシアは、徹のことすっごい大好きなんだね……」

 

「こんなに気に入られるようなことをした覚えはないんだけどな……」

 

滑るような飛行魔法でフェイトの砲撃を回避したクロノは杖を振るって光球を生み出す。フェイトに向かって射出した。

 

魔力弾が通った軌跡しか、目に映らない。それほどまでの弾速を誇るクロノの射撃魔法、スティンガーレイ。光球が動き出してから回避行動をしていたのではまるで間に合わない。

 

フェイトはクロノがスティンガーレイを展開した段階で飛行魔法の出力を上げていた。そのおかげで一発目は回避、二発目はとっても賢いバルディッシュが弾道の予測計算をして作り出した障壁でなんとか弾き、三・四発目は魔力弾の連射で誘爆させた。

 

「ほー、撃ち落とすって方法があったか……。待機状態の光球目掛けて弾幕張るのは効果的だな……」

 

「あれってすっごいはやいけど、バイヤーできないの?」

 

「なぜいきなり仕入れの話に。バリアな」

 

「言ったよ!」

 

「言ってない。……バリアできないこともないけどそれだと安心できないんだ。同時発射数が少ない代わりに弾速と貫通性能を極端に尖らせてる。まっすぐにしか飛ばないし燃費もよくはないらしいけど、直撃すりゃ一発で撃墜される危険性がある。今回はフェイトの運がよかったな。俺も対処にはいつも苦労してたんだけど、弾幕で誘爆って手もあったんだな」

 

「なんにしたってパパはできないけどね」

 

「…………」

 

「はっはー!今の俺にはほぼ百%で回避余裕なのだよ!」

 

「え、えっ!なんで!」

 

「と、徹、本当に?」

 

とんとん、と左目をノックする。

 

「おう!こいつのおかげでな。単発の射撃魔法なんざ怖くねえ」

 

「パパすっごい!いつから魔族になったの?!」

 

「いつからもなにも生まれてこのかた人族だ」

 

フェイトの高速機動の先読みをしつつ、クロノは砲撃を数発放っていく。フェイトの動きの予測は正確だったが、さすがに連射の効かない砲撃では高機動のフェイトは捕捉できない。

 

もちろん、クロノもそのくらいは予定のうちだろう。

 

だからこその、もう一手。

 

マルチタスクで砲撃しながら別の魔法の構築。スティンガースナイプの準備。

 

フェイトが対抗策を講じる前に、生き物のように暴れる魔力球が(くびき)を解かれる。

 

さきほどスティンガーレイを撃ち落としたように弾幕を張るが、スティンガーレイと違いこちらは術者の意思で操作・誘導できる。その上そもそもが螺旋のような回転運動をしながら飛翔する弾丸だ。容易に墜とせるものではない。

 

「もうっ!いっそのこと障壁で防いじゃったらいいのに!」

 

「フェイトの掲げるコンセプトとちがうんだよな。フェイトはなのはみたいに重装甲と障壁で防いで一撃で撃墜、って戦いかたじゃない。およそ真逆だ。多少防御が薄くなろうと身軽になって機動力を押し上げる。足を止めて障壁で固めるとかそれこそまずい。自分の生命線断って防ぎにいったら、もう手がなくなる」

 

「徹の時はどう対処したの?クロノとも一度戦ったんだよね?」

 

「そうだよ!パパならどうするの?」

 

「俺はなのはともフェイトとも方向性がちがうしなー。参考にはならねえよ」

 

「どっちか!どっちかなら?」

 

「フェイト寄り……か?前に使われた時は殴って壊したけど」

 

「ほんとうに参考にならない!」

 

「聞かれたから答えたのに……」

 

スティンガースナイプを撃ち落とせなかったフェイトは飛行魔法の速度を上げる。

 

上下左右に身体を揺らして機敏な動作で振り切ろうとするが、術者の技量に魔法のスペックもあいまって逃げきれない。

 

徐々に距離が詰まっていく。

 

「こればっかりは相手が悪かった。なのはの誘導弾なら綺麗にかわしてたのに」

 

「こういう時って、フェイトはどうしたらいいの?やり返せないー!」

 

「試験の場所は開けてるし、障害物もない……こうなると難しいな」

 

「ちょっとパパ!どっちの味方なの!」

 

「どっちも味方じゃねえか。んー……実戦なら話が変わるけど、試験だからな。流れを変えようと思ったらどこかで無茶をするしかないな。賭けになる。ほら、やるみたいだ」

 

「え?」

 

フェイトは飛び回ってスティンガーレイを回避しながら、発射体を一つずつ作り出す。いくつか用意できると急上昇。

 

マントを掠めそうになるほど近づいたスティンガーレイも追尾してくるが、途中でくるりと宙返り。

 

急激な方向転換にフェイトは苦しげな表情をしていたが、おかげでスティンガーレイを後方に突き放した。

 

急上昇からの、クロノへと急降下。

 

フェイトはバルディッシュを再びモード変更。フォトンランサーを乱射しつつ、サイズフォームのバルディッシュを振りかぶってクロノのもとまで一直線に飛翔する。

 

「真正面からの、一点突破……」

 

「だれかさんの後ろ姿ばっかり見てたせいでわたしの妹がイノシシに!」

 

「俺を見ながら言うんじゃありません」

 

フォトンランサーの斉射は障壁で防ぎ、クロノは杖を構える。ただ待ち受けているようだったが、さざ波のような違和感を感じる。

 

「あっ……あー」

 

「なにっ?!パパなに!?」

 

「そろそろ試験、終わりそうだなって」

 

「そ、そうだよ!もうすぐ終わるよ!フェイトが勝つの!」

 

フォトンランサーの弾幕でクロノを地上に縫い止めたフェイトは、バルディッシュを振るう。あの魔力を帯びた斬撃なら、俺が張る障壁もどきはもちろんダメージが蓄積されたクロノの障壁も切り裂くことだろう。障壁突破の特性が付与されていることだし。

 

だが、クロノの守りを突破することと、クロノを倒すことができるかはまた別の問題だ。

 

「やった!クロノのバリヤー切っ……あっ?!」

 

「……フェイトには、自分の足りないところを認識するいい機会になりそうだな」

 

障壁を叩き切った。そこまでは良かった。

 

剣筋を見切ったクロノは屈んでフェイトの横薙ぎの一閃を回避。フェイトの鎌は大柄で、一度振るうと戻すのに時間がかかる。その隙を突かれた。

 

クロノの杖に打ち上げられたフェイトは慣性を殺せずに、クロノの後方へと身体が流れる。

 

「あっ?!フェイトっ、地面にっ!」

 

「心配すんなって。フェイトは飛行魔法下手じゃないし、万一地面についても受け身は取れる。いざとなったらバルディッシュがフォローしてくれるって」

 

「クロノー!フェイトをきずつけたらゆるさないぞーっ!」

 

「クロノも仕事だから。アリシアは静かに見てなさい。ほんとにつまみ出されるぞ」

 

「みーっ!みーっ!」

 

不安定な状態で魔法を使うのは危険だと判断したのか、地面に手をついてうまく受け身を取る。

 

すぐさま体勢を整えて杖を構えるフェイトだったが、クロノは慌てることなく悠然と振り返る。動き出そうとしたフェイトの手足に青の光が瞬いた。

 

「っ……だめ、だったね……」

 

「よく頑張っただろ。クロノ相手に」

 

フェイトに拘束魔法がかけられる。

 

クロノのバインドは一級品だ。物理的にも、プログラム的にもとても堅牢なのだ。術式を解析しての破壊もすぐにはできない。

 

身動きはもう取れない。

 

つまりは。

 

「フェイト……負けちゃったの?」

 

「これで負けてないって言い張るほうが無様だからな。でも、負けから得られる物もある。クロノクラスの強者との一戦はフェイトにとってきっと実りになる。……悔しくは、あるだろうけどな」

 

 

 

 

 

 

「っ……ぐすっ……」

 

「……フェイト、そんな落ち込むことないんだから……顔上げて?」

 

「よく頑張ってたぞ。なのはと戦った時の教訓をちゃんと活かせてたし」

 

「そうだよフェイト。徹もずっとほめてたんだよ。だから……」

 

「だから泣くなって、フェイト」

 

試験終了後、ふらふらとした足取りで俺たちのところまで歩いてきたフェイトに労いの言葉をかけたら、瞳を潤ませて俺を避けるようにアルフに抱きついた。よほど悔しかったようだ。なにげに避けられたこともショックである。

 

「ごめ……なさっ……。わた、私っ……勝て、なかった……っ」

 

絞り出すようにそう言って、フェイトは謝った。

 

アルフは震えるフェイトを抱きしめて、落ち着かせるように背中をぽんぽんと叩いて大丈夫と言い聞かせる。

 

「謝らなくていいんだよ。フェイトは、一生懸命がんばったんだから……」

 

「全力を出し切ったんだろ?それで負けたんならしょうがないって。今の実力がこのラインだったってことだ。全力で立ち向かうフェイトはかっこよかったぞ」

 

「っ、でも……ぐすっ……」

 

「フェイト、泣かないで……」

 

「だ、だって……っ。負け……ぐすっ。試、落ちっ……」

 

「……ん?」

 

ぐすぐすとしゃくり上げながらだったので何を言っているか不明瞭だったが、どうやら俺とフェイトで試験の捉え方に齟齬(そご)がありそうだ。

 

「だっ、だいじょうぶ!フェイトなら次はぜったい合格できるっ!お姉ちゃんが保証するよ!」

 

「でも、ひっく……落ちちゃったから、来週の任務……っ、一緒に行けない……ぐすっ。ごめん、なさいっ……」

 

「わ、わたしと一緒にお留守番してよ?ね?そ、そうだっ!まもりお姉ちゃんにお勉強おしえてもらおうよ!いつかは学校に行くんだから、お勉強も大事だよ?ね?」

 

「ぐすっ……ひっく」

 

「だから、だから……泣かないで……ぐす」

 

天衣無縫というか天真爛漫というか、あらゆる意味で自由奔放なアリシアではあるが、なんだかんだでフェイトのお姉ちゃんなんだな、と思い知らされる。アルフに抱きついているフェイトの頭を、優しく撫でていた。

 

(なり)はフェイトよりも幼いのに、時折考え方や振る舞いが大人っぽくなるのを、本人は自覚しているのだろうか。まあ、慰めているはずなのにフェイトから貰い泣きしそうになるくらい子どもっぽくもあるのだが、それはご愛嬌。

 

「…………」

 

まあもしかして、とは思っていた。

 

いくらなんでも落ち込みすぎではないかとは、思っていたのだ。フェイトは争い事を好まない性格だし、クロノと戦えばおよそ負けるだろうことも理解していたはずだ。なのに泣くほど悔しがるのはおかしいなとうすうす感じていた。そしてはっきりわかった。

 

どうやら嘱託魔導師試験に落ちたと早とちりして、それがショックで泣いてしまったようだ。

 

「……って、んなわけあるかい!」

 

「わぁ?!ど、どうしたのさ徹、いきなり……」

 

「フェイト」

 

「っ……ご、ごめんなさい、徹……。私、もっと、がんばるから……だからっ」

 

「んあ?ああ、俺もフェイトもこれから頑張らないとな」

 

「……うん。私は出遅れちゃったけど、すぐ追いつけるように……」

 

「一緒にだ」

 

「え?」

 

「いや、だから、フェイト受かってるって。確実に」

 

クロノに負けたら試験失格って、そんな理不尽な試験あるわけない。

 

フェイトが試験に通らなければ、およそほとんどの魔導師が失格になる。そもそもクロノに勝てるような魔導師が、管理局に何パーセント存在するのだという話だ。そんな目の細かい(ふるい)で試験をしていれば、人が激減して管理局などとうに消滅しているだろう。

 

「で、でも、私、負けちゃったし……」

 

「たぶん今回の一対一形式の試験は、勝敗で合否を決めてるわけじゃない。戦い方で評価してるんだ」

 

「それって、どういう……」

 

「攻め方、守り方、対処の方法、戦術の組み立てや柔軟性、魔法の活かし方やコンビネーション。そういった魔導師としての全体的な能力を採点してるんだろ。管理局が定めた基準に達してたら勝ち負けは関係ない。というか、試験の趣旨を考えると、受験者が敵わないような力量の試験官をあててるんだろうな。じゃないと評価する前に勝負が終わっちゃうから」

 

「そ、それじゃあ、パパ……フェイトは……」

 

「フェイトで無理なら俺も嘱託できねえよ。ふつうに合格だろ」

 

「やったーっ!やったねフェイト!」

 

「そっか……フェイト、よかったね」

 

「う、うんっ……。ありがとう、アリシア、アルフ」

 

「そうだよもー。心配なんてすることないんだよ!わたしの妹はかわいくて強くて、すごくかわいいんだから!」

 

「あ、アリシア……恥ずかしいよ」

 

「それにしたって、クロノは教えてくれなかったのか?どういう試験があるとかって」

 

「どう、だったかな……」

 

「学科試験の勉強に必死で、もしかしたら聞き逃していたかもしれないね」

 

「むっ!クロノめ!」

 

もはやクロノをディスるのはアリシアの持ちネタみたいになっている。世話になっている相手なのはアリシアも理解しているだろうけど、行き過ぎないように突っ込んでおこう。

 

「アリシア、それは逆恨みだから」

 

「じょうだんっ、パパじょうだんだよっ!だから頭わしってするのやめてーっ!」

 

「ふふっ、あははっ」

 

「ああ、アリシア……ふふっ、頭がわさわさになっちゃったよ」

 

「れでぃにこの仕打ちはひどい!まじ許す!」

 

「それだとすごい勢いで許しちゃってるぞ。許すまじ、な」

 

「言った!」

 

「言ってない。あとから髪結ってやるから」

 

「まじ許す!」

 

「それは正しい使い方だな」

 

「ふっ、ふふっ……徹も、アリシアも、おかしい……っ、ふふっ」

 

今泣いたフェイトがもう笑っていた。やっぱり、泣き顔よりも笑顔のほうがずっといい。

 

そんなフェイトを見て、アリシアは嬉しそうに口元を綻ばせていた。どうやらアリシアはこんな展開を狙っていたようだ。相変わらず、妙なところで機転が利く。

 

「あははっ、くくっ、どこかでネタ合わせでもしてたの?はぁ、笑い疲れちゃったよ……さ、どうする?今日中に試験の結果が出るらしいけど」

 

「せっかくだし、見てから帰るか」

 

「うん。やっぱり合格してるか気になるから」

 

「うんっ!お腹すいた!」

 

「まったく会話が繋がってないんだが……まあ時間はあるし、軽くなんか食べに行くか」

 

「そう、だね。試験全部終わったら、私も安心してお腹すいてきちゃった」

 

「それじゃ、フェイトの合格祝いかな?」

 

「そ、それは待って……。これで落ちてたら……」

 

「フェイトなら大丈夫だよ!ほらいこ!わたしはこっち、フェイトはそっち、アルフはフェイトの手ね!」

 

「……俺の手が完全にふさがるんだけど」

 

「そんなの知りませーん!」

 

アリシアはとててっ、と駆け寄ると俺の右手を勢いよく掴む。ただアリシアの手が小さくて、手を掴むというよりかは指を掴むという感じだった。

 

「なんだか……ちょっと恥ずかしいけど」

 

対してフェイトはおずおずと、迷うように俺の左手を伸ばしてそっと触れて確かめるようにゆっくり握った。

 

「なんだかこれって……や、やっぱりいいや……」

 

アルフはぼそっと呟いて、結局フェイトの左手を握った。

 

アルフが言いかけたセリフの続きが、予想できてしまった。俺たち四人をはたから見たら、いったいどういう関係に見えるのだろうと。

 

「……ま、このくらいはいいよな……」

 

ちょっと照れくささはあるが、どことなく達成感のような感慨を覚えるのは、なぜだろう。

 

「……このくらい、ご褒美もらっても……いいよな……」

 

緩む頬を誤魔化しも隠しもできないまま、口の中で呟く。

 

小さな手の温もりを確かに感じて、俺たちは歩き始めた。

 

 



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空の王者

翌週、土曜日。

 

俺には伝わっていなかった、いつのまにか決まっていた任務のために、俺とフェイトは第九十七管理外世界を離れていた。

 

今回の任務は、言うなれば地質調査のようなものらしい。

 

とある世界で珍しい金属を産出する鉱山が発見された。一応はその金属のサンプルを持って帰ることが任務で、可能なら現地の環境、現地に到着してから鉱山までの道、鉱山のどの辺りで金属が産出するか、金属の埋蔵量なども調査してくれとのことだが無理を言うなという話である。その筋の専門家じゃないんだぞ。

 

というか筋がどうのこうのと言うのであれば、それこそ初めから管理局の『陸』のどこかの専門的部署が向かうのが筋である。地質調査について専門知識のない俺たち嘱託魔導師が行っても報告書はお察しの仕上がりになるぞ、とお仕事を紹介してくれているクロノに愚痴ったところ、どうやら訳ありな内容らしい。

 

実は既に、『陸』の部署が調査に行ったのだが、存外危険な場所だったようだ。大勢で現地へ向かったが鉱山へ向かうまでに苦戦し、鉱山を発見して内部に入ってからも体力を消耗しすぎたのか体調不良を訴える魔導師が多く出て、その上よくわからない物体に襲われたとかなんだとか。練度の低い魔導師たちを連れて行くとかえって足手纏いになることを悟った『陸』の上司たちは厳選した魔導師で再度向かったが、結局鉱山を進むことができなかった。かといって、自分たちには荷が重いので『海』の皆様お願いします、と頭を下げることもできず、委託に出したそうだ。

 

そんな『陸』の方々の失敗から学び、今回は前回のサンドギアの任務ほど大規模ではなく、どちらかといえば小規模、少人数で向かうことになる。なんといっても坑道を進むのだ。頭数を揃えたところで狭い空間では身動きが取れなくなる。小隊、もしくは分隊規模が妥当だそうだ。

 

クロノが取り計らってくれて、その少人数の隊員もこちらで指名してもいいとのことだったのでもうほんとに気が楽。

 

あくまでも、主となる目的は調査。ちょっと前にユーノと一緒に行った無限書庫の整理整頓よりちょっとアドベンチャー要素が増えるくらいのものだろう。その程度ならばどうとでもなる。

 

なんたって今回は。

 

「フェイトがいるからな!」

 

「ひゃっ……い、いきなりなに?」

 

今回は記念すべき、フェイトの初任務である。

 

いやはや、羨ましい。初めての任務が、面倒で(わずら)わしい『陸』の人たちの小言も言われず、足も引っ張られないというのは。

 

フェイトの力量からすればこの程度の任務では釣り合わないが、いくら能力が高くとも経験はない。その乏しい経験を積んでいく、という意味で言えば、今回の任務は手頃だろう。

 

なにはともあれフェイトがいてくれるというのはとても心強い。折りが悪くてユーノがこれなかったのは残念だが。

 

「驚かせてごめんな。今回は気が楽だなーって思って。前の任務は精神的にすっごい疲れたんだ。今日の任務は人数も少ないし単なる調査。万が一戦闘になってもフェイトがいる。もう完っ璧だわ。俺の出る幕も完っ璧にない」

 

「あんまり……プレッシャーかけないで。……は、初めてなんだから」

 

不安、というより緊張しているのか、フェイトは胸元でアクセサリーのようにくっつけられていたバルディッシュをきゅっと握りしめた。

 

緊張しすぎにも思えるが、ちゃんとお仕事を果たそうという気持ちが強いからこそ緊張するのだ。こういったところもフェイトのいいところである。

 

ただ、あまり身体が固くなってしまっても困る。

 

「フェイトならうまくやれるって。大丈夫、肩の力抜いてな」

 

「徹、リード……してね?」

 

「リードって言われてもな。俺もそこまで経験豊富じゃないし」

 

「もっとしてるのかと思ってた。徹、いつも堂々としてるから」

 

「なんかばかにされてるような……」

 

「ふふっ、ばかになんてしてないよ。頼りになるってこと。徹が気持ちよくできるように私も動くから……命令、してね?」

 

「俺とフェイトは同じ嘱託魔導師で、立場は同列なんだけどな」

 

「立場がどうとかじゃないよ。徹の言うことなら納得できるってこと。だから、なんでも言って。私、なんでもするよ」

 

「なんでもって……別にい」

 

「へぇっ!ずいぶんっ!かわいい子にっ!好かれてるのねっ!」

 

きんきんつんつんとする甲高い声。ものの二日ほど一緒にいただけなのに、すでに耳が覚えている。

 

「予定の集合時間はまだなのにずいぶん早いな、アサレアちゃん。久しぶり」

 

振り返れば、明るい赤色の髪と気の強そうなつり気味の大きな瞳。

 

アサレア・ウィルキンソンちゃんが、腕を組んでふんぞり返っていた。眉間にしわを寄せ、不機嫌そうに唇を突き出している。

 

「なんなの、さっきのいかがわしい話!なんの話してたわけ?!どういうことよ!?」

 

「いかがわしいもなにも……初めての任務だから、わからないところあったら教えてねっていうだけの話だけど?」

 

「は、はぁっ?だって……リードしてとか、経験がどうとか、きっ、き……ちよくだとかっ!命令だとかっ!いろいろ言ってたじゃない!」

 

「だいぶ始めのほうから聞いてたんだな。聞いてたんならわかるとおもうけど、要領がわからないから指示してねってだけだ」

 

「は……」

 

この子は普段、そういう色気づいた話には興味ありませんみたいな態度なわりに、頭の中は案外ピンク色である。

 

俺とフェイトの話を盗み聞いて勘違いしていたらしく、誤解を解くにつれて頭の中と同じように頬もピンク色になってきた。

 

「〜っ!そ、そんなのどうでもいいのよ!そ、そっちの金髪、どこのだれ?!」

 

照れ隠しで強引に話を流すアサレアちゃんは、意識しているのかいないのかえらく威圧的だ。声を荒げてこそいないが、明らかに怒気が含まれている。

 

「っ……と、徹……」

 

アサレアちゃんの圧力から逃げるように、フェイトは俺の背中に隠れた。

 

戦っているときは威風堂々、凛としているフェイトだが、普段はわりと怖がりだし人見知りだ。とはいえ、今回みたいに初めて会った人、しかも年上に喧嘩腰でこられればフェイトでなくとも尻込みしそうなものだが。

 

「この子はフェイト・テスタロッサ。なりは小さいけど優秀だぞ。ほらフェイト、自己紹介」

 

早くも険悪だが、これから一日、もしくは二日ほど一緒に働く仲間だ。間に入って仲を取り持つとしよう。

 

フェイトの背中に手をあてて、俺の隣に移動させる。

 

「ふぇ、フェイト・テスタロッサ……です」

 

俺の服を握りながら、それでもおずおずと名乗った。アサレアちゃんと目を合わせるのは気後れするのか、少々視線が泳いではいたが上出来だ。やればできる子。

 

フェイトの様子にアサレアちゃんからあふれる雰囲気が若干ぴりっとしたが、目をつぶって深呼吸した。ひりついた空気が少しましになった。

 

「っ……ふぅ。わたしは、アサレア。アサレア・ウィルキンソン。それと、遠くから走ってきてるのが兄のクレイン」

 

アサレアちゃんが顔を傾けてとある方向を示した。

 

そちらには、走ってくる人影。クレインくんの姿があった。どうやらアサレアちゃんはクレインくんと途中まで一緒にきていて、俺とフェイトを見つけて文字通り飛んできてくれたようだ。

 

「それで?なんでテスタロッサさんとあんたが一緒にっ!仲良さそうにっ!してるの?!どういう関係?歳離れてるでしょ?わたしより年下よね?距離近過ぎない?」

 

アサレアちゃんからの怒涛の質問攻めである。

 

一つ問いただされるごとにフェイトは、す、すす、すすす、と再び俺の背に戻っていってしまう。喋るどころの話じゃないので、代わりに俺が答える。

 

「とりあえず……歳はユーノと同じだ」

 

「スクライアくんと……。相変わらず年下と(ゆかり)のある男ね」

 

「なにが言いたいのかさっぱりだ。関係、つってもな……嘱託になる前に知り合って、仲良くなったんだ」

 

「仲良く、ね……へぇ。……あれ?嘱託の前?それって……」

 

アサレアちゃんが俺の顔をまじまじと見る。俺の左目にフォーカスが合わせられた気がした。今は黒のカラーコンタクトをつけている、俺の左目に。

 

すぅ、と心臓が冷えるような気分を味わう。

 

「き、気心の知れた、頼れる仲間だ。存分に背中を預けることができるしな」

 

「預けられたこと……あった、かな?」

 

「むっ……あんたがそこまで言うほど強いんだ。……へぇ」

 

アサレアちゃんの目が細められ、俺の後ろから顔を覗かせているフェイトに鋭く向けられる。

 

フェイトには悪いけれど、どうにか興味の方向を変えられたようだ。

 

「それで?わざわざあんたがテスタロッサさんをお迎えに行ったわけ?ずいぶん、お優しいことね」

 

腕を組みつつ身体を斜めに、アサレアちゃんは吐き捨てるように嫌味を口にする。こういった仕草やセリフがよく似合う、と本人に言うと怒られるだろうか。

 

「それなんだが、フェイトは……」

 

「同棲、させてもらってるから一緒にきた」

 

俺の後ろから顔の半分だけ出したフェイトが、これまで全然喋らなかったのによりにもよって爆弾だけ投下した。

 

「…………」

 

「…………」

 

水を打ったように、場が静まり返る。

 

アサレアちゃんの顔からは、感情という感情が剥がれ落ちていった。彼女にとっては、それほどまでに驚くようなことだったらしい。

 

いや、俺も驚いたけれど。なぜフェイトがそんな疑われるような言い間違いをこんなタイミングでしたのか。言い間違い芸はアリシアの持ちネタだろう。

 

とりあえず、爆弾が爆発炎上しないうちにアサレアちゃんの誤解を解かなくては。

 

「フェイト?同棲、じゃなくて同居、な?姉ちゃんに教えてもらった言葉をさっそく活用するのはいいことだけど、その二つは似てるようでまるで違うから気をつけるように。アサレアちゃん?フェイトは複雑な家庭の事情で俺の家に居候的な感じで身を寄せてるわけで姉ちゃんもいるから二人っきりってわけじゃないしアサレアちゃんが脳内で駆け巡らせてるような事案は発生していないから安心してまずは天高く掲げられたその杖を下ろそうか!」

 

「ええわかってるわ。わたしの中でぐちゃぐちゃになった感情を丸ごと込めて振り下ろすわ」

 

「ゆっくり下ろそう!」

 

誤解を解こうと努力はしたが、その途中ですでにアサレアちゃんは燃え上がっていた。

 

「あらあら、お嬢ちゃん。徹ちゃんに久しぶりに会えたからってちょっとテンション上がりすぎじゃないかしらん?」

 

このままだとアサレアちゃんの杖(魔法)で攻撃されるか杖(物理)で攻撃されるか時間の問題だったが、振り上げられた杖はとある人物が安全に掴んで止めてくれた。

 

紫色の長い髪を後ろで纏めている、端整な顔立ちをした長身の男性。

 

「ちっ……」

 

「助かった……ありがとう、ランちゃん」

 

「どういたしまして。徹ちゃんの周りはいつも愉快ねぇ」

 

「ランドルフ!もう離しなさいよ!」

 

「お嬢ちゃんが頭を冷やしたら離してあげるわよ」

 

「わかったわよ!わかったから離しなさいよ!」

 

「その口振りだとわかってないみたいだけれど、まあいいわ。ちっとも『大人のレディ』になっていないようで安心したわ」

 

「そっちこそ、底意地の悪い性格が変わってなくてなによりよ。あれ、そういえばクレイン兄は?」

 

「ここにいるよ……なに早速失礼なことしてるのさ。初めて顔を合わせる人もいるっていうのに……」

 

「はいはい」

 

「ランちゃんもクレインくんも元気そうでなによりだ。久しぶり」

 

「ええ、またこうして一緒にお仕事できて嬉しいわぁ」

 

「ぼくもです。また迷惑をかけてしまうかもしれませんが、よろしくお願いします」

 

ランちゃんは前髪を優雅に払い、微笑む。その振る舞いはまるで舞台役者のようで、実に様になっている。

 

そんなランちゃんの隣にいたクレインくんは苦笑いで深くお辞儀をした。前回の任務ではいろいろあったから、まま仕方ない。

 

今回の任務は同行するメンバーもこちらでリクエストできたので、前の任務で一緒だったランちゃんたちに声をかけたのだ。リクエストがそのまま通るかどうかはわからないと言われていたが、どうにか予定が空いていたようだ。

 

「徹、この人たちは?」

 

再会の挨拶をしているとフェイトに服を引かれた。知らない人が増えて、ちょっと萎縮してしまっているようだ。

 

「紹介すんの遅れた、悪いな。じゃ、まずはこっちの背の高い美形イケメンから。ランドルフ・シャフツベリー……ランちゃんだ」

 

「ふふっ、嬉しい紹介ねぇ。美形じゃなくて美人なら満点だったわぁ。初めまして、可愛らしいお嬢さん。私はファミリーネームもファーストネームも嫌いなの。だからぜひ親愛の情を込めて、ランちゃんって呼んでね?」

 

フェイトに視線を合わせるように屈んで、ランちゃんは笑顔で名乗った。どうやら子どもは好きなようだ。接し方が自然でそつがない。

 

その優しげな雰囲気に気を許したのか、フェイトはちょこっと俺の後ろから出てきた。

 

「フェイト・テスタロッサ、です。よろしく……ラン、ちゃん?」

 

「まぁっ!どこかの乱暴なお嬢ちゃんと違ってフェイトちゃんは素直で可愛いわぁ!フェイトちゃん、よろしくねぇ。はぁ、徹ちゃんのお友だちはみんな可愛くていい子ばっかりね!羨ましくなっちゃう!」

 

「……徹、この人……ラン、ちゃんは……」

 

「こんな感じの陽気なやつだよ。ここぞって時にはちゃんと頼りになる」

 

「そ、そう、なんだ……」

 

「で、こっちの赤髪の少年がアサレアちゃんの双子のお兄ちゃん、クレインくんだ」

 

「アサレアの兄、クレイン・ウィルキンソンです。妹ともども、よろしくお願いします、テスタロッサさん」

 

「よ、よろしく、クレ……」

 

「こっちがよろしくしてあげるほうでしょ?なんでそんなに腰低くして喋んなきゃもがっ」

 

フェイトが挨拶しようとしたら、割って入るようにアサレアちゃんが(くちばし)を入れた。その差し込んだ嘴は、すぐさまお兄ちゃんに抑えられていたけれど。

 

「と、時々口が悪くなることもあるけど、基本的にはいい子なので……よろしくお願いします」

 

「むぐぐっ、ぶはっ!なにすんのクレイン兄!わたしは間違ったこと言ってないでしょ!」

 

「わざわざ角が立つような言いかたしなくてもいいでしょってことだよっ」

 

「えっと……元気な人たち、だね」

 

「だろ?楽しいぞ」

 

まだお説教しようとするクレインくんを押しのけて、アサレアちゃんが俺の前に出た。その表情は、どこか真剣で、嫌な予感がする。

 

「それよりっ!ねえ、あんたの怪我って、もしかして……」

 

「え?徹、けがって?」

 

アサレアちゃんがさらに踏み込んできた。

 

その話は、とくにフェイトの前ではしてほしくない。

 

二人の少女の目が俺に向けられる。なんとか誤魔化さないと。そう思っても事情をうっすらと話してしまったアサレアちゃんと、事件では当事者だったフェイト、その二人を丸め込むほど整合性の取れた言い訳なんて、すぐには組み立てられない。

 

とにかく、黙り込むのはあまりにも不自然だ。なにか言おうとして口を開く、その前に伸びやかな低音が間に入った。

 

「あら、もう移送用の艦船が離発着場に入ってきたみたいよ?お喋りは乗ってからにしましょ?」

 

わざわざ俺に顔を向けて、ランちゃんが提案した。おそらくは、返事に窮した俺を見かねたランちゃんが、助け舟を出してくれたのだろう。

 

「置いていかれたら仕事ができないからな。早く乗ろうぜ」

 

「あ、荷物……自分で持つよ」

 

「いいって、このくらい」

 

フェイトの手荷物を担いで、フェイトの背中を押して強引に輸送船へ誘導する。

 

「…………」

 

アサレアちゃんの視線を背中に感じる。

 

彼女にはどこかで言い含めておかなければいけない。

 

 

 

 

 

 

「魔法生物?」

 

「はい。体内に魔力を有した生き物。通常の生態系とは異なる進化を辿った生き物たちが、その世界にはたくさんいるんです」

 

前の任務からここまでなにをしてたか、というあっさりとした近況報告を終えると、気を利かせてくれたランちゃんはアサレアちゃんが余計なことを口走る前に任務の話を始めた。

 

話の過程で、俺たちが向かっている世界には魔法生物なる生き物が存在する、と妙に詳しいクレインくんが教えてくれたのだった。どこか瞳が輝いている。遺跡関連の話をするユーノみたいだ。

 

左目の話を避けるという理由もあって詳しく聞いていたのだが、それとは別にすごく好奇心を擽られる内容だ。

 

「魔力を持ってるってことは、その魔法生物とやらにもリンカーコアがあるのか?」

 

「それは、確かめた人がいませんね」

 

「なんでそんなふうに生物が進化したんだろうな。魔力なら俺の世界でも、他の世界でもあるのに。限定されたいくつかの世界だけっておかしくないか?」

 

「変、ですよね」

 

「……なんでか、っていう理由や原理は……」

 

「逢坂さんも薄々ご察しの通り、調べられてません」

 

「ほんと管理局ってこういうとこずぼらだよなー……。生物学とか研究しないのか。無限書庫も本がぶち込まれてるだけだったし……」

 

ユーノと赴いた無限書庫の雑然っぷりも思い出す。種類を問わず積み上げられた本の山は、生半可には崩せない。きちんと図書館として機能するのは俺とユーノが本気を出しても何年かかることやら。

 

「なにかに使えるかもしれないと思って保管はして、でも整理整頓してもすぐに利益があるわけじゃないから誰も手をつけない。『陸』の仕事なんてそんなもんでしょ」

 

「アサレアちゃんはちょっと『陸』の局員嫌いすぎだよな。偏見入ってるぞ」

 

そもそも無限書庫はどこの管轄なのか、俺も知らないけれど。

 

「たしか……魔法生物にもリンカーコアあるらしいよ、徹」

 

輸送船の中、何の疑問も戸惑いも迷いもなく俺の隣を陣取っていたフェイトが言う。

 

「魔導師と同じようなリンカーコアが存在するって主張する本があったよ、母さんの書庫に」

 

「ああ、プレシアさんの……そんじゃ納得だ」

 

「……母親公認か……」

 

淀んだ目を向けるアサレアちゃんから逃げるように話を戻す。

 

「フェイト、その本ってなにか詳しいこと書いてあったか?」

 

「えっと、たしか……魔法生物がいる世界って、空気中に含まれる魔力素の量がほかの世界よりも多い、んだって。その魔力が地面に染み込んで、その魔力を水や栄養と一緒に植物が吸い上げて、呼吸するときに空気中の魔力も吸って、結果、植物が魔力をため込む。……その植物を草食動物が食べて、植物を食べた草食動物を肉食動物が食べて……っていう感じ、だったはず。母さんに読んでもらったから、記憶に残ってる」

 

「フェイトちゃん博識ねぇ、えらいわぁ」

 

「フェイトは勉強熱心だもんな」

 

「そんなこと、ないよ」

 

謙遜するフェイトだが、どことなく嬉しそうだ。

 

最近などはアリシアとともに小学校編入のための勉強をしているが、フェイトは本当に飲み込みが早い。地頭がいいというのもあるのだろうが、取り組む時の集中力が高いのだ。

 

その点、アリシアはじっと座って机に向かうのは苦手らしい。要領は異様にいいのだが、いかんせん、落ち着きがない。

 

「で、これから行く世界には、その魔法生物が棲息してるんだよな?おかしいな……そんな話、クロノからは……フェイトは聞いてたか?」

 

「ううん、聞いてない」

 

「クロノ?どちら様なのかしら?」

 

「クロノは徹の……なんだろう。友だち?」

 

「兼上司、だな。そいつに仕事の斡旋をしてもらってるんだけど、その上司からは魔法生物云々とかって話は出てこなかったんだよな……」

 

「今日の任務って、もとは『陸』のどこかの部署から流れたものでしょ?」

 

「そうらしい。『陸』から嘱託に流れて、それを俺の上司が拾ってきてくれたんだ」

 

「なら『陸』から流れた時点で情報を止めてたんでしょうねぇ。何度か行った時に、その世界がどういう場所か、どういう環境だったのかくらいの情報は収集できていたはずだもの。自分たちは任務を遂行できなかったのに、これで嘱託に回した途端に達成されたら『陸』の面目が立たないから、入手した情報も教えないで任務をすぐには成功させないようにしてるんじゃないかしら?」

 

「うっわー……」

 

心底かったるそうな声でアサレアちゃんが嘆いた。

 

俺もアサレアちゃんとまったく同じ気持ちだが、そこまでしないだろうという相反する気持ちもある。

 

「いやいや、さすがにねえだろ……。『陸』の人たちだって地質調査が必要だから、プライド削ってまで嘱託に依頼を出したんだろうし」

 

「『陸』の局員なんてみんなそんなもんよ。あんたも前の任務で見たでしょ?奴らの体たらく」

 

「アサレアちゃんは先入観が強すぎるって。司令代理をやっていたノルデンフェルトさんだって『陸』の局員なんだぞ?」

 

「あの人はまともだったわね」

 

「だろ?だから『陸』にもまともな人はいるんだって」

 

「だとしたら、まともな局員とまともじゃない局員の比率は絶望的ね」

 

「…………」

 

ぐうの音も出ない。

 

「ま、まあ、黙っていた可能性もあるし、情報の伝達ミスという可能性もありますから、今は置いておきましょうよ。真相はわからないんですから……」

 

「そういえば、クレインちゃんはよく知ってたわねぇ。その世界に魔法生物がいるなんて」

 

「えっと……あはは、僕は……」

 

「クレイン兄は、動物とか生き物とか、そういうのが好きなのよ。家にいっぱい辞典とか本とか置いてるんだから」

 

「ちょ、ちょっと、アサレアっ」

 

「ほお、そうなのか。趣味持ってることはいいことだよな。いつどこで役に立つかわからないし」

 

「でもクレイン兄の本大きくて、本棚を圧迫するのよね。正直じゃま」

 

「ひどいっ」

 

「たしか徹、ユーノと無限書庫行ったんだよね。そこで魔法生物についての本とか、読まなかったの?」

 

「はっは、歴史書ばっか読んでたわ。そもそも整理整頓って仕事だったからな。じっくり本読むのもおかしいだろ」

 

「そういえば今日はユーノちゃんどうしたの?」

 

「さっき言った無限書庫のほうに行ってる。俺がベルカ時代について調べてるから、ユーノが先に本を仕分けしてくれてるんだ」

 

「だから今日はユーノちゃんと一緒じゃないのね……残念。よろしく言っておいてね、徹ちゃん」

 

「おけおけ」

 

「でもなぜ逢坂さんはベルカ時代について調べてるんですか?」

 

「前のサンドギアの事件で手に入れた情報の一つの『王』ってのがわからなくてな。上司に聞いたら『王』ならベルカ時代のどこかの国のものだろうって言うから調べてる」

 

「でも、無限書庫にも詳しく書いてる本なんてないでしょ?昔の文献ばっかりなんじゃないの?」

 

「そうなんだよ、ぜんっぜん読めなくてな。必死に解読したわ」

 

一瞬、全員の動きが停止した。アサレアちゃんに至っては、何言ってんだこいつ、みたいな表情になっている。

 

「解読したって……ベルカ語を?独力で?」

 

「全部じゃないぞ?」

 

「そ、そうよね……いくらなんでもね。あー、びっくりし……」

 

「現代から聖王統一戦争くらいまでのしかまだ自信がない」

 

「全部じゃないってそういう意味なの?!読めてるじゃない!」

 

「それより昔になると文章の成り立ちが複雑でな」

 

「あんたって本当につい最近まで一般人だったの?嘘でしょ?」

 

「ふつうにふつうの一般人をやってたよ」

 

「前からわりと思ってはいたんですけど、逢坂さんって本業はなにやってる人なんですか……?」

 

「学生だ。そこらへんに転がってるような学生」

 

「魔導師の素質を狂気でカバーするのが徹だもんね」

 

「フェイト……それは褒めてるって受け取っていいのか?」

 

「あたりまえだよ。私たちの自慢だよ」

 

「そ、そうなんだ……それならいいや」

 

とんでもない罵倒かと思ったが、フェイトは誇らしげな表情である。言葉通り、自慢げに微笑んでいるフェイトを見ていると怒るに怒れないし悲しむに悲しめない。かなり捻じ曲がっているがどうやら褒め言葉らしいので、なんとか前向きに受け取っておこう。

 

「狂気……徹ちゃんの場合、それが過言じゃないものね」

 

「飛行魔法の代わりに障壁を蹴ったりしてますからね」

 

「戦いかたが殴る蹴るって時点で相当ぶっ飛んでるし、拘束魔法で拘束せずに建物に使って崩して圧し潰すなんて発想は控えめに言ってやばい奴よ」

 

「ふふっ、さすがだね。みんなからも高評価」

 

「これを高評価と受け取れるほど、俺の頭はポジティブに作られてないんだ……」

 

主に俺がいじられているおかげで、フェイトもこの輪に馴染んできた。アサレアちゃんも含めて、三人とも気のいい人間なのでフェイトもすぐになれるだろうと確信してはいたけれど。

 

一頻(ひとしき)り俺をいじり倒して(フェイト曰く褒めていたらしい)一段落ついた時、俺はふと、一つの疑問が湧いた。

 

魔法生物とは具体的にどんな生き物なのか、魔法生物という(くく)りの中に、()を飛ぶ生き物はいないのかと尋ねようとしたその矢先のことだった。

 

「う、お……っ?!」

 

ぐらり、と明らかにこれまでの航行とは異なる挙動で、輸送船が揺れた。

 

「ひゃっ……」

 

「きゃあっ!?」

 

「おっと……。なんかやな予感……」

 

俺の隣にいるフェイトとアサレアちゃんが倒れて壁にぶつからないよう身体を支える。

 

先ほどの大揺れはもうないが、今なお安定した航行とは言い難い。二人を支えて身動きが取れない俺の代わりに、ランちゃんに頼む。

 

「ランちゃん、パイロットに事情を」

 

「わかったわ。クレインちゃん、姿勢を低くしていなさいな」

 

「は、はいっ」

 

今回の任務は少人数だ。よって乗り込んでいる船も前回と比べて小型で、十人ほどで満席となるような輸送船である。操縦席も近い。状況の確認にそう時間はかからないだろう。

 

「な、なんなのよ!乱気流なの?!」

 

「……乱気流みたいな揺れじゃなかったけどな」

 

先ほどの揺れは、まるでロックオンされた状態から抜けようとする戦闘機みたいな、左右に傾く揺れだった。なんにせよ、いい予感はしない。

 

「徹ちゃん、大変よ」

 

不安定に揺れる中、壁に手をついているもののちゃんと立って、ランちゃんが操縦席側から戻ってきた。

 

どうやら耳を塞ぎたくなるような情報を持ち帰ってきてくれたらしい。

 

「先を聞きたくなくなる導入はやめてくれ……」

 

「大変じゃないって言ってもこんな状態じゃ説得力ないじゃない。さっきクレインくんが教えてくれたでしょ、ここには魔法生物がいるって」

 

「まじかよ、やめてくれよ……」

 

俺の頭に浮かんだ疑問がそのまま形になって出てきてしまったようだった。

 

「そういうことよ。この船の後ろに大きな鳥みたいなのがいるわ。とっても危ない状況だって」

 

大きく横に振られたのは、件の巨大な鳥を躱した時の挙動だったのかもしれない。だとしたら、まだこうして無事に飛行できているだけパイロットに感謝すべきか。

 

「はあ……目的地までは?」

 

「もう近いらしいわ。だから高度を落としてて、大きな鳥に目をつけられちゃったみたいよ」

 

「大きな鳥……何種類か見当がつきますけど、ふだんはどの種も輸送船を襲うほど気性は荒くないはずですが……」

 

「普段がどうでも今襲われてりゃ関係ないよな。……仕方ないか」

 

このまま輸送船に乗り続けて巨鳥に襲われるのを待つわけにはいかない。なにより帰りの足がなくなってしまうなんて、考えるだに恐ろしい。

 

となれば、手は一つ。

 

「よし……降りるか」

 

「お、降りるって……ここからですか?高度を下げてるって言っても、まだ数千メートルはあるかと……。それにまだ降下予定地点まで距離が……」

 

「ここで輸送船が墜ちたら帰りどうするんだよ。新しい足を用意するのも時間がかかるだろうし、なによりパイロットが逃げられない。それなら俺たちがここで船を降りて、あとは自力で予定地に向かったほうが都合がいいだろ。運良く全員、飛行魔法を(たしな)んでいるんだし」

 

「ちょ、ちょっと!あんたは飛行魔法使えないんでしょうが!」

 

「うん、わかった」

 

「わかった、って……テスタロッサさん。こいつが心配じゃないの?一人だけ飛行魔法使えないのよ?一番危険じゃない」

 

「心配してくれるのは嬉しいけど、俺なら大丈……」

 

「あんたに言ってない!テスタロッサに聞いてるの!」

 

「アサレア、こんな時になにをっ……」

 

「クレイン兄も黙ってて!テスタロッサ!あんたは心配じゃないっていうの?!世話になってるんでしょ?!」

 

アサレアちゃんが、俺を挟んで反対側にいるフェイトに厳しめのトーンで言う。

 

ぴりぴりとした空気が漂う中、フェイトはその圧力に気づいているのかいないのか、いつもと同じ声音で答える。

 

「……心配?心配、もなにも……徹はこのくらいでどうにかならないから、徹はこのくらいじゃどうにもできないから、だから私は今ここにいるんだよ。このくらいで心配するなんて、逆に徹の力を信じていないのと同じ。私は信じてるから、心配してないよ」

 

フェイトにそんな気なんてないだろうが、捉え方によってはまるでアサレアちゃんを挑発しているようなニュアンスにもなってしまっていた。

 

「っ……で、でもっ」

 

首を傾げて、しかし考える様子もなく断言したフェイトに怯んで言葉に詰まりながらも、アサレアちゃんは言い返そうとする。

 

だが、その前にフェイトが続ける。

 

「それに、なにかあったら私が手伝うし助ける。だから、危ないことなんてないよ?」

 

「っ……。…………」

 

躊躇(ためら)いなく、そして何よりも自然に素っ気なく言い放ったフェイトに、アサレアちゃんは何も返さなかった。

 

声をかけたほうがいいのかもしれないが、アサレアちゃんのプライドの高さを考えると、下手に慰めるのも彼女を傷つけるだけになりそうだ。

 

ここは一度間を置くこととする。

 

「……異論があるなら今言ってくれよ。すぐ出るからな」

 

「いつでも行けるよ」

 

「異議なしよん」

 

「ぼ、ぼくも、大丈夫ですっ」

 

「……わたしもいいわよ、それで」

 

「よし、決まりだな。ランちゃん、降下予定地点は把握してるか?」

 

「もちろん」

 

「ならよし。じゃあ、先にみんなをよろしく」

 

「この、ば……っ!あんたはどうするつもりなの」

 

一瞬、アサレアちゃんにばかって言われかけたような気がする。

 

「巨鳥が追ってこれないようにしないといけないだろ?」

 

「それなら私たちのほうが断然向いてると思うわぁ。追ってこなくさせるだけなら、私たちが射撃魔法をばら撒けばいいだけだもの」

 

「そ、そうですよ、逢坂さん。前の任務では人一倍働いたんですから、今日は僕たちががんばりますっ」

 

「あんた、移動だけならともかく空中で戦うってなったらさすがに面倒でしょ」

 

「うん。任せて、徹」

 

「ああ、そうだな……はは。ほんと、頼りになるよ。……それじゃあ、任せた」

 

思えばここにいるメンバーは、飛行魔法に加えて射撃・砲撃魔法まで使える才気才能溢るる魔導師たちだ。生半可な部隊を超える戦力がある。半端者が出る幕などないだろう。

 

フェイトたちに丸投げしちゃうこととしよう。としたが、アサレアちゃんが、フェイトに怪訝そうな目を向けた。

 

「……テスタロッサは戦えるの?」

 

フェイトの華奢な外見から不安になったのだろう。見るからにか弱そうな容姿、儚げな印象。激しい戦闘に耐えられるとは、初見ではとても思えない。

 

まあ、杞憂だけれど。

 

「一対一でまともにやり合えばこの中で一番強いぞ」

 

「この中で、ってことは……徹ちゃんよりってこと?」

 

「実際やりあって俺負けてるし」

 

「あれは、徹は魔法を知ってすぐだったから……。きっと今やれば結果はちがうよ」

 

「……なにそれ、本当に?」

 

「フェイトは近距離から中距離がメインでな。飛ぶのもうまい。そのあたりは安心してくれていいよ」

 

「もう、徹やめてってば」

 

「そう……っ」

 

「もちろん、アサレアちゃんにも期待してるからな」

 

「ふ、ふんっ!あんたは黙って後方でわたしたちの活躍を眺めていればいいわ!」

 

「その調子で頼むよ」

 

ちら、と兄のクレインくんに視線をやる。彼は何も言わず、こくりと頷いた。アサレアちゃんが張り切りすぎて空回った時はフォローをよろしく、という意思はちゃんと伝わったようだ。

 

「ランちゃんは……特に言うことはないな」

 

「なによ徹ちゃん、ちょっと冷たいんじゃないかしら?」

 

「心配することもないし。いつも通りやってくれればいいよ。そういえば、前のどでかいデバイスは?」

 

「壊されちゃったもの。修理するにも新しいのを作るにも時間がかかるから、今回はこっちだけよ」

 

ランちゃんが取り出したのは、前の任務でも見た大型自動拳銃みたいなデバイスだ。

 

「火力は劣るけれど、手数と取り回しならこっちのほうが良いの」

 

「なら問題は」

 

「ないわね」

 

ぱちん、と実に様になっているウィンクを飛ばしてくる。アイドルやモデルそこのけの自然な仕草だったのだが、相変わらず背筋に走るこの強烈な寒気。

 

みんなの調子が確認できた頃、再び大きく船が揺れた。

 

状況が逼迫しているのかもしれない。急いだほうがよさそうだ。

 

パイロットに事情を話し、船体後部のランプドアを開けてもらう。最初はパイロットも躊躇していたが、限界が近かったのかこちらの意を汲んでくれた。

 

扉が開く。光と、気圧差による強風が船内に差し込まれる。

 

「うわっ……おっきい……」

 

「お嬢ちゃん、そんな囁くようなトーンで言ったらいやらしく聞こえるわよ」

 

「はぁ?なに言って……っ!この変態!セクハラよランドルフ!」

 

「同性なら問題にならないわぁ」

 

「しっかり異性でしょうが!」

 

ランちゃんの軽口は、気圧されそうになったアサレアちゃんへの発破だったのだろう。軽口でも叩かないと直視してられないような衝撃が、目の前に広がっている。

 

小型旅客機ほどもある巨躯に、猛禽類よりも鋭い血走った眼光、人の身体どころか金属すらも容易く貫いてしまいそうな(くちばし)、太い脚の末端には刃物よりも鋭く切り裂けそうな鉤爪(かぎづめ)。大きな翼を羽撃(はばた)かせるその姿は、まさに空の王者と呼ぶにふさわしい威容だった。

 

「斉射した後、船を降りる。各自用意」

 

俺の指示にみんなが呼応する。

 

周囲に次々魔力球が浮かぶ中、バリアジャケットを着装したフェイトに声をかける。

 

「フェイト、深追いはしなくていいからな。追い払うだけでいいんだから。危険を感じたらすぐに退がるんだぞ。姉ちゃんからフェイトに怪我させるなってきつく言いつけられてるんだ。もちろん、俺もフェイトに怪我なんかしてほしくない」

 

「うん。でも、徹もね」

 

「ん?俺?」

 

フェイトはくすりと笑って、頭の両側で結われたツインテールをなびかせて俺に向く。

 

「私もアリシアから言われた。ぱ……っ、パパは無茶しがちだから、助けてあげてねって」

 

『パパ』と呼ぶ時、恥ずかしそうに言い淀んでいたことに愛らしさを感じ、その内容には愛を感じた。

 

アリシアも、姉ちゃんも、家で俺とフェイトの帰りを待っている。なるべく怪我なく、必ず帰らなくてはいけない。改めて、そう思う。

 

「そんなら頼らせてもらうぞ、フェイト」

 

「うん。いっぱい頼ってね」

 

満足げに頷いたフェイトの頭を撫でて、扉の先の巨鳥を見やる。

 

準備を終わらせた各員に、告げる。

 

「総員、放て」

 



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この世界の生き物

 

色とりどりの光球が巨鳥に向かって殺到する。

 

いくら空を飛ぶといってもこれだけ数を揃えれば当たるだろうし、いくら巨大でも多く当たれば怯むだろう。もしかしたら俺たちを諦めるかもしれないし、これだけの魔力弾に撃ち据えられればもしかしたら墜ちるのでは。

 

などと考えていた。俺のそんな甘い目論見を、巨鳥は容易く切り裂いた。

 

「んなっ……」

 

発射された、ほぼ瞬間だった。少なくとも一秒も二秒も誤差はなかったろう。

 

巨鳥は大きな翼をたたみ、尾羽を器用に動かしてランプドアの開閉範囲の外まで急降下した。

 

ほとんどの魔力弾を避け、同時に俺たちの視界から消えた。

 

「はっやいわねぇ……」

 

「ちょ、ちょっとっ、どうすんのよ!見えなくなっちゃったわよ!」

 

「予定通り降下する!あの鳥が高度を下げたんなら、見えてなくても少しは距離が取れたはず。今のうちに俺たちにターゲットを移させて船を離脱させる!」

 

俺は船体後部の開け放たれたランプドアから一足先に飛び降りる。

 

眼下に広がるのは、一面緑のカーペット。目が眩むほどに遥か下方では、小さな点が蠢いている。あれらも、この世界にいる魔法生物なのだろう。

 

人を圧倒する壮観を前にして、気づくのが遅れた。

 

「あのでかい鳥が……いない!?」

 

確かに急降下したはずなのに、俺が俯瞰する景色の中にいない。

 

となれば、信じがたいが可能性は一つしかない。自然落下しながら仰ぎ見る。

 

まず目に入ったのは、俺に続いて降りてくるフェイトとランちゃん。少し距離が開いてクレインくん。輸送船に近い位置で身体を縮めて杖をかき抱くようにしながらアサレアちゃんが降下してくる。

 

その上(・・・)に、巨鳥がいた。

 

なんと高度は、輸送船よりも上に位置している。

 

翼を広げた状態で背中をこちらに向けていたが、そこから一度たたんで半回転、まさしく鳥瞰する位置取りになる。

 

それは、鳥類が狩りをする体勢ということで。

 

つまり。

 

「大ピンチ!」

 

足元に足場を作って急上昇。のしかかってくる重力に身体が軋む。

 

おそらくあの鳥は、戦闘機でいうバレルロールのような機動で反転しながら高度を上げたのだろう。

 

輸送船の後部のランプドアからでは視野が限られる。高度を下げて視界から外れ、大きく弧を描くことで死角を通って上へと移動した。偶然だと思いたいが、それら一連の動きを巨鳥が理解した上で行ったのだとすれば、大変な脅威である。

 

「あの大きさでなんであんな動きができるんだよ!」

 

「え、上?」

 

「賢いわね……鳥のくせに」

 

「フェイト、ランちゃん、射撃準備!」

 

「でも、あの子が……」

 

「お嬢ちゃんが射線に入るわよ?」

 

「アサレアちゃんは俺が引っ張り出す!二人はいつでもあれをでかい焼き鳥にできるように準備しといてくれ!」

 

「わかった」

 

「はぁい。まったくお嬢ちゃんは今回も手がかかるわねぇ」

 

二人の返事を背中に受けながら、足場を蹴って高度を上げる。

 

だが、一番最初に降りた俺と一番最後に降りたアサレアちゃんでは高度に差がある。巨鳥のほうがアサレアちゃんにわずかに近い。

 

「まっず……っ!」

 

巨鳥の鋭い目が、明らかにアサレアちゃんを捉えていた。足は標的を捕まえようと小さく動き、大きな翼は角度を変え、尾羽は揺れる。

 

「あとで怒っていいから我慢してくれよ!」

 

鎖型の拘束魔法を展開、と同時にアサレアちゃんに伸ばす。巻きついたことが確認できたら急いで鎖を引っ張った。

 

「ひゃあっ?!」

 

「よっ、と……」

 

土木用クレーンのアームのような強靭な巨鳥の足がアサレアちゃんを捕まえる前に、俺が掻っ攫う。

 

間を置かずにクレインくんに離れるよう指示する。

 

獲物を捕らえ損なった巨鳥の足は空を掻く。僅かながらバランスを崩していた。アサレアちゃんはかなりのピンチだったが、今度はチャンスが巡ってきた。

 

「フェイト!ランちゃん!」

 

「準備万端」

 

「まっかせなさい!」

 

さほど効果はないだろうが気休め程度の拘束魔法を巨鳥に仕掛けながら、二人の射線から外れる。

 

見下ろせば、フェイトは発射体を複数用意して杖を構え、ランちゃんは銃口を巨鳥に向けて周囲に光球を浮かばせていた。ウィルキンソン兄妹が攻撃に含まれていないぶん、弾幕の密度は薄いが、しかし、この二人の火力は折り紙つきだ。

 

きらりと光が瞬く。

 

「ファイア」

 

『Fire』

 

「爆ぜなさぁい」

 

二人の声の中に、バルディッシュの声も聞こえた気がした。

 

煌めく金色と、その影に潜む灰色。重力に逆らうように下から上へ、天に昇る魔力弾の雨。

 

巨鳥も崩れた体勢から回避行動はできなかったようだ。二人の魔力弾とおまけの砲撃をまともに浴びた。

 

輸送船から放った魔力弾でもいくつかは当たっていたが、あまり効果は見受けられなかった。だが、今回は違った。巨鳥は苦痛からか、金属と金属を擦り合わせたような不快で奇怪で薄気味悪い叫び声を上げた。

 

「なにあの声なにあの声きもいきもいきもいっ……っ!」

 

予想外の鳴き声に俺もさすがにぎょっとしたが、腕の中のアサレアちゃんはもっと驚いて、というか怯えていた。

 

服にしがみついて、なかなか自分で飛んでくれないので俺としては動きづらいことこの上ないが、暴れられるよりはましなので黙っておく。

 

「あれだけの魔法を受けて、まだ沈まないんですね……」

 

「でかいだけあって丈夫だな……」

 

巨鳥の様子を観察していた俺に、クレインくんが近づいてきた。

 

クレインくんの言う通り、フェイトとランちゃんの射撃・砲撃魔法を強かに被弾してもなお、巨鳥は己の力で空にいた。二人の魔法が殺傷目的ではなく、行動不能にするためのスタンモードだったことが理由かはわからない。ただ単に巨鳥がタフなのかもしれない。なんにしろまだ飛行できていることは、驚嘆に値する。とくに、フェイトの魔法を受けていながらというのは。

 

「とはいえ……さすがにダメージは入ってる。速度は落ちたし反応も鈍い。輸送船は離れられたみたいだし、今のうちに予定地点に急ぐぞ」

 

 

 

 

 

 

「まったく、初っ端(しょっぱな)から幸先いいよな」

 

「そう?大きな鳥に襲われたし、どちらかというと悪いんじゃないかな」

 

「フェイト、さっきのは皮肉なんだぜ」

 

輸送船から緊急降下し、上空で巨鳥と戦闘してから相当な距離を移動してようやく、当初予定していた降下地点に到着した。

 

降下地点といっても、なにか目印があるわけでも目ぼしいものがあるわけでもない。あたり一面新緑の草原が広がっている。遠くには標高の高い山々が連なり、丘がちらほら見える。どこかから奇妙な鳴き声が聞こえたり、山に反響して耳にしたことのない遠吠えがしなければ、ここでのんびりお弁当を広げたいくらいだ。

 

「……ここ、なにもないわよ」

 

「ん?まあ、そうだな。自然豊かなことを除いたらなにもないな」

 

「今回の任務って、珍しい金属が採れるっていうところの地質調査よね?そういうところってふつう山なんじゃないの?こんな草原にはないでしょ」

 

「んー……」

 

「ないでしょ?」

 

「……ないな」

 

「あ、ないんだね」

 

「じゃあなんでこんな草っ原が予定地になってんのよ!『陸』の奴らはその金属が見つかるとこまで行ったんでしょ?!ならそこを降下予定地にすればいいじゃない!」

 

「その場所を教えられてないんだなー、これが」

 

「なんで聞いてないのよ!」

 

「降下地点の座標を伝えられたんだ。てっきりその近くが調査箇所だと思うじゃん?俺の上司がなにも言わなかったってことはたぶん、情報が回されてないんだろうな」

 

「だろうなって……こっからどうすんのよ!」

 

「サーチャー飛ばしてるからそのうち見つかるって。それまでこの自然を味わおうぜ」

 

「キャンプやハイキングにきてるんじゃないのよ!……はぁ」

 

ぐぐっと背伸びする俺に、アサレアちゃんは呆れるようにため息をついた。

 

俺は緑色の絨毯に腰を下ろすと、そのまま寝っ転がった。

 

夏が目前に迫った日本とは違い、背の低い草を撫でる風は涼しく、(まば)らに流れる雲は高い。気温といい湿度といい風速といい、実に過ごしやすい環境だ。

 

「なんか空気もおいしい気がするよなー」

 

「本当ねぇ」

 

「横になったし……。ランドルフ!」

 

「なによ。お嬢ちゃんも今のうちにゆっくりしときなさいな。いざとなった時に気を引き締めればいいのよ。緊張しっぱなしだと、いざとなった時に動けないわよ」

 

「さ、さっきのはちょっと……油断しただけで!」

 

「油断してる時点でだめなことに気づいているのかしら。どうして飛行魔法を使える魔導師が高いところを怖がるのよ」

 

「だ、だって!いつもよりぜんぜん高いところだったし!あんなところから降りたことなんてないわよ!」

 

「高度が一メートルだろうと一万メートルだろうと変わりはしないわよ。徹ちゃんが真っ先に降りたっていうのに、お嬢ちゃんときたら……」

 

「あいさっ……こいつは例外でしょ!」

 

「アサレア、静かに。動物が寄ってくるよ」

 

「わ、わかってるわよ……って!テスタロッサ!あんた、なにしてんの!」

 

「え?徹やランにならってくつろいでる」

 

「うふふ、ラン呼びいいわぁ」

 

「ランさん、寛大だなぁ……」

 

アサレアちゃんがランちゃんと口論している間に俺の横にフェイトが寝転がっていた。当然のように俺の腕を枕にしている。家でもやっているので気づかなかった。

 

「のんきな奴らっ!」

 

「まあまあ、アサレアちゃんもゆっくりしときなって。ついさっきサーチャーで目的地っぽい山を発見した。まだ入り口まではっきりしてないけど、そのうち動くことになるんだ。場所が決まるまではゆっくりしようぜ」

 

「……あんた、一緒に行った前の任務じゃ、もっと真面目にやってたじゃない」

 

「あの時は真面目に頑張らないと危険だったからだ。今日は違う」

 

「徹は基本、こんな感じだよ」

 

「頑張らなくていい時には手を抜くし、気も抜くし、力も抜く。それが大事な時に頑張れる秘訣だ」

 

「……ふんっ。そう。ならわたしもゆっくりさせてもらうわよ!」

 

つんつんした声で、アサレアちゃんは腰を下ろした。

 

俺の腹に。

 

「かふっ」

 

「ふん。無防備にお腹をさらしてるほうが悪いのよ」

 

「お嬢ちゃん、ついさっきも守ってもらっといて、よくそんなことができるわね」

 

「そ、それとこれとはべつよ!」

 

「大丈夫だよ。私とアリシアが乗っても平気だもんね、徹は」

 

「……こんな小さい子になにさせてんの?」

 

「俺がやらせてんじゃねえよ……」

 

あらぬ疑惑をかけられそうだ。

 

話を逸らすのと本心半々で切り出してみる。

 

「そういえばあの鳥、なんであんなに丈夫だったんだろうな」

 

つい先刻、遭遇した巨大な鳥。あいつに対する興味が尽きない。異常なまでのタフネスと魔法に対する抵抗力、そして、あの巨躯でありながらあのマニューバ。とてもではないが自然なことではない。

 

俺としては知的好奇心が本意だったのだが、その巨鳥で怖い思いをしたアサレアちゃんは穿って捉えたようだ。

 

「なに、嫌味?」

 

「人の腹に乗っかったままよくそんな不遜な顔ができるなー……」

 

「ごっ、ごめんなさっ……」

 

「いや、冗談だって。なに本気にしてんの」

 

「徹はこのくらいで怒ったりしないよ。ね」

 

「そーそー。これでいちいちキレてたら、俺そのうち脳溢血(のういっけつ)で死んじまうわ」

 

「徹ちゃんはいったいどんな日常を送ってるのかしら」

 

「そ、そう。なら……気にしないけど」

 

浮かしたお尻を再び俺の腹に置く。アサレアちゃんは気にしていない風を装っていたが、めちゃくちゃ気にしているようだった。さっきみたいにどかっと座るのではなく、座ったように見せかけてほとんど体重をかけていない。

 

「なに気つかってんの?」

 

「あ、あい……あんた相手に気なんて使ってないわよ!」

 

ふんっ、と鼻を鳴らして開き直ったように全体重を傾けた。アサレアちゃん程度なら重いというほどでもない。

 

「大丈夫?徹ちゃん」

 

「軽い軽い」

 

「よかったわね、お嬢ちゃん。軽い女で」

 

「それ意味がちがうでしょ!それにどっちかっていえばわたしよりテスタロッサのほうがひどいでしょ!」

 

「あら、お嬢ちゃん。言いがかりはいけないわ」

 

「テスタロッサさんに失礼だよ、アサレア」

 

「クレイン兄なんてテスタロッサが、そのいかがわしいバリアジャケットになってから目も合わさないくせによく言えたわね!このむっつりロリコン!」

 

「なっ?!や、やめてよ!」

 

「むっつり?ロリコン?徹、どういう意味?」

 

「かわいい女の子が好きだけどそう告白はできない人だ」

 

「うまい表現の仕方もあったものねぇ」

 

「それなら知ってる。奥手だ。クレインは奥手なんだね」

 

「そ、そう、だね……あはは」

 

「そのテスタロッサのかっこ……あんたが強要してるんじゃないでしょうね」

 

「フェイトのバリアジャケットは防御を排した素早さ極振りっていうコンセプトがあるんだ。俺が会う前からこのバリアジャケットだったんだからな、ちなみに」

 

「ふんっ、どうだか」

 

このような素晴らしい快晴の中、アサレアちゃんの冷たい目が上から降り注ぐ。何をそう機嫌を損なうことがあるのか。

 

「……ん?」

 

寝転がっていたからだろう。かすかな音と地揺れを感じた。

 

やいのやいの言っているアサレアちゃんには申し訳ないがちょっと意識の外に置いといて、音と震動に注意を向ける。

 

周辺を探索するためのサーチャーをばら撒いた時に、安全のためこの付近を俯瞰できる位置にサーチャーを配置しておいた。そのサーチャーから送られてくる視覚情報を確かめるが、とくに異常は見受けられなかった。

 

「ちょっとあんた!聞いてんの?!」

 

「…………」

 

「な、なによ、怒ったの?」

 

「…………」

 

「……なんか、言いなさいよっ」

 

寛いでいる俺たちの近くは新緑色の草原が広がるのみ。

 

音も震動も気のせいなのかと思い始めてきた。音は生き物の遠吠えや風で、震動は俺の腹の上でわたわた慌てているアサレアちゃんが原因ではないのか。

 

またリラックスモードに入りそうになった時、一陣の風が草原を吹き抜けた。青々とした草を揺らして広がる様子はまるで波のようだった。

 

そこでようやく、サーチャーからの視覚情報の違和を感じ取った。

 

風に揺れ立つ緑色の波紋、その一部が大きな壁に遮られたように動かなかった。

 

俺たちのすぐ後ろ、五十メートルも離れていないところが、動かなかった。

 

「っ!?」

 

弾かれるように上体を起こす。

 

「わっ」

 

「きゃあっ?!」

 

腕枕していたフェイトと俺の腹に腰掛けていたアサレアちゃんが驚いていたが、すでにそちらに配慮している余裕はない。

 

俺が急に動いたことで、向こう(・・・)も気づいたようだ。気づかれたことに、気づいたようだ。

 

「全員飛べ!」

 

叫ぶ。なるべく簡潔に、端的に。

 

俺の近くにいたフェイトとアサレアちゃんを担ぎ、上空へ放り投げる。

 

「っ、わかった」

 

フェイトは急に投げ飛ばされたというのに、疑問を呑み込んで俺の指示に従ってくれた。瞬時に魔法を展開し、急浮上していく。

 

「失礼するわね、クレインちゃん」

 

「わっ……」

 

「ぎゃふっ……」

 

「あら、お嬢ちゃん。ごめんあそばせ」

 

クレインくんとアサレアちゃんは反応が遅れたが、ランちゃんが地上にいたクレインくんを抱えて飛び上がり、空中でアサレアちゃんをキャッチした。アサレアちゃんを柔らかく抱きとめることもできただろうに、わざわざ服の襟首を掴んでいた。

 

若干一名は苦しそうだけれど、とりあえず安全は確保できた。

 

「なん、だ……蜥蜴(とかげ)、か?」

 

近づいて、目を凝らして、ようやくわかる。恐怖心をそそるフォルム、鱗に覆われた外皮と鋭い牙と爪。外見は蜥蜴に酷似しているのだが、鱗の色が、風景とほぼ同化している。獲物に気づかれずに接近するためだろう。それはまるで(たこ)烏賊(いか)の擬態をそのままアップグレードさせたようなカモフラージュ技術だ。

 

姿勢を低くし、足音すら消し、息も殺して近づいていた。

 

だが、気づかれたと理解した今、とかげもどきはもう、ゆっくりとしたのろまな忍び足で移動なんてしない。

 

大型トラックに手足と尻尾が生えたような大きな身体からは想像できない俊敏な動きで距離を詰める。

 

「よっしゃこい……って、おい!」

 

構えて接敵に備えたが、とかげもどきは俺を見ていなかった。特徴的なぎょろりとした縦長の瞳孔は上空に向けられている。

 

標的は、まだ高度を上げきっていないアサレアちゃんとクレインくん、そして二人を担いでいるランちゃんに向けられていた。

 

とかげもどきの足がぐっと縮められる。

 

「ちっ……」

 

このとかげもどきの俊敏性と精度の高い擬態能力、その前に遭遇した巨鳥の機動性能を鑑みるに、この世界の生き物のポテンシャルは一般常識では計りえない。

 

ランちゃんたちまでの高さ十数メートル程度、とかげもどきの爪はゆうに届く距離だろう。

 

というか、一番近くにいる俺をなぜ無視するのか。

 

「舐めんなよおらっ!」

 

狙う基準はわからんが、素通りされるのはいらっとくる。

 

幸い、とかげもどきは視線を上に向けている。外皮は硬そうだが、身体の下側はまだ柔らかそうだ。そのがら空きの(あご)まで襲歩による急速接近。ショートアッパー気味に拳を打ち込む。

 

この巨体だ。軽自動車みたいな頭部だけでも相当な重量だろうとは思っていたが、俺の目算を超えていた。

 

(かった)ぁっ……(おっも)ぉっ……」

 

重さもさることながら、外皮の強度を計り損ねた。振り抜いた右手がじんじんする。

 

とはいえ、鱗部分よりかは比較的脆い身体の下側、多少は衝撃が(とお)ったようで、とかげもどきはあお向けにひっくり返った。

 

「フェイト!」

 

「うんっ。サンダースマッシャー」

 

とかげもどきの腹に雷の柱が突き刺さる。肉の焼ける匂いととかげもどきの断末魔、瞼を貫く雷光と耳を劈くスパーク音があたりに撒き散らされる。

 

とかげもどきが気絶したかどうかを見届けることもせずに、すぐさま地面を蹴って走り出す。

 

「徹ちゃん、ありがとう。助かっ……って、どこ行くの?」

 

「これだけ派手に魔法使って音も光も出したんだ!他にもわらわら寄ってくるぞ!」

 

「で、でもっ、どこ行くっていうの!下手に動いて囲まれでもしたらっ……」

 

ランちゃんにも放り出されてなんとか飛行魔法に移ったアサレアちゃんが、俺の後ろを追いながら言った。

 

「鉱山の入り口みたいなところを見つけた。図体のでかい生き物は入れない。そこに向かう」

 

「で、でも、その洞窟に何がいるかわかりませんよっ」

 

「でもねぇ、クレインちゃん。さっきのとかげみたいなのとか、大きな鳥がいる草原をあてもなく走り回るよりかはましじゃないかしら?お仕事もあることだしねぇ」

 

「おしごと……あ、地質調査……」

 

「そうだぜ、まだ任務は始まってすらないんだから。あとフェイト、もうちょい高度落としといてくれ。上空に鳥が集まってきてる」

 

「大丈夫、わかってるよ。こっちを狙ってきたら撃ち墜とすから」

 

「そういうことじゃないんだけど、まあいいか。よろしく」

 

「フェイトちゃん頼もしいわぁ。戦い慣れてる感じするわよねぇ」

 

「そう、かな?みんなの役に立てればうれしいけど……」

 

「もう役に立ってるわよぉ!さっきのとかげを仕留めた砲撃も、大きな鳥も、フェイトちゃんがやっつけてくれたんだもの!」

 

「やっつけたっていうか、退けただけだけど……それなら、よかった」

 

面映そうに笑みをこぼすフェイトに、ランちゃんは相好を崩した。

 

「はぁー……いい子ねぇ、フェイトちゃん。私もこういう娘が欲しいわぁ」

 

「……嫁とるわけ?」

 

「私が産むわ」

 

「産めないでしょっ!」

 

「アサレアちゃん静かにな」

 

「むむっ……」

 

「やっぱり男はお淑やかな女の子に惹かれるものなのよ。……っと」

 

お喋りしながらも警戒は怠らないランちゃんは、アサレアちゃんの進行方向の岩陰に潜むどでかい猪を撃ち抜く。

 

「ランちゃんナイス」

 

「ふふ、ありがと」

 

「そうだ、みんなに言っとくけど、攻撃するのは襲ってくるのだけでいいからな。基本は速度優先だ。ここで無駄に体力使いたくない」

 

「うん、わかった」

 

「了解よん」

 

「は、はいっ」

 

「っ……はいはい」

 

ぐんぐんと速度を上げ、サーチャーで発見した鉱山の入口へと急ぐ。

 

常軌を逸するほど巨大な生き物ばかりを目にしてきたが、みんながみんな大きいわけじゃない。地球にいるようなサイズの動物もいる。いや、やっぱり大きいけれど。さっきから大型自動二輪を二台くっつけたくらいのサイズの猪みたいな動物が地上を追っかけてきている。機関銃の発砲音みたいな地面を蹴る音が恐ろしい。

 

「左から三、近くのが早い。ランちゃん」

 

「はぁい。このデバイスだと遠いのはつらいのよねぇ」

 

などと言いながらランちゃんは射撃魔法を、しかも誘導型ではなく直射型をきっちり三発、とんとんとん、と軽く放つ。

 

でかいといっても輸送船を襲った巨鳥のようなサイズではない。めちゃくちゃ身軽なサイのような的だ。それを百メートル以上離れて、しかも相手も自分も動いている状態で命中させる。とんでもない腕だ。

 

「あー……最後の一発はちょっとだけ左にずれちゃったわねぇ」

 

「ランちゃんの狙撃ってなんか特別な魔法使ってんの?」

 

「そりゃそうよ。生身でこんなのできないもの」

 

言いながらランちゃんは魔法を展開する。銃型のデバイスにうっすらと光を灯し、ランちゃんの目が灰色の魔力色に変わる。

 

「望遠と相手までの距離がわかるって効果があるの。便利よ」

 

「相対的な速度計算は自力かよ」

 

「計算じゃないわぁ。慣れよ」

 

「ちょっとデバイス触らせてもらっていい?」

 

「え?ええ、いいわよ」

 

ランちゃんの自動拳銃式のデバイスに指先で触れる。術式を覗かせてもらったが、たしかに誘導補助などのプログラムはない。いったいいつからこの戦い方をしているのか、フェイトやクロノの射撃魔法とはまた異なるベクトルに熟達している。

 

「あー……まずい」

 

順調に進んでいたが、進行方向とは逆の方向を移動中のサーチャーが不吉な雲を見つけてしまった。

 

「なによ!これ以上まずいことがあるの?!」

 

「小さい鳥が、つっても人の頭くらいはあるんだけど、その鳥が群れでわんさかきた」

 

「小さいんなら、まだっ、はぁっ……撃ち墜とせるんじゃないの?!」

 

クレインくんと一緒に並走して、鳥やら虫やらを魔力弾で排除しているアサレアちゃんが怒鳴る。彼女も彼女で必死な様子だ。

 

「空が黒くなるくらいの数なんだけど、撃ち墜とせそう?」

 

「ふざけんな!方法、っ……なにか方法考えなさいよ!」

 

「方法って言われてもな……。フェイト、大丈夫か?」

 

「……まだ大丈夫。ただ、これ以上増えてくると魔力が不安かな……」

 

射撃魔法が得意なメンバーが多い中にあっても、フェイトの活躍は際立っていた。フォトンランサーを吐き出す発射体を従えて、大型鳥類を牽制し、弾幕で近づいてくる椋鳥(むくどり)みたいな鳥を撃ち墜とす。上空からの敵はほとんどすべてフェイトが対処するという、八面六臂の大活躍である。

 

魔力を電撃へとコンバートするという、フェイトの先天的な魔力変換資質もあいまって、相手を怯ませるにはフェイトの魔力弾は極めて有効だった。

 

そんなフェイトをもってしても、バランスボールサイズの椋鳥(むくどり)みたいな鳥相手では分が悪い。一羽二羽ならなんてことないが、こちらは少人数なのだ。数で押されると、押し返すのはどうにも難しい。

 

それらを一つ一つ墜とすよりも、逃げるほうが魔力の効率はいいだろう。逃げるに勝る策はなし。

 

「鉱山は近い。全部吹っ切るつもりで飛べ!」

 

「りょ、了解……ですっ」

 

「っ、はぁっ、くっ……あんたとの任務は毎回疲れるわよ……」

 

「退屈しないのはいいことよ。成長できるもの」

 

「やっぱり前の任務も大変だったんだ。徹はいつもそんな感じなんだね」

 

「それについては俺の責任じゃないからな。……ペース上げるぞ。遅れるなよ」

 

空気の壁を緩和するために、三角錐状の障壁を前方に展開。足場を強く踏み締め、鋭く跳躍する。

 

「んっ……なんで飛行魔法使えない奴が一番先頭を走れるのっ……。わたし、飛行魔法の成績はトップだったのにっ」

 

「徹はまだ全力じゃないよ?本気だったら、徹は目で追えなくなるから」

 

「人間じゃないっ!飛行魔法なんていらないじゃないの!」

 

息の荒くなっているアサレアちゃんが失礼なことを言っている。目的地を知っているのは俺なので、必然、俺が先導しなければいけないだけなのに。

 

鳥の群れが目視でも確認できるくらい近づいた頃、周囲の風景が変わってきた。緑が減っていき、土と石と岩の割合が多くなっていく。このあたりになると丘が増え、高低差が多くなってくる。まさしく山の麓といった印象だ。

 

地面がでこぼこして走りにくいからか、猪みたいな陸生の生き物は追ってこなくなった。

 

「ふぅ、はぁっ……っ!もう、羽音がっ、聞こえてるわよ!」

 

「もうすぐなんだ、がんばってくれ」

 

猪の代わりに、でかい椋鳥みたいな群れがすぐ近くまで迫っていた。

 

「徹、徹。鳥の数、ちょっと減ってる」

 

「え?」

 

もはやサーチャーを使うまでもない。肉眼で確認できる。

 

「あ、本当だ。減ってる……なんでだ」

 

原因を探ろうと他のサーチャーからの視覚情報を受信する。俺のサーチャーは足が遅いので、移動速度についてこれなかったサーチャーがこれまでの道にまだちらほらある。

 

そのおかげで、決定的にして衝撃的な光景を目撃した。

 

「やっば!あの鳥やっば!めちゃくちゃ肉食だ!猪喰われてる!」

 

「ふっ、ふざけんなーっ!」

 

アサレアちゃんのお口の乱れに拍車がかかってきた。

 

猪たちが追ってこなくなったのは路面状況が悪くなったからではなく、違う外敵に襲われたからのようだ。

 

「なるほどねぇ。ご飯を食べ損ねたのが今追ってきてる群れなのね」

 

「冷静に分析してる場合じゃないですよランちゃんさんっ」

 

「徹、この調子だともうすぐ追いつかれそうだよ」

 

「もうすぐ……あ、あれだ」

 

山にぽっかり空いた穴を指差す。自然にできたようには思えない丸みを帯びた、山への入り口だ。

 

近くにもちらほら入り口があったが、他の穴は直径が小さい。戦闘になった時不利になりそう。しかし大きすぎては入口を塞ぎにくくなるので、手頃なサイズ感の穴を目指す。

 

他にもめぼしい入り口はあったが、その近くでくの字に曲がった動物の骨が転がっていたので不吉に思い、その道はやめておいた。

 

「で、でも、逢坂さん、坑道内に入っても、あの鳥は追ってくるんじゃ……」

 

「塞ぐから心配無用だ」

 

襲歩で加速。一足先に坑道入り口に辿り着くと中を覗き見る。とりあえず、中に巨大な蚯蚓(みみず)みたいな生き物がいなくてよかった。

 

安堵して、椋鳥に追われているみんなを見る。

 

一番最初にゴールしたのは予想通り、フェイトだった。

 

「おつかれ。さすがに早いな」

 

「徹、入らないの?」

 

「俺は最後に入る。フェイトは早く奥に行ってやってくれ。みんなが入れない」

 

「……わかった。一応フォトンスフィアを置いとくね」

 

「おー、ありがとな」

 

自分の身体の周囲に浮かばせていたフォトンランサーの発射体を入り口前に配置して、フェイトは坑道の奥へと歩いていく。

 

フェイトの次はランちゃん、クレインくんと続いて、最後はアサレアちゃんだった。

 

「はぁっ、はぁっ……」

 

「アサレアちゃんはもっと効率よく魔法を使う技術を身につけないといけないな」

 

「わかったからっ、あの鳥が入ってこないようにどうにかしなさい!」

 

「はいよ」

 

入口の穴の直径は、おおよそ縦が二メートルから三メートル、横幅は三メートルから場所によって五メートル程。この程度の入り口ならば、それほど苦労せずに閉じることもできる。

 

「はぁっ……ふぅ。入り口、崩すの?」

 

「いやいや、道が続いてなかったら大変だろ?障壁で蓋をする」

 

手をかざして発動準備。安全性を重視して魚鱗に近い術式にするか、それとも普通の防御術式で省エネするか逡巡していると、鳥の群れの変化に気づいた。

 

「……近づいて、こない」

 

入り口の近くまでは気でも触れているみたいに鳴き声を上げながら飛んできていたのに、そこから坑道の内部へと入ろうとはしない。

 

近くの木に止まってこちらを睨み、口惜しげにぎゃーぎゃーとけたたましく鳴き声を坑道内に反響させる。負け犬の遠吠えのように聞こえるのはなぜだろう、相手は鳥なのに。

 

「狭くて暗いから入ってこないのかしら?」

 

「ここまで追いかけてきたあの勢いだと、炎の中にすら飛び込んできそうだったけどな……」

 

「ふぅ、はぁ……っ。入ってこないんなら都合がいいじゃない。はやく本来の任務を済ませなきゃ」

 

「で、でも、アサレア。あれだけ追いかけてきた鳥たちが入ってこないということは、この中には相当の危険があるってことじゃ……」

 

「それも進んでいかなきゃわからないじゃない」

 

「徹、どうする?進む?」

 

進むべきとするアサレアちゃんと、坑道内部は危険なのではと警戒するクレインくん。二人を眺めていたフェイトが、俺を見上げて問うた。

 

「このまま外に出ても鳥たちのお昼ご飯になるだけだし、なにより任務が終わらん。危なそうなら、その時どうするか考える」

 

「そんなのでいいの?」

 

「俺はだいたいそうやってきたぞ?」

 

「それは……徹ちゃんだから生きてこられたんじゃないかしら?」

 

「とりあえず進もうぜ。ここから出るって選択肢はあってないようなもんなんだからな」

 

入り口に背を向けて、坑道の奥に目をやる。幸いにして道はある。道があるのなら、進むべきだ。

 



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アクシデント

前に1日休んじゃった分、ちょっとがんばって今日もう1本更新です。


「壁、床、天井も……光ってるな」

 

「これのおかげで真っ暗にならないのね。……助かった」

 

「よかったな、アサレアちゃん」

 

「なんあななにが?!意味がまったくわかんないんだけど!」

 

「暗いところ、苦手なの?」

 

「は、はぁっ?!苦手じゃないわよ!子どもじゃないんだから!きらいなだけよ!」

 

「……どうちがうの?」

 

「ぜんぜんちがうわよ!」

 

「アサレアちゃん、声が反響して耳が痛いんだけど」

 

壁や天井には一切舗装はされていない。木の板やコンクリートもなにもない。むき出しの土の壁。ただ、舗装されていない割には表面は滑らかだ。そんな土の壁が、うっすらと仄かに光を放っている。その光は途切れることなく、そのままずっと奥先へと続いていた。

 

この光の波長、どこかで見覚えがある。

 

「んー?なんだったっけ?」

 

「これ、この石。徹ちゃんは見たことあるでしょ?」

 

俺が光を不思議そうに注視して首を傾げていたからか、ランちゃんは大型拳銃型デバイスのグリップで壁をがつんとして、壁の破片を拾い上げた。がつんとした時の音に驚いたアサレアちゃんが小さく悲鳴を漏らしていたが、聞こえなかったふりをしておこう。

 

「石、石……これ単体では見てないよな……。光には見覚えがあっても石には見覚えがない」

 

「前の任務で支給されたランタンあったじゃない?あれに使われているのと種類は同じものなの」

 

「あのランタンか。どうりで、どっかで見た気がしてたんだよ」

 

「魔力に反応して光る鉱石よ。土の中に含まれているから、こうして道が光っているのねぇ。おかげでいらない魔力を使わずに済んで楽ね」

 

「でも、なんで石が光るの?」

 

「え?えっと……そこまでは知らないわぁ。ごめんなさいね、フェイトちゃん」

 

「……そう。ううん、気になっただけだから」

 

フェイトはランちゃんから視線を外し、なぜか俺を見る。魔法絡みの代物については詳しくないのだが。

 

「んー……ルミネセンスって現象がある。ざっくりと説明すると、物質にエネルギーが吸収されて、そこから物質が元の状態に戻ろうとする時に光るっていう現象。この鉱石がそうなのかは断言できないけど、それに似た現象があるんじゃね?」

 

「わぁ、徹ちゃん博識ね!」

 

「俺の世界でなら、って話だけどな。多くが外的刺激……擦ったり熱を加えたり光をあてたりすると光るみたいだ。ここに埋まっている鉱石の場合は、魔力が刺激になって光るのかもな」

 

「逢坂さん、なんだか専門家みたいです」

 

「徹は聞いたらなんでも教えてくれるんだよ」

 

「……ふん」

 

アサレアちゃんは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。そんなアサレアちゃんとは対照的に、フェイトはなぜか嬉しそうだった。誇らしげに微笑んでいる様子を見ていると、ちょっと俺も嬉しくなる。これで俺が唱えた説がまったく関係なかったらどうしよう。とても恥ずかしい。

 

まあ、大事なのは光を発してくれていることだ。そのおかげで灯火も探照灯もない坑道でも、ある程度は視程が確保されている。足元も見えるし、実に好都合。

 

そのまま光に導かれるように坑道を進む。

 

順調かと思われたが、次第に状況が変わってきた。

 

「はぁ、ふぅ……。んっ、なんか……息苦しいわね、ここ」

 

「アサレア、大丈夫?やっぱり土壁に囲まれてるからそう感じるのかな……」

 

「アサレアちゃんはここまでくるのに魔力使いすぎたんじゃないか?」

 

「う、うっさいわね!まだまだ余裕よ!」

 

「お嬢ちゃんじゃないけど、たしかに……なにかしら?息苦しさ?みたいなのはあるのよねぇ……」

 

「え、ランちゃんも?クレインくんは?」

 

「ぼくも、ちょっと……」

 

「多かれ少なかれみんなあるのか……なんでだろ?俺は平気なんだけど」

 

「徹は……頑丈だから」

 

「おいおい、魔力の素質を数値化したら俺が一番貧弱なんだぜ?」

 

「あんたは数値化できない部分が全部異常じゃない。なんの参考にもならないわよ」

 

はふぅ、とため息を漏らしながらアサレアちゃんが言う。いつもの跳ねっ返りな軽口に張りがないところを察するに、本当にあまり調子が良くないようだ。

 

狭い坑道内といえど、空気は循環している。奥に引き込まれるように外から風が入ってきている。酸素が足りないわけではないだろう。

 

ここまで基本的に真っ向からの戦闘は避けてきているのだし、魔力の消費も抑えられているはずだ。

 

となれば、薄暗くて閉塞感のある狭い道が精神的に影響を与えているのか。しかしアサレアちゃんだけならともかく、俺以外全員、程度の差はあれど不調になっているのはおかしいだろう。

 

これといった解決策も出ないまま歩みを進めていると、少し開けた空間に出た。

 

「やっと景色が変わったな。同じような道をずっと歩いたせいでほんとに進んでんのかわからなくなるとこだった」

 

奥行きはおよそ五十メートルほどか。ドーム状になった空間で、横幅も同じく五十〜六十メートル程度はある。高さもそれなりにあって七メートルから一番高いところで十メートルといったところ。

 

相変わらず薄暗いし埃っぽいが、息が詰まるような閉塞感は幾分薄れた。

 

「ちょっと休むか。草原からここまでばたばたしてたしな」

 

「そうね。少し休みましょ」

 

「……はやく終わらせてこんなとこ出たいんだけど……」

 

「調べるにしたって素人仕事なんだ。時間がかかる。疲れてちゃ効率悪いし休もうぜ。どうせゆっくりやってもうるさく文句言ってくる上司がいるわけでもないんだから」

 

「ぼくもちょっと疲れていたので……休憩はありがたいです」

 

「それじゃ徹、作ってきたお昼ごはん?」

 

「おう、食べようぜ。みんなのぶんも作ってきたんだ」

 

背負っていた荷物を下ろして中身を探る。移動や戦闘でぐちゃぐちゃになっていなければいいけれど。

 

「徹ちゃんのお手製?」

 

「そう。フェイトと、フェイトの姉のアリシアも手伝ってくれたんだ」

 

「あら、フェイトちゃんもお手伝いしたの?」

 

「うん、手伝った」

 

「フェイトちゃんえらいわねぇっ!ちゃんとお手伝いしてるなんて!」

 

「ふふ、ありがとう」

 

ランちゃんが褒めながらフェイトの頭を撫でていた。ランちゃんの性格、というか人格があれなので、フェイトも嫌がらずに受け入れている。褒められて嬉しそうだ。

 

その様子を見ていたクレインくんが小声で『見習ったら?』とアサレアちゃんに言って『うるさいっ』と脇腹を肘で小突かれているところを横目に、お昼ご飯を広げる。

 

「あら?これは……」

 

「サンドイッチ、ですか?」

 

取り出したるは、耳を切り落としたパンに軽く焦げ目がつく程度に焼いたもの。

 

それを見て、アサレアちゃんが反応した。

 

「パンだけ!具材が入ってないんだけどっ!」

 

「もちろんこれだけじゃねえよ」

 

パンだけでサンドイッチと言い張れるほど押しの強い人間でも常識のない人間でもない。

 

続いて箱を取り出す。

 

「パンに挟んで持ってきたら具材の水分を吸ってべちゃってなるだろ?だからわけて持ってきたんだ。自分好みに作れるし、そのほうが楽しいだろ?」

 

要するに、手巻き寿司形式のサンドイッチである。

 

「おもしろいですね。それになにより、すごくおいしそうです」

 

「そうだろ?ちなみに野菜の大部分は自家製だ」

 

「あんた家庭菜園やってんの?」

 

「俺が始めたんじゃないけどな。家族の趣味なんだ」

 

あかねの先導で始まったフラワーガーデン計画だが、あかねが管理できなくなってしまい、俺も家を空けがちになったので姉ちゃんが代理で花の水やりや雑草の処理などを買って出てくれた。当初恐れていたうっかりも発動せずに、熱心に手をかけてくれるのはいいのだが、奴は知らない間に食用を主として新しいものを植えていた。枯れ木も山の賑わいとは言い過ぎだが、家の庭はなんとも賑々しいことになってきている。

 

姉ちゃんが花だけではなく野菜にまで手をつけ始めたのは最近だが、あかねが土壌を文字通りに魔改造していたこともあってか生育速度がいやにいい。そろそろ食べなければいけない野菜もあったので、今回のサンドイッチの具材と相成った。

 

「はい、お手拭き。はやく食おうぜ。できれば景色のいいところ、草原とかで食いたかったけどな」

 

「あ、ありがとう……気が利くじゃない」

 

「こんな風情も情緒もないところで頂くにはもったいないくらいねぇ。じゃ、早速……フェイトちゃんはなんのお手伝いをしたの?」

 

「私はパンを切って、あとは野菜洗ったり、洗った野菜ちぎったり……」

 

「そう!どうりでパンもお野菜もおいしいのね!フェイトちゃんはお料理上手だわぁ」

 

「そう?……よかった」

 

素っ気ない口振りだが明らかに頬を緩めて嬉しそうに、フェイトはサンドイッチをつまむ。

 

それをにっこにこしながらランちゃんは眺めていた。もう一人の女の子とはずいぶん対応が違うランちゃんだった。人見知りがちなフェイトに対しての絶妙な距離感。もはや親戚のおばちゃんのようなそれだったが、黙っておこう。撃たれてしまいそうだ。

 

「料理上手って、そのくらいなら料理なんて呼べないでしょ」

 

「料理できないどころか手伝いもしないお嬢ちゃんが口にしていいセリフじゃないわねぇ」

 

「あああんたはっ、知らないでしょランドルフ!わたしがどれくらい料理できるかなんてあんたは知らないでしょ!」

 

「どれだけできるかは知らないけれど、どれだけできないかは知ってるわよ?塩と砂糖を間違えるだけでも相当なのに、重曹と片栗粉を間違えた上に、油と洗剤を取り違えるなんて、どれだけ普段からキッチンに立っていないかよくわかるエピソードねぇ?」

 

「んなっ、ななっ……」

 

「料理下手なんてもんじゃないわよぉ、それ。もはや化学実験ねぇ」

 

「なっ!なんで!ランドルフがそれをっ?!わたしの黒歴史を知ってるのよっ!」

 

「…………」

 

言うまでもなく、俯いて冷や汗を垂らしているアサレアちゃんの身内が密告者だろう。

 

それに気づかないアサレアちゃんではなかった。

 

「クレイン兄っ!」

 

「ご、ごめんっ。ちょ、ちょっと口が滑って……」

 

「よりにもよってなんでこんなところで言うのよ!」

 

「自分の不出来を棚に上げて怒るのはみっともないわよ、お嬢ちゃん?」

 

「ぐぎぎっ……。そ、そういうランドルフはできるんでしょうね!料理!」

 

「一人暮らしが長いんだもの、徹ちゃんほどじゃないけれど自炊はできるわぁ」

 

「むぐぐっ……」

 

年頃の女の子が発していい声でも、浮かべていい表情でもない。

 

しかし、なんだろう。アサレアちゃんには悪いが、彼女とランちゃんのこういうやり取りは見ていてとても面白い。

 

「徹も最初はよく失敗してたって言ってた。だから気にすることないよ、アサレア」

 

「気にしてないわよ!気にしてるなんて一言も言ってな……わたしのこと呼び捨てにしてるこの子!」

 

「きっとお嬢ちゃんには敬称をつけなくていいって認識したんでしょうね。正しい判断だわぁ」

 

「非常識じゃない!失礼よ!わたしのほうが年上なのにっ!」

 

「そもそもお嬢ちゃんは人の呼びかた云々を注意できる立場じゃないでしょう?私のことは『ランドルフ』って呼んでるし、徹ちゃんに至っては『あんた』呼ばわりですものねぇ?」

 

「そっ……それは、ちがうじゃない!それはちがうじゃないっ!」

 

「どうちがうの?アサレア」

 

「それは、だから……って!アサレアって呼ぶなテスタロッサ!アサレア『さん』でしょふつうは!」

 

「フェイトちゃんに注意するなら、まずはお嬢ちゃんが徹ちゃんのことを『さん』付けで呼んでからすべきね」

 

「ぐっ……言えばいいんでしょ言えば!」

 

アサレアちゃんは目をつぶって大きく息を吸った。この坑道、光源なんて光る鉱石だけでかなり乏しいのに、それでもわかるくらいにアサレアちゃんの顔が真っ赤になっている。

 

「っ……と、とっ、徹さ……」

 

「ファーストネームで呼ぶんだね」

 

「……へ?」

 

「私のことはファミリーネームで呼んでたから、てっきり徹のこともファミリーネームで呼ぶのかなって思って」

 

「あ、あ……あっ……っ!」

 

フェイトの指摘に、アサレアちゃんは目をまん丸に見開いて口をぱくぱくと開閉していた。何か反論しようとしているのだろうか。そのわりにアサレアちゃんの口から言葉になって出てくることはないのだけれど。

 

「フェイトちゃん、だめよ、つっこんじゃ。お嬢ちゃんは徹ちゃんのことをファーストネームで呼ぶのが夢だったの」

 

「そうだったんだ。邪魔してごめんね、アサレア。……続きどうぞ」

 

「できるかぁっ!」

 

アサレアちゃんは涙ぐみながら、ごちゃごちゃした思いを込めて咆哮した。

 

どうやら休憩を取ったのは正解だったようだ。調子が下がっていたみんなもだいぶ元気を取り戻している。

 

それに一緒にご飯を食べればコミュニケーションも取りやすいだろうと期待していたが、期待を上回る成果も叩き出している。まあそこはランちゃんのおかげもだいぶあるだろうが。

 

持ってきていたサンドイッチを全部食べて、しばし談笑していた、その時だった。

 

「つっ……ん?なんだ、これ……」

 

後ろに体重を傾けるように手を置いたら、何か硬いものが手のひらに触れた。

 

手に取って確かめる。それが何なのか理解するまでに、脳が理解するまでに、多少時間を要した。

 

「っ……」

 

声が出そうになった。必死で声を噛み殺した。

 

骨。

 

骨だった。何の生き物かまではわからない。だが確実に、何かしらの生き物の骨だ。

 

背筋にぞくりと悪寒が走る。クロノから聞いていた事前情報が、不意に俺の脳内に過ぎった。

 

「……俺、片付けしとくわ」

 

「あらごめんなさい。気が利かなくて。私も手伝うわ、徹ちゃん」

 

「一人で充分だって。ランちゃんはお喋りに参加しといてくれ」

 

まだ、嫌な想像が正しいのか確証がない。片付けを装って内密に調べたい。不必要にみんなを不安にさせたくないので、できれば一人で。

 

いつも通りを心がけたつもりだが、ランちゃんは俺の些細な変化に勘づいたようだ。

 

すっ、とほんのわずかに瞳を細めた。

 

『な……かあっ、たの?』

 

即座に念話が送られてきた。俺の意図を読み取るのと配慮が的確なのが、本当に助かる。

 

しかし、なんだか念話の音声の伝達が思わしくない。魔力に反応して光る鉱石が周囲の土にたくさん含まれているからだろうか。いつもより念話が使いづらい。普段より魔力を心なし強めに込めておこう。

 

『生き物の骨を見つけた』

 

『骨、くらい……あってもよさそ……だけれ、ど……』

 

『ここまで坑道で生き物はいなかったし、生き物の痕跡もなかった。餌になるようなものも見当たらないこんなところで見つかるのは気持ちが悪い。ちょっと調べたいから、他のみんなが俺を気にしないように誘導頼む』

 

『わかっ……たわぁ。あとか……教え、てねぇ』

 

年下メンバーの世話をランちゃんに任せ、俺は適度に片付けながら、この付近をもう一度見回してみる。

 

これまではざっくりとしか目を配っていなかったから気がつかなかった。

 

ところどころ、地面が盛り上がっている箇所があることに気づく。

 

そこを、何気なさを繕いながら手で掘ってみた。

 

「っ……おいおい、話が違うじゃねえの……」

 

骨と焼け焦げた服が出てきた。

 

さっき拾った骨とは大きさがまるで違う。なにより、かなり明確に形が残っている。

 

細々とした白くて小さな骨と、細くて長い二本の骨。ちょうどそれらは、指の骨だったり、前腕部、橈骨(とうこつ)尺骨(しゃっこつ)に酷似している。

 

「怪我人しか出てないって話じゃなかったのかよ……」

 

こんな時に、嫌な記憶を思い出してしまった。前回のサンドギアの任務。俺たちが配属された部隊のもともとの隊長さんの言葉だ。

 

『司令部のクソ連中は一山いくらの兵隊が何人死のうが気にしねぇ!』

 

耳に残る嫌な力のある発言だった。続いて、死傷の理由なども上の人間が自由に改竄できるかのような言い回しもしていた。

 

俺たち嘱託に仕事が回される前に、『陸』の局員がこの地質調査の任務でこの世界に訪れたとクロノは言っていた。その時、体調不良者が続出したり、アクシデントがあったため、任務を断念したと。

 

実は、死傷者もいたのではないかと裏を勘繰らずにはいられない情報だ。

 

なによりもまずいのは、俺たちもまさしく、同じ(わだち)を踏んで進んでいるのではないかということ。

 

調査中に発生したアクシデント。正体不明の物体から襲撃されたというのも、こじつけの言い訳ではなく、事実なのではないか。

 

「……ここには、なにかある。長居はリスクが勝ちすぎるか……」

 

この坑道に入る際の鳥の群れの挙動を思い出す。腹を空かしているはずだったのに、俺たちがこの坑道に入った途端に追いかけるのをぴたっとやめた。あの鳥たちは本能で感じ取っていたのか、もしくは経験から学習したのだ。

 

坑道に入ったら、戻ってこられないと。

 

「みんな、一度ここを出よう。ちゃんと下調べしてからのほうがよさそうだ」

 

出直す。

 

それが最善だと結論づける。

 

リスクを承知で闇雲に進むより、時間をかけてでも安全を確保する。

 

本音は一日で終わらせたいが、別に二日かけても問題はないのだ。なぜか今回も隊の指揮を預かっている以上、安全を最優先しなければいけない。

 

「事情は歩きながら説明する。まずはここから……」

 

「ごめんなさいねぇ、徹ちゃん。文字通り、出遅れちゃったかもしれないわぁ……」

 

「ん?どういう……」

 

振り返ると、ランちゃんたちは背中を合わせるようにして円になっている。周囲を警戒していた。

 

一番見えやすい位置にいたクレインくんの視線を辿る。暗がりには土の壁しかない。何があったのかと問いただそうとした時、壁が動いた。

 

「な、なんだ、どうなって……」

 

もごもごと(うごめ)く壁を注視する。その壁は、壁ではなかった。いや、厳密には壁ではなくなっていたというべきか。

 

壁と同じような色、質感で動く、土の塊。体高はおよそ二メートル以上もある。横幅のある分厚い身体を支えるためか、下半身にあたる部分はそれに比して太くなっている。それこそ足など象のように太く逞しい。外観はまさしく、ロールプレイングゲームなどで登場するゴーレムを彷彿とさせる。

 

肩の両側からだらりと垂らされた両腕はやたらと長く、床につきそうなくらい。脚部より一回りくらい細い腕だが、それでも女性のウエストくらいは優に超えて太い。

 

姿形は人間に近いのだが、肩から上はない。人間で言うところの頭に該当する部分が存在しない。なので目もなければ耳もないし、鼻もない。どうやって物を認識するのだろう。そもそもこれは生物なのか、時の庭園にあった傀儡兵のような人工物なのかもわからない。

 

なるほど、確かにこれは『正体不明』としか形容のしようがない。そして情報通りであるのならば、この正体不明の物体は襲いかかってくるのだろう。

 

土の壁の全てがゴーレムだったのではないかと思わせるほどの量が、俺たちを。

 

「お、おい、クレインくん!こんな生き物が管理世界にはごろごろしてんのか?!だとしたら俺はこのまま魔導師の仕事を続けられる自信がないぞ!」

 

「安心してくださって結構です!こんな生物はどんな図鑑でも見たことありません!たぶん生物じゃないです!」

 

「そうかそれならよかった。全然安心はできないけどな!」

 

「ちょっ、ちょっと、この状況どうすれば……逢坂さん後ろ!」

 

久しぶりにアサレアちゃんに名前を呼ばれた。

 

急いで背後を顧みる。

 

「後ろっつっても、きた道と壁しか……っ?!」

 

土の壁は、いつの間にか音も立てず、気配もさせず、土くれのゴーレムになっていた。

 

巨体のゴーレムは、大木のような腕を振り上げる。上げたのなら、あとは下ろすほかにない。

 

「う、お……っ」

 

上体をそらして大木を回避する。顔のすぐ隣を通った。風を切る音で俺の耳はいっぱいになる。

 

打ち付けられた大腕は地面を揺らした。

 

「どんな質量してんだ……」

 

地面が拳の形に(えぐ)れていた。

 

こんなもん直撃したら、ちょっと前にごっつんこしたトラックよりも重い怪我を負うことになる。

 

「ん?……おー、なるほど……」

 

「あい……あんた!なにしてんの!早くこっちきなさいよ!」

 

「今度は『逢坂さん』って呼ばなかった」

 

「うっさいわねテスタロッサ!あんた!とりあえず下がって、様子を見なきゃ……ほら早く!」

 

「ちょっと確かめるっていうか、試したいことがある」

 

「は、はぁっ?!ちょっと!」

 

地面からごりごりと音を立てて引き抜かれる大腕はその先端、拳の部分の見分けがつかなくなっている。それだけ振り下ろしたその一撃には重さがあるということだ。

 

だとしても、当たらなければ意味はない。

 

「でかけりゃいいってもんじゃねえぞ」

 

踏み込んで土の巨体に手を添えて、短く息を吐く。

 

「ふっ……」

 

発破。全身の筋肉から凝縮された力は、ゴーレムの胴体に風穴をあけた。手に伝わる感触で、ゴーレムの強度は(おおむ)ね把握できた。

 

「やっぱりな。見てくれだけだ、立派なのは」

 

ゴーレムの拳が地面に叩きつけられた時にほとんど形が残っていないところを見て、もしやと思った。予想した通りだ。見た目の威圧感から連想されるほど頑丈なつくりではない。

 

この程度なら、魔力循環さえしっかりできていれば普通に殴る蹴るでどうにでもできる。とても魔導師の戦いとは思えないけれど。

 

「あとはどれくらいで崩れるかだけど……もう崩れたし」

 

人間などの生き物とは違う。たとえ上半身が吹っ飛ぼうが胴体に風穴が空こうが動きそうなものだが、ゴーレムは胴体に大きな穴が空いただけで、後ろに倒れこんでそこから動かなかった。そのまま、土の山となった。

 

どうやら俊敏性と強度の他に、耐久力にも難があるようだ。

 

「気をつけるのは……数の多さと、でかい腕くらいだな」

 

左右から襲ってきたゴーレムの腕をバックステップで躱して、ようやくアサレアちゃんたちに合流。

 

次いで、手に入れた情報をみんなに報告する。

 

「バランスが悪くて足はあげられない。攻撃手段は腕だけと見ていい。周りのゴーレムにあたるからか、大きな腕を振り回したりもしない。あくまで持ち上げて振り下ろすだけ。動きは鈍いし案外脆い。重量のある腕は怖いが近づきさえしなければ怖い相手じゃない。ただ風景と同化して見づらいから、そこだけ留意。……ん?」

 

注意事項を伝え終わったあたりで、きん、と甲高い音が聞こえた。きん、きん、と金属質な高音は遠ざかっていく。

 

何の音だろうと耳を澄ましたら、違う甲高い音に耳を(つんざ)かれた。

 

「ぁぁああんたっ!なにしてんの危ないでしょ!」

 

「耳が痛い……。どうにかしないといけないんだから、ゴーレムの情報は必要だろ?」

 

「それにしたって乱暴すぎるでしょ!?なんなの?!あんなに大きいよくわかんないの相手に、素手で殴るって!」

 

「蹴りだと細かい強度が測りにくくてな」

 

「そういう意味じゃないわよこのばかっ!なんで肉弾戦挑んでるのって話よ!」

 

「接近戦が徹の主戦場だもんね」

 

「フェイトの言う通りだぞ。距離が離れるにつれて、俺は人権を奪われていくんだ」

 

「あんたは頭のねじが外れてるし、テスタロッサはあんたに毒されてるし……もうっ!あんたは情報を手に入れただけで充分!だからあんたはわたしたちの真ん中で立ち惚けてなさい!」

 

「いや、俺も戦うって」

 

「あんた戦おうとしたら近づかなきゃいけないじゃない!」

 

「え?そうだけど」

 

「あんたが言ったんでしょうが!近づかなければ怖くないって!注意した本人が近づいてどうすんの!あんたは真ん中で私たちに指示出してればいいの!わかった?!」

 

「お、おお……了解」

 

「ふふ、私の後ろにいてね。守ってあげる」

 

「ずいぶん大きく出たな、フェイト。それなら今はゆっくりさせてもらうとするか」

 

四人の中央に移動する。地鳴りを響かせてゆっくりと接近するゴーレムに煌びやかな色の魔力弾が突き刺さる。四方八方でゴーレムが爆ぜ、土や石、ゴーレムを構成していた破片が飛び散った。

 

全員が並の魔導師よりも優れた射撃魔法を操れるのだ。鈍重なゴーレムなど、ただの的でしかなかった。

 

「んー、足や腕が吹っ飛んだだけだと崩れない……胴体じゃないと崩れないのか?なにかもっと要因があるのか……」

 

「ねぇ、徹ちゃん?」

 

四人がゴーレムをばったばったと屠っていく中、俺が陣形の中央でのんびりしているとランちゃんに声をかけられた。

 

ランちゃんがトリガーを絞るたびに頭の後ろにある紫色の尻尾がふらりふらりと揺れていた。周囲に鋭く目を向けていて、こちらは見ていない。

 

「んあ?なに?」

 

「ゴーレムを倒すのは難しくないけれど、このままだと消耗する一方よ。逃げるにしてもこう囲まれていると動けないし、それにどこがきた道だったかもわからないし……」

 

「引き返すんならあっちだ」

 

「なんでわかるの?」

 

「動いたぶんの歩数と歩幅と方向を覚えてるからな」

 

「相変わらず人間離れしてるわね……」

 

「……褒めてるんだと受け取っておこう。あっち、撃ってみてくれ」

 

「はぁい」

 

大型拳銃(デバイス)のマガジンを取り替え、引き金を引く。

 

先程までとは異なる発砲音、マズルフラッシュ。俺が指差した方向に飛んでいく魔力弾の大きさも、着弾した際の爆発も、何もかも違った。爆発の勢いで近くのゴーレム数体が纏めて吹き飛んだほどだ。榴弾なのだろうか、相変わらず凄まじい威力だ。

 

ともあれ、視界を遮っていたゴーレムの山は掃けた。これで出口へのルートも開いた。

 

そのはずだった。

 

「塞がってる……」

 

「あらぁ……私のせいかしらぁ?」

 

「いや、さっきの爆発で崩落はしていない。あんなに綺麗に道が塞がるわけはない」

 

「徹ちゃんの記憶違いってこと?」

 

「魔法の術式すら一目見れば憶えられるんだ。道を忘れるなんて、それこそもっとありえない」

 

「そう、よね。……ということは」

 

「誰かが道を塞いだのか、あのゴーレムで埋めたのか、オカルトに近いけどこの坑道自体が道を消しているのか……。なんにせよ、進む以外に道はなくなった」

 

退路がないのなら違う道を探さないといけない。幸い、この空間にはまだ生きている道が数本ある。それらのいずれかは外部へ通じるものもあるだろう。

 

ゴーレム退治していないぶん、働かなければ。

 

サーチャーを飛ばして出口への道を調べる。その前に、起きた。

 

綻びが、突如として。

 

「っ……はぁっ、はぁっ……もう、なんで……」

 

鮮やかな赤色の弾丸の群れが、ゴーレムを貫く前に掻き消えた。届くものも一部あったが、ゴーレムの巨体を吹き飛ばすほどの火力が出ていない。せいぜい表面を浅く抉ってノックバックさせるくらいしかできていない。

 

「アサレアちゃん、どうし……アサレアちゃんっ!?大丈夫か?!」

 

「はぁっ、んぐっ……はぁっ。だ、だいじょう、ぶ。……ちょっと、魔力の調節ミスっただけ……」

 

アサレアちゃんに駆け寄ると、顔色がかなり悪くなっていた。息は荒く、冷や汗もかいている。デバイスさえ重そうにして、腕をだらりと下ろしていた。明らかに体調に異常をきたしている。

 

この症状は、魔力欠乏時のそれに近い。

 

休憩する前も体調を悪そうにしていたし、ぶり返したのか。しかし、これほど症状が悪化するほど魔力は消費していないはずなのに、どうして。

 

「アサレアちゃん、ちょっと休んでてくれ。俺が前に出る」

 

「わ、たしは……まだ、いけるわ」

 

彼女の強がりも、今は覇気がない。

 

「いいから。自力で動けなくなるほうが困るんだ。自分の足で歩けるくらいには体力を置いといてくれ」

 

「っ……」

 

輪の中央、俺がいた場所にアサレアちゃんを座らせる。肩を掴んで移動させたのに、抵抗もしないほど弱っていた。

 

「休んだぶんは働くぜ」

 

ゴーレムの前に躍り出て殴りつける。破壊するにはなんら問題はない。

 

順調に土の山に還していくが、徐々に数が増えてくる。というより、左右から押し寄せてくる。

 

「くそっ、なんでこうわらわらと……。ああ、そうだった……。アサレアちゃんだけじゃなかったな……っ」

 

一旦四人の元まで退く。

 

「はぁっ、くっ……」

 

「っ……ふぅっ、ふっ……」

 

昼休憩前、不調を訴えていたのはクレインくんとフェイトも同様だ。二人ともアサレアちゃんほどではないにしろ顔色が悪くなっている。

 

クレインくんは照準の精度が甘くなっているし、フェイトはフォトンランサーの発射体をとうとう引っ込めた。それだけ魔力に余裕がなくなってきているのだろう。

 

なのはほどではないらしいが、フェイトだって俺とは比べ物にならないレベルで保有魔力は多いはずなのに。

 

「クレインくん、フェイト、きつかったら休んでていい」

 

「すいませ……なんでか、すごく……身体、重くて……」

 

「っ、なんでだろう……なのはと戦った時よりも、魔法……はぁっ。使ってない、のに……っ」

 

「……そうだな。フェイトのこんな姿はめずらしい」

 

「……くやしい」

 

「はっは、守ってくれて楽させてもらったぶん、今度は俺が守ってやるよ。……だから、次はフェイトが楽しとけ」

 

「ごめんね、徹……」

 

申し訳なさそうに俯くフェイトの頭をわしわしと荒っぽく撫でる。

 

「いいって。また後から活躍してくれ」

 

フェイトには格好つけたものの、正直厳しい。ゴーレムの数は落ち着いてきているが、またじわじわと湧き出るように増えている。

 

ランちゃんが動けているぶん今はなんとかなっているが、これからどうなるか。見通しは暗い。

 

「ランちゃんは大丈夫か?」

 

「そうね……はっきり言うと、あんまりよろしくないわね」

 

「ランちゃんもか……まずいな」

 

「マガジンがなくなれば魔力依存の魔法になるから……私もそれほど長くはもたないかもしれないわ」

 

「……そのデバイスで使ってる弾って実弾なのか?」

 

「いいえ、前もって魔力を込めているだけよ」

 

「なら今は、その貯金を切り崩してるってことか……」

 

「まさかここまでがっつり戦闘になるなんて予想しなかったものだから、あまりマガジン用意してこなかったのよ。重いんだもの。でも、今はちょっと後悔してるわ」

 

「誰もこうなるなんて読めてなかったし仕方ないな」

 

俺としても、まさかこんなジリ貧な戦況になるとは、まるで予測できていなかった。戦闘になってもフェイトに丸投げすればいいやって皮算用してたくらいだ。

 

それもこれも、この坑道に入ってからだ。有害なガスでも発生しているのだろうか。俺にはまったくこれっぽっちもなんともないけれど。

 

『しばし、よろしいでしょうか』

 

「うおっ、バルディッシュか。どうした」

 

『魔法の構築には支障ありませんでした。しかし、術式の維持が大変不安定で、そのぶん魔力を余分に消費することになったのです。その点に、なんらかの原因があるかと』

 

「魔法の維持が難しい、と……。ありがとう、バルディッシュ」

 

『お役に立てたのであれば、幸いです』

 

魔法を維持することが難しく、普段より余計に魔力を注いでいたから、自身の保有魔力に依存しているアサレアちゃんやクレインくん、フェイトは、魔力を消費しすぎて、結果ばてた。ランちゃんは事前に準備していた弾を使っているから三人よりも症状の進行が遅れているのだろう。

 

いや、だとしたら自身の保有魔力に依存していないランちゃんは俺と同じくらい平調でなければおかしい。そもそも坑道内を進んでいた際、ランちゃんも調子が悪そうにしていたのだ。

 

「ちっ……とりあえずサーチャーで脱出経路を探すのが先か」

 

魔法が不安定になる原因は判明していない。だが、既に体調不良が三名、行動不能も一名出ている。任務の続行は現実的ではない。原因の究明より、先に脱出するべきだ。

 

「っ?!……なるほど、構築はできるけど維持は難しいってこういうことか……」

 

サーチャーを展開するが、うまくいかない。水の中に角砂糖を入れたような感覚。周囲から魔法が溶けていくような印象だ。平原でもサーチャーは使っていたが、その時とは魔法を使う感覚が違いすぎる。

 

このまま無理に維持して魔法を行使しようとすれば、消費魔力は通常の倍では効かない。

 

こんな環境の中、射撃魔法を使い続けた三人のポテンシャルに、逆に驚くくらいだ。

 

「はぁ……困ったな」

 

俺の魔力量では三人のように強引に使い続けるなんて芸当、到底できない。つまりは、道を探せない。

 

「ちっ……そろそろ枯れろよ、泥人形め」

 

一体を粉砕している間に、横から近づいていたゴーレムが大槌のような巨腕を掲げる。

 

単調で、ワンパターンな攻撃。回避は容易だが、腕が大きいため当たる範囲が広い。無理に躱そうとして躱しきれなければ一大事だ。掠めただけでも命取り。まともに動けるのは俺だけなのだから。

 

なので、無理せず受ける(・・・・・・・)ことにした。

 

「鮫島さん直伝……」

 

発破と似た理論。しかし、対極、正反対。

 

叩きつけられたエネルギーを全身の筋肉で吸収し、受け流す。

 

トラックに突撃された際に決死で(もしくは臨死で)使ってものにできた技術。

 

「『風柳』……ほんっと、習っておいてよかったー」

 

ゴーレムからぶつけられた運動エネルギーは、滞ることなく俺を通り抜けて地面へと送られた。

 

「……よし。使った感じスムーズだな、問題なっ……っと。な、なんだ?地面が……」

 

ゴーレムの巨腕は、鮫島さんとの特訓の成果を遺憾なく発揮して防いだ。俺にはいささかの怪我もない。

 

だが坑道内部は、その地盤は、無傷では済んでいなかったようだ。床が、ほんの僅かとはいえ確かに沈んだ。

 

ゴーレムは主に壁や床から湧き出るようにして出現している。その度に出現地点から大量の土を抉り取って、その巨体を構成している。そうやって床や壁の強度を削っているのに、さらにその太い腕を床に振り下ろす。それらが繰り返されて、地盤を少しずつ傷つけていたのだろう。

 

おそらく、俺たちのいるドーム状の空間の下には空洞か、もしくは道があるのだ。

 

今でさえ帰り道がわからないのにこれ以上深く潜れば、それこそ生きて帰れない。

 

これ以上、ゴーレムの力を受け流すのはやめたほうがよさそうだ。

 

「あーもう、鬱陶しい!なんでこいつらは動いてんだよ!」

 

巨腕をくるりと回転して躱し、遠心力を乗せて薙ぎ払うように足を振るう。

 

片腕を吹き飛ばされても元気に動いていたゴーレムは、胴体を切り離すような蹴撃でようやく動きを止めた。

 

「生き物じゃない、時の庭園で見たような傀儡兵でもない……ちっ」

 

この空間では魔法はまともに機能しない。何らかの魔法か、侵入者を検知したら作動するようなシステムなのか。どんな手段だろうがどんな技術だろうが、魔力を動力源としているはずなのに、なぜこの空間で動き続けられるのか。

 

「…………」

 

ちら、と背後を振り返る。

 

フェイトの身体は、こちらを向いている。きっと俺を心配そうに見ていることだろう。

 

ここは薄暗い。ごく間近まで寄らねば、顔ははっきりとわからない。顔色も、表情も、例えばそう、瞳の色とか。

 

「なるべく避けたかったんだけどな……」

 

左目のカラーコンタクトを外す。

 

フェイトにばれるようなことは避けたかったのだが、もう他に手がない。

 

光を映さない、くすんだ灰色の左目。この瞳は、光を映さない代わりに魔力を細部まで映す。日常生活では不便なこともあるが、こういう時には便利でもある。

 

「ゴーレムは、やっぱり魔法で動いてる。……ん?魔力が、異常に放出されてる……」

 

ゴーレムが魔力を原動力としていることははっきりとした。

 

ただ、どうにもおかしい。

 

魔導師には身体の表面に微量の魔力の膜のようなものがある。それに似たようなものなのか、ゴーレムの体表にも魔力が張られていた。その上、ゴーレムの体表からは魔力がだだ漏れになっている。空気中に溶けていくように、放出され続けていた。

 

外気に垂れ流され続ける魔力を追うと、ふわふわと漂って床や壁、天井へと吸い込まれていく。

 

「そういう……。ちっ、だからか……」

 

ゴーレムの詳細は分からず終いだが、なぜここでは魔法が使いづらいのか、そのヒントは掴んだ。

 

魔法が使いづらいというのは、あくまで副次的な効果だ。この坑道の性質は、空気中に浮遊する魔力を、魔力の素を根こそぎ搾り取るところにあった。

 

思えばおかしかったのだ。いくら魔法の維持に余計な魔力がかさむからといっても、ランちゃんたちは並の『陸』の魔導師を凌ぐ魔導師たちである。たったそれだけで体内の魔力が枯渇するわけがない。なのにこの速さで魔力欠乏寸前にまで至ったのは、魔法に加えて身体の表面に纏っている魔力までどんどん奪われていたからだ。

 

俺は少しでも節約しようと体表に魔力が出ないようにしているが、そんな瑣末(さまつ)な量の魔力を気にしなくてもいいランちゃんやフェイトたちは、言うなれば源泉掛け流しみたいなものだったろう。魔力は流出を続け、加えて魔法を使うたびに無駄に浪費するのだから、いずれ枯渇する。

 

わかったところで根本的な解決にはならないが、みんなの体調がこれ以上悪化しないようにはできる。

 

近寄ってきているゴーレムをあらかた払って、四人の元へ戻る。

 

フェイトに左目を見られないように注意しながら俺の仮説が正しいかどうか四人を確認したら、予想通りだった。フェイトなら金色の、アサレアちゃんならピンクに近い明るい赤色の魔力が蒸気のように、全身からふわふわと放出されていっている。それらはやはり、壁や床が飲み込んでいっている。

 

「みんな、魔力を抑えろ。身体の表面に張ってる魔力をどんどん奪われてる」

 

「な、なにそれ……どういうこと?」

 

「えっと、どう言ったらいいんだろ?浸透圧みたいなもんで……」

 

「シントウ、アツ?」

 

「や、忘れてくれ。……そうだ、気温の低いところにいたら身体の表面から冷えていくだろ?それと同じなんだ。この坑道は空気中の魔力が少ないから、魔力があるところから、つまり俺たちから吸い取ろうとしてるんだ」

 

「で、でも徹ちゃん、魔力を抑えるって……どうやって?」

 

「意識しろ。胸の奥にあるリンカーコアは魔力を全身に巡らせてる。その魔力が、身体の各部位に流れてる感覚を掴め。胸の奥から魔力が溢れて、心臓をポンプの代わりにして勢いよく全身に流れていく。胸から下半身へ。腹、腰、太もも、膝、ふくらはぎ、足首、爪先。同じように胸から上半身へ。肩、上腕、肘、前腕、手首、指先。そこまでできたら身体の表面、皮膚……そんなふうに魔力の流れに意識を傾けて集中すれば、操ることは難しくない」

 

みんなは目をつぶって集中している。

 

だがその間にもゴーレムどもは重たそうな図体を引きずって接近してくる。時間を稼ぐためにも、周囲を駆け回って近い順に打ち砕いていく。ランちゃんも前線から離れているせいで、さすがにじわじわと包囲が狭まっていく。

 

ゴーレムが湧き出てくる速度が速すぎるのだ。俺一人だと、ゴーレムの波状攻撃を押し返せない。打開策を講じないと、本格的にまずい。

 

「誰かできたか?!そろそろ手伝ってほしいんだけど!」

 

「……できないわ、徹ちゃん」

 

「ちょっ……なんで!?」

 

「魔法で使う魔力量の細かな調節さえ難しいのに、魔法ですらない純粋な体内の魔力の流れを意識的に操作するなんて……」

 

「……こ、こんなの、すぐにできっこない……」

 

「そ、そんな……っ、フェイト……」

 

縋るような思いでフェイトを見るが、フェイトは首を横に振った。

 

「ごめん……ごめんね、徹……」

 

「おいおい……。これができなきゃ、この鉱山に喰われるだけだぞ……」

 

こんなよくわからないゴーレムに囲まれている上、魔力の調整が不安定な場所でなんてやりたくないが、みんながすぐに感覚を掴めないのなら他に方法はない。最終手段だ。

 

「……俺が魔力をコントロールして誘導する。それで感覚を掴め。まずはランちゃんからだ」

 

「えっ、私?」

 

「他の三人は戦えるような状況じゃない。今は少しでも戦力がほしい」

 

「ちょ、ちょっと待って。徹ちゃんが何をするつもりなのか……」

 

「今から俺の魔力を通してランちゃんの魔力を外部からコントロールする。ちょっと気分は悪いだろうけど、じきに慣れる。時間がないんだ。あとは自分で理解してくれ。いくぞ」

 

「ちょ、ちょっと待って、心の準備が……」

 

「大丈夫、準備できてても、できてなくても、結果は変わらないから」

 

「ちょっと徹ちゃ……うっぐ……っ」

 

ランちゃんに魔力を送り込む。

 

体表付近のランちゃんの魔力を俺の魔力で押し退け、俺の魔力を引っ込めてランちゃんの魔力が体表付近に広がるのを待つ。その工程を再び行う。そうすることで、体表付近に魔力がない状態を感覚的に覚えてもらう。

 

魔法の術式をいじったり、リンカーコアに直接ハッキングするほどではないので、こんな不安定な環境でもまだなんとかなる。

 

「……こう、だ。わかったか?言葉にするのは難しいんだけど」

 

「そう、ね……はぁ、っ……なるほどね。ようやく理解できた気がするわぁ……。ふぅ、あら……だいぶ楽になったわ」

 

「そりゃそうだろうな。今まではずっと魔力を抜き取られ続けてたんだから。そんじゃランちゃんは迎撃よろしく」

 

「ええ。足引っ張っちゃったぶん、働くわよん」

 

「よし。じゃあ次は状態が悪いアサレアちゃんを……」

 

「徹っ!」

 

フェイトに呼ばれてはっとする。

 

急いで振り向けば、ゴーレムがその巨腕を振り下ろさんとする、まさにその瞬間だった。

 

焦るあまりに失念していた。

 

ゴーレムはその質量ゆえに動作は鈍重で、歩くだけでも床と擦れて音がするし振動もある。だが、出現する際は打って変わって異様に静かなのだ。

 

「くっそ……っ!」

 

回避はできない。俺のすぐそばにはアサレアちゃんがいる。受ける以外に選択肢はない。

 

なるべく使いたくはなかった。ただでさえダメージが積み重なった地盤はゴーレムが湧き出たことで周囲の土がごっそり抉り取られている。しかも、ここは開けた空間の中央。支えがなく、強度も一番薄くなっている。

 

こうなる可能性があることは考慮していた。危ぶんでもいた。同時に、どうにか耐えてくれと願ってもいた。

 

「っ、ふっ……っ」

 

両手を重ね、手のひらを土の腕に向け、受ける。普通に受ければぺちゃんこ必至だ。なので仕方なく衝撃を『風柳』で受け流す。

 

願いは報われなかった。

 

がごん、と不吉な音と不穏な揺れ。

 

「きゃあぁっ?!」

 

「ひゃっ……な、なにっ?」

 

「っ……やばい!みんな、すぐにっ……」

 

言い切る前に崩落が始まった。唐突に浮遊感が訪れる。

 

俺たちは、暗く深い地の底へと引き摺り込まれた。

 



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『魔力に反応して光る石』

ころ、こつ、がごん、と。

 

小さい石ころや大きな岩、土砂など、さまざまなものが頭上から降り注いだ。幸いなことに、上記のそれらを全身に被ることはなかった。

 

それらよりももっと重い板のような岩が直撃していて、というか覆い被さっていて、それが傘になっていた。こんな重くて硬い傘で身を守るくらいなら、少し大きめの石までなら我慢したというのに。

 

「と、徹……っ!」

 

「あ、い坂さっ……け、けがっ!」

 

俺の真下にいるフェイトとアサレアちゃんが、心配そうに俺を見上げていた。見た感じ、二人に目立った傷はなさそうでなによりだ。

 

「ん?……ああ、ひどい怪我はないから安心してくれ。ちょっと頭ぶつけただけ」

 

身じろぎした感じ、俺もどこも折れてはいない。ただ上から降ってきた()が俺の頭を打ちつけてくれていたせいで頭が少し切れて、血が顔の左側を流れている。

 

流れる血に砂や土がついて不快だが、左目を隠してくれる形になるので、それだけは都合が良かった。

 

「頭ぶつけたって……結構落ちたのに……」

 

「ごめんね、徹……私、足引っ張って……。しかも、庇ってもらって……」

 

「二人にはここに入る前にいっぱい働いてもらったし、俺は頑丈なのが取り柄だからな。このくらいならぜんぜんおっけー。二人は痛いとこないか?落ちた時、怪我とかしてないか?」

 

「大、丈夫……。落ちた時も、上から何か大きいのが降ってきたときも、逢坂さんが守ってくれたから……」

 

「……私も、大丈夫。痛いところ、ないよ」

 

「そうか、ならよかった」

 

こんなことになったのも、あのゴーレムのせいである。

 

ゴーレムの巨腕の振り下ろしによって俺たちが昼食を取ったドーム状の空間の床、その大部分が崩落した。落下する最中、坑道内の影響を受けにくい足場用障壁を展開して落下しながらも跳びまわり、フェイトとアサレアちゃんを抱えたまでは良かった。しかしアサレアちゃんを確保した頃には地面は間近に迫っており、瞬間的に障壁を張って緩衝材にして背中から床に落ちるのが俺にできる精一杯だった。

 

一息つく暇もなく、上から降ってくる諸々で二人に傷がつかないよう、上下で身体を入れ替えて今に至る。

 

なるべく下に落っこちたくないなー、などと願っていたが、結果的には笑えるくらい正反対となった。任務の先行きは真っ暗だが、土砂で生き埋めにならなかっただけ幸運だったと最大限ポジティブに考えよう。

 

「ちょっと待ってろよ。すぐ上のもん、どかすから」

 

「ちょっと……あんまり無理しちゃ……」

 

「……徹」

 

「不安そうな顔すんな。このくらいならなんてことねえよ。目、つぶってろよ。砂入るぞ」

 

ぐっ、と腕に力を入れて、背中に乗っかっている雑多なものを下ろす。総重量は相当なものだったようだ。地面を伝う地響きに音、舞い上がる砂埃が、その重量感を表していた。

 

漂う砂煙が落ち着いてから、立ち上がって周囲の安全を確認する。頭上をぶち抜く大穴にため息を飲み込み、二人に声をかける。

 

「……ふぅ。とりあえず安定したみたいだな。でもまた崩落する可能性はあるから、ここから離れたほうがいい」

 

フェイトとアサレアちゃん、二人に手を差し出す。二人とも俺の手を取ったので引っ張り上げる。

 

そのまま立つものとばかり思っていた。

 

だがどちらも自分の力で立つこともできずに俺にもたれかかるように身体を預けた。

 

この付近はさっきまでいた上の層よりも暗い。そのせいで、顔色もわからなかったようだ。

 

背筋が、凍る。

 

「お、おい、まさか……」

 

まだ歩くことはできると思っていた。

 

俺の失態だ。読みを外した。二人の性格は知っていたのだから、気づいても良かったはずなのに。

 

フェイトは黙って無理をして苦しくても背負いこむタイプだし、アサレアちゃんは強がって虚勢を張って弱みを見せたがらない。

 

「逢坂さ……ごめん、なさい……」

 

「足に、力……入らな……っ」

 

「魔力欠乏症……っ、こんなに進んでたのか」

 

体内を循環する魔力が必要最低限度を下回り始めたことによる疲労感、脱力、身体機能の低下。体内魔力の流出が危険域に達している。早く処置をしないと、ますます悪化する。

 

空気中に魔力がないこの空間では、体内の魔力が尽きれば最悪の場合、死に至る。

 

おそらく上層にあった人骨、そのご遺体も魔力を根こそぎ吸い取られて亡くなったのだろう。このままだと、二人も同じ道を辿ることになる。

 

「こっの……っ、もっと早く言えよばか!」

 

「ごめ、なさい……。これ以上、逢坂さんに迷惑……かけたく、なくて……ごほっ」

 

「……そうかい。今現在、絶賛迷惑を(こうむ)ってるよ……」

 

「こほっ……。とお、る……」

 

「……なんだ」

 

「……ごめん、ね……」

 

「……謝るくらいならさっさと教えといてもらいたかったよ。まあいい、説教は後だ。すぐ処置する」

 

こんな砂と石ころまみれのところで女の子を寝かせたくはないが、ここに清潔なスペースなんてない。適当に石や砂利を蹴り飛ばし、担いでいるリュックサックを枕がわりにして二人を横にさせる。

 

「今から俺の魔力を流して、これ以上魔力が出ていかないようにする。集中力が残ってるなら体内の魔力の流れに全神経を注いで集中しろ。魔力を操る感覚を肌で掴め」

 

二人の間で膝をつき、胸の中央に手を置く。

 

俺の手に、フェイトは自分の手を重ね、アサレアちゃんはびくっと緊張するように反応した。

 

「ちょ、っと……っ」

 

「リラックスして心開け。抵抗したら魔力が反発してお互い危ない」

 

「で、でも……」

 

「不安なのはわかる。細かい調整は俺に任せてくれたらいい。力抜け。いつも通りで。自分の中にだけ意識を向けろ」

 

繊細な作業とはいえ、さっきランちゃんに施した際に手応えの変化は記憶した。リンカーコアにハッキングするよりかは難易度も低い。二人同時でも自信がある。

 

「やるぞ。集中しろ。感覚掴めよ」

 

「ひぐっ……うっ、んっ……」

 

「っ……」

 

まず俺の魔力を二人に流し入れる。

 

身体の表面を覆っている魔力を押し退けるようにして俺の魔力を注ぐ。俺の魔力で表面が満たされれば一度引き抜いて、もう一度繰り返す。多少強引だが、身体の表面から自分の魔力が引いていく感覚がわかれば、俺のアシストなしでもできるようになるはずだ。

 

幸いにして、二人とも飲み込みは早かった。

 

「こんな感じなんだけど……わかったか?」

 

「わかっ……わか、った……からっ、も……やめ、っ……」

 

「ぃっ……ぁっ、はぁっ……」

 

「……大丈夫か?」

 

フェイトもいるので控えめに左目を開き、二人の魔力の流れを確認する。

 

計画通り、体表面からは魔力は出ていない。これでこれ以上魔力が奪われることはないだろう。

 

ただ、ちょこっと二人とも様子がおかしい。胸に手をやって喘ぐように息をして、目元には涙まで蓄えていた。足は内ももを擦るようにもぞもぞとさせている。その光景はいつかのリニスさんを想起させた。まあ、あの時のリニスさんのほうがもっといろいろ大変だったけれど。

 

「おい、しっかりしろ。なるべく早くここを移動したいんだ。さっきからぽろぽろと石が落ちてきてんだよ」

 

ぽん、と肩を叩いた。声をかけても反応がなかったからだ。

 

ただそれだけだった。だが、二人の反応は劇的だった。いや、劇的というより、過敏というべきかもしれない。

 

「ひゃあっ?!」

 

「きゅっ……ぅっ」

 

アサレアちゃんはびくん、と肩を跳ね上げ、フェイトはらしくない悲鳴をあげてぷるぷる震えた。

 

「な、なんなんだよ…………」

 

その女の子女の子した反応に、俺は反射的に手を離した。なんだかいたいけな少女に狼藉を働いているような気分だ。なんなら医療行為に近いはずなのに。

 

吐息の荒い二人をどうしようか手を(こまぬ)いていた、その時だった。

 

すぐ後ろで、俺の背後でがらがらと石や岩が転がる音がした。

 

「っ……」

 

体温が二度ほど下がったと錯覚するほど肝が冷えた。

 

上層と、俺たちが今いる下層はかなりの高低差がある。魔法を知らない普通の人間なら生存を諦めるような高さだが、人間でないものならまだ動けるのかもしれない。

 

例えば、頭のない土の人形とか。

 

振り返ったそこには、俺の背丈を優に超える土くれでできた人形。ゴーレムが、すぐ近くにいた。

 

おそらくフェイトとアサレアちゃんを守った際に俺の背中に降ってきた石やら岩と一緒に、ゴーレムも落ちてきたのだ。

 

「くっ……あれ?攻撃して、こない?」

 

俺でも一歩踏み込めば届く距離。ゴーレムの長い腕ならあまりある。二人を守るように身構えたのに、襲ってくる気配がない。

 

「なんなんだよ……こいつ……」

 

そもそも、このゴーレムにはおかしな点が多すぎる。魔力を吸い取るようなこの空間で土の体を保てていたことも、頭がないのに俺たちを正確に狙ってくることも、他の部位をどれだけ吹き飛ばしても迫ってくるくせに胴体を飛ばしたらそれだけで沈黙することも。

 

「これは、チャンス……か?」

 

完全に静止したゴーレム。こいつを調べれば何か手がかりを掴めるかもしれない。すぐに行動に移す。

 

ごつごつとした、文字通りの岩肌に触れるがどうにも魔力が入りづらい。魔法の気配はあるにはあるが、石や土、砂といった不純物が多すぎて著しく捗らない。魔力を流すたびに外気に放出されるので効率もひたすら悪い。

 

「無理だな、これは」

 

早々に諦めた。

 

このゴーレムが時の庭園で言うところの傀儡兵みたいな自動迎撃システムではないのがわかっただけ収穫だったと捉えよう。

 

「……壊しとこ」

 

今はまったく動かないが、いつまでも動かないままかどうかはわからない。いきなり背後から、ぐしゃっ、とされる不安をなくすためにも破壊しておいたほうがいいだろう。

 

「……一応、試しとくか……」

 

ふと、胴体に何があるか気になった。

 

胴体、特に人間で当てはめるところの丹田あたりを攻撃すれば簡単に破壊できることはわかっている。

 

なので、逆にそこだけを残すことにした。丹田あたりを外して上下に手のひらを添える。

 

「……ふっ」

 

両手で発破を使う。別々の場所を同時に攻撃するのは初めてだったが、うまく行った。

 

くぐもった音の次の瞬間、ゴーレムの表皮(と呼んでいいか疑問だが)を隔てて中身が砕けていくのが手に伝わった。表皮はほぼ無傷だったが、その数ミリの表皮で重たそうな上半身を支えられるべくもなく、ぐしゃりと音をたてて土砂に戻った。

 

一つの塊を除いて。

 

「……ここだけ固まったままだ」

 

衝撃が入らないよう留意した丹田の周囲だけ、石や砂に戻らない。

 

ほぼ確実に、この塊の何かに、この塊のどこかに、ゴーレムを構築するための種がある。

 

「なんか出てくんのかな」

 

循環魔法で手の魔力量を増強させ、素手で土の塊を殴り砕いていく。はたから見れば異様な光景なことだろう。

 

しばらく叩いて、発見した。

 

「なんだ、これ……石じゃない?金属か?」

 

拳ほどの大きさはない。おおよそ鶏の卵くらいだろうか。その程度のサイズの金属。形も楕円形で、本当に卵のようだ。

 

これがゴーレムの中心にあったことを確信したのは、この金属の『性質』に気づいたからだ。

 

「これから魔力を供給してたのか……」

 

卵型の金属から魔力が放出されている。しかも奇妙なことに、その色彩は一定ではなく、複数の色が混在している。複数の色が視えるといっても、虹色みたいに綺麗なものではない。いろんな色の絵の具を無作為に溶いた水のような、有り体にいって汚い濁った色だ。

 

魔力が含まれるならと思って魔力を送って中身を調べようかと思ったができなかった。魔力を放出するだけでなく、吸収もするようだ。携帯充電器みたいな感じか。

 

新たな謎が生まれてしまったが、この金属のおかげで色々合点がいった。

 

「あの場所、あの近くに、魔導師がいた……」

 

ゴーレムは魔法で作られたものだった。ゴーレムは魔力を溜める金属を核として、構成されていた。ゴーレムには目も、鼻も、耳も、そもそも頭がない。魔力を感知するような器官があったようにも思えない。

 

であるなら、どこかで見ていたのだ。ゴーレムを生み出した術者が、俺たちの姿をどこかで観察しながら、ゴーレムを操っていた。

 

「人がいたようには、思えなかったんだけどな……」

 

「徹、徹……どこ?」

 

「逢坂さん……っ」

 

二人の心細そうな声がした。

 

俺が屈み込んで土弄りしている間に意識を取り戻したようだ。

 

「悪い悪い、ここだ」

 

「あ、徹、いた……よかった」

 

「あ、あんた、勝手にどっか行かないでよ……不安……じゃなくて!心配!心配するでしょ!」

 

「屈んでただけで近くにいたんだけどな。元気になったんならよかったよ」

 

「徹は?」

 

「俺は大丈夫だぞ。こんくらいの怪我じゃどうってことない」

 

「そっちもだけど、魔力も……」

 

「俺はみんなみたいに魔力吸い取られてないからそこまでひどくない。坑道に入る前から魔力が身体の外に出て行かないようにしてたからな。なんてことねえよ」

 

「…………」

 

フェイトが問い詰めるような瞳で俺を見る。

 

「……はぁ」

 

その悲しそうな瞳からは逃げられなかった。

 

「……体内の魔力量にはまだ余裕がある。それは本当だ。嘘じゃない。二人に渡してもまだ、な。俺はみんなほど魔力量がないから、魔法の術式から身体を流れる魔力まで見直して常日頃から節制してるんだ」

 

「……やっぱり」

 

「えっ、ちょっと……どういうことよ!」

 

「こうなるってわかってるから言いたくなかったのに」

 

「言いなさい!ぜんぶ!」

 

「……さっき、魔力をコントロールする手伝いしただろ?」

 

「うっ、うん、そう、そうね」

 

アサレアちゃんは急におどおどして頬を赤らめた。大人しくなったので、まあいいや。

 

「あれって結局、魔力の漏出を止めただけなんだよ」

 

例えるなら、怪我をした時に出血を止めただけだ。元通りに見えても、失われた血液は戻っていない。それと同じこと。

 

「これ以上体調は悪くならないけど、ここには魔力のもとになるものがないから体調が良くなることもない」

 

「で、でも、今わたしは気持ち悪くないし、頭も痛くないし、ふらふらもしない……。テスタロッサも顔色良くなってるし……」

 

「…………」

 

フェイトの目を直視できない。

 

辛そうで、悔しそうで、寂しそうで、悲しそうな表情が、とても心苦しい。

 

「だから……魔力の抑え方を教えた時についでに俺の魔力を渡しといた」

 

「わ、わたしにも?」

 

「フェイトにだけ渡してアサレアちゃんを見捨ててたら俺くず野郎じゃん。どっちもだ」

 

「で、でもっ、あいさっ……あんた、そんなに魔力量多くないんじゃ……」

 

「はっきりいってくれるなー……。俺にだって魔力少ないって自覚はあるんだ。だから、さっきも言っただろ。極力魔力の消費は抑えるようにしてるし、身体強化みたいな魔法も浪費(ロス)がないようにしてる。俺は射撃も飛行も使わないし、バリアジャケットもないんだ。たぶんこの環境で一番有利なのは俺だ」

 

「そういう問題じゃないの!魔力返す!足ひっぱりたくない!」

 

「これ以上魔力なくなったら歩けないだろ。それが一番困るんだ。なにが出てくるかわからないんだから、自分の身は自分で守ってもらわないといけない」

 

「んぐっ……」

 

「…………」

 

厳しいようだが、上の層で現れたような量のゴーレムに囲まれたら、今度こそまずい。魔法を使って、とまでは言わないが、走って逃げるくらいの体力は残しておいてもらわないと、俺も対処のしようがない。

 

二人が俺を気遣ってくれているのはわかっている。悔しそうに拳を握りしめるアサレアちゃんと、自分を責めるように唇を噛むフェイトの姿は胸が痛い。しかし、その気遣いや二人の意思を汲み取っていては、この先進めないのだ。

 

そのあたりは理解してもらうしかない。

 

「……そろそろ動くぞ。ここからどうするかだが……」

 

「落ちる前は……徹はここから出るみたいなこと言ってたよね?」

 

「ああ。危ない気がしたから出ようと思ったんだけどな。遅かった」

 

「ここ、上がれる?」

 

「んー……二人担いでも上がれないことはないけど、クレインくんとランちゃんも一緒に落ちちゃったし、探さないと」

 

「そう……そうよ!クレイン兄とランドルフのやつは?一緒じゃないの?」

 

「上の層から落ちる時にランちゃんがクレインくんを確保してたから、たぶん無事だとは思う。だけどどのあたりにいるかはわからない。やたらめったに掘り進んだのか、この坑道は道が枝分かれしてるみたいだしな」

 

「念話で……」

 

「目印もない、現在地もわからないのにどうやって合流地点を伝えたらいいんだよ。しかも、念話は使えない」

 

「な、なんでよ」

 

「ここの土は魔力を吸う。そのせいで念話も使えない。上層でランちゃんと念話したけど至近距離でもノイズが入ってた。距離が開いたら絶望的だ」

 

「じゃあ……進むしかないんだね」

 

「そうだな。一番奥があるはずだ。そこまでの間に休む場所もあるだろ。この状況で集まれる場所っつったらそこしかない。ランちゃんならきっとそこまで考えが至るだろ」

 

「でもっ!どっちの道が奥に続いてるかなんてわかんないわよ?!」

 

俺たちが落っこちたのは、ちょうど道のど真ん中というところ。右に進むか、左に進むか、選択肢は二つに一つ。これを指運で決めてしまうのは体力を考えるとリスキーだ。信じてもいない神様に任せたくもない。

 

一見、どちらの道に進むか選びようがないように思えるが、しかし何事も考察のしようはあるというものだ。

 

「それがわかるんだなー。これを見てくれ」

 

俺は二人に、ゴーレムから出てきた楕円体の金属を差し出す。

 

アサレアちゃんが真っ先に覗き込んだ。と同時に首を傾げた。

 

「……なにこれ?なにかの卵?」

 

「徹、これって?」

 

「ゴーレムの核になってたもんだ」

 

「……っ!ゴーレムの卵?!もしかしてこの中からゴーレムがっ!」

 

「いや、欠片もまったくこれっぽっちもそういうことじゃない」

 

「っ、っ、っ!」

 

「痛いって、アサレアちゃん蹴らないでくれ」

 

「……魔力が……。もしかして、今回の任務の目的って、これ?」

 

「たぶんそうなんだろうな」

 

フェイトはすぐに勘づいたようだ。

 

とんちんかんな発想をして顔を赤くして怒っているアサレアちゃんに、思い出させるように話す。

 

「今回の任務は、この世界の鉱山の地質調査。珍しい金属が産出されるからってことで俺たちは派遣された。その調査対象が、この金属ってわけだ」

 

「……なんでこれって決めつけるわけ?証拠があるの?書いてたの?」

 

的外れな回答をしたのがよほど恥ずかしかったのか、それとも小馬鹿にした俺の返事に怒ったのか、若干不機嫌なアサレアちゃんである。

 

「この金属は魔力を溜め込む性質がある。そう多くは存在しない稀少な金属であることは確かだろう。魔力絡み、魔法絡みの金属だしな」

 

「魔法第一主義の管理局からすれば、重要な金属ってわけね。……はいはい、納得したわよ。……あれ?それじゃ、これを持って帰れば任務はおしまいってこと?」

 

「最低ラインは、な。評価を気にしたら埋蔵量とかどのあたりに多くあるとか調べるべきだろうけど、今はそんな悠長なこと言ってられねえし。そもそも調べ方も道具もないし。だから、任務の最低条件をクリアした俺たちの次の優先事項はランちゃんとクレインくんの二人と合流することだ」

 

「そのために坑道の奥に進むんだよね」

 

「ふむふむ……はっ!だから!その一番奥に行く道がどれかわかんないんじゃないの!」

 

「そうそう。やっと話が戻ってきた。そんでこの金属の存在ってわけだ。この金属はこの鉱山のどこに埋まってると思う?」

 

「どこにって……そんなの、専門家じゃないんだからわかるわけないわよ」

 

「……わからない」

 

早々に考えることを放棄したアサレアちゃんとは違い、しばし頭をひねったフェイトも、答えは出なかった。

 

まあ、俺もたぶんこれが正解だろう、という仮説しか持っていないのだけれど。しかし、状況的に一番可能性は高いと思われる。

 

「正解は、土の中だ」

 

「…………」

 

「…………」

 

二人の目が冷たく鋭い。コンディションが悪くなかったらまず間違いなく魔力弾が飛んできていたことだろう。

 

魔力弾の代わりの罵詈雑言が飛んでくる前に、加えて説明する。

 

「えっと……より正確に言うと、この辺りの土に細かく細かく含まれてるんだと思う」

 

「……なにがどう違うのよ」

 

「こうしてちゃんと考え始めるまで気がつかなかったのが恥ずかしいくらいなんだけど、坑道に入った時からちょっとおかしくなかったか?」

 

「……?体調はおかしくなってきてたけど……」

 

「んー、それもおかしいっちゃおかしいんだけどな。もっと変なのは、魔力に反応して光る石のことだ」

 

「それはべつにおかしくないでしょ?ランドルフも言ってたわ。そういう石とか金属は違うところからも採れてるって」

 

「光る石があったのがおかしいんじゃないんだ。その石が、光ってたのがおかしいんだ」

 

「……ん?んー……ん?」

 

よくわからなくて、一度よく考えて、やっぱりよくわからなかった、というアサレアちゃんの図であった。

 

俺のヒントは分かりづらかったのかもしれないが、フェイトは気がついたようだ。

 

「あ、この坑道で光る石が光るのは、おかしいんだ……」

 

「え、え?なんで?なにが?」

 

「この坑道は空気中の魔力を吸い取っていく。道を歩く魔導師から奪い取るほどにな。そのくらい魔力がないのに『魔力に反応して光る石』が光ってるなんて、おかしいだろ?」

 

「っ……あぁっ!そういうっ……。そう、そう……ね」

 

今やっと気づいたことを恥じるように、でも納得はしたようで、アサレアちゃんはぐぬぬと小さく頷いた。別に悔しがるような話でもないのだが。

 

「空気中には魔力はない。でも『魔力に反応して光る石』は光っている。ということは?」

 

「……あっ!そっか!つ……」

 

「土の中に魔力を吸収する金属が含まれていて、その金属の魔力に反応して石が光ってる……ってこと?」

 

「そういうこと。いい子いい子」

 

「ふふっ」

 

見事正解したフェイトの頭を撫でる。こうして褒めることが、子どもの勉強や学習において大事であると、俺はなのはで学んでいる。

 

「わ、わたしも言おうと……わ、わかって、たのに……」

 

「ん、なに?」

 

「なんでもないばかっ!」

 

「な、なんで怒られたの俺……。ま、まあ……それで、だ。この金属は壁や天井、床など、俺たちを囲むようにして存在してる。その金属に魔力を奪われたせいでみんな体調を崩したわけだが、少しおかしいと思わないか?」

 

「つ、次の問題ね……絶対正解するわよっ」

 

「べつにそういう形式でやってるわけじゃないけど……」

 

「どうして魔力が溜まり続けてるのか、ってこと?」

 

「おお、フェイト早い。そうだ。いい子いい子」

 

「んー……ふふっ」

 

「そっ、れっ、がっ!なんの役に立つって言いたいの!?」

 

クイズと捉えているからだろうか、問題に正解できなくてアサレアちゃんのフラストレーション指数が上昇の一途だ。勝手にクイズだと思うのは構わないけれど、それで答えられないからって俺を怒らないでほしい。

 

「ずっとこの地にあるのに、乾いたスポンジみたいに魔力を吸い取ろうとする。限界まで溜まることなく、な。それはなぜか?」

 

「っ!は、はい!え、えっと……空っぽになるまで放出されてる……から?」

 

「そう。よくできました」

 

ぱぁっ、とアサレアちゃんの表情に笑顔が咲いた。が、次第に笑顔が散っていき、最後は木枯らしの風より寒々しい目で俺を睨みつけた。なんなのだ、褒めたのに。

 

気圧されていると、フェイトがこつんこつん、と頭で腕のあたりにぶつかってきた。俺を見上げて、声は出さずに口をぱくぱくと動かした。『アサレア』『正解』『ご褒美』と、読み取れた。

 

勝手にアサレアちゃんがクイズにしているだけで、こっちがご褒美の景品をあげる理由なんてないのに、と一瞬思ったが、フェイトは最初に教えてくれていた。こつんこつん、と腕を示してくれていたのだ。

 

「えっと……よ、よくできました?」

 

「ふ、ふんっ……べつに、正解したからって嬉しくないけどっ。ないけどっ!」

 

言葉とは裏腹に頬が緩んでいる。アサレアちゃんの機嫌が直って何よりだ。

 

フェイトに感謝しつつ、続ける。

 

「それで、だ。なんで魔力が空になるまで放出されているのか。二つ、可能性があると思っていた。一つは植物みたいに昼夜とか、時間によって放出と吸収のサイクルがあるのか。もう一つは、それこそ植物の根のように、どこか大本が末端で吸い上げた魔力を集約しているのか」

 

「徹はどっちだと思ってるの?」

 

「それだけだと判断はつけられない。でももう一つ、判断する材料があった。ここってさ、暗いけどまだお互いの輪郭くらいは見えるだろ?」

 

「そう、ね。おかげでまだましかしら」

 

まし、というのは暗所恐怖症の件のことだろう。もう少し暗くて狭くなるとアサレアちゃんの精神衛生上よろしくなさそうだ。

 

「上にいた時ってさ、もうちょっと明るくなかったか?」

 

「たしかに……上にいた時はなんとも思わなかったわ」

 

そういう迂闊な発言をするから、ランちゃんに揶揄(からか)われるんだぞ、と思わないでもない。でもランちゃんとアサレアちゃんとやり取りは見ていて楽しいから俺も注意しない。

 

「あ、そっか。上にいた時はみんな魔力を奪われてて、だから明るかったんだ」

 

「はん、そういうこと……。ここにはわたしたちだけしかいないし、魔力を取られないようにしてるから、金属が魔力を吸収できない……つまり、光る石も反応が弱くてあんまり光らないってことね」

 

「そういうこと。えらいえらい」

 

「徹って、人を乗せるの上手だよね」

 

「教え上手って言ってくれたら素直に喜べるんだけどな……」

 

「もうっ、いいから続きを話しなさいよ!」

 

つんけんしながらも手を払おうとはしなかった。

 

フェイトからも褒められたことだし、最後の締めに向かうとする。

 

「ここで、どちらの道に進むかって話に戻ってみようか。二つの道をよく見てくれ」

 

右と左の道を指差す。

 

「右の道は……奥のほうはずいぶん暗いわ。先が見えない。……なるべくならこっちは行きたくないわね……」

 

「え?左の道は先のほうまで続いてるよ。薄暗くはあるけど」

 

「一定のサイクルで魔力の吸収と放出を繰り返してるんだとしたら、こんなに左右の道で明るさに違いは出ないはずだ。ってことは、細かな坑道で吸収した魔力はどこかで一箇所に集約されてるって考えていいと思う。土の中に埋まっている金属の、より吸収力が強い方向に魔力が移動してるんだ。金属間を魔力が移動する時に、光る石が反応して道を照らしてる」

 

「えっと……つまり、光を追っていけばいいってこと、よね?」

 

「そういうこと。道標(みちしるべ)に灯りまでついてる。ラッキーだったな」

 

「……なんでわたしを見て言うの?ねえ?なんで?わたしわかんないなー」

 

「だってアサレアちゃん、暗いとこ苦手もが」

 

「ば、ばかぁっ!後輩がいるんだからそういうの言わないでっ」

 

「やっぱりアサレア暗いところ苦手なの?」

 

「だ、だから苦手じゃない!きらいなだけ!っていうか呼び捨てすんなっ!」

 

なんだかんだでフェイトのことをしっかり後輩扱いしているアサレアちゃんが、一生懸命背伸びをしてお姉さんぶろうとしているのは見ていて実に微笑ましい。こうして人は成長していくのだろう。アサレアちゃんはもう少し成長に時間がかかりそうだけれど。

 

「なんか失礼なこと考えてないでしょうね?」

 

さすがは女の子。こういう視線は鋭く察知する。

 

「そ、そんなことないぞ!よ、よし、それじゃ動くとしようか!」

 

「……ごまかした」

 

「どこからなにが出てくるかわからない。ちゃんとお互い警戒するんだぞ」

 

「うん、わかった」

 

「ふんっ、わかってるわよ」

 

フェイトとは対照的に、つんつんと棘の多いアサレアちゃんだった。

 



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山の麓の国

「この、鉱山?ってさ、人って住んでるの?」

 

「ああ、たぶんな。上層で戦ったゴーレム、あれは魔導師が操っていた。何人いるかはわからないけどな」

 

薄暗い坑道を、心もとない明かりの中進む。俺の隣を歩くアサレアちゃんが聞いてきた。

 

「でも、こんなところで……とくに魔導師が暮らせるの?」

 

「難しくはあるけど不可能じゃないだろ。俺がやったみたいに魔力を奪われないようにする方法はある。俺としては、日光も届かない場所で栄養をどうしてるのかのほうが気がかりだよ」

 

「なんでこんな山の中で暮らそうなんて考えたのかしら。暗いし、不便だし、埃っぽいし、暗いし、陰気じゃない」

 

「『暗い』が二回……」

 

「しっ。フェイト、しっ」

 

それだけアサレアちゃんにとって暗いということは許し難いのだろう。

 

山の中、しかも魔力を吸収するなんていう特殊な金属が含まれる環境の中で暮らすのは大変だろう。しかし、この『世界』で暮らすということを踏まえて考えると、あながち悪い選択でもないのかもしれない。

 

「そりゃアサレアちゃんにはここの暮らしはつらいだろうけど」

 

「アサレアは大変そうだね」

 

「テスタロッサ!」

 

「ごめんなさい」

 

「でもよく考えてみてくれ。山を出て、日々魔法生物に追いかけ回されるより、ここのほうがまだ生活しやすいんじゃないか?少なくとも、外は気が休まらないぞ」

 

「それは……たしかに」

 

「射撃魔法の腕に覚えのある魔導師が四人もいても撤退するしかなかったくらいだ。普通なら外に出ようとすら思わないだろ」

 

「空も、陸も、天敵がいっぱいだったもんね」

 

数体程度なら追い返せるかもしれないが、フェイトの大規模術式(ファランクス)でもどうにか出来るかわからないくらいの物量でこられると、一般の魔導師にはもうお手上げだ。図体のでかい鳥なんかもいて、そいつには魔法のダメージも通りにくかった。このメンバーでそんな有様だ。こうなると、鉱山の外は人が暮らせる環境ではないだろう。

 

正直、この世界には人なんていないと思っていたくらいだ。

 

「それにしても、案外あったかいのね」

 

「それは坑道が?それとも俺の手が?」

 

「こっ、坑道の話よ!ばかぁ!」

 

ぷんすか怒りながらも俺の手は離そうとはしなかった。

 

薄暗い程度に光はあると言っても、暗いことには変わりないので不安そうにしていたアサレアちゃんの手を握って道を進んでいたのだ。ちなみにもう片方の手はフェイトが握っている。

 

「たしかに暖かいよな。……この光る石は熱も出してんのか?」

 

壁に寄って手を(かざ)す。いや翳そうとしたのだが、二人とも手を離してくれない。

 

「……ちょっと手、離してもらっていいか?」

 

「テスタロッサ、言われてるわよ」

 

「アサレアのほうが壁に近いよね」

 

「いいからっ!」

 

「フェイト、ほれ、乗っていいから」

 

「それはそれで恥ずかしいけど」

 

手を離したフェイトは、恥ずかしいと言いつつも促されるままに俺の背に乗った。よく家でアリシアが俺の背に、というか肩や頭に登ろうとしているのをじっと見ていたりするので、なんだかんだ羨ましかったのかもしれない。

 

「な、なにそれ。おんぶとか……恥ずかしい子……」

 

馬鹿にするような口振りなのだが、妙に言葉に力がなかった。

 

フェイトを背負いながら、ようやく手を光る石に近づける。

 

「やっぱり熱が出てるみたいだな。本気で太陽光に近いのか……」

 

かすかにとはいえ、たしかに温もりを感じられる。本来冷んやりしていなければいけないはずの坑道が過ごしやすくなっているのはこのためか。

 

温度という点だけを取れば、とても快適な空間だ。

 

「フェイト、もういいぞ」

 

「ん、わかった……っ」

 

俺の背から降りて足を床につけた途端、フェイトの膝がかくんと折れた。地面に倒れこむ前にフェイトを抱きかかえられたが、驚いた。俺もそうだが、フェイト本人が驚いていた。

 

「疲れがたまってんのか……」

 

「…………」

 

身体の表面を覆うように張られた魔力の膜。あれはおそらく、無意味に張られたものではないのだ。魔導師の動作を外側から補助する、いわばサポーター的な役割なのかもしれない。疲労や負担を軽減する働きがあるのだろう。その膜をほぼゼロまで抑えている現状、どうしても疲弊しやすくなる。

 

身体の内部を循環する魔力も減ってしまっている今の状態では、普通の小学生とさほど遜色はないだろう。これまで鉱山の中を歩いてこれただけでも、よくできたほうだ。

 

「テスタロッサ、疲れてるんならこいつの背中に乗ってなさいよ」

 

「え?」

 

「動かなきゃいけない時に動けなかったら、そのほうがまずいでしょ。休めるうちに休んどきなさい」

 

『せっかく荷馬車があるんだからねっ!』と最後にアサレアちゃんらしいセリフをつけ加えた。

 

やはり人は立場によって成長するらしい。後輩ができたことでアサレアちゃんは先輩らしい思いやりを学んだようだ。照れくさいのか、そっぽを向いているところは初々しく、微笑ましい。

 

「ありがとう、アサレア」

 

「アサレア『さん』でしょうが」

 

「まあ担ぐのは俺なんだけどな」

 

フェイトが再び背中に戻る。ふわっとした柔らかさと心地のいい重みが背中に密着した。疲れるどころかこの感触で千里を走れそうである。

 

「アサレアも乗る?徹なら大丈夫だよ」

 

「二人乗せても原付より速度出せる自信はある」

 

「わ、わたしはいいわよ……はずかしいし」

 

「そうか?まあ疲れたら言ってくれ」

 

「う、うん……ありがと。……こんなことならダイエットしとけばっ……」

 

片手でフェイトがずり落ちないよう支える。もう片手をアサレアちゃんに差し出すと、存外素直に握った。

 

 

 

 

 

 

どれほど歩いたか。

 

床、壁、天井を伝う淡い光を辿って、さらに進んでいく。似たような道が続くせいで同じところをぐるぐると回っているのではと不安に苛まれつつあった頃。

 

上層でゴーレムと戦っていたところほどではないが、ある程度広い空間に出た。

 

そこに、あった。

 

「扉……小部屋でもあるのか?」

 

「休めそうなの?それなら……」

 

「ああ、少し休みたいな」

 

周りとは異質というか、浮いていた。土の壁に、木の扉がくっついてた。

 

ここしばらくアサレアちゃんの口数も減っていたし、いつのまにかフェイトは俺の背中で寝息を立てていた。疲労が限界に達しているのだろう。

 

このままでは戦闘になった際、自分の足で逃げるどころじゃない。先の道を自分の力で歩いていくことすら難しくなりそうだ。休息を取れるのなら、一度取っておきたい。

 

「物音は……しないな。ちょっと待っててくれ。先に入る」

 

「ちょ、ちょっと……」

 

木製の、簡素な扉だった。どうってことないように思えたが、この鉱山内で樹木など一切見ていない。なんなら草が生えているところすら見ていない。となれば、外に出て伐採してここまで運んでこなければならないはず。この環境下では、木材は大変貴重なものだろう。

 

扉だけ作って、向こう側に何もないということはあるまい。

 

取手に手をかけ、扉を開く。軋む音はするが、ちゃんと開いた。

 

扉は木製だが、内部は土の壁をくり抜いて拡張したような作りだ。印象としては、山小屋を住みやすく小綺麗にしたみたいな感じだろうか。とりあえずこの小部屋の外よりかは清潔だし、過ごしやすい。休憩するだけなら充分だ。

 

「人はいない……か」

 

「で、でも……こうして休憩所みたいなところがあるってことは……」

 

「やっぱり鉱山で生活している人は少なくない人数いるってことだな。ま、そのおかげで俺たちが休めるんだ。ありがたく使わせてもらおうぜ」

 

小部屋の中を奥まで見て回って安全を確認する。

 

壁を削ってそれっぽい形に整えた土台に布をかけただけの簡易的なベッドを発見したので、そこにフェイトを寝かせる。あまり柔らかそうではないベッドもどきにフェイトを寝かせるのは心苦しいが、少なくとも俺の背中よりかは寝やすいだろう。

 

「ベッドならあまってるし、アサレアちゃんも休んどいたらどうだ?疲れたろ」

 

「えぅえっ?!べ、ベッドっ?!」

 

「なんか埃っぽいんだよな……。シャワーとかあると嬉しいんだけど、贅沢ってもんか」

 

「シャワーっ?!」

 

びくんっ、と飛び跳ねて俺からじりじりと距離を取る。

 

なんだか以前にもこういった反応を見たことある気がする。そう、あれは長谷部と太刀峰が家に泊りにきた時のことである。

 

「……あー、いや。また歩かなきゃいけないんだから、ゆっくりできる時に休んどいてくれよって話だからな?アサレアちゃんの好きなようにしてくれ」

 

「あ、ああ……そういう、こと……。あはは……わきゃっ」

 

後ずさっていたアサレアちゃんが、部屋の端にあった本棚らしきものにぶつかった。本棚と呼ぶにはあまりに本の数が少ないが。

 

「あ、本落としちゃった……。綺麗な装丁……でも、なにこれ?読めない……ミッドの言葉じゃないの?」

 

落っことした本をアサレアちゃんは手に取って、表紙を見て呟いて首を傾げ、本を戻そうとする。

 

ミッドチルダ語ではない本。雰囲気のある装丁。無限書庫でいくつも似たような特徴の本を見た。ベルカ時代の書物だ。

 

「アサレアちゃん。ちょっとそれ、見せてくんない?」

 

「これ?でも読めないわよ?」

 

「いいんだ、ありがとう」

 

アサレアちゃんから受け取り、目を通す。

 

「……よかった。比較的新しい時代の言葉だ。聖王戦争前後ってところか。ところどころわからない部分はあるけど」

 

「聖王戦争……あ、ベルカ時代の本なの?逢坂さん、読めるの?」

 

「え?」

 

「どうしたの?」

 

唐突に名前を呼ばれた。驚いてアサレアちゃんを見るが、本に目を落とす俺を普通に横から眺めていた。

 

おかしい。本来ならその『逢坂さん』という呼び方で何にも間違っていないはずなのに、アサレアちゃんの口から出てきただけで物凄い違和感。

 

「あ、いや……なんでもない。この世界に来る途中にも話してただろ?ちょっと勉強してたんだ。この辺りの時代なら、まだなんとか読めそうだ」

 

「本当に読めるんだ……すごいっ」

 

ページをめくる。わからない部分を推測しながら読み進めていく。

 

「……これは採掘される鉱物の特徴が記述されてるのか?でも……ん?」

 

なんだろう。少し、おかしい。

 

文字や文法は明らかに聖王戦争前後の時代のものだ。なのに、違和感が散見される。紙質も無限書庫に納められている本とは違うが、違和感の本質はそこではない。

 

紙の表面を撫でる。まるで書き足しているかのように、微かに凹凸がある。

 

この本だけがおかしいのだろうか。本棚にはまだいくつか本が置かれているので、そちらと比べてみよう。

 

「アサレアちゃん、他の本も取ってくんない?」

 

「う、うんっ」

 

ついアサレアちゃんに頼んでしまった。自分で行けと悪態をつかれるかと、下手したら蹴飛ばされるんじゃないかと思ったが、意外なくらい素直に返事をしてくれた。

 

ててっ、と小走りで空白の目立つ本棚へと向かい、持てる限りの本を抜き取って戻ってくる。

 

「はい、どうぞ。あ、一気にたくさんいらないよね……残りはこっちに置いとくわね」

 

「……お、おう、あり……がとう」

 

いやに甲斐甲斐しく手伝ってくれるアサレアちゃんには戦慄を禁じ得ないが、どうやら機嫌は悪くないらしい。表情を緩めて、再び俺の隣に立って手元を覗き込む。

 

ユーノ直伝の検索魔法が使えれば短時間で済むのだが、この鉱山で魔法を使えば魔力の消費量は通常の数倍にはなる。魔力の浪費は死活問題、仕方なく一冊ずつ手に取って読んでいく。

 

いくつか目を通していって、ある一冊に辿り着いた。

 

「それって……絵本?」

 

「みたい、だな」

 

ほんわかした絵柄で絵が描かれていて、所々に短く文章が綴られている。絵本ということもあってか、難しい単語はなさそうだ。こんな休憩所みたいな場所に置かれているのは不思議だが。

 

「どういう内容なの?」

 

「ちょい待ち。……隣に座ってくれるか?立たれてると喋りにくい」

 

「っ、うんっ」

 

土を削ってそれっぽくしただけのような長椅子。そこに座る俺のすぐ隣に、アサレアちゃんが腰掛ける。絵本を見たいからか、距離が妙に近い。

 

「……これは英雄譚、みたいな絵本なのか?えっと、とある世界の……」

 

要約すると。

 

ある世界に、オンタデンバーグという小さな国があった。その国には、とても優れたゴーレム使いの集団がいた。国の成り立ちから深く関わり、日常の生活から他国との戦争においても活躍していた。武力はあっても(おご)らず、慎ましく生活していた。

 

そんなある日、絶大な力を持つ国が攻めてきた。その国の名は、ガレア。魔法も、技術も、純粋な数においても劣っていたオンタデンバーグは奮戦するも、結果として大国ガレアに呑み込まれた。

 

侵略される中、ゴーレム使いの集団は最後の最後まで徹底抗戦した。可能な限り、多くの国民を逃す為に、もはや残虐とすら呼んでいいほどの圧倒的武力の前に身を晒し、抗い続けた。

 

戦火に包まれる街の中、ゴーレム使いの集団の頭領は息子・タウルに逃げるよう指示する。無論、タウルは自分も逃げずに国の為に戦うと進言する。だが頭領は、タウルに絶対に生き残り、民衆を守り、導くようにと厳命を下した。

 

頭領と、その部下のゴーレム使いたちが命がけで作った幾許かの時間の間に、民は逃げた。逃亡生活の途中で追っ手に襲われたり、野盗にあったり、病気にかかったりと命を落とす者も少なくない数出たが、その度に一致団結して乗り切った。

 

苦労してこの世界にまでやってきたはいいが、魔法生物の脅威に晒され、命からがら今俺たちがいるこの鉱山に逃げ込んだ。鉱山で暮らすようになってからも問題はたくさん発生したが、その都度タウルが先導してみんなで協力して解決してきた。

 

タウルの功績と人望が評価され、タウルは王へと担ぎ上げられた。王となったタウルは、鉱山の国を、以前暮らしていた山の麓の国と同じ、オンタデンバーグと命名した。ここを新たな一歩として、培ってきた金属加工と精錬技術を用いて再興を目指していた。

 

力を集め。

 

技術を高め。

 

「……いつの日か、ガレアを打ち倒すために……」

 

「ぐすっ、ひっく……っ」

 

「まあ、絵本にするような内容じゃねえよな……」

 

絵本の冒頭でゴーレム使いの活躍が多く書かれていたからてっきり英雄譚かと思って読み進めていたが、まるで違う。言うなれば興亡録だ。

 

同時に、この絵本がここに置かれている理由もわかった気がする。

 

これは、戦争の恐怖とガレアという国への恨みを忘れないようにするための絵本だ。子どもにも読んで聞かせられるように、子どもの代にまで暗く澱んで熱く滾った憎悪と復讐心を継承するための絵本だろう。

 

それほどまでに、自分たちの故郷を焼き払ったガレアに報復したかったのだろう。知人友人、家族親戚。果ては国そのものを殺された彼らの恨みは、どれほどのものだったのだろう。俺にはもはや、察することさえ叶わない。

 

現代において、ガレアという国が残っていないことはこの鉱山の国・オンタデンバーグの人々にとって良いことなのか悪いことなのかもわからない。暗い復讐の刃を向ける場所は、既にない。

 

「っ、ぅぐっ……ぐすっ」

 

「あー……よしよし。ちょっと絵本の絵柄と内容に落差がありすぎるよな……」

 

ぽろぽろと涙を溢れさせるアサレアちゃんの頭を撫でる。

 

ほんわかした絵柄と悲惨な描写との乖離。衝撃的な展開。これまでの絶望の割に救いが足りなかった結末。

 

それらに驚いたのか、それともあまりにも可哀想だったのか、アサレアちゃんは泣いてしまっていた。

 

「ぐすっ……いきなり泣いて、ごめんなさい。もう、大丈夫……」

 

「……ま、気持ちはわかるよ」

 

「……こんなこと、昔は珍しくなかったのかな。あたり前のことだったのかな……」

 

「……そう、だな。この国同士だけで起こったことではなかったみたいだ。秩序のない戦争ばかりの世の中を憂いて、聖王統一戦争が起こったんだから」

 

「そう、なのよね……。……こんなこと言ったら、当時の人たちに失礼なのかもしれないけど……っ」

 

俺の服を指先で摘んで、アサレアちゃんは絞り出すように言う。俺の顔を見上げた。

 

「わたしは……今の、この時代に生まれてよかったって、そう思うわ……」

 

赤く充血した瞳を潤ませるアサレアちゃんの頭に手を置く。

 

俺だって。

 

無限書庫で本を漁って、歴史を読み解いていった俺だって、アサレアちゃんと全く同じことを痛感したんだ。

 

「……失礼ってことはないだろ。平和な日々が何物にも代え難いことを理解できてるんだ。それが、悪いことのはずはない。間違ってないよ」

 

「っ……うん、ありがと……」

 

目元を拭って、一呼吸。それでもう、調子を取り戻したようだ。

 

「それより……ここの人ってまだガレアって国に復讐しようとしてるの?でももうガレアなんて国……」

 

「ああ。少なくとも聖王統一戦争が終わった頃にはすでになくなってる。復讐の相手はもういないよ。まあ……いくら国力を増強したとしてもガレアには勝てなかっただろうけど」

 

「このガレアって国、そんなに強いの?」

 

「無限書庫で調べてた時、いくつもの国がガレアに併呑されたって記述があった。相当な武力を誇っていたんだろうな。そんな国でも聖王統一戦争の後は残ってないんだから、世界は広いってことだよな……」

 

「聖王統一戦争……勉強はしたけど、こうやってまざまざと現実を見せつけられると……っ、かなりくるものがあるわ……」

 

「生まれるのが現代でよかったって、つくづく思うよ。……あ、こっちの本は採掘量を纏めてる。まだ新しい文字だ」

 

「本当だわ。これはミッドチルダの古い言葉……よね?読みにくいことは変わらないけど、これならわたしでも読めるわ。古語は学校で習ったし」

 

絵本とは違い、報告書を綴じているみたいな本は古いミッド語だった。ここが閉鎖的な場所なら言語はベルカ語から変遷しなかったはずだ。少なくともどこかの国か、もしくは違う世界と交流があったのだろう。

 

「へえ、読めるんだ、アサレアちゃん」

 

「うん。これでもちゃんと勉強してたんだから。ちょっと忘れてるところもあるけど……」

 

「普段から使わないもんな、こんな言葉。忘れるのも当然だ」

 

「ねぇ、ここってなんて読むの?」

 

「ああ、これはな……」

 

俺の腕にくっつくようにして、テーブルに置いた本の文章を指差す。ここはなんて読むのとか、どんな意味なのとか、いろいろ熱心に聞いてくる。

 

この小部屋にくるまで、いや、この山に入る前の平原でゆっくりしていた時よりも、アサレアちゃんは表情も声も明るい。

 

「わたしもベルカ語勉強しようかなー……なんて」

 

「ベルカ語を学べるとこなんてあんの?」

 

「え?……えっと、まあ……あるけど。高等教育の専門学部とか。でもあんまり人気はないって聞くわね。そういう知識が必要なところっていうと、教会系列の幹部候補とかくらい?募集人員も少ないし、なにより難しいから目指す人はごく一部よ」

 

「ほう。そういう事情を詳しく聞く機会ってないからちょっと面白いな……ん?でも、それならなんでアサレアちゃんはベルカ語を勉強しようとしてんの?」

 

「だ、だって、逢坂さんはそういう分野に興味……あるんでしょ?」

 

「え、俺?んー、まあ好きっちゃ好きだけど、そもそもは調べ物のために勉強してるんだけどな。『王』がどうのこうのっていう、あれな」

 

「そ、そう……なんだ。……一生懸命にやってるみたいだから、あの子のためなのかなって思った」

 

そう言って、アサレアちゃんは視線を俺から外してベッドの方向へ向ける。そこで眠る、金髪の少女へ。

 

「……違うって。言ったろ?前の任務で見つけた『王』っていう手がかりが無性に気になってて、それで……そうだな、自主的に調べてるって感じだ。他意はない」

 

「……そう。それじゃ、あの子と逢坂さんの左目は、なにか関係があるの?」

 

「っ……」

 

「あるのね……やっぱり。自己紹介の時に『嘱託になる前に知り合った』って言ってたもんね。わたしたちが一緒に仕事した任務、あの日が嘱託魔導師として初めての任務だったって、逢坂さん言ってた。その時に、一つ事件を経験したって言ってた。その時の後遺症みたいなものだって。その事件で、あの子と知り合ったってことでしょ?」

 

アサレアちゃんはしばしば自分を奮い立たせるように、わたしは優秀だ、と嘯くけれど、実際に聡明だ。落ち着いているときは頭が回る。これを戦闘時にも発揮してくれれば、と思わないこともない。

 

「左目の話、避けようとしてた。その怪我って……もしかして、あの子の……」

 

自分自身に冷静になれと言い聞かせても、コントロールできない部分はある。後遺症の話は、俺のウィークポイントだ。

 

かぁっ、と頭に血がのぼる。

 

思わず、語気が荒くなる。

 

「それより先を言うなよ。俺にも許容できる限度はある」

 

低く重く、抑えつけるような威圧的な声だった。自分の喉から出たものだと思えなかった。

 

「……ごめんなさい」

 

「っ……いや、いいんだ。ごめんな、きつい言いかたして。実際、フェイトともあんまり関係はないことなんだ。結局、俺の能力が足りてなかっただけなんだから」

 

「……逢坂さんはつらくなかったの?」

 

悲しそうに下がる目尻に、涙がたまっていた。あれだけ泣いていたのに、まだ枯れていなかったらしい。

 

(あふ)れそうになるそれを、(こぼ)れる前に指先で拭う。

 

「前にも言っただろ?後悔はしてないんだ。これはこれで、あると便利だしな」

 

誤魔化すように笑うと、アサレアちゃんもつられて微笑んだ。

 

ふと、アサレアちゃんは目を伏せた。

 

どうしたのだろうと思っていると、手に柔らかな感触。アサレアちゃんが、俺の手に小さな手を重ねていた。

 

「ぁ……っ、逢坂さん……っ」

 

薄暗くてもわかるほどに頬を染め、俺の名を呼ぶその声は震えていた。

 

躊躇いがちに彷徨う瞳は、じきに俺をじっと見据えた。そこには、覚悟を決めたような力強い輝きがあった。

 

「わ、わたし……」

 

重ねられた手は。

 

「わたしっ……っ!」

 

熱かった。

 

「逢坂さんのっ……」

 

「んゅ……あれ……ここ、は……。徹……?」

 

「っ?!」

 

「っ……」

 

びくっ、と肩が跳ねた。アサレアちゃんはもちろん、俺もである。

 

「とお、る……」

 

控えめで不安げなフェイトの声。休んでいたフェイトが目覚めたようだ。

 

「……はぁぁ」

 

アサレアちゃんはとっても深いため息を、一緒に魂まで出ていってしまいそうなほど深いため息をついた。

 

その様子に空笑いして、フェイトに声をかける。

 

「あはは……フェイト。こっちだ。ちゃんといるぞ。休めたか?」

 

「ベッド、硬かったよ」

 

「ほぼ土だもんな。でも俺の背中よりはましだったろ?」

 

「徹の背中ならずっと起きなかったと思う……」

 

目元をくしくししながらベッドから起き上がり、小さく伸びをした。

 

まだフェイトが覚醒しきってないうちに、アサレアちゃんに顔を近づける。

 

「なっ、なにっ?」

 

目をまん丸にして身体を引いてしまうので、肩を掴んで引き寄せた。小声で話さなければフェイトに聞こえてしまう。

 

小さく縮こまるアサレアちゃんに耳打ちする。

 

「さっきの話、フェイトには……いや、みんなにも内緒な」

 

「は、はぁ……えっ」

 

なぜか落胆したように吐息を漏らして、驚嘆したように息を吐いた。顔を直接向けず、でも少しだけ身体を傾けてアサレアちゃんは上目遣いぎみに見る。

 

どこか期待するような眼差しだ。

 

「ど、どうして?」

 

フェイトに聞こえないようにか、囁くような声量だ。この子、声のボリューム調節できたのか。

 

「どうして、って……言いふらして回るような趣味、あんの?」

 

「なっ、ないっ、ないですっ、わかりましたっ」

 

別人のように従順に、こくこくと頭を縦に振る。これでフェイトに左目のことは黙っておいてもらえる。一安心だ。

 

「さて、それじゃそろそろ行くか。フェイトは頭はっきりしたか?アサレアちゃんは休まなくても大丈夫か?」

 

「私はもう大丈夫だよ」

 

「わたしも、いつでもいけるわ。逢さっ……あ、あんたは、休んでないでしょ。だ、大丈夫なの?」

 

アサレアちゃんはフェイトをちらりと見るや、腕を組んで斜めに向いた。

 

寝ていた棘は、フェイトとともに起きたらしい。

 



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全の中の個

「どっち、かな」

 

「ねえ、どっちよ」

 

「光の加減がどっちも似たり寄ったりなんだよなー」

 

小部屋を出て、再び光る石が放つあかりを道しるべに歩いていたが、分かれ道にきた。

 

フェイトにばれないようこっそり左目で確認しても、魔力の密度にさほど違いはない。どちらに進むべきか、判断しかねる。

 

「でも、どっちもだいぶ明るくなってるってことは、どっちの道もゴールに近いってこと、だよね」

 

「そうなんだけど、なるべくなら近いほうがいいからな」

 

せっかく小部屋で休憩できたのだ。できるのなら、このまま一気に踏破したい。

 

まだ俺は魔力の残量に余裕があることだし、壁に手をつけて吸われる魔力の流れで道を決めることにする。考えが正しければ、より目的地に近いほう、魔力を集約している大本に近い方向へ魔力が流れて行くはずだ。

 

「うっお……」

 

やってみて、驚いた。思わず声が出た。

 

まるで身体ごと引っ張られるような感覚。俺が流したぶんの魔力をまるごと奪おうと、どころかそれ以上に俺に残っている魔力を根こそぎ掻っ攫おうとするような勢いだ。

 

ハッキングなどしようものなら、一分ともたずに干からびることになる。

 

魔力を吸い取ろうとする力、その威力を、この段階で知れて良かったということにしておこう。

 

「……左の道だ。行こう」

 

「徹……ちょっと顔色悪いんじゃ……」

 

「光の向きでそう見えるんじゃないか?……ほら、行くぞ」

 

フェイトが心配そうに俺の顔を覗き込む。気にするなという気持ちが伝わるように、頭を撫でる。

 

「っ……」

 

左手を握るアサレアちゃんの力が、少し強くなった。

 

アサレアちゃんも、おそらく心配してくれていたのだろう。なのにフェイトだけ褒めるのは不公平かも知れない。

 

ただアサレアちゃんの性格だと、普通に感謝してもフェイトの手前、つんつんして返してきそうだ。なのでまた、耳打ちで伝えておく。

 

「……ありがとな」

 

「……ど、どう、いたしまして……」

 

もしかしたら、他に人がいなければアサレアちゃんはつんけんした口調にならないのかもしれない。一つ、発見である。

 

「……ねえ、徹、アサレア」

 

「っ?!わわわたしなにもしてないわよ!ほんとに!」

 

なぜ自ら暴露しようとしているのか。

 

「アサレアちゃーん、落ち着こうなー。で、どうした、フェイト」

 

「音」

 

たった一言発した。

 

俺の顔を見るフェイトは、俺を見ていながら意識は違うところに向けられているようだ。

 

「音?」

 

「音が……する」

 

自然と三人とも口を閉じて、フェイトの言う音の正体を探ろうと、耳を(そばだ)てる。

 

すると、確かに聞こえた。

 

遠くのほう、大太鼓を打ち鳴らしたような腹の底に響く音が、地を這って微かに届いた。その中に、地響きのような鈍くて低い音が散発的に含まれている。

 

「……ゴーレムと戦っている時の音に似てる。ランちゃんのデバイスの音も混ざってるぞ」

 

音が坑道内を乱反射しているせいで方向は分かりにくかったが、どうやら左の道から伝わってきている。やはりこちらの道が近かったようだ。

 

「ちょっと急ぐ。二人とも、ちゃんとしがみついといてくれよ」

 

「わ……」

 

「ひゃあっ?!ちょ、ちょっとっ?!」

 

俺は二人を抱えて走り出す。

 

魔法を知らない一般人も同然な身体能力にまで落ち込んだ今、フェイトとアサレアちゃんに激しい運動を強いるのは、先行きが不透明な現状では堅実とは言えない。しかもこの辺りはまるで掘り返したかのように地面がふかふかしていて歩きづらいのだ。ここまでの整えられた道よりも体力を奪われるだろう。スピードを優先するのなら、多少は魔力が(かさ)むが足場用障壁を瞬間的に展開して、二人を小脇に抱えて俺が走ったほうが早いし安全だ。

 

急がなければいけない。ランちゃんのデバイスの発砲音も聞こえるということは、何者かと、もしくは何物(・・)かと戦っているということだ。

 

 

 

 

 

 

「あっ!明るくなってきた!あっち!」

 

「わかってるって、アサレアちゃん。俺も見えてるから。だから頭をぽこぽこ叩かないでくれ」

 

「ランのデバイスの音も聞こえるよ。……あと」

 

「ああ。発砲音とは違う、巨人の足音みたいな地響き……やっぱりあのゴーレムもいるみたいだな」

 

細い坑道の終着点。

 

行き着いた先は、これまでで一番広い空間だった。上層の広間の倍以上はありそうだ。

 

なぜ山の中でここまで広々とした空間があるのかと驚いたが、なによりもこの環境にこそ驚いた。

 

坑道と大広間の間あたりで身を潜め、周囲を確認する。

 

ドーム状の空間、その中央付近には青々と生い茂る草花。そうやって色まではっきりわかるのは、煌々と周囲を照らす光源が中央上部にあるからだ。

 

「光る石と同じ色……あのでかいのは土に含まれてる光る石の結晶体か?」

 

高さも距離もかなりある。比較するものもないし、なにより光る石の結晶がまさしく太陽のように輝いているので直視するのも難しく、大きさは把握できない。

 

「もしかして、あの大きな光る石に魔力をたくさん使ってるから、ここに魔力が集められてたってこと、なのかな」

 

「それが一番現実的なんじゃないか?調べてみないことにははっきりしないけどな」

 

幻想的とも言える光景に目を奪われていたが、爆ぜるような銃声で意識が引き戻される。

 

音の発生源に目を向ける。

 

「いた!……やっぱりゴーレムに襲われてたんだ」

 

数十メートル離れた場所。ここと同じように細い坑道から広間へ出てきたのだろう。坑道と広間の境目で、ランちゃんのデバイスのマズルフラッシュが見えた。

 

光に誘き寄せられる虫のように、そこへゴーレムがわらわらと集まっている。

 

ランちゃんたちに近いゴーレムから順に破壊されていっているが、数が数だ。徐々に距離が詰められていく。

 

「…………」

 

「……徹?」

 

「ちょっと!はやく行かないと!」

 

不思議がるフェイトと、俺の頭を揺らして声をあげるアサレアちゃんが、なぜ早く助けに行かないのかと言い募る。

 

その声は無論届いている。

 

ランちゃんには、フェイトやアサレアちゃんと同様に魔法を使えないクレインくんがいるはずだ。彼を庇いながらでは、いかにランちゃんと言えど長くは凌げない。すぐに応援に行くべきなのは理解している。

 

だが。

 

「ここで出て行っても結局同じなんだ……っ。元から断たないといけない……」

 

このまま助けに向かっても、上層でゴーレムに包囲された時の二の舞だ。

 

あの時は床が崩れたせいで(もしくはおかげで)場が流され、状況が一度リセットされた。また追い込まれる前に、ゴーレムを操っている術者を見つけ出して、湧き出してくるのを止めなければいけない。

 

「……ん?あれ……」

 

何か情報はないかとあたりを見渡して、気づいた。この大広間は、鉱山の中でも毛色が異なるようだ。左目が違いを察知した。

 

相変わらず空気中に魔力の素となるものはないが、他と違って乾いたような、枯渇したような状態じゃない。魔力の自然回復はさすがにしないだろうが、魔法の発動を阻むほどではない。

 

なぜだ、と考えてすぐにぴんときた。フェイトも推測していた。頭上の結晶が、その理由だ。

 

「ここには魔力が集められてきている。飽和状態になってんのか……」

 

「ほーわ?」

 

「魔力を吸う金属もお腹いっぱいってこと。水をたらふく含んだスポンジみたいなもんだ。一度吐き出さないと、次を吸い取れない。ここなら魔法は使えるんだ」

 

「でも……魔法は使えるかもしれないけど、魔力が……」

 

「っ……」

 

「ここなら魔法が使えるのに、ここまで辿り着いた頃には魔力は空。よくできてんなー……」

 

悔しそうに俯き、(ほぞ)()む二人の手を握る。

 

「……でも、俺はまだある」

 

魔力の供給。

 

二人に、僅かばかりとはいえ渡す。節約して使えば、短時間戦闘する分には足りるだろう。

 

アサレアちゃんが、有無を言わさず魔力を渡した俺をはっとした表情で見た。

 

「あんたっ、どういうつも……」

 

「ランちゃんへの加勢は二人に任せる」

 

「徹はなにを?」

 

「俺はゴーレムを使ってる魔導師を探す。俺が見つけ出すまでの間、ランちゃんを手伝ってやってくれ」

 

「それなら……わかった。はやく見つけてね」

 

「あい、っ……あんたも気をつけなさいよ!敵がどこから見ていて、ゴーレムがどこから出てくるのかわからないんだからね!」

 

「ああ。わかっ……」

 

ふと、何かが引っかかった。

 

ゴーレム使いの魔導師はどこで見ているのか。

 

サーチャーでは魔力効率が悪すぎる。となれば目でターゲットを確認しなければいけない。そうしているものと思っていたが、図体の大きなゴーレムで囲い込んでしまったらターゲットの姿が見えなくなる。見えないのなら当てずっぽうで攻撃するしかないが、当てずっぽうや偶然と呼ぶにはできすぎているくらいに俺たちを狙っていた。

 

つまり、ターゲットの姿は見えていないのに、居場所は掴んでいた。

 

それは、目以外の器官で俺たちを『視て』いることに他ならない。

 

「……待て」

 

「え?」

 

「なによ」

 

今まさに俺の肩から降りて走り出そうとしていた二人を制止する。

 

なにかわかったわけではない。ただ、複数ある中の一つの可能性が脳裏を()ぎったのだ。

 

「飛んで行け。飛行魔法で向こうまで行ってくれ」

 

「なっ、なんでわざわざ魔力を無駄遣いしないといけないのよ!あんたが分けてくれたんだから、大事に使わないとっ」

 

なぜと問われても、明確な答えなど持ち合わせてはいない。返答に窮するところだったが、フェイトが間に入った。

 

「アサレア」

 

「なによ、テスタロッサ。ていうかアサレアさんって呼びなさいってこれもう何回も……」

 

「徹は、意味のないことはしないよ」

 

その一言には、ありありと俺への信頼が見て取れてしまい、嬉しい反面、面映(おもはゆ)くもあった。

 

「わ、わたしだってっ…………知ってるもん」

 

小声で呟いて、アサレアちゃんは俺の顔を鋭く見据えた。

 

「飛んでいけばいいんでしょっ!わかったわよっ!」

 

「それじゃ、行ってくるね」

 

「ああ、頼んだ」

 

ふわりと浮かび上がり、ゴーレムの山へと向かう二人の少女の背中を見送る。

 

魔力の節約のためか、ふだんより速度は控えめだ。

 

二人は接近しつつ魔力球を複数展開。確実に命中させられる距離まで詰めると、一気に解き放った。

 

どうやら全弾命中したようで、ランちゃんの近くにいたゴーレムの群れは一掃された。

 

破壊されたのを見てか、再びわらわらとゴーレムが湧き上がるが距離は離れている。時間に余裕はできたようだ。

 

「やっぱり……視認しているわけじゃないな」

 

さっきの一幕で、いろいろと情報を得ることもできた。

 

まっすぐと隠れもせずに飛翔していたフェイトとアサレアちゃんには一体も迎撃の動きを見せず、破壊されてから他のゴーレムが受動的に動いた。視覚でターゲットを認識していないことは確定だ。

 

ならば、どうやってターゲットを捕捉しているのか。

 

「目じゃない……音や匂いでもない。もっと……別?」

 

聴覚でも嗅覚でもないように思う。

 

今日も今日とてアサレアちゃんは元気に声を張り上げていた。聴覚で相手の居場所がわかるほど鋭敏な耳を持っているのならアサレアちゃんの騒がしい、もとい、賑やかな声ですぐにばれるだろう。

 

この鉱山は妙に風の通りがある。俺たちが入った裂け目から中に吹き込むように風が通っていた。今も、背後の細い坑道から大広間へと空気が流れている。優れた嗅覚を持っているとしたら、居場所も察知できるはずだ。こっちにゴーレムが向かってこないということは、俺の存在に気づいていないということだ。

 

「もっと、別種の……(へび)とか蝙蝠(こうもり)みたいな……いや」

 

一部の種類の蛇は『ピット』と呼ばれる器官で赤外線を感知して獲物を探せるし、蝙蝠は超音波を発して物体にぶつかって反射した音波から位置を把握することができる。

 

そういった第六感と呼ばれる感覚は、なにも人間は使えないというわけではない。蛇のピット器官はサーモグラフィ、蝙蝠のエコーロケーションはソナーなど、機械という形にして人間も使えるようになった。

 

だが、この鉱山に電力が通っているようには思えない。しかも使えているのなら。

 

「飛んで向かった二人にすぐ気づけるはず……」

 

答えには近づいているはず。なのに確信に至る答えが見つけられない。

 

「俺は、どこで引っかかった……なにが気になった……」

 

二人がランちゃんの支援に行こうとした時、なにかが脳裏をよぎったのだ。

 

「どこで……どこからだ。人影はない。隠れるところだって……」

 

この大広間にはいるはずなのだ。

 

近くにはいないだろう。とはいえ、決して離れてはいないはずだ。この大広間以外は魔法の発動が阻害されるのだから、どうあってもこの場にはいないといけない。

 

「そう、いえば……ゴーレム以外、なにも……」

 

ここまできて、ようやくそれに気づいた。

 

ゴーレムは、それこそ無数に湧いて出てくるが射撃や砲撃といった魔法はない。

 

「ゴーレムと遠距離魔法を併用すれば、それが最善のはずだ……。なのに、使ってこない……つまりは使えないんだ」

 

大きな身体を揺らして、ランちゃんやアサレアちゃん、フェイトに近づいていくゴーレムの群れ。その動きをじっと眺めて考える。

 

ゴーレムを操る以上、そこには術者の意向が介在するはずだ。それを読み取ることができれば。

 

「相手の立場なら……俺が同じ状況なら、どこに……」

 

数えるのも嫌になるくらいの、似たような色と形のゴーレム。その動きは単調で、単体ではなく群体で、個にして全で、全にして個。そうして一つの存在として形成されている。

 

「……ん?」

 

システマチックに動く中、一体だけ馴染んでいないものがいる。異質とまでは言えないし、異物となんて到底呼べない。その一体も同じような外観で、同じような動き方だ。

 

ただ、じっと注意して観察すると見えてくる。紛れるように動いてはいるが決して前線には出ない。常に盾にするようにゴーレムがいる、気がする。

 

「……他に攻撃手段はなく、防ぐ手立てもない。ゴーレム以外はなにもない……。そのゴーレムだって、戦闘能力も強度も心許ない。俺なら……どうする?」

 

術者がゴーレムを創り出す魔法しか使えないのだとしたら。

 

それは、敵を排除する唯一の剣であり、自分の身を守る無二の盾でもある。

 

術者だって馬鹿ではない。自身の脆さを理解していれば、絶対に見つからないように工夫を施す。だからこそ、森の中に木の葉を隠す。

 

全の中の個になる。

 

「ゴーレムの中の一つ……っ!ずっといたんだ……中にいたんだ!」

 

ゴーレムの中で物を見れるわけはない。もちろん匂いも音も満足に届きはしない。

 

ならば、どうやって狙いを定めていたのか。

 

ゴーレムの中に潜んでいるのだと仮定したら、一つ思い当たる。

 

ゴーレムの、妙に太い両足。重い身体を支えるにしても、あまりにも大きすぎる。そのせいで移動速度と攻撃手段が制限されているくらいだ。

 

もしそれが、何か意味があってのことなら。

 

俺自身、とある動物のようだと比喩したではないか。まるで『象』のように太い足だと。

 

象はあれで耳がいい。しかし、大きい耳から聞くのではなく、地面の振動を足の裏から感じ取り、骨を伝って知覚しているという。三十〜四十キロメートルも離れた場所の雨の音を聞く能力があると、研究によりわかったらしい。

 

そんな象のように、地面の微細な振動を検知する技術があの太い足に含まれているのだとすれば。もしくはそれに類する能力を魔導師が有しているのだとすれば。

 

「地面の揺れで……」

 

ターゲットの居場所を把握している。それなら、説明がつく。

 

「それなら……近づくのは簡単だ」

 

ここまで推測が立てば、あとは実証するのみだ。

 

足場用の障壁を展開し、地面に足がつかないよう跳躍。

 

ドーム状の大広間は高さにもゆとりがある。俯瞰(ふかん)してみればゴーレムの動きが規則的に偏っていることが見て取れた。

 

ゴーレムの配陣、その中央よりやや後方気味の位置。動きの少ない一体。

 

おそらくは。

 

「あの()にっ!」

 

ゴーレムの直上に移動し、そこから急降下。

 

していく最中に、視界に入る金色の閃光。

 

フェイトは一撃必殺を念頭に置いたのか、フォトンスフィアは作らずに一つ一つ丁寧に魔力球を生み出し、ゴーレムの弱点である丹田を正確に撃ち貫いていた。

 

だが、ここでは魔法の維持がいつも通りできることが確認できると、バルディッシュをサイズフォームにして魔力刃で叩き斬っていった。魔力刃を投げ飛ばさない限り、叩き斬って回るほうが魔力的に安上がりだと判断したようだ。

 

飛行魔法を巧みに使い、ゴーレムの間を縫うように飛翔しては、分厚い胴体を裂いて回る。

 

一撃受ければ撃墜される可能性もあるが、フェイトの技術は並のそれではない。鈍重なゴーレムののろまな巨腕では掠りもしない。

 

なにより、地面の振動からターゲットの居場所を探る術者では、飛び回るフェイトを捕捉できない。

 

たしかに効率はいい。それはいいのだが。

 

「まずいまずいまずい!」

 

フェイトの仕事が早すぎた。ゴーレムの山を文字通りに切り崩して、術者が入っていると思しきゴーレムにまで迫っていた。

 

魔法自体は非殺傷設定(スタンモード)になっているだろうが、あの設定もわりと曖昧なものだ。近距離戦においての魔法など、殊更に。

 

万が一、ゴーレムの殻と一緒に中身も斬ってしまうと大変である。フェイトの資格が早速剥奪されてしまう恐れがある。

 

「フェイト!ちょっとストップ!」

 

「え?」

 

術者本体がインしているだろうゴーレムに、今まさに鎌を振り上げたところでフェイトが急停止した。

 

その時、術者のゴーレムの胴体、だいたい腹から胸あたりだろうか。薄く、黒い帯ができた。

 

それは、よく見るとゴーレムの色が変わったわけではなくスリットのような空洞。西洋鎧の兜みたいな、視界を確保するための隙間に近い。

 

なんのためにそんなスリットを開いたのか。そんなことをすれば、中に人がいるということを自ら証明するようなものだ。狙いが集中する事は想定に難くないはず。

 

そこまでのリスクを負ってでも、身近な危険を払いにきた。他のゴーレムを巻き込みかねないのに、巨腕を横に持ち上げて、薙ぐ。

 

「っ!バルディッシュ!」

 

『Yes,sir』

 

ゴーレムの腕がぶつかる寸前、金色の盾が差し込まれる。

 

轟音と砂煙。ゴーレムの腕は肘から先がぼろぼろと崩れ、対してフェイトは無傷。魔法の行使が阻害されなければ、物理的な衝撃など大抵防げる。フェイトのスペックならなおさらだ。

 

ただ、魔力の残量という問題が鎌首を(もた)げた。

 

「っ……」

 

飛行、魔力刃、障壁。

 

残り少ない魔力では、その負担は平時より重くのしかかった。

 

急激な消費に飛行魔法の出力が落ちる。地に降りてしまう。ゴーレム使いの領域に、フェイトの足が触れる。

 

「フェイト!」

 

「ひゃっ……」

 

フェイトを抱き上げて距離をとったのは、ゴーレムの腕が振るわれる寸前のことだった。

 

「あ……ありがとう、徹」

 

「俺が急に声かけたせいだ。危ない目に合わせてごめんな」

 

「いいよ、そんなの」

 

「ありがとな。あとバルディッシュ、よく反応してくれた。助かったぜ」

 

『いえ。感謝には及びません。それに』

 

「ん?それに?」

 

『日頃、手入れして頂いておりますので調子が良いのです』

 

先日の嘱託魔導師試験後、バルディッシュはフェイトの手に戻ってきた。家で久しぶりの再会で雑談に花を咲かしていると、バルディッシュがどこかくすんでいるように見えたので、レイハにやったようにお手入れしてあげていたのだ。

 

レイハ同様、バルディッシュも気に入ってくれたらしい。

 

「はは、帰ったらまた綺麗にしてやるよ」

 

『心待ちにしております』

 

「私が言うときよりも返事の声が強かった気がするんだけど、バルディッシュ」

 

『…………。気のせいかと思われます』

 

「…………」

 

フェイトがじとっとした目でバルディッシュを小突いた。

 

なかなかに珍しい光景だ。

 

「……それで、どうして止めたの?」

 

「そうそう。フェイトが斬ろうとしたあのゴーレムなんだけど、あの中にゴーレム使いの魔導師が入ってる」

 

「中、に?」

 

「たぶんゴーレムを操る魔法しかできない魔導師だ。一番安全なのは、ゴーレムの中に潜むことだろうからな」

 

「……たしかに。私はなにしたらいい?」

 

「話が早くて助かるよ。本体は俺が行く。俺が魔導師を引きずり出すまでの間、周りのゴーレムを抑えといてくれ。魔力、残ってるか?」

 

間を置いて、フェイトは頷いた。

 

「……周囲にいる分なら、大丈夫」

 

「そうか」

 

「と、徹?あ、の……え?」

 

フェイトを抱き寄せ、おでこを合わせる。

 

フェイトに負担を強いたのは他ならぬ俺だ。その分は補填するべきだろう。

 

「これできっちり、半分こ、だ」

 

「また……」

 

不服そうに声を漏らしたが、実際問題余裕はあまりなかったのだろう。文句は言わなかった。

 

「障壁使わせちまった分だ、取っといてくれ」

 

「大丈夫って言ったのに」

 

「安全策だ。そんじゃ……やるぞ」

 

「うんっ」

 

「バルディッシュもな。頼んだぞ」

 

『Yes,sir!』

 

「徹に言われると音量上がってるよね、本当に」

 

『…………』

 

「黙った……」

 

微笑ましいやりとりを見つつ、行動に移す。

 

フェイトには自力で浮いてもらってから、俺は急降下。

 

落下の最中、俺を追い抜いて金色の槍がゴーレムを襲う。刺さった魔力の槍は深々とゴーレムを貫いた。核となる金属を砕いたかまではわからないが、すぐに動けはしないだろう。

 

この好機、逃さない。

 

ゴーレムとほぼ同じ位置まで降下し、障壁に着地した。

 

魔導師を引きずり出すために、ゴーレムを抉っていく。

 

「うっ、お……」

 

削り始めてすぐ、ゴーレムがぐらりと大きく揺れた。

 

膝らしきところが折れて、地に膝と手をつけるような姿勢になった。

 

重量のある巨体で無理に逃げようとして足が壊れたのかと思ったが、違った。

 

「な、なんっ……っ!」

 

ごごっ、と大広間自体が鳴動する。

 

床の土が隆起して、左右から挟み込むように迫る。

 

こんな魔法を隠していたのかと息を呑むが、土石流じみたその二つは手のようにも、見ようによっては見える。ゴーレム使いはゴーレムの巨大な両手としてみなして、二つの土石流を生み出したのかもしれない。

 

耳を(つんざ)く轟音を撒き散らし、周囲に残っていたゴーレムを当然のように巻き込みながらゴーレムの両の手は合掌した。

 

途轍(とてつ)もない質量。質量に伴う途方もない破壊力。土石流の中身は細々(こまごま)とした石から大きい岩まで、大小問わない。

 

加えて左右から挟み込まれれば力を受け流すこともできない。障壁を張っても無事でいられる保証はない。

 

窮状を打破するための切り札としては、申し分ない隠し球だ。

 

しかし、まあ、あれである。

 

「あたらなければ、どうということはないんだよなー」

 

フェイトに攻め込まれて警戒していたのだろう。ゴーレム使いの前方には壁になるようにゴーレムが密集していた。その壁役が脆くも崩れ去ったのだ。ゴーレム使いは、こう考えたのだろう。

 

『さっきと同じように、相手は正面にいる』と。

 

だから土石流の合掌はゴーレム使いが巻き込まれない正面ぎりぎりで行われた。多少動いたところでどうにかなる攻撃範囲ではなかった。

 

対して俺はというと。

 

「んじゃ、失礼しまっす、と」

 

ゴーレムの背中に張りついていた。

 

地面が隆起し出した時に、白い魔力が揺らめくのを左目で視ていた。不穏な魔力の流れを感じて、背中側へ移動していたのだ。

 

おかげで飛び散る石飛礫(いしつぶて)もゴーレムが盾になって一つも掠りさえしなかった。悠々とゴーレムの背中から手を突っ込んでいく。循環魔法で最大限まで底上げしていれば腕を抉りこませることができるのは確認済みだ。

 

「ん……あれ、以外と……」

 

想定していたよりもすんなりと腕が入っていく。もしかしたら、前と後ろで硬度が違うのかもしれない。

 

腕を肘くらいまでいれてゴーレムの中にいるはずの魔導師を手探る。隠れる場所などないのに、存外見つからない。

 

一度腕を引っこ抜いてゴーレムの土を抉り飛ばしてから、もう一度手を差し込む。すると、人らしき柔らかい感触に行きあたった。

 

「……これ以上暴れても無駄ってことは、わかるだろ」

 

ゴーレム使いは抵抗しようとゴーレムを動かそうとしていたが、フェイトの障壁を殴った際に片腕は半壊。土石流を発生させる際に両足も半ばから折れているので、満足な抵抗などできていなかった。

 

もぞもぞと揺れ動くゴーレムの中で手足を拘束し、ゴーレム使いの鎧であり最終防衛ラインであり、生命線である土くれから引きずり出す。

 

しかし、それは。

 

「よくここまで手間かけさせてくれやがったな。観念、し……ろ?」

 

思いがけないほど、軽かった。

 

引きずり出したゴーレム使いは、土と砂に薄汚れていて、正直みすぼらしかったのだが、あまりそちらには意識が向かなかった。

 

「ニ、ヒト……っ、トゥーテ……ミッヒ。ヒーフ、ミアっ……」

 

「……え」

 

俺の知らない言葉を操る、小柄な女の子だった。長い白髪は手入れもされず伸ばしたままで、ほつれて傷んでしまっている黒いワンピースを纏っていた。腰にはベルトの代わりのようにウエストポーチが回されている。

 

魔導師の才能に年齢も性別も関係はない。歳若い女の子だったのは、まあいい。なによりも問題なのは、その子の状態だった。暴れられては困るので両手両足を拘束したのだが、腕を身体の前で拘束したため、なりは小さいのに不思議なくらい大きい胸がいやに強調されてしまっている。

 

しかもゴーレムから引っこ抜いて放り出したものだから、ワンピースの裾がずり上がって肉付きのいい柔らかそうな足が露わになっていた。

 

そんな状態で地に伏せてしとしとと泣いているので、ぱっと見ではまるで俺が悪役である。

 

「……はあ。……どうなってんだよ」

 

ともあれ、少女にはもう抵抗の意思はないようだ。

 

まだ相当数いたはずのゴーレムは土の山に戻っていた。少女も刃物なりなんなりの凶器らしきものを隠し持っていたりしない。とりあえずは安全を確保できたと言える。

 

一つため息をつき、天を仰ぐ。

 

「フェイトー、もう大丈夫だー、降りてきていいぞー」

 

「わかったー」

 

「あと!」

 

「なに?」

 

「この子頼むわ!」

 

今まさに鬼の形相で駆けつけてきているアサレアちゃんがこの惨状を見る前に、せめてはだけてしまている服の裾だけでも直してあげてもらいたい。

 




一応勉強したり調べたりしたのですがベルカ語()はお粗末さが目立ちます。自信がありません。おかしいところは暖かい目で見逃してください。ここは違う、とか、こっちの方が適切、などと注意や訂正を頂けるとありがたいです。
お客様の中にベルカ語()の専門家さんはいらっしゃいませんかぁ?!


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「歴史上の偉人」

一部編集。話の本筋に変更はありません。


俺たちとの戦闘で疲弊していたのか、それとも精神的に追い詰められたのか、気付いた時にはゴーレム使いの少女は意識を失っていた。

 

ぎょっとして少女に駆け寄ったら呼吸は乱れていなかったし心拍にも異常なし。とりあえず命に支障があるわけではなさそうなのでよかった。

 

地面に寝かせておくわけにもいかないので少女を抱えて移動しようとしたが、合流したアサレアちゃんからひどく冷たい視線を向けられるものだから諦めた。かといってフェイトやアサレアちゃん、クレインくんに少女を抱えて移動する体力は残っていないのでランちゃんに頼んだ。

 

大広間を探索していると、小休憩していたところのような、トンネルに扉をつけたような住居エリアが並んでいた。無断で侵入するのは後ろめたいが、緊急性もあるのでその一室をお借りさせてもらうことにした。

 

「……どうだ?感覚掴めたか?」

 

「はい……だいたいわかったような気がします」

 

少女のことはランちゃんにお任せするとして、俺はクレインくんを診ていた。

 

トンネル型の小部屋はやはり住居として使われているらしく、四基ほどベッドがあった。その一つに少女を寝かせ、違う一つにクレインくんを寝かせた。

 

下層に落ちて別行動になる前、ランちゃんには魔力を抑える方法を手解きできたがクレインくんにはできずにいたのだ。こうして無事でいてくれてよかった。

 

「ここも魔力を吸われることはないから今すぐ問題はないけど、帰りもあるからな。魔力の抑え方を知っとかないと」

 

「ご迷惑おかけしました……ランさんには本当にすごく助けてもらって……」

 

「助け合ってこその仲間よん。気にしなくていいわぁ」

 

俺たちと分断された後、クレインくんにはランちゃんが魔力を抑える感覚を教えたそうだ。それでも完全に抑えることはできず、体調が悪くなるたびにランちゃんが魔力を供給してあげていたらしい。

 

本当に、ランちゃんがクレインくんと一緒にいてくれたのは幸運だった。

 

「診た感じ異常はなさそうだ。疲れは相当溜まってるはずだから、今はゆっくり寝てな」

 

「……すい、ませ……」

 

やはり堪えていたようだ。一言うわごとのように謝ると糸が切れたように眠りに落ちた。

 

寝たところで魔力は回復しないが、体力は戻る。必要最低限しか魔力はないとはいえ、体力が戻ればいくらか気分もよくなるだろう。

 

「……クレイン兄は?」

 

アサレアちゃんが近くまで歩いてきて、素っ気ない口振りで聞いてくる。だが、手は自分の服をぎゅっと握りしめていた。この子は、言動と内面がとてもわかりやすいほどに裏腹な子なのである。

 

「大丈夫。寝て起きれば体調は戻る」

 

「そう……ふうん」

 

「安心できたか?」

 

「なっ、ばっ……べつに?!安心も不安もないわよ!あいさ……あんたが診てたんだから心配する理由なんてないわ!」

 

「怒るのか褒めるのかどっちかにしてくんないかな……声と内容にギャップがありすぎて心臓に悪い」

 

「ふんっ……」

 

「お嬢ちゃん、静かになさい。この子もクレインちゃんだって眠ってるのよ?」

 

「わ、かってるわよ……」

 

「まったくもう、フェイトちゃんを見習ったらどうかしらぁ?すごく手伝ってくれてるのよ?」

 

「ほかにできることがないからだよ」

 

「そしてこの謙虚さ。慎ましいわぁ……それにひきかえ……」

 

「ぐぬぬっ……。な、ならわたしも手伝うわよ!」

 

流れるような手際でランちゃんに乗せられている。アサレアちゃんのちょろさはちょっと心配になるレベルだ。

 

「それじゃあお水を換えてきてちょうだい。場所覚えてる?」

 

「覚えてるわよ!ばかにしすぎだから!」

 

たらいのような容器を抱えてぷんすか怒りながらアサレアちゃんが部屋を出る。

 

どこか休める場所を探しているときに井戸を発見していたのだ。光る石の結晶で野菜を育てていたので、その生育にも使われているのだろう。

 

「その子、どうだった?怪我はさせてないと思うんだけど」

 

「ええ。それについては大丈夫だったわ。ただゴーレムの中にいたからでしょうねぇ、土で汚れてしまってるのが可哀想だわぁ。シャワーとかあればいいのだけれど」

 

「たしかに……私もシャワー浴びたい」

 

「水はあるから、あとはなにか大量に水を貯めれるものさえあればお湯にできるんだけどな。あとで探そう。今はこの子のことだ」

 

「ま、きっと疲労でしょうねぇ。この子もだいぶ魔法使ってたみたいだもの」

 

「一人であの数の、ゴーレム?を操ってたのかな?」

 

「たぶんそうだろ。この子が戦意喪失した直後に他のゴーレムが崩れたし」

 

「だとしたら、すごい力だよね」

 

「こういう言い方はあんまり好きじゃないけど……」

 

「……徹?」

 

首を傾げて俺を仰ぐフェイトを見て、続ける。

 

「……どこにだって、天才ってやつはいるんだろうよ」

 

この子に関しては、才能が特化しすぎているけれど。

 

他の魔法を知らないのか、もしくは使えない代わりに、ゴーレムを操る能力に長けている。サンドギアで出会ったジュリエッタちゃんとちょっと似ている。ジュリエッタちゃんの場合は単体をとても精密に操作する、というものだったが。

 

このゴーレム使いの少女やジュリエッタちゃんのような尖ったセンスを持つタイプの天才や、なのはやフェイトのような幅広い戦況に対応できる天才もいる。

 

天才などという形容のしかたはあまり好きではないけれど、そうとでも表現するほかない人物もやはりいるのだ。

 

「……天才がどうとかを徹が言うのはちょっとおかしいけど」

 

「え?」

 

「徹ちゃんの場合、天才というより異才って感じねぇ。ただ能力が高い人間より、考え方がぶっ飛んでる人間のほうが厄介よねぇ」

 

「あんまり褒められてる気はしないな」

 

「すごい魔法を使えるとか、頭がすごくいいとか、そんな人なんてたくさんいるよ。徹のすごいところは、誰にもできないことができるところだよ」

 

「フェイト……」

 

「良いことか悪いことかは別だけど」

 

「オチをつけるな」

 

せっかく褒められているみたいだったのに、最後の最後で歯切れが悪かった。ただ良いことも悪いこともどっちもしているので、なんならその比率は後者が勝っているので、否定はできなかった。

 

「とにかく、俺たちが戦ったゴーレムについてはこの子が一人で操ってたんだろうけど、この子一人で鉱山にいるっていうのは……おかしいよな……」

 

この住居エリアもそうだし、大広間にくる前の休憩所でもそうだが、一人しかいないというのは絶対にありえない。この部屋でさえ、ベッドが複数備えられている。

 

もっとたくさん人がいるはずなのだ。その人たちはどこにいるのか。

 

この鉱山唯一の住人をじっと見る。

 

長い前髪に隠された顔はよく見えないが、今は穏やかな寝息を立てている。

 

薄汚れていた顔や腕はランちゃんが濡らした布で丁寧に拭いていたので綺麗になっている。その肌は驚くほどきめ細かく、ぞっとするほどに白い。フェイトやアリシアが健康的な白さだとすれば、この子は病的だ。ずっとこの鉱山で暮らしていれば紫外線を浴びることもない。だろうから肌は焼けないにしろ、人という生き物はここまで色素がなくなるものなのだろうか。

 

「……徹」

 

「どうした、フェイト。おおう、なになに?どうしたんだよ」

 

ゴーレムの脅威は去ったが、またいくつも疑問が生まれた。少女が何者なのか、他の人はどこに行ったのだろうかと考え事をしていると、ぐいっとフェイトに袖を引かれた。らしくない、強い力だ。

 

「見すぎ」

 

眉を寄せるというレアな表情で、フェイトは俺に文句を言う。新しいフェイトの一面は嬉しく思うが、言ってる意味はまったくわからない。

 

「え、みすぎ?なにが?」

 

「徹、この人のこと見すぎ」

 

「……は?」

 

「仕方ないわよ、フェイトちゃん。男っていう生き物はね、悲しいくらいおっぱいに目と心を奪われる生き物なの」

 

「…………」

 

「やめろ、ランちゃん。フェイトに余計な知識を与えるな」

 

「否定はしないのね、ふふっ。ごめんなさいな」

 

「…………」

 

「フェイト、フェイト。本気で悲しそうに哀れんだ目を向けるのはやめて。なんかすごい心が痛い」

 

「この人、背はアサレアより小さそうなのに、胸大きいもんね」

 

「…………」

 

その言い方は、アサレアちゃんも傷つけることになる。アサレアちゃんが席を外してくれていて本当によかった。

 

「徹も大きいほうがいいの?」

 

「…………」

 

実に返答に困る。

 

「……真守お姉さんが言ってた」

 

「な、なんだ?姉ちゃん?」

 

「『沈黙は肯定や』って」

 

「くっ……」

 

変なところにアクセントがついているなんちゃって関西弁で、フェイトが俺を追い詰める。

 

姉ちゃんめ、不要にして不純な情報を純粋なフェイトに吹き込んでんじゃねえ。

 

「私、大きくなるかな……」

 

「ぶっ……」

 

胸に手をやって、本気のトーンでフェイトが呟いた。思わず吹き出した。

 

「大丈夫よ、フェイトちゃん」

 

「ラン……」

 

励ますように、フェイトの肩にランちゃんが手を置いた。

 

慈愛に満ちた表情で、ランちゃんはゆっくり頷く。

 

「おっぱいを大きくする方法はあるわ」

 

「ほんと?」

 

ランちゃんは自信満々に微笑んだ。

 

できる限り即刻やめていただきたい話題だが、俺の友人にも胸の大きさで悩んでいる女の子がいる。一応聞いておこう。

 

「妊娠したら大きく……」

 

「今すぐその口を閉じろ!」

 

「妊娠……?」

 

「フェイト、ランちゃんの言ったことは忘れるんだ。いいか、忘れろ」

 

「もう少し大きくなったら産める身体になるわよぉ」

 

「もう少し、大きく?それって具体的に……」

 

「それ以上とち狂った性教育を続けるつもりなら、俺は今後『シャフツベリーさん』と呼ぶことになるぞ」

 

「そ、それはやねぇ。黙っておくわぁ」

 

もう充分にいらない情報を垂れ流してくれたが、やっと口を閉じてくれた。

 

「徹」

 

「な、なんだ?」

 

「妊娠ってどうするの?」

 

「くそぅ!」

 

プレシアさんちのリニス先生は、魔法は丁寧に教えても性教育は(おろそ)かだったようだ。

 

「ね、徹?」

 

「あー、えっと……」

 

「むふふ……」

 

歴史の問題の答えを尋ねるのと同じように、どこまでも純粋な瞳で俺に聞いてくる。

 

こんな状況に追い込んだくせに俺とフェイトを眺めてにやにやとほくそ笑んでいるランちゃんを今すぐ叩きたい。

 

「ん、んぐっ……」

 

どう逃げようかと考えていると、この上ないくらいのベストなタイミングで少女が目覚めた。これを理由にさせてもらおう。

 

「お、おっと、起きたみたいだ。てなわけで、フェイト、この話は家に帰ってから姉ちゃんにゆっくり教えてもらいなさい」

 

「そう……うん、わかった。今はお仕事中だもんね」

 

「そ、そうだ。えらいぞ、フェイト」

 

そうだった、フェイトはとても真面目なのだった。仕事を理由にすればすぐに回避できるのだ。流れで姉ちゃんに押しつけることもできたし、もう大丈夫。

 

さて、大事な話はここからだ。

 

屈んで、少女に目線を合わせる。

 

「おはよう。痛いところはないか?」

 

起き上がってぼんやりとしていた少女が、うつろな瞳をこちらに向けた。そこでようやくどういう状況か思い出したようだ。

 

首でも絞められたような声にならない悲鳴を漏らして、可哀想なくらい身体を縮めて俺たちから距離を取ろうとする。

 

『トゥーテミッヒニヒト』だとか『ヒーフミア』だとか、恐怖で張りついた喉を震わせて呟いていた。ゴーレムから引っこ抜いた時も言っていた言葉だ。

 

「君に危害を加えるつもりはないから、安心してくれ」

 

「っ……ぅぅっ」

 

布団を搔き抱いて、凍えるように少女は自分の身体を抱いていた。

 

俺では話が進みそうにない。子どもを安心させるならユーノが適任なのに今日に限っていないとは。

 

クレインくんは眠っているし、ランちゃんも顔だけは綺麗だが身体が大きくて威圧感がありそうだ。アサレアちゃんは席を外しているし人格的に問題がある。ここはフェイトが適役か。

 

「……フェイトちょっと話してみてくれ」

 

「え……。わ、私、できるかな……」

 

「俺じゃかえって怖がらせちまいそうだ」

 

「……たしかに」

 

「おい」

 

一言も否定しなかったフェイトには文句を言いたいところだが、さらに少女を怯えさせてしまう。我慢である。

 

「は、はじめ、まして……こ、こんにちは」

 

「…………」

 

大事なことを忘れていた。フェイトもフェイトで人見知りだった。

 

ただ、その人見知り具合が逆にいい印象を与えたようだ。小さい可愛い女の子(フェイト)が頑張って話しかけてきているのを見て、悪いやつだとは思わないだろう。

 

まだ布団を抱きしめてはいるが、顔はフェイトを向いている。

 

しばし二人は見つめあって、フェイトが振り返った。

 

「な、なにを話したらいいの?」

 

まず第一には、ここがどういうところなのか情報を得たい。そのためには警戒心を解いて、信頼されなければいけない。つまりは普通に話ができるようになればその内容はなんだっていいのだけれど、それだとフェイトも困るだろう。今もとってもテンパってる。

 

「俺たちの言葉を話せるか、聞いてみてくれ」

 

「う、うん」

 

少女の口から出てきた言葉には聞き覚えがなかったし、小部屋にあった本に目を通した限り、この鉱山に住んでいる人たちはまだベルカ語を使っているようだった。

 

話が通じなかったら、情報を得るどころではなくなるのだ。

 

「えっと、あの……言葉、わかる?話、わかる?」

 

なぜか片言になっているフェイトに、少女は小さく頷いた。

 

「ちょっと、だけ。ビミョウに……」

 

難しいニュアンスの言葉をご存知のようだ。ともあれ、こうして言葉が通じるのは助かった。

 

「つ、次はどうしたらいい?」

 

「ああ、そんじゃ自己紹介とかしとこうか」

 

再び俺を仰いだフェイトに提案すると、安心したように笑んで、また少女に向き直る。その様子をランちゃんはにこにこしながら眺めていた。たしかにすごく可愛いけれど、これでいいのかランちゃんよ。俺たちなんの役にも立っていないぞ。

 

「私は、フェイト・テスタロッサ、です……。あなたは?」

 

「イッヒ……ワタシ、フランツィスカ・ヴァルトブルク。フラン。いう。みんな」

 

「フラン……よろしく、ね?」

 

「…………」

 

フェイトの精一杯の歩み寄りに、フランツィスカ・ヴァルトブルクちゃん、愛称フランちゃんは沈黙で答えた。沈黙は肯定、とフェイトが姉ちゃんの受け売りで言っていたが、この沈黙は肯定とも否定とも違う。警戒や懐疑が、一番近い。

 

とてもではないが、信用はしてもらえていない。戦ったばかり、目覚めたばかりの初対面で、信用も信頼もないけれど。

 

「えっと……あと二人いるけど、先にこっちの二人を紹介するね。こっちはラン」

 

「ランドルフ・シャフツベリーよ。ランちゃんって呼んでねぇ?」

 

「…………」

 

「ふふっ、ゆっくり時間をかけて、仲良くなりましょ」

 

外見だけは柔和でモデル顔負けなランちゃんが微笑を伴って語りかけたのに、フランちゃんは警戒の姿勢を崩さない。

 

「それで、こっちが……」

 

フェイトが身体を傾け、手のひらを俺に向ける。

 

「っ……っ!」

 

フランちゃんの警戒指数が跳ね上がった。きっとランちゃんの時より三段階くらい度合いを強めている。これは俺がフランちゃんをゴーレムから引きずり出したからであって、俺の風貌とは関係ないことを祈ろう。

 

「だ、大丈夫、とても優しいよ?顔が、怖いだけで……」

 

たとえ事実だとしてもいらないことを言わんでいい。

 

「えと……こっちは徹。意外と頭もいいんだよ」

 

「っ……」

 

「意外とってなんだ。こほん……俺は逢坂徹。君が暴れたりしない限りは絶対に危害は加えない。約束するよ」

 

「……タウル?」

 

「ちょっと発音違うけど、そんな感じ。徹な。と、お、る」

 

これまでとは異なるリアクションだった。俺の名前を復唱しようとしただけではない。白眼視でも生温いくらいの眼光を長い髪の隙間から浴びせてくれていたが、その瞳がまん丸に開かれた。

 

「……ヴィルクリッヒ?」

 

「え?どういう意味……て、ちょっ、近っ……」

 

俺から可及的距離を取ろうとベッドの端に避難していたのに、名乗った途端四つん這いににじり寄ってきた。どんな心境の変化があったのか、真反対なくらいの態度が変わった。

 

とりあえず、警戒はされなくなったらしい。どんどん近づいてくるし、四つん這いで近づくせいで襟ぐりが下がってとても深い谷が覗けてしまっている。精神的にも服的にも警戒が緩んでいる。

 

「ああ……タウル……っ!オンザークーニヒ!」

 

「えっ、なに、なに?!」

 

「あらぁ……」

 

「…………」

 

状況が読めない俺たちを放ったらかしに、フランちゃんのボルテージは上がっていく。俺の名前を若干間違えながら連呼し、生地の薄いワンピースが乱れるのも気にせずにベッドを這って俺に近づく。取り縋るように俺の服を握って、見上げた。

 

長い前髪の隙間から見えるライトグレーの瞳は、今日日(きょうび)少女漫画でもやらないほどにきらきらと輝いていた。

 

「えっと、徹ちゃんの知り合いだったっていう、可能性は……」

 

「い、いやそんなわけあるか!」

 

「……徹」

 

「フェイト、待って。俺もなんでいきなりこんなことになってるのかさっぱりで……。だからじわじわ離れていこうとしないでくれ……」

 

なぜこの子が俺にここまで関心を示しているのかわからないが、名前を呼ぶ時にベルカ語と思しき言葉も口にしている。それがどういう意味かわかれば冷静に話もできるはず。

 

「と、とりあえず……ちょっと落ち着いてくれ。君の言葉は俺たちには……」

 

「あ、ぅ……」

 

「……って、ちょっ……っ!」

 

ベッドの上で膝立ちになって俺の服を掴んでいたフランちゃんが、急に後ろに倒れこんだ。意識を失ってから急に動いたからだろう。身体から、ふと力が抜けたのだ。

 

フランちゃんが倒れこんだ先には、石の壁があった。

 

「……はぁ。ぎりぎりセーフ……」

 

思わず身体が動いた。壁にぶつからないようにフランちゃんの頭の下に手を置き、一緒に倒れ込まないよう壁に手をつく。

 

さっきの少女漫画のたとえではないが、まるで壁ドンだ。

 

「わぁお、徹ちゃんったら大胆ねぇ」

 

「…………」

 

「これは違うだろ!緊急で……」

 

「ヴィエントゥアウン……」

 

俺の身体の下で、フランちゃんが呟いた。フェイトの信用を犠牲に、彼女は無事だったようだ。

 

川のように流れて顔の大部分を覆う白い髪。その隙間に、まっすぐと俺を射抜く瞳がある。俺の左目と似た虹彩、いや、より輝いている。俺の左目が灰色だとすれば、彼女は銀色だ。

 

腕の中で俺を見上げる。敵意と警戒に満ちていた態度はすでに影も形もない。不可解なほど気を許した表情。白い肌は、薄紅に染まっていた。

 

「ほんと、なにがどうなって……」

 

「……なにしてんの」

 

がしゃん、と重たい物が落ちる音。ばしゃん、と大量の水がこぼれる音。

 

「っ?!」

 

声がした方向を見やる。開け放たれた扉には、可愛らしい女の子が

 

「殺すわ」

 

もとい、鬼がいた。

 

 

 

 

 

 

「つまり、なに?あの子が倒れたから庇った、って言いたいの?」

 

「言いたいもなにもそれが事実だからな」

 

「それじゃ、逢坂さん悪くないじゃない。もっと早く言ってくれれば」

 

「言ってたんだ。アサレアちゃんが殴ってる間に」

 

「ご、ごめんなさい……。押し倒してるように見えたから……浮気、してるのかと……」

 

「誰とも付き合ってないのに浮気とはこれいかに……」

 

「うっ、うるさいわね!聞かなかったふりするとこでしょ!」

 

なぜかアサレアちゃんに折檻された後、俺とアサレアちゃんは再び水を汲みに行っていた。

 

似たような道が続くので間違えないように記憶して、ついでに他の見回っていない場所も立ち寄ったりして、今は部屋に戻るところである。

 

「そもそもなんであの子は逢坂さんにあんなにべたべた……好意的なのよ。本当に初対面なの?」

 

「あたりまえだろ。こんなとこ、一度きたら忘れないって」

 

「それもそうね。なにかきっかけとかなかったの?口説いたとか」

 

「口説くどころじゃなかったぞ。名乗る前はもう親の仇ばりに睨まれてたのに」

 

「名乗る前は、ってことは……」

 

「名乗った後急に、って感じだった。有名人じゃないんだから、俺の名前を知ってたってわけじゃないだろうに」

 

「もしかしたら悪名が轟いてるんじゃない?」

 

「世界に、しかも山の中にある国にまで轟くような悪行は……うん、まだやった記憶ないな」

 

「その言い方だとそれなりの悪行はやってるみたいに聞こえる……っていうか、まだってなによ、まだって」

 

「それに微妙に名前間違えてるっていうか、イントネーションがおかしいし、その線はないだろ」

 

「まず悪行を否定してから進めなさいよ……。おかしいってどんなふうに?」

 

「タウル、とかって。俺の名前って発音しにくいの?タウルのほうが発音しにくいよな?」

 

「タウル、タウル……。どこかで……ん?絵本に出てこなかった?タウルって」

 

「絵本?」

 

俺の名前を言い間違えているのだとばかり思い込んでいた。アサレアちゃんに言われて、ようやく思い出した。

 

「そう……そうだ。絵本に出てきた国、オンタデンバーグのゴーレム使いの集団の頭領。その息子の名前がタウルだった」

 

「えっと、たしか……その息子のタウルが大国との戦争を逃げ延びて、この鉱山まで辿り着いて、国を作った。っていう話だったわよね?」

 

「絵本のストーリーではそうだった。ということは……フランちゃんは、この山に国を作ったタウルって人と俺を間違えているってことなのか?」

 

「そんなわけない、と思うんだけど……。だってこの山の国の王様が亡くなったのって、いつの時代?きっととっても昔の話でしょ?本人だとは思ってない、はずよね?」

 

「そりゃそうだろ。……そのはずだよな?言っちまえばこの国、オンタデンバーグの歴史上の偉人みたいなもんだろ?間違うほうがおかしいはずだし」

 

「そんな立派な王様と間違うのはびっくりするけど」

 

「おや、なんだか『こんな怪しい奴と間違うなんてありえない』みたいなニュアンスを感じるぞ?」

 

「でも、逢坂さんからしたら嬉しいんじゃないの?おっぱ……胸の大きな女の子にくっついてもらえたわけだもんね」

 

「あっと、この話地雷だったか」

 

急に声に棘が出てきた。再び問題のシーンを思い出しでもしたのか、冷え切った目で俺を見た。

 

「他人の空似なのかもしれないけど、よかったわね!柔らかかった?柔らかそうだもんね、あの子!背はわたしより小さいのにっ!」

 

冷え切った状態から熱量が急上昇。再びアサレアちゃん山は噴火した。一部分は天保山(標高四.五三メートル)より起伏に乏しい平野なのに噴火した。

 

早いとこ鎮まってもらわなければ、まだ宥めるのに時間がかかってしまう。どうにかフォローしなければ。

 

「胸の大きさだけが女の子の魅力じゃないって……」

 

「みんなそう言うわよ!でも大きな要素なんでしょ!大部分を占めるんでしょ!」

 

「それは一つの要素ってだけで、その割合は人の趣味によって変動するから……痛い痛い。蹴らないでくれ、せっかくここまで運んできた水がまた溢れるって」

 

「男はっ、胸っ、ばっかりっ!そんなに脂肪の詰まった袋が大事か!」

 

「いや、それは待ってくれ。あれには男の夢が詰まって」

 

「それじゃわたしには夢がないって言いたいのかぁっ!」

 

「ごめんごめんごめん」

 

失言だった。これ以上ないくらいの失言だった。

 

つい、考えるより先に言葉と気持ちがあふれてしまった。

 

「わたしだって……いろいろ、努力……してるのに……っ」

 

「スタイルがどうとかって言われるけどさ、ほら、本当の魅力っていうのは接しやすいとか、優しいとか、性格面だから」

 

「……わたし言葉遣い荒っぽいし、優しくないし……」

 

怒りが一周回ったのか、かなりテンションが下がっている。情緒不安定で心配になってくる。

 

何をそんなにへこむことがあるのか、俺にはわからない。

 

「使う言葉が荒っぽいだけだろ?少し接したらわかるって」

 

「いいわよ、そんな慰め。自分でもわかってるもん……」

 

しょぼん、と肩を落とし、俯きがちにとぼとぼ歩く。足元にあった手頃な石ころを蹴っ飛ばした。こっ、こんっ、と音を立てて遠くへ転がっていく。

 

慰め、とは違うのだけれど。

 

「伝わりにくいところもあるけど家族を大事にしてるし、初めて任務をするフェイトにもよくしてくれてる。善意にもすぐ気づいて恩返ししようともしてる。緊張してうまくいかないこともあるけど、それだけ成功させたいっていう向上心があるからだし、人の見えないところで頑張る努力家だ」

 

「え?」

 

流れるように口をつくこの言葉たちは、慰めでも励ましでも、お世辞でも嘘でもない。紛れもなく、真実だ。

 

呆気に取られたように振り返るアサレアちゃんに続けて言う。

 

「優しいよ、アサレアちゃんは。人に伝わりにくくて、わかってもらいにくいだけ。その優しさに気づく人は、ちゃんといる」

 

不器用で恥ずかしがりな優しさ。その魅力に惹かれる人はきっといるはずだ。

 

「えっ、う……あ、ありがと……ございます……」

 

「あははっ、なんで敬語なんだよ」

 

「わ、わかんない……」

 

またしても、アサレアちゃんは俯きながら歩く。

 

足元に石ころがあったけれど、今度は蹴っ飛ばさなかった。



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私たちの王

「話の前に言っておきたい。君はたぶん、俺を昔の王と勘違いしてる」

 

「……?」

 

フランちゃんから詳しい話を聞く前に切り出した。

 

誤解されたままのほうがスムーズに情報を引き出せるかもと打算は働いたが、それでもはっきりと言っておきたかった。騙したままではフランちゃんを利用するみたいで気持ちが悪いという感情的な面もあったが、なにより後になって違うと露呈したほうが都合が悪い。騙されたと感じ、致命的に信頼が崩れれば話をするどころではなくなる。それが一番困ると、そう考えた。

 

結局はメリットとデメリットを天秤にかけてどちらがより得をするかを比べているところに、自分で自分に呆れ果てる。

 

「昔の王?」

 

「徹、なんの話?」

 

「アサレアちゃん。二人に事情を説明しといてもらえるか?」

 

「え?う、うんっ!わかったわ!」

 

ランちゃんは別行動だったし、フェイトは疲労でダウンしていた。絵本から知り得た情報を二人は知らない。

 

先にフランちゃんと話がしたかったので二人への説明はアサレアちゃんにお願いした。のだが、妙に元気というか、機嫌がよさそうだった。

 

「俺の名前、おぼえてる?」

 

フランちゃんにそう聞いてみる。彼女は生白い指で俺をさした。

 

「……タウル。オンザークーニヒ 」

 

「俺はそのタウルって人じゃないんだ。……わかる?」

 

「…………?」

 

かすかに髪が揺れるくらい、ほんのわずかに頭を傾けた。わかっていなさそう。

 

「あー、くそ……。ベルカ語勉強したけど、読み書きくらいしか……あっ」

 

閃いた。

 

思わず声に出してしまったせいで、フランちゃんがびくんと肩を跳ね上げた。

 

伝わるかわからないが、驚かせてごめんね、と謝って、フェイトのリュックから荷物を取り出す。

 

「フェイトー、ノート借りるぞー」

 

「うん、いいけど……なにするの?」

 

「え?筆談」

 

取り出したのはノートとボールペン。

 

時間が余った時にフェイトの勉強を見ようと思い、リュックに入れておいたのだ。まさかこんな使い方をするとは想定していなかったが。

 

不思議そうにじっと見つめる覗き込むフランちゃんの視線を感じながら、文字を綴る。

 

『書いて話そう』

 

ノートの頭にそう書いた。

 

正直、文法とか単語の綴りとかが正しいか自信はない。聖王統一戦争後は穏やかとはいえ、時代や地域によって文章にはある程度の差異があるのだ。

 

ノートに目を落としたフランちゃんはこっちを見て、こくこくと頭を縦に振る。通じたようで一安心。

 

彼女はノートに手を伸ばして、短く

 

『うん』

 

と書いた。

 

「それは書かなくてもわかるけどな」

 

「……?」

 

首を傾げる様子が、なんだか面白かった。

 

さて、本題だ。

 

ボールペンを受け取って、書き出す。

 

『俺は君の言うタウルって人じゃない。徹、だ。君の求める人じゃない』

 

短文でさえ自信がないのに長文になるともっと不安になる。伝えたいことさえ伝わってくれていれば、それでいいのだけれど。

 

俺が書いた文章をフランちゃんは指先で追う。

 

何度か指で往復して、フランちゃんはペンを手に取った。

 

『わかってる。本人じゃない。生まれ変わり。ワタシたちを救う王様の後継者。ワタシたちを導く王。ワタシの王』

 

読み終えた瞬間にもう一度読み直した。読み間違えているか、そうでないなら俺がベルカ語を誤って憶えてしまったのだと思ったほどだ。

 

読むのに時間がかかっている俺を見かねたのか、俺の横に腕がくっつくほど近くまできて、文章を音読しながら指でなぞった。ベルカ語をちゃんと理解できていないと察してか、ゆっくりとした口調だ。

 

そうして教えてくれる中、文章の末尾で聞いた単語が出てきた。

 

「オンザークーニヒ。……マインクーニヒ」

 

フランちゃんが何度か口にしていた『オンザークーニヒ』とは私たちの王、我らが王、などという意味合いだった。

 

言葉の意味がわかっただけ進歩ではあるが、根本的な誤解が依然として残っている。

 

もどかしい気持ちを抑えて文章を作る。

 

『そうじゃなくて、生まれ変わりでも子孫でもない。ここには仕事で訪れた』

 

「…………」

 

メモ帳を見て、一瞬固まってすぐに手が動いた。

 

『そんなわけない。じゃないとおかしい。ワタシの王。ワタシたちを救ってくれる。ワタシを助けにきてくれた』

 

最後は書き殴るような勢いだった。雰囲気が少々ぴりついたのを肌で感じた。

 

あまり深く突っ込んで鬼やら蛇やらを出す間抜けは演じたくない。

 

遠回しでも構わない。この山、この国のことを聞けるのは今のところ彼女しかいないのだ。勘違いは晴らしたいが、彼女の機嫌を損なわせるようなことはなるべく避けたい。

 

切り口を変える。

 

『なんで俺がタウル王だと思ったんだ?』

 

額に汗を滲ませながら、質問した。

 

どう転がっていくか不安で心臓がばくばくと音を立てているが、俺の不安をよそに彼女の雰囲気はどことなく柔らかなものになった。楽しそうにボールペンを走らせる中、フランちゃんの表情を盗み見る。頬が(ほころ)んでいるように見えた。

 

『この山の特性と対処法を知っていた。シュランクネヒトの弱点を知っていた。生身でシュランクネヒトを倒した。ワタシのことをわかってくれていた。ワタシの方法を知っていた。だれも知らなかった。だれもわからなかったのに、知っていた』

 

ペンを置いてメモを俺に向ける。前髪の間から熱っぽい瞳で見つめていた。肌が白いせいで紅潮しているのがすぐにわかる。

 

恥ずかしがっているのか、それとも照れているのか、どちらにせよ壮大なる勘違いで、壮絶なる好意的解釈だ。

 

気持ちが(たかぶ)っているのか、文章もよくわからないことになっている。この子がどこでスイッチが入るのか、よくわからない。

 

「マインアインズィガクーニッヒ……」

 

俺の手に、思い込みの激しいフランちゃんの手が重ねられる。ぐっとくる柔らかさと、ぎょっとする力強さがあった。存外積極的なのか。

 

「ちょっ、ちょっと待って!」

 

俺のリアクションが面白かったのかくすくすと笑みをこぼす。どこか妖艶さまであった。

 

じわじわと伸びてくる彼女の手を防ぎながら、文章を噛み砕いていく。

 

読み解くに、魔力を吸うこの鉱山のこと、シュランクネヒト(文脈から推測するにゴーレムの正式名称だろう)の倒しかたを知っていたこと、フランちゃんがどうやって俺たちの場所を把握しているかを知っていたこと。極めつけに、名前に類似性があったから、王の子孫だと気付いた。ということらしい。

 

彼女の立場からすれば、たしかに俺たちが最初から情報を知っていたように思うのかもしれない。そこから王の子孫だという結論に行き着くには二つ三つくらい発想の次元跳躍が必要だけれど。

 

「…………」

 

だが、全ては偶然だ。

 

いくら彼女の中では筋が通っていて、その結論が正しいと思い込んでいても、まったくもって偶然だ。

 

数奇な運命が絡まった成れの果てだ。

 

生き延びるために必死で情報の断片をつなぎ合わせて暫定的に叩き出した仮説が運良く嵌まっただけ。

 

「…………」

 

それらを説明すべきなのか。彼女の考えを全否定すべきなのか。少し訂正しようとしただけで血相を変えて反論したというのに。

 

「…………」

 

彼女の極度の思い込みや、自身の考えと反することへの忌避感。急激な感情の昂りは、精神的に不安定であると言えるのではないだろうか。

 

この山の中でフランちゃんただ一人しかいないことを鑑みても、とても平常であるとは言い難い。俺を王の子孫だと、この国の関係者だと妄執的に信じ込んでいるのも、心を安定させようとしている無意識下の防衛本能ではないだろうか。

 

「っ……」

 

自覚する。思考にバイアスがかかっていることを、いやになるくらい自覚する。

 

こんなもの、フランちゃんの心に負担をかけないための言い訳を並べているだけだ。

 

俺は、これ以上彼女の深部に踏み込みたくないのだ。踏み込む決心がつかない。

 

鉱山の奥までくることはできた。おかげでランちゃんたちとも合流できた。

 

しかし、奥にくることはできても、帰る道はわからないのだ。この大広間以外は魔法も使えない。この大広間だって魔力が戻ることはない。

 

鉱山から出る道は、ここの住人に教えてもらうしかない。その情報源はフランちゃん一人しかいないのだ。

 

彼女に見放され、協力してもらえなければ、俺たちはここから出られない。帰れない。

 

ならば、彼女の心を揺さぶるような行為は無闇にすべきではない。少なくとも、彼女をよく知りもしない状態で行うべきではない。

 

「っ……」

 

あまりに消極的で保身的で、独善的な考えだ。結局、フランちゃんに嫌われないように利用しようとしているのと変わらない。

 

「アッレスオル……えと、だいじょうぶ?」

 

書きもせず、喋りもせず、ただ伏し目に黙する俺を心配したのだろう。ごちゃごちゃと脳内で損得勘定を走らせてる俺を、純粋な善意で心配してくれていた。

 

「ああ、大丈夫。ありがとう……ダンク、だったっけ」

 

「っ!ニヒツツーダンケンっ」

 

教えてもらった読み方で応えると、驚いたように目を見開いて、彼女は微笑んだ。

 

「オンザークーニヒ」

 

私たちの王(オンザークーニヒ)と、細い声で俺を呼ぶ。純銀の双眸(そうぼう)が俺をまっすぐ射抜く。

 

その声に応じることも、否定することもできず、曖昧な笑みを浮かべるのが精一杯だった。

 

 

 

 

 

 

結局、デリケートな部分に踏み込むことはできず、うやむやに誤魔化してノートでの筆談を続けていた。

 

フランちゃんの誤解を解くことは後回しにして、鉱山の話を聞いたり、書いた単語をフランちゃんに読んでもらったりしている時だった。

 

「っ……」

 

ばっ、とフランちゃんが身体を跳ねさせた。

 

「なんだ、どうした?」

 

「あ、あー……」

 

「なんかあったのか?」

 

「ちょっと……まつ」

 

どうかしたのかと訊ねると、右に左にあたふたして手のひらを向けて待っているようジェスチャーした。

 

ふらふらと住居の外に出た。

 

何事かと背中を追うと、ぺたりとしゃがみこむ。

 

「お、おい……大丈夫か?」

 

「あ、う……ない、おと……んん……」

 

「ない?音?」

 

「ん、んっ」

 

フランちゃんは口の前で指をばってん(・・・・)の形に交差させた。

 

「……あ、喋んなってことね」

 

フランちゃんの真似をして、了解の意味を込めて頷いた。

 

すると彼女は、両手を地面につける。そのまま数秒ほどじっとしていた。何をしているのだろう、ゴーレムづくりの他にも錬金術とかできたりするのだろうか。

 

「徹ちゃん、どうしたの?」

 

「いや、フランちゃんがな……」

 

「っ……」

 

急に外に出た俺とフランちゃんを心配して、ランちゃんも続いて外に出てきた。

 

様子を見にきてくれたランちゃんに対して、フランちゃんは前髪の隙間から睨んだ。

 

「わ、私、嫌われちゃってるのかしらぁ……」

 

「い、いや、たぶん人見知りなだけなんじゃ……そうか、音か」

 

「音?」

 

「音、足音だ。動かないようにしてくれ。中の二人にも」

 

「ええ、わかったわ。フェイトちゃーん、お嬢ちゃーん」

 

一番扉に近いランちゃんに、その場を動かないようにフェイトとアサレアちゃんに伝えてもらい、俺はフランちゃんの動向を見守る。

 

その後、十秒ほどで地面から手を離して立ち上がった。手をぱちぱちと叩いて土を払う。

 

またもフランちゃんが着ている膝丈のワンピースが土で汚れてしまったが、そちらを気にするそぶりは一切なかった。ゴーレムの中に入っているくらいなので、このくらいどうってことないのだろう。

 

「あ、えと、しごと……たたく……」

 

「アーバイツ?シュラッグ?」

 

「ヤー。はららく(・・・・)。ん」

 

働く(・・)、な。なんか仕事があんのか。でも叩くってなんだ?」

 

フランちゃんが片言(かたこと)のミッドチルダ語で、俺が片言のベルカ語を使うという、よくわからない会話であった。

 

「徹ちゃん、なにかあったの?」

 

「仕事がある、らしい。ちょっと物騒っぽい」

 

「物騒……みんなで行くべきかしら?」

 

「クレインくんは休んだばっかりだからな……。フランちゃん」

 

ぼーっとしてた彼女の名を呼ぶ。ワンテンポ遅れて呼ばれたことに気づいて、てこてこと近づいてきてくれた。どうやらもう動いていいらしい。

 

俺は住居を指差して、問う。

 

「ここって安全?」

 

「……あん、ぜん?」

 

「えっと、なんだったけか……ダスハウセイヒャー?……で、合ってんのかな……」

 

そう訊くと、フランちゃんはちゃんとしたイントネーションで復唱して、こくりと(がえ)んじた。

 

発音はともかく言葉自体は正しかったようで一安心。ランちゃんに向き直る。

 

「家の中は危険はないみたいだ。でもクレインくんが起きて誰もいなかったら不安だろうから、誰か一人残ったほうがいいな」

 

「……徹ちゃん、とうとう喋れるようにもなったのね……」

 

「フランちゃんが筆談で出てきた単語の発音と意味を教えてくれたんだ。まだわからないのも多いけどな」

 

「……クーニヒ」

 

フランちゃんに袖を引かれた。とある方向を指差す。

 

「ああ、フランちゃんはやらなきゃいけないことがあるんだよな。ごめんな(シュルディグング)

 

「だい、じょうぶ」

 

「はは、ありがと(ダンク)

 

「……徹ちゃんはフランちゃんと一緒に行くべきねぇ」

 

「そうか?俺が残ってもいいけど」

 

「フランちゃんとコミュニケーション取れるの徹ちゃんしかいないでしょ」

 

「それもそうか。人見知りだからな、この子」

 

「そこじゃない、そこじゃないわぁ……」

 

「おお、そうだった。ランちゃんまだ弾残ってる?」

 

「弾?無駄遣いはできないくらい、かしらぁ。もうゴーレムと戦うことがないのなら、帰りの分はありそうよん」

 

「そんじゃランちゃんはついてきてくれ。あとは……フェイトだな。兄妹は残っといてもらおう」

 

「もしかしてこれから行くところって……」

 

「ここみたいに魔力を吸い取られないとは、限らないからな」

 

フランちゃんが指差したのは、大広間から離れる方向。大広間以外ということは、ここまでの道中と同じ環境ということだ。

 

 

 

 

 

 

クレインくんが起きた時のためにいてあげてくれ、と言うとアサレアちゃんは少し不服そうな顔をしたが、家族を思いやるのって大事だよな、と追い討ちしたら残ってくれた。家族愛の強いアサレアちゃんと、その家族愛を利用する俺という対比がひどい。

 

アサレアちゃんに無事で帰ってきなさいよ、と心配されながらトンネル状の住居を出発してから、十分も経っていない頃。というかおそらく五分くらいしか経っていないだろう。

 

「はぁ、はぁ……」

 

「フランちゃん、びっくりするくらい体力ないな……」

 

よたよたと怪しげだったフランちゃんの足が、とうとう完全に止まった。この周囲はまだ光る石の結晶体からの光が届く。確実に目的地はここではないだろう。

 

息を荒く継いで、膝に手をついていた。ばてていた。今にも地面にへたり込んでしまいそうだ。

 

「……まだ、住居、見えるんだけれどねぇ……」

 

「まだ一キロも歩いてないよ」

 

「…………」

 

「はぁ……っ、くふぅ……はぁ」

 

深刻なスタミナ不足である。

 

「フランちゃん、おんぶしようか?」

 

「だ、だい、じょうぶ……。……ちょっと」

 

ちょっと大丈夫って、ほとんど大丈夫じゃないってことかなと思ったが、どうやら違った。ちょっと離れていてってことらしい。

 

なにする気だろうと見ていると、突如フランちゃんの下半身くらいまでがずぶずぶと沈んだ。

 

「うおっ、フランちゃん?!」

 

「だいじょうぶ」

 

まったく大丈夫には見えない現象だったが、沈むのは下半身、ウエストくらいまでで止まった。フランちゃんは両手を地面につけると、そこからは沈むどころかぐぐっと周囲の土も巻き込みながら盛り上がっていった。離れるように忠告したのはこのためか。

 

「……シュランクネヒト」

 

ゴーレムを創り出す魔法。そういえばフランちゃんは戦っていたときもこの中に入っていた。きっとフランちゃんが直接乗り込んでいるゴーレムは移動用の足も兼ねているのだろう。

 

着ぐるみのように全身まるっと被ると喋れないからか、下半身と腕だけゴーレムにくっつくという、脱皮途中みたいな状態で停止した。案外融通が利くようだ。

 

「便利ねぇ。これなら足場の良し悪しも関係ないし、落盤も怖くないわぁ」

 

「でも、これで動いて自分の足で歩いてないから体力がないんじゃ」

 

「おっと、そこまでだ。真実でも口に出しちゃだめなこともある」

 

フランちゃんに頼んでみんな腕に乗せてもらい、楽をしながら目的地へ向かう。

 

大広間からだいぶ離れてきたからだろう、徐々に様子が変わってきた。

 

「ランちゃん、フェイト、気をつけろよ」

 

「魔力が吸い取られる場所ってこと?」

 

「それならもう注意してるわよぉ?」

 

「それもだけど。……奥のほう、なんかでかいのがいる」

 

最初に感じたのが、空気中の微小な魔力すらないある種の枯渇感。次いで感じたのが妙な湿気。じめじめとして、梅雨時のような鬱陶しさ。そして、ゴーレムの足音に紛れて響く、がりがり、という擦過音。

 

左目が、大きな魔力の光を捉える。(いびつ)なものもあるが、基本的に丸い形。周りに魔力がないせいで明瞭に見て取れた。大きな魔力の光は空気中に滲むように溢れて、天井や床、壁に吸収されていくことから生き物なのだろう。

 

だからこそ、この空間で平然と活動していられるのかがわからない。

 

巨大な生き物がいるのは確定だが、ゴーレムの足は迷いなく前へ進む。

 

「危なくないのか?」

 

「ない。たたく。する。あぶない」

 

「……危ないのか危なくないのか、どちらかしらぁ……」

 

「刺激すると危ないってことだ。それまでは敵意は向けないのかもな」

 

さらに距離を詰めてようやく、フランちゃんの言う『お仕事』の内容が見えてきた。

 

本音を言うと、生理的な嫌悪感が半端ではなかった。

 

「と、徹……なに、あれ……」

 

蝸牛(かたつむり)……に似てるけど、サイズが比じゃないな……」

 

「きっもちわっるいわぁ……」

 

端的に表現すると、ばかでかいかたつむりである。

 

直径が俺の背丈と同じくらいの殻を背負って、粘液を纏った軟体が這い、長い触角が不規則に動いている。そんな巨大なかたつむりが、道を塞ぐほどにわらわらと(うごめ)いて、(ひし)めいている。

 

梅雨時の、雨露にぬれる紫陽花(あじさい)とちらほら見えるかたつむりには、その時期ならではの優雅な趣を感じていた。それほど悪印象はなかったのだが、こうも大きく、こうもわらわらぬらぬらとしていると、さすがに怖気が走る。

 

これ(・・)。たたく。はたらく」

 

「なるほど……あのかたつむりを退治するのがフランちゃんのお仕事ってわけか……。ちなみに遠くのものを示す時は『あれ(・・)』な」

 

「ヤー。あれ(・・)。たたく」

 

「そうそう」

 

「ふふっ。これ(・・)。まつ。いい?」

 

「おしい。ここ(・・)、な?」

 

ここ(・・)。まつ」

 

「待ってるだけでいいのか?手伝おうか?」

 

「あ……うん?」

 

「んっと……イヒヘルフェディア」

 

「っ、ヘァツリッヘンダンク……」

 

「ゲァンゲシェーエン……だったか?」

 

「〜っ!」

 

「ちょっ、ちょっと……徹ちゃん!」

 

「ん、なに?」

 

「ゴーレムがぷるぷるしてるのだけれど、な、なにを言ったの?」

 

ゴーレムの右腕に座っていたランちゃんが振動に(おのの)きながら聞いてきた。なかなかの高さがあるので落ちるのが怖いのだろう。いつもと違って、飛行魔法も使えないことだし。

 

「ああ。俺が『手伝うよ』って言ったら丁寧に『ありがとう』って返してきたから『どういたしまして』って」

 

「そ、それだけでこんなに揺れるのかしら?」

 

「それは俺もわかんねえや」

 

ゴーレムの左腕に座っている俺、の膝に座っているフェイトがもぞもぞと動いた。

 

「徹、かっこいいね」

 

「ベルカ語喋ってるのがか?言っとくけどめちゃくちゃ片言だし、正しいかどうかも怪しいぞ。フランちゃんがうまいこと拾ってくれてるんだよ」

 

「それでも気持ちを伝えられてる。……かっこいいよ」

 

「そう、か?褒められるのは嬉しいな。ありがとうフェイト」

 

感謝のお返しにふわっと抱きしめると、猫撫で声のような声をもらした。愛い奴め。

 

「さて、あれを追っ払うか。フェイト」

 

「うん。……なるべく近づきたくはないけど」

 

俺の膝から下りて、そのままゴーレムの腕からも飛び降りた。なかなかの高さがあったがフェイトは軽やかに降り立った。

 

「クーニヒ」

 

「ん?どした?」

 

「……さげる(・・・)

 

「え?ああ、下ろす(・・・)、な」

 

「ヤー。おろす(・・・)

 

「ダンク」

 

「ありがとうねぇ、フランちゃん」

 

「…………」

 

「……私には見向きもしてくれないの、悲しいわぁ……」

 

「ま、まあまあ、ランちゃん」

 

太い腕が下がり、スロープのような形になる。そこを俺とランちゃんは滑り降りた。

 

「シュランクネヒト」

 

俺がゴーレムから引っこ抜いた卵型の金属とおそらく同じ金属をフランちゃんは腰に回したポーチから三つほど取り出し、投げて呟いた。

そもそもが狭い通路なので、横にゴーレムが三体並べば幅いっぱいといったところだ。

 

「…………」

 

盛り上がって俺たちの知っているゴーレムの姿に成型されたあとは、フランちゃんは手を前に突き出すこともなく『発進』とか『戦え』とか『パンチだ』とか命じることもなく、巨大かたつむりにゴーレムを進軍させた。

 

なんだろう。自分の頭の中で操作すればいいんだから口頭で命令を出す必要はもちろんないんだろうけど、こう、燃えるものがない。

 

「ランちゃんとフェイトはできる範囲で援護射撃。できるか?」

 

「ゴーレムにあたらないようにしないといけないけれど、まぁこの距離で、あのターゲットの大きさなら問題はないでしょうねぇ」

 

「私も」

 

「よし、そんじゃ頼んだ」

 

「徹は……やっぱり前に?」

 

「それしか攻撃手段がないしな。ゴーレムがいるから様子を見ながらだけど」

 

どう動くか流れを確認していると、地響きが聞こえた。

 

フランちゃんのゴーレムが接敵したようだ。

 

「っ!……案外、厄介そうだな……」

 

ゴーレムの腕の振り下ろしを受けても、かたつむりの殻は砕けなかった。

 

「簡単にぱきっといって、くちゃってなるかと思ってたけれど、硬いのねぇ」

 

「……外の生き物も頑丈だった。それと同じだ。魔導師と同じような理屈で、魔力を使って強化してんだ」

 

ゴーレムは魔法で作られているとしても、その攻撃自体には魔法は絡まない。純粋な物理攻撃だ。防御魔法を使えない俺たちには有効だったが、なんらかの防衛手段を持つかたつむりには効き目が弱い。もちろん、ずっと殴り続ければ破壊できないことはないだろうが、それでは何体いるかわからないかたつむり相手に消耗戦になる。泥沼化は避けたい。

 

こちとら、限界のある人間なのだから。

 

「二人とも、撃ち抜いてやれ。一発で仕留めるつもりでな」

 

「弾幕で押し潰すっていう手が使えないものね」

 

「砲撃は魔力の収束やチャージの時間を考えるとロスが大きいしな」

 

「射撃魔法で確実に命中させるほうが、効率がいい?」

 

「そういうこと」

 

この場では魔力球を待機させているだけでも魔力を吸われていく。ゴーレムという前衛がいる今、後ろから単発で放ったほうが魔力の温存という意味ではいい。

 

二人はデバイスを構え、発射した。鋭い槍の形をした金色の魔力弾と、一回り大きな灰色の弾丸は、ゴーレムを掠りもさせずにかたつむりに直撃した。

 

「さすがの腕前だな。こうやってフォローしあっていけば……」

 

フェイトとランちゃんの魔力弾は確実に命中した。フェイトの魔法はその魔力の性質も併せて効果を上げるし、ランちゃんの魔法の威力は何度も現場を見た俺が保証する。だというのに。

 

「……予想の十倍頑丈……」

 

「……無傷、というのは、ちょっとプライドが傷つくわぁ……」

 

「まっじかあ……」

 

かたつむりの殻は健在だ。見た感じでは壊れた様子どころか(ひび)すら確認できない。

 

「この調子だと、何発費やしても結果は変わらないかしら」

 

「砲撃ならいけるかもしれない……けど、魔力の消費量が……」

 

「…………」

 

「だからフランちゃんはゴーレムで直接攻撃してるのかしら。魔法の効果が薄いから」

 

「徹、どうしたら……」

 

「……ちょっと試したいことがある。フェイトはもう一度さっきと同じようにやってみてくれ。次はどうやって防いだが、どんな反応をしていたかちゃんと見る」

 

「……わかった。やってみる」

 

「さんきゅ。ランちゃんはかたつむりの軟体部分。殻じゃないところを狙って欲しい。やれるか?」

 

「これだけターゲットとの間に障害物があって、しかも動いているのに狙って当ててほしいだなんて、徹ちゃんったら鬼ね」

 

「ランちゃんの腕を見込んで頼んでる」

 

「そう言われちゃうと、期待に応えたくなるわね。任せなさい。外さないわ」

 

「よろしく」

 

今度はしっかりと、命中する前から集中して観察する。生き物である以上、何かトリックが、防ぐための手段があるはずだ。条件も制約もなしに二人の魔法を無効化なんて、できるはずはない。ノーダメージで済む道理などない。

 

「徹、いくよ?」

 

「私もいけるわぁ」

 

「二人のタイミングでやってくれ」

 

まずはフェイト、次いでランちゃんが発砲した。前衛を張っているゴーレムの足をかいくぐって、かたつむりまで届いた。

 

「ああ……なるほど。そういう原理か……」

 

爆煙が舞っても直視し続けた甲斐はあった。

 

「徹、なにかわかったの?」

 

「相変わらず分析が早いわねぇ。頼りになるわぁ」

 

「……どうやら殻も本体のほうも、どっちも魔力で守られてる」

 

「魔力?かたつむりがどうやって?」

 

「それこそ魔導師と同じように、だ。この世界特有で、かつ、必要不可欠な進化とも言えるけど」

 

「でもなおさらおかしくないかしら?それなら、私たちの時と同じように魔力を絞り取られて枯れちゃうんじゃ……」

 

「俺も最初見たとき真っ先に思った。なんであのかたつむりはこの鉱山に入っても動けるんだって。その理由は、きっとフランちゃんのゴーレムと同じなんだ」

 

「あのゴーレム?」

 

「ランちゃんには言ってたっけ?あのゴーレム、胴体が弱点とは言ったけど、その胴体には魔力を吸収する金属が埋まってるんだ。その金属は魔力を吸収し切ったら放出するようになる。バッテリーみたいなもんだ。だから外側から吸い取られても動ける。時間制限はあるだろうけどな」

 

「だとしたら、あのかたつむりにはその金属が埋められているのかしら?でも、そんなの誰が……」

 

「誰かじゃない。自分で取り込んでるんだ。それがおそらく、あの巨大かたつむりがわざわざこの鉱山に入る理由だろ」

 

「かたつむりはこの鉱山に住んでるんじゃないの?」

 

「それはないだろうな。飽和状態になってる一番奥の大広間ならいざ知らず、こんな吸収されやすい坑道ならまず干からびる。この鉱山に多少無理を押してでも入ってくるのは、ここに巨大かたつむりにとって必要なものがあるからだ」

 

「必要なもの?」

 

「俺たちとかたつむりの目的は同じだったんだ」

 

「……あ、魔力を吸収する金属を狙ってこの鉱山に?」

 

「そう。あの殻にはかなりの比率で魔力を吸収する金属が含まれてる。たぶん魔力が豊富にある外で殻に魔力を溜め込んでから、鉱山に入って金属を食いにきてんだろ。だからこの鉱山の中でもしばらくは活動できるし、溜め込んだ魔力を使って身を守ることもできる」

 

おそらく、かたつむりの殻や軟体を覆う粘液に魔力が練り込まれていて、それらが身を守る鎧の役割を果たしている。と、考えるとだいたい筋は通る。実際、殻に魔力弾が直撃した後は、殻から放出されている魔力の光が弱まっていた。わざわざこの鉱山に入ってくるのは、殻を成長させる為の成分をここに摂取しにきているのだろう。

 

そう考えると、なぜフランちゃんが巨大かたつむりを『外敵』と呼んで排除しようとしているのかも察しがつく。かたつむりが魔力を吸収する金属を食い尽くしてしまえば、鉱山の中まで魔法生物がなだれ込んでくる。あの金属は危険な魔法生物が鉱山の中に侵入してこないようにする柵であり塹壕。ここはまさしく、天然の要害だ。

 

「けど、結局防がれちゃうんじゃあんまり意味がないわねぇ……残弾は心許ないわぁ」

 

「魔力も余裕は……ないかな」

 

「あのバッテリー代わりの殻も魔力使ってんだから攻撃を続けりゃ弱ってく。でも一匹にそんな何発も使ってりゃこっちがもたねえ。本体に当てると多少怯むけど、あの混戦状態だと当てるのがまず一苦労だ」

 

「集中しなきゃいけないものねぇ」

 

「何度も精密射撃できる自信はないよ。……悔しいけど」

 

「だから、多少魔力は(かさ)むけど一つ策を考えた。フェイト、こっちゃこい」

 

「うん」

 

フェイトを呼び寄せ、バルディッシュに触れる。

 

「悪いな、バルディッシュ。ちょっとお邪魔するぞ」

 

『構いません』

 

「あら、インテリジェントデバイス?いいもの持ってるわねぇ」

 

「うん。作ってもらったんだよ」

 

バルディッシュの中に魔力を侵入させ、未使用のデータ領域を使って新しい術式を書き込ませてもらう。

 

基本骨子は射撃魔法、そこにとある魔法の術式を参考にして組み込む。

 

「……よし。フェイト、これ使ってみてくれ」

 

『ユニークなアプローチです』

 

「さんきゅ、バルディッシュ」

 

「もうできたんだ……」

 

「構想はしてたし、プログラム自体は元からあるやつを切り貼りしてるだけだからな」

 

早速魔法の発動に入った。魔法陣が足元に現れ、射撃完了になるまで砲撃魔法くらいに時間がかかっていたけれど。

 

「徹、これ、処理が重い……」

 

「周りに魔力を吸われないようにするために魔力弾の実体化を極力遅くしてる。そのぶん術式も複雑になったんだ。鉱山の外ならもうちょい早くできるんだけどな。耐えてくれ」

 

普段、フェイトが使っている魔力弾よりも一回り以上大きな球体。魔力の消費量はおおよそ一・五倍から二倍近いだろうが、ちゃんと命中させられれば効果は倍どころではないはずだ。

 

いつもと使い勝手は違うだろうにフェイトは巧みに標準を合わせ、かたつむりを撃ち抜いた。

 

今度ばかりは手応えがあった。

 

「さすがに一発で仕留めるとまではいかないか。ま、スタンモードだし、ここの環境だ。貫通したら逆に危ない。これくらいが妥当かね」

 

爆煙が晴れる。魔力弾が命中した箇所は殻が剥離して、その周囲は亀裂が走っていた。かたつむりの動きが鈍っているところを見るに、魔力ダメージはしっかり与えられているようだ。

 

「と、徹。すごいよ、これっ」

 

「なにしたの……徹ちゃん?」

 

「徹甲弾と似た構造にしてみた。魔力弾の表面にバリアタイプの防御魔法を展開させたんだ。表面の障壁がかたつむりの魔力の壁を貫く手助けをして、障壁で守られた魔力弾が弱まった殻を突き破る。名付けるならシェル・ピアシングってとこだな。うまいこと作用してくれてよかった」

 

もともとは自分のために考案していた魔法だ。障壁で難なく防がれるだろう俺の脆弱な射撃魔法を、どうにかダイレクトに撃ち込めないかと頭をひねった結果の産物である。

 

フェイトの場合はいい感じの仕上がりになったが、俺の場合はそもそも直撃させても大したダメージにならないという致命的すぎる欠点を抱えていたので実装には至らなかった。こうして日の目を見ることになって大変嬉しく思う。

 

「ぱぱっと恐ろしいもの作り上げたわねぇ……」

 

「つっても、一発じゃ行動不能にはできない。でも今はフランちゃんのゴーレムがついてるからな」

 

フェイトの射撃を受けたかたつむりを見やる。

 

次の瞬間、巨腕を振り下ろしたゴーレムに叩き潰された。ぐちゃり、と。思わず直視してしまったが、こういった類に耐性がない人にとっては完全にトラウマ案件である。俺もちょっと気分が悪い。

 

「……魔力で強化し、その上どこにも傷や(ひび)がないからこそ、あの殻はゴーレムからの物理衝撃に耐えられていた。あのゴーレムの力なら、穴が空いた殻なんてアルミ缶潰すようなもんだ」

 

「……うっぷ」

 

「目、つぶればよかった……」

 

どうやらランちゃんとフェイトは耐性ない側の人間だったようだ。

 

「役割分担だな。フェイトとランちゃんでかたつむりの殻に傷をつけて、フランちゃんのゴーレムで潰す」

 

「え、ええ……わかったわぁ」

 

「うん……そうだね。それじゃあ、徹はここに残って指示を……」

 

「俺は発破で殻を無視して本体に攻撃する」

 

「な、なんで?徹は行かなくても、私たちだけで……」

 

「みんなに命令して働かせるだけって給料泥棒じゃん。俺も働かないと。ってわけで、あとはよろしく」

 

「ちょっと、徹っ」

 

「……仕方ないわね。すぐに片付けましょ、フェイトちゃん」

 

フェイトとランちゃんの呆れた声を背中に受けながら、倒れたゴーレムにのしかかろうとしているかたつむりへ吶喊(とっかん)する。

 

発破を使って内部を破壊しようにも、相手の硬度がわからなければ望んだ効果はあげられない。物は試しと、ふつうに殴ってみた。

 

「おらあっ!」

 

人間よりも巨大な生物に素手で殴りかかっている物騒な奴がいる。と思ったら俺だった。

 

手に伝わる感触としては、障壁や魔力圧の壁とも違う。魔力で強化された魔導師を殴りつけた時の感触とイメージは似ている。こちらのほうが手応えが硬く、ずっと重いが。

 

「ふつうに殴っても意味はなし、か。……まあいい。もう、こつ(・・)は掴んだ」

 

もう一歩踏み込み、拳を触れる寸前まで近づける。

 

「しっ!」

 

表面よりも内部。威力を奥へと伝播させる発破。

 

には(・・)、変化はなかった。

 

「よし、こっちは効くな」

 

どすん、と大きな音を立てて、かたつむりが横倒しに倒れた。かたつむりの殻の中には内臓などが収められている。サイズは途方もないくらい俺の知ってるかたつむりとかけ離れているが、この巨大かたつむりも構造自体は似たようなもののようだ。少なくとも自由に活動はできなくなっている。生死の確認は、ちょっとできないし、したくもないけれど。

 

巨大かたつむりは数は多いし、一匹一匹頑丈で退治するのは骨が折れるが、相手に反撃する手段がないのならそれほど脅威ではない。いずれ殲滅できる。

 

などと、愚かにも少し緊張感を緩めたその時だ。

 

近くにいたかたつむりの殻が、動いた。

 

注意が甘かった。ゴーレムが倒れていた時点で気付いて然るべきだった。俺たちと戦っていた時、上半身をいくつか吹っ飛ばされても核さえ無事なら平気で直立しているようなゴーレムが、生半なことで倒れたりするはずがないのに。

 

「ぐっ、お……っ」

 

そんなに動かして中身大丈夫なのか、とこちらが心配したくなるくらい殻がぐりんと動き、接触した。大きさ相応の質量、質量相応の運動エネルギーだった。大型トラックもかくやという衝撃に、両の足が浮く。そのまま飛ばされ、壁に背中を(したた)かに打ちつけた。

 

全身に走る鈍痛に声もなかったが、動かないわけにいかなかった。

 

見た目に反してかたつむりは機敏で、そしてまた想像の埒外(らちがい)だったのだが。

 

「こいつっ……雑食なのかよ!?」

 

人間でも食っちまおうとするほどの食いしん坊でもあった。

 

軟体の部分がぐぐっと起き上がり、その大きなお口でディープキスされる間際、俺は転がるように逃げた。かたつむりの歯舌(しぜつ)を初めて生で見た。

 

「徹っ!」

 

「だ、大丈夫だ!怪我はないし、ちゃんと顔には目も鼻も口も残ってる!」

 

「じゃなくてっ、ゴーレムが!」

 

「は?フランちゃんが操ってるんだから、ゴーレムは敵じゃな……っ?!」

 

再び跳躍して逃げる。すぐ近くをゴーレムの腕が通過した。

 

何で俺を、と動転したが、狙いは俺じゃなくてその後ろに迫っていたかたつむりだった。

 

ゴーレムではかたつむりに致命傷を与えられないと思っていたが、これまでとは少し違っていた。

 

「腕、形変わってる……」

 

最初に打ち込んだ腕の先端はピッケルのように尖っており、もう片方の振りかぶっている腕は金槌のような形状をしている。

 

ハンマーじみたその腕を、ピッケルじみた腕に打ち据えた。

 

ぱきゅっ、という間の抜けた音がした。

 

細く尖った腕がかたつむりの殻を穿ち、中身へと達していた。

 

加える力を一点に集約させることで頑健な殻を突破する。これは効率よくかたつむりを駆除しようと工夫したフランちゃんの努力の成果だ。

 

「すごいな、フランちゃん!即興で作り変えるなんて……フランちゃん?」

 

助けてくれたことの感謝に加え、かたつむりに対する適応力を褒めようとフランちゃんに視線を送るが、様子がおかしい。

 

彼女の長い白髪が逆立ったように見えた。銀色の瞳が輝いたように見えた。彼女の表情には、怒りが色濃く見えた。

 

「ゾーゲーツニヒトッ!シュランクネヒト!」

 

初めてフランちゃんの大きな声を聞いた。

 

彼女の叫びに呼応するようにゴーレムが一斉に動き出し、かたつむりに殺到した。

 

だけではない。

 

「待て待て!フランちゃん、ハルトっ、ハルト!……くそ」

 

フランちゃんもゴーレムを纏い、前線へと猛進してしまった。

 

「フェイト!ランちゃん!」

 

「わかってる……っ!」

 

「フェイトちゃん、好きに撃ちなさい。同じところに私も撃てば、さすがに死に至るでしょう」

 

「了解」

 

ゴーレムの勢いに気圧されて退きつつあるが、かたつむりは通路に密集していて撤退は捗らない。

 

手前側では、かたつむりとゴーレムが交戦していた。

 

ゴーレムの腕の変化は堅固な殻を突破するに足るが、片方のピッケルを打ち、もう片方のハンマーで叩き込むという二段階を経なければいけない。その間に殻を動かされれば、中身まで突き刺すことができない。一匹二匹は同じやり方で始末したが、他には抵抗されてうまくいかなかった。

 

しかも、急遽ゴーレムの腕の形状を変化させた為か、バランスが悪い。ハンマー状の腕を振り上げている時に殻をぶつけられ、大きな足を以ってしても重心を戻せずに容易く仰向けに倒された。

 

フランちゃんが入っているゴーレムまでの間に、もう壁はなかった。

 

「まじかこいつっ!」

 

かたつむりならかたつむりらしく、のんびり動けばいいものを。

 

倒れたゴーレムを踏み潰すように踏み台がわりにして高さを稼ぎ、フランちゃんと対峙した。

 

それだけならまだゴーレムのほうが上背がある。いや、あった。

 

だが、かたつむりは殻を後傾させ、触角のある頭のほうを器用に起き上がらせた。なぜそんな挙動ができるのかわからない。生き抜くための進化の結果なのか。ゴーレムという踏み台のぶん、立ち上がったかたつむりのほうが高さが上になった。

 

粘液を伴う軟体は取りつくようにゴーレムに覆い被さり、押し倒した。かたつむりの歯舌の位置は、ちょうどフランちゃんがいるあたりだった。

 

戦っていた時も思っていたが、ゴーレムはあまり細かな動きは苦手なようだ。覆いかぶさるかたつむりを引き剥がすこともできていない。そもそも、今は腕がピッケルとハンマーみたいになっているので、さらに押し退けることは難しくなっている。

 

背後は床、正面にはかたつむり。フランちゃんに脱出する術はなかった。

 

がり、ごり、と不気味な音がしていた。かたつむりが、ゴーレムの表面を頬張り始めていた。

 

「そこをッ、どけぇッ!」

 

鮫島さん直伝の足技に、襲歩の加速、循環魔法による運動能力の底上げ。なによりも、感情が(たかぶ)ってしまっていた。

 

一閃。かたつむりの殻を横にかち割るような軌道で薙いだ。

 

かたつむりの頭部を弾き飛ばし、殻の半ばまで砕いたところで足が止まった。殻を真っ二つとまではいかなかったが、とりあえず命は絶ったようだ。

 

必死すぎて意識しなかった一撃に、今更になって足がじんじんと痛んだ。

 

「硬いし……重いな、本当に……」

 

殻に抉り込んだ足を引っこ抜き、そのまま蹴ってゴーレムの上から押し退ける。

 

軟体の部分が酸でできているとか、そういうぶっとんだ進化をしていなくてよかった。足がどろどろでねばねばしてとても不快なこと以外はなんともない。

 

「もうだいたい逃げ始めてんのか……フェイト、ランちゃん、警戒頼む」

 

「うん、わかった」

 

「はぁい」

 

近くにかたつむりが迫っていたらフランちゃんを助けるどころではなくなる。辺りを見回すと、大きな殻を横倒しにしたかたつむりばかりで満足に動けるものはほとんど残っていなかった。まだ生きているかたつむりもいるのにみんな逃げるとは、薄情なものだ。

 

「フランちゃん、大丈夫か?!」

 

かたつむりに喰われていたゴーレムの表面を見る。かなりの硬度があるはずのゴーレムだが、正面のあたりはぼろぼろになっていた。

 

一瞬ぞっとしたが、かたつむりの歯舌は中まで到達してはいないようだ。

 

もぞもぞと身じろぎするゴーレムを裏返しにして、背中を掘る。

 

黒茶色の土の中に、真っ白な髪を見つけた。そこから輪郭をなぞるように土を掻き出し、フランちゃんの身体を引っ張り出す。

 

「フランちゃん……ああ、よかった……。怪我はないか?」

 

「クーニヒ……フェアツァイウング……」

 

「ごめんな。助けてくれようとしたんだよな」

 

「クーニヒ……」

 

フランちゃんが命がけで、身を呈してまで助けようとしたのは、きっと俺を王だと勘違いしているからだろう。なのに、俺は狡猾にも誤解を晴らさずに現状を維持しようとしている。そんな自分の悪どさに辟易する。

 

(クーニヒ)じゃないと喉まで言葉が出かかって、俺はそれを呑み込んだ。

 

「……助けてくれてありがとう(ダンケフュアイーレ)

 

「ニヒツツーダンケンっ!イッヒダンケアゥフ!」

 

感謝されるほどじゃない、こちらこそありがとう。

 

純真無垢な微笑みでそう言う彼女を、俺は直視できなかった。

 



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彼女のことを、まだ何も知らずにいた。

 

「フランちゃん。このかたつむりって、よく出てくるのか?」

 

殻を横倒しにしたかたつむりを指差して、フランちゃんに聞いてみた。

 

「ヤー。おおい。なる」

 

「……最近多くなったってことでいいのか?」

 

「ヤー」

 

「それをフランちゃん一人で退治してるの?大変じゃないかしら?」

 

「…………」

 

デバイスの残弾を確かめながらランちゃんが尋ねるも、フランちゃんは沈黙するばかりだった。

 

もはやこれは人見知りの範疇を超えているような気がしないでもない。

 

「……フランちゃん。一人でやってるのか?大変じゃないのか?って」

 

「ヤー。……イッヒビンミューダ。アバーカインプロブリーム……ナッハニヒト」

 

「お、おおう……えっと……」

 

「あ……つかれる。なら……ニヒト、でも……」

 

フランちゃんは困ったように、たどたどしく言葉を噛み砕いていく。

 

俺も甘えてばかりではいけない。教えてもらったことを繋ぎ合わせて、意味を探る。

 

なるべく単語で説明してくれているとはいえ、なかなか長い文だったので翻訳するのに時間がかかってしまった。

 

「疲れはするけど、まだ大丈夫ってことでいいか?」

 

合っているのかどうか表情を窺うと、ぱぁっと明るい顔を見せた。

 

「っ!ヤー!ダズイストリヒティッヒ!クーニヒ、すごい!ウンダバー!」

 

「あはは、ダンク。疲れたら言うんだぞ?」

 

「ヤー。あり、あとう。ダンケフュアイーレ」

 

「……なんだかもう、二人だけの世界があるわねぇ」

 

「……ずるい」

 

ランちゃんやフェイトの視線はまったく気にせずに、フランちゃんがかたつむりに近づいた。

 

おそらくかたつむりは絶命しているだろうが、身体の小さなフランちゃんの場合、殻が倒れただけで大怪我を負いそうだ。

 

「フランちゃん、なにしてんの。危ないぞ」

 

「これ。もつ。……かえる」

 

小さな手で殻を掴んで、引っ張っていた。

 

「いるの?これ」

 

「いる。つかう」

 

何に使うかまでは聞けなかったが、どうやら必要なものらしい。ゴーレムのないフランちゃんでは、仮に殻を持てたとしても家に帰り着くのに二週間くらいかかりそうだ。

 

「使うんなら手伝うけど、ゴーレム出したほうが楽じゃないの?」

 

「ごーれん?」

 

「シュランクネヒトのこと」

 

「あー……ニヒトゲヌゥグ……たりる、ちがう……」

 

「足りない?」

 

「ヤー。たりない。アブゾプタル」

 

「アブゾプタル?」

 

新しい単語だ。俺が首を傾げていると、フランちゃんはとことこ歩いて、ゴーレムだった石と砂の山を手探りで掘り始めた。しばらくして、何かを握って戻ってきた。

 

「アブゾプタル。ここ(・・)

 

これ(・・)?」

 

「ヤー。これ。アブゾプタル」

 

「アブゾプタルって名前だったのか、この塊」

 

フランちゃんが握りしめていたのはゴーレムの核になっていた、楕円球の金属。魔力を吸収する卵形の金属だった。

 

「これ。たりない」

 

「ああ。大広間ではいらないけど、ここでは魔力が奪われるから、このゴーレムの核……アブゾプタルがたくさんいるのか」

 

「……ヤー。アブゾプタル。いる」

 

たぶん俺の言ったことのすべてを理解したわけではないだろう。妙な間があった。だがフランちゃんは分かったふうにこくこくと頷いた。

 

ウエストを絞るようにベルトで固定されているポーチを開いた。ポーチの中には、何も入っていなかった。

 

「そっか……俺を助ける時にアブゾプタルがなくなるまで使ってくれたのか。……ダンケフュアイーレ」

 

「ど、どういたりましえ」

 

ちょっと発音が怪しいが、今回はちゃんとこっちの言葉で言ってくれた。少しずつ、親しくなれていると思うのは自惚れだろうか。

 

フランちゃんは照れくさそうに、身体を背けて、続けた。

 

なら(・・)。いる。これ」

 

なら(・・)じゃなくてだから(・・・)、な?」

 

「ヤー。だから、いる」

 

「そうそう。そんで?この殻からどうやってアブゾプタルを作るんだ?」

 

「……?」

 

きょとんとした表情のフランちゃん。何を言っているかよくわからないという感じで首を傾げられても困る。

 

「この殻を使ってアブゾプタルを作るんじゃないの?」

 

「あぅ……これ、おく。なら、ダーモギグタッグ……ある」

 

「えっと……つまり、これを置いといたら明日にはアブゾプタルができてるってこと?」

 

「っ!ヤー!」

 

銀色の髪が波打つくらい頭を縦に振る。俺を見上げる瞳はとてもきらきらと輝いていた。言っていることを理解してもらえて嬉しいらしい。

 

フランちゃんが嬉しそうなのは俺も嬉しいのだが、ちょっとよく意味がわからない。なんなのだろう、殻を投入したらアブゾプタルが生産される装置でもあるのだろうか。この鉱山に電気が通っているようには思えないのだが。

 

俺の推測では、という注釈が入るが、かたつむりは魔力を吸収する金属(アブゾプタル)を摂取して殻を成長させている。フランちゃんがこの殻を持って帰ろうとしているということは、推測通りかたつむりの殻から凝集したアブゾプタルを取り出すことができるのだろう。

 

もしかして、この国の秘術や一子相伝の特殊な術式などがあるのか。それで俺に隠している、ということならまだわからなくもない。

 

何はともあれ、俺の油断によってアブゾプタルを浪費させてしまったことは明らかだ。手伝うのが道理である。

 

「そんじゃ、なるべく持って戻ったほうがいいよな。……重そうだけど」

 

かたつむりの本体、というべきなのか、軟体部分は溶け出しているのでその重さはないだろうが、殻だけでも相当な重量があるだろう。

 

「意外と……いや、やっぱ重いな……」

 

重心が不安定で、しかも大きくて持ちにくい。荷車か、せめてロープでもあれば引きずっていくこともできたのに。

 

「徹ちゃん、それ持って帰るの?」

 

「使うんだって。どんだけいるのかわからんけど、一応持てるだけ持って行こうかなって」

 

「ごめんね、徹。私……」

 

「わかってるって、フェイト。俺のせいで無駄に魔力使わせちまったからな。フォロー、助かった」

 

「私はただあてただけで……すごいのはランだよ。私があけた穴と同じところを精密に撃ち抜いてた」

 

「うっわ、まじで?あれだけ乱戦だったのに、そんなんできんの?」

 

「ターゲットは遅いし、まあこの距離なら問題はないわねぇ」

 

「精度高すぎて逆に気持ち悪いな……」

 

「それ徹ちゃんには絶対言われたくないセリフよ。ちなみに私も余力は残ってないわぁ。ごめんなさいね」

 

「はいはい、わかってんよ。どうにかうまいこと重ねりゃ、三つ四つくらいは一緒に運べるんじゃねえかな」

 

ゴーレムの巨腕で潰されたり、俺が蹴り砕いた殻の破片を、形が綺麗に残っている殻に入れて運搬しやすくしている時に、ふと気付いた。

 

「……地面、固まってる……光も……」

 

巨大かたつむりが群れを成してやってきて、そして逃げ去った道は、まるで床の表面にワックスでもかけたように光る石がコーティングされていた。坑道自体も、おそらくかたつむりの自重で押し固められたのだろう、ローラー機で舗装したように固められている。

 

「まあ、殻が光ってりゃ天敵に見つかりやすくなるもんな。吐き出すのは当然か」

 

巨大かたつむりは、がりがりと壁や床を噛み砕いて咀嚼(そしゃく)しては、光る石とアブゾプタルを分別して体に取り込んでいるようだ。アブゾプタルは殻に吸収し、光る石の成分は軟体の部分から排出している、と見ていいだろう。

 

ならば。

 

俺の推測が正しければ。

 

「皮肉な話だな……」

 

この坑道の作りからして、おそらく俺たちがこの鉱山に入った時の道も巨大かたつむりが掘削して作られたのだろう。

 

巨大かたつむりが多すぎると、アブゾプタルを食い尽くされて他の魔法生物が侵入してくる。しかし、裏を返すとかたつむりが道を掘り進めているおかげで空気の通る道ができて、そこから酸素や空気中の魔力を鉱山の奥まで届けることができている。しかもそのかたつむりの殻を使って、ゴーレムの核となる物を作っている。

 

脅威であると同時に、必要な存在でもあった。

 

 

 

 

 

 

「ごめん、なさい……クーニヒ……」

 

「だからもういいって。俺を助けてくれたんだから、今度は俺がフランちゃんを助ける番だ」

 

「私も一緒にごめんね、徹」

 

「帰るまで道のりは長いからな。体力温存しとけ」

 

「私も一緒に乗せてほしいわぁ。私も疲れちゃったぁん」

 

「自分で歩け。残念ながら俺はもう定員オーバーだ」

 

住居への帰り道。アブゾプタルを使い果たしたフランちゃんは、最初は頑張って自分で歩こうとしていたが早々に体力が尽きた。そんなフランちゃんを背負って進んでいたが、今度はフェイトが遅れ始めた。射撃魔法で魔力を使いすぎて、年相応まで体力が落ちていたのだ。俺の背中はフランちゃんが乗車済みだったので、フェイトには俺が運んでいる殻の上に座ってもらった。多少不安定だろうが、そのあたりは我慢してもらうしかない。

 

「クーニヒ」

 

「ん?どうした?」

 

背中にいるフランちゃんが、すんごい控えめに俺の服を引っ張った。やることは控えめなのだが、その身体は全然控えめじゃない。背中に、大きな二つの球体をメインとしてマシュマロのような柔らかさの身体がひしと密着している。フェイトとフランちゃんの場所を交替させておくべきだったかもしれない、と言ってしまうとさすがのフェイトでも怒りそう。

 

「もどる。の、あと。ん……アーベントエッセン……あぅ」

 

「戻ったらご飯にするってことか?」

 

「ヤー」

 

「それは助かるな。お腹もすいてきたことだし。でも食べ物とかあんの?」

 

「ある。ゲミューゼ」

 

「野菜、か。やっぱり肉は無理だよな。俺が知ってる野菜あったらいいけど。ていうか、俺たちも食べていいの?……ここの人たちのぶん、とか」

 

「だいじょうぶ。ある」

 

ここぞとばかりに、ほかの住人の情報について触れてみたが、俺の緊張とは裏腹にフランちゃんは平然と答えた。

 

「そ、そっか。ならよかったよ」

 

「……アンドキュルツリヒ」

 

「え?」

 

フランちゃんは端的に答えて、それで話は終わりかと思った。だが、最近は(アンドキュルツリヒ)と続けた。

 

「みんな、いない」

 

「……いない?それって、どういう……」

 

最近、みんないないと、フランちゃんは言った。単語の言い間違いか、俺の聞き間違いか、それとも意味のニュアンスがずれているのか、はたまた実際に違う町か何かに出かけているという意味なのか。

 

再び尋ねても、フランちゃんは俺の背中に顔をくっつけるばかりでそれ以上答えてはくれなかった。

 

なぜか、鉱山の上層で見つけた白骨化した遺体が、ふと頭に浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

「どうしたんだ、アサレアちゃん。食べないのか?」

 

「野菜ばっかり……」

 

「山の中なんだ。畜産はやれないだろ。それに、これは肉……みたいなものだぞ?」

 

「ちがうの。そういう『畑の肉』的なのじゃないの」

 

「お野菜も美味しいじゃない。とっても新鮮で、味がしっかりしているわぁ。それに、このスープに入っているの、本当にお肉に近い食感よ?これだけ手を尽くしてもらっておいてお嬢ちゃんはまだ文句言うの?」

 

「文句じゃないわ!おいしいわよ!おいしいけどっ……」

 

「アサレアちゃんは野菜嫌いなんだな」

 

「嫌いじゃない!ただ、お肉のほうが好きってだけで……」

 

「それを好き嫌いっていうんだよ、アサレア。いつもお母さんに怒られてるでしょ?。好き嫌いしちゃだめだって」

 

「やめてよクレイン兄!起きたら起きたでいらないことばっかり言う!ここから出るまでずっと寝てればよかったのに!」

 

「ひどい……」

 

「兄妹甲斐のないお嬢ちゃんねぇ。クレインちゃん、身体のほうはもう大丈夫なの?」

 

「はい。休ませてもらって、だいぶ良くなりました。おいしいご飯も頂いたので」

 

「徹は料理得意だもんね」

 

「初めて見る野菜が多くて最初は戸惑ったけどな」

 

クレインくんを寝かせていた小部屋で、俺たちは料理を囲んでいた。

 

フランちゃんに食材を分けてもらったが、扱ったことがないどころか見たことすらない野菜の数々に呆然とした。どう調理すればいいかわからなかったが、いろいろ試していくうちに特徴を掴めた。大豆に近い食材があったことにも救われた。

 

仕方ないこととはいえ、調味料の乏しさに絶望しかけたが、昼食のサンドイッチのために持ち込んでいた調味料を使ってなんとか料理という形に落とし込むことができた。

 

いったいここに住んでいる人はどうやって調理しているのか。提供された野菜が妙に味が濃くておいしいからといって、味付けなしではレパートリーにも限界があると思うのだが。

 

「おいしい……おいしいんだけど……むぅ」

 

「肉があれば料理に幅が出るんだけど、ないもんはないしな。……肉、肉……あ、さっきの巨大かたつむりとか」

 

「かたつむりなんてやよ!食べ物じゃないでしょっ!」

 

「食用もあるぞ。まあ、あのかたつむりが食べれるかわからんけど。種類によっては寄生虫とかいるらしいし」

 

「寄生虫?!そんなもん食べさせようとしないでよ!」

 

「俺もどう調理したらいいかわからんしな。外にいた(いのしし)の一頭でも捕まえてりゃよかった」

 

「まさかこうなるとは思わなかったものねぇ」

 

仮にいのししを捕まえていたところで、ここまで持ってこれていたとは思えないけれど。

 

生き延びるので精一杯だったほどである。

 

やいのやいのと雑談しながらご飯を食べていると、ふと気づいた。みんな、声に張りが戻っているというか、元気になっている。

 

「フェイト、顔色よくなったな」

 

「そう、なのかな?自分じゃわからないけど、でも体調はよくなった気がするよ」

 

「やっぱりご飯食べると元気が出るわねぇ」

 

「野菜ばっかりだと体力つかないけど」

 

「はぁ……お嬢ちゃんはフェイトちゃんよりお子様ねぇ」

 

「うっさい!」

 

寝ていたクレインくんはもちろん、フェイトもみんな、表情が明るくなっていた。かくいう俺も調子が戻っているのを実感している。体力だけでなく、まるで失われた魔力まで回復しているように。

 

「もしかして……」

 

近くにフェイトがいるのでばれないように気をつけて、左目で精査する。

 

うっすらと、しかもか細かったおかげで今まで気づけなかった。料理に使われている食材に、魔力が含まれている。

 

その理由には、すぐに見当がついた。これについては、フェイトがヒントをくれていたのだ。あとは実地の検証だけである。

 

皿に残っているサラダやスープを一気に胃袋に流し込む。いきなり急いで食べ始めた俺に唖然としたみんなを置き去りにして立ち上がる。

 

「ゆっくり食っててくれ。ちょっと出てくる」

 

「出てくるって、あんたどこに……」

 

「見ておきたいところがあるんだ。ただの好奇心だよ」

 

見上げるアサレアちゃんから目線を外し、部屋の隅っこにいたフランちゃんを見つける。

 

いくら誘っても、輪になっての食事とお喋りには参加してくれなかった。それについて無理強いするつもりはないし、食事の楽しみかたは人それぞれなので、そのあたりは本人が一番楽なようにさせてあげるべきだろう。

 

ただ料理の味つけは口に合ったらしい。俺よりも早く食べ終えていたところを見るに、食事には満足してくれたようで何よりだ。

 

「畑を見たいんだけど、つい」

 

「いっしょ、する」

 

「てきて……あ、ありがとう」

 

若干食い気味で答えてくれた。壁に手をつけて立ち上がり、扉に向かうフランちゃんの背を追う前に、みんなに指示を出しておく。

 

鉱山の中だと感覚が狂ってきてわかりにくいが、もう夜の時間帯なのだ。ただでさえ、今日はハードに動いている。休んでおかないと身体がもたなくなる。

 

「交代で睡眠をとっておいてくれ。細かいことはランちゃんの指示に従うように。それじゃランちゃん、任せた」

 

「了解よん」

 

「ちょっ、ちょっと!あんたはいつ休むのよ!」

 

「調べ物が終わったら、次の休憩のローテーションで休ませてもらうって。先に休んどいてくれ」

 

「……徹が一番動き回ってるのに……」

 

「あはは、今から見に行くのはただの好奇心だから気にしなくていいって。んじゃ、そういうことでな」

 

「まっ、待ちなさっ……」

 

更に何か言い募ろうとしていたアサレアちゃんを振り払うように、俺は部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

フランちゃんに案内されて、彼女が維持管理している畑までやってきた。案内されてきたといっても、物自体は何度も視界に入っていたのだけれど。

 

大広間の、光る石の結晶の真下。そこに、家庭菜園とは言い難い規模の農園が広がっていた。

 

やはり、結晶から照射される光は太陽光に近いものがあるのだろう。だからこそ、光が一番降り注ぐこの場所に畑を作っている。

 

「ここをフランちゃん一人で管理してるの?」

 

「ヤー」

 

「…………」

 

「……シュランクネヒト。やる」

 

「あ、うん、なるほどな」

 

フランちゃんの儚すぎる体力で農作業なんてできるのだろうかと思っていたが、ゴーレムに頼っていたようだ。大広間では魔力を奪われないことも、ゴーレムを使いやすい要因だろう。

 

ふわふわっとした軽やかな歩みで畑の手入れに向かったフランちゃんを見送って、俺は近くの(うね)を見る。

 

多種多様な種類の野菜が植えられていた。その野菜の一つを左目でじっと視る。薄らとだが、たしかに魔力の光が視えた。

 

「やっぱり魔力を貯めてる……」

 

不思議には感じていたのだ。魔力を吸い取られる鉱山で、なぜフランちゃんは魔法を使えているのだろうと。

 

アブゾプタルは蝋燭(ろうそく)のようなものだ。火を灯し続けることはできても、着火する際にはエネルギーがいる。その着火のエネルギーをどこで得ているのかと、考えていた。

 

「……ここから、補給してたのか」

 

その答えは、食べ物にあった。

 

フェイトが言っていたことだ。この世界は空気中の魔力が多く、それが雨などで土中に含まれ、水と魔力と栄養を一緒に植物が吸い上げた。

 

理屈はそれと同じだ。

 

この大広間の空間に集められた魔力は、土の中にあるアブゾプタルの細かな粒子が溜め込んでいる。その魔力を、今度は植えられた野菜が土中の栄養と一緒に吸い上げた。

 

結果、その野菜を食べるフランちゃんや、野菜をわけてもらった俺たちも魔力を取り戻すことができた。

 

奇跡に近いサイクルだ。いや、そんな(にわか)には信じ難いサイクルが成立しているからこそ、この鉱山で人間が生きていけているのだから必然というべきなのか。

 

「ここにバッテリー切れのアブゾプタル埋めたら、また充電できるんじゃねえの?」

 

野菜が植えられている近くの土をいじる。

 

フランちゃんはゴーレムにアブゾプタルを使っても、それを回収はしていなかった。彼女の中では消耗品という認識なのだろうか。使い捨てせずに済むのならそれに越したことはないのに、と貧乏根性で考えながら、土を掘り返した。

 

かり、と白くて硬いものが手に触れた。

 

「……は?」

 

「クーニヒ?なにか、ある?」

 

「いや、なんでもない!」

 

声をかけられ、思わず手元を隠した。

 

フランちゃんはとくに気にするようなそぶりもなく、首を傾げると、再び畑の手入れに戻った。

 

手元が見えない位置にまで離れたのを確認してから、出てきたものを確かめる。

 

上の層にあったものと同じだ。人の骨。白骨化した、人骨だ。

 

ちらちらとフランちゃんの目を気にしながら更に掘ってみると、多くの骨と、亡くなられたその方が着ていたのだろう血だらけで焦げた服も出てきた。

 

「…………」

 

なぜ、ここに人の骨があるのか。

 

可能性だけならいくつかある。この鉱山で亡くなられた方は伝統的にこの大広間に埋葬されている、など。

 

だが貴重な食料であり唯一の魔力供給源である野菜を栽培している場所で、亡骸(なきがら)を埋葬しようとするだろうか。そもそもこれらの遺骸(いがい)は、天寿を全うして埋葬されたものなのか。

 

違う可能性を考え始めれば、いくらでもこじつけることはできるだろう。わかっていないことのほうが多いのだから、確証はないとして保留にせざるを得ない。

 

ただ、もっと単純な答えが、俺の頭の中を埋め尽くしている。

 

「っ……待て。待て待て待て……なに考えてんだ俺、そんなわけないだろ……っ」

 

考えたくもないのに、想像したくもないのに、その可能性しか思い浮かばない。

 

この山の中でただ一人暮らしているフランちゃん。可能性の話をするのなら彼女が一番怪しいことになる。

 

土から出てきた骨はすでに白骨化しているが、この鉱山の特殊な環境もあって時間がどれだけ経過しているのかはわからない。普通、土に埋められた場合は四年から五年で白骨化するらしいが、しかし、服に付着した血痕から数年も経過しているとは考えにくい。ここ数ヶ月から一年というところが妥当じゃないだろうか。

 

数ヶ月ほど前に亡くなり、この大広間に埋められた。そんな出来事は、そう簡単に記憶から消えはしない。なのに、鉱山のほかの住人はどこにいるかと尋ねた時、フランちゃんは『いない』と言った。

 

「あるわけ、ない……っ」

 

なによりも。なによりも、だ。

 

この大広間と大広間付近の土は、つい最近掘り起こされたように、歩きにくいくらいふかふかと柔らかくなっている。

 

菜園のためにゴーレムで耕したのかと思っていたが、畑のある場所以外も掘り返されたようになっている。あまり気にしなかったが今となっては事情が変わってくる。

 

この鉱山の人たちが何人、何十人、何百人いたかはわからないが、しかし現時点で存命なのはフランちゃんだけだ。考えたくなくても、嫌な考えしか出てこない。

 

「クーニヒ。この……ニヒト、んぁ……これ!これ、おいしい」

 

柔らかな笑みで正しい言葉を考えて選びながら、フランちゃんは赤い果実を俺に手渡してきた。

 

見た目はトマトに近い果実をぼんやりと眺めている俺を尻目に、フランちゃんは両手で果実を持ってかぷっと齧り付いた。

 

「あむ……じゅる」

 

「……そのまま、食べるのか?」

 

「ヤー。レッカー」

 

思考停止したまま彼女に(なら)って直接がぶりと齧り付くと、赤い果汁があふれ出した。酸味と仄かな甘みのある、野菜というよりは果物に近い味だった。

 

「……おいしいな」

 

「っ!ヤー、おいしー!」

 

ぽつりと呟いた俺の言葉を復唱して、幸せそうに、フランちゃんは微笑む。

 

笑顔を湛えたまま、フランちゃんはもう一度かぶりつく。あふれた真っ赤な果汁が手からこぼれ落ちて、床を濡らす。その様は、まるで滴り落ちる鮮血のようで。

 

「クーニヒっ、おいしー!」

 

俺は彼女のことを、まだ何も知らずにいた。



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第三者

 

「…………」

 

一つわかれば、わかったもの以上にわからないものを発見するのが、俺の宿命なのだろうか。

 

限定的だとしても、魔力の補給が可能なのは嬉しい発見だが、それよりも不安になる事案が浮上した。

 

鉱山の住人の集団失踪。いや、殺害遺棄に、想像したくはないがフランちゃんが関与している可能性がある。確証はないが、状況は彼女が深く関わっていることを示唆している。

 

こうなってくると、フランちゃんとの距離感や接し方もわからなくなってくる。筆談の時の急激な感情の昂り、情緒不安定さも、今となってはとても危うさを感じる。

 

「っ……違う。別にフランちゃんがやったって決まってないだろ……」

 

まるでフランちゃんが犯人かのような考えに、反吐がでる。

 

一時は戦闘にもなったが、どうにかこうにか工夫してコミュニケーションを取った結果、仲良くできている。その上、身体を休めるところも、飲み水も、食べ物すら提供してもらっておいて、まるでフランちゃんが大量殺人の犯罪者かのように考えている自分の恩知らずさには、もはや嫌悪しか出てこない。

 

しかし、被疑者の候補はたった一人しかいないのだ。

 

「……フランちゃんしか……」

 

フランちゃんしか、この地にはいないのだ。

 

この鉱山はある種の密室に近い。しかも二重に閉ざされている。

 

まず鉱山の外。この鉱山に辿り着くには無数の凶暴な生き物を相手にしなければならず、相当に高度な戦闘技術を持つ魔導師でなければ近づくことすらできない。

 

次に鉱山の内。フェイトクラスの魔導師でさえ、一人で歩けなくなるほどに根刮(ねこそ)ぎ魔力を奪われるという環境。そんな悪辣が過ぎる環境下で、ほとんど無限とも思えるほど湧いて出てくるゴーレムと戦闘して、人を殺める余力を残して居住区のある大広間まで無事に辿り着くなんて、よほどのことがない限り不可能だ。

 

加えて遺体を隠している場所と、その方法も問題だ。広大な面積のある大広間、その土の下。形跡から判断してもかなりの範囲が掘り返されていて、おそらく掘り返されている場所の下には遺体が隠されているのだろう。どれほどの数に上るのか想像したくもないが、人の手で一つ一つやるのは骨が折れる。だが俺たちと戦っていた時のようなゴーレムの使い方をできるフランちゃんなら、問題はない。土を掘り返し、大量の遺体を埋めるという点において、フランちゃんの魔法以上に便利な手はない。

 

極めつけは、この大量殺戮のあった現場で唯一無事で生き残っていることだ。古典的にして王道的な推理小説の代表的作品が如く、そして誰もいなくなるほうがまだ自然だ。なのに、ただ一人で、たった一人でこの地に居続け、この地に生き続けている。

 

決定的な証拠があるわけではない。だが、状況は限りなくフランちゃんが怪しいと示している。

 

これらの情報を、こんな状況を前にして、俺はどうしたらいいのだろう。どうすべきなのだろう。

 

秩序の維持を職責とする嘱託魔導師として、事件の究明をするべきなのか。それとも鉱山からの脱出を優先し、穏便に済ませてフランちゃんから出口を教えてもらったほうがいいのか。

 

「どうしたの、徹。やっぱり疲れた?」

 

「ああ、いや……ちょっと考え事しててな」

 

「考え事、とは?」

 

「まあ……あれだ。ここから出る方法、とか?」

 

大広間から住居スペースに戻って座っていた俺を、フェイトとクレインくんが心配してくれていた。

 

休憩のローテーションは年長者のランちゃんに任せていた。相談した結果、大広間にくる前に一眠りしたフェイトと、晩御飯の直前まで休んでいたクレインくんが起きて、ランちゃんとアサレアちゃんが先に仮眠を取ることにしたらしい。

 

「ここから出る方法……ですか。出口を知ってるのは……」

 

「ん……ああ、そうだな。サーチャーで調査することもできない以上、フランちゃんに頼むしかないんだよなあ……」

 

「徹、フランは?」

 

「こっちに戻ってくる時に寄るところがあるっつって、ふらっと歩いてった。すぐに戻るって言ってたけどな」

 

大広間から住居スペースに戻るまでの途中でフランちゃんと別れた。かたつむりの殻を置いた部屋に向かっていた様子だった。

 

別行動でもしない限り、フランちゃんはなぜかほぼずっと俺の隣にいる。考え事が多くて頭を悩ませている今、彼女が別行動してくれているのは、言い方は悪いがタイミングが良かった。

 

仮に、あの謎の多いフランちゃんに出口を教えてもらうことができたとしても、鉱山の外では凶暴で強大な魔法生物たちがわらわらしている。そのまま無事に帰られるとは限らない。鉱山の中も外も、問題でいっぱいだ。

 

「……この山を出たら出たで、今度は魔法生物に追いかけ回されるんだろうな」

 

「そうだね。こっちにきたばっかりの時でも追い払うのがやっとだった。今の魔力量でもう一回襲われたら、次はきびしいかも」

 

「あのでかい鳥だけならまだしもなあ……。小さい鳥は数が多かったしなあ……」

 

「徹は一対一には強いんだけどね」

 

「大勢でこられるとどうにもな」

 

鉱山から出る方法も見つかっていないのに出た後のことを考えても仕方がないのだけれど、いざ脱出できた時に無策ではどうしようもない。フェイトと対処法を考えるが、今の時点で普段のコンディションの半分以下なのだ。外に出られたところでできることも限られている。

 

「んん……」

 

クレインくんが腕を組んで唸っていた。彼も何か案を考えているのかもしれない。

 

「クレインくん、なにか思いついたか?」

 

「ええ。出会う生き物すべて、なぜあんなに凶暴だったのだろう、と……」

 

「……って、鳥の群れの対処法じゃねえのかよ」

 

「あ、すいません……ずっと気になっていまして」

 

「まあいいけど。……あ、そういえばでかい鳥と戦った時も言ってたな」

 

「本当は鳥や猪はもっと大人しいの?」

 

「はい。といっても図鑑ではそう書いていたってだけですけど」

 

「あんなに必死に追ってきたってことは、それだけ鳥も猪もお腹を空かせてたってことだよね?」

 

「そのはずです。無意味に殺して楽しむような習性はありませんし、魔法を受けても怯まず、血眼で襲ってくるのは自然ではありませんから」

 

「…………」

 

クレインくんが抱いていた疑問は、一度輸送船の中で聞いていた。緊急時を理由にその時は流してしまったが、よく考えてみるとおかしい。

 

肉食動物が飢えるのは、草食動物が減ったせいだ。草食動物が減ったのは、主食となる草が減ったせいだ。そういう理屈だろうと予想はできるが、同時に疑問にも思う。

 

「徹、なにか気づいたことあるの?」

 

「気づいたっていうか……な」

 

「何かわかったのなら教えて欲しいです」

 

「えっと……フェイトは知ってると思うけど、家の庭、あるだろ?」

 

「うん。真守お姉さんが一生懸命お世話してるよね。あの家庭菜園」

 

「いや……本当はフラワーガーデンの計画だったんだけどな……。で、だ。あの庭の土には、あかねの魔力が含まれているんだけど」

 

「あかね?」

 

「フェイトにちゃんと説明したことなかったっけ?時の庭園にあった魔導炉に組み込まれていたロストロギア、あれのことだ」

 

「え?たしか逢坂さんの住んでいる世界は魔法が周知されていないんですよね?魔力を使ってて大丈夫なんですか?」

 

「ああ、大丈夫だ。……今のところは」

 

「今のところはって……」

 

クレインくんが苦笑いで頬をひくつかせていた。まだ野菜や花が動き出したりはしていないので、おかしいと疑われることはないだろう。うねうね踊り出したらさすがにまずいけれど。

 

「話を戻すぞ。あの庭の土にはあかねの魔力が満たされている。その効果らしいけど、土の中に魔力があると肥料のような役割になって植物の生長が促進されるらしいんだ」

 

「えっと……ぼく、あまり植物については詳しくなくて……」

 

「大丈夫。魔力があったら植物が育ちやすいってだけわかればいい」

 

「あ、そっか。この世界はたくさん魔力がある。それなら、魔法生物が飢えるほど草がなくなるわけないよね」

 

相変わらず話が早くて助かる。

 

フェイトの言う通り、魔力が充満していると植物の生長はとんでもなく早い。なんならちょっと困るくらいの速度で生長するので、昼食のサンドイッチの材料にも使ったのだ。

 

家の庭では土にしか混ぜられていないが、この世界では土以外にも空気中、降る雨の中にもほかの世界とは比べ物にならないほど魔力が混ざっているだろう。庭に植えられている野菜よりも、この世界の植物のほうが生長速度は早いはずだ。

 

「草があるのなら草食動物は減らないし、肉食動物も飢えることがない。なのに飢えているということは、つまりその根幹が揺らいでいるってこと……生態系のバランスが狂ってるってことだ」

 

「で、でも、そのバランスなんてそう簡単に狂うものなんでしょうか?」

 

「んー……なにか大きな要因があれば、ありえない話じゃないとは、思うんだけどなあ。気候変動とかあれば環境が崩れることもあるだろうけど……」

 

鉱山の外はとても穏やかで、気温も異常に高かったり低かったりしていたわけではない。日照りが続いて干ばつが起こっているわけでも、豪雨が続いて洪水が起こっているわけでもなさそうだった。

 

「ねえ、徹。外来生物が現地の生態系を乱してる、ってテレビで言ってたよ。そっちの可能性ってないかな?」

 

「外来生物か。それなら……」

 

「ペットや食用として輸入された動物が野生化して生態系を乱すというのはどの地域でも聞く話ですけど、この世界では難しいんじゃないでしょうか」

 

「ほう……クレインくん、その心は?」

 

「外来生物が運ばれてきた地域の生態系を荒らすのは、その地の在来生物よりも強いからです。ただこの世界の場合は……」

 

「並みの魔導師よりも強い生き物がうじゃうじゃいるんだもんな。違う世界で猛威を振るった生き物を持ってきたとしても到底太刀打ちできない。勝負にもならないだろうな。たぶんこの世界で一番強いのは、身体の大きさとか毒とか力とかじゃなくて、魔力をより有効活用できる生き物だ」

 

「あ、そっか。そうだね……うん」

 

「……いや。フェイトの考えはそう間違ってない。着眼点はきっとそこなんだ」

 

「え?」

 

外来生物。そうフェイトが口にして、絵本にあった内容を思い出した。元あった国を追われ、この鉱山に移り住んできたという内容。

 

でもそれらはもっとずっと昔の、おそらく何百年も前の出来事だ。住人たちがこの世界に移り住んできたことで生態系が狂ったのであれば、この世界の生態系は既に死んでいてもおかしくない。

 

だから、もう少し近代のことだ。最近起こった出来事。そう考えて、一つ、思い当たる。

 

「鉱山の人たちが、原因……か?」

 

「この山の住人と、この世界の生態系が関わっているとは思えませんけど……」

 

「昔は、大気や河川の汚染のせいで自然破壊が深刻だった、とかって真守お姉さんと勉強して教えてもらったよ」

 

「おお、フェイトの勉強の成果がこんなところにまで」

 

「でもそういうのの原因って、工場排水や生活排水が原因って言ってた」

 

「そう、ですよね。鉱山の中で、しかも技術レベルもそう高くなさそうなここでは影響も少なそうですけど……」

 

「すまん、言葉が足りなかった。正確には、鉱山の住人がいなくなったから、だ。フランちゃんが言ってたんだが、最近かたつむりの数が増えてるって」

 

「……かたつむり、ですか?」

 

「うん。クレインが寝てる時に、フランと、徹と私とランでかたつむり退治に行ったんだ」

 

「かたつむりっつっても、ランちゃんより背の高い巨大かたつむりだけどな」

 

「ランさんより大きい……それは恐ろしいですね……」

 

クレインくんの言い方だと、巨大なかたつむりが恐ろしいというよりも、ランちゃんそのものが恐ろしいというように聞こえてしまうが、今は触れないでおこう。

 

「巨大かたつむりを退治するのがフランちゃんだけになって、かたつむりの数が増えた。かたつむりが増えたせいで、草食動物の餌である草が少なくなってるんだ」

 

「あれ?かたつむりのご飯って、魔力を吸収する金属じゃないの?」

 

「アブゾプタルな。あれはたぶん、普通のかたつむりで言うところの、カルシウムの代わりなんだ。殻の成長のために摂取してるだけだ。普通のかたつむりと同じなら、野菜とか草が主食になる」

 

「なるほど……その巨大かたつむりが増えたのだとしたら、草食動物と食べるものが競合するわけですね……」

 

「でも、大きな草食動物とかたつむりなら、かたつむりのほうが負けそうだけど……」

 

「いや、案外そうとも言い切れない。さっき言ったことだけど、魔力を効率よく使える生き物が一番強い。一番生き残れるんだ。それで考えれば、かたつむりは他の生き物よりも断然強い。なんたって、殻に魔力を溜めておけるんだからな」

 

かたつむりは魔力を奪われる鉱山の中でさえ、ゴーレムの攻撃を防ぎきるほどのタフネスぶりを誇る。鉱山の外ともなれば、あの強固な守りを貫く相手など限られているだろう。それこそ輸送船を襲撃した巨大な鳥くらいなものではなかろうか。

 

攻撃手段に(とぼ)しいかたつむりが勝てる相手はそう多くなくとも、負ける相手はほぼ皆無だ。数で押して勢力を拡大することは、充分ありえる。

 

実際、鉱山の周囲数キロメートルはもう、巨大かたつむりの縄張りのようになっているのかもしれない。

 

「鉱山の近くじゃ山肌が禿げていたし、入り口の近くで折れた動物の骨もあった。あれは巨大かたつむりと何かしらの動物が争った跡なんだろうな」

 

「それじゃ、かたつむりに餌場を追い出されたせいで、ほかの草食動物が減っちゃったってこと?」

 

「たぶんそうなんだろうな」

 

「まさかかたつむりが、動物の凶暴化に影響があったなんて……。でも、たくさんいるかたつむりが原因なのだとしたら、その解決は容易ではありません。一日二日で鉱山の外を安全にすることはできそうにないですね……」

 

「……ああ。そうだな」

 

本来穏やかな気性の生き物たちが凶暴化しているのは、かたつむりが原因という仮説は立てられる。そう間違ってはいないだろうという自信もある。

 

鉱山の外を安全にする解決策は見つからなかったが、おおよその原因は見つけられたのだ。数学の難問を解いたような、すっきりとした感覚があってもおかしくない。

 

なのに。

 

「…………」

 

なのに、なぜだろう。棘が刺さっているような、気持ちの悪い感覚が残っている。

 

とくに深く捉えていなかったこの事象が大きく関係しているような、漠然として曖昧な気持ちが押し寄せる。

 

その不安感には、結局答えを出せなかった。

 

 

 

 

 

 

フェイトとクレインくんを部屋に残し、俺はフランちゃんを探す。

 

正直なところ、フランちゃんに面と向かってこの鉱山のことをあれこれ深掘りして聞くのは気が進まない。筆談していた時のような感情の昂りがあると、手がつけられなくなる。

 

気は進まないが、しかし、これ以上うやむやにもできないだろう。

 

情報の量は少ないし、その情報も断片的で不明瞭だ。真偽や確度を検証しようにも、照らし合わせて検証するだけの下地となる情報がない。

 

無闇につついて蛇を出したくはないが、フランちゃんが持っているだろう情報が必要だ。

 

「たしか……かたつむりの殻を置いといた道あたりに行ったはず……」

 

食事の前、かたつむり駆除の帰り道のこと。

 

かたつむりの殻を引きずって持ち帰ってきていたが、小部屋に戻る前に、不意にフランちゃんがとある道を指差した。小部屋までの道から一本外れるその道は、そう奥行きがあるわけではなく、それほど広くもなかった。

 

ただ、奥のほうに雑多に物が置かれていた。

 

倉庫とも呼べない、部屋では決してないその道に、殻を置いておくようにとフランちゃんには言われた。その殻をどうするのか、何も手を加えずそのままにしておいていいのかと尋ねてみたが、フランちゃんは小首を傾げ、置いておくだけでいいと言っていた。

 

「このあたりだったよな……」

 

大広間の畑を見学させてもらった後、フランちゃんが向かった方角には他に目ぼしい場所はない。殻置き場にいるのはほぼ確実だろう。

 

殻を置いた道に近づいた時、何か異様な音と振動に気づいた。

 

「な、んの音だ……なにやってんだ」

 

壁に背をつけて、道の先を窺い見る。

 

人影があった。動く影が、二つあった。住人の生き残りかと思ったが、違う。片方はフランちゃんだが、片方はゴーレムだった。

 

ああゴーレムだったのか、住人じゃなかったのか、と落胆したが気づいた。

 

なぜゴーレムを人と勘違いしたのか。

 

フランちゃんの操るゴーレムは一応人のような形をしてはいるが、縦にも横にも大きいし、足なんて異常に太いし、なにより頭がない。間違えようがないが、人と間違えた。

 

その理由は、フランちゃんの操っていたゴーレムとはだいぶ形状が変わっていたからだ。

 

隣にいるフランちゃんと見比べる限り、背丈は二メートルも絶対にない。俺とランちゃんの中間くらいだろう。腕も足も胴体も、全体的にスリムになっている。相変わらず頭部は見当たらないが。

 

「……なにか、砕いてんのか」

 

がり、ごりと、何か固いものを砕くような音がしていて、音と連動するように振動がある。

 

どうやらゴーレムになにか作業をやらせていて、フランちゃんはその作業の進捗具合を覗き込んで確認しているようだ。

 

その何か固いものというのが人の骨とかだったらどうしようと嫌な想像が脳裏をよぎったが、音が途絶えるとゴーレムは近くに置かれていたかたつむりの殻を抱えて、また同じ位置に戻った。砕いていたのは殻のようだった。

 

「サーチャーは……ここはまだ使える範囲か。よかった」

 

魔法を阻害されずに使えるのは、大広間にある光る石の結晶を中心とした限られた範囲だ。ここは居住区よりも少し離れたところにあるのでどうかと思ったが、魔法は使えるようだ。

 

サーチャーを一つ展開し、フランちゃんの手元を映す位置に移動させる。

 

「……なんだ、やっぱり殻から作っていたのか……」

 

しばらくサーチャーで作業する手元を視ていた。

 

だいたい流れとすると、かたつむりの殻を細かく潰し、比重の差を利用して殻と殻に含まれるアブゾプタルとを選り分け、選り分けられた細かなアブゾプタルを金型のような容器に入れ、成型する、というもの。

 

熱して金属を溶かしてから金型に入れるんじゃないのか、と不思議に感じたが、すぐにその疑問は解決した。フランちゃんは金型を両手で持つと、魔法を発動させる。魔法の展開が終わると、左右開きに金型を外した。ころん、と金属の塊が金型から転げ落ちる。その塊は、俺も見たことのある卵のような形だった。

 

つまり、ゴーレムに使うアブゾプタルを、フランちゃんは作っていたようだ。

 

「……なんだ。べつに怪しいことしてないじゃん。……よかった」

 

もしかしたら、絶対にありえないけどもしかしたら、フランちゃんがこの鉱山の住人を殺めて遺棄したのではないかと、そんな失礼で恩知らずな疑惑を持ってしまっていた。こうして何をしているのかわかった今、フランちゃんに勘付かれないようにこそこそ確認していた自分が情けない。

 

というか、こうしてアブゾプタルを精錬するだけなのなら、フランちゃんもその作業をすると教えてくれればよかったのに。絵本の中でも金属加工や精錬技術がどうとかと書いてあったし、やはり門外不出の技術だったりするのか。

 

「フランちゃん。寝なくていいの?手伝おうか?」

 

フランちゃんは危ないことをしているわけでも、怪しいことをしているわけでもなかった。大広間で骨なんて見つけてしまったせいだ。妙に神経質になってしまっていたのだろう。

 

罪悪感もあいまって、作業を続けているフランちゃんに手伝いを申し出る。まるで浅はかな罪滅ぼしだ。

 

物陰から現れた俺に対するフランちゃんの反応は、劇的だった。

 

「きゃあっ?!」

 

フランちゃんは肩を跳ねさせて悲鳴をあげ、勢いよく振り返った。

 

「……フランちゃん?」

 

暗い場所で、しかもフランちゃんしかいないところで俺が急に声をかけたから驚いたのかと思った。

 

だが、違った。そうじゃなかった。

 

俺の姿をきちんと視認しても、彼女の表情は驚きから変化しない。いや、ある意味変化はした。驚きから、恐怖としか言いようがない表情へと。

 

「ま、まだ……っ?!ぅ、あ……っ、シュランクネヒト!」

 

「お、おい、フランちゃん!……っ!」

 

シュランクネヒト。そう彼女は叫んだ。

 

フランちゃんの隣にいたゴーレムが動き出す。明確な敵意を宿して、俺のほうを向いた。

 

なぜ俺のことを見てからゴーレムを動かしたのかわからない。今の彼女からはなにか、異物感を覚えるが、その正体を探る前に、身に迫る脅威を払わなければいけない。

 

注意をフランちゃんからゴーレムに移す。

 

「は……っ?!」

 

ゴーレムに注視した頃には、すでに腕を振り上げて俺の目の前にいた。

 

「くっ、そ……速いっ」

 

身体を傾けて振るわれた土の腕を避けるが、すぐさまゴーレムの反対側の腕が拳を振るう。

 

手のひらで受け止めて事なきを得た。

 

「いつものゴーレムより、動きがいいなあおい。ダイエットしたからか?」

 

これまでのゴーレムよりもスリムなぶん、打撃に重みはなくなったが俊敏性が桁違いだ。攻撃手段も腕を振り下ろすだけではなく、人のように拳を打つことができる。動きに柔軟性がある。ゴーレムを操るというところは同じだが、とても同じ魔法とは思えない。

 

でかいゴーレムより数倍厄介だ。

 

「ま、動きはいいけどそこまでだな」

 

厄介とはいえ、近接格闘が巧みというわけではない。鈍重なゴーレムからの差が激しくて慌てたが、アルフやクロノ、鮫島さんみたいな格闘戦のノウハウはないし、ジュリエッタちゃんの魔法のような精密な動きや柔軟性もない。

 

「ふっ……」

 

横から鎌のように払われるゴーレムの両腕を弾いて、胴体に掌底を抉りこむ。外見は大きく変わっていたが、強度に大きな変化はないようだ。ぼふっ、と鈍い音がして胴体が丸く吹き飛んだ。

 

「やだ……やだっ……やだっ!死にたくないっ!シュランクネヒト!」

 

「死にたくないって……なに言ってんだ、俺だって!フランちゃん!」

 

ゴーレムを土の山に戻してフランちゃんを見やる。ひどく怯えたように身体を震わせて、再び魔法名を叫ぶ。

 

「なんなんだよ……あれは、ほんとに……」

 

一抹の不安が不意によぎる。本当にあれは、フランちゃんなのだろうか。

 

この付近はざっとだが調べた。すぐ見つかる範囲に生き残りの住人がいないこともわかっている。目の前の人物の外見的特徴がフランちゃんに酷似しているのも、見てわかる。

 

だが、あまりにも、おかしい。

 

「ちっ……邪魔だ」

 

地面から生えるようにして創造されたゴーレム三体を相手取る。

 

動きは俊敏で、打撃はコンパクト。非常に面倒な相手だ。普通の魔導師なら充分相手にできるだろう。

 

だが、基本的にいつも顔を突き合わせての殴り合いをしている俺からすれば、もう一つ二つ、ステージが物足りない。

 

「っ、はっ、ほっ!」

 

突き出された右端のゴーレムの腕を受け止め、掴んだまま壁を駆け上がる。掴んだ土の腕を捩じ切りながら、右端の一体を飛び越えて左端のゴーレムに足を振り下ろす。そのまま、胴体が斜めに抉れた左端の一体は動きを止めた。

 

「フランちゃん!俺だ!徹だ!フランちゃん!」

 

「な、なんで、わたしの名前……っ」

 

やっぱりフランちゃんで間違いはない。なのに会話にならない。

 

「話を聞い……あれ?ベルカ語じゃ、ない……」

 

ようやく彼女の異変に気づいた。

 

襲ってくるゴーレムをあしらいながら、違和感と異物感の正体を追及する。

 

ずっと、魔法以外でフランちゃんはベルカ語を使っていない。ゴーレムだけは正式名称であるシュランクネヒトと呼んでいるが、会話自体はずっとミッド語だ。こんなに臨機応変にミッドチルダの言葉を、彼女は使えただろうか。

 

それに、顔色が細かく見えているのもおかしいのだ。いつもフランちゃんは人の目を遮るように、自分の顔を隠すように髪を垂らしているのに、今は前髪をかき上げている。

 

おかしなところを見つけ始めると、他にも見えてくる。どこか、声が少し低くなっているような気がする。

 

顔も身体も、もちろん名前もフランちゃんなのに、俺のことを覚えていない。まるで出会って話をする前みたいな警戒心だ。

 

「まずは、落ち着いて話さないと……っ」

 

腕を捻り切った右端のゴーレムと、中央にいた無傷のゴーレムから一度距離を取る。左右に分かれて攻めかかってくる二体のゴーレムのど真ん中を、両腕を広げてラリアットの要領で襲歩を使って駆け抜ける。

 

「さすがにちょっと……腕、痛いな……」

 

じんじんと両腕が痛むが、ゴーレムは二体とも腰あたりから上下に両断された。

 

やはりフランちゃんが操るゴーレムは、大広間で戦った時のような数で押し潰す戦法が一番有効なのだろう。ここのような細い道では、一体一体の強度が不十分なこともあり各個撃破できてしまう。

 

「ひっ……っ」

 

「ゴーレムを……じゃなかった、シュランクネヒトを向けてきたことは怒らない!だから、まずは話そう!なんか嫌なことがあるんならちゃんと聞くから!」

 

「また……また、殺すんだ……次はわたしを……殺しにきたんだっ!シュランクネヒト!」

 

「もう、なんなんだ……」

 

錯乱したように叫びながら、フランちゃんは両手を床につけた。

 

その動作は知っている。ゴーレムを身に纏う時の動きだ。ゴーレムの鎧を着込む前に抑えたいが、フランちゃんは俺との間にまたゴーレムを生み出そうとしていた。

 

護衛を倒しているだけではきりがない。新たに生み出されるゴーレムはこの際無視する。襲歩で床を蹴り、壁を二、三歩走り、彼女の後ろに回る。

 

「え、あれ……」

 

一瞬下を向いた時に俺の姿を見失ったらしいフランちゃんが、呆然と呟いた。

 

後ろに回った俺は、地面に下半身が埋まりかけているフランちゃんのお腹に腕を回して地面から引っこ抜く。

 

「フランちゃん。俺言ったよな、暴れたりしない限りは危害を加えないって。怒らないから、襲った理由を教えてくれ。じゃないとみんなの安全のために、俺は君を拘束しないといけなくなる」

 

「ぁ……は、あ……っ」

 

後ろから抱き上げて、よくわかった。

 

震えていた。がたがたと、凍えるように。

 

緊張状態にあるのか筋肉は硬直しているし、息も荒くて過呼吸に近い。

 

フランちゃんの突然の敵対行為にかなり戸惑っているし、なんでこんなことをしたのかとほんのちょっとは苛立ちもないとはいえないが、震えさせるほど怒気を含んだ声を出してはいない。なぜここまで怯えているのか、わからない。

 

「フランちゃん、落ち着いて息を吸え。ゆっくりと……」

 

「やめて、お願いっ……。殺さ、殺さないで……っ。なんでも、なんでもしますっ……お願……ぃ。た、すけ……」

 

俺が抱き上げたままフランちゃんは身を守るように丸まって、殺さないでと請願し続けた。力ない声で救いを求めて、やがて脱力した。腕がだらりと垂らされる。

 

「おい、フランちゃん!おい!」

 

いきなり気を失ったので心配だったが、脈もしっかりとあるし、さっきのパニック状態の時よりも呼吸は安定している。心配なことは心配だが、とりあえず命に別状はない。

 

「『殺さないで』『助けて』……そういえば、フランちゃんも最初……」

 

先程までのフランちゃんは、大広間で出会ったばかりの彼女の精神状態と似ていた。そう感じて、思い出す。大広間でゴーレムから引きずり出したフランちゃんも、呟いていたのだ。あの時はミッド語ではなかったのですぐに理解できなかったが、読み方を勉強した今ならわかる。

 

殺さないで(トゥーテミッヒニヒト)

 

助けて(ヒーフミア)

 

ベルカ語で、大広間の時も同じことを呟いていた。

 

殺さないで。助けて。

 

実際に殺人を犯した者が、気が動転している窮地の際で真に迫って、そんなことを呟くだろうか。

 

俺は、そうは思わない。これが自分への疑いを他へと逸らすためのフランちゃんの演技とは、思いたくない。

 

殺さないで。助けて。

 

そう嘆願したということは、そう嘆願しなければいけない相手がいたということだ。

 

つまりは。

 

「……誰か、他にいた……」

 

フランちゃんではない誰かが、この国を殺したのだ。

 

第三者が存在した。

 



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確固たる証拠

巨大かたつむりの殻を置いていた小道から、気を失ったフランちゃんを抱いてみんなのいる小部屋まで戻ってきた。

 

部屋にいたのは長い足を組んで本を読むランちゃんだけだ。その姿はまるで小洒落た喫茶店のオープンテラスで柔らかな日差しの下読書に興じているかのような優雅さで、実に様になっている。ここが陰気で閉塞的な土壁に囲まれた一室とは思えない。黙ってさえいれば。

 

「おかえりなさぁい。どこ行って……あらん?抱えているのはフランちゃんかしらぁ?」

 

「ああ、ちょっといろいろあってな……。フェイトやクレインくんは?」

 

「フェイトちゃんとクレインちゃんは休憩のローテーションよ。二人とも徹ちゃんが戻ってくるのを待ってるって言ってたんだから」

 

「あー……言いそう」

 

「いつ戻ってくるかもわからなかったし、徹ちゃんが戻ってきたらすぐ休むように伝えておくわぁ、って背中を押して無理やり休ませたの。私に嘘をつかせるようなことにしないでほしいところねぇ」

 

「そりゃ休むって。俺も疲れてるし」

 

空いていたベッドにフランちゃんを寝かせ、ランちゃんの近くに椅子を引いてくる。

 

「ランちゃん、本読むんだな。なに読んでんの?」

 

「『十三番目の彼女』っていうミステリーホラーで、ちょっと古い作品だけどいまだに根強い人気があるの」

 

「ミステリーホラー……それならすごい似合ってるな」

 

「あら、なんだか褒められているようには聞こえないわねぇ。お嬢ちゃんじゃあるまいし、私だって読書くらい嗜むわよぉ?」

 

「たしかにアサレアちゃんが本読んでるほうが意外かもしれないな。……そういえば、そのアサレアちゃんは?ローテーションならランちゃんとアサレアちゃんが起きる番なんじゃねえの?」

 

そう俺が尋ねると、ランちゃんはふぅ、と一つため息をついて、ふたたび文字列に目を落とした。

 

「お嬢ちゃんならまだ寝てるわぁ。のんきにね」

 

「寝てるわぁ、って起こさなくていいのか?」

 

「警戒なら私一人でもできるもの。お嬢ちゃんがいても騒がしいだけでお邪魔だし、フェイトちゃんとクレインちゃんもゆっくり休めるし、私はこうして一人でじっくり本も読めるし、全員にとって好都合よぉ」

 

「はは、優しいな」

 

「あら、私の株上がっちゃったかしらん?そうでしょう、仲間思いでしょう。全部本音なのだけれどねぇ」

 

「本音なのかよ。……まあ、アサレアちゃんに聞かせるのもどうかと思う内容だからな。俺にとっても都合がよかった。ちょっと相談しときたかったんだ……フランちゃんのことを」

 

「徹ちゃんのお顔を見る限り……あまり楽しくなさそうなお話になりそうねぇ?」

 

ランちゃんは開いているページに栞を挟んで、ぱたんと本を閉じた。

 

あまりにも血なまぐさい話なのでそうそう語りたくはない内容だが、せめてランちゃんには伝えておいたほうがいいだろう。俺がその場にいない時、みんなの指揮を執ってもらわないといけない。

 

それに、客観的な意見も聞きたかったのだ。

 

ブックカバーに包まれた文庫本をテーブルに置き、俺に身体の向きを合わせたランちゃんに伝えた。

 

上層で見つけた物、別行動になって入った小部屋に置かれていた絵本。俺が単独で動いて発見したもの。巨大かたつむりの殻を置いた小道でのフランちゃんの言動。すべて俺が見て、触れて、聞いた事実のみ。俺の想像や推測は一切省いた。

 

「……先に言っちゃうと、きっと私も徹ちゃんと同じような考えでしかないわ」

 

俺が話し終えて、頭の中で整理するようにしばし口を噤んでいたランちゃんはそう切り出した。

 

「疑わしいし怪しいけれど、証拠は状況だけ。確証はないわ」

 

「……その通りだ」

 

あくまで間接的な証拠でしかない。俺もそれをずっと考えていて、そのせいでずっと悩んでいた。犯人を特定するには、当事者の証言か、もしくは推認できるだけの確度の高い情報が必要だ。

 

現時点で、それだけの情報はない。

 

つまりは、今の段階で誰が犯人だと決めつけることはできない。やはりランちゃんも、俺と同じ結論だったか。

 

「それに記憶をなくしたみたいなフランちゃんの発言も考察してみないと。『助けて』とそう言ったのなら、まったく別の線も……フランちゃん以外の存在の可能性もあるわ」

 

「そうなんだよなあ……。仮に、あくまで仮になんだけど……フランちゃんがやったって考えても、不可解な点は残ってる」

 

「どれだけかはわからないけれど、数十人規模の人数を殺めることがフランちゃん単独でできるとは思えないってところよねぇ……。確実に抵抗されるでしょうし、フランちゃん自身もただじゃすまないでしょうし、なにより動機もわからないもの。大量殺戮しておいて、未だにこの鉱山にい続ける精神性も理解できない」

 

「そう。……でも、フランちゃんじゃない第三者がやったって考えるのも現実的じゃない」

 

「獰猛な魔法生物の目をかいくぐって鉱山に侵入し、迷路のような坑道を魔力を奪われながら大広間まで踏破して、なおかつ住民を殺害する。いったいどれだけの魔導師がそんなことできるのかしらね。『海』にもそうそういるとは思えないのだけれどねぇ」

 

「それに第三者がいたのだとしたら、フランちゃんだけ生き残れたってのも筋が通らない」

 

「そうねぇ。その第三者が女子どもを殺さないなんていう考えを持っていたのだとしても、フランちゃん以外にも女性や子どもはいたでしょうしフランちゃんだけを殺さない理由は見当たらないわ。普通なら、事件の発生が露見しないようにフランちゃんを含めて全員口封じするところよねぇ」

 

「なにより……フランちゃんがやったなんて感情的に認めたくない……」

 

「……私も、あのフランちゃんがまさかって思うもの。仲良くなった徹ちゃんなら特にでしょう。……まぁ、あれよぉ。なににしたところで、情報が乏しい現状下で決めつけるのは尚早(しょうそう)よ」

 

「俺も同意見なんだけどさ……でもこの限られた空間で、しかも事情を聞けそうな人物はフランちゃん一人だけ。探し回った結果見つけられた情報がさっき言ったあれだけなんだぜ。そう簡単にみっけらんねぇよ」

 

「そうでしょうねぇ。正直、この短時間で情報収集できていたのに驚いたくらいだけれど。もしかしたら今回は持久戦になるかもしれないわねぇ。幸い、寝る場所も飲み水も、一応食べ物もフランちゃんが提供してくれるわぁ。一、二週間くらいは大丈夫でしょうねぇ」

 

「その場合俺が大丈夫じゃねえよ。学校どうしてくれんだ」

 

「踏ん切りつくんじゃなぁい?この際、すっぱりと学校なんてやめちゃって嘱託魔導師でやっていけばいいの。よっぽど活躍できるわぁ。その時はユーノちゃんも誘って一緒に組みましょ?」

 

「なんかちょっとそれも楽しそうだなって思っちゃたけどだめなんだって。姉に学校は卒業してくれって言われてんだから」

 

「あら、そう?残念ねぇ」

 

どこまで本気なのかわからないが、ランちゃんは頬に手をあててくすくすと笑った。

 

「…………」

 

不意にランちゃんの視線が俺を外れて、テーブルに置かれた文庫本へと注がれる。何か言いたげに口を開くが、躊躇いがちに閉ざされた。言い淀むなど、彼にしては珍しい仕草である。

 

「どうした?」

 

「……いいえ、べつに……もしかしたらと、思ったのだけれど……ちょっと荒唐無稽ねぇ」

 

「いいよ。なんか感じたんなら話してくれ」

 

再び口ごもってから、ランちゃんは切り出した。

 

「この本ね、ミステリーホラーって言ったけれど、主要人物に多重人格の子がいるのよ。本の中で紹介されていた症状、と呼んでいいかはわからないけれど、その症状が……さっき徹ちゃんが言ってたフランちゃんの言動と重なるというか……」

 

「多重人格……。フランちゃんが……」

 

「きっとついさっきまでこの小説を読んでいたせいね。バーナム効果みたいなものかしら。あんまり本気にしないでねぇ」

 

「いや……絶対に関係ないって決まったわけでもないんだ。よかったらどういったものなのか教えてくれ」

 

「え?ええ、いいけれど。といっても、私もさほど詳しいわけじゃなくて、この本で書かれていたこと程度しか知らないわよぉ?」

 

「それでもいい。それでもなにか手がかりになるかもしれない」

 

「それじゃあ……」

 

ランちゃんは頭の中を思い返すように目を閉じたり、記憶が不安な時には文庫本のページを遡ったりしながら、どういったものなのか概要を教えてくれた。

 

まとめると。

 

多重人格障害、解離性同一性障害とも呼ばれる、一つの身体に複数の人格を有する精神疾患。第九十七管理外世界にも存在する疾患とほぼ同一なようだ。

 

複数の人格が一つの心の中にあり、スイッチが切り替わるようにして別の人格が表層に浮上する。そのスイッチは何らかの外部からのショックで、多くの場合ストレスが引き金となる。人格が入れ替わる際は気を失うことがほとんどで、入れ替わり中は人格間で記憶の共有はない。

 

「そんな精神疾患が発生する理由は……」

 

わざわざ聞かずともわかっていた。そういった心の病気を発症する原因なんて、気分のいいものではないのが通例だ。

 

「……肉体的、精神的な激しいショック……つまりは強いストレスよ」

 

「…………」

 

自分を殺してしまうほどのストレスから、自分の心を守るための手段。防衛本能。

 

「フランちゃんが犯人ではないのだとしたら、この国の人たちを……自分以外を殺害されたことによる強烈なストレスから逃れるために人格が分裂したとしても、おかしくはないんじゃないかしら」

 

「ありえない話じゃ、ない……。あくまで一つの可能性として、だけどな……」

 

ありえない話じゃない、どころじゃない。きっとそうだ、そうに違いない、と決めつけようとする自分がいる。

 

フランちゃんが犯人じゃないと信じている。いや、信じたがっている。そう思考にバイアスがかかっていることを自覚しているのに、どうにも一歩引いて考えられない。冷静に判断できない。

 

今は正否の確認は脇に置いておいて、解離性同一性障害の疑いがあるとして保留するしかないだろう。どちらにせよ、俺もランちゃんも、精神科医でもなければ心理学者でもないのだ。診断なんてできない。断定なんて、もっとできない。

 

「ん……っ、はい!とりあえずお(しま)い!」

 

手探りの思索が暗中を空転し始めた時、ランちゃんがぱちんと柏手(かしわで)を打った。

 

まったく身構えていなかったのでちょっと驚いた。

 

「え、えっ……突然なに?」

 

「答えなんてすぐに出ないもの。この件を引きずって時間と体力を費やすのは無意味よ。だから、うじうじ考えるのお終い!」

 

どんよりした息苦しい空気を打ち払うように、明るい声色、明るい表情でランちゃんはそう言った。

 

思わずつられて俺も頬が緩む。

 

「は、はは……そうだな。どうせ考えたところで答えなんて出ないんだしな。建設的じゃねえや」

 

「そうよ。もっとゆったり考えましょ。……さて、情報共有も済んだことだし、徹ちゃんはそろそろお休みなさいな」

 

「よし、そうさせてもら……あれ?俺どこで寝ればいいんだ……」

 

この部屋で暮らしていた家族は四人家族だったのか、ベッドは四基しかなかった。

 

休憩のローテーションに入っているフェイトとクレインくんで二基、抱えてきたフランちゃんを寝かせて一基、そして幸せそうな寝顔で絶賛お寝坊中のアサレアちゃんでもう一基。

 

そんなわけで、据え置かれているベッド計四基はすべて埋まってしまっていた。

 

「ま、フェイトのベッドでもいいか」

 

「お嬢ちゃんを叩き起こしましょう。そもそもこのねぼすけさんが悪いのだからねぇ」

 

冷たいというか、とても残念な人を見る目でランちゃんはすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てるアサレアちゃんを見下ろす。

 

ランちゃんはよりにもよって肩とかじゃなく頭を引っ掴んで起こそうとしていた。家では一緒に寝ることも多いので、俺はフェイトのベッドにでも入らせてもらえばいい。そうランちゃんを止めようと肩に手を置こうとして、気づいた。

 

「ランちゃん、肩、後ろのほう破けてるぞ」

 

「あぁん、ゴーレムと戦っている時に引っかかっちゃったのよぉ」

 

恥ずかしいのか、くねくねと身をよじらせて顔に手をあてていた。自分よりも背の高い屈強な人間のそんな動きは、間近で目の当たりにするとちょっとしたホラーだ。

 

「いやいや……服が破けただけでよかったな。下手したら勢いよく引っ張られて身体ごと持ってかれるとこだっ……た……」

 

頭の中で、一つの情報(ピース)がかちりと音を立ててフレームに嵌まる。その存在と意味を主張する。

 

あとは、確固たる証拠があれば。

 

「さて、どうやってこのお嬢ちゃんを叩き起こしてあげようかしらん?」

 

アサレアちゃんの頭に伸ばされるランちゃんの手を掴む。きょとんとした顔で振り返るが、俺はそちらに意識を割けなかった。

 

脳内を駆け巡ってとどまらない一つの可能性についての検証で、それどころじゃない。

 

「……まだ起こさなくていい。ちょっと確認したいことができた。俺が戻ってきて、まだアサレアちゃんが眠ってたらその時に起こせばいい」

 

「その確認は、せめて身体を休めてからでもいいんじゃないかしらぁ?いったいどれだけ働くつもりなのよ、徹ちゃん」

 

「いいんだ、気になって眠れそうにないから。こっちのことは任せた」

 

「はぁ……。そこまで言うのなら無理に引き留めはしないけれど……でも適度なところで休むのよ?あとできるならフェイトちゃんが起きる前に戻ってきてほしいわぁ。徹ちゃんを休ませるってフェイトちゃんと約束しちゃってるんだもの」

 

「わかってるって。俺も休みたい気持ちは一応あるんだ。探し終わったらすぐに戻ってくるから」

 

 

 

 

 

 

ランちゃんの『休憩してから調べれば?』という甘い誘惑を振り切って、俺はまた大広間に戻ってきた。

 

目的は二つ。これまでに出てきた物の再確認と、俺の推測を裏付ける証拠の再調査だ。

 

目的の一つの『再確認』についてはすぐに済んだ。

 

やはり、犯人はフランちゃんじゃない。

 

その推論は俺のささくれ立った精神を若干でも和らげる効果があった。

 

しかし問題は、もう一方の『再調査』のほうだった。

 

「……はあ。くそ、見つかんねえ……」

 

犯人はフランちゃんではなかった。なら他の誰かがやったということになるが、その証明ができない。俺が求めているもう一つの、第三者がいたという痕跡が見つからない。

 

住人を殺したのはフランちゃんではない第三者だったとして、ならばどうやってこれだけの数の遺体を埋められたのか。浅くはない、しっかりと隠れるほど埋めようとすれば、労力はかなりのものになる。しかもその第三者が隠蔽しようとする理由もわからない。

 

大広間の痕跡から、まず間違いなくフランちゃんのゴーレムが使われているはずなのだ。

 

探せど探せど、見つからない。探し始める前から、というか推測を立てた時から見つかる確率はだいぶ低いだろうと覚悟していたが、二時間近く忠犬の如く土を掘り返しても出てこない。

 

こうして一所懸命に捜索しても、下手をすればそもそも存在しない可能性だって充分にありえるのだ。と、考えて、すぐに弱気で後ろ向きな思考を絞め殺す。諦めるための言い訳を作る時間なんてまるで意味がない。

 

「……疲れた」

 

どうにかして自分を奮い立たせようとするが、さすがに疲労困憊だ。捜索は継続するが、せめてランちゃんの勧め通り休憩してからにすればよかった。

 

小休憩がてら、畑に()っているフランちゃんに貰ったものと同じ果物を拝借する。甘酸っぱい果汁が、疲れた体に染み渡る。

 

一休みしつつ、とある方向に目をやる。大広間の端のほう、ランちゃんとクレインくんが通ってきた坑道がある。ゴーレムと戦っていた場所だ。

 

その付近には大きな穴ぼこと、大きな土の山。ゴーレムを作り出した時の穴と、ゴーレムを解除した時の土の山だ。

 

そこから少々中央寄りに、地雷でも爆発させたように撹拌された地面が二十メートル近く延びている。フランちゃんが俺を圧し潰そうと巨大なゴーレムの腕を部分構築して繰り出した土石流の爪痕である。

 

魔法の使用が制限されている環境下では、これ以上恐ろしい魔法もない。

 

「あっと、果汁が……。これうまいけど水分多いなあ……」

 

ぼんやりと戦いの跡を眺めながらフルーツを食べていたら、ぽたぽたと果汁が滴り落ちた。手がべたべたするのは仕方がないとして、服が汚れるのは嫌だ。服についていないだろうかと下に目線を向けた。

 

「っ……はあ。不意に出てくるとやっぱびっくりする……」

 

また骨があった。しかも一番人とわかりやすい頭蓋骨だった。

 

探すぞ、と覚悟を決めてやっている間は気を張っているので大丈夫だが、こうして気が緩んでいる時に出てこられると、さすがに背筋に寒いものが走る。

 

「ってあれ、これ……砕けて……」

 

本当に、運命の悪戯じみた偶然だった。

 

視界に入ったその頭蓋骨は、頭のてっぺんから硬く重たい物で押し潰されたように一部が砕けていた。

 

他とは明らかに違う殺害方法だ。

 

「っ、やっと…………」

 

畑で()いだ果物を一気に口に放り込み、無心で頭蓋骨の近くを素手で掘り出す。

 

地面が撹拌されたようにぐちゃぐちゃになっていて、おかげで地面は柔らかく掘りやすいがどうやら頭蓋骨から下の骨は周囲に散乱してしまっているようだ。それでも犬っころ顔負けに地道に周辺を探る。

 

「…………」

 

どれだけ時間が過ぎただろう。骨を掘り出すという行為に心が拒否反応を示さないくらい神経が麻痺し始めた頃だ。

 

「っ、見つけた……っ!」

 

ようやく、ようやく見つけた。

 

先に見つけた頭蓋骨、そこから下の部分。

 

死者が着ていた衣服と、手付近の骨。

 

服には血痕はあっても焼け焦げた跡はない。

 

指の骨には見覚えのある金属質の輪っか。

 

この国にいたはずの第三者の証拠どころのものじゃない。発見したものはもっとわかりやすく、特定できるに足る物品だ。

 

「やっぱり……フランちゃんじゃなかった。でも……これは……」

 

出土した指輪を手に取る。

 

その趣味の悪い指輪を握り締め、我慢できずに悔しくやるせない思いが口から溢れ出す。

 

「ああ……やっぱり、こうなるんだな……」

 

ここまで独立した一つの点でしかなかったピースが、明らかな意味を持ってその存在を誇示する。

 

 

 

この世界の在り方。

 

生き物の習性。

 

鉱山の性質。

 

光る石と魔力を吸収する金属。

 

絵本の内容。

 

オンタデンバーグという国の国民性。

 

フランちゃんの精神状態。

 

『十三番目の彼女』。

 

埋められた遺体。

 

 

 

「わかったところで、今更……」

 

点と点が繋がり、線になり、一つの結末を描いていく。

 

描かれた結末は、やはりくそったれなものだけれど。

 



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救いのない運命

偶然とはいえ発見できた証拠と、この鉱山で起きたのだろう惨劇の推論を携えて、数時間ぶりに小部屋に戻る。

 

「…………」

 

あまり気分は乗らないし、口は重みを増す。

 

こうして仮説が立った以上、みんなにも事情を伝えなければいけない。その義務が俺にはある。あるが、結末を知ったとしてもまったくすっきりとしない。どころか気分を害するだけの話をみんなにするのは、やはり抵抗がある。

 

一つため息をついて気を取り直して、扉を開ける。

 

「戻っ……」

 

「あんた!遅いじゃない!」

 

戻ったよというセリフさえ言い切らせてくれない反応の良さで、さっそくアサレアちゃんに(とが)められた。

 

どうやらゆっくり眠って元気と体力を取り戻したらしいアサレアちゃんは、溌剌(はつらつ)として目を剥いた。

 

「ローテーションで休むって言ったのあんたでしょ!提案した本人が休まないってどういうことよ!」

 

「……こうなると思って、ランにも言ってたのに……」

 

「徹ちゃぁん……もうちょっと早めに戻ってきてくれていると私嬉しかったわぁ……」

 

「あー……悪い」

 

フェイトは小部屋に入ってきた俺に一瞥くれて、深い吐息をもらした。

 

フェイトのすぐ正面に、大きな身体を縮こませて珍しく元気なさげにしょぼんとしているランちゃんがいた。どうやら約束を破ってしまったことについてフェイトに怒られていたらしい。実に申し訳ない思いだが、俺としてももう少し早くに戻ってくるつもりではあったのだ。

 

「……そもそもお嬢ちゃんが起きなきゃいけない時間に起きてなかったせいで徹ちゃんがベッドを使えなかったのよぉ?諸悪の根源を辿ればお嬢ちゃんじゃない」

 

「……アサレア」

 

「なんあなっ、なによ!テスタロッサ、にら、睨まないでよ!寝過ごしちゃったのは、まあ……わたしにも責任あるけど……」

 

「『わたしにも』じゃなくて全面的にお嬢ちゃんの責任でしょ」

 

「わ、わかってるわよ!さすがに悪いと思ってるわよ!だから謝ってるじゃない!」

 

「これまで一言たりとも謝ってはいないわねぇ」

 

「寝過ごしてたんなら起こせばよかったじゃない!」

 

「アサレア……逆ギレにもほどがあるよ……」

 

「ううるうるるさいクレイン兄!そっ、それなら……ベッドが空いてなかったんならっ……わ、わたしがいたベッドで……い、一緒に……」

 

「そこだけはアサレアの言う通りだよ。徹は私のベッドで休めばよかったのに。いつも一緒に寝てるんだから」

 

「そうよね、一緒に……ってんあぁ?!あんたっ、ちょっと詳しい話聞かせなさい!」

 

「俺の喋る隙間なんて一つもなかったのになにをどう話せと……」

 

「ああ……逢坂さんすいません、うちの妹が……」

 

「いいよ、うるさ……賑やかなのがアサレアちゃんのいいところだから」

 

「ちょっとあんた!うるさいって言おうとしたでしょっ!」

 

「事実そうじゃないの。お嬢ちゃんは(しと)やかさをフェイトちゃんから学びなさいな」

 

申し訳なさそうにするクレインくんの肩を叩く。この元気が過ぎる妹を御するのはさぞ難しかろう。

 

「ていうかベッドなら一つ空いてるじゃない!わたしが寝過ごそうが起きてようが関係ないでしょ!」

 

「え?いや、ベッドは……」

 

四基あるベッドは埋まっていた。フェイト、クレインくん、アサレアちゃん、フランちゃんでちょうど四人だった。

 

そう思って、フランちゃんが寝ていたベッドを見やると、そこはもぬけの殻だった。

 

「ほら、空いてるじゃない」

 

「あ、あれ?」

 

戸惑う俺に対して、妙にどや顔のアサレアちゃんだった。仮にベッドが空いていたのだとしてもアサレアちゃんが寝過ごしたという事実は変わらないのだが、黙っておこう。

 

「徹ちゃん。フランちゃんならあっちよ」

 

ランちゃんが部屋の奥を指差した。

 

土の壁と一体化しているようでわかりづらかったが、よく見ると大きな土の塊ができていた。どことなく、ゴーレムに似ている気が。

 

「……あんなのあったっけ?」

 

「あの中にフランちゃんが入っているわぁ」

 

「え、なにそれ……どういうこと?」

 

「徹ちゃんが出て行ってそう時間が経たないくらいでフランちゃんが起きちゃってねぇ。『クーニヒは?』って聞かれたの」

 

「俺を?」

 

「そ。徹ちゃんなら席を外してるわぁって伝えると、ふらふらっと部屋の端っこに行ってゴーレムの中に入っちゃったわぁ。そのほうが落ち着くのかしら?寝袋みたいねぇ」

 

「……目覚めた時のフランちゃんって……」

 

私の知ってる(・・・・・・)フランちゃんよぉ」

 

「……そうか」

 

「……徹?」

 

「ちょっ、ちょっと……あんたたち二人でなんの話してんのよ」

 

「なにかあったんですか?」

 

気持ちのいい話でも気乗りのする話でもない。

 

だけど、話しておかなければいけないことだ。

 

勧善懲悪のわかりやすい図式だけが、俺たちの仕事ではないのだから。

 

「……フランちゃんがまだ寝てるんなら、今のうちに話しておくか……」

 

「徹ちゃん、もしかして……」

 

「ああ。情報をもとにした推察だけど、大筋はあってるはずだ。……ただ」

 

小部屋の奥にフランちゃんの寝袋がわりのゴーレムがある。聞こえるとは思えないが一応入り口に近い場所、フランちゃんから一番遠くに離れて五人、輪になる。

 

俺とランちゃんのやり取りからきな臭さは感じ取っていたようだ。フェイトも、アサレアちゃんも、クレインくんも、真剣な表情で俺を見る。

 

「……胸糞悪い話になることだけは、覚悟しといてくれ」

 

 

 

 

 

 

「ランちゃんにはもう言ってたんだけど、この鉱山の住人はもういない」

 

「いないのは知ってるわよ。……もしかして」

 

「ああ、いなくなっただけじゃない。死んでた。殺されてた」

 

「こ、殺されっ……」

 

「ってことは、もしかして……っ!」

 

勢いよくウィルキンソン兄妹が後ろを振り返る。視線の先には、壁と一体化するようにして(うずくま)っているゴーレム。その中にいる、この国唯一の生き残り。

 

クレインくんとアサレアちゃんがそう(いぶか)るのも無理はない。被疑者と呼ぶべき人物がその一人しかいないのだから。

 

俺も最初はそう考えてしまったものだが、ウィルキンソン兄妹のように振り返りもせず、まったく疑いもしていなかった者がいた。

 

「ちがうよ。フランじゃない」

 

「な、なんでよ、テスタロッサ!誰も、フラン以外にやれる人なんていないじゃない!」

 

フェイトだけは、取り乱したりせずに俺の話を聞く姿勢を保ったままだった。

 

アサレアちゃんの発言に不思議そうに首を傾げて、フェイトは口を開いた。

 

「フランが犯人なら、徹は犯人をこの部屋に置いて出て行ったりしないから」

 

「ぐっ……それは、そうだけどっ」

 

「えっと……ちゃんとした理由がある、んですよね?」

 

「もちろん。ここの鉱山の人口は、さすがに正確な人数を弾き出すことはできなかったけど十人やそこらの人数じゃない。住居の数や畑の規模、一部を掘り返して出てきた遺体の数から概算するに数十人、もしかしたら百数十人規模でいたはずだ」

 

「そんな大人数を手にかける技術も、動機もないでしょうしねぇ」

 

「発見された遺体……その骨を確認したけど、粉々に砕けたようなものはほぼなかった。着ていた服には焼け焦げたような跡があったが、射撃や砲撃を使えないフランちゃんじゃそんな跡は残らない」

 

「ゴーレムを使って攻撃すれば、人間なんて絶対に潰れちゃうわ。骨を折らずに殺めるなんて、フランちゃんからすればさらに難しいでしょうね」

 

「それじゃ誰がやったっていうのよ。もしかして、違う誰かがやったなんて言うつもり?」

 

「ああ、その通りだ」

 

頷いて、アサレアちゃんからの問いに答える。

 

大広間で拾った物をポケットから取り出して、みんなに見せる。

 

それは趣味の悪い指輪。指輪の形をした小型デバイス。みんなも見覚えはあるはずだ。

 

「『フーリガン』だ」

 

「見つけられたのね、証拠」

 

「『フーリガン』?!なんであいつらが!」

 

「ここに……どうして……」

 

「ふーりがん?徹、ふーりがんって?」

 

「フェイトは知らなかったな。『フーリガン』は前の任務で事件を引き起こした犯罪者グループの名前だ。組織としての規模は大きくないらしいんだけど、その頭領は非常に狡猾で残忍でな。頭の切れる奴で、前回は結局捕まえられなかった。厄介な奴だ」

 

聞いている話では、『フーリガン』は犯罪者組織としては大きくない。だがここまで来るとその評価は改めなければいけないだろう。時系列的にはサンドギアの街襲撃事件の方が、ここ、鉱山の国(オンタデンバーグ)虐殺より後だろうが、どちらも事件と被害者の数は大きい。投入された戦力もまた比例するだろう。

 

烏合の衆ではあるかもしれないが、かといって弱小とは既に言い切れない組織になっていることは明白だ。

 

「それじゃあ、その『フーリガン』っていうのがここに?」

 

「そうだ。……訪れた土地の住人を皆殺しにするって手口も、サンドギアの時と同じだしな」

 

「で、でも、逢坂さん……『フーリガン』では……」

 

「クレインちゃん、大丈夫よ。徹ちゃんならそれらも踏まえて答えを見つけたのでしょうからねぇ」

 

俺の推察の問題点に気づいたようにクレインくんが控えめに声を上げたが、ランちゃんが先回りで穏やかに制した。妙に信頼されているようで、ちょっと緊張する。

 

「え、ちょっと、クレイン兄なんなのよ」

 

「アサレアちゃん、クレインくんは気づいたんだ。『フーリガン』ではこの鉱山までくることができないって」

 

「……んぇ?」

 

アサレアちゃんはまだちょっとぴんとこないご様子だ。この子の脳みそはたまに度肝を抜く閃きを(もたら)すのだが、どうにも調子の波が激しい。

 

「この鉱山は、ある種の密室みたいなもんなんだ。しかも、鉱山の外と内で、二重にな」

 

「みっしつ……あ、襲ってきた魔法生物……のこと?」

 

正解か不正解か不安そうに、おそるおそるアサレアちゃんは答えた。よくできました。正解です。

 

「そうだ。飛行魔法等の移動手段を持つ俺たちですら、この鉱山に逃げ込むのがやっとだった」

 

『……………………』

 

みんなが総じて押し黙る。きっと『いやお前飛行魔法使われへんやんけ』といった内容と同じようなことをそれぞれ頭に思い浮かべているのだろう。それについて突っ込んだら俺が一方的に傷つくだけなので気付かないふりをして続ける。『飛行魔法等』の『等』に俺が含まれているんだよ。

 

「烏合の衆でしかない『フーリガン』なら、俺たちが最初に出くわしたでかい鳥どころか、猪にすら歯が立たない。轢き殺されて猪たちのおやつになるか、でかい椋鳥のご飯になるのが関の山だ。あの魔法生物たちを凌がないとこの鉱山に入ることさえ叶わない。それが外側の密室だ」

 

「内側の密室っていうのは、魔力を奪う金属とゴーレムのことねぇ。ゴーレムに襲われて鉱山の中を逃げ惑っている間に魔力を吸い上げられて、鉱山の肥料になるのがオチね」

 

「うん、うん……うん?それなら、やっぱりここまでくるの無理じゃないの。あんなくそみたいな連中じゃ、全滅必至でしょ」

 

「ちょっとアサレアちゃんのお口が悪いけど……ま、順当な評価だな。だが、ここに落とし穴があった」

 

「落とし穴?」

 

「鉱山の外では獰猛な魔法生物に追われ、鉱山の中では魔力を吸い取られながらゴーレムに追われた。これはあくまで俺たちが体験したケースであって、全員に当て嵌まるわけじゃなかった。クレインくんと喋ってて気づいたことだ」

 

「クレイン兄と?」

 

名前のあがったクレインくんにみんなの視線が集まった。

 

少々居心地悪そうにしながら、クレインくんが口を開く。

 

「もしかして、ここの生き物は本来は穏やかな気性をしているっていう……」

 

「そう、その話だ。クレインくんによると、ここの生き物は俺たちが見たように獰猛じゃないらしい。本来は、な」

 

「どうして獰猛になっちゃったのかしらぁ?」

 

「フランちゃんが言ってたこと、ランちゃんは聞いたか?最近はかたつむりの数が増えてるって」

 

「そういえばそんなことも言ってたような、気がするような?」

 

「ランは見たよね、大きなかたつむり。あのかたつむりが草食動物のご飯を奪ったせいで草食動物が減って、そのせいで肉食動物のご飯が減った……って徹が言ってた」

 

「よく覚えてたな、フェイト」

 

代わりに説明してくれたフェイトの頭を撫でる。

 

するとわかりやすいくらいにアサレアちゃんの眉根が寄った。

 

「そのかたつむりがなんなのよ!なんか関係があるの!?」

 

「フランちゃんが寝てるんだから静かに、アサレアちゃん。大事なのは、かたつむりが増えたせいで、外の生き物が凶暴になったってことだ。なら、なぜかたつむりが増えたのか?」

 

「……え?えっと、この山の居心地が良かった、から?」

 

「…………」

 

予想の斜め上の解答に、思わず絶句してしまった。

 

はぁ、とランちゃんは大きなため息をついて、呆れたような目をアサレアちゃんに向ける。

 

「現場にいなかったお嬢ちゃんじゃ実感がわかないのかもしれないけれど……ここまで説明されておいて、ねぇ……。この山で暮らしているのがフランちゃんだけになって、これまで均衡の取れていたかたつむりの繁殖と退治のバランスが狂い始めたのよ」

 

「うぐっ……わ、わたしもわかってたし……」

 

「俺もそう考えた。フランちゃん一人だけではかたつむり退治が間に合わなくなっていた。逆に言えば、この山の住人が生きていた頃にはかたつむりの退治は間に合っていたんだ」

 

「うん……あれ?ってことは……」

 

ちょっと照準がずれることがあるが、基本的にはアサレアちゃんは賢いらしいのだ。ならばもう、気づいたのだろう。

 

アサレアちゃんに一つ頷いて、続ける。

 

「『フーリガン』がこの山に入って住人を皆殺しにするまでは、かたつむりは異常繁殖してなくて、生態系のバランスは保たれていて、生き物たちは獰猛じゃなかった。フーリガンはこの鉱山まで、俺たちほど苦労することなく来ることができたんだ」

 

「まさか『フーリガン』の連中も、それで密室状態を形成することになるなんて思いもしなかったでしょうねぇ……」

 

「奴らからしたらただの偶然だろうな。なにも考えず、ただ目的以外の物を壊して殺すだけだから」

 

「でも徹。魔法生物もお腹を空かせていれば人を襲うこともあるってことだよね?私たちの時みたいにたくさん襲ってはこなくても、ちょっとくらいは寄ってくるんじゃないかな?」

 

「あるだろうけど、おそらく問題ないレベルだ」

 

「なんでそう言い切れるんですか?」

 

「俺が今回の任務を受ける時、上司に教えられたんだ。何回か『陸』の部隊が調査しようとここを訪れたって」

 

「ええ、そうだったわねぇ。『陸』の魔導師だと話にならないからって嘱託にお仕事が回ってきたんだものねぇ」

 

「この世界の情報や鉱山の位置を教えてくれなかったのよね……今思い出しても腹が立つわ!」

 

「情報を共有してくれなかったってのはひとまず置いといてくれ。その時俺の上司が一緒に言ってたんだ。『陸』の魔導師たちが現場に突入するも『山の中で正体不明の物体から襲われた』ってな」

 

「『正体不明の物体』……あ、フランさんのゴーレムですか?」

 

「ほかに思い当たるものがないから、そうだと俺は思ってる」

 

「……だから?」

 

「……そう。ここで『陸』の魔導師さんたち?がゴーレムを見ているってことは、鉱山まではこれたってこと、だよね、徹?」

 

「なるほどねぇ……。『陸』の魔導師が来れたのなら、大して程度の変わらない『フーリガン』の連中も来れるでしょうねぇ」

 

「んぐぐっ……み、密室の一つが解けたのはわかったけど、もう一つ……内側の密室はどうなのよ!わたしたちがいるあたりは大丈夫だけど、鉱山の上のほうは魔力を吸い取られるんだから!あんなところでゴーレムと戦えばお手軽にミイラのできあがりだわ!この国の人に近道でも案内されない限り、あのくそ連中じゃゴーレムと戦わなくても辿り着けないわよ!」

 

自分だけわからなかったからか、アサレアちゃんは若干へそを曲げたように早口でまくし立てた。

 

「これについては……今ひとつ根拠が希薄なんだよな」

 

「あらぁ……徹ちゃんでもわからなかったの?」

 

「当事者がいない以上、想像するしかないんだ」

 

「でも逢坂さん。希薄でも一応根拠があるんですよね?」

 

「まあ……一応は、な。結果論だけど。あとは国民性、かな」

 

「どういうことよ、結果論と国民性って」

 

「上の層から落っこちて別行動した時、一休みした部屋があっただろ?あそこにあった本や資料、あれから推察するにこの国は外部からの人間を拒絶するような排他的な人々じゃないんだなって、俺は考えたんだ」

 

「……え?」

 

排他的ではない。そう口にして、程度の差はあれどみんな驚いた。

 

驚くのも無理はない。なんせ俺たちは、忠告も警告も宣戦布告もなく、問答無用でゴーレムに襲われたのだし。

 

「……あんたは殴りかかられても潰されそうになっても排他的じゃないって、そんなことを本気で思ってるわけ?」

 

「言いたいことも気持ちもわかるけど、まあ聞いてくれ。排他的じゃないっていうのは、『フーリガン』がこの鉱山を襲撃する前だ」

 

「ずっとこの山で住んでいるのなら、外部の人間には優しくなさそうだけれどねぇ……なんというか、閉鎖的なイメージかしら?」

 

イメージというよりも、先入観に近い感覚かもしれない。実際、外界との関係を閉ざして鎖国しているようにも見える。

 

ただ、この国の住人たちの場合、自主的な意思で国を閉ざしているわけではない。魔法生物と鉱山の性質によって、外との交流が非常に困難になってしまっているだけなのだ。

 

本来の国民性は、俺たちが抱くイメージとは違うように思う。

 

「休憩小屋みたいな部屋にあった絵本では、オンタデンバーグの人たちは違う世界からこの世界の、この鉱山に移り住んだ。……いや、他国からの侵略って脅威から逃げ延びてきた。同じように、外で跋扈(ばっこ)する魔法生物の脅威から逃げて鉱山に入ってきた人間に対して、友好的で融和的だったんじゃないか?」

 

「そう考えることもできるかもしれないけれど、ちょっと都合よく捉えすぎじゃないかしら?」

 

「いや、そうでもない。部屋には絵本の他に紙が束ねられた書類もあった。この鉱山で掘り出された鉱物の数や種類。その他に、輸出入が記された帳簿みたいなものもあった。他国か他世界か、少なくとも外部との交易はあったんだ。外部と交易するだけの友好的な姿勢があったんだ」

 

「思えば、そうですよね……。この鉱山の中では布や紙だって作るのは難しいです。それなら……よそから譲ってもらうしかないですよね」

 

「そうだ。しかも、おそらくこの国の公用語は比較的近代のベルカ語。でも書類の中には古いミッドチルダの言葉もあった。言語が違っても交流して交易するくらい、に、は……」

 

ふと、フランちゃんの振る舞いが脳裏をよぎった。俺たちに対して友好的なフランちゃんと、敵愾心(てきがいしん)を剥き出しに襲ってきたフランちゃん。状況が判明しつつある今、その言動の不可解さが浮き彫りになっていく。

 

違和感の正体の尾が、頭を掠めた気がした。

 

「どうしたの?徹?」

 

「……いや、なんでもない。あー、つまり、この国の人は外部の人間に対して寛容的だった。言語の違う外部の人間と交易をするくらいには、な。そのせいで、鉱山に入ってきた『フーリガン』を、大広間まで案内してしまったんだと思う」

 

「案内……。こうやって聞いてるとあんたが言うような展開になりそうな気もするけど……」

 

「そんなに事がうまく運ぶのかって思ってる?」

 

「う、うん……だって……」

 

「それがさっき言ってた結果論だ」

 

「結果論……ちょっとよく……」

 

「『フーリガン』じゃ、ゴーレムと坑道で戦っても勝負にならない。それくらい上手いこと状況が転んで、魔法が阻害されない大広間まで案内されない限り、奴らがこの国の人たちを一方的に虐殺なんてできないんだよ」

 

『フーリガン』には、冷酷にして怜悧(れいり)で残忍な頭領がいる。人を人とも思わないような、己の利益のみを優先する狂気に近い思考をした悪魔が。敵だろうが民間人だろうが、なんなら味方だろうと邪魔になれば切り捨てる。

 

その恐るべき頭領が自らこのような僻地(へきち)に足を運ぶとは思えないが、もしそいつがきていたのだとしたら甘言を弄して住人に取り込むことは難しくないだろう。

 

「……あれ?」

 

鈴を転がすような可憐な声で呟いて、フェイトは金色の髪を揺らしながら疑問符を頭上に浮かべる。

 

「どうした?」

 

「さっき徹、言ってたよね。『フーリガン』は皆殺しにするって」

 

「…………そう、だな」

 

薄いピンク色の唇が『皆殺し』などという剣呑な言葉を口にしているところを見ると、フェイトの情操教育上すごくいけない話をしてしまった気がしてくる。

 

口ごもりながら答える俺を特段気にした様子もなく、フェイトは続ける。

 

「なら、どうしてフランは生き延びれたの?」

 

「そうだ……『フーリガン』は年齢も性別も関係なく、命を奪います。フランさん一人を見逃す理由はないはずです」

 

「そう、よね……。あいつら、女とか子どもとかお年寄りとか、そんなの気にしないで、全員……」

 

全員殺す。その一文は、アサレアちゃんの口からは聞かれなかった。あの街で繰り広げられた惨劇を思い出したのだろう。容易く言葉で表現してしまうのを避けた。

 

「俺もずっと考えてたんだ。優しさなんて欠片もない、たぶん優しさなんて言葉の意味すら知らねえ奴らが、なんでフランちゃんだけ見逃したのか。その理由は、今わかった」

 

「今、ですか?」

 

「フランちゃんは寝る時ですらゴーレムの中に入ってる。なんでベッドを使わないのか、ゴーレムの中のほうが寝心地がいいのか落ち着くのか知らないけど」

 

「そういえば、歩く時もゴーレム使ってたよね。そのせいでびっくりするほどフラン自身の体力はなかったけど」

 

「ほぼ全ての時間ゴーレムの中で生活していたおかげで『フーリガン』に見つからなかった、のかしら?この鉱山の中、たった一人で生き残ることが幸運と呼べるかどうかは……微妙なところだけれど……」

 

ランちゃんは腕を組み、フランちゃんを見やる。その目は憐憫か、同情か。不遇にして救いのない運命を悲しむ瞳だった。

 

「ッ…………」

 

(はらわた)が煮えくり返りそうになる。思わず身体の外に飛び出てしまいそうになる熱く黒い激情を、唇を噛んでどうにか押し留める。

 

ジュリエッタちゃんのいたサンドギアの街、そしてここ、フランちゃんが生活していた国、オンタデンバーグ。俺たちが実際に遭遇した事件だけでも二つも発生していて、実際に目撃した被害者だけでも百を超える。あまりにも理不尽で、あまりにも不条理だ。ただ平穏に暮らしていた人々が『フーリガン』に傷つけられ、殺められていい理屈など、どこにもないのに。

 

いずれ尻尾を掴み、必ず罪を立証し、必ず厳しい罰を与えなければならない。奴らに対する憎悪と忌避感は膨れ募るばかりだが、今どうにかできるわけではない。

 

かくもとりあえず、この鉱山で行われた事件は『フーリガン』の仕業であることを解明できたんだ。今はそれでいい。前回のように指示書や報告書などは持っていなかったので、この国に何を目的として訪れたのかまでは判明することができなかったが、それもとりあえずいい。

 

今は奴らのことはどうでもいい。

 

最優先はフランちゃんだ。

 

フランちゃんは被害者だった。

 

親や親戚や友人を、一瞬で、全て失った被害者。そんな少女をこの土地に一人残すわけにもいかないだろう。非常時に助けてくれる人も、菜園を手伝ってくれる人も、言葉を交わす人すらいない山の底で、たった一人、孤独だけを(かたわ)らに(はべ)らせて生きてはいけない。

 

俺たちがこの鉱山を出る際には彼女もともに連れていかなければいけない。彼女がそれを、認めるかどうかはわからないけれど。

 

「……あれ?ね、徹。『フーリガン』っていうのはひどい犯罪者たちなんだよね?」

 

「ああ。控えめに言っても極悪人だ。間違いなく、な」

 

「なら、そんな人たちが……」

 

「ん……。んぅ……クーニヒ」

 

フェイトが俺に何かを問おうとした時、石や砂が落ちる音とともに蚊の鳴くような声が聞こえた。

 

部屋の隅、音の発生源へと視線を向ける。

 

(うずくま)っていたゴーレムの背中から、まるで蝶が銀色の羽を広げて羽化するようにフランちゃんが姿を現した。

 

土と眠気を払うように頭を二度三度振り、ゴーレムのおおよそ肩あたりを掴むと、引っ張り出すように下半身も寝袋から出てきた。

 

「フランちゃんが起きたみたいだな……。これからの話をフランちゃんにしとかないと」

 

フランちゃんの名を呼び、俺の場所を教える。

 

周りを見渡していたフランちゃんは俺の姿を認め、ふにゃりと表情を緩めた。

 

寝覚めはいいほうじゃなさそうで、多少ふらつきながら歩み寄ってくる。

 

「徹、ちょっと待って」

 

「ん?フェイト、どうした?」

 

服を引かれて振り返る。フェイトが指先で俺の服をつまんでいた。

 

なぜか、フランちゃんからは見えない位置で。

 

「ここの人たちを殺したのが『フーリガン』ってことはわかったけど、埋めたのは?すごく悪い人たちが殺した住人たちを埋めたの?」

 

何に、誰に配慮しているのか知らないが囁くような小声で、途中で遮られた疑問を再び口にした。

 

「そ、そうよ……っ!あのくそ野郎どもは殺したら殺しっぱなし……隠しもしないし誤魔化しもしないわ!」

 

「なのにご遺体は綺麗に大広間に隠すように埋められていたということは、少なからずフランさんが関わっているということでは……」

 

「フランちゃんが『フーリガン』のことを一言も口にせず、教えてくれなかったことには、どうにも納得できないわねぇ。住民がいなくなったと嘘をついていたこともわからないし……」

 

フェイトを呼び水に、みんなも残された不可解な点を口々に指摘する。近くにいる人にしか聞こえないように、フランちゃんには聞こえないように、声のボリュームを絞っていた。

 

「……それは、たぶんすぐにわかることだ」

 

答えに満たない答えを返し、寝ぼけながらゆっくり歩いてきたフランちゃんに身体を向ける。

 

「グーテンモルゲン、クーニヒ」

 

「おはよう、フランちゃん」

 

「ヤー、お、はよう」

 

長い前髪の隙間から柔和な笑顔を覗かせる。

 

かたつむりの殻を置いている小道で俺にゴーレムをけしかけてきた時とはまるで様子が違う。

 

フランちゃんに潜んでいる一つの可能性を胸に秘めながら、俺は(かが)んでフランちゃんと目線を合わせる。

 

「なあ、フランちゃん。外への道、教えてくれるか?」

 

「そと……みち……。ヴァゴムニヒト?」

 

『どうして?』と訊ねるフランちゃんの口元は笑みを(かたど)っていたが、その双眸は鋭さを含み、まっすぐ俺の真意を問い質すように射抜いて離さなかった。

 

剣呑な気配に息を呑む俺の肩を、誰かが掴んだ。いつもの緩い雰囲気を取っ払ったランちゃんだった。

 

「徹ちゃん、ちょっと性急すぎないかしら?もう少しゆっくりとでもいいと思うわよ。……あまり、刺激しすぎても……」

 

「いや、今話すべきだ。昨日からフランちゃんと接していてわかったんだ。時間をかけても、遠回りをしても、この件はどうしようもない。他にやりようがない。現実から目を背けているだけじゃ、前に進めないんだ」

 

「そう……そうね」

 

短い沈黙の後、ランちゃんは理解を示してくれた。俺の肩から手を離す。

 

俺としても(こじ)れてしまうのではないかという不安はある。それでも、意を決して彼女と向き合う。

 

フランちゃんと本音で話して、現実を突きつけて、それで事態が好転する確証はない。

 

でも、このままではみんな幸せになれないことだけはわかるんだ。

 

「フランちゃん、俺たちはここに、この鉱山に仕事でやってきたんだ」

 

「…………」

 

「見せてくれたよな、アブゾプタル。あれを調べにきたんだ」

 

「ちがう。クーニヒ……」

 

「俺はここの国の王様じゃないんだよ」

 

「ちがうっ!イッヒホッフェニヒト!マインクーニヒ!マインアインズィガクーニヒ!」

 

取り乱したフランちゃんが、俺の胸ぐらを掴んで叫ぶ。必死に、懸命に、まるで自分に言い聞かせるように、大声を張り上げる。

 

俺の服を力一杯、固く握り締めている小さな手を、包み込むように握る。せめて話ができるくらいには落ち着いてもらえるように。

 

「……聞いてくれ。君は知ってるはずだ、フランちゃん。この国の人がどこに言ったのか……どうなったのか」

 

「みんな、みんな……っ!」

 

まるで堪え難い頭痛に苦しむように、フランちゃんは眉根を寄せて片目を(つぶ)る。

 

「みんな、どこか……いった。っ……いなく、なった……っ!」

 

「いなくなったんじゃない、そうじゃないだろ。知ってるはずだ」

 

「っ!……し、らないっ!ワタシ、は……っ、わたし(・・・)はっ!」

 

ここから先は、俺の推測でしかない。正しいかどうかの保証はないし、仮に俺の推測が正しいのだとしても、それをフランちゃんに突きつけることまでもが正しいこととは思えない。

 

だがもう、彼女を説得することしか俺には思いつかないのだ。

 

現状の問題と向き合うために、これからの未来を歩み始めるために、フランちゃんには今の危うさを理解してもらわないといけない。

 

だからこそ、後戻りできない道へと一歩、踏み出す。

 

「ゴーレムを使ってみんなの遺体を埋葬した君なら……知っているはずだ」

 

「うっ、うぅぐぅぅっ……」

 

ついに俺の服から手を外し、両手で自らの頭を抱えた。辛そうに、苦しそうに、荒く息をついてうずくまる。

 

思わず、その小さな身体を抱きしめてしまいそうになる。慰めの言葉をかけてしまいそうになる。

 

だがこれは、こればかりは彼女自身が受け止めなければならないのだ。逃げて目を背けたとしても、現実は変わらない。『フーリガン』に国をめちゃくちゃにされた事実は変わらない。この重荷ばかりは、俺が代わりに背負うことはできない。

 

「やっぱり、フランが住んでた人たち、を……」

 

「……ああ、みんなが指摘した通り、『フーリガン』は隠蔽なんてしない。殺したら殺しっぱなしだ。埋めるとするなら、そして全員分を綺麗に埋葬できるのは……彼女しかいない」

 

「でもフランさんは自分が埋めたことも、襲ってきた『フーリガン』のことも、それどころか住民が亡くなったことさえ忘れて……いえ、まるで知らなかったかのようでしたが……」

 

「っ、もしかして徹ちゃん、フランちゃんは本当に?」

 

「……俺も信じられないのが正直なところだけど、そうとしか考えられない」

 

「徹、それにランも……なんの話?」

 

「二人で話してたんだよ。フランちゃんは解離性同一性障害なんじゃないか、って」

 

「か、かい……り?」

 

「俗に言うところの二重人格だ。『フーリガン』にみんなを殺されたことでフランちゃんの心に大きなストレスがかかり、その精神的負荷から心を守るために、自分の命を守るために、人格が二つに分裂した」

 

「そ、んなの……ありえるの?ドラマや小説じゃあるまいし、そんな都合よく……」

 

「都合の悪い世界から自分を守るための自衛本能だ。そうでもしないと生きていけないほどの苦痛が、言葉通りに心を引き裂かれるほどの地獄が……ここにはあったんだろ」

 

ふと、自分に置き換えて想像してしまった。

 

眠りから覚めてベッドを出ると、これまで何事もなく平穏で幸せだった世界が、自分の力では抗えないほどに壊されていたら。姉ちゃんが、フェイトが、アリシアが、アルフが、血にまみれて冷たくなっていたとしたら。なのはや恭也やすずかや忍やアリサや鮫島さんや彩葉ちゃんや鷹島さんや長谷部や太刀峰が殺されていたとしたら。家族親戚親友友人知人隣人顔見知りに至るまで、自分を取り巻く環境が全て、取り戻せないくらい破壊されていたとしたら。

 

俺ならどうだろうかと自問した。

 

血が凍る。吐き気を催す。自分の命を絶ちたくなる。

 

愚かで考えなしの、浅はかで薄っぺらい自答だった。

 

歩けば歩くほど、探せば探すほど遺体を見つけられてしまうような、そんな環境。まともな精神でいられる自信はない。

 

フランちゃんもまともではいられなかったのだろう。ただ、迷いなく自死を選ぶ俺よりかは、どうにか生きようと(もが)いたフランちゃんのほうが、よっぽど立派な人間性をしていた。

 

「これだと……フランちゃんのは障害(・・)とは呼ばないかもしれないわねぇ」

 

「……そうだな。障害(・・)にすらならなかったのは……皮肉だ」

 

「どういうことですか?」

 

「人格が入れ替わっている間の記憶は、人格間で共有されないことが多いらしいの。違う人格で知人と接して話が通じなかったり、といったふうに日常に支障が出るから解離性同一性障害(・・)なのだそうよ。接する他人がいない以上、生活に支障はないわよねぇ」

 

「それどころかうまい具合に入れ替わって生活できてたみたいだ。元の人格がゴーレムのためのアブゾプタルを作って、二次的人格……俺たちと接してくれてた人格が生活の大半を過ごすって感じでな。二次的人格のほうはアブゾプタルがどうやって作られるか知らなかったみたいだし」

 

「なんでわたしたちと一緒にいたフランが後から生まれた人格だってわかるのよ。確かめる方法なんてないでしょ?」

 

「この国の公用語はベルカ語だったけど、外部との取引ではミッドチルダの言葉も勉強する必要があったんだ。そして、人格が引き裂かれる時、目の前に迫るストレスから逃げるために多くの場合、小さかった頃の人格をモデルとして作られるそうだ。いつものフランちゃんはベルカ語を喋っていた。ミッド語を本格的に勉強する前の幼少期のフランちゃんが、つまりは新たに作られた二次的人格のモデルなんだろう。……まあ、フランちゃんはもとからだいぶ幼いだろうけど……」

 

そこまで解ければ、他もある程度察することができる。

 

「全員を、誇張なく国民全員(・・)を殺されたフランちゃんは、悲嘆と絶望の中で住人を埋葬した。そして、致命的なまでに不安定に揺れる心の安定を図るため、新たに人格を作り出し、元の人格は暗い意識の水底へと沈んだ。新たな人格を表に浮上させ、再び生活を始めた。……いや、新たに生活を始めた。嫌な記憶全てを抱え込んで自分を殺すことで(・・・・・・・・)新たな人間として生活を始めた」

 

しかし現実的な問題があった。かたつむりという外敵が襲ってくる以上、武器が必要になる。ゴーレムの心臓部となるアブゾプタルの核だ。俺が話していた限りではおそらく、幼少期のフランちゃんはアブゾプタルを精製できなかった。

 

フランちゃんは言っていた。アブゾプタルは明日にはある、と。最初聞いた時は意味がよくわからなかったが、今なら理解できる。人格が入れ替わり、元の人格がアブゾプタルを作ってポーチの中に補充していたのだ。

 

そのため、アブゾプタルを精製するためにかたつむりの殻を保管している小道にいる時だけは、元の人格が表層に浮上してこなければならなかった。そのタイミングで、俺が声をかけてしまったのだろう。

 

「うぅ……ぅあっ、わたしはっ……っ」

 

「……どうしてフランちゃんはこんなに苦しそうに……」

 

頭を抱えてぽろぽろと涙を流すフランちゃんを、ランちゃんが悲痛そうに見つめていた。

 

「……フランちゃんの解離は不完全だったんだ。揺さぶりを与えられて、元の人格と二次的人格の記憶が混濁してるんだと思う」

 

「不完全?」

 

「思い出してくれ。上層と、大広間。どちらの戦闘も表に出てるのは二次的人格だった」

 

「……そうね。元の人格はゴーレムの核を作る以外は出てこないのでしょう?」

 

「それに大広間で徹がフランをひっぱり出した時、喋ってたのはベルカ語だった。ベルカ語を喋るほうが後から生まれた人格なんだよね?」

 

「そうだ。でも、それだと辻褄(つじつま)が合わなくなる。幼少期の人格なんだとしたら、本来寛容的な国民性をしているフランちゃんが外から逃げ込んできた俺たちを問答もなく襲うなんてことはない。そして大広間で呟いた『殺さないで(トゥーテミッヒニヒト)』『ヒーフミア(助けて)』……不都合な記憶は何一つ持っていないはずのフランちゃんからは……『フーリガン』の襲撃を知らない二次的人格のフランちゃんからは、出るはずのない言葉だ。人が殺されていた状況を見た後でないと、真っ先にそんな言葉は出てこない。……矛盾した言動の理由は、一つしかない。心の深層、奥深くでは記憶があった。解離が、人格の分裂が不完全だったことの証左だ」

 

解離性同一性障害を克服するには、作り出された二次的人格を許容し、理解し、洞察することが大事だとされている。生み出された原因である多大なるストレス、抑圧された葛藤から目を逸らさず、噛み砕いて自分の心に吞み下して、苦痛と向き合い、自身が自己分析して乗り越えなければならない。

 

であれば、俺の行為は荒療治だったのかもしれない。

 

解離が起きた原因、抱えきれないほどの精神的ストレス。オンタデンバーグという国の人々が皆殺しにされたという、フランちゃんが目を背け続けてきた事実を直接的に突きつけたのだから。

 

「……フランちゃん、この山の出口を教えてくれ。そして、できるなら君も……一緒、に……出よう」

 

もっと穏便に伝える方法があったのではと、思わず考えてしまう。嗚咽を漏らし、涙を流し、肩を震わせるフランちゃんを見て、もう遅いのにそんなことを考えてしまう。

 

どうあがいても、いずれは伝えなければいけないことだったとわかってはいても。悲痛に顔を歪ませる彼女を目の当たりにしてしまっては、判断は正しかったと自分に言い聞かせることもできない。

 

「…………捨てるの?王……」

 

「っ……」

 

言葉が出ない。

 

充血した瞳が、涙で濡れた頬が、掠れた声が、凍えるように震えて身体を抱く姿が、俺の心をじくじくと(さいな)む。

 

迷った末に、事実だけを告げる。取り繕うだけの嘘が、機嫌を(うかが)うだけの偽りが、一番酷で、悪だと思うから。

 

「……結果的には、そうなる」

 

フランちゃんはこの国の、山の下の国(オンタデンバーグ)の最後の生き残りだ。俺たちがこの国から出て行くときには、フランちゃんを保護して連れて行くことになる。そうなればまさしく、国民は一人もいなくなる。フランちゃんは国を捨てる(・・・)ことになり、民のいないこの国は滅亡することになる。

 

知り合いもおらず、帰るべき故郷も失い、どこに進めばいいかわからない。それがフランちゃんにとってどれほどの負担になるか、どれほど不安に感じているか。理解できる、なんて軽々しく言えはしない。同情すら烏滸(おこ)がましい。

 

理解も、同情も、同じ立場で同じ体験をした人間にしかできないだろう。

 

「……だめ」

 

「フラン、ちゃん……?」

 

俯きがちな彼女の表情は、長い前髪に隠されて窺い知れない。

 

ただ、声の調子が、放たれる雰囲気が、場の空気を(にわか)に変質させていく。

 

「……王、わたしの王、わたしたちの王……」

 

わずかに、フランちゃんが顔を上げる。垂れ下がる髪の隙間から、煌々と、爛々と、銀に輝く虹彩が俺を見据えていた。視線に質量が伴っているような、執念すら感じる淀んだ瞳で、俺を見つめる。

 

フランちゃんは、他者に一言すら口を挟ませずに、不気味に口角を歪ませた。

 

「……わたし『だけの』王。ふふ……だめ、行かせない」

 

行動に移すことも、戸惑いの声すら上げることも許さずに、フランちゃんは動いた。

 

薄暗かっただけの俺の周囲に暗闇の帳が下ろされる。近くにいたはずのフェイトたちの声が、俺を呼ぶ声が、どこか遠く、くぐもって聞こえた。

 

「ふふ……。ここで、ずっと……一緒」

 

完全なる黒に塗り潰された世界の中、フランちゃんの声だけがいやに鮮明に耳に届いた。



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完全体

 

一片の光も排除された暗闇の世界の中には、ふわりと柔らかい感触と甘い匂いだけがあった。フランちゃんが抱きついてきていた。

 

(なま)めかしく(よど)んだ声が、俺の耳朶(じだ)を叩く。

 

「わたしと、一緒にここで暮らそう。ここで……生きよ?」

 

低く、しかしどこか弾んだような上擦った声。フランちゃんのゴーレムの中に取り込まれたと気づいた時には、もう土の壁に覆われた後だった。出口が閉じられた後だった。

 

「ま、待てって、フランちゃん……俺は」

 

「王と……わたしだけの王と、一緒に、この国を……二人なら」

 

やはりフランちゃんは未練があったのか、国を捨てることはできなかったようだ。生まれてからずっと暮らしてきた国を出る決意なんて、そう容易く固まるものではないとは思っていたが、俺を拘束するのは想定外だった。

 

フランちゃんの願いは叶えてあげたいが、俺はここに骨を埋めるつもりはない。その願いは叶えてあげられない。

 

「っ……くそ、なんだ、これっ……」

 

とにもかくにもここから出ようともがくが、腕も足も途轍もなく重い。

 

俺の身体がずぶずぶと土の中に沈んでいく。振り払うこともできないほどに、呑み込まれていく。俺に抱きついたままのフランちゃんも一緒に、だ。

 

腕も足も土に食いつかれながら、ずずず、と緩やかな流れの川に身を任せたような妙な感覚に襲われる。

 

「う、動いて……移動してんのか!フランちゃん出してくれ!俺はここにはいられない!」

 

「王がいなくなったら、わたしはまた……。だめ。行かせない」

 

「本当に、やばいって……っ」

 

フランちゃんがどこに向かおうとしているのかわからないが、このままだと自由に身動(みじろ)ぎもできなくなる。魔法による拘束なら簡単に破壊できるが、純粋な物質的、質量的捕縛だと抵抗できない。力任せに引き千切ろうにも、くっついているフランちゃんまで傷つけてしまう。

 

逃げ出す手段を考える間にも、次第に俺とフランちゃんを覆う土の塊は移動していく。下りのエスカレーターに乗っているような、奇妙な体感。

 

どんどん深く潜っていっているのか、腕や足にかかる圧力が増していく中、毛色の異なる衝撃波が土中を伝播した。

 

どごん、どごんと腹の底に響く鳴動。

 

「残った人たちか……」

 

ぽそりとフランちゃんが呟いた。

 

爆音は断続的に発生して、ついに八回目のこと。

 

「うっぐ……耳痛え……。っ、光が……っ!」

 

これまでとは比較にならない音と衝撃。そのすぐ後、俺の後頭部を石の破片が小突いた。まだぎりぎり動かせる首を回して見てみれば、小さな穴から光が差していた。

 

「っ……」

 

暗闇を切り裂いて差し込んだ一条の光には、フランちゃんも当然気がついたようだ。

 

初めて俺から手を離し、欠落した部分を修復しようと両手を左右に広げる。

 

腕も足も土に絡め取られているが、フランちゃんが離れている今ならば力づくで動ける。この隙を逃せばもう、あとはない。多少痛かろうが、無理を押して脱出する。

 

「ぐっ、おぉっ!」

 

瞬間的に全筋肉を連動、両足に力を集約する。片足ずつではない、両足同時の襲歩。もはやこれは、足による発破に近い。

 

爆発的な推進力を以って、土の拘束を吹っ切って暗い牢から抜け出す。

 

「ぶぇっ、ぷっ、ぺっ!……あれ、ここ……大広間じゃねえか……」

 

ロケットのように土から勢いよく飛び出したせいで頭から満遍なく土を被った。口に入った砂を吐き出して周囲を見渡してみれば、太陽光に似た光が燦々と降り注ぐ大広間だった。

 

休んでいた小部屋から大広間まで近いことは近いが、まさか土の中をこれほど移動しているとは思わなかった。そしてそれ以上に、予想よりも深いところに潜っていたことに、そこはかとない恐怖を抱く。

 

「徹ちゃんっ!無事?!」

 

「ああ、なんとかな……。無理に脱出したせいで腕と足が付け根から引っこ抜けるかと思ったし、全身に土を被ったけど、(おおむ)ねなんともない。助かったよ、ランちゃん」

 

「お役に立ててなによりよ。土の中に潜られちゃった時はもう、ぞっとしちゃったけれどねぇ」

 

俺がフランちゃんに拉致された土中で聞いた雷鳴のような轟音は、ランちゃんの射撃魔法だった。

 

ランちゃんが飛んできた方向を辿ると、地面に大きなクレーターがいくつもできていた。おそらく手当たり次第にぶっ放して俺を探り出してくれたのだろう。一歩間違えれば俺ごとずどんといってしまう危うい作戦だけれども、結果的には成功したので感謝はすれど文句は言うまい。

 

「っ!徹っ!」

 

「うおっ……フェイト、危ないって」

 

「危ないのは徹のほう。……すごく心配したよ」

 

「……まあたしかに、今のもさっきのも危なかったのは俺だけど……」

 

ランちゃんがきた方角とは少しずれたところから物凄い勢いで飛来したフェイトは、ほとんど速度を殺さぬままに俺の胸に飛び込んできた。いつも楚々(そそ)として淑やかなフェイトがこうして抱きついてくるのはあまり例がない。お姉ちゃん(アリシア)のほうなら日常茶飯事なのだが。

 

どうやら残された四人はそれぞれ四方向に分かれて俺を捜索してくれていたみたいだ。すぐにアサレアちゃんとクレインくんも合流した。

 

「あいさっ……あんた!ほんとなにしてるのよ!あの子が情緒不安定だったのは見てればわかることだったじゃない!」

 

「まったくその通りだ……面目ない」

 

「事を急いたあんたにも落ち度はあるんだからね!」

 

「返す言葉もありません……」

 

「とかなんとか言っておりますが、逢坂さんが連れ去られた時は涙目でパニックになっていたんです。安心して強がりを言ってるだけですのでどうかあまり気にしないでください」

 

「うっさいわよクレイン兄!パニックにもなってない!ていうかテスタロッサ!あんたいつまでくっついてるのよ離れなさい!」

 

「お嬢ちゃん、徹ちゃんを取り戻せて嬉しいのはわかるけれど、ちょっと静かにしなさいな。今は戦闘中なのよ」

 

「わっ……かってるわよ!」

 

「そうだ……フランちゃんはどこに……っ」

 

俺が脱出した穴、その縁に小さな手がかけられた。まるで埋葬された死体が蘇り、動き出したかのような、緩慢なのに怖気のある動きでフランちゃんが這い出てきた。

 

ふらふらと揺れる身体に追従してなびく髪、精巧な銀細工のような瞳は、仄暗い憤怒の炎で熱されていた。明らかに、静かに燃え盛る敵意を示していた。

 

「取り返、さないと……」

 

一塊になっている俺たちを見据えて、両手を地面につけた。

 

いい予感などするわけがなかった。

 

「待て!待ってくれ!フランちゃん!俺は……っ!」

 

「……わかってる。あなたは、王じゃない。わたしを救いにきた王じゃない……でも、わたしに優しくしてくれた。言葉の通じないわたしと、関わろうとしてくれた。シュランクネヒトで襲いかかったわたしを許して、理解しようとしてくれた。壊れそうだったわたしを、助けてくれた。だから、それでいい。あなたがいれば、それでいい。わたしとあなた。二人でいい。ほかは、いらない」

 

「っ、この……」

 

「説得は、どうやら難しそうねぇ……」

 

あくまでも一方的、どこまでも一方的に言い放ち、言い捨てた。

 

どうにか会話を試みようとするが、その前にフランちゃんが動いた。

 

ぐぐっとフランちゃんの周囲の土が動き、盛り上がる。フランちゃんが扱える魔法はゴーレムを創り出して操作するもののみ。だが、この土の集まり方は、まずいほう(・・・・・)の使い方だ。

 

「全員飛べ!土石流がくる!」

 

ほぼ同時に、幼い子供が粘土で作ったような不恰好な手が形成される。手のようにぎりぎり見えるという程度の、部分展開されたゴーレムの巨大な手はまっすぐに俺たちへと伸びてきた。

 

鉱山全体に響き渡りそうなほどの音と振動。石飛礫(いしつぶて)と砂煙を撒き散らしながら追ってくる様は、見た目にシンプルなぶん、直撃した際のイメージも容易で余計に恐怖が沸き立つ。

 

「っ……ふ、ふんっ!じ、地面を這うだけの攻撃なんて、ちゅぃ……ちっとも怖くないわよ!」

 

宙に浮きながら、眼下を過ぎていった巨大な土の手にアサレアちゃんがそう評した。顔から血の気が引いているし声も震えているしで確実にいつもの虚勢だ。

 

割と本気で怖かったのだろうが、ただ、実際問題俺たちへの脅威にはなり得ない。

 

微々たるものとはいえ食事から魔力を補給できたのだ。坑道で魔力を根こそぎ奪われながら這々(ほうほう)(てい)で大広間に逃げ込んできた時とはわけが違う。

 

土石流じみた巨大な土の手も多少は上に持ち上げられるみたいだが、そう何メートルも高度は上がらなかった。飛行魔法を使えば、遠い相手を攻撃する手段のないフランちゃんではジリ貧だ。

 

そう考えていた。まるで浅慮だったとしか言いようがない。

 

自分でも認識していたのに。『部分展開』と。

 

「……ぜったい」

 

巨大な土の手は、俺たちに攻め込まれない為の、距離を詰められない為の牽制であり、時間稼ぎ。

 

「ぜったい、つれて行かせない……」

 

フランちゃんはポーチに手を突っ込み、中のものを引っ掴んで、見覚えのある金属を辺り構わず放り投げた。

 

卵のような形状の特殊な金属、アブゾプタル。

 

地面や壁に接したアブゾプタルを中心に土が集まっていく。

 

その様子はゴーレムを形成する時とはまったく異なる。

 

先ほどの部分展開と同規模、いや、上回る効果範囲だ。

 

「あ、アブゾプタルは使い切ってたはずなのに、どうして……っ」

 

かたつむり退治の際に、フランちゃんの持っているアブゾプタルはなくなった。ポーチの中も見せてくれた。確認もした。

 

なのに、なぜ。

 

動転した頭でふと思い返す。俺は元の人格のフランちゃんがあれを作るところを見ていた。大広間でフランちゃんと別れてから、ある程度は時間があった。その猶予で、アブゾプタルを精製していたのかもしれない。作った端から腰のポーチに入れていたのだとすれば、持っていたとしても不思議ではない。

 

「どこの道でもいい!逃げるぞ!」

 

「逃げるって……逃げてどうするのよ!出口はわかってないんでしょ?!」

 

「ここでさっきのでかい手で蠅みたいに叩き潰されるか、一か八か出口を見つけられることに賭けるか、どっちがいい?」

 

「うっ……」

 

「いかにここが広くて高さがあると言っても、逃げ回るには限界があるわぁ。……賭けましょうか」

 

「一番近い道は……あそこです!」

 

背後から聞こえる地鳴りに戦々恐々としながら、どこに繋がっているかもわからない暗い坑道を目指す。

 

「徹。私、先行して道を確認してくる」

 

「ああ、フェイト、助か……」

 

何かを忘れているような気がしていた。見落としているような感覚があった。大広間でフランちゃんのゴーレムと戦った時、俺は、何かを。

 

「フェイト!戻れ!」

 

フェイトの進行方向すぐ近く、泡立つように土が膨れ上がっていた。それは音もなく、すぐにゴーレムの形を成す。

 

大槌のような腕を、振りかぶった。

 

「くっ……」

 

襲歩でフェイトまでの距離を踏み潰す。

 

失念していた。アブゾプタルはあくまでバッテリーに近い役割でしかない。この大広間以外の場所で魔法を使おうとすれば維持することもままならないが、こと大広間に限れば魔法の展開も維持も阻害されることはない。フェイトたちが問題なく飛行魔法を使えているのと同様に、フランちゃんも魔法を使える。

 

ゴーレムに組み込まれていたアブゾプタルは、ゴーレムの創造に必要不可欠というわけではない。

 

「きゃっ……」

 

「ぃっ……こっちのタイプはやっぱ重いな……」

 

少々無理をしてフェイトのもとまで駆けつけるや片手で抱きかかえ、ゴーレムの拳を片手で防ぐ。大きな拳を受けた腕がみしみしと軋む。

 

「ちっ!」

 

腕を払って力をいなし、ゴーレムの胴体を踏み台にして坑道から再び大広間に戻る。

 

「徹、ごめんね……ありがとう」

 

「いいっての。俺も想定しておくべきだった」

 

「でも徹ならゴーレムを倒してこの道を進むことも……」

 

「いや……出遅れたみたいだ」

 

「出遅れた?どういう……」

 

「徹ちゃん!フェイトちゃん!」

 

まだ離れたところにいるランちゃんが大声で呼んだ。

 

フェイトに状況を説明する間も無く、さらに場は混沌としていく。

 

大広間に戻ろうとする俺とフェイトの背中を、強い風が押した。

 

「っ、な、なにっ?」

 

「思ったより随分と早い……」

 

風に吹き上げられた砂塵を突き抜けると、そこは数秒前よりも明確に薄暗くなっていた。

 

原因は、大広間を照らしていた光る石の結晶の覆い隠す、巨大すぎる影のせいだ。

 

「な、なっ……っ!なによこれぇっ?!」

 

アサレアちゃんじゃないが、俺もそう叫びたい気分だった。

 

野球場がまるまるすっぽり収まるほどに広大で、高さもあるドーム状の大広間。その天井すれすれにまで、巨大な影は迫っている。ちょうどゴーレムの頭部が光る石の結晶に重なってシルエットを作っていた。

 

巨大ゴーレムの腕だけを部分的に展開して土石流のような攻撃を繰り出せるのなら、その気になれば部分展開ではなく、足も胴体もついている巨大ゴーレムの完全体もできるのだろうと予想したが、ここまでのサイズは想像の埒外だ。

 

「おいおい……でかすぎだろ、いくらなんでも……」

 

以前、フェイトやアルフ、リニスさんが海鳴市で住んでいたマンションと、背丈はだいたい同じくらいだろう。こうやって首が痛くなるくらい見上げたことを覚えている。

 

この大きさと戦うなどと考えるほうが馬鹿げている。しかも満足に距離も取れない鉱山の中だ。モビルファイ◯ーを寄越せとまでは言わないから、せめてこちらにもなにかしらの兵器がないと話にならない。エス○バリスやヴァルキ○ー、いや贅沢言わない、ボ◯ルでもいいから用意してくれよ。じゃないと交渉のテーブルにもつけない。

 

そんな現実逃避に近い状態で唖然としていると、俺とフェイトがついさっきまでいた坑道から巨大ゴーレムが腕を引き抜いた。

 

俺たちが逃げないよう、先んじてフランちゃんが道を封じたのだろう。岩や石、砂がぽろぽろと降り注ぐ中、またしても巨大ゴーレムはその巨腕を持ち上げ、振り抜いた。

 

恐ろしく大きいのに、意外なほど軽やかな身のこなしだった。

 

風を切る、などという表現では足りないだろう。拳を壁に叩きつける、ただそれだけの動きで気圧にすら影響を及ぼしているかのようだ。

 

巨大な拳が叩きつけられた瞬間に走った衝撃と轟音。足元から掬おうとするような風圧。次いで、風に運ばれて全身を打ち据える、壁に等しい細かな砂礫(されき)

 

「フェイト。目、(つぶ)ってろ」

 

「徹?」

 

抱えたままだったフェイトを庇う形で、飛来する砂礫の壁を背で受ける。まだ距離のあったランちゃんたちには砂礫は届かなかったみたいだが、近くにいた俺たちにはテーマパークのウォーターアトラクションばりに浴びせかけられた。危うくフェイトの顔に傷をつけてしまうところだった。姉ちゃんにしばき回される。

 

「ちっ……。これは完璧に逃がさない気だぞ……」

 

「どういう……あ。道、が……」

 

俺たちが向かおうとしていた道は一発目で通行止めに、続いて振るわれた二発目はその隣の道だった。物の見事に落盤、封鎖されていた。

 

「道全部潰されんぞ……フェイト、牽制を」

 

「うんっ」

 

「ランちゃん!あの腕落とせないか?!」

 

「もうやってるわ!でも……あの腕あまりにも太いし予想以上に頑丈で、抉るくらいしかできないのよ!」

 

フェイトの魔力弾は巨大ゴーレムに全弾命中しているが動きを阻害するには至っていない。ランちゃんの弾丸もゴーレムの腕の中でも最も細いところを的確に狙撃するが、断つには弾の数が足りていない。

 

「……フェイト、降ろすぞ」

 

「う、うん……なにするの?」

 

「このまま好き勝手やられたら帰り道がなくなる。その前に『本体』を止めてくる。フェイトはできる限り援護してくれ」

 

「無理しちゃ……だめだよ?」

 

「ありがと、気をつける。すぐに掘り出してくるからな」

 

不安げに見上げるフェイトに、心配ないよとの気持ちを込めて頭を撫でる。心配してくれるだけで、頑張ろうとの気が奮う。ガ◯ダムがなくても、裸一貫で巨大ゴーレムに突撃するだけの勇気が湧いてくる。

 

巨大ゴーレム目掛けて駆け出す。その途中で、アサレアちゃんとクレインくんにも指示を飛ばす。

 

「フランちゃんは足音で場所を掴んでる!なるべく飛行魔法で移動、できれば撹乱(かくらん)射撃!」

 

「っ、りょ、了解です!」

 

「わ、わかっ……って、逢坂さん!なんで近づいてっ……」

 

アサレアちゃんの戸惑いの声を振り切って、巨大ゴーレムの股の間を走り抜ける。背後に回る。

 

フランちゃんの姿は見えない。つまりはこれまでと同様にゴーレムの中に入っているということだ。

 

前回の戦闘時と同じ。フランちゃんにとっての安全地帯はゴーレムの中だ。

 

あとは、この巨大なゴーレムの身体のどこに潜んでいるのか。それも大体あたりはついている。ゴーレムに入るところ、ゴーレムから出るところ、どちらも直接目にしている。

 

「でかかろうが小さかろうが、ゴーレムの背面、胸の……裏側」

 

食事以外で魔力の回復が見込めない以上、なるべく魔法は使いたくない。足場用の安い障壁すらけちって、体内の魔力循環量を増やして壁を駆け上っていく。

 

高さを稼いだところで、人間で言うところの肩甲骨の間付近に取りつく。手、指先に力を込め、巨大ゴーレムに突き刺す。

 

「っ……硬、い……」

 

通常サイズのゴーレムとは比較にならない硬度だった。マンションじみた巨体を構成するのだから強度も必要だろうが、少し、頭の端っこで少し、引っ掛かりを覚えた。

 

妙な感覚を振り払うように掘り進めるも、まるでかけらもフランちゃんに辿り着かない。厚みもあるし、胸の裏側といっても捜索範囲はかなり広い。だとしても。

 

「これは、おかしいだろうが……」

 

指先がじくじくと痛むほど掘ってもフランちゃんは見つからない。

 

「くそっ……ここじゃないとしたら、どこに……」

 

「逢坂さん!ゴーレムが!」

 

アサレアちゃんの言葉ではっとする。フランちゃんを探すのに必死で警戒を怠っていた。

 

背中についたゴミでも摘み取るような挙措で巨腕が迫る。

 

「やら、せないっ!」

 

大きな土の手が俺を捕まえる前に、金色の雷光が一閃、迸った。フェイトがバルディッシュを鎌の形態に変化させ、巨大ゴーレムの手首の切り裂いた。

 

魔力弾をちまちま当てるより、直接的な斬撃のほうが有効打を与えられると判断したのだろう。

 

事実、費用対効果は高そうだ。魔力弾では表面を浅く抉るだけだったが、鎌による斬撃は手首を三分の一ほど切り込んだ。

 

これなら、と思った頃には続けざまに輝線が走っていた。

 

フェイトが切れ込みを入れた傷口に、的確にして正確にランちゃんが弾丸を撃ち込んだ。表面でならともかく、内側で爆発されるとさすがに形を保てなかったようだ。一〜二秒ほど薄皮一枚で繋がっていたが、揺れと重みに耐えきれずに手首から先が落ちた。

 

「さんきゅ、助かった」

 

「ううん、いいよ。それより、フランは見つかった?」

 

「いや……いなかった。ここにはいなかった」

 

「それならどこに……」

 

「……フランちゃんを捜すのは一時中止して巨大ゴーレムを潰す」

 

「こ、これを……?こんな大きいの、どうやって……」

 

「方法ならある。この空間ならアブゾプタルはいらないのに、フランちゃんはわざわざ大量のアブゾプタルをばらまいていた。それはなぜだ?」

 

「……っ、必要だったんだ。……この大きさのゴーレムを作るには、自分の魔力だけじゃ足りなかった……だから」

 

「そうだ。ほかに理由なんて考えられない。魔法の発動が阻害されなくても、この巨体を動かすのは燃費が相当悪いんだ。埋め込まれたアブゾプタルを取り除いちまったら維持できずにその重量で自壊する」

 

「でも、どこに埋め込まれてるか外からじゃわからないよ?」

 

「……一応予想はつく。かなりの強度と重量を持つ土の身体でこれだけ動くなら、関節部分に負担がかかっているはずだ。きっと肘とか肩とかに……っ、フェイト離れろ!」

 

「っ……」

 

浮遊していたフェイトのすぐ近くの壁から、重力に逆らうようにゴーレムが真横から生えてきた。

 

突如出現したゴーレムにもフェイトは速やかに対応した。拳を振るわれる前に鎌を払い、ゴーレムを腹から一刀に断った。

 

一息つきたいところだが、そう悠長にもしていられなかった。

 

「なっ、なくなった腕で!」

 

フェイトに斬られ、ランちゃんに撃たれ、手首から先がなくなったはずの腕から指が生えていた。

 

いや、指だと思ったものは、断面から創り出された三体のゴーレム。上半身だけを展開された三体のゴーレムが、俺を捕まえようと腕を広げていた。

 

怖気が走る。妙に、気持ちの悪い光景だった。

 

「っ、くそっ……」

 

フランちゃんを見つけ出せない以上、いつまでも近くにいてはリスクしかない。壁から出現するゴーレムと巨大ゴーレムの動きにも注意して、一旦距離を取る。高度を下げて、フェイトとともにランちゃんたちと合流した。

 

「まずいわぁ、徹ちゃん」

 

「なんだ?これ以上悪くなるのか?もしかして……残弾が?」

 

「そっちも危ないけれど、それよりも大変なことね。見る限り、生きている坑道が巨大ゴーレムの足元の一本しか、もうないわ」

 

「……アサレア、なにしてたの?」

 

「うっさいわね!ちゃんとかく乱はやってたわよ!でも魔力の残りを気にしながらじゃいつも通りにできないの!こっちだって万全の体調じゃないだから!」

 

「虫を払うように手を振るわれただけで風圧がすごくて、まともに飛んでいられないんです……」

 

「直撃すれば一発でお陀仏だからな、安全第一でいい」

 

「安全第一、ねぇ……。巨大ゴーレムの手が届かない端っこなら安全だけれど、上下左右どこの端でも普通サイズのゴーレムは出てくるもの。あれだって、なんの対策もなしじゃ危険よ」

 

「あんなに明るかったのに急に暗くなるから悪いのよ!」

 

「暗い?薄暗いくらいだと思うよ」

 

「テスタロッサうるさい!も、物陰からいきなり出てきたりとかしたら気づきにくいの!」

 

みんなの話を聞いていて、ふと疑問が生じた。俺たちが今どうやってこの場にいるかを考えれば、すぐに、もっと早く気がついても良さそうなものだったのに。

 

「……みんな、飛行魔法使ってるよな?」

 

「は?なに言ってんの?見ればわかるじゃない。あんただけよ、使ってないの」

 

「ずっとだよな。地面に足つけたりしてないよな?」

 

「ええ。前の戦闘ほど魔力は逼迫(ひっぱく)していないもの」

 

「そうか……くそっ、油断した……思考停止してた」

 

「え?ど、どういうことですか?」

 

「フランちゃんは今回、地面の振動で俺たちの居場所を把握してるわけじゃなかった!」

 

考えてみれば当然だった。自身が搭乗しているゴーレムが馬鹿でかくて微細な反応を感じ取りにくい上に、坑道を破壊して発生させている音や振動も異様に大きい。人一人の足音なんざ聞き取れるべくもない。

 

そもそも俺たちは地面に触れていない。居場所を察知できないはずだった。

 

しかし飛び回っているウィルキンソン兄妹を的確に払い、俺を捕まえに腕を背中に運び、壁際にいたフェイトの近くにゴーレムを生み出した。

 

俺たちのいる場所を正確に捕捉する、その方法。ある種単純で、かえって気づけなかった。

 

「あの巨大ゴーレム、おかしいと思わないか?普通サイズのものと明確に違うところがある」

 

「……お、おおきさ?」

 

「たしかに大きさは全然違うけれど、この流れではそういうところじゃないでしょ」

 

「うぐっ……じゃあなにがちがうってのよ!」

 

「他のゴーレムに、頭なんてあったか?」

 

「あ……」

 

最初俺は、ゴーレムの身体が大きすぎるから前かがみになって見下ろしているような体勢になっているのかと思っていた。でもそれならゴーレムのサイズを調節すればいいだけだし、なによりこれまでつけていなかった頭部をわざわざここにきて作る理由がない。

 

これまでのゴーレムにはなかったのに、巨大ゴーレムには頭がついている。それも、光る石の結晶を覆い隠せるくらい大きな頭が。

 

つまり、巨大ゴーレムには頭部を作る理由があったのだ。作る必要が、あったのだ。

 

「天井を気にして屈んでるとかじゃない。見下ろしているような(・・・)とか曖昧なもんじゃない。実際に見下ろしてるんだ。フランちゃんは前回の戦闘で学習した。地面を伝う振動で位置を把握していると俺たちが学習したことを、学習したんだ。だから違う手段を考えた。俺たち五人を同時に捕捉するために、俯瞰するって方法を」

 

「それじゃあ、フランは」

 

「ああ……頭の中だ」

 

まるで、往年の名作巨大ロボットアニメの搭乗口のようである。

 

「でも……どうやってあの高さまで行くんですか?適当に腕を振り回されるだけでも厄介です。近くを通るだけで波に揉まれる小枝みたいに、風圧でもみくちゃにされます……」

 

「直撃なんてすれば、そのままこの鉱山がお墓になっちゃうわねぇ……」

 

「そうだ。近付くリスクと防がれるリスクを避けるために、まずはあの両腕を根本から……落とす」

 

「落とすって……簡単に言うけど、そんなのどうやって!」

 

「考えはある。みんな疲れてるだろうけど、もう一踏ん張り頼む」

 



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「出口」

「フランちゃん!いい加減そのでかい人形から出てこいよ!顔突き合わせて話をしよう!」

 

まず、俺が正面からフランちゃんの操る巨大ゴーレムに接近する。足場用障壁を蹴り上がり、ゴーレムの肩くらいの高さまで。

 

「予想、通りだ……っ」

 

フランちゃんは、どういうわけか俺に執着していた。俺をこの地に留まらせようとしていた。

 

足音で座標を把握しているのならば個人の特定までは難しいだろう。問答無用で払い落とされる可能性もあった。だが、目で確認しているのであれば、彼女は俺を叩き潰そうとはしないはずだ。

 

ギャンブルに近かったが、その賭けには勝った。

 

フランちゃんは払い除けようとも握り潰そうともせず、ゆっくりと巨大な手を動かした。潰されないとわかっていても、正直、気が気じゃない。

 

両の手が合わされて拘束される寸前で、足場の障壁を蹴る。襲歩による高速移動。目の前にいたとしても捉えきれない速さ。巨大ゴーレムの頭部のどこかからこちらの様子を確認しているだろうフランちゃんでは、まず間違いなく目で追えはしない。

 

俺の姿を見失ったはずだが、ここでさらに保険をかけておく。

 

「クレインくん!アサレアちゃん!」

 

「はい!」

 

「流れ弾にあたるんじゃないわよ!」

 

俺が動いた瞬間、ゴーレムの顔を赤い花が覆った。俺がいなくなって動揺したところで、ウィルキンソン兄妹の射撃魔法で視界自体を奪うプランだ。この隙に、邪魔な腕を落とす。

 

俺が向かった先は巨大ゴーレムの右腕。

 

この巨大ゴーレムを形成し、維持し、操作することは並の魔導師では不可能だ。まず魔力が不足する。その問題点を解決するためのアブゾプタルだ。

 

これだけの質量ともなれば、腕一本にアブゾプタル一つでは済まない。脆くなりがちで、柔軟に動かさなければいけない関節部に配置するはず。その一点を打ち抜き、ゴーレムから弾き出せば腕はもう動かない。

 

「ふぅっ……はっ!」

 

全身の力を拳の一点に集約。発破を打ち込む。

 

大きすぎるゴーレムの肩のおおよそ中央、気持ち的には人間で言うところの肩甲骨と上腕骨骨頭の接続部あたりを狙った。

 

どうやら俺の予想は的中したようで、発破による破壊は土で作られたゴーレムの内部をぐずぐずに崩して、銃で撃ち抜いたように背中側へと爆散。四散する土塊(つちくれ)の中に、煌びやかに輝く光沢があった。

 

肩に埋め込まれていたアブゾプタルが排出されるや、肩から上腕の結合が解けるように瓦解していった。

 

腕だったものが落下するが、しかし肘の近くから先は崩壊していなかったところを見るに、肘関節にも埋め込まれているようだ。

 

「フェイト!ランちゃん!肩の真ん中あたりを狙えば……」

 

俺が担当したのは右肩だ。腕が一本でも残っていれば脅威の度合いは変わらない。そのため両肩を落とす必要がある。左肩はフェイトとランちゃんに任せていた。

 

「……って、もう落としてるし……」

 

俺が二人の方向を見やれば、爆煙を金色の閃光が上から下に引き裂いた後だった。手首を落とした時のように腕を根元から斬り落とすには、フェイトの魔力刃は短すぎた。だから、フェイトは二回斬りつけたのだろう。フランちゃんの視界を一時的にゼロにした後、手首の時と同様に下から上へと斬り裂いて、その裂傷目掛けてランちゃんが魔力弾を放つ。返す刀、というか返す刃でフェイトの二度目の斬撃。

 

なんとも力づく、されどなんとも正攻法。実力と自信があってこその芸当である。

 

賞賛と嫉妬が若干以上に渦巻くが、ともあれ。

 

「もう、君を守る盾はないぞ」

 

『っ……』

 

目も鼻も口も耳も、なにもない巨大ゴーレム頭部に言葉を投げつける。

 

頭部のどこかで、銀色に輝く光が見えた気がした。

 

脅し、のつもりはなかったがフランちゃんはどう捉えたのか。

 

とりあえず、予定通りに俺への注意を向けることはできたようだ。

 

俺のすぐそばにゴーレムが湧き出る。巨大なゴーレムの体表からさらにゴーレムが生えてくるという気持ちの悪い光景がここにはあった。

 

一度巨大ゴーレムの肩から離れ、壁へと飛び移る。すぐに、付近の壁がもぞもぞと蠢いた。単に周りから土をかき集めてゴーレムを形作っているだけなのだが、まるで土の壁の中を大きな虫が這いずり回っているように見えて、嫌悪感を隠せない。

 

土の壁と障壁とを交互に蹴って、わらわらと伸びてくるゴーレムの手に捕まらないよう逃げ、いつか奈良は東大寺で観た大仏と同じくらいの規模の巨大ゴーレムの頭部、その後ろへと回り込む。

 

「フェイト!準備はいいか!」

 

「いつでもいけるよ」

 

俺は巨大ゴーレムの背後から、フェイトは正面から、同時に巨大ゴーレムの首を狙う。フランちゃんは俺にばかり注意していて、他への警戒が疎かになっていた。

 

ここまでうまく運ぶことは予定外だったが、予定通りだ。あとは俺が首を蹴り飛ばし、フェイトが斬り飛ばす。頭部と胴体で分断されてしまえば、宙に浮けないフランちゃんでは抗いようがない。防がれたり頭を落とした時にキャッチされないよう、多少危険を冒してでも両腕を落としたのはこの瞬間の為。

 

全ては予定通りだ。予定通り、だった。

 

『や、めて……わたしからとらないでぇ!』

 

多少くぐもってはいても、フランちゃんの悲痛な悲鳴がはっきりと聞こえた。

 

「なっ?!」

 

「これじゃあ……っ」

 

悲鳴とともに俺たちに立ちはだかったのは、ゴーレムの壁。巨大ゴーレムの首をぐるりと一周するように、通常サイズのゴーレムが展開された。

 

勢いをつけて首を落としにかからなければいけないのに、ゴーレムが壁になっては攻めかかれない。取り巻きを排除してから仕切り直すような余裕はない。取り巻きを無視して首を直接狙おうにも、返り討ちにあう可能性のほうが高い。俺一人ならともかく、今回はフェイトも付き合わせている。フェイトにもリスクがある。

 

作戦強行か、中止か。判断できず逡巡していた俺の耳に、刺々しい元気な声が飛び込んできた。

 

「いきなさいよ!」

 

「終わらせてください!」

 

俺とフェイトの視界を横断するように、アサレアちゃんが右から、クレインくんが左から飛翔する。魔力を振り絞るように放たれた二人の赤い魔力弾の雨は、巨大ゴーレムの首、正面と背面から生えるゴーレムを根こそぎ撃ち砕いた。

 

「アサレアちゃん、クレインくん!」

 

「これで……っ、終わらせなさいよね」

 

「あとは、お願いします……」

 

かなり無理をして魔法を使ったのだろう。巨大ゴーレムから離れるアサレアちゃんとクレインくんはみるみる高度を下げていく。そのまま地面まで落下しそうだったが、寸前のところでランちゃんが二人とも拾い上げた。

 

二人は大丈夫。

 

なら今度は、俺たちが頑張る番である。

 

「フェイト!」

 

「うん!」

 

声を張り上げ、名を呼ぶ。それだけで、俺の意図を理解した。

 

俺が足場用障壁を蹴って()けると同時、フェイトは飛行魔法の出力を上げて()ける。

 

俺は回し蹴りの要領で遠心力を乗せ、フェイトは速度と魔力を纏い、突貫する。

 

「その首、落とす!」

 

ゴーレムを創り出す時、何もないところから出現させているわけではない。接している地面からゴーレムの肉体を構成するに足るだけの土、砂、石、岩を収集、集約し練り上げている。

 

だがフランちゃんは、自分の身を守るために首回りにゴーレムを展開し、あえなくそれらはウィルキンソン兄妹によって排除された。ゴーレムを生み出したぶん、巨大ゴーレムの肩は薄く、首は細くなっている。

 

当初の予定では俺とフェイトによる同時攻撃の後、足りなければアサレアちゃん、クレインくん、ランちゃんによる集中射撃の算段だったが、俺とフェイトだけで落とせるかもしれない。

 

いや、落とさなければならない。三人が戦線を退いた以上、俺とフェイトだけで。

 

「う、おおおおっ!」

 

太い首目掛けて、全身全霊で、振り抜く。

 

足に何か硬いものがあたったという感触は、意外なほどになかった。ただ、一瞬手応えが、かすかに押し返されるような、または詰まるような感覚があっただけ。その後は素振りするようなものだった。

 

血肉の代わりに土と石を蹴りの軌道に沿うように、一閃散らす。

 

無意味な破砕はない。まさしく斬るような一蹴だった。

 

「フェイトは……完璧だな」

 

振り返れば、美しいとさえ思わせるフェイトの残心。バルディッシュを振り抜いた姿勢、そのまま惰性で身体が流れていた。

 

俺もフェイトも、お互いミスのないこれ以上ない一撃だった。今出せる全力を、間違いなく出し切った。

 

「くそっ!まだ残ってる!」

 

ただ、純粋な間合いだけが問題だった。

 

俺は足、フェイトは鎌。どれだけ懸命に伸ばしてもリーチには限界があった。

 

首の真ん中。頚椎(けいつい)のように伸びた首の中央部分が、胴体と頭部を繋げていた。首の土を蹴り取られ、斬り取られた頼りないその首は、しかし落ちなかった。

 

「まだっ……終わりじゃない!」

 

全速力の飛翔から斬撃を加えた直後だ。フェイトの体勢は不安定だった。

 

だがそれを神懸かり的な飛行魔法の制御技術と空間認識能力、柔軟性、体幹で、安定状態にまで持っていく。一度二度回転すると両足で壁に着地。すぐさま壁を蹴り、反転。ぶぉん、と俺の耳にまで届くほど風切り音を鳴らし、鎌を振るう。

 

距離が開いている位置から投擲された金色の魔力刃は高速回転しながら、心細くもしっかりと頭部を支えていた首を()ねた。

 

最後の支えがなくなり、もはや球体にしか見えない頭がぼろぼろと崩れ、剥がれながら、数十メートルを落下していく。

 

水に溶かした角砂糖のように表面から崩壊していく頭部の中に、フランちゃんの姿を見つけた。

 

障壁を蹴りながら降下し、フランちゃんをキャッチする。落下する恐怖からか、それとも敗北によるショックか、抱えてからしばしフランちゃんは呆然としていたが、やがて現実を認識したようだ。

 

俺の服を掴み、顔を押しつけて(むせ)び泣いた。

 

 

 

 

 

 

さすがに抵抗するのは諦めたようだ。空中で俺がキャッチしても、そこから地面に降りても、フランちゃんは暴れも何もしなかった。

 

ゴーレムの維持も諦めたのか疲れたのか、巨大ゴーレムは大量の土と煙を巻き上げながら崩壊した。

 

残ったのは、荒れ果てた大広間、ぐちゃぐちゃになった畑、土砂で埋められた坑道、巨大ゴーレムを形成していた土の山、そして多少埃っぽくなった俺たちだ。

 

「一応聞くけど……なんで俺たちを襲ったんだ、フランちゃん」

 

「……捨て、られるから……。また、わたし、一人に……」

 

「捨てられるって……。はっきり言ってしまうけど、ここに残ってももう……どうにもできないだろ。一人でこの鉱山を管理するには無理がある」

 

「だ、から……あなたをここに、引き留めようって……」

 

「俺にも帰らないといけない場所がある、から……」

 

「……あれ?ちょっと待って、徹ちゃん。なんだか話が……」

 

「どうしたんだよ、ランちゃん」

 

なるべくフランちゃんを怖がらせないように配慮して、俺の斜め後ろにいたランちゃんが一歩前に出る。

 

「フランちゃん?もしかして、一人だけこの山に置いていかれると思ったの?」

 

「……は?ランちゃんなに言って……俺、ちゃんと説明して……」

 

そんなわけないだろと笑い飛ばそうとしたが、フランちゃんはこくりと頷いた。

 

「ってええ?!あれ?!俺説明してなかったっけ?!」

 

「徹話してたよ。でもフラン、あの時……」

 

「そう、ですね。フランさんは冷静に話を聞ける状態ではなかったように思います……」

 

「……あ」

 

そうだった。

 

フランちゃんが人格解離を発症した原因を、その現実を突きつけた後に話していたのだ。どう考えても俺の言葉を吞み込める精神状態ではなかったろう。

 

と、いうことは。

 

「……勘違い、か?」

 

「勘違いねぇ」

 

「わぁお」

 

勘違い。気持ちのすれ違い、認識の行き違いであった。

 

俺はフランちゃんを保護した上でこの鉱山を出ていくつもりだったが、フランちゃんは自分一人を置き去りにして俺たちだけで出ていくと思い込んだのだろう。また一人ぼっちで孤独の中暮らしていかなければいけないのだと悲観した彼女は、俺をこの山に留めようとした。

 

だからこそ、フランちゃんは無理矢理、ほぼ拉致のような乱暴な手を取ったし、俺に『捨てるの?』と尋ねた。

 

今ならわかる。あの『捨てるの?』というセリフは『国を捨てるの?』という意味ではなく『わたしを()捨てるの?』というSOSのサインだった。救いを求めていたのだ。

 

「……俺がもっと、わかりやすく丁寧に何回も言ってりゃ戦う必要はなかったのか……」

 

「や、だからって無理矢理捕まえて閉じ込めるのは間違ってるでしょ。置き去りにされるって思い込んでて、でもそれが嫌ならちゃんと嫌だって話してればよかっただけなんだから。それにわたしたちも傍観して、丸投げしてた。あいさ……あんただけのせいじゃないわよ」

 

「……ありがとな、アサレアちゃん」

 

「べ、べつにっ?!常識の範疇よ!」

 

「お嬢ちゃんに語れるだけの常識があったのねぇ。よかったわぁ」

 

「素直に褒められないの?!わたしいいこと言ったじゃない!」

 

「自分で『いいこと言った』とか言っちゃうところがもうお嬢ちゃんね。安心したわぁ」

 

『なによほんとのことじゃない!』とヒートアップしていくアサレアちゃんをクレインくんが(なだ)めていた。アサレアちゃんがフォローしてくれたのは嬉しかったし、少しは気も楽になったが、俺の言葉足らずのせいでフランちゃんに辛くて苦しい思いをさせ、三度(みたび)戦闘になってしまった。その結果大きすぎる問題も発生してしまった。悔いても悔やみきれないが、ひとまずそちらは脇に置くとしよう。

 

フランちゃんを見捨てるというのは勘違いだったが、故郷を捨てさせるというところは間違いでも勘違いでもないのだから。

 

「フランちゃん、君をここに一人で残したりはしない。でも……俺たちも一緒にここに残れるわけじゃない。だからフランちゃんにはこの鉱山を一緒に出てもらうことに、なる……。故郷から、生まれて育ったこの国から出ることになるけど……」

 

「かまわない」

 

「そうだよな……すぐに決心なんてつかなええっ!?いいのか?!もうちょっと考えたほうがいいぞ?!俺が言うのもなんだけど!」

 

即決だった。なんなら食い気味だった。あまりの迷いのなさに俺のほうが動転したほどである。

 

「いい。一人で生きるくらいなら、知らないところでもだれかと一緒にいたい。……それに」

 

「そ、それに?」

 

「わたしはもとから、あまり、仲のいい人いなかった、から……。引きこもりがちで、ずっとシュランクネヒトの中にいた」

 

友人が少ないとは、まるでどこかの俺のようだ。

 

「……そ、そうか。なら、一緒に行こう」

 

「でも徹ちゃん、どうするの?その……あてはあるの?」

 

ランちゃんは明言を避けたが、有り体にフランちゃんの引き取り手はあるのかと聞いていた。本人の前で口にするのは躊躇(ためら)われたのだろう。

 

一応、あてというか、伝手(つて)はある。というかコネだろうか。

 

「マルティス・ノルデンフェルトさん、憶えてるか?前のサンドギアの任務で指揮官代理をやってた人。あの人を頼ってみようと思う」

 

「ああ『陸』の……まだ交流があったのね」

 

「せっかく築いた数少ないコネクションだからな。そう無駄にはできねえよ」

 

仮にそちらのあてが外れても、その場合は我が家へ招待するだけである。幸いにして部屋はたくさんあるし、姉ちゃんなら大歓迎だろうし。

 

「話はついたわよね?それじゃここから出る道を教えてもらってはやく出……」

 

相当この鉱山から出たいのだろう。アサレアちゃんは不自然極まりない手際で話をぶった切った。

 

ただ、全文を言い切る前にフリーズしてしまった。どうやらアサレアちゃんも気づいてしまったようである。

 

再起動した彼女は、青褪めた顔で、震える唇で。

 

「こ、ここから……どうやって出るの……?」

 

そう、それである。

 

 

 

 

 

 

俺たちのいる大広間は数多くの坑道と繋がっていた。

 

俺・フェイト・アサレアちゃんが通ってきた道しかり、ランちゃん・クレインくんがやってきた道しかり、外敵(かたつむり)退治に向かった道しかり。他にもいくつもの道がハブ空港ばりにこの大広間に続いていた。

 

厳密にそう、続いていた(・・)

 

「ごめん、なさい……」

 

「いや、仕方ない。あの時はパニックみたいなもんだったろうし、それに終わっちまったことだ。切り替えよう」

 

お目々ぐるぐる状態だったフランちゃんは、俺たちが逃げないように巨大ゴーレムを操って坑道を塞いでしまった。唯一最後まで生きていた道も巨大ゴーレムが崩れて土塊に戻る際に倒れて、埋もれてしまった。

 

ハブ空港は経営破綻である。

 

「ええっと、フランちゃん。他に道ってあるのかしら?」

 

頬をひくつかせながらランちゃんが尋ねた。

 

対するフランちゃんの表情は暗かった。

 

「……ない」

 

「ちょ、ちょっと!どうすんのよ!」

 

ふらふらと揺れる白髪に取り乱したのは、淡い赤髪。

 

「なに、わたしたちここまできて出られないの?!」

 

「落ち着きなさいな、お嬢ちゃん。道が埋まったのなら、掘り返せばいいだけでしょう?問題は落盤に気をつけながら作業して、食料が壊滅して飲み水も危ういこの状況でどれくらい時間がかかるかわからないことくらいかしらぁ?」

 

「やよ!や!何日もここでモグラみたいに土を掘れっての?!そんなのっ……っ!」

 

ちら、とアサレアちゃんがこっちを見た。意味ありげな視線である。

 

「そ、そんなの……長い、間……ここで一緒……。あ、ありかも……」

 

急に意見がひっくり返った。なんかもう考え方が五百四十度くらい変わってる。わずか数秒の間でアサレアちゃんにどんなパラダイムシフトが行われたのか。

 

「基本的にここは薄暗いのに、アサレアちゃん的にはありなのか?」

 

「だっ……大丈、夫っ……じゃないけど大丈夫……」

 

「ぎり大丈夫なんだ……。でも俺は大丈夫じゃないんだよなー……。学校あるし」

 

非常に困ったことになった。

 

どの道が出口に繋がるかもわからない。

 

その上、道はこんもりとたくさんの土砂で埋まっているし、それらを取り除くのにどれほど時間がかかるのかは見通しが立たない。出口までの道が通じたところで山を出るまでの道は魔力を抑えて行動せねばならず、仮に脱出できたとて輸送船と合流するまでの間、魔力が枯渇した状態で魔法生物と渡り合わなければならない。加えて、学校に間に合うようにしなければいけないという時間制限つきだ。

 

「あれ、もしかしてこれもう詰んでる?」

 

「ね、ね、徹」

 

「ん?どうしたフェイト、使えそうな道があったのか?」

 

「ううん、それは探してもないんだけど」

 

「探してすらないんだ……」

 

「飛んでる時に思ったんだけど、壁沿いに土の板?みたいなのがあったんだ。あれってなんのためにあるんだろう?わかる?」

 

「土の板?ああ……そういやあったわ。いくつか移動のための足場にしたんだけど、案外脆くて使えなかったやつだ。あれって、フランちゃんが作った、とか?」

 

「板?知らない」

 

フランちゃんでもないらしい。ということは、ここの壁に沿って元から作られていたようだ。しかし、いったいなんの意味があるのか。なにか物でも置いていたのか。

 

「土の板……ぼくは見てないです」

 

「え?わたしは見たわよ?」

 

「そうなの?でもこの辺りの壁にはないけど」

 

「あ、ほんとだ。なんでだろ?場所によって作ってたり作ってなかったりするの?」

 

「私も見てないわねぇ。……あら?ちょっと高いところ、わかりにくいけれど徹ちゃんたちの言う土の板があるわぁ。たしかに足場みたいねぇ」

 

「えっ?あ、本当だ。あった」

 

見上げればたしかにあった。普通に生活していればまず視界には入らない高さだ。六メートル、もうちょっとあるかもしれない。意識して探さないと、色合いも相まって見つけられそうにはない。その近辺を壁を目を凝らして探すと、同じような作りの板をいくつも発見できた。

 

「土の板、足場……たしかにそうだ。足場になってる。いや……足場ってより、むしろ……」

 

「徹、どうしたの?」

 

「ねえ、どうせすぐには出られないんでしょ?それならどこかで休まない?たくさん動いたからかな、なんだか暑くって」

 

「……暑い。たしかに、ちょっと暑いな……」

 

「たしかにねぇ。私も汗かいてきちゃったわぁ。水浴びでもしたいところねぇ」

 

「うん。私もお風呂入りたいな。ゆっくり湯船につかりたい」

 

「湯船?」

 

「お湯をためて、それに入るんだよ。徹の家に行くまでずっとシャワーだけだったけど、お風呂を知ったらもうお湯につからないと気がすまなくなっちゃった」

 

「あらぁ、それはとっても気持ちよさそうね!」

 

「ちょっとテスタロッサ、あいつの家での暮らしを詳しく聞かせなさいよ」

 

「……必死ねぇ」

 

「うっさい。どうにもならないなら情報収集するしかないでしょ」

 

「お休みの日は一緒にお庭で花や野菜の手入れして、疲れたら縁側で腕枕してもらって、一緒にお昼寝とかしてるよ」

 

「プライベート知れて嬉しいけどやっぱり羨ましいし悔しいし妬ましい!」

 

「自分から聞いておいてなにのたまってるのかしらねぇ、このお嬢ちゃんは」

 

「…………」

 

なんだか外野が騒々しい。

 

その喧騒から少々離れ、頭上を仰ぎ見る。

 

光る石の結晶が燦々煌々と輝いている。大広間全体を照らすそれは、太陽を直視しているみたいに眩い。まるで白飛びした写真のようで、結晶の周囲を光で塗り潰していた。

 

「ひとまず休めるところを探しましょうか。使っていたところが崩れてなければいいわねぇ」

 

「あっ?!わたしの荷物!」

 

「取り出せればいいけど……埋まってたら取り出すのも危ないよ?」

 

「アサレア、諦めたら?」

 

「新しく買った服も入ってるのよ!?ブランド物で高かったのに!バッグもいいやつなのに!」

 

「仕事なのに、なぜそんなものを持ってきているのかしらねぇ、このお嬢ちゃんは。旅行気分なの?合コンじゃないのよぉ?」

 

「わ、わかってるわよ!た、ただ、ちょっと……久しぶりだった、から……」

 

「久しぶりに会うから可愛い『わたし』を〜って?やっぱり男目当てじゃないの」

 

「うりゅるるるうるさい!」

 

「アサレアはやっぱりアサレアだったね。休んでた部屋が無事だといいね、徹。……徹?」

 

「……王?呼んでるけど」

 

休んでいた住居がある方向へと足を向けていたランちゃんたち、俺の服をつまんでなぜかずっと近くにいたフランちゃんが、俺を見る。

 

かくいう俺は目を細めながら天井を仰いで、答えた。

 

「出口……見つけたかも」

 

数秒の沈黙の後、みんなが声を揃えた。

 

『……は?!』

 



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冠雪したように生白く、美しい丸みを誇る二つの豊かな山

「不思議に思ってたんだ。なんで坑道の中、鉱山の中で新鮮な空気があるんだろうって。酸素が極端に少なくなったり、場所によっては有毒ガスが発生したりして、本来鉱山の坑道ってのは危険な空間なんだ。炭鉱のカナリアの話もあるくらいにな。でも実際は鉱山の中は妙に空気が澄んでいた。なんでだろうとは思ってたが、わかっちまえば簡単なもんだ。循環してたんだ」

 

「ジュンカン?」

 

土の階段を踏み締めて、螺旋階段のような構造をしている道をぐるぐると回りながら上っていく。

 

何があるかわからないので先頭に立って階段を上りながら、みんなに説明する。

 

「ああ。大広間の光る石の結晶、あれは……」

 

「ベロイヒタイン?」

 

「え?……あれ、ベロイヒタインっていうの?」

 

「そう」

 

説明の途中、フランちゃんの注釈が入った。魔力を吸収する金属(アブゾプタル)同様、光る石にもやはり名称があったようだ。いちいち呼びにくかったし、名前を教えてもらえたのは助かる。

 

「……で、光る石(ベロイヒタイン)の結晶は光を照射しているが、実際には光だけじゃなくて熱も放出してる。熱も放出しているのなら、本来ひんやりとしているはずの鉱山の中が過ごしやすい気温だったことの理由にはなる。だけど、熱の逃げ場のない大広間は蒸し風呂みたいになると思わないか?」

 

「なるほど……つまり、どこかにその熱の逃げる道があると考えたのねぇ」

 

「上昇気流?」

 

「そうだ、フェイト。よく勉強してるな」

 

「ふふ、そんなことないよ」

 

姉ちゃんとの勉強の成果だろうか。

 

果たして学年相応、年代相応の範囲にとどまっているのかどうか。あの姉のことなので、フェイトが勉強熱心なことに(かこつ)けて小学生で習う範囲外まで手をつけていそうだ。

 

「大広間で熱された空気が上へ逃げることで、俺たちが入ってきた穴や他の穴から空気を取り込むような形になってるんだ。換気扇みたいなもんだな」

 

フランちゃんを含む俺たちが今歩いているのは、大広間の天井裏とでもいうべきエリア。

 

光る石(ベロイヒタイン)の結晶の光で覆い隠された天井、そこに人が二人並べるくらいの穴があったのだ。そこからはずっと上りの階段が続いていた。

 

上っている階段は随分長い間放置されているようで劣化している部分もあるが、なんとか階段としての体裁は保っている。おそらく最初は大広間に熱が籠るのでそれを解消するために通気孔を空けたのだろう。そこから外部へのわかりやすい一本道として、活用していたように見える。でなければゴーレムが通れそうな道幅まで拡幅したりはしないだろうし、歩きやすいように階段を作ったりはしない。まあ、その階段は経年劣化の影響で坂のようになってしまっているけれど。

 

「壁沿いにあった土の板はもともと、天井の穴まで行く足場だったんだろう」

 

「ならどうして壊しちゃったの?楽で安全に外に出れる道なら置いといたほうがいいよね?」

 

「推測でしかないけど、多分昔は知っている人も多かったんだと思う。でも子どもが遊びで上ろうとして落ちちゃったとか、そういうなにかしらの事故があって隠すようになったんじゃないか?だから、子どもの目につくような位置の足場は破壊して、秘匿した。同じ事故が起こらないように……とかってところなんじゃね?」

 

「ありえそうな話ねぇ……。でもフランちゃんは知らなかったのよね?」

 

「うん。わたし、知らなかった」

 

「この道がいつ頃まで使われてたのかは知らん。ただ、壁の低いところには足場の痕跡はまるで残ってなかったし、残っていた足場も劣化していてとてもじゃないが体重をかけられない状態だった。かなり古いものなんだろう。そこから考えると、天井の裏道を知ってる人が不慮の事故か病気か何かで伝える前に亡くなって、天井の抜け道の存在を知る人がいなくなったとかって可能性もある。もしくはもっと単純に、基本的に大人は知ってるけど未成年には教えていない、とかって感じでフランちゃんにはまだ教えられていなかったのかもしれない」

 

「ふぅん、まだそっちのほうがありえそうね」

 

「ううん、それはないと思う」

 

飛行魔法や跳躍移動で天井までは上ったが、螺旋状にぐるぐると上る階段で早々にスタミナが尽きたフランちゃんが俺に担がれながら否定した。

 

「なんでだ?」

 

「わたし、未成年じゃない」

 

「…………ん?」

 

足が止まる。

 

ちょっと、フランちゃんが何を言っているのかよくわからなかった。

 

くるくると頭を回転させて、一番ありえそうな答えを探す。

 

「あ、ああ……オンタデンバーグは成人年齢が低いのかー、なるほどな!」

 

世界的な比率なら、十八歳で成人とする国のほうが多い。日本でも成人年齢が引き下げられる運びになっている。一部に目を向ければ、十四歳で成人と定めた国もあるくらいだ。

 

オンタデンバーグ、フランちゃんのいた鉱山の国もそういった方針なのだろう。

 

「フランちゃんは幾つなんだ?」

 

「今年で二十三歳」

 

「にじゅうさん……二十三っ?!」

 

ちょっと予想と違いすぎた。というか予想をぶった切っていた。

 

「うっそだろ?!十三歳でも通るぞ!」

 

「あ、あらぁ……わ、私より年上なのねぇ……」

 

「じょ、冗談でしょ……」

 

「真守お姉さんより上なんだね」

 

「えっと、日付が十五日までしかないとか、一年が六ヶ月しかないとかそういうことでもなく、ですか?」

 

「ひと月は三十日前後。一年は十二ヶ月」

 

「ま、まじかよ……。背がやけに低いけど……」

 

「みんな背は低かった。わたしは平均より低かったけど、背の高い人でもそこの子と同じくらい」

 

そこの子、と指差したのはクレインくんだった。クレインくんでだいたい目測百六十センチくらいだろうか。背の高い人でそのくらいなら、もともと遺伝子的に背が伸びにくいのかもしれない。山の中という環境と、野菜中心という食生活も影響しているのだろうか。こればかりはさすがに見当のつけようがない。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ。肌とかさ……きめ細かすぎない?!すっごい白いし!シミとかないし!ほんとに二十三なの?!」

 

「……そう言われても。みんなこんな感じだった。わたしはずっとシュランクネヒトにひきこもってたから、とくにそうだったけど」

 

光る石(ベロイヒタイン)の結晶があったろ?あれは太陽の代わりになっていたけど完全に同一じゃない。紫外線量はかなり絞られてるんだろうな」

 

紫外線は大量に浴びるとよくない。女性の大敵であるシミの原因になったり、長期間浴びせていれば物質をも破壊する。本の退色やゴムの劣化、家屋に使われている塗装をひび割れさせて雨漏りを引き起こしたりもする。

 

将来を考えると可能な限り避けるべきなのだが、しかし、人というものは紫外線を浴びなさすぎても支障が出てくるから困ったものだ。しかも農作物の生育にも紫外線は関わってくる。

 

そのあたり、ベロイヒタインの紫外線量は太陽光と比べれば微小だが、人体や植物には充分な程度の絶妙な量を放射していると見える。

 

「ただ、フランちゃんはちょっと怖いくらい白いよな。もうちょっとシュランクネヒトを脱いで外に出るべきだ。だから体力が幼児並みなんだよ」

 

「幼児は言いすぎ」

 

「…………」

 

「どうしたんだ、アサレアちゃん。疲れたか?」

 

歩くペースが落ちたアサレアちゃんに声をかける。彼女は俺を見ているが、どこか焦点があっていない。俺の背にいるフランちゃんに目をやっていた。

 

「……若く見えるのも、肌が白いのも、まあぎりぎり納得できたわ……。でも……は?」

 

「なんて?」

 

「っ!胸が大きいのはなんでかって聞いてんの!なんで?!お肉なんてここにはないのに!」

 

「…………」

 

アサレアちゃんが注視していたのは、俺の背にいるフランちゃんというよりも、俺の背中とフランちゃんの身体の間でむんにゅりと艶めかしくも蠱惑的に形を変える、二つの大きなマシュマロを見ていたようだ。

 

残念ながらその疑問については俺の口から答えを出すことはできない。なのでフランちゃんに任せた。

 

悩んだように身動ぎして、フランちゃんが答える。

 

「……遺伝。もしくは体質」

 

ぶちっ、と血管か堪忍袋の緒のどちらかが切れた音を聞いた気がした。

 

「降りろ!歩け!そしてその胸についている脂肪を消費しろぉ!」

 

どちらもぶち切れたらしい。

 

「お嬢ちゃん、今回ばかりは気持ちがわからないでもないけれど、あまりにもみっともないわぁ。やめときなさいな」

 

「アサレア。成長する見込みが限りなく低くても、可能性はゼロじゃないんだから諦めちゃだめだよ」

 

「うっさいわぁ!わたしの成長の見込みを、なんでわたしよりもぺったんこのテスタロッサに言われなきゃなんないのよ!ていうか限りなく低いとか言うな!言われるまでもなく諦めてないわぁ!」

 

アサレアちゃんが()えた。

 

フェイトは今のところアサレアちゃんの言葉通り、アサレアちゃんよりも起伏に乏しいが、母親のプレシアさんを想起するにとてつもなくご立派に成長することだろう。いつアサレアちゃんにフェイトが追いつき追い越すかわからないが、その暁にはアサレアちゃんは憤るあまりに我を失ってしまいそうだ。現時点で相当自分を見失っていることだし。

 

そんなちょっと緩い会話を繰り広げながら、長い階段をひたすら上っていく。

 

外に出られる道を発見できたからだろう。序盤こそみんなの表情も声色も明るいものだったが、あまりにも長く辛い階段を上っていくにつれて、息は切れ、言葉数は減っていった。それもそのはず、鉱山の出口へ続く直通の道といっても、道中は魔力を奪われるというこの鉱山の脅威に晒されることに変わりはない。残り少ない魔力を奪われないように、体表を覆う魔力の膜をオフにしている以上、肉体的な疲労は蓄積されるのだ。

 

一応、俺みたいに体内の魔力循環量をコントロールすればさほど疲れはしないぞ、と教えてあげたのだが、みんなから『そんなんできへんわあほ』といったようなニュアンスで口々に突っ込まれてしまった。良かれと思って教えてあげたのに。

 

一時間ほど上り続けて、この道は本当に出口に続いているのだろうかと疑い始めた時だった。

 

人一人がどうにか通れるほどの穴が見えた。背中を押すように生温い弱い風が吹いて、おそらくは穴のほうへと抜けていく。

 

鉱山を循環していた風の出口。つまりは、俺たちの出口だ。

 

「……光だ」

 

「ふぅ……。ようやく出口なのねぇ……長かったわぁ」

 

「はぁっ、ふぅっ……はぁっ」

 

「アサレア、大丈夫?」

 

「てすた、ろっさ……あんたの、目にはぁっ……大丈夫にっ、見えんのっ?!」

 

「……見えない」

 

「ならぁっ、言わ、はふっ……ないで……」

 

「アサレアも徹に抱えてもらったらよかったのに……」

 

二人並んで歩くのが限度な道幅、一列になって進んでいたが道中でフェイトが遅れ始めたので抱えて歩いていたのだ。循環魔法の出力をあげていたので背中にフランちゃん、片腕にフェイト、もう片腕でアサレアちゃんも抱えられたのだが、彼女は断固として首を縦には振らなかった。なにかしらのこだわりかプライドがあるようだ。

 

「外、確認するわ。二人とも、降ろすぞ」

 

屈んでフランちゃんとフェイトを地面に立たせ、俺は出口の穴へ近づく。

 

ばたばたとはためく服を抑えながら、顔を外に出す。眼球に突き刺さる光に目を細める。

 

風景を切り取るように(そび)える鉱山の、およそ頂上にいた。

 

「壮観だな……」

 

空から見下ろした光景とは一味違う。

 

高空からではキャンパスを塗り潰したように草原は緑一色、動物たちは緑の中をちょこまかする小さな点でしかなかった。

 

しかし、ここからの景色は広く見渡せるが遠すぎることはない。手を伸ばせば雲に触れられそうで、足を前に出せば(ふもと)の草原を踏み締めることもできそうだ。

 

景色も素晴らしいのだが、そちらよりなにより。

 

「すぅ……はぁ……。久しぶりの魔力の感覚だ……」

 

標高もあるのだろう。山の中と比べると、ひんやりとした風。

 

気温を忘れさせるくらいに、冷気の中の充溢した魔力素が骨身に染みる。体内に取り込まれた魔力素が、まるで渇きに渇いたリンカーコアを潤すようだ。

 

「徹?外、大丈夫?」

 

「お、悪い。久し振りのシャバの空気がおいしくて忘れてた。足元以外には危険はないっぽい」

 

「お勤めご苦労さまぁ」

 

「俺も悪いんだけど服役してたみたいな言い方やめて」

 

「まぶしっ……。でも……あー、魔力ってこんなに偉大だったのね……」

 

「本当だよね……。当然のように思ってたけど、こんなに貴重なんだね……」

 

アサレアちゃんとクレインくんが、感動するようにしみじみと呟いた。

 

今回は全員が『生命維持に関わるほど魔力がない』という状態を体験した。俺は割と頻繁に経験する感覚だが、というかなんならその状態さえ飛び越えたことがある逸材(笑)だが、他のみんなにとってはそうそうない機会だったことだろう。これらの経験を『ああ、危なかったな』で終わらせず、魔力の省エネや術式の効率化などといった魔法運用を見直す機会にしてくれたら嬉しい。

 

「王はどうやってきたの?」

 

全員が魔力素が含まれる新鮮な空気を深呼吸で体内に取り込んでいる中、フランちゃんが尋ねてきた。

 

ずっと山の中にいた彼女にとって目新しい、というかまさしく初めての光景だろうに、フランちゃんにはあまり変化がない。感情が揺さぶられたりはしないものなのだろうか。

 

「ああ、フランちゃん。俺たちは管理局の艦船で……」

 

「どうしたの、王?」

 

「いや……フラン『ちゃん』って呼ぶの、よく考えると失礼かなって思って。俺より年上だし、あと俺王じゃないし」

 

「なれちゃったから。フランちゃんって呼ばれるのも、王って呼ぶのも」

 

「そう?ならいいか」

 

「この中で一番年上だけれど、外見的にはフェイトちゃんの次くらいに若く見えるんだもの。ちゃん付けでも違和感はないわねぇ」

 

「これは『若く』って表現していいの?」

 

「どちらかというと『幼く』のほうが適切かもしれませんね」

 

「……部分的には育ってるけど、ね……」

 

恨みがましくフランちゃんの胸部をアサレアちゃんが凝視していた。

 

何の話をしているのか気づいたらしいフランちゃんは、人目とか警戒心とか、まるで意に介さずに。

 

「……重いだけなんだけど」

 

たわわに実った果実を腕を組むようにして支えた。

 

フランちゃんが着ているのは、ゆったりとしたシルエットのワンピースだ。腰に回されたベルトだけでもはっきりと顕示されていたのに、下から支えるように腕を組んだことで、男の理性を直接鈍器で殴りつけるような暴力的なまでのプロポーションが強調された。

 

首回りの緩いワンピースから胸元がのぞけてしまった。冠雪したように生白く、美しい丸みを誇る二つの豊かな山には実に視線を奪われる。いやはや、鉱山頂上からの眺望と肩を並べるほどの絶景である。

 

「見ちゃだめ」

 

「へぶっ……鼻が……鼻が……」

 

「クレイン兄もガン見すんなこのむっつり!」

 

「くぴゅっ……」

 

俺はジャンプしたフェイトに鼻っ先を手のひらでぱちんとされ、クレインくんはアサレアちゃんに強引に首を回されてか細い悲鳴を漏らしていた。

 

「フランちゃぁん。女の子なら……というよりも女性ならもう少し振る舞いを気にかけないといけないわぁ」

 

「……?」

 

俺とクレインくんが苦しんでいるうちに、ランちゃんがフランちゃんに女性としての常識をこんこんと説いてくれていた。痛い思いはしたがいいものを見られたので差し引きプラスである。

 

「それで、王たちはどうやってきたの?」

 

無防備すぎるフランちゃんを見かねてランちゃんがジャケットを貸していた。

 

フランちゃんはランちゃんに対して敵対的な態度も多かったが、今は服を借りても平気なくらいに気を許しているようだ。

 

「そうそう、そうだったな。俺たちは管理局の艦船(ふね)できてて……」

 

「そういえば帰りの足は?帰りの船っていつくるわけ?」

 

「当初のプランだと昨日俺たちがここについた時間と同じ時間にピックアップしてもらう予定にはなっていた。ちなみに今のところ念話は通じてない」

 

「心配ねぇ……なにかあったのかしら?」

 

「行きででかい鳥に襲われたからって、びびって逃げたんじゃないでしょうね」

 

「ない。と、思いたい……」

 

「職務放棄はなくとも、非常事態に陥っているという可能性は充分ありますよね……」

 

「それが一番あり得て嫌になるなー……」

 

「……クレインの予想通り、かも」

 

「どういうことだ、フェイト」

 

一人遠くを眺めていたフェイトが、とある方角を指差した。

 

「ほら、徹。あっちの空」

 

「な、んだ?」

 

澄み渡る青空と、まばらに浮かぶ白い雲。その一部分に、小さいが黒い雲があった。どうやら俺たちのいる山へと近づいてきているらしい。

 

「なにあれ?雨雲?」

 

眩い太陽に手で日影を作り、目を細めながらアサレアちゃんが呟く。

 

正直に言ってしまうと俺も雨雲か何かだと現実逃避したかったが、一陣の風が吹いた。強めの風は、結われて纏められたアサレアちゃんの明るい赤色の髪をなびかせた。黒い雲の方向へと、なびかせていた。

 

「風向きが逆だ……。雲にしては足も早すぎる。よし、最悪だ」

 

「ここのところいつも最悪だね」

 

まだ距離はかなり、およそ数キロほどはあるだろうか。姿をはっきりとは確認できないが、だいたいのところ予想通りな展開だろう。

 

「ランちゃん、()えるか?」

 

俺が言う前からデバイスを突き出し、魔法を展開していた。鉱山に入る前に視た、射撃補助の魔法だ。望遠と彼我の距離を映し出すだけの、ほとんど術者の射撃の腕に依存した術式。

 

数キロメートル程度は、余裕でその補助術式の有効範囲内のようだ。

 

「……ええ、確認できたわぁ。(おびただ)しい数の鳥。それがあの黒い雲の正体のようねぇ」

 

「それだけであの規模の群れがあの早さで飛ぶとは思えない」

 

「もちろん黒い雲の先頭には輸送船が飛行しているわぁ。えぇっと……状況はどうあれ、ちゃんと迎えにきてくれてよかったわねぇ」

 

「最大限ポジティブに考えたらそうだな」

 

「ばかなこと言ってる場合じゃないでしょ!どうすんのよ!」

 

「どうするって言ってもな。最高速で航行中の船、かつ背後から狂ったように食欲全開の肉食鳥が追いかけてくる中、スムーズに乗り込める自信はあるか?」

 

「き、厳しいですね……」

 

「なにかしらの問題があれば、誰か死にかねないわねぇ」

 

「わ、わたしを見るなランドルフ!」

 

「フランも抱えて行くわけだし、リスクはあるよね」

 

「……ごめんなさい」

 

「あ、う……そういうつもりじゃ……。そ、それに、大丈夫だよ。徹がどうにかしてくれるから」

 

「ど、どうにかって……」

 

フランちゃんに向いていたフェイトの視線が、俺に向けられる。つられるように、フランちゃん、ランちゃん、ウィルキンソン兄妹も、俺を見る。

 

信頼を寄せられるのは嬉しいが、そう熱い期待の眼差しを向けられてもこの状況で応えるのは難しすぎる。

 

「むう……」

 

まあ、考えてはみるけれど。

 

飛行魔法を使えないフランちゃんを担ぎながら、限界をちょっぴりオーバーした輸送船に乗り込む。それだけならまだ手伝いながらいけばなんとかなるだろうが、腹ぺこの巨大椋鳥(むくどり)の群れは、まず間違いなく邪魔をする。あんな鉄の塊の船より、わかりやすく美味しそうな肉のほうを狙ってくるだろう。こちらに追いつけなくとも、後ろからぎゃーぎゃーと喚かれていては精神的なプレッシャーから重大なミスをしないとも限らない。

 

そもそも俺たちは巨大ゴーレムとの戦闘で疲弊している。最高速を維持して船に乗り込むだけの魔力が残っているかもわからない。

 

「みんな余力はどんなもんだ?」

 

一応各々の魔力残量を確かめておこう。

 

「私は、そうねぇ。デバイスのマガジンは今入っている分でおしまいよ。自前の魔力はフランちゃんを抱えて飛行するくらいはあるかしら?速度はあまり期待しないでもらえると嬉しいわぁ」

 

「ぼくは自力で飛ぶくらい、でしょうか」

 

「…………」

 

「アサレアちゃんは?」

 

「ち、近づいたときに乗り込むくらいなら残してるわよ!」

 

「……えっと、つまり……」

 

どう表現しようか悩んでいると、フェイトが引き継いで俺の代わりに言ってくれた。

 

「つまり、アサレアは魔力残ってないってこと?」

 

「うううっさいテスタロッサ!そういうあんたはどうなのよ!」

 

「私は飛行魔法だけなら余裕あるよ」

 

「なっ、なんで……」

 

「きっとご飯を好き嫌いせずに食べていたからねぇ」

 

「ぐぬぬっ……」

 

要約すると、戦闘可能なのはぎりぎりフェイトだけで、大広間の戦闘で頑張ってくれたアサレアちゃんに至っては船に乗り込むことすら危うい、と。

 

「方法……なにか、方法は……」

 

取れる手段が思いつかない。

 

極めて珍しいことに魔力の残量ならおそらく誰よりもあるが、俺の魔法のレパートリーの中に群れに対抗できるものがない。

 

ランちゃんはここまでの度重なる戦闘により残弾わずか。フランちゃんを運んでもらうことを踏まえると、本人の魔力も危険域だろう。これ以上の無理はさせられない。

 

ウィルキンソン兄妹はともに戦闘に割ける余力はない。アサレアちゃんに至っては乗り込めるかどうかさえ危うさがある。クレインくんにアサレアちゃんのフォローを頼まなければならないので、二人も選択肢から除外される。

 

フランちゃんの魔力残量はどうかわからないが、巨大ゴーレムを操った後だ。ほぼ底につきかけているだろうし、そもそも使える魔法に対空手段はない。

 

フェイトのフォトンランサー・ファランクスシフトが一番効果的で最も可能性が高く、考え得る限り唯一の打開策だろうが、さすがに今のコンディションで大規模術式を展開するには魔力量が不足する。あの術式は優秀に過ぎるフェイトを以てしても、その後の継戦能力に影響を与えるほどの消費魔力を誇る。平時でこれだ。今やろうとすること自体、無謀だ。

 

だが。

 

「……あ、もしかしたら……っ!」

 

一つ、閃いた。

 

サンドギアの街での任務で、ジュリエッタちゃんのお母さんを助けたときのことだ。同じ部隊の隊員だったニコル・メイクピースの治癒魔法がうまく機能しなかったところに手を加えて、協力して魔法を行使した。

 

それと、同じことができれば。

 

「フェイト、ファランクス使えるか?」

 

「え?ファランクスシフト?」

 

俺が頷くと、フェイトは顔を伏せて考え込む。

 

「できないことはないけど……展開率百パーセントで出せる自信はないよ。普段のパフォーマンスの五十……がんばって七十パーセントがせいぜい、かな」

 

しばし悩んで、フェイトは試算を出した。フェイトの性格を踏まえると、そのパーセンテージも限界を攻めた無理をした数字だろう。あまり無理はさせたくないのだが、今はフェイトのその頑張りに頼らざるを得ない。

 

「七十パーセント、それだけ出せる自信があれば充分だ」

 

「と、徹……もしかして」

 

「ああ。あの鳥の群れを撃ち落とす」

 

「あ、あんたっ、本気で言ってんの?!」

 

「いくら一羽一羽のサイズが大きいからって、船と比較してあの規模の群れ……雲と見紛(みまが)うほどよ。数百なんてもんじゃない、千に届く数よ。あの数を落とすなんて現実的じゃないわ」

 

「他の方法を考えましょう……逢坂さん」

 

「……フォトンランサーの大規模術式は対個人で想定してて、逃げ道も障壁も弾幕で圧し潰すのがコンセプトなんだよ。狙いの精度は他と比べて甘くなってる。もちろんほとんどはあたると思うし、あてるために努力はする。でも全弾を命中させるなんて……できないよ。もともと全てを命中させる想定の術式じゃないから」

 

「こう言っちゃ悪いが、命中性能が他の射撃魔法と比べて劣ってるのは見てたからわかってるんだ」

 

「っ……だったら、どうして?」

 

悔しげに下唇を噛んで、客観的な評価を呑み込んだ上で、それでも否定も言い訳せずに俺に向き合う。

 

なぜファランクスシフトの命中精度が落ち込んでいるのか、理由はわかる。今はまだフォトンスフィアの展開数と射撃数を上げて維持するという段階で、射撃精度の正確性にまで手を伸ばせていないだけだ。

 

ならば、問題の解決は簡単だ。フェイトの手が射撃精度にまで回らないのならば、外部からの補助でその落ち込んだ射撃精度をカバーすればいい。

 

そのカバーを、俺がすればいい。

 

「俺がサポートする。俺とフェイト……二人で協力して魔法を使う」

 



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T&F共同演算型大規模術式

『後ろの鳥は俺たちで剥がします。その間に安全圏まで後退してください』

 

『疲れているところすまない……感謝する』

 

『構いません。後でこちらのピックアップお願いします』

 

鉱山の山頂から障壁を蹴り進み、空を駆ける。船のすぐそばまで接近してようやくパイロットと通信できた。どうやら魔法生物が内包する魔力によって、念話の通信に悪影響があったようだ。

 

「よし、あとは俺たちがやるだけだ」

 

「……ほんとうに、できるかな……」

 

この場にいるのは俺だけじゃない。作戦の要であるフェイトも一緒だ。

 

フェイトにはなるべく大規模術式に力を回してもらうべく、俺が抱っこして連れている格好になっている。

 

腕の中のフェイトの身体は、少し固くなっていた。

 

「フェイトはいつも通り、全力を尽くせばそれでそれでいい。後のことは俺がサポートする」

 

「……う、うん」

 

自分でそうは言っておきながら、気負うなというほうが無理がある。

 

空を黒く埋めつくすほどの数。露骨なまでの敵意。本能剥き出しに叫びながら迫ってくる様は、恐怖を誘うにあまりある。

 

鳥の群れに気圧されて心が引けてしまわなければ、いつもの精神状態で対峙できれば、無数の鳥が相手でも今の俺とフェイトの残魔力量で凌げる計算なのだ。

 

なら、俺のすべきことは決まっている。フェイトが『いつも通り』をできるよう、安心させてやればいい。

 

左手をフェイトの腰に回して支え、右手はバルディッシュを一緒に握る。

 

「フェイト。目、(つぶ)れ」

 

「え?……で、でも、見えなくなっちゃうよ」

 

「俺も術式の演算を手伝う。照準に関わる部分は全部任せてくれればいい」

 

椋鳥(むくどり)の大軍ならぬ大群が、強烈な羽音を響かせて接近してくる光景が怖いというのなら、いっそ見なくしてしまえばいい。

 

「頭をくっつけて、耳は胸にあててろ。心臓の音でも聞いとけ。ばっさばっさうるさい翼よりかは落ち着くだろ」

 

気でも触れているように甲高く叫ぶ鳥の声に気持ちが萎縮してしまうのなら、いっそ違う音に意識を向けてしまえばいい。俺の心音に耳と意識を傾けて落ち着ければ、自分のリズムを取り戻すきっかけになるだろう。

 

「徹の心臓……ばくばくいってる。徹も緊張するんだね」

 

フェイトは俺のことをなんだと思っているのだろうか。部隊の命運を預けられてなんとも思わないほど、俺の神経は図太くない。

 

「全然びびってるわけじゃないから。これはあれだから。フェイトがこんなに近くにいるからどきどきしてんの」

 

強がりみたいなことを言う俺に、フェイトはきょとんと目を見開いて、ふわりと頬を綻ばせた。

 

「あははっ、なにそれ」

 

これまで固く強張ってた表情から、縮こまって震えていた身体から、ようやく余計な力が抜けた。

 

張り詰めたように緊張していた雰囲気も氷解する。

 

「そうそう、笑ってろ。このくらい……あんな鳥の群れくらい、なのはと比べりゃ脅威でもなんでもないだろ?」

 

「うん、そうだったね。…………」

 

「ん?どうした?」

 

「……べつに。ただ、なのはとまたお話ししたいなって」

 

「そういえば、まだちゃんと会ってなかったな……」

 

管理局絡みの試験や煩瑣(はんさ)な手続き、地球での生活や学校編入のための繁雑(はんざつ)な各種書類申請や多岐に渡る勉強など、やらなければいけないことが椀子蕎麦(わんこそば)感覚で目白押しだったため、なのはと再会する時間を作ってやれていなかった。決して忘れていたわけではない。ええ、決して。

 

「生活が落ち着いたら家になのはを呼んで、ついでに他の奴らも一緒に呼んで、盛大にパーティでもしようぜ」

 

「うんっ、楽しみ。それならこのくらいの壁、乗り越えないとね。……任せて、もう大丈夫。できるよ」

 

「ああ、任せるよ。だからサポートはこっちに任せろ」

 

もう怯むような様子はない。いつもの、頼りになるフェイトだ。

 

「バルディッシュ。システムの中、ちょっと失礼するぞ」

 

『狭いところで大変恐縮ですが、どうぞいらっしゃいませ』

 

「すぅ、はぁ……。フォトンスフィア、展開」

 

フェイトの術式が始動する。

 

金色に輝くフォトンスフィアが大量に生成され、周囲に広がっていく。

 

俺はバルディッシュを介して実行される術式の演算に侵入して並列的に演算補助。同時に術式のプログラムを見直し、今のフェイトに適した配列にオプティマイズする。

 

演算を協力して行うことでこの大規模術式の第一の障害である準備時間を改善。術式に手を加えることで第二の障害である魔力消費量を緩和。

 

「次は……目標の捕捉」

 

サーチャーのプログラム配列にとある魔法を書き加え、周囲にばらまく。

 

ターゲットである椋鳥(むくどり)の座標を正確に把握し、サーチャーとフォトンスフィアを同期させることで第三の障害である命中精度を向上。無駄弾を減らす。

 

改良の余地はまだ残っている。次だ。

 

「んっ……と、とお、るっ……。な、なに、を……っ」

 

「魔力伝達時にロスがないように、俺がフェイトの中に入って最適な形に魔力圧を調整して省力化してる。と同時に俺とフェイトのリンカーコアを魔力で結んで共有もしてる。緊張しないで心を開いて全部任せろ。フェイトはフェイトの全力を発揮してくれりゃいい」

 

フェイトは片手でバルディッシュを握り締めながら、もう片方の手は俺の胸元の服を掴んでいた。上気した顔で、涙を蓄えた目で、俺を上目に仰ぎ見る。

 

「な、なんだか……お腹の奥のほうがもぞもぞ?する……っ」

 

「……し、次第に慣れるから頑張って」

 

時折漏れる甘く熱い吐息は意識しないよう意識してシャットアウト。

 

魔力圧の微調整と、術式の適時最適化による魔力の節約・消費の低減。並列演算補助による魔法構築の高速化。これらの工夫とフェイトとバルディッシュの粉骨砕身の尽力もあり、平常時を大きく下回るコンディションの中、本来三十八基だったフォトンスフィアを四十五基まで増設し、展開完了までの時間を三十パーセント近く短縮した。人間死に物狂いで取り組めば、限界や常識なんて案外飛び越えられるものである。

 

「ふふっ、あははっ。すごいね、徹と一緒ならなんでもできそうだよ」

 

『ご自身の魔法を行使してなお他の術式にリソースを回せる演算能力、顕微鏡で作業をしているかのような芸術的とさえ表現出来る精緻な魔力コントロール……人間の域を超越しています。素晴らしいという言葉すら空々しいでしょう。率直に驚嘆に値します』

 

「はっは……そうかい、ありがとよ」

 

二人とも褒めてくれていたが、俺としては大広間であれだけ動いていてなおもまだ残っているフェイトの魔力量や、これだけの規模で術式を編める魔法適性にこそ感服する。バルディッシュの演算速度と精度にも愕然としたものだ。

 

「……しかし、もはやこれはファランクスシフトとは別のものになりそうだな」

 

「名付けるとしたら?」

 

「ストームシフトってのはどうだ?」

 

『小鳥一羽残さず根こそぎ吹き飛ばす……効果に即した良い名かと』

 

「くすっ、不思議だね。徹が近くにいるだけで、ちっとも怖くない。すこしも負ける気がしないよ」

 

「そりゃ誇らしい限りだ。とはいえ俺も、これっぽっちも負ける気がしねえけどな」

 

鳥の姿がはっきりと視認できるほど、接近してきている。目は爛々と血走り、鋭利な(くちばし)からは耳を刺すような叫声が溢れ、翼が空気を叩きつける音は幾重にも重なり爆音にも似て、ナイフのような鉤爪は鈍く陽の光を反射させていた。そんな鳥が集まり、群れて、覆い被さって、まるで一つの巨大な生物のような威容だ。あまりの数に、遥か下、地面に大きな影を落とすほど。

 

威圧されてもおかしくないはずの迫力。だというのに、身を竦ませるような恐怖は感じない。

 

可能な限り引き寄せて、一気に、一息に、撃滅する。

 

「そろそろだ……やるぞ!フェイト!バルディッシュ!」

 

「うんっ」

 

『Yes sir!』

 

力強く応じる二人の声を追い風に、即座に起動する。

 

T()()F(フェイトによる)共同演算型大規模術式。フェイトの魔法による圧倒的物量と、俺の補助による精密射撃。

 

「疾風、迅雷っ……」

 

「全身、全霊っ!」

 

「フォトンランサー」

 

「ストームシフト!」

 

『Photon lancer storm shift, stand by ready!』

 

俺とフェイトを中心として広がった金色に輝く球体は、火を噴く瞬間を、獲物を食い散らす許可を、今か今かと待っていた。

 

そして、撃鉄を下ろす。引き金を引く。

 

荒れ狂う魔力の楔を解き放つ。

 

「撃ち砕け!」

 

「吹き荒べ!」

 

『Fire!』

 

魔法の封を解いた瞬間、目の前が真っ白に染め上げられた。

 

それもそのはず。

 

総数四十五基のフォトンスフィアから、秒間七発の連射が実に四秒間持続される計千二百六十発ものフォトンランサーの一斉射。全てを洗い流す掃射。まさしく魔力弾の暴風雨(ストーム)

 

魔法を行使した位置からでは、フォトンスフィアのマズルフラッシュが、フォトンランサーが射出された際の閃光が、一時的に術者の目を潰す。本来のこの術式の命中精度が良くない理由はここにもありそうだ。

 

あたり一帯、鳥の群れをぐるりと包むようにサーチャーを配しておいてよかった。サーチャーからの視覚情報を参照してフォトンスフィアの角度を小刻みに変更していく。

 

視覚情報をただ送信するだけの通常のサーチャーであれば、発射体四十五基の照準を制御して命中させるなんて芸当はできなかっただろう。鳥の数が多いので基本的に撃てば当たるとはいえ、外してもいいような弾は一発もないのだ。神経を擦り減らしながら調整する。一発で何羽巻き込めるか、どれだけ被害を広げられるかが要なのだ。

 

そんな無謀にも似た無茶な精密射撃を実現可能レベルに引き上げてくれたのは、サーチャーのプログラムに組み込んだ一つの魔法。鉱山に入る前に視た、ランちゃんが使っていた射撃補助の術式だ。標的への距離とレティクルが表示されるだけの魔法だが、その効果によりスフィア一つあたりの演算処理が簡略化できた。おかげで嵐が吹き止むまでの間、超高速演算状態(テンポルバート)を維持することができたのだ。

 

閃光瞬き、空気を裂き、一発一発が正確無比にして冷酷無慈悲に鳥の土手っ腹に刺さる。魔力的ダメージと電撃を深々とその身に受けた鳥は、ぴくぴくと痙攣するように次々と墜ちていく。

 

荒れ狂う嵐の後。一掃開始から数秒後、金色の嵐に揉まれてもまだ空にいた鳥は十羽もいなかった。

 

「六、七……ちっ。八羽残ったか。照準の調節が行き届かなかった……数発外した」

 

「ちょっと、徹……すごいっ、すごいよ!自分の魔法なのに、こんな繊細な使い方ができるなんて知らなかった!」

 

「おお……テンション高いな。慣れと訓練は必要だろうけど、やろうと思えばできるってことだ。……ただ、あー、ちょっとまずいな……」

 

「どうしたの?」

 

「音と光に誘われて他の生き物も寄ってきやがった」

 

大きな椋鳥(むくどり)みたいな群れはほぼ全滅。生き残った数羽は狂乱するように潰走した。

 

だが、群れを屠るために行使したストームシフトは激烈な音と光を周囲一帯に響かせた。付近にいた生物を呼び寄せても仕方がない。

 

「っ……はやくランたちを呼んで、船に……」

 

「……いや、間に合わない。フェイト、魔力の残りは?」

 

「もう……飛行魔法で精一杯。あとは残ってるスフィアを集めてどうにかするくらいしか……」

 

「スフィア……これだっ!」

 

「なにか思いついたの?」

 

「ああ、成功する可能性は高い。失敗した時は、もうどうにもなんねえかもだけど」

 

「大丈夫だよ、徹なら」

 

「はは、ありがとフェイト。もうちょい、手伝ってくれるか?」

 

「うん、がんばるよ」

 

一秒たりとも迷わずに首肯してくれたフェイトに感謝しつつ、準備を始める。まだ浮遊しているフォトンスフィアを掻き集め、練り上げて、再び形にする。

 

最後の一手を準備しながら、俺は考えていた。

 

そもそも、不可思議というか違和感というか、気になっていたことがある。

 

なぜ鳥の群れは明らかに食べられそうにない管理局の艦船、輸送船を襲っていたのか。

 

そしてもう一つ、鉱山に入る前のこと。草原でとかげもどきと遭遇した時。とかげもどきは目の前にいる俺よりも、少し離れていたランちゃん、アサレアちゃん、クレインくんを狙った。俺がとかげもどきの視界にも入らないほどの雑魚だということなのかと憤ったものだが、しかし、この世界の特徴と魔法生物の生態を学ぶと一つの仮説が浮かんでくる。

 

この世界の生物は魔力をより多く蓄えたものこそが勝者だ。魔力を効率的に運用できてはじめて、生存競争を勝ち残れる。それゆえに、より強い魔力を感じられる方へと本能的に向かっていくのではないか。だとするなら、俺一人より複数人で固まっている方へ目を向けるのはごく自然とも言える。必ずしも俺がしょぼいというわけではない。

 

あくまで仮説だが、試す価値はあるし、やらなければ部隊員全員が無事に辿り着けない。可能性があるのなら、やるべきだ。

 

先程のストームシフトで頭が熱を持っているのを自覚するが、これが最後の仕事だ。弱音を吐きそうになる心に踏ん張れと鞭を打つ。

 

「収束、収束……なのはがやってたあれを思い出せ……」

 

魔力の残滓を引っ張り、一つに収束、集積、集約する。なのはは天性の資質で自然とやっていたが、模倣して参考にして下地にして、結果的に近似値を叩き出すことなら俺にもできる。

 

まずはあえて自分の魔力をコントロール下に置ける範囲で周囲に散布する。自分の魔力が溶け出し、スフィアや空気中の魔力残滓と混じり合わせられれば、あとは感覚的には糸を手繰り寄せるようなイメージだ。

 

引き寄せ集め、練り上げ固め、魔力の塊を作り出す。この魔力塊をフェイトの雷槍に組み込む。これなら効率よく、かつ短時間で最大限の出力を期待できる。

 

「す、すごい……」

 

努力と工夫のほどを実感できたようで、フェイトがぽそりと呟いた。

 

「ここから、仕上げだっ……っ!」

 

集約された魔力を食んで形作られた槍は膨張して肥大化している。ここから更に圧をかけ、フェイトが取り回ししやすいサイズに再構成。

 

無駄に大きくある必要性はない。あくまで必要なのは、狙ったポイントへ放れる操作性と、逃げる暇を与えない速度。頑健な防御を貫く瞬間的な破壊力。見た目に派手な破壊力こそが今最も重要だ。

 

「これが……今の最高だ。フェイト、投げろ」

 

「で、でも……いろんな方向からきてるよ?一番大きいのを狙えばいいの?」

 

くるりと、全方位から迫る生き物たちを確認したフェイトが言う。

 

迷うフェイトに、俺はただ一点を指し示す。

 

そこは輸送船とは反対の方角の地面。

 

「大きな鳥に向けなくていいの?」

 

「ああ、いいんだ。やってくれ」

 

せっかく最大限に集約した雷槍を、なぜなにもないところに投擲するのか。おそらくそんな疑問は浮かんだだろうが、フェイトは戸惑いながらも頷いてくれた。

 

「スパーク……っ」

 

腕を掲げ。

 

「……エンド!」

 

振り下ろした。

 

ただそれだけで、飼い主から命令を受けた忠実なる金色の下僕は一直線に飛翔する。空を翔け、空気中の塵や埃を焼き払って通り道に火の尾を残し、フェイトが目掛けた地点にまさしく目にも留まらぬ速度で突き刺さる。と、同時にスパークを撒き散らして大爆発した。

 

「うっお……豪快だな……」

 

まず俺たちに浴びせられたのは大音量の爆発音。まるで壁のように広がる耳を(つんざ)く音が通り過ぎたかと思えば、全身を打ち付ける衝撃波。和太鼓を力一杯叩いた時のようなびりびりとした感覚を百倍強くしたような衝撃波が、かなり距離が離れていたはずの俺たちにまで届いた。

 

爆発によって巻き上げられた砂煙と砕かれた石や岩が、まるで火山が噴火したかのように散乱飛散する。

 

噴煙立ち込める中でもわかる。地面には、巨人が拳で殴りつけたかの如き大穴がぽっかりと大口を開けていた。穴の奥に薄らと見えるのは、水だろうか。地底湖でもあったのかもしれない。上部の岩盤を容易く貫通し、その下にあった地底湖まで雷槍は食い込み、蓄えられていた水を瞬間的に蒸発させ水蒸気爆発を引き起こしたのだろう。

 

俺はわかりやすさを求めてフェイトに狙わせる場所を指示したのだが、岩盤を砕くとも、その下に地底湖があるとも思わなかった。知らなかったこととはいえ、被害規模が物凄いことになっている。

 

さっきの雷槍を多少下回るとはいえ、ファランクスからの雷槍のコンボを力づくの正面突破で防いだ魔導師が実在することには、戦慄を禁じ得ない。しかもそれが齢九歳の女の子(なのは)だというのだから、もうなんか一周まわって笑いさえ込み上げてくる。

 

「っ、はぁっ、ふぅ……。言われた通りやったけど……これでいいの?」

 

「おっけ。よくやった。みんなを呼んで船に乗ってさっさと帰ろう」

 

「でも鳥が……あれ、こない?」

 

俺とフェイトに近い方角から飛んできていた鳥や馬鹿でかい虫も、まるで誘蛾灯に惹きつけられるように俺たちを見向きもせず雷槍が着弾した地点へと我先に向かっていた。

 

俺の予想は、どうやら正しかったようだ。

 

「ここの生き物は魔力に引き寄せられる。いくつか魔力の反応があればより強い反応にな。もう戦えるほどの魔力は俺たちに残ってないから、さっきの雷槍は奴らの本能を欺く上等な餌ってわけだ」

 

「そうだったんだ……まったく気づかなか……っ!」

 

喋っていた途中で、唐突にフェイトの魔法が不安定になった。がくんと高度が下がる。

 

「お、おいフェイトっ!」

 

落下する前に抱きかかえる。そうしてようやく、フェイトの疲労の深さを知った。

 

「ごめんね、徹……。ちょっと、疲れちゃった……」

 

「いいんだ、フェイト……俺こそ悪い。頼りっきりになっちまった」

 

「ううん、いいんだよ。仲間、だもんね。頼ってくれて、私嬉しいよ」

 

冷や汗をかいて、呼吸を荒くして、それでもフェイトは気丈に微笑んでみせた。

 

いくら効率よく展開しても、省エネルギーに勤しんでも、どうしたって限界はある。

 

回復しきらないリンカーコアと、短い休息のせいで戻らない体力。度重なる戦闘で磨耗していく集中力。万全とは程遠い体調で大規模術式を使えば、魔力も気力も体力も底をつくのは明白だ。気が回らなかった自分に腹が立つ。

 

それでも、フェイトは命綱である飛行魔法が不安定になるほど、意識が途切れそうになるほど、空っぽまで力を尽くしてくれたのだ。その健気な姿勢に、献身的な精神に敬意を表するとともに、感謝する。

 

包み込むように抱える。金色の髪に顔を埋める。

 

「ありがとうな……助かった。あとはやっとくから、今は休んでてくれ」

 

「うん……任せ、るね……」

 

風音でも搔き消えそうなほどの声を漏らすと、細く脆い身体から力が抜ける。軽いけれど、確かに腕にかかる暖かな重みを感じた。

 

「っと、危ねえ。バルディッシュもお疲れ」

 

フェイトの手から滑り落ちるバルディッシュをなんとかキャッチした。

 

話しかけると金色の球体部分がぴかぴかと明滅する。

 

『お疲れ様です。ご一緒できて光栄でした』

 

「俺もだよ。さすがに優秀だ、助けられた。ありがとう。なんかお礼するよ」

 

『お構いなく、仕事を果たしたまでですので。……ですがやって頂けるのでしたら、お手隙にでも磨いて頂けると望外の喜びです』

 

「はっは、おっけおっけ。オイルも込みできっちり綺麗に磨いてやるよ。さて、フェイトが休んでる間は俺が預かっとくから、よろしくな」

 

『はい。お任せ致します』

 

バルディッシュがそう発生すると、球体から光が溢れ出した。閃光がひと瞬きすると、バルディッシュの形状が変わり、二等辺三角形のような形になった。

 

落っことさないようにしっかりとしまって、鉱山を見やる。

 

「さっさと船に向かうか……。餌にいつまでも引っかかってくれるとは思えないしな」

 

鉱山の頂上で待機しているはずのランちゃんたちに念話を送る。

 

『これから短時間なら生き物たちに目をつけられない。今のうちに船に乗り込むぞ』

 

 

 

 

 

 

「……ちゃん、とお……起き……」

 

「……っ、んあ?」

 

記憶が飛んでいる。どうやらいつのまにか寝ていたらしい。

 

妙に両腕と足が暖かく心地良かったが、声をかけられながらゆらゆらと揺すられたので、仕方なく重たい瞼をこじ開ける。

 

「もうすぐ着くわぁ。起こしたくはないけれど徹ちゃん、起きてねぇ」

 

間近にランちゃんの顔があった。おかげで微睡(まどろ)みたい欲求も眠気も吹っ飛んだ。

 

「うおおおおはよう!」

 

「ええ、おはよう。できればゆっくり休ませてあげたかったけれど、もうすぐ到着するから降りる準備しておかないとねぇ」

 

「そっか。ありがと。……あれ、俺いつ寝たんだっけ?」

 

「寝たっていうか……寝落ちしてたわねぇ」

 

ランちゃんから教えてもらったところによると、安全を確保して輸送船にみんなで乗り込むや、俺は糸が切れたようにばたりと倒れ込んだらしい。

 

抱えていたフェイトまでばたんといってしまったのではと危ぶんだが、ちゃんとフェイトを押し潰さないよう仰向けに倒れ込んだようだ。よくやった俺。

 

一時は船内が騒然となったみたいだが、俺がただ寝てるだけだとわかったら落ち着いたとのこと。輸送船内のバックドアランプ前で転がしておけないので、今俺がいる場所までランちゃんが担いで移してくれたようだ。壁を背もたれにして座って寝ていた。いらぬ手間をかけてしまって申し訳ない限りである。

 

そういえば結局なんだかんだで、やることや気になることが次から次に出てきてしまっていたせいで仮眠できていなかった。輸送船に逃げ込めたことで一気に気力のブレーカーが落ちたのだろう。

 

「悪い、すっかり寝ちまってた」

 

「いいのよぉ。今回も徹ちゃんに任せっきりになっちゃったもの。起きたのなら、次はその両隣と足元の子を起こしてもらえるかしらぁ?」

 

「両隣?うおっ……」

 

「すぴー……くかー……」

 

「すぅ……すぅ……」

 

「なんか暖かいなって思ってたんだ」

 

「起きなかったことにも驚いたけれど、気づかないことにもびっくりよぉ」

 

俺の肩に頭を置くようにして眠りこけているアサレアちゃんと、腕を抱き枕みたいにして器用にフランちゃんが寝ていた。目線を下げれば、俺の足の間に身体を挟むようにして、フェイトがすっぽり収まっていた。

 

本当によく目を覚まさなかったものである。

 

「とても心配していたわよ。フランちゃんもお嬢ちゃんも、クレインちゃんもね。疲れて眠っているだけってわかったら、今度は安心して徹ちゃんの隣で寝ちゃったのよ。徹ちゃんの邪魔にならないか心配だったけれど、その様子ならかえって良かったみたいね」

 

「ああ、ぐっすり休めたよ。ランちゃんは一人で起きてたのか、悪いな」

 

「いいわよん。ちょうど本も読み終えるところだったから。私は向こうでクレインちゃんを起こしてくるわぁ。そっちの三人はよろしくねぇ」

 

ランちゃんが一人静かに寝息を立てているクレインくんに向かったのを見て、俺も三人を起こす。

 

「おーい、起きろー、もうすぐ降りるみたいだぞー」

 

「おきる、おきるってば……おき……」

 

「うにゅ……んっ、んん……」

 

「すぅ、すぅ……」

 

「……誰一人として起きねえ……」

 

小さく反応はしたものの、目覚めることはなかった。ちなみに寝言はアサレアちゃん、フランちゃん、フェイトの順だ。

 

寝起きが悪いアサレアちゃんは覚悟していたが、まさかフェイトまでだめとは。それだけ魔力を使い切った疲労は根深いということか。

 

心を鬼にして三人を強めに揺らして、どうにか自分で座れるくらいまで覚醒させる。目元をこすったりあくびしたり背伸びにしているうちに、輸送船が船着場に接岸した。

 

一眠りしたことでスタミナが戻った俺は、みんなのぶんの荷物を背負って船を降りる。

 

今回の任務は体力的にも魔力的にも大変厳しかったためか、さすがに船を降りてからもみんな元気がなかった。

 

まだ睡魔に取り憑かれている様子だったアサレアちゃんはしばし寝惚けて俺の腕を掴んでいたが、(アサレアちゃん)よりかは体力を取り戻した(クレインくん)が手を引いて帰路に着いた。ちゃんと別れる際に挨拶をするあたり、できたお兄ちゃんである。

 

俺としてもクレインくんを見習ってこのまますぐに家に帰りフェイトとともに泥のように眠りたいが、まだやることが残っている。大事なことが、残っているのだ。

 

「ランちゃん。悪いんだけど、フェイトを送れるとこまで送っといてくんない?」

 

「え?ええ、それは構わないけれど」

 

「ランちゃんも疲れてるのにすまん」

 

「いいえ、徹ちゃんよりも休めてるもの。大丈夫よぉ。でも徹ちゃん、フェイトちゃんと一緒に暮らしているんでしょ?一緒に帰ったほうが手間はないんじゃないかしら?」

 

「俺はフランちゃんのことでちょっと話をしに行かなくちゃいけないからな」

 

俺の左手を握って、こっくりこっくり銀色の頭を揺らす少女に目をやる。少女といってもそれは外見年齢であって、実年齢は俺たちの誰よりも年上なのだが。

 

「前の任務のノルデンフェルトさんを訪ねるのよね。それなら時間もかかるでしょうから、フェイトちゃんは先にお家に帰って休んでいた方がいいわねぇ」

 

「つまりそういうこと。じゃ、フェイト、ランちゃんが送ってくれるからついていって先に帰っててくれ」

 

「……徹と帰る」

 

「どれだけ時間かかるかわかんねえから、先に帰っとけ。もう起きてるのもつらいだろ?」

 

「……ん、わかった」

 

「じゃ、ランちゃん頼むな」

 

「ええ、頼まれました。今回も助かったわぁ、ありがとねぇ。また一緒にお仕事できる日を楽しみにしてるわぁ。あ、前に渡すの忘れちゃったけれど、これ私の連絡先よぉ。なにかあったら気兼ねなく連絡ちょうだいね?」

 

「ああ、ありがとう。俺のほうこそ助かったよ、またな」

 

ふらふら、と笑顔で手を振って、ランちゃんは半分寝ているフェイトの手を引いて歩いていった。

 

「……さ、フランちゃん、行こうか」

 

「どこに行くの、王?」

 

「フランちゃんがこれから生活するために、諸々のことを知り合いに相談しに行くんだ」

 

「わたし、王と一緒にいられないの?」

 

「……わからない。どうするべきか、どうしたほうがいいのか、なにができるのかも相談してみよう」

 

ありのままそう伝えると、俺の手を弱々しく握るフランちゃんは少し悲しげな瞳で小さく頷いた。

 



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その言葉だけで、

「ふむ、軽く調べてみたところ、指名手配などはされていないようだ」

 

「そうですか……よかった」

 

アポなしの電撃訪問にもかかわらず、ノルデンフェルトさんは時間を作って会ってくれた。

 

とりあえず今回赴いた世界での任務、そして結末のあらましを説明して、目下一番気がかりだったことを調べてもらった。

 

それは『陸』の管理局員で、かつ立場の高いノルデンフェルトさんは適任だった。

 

「姿を見せていなかったからだろう。証拠はない、誰に襲われたかもわからない、では指名手配はできないさ」

 

『陸』の局員がオンタデンバーグの鉱山に入った時『陸』の魔導師とフランちゃんは戦闘になっている。いかに知らなかったこととはいえ、危害を加えていることには違いないので何らかの罪に問われているのではと危惧したのだ。杞憂で済んでよかった。

 

気がかりはフランちゃんのことと、もう一つ。

 

「『フーリガン』のほうは……」

 

「君たちの行った世界での『フーリガン』の行為についての罪状は含まれておらんな。やはり最初に事件を発見したのは君たちのようだ」

 

「そう、ですか……」

 

「……聡い君のことだ。もう理解はできているだろう。気持ちはわからなくもないが、この件については明らかにしないほうが『君たち』にとって好都合だろう。……感情を押し留め、清濁併せ呑むことも大事だよ。……仮令(たとえ)、それが納得できることでなくとも」

 

「ええ……そうですね。私的な怨恨や復讐心でフランちゃんの立場を脅かすなんて、間抜けが過ぎて滑稽です。奴らには、他にも立件するのに充分すぎるほど証拠が揃った余罪が、それこそ山のようにありますから」

 

オンタデンバーグで『フーリガン』によって行われた国民大虐殺。それを事件として立件して『フーリガン』によって行われた罪だと報告し、重い刑罰を受けさせたいが、事件として報告するとなると詳細に状況を説明しなければいけなくなる。無論、犯行の瞬間を俺が目撃したわけではないので唯一の生き残りであるフランちゃんによる証言が必要になる。

 

だがそうなると、今度はフランちゃんの存在が明らかになってしまう。奴らがどうやって住人を殺害したのか。鉱山への侵入方法について。『フーリガン』の犯行だという証明。なにより、フランちゃんがどうやって生き残ったのか。そうやって証言していく過程で、ゴーレムを創り出す魔法で『陸』の魔導師と戦ったことに感づかれるかもしれない。そこから重箱の隅をつつかれると分が悪い。

 

フランちゃんが傷害なり公務執行妨害なりの罪を訴えられることは、状況を鑑みてほぼないだろうが、リスクは芽のうちから摘んでおきたい。

 

人間性や倫理観が狂っていると後ろ指を指されようと、すでに失われた国と、フランちゃんのこれからの平穏な生活のどちらかを選ぶのならば、俺は迷わず後者を選ぶ。

 

もちろん、いずれ必ず『フーリガン』の連中には所業に(あがな)うだけの苦痛と罰を与えると心に誓いはするが。

 

「それで、話の主題だ。そちらの身寄りのない少女についてなのだが」

 

「……少女」

 

「どうしたね?」

 

「えっと、少女、んー……少女にしか見えないんですけど、少女じゃないんです」

 

「……どういうことかね?少年……にはとても見えないが」

 

「もちろん女性ですよ、性別は。ただ成人しているだけです」

 

苦笑いしながら首を傾げるノルデンフェルトさんに言う。

 

ちらりと目配せすると、フランちゃんがこくりと頷いた。ここまでずっと横一文字に閉じていた唇が開かれる。

 

「二十三歳」

 

「……十三歳かね?」

 

「聞き間違えたかなって思うのもわかるんですけど、二十三歳だそうです」

 

「な、なんと……不思議なことも、あるのだな……」

 

「そう?これがふつう」

 

「そ、そうか……失礼した。しかし成人女性であるのならまだ手続きは簡単になりそうだ。問題はどこで生活するか、だが」

 

「……王、と一緒がいい」

 

「王とは?」

 

「えっと……俺のあだ名みたいなもんです。俺と一緒がいいってずっと言ってるんですけど、どうなんでしょうか?」

 

実際、俺が預かることも考えはしたのだ。家の部屋は余っているし姉ちゃんもまず渋りはしないだろう。俺のところの世界では魔法を使っちゃだめという制約はあるが、そこさえ我慢できれば暮らしてはいける。今のところ経済面でも苦労はしていないことだし。

 

しかし、身寄りのない人間を引き取るということは、存外に煩雑(はんざつ)(しがらみ)があるようだ。

 

ノルデンフェルトさんの表情が曇る。

 

「管理外世界となると……少し厳しいかもしれん。魔法技術が周知されていないということで時空管理局の目が届かない、という認識として扱われるのだ。嘱託ではなく正規の局員であれば、責任の所在を明らかにして一任してもよいと許可が下りるかもしれないが……。私の責任で君に委任するという形にできればよかったのだが、管轄や役職の関係上それも難しい……力になれず、すまない」

 

「い、いえ……今でもすごく助けて頂いてるんですから、これ以上もたれかかるわけにはいきません。その気持ちだけで……充分ですから」

 

そう、嘱託では後見人や身元引き受け人などの立場になれない。

 

俺の肩書きでは『ある程度』は信用されるが、裏を返せば『ある程度』までしか信用してもらえないということ。一般市民よりは多少ましといったところだろう。それほど労なく免許を取れることもあってか、法的な手続きを介さなければいけない場では効果を示さない。ほとんど役には立たない。

 

フェイトとアリシア、アルフを俺の家で預かることができているのも、法的な責任者の欄にクロノやリンディさんの名前が記されているからである。書類上、俺はあくまで『友人』として住環境を提供しているに過ぎないのだ。

 

「…………」

 

本来は学業に専念しなければならない身の上なのでどうしようもないことなのだけれど、こういう時、己の力のなさを痛感する。

 

「逢坂くんのもとで生活させるのは難しいが、住む場所なら心当たりがある」

 

「本当ですか?!」

 

「うむ。私の旧友、アルヴァロ・コルティノーヴィスの嫁と娘が、近隣世界の孤児院にいる。嫁の方はそこで働いてもいる。住居と職場を兼ねているのだ」

 

「ジュリエッタちゃんの……。ですけど、フランちゃんの身分証明とかって……」

 

「それは新たに発行するしかないな。というよりも、そもそも管理局に認知されていない国から訪れているのだから、最初から持っていないだろう」

 

「それって簡単にできるものなんですか?」

 

「新規発行となれば少々説明に費やす書類申請が面倒だが、言ってしまえばその程度だ。あとは発見、保護した人物の欄に君の、書類を確認した、証明者の欄には私の名前を記入すればよい」

 

「……前に引き続き、今回もありがとうございます。お世話になります」

 

「構わないさ。乗りかかった船でもあるし、友人が困っているのだからな。ともあれ、すべては彼女の気持ち次第だが」

 

そう、なのだ。

 

いかに提案しようと、フランちゃんが拒めばそれまでだ。

 

ここまであまり意思表示がなく、唯一見せた積極的な意思表示が俺のもとがいい、というものだった。

 

ただでさえ家族、親戚、知り合い、友人、どころか国まで失ったのだ。故郷から着の身着のままここまできた。何もしてあげることができない以上、可能な限り彼女の気持ちを優先したい。

 

ここまで黙していたフランちゃんを見やると、つぶらな瞳が俺を見つめていた。輝くような(しろがね)の虹彩に、今は不安の色が滲んでいた。

 

「王は……そっちのほうが、いい?」

 

『そっち』というのが何を示すのか少し迷ったが、ノルデンフェルトさんの提案のことを指しているのだろう。

 

「俺はフランちゃんの意思を尊重するよ。フランちゃんが行きたいところでいいんだ。俺は、フランちゃんの選択を叶えられるよう努力するから」

 

彼女が行きたいところへ行けるよう努力する。それはオンタデンバーグでフランちゃんを保護して連れてきた俺が果たすべき最低限の責任だ。地球で暮らすのもクロノやリンディさんに頼み込んで助言や助力を仰ぐという正攻法な手もあるし、管理局のデータバンクにハッキングして資料をいじくるという非合法な手だってある。フランちゃんの気持ちに応えるためならば多少のリスクくらい喜んで引き受けてやる。

 

そう内心息巻いていたのだが、俺が思うより、そしてやはり外見以上に彼女の精神は大人であった。

 

「わたし、王と一緒じゃなくても……大丈夫」

 

「ほ、本当に?無理する必要はないんだぞ?」

 

「……いい。大丈夫。王には、たくさんめいわくかけたから、もう……大丈夫」

 

口でそう淡白に言うわりに、表情は強張っていた。

 

でも、たしかに彼女は微笑んで、心配ないよと伝えようとしていた。

 

「そう、か。……わかった」

 

フランちゃんの気遣い、その優しさを、意固地に否定するのは(かえ)ってフランちゃんに失礼だ。

 

その気持ちを受け取っておく。それが正しいと信じる。

 

受け取り、信じた上で、俺は俺のできることで彼女の支援をしてあげられるように努力しよう。

 

「ノルデンフェルトさん、ここからさきほど言われてた施設って近いんですよね?」

 

「ああ、何時間とかからない距離だ」

 

「そっか……ありがとうございます。……フランちゃん」

 

「……なに?」

 

溢れ出しそうな気持ちに蓋をしているような、意識して感情を表に出さないようにしているような、端的で平坦な声。

 

寂しげな、瞳。

 

「なるべく顔、見に行くから」

 

「っ……」

 

そう伝えた。

 

これでお別れじゃない。もう一生会えないわけじゃない。また、すぐに会える。そう伝えたかった。

 

ただ、フランちゃんにとってはあまりに重い言葉だったようだ。

 

必死に(こら)えていたのだろう。我慢していた感情の奔流が溢れ出してしまった。ぽろぽろと、涙が次から次へと流れ出しては止まらない。一度溢れてしまえば、もう歯止めは利かなかった。

 

「うぐ、っ……イッヒメヒトミッズィ……ひっく……ズザン、ブライブ……」

 

弱音を吐かないようにと閉じていたフランちゃんの口が、思わずといったように動く。

 

あなたと一緒にいたい(イッヒメヒトミッズィアズザンブライブン)。震える声で紡がれたそれにどう答えるべきか逡巡した俺に、フランちゃんは続ける。

 

「っ……すぐ、ひっく……会いに、きて……ぐすっ」

 

フランちゃんは、今度ははっきりと俺に伝わるように言った。

 

さっきの零れ落ちた本音は、フランちゃんの心の中に留めていたものなのだろう。意図して口に出したものでは、おそらくない。ベルカ語で発せられたあの言葉は、無意識下で口をついて出たからミッド語に翻訳されなかった。

 

きっとフランちゃんは、自分にずっと言い聞かせていたのだ。

 

俺の迷惑になるからと、もうこれ以上世話にならないようにと、ずっと感情を抑えつけていたのだろう。ずっと堪えていたのだろう。

 

しかし俺には何の権限もない。問題が発生した時、責任も取れない。無理を通そうとすれば、俺以外の誰かに責任を押し付けることになってしまう。

 

彼女の身元を引き受けることは、できない。

 

今は、俺のいない所でも頑張れるというフランちゃんの言葉と気持ちを頼りにさせてもらうことしかできない。

 

悔しさと無力感を呑み込んで、フランちゃんに別れの言葉を贈る。

 

「……すぐ顔を見に、声を聞きに行く。元気でやるんだぞ?向こうの人たちと、ゆっくりでもいいからお喋りして、ご飯いっぱい食べて、あとちょっとずつでもいいから運動もできるようにな」

 

「ふふっ……ぐしゅ、うん……がんばる」

 

雫を落としながら、それでも笑ってくれた。

 

ノルデンフェルトさんは背を向けて、俺たちが喋りやすいよう配慮してくれていた。『陸』の人たちがみんなこの人くらい真面目で、心優しく、気配りができればいいのに。

 

「……王」

 

「ん、なんだ?」

 

くい、と控えめにシャツを引かれる。屈め、ということらしい。

 

その命令に従って、中腰くらいに姿勢を下げる。

 

すると、思いがけない素早さと躊躇のなさで俺の顔に手が伸ばされ、また、彼女自身も近づいた。

 

「王……イッヒダンケイマーンディッヒ」

 

「っ……」

 

イッヒダンケイマーンディッヒ(貴方のことをずっと想っています)。そう言われるや、同時に頬に柔らかくて温かい、ぷるぷると水気のある感触。

 

感情が昂るとベルカ語を喋る方のフランちゃんが顔を覗かせるのか。これは人格解離の影響なのだろうか。この妙な積極性は二次的人格のフランちゃんに共通するものがある。

 

驚きのあまり言葉が出ない俺に、フランちゃんは。

 

「王……わたしの王(マインクーニヒ)……助けてくれて、ありがとう。地獄から救ってくれて、ありがとう」

 

未だ止めやらぬ涙も、濡れそぼつ頬も気にせず、彼女は俺にミッド語とベルカ語を混在させながら感謝を告げた。

 

その言葉は、

 

「あ……」

 

俺の心に、強く響いた。

 

ふと、ジュリエッタちゃんの時を思い出す。

 

助けにはなれた。でも本当の意味では救えなかった少女のこと。

 

胸が締めつけられるのと同時に、熱いものがこみ上げる。

 

「俺の、ほうこそ……っ」

 

細い、むやみに力を入れれば壊れてしまいそうなほど細い身体を抱き締める。

 

『救われた』

 

その言葉に、俺のほうが救われた気がした。俺の、いや、俺たちの努力はちゃんと意味があったのだと言ってもらえた気がした。報われた気がした。

 

正しいことだったのか不安だった。俺の自己満足や、欺瞞(ぎまん)や、偽善を押しつけてしまっていたのではと、不安だった。こうして言葉で示してもらえて、形で表してもらえて、ようやく誰かの力になれたのだと実感できた。

 

「あり、がとう……っ」

 

この仕事は、悪事を働くならず者を逮捕すればいいというだけの仕事ではない。自分の力ではどうしようもない時だってある。手遅れになる時だってある。自分の判断が正しいかどうかもわからなくなるし、みんながみんな幸せな結末を迎えられない時だってある。

 

厳しい事を言われる時もある。辛く苦しい時だって、泣けてくる程に多い。

 

『全力を尽くしてもどうにもならないことなんて、いつだってある』

 

クロノがいつか言っていたことだ。過ぎ去った過去に対する諦念にも似た表情を浮かべながら。

 

そこまで苦労してるのに、そこまで苦しんでいるのに、なぜ管理局の仕事を続けているのかと疑問に思ったこともあった。

 

その答えがきっと、こういう瞬間なのだろう。

 

そう言ってもらえた瞬間の、胸の内から溢れ全身を駆け巡る名状しがたい温かな感情が、辛く厳しい仕事を真摯にまっすぐに続けていける原動力に、きっとなっているのだ。

 

「助けさせてくれて、ありがとう……救われてくれて、ありがとう……っ」

 

 

 

『助けてくれて、ありがとう』

 

 

 

その言葉だけで、俺はまた頑張れそうな気がした。

 

 

 

 

 

 

「……遅いですよ。何をやっていたのですか?」

 

『あっは、こりゃあ失敬。少々仕事に追われていたんですよ。ようやく形になりそうなんで』

 

照明の落とされた暗い部屋、モニターに向かってアロンツォ・ブガッティは眉を(ひそ)めた。

 

「時間は決めていたでしょう。合わせて頂かなければ」

 

『すんませんすんません』

 

ブガッティに咎められた相手は、しかし悪びれる様子もなく軽い調子で謝るのみ。

 

通信の相手は毎度そんな態度なのか、ブガッティは乾いた溜息を一つ吐いて、続ける。

 

「……それで、進捗は?」

 

『ええ、そいつは(つつが)なく。穴を埋めることも、まあなんとか目処が立ってきましたからね。いやはや、大変でしたよ。いざ向かって、穴埋めに使えそうな術式を快く教えて頂けたとしても、それが実際役に立つかどうかは調べて確かめて当て嵌めてみなければわかりませんので』

 

「進めてもらわなければ私が困りますね。どれだけ時間と金と手間をかけたと思っているのですか」

 

『はっはっは。これは耳が痛いことですね。ですがこちらとしても、あなたの頼みを聞いて頑張っているわけですので、やはり必要経費は援助してもらわないと、ねぇ?』

 

「頼み?それは冗談のつもりでしょうか、笑えませんねぇ。……取引だろうが」

 

『やだなー、場を和ませるためのお茶目なジョークではありませんか』

 

「一対一の定期連絡に場も何もないでしょう。それに必要経費と?あなた方が動く度に、どれだけ私が事態のもみ消しに動いているとお思いで?誤魔化すのも火消しをするのも限度というものがあるのですがねぇ」

 

『どうせ決行する暁には、それはそれはど派手に動くんでしょ?なら構わないんじゃないんですか?』

 

「その前に露呈してしまえば全てがご破算になってしまいます。これは賭けなのですよ。ミスは許されない、理解しているのでしょうね。これだけ掛けたのですよ。元の木阿弥水の泡、なんてことにはしたくはありませんねぇ」

 

『わかっておりますってば。言われずとも、念押しされずともね』

 

「……外からそう見えれば私も安心できるのですけれどね。行く地行く街であなた方がどれだけ暴れているのか自覚がないのですか?『陸』の管轄ならばまだ、根の回しようも策の施しようもあるというものですが、『海』にまでは手が出せないのですよ。これ以上目をつけられないよう、自重して頂きたいものですねぇ」

 

『その(げん)やごもっとも。ふむ……しかしですねー、こちらの強みは弾数(たまかず)……ならぬ頭数でして。その数を一定数確保するとなると、やはり補充するための謳い文句が必要なんですよ。曰く……暴れたい人この指とーまれ、ってなもんで。その為に見たくもない汚い顔を見て団体行動しているわけですから、そこを抑圧してしまうと、最悪裏切りなんてこともありえます。例えゴロツキだとしても背中を刺される危険性を考えながらでは、おちおち研究もできません』

 

「……だから見逃せ、とそう言いたいわけでしょうか?面倒ごとはお前が片付けろと」

 

『そんな言い方をするつもりじゃあ、ありませんって。ある程度自由にガス抜きさせておいたほうが手綱は握りやすいってだけで。何人寄ろうと下種(げす)は下種ですが、一人の好士より三人の愚者と申しますれば、脅威とならないとも限りませんで』

 

「…………」

 

『内心複雑なところでしょうが、そんなゴロツキだからこそ潰しも替えも利きますし、心置きなく使い捨てにできるってなもんです。一長一短ですよ』

 

「……もう良いです。あとわずかの辛抱なのですからね」

 

『……ええ、まさしく仰ります通りで』

 

「例の場所、嗅ぎつけられてはいないのでしょうね」

 

『そりゃあ、もちろんです。そういう場所、見つけられない場所だからこそ、これまであれも発見されなかったのでしょうから。あなたには奇妙なほどに好都合でしょう。比較的近場で、環境的に発見されにくく、不審な物音を立てても疑われるほど付近に民家はなく、特殊な物資を送っても違和感がない程度に最寄りの街は発展している。いやはや、運命とはかくも戯れに絡み(もつ)れるものなんですねー』

 

「はっ……この短くはない期間で貴方のやり方、性格はある程度学ばされましたよ。貴方がそれっぽく含めて語る時は、大抵意味はない」

 

『はっはっは、これは手厳しい限りで』

 

「有用なことだけ伝えて頂いてよろしいでしょうか?あと、どれくらいかかりますか」

 

『そうですね、会話が成り立たないのでこれまでは難しかったのですが、ほら、あの提供して頂いた拘束具。あれが思いのほか便利に使えました』

 

「拘束具……犯罪者拘束用の首輪でしょうか?発声も制限するという」

 

『ええ、それです。こちらが教えたことができなければ首輪を通してショックを与えて躾をしました。今は言うことをちゃんと聞くようになりましたよ。あとはプログラムの微調整と、実際に使ってみて擦り合わせていく作業と、操縦桿(・・・)で出来上がり、ってなもんです。ただ一つ問題点がありまして、前に報告しました通りなんですけどね』

 

「ええ、はい。魔力が不足しているという話でしたか」

 

『その案件です。プログラム同様、本体にも不具合が発生しているようでして、どうにも調子が上がらないんですよね』

 

「そちらについては私が対策を講じています。不足分を補って余りあるほどのものを。無視して進めて良いですよ。それを踏まえて、あとどれ程で実用可能に至りますか?」

 

『そうですねー、あと数週間もあれば一応使えるようにはなるんじゃないかと目算を立ててはいるんですけど。ただ不安材料は、本体の耐用期間ですかね。発見した時からかなりのポンコツでしたんで』

 

「最悪、一度使えればそれでも構いません。こちらにも使える切り札があると示すことが肝要ですから。もちろん、長く使えることに越したことはありません。調整、抜かりなくお願いしますよ」

 

『はーいはいっと。(かしこ)まりましたよ』

 

「……それでは、今回はこれで。わかっていることでしょうが……」

 

『心配性ですねー。何かイレギュラーがあればその都度連絡を取る、てな感じの毎度お決まりの注意事項でしょ?承っておりますよってなもんで』

 

「…………それなら構いません」

 

これといった挨拶もなく、相手方の返答も待たず、ブガッティはぶつんと通信を切った。

 

「ふん、軽薄で無礼な輩め。もう少しで奴らを切れると思うと楽しみで仕方ない」

 

革張りのオフィスチェアに深く腰掛け、デスクの端に置かれていたティーカップに手を伸ばす。注がれていた紅茶は既に熱が失われていた。

 

ゆうるりと水面を揺らしていたブガッティの視線が、モニターの隣にある写真立てに移る。苦々しく顔を(しか)めて、深々と眉間に皺を刻んで、紅茶を胃に流し込む。甲高い音を打ち鳴らしてティーカップをソーサーに戻した。

 

「ようやく……もうすぐだ。もうすぐ、愚劣で蒙昧(もうまい)な低能どもを……」

 

忌々しげに恨みがましく、怨念に近い淀んだ感情を言葉に込めて、ブガッティはチェアを半回転させ振り返る。

 

そこには仰々しい機械が据え置かれていた。何にどういう用途で繋げられているのかわからないチューブやコード、重厚な金属の塊がある。

 

なによりも目を引くのは、それらの雑多な装置に囲まれた二つの透明な強化ガラス製の円筒状の容器。その容器を満たす液体。液体の中央付近を浮沈する二つの宝石。空色と夕暮れ色の、美しい宝石。

 

ブガッティは朽ちた大木の(うろ)のような黒く暗い眼窩(がんか)でその二つを眺めながら、口元に不気味に歪んだ笑みを貼り付けた。

 

「く、くくっ……。見返してやる……後悔させてやる……」

 

(きら)びやかな二つの宝石が発する力ない明滅だけが、黒よりも暗い闇に抗うように部屋を照らしていた。




気持ちよくすっきりとした話では終わらせられない。これはもはや僕の性癖なのでしょうか。

一ヶ月と少しの間、再びお付き合い頂きありがとうございました。
一年も間が空いてしまったのに待っていたと言ってくれた方々には、とても励まされました。本当にありがとうございます。

さて、とりあえず連日の更新はこれでお終いです。打ち止めです。もう空っぽです。書き溜めるのは時間がかかっても、投稿すると一気になくなってしまいます。
僕の書き進め方として、出来上がった分から逐次投稿する、という感じにできないのでまた再投稿するまでには時間がかかってしまうでしょう。もし待ってくれている方がいるのでしたら申し訳ないのですが、しばらく待っていてくださいとしか言えません。

今の幕間編は一応次の投下の分で片付く予定でいます。やりたい話(アリサの話とかその他色々)があったとはいえ、最初はこんなに長くなると思っていなかったんですけどね。こればっかりは僕の悪い癖と技術的な問題なので、お許しくださいと平身低頭詫びる他ありません。ごめんなさい。
若干話がそれてしまいました。次の予定ですが、メインとして据える分はすずかの話と幕間編の最終章です。ところどころに短編でも挟んでいければなぁ、とも考えています。

えっと、他になにかあったかな?疑問質問があれば、感想欄なりなんなりで聞いて頂ければ答えられるかと思います。

最後にもう一度。ここまでお読みくださりありがとうございます。
次の投稿分がまだ全然手付かずなのでいつになるかわかりませんが、なるべく早く再開できるように努力します。

長々と書き連ねてしまいましたが、そろそろこのあたりで失礼します。
どうかまたお会いする日までお元気で。


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