『八幡憑依モノ』 (うっかり八幡)
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希望に満ちた人生とはどこにある?
ある日、八幡は何の取り柄もないおっさんになっていた。
異世界のおっさんの魂が八幡に乗り移った為に、八幡の魂はそのおっさんの身体に乗り移ってしまったのだ。
原因は、八幡もそのおっさんも、己の人生に飽き飽きしていた為だ。
自分の人生に価値を見い出せない二人の男がいた。
比企谷八幡と、田中裕太。
その二人はほぼ同時に交通事故にあった。
そこで、互いの魂が入れ替わったのだ。
事故だけでなく、己の肉体が歩む今後の人生からの逃避という精神が、同じ願望を持つ異世界の男へとマッチングしたのだった。
「田中裕太35歳、務めている会社は倒産の恐れは無いものの低賃金。
加えてその会社に入社して長いが、未だに下の方で出世の見込み無し。
一度も彼女ができたことの無いまま35歳になり、未だに素人童貞で結婚も見込み無し。
…どうしよう。今日を生きるのに困るほど詰んでる訳じゃないが、未来に一切希望が無いな」
しかし、八幡は元々公務員や専業主夫などの安定を追い求めていたボッチである。
希望も持ちようが無いが、故に絶望もしようがない人生を苦にして自殺しようとまでは考えなかった。
…この時点では。
それどころか、自分で稼いだお金を好きに使える事と、貯金が180万もあり、車の免許と軽自動車を持っている事に喜べた。
だが、それもすぐに希望でも何でもないとわかった。
稼いだお金を好きに使えるが、自分の生活費や娯楽費が思った以上に掛かるのだ。
そうなると日々を生きるには問題はないが、そうなると老後に切り崩す資産がどうやっても足りない。
そう考えると35歳にもなって、高々180万円しか貯金が無いのは痛過ぎる。
180万円も貯金があるのではなく、180万円しかないのだ。
定年までに500万円溜まったとしても、それだけで安心できる老後なんてものはない。
何も無い老人では、ボッチをつき通して生きるのは辛くなるだろう。
同じ歳の同僚は、3500万円のマイホームを購入して、そのローンを返済しつつ、残りローンは2500万円まで減っている。
住宅控除だけでなく、扶養控除などもその同僚にはあるが、田中裕太にはそれらは何も無かった。
会社にやってきた保険屋に勧められた保険の控除くらいだった。
株や為替の投資もしていないし、その知識も勇気も元手も無い。
そして何より、同僚達には家庭があり、子供という未来への希望があった。
対して田中裕太には娯楽への楽しみと、今日も死んでいないし明日も死なないだろうという希望程度しかない。
八幡は田中裕太という存在が、何の才能も無かったにも関わらず、何の努力も挑戦もせず、成長せずに現状で出来る事だけを選んで生きて来たと理解した。
失敗のリスクを負わなくていい、成長する為の努力に苦しまなくていい。
これは確かに比企谷八幡がずっと望んでいた安定そのものだった。
だが、八幡が学生だった時代と、田中裕太が35歳になった時代では全く違った。
いつの間にか元号自体が変わっていたほどだ。
この時代では、何もしないままでの安定志向では、中流どころか下流に落ち着く時代になっていた。
八幡が平塚静と出会わずにそのまま生きていたら、田中裕太になったのだと、八幡は強く理解した。
八幡は、過去を懐かしみ、今を否定した。
異世界の思い出が薄れて汚されていく前に、八幡は自由に使える金でありったけの睡眠薬を買った。
そして残った金を全て使い切る勢いで、キャバクラや風俗店に通い切った。
そして八幡は一気に睡眠薬を飲んだ。
当初は眠りの中で楽に死ねると思ったが、そんな事はなく猛烈な吐き気と、吐くことも出来ない肉体の不調に苦しんだ。
胃が半分眠っている為だ。
頭も猛烈にガンガンする。
しかし、ここで死ねないとどちらにしろ金さえない。
金が無いのは首が無いのと同じとは誰が言っていたか?
八幡は更に睡眠薬を飲んで飲んで飲んだ。
何処かで大量に人がなだれ込んで来たのを聞いた気がした。
まだ息があるがマズい、早く運べとか言ってる。
死ぬ前に発見されてしまったのだろう。
しかし、生きていてももうどうしようもない。
田中裕太は唯一の取り柄の180万円の貯金さえも無くしたのだ。
詰んでいる。
いや、詰むギリギリだったところを、八幡が飛び越えてしまったのだ。
だから、八幡は田中裕太としての一生を諦めた。
「私の授業で居眠りとは良い度胸だな。それほど自分の学力に自信があるのなら今すぐ解いてみろ」
比企谷八幡は、平塚静の声で目を覚ました。
いや、これは走馬灯なのだろうか。
恐らくそうだろう。
平塚静のような恩師に会わなかったか、会っても変われなかった田中裕太とは違い、比企谷八幡は平塚静に出会えたのだ。
最後にそのありがたみを思い出せた事に八幡は泣けて来た。
平塚静に、あえて本当に良かった。
八幡は泣いた。
「…おい、流石に泣かせるつもりは無かったんだが」
平塚静は怒った結果八幡が泣くとは思ってなかったので、少し驚いた。
八幡は走馬灯だと思っていたが、これは走馬灯でも睡眠薬が見せた夢でも無く、その後八幡が死ぬ迄続いた。
一生を過ごせるのなら、主観においてはそれが現実か夢かは些細なものだ。
八幡は田中裕太のようにならないように、全力で勉強する事にした。
苦手科目も分かったフリをして誤魔化す事なく学び直して、そこそこ良い大学にも入った。
雪乃と葉山の二人のわだかまりも解いた。
そして恩師平塚静にプロポーズして、今度は平塚静を泣かせた。
マイホームも購入したし、子供という未来への希望も二人の間に出来た。
色々な苦労や苦痛や苦悩もあった。
それでも決してその人生を否定はしなかった。
もう他の誰かとして生きようとは思えなかった。
この八幡は、平塚静の夫で子供たちの父親であることこそ最高の人生だと思っていた。
更に良い大学に行って、更に良い企業で、更に美人な妻と結婚するという、よりアップグレードな人生の可能性もあったかもしれないが、八幡は己の今の人生こそが最良だと思った。
だから比企谷八幡は、田中裕太の同僚のような、平凡な人生を満喫した。
一方、授業中に寝ていた八幡に憑依していた田中裕太は、起きると病院にいた。
睡眠薬の飲み過ぎが原因だったようだ。
彼は再び八幡に憑依しようとしたが、今度はそれに成功する事は無かった。
幸せはそこにある。
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