~ 幻創妖奇譚 ~ (北宮 涼)
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『ムジナ』01

 真っ暗な教室の中に、色付きフィルムを通したかの様な強烈で赤い光が差し込んでくる。

 目の奥にまで突き刺さってくるかのような鮮烈な色味に目をしかめつつ、窓に近寄って外を見れば、不気味なほどに真っ赤な月が空高くに登っているのが見えた。

 その月を目の当たりにしながらも、俺はなんで学校にいるのかを考えていた。

 忘れ物を取りに来たから?

 それとも何か特別な理由があって?

 多分、どれも違う。

 だって俺は、家へ帰って、ご飯を食べて……お風呂に入って歯磨きをして。

 

(寝た、筈なんだけど)

 

 それなのに、気がついてみればパジャマ姿で学校の中を彷徨っていた。

 

「ここって俺が通ってる小学校だよな? なんで俺、学校にいるんだろう」

 

 窓の外からの景色を見て、ここが2階なのだという事はわかった。

 でも、教室を出て廊下を歩いて、階段がある場所に向かってみてもそこには壁があるだけで、どこにも下に降りられる場所はなかった。

 

「えっと……そうだ、5年生の教室がある所にも階段があったっけ」

 

 4年生に5年生、そして6年生の教室がある場所には行ったことがない。

 だけど、1年生や2年生の時に教室の横にあるトイレの真向かいに階段があったのは覚えていた。

 最初はどこに続いてるのかわからなかったけど、進級して3年生になった時にそれがすぐに上の階の高学年の教室のある所に続いてるんだと知った。

 

「行こう。あそこに行けば、きっと下に降りられる階段があるはずだ」

 

 明かりのない校舎の中を壁伝いにゆっくり歩いて、5年生の教室がある2校舎へ向かう。

 でも、着いた先にも階段はなかった。

 本当は階段があるはずの場所が、4年生の教室がある3校舎の階段の場所とおんなじ様に壁があるだけだった。

 

「なんで!? どうして!!」

 

 急に不安を感じて、急いで6年生の教室がある1校舎に向かったけど、やっぱりそこにも階段はなかった。

 

(怖いよ……かあさん、とうさん)

 

 何時もの賑やかな校舎とは違って不気味に静まり返った校舎が何だかとても怖くて、今すぐに帰りたいのに帰れない。

 何処を歩いても一階に降りる階段は見つけられず、自分の歩く音や扉を開ける音が不気味なほど静かな誰もいない校舎の中にこだまして、音がどこまでも響いていくように感じる。

 それがまた何とも言えないくらいに嫌で、一人で居るのがすごく心細くて今すぐにでも誰かに会いたい気持ちになってきた。

 そんな時だった。

 

 

 

 

「帰りなさい」

 

 

 

 

 急に、後ろから声が聞こえてきた。

 

「だ、誰!?」

 

 びっくりして後ろを向いたら、着物のような服を着た、俺と同じくらいの女の子が立っていた。

 

「今は、帰りなさい」

 

 誰もいない校舎の廊下に女の子の声が木霊する。

 ゆっくりと喋る女の子の口元は赤い月明かりに照らされて尚も見えず、だらりと垂れ下がる長い前髪によってその表情すらもきちんと伺えない。

 

「帰りたいよ。でも、下に降りるための階段が見当たらないんだ」

 

 俺は、今まで学校の中を歩いて回っていたことを女の子に伝えた。

 すると女の子は、しばらく黙ったあとで俺の元へと静かに歩み寄り、手を差し伸べてきた。

 

「私の手を握って。外まで連れて行ってあげるから」

 

 月の光に照らされて赤く見える女の子の手を握った俺は、その瞬間に強く引っ張られたように感じた。

 それにあわせて、今まで真っ赤っかだった校舎内の光景が息をつく暇もないくらいの勢いで遠ざかっていって急に目の前が真っ暗になる。

 そして───ドスンッという衝撃が、俺の背中を襲う。

 

「いっ!! うぅ……痛い」

 

 痛みで思わず瞑った眼を開くと、白の天井に見覚えのある丸い室内灯が飛び込んでくる。

 俺は、いつの間にかベッドの上から落ちていたようだった。

 

 

 

 

「創くん、もう起きてるの?」

 

 

 

 

 下の階からかあさんの声が聞こえてくる。

 その呼びかけに気がついて窓を見ると、閉めたカーテンの隙間から白い光が漏れていた。

 呼びかけに対して起きてるよと返事を返してからカーテンをゆっくりと開けると、窓の外からいつもの朝の日差しが差してくる。

 その日差しを受けながらゆっくり背伸びをすると、あの怖かった体験も段々とただの夢だったんだなと思えるようになってきた。

 

「おはよう母さん、父さん」

「起きたか。おはよう創英」

「おはよう創くん。あ、牛乳入れたから居間のテーブルに持って行ってもらえる?」

「うん、いいよ」

 

 いつもどおりの朝、いつもどおりの食卓。

 母さんが朝ごはんを作っていて、父さんは新聞を読んでる。

 そんないつもどおりの朝の風景に、俺は少しだけ不思議な感覚を覚えた。

 

「今日はやけに早いじゃないか創英。それになにかうなり声も聞こえてたし、怖い夢でも見たのか?」

「うん、そんなところかな」

 

 俺の父さん、時崎信太郎(ときざきしんたろう)は自宅経営の喫茶店『立華』の店長をしている一家の大黒柱だ。

 そして母さん、時崎智子(ときざきさとこ)は立華の副店長をしている。

 父さんはコーヒーに対してこだわりがあって、母さんの方はお菓子作りがとても得意だ。

 コーヒーはまだ苦くて飲めないけど、母さんの作るケーキはとっても美味しい。

 学校が休みの日とかは俺も一緒にお店に出て、母さんのお菓子作りや、父さんが淹れたコーヒーをお客様に運ぶのを手伝ってるけど、町外れにあるからなのかお客も少なくて、知る人ぞ知るお店って感じになっていた。

 

「夢のお話かしら?」

「うん、母さん。夜の学校の中の二階に居たんだけど、どこを探しても階段が見当たらないんだ」

「あらあら、それは嫌ねぇ」

「すごく怖かったけど、着物を着た女の子が助けてくれたんだ」

 

 何事もなく静かに流れる朝の時間。

 あんな怖い夢を見た後だけど、母さんと父さんに囲まれながら朝食を食べていると、そんな普通のこともなんだかいつも以上に楽しく思えた。

 

「さてと……そろそろ学校に行くね、父さん」

「忘れ物はないか?」

「えーと、うん大丈夫。必要なものは持ってるよ、父さん」

「車には気をつけていくのよ?」

「分かったよ母さん。それじゃあ行ってくるね」

「ええ、行ってらっしゃい」

「行ってきまーす」

 

 

 

────────

 

────

 

 

 

 

 

 

 朝の登校は少し早めに家を出て、近くのバス停から学校前まで走るバスに乗るのがいつもの通学ルート。

 歩く距離はそんなに長くないけど、家からバス停までが少し遠いから少し早めに出ないとバスが来る時間に間に合わない。

 今日は少し余裕を持って家を出たからそんなことはないけど、寝坊でもした日は大変で、朝ごはんも食べる余裕がないからおにぎりを自分で適当に作ってカバンに詰めてから急いでバス停まで走る。

 間に合えばバスの中で朝ごはんを食べられるけど、間に合わなかったらそのまま学校まで走らなくちゃいけない。

 

「それにしても、あの夢はいったい何だったんだろう」

 

 待つこと数十分。

 到着時刻ピッタリにやってきたバスに乗り込み、席に座った俺は昨日の夜に見た夢の内容を思い起こしていた。

 どう考えても異様としか言い表せられないその夢に現れた一人の少女。

 差し伸べられた手をつかんだ瞬間に夢から覚めたが、その時に少女の手に何かの文字のようなものが書いてあるのが見えた事を今になって思い出す。

 一瞬しか見ることができなかったから詳しくは見れなかったけど、あれは多分漢字だと思った。

 なぜ漢字が手に書かれていたのだろう? そんなことを考えていると、バスがゆっくりと速度を落として停車する。

 窓の外を見れば、もう学校前のバス停に着いていた。

 下駄箱で靴を履き替え、3年生の教室に入り、教室の後ろのカバン入れにランドセルを入れてから自分の席に着く。

 

 

 

 

「よぉ、時崎」

 

 

 

 

 ドカッと机に座り込んだ相手の声にハッとして見上げると、目の前には太った男子が居た。

 

「竹内……」

 

 竹内拓斗(たけうちたくと)。

 この学年におけるガキ大将のような奴で、そのでかい体格相応に我儘で自分勝手な奴で、少しでも自分の思い通りにならないと暴れだす嫌な奴だ。

 

「ということは……」

「やーやーそー君」

「朝から浮かねぇ顔だなぁ創英?」

 

 遅れてやってきた二人の顔を見て心底うんざりする。

 瀬川晴美(せがわはるみ)と相津秀昌(あいつひでまさ)。

 先ほどの竹内を含めたこの三人は、3年生へ学年が上がると同時に俺に目を付けたのか、事ある毎に突っかかってくるようになった。

 ある時は上履きを隠され、またある時は給食の器に牛乳をぶちまけてきたりと、その所業に一切の躊躇いはなく……

 つまりは、いじめられているという事になるんだろう。

 

(朝からこれか……あの夢の事もあってあんまり気分的にすっきりしない朝だったのに)

 

 憂鬱な気持ちが露骨に顔に出ていたのか、それを見るや否や竹内が胸ぐらをつかんでくる。

 

「なんだおめぇ、折角俺が話しかけてやったってのにそんな嫌そうな顔すんじゃねぇよ!!」

 

 ああ、また始まった。

 そんな思いで『ごめんごめん』と謝って流そうとすると、周囲からのヒソヒソ話が聞こえてくる。

 またやってるよ竹内君たち、だとか、時崎君かわいそう、だとか。

 そう思ってるなら誰か止めに来てくれとも思ったけど、きっと誰も来ないんだろうと直ぐに思い至る。

 これまでのこの3人とのやり取りにおいて、誰かが止めに入ってくれた事など一回もなかったからだ。

 みんな、自分が対象にされるのが嫌なんだろう。

 それはわからない事でもないんだけど、じゃあ当の俺はどうなるんだ?

 

(あんまりにも酷いようなら先生に言うことも考えておかないとなぁ。自分の身は自分で守らないと)

 

 それすらも、どこまで信用できるかわかったものじゃないが。

 先生からの注意だけで止まるのかも怪しい横暴な振る舞いにため息を我慢しているとチャイムが鳴る。

 心底つまらなさそうな表情をした竹内が、サッと自分の席に戻っていく様子を見てようやく解放されたと安堵する。

 見た感じだと、大人に怒られるのはやっぱり嫌らしい。

 

(これなら効果は期待できそうかな……いや、もしかしたら悪化して裏でネチネチと……)

 

 それでも尽きない悩み事に我慢していたため息をつくと、相津がニヤニヤとした顔でこちらを見つめていることに気が付く。

 どうせ、またろくでもない事でも考えてるのだろう。

 

「何さ」

「いーや、別にぃ?」

 

 ニヤつきながら視線をそらした相津の素振りに不安を感じつつも視線を前に戻そうとした時、何か違和感を感じて後ろを振り向く。

 そこには相津同様、竹内とのやり取りに混ざってこなかった瀬川が居た。それも、相津と同じように嫌な笑みを浮かべながら。

 

「いいじゃん、似合ってるよそー君?」

 

 そんなことを言いながら相津と共に自分の席に着いた瀬川を見て不審に思う。

 この3人、とりわけ瀬川と相津はイタズラばかり仕掛けてきていた。上履きを隠したりしてきたのも二人の犯行だ。

 何もしてこないというのが却って不気味に思い……

 

「もしかして……っ!!」

 

 そっと背中に手を伸ばすと、手に触れる紙のような感触。

 強引に掴んで引きはがしてみると、それは『わたしはバカです』と、でかでかと書かれたノートの紙片だった。

 

(覚えてろよ、クソッ)

 

 流石にムカついたからビリビリに破って教壇横のごみ箱に捨てに行ったところで、タイミング悪く先生が教室に入ってきた。

 

「おはようございます。ほら時崎君、座った座った」

「あ、はい……おはようございます、先生」

 

 そんな様子を見ていた竹内と瀬川が相津の様にニヤついた表情を浮かべていたが、もう今日一日は無視をしてやろうと決め込んで自分の席に着いたのだった。

 

 

 

────────

 

────

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 校門を出た辺りで忘れ物をしたことに気が付いた俺は、忘れ物を取りに教室へと戻った。

 ガラリと教室の引き戸を開けると、教室の中には今朝方のあの三人が居て、俺の机を囲んで何かをしていた。

 

「おい、何してんだ!!」

「あらー、見つかっちゃったかー」

 

 瀬川がそんなことを言いながら、今朝のようにニヤついた表情で俺を見る。

 

「だから早くしろって言ったんだよこのウスノロ!!」

「酷いなぁ拓斗、俺は急いでたじゃないかー」

「私だって急いでたし、遅かったのはたっくんじゃない」

「んだとコラァ!!」

 

 ……なんか目の前で仲間割れを始めたが、そんなのに構っているほど俺は暇人じゃない。

 さっさと忘れ物を回収して家に帰ろうと机の中を覗き込んだが……その忘れ物、授業参観のお知らせが書かれたプリント用紙が机の中に無い。

 

「……相津、お前、中に入ってたプリントどこにやった?」

「さーねぇ? 探してみればぁ?」

 

 竹内に追われながらもケラケラ笑ってそんなことを言い返してくる。

 これは聞いても素直に教えてはくれないなと思い、教室内をくまなく探す。

 そして見つけたのは、ビリビリに破かれた状態で教壇横のごみ箱に放られたプリント用紙だった。

 一つ一つ拾い上げて書かれている内容を確認する。

 間違いない、探していたのはコレだ。

 

(朝の仕返しかよ畜生……新しいプリント貰ってこなきゃだめだこれ)

 

 そう思い、顔を上げて教室の出入り口を見る。

 出入口は───いつの間にか、閉まっていた。

 

(あれ? 入る時に閉めたっけ?)

 

 少し変に思いながらも引き戸に手を掛け、開こうとするが……これがどういうわけなのか、まったく開かない所かびくともしない。

 もしやあの3人、またイタズラしたのだろうか。

 

「おい、今度は俺を学校に閉じ込める気かよ」

 

 イライラしたまま振り返って相津にそう言うが、相津は竹内につかまってヘッドロックをされて苦しそうにもがいていた。

 あれは話を聞けるような状況じゃないなと思い、今度は瀬川に話を振る。

 

「おい瀬川、お前───」

 

 そう言いかけたが、瀬川の表情を見て思わず言葉を止める。

 それは、何と例えればいいんだろう。

 単にびっくりしただけとも言えないような歪んだ表情。

 口をしきりにパクパクとさせ、ゆっくりと腕を上げた瀬川は指を差す。

 その指の先はどうやら俺の後ろのようで……俺は、ゆっくりと振り向いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガタ……ガタ……

    ゴトッ、ガタン……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 揺すり動かすような音と共に、引き戸のすりガラス一杯に映り込む黒いナニカ。

 ピッタリと張り付いているのだろうか。ある程度輪郭がくっきりとしており、それが人では無いことをおぼろげながらも視覚的に伝えてきた。

 

「な、なんだよアレ!?」

「分かんないよ!!」

 

 直ぐに引き戸から離れると瀬川の隣にまで移動する。

 後ろの二人も流石に気が付いたようで、引き戸のすりガラスを見て絶句している。

 ガタリ、ガタリと引き戸を揺らすそれは、次第に右側へと移動してゆく。

 その先へ合わせて目線を動かすと……ぽっかりとその出口を開けたもう片方の引き戸に気が付いた。

 

「やべぇ、あっちの引き戸が開いてる!!」

 

 慌てて閉めようと走り出す俺。

 それに遅れて瀬川も走り出した。

 あれを中に入れたらヤバイ。そう直感し、未だ後ろで固まってる二人にも協力してもらうために呼びかけようとした、その時。

 

 

 

 

「う、うわああああああ!!!!」

「お、お化けが出たああああ!!!!」

 

 

 

 

 二人はあらん限りの叫び声を上げながら俺と瀬川を突き飛ばし、空いてる方の引き戸から一目散に飛び出していった。

 

「おい待て!! 行くなっ!!」

 

 今飛び出したら化け物に襲われる。

 そう思い、止めるために立ち上がって追いかけようとしたが……

 

「ま、待って!!」

 

 瀬川の、悲鳴にも似た声に呼び止められて振り返る。

 俺と同じく突き飛ばされて転んでいた瀬川は、そのせいで足首を挫いてしまっていたようだった。

 それに気が付き、慌てて駆け寄ろうとしたが……

 

 

 

 

 ガリッ……

 

 

 

 

 ……何かをひっかくような音が聞こえ、振り返る。

 開け放たれた引き戸。その縁に、何かが見える。

 夕日の赤が外から入り込み、鮮烈な赤に染まった室内において尚も赤くぎらつくそれを見て、あの化け物の目だと気が付くのにそう時間はかからなかった。

 あの怪物が、教室を覗き込んでいる───

 

 

 

「きゃあああああああああああ!!!!」

 

 

 

 それを見た瀬川が尋常じゃない叫び声を上げる。

 それに合わせて、のそり、のそりと、縁からその身体を俺たちの目の前へと晒し、立ち止まった。

 茶色の体毛に覆われた俺達よりも大きな身体に、短く先細るように伸びた鼻先。

 両目元は黒いぶち模様で、その奥からは赤い両眼がこちらを射抜くように見つめくる。

 人とは造形こそ異なれど五本ある指にはそれぞれ細く鋭い爪が付いていて、ぱっと見ではそのデカさ故にクマのようにも見えたそれは、図鑑などで見た覚えのある動物に似ていた。

 ニホンアナグマ───古来から日本ではタヌキ、ハクビシンなどとともに『ムジナ』と呼ばれている動物。

 それが、口をがっぱりと大きく開いた状態で佇んでいた。

 

「く、来るな……」

 

 近くの椅子を持ち上げて構えながら、ゆっくりと瀬川の所まで後ずさる。

 それに合わせて、目の前の化け物───ここではムジナと呼ぶことにする───が、じりじりと距離を詰めてくる。

 こちらを静かに見つめてくる瞳からは明確な害意を感じ、思わず足が竦む。

 ちらりと視線を横に落とせば、肩を抱えて震えている瀬川の姿が映った。

 視線はムジナの方へ向いていて、怖いのに目が離せない状態なんだろうと即座に理解する。

 無理もない。俺だって滅茶苦茶怖い。でも、怖いからって目を離したら、その隙に襲って来るかもしれないと考えたら、そっちの方がもっと怖くて、目を離せない。

 そんな、必死な思いでにらみ合いを続けながら瀬川に声をかける。

 

「瀬川……足大丈夫か? 立てるか?」

「う、うん……何とか……」

 

 恐怖でうるさいほど心臓が高鳴る。

 緊張で汗をかき始め、シャツが背筋にぴっとりと張り付く感じがする。

 それだけじゃなく、持っていた椅子が滑り落ちそうになるくらいに、手にも汗が滲んでいた。

 そんな状態でムジナとにらみ合いながら、何とか助かる方法はないかと思考をフル回転させ……暫しの間をおいて瀬川に呼びかける。

 

「俺が椅子を投げて気を引くから、瀬川は職員室に行って先生にこのことを伝えてきてくれ」

 

 その言葉に驚いたのか、不安そうな表情を浮かべたまま俺の足に縋りつく。

 

「ダメだよ!! 危ないよ!!」

「でも、そうしないと二人ともヤバイことになる」

 

 今もゆっくりと近づいてくるムジナを見つめながら、俺の言葉に迷う瀬川に精一杯笑いかける。

 

「大丈夫。こう見えても俺は足は速い方なんだ。きっと逃げられる。だから、先に逃げるんだ瀬川」

 

 そう言った後、しばらく黙り込んで静かになった瀬川はゆっくりと立ち上がってこう答えた。

 

「ケガしないでね、絶対だからね!!」

 

 それに黙って頷くと、瀬川に合わせてタイミングを取り……そして。

 

 

 

 

「おりゃあああああ!!!!」

 

 

 

 

 半分悲鳴になってしまった雄たけびに合わせて椅子をブン投げた。

 力いっぱいに投げた椅子は見事に相手の顔に当たり、何の鳴き声に例えていいかもわからないような低い声と共に確かに怯んだ。

 

「今だ瀬川!!」

「ぁぁぁぁあああああああっ!!」

 

 恐怖のピークに達したのか、お腹の底から絞り出したかのような悲鳴を上げながら教室を飛び出した瀬川を見送る。

 それに合わせて椅子をもう一つ持ち上げ、投げつけた。

 それが今度はムジナの体に当たり、小さい悲鳴を上げさせることに成功する。

 念のためにともう一つ持ち上げて投げつけ、相手がその椅子をよけたのを見ると同時に俺は一目散に開け放たれたままの引き戸へと駆け出した。

 そして教室の外に出る目前に、一本の自在箒を清掃用具入れから取り出し、直ぐに教室の外に出ると引き戸を閉め、自在箒をつっかえ棒の代わりとして引き戸に立て掛けた。

 その刹那───

 

 

 

 

 ドカンッ!!

 

 

 

 

 壁に思いっきり体当たりしたかのような大きな音と共に大きく軋む引き戸。

 衝撃で砕けたすりガラスの奥から、低い唸り声を上げながらこちらに身体をねじ込んでこようとしてくるムジナの姿か見えた。

 そのムジナが発するあまりの威圧感に腰を抜かしそうになったが、逃げるなら今がチャンスだと我に返り、瀬川の後を追って職員室へと走ったのだった。

 

 

 

────────

 

────

 

 

 

 

 

 

 結論から言えば、俺と瀬川の言い分は職員室に居た誰にも伝わらず、信用もしてもらえなかった。

 それどころか、割れて砕けたガラスとひしゃげて外れた引き戸、荒れに荒れた教室内を見た教員たちは、そのあまりの惨状を見て俺たちの仕業じゃないのかと疑ってきた。

 だけど、俺の必死の訴えかけと、瀬川の尋常じゃない怯え方に流石に何かを感じたようで……

 

「一応先生の方でも夜の見回りの人数を増やすよう言っておくけど、お前たちもこれに懲りたら変なことするのやめろよ」

 

 とか、よく分からないことを言って俺達を学校から追い出したのだった。

 曰く『クマが市内に出るのはあり得ない話だから、きっとお前たちが見たのは不審者か何かだろう』との事で、あんな事があったのに全く信じてもらえなかった俺と瀬川は、ぬぐい切れない恐怖と信用されなかった悔しさで押し黙ったまま家路へと付いた。

 そしてその夜……

 

「赤い光に、沢山の勉強机と椅子……」

 

 ……俺は、また同じ夢を見るのだった。



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『ムジナ』02

 絶対にだれにも理解できない領域。

 無形の文章、形のない物語。

 現実の中にある非現実こそが、彼らの『活きる』本来の世界。

 

 

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────

 

 

 

 

 

 

 

 赤に支配された世界。見慣れた光景に穿たれた不和に思わず目をしかめる。

 ここは昨日見た夢の中の教室で間違いはないだろう。

 となれば、今ここに居ることそれ自体も、俺が見ている夢の中での出来事という事になるのだろうか。

 そうだとしたなら……

 

「怖がることも、ないのかな」

 

 所詮は夢の中での出来事。そう思うと気持ちが随分と楽になってくる。

 その影響なのか、前回は冷静に見ることができなかった周囲の状況が見えてきた。

 

 ───どうやらここは、俺の通っている学校の校舎であるようだった。

 何故そう確信したかというと、見覚えがあり、とりわけ印象に強く残る名前が棚に書かれていたからだ。

 相津秀昌、瀬川晴美、竹内拓斗に……

 

「時崎創英」

 

 背後から不意に、俺のフルネームが聞こえてくる。

 およそ誰もいないであろう校舎に木霊する女の子の声。

 大人びているような気配を感じさせるその声に、俺は聞き覚えがあった。

 

「こんばんはで、合ってるのかな」

 

 着物のような服を着た、俺と同じくらいの年に見える女の子。

 鮮明にとは行かずともそのやり取りは思い出せる───この少女は、昨日見た夢の中で、不安に押しつぶされそうになっていた俺を助けようとしてくれた子だ。

 

「その様子から察するに、もうこの状況に慣れたのね」

 

 静かにそう言葉を発した彼女の口元はやはり見ることはできなかったが、今回はそのだらりと垂れ下がった前髪越しであっても表情が伺えた気がした。

 驚いている……そう感じたのだ。

 

「慣れたというよりは、あんまり怖いと思わなくなったって感じかな。これって俺が見ている夢なんだろうし」

 

 彼女から驚いたというような雰囲気が消え失せる。

 同時に彼女から伺えた雰囲気は……呆れ、だろうか?

 

「そう……なら、即刻ここから立ち退きなさい」

 

 そっと視線を外した少女は、そこから踵を返して何処かへと行こうとする。

 それを俺は慌てて引き留めた。

 

「ま、まって!! いくら夢の中とは言え、独りぼっちは流石に怖い!!」

 

 そういう俺にあからさまに面倒くさいといった態度を表した彼女は、一つため息をつくと同時に俺の手を握る。

 

「よく聞いて。これから先、再び同じ状況に陥った時にそんな調子のままじゃあ、いつか痛い目を見るわよ」

「いや、でも、これは俺の夢の中の出来事だし……」

「夢ではないわ」

 

 ぴしゃり。

 俺の言葉を遮るように言い放ったその一言が、赤に染まった教室内に響く。

 

「たとえこれが夢であったとしても、間違いなくあなたが見ている夢ではない」

「それってどういう……」

「あなたは魅入られかけているのよ」

「みい……?」

「悪さをする奴にイタズラされそうになっていると思いなさい」

 

 そう告げる彼女の言葉によると、どうやら俺は良くないモノに悪さをされかけているようで、本来ならとっくにソレの餌食になっていた筈が、俺自身の気? の強さ故に手籠めにし損ねている状況なのだとか。

 二夜にわたって同じ状況に陥っているのもその影響らしい。

 今のこの状況も彼女に言わせてみれば夢ではないらしく、異常な空間と化した夜の校舎に意識だけが身体から引きずり出されて惹き付けられているのだという。

 だとすれば、昨日俺がちゃんと身体に戻れたのはこの子のおかげという事になる訳だ。

 それが、今晩もまた同じ状況に陥ったとなると……

 

「これ、相当不味い状況だよね」

「ようやく事の深刻さが伝わったようね」

 

 薄れていた不安や恐怖がぶり返してきた俺の様子を見て、彼女はまたため息をつく。

 

「私はこの異界化した……いえ、おかしくなってしまった校舎の悪者を退治しに来たの。昨日とは違って、今夜は悪者の気配を強く感じられるから、もしかしたら居場所を突き止められるかもしれない」

 

 しきりに周囲を見渡す仕草をする彼女。

 昨晩のような余裕は今の彼女からは感じられない。

 つられて俺も周りを見渡すが、そこで夕方頃に起きたことを思い出した。

 

「そういえば、夕方頃にでっかい動物が校舎の中に入ってきたんだよ」

「……でっかい動物?」

 

 何とはなしに話しだした事に、彼女が静かに反応する。

 

「うん、でっかいの。立った時の大きさが俺よりも大きかった。最初クマかと思ったんだけどどうも違うように見えたし、第一ここって街中だからクマが出るとかありえないというか……」

「先細った鼻先に、赤い瞳。それに、茶色の体毛だった?」

「そうそう、そんな感じの……え?」

 

 話そうとしていた内容を突然口に出され思わず彼女を注視する。

 当の彼女は、そんな俺を見つめながら困惑した表情を浮かべていた。

 

「あなたの言う、そのクマみたいな動物こそ……今まさに私が追っている悪者よ」

 

 

 

────────

 

────

 

 

 

 

 

 

 

 真っ赤に染まった廊下を二人で歩く。

 当たり前だが人の気配はなく、俺たちの足音だけが不気味に木霊する。

 彼女───静葉という名前らしい───は、時折気になる場所に立ち止まるとその場で何か小声でブツブツとつぶやき始める。

 その間俺は暇になる訳だが、その行動が頻繁に続くために何をしているのかと静葉に話しかけると邪魔をしないでと怒られた。

 いよいよ手持無沙汰となった俺は、彼女から離れすぎない程度に周囲を歩き回って散策しながら時間を潰す。

 ───そろそろ彼女の方も例の行動が終わるだろうか。

 開かない窓の留め具を弄り回しながらぼんやりとそう思い、振り返った。

 

「ん?」

 

 首をひねって視界をぐるりと動かしたその時、横に流れる景色の中に違和感を覚えるものを見つける。

 気になってそちらへと視線を戻すと、一つの引き戸が目に留まった。

 いや、正確に言えば、その戸が閉じている様子が目に留まったのだ。

 この場の探索を静葉としてきた中で、各学年の教室を含め閉じている戸はここが初めてだった。

 傍に歩み寄ってきた静葉も俺の視線の先を見て何かを察したようだった。

 

「怪しいよな」

「怪しいわね」

 

 二人そろって同じ意見を口にし、顔を見合わせると静かに頷く。

 俺の後ろに静かに構える静葉。それに対し、姿を晒さないように身を隠しながらゆっくりと引き戸を開いた。

 

「間に合わなかったか……」

 

 開かれ、露わになった室内を見た静葉は、そう呟いてそっと目を背けた。

 気になった俺はその反応に釣られるように室内を覗き込み───直後、激しく後悔した。

 

「人が倒れて……あれは、血……なのか? てことは、もしかして死んで……っ!?」

 

 思考が一つの結論に行きつき、尻もちをつく。

 足がガクガクと震えだし、叫びだしそうになるのを必死にこらえる。

 室内に広がっていた光景。それは。

 

 

 

 血だまりの中に沈む、仰向けに倒れた人の成れの果てだった。

 

 

 

 顔が判別できないほどに潰されたそれは、体格からして大人のようだった。

 差し込む赤い光の中において尚も鮮烈な色味を放つ血に濡れて真っ赤に染まってしまったワイシャツが、ここで起きたであろう出来事の凄惨さを物語っている。

 一体何が起きればこんなことになってしまうのか。

 そんなのは、もう考えるまでもなく想像がついてしまう。

 

「け、警察に……」

「無駄よ。ここは現実の世界ではないのだから、誰もこの人を見つけられない。私と、あなた以外には」

 

 腰が抜けて立てない俺の横を抜けて、死体に歩み寄る静葉。

 静かに片膝をついて様子をじっと見ると、まるで検分でもして居るかのように呟き始めた。

 

「頭蓋がひしゃげて変形している様子からして、頭部への一撃が致命傷になったようね。裂傷……ええと、鋭い何かで引き裂かれたような傷も見られるわね。きっと、前足で叩かれたんでしょう」

「そんなの知らないし、聞きたくもないよ」

 

 そうやって耳をふさごうとした俺に、静葉は静かに立ち上がってこちらへ戻り、手を差し伸べる。

 

「覚えておくといいわ。こういった手合い……いえ、相手が残す痕跡は、後を追うにも、身を守るにも重要な手掛かりになるわ。この人のような事になりたくないのなら、恐怖に負けない事よ。いま私たちがいる場所では、真実はいつだって恐怖で覆い隠されているものだからね」

 

 ただ……と、小さく息をつきつつ、更に言葉を紡ぐ。

 

「目先で起きている事をすべて理解しようとはしない事。あれらを相手にそんな事はまず出来ないだろうけど、下手をすればあなたも、こちら側の住人になってしまうかも知れないからね」

 

 逆光になった彼女の表情は伺えなかったが、声色から察せてしまう。

 彼女はきっと、何かを悔いている。

 心配して語ってくれる言葉の端々に、何らかの思いを感じる。

 手を握り立ち上がると、そんな雰囲気は彼女から消え失せていた。

 

「そろそろ時間のようね」

 

 そう言いながら周囲を見渡す静葉。

 同じように俺も見回してみれば、見渡す視界の至る所が不規則に揺らいでいるのが見えた。

 

「私の手を握って。外まで連れて行ってあげるから」

 

 昨晩の時と同じセリフを言う静葉に、何とも言えない感情を抱く。

 きっとこの子は、さっきの様な光景を幾度も見てきたんだろう。

 ずっと一人でいるのだろうか。現実では何をしているんだろうか。

 似たような考えが頭の中をぐるぐると巡るが、今は……

 

「うん、わかった」

 

 今は、帰ろう。

 縁が続くなら、この先もきっと出会えると思うから。



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『ムジナ』03

 翌日。

 早くに目が覚めたこともあり、いつもよりも早い時間に登校した俺は、昨晩の記憶を頼りに学校の中を軽く散策していた。

 何故こんなことをしているかというと、あの校舎の中で見た人の死体の服装に見覚えがあったからだ。

 信じたくはないものの、もしかしたらという気持ちが働いたための行動でもあるのだが、彼女の……静葉の言葉を借りるならば、恐らく死体を見つけた教室に足を運んでもそれを見つけることは叶わないだろう。

 だがそれであったとしても、自身の為に確認せざるを得なかった。

 あれが夢でないのだというのなら、俺の身の回りで人死にがあったという事になるからだ。

 

「やっぱりなにも無いか」

 

 死体を発見した教室にたどり着き恐る恐る開くが、中の様子は何事もなかった。

 それでも念のためにと教室の中に足を踏み入れ───教室の中央辺りに来た時、不意に足を滑らせて転んでしまった。

 不意の転倒に打った個所を摩りながら立ち上がる。その瞬間。

 

「っ!!」

 

 視界が、一瞬だけ揺らいだ。

 その一瞬。瞬きの間に見た光景は。

 

「し、死体だ……」

 

 昨晩見た光景、そのままだった。

 何の因果なのか、転んだ位置は丁度死体のあった場所だったが、触れようと手を伸ばした瞬間に景色が元に戻ってしまった。

 遅れて伸ばした手で探るように地面に触れてみても既にその場には何も存在せず、何かが手に触れることはなかった。

 

「半信半疑だったけど、これで確信が持てた。目に見えない、触れられないってだけで、昨日見た光景は今も変わってないんだ」

 

 俺は、一つの決意を固める。

 今この学校で何が起きているかはわからないが、あのムジナと言い二日に渡って起きた夜の出来事と言い、危ない事が起きているのは確かなようだ。

 幸いにも巻き込まれたのは俺と瀬川たちと、あの死体の5人だけ。

 ここからさらに増えるかもわからないが、少しでも状況を変えられるならば、やるしかない。

 

「噂を流そう。学校の怪談みたいな感じで、放課後遅くまで残ってると化け物が出て食べられてしまうって感じな噂を流せば、きっと……」

 

 その為には、死んでしまった人を噂として引き合いに出す外ない。

 人の死をバカにするような真似をこれからしなければいけないのはとても嫌だが、そうしなければ、またあの放課後の時のような事が起こってしまうかも知れない。

 下手をしたら先生からも怒られて、そのことが父さんや母さんにも伝わるかもしれないが、それでも。

 

「やらなくちゃいけないんだ。人が死ぬようなことは、防がなきゃ」

 

 守るんだ。俺が、学校の皆を。

 

 

 

────────

 

────

 

 

 

 

 

 

 

 お昼休み。

 給食を食べた後、俺は昨日の放課後と夜の出来事を共有すべく瀬川達を探した。

 幸いなことに瀬川はすぐに見つかったが、相津と竹内が見つからない。

 聞けば、この二人は今日は今日は学校に来ていないとの事。

 

「朝礼の時に先生が二人とも欠席だって話をしてたでしょ。そのことを聞きに来たんじゃないの?」

「ごめん、考え事をしてて全然聞いてなかった。それと、俺の用事ってのはそれじゃないんだ」

 

 俺の言葉にビクッと肩を震わせる瀬川。

 昨日までの反応とは異なり妙に大人しく、何処か怯えたような表情も見て取れる。

 やはり昨日の放課後のことが原因なのだろう。

 それでも……と、俺は意を決して話を切り出す。

 

「昨日の放課後と───」

「やめて」

「───夜の出来事を……え?」

 

 要件を言い切る前に拒否をされ、一瞬間が開く。

 見やれば、先ほどよりも怯えの表情が強くなっている。

 

「……ごめん。でも、大事な話なんだ。本当ならこの話を今居ない二人にも聞いて貰って協力してほしかったけど、今は瀬川しかいない。瀬川だけが頼りなんだ」

 

 こちらの真意を伝えるためにしっかりと目を見て話を切り出そうとする。しかし……

 

「ごめん。私、その話だけは協力できない」

 

 半ば耳をふさぐようにして両の手を耳にあてがって顔を横に振り、断られてしまった。

 

「……そう、だよな。怖かったよな。こっちこそ、瀬川の気持ちを考えないことを話そうとしてごめん。俺一人で何とか頑張ってみるから、瀬川は何も気にしないでくれ」

 

 瀬川には拒否されてしまった。

 当たり前な反応だ。あんな怖い思いをしたのに、態々自分から関わろうとする方がおかしい。

 でも俺は、昨日の夜に大体の事を知ってしまった。

 知った以上、動く必要はあるはずだ。

 協力を得られない以上、後は俺が出来る限りのことをする以外に他はない。

 

「創英……」

 

 ふと、瀬川から声を掛けられる。

 いつもの『そー君』呼びじゃない所に違和感を覚えて瀬川を見ると、今にも泣きだしそうな表情をしながら、それでも必死な様子で俺を見つめ、こう言った。

 

「たっくんとひでっちね……全然目を覚まさないんだって」

「え……」

 

 突然の告白に耳を疑う。

 たっくんとひでっち……竹内と相津が、目を覚まさない?

 

「今朝ね、二人を迎えに行ったの。たっくんは寝坊助さんだから、早めに迎えに行かなきゃって思って、早くに家を出て、途中でひでっちの家にも寄ったの。でもね、二人ね、起こしても目を覚まさないんだって」

 

 堪え切れなくなったのか、ポロポロと涙を流しながら嗚咽する瀬川。

 唖然としながら聞く俺を前に、それでも瀬川は語り続ける。

 

「様子が変なんだって。ひでっちは早起きさんなのに、目覚まし時計の音にも反応してなかったって、ひでっちのお父さんが言ってた」

「瀬川……」

「たっくんなんか……ぐすっ、寝相が、ひどいのに、寝返りすら打った様子もなかったって。いつもなら声を掛けたら起きるのに、全然起きないって、たっくんのお母さんが……」

 

 涙で目を真っ赤にしながら、しゃくりあげながら……それでも尚、瀬川は必死にしゃべり続ける。

 

「私ね? そー君もね、学校に来ないんじゃないかって思ったの。ぐすっ……あんなことが、起きた後だし、み、みんな、眠ったまま来ないんじゃないかって。き、昨日だって、真っ赤な学校の夢を見たの。ずっと一人ぼっちで寂しくて、怖くて……私、わだじ……うぅぅぅ」

「大丈夫だ、瀬川」

「みんな、死んじゃうの? あの変なのに襲われて、真っ赤な教室の、倒れてた人みたいに……ぁぁぁぁああああ……」

 

 堪え切れなくなってしまったのか、瀬川は大声で泣き始めてしまった。

 そんな泣きじゃくる瀬川の姿に、ふと……『妹』の姿が重なった。

 

(安心させなきゃ───)

 

 強くそう思った俺は……優しく抱きしめながら、頭を撫でた。

 

「ぅえ……」

「大丈夫、誰も死なない。いや、死なせない。俺が絶対に死なせない」

 

 半ば自分にも言い聞かせながら、ゆっくりと頭をなでる。

 そうだ。俺は、俺の目の前で、もう誰も死なせないと誓ったんだ。

 あの時……『あの事故』が起きた日に。

 

「そーえい……?」

「安心してくれ。瀬川も守るし、アイツら二人も絶対に連れ帰る。瀬川のおかげで、何が起きてるかの確証も取れた。なら、後は行動に移るだけだ」

 

 そっと離れてにぃっと笑って見せる。

 今瀬川は、どうしようもない怖さと不安を抱えて押しつぶされそうになっている。

 なら、その恐怖させている相手を何とかして、不安を取り除かなくちゃいけない。

 俺にできることは限られているが、彼女と……静葉と協力すれば、これ以上の被害は出さずに済むはずだ。

 

「一つだけ聞いていいか? その、赤い学校の夢の最後に、女の子は出てこなかったか?」

「え……何で知ってるの?」

 

 涙を拭きながら、俺の問いかけに驚いたような表情で返事をする瀬川。

 その様子を見て、次に会ったときはお礼を言わなきゃなと考えながら、瀬川の疑問に答えた。

 

「俺も同じだからさ。あの子に……静葉に助けられたんだ」

「それって……じゃあ、たっくんとひでっちは……」

「ああ。きっと竹内と相津はまだあの校舎の中だ。たまたま、静葉に見つけてもらえなかったんだと思う。だから俺は今夜二人を助けに行く」

「あ、危ないよ!! それにもしかしたら、ふたりとも、もう……」

 

 俺の言葉を聞いて慌てふためき、パニックになっている瀬川。

 そんな瀬川の両肩を掴み、落ち着かせるために諭すようにして語り掛ける。

 

「信じるんだ。あいつらなら生きてるって。昨日の放課後だってあいつら真っ先に逃げ出してたじゃないか。足だって早かっただろ? きっと頑張って、あの化け物から逃げてるはずだ。でもあんまり時間を置くのはまずい。それに、これ以上俺達みたいな被害者を出すのもダメだ。その為に俺は、放課後に人が校舎に残るような状況は作らないようにしなきゃいけない」

「それが、さっき話そうとしてたこと?」

「ああ」

 

 未だしゃくりあげている瀬川だが、大分落ち着いたのか、もう涙は流していなかった。しかし。

 

(こんな状態の瀬川に手伝わせるのは、いくら何でも酷すぎる───)

 

 そう思った俺は、瀬川に何も気にするなと言い聞かせようとした。だが……

 

「私も手伝う。さっきは嫌だって言ったし、もうあんな怖い思いもしたくないけど、二人が戻って来ないことの方がもっと嫌」

 

 そう言って顔を上げた瀬川の表情には、もう不安の色は消えていた。

 

「瀬川……いいのか?」

「助けてくれるんだよね? 連れて帰ってきてくれるんだよね? 信じてもいいんだよね?」

「ああ。死んでない限りは絶対に助ける。約束する」

 

 そう言って小指を差し出す。

 対する瀬川も、少し躊躇いながら……

 

「分かった。そー君の事、信じる」

 

 俺のことをまっすぐに見つめて、まじないの言葉を交す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆびきりげんまん。

 

      うそついたら、

 

 はりせんぼんのます。

 

      ゆびきった───。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「約束、だからね」

「ああ。約束だ」

 

 短く言葉を交わし、俺は、放課後に人が残らないように出来るだけ多くの生徒に噂を流すことを瀬川に伝え、行動に移るのだった。

 

 



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『ムジナ』04

 夜が来た。

 俺は、動きやすいようにジャージを着こみ、学校から持って帰ってきた上履きを汚れを拭いて落としてから履いて布団の中にもぐりこんだ。

 ジャージは兎も角、上履きを履いたままじゃ寝られなさそうだが、ここ二日間の内に『布団に入って目を閉じれば急激に眠気に襲われる』事を知っているため、予め準備を整えた上で状況に臨もうと考えていた。

 

「っと、忘れてた」

 

 眠る体制に入る前に、ベッドの脇に用意していたカバンを抱える。

 持ち込めるかは分からないものの、無手のままあの学校へ向かうのは流石に不味い気がしたからだ。

 因みにこのカバンの中身は、救急セットといくつかのお菓子に、お茶や水の入ったペットボトル数本が入っている。

 これから助けに行く二人を思っての内容であり、きっと何も口にしていないだろうから、無事に見つけることが出来たら安心させるついでにこれらのものを渡そうと考えていた。

 救急キットについても、もし怪我をしていたならこれで手当てをしようと思っている。

 自分が怪我をした時にも使えるだろう。

 

「よし……それじゃあ、行こう」

 

 意を決した俺は、緊張もそこそこにそっと横になった。

 途端、襲われる強烈な睡魔に俺は、自ら身を委ねるように眠りについた───。

 

 

 

────────

 

────

 

 

 

 

 

 

 

 そっと、目を開く。

 瞬間、差し込んでくる赤い光に思わず再び目を閉じそうになる。

 すぐに周りを見渡し、昨日いた校舎であることを確認。

 その後、直ぐに自分の状況の確認に移る。

 両手に抱えていたカバンは……残念ながら持ち込むことができなかったようだ。

 だが、服装はジャージ姿に上履きと寝る前の服装だった。

 

「そもそも、ここって腹が減るのかな」

 

 素朴な疑問を抱いたが、そんな事を気にしている余裕はない。

 軽く柔軟体操をした後に、俺は行動に移った。

 

「今回も静葉に会えるといいんだけど……あてにするわけにもいかないか」

 

 出来るだけ足音を立てないよう、忍び足で校舎内を散策する。

 昨晩同様すべての教室の扉が開け放たれた状態になっているため、教室の横を通る際も室内に何か異常が無いかを確認しながら行動してゆく。

 途中幾度か不定形の黒い何かが教室の中にうごめいていたが、それらに感づかれないよう何とかやり過ごして探索を進めていく。

 

「ここに来るのも今回で3回目だけど、不気味過ぎて全然慣れないや……竹内、相津、お前ら一体何処に居んだよ……」

 

 段々と心細くなりつつある中、ある教室の中を覗き込もうとした時だった。

 

「そー君っ!!」

 

 後ろから聞こえてくる声と駆け寄ってくる足音。

 内心滅茶苦茶ビビり散らかしながら、勢いよく振り返るとそこには瀬川が走ってきているのが見えた。

 

「やっと見つかった……怖かった……」

「瀬川、なんで……って、あぁそっか。俺らムジナに魅入られてるから夜になったらここに呼び寄せられちゃうのか」

「うん? むじな?」

「えーっと、あの毛むくじゃらの奴の事だよ。あいつが悪さをするから俺たちがこんな目にあうんだ」

「そうなんだ……」

 

 会話を挟みつつ、先ほど覗き込もうとした教室の中を確認しつつ次の教室へと移る。

 中を覗き込むが……

 

「まただ……あれはいったい何なんだ」

「どうしたの、そー君?」

 

 俺がのぞき込んでいるその下から、しゃがみこんだ状態で瀬川ものぞき込む。

 もう何度めかもわからないが、不定形の黒い何かが教室の中をウゾウゾとうごめき回っている。

 

「ひっ……な、なにあれ」

「わからない。けど、関わり合いにならない方が良いのは確かだと思う」

 

 足音を立てないようにそっと教室の横を通る。ある程度進んだあたりで瀬川にも合図を出して呼ぶ。

 俺の行動を見てすぐに察した瀬川は、同じように足音を立てないようゆっくりと歩いて横切ってゆく。

 

「慣れてるんだね、そー君」

「ん……まぁ、ね」

 

 本当はめっちゃ怖いけど、あいつらを見つけるには避けて通れないから我慢してるだけだ。

 けど、それを瀬川に言ってしまえば、瀬川をもっと不安にさせるに違いない。

 適度に強がりながら、短く会話を交わしつつ、歩いて回れるところは粗方探しつくした頃には瀬川も幾分か余裕が出てきたのか、ただ後を付いてくるだけじゃなくて周りを見渡しながら行動を起こしていた。

 

「見つからないね……」

「うん……」

 

 あの黒いの以外は何も変なのがないし、うまく逃げ延びてると思いたいけど……こうも見つからないとなると段々焦ってくる。

 あいつら、無事だといいんだが……

 

 それなりの時間を捜し歩いたにもかかわらず見つからなかったため、一度休憩するために何もいない教室の中に入る。

 教室の引き戸をゆっくりと閉め、開かないように掃除用具をつっかえ棒代わりにして固定した。

 そして改めて状況を整理する。

 

 ───今俺たちは五年三組の教室の中に居る。

 確認を終えたのは一年生、二年生、三年生、四年生の教室とそれぞれの学年のトイレの中(女子トイレは瀬川と一緒に確認した)。

 死体があった教室はまだ確認しに行ってないが、この休憩が終わればそこを見に行く予定だ。

 ただ、あの死体は瀬川にだけは見せるわけにはいかない。

 だから、俺が中を散策しつつ、瀬川には外を見張っていてもらう形になるだろう。

 

「そー君、ちょっといい?」

 

 ぼんやりと外を眺めながら考えをまとめていたら、瀬川から声を掛けられる。

 どうしたのかと尋ねようとした、その時だった。

 

 

 

 

 ジュルッ……ピチャッ……

    ズッ……ズッ、ジュルルッ……

 

 

 

 

「これ……何の音だ?」

「わかんない……私もついさっき気が付いたの」

 

 瀬川が俺を呼んだのはこの音が原因だという。

 変な音は遠くから響いてくるような感じがしたが、あんまり離れた所から聞こえているわけではないようだ。

 音の発生源を突き止めるために、恐る恐る教室の引き戸を開いて廊下に顔を出す。

 響いてくる音は渡り廊下の先からで、その先にあるのは───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこまで考えが至った時、激しい悪寒が背筋を伝う。

 気づいてはいけない事と一緒に、想像してはならない事にまで考えが及びかけたのを必死に振り払う。

 まだだ……確認するまでは、そうと決まったわけじゃない。

 そう考えようとするが、2回目の校舎で見たあの死体の様子が頭から離れない。

 震える手で出来るだけ静かに、ゆっくりと引き戸を閉める。

 俺は、嫌な考えに支配されていく頭をまっさらにするために数度ほど深呼吸をしてから───すべてを飲み込むように一息吸って、覚悟を決めた。

 

「瀬川……俺はこれから音のする方へ行ってくる。危ない事が起きるかもしれないから、瀬川はここで待っててくれ」

 

 そっと、背中越しに提案する。しかし。

 

「ううん、ついてく」

 

 直ぐに帰ってきた言葉は、俺の想定したものとは反対の言葉だった。

 

「俺の話し聞こえてたか? 危ない事が起きるかもしれないから待ってて……」

 

 振り返りながらそう言おうとしたが、瀬川の表情を見て目を見開いた。

 

「ついてく。だって、約束したもん」

 

 服の裾をギュッとつかみ、両目じりに涙をいっぱいにため込みながら、それでも俺から目を逸らすことなく見つめてくる。

 そんな瀬川が発した『約束』という言葉に、俺はハッとした。

 そうだった……ああ、確かに、約束をした。

 

「嫌なものを見るかもしれない。知りたくないことを知ってしまうかも知れない。なにより……ここから先は、きっともう、何も知らなかった頃には戻れなくなる。それでもいいのか?」

 

 俺の最終勧告ともいえる言葉に、瀬川はしばらく迷いを見せた。

 俯き、黙り込むが……それでも、次に顔を上げた瀬川の表情からは、迷いが消えていた。

 

「……本当は待っていてほしいんだけどね、俺としては」

 

 小さくため息をつきつつ、固めた覚悟を新たにする。

 先ほど固めた覚悟は、竹内達の生存が絶望的だとした上で、静葉が瀬川を助けてくれることに期待した上での突貫だった。

 一旦は絶望しかけた。でも、もう、結末を迎えるまでは諦めない。

 竹内達の生存を信じ、瀬川達3人を守り切って、この紅い校舎から生きて脱出する。

 静葉はきっとこの音に勘づいてる。聞こえ始めたのはついさっきだったし、今から向かえば合流を果たせるかもしれない。

 

「───急ごう。元凶は、あの音の源に居るはずだ」

 

 教室の掃除用具入れの中から自在箒を取り出し、頭を取り外して柄だけにしたものを持つ。

 あの馬鹿力相手にこれ一本は心もとなさ過ぎるけど、解決方法を知っていそうだった静葉が居るなら、きっと何とかできる。

 俺も戦うんだ。戦って、必ずあの三人を守って見せる。守って、そして───連れてみんなで帰るんだ。

 

 



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『ムジナ』05

 

 音の発生源へと向かうことを決めた俺たちは、道中を出来るだけ静かに移動していた。

 その途中で未探索だった教室などは、そっと出入り口から覗き込んで中を確認するだけに留める。

 早鐘の様に鳴り響く胸の鼓動に釣られて息が荒くなり始めるのを必死に堪えながら……件の教室の前へと、たどり着いた。

 

「俺が中の様子を確認する。瀬川はその間に後ろを見ていてくれ」

「分かった」

 

 出来るだけ小声でやり取りを交わすと、中を覗こうとした。その時。

 

「やっと見つけた」

 

 ここ数日ですっかり耳に聞き馴染んだ声が聞こえた。

 声のした方へ直ぐに顔を向ける。そこには。

 

 

 

 

 

 血みどろの静葉が、壁にもたれ掛かる様にこちらを見ていた。

 

 

 

 

 

 あまりの衝撃的な姿に冷静さを失いかけたが、なんとか踏みとどまる。しかし。

 

「静葉ちゃ……っ!!」

 

 声に気が付いた瀬川は、静葉の凄惨な姿を目の当たりにして、微かながら───悲鳴を上げてしまった。

 その悲鳴の後、教室の内から聞こえていた物音の変化に気付く。

 それが、瀬川の悲鳴に反応したムジナの足音だということに、俺はすぐに考えが至った。

 

「こちらへ、早くっ!!」

 

 即座に言い放たれた静葉の言葉に、半ば弾かれるように俺は行動を起こす。

 

「瀬川、ごめん!!」

「え───キャッ!?」

 

 言うより行動に移した方が早いと自分に断じ、瀬川の手を引いて静葉の元へと走り出す。

 教室の出入り口を二人で横切った、その一瞬後。

 

 

 

 

 グガァァァァァァァァァ!!!

    グルァァァァァァァァ!!!

 

 

 

 

 足が竦む様な恐ろしい雄たけびを発したムジナが、俺達の後ろに躍り出てきた。

 間一髪それを避けた俺達は、未だ立ち止まったままの静葉の脇を通り抜ける。

 

「静葉ッ!?」

「私がコイツを足止めするわ!! その間にあなた達は6年3組の教室へ行きなさい!! 急いでっ!!」

 

 明らかに弱っている静葉の後姿を見た俺は、それでも今は静葉を信じて頼るしかないとすぐに決断する。

 

「必ず助けに戻るッ!!」

「待っててね、静葉ちゃん!!」

 

 そう叫ぶように返事を返すと、俺は瀬川の手を引いてまっすぐ走って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆ side:静葉 ◆

 

 勇ましく『助けに戻る』なんて叫びながら走り去っていった二人を背に、私は眼前の『オオムジナ』へ対峙する。

 全く、愉快な子たちね。自分が物語の主人公だとでも思ってるのかしら?

 

グルルルル……」

 

 オオムジナは『よくも邪魔をしてくれたな』と言わんばかりの恨めしげな眼で睨みつけてきたけど、私はそれに付き合うことなく静かに構えた。

 上体を上げ、二本足で立ちあがるオオムジナの両の瞳は怒りに染まっていて、揺らぐことなく私を見定めている。

 

「随分とお怒りのようね? 私に『狩り』を邪魔されたのが、そんなに気に食わないのかしら」

 

 挑発するように笑って見せ、睨み返す。

 同時に、これまでの出来事を振り返った。

 

 このオオムジナは、つい最近になってこの学校のある街へと流れ込んできた個体だろう。

 それまでこの個体が出没したという話を耳にしていない為、これはほぼ確定事項とみていい。

 となれば、この街に現れた理由は餌となる人間を狩りに来たためと見て間違いない。

 

 二ホンアナグマのような外見をしている『ムジナ』は、外見に違わず動物の持つ習性を有していて、基本的には人間を避ける傾向にある。

 分布域が広く様々な場所に住処を作るけど、人を避ける傾向故にそのどれもが山野に巣を構えるため、人間との遭遇率はそれほど高くはない。

 本来『ムジナ』と呼ばれる個体自体がそこまで強力なものではなく、自ら進んで害をなす存在でもない。

 妖怪や化生などと呼ばれる生粋の『埒外の存在』ではあるものの、実際は人畜無害な畜生でしかないのだ。

 

 けど稀に、何かが切っ掛けとなって人の血肉の味を覚えてしまい、狂暴化する個体が出てきてしまう事がある。

 その個体の事を『オオムジナ』と呼び、人を襲って捕食を繰り返した個体は、見た目に則した食性である雑食から肉食へと変わり、見る見るうちにその体躯を巨大化させていく。

 成熟した通常のムジナが直立した際の身長が160cm前後であるのに対し、捕食を幾度も繰り返した末のオオムジナが直立した際の大きさは、およそ3mにも達すると言われている。

 

 オオムジナへと変貌してしまった個体は、そのまま放置しているとその近辺に住む人間を残らず捕食してしまうため、発生が確認でき次第誅滅隊が派遣されるのが、これら『妖(あやかし)』達との関わりのある者らの間では普通の認識となる。

 しかし……

 

(どうやらコイツは、その誅滅隊を全滅させて喰らったみたいね)

 

 じりじりと間を詰めてくるオオムジナを警戒しつつ、チラリと教室の中───オオムジナの食事場を見やる。

 視界に映る食い散らかされた人間の遺体の数から推察するに、既に数十名は犠牲になっているだろう。

 本来は清潔家なムジナが、ここまで変貌するとは……

 

「誅滅を急いだ方が良さそうね」

 

 この異界への誘引は、つい先ほど私が断った。

 『外』への出口を6年3組の教室の中に作ってあるから、あの子たちならきっと、それが何なのかを理解して飛び込んでくれるでしょう。

 先に放り込んだ男子二人も無事に目を覚ましている頃合いでしょうね。

 後は、コイツとの決着をつけるだけ。

 先ほどは後れを取って、手痛い一撃を貰いはしたけれど───

 

「さぁ、覚悟なさい。私は他の奴らと違って甘くないわよ」

 

 ───この程度の手傷なら、問題なく誅滅を完了できる。

 

 



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『ムジナ』06

 

 ◆ side:静葉 ◆

 

 振るわれる前足を後ろに後退ることで避ける。

 振りかぶった前足の反動を利用して飛び掛かってくるのを、脇に回り込むことでいなす。

 直線的な動き故、引き付けてから回避に徹すれば、横幅にゆとりのない廊下であっても避け回るのに苦労はしない。

 

「人並みの知能があるムジナも、こうなってしまってはただの獣同然ね」

 

 人の血肉を味わい虜となった個体は、我を忘れたように暴れまわり、食欲に突き動かされるように貪り喰らう。

 加えて今目の前に居るのは、折角の狩りを邪魔されたことで怒りに染まったオオムジナだ。

 凶暴さは増しているが、その分単純で───

 

「───御しやすい」

 

 両手を合わせ、広げる。

 合わせ広げた両掌の間に一条の"紐"が生じ、その紐をオオムジナへと素早く伸ばして身体を絡めるように捕らえた。

 両前足を振り回して紐による拘束を必死に振り払おうとするが身を捩るたびにその紐が絡み、身体に深く食い込んでいく。

 

「さあ、観念なさい」

 

 ギリギリと音を立ててオオムジナを締め上げていく。

 次第に肉へと食い込み始めた紐がもたらす痛みに悲鳴にも似た咆哮を上げ始め、必死に暴れて抜け出そうとする。

 その姿に哀れさを覚え、見るに堪えなくなった私は一思いに首を飛ばしてやろうと、紐に込めた『霊質』を一層強めようとした。

 その時だった。

 

 

 

 ───グルァァァァァァァァァァ!!!!!

 

 

 

 背後から聞こえる咆哮に驚き、振り返る。

 そこには、二体目のオオムジナが、その巨椀を振り上げている姿があった。

 

 

 

 

 

 

 ◆ side:創英 ◆

 

 静葉の指示通りに6年3組に向かった俺達は、教室の中に異様なものがあるのを見て思わず足を止めた。

 紅い光に照らされた室内の中に、まるで切り取ったかのように二つの別の光景が入れ替わるようにして交互に浮かび上がっている。

 片方は俺、もう片方は瀬川が、それぞれベッドで眠っている様子だった。

 

「そー君、これって……」

「出口、だろうな」

 

 そう直感した俺は、まず先に瀬川に行かせようとした。しかしそれを瀬川が拒む。

 見やれば、不安そうな表情を浮かべて俺の服の裾を掴んでいた。

 

(そうだよな、怖いよな)

 

 裾を掴む瀬川の手を握る。

 驚いたように顔を上げた瀬川を見つめ、小さくうなずく。

 俺のその仕草にこれからどうするのかを察した瀬川は、握っていた俺の服の裾を離した。

 

「せーので、行くぞ」

「うんっ」

 

 手をつなぎ直し、歩みを進める。

 一歩、二歩、三歩───

 

「瀬川、大丈夫か?」

 

 映り込んだ光景の中に手を繋いだ瀬川と一緒に歩み入った俺は、隣に居る瀬川に声をかけた。

 しかし返事はなく……

 

「瀬川? せが……っ!?」

 

 それ所か、手を繋いでいた筈の瀬川がいつの間にか居なくなってしまっていた。

 

「不味い、瀬川ッ!!」

 

 いなくなってしまった瀬川を、周りを見回すことで探す。

 見えた光景は、進んでいた方向から差す白い光と、その後ろから差し込んでくる紅い光。

 どこで逸れたのか皆目見当もつかなかった俺は、瀬川を探す為に紅い光の方へと駆け出した。

 

「瀬川ッ!! どこだ、瀬川ァ!!」

 

 先ほどの教室に戻ってきた俺は、教室の中をくまなく探して回った。

 ロッカーの中から押しやられて倒れた机の裏など、物陰になりうる場所はすべて探したが見当たらない。

 途方に暮れ、先ほど入り込んだ『出口』を見ると……

 

「あ……瀬川」

 

 映り込んだ景色の中に、目を覚まして周りをキョロキョロ見渡している瀬川の姿が映り込んだ。

 

「よかった、ちゃんと戻れてたんだな」

 

 ほっとして漏れた言葉に、映り込んだ映像の中の瀬川が反応した。

 

『そー君!? どこに居るの!?』

 

 映像の先から、多少くぐもった瀬川の声が響くように聞こえてくる。

 

「俺の声が聞こえるのか……?」

『うんっ!! ちょっと変な感じだけど、聞こえるよ!!』

 

 どこから聞こえてくるのかまだ分かっていない瀬川がしきりに俺の事を探しているのが見える。

 その光景を見て、ちょっと面白いと思った俺は、同時に肩の荷が下りたように感じ、その場に座り込んでいた。

 

「今何時かわかるか?」

『うーんと……10時!!』

「そっか、あれから2時間か……」

 

 俺が準備をして眠ったのが8時過ぎ。

 瀬川が答えた時間から考えて、あれから2時間経っているのが分かった。

 そこから色々と考えが頭の中をめぐり、そして……

 

「あ、竹内と相津!!」

 

 オオムジナと出くわした事ですっかり失念していたことを思い出した。

 だが同時に、もう心配することは無いだろうという思いもあった。

 

「瀬川、電話で竹内と相津の家に電話してみてくれ。もしかしたら、静葉が二人を送り返してくれているかもしれない」

『へっ? う、うん分かった!!』

 

 瀬川の返事を聞いた俺は、そっと立ち上がってから軽く柔軟運動をする。

 準備が出来た俺は『出口』へ入るのではなく、教室の外へと向かおうとした。

 

『そー君』

 

 そんな俺の行動を知ってか知らずか、瀬川が俺の名前を呼んで引き留めた。

 

『きっと、静葉ちゃんを助けに行くんだよね』

 

 瀬川の言葉に、一言、背を向けたままうんと答える。

 

『絶対……グスッ、戻って、きてね。眠ったままなんて、嫌だからね』

 

 くぐもっていて尚泣いているのが分かった俺は、すうっと一息吸って。

 

 

 

 

 

 ───絶対戻る!! 明日、また会おうな!!

 

 

 

 

 

 はっきりと、大きな声で返事を返した。

 

『グスッ……うん!! また、明日ねっ!!』

 

 瀬川の返事を聞き、覚悟を───静葉を助けるという思いを新たに固めた俺は、教室を勢いよく飛び出した。

 



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『ムジナ』07

 

 ◆ side:静葉 ◆

 

 失敗した。

 失敗してしまった。

 事ここに至り、懸念すべき事も、考慮に値する情報も得ていたにもかかわらず、私は───判断を、誤ってしまった。

 

「ハァ……ハァ……うぐっ」

 

 使い物にならなくなった右腕を庇いながら、ただひたすら廊下を駆け、目についた教室の中へと転がり込む。

 辛くも背後からの急襲に反応できたけれど、窮地を脱するために払った代償は、深々と肉をえぐられたこの右腕が物語っている。

 

 

 

 ───ガァァァァァァァァァァァ!!!!!

 

 

 

 痛みで心が挫けそうになりながら、それでも歯をくいしばって耐えているけれど、背後から聞こえる二体目のオオムジナが追ってくる音に絶望感を募らされる。

 一体目に施した拘束も、今は維持し続けられているけれど、それも何時まで持つか分からない。

 集中力が切れたその時が全ての終わりとなることは、深く考えずとも理解出来てしまう。

 

「は、はは……は……」

 

 ああ、本当に嫌になる。私はいつもそうだ。

 失敗できない局面で、いつも私は選択を誤る。

 

 

 

 ───グルァァァァァァァァァァ!!!!!

 

 

 

 一体これまでに、どれだけの後悔を重ねただろう。

 どれだけ間違えれば、私は───

 

「助けて……」

 

 ───独り立ち、出来るのだろう。

 

「お兄ちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───くらえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆ side:創英 ◆

 

「へ……?」

 

 間の抜けたような声を上げる静葉の傷ついて弱った姿が、ムジナの大きな身体越しにチラリと見える。

 血に濡れた右腕を力なくダラリと下げたその姿は、つい先ほど見た血みどろの姿よりももっと痛々しく目に映る。

 その姿に、俺は───

 

「オラァァァァァァ!!!!!」

 

 ───ムジナへ対し、どうしようもない怒りを覚えていた……!!

 

 

 

 ───ギャァァァァァァァァァァ!!?!?

 

 

 

 

 両手で持った椅子を、全身を使っておもいきり振りかぶり、体重をかけるようにしてムジナの頭に振り下ろす。

 雄たけびを上げながら繰り出した、不意を突いた全力の一撃。

 さすがのムジナも反応が出来なかったようで、振り向いたその顔面へと奇麗に決まった。

 バキリ、と鼻先を叩き潰すように決まったその一撃は、明確な痛手をムジナへ与えられたらしく、悲鳴を上げながら静葉の目の前から転がり退いた。

 対する俺はと言うと、受け身の事を全く考えずにぶちかました事で、振りぬいた椅子ごと地面へと叩きつけられていた。

 

「ぐあっち……つぁああ!! なんのっ!!」

 

 めっちゃ痛いけど負けん気で痛みをねじ込めて、静葉の目の前に立ち、しっかりと言い放つ。

 

「助けに来たぞ、静葉ッ!!」

 

 のたうち回るように暴れた影響でそこら中に文具が散乱している教室の中で、椅子を再び両手で握り直し、ムジナを見据える。

 鼻先から血のような何かを滴らせたムジナは俺を敵だと明確に定めたようで、あれだけ静葉を追い回していたにもかかわらず、今はすっかり俺だけを見つめてきている。

 

「ブン殴れば怯むってのは分かったんだ、もうお前なんざ怖くねェ!! お前が殺して食った人たちの分まで、殴ってやるから覚悟しやがれッ!!」

 

 大きく振りかぶり、掴んでいた椅子を投げつける。

 それを警戒して大回りに避けたムジナの動きに合わせ、今度は倒れた机の脚を両手でつかみ、身体を使って振り回してからムジナの顔面に叩きつけた。

 先の一撃で傷ついた鼻先に机の平たい面が深々と叩き込まれ、金切り声の様な悲鳴が再び木霊する。

 ぶつけた影響で勢いが完全に死んだ机の脚を手放し、近くに転がっていた大きめのハサミを拾い上げながら離れた位置に構える。

 露わになった顔面は、鼻先があらぬ方向へと折れ曲がり、黒みを帯びた体液でぐしゃぐしゃになっていた。

 それを見て言い知れようのない嫌悪感を感じつつ、ここからどうしようかと考えていた、その時。

 

「私が動きを抑える!! だから、狙って!!」

 

 静葉が何かを叫ぶと、左腕から伸びた紐のような何かが瞬く間にムジナに巻き付いた。

 

「なんだそれ!?」

「説明は後!!」

「お、おうっ!!」

 

 苦しそうに身を捩りながら抑えたと叫ぶ静葉の言葉通り、ムジナの方は確かに動きが止まっている。

 明確なチャンスが、生じた。

 

「オラァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!」

 

 これから自分がすることと、その末に体験するであろう事に言いようのない悪寒を感じて声が裏返りつつ、それでも腹の底から絞り出した雄たけびに乗じてムジナの前に迫り───

 

 

 

 グチュ……

 

 

 

 身動きが取れないムジナの眉間に、渾身の力でハサミの刃先を叩き込んだ。

 



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『ムジナ』08

 眉間に叩き込んだハサミが深々と突き刺さり、静葉が伸ばした紐のようなものがミチミチと音を立てながらムジナを締め上げる。

 大分動きが鈍ってきたムジナだが、それでもまだ抵抗しようというのか、虚空に伸ばした両前足を闇雲に振り回し始める。

 

「まだ元気があんのかよ!?」

 

 転げながらも鋭い爪に巻き込まれないように一度距離を取りながら静葉の方を見る。

 必死に紐のようなもので抑えつけているが、踏ん張りがきかないのか、ムジナの動きにつられて血濡れの身体を振り回されかけている。

 このままでいれば、何れは静葉の拘束を振り切ってまた襲い掛かってくる。

 チャンスは今、この時だけ。まだ終わってないこの状況を、明確に終わらせられるとしたら……それは。

 

「俺が、やるしかない」

 

 ムジナが暴れたせいで散乱した勉強机へと駆け寄り、脚を握りこむ。

 同時にムジナの方を向くと、紅色の瞳と俺の眼とが通った。

 ミツケタ。ムジナは、そう言わんばかりに大きな金切り声を上げると、今度こそ静葉の拘束を振り切った。

 頭を下げ、四肢を使って犬の様に詰め寄ってくるムジナの、その眉間───依然として刺さったままになっているハサミへ向け。俺は。

 

「くたばれぇぇぇぇェェェェェェェェェ!!!!」

 

 勉強机を、フルスイングした。

 

 

 

 

 

 グシャ……

 

 

 

 

 

 何か硬質なものを砕いたかのような、今までに感じたことのない手応えが手を伝う。

 ムジナは、突進してきた勢いのままに俺を巻き込んで雪崩れ込む。

 巨体に叩きつけた勉強机ごと巻き込まれた俺は、揉みくちゃになりながら廊下の外へと押し出された。

 

 

 

 

 

 ◆ side:静葉 ◆

 

 信じられなかった。ただ、目の前の光景があり得ないもののように思えた。

 助けに来る、確かに彼はそう言った。

 けど、オオムジナを目の当たりにして本当に戻ってくるとは思わなかった。

 普通なら怖気づき、動けなくなったっておかしくないのにも関わらず、彼は。

 

「助けに来たぞ、静葉ッ!!」

 

 彼は、私の前に立ち、背を向けながら、そう言った。

 

(なんでよ……どうして、あなたは)

 

 色んな感情が胸の内でぐちゃぐちゃに混ざり合わさって、何故か溢れてきた涙で視界がぼやけ始める。

 助かったことに対する安堵? それは違う。

 戻ってきた彼に対する怒り? それも違う。

 では、私はなぜ、泣いてるの?

 訳も分からず嗚咽を漏らしそうになりながら、それでもと私は彼を見つめる。

 勇ましく『もう怖くない』と吼えるように言い放った彼の背に、兄の面影が重なった。

 そこで私は悟った。

 あの時の───今よりももっと幼い時に遭遇した、暴走したオオムジナに襲われたときに起きた事と、今のこの状況が、酷似しているんだ。

 

 その時のことを私は今でも覚えている。

 突然の邂逅に怯えきり、腰を抜かして動けなくなっていた私の前に、私とは異なり力を持たない兄は両腕を広げて立ちはだかったのだ。

 『助けに来た』と、そう言いながら。

 しかし、抵抗するすべを持たない兄は、オオムジナの鋭い爪に弾かれて倒れ伏す。

 あまりの光景に恐怖が絶頂に達しかけたその時、兄はあらん限りの声で私に逃げろと言った。

 その声に弾かれるように、私は、這う這うの体でその場から駆け出して逃げた。

 兄の命を犠牲にして、私は、生きながらえた。

 

(まるで……まるで、成長できていないじゃないッ!!)

 

 自覚した『恐怖』に、私は自分自身への怒りの感情を浮かべる。

 また繰り返すのか? 目の前の彼を、勇敢な彼を、兄の時のような形で再び死なせるのか?

 

「く、うぅ……ッ!!」

 

 焦燥を駆り立てるような恐怖を、身を焦がすほどの怒りで塗りつぶす。

 痛みで悲鳴を上げる身体に力を籠め、吹き出す血にすら知らん振りを決め込んだ。

 はっきりとし始めた視界の先では、あのオオムジナに対し善戦している彼の姿が映り込む。

 ひん曲がった鼻先は彼がやったものなのだろう。

 最大級の警戒をオオムジナに向けられ、鋏を手に次の手を考えているように見えた私は、叫ぶ。

 

「私が動きを抑える!! だから、狙って!!」

 

 今一度霊質を練り上げ、両手を叩き合わせる。

 両掌より生じさせた霊質の糸を撚り合わせ、再び"紐"を生み出した。

 それを直ぐにオオムジナへと飛ばし、拘束を試みる。

 

「なんだそれ!?」

 

 驚き見開かれた瞳で私を見る彼に説明は後だと檄を飛ばし、目の前に集中させた。

 ここで足りていない分は私が受け持とう。

 消耗した今の私では首を飛ばすほどの力を発揮できないが、彼ならば……勇気を示した彼ならば、オオムジナを眠りにつかせることができる筈だ。

 そんな私の思いを汲み取ったのか、彼はオオムジナの眉間に鋏を突き刺すことに成功する。

 しかし……

 

「まだ元気があんのかよ!?」

 

 一撃が浅かったのだろうか。それでもオオムジナは止まらない。

 振り回された前足を、転げるようにして飛びのくことで間一髪で回避した彼を見て肝が冷える。

 そのまま襲い掛かろうとオオムジナは強く身を捩るが、それを私は全霊を持って抑え込んだ。

 

(絶対に行かせない。やらせてなるものかッ!!)

 

 全身の霊質をかき集めて抑え込もうとするが、気持ちとは裏腹に体は軋むような痛みで私に訴えかける。

 これ以上の無茶は、私自身の命に係わる。

 だが、ここでこの拘束を解いてしまえば、それこそ私も彼も、このオオムジナに殺される事だろう。

 

「く、うぅぅ……」

 

 固く結んだ意思に反して段々弱り解けていく拘束。

 込める霊質はおろか、もう踏ん張る力すらも尽きかけていた。

 

(ここまで、なの……?)

 

 私が一瞬だけ弱気になったその時、それを感じ取ったかのように、オオムジナは私の拘束を完全に振り払ってしまった。

 まっすぐ、彼へ突進していくオオムジナの背中。

 私は、絶望で目の前が真っ暗になりかけた。

 

「にげ、て……」

 

 震える声を絞り出すように、そう呟くのが精いっぱいだった。

 もう、助からない。彼も、そして、私も。ここで……

 

 

 

 

 

───くたばれぇぇぇぇェェェェェェェェェ!!!!

 

 

 

 

 

 そんな、私の想いを吹き飛ばすような、力強い声が室内に響く。

 その声に驚いて、俯きかけていた顔を上げた私は、眼前に広がっていた光景に今再びの驚愕を覚えた。

 彼が、オオムジナの頭部を見事に砕き潰したのだ。

 自制を失ったオオムジナの身体は、勢いのまま彼の身体ごと廊下の外へと雪崩れていく。

 一瞬だけ血の気が引いたが、のしかかる形となったオオムジナの身体の下から直ぐに這い出てきた彼を見て……再び視界がぼやける。

 今度こそ、安堵の涙が込み上げてきたのだった。

 



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『ムジナ』09

 

 雪崩れ込んできたムジナの巨体を押し退けて立ち上がる。

 派手に叩き込んだお陰か、ムジナはピクリとも動かなくなっていた。

 終わった。そう思った矢先に、ドサッと何かが倒れ込んだような音が聞こえてくる。

 その音にハッとして、次いで静葉の事を思い出した。

 

「静葉っ!!」

 

 急いで掛け寄った俺の目の前には、小さく弱々しい息遣いでこちらを見上げる静葉がいた。

 生きている。その事に一先ずは安心するも、直ぐにやばい状態だと気が付く。

 静葉の倒れている場所に、大きな血だまりが出来ていた。

 

「静葉っ!! 死ぬな、死んじゃだめだ!! しっかりしろ、静葉っ!!」

「そ、う……えい……」

 

 既に虚ろな目をしている静葉。

 そんな、気絶していない事が既に奇跡であるような状態の彼女が、一瞬だけ目を見開く。

 それを見るのと、背後からの音に気が付いたのは、ほぼ同時だった。

 

 

 

 ───グルァァァァァァァァァァ!!!!!

 

 

 

 聞こえてくる咆哮に向かい、ゆっくりと振り返る。そこには。

 

「嘘だろ……」

 

 ───二体目のムジナが、ひどく興奮した様子で佇んでいた。

 息を荒くし、今にも飛び掛からんとしているムジナの様子を伺いつつも、チラリと静葉の方を見る。

 限界を迎えたのか、彼女は既に気を失ったように床に伏せている。

 もう彼女をあてにはできない。それ所か、直ぐに運び出さなければ静葉が死んでしまう。

 しかし、今の俺の目の前には、殺意を漲らせた怪物が一匹。

 どう考えても詰んでいる。しかし。

 

「助けるって、約束したもんな」

 

 そう呟いて、弱気にならないようにギュッと、握りこぶしを作る。

 浮かんできた涙にも知らん振りをして、震え出した膝を何とかするために姿勢を正した。

 ここで俺が諦めたら、父さんも、母さんも、瀬川も静葉も……それに何よりも───妹を、悲しませることになる。

 

「もう少しだけ辛抱してくれ。俺が必ず」

 

 

 

 ───何とかする。

 

 

 

「その必要はないよ」

 

 俺が、自分自身にも言い聞かせるように何とかすると言い放った直後。

 聞き覚えのない声が部屋に響いたかと思えば、目の前に居たムジナが静かに床へと倒れ伏した。

 何が起きたか分からなかった俺だったが、それが誰の仕業なのか直ぐに知ることとなる。

 

「君たちを襲ったこわーいオバケは、たった今やっつけたからね」

 

 よく響く声でそう言いながら、スーツを着た背がすごく高い大人の男の人が、優し気な笑みを浮かべでこちらを見ている。

 手元に滴る血と、伸びている紐のような何かから察するに……ムジナは、この男の人にやられたんだろう。

 

「あの……あなたは、一体……誰、なんですか?」

 

 状況をうまく理解できない俺は、しどろもどろになりながらもそう尋ねた。

 すると相手は、ニッコリと微笑みながらこう答えたのだった。

 

「───所属は『御霊屋(みたまや)』、『作(つくり)』が頭目。世を忍ぶ者である私に名前は無い。だが、そうだね……ここでは私の事を『傀儡(かいらい)』と呼びたまえ」

 

 

 

────────

 

────

 

 

 

 

 

 

 

 そっと、目を開く。

 ぼやけた視界の中に、見知った天井と見慣れた染みが映った。

 ふと顔を横にやれば、寝る前に抱きしめていたカバンが差し込んだ朝日に照らされている。

 きっと、意識が落ちた後で脱力した腕から転げ落ちたのだろう。

 そんな様子を見てから上半身を起こした俺は、目を閉じて一息深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 そうして再び目を開けば、頭に掛かったモヤモヤも瞬く間に晴れ渡ってゆく。

 

 ───帰ってきた。それだけが、確かな実感として心の中にあった。

 あの恐怖の学校から、瀬川と共に生きて生還を果たした。

 しかし、竹内と相津の安否はまだ確認できていない。

 それに静葉も……傀儡と名乗った、あのうさん臭い大人に任せたとはいえ、あの傷で無事であるはずがない。

 全てが上手くいったわけじゃない。むしろ、無謀な事をしたせいで静葉が傷つく結果になった。

 死んじゃだめだと……思わず声をかけたのは、きっと……妹の姿と重なって見えたからだろう。

 

 泣き虫で、弱気で、ずっと後ろをついて歩いて回っていた妹。

 妹の誕生日プレゼントを買った帰り道で、兄妹そろって歩道に突っ込んできた車に轢かれそうになって、それで……俺の背中を押して、ひとりで犠牲になった妹。

 血だまりの中でピクリとも動かない妹の、その姿が……あの時の静葉と、瓜二つだったから。

 だから、俺は、泣きそうになりながら……静葉の名を呼んだ。

 死んじゃだめだと、叫んだ。

 

「今は、あのオッサンを信じるしかない」

 

 きっと生きてる。そう信じる他ない。

 

 ベッドから立ち上がり、部屋を出る。

 廊下の向かい側の扉を開いて中に入り、仏壇の前に正座しておりんを鳴らす。

 昔は妹の部屋で、今は仏間のこの部屋は、妹の物こそ粗方整理されて片付けられているが、今でも昔のままにされている物もある。

 おりんの脇に置かれているキーホルダーなんかもその一つで、これは、俺が妹の誕生日の日にあげる筈だったものだ。

 あの日、車が突っ込んで来さえしなければ……いや、俺が代わりに、妹を突き飛ばしてやれていれば、きっと……

 

「なぁ、絢香……兄ちゃんなぁ、また守れなかったんだ。助けるって言ったのに、助けてやれなかったんだ」

 

 悔しさで視界が滲む。

 家族として、兄として、妹を守れなかった事と、助けると言ったのに、結果的には自分一人ではどうする事もできなかったことが、自分自身を苛む。

 おまえは誰も守れやしないと、心の中で誰かが嗤ったような……そんな気がした。

 

「でも……でもな。兄ちゃん、頑張るよ。今はダメでも、いつか必ず……守りたいと思ったものを守れるような、そんな大人になりたいから」

 

 ───だから、見守っていてくれ、絢香。

 静かに、そう締めくくる。

 開けっ放しにしていた自分の部屋の奥から差した朝日に照らされて、キーホルダーがきらりと輝いた。

 

 

 

────────

 

────

 

 

 

 

 

 

 

 あれから数年が経った。

 その間に、本当に色々とあったが……何から話すべきだろうか。

 そうだな……やはりここは『ムジナ事件』後の事を話そうと思う。

 

 妹の仏壇に参った後、朝ごはんを食べて普通に家を出た俺は、家の門の前で右往左往している瀬川に出くわした。

 俺が出てきた音に気が付いてこちらを見てきて、そしてすぐに瀬川は泣き出してしまった。

 不安で不安で、仕方がなかった。そう泣きじゃくった瀬川は、ひとりで悪夢から目覚めた後、一睡もできなかったそうだ。

 そりゃそうだろうなと思った。俺だって、逆の立場ならもう一度寝ようだなんて思えないし。

 ただ、泣き続ける瀬川の背を摩る内に、瀬川はこうも話してくれた。それは、俺の事だった。 

 夢の中で合った俺は、とても頼もしくて、頼りになって、かっこよかったと。

 何事もなく無事に戻って来れたのは俺と静葉のおかげだし、何よりも……

 

「絶対戻るって。明日、また会おうって、言ってくれて……すごく、安心できたの」

 

 ───けど同時に、そー君が死んじゃうかもしれないって思ったら、すごく怖くなった。

 だから眠れなかったと、瀬川はそう話した。

 

「だからね? いま、こうしてそー君と会えたのが嬉しくて……えへへ」

 

 恥ずかしそうに笑う瀬川を見て、つられて笑ってしまう。

 いつの間にか、瀬川は泣き止んでいた。

 その後は一緒にバスに乗って学校へ向い、途中で睡眠不足と泣き疲れで俺の肩にもたれるように眠ってしまったが、仕方がないことだというのは分かっていたので、学校の最寄りに付くまでは寝かせてあげた。

 その日の間、瀬川は何やら顔を真っ赤にして俯いていたが、そこは俺の知るところではない。

 

 次は、竹内と相津の事。

 瀬川が泣き止んだ後、バスに乗って移動中に聞いた話によると、目が覚めた瀬川はすぐに二人の家に電話を掛けたそうだ。

 どうやら俺の予想通り、静葉が入れ違いになる形で二人を助け出して夢の外まで誘導してくれていたらしい。

 やれ紅い光が、クマの様なバケモノがと大騒ぎしていたらしく、泣きわめいていたのを二人の両親が宥めている最中であったのだとか。

 俺や瀬川とは違い、一日以上悪夢の中に閉じ込められていたのだから、その恐怖は想像をするに難しくないだろうと思う。

 だが、それでも二人は無事に生きて生還できた。

 どういった事が二人の身に起きたのかまでは分からないが、あの気が狂いそうになる赤色の世界に閉じ込められて尚無事だったのは本当に奇跡だと思う。

 無事でいてくれたという事が、俺は素直にうれしく感じた。

 翌日には二人とも学校に出てきたが、いつもの様子とは打って変わって大人しくなった二人の様子に面食らったのはここだけの話だ。

 

 最後に……静葉の事。

 なんと静葉は、この学校の生徒だったのだ。

 その話を知ったのはたまたまで、職員室に用事があって立ち寄った時に静葉に関連する話を聞いたのが切っ掛けだった。

 用事が終わってさぁ帰ろうと思った時、応接室からたまたま静葉という言葉が聞こえたのだ。

 ビックリしたのと同時にものすごく気になったので、ダメだとは分かりつつも応接室の扉を少しだけ開いて中を見たら、これまたビックリ。

 なんとそこには、あのうさん臭い傀儡のオッサンが居たのだ。

 これには思わず「あっ!?」と声を上げてしまい、それが切っ掛けて盗み聞きがバレた俺は教頭先生に怒られたが、オッサンが俺の事を庇ってくれた為に大事にはならずに済んだ。

 その後、オッサンの計らいで俺も同席して話を聞いていい事になったのだが……そこでは、静葉が不慮の事故で大怪我を負ったと話をしていた。

 まぁ、それは表向きの理由なんだろう。それくらいは予想が付いた。何より、そんな話をしながら「私に話しを合わせたまえ」みたいな感じで目を合わせてきたのだから、その予想は確実と言っても差し支えないだろう。

 その日の放課後には、オッサン自ら俺を迎えに来てくれて、静葉の元へと連れて行ってくれた。

 その時に軽く『御霊屋』の事や、傀儡のオッサンと静葉の使う力についても教えてくれたが、それについてはよく分からなかった。

 ただ、その話を聞いた時に、なんだか心がざわざわとした事だけは覚えている。

 そうこうしている内に静葉の寝かされている病院の一室に案内されて……そこではじめて、あの悪夢の外で静葉と出会った。

 驚いたような表情をした静葉の、朱色の差した色白の肌が奇麗で……だからこそ、右腕を包帯でぐるぐる巻きにした、痛々しい姿を見るのがとても辛かった。

 その負い目もあってか、開口一番に俺が「ごめん」と言うと、静葉はきょとんとした表情を浮かべた直後に、少し不機嫌な様子で口を開いた。

 

「何よ。見舞いに来て一発目が謝罪な訳? もっと気の利いたことくらい言って見せなさいよね」

 

 そんな静葉の言葉に押し黙る。その様子に呆れたと口にした静葉は、調子を変えて再び口を開く。

 

「まぁ……あなた達が無事だったのなら、それでいいわ。今回は私の油断が招いたことでもあるし、何より……何にも知らないあなた達を危険に巻き込んだ。私の落ち度よ。だから、こちらこそ……本当にごめんなさい」

 

 ───そして……私を守ってくれてありがとう、創英。

 その言葉を聞いて、俺は……この一連の出来事の中で、初めて泣いた。

 自分の意思で、自分の力で、ひとりの命を守ったのだと……初めて、そう思えたから。

 

 

 

────────

 

────

 

 

 

 

 

 

 

 きっと、これからも俺はこうあり続けるんだろう。

 誰かを守ろうと、誰かのヒーローになろうと……そのために、出来る事をしていくんだと思う。

 静葉や傀儡のオッサンを通じて知った世の理と、その一端を体験した俺は、きっともう、平穏無事な日常を送ることは出来ないだろう。

 でも、それでいい。

 俺は決めたから。

 守りたいと思ったものを守れるような、そんな大人になると。

 だから、見守っていてくれ。

 

「あぁ……あぁぁぁぁぁ!! たすけて、助けてくれぇぇぇぇ!!」

 

 その為の努力も、苦痛も、試練も……

 

「もう大丈夫だ、よく頑張ったな。さぁ、出口はあちらだ。早く行くといい」

「あ……ありがとうございますっ!!」

 

 誓いを果たす為ならば、乗り越えて見せるから。

 

「……待たせたな。さぁ、俺が相手だ妖共」

 

 俺の目の前ではもう、何人たりとも死なせはしない。悲しませもしない。

 なんせ俺は───『守る者』なのだから。

 

 



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